〔入力者注、書誌は最後にあります。〕
 
(1)解  題
 この書物は、萬葉集檜嬬手《まんえふしふひのつまで》一名萬葉集|檜※[木+爪]《ひのつま》といふのである。檜※[木+爪]は、佐々木博士の序文にあるとほり、ひのつまでと訓むのが、實は、正しいやうに思はれる。併し從來、學者の間には、ひのつまと讀みならはせてゐるのである。
 國民文學に載つた、橘純一さんの手紙に、檜※[木+爪]と檜嬬手とが別の物になつてゐるのは、橘家現在の墨繩には、檜※[木+爪]と、題してあるからなのであつた。即同家の墨繩總論(一冊)檜※[木+爪](自二卷至七卷、七冊)の八冊を纏めたものが、高等師範本の墨繩と、略おなじ物になる訣である。愈刊行するとなれば、一々別な名目を立てたかも知れぬが、便宜上一時假に名づけて置いた名が、流用せられるといふこともあるべきはずである。其とも又、橘家の檜※[木+爪](自二卷至七卷)は或は後に誤つて、名高い檜※[木+爪]の題號が書きつけられたのか、尚同家に請うて、熟讀した上でなくては定められない。ともかくも今度は、混亂の虞れのない檜嬬手といふ名を用ゐることにした。但し、檜嬬手一卷の外は、皆檜※[木+爪]と題してゐるから、此を檜※[木+爪]としてゐる此迄の習慣は、決して誤りではない。
 此書物は、守部の亡くなる一年前の、嘉永元年三月廿日の序文があるから、略其頃出來あがつたものと思はれる。本文五冊、三卷追考一冊・別記一冊で、未完ながら一部になつてゐることは、見られる通りである。墨繩の方は、計畫は隨分大きな物であつたらしいが、檜嬬手の方が、どう(2)も、人の説を紹介するよりは、自説を主張したい、といふ守部自身にとつても、又讀者なる我々の側から見ても、意味の多い仕事だつたと信じたので、檜嬬手の方を出すことにしたのである。
 千別といふ本は、まだ見る機會はないが、鐘の響や萬葉緊要の後附け廣告は見えてゐる、萬葉千(ノ)葉別【一名】樗木鈔七十五冊といふのと、おなじ物ではなからうか。或は墨繩なり檜嬬手なりに負せる積りで、擇んでおいた名かも知れない。ともかくも、七十五冊の萬葉に關する註釋の書物が、豫告の儘で、世に出なかつたことは事實らしい。但し、廣告した時分、既に七十五冊完成してゐたとはどうも信ぜられない。實際、此は單なる廣告に過ぎなかつたのであらう。
 此書物には、隨分萬葉の本文・序・左註などに手を入れてゐるが、其も、其處まで個性を推し進めて行かねば、註釋書は、竟にある書物の附庸以上に出ることが出來ないかも知れぬ。彼の最後の著書となつた此書は、守部學の完成したものと見ることが出來る。さうして、守部評論で述べた長處も短處も、著しく見えてゐるのである。度々、晩年になつた物だからといふので、盛年に著した書物と比べては、氣魄が拔けてゐる上に、ずんと見劣りのする物だといふやうな評判を聞いた。併し其は、此書の手に入りにくかつた時分の人の想像で、今日からは最早、さうした批評の存在すべき餘地がなくなる訣である。完成してゐると否とは、此書の評價の標準とは、自ら別問題でなければならぬのである。
                    ――釋 迢 空
 
(1)復刻萬葉集檜嬬手 凡 例
○本書の體製は、大體原書其儘にして置いた。唯原文は、字數を省く爲に、送り假名が極めて少く、譬へば、指して・極めて・云ふ也・云へりを、指て・極て・云也・云りなどいふ風に記してゐるので、讀みづらいばかりでなく、讃み違へられることがないとも限らない、と考へたので、大抵は、讀者の都合を考へて、假名を送ることにした。併し處々、もとの俤を殘す爲に、原書に、ふり假名のついてゐる處などは、其儘にして置いたのも多い。句讀は、全然、新につけたのである。
○今度の刊行は、學者の爲といふより、寧ろ、アラヽギの普通讀者の研究欲を唆るといふ處に、目的があるのであるから、ふり假名なども、隨分くどくつけて置いた。殊に其註などは、原書に訓點のない部分へも、つけて置いたので、其を一々、守部の讀んだものだ、と考へられては、如何にも原の著者に對して氣の毒である。唯此書物は、單なる書籍學や、骨董的な嗜好を滿足させる爲に、刊行したものでない、といふことを記憶してゐて貰ひたい。
○原書には、語釋の見出しのしるしは、○……」といふ風にあるのを、◎「……」として、見易いやうにした。其上、かういふ括弧の中の語句には、原文には假名のふつたのも、ふつてないのもあるが、本文が總ふり假名である以上、むだなことゝ考へたから、一切省くことに統一した。
○原書には、どうも善本が少いと見えて、橘家本も早稻田本も、共に到る處に、間違に相違ない、と思はれるものがあつた。さういふのには、字を改めて(?)を附けておいた。尚疑ひの餘地の(2)あるものには、原文の側にヽヽ(?)といふ風に、六號活字で旁註を加へて置いた。其でも尚、怪しい點はないでもない。大抵これならば、一通り意味が通ると信じたので、五校六校或は七校で、やつときりあげて、愈々出すことゝしたのである。尚此上とも、方々の學者の書庫をあさつて、善本を探しあてゝ、守部の書いた儘の姿に、還したいと思うてゐる。いづれ二三个月後には、アラヽギ誌上で訂正することが出來ることであらう。既に肺を犯されたからだで、心肝を碎いて勞作した、故人の心を思へば、譬ひ僅かばかりの魯魚の誤りでも、改めることが出來なかつたとあつては、後學のわれ/\として、甚申し訣のない次第だ、と信じるからである。
○原書には、卷二以下のすべて卷々には、檜※[木+爪]と題してあるが、今はすべて檜嬬手と改めておいたから、其積りで見て貰はねばならぬ。
○書物の名は、すべて、ごしつく活字を用ゐておいた。卷數も亦同樣である。
 
(1)凡  例
 
一 萬葉集を註せし事、此《コ》たびにて三度なり。其はじめは、まろ地理に暗かりつれば、三哲の説に隨ひて物せしに、彼(ノ)大人もいと思ひの外に地理にうとかりければ、後に其ひが事を見出てかきけしつ。次に撰びたるは、精しくものせんとて、昔よりの衆説を盡く引よせて、いはゆる大全といふものゝさまにかきたるを、後に見れば、今更めくこゝちして、自ら恥しくなりつれば、又やり棄《う》てつ。かくするうちに、よはひかたぶきて、何かのふし/”\も皆わすれはてにたるを、人々のあとらへしきりりなり。今は何かはせん。翁さび人なとがめそ、おのが心まゝにものせんとて、更に筆とりそめつ。それにつけても、ことわりおく事あり。
一 こたびは、歌の道を解くことをむねとせり。歌を心得むには、言を解くにしかざれど、向《サキ》に日本紀の道別《チワキ》を釋し、又記紀(ノ)歌の言別《コトワキ》を釋しつれば、大かたの言《コト》はきゝしるらんとて、凡《スベ》て一わたりづゝ、かやすく物しつ。其中に稀に此集に限りて、要たる事の上などは、別記をつくりてそれにしるしつ。
一 本文の誤字落字は、已に先註等に論《サタ》して、げにさるべく見えたるは、皆改めつ。それにはしるしせず。今度おのれが校合《キヤウガフ》して改めたるには、字の左に( 如(キ)v此(ノ)簽をさして分てり。又|端書《ハシガキ》も其|條《デウ》には爲《ス》れど、こは本文にさしも拘《カヽハ》るべからねば、自らの考へをも憚りあへず用ひて改むる事あり。
一 此集はやくより錯亂《ミダ》れて歌の前後したる多かり。それらも憚らず改め正して、次第を直せり。(2)又長歌には、對句の一方を見もらして落せるも見え、罕には末の闕けたるなども見えたり。それらも、考への及ぶ限りは改めつ。又見す/\謬りと見えながら、今更改めがたかるもあり。其心して見るべし。
一 こたびの釋は、先註どものよきにもあしきにも拘らず、もはら自らおもふを眞なほに述れば、いはゞ悉く新説也。たゞ其中に、輕きと重きとがあるのみ也。その重きに至りては、古き説どものひが事をも、一々に引出て、よく辨《ワキマ》へずては其可否もきはやかならざることあれど、さては長くなるをいとひて、皆うちつけに、おのれが考へのみを云ひて止めり。もし疑ふらん人々は、先註どもと引合せて、其諂はざるほどを見わかつべし。
一 目録左註詩文辭の類は、既に先註どもに云へるにて事定まりたれば、それにゆづりて、釋をくはへず。されど後人のしわざとて、あるひは刪り、あるひは改めなどせしはよからず。其誤れる状に依て、其筆者の時代をしるに用のある事もあなれば、今はよくもあしくも、原本のまゝに記しつ。細字に約めたるは、させる用もあらざるを以て也。
一 或本の哥とて並べ出せるは、其勝れたる方を本文に立て、劣れる方は是も細書に約めてしるしぬ。長歌の中に記したる異同は、哥に放ちて擧ぐ。本文に異同ありては、煩はしかれば也。卷々の次第は普通の本のまゝに隨へり。
一 作者の傳は、契沖の履歴にゆづりて、只一わたり云ひて止めり。書紀に出でたるかぎりは、道別に釋せれば也。大かた何事の上も如此状《カクサマ》に省き約むるは、此集本文ばかりも二十卷あれば、いかに約めても、三十卷四十卷にはなりぬべし。もし五十卷七十卷ともなりては、寫す(3)にもかたく、ゑらせんにも輙《タヤ》すからねば、ねがはくば、三十卷許に書き約めて、先註の百卷よりも精しからしめんと思ふが、こたびの微意也。それにつきて氣隨なる爲《シ》ざまの多かるなり。見ん人これを察せよ。
          嘉永元年三月廿一日。
 
(1)青丹《アヲニ》よし寧樂《ナラ》の山の、山の際《マ》に、雲を凌《シヌ》ぐ高樹《タカギ》あり。其樹の幹立《モトダチ》は、二|百《モヽ》まりにきそひたち、其樹の狹枝《サエダ》は、四|千々《チヾ》まりにしみさびて、ことの葉、よろづに分れたり、世々の人、見がほりて立よれど、木《コ》のくれ闇《ヤミ》に目を覆はれて、千年あまり、いたづらに過ぎ來にたるを、百《モヽ》とせばかりこのかた、水長鳥《シナガドリ》猪名部《ヰナベ》の工《タクミ》、庭つ鳥|闘※[奚+隹]《ツゲ》の手人《テビト》等、追すがひ出て、おほどほる枝葉を拂ひ、楚幹《シモト》を苅りそけて、もと木を、もと樹と見べくは爲《セ》られたり、しかはあれど其頃ほひまでは、いまだ高ねのいぼり、谷間の狹霧《サギリ》、きよく霽れざるほどなりければ、時世《トキヨ》の人さても見おどろき、聞おどろき來にしを、朝日の豐さかのぼりに、御代|逆《サカ》のぼりて、鷸《シギ》山のおく、闇谿《クラタニ》の底ひ迄も、隈なくなり來し、今《イマ》より見れば、猶墨繩のかけひがめ、本末の取たがへ少なからず、其とき言の長かるは、をこがましきに過ぎて、却《カヘリ》てもの遠く、又省けるものは麁きに過ぎて、事たらはず、今や日刺方《ヒサカタ》の月の桂も、おのがじゝ手に折りとらねば、心よしとせざる世にしあれば、こたびは時代《トキヨ》にならひて、刪り直さんとて、飛騨人がよ(2)わ腰に、ちから綱取かけて、昔つ人の及ばぬ秀枝《ホツエ》までを、山たづ手斧にうち碎き、おのが心のまに/\、木づくりなしゝ此|檜《ヒ》の嬬手《ツマデ》ぞ、他《アダ》し杣人は、あまり手痛しとあはめにくまんかし。
  寡永のはじめの年のやよひの廿日
                     橘 守 部 識
 
(1)萬葉集卷1目録 雜歌
 
●泊瀬朝倉宮御宇天皇代○天皇御製歌●高市崗本宮御宇天皇代○天皇登2香具山1望國之時御製歌○天皇遊2獵内之時中皇女(ノ)命使2間人連老獻1歌并短歌○幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作哥并短歌●明日香川原宮御宇天皇代○額田王歌●後崗本宮御宇天皇代○額田王歌○幸2紀伊温泉1之時額田王歌○中皇女(ノ)命往2于紀伊温泉1之時御歌三首○中大兄命三山御歌一首并短歌二首●近江國大津宮御宇天皇代○天皇詔2内(ノ)大臣藤原(ノ)朝臣1競2憐春山萬花之艶秋山千葉之彩1時額田王以歌判之歌○額田王下2近江國1時作歌○井戸王和歌○天皇遊2獵蒲生野1時額田王作歌○皇太子答御歌●明日香淨御原宮御宇天皇代○十市皇女參2赴於伊勢大神宮1時見2波多横山巖1吹黄刀自作歌○麻績王流2於伊勢國伊良虞島1之時々入哀痛作歌○麻績王聞v之感傷和歌○天皇御製歌或本歌○天皇幸2吉野宮1時御製歌●藤原宮御宇天皇代○天皇御製歌○過2近江荒都1時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌○高市連古人感2傷近江舊堵1作歌或書高市黒人○幸2紀伊國1時川島皇子御作歌○阿閉皇女越2能勢山1時御作歌○幸2吉野宮1之時柿本朝臣人麻呂作歌二首并短歌○幸2伊勢國1之時留v京柿本朝臣人麻呂作歌三首○當麻眞人麻呂妻作歌○石上大臣從駕作歌○輕皇子宿2于安騎野1時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌四首○藤原宮之役民作歌○從2明日香宮1遷2居藤原宮1之後志貴皇子御歌○藤原宮御井歌一首并短歌○大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2紀伊國1時歌二首○或本歌○二年壬寅太上天皇幸2參河國1時歌○長忌寸奥麻呂一首○高市連黒人一首○譽謝女王作歌○長皇子御歌○舍人娘子從駕作歌〇三野連名闕入唐時春日藏首老作歌○山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1作歌○慶雲三年丙午幸2難波宮1時歌二首○志貴皇子御歌○長皇子御歌○太上天皇幸2難波宮1時歌四首○置始東人作歌○高安大島作歌○身人部王作歌○清江娘子進2長皇子1歌○太上天皇幸2吉野宮1時高市連黒人作歌○大行天皇幸2難波宮1時歌三者○忍坂部乙麻呂作歌○式部卿藤原宇合作歌○長皇子御歌○大行天皇幸2吉野宮1時歌或云天皇御製歌○長屋王歌○和銅元年戊申天皇御製歌○御名部皇女奉v御和歌〇三年庚戌春二月從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時御輿停2長屋原1※[しんにょう+向]2望古郷1御歌○一書歌〇五年壬子夏四月遣2長田王伊勢齋宮1時山邊御井作歌三首●寧樂宮、長皇子與2志貴皇子1宴2於佐紀宮1歌○長王子御歌
 此目録古本になし。元暦以來既に本文謬りて後書き出たる證に、今更誤字のまゝ記す。是を改めだてするは、中々にひが事ぞ。
 
(1)萬葉檜嬬手 卷之一
                  橘  守 部 撰
     本集一(ノ)上 雜歌《クサ/”\ノウタ》
  泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメノシタシラシヽスメラミコトノミヨ》、天皇御製歌《スメラミコトノオホミウタ》
 籠毛與《カタマモヨ》、美籠母乳之※[二字左(]《ミカタマモタシ》、布久思毛與《フグシモヨ》、美夫君志持《ミブクシモタシ》、此岳爾《コノヲカニ》、菜採須兒《ナツマスコ》、家告閉《イヘノラヘ》、名告沙根《ナノラサネ》、虚兒津《ソラミツ》、山跡乃國者《ヤマトノクニハ》、押奈戸手《オシナベテ》、吾許曾居《ワレコソヲレ》、師吉名倍手《シキナベテ》、吾巳曾座《ワレコソマセ》、我許曾※[二字左(]《ワヲコソ》、背齒皆目《セトハノラメ》、家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》。
 
●「雜歌」いろ/\の歌と言ふ意也。此《コヽ》は行幸・王臣の遊宴・旅行等の歌を出したれば、後の選集に雜と云へると違はざれど、次々の卷に四季(ノ)歌をも相聞《アヒギコエ》ならぬは、雜(ノ)春・雜(ノ)夏など云へるを以《モ》て、其同じからざるを知るべし。歌ハ切なる情を感發する物なれば、戀と述懷とが本なる事、記紀に載せたる歌どもに就て、稜威言別《イツノコトワキ》に云ひつるが如し●「泊瀬朝倉宮」泊瀬は大和(ノ)國|城上《シキノ》郡。朝倉は今の黒崎磐坂村邊の舊名也。姓氏録|秦忌寸《ハタノイミキ》の下に、此地名の由縁《ユカリ》を云へれども風土記|風《ブリ》の託《コトヨ》せ言《ゴト》にして信《タノ》みがたき事あり。大宮(ノ)跡ハ在(リ)2長谷寺之南半里(ニ)1と云ヘり。是則磐坂村なり。●「御宇」宇宙の宇の字なれば、かく書きて御《シラス》v宇《アメノシタ》と云ふ意になる也。今はかゝること委(2)しく云ふ迄もあらぬ世の勢なりければ、つゞめきて止みぬ。さて此等の字《モジ》は漢《カラ》めきたれど、御代の標《シルシ》を如此樣《カクサマ》に擧ぐる事、古き時よりのならはし也。攝津風土記(ニ)云(フ)、宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇世《ウネビノカシバラノミヤニアメノシタシラシヽスメラミコトノミヨ》、常陸風土記(ニ)云(フ)、難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世《ナニハナガラトヨサキノオホミヤニアメノシタシラシヽスメラミコトノミヨ》など云へるたぐひ也。今本此下御名を記したるは、後人の書き入れの紛れたるなれば削りつ●「天皇」須賣良美許登《スメラミコト》と奉(ル)v稱《マヲシ》は、天ノ下を統知《スベシラ》すよしの尊稱、須賣呂岐《スメロギ》は統親君《スメオヤキミ》の義、須賣賀微《スメガミ》は皇祖神より其他へも轉《ウツ》れりしなり。此等の事も長くいはゞ、今更めくべしとてなん。此天皇、御名は大泊瀬稚武尊《オホハツセワカタケノミコト》、後|漢《カラ》樣の謚、雄畧天皇と奉(ル)v申(シ)、雄朝津間椎子宿禰《ヲアサツマワクコノスクネノ》天皇【允恭】第五の皇子に坐《マ》します。紀に曰(ハク)、天皇|産《ミアレマセルホド》、而|神光滿殿《アヤシキヒカリミアラカニミテリ》、長而伉健過人《ヒダチマシテミイツカミノゴトマシキ》、とありて誠に現人神《アラヒトカミ》に坐(シ)々(シ)つれば、御自らも神と詔坐《ノリマ》しき。然るを書紀の次々の文に、轉《ウタテ》書きなしたるは、孝徳夫智の朝の史生等が所爲《シワザ》なる事、道別《チワキ》に委しく辨へつ。此他の事は、代匠記の履歴にゆづりて省けり●「籠毛與」籠は神代記に出で葛編《カツラアミ》の義なる事是も道別ノ海神《ワダツミ》ノ段に釋す。毛與《モヨ》はもと歎息にて賞《ホム》る方より呼び出す辭ともなれる事、今は誰も心得たらん●「美籠母乳之」此之の字、※[木+夜]齋が藏《モタ》る本【藤原爲廣本由阿本】等に有りて乳之《タシ》と訓みたるは乳養《ヒタシ》の意を取りたるならん。持《モチ》を母乳之《モタシ》と云ふは、即次の句に、採《ツム》を採須《ツマス》と云へると同例の云ひさまなり。此句に合せて、他本等の後に脱《モラ》しつる事しるかれば補ひつ●「布久思毛與」布久思《フグシ》ハ※[手偏+卑]串《ヘラグシ》也。布《フ》と閉《ヘ》と音通ず。委しき事は言別の神武(ノ)大御歌、許紀志斐惠泥《コキシヒヱネ》の下(ニ)云へる説共を見合すべし●「美夫君志持」此句も上の美籠母乳之《ミカタマモタシ》の例に依てよむべし。呼び出て重ねて眞《ミ》を置けるは言を美麗《ウルハ》しく聞せんとて也。さて布久思《フグシ》と云ふ時は久《ク》を濁り美《ミ》を置くときは夫《ブ》を濁りて君《ク》を清《スメ》る、連聲に依て清濁換る、古語の例也。潜《クヾ》る・漏《クキ》・谷|具久《グク》な(3)ど換るを以て知べし●「此岳爾」此とは目前《マノアタリ》を指す詞《コトバ》なり。集中に、此(ノ)川此(ノ)山此(ノ)野此(ノ)里など多くよめる、皆然り。此は行幸のついでとも聞えず。ふと遊びに出で坐したる時《ヲリ》の事なるべければ大宮近き岳なりけらし●「菜採須兒」若菜《ワカナ》採《ツマ》せる子と云ふ意也。子は若き女を指して云ふことおのづから今の世も然り。男をも云へど其れは稀也●「家告閉、名告沙根」家告《イヘノレ》名告《ナノレ》と云ふを延べたる語也(【告とは白を云】)沙根《サネ》は下の歌に小松下乃草乎苅核《コマツガモトノカヤヲカラサネ》とある類にて、其れも苅《カラ》せと令《オホ》せたる也。かく詔ふは上つ代女は吾夫《ワガセ》と憑む人ならずては己が實名は名告らざりし故也。十二に足千根乃母之召名乎雖白路行人乎孰跡知而可《タラチネノハヽノヨブナヲマヲサメドミチユキヒトヲタレトシリテカ》また三佐呉集荒磯爾生洗勿謂藻乃告名者爲告父母者知鞆《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノノリナハノラセオヤハシルトモ》また住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソノナハノリテシヲアハナクモアヤシ》などよみたるを以て知べし。禮記曲禮(ニ)云(ハク)男女非(レハ)v有(ルニ)2行媒1不v相2知(ラセ)名(ヲ)1とあるを見れば、漢國も然りし也。此等に合せて此御時の形態《サマ》を思ふに先づ此大御歌は此句|訖《マデ》が一段にて、家を告《ノ》れ名を告れと詔へる御詞に、やがて朕《ワ》が妃《メ》になれ汝《ナ》が父母にも其事云ひ聞《キ》けんにと詔ふに當れり。然るに此處女此時いまだいわけなくて、御答得も聞え奉らず顔打赤めて恥らひをるおもゝちなりつれば、朕《ワレ》は世の凡人《タヾビト》ならず今天(ノ)下|所治《シラス》天皇に坐《マ》し坐《マ》すぞよとて、又次の句以下の事共は歌はせ給ふなり●「虚見津山跡乃國者」此冠辭の連《ツヾ》きの意、別記に註す、山跡の名義は神代記(ノ)生國段《ミクニウミ》に云へり。さて此御時頃、未だ大八洲を指して日本《ヤマト》と云ふ事はあらざりつれども山跡を知ると詔ふ御詞の中に、總國を押並べて所知看《シロシメス》意おのづからこもりたり。次の四句の勢ひ此《コヽ》に對へて知るべし●「押奈戸手」押並而《オシナベテ》にて今も云ふ詞也。猶次の師吉名倍手《シキナベテ》の下に合せ云ふべし●「吾許曾居」許曾《コソ》は擇出て云ふ辭、居《ヲル》は天(ツ)日嗣(ノ)高御座に坐し坐すを詔ふ也●「師吉名倍手」敷並而《シキナメテ》也。上の押と此敷と同じ程の意なる事集中に(4)春日山押而照有此月者《カスガヤマオシテテラセルコノツキハ》七|我屋戸爾月押照有《ワガヤドニツキオシテレリ》八|春之雨者彌布落爾《ハルノアメハイヤシキフルニ》四|沫雪乃千里零敷《アワユキノチサトフリシク》十などよみて共に普くの意なれば、對に取りて調べ給ふなり●「吾已曾座」上の吾許曾居《ワレコソヲレ》と全く同意なるを少し詞をかへて調べを助くる事古き長歌の常也●「我許曾」今本我許者とあれど天暦校本其他の古本にも者の字なければ、今本の者は曾を寫し誤れりし事明らけし●「背齒告目」此二句の意は天(ノ)下|所知《シラス》朕《ワレ》をこそ夫《セ》として名告者《ナノラバ》名告《ナノ》らめと云ふ意也。されば齒の字は登之《トシ》と云ふに當てたるには非ず、登は背の下によみ屬《ツ》けて齒の辭《テニヲハ》に用ひたる也。即拾穗本には此の齒を作(リ)v者(ニ)たり。古くさる本も有りしにこそ●「家乎毛名雄母」此一句は上の一段の末、家告閉《イヘノラヘ》名告沙根《ナノラサネ》と云ふ二句を再び約め受けて此は家をも名をも告目と上へ立返りて聞くさまに續け給へり。二段の歌に此體多かり。
●一篇の大意、其一段は籠《カゴ》も籠《カゴ》よ、※[竹/拜]《ヘラ》も※[竹/拜]串《ヘラグシ》よ、此二つの物を態《シナ》よく持ちて此《コヽ》の岡に春菜つむ處女子よ、汝は誰が子ぞ家は何處《イヅク》ぞ、名は何《ナニ》と云ふ、家も名も禁《ツヽ》まず白《マヲ》せ」となり。
(【此に其少女、さすがに凡人とは思はねど、思ひもよらぬ仰ごとなれば恥らひてしばし御いらへも得きこえ奉らざりければ天皇もし朕を世の庶人と思ひて然るにやとて、又うたひ給はく】)其一段我は今泊瀬朝倉宮にして天(ノ)下知しめす大君に坐《マシ》ますぞ。汝も終《ツ》ひに夫を持たずば有べからねば、此の朕をこそ夫として家をも名をも名のれとなり。(【是れたゞ時の御戯れかとも思へどかゝる賤の女に御まなじりの係りけるはもし此少女貌容よくや有けん又もしくは古事記に載せたる赤猪子が故事は今此少女と一つ根ざしの紛れたるにはあらじかとて、言別にいひ試みたる事あり、見合すべし】)
 
 高市崗本宮御宇天皇代《タケチヲカモトノミヤニアメノシタシラシヽスメラミコトノミヨ》、天皇《スメラミコト》登(リマシテ)2香具山(ニ)1望國之時《クニミセストキノ》御製歌
 
(5) 山常庭《ヤマトニハ》、村山有等《ムラヤマアレド》、取與呂布《トリヨロフ》、天乃香具山《アメノカグヤマ》、騰立《ノボリタチ》、國見乎爲者《クニミヲスレバ》、國原波《クニバラハ》、烟立龍※[左(]《ケブリタチタツ》、海原波《ウナバラハ》、加茂※[左(]目立多都《カモメタチタツ》、※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニゾ》、蜻島《アキヅシマ》、八間跡能國者《ヤマトノクニハ》、
 
●「高市崗本宮」大和(ノ)國高市(ノ)郡飛鳥(ノ)岡なり。紀に二年冬十月、天皇遷(マス)2於飛鳥(ノ)岡傍(ニ)1是(ヲ)謂(ス)2岡本(ノ)宮(ト)1とある、この岡は此集に、逝回岡(【逝は折の誤にて、折回《ヲリタム》岡とよむべきか。後世往來岡と云へるも是也】)とある岡にて、其の下《モト》なる故に、岡本と稱へ給ふなるべし。岡寺岡町など云ふも皆此岡に依る也●「天皇」御名は息長足日廣額《オキナガタラシビヒロヌカノ》尊後の謚を舒明天皇と奉(ル)v稱(シ)。敏達天皇の御孫、彦人大兄《ヒコビトオホエノ》皇子の御子、天智天皇の御父なり。此他の事共も凡て履歴に讓りつ●「香具山《カグヤマ》」大和(ノ)國十市(ノ)郡に在り。此地の事は次にも出て下の三山の歌の條にも言ふべし●「望國《クニミ》」國見と云へばとて、天子の巡狩、國の盛衰などを見給ふ事には非ず。既に言別に仁徳天皇淡路島行幸(ノ)時|遙望歌曰《ハルカニミサケテウタヒタマハク》、淤志弖流夜《オシテルヤ》、那爾波能佐岐用《ナニハノサキヨ》、伊傳多知弖《イデタチテ》、和賀久迩美禮婆《ワガクニミレバ》云々と歌はせ給ふ下に云ひつる如く、たゞ見晴して樂しむを云ふ。されば天皇のみには限らず。播磨風土記には土人の眺望《クニミ》の事見ゆ。此集にも十に雨間開而《アマヽアケテ》國見毛將爲乎《クニミモセムヲ》、故郷之花橘者散家矣可聞《フルサトノハナタチバナハチリニケムカモ》」此外多かるを見合せて知るべし。倭には海もなく河も少なかれば、此御歌の如く國原を見晴して樂み給ふ故に、望國《クニミ》とは云ひそめたるなれど、只何處にまれ霽《ハ》れたる處を見わたして樂む事なり●「山常庭」倭には也●「村山有等」雖(ド)v有2群山1也。神代記に青山四周《アヲヤマヨモニメグレリ》倭建(ノ)命(ノ)御歌に、夜麻登波《ヤマトハ》、久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》、多々那豆久《タヽナヅク》、阿袁加岐夜麻碁母禮流《アヲガキヤマゴモレル》、夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》●「取與呂布、天乃香具山」取與呂布《トリヨロフ》の言の意別記に出づ。あ(6)またの山の中に見晴らしよく景色を備へたる香具山と云ふ程の事也●「國原波」次の伊奈美國波良《イナミクニバラ》と同じく其近邊の村里を見わたして詔ふ也。原と云へばとて何もなき所には非ず。郷村をも國と云ふこと吉野(ノ)國泊瀬(ノ)國難波(ノ)國など云ふ類也●「煙立龍」今本龍(ヲ)作(ル)v籠(ニ)に就てたちこめとよみたれど、眺望するに煙霞の立こめふたがりたらん何のおもしろき事あらん。此は村々の竈の烟と池上の水鳥とを對に取りてたちたつと言(?)を合せ賜へる御句也。されば元暦校本爲廣本に依て舊きに復しつ。仙覺點の本の印本には籠と書きてタチタツと訓めるを見れば、是其寫(シ)誤(リ)の始めなり。仙覺が誤りたるにはあらず。家藏の本似閑が書入に、立龍仙點としるしたり●「海原波」是下の藤原御井の歌によめる埴安池也。池を海とよむこと、眞木之立荒山中爾海成可聞《マキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》三ノ十三のたぐひなり、此池の事賀茂氏云(フ)香具山の畝尾《ウネヲ》は西へも引けど、殊に東へは長く曳渡りけん。今は其畝尾の形いさゝか殘れるが、其畝の本につきて二町四方許の池あり。是ぞ古の埴安の池の遺《ノコ》れるなる。彼の池より八町許東北に池尻村池内村てふ里今あるは、古の池の大きなりし事知るべし。それは後にかの畝尾を崩し、池を埋みて、田所とし里居ともなしゝもの也云々。此山今は嶺も麓も木を切あらし池をも多くは埋みて見所なくなりしを悲しと思へば、昔の書ども以《モ》て有りけむ状を擧げて古へ忍ぶ人に傳へ侍る也。是は自ら行き見て云へる言なれば引つ●「加茂目立多都」今本|加萬目《カマメ》とあるに就て、古は然も云ひしかと思ひつるに、※[木+夜]齋が古本には、二本まで萬を作(レリ)v茂(ニ)。然れば茂と萬と草書の宇體相近かるを以《モ》て後に寫し誤りしにこそ。加茂目は鴨群《カモメ》の義にて味村《アヂムラ》鴛《ヲシ》※[爾+鳥]《タカベ》の屬をかけて云へる也鴎には非ず三ノ十六香具山の歌(ニ)云(フ)上略|松風爾池波立而奥邊波鴨妻喚邊津方爾波味村左和伎《マツカゼニイケナミタチテオキベニハカモメツマヨビヘツベニハアヂムラサワギ》とよめる、即これらの鳥どもなり●「※[立心偏+可]怜國曾」※[立心偏+可]怜(7)はうましともあはれとも訓まるれど此《コヽ》は眺望なればおもしろしとよむべし。四【五十三】に如是※[立心偏+可]怜縫流曩者《カクオモシロクヌヘルフクロハ》七四に夜渡月乎※[立心偏+可]怜《ヨワタルツキヲオモシロミ》などあり●「蜻島、八間跡能國者」は借字にて、秋津島の意なり。神代記に豐秋津洲とあり。即瑞穂(ノ)國と云ふに就きたる稱辭《タヽヘゴト》なり。彼の神武紀なる蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメ》の説は却て後の託《コトヨ》せごとなる事道別に委しく辨へつ。
●一編の總意は、倭の國には畝火・耳梨を始めこゝらの群山あれど、其中に眺望の見所の四方に取り備はれる天(ノ)香具山に騰りて見れば麓の村里こなたかなたに民の煙たち、又海をなす池の面には水鳥どもの飛び立ちて廣く晴れたるけしきえもいはずおもしろき國なるかな。此倭の都あたりは」となり。皇都を指して倭と云へる事、此集の歌に多し。
 
 天皇《スメラミコト》遊2獵《ミカリタヽス》内野《ウチヌニ》1之時《トキニ》、中皇女※[左(]命《ナカノヒメミコノミコト》、使《シメタマフ》2間人連老《ハシビトノムラジオユシテ》獻《タテマツラ》1御※[左(]歌《ミウタ》並短歌
 
 八隅知之《ヤスミシシ》、我大王乃《ワガオホキミノ》、朝庭《アシタニハ》、取撫賜《トリナデタマヒ》、夕庭《ユフベニハ》、伊縁立坐※[左(]《イヨセタテマス》、御執乃《ミトラシノ》、梓能※[左(]弓之《アヅサノユミノ》、奈利弭乃《ナリハズノ》、音爲奈利《オトスナリ》、』朝獵爾《アサガリニ》、今立須良志《イマタヽスラシ》 暮獵爾《ユフガリニ》、今他田渚良之《イマタヽスラシ》、御執能《ミトラシノ》、梓能弓之《アヅサノユミノ》、奈利弭之《ナリハズノ》、音爲奈利《オトスナリ》。』
 
 反歌
 玉刻春《タマキハル》、内之大野爾《ウチノオホヌニ》、馬數而《ウマナベテ》、朝布麻須等六《アサフマスラム》、其草深野《ソノクサフケヌ》。
 
●「内野」大和(ノ)國字智(ノ)郡にて、内(ノ)大野と次の御歌によみませり。輿地通志(ニ)云(フ)内(ノ)大野は大野村阿(8)多(ノ)大野は阿陀村とて並べて出せり。名勝志には内(ノ)大野、阿陀(ノ)大野の名は異にして同じ野也とあり。式に宇智(ノ)郡|阿陀比賣《アダヒメノ》神社あれば、古はいと廣き野にて、此神社の邊を分けて阿陀(ノ)大野と云ひしなるべし。●「中皇女命」舒朋天皇の皇女に坐《マシ》て後に孝徳天皇の后に立ち給へり。天智の御妹天武の御姉也。●「間人連老」孝徳紀大化元年七月立(テ)2間人《ハシビトノ》皇女(ヲ)1【中皇女(ノ)御名也】爲(ス)2皇后(ト)1とあるを見れば、間人(ノ)老は即皇女の乳母(ノ)方の者也。古、乳母を間人《ハシビト》と稱《イ》ひしことは乳母は親しみ深き物にして、實母と他人との間《アハヒ》の意を以《モ》て云ひけん事既に考へて鐘の響に出せり。見合すべし。【間を波之と云ふこと二ノ卷に註す】故(レ)此皇女の立ち賜ひて後に取立て給ひし也。紀に唐土に遣されし事の見ゆれば、乳母の父にはあらず子か弟かなりけらし●「便2御歌獻1」皇女のよみ給ひし御歌を老《オユ》に口誦《クジユ》して父天皇の御前にて歌はしめ給ふ也。今の心にては字《モジ》して記したるを老《オユ》に持せて獻り給ひし如《ゴト》思ふめれど此|間《ホド》未だ歌を筆記して人に贈る事なし、彼の仁徳天皇の大御歌を筒城《ツヽキ》宮に坐《マシマ》す皇后の御許に口持《クチモチ》(ノ)臣して聞えしめ給ひしやうに、口に持たしめて献り給ひし也。同記に川原|史《フビト》滿《マロ》が皇太子に献りける歌の條に、歌曰《ウタヒケラク》とありて、即與(ヘテ)2御琴(ヲ)1再びうたはしめ給ふ事あり●「八隅知之、我大王乃」安見《ヤスミシ》を爲《シ》給ふ大君と稱《マヲ》す連《ツヾ》けなれど、其の安は安良氣久《ヤスラケク》平良氣久《タヒラケク》など云ふ安には非ず。浦安國《ウラヤスノクニ》の安にしてうしろ安く|おだしき《おたびしきイ》意也。其は此|皇大御國《スメラオホミクニ》は天照大御神の大命|以《モ》て所知看《シロシメス》天ツ日嗣なりければ、外國などの如《ゴト》傍より窺ふ者絶えてあらざればうしろ安く【心がゝりなくの意也】天の下知しめす意に云ふ也。されば神護景雲三年の事の如く、女帝の思食《オボシメシ》違ひありし時なども八幡《ヤハタノ》大神より告げ知せ給ふばかりの灼然《イチジロ》き靈驗之ぞ即天ツ日嗣のうしろ安きしるしなる。仰ぐべし貴ぶべし●「朝庭取撫賜」次二句と合せて朝庭夕庭はたゞ對調の爲|如比《カク》云ひて常々いつも(9)いつもと云ふこと也。又「取撫云々」是を以て古の天皇の武を重みせさせ給ひし程をも見つべし●「夕庭伊縁立坐」伊は伊行《イユキ》・伊歸《イカヘリ》など云ふ發語にて、氣を張りて云ふ辭也。本|稜威《イツ》・勢《イキホヒ》・勇《イサム》など云ふ伊なればなり。縁立《ヨセタツ》は御傍へ引きよせ置かるゝを云ふ。今本立之とありてタテヽシと訓みたれど、さては一方の取撫賜と對せず。或手鑑の古筆【六條宮御筆】に伊縁立坐とある、是然るべし●「御執乃《ミトラシノ》」和訓類林書(ニ)添云(フ)大刀ハ佩《ハカ》ス物故ニ御佩《ミハカシ》ト云ヒ、衣ハ着マス物ナル故ニ御着《ミケシ》ト云ヒ弓ハ執《トラ》ス物ナル故ニ御執《ミトラシ》ト云フ。今|御料《オンメシ》ト云フガ如シ」と云へり●「梓能弓之」延喜式に御弓は梓とあれば御執《ミトラシ》の弓は多く梓なりし也。本草綱目(ニ)云(フ)梓(ハ)宮‐寺人‐家園‐亭(ニモ)亦多(ク)植(ヱ)v之(ヲ)爲(ス)2百木(ノ)長(ト)1、屋室(ニ)有(テハ)2此木1、則餘材皆不v震《フルハ》、爲(ルコト)2木王1可(シ)v知(ル)、其木似(テ)v桐(ニ)而葉少(ク)花紫(ニシテ)生(ズ)v角(ヲ)、其角細長(クシテ)如v箸、其長近(ク)v尺(ニ)、冬(ノ)後葉落(チテ)而角猶在(リ)v樹(ニ)其實(ヲ)名(ク)2豫章(ト)1其花葉飼(ヘバ)v猪(ニ)能肥(テ)大」國史草木攷(ニ)云晉崔貌(カ)説に生(ズル)v莢(ヲ)者爲(ス)v梓(ト)とあれば俗に云ふ木角豆《キサヽゲ》也。一名|雷角豆《ライサヽゲ》とも云へり。此は比木あれば雷落ちずと云ふ故の名也。凡そ如(キ)v此靈樹なるを以て御執に宛てたるなるべし●「奈利弭乃、音爲奈利」今本奈加弭とある加は利の誤也と云へり。利と加と草書よく似たれば是はさても有るべし。弭は廣韻(ニ)曰(フ)釋名(ニ)云(ハク)其末曰(フ)v※[弓+肅](ト)又謂(フ)2之(ヲ)弭(ト)1以(テ)v骨(ヲ)爲(ル)v之(ヲ)骨弭也。十六長歌【鹿の言に】吾爪者御弓之弓波受《ワガツメハミユミノユハズ》とあり。角牙などを以ても造りしなるべし。さて箭にも鳴鏑《ナリカブラ》あれば、弭にも鳴る物を着けたるがありしにこそ。此御歌此句迄が一段也●「朝獵爾今立須良思、暮獵爾今他田渚良之」此の四句朝獵爾の二句に用ありて、暮獵にの二句はたゞ調べの爲にそへたるのみなり。六【十四】に朝獵爾十六履起夕狩爾十里※[足+榻の旁]立馬並而御狩曾立爲春之茂野爾《アサカリニシヽフミタテユフカリニトリフミタテウマナメナテミカリゾタヽスハルノシゲヌニ》」是ら夕狩爾の二句はたゞそへたるのみ也。殊に今此御歌は飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮より吉野の西なる内野迄の行幸、且は獵などは終日のわざなれば、朝|速《と》く(10)より出立せ給ふ事必せり。故に其の御|從人《トモビト》たちは未明より鳴弭など引試みて勇み立ちけん音を聞かして、皇女《ヒメミコ》ながらいさましく羨しくおもほしなりければ、此御歌は其御出立以前未明のほどによみて献り給ひし也。是を以ても長歌は殊に調べを重みせし事を知るべし。古の雅樂には定れる節博士《フシハカセ》と云ふ物ありて、歌ふ音《ネ》ぶりの若し其ふしに足はざる時は、同じ事を二つに分けて調ぶるは常にて、稀には見す/\用なき事をも加へて節間《フシマ》にかなへずしては調子に叶はざりし也●「御執能梓能弓之、奈利弭乃、音爲奈里」此四句も節博士につきて上の四句を再び折返してうたへる也。今世の俗意には同じ言をと思ふめれど、そのかみの音ぶりにて上は律に歌ひ下は呂に調べなせる、却て同言が雅びたりけらし故《カレ》此歌には反歌をよみそへて、律にうたひ反し給ひしにぞありける。
〇一編の大意は、吾(ガ)天皇の朝夕よるひる寵愛して、あるは撥撫《カキナデ》あるは御側に縁立坐《ヨセタテマ》す梓の弓の鳴弭の音の今朝はいつよりいさましさよ【一段】朝狩に今立つらし。あはれ我もをのこならましかば從駕《ミトモ》せましものを彼の引鳴らす弭の音のいさましさよ【二段】と也。さてかく二度までくり返し羨み給ふは、もしも、天皇さほど羨しからば御供せよとのたまはんかとて御心を引きて試み給ふなりければ御出立前にして老《オユ》を御前にまだしてうたはしめ給ひしなりけり●「反歌」此は神樂の反し物の歌と同じく、律に復してうたふ名也。そのよし別記に委しく辨へつ●「玉刻春」命とも世とも續く枕詞也。此に内と連けたるも命の内の意なるべし。言の意は、言別にいひ試みつ●「内乃大野爾」此野の事既に出づ●「馬數而」馬並而《ウマナラベテ》の意也六【十九】に馬名目而《ウマナメテ》とも書きたり辨《ベ》と目《メ》と音通へり●「朝布麻須等六」朝に其野を蹈わけ給ふを云ふ夕べに越るを夕越と云ふ類也(11)●「其草深野」草木の繁りたる陰には禽獣あつまるものなれば如此《カク》は宣《ノタマ》ふ也。即上句の野を再び結び給ふ也。
〇一首の意は※[立心偏+可]怜《オモシロ》かるべき宇智(ノ)大野に數多の御供の馬並べて今朝しも踏分給ふらんが羨ましさよ其|春之繁野《ハルノシゲヌ》をと也。此句は上に立かへるにあらじといへど、猶四句切りて心得たる方よし。
 
 幸《イデマシヽ》2讃岐(ノ)國安益《アヤノ》郡(ニ)1之|時《トキ》、軍《イクサノ》王見(テ)v山(ヲ)作(ル)歌並短歌
 
 霞立《カスミタツ》、長春日乃《ナガキハルヒノ》、晩家流《クレニケル》、和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》、村肝乃《ムラギモノ》、心乎痛見《コヽロヲイタミ》、奴要子鳥《ヌエコドリ》、卜歎居者《ウラナケヲレバ》、珠手次《タマダスキ》、懸乃宜久《カケノヨロシク》、遠神《トホツカミ》、吾大王乃《ワガオホキミノ》、行幸能《イデマシノ》、山越乃風爾※[左(]《ヤマゴシノカゼニ》、獨座《ヒトリヲル》、吾衣手能※[左(]《ワカコロモデノ》、朝夕爾《アサヨヒニ》、還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》、丈夫登《マスラヲト》、念有我母《オモヘルワレモ》、草枕《クサマクラ》、客爾之有者《タビニシアレバ》、思遣《オモヒヤル》、鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》、網能浦之《アミノウラノ》、海處女等之《アマヲトメラガ》、燒鹽乃《ヤクシホノ》、念曾可燒《オモヒゾヤクル》、吾下情《ワガシタゴヽロ》。
 
 反 歌
 山越乃《ヤマゴシノ》、風乎時自見《カゼヲトキジミ》、寢夜不落《ヌルヨオチズ》、家在妹乎《イヘナルイモヲ》、懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》。
 
●「幸」道別《チワキ》に委しく出づ。左註にも此行幸を疑ひたり。げにも凡てに就て疑はしき所あり。次に云ふべし●「安益郡」式に讃岐國|阿野《アヤノ》郡三座、鴨神谷《カモノカムタニノ》神社、城山《キヤマノ》神社【名神大】と見ゆ。行嚢抄を考ふるに此郡今は綾(ノ)北條、綾(ノ)南條とて二郡に分れたり●「軍(ノ)王」舒明紀に此行幸見えず。此集(12)にも此歌の外に此名なし。是れ慥かならぬ二ツなり●「見v山作歌」かくあれど此歌見(テ)v山(ヲ)よめるに非ず。在(テ)v旅(ニ)戀(ル)2本郷(ヲ)1歌也。此端書のしざまはた疑はし。是れ其おぼつかなき三つなり。さて又此歌の風調此御代頃のすがたにあらず。是其疑はしき四つなり。故れ思ふに、此第一の卷は既に當時《ソノカミ》錯亂して歌數あまた失せつるを其(ノ)後彼れ此れ補ひつる時、其中より此處へ紛れ入りたる物ならん。所謂|倭綴《ヤマトトヂ》と云ふ爲立《シタテ》にはさる事をり/\あるもの也。此歌の口調いたく後れて、寧樂もやや末つ方のすがたなり。此卷は廿三葉藤原(ノ)宮(ノ)御井歌までが亂れながらも舊《モト》つ古歌どもにて、其次の大寶元年とあるより卷尾迄は皆後の書きそへなり、寧樂朝の歌も多く入りたり。さる時などに此處に紛れ入りけらし、そも/\二の卷の歌どもの古きに合せて思ふにも、此初卷に和銅以後の歌を然かおほく選ぶべきにあらず。此等合せて考へ合すべし。●「霞立」きこえたるまゝの連けなり●「長春日乃、晩家流」これ又今も云ふこと也●「和豆肝之良受」分《ワカ》ち着《ツキ》も不v知と云ふ也。此語茲より他に見えざれば誤とする説あれど、誤にはあらず。月之有者明覧別裳不知而《ツキシアレバアクラムワキモシラズシテ》、また出日之入別不知《イヅルヒノイルワキシラズ》、また春雨之零別不知《ハルサメノフルワキシラズ》、また夜晝云別不知《ヨルヒルトイフワキシラズ》」とある、此等の語を云ひ延べたるものにして、言のつゞきも專ら同じきを以て知るべし。又|多豆伎毛之良受《タヅキモシラズ》と云ふ語も例とすべし、是は手《タ》より着《ツキ》のなきを云ひて意は別なれど、語格は猶同じ●「村肝乃」群物此疑《ムラカリモノコヽニコル》と云ふ意にや、神代記に田心《タゴリ》姫(ノ)命。此集十四に伊毛我許々理《イモガコヽリ》とよみたり。肝向心《キモムカフコヽロ》とつゞけたるにも似たれど是は肝對《キモムカ》ふ子と係りたるにて、子の愛の深き方より云ふと聞ゆ●「心乎痛見」心が痛き故にの意にて、其痛きは平言に心‐痛と云ふが如し。此は京の戀しさの深く心にしみとほれるを云へり●「奴要子鳥卜歎居者」子は添へたる言にて※[空+鳥]《ヌエ》鳥の(13)ことなり。此鳥の事言別に詳かに云へり。卜歎《ウラナケ》はうらぶれ歎くにて※[空+鳥]がしなえうらぶれたる状《サマ》の聲をかけていふ也●「珠手次」かけと云はん枕詞也●「懸乃宜久」此懸と云ふ語耳遠く底解の爲かぬるさまなれば委しく云ふべし。此はたとへば橋を懸くると云ふも此岸より彼の岸へ渡すを云ふ。又綱をかけ竿を懸ると云ふも物より物へ懸けて渡すを云ふ。されば君をかけ妹《イモ》をかけなど云ふも此方《コナタ》の思を彼方《カナタ》へ懸亘して戀るを云ふ。又言にかけ口にかけなど云ふも彼方の事を此方の口に移しとりて云ふをいふなり。又挂卷も畏しと云ふもやむ事なきあたりの御上を賤しき方の口に移して白すが恐れ多しと云ふこと也。故に其名其物の双方に亘るをも云ふ。二【三十二】明日香(ノ)皇女の薨《ウセ》坐しける時、人麿の作れる歌に、御名爾懸世流《ミナニカヽセル》、明日香河《アスカガハ》、及萬代形見荷此焉《ヨロヅヨマデノカタミニコヽヲ》とある、こは明日香皇女と稱す御名の明日香河と云ふ河の名に相ひ亘り繋《カヽ》りたるを云ふ也。又十六【六】に櫻兒を悼みてよめる歌に妹之名爾繋有櫻花開者《イモガナニカヽレルサクラハナサカバ》とあるは、櫻兒と云ふ名の櫻の名に相ひ繋《カヽ》りたるを云へる也。此等を以て此懸と云ふ言の意を心得べし。さて今此句は皇都《ミヤコ》戀しく還らま欲《ホ》しき時《オリ》から【山越の風の朝よひに吹て】吾袖の京の方へ吹かへるが懸の縁しと云ふ也【業平朝臣のうら山しくもかへる浪かなといふ歌の心ばへあり】又十【五】子等名丹關之宜朝妻乃《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノ》と云ふも豫て我妻にせばやと思ふ少女《ヲトメ》を朝妻と云ふ名に【朝妻とは一夜相寢して其朝に云ふ言葉なれば也】取繋《トリカケ》て云ふが俗に云ふ引かゝりが睦しくなつかしきよし也。此等の宜しきも双方へ亘る意ある事別記と合せて心得べし。さて宜久と押へたるは直ぐには續けず六句隔てゝ還此奴禮婆と云ふへ係れる故也。此つゞけの事下にも云ふべし●「遠神」皇祖天ツ神は姑くおきて瓊々杵尊よりも皇統の斷絶な遠く久しく神に坐《マ》し坐《マ》す大王を稱す也。三【廿三】に清江乃《スミノエノ》、木※[竹/矢]松原《キシノマツハラ》、遠神《トホツカミ》、我大王《ワカオホキミノ》、幸行所《イデマシドコロ》、此歌住吉の松の久しきを以て云ひ移したり。是を人倫に遠き意と(14)するは非也。天皇は明神《アキツカミ》と奉(リ)v申(シ)て現に物も聞しめし妻子も持たし行幸もあれば常に目に見えぬ神祇に比ぶれば人倫に近くこそは坐しますなれ。遠しとしては明神と申すに合はず●「吾大王乃行幸能」此二句今云ふ迄もあらじ●「山越風爾」同じ風も山より吹きおろす風は取りわき身にしむを云ふ。爾の字作(ル)v乃(ニ)を※[木+夜]齋本に爾とあるに隨へり●「獨坐」妻子に離れて旅に在るを云ふ也。旅館に一人在るよしにはあらず●「吾衣手能」今本衣手爾とあり。是も同じ古本に隨へり。次の爾もじと見たがへて誤れるならん●「朝夕爾、還比奴禮婆」九【十三】樂波之平山風之海吹者釣爲海人之袂變所見《サヽナミノヒラヤマカゼノウミフケバツリスルアマノソデカヘルミユ》」此哥と同じく、彼山越風に袖の都の方へ吹返るを云ふ。妻に袖引かるゝ心ちしていとゞ戀しきよし也。さて此處の隔句に珠手次懸乃宜久《タマタスキカケノヨロシク》【遠神、吾大王乃行幸能山越風爾、獨坐、吾衣手爾朝夕爾】還比奴禮婆と云ふ續きにて、中間の六句は還るにつけて、京戀しき故よしの加はりたる也。文章に竪のつゞき横の連きといふがある類也●「大夫登念有我母」大丈夫と思ひ居る我もの意なり●「草枕客爾之有者」五【廿八】玉桙乃久麻尾爾久佐太袁利志婆刀利志伎提等許自母能宇知許伊布志提《タマホコノミチノクマビニクサタヲリシバトリシキテトコシモノウチコイフシテ》とある意にて草に纏る方より云ひそめたる枕詞なり●「思遣」心の結ぼれを遣過《ヤリスゴ》すを云ふ。想像《オモヒヤル》とは別也●「鶴寸乎白土」手依着《タヨリツキ》のなきを云ふ。白土《シラニ》は不v知を佐行サシスセソの音にて「しらざる「しらじ「しらずと濁るを、奈行ナニヌネノの清音に轉《ウツ》して「しらに「しらぬ「しらねとは云ふ也。さて此の爾《ニ》に辭《テニヲハ》の丹《ニ》の響きあれば、自然|受爾《ズニ》の意を相兼ねて手《タ》より着《ツキ》も不v知にと云ふ意になれるなり。●「網能浦之」和名抄に津野(ノ)郷あるに泥みて綱《ツヌ》の誤とするはわろし。行曩抄讃岐(ノ)國|阿野《アヤ》郡に網《アミノ》浦見え桑門西順が名所考にも網(ノ)浦讃岐と註して三首引きたり。夫木集に讃岐とせり十一【卅一】に中々爾君不戀波留鳥浦之海部爾有益男《ナカ/\ニキミニコヒズバアミノウラノアマナラマシヲ》、(15)珠藻刈々《タマモカル/\》【十三にも一首あり】又十五【九丁】に安故乃宇良爾布奈能里須良牟《アコノウラニフナノリスラム》云々一本に安美能宇良爾《アミノウラニ》とあり。是は新羅(ノ)使人の讃岐(ノ)海を渡る時引き直してうたひしなり。
●「海處女等之燒鹽乃念曾所燒」七【卅二】に吾情熾《ワガコヽロヤク》十三【十四】我情燒毛吾有《ワガコヽロヤクモワレナリ》四【五十四】吾胸截燒如《ワガムネキリヤクガゴト》などあり。焦れもゆるを烈しく云へる詞也。網浦より以下は、此|所燒《ヤクル》をいはん序也●「吾下情」しづこゝろとよまん方みやびたるやうなれど十【十二】下心吉《シタゴヽロヨシ》十一【十】吾裏念《ワガシタオモヒ》十二【二十】吾下思などの例によりてよむべし。
●一編の大意は、霞の立つ頃の長き春の日は、さらぬだに暮を待ちかぬる習ひなるに、其の長日のくれ行く分ちつきもしらず、都の戀しくて※[空+鳥]鳥の如くうらぶれ歎きをるに此|行幸《ミユキ》せす、山のあなたより嶺ごしに吹おろす風のいとゞ身にしみて、旅に離れ居るわが袖の歸らまほしと思ふ都の方へ、懸《カケ》の宜しく朝夕にかへらひぬれば、妻に引かるゝ心ちして、常に大丈夫と思ひをる我しも、むねの悶をやり拂ふ便りつきも不v知(ラ)に此の網の浦の海人等が、燒くしほの如くに思ひ燒焦してをる下の心にとなり。
●「時自見」時自久《トキジグ》は常《トコ》を常志久《トコジク》と云ふと同じく、時の重々《シク/\》に經續《ヘツヾ》き渡る意也.さて其を時自見《トキジミ》と云ふは、久《ク》を省けるにて見は山高み月清みなど云ふ見なれば、山越の風の時を經續く故にと云ふ意になるなり。富士(ノ)雪などに就て非(ル)v時(ナラ)と書ける事もあれど、語の本は然らざるなり●「寢夜不落」いぬる夜一夜も漏《モラ》さずに也●「懸而小竹櫃」此處より遙けき京迄、思ひを懸渡して妹をしたふとなり。これにて一首の意も通《キコ》えたるべし。
 右檢(ルニ)2日本書紀(ヲ)1無v幸(セルコト)2於讃岐國(ニ)1亦軍(ノ)王未詳也。但山(ノ)上憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ニ)曰(フ)、紀(ニ)曰(ハク》天皇十一年(16)巳亥冬十二月己巳(ノ)朔壬午、幸(ス)2于伊豫温湯(ノ)宮(ニ)1云云。一書(ニ)云(フ)是時(ニ)宮(ノ)前(ニ)在2二(ノ)樹木1此二(ノ)樹(ニ)班鳩《イカルガ》此米《シメ》二鳥大(ニ)集(ル)。時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛(ケテ)2稻穗(ヲ)1而養(ヒキ)v之(ヲ)乃作(ル)v歌(ヲ)云々。若疑《ケダシ》從(ヒテ)2此便(ニ)1幸(セシ)歟。
 
 明日香川原《アスカカハラノ》宮(ニ)御宇(シ)天皇(ノ)代、額田《ヌカタノ》王(ノ)歌
 
 金野乃《アキノヌノ》、千※[左(]草苅茸《チクサカリフキ》、屋杼禮里之《ヤドレリシ》、兎道乃宮子能《ウチノミヤコノ》、借五百磯所念《カリイホシオモホユ》。
●「川原宮」上ノ崗本(ノ)宮同地にて今の川原寺の邊りなる小山なりと云へり●「天皇」御名は天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》尊と奉(ル)v稱(シ)。敏達天皇五世(ノ)孫、茅渟《チヌ》王(ノ)御女、舒明天皇(ノ)皇后。舒明崩|坐《マ》して即(カ)v位(ニ)せ給ひて皇極天皇と申し、又重祚し給ひて齊明天皇と申す。此重祚は板蓋(ノ)宮にてなし給ひしに、其年の冬其宮燒けしかば、俄に川原の宮へ遷り坐し、明年の冬更に岡本(ノ)地に宮造りして遷り坐しぬ。然れば僅かに一年の間なるに此歌は其ほどよまれたる故に標をあげたる也●「額田王」其先未v詳(ナラズ)。父王ハ近江國|野洲《ヤス》郡鏡(ノ)里に住居《スマハ》れて鏡(ノ)女王の妹、天智天皇(ノ)妃也。歌は集中婦人第一とも云ふ程にて、心みやびてざえもありし人と見ゆ。
●「金野乃」秋の野也。十【十一】金《アキ》山九【十一】金《アキ》風と書ける類也。文選張景(ガ)雜詩(ニ)云(フ)金風、善曰、西方(ヲ)爲(ス)v秋(ト)而主(ル)v金(ヲ)故(ニ)秋風(ヲ)曰(フ)2金風(ト)1也●「千草苅葺」今本に美草とあるをみくさとも、をばなともよみたり。美草といひて其草は尾花なりとはいふべし。美草の字を直ぐにをばなとはよみ難き也。貞觀儀式も又同じ。されど由阿本※[木+夜]齋本等に千草とあるに隨ふべし●「兎道乃宮子能」行幸の行宮《カリミヤ》を指して宮所《ミヤコ》とはよみしなり。兎道は山城の宇治にて行幸の路次なれど、宇治に都宮のあり(17)し事はなし●「借五百磯所念」從駕《ミトモ》の人の各の借廬也。
●一首の意は、先つ頃山城の宇治に大御行ありけるに、をりしも秋のことにて、千草の花を葺かせて宿りし事のありしが其宇治の宮所のかり庵のみやびておもしろかりし事を思ひ出て今に忘れがたしと也。
 右檢(ルニ)2山上憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(ハク)一書曰(フ)戊辰(ノ)年幸(セル)2比良(ノ)宮(ニ)1大御歌。但紀(ニ)曰(フ)五年春正月巳卯(ノ)朔辛巳天皇至(ル)v自(リ)2紀(ノ)温湯1、三月戊寅(ノ)朔天皇幸(シテ)2吉野宮(ニ)1而斯宴(ス)焉、庚辰(ノ)日天皇幸(ス)2近江國平(ノ)浦(ニ)1
 
 後崗本宮《ノチノヲカモトノミヤニ》御宇(シ)天皇(ノ)代、額田(ノ)王(ノ)作(ル)歌
 
 熟田津爾《ニギタツニ》、 船乘世武登《フナノリセムト》、月待者《ツキマテバ》、潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》、今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》。
●「後崗本宮」 上と同じ天皇也。舒明天皇の岡本(ノ)宮に分ちて後の字を添へたるなり。此宮の事齊明紀二年九月の條に出づ。さて此歌齊明天皇筑紫へ行幸の御供にてよまれたるなれば、端詞に幸(ス)2于筑紫(ニ)1之|時《トキ》と云ふ六字を脱したる歟。上の歌も此でうなれば共に補ひたるにも有べし。紀(ニ)云(フ)六年十二月丁卯(ノ)朔庚寅、天皇幸(ス)2于難波(ノ)宮(ニ)1云々、七年春正月丁酉(ノ)朔壬寅、御船西(ニ)征(キテ)始(メテ)就(ク)2于海路(ニ)1。甲辰御船到(ル)2于|大伯海《オホクノウミニ》1云々、庚戌泊(ル)2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯|行宮《カリミヤニ》1とある、此運びを以て考るに此歌は備前の大伯《オホク》より伊豫の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ。
●「熟田津爾」右の釋にて見るべし●「船乘」船を下の言につゞくる時は、布奈某《フナナニ》と云ふ今は釋を待たずして知らぬはあらざるべし●「月待者、潮毛可奈比沼」月待ちをれば月も出で潮も滿(18)ちたるを云ふ●「今者許藝乞菜」乞は伊傳《イデ》とよむべし。允恭紀に壓乞此(ヲ)云(フ)2異提《イデト》1二【十八】乞通來禰《イデカヨヒコネ》四【卅一】乞吾君《イデワガキミ》十二【廿五】乞吾駒《イデワガコマ》などあり。一首の意明らけし。
 右檢(ルニ)2山上憶良太夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(ハク)飛鳥岡本(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸(ス)2于伊與(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1後岡本宮(ニ)馭宇(シヽ)天皇七年辛酉、春正月丁酉朔壬寅、大船西(ニ)征(キ)始(メテ)就(ク)2于海路(ニ)1庚戌御船泊(ツ)2于伊豫熟田津石湯(ノ)行宮(ニ)1、天皇御2覧(シ)昔日猶存之物(ヲ)1當時忽起(ス)2感愛之情(ヲ)1所d以因(テ)製(リテ)2歌詠(ヲ)1爲(ス)c之(カ)哀傷(ヲ)u也。即此歌者天皇御製(ナリ)焉。但額田王(ノ)歌者《ハ》別(ニ)有2四首1。
 
 幸(シケル)2于紀(ノ)温泉《イデユニ》1之時《トキ》額田(ノ)王(ノ)作(ル)歌
 
 莫囂國隣之大相土※[左(]《マツチヤマ》、見※[左(]乍※[立+曷]意《ミツヽアカニト》、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立爲座※[左(]《イタヽシマサバ》、吾斯何本《ワハコヽニナモ》。
 
●「幸2于温泉1、」此行幸(ハ)齊明紀(ニ)云(フ)四年冬十月庚戌朔甲子、幸(ス)2紀(ノ)温湯(ニ)1とある度也。此《コヽ》に前後したるは此卷の既《ハヤク》亂れたる也。温泉は彼(ノ)國處々にあれど、行幸のありしは牟婁(ノ)郡(ノ)走湯也。齊明紀三年九月(ノ)條又續紀大寶元年九月(ノ)條に其由見えたり。今の湯崎村にて白良濱に出づ。●「莫囂國憐之大相土」莫《ナキ》v囂《サヤギ》國は神武記に雖邊土未清餘妖尚梗而中洲之地無風塵《トツクニハナホサヤゲリトイヘドモウチツクニハサヤギナシ》とあるに依て書ける宇にて、其中津國は宇智郡より内也。隣《トナル》v之(ニ)に紀伊國伊都(ノ)郡なり。大(ニ)相《ミル》v土(ヲ)は山なり。其山は亦打《マツチ》山也。四【廿二】に麻裳吉木道爾入立眞土山越良武公者《アサモヨシキチニイリタツマツチヤマコユラムキミハ》とよみたる如く、紀伊(ノ)國の行幸には必ず山越えます例なればなり。今本國を作(ル)v圓(ニ)古本に從ふ●「湯見乍※[立+曷]意」※[立+曷]《ツクス》v意(ヲ)はあかざるなり。此卷下【廿四】に朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母《アサモヨシキビトトモシモマツチヤマユキクトミラムキビトトモシモ》と羨むばかりに見あかぬ山なり(19)今も其壯觀の所々に待乳山茶屋とて亭多かり。此句今本に兄爪謁來とあるを、由阿本爪(ヲ)作(リ)v乍(ニ)※[立+曷](ヲ)作(ル)v陽※[木+夜]齋本謁氣(ヲ)作(ル)2※[立+曷]意(ニ)1、此等を校へ合せつ●「吾瀬子之」中(ノ)大兄(ノ)命を指して申せるなるべし●「射立爲座」彼の待乳茶屋のある邊り殊に絶景なる處に立|坐《マ》せるを云ふ。今本座作(ル)v兼(ニ)元暦校本作v〓(ニ)由阿本作(ル)v廉(ニ)※[木+夜]齋本作(ル)v麻(ニ)●「吾斯何本」御供には後《オク》るとも吾は斯に待合せ奉らんと申せる事なり。今本五可新何本とあるを、元暦校本五可二字以(テ)v朱(ヲ)作(ル)v吾(ニ)一本新(ヲ)作(ル)v斯(ニ)。かくて一首の意更に釋する迄もあらざるべし。
 
 中(ノ)皇女命《ヒメミコノミコト》往《イマセル》2于紀伊(ノ)温泉(ニ)1之時《トキ》御作歌
 
 君之齒母《キミガヨモ》、吾代毛所知武《ワガヨモシラム》、磐代乃《イハシロノ》、岡之草根乎《ヲカノカヤネヲ》、去來結手名《イザムスビテナ》。
 
●「往《イマセル》」こは往坐《イニマス》の意には非ず。坐をますともいますとも云ひて、往坐《ユキマ》すことに用ひしなり。二に朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》、十七に和我勢古我《ワガセコガ》、久爾幣麻之奈婆《クニヘマシナバ》などあるを合せて知るべし。さて此御歌上と同じ度なるか別なるか定めがたし。
●「君之齒母」次と合するに、此君は御兄《ミイロセ》中(ノ)大兄(ノ)命を指し給へるなり●「吾代毛所知武」此所知武は四【廿六】三笠社之神思知三《ミカサノモリノカミシシラサン》、又四【十】天地之|神祇毛知寒《カミモシラサム》などある類にて、此は次(ニ)云(フ)巖の領知保《シリタモツ》を云ふなり●「磐代乃」南紀名勝志(ニ)云(フ)日高郡岩代(ノ)岡は岩代(ノ)庄岩代(ノ)村の中に在り。【岩代濱云々。屈石は三尾(ノ)庄三尾村(ノ)西南三十餘町海邊に在り。高さ十八九間。周り廿七間計あり。伏して人の腰を屈めたるが如し。依て名とせり。】とある。是れ三卷【廿五】によめる三穂石室《ミホノイハヤ》なり。其處に精しく證すべし。岩代は其石室の後ろなれば磐後《イハウシロ》の義也。靈驗ある神巖なれば如v此《カク》は祷《ウケ》ひ給ひ(20)しなり●「岡之草根乎」草をかやとよむは、葺料の時の詞なり。食料の時は菜と云が如し。魚を菜《ナ》、水を毛比《モヒ》、川を井《ヰ》と言ふ類也●「去來結手名」伊邪《イザ》は誘ひさそふ辭。結《ムスブ》は鎭魂術《タマシヅメノワザ》に沫緒《アワヲ》を結ぶより出でたり。下に松が枝を結び給ふ事あるも同じ。手名《テナ》はてんと云はんが如し。
●一首の意は、君が齢も我が齢ひも領知《シラ》ん靈《アヤシ》き神巖のうしろの岡の、かや草を沫緒《アワヲ》に結びて、互の命をゆひ堅めむとなり。根はたゞそへて云ふ詞ながら、長きにかけて云ふなり。
 
 吾勢子波《ワガセコハ》、借廬作良須《カリホツクラス》、草無者《カヤナクバ》、小松下乃《コマツガシタノ》、草乎苅核《カヤヲカラサネ》。
 
●「吾勢子波」吾がは親しみて云ふ語。勢子は妻より夫をも云ひ、男どち互に敬ひても云ふ。こゝは兄王《アニミコ》を指し給ふなり●「借廬作良須」古へは旅にても怜《オモシロ》き所々には假廬作りて遊び宿りしなり。上の額田(ノ)王(ノ)歌又三【十二】雷之上爾廬爲須鴨《トイカツチノウヘニイホリセスカモ》とある類ひを合せて知るべし●「草無者小松下乃」此行幸先の度と同じ時ならば十月なりければ、草多く霜枯れたるにつきて、松の下蔭にて枯殘りたるがあるを見て、かくはのたまへるなるべし。此句を以て同じ度と見んも非《ヒガゴト》ならじ●「草乎苅核」苅らせといふを延べたる事、既に出づ。
 
 吾欲之《ワガホリシ》、野島波見世追《ヌシマハミセツ》、底深伎《ソコフカキ》、阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》、珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》。
 或(ハ)頭(ニ)云(ハク)、吾欲《アガホリシ》、子嶋羽見遠《コジマハミシヲ》、
 
●「吾欲之」吾が見まほしみせし也●「野島波見世追」野島は淡路のみと思ひて、後人の所爲と(21)せるはいみじき非《ヒガゴト》也。紀伊(ノ)國には野島ありて、子島と云ふは見えず。其は先熊野順路記(ニ)云(フ)日高郡日高川の末鹽屋浦の南に野島と云ふあり。景地なり。又其海邊に阿古根と云ふもありて、貝の多くよる浦なり。之をあこね貝と云ふ。南紀名勝志(ニ)云(フ)同郡鹽屋王子(ノ)社は、山田(ノ)庄鹽屋村の中に在り。又其村の南に野島ありとて此を引けり。又玉勝間【廿九】に引ける紀(ノ)國の名所記に云ふ野島阿古根(ノ)浦は、日高郡鹽屋浦の南に野島の里あり。其海べをあこねの浦と云ひて、貝の多くより集る所なりとあるなどを見るべし●「底深伎、阿古根之浦乃」この底深伎は水の深きをいふに非ず。底は退《ソキ》にて邊《ヘ》に對《ムカ》へて奥《オキ》の方に退離《ソキハナ》れたるを云ふ。仁徳記に玖毛婆那禮曾岐袁埋登母和禮和須禮米夜《クモバナレソキヲリトモワレワスレメヤ》とある、此|曾岐《ソキ》も離れ居るを云ふ。此集五【十二】和多能底意枳都布可延乃宇奈可美乃故布乃原爾《ワタノソコオキツフカエノウナカミノコフノハラニ》とあるも、和多能底を沖つと云ふ枕詞とのみ思ふめれど、是も海の退《ソキ》、奥《オキ》の方の深江と云ふ地の故布原《コフノハラ》と云ふなり。此等に合せて今此二句も、野島に退離《ソキハナ》れて彼方なる阿古根(ノ)浦の意なる事を知るべし●「珠曾不拾」珠《タマ》とは多く清き石《イシ》貝《カヒ》をのたまふなり。此集より催馬樂にうたへるも皆然り。眞珠とせれど、眞珠は拾はるゝ物にあらざる事、十八の家持卿の長歌にて知るべし。玉出島王《タマツシマノタマ》といふは、地理を知らぬ心なり。
●一首の意は、我が見まくほりせし野島は見せ給ひつれど、未だ其おくつかたなる阿胡根(ノ)浦の貝や珠を拾ひ侍らねば、其浦へも伴ひ給ひかしとなり。
 右檢(ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)太夫(ノ)類聚類林(ヲ)1曰(ハク)、天皇(ノ)御製歌(ナリ)云々
 
  中大兄《ナカノオホエノ》命(ノ)三山御歌並短歌※[三字左(((]
 
(22) 高山波《カグヤマハ》、雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》、耳梨與《ミヽナシト》、相諍競伎《アヒアラソヒキ》』神代從《カミヨヨリ》、如此爾有良之《カクナルラシ》、古昔母《イニシヘモ》、然爾有許曾《シカナレコソ》、虚蝉毛《ウツセミモ》、嬬乎之※[左(]《ツマヲシ》、相格良思吉《アラソフラシキ》』。
 
    反 歌
 高山與《カグヤマト》、耳梨山與《ミヽナシヤマト》、相之時《アヒシトキ》、立見爾來史《タチテミニコシ》、伊奈美國波良《イナミクニバラ》。
 
●此端書先づ衆評に就て如v此記す●「中(ノ)大兄(ノ)命」中は間人《ハシビト》と同じく、乳母方の稱也。大兄は彦人(ノ)大兄(ノ)皇子、山背(ノ)大兄(ノ)皇子などの例にて、少兄《スクナエ》と云ふに對《ムカ》へたる稱名《タヽヘナ》なり。日本紀(ノ)私記(ニ)曰(フ)昔稱(シテ)2皇子(ヲ)1爲(シ)2大兄《オホエト》1又稱(シテ)2近臣(ヲ)1爲(ス)2少兄《スクナエト》1也。宿禰《スクネ》之義取(ル)2於|少兄《スクナエニ》1とあり。此の命後に天智と申す。此時に皇太子に立給ひたらば中(ノ)大兄(ノ)皇子(ノ)命とあるべき也●「三山」倭(ノ)國は四方に山立廻りて、國の中は平かなるに、香《カグ》山・耳梨・畝火の三山各獨立てり。香山と耳梨とは十市(ノ)郡・畝火は高市(ノ)郡なれど、其間各五十町許りありて鼎の足の如し。何れも丸山の中に畝火・耳梨は高く、香山は低かれど、共に尾を長く曳て根の張りたる山なりしこと既に云ふが如し。【倭名勝志、行嚢抄等に委しく出たれど長くなるを厭ひて得ぬかず】●「高山波」高は音を取れるにて香山ともあるに同じ。波は常の辭《テニヲハ》なり●「雲根火雄男志等」畝火を愛《ヲシ》とてと云ふ意也●「耳梨與《ミヽナシト》、相諍競伎《アヒアラソヒキ》」高山と闘ひしを云ふ。かかれば畝火が女山にて、高山と耳梨とが男山なるなり、然らざれば辭《テニヲハ》の運びも合はず、次の反歌に高山與耳梨山與相【戰也】《カグヤマトミヽナシヤマトアヒ》之時《シトキ》とあるにも背けり。故《カレ》此四句は高《カグ》山は畝火を愛《ヲ》しとて耳梨山と相闘ひきと云ふにて高山の男山が畝火の女山を妻に愛《ヲ》しと思ひて、耳梨の如己男《モコロヲ》と戰ひたりと云ふにぞある、愛《ヲシ》は(23)惜《ヲシ》と同語にて愛《ヲシ》や欲《ホシ》やの意にも用《ツカ》ひ、又惜む方にて用ひたり。山闘の事、風土記・今普物語等にも載せて、國々にて云ふことあり。さて此御歌此句迄が一段也●「神代從、如此爾有良志、古昔母、然爾有許曾」右の山闘の事は往古の談なる故に、物欲しみせぬ神代、すなほなりし古も戀の上は然かこそあれと了解し給ふ詞也●「虚蝉毛嬬乎之相格良志吉」虚蝉は借字にて現身《ウツセミ》なり。現《ウツ》しき世にある人を云ふ乎。之はちからを入れて云ふ辭也。今本|之《シ》を脱す。※[木+夜]齋本に依て補へり。吉《キ》はけれと云はむが如し。許曾《コソ》の結びに置かるゝ事古風の歌にこれかれ見ゆ。扨此三句の意は況や現《ウツ》しき世の人は、妻をあらそふもことわりぞとなり、是れ二段。
●一篇の意は、此三山の往古話《ムカシガタリ》をきけば、高山の男山は畝火の女山を愛みして、耳梨の同じ男山と闘ひきと云へり。其物欲しみせざりし神代、萬《ヨロヅ》すなほなりし古も、戀の上には非情の山だに、然こそありけれ。況んや現《ウツ》しき世の人の妻を競ふことあるはことわりなる事ぞとのたまふなり。
●「高山與耳梨山與相之時」此の相は闘ふを云ふ。神功紀の歌に、伊弉阿波那和例波《イザアハナワレハ》、雄略紀(ノ)歌に瀰致※[人偏+爾]阿賦耶《ミチニアフヤ》とよみたる、皆闘ふことを云へり。茲も高山と耳梨山と闘ふ時といふなり●「立見爾來之、伊奈美國波良」仙覺抄(ニ)云(フ)播磨國風土記(ニ)云(ハク)出雲(ノ)國|阿菩《アボノ》大神、聞《キカシテ》2大和(ノ)國(ノ)畝火・香具・耳梨(ノ)三(ノ)山相闘(フト)1、以(テ)2此歌(ヲ)1諫(メテ)v山(ヲ)上來之《ノボリキマシヽ》時、到(リテ)2於此(ノ)處(ニ)1乃(チ)聞(シテ)2闘止(メヌト)1覆《フセテ》2其(ノ)所|乘之《ノリマセル》船(ヲ)1而坐《マシキ》v之。故號(フ)2神集之形覆《カムツメノフセガタトナモ》1とあると合せて按ふに、立とは阿菩大神の出雲より出て來坐しゝを云ふ。旅立などの立なり、印南野が立ちて見に來たるにはあらず。
〇一首の意は、高山と耳梨山と相闘ひ諍ひしとき、出雲(ノ)國阿菩(ノ)大神其山を諌めむとて、出雲よ(24)り立たして執(リ)成(シ)に來坐しきと云ふ、印南國原まで」となり。是は物見の見には非ず、母取見而《ハヽトリミテ》などの見なり。かゝれば此歌播磨にてよみ給ふにはあるべからず。倭にても其昔がたりの中に、阿菩(ノ)神の印南野まで來坐しきと云ふことのあるに就てはよまずやはあらぬ。次の歌は口つき別なれば、此御時の歌にはあらず、端書落せるにて、本より別歌なり。
 
 渡津海乃《ワタツミノ》、豐旗雲爾《トヨハタクモニ》、伊理比沙之《イリヒサシ》、今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》、清明巳曾《アキラケクコソ》。
 
●「豐旗雲爾」豐は大と同じ稱《タヽ》へ言《ゴヘ》、旗雲は布雲《ヌノクモ》とよめる類也●「伊理比沙之」入日刺也。今の世に入あひがよしと云ふ心ばえにて、雨のなごりの雲に入日の刺すを見て、天氣を知りたるよしなり。たけ高きうた也。
 右一首(ノ)歌、今按(フニ)不v似2反歌(ニ)1也。但舊本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於反歌(ニ)1故(ニ)今猶載(スル)v此(ニ)歟。亦紀(ニ)曰(フ)天豐財重日足姫天皇先(ニ)四年乙巳立(テヽ)2天皇(ヲ)1爲(ス)2皇太子(ト)1。
 
  近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、詔(シテ)2内大臣藤原(ノ)朝臣《アソミニ》1競2憐《アラソハセタマフ》春山萬花之艶《ハルヤマノハナノニホヒト》、秋山千葉之彩《アキヤマノモミヂノイロトヲ》1時(トキニ)額田(ノ)王以(テ)v歌|判v之《コトワレル》歌《ウタ》一首
 
 冬木成《フユコモリ》、春去來者《ハルサリクレバ》、不喧有之《ナカザリシ》、鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》、不開有之《サカザリシ》、花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》、山乎茂《ヤマヲシミ》、入而毛不聽※[左(]《イリテモキカズ》、草深《クサフカミ》、執手母不見《タヲリテモミズ》、秋山乃《アキヤマノ》、木葉乎見而(25)者《コノハヲミテハ》、黄葉乎婆《モミヅヲバ》、取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》、青乎者《アヲキヲバ》、置而曾歎久《オキテゾナゲク》、曾許之怜之《ソコシオモシロシ》、秋山吾者《アキヤマワレハ》。
 
●「大津(ノ)宮」 志賀(ノ)郡にして今の東海道の大津也。宮の趾は辛崎の方によりて大曲《オホワダ》に近しと。近江志に云へり●「天皇」御名は天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》尊、後の謚を天智天皇と申せり、舒明天皇の太子に坐せり●「内(ノ)大臣」内は親しむ、大は後より崇めたる也。此外、内(ノ)宿禰、内(ノ)兵《ツハモノ》など云ふを合せて言別にも山彦冊子にも辨へつ。鎌足公は大織冠中臣鎌子とも、御食子卿の長子也とも云へり。委しき事は皆履歴にゆづりて省ける也●「競憐」是より後春秋のあらそひ代々絶えせざれど此時を始とすべし●「冬木成」冬の間|隱《コモ》りたる芽の張と係れる枕詞なるべし、春柳根張梓《ハルヤナギネハルアヅサ》、また春は張りつゝ秋は散りけりなどよみたり。されば成の字は盛の省文と見るべし。醜を省きて鬼と書る歌これかれあり。正しく冬隱《フユコモリ》と書きたるも、【七ノ卅二、十ノ六、同十三等に】三四ケ所見ゆ。ふゆきなすと訓みてはことわり盡さず●「春去來者」去と云ひて來る事なること言別又山彦册子に辨へつ●「不喧有之、鳥毛來鳴奴、不開有之、花毛佐家禮杼」百千鳥囀る春とよむ如く、花のみならず鳥も春はよくさへづる物なればかくは云へる也●「山乎茂、入而毛不聽」茂《シミ》の志《シ》は繁の約り美《ミ》は風を痛みなどの美にて茂き故にと云ふ意。不v聽は鳥の音を得聞かざる也。今本不v取とあれど、前句に鳥と花とを云ひ出でたれは、其を受くる語なくては調はず。聽を取に誤りたるに決《ウツナ》し●「草深執手母不見」此|執手《タヲル》ぞ花を受けたるなる。さて如v此春を繁く草深きものに云ひならへるは暦と云ふ物無かりし世には二月頃より四月の末迄を春と云ひならひし心ならひの殘りし故也。(26)●「黄葉乎婆、取而曾思奴布、青乎者、置而曾歎久」色附きたるを取りては愛《メ》で未だ青きをば置きては歎くなり。もみづは用語にて赤ばむをいふ●「曾許之怜之秋山吾者」曾許之は其《ソコ》し【助語】にて今の言に其《ソレ》が却ておもしいと云ふ意也。
●一篇の意は、春になれば寒き間《ホド》に鳴かざりし百鳥も來なき咲かざりし諸木の花も開き出て、いつの時より勝れてはあれど、女の身にては楚幹《シモト》の繁きが煩はしくて、入りても得聞かず、分け入る道の草深さに手折りても得見ざるを、秋山の木の葉を見ては、山も晴れ道も安くて、先づもみでたるを取りてはめでたみ、いまだ青きをばさし置きてはあかず思ふが却ておもしろくおぼゆれば、人はしらず吾は秋の山に心ひかれ侍るとなり。かく云ひて天皇を奉(リ)v負(カシ)たるが一興なりけん。
 
  大海人皇子命《オホアマノミコノミコト》下(リタマフ)2近江(ノ)國(ニ)1時|御作《ヨミマセル》歌並短歌
 
 味酒《ウマサケ》、三輪乃山《ミワノヤマ》、青丹吉《アヲニヨシ》、奈良能山乃《ナラノヤマノ》、山際從《ヤマノマユ》、伊隱萬代爾《イカクルマデニ》、道隈《ミチノクマ》、伊積流萬代爾《イサカルマデニ》、委曲毛《ツバラニモ》、見管行武雄《ミツヽユカムヲ》、數數毛《シバ/”\モ》、見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》、情無《コヽロナク》、○○○雲乃《ヤヘタナクモノ》、隱障倍之也《カクサフベシヤ》。
 
   反 歌
 三輪山乎《ミワヤマヲ》、然毛隱賀《シカモカクスカ》、雲谷裳《クモダニモ》、情有南畝《コヽロアラナム》、可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》。
 
●「大海人(ノ)皇子(ノ)命」は天智天皇同母(ノ)弟王、後に天武天皇と申し奉る、次の明日香清御原(ノ)宮(ノ)標下(27)に出づ。●「下2近江國1時」紀に六年三月近江(ノ)大津(ノ)宮へ遷《ウツ》り給ふ事見えたれば、此ほどの御歌なり。●「味酒三輪乃山」崇神天皇の朝に、三輪に掌酒《サカヅカサ》を置かれたる故に此つゞけあり。精しき事は言別に云へり鐘(ノ)響にも出づ。三輪は大和國城上(ノ)郡也●「青丹吉。奈良能山乃」青丹吉のつゞけの意は別記に出づ。奈良は添(ノ)下(ノ)郡なり●「山際從、伊隱萬代爾」今本比間に從《ユ》と爾《ニ》とを脱せり。皆古本を以て補ふ。先註どもにも既に引ければ也。されど奈良山を越えても猶山の際よりいつまでも見|放《サ》けんとおぼしてなど言へるは違へり。從《ユ》は於《ニ》の意にて、三輪の山の奈良山に隱れゆきて見えずなるまで顧みし給ふを云ふ●「道隈伊積流萬代爾」隈は路の折曲《ヲリマガリ》凡て後の隱るゝ處を云ふ。積流は避《サカ》るにて遠離《トホザカ》るを云ふ。伊は何れも發語也●「委曲毛、見管行武雄、數々毛、見放武八滿雄」委曲は詳と同語にて丁寧なる意に多く云へり。數々《シバ/\》も度々の意ながら數々《カズ/\》に思ひおもはずなどよみて終《ツヒ》には懇なる方にもなる也。見放武《ミサケム》は振放見ると云ふと同じくて目を放ちやるを云ふ●「情無云々雲乃隱障倍之也」先註等に情無雲乃《コヽロナクモノ》と訓みたれど由阿本※[木+夜]齋本等に三字書間闕けたるを見れば、情無にて一句にて、次に云々《ナニ/\》雲乃と有りしなり、姑く八重棚雲乃《ヤヘタナクモノ》と填めたれど猶よく考へてよむべし。よく思ふに此頃未だ情無雲《コヽロナクモ》など云はん詞は有るべからず、落字ありしに決《ウヅナ》し。かくて三輪山の隱るゝをさばかり惜ませ給へるは故郷の崗本(ノ)宮の方角に當るのみにはあらず、三輪(ノ)大神に別れさせ給ふを歎かせ給ふ也。御代々々天皇の近き御護神に坐せばぞかし。されば此大神に放《サカ》らせ給ひし天皇は多くよからぬ事|坐《マ》しき。そのよしは道別に論《アゲツ》らひき。
●一篇の意は、近江へ都を遷されたるに就て、年來住みなれし明日香を離るゝのみか、御守神(28)といつき來し大物主(ノ)神に別れ奉るが悲しくて、顧みする其神山の、奈良山の際《マ》に隱るゝ限り道の隈の遠避《トホサカ》るまでに、懇に見つゝ行かんものを、しば/\も振放見んものを、然も心なく、八重雲の隱すべき物かはとなり。
●「然毛隱賀」志加《シカ》は左《サ》と約れば、さばかりもと云はんが如し。賀は歎息の哉也●「雲谷裳、情有南畝」三輪山を見えん限りは見べきものを、せめて雲だにも情《コヽロ》あれかしとなり●「可苦佐布倍思哉」佐布は須と約りて、隱すべしやとなり。
 右二首(ノ)歌檢(ルニ)2山上憶良大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(ハク)遷(シマス)2都(ヲ)近江(ノ)國(ニ)1時御2覧《ミソナハシテ》三輪山(ヲ)1御作歌《ヨミマシヽミウタナリ》焉。日本書紀(ニ)曰(フ)六年丙寅(ノ)春三月(ノ)辛酉朔己卯遷(ス)2都(ヲ)于近江(ニ)1
 
  天皇遊2獵《ミカリタヽス》蒲生野《カマフヌニ》1時《トキ》額田(ノ)王(ノ)作(ル)歌
 
 綜麻形乃《ソマカタノ》、林始乃《ハヤシノサキノ》、狹野榛能《サヌハリノ》、衣爾着成《キヌニツクナス》、目爾都久和我勢《メニツクワガセ》。
 右一首(ノ)歌、今案(フニ)不v似2和《コタヘ》歌(ニ)1但舊本載(ス)2于此次(ニ)1故以猶載(ス)v焉(ニ)、
 
●「遊獵」天智紀七年丁卯夏五月五日、天皇縦2獵(シタマフ)於浦生野(ニ)1于v時天皇弟 大海人皇子命 諸王内(ノ)臣及群臣皆悉(ク)從《ミトモス》焉。とあれば藥獵也。十六【乞食者歌】に四月與五月間爾藥獵仕流時爾《ウヅキトサツキノホドニクスリガリツカフルトキニ》云々|佐男鹿乃《サヲシカノ》、來立嘆久《キタチナゲカク》、とよみたるやうに鹿(ノ)茸《ワカヅノ》を取り藥艸を採る也。就v中五月五日は百草を採《ト》れり。推古紀十九年又廿年又廿二年より此度迄四度、又翌八年五月天皇縦2※[獣偏+葛](シタマフ)於|山科野《ヤマシナヌニ》1とあるを加へて五度見ゆ。十七【天平十八年四月五日歌】にも見えたれば、其頃度々せしわざなるべし●「蒲生野」近江(ノ)國蒲生郡(29)の野也。行嚢抄(ニ)【西遊】云(フ)蒲生(ノ)郡高野村今在家、是より前程今堀村まで一里半餘人家なし。廣き野なり。是を蒲生野と云。右の方に布引山見ゆ云々。
●「綜麻形乃」此歌今本此端書の外に逸して、三輪山の歌に並びたるは錯亂せし也。杣縣《ソマガタ》は近江志に滋賀(ノ)郡杣縣は信樂田上兩杣の入口也。堀川百首、鹿、公實卿「杣縣に道やまどへるさをしかの妻とふ聲のしげくもあるかな淺井家譜(ニ)云(フ)谷上(ノ)杣方(ノ)壘見ゆ。綜麻《ソマ》は三【五十八】蘇麻山と書ける類の仮名書也。【是をみわやまのと穿ちてより以來「三輪山の繁木が本を分け見てもたゞ目につくはさくらなりけりとやうによめる歌のあまた不用になりけるもをかし。】
●「林始乃」林の前のと云はんが如し、これもしげ木がもとゝはよみがたし●「狹野榛能」眞野榛之《サヌハリノ》にて野に生ひたる榛木《ハンノキ》を云ふ。衣爾著《キヌニツク》とつゞけたるは、古此木の若葉を揉《モ》みて衣に搨《ス》り着けけるによく染み附くものなれば也。此事鐘(ノ)響萩と榛との辨の條に委くことわりつるが如し●「衣爾着成目爾都久和我勢」此和我勢は皇太弟大海人(ノ)命を指せる也。額田王後に此皇子(ノ)命にも娶《メ》されて十市(ノ)皇女を産み給ふとあれば、已に此の間《ホド》より互に御心通ひて、此三首の唱和はありしなるべし。
●一首の意は、此道の行くてなる杣縣の林の前なる野榛《ノハリ》の若葉の、搨れば衣に染《ソ》み着《ツ》く如く只目につくは此のあまたの中に吾が背の君ぞと也。かくて此の道のついでは先つ大津(ノ)宮より出立《イデタ》たして同じ滋賀(ノ)郡なる滋樂《シガラキノ》杣の下より栗本(ノ)郡|田上《タナカミノ》杣の下を歴《ヘ》て甲賀《カフガ》、野洲《ヤス》、蒲生《カマフ》野とかゝり賜ふなりければ、此歌は出立ちて間もなく、信樂《シガラキ》田上兩杣の入口杣縣の野にてよまれたるなり。
 
 茜草指《アカネサス》、武良前野逝《ムラサキノユキ》、標野行《シメノユキ》、野守者不見哉《ノモリハミズヤ》、君之袖布流《キミガソデフル》。
 
(30)●「茜草指」紫の色は赤き氣のにほふものなれば置けるなり。●「武良前野逝」百草を採む中に女君たちはわきて紫草を取れるにつきて、其野をむらさき野とはいひなせる也●「標野行」今日行幸あらんとて豫てより標め置かれし野と云ふことにて、是即蒲生野なり。此二句より袖布流と連《ツゞ》きて彼往此往《カユキカクユキ》袖ふり給ふよし也。さて野は多く奴《ヌ》とよめれど、此の歌は奴《ヌ》とはよみがたし。假名書《カナカキ》の歌に能《ノ》ともよみたれば、能《ノ》と云ふも後世の言にはあらず●「野守者不見哉、君之袖布流」此の布流はたゞ形容にあらず。大海人《オホアマノ》命の彼往此往《カユキカクユキ》面《カホ》見合ひ給ふ毎に袖もて招き給ふことをいへるなれば、野守者不見哉と云へるも野守の事には非ず。三【四十三】「山守之有家留不知爾其山爾標結立而結之辱爲都《ヤマモリノアリケルシラニシメユヒタテヽユヒノハヂシツ》」此歌と合するに、野守は本主の天智天皇を申せる詞也。次の御答歌に人|嬬《ヅマ》とよませ給ふも此の故にぞある。
●一首の意は、此の紫草をつむ標野を彼往比往《カユキカクユキ》つゝ袖振りて招き給ふ其度毎に、もしもあるじの天皇は見給はずやと、吾に迷惑せさしめ給ふと也。
 
  大海人皇子命《オホアマノミコノミコト》答(ヘタマフ)御歌
 
 紫草能《ムラサキノ》、爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》、爾苦久有者《ニククアラバ》、人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》、吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》。
 
●「紫草能」上の武良前を受けて此はたゞにほふといふ迄の枕詞なり●「爾保敝類妹乎」紅顔の艶を云ふ也●「爾苦久有者、人嬬故爾」故爾はなるにの意也●「吾戀目八方」反語にて吾戀ひんやはの意也。
(31)●一首の意は、野守は見ずやなど迷惑に思ふめるさまなれど、もし艶《ニホ》へる妹を憎く思はゞ、もとより人の妻なるに、吾かくまで戀ひんやはとなり。
 紀(ニ)曰(フ)七年丁卯夏五月五日、天皇縱2獵(シタマフ)於蒲生野(ニ)1于v時天皇(ノ)弟、諸王、内(ノ)臣及(ヒ)群臣皆悉從(フ)焉。
 
  明日香清御原《アスカキヨミハラノ》宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、十市皇女參2赴《マヰリタマフ》於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1時、見(テ)2波多横山巖《ハタノヨコヤマノイハホヲ》1吹黄刀自《フキノトジガ》作(ル)歌
 
 河上乃《カハカミノ》、湯都磐村二《ユツイハムラニ》、草武左受《クサムサズ》、常丹毛賀名《ツネニモガモナ》、常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》。
 
●「明日香」上の岡本(ノ)宮と同じ地也●「清見原宮」岡寺の下より少し南によりて上居《ジヨウゴ》村あり、是れ淨御の字音を訛り來しにて、此宮の址也と云へり●「天皇」御名は天渟中原瀛眞人《アメノヌナカハラオキノマヒトノ》尊後の謚は天武天皇と申し奉る。舒明天皇第二の皇子、天智同母御弟也。初名を大海人(ノ)皇子と曰《マヲ》しき●「十市皇女」紀(ニ)曰(フ)天皇初娶(シテ)2鏡(ノ)王女額田(ノ)姫王(ヲ)1生《ウマス》2十市(ノ)皇女(ヲ)1と見えたり●「參2赴於伊勢神宮1」是は齋宮にて下り給ふにはあらず。私に祷給ふ事のありて詣で給ふ也ければ、參赴とは記せる也。●「見2波多横山巖1」此巖の事河上の事此度の參赴の事路次の事等を皆考へて、別に委しくせり。故に此は只一わたりづゝ云ふ也●「吹黄刀自」此集に同名三所に出づ。皆各別人なり。初め乳母人にて老後まで奉(ル)v仕(ヘ)るを如v此稱へ云へる事、道別に辨へつ。
●「河上乃」伊勢國鈴鹿(ノ)郡畑村雨村の中を流るゝ谷川なり。次の湯都磐村は其上の方に見上ぐる許り高くて立てれば、川かみのとは云ふなり●「湯都磐村二」五百箇磐群《イホツイハムラ》にて、今土俗の所(32)謂屏風巖の十八九町の間に立ち連れるを云ふ●「草武左受」彼の生巖どもの美好にして苔も草も生ひざる如くにと云ふ也●「常丹毛冀名」皇女の御壽命の此巖の如く常《ツネ》とことはに坐《マ》して無常といふことの無くもがなと冀ふ也。此時十市皇女御命に拘《力ヽ》はる事のあれば也。其事別記に云へるを考へ合すべし●「常處女※[者/火]手」いつも少女の容貌にて不變《カハラヌ》を云ふ。四句と轉じて心得べし。
  吹黄刀自未v詳也。但紀(ニ)曰(フ)天皇四年乙亥春二月乙亥(ノ)朔丁亥、十市皇女、阿閉皇女、參(リ)2赴(フ)於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1。
 
(33)萬葉嬬手 卷之二
       本集一ノ下
 
  麻績王《ヲミノオホキミ》流(サレケル)2於伊勢(ノ)國|伊良虞島《イラゴジマニ》1之時 時人《ヨノヒト》哀傷《カナシミテ》作(レル)歌
 
 打麻乎《ウチソヲ》、麻績王《ヲミノオホキミ》、白水郎有哉《アマナレヤ》、射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》、珠藻苅麻須《タマモカリマス》、
 
○「麻績王」紀に三品麻績王とある外は、勘ふる物なし。麻績氏、服部氏は伊勢に在りて、神衣《カムミゾ》奉る職也。此(ノ)王の志摩に謫居せられたるも、由縁ある歟。神祇令(ニ)曰(フ)孟夏神衣祭、義解(ニ)云(フ)、謂(フ)2伊勢神宮祭(ヲ)1也。此の神服部《カムハトリヘ》等、斎戒潔清、以2參河赤引神調(ノ)糸(ヲ)1、織2作(ス)神衣(ヲ)1、一又麻績(ノ)連等、績(ミテ)v麻(ヲ)以織(リ)2敷和衣《ウツハタノミソヲ》1、以供(フ)2神明(ニ)1、故(ニ)曰(フ)2神衣(ト)1と見えたり。今本績作(ル)v※[糸+賣](ニ)。これは通はしても書ける状《サマ》なれど、古本に隨へり。●「伊勢(ノ)國伊良虞島」伊良虞、今は參河に屬せれど、近昔までも志摩(ノ)國内なりければ、伊勢とは云へるなり。紀に因幡(ノ)國とあるはわろし。此れ等の事委しく別記に云へり。●「時人哀傷」志摩へ移して神衣の營み爲さしめ給へる、然《サ》せる悲もあらざるにかく云へる、此時人は、王に無v罪をいためるにや。
○「打麻乎」打ちたる麻《ソ》を績《ウム》とかけたる也。●「白水郎有哉」白水の二字は漢土の地名より出でたる也。渝州記曰(ハク)※[門/良](ノ)白水(ハ)、東南(ニ)流(レテ)、三曲(スルコト)、如(シ)2巴(ノ)字1、故名(ク)2三巴(ト)1、代醉編(ニ)曰(ク)、唐周邯、自(リ)v蜀買(ヒ)v (34)奴(ヲ)、曰(フ)2水精(ト)1、善(ク)沈(ム)v水(ニ)、乃崑崙白水之屬也と見えたり。かゝれば泉郎と書けるは、白水の合字歟。又二字を一字に誤りたるか也。有裁《ナレヤ》は反語にて、海人なるかは海人にもあらざるをと云ひて此の二句に流す程の罪あらんやは、さる罪もあらざるにと云ふを含めたるなるべし。●「珠藻苅麻須」たゞ悼しく、烈しく云ひなせる詞也。
〇一首の意は、麻績王にさせる罪まさんやは、何ばかりの事にもあらざるに、父子三人とも輕々しく島に移せるがいとほしさよと云ふ下心なるを、公を憚りて白水郎に比して云へると聞ゆ。
 
  麻績(ノ)王聞《キカシテ》v之|感傷《カナシミテ》和《コタヘタマフ》歌
 
 空蝉之《ウツセミノ》、命乎惜美《イノチヲヲシミ》、浪爾所濕《ナミニヌレ》、伊良虞能島之《イラゴノシマノ》、玉藻苅食《タマモカリヲス》。
 
○「空蝉之」幽冥に對へて、此の顯露《アラハニ》なる世を現《ウツ》し世と云ひ、現し世にある人を現し身と云ふ故に、世とも命とも連けよめるなり。○「命乎惜美」命が惜しさにの意也。此二句にかゝる辱見んよりは、死なんかたまされども、命が惜しさにと云ひて、虚實はとまれかくまれ、天皇の命《ミコト》の隨《マニ/\》云々と云ふ意をほのかに含めたる也。●「浪爾所濕」もし浪に涙を兼ねたるかと人思ふめり。今按ふに、事の心は今迄の學者の思へるよりは、心深きが多かれど、言語のうへには、さる事をさ/\なし。
 右檢(ルニ)2日本紀(ヲ)1曰(フ)、天皇(ノ)四年乙亥夏四月戊戌朔(ノ)乙卯、三品麻績(ノ)王有(リ)v罪流(ス)2于因幡(ニ)1、一子(ハ)流(シ)2伊豆嶋(ニ)1、一子(ハ)流(ス)2血鹿《チカ》嶋(ニ)1也、是(ニ)云(ヘルハ)v配(スト)2伊勢(ノ)國伊良虞嶋1者、若疑《ケダシ》後人縁(リテ)2歌辭(ニ)1而誤記(シタル)乎。
 
(35)  天皇御製歌《スメラミコトノホミウタ》
 
 三吉野之《ミヨシヌノ》、耳我嶺嶽※[左(]爾《ミガネノタケニ》、時無曾《トキナクゾ》、雪者落家留《ユキハフリケル》、間無曾《ヒマナクゾ》、雨者零計類《アメハフリケル》、其雪乃《ソノユキノ》、時無如《トキナキガゴト》、其雨乃《ソノアメノ》、間無如《ヒマナキガゴト》、隈毛不落《クマモオチズ》、思乍叙來《オモヒツヽゾコシ》、其山道乎《ソノヤマミチヲ》、
 
●「天皇御製歌」次に此の同じ天皇の、同じ吉野の御製歌出でたるに、其れと分ちて擧げたるは、いまだ皇太弟と稱《マヲ》しゝ時の御歌なりけむを、後より集めて天皇とは録《シル》したるなり。此の御歌の御物思の状なるを按ふに、此は天智紀(ニ)云(フ)四年冬十月庚辰、天皇|臥病以痛之甚矣《ミヤマヒヲイタクカナシミマシキ》。於是《コヽニ》遣(テ)2蘇賀(ノ)臣安麻侶(ヲ)1、召(テ)2東宮(ヲ)1引2入(レマス)大殿(ニ)1、時(ニ)安摩侶(ハ)素東宮所v好《モトヨリノミヨシミアレバ》、密(ニ)顧(テ)2東宮(ヲ)1有意而言矣《ヲモヒカネテマヲシタマヘトマヲス》。東宮|於茲《コヽニ》
疑(ハシテ)v有(ルコトヲ)2隱謀《ミソカゴト》1而慎(ミタマフ)v之。天皇勅(シテ)2東宮(ニ)1、授《ユヅリタマフ》2鴻業《アマツヒツギヲ》1、乃|辭讓之曰《イナミテマヲシタマハク》、臣之不幸《オノレサキナシ》元《モトヨリ》多病《カヨワクテ》何《イカデ》能《ヨク》保(ン)2社稷《クニ》1、願陛下擧《アメノシタノコトハ》、天下附皇后《オホキサキニサヅケタマヘ》、仍《マタ》立(テヽ)2大友(ノ)皇子(ヲ)1宜爲儲君《ヒツギノミコトシタマフベシ》、臣《ワレハ》今日|出家《イヘデシテ》爲《ミタメニ》2陛下《オホギミノ》1欲修功徳《ノリノコトヲオコナハントマヲシタマヒキ》。天皇|聽之《ユルシタマフ》、即日《ソノヒ》出家(シテ)法服《ノリノミケシヲキタマフ》、因以《カレ》收(メ)2私(ノ)兵器《ツハモノヲ》1悉(ク)納《カヘシタマフ》2於司《オホヤケニ》1、壬午入(リタマフ)2吉野(ノ)宮1と。此時の御道すがらの御歌とぞきこえたる。
●「三吉野之」大和(ノ)國吉野(ノ)郡吉野也。三は眞《マ》の意の美賞辭《ホメコト》なる事、熊野を三熊野《ミクマヌ》とも眞《マ》熊野とも云ふが如し。●「耳我嶺嶽※[左(]爾」耳は弭の略字、嶺の下に嶽の字を脱《オト》せるにて、みがねのだけにとよむべき事、別記に悉しく辨へつ。さて此(ノ)山は所謂金峯山にて、古へより修行者の入りて佛法を修する山なりければ、此度も入りて天皇の御悩を祈り坐さんとなり。●「時無曾、雪者落家留、間無曾、雨者零計類」高山は何處《イヅコ》の山も、雪雨の時を定めぬものなるが、取りわき此嶽は、深(36)山にして高山なる故に、別記に引きし日藏記に云へるが如し●「其雪乃、時無如、其雨乃、間無如」此句迄は其雪・雨の時なく間《ヒマ》なき如く、御物思の繁く坐《マ》すよしを詔はん序也。されど序とのみにては耳にたやすからん。先づ前の四句は、雪と雨とを合せ、又|時《トキ》と間《ヒマ》とを對《ムカ》へて詔ひ、此《コヽ》の四句は再び其の雪雨の時《トキ》間《ヒマ》を受けて、八句四聯の疊對、ほど拍子よく玉を貫けるが如し。人麻呂大人の歌に此の口調の多かるは、此のほどより生《オ》ひたゝりし故に、此れ等の御歌を師とせられたるなるべし●「隈毛不落」隈は道の曲々《クマ/\》也。不落は漏らさずにの意也。既にも出でたれば一わたり云ふ●「思乍叙來」思、此は句の首にあれば、字はあまるともおもひとよむべし。來も上よりの御句の運び、道すがら物をおもほしつゝ山に入りて、よみ終らせ給へるかゝりなりければ、こしとよむべし。●「其山道乎」其山道を隈も落ちず思ひつゝぞ來しと、二句上へ立ちかへりてきくべし。
●「一篇の意は、吉野山の中にても金《カネ》の御嶽《ミタケ》はとりわけ高山なりければ、雪も雨も時なく間《ヒマ》なくふりけるが、彼の御陰謀につきて、吾物思も其雪雨の時なく間《ヒマ》なきが如《ゴト》滋《シゲ》くて、道の隈々一つも漏さず、悶《オモ》ひつゞけてぞ〔傍点〕來し〔傍点〕其長き山道をばと也」。
 
 或本(ノ)歌、三芳野發《ミヨシヌノ》、耳我嶺山爾《ミガネノヤマニ》、時自久曾《トキジクゾ》、雪者落等言《ユキハフルトフ》、無間曾《ヒマナクゾ》、雨者落等言《アメハフルトフ》、其雪《ソノユキノ》、不時如《トキナキガゴト》、其雨《ソノアメノ》、無間如《ヒマナキガゴト》、隈毛不堕《クマモオチズ》、思乍叙來《オモヒツヽゾコシ》、其山道乎《ソノヤマミチヲ》、右句々相換(ル)、因(テ)v此(ニ)載(ス)v焉(ニ)。
 
  天皇|幸《イデマシケル》2于吉野(ノ)宮(ニ)1時《トキノ》御製歌
 
(37) 淑人乃《ヨキヒトノ》、良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》、好常言師《ヨシトイヒシ》、芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》、良人四來三《ヨキヒトヨクミ》。
 
●「幸」此(ノ)行幸は、御即位の後の度なり。●「吉野宮」は雄略天皇の朝が始めにて齊明紀に造り改められたる事見ゆ。應神紀に幸2吉野(ノ)宮1とあるは、行幸と云ふに就て、宮の字を添へたるならん。彼の時未だ離宮有るべからず。彼の宇治の宮子《ミヤコ》などの類ひときこゆ。其宮の趾五所ありといへど慥かならず。宮瀧の前なるは、持統天皇より後の趾と云へり。
●「淑人乃」詩の曹風に、淑人君子。注(ニ)云(フ) 淑(ハ)良貴也、字書(ニ)云(フ) 淑同(ジ)v※[さんずい+列](ニ)、善也とあり。されど惡に對へたる善(キ)には非ず。貴く善(キ)なり。 皇祖天皇たちを始め、古への良臣等迄にかけて詔ふ也●「良跡吉見而、好常言師」人のよしと云ふも、庸人の言は信《タノマ》れず。古ヘの神と坐《マ》しゝ人々のよしと云ひしが、實によきかとよく見定めてよしと云ひしの意也。如此《カク》詔ふには比《ソヘ》たる意有べけれども、後よりは悟りがたし。此大御歌言の表はよき人の、よしとよく見て、よしといひし、よし野なるぞ。汝等もよく見よと詔ふにて、四の句迄に言も意も盡きたれば、結句は只上の二句を返し給ふのみ也。
●一首の意は、古へより貴く賢き人たちのよしと云へりしが、實によきかとよく見定めて、いよ/\よしと云ひし吉野ぞ。汝等もよく見よ。「彼のよき人のよく見て」と云ふ意なるを、見《ミ》もじにて留めてテ〔傍線〕を含め給へる也。
 是古本(ノ)訓也。元暦校本・建長本・由阿本等皆然り。
  紀(ニ)曰(フ)八年巳卯五月庚辰朔甲申、幸(ス)2于吉野(ノ)宮(ニ)1
 
(38)  藤原宮《フヂハラノミヤニ》御宇(シヽ)天皇(ノ)代、天皇御製歌
 
 春過而《ハルスギテ》、夏來良之《ナツキタルラシ》、白妙能《シロタヘノ》、衣乾有《コロモホシタリ》、天之香來山《アメノカグヤマ》。
 
●「藤原宮」大和(ノ)國高市(ノ)郡|鷺栖《サギス》坂(ノ)地也と云へり。此地、本名は藤井(ノ)原と云ひけるを省きて、藤原とも云ふと見ゆ。●「天皇」御名は高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》尊後(ノ)謚奉(ル)v申(シ)2持統天皇(ト)1、天智天皇弟二(ノ)女、天武天皇(ノ)皇后。
●「白妙能《シロタヘノ》」妙は借字、栲《タヘ》也。其栲は、穀木にて色白き物なれば、白栲と云ふ。機物の總名となりける故に、衣類につゞくる也。其委しき事は道別・言別の處々にいへり。
●「一首の意」は、何時《イツ》の間に春過ぎて、夏になりぬらん。はや夏めきて香來山のあたりの家に、衣ほしかけたるよとなり。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂、過《スグル》2近江(ノ)荒都《アレタルミヤコヲ》1時作(ル)歌、並短歌二首。
 
 玉手次《タマダスキ》、畝火之山乃《ウネビノヤマノ》、橿原乃《カシハラノ》、日知之御世從《ヒヂリノミヨユ》、阿禮座師《アレマシシ》、神之盡《カミノコト/”\》、樛木乃《ツガノキノ》、彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》、天下《アメノシタ》、所知食來《シロシメシコシ》、天滿《ソラミツ》、倭乎置而《ヤマトヲオキテ》、青丹吉《アヲニヨシ》、平山越而《ナラヤマコエテ》、何方《イカサマニ》、所念計米可《オモホシケメカ》、天離《アマサカル》、夷者雖有《ヒナニハアレド》、石走《イハヾシノ》、淡海國乃《アフミノクニノ》、樂(39)浪乃《サヽナミノ》、大津宮爾《オホツノミヤニ》、天下所知食兼《アメノシタシロシメシケム》、天皇之《スメロギノ》、神之御言能《カミノミコトノ》、大宮者《オホミヤハ》、此間等雖聞《コヽトキケドモ》、大殿者《オホトノハ》、此間等雖云《コヽトイヘドモ》、春草之《ハルクサシ》、茂生有《シゲリオヒタリ》、霞立《カスミタツ》、春日之霧流《ハルヒノキレル》、百磯城之《モヽシキノ》、大宮處《オホミヤドコロ》、見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
●「柿本朝臣人麻呂」此人下官にて、史に漏れて、其傳のしられず成りにしはあかぬわざ也。されど孝徳・天智の朝の漢風を退け給ひし、天武天皇の御代にして、生ひ立ちて皇國魂《ミクニタマシヒ》を得給ひ、言語の妙を窮め給ひしは、蓋し神の御靈憑《ミタマヨセ》ありける故に、自然に神と齋かれ給ひしにや。此他の事は履歴、考別記等に讓る。又人麻呂事蹟考別と云物もあり。下に別けて云ふことも有るべし。●「近江荒都」天智天皇六年、飛鳥の崗本(ノ)宮より。近江(ノ)大津宮に遷り坐し、十年十二月崩り給ひつれば、此宮に坐しゝは、僅に五年なりき。然れば人麻呂大人故京となりて後、此《コヽ》に訪ひ見られしを、姑く持統天皇の朱鳥の二三年とするに、いまだ廿年の間なり。此歌の状《サマ》、大宮は既に絶えて跡だにたどる趣きなり。如v此《カク》またきに絶えはてつるは、彼の大友(ノ)皇子の亂に依てなるべし。宮所の事既に出づ。
●「玉手次」襷を所嬰《ウナク》と云ふを、直にうねひに係けたる也。所嬰《ウナク》とは、項《ウナジ》に懸けわたすを云ふ●「畝火之山乃、橿原乃」畝火は大和(ノ)國高市(ノ)郡に高く聳えて、松栢の繁りたる山也。橿原は其山の西南に今柏原村の在る所也。紀、畝傍山(ノ)東南橿原(ノ)地とあるは誤れり。東は西に作るべし。此の句橿原宮乃と云ふべきなれど、然は云ひがたき故に省けるなり●「日知之御世從」神武天(40)皇を奉(ル)v指(シ)。日知《ヒジリ》は博知《ヒロシリ》にて徳の廣きを云ふ。本は此國《コヽ》の古語にはあらで、漢國の聖の字に就きたる訓語なるべし。古學以來|日知《ヒシリ》の意として、天(ツ)日嗣|所知看《シロシメス》天皇を奉(ル)v稱《マヲシ》と云へれど、さらば御代々々の天皇を申すべきものなるに、然《サ》はあらずして、神武紀に夫|大人《ヒジリノ》立(ルハ)v制《ノリヲ》、義《コトワリ》必|隨《ナラヘリ》v時(ニ)、仁徳紀に故(ニ)稱(ヘテ)2其御世(ヲ)1謂《マヲス》2聖帝《ヒシリノミカド》》1也、又其序(ニ)云(フ)望(テ)v烟(ヲ)而撫(ヅ)2黎民(ヲ)1、於v今傳(フ)2聖帝(ト)1、又續紀(ノ)詔詞(ニ)云(フ)、近江(ノ)大津(ノ)宮爾、天(ノ)下|所治聖代爾《シラシヽヒジリノミヨニ》などゝ、漢國にいはゆる聖人に似たる事ある時にのみ云へり。又高僧知識を指して云へるも、やゝ古き時よりの事也。もし天(ツ)日嗣の謂ひならば、凡下《ボンゲ》の人には及ぼすべからざるか●「阿禮坐師、神之盡」阿禮《アレ》は、出現《アラ》、新《アラ》等も兼ねて、弘き語なりけれど生《ウマ》ると云ふも違はざれば、此《コヽ》の神武天皇より三十八代の間、生れ嗣ぎ坐す天皇皆悉くの意也。●「樛木乃、彌繼嗣爾」樛《ツガ》は今栂の字を書きて、つがとも、とがとも云ふ良材也。葉は樅《モミ》に似て繁れり。此に樛木の字を當てたるは、老木になりて長き枝の垂るゝを取りてなるべし。音を轉じて連くる事、冠辭の常なり。彌は數代にかけて云ふ。繼々は歴代を指せり●「天下、所知食來、天滿、倭乎置而」上よりの連き、歴代天(ノ)下|所治看《シロシメシ》來つる、其の倭の帝都を除《オ》きて也。天滿の冠辭の事、一の卷の別記に出づ●「青丹吉、平山越而」此二句下の淡海《アフミノ》國に下り給ふ事を云ふ也。青丹吉。是も一の卷別記に出づ●「何方、所念計米可」こは何と思食《オボシメシ》ての事なりけむと云ひて、下に其御心得違ひを咎めたる意あり。紀を按ふるに孝徳天皇の長柄(ノ)豐崎(ノ)宮に天(ノ)下しらしける時、此天皇皇太子にて、倭へ歸らせ給へとすゝめましけるに、御|許容《ユルシ》なかりければ、私に皇祖母尊《スメミオヤノミコト》・皇后・皇弟までを引具して、自ら倭へ歸り給へり。故に孝徳天皇痛く恨み坐して御位を避けんと詔《ノ》り給へり。然るに齊明天皇の後即位に即き給ひて間もなく、其身は大津(ノ)宮へ(41)うつらせ給へり。其前年より天の下の百姓、都の畿外へ遷らん事を歎きて諌め奉れど、終に用ひさせ給はず、さま/”\の童謠あり。又晝夜失火等の恠異も有り。又よからぬ事ども、有し趣に見えたれば也。さて計米《ケメ》は計牟《ケム》なるを、可《カ》と連く故に米《メ》に轉じて云へる也(【云ふらめど、あらざらめどなど云ふ類也】)即|計米《ケメ》は往《イクサキ》を推し量りて云ふ辭《テニヲハ》。可は疑ひなれば下に兼と受けて、結びたるなり●「天離夷者雖有」天離は祝詞に白雲能墜坐向伏限《シラクモノオリ井ムカフスカギリ》と云へる如く、遠く望めば天《ソラ》も地におりゐて、つゞけるやうに見ゆる迄遠ざかるを云ふ。夷は隔つを古言に幣奈流《ヘナル》と云ふ、此の隔《ヘナ》るてふ言の體言になれるにて終に都の外を云ふ語となれる也。十三に夷離國治爾登《ヒナサカルクニヲサメニト》とつゞけたるも即|隔離《ヘナレサカレル》國と云ふ意の語なり。此等の事、言別一卷の末に委しく辨へたり。此二句の意は、次と合せて云ふべし●「石走、淡海國乃」石橋とは石|以《モ》て懸けたる橋をも云ふなれど、枕詞に置けるは、山河などの渡瀬に、手比《テゴロ》の石を置き並べて、其を蹈みて渡るを云ふ。さる故に間近しとも遠きともつゞけたる也。十九に安麻嚢河波《アマノガハ》、伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》、都藝弖見牟可母《ツギテミンカモ》、此の伊之奈彌《イシナミ》を石走《イハヽシ》とも云ふ。二に石橋《イハヽシニ》【一云2石浪1】とある浪は、借字にて、石並《イシナミ》なり。七に年月もいまだ經《ヘ》なくに、明日香河湍瀬由渡之石走無《アスカガハセヾユワタリシイハヾシモナシ》」是も彼置き並べたる石なれば、間もなく砂に埋るゝを云へるなり。此に淡海とつゞけたるは、其の石並の間《アハ》ひと受けて、間近き意を含めたり。されば右四句は、隔りたる夷とはいへど、實は隣國の間近き淡海國乃云々、と云ふつゞけなり。爾者雖有《二ハアレド》と云へる辭《テニヲハ》をよく考ふべし●「樂波乃、大津宮爾」樂浪(ノ)國(ノ)大津(ノ)宮にと云ふ意のつゞけ也。其よし別記に論《アゲツ》らへり●「所知食兼」上よりのつゞき何方所念計米可云々《イカサマニオモホシケメカシカ/”\》して、所知食兼《シロシメシケン》と結びたる也●「天皇之神之御言能」此《コヽ》は天智天皇を其御代過て後に奉v申(シ)故に天皇とは書きたれども、須賣漏岐《スメロギ》ととな(42)ふるなり。當代の天皇は於寶岐美《オホギミ》また須賣良美許登《スメラミコト》などは稱《マヲ》せども、須賣漏岐《スノロギ》とは申さず、須賣漏岐《スメロギ》は、皇顯祖君《スメアレオヤギミ》と云ふことなればなり●「大宮者、此間等雖聞、大殿者、此間等雖云」此四句大宮既に絶えて、其址をたどれる趣也。さて大宮も大殿も同じ事なるを、言を換へて調べを助くる古き長歌の常也●「春草之、茂生有、霞立、春日之霧流」上よりの連き、其の大宮を此處《コヽ》とはきけど、草の原と成りはてゝ、只春の日のみ、きら/\と霞み遺れるよし也。此四句異本等いろ/\有りて、二つの之の字を作(ル)v可(ニ)に據る人多かれど、春草にまれ、夏草にまれ、草|以《モ》て大宮を覆ひ隱すべきならねば、さる本は取り難し。又霞霧も、其大宮を阻遮《ヘダテサヘギ》る意としては、あまりおぼめきて實なし。此は常に金殿樓閣には、霧霞もよく顯れて棚曳く物なれば、かく云へるにて、九の卷に「ぬば玉の夜霧はたちぬ衣手の高屋於爾《タカヤガウヘニ》たなびくまでに」とよめるに合せて知るべし。されば大宮は草の原となりはて、唯霞のみ獨り懸り處もなくきら/\ときらめき遺れるよと歎けるが、妙なる也。此語の妙をきゝしる人なし●「百磯城之」百《モヽ》は木丘開《モクサク》・※[草冠/會]茂《モクシゲシ》・其花|茂《モシ》(【此は音を取るに非ず本よりの古言なり】)百足《モヽタル》・百襲姫《モヽソヒメ》など云へる百《モヽ》にして、茂く盛りなる意。磯城《シキ》は、例の借字にて宮柱太敷《ミヤハシラフトシク》の敷《シキ》也。されば是も植竹之《サスタケノ》大宮とつゞくと同じく、茂く、盛に太敷《フトシカ》す宮とかけたるなり●「大宮處、見者悲毛」帝都の跡の荒廢をいためる也。此大宮處と云ふに、直に其大宮を云へると、宮の地を云へるとの別あり。今此歌は地を云へるなり。六【四十四右】に大宮處《オホミヤドコロ》、此跡標刺《コヽトシメサセ》、又《マタ》【同丁】大宮處《オホミヤドコロ》、定異等霜《サダメケラシモ》、此等も今と同じく其の地所を云へり。又|不可易大宮處《カハルベカラヌオホミヤドコロ》、|大宮地《オホミヤトコロ》、還往目《ウツロヒユカメ》十七【十右】都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》、大宮處《オホミヤドコロ》、これらは直ぐに大宮を指して云へり。此類常にある事也。
(43)●一編の意は、神武天皇より以降《コノカタ》、生現繼坐《アレツギマ》せる天皇《スメロギ》の盡《カギ》り、御代次々に天下知しめし來し其の倭(ノ)國を除《オ》きて、いかさまに念行《オモホシ》てか、平《ナラ》山越えて畿外の近江には遷りましけむ(【其かひもなく、僅かに中四年ならでは御座さず國の亂れとさへなりにしは、御心得違ひなりかし】)夷《ヒナ》とはいへど、倭遠からねば、常に名高く聞き及べりし其大宮所を今日訪ひ來て見るに、此處とはいへど、いつの間《ホド》にか、草ぶかき原と成りて、其の昔樓閣に幾すぢも横ぎりし霞のみ、獨りきら/\と棚引き遺れるむかしの宮趾を見るが悲しさよとなり。
 或本第五句、自宮《ミヤユ》。第九句、所知食之乎《シロシメシシヲ》。第十三句、平山乎越《ナラヤマヲコエ》。第十五句。御念食可《オモホシメセカ》。第三十四句、霞立《カスミタツ》、春日香霧流《ハルヒカキレル》、夏草春《ナツクサカ》、繁成奴留《シゲクナリヌル》。終句、見者左夫思母《ミレバサブシモ》。
 
  短※[左(] 歌
 
 樂浪之《サヽナミノ》、思賀乃辛崎《シガノカラサキ》、雖幸有《サキクアレド》、大宮人之《オホミヤビトノ》、船麻如兼津《フネマチカネツ》。
 
●「短歌、今本短を作(ル)v反(ニ)、古本には建長本・文永本・由阿本・※[木+夜]齋本等皆短歌とあり。此時長歌もよみ又短歌もよまれたるにぞある。端書も其趣なり。
●「思賀乃幸崎」滋賀郡の内の辛崎也●「雖幸有」幸《サキク》は安全なるを云ふ。書紀に無恙とも、平安とも書《力》きたり。さて崎より受けたるは詞の文《アヤ》也●「大宮人之、船麻知兼津」此兼は今俗に云ふ待ちかぬるにはあらず。集中に不得《カネ》と書ける字の意にて、志賀(ノ)辛崎が大宮人の船を待ち得ざるを云ふ。作者の待ち得ぬと云ふにはあらず。
●一首の意は、志賀(ノ)辛崎は【佐岐と云】名の如く幸《サキ》く、不變《カハラズ》に遺《ノコ》りてあれど、ありし御代に出で遊びし大(44)宮人の船は待ちとり得ずして、さびしげ也となり。
 
 左散難彌乃《ササナミノ》、志我能大和太《シガノオホワダ》、與杼六友《ヨドムトモ》、昔人二《ムカシノヒトニ》、亦母相目八方《マタモアハメヤモ》。
 或本二句、比良乃《ヒラノ》。結句|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》。
 
●「志我能大和太」和太とは水の入りこみて廻れる所を云ふ。七曲玉《ナヽワダノタマ》・蟠《ワダカマル》など云ふ輪太《ワダ》也。此は大津の濱町の前、打出(ノ)濱の邊、四宮・松本の下まで入廻|り《れる(?)》江を云ふ。即昔の大宮所の前通なり●「與杼六友」和太《ワダ》と云ふより與杼《ヨド》と受けたるにて、淀み留るに待つ意あれば。則|待淀《マチヨド》むといはんが如し。但し作者の彳みて待つには非ず。是も前の辛崎と同じく大和太が淀みて待つ意也。此處よう〔二字傍点〕せずば、解きひがむべし●「昔人二、亦母相目八毛」目八毛《メヤモ》は反語にて、再《マタ》も得逢んやはと云ふ意なり。三句|與杼米友《ヨドメトモ》とは云ずして、與杼六友《ヨドムトモ》と云へるに心を着くべし。
●一首の意は、志賀の大曲《オホワダ》よ。汝《イマシ》何ほど待ち淀むとも、在りし昔の人々に再《マタ》も得逢はんやはとなり。
 
  高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》、感2傷《カナシミテ》近江(ノ)舊堵《フリヌルミヤコヲ》1作(レル)歌二首
 
 古《イニシヘノ》、人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》、樂浪乃《サヽナミノ》、故京乎《フルキミヤコヲ》、見者悲寸《ミレバカナシキ》。
 
●「高市(ノ)連は姓氏録に天津彦根(ノ)命三世(ノ)孫|彦伊賀都《ヒコイカツノ》命之後也と見ゆ●「黒人」懷風藻に詩有(リ)2二首1。(45)歌も集中多く見えて上手也●「舊堵」詩風雅に、百堵《モヽノカキ》皆|作《ナセリ》とあり。此《コヽ》も舊堵《フルキカキ》の遺れるを觀て感傷《カナシミ》たるかとも思へど、堵都〔二字傍線〕通はしたる也と云ふに姑く隨へり。
●「古、人爾和禮有哉」此の有哉は反語として解く方歌の意こまやかにきこゆれど、古風にあらず。猶あればにやの意とすべし。
●一首の意【今(ノ)世の人ならば、過ぎ去りし昔の事を然まで歎くべくもあらぬを、】在りし其の代の人に我あればにや、此の舊りし京を見ればあやしき迄に悲しきよとなり。
 
 樂浪乃《サヽナミノ》、國郁美神乃《クニツミカミノ》、浦佐備而《ウラサビテ》、荒有京《アレタルミヤコ》、見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
●「國都美神乃」十七に美知乃奈加《ミチノナカ》【越中】久邇都美可未波《クニツミカミハ》とあるに依れば、其國々を領知《ウシハキ》給ふ神を云ふと聞ゆ●「浦佐備而」心の冷《スサ》び荒びて也。天智紀(ニ)曰(フ)、六年春三月辛酉朔巳卯、遷(ス)2都(ヲ)于近江(ニ)1是時天下百姓不v願(ハ)v遷(スヲ)v都(ヲ)、諷諌者多《ソヘイサムルヒトオホク》、童謠亦衆《チマタノウタモオホシ》、日々夜々《ヨルヒルワカズ》失火處多《ヒノワザハヒシバ/\ナリキ》などあるを見れば、彼の天皇|漢意《カラゴヽロ》以《モ》て神慮を背かせ給ふ事多かりけん。もしは遷都の時、朝倉宮などの如く、神木を伐荒し、社を移しなど爲給ひて、實に神の御怒ありし事を聞き傳へて此人|如v此《カク》よめりしなるべし。さらば、
●一首の意は、樂浪乃國の神たちの怒り坐しゝ事どもの有りて、速《トミ》に荒れたる宮所を見れば、さま/”\思ひ出る事のありて、いとゞ悲しと云へる也。三(ノ)卷に高市(ノ)連黒人【ガ】近江(ノ)舊都(ノ)歌、如此故爾《カクユヱニ》、不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》、樂浪乃《サヽナミノ》、舊都乎《フルキミヤコヲ》、令見乍本名《ミセツヽモトナ》、とあるも此時のうたにや。いかにまれ、此等を合するに、彼の大友(ノ)皇子の亂にて、いとあさましく荒れたるなるべし。
 
(46)  幸《シヽ》2于紀伊(ノ)國(ニ)1時、川島(ノ)皇子(ノ)御作歌《ヨミマセルウタ》一首
 
 磐※[左(]白乃《イハシロノ》、濱松之枝乃《ハママツガエノ》、手向草《タムケグサ》、幾代左右二賀《イクヨマデニカ》、年乃經去良武《トシノヘヌラム》。
 
●「幸2于紀伊國1」持統紀四年秋九月此幸あり。
●「川島(ノ)皇子」懷風藻(ニ)云(フ)、川島(ノ)皇子|者《ハ》淡海帝之第二子也。志懷温裕(ニ)、局量弘(ク)雅(ナリ)。始(メ)與2大津(ノ)皇子1爲(ス)2莫逆之契(ヲ)1及(ビ)2大津(ノ)謀(ル)1v逆(ヲ)島則告(グ)2變(ヲ)朝廷(ニ)1、嘉(シタマフ)2其(ノ)忠正(ヲ)1。朋友薄(クシテ)2其才情(ヲ)1議(スル)者(ハ)未v詳(ラセ)2厚薄(ヲ)1然(レトモ)余以爲(ラク)忘(レ)v私(ヲ)好(ビテ)而奉(スル)v公(ニ)者(ハ)忠臣之雅、事背(キテモ)2君親(ニ)1、而厚(スル)v交(ヲ)者(ハ)、悖之流|耳《ノミ》。但(シ)未v盡(サ)2爭友之益(ヲ)1陷(ルヽ)2其塗炭(ニ)1者(ハ)、余亦疑(フ)v之(ヲ)。位終(ル)2于淨大參(ニ)1時(ニ)年三十五とあり。天武紀十年奉(ジテ)v勅(ヲ)國史を選み給ふ事見ゆ。博學におはしゝ也。
●「磐白乃」此御歌はこたひの行幸の從駕次《ミトモツイデ》に、有間《アリマノ》皇子の結松《ムスビマツ》を名高く聞して、尋ね見てよみ給へるなれば、此句は岩代乃とあらずては、叶ひがたし。今本等に白浪乃と有るは、磐白を下上に寫し謬り來しにこそ。故に私には似たれども、其れと思ぼしき事あれば今改めつ。磐白は紀伊國日高(ノ)郡|切目《キリメ》山を過ぎて切目川ある次にある岩代也。名義岩に因れる事既に出づ。●「濱松之枝乃、手向草」此は既《ハヤ》く彼の有間(ノ)皇子の松の末《ウレ》を結《ムス》ばして、御命を祷《ネギ》給ひし其松をのたまふ也。松を結せて命をいはふ事、下に「松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ」又「ときはなる松のさ枝をわれは結ばな」などよめるに合せて知るべし。是《コノ》本《モト》は鎭魂祭の沫緒を結ぶより出たる事、上の岡之草根乎《オカノクサネヲ》、去來結手名《イザムスビテナ》」とある下にも云ひつ。さて然か松を結ぶも、神に献る幣代《ヌサシロ》な(47)りければ手向種とは申し給ふにぞある●「幾代左右二賀、年乃經去良武」彼の有間(ノ)皇子の此松を結び給ひしは、齊明天皇の四年十月の事にして、其翌日藤代にて御命を失はれ賜ひき。其年より今此朱鳥四年迄を數ふれば、三十三年になれども、其年數を指し給ふにはあらず、結ばれながら幾代までにか此末も年の經行ならんの意なりけり。經去良武《ヘヌラム》は經往《ヘイヌ》らんの省かれるなれば行くさきに係れり。
●一首の意は、磐代の濱松が枝の【有馬(ノ)皇子之】手向種よ、あはれ結ばれながら、幾代までにか、年の經行くならん。今に解けざるは魂しひのこりたるにこそとなり。
 一(ニ)云(フ)、年者經爾計武《トシハヘニケム》。卷九に濱松之本乃とある此等は後に誤れる也。
 日本紀(ニ)曰(フ)、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸(シタマフ)2紀伊國(ニ)1也。
 
  超(エマス)2勢能山(ヲ)1時、阿閉《アベノ》皇女(ノ)命(ノ)御作《ヨミタマヘル》歌一首
 
 此也是能《コレヤコノ》、倭爾四手者《ヤマトニシテハ》、我戀流《ワカコフル》、木路爾有云《キヂニアリトフ》、名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。
 
●「勢能山」紀伊國伊都(ノ)郡加勢田(ノ)庄、背山村(ノ)西北に在る山なり。猶、山の事、下に妹山に合せて委しく云ふべし。●阿閉(ノ)皇女は天智天皇(ノ)皇女、草壁(ノ)皇子(ノ)命御妃、文武天皇御母。後に日嗣《ヒツギ》知《シロ》しめして元明天皇と奉(ル)v申(シ)
●「此也是能」是也彼《コレヤカノ》にて也《ヤ》は疑ひなり。此《コレ》とは、勢能山を指さしゝて宣ふ言。彼《カノ》とは、倭に留り坐《オハ》す夫君《セノキミ》を指して、其の夫《セ》てふ言を結句の勢能山の勢《セ》に係《カ》けて引き續け給ふなり●「倭爾四(48)手者、我戀流」是れ倭に坐す背の君に運び行く詞也。次の一句半の間いはゆる隔句にして、此の流《ル》もじより勢能山に係るなり。即|我戀流夫《ワガコフルセ》と心得べし●「木路爾有云、名二負勢能山」紀伊國へ行く道に在りと云ひて、名を負ひてある夫《セ》と云ふ意也。名二負とは字乎負《ナヲオフ》にて、二《ニ》は乎《ヲ》の意也。中古(ノ)後妹をこふと云を古くは妹爾戀《イモニコヒ》とやうに云へり。さて負《オ》ふとは、名を着《ツク》る事を負(ス)v名(ヲ)と云ひて、柴薪等のみならず、凡て其身に附屬するを負ふと云へり。四【三十九】嘆久嘆乎不負物可聞《ナゲクナゲキヲオハヌモノカモ》十九【三十八】、公之事跡乎負而之將去《キミガコトバヲオヒテシユカム》など云るが如し。されば此の物の名の彼の物に附きてあるを云ひて、此《ココ》は倭に坐す夫《セ》と云ふ名が紀路にある山に附きてあるを云ふ。
●一首の意は【勢能山を指さして】此や彼の倭にしては、わが戀ふる夫《セ》と云ふ名を紀路にありと云ふ山が負ひてける、其の勢能山かとなり。也《ヤ》の結びは、此句にこもれり。
 
  幸(シヽ)2于吉野(ノ)宮1之|時《トキ》、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌
 
 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、所聞食《キコシメス》、天下爾《アメノシタニ》、國者思毛《クニハシモ》、澤二雖有《サハニアレドモ》、里者志母※[四字左(]《サトハシモ》、多雖有※[三字左(]《オホクアレドモ》、山川之《ヤマカハノ》、清河内跡《キヨキカフチト》、御心乎《ミコヽロヲ》、吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》、花散相《ハナチラフ》、秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》、宮柱《ミヤハシラ》、太敷座波《フトシキマセバ》、百磯城乃《モヽシキノ》、大宮人者《オホミヤビトハ》、船並※[氏/一]《フネナメテ》、旦川渡《アサカハワタリ》、舟競《フナキホヒ》、夕河渡《ユフカハワタル》、』 此川乃《コノカハノ》、絶事奈久《タユルコトナク》、此山乃《コノヤマノ》、彌高加良之《イヤタカカラシ》、珠水(49)激《イハバシル》、瀧之宮子波《タギノミヤコハ》、見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。』
 
●「幸」持統天皇吉野の行幸度々なる中に、此歌鵜川などありて、秋と聞ゆれば、紀に四年秋八月乙巳(ノ)朔戊申とある度なるべし。
●「八隅知之、吾大王之」此連けの意上に云へり。●「所聞食、天下爾」所知看《シロシメス》を云ふ●「國者思毛、澤二雖有」澤は眞多《サオホ》の於《オ》を省き、保《ホ》を波《ハ》に轉じて、一つの語となれる也。思毛は物を擇《エ》り出してちからをそへて云ふ辭●「里者志母、多雖有」此二句由阿本に據りて補へり。前の二句の對句也●「山川之.清河内跡」山も川も清き河内《カハウチ》とて、と云ふにて、波宇《ハウ》を約めて布《フ》と云ひ、とてを跡《ト》とのみ云へり。如此《カク》云へるは、瀧之宮は、河の流れ廻れる中にあれば也●「御心乎、吉野乃國之」此《コ》は枕辭ながら、彼の清き河内を御心に好《ヨミ》してと云ふ意あれば、少し活きたり●「花散相、秋津乃野邊爾」是も枕詞ながら秋の花どもの散るにかけたれば、猶活きてあり。さて此野は、雄略紀四年秋八月幸(シテ)2于河上(ノ)小野(ニ)1命(ゼリ)2虞人《カリヒトニ》1駈(シメ)v獣《シヽヲ》欲2躬射《ミヅカライントオモホシテ》1而待《マチタマヘルニ》、虻疾飛來《アムトビキテ》〓《クラフ》2天皇(ノ)臂《ミタヽムキヲ》1、於是蜻蛉忽然飛來《コヽニアキツタチマチトビキテ》齧v※[亡/(虫+虫)]《アムヲクヒテ》將去《モチイヌ》云々とあるより名づけられたるよし見えたり。さるを中古後の歌にかげろふの小野とよみ來しは、蜻蛉の訓より唱へひがめたるもの也。輿地通志に此野は、吉野(ノ)郡在(リ)2川上(ノ)荘西河村(ニ)1と云へり。然るべし●「宮荘太敷座波云々」此間四句、註釋に及ばず。●「船並底、旦川渡、舟競、夕河渡」此四句二聯語勢妙と云ふべし。此句にて一段なる故に、渡ると一先づ云ひ收めたるなり。●「此川乃、絶事奈久、此山乃、彌高加良之」此四句は、六【三十二】赤人(ノ)芳野山(ノ)長歌に、此山之|盡者耳社《ツキバノミコソ》、此河乃《コノカハノ》、絶者耳社《タエバノミコソ》、百師紀能《モヽシキノ》、大宮所《オホミヤトコロ》、止的裳有目《ヤムトキモアラメ》」と云へると相似たる賀辭《ホギゴト》にて、此川の絶えざる如く。長く幸《ミユ》きし給ひ、此山の高きが如く、彌益々に大宮處も立ち(50)榮え坐すらんが貴しと含めたるなり。凡て句々勢あり●「珠水激」義を收りて書ける字ども也●「瀧之宮子波」今|夏箕《ナツミ》河の下に、宮瀧村あり。それと云へど、地理|合《カナ》はず。遊副《ユフ》川とよめるなどに合するに、西河(ノ)瀧なりと云へる倭名勝志の説よろし。
●一編の意は、吾大君の所治看《シロシメス》大八島には、國も里もあまたあれども、山といひ、川といひ、特にすぐれてよろしきみよし野の清き河内の秋つ野に、大宮を敷き立て置きて、大行幸《オホミユキ》しませれば、供奉の宮人等我おくれじと、船並べ競ひて、朝川夕川をわたる」【一段】如此《カク》貴く、みさかりなる御形貌《ミアリサマ》を見奉るにつけても、いかで此川の絶えざるが如く、行末長く御幸もし給ひ、又此山の高く聳えたるが如く彌益々に大宮處もさかえ行くらんと、貴く仰ぎ奉る賤き身には、此の石走る西河の瀧の宮所は、見れど/”\見あかぬ哉と也。
 
    反 歌
 雖見飽奴《ミレドアカヌ》、吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》、常滑乃《トコナメノ》、絶事無久《タユルコトナク》、復還見牟《マタカヘリミム》。
 
●「常滑乃」水中の古き巖に、水苔の如く滑《ナメ》の附くものなり。其れを常滑と云ふ。十一【十四】隱口乃《コモリクノ》、豐泊瀬道者《トヨハツセヂハ》、常滑乃《トコナメノ》、恐道曾《カシコキミチゾ》とよみたり。日光のさゝぬ谷道の岩などにも、附くものなり。是も巖と共に、不變《カハラヌ》ものなれば、其如くに絶ゆる事なく、又幾度も立ちかへり來て見むと也。
 
(51) 安見知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、神長柄《カムナガラ》、神佐備世須登《カムサビセスト》、芳野川《ヨシヌガハ》、多藝津河内爾《タギツカフチニ》、高殿乎《タカドノヲ》、高利座而《タカシリマシテ》、上立《ノボリタチ》、國見之※[左(]爲波《クニミシセレバ》、疊付※[左(]《タヽナヅク》、青垣山《アヲガキヤマ》、山神乃《ヤマツミノ》、奉御調等《マツルミツギト》、春部者《ハルベハ》、花挿頭持《ハナカザシモチ》、秋立者《アキタテバ》、黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》、』遊副川之《ユフカハノ》、罔象※[二字左(]神母《ミヅハノカミモ》、大御食爾《オホミケニ》、仕奉等《ツカヘマツルト》、上瀬爾《カミツセニ》、鵜川乎立《ウカハヲタテ》、下瀬爾《シモツセニ》、小網刺渡《サデサシワタシ》、山川母《ヤマカハモ》、依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》、神乃御代鴫《カミノミヨカモ》、』
 
●「神長柄」長柄《ナガラ》は常には見ながら聞きながらとやうに用《ツカ》ひて乍《ツヽ》の意にも云ふなれど、古くは隨の字をよみて其まゝと云ふ意に云へり。此も直ぐに其まゝ神に坐《マ》すを云へり。次の句にて心得べし●「神佐備世須登」神佐備は、翁さび・處女さび・手遊《テスサビ》・口遊《クチズサビ》をど云ふと同じく、御遊覧の御心やりを云ふ。其を神ながら神さびせすと申せるは、大方の神【天神地祇】たちは、常に人の眼に見え給はねば、如v此《カヽ》る境に出で立す事もしられざるを、天皇は其の隨《マヽ》直に神にして、現《ウツヽ》に顯れて御樂みを遊ばすと云ふ意なり。さて此佐備・須佐備と云ふ語の、進む事にも、荒れ冷《サブ》る事にも、舊冷《フリサブ》る事にも通用する所以《ユヱ》は鐘(ノ)響に出づ。●「多藝津河内爾」吉野川の沸《タギ》りて流るゝ處を云ふ。瀑布にはあらず。體語に連く時は、此《コヽ》の如く津と云ふ。用語に連く時は知《チ》と云ふ。たぎち流るゝなどのごとし●「高知座而」上には太數座波《フトシキマセバ》とあり。此の敷《シキ》と知《シリ》との差《ケヂメ》は、敷は地の上に宮殿を置くを云ふ。今世に家を敷く地を屋敷と云ふが如し。知《シリ》は其の宮殿を我が物に領知して安住すること。天の下知るの知るに同じ。されば此二つ、天皇の御上には何れに云ふも同じ事なる故に、通はし云へるが多き也。敷と知との通ふには非ず●「國見之爲波」今本之を(52)作(リ)v乎(ニ)て國見乎爲波《クニミヲスレバ》と訓みたれど、上よりの連き、作者の國見爲るには非ず。王臣の國見にて、作者も其中に包《コ》めたるなれば、古本に隨ひて改めつ●「疊付、青垣山」景行紀の歌に、夜摩苫波《ヤマトハ》、區珥能摩保邏摩《クニノマホラマ》、多々儺豆久《タヽナツク》、阿烏伽枳夜摩許莽例屡《アヲカキヤマコモレル》、夜摩苫之于漏破試《ヤマトシウルハシ》とある連《ツヾ》けにて、山の疊《タヽマ》り附くを云ふときこゆ。今本付(ヲ)作(レ)v有(ニ)ど、六【十三】立名附《タヽナツク》、青墻隱《アヲカキコモル》十二【三十八】田立名付《タヽナツク》、青垣山《アヲカキヤ》などの例に依るに、付を有に誤りたる也。さて此《コヽ》は青垣山者と云ふ意なれば、此句にてよみきるべし●「山神乃、奉御調等云云、黄葉頭刺理」此の間の六句は、山の神の献る貢調《ミツギ》とて、疊付青垣山等は、春は花をかざしもち、秋は黄葉をかざせりと云ふなり。自然に開く花もみぢを如此《カク》云ひなして、天皇の威徳を耀《カヾヤカ》せたる神妙なる所也。さて春を春部《ハルベ》と云へるは、春榮の約れるなり。此句にて一段なれば、頭刺理《カザセリ》と云ひ切れる也。此處に一(ニ)云(フ)黄葉加射之《モミヂバカザシ》とあるはわろし●「遊副川之」倭名勝志に、木綿川は西河の枝川也と云へり●「罔象神母」此處普通の本に遊副川之神母とあれど、山の方に山祇《ヤマツミ》と名有りて川の方に神の御名なきていかゞ。言も一句に足らざるは、既《ハヤ》く是れ程の字を漏せるならんとて、私にそへつ。神代紀に水(ノ)神|罔象女《ミヅハノメ》とあり●「大御食爾云々」川の神が御膳に鮎を捕へて献るよし也。上瀬・下瀬は調べの文《アヤ》、鵜川乎立《ウカハヲタテ》は鵜川に役立《エダツ》るを云ふ。射目立而《イメタテヽ》と云へる類也。御獵立須は自ら立つ也。旅立の立の如し。自他の違ひあり。小網《サデ》は和名抄に※[糸+麗](ハ)【佐天】網(ノ)如(ク)2箕(ノ)形1狹(ク)v後(ヲ)廣(クセル)v前(ヲ)名也とあり。今の世にも用ひて、田舍人はよく知れり。さて此等の業は、御從人《ミトモビト》等も立ち交りて爲るわざなるを、川の神が奉(ル)v仕(ヘ)如くに云ひて、山川母と受けたるが絶妙なる也。●「山川母、依※[氏/一]奉流云々」山の神も、川の神もなり。此句ともに四民百姓は云ふにや及ぶ、冥祇までもかしこまりつかへ奉《マツ》る現神《アキツカミ》の御代なるかもと云ふ意あり。
(53)●一編の總意は、吾《ガ》天皇よ、直ぐに其まゝ神の御身にして、現《ウツ》しく御心すさみせすとて、此よし野の瀧つかふちに出でまし、高殿に上り立たして、四方山を見渡し給へば、重れる山どもは皆|疊《タヽナ》はり附きて、大宮の衛《マモ》りとなり、其嶺どもは山祇《ヤマツミ》の奉る貢調とて、春は花をかざしもち、秋はもみぢをかざして、つかへまつれり【一段】遊副川之罔象神も、大御饌《オホミケ》につかへ奉ると上(ツ)瀬下(ツ)瀬に鵜養網人《ウガヒビト》を立たしめていそはけり。是を見れば、天下の萬民のみかは、目に見えぬ山川の神まで、依り集ひてつかへまつる、神隨《カミソノマヽ》の御代なるかもとなり。
 
    反 歌
 山川毛《ヤマカハモ》、因而奉流《ヨリテツカフル》、神長柄《カムナガラ》、多藝津河内爾《タギツカフチニ》、船出爲加母《フナデセルカモ》。
 
●一首の意、然《サ》ばかり山の神も川の神も、依て奉(ル)v仕(ヘ)神隨《カミソノマヽ》にて現に顯はれて、瀧つ河内に船出せさせ給ふかなとなり。
 右日本紀(ニ)曰(フ)、三年已丑(ノ)正月、天皇幸(ス)2吉野(ノ)宮(ニ)1。八月幸(ス)2吉野(ノ)宮(ニ)1。四年庚寅二月幸(ス)2吉野(ノ)宮(ニ)1。五月幸(ス)2吉野(ノ)宮(ニ)1。五年辛卯正月、幸(ス)2吉野(ノ)宮(ニ)1。四月幸(ス)2吉野(ノ)宮(ニ)、考(レハ)未v詳(カナラ)2何月從駕作(レル)歌(ナルカ)1
 
  幸(シヽ)2于伊勢(ノ)國(ニ)1時、留《トマリ》v京(ニ)柿本(ノ)朝臣人麻呂作(レル)歌、
 
 嗚呼見乃浦爾《アコノウラニ》、船乘爲良武《フナノリスラム》、※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》、珠裳乃須十二《タマモノスソニ》、四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
 
●「幸2于伊勢國1、」伊勢(ノ)國と云ひて、志摩の事也。別に伊勢に幸す所の有りて、其|次《ヅギテ》に、志摩へも廻ら(54)せ給ひしにはあらず、志摩はもと伊勢に屬《ツ》きてありし故に、幸(シヽ)2志摩(ニ)1をも此頃|專《モハ》ら伊勢と云へり。歌には、中古迄も伊勢島と云ひ、又打まかせて伊勢(ノ)海人とよめるは、皆志摩(ノ)海人の事也。此事別に論《アゲツラ》へり。さて此幸、六年三月に有りて、同五年|阿胡《アコノ》行宮におはしゝと思へるは非也。此幸は三月辛未【六日】にて、同月乙酉【廿日】に還幸ありき。さて五月乙丑朔庚午|御《オハシヽ》2阿胡(ノ)宮(ニ)1時、進(ル)v贄(ヲ)者紀伊國|牟婁《ムロノ》郡人|阿古志海部《アコシノアマベ》云々とあるは、先きの三月の幸の時、勤勞せし者等を、五月に稱せらるゝを云ふ也。此時|阿古《アコ》宮におはしゝにはあらざる事、書記を披きて知るべし。
●「嗚呼兒乃浦爾」志摩の國府なれば、行宮も此處に在りしなり●「船乘爲良武、※[女+感]嬬等之」いつも行幸の度に、其行宮の前の海に船を泛べて御遊ある故に、かくは云へるなり。●「珠裳乃須十二云々」此は其御船遊の時船より渚に出でゝ貝など拾ふ女等の、滿潮をも計らで、もすそ沾らす事のいつもよくあるを云へる也。
 
 釧着《クシロツク》、手節乃崎二《タブシノザキニ》、今毛可母《イマモカモ》、大宮人之《オホミヤビトノ》、玉藻苅良武《タマモカルラム》。
 
●「釧着、手節乃崎二」釧を着くる手節と係けたる也。釧は玉釧《タマクシロ》とも云ひて、玉を※[金+芳]れる臂環也。委しき事は道別《チワキ》に出づ。手節の崎は志摩の答志《タブシノ》郡にて、東北に離れてさし出でたる崎也。故に景色も勝れ、又其處に砂石黒白を分ちておもしろき濱の有りければ、いつもの幸所《イデマシドコロ》なるからに、かくはよめる也。山家集に伊勢のたぶしと申す島には、ごいしの白き限り侍る濱にて、黒はひとつもまじらず。又むかひて、すが島と申すは、黒の限り侍るなり。「すが島やたぶしの小石分けかへてくろ白まぜよ浦の濱(55)風」鴨長明の伊勢記にも、志摩の名所を悉く伊勢と云へり。伊勢名所拾遺(ニ)云(フ)むかしより、志摩をば伊勢と云ひならへり。此集に志摩の名所を出す事は、皆これに依てなりとあり。是は延寶九年の印本なり。
●一首の意は、答志崎の※[立心偏+可]怜《オモシロ》き濱に出て、今頃は大宮人等が玉藻刈(リ)てあそぶらんが羨しとなり。
 
 潮左爲二《シホサ井ニ》、五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》、榜船荷《コグフネニ》、妹乘良六鹿《イモノルラムカ》、荒島回乎《アラキシマミヲ》。
 
●「潮左爲二」滿潮の時などに浪のさわぐを云ふ。三【三十九】鹽左爲能浪乎恐美《シホサ井ノナミヲカシコミ》十一【廿六】浪乃鹽左猪《ナミノシホサ井》、島響《シマヒヾキ》、十五【廿八】於伎都志保佐爲《オキツシホサ井》、多可之多知伎奴《タカクタチキヌ》●「五十良兒乃島邊云々」此島の事一卷(ノ)別記に精しく云へり。近き比參河國に屬すといへども、志摩の答志《タブシノ》崎とは海上纔に三里なれば、御船のついでに以前も此島へ渡り給ふ事のありしに就て、かくは想ひやれる也。此島邊の浪の荒き事別記に引ける行嚢抄にも見えたり。
●一首の意は、いらごの島をおもしろしとて、船のついでにわたらして、みち潮のさわぐ比《コロ》しも、女どもが乘りありくらん。かの荒き島のあたりをと也。二(ノ)句を少し詞をかへて、結句に再び返せる一體也。かく其船はいよゝ乘り給ふとも、又答志に返して還幸はありしなり。此島を參河とおぼえ、且左註の文に惑ひて、參河尾張を經て、美濃より還らせ給ふなど心得たる、往反僅に十四ケ日の行幸なりし事をしらぬなり。
 
(56)  當麻《タギマノ》眞人《マヒト》麻呂妻《マロガメノ》作(ル)歌
 
 吾勢枯波《ワガセコハ》、何所行良武《イツクユクラム》、巳津物《オキツモノ》、隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》、今日香越等六《ケフカコユラム》。
 
●「當麻眞人」は姓氏録に用明天皇皇子|麻呂古王之後《マロコノミコノスヱ》也と見ゆ。持統紀四年三月下に、直廣參當麻眞人|智徳《チトコ》と見えたる同人なるべし。さらば從五位(ノ)下の人也。其他は知りがたし。
●「何所行良武」妻が京より夫の旅道を想ひやりて、今比はいづくあたり行き給ふらんと先づおほよそに打出で、次に推量の所をさす也●「巳津物」奥藻之《オキツモノ》也。此奥は邊《ヘ》に對へて奥つ方を云ふには非ず。水鳥を奥鳥と云ふ如く、陸に對へて水中を云ふ。水深き底の藻の隱れて見えぬよしの連け也。十六の歌に難波の小江に廬作難麻理弖居葦蟹《イホツクリナマリテヲルアシカニヲ》と云へるやうに、古くは隱るゝ事をなまるとも、なばるとも云ひし也●「隱乃山乎」伊賀(ノ)國の名張郡の山也。續紀天平十二年冬十月壬午、行2幸(ス)伊勢(ノ)國(ニ)1是日到(ル)2山邊(ノ)郡|竹谿堀越頓宮《タカタニノホリコシノトツミヤニ》1。癸未車駕到(ル)2伊賀國名張(ノ)郡(ニ)とあれば、二日路の所也。
 
  石(ノ)上(ノ)大臣|從駕《ミトモニテ》作(ル)歌
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》、去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》、高三香裳《タカミカモ》、日本能不所見《ヤマトノミエヌ》、國遠見可聞《クニトホミカモ》。
 
●「石上(ノ)大臣」は、宇麻志麻治《ウマシマチノ》命(ノ)孫、物部|日《ヒノ》大連之後、難波(ノ)朝衛部大華上宇麻乃【ガ】之子也と見ゆ。麻呂公也。
●「吾妹子乎、去來見乃山乎」此はわぎも子をいざ見んと云ふを、佐美《サミノ》山にかけたる也。倭姫命世記な(57)る佐見津彦、佐見津姫の本郷也。二見浦近き山也。今も其山の麓の小川を佐美川と云ふとぞ。
●一首の意は、此より大和の山々の見えぬは、此の佐美山の高き故か。又國の遠き故かと也。
 右、日本紀(ニ)曰(フ)、朱鳥六年、壬辰春三月、丙寅朔(ノ)戊辰、以(テ)2淨廣肆廣瀬王等(ヲ)1、爲(ス)2留守(ノ)官(ト)1、於v是中納言三輪(ノ)朝臣高市麻呂脱(シテ)2其冠位(ヲ)1フ2上(シテ)於朝(ニ)1重(テ)諌(メテ)曰(ク)、農作之前車駕未(ト)v可(カラ)2以(テ)動(カス)1。辛未、天皇不(シテ)v從(ハ)v諌(ニ)遂(ニ)幸(ス)2伊勢(ニ)1。五月乙丑(ノ)朔庚午、御(ス)2阿胡行宮〔十二字左傍点〕(ニ)1是甚非也。
 
  輕皇子《カルノミコ》宿《ヤドリタマフ》2于|安騎野《アキヌニ》1時(ニ)、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌一首並短歌四首
 
 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、高照《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、神長柄《カムナガラ》、神佐備世須登《カムサビセスト》、太敷爲《フトシカス》、京乎置而《ミヤコヲオキテ》、隱口乃《コモリクノ》、泊瀬山者《ハツセノヤマハ》、眞木立《マキタツ》、荒山道乎《アラヤマミチヲ》、石根蹈《イハネフミ》、楚樹押靡《シモトオシナベ》、坂鳥乃《サカトリノ》、朝越座而《アサコエマシテ》、玉蜻《カギロヒノ》、夕去來者《ユフサリクレバ》、三雪落《ミユキフル》、阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》、旗須爲寸《ハタスヽキ》、四能乎押靡《シノヲオシナベ》、草枕《クサマクラ》、多日夜取世須《タビヤドリセス》、古昔念而《イニシヘオモヒテ》。
 
●「輕皇子」天智天皇御孫、草壁皇子(ノ)命(ノ)御子、文武天皇御幼名也。下に出づ●「安騎野」宇陀郡阿紀(ノ)神社の坐(ス)野也。今大野町と云ふ驛宿あり。其名を傳へたるならんか●「宿」此は御父の御魂呼ばひの御心にて宿りに來給へるなるべし。御父草壁皇太子此野へ度々御獵に出で坐しゝ事、次(ノ)歌にも二卷(ノ)歌にも見ゆ。太子は持統天皇三年四月薨じ給へれば、其四年の冬の事なりけらし。然れば輕皇子未だ御幼少の時也。
(58)●「八隅知之、吾大王。高照、日之皇子」此四句は古へ常に白《マヲ》せる尊稱にて、天の下をうしろ安く所(ルヽ)v治(ラセ)吾が大君天照す日の神の御子と云ふ意の古語也。言別に委しく出づ●「太敷爲、京平置而」大宮を太《フト》高敷す京を除《オ》きてと云ふ稱《タヽ》へ言《ゴト》也。此時未だ藤原へ遷り給はぬさきなれば、淨御原(ノ)宮より出立しゝ也●「隱口乃、泊瀬山者」城上(ノ)郡也。此つゞけの意は、別記に出づ●「眞木立、荒山道乎」いはゆる檜原山を越えて宇陀へ出で給ふ。此の間嶮岨也●「石根蹈」此の蹈の字は今勘へて加へつ●「楚樹押靡」楚は弱木の林也。景行紀に其足如(シ)2茂林《シモトハラノ》1雄畧紀に其|聚脚《スダクアシ》如(シ)2弱木林《シモトハラノ》1和名抄(ニ)云(フ)唐韻(ニ)云(ハク)※[草冠/俊の旁のムが凶]【音總、和名之毛止】木(ノ)細技也とあり。説文(ニ)曰(フ)、楚(ハ)叢木也と見ゆ。名義は茂木《シミモト》の意也。押靡《オシナベ》は其をおし靡かせて分け行く也●「坂鳥乃、朝越座而」夕べにねぐらに入りし鳥の、朝に里へ求食《アサリ》に出る時坂の形《ナリ》に隨ひてうねりて飛ぶ故に、坂にてよく人の目に付くもの也。十三に鳥網張坂手《トナミハルサカテ》とつゞけたるも此坂なり●「玉蜻、夕去來者」此つゞけ次の短歌と合せて云ふべし●「三雪落」只輕く置ける也。此の日雪の零りしにもあらず、雪のよく零る處と云ふにもあらず、昔より雪中の鷹狩をよくする大野なる故における也●「旗須爲寸、四能乎押靡」薄ははだれそゝけたる草なれば、「すゝき」とも「はたすゝき」とも云ふ也。皮の字を書きしは膚《ハダ》の意をとれるならん。四能は小竹に云ふも、薄に云ふも、靡《ナビカ》ふものなるを以て也。押靡は、此《コヽ》はおしなびかせて其の上にぬるを云ふ●「多日夜取世須、古昔念而」其年の冬の事と見れば、いまだ御墓つかへの間也。次の歌に形見跡曾來師《カタミトゾコシ》とあるやうに、古へは其墓づかへの間には、由縁《ヨシ》ある所々へ復《タマヨバ》ひに來るわざのありしなり。故に一夜宿らせ給ひしにこそ。古昔とは、なき人に對へて云へる詞なり。
●一編の意は、安見しゝ吾が大王、高く光る日(ノ)神(ノ)皇子、神其まゝ神進《カミスヽ》みせすとて、大宮を太高しらす京を(59)あとにして隱口乃泊瀬の山は名に高き眞木立つ荒山道なるを、其石根ふみ楚《シモト》おしわけ、朝まだきよりこえて、此《コヽ》かしこを訪はし、夕ぐれになれば、去年の御獵の御形見にとて、阿騎の大野に、はたすゝき・しのを押しなべ伏せて、忝くも旅宿りせすかな。其|在《イマ》しゝ時の事をおぼしてと也。
 
  短 歌《ミジカウタ》
 
 阿騎乃野爾《アキノヌニ》、宿旅人《ヤドルタビビト》、打靡《ウチナビキ》、寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》、古部念爾《イニシヘオモフニ》。
 
●「短歌」此《コヽ》に反歌と書かざりしは、此歌は謠はざりしなるべし。其は此時輕(ノ)皇子御幼年といひ、又末だ御|服《ブク》中といひ、昔の形見を※[爪/見]《ト》め來て上下愁傷の夜なればなり。されば此度長歌もよみ、短歌もよまれたるを記しおけるが傳はりたる也。末の二首は、翌日になりてよまれたるさまに聞ゆ。此等|以《モ》て反歌と短歌と其の差《ケヂ》めある事をさとるべし●「宿旅人」皇子をはじめ今夜宿れる御供の人々を云ふ。●「打靡、寢毛宿良目八方」靡とは手足を靡けて熟睡するを云ふ。此は反語なれば俗に打とけて寢られんやは、ありしさま/”\の事をおぼし出でゝといふ也。
 
 眞草苅《マクサカル》、荒野者雖有《アラノニハアレド》、黄葉《モミヂバノ》、過去君之《スギニシキミガ》、形見跡曾來師《カタミトゾコシ》。
 
●「眞草苅」かく云ひて只草深き草を苅る事になるなり。眞雪《ミユキ》と云ひて深き雪の事にもなるが如し。秣《マクサ》と限れるにはあらじ。●「黄葉」過ぎ去りしと云はん發語なり。次々にも多きつゞけなり。
 
(60) 東《ヒムカシノ》、野炎《ヌニカギロヒノ》、立所見而《タツミエテ》、反見爲者《カヘリミスレバ》、月西渡《ツキカタブキヌ》。
 
●「野炎、立所見而」此は一夜此野に廬《イホリ》して、翌朝野の東より朝日の立ち上る光を云へる也。かぎろひと云ふ言は、燿《カヾヤ》ける日と云ふことにて、火の方にも云へる、履中天皇のおんうたのごとし。上に玉蜻夕去來者とある、三重※[女+采]《ミヘノウネメノ》の歌に由布比能賀氣流美夜《ユフヒノカゲルミヤ》とよめる如く、夕日は別して燿《カヾヤ》くを以て連《ツヾ》くる也。其れを玉蜻と書けるは、蜻蛉をかぎろひ虫と云へるを取る也。春(ノ)天の遊絲を云へる心ばえの如し。猶|言別《コトワキ》中に委し●「反見爲者云々」西にかへり見すれば、在明の月が落ちかゝる也。十八九日|比《コロ》なりしなるべし。
 
 日雙斯《ヒナメシノ》、皇子命乃《ミコノミコトノ》、馬副而《ウマナベテ》、御獵立師斯《ミカリタヽシシ》、時者來向《トキハキムカフ》。
 
●「日雙斯、皇子命乃 御父草壁皇子を貴みて申せるなり。此名義は、天皇と相並ばして日嗣を知す意なれば、皇太子にて政事を知す皇子の尊稱なりけんが、外に漏れ來し故に、亦御名の如くに人の心得しにこそ●「御獵立師斯云々」二卷此皇子(ノ)命を悼める歌の中に「毛衣を春冬かたまけて幸《イデマ》しゝ宇陀の大野はおもほえむかも」とあり。今は十月の末ばかりなりければ、其冬に來向へりとはいへるなり。何れも通《キコ》え易き歌どもなり。
 
  柿本(ノ)臣人麻呂、擬(ヘテ)d造《ツクリニ》2藤原(ノ)宮《ミヤ》1之|役《エダテル》民《タミニ》u作歌
 
(61) 八隅知之《ヤスミシヽ》、吾大王《ワガオホキミ》、高照《タカヒカル》 日之皇子《ヒノミコ》、荒妙乃《アラタヘノ》、藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》、食國乎《ヲスクニヲ》、賣之賜牟登《メシタマハムト》、都宮者《ミアラカハ》、高所知武等《タカシラサムト》、神長柄《カムナガラ》、所念奈戸二《オモホスナベニ》、天地毛《アメツチモ》,縁而有許曾《ヨリテアレコソ》、磐走《イハヽシノ》、淡海乃國之《アフミノクニノ》、衣手能《コロモデノ》、田上山之《タナガミヤマノ》、眞木佐苦《マキサク》、檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》、物乃布能《モノヽフノ》、八十氏河爾《ヤソウヂガハニ》、玉藻成《タマモナス》、浮倍流禮《ウカベナガセレ》、其乃收登《ソヲトルト》、散和久御民毛《サワグミタミモ》、家忘《イヘワスレ》、身毛多奈不知《ミモタナシラズ》、鴨自物《カモジモノ》、水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》、吾作《ワガツクル》、日之御門爾《ヒノミカドニ》、不知國《シラヌクニ》、依巨勢道依《ヨリコセヂヨリ》、我國者《ワガクニハ》、常世爾成牟《トコヨニナラム》、圖負留《フミオヘル》、神龜毛《アヤシキカメモ》、新代登《アラタヨト》、泉河爾《イヅミノカハニ》、持越流《モチコセル》、眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》、百不足《モヽタラズ》、五十日太爾作《イカダニツクリ》、泝須良牟《ノボスラム》、伊蘇波久見者《イソハクミレバ》、神隨爾有之《カムナガラナラシ》。
 
●「藤原宮之役民」かくのみにては此端書あまり言も足らはず、理りも聞えがたければ、敢て右の如く文をかへつ。柿本(ノ)朝臣の口つきと、心の底ひに聞き知りたる、もし善本出てば、後に思ひ合する事ありなん。
●「八隅知之云々」此四句既に出づ。いと上代より申しならはし來し尊稱なるからに、いく度も斟酌せざりしにこそ●「荒妙乃、藤原我宇倍爾」此つゞけの意今は云ふにも及ぶべからず。藤原我宇倍爾は、其原の中に一段高き上にの意也。今東國にて神奈川臺・國府《コフノ》臺など云ふが如し。既に云ふ鷺栖《サギスノ》坂の上、古へは然かありけん●「食國乎、賣之賜牟登」食國は所知食《シラシヲス》國を省きて云へる語也。されば此に賣之《メシ》賜(62)はんとつゞけたるも所知食《シロシメス》にて同じこと也●「都宮者、高所知武等」美阿良加《ミアラカ》は御座處《ミアラカ》の義にて即ち御舍の事なれば、都宮とも書けるなり。高は太敷《《フトシク》・廣知《ヒロシリ》など云ふ大《フト》廣《ヒロ》と相似たるたゝへ辭也。上に出たれば、以上の四句は天の下御食國の政事を所聞看《キコシメ》さむために、先づ都を定めて大宮を作り給ふと云ふことを二つに分けて對句に云へる也●「天地毛、縁而有許曾」上に山川も因而つかふるとよめると同じくて、此大宮造りに天(ツ)神も國(ツ)神も御心を依《ヨ》せてあればこそ、次の句以下に云ふ事どもはあるなれとて、次に其旨を云へる也●「衣手能、田上山之」古への袖は長かりし故に疊《タヽナ》はると云ふを、田上へ連けたる也。田上は近江國栗本(ノ)郡也。●眞木佐苦、檜乃嬬手」眞木は檜の木、佐苦は、折割《サキワル》のみにはあらず、截分るをも兼ねて、一切の材を杣山にて荒材取《アラキド》りするを云ふ。然か荒材取りして柱・桁《ケタ》・長押《ナゲシ》・椽《タルキ》・鳧居《カモヰ》等を大概《オホヨソ》に截ち分け木造りしたる材を嬬手と云ふ。されば用を冠辭にして體にかけたるつゞけ也。さて嬬手は※[木+爪]取《ツマドリ》の義也。和名抄に※[木+爪]※[木+稜の旁]は四方木也とありて榑木《マルキ》に角楞《スミカド》つくるをば※[木+※[氏/一]]《ツマトル》と云ふ。神代紀(ニ)云(フ)五十猛(ノ)命、妹《イモ》大屋津姫《オホヤツヒメノ》命、次(ニ)※[木+爪]津姫《ツマツヒメノ》命。凡(テ)此三神亦能|分2布《ホドコシタマフ》l木種(ヲ)1。即《カレ》奉(ル)v渡(シ)2於紀伊(ノ)國(ニ)1也とある、此大屋津姫は大彌取《オホイヤトリ》にて荒材取の謂也。※[木+爪]津姫は※[木+爪]取《ツマトリ》にて、角《スミ》楞《カド》をつくる也。此二神の御名を合せて、杣山の荒木取《アラキトリ》の状《サマ》を知るべし●「物乃布能、八十氏河爾」物部の氏の廣く多きを八十と云ひて、此川へつゞけたる也●「玉藻成、浮倍流禮」玉藻の如く水の上にうかべ流せればと云ふ者《バ》を省ける也●「身毛多奈不知」多奈は御倉板擧《ミクラタナ》・天湯河板擧《アメノユカタナ》【垂仁紀】等を始め、凡て物を置くを棚と云へば、身の置き所もしらずと云ふ意也●「鴨自物、水爾浮居而」此自物と云ふことは難語也。そは鴨自物・鳥自物・犬自物・馬自物。猪自物・鹿自物・鵜自物等は如《ジク》物の意とし(63)て聞ゆるを、男の爲《ス》まじきわざするを、男《ヲトコ》自物といひ、恐《カシコ》む事を畏自物《カシコジモノ》【續紀十又十四宣命】と云ふ類ひに至りては通《キコ》えず。故に自物は状之《サマノ》の意とす。是は何れも妨けずおろ/\にも聞えゆけば、姑く可(シ)v隨(フ)v之(ニ)。さて此處隔句せり。此|而《テ》より【九句隔て】下の泉乃河爾、持越流とつゞくなり●「吾作」役民の吾也●「日之御門爾」日之皇子宮《ヒノミコノミヤ》なる故に稱《マヲ》す也。然るに其宮は檜《ヒ》以《モ》て造るより、日《ヒ》と檜《ヒ》を混ぜるが如くなるもあれど、日を本とすべき事、言別《コトワキ》に委しく辨へつ●「不知國、依巨勢道從」異國の知らぬ國々よりも、歸化《ヨリク》るよしにて、依《ヨリ》までは唯|巨勢《コセ》の序也。されば此二句上を五言、下を七言によむべし。七に、吾瀬子乎《ワガセコヲ》、乞許世山乃《コチコセヤマノ》、三に、小浪磯越道有《サヾレナミイソコセヂナル》などつゞけたる類也。さて此の巨勢道從の從よりも泉乃河爾と云ふへ係れり●「我國者、常世爾成牟」常住不變の國とならんと云ふなり●「圖負留、神龜毛、新代登」禹の時龜負(ヒテ)v圖(ヲ)出《ツ》2洛神(ヲ)1と云ふを、不知國《シラヌクニ》と云ふより常世と云ひ、因《ヨシ》ある神龜の壽言《ヨゴト》以《モ》て泉〔傍線〕の序とせる、虎にして翅あるものなり●「泉乃河爾、持越流云々」先づ是れまでの運び、近江の田上《タナカミノ》杣より伐出したる材を、田上川より氏川に流し【氏川と泉川と相近くなれる所にて取上て】巨勢道より泉川へ持越して筏に作り、泝らして藤原(ノ)宮地へ又運ぶらんとなり●「伊蘇波久見者」勤之《イソシ》、勤之久《イソシク》など云ふと同語の活用也。勤《イソ》ふとも、勤《イソ》はくとも云ふ一格ありしなるべし●「神隨爾有之」神そのまゝにおはすらしと也。
●一編の意は、こたび藤原が上にして、天の下はきこしめすに、大宮は高しらさん、と神隨《カムナガラ》所念行《オモホス》につれて、天地も因而《ヨリテ》こそ仕へ奉れ。國々の民等がつどひて、先づ近江(ノ)國の田上の杣の材を伐りて田上川へ流し、田上川より宇治川に下し、泉川と相近くになれる地にて取上げて、巨勢道【未巨勢(ノ)郷には非ず巨勢(ヘ)行(ク)道筋なり】より泉川に持越流《モチコセル》※[木+爪]手《ツマテ》どもを筏に造りて、大宮の順路まで泝らす(64)る、大業を勤《イソシ》みさわぐを見れば、今も天ツ神のそのまゝならしとおどろけるおもぶきなり。此歌の地理を痛く心得ひがめたる説多し。就中難波(ノ)海まで一たび流して紀(ノ)川を泝らすなど云へる、いみじきひが事なり。
右日本紀(ニ)曰(フ)、朱鳥七年癸巳(ノ)秋八月、幸(ス)2藤原宮地(ニ)1。八年申午春正月幸(ス)2藤原宮(ニ)1。冬十二月庚戌朔乙卯遷2居(シタマフ)藤原宮(ニ)1。
 
  從(ヨリ)2明日香(ノ)宮1遷2居《ウツリマセル》藤原(ノ)宮(ニ)1之(ノ)後(チ)、志貴(ノ)皇子(ノ)御作歌《ヨミタマヘルウタ》
 
 ※[女+委]女乃《タワヤメノ》、袖吹反《ソデフキカヘス》、明日香風《アスカカゼ》、京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》、無用爾布久《イタヅラニフク》。
 
●「遷2居藤原宮1」天皇(ノ)八年十二月宮成りて遷らしゝ後の事なり●「志貴皇子」天智天皇(ノ)皇子光仁天皇御父命に座《イマ》せり。宮女たちは遷りて後も、此皇子暫く飛鳥(ノ)地に殘りておはしゝなるべし。
●「※[女+委]女乃」手弱女と書ける意の語なれども、又自然に、たをやかなる好女をも云ふ。故に※[女+委]の字は書けるにこそ●「袖吹反、明日香風」泊瀬風・穴師風・佐保風など風の名物に云へり。飛鳥も川原の廣き地なれば、吹拂ふなるべし。
●一首の意は、宮女のこゝに在りし比《コロ》は、袖ひるがへしつる明日香風の、今は都を遠み、いたづらにふく。風だにしかりと云ふと聞ゆ。もし下の心ありやも知るべからねど、今は聞き知りがたし。
 
(65)  柿本(ノ)朝臣人麻呂、詠《ヨメル》2藤原(ノ)宮(ノ)御井(ヲ)1歌一首並(ニ)短歌一首
 
 八隅知之《ヤスミシヽ》、和期大王《ワゴオホキミ》、高照《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、麁妙乃《アラタヘノ》、藤井我原爾《フヂヰガハラニ》、大御門《オホミカド》、始賜而《ハジメタマヒテ》、埴安乃《ハニヤスノ》、堤上爾《ツヽミノウヘニ》、在立之《アリタヽシ》、見之賜者《ミシタマヘバ》、日本乃《ヤマトノ》、青香具山者《アヲカグヤマハ》、日經乃《ヒノタテノ》、大御門爾《オホミカドニ》、青山跡《アヲヤマト》、之美佐備立有《シミサビタテリ》、畝火乃《ウネビノ》、此美豆山者《コノミヅヤマハ》、日緯能《ヒノヨコノ》、大御門爾《オホミカドニ》、彌豆山跡《ミヅヤマト》、山佐備伊座《ヤマサビイマス》、耳爲之《ミヽナシノ》、青菅山者《アヲスガヤマハ》、背友乃《ソトモノ》、大御門爾《オホミカドニ》、宜名倍《ヨロシナベ》、神佐備立有《カミサビタテリ》、名細《ナグハシ》、吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》、影友乃《カゲトモノ》、大御門從《オホミカドユ》、雲居爾曾《クモヰニゾ》、遠久有家留《トホクアリケル》。』高知也《タカシルヤ》、天之御蔭《アメノミカゲ》、天知也《アメシルヤ》、日御影乃《ヒノミカゲノ》、水許曾波《ミヅコソハ》、常爾有米《トハニアリナメ》、御井之清水《ミヰノマシミヅ》。』
 
●「藤原宮御井歌」歌に藤井我原爾《フヂヰガハラニ》とよめると合するに、往古より此地に名細しき清水のありて名ともなれりし也。其事は下に云ふべし。是をも柿本(ノ)朝臣(ノ)歌とすること聞知る人は知るべければ、餘りふかく憚るべきわざにはあらざるべし。
●「八隅知之云々」此四句いつもの尊稱也。和我《ワガ》を和期《ワゴ》と云へる、此歌の音振《ネブリ》に就たる轉音也。此にかくあればとて、吾大王とかきたるを和期とよまんは非《ヒガ》ごとぞ。●「藤井我原爾、大御門」是れ本名に就きてよめるなり。藤原と云ふは省けるなり。御門と云ふに宮殿もこもる事、上の日之御門の如し。●「埴安乃、堤上爾云々」二(ノ)卷にも此堤をよみたり。此池は香山(66)の麓なれども、藤原宮より渡る方に堤はありけん、●「在立之」は在々而《アリアリテ》の意なれば。前かたよりをり/\毎に出立ちて望み給ふを云ふ●「見之賜者」こゝは見給へばと云ふ意也。●「日本乃」大和の内にて、又大和と云へるは、古くは都を指して專らといへればなり。「倭《ヤマト》には鳴《ナキ》てか來《ク》らん呼子鳥《ヨブコドリ》象《キサ》の中山《ナカヤマ》よびぞ越ゆなる」是も都へ鳴きて行くらんの意なり●「青香具山者」香山に青の稱へ言を飾りたる、次の彌豆山《ミヅヤマ》・菅山《スガヤマ》などの類也。これらかりそめ言《ゴト》のやうなれど、他人の及ばぬ所あり●「日經乃」漢國にては、南北を天地の經《タテ》とし、東西を緯《ヨコ》とせれど、御國は異なり。成務紀(ニ)云(フ)以(テ)2東西1爲(シ)2日樅《ヒノタテト》1南北(ヲ)爲(シ)2日横《ヒノヨコト》1、山(ノ)陽《ミナミヲ》曰(ヒ)2彰面《カゲトモト》1山(ノ)陰《キタヲ》曰(フ)2背面《ソトモト》1とあり。此《コヽ》は其|日縦《ヒノタテ》の初の方|以《モ》て東《ノ》御門に當るを云へり。●「青山跡、之美佐備立有」今世には伐り荒したれど、古へは實に青香山と繁進《シミスヽ》みて榮えし山なりし也。●「畝火乃、此美豆山者」若々《ミヅ/”\》しく美しき山のよしなり。是は却りて今も松栢繁りてあるよし。上に行嚢抄を引けり●「日緯能」畝火山の南の御門に當るを云へり●「山佐備伊座」山佐備・神佐備等には荒冷《スサブ》の意なるもあれど、此は美賞《ホム》るにて、彌豆山跡と云ふよりつゞきたれば、山進座《ヤマスヽミイマス》の意なる事|灼《アキラケ》し。さて此《コヽ》に在る事をかく伊座《イマス》と云へる以《モ》て、去座《イニマス》の意にあらざる事知るべし●「青菅山者」青く清々《スガ/”\》しき山とほむる也●「背友乃」背友は脊津面《ソツオモ》、影友は影津面《カゲツオモ》の義也。即耳梨山の北の御門にあたれるを云ふ●「宜名倍、神佐備立有」北の御門に親しく依《ヨリ》並びて神進《カミスヽ》み立てりと云ふ也。此の宜名倍を善き事として聞えんや。かく解くことは守部が賜ものぞよ。●「影友乃、大御門從云々」こは名高き吉野の山は南の御門に向ひて、雲居遙かに見えたる其景色もさるものから、それのみには非ず。四方の御門を名|細《グハシ》き山どもの各一つづゝ持ち分(67)けて守衛《マモリ》仕へ奉れるを云ひて、上の山川も因而《ヨリテ》つかふる、又天地も縁《ヨ》りて有《ア》れこそなどと、同意なるを、言《コトバ》の趣《オモムキ》をかへて如此《カク》云へるが妙なるなり。●「高知也、天之御蔭、天知也、日御影乃、水許曾波」此四句二聯の疊對、古今拔羣の語と賞すべし。祝詞に天御蔭《アメノミカゲ》・日御蔭登《ヒノミカゲト》、隱坐※[氏/一]《カクリマシテ》、推古紀の歌に「やすみしゝ吾大王の※[言+可]句理摩須阿摩能椰蘇※[言+可]礙《カクリマスアマノヤソカゲ》」などあれどいたく立ちまさりたり。此妙句にて、水も彌々寒く、常《トコ》しへに不變《カハルベ》からず見えたり。然るに、世に日の光明の照し宿る水と心得たるは、あたら妙句を聞きしらぬのみならず、さてはぬるく成りて愛づるに足らざるをや。大和名勝志に多武峯(ノ)廟記を引きて云へる趣き、往古藤井と云ふ名水あり。清水の上に松栢掩ひたるに、丈《タケ》なる藤はひかゝりて、日の影を見ざりければ、みな月の望《モチ》にも齒にしむばかりなりき。其藤の古株|鷺栖杜《サギスノモリ》の傍に近來までも遺りてありと云々」と云へり。
●一編の意は、吾(ガ)日(ノ)皇子、藤井が原に大朝廷《オホミカド》はじめ給ひて、常に埴安《ハニヤス》の堤《ツヽミ》の上に出立たし、四方を見放《ミサ》けたまへば、皇都〔日本《ヤマト》〕の青々見ゆる香山は、東の御門に進み立ち、畝火の瑞々《ミヅ/”\》しき山は、南の御門に進み立ち、耳梨の清々《スガ/”\》しき青山は、北の御門に近く親しく依《ヨ》り並びて〔宜名倍〕進み立ち、名高き吉野山は、東西《(南方(?))》に遠くひかへて、四方の山も皆各一門づゝ持分けて守衞《マモリ》仕へ奉るを見れば、遠御膳乃長御膳乃御井《トホミケノナガミケノミヰ》の眞清水には、高知るや天之御蔭、天知るや日(ノ)御蔭と、天津水のそひ加はりて、大御壽《オホミイノチ》と共に常《トハ》にさかえなん御井の眞清水ぞとなり。此末七句は大嘗會(ノ)壽詞《ヨゴト》を思へるなれば、如v此解けり。【其祝詞は、康治元年大嘗會に用ひられたる古語を、臺記の別記に載せられたり】
 
(68)  短歌
 
 藤原之《フヂハラノ》、大宮都加倍《オホミヤツカヘ》、安禮衝武《アレツカム》、處女之友者《ヲトメガトモハ》、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》、
 
●「短歌」前の長歌は高知也以下の句|以《モ》て律《リツ》に返しつれば、反歌に及ばざりしから、短歌とは書けるなり。心をつくべし●「大宮都加倍、安禮衝武」委しきことは別記に云へり。姑く大宮仕へに在衝《アリツキ》行かんの意とすとも、いひ違はざるべし。
●一首の意は、藤原の大宮仕【天皇女帝に坐(シ)々(セ)ば、其宮仕への女官多かるか】在り衝かん女どもは羨し。右の長歌に云へるほどの大宮なればなりと云ふ也。
 かくて此集、此歌までが、亂れながら、本の撰びのなごり也。此末一たび闕け失せたるにつきて、後人、時の人の家集の歌を書きそへたるにぞある。故にその書きざま撰集のふりに非ず。是を改めだてするはなか/\非也。歌の前後も何も、專ら其まゝ記しおくべきわざぞ。
  
  大寶元年辛丑秋九月、太上天皇《サキノスメラミコト》幸(シケル)2于紀伊(ノ)國1時(ノ)歌二首
 
 巨勢山乃《コセヤマノ》、列列椿《ツラツラツバキ》、都良都良爾《ツラツラニ》、見乍思奈《ミツヽオモフナ》、許湍乃春野乎《コセノハルノヲ》。
右一首、坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
●「幸2于紀伊國1」績紀(ニ)大寶元年九月丁亥、天皇幸(ス)2于紀伊(ノ)國(ニ)1とある、天皇の上に太上の二宇を脱せる也。文武紀元年丁酉秋八月甲子(ノ)朔、天皇即(キ)v位(ニ)尊(ビテ)2持統天皇(ヲ)1爲(ス)2太上天皇(ト)1とありて、此の行幸は上皇なりつれば、此集を正しとすべし。
(69)●「巨勢山乃」此の巨勢の地を藤原(ノ)宮より南の方と心得たるより、上の役民の歌の地理をも甚《イタ》く誤れりしにこそ。巨勢は藤原(ノ)宮よりは正西《マニシ》に當りて、葛上郡より河内の草香に出る道也。故に待乳山の順路なれば、紀伊(ノ)國の幸には巨勢にかゝらせ給ふ也。此心得違ひの根源は紀伊(ノ)國へ行くには、吉野山を越ゆと心得、又待乳山も吉野山の中にありと心得たると、式に、高市郡に巨勢山(ニ)坐(ス)石椋孫《イハクヲヒコノ》神社、又|許世都比古《コセツヒコノ》命(ノ)神社あるのみを見て、葛上郡に、巨勢(ノ)山口(ノ)神社【大月次新甞】とあるを見ず。又巨勢と巨勢|道《ヂ》との差別を忘れたるより起りし也●「列列椿、都良都良爾」古へは實を取るのみにあらず、染物の灰にも多く用ひて、海石榴市《ツバイチ》と云ふが立ちけるほどなりければ、列ねて植ゑしなるべし。都良都良爾は列ね/\にて、懇切なる意に云へり●「見乍思奈」奈は歎息の聲也。
●一首の意は、此巨勢山に列り列りたる椿の、花さく春はいかばかりならんと深くおもひやらるゝよとなり●「坂門人足」十六【十六】の歌に出たると同人か、別人か考ふべし。
 
 朝毛吉《アサモヨシ》、木人乏母《キビトトモシモ》、亦打山《マツチヤマ》、行來跡見良武《ユキクトミラム》、樹人友師母《キビトトモシモ》、
右一首、調首淡海《ツキノオビトアフミ》
 
●「朝毛吉」玉藻吉《タマモヨシ》讃岐(ノ)國とつゞけたるに合するに、是も麻裳に肴《キ》とかけたるか。もし朝裳《アサモ》にてとあるべし。●「木人乏母」木人は紀伊(ノ)國人、乏母は是も羨しきなり。●「亦打山」別記に出づ。●「行來跡見良武云々」待乳山のけしきのおもしろきを見捨てゝ過行く事の惜しき(70)につけて、紀(ノ)國人の常に此山を往來して見るらんが羨しきよと云ふなり●「調(ノ)首淡海」此名天武紀に見えたれど、いかなる人ともしられず。
 
  或本(ノ)歌
 
 河上乃《カハカミノ》、列列椿《ツラツラツバキ》、都良都良爾《ツラツラニ》、雖見安可受《ミレドモアカズ》、巨勢能春野者《コセノハルノハ》。右一首、春日藏首老《カスガノクラノオビトオユ》
 
●「或本歌」非也。たゞ書きそへたる歌の一首にて、異本とて引けるにはあらず。●「河上乃」三に小浪磯巨勢道有能登湍河《サヽレナミイソコセヂナルノトセガハ》【十二にも此川見ゆ】此河、行嚢抄に、水越川《ミヅコシカハ》と云ふといへり。今は涸れたれどもいと長くつゞきける故に、古へは大和一國の用便を足す街道にてありし也。かれ遠近に拘はらず、巨勢道とよめる歌の多くあるなり。さて其川の上の岡道、紀へかよひ路にして、椿を植ゑられたるなれば、かはかみとよむべし。●「雖見安可受」これは春來て其花を見て見れどもあかずとめでたるなれば、上の歌とは意別也。●「春日(ノ)藏(ノ)首老」文武紀大寶元年二月壬辰、令《シム》2僧辨基(ヲ)還俗(セ)1代(リテ)度(スルモノ)一人(アリ)賜(テ)2姓春日(ノ)倉(ノ)首名老(ヲ)1授(ク)2追大壹(ヲ)1と見ゆ。正八位上也。
 
  二年壬寅冬十月、太上天皇、幸(シヽ)2參河國(ニ)1時(ノ)歌
 
 引馬野爾《ヒクマヌニ》、仁保布榛原《ニホフハリハラ》 入亂《イリミダリ》、衣爾保波勢《コロモニホハセ》、多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
  右一首、長忌寸奥麻呂
 
●「幸2參河國1」。文武紀大寶二年冬十月(ノ)下に此行幸見ゆ。次に十一月丙子、太上天皇【持統】至(ル)2于尾張國(ニ)1、庚辰至(ル)2美濃國(ニ)1、乙酉至(ル)2伊勢國(ニ)1【志摩】丁亥至(ル)2伊賀國(ニ)1、戊子車駕至(ル)v自(リ)2參河國1とあるは還幸の御時なれば、路次無(ク)v滯(リ)伊勢より伊賀にかゝりて還らせ給へる也。然れば十月甲辰よ(71)り十一月丙子迄の間に例の答志《タフシ》伊良虞より參河・遠江邊の浦々に遊ばせ給ひし也。かくて此の國々を經坐《ヘマ》すことは、彼の大友(ノ)皇子の亂に夫君《ヒコヂノ》天皇【天武】東國の兵を召して御軍もありつれば其|御蹤《ミアト》をとむらはせ給ふ也。故國郡司及百姓(ニ)叙(シ)v位(ニ)賜(フ)v禄(ヲ)ことの甚多かりしなり。又志摩國を殊に重みし給ふ事は、神威例に引きおけり。二(ノ)卷の御歌に云ふべし。
●「引馬野爾」阿佛尼の説に、今の濱松を引馬のうまやと云へり。行嚢抄にも、濱松の城の邊の景色よきに小松原を引馬野と云ふと見ゆ。●「仁保布榛原、入亂」うたのかゝり誰も萩かと迷ふべけれど、此邊へ廻らせ給ひしは、十一月頃の事なれば萩花有るべきにあらず。榛も梢の葉は十月以後皆落つれど、染種《ソメクサ》に多く用ひし代《ヨ》には、古樹を切りて其株より孫生《ヒコバエ》を生《オフ》しつる、其れは冬も葉のおちざる事、今見る處の如し。それを衣に摺《ス》り付くるをかく云へるなり。天武紀などに其の孫生を蓁と云へる、由ある事なり。これらの事も鐘(ノ)響に云へり。
●一首の意は、此の引馬野には色つやを含みたる榛の孫生多し。【冬は孫生の枝も赤くなるものなり】いざ、入りみだり、其葉を摺り着けて衣にほはせよ、旅のしるしにと也。●「奥麻呂」の名、紀に見えず。此集には二(ノ)卷三(ノ)卷等に出て意寸麻呂とかけり。
 
 何所爾可《イヅクニカ》、船泊爲良武《フナハテスラム》、安禮乃崎《アレノサキ》、榜多味行之《コギタミユキシ》、棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 右一首、高市連黒人
 
●「船泊爲良武」舟の行き到るを、はつると云ひ、懸りて寢るをとまると云ひき●「安禮乃崎」此舟の折りたむを惜めるさま、海邊の景色にて河舟を云ふにあらざれば、美濃にはあらず。前の歌の並びなれば、是も遠江なるべし。同じ敷智《フチ》郡の今の荒井は、本と荒江なりといへば、(72)古へは荒の崎とも云ひしなるべし。此處濱松より三河の方へ三里ばかり近よりたれば順路也。●「榜多味行之」多味は囘〔傍線〕轉〔傍線〕運〔傍線〕の字等を書きて横に折れ入り曲るを云ふ。此《コヽ》はおもしろき小舟の島かげなどへ榜《コギ》折れて見えずなりしを惜める也●「棚無小舟」竅sセガヒ》のなきを云ふと云へり。一首の意聞えたらん。●「黒人」既に出づ。
 
  譽謝女王《ヨサノオホキミノ》作《ヨメル》歌《ウタ》
 
 流經《ナガラフル》、雪吹風之《ユキフクカゼノ》、寒夜爾《サムキヨニ》、吾勢能君者《ワガセノキミハ》、獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
 
●「譽謝女王」續紀文武天皇慶雲三年六月丙申從四位下譽射(ノ)女王卒(ス)と見ゆ。●「流經、雪吹風之」五【十五】阿米欲里由吉能那何列久流加母《アメヨリユキノナガレクルカモ》十【六十】流去而《ナガレユキ》。また【五十九】沫雪流《アハユキナガル》。●「寒夜爾云々」雪まぜに風の打ふく寒き夜に旅にます夫《ツマ》の命《ミコト》は獨寢給ふらんか、と想ひやりたる也。さて此うたより以下は、上なるとは別時の歌ども也。
 
  長(ノ)皇子御作歌
 
 暮相而《ヨヒニアヒテ》、朝面無美《アシタオモナミ》、隱爾加《ナバリニカ》、氣長妹之《ケナガキイモガ》、廬利爲里計武《イホリセリケム》。
 
●「長皇子」續紀寶龜元年六月甲寅一品長親王薨。天武天皇第四之皇子也。●「幕相而、朝面無」逢ひし夜の翌朝《ツトメテ》は面はゆきものなるを以て、隱《ナバリ》の序とす。なまりとも通はし云ひて隱るゝ意の語なること既にも云ひつ●「隱爾加」伊賀に名張(ノ)郡ありて、上の歌に隱乃山見ゆ●「氣長妹之云々」來經《キヘ》長きにて、月日の往くを、來經《キヘ》と云ふ。來經を約めて氣《ケ》と云ふ。(73)然れば氣長妹と云ふときは、此歌にては旅に久しく在りし妹を云ふ也。地理の少し疑はしき事は、然か旅に久しく在りし人の、伊賀迄歸りて今只一日にて廬りてあらん事いかゞ。此の地名外にもあるべし。伊勢名所拾遺(ニ)云(フ)、隱山は度會郡也。倭姫命世記(ニ)云(フ)、雄略天皇二十三年春二月倭姫命自(ラ)退(ケテ)2尾上山峯(ニ)1石隱《イハカクレマス》云々。行嚢抄にも此山を出して八(ノ)卷の「よひにあひてあした面なみ隱野の萩はちりにき紅葉はやつげ」と云ふを引けり。もし此處ならば、今云ふ間《アヒノ》山なり。猶外にもあらん可v考(フ)。
●一首の意は、旅に來經《キヘ》長き妹が歸りのおそかるは、けだし隱に廬してありけんかと也。かくては可怜《オモシロ》き地なるべし。
 
  舍人娘子《トネリノヲトメガ》從駕《ミトモニテ》作《ヨメル》歌《ウタ》
 
 丈夫之《マスラヲノ》、得物矢手挿《サツヤタバサミ》、立向《タチムカヒ》、射流圓方波《イルマトカタハ》、見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
 
●「舍人娘子」天武紀十年十二月乙丑(ノ)朔癸巳、是日舍人造糠虫云々、賜(ヘテ)v姓(ヲ)曰(フ)v連(ト)。舊事記饒速日命(ノ)天降の條に、從者舍人(ノ)造《ミヤツコ》あり。此等の氏の娘子にや。舍人親王と歌よみかはしけるは、若し此娘子の母、親王の御乳母なりしも知るべからず。●「得物矢」佐都由美《サツユミ》・佐都雄《サツヲ》など云ふ。神代紀に、海山(ノ)幸《サチ》とあるを幸《サチ》と同じく、獲物を佐知と云ふ事、道別にも出づ。此歌三句迄|射流《イル》と云ふ意の序也。●「圓方」仙覺抄(ニ)云(フ)。伊勢風土記(ニ)曰(ハク)的形(ノ)浦|者《ハ》、此浦地形似(タリ)v的(ニ)、故以爲(ス)v名(ト)也。今已(ニ)跡絶(エテ)成(ル)2江湖《ミナトト》1。式に、多氣(ノ)郡(ニ)、服部麻刀方《ハトリベマトカタノ》神社あれど、是は機物を敬ひを以て稱へたるならん。伊勢名所拾遺に渡會(ノ)郡に收めて、二見(ノ)浦の内に出せり。是れ然るべし。
 
(74)  三野連岡麻呂《ミヌノムラジヲカマロヲ》入唐時《モロコシニツカハサレシトキ》、春日(ノ)藏(ノ)首老(ガ)作(レル)歌
 
 在根良《アリネヨシ》、對馬乃渡《ツシマノワタリ》、渡中爾《ワタナカニ》、幣取向而《ヌサトリムケテ》、早還許年《ハヤカヘリコネ》。
 
●「三野連」此は大寶元年正月、粟田眞人(ノ)御使の時也。續紀に美奴《ミヌノ》連岡麻呂を漏せるは、後に誤れる也。類聚國史を以て補ふべし。●「在根良」此は誤字にはあらず。ありねよしとよみて、對馬(ノ)國の在明《アリアケ》山を指せるなり。其は實に高山なりければ、異國船の御國に入るにも、此山を目當とし、御國より異國へ渡るにも、先づ此山を目あてとして出る故に、在嶺《アリネ》よ對馬と呼び出せる也。さて此山さるよしありて、古くは在嶺と云ひけんを、後に在明山と訛れるか。本より在明山なるを省きて、在嶺とよみたるか定めがたし。●「渡中爾」海の中にも必ず幣|奉《マツ》る所あり。就中此の對馬の渡りには、船人の大事とする處ある故に、かくはよめるなり。
●一首の意は、船人の、在嶺よ在嶺よ、とて目あてにしてわたる對馬の渡中に、特に大事の所なれば、よく手向して、もなく事なく、はやかへり來れと云ふなり。
 
  山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラ》在(ケル)2大唐《モロコシニ》1時《トキ》、憶《シヌビテ》2本郷《クニヲ》1作《ヨメル》歌
 
 去來子等《イザコドモ》、早日本邊《ハヤモヤマトヘ》、大伴乃《オホトモノ》、御津乃濱松《ミツノハママツ》、待戀奴良武《マチコヒヌラム》。
 
●「山上臣云云」是も右と同じ度也。續紀大寶元年正月の下に、無位|山於《ヤマノヘノ》憶良(ヲ)爲(ス)2少録(ト)1●「去來子等」子等は凡て吾に從ふ者を云ふ。●「大伴乃」本は大伴氏の稜威《ミツ》とかけたる枕詞なるを、後には其處の地名にもなれる趣也。既に山彦冊子《ヤマビコザウシ》に出づ。●「御津」天皇の御船津なる故に大御津(75)と崇めたるを省きて大津とも御津とも云ふなり、志賀(ノ)大津も天智の御津なるを以て云へり。
●一首の意は、いざ/\者ども早く都へ【日本は京《ミヤコ》の謂(ヒ)なり】歸らばや。始め乘り出し御津の濱松の名の、誰も待ち戀ぬらんと云ふ也。五卷に、遣唐使を送る歌に、灘波津にみふねはてぬときこえ來ば紐ときさけて立走りせん。
 
  慶雲(ノ)三年《ミトセノ》丙午|秋《アキ》九月《ナガツキ》幸(ケル)2于難波(ノ)宮(ニ)1時、志貴(ノ)皇子(ノ)御作《ヨミマセル》歌
 
 葦邊行《アシベユク》、鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》、霜零而《シモフリテ》、寒暮《サムキユフベハ》、家之所念《イヘシオモホユ》。
 
●「幸」文武紀慶雲三年九月丙寅、行2幸(シ)難波(ニ)1冬十月壬午還(ル)v宮(ニ)●「羽我比」たゞ羽《ハネ》也。打ちがふ物なれば羽交《ハガヒ》とも云ふ。さて此は鴨の羽に霜ふると云ふにはあらず。あしべをとぶ鴫の羽音の寒き空にふる霜をかく云ひなせるが、古人の心の廣き也。さる夕べは家の近しくなるよと云ふのみなれど、めでたき歌なり。
 
  長(ノ)皇子(ノ)御作歌
 
 霞打《アラレウツ》、安良禮松原《アラレマツバラ》、住吉之《スミノエノ》、弟日娘與《オトヒヲトメト》、見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
●「霰打」安良禮と云ひ出づるのみの枕詞也●「安良禮松原」此松原住吉より堺の方へよりて、別にあり。其よしは別記に出しつ。神功(ノ)紀歌に烏智箇多能阿邏々摩莵麼邏摩莵麼邏珥《ヲチカタノアラヽマツバラマツバラニ》とあるに依りて是をもあらゝ松原と訓まんと云ふはわろし。是は古くより地名とも成りて、あられと云ひしよしなり。●「弟日娘與」姉妹《オトヾヒ》をとめを云ふ。顯宗紀に弟日僕《オトヒヤツコラマゾ》是也とあるも、(76)意計《オケ》・弘計《ヲケ》二王子の御事也。此等の日は孫《ヒコ》・曾孫《ヒヽコ》などの日なれども、其は間《ヘダツ》の意、是れは弟間《オトアヒ》の意也。今も田舍にて兄弟してものする事を、おとあひにて花見に出た、夫婦あひにて云々なども云ふことある、その意なり。此娘子等は、國司より祗承《シゾウ》の爲に出せる良家の女、いはゆる遊行の女婦にてあるべし。
●一首の意は、獨りして見れば、見あかぬ事もあるが、此あられ松原よ、住の江のおとあひどちと見れど、猶あきたらぬかもと也。松原と、をとめと二つと心得たるはわろし。
 
  太上天皇幸(ケル)2于難波(ノ)宮(ニ)1時(ノ)歌
 
 大伴乃《オホトモノ》、高師能濱乃《タカシノハマノ》、松之根乎《マツガネヲ》、枕宿夜《マキテヌルヨハ》、家之所偲由《イヘシシヌバユ》。
  右一首、置始東人《オキソメノアヅマド》
 
●「大伴乃、高師能濱乃」これも本は大伴氏の健《タケ》しと云ふつゞけ也。高師は和泉(ノ)國大鳥郡、難波にもありと云ふ。是も本は一つ名の押し渡りたるなるべし。●「枕《マキ》」は枕の用語也。一首の意、隱れたる所なし。●「置始」持統紀に置始(ノ)多久《オホク》とあり。又置染と書けるも見ゆ。
 
 旅爾之而《タビニシテ》、物戀之伎乃《モノコヒシキノ》、鳴事毛《ナクコトモ》、不所聞有世者《キコエザリセバ》、孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》、
 右一首、高安大島《タカヤスノオホシマ》
 
●此歌鴫は只鳴くと云はんよせに裁ち入れたるのみにして、うたの意には預らず、旅にして(77)かく戀ひつゝ鳴く事の、せめては聞えもせば想ひやり給ふ事もあらんが、それなくばこひて死ぬかたまさらんと云ふ也。京よりの便りのありし比、思ふ人に云ひやれるなるべし。●作者は知りがたき人なり。
 
 大伴乃《オホトモノ》、美津能濱爾有《ミツノハマナル》、忘貝《ワスレガヒ》、家爾有妹乎《イヘナルイモヲ》、忘而念哉《ワスレテモヘヤ》。
 右一首、身人部《ムトベノ》王
 
●「忘貝」は空《ウツ》せ貝《ガヒ》と同じく、身の無くなりて放れたるを云ふ。●「忘而念哉」は忘貝より受けて忘れめやはと云ふに、念と云ふ言をそへたるのみなり。●「身人部王」續紀天平元年正月、正四位下|六人部《ムトベノ》王卒(ス)と見ゆ。
 
 草枕《クサマクラ》、客去君跡《タビユクキミト》、知麻世婆《シラマセバ》、岸之埴布爾《キシノハニフニ》、仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
 
●「岸之埴布爾」埴は赤黄の黏《ネバ》土也。岸の絶壁よりよく出づるものなり。其を埴布と云ふは、芝生《シバフ》・苧生《ヲフ》などの如し。●「仁寶播散麻思乎」仁徳紀に丹摺之袖《ニスリノソデ》とある類ひにして、美しき染もの也。今も伊豆(ノ)八丈縞(?)と云ふ絹は多く此埴染也。
 
  太上天皇幸(ケル)2于吉野(ノ)宮(ニ)1時、高市(ノ)連黒人(ノ)作(ル)歌
 
 倭爾者《ヤマトニハ》、鳴而歟來良武《ナキテカクラム》、呼兒鳥《ヨブコドリ》、象乃中山《キサノナカヤマ》、呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》。
 
(78)●「倭爾者」吉野も倭なるに、かく云ふは京《ミヤコ》と云ふ意なれば也●「鳴而歟來良武」鳴而行良武《ナキテユクラム》の意也。●「象乃中山」は、離宮の邊よりは、皇都の方角にあるゆゑなり。
 
  大行天皇幸(ケル)2于難波宮(ニ)1時(ノ)歌
 
 倭戀《ヤマトコヒ》、寢之不所宿爾《イノネラエヌニ》、情無《コヽロナク》、此渚崎爾《コノスノサキニ》、多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》。
 
●上の太上天皇は、文武朝(ノ)人(ノ)持統天皇を指して稱《マヲ》せるなり。●「大行天皇」は天子崩り坐(シ)て未謚のなき間を申す。爰は文武天皇を指せる事紀に明らか也。漢書音義(ニ)曰(フ)、禮(ニ)有(リ)2大行1、人(ニ)有(リ)2小行1、主(ル)2謚號(ヲ)1官也。韋昭云(フ)大行者(ハ)不v反(ラ)之辭也、天子崩(ジテ)未v有(ラ)v謚故(ニ)稱(ス)2大行(ト)1也。風俗通(ニ)曰(フ)、天子新(ニ)崩(ジテ)未v有(ラ)v謚、故且(ク)稱(スト)2大行皇帝1。此は四年六月、文武崩りまして十一月に謚奉りたり。其間に前年の幸(ノ)時の歌を、私(ノ)集に如此《カク》記し置きたるを、其まゝ此には引けるなり。前後凡て此でうなれば、左右《トカグ》改むべきに非ず。
●一首の意は、京を戀ひてさらぬだに寢られぬに、心なく此|渚《ス》崎に鶴の鳴べしやは。己《シ》が鳴くこゑにいとゞ戀しきにたへずと也。
 
 玉藻刈《タマモカル》、奥敝波不榜《オキベハコガジ》、敷妙之《シキタヘノ》、枕之邊《マクラノアタリ》、忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
 
●「敷妙之」敷栲《シキタヘ》にて、牀の敷き物を云ふ。故(レ)牀の上一切に云ひつゞく。此歌は、夜船にて枕邊の方のけしきがおもしろかれば、沖の方にとこぎゆかじと云ふのみ。●「宇合」馬養也(79)旅人卿を淡等《タビト》とかく類也。不比等公の第三子也。此時未だ御幼年ならんとて削りなどするはなか/\にわろし。
 
  長(ノ)皇子(ノ)御作歌
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》、早見濱風《ハヤミハマカゼ》、倭有《ヤマトナル》、吾松椿《ワヲマツツバキ》、不吹有勿勤《フカザルナユメ》。
 
●「早見濱風J、豐後に速見(ノ)郡あれど、津(ノ)國の内ならん。上よりのつゞけは、上歌の吾妹子乎|去來見《イザミノ》山の類なり●「不吹有勿勤」不v吹あるなゆめにて、吹けかしと云ふになるなり。めづらしき詞也。
●一首の意は、吾は妹を早く見ん事をおもひ、妹は吾を待つらんに、せめて、其間にこゝの濱風だに吹き通へと云ふことをかくよみ給ふ也。吾松椿は、京の御園に此木ありしなるべけれど、今よりは卑しげに聞えたり。此前後の旅の歌、何れもめでたく聞えたるに、只彼の物戀之伎乃と、此歌のみ不似合《ツキナキ》は此の間《ホド》の一僻なるべし。
 
  大行天皇幸(ケル)2于吉野(ノ)宮(ニ)1時(ノ)歌
 
 見吉野乃《ミヨシヌノ》、山下風之《ヤマノアラシノ》、寒久爾《サムケクニ》、爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》、我獨宿牟《ワガヒトリネム》。
 右−首、或云天皇(ノ)御製歌
 
●「寒久爾」さむけきにと云ふべき言の如くなるを、古くは久《ク》と云へるこれかれあり。言別に(80)出づ。●「爲當也」語の本は邊《ハタ》にて、其事に當り、邊付《ホトリツキ》て爲(ス)v當《マサニ》2云々《ナニ/\セント》1と云ふ心なる故に、爲當《ハタ》とも又省きて當《ハタ》とも將《ハタ》とも書ける也。今の世の人の用ひざまの違ふ事鐘(ノ)響卷一にことわりつ。
●一首の意は、深山のあらしの風の身にしみて寒けきに、將《ハタ》や今宵も、我一人ねんとするかと歎き給ふなり。風體高く、詞うるはしくすぐれたる大御歌なるべし。
 
 宇治間山《ウヂマヤマ》、朝風寒之《アサカゼサムシ》、旅爾師手《タビニシテ》、衣應借《コロモカスベキ》、妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
 右一首長屋王
 
●「宇治問山」輿地通志(ニ)云(フ)、宇治間山在(リ)2池田(ノ)莊|千俣《チマタ》村(ニ)1山林遠望(スレバ)蔚然(トシテ)而青(シ)山中(ニ)有(リ)v瀑高(サ)數仞とあり。吉野山(ノ)内|丹生《ニフ》のつゞき也●「衣應借云々」古へ男女互に衣をかりて着し事の多く見ゆるは、其製の同じかりしなるべし。有勿久爾はあらぬに、と云ひ入れて歎く詞也。●「長屋王」高市皇子(ノ)命(ノ)御子。續紀大寶元年正月無位より正四位上を授くる事見ゆ。
 
  和銅|元年《ハジメノトシノ》戊申冬|十一月《シモツキ》、天皇(ノ)御製歌
 
 丈夫之《マスラヲノ》、鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》、物部乃《モノヽベノ》、大臣《オホマヘツギミ》、楯立良思母《タテタツラシモ》。
 
●「和銅元年」此に寧樂《ナラノ》宮の標《シルシ》を立つるは非也。補ひ改めたるにはあらず。只書き入れたるのみぞ。●「天皇」御名は天津御代豐國成姫尊《アマツミヨトヨクニナリヒメノミコト》、後に謚を元明天皇と奉(ル)v申(シ)。天智天皇第四皇女、文武天皇御母也。
●「鞆乃音」神代紀臂(ニ)着(ク)2稜威之高鞆《イツノタカドモ》1とある下に委しく云ひつ。音ある武器なれば、武衛等(81)のさわぐと先づ詔ふ詞也。●「物部乃云々」もののべとよむべし。饒速日(ノ)命天上より率(ヰ)給ひし二十五部の物部を獻り給ひしより、武官の頭領・補佐の重職は、此氏の人御代々々統《ス》べ來つれば、此の間《ホド》は既に劣《オトロ》へたれど、其職に就て如此《カク》詔ふなり●「楯立良思母」此は楯を立ると云ふに非ず。如此《カク》云ひて戰ふらしもと詔ふ詞也。其《ソ》はたゝかふと云ひて、本|楯交《タヽカフ》と云ふことなれば也。此時陸奥越後の蝦夷ども叛きて、和銅二年三月討手の使を立てられたる事紀に見ゆ。然れば元年の冬より御軍のならし有りたるを聞して、御位の初めなりければ、御心をいためさせ給ひしなるべし。
●一首の意は、つはものどもの鞆のさわぎ聞ゆ。かくては、朝廷《ミカド》を守衛《マモル》物部の公卿たちも戰ふらし。氣づかはしき事かなとなり。結句の御詞、俗意をはなれてよく聞きわくべし。
  
  御名部皇女《ミナベノヒメノミコノ》奉v和《コタヘマツリタマフ》御歌《ミウタ》
 
 吾大王《ワガオホキミ》、物莫御念《モノナオモホシ》、須賣神乃《スメガミノ》、嗣而賜流《ツギテタマヘル》、告※[左(]莫勿久爾《ノリナケナクニ》。
 
●「御名部皇女」天智紀(ニ)曰(フ)生(ム)3御名部(ノ)皇女(ト)與2阿部(ノ)皇女(トヲ)1とあれば、天皇(ノ)御姉に坐せり。文武(ノ)紀慶雲元年壬寅、詔(シテ)2御名部(ノ)内親王(ニ)1益(ス)2封一百戸(ヲ)1と見ゆ。いと勝れたる皇女なりけらし。●「須賣神乃云々」今本告(ヲ)作(ル)v吾(ニ)は誤れり。されど君の誤とするなどはいまだし。今|告《ノリ》とするは御言告《ミコトノリ》也。皇神《スメカミ》の嗣(ギ)而賜へる詔とは、神代紀(ニ)云(フ)、天照大神因勅2皇孫(ニ)1曰、葦原千五百秋之瑞穂國《アシハラノチイホアキノミヅホノクニハ》是吾子孫可v王之地也《コレワガウミノコノシラスベキクニナリ》、宜爾皇孫就而治焉行矣《スメミマノミコトイデマシテシラセイグ》。寶祚之隆當《アマツヒツギノミサカエマサンコト》。與天壌無窮者矣《アメツチノムタカギリナケム》とある類の神勅を申し給ふ也●「莫勿久爾」は、なからなくにゝて、あるに侍《ハベ》らずやと云ふ意なり。
(82)●一首の意は吾が大王物なおもほしそ。皇神の嗣而給へる天日嗣の尊き神勅のあるからは、何事ありとて動きまさんやとなり。いと雄々しく聞ゆ。
 
  和銅(ノ)三年《ミトセ》庚戌(ノ)春|二月《キサラギ》、從(リ)2藤原(ノ)宮1遷(リマス)2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時、御輿《ミコシヲ》停《トヾメマシテ》2長屋(ノ)原(ニ)1※[しんにょう+向]望《ハルカニミサケテ》2古郷《フルサトヲ》1御作《ヨミマセル》歌《ウタ》
 其(ノ)御歌落失
 
●「從2藤原宮1云々」是は從2飛鳥宮1遷2于藤原宮1時とありしを誤りたる也と云へるは非なり。飛鳥より藤原までは、纔か十町にも足らぬ間《アハヒ》なれば、※[しんにょう+向]望2故郷1など云ふべきに非ず。又長屋(ガ)原は山邊(ノ)郡にて今の長原村なれば、藤原より奈良へ行く道の半也。此の間はいと遠くして、此等の文のよく叶ひたるのみならず、本(ト)無きことならば年號日時迄そへて僞るべきにあらず、此は此處に上の御名部皇女の御歌ありけるが落ち失せたる也。其御歌たとへば「藤原のにきびし里をおきていなば君があたりは見えずかもあらん」とやうに、次の歌といとよく似つかはしらんからに、次なるは其の類歌に引きたるが殘りし故に、右の端書とは合はずなれるなり。その心して見べし。
 
  太上天皇御製歌
 
 飛鳥《トブトリノ》、明日香能里乎《アスカノサトヲ》、置而伊奈婆《オキテイナバ》、君之當者《キミガアタリハ》、不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》。
 
●「太上天皇」此は持統天皇なるを、文武の朝の人の記しつけたる本のまゝに、此には引きし(83)也●「飛鳥」此の連《ツヾ》けは、とぶ鳥の幽《カスカ》とつゞくとも、飛鳥の足を屈《カヾム》る意ともいろ/\云へり。未よき事得考へず。●「君之當者」君とは、上の志貴皇子などの如し、猶飛鳥(ノ)里に殘り留り給ふ皇子等を指し給ふ也。
 
  從(リ)2藤原(ノ)宮1遷(リマス)2于寧樂(ノ)宮(ニ)1時、姓名《ナニガシガ》作(ル)歌
 
 天皇乃《オホキミノ》、命畏美《ミコトカシコミ》、柔備爾之《ニキビニシ》、家乎放《イヘヲサカリテ》、隱國乃《コモリクノ》、泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》、※[舟+共]浮而《フネウケテ》、吾行河乃《ワガユクカハノ》、川隈之《カハクマノ》、八十阿不落《ヤソクマオチズ》、萬段《ヨロヅタビ》、顧爲乍《カヘリミシツヽ》、玉桙乃《タマホコノ》、道行晩《ミチユキクラシ》、青丹吉《アヲニヨシ》、楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》、佐保川爾《サホガハニ》、伊去至而《イユキイタリテ》、我宿有《ワガネタル》、床乃上從《トコノウヘヨリ》、朝月夜《アサツクヨ》、清爾之《サヤニシミレバ》、栲乃穂爾《タヘノホニ》、夜之霜落《ヨルノシモフリ》、磐床等《イハトコト》、川之氷凝《カハノヒコホリ》、冷夜乎《サユルヨヲ》、息言無久《イコフコトナク》、通乍《カヨヒツヽ》、作家爾《ツクレルイヘニ》、千代二手爾《チヨマデニ》、座牟公與《イマサムキミト》、吾毛通武《ワレモカヨハム》。
 
●「從2藤原(ノ)宮1」今或本と記せるは、是より以下一本にはなくて、或本にありしなるべし。建長本には、是より以下の歌なし。●「天皇乃、命畏美」此の畏美は、今俗に領承する事をかしこまり入りましたと云ふ意にて、遷都の命を承ることを云ふ也。●「柔備爾之」にきびは荒備《アラビ》の反對《ウラ》にて、調和する方にも、熟密にも親み馴るゝ意にも云へり●「泊瀬乃川爾」此川、三輪にては三輪川といへど、其始めに就て云ふ也。廣瀬の落合より佐保川に至りて陸へのぼれば、陸の事をも言へる也●「八十阿不落云々」二【十八】柿本朝臣の從(リ)2石見1別(テ)v妻(ニ)上(リ)來(ル)歌に「此道乃八十隈毎萬段顧爲騰彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴《コノミチノヤソクマゴトニヨロヅタビカヘリミスレドイヤトホニサトハサカリヌイヤタカニヤマモコエキヌ》」とよめると同じかゝりに(84)て、此は川の曲る毎に顧みして、里の別れを惜む也●「玉桙乃」古へ道に出で立つには、桙を所賜《タマハル》例なりしを以てつゞけ來しよし、鐘(ノ)響に云へり。さて此《コヽ》にて船より上りて佐保川ぞひの新宅に入りしよし也●「我宿有、床乃上從云云」いまだ戸壁等のよくも整はず、間隙《スキ》も多かるさま也、●「栲乃穂爾」穂は火を炎と云ふ如く、火ならば燃え上る處の色の如く、浪ならば崩るゝ處の如きを凡べて穂と云ふ。栲乃穗もそれに准へて知るべし。さて爾は如くの意にて、栲乃穂の如く白く霜のふるを云ふ。●「磐床等、川之氷凝」常《トコ》し磐の如くに、川の氷の凝固《コリカタマ》るを云ふ。此四句は古語にてめでたくきこゆ●「通乍、作家爾」此詞を以て考ふるに、此作者は木工(ノ)頭にて、此の所(ノ)v作(レル)家は良家の家也。故(レ)次(ノ)語は皆|壽言《ホギゴト》也。
●一篇の意は、大君の命をかしこまりて、狎《ナレ》なじんだる藤原(ノ)都をあとになし、泊瀬の川に船浮けて行くと、馴れし都の忘れがたく、河の曲る毎に、あと顧み/\して陸に上り、奈良の都の佐保川ぞひの吾が承りて建つる家に至りて、いまだ假建ての間《ホド》より宿りそめたるに、吾寢たる床の上より、在明の月のさすを見るに、栲を曝したる如く夜の霜ふり、常《トコ》し磐の如く川の氷の凝りてさゆる夜《ヨヒ》をも息《イコ》ふ事なく、通ひつゝ吾が作りたる此家に、千代までに住まさん公と慕ひて、猶今よりも長く御出入り申さんと也。
 
  反  歌
 
 青丹吉《アヲニヨシ》、寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、吾母將通《ワレモカヨハム》、忘跡念勿《ワスルトオモフナ》。 右(ノ)歌作主未詳。
 
●一首の意明かにて釋をまたじ。此の工匠は未だ奈良へはうつらず。藤原の地に在るなるべ(85)し。
 
  和銅(ノ)五年《イツトセ》壬子|夏四月《ウヅキニ》、遣(ハサレシ)2長田(ノ)王(ヲ)于伊勢齋(ノ)宮(ニ)1時、姓名《ナニガシガ》山邊(ノ)御井(ニテ)作(ル)歌
 
 山邊乃《ヤマノベノ》、御井乎見我※[氏/一]利《ミヰヲミガテリ》、神風乃《カムカゼノ》、伊勢處女等《イセヲトメドモ》、相見鶴鴨《アヒミツルカモ》。
 
●「長田(ノ)王」長(ノ)親王(ノ)御子、天平九年正四位下卒(ス)●「山邊乃、御井乎見我※[氏/一]利」此御井は東海道石薬師驛の東の方にあたりて、山邊村ありて、其郷御井の古趾ある、是なり。此邊|能煩野《ノボノ》の東極にて、地段々に垂り下り、此下も(のヵ)高岡川に至りて、平地となる故に、東より見上れば、山の如く見ゆ。古へ凡《ナミ》ならぬ井なりし事は、式に鈴鹿郡大井(ノ)神社二座とありて、官社にも祭られたるを以て知るべし。我※[氏/一]利はがてらにて、此下に、訪來(ノ)事をふくめたり。
●一首の意は、山邊の名高き井を見がてら、此街道へ道をかへて來つれば、其かひもありて、伊勢をとめどものあまたあへり。
 
 浦佐夫流《ウラサブル》、情佐麻禰之《コヽロサマネシ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天之四具禮能《アマノシグレノ》、流相見者《ナガラフミレバ》。
 
●是は上とは別歌也。端書を脱せるならん●「浦佐夫流」心不樂《ウラサブル》也。上の近江荒都の歌に見禮者不怜毛《ミレバサブシモ》とよみたるさぶしに同じ●「佐麻禰之」眞多《サマネシ》也。二【三十六】に、まねく行かば、人知りぬべみ、同【二十八】に、數多成塗《マネクナリヌル》なども書きたり。これにて心明らけし。
 
 海底《ワタノソコ》、奥津白浪《オキツシラナミ》、立田山《タツタヤマ》、何時鹿越奈武《イツカコエナム》、妹之當見武《イモガアタリミム》。
(86) 右二首、今案(フニ)不v似2御井(ニテ)所1v作(レルニ)若疑《ケダシ》當時|誦v之《ウタヘル》古歌歟。
 
●此歌初二句は、立田を呼び出でん迄の序のみ。下も其山をいつかこえまし。又いつか妹がかたちを見んかと戀ふる遠き旅の歌也。立田山は大和(ノ)國平群(ノ)郡立田(ノ)神のおはす山也。鐘響に出づ。
 
  長(ノ)皇子與2志貴(ノ)皇子1宴(シタマフ)2於|佐紀《サキノ》宮(ニ)1時、長(ノ)皇子(ノ)御作歌《ヨミマセルウタ》
 
 秋去者《アキサラバ》、今毛見如《イマモミルゴト》、妻戀爾《ツマゴヒニ》、鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》、高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》。
 
●佐紀(ノ)宮は、長(ノ)皇子の宮ときこゆ。式に添(ノ)下郡佐紀(ノ)神社(ノ)在(ル)地也。十【十一】に春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐貴山爾開有櫻之花母可v見《カスガナルミカサノヤマニツキモイデヌカモサキヤマニサケルサクラノハナモミユベク》、今も櫻多しと云へり●「鹿將鳴山曾」鹿は加と云ふが本語にて、志加と云ふは、牡鹿の義なりしが混じたる也●「高野原」佐紀と同所にて、在(リ)2超昇寺村(ニ)1。成務天皇陵續紀【十三】大和(ノ)國添下(ノ)郡佐貴郷高野山陵。
●一首の意は、秋さらば今日の如く、又宴して遊ばん。鹿のよくなく山ぞ。此高野原のほとりは、となり。
 
(87)  萬葉集卷第二 相聞
〇難波高津宮御宇天王代●磐姫皇后思2天皇1御作歌四首○近江(ノ)大津宮御宇天皇代●天皇賜2鏡王女1御歌一首●鏡王女奉v和歌一首●内大臣藤原卿娉2鏡王女1時鏡王女贈2内大臣1歌一首●内大臣報2贈鏡王女1歌一首●内大臣娶2采女安見兒1時作歌一首●久米禅師娉2石川郎女1時歌一首●大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首●巨勢郎女報贈歌一首○明日香清御原宮宮御宇天皇代●天皇賜2藤原夫人1御歌一首●藤原夫人奉v和歌一首○藤原(ノ)宮御宇天皇代●大津皇子竊下2於伊勢神宮1還上時大伯皇女御歌一首●大津皇子贈2石川郎女1御歌一首●石川郎女奉v和歌一首●大津皇子竊婚2石川郎女1時津守連通占2露其事1皇子御作歌一首●日並皇子尊贈2石川女郎1歌一首【女郎字曰2大名兒1】●幸2吉野宮1時弓削皇子賜2額田王1歌一首●額田王奉v和歌一首●從2吉野1折2取蘿生松柯1遣時額田王奉入歌一首●但馬皇女在2高市皇子宮1之時思2穂積皇子1御作歌一首○勅2穂積皇子1遣2於近江志賀山寺1時但馬皇子御作歌一首●但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穂積皇子1之事既形而後御作歌一首●舍人皇子御歌一首●舍人皇子奉v和歌一首●弓削皇子思2妃皇女1御歌四首●三方沙彌娶2園臣生羽之女1末v經2幾時1作歌一首●石川女郎贈2大伴宿禰田主1歌一首●大伴宿禰田主報贈歌一首●石川女郎更贈2大伴宿禰田主1歌一首●大津皇子宮侍石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麻呂1歌一首●長皇子與2皇弟1御歌一首●柿本朝臣人麻呂從2石見國1別v妻上來時歌二首并短歌●或本歌一首并短歌●柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子與2人麻呂1相別歌一首●挽歌、竹林樂○後岡本宮御宇天皇代●有間皇子氏自傷結2松枝1歌一首●長忌寸意吉麻呂見2結松1哀咽歌二首●山上臣憶良追和歌一首●大寶元年辛丑幸2紀伊國1時見2結松1歌一首○近江大津宮御宇天皇代●天皇聖躬不豫之時大后奉御歌一首●一書歌一首●天皇崩御太后御作歌一首●天皇崩時婦人作歌一首未v詳2姓氏1●天皇大殯之時歌二首●大后御歌一首●石川夫人歌一首●從2山科御陵1退散之時額田王作歌一首○明日香清御原宮御宇天皇代●十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首●天皇崩時太后御作歌一首●一書歌二首●天皇崩之後八年九月九日奉v爲2御齋會1之夜夢裏習賜御歌一首○藤原(ノ)宮御宇天皇代●大津皇子薨後大來皇女從2伊勢齋宮1還v京之時御作歌二首●移2葬大津皇子於葛城二上山1之時大來皇女哀傷御作歌二首●日並皇子尊殯宮之時柿(ノ)本朝臣人麻呂作歌一首並短歌●或本歌一首●皇子尊舍人等慟傷作歌二十三首●柿本朝臣人麻呂献2泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首並短歌●明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌●高市皇子尊城上殯之時柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌●或本歌一首●但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落遙望2御墓1悲傷流涕御作歌一首●弓削皇子薨時置始東人作歌一首並短歌●柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首並短歌●或本歌一首並短歌●吉備津釆女死後柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌●讃岐狹岑島視2石中死人1柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌●柿本朝臣人麻呂在2石見國1臨死之時自傷作歌一首●柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首●丹比眞人名厥擬2柿本朝臣人麻呂之意1報歌一首●或本歌一首○寧樂宮●和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見2嬢子之屍1嘆作歌二首●靈龜元年乙卯秋九月志貴親王薨時歌一首●或本歌二首
 
(89)萬葉檜嬬手 卷之三
 
本集二(ノ)上 相聞《アヒギコエ》
 
難波高津《ナニハタカツノ》宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、磐姫皇后《イハノヒメノキサキ》思(シメシテ)2天皇(ヲ)1御作歌《ヨミマセルミウタ》
 其(ノ)御歌落失。
 
●「相聞」は、男女相聞あり、朋友相聞あり、唐の月儀を朋友相聞と云へり。往來と云はんが如し。
●「高津宮」高は地の高き謂にはあらず。都會の地を、天(ノ)高市《タケチ》・國(ノ)高市など云ふと同じく、難波は上つ代より、天下第一の船津ありければ、高津と稱へて、宮號とせられたる也。高き地を尋ねて、左右《トカク》云ふは非《ヒガゴト》ぞ。其宮の跡は、行嚢抄(ニ)云(フ)、今海岸より、天王寺の方によりて、高津(ノ)天神(ノ)社有り。高津の宮號此に遺れり。此の天神、仁徳天皇を祭れるにて、即大宮の趾也と云へり(?)。是れ正しき説なるべし。難波の古圖と相ひ合へり。●「天皇」御名は大鷦鷯尊《オホサヾキノミコト》、後の漢樣の謚を仁徳天皇と奉(ル)v稱(シ)。應神天皇第四(ノ)皇子。事は道別《チワキ》に出づ。●「磐(ノ)姫(ノ)皇后」葛城襲津彦《カヅラキノソツヒコノ》女にて、只皇子の時の妃なりつれば、實の皇后にはあらざりける故に、此の間《ホド》までも、如v此《カク》御名をそへて稱《マヲ》す言の遺りしなり。是れは大に心得となる事なれば、はやく山彦册子《ヤマビコサウシ》に論《アゲツ》ひつ。●「其御歌」二三首もありけんが、落ち失せたるぞくちをしき。されど記・紀に載せたる歌の外には(90)あるべからず。此歌に引かれて、此の端書も倶に落ちうせたるなり。
  
  遠飛鳥宮《トホツアスカノミヤニ》御宇(シヽ)天皇(ノ)代、衣通皇女《ソトホシノヒメミコ》待2戀《マチコヒ》輕(ノ)皇子(ヲ)1御作歌四首
 
 君之行《キミガユキ》、氣長成奴《ケナガクナリヌ》、山多都禰《ヤマタヅネ》、迎加將行《ムカヘカユカム》、待爾可將待《マチニカマタム》。
  右一首(ノ)歌。山(ノ)上(ノ)憶良臣(ノ)類聚歌林(ニ)載(ス)v焉(ヲ)。
 
●是れほどの端書ありしなり。其は如何して知るぞと云ふに、先づ此歌紀に衣通王とありて、次(ノ)三首も然《シカ》聞《キコ》えたる事は、次々云ふべし●「遠飛鳥宮」高市(ノ)郡にて上の舒明・皇極・齊明天皇等の宮所と同じ地なるを、遠つと云ふは近飛鳥《チカツアスカ》に對《ムカ》へてなり。是れは葛城山とよみ合せたる飛鳥にて下の歌に出づ●「天皇」御名は雄朝津間稚子宿禰尊《ヲアサツマワクコノスクネノミコト》、後の謚を允恭天皇と奉(ル)v申(シ)。仁徳天皇(ノ)第三皇子●「衣通皇女」琴節郎女《コトフシノイラツメ》には非ず。輕(ノ)太子(ノ)御妹也。同母兄弟にて※[(女/女)+干]《タハ》け給ひしに因りて、太子を伊豫(ノ)湯に流《ハナ》し奉る。其時「大君を、嶋にはふらば、船あまり、いかへり來んぞ吾(ガ)妻は、ゆめ」と契り給ひて、其まゝ歸り給はざれば、待ちかねてよみ給へる歌ども也●「君之行」君|之《ガ》行〔傍線〕と云ふが如くにて御行《ミユキ》の行也。●「氣長成奴」來經長成奴《キヘナガクナリヌ》にて、月日の多く經たるなり●「山多都禰」山尋ね也。記には夜麻多豆能《ヤマタヅノ》とありて枕詞なれど、其れはそれ、是れはこれにて傳への異なる也。あながち謬りたるにもあらじ。●「迎加將行」今は迎へにか出でん。さりとも然《サ》ばかり申し給へば、今少し待ちにか待ちみんと、女の情の兩端にわたる也。
 
 如此計《カクバカリ》、戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》、高山之《タカヤマノ》、磐根四卷手《イハネシマキテ》、死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
 
●此歌の一首の意は、かくのみ戀ひてあらんよりは、高山の磐根に枕して、死ぬべかりしもの(91)をと也。磐姫(ノ)后は嫉妬の事はありしかど、かばかり身を棄てんと迄、思行《オモホス》ことのあるべきにあらず。
 
 在管裳《アリツヽモ》、君乎者將待《キミヲバマタム》、打靡《ウチナビク》、吾黒髪爾《ワガクロカミニ》、霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》。
 
●「在管裳」集中には「在待《アリマチ》わたる「在而後《アリテノチ》にも「在通《アリカヨ》ふなど云ふ在《アリ》にて、此は思ひのどめて、君をば待たんと云ふ意なり●「打靡」髪はなびく物なれば置ける也。十二に打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《ウチナビクワガクロカミニシモゾオキニケル》。
●一首の意は、いろ/\と心をもめど、迎へにゆくと云ふことも難し。只在り在りて君をば待たん。此吾黒髪の、霜の色にふりかはる代《ヨ》迄もとなり。五にみなのわたか黒き髪にいつの間に霜のふりけん云々。
 
 秋之田《アキノタノ》、穂上霧相《ホノヘキリアフ》、朝霞《アサガスミ》、何邊乃方二《イツベノカタニ》、我戀將息《ワガコヒヤマム》。
 
●「穂上霧相、朝霞」穂上にきら/\わたる朝霞と云ふにて、此霞は、後世より云ふときは、秋の朝霧也。霧はきらひ、霞は幽かと云ふことの名となれるなりければ、古は春は霞、秋は霧と分けて云ふやうの事はなかりし也。
●一首の意は、秋の田の穗上にきりあふ朝霧の一面に立ちこめたるが、吾戀の長息《ナゲキ》は何方にやり拂はんかとなり。記(ニ)云(フ)、故後亦不堪戀慕而追往《カレノチニマタオモヒカネテオヒイマス》云々、即(チ)共(ニ)自死《シセタマヒキ》とある、是れ切《セチ》なる戀の限りなりければ、御歌もさぞ多かりけらし。
 或本(ノ)歌(ニ)曰(フ)、居明而《ヲリアカシテ》、君乎者《キミヲバ》、將待《マタム》、奴婆珠乃《ヌバタマノ》、吾黒髪爾《ワガクロカミニ》、霜者零騰文《シモハフルトモ》。右−首、古歌集(ノ)中(ニ)出(ヅ)。古(92)事記(ニ)曰(フ)、輕(ノ)太子奸(ケ)2輕(ノ)大郎女(ニ)1云々。故(レ)其(ノ)太子(ヲ)流(ス)2於|伊余《イヨノ》湯(ニ)1也。此時|衣通王《ソドホシノオホキミ》不v堪(ヘ)2戀慕(ニ)1而追往(ス)時(ニ)、歌(ヒテ)曰(ハク)、君之行《キミガユキ》、氣長久成奴《ケナガクナリヌ》、山多豆乃《ヤマタヅノ》、迎乎行往《ムカヘヲユカム》、待爾者不待《マツニハマタジ》。此《コヽニ》云《イヘル》山多豆(トハ)者是(レ)今|造木者《ミヤツコギトイフモノ》也。」右一首(ノ)歌、古事記與2類聚歌林《ルヰジユカリン》1所v説《ク》不v同《ジ》、歌主亦異(ナリ)焉。因(リテ)檢(ルニ)2日本紀(ヲ)1曰(フ)、難波(ノ)高津(ノ)宮(ニ)御宇(シ)大鷦鷯(ノ)天皇(ノ)廿二年春正月、天皇語(リテ)2皇后(ニ)1曰(ハク)、納(レテ)八田《ヤタノ》皇女(ヲ)1將v爲(サム)v妃(ト)。時(ニ)皇后不v聽(サ)。爰(ニ)天皇歌以(テ)乞(フ)2於皇后(ニ)1云々。三十年秋九月乙卯(ノ)朔乙丑、皇后遊2行(シ)紀伊(ノ)國(ニ)1到(リ)2熊野岬(ニ)1、取(リ)2其處(ノ)御綱葉《ミツナカシハヲ》1而還(リヌ)。於v是《コヽニ》天皇伺(ヒテ)2皇后不(ルヲ)1v在而、娶(シテ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1納(ル)2於宮中(ニ)1。時(ニ)皇后到(テ)2難波(ノ)済《ワタリニ》1聞(シテ)3天皇(ノ)合《メシヽヲ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1大(ニ)恨《ウラミタマフ》v之云々。亦曰(フ)、遠飛鳥(ノ)宮(ニ)宇(シヽ)雄朝嬬稚子《ヲアサツマワクコノ》天皇、廿三年春正月甲午(ノ)朔庚子、木梨輕《コナシカルノ》皇子爲2太子(ト)1容姿佳麗(ニシテ)見(ル)者自(ラ)感(ジヌ)。同母妹輕(ノ)大娘《オホイラツメノ》皇女、亦艶妙也云々。遂(ニ)竊(ニ)通(ズ)。乃悒懷少(ク)息(フ)。廿四年夏六月、御膳羮(ノ)汁凝(テ)以作(ル)v氷(ト)。天皇|異《アヤシミタマヒ》v之卜(フ)2其|所由《ユヱヲ》1。卜者曰(ハク)、有(リ)2内亂1蓋親々相姦(スル)乎云々。仍(テ)移(ス)2大娘皇女(ヲ)於伊與(ニ)1者《トイヘリ》。今案(フニ)二代二時不v見2此歌(ヲ)1也。
 
  近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、天皇賜(ハセル)2鏡(ノ)女王《オホキミニ》1御製歌一首
 
 妹之家毛《イモガイヘモ》、繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》、山跡有《ヤマトナル》、大島嶺爾《オホシマノネニ》、家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。
 一(ニ)云(ハク)、妹之當《イモガアタリ》、繼而毛見武爾《ツギテモミムニ》、一(ニ)云(ハク)、 家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》。
 
●「妹之家毛」妹は鏡(ノ)女王を指す。毛は歎息にて、「家をマア」と云ふ意也。此女王は額田(ノ)王の姉にて、姉妹ともに天智天皇に娶《メ》されける事、一(ノ)卷に云ひつ●「繼而」續ぎてと云ふが如し。●「大島嶺」是を名所ならんとて此彼《コヽカシコ》索むめるから、御歌の意も解けざる也。此は、天皇大(93)津(ノ)宮へ遷り坐《マシ》て後、鏡女王が岡本(ノ)宮の地に留れる許に賜へる御歌なりければ、大倭島根《オホヤマトシマネ》の山に家もあらましものをと云ふ意なるを、然《サ》は云ひがたき故に、分けて詔ふ詞なるぞかし。
●一首の意は、妹が家を絶えず見てましを、今|如v此《カク》近江へ遠ざかり來ぬ。せめて相隣れる大倭島根の山の内に、行きて見る家もあらましをと也。一本もあしからず。
 
  鏡(ノ)女王|奉《マツレル》v和(ヘ)歌一首
 
 秋山之《アキヤマノ》、樹下隱《コノシタガクリ》、逝水乃《ユクミヅノ》、吾許曾益目《ワレコソマサメ》、御念從者《ミオモヒヨリハ》
 
●「樹下隱、逝水乃」此句どもは、目にあらはれて見えねどもの意也。一首明らけし。
 
  内(ノ)大臣藤原(ノ)卿《マヘツギミ》娉《ツマトヒセス》2鏡(ノ)女王(ヲ)1時、鏡(ノ)女王(ノ)作歌
 
 玉匣《タマクシゲ》、覆乎安美《オホフヲヤスミ》、開而行者《アケテイナバ》、吾名者雖有《アガナハアレド》、君名之惜毛《キミガナシヲシモ》。
 
●「玉匣云々」匣の蓋は蝶つがひなれば、覆ふが易さに、開《ア》くとかゝる序辭也●「開而行者」夜明けて歸らば也。吾と君と上下の違ひ、例ある事也。
 
  内大臣藤原(ノ)卿(ノ)和《コタヘタマフ》歌一首
 
 玉匣《タマクシゲ》、將見圓山乃《ミモロノヤマノ》、狹名葛《サナカヅラ》、佐不寢者遂爾《サネズバツヒニ》、有勝麻之目《アリガテマシモ》。
 或本(ノ)歌(ニ)云(ハク) 玉匣|三室乃《ミムロノ》山乃。
 
●「御諸」三室の事、鐘(ノ)響初卷に辨《ワキマ》へつ●「狹名葛」五味葛の事也。滑かなる汁の出る物なれば、(94)眞滑《サヌル》葛の義なるを、約めて云ふ。字鏡《ジキヤウ》五味、佐奈加豆良とあり●「有勝麻之目」加天《カテ》は「消がて「行きがてなど云ふかてにて、難きと同言也。此に勝の字を書きたるは、「たへぬ「あへぬと同意の語なる故に、遂に逢はずしては堪ふまじきの心なるを以て也。されば此歌三句迄は序にして、●一首の意は、げにも慎《ツヽマ》しき中にはあれど、さりとてかく思ひ深めたれば、一度相寢せずしては遂に得堪ふべからずと也。
 
  内(ノ)大臣藤原(ノ)卿|娶《ツマドヘル》2采女安見兒《ウネベヤスミコヲ》1時《トキ》戯※[左(]《タハムレニ》作(ル)歌
 
 吾者毛也《ワレハモヤ》、安見兒得有《ヤスミコエタリ》、皆人乃《ミナヒトノ》、得難爾爲云《エガテニストイフ》、安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》。
 
●「釆女」孝徳紀(ニ)曰(フ)凡釆女|者《ハ》貢(ス)2郡(ノ)少領《セウリヤウ》以上(ノ)姉妹及子女(ノ)形容端正(ナル)者(ヲ)1。從丁一人、從女二人。以(テ)2一百戸(ヲ)1宛《アテヨ》2釆女一人(ノ)粮(ニ)1。庸布庸米、皆准(フ)2次丁(ニ)1。内膳司(ノ)式下(ニ)云(フ)采女六十人などありて、御饌《ミケ》にむねと奉(ル)v仕(ヘ)●此歌は、安見兒を皆人の得勝《エガテ》にせしと云ふにもあらず。又吾其釆女を得たりと誇り給ふにもあらず。
●一首の意は、吾はもよ、安見兒を得て、不v料《ハカラズ》安見兒を知《シル》身《ミ》となりたり。是のみは、常に皆人の得勝に爲《ス》と云ふ安見兒を領《シル》身《ミ》となりたるはよ、と戯れ給ふなり。
 
  久米(ノ)禅師《ゼジ》娉《ツマドヘル》2石川(ノ)女郎(ヲ)1時作(ル)歌
 
 水篶苅《ミスヾカル》、信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》、吾引者《ワレヒカバ》、字眞人佐備而《ウマビトサビテ》、不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》。
 
●久米氏は、姓氏録に武内(ノ)宿禰(ノ)五世孫、稻目(ノ)宿禰之後也と見ゆ。禅師は名也。下の三方(ノ)沙彌も(95)是に同じ。稱徳紀(ノ)詔に、如來・菩薩等の名を制止せられたる事見ゆ●「石川女郎」此人初めは筑前に在りし遊行女婦なりけるが、後には京に入り來て、あまたの人に逢へりしさまに見ゆ。そのよし考へ合せて別記に記しつ。
●「水篶苅」篶は小竹也。水篶は眞篶の義●「信濃乃眞弓」此國より献(レル)v弓(ヲ)事續紀處々に見ゆ。●「宇眞人佐備而」君子進《ウマビトスサミ》に不欲《イナ》といはんかもと云へる、是れ遊行女婦を此頃君子と稱《イヒ》て、專ら貴人と交りけるにつきてかく云へる也。常の娘子にかゝること云ふべきにあらず。
 
  石川(ノ)女郎(ガ)和(フル)歌
 
 三篶苅《ミスヾカル》、信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》、不引爲而《ヒカズシテ》、弦作留行事乎《ヲハグルワザヲ》、知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。
 
●「弦作留行事乎云々」弓に弦を懸くる事をはぐると云ふ。次の歌に、都良絃取波氣《ツラヲトリハゲ》。紀に矢作部《ヤハギベ》などあるが如し。卒句はたゞしらなくといふ言也。古き歌には、云ふといふ事と、思ふと云ふことゝをそへて云へる、常多かり。
●一首の意は、弓引く人こそ弦《ヲ》はぐるわざも心得べけれ。よるか、よらぬか、いまだ引きもせずして、そらに吾が否《イナ》といはんをば量りしらんやはと也。
 
 梓弓《アヅサユミ》、引者隨意《ヒカバマニ/\》、依目友《ヨラメドモ》、後心乎《ノチノコヽロヲ》、知勝奴鴨《シリガテヌカモ》。
 
●「知勝奴鴨」上の有勝麻之目《アリガテマシモ》の勝に同じくて、知りあへぬなり。いときこえ安くめでたき歌どもなり。和歌に一首そへて、凡て自在なるも、遊行女婦等がならひとぞ見えたる。
 
(96)  久米(ノ)禅師(ガ)重(テ)贈(ル)歌
 
 梓弓《アヅサユミ》、都良絃取波氣《ツラヲトリハゲ》、引人者《ヒクヒトハ》、後心乎《ノチノコヽロヲ》、知人曾引《シルヒトゾヒク》。
 
●「都良絃」蔓緒《ツラヲ》也。馬具に轡《クツワヅラ》また※[革+龍]頭《オモヅラ》など云ふも同じ●「引人者」禅師が自らの事を云ふ。我が事を人に對して、人と言へる、常多かり。
●一首の意は、後の心をあやぶむのみならば、蔓弦取りつけて、いざより給へ、そを執り引くわれは、行末迄あひ遂げんと決心してこそひくなれと也。
 
  久米(ノ)禅師贈(ル)2某(ノ)娘子(ニ)1歌
 
 東人之《アヅマドノ》、荷向篋乃《ノザキノハコノ》、荷之緒爾毛《ニノヲニモ》、妹情爾《イモガコヽロニ》、乘家留香聞《ノリニケルカモ》。
 
●「東人之、荷向篋乃」祈年祭祝詞(ニ)云(フ)、自陸往道者《クガヨリユクミチハ》、荷緒結堅※[氏/一]《ニノヲユヒカタメテ》、磐根木根履佐久彌※[氏/一]《イハネキネフミサクミテ》、馬爪能至留限《ウマノツメノイタリトヾマルカギリ》、長道無間久《ナガヂヒマナク》、立都々氣※[氏/一]《タチツヾケテ》云々。令義解《リヤウノギゲ》に云、荷前|者《ハ》四方(ノ)國進御(スル)調(ノ)荷前(ヲ)取(リテ)奉(ル)、故(ニ)曰(フ)2荷前(ト)1と見ゆ。諸國より今年の初物を奉るを、荷前《ノザキ》と云ふ。大神宮へ奉るをもいへど、如此《カク》廣く云へるは皆貢・調の初荷也。さて荷初《ニサキ》を乃佐吉《ノザキ》と云ふは、木葉《キノハ》を故乃波《コノハ》と云ふと同格也●「荷之緒爾毛」此爾は、如くの意にて、荷之緒の如くに、マアと云ふ意なり、一【廿九】に栲乃穂爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》とある、此の爾に同じ。似《ニ》る・似《ノ》る・似《ナ》すなど通ふ。以て枕詞の下の能《ノ》も直ぐに如くの意なる事を知るべし。●「乘家留香聞」乘とは、船・馬に乘ると云ふと同じく、置きそはるを云ふ也。
●一首の意は、いづくはあれど、名に高く東の國々より、いかめしく結《ユ》ひ堅めて献る荷向篋《ノサキノハコ》の荷(97)の緒の如くにもマア、打ちまかせて妹に乘りかゝりけるかなと云ふにて、情《コヽロ》と云ふには意なし。
 
  大伴(ノ)宿禰|娉《ツマドヘル》2巨勢(ノ)郎女(ヲ)1時(ニ)作(ル)歌
 
 玉葛《タマカヅラ》、實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》、千磐破《チハヤブル》、神曾著常云《カミゾツクトフ》、不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》。
 
●「大伴宿禰」此氏の事、道別《チワキ》・言別《コトワキ》等に餘り屡々云ひつれば、今略す。誰しらぬ人もあらざれば也。此は貴人ゆゑに名を記さぬなるべし。元暦校本に、大伴(ノ)宿禰諱(ヲ)曰(フ)2安麻呂(ト)1也。難波(ノ)朝(ノ)右大臣大紫大伴(ノ)長徳卿之第六子、平城(ノ)朝(ニ)任(ジテ)2大納言兼大將軍(ニ)1薨(ズ)也とあり●「巨勢(ノ)郎女」古本傍書に、近江(ノ)朝(ノ)大納言巨勢人卿(ノ)女也と記せり。郎女は伊呂兄《イロセ》・伊呂弟《イロト》、入彦《イリヒコ》・入姫《イリヒメ》等の伊呂《イロ》・入《イリ》に通ひて愛《ウツクシ》み親む稱也●「玉葛」玉は美稱《ホメ》言にて、葛は蔓草也、實の成《ル》もならぬもあるを、此《コヽ》は不v成(ラ)方以てつゞけたる也●「千磐破」言別に辨へつ●「神曾著常云」實のなるべき木に實のならざるは、幽冥《カゲ》より、神の領知《シメ》ておはす故ぞ、と云ふ諺もてよまれたる也。
●一首の意は、世の諺にいつまでも實のならぬ木には、陰より神が憑《ツク》と云ふが、娘子も其如くにて、さだ過ぐる迄|孤獨《ヒトリ》あらば、よからぬ者に着《ツカ》れんぞと也。結句はたゞ二の句を少し轉じて返したるのみなり。
 
  巨勢(ノ)郎女(ノ)和(フル)歌
   
玉葛《タマカヅラ》、花耳開而《ハナノミサキテ》、不成有者《ナラザルハ》、誰戀爾有目《タガコヒナラメ》、吾孤悲念乎《ワハコヒオモフヲ》。
 
●一首の意は、玉葛いたづらに花のみ咲きて、實のならざるはとのたまふが、其は外の人の戀(98)ならめ。吾は是れほどおもふにと云ふ意なり。此中に誰某《タガナニ》と云ふ語心得おくべし。七に「朝霜のけやすき命誰がために千年もがもとわが思はなくに」また「水底にしづくしら玉誰が故に心つくしてわが思はなくに」。十一に「押照難波菅笠おきふるし後は誰がきん笠ならなくに」十二に「里人とかたりつぐがねよしゑやし戀ひてもしなん誰が名ならめや」。此等の誰の釋、諸抄いひざまあ(?)しき故に、いかに詞多くつくすとも、遂に底解のせざるなり。此は古人の心には、外の人のと云ふ意を然か云へるなりければ、此の誰戀爾有目《タガコヒナラメ》と云ふも外の人の戀ならめの意と見れば、かやすくして通《キコ》え易し。次に引く、七卷の歌も、外の人のためにはの意。其次なるも、外の人の故にはの意。十一の歌も外の人の着ん笠ならぬにの意。十二の歌も、外の人の名ならめやはの意なり、此外八に「いづくには鳴きもしにけん」と云へるも外の處にはの意。十七に「梅の花いつはをらじと」と云へるも外の時はの意。古今に「いづくはあれど」と云へるも外の處はあれどの意「なにはおもはず」と云へるも、外の事は思はずの意也。此類猶いと多かれば、先づ此處に一わたり喩《サト》しおくにぞある。
 
  明日香清御原《アスカキヨミハラノ》宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、天皇賜(フ)2藤原(ノ)夫人《ミメニ》1御製歌
 
 吾里爾《ワガサトニ》、大雪落有《オホユキフレリ》 大原乃《オホハラノ》、古爾之郷爾《フリニシサトニ》、落卷者後《フラマクハノチ》。
 
●「明日香云々」飛鳥の地、清御原(ノ)宮等の事一・二(ノ)卷に出づ。天武天皇也●「藤原(ノ)夫人」鎌足公の女也。紀に藤原(ノ)大臣(ノ)女|氷上娘《ヒカミノイラツメ》生(ム)2但馬(ノ)皇女(ヲ)1、次(ニ)夫人氷上(ノ)娘(ノ)弟《オト》五百重(ノ)娘《イラツメ》生(ム)2新田部《ニヒタベノ》皇子(ヲ)1とある、此二人の中なる内に、八(ノ)卷に曰(フ)2大原(ノ)大|刀自《トジト》1とあれば、姉の方なるべし●「吾里爾」清御(99)原(ノ)宮の地を指し給へる也●「大原乃」藤原(ノ)宮の藤井が原より、鎌足公の本居の藤原迄【二里許】一つ列につゞきて、古へは廣き原なりし故に、大原と云へり。別々に心得たるはわろし●「古爾之郷爾」十一にも大原(ノ)古郷妹置《フリニシサトニイモヲオキテ》とよみたれば、本より故郷の名ありしなれど、こゝは殊更に貶《オト》しめ給ひてなるべし。
●一首の意は、吾がみさとは、今朝初雪のいと多くふれり。大原あたりのさびしきあたりは見ふるして後にこそふらめと、おとしめ給ふ也。
 
  藤原(ノ)夫人(ノ)奉《マツレル》v和(ヘ)歌
 
吾崗之《ワガヲカノ》、於可美爾言而《オカミニイヒテ》、令落《フラセタル》、雪之摧之《ユキノクダケシ》、彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
 
●「於可美」神代紀に高※[靈の上半/龍]《タカオカミ》●闇※[靈の上半/龍]《クラオカミ》等あり。高は天《ソラ》飛ぶ故に云ふ。闇は幽谷に蟄する故の名なり。龍の中の首長《カミ》たる物にて、雹雪なども、これが零らすめれば、如此はよみ給へる也。豐後、常陸(ノ)風土記にも出づ。
●一首の意は、吾崗の※[靈の上半/龍]《オカミ》に言ひつけて、零せたる此里の初雪の摧《クダケ》の、其處にも少しちりけんを大雪などゝおもほすが可笑《ヲカシ》さよとなり。此夫人は才女なりけらし。
 
  藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、大津皇子|竊《シヌビニ》下(テ)2於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1上(リ)來《キマス》時《トキ》、大伯皇女《オホクノヒメミコノ》御作歌《ヨミマセルウタ》
 
 吾勢枯乎《ワガセコヲ》、倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》、佐夜深而《サヨフケテ》、※[奚+隹]鳴露爾《アカトキヅユニ》、吾立所霑之《ワガタチヌレシ》。
 
(100)●「大津皇子・大伯皇女」共に天武天皇(ノ)御子也。紀に先(ニ)納(テ)2皇后(ノ)姉大田(ノ)皇女(ヲ)1爲(ス)v妃(ト)生3大來《オホクノ》皇女(ト)與2大津(ノ)皇子(トヲ)1と見えて、同母《ハラカラ》にましければ、取りわき親しかりし也●「下2於伊勢神宮1」紀に白鳳三年冬十月丁丑(ノ)朔乙酉、大來(ノ)皇女自(リ)2泊瀬(ノ)齋(ノ)宮1向(フ)2伊勢(ノ)神宮(ニ)1。持統紀元年十一月丁酉(ノ)朔壬子、皇女|大來《オホク》至(ル)2京師(ニ)1とありて、大津皇子の謀りごち給ひしは、天武の御代の事なれど、天皇|崩《カク》り坐《マ》して後に顯はれし故に、持統の御代に入れしなり●「吾勢枯乎」大伯《オホクノ》皇女の方御姉に坐せども、女よりは弟をも勢《セ》と云へり●「※[奚+隹]鳴露爾」密々陰謀の立願《リフグワン》に詣で給ひしなれば、深更よりものして、曉露に霑れ給ひしなり。
 
 二人行杼《フタリユケド》、去過難寸《ユキスギガタキ》、秋山乎《アキヤマヲ》、如何君之《イカニカキミガ》、獨越武《ヒトリコユラム》。
 
●「二人行抒」二人|連《ヅレ》にてゆけどもの意也●「秋山乎」さびしき時節といひ、御物思ひあるをりなれば、おもひやり給ふなり。下の訓「いかでか君がひとりこえなん」にては、爭《イカ》でかは獨りこえ給ふ事あたはんと云ふになりて、いかゞ。
 
  大津(ノ)皇子賜(フ)2石川(ノ)女郎(ニ)1御歌
 
 足日木乃《アシビキノ》、山之四付二《ヤマノシヅクニ》、妹待跡《イモマツト》、吾立所沾《ワレタチヌレヌ》、山之四附二《ヤマノシヅクニ》。
 
●「足日木乃」此枕詞|繼苗生《ツキナヘフ》山と云ふと合するに、是も主(ル)2百木(ヲ)1意なるべし●「山之四付二」草木巖などよりおつる滴《シタヽ》りなり。さる處にて待ち給ふも何とかや、たゞの娘子めかず。是も遊行(ノ)女婦なる故か。
 
(101)  石川(ノ)女郎(ガ)奉v和(ヘ)歌
 
 吾乎待跡《アヲマツト》、君之沾計武《キミガヌレケム》、足日木能《アシヒキノ》、山之四付二《ヤマノシヅクニ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》。
 
●一首の意は、吾立ちぬれぬとのたまへるこそかたじけなけれ。君がその沾れましけん山のしづくに妾《ワレ》ならましものをと也。此贈答や、兩首ともたけ高く、優《イウ》にうるはしく聞えたるは、人麿大人の在世にて、代《ヨ》の人その口調に習へる故なるべし。歌は誠に今もかくこそあらまほしけれ。
 
  大津(ノ)皇子|竊《シヌビテ》婚《メシマシヽ》2石川(ノ)女郎(ヲ)1時、津守連通《ツモリノムラジトホルガ》占2露《ウラヘアラハシツレバ》其事(ヲ)1、皇子(ノ)御作歌《ヨミマセルウタ》
 
 大船之《オホブネノ》、津守之占爾《ツモリガウラニ》、將告登波《ノラムトハ》、益※[氏/一]爾知而《マサデニシリテ》、我二人宿之《アガフタリネシ》。
 
●「津守連通」續紀八、養老五年春正月、陰陽博士從五位下|津守連通《ツモリノムラジトホル》云々、賜(フ)2※[糸+施の旁]十疋、練十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口(ヲ)1。同七年正月、從五位上と見ゆ。次に日並知皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》の御歌賜ふ事あるを見れば、わざと其れに先だちて、婚《アヒ》給ひしならん、故(レ)津守(ノ)連に合せて、占《ウラ》へ露はされしにや。されど下に、大津(ノ)皇子宮侍石川(ノ)女郎とあるを思へば、此後宮に引き入れ置き給ひて、皇太子の召しを妨げ給ひしにこそ。是れ始めより太子に叛き給ひつると一つ御心根とぞ見えたる。
●一首の意は、吾れあながち忍びてしたる事にあらず。彼の津守(ノ)通が占にあらんとは正しく知りて寢たり。何の障るべき事あらんぞとなり。此ほどの御心ならずては、遂に宮中に入れてわざと御召しを妨げ給ふ事も有るべからず。
 
(102)  日並知皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》賜(ヘル)2石川(ノ)女郎(ニ)1御歌《ミウタ》
 
 大名兒《オホナゴヲ》、彼方野邊爾《ヲチカタノベニ》、苅草乃《カルカヤノ》、束間毛《ツカノアヒダモ》、吾忘目八《ワレワスレメヤ》。
 
●「日並知皇子尊」天武天皇第一の皇子、御母は持統天皇也。草壁皇子と申す。日並知(ノ)皇子とは天武紀に、十年、立(テヽ)2草壁皇子(ノ)尊(ヲ)1爲(ス)2皇太子(ト)1因(リテ)以(テ)令(ム)v攝(セ)2萬機(ヲ)1とある、是れ日嗣を天皇と並びて知しめす意の稱號にて、此皇子に限れる名にはあらざりけんかし ●「大名兒」元暦校本此處の分註に、女郎字(ハ)曰(フ)2大名兒(ト)1。また三(ノ)卷には石川泉郎【古本】君子號曰(フ)2少郎子(ト)1也、とあるなどを考へ合するに、此女婦筑紫にありし|ほど《ほど》(?《モト》)より、世に甚名高かりけんよしを稱へて詔ふ御詞なるべし。もし那禰《ナネ》・手兒名《テコナ》などの類ならば、此の外にもあるべきものなるに、絶えて見えず。此女婦に限る名也。かくて此句より中二句を隔てゝ、束間毛《ツカノアヒダモ》と云ふへかゝれり。
●一首の意は、世に大きなる名をもたる子に一たび逢ひ見まほしと思ふ心、すこしの間だにわれ忘れめやはと也。さて歌の自在なる石川女郎、此御歌にのみ和歌のなきも、大津(ノ)皇子の所爲なるべし。
 
  幸(ケル)2于吉野(ノ)宮(ニ)1時、弓削皇子《ユゲノミコ》、贈2與《オクリタマヘル》額田王《ヌカタノオホキミ》1御歌《ミウタ》
 
 古爾《イニシヘニ》、戀流鳥鴨《コフルトリカモ》、弓弦葉乃《ユヅルハノ》、三井能上從《ミヰノウヘヨリ》、鳴渡遊久《ナキワタリユク》。
 
 ●「幸」持統天皇の幸也 ●「弓削皇子」天武天皇(ノ)皇子、長(ノ)皇子(ノ)御弟也 ●「古爾」古へをと云ふ也。妹をこひと云ふを、妹爾戀《イモニコ》ひとよめるが如し。●「戀流鳥鴨」此鳥は霍公鳥にて、鴨は(103)歟と云ふに母《モ》のそひたる也 ●「弓弦葉乃云々」式にも弓弦葉と書けり。今も正月用ふる灌木なり。三井と云ふは榎葉井《エノハヰ》・藤井《フヂヰ》・櫻井《サクラヰ》等の類にて、此木の有りしなり。輿地通志(ニ)云(フ)弓弦葉(ノ)井(ハ)、有(リ)v二(ツ)。一(ハ)在(リ)2池田(ノ)荘六田(ノ)村(ニ)1。一(ハ)在(リ)2川上(ノ)荘大瀧(ノ)村(ニ)1。末v詳(ニ)2孰(レカ)名區(ナルヲ)1とあり。さて此下句|從《ヨリ》は、例の於《ニ》の意、遊久は來るの意にて、御井の上《ホトリ》に鳴わたり來しよ、と宣へるなれば、御父天皇の入りおはしましける時用ひし井なるべし。
●一首の意は、吾こたび父天皇の御跡を慕ひて、御在世の事を忍べば、同じ心に古へを戀ふる鳥がマアしばし汲み給ひし彼の楪《ユヅルハ》の御井のほとり(?)に鳴きわたり來しよ。女王もむかしを思ひ出づる事あらんと也。
 
  額田(ノ)王奉(ル)v和(ヘ)歌
 
 古爾《イニシヘニ》、戀良武鳥者《コフラムトリハ》、霍公鳥《ホトヽギス》、蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》、吾戀流其騰《ワガコフルゴト》。
 
●「盖」此の語は歟慥《ケダシ》の義也。今の世の言にも、未だ極めぬことを推量して、慥歟《タシカ》それはなど云へるに同じ。さて此歌元暦校本の端書の下に、從(リ)2倭(ノ)京1進入《タテマツル》とあると、次の歌とを合するに此時額田王は御供せるにはあらず。京に留まり給へるが、さる便りありて贈らせ給へるなるべし。故(レ)其詞を受けて、慥歟《タシカ》其鳥は郭公にて、わがこゝに戀ふる如く、鳴きしならんとは答へ申せる也。
   
  從(リ)2吉野1折2取《ヲリトラシテ》蘿生松柯《コケムセルマツガエヲ》1遣時《オクリタマフトキニ》、額田(ノ)王(ノ)奉入歌《タテマツルウタ》
 
 三吉野乃《ミヨシヌノ》、山松之枝者《ヤママツガエハ》、波思吉香聞《ハシキカモ》、君之御言乎《キミガミコトヲ》、持而加欲波久《モチテカヨハク》。
 
(104)●「蘿」日影葛にて、深山の松に長く垂れかゝれば、垂苔《サガリコケ》とも云ふ。但しこゝはたゞ常の苔なるを通はして書けるにも有るべし●「波思吉香聞」集中に愛計八師《ハシケヤシ》・愛妻《ハシツマ》などある字の意也。くはし・うらくはしなども同語也。
●一首の意は、よしの山の松が枝は愛《ハ》しき哉。かたじけなき君が御言を承け持ちて來にたりとなり。
 
  但馬《タヂマノ》皇女|在《イマス》2高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)宮(ニ)1時《トキニ》、思《シヌビテ》2穂積《ホヅミノ》皇子(ヲ)1御作《ヨミマセル》歌
 
 秋田之《アキノタノ》、穂向乃所縁《ホムキノヨレル》、異所縁《カタヨリニ》、君爾因奈名《キミニヨリナナ》、事痛有登母《コチタカリトモ》。
 
●「但馬皇子云々」此皇子等三柱共に、皆天武天皇(ノ)御子也。紀に「藤原(ノ)大臣(ノ)女|氷上娘《ヒガミノイラツメ》、生(ム)2但馬(ノ)皇女(ヲ)1。蘇我(ノ)赤兄《アカエノ》大臣(ノ)女|大※[(草冠/豕)+生]《オホヌノ》娘、生(ム)2一男二女(ヲ)1其一(ヲ)曰(フ)2穂積(ノ)皇子(ト)1云々。納(レテ)2※[匈/月]形《ムナカタノ》君|徳善《トコセガ》女尼子(ノ)娘(ヲ)1、生(ム)2高市(ノ)皇子(ノ)命(ヲ)1と見ゆ。かゝれば異胞兄弟におはしますを、次の歌どもに罪《ツミ》なはれる給へるはいかなる事か。●「穂向乃所縁」十七に、秋田乃穂牟伎《アキタノホムキ》とあれば、ほむけと訓むはわろし。さて稻ばかり、かたよりに靡くものあらざれば、よき比喩也。●「奈名」なん也。上にてんを手名《テナ》、下にらんを良奈《ラナ》と云へるに同じ、●「事痛有登母」言痛有《コトイタクアリ》とも也。言痛とは、言《イヒ》騷ぐ事の甚しきを云ふ。即|許登伊多久《コトイタク》の登伊《トイ》を約めてこちたしとは云ふ也。
●一首の意は、稻(?)の穂むきの、一方へ片より靡くが如く、よしや世の人言はいかにうるさかりなんとも、われは君一方へ片よりまゐらせんとなり。
 
  勅《ミコトノリシテ》2穂積(ノ)皇子(ニ)1遣《ツカハサルヽ》2近江(ノ)志賀(ノ)山寺(ニ)1時(ニ)、但馬(ノ)皇女|御作歌《ヨミタマフウタ》
 
(105) 遺居而《オクレヰテ》、戀管不有者《コヒツヽアラズバ》、追及武《オヒシカム》、道之阿囘爾《ミチノクマミニ》、標結吾勢《シメユヘワガセ》。
 
●「志賀山寺」は崇福寺也。天智天皇の御願にて建てられたり。故(レ)後々も十二月三日の御國忌は彼寺にて行はる。中昔に志賀の山こえとよみたるも此寺に詣づる道也。●「追及武」重浪《シキナミ》の重《シキ》にて後方《アト》より追ひ及ぶを云ふ。仁徳紀大御歌に夜麻斯呂爾伊斯祁登理夜麻伊斯祁伊斯祁《ヤマシロニイシケトリヤマイシケイシケ》」雄畧紀(ノ)歌にぬば玉のかひの黒駒くらきせば伊志何孺阿羅磨志《イシカズアラマシ》かひの黒駒。」今俗に追ひ付くと云ふ意也。●「道之阿囘爾」回《ミ》は折曲《ヲリタミ》と云ふ美《ミ》也、●「標結吾勢」標《シメ》、こゝにては、道のしるべの物を結《ユ》ふを云ふ。栞《シヲリ》のたぐひ也。
●一首の意は、獨り遺《ノコ》りて戀ひ死にせんよりは、近江迄追ひ付きまゐらせん。女の事にて道をしらねば道のちまた曲り角にしるしせよと也。
 
  但馬(ノ)皇女|在《イマシ》2高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)宮(ニ)1時、竊《シヌビテ》接《アヒタマフ》2穂積(ノ)皇子(ニ)1事《コト》既|形而《アラハレテ》後《ノチニ》御作《ヨミタマヘル》歌
 
 人事乎《ヒトゴトヲ》、繁美許知痛美《シゲミコチタミ》、己介※[左(]流世爾《イケルヨニ》、未渡《イマダワタラヌ》、朝川渡《アサカハワタル》。
 
●「人事乎」人言をにて人に憂名を云ひ立てらるゝ也。●「繁美許知痛美」繁さに言痛《コトイタ》さにと云ふにて彼の憂名をいひさわがるゝがうるさきよし也。●「巳介流世爾」生有世《イケルヨ》に也。今本巳母世爾とある。母の下に、由阿本有(リ)2流(ノ)宇1。こゝに知る、母《モ》は介《ケ》の誤りなる事を●「未渡、朝川渡」此句今日迄知らぬ世のうき瀬を渡りて潔身《ミソギ》し給ふよしなるべし。四【三十五】に君爾因《キミニヨリ》、言之繁乎《コトノシゲキヲ》、(106)古郷之《フルサトノ》、明日香乃河爾《アスカノカハニ》、潔身爲爾去《ミソギシニユク》とある類を考へ合すべし。
 
  舍人《トネリノ》皇子|贈2與《タマヘル》舍人|娘子《ヲトメニ》1御歌
 
 大夫哉《マスラヲヤ》、片戀將爲跡《カタコヒセムト》、嘆友《ナゲケドモ》、鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》、尚戀二家里《ナホコヒニケリ》。
 
●「舍人皇子」天武天皇第五(ノ)皇子。●「舍人娘子」皇子の乳母の女なるべし。さらば、皇子の御名も乳母の氏を取り給ふにて乳兄弟なりければ、御歌に少し斟酌の體あるなるべし。
●一首の意は、益荒男やはめゝしく片思ひの戀ひすべき、と歎きては思ひとゞむれど、惡き醜の益荒男が、あとから忘れてはやは(?)り戀ひにけりとなり。
 
  舍人(ノ)娘子《ヲトメガ》奉《マツル》v和(ヘ)歌
 
 歎管《ナゲキツヽ》、丈夫之《マスラヲノコノ》、戀禮許曾《コフレコソ》、吾髪結乃《ワガモトユヒノ》、漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》。
 
●「歎管」上の嘆友を受けたる也●「戀禮許曾」戀ふればこそと云ふ婆を略せる也。●「吾髪結乃」結ひたる髪を、もとゆひと云ひ、髻をもとゞりと云ふが如し、●「漬而奴禮計禮」漬《ヒヅ》も濡るゝ事なれど、髪の上に云ふはひた/\と垂れ亂るゝ事也。下の多氣婆奴禮とあるに合せて知るべし。さて此は、人に戀ひらるれば、髪のしなえたるゝと云ふ諺につきてよめる也。眉根掻の類ひなり。
 
  弓削《ユゲノ》皇子|思《シヌビテ》2紀(ノ)皇女(ヲ)1御作歌《ヨミマセルウタ》四首
 
 芳野川《ヨシヌガハ》、逝瀬乎※[左(]早見《ユクセヲハヤミ》、須臾毛《シマラクモ》、不通事無《ヨドムコトナク》、有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
 
(107)●「逝瀬乎早見」今本乎(ヲ)作(ル)v之(ニ)。古本に隨へり。逝く瀬が迅《ハヤ》さにと云ふ意也。●「有巨勢濃香毛」然かあれこそと願ふ詞也。五【十八】知良須阿利許曾《チラズアリコソ》とあるを、四【二十】百夜乃長有乞宿鴨《モヽヨノナガクアリコセヌカモ》とあるが如し。此外|見乞《ミエコソ》、告社《ツゲコソ》など云ふ許曾を、續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》、相乞勿湯目《アヒコスナユメ》などよみて許曾《コソ》、許須《コス》、巨世《コセ》と活けり。皆|乞《コヒ》ねがふ詞也。
●一首の意は、我が思ひも、吉野川の逝く瀬の如く早かれば、須臾の間もよどむ事なくあれかしと也。初二句は譬へ也。序の如く心得たるはわろし。
 
 吾妹兒爾《ワギモコニ》、戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》、秋芽之《アキハギノ》、咲而散去流《サキテチリヌル》、花爾有猿尾《ハナナラマシヲ》。
 
●一首の意は、わぎもこにかくいたづらに戀ひつゝあらんよりは、秋萩の咲きて、とくちる花の如《ゴト》ならましものをと也。
 
 暮去者《ユフサレバ》、鹽滿來奈武《シホミチキナム》、住吉乃《スミノエノ》、淺香乃浦爾《アサカノウラニ》、玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
 
●「淺香乃浦爾」輿地通志(ニ)云(フ)攝津(ノ)國住吉(ノ)郡淺香丘在(リ)2船堂村(ニ)1、林木緑茂迎(ヘテ)v春(ヲ)霞香(シ)西臨(ミ)2滄溟(ニ)1、遊賞之地(ナリ)とあり。此所の浦なり。行嚢妙に和泉(ノ)堺町に入る口の邊を云ふとあり。此歌一篇皆比喩也。
●一首の表《オモテ》は、かくしつゝ夕べに至らば、潮みちきなん、潮の滿ち來らざる間《ホド》に、淺香の浦の玉藻をはやく苅りとらんと云ふにて、裏の意は如此《カク》てあらば、障り事出來なん事なきうちにはやく我手に得んとなり。後世に戀ひのうたとは際《キハ》ことなるものぞ。
 
 大船之《オホフネノ》、泊流登麻里能《ハツルトマリノ》、絶多日二《タユタヒニ》、物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》、人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
 
(108)●「大船之、泊流登麻里能」船の行き着くをはつるといひ、其處に留りやどるをとまると云ふ。さて船の泊りを定むるは、そここゝとたゆたはれてとかく定まり難きものなるを以て比喩《タトヘ》給へり。●「絶多日二」此語は此方彼方《コナタカナタ》とたゞよひ、左《ト》やせまし右《カク》やせましと思ひやすらはれて一方に定めかぬる事に云(ヘリ)。故(レ)此卷(ノ)下に猶豫不定《タユタフ》、十一に猶豫とも書き、又十二に天雲乃絶多比安心有者《アマクモノタユタヒヤスキコヽロアラバ》など雲にも多くたとへ云へり。
●一首の意は、船の泊りは風を思ひ、浪を思ひて左右《トカク》定めかぬるものなるが、我が戀も其如く終りの留まりを左《ト》やせまし右《カク》やせましと物思ひやせぬ、處女一人の事なる故にと云ふ也。人は「人のおや、人の子などそへて云ふ詞、子は夫ある婦《ヲミナ》に對へていまだ處女にてあるといひ、故爾は爾在《ナルニ》の意也。
  
  三方沙彌《ミカタノサミ》贈(ル)2園臣|生羽之女《イクハガムスメニ》1歌
 
 多氣婆奴禮《タケバヌレ》、多香根者長寸《タカネバナガキ》、妹之髪《イモガカミ》、比來不見爾《コノゴロミヌニ》、掻入津良武香《タガネツラムカ》。
 
●「三方沙彌」持統紀六年冬十月壬戌(ノ)朔壬申授(ク)2山田(ノ)史|御形《ミカタニ》務廣肆(ヲ)1前(ニ)爲(リテ)2沙門《ト》1學2問(シヌ)新羅(ニ)1とあり。もし此人が此人ならば、俗と成りて後も僧の名を呼べるなるべし。●「園臣」慥かならず、もし的《イクハノ》臣の裔にてもあるか、●「多氣婆奴禮」多氣は髪を結ひ上るを云ひ、奴禮は解けて垂るるを云ふ。●「多香根者長寸」垂らして置けば長しと也。されば少女の未だふり分け髪なる間《ホド》を先づ云ふ也、●「比來不見爾云々」今は髪上げてよき比になりつらんか」と也。多具《タグ》は吐を多具理《タグリ》と云へると同じく櫛にて掻上るを云ふなれば掻入とあるも多賀禰《タガネ》とよむべし。入の字はもしは(109)上の誤歟。
●一首の意は掻き揚ぐれば垂れ下り、垂らして置けば長過ぎし少女が髪、此兩三年見ざるが、今は掻あげて男爲《ヲトコス》へくもなりつらんかと也。かゝれば今本の端書きに娶《ミアヒテ》2園臣生羽之女(ニ)1未v經2幾時(ヲ)1臥病作歌とあるは協はず、此歌いまだ娶りたるにはあらず。
 
  園(ノ)臣生羽(ガ)之女和(ル)歌
 
 人皆者《ヒトミナハ》、今波長跡《イマハナガシト》、多計登雖言《タケトイヘド》、君之見師髪《キミガミシカミ》、亂有等母《ミダレタリトモ》。
 
●此歌かくれたる所なし。二句の跡《ト》はとての意、結句の下によしと含めたり。さばかりの少女のうたにしては巧なる所あり。
 
  三方(ノ)沙彌更(ニ)贈(ル)歌。
 
 橘之《タチバナノ》、蔭履路乃《カゲフムミチノ》、八衢爾《ヤチマタニ》、物乎曾思《モノヲゾオモフ》、妹爾不相而《イモニアハズテ》。
 
●「橘之蔭履路之」 雄略紀に餌香《ヱガノ》市(ノ)邊(ノ)橘(ノ)本と云ひ。三に東(ノ)市之|殖木乃《ウヱキノ》とあり。古は都大道兩側に橘を多く植ゑられけん。●「八衢爾」衢《チマタ》は道岐《チマタ》也。八岐《ヤチマタ》と云ふ時はいくつにも分れたるを云ふ。十二に海石榴市之八十衢爾《ツバイチノヤソノチマタニ》ともよみたり。
●一首の意は、橘の蔭ふむ都大路のいくすぢにも分れたる如く、一かたならず物をぞおもふ妹にあはずしてと也。たけ高き歌也。
 
  石川(ノ)女郎(ガ)贈(ル)2大伴(ノ)宿禰|田主《タヌシニ》1歌
 
(110) 遊士跡《ミヤビヲト》、吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》、屋戸不借《ヤドカサズ》、吾乎還利《ワレヲカヘセリ》、於曾能風流土《オソノミヤビヲ》。
 
●「遊士風流士」共にみやびをとよむ事六卷、八卷等の歌、左註等を合はせてしるし。さて此歌の事先づ此處の左註(ニ)云ふ。
大伴(ノ)田主、字(ヲ)曰(フ)2仲郎(ト)1、容姿佳艶、風流秀絶、人(ノ)見聞(スル)者、靡(シ)v不(ルハ)2歎息(セ))1也。時(ニ)有(リ)2石川女郎1、自成(シ)2雙栖之感(ヲ)1恒(ニ)悲(ム)2獨(リ)守之難(キヲ)1意(ロ)欲(シテ)v寄(ント)v書(ヲ)、未(ダ)v逢(ハ)2良信(ニ)1爰(ニ)作《ナシテ》2方便(ヲ)1而(シテ)似(セ)2賤(キ)嫗《オウナニ》1、己(レ)提(ゲテ)2鍋子《クワシヲ》1、而到(リ)2寢(ノ)側(ラニ)1、※[口+更]音|跼足《キヨクソクシ》、叩v戸(ヲ)諮《トウテ》曰(ク)、東隣(ノ)貧女、將《ストイフ》2取(リ)v火(ヲ)來(ント)1矣、於v是仲郎、暗裏(ニ)非(ス)v識(ルニ)2冒隱之形(ヲ)1、慮外(ニ)不(シテ)v堪(ヘ)2抱|接《セツ》之計(ニ)1、任(テ)v念(フニ)取(テ)v火(ヲ)、就(テ)v跡(ニ)歸去(ル)也、明(テ)後、女郎既(ニ)耻(チ)2自(ラ)媒(スル)之可(ヲ)1v愧(ツ)復恨(ム)2心契之弗(ルヲ)1v果(サ)、因(テ)作(テ)2斯歌1以贈(リ)謔戯《ゲキキス》焉とある、此の左註や前後にある後人のかいなでの暗推とも聞えず、元より然か傳へたる説あらずてはかゝれぬ文どもなり、其れに就きても尋常の娘子のさる行跡《フルマヒ》すべきならねば、是も遊行女婦の一つの證とすべし。しひて後の好事の者の所爲とすとも歌のおもてもさる程の事ときこゆこゝに(モト)に。
●一首の意をいはゞ、かねて遊士ときゝける故に昨夜《ヨベ》宿かりにとひけるに、吾をつれなく返せるは、みやびをにはあらで、おぞの風流士ぞかしといふなり。是又常の娘子の心詞ならんや。これらよくかうがへ合すべきものぞ。さて於曾は九(ノ)卷浦島子をよめる歌に於曾也是君《オソヤコノキミ》、十二に「山代の石田杜《イハタノモリ》に心|鈍《オソク》手向したれば妹に遇ひがたきとよみたる意なれば上の鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》の類にいひ貶せる詞也
 
  大伴(ノ)宿禰田主(ガ)和(フル)歌
 
(111) 遊士爾《ミヤビヲニ》、吾者有家里《ワレハアリケリ》、屋戸不借《ヤドカサズ》、令還吾曾《カヘセルワレゾ》、風流士者有《ミヤビヲニハアル》。
 
●此歌故ありけるなれど、今しるよしぞなき。もし(?)右の左註に依りていはゞ、風流士にわれこそあれ、よく其心ざしを見はてゝ後にとて、かへしたるわれぞ信のみやびをなると云ふ也。
 
  石川(ノ)女郎聞(テ)2大件(ノ)宿禰田主(ガ)足疾《アナヤムト》1贈(ル)歌。
 
 吾聞之《ワガキキシ》、耳爾好似《ミヽニヨクニヌ》、葦若末乃《アシノウレノ》、足痛吾勢《アナエテワガセ》、勤多扶倍思《ツトメタブベシ》。
右依(リテ)2中郎(ノ)足疾(ニ)1贈(テ)2此歌(ヲ)1問(ヒ)訊(ケル)也。
 
●「吾聞之、耳爾好似」。此は吾が耳に聞きし如くならばと云ふ意の語也。十一に戀ひといへば耳にたやすし、多武峯物語に我が聞きし耳はたがはじと申し給ふなどあり。●「葦若末之」これをあしかびとよむはわろし。あしかびは葦の若芽にあらざる事、道別に辨へたるが如し。十卷(ノ)長歌に小松之若末爾《コマツガウレニ》とあり、此《コヽ》は足患《アシノウレヘヲ》を葦未《アシノウレ》に兼ねたれば、必ずうれとよむべき也。●「足痛云々」蹇《アシナヘ》の事と云ふは非也。其意にはあらず、足をなやめ給ふ迄|勤《ツトメ》てかよひ給へと云ふにて、古今集に小町がかれなであまの足だゆく來るとよみたる類ひ也。多扶《タブ》は古言にたび、たぶ、たべ、と活きて.賜へと云ふことなり。
●一首の意は、わが耳に聞きし如くならば、いかで今より後も足のなやむ迄吾せこよ、吾許《ワガリ》つとめて通ひ給へとなり。
 
  大津(ノ)皇子(ノ)宮(ニ)侍《ハベリシ》石川(ノ)女郎贈(ル)2大伴(ノ)宿禰宿奈麻呂1歌
 
(112)古之《フリニシ》、嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》、如此許《カクバカリ》、戀爾將沈《コヒニシヅマム》、如手童兒《タハラハノゴト》。
  一(ニ)云(フ)、戀乎太爾《コヒヲダニ》、忍金手武《シヌビカネテム》、多和良波乃如《タワラハノゴト》。
 
●「大津皇子宮侍」此皇子の皇太子に叛き給ふ事朱鳥元年十月二日に顯はれて、三日にうしなはり給へれば、彼の皇太子にあらそひて此女郎をしも宮に留めおき給ひしは白鳳年間の事なりけり。さて大津皇子うしなはれ給ひし後又衢に出でゝ勢もおとろへ、年齢もおよすけゝん故に、彼のさそふ水あらばといふ心になりて大伴(ノ)田主にもよそりつき又此人にも戀したりしにや、歌に古りにし嫗にしてやとよめる實に此時はさた過ぎたるべし。●「大伴宿奈麻呂」元暦校本(ニ)云(フ)宿奈麻呂宿禰者大納言兼大將軍卿之第三子女と有り。續紀【三十一】靈龜元年(ノ)條下に從五位上左衛士督大伴宿禰宿奈麻呂と見ゆ。●「嫗」於無奈《オムナ》とも、意美那《オミナ》とも訓める中に、歌には意美那《オミナ》と云ふ方正し。女《ヲミナ》と謳《オミナ》とを乎《ヲ》、於《オ》を以つて分つこと小《ヲ》、大《オ》の意の(?)伯父《ヲヂ》、祖父《オヂ》のごとし。
●一首のうへよく通《キコ》えて釋くを待つべからず。
 
  長皇子《ナガノミコ》與《オクリマフ》2皇弟《オトミコニ》1御歌
 
丹生乃河瀬者《ニフノカハセハ》、不渡而《ワタラズテ》、由久遊久登《ユクユクト》、戀痛吾弟《コヒタキワガセ》、乞通來禰《イデカヨヒコネ》。
 
●「長皇子云々」天武天皇(ノ)皇子にて皇弟は弓削(ノ)皇子也。共に一(ノ)卷に出づ。さて此御歌何とかやせちに聞えたるは、長(ノ)皇子御罪顯はれて左《ト》やせん右《カク》やせんと御物思ひある比、弟皇子に相ひかたらひ賜はんとて迎へ給ふをりの御歌なるべき歟。●「丹生乃河」輿地通志宇智郡(ニ)云(フ)丹生川(ハ)源(113)自2吉野郡|加名生《カナフ》谷1經(テ)2丹生原子等(ヲ)1至(リテ)2靈安寺村(ニ)1入(ル)2吉野川(ニ)1また吉野郡志云(フ)丹生川(ハ)源自2吉野山1云々入2宇智郡1とあれば、一つ川の二郡に亘れるなり●「瀬者不渡而、由久遊久登」ゆくゆくは物思ひしげき時は、身も浮き動搖《ユルグ》ここちのするを云ふ。十二【三十七】いさりするあまの梶の音ゆくらかに、十三【十五】大ふねのゆくら/\に思ひつゝ、また天雲のゆくら/\に葦垣の思ひ亂れてなどある、皆其意也。こゝは丹生川の激《ハゲ》しき瀬をわたらばこそゆくら/\と身もたゆたふべき、其瀬を渡らずてゆくら/\と身の浮くばかり戀ひたしと也。【諸抄凡て解き得ず】●「戀痛吉吾弟」痛《タキ》はうれたき、愛痛《メデタキ》などの痛にて悲しき戀しきなどの重《シキ》と同じくて、即、戀しきといはんが如し。吾弟《ワガセ》は實を以つて書きたれど言は親しみあがむる方|以《モ》て、わがせとはよむ也。●「乞通來彌」乞はこひ願ふ詞也。允恭紀に壓乞〔二字傍線〕此(ヲ)云(フ)2異提《イデト》1四に乞吾君《イデワキミ》云々十二に乞如何《イデイカニ》云々など、乞(ノ)字を書けるは常にて欲得《イデ》とも書きたり。されば此句は出《イデ》て來ませと云ふにはあらず。冀《イカデ》來てたびねと乞ひ給ふ詞也。
●一首の意は、丹生の山川を渡らばこそあらめ、其|迅瀬《トキセ》をも渡らずしてゆくら/\身もうくばかりの物思ひ出來たり、かゝる時には同胞《ハラカラ》より外に頼む人もなし。今しきりに戀ひたき吾弟《ワガセ》、冀《イカデ》、かよひ來てたびねとなり。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂從(リ)2石見(ノ)國1別《ワカレテ》v妻《メニ》上(リ)來(ル)時(ノ)歌二首並短歌
 
 石見乃海《イハミノウミ》、角乃浦同乎《ツヌノウラミヲ》、浦無等《ウラナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、滷無等《カタナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、能咲八師《ヨシヱヤシ》、浦者無友《ウラハナケドモ》、縦畫屋師《ヨシヱヤシ》、滷者無鞆《カタハナケドモ》、鯨魚取《イサナトリ》、海邊乎指而《ウナビヲサシテ》、(114)和多豆乃《ニギタツノ》、荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》、香青在《カアヲナル》、玉藻息津藻《タマモオキツモ》、朝羽振《アサハブル》、風社依米《カゼコソヨセメ》、夕羽振《ユフハブル》、浪社來縁《ナミコソキヨレ》、浪之共《ナミノムタ》、彼縁此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》、露霜乃《ツユシモノ》、置而之來者《オキテシクレバ》、此道乃《コノミチノ》、八十隈毎《ヤソクマゴトニ》、萬段《ヨロヅタビ》、顧爲騰《カヘリミスレド》、彌遠爾《イヤトホニ》、里者放奴《サトハサカリヌ》、益高爾《イヤタカニ》、山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》、夏草之《ナツグサノ》、念之奈要而《オモヒシナエテ》、志怒布良武《シヌブラム》、妹之門將見《イモガカドミム》、靡此山《ナビケコノヤマ》。
  滷、一(ニ)云(フ)、礒。玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》、一(ニ)云(フ)、波之伎余思《ハシキヨシ》、妹之手本乎《イモガタモトヲ》。
 
●「從2石見國1」此歌は石見(ノ)國府より立ちて京へ上る出立の日によめる也。初め二十餘句の間、序より序に送りて甚心得にくき歌なれば、昔より解き得たる説たえてなし。甚だ心して見るべきわざぞ。先づ此國の古への國府は今那賀(ノ)郡濱田(ノ)城下より東北一里餘の地なり。土俗、上こう、下こうと呼べるは國府《コフ》を訛れるならんと云へり。以下石見の地理は彼の國人のよく考へて云ひおこせたるあり。又本より記したる物もあり。歌はそれらも解きひがめたれど、地理は見とめて云へるなれば大かたは其二説に就きて云へり、自ら行きて見たるさまなる云ひぶりもあるは此故也。●「角乃浦囘乎」和名抄(ニ)云(フ)那賀(ノ)郡|津農《ツヌ》とあり。今|都農津《ツノヅ》と云(フ)とぞ行嚢妙に此地を出して後太平記を引けり。考へ合すべし●「浦無等、人社見良目」浦は和名抄(ニ)云(フ)四聲字苑云(ハク)、浦(ハ)大川(ノ)旁《カタハラノ》曲渚、船(ノ)隱(ルヽ)v風(ニ)所也。和名|宇良《ウラ》とあり今按ふるに大川の旁には限らず此集に※[さんずい+内]《ウラ》と書ける字の如く内(115)海の人里へ入り廻れる所を云ふ。外海に對へて裏《ウラ》の意也。此《コヽ》に浦無と云へるは彼の國の海は山のあはひに潮水を湛へたる状なるを以てなり。●「滷無等、人社見良目」滷は玉篇(ニ)云(フ)音魯鹹水也とあれど潟瀉等を通じて用ふ。此間《ココ》にては干潟《ヒカタ》となる眞砂地を云へり。彼の浦のなき海には又此潟もなしと云ふべき物なり。かくて此等の句は何の用に云ひ出でたるかと云ふに、次の能咲八師浦者無友、縦畫屋師、滷者無鞆と云へる迄の十句は船路の物もて旅情を述べて其次の玉藻息津藻の來よるといひ出ん序也。十三【三】 隱來笑長谷之河者《コモリクノハツセノカハハ》、浦無蚊《ウラナミカ》、船之依不來《フ子ノヨリコヌ》、磯無蚊《イソナミカ》、海部之釣不爲《アマノツリセヌ》。吉咲八師《ヨシヱヤシ》、浦者無友《ウラハナケドモ》、吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》、礒者無友《イソハナケドモ》、奥津浪《オキツナミ》、云々とあるをも思ふべし、さて又其玉藻息津藻より以下八句は依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》といひ出でん序なるぞかし。此の間むげに世人聞きしらず、其れより露霜乃とある以下十句は、陸道の物|以《モ》て別れし妻を慕ひ歎く情を述べて結《トチ》めたり。此間は誰《ガ》耳にもよく聞ゆめれど此《コヽ》に先づ句の次第をことわり置きて次々さとさむとなり。●「能咲八師」咲は歎息の辭、八師は休(メ)辭にて、縦《ヨシ》やとゆるす詞也。此間四句「滷者無鞆」は七句隔てて風社依米、浪社來縁と云ふにつゞけり。●「鯨魚取」鯨は借字にて只すなどりする海とつづく枕詞也。鐘(ノ)響に委しく辨へつ。●「海邊乎指而」此句(ノ)下に行く道のとそへて心得べし。●「和多豆乃」石見人一人は那賀郡に渡津《ワタツ》あり。されば和多豆乃《ワタヅノ》と四言によむべしと云へるを今一人(ガ)云ふ渡津村は國府より五里江川を渡りて海邊なり。其處に柔多豆《ニギタヅ》と云ふ名も遺りたれば渡津と云ふも本(ト)和多豆《ニギタツ》と書きたる字を和《ワ》とよみひがめて近來變じたる也と云へり。此二説を考ふるに後の説勝りたり。彼(ノ)一卷なる伊豫の熟田津を始(メ)國々に此名あるは本(ト)和幣奉《ニギテタツ》の義にして荒き大事の渡りには必ず手向する所のあるを云ふ。此和多豆乃荒磯今に甚荒き磯灘《イソナダ》也と云へば、もと、和幣《ニギテ》(116)奉りし處なりけらし。かくて此の荒磯乃上爾と云ふ迄の四句は玉藻息津藻とよび出ん迄の地理又朝羽振より下の七句は依宿之妹乎をいひ出ん爲の序也。●「香青在」今本在を作(ル)v生(ニ)、生もなるとよまれぬにもあらざれど、古本に在とあるを見れば、後に寫し誤りたる也、さて香《カ》は氣清《ケザヤカ》など云ふ氣《ケ》の通音にて美言《ホメコト》也●「朝羽振、風社依米、夕羽振流、浪社來縁」羽振《ハブル》とは鳥の羽振《ハブキ》を云ふと同じく、風の浪扇ぎて搖《フル》ひ動かすを云ふ。神武紀に乘(テ)2龜甲(ニ)1打羽擧來人《ウチハブリクルヒト》云々、これらの羽振に朝夕をそへて、四句二聯に文《アヤ》なせる也。●「浪之共、彼縁此依、玉藻成、依宿之妹乎」此句どもは、浪とゝもに左《カ》より右《カク》より玉藻の如く靡きよりし妹をと云ふなり。下の歌に、たゝせれば玉藻の如く、ころふせば川藻の如く、なびかひしよろしき君がと云へるにやゝ似たり。●「露霜乃、置而之來者」妻を石見の府におきのこしくれば也、●「此道乃」是より陸道にあがりて下皆其道筋の事もて云へり ●「八十隈毎、萬段、顧爲騰」八十と、多くの道の阿《クマ》毎に、いく度もいく度もあとふりかへり見れどの意也。此詞どもの事既に一卷にいへり●「彌遠爾、里者放奴、益高爾、山毛越來奴」里も遠くはなれ、山も高きを越え來ぬと云ふことを、例の四句二聯に合せて、彌と益と、遠と高と、放と越とを對して、文《アヤ》をなせる也。●「靡此山」高き山の横に靡き臥《ネ》てと云ふ也。十三に「靡(ケ)と人はふめどもかくよれと人はつけども」とあれば、人もいひし言なれど、雄々しきいひざま也。
●一篇の大意は、石見の海角の浦囘は、岸高く潮深くたゝへたれば、浦なしと人こそ見らめ滷なしと人こそ見らめ【發端】たとひその浦はなくともよし、滷はなくともよし」【玉藻は來よるといひ出ん序なり】いさなとり海邊をさしてわがゆくにぎたづの荒磯の上に【其藻の生所《ハエドコロ》を裁入れたる也】は香青なる玉藻沖つ藻は、朝夕の風と浪とに絶えずぞ來よる」【次の浪の共《ムタ》を云ひ出ん序なり】「浪の共《ムタ》彼《カ》より此《カク》より玉藻なす」【次の依宿《ヨリネ》し妹を云ひ出ん序にて、上より追々に受て、舟路の旅情をつくせる奇妙と云ふべし】よりなびきねし妹を、高角の里におきて來つれば、陸道にあがりて後も、此道の八十隈毎にかり見すれど、里も遠く離れ山も高きをこえ來ぬ。あはれ夏草の如く思ひしなえてわれをしたふらん妹が門だに見ん。横になびきふせ其山よとなり。
 
  短  歌
 
 石見乃也《イハミノヤ》、高角山之《タカツヌヤマノ》、木際從《コノマヨリ》、我振袖乎《アガフルソデヲ》、妹見都良武香《イモミツラムカ》。
 
●「短歌」今本反歌とあれど、古本に隨ふべし●「高角山之」安濃(ノ)郡にて、國府より十二里隔てり。此地に妹が住ひしにつきて、おぼしき事あり。下に云ふべし。
●一首の意は、見送りし妹が高角山に登りて我がこゝにして振(ル)袖を、其山の木の間より見つらんかと也。此の間國府よりは十六七里あれば、もし高角より立たれたるか。角(ノ)港よりは八里ばかりなり。
 
 小竹之葉者《サヽノハハ》、三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》、亂友《サヤゲドモ》、吾者妹思《アレハイモオモフ》、別來禮婆《ワカレキヌレバ》。
 
●「清爾」喧擾《サヤゲ》の意なれども言のかよふまゝに、清《サヤ》とは書ける也。六【十二】には、御山毛清落多藝都《ミヤマモサヤニオチタギツ》とあり。
●笹の葉はみ山とよみてさやげども、それにも紛れず、別れ來し妹のみ戀しと云ふなり。
  或本(ニ)云(フ)石見爾有《イハミナル》、高角山乃《タカツヌヤマノ》、木間從文《コノマユモ》、吾袂振乎《ワガソデフルヲ》、妹見監鴨《イモミケンカモ》
 
(118) 角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》、石見之海乃《イハミノウミノ》、言佐敝久《コトサヘグ》、辛乃崎有《カラノサキナル》、伊久里爾曾《イクリニゾ》、深海松生《フカミルオフル》、荒礒爾曾《アリソニゾ》、玉藻者生流《タマモハオフル》、玉藻成《タマモナス》、靡寢之兒乎《ナビキネシコヲ》、深海松乃《フカミルノ》、深目手思騰《フカメテモヘド》、左宿夜者《サヌルヨハ》、幾毛不有《イクダモアラズ》、延都多乃《ハフツタノ》、別之來者《ワカレシクレバ》、肝向《キモムカフ》、心乎痛《コヽロヲイタミ》、念乍《オモヒツヽ》、顧爲騰《カヘリミスレド》、大舟之《オホブネノ》、渡乃山之《ワタリノヤマノ》、黄葉乃《モミヂバノ》、散之亂爾《チリノマガヒニ》、妹袖《イモガソデ》、清爾毛不見《サヤニモミエズ》、嬬隱有《ツマゴモル》、屋上乃山乃《ヤガミノヤマノ》、自雲間《クモマヨリ》、渡相月乃《ワタラフツキノ》、離惜《ヲシケドモ》、隱來者《カクロヒクレバ》、天傳《アマヅタフ》、入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》、丈夫跡《マスラヲト》、念有吾毛《オモヘルワレモ》、敷妙乃《シキタヘノ》、衣袖者《コロモノソデハ》、通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
 
●「角※[章+おおざと]經、石見海乃」蘿刺延《ツヌサツハフ》岩とかゝる枕詞也。其の蘿《ツヌ》はつたとも云ひて、巖にはひかゝる蔓《カヅラ》草の事也●「言佐徹久」唐人の物言ひの喧※[言+華]《サヘグ》を以てつゞく。辛崎は邇磨《ニマノ》郡宅野の海邊に、今唐島と云ふ是也●「伊久里」海中の巖を云へり●「深海松」宮内式、諸國例貢(ノ)御贄に、志摩深海松又長海松等の名あり●「玉藻者」祈年祭祝詞に、奥津藻菜邊津藻菜爾至萬※[氏/一]爾《オキツモハヘツモハニイタルマデニ》とあれば、者は助辭《テニヲハ》ならず●「肝向」肝は丹田には、心の留る中府なれば云ふ。向は對ふ也●「渡乃山之」邑智(ノ)郡に今渡(リ)村矢上村あれど、それは安藝・備後の方へ出る間道にて、古代の驛路に非ず。人麻呂大人此度の歸京、たとひ朝集使にまれ、任限にまれ、國府を立ちて、邇磨郡.安濃郡を歴て、出雲路の方へ出て上るべきなれば、今那賀郡|江《ゴウ》の河近邊に八神《ヤカミ》村あり。道のつゞきに山も多かれば、此處とすべし。さて此地理に就きて考ふるに、此歌も、上の歌と同じ府を立ちし日によみたるなり。もし其夜旅宿などにて、思ひ續け給ひけんとも猶其日の事を今一首(?《日(モトノマヽ)》)よまれしな(119)り●「嬬隱有」此つゞけは、妻の隱る屋と云ふ意と聞ゆ。かの「妻ごめに八重垣つくる、又、「枕づく妻屋など云ふ事と合すべし●「自雲間、渡相月乃」此二句は雖惜《オシケドモ》と云はん序也。次に入日刺奴禮とあれば、空の月を云へるにあらず。自《ヨリ》は於《ニ》の意にて、雲間にわたらふ月のをしと云ふ也●「入日刺奴禮」こそなくて禮《レ》と云へる、次の言の易る時の事也。姑く婆《バ》をくはへて心得べし。
●一篇の意は、石見の海の辛の崎と云ふ海邊の巖に、深梅松|生有《オヘリ》。又そこの荒磯に、玉藻おへり。【此二つの物にていはゝ】その玉藻の如く靡きあひて寢し妹を、深海松の名の深く思へども、未だ逢ひそめていくほどもあらず別れ來れば【此詞を以て見れば依羅(ノ)娘子などには非ず、石見にて逢そめたる隱し妻なるべし】心の痛さに道すがらかへり見すれど渡の山のもみぢ葉のみだれちる紛れに、妹が振る袖もさやかに見えず。【此詞を以て是も上と同日の事をよめる事をしりつべし】せめて其方角とおもふ八神の山のをしかれども、遠ざかり隱れて、もの心ぼそく入日のさしぬれば、宿りにつきてもよるの衣は、下着までとほりてぬれたりとなり。
 
  短  歌
 
 青駒之《アヲゴマノ》、足掻乎速《アガキヲハヤミ》、雲居曾《クモヰニゾ》、妹之當乎《イモガアタリヲ》、過而來計類《スギテキニケル》。
   一(ニ)云(フ)、當者隱來計類《アタリハカクレキニケル》。
 
●「短歌」これも古本には短歌とあり ●「足掻」これは足を運ぶを云ふ。一首かくれたる處なし。
 
 秋山爾《アキヤマニ》、落黄葉《オツルモミヂバ》、須曳者《シバラクハ》、勿散亂曾《ナチリミダリソ》、妹之當將見《イモガアタリミム》。
(120)   一(ニ)云(フ)知里勿亂曾《チリナミダリソ》
 
●これも、打つけによく聞へて釋を待つべからず。
 
或本(ノ)歌一首並(ニ)短歌。石見之海、津奴※[左(]乃浦囘乎、無美〔二字左○〕浦無跡、人社見良目、滷無跡、人社見良目、吉咲八師、浦者雖無、縱恵夜思、滷者雖無、勇魚取、海邊乎指而、柔田津乃、荒磯之上爾、蚊青生、玉藻息都藻、明來者、浪己曾來依、夕去者、風巳曾來依、浪之共、彼依此依、玉藻成、靡吾宿之、敷妙之、妹之手本乎、露霜乃、置而之來者、此道之八十隈毎、萬段、顧雖爲、彌遠爾、里放來奴、益高爾、山毛越來奴、早敷屋師、吾嬬乃兒我、夏草乃、思志萎而、將嘆、角里將見、靡此山。」反歌。石見之海.打歌角※[左(]《タカツヌ》山乃、木際從、吾振袖乎、妹將見香。右(ノ)歌體雖(トモ)v同(ジト)句々相替(レリ)因(テ)v此(ニ)重(テ)載(ス)。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)妻(メ)依羅《ヨサミノ》娘子與《ト》2人麻呂1相別《ワカルヽ》時(ニ)作(ル)歌
 
 勿念跡《ナモヒソト》、君者雖言《キミハイヘドモ》、相時《アハムトキ》、何時跡知而加《イツトシリテカ》、吾不戀有牟《ワガコヒザラム》。
 
●「依羅娘子」依羅氏(ノ)女也。姓氏録に※[金+堯]速日命《ニギハヤヒノミコト》之後也と見ゆ。此娘子は嫡妻にて京にありき。されば此歌こゝに出たれど.人麻呂の京より石見へ立てる時の別れによめるなり●「勿念跡」深く物思ひなせそと云ふ意也●「相時、何時跡知而加」國司の屬官ならば、年限もあり、年年御使もあれば、如此《カク》は云ふまじきか。但し四年の間を長きものとして云ふとすとも、國府より十二里|放《サカ》りて高角に住はれしさまなるを見れば、國司の次官などにあらで、此人本(ト)石見より出て、京職に仕へたるが、公務をも兼ねて本國へ下りしにやあらん。歌の意明らけし。
 
(121)  挽 歌《カナシミノウタ》
 
  後(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、有馬《アリマノ》皇子|自傷《カナシミテ》結(テ)2松(ガ)枝(ヲ)1御作《ヨミマセル》歌。
 
 磐白乃《イハシロノ》、濱松之枝乎《ハママツガエヲ》、引結《ヒキムスビ》、眞幸有者《マサキクアラバ》、亦還見武《マタカヘリミム》。
 
●「挽歌」下歌の左註に挽v柩とあり。挽柩玉篇(ニ)云(フ)、渠救(ノ)切|尸《カバネ》在(ルトキ)v棺(ニ)其棺(ヲ)曰(フ)v柩(ト)」禮記禮弓(ノ)下(ニ)云(フ)、弔(フ)2於葬(ヲ)1者(ハ)必執(ル)v引(ヲ)。若從(ハヾ)2柩及壙(ニ)1皆執v※[糸+弗](ヲ)。白虎通(ニ)曰(フ)在(ルヲ)v棺(ニ)曰(フ)v柩(ト)、柩(ハ)究也、久也、不2後彰(レ)1也。釋名(ニ)曰(フ)柩(ハ)究也送(テ)v終(ヲ)、隨(フ)v身(ニ)之制、常究備(スル)也。曹子建悼(メル)2王仲宣(ヲ)1誄《ルヰニ》云(ハク)喪柩既(ニ)臻(テ)將(トス)v反(ラ)2魏京(ニ)1。こゝは只、挽(ク)v柩(ヲ)歌の名目を借りたるのみにて、後の集の哀傷也●「天皇」御名は、天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》尊、後(ノ)謚を皇極天皇、重祚して齊明天皇と奉(ル)v申(シ)。既に一(ノ)卷に出づ●「有馬(ノ)皇子」孝徳天皇の御子なり●「自傷云々」齊明紀(ニ)云(フ)四年冬十月庚戌(ノ)朔甲子、幸(ス)2紀(ノ)温湯《ユニ》1とある、此間に、皇子の異心顯はれて紀伊(ノ)國へ引かれ給ふ。十一月十日に此磐代を過ぎ給ひて、御食《ミヲシ》などせさせ給ふついでに、鎭魂《タマシヅメ》にかへて、結(テ)2松枝(ヲ)1神にねぎ給ひつれど、自らなし給へる罪にて、其翌日藤白坂にて失はれ給へり【御年十九】●「磐白乃」此地の事一(ノ)卷に云ひつ●「引結」引よせ給ふを云ひて松を引きてむすぶにはあらず。是則神にうけひ給ふわざなれば、河島皇子(ノ)御歌に手向種《タムケグサ》とはよみ給ひしなり。歌の意明らか也。
 
 家有者《イヘニアラバ》、笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》、草枕《クサマクラ》、旅爾之有者《タビニシアレバ》、椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
 
●「笥爾盛飯乎」和名抄(ニ)云(フ)禮記註(ニ)云々笥和名|計《ケ》盛(ル)v飯(ヲ)器也。
 
影媛《カゲヒメ》の歌に、※[手偏+施の旁]摩該※[人偏+爾]播《タマケニハ》、伊比佐(122)倍母理《イヒサヘモリ》●「椎之葉爾盛」鎭魂祭式(ニ)云(フ)飯笥一合云々即盛2藺笥《ヰケニ》1」と見ゆ。今の檜(ノ)葉・南天燭(ノ)葉を折敷きて強飯を盛事あるか如く、此の日驛長が敬ひて、椎の小枝を折敷きて献りたるなるべし。何事とはなけど、あはれにきこゆ。
  
  長(ノ)忌寸|意吉麻呂《オキマロ》見(テ)2結松《ムスビマツヲ》1哀咽《カナシミテ》作(ル)歌
 
 磐代乃《イハシロノ》、岸之松枝《キシノマツガエ》、將結《ムスビケム》、人者反而《ヒトハカヘリテ》、復將見鴨《マタミケムカモ》。
 
●「意寸麻呂」文武天皇の朝より經て、奈良の朝の人なれば、年|經《ヘ》て後よめるなり。さて此松結ばれながら解げずてあるより、名高くなりて、既に此頃むすび松と云ふものになりしにこそ一(ノ)卷川島(ノ)皇子(ノ)御歌、又次々の歌どもに合せて然かおぼし●「人者反而、復將見鴨」人は皇子を指し、鴨は歟と云ふに歎息の毛の添ひたる也。さて、上に眞幸くあらば、又かへりみんと宣ひたるを受けて然かおぼしゝ如くに失はれ坐《マ》して、後其魂の立かへり來て見ましけん歟と也。次の憶良の歌につばさなす在りかよひつゝ見らめどもとあるも此意也。
 
 磐代乃《イハシロノ》、野中爾立有《ノナカニタテル》、結松《ムスビマツ》、情毛不解《コヽロモトケズ》、古所念《イニシヘオモホユ》。
 
●「結松情毛不解」おのづからあやあり。「古所念」齊明天皇の四年より、文武天皇中程迄も、五十年になれり。さて彼皇子の事、實は蘇我(ノ)臣|赤兄《アカエ》が執り成しのあしかりしにて、皇子にはさせる罪もなかりし故に、後の人々かくあはれめるなるべし。
 
  山(ノ)上《ヘノ》臣憶良(ガ)追和《オヒナズラヘテ》作(ル)歌
 
(123) 鳥翅成《ツバサナス》、有我欲比管《アリガヨヒツヽ》、見良目杼母《ミラメドモ》、人社不知《ヒトコソシラネ》、松者知良武《マツハシルラム》。
 
●「鳥翅成」かく云ひて、鳥の如くにと云(フ)意也。鳥を翅《ツバサ》と云ふは魚を鰭《ハタ》と云ふが如し●「有我欲比管云々」失せまして後も、猶あり/\て天翔り見給ふらんの意也。履中紀(ニ)云(フ)有(リ)2如v風之聲1呼(ビテ)2于大虚(ニ)1曰(フ)云々|鳥往來羽田之汝妹羽狹丹葬立往《トリカヨフハダノナニモハハサニハフリタチイヌ》」とある、是も魂の天翔るを云ふ也●「松者知良武」人の目には見えねども、結ばれし松は知るらんと也。
 
  右(ノ)件歌等(ハ)雖v不(ト)2挽(キシ)v柩(ヲ)之時(ニ)所1v作(ルニ)唯擬(ヒテ)2歌意(ニ)1故(レ)以載(セヌ)2于歌(ノ)類(ニ)1焉。
 
  大寶(ノ)元年辛丑幸(ケル)2于紀伊(ノ)國(ニ)1時、見(テ)2結松(ヲ)1作(ル)歌
 
 後將見跡《ノチミムト》、君之結有《キミガムスベル》、磐代乃《イハシロノ》、子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》、又將見香聞《マタミケムカモ》。
 
●「子松之宇禮乎」宇禮は末《ウラ》にて、かの結び給ひし處也●「又將見香閲」は眞幸あらば亦かへり見んと宣ひし御心おきての如くに、御魂のかへり見けんかと也。
 
  近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、天皇|聖躬不豫之時《ミヤマヒアツシクマストキニ》、大后(ノ)奉献《タテマツラシヽ》御歌一首
 
 天原《アマノハラ》、振放見者《フリサケミレバ》、大王乃《オホキミノ》、御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》。
 
●「天原、振放見者」此は常に日月高山など云ふとは別《コト》にして、寢殿(ノ)屋上を仰ぎ給ふを云ふ。●「御壽者長久、天足有」其屋上に千尋繩を長く結ひ垂らせるを云。室壽御詞《ムロホギノミコトバ》に、取結繩葛者《トリユヘルツナネハ》此(ノ)家長(ノ)御壽之堅也《ミイノチノカタメナリ》と詔ひし意なり。此事は別記に出したれば合せ考ふべし。
●一首の意は、御舍《ミアラカ》の屋《ウハヤ》を振りあふぎ見れば、天皇の大御壽と百結び八十結びに結びたれたる(124)千尋の葛根《ツナネ》は長く天たらしてあり。いかで此|葛根《ツナネ》の如く、大御壽も長くあれかしとなり。
 
  一書(ニ)曰(フ)、近江(ノ)天皇|聖體不豫御病急時《ミヤマヒイトアツシキトキニ》大后|奉献《タテマツラシヽ》御歌一首
 
 青旗乃《アヲハタノ》、木旗能上乎《コハタノウヘヲ》、賀欲布跡羽《カヨフトハ》、目爾者雖視《メニハミレドモ》、直爾不相香裳《タヾニアハヌカモ》。
 
●「崩時」天智紀(ニ)云(フ)十年十二月癸亥(ノ)朔乙丑、天皇崩(ズ)2于近江(ノ)宮(ニ)1癸酉殯(ス)2于新宮(ニ)1●「青旗乃」喪葬の白幡也。白を青とも云ふ例、山彦册子《ヤマビコサウシ》菅曾《スガソノ》卷に引きおけり。孝徳紀葬制(ニ)曰(ハク)其(レ)葬時(ノ)惟帳等咸(ク)用(フ)2白布(ヲ)1云々」喪葬令(ニ)曰(フ)親王一品(ハ)幡四百竿、二品(ハ)幡三百竿云々」下(ノ)歌に白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレコモリ》」十三挽歌に、大殿矣振放見者白細布飾奉而《オホトノヲフリサケミレバシロタヘニヨソヒマツリテ》」などあり。成務紀神功紀等に、降人の素幡《シラハタ》を立てゝ參る事の有るも、死につくよし也●「木旗能上乎」十六に幡幢《ハタホコ》とある類ひなるべし ●「目爾者雖視」此目の字の用ひざま、後世の心とはことなり。如此《カク》云ひてかよふとは心には察すれど目には見え給はぬかもと云ふ意也。
●一首の意は、御殯《ミアカリノ》宮に建てたる白旗どもの上に、今日も御魂はかよひ給ふらめど、目に見え給はねばあひ奉りがたしとのたまふなり。
 
  天皇|崩時《カムアカリマシケルトキ》、大后(ノ)御作歌《ヨミマセルウタ》
 
人者縦《ヒトハヨシ》、念息登母《オモヒヤムトモ》、山※[草冠/縵]《ヤマカヅラ》、影爾所見乍《カゲニミエツヽ》、不所忘鴨《ワスラエヌカモ》、
 
●「縦」かりにゆるす辭にて、此《コヽ》はたとひと云ふ意也。あだし人はたとひおもひ止むとも、と心得べし●「山※[草冠/縵]」日影葛《ヒカゲノカヅヲ》を神事に挿《カザ》すを山※[草冠/縵]と云ふ。こゝは詞を重ねておもかげと云ふにつゞ(125)けん枕詞也。
●一首の意は、他し人はたとひ日かず(?)へて思ひ止むとも、吾はおもかげに見えつ/\して得忘れあへ奉らずとなり。
 
  天皇|崩(マシヽ)時|夫人《キサキ《ミメ?》ノ》作(ル)歌一首
 
 空蝉師《ウツセミシ》、神爾不勝者《カミニタヘネバ》、離居而《ハナレヰテ》、朝嘆君《アサナゲクキミ》、放居而《サカリヰテ》、吾戀君《ワガコフルキミ》、玉有者《タマナラバ》、手爾卷持而《テニマキモチテ》、衣有者《キヌナラバ》、脱時毛無《ヌグトキモナク》、吾戀《ワガコフル》、君曾伎賊之夜《キミゾキゾノヨ》、夢所見鶴《イメニミエツル》。
 
●「夫人」今本に婦人とあれど誤也。天智紀に次(ニ)納(ル)2四嬪1とある外にも、妃夫人の列《ツラ》なる人たち見えたれば、其中の人のよめる也●「空蝉之」現身之《ウツシミ》にて、之《シ》は休(メ)辭也。現身とは、人死て魂となりて目に見えずなるに對して、此世に顯然とある身體を云ふ●「神爾不勝者」幽《カミ》に不堪者《タヘネバ》也。幽とは幽冥の堺を云ふ。現(シ)世の人の此界に少しも不堪《タヘザ》る事道別の總論に委しく云ひつ●「離居而、朝嘆君、放居而、吾戀君」此四句二聯、例の同じほどの言を詞を易へて云へるは、調べのため也。心はたゞ離れ居て、歎き奉る君と云ふのみぞ●「玉有者、手爾卷持而、衣有者、脱時毛無」此四句は君がもし玉にあらば、片時はなたず手に纏《マ》き持ち君がもし衣にあらば、片時も脱ぐときなくと譬へたるなり●「伎賊乃夜」紀に昨日をも昨夜をも枳須《キズ》と訓みたり。過去《スギサリ》の約れるなるべし。
●一篇の意は、現《ウツシ》き世に在(ル)身はいかに思ふとも、既に此世をさりて御魂の隱れ給へる幽冥の界を心にまかす事あたはざれば、其御魂に離れ居てあけくれ慕ひ奉るのみ也。もし玉ならば(126)手にまきもちてはなたず、衣ならば身に取着て脱ぐ時もなく、吾戀奉る君の、只たま/\昨夜夢の内に見えさせ給へりと云ふ也。
 
  天皇|大殯宮之時《オホアラキノミヤノトキノ》歌二首
 
 如是有刀《カヽラムト》、豫知勢婆《カネテシリセバ》、大御船《オホミフネ》、泊之登萬里人《ハテシトマリニ》、標結麻思乎《シメユハマシヲ》。
 
●「大殯宮」大は稱へ言。あらきは荒城《アラキ》の義にていまだ山陵《ミハカ》の成らぬうち假に斂《ヲサ》め奉る宮を云ふ。又此殯斂を仲哀紀に阿餓利《アガリ》とよみたるは御魂の天に上るよしのとなへなり。猶殯斂の字等の事は道別に出づ●「如是有刀」かくあらんとにてかやうに崩《ウセ》まさんとかねてしりたらば也●「標結麻思乎」記(ノ)岩屋戸(ノ)段(二)云(フ)以(テ)2尻久米繩《シリクメナハヲ》1控2度《ヒキワタシ》其御後方《ソノミシリヘニ》1白言《マヲサク》從(リ)v此|以《ヘ》v内《ナカ》不得還入《ナイリマシソ》とある意あり。
●一首の意は、かく崩れまさんとかねてより知りたらば、いつぞや此處へ大みふねの泊《ハ》てましたる時|從《ヨリ》v此《コヽ》以《ヘ》v外《ト》勿《ナ》還り出ましそ、としめ繩ゆひめぐらしおかましをとなり。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》、吾期大王乃《ワゴオホキミノ》、大御船《オホミフネ》、待可將戀《マチカコフラム》、四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。
 
●「待可將戀」辛崎が待戀ふらんと也。一(ノ)卷人麻呂の歌に、大宮人の船まちかねつとよめり。
 
 大后(ノ)御作《ヨミマセル》歌
 
 鯨魚取《イサナトリ》、淡海乃海乎《アフミノウミヲ》、奥放而《オキサケテ》、榜來船《コギクルフネ》、邊附而《ヘツキテ》、榜來船《コギクルフネ》、奥津加伊《オキツカイ》、痛勿波禰曾《イタクナハネソ》、邊津加伊《ヘツカイ》、痛莫波禰曾《イタクナハネソ》、若草乃《ワカクサノ》、嬬之命之《ツマノミコトノ》、念鳥立《オモフトリタツ》。
 
(127)●「奥放而榜來船」是は邊《ヘタ》に對へて、沖の方へ遠放《トホサカリ》て榜來る民の船なり●「邊附而榜來船」沖に對へて、岸の方に近よりて榜ぎ來るなり●「奥津加伊云々、痛莫波禰曾」此四句二聯も、只奥と邊と對へて上よりのつゞき美し、加伊は和名抄に棹、釋名(二)云(ハク)在(リテ)v旁(二)撥《ハラフヲ》v水(ヲ)曰(フ)v擢(ト)加伊と有り。●「若草乃」此つゞけは、仁賢紀(二)云(フ)弱草吾夫※[立心偏+可]怜矣《ワカクサアツマハヤ》とある、分註に古者|以《モテ》2弱草《ワカクサヲ》1喩《ナズラフ》2夫婦《メヲニ》1故(レ)以(テ)2弱草(ヲ)1爲(ス)v夫《ツマト》とある如く、もと弱草の二葉相(ヒ)對ひて生ひ立つを、都麻とし(云ふ)からに、即て夫婦《メヲ》に喩《ヨソ》へてつゞけたる也。弱草にさいたづまの名の遺れるも、是故ぞ。
●一首の意は、此あふみの海を澳よりも、邊よりも、榜ぎ來る船あり。その船どもよ、傍にかけたる櫓かいをあまりつよくな撥ひそ、夫の命の愛でましつる鳥どもの立ちゆくにと也。
 
  石川(ノ)夫人《キサキ《(ミメ?)》ノ》作(ル)歌一首
 
 神樂浪乃《サヽナミノ》、大山守者《オホヤマモリハ》、爲誰可《タガタメカ》、山爾標結《ヤマニシメユフ》、君毛不有國《キミモマサナクニ》。
 
●「石川夫人」是は蘇我(ノ)山田(ノ)石川麻呂(ノ)大臣(ノ)女也。一名を石川(ノ)遠智娘《ヲチノイラツメ》と稱せり。紀に見ゆ●「神樂浪乃、大山守者」さゝなみの國の山守と云ふことなり。もしも此國號なくてはつゞかぬ詞也。●「山爾標結」天皇御在世には、大宮近き山に山守を置きてみだりに人を入れざりし也。
●一首の意は、君ましてこそ、標《シメ》も結ふべきなれ。此大宮近き山守どもは、誰が爲に然《シカ》人を制するぞ、今は君もおはしまさぬにとなり。
 
  從(リ)2山科(ノ)御陵《ミハカ》1退散《アラケマカル》之|時《トキニ》、額田(ノ)王(ノ)作歌一首
 
(128) 八隅知之《ヤスミシシ》、和期大王之《ワゴオホキミノ》、恐也《カシコキヤ》、御陵奉仕流《ミハカツカフル》、山科乃《ヤマシナノ》、鏡山爾《カヾミノヤマニ》、夜者毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコト/”\》、晝者母《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコト/”\》、哭耳呼《ネノミヲ》、泣乍在而哉《ナキツヽアリテヤ》、百磯城乃《モヽシキノ》、大宮人者《オホミヤビトハ》、去別南《ユキワカレナム》。
 
●「山科御陵」諸陵式(二)云(フ)山科陵(ハ)、近江大津宮御宇天智天皇(ナリ)。在2山城(ノ)國宇治町(二)1兆域東西十四町南北十四町、陵戸六烟●「退散」會有者《ツドヘルモノ》の各別れて罷り散るを云ふ●「恐也」也は嘆息にて與《ヨ》といはんが如し●「御陵奉仕流」其山陵に奉(ル)v仕(ヘ)を云ふ。御陵を造り奉るにはあらず。葬り奉りて一周の間は、近習の臣より舍人まで、御陵に侍宿《トノヰ》する事、下の日並智皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》御墓づかへ舍人等が歌にて知るべし。此山陵御墓等の事は、道別に委しく出でたれは省きつ●「夜者母、夜之盡云々」此四句二聯、古くよりいひ馴れたる古語と見えたり。盡《コト/\》は、かぎりの意にて、夜のかぎり、日(ル)のかぎり也。四卷に晝波《ヒルハ》、日乃久流留麻弖《ヒノクルルマデ》、夜者《ヨルハ》、夜之明流寸食《ヨノアクルキハミ》とあると、言は別にして意は同じ。
●一編の意は、あなかしこ、大君の御墓につかへ奉るとて、山科の鏡の山に、よるはよすがら、ひるはひねもす、ねにのみ泣きつゝ、一とせ在々《アリ/\》て、けふしも一周のはつる日とて、其宮人たちも、おのがむき/\ゆきわかれちるらん、其あとはいかに、さびしからんとなり。
 
  明日香(ノ)清御原(ノ)宮(二)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、十方《トヲチノ》皇女|薨《ミウセマシヽ》時、高市皇子尊《タケチノミコノミコト》御作歌《ヨミマセルウタ》三首
 
(129) 三諸之《ミモロノ》、神之神須疑《カミノカミスギ》、己具耳之※[左(]自《スギシヨリ》、影※[左(]見盈作※[二字左(]《カゲニミエツヽ》、 不寢夜叙多《イネヌヨゾオホキ》。
 
●「三諸之、神之神須疑」こゝは三輪の神杉を指し給へる也。三諸の事、鐘響《カネノヒヾキ》に委しく辨へつ●「巳具耳之自」此《コ》は上の神須疑《カミスギ》の字を、已具耳《スデニクスルノミ》と受けて須疑《スギ》とよませたるなり。十【四十八】に、芽子之花開乃乎再入緒《ハギガハナサキノヲヽリヲ》云々とある乎再《ヲヽ》も、乎の字を再び重ねたる意を以て書けるにて、其れと同例也。●「影見盈乍云々」以下は誤語を考へてよみつ。
●一首の意は、【上二句は序にて】俄に過ぎぬと聞きし其夜より、あまりおもひよらぬ別れゆゑ、猶あるものとのみ、面影の見えつゝ、夜もねられぬとのたまふ也。此時も皇女のみうせ給へるは、御自害なりし事、委しく考へて既に一(ノ)卷にことわりつ。それ故に、皇太子にも、殊にいとほしくおもほして、かくせちに弔ひましゝなるべし。實に其前日迄も、幸《サキ》くおはしつれば、面影に見え給ふもことわり也。
 
 神山之《ミワヤマノ》、山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》、短木綿《ミジカユフ》、如此耳故爾《ミジカキカラニ》、長等思伎《ナガクトオモヒキ》。
 
●「神山之」二首ともに、三輪の物にてよませ給ふは、彼の皇女三輪に由縁の座《マ》しゝならん。●「山邊眞蘇木綿云々」穀《カザ》もて作るを白和幣《シラニギテ》と云ひ、麻以て造るを青和幣《アヲニギテ》と云ふ。此二つを取り合せてつゞけ給へる也●「如此耳故爾」此三字も短木綿を受けて如v此耳《カクノミ》書けるなればみじかきからにとよむべきなり。此句も、皇女の自ら死せ給ひしを以て詔へる詞也。
●一首の意は【上三句迄は序にて】かく心みじかく令死《シセ》給ふものを、あやにくに此人のみは、命長くもがなと(130)おもひきと也。
 
 山振之《ヤマブキノ》、立儀足《タチヨソヒタル》、山清水《ヤマシミヅ》、酌爾雖行《クミニイカメド》、道之白鳴《ミチノシラナク》。
 
●「山振之」今云ふ山吹(ノ)花也 ●「立儀足」山吹の立ちしなひてにほへるを、皇女の容儀によそへて、儀《ヨソヒ》とも詔ふ也。●「山清水」是迄の三句は、後世にいはゆる據字のよみかたにて、黄泉と書く字を、黄《キ》なる泉《イヅミ》として、其黄色を山吹花の寫《ウツ》るに持せ、山清水を泉になして、酌《クミ》とは只水の縁語のみ。黄泉迄尋ね行かまほしかれど、幽冥の事なれば、道のしられぬとのたまふなり。
   
  天皇|崩之時《カムアガリマセルトキ》、大后(ノ)御作歌一首
 
 八隅知之《ヤスミシシ》、我大王之《ワガオホキミノ》、暮去者《ユフサレバ》、召賜良之《メシタマフラシ》、明來者《アケクレバ》、問賜良志《トヒタマフラシ》、神岳乃《カミヲカノ》、山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》、今日毛鴨《ケフモカモ》、問給麻志《トヒタマハマシ》、明日毛鴨《アスモカモ》、召賜萬旨《メシタマハマシ》、其山乎《ソノヤマヲ》、振放見乍《フリサケミツヽ》、暮去者《ユフサレバ》、綾哀《アヤニカナシミ》、明來者《アケクレバ》、裏結備晩《ウラサビクラシ》、荒砂乃《アラタヘノ》、衣之袖者《コロモノソデハ》、乾時文無《ヒルトキモナシ》。
 
●「天皇」天武天皇也。前に標し出したれど、初心の爲に、又云ふなり。紀に朱鳥元年九月戊戌朔辛丑、親王以下逮(ブマデ)2于諸臣(ニ)1悉(ク)集(リ)2川原寺(ニ)1爲(ニ)2天皇(ノ)病(ノ)1誓願(ス)云々。丙午、天皇(ノ)病遂(ニ)不v差《イエ》崩2于|大宮《オホミヤニ》1。戊申、始(メテ)發(ス)v哭(ヲ)則起(ス)2殯(ノ)宮(ヲ)於南(ノ)庭(ニ)1辛酉殯(ス)2于南庭(ニ)1。持統紀二年十一月、葬2于|大内《オホウチノ》陵1●「大(131)后」即持統天皇也。既に出づ●「暮去者云々、明來者云々」此對句に去者《サレバ》と來者《クレバ》とを合せたるを以《モツ》ても、去《サル》と云ひて、直ぐに來る意なるを知るべし●「神岳乃、山之黄葉乎」高市(ノ)郡飛鳥(ノ)雷丘也。此山の事道別に委しくす。さて此御歌、此句迄は、御在世の事を宣ふなり。そは毎年秋の此比、神岳の山のもみぢする比は、朝夕にめしよせても御覧じ、いかに今はさかりになりつやなど問はせ給ひつれば、今年も世にましまさば、然《シカ》問はすらし。その神岳の山のもみぢを云々とかゝれり ●「今日毛鴨、問給麻志、明日毛鴫、召賜萬旨」前四句二聯は、御魂の行きて問ひ給ふ事を宣ふなり。わろく見ると、前の四句二聯と同じ事の、再び出たるやうになりて御歌をいたくおとすめり。
●一編の意は、安見し爲《セ》す我が大王の、此秋も世にましまさば、毎夜のごとく、夕されば召し給ふらし。明け來れば問ひ給はまし。その神岳の山の紅葉を、今年は御魂となりて今日か問はすらん。明日か見ますらんとおもへば、其山をふりさけ見つゝ、朝夕にあやにかなしみ、衣の袖のひる時もなしとなり。
 
  一書(ニ)曰(フ)、天皇(ノ)崩之時《カムアガリタマフトキ》、太上天皇(ノ)御製歌一首
 
 燃火物《モユルヒモ》、取而※[果/衣]而《トリテツヽミテ》、福路庭《フクロニハ》、入登不言八《イレヌトイハズヤ》、面知日男雲《アハンヒナクモ》。
 
●「一書曰」此は文武天皇の朝の人の、記し置ける物の中より、其まゝに書き入れたる也。其の朝にては、持統天皇を太上天皇と稱《マヲ》しならはしけるまゝの言《コトバ》也。是を左右《トカウ》云ひて改むる人(132)は書入れと云ふことを思はざる也。●「燃火物」此は、燒火の炎にて燃上(ル)火を云ふ也●「取而※[果/衣]而」手に取て、絹紙などに包むなり。●「福路庭」帋にはなり。●「入登不言八」言《イフ》は例の添へ言にて納《イ》れずやは、納《イル》るではなきか、と云ふ意也。此は、文武天皇の朝には、然《サ》る幻術する者あるをきこしめして詔ふ詞也。文武紀二年七月乙丑(ノ)詔に、禁(ス)2博戯遊手之徒(ヲ)1其(ノ)居停(ノ)主人(ハ)亦與(ニ)居(スルモノニ)2同罪(ニ)」。同三年五月丁丑、役《エンノ》君|小角《ヲヅヌヲ》流(ス)2于伊豆(ノ)島(ニ)1初(メ)小角住(ミ)2於葛木山(ニ)1以(テ)2咒術(ヲ)1稱(セラル)。外從五位下|韓國連廣足《カラクニノムラジヒロタリ》師(トス)v焉(ヲ)。後害(シ)2其能(ヲ)1讒(スルニ)以(テス)2妖惑(ヲ)1。故(ニ)配(セラル)2遠處(ニ)1。世(ニ)相(ヒ)傳(ヘテ)云(ハク)小角能(ク)役2使(シテ)鬼神(ヲ)1汲(ミ)v水(ヲ)採(ラシム)v薪(ヲ)若(シ)不(レバ)v用(ヒ)v命(ヲ)即以(テ)v咒(ヲ)縛(ス)v之(ヲ)と見ゆ。されば此徒のさる咒術《ワザ》をなしゝ也。●「面知日男雲」今本、面智男雲とある、智は知日〔二字傍線〕二字を一字に寫し誤りたる也。さて面知《オモヲシル》とは、逢見と云ふ意の義訓なれば、其の義を得て面知日男雲《アハムヒナクモ》と訓むべし。十二【二十五】水莖之崗乃田葛葉緒吹變面知兒等之不見比鴨《ミヅグキノヲカノクズハヲフキカヘシアヒミシコラガミエズコロカモ》とある、此の面知《アヒミシ》と合せて知るべし。
●一首の意は、燃る火をだに、手に取りて包みて、袋に入るゝではなきか、然るに我がかくまで戀ひ奉る君に、又逢はん術のなき世にもあるかなとなり。
 
 向南北※[左(]《アマノガハ》、陣雲之《タナビククモノ》、青雲之《アヲグモノ》、星離去《ホシサカリユク》、月毛離而《ツキモサカリテ》。
 
●「向南北」今本北(ヲ)作(リ)v山(ニ)て、きたやまにと訓みたれど、二三句の蒼天を云へれば、山にたなびく雲にあらず。たとひ、此句向v南《ムカヒミルニ》として、よし野山とよむとも、山に棚引く雲としては、蒼天《アヲグモ》と云ふに續かず、句を妨げて害あり。故に古本又由阿本等に、向南北陣雲とある五字の意を、つら/\考るに、今俗に天漢《アマノカハ》と云ふもの、初めは東西に亘り、九十月より南北に向ひて、(133)實に、一陣の雲とも云ふべきものなれば、初二句を合せて、あまのかはたなびくくもとはよみつ。漢國にて天漢〔二字傍線〕・銀河〔二字傍線〕など云ふも、即比事なるを、あまのかはと訓み來つるも、久しき事なりければ妨げなし●「青雲之、星離去」蒼天の星と云ふにて、かの銀河と云ふものゝ白(ケ)たるを、姑《シバラ》く陣雲《タナビククモ》とは云へど、實は蒼天の星群なれば、行道の轉じゆくを離《サカル》と云ふ也。さて蒼天を青雲と云ふは、蒼隈《アヲクマ》にて、空を累ねて遠く見る故に、蒼々と見ゆるなれば、隈《クマ》と云ふ。久萬《クマ》は古利《コリ》にて、氣の凝りたる也。祈年祭祝詞に、青雲能靄極《アヲクモノタナビクキハミ》十三【二十九】青雲之|向伏國乃《ムカブスクニノ》十六【二十九】伊夜彦《イヤヒコ》のおのれ神さび青雲の田多引日《タナビクヒ》すら、こさめそぼふる」此等皆晴天の空を云へり●「月毛離而」こは空の月にはあらず。月次《ツキナミ》の月の遠ざかりて星の行道の轉じゆくよし也。按ふに此《コ》の間《ホド》は陰陽師の行はれそめつるさかりなりければ、彼の人死ねば、天の星となると云ふことを、女心に信じ給ひて御心あてに、御魂の星は此星ぞと、銀河の中に見とめて其夕べより慕ひましけんを、月比《ツキコロ》の經ゆくまゝに、其星の遠ざかりゆくを歎き給ふなるべし。是にて一首の意は察すべし。
 
  天皇崩(マシテ)之|後《ノチ》八年《ヤトセノ》九月九日、奉(ル)v爲(シ)2御齋會(ヲ)1之夜、夢裏《ミユメニ》唱賜《トナヘタマヘル》御歌《ミウタ》一首
 
 明日香能《アスカノ》、清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》、天下《アメノシタ》、所知食之《シロシメシヽ》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワゴオホキミ》、高照《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、何方爾《イカサマニ》、所念食可《オモホシメセカ》、神風乃《カムカゼノ》、伊勢能國者《イセノクニハ》、奥津藻毛《オキツモヽ》、靡留※[左(]波爾《ナビケルナミニ》、鹽氣能味《シホゲノミ》、香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》、味凝《ウマゴリノ》、文爾乏寸《アヤニトモンキ》、高照《タカヒカル》、日之(134)御子《ヒノミコ》。
 
●天武天皇崩(リ)坐して八年の正當の御忌日に、持統天皇御國忌の御爲に、御をがみゑをせさせ給へるに、其夜御夢によみ賜へる御製歌也。然るに、大后とも、天皇とも、御製歌とも記さゞるは、其世の人の私集に記したるまゝを書き入れたる也。此御齋會は、天武の御爲に始めさせ給へる也。持統二年二月乙己、詔(シテ)曰(ハク)自v今以後毎(ニ)取(リテ)2國忌(ノ)日1要《カナラズ》須v齋(ル)也とある、是也。今本に習賜のある習は唱(ノ)字を誤れる也。
●「明香能」以下八句既にいくたびも出づ●「何方爾、所念食可」是も一(ノ)卷に出づ。可の言は下の香乎禮流國と云ふ迄に係れり。●「神風乃云云」此つゞきの事、言別《コトワキ》に論《アゲツラ》へり。さて端書に夢裏(ニ)唱(ヘ)賜(フ)と在りて、此《コヽ》にかく詔へるは、御夢に天皇の御魂の入らせ賜ひて、吾が靈《ミタマ》は、伊勢(ノ)海の云々とやうに、告げ給ふと夢見させ給ひし也。此伊勢は志摩の事にて、持統天皇の志摩へ度々|行幸《イデマ》しけるも、此故也。又天武天皇御在世より、伊勢大神を甚《イタ》く尊信し給ひし事は紀にも見え神異例にも引きおけり。又志摩國に御ゆゑよし坐(シ)て、朝夕の御饌《ミケ》を彼の國にめしける、集中にも歌多く見ゆ、かゝれば、大御魂の彼の國にあもりましける事もありけんかし●「鹽氣能味、香乎禮流國爾」氣《ケ》は字音にあらず。十六にも日異爾乾而《ヒノケニホシテ》とある異《ケ》にて、古言也。神代紀に唯朝霧而薫滿之哉《タヾアサギリノミカヲリミテルカモ》と、霧霞にもかをると云へること、これも道別に釋せり●「味凝、文爾乏寸」美織《ウマゴリ》の綾《アヤ》とかゝりて、文爾乏寸《アヤニトモシキ》は、あなうらやましき日之御子と詔ふ也。
●一篇の惣意は、こよひ御をがみ會《ヱ》に、さ夜更けてまどろむ間《ホド》に、明けくれ慕ひ奉る夫《ツマ》の尊の(135)夢に見えさせ給ひて、吾が御魂は伊勢(ノ)國にあり。其國はおきつ藻の靡ける波に、鹽氣のみかをれる國にて、おもしろき國なりと詔《ノタマ》はすに、あなうらやましや、高照る日の御子よと白すまではおぼえたり。その末は夢なれば、いかにありけんと云ふほどの事なれば、此大御歌の首尾せざるを、左右《トカク》云ふ説は、此夢裏の御唱へをよくもおもひやらぬなり。上の、大津(ノ)宮(ノ)夫人の御歌にも「吾戀ふる君ぞこぞの夜夢に見えつる」とあり。其歌は醒めて後、現にてよめる也。今此大御歌は、夢ながらよませ給へるなるぞかし。
 
(137)  萬葉集檜嬬手 卷之四
 
   本集二ノ下
  藤原(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、大津皇子(ノ)薨之後《スギタマヘルノチ》、大來《オホクノ》皇女、從(リ)2伊勢(ノ)齋宮1上(リタマフ)v京(ニ)之時、御作歌二首、
 
 神風之《カムカゼノ》、伊勢能國爾母《イセノクニニモ》、有益乎《アラマシヲ》、奈何可來計武《ナニシカキケム》、君毛不有爾《キミモマサナクニ》。
 
●此の皇子・皇女は、御同母《ミハラカラ》にて、殊に御親しかりける故に、一卷にも、竊(ニ)下(リ)2伊勢(ニ)1給ひし事のあるなり。さて大來《オホク》の還り上り給ひしは、持統紀元年十一月の事、大津皇子の事顯はれて失はれ給ひしは、同年十月三日の事なりき。●御歌の意少しも隱れたる所なし。
 
 欲見《ミマクホリ》、吾君毛《ワガスルキミモ》、不有爾《マサナクニ》、奈何可來計武《ナニシカキケム》、馬疲爾《ウマツカラシニ》。
 
●「欲見、吾爲君毛」此二句は吾が見まくほりする君もといふ意なり。●「馬疲爾」毛詩(ニ)曰(ハク)、陟(リ)2彼高岡(ニ)1我馬玄黄(ス)。遊仙窟(ニ)云(ハク》、日曉(ケ)途遙(ニシテ)馬疲(レ)人彳(ム)。此御兄弟、詩賦を好み給へれば、これらを思し(?)たる歟。
 
(138)  移2葬《ウツシハフル》大津(ノ)皇子(ノ)屍《シカバネヲ》於葛城(ノ)二上山(二)1之時、大來《オホクノ》皇女|哀傷《カナシミテ》御作歌二首
 
 宇部曾見乃《ウツソミノ》、人爾有吾哉《ヒトナルワレヤ》、從明日者《アストリハ》、二上山乎《フタカミヤマヲ》、弟世登吾將見《ナセトワガミム》。
 
●「葛城山」葛城(ノ)下郡也。輿地通志(二)云(ハク)、二上山(ハ)在(リ)2當麻村(ノ)西北(二)1、半(ハ)跨(リ)2河州(二)1兩峰相對(ス)云々。山上(ノ)墓(ハ)大津(ノ)皇子。在(リ)2二上(ノ)山、二上(ノ)神社(ノ)東(二)1。●「弟世」弟の字は實を以てかき、世を加へたるは、那勢《ナセ》とよませんとてなり。此卷の上【十八】長皇子の弓削皇子を指して、わがせ〔三字傍点〕と宣ひしにも、吾弟とかきたり、是は弟王ながら崇めて申し給ふ所、今は皇女より皇子に對して宣ふ詞也。
●一首の意.通《キコ》えてはあれど、猶いはゞ、現《ウツ》しき人として、明日より後は、非情の二上山を、わが那勢の君と親しみおもはんとなり。此皇子を除《オ》きて外に御はらからもまさゞれば、殊に御親しみも御歎きも深かりしなり。
 
 礒之於爾《イソノウヘニ》、生流馬醉木毛《オフルアシビモ》、手折目杼《タヲラメド》、令視倍吉君之《ミスベキキミガ》、在常不言爾《マストイハナクニ》。
 
●「礒之於爾」此礒は二十【六十二】に、いそかげの見ゆる池水照るまでに、とよめる如く、池の中島或は瀧の向ひ谷川などの折りにくき處に咲けるを云へる也。馬醉木の事は別記に出せり。●「木乎」乎、一本に作(ル)v毛(二)に依るべし。●「在常不言爾」言は例のそへ言にて、坐《マサ》ざるにと云ふことなり。
●一首の意は、比喩《タトヘ》にて水邊の折りにくき磯の上にさきたる馬醉木の花も、君のためならば折りつべけれど、今は見すべき君が世に坐さゞるにとなり。何かいたつき給ふことのありしを、(138)今は捨て給はんたとへなるべし。
 
 右(ノ)一首今案(フニ)不v似2移葬之歌(ニ)1、蓋(シ)縦(サレテ)從2伊勢(ノ)神宮1還(ル)v京(ニ)之時、路上見(テ)2花(ノ)盛(ヲ)1傷哀咽作(ル)2此(ノ)歌(ヲ)1乎。
 
  日並知皇子尊殯宮之時《ヒナメシノミコノミコトノアラキノミヤノトキ》、柿本(ノ)朝臣人麿(ノ)作(ル)歌一首並(ニ)短歌
 
 天地之《アメツチノ》、初時之《ハジメノトキシ》、久堅之《ヒサカタノ》、天河原爾《アマノカハラニ》、八百萬《ヤホヨロヅ》、千萬神之《チヨロヅカミノ》、神集《カムツドヒ》、集座而《ツドヒイマシテ》、神分《カムハカリ》、分之時爾《ハカリシトキニ》、天照《アマテラス》、日女之命《ヒルメノミコト》、天乎波《アメヲバ》、所知食登《シロシメスト》、葦原乃《アシハラノ》、水穂之國乎《ミヅホノクニヲ》、天地之《アメツチノ》、依相之極《ヨリアヒノキハミ》、所知行《シロシメス》、神之命等《カミノミコトト》、天雲之《アマクモノ》、八重掻別而《ヤヘカキワケテ》、神下《カムクダシ》、座奉之《イマセマツリシ》、高照《タカヒカル》、日之皇子波《ヒノミコハ》、飛鳥之《アスカノ》、淨見之宮爾《キヨミノミヤニ》、神隨《カムナガラ》、太布座而《フトシキマシテ》、天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》、天原《アマノハラ》、石門乎閉《イハトヲタテヽ》、神上《カムアガリ》、上座奴《アガリイマシヌ》、吾王《ワガオホギミ》、皇子之命乃《ミコノミコトノ》、天下所知食世者《アメノシタシロシメシセバ》、春花之《ハルハナノ》、貴在等《タフトカラント》、望月乃《モチヅキノ》、滿波之計武跡《タヽハシケムト》、天下《アメノシタ》、四方之人乃《ヨモノヒトノ》、大船之《オホブネノ》、思憑而《オモヒタノミテ》、天水《アマツミヅ》、仰而待爾《アフギテマツニ》、何方爾《イカサマニ》、御念食可《オモホシメセカ》、由縁母無《ツレモナキ》、眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》、宮柱《ミヤバシラ》、太布座《フトシキマシテ》、御在香乎《ミアラカヲ》、高知座而《タカシリマシテ》、明言爾《アサゴトニ》、御言不御問《ミコトトハサズ》、暮言爾※[三字左(]《ユフコトニ》、御物不告※[四字左(]《ミモノノラサズ》、月日之《ツキヒノ》、數多成塗《マネクナリヌレ》、其故《ソコユヱニ》、皇子之宮人《ミコノミミヤビト》、行方不知毛《ユクヘシラズモ》。
 
●「天照、日女之命」一(ニ)云(フ)、指上《サシノボル》日女命●「天雲之、八重掻別而」一(ニ)云(フ)、天雲之《アマグモノ》、八重雲別而《ヤヘグモワケテ》、(140)●「神上、上座奴」一(二)云(フ).神登座爾之可婆《カムノボリイマシニシカバ》●「天下」一(二)云(フ)、食國《ヲスクニノ》●「其故、皇子宮人」一云|刺竹之《サスタケノ》、皇子宮人《ミコノミヤビト》、歸邊《ユクヘ》不知爾爲〔四字右○〕。
 
●「日並知皇子尊」此御子の事、上にも出たれど、猶少し云ふべし。天武第一の皇子にして、十年春二月立(テヽ)2皇太子(二)1令(メ)v攝(セ)2萬機(ヲ)1草壁(ノ)皇子と申せるを、此に日並知とあるは、萬機の政をしらすを以てなり、御母も持統天皇にましませば、時めき給ふこと天皇と等しかりしを、持統の三年、御年二十八にて神上り坐《マ》しつる。天下の歎き此歌の如くなりき。故其御子輕(ノ)皇子を御位につけ奉る。即文武天皇是なり。これによりてつき/”\歌も多かる也。さて此の長歌、始(メ)二十四句、神下、座奉之と云ふ意は、記・紀・祝詞等に往々出て、既に道別《チワキ》に釋しつれば、此《コヽ》は語に云ふべき事のあるのみを拔きていへり。●「天地之、依相之極」こは一卷に【二十二】天地毛縁而有許曽《アメツチモヨリテアレコソ》とあるとは別にて、天地の分れしと云ふに對へて、又より合はん限り迄と云ふなれば、終ひに天地の盡きなん迄と云ふが如し。●「神下、座奉之」初めより是の句迄のかゝり、全《モハラ》、瓊々杵尊《ニヽギノミコト》の天降りの状なるを、直に日之皇子《ヒノミコ》に安く云ひ移せる、妙とも妙と賞すべし。●「天皇之、敷座國等、天原石門乎閉」此語どもを以て、御代々々の天皇、皇子等は凡て、天(ノ)原をしらす事を知るべし●「天下所知食世者」めしせばは、めせばと云ふと同じことにて、未v然(ラ)に云ふ辭なり。此皇子(ノ)命、天下の政事迄も執らせ給ひつれど、終に御即位以前に薨ぜさせ給へれば、かくいへるなり。●「春花之、貴在等、望月乃、滿波之計式跡」此四句二聯、貴の字も只花と月とに比して榮え足《タ》り備《ソナハ》れるを云ふことを知るべし。滿波之《タヽハシ》は、十三に十五夜月之多田波之家武登《モチツキノタタハシケムト》とある假字に據りてよむ也。湛盈《タヽヘ》と云ふに合するに、多良《タラ》・多々《タヽ》同語也●「由縁母無」次の歌どもにも(141)かくざまに云へる、多し。是れ此の語の本義也。そは都禮《ツレ》は俗に連合《ツレアヒ》・道連《ミチヅレ》など云ふ都禮にて、身に親しくつれそはるゝを云ふ。無《ナキ》は其|反對《ウラ》にて、身に疎く荒びゆく方なれば、凡べて人氣《ヒトゲ》なき荒野荒山に骸を置くことに云へり。由縁所由等の字をかくも此の故なり。後世戀のうたによむかたは、少し轉じたるなり●「眞弓乃崗爾」飛鳥(ノ)神南備に近き處也。今眞弓村あり。御墓は在(リ)2越村(二)1といへり。益田(ノ)池(ノ)碑文(二)曰(ハク)、大墓聳(ユト)v南(二)。即此也。●「宮柱太布座云々」こゝは殯宮を云へり。宮といひ、御在所《ミアラカ》と云へる、只詞を易へて調べを助くる也。●「暮言爾御物不告」此七字何れの本にもあらざれど、※[木+夜]斎本の古き朱書に、暮言の三字を加へて、下滅すとあるを以て、今考へて補ひつ。次の歌に、東のたぎの御門にさもらへど、昨日も今日も召すこともなしと云へる心也、●「日月之」四言也●「數多成塗」まねくと云ひて、字の如くあまたの意なる事一(ノ)卷に云へり。又なりぬれとうたひ切りて、下を前に言ひ起す格のこと、是も上に云ひつ。●「皇子之宮人、行方不知毛」春宮に奉(ル)v仕(ヘ)人々主君を失ひて、おのがちり/\なりゆくを云ふ。
●一編の大意は、神代の昔、天の安河原に八百萬の神たち神集ひて、神議り給ひし時に、天照大日※[靈の上部/女]《オホヒルメノ》命天をば知ろしめすにつきて、皇御孫(ノ)命は、豐葦の水穂の國は天地のつきなんかぎり知ろしめすと、天雲の八重掻き分けて、神くだしくだしまゐらしゝ其瓊々杵尊の御末の日の皇子は飛鳥の淨見(ケ)原に、神ながら太敷きいまして、こたび皇祖の御代々々敷座國等、天(ノ)原に石門を閉《タ》てゝ、み隱れ坐《マ》しぬ。此日並知(ノ)尊、今にも御位に即かせ給はゞ、よろづ足りとゝのひて、世にかけたる事なく、誰が爲にも美《メデタ》く好からんと、天下のなべての人々それのみを思ひ憑み、仰ぎ待ちをる時に、いかさまに思ほしめせか【心得ぬことは】人氣疎く荒々しき眞弓の岳の殯(ノ)宮に、還らせ(142)給ひて、幾日たちても物ものたまはずならせ給ひ、月日もあまた經《ヘ》にたれば、それゆゑに此皇子(ノ)尊に奉(リ)v仕(ヘ)來《コ》し宮人、吾が輩の舍人どもは、皆たのみを失ひて、己がむき/\、行方だに知られずなりぬるが悲しき事かなとなり。
 
  反 歌
 久堅乃《ヒサカタノ》、天見如久《アメミルゴトク》、仰見之《アフギミシ》、皇子乃御門之《ミコノミカドノ》、荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
 
●「天見如久云々」天津日を仰ぎ見る如く仰ぎ貴み奉る日並知(ノ)尊の宮と云ふつゞき也。●「皇子乃御門之」御門と云ひて、宮殿の上になる事、朝廷をみかどゝ申すと同じ事也。此御門は島(ノ)宮の事なり、下の歌に出づ●「荒卷惜毛」あれまくは將《マク》v荒《アレ》にて荒れんとするが惜しと云ふ也。さて其荒れは、宮殿のわろくなるのみにあらず。人の散りゆくを云ふなり。
 
 茜刺《アカネサス》、日者雖照有《ヒハテラセレド》、烏玉之《ヌバタマノ》、夜渡月之《ヨワタルツキノ》、隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。
 
  或本(ニ)云(フ)、以(テ)2件(ノ)歌(ヲ)爲(ス)2後(ノ)皇子尊(ノ)殯宮之時(ノ)歌(ノ)反(シト)1也。
 
●「茜刺」下に赤根刺ともかけり。此等の茜根等の字は借字にて、赤丹刺日《アカネサスヒ》とかけり。赤羅引日とつゞけたるに合せてしるべし。●「日者雖照有」此日は只天つ日のみなり。比したる方はなし。下と合せて天に日は照せども、闇の夜となりたりと云ふことなり。天子に比したりと(143)しては、いとなめげなり。●「烏玉之」寢《ヌ》る間《アヒダ》の夜とかゝる枕詞也。委しくは言別《コトワキ》に出づ。
●一首の意、空に天つ日は照せども、夜わたる月の隱れ給ひてあとは闇となりゆくは惜しとなり。此時天武天皇は既に崩《カク》り坐《マ》して、此皇子の外に國知すべき君なし。故に大后其翌年位に即かせ給ひしなり。●「爲2歌反1」此文を以ても、反歌は歌の反しに用ひし事しるべし。
 
  皇子(ノ)尊(ノ)宮(ノ)舍人等《トネリラガ》慟傷《ナゲキテ》作(ル)歌二十四首
 
 島宮《シマノミヤ》、勾乃池之《マガリノイケノ》、放鳥《ハナチドリ》、人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》、池爾不潜《イケニカヅカズ》。
 
●「舍人」紀に近習舍人・左右舍人、また帳内《トネリ》、宦者《トネリ》、兵衛《トネリ》などあり。名義は殿侍《トノハべリ》にて左右《アタリ》近く親しく守り仕奉る者也。職員令《シキヰンリヤウ》に、左右大舍人寮ありて、大舍人八百人と見えて、内舍人と云ふも見ゆ。同令中務省(ノ)下に内舍人九十人、掌(ル)d帶(ビテ)v刀(ヲ)宿衛(シ)、供2奉(シ)雜使(ニ)1若(シ)駕行(ニハ)分c衛(スルコトヲ)前後(ヲ)uまた東宮職員令にも、舍人監ありて、其下に舍人六百人とあり。此も日並知(ノ)尊の召し使ひ給し舍人等が慟傷《ナゲ》きてよめる歌どもなり。●「島宮勾之池之」輿地通志(ニ)云(フ)島(ノ)莊村一名橘(ノ)島、又(ノ)名御(ス)2島(ノ)宮(ニ)1、天武天皇元年、便2居(ス)於此(ニ)1先v是蘇我(ノ)馬子家(シ)2於飛鳥(ノ)河(ノ)傍(ニ)1乃庭中開(キ)2小池(ヲ)1築(ク)2小島(ヲ)於池中(ニ)1時人曰(フ)2島(ノ)大臣(ト)1。勾(ノ)池在(リ)2島(ノ)荘村(ニ)1●「人目爾戀而」爾《ニ》は例の乎《ヲ》の意にて人をこひて也。鳥は大方は人を恐るゝ故に、水にかづき入りて隱るべきものなるに、此池の放鳥は、よくなつきたれば、却て人を戀ひしたひて池にも潜《カヅ》かず。君を待ち顏なるがあはれなりとなり。
 
(144) 高光《タカヒカル》、我日皇子乃《アガヒノミコノ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、國所知麻之《クニシラサマシ》、島宮婆母《シマノミヤハモ》。
 
●「萬代爾、國所知麻之」萬代もこゝにして、天(ノ)下知ろしめさましと思ひて在りしよし也。●「島宮波母」波母《ハモ》は.波《ハ》といひさして歎息の母《モ》に餘情を含めおく辭也。此歌にては、國しろしめすべき此島の宮はマア、かゝる事にならんとは思はざりしよと歎く也。四に「天地と共に久しく住はむと念ひて有りし家の庭|羽裳《ハモ》と云ふに似たり。
 
 島宮《シマノミヤ》、池上有《イケノウヘナル》、放鳥《ハナチドリ》、荒備勿行《アラビナユキソ》、君不座十方《キミマサズトモ》。
 
●「荒備勿行」疎んじ遠ざかりな行きそといふ也。凡べて集中「荒ぶる妹」「荒ぶる君」など多くよめる、皆疎々しく遠ざかりゆく事なり。
 
 高光《タカヒカル》、吾日皇子乃《アガヒノミコノ》、伊座世者《イマシセバ》、島御門者《シマノミカドハ》、不荒有益乎《アレザラマシヲ》。
 
●「伊座世者」いまさば、といふを延べたるなり。此詞上に出たり●「不荒有益乎」荒れずあらましをと云ふなれば、歌の意勿論の事なれども、こは其宮に年來仕へ奉り來し心には、其宮の荒れゆく事の悲しきあまりに云へる也。
 
(145) 外爾見之《ヨソニミシ》、檀乃岡毛《マユミノヲカモ》、君座者《キミマセバ》、常都御門跡《トコツミカドト》、侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
 
●「常都御門跡」常住不斷の大宮と云ふ意也 ●「侍宿」殿居の義にて、此は御墓仕へにさむらふを云ふ。
●一首の意は、昨日迄もよそに思ひし眞弓の岡も、君ませば、常住不斷の大御門と、とのゐし奉るとなり。
 
 夢爾谷《イメニダニ》、不見在之物乎《ミザリシモノヲ》、欝悒《オホホシク》、宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》、佐田之隈囘乎《サタノクマミヲ》。
 
●「欝悒」かく書きていぶせしとも、おぼつかなしとも、おぼゝしともよみて、心の晴れやらぬ事、物の明かならざる事、又思ひのむすぼるゝ事、又俗に心いられと云ふ意などに用《ツカ》へるよしは追々に云ふべし。こゝはおほゝしと訓みて、おぼめかるゝ意也。夢のやうにと譯して心得べし。●「宮出毛爲鹿」。御墓仕へに、夜と晝と替代して、宮の出入するを云ふ。鹿は哉の意にて歎息なり。●「佐田之隈囘乎《サタノクマミヲ》」輿地通志(ニ)云(ハク)佐田(ハ)眞弓(ノ)屬邑也とあれば佐田は眞弓村の大名なるべし。行嚢抄にも佐田村・眞弓村・松山村などついでたり。
●一首の意は、此地に御陵|奉仕《ツカヘ》せんと、これ迄は夢にだに思ひよらざりつるものを、ゆめのやうに、【欝悒】御門の出入をするか。マア佐田の隈囘《クマミ》をとなり。
 
 天地與《アメツチト》、共將終登《トモニヲヘムト》、念乍《オモヒツヽ》、奉仕之《ツカヘマツリシ》、情違奴《コヽロタガヒヌ》。
 
(146)●「天地與」神代紀(二)云(フ)寶祚之|隆《ミサカエハ》當《ベシ》d與《トモニ》2天壤《アメツチト》1無窮《トコシナヘナル》u者矣」今も皇子を天地とともに久しからんとひたぶるにおもひたのみ奉りゐたる心たがひはてゝ、當惑せるよし也。
 
 朝日弖流《アサヒテル》、佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》、群居乍《ムレヰツヽ》、吾等哭涙《ワガナクナミダ》、息時毛無《ヤムトキモナシ》。
 
●「朝日弖流」朝日・夕日は只何となくも續くる語なれども、下に三首までも、此の同じつゞけのあるを見れば、東宮の鎭《シヅモラ》すを以《モ》て、殊更におけるなり。一首の心明らけし。
 
 御立爲之《ミタヽシノ》、島乎見時《シマヲミルトキ》、庭多泉《ニハタヅミ》、流涙《ナガルヽナミダ》、止曾金鶴《トメゾカネツル》。
 
●「御立爲之、島乎見時」此二句は、只見そなはしゝ御庭を見ればと云ふこと也。別に御在世に立ましゝ島のありと云ふにはあらず。立は御獵立たす・出立たすなど云ふ立(ツ)。島は庭を云ふ●「庭多泉」和名抄に潦【爾八太豆美】雨水也と見ゆ。俄泉《ニハカイヅミ》の義とすめれど、流るゝ事に專らいへれば、庭の字に用あり。庭立水の意なるべし。字書に行潦(ハ)路上(ノ)流水也と云へり。行潦あらば庭潦も有るべきもの也。
 
 橘之《タチバナノ》、島宮爾者《シマミヤニハ》、不飽鴨《アカネカモ》、佐田乃岡邊爾《サダノヲカベニ》、侍宿爲爾往《トノヰシニユク》。
 
●「橘之、島宮爾者」彼(ノ)島(ノ)宮(ノ)地に橘村ありて行嚢抄に佐田村・眞弓村・橘村と並びたり。昔は其地(147)皆島の御門《ミカド》の内なりしなるべし。橘寺と云ふも、其地にあり。池尻村と云ふある、是也。勾(ノ)池の後《シリ》に在るよしの名なるべければ、いと廣き間に亘れりしにこそ【通志の趣は上に引きつ】●「不飽鴨」あかねかもと云ひてあかねばかの意也。かゝる處のばを省きて云ふ例多かり。もは歎息也。
●一首の意は、御在世中橘の宮の御仕へにあきたらねばか、佐田の岡邊へまでも、とのゐしにゆくと也。
 
 御立爲之《ミタヽシシ》、島乎母家跡《シマヲモイヘト》、住鳥毛《スムトリモ》、荒備勿行《アラビナユキソ》、年替左右《トシカハルマデ》。
 
●「御立爲之」上なると同じ意也。●一首の意は、出御ありて覧行《ミソナハ》しゝ御庭を、家としてすむ放ち鳥どもゝ、他《アダ》し處へはなれな行きそ。來年の四月一周迄の間はと云ふ也。二句の跡《ト》は「として」の意なり。集中|跡《ト》と云へるに「とて」の意と「として」の意とあり。
 
 御立爲之《ミタヽシシ》、島之荒確乎《シマノアリソヲ》、今見者《ケフミレバ》、不生有之草《オヒザリシクサ》、生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
 
●「荒礒」こは海邊の荒礒の状に造られたるを云ふ也。泥《ナヅ》むべからず。一首の意かくれたる所もなし。
 
鳥※[土+(而/一)]立《トクラタテ》、飼之雁乃兒《カヒシカリノコ》、栖立去者《スダチナバ》、檀崗爾《マユミノヲカニ》、飛反來年《トビカヘリコネ》。
 
(148)「鳥※[土+(而/一)]」和名抄(二)云(ハク)、孫※[立心偏+面](カ)切韻栖(マスヲ)v鶏(ヲ)曰(フ)v塒(ト)【音時、和名|止久良《トグラ》】河内風土記(二)云(ハク)、戸久良野《トクラノ》爲(二)v栖(ス)v鷹以(テ)v藁(ヲ)覆(フ)2其上(ヲ)1戸久良《トクラ》自(リ)v此始(ル)使2鷹甘部《タカカヒベヲシテ》居(ラ)1v之(二)とあるは、鷹をとまらする迄のいたしさまなれど、水鳥などを常に飼ひおくには、鼬《イタチ》・狐等の防ぎあれば、塗りごめの塒也、※[土+(而/一)](ノ)字かきたるも其意と見ゆ。言は鳥座《トクラ》の意なるべし。●「雁乃兒」今かる鳧《カモ》とも、夏鴨《ナツカモ》とも云ふ一種の水鳥なり。
●一首の意は、皇子の御在世に、鳥塒《トクラ》を作りて飼はせ給ひしかるの子よ。栖《ス》立せば御墓所なる眞弓の丘へ飛かへりこよかしと也、年《ネ》は下知の言なり。
 
 吾御門《ワガミカド》、千代常登婆爾《チヨトコトハニ》、將榮等《サカエムト》、念而有之《オモヒテアリシ》、吾志悲毛《ワレシカナシモ》。
 
●「常登婆《トコトハ》」常と云ふことを登許《トコ》とも、登波《トハ》とも云ふ。それを二(ツ)かさねたる詞也。よく聞えたるうた也。
 
 東乃《ヒムガシノ》、多藝能御門爾《タギノミカドニ》、雖伺侍《サモラヘド》、昨日毛今日毛《キノフモケフモ》、召言毛無《メスコトモナシ》。
 
●「多藝能御門爾」 池に瀧ある方の御門を、かく名づけられたる也。瀧は瀑布には有るべからず。東方飛鳥川なりければ、其川より水を引さて石《イハ》走らせなどせられたるなるべし●「雖伺侍」さもらふは、眞守《サモル》を延べて云ふ言《コト》にて、目守《マモル》と同じ。されば何事にまれ、心をつけて伺ひ考へ居(ヲ)るを云ふ。其中に守る方と伺ふ方とあるは、おのづからつゞきに引かれで然る也。
 
 水傳《ミヅツタフ》、礒乃浦囘乃《イソノウラミノ》、石乍自《イハツヽジ》、木丘開道乎《モクサクミチヲ》、又將見鵬《マタミナムカモ》。
 
(149)●「水傳」礒といはん枕詞也●「磯乃浦囘乃」礒の※[さんずい+内]《イ》りめぐれる内の海べりを云ふ也。かかる囘をみとよむは、假名書の例を以て也。いまだ此集に麻(マ)とも和《ワ》とも書ける例を見ず。「木丘開道乎」此の木丘《モク》は、應神紀に芳草|※[草冠/會]蔚《モクシケシ》。續紀(ノ)詔(ノ)詞に牟倶佐加爾《ムクサカニ》と云へる、毛久《モク》牟久《ムク》相通ひて後世にいはゆる白純《シロムク》銀純《ギンムク》など云ふ純《ムク》なり。即、島(ノ)宮の池の廻りに、躑躅を多く植ゑられたるが、花の盛には其道氈を敷たる如く、純紅になりしを云へる也。此事鐘(ノ)響に委しく出せり●「又將見鴨」鴨は後世かはと云ふ反語にて、今より又と見なんかは見ずなりゆくらんがかなしと也。
 
 一日者《ヒトヒニハ》、千遍參入之《チタビマヰリシ》、東乃《ヒムガシノ》、太寸御門乎《タギノミカドヲ》、入不勝鴨《イリガテヌカモ》。
 
●「入不勝鴫」此のがてと云ふに二あり。「ありがて「消がてなど云へるがては難《ガテ》の意「がてぬと云ふは不勝とも不堪とも書きてあへぬの意にて、本より別語なるを、一つに混じて惑へる説多かり。かくて此《コヽ》に入りあへぬと云へるは、皇子の尊骸佐田(ノ)岡へ遷らして後は、彼の御墓のみ慕はれて島(ノ)宮の表御門は入りたくなきよし也。そは次の歌に合せてよくしらる。門戸を閉ぢて入りがたきにはあらず。島(ノ)宮と佐田(ノ)岡と分番せるを以てし《な(?)》るべし。
●一首の意は、君御在世の程は、一日に千度も參入《マヰイ》りせし島宮のおもて御門も、其御尊骸の佐田(ノ)岡へ遷らして主《アルジ》なしとなりて後は、入りたくもあらぬとなり。
 
 所由無《ツレモナキ》、佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》、反居者《カヘリヰバ》、島御橋爾《シマノミハシニ》、誰加住舞無《タレカスマハム》。
 
(150)●「反居者」 此は島(ノ)宮と、佐田(ノ)岡の御墓づかへと、分番交替する數多の舍人等、此の所由無《ツレモナキ》佐太乃岡に、皇子(ノ)命のおはすをいたましくあはれに見奉りて、島(ノ)宮の當番日にも、とかく佐田(ノ)岡へ反り來る人多きにつきて、かくはいへる也。●「島御橋爾」橋は階なり。
●一首の意は、つれもなき此佐田(ノ)岡の荒山中に、皇子を坐《マ》させ奉るが痛《イタマ》しきとて、各此御墓にのみ反り居ば、島宮の御階のもとには誰かは住はん。彼の宮も一周の間は、靈床《タマドコ》ませば、疎くはなしがたきをやとなり。かくおもふぞ、古へ人の眞情なる。
 
 旦覆《アサカヘリ》、日之入去者《ヒノイリユケバ》、御立爲之《ミタヽシシ》、島爾下座而《シマニオリヰテ》、嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
●「旦覆」朝歸《アサカヘリ》也。此は前夜佐田(ノ)岡の御墓につかへて、其の翌朝の明番《アキバン》を云ふなり ●「日之入去者」其の明番の日の入りゆけばなり。●「島爾下座而」おりゐてとは、御墓を上《力ミ》として、島(ノ)宮へ下《サガ》るよしなり。上の歌に佐太(ノ)岡に反《カヘ》ると云へるも是也。御尊骸を本とすれば、然かあるべき事也。かゝれば彼の分番に御墓と島(ノ)宮と一夜代りに夜詰晝番ありし也。次の歌に夜鳴かはらふ此とし比《ころ》をとよめるも是也。
●一首の意は、昨夜御墓にて夜すがら物思ひをし、明番の朝がへりの今日の日の暮れゆけば、又島宮へ下り來て友どち歎きつるかなとなり。
 
 旦日照《アサヒテル》、島乃御門爾《シマノミカドニ》、欝悒《オホホシク》、人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》、眞浦悲毛《マウラカナシモ》。
 
●「欝悒」ここは心のむすぼほれて、晴れがたきを云ふ。四【三十三】今更に妹にあはめやはとおもへかもここだ吾がむね欝悒《オボホシ》からん。五【二十六】國遠きみちのながてを意保々斯久許布《オホホシクコフ》や過ぎなん言と(151)ひもなく」此等に同じ。三四の句を轉じて人音|毛爲《モセ》ねば欝悒しくうら悲しと云ふなり●「人音毛不爲者」こは人の問ひ來ぬと云ふにはあらず。もとのにぎはひしに對へて、皆人のひそみしづまりてあるを云へる也。
●一首の意は、さしもにぎはひし御門の内も、人々ひそみしづまりて、愁へがほしてのみあるをみれば、心も晴れせずむすぼほれて、まことにうら悲しきよとなり。
 
 眞木柱《マキバシラ》、太心者《フトキコヽロハ》、有之香杼《アリシカド》、此吾心《コノアガコヽロ》、鎭目金津毛《シヅメカ子ツモ》。
 
●「眞木柱、太心者」神代紀に、造宮之制者《ミヤツクルノリハ》、柱則高太《ハシラハタカクフトク》とある、其の檜の柱を丈夫《マスラヲ》のたくましく動かぬ心に譬へたる也。●「此吾心、鎭目金津毛」さばかり太くたくましき雄心もたるわれにして、此たびのおもひよらぬ喪にあひて、胸をおし鎭めかねつるよと也。
 
 毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》、春冬片設而《ハルフユカタマケテ》、幸之《イデマシヽ》、宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》、所念武鴨《オモホヘムカモ》。
 
●「毛許呂裳遠」 衣より張《ハル》とかゝるは常なれど、ここは御獵に就て、毛衣とは置ける也。毛衣は皮衣也。和名抄に、裘|加波古路毛《カハコロモ》。應神紀【七葉】諸縣君牛云云唯以(テ)2著(ケタル)v角(ヲ)鹿皮(ヲ)1爲(ス)2衣服(ト)1耳。十六【二十九】伊夜彦乃《イヤヒコノ》、神乃布本《カミノフモトニ》、今日良毛加《ケフラモカ》、鹿乃伏良無《カノコヤスラム》、皮服著而《カハノキヌキテ》、角附奈我良《ツヌツキナガラ》」三代實録四始(テ)禁(ズ)3着2用(スルコトヲ)貂裘(ヲ)1云云江次第内親王乘2鴨毛1單着2貂裘八重1云云 ●「春冬片設而」 集中|春方設《ハルカタマケ》、秋方設《アキカタマケ》、夕方設《ユフカタマケ》などいへる、皆其方へ時節の向《ムク》を云【牟久《ムク》と麻計《マケ》と音通へり】ここも、獵は主《ムネ》と、冬の物なれば春に向ひ冬に向ひの意也、●「宇陀乃大野者」大和(ノ)國菟田(ノ)郡の安騎(ノ)大野也。一(ノ)卷に、此の日並(152)知(ノ)尊の御子輕(ノ)皇子の安騎野に宿らせ給ふ時、人麻呂の歌に、日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師時者來向《ヒナメシノミコノミコトノウマナメテミカリタヽシヽトキハキムカフ》とよまれしも、此皇子(ノ)命のしば/\其野に幸しゝ事を云へる也。
〇一首の意は、年々春冬に近づきむかへば、しば/\出ましゝ宇陀の大野は、此比君の久しく出まさぬことをおもひいづらんかとなり。
 
 朝日照《アサヒテル》、佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》、鳴鳥之《ナクトリノ》、夜鳴變布《ヨナキカハラフ》、此年己呂乎《コノトシゴロヲ》。
 
●「鳴鳥之」鳴鳥の如く也。●「夜鳴變布」かはらふは替るを延べて云ふ也。かはる/”\泣きながら侍宿《トノヰ》せる故に、かくはいへる也。上に佐田乃岡邊に反居者とよめると同じ心ばへなり。●「此年己呂乎」乎は與の意にて、此としごろよと也。
 
 八筒※[左(]籠良我※[左(]《ヤツコラガ》、夜晝登不云《ヨルヒルトイハズ》、行路乎《ユクミチヲ》、吾者皆悉《ワレハコト/”\》、宮道叙爲《ミヤヂニゾスル》。
 
●「八箇籠良我」今本八多籠良家とあり。何れ誤字ならんとて是をはたごうまがと訓みたれど彼の島(ノ)宮より佐田(ノ)岡眞弓(ノ)岡迄(ハ)昔も今もさる旅籠《ハタゴ》馬など往來《ユキカヨフ》べき處にあらず。殊に帝王の山陵又皇后・皇子等の御墓多かれば、農事の牛馬も猥りに牽くべからず。況や旅人馬をや。又二句夜晝といはずと云へる語勢、驛路ならばしらず、偏土《ヘンド》の山路に似つきがたし。故(レ)誤字を考へて、姑くやつこらがとはよみつ。初め三字皆訓なれば、籠の字も、をり《音なる(?)》べきならず。●「吾者皆悉、宮道叙爲」賤男より外にかよはぬ細道を、御門の人の宮づかへの道と、悉く蹈分けつとおもひがけぬ事をいひ歎くなり。
 
(153)  葬《ハフレル》2河島(ノ)皇子(ヲ)於|越智野《ヲチヌニ》1之時、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)獻《タテマツル》2泊瀬部《ハツセベノ》皇女(二)1歌一首並短歌
 
 飛鳥《トブトリノ》、明日香乃河之《アスカノカハノ》、上瀬爾《カミツセニ》、生玉藻者《オフルタマモハ》、下瀬爾《シモツセニ》、流觸經《ナガレフラバヘ》、下瀬爾※[三字左(]《シモツセニ》、生玉藻者※[四字左(]《オフルタマモハ》、上瀬爾※[三字左(]《カミツセニ》、靡觸經※[三字左(]《ナビキフラバヘ》、玉藻成《タマモナス》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、靡相之《ナビカヒシ》、嬬乃命乃《ツマノミコトノ》、多田名附《タタナヅク》、柔膚尚乎《ヤハハダスラヲ》、劔刀《ツルギタチ》、於身副不寢者《ミニソヘネネバ》、烏玉乃《ヌバタマノ》、夜床母荒良無《ヨドコモアルラム》、所虚故《ソコユヱニ》、名具鮫兼天《ナグサメカネテ》、氣田敷藻《ケダシクモ》、相屋常念而《アフヤトオモヒテ》、玉垂乃《タマダレノ》、越乃大野之《ヲチノオホヌノ》、旦露爾《アサツユニ》、玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》、夕霧爾《ユフギリニ》、衣者沾而《コロモハヌレテ》、草枕《クサマクラ》、放宿鴨爲留《タビ子カモセル》、不相君故《アハヌキミユヱ》。
 
●「河島皇子」天智第二(ノ)皇子、持統天皇五年九月薨(ズ)。御年三十五。天武天皇十年、國史を撰修し給ふ御子也。上にも出づ●「泊瀬部皇女」天武天皇皇女なり。●越智野の事は、歌の下に云ふべし。●「明日香河之」此河は高市郡飛鳥(ノ)宮の皇居の邊りなり。行嚢抄(二)云(ハク)、飛鳥川は飛鳥村の巽の方より北に流るる小川なり。石を六七(ツ)ならべてそれを渡るとあり。昔も石を並べて渡りしさまなれど、川のはばは廣かりし趣なり。又た淵瀬のかはり安きさまによむ、飛鳥川は、本より別也。それは河内方によりて、此集にも葛城山とよみ合せたり。かかる事も心得おくべきわざにぞある。皇居にて名高きゆゑ、今此飛鳥川に、淵瀬定らぬよしをよむ人多かる旨ひが(154)事ぞ●「流觸經」雄略紀三重(ノ)釆女が歌に、ほつ枝のうら葉は中つ枝に淤知布良婆閉《オチフラバヘ》、中つ枝のうら葉は下つ枝に淤知布良婆閉《オチフラバヘ》とあるに同じいひなし也。これらの布良婆閉は、たゞ布禮《フレ》と云ふことなるを、延べて活《ハタラ》かし云ふ古言の雅《ミヤ》び也【良婆閉は禮《レ》と約れり】ここは流れて藻と藻と相觸合ふを云ふ●「下瀬爾、生玉藻者、上瀬爾、靡觸經」此四句十三字今何れの本にもあらざるは、はやく同字の多かるを見混《ミマガ》へて脱せる也。此は上の四句と合せて、八句二聯の對なれば、調《シラ》べにとりても必ずなくては有るべからず。又此四句なくては、次の彼依此依靡相之《カヨリカクヨリナビカヒシ》と云へる序辭の例にも叶ひがたし。故《カレ》、今補(フ)v之(ヲ)。もし是を私事と見ん人は、古への歌を聞わくる耳も、目もなき心也。人麻呂大人の御魂はよろこびましなんかし。さて此句迄は玉藻なすといひ出ん序のみなり。●「玉藻成、彼依此依、靡相之」序よりのつゞきは、上つ瀬の玉藻は、下つ瀬の藻にふれ、下つ瀬の藻は、上つ瀬の藻に靡きあふ意。皇子夫婦の方に譬へたる意は、かなたこなた互にむつまじくなびき逢ひ給ひしよし。此つゞき一(ノ)卷にも出たり相合せて心得べし●「嬬乃命乃」夫之命の意也。●「多田名附柔膚尚乎」疊《タヽナ》はり附くやはらかきはだへと云ふことなり。●「劔刀、於身副不寢者」ここは薨《ウセ》ましてのちそひねし給はぬよしなり●「夜床母荒良無」荒とは、疎く放《サカ》るを云ふ。上に荒備勿行曾《アラビナユキソ》。下に妹之心乃荒去來鴨《イモガコヽロノアレニケルカモ》などの類也。靈床などの荒れたるを云ふにはあらず。●「所虚故、名具鮫兼天」彼の身にそへ寢《ナ》す夜床の、疎く遠ざかる故に、心の慰《ナ》ぐかたなくてと云ふかかりなり。●「氣田敷藻、相屋常念而」もしも薨《ウセ》坐《マ》したる夫の命にあはるゝやと思ひて云々とつゞく也●「玉垂乃、越乃大野之」玉垂は緒《ヲ》と係りたる枕詞。越乃大野は大和國高市郡。輿地通志(二)云(フ)、越智《ヲチ》・北越智・鳥屋云々、越智(ノ)岡(ノ)上陵(ハ)齊明天皇也。山陵志|田《曰(?)》越(ハ)乃檜隈(ノ)西地(155)越智村(ノ)西、則車木(ノ)村也と云へり●「旦露爾、玉藻者※[泥/土]打、夕霧爾、衣者沾而」此四句二聯、朝露と、夕霧と、玉裳と、衣と、濡《ヒヅ》と、沾《ヌル》と、詞をかへ相ひむかへて、調べを助くる古へのみやびなり。かくて古へは、上の皇太子などの殯宮は格別の事、猶さらぬも新喪に墓所の傍に廬作りて、一周の間は人しても守らせありしにて、をり/\行きて宿りし由に見ゆ。舒明紀に次《ヤドル》2于墓所(二)1とあるたぐひ也。ここは其墓ごもりを、越野《ヲチヌ》へ御魂よばひに出でませるさまにいひなして、露や霧にぬれ給ふ趣に云へる也。●「不相君故」あはぬ君なるにの意なり。
●一編の意は、御墓所近き飛鳥川の上つ瀬に生えたる藻は、下つ瀬の方へ、波にゆられ觸れ、下つ瀬に生えたる藻は、上つ瀬の方へ風に靡き觸るゝが【是まで序なり】其藻の如く、かなたこなたむつまじく傍《ヨリ》なびき相ひ給ひし夫の尊の、倚臥《ソヒフ》しすれば、疊《タヽマ》りつくばかり、やはらかき御膚《ミハダ》すらを薨《ウセ》坐《マ》しゝのちは、身に副へて寢給はねば、其夜床もさぞな疎くなり給ひぬらん。それ故に、おもひむすぼるゝ御心をなぐさめかね給ひてもしやあふ事もあらんやと、越智の大野へ御魂よばひに出でゝ、朝露や夕霧に沾れて御墓のあたりに旅ねかもせさすらん。出でゝ逢ひもし給はぬ君ゆゑにと也。
 
  荒良無《アルラム》。一(二)云(フ)阿禮奈牟《アレナム》●相屋常念而《アフヤトオモヒテ》。一(二)云(フ)公毛相哉登《キミモアフヤト》
 
   反 歌
 敷妙乃《シキタヘノ》、袖易之君《ソデカヘシキミ》、玉垂之《タマダレノ》、越野過去《ヲチヌニスギヌ》。亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》。
 
(156) 一(ニ)云(フ)乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》
 
●「袖易之君」袖交しし君と云ふこと也●「越野過去」既に薨り坐《マ》して小市《ヲチ》に移し葬れるを云ふ●「八毛」ヤハ〔二字傍線〕の意の反語にて、又も逢ひ給はんやは。再び逢ひがたくなりましつるが、いとほしと也。
 
 右或本(ニ)曰(フ)葬(レル)2河島(ノ)皇子(ヲ)於越智野(ニ)1之時、獻(レル)泊瀬部(ノ)皇女(ニ)1歌也(トイヘリ)。日本紀(ニ)曰(フ)、朱鳥五年辛卯秋九月已巳(ノ)朔丁丑、淨太參皇子川島薨(ズ)。
 
  明日香《アスカ》皇女(ノ)木※[瓦+缶]殯宮之《キノベノ|アラキ《アガリ(?)》ノミヤノ》時、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)獻(ル)2忍坂部《オサカベノ》皇子(ニ)1歌一首並(ニ)短歌
 
 飛鳥《トブトリノ》、明日香乃河之《アスカノカハノ》、上瀬《カミツセニ》、石橋渡《イハハシワタシ》、下瀬《シモツセニ》、打橋渡《ウチハシワタシ》、石橋《イハハシニ》、生靡留《オヒナビケル》、玉藻毛叙《タマモモゾ》、絶者生《タユレバオフル》、打橋《ウチハシニ》、生乎烏禮流《オヒヲヲレル》、川藻毛叙《カハモモゾ》、干者波由流《カルレバハユル》、何然毛《ナニシカモ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、立者《タヽセレバ》、玉藻之如《タマモノゴトク》、許呂臥者《コロブセバ》、川藻之如《カハモノゴトク》、靡相之《ナビカヒシ》、宜君之《ヨロシキキミガ》、朝宮乎《アサミヤヲ》、忘賜哉《ワスレタマフヤ》、夕宮乎《ユフミヤヲ》、背賜哉《ソムキタマフヤ》。』宇部曾臣跡《ウツソミト》、念之時爾《オモヒシトキニ》、春部者《ハルベハ》、花折挿頭《ハナヲリカザシ》、秋立者《アキタテバ》、黄葉挿頭《モミヂバカザシ》、敷妙之《シキタヘノ》、袖携《ソデタヅサハリ》、鏡成《カヾミナス》、雖見不厭《ミレドモアカズ》、三五月之《モチヅキノ》、益目煩染《イヤメヅラシミ》、所念之《オモホシシ》、君與時時《キミトヲリ/\》、幸而《ミユキシテ》、遊賜之《アソビタマヒシ》、御食向《ミケムカフ》、木※[瓦+缶]之宮乎《キノベノミヤヲ》、常宮跡《トコミヤト》、定賜《サダメタマヒヒテ》、味澤相《アヂサハフ》、目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》、』(157)所己乎之毛《ソコヲシモ》、綾爾憐《アヤニカナシミ》、宿兄鳥之《ヌエトリノ》、片戀爲乍《カタコヒシツヽ》、朝鳥《アサトサリノ》、往來爲君之《カヨヒシキミガ》、夏草乃《ナツクサノ》、念之萎而《オモヒシナエテ》、夕星之《ユフツヽノ》、彼往此去《カユキカクユキ》、大船《オホブネノ》、猶預不定見者《タユタフミレバ》。遣悶流《ナグサモル》、情毛不在《コヽロモアラズ》、其故《ソコユヱニ》、爲便知良爾※[二字左(]《セムスベシラニ》、音耳母《オトノミモ》、名耳母不絶《ナノミモタエズ》、天地之《アメツチノ》、彌遠長久《イヤトホナガク》、思將往《シヌビユカム》、御名爾懸世流《ミナニカヽセル》、明日香河《アスカガハ》、及萬代《ヨロヅヨマデニ》、早布屋師《ハシキヤシ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、形見荷此焉《カタミニコヽヲ》。』
 
  石橋。一(ニ)云(フ)石浪●所已乎之毛。一本(ニ)然有鴨●片戀爲乍。一本(ニ)片戀嬬●朝鳥一(ニ)云(フ)朝露
 
●「明日香皇女」天智天皇(ノ)皇女也。文武紀四年夏四月癸未、淨廣肆明日香(ノ)皇女薨(ズ)。遣(テ)v使(ヲ)吊2賻(ス)之(ニ)1。天智天皇(ノ)女也とあり●木※[缶+瓦]《キノベ》は歌の下に云ふべし●「忍坂部皇子」天武天皇(ノ)皇子。上の泊瀬部(ノ)皇女の御兄君也●「石橋渡」此の石橋は、山川などの常に深からぬ川の瀬に、手ごろの石を置き並べて、其上を蹈みて渡るを云ふ。故(レ)枕詞の時も、遠しとも、近しとも、あふみなどゝもつゞけし也。此つゞけの事は、既に出づ。七にとし月もいまだへなくに、あすか川瀬々ゆわた|り《し(?)》し石走無《イハハシモナシ》」又上にも引きし行嚢抄に、飛鳥川は云々石を六七(ツ)並べてそれをわたる。河原村など此南にあり。是をおもへば、昔は川の流も廣かりけんと云へるやうに、廣くはありしなれど、石を置き並べて渡りし事、猶寛永の比ほひの如し。一本に石浪とあるも、石並《イシナミ》にて、物はおなじ事なり。十九【七夕の歌】秋さればきりたちわたるあまの川|伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》つぎて見むかも●「打橋」移橋《ウツシバシ》の義にて、常には板にまれ、丸木にまれ、移しのけて渡るを云ふなれど、こゝは(158)其置き並ぶる石を詞をかへて云へる也。石も取はづさるゝ物にて、移(シ)橋の意は同じかれば也。さなくば橋に藻の生《ハユ》るべきに非ず。十に、石走間々生有貌花乃《イハハシノマヽニオヒタルカホハナノ》ともよみたり●「石橋(ニ)云云打橋(ニ)云云」此八句二聯、辭《テニヲハ》に至る迄、悉く對疊せり。今世の人のかゝる事を云ふをきけば、必ず片たがひにならずてはえあらざるを、如《カク》一(ツ)も背く事のあらざる、妙と云ふべし。さて是迄の十二句は次の玉藻之如《タマモノゴトク》云々をいはんとての序ながら、譬へたる意もあり。人は死にては返り來ざるに何しかもとつゞく也●「何然毛」此句は薨《ウセ》ましたる事を、とがめたるにて、下の賜ふといふにかゝれり。何しか忘賜《ワスレタマフ》と心得べし●「吾王乃」忍坂部(ノ)皇子を指せり●「立者、玉藻之如、許呂臥者、川藻之如久」明日香(ノ)皇女の夫君にしなひ靡き給ふ形容也。ころふすは下に自伏《コロブス》と書けるが如く、立《タツ》の反《ウラ》にて、自ら假に轉臥《コロブス》を云ふ●「靡相之、宜君之」靡きて身も心も依《ヨ》り順ふ君と云ふことにて君は即皇女也。よろしと云ふ言の意。既に一(ノ)卷別記に云ひつ●「朝宮乎忘賜哉、夕宮乎背賜哉」朝宮夕宮とは、常に皇女の御方よりあした夕べに、大君の宮に出でゝ、みけしきを伺ひ給ふ、禮儀《ヰヤコト》あるを以て也。上よりのつゞきは、さばかり靡きまつはり給ひし君の、此頃は其朝宮づかへを忘れ給ふや、夕宮づかへを背き給ふやと咎めたるなり。賜《タマフ》の布《語(?)》は上の何しかもといふ疑ひの言の結びにして、二(ツ)の哉は、與《ヨ》に通ふ歎息也。さて此歌此句にして一段也●「宇都曾臣跡、念之時」うつそみは現身《ウツシミ》にて、死にて目に見えずなりにし魂に對へて此の世中にある人を云ふ。常に枕詞に云ふとは少し異なり。念と云ふ語は、例のそへたるにて此《コヽ》は現身《ウツシミ》なりし時といふこと也。●「春部者云云」此句より以下、十三四句|通《キコ》え易き語のみなれば、釋を省けり●「御食向、木※[瓦+缶]之宮乎」つゞけの意は、御食《ミケ》に對《ムカ》ふ酒《キ》とかけたる也。木※[瓦+缶]《キノベ》(159)は和名抄に大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡|城戸《キノヘ》とある是也。輿地通志云、城上《キノベノ》岡(ハ)在(リ)2大塚村(ニ)1三立岡(ノ)墓は高市(ノ)皇子也。大垣内村(ノ)三立山墓畔(ニ)小冢三(ツ)有(リ)、此内一ツは此皇女の御墓なるべし。かくて上句どもよりつづきたる意は、御在世の時花もみぢにつき、君と時々|幸《イデマ》しゝ此廣瀬の城戸《キノベ》の岡が終《ツ》ひの宮所と成りたりと云ふ也●「常宮跡定賜」底宮《ソコツミヤ》にて終《ツ》ひの留りと云はんが如し。上の舍人が歌に、よそに見し眞弓の岡も、君ませば常都御門跡とのゐするかもとよめるに同じ心也●「味澤相」味鳧多經《アヂカモサハフ》にて、味群鳥《アヂノムラトリ》の群《ム》れてわたる意なるを、其の牟禮《ムレ》を約めて、米《メ》と受けたるなりと云へり●「目辭毛絶奴」逢見る事の絶去(ニ)たるを云。齊明紀に天皇崩坐ける時大兄皇子(ノ)命|他《ヨソ》にはなれおはしけるを悔まして「君が目のこほしきからにはてゝゐてかくやなげかん君がめをほり」と歎き給ひし、此の米《メ》と同じ。言別の體《?》見合すべし●「所巳乎之毛、綾爾憐」其所《ソノトコロ》が甚だ悲しさにと云ふ意なり。此句本行に、然有鴨《シカレカモ》とあれど、一本の方まされるにつきて、表にたてつ●「宿兄烏之.片戀爲乍」※[空+鳥]鳥のうらなけとも、のどよびともつゞけ云へる如く、かれが鳴くこゑの甚切なる貌に聞ゆるを以て、片戀とつゞけならへるなるべし。さて此《コヽ》に片戀爲乍と詔へるは、薨(リ)坐《マ》したる皇女の事を跡にのこりて、獨り戀ひ給ふを云ふ。常に云ふとは別《コト》なり。是も本行に片戀嬬とあれど一本の方を本文に立てつ。●「朝鳥、往來爲君之」朝鳥はねぐらを出でゝ、あさりしにかよふものなるを以てつゞく。此《コヽ》は皇子の御墓に通ひ給へるを譬へたり。朝鳥の如くと心得べし。●「夏草乃念之萎而」上にも此つゞけありき。更に按ふるに、こは夏の草の炎天に照られて萎《シナ》るるよしのつゞけなるべし●「夕星之、彼往此去」夕星、和名抄(ニ)云(フ)太白星、一名長庚、暮(ニ)見(ルル)2於西方(ニ)1爲2長庚(ト)1【由不豆々】とあり。因(テ)v之(ニ)此のかゆきかくゆきを長庚星の或は西に出で、或は東に去りて見ゆるに(160)たとふと、人おもへれど暮と曉との事を以《モ》て譬へんもいかゞ也、按ふるに夕つゞとは、必しも長庚星のみの名には限るべからず。夕べの空に見えそむるすべての星をも云ひて、俗《ヨ》にいはゆる流皇《ヨバヒボシ》の、かゆきかくゆき飛びちがふを以て、たとへそめたるならんか●「大船云々」此の間《ホド》の語ども、既にも出で、通《キコ》え安くもあれば省きぬ●「爲便知良爾」今本知之也とあるに就て、すべ知らましやと訓みたれど聞えがたし。之也は良爾の寫誤りにて、せんすべしらにと有るべきつゞきなれば改めつ。それ故に、せんかたなしにと云ふ意也●「音耳母、名耳毛不絶」おとゝは音にきくなどの音にて、名高き皇女の御音ばかりも、御名ばかりもと云ふにて、此二(ツ)の耳《ノミ》にせめてそれなりとも、絶えずしのびゆかんと、下へつゞくなり●「御名爾懸世流、明日香河」明日香(ノ)皇女と申す御名と、明日香川と云ふ川の名と、一(ツ)言に相懸りたるにて、名に負ふと云ふとつひに同じ意の語也●「早布屋師」愛《ハシキ》にて屋師《ヤシ》は與師《ヨシ》とも云ひて歎美の辭也。さる故に此語は何事にまれ賞《ホメ》たゝへ愛《メヅ》ることにてよめる中に、其輕きは五七の調べによりて、只枕詞のさまに置けるもあれど、凡べてほむる意ははなれざる也。
●一編の總意は、皇女の御名におへる、明日香河の上つ瀬に、石を置き並べ、下つ瀬に、石を移しよせて渡る事あり。其石間に生ふる玉藻もぞ、絶ゆれば又生る、其の石に生ひしげれる川藻もぞ、枯るれば又はゆる」【是迄十二句比喩序也。人死にては又とは反り來ずと含めてきくべし】彼の皇女の命はよ、是まで吾大王忍坂部皇子の立たせれば玉藻のごとく、轉臥《コロフ》せば川藻の如く、しなひ靡き坐《マ》して、さばかり御中うるはしき姫みこの君が、此比は何しかも、夫《セ》の君の朝宮づかへを忘れ給ふよ。夕宮づかへを背き給ふよ」【是迄一段也、かく云ひて薨坐(シヽ)事を含めたれば次には世におはしゝほどの事を云ふ也】さても世にましゝ時には、春は花をかざし、秋は(161)もみぢをかざし、袖たづさはりて見れどもあかず、近まさりにめづらしみおもほしける姫皇子の君と、をり/\幸《イデマ》して遊び賜ひし廣瀬の城戸《キノベノ》岡を、終《ツ》ひの常《トコ》つ宮と定めてかくり給へれば、今は逢ひ見ます事も絶えはて給ひぬ」【此句にて二段なり】皇子の御心にそこを悲しみ、※[空+鳥]鳥の喉よぶ如くにぬしなき片こひしつゝ、殯宮に御跡したひて思ひしなえ、道も定めずこなたかなたたゆたひ給ふを見奉るわれさへに、なぐさむる心もなし。それ故にせんすべなみ、せめて明日香と申す御名ばかりも此《コヽ》にとゞめて、ひめみこの御形見と、遠く、長くしたひゆかんとなり。【三段】
 
   短歌二首
 明日香川《アスカガハ》、四我良美渡之《シガラミワタシ》、塞益者《セカマセバ》、進留水母《ナガルヽミヅモ》、能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》。
 
●「短歌」こゝに短歌とあるもの、長歌三段なりし故に、反しには用ひざりし故ぞ ●「能杼爾賀有萬思」一本の與抒《ヨド》と合するに、能杼《ノド》も猶淀む意なる事、のどまるを、よどまるといはんが如し。
●一首の意、表はたゞ譬へのみにて、其餘情に此川のゆく瀬も、せかばせきとゞむべければ、皇女の御命もとゞめまゐらするよしの有りなんものをと悔みたる也。忠岑の歌に「瀬をせけば淵となりてもよどみけりわかれをとむるしがらみぞなき。今とくらぶればよわくちひさきわざにこそ。
 
 明日香川《アスカガハ》、明日谷將見等《アスダニミムト》、念八方《オモヘヤモ》、吾大君《ワガオホキミノ》、御名忘世奴《ミナワスレセヌ》
 
(162)●「明日香川云々」明日香川と云ふより明日と受けたり。谷《タニ》とおける意は、明日と云ふは今日の次にて、只一日の事なるが、其明日だにの意也。一本に左倍《サヘ》とあるは非也。念八方《オモヘヤモ》はおもへやはの意にて、あすも見むとは憑み奉らねば、却て御名に通ひて皇女の御事は忘られ奉らぬよとなり。三句一本に香毛《カモ》とあるもあしからず。結句|奴《ヌ》の下に、歎息の餘情を合めたり。
 
 
  高市(ノ)皇子尊《ミコノミコトノ》城上殯宮之時《キノベノ|アラキ《アガリ(?)》ノミヤノトキ》、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌一首並短歌
 
 挂文《カケマクモ》、忌之伎鴨《ユヽシキカモ》、言久母《イハマクモ》、綾爾畏伎《アヤニカシコキ》、明日香《アスカノ》、眞神之原爾《マガミガハラニ》、久堅能《ヒサカタノ》、天津御門乎《アマツミカドヲ》。懼母《カシコクモ》、定賜而《サダメタマヒテ》、神佐扶跡《カムサブト》、磐隱座《イハガクリマス》、八隅知之《ヤスミシヽ》、吾大王乃《ワガオホキミノ》、所聞見爲《キコシメス》、背友乃國之《ソトモノクニノ》、眞木立《マキタツ》、不破山越而《フハヤマコエテ》、狛劔《コマツルギ》、和射見我原乃《ワザミガハラノ》、行宮爾《カリミヤニ》、安母理座而《アモリイマシテ》。天下《アメノシタ》、拂賜而《ハラヒタマヒテ》、食國乎《ヲスクニヲ》、定賜等《サダメタマフト》、鳥之鳴《トリガナク》、吾妻乃國之《アヅマノクニノ》、御軍士乎《ミイクサヲ》、喚賜而《メシタマヒテ》、千磐破《チハヤブル》、人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》、不奉仕《マツロハヌ》、國乎治跡《クニヲヲサメト》、皇子隨《ミコナガラ》、任賜者《マケタマヘバ》、大御身爾《オホミミニ》、大刀取帶之《タチトリオバシ》、大御手爾《オホミテニ》、弓取持之《ユミトリモタシ》、御軍士乎《ミイクサヲ》、安騰毛比賜《アドモヒタマヒヌ》、』齊流《トヽノフル》、鼓之音者《ツヾミノオトハ》 雷之《イカヅチノ》、聲登聞麻低《コヱトキクマデ》、吹響流《フキナセル》、小角乃音波※[左(]《クダノオトハ》、敵見有※[アダミタル]、虎可叫吼登《トラカホユルト》、諸人之《モロビトノ》、恊流麻低爾《オビユルマデニ》、指擧有《サヽガセル》、幡之靡者《ハタノナビキハ》、冬木成《フユゴモリ》、春野燒火(163)乃《ハルヌヤクヒノ》、風之共《カゼノムタ》、靡如久《ナビケルゴトク》、取持流《トリモタル》、弓波受乃驟《ユハズノサワギ》、三雪落《ミユキフル》、冬乃林爾《フユノハヤシニ》、飄可毛《ツムジカモ》、伊卷渡等《イマキワタルト》、念麻低《オモフマデ》、聞之恐久《キヽノカシコク》、引放《ヒキハナツ》、箭繁計久《ヤノシゲケク》、霰成《アラレナス》、亂而久禮婆《ミダレテクレバ》、不奉仕《マツロハズ》、立向之毛《タチムカヒシモ》、露霜之《ツユジモノ》、消者消倍久《ケナバケヌベク》、去鳥乃《ユクトリノ》、相競端爾《アラソフハシニ》、渡合乃《ワタラヒノ》、齋宮從《イツキノミヤユ》、神風爾《カムカゼニ》、伊吹惑之《イブキマドハシ》、天雲乎《アマグモヲ》、日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》、常闇爾《トコヤミニ》、覆賜而《オホヒタマヒテ》、定之《サダメテシ》、水穂之國乎《ミヅホノクニヲ》、神隨《カムナガラ》、太敷座而《フトシキマシテ》、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、天下《アメノシタ》、申賜者《マヲシタマヘバ》、萬代《ヨロヅヨニ》、然之毛將有登《シカシモアラムト》、木綿花乃《ユフハナノ》、榮時爾《サカユルトキニ》、吾大王《ワガオホキミ》、皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》、神宮爾《カムミヤニ》、装束奉而《ヨソヒマツリテ》、遣使《ツカハシシ》、御門之人毛《ミカドノヒトモ》、白妙《シロタヘノ》、麻衣著《アサゴロモキテ》、埴安乃《ハニヤスノ》、御門之原爾《ミカドノハラニ》、赤根刺《アカネサス》、日之盡《ヒノコト/”\》、鹿自物《シヽジモノ》、伊波比伏管《イハヒフシツヽ》、烏玉能《ヌバタマノ》、暮爾至者《ユフベニナレバ》、大殿乎《オホトノヲ》、振放見乍《フリサケミツヽ》、鶉成《ウヅラナス》、伊波比廻《イハヒモトホリ》、雖侍侯《サモラヘド》、佐母良比不得天《サモラヒカネテ》、春鳥之《ハルトリノ》、佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》、嘆毛《ナゲキモ》、未過爾《イマダスギヌニ》、憶毛《オモヒモ》、未盡者《イマダツキネバ》、言左敞久《コトサヘグ》、百済之原從《クダラノハラユ》、神葬《カムハフリ》、葬伊座而《ハフリイマシテ》、朝毛吉《アサモヨシ》、木上宮乎《キノベノミヤヲ》、常宮等《トコミヤト》、定奉而《サダメマツリテ》、神隨《カムナガラ》、安定座奴《シヅモリマシヌ》、』雖然《シカレドモ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、萬代跡《ヨロヅヨト》、所念食而《オモホシメシテ》、作良志之《ツクラシシ》、香來山之宮《カグヤマノミヤ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》、天之如《アメノゴト》、振放見乍《フリサケミツヽ》、玉手次《タマダスキ》、懸而将偲《カケテシヌバム》、恐有騰(164)文《カシコカレドモ》。』
 
 忌之伎鴨、一(二)云(フ)由遊志計禮杼母●拂賜而、一本(二)治賜●國乎治跡、一(二)云(フ)掃部等●小角乃音母、一(二)云(フ)笛之音波●協流麻低爾、一(二)云(フ)聞惑麻低《キヽマドフマデ》●冬木成春野燒火乃、一本(二)春去來者野毎着而有火之●霰成亂而久禮婆、一本(二)大雪乃曾知余里來禮●露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾、一(二)云(フ)朝霜之消者消河爾、打蝉等、安良蘇布波之爾●然之將有登、一(二)云(フ)如是毛安良無等●吾大王皇子之御門乎、一(二)云(フ)刺竹皇子御門乎。
 
高市皇子尊」此御子の御事、既にも出たれど猶申さば、朱鳥三年に、皇太子に立ち給ひ、持統天皇十年七月、薨り給ひぬ。まだたゞの御子におはしゝ時より、奇しく優れて健《タケ》くさへ坐《マ》しければ、大友(ノ)皇子の亂の時も、紀(二)云(ハク)先遣(シテ)2高市皇子(ヲ)於不破(二)1令v監(セ)2軍事(ヲ)1とありて偏に此皇子の大功によりてたゞ一戰に勝利を得給ひ、民の煩ひにもならず止みき。かれ柿本(ノ)朝臣悼みの中に其勲功を奉(レ)v稱《タヽヘ》り。紀にも載せられたれど、此皇子の威名・大功は、此歌に依りて萬代に朽つべからず。皇子と作者とあひにあひたるこそ貴けれ。●「城上」此地の事は上に出づ。御墓の事は歌に云ふべし●「挂文、忌之伎鴨、言久母、綾爾畏伎」尊き御上の事を賤き口にかけて白すも、忌はしく且つあなに畏しと云ふことを對に云ふとて、挂ると言ふことを二つに分けたる也。さて此《コヽ》に先づ、天武天皇の御事より申し出でたるに.清御原の宮號は申さずして、眞神の御陵を以て申せるは、皇子の喪を申すに就てなり。かゝる故實も心得おくべきわざぞ。●「明日香乃、眞神之原爾云々」天武の御陵也。山陵式に、檜隈大内《ヒノクマノオホチノ》陵とある、是也。下に大内(ノ)眞神(ノ)原とよみ、崇峻紀に、始作(ル)2法興寺(ヲ)此地(二)1名《ク》2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原(ト)1亦名(ク)2飛鳥苫田(ト)1とあり●「天津御門乎」上の(165)歌に、天(ノ)原石戸を閉《タ》てて神上(リ)上(リ)いましぬと云ふ事と同じくて、幽冥(ノ)宮を云ふ●「神佐扶跡」是も常に神隨《カムナガラ》、神佐備爲跡《カムサビセスト》と云へる語を約めたるにて、幽冥の方へ神進《カムスヽミ》て磐隱座《イハガクリマス》とつゞきたり。則石槨の内に隱《コモ》り給ふにあたれり●「八隅知之、吾大王乃」其の磐隱座《イハガクリマ》しゝ天皇のと云ふつゞき也。是を別に御在世に立ちかへり云ふと心得たるはひが事也。上の日並知皇子(ノ)尊の殯の宮(ノ)歌に、天地之初時之《アメツチノハジメノトキシ》云々|天雲之《アマグモノ》、八重掻別而《ヤヘカキワケテ》、神下《カムクダシ》、座奉之《イマセマツリシ》、高照《タカヒカル》、日之皇子波《ヒノミコハ》とつゞけたる類ひ也。●「所聞見爲、背友乃國之」其天皇のしろしめす北東《ソトモ》の美濃國之といふことなり●「眞木立」枕詞ながら、こは實に眞木どもの立ちてあるを云ふ也。同國不破郡不破山にて、關も此時に建てられたる也。●「狛劔、和射見我原乃」高麗の劔には、柄の頭に環を着けたり。環のたぐひも輪といへば、和射見と云ふに連けたり。和射見は各務《カヾミノ》郡也。式に美濃(ノ)國各務(ノ)郡和佐美(ノ)神社有り。●「行宮爾、安母理座而」紀(二)云(ハク)高市(ノ)皇子自(リ)2和※[斬/足《ワザミ》1參(リ)迎(ヘ)以便(チ)奏言(ス)云々天皇於v茲|行宮《カリミヤヲ》興(シテ)野上(二)1而居焉《マシマス》とありて高市(ノ)皇子は和※[斬/足]《ワザミ》に出て、近江の敵を塞《セ》きとめ給ひ、天皇は桑名より野上の行宮に遷りおはしまして野上より和※[斬/足]へ渡り幸《イデマ》して、御軍の事聞しめしぬ。天降座而《アモリイマシテ》とは即神になして白《マヲ》せる詞也●「天下拂賜而云云」此間の七八句、通《キコ》えやすかれば略す。見ん人自らの心を動すべし。其中に「鳥之鳴」は男女相(ヒ)寢せし曉に、※[奚+隹]の聲を聞て鳥が鳴くよ吾妻《アヅマ》と催す意を以てつゞけそめたる事、言別に出づ●「千磐破」善神につゞくるは稜威の畏きを云ひ、惡神につゞくるは暴逆のはげしきに係る也。こゝも荒ぶる人につゞきて、其れを和《ヤハ》しとゝのふるを云ふ●「不奉仕、國乎治跡」まつろふとは歸順するを云ふ。治めとゝのひてをさめよとてと云ふ意也●「安騰毛比賜」御軍士を率ゐ給ふを云ふ。言の意は、後伴《アトトモナヒ》の義なる事、鐘(ノ)響中卷三十二段に精しく出づ。古本亦一(166)本等に賜の下に、奴《ヌ》の字あり、加へてたまひぬとよむべし。此句にて一段也●「齊流、鼓之音者」とゝのふるとは軍士を呼(ビ)起し集め調ふるを云ふ。三【十三】大宮のうちまで聞ゆ網引《アビキ》すと網子調流海人《アゴトヽノフルアマ》のよびごゑ●「小角乃音波」天武紀に大角小角《ハラクダ》又云々とある是也、和名抄(ニ)云(ハク)角兼名苑註(ニ)云(フ)角(ハ)本(ト)出(ヅト)2胡中(ヨリ)1、或(ハ)云(フ)出(ヅト)2呉越(ヨリ)1以(テ)象(ドル)2龍吟(ニ)1也。楊氏(カ)漢語抄(ニ)云(ハク)大角(ハ)波良乃布江《ハラノフエ》、小角(ハ)久太能布江《クダノフエ》とあり●「敵見有虎可叫吼登」虎の敵に向ひていかれる聲かとおどろくよし也。虎歟《トラカ》も吠《ホ》ゆると云ふ意なれば、可《か》は疑ひの歟也。●「恊流麻低爾」此語後世の冊子《サウシ》などには、夜更けておびえ給ふ事たび/\なり。ものゝけにやと、わかき人々はさゝやきあへり【忍草物語】やゝとおびゆる聲におどろきなど云へる事恒あれど、此集の頃の物にはいまだ見あたらず●「春野燒火乃、風之共」今の本文に、春去來者野毎着而有火之《ハルサリクレバヌゴトニツキテアルヒノ》とあるはおとりたり。故《カレ》一本の方を本文には立てたる也。天皇の赤旗の靡くを、火に譬へたるなり ●「弓波受乃驟」數百人の射手の、一同に箭を射る、其の弦《ユヅル》の弭《ハズ》に觸る音の囂《カマビス》しきを弓弭のさわぎと云ふ。されば次句|へ《は(?)》箭の繁く飛ぶを云へり●「冬乃林爾、飄可毛伊卷渡等、念麻低、聞之恐久、引放、箭繁久」此の飄は、冬の落葉を卷きあげて散すよしにて箭繁久《ヤノシゲヽク》へかゝり、聞きの恐くは弓弭の音鞆の音等なり●「霰成、亂而久禮婆」彼卷きあげたる木の葉の如き中より、敵陣へ亂れておちくるを云ふ。本文の大雪乃、一本の曾知餘里《ソチヨリ》などある、共に劣りたり●「不奉仕、立向之毛」此句は姑く切りて、下の伊吹惑之《イブキマドハシ》と云ふへ係けて聞くべし●「露霜之、消者消倍久」も盡《ツ》きばつきよと身をすてゝ戰ふ也。●「去鳥乃、相競端爾」群鳥は飛ぶときわれおとらじと先を競ふものなるを以て譬ふ。端《ハシ》は間《ハシ》にてあひだにといふ意也●「渡會乃、齊宮從、神風爾」紀(ニ)云(ハク)天皇入(ル)2東國(ニ)1云々將v及(ムトシテ)2横河(ニ)1有(リ)2黒雲1經《ワタレリ》v天(ニ)。廣十餘丈、時天皇異シム)v之(ヲ)また(167)於2朝明(ノ)郡(ノ)迹太川《トホカハノ》邊(ニ)1望《タヨセニ》拜(ス)2天照大神(ヲ)1などあればさる驗もありしなるべし。さて此《コヽ》に齋宮と云るは、奉(ル)v齋(キ)神(ノ)宮と云ふことにて、天照大神を奉(ル)v申(シ)也。外宮|所《など(?)》の事にはあらず●「天雲乎、云云常闇爾覆賜而」とあるまで皆神の御しるし也。然《サ》ばかりいたづきてさだめてし水穂(ノ)國も云々と申せる也●「水穂之國乎」以下五句、天皇の御上を申して、天下申(シ)賜者と云ふより、高市(ノ)皇子尊の政事を申し給ひし事に云ひ●「萬代、然之毛將有登」萬年迄もかやうに政事申しておはさんとてと云ふ意也●「木綿花乃」木綿|以《モ》て造れる花にて、英《フサヤ》かに飾りなせしゆゑに、さかゆるとはつゞけならひし也●「榮時爾」扶桑略記(ニ)云(ハク)御年四十三。懷風藻葛野王傳を按ふるに今年御即位の催しもありし趣也●「神宮爾、装束奉而」神宮は幽宮《カスカミヤ》にて、此《コヽ》は皇子(ノ)尊の宮を殯宮に装束改《ヨソヒカ》へたるを云ふ●「遣使、御門之人毛」皇子の使ひ給ひし春宮附きの人々も、皆喪服を着たるよし也●「埴安乃、御門之原爾」下に香來山之宮とある、是れ皇子の宮にて、其前通の原を御門之原とは云へるなり●「赤根刺」以下七句きこえ易き語どもなれば、釋を省けり●「春鳥之、佐麻欲比奴禮者」此つゞけ、春鳥より受くるかたは吟《サマヨフ》にて、鳥の吟《ギン》ずる意也。下の受けたる方は、眞迷《サマヨ》ふにてせんすべを知らぬ意也。又此の奴禮者《ヌレバ》はぬるにの意なり。「わたりはてぬにと云ふを渡波天禰婆《ワタリハテネバ》と云へるたぐひなり●「憶毛、未盡者」是もいまだつきぬにの意なり。これらを常のぬればの意としては、下へつゞきがたし●「言左敝久、百済之原從」さへぐは景行紀に喧※[言+華]《サヘギ》とよみたり。さればさやぐと本(ト)同語なるべし。異國の人のものいひの、鳥さへづりなるを云ふ。百済之原は、香來山(ノ)宮より廣瀬の木上《キノベ》へゆく道にあり●「木上宮乎」諸陵式(ニ)云(ハク)三立(ノ)岡(ノ)墓、高市(ノ)皇子。在(リ)2廣瀬(ノ)郡(ニ)1即大垣内村●「常宮等云云、安定座奴」常《トコ》つ宮と定めて、長く鎭り坐《マ》しぬと云ふなり。(168)これらの言ども既にも出づ。此句にして二段也●「雖然」是より以下、皇子(ノ)尊(ノ)作り磨《ミガ》かれし、香來山(ノ)宮の事を申してとぢめたり。
●一篇の總意は、賤き口の端にかけて申すは恐れ多かれど、飛鳥の大内の眞神の原に、天津幽宮《アマツカミノミヤ》を畏くも定め給ひて、神ながら神さびせすと、其幽宮に岩隱坐《イハカクリマ》しける天皇のしろしめす背友の美濃の國、眞木どもの多く立てる不破山越えて、各務《カヾミノ》郡なる和※[斬/足]《ワザミ》が原の行宮《カリミヤ》に、天くだらして天の下を拂ひ清めて、食國を定め給ふと、東國の御軍士を喚《メシ》給ひてあらぶる人を和《ヤハ》せ、又|不奉仕《マツロハヌ》國を治めよと任《マ》け給へば、皇子ながら大御身に大刀とり帶ばし、大御手に弓とりもたし、御軍士等を率ゐ給ひて、そを催し調《トヽノフ》る鼓のおとは、雷《イカヅチ》の聲ときくまで打ちはげみ、吹鳴す小角《クダ》の音は敵に向ひていかれる虎かも吼ゆると諸人のおびゆる迄も吹きわなゝかし、捧げたる赤旗の靡きは、春野やく火の、風につれてなびくが如く、箭先をそろへて射放つ弓弭のさわぎは、冬の林の落葉をば飄《ツムジ》かぜの吹きまくかとおもふまで、聞きのかしこく、引放つ箭の繁く、霜のごと飛び來て死なばしなんと命を棄て先を競ふ間《ハシ》に、不奉公《マツロハズ》立向ひしも渡會の斎宮より吹く神風に、伊吹惑はし、天雲を日のめも見せず、常闇に覆ひ賜ひて、神も君もいたつき定めてし水穂國を神そのまゝに太敷|坐《マ》せる天皇尊《スメラミコト》の天下を、皇子《ノ》尊まつりごち給へれば、萬代もかくながらさかえゆかんとおもひたのみし、皇子の宮を、俄に殯宮によそひかへ、召使はしゝ御門の人も、白妙に喪服を着て、其宮の前なる御門が原に、晝はひねもす伊這《イハヒ》伏しつゝ、夕べになれば、大殿をあふぎて匍匐廻《ハヒメグ》りさもらへど、侍候《サモラヒ》かねて、春鳥のごとさ迷ひぬるに、其嘆きもいまだ過ぎぬに悶《オモ》ひもいまだ盡きぬに、百済《クダラ》の原に神はふり葬りいまして、廣瀬の城戸《キノベ》の宮を終《ツ》ひの常《トコ》つ宮と、(169)神ながら安定《シヅマリ》坐《マ》しぬ。然れども、皇子(ノ)尊の萬代迄もとおもほしめして作らしゝ彼の香來山(ノ)宮萬代に過ぎ失せめやは。せめて是をだに天の如く振り放け見つゝ心にかけて慕ひゆかん。恐《カシコ》くははべれども、となり。
 
  短歌二首
 久堅之《ヒサカタノ》、天所知流《アメシラシヌル》、君故爾《キミユヱニ》、日月毛不知《ツキヒモシラズ》、戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
●「天所知流」是神世よりの古語にして、崩り坐《マ》しては其御魂の天しらす事、道別に委しく辨へたるが如し●「君故爾」君なるにと云ふ意なり●「月日毛不知」世は常闇になりし心ちしてこひ奉る哉と也。
 
 埴安乃《ハニヤスノ》、池之堤之《イケノツヽミノ》、隱沼之《コモリヌノ》、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》、舍人者迷惑《トネリハマドフ》。
 
●「隱沼之」こもりぬと云ふに二種あり。一つは草木の葉等に埋もれて見えぬを云ふ。今一つは此うたの如く、堤に包みこめられて水のゆく方なきをも云ふ。今は三の句迄は序にてゆくへをしらずといはん迄に、其處の物を借りたるなり。
 
  檜隈(ノ)女王作(ル)歌
 
 哭澤之《ナキサハノ》、神社爾三輪須恵《モリニミワスヱ》、雖祷祈《イノレドモ》、我王者《ワガオホキミハ》、高日不所知奴《タカヒシラサヌ》。
 
●「檜隈(ノ)女王」慥に知りがたかれど、高市皇子の御妃《ミメ》の内なりけらし●「哭澤之神社爾」記に(170)云はく、坐(スヲ)2香山之|畝尾木本《ウネヲノコノモトニ》1名(ク)2泣澤女神(ト)1とある是也●「三輪須惠」みわは酒器の名也。故に居(ヱ)て供する時の名となれり。水を椀《モヒ》と云ふが如し●「高日不知奴」今本不の字を脱して、高日所知奴《タカヒシラシヌ》と訓みたれど、さては調《トヽノ》はず。此は天所知《アメシラス》と云ふとは別にて、常に高日光日之御子《タカヒカルヒノミコ》と稱《マヲ》す。高日なれば、此世に在《マシ》て、高照しませと祈れども、天(ツ)御座しらさぬよと歎き給ふなり。掖斎本に日の下に不の字あるぞよき。下の奴の字はそへたるなり。さる書ざま處々あり。
 
 右一首、類聚歌林(二)曰(フ)、檜隈《ヒノクマノ》女王(ノ)怨2泣澤(ノ)神社1之歌也。案(二)2日本紀1持統天皇十年丙申秋七月辛丑(ノ)朔庚戌高市皇子尊薨
 
  寧樂《ナラ》宮(二)御宇(シヽ)天皇(ノ)御代、但馬(ノ)皇女薨(タマヘル)後、穂積(ノ)皇子|冬日雪落《ユキノフルヒ》遙《ハルカニ》望《ミサケテ》2御墓(ヲ)1悲傷流涕《ナゲキカナシミテ》御作歌《ヨミタマヘルウタ》
 
 零雪者《フルユキハ》、安幡爾勿落《アハニナフリソ》、吉隱之《ヨナバリノ》、猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》、寒有卷爾《サムカラママクニ》。
 
●「但馬皇女薨後」元明紀和銅元年六月丙戌三品但馬(ノ)内親王薨。天武天皇之皇女也と見ゆ。穂積皇子は天武第五の皇子なり●「安幡爾勿落」深くなふりそと云ふことなり。古今集に雲のあはだつとよみたるに同じ●「吉隱之猪養乃岡之」大和(ノ)國城上(ノ)郡なり。諸陵式に云はく、吉隱(ノ)陵は皇太后紀氏。在(リ)2大和(ノ)國城上(ノ)郡(二)1。猪養山は通志に云はく在2吉隱《ヨナハリ》村(ノ)上方(二)1。山(ニ)多(シ)2楓樹1。持統紀(ニ)云(フ)、九年十月幸(ス)2菟田(ノ)吉隱1即此今隷(ス)2本郡(二)1其(ノ)野曰2浪芝野(ト)1と見ゆ。皇女の墓此の岡にあるなれば猪養乃岡之墓乃と心得べし●「寒有卷爾」さむからんにと云ふなり。今|塞爲卷爾《セキナラマクニ》と訓みたれどむ(171)げに聞えず。端書にも合はざれば、向《サキ》に考へて萬葉緊要にも出しつ。御子たちの事既にも出て、實に此端書の如く、御墓につもる雪を見て、さぞ寒からんにと、なみだにひぢ給ふほどの御中とぞしられたる。
●一首の意を猶いはば、ふる雪はあまり深くなふりそ。かく世にある身だにも寒きに、かの猪かひの岡の皇女の墓は、さぞなさむからんにとなり。いとあはれなるみうたなるべし。
 
 弓削(ノ)皇子(ノ)薨(タマヘル)時、置始《オキソメノ》東人(ノ)作(ル)歌一首並短歌
 
 安見知之《ヤスミシシ》、吾王《ワガオホキミ》、高光《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天宮爾《アマツミヤニ》、神隨《カムナガラ》、神等座者《カミトイマセバ》、其乎霜《ソコヲシモ》、文爾悲※[左(]美《アヤニカナシミ》、晝波毛《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコト/”\》、夜羽毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコト/”\》。臥居雖嘆《フシヰナゲケド》、飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
 
●「弓削皇子薨時」續紀に云はく、文武天皇三年秋七月癸酉淨廣貮弓削(ノ)皇子薨(ズ)云云。皇子(ハ)天武天皇之第六(ノ)皇子也と有り。長(ノ)皇子の御ためには同腹の御弟也●「天宮爾」天知《アメシラ》すと云ふと同じ。終《ツ》ひの宮也●「神隨神等座者」神そのまゝ幽《カミ》と坐《イマ》せばにて、目に見えずなりましつればと云ふ意なり。以下前後に多かる語どもなれば、此に略す。
●一篇の意は、安見し爲《セ》す吾大王、天照す日之御子、いかさまにおもほしけめか、天知す宮にこもりて、神其まゝ幽《カミ》といまし、うつつに見えまさずなりましつれば、其《ソコ》をしも甚く悲しみ、晝はひねもす、夜は夜もすがら、臥し居なげゝど、猶あまりありと也。●「文爾悲美」今本恐美(172)とあるは、寫し誤りつらんとて改めつ。
 
  反 歌
 王《オホキミハ》、神西座者《カミニシマセバ》、天雲之《アマグモノ》、五百重之下爾《イホヘガシタニ》、隱賜奴《カクリタマヒヌ》。
 
●大王は神におはしませば、まことは、うせ坐したるにあらず。獨神成坐而《ヒトリガミナリマシテ》隱(シ)v身(ヲ)給ひし神たちの如く、天雲の五百重が裏に、御身を隱させ給ひしにこそ、となり。三(ノ)卷にも似たる歌出たれど、心異なり。
 
 神樂浪之《サヽナミノ》、志賀左射禮浪《シガサザレナミ》、敷布爾《シクシクニ》、常丹跡君之《ツネニトキミガ》、所念有計鵡※[佐(]《オモホセリケム》。
 
●今本又短歌一首と記して、此歌を擧ぐ。されど此の邊りに屬すべき歌にあらず。按ずるに、此は上の天智天皇崩之時作る歌の反歌の、此處に紛れたるなり。其意以て解かば、●此の湖邊に大宮を遷して、さゝなみの志賀さざれ浪《ナミ》益《イヤ》重々《シク/\》に見晴らして、常《トハ》に坐さんと、君がおもほせりけんに、はかなく坐しけるかなと惜み奉るなり。然るときは、今本に計類《ケル》とある、調はず。必ず、計鵡《ケム》と有るべきかゝりなれば今改めつ。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂|所竊通娘子死之時※[八字左(]悲傷《シヌビテカヨヘルヲトメガウセタルトキカナシミテ》作(ル)歌
 
 天飛也《アマトブヤ》、輕路者《カルノミチハ》、吾妹兒之《ワギモコガ》、里爾思有者《サトニシアレバ》、懃《ネモゴロニ》、欲見騰《ミマクホシケド》、不止行者《ヤマズユカバ》、(173)人目乎多見《ヒトメヲオホミ》、眞根久往者《マネクユカバ》、人應知見《ヒトシリヌベミ》、狹根葛《サネカヅラ》、後毛將相等《ノチモアハムト》、大船之《オホブネノ》、恩憑而《オモヒタノミテ》、玉蜻《カギロヒノ》、磐垣淵之《イハカキブチノ》、隱耳《コモリノミ》、戀管在爾《コヒツヽアルニ》、渡日乃《ワタルヒノ》、晩去之如《クレヌルガゴト》、照月乃《テルツキノ》、雲隱如《クモガクルゴト》、奥津藻之《オキツモノ》、名延之妹者《ナビキシイモハ》、黄葉乃《モミヂバノ》、過伊去等《スギテイニキト》、玉梓之《タマヅサノ》、使乃言者《ツカヒノイヘバ》。梓弓《アヅサユミ》、聲爾聞而《オトニキヽテ》、將言爲便《イハムスベ》、世武爲便不知爾《セムスベシラニ》、聲耳乎《オトノミヲ》、聞而有不得者《キヽテアリエネバ》、吾戀《ワガコフル》、千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》、遣悶流《ナグサモル》、情毛有八等《コヽロモアレヤト》、吾妹子之《ワギモコガ》、不止出見之《ヤマズイデミシ》、輕市爾《カルノイチニ》、吾立聞者《ワガタチキケバ》、玉手次《タマダスキ》、畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》、喧鳥之《ナクトリノ》、音母不所聞《オトモキコエズ》、玉桙《タマボコノ》、道行人毛《ミチユクヒトモ》、獨谷《ヒトリダニ》、似之不去者《ニシガユカネバ》、爲便乎無見《スベヲナミ》、妹之名喚而《イモガナヨビテ》、袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。
 
  聲爾聞而、一(二)云(ハク)、聲耳聞而、或本(二)有(リ)2名耳聞而有不得者(ノ)句1
 
●「所竊通娘子死之時」此端書本に柿本朝臣人麻呂妻死之後、泣血哀慟作歌二首並短歌とて並べ出したれども、此二首の長歌同時によみたるにはあらず.此一首は、人麻呂主年弱き時、京に在ししほど、忍びて通ひし女の、死《ウセ》けるを悼めるうた也。次なるは、石見より歸京の後、嫡妻の死けるを悲める歌也。故にこたび、端書を正し改めて別にせり。
●「天飛也」鳧《カル》とかかる枕詞也。允恭(ノ)段歌に出でて、言別に云へり●「輕(ノ)路者」高市郡にて今も大かると云へり●「眞根久」多きを云ふ古語、一卷に、浦さぶる心さまねしとある條に云へ(174)り●「人應知見」べみのべは、べけれのべ、又めりめの通音、みは山高み、月きよみなど云へるみにて、故にと云ふ意也。されば、人しりぬべみと云ひて、人しりぬべき故にと云ふ意になる也●「狹根葛、復毛將相等」狹根葛の事既に出づ。葛はおのが向々延ぶる故にかくつゞく●「玉蜻、磐垣淵之」巖の絶壁の、日溜《ヒタマリ》になる下の水上には、陽炎のよくもゆる故に、此《か》くつゞけあ《た(?)》る也。●「隱耳」下に隱れたるを忍ぶ方にとりて云ふ也●「玉梓之、使乃言者」玉梓は飛翅《トブツバサ》と云ふことの約まれるにて、むねと使と云ふにうけたり。船使ひ等の急ぐ物に、鳥の名を負ふすると同じ心ばへ也。然るに、近世の説に、梓の木に玉をつけたるを、使のしるしとなせしなど云ふ、僻事の出づれば、はやく鐘(ノ)響二卷【六十四】に、委しく辨へおきつ●「輕市爾」かるの里の中にも、市の立つ處は人も多く群れて、にぎはゝしかりしなり●「吾立聞者」此句より「音母不所聞」あるものをかりて、聲をだにきかぬ別れをなげくなり●「似之不去者」市町の群集の中にしも、獨だに似たるがありかねばと也。三に、河風の寒きはつせを歎きつつ、君がありくに似る人もあへや。
●一篇の意は、高市の輕の路は妹が里なれば、たびたびも行きて懃ろ見まくほしけれど、たえずゆかば、人目を多み、しげく【眞根久】ゆかば人しりぬべければ、思ひのどめてゆるくあはんと、【後毛將相】おもひ憑(ノ)みて忍びつつあるに、俄に日のくれ、月の入りぬるがごとく、よく靡きし妹がうせぬと使の來ていへば、いはんすべせんすべしらに、其言のみもきゝてえあらねば、せめて吾戀ひの千重の思ひの一重だにも、なぐさもる情《コヽロ》もあれやと、妹が不止《ヤマズ》出で見し輕の市路に出でて、立ちぎくに、有りし妹が聲だに聞えず。群れ行く中に、一人だに似たる人しもありかねば、はて(175)は、せんすべなく、妹が名よびて、袖ふりて招きつるよと也。
 
   短  歌
 秋山之《アキヤマノ》、黄葉乎茂《モミヂヲシゲミ》、迷流《サドハセル》、妹乎将求《イモヲモトメム》、山道不知母《ヤマヂシラズモ》。
 
 一(二)云(フ)路不知而《ミチシラズシテ》
 
●「短歌」と記せる、是も忍びたる戀故に、うたはざりしにこそ●「黄葉乎茂」もみぢが繁さにあくがれて、さどはせると云ふつゞき也●「迷流」さどはすとは、たとへば、神代記(ノ)大八島の中に、ただ佐渡(ノ)島のみ獨り遠くさどはされたる故に、佐渡と名づくるよし、風土記にある心にて、ここも解くべし。
 
 黄葉乎《モミヂバノ》、落去奈倍爾《チリヌルナベニ》、王梓之《タマヅサノ》、使乎見者《ツカヒヲミレバ》、相日所念《アヘルヒオモホユ》。
 
●一首の意.もみちばのちるにつけて、使おこせける事のありしが、今日の使を見れば、それかとおもひて、逢ひし日をおもひ出でて悲しと也。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)妻之死後|悲傷《カナシミテ》作(ル)歌
 
 打蝉等《ウツセミト》、念之時爾《オモヒシトキニ》、取持而《タヅサヘテ》、吾二人見之《ワガフタリミシ》、※[走+多]出之《ワシリデノ》、堤爾立有《ツヽミニタテル》、槻木之《ツキノキノ》、己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》、春葉之《ハルノハノ》、茂之如久《シゲキガゴトク》、念有之《オモヘリシ》、妹者雖有《イモニハアレド》、憑(176)有之《タノメリシ》、兒等爾者雖有《コラニハアレド》、世間乎《ヨノナカヲ》、背之不得者《ソムキシエネバ》、蜻火之《カギロヒノ》、燎流荒野爾《モユルアラヌニ》、白妙之《シロタヘノ》、天領巾隱《アマヒレガクリ》、鳥自物《トリジモノ》、朝立伊麻之※[氏/一]《アサダチイマシテ》、入日成《イリヒナス》、隱去之鹿齒《カクリニシカバ》、吾妹子之《ワギモコガ》、形見爾置《カタミニオケル》、若兒乃《ミドリゴノ》、乞泣毎《コヒナクゴトニ》、取與《トリアタフ》、物之無者《モノシナケレバ》、烏徳自物《ヲトコジモノ》、腋挾持《ワキバサミモチ》、吾妹子與《ワギモコト》、二人吾宿之《フタリワガネシ》、枕付《マクラヅク》、嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》、晝羽裳《ヒルハモ》、浦不樂晩之《ウラサビクラシ》、夜者裳《ヨルハモ》、氣衝明之《イキヅキアカシ》、哭友《ナゲヽドモ》、世武爲便不知爾《セムスベシラニ》、戀友《コフレドモ》、相因乎無見《アフヨシヲナミ》、大鳥《オホトリノ》、羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》、吾戀流《ワガコフル》、妹者伊座等《イモハイマスト》、人之云者《ヒトノイヘバ》、岩根左久見手《イハネサクミテ》、名積來之《ナヅミコシ》、璽裳曾無寸《シルシモゾナキ》、打蝉跡《ウツセミト》、念之妹之《オモヒシイモガ》、珠蜻《カギロヒノ》、髣髴谷裳《ホノカニダニモ》、不見思者《ミエヌオモヘバ》。
 
 初二句、一(二)云(ハク)宇都曾臣等念之、
 
●「打蝉等念之時爾」念之《オモヒシ》は例のそへ言にて、現身《ウツシミ》なりし時にの意なり●「※[しんにょう+多]出之」わしり出・はしり出とも云へり。こは、中昔にはひりと云へると同じくて、家のはひ入より打ちわたさるゝ邊りを云ふ●「槻木之」今のけやきの類也。言別に出づ●「己知碁智」指さしてこちらも又こちらもと云ふ語なる事、山彦冊子《ヤマビコザウシ》に辨へつ●「念有之云云、憑有之云云」此四句二聯、例の同じほどの事を、詞を換へて文《アヤ》なせり●「世間乎背之不得者」常なき世のならひに、獨背く事を得ざればと云ふにて、遯世に云ふとは異なり●「蜻火之燎流荒野爾」廣き野に陽に火をたく事のあ(177)りけんか。今も田舍にて迎火《ムカヘビ》と云ひて燒く處ありといへり。猶たづぬべし●「天領巾隱」領巾とは書きたれども、是は天蓋の類にて、柩を覆ふ蓋なるべし。凡てひら/\とするをひれと云ふべし●「若兒乃」此の兒おひたたば其子孫も遺るべきに、いかになりけん。おぼつかなし。●「烏徳自物」此の自物《ジモノ》は獨りそむけて男のすまじき事するに云へり。これも男状之《ヲトコザマ》の義と見れば、妨げもあらじ●「枕付嬬屋」付は夕づく秋づくなど云ふと同じくて、枕によりそふ妻屋と云ふ意。其屋は新婚の時建つる屋也。言別《コトワキ》に委しく出づ●「大鳥、羽易乃山」十に「春日なる羽買(ノ)山」とよみたり。今水屋山と云ふ山也、と云へり。此山に葬りたるなるべし。然るに次に吾が戀ふる妹はいますと人のいへばなど、よそ/\しげに云へるは、是も私娉にて嫡妻にはあらざりしにや●「石根左久見手」高低ある道をたどる/\ゆくを云ふ●「吉雲曾無寸」宜奈倍《ヨロシナヘ》の反對《ウラ》に、よりそひのなく疎き意なり。此句にて切りて、結句より立かへりてきくてにをは也。これを下へ引つづけて、容貌《カホ》のよくもあらざりし妹なれどと心得たるなどは、辭《テニヲハ》の切れつゞきも思はぬ心ぞかし●「打蝉跡念之妹之」まだ現しき身にて、世にありとおもふ妹がほのかにだに見えぬ思へば、山路分け來しかひもなく、すげなしと迄に立ちかへる也。
●一編の意は、現し身にて、袖引つれて【取持】吾が二人見し出立の堤に立てる、槻の木の左右の枝の春の葉の茂きが如く、深く憑めりし妹にはあれど、常なき世のならひに、獨り背きも得ねば、迎火たく野に白妙の天蓋がくり、朝立【葬送】いまして、入日の如くに隱りにしかば、吾妹子が形見における赤子《ミドリゴ》の乞ひ泣く毎に、取り與ふ物しなければ、男にして抱きかゝへ、妹と二人ねし妻やの内に、ひるは愁へくらし、夜はいきづき明し、なげくともせんすべもなく、あふよ(178)しもあらぬ故に、春日なる羽買の山に、妹がいますと人のいへば、岩根さぐくみなづみ來しに、よりそひもなく、外々《ヨソ/\》しくぞある。まだ現しき身にてありとのみおもはるる妹がほのかにだにも見えぬおもへばと也。
 
   短  歌
 去歳見而之《コゾミテシ》、秋之月夜者《アキノツキヨハ》、雖照《テラセレド》、相見妹者《アヒミシイモハ》、彌年放《イヤトシサカル》。
 
●此歌は、一年經て後によめるなれば、取り合せて短歌とは記したるなり、うたの意あきらけし。
 
 衾道乎《フスマヂヲ》、引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》、妹乎置而《イモヲキテ》、山路念邇《ヤマヂオモフニ》、生跡毛無《イケルトモナシ》。
 
●此歌は其時によめるさまなれど、衾道引手乃山いづくともしられねば、上の輕(ノ)娘子をよめるか、後の妻の度の短歌か、知るよしなし●「生跡毛無」此の跡《ト》は辭《テニヲハ》にはあらず。利心《トゴヽロ》、心利《コヽロド》など云へる利《ト》にて、生《イケ》る利心《トゴヽロ》もなく、心の空《ウツ》けたるよしなり、されば、いけりとも、とよむはわろし。十九卷に伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》とあり。
●一首の意は衾道乎引手の山のさびしき深山に、妹を葬り置きて、其山路に獨りあるかとおもへば、生ける利心《トゴコロ》もなしと也。本文には山徑往者とあれど、下の一本の方まされゝば表に立つ。
 
 或本(ノ)歌。宇都曾臣等、念之時、携手、吾二見之、出立、百兄槻木、虚知期知邇、枝刺有如、春葉茂如、(179)念有之、妹庭雖在、恃有之、妹※[しんにょう+(まだれ/牛)]雖有、世中、背不得者、香切火之、燎流荒野爾、白栲、天領巾隱、鳥自物、朝立伊行而、入日成、隱西加婆、吾妹子之、形見爾置有、緑兒之、乞哭別、取委、物之無者、男自物、脅挿持.吾妹子與、二吾宿之、枕附、嬬屋内爾、旦者《ヒルハ》、浦不怜晩之、夜者、息衝明之、雖嘆、爲便不知、雖戀、相縁無、大鳥、羽易山爾、汝戀、妹座等、人云者、石根割見而、奈積來之、好雲叙無、宇都曾臣、念之妹我、灰而座者、
 
 短歌三昔。去年見而之、秋月夜雖度、相見之妹者、益年離、
 衾路、引出山、妹置、山徑往者、生跡毛無。此歌、本文と或本と引かへて、上に出しつ。次なるは上に漏れたれば、此に擧ぐ。
 
 家來而《イヘニキテ》、吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》、玉牀之《タマドコノ》、外向來《ホカニムキケリ》、妹木枕《イモガコマクラ》。
 
●「玉牀之」靈牀にて一周の間は其まゝ斎ひ祭りて、墓と靈牀と毎(?)夜のやうにそひ臥して、なぐさめし事と見ゆ。
●一首の意は、墓づかへに出でゝ、夜すがら泣きあかして、家に歸りてわが屋を見れば、おろそかにもせざる靈床の外《ヨソ》に向《ムキ》けり。妹が木枕の、といひてなげく也。
 
 志我津采女死時《シガツノウネベガウセケルトキ》柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌一首並短歌
 
 秋山《アキヤマノ》、下部留妹《シタブルイモ》、奈用竹乃《ナヨダケノ》、騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》、何方爾《イカサマニ》、念居可《オモヒヲレカ》、栲(180)紲之《タクナハノ》、長命乎《ナガキイノチヲ》、露巳曾婆《ツユコソハ》、朝爾置而《アシタニオキテ》、夕者《ユフベニハ》、消等言《キユトイヘ》、霧巳曾婆《キリコソハ》、夕立而《ユフベニタチテ》、朝者《アシタニハ》、失等言《ウストイヘ》、』梓弓《アヅサユミ》、音聞吾母《オトキクワレモ》、髣髴見之《オホニミシ》、事悔敷乎《コトクヤシキヲ》、布栲乃《シキタヘノ》、手枕纏而《タマクラマキテ》、劔刀《ツルギタチ》、身二副寢價牟《ミニソヘネケム》、若草《ワカクサノ》、其嬬子者《ソノツマノコハ》、不怜彌可《サブシミカ》、念而寢良武《オモヒテヌラム》、悔彌可※[三字左(]《クヤシミカ》、念戀良武※[四字左(]《オモヒコフラム》、時不在《トキナラズ》、過去子等我《スギニシコラガ》、朝露乃如也《アサツユノゴト》。夕霧乃如也《ユフギリノゴト》。』
 
●「秋山」したぶるといはん枕詞也。したぶるは紅顔に譬ふ。山下の赤のそほふねと云ふつゞきに同じ。●「奈用竹乃」とをゝといはん枕詞也●「騰遠依子等者」たわやかなる子といふ也。とをを、たわわ音通ず●「何方爾念居可」例の咎めたる詞也●「栲紲之長命乎」此の處置|居《捨(?)》の句にて、つひすておくなれど、終には下に係る處なくば有るべからず。此歌は下の時不在過去《トキナラズスギニシ》と云ふにつゞきたり●「露己曾婆」以下の譬へ、ほど拍子よく絶妙と申すべし。よく誰にもきこゆめれば釋は省けり。さて、此うた失等言《ウストイヘ》にて一段也●「梓弓」音といはん枕詞也。●「音聞」其釆女が事をおとに聞きてと云ふ也●「髣髴見之」おほと云ひて此《コヽ》は字の如く、ほのかに見し事を悔むなり●「悔彌可、念戀良武」此二句今本等は脱したり。活字本又一本に隨ひて補v之。
●一篇の意は、紅顔のにほひて、たをやかなる志賀津の子等は、いかに心得たがひ、栲紲の長き命をまだ若ざかりに盡しぬらん。露こそは消ゆといへ、霧こそは夕べに立て、翌朝は失すといへ、現しき人の身なるをや。よそに聞きし吾れだによく見ざりし事の悔しきに、其子を身にそ(181)へて寢し、夫《ツマ》はいかばかりか、愁へて寢《ヌ》らん。いかに悔しくおもひ戀ふらん。時ならず過ぎにし子らが、其はかなさに。まことに朝露の如く、夕霧の如くなるものかなとなり。ある中にもすぐれたる歌なるべし。
 
   短歌二首
 樂浪之《サヽナミノ》、志我津子等何《シガツノコラガ》、罷邇《マカリニシ》、川瀬道《カハセノミチヲ》、見者不怜毛《ミレバサブシモ》。
 
 一(二)云(ハク)、志我津之子我
 
●「罷邇之」今本邇(ヲ)作(ル)v道は誤也●「川瀬道」常に其子のゆきゝせし道なれば、今日を限りとおもひなげくなり。
 
 天數《ササナミノ》、凡津子之《オホツノコラガ》、相日《アヒシヒニ》、於保爾見敷者《オホニミシカバ》、今叙悔《イマゾクヤシキ》。
 
●「天數」これをそらかぞふと訓みて、一つの枕詞としたれど、此歌の外に一首も例なきはおぼつかなし。按ずるに佛説の天數にて、兜卒(ノ)三十三を思《?》へるなるべし。さらば、三三並ぶ意にて、三三並《ササナミ》とよまする義訓とすべし。歌のうへからかくれたる處も見えず。
 
  讃岐《サヌキノ》國|狹岑島《サミノシマ》視(テ)2石中死人《イソヌチニミマカレルヒトヲ》1、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌一首並短歌
 
 玉藻吉《タマモヨシ》、讃岐國者《サヌキノクニハ》、國柄加《クニガラカ》、雖見不飽《ミレドモアカヌ》、神柄加《カムガラカ》、幾許貴寸《ココダタフトキ》。天地《アメツチ》(182)月日與共《ツキヒトトモニ》、滿將行《タリユカム》、神乃御面跡《カミノミオモト》、次來《ツギテクル》、中乃水門從《ナカノミナトユ》、船浮而《フネウケテ》、吾榜來者《ワガコギクレバ》、時風《トキツカゼ》、雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》、奥見者《オキミレバ》、跡位浪立《シキナミタチ》、邊見者《ヘミレバ》、白浪散動《シラナミサワグ》、鯨魚取《イサナトリ》、海乎恐《ウミヲカシコミ》、行船乃《ユクフネノ》、梶引折而《カヂヒキオリテ》、彼彼方《ヲチコチノ》、島者雖多《シマハオホケド》、名細之《ナグハシ》、狹岑乃島乃《サミノシマノ》、荒礒囘爾《アリソミニ》、廬作而見者《イホリテミレバ》、浪音乃《ナミノオトノ》、茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》、敷妙乃《シキタヘノ》、枕爾爲而《マクラニナシテ》、荒床《アラドコニ》、自伏君之《コロブスキミガ》、家知者《イヘシラバ》、往而毛將告《ユキテモツゲム》、妻將知《ツマシラバ》、來毛問益乎《キモトハマシヲ》、玉桙之《タマボコノ》、道太爾不知《ミチダニシラズ》、欝悒久《オホホシク》、待加戀良武《マチカコフラム》、愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
 
●「玉藻吉」布裳《アサモ》よ着《キ》とかゝる枕詞と合するに、是も、玉裳よさしぬぐとかけたるならん。●「國柄」國柄も神柄も、隨《カラ》にて其の性の隨《マヽ》なるを云ふ●「天地、日月與共、滿將行、神乃御面跡」是はいと妙なる古語也。此古語に依つて神代紀、神代七代の神たちの國土と共に御面足らし、御面と共に國士の成整ひし靈妙を悟るべし。又此の世の中は天地日月と共に、滿《タリ》行くことわりをも思ふべし●「次來」言次ぎて來る也●「中乃水門從」於《ニ》2中(ノ)水門1と云ふ也。那珂(ノ)郡の湊也●「時風」潮時の風を云ふ●「跡位浪」及浪《シキナミ》の義にて、追々跡より引つゞき來る浪を云ふ。跡位は敷坐《シキマス》と云ふ意を以て、書る假字なり●「梶引折而」折廻《ヲリタム》と云ふと同じくて、浪荒く、風惡き時、島陰などへ船をこぎ入るゝを云ふ●「狹岑之島」那珂(ノ)郡に佐美《サミ》島と云ふ有りて、浪荒く、今も(183)名高き所也と國人云へり●「廬作而見者」風待などをするを云ふ。此《コヽ》はさる島邊に、廬造りて逗留すべきにあらねど、旅にしては、少しく留る處を廬りするといひ馴れたる故に、云へる詞也●「荒床」死者の床を荒床と云ふを以てなり●「欝悒」此おほゝしくは其家人等がおぼつかなく待ちかぬる意なり。
●一篇の意は、讃岐國は國成りそめし始めよりの國の性か、見れどもあかず、産神《ウブスナ》がらか貴かるらん。神代七世の昔より、天地月日と共に、神の御面の如く、滿行《タリユク》と語り繼ぎ來る那珂(ノ)湊に船うけて、わがこぎ來れば、時風に、奥《オキ》も、邊も、浪高くさわぐ海を恐み、行くべき船の梶を横に島かげへ曲り入りたるに、こゝかしこに島は多かれど、名高き狹岑《サミ》のあらいそも、ことに風待ちして見れば、浪の音の茂き濱邊を枕となし、礒の上を荒床として伏してある君が、家知らば往きても告げ知らせん。妻知りなば來ても問はましを、道だに知らねばすべもなし。家にてもおぼつかなく待ちかこふらん、はしき妻らは、とあはれぶ也。
 
  反  歌
 妻毛有者《ツマモアラバ》、採而多宜麻之《トリテタゲマシ》、佐美乃山《サミノヤマ》、野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》、過去計良受也《スギニケラズヤ》。
 
●「採而多宜麻之」妻もあらば、屍を採揚《トリアゲ》ましにと歎く也●「野上乃宇波疑」うはぎは内膳式に蒿をよめり。和名抄に莪蒿【於八木】とあり。今よめがはきと云ふ草也。花のこぼれやすきを以て(184)時の過ぎゆくにたとへたる也。
 
 奥波《オキツナミ》、來依荒礒乎《キヨルアリソヲ》、色妙乃《シキタヘノ》、枕等卷而《マクラトマキテ》、奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
 
●「枕等卷而」まくらは纏くを以て名となれゝば、枕する事を枕まくと云ふなり。●「奈世流」なすは伸《ノ》すにて、身を長く臥すを云ふ。
 
  丹比《タヂヒノ》眞人|名《ナニガシ》擬《ナリテ》2石(ノ)中(ノ)死人《シニヒトニ》1報※[五字左(](テ)2柿本(ノ)朝臣人麻呂(ニ)1作(ル)歌一首
 
 荒浪爾《アラナミニ》、縁來玉乎《ヨセクルタマヲ》、枕爾置《マクラニオキ》、吾此間有跡《ワレココナリト》、誰將告《タレニカツゲム》。
 
●「擬2石中死人1」本には、擬(テ)2柿本人麻呂之意(ニ)1報(フル)歌とあるは、字を多く落したる也。歌の意石中死人の人麻呂に報へたるなれば、右の如く端書を補ひて、原《モト》に復《カヘ》しつ。
●一首の意は、かゝる石中にふして、荒浪によせくる玉を枕におき、吾《ワレ》ここなりと、誰にかは告げん、只君に弔はれたるのみが身の悦び也、とこたへたる也。
 
  丹比(ノ)眞人名|擬《ナリテ》2石(ノ)中(ノ)死人(ノ)之|妻《メニ》1報(テ)2柿本(ノ)朝臣人麻呂(ニ)1作(ル)歌一首
 
 天離《アマザカル》、夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》、君乎置而《キミヲオキテ》、念乍有者《オモヒツヽアレバ》、生刀毛無《イケルトモナシ》。
 
(185)●是も本には或本歌とて出し、又左註(ニ)云(ハク)、右一首(ノ)歌(ハ)作者未v詳(ナラ)但古本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於此次(ニ)1也、などあれど、歌の意.死人の妻の人麻呂に報へたる趣なれば、これも端書を補ひて、昔にかへす也。世に擬(テ)2人麻呂妻之意(ニ)1とせるなどもすべてわろし●「生刀毛無」これをいけりともなしとよみたるも誤也。いけるともなしとよみて、生ける心利《コヽロド》もなしの意なる事、既に云ふが如し。
●一首の意は、心にかけて、妻もあらばとのたまへるが、吾も夷之荒野に君を置きてさすなどおもひつゝあれば、生る心利《コヽロド》も侍らずとなり。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂、在(テ)2石見(ノ)國(ニ)1臨死時《ミマカラントスルトキ》自傷《カナシミテ》作(ル)歌一首
 
 鴨山之《カモヤマノ》、磐根之卷有《イハネシマケル》、吾乎鴨《ワレヲカモ》、不知等妹之《シラニトイモガ》、待乍將有《マチツヽアラム》。
 
●「在2石見國1」此文を以て京の人と定めたる説は、かたくな也。たとひ本(ト)は石見の人ならんとも、既に京の宮人となりたらん上は、其死にたる地をあげずやはあらぬ。もと石見の人ならんとおぼしき事、これかれあり●「臨死時」喪葬令云、凡百官身亡(スレバ)者、親王及三位以上(ハ)稱(シ)v薨(ト)、五位以上及皇親(ハ)稱(シ)v卒(ト)、六位以下達(シテ)2於庶人(ニ)1稱(シ)v死(ト)●「鴨山之」石見の人云ふ。鴨山・高角同處にて美濃郡(ノ)海岸也。鴨山既に亡《ウ》せて今はなし。墓は本より高角山に在りつれば、社も其地に祠《マツ》られし也。今の高角の地、古代はよろしき船着にて、湊口に鴨山・鴨島とて、山も島もありて其處に家居數百軒ありき、梵刹などもありて中にも前濱・後濱と云ふに、千福・萬福(186)とて二大寺あり。其外、青樓・花街軒を並べて最繁輩の地にて、北洋往還の泊船日夜につどひて大なる湊なりしが、後一條帝の萬壽三年丙寅五月|津濤《ツナミ》の爲めにゆり崩されて、鴨山なくなりしかば、舶入の便も惡しくなりて、遂に今の如き地とはなれる也。今現に、古(ノ)高角(ノ)浦の水底海岸の沙中などに、礎石或は石塔五輪などの多く埋れてあるは、皆古代の物也云云。かゝれば人麻呂君其山に行き倒れ給ひたるにはあらざれど、歌なればあはれによみ給ひしなるべしと云へり●「磐根之卷有」之《シ》は休め言にて、岩根を枕にして死したるよし也●「不知等妹之」しらぬ事とて待ちつゝあらんとなり。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂|死《ミマカリケル》時、妻《メ》依羅娘子《ヨサミノコラガ》作(ル)歌二首
 
 旦今日旦今日《ケフケフト》、吾待君者《ワガマツキミハ》、石水山※[左(]《イハミヤマ》、貝爾交而《カヒニコヤシテ》、有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
 
 貝爾一(ニ)云(フ)谷爾《タニニ》
 
●「石水山」諸本此山を落して、石水《イシカハ》とよみ、貝爾交而《カヒニマジリテ》とよめる故に、何事とも知られずなりし也。故《カレ》、今考へて山の字を補ひつ。貝《カヒ》も峡《カヒ》なる事、一本に谷爾《タニニ》とある以《モ》て知るべし。
●一首の意は、毎日/\、今日/\と吾が待つ君は、死《ウ》せ姶ひぬとては言もつきはてぬ。せめて石見山の峡《カヒ》に臥《コヤ》してありといはずや、さらば女ながらたどり行きて率《ヰ》て來んにといふ也。あはれなる歌なり。此あたり歌毎に拾ひ出でたる心ちす。
 
(187) 直相者《タヾノアヒハ》、相不勝《アヒモカネテン》、石水嶺※[左(]爾《イハミネニ》、雲立渡禮《クモタチワタレ》、見乍將偲《ミツヽシヌバム》。
 
●「石水嶺」今本水を川に誤りて、嶺の字を脱したる也。
●一首の意は、直《タヾチ》にあふ事はならずとも、せめて石見嶺に雲となりてなりとも、立わたれ見つつ慕はんと也。さすが人麻呂大人の妻ほどありて、右二首のうた尋常の婦人に勝りたる所あり。皆人うたのやうにも思はざりしは、よみざまのあしかりしにこそ。さて此歌迄は亂れながらも、もと撰みし中なるらんを、以下は全く書き入れ也。
 
  和銅(ノ)四年歳次辛亥何月何日、河邊(ノ)宮人姫島(ノ)松原(ニ)見(テ)2嬢子(ノ)屍(ヲ)1、悲歎作(ル)歌二首
 
 妹之名者《イモガナハ》、千代爾將流《チヨニナガレム》、姫島之《ヒメシマノ》、子松之末爾《コマツガウレニ》、蘿生萬代爾《コケムスマデニ》。
 
●「姫島」津(ノ)國神崎川の舟渡の東岸の中島に、御幣《ミテグラ》島と云ふあり。其南の海の川口に、田蓑(ノ)島あり。今佃島と云ふ。其佃島の奥にある松のめでたき小島、是姫島也。攝津風土記に委し。こゝには得引かず。歌の意昧は、名を長くいひ傳へんと云ふまでなり。
 
 難波方《ナニハガタ》、鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》、沈之《シヅミニシ》、妹之光儀乎《イモガスガタヲ》、見卷苦流思母《ミマククルシモ》。
 
●一首の意は、難波がたに鹽のみちひもすれ、潮ひれば、沈みにし妹が姿の顯れ出でゝ、そを見(188)るが苦しと也。
 
  靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴(ノ)親王|薨《ミウセタマヘル》時|姓名《ナニガシガ》作(ル)歌一首
 
 梓弓《アヅサユミ》、手取持而《テニトリモチテ》、丈夫之《マスラヲノ》、得物矢手插《サツヤタバサミ》、立向《タチムカフ》、高圓山爾《タカマドヤマニ》、春野燒《ハルヌヤク》、野火登見左右《ノビトミルマデ》、燎火乎《モユルヒヲ》、如何問者《イカニトトヘバ》、玉桙之《タマボコノ》、道來人乃《ミチクルヒトノ》、泣涙《ナクナミダ》、※[雨/沛]霖爾落者《ヒサメニフレバ》、白妙之《シロタヘノ》、衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》、立留《タチドマリ》、吾爾語久《ワレニカタラク》、何鴨《ナニシカモ》、本名言《モトナイヘル》、聞者《キコユレバ》、泣耳師所哭《ネノミシナカユ》、語者《カタラヘバ》、心曾痛《コヽロゾイタキ》、天皇之《スメロギノ》、神之御子之《カミノミコノ》、御駕之《イデマシノ》、手火之光曾《タビノヒカリゾ》、幾許照而有《ココダテリタル》。
 
●「梓弓」以下五句は、的といはん序也。其中に得物矢は、海山の獲物を幸《サチ》と云ふ故也。●「高圓」下の歌にかすが野にしぐれふる見ゆあすよりはもみぢかざさん高圓の山。通志(ニ)云(ハク)、在2白毫寺(ノ)上方(ニ)1●「野火登、見左右」葬送の人々の手火《タビ》也●「※[雨/沛]霖」大雨を云ふ。●「※[泥/土]漬」沾《ヒ》づを延《ノ》べてひづちと云ふ。俗にびつしよりぬるると云ふは、此ひづちを訛れる也●「本名」此語は、漢文に寧《ムシロ》また無乃《ムシロ》など訓めるむしろの通音にて、世にいはゆる、結句にわろき也。されば此《コヽ》も問はねばよきに問はれて却てわるきを云ふ●「天皇之」これをすめろぎのとよむは、志貴親王は天智天皇の皇子なるを、元正天皇の朝にて申すゆゑ也●「手火」神代紀秉炬此(ヲ)云(フ)2多妣《タビト》1
●一篇の意は、かの高圓山に春野やく火と見るまでに、燎《モユ》る火を何ぞとゝへば、【隔句】玉桙《タマボコ》の道來(189)る人の、泣く涙|大雨《ヒサメ》とふれば、白妙の【喪服】衣|沾《ひづ》ちて、立どまり吾にかたらく、何しかもゝとな言へる。此喪の事をきこゆればねのみしなかゆ。かたらへば心ぞいたき。此れはしも、先帝の御子、名に高き志貴親王の尊骸の、いでましの秉炬の光の、あまた照りたるぞとなり。
 
  志貴(ノ)皇子薨(マシテ)後、姓名(ガ)作(ル)歌一首
 
 高圓之《タカマドノ》、野邊秋芽子《ヌベノアキハギ》、徒《イタヅラニ》、開香將散《サキカチルラム》、見人無爾《ミルヒトナシニ》。
 
●今本此處に短歌二首とあれど、是は上の長歌とは別なり。はやく端書を落せるなれば、今補ひつ●歌の意、君うせまして後は、此野の秋萩も、いたづらに咲きてちるらんと也。
 
 御笠山《ミカサヤマ》、野邊往道者《ヌベユクミチハ》、己伎太雲《コキダクモ》、繁荒有可《シヾニアレタルカ》、久爾有勿久國《ヒサニアラナクニ》。
 
●一首の意は、皇子の高圓に坐しゝ間《ホド》は、三笠の野べよりかよふ人多かりつるに、甚だしゞにも荒れにける哉。いまだ久にもあらぬにとなり。
 
 右(ノ)歌、笠朝臣金村歌集(ニ)出(ヅ)
 
   或本(ノ)歌(ニ)曰(フ)、
 
 高圓之《タカマドノ》、野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》、勿散禰《ナチリソネ》、君之形見爾《キミガカタミニ》、見管思奴幡武《ミツヽシヌバム》。
 
●此は、或本にても別歌也。一首の意は、高圓の野べの秋萩、ちらであれかし。せめて其花だ(190)に、君が形見と見つゝしたひ奉らんとなり。
 
 三笠山《ミカサヤマ》、野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》、己伎太久母《コキダクモ》、荒爾計類鴨《アレニケルカモ》、久爾有名國《ヒサニアラナクニ》。
 
 紀に、靈龜二年八月九日薨(ズ)とあれど、此集に如v此《カク》あるからは、紀は後に記して一年誤れるなり。凡て此集と、紀と、年月日時の違ふものは、皆悉く此集を正しとすべし、別に其徴を記せるあり。
 
(191)萬葉集卷第三目録雜
 
天皇御2避雷岳1之時柿本朝臣人麻呂作歌一首●天皇賜2志斐嫗1御歌一首●志斐嫗奉v和歌一首●長忌寸意吉麻呂應v詔歌一首●長皇子遊2獵獵路池1之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌、或本反歌一首●弓削皇子遊2吉野1之時御歌一首●或本歌一首●長田王被v遣2筑紫1渡2水島1之時歌二首●石川大夫和歌一首●又長田王作歌一首●柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首●鴨君足人香具山歌一首並短歌●或本歌一首●柿本朝臣人麻呂獻2新田部皇子1歌一首并短歌●刑部垂麻呂從2近江國1上來時作歌一首●柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來至2宇治河邊1作歌一首●長忌寸奥麻呂歌一首●柿本朝臣人麻呂歌一首●志貴皇子御歌一首●長屋王故郷歌一首●阿部女郎屋部坂歌一首●高市連黒人覊旅歌八首●石川少郎歌一首【名曰2君子1】●高市連黒人歌●黒人妻答歌一首●春日藏首老歌一首●丹比眞人笠麻呂往2紀伊國1超2勢能山1時作歌一首●春日藏首老即和歌一首●幸2志賀1之時石上卿作歌一首●穂積朝臣老歌一首●間人宿禰大浦初月歌二首●小田事勢能山歌一首●角麻呂歌四首●田口益人朝臣任2上野國司1時至2駿河國清見埼1作歌二首●弁基歌一首【春日藏首老之法師名也】●大納言大伴卿歌一首●長屋王駐2馬寧樂山1作歌二首●中納言安部廣庭卿一首●柿本朝臣人麻呂下2筑紫國1時海路作歌二首●高市連黒人近江舊都歌一首●幸2伊勢國1之時安貴王作歌一首●博通法師往2紀伊國1見2三穂石室1作歌三首●門部王詠2東市之木1作歌【後賜姓大原眞人氏也】●※[木+安]作村主益人從2豐前國1上京之時作歌一首●式部卿藤原宇合卿被v遣v改2造難波堵1之時作歌一首●土理宜令歌一首●波多朝臣少足歌一首●暮春之月幸2芳野離宮1之時中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌●山部宿禰赤人望2不盡山1歌一首并短歌●詠2不盡山1歌一首并短歌【笠朝臣金村哥集中之出】●山部宿赤人至2伊豫温泉1作歌一首并短歌●登2神岳1山部宿禰赤人作歌一首并短歌●門部王在2難波1見2漁夫燭光1作歌一首●或嬢子等※[果/衣]乾鰒贈2通觀僧1戯請2咒願1之時通觀作歌一首●太宰少貮小野老朝臣歌一首●防人司佑大伴四綱歌●帥大件卿歌五首●沙彌滿誓詠v綿歌一首細注造筑紫觀世音寺別當焉俗姓笠朝臣麻呂也●山上臣憶良罷宴歌一首●太宰帥大伴卿讃酒歌十三首●滿誓沙彌歌一首●若湯座王歌一首●釋通觀歌一首●日置少老歌一首●生石村主眞人歌一首●上(ノ)古麻呂歌一首●山部宿禰赤人歌六首●或本歌一首●笠朝臣金村鹽津山作歌二首●角鹿津乘v船之時金村作歌一首并短歌●石上大夫歌一首●和歌一首●安部廣庭卿歌一首●出雲守門部王思2京師1歌一首●山部宿禰赤人登2春日野1歌一首并短歌●石上乙麻呂朝臣歌一首●湯原王芳野作歌一首●湯原王宴席歌二首●山部宿禰赤人詠2故太政大臣藤原家之山池1作歌一首●大伴坂上郎女祭神歌一首并短歌●筑紫娘子贈2行旅1歌一首【娘子字曰小島】●登2筑波岳1丹比眞人國人作歌一首并短歌●山部宿禰赤人歌一首●仙柘枝歌三首●覊旅歌一首并短歌●譬喩歌●紀皇女御歌一首●造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首●太宰大監大伴宿禰百代梅歌一首●滿誓沙彌月歌一首●金明軍歌一首●笠女郎贈大伴宿禰家持(192)歌三首●藤原朝臣八束梅歌二首●大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首●大伴坂上郎女宴2親族1之日吟歌一首●大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首●大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首●佐伯宿禰赤麻呂更贈歌一首●娘子復報歌一首●大伴宿禰駿河麻呂娉2同坂上家之二孃1歌一首●大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首●大伴宿禰駿河麻呂歌一首●大伴坂上郎女橘歌一首●和歌一首●市原王歌一首●大網公人主宴吟歌一首●大伴宿禰家持歌一首○挽歌上宮聖徳皇子出2遊竹原井1之時見2龍田山死人悲傷御作歌一首【小墾田宮御宇天皇代】●大津皇子被死磐余池陂之時流涕御作歌一首●河内王葬2豐前國鏡山1之時手持女王作歌三首●石田王卒之時丹生王作歌一首并短歌●同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首●或本反歌二首●柿本朝臣人麻呂見2香具山屍1悲慟作歌一首●田口廣麻呂死之時刑部垂麻邑作歌一首●土形娘子火2葬泊瀬山1時柿本朝臣人麻呂作歌一首●溺死出雲娘子火2葬吉野1時柿本朝臣人麻呂作歌一首●過2勝鹿眞間娘子墓1山部宿禰赤人作歌一首并短歌●和銅四年辛亥河邊宮人見2姫島松原美人屍1哀慟作歌四首●神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思2戀故人1歌一首●同六年己巳左大臣長屋王賜v死之後倉橋部女王歌一首●悲傷2膳部王1歌一首●天平元年己巳攝津國班田史生丈部龍麻呂自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌●天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上道之時作歌五首●還2入故郷家1即作歌三首●天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時作歌六首●天平七年乙亥大伴坂上郎女悲2嘆尼理理願死去1作歌一首并短歌●天平十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲2傷亡妻1作歌一首●弟大伴宿禰書持即和歌一首●又家持見2砌上瞿麥花1作歌一首●移朔而後悲2嘆秋風1家持作歌一首●又家持歌一首并短歌●悲緒未v息更作歌五首●天平十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首●悲2傷死妻1高橋朝臣作歌一首并短歌
 
(193) 萬葉集檜嬬手 卷之五
 
    本集三(ノ)上
 
     雜《クサ/”\ノ》  歌
 
  天皇《スメラミコト》御2遊《アソバシヽ》雷山《カミヲカニ》1之時《トキ》、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌
 
 皇者《オホキミハ》、神二四座者《カミニシマセバ》、天雲之《アマグモノ》、雷之上爾《イカヅチノウヘニ》、廬爲須※[左(]鴨《イホリセスカモ》。
 
●「雷岳」飛鳥《アスカ》の神奈備《カムナビ》山也。雷岳《カミヲカ》とも云ふこと、雄略記に出で、道別《チワキ》に引きおけり。二(ノ)卷に神|岳乃山之黄葉乎《ヲカノヤマノモミヂヲ》とありて、此卷の下に登(ル)2神岳(二)1と見えたり●「皇者」おほきみは天下の大君の意にて、當代天皇を奉(ル)v稱(シ)。此《コヽ》は持統天皇と申せり●「天雲之、雷之上爾」雷岳《カミヲカ》の起原の雷は、天雷にはあらざれども、かく云ふは詞の文《アヤ》なり●「廬爲須鴨」庵《イホ》といほりは體用の言にて、宿とやどるとの如し。假に造り設けて、其の處見給ふ間逗留し給ふ事既にも云ひつ。須《ス》の字今本に流とあるは、寫し誤りなれば改めつ。
●一首の意は、大君は神にましませば、天雲の棚引く雷の上にいほりせさせ給ふかなと也。
 
 右或本(二)云(フ)、獻(ル)2忍璧《オサカベノ》皇子(二)1也。其歌(二)曰(ハク)、王者《オホキミハ》、神座者《カミニマセバ》、空隱《クモカクル》、伊加土山爾《イカヅチヤマニ》、宮敷座《ミヤシキイマス》。
 
(194)宮敷座は此岳に離宮ありしなるべし。十三に月も日もあらたまれども久にふる三諸の山の礪津宮所《トツミヤドコロ》とよみたり。されど歌おとりて聞ゆ。
 
  天皇賜(フ)2志斐嫗《シヒノオムナニ》1御製歌《オホミウタ》
 
 不聽跡雖云《イナトイヘド》、強流志斐能我《シフルシヒノガ》、強語《シヒガタリ》、此者不聞而《コノゴロキカズテ》、朕戀爾家里《ワレコヒニケリ》。
 
●「天皇」是も持統天皇也●「志斐嫗」續紀和銅元年六月、志斐(ノ)連(ノ)姓を賜る事見ゆ。姓氏録に、志斐連は大中臣《オホナカトミ》同祖のよしに云へり。されど此の嫗の強ひるより出たるなるべし●「志斐能我」この能《ノ》は十八に、しなざかるこしの吉美能等《キミノラ》かくしこそ、十四に、勢奈能我《セナノガ》そでも、また勢奈那登《セナナト》ふたり云々などあるを合せ考ふるに、那根《ナネ》等に通ふ稱《タヽ》へ言《ゴト》也。されば、志斐(ノ)嫗と書ける字をしひなとよませんと云ふ説あれどわろし。某の音那《オムナ》と云へる例續紀に多く見えたれば、端書はしひのおむなと訓むべし。
●一首の意は、不欲《イナ》今は聽あきたりといへど、今一ツきゝ給へとて、強ふる志斐【名也】が強語《シヒガタリ》も、久しくきかねば戀しくなりぬ。ちと上りてかたれかしとなり。俗にいはゆる話ずきの老婆なりしなるべし。
 
  志斐(ノ)嫗《オムナガ》奉(ル)v和(ヘ)歌
 
(195) 不聽雖謂《イナトイヘド》、話禮話禮常《カタレカタレト》、詔許曾《ノラセコソ》、志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》、強語登言《シヒゴトトヲス》、
 
●「詔許曾」のらせばこそ也●「志斐伊」此伊は、續紀の詔に、仲麻呂伊《ナカマロイ》、福信伊《フクシヌイ》、此の集四に紀關守伊《キノセキモリイ》、十二に家在妹伊《イヘナルイモイ》などあるそへ辭也。
●一首の意は、不欲《イナ》かたらじと申せども、強ひてかたれ/\と詔《ノラ》せればこそ、此志斐は奏《マヲ》すなれ。それを強語《シヒガタリ》と名をつけてきこしをすよとなり。
 
  長忌寸意吉麻呂《ナガノイミキオキマロ》應詔《ミコトノマニマヨメル》歌《ウタ》
 
 大宮之《オホミヤノ》、内二手所聞《ウチマデキコユ》、網引爲跡《アビキスト》、網子調流《アゴトヽノフル》、海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》、
 
●「意吉麻呂」集中に多く出たれど、傳はしられがたし●「應詔」右同(シ)天皇難波(ノ)豐崎へ幸ありし度の事なるべし。天武紀十二年(ノ)詔(二)曰(ク)、凡都城宮室非2一處(ニ)1必造(ル)2兩參(ヲ)1。故先(ヅ)欲(ス)v都(セムト)2難波(ニ)1とあり。文武天皇三年正月幸(ヌ)2難波宮(ニ)1とあるも、此の宮なるべし●「大宮之、内二手所聞」海邊近き大宮なれば、其聲の聞ゆるが、めづらしくおもほししにこそ●「網子」は船子《フナコ》田子《タゴ》などの如く引(ク)v網(ヲ)手子等を云ふ●「調流」は、上にも齊流皷之音《トヽノフルツヽミノオト》とありて、呼び集むるなり.
 
  右一首ここに難波の幸等の字有りしが下闕けたるなるべし。
 
  長皇子《ナガノミコノ》遊2獵《ミカリタタセル》獵路野《カリヂヌニ》之1時《トキニ》、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作歌一首並短歌
 
 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、高光《タカヒカル》、日乃皇子《ヒノミコ》、馬並而《ウマナメテ》、三獵立流《ミカリタヽセル》、弱薦乎《ワカゴモヲ》、(196)獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》、十六社者《シシコソハ》、伊波比拜目《イハヒヲロガメ》、鶉己曾《ウヅラコソ》、伊波比囘禮《イハヒモトホレ》、四時自物《シジモノ》、伊波比拜《イハヒヲロガミ》、鶉成《ウヅラナス》、伊波比毛等保里《イハヒモトホリ》、恐等《カシコミト》、仕奉而《ツカヘマツリテ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天見如久《アメミルゴトク》、眞十鏡《マソカガミ》、仰而雖見《アフギテミレド》、春草之《ハルクサノ》、益目頬四寸《イヤメヅラシキ》、吾於富吉美可聞《ワガオホキミカモ》。
 
●「長皇子」天武天皇(ノ)皇子也。既に出づ●「獵路」大和國十市郡鹿路村と云ふ有り。十二に、遠津人獵路(ノ)池とよみたれば、池も名高かりつらめども、此は野とあるべきなり●「八隅知之」以下四句上古より申しならひし尊稱にて記紀の歌より此集までいとあまた出でたり。天皇、皇太子までにかけて申せり。此《コヽ》は長(ノ)皇子を指せる也。今本光の下吾の字、又子の下乃の字等あれど、古本の無きに隨ひつ●「三獵立流」立は旅立《タビダツ》、鵜川立《ウカハダツ》などの立つ也。今の人には耳疎き事なれば、又云ふ也●「弱薦乎」苅《カル》と云ふを獵路へつづけたり●「十六社者」しゝは、猪鹿の肉の名、常にはゐといひ、加と云ふ也●「伊波比拜目」伊は發語|波比《ハヒ》は這《ハヒ》也。をろがむは折屈《ヲレカヾ》む也。十六《シヽ》よりつづきたるは猪鹿ともに膝《ヒザ》折伏《ヲリフセ》て頭を地に衝くを以て也●「伊波比囘禮」もとほるは廻る也。鶉よりつづきたるは、彼の鳥首を垂れ後引《シリビキ》して恐れをののく形貌あるが故なり。さて此處に此語の上下に出たるに心得あり。上なるは猪鹿《シシ》社《コソ》はいはひをろがめ鶉《ウヅラ》社《コソ》いはひ囘《モトホ》れと云へる、此下に猪鹿鶉のみにはあらず。王臣以下|御從《ミトモ》の人々も、猶皆猪鹿の如く鶉の如く云々といひつづけたる也。かく見ざれば全く同じことを再び云へるやうにて、うるさく聞ゆればぞかし。諸註(197)おろそか也●「益目頬四寸」此いやは、ます/\といはんが如し。
●一編の意は、安見し爲《セ》す、吾が大王馬並て十市(ノ)郡獵路の小野へ御獵に幸《ミユキ》ませれば、情《コヽロ》なき猪鹿《シシ》こそは伊這拜《イハヒヲロガ》め、鶉こそ伊這回《イハヒモトホ》れ、況や天の下の民|御從《ミトモ》の我等まで、其の猪鹿《シシ》の如く伊匍匐拜《イハヒヲロガ》み、其の鶉の如く伊匍匐廻《イハヒメグ》り、をののき仕へ奉りて常に日月を仰ぐ如くに仰見奉り來れど、いよゝます/\尊き吾が大君哉となり。
 
  反  歌
 
 久堅乃《ヒサカタノ》、天歸月乎《アメユクツキヲ》、綱爾刺《ツナニサシ》、我大王者《ワガオホキミハ》、盖爾爲有《キヌガサニセリ》。
 
●「天歸月乎、綱爾刺」皇子此日獵くれて、夕べに歸り給ふに、夕月の空に見え初むるを見て如v此《カク》云ひなせる也。綱に刺しとは、綱を刺しと云ふことにて、盖《キヌガサ》には左右に四條の鋼ありて、侍臣のひかへ行く故に、それを空の月の、往けば行く儘に、後《オク》れずしてそひて來る状《サマ》なるが、即綱を付けて引き來る如くなれば相兼ねて云へる也。然《シカ》はあれど人麻呂大人ならではいひ得べからぬ詞にして、言語の骨法、歌の髓脳ここにあり。然るに此妙を聞知る事あたはずして、盖を月に見なしたる也、と云へるこそ無念《ブネン》なれ。盖爾爲有《キヌガサニセリ》とあるをいかに心得たるぞや。後撰集に、河原(ノ)左大臣「照月をまさきの綱によりかけてあかず別るゝ君をとゞめん」。是も月に鋼を付けて引きとゞめんと云ふことなり●「盖」儀制令(ニ)云(フ)、凡盖(ハ)皇太子、紫(ノ)衣、蘇方(ノ)裏、頂及(ビ)四角覆(ヒ)v錦(ヲ)垂(ル)v總(ヲ)、親王(ハ)紫(ノ)大|纈《ユハタ》云云太神宮式盖(ノ)下(ニ)云(ハ)緋(ノ)綱四條と見ゆ。是は常の幸(ノ)都衢等にて着給ふを云へるにて、遊(198)獵の時の具にあらず。御獵は二(ノ)卷に「毛衣《ケゴロモ》を春冬かたまけて、幸し宇陀の大野はおもほえんかも」とよめる如く、專ら皮衣にむかばきなりければ、盖などをめすべきにあらず、故(レ)今夕は月を以て見立て申せるにぞある。
●一首の意は、今夕獵くれて歸り給へば、夕月夜ぞ見送り奉る。其月の道すがら、後れぬ状、即其月に綱を刺て、我が大王は神にしませば、盖に着て還らせ給へるなりけり。さて/\いみじき御稜威《ミイツ》なるかなとなり。
 
 皇者《オホキミハ》、神爾之坐者《カミニシマセバ》、眞木之立《マキノタツ》、荒山中爾《アラヤマナカニ》、海成可聞《ウミヲナスカモ》。
 
○或本反歌とあるはひが事也。是は山中に池を作られたる時の歌と聞ゆ。もし獵路池ならば天武の頃ほひなりけらし●「荒山中」荒は人氣の疎きを云ふ●「海成」此成は爲にて造るを云ふ。
 
  弓削(ノ)皇子遊(バシシ)2吉野(ニ)1時(ノ)御歌
 
 瀧上之《タキノヘノ》、三船乃山爾《ミフネノヤマニ》、居雲乃《ヰルクモノ》、常將有等《ツネニアラムト》、和我不念久爾《ワガオモハナクニ》。
 
●「三船乃山爾」輿地通志云、御船山在2菜摘村(ノ)東南(ニ)1望(ムニ)v之(ヲ)如v船(ノ)坂路甚嶮と云へり。瀧上は瀧(ノ)宮のあたりより望む山なればなるべし●「常將有等云云」此の間省きてつづけ給へる也。吉野のおもしろきを見ても常にあらんとおもへど、世は常ならぬにと云ふ也。念は例のそへ云ふ語。(199)爾はいひ入れて歎く辭也。
●一首の意は、瀧の上の三船の山には常に雲をり。其ゐる雲の如く常にあらまほしかれど、世はつねならぬにと歎き給へる也。
 
  春日《カスガノ》王(ノ)奉(ル)v和(ヘ)歌
 
 王者《オホキミハ》、千歳爾麻佐武《チトセニマサム》、白雲毛《シラクモモ》、三船乃山爾《ミフネノヤマニ》、絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》。
 
●上の弓削皇子は天武天皇の皇子、此の春日(ノ)王は天智(ノ)御孫也。文武紀三年六月庚戌、淨大肆春日(ノ)王卒とあり●「王者」弓削皇子を指し奉れり●「絶日安良米也」米也は反語にて絶ゆる日のなきが如く、大君の命も千歳にまさん。
 
 或本(ノ)歌|三吉野之《ミヨシヌノ》、御船乃山爾《ミフネノヤマニ》、立雲之《タツクモノ》、常將在跡《ツネニアラント》、我思莫苦二《ワガオモハナクニ》。
 
   右一首、柿本朝臣人麻呂歌集(ニ)出。
 
  長田(ノ)王被(ル)v遣(レ)2筑紫(ニ)1渡(ル)2水島(ニ)1之|時《トキノ》歌《ウタ》二首
 
 如聞《キヽシゴト》、眞貴久《マコトタフトク》、奇母《クスシクモ》、神左備居賀《カムサビヲルカ》、許禮能水島《コレノミヅシマ》。
 
●「長田(ノ)王」長(ノ)皇子の孫、粟田(ノ)王の子也。●「水島」景行紀に天皇幸して、肥後(ノ)國葦北の小島に泊りまして、大御食奉る時、島に水なかりけるを、山部(ノ)阿弭古《アビコ》が祖、小左と云ふ人天地の神に祈(200)りしかば、岸邊に水涌出でたり。かれ水島と云ふ。仙覺妙に、風土記(ニ)云(フ)、球磨(ノ)乾七里(ノ)海中(ニ)有v島稍可(リ)2七十里1名(ヲ)曰(フ)2水島(ト)1島(ニ)出(ヅ)2寒水1逐v潮高下(ス)云云 ●「如聞」彼の景行の御時より名高く云ひ傳へたれば、如《ゴト》v聞《キヽシ》とは申し給ふなり ●「神佐備居賀」集中|賀美佐夫流《カミサブル》とも加牟佐備《カムサビ》ともあり。此《コヽ》は神々《カウ/\》しく舊《フリ》て見ゆるを云ふ。賀は哉《カモ》の意●「許禮」は此《コヽ》の古語なり。一首の意かくれたる所もなし。
 
 葦北乃《アシキタノ》、野坂乃浦從《ヌサカノウラユ》、船出爲而《フナデシテ》、水島爾將去《ミヅシマニユカム》、浪立莫勤《ナミタツナユメ》。
 
●「葦北乃野坂」和名妙に肥後(ノ)國葦北(ノ)郡葦北(ノ)郷また菊池(ノ)郡水島とあれば、此二郡のあはひに野坂も有るべし●「波立莫勤」ゆめは努々《ユメヽヽ》など云ひていとつゝしむ意なれば、集中にも勤謹の字をかけり。即ちつゝしみて波立勿《ナミタツナ》といはんが如し。これもよく聞えたらん。
 
  石川大夫和(ル)歌
 
 奥浪《オキツナミ》、邊波雖立《ヘナミタツトモ》、和我世故我《ワガセコガ》、三船乃登麻里《ミフネノトマリ》、瀾立目八方《ナミタタメヤモ》。
 
●「石川大夫」足人也。卷四に神龜五年戊辰太宰(ノ)少貮石川足人朝臣遷任(ス)餞(スル)2于筑前國蘆城驛家(ニ)1歌三首とある。此足人也。左註は誤れり。此集大夫とあるは凡て五位の人也●「和賀世故我」長田(ノ)王をさす●「三船」御船也。
(201)●一首の意は、たとひ沖つ波、邊波はいかにたつとも、わが兄《セ》の君が御船のはてん泊りに浪立ためやは、浪は立つ事なし、と也。
 
   右今案(ニ)從四位石川(ノ)宮麻呂朝臣慶雲年中任(ジ)2大貮(ニ)1、又正五位石川(ノ)朝臣吉美侯神龜年中任(ズ)2少貮(ニ)1。不v知(ラ)3兩人誰作(ルカヲ)2此歌(ヲ)1焉
 
  又長田(ノ)王(ノ)作(ル)歌一首
 
 隼人乃《ハヤヒトノ》、薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》、雲居奈須《クモヰナス》、遠毛吾者《トホクモワレハ》、今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
 
●「隼人乃薩摩乃」隼人は本、彼の國人の健きを以て云ふ。此の事道別に委しく出づ。ここは其の國の内の薩摩とよび出でたる也●「迫門乎」和名抄薩摩國出水郡に勢度《セトノ》郷あるを見れば、常の迫門とちがひて名高き地名なりけらし。さて迫門とは潮瀬《シホセ》浪(ノ)瀬など云ふ瀬にて、船の通り道を云ふ。門《ト》は浦門《ウラト》、川門《カハト》など云ひて、是も道也。されば廣き海上にも必ず船の道の定りありて、多くの船のおちあふ所を某《ナニ》の迫門《セト》と云ふ。字はたゞ借字にて迫《セバ》き意にはあらず。
●一首の意は、此《コヽ》よりして隼人の薩摩の迫門を見んとは思ひもよらざりしを、此水島が七里も奥《オキ》へさし出たるばかりにて遠くもわれは今日見つるが、めづらしと也。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)覊〔馬が奇〕旅《タビノ》歌八首
 
 三津崎《ミツノサキ》、浪矣恐《ナミヲカシコミ》、隱江乃《コモリエノ》、舟八也何時※[四字左(]《フネハヤイツカ》、泊※[左(]奴島爾《ハテムヌシマニ》。
 
(202)●「三津崎」御津前《ミツノサキ》也。仁徳(ノ)大御歌、おしてる難波の前《サキ》に出でたちてわが國見ればあは島おのころしま云云とある條に委しくいひつ●「隱江乃」浪の荒きをかしこみて、船出さずこもりをるをやがてこもり江に、いひうつしたり。●「舟八也云云」此間の誤落よき程に考へ加へ、後の定めを待つなり●「奴島」淡路也。此うた西國へ出で立てるに難波の前を出で離るゝほど、浪風あしくて久しく候らひをりつれば、はやく奴島までも榜ぎよせん事を願へる也。
 
  珠藻苅《タマモカル》、敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》、夏草之《ナツクサノ》、野島之崎爾《ヌシマガサキニ》、舟近着奴《フネチカヅキヌ》。
 
●「珠藻苅」海邊なれば只輕くつゞけたる也 ●「敏馬乎過」行嚢抄(ニ)云(フ)脇濱村ヨリ岩屋戸マデノ間ヲ三犬女《ミヌメノ》浦ト云フ。淡路(ノ)島ハ自2此邊1南ノ海中ニ近々ト見ユ云云。或紀(ニ)云(フ)南の【道より南なり】濱邊に脇はま村と云ふ所有り。その浦をあはぢの島たゞむかふ、とよみしみぬめの浦なりとききて「かりねせば、浪の枕を敷わびてゆめもみぬめのうらみなるべし」【以上】云云●「夏草之」夏の草のしなえうらぶるるよしのつゞけ也。此事上にも云ひつ●「野島」淡路なり。こひこひし野島が埼にやうやく船遊づきて、うれしとふくめたる也。
 
  一本(ニ)云(フ)、處女乎過而《ヲトメヲスギテ》、夏草之《ナツクサノ》、野島我崎爾《ヌジマガサキニ》、伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》。
 
●「處女乎過而」此句若(シ)三犬女《ミヌメ》の誤歟。又本より處女ならば處女《ヲトメ》塚のある地也。行嚢抄(ニ)云(フ)、處女ハ住吉ヨリハ南、三犬女ノ西ニ在リ云云。サテモ似タル塚ノ、二所ニアル、一ハ後ニ移シタルカ。
 
(203)  粟路乃《アハヂノ》、野島之前乃《ヌジマノサキノ》、濱風爾《ハマカゼニ》、妹之結《イモガムスベル》、紐吹返《ヒモフキカヘス》。
 
●「妹之結」卷二十に、兒等我牟須敝流《コラガムスベル》とあり。此は旅衣の腋に着たる紐に、旅行安全のために、妻が心をこめて祝ひ紐《緒(?)》にむすびたるを云へる也。餘情此句に多くふくみたり。
 
  荒栲《アラタヘノ》、藤江乃浦爾《フヂエノウラニ》、鈴寸釣《スヾキツル》、白水郎跡香將見《アマトカミラム》。旅去吾乎《タビユクワレヲ》。
     
  一本(ニ)云(フ)。白栲乃《シロタヘノ》、藤江能浦爾《フヂエノウラニ》、伊射利爲流《イサリスル》。
 
●「藤江能」行嚢抄(ニ)云(フ)。追分、明石ノ出口ニアリ。自v是ハ藤江ヲヘテ印南野ノ南ノ海邊ヲ通リ高砂ヘユク路也。左藤江浦明石ニツヅキタル浦ナリ。方角抄(ニ)云(フ)。藤江のうら、日かさの浦など云ふはあかしも近し云云。和名抄に、播磨國明石郡葛江【布智衣】●「白水郎跡香將見」七卷に、鹽早み磯囘《イソミ》しをればかづきするあまとや見らん旅行くわれを。猶|如此《カク》さまなる歌をこれかれ合せ考ふるに、此は其浦に、久しく風待などして浦馴れたる態を述ぶる心ときこゆ。一本の方もあしからず。
 
  稻日野毛《イナビヌモ》、去過勝爾《ユキスギガテニ》、思有者《オモヘレバ》、心戀敷《コヽロコヒシキ》、可古能島所見《カコノシマミユ》。
 
(204)  一(ニ)云(フ)。湖見《ミトミユ》
 
●「稻日野」行嚢抄(ニ)云(フ)。印南トハ郡名ニテ廣キ野也。凡自2明石1加古川マデノ間曠々トシテ北ハ山、南ハ海ナリ。其ノ間五里ナリ。野ノ内ニ新發ノ田畠所々ニアリ。新在家トテ民家モ少シ出來ツ●「可古能島」加古川宿ノ出口ニアリ云云。加古(ノ)島今加古島卜指シテ云フ處ナシ。只此川ノ海ニ入ル所ヲ湊ト云フ。其海中ニ在(ル)島ヲ加古ノ島ト云フナルベシ云云。稻日と加古と郡は分れたれど其間相近し。是を阿古と改めたるは誤なり。阿古は攝津にて其間十五六里隔ちたるものをや。
●一首の意は、稻日野あたりのけしきも見過しかねて、行き過ぎがたくおもへれば、心にこひしき彼子《カコ》の島さへみゆるよと也。可古《カコ》を彼子《カコ》と取なす事、淡路島|彼者《アハ》と見る、又|彼者《カハ》と見ながらなど云へるたぐひなり。
 
 留火之《トモシビノ》、明水門爾《アカシノミトニ》、入日哉《イラムヒヤ》、榜將別《コギワカレナム》、家當不見《イヘノアタリミズ》。
 
●「留火之」つゞけの意耳近し●「明水門」校異萬葉に隨ふべし。水門は此《コヽ》は御門《ミト》の義也。此門より内海に入て、大伴(?)の御津に向へば也。播磨風土記にも御門《ミト》と書きたり●「榜將別」大和國に榜別るゝを云ふ。次の歌に自2明(ノ)門1倭島所見とある如く、此門まで海上十五里眞直に倭へ向へるが、此門より外海に出て忽ち見えずなるが故也。
●一首の意は、難波の方より播磨の明石の御門に人らひ日や、かへり見しつゝしたひ來し倭の(205)家の當りも見えなくなりて、榜ぎ別るるが心ぼそしとなり。
 
 天離《アマザカル》、夷之長道從《ヒナノナガヂユ》、戀來者《コヒクレバ》、自明門《アカシノトヨリ》、倭島所見《ヤマトシマミユ》。
 
●「天離夷」ひなは隔《ヘナ》るの義なれば、天と遠く隔《ヘナ》れる意のつゞけ也。既にもいひつ●「倭島」大和國は島國にもあらざるにかく云ひならひたるは古語の遺れるにて、神代の時日向にして大八島と數へし時の詞也。そのよし道別の倭の名義(ノ)下に云ひつ。さて是は筑紫より歸路によめる也。うたの心よくきこえたらん。
 
  一本(ニ)云(フ)。家乃當見由《イヘノアタリミユ》
 
 飼飯海乃《ケヒノウミノ》、庭好有之《ニハヨクアラシ》、苅薦乃《カリコモノ》、亂出所見《ミダレイデルミユ》、海人釣船《アマノツリフネ》。
 
●「飼飯海乃」此の飼飯《ケヒ》は淡路の地名なるべし。ここの歌の次《ナミ》凡て筑紫へ下られし時の歌なるを此一首のみ越前の敦賀《ツルガ》の笥飯《ケヒ》としてはいかゞなり。七島(ノ)記と云ふ物に、淡路に飼飯野《ケヒノ》と云ふ處あり。其前通の海を飼飯(ノ)海と云ふ。淡路の海人と云ふは、皆此浦の海人也と云へり●「庭好有之」浪の平らかなるを庭と云ふ。次々にも多く見ゆ。歌の心明らけし。
 
  一本(二)云(フ)。武庫乃海《ムコノウミ》、船爾波吉※[左(]之《フナニハヨラシ》、伊射里爲流《イサリスル》、海部乃釣船《アマノツリフネ》、浪上從所見《ナミノヘユミユ》。
 
●「武庫乃海」今の兵庫の海也。行嚢抄(ニ)云(フ)。武庫川の海に流れ入る所を武庫(ノ)浦と云ふ。武庫山(206)は此邊よりは北也云云 ●「舶爾波吉之」船庭の吉《ヨカ》るらしと云ふなり。今本吉(ヲ)作(リ)v有(ニ)たれど、神武紀の歌にも、今うたばよらしとあれば、一本に隨ふべし●「伊射里」沖漁《オキアサリ》の約れる言也。故漁夫など奥《オキ》遠く入りたるを云ふ。又|阿射里《アサリ》は上漁《ウハスナドリ》の約れるなれば海の入口にして船などよめる事なし。【鳥に就て求食と書けるを本として、足さぐりの義也など云ふは非なり】これに對へて知るべし●「海部」上海部《ウハウミヘ》にて、常には宇波《ウヘ》と約め、宇美の宇を省きて阿麻《アマ》と云ふを、本義につきて海部とはかける也。
●一首の意は、むこの海は船のうかぶ浪の庭|吉《ヨカ》らし、奥遠くすなどりする海人の釣舟どもの遙に浪の上に見ゆと也。
 
  鴨(ノ)君|足人《タリヒトノ》香具山(ノ)歌一首並短歌
 
 天降付《アモリツク》、天之芳來山《アメノカグヤマ》、霞立《カスミタツ》、春爾至婆《ハルニイタレバ》、櫻花《サクラバナ》、木晩茂爾《コノクレシゲニ》、松風爾《マツカゼニ》、池波立而《イケナミタチテ》、奥邊波《オキベニハ》、鴨妻喚《カモメツマヨビ》、邊津方爾波《ヘツベニハ》、味村左和伎《アヂムラサワギ》、百磯城之《モモシキノ》、大宮人乃《オホミヤビトノ》、退出而《マカリデテ》、遊船爾波《アソビシフネニハ》、樟梶毛《サヲカヂモ》、無而不樂毛《ナクテサブシモ》、己具人奈四二《コグヒトナシニ》。
 
●「鴨君足人」鴨君は姓氏録に、開化天皇(ノ)皇子|彦坐命《ヒコイマスノ》之後也と見ゆ。足人傳未詳。此歌は高市(ノ)皇子(ノ)尊薨じ給ひて後、香具山(ノ)宮に住(ム)人なきよしをいためる也●「天降付」あめおりつくの約れる也。風土記などに傳へたる事を枕詞のさまに置ける也●「櫻花、木晩茂爾」此は櫻花咲き(207)其後若葉萠え出でて木暗くなるまでをかけて云ふ也。今本此二句松風爾云云の二句の下にあるは寫し誤れる也●「松風爾、池波立而」松風は香具山の松也。池波は埴安の池也●「鴫」とのみ書きたれど、此は、次の味村の村に對へて、かもめと訓むべし、即其|群《ムレ》を云ふ也。此鳥どもの事一卷に云ひつ●「百磯城之」此枕詞の意は言別に辨へつ●「遊船爾波」此句文字は餘るともあそびしふねにはとよまずては理《コトワ》り叶はず●「梶棹毛無而不樂毛」皇子(ノ)尊薨じて後は船遊びを禁ぜられて、御座船の梶棹も皆取はづしたるなるべし。
●一編の意は、天の香具山いつはあれど、霞立つまでにいたれば、櫻花さき、又ちりし後も、若葉繁り、松ふく風に池浪立ちて、奥べにはかもめ妻よび、邊つべには味のむら鳥立さわぎておもしろきに、皇子(ノ)尊薨じ坐して後は、大宮人の退《マカ》り出でて遊びし船の棹梶を皆とりはづされて、こぐ人もなく、さびしきよとなり。
 
  反  歌
 
 人不榜《ヒトコカズ》、有雲知之《アラクモシルシ》、潜爲《カヅキスル》、鴦與高部共《ヲシトタカベト》、船上住《フネノヘニスム》。
 
●「有雲知之」あるを延べて、あらくと云ふ。しるしは灼《イチジル》し也●「鴦與高部共」和名抄崔豹(ガ)古今註云。鴛鴦|乎之《ヲシ》また※[爾+鳥]和名|多加閇《タカベ》。貌似v鴨而小、背(ニ)有v文と見えたり。今も此鳥田舍にてはたかぶと云へり。
 
(208) 何時間毛《イツノマモ》、神左備祁留鹿《カムサビケルカ》、香久山之《カグヤマノ》、鉾※[木+褞の旁]之本爾《ホコスギガモトニ》、薛生左右二《コケムスマデニ》。
 
●「何時間毛」いつの程にかもと云ふ意也●「神左備祁留鹿」此の鹿は、上のいつのほどにかのかを、下へ廻して此處に置けるにて疑ひ也●「鉾※[木+温の旁]之本爾」若木の杉の生ひ立ちていまだ枝葉の少きを、矛杉と云ふか。垂仁紀に矛八矛と云へるは、橘子を長く折取て枝葉を拂ひて、實を着けたる也と云へるを考合すべし。※[木+褞の旁]の字は顯宗紀に出づ。本はたゞ木の事を云ひて、此《コヽ》は鉾※[木+褞の旁]の木にと云はんが如し。持統天皇十年高市(ノ)皇子(ノ)尊薨(リ)まして後、いまだ年經たる程にもおぼえざりしに、もと枝葉もなかりし杉の若ばえに薛蘿の生ふるまでふる/”\しくなりけりと云ふ也。此は上の歌と同時によめるにはあらず。遙かおくれて後の作也。
 
  或本(ノ)歌(ニ)曰(ク)、天降就、神乃香山、打靡、春去來者、櫻花、木晩茂、松風丹、池波※[風+(火三つ)]、邊都返者、阿遲村動、奥邊者、鴨妻喚、百式乃、大宮人乃、去出、榜去※[左(]舟者、竿梶母、無而佐夫之毛、榜與雖v思。古今案遷(サル)2都(ヲ)寧樂(ニ)1之後怜(テ)v舊(ヲ)作2此歌1歟。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂、獻(ル)2新田部《ニヒタベノ》皇子1歌一首並短歌
 
 八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王《ワガオホキミ》、高輝《タカヒカル》、日之皇子《ヒノミコ》、茂座《シキマセル》、大殿於《オホトノヽヘニ》、久方《ヒサカタノ》、天傳來《アマヅタヒクル》、白雪仕物《ユキジモノ》、往來乍《ユキカヨヒツヽ》、萬代※[二字左(]《ヨロヅヨニ》、奉仕※[二字左(]《ツカヘマツラン》、益及座※[左(]世《イヤシキイマセ》。
 
●「八隅知之云々」以下四句の尊稱。こゝは新田部(ノ)皇子を指せり。此皇子は天武天皇の皇子也。(209)●「茂座」敷座の借字也●「白雪」今本白(ヲ)作(ル)v自(ニ)は誤れり。二宇にてゆきとよむべし●「往來乍」此れを諸注、往來乍益《ユキキツヽマセ》とよみて、皇子の事とせり。次の反歌と考へ合するに、往來乍は、作者の此皇子(ノ)宮へ往來して、奉(ル)v仕(ヘ)ことにこそあれ。皇子の御上としては何方へ然か往來し給ふ事とせん。上よりのかゝりも其意のつづけにはあらざるをや。是《コ》は此下に三四字脱漏あり。故(レ)考へ加へたる事右の如し●「萬代、奉仕、益及座世」人麻呂の方より往來しつゝ萬代につかへ奉らん。此雪の如《ゴト》益《イヤ》しく/\に長くましませとなり。雪中みけしき伺ひに出でしついでにきこえたるうた也。
●一編の意は、安見し爲《セ》す吾大王、高光る日の皇子の、敷座す大殿のへに大雪ふれり。みけしきうかがひ奉りながらきこえまつらくは、此天傳ひ來る雪自物|從來乍《ユキカヨヒツツ》賤き僕《オノレ》も萬代に仕へ奉らん。此ふる雪のごととことはに、益敷きいませとなり。
 
  反  歌
 
 矢釣山《ヤツリヤマ》、木立不見《コダチモミエズ》、落亂《フリミダル》、雪※[足+(雨/鹿)]《ユキニキホヒテ》、朝來※[左(]樂毛《マヰリクラクモ》。
 
●「矢釣山」高市郡に今も八釣村あり。藤原(ノ)宮にも近ければ皇子の宮此地に在しゝなり●「雪※[足+(雨/鹿)]」古本の點に隨ひて來の字を一字くはへぬ●「朝來樂毛」まゐり來るを延べたるにて、雪中に上りたる勞を云へるなり。
 
(210)  從2近江(ノ)國1上(リ)來(ル)時|刑部垂麻呂《オサカベノタリマロガ》作(ル)歌
 
 馬莫疾《ウマナイタク》、打莫行《ウチテナユキ》、氣並而《ケナラベテ》、見※[氏/一]毛和我歸《ミテモワガユク》、志賀爾安良亡國《シガニアラナクニ》。
 
●「垂麻呂」既に出づ。大かたの例によらば、刑部垂麻呂從2近江國1云々と有るべきなり●「氣並而」來經並而《キヘナベテ》と云ふことにて、來經は日月の經往《ヘユク》を云ふ。暦《コヨミ》も來經讀《キヘヨミ》の意、幾日《イクカ》の日も、幾來經《イクキヘ》の日と云ふこと也。此は日數の並びかさなれるを云へる也●「志賀爾安良亡國」志賀は近江の滋賀也。あらなくには、あらぬにを延べたるにて、爾〔傍線〕は歎《ナゲク》の那の通音にて、即云ひ入れてなげく言也。
●一首の意は、此地の景色いとおもしろくて、見るにあきたらねども、日數を重ねて見て行かん事かなはねば、せめて足をのどめて、見むにあまり馬を打ちはやめて急ぐ事なかれと也。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂從2近江國1上(リ)來(ル)時至(テ)2宇治川(ノ)邊《ベニ》1作(ル)歌一首
 
 物乃部能《モノノフノ》、八十氏河乃《ヤソウヂカハノ》、阿白木爾《アジロギニ》、不知代經浪乃《イサヨフナミノ》、去邊白不母《ユクヘシラズモ》。
 
●「從2近江國1上來時」此は一卷に、過2近江荒都1時作歌とある度の歸路にて、さばかりなる大宮所の速《ト》みに跡かたもなくなりぬるに、有爲轉變の世を感じてよめる也●「物乃部能八十」物はあらゆるといはんが如し。部は、仕官の人の限りを云ふ。それは常にも百官といひて氏々職々多かれば、宇治川へ八十氏川とつづけたる也 ●「阿白」は網代《アジロ》にて網の代りに魚とる小簗《コヤナ》(211)なり。氷魚《ヒヲ》は至て小魚にて、且つ脆き魚なりければ、網にては捕へがたき故に、箱の如き小梁を作りて、簾絹等を敷きてとる也。世に此の物を心得ちがひせる説多かれば、はやく古圖を寫させ置きつれど、ここには得出さず。さて網代木とは、その小簗を懸くる爲めの木どもにて、氷魚とらせたる後も打|置《ス》ゑしまゝにてあるを云ふ●「不知代經浪乃」其木どもは川瀬に垣を結びたる如くなれば、より來る浪のしばし滯《トヾコホ》るかと見れば、やがて、漏《モリ》くゞりてゆく方知らず成り行くを、彼の近江宮より世の盛衰變易を嘆息せられたるなり。すがた高く意味深くすぐれたる歌なるべし。かく見れば此物乃部能八十氏は少し下へかゝりて心しらひあるにやあらん。誠に其心以て解かば、
●一首の意は、こたび大津宮の荒れたる跡を見、百官も其半ば忽ちに滅び失せたるを見れば、物部の八十氏と別れたる氏々の人とても、宇治川の網代の杙にしばしいざよひ滯るばかりの世の中にして、つひの行くへは知りがたきわざなるよ、といふなり。もし初句は枕詞の意ならば、除きて心得なん。
 
  長(ノ)忌寸|奥《オキ》麻呂(ガ)歌一首
 
 苦毛《クルシクモ》、零來雨可《フリクルアメカ》、神之崎《ミワガサキ》、狹野乃渡爾《サヌノワタリニ》、家裳不有國《イヘモアラナクニ》。
 
●「神之埼狹野之渡」南紀名勝畧志(ニ)云(フ)、牟婁(ノ)郡新宮(ノ)庄新宮村の南一里許佐野村あり。佐野村の東八町許に三輪ケ崎と云ふ處有り。海邊なりとあり。行嚢抄も此趣なり。地理是に隨ふべし。他(212)説はたゞ暗推のみ。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌
 
 淡海乃海《アフミノミ》、夕浪千鳥《ユフナミチドリ》、汝鳴者《ナガナケバ》、情毛思努爾《コヽロモシヌニ》、古所念《イニシヘオモホユ》。
 
●「夕浪千鳥」夕べの浪の上になく千鳥をいへり。妙なる語也。●「情毛思努爾」思努《シヌ》は偲《シヌ》ぶ、又|忍《シヌ》ぶ、死《シ》ぬなどの志奴《シヌ》と同語にて、深く心に染むことなり。されば沾《ヌ》るる事に志努々《シヌヽ》にぬれて、と云ふも、深く沾しほたれたる也。此《コヽ》もそれらになずらへて心得べし。是も彼の大津(ノ)宮を見られたる度のうたなるべし。
●一首の意は、近江の宮跡を見てさらぬだに、悲しきに、夕浪のすごき上にとびちがふ千鳥よ、汝《ナ》がなけば、いとゞ心もなえ/\として、ありし古人の思はるゝよ、と也。
 
  志貴(ノ)皇子御歌一首
 
 牟佐佐婢波《ムササビハ》、木末求跡《コヌレモトムト》、足日木乃《アシビキノ》、山能佐郡雄爾《ヤマノサツヲニ》、相爾來鴨《アヒニケルカモ》。
 
●「志貴皇子」天智天皇(ノ)皇子靈龜二年八月薨(ズ)、追謚を春日(ノ)宮天皇と稱す●「牟佐々婢波」和名抄に云ふ。本艸(ニ)云(ハク)、※[鼠+田三つ]鼠。一名、※[鼠+吾]鼠。和名|毛美《モミ》。俗(ニ)云(ハク)、無佐々比とあり。●「木末求跡」とは、塒につきたる鳥或は蛇《ヘミ》などの梢に住めるを、食《クラハ》んとて求むるを云ふ。●「佐都雄」獵夫にて、獵(213)物を幸《サチ》と云ふ故の名なり。さて此句どもを見るに、こは六(ノ)卷七(ノ)卷等によめるとは別にて、全くにむさゝびのみの歌にはあらず。大友、大津の皇子たちの御事を御まのあたり、見給ひてたとへ給へるなるべし。
 
  長屋(ノ)王(ノ)故郷(ノ)歌一首
 
 吾背子我《ワガセコガ》、古家乃里之《フルヘノサトノ》、明日香庭《アスカニハ》、乳鳥鳴成《チドリナクナリ》、君待不得而《キミマチカネテ》。
 
●「長屋王」天武御孫高市(ノ)皇子(ノ)御子號(ス)2佐保(ノ)大臣(ト)1●「吾背子我」此は親しき皇子たちを、指し給ふなり。●「古家乃里之、明日香庭」其皇子は既に藤原へうつり給ひし故に、わが背子が古家の里とは宣ふ也。かくて此王は、後々迄も飛鳥に住み給ひし故に、便りにつけて、藤原の里なる親しき皇子のもとにいひやり給ひし也。かくいひて我が里へもちと訪はせ給へ、と云ふことなるを、我里とは宣はずして、吾兄子が古家の里とのたまふが妙なる也。
 
  右今案(ニ)從2明日香1遵(リテ)2藤原(ノ)宮(ニ)1之後、作(ル)2此歌1歟。
 
  阿倍(ノ)女郎(ガ)屋祁※[左(]坂《ヤケサカノ》歌一首
 
 人不見者《シヌビナバ》、我袖用手《ワガソデモチテ》、將隱乎《カクサムヲ》、所燒乍可將有《ヤケツツカアラム》、不服而有※[左(]來《キズテアリケリ》。
 
●「阿倍女郎」遊行女婦ならんとおぼしかれば、こゝも女郎の字を其まま記す也●「屋祁坂」(214)本の部《ベ》は祁《ケ》を誤れるならん。紀伊人云(フ)、本國牟婁(ノ)郡に今八鬼山と云ふあり。硫黄の氣ありと見えて、昔よりをり/\燒けぬ。その燒けたる間《ホド》は草木絶えて赤裸山となりぬ。熊野路なれば是ならんと云へり。さらば、其山を見て戯れたる也。
●一首の意を、試にいはば、忍ばんとならば我袖もちても隱しなんを、忍ぶ心もなきにやあらん。燒けたるままにてあるよ、と也。
 
  高市(ノ)連黒人(ノ)覊〔馬が奇〕旅《タビノ》歌八首
 
 客爲而《タビニシテ》、物戀敷爾《モノコヒシキニ》、山下《ヤマシタノ》、赤乃曾保船《アケノソホフネ》、奥榜所見《オキニコグミユ》。
 
●「山下」赤といはん枕詞也。十五に足日木の山下光る赤葉《モミヂバ》の。六に、春部はいはほは山下ひかり。十八に、橘の下てる道などよめる、皆赤く光る事なり。山火照《ヤマヒテリ》の意にもある歟。比《ヒ》と志《シ》と音通ひ、天理《テリ》と多《タ》と音近し●「曾保」十四に、まがねふく爾布能麻曾保《ニフノマソホ》の色に出て、と有りて、赭土を、そほに、と云へり。即其赭土を本として凡て朱《アカキ》ものして塗りたるを曾保舟《ソホブネ》と云ふ。赤の、と云ふは重ね詞也。古へ船に色ありて赤きは官船、黄色は流人舟とやう(?)に定りありし故に羨むなり。
●一首の意は旅にして都戀しく思ふをりから、赤のそほ船おきにこぐ見ゆ。い|へま《づこ(?)》の官人の任果てゝ都へ還るらん。うらやましかしと也。
 
 櫻田部《サクラダヘ》、鶴鳴渡《タヅナキワタル》、年魚市方《アユチガタ》、鹽干二家良進《シホヒニケラシ》、鶴鳴渡《タヅナキワタル》。
 
(215)●「櫻田部」和名抄に尾張(ノ)國愛知(ノ)郡に作良《サクラノ》郷見ゆ。其處の田也。催馬樂さくら人に、「さくら人其舟ちゝめ島つ田を千町つくれる見て歸りこん」●「年魚市方云云」此歌けしきをよめるにあらず。日本武尊の歌に「あゆちがた潮みちけらし、日高路に此夕しほにわたらへんかも」とよませ給ふ如く、今此作者も、渡りあへんやいかに、と思ひ煩ひたるに、田鶴の鳴き渡るさまにて、潮干を知りてよろこぶ也。昔は鳴海の喚繼《ヨビツギノ》濱の邊より、愛知《アユチ》の濱迄の間は渡る事のいとかたかりし也。宗祇方角抄(ニ)云(フ)、よびつぎの濱・星崎・上野・夜寒(ノ)里・松風のさと、熱田より五十町中間遠干潟也。鹽みちぬれば上野へまはる也。渚より上野は東也。山は遠し。只鳴海|野《潟(?)》ともいふなり。廻り道は三里也云云。名寄景繩「鳴海がた鹽干に浦やなりぬらん、上野の道はゆく人もなし」これは東海道なり。此處より尾張の府に出んには年魚市潟の潮干ざる限りは廻り道も無かりしよし也。七卷にも「年魚市方《アユチカタ》鹽《シホ》干《ひ》にけらし知多の浦に朝こぐ船も奥《オキ》による見ゆ」とやうに鹽干に心づかひせるも右の所以也。かゝれば、
●一首の意は、櫻田の方へ田鶴鳴きわたる。かくては渡りあへんやいかにと、あんじ煩ひ來しあゆち島《潟(?)》の潮も干潟となりけらし。あゝうれしくも田鶴鳴き渡ると也。赤人のあしべをさして田鶴鳴きわたると云ふに劣らず、いとめでたきうたなり。尋常の釋は歌の見かたを知らぬなり。
 
 四極山《シハツヤマ》、打越見者《ウチコエミレバ》、笠縫之《カサヌヒノ》、島榜隱《シマコギカクル》、棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 
(216)●「四極山」或人云(フ)和名抄參河國幡豆(ノ)郡に磯伯【之波止】とある地の山なり。小山なれども其山越えて見れば、南東の海上に、今さく島かたはら島など云ふ小島あり。是昔のかさぬひ島也。景色すぐれて宜しと云へり。思ふに攝津にも四八津《シハツ》ありて六(ノ)卷に歌あれど其地には山もなく、今こゝの次《ナミ》を考ふるに參河・尾張・美濃・近江・山城を經て郡へ歸られける歌なれば、攝津國などにては地理かなはず。參河にさる地あらば其れなるべし●「島榜隱」其島に小舟の榜隱《コギカク》るゝけしき、えもいはぬよし也。棚無小舟既に出づ。此歌古今集大歌所の歌に載せられたり。
 
 礒前《イソサキヲ》、榜手囘行者《コギタミユケバ》、近江海《アフミノミ》、八十之湊爾《ヤソノミナトニ》、鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》。
 
●「八十之湊爾」近江(ノ)海に八十の湊と云ふことは七【十五】に、近江之海湖有八十《アフミノウミミナトヤソアリ》、十三【六】近江之海《アフミノウミ》、泊八十有《トマリヤソアリ》などやうに、彼の湖中に、湊の八十ありと云ふなるを、今此歌はさては叶はず。南北二三十里もある、湖中の湊毎に鳴く鵠を一度に聞きあつむべきにあらず。必ず一つの地名也。行嚢抄を按ずるに近江國坂田郡に磯崎村といふ今もありて湊也、彦根に近し。又其處を經て八十(ノ)湊と云ふ地あり。今|八坂《ヤツサカ》村と訛りたりとぞ。●「鵠佐波二鳴」古くは鵠の字をも通はしてかけり。漢國も然りけん、五雜俎鵠(ハ)即是鶴也と云へり。
 
 吾船者《ワガフネハ》、枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》、榜将泊《コギハテム》、奥部莫避《オキヘナサカリ》、左夜深去來《サヨフケニケリ》。
 
●「枚乃湖爾」此|枚《ヒラ》は志賀郡の湊也。集中湖の字を湊にあてゝ書ける事多かり。●「奥部莫避」(217)沖の方へ勿《ナ》遠ざかりそと也。
●一首の意は、今宵は枚《ヒラ》の湊に榜ぎつきて泊らん。沖の方へ遠ざかりて、勿《ナ》ひまとりそ。今は夜の更けたりと也。
 
 何處《イヅクニカ》、吾将宿《ワレヘヤドラン》、高島乃《タカシマノ》、勝野原爾《カチヌノハラニ》、此日暮去者《コノヒクレナバ》。
 
●「高島乃勝野」和名抄、近江(ノ)國高島(ノ)郡勝野。七卷大御舟はてゝさもらふ高嶋の三尾の勝野のなぎさしおもほゆ。そのかみは廣き野にて其あたりに家居も乏しかりけん。
 
 妹母我母《イモモアレモ》、一有加母《ヒトツナレカモ》、三河有《ミカハナル》、二見自道《フタミノミチユ》、別不勝鶴《ワカレカネツル》。
 
●「一有加母」相おもふ心の一つなればかもといふばを省ける也。●「二見自道」三河にも二見といふ所あるなるべし。和名抄、參河(ノ)國碧海郡に呰見《アフミ》と云ふ地の見えたるは、呰は雙の誤にて雙見《フタミ》にはあらざるか。彼の抄にはさる誤常に多かれば也。さて二見と云ふ名によせて二かたにわかれ不勝《カネ》つるとうけたる也。
 
  黒人(ノ)妻(ノ)和(ル)歌一首
 
 水河乃《ミカハノ》、二見之自道《フタミノミチユ》、別者《ワカレナバ》、吾勢毛吾毛《ワガセモワレモ》、獨可毛將去《ヒトリカモユカム》。
 
(218)●「水河乃」四言也。●「獨可毛將去」此句の下に、何とてあひ別るべき、と含めて餘情をきくべし。今本一本に云ふとて載せたるは、亂れて後のしわざなり。
 
 速來而母《トクキテモ》、見手益物乎《ミテマシモノヲ》、山背《ヤマシロノ》、高槻村《タカツキノムラ》、散去奚留鴨《チリニケルカモ》。
 
●「山背高槻村」乙訓郡《オトクニゴホリ》。行嚢抄(ニ)云(フ)、高槻城下也。城主永井日向守、此處山崎ノ神南備ヨリ高須村上牧村井尻村道齋村ノ追分ヨリ右ニ入テ十餘町ノ所ナリ、と云へり。或人云(フ)、此邊すべて花もみぢのよろしき所なり。今の城山にも古樹多く見え、又城下のうしろにも岡山ありて紅葉ただならず。昔おぼゆる所のさまなりと云へり。
 
  石川女郎(ノ)歌一首
 
 然之海人者《シカノアマハ》、葷布苅鹽燒《メカリシホヤキ》、無暇《イトマナミ》、髪梳乃小櫛《ツゲノヲグシモ》、取毛不見久爾《トリモミナクニ》。
 
●「石川女郎」今本に少郎とある少は女の誤也。左註に「右今案(ニ)石川朝臣君子號(テ)曰2少郎子1也」とあるは、目録に石川女郎【古本】名(ヲ)曰(フ)2君子(ト)1と記したるより後の人のしわざ也。今此目録と歌と端書とに據りて考ふるに、既に別記に辨へたる如く、此人は遊行女婦にて、此歌よめりし頃は筑前(ノ)國志加に在りし故に、自らを然之海人《シカノアマ》といひなしつる也。是出生の地なりけらし。さて女郎と書き、君子と云へる、遊行女婦のしるし也。女郎は今におきて遊女を云ふ。君子は江口の君・神(219)崎の君など中昔迄も專ら云へり。さて後に京へ出て多くの男に逢へる事は、一卷の其出でたる處々に辨へつ。●「髪梳乃小櫛」これを「くしげのをぐし」「ゆするのをぐし」などよむは中々にわろし。黄楊をつげとよむも神世より梳《クシケヅ》る木と定り來つる故に髪梳《ツゲ》の木と名けたれば、其義を得て、黄楊の小櫛を髪梳《ツゲ》の小櫛とは書きしにぞある。髪を都《ツ》と云ふは頭《ツムリ》も髪圓《ツブリ》の義、旋毛《ツムジ》も髪囘《ツモトホリ》の義なるが如く、梳《ケヅル》をけとのみも云ふは弓削《ユゲ》などの例の如し。殊に此歌は、遊行女婦が宮人などに召《ムサ》れたる時、急ぎものして櫛一つ刺さず來つ、とことわれるなりければ、くしげの、ゆするの、と云ふ詞にては協はず。
●一首の意は、志加の海人は、葷布《メ》を苅るの、鹽をやくのと、此頃は世のことわざに取紛れて、俄なる今日の御召しに、黄楊の小櫛だにも得ささずまゐりたり、と云ふなり。
 
  高市(ノ)連黒人(ノ)歌二首
 
 吾妹兒二《ワギモコニ》、猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》、名次山《ナスキヤマ》、角松原《ツヌノマツバラ》、何時可将示《イツカシメサム》。
 
●「猪名野」攝津(ノ)國河邊郡也。行嚢抄(ニ)云(フ)、路ヨリ東ノ方(?)ニ今モ少シク笹原アリ。猪名山・猪名川・猪名(ノ)里あり。猪名(ノ)湊ハ尼崎ノ邊也。●「名次山角松原」式、武庫郡名次(ノ)神社。和名抄(ニ)云(フ)、同郡|津門《ツド》、行嚢抄(ニ)云(フ)、鳴尾云云、松原山昌林寺云云、角(ノ)松原ハ津門ノ西自2海道1北ニ松原アル所ヲ云フ名次《ナスキ》山モ同所ニ在り、と云へり。今其村を津戸村と云ふも角を訛れる也。さて近來は其松少しになりぬる状なれど、此歌に如此《カク》よめるを見れば、絶景なりきと見ゆ。其寺を松原山昌林寺と云ふを以てもしるべし。
 
(220) 去來兒等《イザコドモ》、倭部早《ヤマトヘハヤク》、白菅乃《シラスゲノ》、眞野乃榛原《マヌノハリハラ》、手折而將歸《タヲリテユカム》。
 
●初二句一(ノ)卷に、去來兒等早日本邊《イザコドモハヤクマトヘ》と云へるに同じ。今は早《ハヤク》にて句にて、下の將歸《ユカム》と云ふに係けて見るべし。●「白菅乃」管は白くなる物故に白菅と云ふ。白栲の白と同じ。眞野とつづけたるは、十一に眞野の浦の小菅の笠を云云。また眞野の池の小菅を笠に不縫《ヌハズ》してなどよみて所の名物なるを以て云ひつゞけたり。●「眞野乃榛原」攝津(ノ)國八田部(ノ)郡也、行嚢抄(ニ)云(フ)、眞野(ノ)繼橋ハ此池尻村ニ在(リ)。眞野トハ此邊ノ惣名也。自2兵庫1到(ル)2于此(ニ)1十五町此橋ヲ眞野ノ繼橋ト云(ヒ)自v是左ノ濱邊ニアルヲ淀(ノ)繼橋ト云ヒテ同ジ處也。野池浦等アリ云云。●「手折而將歸」此野の榛は名物なりけん。七卷に「古へにありけん人のもとめつつ衣に摺りけん眞野の榛原」とあり。既に言ひしはんの木にて、此枝を折りて摺付けもし、染めもして、古へ染|種《グサ》第一の物なりしかば、家の妹が待悦ぶめるために折らせらるるなり。さて此の二首は上なるとは別《コト》時の歌なり。次なる答歌は家にありし妻が答へたる也。
 
  黒人(ガ)妻(ノ)答歌一首
 
 白菅乃《シラスゲノ》、眞野之榛原《マヌノハリハラ》、往左來左《ユクサクサ》、君社見良目《キミコソミラメ》、眞野之榛原《マヌノハリハラ》。
 
●「往左來左」此の左は、十四(ノ)歌に安布志駄毛《アフシダモ》、阿波能敞之太毛《アハノヘシダモ》と云へる古語は、逢時《アフトキ》も不逢時《アハヌトキ》(221)もと云ふ意也。比|志駄《シダ》を約めて左《サ》と云ふなれば、往左來左と云ひて、行く時歸る時と云ふ意になる也。あふさきるさの左も淮《ナズラ》へて知るべし。又俗言に往きしな反りしなと云ふも、古の之太《シダ》之奈《シナ》親しく通へば、同じこと也。
●一首の意は、しら菅の名に高き眞野の榛原、ゆきしなにも歸りしなにも君こそ見らめ。我は三河よりおくれて得見ずなりぬ。羨しき其眞野のはり原よとなり。
 
  春日(ノ)藏(ノ)首老(ガ)歌一首
 
 角障經《ツヌサハフ》、石村毛不過《イハレモスギズ》、泊瀬山《ハツセヤマ》、何時毛將超《イツカモコエム》、夜者深去通都《ヨハフケニツヽ》。
 
●「角障經」葛刺《ツヌサシ》延巖《ハフイハ》と係りたる枕詞也。●「石村」大和十市郡●「泊瀬」城(ノ)上(ノ)郡なり。此順路を思ふに飛鳥藤原の都より北東へさして磐余《イハレ》初瀬と經ゆかれしが、何事に因りてか夜の更けたるなるべし。
●一首の意は、いそげども、未だ磐余も過ぎず、かの泊瀬の荒山道をいつかも早く超えんと思ふに、夜は更けいにつつ、道ははかどらぬと也。此作者既に出づ。はじめ僧にて辨基と云ひし人也。
 
  高市(ノ)連黒人(ノ)歌
 
 墨吉乃《スミノエノ》、得名津爾立而《エナツニタチテ》、見渡者《ミワタセバ》、六兒乃泊從《ムコノトマリユ》、出流船人《イヅルフナヒト》。
 
(222)●「得名津」和名抄、攝津住吉(ノ)郡榎津【衣奈豆】とあり。●「六兒乃泊」此の武庫と云ふに心得あり。武庫山は兵庫なれども、武庫(ノ)湊と云ふ時は鳴尾の邊の沖迄をかけて云ひし故に、かくはよめるなり。
 
  春日(ノ)藏首老(ガ)歌一首
 
 燒津部《ヤキヅヘ》、吾去鹿齒《ワガユキシカバ》、駿河奈流《スルガナル》、阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》、相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》。
 
●「燒津部」式に駿河(ノ)國益頭《ヤキツノ》郡燒津(ノ)神社。行嚢抄(ニ)云(フ)草薙村此邊ヲ中(ノ)郷|共《トモ》云(フ)。村ヨリ右杉ノ並木ノ路行程七八町ニアリ。社領百石云云。此邊ヲ天ノヤキ原トモ、ヤキ津トモ云ふ。●「阿部乃市」和名抄、駿河(ノ)國阿部(ノ)郡に國府有り。今の府中是也。府の西に阿部川あり。古名是に遺れり。行嚢抄(ニ)云(フ)。府中自2丸子1一里半御領(ナリ)云云。當城ハ今川家數代ノ居城ナリキ云云。●「相之見等羽裳」羽裳《ハモ》は餘情を云ひのこす辭也。
●一首の意は、神のます燒津へ吾が行きしかば、阿部の市路によき娘子《ヲトメ》の遇へりしが、其の子は、マアいかになりけんとなり。此の作者官人と成りて駿河の府など(?)にてよみたるか。初句は四言也。燒津邊《ヤキツベ》に、とよみたるはわろし。必ず燒津方《ヤキツヘ》と云ふ處にて、邊爾《ベニ》と云ふべき處にはあらず。
 
  丹比《タヂヒノ》眞人笠麻呂(ガ)往(クトテ)2紀伊(ノ)國(ニ)1超(ル)2勢能山(ヲ)1時(ニ)作(ル)歌一首
 
(223) 栲領巾乃《タクヒレノ》、懸卷欲寸《カケマクホシキ》、妹名乎《イモガナヲ》、此勢能山爾《コノセノヤマニ》、懸者奈何將有《カケバイカニアラム》。
 
 一(ニ)云(フ)。可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》
 
●「笠麻呂」沙彌滿誓が俗名也。勢能山の事は下に云ふべし。●「栲領巾乃」栲布にて作りたる領巾也。此《コヽ》は懸くるといはん枕詞におきたり●「懸卷欲寸妹名乎云云」言にかけていはまほしき妹が名を、此の勢能山にかけ負はせて、呼ばばいかにあらん、と云ひて含めたる意あるべし。
●一首の意は、旅にしては、互に言にかけて言はまほしき妹が名を、此勢能山にかけて妹背あひ※[釆+偶の旁]《タグ》はばいかゞあらん。よしとおぼさば、今宵などは遊行女婦、驛長が娘子などをめし給へと云ふ也。
 
  春日(ノ)藏(ノ)首老(ガ)即和(ル)歌一首
 
 宜奈倍《ヨロシナベ》、吾背乃君之《ワガセノキミガ》、負來爾之《オヒキニシ》、此勢能山乎《コノセノヤマヲ》、妹者不喚《イモトハヨバジ》。
 
●一首の意は、如此《カク》親しく縁靡《ヨリナミ》給ふ吾が背の君が、身に負《オヒ》持ち來にし此勢能山の、兄《セ》と云ふ名を、妹とは不喚《ヨバジ》。もし此上に旅の妹を招《ヨバ》ば、吾が背の名の疎くなりぬべければなりと也。宜奈倍の語此意を以て悟るべし。諸註むげに叶はず。
 
  幸(ケル)2志賀(ニ)1時石(ノ)上(ノ)卿《マヘツギミ》作(ル)歌
 
(224) 此間爲而《コヽニシテ》、家八方何處《イヘヤモイヅク》、白雲乃《シラクモノ》、棚引山乎《タナビクヤマヲ》、超而來二家里《コエテキニケリ》。
 
●「石上卿」麻呂公也。續紀大寶二年太上天皇【持統】三河より美濃(ノ)國|幸《ミユキ》の事あれば、その時近江にも出ましけん。御歌の状ただ近江のみとしては似つきわろし。三河の邊にてよみましし歌にぞあらん。
●一首の意は、旅の此處にして都の家の方やも何處《イヅク》にあたる。遠くも白雲の棚引く山をこえて來にけり。四(ノ)卷に旅人卿|此間《コヽニ》ありてつくしやいづく白雲の棚引く山のかたにしあるらし。
 
  穂積(ノ)朝臣老(ガ)歌一首
 
 吾命之《アガイノチシ》、眞幸有者《マサキクアラバ》、亦毛將見《マタモミム》、志賀乃大津爾《シガノオホツニ》、縁流白浪《ヨスルシラナミ》。
 
●景地を見て命を惜む歌、集中に多し。上(ノ)垂麻呂が歌の類也。此人續紀養老六年正月罪有りて佐渡(ノ)島へ配流と有り。其時の歌十三に出づ。天地を歎き乞ひのみ幸くあらば又かヘり見んしがのから崎とあり。是は誓へるなり。
 
  右今案(ニ)不v審(ニセ)2行幸(ノ)年月(ヲ)1
 
  間人宿禰《ハシビトノスクネ》大浦(ノ)初月(ノ)歌二首
 
 天原《アマノハラ》、振離見者《フリサケミレバ》、白眞弓《シラマユミ》、張而懸有《ハリテカケタル》、夜路者將吉《ヨミチハヨケム》。
 
(225)●「白眞弓」白檀にて作りたる弓を云ふなれど、彼の上の髪梳の類にて既に木の名となれる後に弓を省きし也。さて其木は甚色白き物なれば白檀と云ふ。それをこゝは弓張月にいひつづけたり。●「將吉」は宜しからんなり。一本に吉(ヲ)作(ル)v去(ニ)。さらばゆかんとよむべし。
 
 椋橋乃《クラハシノ》、山乎高乎《ヤマヲタカミカ》、夜隱爾《ヨゴモリニ》、出來月乃《イデクルツキノ》、光乏寸《ヒカリトボシキ》。
 
●「椋橋乃山乎」大和十市郡にて高くさかしき山也。●「夜隱爾」此は源氏物語に若き人を世ごもると云ふ如く、三日月の始めて見えて末の長きよしに夜隱《ヨゴモ》りに出こし月とは云へる也。●「出來月乃云云」今西の空に見えそめたる月の光の乏しきは椋橋の山の高き故かとなり。諸註夜隱を心得ちがひせるから、新月の歌にはあらずなど云ふめり。四(ノ)卷に、戀々てあひたるものを月しあれば夜はこもるらんしましは在り待て、とよみたるは、夜の末の殘れるを云ふなり。
 
  小田(ノ)事主(ガ)勢能山(ノ)歌一首
 
 眞木葉乃《マキノハノ》、之奈布勢能山《シナフセノヤマ》、之奴波受而《シヌバズテ》、吾超去者《ワガコエユケバ》、木葉知家武《コノハシリケム》。
 
●「小田事主」六帖に如v此《カク》あるによる。今本主を脱せり。●「眞木刀葉乃、之奈布勢能山」檜木の葉は和らかにてしなひたる状なるものなれば云ふ。●「之奴波受而」妹を戀ふるに堪忍ばずてと云ふ意也。●「木葉知家武」愁しなへて超えゆけば、木の葉も吾心を知りけん。彼もしなひてありと云ふ也。
(226)●一首の意、背山といへば此山も妹は戀しからん。眞木の葉のしなひうらぶれたる脊の山を、我も妹戀しさに堪忍《タヘシノ》ばずて、我ゆけば木の葉も吾心を知りけん彼も同じくしなひてありとなり。七に、天雲の棚引く山の隱れたる吾心をば木の葉知るらん、と云ふもあり、
 
  ※[角の1画目なし]兄《ロクノエ》麻呂(カ)歌四首
 
 久方乃《ヒサカタノ》、天之探女之《アマノサグメガ》、石船乃《イハフネノ》、泊師高津者《ハテシタカツハ》、淺爾家留香裳《アセニケルカモ》。
 
●「※[角の1画目なし]兄麻呂」續紀從五位下※[角の1画目なし](ノ)兄麻呂出で、此氏を録とも、※[角の1画目なし]とも書けり。字書に、※[角の1画目なし]音録とあれば通じ用ひしにこそ●「天之探女之」神武紀に天探女、此(ヲ)云(フ)2阿麻能左遇謎《アマノサグメト》1此神の事|道別《チワキ》に委し。●「泊師高津者」此は攝津國風土記(ニ)云(フ)難波高津(ハ)者|天稚彦《アメノワカヒコ》天降(ル)時屬(タル)v之(ニ)神天探女乘(リテ)2磐舟(ニ)1而至(ル)2于此(ニ)1其磐舟所(ナリ)v泊(ル)故號(ス)2高津(ト)1とあるに據りてよめる也。但し、高津は天の高市など云ふ類にて都會の津なるを以て云ふ。今の言にても、人高い、虫がたかるなど云ふも、皆群集の意なるに合せて知るべし。●「淺爾家留香裳」深き入江の淺く埋りたるを云ふ。凡て變《アセ》と云ふ語は、これを本にて、物の色の變じたるにも廣く云ふこととなれるなり。一首の意かくれたる所なし。
 
 鹽干乃《シホヒノ》、三津之海女乃《ミツノアマメノ》、久具都持《クグツモチ》、玉藻將苅《タマモカルラム》、率行見《イザユキテミム》。
 
●「三津」御津の意也。宮津なれば大津とも云へり。さて此初二句は、御津の海人をとめが鹽干(227)にくゞつもちと云ふつづきなり。●「久具都持」此語今の世にも遺りて竹器にまれ、繩袋にまれあさりして拾ひ入るる具をくゞつと云へり、名義は聊か考へしことありて、別記に出しつ。
 
 風乎疾《カゼヲイタミ》、奥津白浪《オキツシラナミ》、高有之《タカカラシ》、海人釣船《アマノツリブネ》、濱眷奴《ハマニカヘリヌ》。
 
●「風乎疾」は風がつよさにの意、●「眷」はかへり見るといふ意の字なるを、かへるといふに借りたるなり。
 
 清江乃《スミノエノ》、木※[竹/矢]松原《キシノマツバラ》、遠神《トホツカミ》、我王之《ワガオホキミノ》、幸行處《イデマシドコロ》。
 
●「木※[竹/矢]松原」は岸之松原也。※[竹/矢]は、和名妙に、夜《ヤ》とあれど、其の矢を深く射こむを※[竹/矢]深《ノブカ》と云ふが如く、能《ノ》とも云ひし也、十に足日木※[竹/矢]《アシビキノ》とも用ひたり。●「遠神」此《ココ》のつゞきの如く、天皇は、御代々々神にませども、遠つ皇祖の神よりと云ふ意なり。人倫に遠き意也と云ふにはあらず。
 
  田口(ノ)益人(ノ)大夫、任(ル)2上野(ノ)國(ノ)司(ニ)1時至(テ)2駿河(ノ)淨見(ノ)埼(ニ)1作(ル)歌二首
 
 廬原乃《イホバラノ》、清見之埼乃《キヨミノサキノ》、見穂乃浦乃《ミホノウラノ》、寛見乍《ユタケキミツヽ》、物念毛奈信《モノオモヒモナシ》。
 
(228)●「田口益人」續紀和銅元年、從五位下田口(ノ)朝臣益人(ヲ)爲(ス)2上野(ノ)守(ト)1と見ゆ。國守を大夫とかける事多かり。●「廬原乃、清見之埼乃云云」式(ニ)云(フ)廬原(ノ)郡|御穂《ミホノ》神社、行嚢抄(ニ)云(フ)、海道記(ニ)云(ハク)江尻の浦を過れば、青苔石におひ、黒布礒にはる。南は沖の海森々となみをわかして孤帆天にとび、北は茂松欝々と枝たれて一道つら(?)をなす云云此浦を遙に見わたして行けば、浦の松はなみの岩ねに根をはなれたる草、海月は潮の上に水に映る月影、共に是うき世を論じて人をいましめたり云云。三保(ノ)松原方五里【但六丁一里也】日本無双ノ景地ナリ。此地ニ野馬多シ、有度《ウドノ》郡ノ内ナレドモ、庵原(ノ)三保トツヾケタリ。三保明神(ノ)社アリ、社領百石云云。方角抄(ニ)云(ク)、三保(ノ)浦西より東へ一里許海中へ出はりたる松原なり。南は江尻につゞきたり。清見がたより三保は南なり。入江の上一里あり。富士も三保よりは、しら/\と雲間に見えたり。言語同斷無双の貴地也。入江より東の奥《オキ》になりては伊豆の海也。山もはるばると見えたり。此入江の内を先《?》田子とは云へり。蜑の家鹽屋ありて鹽も汲めり。●「寛見乍」二十に海原乃由多氣伎見都々《ウナハラノユタケキミツツ》なども云へり。
 
 晝見騰《ヒルミレド》、不飽田兒浦《アカヌタゴノウラ》、大王之《オホキミノ》、命恐《ミコトカシコミ》、夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》。
 
●「田兒浦」今の世の人は薩※[土+垂]峠の下の入江のみを田子浦と心得たれど、上にも少し引きたる如く、古へは田兒は、いと廣き名にて、三保清見の邊をかけたる名なりき。歌の心何れもよく聞えたり。
 
(229)  辨基(ノ)歌一首
 
 亦打山《マツチヤマ》、暮越行而《ユフコエユキテ》、廬前乃《イホザキノ》、角太河原爾《スミダガハラニ》、獨可毛將宿《ヒトリカモネム》。
 
●「辨基」左註(ニ)云(フ)、辨基者、春日(ノ)藏首老(ガ)之法師(ノ)名也とあるが如し。此歌は僧の時によみたる故に僧名を記せるか。●「亦打山」大和(ノ)國宇智郡にて紀伊(ノ)國伊都郡に相近き山路也。既に出づ。●「廬前角大河原」紀伊(ノ)國伊都(ノ)郡也。南紀名勝志(ニ)云(フ)。伊都(ノ)郡待乳川、源(ト)葛城山中ヨリ出テ北隅田(ノ)庄平野上風村ヲ經テ紀伊川ニ入(ル)也云云。隅田八幡宮ハ隅田庄垂井村ノ西南中島村(ノ)東北五丁許ニ有(リ)。社僧六坊に和寺(ノ)末寺云云などありて、凡て此邊廬前(ノ)庄と隅田(ノ)庄と隣れるよしなれば、今の待乳川ぞ古への隅田川なりけらし。即隅田(ノ)庄を流るれば也。然るに或人|角田川《ツヌダカハ》とよみて古く角(ノ)字をすみとよむ事なしと云へるは、ひが事なり。祝詞にも、四方四角與理《ヨモヨスミヨリ》と書き、紀にも巽(ノ)角《スミ》とあて、さて此うたの此《コヽ》に出でたると、右の廬原と此の廬前と名のやゝ近きを以て、駿河にもすみだ川を作り出たるなどもいみじき僞なり。前とはよみ人も別なるをや。
●一首の意は、此待乳山の長き山路を夕こえ行きて、廬前の隅田河原のさびしきあたりに、僧の事なれば、今宵も又獨りねん、となり。
 
  大納言大伴(ノ)卿(ノ)歌一首
 
 奥山之《オクヤマノ》、菅葉凌《スガノハシヌギ》、零雪乃《フルユキノ》、消者將惜《ケナバヲシケム》、雨莫零所年《アメナフリソネ》。
 
(230)●「大伴卿」旅人卿なるを、家持の父なる故に崇めて名をいはぬ也。是を以て此卷の家持卿の家集なる事しられたる也。●「菅葉凌」此管は山菅にて麥門冬也。凌ぐと云ふ言の意、道別に云ひつれど、猶いはゞ、先づ自ら堪忍《タヘシノ》ぶを、しのび、しのぶといひ、他を犯してものするを、しのぎ、しのぐ、と云ふ。神代紀に、凌2奪《シヌキウバフ》吾《ガ》高天(ノ)原(ヲ)1とある是也。今此雪を草木の上にていはゞ其枝葉をおし分けてわりなくふるを云ふ。眞木の葉凌ぎふる雪のとある是也。即ち今俗に暑寒を凌ぐと云ふも堪忍ぶ方にはあらで、其烈しきをおしふせて凌ぎ通る意の詞也。
●一首の意は、おく山の山菅の葉まで押分けて、隅から隅までふりたる雪の消えなば惜しからん。雨なふりそよと也。
 
  長屋(ノ)王駐(テ)2馬(ヲ)寧樂山(ニ)1作(ル)歌二首
 
 佐保過而《サホスギテ》、寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》、置幣者《オクヌサハ》、妹乎目不離《イモヲメカレズ》、相見染跡衣《アヒミシメトゾ》。
 
●「佐保過而」佐保山・佐保川の佐保にて寧樂の側ら也。●「寧樂乃手祭爾」今奈良坂の上の峠《タウゲ》と云ふ、是也。都ありし時、此山越えて他國へまかる人此坂の上にて道の神をいつき手向して出たるが終ひに名となりて、ならの手向所を幣奉《ニギタツ》と云ふが如し。●「目不離」は人目かるると云ふと同じくて、見るめの離れず、たえず逢はるるやうにと也。
●一首の意は、佐保(ノ)里を過ぎて寧樂坂の手向所に置きて祈る幣は、妹に離《サカ》らずたえず逢ひ見しめ給へとてぞ、と也。
 
(231) 磐金之《イハガネノ》、凝敷山乎《コヾシキヤマヲ》、超不勝而《コエカネテ》、哭者泣友《ネニハナクトモ》、色爾將出八方《イロニイデメヤモ》。
 
●「磐金」岩之根《イハガネ》也。●「凝敷」凝々《コリ/”\》しきにて巖石の嶮阻を云ふ。此二句はたとへにて、假令いかなる憂《ウ》き艱難にあふとも、忍びておもふ心の内を色に出でめやは、となり。
 
  中納言安倍(ノ)廣庭(ノ)卿歌一首
 
 兒等之家道《コラガイヘヂ》、差間遠烏《ヤヽマドホキヲ》、野干玉乃《ヌバタマノ》、夜渡月爾《ヨワタルツキニ》、競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》。
 
●「兒等」妹を云ふ。●「夜渡月」空をわたる月を云ふ。○「競敢六」きほひは競《クラベ》あらそふ意。あへんは、たへんなり。此にては.月の山に入ると妹が家までわが往(キ)着(ク)と何れにきほひ得んか、となり。中昔の歌はしがきにも月にきほひてと云へる事多かり。皆此意也。
●一首の意は、妹が家路やゝ間遠きを、月の此くらゐにかたぶきたるに負けじと急げど、よく月の入るとわがゆきつくと競ひ得んか、となり。此卿は、續紀神龜四年中納言に任じ、天平四年十二月薨(ズ)。右大臣從三位御主人之子と見ゆ。
 
  柿本(ノ)朝臣人麻呂下(ル)2筑紫(ノ)國(ニ)1時海路(ニテ)作(ル)歌二首
 
 名細寸《ナグハシキ》、稻見乃海之《イナミノウミノ》、奥津浪《オキツナミ》、千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》、山跡島根者《ヤマトシマネハ》。
 
(232)●「稻見」播磨(ノ)國印南郡(ノ)海也。上よりは名高き印南の海といはんが如し。上に、ともし火の明石の水門《ミト》に人らん日や榜ぎ別れなん家のあたり見ず。と云へり。印南はそれより又西に當りたれば深く隱りて見えずなるにこそ。
 
 大王之《オホギミノ》、遠乃朝庭跡《トホノミカドト》、蟻通《アリカヨフ》、島門乎見者《シマトヲミレバ》、神代之所思《カミヨシオモホユ》。
 
●「遠乃朝庭」みかどは宮城の御門を云ふよりおこりて政取行ふ所を云ふ。此《コヽ》は太宰府を云へり。●「蟻通」在通にて、ありとは在々而《アリ/\テ》・在而後《アリテノチ》にもなど云へる樣に、今ならずはやくより、通ふものとして通ふを云ふ。●「島門乎見者」彼の神代紀に、面四而《オモヨツニシテ》、云云。兩兒島《フタゴノシマ》・三兒島《ミツゴノシマ》など傳へたる地勢のあるを見て、神代しおもほゆ、とは云へる也。島門とは、其島々のあはひの船の通路となれる(?)以て云へる詞也。
 
 高市(ノ)連黒人(ガ)近江(ノ)舊都(ノ)歌一首
 
 如是故爾《カクユヱニ》、不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》、樂浪乃《サヽナミノ》、舊都乎《フルキミヤコヲ》、令見乍本名《ミセツツモトナ》。
 
●此歌の意は、かゝるが故にかねて見じと云ひしものを、しひて此大津の古き都を見せて、よしなき事をし給ひたるかな。我は悲しさにたへじ、といふ也。本名の語の事、既にもいひつれど、姑らく今の俗言に、よしない、と云ふにあてゝ心得べし。
 
(233)  右(ノ)歌(ハ)或本(ニ)曰(フ)、小辨(カ)作也、未v審(ナラ)2此小辨(ト云フ)者1也
 
 幸(ケル)2伊勢(ノ)國(ニ)1之時、安貴(ノ)王(ノ)作(ル)歌一首
 
 伊勢海之《イセノウミノ》、奥津白波《オキツシラナミ》、花爾欲得《ハナニモガ》、※[果/衣]而妹之《ツヽミテイモガ》、家※[果/衣]爲《イヘヅトニセン》。
 
●「幸2伊勢國1」績紀天平十二年十月伊勢國幸の事有り。同紀天平元年三月无位|阿起《アキノ》王に從五位を授くと見ゆ。市原(ノ)王(ノ)父也。●「花爾欲得」もがなにて願ふ詞なり。一首の意釋に及ばざるべし。
 
  博通法師(ガ)往(テ)2紀伊(ノ)國(ニ)1見(テ)2三穗(ノ)石室《イハムロヲ》1作(ル)歌三首
 
 皮爲酢寸《ハタススキ》、久米能若子我《クメノワクコガ》、伊座家牟《イマシケム》、三穂乃石室者《ミホノイハヤハ》、雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。
 
●「博通法師」傳知られず。●「三穗石室」紀伊(ノ)國日高(ノ)郡岩代の前の濱にある石室也。今は砂に埋れて見えずなりし事別記に委し。●「皮爲酢寸」薄は生ひ立ちのほどより夏かけて只葉のみ纏ひてしだれたる物故に、組《クミ》とは係るなり。皮《ハタ》と書けるもその故也●「久米」久米氏もあれど、かく若子とつづけたるは、皇軍の衆の内を云ふこと山彦冊子にことわりつ。顯宗紀に、弘計《ヲケノ》天皇|更名《マタノナヲ》來目稚子《クメノワクコ》とあるも、世の亂を遁れ給ふを以て稱《マヲ》すなり。然るに直に其天皇の御事と申す説は、いみじき僻事《ヒガゴト》也。この事も別記に出づ。
(234)●一首の意は、昔久米部の中にて名高き勇士の隱《コモ》りつと云ふ三保の石室を見れば、げにもあやしき室にて見あかれず、と也。此歌よめりし比《コロ》は、砂中より三四十間も顯れてありけらし。
 
 常磐成《トキハナス》、石室者今毛《イハヤハイマモ》、安里家禮騰《アリケレド》、住家類人曾《スミケルヒトゾ》、常無里家留《ツネナカリケル》。
 
●「常磐成」こゝは、ときはなる、と訓ままほしきやうなれど、假字書あれば、なす、と訓《ヨ》みつ。かくいひてとこし磐の如くなる石室といふ意也。一首の意明らかならん。
 
 石室戸爾《イハヤトニ》、立在松樹《タテルマツノキ》、汝乎見者《ナヲミレバ》、昔人乎《ムカシノヒトヲ》、相見如之《アヒミルゴトシ》。
 
●「石室戸爾、立在松樹」今三尾村と云ふに墓あり。紀州名勝記を以て考ふるに、石室のある所より二町ばかり南東なる趣なれど、向ひあひたれば「石室戸爾」と云ふまじきにあらず。松の古樹近來迄もありしよしなり。もし然らば墓しるしの松故に、汝を見れば云云、とは云へるなるべし。さて此三首の歌の詞どもにて高貴の人にはあらざる事を知りなんものぞ。
 
  門部《カドベノ》王|詠《ヨメル》2東(ノ)市(ノ)之樹(ヲ)1歌一首
 
 東《ヒムガシノ》、市之殖木乃《イチノウヱキノ》、木足左右《コダルマデ》、不相久美《アハズヒサシミ》、宇部戀爾家利《ウベコヒニケリ》。
 
(235)●「門部(ノ)王」一本(ニ)云(フ) 舊本(ニ)云(ハク)後賜(フ)2姓大原(ノ)眞人(ヲ)1敏達天皇六代孫と註せり。績紀和銅六年正月從五位下天平三年從四位上●「東市」市は東西に置かれたり。七(ノ)卷に西の市にただひとり出てとよめり。市(ノ)正にも東西あり。今添(ノ)上(ノ)郡に古市村在り。古への東市の跡也。●「殖木」雄略紀、※[食+甘]香市邊橘、二に、橘の花ふむ道の八ちまたに、などある如く、都の大路に菓樹を植ゑられし事は夏は日を掩ひ冬は風をよけ、菓を行人に與へんとて也●「木足」老木となれば枝垂るるものなれば云ふ。十四、かまくら山の許太流木乎《コダルキヲ》ともよめり。妹と久しく相見ぬをいはんとて也。●「宇倍」承諾《ウベナ》ふ意。宇倍(ノ)下(ノ)吾字は衍《アヤマリ》也。
●一首の意は、此比《コノゴロ》妹が頻りにに戀しきが、思へば此東の市の殖木の枝どもの垂れ下る迄、逢見ぬ日の久しさに、うべ戀しきも理りぞ、と自ら了解したるなり。
 
  ※[木+安]作村主《クラツクリノスグリ》益人(ガ)從(リ)2豐前(ノ)國1上(ル)v京(ニ)時、作(ル)歌一首
 
 梓弓《アヅサユミ》、引豐國之《ヒキトヨクニノ》、鏡山《カヾミヤマ》、不見久有者《ミズヒサナラバ》、戀敷牟鴨《コヒシケムカモ》。
 
●「※[木+安]作」※[木+安]は鞍の省文には非ず。※[木+安]《アン》と鞍《アン》と音通ふ儘に書ける也。紀に復を服命と書きたる類尚あり。次に都を堵と書たるも同じ。●「益人」六卷に此人の歌ありて左註に内匠寮(ノ)大屬と見えたり。●「梓弓引豐國之」弓を引きとよもす。と云ふつづけ也。此うた一句半を枕詞とし三句迄を序とすべし。是は妻の事を云へるにて、逢見ず久しくなれば妹も戀しからんと云ふ也。從(リ)2豐前(ノ)國1上(ル)v京時とあるを合せて知るべし。
 
(236)  式部卿藤原(ノ)宇合《ウマカヒノ》卿|被《ルル》v使《セラ》改2造《アラタメツクラ》難波(ノ)堵《ミヤコヲ》1之時《トキ》作(ル)歌一首
 
 昔者社《ムカシコソ》、難波居中跡《ナニハヰナカト》、所言奚米《イハレケメ》、今者京※[左(]門《イマハミヤコト》、都備仁※[奚+隹]里《ミヤコビニケリ》。
 
●「式部卿藤原宇合」太政大臣不比等(ノ)第三子也。參議式部卿兼太宰帥正三位馬飼に宇合の字を填めたる、旅人を淡等と書ける類也。神龜三年十月此卿知造難波宮事に任じて天平四年三月此事なりぬ。其後聖武天皇天平十六年正月より十七年五月まで難波宮におはせり。其ほどの歌なるべし。●「昔者社難波居中跡」難波は高津宮・長柄宮などもありつれど、其後久しく故郷となりて居中《ヰナカ》といはれし也。●「今者京門」今本、引は門の誤なるべし。以下の語聞えたり。
●一首の意は、吾が知造難波宮事以前こそ、ゐ中といはれけめ、此度都を開きて一二年の内に早や都らしくなりけりと也。居中は田居中の田を省けるなり。
 
  士理《トリノ》宣令(ガ)歌一首
 
 見吉野之《ミヨシヌノ》、瀧乃白浪《タキノシラナミ》、雖不知《シラネドモ》、語之告者《カタリシツゲバ》、古所念《イニシヘオモホユ》。
 
●「土理宣令」績紀養老五年正月刀利宣令に詔して東宮に侍らしむるよし見ゆ。懷風藻にも刀利に作れり。
●一首の意は、み吉野の瀧の白波昔の事は知らねども、世々の人の語りし繼《ツゲ》ばおのづから貴き(237)事蹟のくみしられて、古へをおもひやると也。
 
  波多《ハタノ》朝臣|少足《ヲタリガ》歌一首
 
 小浪《サヾレナミ》、礒越道有《イソコセヂナル》、能登浦河《ノトセガハ》、音之清左《オトノサヤケサ》、多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》。
 
●「波多」紀に波多氏は見ゆれど、少足と云ふは見えず●「礒越道」小浪礒までが枕詞也。式(ニ)云(フ)、大和(ノ)國葛上郡巨勢(ノ)山口神社【大、月次、新甞】とある。此下を能登湍河は流れしなるべし。後世此川あせたるにこそ。只石走る音のきよかるを愛でたるのみなり。
 
  暮春之月《ヤヨヒノコロ》、幸(マス)2芳野(ノ)離宮《トツミヤニ》1時、中納言大伴(ノ)卿|奉《ウケテ》v勅(ヲ)作(ル)歌一首並短歌 未(ル)v經2奏上(ヲ)1歌
 
 見吉野之《ミヨシヌノ》、芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》、山可良志《ヤマカラシ》、貴有師《タフトカルラシ》、水可良思《カハカラシ》、清有師《サヤケカルラシ》、天地與長久《アメツチトナガクヒサシク》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、不改将有《カハラズアラム》、行幸之宮《イデマシノミヤ》。
 
●「幸」績紀神龜元年三月幸(ス)2吉野宮(ニ)1●「卿」旅人卿也。養老二年中納言。●「未v經2奏上1歌」家持卿の自註なるべし。
●「山可良志水可良思」二つの志《シ》は助辭也。此の可良《カラ》は隨《ナガラ》也といへど、さては心得にくし。上(238)にも神柄加《カミカラカ》云々、國柄加《クニカラカ》云々、集中猶いと多き語なるを合せ考ふるに、本(ト)其(ノ)成得《ナリエ》し性を云へるにて、今の俗に、名家の末を家がら、貴き胤を胤がらと云ふにはやゝ近し。
●一編の意は、み吉野の吉野の宮は、山の性も貴く川の性も清けかるらし。たゞ凡俗の山川にあらず。君も臣も心を合せたる如くなりければ、天地《アメツチ》と長く久しく萬代にかはらずあらん離宮《トツミヤ》ぞ、となり。
 
   反  歌
 
 昔見之《ムカシミシ》、象乃小河乎《キサノヲガハヲ》、今見者《イマミレバ》、彌清《イヨヨサヤケク》、成爾來鴨《ナリニケルカモ》。
 
●「象乃小河」行嚢抄(ニ)云(フ)夏箕川ノ橋ノ邊ノ自2追分1西河ニ赴ク路ノ右ニ櫻木(ノ)宮アリ。此宮ヨリ西ノ方ヲ流ルル小川ヲ喜佐川ト云フ。此川、宮ノ西ニテ吉野川ニ入ル。喜佐村ハ川上ニアリ」と云へり。是に依るに聖武天皇の比《コロ》の離宮は今の櫻木(ノ)宮なりけんにや。さなくては此反歌に象川をよみ給ふことわりなし。此意を以てとかば、
●昔見し象の小川を久しく年經て今見れば、物は劣るべきが多かるに、此象の小川はいよいよよく成りけり。大御代もこの如くこそとふくめたる也。
 
  山部(ノ)宿禰赤人(ガ)望《ミサケテ》2不盡(ノ)山(ヲ)1作(ル)歌一首並短歌
(239) 天地之《アメツチノ》、分時從《ワカレシトキユ》、神左備手《カムサビテ》、高貴寸《タカクタフトキ》、駿河有《スルガナル》、布土能高嶺乎《フジノタカネヲ》、天原《アマノハラ》、振放見者《フリサケミレバ》、度日之《ワタルヒノ》、陰毛隱比《カゲモカクロヒ》、照月乃《テルツキノ》、光毛不見《ヒカリモミエズ》、白雲母《シラクモモ》、伊去波伐加利《イユキハバカリ》、時自久曾《トキジクゾ》、雪者落家留《ユキハフリケル》、語告《カタリツギ》、言継將往《イヒツギユカナ》、不盡能高嶺者《フジノタカネハ》。
 
●「山部宿禰赤人」山部氏は、もと連なりしを、天武紀十三年に賜(フ)2宿禰(ヲ)1こと見ゆ。赤人は此集の外所見なし。時代は柿本朝臣よりは三四十年後れて專ら奈良朝を歴られたれど、幸の御供にて詔をうけて歌よめるさま、これも舍人《トネリ》などにて、柿本朝臣と同じ程の身がらと見ゆ。今此歌も東國へ下られける時よめるにて、此卷の末に過(ル)2勝鹿眞間(ノ)娘子(ノ)墓(ヲ)1時の歌見え、上總(ノ)國に山部(ノ)郡ありて、其地に赤人の墓などあるを見れば、上總の人なりしか。又|如此《カク》東國へ下られしは班田使などにて伊與《(や?)》の人かとおぼしきよしもあり。顯宗記に山部連先祖伊與(ノ)來目部小楯《クメベノヲダテ》とありて、赤人の伊與に下れる歌見ゆ。此卷(ノ)下【二十八】に至(テ)2伊與(ノ)温泉(ニ)1作(ル)歌(ハ)御供にあらず、私に往きてよめる歌と聞ゆ。されどもたゞ其れのみの事なれば上總の人とすべき也。其墓は東金町近き田中村と云ふにあり。外に傳へたる事もあるか糺すべし。大和(ノ)國山(ノ)邊(ノ)郡なる家《冢(?)》はよくも物しらぬ後人の僞り作れる也●「振放見者」振はわが頭をふり仰ぐ也。放《サケ》は此《ココ》より天原迄目を放《ハナチ》やりて見るなり。下《サゲ》とは心得べからず。●「白雲母、伊去波伐加利」はゞかるとは幅《ハヾ》のあまる物はからみて達《トホ》らぬなり。行きがたき事、爲《シ》がたき事の上に云ふ也。さて此句の下に飛鳥毛《トブトリモ》、登備母能(240)煩良受《トビモノボラズ》と云ふ二句ありけんを寫し脱しけるから、此處にして此歌俄に調べわろし。善本をたづねて必ず補ふべきわざぞ。
●一篇の意は、天地の分れし時より神すゝみに進み上りて高く貴き駿河なるふじの高ねを、こたびの道の便りに、天の原ふり仰ぎて見放ちやれば、度る日の影も一方はかくろひ、照る月の光も一方はかくれて見えず。白雲ものばり憚り、時ならず雪はふり積りて其景色述べがたし。只今日より語り繼ぎ、言ひ繼ぎにして、此ふじの高ねを賞《メデ》ゆかんと也。
 
  反  歌
 
 田兒之浦從《タゴノウラユ》、打出而見者《ウチデテミレバ》、眞白衣《マシロニゾ》、不盡能高嶺爾《フジノタカネニ》、雪波零家留《ユキハフリケル》。
 
●「田兒之浦從」於2田兒之浦1の意也。田兒の浦より外へ打出たるには非ず。打は、ふりさけの振の類の發語也。●「眞白衣云々」かく見渡したるは、沖津三保の浦あたりよりの事なるを、田子と云ふを薩※[土+垂]坂の下と心得、從《ヨリ》を其所よりの意と心得て諸抄皆あやまれり。宗祗方角抄(ニ)云(フ)田子の浦は富士川より東也。岩もとへは五十町ばかりなり。蒲原より東也。三保の入江より浮島が原づたひの浦おしなべて田子の浦と惣名に云ふなり。清見沖津などはその内の小名なり。深草元政(ノ)身延紀行(ニ)云(フ)【沖津より】田子の浦目もあやなり。はるばると見わたして「ふじのねの雪のながめも忘貝わするばかりの田子のうら波」今此赤人も其あたりより見わたしておどろかれたるにこそあらめ。彼薩※[土+垂]坂の下のせばき入江に入りては岩城山にかくれて不盡は見えず。故(レ)其所(241)より東へ打出るとし、むづかしき説をなせるなりけり。
●一首の意は、昨日迄はさほどにも見えざりし富士の、けふ田子の浦に出て見れば、眞白に雪ふりつもりて、青空の限りにそびえたるが見ゆとなり。
 
  詠(ル)2不盡(ノ)山(ヲ)1歌一首並短歌
 
 奈麻余美乃《ナマヨミノ》、甲斐乃國《カヒノクニト》、打縁流《ウチヨスル》、駿河能國與《スルガノクニト》、己知其智乃《コチゴチノ》、國之三中從《クニノミナカユ》、出立有《イデタテル》、不盡能高嶺者《フジノタカネハ》、天雲毛《アマグモモ》、伊去波伐加利《イユキハバカリ》、飛鳥母《トブトリモ》、翔毛不上《トビモノボラズ》、燎火乎《モユルヒヲ》、雪以滅《ユキモテケチ》、落雪乎《フルユキヲ》、火用消通都《ヒモテケチツツ》。言不得《イヒモエズ》、名不知《ナヅケモシラニ》、靈母《アヤシクモ》、座神香聞《イマスカミカモ》、石花海跡《セノウミト》、名付而有毛《ナヅケテアルモ》、彼山之《ソノヤマノ》、堤有海曾《ツヽメルウミゾ》、不盡河跡《フジカハト》、人乃渡毛《ヒトノワタルモ》、其山之《ソノヤマノ》、水乃當曾《ミヅノタギチゾ》、日本之《ヒノモトノ》、山跡國乃《ヤマトノクニノ》、鎭十方《シヅメトモ》、座神可聞《イマスカミカモ》、寶十方《タカラトモ》、成有山可聞《ナレルヤマカモ》、駿河有《スルガナル》、不盡能高峰者《フジノタカネハ》、雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》、
 
●此歌拾穗本短歌(ノ)下有2笠(ノ)朝臣金村1。されど其れ等の人の企て及ぶべき手ぎはの歌ならず。左註に、右一首高橋(ノ)連蟲麻呂(ガ)之集中(ニ)出(ヅ)焉以(テ)v類(ヲ)載(ス)v此(ニ)とあるは、家持卿の筆なるべければ、もし蟲麻呂柿本(ノ)朝臣の歌を感服して吾が集へ書き加へおきつらん。いかにも彼の大人の口つきと聞えた(242)るに、彼大人東國へ下られたる歌一首も見えねば、然も定めかねぬ。其の世には外にもかかる歌よむ人ありけんがあやしきばかりなり。●「奈麻余美乃」是はげにも生弓《ナマユミ》の復《カヘ》ると云ふ意の枕詞なり。古への木弓は、小木より級《シナ》をつけておふし立つれど、生木のうちは弦に引かれて復《カヘ》ることのあるを云ふ。●「打縁流」浪の打よするするどき川とつづくなり。●「己知其智乃」彼此《カニカク》と云ふ如く此方此方《コチコチ》と云ひて兩方を云ふ也。そのよし昔山彦冊子に云ひつ。●「三中從」三中は眞中、從は、よりと見ても爾《ニ》の意としても、これは今の耳を妨げず。●「燎火乎、雪以滅、落雪乎、火用消通都」此四句凡人の及ばれぬ云ひとりなり。●「石花海跡」石花は、和名妙に、勢《セ》とあり。日本紀略に承平七年十一月某日甲斐(ノ)國言(ス)、駿河(ノ)國富士山(ノ)神火、埋(ム)2水海(ヲ)1とあるは、他の湖の事にて、此の石花《セノ》海は今もあり、木栖《セノ》海と書きたるを本栖に誤りて、今字の儘に、もとすの海とて富士八湖の一也。西北の方にあれど鳴澤《ナルサハ》とは同じからず。鳴澤は高嶺にありと都良香の富士山記に見ゆ。木栖《セノ》水海は西北の麓にあるにて三代實録とも合へり。※[(メ/メ)+立刀](ノ)海と書けるが即|石花《セノ》海の事也。●「堤有海曾」湛《タヽヘ》て持てるを云ふ。堤《ツツミ》と云ふ言の意も此句にてよく聞えたえり。●「日本之、山跡國乃」日本とかくは古語にあらじと云ひ、又或は日神の生坐《アレマ》しつる國と云ふこと也、など云ふめるは非なり。此は皇祖神の日向に坐しゝ頃、大八島を數へそめしに山跡(ノ)國の正東に當るを以て云ひ出たる古語也。故(レ)此發語の下に轉じて日本《ヤマト》と云ふによみつけ來しも、春日《カスガ》飛鳥《アスカ》等の例にして久しき時よりいひならはしたる所以《ユヱ》にぞある。委しくは道別《チワキ》に云へるを見合すべし。●「鎭十方、座神可聞、寶十方、成有山可聞」此四句二聯凡下の語ならず。柿本朝臣の口つきなり。
(243)●一編の意は、甲斐國と駿河(ノ)國と其々の國の中央《ミナカ》より生え出たる富士の嶺の高さはも、天雲も超えかね、空飛ぶ鳥も得のぼらず、ふりつもる雪の中より烟立つが、その燎ゆる火を雪もて消《ケ》ち、其ふる雪を火もてけちつゝ、神變不思議はいひもかね、名づけも知らに、たゞあやしくもいます神山かな。石花《セノ》海と云ふ湖水も、その山の湛《タヽ》へて持てる海ぞ。富士川と人の渡るも、其山のながす餘りぞ。實に日本の山跡《ヤマトノ》國の動かぬ鎭めとも譽れともなれる山かも。かへす/”\も駿河なるふじの高ねは、見ても/\あかれぬ山なるぞ、となり。
 
   反  歌
 
 不盡嶺爾《フジノネニ》、零置雪者《フリオケルユキハ》、六月《ミナヅキノ》、十五日消者《モチニケヌレバ》、其夜布里家利《ソノヨフリケリ》。
 
●「十五日」もちは滿《ミチ》にて月の盈てる極みを云ふ。望の字は日月の望《ノゾミ》合へる意もてかける也。●「其夜布里家利」かくいひて一年中雪の消えざるよしを巧にをかしくいひ廻らせる詞どもなり。其妙いひも得ず名づけもしらねば、せめて淮へいはんに、近昔の冊子に、あるあぶれものありて、家にをらねば、翁|人《(?)》いさめて、そゞろにのみな浮かれありきそ、汝は大かた年の内に家にある日はあらじを、と云ふに、そのをのこいふ。さなのたまひそ。われは大つごもりにかへりて元日ならで出ざれば家にゐぬ日は、只一日のみななりといらへき、と云へる心ばへにいささか似たり。其は一とせの暑き盛りの六月の、其又望の日に消えて、直に其夜ふると云ふ時は、外に消ゆべき日のあらざるをきかせたる詞のあや也。萬葉集の比《コロ》迄はうたに深き巧なしとのみ(244)思へる人は、かゝる歌の意味どもをよく聞きわかぬ心くせなるぞかし。
 
 布士能嶺乎《フジノネヲ》、高見恐見《タカミカシコミ》、天雲毛《アマグモモ》、伊去羽計《イユキハバカリ》、田菜引物緒《タナビクモノヲ》。
 
●「高見恐見」高さに畏むといふ也。●「田菜引物緒」緒はよの意にて天雲も山のなかばに棚引くものよ、となり。
 
  山部(ノ)宿禰赤人(ガ)至(リテ)2伊豫(ノ)温泉《ユニ》1作(ル)歌一首並短歌
 
 皇神祖之《スメロギノ》、神乃御言乃《カミノミコトノ》、數坐《シキマセル》、國之盡《クニノハタテニ》。湯者霜《ユハシモ》、左波爾雖在《サハニアレドモ》、島山之《シマヤマノ》、宜國跡《ヨロシキクニト》、極此疑《コヾシカモ》、伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》、射狹庭乃《イサニハノ》、崗爾立之而《ヲカニタヽシテ》、歌思《ウタオモヒ》、辭思爲師《コトオモホシヽ》、三湯之上乃《ミユノウヘノ》、樹村乎見者《コムラヲミレバ》、臣木毛《オミノキモ》、生繼爾家里《オヒツギニケリ》、鳴鳥之《ナクトリノ》、音毛不更《コヱモカハラズ》、遐代爾《トホキヨニ》、神左備將往《カミサビユカム》、行幸處《イデマシドコロ》。
 
●「伊豫温泉」同國湯(ノ)郡にあり行嚢抄(ニ)云(フ)伊與温泉(ノ)郡岩木島ニ温泉アリ。是ヲ伊與ノ湯卜云フ、とあり。今|道後《ダウゴ》の湯と云ふとぞ●「皇神祖之」遠租の天皇を申す。皇祖君《スメラオヤキミ》と云ふことなり。又かく書きてかみろぎの、とよむ事あり。其《ソレ》は神生祖君《カムアレオヤキミ》の意の變じて、神代の皇祖神を奉(ル)v指ところのこと也。こゝはたゞ遠祖天皇より御代々敷ませる國の限りに、と云ふ意也。●「國之盡」(245)八(ノ)卷に數座流國乃波多弖爾《シキマセルクニノハタテニ》とあるに據りてよむ。はて/\と云ふ事の約りたるなるべし●「湯者霜」霜は是はしもなど、力を入れて云ふ辭也。●「極此疑」疑々《コヾ》しき哉にて伊與(ノ)高嶺にかゝる語也。十七(ノ)卷立山の歌に許其志可毛《コヾシカモ》とあり。今石鐵山と云ふとぞ。●「射狹庭乃」仙覺抄(ニ)云(フ)風土記(ニ)云(ハク)以(テ)2上宮聖徳(ノ)皇子(ヲ)1爲2一度(ト)1。乃高麗(ノ)慧慈(ノ)僧、葛城王等也、立(ツ)2湯(ノ)岡(ノ)側(ニ)碑文(ヲ)1其碑文(ノ)處(ヲ)謂(フ)2伊佐爾波之《イサニハノ》岡(ト)1也者|當土《ソノクニノ》諸人等欲v見(ムト)2碑文(ヲ)1而、伊邪那比來《イザナヒキタル》、因(テ)謂(フ)2伊佐爾波《イサニハト》1也と見ゆ。是(レ)審神《サニハ》と云ふと同言か。神祀る場《ニハ》に、諸神をいざなふ意似たれば也。さて此碑ぞ古き限りなるを、今傳はらぬぞうらみなる。天武紀十三年十月巳卯(ノ)朔壬辰大(ニ)地震《ナヰフル》云々。伊豫湯泉没|而《シテ》不v出(デ)、とある、此時土中に沈みけらし。●「歌思、辭思爲師」彼の碑面に録し給はん歌文辭等をこゝにして考へ給ひしよしを云ふ也。●「三湯之上乃」御湯也。式(ニ)云(フ)、伊豫(ノ)國湯(ノ)郡伊佐爾波(ノ)神社。湯(ノ)神社。●「樹村乎見者」木群《コムラ》にて樹の繁りたる杜林を云ふ。●「臣木毛、生繼爾家里」風土記(ニ)云(フ)。以(テ)2岡本(ノ)天皇并皇后(ノ)ニ躯(ヲ)1爲2一度(ト)1于v時於2大殿戸(ニ)1有(リ)v椹云(フ)2臣(ノ)木(ト)1於2其上(ニ)1集v鵤云(フ)2此米《シメノ》鳥(ト)1爲2此(ノ)鳥(ノ)1繋(テ)v穂(ヲ)養(ヒ)賜(フ)也云々。此をりの臣の木も生《オヒ》繼ぎて今猶ありと也。和名抄に樅【毛美】とあるを云ふならんと云へり。●「鳴鳥、音毛不更」彼の此米《シメ》の縁に云へる也。●「遐代爾、神佐備將往」今よりゆくさき遠き代迄も神さびゆかんと也。●「行幸處」彼の風土記に、景行天皇より始めて淨御原(ノ)天皇まで行幸五度なり、と云へり。
●一篇の意は、遠祖天皇のしろしめし來る國のはて/\に、温湯はしも多くあれども、島山の※[立心偏+可]怜《オモシロ》く便よろしき國とかの凝々しきや伊與の高嶺のいさ庭の岡と云ふに立たし、當普《ソノカミ》歌を考へ文を考へて碑銘を建てましゝと云ふ御湯のほとりの樹の繁みを見れば、岡本天皇の御時の臣の木(246)も生ひつぎ、又其時養はれたる鳥どもの音もかはらず。そのまゝ遠き後の代迄も、神さび行かんいでまし所《ドコロ》ぞと也。
 
  反  歌
 
 百式紀乃《モヽシキノ》、大宮人之《オホミヤビトノ》、饒田津爾《ニギタツニ》、船乘將爲《フナノリシケム》、年之不知久《トシノシラナク》。
 
●「饒田津」齋明紀(ニ)云(フ)伊豫(ノ)國熟田津此(ヲ)云(フ)2仁枳陀豆《ニギダツト》1とある、是にて、既に一卷額田(ノ)王(ノ)歌(ニ)出(ヅ)。今本饒を作(ル)v飽は誤りなり。●「年之不知久」其年數の知られぬにはあらざれど、只久しき事といふ意にてかくいへるなり。
 
  山部(ノ)宿禰赤人登(テ)2神岳《カミヲカニ》1作(ル)歌一首並短歌
 
 三諸乃《ミモロノ》、神名備山爾《カミナビヤマニ》、五百枝刺《イホエサシ》、繁生有《シジニオヒタル》、都賀乃樹乃《ツガノキノ》、彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》、玉葛《タマカヅラ》、絶事無《タユルコトナク》、在管裳《アリツツモ》、不止將通《ヤマズカヨハム》、明日香能《アスカノ》、舊京師者《フルキミヤコハ》、山高三《ヤマタカミ》、河登保志呂之《カハトホシロシ》、春日者《ハルノヒハ》、山四見容之《ヤマシミガホシ》、秋夜者《アキノヨハ》、河四清之《カハシサヤケシ》、旦雲二《アサクモニ》、多頭羽亂《タヅハミダレテ》、夕霧丹《ユフギリニ》、河津者驟《カハヅハサワグ》、毎見《ミルゴトニ》、哭耳所泣《ネノミシナカユ》、古思者《イニシヘオモヘバ》。
 
●「三諸乃」既に出づ。●「神名備山爾」神之杜《カミノモリ》と云ふが約《ツヾマ》りて神南備と稱《マヲ》すなれば、出雲(ノ)國(247)造(ノ)神賀(ノ)詞に云へるやうに、古くは何れの社をも謂ひしなれど、後には稱號となりき、と見えて大和の都には神南備と申すは、三輪と龍田と此飛鳥の神岳のみ也。此神岳は事代主《コトシロヌシノ》神の宮處にして、三輪と同じく天皇の御守護神にましませば也。●「都賀乃樹乃」今つがとも栂《トガ》ともつが松とも云ふ。良材なる事既に云ひつ。只繼と云ふに重ねてつゞけん枕詞也。●「玉葛」玉は美賞、葛は長く延びわたるものなれば絶ゆる事なくとつゞけたり。●「在管裳」上の蟻通《アリカヨヒ》の條に云へる如く、在存《アリ》々々てものする事を云ふ。故《カレ》不止將通《ヤマズカヨハム》とはつゞきたり、●「舊京師者」飛鳥にては河原(ノ)宮もあれど、こゝは淨御原(ノ)宮所をしたへるなるべし。●「河登保志呂之」遠く灼然《イチシロ》しと云ふことの約れる也。故(レ)遠水のいづく迄も見わたさるゝに多く云へり。●「見容之」字は見貌之《ミガホシ》見※[白/ハ]石《ミガホシ》などかけど、皆借字にて見之欲《ミガホシ》也。●「旦雲二、多頭羽亂、夕霧丹、河津者驟」此四句二聯凡ならず聞ゆ。赤人の歌にては上の伊與温泉と此歌などなるべし。
●一篇の意は、御諸の神南備山はいとも貴かれば、其山に五百枝千枝刺し繁くさかえたる樛《ツガ》と云ふ名の彌繼嗣《イヤツギツギ》に、玉葛の如く絶ゆる事なく止まず通はん。取わき飛鳥の古き都は、山の高きに、流るる川も遠くいちじろしく、春の日には花につきて山し見まほしく、秋の夜は月につきて川し清《サヤ》けし。物のあはれは物に誘はるゝものなるが、朝雲に田鶴は亂れてとび、夕霧にかはづは騷ぐなどを見きけば、いとゞかなしくなりぬ。古へ思ふ心にはと也。
 
  反  歌
 
 明日香河《アスカガハ》、川余藤不去《カハヨドサラズ》、立霧乃《タツキリノ》、念應過《オモヒスグベキ》、孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》。
 
(248)●「不去」は離れず也。●「念應過」念を過しやるべきにて、忘れがたき也●「孤悲」は舊き都を云ヘる也。
●一首の意は、飛鳥河川淀はなれず日々立つ霧の如く、わが故京を戀ふるは忘れて過るおもひならぬにと也。
 
  門部(ノ)王在(リテ)2難波(ニ)1見(テ)2漁父《アマノ》燭光《イサリビヲ》1作(ル)歌一首
 
 見渡者《ミワタセバ》、明石之浦爾《アカシノウラニ》、燒火乃《トモスヒノ》、保爾曾出流《ホニゾイデヌル》、妹爾戀久《イモニコフラク》。
 
●「保爾曾出流」保とは包める思のあまりて顯はるゝを云ふ。●「爾久」こふるを延べて戀ふらくと云ふなれど、老《オイ》をおいらくと云ふ如く、既に體語になりて吾(ガ)戀《コヒ》と云ふが如し。
 
  或《アル》娘子等《ヲトメラ》賜《タバリテ》2※[果/衣]《ツツメル》乾鰒《ホシアハビヲ》1戯《タハムレニ》請(フ)2通觀僧|之《ガ》呪願《トコヒヲ》1時《トキ》、通觀(ガ)作(ル)歌一首
 
 海若之《ワダツミノ》、奥爾持行而《オキニモチユキテ》、雖放《ハナツトモ》、字禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》、將死還生《ヨミカヘラマシ》。
 
●「海若之」かく書きたれども、此はたゞ海の事なり。●「宇禮牟曾」いかにぞ、と云ふ語也。宇と伊と通ずれば、かくも云ひしにこそ。十一にも此語見ゆ。
 
  太宰(ノ)少貮小野(ノ)老(ノ)朝臣(ノ)歌一首
 
(249) 育丹吉《アヲニヨシ》、寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》、咲花乃《サクハナノ》、薫如《ニホフガゴトク》、今盛有《イマサカリナリ》。
 
●「小野老」續紀天平九年太宰少貮從四位下小野老朝臣卒と有り。●「寧樂乃京師者」元明天皇元正天皇と歴て、聖武天皇の御時頃はいよ/\盛なりけらし。
 
  防人(ノ)司(ノ)佑大伴宿禰|四綱《ヨツナガ》歌二首
 
 安見知之《ヤスミシシ》、吾王乃《ワガオホキミノ》、數座在《シキマセル》、國中者《クニノナカニハ》、京師所念《ミヤコオモホユ》。
 
●「防人云々」防人は、太宰府(ノ)屬官也。職員令(ニ)云(フ)防人(ノ)司、正、一人掌(ル)2防人(ノ)名帳戎具教閲及(ヒ)食料田事(ヲ)1。佑一人、掌(ルコト)同(ジ)v正(ニ)。令史一人●「敷座」敷とも、知とも云へることは同じ事におつめれども、數は大宮にかゝり、知は天下にかゝれり。歌の意明らけし。太宰府にありて京師をしたふなり。
 
 藤浪之《フヂナミノ》、花者盛爾《ハナハサカリニ》、成來《ナリニケリ》、平城京乎《ナラノミヤコヲ》、御念八君《オモホスヤキミ》。
 
●「藤浪」ふぢは蔓《ツル》にて花ぶさも長かれば藤靡《フヂナミ》と云ふ也。●「御念八君」旅人卿を指せる也。よみ人佑なれば卿(?)をさして然か申すべし。ならの宮子には藤多かりしにこそ。
 
  帥大伴(ノ)卿(ノ)歌五首
 
(250) 吾盛《ワガサカリ》、復將變八方《マタヲチメヤモ》、殆《ホト/\ニ》、寧樂京師乎《ナラノミヤコヲ》、不見歟將成《ミズカナリナム》。
 
●「復將變八方」をちとは緒《ヲ》に貫き綰《ワガネ》たる物は如(シ)2環《タマキノ》無《ナキガ》1v端《ハシ》と云ふやうに、廻らするまゝに本に立|復《カヘ》るより、譬へて本(ト)にかへる事を、をちかへると云へり。●「殆」字書に危也近也又將也、ともありて、言の意は、其邊りに近づきて危く其れに陷《オチイラ》ざりしを云ふ。又|將《マサニ》云々《ナニ/\》せんとして其にいたりし也。
●吾が身の盛の復た本に立かへらめや。年々老いゆくばかり也。かくては此太宰府に老いくちて寧樂の都を見ずなる方が近かりなんと云ふ也。かくのみにてははか/”\しき意。未だはらにうまく落つるまじかれど、下に多く出たれば其うた毎に云ふべし。
 
 吾命毛《ワガイノチモ》、常有奴可《ツネニアラヌカ》、昔見之《ムカシミシ》、象小河乎《キサノヲガハヲ》、行見爲《ユキテミムタメ》。
     
●「有奴可」奴奴《ヌカ》又|奴可毛《ヌカモ》と云ひて願ふ意に多く用ひたり。●「象小河乎」上に此の卿、普見し象の小河を今みればいよ/\さやけくなりにけるかも、とあり。その所に註しつ。
 
 淺茅原《アサヂハラ》、曲々二《ツバラ/\ニ》、物念者《モノオモヘバ》、故郷之《フリニシサトノ》、所念可聞《オモホユルカモ》。
 
●「淺茅原」ちばらつばらを重ねたる枕詞也。●「曲曲二」つばらは、詳かにて、後世には審詳なる方にのみいへど、古くは懇切《ネンゴロ》なる方に云へり。されば此うたの意は、せちにねんごろに物を思へば、はては故郷の事におち入りて京の家が戀しと也。
 
(251) 萱草《ワスレグサ》、吾紐二付《ワガヒモニツク》、香具山乃《カグヤマノ》、故去之里乎《フリニシサトヲ》、不忘之爲《ワスレヌガタメ》。
 
●「萱草」毛萇(ガ)詩傳(ニ)云(フ)萱草令2人(ヲシテ)忘(レ)1v憂(ヲ)。和名抄(ニ)云(フ)兼名苑(ニ)云(フ)萱艸一名忘憂。漢語抄(ニ)云(フ)和須禮久佐。●「香具山乃」此山の邊りにて家ありしなるべし。神なびにもあるさまによまれたるあり。
 
 吾行者《ワガユキハ》、久者不有《ヒサニハアラジ》、夢乃和太《イメノワダ》、湍者不成而《セトハナラズテ》、淵有也※[左(「]毛《フチニテアレヤモ》。
 
●「吾行」御行《ミユキ》の行にて、漢文に此の行と云へるが如し。此言上にも出て既にも云ひつ。姑らくわが旅ゆきは、と心得べし。●「夢乃和太」輿地通志(ニ)云(フ)夢(ノ)囘《ワタノ》淵(ハ)在(リ)2御料(ノ)荘新住村(ニ)1俗(ニ)呼(ブ)2梅|回《ワタト》1淵中奇石多(シ)、と云へり。大河淀のうち宮瀧に近き所と見えたり。世に夢の浮橋といふ説はもと此夢乃和太より出て一つの詞となれるよし、物に見えたり。七にいめのわだ言にしありけりうつゝにも見てこしものを思ひし念婆《モヘバ》。懷風藻吉田(ノ)連宜(ガ)從2駕(シタル)吉野宮(ニ)1詩に夢淵と作りたり。
●一首の意は、さはいへ、吾が旅行きは今は久しき間はあらじ、かの吉野の夢のわたよ。瀬とは變らずして、もと見しまゝの淵にてあれやも。と願ふ也。有也毛《アレヤモ》と云ひて願ふ意なる、集中いと多し。次に云ふべし。今本どもは、有の下に也の字を落したるなり。
 
  沙彌滿誓(ガ)詠(ル)v緜(ヲ)歌一首
 
 白縫《シラヌヒノ》、筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》、身著而《ミニツケテ》、未者伎禰杼《イマダハキネド》、暖所見《アタヽカニミユ》。
 
(252)●「白縫」不知火之《シラヌヒノ》也。それを縫と書るは、なむと云ふに甞《ナムノ》字を書る類にて、古くは縫をも慥かに塗火《ヌヒ》と唱へし故也。さて不知火と云ふこと、又筑紫の枕詞につゞけならひし事などは中島廣足が不知火考證に出づ。●「筑紫乃綿者」續紀神護景雲二年三月始(テ)毎年運(テ)2太宰府(ノ)綿二十萬屯(ヲ)1輪(ス)2京庫(ニ)1、とあれば名産なりし也。されど此歌只詠(ム)v綿(ヲ)のみとも聞えず。もしは太宰府にて筑紫處女の色白く肥えたるを見て、戯れによめりけむを、僧の事なれば詠v綿とは書きしならんか。心して解くべし。
 
  山上(ノ)臣憶良(ガ)罷(ル)v宴(ヲ)歌一首
 
 憶良等《オクララ》者、今者将罷《イマハマカラン》、子將哭《コナクラン》、其彼母毛《ソノコノハヽモ》、吾乎将待曾《ワヲマツランゾ》。
 
●「其彼母毛」彼は兒を誤れるか。何れにもその子の母とよみて、則吾妻の事也。いひなしつゞけがらおもしろし。
●一首の意は、君たちは飲まばのめ、憶良等は今は罷《マカ》らん。家にして兒等が泣くらん。又其兒の母もわれを待つらんぞ、と也。
 
  太宰(ノ)帥大伴卿讃(フル)v酒(ヲ)歌十三首
 
 驗無《シルシナキ》、物乎不念者《モノヲオモハズバ》、一杯乃《ヒトツキノ》、濁酒乎《ニゴレルサケヲ》、可飲有良師《ノムベカルラシ》。
 
(253)●「讃酒」酒に託して儒佛を譏れる也。そは孝徳天智の比より漢風の押しうつり、賢ぶりする人多かりつるが、此卿の心にうるさかりけん。卿は穩かなる本性と見えたるにかゝる歌のある、さすがに、山|往者《ユカバ》草むす屍と言拳《コトアゲ》して仕へ來る氏の末ほどありて、猶やまと魂を失ひ給はざりしにこそ。
●一首の意は、聖人はかゝりし、賢人はとありし、何の書にかくあり、くれの書に然かありなど何のしるしもなきもの論らひをせんよりは、世の中濁らば濁れる酒をのみて、心をやりてあるべしとなり。
 
 酒名乎《サケノナヲ》、聖跡負師《ヒジリトオフシヽ》、古昔《イニシヘノ》、大聖之《オホキヒジリノ》、言乃宜左《コトノヨロシサ》。
 
●「酒名乎、聖跡負師」魏略(ニ)云(フ)太祖禁(ジ)v酒(ヲ)而人竊(ニ)飲(ム)、故(ニ)難(シ)v言(ヒ)v酒(ト)、以(テ)2白酒(ヲ)1爲(シ)2賢者(ト)1清酒(ヲ)爲(ス)2聖人1と云ふこともあれど.あながち其れによれるにもあらず。吾皇祖の中應神天皇などの如く、酒を賞し給ひしを、大き日知《ヒジリ》とは云へるなり。
●一首の意は、酒を飲めば慾も忘れ物の是非も忘るれば酒が實の聖人なり。されば酒の名をひじりと負ふしゝ古への大き日知の御言ぞよくあたりたりと云ふ也。二の句おほせしとよみたるは非なり。せしの格にあらず。
 
 古之《イニシヘノ》、七賢人等毛《ナヽノカシコキヒトダチモ》、欲爲物者《ホリセシモノハ》、酒西有良師《サケニシアラシ》。
 
(254)●「七賢人」玩籍、稽康、山濤、玩咸、向秀、王戎、劉伶。
●一首の意は、吾が酒をのむを譏る人あるさまなれど、汝等が貴めるもろこしのいはゆる七賢人など云ふ人も、たゞほりするものは酒にあるらしと也。
 
 賢跡《カシコシト》、物言從者《モノイハムヨハ》、酒飲而《サケノミテ》、醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》、益有良之《マサリタルラシ》。
 
●一首の意は、世に吾れ賢しとかしこぶりして、異國のもの論《アゲツ》らひせるばかり無用なるものぞなき。それよりは酒をのみて醉なきする方が害なきばかりも増りたらん、と也。
 
 将言爲便《イハムスベ》、将爲便不知《センスベシラニ》、極《キハマリテ》、貴物者《タフトキモノハ》、酒西有良之《サケニシアラシ》。
 
●「將言爲便、將爲便不知」いはんにも云ふべきすべなく、爲《セ》んにもせんすべしらず、といふ言なるを、ここはいづこがよしと云ふすべなくて、貴きものは酒ぞ。其の如くにて何の教へもなきやうなれど、つひに極りて貴きは吾神ながらの大道ぞ、とふくめたるなり。
 
 中々二《ナカ/\ニ》、人跡不有者《ヒトトアラズハ》、酒壺二《サカツボニ》、成而師鴨《ナリニテシカモ》、酒二染甞《サケニシミナム》。
 
●此うたの意、なまなかに人とあらんよりは、酒壺なるよしもあれかし。さらば飽くまで酒に(255)染みなんと云ひて、吾れはわが心を立てとほさん、と也。
 
 痛醜《アナミニク》、賢良乎爲跡《サカシラヲスト》、酒不飲《サケノマヌ》、人乎熟見者《ヒトヲヨクミレバ》、猿二鴨似《サルニカモニル》。
 
●「痛醜」神武紀大醜此(ヲ)云(フ)2鞅奈彌※[人偏+爾]句《アナミニクト》1●「賢良」十六に情出《サカシラ》情進《サカシラ》など書きて、賢《カシコ》だてするを云へり。
●一首の意は、酒を飲めば貌赤くなりで猿に似たれど、又賢こだてすとて酒をものまず、何事にても皇國ぶりを嫌ふ人をよく/\見れば、却て猿が人まねするやうにて、あな醜し、と也。
 
 價無《アタヒナキ》、寶跡云十方《タカラトイフトモ》、一杯乃《ヒトツキノ》、濁酒爾《ニゴレルサケニ》、豈益目八《アニマサラメヤ》。
 
●「價無寶」法華經無價寶珠●「豈」は云ひ消《ケ》つ詞にて、何《ナニ》と通へり。
●一首の意は、たとひ價ひなき寶といふとも、何《ナニ》それが一ぱいの濁酒にも益らめやは、と也。是は玉を佛にあてたるべし。
 
 夜光《ヨルヒカル》、王跡言十方《タマトイフトモ》、酒飲而《サケノミテ》、情乎遣爾《コヽロヲヤルニ》、豈若目八目《アニシカメヤモ》。
 
 一(ニ)云(フ)八方
 
(256)●一首の意は、世の中に何のあそび、くれのあそびとさまざまのすぢ/\あれど、其中に第一娯しきは、醉ひて我隨《ワガマヽ》云ふにあるべし。議論をするが惡きかぎりと云はずしてきかせたり。
 
 今代爾之《コノヨニシ》、樂有之《タノシクアラバ》、來生者《コムヨニハ》、蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》、吾羽成奈武《ワレハナリナム》。
 
●「虫爾鳥雨毛」虫にも鳥にもを闕ける也。佛の教へにもとれる意明らけし。
 
 生者《イケルモノ》、遂毛死《ツヒニモシヌル》、物爾有者《モノナレバ》、今生在間者《イマイケルマハ》、樂乎有名《タノシクヲアラナ》。
 
●「樂乎」此の乎は力入れて云ふ辭。●「有名」あらんと同じ。
 
 黙然居而《モダヲリテ》、賢良爲者《サカシラスルハ》、飲酒而《サケノミテ》、醉泣爲爾《ヱヒナキスルニ》、尚不如來《ナホシカズケリ》。
        
●「黙然居而」七に黙然不有跡《モダアラジト》、十七に母太毛安良牟《モダモアヲム》、とありて、徒然《イタヅラ》なる意也。今俗言に牟陀《ムダ》事など云ふも自然と意通へり。
●一首の意は、不用《イタヅラ》に暇をつひやしをりて賢進《サカシラ》するは、皆たは言《ゴト》にて、飲酒《サケノミ》てゑひ泣するにも猶おとれり、となり。
 
(257)  沙彌滿誓(ガ)歌一首
 
 世間乎《ヨノナカヲ》、何物爾將譬《ナニニタトヘム》、旦開《アサビラキ》、榜去師船之《コギニシフネノ》、跡無如《アトナキガゴト》。
 
●「旦開」湊を出るを云ふ。朝には限らぬ事なれども、朝を主としていひ習へる詞也。
●一首の意は、世のはかなさを何にかたとへん。芭蕉泡沫などいはんも今更也。此見わたす湊より纜《ヒモト》きて榜ぎにし船どもの、忽ちにゆくへしらずなりて、跡はかもなきが如し、と也。
 
(259)萬葉集檜嬬手 卷之六
 
   本集三(ノ)下
 
  若湯座《ワカユヱノ》王(ノ)歌一首
 
 葦邊波《アシベニハ》、鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》、湖風《ミナトカゼ》、寒吹良武《サムクフクラム》、津乎能埼羽毛《ツヲノキハモ》。
 
●「王」傳しられず。記に取(リ)2乳母《オモヲ》1定(メ)2大湯坐《オホユヱ》・若湯坐《ワカユヱヲ》1宜《ベシ》2日足《ヒタシ》奉(ル)1とあり。●「津乎能埼」近江淺井(ノ)郡なり。和名抄に、都宇《ツウノ》郷とあるは、乎《ヲ》を誤りたる歟。又訛りたるにも有べし。●「羽毛」波《ハ》と云ひのこして歎く辭也。此うたにては、津尾(ノ)埼|者《ハ》マアさて/\身にしむ所かなと云ふほどの意也。是を尋ね慕ふ意として、後に想像《オモヒ》やりてよめる也と云へるは非也。上に「やき津べにわが行きしかば駿河なる阿倍《アベ》の市路にあひし子らはも」是はいかにしつらんか、といひのこせる也。古今集【十七】「さゝの葉にふりつむ雪のうれを重み、本くだちゆく我さかりはも」是は夢のやうに過ぎける哉と含めたる也。又【二十】水ぐきの岡のやかたに妹と我と寢ての朝けの霜のふりはも」是はそひねしたれば寒しともしらざりしに、けしからずもふりたる事哉とふくめたる也。これらにいさゝか尋ねもよほす意はなし。又あるもあれど、一かたには心得べからず。
 
(260)  釋(ノ)通觀(ノ)歌一首
 
 見吉野之《ミヨシヌノ》、高城乃山爾《タカキノヤマニ》、白雲者《シラクモハ》、行憚而《ユキハバカリテ》、棚引所見《タナビケルミユ》。
 
●「高城乃山」輿地通志(ニ)在(リ)2吉野山(ノ)東(ニ)1中(ニ)有(リ)2壘址1。名勝考(ニ)云(フ)山甚峻くして自然に城の體勢ありと見ゆ。さる故に高城とは名におひしなるべし。●「行憚而」山の中腹に雲のかゝれるを云へる也。
 
 日置少老《ヘキノスクナオユガ》歌一首
 
 繩乃浦爾《ナハノウラニ》、鹽燒火氣《シホヤクケブリ》、夕去者《ユフサレバ》、行過不得而《ユキスギカネテ》、山爾棚引《ヤマニタナビク》。
 
●「繩乃浦爾」行嚢抄に、攝津國大和田(ノ)濱の續きに山なければ、此歌には合《カナ》はず。此は播磨(ノ)國飾磨(ノ)郡にて、入江のある地、此入江の中は、五六石積みの船迄は泊る湊也。奈波のつぶら江とよめるも此地なるべし。圓江《ツブラエ》と云ふべき形の江也。中昔に、那波(ノ)道圓と云ひし人も此地の産也。此浦ならば、鹽屋の烟山に棚引けりと、其地の人云ひき。されば此繩を綱と改めたるは非也。
 
  生石《オフシノ》村主《スグリ》眞人《マヒトガ》歌一首
 
 大汝《オホナムチ》、少彦名乃《スクナヒコナノ》、將座《イマシケム》、志都乃石室者《シヅノイハヤハ》、幾代將經《イクヨヘニケム》。
 
●「生石村主」播磨(ノ)國赤石の生石子《オフシコ》村の村主《スクリ》なりけん。もしは石(ノ)下に子(ノ)字を落せるにもあるべ(261)し。●「志都乃石室者」是も縮見石室《シヾミノイハヤ》の、いつとなく約《ツヾマ》り來たるにて即生石子村の山中の石窟を云へるなり。然れば其奇石ともに、大汝少御神の御魂も靜まり坐《マ》しておはせど、實は此一二句は、億計《オケ》・弘計《ヲケ》二柱を比《ナズラ》へて申せるならんよし、別記に委しく考へ云へり。
 
 上《カミノ》村主《スグリ》古麻呂《コマロガ》歌
 
 今日可聞《ケフモカモ》、明日香河乃《アスカノカハノ》、夕不離《ユフサラズ》、川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》、清有良武《サヤケカルラム》。
 
●「上村主」今本村主の二字を脱せり。元正紀・姓氏録等に此氏見えたり●「今日」日の字、もし目の誤ならば、いまもかもと訓むべし。●「夕不離」夕べを一よひも離《サカ》らず、毎夕なるを云ふ。朝さらずといふに對《ムカ》へて知るべし。
●一首の意は、わが昔住みし時の如く、今も飛鳥の河は云云《シカジカ》ならんが、うら山しと也。或本の今もかもとなれるは、俗に結句(?)然《シカ》あらば、昔を思ひ出でて悲しからんと也。
 
  山部(ノ)宿禰赤人(ノ)歌六首
 
 繩浦從《ナハノウラユ》、背向爾所見《ソガヒニミユル》、奥島《オキツシマ》、榜囘舟者《コギタムフネハ》、釣爲良下《ツリセスラシモ》。
 
●「繩浦」此繩浦は、攝津國なるべし。行嚢抄に田蓑島・姫島・大和田・繩と出して、此うたを出せり。此歌どもの運びを見るに、難波津より紀伊國に赴ける度なれば、上なるとは道すぢたが(262)へり。●「背向」うしろの方を云ふ。●「榜囘」こぎ廻ぐるなり。
●うたの心は、海上にて然か廻り道せるは、釣せんためなるべしと云ふ也。
 
 武庫浦乎《ムコノウラヲ》、榜轉小舟《コギタムヲブネ》、粟島矣《アハシマヲ》、背爾見乍《ソガヒニミツツ》、乏小舟《トモシキヲブネ》。
 
●「武庫浦乎」むこの浦とては、播磨の武庫郡にていかがともおもふやうなれど、上にも住の江の榎名津《エナツ》に立ちて見わたせば、武庫の泊《トマリ》ゆ出る船人とありて、粟島近くなる邊までをいひしなり。
●一首の意は、むこの浦あたりをこぎ廻る小舟。粟島をうしろあはせに見て、其けしきえもいひがたからん。うら山しき小舟ぞと也。
 
 阿倍乃島《アベノシマ》、字乃住石爾《ウノスムイソニ》、依浪《ヨルナミノ》、間無比來《マナクコノゴロ》、日本師所念《ヤマトシオモホユ》、
 
●「阿倍乃島」紀伊名所記(ニ)云(フ)、海部郡の海岸十餘町離れて、阿部島・沖(ツ)島・二子島など云ふ小島あり。甚景地なり。玉津島の向にあたれりとあり。そこなるべし。其邊に久しく船繋りして大和を戀ひし也。
 
 鹽干去者《シホヒナバ》、玉藻苅藏《タマモカリツメ》、家妹之《イヘノイモガ》、濱※[果/衣]乞者《ハマヅトコハバ》、何矣示《ナニヲシメサン》。
 
(263)●「苅藏」十六に、荒き田の猪田《シヽダ》の稻を倉爾擧藏而《クラニツミテ》と云へり。藏をつむと訓むは、倉に物を積みおく意也●「濱※[果/衣]」つととは其處より家に持ちかへる物を云ふ。山※[果/衣]《ヤマツト》・都のつと・旅つとなど云ヘる也。ここは潮干の獲物をいふ。名義は藁※[果/衣]《ワラツト》と云ふ物して包むより、名となりたる也。さて此うたに、家の妹と云へるは、此時國司の屬官にて妻を率《ヰ》て來たりしにこそ。
 
 秋風乃《アキカゼノ》、寒朝開乎《サムキアサケヲ》、佐農能崗《サヌノヲカ》、將超公爾《コユラムキミニ》、衣借益矣《キヌカサマシヲ》。
 
●「佐農能崗」紀伊國なり。上の歌に委しく云へり。是は大和へ歸る人に與へたるうたなるべし。
●うたの意は、われたびならずば、秋風の寒きあさけに佐農の崗こえ行く人に衣かさましを、我も旅なれば心にまかせずと云ふ意也。
 
 美沙居《ミサゴヰル》、石轉爾生《イソミニオフル》、名乘藻乃《ナノリソノ》、名者告志弖余《ナハノラシテヨ》、親者知友《オヤハシルトモ》。
 
●「美沙」和名抄(ニ)云(ハク)、爾雅集註云(フ)、※[目+鳥]鳩和名美佐古、G(ノ)屬也、好(テ)在(リ)2江邊山中(ニ)1亦食(フ)v魚(ヲ)者也●「名乘藻乃」允恭記に載せたる故事は却て取がたし。神馬藻と書くに就て、勿騎曾《ナノリソ》と云ひそめたる方よろし。そのよし言別に辨へつ。今の世にほだはらと云ふものなり●「名者告志弖余」一卷の始めの歌に云ひつる如く、女は夫と頼む人ならでは、實名は名のらぬ定めなりつればなり。
 
(264)  笠(ノ)朝臣金村(ガ)鹽津山(ニテ)作(ル)歌二首
 
 大夫之《マスラヲガ》、弓上振起《ユズヱフリオコシ》、射都流矢乎《イツルヤヲ》、後將見人者《ノチミムヒトハ》、語繼金《カタリツグガネ》。
 
●「鹽津山」近江國淺井郡也。行嚢抄(ニ)云(ハク)鹽津、此所モ海津《カイヅ》ニ同ジ。敦賀美濃北國ノ便地、運送之船、其外高瀬船多(ク)着岸ノ津也。人家多ク富人アリ。鹽津越ト云フハ、敦賀ヘノ山路ヲ云フ云云。續古今、紫式部鹽津山といふ道を行くに、しづをのいとあやしきさまにして、猶からきみなど云ふを、ききてよみ侍りける「知りぬらんゆきゝにならひ鹽津山世にふる道はからき物ぞと●「弓上振起」此振起は、弓射る故實に殊更に振起す術のありしを云ふ。言別に允恭(ノ)朝(ノ)歌につきて云ひつるを見合すべし●「後將見人者云云」此金村|益荒健士《マスラヲ》にて、此鹽津山の巖にちからの限り射こみてよめるなるべし。九「木のくにの昔弓雄之なりやもて鹿とりなびけし坂の上にぞある。此たぐひ昔の勇士の爲るわざなりけん。十九「丈夫は名をし立つべし後の世にききつぐ人もかたり繼ぐがね」金は聟《ムコ》がね・后《キサキ》がねの兼《カネ》にて、其用意に儲《マウ》けおくをいふ。姑く「其|爲《タメ》に「其用にの意にうつして心得べし。
●一首の意は、丈夫が弓末振起し蟇目の神術を行ひて、此巖石に射つる矢ぞかし。後見む人は永き世に語り繼ぐ、そのためにとなり。三句の乎は、與の意なれば切りて心得べし。
 
 鹽津山《シホツヤマ》、打越去者《ウチコエユケバ》、我乘有《ワガノレル》、馬曾瓜突《ウマゾツマヅク》、家戀良霜《イヘコフラシモ》。
 
(265)●「家戀良箱」奥義抄(ニ)云(ハク)人を家にて戀ふる妻あれば、乘る馬つまづきはづむと云へる、是れ古くより傳へたる諺なり。さてここに家と計《バカ》りにて、家人の事也。
 
  笠(ノ)朝臣金村|角鹿津《ツヌガノツニ》乘船《フナノリスル》時作(ル)謌一首並短歌
 
 越海之《コシノウミノ》、角鹿乃濱從《ツヌガノハマユ》、大舟爾《オホフネニ》、眞梶貫下《マカカヂヌキオロシ》、勇魚取《イサナトリ》、海路爾出而《ウミヂニイデテ》、阿倍寸管《アヘギツツ》、我榜行者《ワガコギユケバ》、大夫乃《マスラヲノ》、手結我浦爾《タユヒガウラニ》、海未通女《アマヲトメ》、鹽燒炎《シホヤクケブリ》、草枕《クサマクラ》、客之有者《タビニシアレバ》、獨爲而《ヒトリシテ》、見知師無美《ミルシルシナミ》、綿津海乃《ワタツミノ》、手二卷四而有《テニマカシタル》、珠手次《タマダスキ》、懸而之努櫃《カケテシヌビツ》、日本島根乎《ヤマトシマネヲ》。
 
●「角鹿」越前國|敦賀《ツルガノ》郡敦賀の古名也。●「濱從」濱爾の意也。角鹿の濱より、他へこぎ行くにあらず。●「眞梶」左右にかけたる櫓を云ふ。●「勇魚取」すなどりする海とつづけたる枕詞也●「阿倍寸管」喘《アヘ》ぎつつにて梶とる人のうめくを云ふ。●「手結我浦」式の神名帳越前國敦賀郡|田結《タユヒノ》神社あり。そこの浦なり●「鹽燒炎」三句隔てゝ見るといふへかかる●「見知師無美」獨して見るは見るかひもなさにといふ也●「綿津海乃」海神の手に纏きたる玉といひかけて、さて玉だすきの枕詞へつづけて序とせり●「之努櫃」大和の人に見せばやとしたふ也。
●一篇の意は、越の海の角鹿の濱に、大舟に兩梶おろし船子等が打ちうめきつゝ海路に榜ぎ出づるに、名に高き手結の浦の海人をとめらが鹽やくけぶりの其氣色まことにたとしへなし。然(266)れども只獨りして見るは見るかひもなきに妻子らにも見せまほしと、遠く倭の國迄かけてしたひつと也。
 
  反  歌
 
 越海乃《コシノウミノ》、手結之浦矣《タユヒノウラヲ》、客爲而《タビニシテ》、見者乏見《ミレバトモシミ》、日本思櫃《ヤマトシヌビツ》。
        
●「見者乏見」此の乏見《トモシミ》もやはりうらやむ意也。そは妻子・知る人にも見せまほしと羨まるるにつきて、日本の國のしのばるるよし也。諸註皆わろし。
 
  石上(ノ)大夫(ノ)歌一首
 
 大船二《オホブネニ》、眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》、大王之《オホキミノ》、御命恐《ミコトカシコミ》、礒廻爲鴨《イソミスルカモ》。
 
●「石上大夫」石上朝臣乙麻呂卿也。續紀天平十一年三月罪有りて、配2流(セラル)土佐(ニ)1と見ゆ。其時の歌なるべし●「眞梶繁貫」左右に懸けたる櫓を繁く掻く也●「礒廻」はいそみと訓むべし。七に鹽早み礒囘《イソミ》にをれば云云、十九に藤波を借庵につくり※[さんずい+彎]囘《ウラミ》する人とはしらずあまとか見るらん。此等の囘を箕《ミ》とも書きたれば也。さて礒囘《イソミ》するとは、いそのあはひに風守りして、船がかりする事なるを、流人の配所にさすらへたるを譬へて云へる也。中昔の歌に、新島守などよめる心ばえ也。諸註解得ず。今本左註に右今案(ニ)石上朝臣乙麻呂任(ス)2越前國守(ニ)1蓋此大夫歟とあるに依りて思ひ誤れる説あれどさる事紀に見えず。歌の意も其意にあらず。
 
(267)  和歌《コタヘウタ》一首
 
 物部乃《モノノフノ》、臣之壯士者《オミノヲトコハ》、大王《オホキミノ》、任乃隨意《マケノマニ/\》、聞跡云物曾《キクトフモノゾ》。
 
●「和歌」右の歌を京の友だちのもとに贈られたるに、都より答へたる也●「物部乃、臣之壯士者」物部《モノノフ》は、朝廷に奉v仕る限りを云ふ。されば十九には、物部《モノノフ・モノノベ》乃《ノ》、八十乃※[女+感]嬬《ヤソノヲトメ》、廿には母乃能布能《モノノフノ》、乎等古乎美奈能《ヲトコヲミナノ》などもよみたり。石上氏は、本より物部《モノノベ》なれば、もののべとよまんかと云ふ説もいまだし。ここは其れに拘らず。たゞ朝廷に奉v仕る臣の限りはと云ふ意なれば、もののふとこそよむべきなれ。さて古へもののふにも、もののべにも、同じく物部《モノノフ》と書きつるはそのかみの世の人は、其續きに依てよく心得居たりし故也。●「聞跡云物曾」聞《キク》は、聽《キク》にて、今の言に人の云ふことを聽《キ》くと云へる是なり。一わたりいはば聽《キ》くは臣の願ひを君の許し容《イレ》給ふに云ひ、君の命は、上の歌の如く恐《カシコ》むと云ふべきなれど、此《コヽ》は然《サ》はいひがたき故に、聞《キ》くとは云へる也。されば、
●一首の意は、朝廷《ミカド》につかへ奉る益荒健士《マスラヲ》の限りは、罪あるも罪なきも、大君の任のまゝに、其命を聽き入れて爭ひ奉らぬものぞ、と配所へ行きしを譽めたる也。そのよしは六【三十六】に此朝臣の妻の長歌に、二首ながら還り來給へとよみ、又自らの歌にも、父公爾吾者眞名子叙《チヽキミニワレハマナゴゾ》、妣刀自爾吾者愛兒敍《ハヽトジニワレハメヅコゾ》云云とて、不承引の趣き見えたれば、爭ひ奉るはよからじとて、京の友だちの諌めたる也。凡てそのかみ石上氏の人の僭上の心の絶えざりしよしは、舊事紀に見えて、道別に引きおきつ。
 
(268)  右、作者未v審。但笠(ノ)朝臣金村之歌集(ノ)中(ニ)出也。
 
  安倍(ノ)廣庭(ノ)卿(ノ)歌一首
 
 ※[雨/沐]※[左(]零《コサメフリ》、殿雲流夜之《トノクモルヨノ》、潤濕跡《ヌレヒヅト》、戀乍居寸《コヒツツヲリキ》、君待香光《キミマチガテリ》。
 
●「殿雲流」雲を棚雲《タナクモ》と云ふ故に、曇るをも棚曇流と云ふ。殿《トノ》は棚《タナ》の轉音なり。橋を棚橋《タナハシ》といひ、機《ハタ》を棚機《タナハタ》と云ふも、皆棚を亘す處のある故に云ふ。雲も中天に亘《ワタ》るは即棚なれば、恒に雲の亘るを棚引くと云ふ也●「戀乍居寸」居《ヲル》とは、寢ずして夜起きてあるを云ふ。居《ヲ》りあかし居《ヰ》あかしなど云へる皆同じ。六帖の題によるひとりをりとあるも、起き明すを云へり●「香光」後世にがてらと云ふ語也。且《カツ》を活《ハタラカ》して物二つを相兼ぬる事に云へり。
●一首の意は、兼ねてこよひ來んと契りたるに、小雨ふり曇り亘る夜の、ぬれひぢ給はんとて、戀ひつついねずに明しぬ。御出もあるまじとはおもへど、なかばは君待ちがてらと也。
 
  出雲(ノ)守門部(ノ)王|思《シヌビノ》v京《ミヤコ》歌一首
 
 飫海乃《オウノウミノ》、河原之乳鳥《カハラノチドリ》、汝鳴者《ナガナケバ》、吾佐保河乃《ワガサホガハノ》、所念國《オモホユラクニ》。
 
●「飫海乃」出雲(ノ)國|意宇《オウ》郡の海也。四卷同王の歌に、飫宇能海之鹽干乃滷乃《オウノウミノシホヒノカタノ》云云とあれば、彼の大原眞人の姓を賜はりてのち、此國へ下られしなるべし。今も宇《ウ》の字を脱せるか●「河原之(269)乳鳥」海と云ひて河原をつゞけんは、いかがなるやうなれど、これは意宇(ノ)河の海に流れ入る河原なればかく云へるなり。●「吾佐保河」奈良の佐保川也●「所念國」おもほゆるにと云ふにて、には言ひ入れてなげく辭也。
 
  山部(ノ)宿禰赤人(ノ)登(テ)2春日山(ニ)1作(ル)歌一首並短歌
 
 春日乎《ハルヒヲ》、春日山乃《カスガノヤマノ》、高座之《タカクラノ》、御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》、朝不離《アササラズ》、雲居多奈引《クモヰタナビキ》、容鳥能《カホドリノ》、間無數鳴《マナクシバナク》、雲居奈須《クモヰナス》、心射左欲比《コヽロイサヨヒ》、其鳥乃《ソノトリノ》、片戀耳爾《カタコヒノミニ》、晝者毛《ヒルハモ》、日之盡《ヒノコト/”\》、夜者毛《ヨルハモ》、夜之盡《ヨノコト/”\》、立而居而《タチテヰテ》、念曾吾爲流《オモヒゾワガスル》、不相兒故荷《アハヌコユヱニ》。
 
●「春日乎」乎は與《ヨ》といはんが如し●「春日山」大和國添上郡。春日と書く字は、枕詞より轉《ウツレ》る也●「高座之」高御座の上に盖を覆へる心|以《モ》て、御笠乃山につづけたる也●「朝不離」上の夕不離の條に云へり。姑く朝毎にと心得べし●「雲居多奈引」雲を雲居と云ふ。ただ雲の棚引く事也●「容鳥能」よぶこ鳥をかつこう鳥といふ。其かつこうを直音に加保《カホ》と云へる也。神代紀に天之垢《アメノカホ》・地之垢《ツチノカホ》とあるを、今の俗には、かつこうといひて格好《カツコウ》の字を用ふるに同じ●「雲居奈須」これも雲の如くといふにて、居に心なし●「心射左欲比」いさよひは、猶豫《タユタフ》と云ふに似て(270)行前《ユクサキ》へ進まず滯り煩ふ意也。●「其鳥乃片戀耳爾」鳥は頓《ヒタ》ぶるに鳴くもの故に、片戀とつづけたり。さて端書には登2春日山1とあれど、凡て雲と鳥とを序として戀の心をよめるなり。下の語ども聞えつべし。
●一編の意は、春日の三笠の山に、日毎に雲も棚びき、容鳥も間おかずなく。其雲のごと,心とどこほり、其鳥のごと片こひのみに、ひるは日ねもす、夜はよすがら、いねもやらず念ひこがるる事ぞ。逢はぬ妹なるにと云ふなり。
 
   反  歌
 
 高※[木+安]之《タカクラノ》、三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》、鳴鳥之《ナクトリノ》、止者繼流《ヤメバツガルル》、戀喪爲鴨《コヒモスルカモ》。
 
●「止者繼流」おもしろき詞也。少しもとだえなく戀ひわたるよし也。十一に君が着る三笠(ノ)山に居る雲の、立婆《タテバ》つがるゝ戀もするかもと有り。
 
  石(ノ)上(ノ)乙麻呂(ノ)朝臣(ノ)歌
 
 雨零者《アメフラバ》、將盖跡思有《キナムトモヘル》、笠乃山《カサノヤマ》、人爾莫令盖《ヒトニナキセソ》、霑者潰跡裳《ヌレハヒヅトモ》
 
●「乙麻呂朝臣」麻呂公の子●「笠乃山」此歌女を笠にたとへたるにて山には用なきを、笠の山といふに就て、よめる故に、山とは云ふ歟。十一に押照なには菅笠おきふるし後はたがき(271)ん笠ならなくにと云ふ類ひ也。
●一首の意は、雨ふらば着んと思へる笠ぞ。人になきせそ。霑《ヌレ》はひづともと云ひて、下の心は事ある時身にそへ寢ん妹ぞ。人になあはせそ。すべなき事ありとも、といふ也。
 
  湯原(ノ)王(ノ)芳野(ニテ)作(ル)歌一首
 
 吉野爾有《ヨシヌナル》、夏實之河乃《ナツミノカハノ》、川余杼爾《カハヨドニ》、鴨曾鳴成《カモゾナクナル》、山影爾之※[氏/一]《ヤマカゲニシテ》。
 
●「夏實之川」行嚢抄(ニ)云(ハク)、宮瀧(ノ)追分在(リ)2橋邊(ニ)1、右ハ西河紀州所々(ノ)路、左ハ勢州紀州所々ノ道也。夏箕村此村ハ川邊ニ在リ。夏箕川ハ村ノ東北ヲ流ル。名ニ高キ逸流也。橋アリ。長八間巾六間、淵ノ上ニ渡ス。水底深シ。是ヲ夏箕(ノ)淀ト云フ。此橋ナクテハ、人馬難(ク)v通(ジ)要ノ所ナリ」とあり。先づ是にて其河の形状を知るべし。實に夏箕川は急流にして、鴨なども住みためがたし。故《カレ》皆山あひの淀の淵によりてすむと云へり。然れば此うた譬へたる意あるべし。
●一首の意は、鴫は水どりなれども、名に高き夏箕の急流には住みためがたしと見えて、かの山かげの淵の方になく聲が聞ゆる。人も其如くにて、あまりはげしき家風には立ちがたしと也。此王の歌には如此状《カクサマ》に下心のあるが、これかれ見ゆ。
 
  湯原(ノ)王|宴席《ウタゲノムシロニテ》作《ヨメル》歌二首
 
(272) 秋津羽之《アキツバノ》、袖振妹乎《ソデフルイモヲ》、珠匣《タマクシゲ》、奥爾念乎《オクニオモフヲ》、見賜吾君《ミタマヘワギミ》。
 
●「秋津羽之」蜻蛉羽の如き薄ら衣を云ふ。宴の饗應に家妓を出して、舞はせられたるを云ふ。●「珠匣」奥といはん料の枕詞なり●「奥爾念乎」深く大切におもふと云ふ意也。後世にても大切なる事を.奥義奥旨奥の手など云ふ。九卷に吾妹子はくしろにあらなん。左手の吾が奥の手にまきてねましをとよみたるも、深くうつくしむ意なり●「見給吾君」吾妻、妾ならばかくはのたまふべからず。此袖振妹は此日の客たちも恒によく見知れる遊行女婦なりけらし。さなくては興なきわざなり。
●一首の意は、此|蜻蛉羽《アキツバ》の袖うちふりて立舞ふ妹は、わが深くひめ置きたる處女なり。よく/\見たまへ。吾君《アギミ》たちと云ふに興はあるなり。
 
 青山之《アヲヤマノ》、嶺乃白雲《ミネノシラクモ》、朝爾食爾《アサニケニ》、恒見杼毛《ツネニミレドモ》、目頬四吾君《メヅラシアギミ》。
 
●初二句は序にて、賓(客?)の見めでの深きを云ふ。此日のまらうどは皇子たちなりけん。
 
  山部(ノ)宿禰赤人(ガ)詠(ル)2故太政大臣藤原家之|山《ヤマノ》池(ヲ)1歌一首
 
 昔看之《ムカシミシ》、舊堤者《フルキツヽミハ》、年深《トシフカミ》、池之瀲爾《イケノナギサニ》、水草生爾家里《ミクサオヒニケリ》。
 
(273)●「故太政大臣」淡海公の造り給ひし別荘の庭池。高市郡藤原に有りけるなるべし。養老四年、贈官の事紀にみゆ●「年深」年歴の經たるを云ふ。うたの意明かなり。
 
  大伴(ノ)坂上(ノ)郎女祭(レル)v神(ヲ)歌一首並短歌
 
 久堅之《ヒサカタノ》、天原從《アマノハラヨリ》、生來《アレキタル》、神之命《カミノミコト》、奥山乃《オクヤマノ》、賢木之枝爾《サカキガエダニ》、白香付《シラカツク》、木緜取付而《ユフトリツケテ》、斎戸乎《イハヒベヲ》、忌穿居《イハヒホリスヱ》、竹玉乎《タカタマヲ》、繁爾貫垂《シジニヌキタレ》、十六自物《シヽジモノ》、膝居伏《ヒザヲリフセ》、手弱女之《タワヤメノ》、押日取懸《オスヒトリカケ》、如此谷裳《カクダニモ》、吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》、君爾不相可聞《キミニアハジカモ》。
 
●「大伴坂上郎女」佐保大納言大伴安麻呂卿(ノ)女、旅人卿(ノ)妹、家持卿(ノ)姑なり●「天原從、生來神之命」此は吾が大伴(ノ)遠祖天(ノ)忍日命《オシヒノミコト》は、皇孫降臨の御時、天(ノ)原より御從《ミトモ》して降り給ふを云ふ。されば生來《アレキタル》は、こゝは顯れ來給ふよし也。命の下に爾をふくめて心得べし●「奥山之、賢木之枝爾」奥山としも云ふは、人氣遠く清淨なるを以てなり●「白香付」枕詞にあらず。白き苧のこと也。木綿は必ず此苧|以《モ》て取りつくるものなればいふ也。十二にも白香付《シラカヅク》、木綿者花疑《ユフハハナカモ》とよみたり。また此白苧ばかりも、祝ふ事には用ひけん。十九に白香付《シラカツク》、朕裳裾爾鎭而將待《ワガモノスソニイハヒテマタム》とも見ゆ●「木綿取付而」和栲《ニギタヘ》を取付くるなり。名義は齋《ユマハ》りて神に奉るより云ふこと道別《チワキ》に出づ●「斎戸乎(274)忌穿居」いはひべは齋※[分/瓦]也。古へ地(?)下を掘りてかめをすゑ置きて醸《カモ》しゝまゝにて、神に奉ればほりすゑといふ●「竹玉乎」小竹に着けたる玉を云ふ。竹を玉の如く切りたるを云ふにあらず。神代紀に、野槌|者《ハ》、採(リ)2五百箇野篶八十玉籤《ユツヌスヾノヤソタマグシヲ》1とある、此の玉籤のこと也。今(ノ)世にも東(ノ)國にて繭玉《マユダマ》とて、妙義社より出す事あり。又民間の家々にも、小竹或は柳の枝に餅を着けて祝ふ事あり。正月の餅花など云ふものも、本皆此竹玉の遺風と見えたり●「繁爾貫垂」しゞは、今の繭玉の如く繁くぬきたるゝを云ふ。下(ノ)挽歌には、竹玉乎無間貫垂《タカタマヲマナクヌキタレ》ともあり●「弱女之押日取懸」こゝにたわやめのと云へるは、此ほど專ら女の服となりし也。殊に古代の服なれば、禮服ともなり來し故に、此に祭(ル)v神(ヲ)に用ゐられしにこそ。此服の事、言別にいと委しく云ひ置きつれば、こゝに省けり●「祈奈牟」奈牟《ナム》は祷《ノム》也。佛語の南無《ナム》も偶(マ)相ひ合へるにて、言も意も全《モハラ》同じ●「如此谷裳」これほどにもと云ふ也 ●「不相可聞」あはじかはの意にて、あはざらんやはと云ふが如し。
 
(275)萬葉集檜嬬手 別記一
 
      本集一(ノ)上
 
    ●虚見津山跡【本集一(ノ)七、同十六、五(ノ)三十一、十三(ノ)五、十九(ノ)三十六、同四十二等に出たり
 
此枕詞のつゞきは曾々理滿山《ソヽリミツヤマ》と云ふ意なるを、山跡(ノ)國に連けならひたる也。曾々流《ソヽル》とは十七の卷越中立山の長歌に之良久母能知邊乎於之和氣安麻曾々理多可吉多知夜麻《シラクモノチヘヲオシワケアマソヽリタカキタチヤマ》とよめる是にて、空に高く進《スヽ》み上《ノボ》れるを云ふ。神代記に火盛|時《ナルニ》躡詰出兒名火進命《フミタケビテイデマセルミコノミナヲホソソリノミコト》とありて、今の世の言にも心の浮き立つを、そゝるといひ《そゞろと云ふも是より出たり》放逸《ソルヽ》【物の反《ソル》と云も又同語なり】といひ、虚空《ソラ》といひ、聳《ソビユ》と云ふも皆一つ根ざしの語なるから、曾々理滿《ソヽリミツ》を約めて虚見津《ソラミツ》とは云へるなり。滿《ミツ》とは山の形を大相土と書きたるやうに、土の大に堆《アツマ》り上りたるを云ふ。【山を高砂と云ひ又積v砂爲v山と云ふなども是也】もし然らば直ぐ虚見都《ソラミツ》山《ヤマ》と云ひ續けたるも有るべきにと思ふやうなれど、唯始めの用ひならはしに隨へる也。其は次嶺經《ツギネフ》山城と續けたる枕詞而|翔2行大虚1《オホソラヨリカケリマシヽトキ》也、睨《ミテ》2是(ノ)郷《クニヲ》1、而|降之《クダリマシキ》、故因《カレ》目2之曰《ナヅケキ》虚見日本國《ソラミツヤマトノクニト》1矣、とある類は、風土記|風《ブリ》の談辭《カタリゴト》(276)にして、しひて其濫觴に託《カコチ》つけたる、後の作事なる事、書紀の道別に往々辨へたるが如し。又天降と傳へたる古語の意、又此饒速日(ノ)命の天降の辨等を考へ合さばいよ/\明らかならんかし。
 
    ●取與呂布《トリヨロフ》、宜《ヨロシ》、宜奈倍《ヨロシナベ》【集中出所は皆引て云へり】
 
一之卷【七】山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立《ヤマトニハムラヤマアレドトリヨロフアメノカグヤマノボリタチ》云云」取は、取※[しんにょう+堯]《トリメグル》る取纏《トリマク》など云ふ取也。與呂布《ヨロフ》は、此山の廻りに景色を備へたるを云ふ。鐙を與呂比《ヨロヒ》と云ふも、甲冑を備へたるを以て云ふ名也。されば具足とも云へるにぞある。齊明紀に弓矢二具《ユミヤフタヨロヒ》、源氏物語に屏風一雙を屏風ひとよろひと云へるなどに合せて知るべし。かゝれば此香具山をば、滿足りて、殊に勝れたる山と譽めたるにはあらず。只見晴しありて眺望に宜しき方を擇《エリ》出で給ふつゞけ也。元より此山は小山にていはゞ畝火耳梨などよりは劣りたる山なれど、彼の山どもは見晴しなきに適ま此山四方かき霽れて景色を備へたる即次の句の海原國原等其景色の一つ也。應神紀の大御歌に阿波※[旗の其が尼]辭摩異椰敷多那羅弭阿豆枳辭摩異椰敷多那羅弭豫呂辭枳辭摩之魔《アハヂシマイヤフタナラビアヅキジマイヤフタナラビヨロシキシマジマ》とあるも、吉備|兄媛《エヒメ》を慕ひて海上を見送り給ふに島どもの各二つづゝ相並べるを羨せ給ふ御詞なる事|言別《コトワキ》の釋に精しく辨へたるが如し。又此卷下【廿二】に、耳無之青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有《ミヽナシノアヲスガヤマハソトモノオホミカドニヨロシナベカムサビタテリ》とある、此《コレ》は耳無山の、藤原(ノ)宮の御門に依て相對ひ立てるを云ふ。名倍《ナベ》は並《ナベ》にて右の彌二並《イヤフタナラビ》に同じく即|依並《ヨリナラ》びたるよし也。二【三十二】に【明日香皇女殯(ノ)宮之時(ノ)歌】吾大王乃《ワガオホキミノ》、立者《タヽセレバ》、玉藻之如《タマモノゴトク》、許呂臥者《コロフセバ》、川藻之如久靡相之宜君之《カハモノゴトクナビカヒシヨロシキキミガ》云云とある、此は立ち給へば玉藻の如く靡き依り、居給へば川藻の如く靡きあひ其親しく依り副《ソ》ひ給ひし君が云云といへる也。若し此宜を滿ち足れる意として通《キコエ》んや。又善惡の善、よさあしさの宜しにもあらざる事いと著明《イチシロ》し。三【廿一】に宜奈倍吾背乃君之負來爾之此勢能山乎妹者不喚《ヨロシナベワガセノキミガオヒキニシコノセノヤマヲイモトハヨバジ》此の宜奈倍《ヨロシナベ》も(277)親魂《ムツタマ》の相合へる吾背の君と携はれば妹戀しくもなしと云ふを勢(ノ)山に比《ナゾヘ》て云へる也。其は往《ユクトテ》2紀伊(ノ)國(ニ)1超(ル)2勢能山(ヲ)1時、栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有《タクヒレノカケマクホシキイモガナヲコノセノヤマニカケバイカニアラム》と云へる答へ歌なれば相ひ合せて其意を聞知るべし。猶其處の釋に云へり。十八【廿八】に可氣麻久母安夜爾加之古思皇神祖能可見能大御世爾田道間守常世爾和多利夜保許毛知麻爲泥許之登吉時支久能香久乃菓子乎可之古久母能許之多麻敝禮國毛勢爾於非多知左加廷波流左禮婆孫枝毛伊都追保登等藝須奈久五月爾波波都婆奈乎延太爾多乎裡弖乎登女良爾都刀爾母夜里美之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮香具播之美於枳弖可良之美安由流實波多麻爾奴伎都追手爾麻吉弖見禮騰毛安加受秋豆氣婆《カケマクモアヤニカシコシスメロギノカミノオホミヨニタヂマモリトコヨニワタリヤホコモチマヰデコシトキトキジクノカグノコノミヲカシコクモノコシタマヘレクニモセニオヒタチサカエハルサレバヒコエモイツツホトトギスナクサツキニハハツハナヲエダニタヲリテヲトメラニツトニモヤリミシロタヘノソデニモコキレカグハシミオキテカラシミアユルミハタマニヌキツヽテニマキテミレドモアカズアキヅケバ》云云、冬爾伊多禮波《イフユニタレバ》云云|之可禮許曾神乃御代欲理與呂之奈倍此橘乎等伎自久能可久能木實等名附家良之母《シカレコソカミノミヨヨリヨロシナベコノタチバナヲトキジクノカクノコノミトナヅケケラシモ》」。此與呂之奈倍も然《シ》か頭挿にも折り、袖にもこき入れ、玉にて貫きて四時人に親しく依りそへるを云ふ。さて然か馴《ナ》づさはるゝは今のみにもあらず、田道間守が昔より然れこそとて非時《トキジク》の香木實《カクノコノミ》の事にいひうつしたるなり。六【三十二】に八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曾輕引河速瀬湍之聲曾清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之《ヤスミシシワガオホキミノミシタマフヨシヌノミヤハヤマタカミクモゾタナビクカハハヤミセノトゾキヨキカミナビヲミレバタフトクヨロシナベミレバサヤケシ》云云。此つゞきは、芳野は高山にて、雲たな引き瀧落ちて、只よそながら見ても、神さびて貴き山也。又度々の行幸に馴(レ)なづさひて見ればすごき方などはなくて只心すゞしく清けき宮所ぞと云ふなり。凡そ此等以て未だ此語をきゝしる人の無かりしを知るべし。
 
    ●反  歌
 
集中反歌と記せる、短を段に誤れるにあらず、又長歌の意を打反しうたふ故に云ふにも非ず。又自問自答の心ばへ以て云ふにも非ず。此は其長歌を歌ふ時樂の調子の反しに借に用ひし短歌(278)の名也。上つ代長歌を歌ひしに律に發して呂にうつし又律に反して結《トヂム》るが大かたの例なりけるに其歌の句がら言がらに依て律に復しがたかる時更に短歌をよみそへて其の律の反り聲に用ひしを云ふ。さる故に歌に依て反歌のあるもなきも有るにぞありける。猶いはば中古に神樂催馬樂の歌を歌ひしに呂の律に返る時に青柳、朝倉、大|比禮《ヒレ》等の歌を借てうたひし也。此は年々歳々定れる樂曲なる故に反歌も然か定りつるを此集の長歌は皆新に賦《ヨミ》て其作者の自ら歌ひしなりければ、其反歌も又自ら作《ヨミ》そへしなりけり。
 袖中抄返し物の條に、右の歌どもを引きて云ふ。神樂譜に云ふ朝倉吹返し、催馬樂拍子云云「朝くらや木の丸殿にわれをれば名のりをしつゝ行くは誰が子ぞ。此歌爲(ス)2御前返(シ)歌(ト)1是延喜廿一年の勅定也。神樂遊仕る時は、榊(ノ)音振《ネブリニ》唱(フ)、又云く見已(ニ)了(テ)掻2返《カキカヘシ》糸竹(ヲ)1て可《ベ》v仕(ル)2朝倉(ヲ)1支《キ》催(ス)2堪能之歌人(ヲ)1私(ニ)云(ク)、朝倉うたふをば、あさくらかへすと云ひ、或は吹返といひ、或は掻(キ)2返(ス)糸竹(ヲ)1と云へり。或は催馬樂拍子と云へり云云。此かへすは笛も琴も別にしらべ改むるか。催馬樂拍子と云ふにて知りぬ云云」。江家吹第、石清水(ノ)臨時祭(ノ)儀に、舞人出畢(テ)、陪從|反歌《カヘシウタ》退出」と見えて抄に反歌(ハ)、大比禮返(シ)也とあり。源氏若菜上に唱歌《サウガ》の人々、御階に召て、勝れたる聲のかぎり出して、返り音《コヱ》になる。夜の更け行くまゝに物の調べともなつかしくかはりて、青柳遊び給ふほど云云」。註にかへり聲になるは呂の律になるなりと有り。體源抄にも、返り聲に青柳うたふと云ふは律の聲を返り聲と云しと云へり。是は凡て律の聲を、返り聲と云ふには非ず、始め律より呂にうつり、呂の聲の火に易《カハ》りて本《モト》の律に返るを云ふなり。伊勢集に故中務(ノ)宮の琴を借り給ひて「吾妻琴春の調べを借《カリ》しかば返し物とは思はざりけり」。此歌の意(279)は、春の調べは呂にて、律にあらざれば返し物とは思はずと云ひて借りたるを返すべき物とは思はずとたはぶれたるなり。此外仁智要録、五重序、鳴鳳集、樂譜要録等の樂律の書を照し合せて、歌ふうたには律に返して結むる例ある事を知るべし。記紀に載せたる長歌どもに反歌の副《ソハ》ざるを見て反歌は萬葉の頃ほひ新(タ)にはじまりたるわざとおぼえたるも又ひが事也。史典に載れる歌どもも猶皆其人々のうたひし歌なりければ其歌主の反歌も有りしなれど此は古き時より樂府に傳へて久しき間音樂に用ひ來しほどに反し歌を別に定めて長歌短歌の別になれりしにぞある。仁徳天皇の條に此(ノ)六歌者志都歌之返歌也《ムウタハシヅウタノカヘシウタナリ》とある是也。此外|上歌《アゲウタ》尻上歌《シラゲウタ》片下《カタオロシ》などあるも歌ふ音振《ネブリ》に因てなる事、言別に云ひつ。しかれば此樂府の歌は只古今のたがひあるのみにて、中古の神樂催馬樂のでうの如くして萬葉集の記し状《サマ》とは同じからず。今集中を考ふるに、反歌の處に短歌と書けるは【一(ノ)廿一丁左、又廿四丁右、二(ノ)三十三丁右、又三十五丁左、又三十八丁右、又三十九丁右.又四十丁左、又四十一丁右、又四十四丁左等に出たり】一二の卷に十首許(リ)見えて三の卷より二十の卷の終までには一處も見えず。是をふと見れば一二の卷に短歌と書きしは端詞より移りたる誤かとも思ふやうなれど然らず。是本を撰びたる手ぶりの遺りたるにて却て正しきなり。其は二の卷四十一葉に、人麿の長歌二首並びたるに初めなるには短歌と出し次なるには反歌と擧げたる類ひの歌どもを、此れ彼れ合せて考ふるに短歌となるは其時長歌もよみ矩歌もよめるにて、返し歌には借らざりし也。又反歌とあるは、終《トヂメ》を、呂にうたひて、次の短歌を以て律の返り音《コヱ》に借りたる也。此の返り音に用ふるは必ず一首なるべければもし二首三首あるは長歌のついでによみたる短歌をば並べ記せるなり。さて十三の卷も古萬葉五卷の内なれば一二の卷と同じ書法なるべきに、然らざるは後に亂れたる(280)ものなり、今其卷を見もてゆくに歌のついでもいたく亂れ端詞なども失せ、一首の長歌の、こゝかしこに入|混《マジ》りなどして凡て撰びたる趣はあらずなりにたり。かゝれば一度然か錯亂《ミダ》れつるを後に取集めたる人、己が目じるしに【歌の左に】右二首右四首など記し附けゝる程なりければ、此短歌反歌の差別《ケヂメ》をも失ひしにこそ。其は廿三葉廿四葉等の問答の答歌をだに反歌と記せる類ひにて知られたり。又三四の卷以下には皆反歌とのみ有りて短歌と書けるが見えざるは其分ちもあらぬかと思ふに、猶よく見もてゆけば此は其端詞に詠2云云1歌并短歌とあるにゆづりて、直ぐに長歌に引つゞけ記せるにぞある。又返し歌に用ひたるは端詞に然か記せども、更に長歌の後に反歌とは記せるなり。是れ憶良大夫家持卿の頃の記しぶりなりけらし。今此事を一つ云はば十七の卷に長歌十三首載せて皆悉く短歌も添ひたるに反歌と記せるは一首もなし。此はいかなる故かと見もてゆくに、此時家持卿越中(ノ)守にて皆任國に在りてよまれたる獨り言なりつればなり。其の中に越前(ノ)※[木+掾の旁](ノ)大伴(ノ)池主と贈答の長歌もあれど其人も隣國に在りて互に筆談の歌どもにしてうたひたる歌にあらざるから反歌とは記さゞりし也。其證は十八の卷に長歌十首載せたるに京にて宴席等にしてよまれたる九首には皆反歌とありて越中にてよまれたる【廿三丁左】爲(ニ)v贈(ル)2京家(ニ)1、願(フ)2眞珠(ヲ)1歌一首并短歌四首とあるのみ。反歌とはことわらずして直に長歌に引きつゞけて記したり。是も任國に在りし間によめるにてうたひたる歌にあらざればぞかし。かゝれば今の世にうたひもせざる長歌の後に反歌と記すなるは、いみじきひが事なり。且は調子も知らざる者の何に反《カヘ》せる歌とせん。をこなるわざならずや。
           
    ●青丹吉《アヲニヨシ》
 
(281)青丹は蒼土《アヲニ》なり。蒼土とは只なべての土を云ひて地は黄也と云ふ類也。緑青などの事にはあらず。奈良と連《ツヾ》けたるは地を平《ナラ》して都を開かれたるよし也。大和國風土記殘編(ニ)云(フ)此(ノ)國|者《ハ》往昔山岳多而平地少矣《イニシヘヤマダケサハニシテタヒラナルトコロスクナカリキ》云云故(レ)鑿《ウガチ》v山(ヲ)開(テ)v谷(ヲ)爲《ナシキ》2平夷《タヒラニ》1とあるは一國の上の事なれど神名帳に添(ノ)上(ノ)郡【奈良】に奈良豆比古《ナラツヒコノ》神社【※[秋/金]靫】坐る是|當昔《ソノカミ》鑿(テ)v山(ヲ)平郷《ナラノサト》を開き給ひし功《イサヲ》の神を祭れるなるべし。崇神紀十年九月(ノ)下に官軍屯聚而|※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラス》草木(ヲ)1因以《カレ》號(テ)2其(ノ)山(ヲ)1曰(フ)2那羅山《ナラヤマト》1とあるも古き代に山を切り平坦《ナラ》しし故事を其時の事の樣にかこちつけたる毎《イツモ》の筆くせとぞ見えたる。五【六】に久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎爾與斯久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヤシカモカクシラマセバアヲニヨシクヌチコトゴトミセマシモノヲ》。」これは蒼土《アヲニ》よ筑紫《ツクシ》と係けたるにて八百土《ヤホニ》杵築のたぐひなり。さて其の筑紫を國内盡《クヌチコト/\》と云ふにこめて省きたるは家持卿の歌に押照難波(ノ)宮と云ふべきを直ぐに押照宮とよめるにて此の間《ホド》のものいひなり。されば此歌の久奴知許等其等《クヌチコトゴト》は筑紫九國を皆悉く見せてましものをと悔《クヤ》めるなり。
 
    ●十市(ノ)皇女|參2赴《マヰリタマフ》於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1、波多《ハタノ》横山(ノ)巖
 
世に此參赴を齋宮内親王にて參り給ふと心得つる故に尋《ツイ》で波多(ノ)横山巖までも心得謬れりし也。此間の齋宮は大伯(ノ)皇女次に阿部皇女にして齋宮列名中にも十市(ノ)皇女は見えず懷風藻葛野(ノ)王(ノ)傳(ニ)云(フ)王子者淡路帝之孫大友太子之長子也、母(ハ)淨見原之長女、十市(ノ)内親王也と見えて既に大友皇子の御妃《ミメ》なりければ本より齋宮に立給ふべきことわりもなし。此度の參赴は御父と夫《セノ》君との軍を歎き給ひて密《ヒソカ》に祈願の爲に出立せ給ふめれば其道筋も齋宮群行の路次にはあらず。伊賀の名張より近江の甲賀郡鮎川に出て伊勢の鈴鹿郡石大神の下に出る古道有(リ)。此道近江にては鮎川越といひ伊(282)勢にては八田《ハタ》越と云ふ。其は關(ノ)驛より北行【今道二里弱】野登《ノノボリ》山の麓の里に南畑北畑村と云ふ二村川を隔てゝ斜に向へり。其川流れの末に至て關川に會す。畑村の北半里許に小岐須村【式云小岸神社】あり。村の西山に石《シヤク》大神【式云石神社是也】と云ふあり。一山一石の奇峯也。此石山の下の谷川【大神宮御贄鮎を漁と云】に傍《ソヒ》て山に少し入れば川の北岸に屏風岩とて絶壁の白巖屏風の如くおびただしく立並びたる處あり。是今も八田越といひて畑村も二村遺り横ほりたる山もあれば此道を通り給ひたるにて波多の横山の巖とあるは是也。川もあれば川上乃と云へるに合《カナ》ひさばかりの群石なれば湯津磐村とあるにも適ひ皆|磨《ミガ》ける如きの美石どもなれば草武左受と云へるにもよく叶ひたり。如此《カカ》る奇巖なりければ遠近の人聞傳へて見に來れば彼の國にて名高き處なり。刊行の書には司馬江漢が畫圖西遊譚に縮寫して出せり。其傍書(ニ)云(フ)勢州石薬師より四里山中に入るに石大神と云ひて數丈に直立せし白石あり、石大神より少し入て屏風岩あり。十八九町の間兩岩絶壁白岩にして松楓多し。秋は紅葉して圖ける如し、と記せり。又吾友北澤神巖寺の住職【鞆麿】は伊勢の人にて學び博く才深かりければ此可否を問ひにやりしにいたく諾《ウベ》なひて昔よりの諸説を辨じたる小冊一卷に地圖をそへておこせり。是にて波多の横山の巖の事は慥に定りたれど事長かれば此には得出さず。たゞ此奇厳に就て彼西遊譚も未だ粗《アラ》かりければ此《ココ》に其圖繪の傍書を採て出す。屏風巖奥より口まで十七八曲【屏風一具づゝの如くなれるを云】大小合せて横四五百間もあるべし。高さ何れも二三十尋以上と見ゆ。其中に第九曲尤大なり凡卅尋餘りも有りなんと云へり。世に希見《メヅラシ》き巖なれば後見む人のために是のみも引きおくなり。既《カク》て皇女の御事紀(ニ)曰(フ)七年是(ノ)春將(メ)v祠(ント)2天神地祇(ヲ)1而天下悉(ク)祓禊之、竪《タツ》2齋(ノ)宮(ヲ)於|倉梯《クラハシノ》河上(ニ)1夏四月丁亥(ノ)朔、欲v幸《イデマサント》2齋(ノ)宮(ニ)1卜(フ)v之(ヲ)、癸巳|食《アヘリ》v卜、仍取2平旦《トラノ》時(ヲ)1、警畢《ミサキオヒ》既(ニ)動《トヨミ》百寮成v列《ツラヲ》、(283)乘輿命蓋以未v及2出行《スメラミコトミカサメシテイマダイデマサザルホドニ》1十市(ノ)皇女|卒然《ニハカニ》病發|薨《ウセマセリ》2於宮中(二)1。由(テ)v此(二)鹵簿《ミユキノツラ》既(二)停(テ)不v得2幸行《イデマスコトヲ》1とある此《コヽ》に病發(テ)と書きたるは只文の刷《ツクロ》ひにて實は今曉卒爾に自害して失せ坐したる也。其故は此時倉梯に竪られたる齋宮は大友(ノ)皇子を亡し給はんと御立願ありし報賽《カヘリマヲシ》のためなりければ十市(ノ)皇女其の大友の御紀と坐して此の從駕《ミトモ》には立たしがたかる故にぞある。されば次の文に云(フ)庚子葬(ル)2十市(ノ)皇女(ヲ)於赤穗(二)1、天皇|臨v之降v恩以發v哀《ミソナハシテイトホシミミネナカシタマフ》とて痛く悲み給ひ又此集二の卷に十市(ノ)皇女|薨《ミウセマシケル》時、高市(ノ)皇子尊の御作歌とて三首載せたり。何もいと悲しく聞えて御自ら命を短くなし坐しゝ御歎きあり。此等を合せて按《オモ》ふにも既に此伊勢の御參赴の頃も彼の御物思ひにてつひに存へては世にあらじとおもほしける色の見えけんから吹黄(ノ)刀自が如此《カク》しも御命をいはふ歌をよみて慰めけるにこそ。二【十三】に大津皇子|竊《シヌヒニ》下(リ)2於伊勢(ノ)神宮(二)1上來時大伯(ノ)皇女御作歌云云」此等をも合せて事とある時皇子たちの神宮に詣で給ふ事を知るべし。又此歌に「二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が獨りこゆらん」とあるも、この波多越の山道なりけらし。
 
      本集一(ノ)下
 
    ●伊勢(ノ)國|伊良虞《イラコ》島
 
一【十五】に麻績(ノ)王流(ルヽ)2於伊勢國(ノ)伊良虞島(二)1之時云云とあるを、書紀に依て伊勢國の三字を削るもわろ(284)く又因幡(ノ)國と改めたるもわろし。因幡に伊良虞と云ふ島なし。紀に三品麻績(ノ)王有(テ)v罪流(シ)2于因幡(二)1一子流(シ)2伊豆島(二)1、一子流(ス)2血鹿(ノ)島(二)1也とあるは初めの沙汰を記せるなり。此集に伊勢(ノ)國と記したるは其後配所變じていよ/\其所に流され給ひし時、時人のよみしなり。同じ事の紀と此集と違へるあるは、何れも此でう也。彼の王の伊勢に流されし事は、彼島より麻績氏の人も出て又彼の島の中に大王(ノ)島と云ふ有りて王(ノ)冢もあり、と云へり。其一子たちに對(ヘ)て父王を大王と云ひしにこそ。此の王の事常陸風土記にも載せたれば、東國にて終られし事|著明《イチジル》し。さて此伊良虞島は後には參河國に屬せれど、古く志摩國に附て共に伊勢と呼びしなり。風土記などは云ふもさらなり。遙に後の山家集に伊勢の答志と申す島には小石の白き限り侍る云云。又あごと云ふ島又いらご島など云云。鴨(ノ)長明の伊勢記に伊勢國のいらごと云ふ島に渡りて云云。南朝記傳古今著聞集等にも伊勢(ノ)國いらこが渡りと云へり。正廣日記(二)云(フ)、文明五年八月七日伊勢に下り山田と云ふ所に四五日やすらふ事ありて十五日に大湊と云ふ所より船にのり、其國の伊良兒のわたりとてすさまじき所をこし侍るに今宵は十五夜なりけり。昔は所々にて歌などよみ侍るに思ひの外なる心地してかぢ枕にとまる月をわづかに見て「いにしへを思ひいらこの月見ればかいのしづくぞ袖におちそふ」【是れ彼の南朝記傳に記せる事を思へるなり】此等を見れば未だ近き比《コロ》までも伊勢の伊良虞と云ひしなり。其地理を考ふるにまことに伊勢とすべきものにぞある。志摩の鳥羽より此島へ海上五里といへど答志《タブシノ》崎に相並びて其の間、わづかに三里也と云ふ。地勢は參河(ノ)國より接《ツヾ》きたれど、吉田の海より二十里離れたれば古きならはしのまゝに、今も彼海濱の者は伊勢とよぶとなり行嚢抄東海道に云ふ。【上略】豐川【今ノ吉田宿ノ古名】追分【大橋ノ東詰、吉田町ノ西端ニ在。自v是右ノ街ニ入テ船町ヘ出ルハ東海乘船ノ巷ナリ爰ニ勢州大湊マデノ海上里數ヲ細ヤカニ記セル有】船町【船場ノ街ニテ吉田ノ西南ノ端也(285)此ヨり乘船シテ吉田川ノ内二里下リ前芝ト云處ニテ海ニ入ル。自v是勢州大湊マデ海上二十里陸路ヲ行ハ凡五十里ノ所ナレドモ風ヨキ時ハ一日ニ着岸ス。遠州灘ヲ過ル故ニ大事ノ航路ナリ】前芝【吉田川ノ海ニ入所ノ右ニ在海村ナリ吉田ヨリ二里】老津島【是ハ前芝ヨリ東南ノ方ニ在リ俗語大津島ト云リ名所也自2前芝1行程二里許也万角抄云わらはべの浦あり所分明ならず老津のあたり也といふ云云】姫島【前芝ヲ乘出シテ海上二里余ニシテ左ノ方ニ見ユ此島ニ野馬有ト云】大島【自2吉田船町1至2于此1海上六里】宮崎鼻【三州ノ内也大島ノ邊ヨリ右ノ方ニ見ユ】佐久島【此邊ヨリ右ノ方三州ノ地ノ山ノ出崎ヲ曾山ト云也】辨才天森【曾山ノツヾキニ近々ト見ユ】伊良虞島【自2船路1左ニ見ユ志州ノ島也伊良虞崎ニ伊良虞大明神ノ山見ユ西國大廻ノ船ヲ乘者ハ此伊良虞島ニ副テ大王崎ナド云難所ヲ乘ト云是ヨり答志島ヘ三里鳥羽ヘハ五里トイフ(以上中略)】答志島【名所也志摩ノ内ナレ共古キ歌ニハ伊勢トモヨメリ】云云とある是にて其地理を見るべし。かくて志摩國を打まかせては伊勢と云ひし事は下の持統天皇の行幸の條下に云ふを合せて知るべし。
 
    ●耳我嶺嶽《ミガネノタケ》
 
今本耳我嶺爾とあるをみゝがのみねと訓みたるはわろし。さる山の名ある事なし。此は、嶺の下に嶽の字今一字ありけるを見|混《マガ》へて落せる也。耳の字は弭の偏を省けるにて耳我嶺嶽爾《ミガネノタケニ》とよむべし。偏を省く事集中にも石村《イハレ》を石寸と書き、醜を鬼と書き、盛を成と書きたる例|此彼《コレカレ》見ゆ。此の同じ大御歌を十三に【二十】に載せたるに、正しく三吉野之|御金高爾《ミカネノタケニ》とあり。御金高《ミカネノタケ》は修驗者の登る大峯にて金峯山《コンブセン》と云ふ是なり。神名式に吉野(ノ)郡|金峯《カネノミタケノ》神社【名神大、月次、新甞】四時祭式に金峯《カネノミネノ》神社と見ゆ。此等の書延喜の時に書きたる物と心得たるもひが事也。祝詞などと同じく久しく傳へたる事どもを合せて收め置けりし物なる事、彼の釋に證しつ。猶言はば日本靈異記に吉野(ノ)金峯《カネノミタケ》・葛木峯《カツラギノミネ》云云」大和國風土配殘編(ニ)云(フ)山跡(ノ)國者云云從2平城1至(テ)2金峯山下《カネノミタケノフモトニ》1浩々《ヒロ/\》平陸《ハレテ》、而其(ノ)間|惟《タヾ》有(ル)2畝傍山、耳梨山、天(ノ)香山1而已、また吉野山云云此山|與《ト》2金峯《カネノミタケ》高間《タカマ》等《ラ》1數山《ヤヘヤマ》連《ツラナレリ》矣|自(リ)2吉野(ノ)郷《サト》1、至(ルマデ)2金(ノ)峯(ノ)山中(ニ)1无《ナク》2他《アダシ》木1惟《タヽ》櫻樹《サクラノミ》連線《ナミタテリ》也云云四時祭(ノ)令義解(ニ)曰(フ)、所謂金(ノ)嶺(ハ)萬葉集(ニ)所(ロ)v詠(シ)2御嶺高《ミカネノダケト》1也とあり。(286)是を慥かなる證とすべし。今昔物語に此嶽に金の多かる事を記したるを後世の俗説と云ひ消つめれど、山頂金色にて照映《テリカヾヤク》くより云へる也。日藏上人(ノ)金峯山(ノ)記(ニ)曰(フ)延喜十六年二月、入(ル)2金峯山椿山寺(ニ)1薙髪(ノ)時年十ニ。絶(テ)2鹽穀(ヲ)1精修六年、聞(テ)2母氏(ノ)沈(ムヲ)1v病(ニ)始(テ)出v山(ヲ)歸v洛(ニ)省觀居2東寺(ニ)1、學(ビ)2密教(ヲ)1而往2來(ヌ)金峯(ニ)1、天慶四年(ノ)秋於2金峯山(ニ)1、剋三七日絶(テ)v食(ヲ)不v語(ラ)修(ス)2密供(ヲ)1、八月二日云云上(ル)2西岩(ニ)1其岩積雪數十丈、漸至(レバ)2山頂(ニ)1、一切世界皆在(リ)2下面(ニ)1山頂平坦純金爲(ス)v地(ト)、光明照映北方(ニ)有2金山1、云云とあるなどをいかにかは云ひ曲げん。又上つ代未だ金のあらはれざりし時に、黄金《コガネ》以て名《ナヅ》くべきに非ずと思へるもかたくななり。金を取ることこそ奈良朝に始りたれ、かかる山に金の照り映くを見知れる事神代よりの事なれば神代紀にもこれかれ見え、仲哀紀天照大御神の神語にも見えたるものをや。
 
    ●樂浪乃大津《サヽナミノオホツ》【志賀】 樂浪乃國《サヽナミノクニ》
 
近世の人古へ近江國に沙々那美《サヽナミ》と云ふ大きなる郷名のありし故に廣く彼の國の所々に連《ツヾク》る也。其大名は篠浪《サヽナミ》狹々波《サヽナミ》など書きて清音なるを湖水の浪よりつゞけ云云と心得來しは非也。小浪は左財禮浪《サヾレナミ》と書きて濁音ぞなど云ひ、又或は志賀は古へより廣き名にて郡の名にもなれるをなほ古へは沙々那美《サヽナミ》は志賀よりも廣き名にや有(リ)けん。萬葉の歌どもに沙々那美《サヽナミ》の志賀と多くよみて志賀の沙々那美とよめるはなし、又九の卷には樂浪之平山《サヽナミノヒラヤマ》ともあれば比良のあたりまでかけたる名にぞ有(リ)けんなどぞ云ヘる。守部年ごろ思へらく、然か近江(ノ)國に、沙々那美と云ふ地《トコロ》の有りて、南は逢坂粟津、北は比良山、高島邊までの大名に呼ぶばかり廣く、又皇后の大津、郡名の滋賀(287)などよりも、名高かりけんには、國史は本より式・和名抄等の書に漏るべきにあらず。又今の世とても然《シ》か失ひ果つべきにあらざるを、然ほどの地の物に絶えて見えざるは如何なる事ぞ。此集に樂浪乃國都美神《サヽナミノクニツミカミ》、樂浪乃大山守《サヽナミノオホヤマモリ》、樂浪乃故京《サヽナミノフルキミヤコ》などゝ直ぐに國の名になしてよみたるも見ゆれば一名を樂浪《サヽナミノ》國と云ひしにはあらじかと思ひわたりしに、時のゆければ魂《タマシ》ひの行|の《を(?)》率《イサナ》ふ事こそありけらし。遠き國より陀《侘(?)》山石と云ふ書を將來《モチキ》て見せけるに、其書に淺井家の記録あり。引(テ)2近江(ノ)風土記(ニ)1云(ク)、淡海(ノ)國者以(テ)2淡海《アハウミヲ》1爲(ス)2國(ノ)號(ト)1故《カレ》一名《マタノナヲ》云(フ)2細浪《サヽナミノ》國(ト)1所3以《ユヱナリ》目前《マノアタリ》向2觀《ムカヒミル》湖上之漣※[さんずい+猗]《ウミノヲモテノサヽナミヲ》1也とあり。然れば本、湖上の小波《サヽナミ》より出でたる號《ナ》にて、弘く湖水《ミヅウミ》の廻りの地に云ひつゞけしにこそ。かくいはば清濁たがふと思ふべけれども、細浪《サヽナミ》は固《モト》より清音也。集中に神樂聲浪《サヽナミ》と書けるは云ふも更也。其外小波の時も左散難彌《サヽナミ》、佐左浪《サヽナミ》、佐散奈美《サヽナミ》など書きて濁音を用ひたるは見えず、同じ事も禮《レ》を添《ソヘ》て抄邪禮浪《サザレナミ》と五言に言へるは悉く濁りたり。此れと彼れと混じたるが其惑ひの始めなるべし。此《コ》は小浪《サヽナミ》にも限らず物の小細なるを沙々《サヽ》と云ふに濁れるはをさ/\見えず「いさゝか「いさゝめ「いさゝげ「いさらゐ「いさゝ小川「さゝら荻「さゝらがた【錦(ノ)紐】「ささがに等の類も左邪《サヽ》とは濁らざるを思へ。然るに彼の佐邪禮浪《サザレナミ》と云ふときのみ濁れるは沙邪禮石《サザレイシ》と同じく、禮《レ》に牽るゝ古への音便也。此外|漏出《クキデ》と云ふときは伎《キ》を清み、漏流《クヾル》には、具《グ》と濁る類多かり。かゝれば神功紀に狹々浪栗林《サヽナミノクルス》。欽明紀に狹々浪《サヽナミ》山など云へるも細浪《サヽナミ》國の栗林《クルス》、細浪《サヽナミ》國の山々と云ふことにて即湖邊の栗林《クルス》、湖邊の山と云ふ意ぞかし。猶凡ても樂浪より連《ツヾ》けたる近江の地名是に淮ふべし。其中に今所謂西近江にのみ此つづけありて東近江の地に見えざるは、西近江は地高くして湖水を前に見晴らし東近江は地低くして湖水を背《ウシロ》にそむきて住める故なるべし。是も證(288)據の如し。
 
    ●隱口乃泊瀬《コモリクノハツセ》
 
大和國風土記殘編(ニ)云(フ)。長谷(ノ)郷云云、古老傳(テ)云(ク)此地者兩山澗水相夾而《コノクニハフタツノヤマニアヒハサマリテ》、谷間甚長《タニアヒイトナガシ》、故《カレ》云《イフ》2隱國長谷《コモリクニノハツセトナモ》1也とあり。是に依れば昔より云ふ如く山ふところに圍まれたる籠《コモ》り國の長谷と云ふことなり。近來長谷を古への墓所として隱城《コモリキ》【石槨】の終處《ハテカ》也と云ひ出たる、希見《メヅラ》しく新しくおぼえて人も我もさる事かと思ひつるに、猶疑はしき事は、其地國中の墓所にして終《ハツ》る處の意ならんには御代々々の天皇の大御名又宮號等に稱へ奉るべからず。又|隱城《コモリキ》など奥槨《オクツキ》の石城もて、なべての歌の枕詞に蒙らせんも、いかに古へなればとて、忌まずばあるべからず、固《モト》より波都世《ハツセ》と云ふ名は諸國の郷村の名にも此彼あれど。墓所には拘はず、山岡などに夾まれる間《アハヒ》を云ふめれば、大和なるも風土記に云へる趣なるべし。三の卷の歌を見れば泊瀬に葬れるが多かれど又別處に葬れるもあまた見ゆれば、今(ノ)京の鳥部山の如く定まれるにはあらず。古今雜に「世中のうきたび毎に身を投げば深き谷こそ淺くなりなめ」とよみたるやうに、古くは多く谷間に屍を隱すならひなりければ、おのづから他《コト》處より長谷に葬れるが多くなれるほどの事とどおぼしき。墓所の定れるは專ら火葬と成りて後の事にこそあれ。其以前定まるべきいはれなし。
 
    ●安禮衝武《アレツカム》
 
藤原之大宮都加倍安禮衝武處女之友者乏吉呂加聞《フヂハラノオホミヤツカヘアレツカムヲトメガトモハトモシキロカモ》」此の安禮衝《アレツク》を、今の世のなべての人、安(289)禮《アレ》は齋(ノ)宮内親王を阿禮乎度女《アレヲトメ》と申せる阿禮と同じく奉仕《ツカヘマツ》ること、衝《ツク》は伊都伎《イツキ》の伊《イ》を省けるにて、此《コヽ》は藤原(ノ)宮に奉仕《ツカヘ》いつきまつる女官をいふと心得たるはひが事也、六【四十四葉】讃(ル)2久邇(ノ)新京(ヲ)1長歌に、吾皇神乃命乃《ワガオホキミカミノミコトノ》、高所知《タカシラス》、布當乃宮者《フタギノミヤハ》、百樹成《モヽキナル》、山者木高之《ヤマハコダカシ》、落多藝都《オチタギツ》、湍音毛清之《セノトモキヨシ》、鶯乃《ウグヒスノ》、來鳴春部者《キナクハルベハ》、巖者《イハホニハ》、山下耀《ヤマシタヒカリ》、錦成《ニシキナス》、花咲乎乎里《ハナサキヲヽリ》、左牡鹿乃《サヲシカノ》、妻呼秋者《ツマヨブアキハ》、天霧合《アマギラフ》、之具禮乎疾《シグレヲイタミ》、狹丹頬歴《サニツラフ》、黄葉散乍《モミヂチリツツ》、八千年爾《ヤチトセニ》、安禮衝之乍《アレツカシツツ》、天下《アメノシタ》、所知食跡《シラシメサムト》、百代爾母《モヽヨニモ》、不可易《カハルベカラヌ》、大宮處《オホミヤドコロ》」全とあるは、もはら天皇の御上なるを、此は誰に奉仕《ツカヘマツ》り誰を伊都伎《イツキ》給ふとかせん。或釋に、此の歌は百官の天皇に奉仕伊都伎《ツカヘマツリイツキ》奉るを云ふ也。【玉勝間】と云へるも又|誣説《シヒゴト》也。百官のいつく事を安禮衝之乍《アレツカシツ》、天下其食跡《アメノシタシロシメサムト》と如何でか云はん。此歌の一首の意は、布當宮《フタギノミヤ》は、山も高く瀧も清く、春は花鶯、秋は鹿紅葉のえも云はず、怜《オモシ》ろき所なれば此處《コヽ》に八千年も在衝《アリツカ》しつゝ天の下知ろしめさんとおもほせば、百代にも易はるべくもあらぬ大宮所ぞ、と云へるにこそはあれ。かゝれば此語の本は上の柿本(ノ)朝臣の歌に、橿原乃日知之御世從阿禮座師神之盡《カシハラノヒジリノミヨユアレマシシカミノコト/\》とある歌の阿禮。又|衝《ツク》は六【四十五】に三諸着鹿背山《ミモロツクカセヤマ》、又七【六】に三諸就三輪山《ミモロツクミワヤマ》などある就《ツク》に同じ。又|植《ウヱ》たる草木の地《ツチ》に根付《ネヅク》を郡久《ツク》と云ひ、又なべての平言に、居つく、住つく、落つくなど云ふも是也。【奉公に在附くと云ふなども自然に相かよへり】さるからに右の六卷なるも久邇(ノ)新京につきてよみ、今此歌も藤原(ノ)新京なるにつきて云へる、皆其宮に親み附くよし也。齋宮(ノ)内親王に申せるも專ら同意也。然れば其大宮に在(リ)衝(カ)す事と解きても違はざるを、中々に賢《サカ》しがりて非説《ヒガゴト》を弘めなせるものにぞある。今此の歌につきていはば、藤原の大宮仕へに在衝《アリツカ》ん官女等は羨しき哉、なぞといはば、景色よくかき晴れて四方の山々迄守り仕へる大宮にすめば也と云ふほどの心なり。
 
(290)    待乳山《マツチヤマ》
近世の古學者は紀伊國へ往くには、吉野山を通りぬけ、待乳山をこえて往く、其待乳山は吉野山とつゞきて、紀伊の入口にある山と心得るより、紀伊の行幸の方角を失へり。そも/\待乳山は吉野山とつゞかず、吉野よりは遙に西北に當りて宇智と葛上との郡界也。大和(ノ)國圖宇智(ノ)郡(ノ)下(ニ)云(フ)北(ハ)至(ル)2葛上(ノ)郡高間(ノ)界(ニ)1また葛上(ノ)郡(ノ)下(ニ)云(フ)南(ハ)至(ル)2字智(ノ)郡待乳(ノ)界1とあるにて知るべし、輿地通志宇智(ノ)郡云|眞土《マツチ》山(ハ)在(リ)2上野村(ノ)西(ニ)1又西南(ニ)有(リ)2戸立山1云云河内に隣れりと云へり。行嚢抄七南遊(ノ)部(ニ)云(フ)○石見村【河州ノ内自2五條町1二里餘】〇二道村【是ハ紀州ノ順次也】○追分【二道村ニ在。自v是右ニ赴クハ待乳越、左ノ路ニ入ハ犬飼村ヘ出ツ兩道ナリ】○待乳茶屋【是ハ待乳越ノ方ニシテ峠ノ内也】○犬飼村【是ハ紀州ノ西田殿村同蕗村ヘ出ル方ノ路筋也】●待乳峠【此邊ヲ待乳山ト云】●畠田村【和州ノ内ナリ】●堺川【小流歩渡り川上ハ大澤越ノ方ヨリ流出ル是和州紀州ノ界也以2川半1兩國爲v界】○【是ハ紀州ノ内也堺川ヲ隔テ畠田村ト並テ有。自v是紀州和歌山マテ行程十二里高野ヘ六里】以下略之。
かくて待乳山は專ら大和の内にして紀伊(ノ)國へはかからず、峠を越えはてゝも未だ大和の畠田村にして此間十餘町を經て堺川にいたるよし也。然れども、此はよく思ふに、其街道の上に就きて云へる處にして、彼の山の横はり廻り入れる根の方は、猶紀伊(ノ)國(ノ)伊都(ノ)郡隅田(ノ)庄までつゞきてあるなり。其事は下に云ふべし。今此に引く行嚢抄に記せる所甚正しくして其順路の次第道筋より云ふときは古へも右の如くなりつれば集中いと多かる歌又行幸の路次等につきて其心得有るべきものぞ。或人予が此説を疑ひて大和國十市(ノ)郡の人の江戸にあるに、吉野山を越えて紀伊(ノ)國へ往く道を問ひけるに、其者いたく笑ひて云く、吉野は越えらるる山に非ず、強ひてこゆとも其日か|ら《ず(?)》里數の遠くならんをいかにかせん。吾が本郷《サト》より河内へかゝり待乳山を越ゆるときは高野へ九里也云々。もし吉野をこえば三十里にもなりなんなど此者にいろ/\説かれて其人の疑ひ(291)はとけたれど、猶大かたの人のために云ふ也、四【廿三】神龜元年甲戊冬十月幸(ケル)2紀伊國(ニ)1之時爲(ニ)v贈(ル)2從駕人(ニ)1所v誂2娘子(ニ)1笠(ノ)朝臣金村作(ル)歌一首並短歌【上略】天翔哉《アマトブヤ》、輕路從《カルノミチヨリ》、玉田次《タマダスキ》、畝火乎見管《ウネビヲミツツ》、麻裳吉《アサモヨシ》、木道爾人立《キヂニイリタツ》、眞土山《マツチヤマ》【是れ奈良より西北へ南(?)行也】越良武公者《コユラムキミハ》云云」此歌に木道爾入立《キヂニイリタツ》とあるは、大和(ノ)國内ながら紀(ノ)國に入立つ路の眞土山と云へる也。九にあさもよし木方往君我信士山越濫《キヘユクキミガマツチヤマコユラム》けふぞ雨なふりそね。此三句を中古以來よみ誤りて加信土山《カシドヤマ》と云ふ一つの山いできたれど、それもさすがに待乳山を離れず、紀伊國へ折り入たるいやはてを云ふと紀人云へり。【光俊朝臣の歌にかしと山花の盛や今ならん紀のべに雲の立わたる見ゆ此外あれど得引す「待乳山夕こえ行ていほ崎の角太河原に獨りかもねんとある其隅田ノ庄の内也と云へれと此歌の事は得極めず。】
 
    ●安良禮松原《アラレマツハラ》
 
これを住吉の岸の松原と一つに心得たるはひが事也。住吉と堺との間《アハ》ひに大和川の落人る處あり。是れ津の國和泉兩國の境也、其川の落入る向ふの岸にありし松原也。逍遙院殿高野紀行に住吉(ノ)社の事濱邊の松の事津守(ノ)浦等の事を云ひて、其次に云はく、泉の境にまかりこゆとて道すがら名ある所々いひ盡すべくもあらぬ見ものなり。あられ松原といふ所を過ぐとて見れば、世のつねの松の葉にも似ず吹き枯したるやうに見え侍れば「木枯の吹きしをる色と見るばかり名にあらはるるあられ松原」行嚢抄西遊卷十五自2大坂1紀州路(ノ)下(ニ)云(フ)、上略、難波寺云云、龜井(ノ)水云云、住吉神社自2街道1左ノ岡(ノ)上ニアリ。社ノ前ニ反橋アリ。其橋ノ邊ハ腰掛茶店トテ並ビタリ。自2茶店1右ノ方濱邊ヲ住吉ノ松原ト云フ。濱邊マデノ松原ノ内其景勝レテ興アリ。自2近隣1來(テ)2住吉1爲2遊慰1者過半は此松原ノ中ニ燒(キ)2松葉(ヲ)1而酒茶ヲ興ズ。四社(アリ)云云、社領二千六十石餘、於(292)住吉村御朱印(アリ)云云。津守(ノ)浦云云、霰松原云々、同南遊(ノ)卷四(ニ)云(フ)、那良志《ナラシノ》岡云云、高山村立野ノ郷ノ内也。此邊自v路左ニ流ルル大河ニソヒテ行ク。此川ヲ龍田川トモ、又大和川共云フ也云云。下流ハ攝泉ノ堺ニ落チテ海ニ入ル。其川ノ向ノ岸ヲ霰松原ト云フ、とあるなど以て知るべし。古へはおもしろかりし松原なりしを其松どもやう/\少なく成りて、近年は只二三株殘れりと云へり。
 
      本集二(ノ)上
 
    ○遊行(ノ)女婦多かりし事 ○笠(ノ)女郎 ○紀(ノ)女郎 ○安倍(ノ)女郎 ○中臣(ノ)女郎等の事 ○石川(ノ)女郎と云ふ人の事 ○郎女と女郎の事
 
古ヘ國々に遊行女|郎《婦(?)》と云ふあそびめいと多かりけん。此集にもよく見もてゆけば多くありげなり。先づその名の正しく見えたるは、六【廿三】太宰(ノ)帥大件卿上v京之時娘子(ガ)作(ル)歌、凡有者《オホナラバ》、左毛右毛將爲乎《カモカクモセムヲ》、恐跡《カシコミト》、振痛袖乎《フリタキソデヲ》、忍而有香守《シヌビテアルカモ》。また【廿四】府吏之中(ニ)有(リ)2遊行(ノ)女婦1、其名(ヲ)曰(フ)2兒島(ト)1也云云。十八【九】遊行女婦|土師《ハニシ》。また【十三】同」また【廿五】教2喩(スル)史生尾張(ノ)少咋(ヲ)1歌左註云(フ)言(フ)2佐夫流《サブルト》1者《ハ》遊行(ノ)女婦之字也。十九【三十二】遊行(ノ)女婦蒲生(ノ)娘子。また【三十四】同」など見えたり。又遊行(ノ)女婦とは斷らねど、それと知らるゝあり。十五【三十】狹野(ノ)茅上《チカミノ》娘子とある、此女婦に新羅御使人中臣(ノ)朝臣宅守惑ひて罪を蒙れり。一【廿六】長皇子の携へ給ひし住吉之|弟日娘《オトヒヲトメ》、また【廿七】清江《スミノエ》娘子四【三十六】湯原王(ノ)贈(ル)2娘子(ニ)1歌以下十二首(ノ)贈答、三(293)【三十八】筑紫娘子《ツクシノヲトメガ》贈(ル)2行旅《タビトニ》1歌、九【廿五】拔氣大首《ヌケノオホヒレ》任(ル)2筑紫國(ニ)1時豐前(ノ)國娘子紐(ノ)兒、また【廿七】石川(ノ)大夫遷(レテ)v任上(ル)v京(ニ)時播磨(ノ)娘子贈(ル)v歌(ヲ)、此娘藤井(ノ)連にも贈(リ)v歌(ヲ)たり。又此等に淮ふるに、六【廿七】豐前(ノ)國娘子【娘子字曰2大宅1】四【四十六】河内(ノ)百枝(ノ)娘子亦【四十七】栗【一本粟】田(ノ)娘子、また豐前國(ノ)娘子大宅(ノ)女。」これらの類も猶皆遊行女婦なりけん。そも/\かゝる婦女子の國々に多かりつるは、中古に祗承《シソウノ》官人諸國にて勅使及高貴の君の下り給ふ時、驛を定め、婦女を出して饗應する事なり。【江家次第等に詳に見ゆ】されば其古へも祗承(ノ)官を國司等相職(メ)てさる時の用意に豫てより由ある娘子等を儲け置きけらし。是即遊行女婦とて見えたる十六【十二】安積香山影副所見《アサカヤマカゲサヘミユル》云云。右(ノ)歌傳(ニ)云(フ)、葛城(ノ)王遣(レシ)2于陸奥國(ニ)1之時、國司(ノ)祗承緩怠異(ニ)甚(シ)。於v時王(ノ)意不v悦、怒(ノ)色顯(ル)v面(ヲ)。雖v設(クト)2飲饌(ヲ)1、不2肯(テ)宴樂1。於v是有(リ)2前(ノ)采女1、風流(ノ)娘子(ナリ)。左(ノ)手捧(ケ)v觴(ヲ)、右(ノ)手持(チ)v水(ヲ)、撃(チ)2之王(ノ)膝(ヲ)1、而詠(ム)2其歌(ヲ)1、爾乃王(ノ)意解脱(テ)樂飲終日(ス)、とあるに淮ふるに、打つけに遊行婦女と稱せるは多くは前の采女なりけらし。宮子の手ぶり心得ずては、かゝる祗承はあたふべからねばなり。四【十五】駿河(ノ)采女あり。是も前(ノ)釆女にして、女婦とぞ見えたる。中昔の白拍子と云ふものも代につれて少し異なる所もあれど、靜女などは後鳥羽院の采女也、といひて大かたには、似たるもの也。又四【三十】笠(ノ)女郎、また【三十八】紀(ノ)女郎、また【五十五】また【五十七】紀(ノ)女郎※[果/衣]物贈(ル)v友(ニ)【女郎名曰2小鹿1】また【十五】安倍女郎、また【十七】また【十八】また【四十三】中臣(ノ)女郎贈(ル)2大伴(ノ)宿禰家持1歌五首などある、凡て如此《カク》歌の自在に口なれて人の階《シナ》を分たず誰にも打ちとけたる、婦女子は多く遊行(ノ)女婦なるべし。其はじめは國にありけるが都人になじみたるが多くなりぬれば、其人も引き、自らもたよりて京のうちにもこれが入りこみたるさまに見ゆ。さて然か遊行女婦と見えたる娘子に限りて女郎と書きたるを見ればいらつめたる人にも後には混じたれど、古へは郎女と女郎と異なりしもしるべからず。中昔の末にもあそびを(294)女郎といひて今世にも然《シ》かよべり。古言にはいかによみけん。遊行(ノ)女婦と書きたる字にもこゝの唱へあるべきものなり。上に引(ク)十八卷に佐夫流子《サブルコ》とあるはすべてを云ふ語か、其人一人の名か、是もたしかならず。これらの事はよく考へ合せて定むべし。此《コヽ》に怪しく訝かしきは石川(ノ)女郎なりけり。二【十一】に久米禅師とよみかはして遇ひもしたり。また【十三】大津皇子とあへり。また【十三】大津皇子と接へる事を津守連通に《の(?)》合せて占ひ露はせる事あり。また【十四】日並知皇子(ノ)尊忝くも御歌賜はす事あり。其端書の下に【女郎字曰2大名兒1】とあり。凡てかく分註に女子の名を記せるものは皆遊行(ノ)女婦也。また【十六】大伴(ノ)宿禰田主の家に結婚《ヨバヒ》たる事あり。また【十八】大伴(ノ)奈良麻呂に歌を贈りてあへる事見ゆ。其端書に大津皇子(ノ)宮(二)侍(ル)石川(ノ)女郎とあり、大津(ノ)皇子の然か宮中に引き、入れ置き給ひしは皇太子に召《メサ》せじとの事にて。實は此女郎より御中あしくなり、大津(ノ)皇子朱鳥元年十月三日にうしなはれ給ひて後、又宮をまかりて衢に住まひやう/\さまよひき。それらの事は歌につきて云はん方便りよければ二卷の其所々々《ソコ/\》に云ひつ。かく三卷【二十】今本に石川(ノ)小郎、然之海人者《シカノアマハ》、葷布苅鹽燒無暇《メカリシホヤキイトマナミ》、髪梳乃小櫛《ツケノヲクシモ》、取毛不見久爾《トリモミナクニ》【左註云】右今案石川朝臣君子號(テ)曰(フ)2小郎(ト)1也、とあり。先づ此名※[木+夜]斎本には石川《イシカハノ》白水郎《アマノ》歌とありて左註なく、歌の下に石川泉郎字(ヲ)曰(フ)2君子(ト)1とあり。由阿本は左註石川(ノ)朝臣を作(リ)2泉郎(二)1而下(ノ)八字なし。此外も異同あれど得しるさず。さて此うた似閑が引(ケ)る紀氏萬葉抄にはしかの遊君石川女郎「しかのあまはめかり鹽やきいとまなみつげのをぐしもとらず來にけり」とあり。かゝれば石川(ノ)女郎ははじめ筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡志加(ノ)里の遊行(ノ)女婦なりけるが、すぐれで名高くなりて、都にめされて出でしにぞありける。
 
(295)    ●屋《ヤ》の蔦根《ツナネ》を仰ぎて壽《ホ》ぐ事
 
上(ツ)代は屋上より結び垂らす細綱を家の固めと重みして長く繁くたらしゝなり。神代紀日隅(ノ)宮造(ノ)條(ニ)云(フ)汝(ハ)應v住(ム)2天(ノ)日隅(ノ)宮(ニ)1者|今當供造《イマツクリソナヘムコト》。即以(テ)2千尋栲繩《チヒロタクナハ》1、結爲百八十紐《モヽムスビヤソムスビムスビテ》、其造宮《ソノミヤツクリ》之|制者《ノリハ》、柱《ハシラハ》則|高太《タカクフトク》、板《イタハ》則|廣厚《ヒロクアツシ》云云、とある。朝廷の大宮造も當時は御代々々如v斯《カク》して、千尋の栲繩《タクナハ》を屋の上より千筋八千筋百給び八十結びに結び垂していはひ事とせし也。顯宗紀に播磨(ノ)屯倉《ミヤケノ》首が家造だに千尋繩結垂れし貌なる以てなべての家も然りし事を知るべし。さて其|室壽《ムロホギ》の御詞の發端に築立稚室葛根《ツキタツワカムロツナネ》と先づ詔ひ出でたるも此結び綱を重みせし故にて即|取結繩葛者此家長御壽之堅也《トリユヘルツナハコノイヘキミノミイノチノカタメナリ》とある是|壽言《ホギコト》の根ざしなりけり。推古紀(ニ)云(フ)、二十年春正月置(テ)v酒(ヲ)宴(ス)2群卿(ヲ)1是日大臣上(リ)v壽(ヲ)歌(テ)曰(ク)「やすみしゝわがおほきみのかくりますあまのやそかげ異泥多々須《イデタヽス》【出御】彌蘇羅烏彌禮磨《ミソラヲミレバ》【屋上葛根】よろづ代にかくしもがも、千代にもかくしもがも云云、とあるも葛根とはことわらざれど、葛根にかけて御壽《ミイノチ》を賀《ホギ》たるなり。續紀に聖武天皇皇太后を千尋葛根高知天宮姫《チヒロツナネタカシルアマツミヤヒメノ》尊と奉v稱(シ)るも同じ意也。二【廿三】天智天皇|聖躬不豫之時《ミヤマヒアツシキトキ》皇后|奉獻《タテマツラシヽ》御歌、天原《アマノハラ》、振放見者《フリサケミレバ》、大王乃《オホキミノ》、御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》とあるも右推古紀の歌と同じく葛根《ツナネ》の長きを大御壽にかけてほぎ給ふなり。然るに萬葉の釋どもに天に祈りをかけ給ふなりとも、又天を知すべき御孫の命の御事なれば長《トコシナ》へに天|足《タラ》しなんぞ。今御病ありとも事あらじと天を仰ぎて賀ぎ給ふなり、などいへれど、皆是暗推の空論にて實は説《トク》人も解けざるから、さる浮きたる事をいひて逃れたるのみぞ。目にも觸(レ)ね虚空《オホゾラ》を仰ぎたりとて何を見とめて天足有《アマタラシタリ》とせりとせん。あまたらしたりとは天《アメ》に足而有《タリテアリ》と云ふ言なれば何か見とめたる事なくて云ふべき言かは。よく/\思ふべきものぞ。十九【四十四】天平勝寶四年十一月廿五日新甞會|肆(296)宴《トヨノアカリニ》應(タル)v詔(ニ)歌(ノ)中式部卿石川(ノ)年足朝臣、天爾波母《アメニハモ》、五百都綱波布《イホツツナハフ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、國所知牟等《クニシラサムト》、五百都々奈波布《イホツツナハフ》、とよみたる、此の五百都鋼《イホツツナ》も大甞祭の屋の葛根を仰ぎて御代を壽ぎたる也。
 
      本集二(ノ)下
 
    ●馬醉木《アシビ》
 
二十【六十二】屬(テ)2目(ヲ)山齋(ニ)1作(ル)歌三首「をしのすむ君が此島けふ見れば安之婢乃波奈《アシビノハナ》毛咲きにけるかも。「池水に影さへ見えて咲きにほふあしびの花を袖にこきれな。」「礒かげの見ゆる地水|※[氏/一]流麻※[泥/土]爾《テルマデニ》さけるあしびのちらまくをしも。」此三首の中に爾保布《ニホフ》といひ※[氏/一]流《テル》と云へる以て色赤き花とすべし。又此歌の前に二月とあり。次に二月十日とあれば、中春の頃より咲く花とすべし。七【十】安志妣成榮之君之《アシビナスサカエシキミガ》。八【十五】山毛世爾咲有馬醉木乃《ヤマモセニサケルアシビノ》、不惡君乎《ニクカラヌキミヲ》いつしかゆきてはや見ん」。此等に榮ゆといひ、山もせに咲けると云へるを見れば、にぎはゝしくうるはしく且甚多くつらなりて咲く花と見えたり。凡春二三月の間右の歌どもによく叶ふべきは木瓜《ボケ》より外に見えず。然るに昔より馬醉木と書きたる字に泥《ナヅミ》て、あせみ【俗にあせぼ】とせる説多かれど、花白く見所なくして、集中廿首許ある歌に似つきがたく、背けたるが多かり。又右のあせみも馬に毒なし。今一種深山にしか/”\の花あなりとも云ふめれど、よく思ふに、馬醉の字は天醉(フ)2桃李(ノ)花(ニ)1と云ふ類にて、彼の道も(297)せに照るが如く咲きつゞける以ておしあてたるにて、岩つゝじを羊躑躅と書けるたぐひなるべければ、固《モト》より馬の毒と云ふ心にはあらざるべし。おのれ年ごろかく心得て過ぎ來しに、今日見れば曾槃か國史章攷云(フ)、萬葉二(ニ)云云【此間歌多く省きつ】此外あしびをめでてよみたり。關東の俗に草|木瓜《ボケ》ともしどみともいヘる※[木+(虍/旦)]子《ボケ》に似て矮小なるもの、春ふかく花の照りにほふ色は映山紅《ツヽジ》などにひとし。この葉は冬柏《ツバキ》の實の如くにして、味の酸を小兒このみてくらふものなり。さて萬葉につゝじを羊躑躅と書く。これに對へてあしびを馬醉木と書きたるは、おのづから文《アヤ》を設けたるなり。羊躑躅は漢呼《カラナ》なり。馬醉木は御國の稱なるを或は之をも漢呼と覺てあせぼと云ふ木の漢呼とせり。又あせびを馬醉木と書きたるは馬のこれをくへば醉ひて足|痿《ナヘ》となるとなり。俊頼散木棄歌集に「取つなげ玉田の横野のはなれ駒つゞじが岡にあしび咲く、とよみたるも馬のくらひて毒なればこそかくはよみたれ。また新六帖に「みまくさは心してかれ夏野なるしげみのあせみ枝まじるらし云云」【以上】此説はじめはさるべく聞えたるを、末に至て馬醉木を二種に取れるは如何なり。それも未の一種を非とせんとならばさるべきを、馬のくらひて毒ならばこそ、といへる實に毒ある花とおもへりしにや。此次々に云へる説もすべてとりがたし。
 
      本集三(ノ)上
 
(298)    久具都《クヾツ》 附、 傀儡《クヾツ》
 
【廿三】鹽干乃《シホヒノ》、三津之海女乃《ミツノアマメノ》、久具都持《クヾツモチ》、玉藻將苅《タマモカルラム》、率行見《イザユキテミム》」此の久具都《クヾツ》と云ふ物の名義を按ふるに海邊に久具《クヾ》と云ふ草あり、蝦夷にいはゆるテンキの類にて、つよく美麗なる草なれば今も細繩に索《ナヒ》て出すをば江戸にて久呉《クゴ》繩と云ひて專ら用ふ。此の繩は誰も見知るめり。古くも細繩になひて網袋に組み綴り海人の子が獲物を納るゝ具となしつるにて、即久具綴の義なるべし。蓑にも造りて久呉蓑《クゴミノ》といひ、筵にも織りて久具筵《クグムシロ》とも云ふなどは其意同じかればなり。袖中抄に久々都とはわらにて袋の樣にあみたるものなり。それに、藻《モ》貝《カヒ》を入るゝ也と云へり。わらにても造るべき事勿論也。又童蒙砂にくゞつとはかたみを云ふとあるも既に名となりたる上はその藻貝を入るる物をくゞつとは云ひしなり。又宇津保物語【さかの院】にきぬあやを糸のくゞつにいれて、とあるも、糸もて其れを摸《ウツ》し造れるを云ふなれば妨げなし。又和名抄(二)云(フ)傀儡子《クグツ》唐韻(二)云(ハク)傀儡【和名久々豆】樂人(ノ)之所v弄(スル)也顔氏家訓(二)云(ハク)、俗(二)名(テ)2傀儡子(ヲ)1爲2郭|禿《トクト》1とある、此の樂人之所v弄(スル)也とあるは、庭訓往來等にいはゆる傀儡獅子舞とある、是にて、箱の中よりさま/”\の偶人を出して俳優を爲す。彼の海人の子が魚具、海松《ミル》、諸の獲物をいるゝ久具綴《クヾツ》の心ばへに相似たり。又爲(ス)2郭禿(ト)1とあるは、歌の題に岸頭傀儡など云ひて驛路の遊女の事也。これも是も貴と賤となく老となく若となく郷人族人何人も嫌はず容れて相交る、彼の海人の久具綴《クヾツ》の何物をも納るるにもとづきて此等の字をしも、久々都とは訓みそめしにやとふと打思ふに就て、いさゝか記しつけて後の定めをまつなり。
 
(299)   ●三穂石室《ミホノイハヤ》 ●志都乃石室《シヅノイハヤ》 附、岩代
 
三【廿五】博通法師(ガ)往(テ)2紀伊(ノ)國(二)1見(テ)2三穂(ノ)石室《イハムロヲ》1作(ル)歌三首○皮膚酢寸《ハタスヽキ》、久米能若子我《クメノワクゴガ》、伊座家牟《イマシケム》、三穂乃石室者《ミホノイハヤハ》、雖見不能飽鴫《ミレドアカヌカモ》○常磐成《トキハナス》、石室者今毛《イハヤハイマモ》、安里家禮騰《アリケレド》、住家類人曾《スミケルヒトゾ》、常無里家留《ツネナカリケル》○石室戸爾《イハヤトニ》、立在松樹《タテルマツノキ》、汝乎見者《ナヲミレバ》、昔人乎《ムカシノヒトヲ》、相見如之《アヒミルゴトシ》
同【三十三】生石村主眞人《オフシノスグリマヒトガ》歌一首●大汝《オホナムチ》、小彦名乃《スクナヒコナノ》、將座《イマシケム》、志都岩室者《シヅノイハヤハ》、幾代將經《イクヨヘニケム》。
此の博通法師の歌と、生石(ノ)村主の歌と下句入違ひたりなど云ふ説出て人あまた惑ひつれば然らざる事を云ふついでに、おのれが僻案をも加ふるなり。此歌もし一首と一首にして相並びてもあらば、さる事あらんもしるべからねど、紙は八葉隔ち歌は三首と一首となり。上句にまれ、下句にまれ、入違ふべきことわりなし。その上此三穂(ノ)石室と云ふものをよく心得たる説たえて見えざれば此《コヽ》に先づことわるべし。年來心にかけしけにやあらん。幸ひ古本を得てかつ/\も其石室の形容を知れり。南紀名勝志(二)云(フ)、日高(ノ)郡岩代(ノ)岡ハ岩代(ノ)庄(ノ)岩代村ノ中ニ在リ。岩代(ノ)ノ濱(ハ)云云、屈石ハ、三尾庄(ノ)三尾村ノ西南三十餘町海邊ニ在リ。高十八九間、周(リ)廿七八間許有リ。伏テ人ノ腰ヲ「屈ゲタルガ如シ。依テ名トセリ」。【已上】と見えたる即奇岩の存在《アル》に因りて其地を岩代と云ふ。岩代は岩背《イハウシロ》の義也。又其石室の在る地を今三尾村と云ふは三保の音を訛れる也。其三保は御秀《ミホ》のいとも甚大なるよしの稱辭なり。かくて此奇岩中|空《ウツロ》にてそのかみは右歌の如く石室なりつるに、何時の頃からうつぶしに伏して内の貌見えずなりぬ。按に古へはいと大きなる岩窟なりけんに年々に砂を押よせて埋み來にければ、今は名勝志に記したる趣も極めて見えずなりけんとぞおぼしき。いと可惜《アタラシ》き事にぞある。そも/\此の石室に住みけん久米能若子はいかなる人な(300)りけん。久米とは皇軍の衆を稱へ言ふ名なりければ、當時《ソノカミ》さるべき益荒健雄の隱《コモ》りし事ありしにや。されど貴人にあらざりし事は次の二首の歌のよみざまにていちじるし。行嚢抄(二)云(フ)、今モ西岩代東岩代とて村里有り。岩代王子(ノ)社海邊ニアリ云云。紀州名勝記(二)云(フ)。三穗村の南の岡の上に久米の墓と云ふあり。昔は古木の松二三株ありきといへど、今はたゞ冢のみなり、と云へる、もしは右の歌に、石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人をあひ見る如し、と云へるは墓をよみたるにはあらざるか。
是より志都の石室の事をいはんに、先づ播磨(ノ)國加古(ノ)郡|生石子《オフシコ》村と云ふに俗《ヨ》に石の寶殿と名づけたる物有り。これも奇なるものにはあれども、自然の物にあらず、やゝ後の人作なり。本より石窟にもあらざれば、是れは取計ふに足るべからず。只其地を生石子《オフシコ》村と云へるなん此歌主に由縁《ヨシ》ありておもひ捨てがたかりけるまゝに、年來心にかけて彼の國人にも尋ね問ひけるに、其村より山深く入て神さびたる岩窟あり。昔より志都の石室となん云ひ傳へたる。されども山深くして人のたはやすく行き見る所ならず。其あたり石工の多き地なりければ、郷民語らひ合せ祠の形に岩山を切拔きて彼の石の寶殿を作りそへ拜殿となして諸人の參詣所となしたりとぞ。抑此村の山は大方岩山にて古より石を多く切出すに盡くと云ふ事なく、あとよりおひ/\石の生ひ出《ヅ》るゆゑに生石子村の名も有るなるべし。此所に神社あり。大穴持小彦名(ノ)神と云ふ。此二神の石に縁《ヨシ》ある事は能登(ノ)國常陸(ノ)國また伊勢の石(ノ)原石薬師椿田(田衍?)明神の類ひ多かれば、此地にも此二神の御魂は必ず留り給ふらん。然れども彼の山奥なる石窟は縮見《シヾミ》山(ノ)石室なるべくぞおぼゆる。顯宗紀(二)云(フ)。帳内《トネリ》日下部(ノ)連|使主《オミ》遁2入(リ)播磨(ノ)國縮見《シヾミノ》山(ノ)石室(二)1而自(ラ)經死《クビレシヌ》とある、此(ノ)縮見《シヾミノ》石室と志都《シヅノ》石室と(301)音の近きを思ふべし。又同紀に、天皇云云。向(ヒ)2播磨(ノ)赤石(ノ)郡(二)1就2任(レ)於|縮見屯倉《シヾミノミヤケノ》首(二)1云云。又同紀(二)云(フ)億計王|更名《マタノミナハ》大石《オホシノ》尊とある此の大石《オホシ》と生石《オホシ》と名の相近きをも又思ふべし。また仁貿紀に云ふ、億計天皇之宮有(リ)2二所1焉。一(ハ)宮(シ)2於筒川村(二)1二(ハ)宮(ス)2於縮見高野《シヾミノタカヌニ》1云云、とある是を考ふるに、筒川村は自v是先に住み給ひし丹後(ノ)國筒川(ノ)村なり。縮見(ノ)高野は生石子(ノ)村なり。此地、紀には赤石(ノ)郡。和名抄には美嚢《ミナギノ》郡、今の世には加古(ノ)郡と轉じ來つれど、三郡皆相隣りて入こみたる故にぞある。かゝれば此歌の作者|生石《オフシノ》村主も此地の人にて即|生石子《オフシコ》村の村主《スグリ》なりけらし。若しくは石の下に子の字を脱したるにもあらん。然れば其村に大汝少彦名(ノ)二神の鎭(ラ)すに就てかく云へるなれど將座《イマシケム》と云へる下の心は億計弘計の二柱をおもへるなるべし。其《ソ》はまのあたり二代ともに天(ノ)下|所治行《シロシメシ》ていまだいくほどにもならざるを、あなかしこ、其名を顯はすべきならねばなり。
 
 
(13)    橘(ノ)元輔源(ノ)守部
         守 部 評 論
                       釋  迢 空
□守部《モリベ》が死んでから、七十年忌にも、はや手が屆きさうになつてゐる。澤山の國學者の中では、わりあひに出版の便宜を持つてゐた、と見える此人の著書にも、まだ若干の未刊の分が殘つてゐて、其がうつされ寫されして、あちらこちらに散らばつてゐるのも、可なりにある容子である。今度板行した、この檜嬬手《ひのつまで》は、其中でとりわけ、目に立つて惜しまれてゐた一つである。わたしがまだ、國學院の學生でゐた頃、故畠山翁の口から、よく聞かされた名まへも、これであつた。上野の圖書館をはじめ、朝倉屋や琳瑯閣をあさつても、見出すことのなりかねたこの書物の名が、ある時ひよつくり.國學とは縁遠い、早稻田大學の圖書館のかあど〔三字傍点〕のなかに、見つかつた時の喜びは、非常なものであつた。其うち、故木村博士の講義を聽いて、其守部に負ふ所の多いのに驚いて、美夫君志を調べて見ると、博士の創見だ、と考へて聞いた重要な説のある部分は、守部が六十年前にちゃんと書き殘してゐたことであつたのがわかつた。其でゐて、博士の、あまり守部をよく云はれないといふことに、尠からぬ不滿を抱いてゐた。其で、其當座の守部に傾注した鹽梅といふもの(14)は、大變なものである。山彦冊子《やまびこざうし》・鐘《かね》の響《ひゞき》・土佐日記|舟《ふね》の直路《たゞち》・稜威道別《いつのちわき》・稜威言別《いつのことわき》・神樂催馬樂入綾《かぐらさいばらいりあや》、かういふ目に觸れ易い書物を借り出して、つゝつぽの袖口から沁み入る、上野の山氣をわびながら耽讀して、夜更けての戻り道に、ふりかへりて見た圖書館の窓あかりを、いまだに記憶してゐる。さうした縁の深い守部の檜嬬手が、島木・斎藤・古泉・中村四兄の心づくしで、世間に弘まることになつたのは、わたし一人にとつて、名状しがたい喜びが、胸にたぐるばかりである。
□しかし尚、其ほかに一つ、感激の禁ぜられないのは、右のアラヽギの幹部の人々の、美しい心持ちである。金まうけや、廣告の手段としては.損失の見え透き過ぎてゐる、此種の復刻事業を、やつて見よう、と思ひ立たれた其動機である。其は、われ/\は、正岡子規を祖とし、伊藤左千夫を宗とする者なるが故に、萬葉びとの生活を渇仰し、其心熱を、大正のわれ/\の胸に蘇さむ、と努むる者なるが故に、といふ自覺、單にこれだけの理由で、同人並びに、他の世間の人々に、此欣びを分つ、といふそろばん珠では弾き出されない得分を收めよう、と思ひ立たれた心である。同人の末に列るわたしが、まだ守部を知らない方々の手引きぐさに、不徹底な雜觀を記しつけよう、と思うたのも、其心に刺戟せられたのである。
□橘純一さんの贈られた年譜を見ても、十六歳迄の彼の生活には、何だか、暗い影のつき纏うてゐる容子が見える。江戸移住の後は、追々に、あかりがさして來た樣である。さうして、本氣で學間をはじめたのは、其頃からであつたのであらう。まづ、其研究態度に注意を拂うて見ねばならぬ。どの書物にも、和學上の師匠の名を傳へて居ないので見ると、恐らく、當時江戸在住の和學の先生の門は、一度も潜つた事はないのであらう。比較的に、濱臣とは近づいてゐた(15)やうに見えるのは、或は、歌の上に交通があったものか。當時の學者の癖として、一度でも質疑状を寄せた者は、悉く門人帳に記入する風であつたから、後年、彼が世に幅かる憎まれ者になつた際に、其師匠の名を發き出す者も、あるべき筈であるのに、其がない處から見ると、獨學といふことには、殆、疑ひを挾む餘地がなさ相である。
□本居春庭の詞の玉の緒の、講義をする爲に下つた足代弘訓に、其頃としては、頗|貴《たか》い聽講料を拂うて置きながら、今日中學生すら、さのみ困難に感じない事項で、大の男が納得に苦しんだ、といふ時代である。かういふ、學間の空氣の稀薄な時勢に、獨學でとにもかくにも、大人《うし》のなかま入りをしたものと、公認させる迄の成蹟を擧げた、彼の才能と勉強とを思はずにはゐられない。わたしは、今の世間を見渡して、彼に似た人として、山路愛山氏を探しあてる事が出來た。反抗的な氣分をおし進めて、段々、自身で大きくなつて行つたといふ點、傳習を超越してゐる點、師承なき點、皆そつくりで、彼と、此と、時代を換へて生れさせても、やはり、おなじ徑路を辿つたことであらう、と思はれる。
□わたしの見た彼の著書の中では、伊勢物語箋と心の種とが、一番劣つてゐる樣に思はれる。一つは、殆、處女作ともいふべきものであつたからであらうし、今一つのは通俗的の物を、といふ目的から出來た物である爲でもあらう。けれども其勢語箋にすら、尚、當るべからざる元氣が見えてゐる。年譜によると、此書物より二年前に書いた神風問題にも、既に、橘(ノ)庭麿の名が見えてゐる樣である。一體、守部の家は北畠姓で、正しくは北畠元輔である。さすれば、源氏を名|告《の》らねばならぬ筈だのに、橘氏を稱してゐるのは、母方の楠姓から出たものなのである。其には、萬葉(16)に親しみ、古を尊んでゐた人だけあつて、萬葉以後に出來た源氏よりも、橘氏に心惹かれたのは、勿論であらうけれど、一方、おなじ皇別でも、古いだけに尊げに思はれる、といふ系圖熱から出た、一種の誇りも含まれてゐたのであらう。而も、稜威道別の序に、橘(ノ)元輔源(ノ)守部《モリベ》と署名してゐるのは、寧ろ滑稽である。處が、此橘(ノ)守部といふ號は、萬葉の「橘の守部の里の門田《かどた》早稻、といふ歌から採つたものなので、紀州の本居内遠が、其著賤者考の中で、守部即|守戸《もりべ》とも書いて、陵戸の事で、其音讀のしゆこ〔三字傍点〕が轉訛したしゅく〔三字傍点〕が、今、近畿諸國に散在してゐる、特殊部落の名になつたのである、と説いてゐる。此は難古事記傳などを書いた、學祖の敵に對して、無意識の中に、一矢を酬いてゐる訣になるのである。
□守部が目の敵にしてゐたのは、宣長である。併しながら、交渉のなかつた、此先輩に對して、何の怨みもある筈はない。上田秋成が古事記傳兵衛の、田舍のふところおやぢの、と罵つたのとは訣が違ふのである。唯、おのが研究上の對象に、宣長の學説を据ゑて、その反對説を樹てる事に、努めた迄の事なのである。宣長の態度の、宗教的神學的であるのに對して彼は歴史的批評的の立ち場を定めた。宣長の全體的なのに對して、部分的に、宣長が神秘の楯に隱れる處を、彼は出來るだけ、合理の鉾で突き破つて行かうとしてゐる。其でゐて常識的であるべき守部よりは、宣長の方が遙かに常識に助けられ、或は煩ひせられてゐる點の多いのは、おもしろい事である。宣長系統の經典ともいふべき古事記に對して、彼は書紀を採つた。さうして、消極的には、難古事紀傳を著し、積極的には、稜威道別を提供した。又眞淵・宣長の棄てゝゐた舊事記や、倭姫世紀の中から、眞實を拾ひ出し、古語拾遺を、存在の價値のない物のやうにとり扱うた。其(17)ばかりか.神典に表れた神の性格・職掌についても、思ひきつた異見を立てゝゐる。天照大神・素盞之鳴尊などは、殊に彼によつてひどく變つて考へられてゐる。宣長は、守部の研究の目安であつた。敵ではなく、實は恩人であつたのである。
□彼と肩を並べて、天保の四大人と呼ばれながら、彼とは異に、世間からも、おしも押されもせぬ者と考へられてゐた、平田篤胤・伴信友の二人は、等しく宣長歿後の門人と自稱して、學統の上に不思議な誇りを持つてゐた。其は玉桙櫻根(ノ)大人の靈を承け繼いだ者は、自分だ、といふ心持ちもあつたのであらうけれど。又、例の上田秋成すらも、河津美樹《かはづうまき》に學んだといふ事から、縣居の正流の樣な氣位を持ち、あの剛岸な男が、眞淵を學祖として崇めてゐた。かういふ時勢に、ともかくも、獨學を看板として、大手を振つて歩くのは、尋常一樣の人に出來ない事だと同時に、橘(ノ)元輔源(ノ)守部といふ系圖自慢をするといふ、自家撞著をやつてゐるのも、おもしろい事である。而も源元輔橘守部といふべき處を、前に述べた通りに、排列を變へた鹽梅は、やはり彼自身、其性格に向うて放つた、反語と見るべきであらう。
□彼の神典に對した態度を、てつとりばやく評すれば、神秘を信じつゝ、文明人の心をふり落すことが出來なかつたのである。言ひ換へれば、知識的には不可思議の存在を思ひながら、情調の方面から、どうしても其には、同化することは出來なかつたのである。彼は、徹頭徹尾、合理論以上に出ることが出來なかつた。又他の方面から言ふと、宣長は、神典を全體的に信じて、部分に神秘の天井を作つてゐた樣であるが、彼は部分的には信じてゐても、全體的にはぴったりと、彼の生活基調にそぐはなかつたのである。
(18)□彼の歴史觀は、確かに當世第一である。割合に、研究法の整備してゐた、水戸學者の中にも、此程進歩した態度を持してゐた人はなかつた樣に思はれる。江戸時代での高等批評家ともいふべき新井白石も、彼程には明らかな態度は、示してゐないやうである。記紀の記載には史實以外に傳説・童話を多量に交へてゐるといひ、根本史料に對する態度も、とにかく、鮮やかなものであつた。唯其とり扱ひ方に到つては、稍曖昧な點がないでもないが。然るに一方、彼の病ひなる合理熱からある事實に逢ふ毎に、此は何年何月何日にあつた出來事だ、といふ風に、さちん/\と桁をあはせて行かねば、心が済まないといふ處があつた。此は根本史料にも、ある點まで虚僞のまじつてゐることを覺つてゐた人としては、不思議な矛盾である。けれども、わが古代文化の研究上に、國學者和學者を通じて、宣長の持つてゐなかつたものを持つてゐたのは、此人だけである。
□宣長には深い道徳意識があつた。篤胤は其から超脱して、宗教道徳に踏み入つてゐる。彼には秋成の樣な反道徳的な強みはなくて殆道徳には無關心であつたといふよりは、鈍感であつた樣に見える。此處に、彼の態度が、學間以外の如何なる道へも、擴つて行かなかつた所以が見える。
□彼は、古代地理の研究に就いては、隨分、自負を持つてゐた樣である。神南備山や、大内(ノ)眞神原の研究などは、さすがと思はれるが、中には甚怪しいものがある。六里の道を距てた岩代と美穂とを、一つにしたなどは、大まじめだけに、飛んだ皮肉である。其に萬葉古今を本歌とした、後世の無責任な名所歌の歌枕を探つてあるいた、行嚢抄一類の書物に、單に稍古きが爲といふ理由で、過分の信用を拂うてゐるのは、情ない事である。けれども世間が古代地理の研究に、眞の興味を持ちかけたのは、彼以後の事らしく思はれる。
(19)□歌格の研究なども、歌學史の上から見れば、有意義なものではあるが、要するに、歴史上から見ての價値で、今日の眼といふより、寧ろ、もつと大きい處から見れば、餘程、氣の毒な成蹟しか擧つてゐない。唯夫、修辭學者の、幼稚なてあひ〔三字傍点〕のやり相な分類である。類例の蒐集である。彼は之を以て、詠歌の上ばかりでなく、解釋の上にも、効果の多いもの、と過信してゐた。けれども、其收穫は單に、研究其物だけであつた。修辭學から、「分頬以外の効果を豫想することは、絶望なる如く、其よりも更に粗雜な彼の分類に、果して、どれだけの効果が考へられようか。學界ばかりでなく、守部自身にも、確かに一種の遊戯であつたのである。守部は.さうした修辭法から、更に、文法に突き入つて行かなければならぬ筈であつた。彼は其をすることに心がつかなかつた。
□獨學の悲しさには、當時、新に世に公にせられた、春庭風の文法は固より、富士谷派《ふじたには》の微細な動辭助辭の研究などは、隈なく理會するといふ迄には、至らなかつたに違ひない。檜嬬手の中にも、助辭に到つては、だいぶ怪しい解釋も見える。殊に、彼の明快な頭脳を曇らして.不快な妥協をなさしめたものは、音義説に拂うてゐた、彼の過信である。音義説は、統計上、或は修辭上に於てこそ意味あれ、語原研究・文章解釋の上には、價値があらうとも思はれないものなのに、彼は到る處に之をふりまはした。殊に助字本義一覧の形容詞語尾を説いたあたりを見ると、時代が人の才能を呪咀した痕が見えて傷ましい。其から又、五音相通説に煩ひせられたのは、啻に此人ばかりではないが、彼の場合には、ひと際目立つ缺點となつて見える。玉桙の道と續く訣は、所賜鉾之道《タマハリホコノミチ》だからと説き〔鐘の響〕まろ〔二字傍点〕はまれ〔二字傍点〕と通じて、うまれ〔三字傍点〕の略で、あれ〔二字傍点〕とおなじく、産れるといふ義から出た代名詞だといひ〔鐘の響〕、をがたまの木は、招魂《ヲギタマ》の木であるとして、古今博授の問(20)題の木の本質迄も、音便の上から窺はうとした〔山彦冊子〕のは、何とも惜しまれる次第である。此二書は、彼の言語に對する、直觀力と造詣とを知る事の出來る、極めて暗示に富んだ良書であるが、出來る事ならば、音義・音通の邪路を棄てゝ、更に、辛苦の油汗を流して研究して置いてくれたのだつたら、とわたし自身啓發せられた事の多い書物だけに、とりわけ、未練な繰り言もせられるのである。これも、他の人にもあることで、やはり、守部に於て、一層弊害の擴大せられてゐるのは「語原と語意とを同一に見做してゐる點である。さねさし〔鐘の響〕、あくた川〔山彦冊子〕などの解釋を讀んだならば、誰しも成程と合點のゆく事であらう。一語々々の解釋にも、勿論驚くべき卓見は澤山あるが、彼の優れてゐた鮎は、寧ろ、こみ入つた文章の解釋に在る樣である。中には、ほやのつまのいずし、すしあはび〔舟の直路〕や、山吹の立ちよそひたる山清水〔檜嬬手〕の樣な、あまり巧妙に過ぎて、とつぺうし〔五字傍点〕もない類も、尠くはないが、今尚拓き盡されてゐない、國學の曠野には、かういふ放膽な開墾者が、幾人も/\入り込んでくれねばならぬのである。彼の著書の中では、此檜嬬手・言別・道別・入綾・鐘の響・山彦冊子を推奨したく思ふのは、此爲である。
□當時、和學者の生活方便は、短歌或は狂歌の教授であつた。歌人と狂歌師との境目は、明瞭なるべくして、實は甚暖昧なものであつた。さすがに復古學派の人々は、狂歌帥の群れには投じなかつた。なかまはづれの守部も、狂歌師の一人となることは、彼の尚古癖や、氣位が許さなかつたのであらう。彼の文藝上の作物は、歿後冬照の出版した橘守部家集に、長歌・短歌ともに殘つてゐる。彼の一生の事業の中で、恐らく一番價値の少いのは、此方面の創作であつたのであらう。あれほどに記・紀・萬葉をはじめ、律文要素のある書物に沒頭してゐた人で、而も其影響が單に、知識(21)或は形式上の遊戯としては表れてゐても、内的に具體化せられてゐないのは、虚の樣な矛盾である。言語の上の技巧はあつても、諸平の樣に洗煉せられたものではなかつた。殊に、作物に表れてゐる守部の内的生活は、極めて貧弱で、年譜に見えてゐるやうな、波瀾ある半生を經て來た人とは思はれない程である。あれほど、傳習を破る事を得意としてゐた人の歌としては、殆考へられない迄に、型に因れてゐる。名あつて實なき、景樹輩の足もとにさへもよれない程の、氣の毒さである。三玉集あたりを思はせる樣な、感激のない堂上風の讀みくちに、學才を仄めかしてゐるに過ぎない。就中奇妙なのは、其長歌である。此が長歌撰格の作者かと疑はれるばかりである。唯、彼の歌格の研究が、彼自身に於てすら、無意義であつた事を、證據だてゝゐるに過ぎないのである。あれ程、毒舌を振うた濱臣の靈〔妙々奇話〕が、彼の歌才を認めてゐるのも不思議である。併し、すべての疑問が、彼が選んで、子冬照を名義者として出した、下蔭集を見て、殘る隈なく解けた。其は、此才人も、生活の爲には、かういふ邪路に安じて居なければならなかつたのだ、といふ事である。この集は、妙々奇話に見えた通り、殆、上品な狂歌集ともいふべきものである。守部は果して、創作的の才能を缺いて居たのであらうか。彼の議論研究の暗示を多く含んだ點から見ても、正しい道を、もつとのび/\と歩いて行つたなら、必立派な創作を殘すことが出來たらうと思ふ。わたしは年譜に見えてゐる、新製物語大意といふ書物を、切に見たく思ふ。唯、下蔭集でおもしろいのは、彼の門人の分布の有樣である。野州足利、上州高崎・桐生に多く、其から江戸の北部へかけて、ばら/\に續いて來て、江戸郊外の葛飾に少々、江戸に這人つては、僧侶・町人が、其重なものである。此は橘純一さんにお目にかゝつた砌、詳しく、説明を煩したいと(22)考へてゐる。
□彼の學間に於て、他人にない所のものを求めると、古代の民間信仰に、興味を持つてゐたらしい點と、音樂的修養とである。國學者の仕事は、神典擁護であつて、民間信仰迄には、多く、手が屆いてゐなかつた。俗神道大意を著した篤胤の意思も、やはり其處に在つたのである。かういふ點においても、守部は昏まされない眼をあいて、見つめてゐた。此點においては、彼は殆、獨歩の觀がある。或は少々肌違ひ乍ら、屋代弘賢あたりの影響があつたのではないかとも考へる。
□當時の學者たちが閑却してゐた、音律の研究に目を矚《つ》けた彼は、確かに一時代先に進んでゐた人である。たとひ、其は支那風の律呂の研究であつたにしても、何のさしつかへがあらう。彼の研究の對象は、其で十分に、解明せられるべき性質のものであつたのである。檜嬬手・言別・入綾の優れてゐるのは、此點に負ふ所が多い樣である。
□彼は、六十九歳で、肺病の爲に死んだ。彼の亡くなつた嘉永二年には、中村良臣・本間遊清・北村季文が前後して死んだ。其三年前の弘化三年には、岸本由豆流・伴信友、四年には小山田與清・穗井田忠友・田中大秀・村田多勢子、嘉永元年には海野幸典といふ風に、段々と、土に入つて行つた。彼は、其目ぼしい競爭者を、あらかた見送つた後で、矛盾と反抗との續きであつた、一生を綴《とぢ》めて、自身亦、牛島の長命寺に葬られることゝなつたのである。
 
(23)    萬葉集檜嬬手重版について
 
 この檜嬬手は、大正五年十二月雜誌「アララギ」の特別増刊號として出版したものであつて、守部の萬葉解説書中一番はじめに印刷公刊されたものであらうと思ふ。當時「アララギ」の經済状態では、この一書を出版するといふこと頗る困難であつたので、部數もほんの僅少に切りつめたため、其後久しく絶本になつて、需要者の望みを滿すことが出來なかつた。一昨年になつて國書刊行會から、橘守部全集が刊行されることになり、本書も全集の中に收められたため、再び公刊の機に會した訣であるが、全集中に介在してゐるため、この書のみを求めたい人には猶不便とする所があつたのである。古今書院が、萬葉集叢書を出すについて、本書を是非その中に加へたいといふので、今囘橘氏の承諾を得て、望を達することを得た。これで本書が單行本として、二度世に出る機會を得たわけであつて、萬葉研究者のために便利多いことゝ思ふ。「アララギ」から、この書を出したときは、釋迢空氏が献身的な努力をして下さつた。同氏門下伊原宇三郎鈴木金太郎萩原雄祐諸氏がこれを助けられ、外に藤澤實高木今衞二氏亦多く力を盡した。左樣にして出來あがつたものを原本として刊行するゆゑに、この事を一言添へて置くのである。橘純一氏の「橘守部年譜」佐々木信綱氏の「橘守部の萬葉學」釋迢空氏の「解題」と「橘元輔源守部」これ皆「アララギ」特別増刊號のために執筆せられたものであつて、これを今囘も卷中に收めて、研究者に便することにしたのである。
    大正十二年四月二十八日     柿蔭山房にて    島  木  赤  彦
 
(24)    萬葉集叢書刊行趣旨
 
 和歌の上に古今集以下の勅選集を排して、積極的に萬葉集歌風の復興を唱へたものは、徳川時代には賀茂眞淵であり、明治時代には正岡子規である。徳川時代にあつて、萬集集研究は眞淵を中心とするの觀があり、明治時代にあつて、萬菓集の純文學としての價値研究は、子規を源泉として汎く發達してゐるの觀がある。別に、木村正辭及び佐々木信綱氏等を主とする科學的萬葉集研究がある。今日萬葉研究の盛なるは、徳川時代の研究が少數者に限られたと同一の觀でない。殊に世界文化に對する日本國民の自覺から、自國文化の源流を温める風尚漸く萠ざすと共に、自國祖先生活感情の告白たる萬葉集を顧るもの漸く多きを加へたのは近者著しき顯象である。
 萬葉集古寫本の主なものは、少部數ながら既に寫眞版本として世に頒たれてゐる。夫れまでに拓かれた萬葉研究の途上に、徳川時代の萬葉研究書の多くが、未だ印刷に附せられずして遺つて居ることは現世の遺漏事であつて、今日萬葉研究者の齊しく不便としてゐる所である。
 本書院は夫れらの缺陷を充すために、その未だ印刷せられざる著書のうち、特に研究上の權威たるべきものを擇び、順次刊行の計畫を立てた。この計畫は頗る大規模に亙るべきものであつて、本書院の微力容易に遂行し得るか否かを危惧するの程度にあること、大方の理解する所であらうと信ずる。唯出版業者として奉仕すべき所に從ふの決心を似て、今囘これに着手するに至つたのである。今日萬葉研究普及の状は前述の如くである。これら研究に從へる學者思想(25)家文人詩人歌人諸賢が、本計畫に對して理解ある賛意を寄せられ、その援助によつてこの擧が完成せられたならばその幸慶は啻に本書院の一私事に關らないと信ずるのである。茲に萬葉集叢書刊行の趣旨を明かにし、併せて本計畫の大概を公開する。
第 一 輯 富士谷御杖著  萬葉集燈     既 刊
第 二 輯 荷田春滿著   萬葉集僻案抄   既 刊
第 三 輯 橘 守部著   萬葉集檜嬬手   既 刊
弟 四 輯 荒木田久老著  萬葉考槻落葉   既 刊
第 五 輯 岸本由豆流著  萬葉集攷證 全六冊 第一卷既刊
第 六 輯 下河邊長流著  萬葉集管見    近 刊
弟 七 輯 北村季吟著   萬葉集拾穂抄   續 刊
    以下計畫順次發表
  大正十三年十一月      古今書院主人
 
       (2006年6月20日火曜日午後3時30分、入力終了)
       (2007年3月29日木曜日午後4時4分、校正終了)