折口信夫全集第十六卷 民俗學篇2 中公文庫、1976.11.10(91.12.15.4p)
 
(282) 新嘗と東歌  昭和二十八年十一月刊「新嘗の研究」創元社
 
にへ〔二字傍線〕に關聯したにほ〔二字傍線〕を柳田先生が御紹介になつた。日本の民俗學が起る前から學者の考へ方は、大體まとまつてゐる。その間違ひを、われ/\が少しづゝ直してゐる。しかし民俗學者と、古いしきたりや儀式を調べてゐる人との間には、感覺の相違があつて、話がなめらかに行かない。しかし民俗學もだん/\と進歩して來てゐる。
萬葉の東歌に同種のものが二首ある。常陸風土記にも新嘗の有樣が出てゐる。
 にほどりの かつしかわせを にへすとも、そのかなしきを とにたてめやも
にほどりの〔五字傍線〕はかつしか〔四字傍線〕(かつく〔三字傍線〕はもぐる意)の枕詞。にへ〔二字傍線〕は食物で、肉でも穀物・野菜でもよい。勿論、料理してある場合が多い。神や天子(神の資格において)に捧げるものを意味する。にへ〔二字傍線〕を扱ふ人をにへびと〔四字傍線〕と言つた。(犠牲と比較)
 たれぞ このやのとおそふる。にふなみに わがせをやりて、いはふこのとを
にふなみ〔四字傍線〕とはにへ〔二字傍線〕のものいみ〔四字傍線〕、即、早稻《ワセ》を料理してさしあげる物忌みである。その時は、家人が(283)出はらつて女だけ殘つてゐる。そこへ訪れてくる愛人を空想してこの歌は出來てゐる。しかしその男はどんな男であらうか。それはわからないが、とにかく誰かゞ出て來ることを信じてゐる。そしてそれを迎へる人は、家に殘つてゐる處女だと考へたのであらう。この歌は、文學が出て來る準備時代の低級なふいくしよん〔六字傍点〕を持つたものであつて、その夜あらはれる人(即、神)と愛人とをすりかへたものであらう。當時はまだもの忌みの夜の宿に男を入れるところまで進んでゐるはずがないから、來られるのはにひなめ〔四字傍線〕の饗應を受ける神である。この夜は神の言ふなりになるから戀愛の感じが生れる。なほこの民謡は女が作つたものか、男が作つたものかはわからぬが、歌の上の待つ者は女であるはずだ。
常陸風土記の筑波郡の條に、
 古老曰、昔祖神尊巡行諸神之處到駿河國福慈岳、卒遇日暮請欲寓宿、此時福慈神答曰、新粟初嘗家内諱忌、今日之間冀許不堪(中略)更登筑波岳亦請容止、此時筑波神答曰、今夜雖新粟嘗不敢不奉令旨、爰設飲食敬拜祇承。
とある。新嘗の晩、みおやのかみ〔六字傍線〕が、ふじ〔二字傍線〕とつくば〔三字傍線〕の姉妹山を訪れる。みおや〔三字傍線〕とは普通おかあさん、またはおばあさんを言ふこともある。天から、おかあさんの神樣がやつてくるが、ふじ〔二字傍線〕は宿を斷る。つくば〔三字傍線〕は泊めてあげる。ふじ〔二字傍線〕はそのために憎まれ、つくば〔三字傍線〕は愛賞されて年中人が喜んで登る山となつた。神の好きなことを行つたものが神に嫌はれ、神の嫌ひなことをして神に好かれ(284)るといふ矛盾が出てゐる。この風土記説話と萬葉の歌とを比べてみると、大體、萬葉の東歌の方が新しいと思はれるが、まづ殆同時代に、東國のにひなめのことが、萬葉と常陸風土記に出てゐるので引用した。とにかく、貴い母神さへも入れなかつたぐらゐ、そのもの忌みは嚴重だつたと考へられる。
鎌倉時代の萬葉研究者仙覺律師は、すでに萬葉抄において、にひなめ〔四字傍線〕とにはなひ〔四字傍線〕といふことを一處にしてゐた。にはなひ〔四字傍線〕とは、刈り上げがすんで、男たちが庭で繩をなふにはなひ〔四字傍線〕行のことである。それはにひなめ〔四字傍線〕の時分であり、休日であつた(山形縣鶴岡の人、三矢重松先生談)。にひなめ〔四字傍線〕といふ言葉が必しも最初だとは言へぬ。われ/\の頭にこれが固く入つて破りにくいが、にふなみ〔四字傍線〕とか、それに類似した言葉があつたとすると、にひなめ〔四字傍線〕の言葉の意味を、もつと自由に考へる必要がある。
日本のことを、をすくに〔四字傍線〕とほめるが、直譯すれば、天の神の「おあがりになる國」といふことになる。即「おあがりになるものを作る國」といふ意味であらう。この例をみると、にひなめ〔四字傍線〕も新しくなめる〔三字傍線〕でよいとも考へられる。しかしなめる〔三字傍線〕と食ふとは全然違ふ。なめるとは、舌などで表面をなめらかにする意味が原義であり、嘗はなめる〔三字傍線〕とはならない。從つて「にひなめ=新しく嘗める」と解することは出來ない。
東歌に殘つてゐるにふなみ〔四字傍線〕といふ形が、一番古いものゝ現存してゐるものと思ふ。言葉の意味も(285)かなり完全である。神に早稻を料理してさしあげる物忌み期間の生活である。たゞしにへ〔二字傍線〕をすること、即、にへす〔三字傍線〕とか、にふなみす〔五字傍線〕とかはにふなみ〔四字傍線〕、即、にひなめ〔四字傍線〕の晩だけなのか、他の場合にもあつたのか問題である。また他の神に對しても言つてゐたかも知れない。神がお米をめしあがる場合、かんなめ〔四字傍線〕や、あひなめ〔四字傍線〕や、神今食のごとく、神單獨のものと、神と天子と共食の場合とがある。これらすべてをにふなみ〔四字傍線〕と言つたかどうか訣らない。しかし、早稻のにひなめ〔四字傍線〕の場合に言つたことだけは確かである。これは宮廷でも行はれるが、民間にもある。宮廷も農村の大家《オホヤケ》として、農村の行事を行つたわけである。どちらが先といふ證據はないが、兩立した期間の長かつたことは確實である。しかし兩者の間に相違はあらう。民間も地方によつていろ/\違ふ。神や天子が穀物をめしあがる儀式が、度々繰り返されることは宮中に屡ある。新嘗に限らず、穀物を神にあげる物忌みを、屡、天子がなされたと考へられる。日本は古い國だから、特殊のふおくろあ〔五字傍点〕を持ち、種類が多い。田の神を祭るについても、いろ/\の儀式をする。今日の民間傳承では、田の神は刈り上げ後、山に登るといふことに一致してゐるところが多い。しかし田の神が山に登つたと考へないところもある。最近能登のあへのこと〔五字傍線〕(こと〔二字傍線〕とは家庭の祭り)がしきりに報告されてゐる。そこでは家の主人が、田の神を田に迎へに行つて家に御案内し、入浴させ、座敷の中の正座に坐らせ、御飯をすゝめる。そのやうにして春まで家に泊めておくのである。田の神は始終水につかつてゐるから盲であると考へた。
(286)新嘗を何のために行ふかといふ目的、誰のために行ふかの問題、誰を迎へるのか――田の神か、穀物の神か、それともまた別の神か――の問題がある。常陸風土記のごとく、天から下りたみおや〔三字傍線〕神とは、その土地に居ない別の神を意味してゐるやうである。他界の神が、ごく稀にその國に來るのを迎へるのかも知れぬ。岡正雄氏は「異人」といふ。われ/\は「まれびと」と言ふ。その他に考へねばならないのは、田の神だけでなく、お米の神もありはしないかと言ふことである。散飯《サバ》といつて、お米を盛つた上側をとつて撒くのは、米を精靈とすることであつて、神道でもこの信仰が存外根深い。これをもつて惡いものを追ひ散らすと考へてゐる。
日本で家の中にゐる神を考へたのは、倉の神が古いのではないか。貴い神はわれ/\の傍を遠ざかつてゐるが、身分の低い神は身近にゐる。庶物崇拜の對象である、でもん〔三字傍点〕とか、すぴりつと〔五字傍点〕の如きものは身の周圍に澤山ゐる。米の精靈はくら〔二字傍線〕の上に祭つてある。みくらたなのかみ〔八字傍線〕がそれであり、くらだな〔四字傍線〕とは神座としてのくら〔二字傍線〕のことである。靈は玉でしんぼらいず〔六字傍点〕されることもある。伊豆七島や、琉球には一本或は少數の柱を立てゝ、その上に穀物を置く風習が殘つてゐる。古くは、わづかの覆ひをしてあつたのであらう。地上のものが上つて行けぬやう、鼠などが上らぬやうに作つて、高倉といふ名が行はれてゐる。われ/\は今日このくら〔二字傍線〕が神聖な建物だといふ考へを忘れてゐるが、問題はあらう。こゝまで發達しないのが、柳田先生の言はれるしら〔二字傍線〕で、沖繩の南部にあるものである。簡單なのは柱を一本立て、これによせて稻の刈り株を績み重ねてゐる。(287)沖繩のしら〔二字傍線〕が少し複雜化し、造形的に見るべきものになつたのが内地のにほ〔二字傍線〕である。これが段々發達して、屋根まで出來るやうになつて、くらの形が備はるのである。
にへ〔二字傍線〕の系統の言葉は日本の文化と關係が深い。これは神にあげる食物を調理する方法手段の分化したひとつの形で、にへ〔二字傍線〕を置く祭壇をにほ〔二字傍線〕と言つたものだらうか。ともかく神と、食物と、祭りに聯關してゐると思はれる。
常陸風土記には母神が出て來るが、古事記・日本紀には、雄路天皇の時遣ひ拂はれた二貴公子(後の顯宗・仁賢兩帝)が、播磨の奥の縮見細目《シヾミノホソメ》の家に居られた時のことが書いてある。その家へ都から來目部小楯《クメベノヲタテ》がにひなめ使ひ〔六字傍線〕としてやつて來た。それを饗應せなければならぬ。昔のまれびと〔四字傍線〕は豪勢なふるまひを受けたものである。この場合は殊に都からやつて來た宮廷の使ひであるから、接待にはいろ/\のことをしてゐる。二皇子が互にゆづり合ひ、弟の方が舞をまひ、幾つかの歌を歌つた。まれびと〔四字傍点〕を饗應する場合は、普通主人と、主人に言ひつけられて接待する役がする。この役は普通女性で、主人の近親で舞をまふ人が出る。客から所望されゝば客人の自由になる。この事は後まで、人妻との間にもつれた關係を殘すもとゝもなつたが、日本ではまつり〔三字傍点〕の生活とふだんの場合とで、はつきりした區別があつた。上記の例では女の代りに皇子が舞つたが、これは家に居る精靈の形ではなかつたらうか。その位置にお米の神が立つのではないだらうか。これはまだ今のところ想像である。宮中では新嘗のお米を運ぶとき警蹕をかけた。それは神か、(288)またはそれに類するものが現れることを意味するらしい。これは前掌典星野輝興氏の説である。この場合、稻が神であり、にひなめ〔四字傍線〕の行事に蹈の精靈が出てくると考へてよからう。だからまた、おそらくにひなめ〔四字傍線〕に類した行事の行はれる時にも、稱の神が出て來るものと見てよいだらう。にひなめ〔四字傍線〕に迎へられた客の中でも、田の神以外のものがそこに出て來る。
ところがこゝに、説明の出來さうもない問題が出て來る。即、米を神に食べさせることに關する祭りがある。六月と十二月の神今食で、月竝祭に關聯して行はれる。九月には神嘗祭があり、神宮に早稻を奉る時に、宮中で儀式を行ふ。にひなめ〔四字傍線〕に先立つ上の卯の日にあひなめ〔四字傍線〕があり、下の卯の日ににひなめ〔四字傍線〕があり、更にこれに關聯していろ/\のことがある。
天子が由緒ある神々に、食物を贈り物とすると同時に、自らも食されるから、あひなめ〔四字傍線〕だと言はれるが、必しもさう決つてゐない。それより遲れてにひなめ〔四字傍線〕がある。それに似たことゝしては、十二月にその時の天子に關係深い陵墓(祖先・外戚)にお米を供へる。これをのざきづかひ〔六字傍線〕といふ。曾て生きてゐた人とか、生きてゐると同じ感じのするものに對して行ふのである。秋になつての米に關係した行事は、以上のやうである。
神今食はじんこんじき〔六字傍線〕、またはかむいまけ〔五字傍線〕などゝ訓んでゐる。大殿祭と月竝祭と合さつたものである。建物の關係のある祭りに留るものでありさうだが、食物の祭りの時にもこれがついて廻る。これは新しい建物をたてなければ、食物の祭りは出來なかつたからである。この建築物が神を迎へ(289)る對象となる。しかし手順を省くために屋根のみ取りかへたり、形式的な施設をするだけですませる。(にひむろほがひ)
月竝祭と關聯する神今食は、秋と必しも關係ない。神武天皇が兄磯城・弟磯城を撃たれた時の歌に、
 たゝかへば われはやゑぬ。しまつとり うかひがとも いますけにこね (日本紀)
とある。すけ〔二字傍線〕は助力であるが、これはたゞそれだけでなく、すけ〔二字傍線〕・すく〔二字傍線〕の古意、喰ふの義が殘つてゐるのである。祭時の聖餐を喰ふ――それがすく〔二字傍線〕なのであらう。ある儀式によつて食べることにより、新しい靈魂が身に這入り、元氣になり復活することを考へてゐたのである。ゑぬ〔二字傍線〕のゑ〔傍点〕は、それに先立つ禁欲生活のために、をえ〔二字傍線〕(をゆ)即、萎微する。極度に衰へて後、元氣を盛り返すことである。
天子の復活式が一年の間に何囘かあつたのではないか。月竝祭を六月と十二月とにすることは、大祓と同じで、一年を二つに割つたことであるが、毎月のことを省略したものとも思へない。大祓は毎月行つてゐたみそぎ〔三字傍点〕(實際水につかつたか、祓へをしたゞけかは訣らないが)を二度にしたものと考へられる。月竝祭に似たものは、二月はじめの祈年祭で、これも穀物の祭りである。月竝祭と關係ある神今食も、大嘗祭と同じことを行つてゐたものらしい。このまつり〔三字傍点〕に設けられる天子のしとねと、さか枕は、普通寢る時か、死んだ時の状態と考へられる。而もそこには死骸(290)があつたのだと解釋する人もゐるが、これは考へ過ぎではないか。枕で一時眠つて、復活をあらはすとも言へる。かむいまけ〔五字傍線〕といふ訓みかたは、直訓でかむいますけ〔六字傍線〕と訓みかへるのが本道ではないか。新しい飲食によつて復活する儀式の意味らしい。この場合天子御一人だけではなく、祭りを受けに來るものがあるといふのが根本的な思想であるが、それは天子以外われ/\にはわからない。しかし宮廷における神秘な經驗も忘れられてゆく。宮中では天子が主人で、天子の外に更に尊い神を考へることは出來ない。饗應の主人は天子で、饗應をうけるものが來るとすれば、それは神であり、天子と同一人であるといふことにもなる。この場合には主人とまれびと〔四字傍線〕とが同一體となる。しかしそれは、われ/\には永遠に解決できぬ問題である。
神嘗祭は伊勢神宮が主であり、宮廷の儀式は隨伴儀禮のやうであるが、伊勢で九月に行ふのは、はしり〔三字傍点〕の早稻を供へるからである。日本の宮廷が存在する理由は、大昔の人にとつては疑ひのないことであつた。それは天の神の言ひつけで、「をすくに」に稻を作りに來られたのである。從つて稻を作つたら、まづどうしても祖先にお供へしなくてはならぬわけであつた。たゞし、この稻は、宮廷の直轄の田で作られたものか、或は諸國からの貢物かは問題である。
それから地方のにひなめ〔四字傍線〕や、あひなめ〔四字傍線〕があり、宮中のにひなめ〔四字傍線〕が一番遲れることの問題がある。前者は地方で米を刈り上げて、地方の新嘗をすませてから朝廷に運ぶためであらうが、後者は宮中から米を供へられるところに問題がある。しかしこれは、さしてむつかしいことではないと思(291)ふ。かむなめ〔四字傍線〕とか、あひなめ〔四字傍線〕とか、はじめからなめ〔二字傍線〕と言うつたかどうかはわからない。おほむべ〔四字傍線〕とは早くから言つたらしく、寧、おほなめ〔四字傍線〕とか、おほにへ〔四字傍線〕と言つたかはわからない。
刈り上げ祭りの地方習俗を見ると變つたことがあるが、信仰の名ごりと考へないではすまされぬものが多い。伊豆七島に行くと、刈り上げ祭りの時分になると、「いほり」のやうなものをこしらへる。そして藁づと〔三字傍点〕のやうに小さいものを立てる。これが伊豆の半島へ戻ると、やゝ大きいものになり、建築のたてまへの時の弓矢のやうなものが立つてゐるところがあつて、これを見てはつ〔二字傍点〕とすることがある。その説明ははつきり出來ないが、それらの類例を多く集めると何らかの説明が出來るであらう。つまり日本の國は信仰の殘骸が多く殘つてゐるから、いろ/\のものがあるうちに、出來るだけ見學して實感を得ておいて、感情の上の比較研究を行へば、相當な學問上の収穫をあげることが出來ると思ふ。併しこれはまた、危險な分子を件ふこともある。ふおくろあ〔五字傍点〕の學問の根柢は、種々のものに接して感覺を練磨しておく要があると思ふ。
 
 
(292) 常世浪     【昭和十三年三月「新日本」第一卷第三號】
 
 兒らに戀ひ、朝戸を開き 我が居れば、常世《トコヨ》の濱の浪の音《ト》 聞ゆ
ほうつと大息一つついて、海龍宮の歡びを飽き離れて來た浦島兒《ウラシマゴ》の歌と傳へるものが、此である。「浦島子傳」と言ふ中篇小説――日本文學の形式から言へは、さう言はねばならぬ。が今の分類からすれば、短篇である――が、一種にとゞまらない。其から見ても、恐らくもつと多く代々の文人が、この極めて稀な文學的な題材を、古き我々自身の中にあつたことを見遁して居はしなかつたであらう。
この歌の風から見ると、藤原・奈良の都の頃に居た伊豫部《イヨベ》(ノ)馬養《ウマカヒ》など言ふ學者の息のかゝつて居る短歌と見てもよいやうである。又さう謂つてもよいほど、舊い叙事詩の間に插まれ遺つた歌群と違つた新しい「文學」を持つて居るやうである。
さうだとすれば、丹後の國宰《コクサイ》であつた馬養が、此歌を含めて作つた浦島子傳なるものは、一つの飜作叙事文であつたと見てよいのである。即、この晉唐式な小説には、更に原型のあつたものと(293)見るのが、ほんたうである。丹後國與謝(ノ)郡|日置《ヒオキ》(ノ)里筒川(ノ)村の舊族日下部氏等の間に傳つた物語が、其一等古い形だつたと見てよいと思はれる。
「筒川」は、昔の地理觀念から言へば、竹野の郡にも跨つてゐるものと考へられて居たであらう。かうした言ひ分は、以前からあつた浦島生地の爭ひを仲裁して居るやうなことになる。
こゝは遠く東北に唯「越前崎」を望み、北は海阪《ウナザカ》を越しても更に海波《カイハ》たゆたふ海である。此等舊國の人々の持つた想像が、我々の心にも浮んで來ずには居ない。
その荒波を越えて、つぬがのあらしと〔八字傍線〕の來りよつた岸も、田道間守《タヂマモリ》がときじくのかくの〔八字傍線〕木の實を覓めに出かけた海も、こゝから續いて東西に望み見ることが出來たのである。
海の彼方に在るとした古代曰本人の空想の土《ツチ》「常世《トコヨ》の國」は、丹波丹後の人々の考へでは、此あたりの渚から、眞向うに當るとして居たのであらう。もつとずつと西へ赴いて、出石人《イヅシビト》の國々を越えた向うの出雲《イヅモ》びとたちは、亦やはり海彼岸《カイヒガン》に同樣な樂土を想うて居た。海岸の窟から、そこへの通ひ路があつて、其島から小さな神が異風な船に乘つて來たなどゝ傳へを殘してゐる。富みに滿ち、齢足り、其上戀幸さへ思ひのまゝの理想郷は、だから、此村人の一「島兒《シマゴ》」の眼前にも、ゆくりなく出現したのであつた。
後世、別の傳へもあつて、浦島の這入つたのは、名越《ナゴヤ》の窟と言つたとしてある。元は「藐姑射の仙室」と語つたのを、源平盛衰記では、武人の感情に近い地名|名越《ナゴヤ》に聯想して語り傳へたのかと(294)も思はれる。海のあなたの國土への通ひ路が、單に波の上を航するばかりでなく、もつとてつとり〔四字傍点〕早く、海岸の巖窟からも開けてゐるとすることに、同じ陸續きの出雲古風土記にも類例があつた。
常世を棄てゝ還つた浦島兒ばかりが、海のあなたの國に、やる方ない憧れを放つたのではなかつた。山陰道においてこそ、常世の濱は北の煙波を隔てゝ想ひ見られたが、國により地勢によつて、樣々の方向にあくがれ〔四字傍点〕の島を想像したのであつた。南にE漫を擁く土地では、だから南方の海上に、西に大洋を望む地方で日の入る所に、各常世の國を考へて居たのである。
此ほど信じられて居た常世の國だが、何時か其名稱は消え失せてしまつて、今曰では方言にも凡、その痕跡の見るべきものがなくなつて居る。唯其かとも思へるし、又さう考へるすら氣のさす〔四字傍点〕語がある。七草を囃す時に唱へた、
 とおと〔三字傍点〕の鳥が、日本の土地へ渡らぬさきに、七《ナヽ》ぐさ なづな……
など大同小異の咒詞のとお〔三字傍点〕とが、或は其かとも思はれないでもない。東方は日の生れ出づる處として、常世の國を考へるのに適當であつたらしく、伊勢・常陸その他の國々にもさう傳へて居た。
 時に、天照大神、倭姫(ノ)命に誨《ヲシ》へて曰はく、
  この神風の伊勢の國は、則、常世《トコヨ》の浪の重浪《シキナミ》歸《ヨス》る國なり。傍國《カタクニ》の可怜國《ウマシクニ》なり。この國に居ら(295)まく欲りす……。
常世の渚に向つた土地、常世の波のうち寄する國と言ふことが、古代人の國讃美《クニボメ》に使はれた樣子が察せられる。ちようど日向《ヒムカヒ》と言ふ語が、後に國の名として「日向《ヒムカ》」と固定したが、之は東受けの水潔く家作りに叶うた土地の頌《タヽ》へ詞《ゴト》であつたのと同じである。
「常世の濱の浪の音」と言ふ語も、我々を心ゆかするほど幽かな韻きを持つてゐる。が、『杳かな海のあなたの樂土の岸拍つ浪が聞える』と詩的に解釋しては、力負けする訣である。常世で聞いた濱の浪の音が、こゝもとにもうち寄せると言ふものと思はねば、島兒の歌にはならないだらう。歌は浦島子傳に即かず離れずの意味を持つて居ると思はれる。唯の戀歌などではなく、常世浪に神秘を感じた時代の信仰を寓して居るのである。「とこよ」の語音は、何時か同義の他の語と變替して、其痕跡すら近世に殘さなくなつたが、其心意の上に於ける傳承は、今におき色々な形で保存せられてゐる。常世浪に乘つて來訪する異人の物語は、今が今咄すことゝしても、咄嗟に緒口を見つける事の出來ぬほど、多樣に傳はり變つてゐる。私にも、春の初潮《ハツジホ》の話だけなら、こゝにも書くことが出來る。
俳諧に今も使はれて居る季題の「はつ汐」は、八月の大潮《オホシホ》を言ふ樣になつてゐる。其で、葉月汐《ハツキシホ》だらうと言ふ風の説もある。けれども月々の大潮を初汐とも若汐《ワカシホ》とも言ふことから考へれば、其では語原の解釋にはならない訣である。私は、多くの類例から推して言ふことが出來る。一年の(296)初潮の名が、毎月の大潮の名にも、又最注意を惹く八月十五日の大潮にも言ふやうになつたとするのだ。「小正月」の十五日が、凡古代の暦法における眞の元日と考へてもよいのだから、此月の湖が、初汐と言はれるのは、不思議はない。後世までも正月元日の外に、小正月《コシヤウグワツ》が、一つの元日と言ふ風に考へられて來たのである。さうして見れば、初汐と言ふ語が、何時までも活きた感覺を伴うて居たことも察せられよう。だが初汐に關聯した信仰は、暦の考へ方の變化によつて、次第に移らずには居なかつた。年の初めの最吉い日に寄せ來る浪が、即、常世の潮だとするやうになる。つまり吉い日のとり方によつて、其日の潮を特殊なものと感じるやうになつたのである。だが直觀的には、最盛んに汐の漲り來る日を擇《ト》るものでありさうに思はれる。だが、其は單なる常識である。邑落の分立は、又其々風俗の他と違つた、孤立した形を作つて來る。だから眞の大潮の日は、目に見て知つて居ても、必しも其日が常世浪寄る日とも考へない村が多くなつて來た。早い話が、元旦を其とするのもあるが、土地によつては、七日(六日)・十一日・十五日(十四日)・節分などに印象を止めてゐる。田の作事をはじめたり、器具類を水に洗つたり、又水に浸つたり、七夕の樣に立て嚴《カザ》りの物や、書き物を流したりするのも、皆新しい、幸多い水の來る日と信じるからである。其うち、六日・十四日は、「七日」の前夜、「十五日」の宵と言ふ考へからするので、今もある祭りの宵日の、神事を嚴重に行ふ考へと一つである。
若水を迎へる役は、大體家の男――年男《トシヲトコ》・若男《ワカヲトコ》など言ふ名で稱せられる者の爲事の一つと言ふ風(297)になつて居るが、必しも女が之をしないとも、又之をするのが後代風だとも言へないと思ふ。ともかくも、此朝の水を其程神聖視するのは、常用の井川《ヰカハ》の水路に、通ふ水が其日だけ違ふと考へたのである。即、常世の浪が通ひ來るものと信じて居たからだ。常世の水なら、鹹味《シホケ》を持たねばならぬ筈と思はれるが、なぜか淡水《マミヅ》と考へて居た。
我々の信仰では、禊ぎは何時でも臨時に行ふことが出來ると考へて居る。けれども、やはりさうでなかつた。恒例の禊ぎは、時期がかつきりときまつて居た。即、常世浪よる日、其海岸で水浴みをしたのだ。その浪も、地下を潜つて何處までも行くと考へられて居ながら、同時に亦きまつた海岸、きまつた井川にしか源頭《ゲントウ》が現れないものと見られて居た。常世の水は、元、老いを知らぬ國の所産だから、之を浴み又之を呑む人は若やいだ。即、若さが返《カヘ》つて來るのだ。此作用を「若ゆ」と言ひ、「をつ」とも稱した。變若水《ヘンジヤクスヰ》と書いて、をちみづ〔四字傍線〕と訓ましてゐる。變若水がもてはやされた結果、字面は變水と書いても訣るやうになつて居た。友人武田祐吉が 「戀水」を「變水」と見て、變若水即、をちみづと訓を下すまでは、戀の水だから涙だと謂つた、落し咄にもならない舊説が行はれてゐた。萬葉集には「月のをち水」とあつて、月の世界にあるものと考へた樣にも思はれるが、元來、滿月の大汐《オホシホ》との關係を思へば、必しも、
 天梯《アマハシ》も長くもがも。高山も高くもがも。月讀《ツクヨミ》の所持《モタ》る變若水《ヲチミヅ》いとり來て、君《キミ》に獻《マツ》りて、變若《チチ》得しむもの  (卷十三、三二四五)
(298)とある樣に、月の所有と考へたものとばかりも思はないでよい。月が之を自由にしてゐると謂つた意味での「月のをち水」・「月讀《ツクヨミ》のもたるをち水」と言ふ語であつたものと私は思ふ。
此をつ〔二字傍点〕・をち〔二字傍点〕と言ふ語も、萬葉時代にはもつと廣くも使はれた樣だが、後にはさつぱり跡を斷つて、唯傳説の上に命のないものとなつた。此と同じ筋道を辿つたとこよ〔三字傍線〕について、今一度ふりかへつて見よう。先に述べようとした「とおとの鳥」など言ふのも、いろ/\に考へられて居る。唐土《タウト》の鳥とするのが普通である。柳田先生が「年中行事標目」にも採用せられたが、信州上水内郡邊の暮の魂祭りを「とうどたで」と言ふのも、年末歳始に訪れるもの〔二字傍点〕の本土が「とうど」だつたことを示してゐる。ある時には、七草を敲く時の囃し詞かと考へた。其と一つ系統の左義長《サギツチヤウ》のどんど燒き、之をとんど〔三字傍線〕と言ふのと、とんと〔三字傍線〕と言ふのが、上方風だから、とうと〔三字傍線〕はとんと〔三字傍線〕だ。即、囃しは囃しでも左義長の囃し詞と一つの語だと考へたこともある。が、其も尚苦しい説明のやうだ。とこよ〔三字傍線〕の鳥が何時か、とうきよ〔四字傍線〕、とうよ〔三字傍線〕など言ふ徑路を經てゐる中に、音韻以外の聯想による言語變化の作用によつて、飛躍してとうと〔三字傍線〕と言ふ風になつたと見られさうに思ふ。だから、「とうと〔三字傍線〕の鳥と日本の鳥が」と謂ひ「とうと〔三字傍線〕の鳥と田舍の鳥が」と言ふ、皆何か古代人の感情を忘却しきらずに、ある俤を留めてゐるやうに思ふ。異郷の鳥と言ふ聯想は、つき纏つてゐるのである。但、その鳥は此|土《ド》の人に災ひを與へるやうに思はれてゐるが、其とて別にとりとめた傳へもない。
(299)鳥を忌んで避けようとする氣分が、此の咒詞に出てゐるのは、一つは鳥追ひ行事の影響を甚しく受けてゐるのである。寧、七草の儀式については、常世の鳥が渡つて來るのが、待ち遠なる事を言ふ詞だつたのが、推移を重ねて、あゝした續き合ひの文句になつて行つたものと思ふ方がよい樣だ。
鳥追ひの式は、大抵二人かけ合ひになつて居た。よく/\の場合には、一人で行ふ場合もあつたかして、近代には「一人鳥追《ヒトリトリオ》ひ」など言ふ乞士《ホカヒ》の役もあつた。「これは誰《タ》が鳥追ひ」と、鳥追ひの目的を問ふ者と、其に答へる鳥追ひの大夫とも言ふべきものがあつて、「誰其《ダレソレ》の鳥追ひ」「何々殿の鳥追ひ」と言ふ風に、段々高い所から低い所へ唱へ及して行く。若水迎へとおなじ考へ方だが、少し抽象的になつた言ひ方に、「若菜迎へ」と言ふのがある。することはやはり同じで、七草を俎板の上で叩くのである。片手に庖丁はまづ普通だが、今片手は擂子木を把る地方も、杓子を持つ處もある。杓子は特にでりけいと〔五字傍線〕な意義がこもつて居るのだが、擂子木の方は、單にさうした形に似よつて行つたと言ふだけで、此類の棒は、色々の木で色々の形に出來てゐる樣である。結局、卯杖《ウヅヱ》など言はれた物と、根柢の考へは一つで、子を孕ませる咒ひの嫁叩き棒・果實を成らせるほんだり〔四字傍線〕棒など言ふものと共通する信仰を持つて居たのである。此|七草敲《ナヽグサタヽ》きの音色をなるべく效果あらせるやう、樣々工夫せられたものである。だから、其音を持つて鳥を遂ひやるのだとか、鬼魅を拂ふのだとか言ふのはいけない考へだ。此新しい食物に靈(300)的な機能を持たせる爲、權威ある魂を之につけようとするものであらう。あゝ謂ふ共鳴腔の樣な形を持つたものは、其を叩くことによつて、よい活力の魂を呼び起すものと信じてゐたからである。正月四日にも七草にもする初山《ハツヤマ》入りに、山の鴉を呼んで、食物を投げ與へる農家の行事は極めて廣く行はれてゐる。餅や粢《シトギ》や米を持つて山へ行つて呼び立てると、鴉が忽然と姿を顯して來るものゝやうに、大抵どこでも言つて居る。此だつて鳥を集めて食ひ分《ブン》を投げ與へ、又更に新しく放逐するのだと見れば其までだが、其には如何にも手順が混み入り過ぎてゐる。私どもは寧、初山に招かれる鳥が、鴉にきまつた原因の方が知りたい位で、以前はもつと變つた鳥の來るとした地方も多かつたのだらうと思ふ。烏でなくて、年の始めには、鼠などにもさうした形はある。此は我等の先生にも其考へがおありのやうだ。唯、鴉を以て迎へられて來るものがあつたと見ることに、私の考へが傾いて居る。魂は多く鳥の形で、人界《ニンガイ》に現れると考へて居たからである。
とおと〔三字傍線〕の鳥が、數次の音韻變化を經た常世の鳥であり、早く唐土と謂つた聯想を伴うて居たとする語原説などは、なり立つても、なり立たなくとも、七草敲きの意義は知れるのである。逐ふ方《ハウ》を主として考へるのは後代の事で、其は鳥追ひの領分に喰ひこんだ訣である。七草では寧、鳥の形をした常世の稀客《マレビト》や魂を呼び迎へて、優れた力を食物の中にみいらせよう〔六字傍点〕とするにあつたのであらう。其でなくては、さうした敲き菜を以て作つた七草粥を祝ふ理くつが立たないのである。七草の唱へ詞なども、早く訛り散らして日本全國の分を皆集めて比較研究して見たところで、原(301)形は辿る事が出來なくなつて居る。ちようど、「お月さまいくつ」の童謡なるものが、つきつめて行つても、も一つと言ふ最後の形に達する事が出來ないと同樣である。つまりは、常世の鳥を考へて居た昔から、七草を敲く式があつたとも言へないし、其を粥に入れて羮の樣にすると言つた風が、ずつと一續きに整うたまゝで傳つて來たとも斷言出來る訣でもない。時によつてわりこんで來たものもあらうし、中途で消えたのもあるに違ひない。其間に唱へ詞ばかりが、素直に原形を傳へて、曲りなりにでもずつと殘るなどゝは、どうしても考へられないのである。
七草の事を言へば、まづ第一に春の若草になぜ七種《ナヽグサ》の草を擇んだのか、さうして其が秋の七草と、どう言ふ關係があるのか、其よりも第一、若菜を煮た汁が、人間の生命に、どう言ふ幸福な變化を與へるものと考へたのか、かうしたことの方が問題になつて來るのだ。
世間でする年中行事を、私は「生活の古典」と稱してゐる。我々は文學・文獻の古典に、生命の新しい泉を求めるやうに、常人は、くめども盡きぬ民族生命の歴史を、此生活の古典から得てゐるのだ。生活の古典を忘れ行く我々の寂しさ。併し今また、常世の浪は、私どもの地下に幽かに沸る音を立てゝゐるではないか。
 
(302) 久米部の話        草稿
 
こゝには唯片端、韮とはじかみ〔四字傍点〕との詞章に絡んだことだけを申したい。
 ……かみらひともと そねがもと そねめつなぎて……
 ……かきもとに うゑしはじかみ くちひゞく……
くめ〔二字傍点〕或は、久米の子の枕詞に當るらしい、「みつ/\し」についても、まだ結論に達したと思ふまでには到つて居ぬ氣がする。だが、此は別の機會を得るまで、考へを熱させて置きたいと思ふ。こゝ垣下《カキモト》から述べて行く。
かきもと〔四字傍線〕は後にかいもと〔四字傍線〕と發音し又、宛てた字面どほり發音することになつた「垣下《エンガ》」と言ふ語の持つてゐる内容が、既に此聖歌にあるものと見るべきであらう。宴歌として發生し、又おなじ機會にくり返されて來たものであらうから、中世宮廷・公家の饗宴の時の陪賓をさすに到つた理由が、この中に見られるものと考へてよいのではないか。
わが國饗宴の古式、主賓は必、神として遇した。陪賓亦伴神としてあへしらうたことは、疑ひも(303)ない。近代に到るまで、饗宴の賓客に對する心持ちは、皆そのとほりであつた。
中世の垣下と呼ばれる方々、親王・諸王・公卿に到るまで、皆殿上の端の座につくが、此は饗宴が一座の中に行はれるものと考へられるやうになつてからの形式であらう。殿上と庭上とに通じて、宴の座が考へられるものとすれば、端居の陪席者の居處は、自ら庭にさがつて設けられた筈である。さうあつてこそ、垣下と言はれた理由も訣るのである。
主賓は直に堂に昇り、陪從者は、庭上垣下に蹲踞すると言ふのが、うたげ〔三字傍点〕の最古い掟だつたので、其でかいもと〔四字傍点〕と發音し、垣下と宛てる語が遺つて來たものと思はれる。陪席の客の位置が高まつた爲に、端居でも地下《ヂゲ》には据ゑぬことになつて行つたものであらう。
おなじ來目歌の「宇陀のたかきに」も、「忍阪《オサカ》の大※[穴/告]屋《オホムロヤ》に」も、皆饗宴の節のものと言ふ來歴が傳つて居るのである。
其と、日本紀に見えた「えみしを ひたり もゝなたり、人は言へども、たむかひもせず」の後に「此皆承(ケテ)2密旨(ヲ)1而歌(フ)v之(ヲ)。非(ズ)2敢(テ)自(ラ)專(ニスル)者(ニ)1也。」とあるのも、道臣命及び久米の子等の發想によつてなつた歌ではなく、聖旨によるものと説くのは固よりである。が、同時に、此等の御伴の人々が、聖詠を複唱し奉つて合誦したものだといふ由來のあつたことを示してゐるのである。
其に尚かきもと〔四字傍線〕は、久米の子等には、緑深い語であつた。忍阪大※[穴/告]屋の條で見ると、饗宴は、寧大伴・久米の人たちの催したものと言ふ風に傳つてゐる。此は、えんが〔三字傍線〕として固定して行くかき(304)もと〔四字傍線〕の外に、久米の子等の住み處が、宮廷の藩屏の下にあつたことが、明らかな理會として加つてゐるのである。
古事記傳に、此も久米部の軍營《イホリ》の垣の下《モト》に殖《タテ》るを御見《ミソナハシ》て、よみ給へるなりとある。當然のことだが、手にとる樣に語句を解いてゐる。だが今すこし、考へ殘した所はないか。
おなじく神武天皇紀に、「賜(ヒテ)2道臣(ノ)命(ニ)宅地(ヲ)1居(ラシメ)2于築坂(ノ)邑(ニ)1、以(テ)寵異之。亦使3大來目(ヲシテ)居(ラ)2于畝傍山以西川邊之地(ニ)1。今號(クルハ)2來目(ノ)邑(ト)1此(レ)其縁也」とあるのは、此は唯、居宅の地を賜うたことばかりを申すのではない。内廷に近く家居らしめ給ふことを示す傳へである。紀には、「畝傍山東南橿原(ノ)地」とあるが、此東を西とする説もある。故らさう言ふまでもなく、宮地は廣く畝傍山を北の限りとし、東にも西にもひろがつて居た趣きであらう。後代の久米郷の地は、村地の變遷があつて、東へ移つて、築坂・身狹の地を犯す樣になつてゐるが、上古は、もつと西にあつたものであらう。南方の築坂、西方の久米の地に、大伴・久米の族長と部民とを居らしめられたのは、宮廷の御垣を衛らしめられたのである。其等の家々、人々の居處は、即宮垣・宮門の邊だつたのである。ここに自ら、宮地の廣袤を伺ひ申すことが出來る。
其上、稍明らかに知れることは、久米部らが、宮地の内、御垣の附近に廬してゐたことである。姓氏録皇別(大和)に、「久米臣。柿本同祖……」とある久米氏は、春日・小野・柿本等と同じ流れと言ふ風に傳へられてゐるが、さうではあるまい。別に久米をかきのもととする理由は、既に(305)述べた所に由來があるのだ。
宮廷の垣下《カキノモト》に侍る部民と、其を統領する家なるが爲に、かきのもと・柿下氏など言ふことは、あるべき筈で、何も一の和邇族の柿本に限らぬことである。だが、後世、人麻呂等の屬した柿本の著しく現れてからは、かきのもと〔五字傍線〕と言へば、和邇の柿本と見ることになつた。其で、「柿本同祖で、天足彦國押人命五世孫、大難波命の後」なる久米臣が出現することになつた訣である。結局、此久米臣は、和邇柿本と何の關係もない家だつたので、混亂の理由として、唯くめ〔二字傍点〕と言ふ名の外に、かきのもと〔五字傍線〕とも理由あつて稱へた爲である。宮廷の御垣の下にあつて、宮地を得る部民が垣下《カキノモト》である。和邇柿本氏も亦、ある御代の垣下守衛の部民・統領の氏だつたのであらう。
くめ〔二字傍線〕と言ふ稱へは、此れが理由を包藏してゐるのではないか。くめ〔二字傍線〕を組《クミ》に思ひよせることは、新しいことではない。喜田貞吉博士は、くめ〔二字傍線〕をくま〔二字傍線〕と音韻變轉例の上から一つと見た。さうして、其偏向なる肥人《クマビト》考の上の事實として、肥人族と見た。其はさうとも説けるが、唯證明の徑路に物を言はしたに過ぎぬと謂つた所が多い。動かぬ説と言ふには遠い。
 くべ越しに麥喰むこまの はつ/\に 相見し子らしあやにかなしも (卷十四、三五三七)
 馬せ越し麥喰むこまの はつ/\に にひ肌ふれし子ろしかなしも  (同、或本歌)
二首の東歌を比べると、凡今も方言にあるくべ〔二字傍点〕なる「柵・埒・ませ」と古語のくべ〔二字傍点〕とが同じ樣の物であり、又垣と共通する部分の多いことも察せられる。音價動搖時代のくべ〔二字傍点〕が、くめ〔二字傍点〕と近似音(306)どころでなく、同一語と見做してよいことは、固よりである。其上に思はれることは、組みで説いて來た「八重のくみ〔二字傍点〕垣」「いくみ竹」など言ふ記紀歌謠の上の語との關係である。更に又、「天のかべ立つ限り」「天のかき立つ限り」と兩用せられてゐる、壁と垣とに當るらしい用語例、皆垣とくべ〔二字傍点〕、其から壁との近接點を、此までよりも、もつとはつきり見せてくれる樣である。
其上又沖繩にも、一例がある。我が壁に當る語を、古い發音では、くび〔二字傍点〕と言つた。唯此古音が、なか/\く難澁で、首《クビ》の發音に傾いて、壁にはならなかつたと伊波普猷さんは言ふ。組踊りの詞章や、首里語の發音を學ぶ者が苦しんださうである。さすれば、此は東歌のくべ〔二字傍点〕であつて、同時に又、壁である。
吾々の謂ふ所の壁は、塗り壁であつて、凡古代のものとは、變化してしまうてゐる。萬葉集に見える「新室の壁草刈りに……」(卷十一、二三五一)の壁草なども、助枝《シタヂ》の樣に考へられてゐる。が此は、土壁以前の姿が尚殘つてゐたのである。板壁なども、さほど新しいものと見ることは出來ぬ。今も言ふまわたし〔四字傍点〕などは、極度に其の整理せられたものであらう。建て物の隔て、その間毎の隔てなどが、主として壁と言はれるやうだが、此も亦垣とも言つた。壁代・垣代など、嚴格に言へば、區別はなくなつてゐる。共にかべ〔二字傍点〕と言はれる事の第一條件は、横木が幾本も間渡しにしてあることらしいのだが、後代の璧では、重な物になる助枝《シタヂ》や木舞《コマヒ》が皆竪になつてゐる。
垣ばかりが外にあるものかと思へば、くべ〔二字傍点〕もやはり建て物とは關係が離れてゐる。垣は内容が非(307)常に廣く、其中には、くべ〔二字傍点〕もませ〔二字傍点〕も、何もかも包含せられることになつてゐたらしい。
上古のくめ〔二字傍点〕(くべ〔二字傍点〕)の範圍ははつきりせぬにしても、垣の一種であることは、確かである。かう言ふ風に考へて來ることは、たいした〔四字傍点〕合理觀――らしよなりずむ――だとは思はぬ。垣(ノ)下と久米とが、語としては、同じ意向に立つもので、時代が古いだけに、久米部と言へば、其で足りたのである。かきのもと〔五字傍線〕と言ふのは、表現が緩やかであつて、部民としての感じが乏しい。
大和皇別の久米臣ではないが、久米といへば、垣下《カキノモト》を思ひ出す、其でかう言ふ御發想があつたものと見える。
「うゑし‥…」は「栽ゑたはじかみ、今見れば」、さう言ふ時間を表すものではない樣だ。此は過去助動詞の過去觀念の派生する因ではあつても、近代文法感に適應させて、過去表現に入れてはならぬ。歌謠の上では、文法樣式が固定して殘り、其固定を更に古典準據として承けつぐから、時代々々の文法とは、ひどい懸け離れを持つやうになる。
「山縣《ヤマガタ》にまきし〔右○〕あたねつき、染め木が漿《シル》に染め衣を」や、聖詠の「うゑし〔右○〕はじかみ」の文法が、古典感を傳へて、萬葉集の上にも出て來る。今一方「染め木が漿に染め衣」も、「染め木が漿に染めし衣」とか、「染め木が漿にしめる――しめたる――衣」など言ひたいところだ。此も又萬葉集に傳つてゐる。
……染め衣が「染め‥…《タル》衣」であつてこそ、近代感におちつく樣に、「山縣にまきあたね」「垣も(308)とにうゑはじかみ」と通つたのが、「――に」の下が、動詞の下に今すこし表情が加らねば、落ちつかぬやうになつて來たのである。「垣下に栽うるはじかみ」「‥…栽ゑたるはじかみ」「垣下に栽ゑにしはじかみ」、さう言ふ風に感受が岐れて來るのである。
はじかみ〔四字傍線〕は勿論、木本のはじかみ〔四字傍線〕である。が、今からは、其に擬せられた何れに當るか、知ることは出來ぬ。勿論皮を用ゐる山椒の類には違ひなからう。私は、今のところ、犬山椒を想定してゐるが、此とて變りさうな氣がする。
ともかく韮といひ、はじかみ〔四字傍線〕と對してゐるのだから、其舌に沁み、齒肉を牧斂する所から見れば、辛さと、匂ひと、棘とで魔厭を避けるものだつたに違ひない。
此處のはじかみ〔四字傍線〕は食用としてより、さうした鬼魅を逐ふ爲である。山野に生えたものを根こじ來て移し栽ゑたものなのである。そこに「栽う」と言ふ語が、意義を持つて來る。垣を潜つて入るものを防ぐ爲に、棘ある辛木を垣に添へて移植したこと、茨・枳殻をしかする樣なものである。だが唯眺めて、さう言ひ出されたばかりではなからう。うたげ〔三字傍点〕の淺盞の上などに、此辛い皮はじかみが添へてあるのを見られての即興と思ふことが出來る。
 
 
(309) 民族史觀における他界觀念  【昭和二十七年十月刊『古典の新研究』弟一輯角川書店】
 
     永遠の信仰
 
此は、日本古代人の持つてゐた、他界觀念研究ののうと〔三字傍線〕である。何よりも前に言つておくことは、他界の用語例を、あまり自由に使ひたくない。さうしないことには、古代における此觀念が、非常にひろがつてしまふ虞れがある。
まづ最初、我々|生類《シヤウルヰ》の住んでゐる世界から、相應の距離があり、人間世界と、可なり隔つてゐるが、そこまでは、全く行つた人もなく、出向いて來た生類もなかつた訣ではなかつた、さう言ふ地域である。其ばかりか、彼方から、時を定めて稀々ながら來る者があり、間々ひよつくり〔五字傍点〕思ひがけない頃に、渡つて來ることもある。此偶然渡來するといふ形の方が寧、普通の形式のやうに思はれてゐたほど、さう言ふ考へ方が普通になつて來たのである。何の爲に渡來するのか、その目的を忘れてしまつたよりも、だからも一つ古い姿のあつたことを考へてよい。
こちらからも稀々は、船路の惑ひや、或はまぐれあたりに、彼地に漂ひ著いたり、極めてたま〔二字傍点〕に(310)はそこ〔二字傍点〕の「神聖者」から呼び寄せられたとは知らず乍ら、この他界に到著した場合もある。――さう、考へられてゐた。
扨その他界の生類は、此|土《ド》からの漂流者の目的を知る知らぬに繋らず、隨分歡待して、時が來ると賓客を送るやうに還しておこせた。其等の歸還者の物語つたらしく見える内容を傳へて、人々は、他界の面影を、想像してゐたのである。
何としても、此土の人の考へでは、――こちらで彼土を考へるのとは反對に、――彼岸の人は、此岸を以て、他界とも、淨士とも考へてゐなかつたのが普通らしく、あちらから欣仰尊敬せられてゐたとの傳へは、まづないやうである。右に言つた、彼岸から來臨するのが通常であつたのを忘れ――、その來迎の記憶すら、非常に神聖な傳へのやうになつてしまつて、却て此世界からまぐれ當りに行き著いた者に關する傳へと言ふのを、當然あつた歴史事實のやうに考へてゐた。それだけに此考へ方は、近代の我々にも理會せられ易いやうに、適當な用意があつたやうである。其上、神話傳説の類の、比較研究の上にも、殆同類の物語が多く見られる。
我々の持つた類型の中、浦島式のものは、純な民間説話のやうに、宮廷記録家から扱はれたので、すつかり歴史的印象を失つてしまつてゐるやうに見える。だがこれが、宮廷説話の樣な外貌をとると、ひこほゝでみ〔六字傍線〕尊説話のやうに、前後に歴史解釋が附加せられて來る。此類の説話には、戀(311)愛要素が、相當に重要な部分になつてゐる。浦島式説話から之を除くことは、却て容易で、それが、自然でさへある樣に感じる。歴史印象を拔くことの容易でなく見える「たぢまもり」式のになると、出石人の宮廷大喪に奉仕した慣例の傳承が重くなつて、戀愛部分などは消えてゐる。
これは、他界の信仰と、喪葬儀禮の説明説話とが、繋つた傳承と言ふべきもので、出石人の鎭魂法が、果樹の※[草冠/縵]《カヅラ》と、その杼《ホコ》(立《タ》ち枝《エ》)を以てした傳承を示してゐる。此も歴史と言ふより、宮廷に移入せられた出石びとの慣例が、他界観をまじへてゐる訣だ。他界なるが故に、遠く遙かに海の彼岸にあり、他界なるが故に、時間の長さが、此世界と著しく違ひ、極めて信ずべき他界なるが故に、實在性が強くなつてゐる。かう言ふ風に、曾てもつと重要なものと考へたものが、主體から離れて插話のやうになつて來ることがあるのだ。
 
     完成した霊魂
 
「常世」と言ふ語が、若し他界を言ふ出石人の語であつたら、常世の持つてゐる他界性といふことを、もつととこよ〔三字傍点〕といふ語に沿うて考へておく必要がある。われ/\にとつて、殆結論の出てしまつたほど、親しみのある常世の國は言ふまでもなく他界であり、他界は即神の所在だと考へられてゐたといふことである。
併しその一方に、神ではない邪惡の屯聚する所と言ふ恐怖國の義も、此語の類語にはあるのであ(312)る。清らかな宗教觀からすれば、神の居處即他界であるはずだが、神ならぬ者の集る所も、他界は等しく他界である、之を整頓したものが、樂土と、煉獄(淨罪所)との關係になつて、對立的の地域と現れて來るのだが、尚善惡の他界が、別々に散在することを信じてゐる種族信仰も、多く見ることが出來るのである。
何の爲に、神が來り、又人がその世界に到ると言ふ考へを持つやうになつたか。さうして又何の爲に、邪惡神の出現を思ふやうになつたか。最簡單に靈魂の出現を説くものは、組先靈魂が、子孫である此世の人を慈しみ、又祖先となり果さなかつた未完成の靈魂が、人間界の生活に障碍を與へよう、と言つた邪念を抱くと言ふ風に説明してゐる。さうして、其が大體において、日本古代信仰をすら説明することになつてゐる。此は、近代の民俗的信仰が、さう言ふ傾きを多く持つてゐる爲であつて、必しも徹底した考へ方ではない。私は、さう言ふ風に祖先觀をひき出し、その信仰を言ふ事に、ためらひを感じる。この世界における我々――さうして他界における祖先靈魂。何と言ふ單純さか。宗教上の問題は、祖・裔即、死者・生者の對立に盡きてしまふ。我々は我々に到るまでの間に、もつと複雜な靈的存在の、錯雜混淆を經驗して來た。祖裔二元とも言ふべき考へ方は、近世神道家の合理觀よりも、もつと甚しく素朴である。だが、一見さう見た考へ方で、大體の解釋のつく近世の状態に到達するまでにも、又、その状態の中にも、もつとこみ入つた信仰の紛亂があつたし、ありもするのである。
(313)邪惡の精靈或は邪神と言はれるものも、さう簡明に不遇な魂魄の變質したものと言ふ訣にはいかぬ。順當に言はゞ、他界の神々からはじめるはずだが、便宜上、筋のとほり易い邪惡の精靈の側から説いて見る。
この訣り易い靈魂の問題だつて、ざつと概説だけですますことは出來ない。人間の次期――數的に表現する次期といふ語は常識的だが――の姿なる完成した靈魂――。
それから其に成りきることが出來ないで、其爲に、完全な靈魂の居る場所に屯集することを得ぬ未成熟――或は缺陷ある靈魂――は、其はそれとして、不具な靈魂の到達すべき形貌を持ち、未完成なるものゝ集る地域に屯集し、又は孤獨に居る。又安定せない状態からして、屡元の形――第一形貌――を現じる。但、この姿を未成醜惡なものとして、人の見ることを欲しない。さう言ふ形が考へられて來る。
此は、祖靈の場合でも、似たことがある。完成した靈魂の形貌としての「他界身」を現じながら、一方に前身――其と前身を其人間に認めさせる爲に、人間身を現ずることも屡ある。
 
     未完成の靈魂
 
日本における傳説は、ひろい意味において言ふ説話とは違ひ、偶然にも、地理・地物・地名に關聯した傳承を持つもので、物自身固有名詞を伴ひ、固有名詞の説明のやうな形をとる。柳田國男(314)先生の「傳説」の用語例は、その正しさと、周到において比類がない。だから普通傳説と一つに言はれる昔噺とは、重大な相違點を持つてゐることは確實である。傳説は地物の歴史に關したものゝうち、地物その物が傳説の中心であるばかりでなく、主躰であり、人格は持たぬが、人格的な生命ある植物・建造物・鑛物時としては、其等から影響せられて、動物であることすらある。人倫以外の非類物《ヒルヰモノ》を主題とした口頭物語を書き留めた日本の御伽草子の多くは、傳説の最早く文字に移されたものであり、偶然伊曾保物語などゝ、主體の等顆を等しくしてゐる。が、此は飜案ではない。柳田先生の比較研究の正しさが、さう言ふ誤らぬ區畫を立てたのである。
日本におけるあにみずむ〔五字傍線〕は、單純な庶物信仰ではなかつた。庶物の精靈の信仰に到達する前に、完成しない側の靈魂に考へられた次期の姿であつたものと思はれる。植物なり巖石なりが、他界の姿なのである。だが他界身と言ふことの出來ぬほど、人界近くに固著し、殘留してゐるのは、完全に他界に居ることの出來ぬ未完成の靈魂なるが故である。つまり、靈化しても、移動することの出來ぬ地物、或は其に近いものになつてゐる爲に、將來他界身を完成することを約せられた人間を憎み妨げるのである。此が、人間に禍ひするでもん〔三字傍線〕・すぴりつと〔五字傍線〕に關する諸種信仰の出發點だと思はれる。未完成の靈は、後來の考へ方で言ふ成佛せぬ靈と同じやうに、祟りするものと言つた性質を持つてゐる。
近代では、念佛信仰が合理解釋を與へて、「無縁亡靈」なるものを成立させた。これは、昔から(315)あつた未完成靈を、さやうに解し、さやうに處置したのであつた。考へて見ると、此飜譯は、必しも妥當であつたとは言はれない。無縁と言ひながら、全く縁者を失うたものばかりではなく、祀られぬ靈を言ふ部分もあつた。こゝに祖先靈魂の一部なることを示してゐるものと見てよい。其と、木靈・石魂とは、自ら大いな區別があつたのである。祖先靈魂と生活體なる我々との間に、無縁亡靈を置いて、中間の存在のあることを示してゐた。かう言ふことが近代と古代と順を逆にして語ることの樣に思はれるかも知れぬが、無縁の名は、近代まで殘つた邪靈信仰に、別樣の名をつけたに過ぎない。
 
     祖先聖靈と 祀られぬ魂魄
 
死祭に與らぬと稱する神道の方面にも、尊親の葬式と解釋すべき樣式があつて、全く葬場其場きりに、忘却に委せたものでもなかつたらしいことは考へられる。日本は元より廣いのだから、相當、民俗の相違のあることは考へねばならぬ。神主家の主として、重大な式儀禮を勤めた人の死のとりおき〔四字傍点〕は、やはり家族たちとは違つてゐた。喪葬を異にした理由は、聖格らしいものを持つてゐた身柄だから、普通の家族・氏人と類を異にし禁忌を經ないで、聖化させたものもあると考へる方が、事實を無視せぬことになる。竹取物語を他の天女譚と區別した富士根元信仰などは、最古くから傳へて、近代の大行者の屍解まで續いたものがあるやうである。富士山の信仰など考(316)へ方によれば、修驗風に多分の念佛味を加へたものが感じられ、神道離れしてゐる爲に、さうした法式を行うたものと見られる。併し今日の我々からでも、尚、同感し得る古代的要素は、死がこれを、ほの見せてゐる。山上から更に他界に移動する式を傳へてゐて、さうしたものと考へれば、途方もなく變つた方式によつたと言ふより、さうした方式を忘れてゐた、常人の生活の平凡化から來るのである。
特殊な山岳教の傳統を外にして考へる。神主家の家族や、通常人と違つて、生存時既に神の境までのり出してゐた――一歩すれば、直に神になりさうな時の續きの生活をした――人の死とを、同一視するのは、誤りである。さう言ふ人の死に對しては、殆同時に、他界の生活がはじまつてゐるものと見てゐたに違ひない。近代と古代とでは印象が違ふが、信仰の根本は、我々が瑣末な樣式に對して、感じるほどには變らぬものと見てよい。
 ……天雲の八重かき別けて 神下《カムクダ》しいませまつりし高照す日《ヒ》の御子《ミコ》は、飛鳥の淨宮《キョミノミヤ》に、かむながら太しきまして、すめろぎのしきます國と 天の原|石門《イハト》をわきて、神登りのぼりいましぬ。
此引用の切實な意義は、次のやうに説かなければ顯れないと思ふ。『古代以來の信仰の傳承では、天と地との治め別けの理由は、かう説いて來てゐる。日女《ヒルメ》の命は、天をお治めなさるべきものと言ひ、……其からこの瑞穂の國をば、天と地の上下から、近づきあふ所までお治めになる聖なる(317)神言傳達者と言ふので、八重たつ雲をかき分けて、くだしておよこしになつた日の神の御子。その方は、この飛鳥の淨見宮で、神の意思どほりにおをさめなされ、其上で、宮廷の代々の祖先靈魂の領有しておいでになる國土だから……祖靈になつた以上は、祖靈としてそこに居るべきものだ、と大空なる巖の大戸を開いて神上りに上つておいでになつた。……』
 
 此は、天と地との二つの世界の間に、大きな石の門があつて閉してゐる。その兩側の世界に住み別れてゐる尊い神人の關係は、天地開闢の時からきまつてゐる。天の方は日女命お治めなされよ。扨、地上の國は、その土地と天の青空とが交叉して行き合つてゐる局限の處までお治めになる神の命として、日の御子――天雲別けてお降しになつた日の御子なるこの天子は、飛鳥の淨見《キヨミ》原の宮において、宮廷を占め、神の意思どほりにお治めになつて、其上で、(こゝは地上である。)我々のやうにもはや祖靈と(なつたものは、)祖靈の治め居る國だから、そこに行くと言はれて、天の原の石の門を開いて、神としてお登りなされた。……
これは明らかに、人間である間の天子は、地上に住まれ、死の後は大空の他界に戻られるのが、古代の人の考へた他界であつた。かう信じてゐるのである。此は、この歌詞に出てゐる天武天皇の御子|日並知《ヒナメシ》(ノ)皇子尊《ミコノミコト》の爲の挽歌で、その詞の中で、先帝天武天皇のことを述べた部分である。日並知皇子尊の爲には「……いか樣《サマ》に思ほしめせか、つれもなき檀《マユミ》(ノ)丘に宮柱太しきまし、みあらか(318)を高しりまして……」と言ふ表現を後の節でしてゐる。さすれば、尊い方でも、天子でおありでない方は、地上に留つてゐられることを、はつきり見せてゐる。語を替へて言へば、この歌の初めの部分は、天武天皇が、歴代の日の御子の一人なる――すめみま〔四字傍点〕の尊――として、降つて來られたことを言ひ、さうして日の御子から、皇祖《スメロギ》となられる時――崩御――が來ると、他界なる天上に戻つて行かれる。こゝに注意すべきことは、別に際立つて、天上をしろしめす樣子は述べてないことだ。この歌の場合の原文には、すめろぎ〔四字傍線〕と言ふ語のまゝを「天皇」といふ慣用文字で宛てたのである。すめろぎ(又はすめらぎ〔四字傍点〕)といふ語が祖先天皇を意味しながら、第二義的には、現天皇をも意味する時代に、この歌は作られたのだ。天子をすめろぎ〔四字傍線〕と言ふ常の字面と、現天皇より前に崩御せられた――前天子以前の――すべての皇祖靈をすめろぎ〔四字傍線〕と稱へた古語の用語例との兩面を使つた例である。こゝのすめろぎ〔四字傍線〕は古い意義であり、現在の天皇を意味してゐるのではない。
 
     護國の鬼 私心の怨靈
 
すめらみこと〔五字傍線〕・日のみ子は天子であるが、文字には早くから、一歩進んで今上〔二字傍点〕を意味する天皇にすめろぎ〔四字傍線〕(又、すめらぎ)の訓を附けてゐた。皇祖の意のすめろぎ〔四字傍線〕が死語とならぬ先に、公式の文書などでは、天皇の字の用字例が變つてゐたのだ。嚴格には、天皇はすめろぎ〔四字傍線〕ではない。天子(319)は天上から來て、また昇天せられてすめろぎ〔四字傍線〕となられる。すめろぎ〔四字傍線〕としては、昇天の後前からおいでになるすめろぎ〔四字傍線〕と更迭せられると言ふこともない。理を推して行つて、日女命(こゝでは天照大神に當てゝも、少しも不自然な所はない)も合理に替られるものとは考へてゐない。つまり他界に還つた魂が個性を失ふ。さうして多くの場合、其等が混淆して、祖先靈魂の周邊に附屬する幾個かの靈となるものと考へてゐた樣である。
他界にある靈魂の數の問題については考へる據はない。人間界における人間數と靈魂との數は一致しない樣である。一つがこゝに消えて、彼土に生ずるものと考へてゐなかつたやうである。分割併合の割り合ひなどの考へた痕跡は求めにくい。他界における數の觀念は、此土の數の考へからは、獨立してゐた。分離・増殖は相當自由に行はれるものと見てゐるが、其が人間界の魂の數と一致せない。人間界の魂が元ではないからである。
昔招魂社を建立した當初の目的は、思ひがけない變改を經た。神の性格にも、非常な變動があつた。楠正成や維新殉難志士と言はれた人々の冤べ難い思ひを鎭めようとした時とは違つて、奉祀の範圍も廣く、祭神も概ね、光明赫々たる面が多くなつた。この社の最初の目的に似た信仰は、中世の早期から近代を通じてあつた。普通の神とは、別の祭りを以て祀り、其怨念の散乱を防がうとした。即御靈信仰から分化した若宮信仰・山家《ヤンベ》・佐倉の名の知れたものから、名も言はぬ無縁萬靈の類に到るまで、成佛を言はぬ昔から、神となれない人たちの、行くへなき魂の、永遠に(320)浮遊するものあることを考へてゐた。招魂護國神には、疑ひもなく浮んで神となる保證のある上に、又極めて短い時期に神と現じて、我々あきらめ難き遺族の、生きてさ迷ふ魂をも解脱させる樣になつた。明治の神道は、此點で信仰の革命を遂げたものであつた。併し第二世界戦争後、この短い期間に神生ずることについての問題が起らうとしたが、やがて其も事無く過ぎさうである。明治神道の解釋があまり近代神學一遍で、三界に遍滿する亡靈の處置を、實はつけきつてゐない所がないではないか、と思はれる所がある。
沖繩の神道では、「三十三年にして神を生ず」と言つて、死人は此だけの年月がたつと、神化するものと見てゐた。年月に異同はあつても、日本近代の民俗では、やはり亡者を何時までも宙有に迷つてゐなければならぬものとしてゐた訣ではない。僧家の手に管理を委ねた亡靈の中、實は年期既に到つたものすら、永久と言ふ長い時に渉つて、成佛の時の到り難いものがあつた。其をつい失念して、一度死んだ人間は、永へに佛の榮光に預り、佛性を得ることが出來ぬものゝやうに考へてしまつたものである。此は實は供養に廻向に禮を盡す情熱が、そんな風に、いつまで經つても、善き兒孫の心に甘え、其を脱して獨立の光明世界に生じようとせぬ亡靈ばかりと言ふ風に思ひ違ひをさせたのであらう。此は我々民族の持つ迂遠なる循環性と、僧侶たちの佛教が、いつまでも儀禮を脱却することに努めなかつた爲でもある。
が又、亡靈自身が、世間の流風に泥み過ぎてゐたからといふところもある。盂蘭盆及び其に似た(321)幾度かの機會に、聖靈が祭りを享けに來る。此他界の存在が、時を定めてなじみ深い懇親者の歡宴を受けに來ることは念佛踊りより、盆祭りよりも、更に以前からくり返されてゐた。
言ふまでもなく、この論の初めから出て、隨所に話の手順となる異郷・他界の訪問者の信仰が、無終とは言へぬか知らぬが、殆無始の過去世から續けて來た風である。此が祖靈及び祖靈に從ひ來る未成熟の新靈に到るまで、或機會を以てきり上げることは考へず、唯くり返して、如何にも永遠の儀禮のやうにしてしまつた爲である。此が又盂蘭盆の近世的感覺の基礎にもなつたのである。
 
     荒ぶるみ靈
 
純化した祖先聖靈、其にある時期において、昇格飛躍して、祖靈の中に加る筈の新盆の靈魂、其に殆浮ぶことなき無縁靈、この三種の區畫の中、中間のものについて、熟慮することなく來たことが、大きな手落ちであつた。
靈魂管理を托せられた寺や念佛者は、過去の久しい魂祭りの方法――寧精神を知らないで、唯繼承した、と言ふより寧舊弊を棄てゝ、新鮮なものに就くをよしとする樣な心意氣で、極めて疎略に魂祭りを處理したのであらう。
だからこゝに、新盆の聖靈或は無縁佛の一部として、告ぐることなくおしこめられてゐた、成熟(322)を待つ間の「新盆靈」について考へて見る必要があるのであらう。
靈魂と言ひ、聖靈《シヤウリヤウ》と言ひ、怨靈と言ひ、亡靈と言ひ、語は安易で、誤りもないやうに見えるが、何としても、混亂し易いものと見えて、我々に殘されてある靈類の知識は、頗混亂して來てゐる。靈(タマ)と言つて、幸福な内容を感じることは、古代にも、常にさうだつたとは言へなかつた。つまりたま〔二字傍線〕と言ふ語が既に早く分化して、靈の暴威・歪曲せられた靈の作用にも通じてゐた。其で、極めて古くは、惡靈及び惡靈の動搖によつて、著しく邪惡の偏向を示すものを、「もの」と言つた。萬葉などは、端的に 「鬼」即「もの」の宛て字にしてゐた位である。その「もの」の持つ内容の殆すべてが、「たま」と言ふ語の中に入つて來た。此混亂に氣がついて、區別を立てようとした所から、殊に惡質で人格的な方面を發揮する癖のあるものを、りやう〔三字傍線〕或はりやうけ〔四字傍線〕(靈氣)と音を用ゐて言ふことが多くなつた。御靈は、――古くは――宮廷及び京師の市民に祟る惡靈の稱であつて、事實から言へば、神化してゐない人間の惡執である。靈氣《リヤウケ》即、やゝ新しく、知識的な言ひ方だが、普通はものゝけ〔四字傍線〕である。執念を、個人又は、ある一家・一族に持つものが其であつて、此れの範圍が擴り、禍が一般的になつたものが御靈《ゴリヤウ》である。古い歴史を持つたまゝ繼續した「御靈」は奈良から平安初期にかけて起つたものだから、奈良京・平安京の持ち主とも言ふべき宮廷への怨念を、宮廷直轄の地とも言ふべき京師の民・作物に表現したものである。人間或は物品に寄せて、惡念のなす所を示すことが、たゝる〔三字傍線〕の語義である。その古きを一括して、上下の(323)御靈社と齋うてゐる。古く、別に猛威を振つた歴史ある農村守護の荒《アラ》神、祇園の神の管理に委ねるやうになつた。祇園は佛者の傳統による陰陽道によつて性格は變へられたが、本來から言へば、一つの大きな常世神である。同時に又、他界よりして、猛威を振つて、人間界を煩す邪神を逐ふ意味において、すさのを〔四字傍線〕命は、農村にとつて偉大な訪れ神であつた。邪靈の、とりわけ人間死者のなす所と解せられるものは、皆|御靈《ゴリヤウ》と謂はれる樣になつた。多く土地百姓に祟り、疫病を行ひ、農業を妨げ、稻蟲を生ぜしめた。必しも善人の不幸に横死したものばかりではなかつた。却て多く凶惡・暴戻な者が、死んで農村・産業を災したものが數へきれない程である。近世まで之を御靈と言つたり言はなかつたり、いろ/\してゐるが、その傾向のものは、後から/\頻りに出た。御靈の類裔の激増する時機が到來した。戰争である。戰場で一時に、多勢の勇者が死ぬると、其等戰歿者の靈が現出すると信じ、又戰死者の代表者とも言ふべき花やかな働き主の亡魂が、戰場の跡に出現すると信じるやうになつた。さうして、御靈信仰は、内容も樣式も變つて來た。戰死人の妄執を表現するのが、主として念佛踊りであつて、亡靈自ら動作するものと信じた。それと共に之を傍觀的に脇から拜みもし、又眺めもした――藝能的に――のである。戰場跡で行ふものは、字義通りの念佛踊りらしく感じるが、近代地方邊鄙のものは、大抵盂蘭盆會に、列を組んで村に現れる。
 
(324)     念佛踊り
 
村を離れた墓地なる山などから群行して、新盆の家或は部落の大家の庭に姿を顯す。道を降りながら行ふ念佛踊りは、縱隊で行進する。家に入ると、庭で圓陣を作つて踊ることが多い。迎へられて座敷に上ることもあり、屋敷を廻つて踊ることもあり、座敷ぼめ・厩ぼめなどもする。ある點から見れば、春の萬歳や、獅子踊りと、目的が一つになつてしまふ。
念佛踊りは、大躰二通りあつて、中には盆踊り化する途に立つてゐるものがある。だが其何れが古いか新しいかではなく、念佛踊りの中に、色々な姿で、祖靈・未成靈・無縁靈の信仰が現れてゐることを知る。墓山から繰り出して來るのは、祖先聖靈が、子孫の村に出現する形で、他界神の來訪の印象を、やはりはつきりと留めてゐる。行道の賑かな列を組んで來るのは、他界神に多くの伴神===小他界神===が從つてゐる形として遺つた祖先聖靈の眷族であり、同時に又未成靈の姿をも示してゐる。而も全躰を通じて見ると、野山に充ちて無縁亡靈が、群來する樣にも思へるのは、其姿の中に、古い信仰の印象が、復元しようとして來る訣なのである。一方、古戰場における念佛踊りは、念佛踊りそのものゝ意義から言へば、無縁亡魂を象徴する所の集團舞踊だが、未成靈の爲に行はれる修練行だと言へぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊)の中心となるものに二つあつて、才藝(音頭)又は新發意《シンポチ》と言ふ名で表してゐる。新發意は先達《センダチ》の指導を(325)受ける後達《ゴタチ》の代表者で、未完成の青年の鍛煉せられる過程を示す。こゝで適當な説明を試みれば、未完成の靈魂が集つて、非常な勞働訓練を受けて、その後他界に往生する完成靈となることが出來ると考へた信仰が、かう言ふ形で示されてゐるのだ。若衆が鍛煉を受けることは、他界に入るべき未成靈が、淨め鍛へあげられることに當る。其故にこれは、宗教行事であると共に、藝能演技である。拜むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拜まれる者と拜むものとの二つを一致させるのである。念佛踊りの主躰の一つは、新發意と言ふべき多くの青年(若衆)である。
信仰において、目的や、方向が並行してゐるやうに、藝能においても、三面の意義がある訣である。藝能の側にうける拷《シヲ》りは、靈魂を攻め虐げて完成させようと言ふ目的と合致する訣だ。虐げることゝ練り鍛へることゝが、日本の古代近代に渉るしつけ〔三字傍点〕・教育の上では、一つであつたことも、此から來るからであつた。
このやうに、魂の完成は、死者の上にのみ望まれたことではなく、生者にも、十分行はれてゐなければならぬことであつた。生前における修練が、死後に效果を發するものと考へられて來る。
 
     成年式の他界に絡んだ意義
 
靈魂の完成者は、人間界ではおとな〔三字傍線〕に當るものであつた。人は、さう言ふ階梯を經て後、他界における老人《オキナ》として、往生するものと考へたのではないか。このおきな〔三字傍線〕と言ふ語には憂暗な、影の(326)やうな印象が伴うてゐる。併し、此語は常世といふ語と同じく、どの地方かの他界の老人を言ふものであつたのが、此土に現に生存し、この土における殘世を生きながらへてゐるものゝ名としても呼ばれるやうになつたものだらう。だから語の持つものは、光明ある聯想であつた。訣り易く言へば、此岸に生きる老人を以て、他界の尊いものと見なして言ふ尊稱であつた。
語形からすれば、おきな〔三字傍線〕はおとな〔三字傍線〕と對立してゐるやうに見えるが、今は述べない。おきな〔三字傍線〕とおみな〔三字傍線〕(嫗)、おきな〔三字傍線〕とをぐな〔三字傍線〕(童)などにも對立が見られるのだから、簡單にかたづく問題ではない。おとな〔三字傍線〕は現世生活の營まれる世間における生活の中心者で、社會的――宗教を中心とした――事務に通達し、其を處理する知識と力量が十分であつて、指導するものであつた。其内容が、次第に降り低くなり通俗化して來たが、其でも狹い社會全體においての指導權を矢はなかつた。稀に位置高い人の爲に、先天的にその任務にある後見に當つて爲事をさせるやうにはからふ。宮廷や貴族の家では、さうした地位があつた訣だが、武家時代になつて、もつと表面に出て來た。
邑落生活では、若衆たちを監督する位置にある人である。かう言ふ組織のやうなものが出來たのは、やはり他界との關係において考へられてゐたのだらう。かうした人々は、今生においての發達を遂げたのだから、彼世に行けば、とこよ〔三字傍線〕であり、おきな〔三字傍線〕である人である。此世でおとな〔三字傍線〕が更に生き延びると、之を祝福する意味の語を遣うて、この世乍ら常世であり、翁であるものとするのである。稀客來訪の儀禮を行ふ時、宴の主座に居て、禮を受ける。此は既に、この世の人でな(327)く、他界人としての待遇である。
靈魂の完成は、年齢の充實と、完全な形の死とが備らなければならぬ。生年の不足は、他界に赴く資格の缺けてゐることになる。死が不完全であると言ふのは、生が圓滿ならずして、中絶した場合を言ふ。横死・不慮の死・咒はれた爲の死などを意味する。日本古代において、複雜な特殊な考へ方があつたやうで、出血(他人からせられるもの、自身出すもの)怪我の類が目立つて感じられる。横死以下の場合は、靈魂の充足を以て、償ふことの出來ぬ缺陷である。さう言ふ場合は、迷へる魂・裏づけなき魂・移動することの出來ぬ魂として、永久に殘らなければならないのだが、年齢不足の爲に資格の缺けた靈の場合は、ある期間の苦行によつて、贖はれるものと考へた。年齢不足で死んだ――成人式を經ずして――人は、地獄に行つて、爪を拔いた指を以て筍を掘らせられると言ひ、又葬送の際、花摘み袋に花を摘み入れて、燒き場で棺に入れてやることになつてゐる地方もある。筍掘りと花摘みとでは、むごい〔三字傍点〕のと、優なのと、一見殆かゝはりないことのやうに見える。が、共に煉獄の苦役を、植物を採ることによつて説明してゐる。花摘みの方で苦しみの點は言はずに、「花」をもつて、缺けたものを補充することを説くのは、そこに通ずるものゝあることを示してゐる。結婚期を以て、魂がある成熟期に達する。その徴《シルシ》として特定の「花」或は「花」に象るものを身につける。其が日本では、古代において幾變轉かして、主として、花※[草冠/縵]をつけることになつてゐた。女の場合、花※[草冠/縵]を以て結婚期に達したことを示すが、男も亦頭(328)にめぐらし纏ふ※[草冠/縵]の類を以てしたことは、成年期に達した貴族の少年が黒※[巾+責]を以て示すことでも訣る。黒※[巾+責]は「儀禮」の冠禮を見ても訣るやうに、支那古代の風を、國俗に調和させたので、※[草冠/縵]のやうに、頭に捲き、頂きのない布のやうな物だから、如何に外來の風の中に、日本古俗を活して行つてゐたかを察することが出來る。併しわが國では、結婚と成年式とについて、平安の貴族が結婚に迫つて、成年式を擧げる――殊に女子のやうに急々行ふ場合の多かつたのは、古風がさうだつたのではない。一つの簡略化である成年式の完了してゐると言ふことが結婚の前提であつたからである。而も冠禮は必しも※[草冠/縵]をつける一方法でなかつた。裳著(女)・袴著(男)を行うたから、謂はゞ一通りの成年扮装を以て身を装うたのである。尚その外にも角入《スミイ》れ・月代《サカヤキ》・眉剃りなど、男女を通じて、髪を剃るに關聯した行事が多岐に亙つて行はれた。此等の成年行事が皆一度に行はれたものでなく、少年時・青年時と區別のあることが多いやうだが、其とて嚴密に規定することは出來ない。
元服がすまねば一人前の男になつたのではないと考へてゐるが、元服してもまだ男になつてゐなかつたのではないかと思はれる例も澤山ある。古代に若子《ワクゴ》と言つた青年貴族の稱號は、「別《ワケ》」といふ語尾と共に、青年的生活を續けてゐた爲の名だと思はれるに繋らず、多くの家族を持つて後も、尚わくご〔三字傍線〕と呼ばれた人たちが多い。天子などの場合には、天皇としての資格は、どの御代の方も皆一つだらうから、稱號も一つであり、自ら其を稱へても、すめらみこと〔六字傍線〕とか、日のみこと〔五字傍線〕(329)とか言ふに止るのだつたらうから、後までも即位前のみ名を呼ぶ風であつたらうとは思はれる。ところが、中世以後にもおなじ筋を辿つたと見える名が多い。蒲冠者・清水冠者などの青年名で呼ばれとほした人々も少くないのである。冠者は成年式を經た後の唱へとも言へぬのは、儀式のすんで後何時までも元服當時の形でゐる訣がない。元服の爲の禁忌期間と、元服後とでは、人間としての格が違つてゐる。中世には、元服前の禁忌期間が長びいて、其慣れからして、後々までも「何々冠者であつた人」と言ふ意味で、授戒後にも、……冠者名を持續した親しみの情は察せられる。古代の若子名は、恐らく元服直前に立てたはたらき〔四字傍線〕――其によつて、成人となると共に、「何若子」として名をあげた人といふことだつたのであらう。
 
     奴隷のある觀察
 
併し一方亦、著冠期間がある信仰上の事情から長いこともあつたらしいことは考へられる。比較の上からすれば、之を推測すべき事がある。中世までの奴隷の悉くが、さうだとは言へないらしいが、少くとも一部の者は、主人に役せられてゐる間は童形、或は童形の髪を髷にとりあげ、又垂髪して居た。此が某まろ〔三字傍点〕――某丸と言はれた奴隷の名詮自性の姿である。さうして可なり年を積み、人生の經驗も履み、中には凶惡な犯罪を犯しながら、主公の傍に驅使せられ、時には枕席に侍したものもある。「奴《ヤツコ》」であることの爲に成人の年齢に到達しても、成年禮を行はなかつた(330)ものも相當にあつたのである。童子と言ふのが、其等の宗教的奴隷一部の者の名の語尾として用ゐられた。「丸」といふ語自躰が「奴」を意味する語根であつたのである。さう言ふ人々の中には、冠することなく、生涯佛寺に屬してゐて、結ばぬ髪を表すわらは〔三字傍点〕の義に宛てた童子と言ふ稱を以て、身分と、その姿とを同時に表示することになつてゐたのである。寺や在家の法會に、貴族等の中から特志を以て、身躰の勞役に仕へるものを「堂童子」と言ふのは、一時、童子として佛に仕へることを意味してゐたのである。必しも寺の所屬でなくても、童子を以て呼び名とせられた奴隷は多かつた。彼等は宗教的にも魂の救済なく、一生を未完成の魂を持つて生きなければならなかつたのである。未成靈の所在は、何處と考へたものか。此も明らかではないが、推察の論理だけは辿られさうである。
若者――未成年である間に死んだものは、先に述べた淨罪所――煉獄のやうな所にゐることになつて居るらしいが、近代では未婚者を以て、若者・未成年者などのすべてを表示するが故に、未婚の兒女は――地藏經などでは、處女を問題とせぬことが多いが、之は認めなかつたのでなく、成女でないから問題とせなかつたまでゞある。――賽《サイ》(ノ)河原《カハラ》に集り、石の塔を積むと言ふ。所が一面此人たちは、通常遙かに若いものと考へられるのが常で、幼い子供が集るものと考へられてもゐた。賽河原は地藏菩薩の居る所で、其處に、死んだ幼兒少年が集つてゐるものとしてゐる。近代においてすら、青少年兩方ともに、賽河原に關繋あるものと見られてゐるのに、地藏和讃系統(331)の通俗佛教に言ふ所の賽河原は、子供の行く所と考へてゐる。此は全然誤りといふ訣ではない。元、少年の爲・青年の爲の未成魂の屯集所の信仰があつたのを、さうした傳承を忘れた人々は、之を一つにした上に、又更に單純化して少年のみの淨罪所を考へて、青年は之に關係ないものゝ如くしたものなのである。
 
     他界と 地境と
 
賽河原は、地獄の所屬で、鬼・羅刹がこゝに、出没する。時として地藏尊の示現があり、小い靈魂が、その庇護を蒙ると言ふ風に考へるのが普通で、如何にも、中世人の空想の近世にかけて育つたものらしく思はれて來てゐる。而も現實の賽河原と稱するものが、處々にあることが、却て單純な、昔びとの虚構らしく思はせて、何の爲に、こんな笑ひを誘ふ値もないものを殘したかと、氣の知れなさを感じさせることもある。
或は山中に在ることも、人離れた海岸などに在ることもある。稀には、人里近く寺の境内にあるものすらある。とりわけ甚しいのは、大和長谷寺の本堂脇にあるもので、そこには、曾我兄弟の亡魂の現れたことなども説いてゐる。思ひつき易いことよりも、思ひより難いことを考へた古人の思想が、寧不思議なのである。數多い賽河原が、申し合せた樣に、寂しい水濱・山陰にあつて、相當の距離ある、ある部落と次の部落との空地――普通村境と言ふべき所にあることが、常であ(332)る。而も常に、條件になつてゐるのは、その殆行く人もない無人のやうな地に、何時とも知れず石が積まれる。處によつては、其を河童《カツパ》のなす業と信じて居たのもあつた程である。
佛説の賽(ノ)河原も、必しも嚴密に娑婆と冥途の地境(地藏和讃)とも、地獄極樂の境目とも言はぬが、一つの境界線にある所とは考へられて來た。一躰地境は相接した地の何れに屬するかと言ふことになると、議論が出るが、此は境の觀念が變つた爲に起つたことで、兩方のいづれにも屬せぬ地線の樣なものを想像して居たのである。だが本來は、こゝから向うまで、又向うからあれまでといふ風に見とほしの地物を連ねて考へてゐたのでは、實はなかつた。中間にどちらから來ても、ふみ越えねばならぬ地帶があり、此が空虚――想像の上にばかりあつたことも多い――な所である。坂といふ語は、此に關聯してゐる。坂を間において二つの土地の關係を考へる時に、さかふ〔三字傍点〕といふ語を思ふやうになつた。其觀念的な語から具體的な地域に表して考へた時、さかひ〔三字傍点〕と言ふ語が使はれるやうになつた。其境は横に山の尾や、地點を通し連ねて物を觀察する語ではない。その道の堺になつた地點だけを言ふのである。道の通過する地點以外に神の固めてゐる所はないが、――人はさう言ふ地點と地點とを横に連ねて、境界線といふやうな脊梁地帶を考へる樣になつたに過ぎない。だから境は線ではなく點であつたと言へば、少し比喩に近い言ひ方になるが、大體間違つてはゐない。こゝに神の知識があり、其によつて、神と人――境より此方の住者又は神と神との約束が守られ、いつまでも效果あることを信じてゐた。
(333)信濃國北安曇郡の越後に接する所には、間を隔てゝ信濃堺・越後堺のさいの神〔四字傍点〕が、二つ對立してゐた。信濃側のを「大《オホ》ざいの神」と言ひ、越後側のを「小《コ》ざいの神」と言うてゐた。賽河原のさい〔二字傍点〕はさい〔二字傍点〕の神(さへ〔二字傍点〕の神――道祖神)のさい〔二字傍点〕であつた。恐らく邑落に接して立てられた道祖神ばかりが注意に上つて、山中・海涯の地境にあつたさへ〔二字傍点〕の神は、固より必しも目に見える目標とてもなかつたらうし、村の辻のものほどに、山海に入り立たぬやうになつた村人の關心を呼ばなくなつてゐたのだらう。さうして、村の遠い境目に在る神について、深い知識もなくなつた世間では、さい〔二字傍点〕の神と、賽河原との因縁などは、忘れ果てゝしまつたものである。賽河原を目に見て、陰鬱に感じるのは、日本在來のさへ〔二字傍点〕の神の河原になくて、唱導者の布教章句から來た冥途の賽河原の聯想である。併し元來、賽河原として選び設けた地が、自然寂しい地點を求めた理由があるのだらう。
他種族の人々の通路は、必しも明らかに村人の賑ひ住む方向には考へなかつた。我々と同じやうに生活してゐるものが來るのでない。來るは來ても、靈的な交通者だと――古人は異郷の人を他界人として考へたのである。さうした人々の來る所は、兩方の村境にあつて、後には兩方から往き來せぬやうになつたのもある。
 
     前『古代』における日本
 
(334)その來る者とは、言ふまでもなく、人間ではあつたのだが、其を人と知つてゐても、久しい習慣で、之を他界の生類のやうに見る癖がついてゐた。又さうした習はしが積つて、更に他界の生類の中でも、特に妖怪のやうに考へあつてゐた。
史實としてわれ/\の想像することの多い古代は、この近代に績いてゐると言ふ點から見れば、私の述べてゐる古代の其前代の方が、其古代よりも、もつと更に時の隔りがあるやうな氣がする。其ほど、古代と前古代との間に、知識の飛躍を持つてゐる我々である。
さへ〔二字傍点〕の神と言ふ語は、古代語として解けるし、又さい〔二字傍点〕の河原のさい〔二字傍点〕とさへ〔二字傍点〕の神信仰との間の聯絡は考へられるにしても、さへの神〔四字傍線〕とさい〔二字傍点〕の河原の信仰の對象との間には、關係が非常に薄れて來てゐる。だが其間に截斷した傷口の肉がむくれあがつて、不思議な形に癒著した部分を、目で見ないで、原の形を想像して見る――さう言ふ努力は容易なことではないが、必しも出來なくはない氣がする。
當方から常設の防禦者を立てゝ、邪惡な性質を持つてゐる――だらうと思はれる他郷異郷の生類の來入を瞻《マモ》つて居させる段になると、その防禦は、我々の爲に、碍《サ》へ・障《サヤ》りの威力を發揮することが豫期せられねばならぬ。其は人を置くか、神・精靈をおくか、此問題は容易でないとして、靈性の者を防ぐからには、やはり神又はもの〔二字傍点〕と言ふべきものを考へたであらう。此がさへ〔二字傍点〕の神であるが、時としては當方自ら手を燒くと言つた恐れもないではない。多少の邪惡性を持つた靈魂(335)或は神である。此は比較の結果による外はないが、部落の内部から出たものか、外からとつて來たものか、斷言出來るまでになつてゐない。日本だけのことなら、却て此は答へ易いと思ふ。
さへの神〔四字傍線〕一類の神は、中世以後の傳承や書き物で見ると、善良な神ではない。道饗祭に迎へる神と、性質の通じる神なのだが、――道饗祭の神の方が外國的な所が感じられる。――此神も亦、氣のゆるされぬ神であつた。さい〔二字傍点〕の神を祀る者は誰か、道饗祭の神に對して一所に固著して動かぬといふ特徴――中世の書き物には、道祖神の遊行の事などを、反省なく書いてもゐるが――其に、神でありながら、人間における奴隷に似た性格、さう言ふ方面を調べて行けば、此神の出自を知ることが出來るかも知れぬ。相當『前日本』的な性質を持つた靈性である。
近代における道祖神祭の傳承を見れば、正月のさいの神〔四字傍点〕祭りを行ふ者は、村の少年たちであつて、言はゞ其神主とも言ふべき、祭りの主任者も、子供の中から擇り出された者である。道祚神勸進を行ふものも少年群なら、とんと燒き〔五字傍点〕を行ふのも子供等の行事となつてゐた。此等の少年の行動の中から抽象して、其に神の存在を考へるとすれば、其神は少年に深い縁故を持つてゐる。近世的に、素朴に思へば、少年が特異な神を持ち、其を祀つてゐることになる。併し更に少年と神との關係を考へれば、少年の完成せぬ魂の靈化したものが、村を離れることの出來ない爲、村に殘り留つてゐる。其が少年の祀る神の本源だとすれば、理會の出來る所もある。未完成なる故に、成人の墓地に入ることが出來ないとせられてゐた理由を説明することも出來る。沖繩に言ふ所の(336)わらび墓〔四字傍点〕――幼兒墓も此であり、日本の賽河原も同じ起原らしい。魂のとゞまる所は、老人の場合は、死によつて他界に趣くものと考へられる靈魂であるが、子どもの場合は、青年同樣、未完成なことは一つである。其故、理想的な他界に行くことが出來ないで、彷徨してゐる。考へ方によれば、物の靈魂のやうに宙有に浮遊し、又は無縁靈のやうにもなつてゐる。赤子塚の傳承、嬰子を持ちさすらふ、姑獲鳥《ウブメ》怪談の類が信じられる樣になる。
少年が村のさいの〔三字傍点〕神を祀り、青年が村の氏神――うぶ〔二字傍点〕の神と考へる方が正しいのではないか――を祀るとすれば、簡單に成年の順序と年齡階級とを認めることが出來るけれど、さうばかり言ふのは、合理的に過ぎるかも知れぬ。獨立せぬ靈魂或は、奴隷の靈魂が蕃力を現じて、おのが奉仕する者を護衛することは考へてよい。
今までの處では、少年青年に通過儀式に相應する奉仕神のあることを、日本の習俗の上に認めて來たが、必しもそれが古代から、變化なく續いて來たことゝも言はれぬ。少年青年の間の區畫が、後代と同じく、はつきりして居たとすることも、尚習俗の上の幾多の變轉を抽象して考へてゐることになるのだらう。來訪神のあつた時、此神の威力を表現し、其によつて、邑落全體の生活が力強い威力に感染することが出釆るやうにするのは、さうした訓練や、表現が十分に保たれてゐなければならないはずだ。來訪神をとり圍んで、眷屬の形を以て、荒《スサ》まじい行動を振はねはならぬ。
(337)さういふ意味において、彼土における生活を表現するのは、この世の人間の表現力に俟つ外はない。其爲には彼土における成長した生類の動作を振舞ふ此土の青年が重ぜられた。だからこの役を勤めた上は、此土において、成人待遇を受けるのである。彼等の尊者が來迎する時、他界の事情はこゝに寫し出され、此世と他界とを一つ現象として動いてゐるものと實感するまでにせなければならなかつた。古代人は、表現に、豐富な手段を持たなかつた。感謝も畏怖と繋つてゐた。讃美も驚愕の中から捲き起されて來るのである。冥府への途のやうな賽河原に、他界への通路としての輝きを感じたこともあるのであらう。來迎の神の道筋は、啻に賽の河原に限らなかつた。最古くから考へ傳へたと思はれる海彼岸・海底・山上の空・山岳――さう言ふ風に、數限りなく分化して、淨土は、古代人の期待の向ふ所にあつた。歡びに裂けさうな來訪人を迎へる期待も、獰猛な獣に接する驚きに似てゐた。樂土は同時に地獄であり、淨罪所は、とりも直さず煉獄そのものであつた訣である。
 
     海彼の猛獣
 
沖繩人が神の樂土としてゐる「儀來河内《ニライカナイ》」と連稱するにらい〔三字傍線〕も、時として奈落の底を意味するにいる・すく〔五字傍線〕と言ふ語で言ひ替へようとする者が、先島諸島には多くあつた。蚤の船に乘せて流す害蟲の漂著する所が、東方の河内《カナイ》であることは、理の通らぬことゝする沖繩本島の識者もあつた。(338)此は必しも南島の人々の持つた信仰の矛盾ばかりではなかつた。又南島一帶に言ふ所の美《チユ》ら瘡《カサ》は、天然痘を逆に褒める阿《オモネ》りであると言ふが、必しもさうでない。性の病ひの初患を、新人《ミイビツ》――にひびと――と言ふのは、日本本島の風神送りや疱瘡神送りに似た、新來神讃美の習俗を移して、邪惡退散を速かならしめる方法であつた。海の彼岸から來るものは、病ひと謂へども、――病氣として偉力あるだけに――一往は讃め迎へ、快く送り出す習しになつてゐたのである。流行病の神も亦、常に他界から來るものと思うてゐる爲にする作法であり、神を褒めると共に、災淺く退散してくれることを祈るのである。此は心理が二樣に働いてゐる樣だが、古代日本以來、他界の訪客に對す態度は、いつもかうした重複した心理に基いてゐた。性の病ひがはじめて身に入るのを、一種の成年式のやうな立ち場から見たので、其新患者なることを新人と言ふのである。だから美《チユ》ら瘡の名は、單なる反語でなく、讃美の意のある所が訣る。海の彼岸より遠來するものは、必善美なるものとして受け容れるのが、大なり小なり、我々に持ち傳へた信じ方であつた。我々の祖先は、いつと言ふことなしに、その到來より遙かに先だつて海外の激しい生類を知つてゐたことは既に述べた。獅子・虎・象・鰐などを知つてゐたのも、時代による言語の差違ではなかつた。此を書物によつて知つたと見るのは、昔風の見方である。其が他界と言ふべき遙かなる地と、偉力の根源とを連ねて考へた訣である。單に誇張する爲にではなく、身に近い邪惡の靈を逐ふ爲に、鬼・大蛇・猛獣類まで、實によく聞き知つて、地方々々で言ひ傳へたのは、彼等の他界來訪者の(339)狎るべからざる一面を、遠處の恐怖すべきものゝ上に、さながらに見ようとしたのだ。此土の界隈に住む人生を妨げる邪惡の物を追ひ退けてくれるものと信じ、恐れながら深く信頼してゐたのである。祖先の祀つたものゝ中には、此意義において、恐るべきものと信ずべきものとが、一つであることが多かつた。
他界に安住して生きるものは、元は人間であつても、常の姿は人ではない。異類・動物の姿に變じてゐるものと考へられてゐた。此は、祖先が、海外の動物について見聞せぬ時代から、さうであつた。さうした豫期に恰も應へるやうに、珍奇な動物があつた訣である。中世初期よりも更に早く、祖先は、恐怖の念と關りない、實に幸福な喜びを催すことの出來る他界の生類のあることを知つてゐた。即、かの「常世《トコヨ》の國」なる理想國が存在し、そこに美しく優なる人間や鳥・果實などのあることを思うてゐた。其間にも、生活を損ふ常世物《トコヨモノ》も存在することを知つて居た。尺蠖蟲のやうなもので、桑類の枝を喰ふものであつた。恐らくさうした流行力の逞しい蟲をすらも、常世神と呼んだ。此は中世より前のことである。佛教なども最初は常世神の一つであつた所に、あの威力と迫害の原由を考へることが出來るであらう。われ/\の居廻りにある、地物に固著する物の中に存在する庶物の靈。其に對して、海を越えて來た動物の中に、一往善意と神秘力の存在を信じてゐたのである。
他界の生物は、必しも恐しい形相と、性質をもつたものではなかつたであらう。其が次第に最適(340)切な姿と心とを持つて、自分らの前に出現させたのが、この國土の舊住者の選擇であつた。遠來の訪れ人を、愈怖るべきものにして行つたのだ。元より、此土の人民と違つた異樣の姿と、その生活とを考へてゐたに相違ないが、その想像の據り所となるものが、空想に任せて考へられる訣ではないから、實在の動物或は、それの空想化したものが多いのもその筈であるが、又それが何かの理由から、誇張せられて、特殊異樣な形相に考へられて行つたのである。古代日本人の樣に、多くの個々の島の中に、獨立し、又は歩みよつた傳承を持つて生長したものは、多種多樣の心的偶像を感じてゐた筈である。
其が更に、大海を隔てゝ、懸け離れた思想や傳承を持つた、大きな又は、小さな種族・部族と、それ/”\交渉を持つ樣になつてからは、空想の中に、動搖してゐた來訪者の姿は、次第に固定して行つたのである。極めて遠い古代から持つて來た巨人《オニ》は、國内にも居るものと考へられてゐた。其が段々夜叉羅刹に近く成長する時到り、獅子も飛鳥・奈良人の藝能として演じた伎樂類の假面どもから出た想像だけではなかつた。海彼岸の國々に恐れられてゐる生物を知識にし、表現することが出來るやうになつて行つた。韓國の虎も、西域の獅子・象《キサ》も、或は豹も、豺も、芳菲も、極めて自然に、時を定めて來り訪ふものゝ中に加へられて來たのである。
さうした猛き物どもを中心にした群行が行はれた中に、一方清純な古代人の抱く清い素質は、邪靈を却ける恐しい一面だけを訪れ人に與へるだけに止めなかつた。我々の爲のよき他界者の懇切(341)と親※[口+丑]すべき性質を主として、思ひ育てることによつて、靈魂としての訪れ人は人間に近く考へられることが、愈多くなつて行つたことゝ思ふ。
 
     宮廷神道と眞實性と
 
人間は死んだ後、完成した靈魂ばかりが、此土の人のためを思ふものとなつて、他界にある。さう言ふことをほのかに感じる記憶と理念は豫想せられてゐたやうである。だから人間からは、其を祖先の靈魂であるやうに考へるに到るのは然るべきことであるが、靈魂そのものには、それ程はつきりと思慮記憶があるものとは、古人も思はず、靈魂を自由な状態において考へたのである。だがこの人間的な思ひ方が伸びて行けば、他界靈魂即、祖先靈魂といふ信仰が發育するのである。古代の日本人の考へ方を概括した所では、==多少宮廷神道の見方に傾くかも知れぬが――其より外には、考へる方法も、資材もないのだから、==他界にゐる神の最新しい聖靈が此土に降つて時の滿ちるまで居て、他界に還る。之を代々くり返して居られるのが、歴代天子であるとするのである。勿論宮廷神道以外にも、此系統の考へ方は行はれてゐた。唯宮廷では、生き替り此世に現れ給ふ天子と、他界の靈魂とに、同じ生命力の連續を認めた點が、特殊なのであらう。而も他界に入つて直に、その主たる神――靈になられるとも、明らかには傳へてはゐない。恐らく之――他界の主に當るやうに考へられる天照大神は、常に天照大神で、之に對する代々の宮廷の主(342)の聖靈は、すめろぎ〔四字傍点〕(又すめらぎ〔四字傍点〕)と稱して、常に替る/\宮廷の祖先に當るものと信じるやうになったのであらう。他界の主は、別にあつて、一つの靈を遣して、この土に天子を生れしめるものと見てゐる。他界には主宰者があり、宮廷神道における祖先の靈の外にあるものと見てゐたのでなければ、其とむすび〔三字傍線〕の神と、性格の上の區別がなくなる。ともかく、他界には、主宰的な靈と、その外の多くの靈の存在は知つてゐた。併しその一々の靈が、人間界から彼土に轉生し、其數だけ靈魂として生れてゐるとは考へなかつた。數の上の一致などは、考へられてゐなかつた。他界においては、此土のゆきがゝりと關係なく、靈魂は生きてゐるものと考へたのであつた。唯、唯一の靈魂と、其外の多數聖靈の往いてそこに在ることだけは信じてゐた。恐らく前世界身が誰であるか、今生身は何靈であるか、其は問題でなかつたのであらう。宮廷信仰と離れて考へれば、主宰靈の外に、從屬する多數の聖靈があつたのである。其をきり放して居ることが、他界觀念の根柢なのである。我々の考へ得ることは、他界と今生とでは、すべて時間・空間の關係が違つてゐる。のみならず、數も、順序も、配置も、全然更まつた形で在るのである。勿論因果關係の論理も、我々が今生を中心とするやうなものではない。――さう言ふ状態にある他界といふものを、古代の更に前なる古代人は考へてゐたのである。
他界における靈魂と今生の人間との交渉についての信仰を、最純正な形と信じ、其を以て「神」の姿だと信じて來たのが、日本の特殊信仰で、唯一の合理的な考へ方の外には、虚構などを加へ(343)ることなく、極めて簡明に、古代神道の相貌は出來あがつた。其が極めて切實に、祖裔關係で組織せられてゐることを感じさせるのが、宮廷神道である。之を解放して、祖先と子孫とを、單なる靈魂と靈魂の姿に見更めることが、神道以前の神道なのだと思ふ。併し宮廷以外の傳承を殘した古代地方誌の類にも同じ傾向の信仰が見える。さうして中には、祖裔關係において、宮廷信仰よりも、もつと濃密に之を説いた地方の多かつたことは考へられる。さすれば、單に此が宮廷政治の企圖する所ではなく、古代神道の趣く方角であつたことが知られる。祖先は海の彼方や、山の頂遙かにあつて、子孫の爲に、邪惡の禍を救はうとしてくれてゐる。――かう言ふ風な考へが古代から近世の地方邑落に及んで傳へられてゐる。其祖先と言ふ存在には、今一つ先行する形があつた。他界にゐる祖裔關係から解放せられ、完成した靈魂であつたことである。
 
      近代民俗の反省
 
近代の民俗には驚くべく、古代風習の遺存を見ることは疑はれないが、同時にある部分は、古い姿からは離れて、變化してゐる。祖先の靈が、子孫の農作を見まもる爲、春は田におりてゐると言ふ信仰なども、最古くさうであつたやうにも、又さうでなかつたやうにも見える。少くとも山の上にゐる祖先を考へない場合には、浮んで來ない信仰である。其だけに此は相當人近い考へである。
(344)恐らく日本人と言はず、他界の生類を人間の祖先と考へるものは、凡この理路を辿つて到達したものが多いのであらう。歴史上の人格の記憶からする祖先觀の外に、かうした祖先を考へる径路があつたものと見ねばなるまい。三代四代前に過ぎ去つた血族に對する知識も、かう言ふ補充の道がなければ、思ふにもつと空漠として放散してしまふ――さう言ふ期間が長く續いた後、祖先を語り、又思ひ起す時代が來たのであらう。日本の前「古代」は、正にその最適切なものではないかと思ふ。祖先崇拜の最虔ましく保たれてゐると信じてゐるだけ、日本人は殊に内證の深い眞實の探るべきものを持つてゐるのである。他界の生類のあるものは祖先と考へられ、他の者は單なる信仰或は恐怖の對象に過ぎないと言ふことは、考へなければならぬものを含んでゐるのでないか。日本だけにおいてすら、他界の生類はある系統を立てゝ考へられ、又は其を外れて考へられてゐる。其は遙かに過ぎた古代のことばかりではなく、實に近代民俗の上にも、其古い俤は捉へれば捉ふべく、殘つてゐるのである。そこに民俗が近代生活の影響を受け過ぎるものとすることの外に、又はかり知られぬ過去生活を近代に印象するものだと感じ、信頼を新にせずに居られない。
私は、古代日本人が、他界として第一に考へる天空の事を、故らに後廻しにしておいた。其は順序として當然さうあるべきものと感じた爲であるが、又あまり以前のまゝの考へ方に入れて考へられることを避けたいといふ所もあつた爲である。そのやうに我々は、まづ天を以て神道の他界(345)の如く信じて來た。私の考へを陳ねてゐる中も、其世界が、われ等の上にたゝなはる大空のあなたにあるものと言ふ思想が、最古いものと言はうとしてゐる如く思はれたかも知れぬ。さう考へることも、理のない事ではない。比較研究によると、天空を神のある他界とする民族は多いのである。現に日本自身すらも、他よりも先に天上他界を信じて來た時代が長かつた。たゞ私の場合、既に若干は、大空の彼方《ヲチ》に他界を想望したばかりが、祖先の信仰ではなかつたことを言つて來た後だから、今すこし説明をひろげてもよい。高天原信仰は清澄な感じを與へる。だが、海のあなた、又その底の世界又は洋上遙かな島、何とも知れぬ闇い阪の下――かう言ふ地に他界を考へ、神の世界や、將又冥府・奈落を想像した事は事實である。其を皆他界と言つても、さし支へはない。だが、天を神の在り所とすることが、如何にも適切な氣のする所から、其でもまだ、天空の信仰衰へて後の變化だと思ふ者もあるが、容易に賛成することは出來ない。歴史にひきあて〔四字傍点〕て證明することも、正しく歴史以前の状態を考へることにならぬとすれば、歴史を偏信しての説明は、信仰に關する場合意味はない。日本人の場合、海を背景とする地域に長く住み、其後も又、ある部分は、海の生活を續けたのだから「海」に他界がないとすることは、我々採らうと思はぬ方法である。其と同時に、海を離れて山野に住んだ時期の傳承ばかりを持つと思はれる日本人だから、高天原他界説が正しいと言ふのも、單に直感にのみ據つてゐないだけに信じたい氣が深く動くが、此とて日本國家以前・日本來住以前の我等の祖先の生活を思ふと、簡單に肯ふことは出來ない。(346)他界には、二種類あつて、淨土・樂園とも言ふべき神の國だけではなく、奈落・鬼畜の國なる地獄がある。この一方を言つて居つて、必他方の聯想を放すことは出來ない。併し亦、一つ/\別に言ふこともある。この場合、神の國の中に、若干鬼の國の意味を含めて、他界を語つて行く方が、却つて、他界論は片手落ちにならずに済むであらう。
 
     大空の他界
 
「天空説」「海彼岸説」いづれによつても、日本古代の他界の所在は説明出來るが、どちらも事實であつて、恐らく唯、何れが先に考へられてゐたかどうかについて、正しい立ち場がどちらかにあるに違ひない。私は日本民族の成立・日本民族の沿革・日本民族の移動などに對する推測から、海の他界觀まづ起り、有力になり、後天空世界が有力になり替つたものと見てゐる。
だから、天及び天につゞく山に關しての場合、ある落ちつきのなさがあつて、其が新しく起つた思想に、如何にも適合してゐるかの感を與へるのではないかと思ふ。他界と祖靈との關繋は何としても合理的な點がある。之が天上説にたなびく根本の不安定感なのであらう。葬儀に關して、屍體處分の風習を思ふと、海彼岸説が極めて自然で、寧その事に引かれて、海中に他界を觀じる樣になつたと考へてよい。其は水葬についてゞある。其樣式を含むことの出來ぬ「天空説」では死の清淨化の點に、可なり重い問題がかゝつて居る。神道論では、凡此間題に觸れることの容易(347)でない事を感じさせる。唯富士信仰の持つ異風な死體のとりおき〔四字傍点〕が、纔かに天上他界觀から來たことを示してゐるやうに見えるやうである。屍化の思想と他界信仰とには、關聯あることは明らかだが、同時に其は、水葬儀禮よりも、遲れて行はれるやうになつたものと見てよい。古代日本について見れば、纔かに山上葬の存在をほのめかし得る程度より上強くは言ふことは出來ない。日本だけで言ふと、いづれも類例の多くない中にも、比べて見ると、前者の方は其でも、其痕跡は確かに探ることが出來る程度の普遍性を持つてゐると言ふことは出來る。すべての根元でないにしても、一つの元となる山上葬は、さうは行かぬ。「天空他界思想」の方は、常世信仰より古いものとするには、根據が乏しく、而も區々獨立してゐる傾きがある。高山の上に他界又は煉獄があつたことの言ひ傳へや、天遙拜所のあつたことは、疑はれないが、若干の徹底せぬ處があり、山上と天空との關係が、天を元とするのか、山頂(又は中腹)を主とするのか、尠くとも、靈魂の在所としては、時に判斷に苦しむことが多い。其から又、祖靈としてある變化はするだらうけれど、下界の子孫に對する愛情も人間的であつて、他界の聖靈の如く純化せない。其が却て素朴で原形的だと思はれるかも知れぬが、他界信仰はともかく靈魂の古代信仰の上に、一つの歴とした系統あるものである。さうでないものは崩壞した形と見るのが正しい。他界とても遠くは去らず、里の閑散期を奥山に居り、繁忙時を里におりて、その田畑を護るものとする。地方によつては、水の精靈ひようすべ――河童のことらしく傳へてゐる。主として近代式な懇親を感じさせる。(348)尤その考へ方も、中世以前に行はれてゐたらしい點もある――秋社・春社の神地の移動から、春は田にさがつて田の神となり、秋がすむと、山に上つて山の神となると言ふ傳承も、近代になつてからのことではない。其が前古代的な古い形とはきめられない。恐らく山と田とを循環する祖靈と、遙かな他界から週期的に來る――特に子孫の邑落と言ふことでなく――訪客なる他界の生類との間に、非常な相違があり、その違ひ方が、既に人間的になつてゐるか、其以前の姿であるかを比べて考へると、どちらが古く、又どちらが前日本的、或は更に前古代的かと言ふことの判斷がつくことゝ思ふ。又我々が他界と言ふと、必まづ祖靈を思ひ浮べるのは、正しく起る考へ方でもない。近代民俗――比較的に言つて――式に考へて抱く直觀と言ふだけである。他界にあるものは、我々の祖先靈魂だと考へてゐるのが、民俗の一面であるが、全面に渉つて行はれてゐたとは言はれぬ。況して實際生活では、古代と言へども、廣い日本の諸地方に、別樣の生活法が行はれてゐた。水葬が偶然あんな形を採つたからと言つて、古代人のすべてがさうした形式で葬儀を行ふ事にはならぬ。たとへば、水の上――水中に沈める法を外にして――の葬送で言へば、流すまでの方法は傳へた通りにしてゐても、其から先、海彼岸に漂著して後は、どう處置せられるのか、此は此岸における想像以外には考へられる問題ではない。我々の前代人が考へたのが、かうだといふだけに過ぎない。だから山地における葬送も、ある時期以後のとり扱《オ》きは、想像以外に出ない。地上なるが故に、かばね〔三字傍点〕の始末は、現實的にはつきりと行うたと我々は思ふ。併し其(349)は想像の陰から神秘の靄が包んで行つてしまつたであらう。だから、生人のまゝ空際《ソラギハ》に紛れ入つたやうにも傳へるものがある。山の世界では、他界と死とを關聯してゐても、その表現が、後人にとつて「死の民俗」と思ひ得ぬことが多かつた。
さう言ふ型の最空想的に見えるのは竹取のかぐや姫であり、其に大空に登つたあとで、不死の泉を煙として空に立ち上らす――部分をも、赫耶姫の行爲として一續きに見れば、他界と、訪れ人が死によつて完成する――其を燒く煙――かう言ふ風におき替へて見ると、秀れた人なるが故に、古代以前の死の問題や、屍體のとりおき〔四字傍点〕、火葬などの問題も、關聯して解けて來さうである。此らは寧傳へなかつた歴史の事實で、却て信仰の上では、美しい夢になつて語り續がれた。
墓を持つた神主家の、墓山を以て他界への階段とは考へてゐなかつたらしいのに比べれば、近代迄も、どうかすれば其手段によつて大行者の屍解を待つた山の宗教は、自ら違ふ所がはつきりしてゐる。
他界に入つて、神や伴神《トモガミ》――其以前には靈魂及び靈魂群――になることが、私どもの問題とする所である。
 
     他界の生物
 
この論説には、何を書かうとしたか。その計畫を掴むに苦しんでくださる讀者のために、短い章(350)を書き加へて、不完全に、不器用な手入れをして置かうと思ふ。
人間が信仰の持ちはじめに考へてゐたことは、我々の世界に相對して、遠く距離を隔てゝ横はる他界の靈魂の上である。日本人などは極めて長い紀元の世紀の間に、他界の觀察の視野を色々に易へて持つて來た。併し外々の宗教民族ほどには、神や、高い靈性を思ひ入ることの淺かつたやうに傳へられて來てゐる。が、その變化種類其に對する素朴な感情を考へると、この論文でも書いておくのが、この國の兒孫への責任であると言つた氣がする。此は日本だけの事ではなくて、どの民族・種族だつて、これを持たずに來たと言ふものは、殆考へられない。
一番我々の熟知してある日本での知識を中心に、他局族に共通してゐる事實の中には、一往も二往も考へ直すべき事、考へ足らなかつたことが多い。その中、他界に居る生物が、どんな考へから出てゐるか、相應に問題になる程の分量がある。其を書かうとして、初めたのだが、此分では其さへ書き盡せぬ氣がする。餘程のべる〔三字傍線〕風に語られた物なら昔話・傳説の中に、人間の住んでゐる他界の噂を語つてゐるが、多くのろまんちつく〔六字傍線〕な味で、人に忘られない説話は、洋中の島や、山深い隈に動物の生を營む社會がある。その身に運あつて――また不運の爲に――さう言ふ處に漂ひ著き、迷ひ込んだりする。非常な優遇を受けて人間界に送られて還る人もあるが、時には何とも彼とも言はれぬ怖しい目に逢つて、此世へ逃げ戻つて來る。さう言ふ話のうち、近代人の理會の上に珍奇な感じのするものは、多く支那傳奇の飜案だらうと思ふ癖がある。例へば加賀の猫(351)島の如きも、其等と類を等しくするものと竝べて見ると、やはり人に最親しくして、最早人間と姿を極度に異にした獣類になつて生活してゐるのである。
かう言ふ種類の話群を見ると、我々はお伽話として簡單に扱つてしまふが、我々ばかりでなく、何處の國々にも、かう言ふ説話があり、とりわけ感情から判斷まで、人間的なものばかりの世界を傳へるものを、動物比喩譚などゝ稱して、人間の上にあることを仔細あつて、動物に準へて語るとしてゐる。さう言ふ説話の中には、若干の人間が、動物群の中にまじつてゐることもある。とりわけ、首から上を人間以外のものにしたものが、日本には多くて、繪卷・繪詞にも、衣装つけた人間が、かぶり物して頭部だけ隱してゞもゐるものゝやうに、動物の顔を描いてゐる。動物に物言はせ動作させる時には、こんな方法を採るより外はないから、さうしたものと思つてして來た。併しも少し深く、思ひ潜めて見るべき所が殘つてゐたのだ。
恐らく我々と世界を一つにして、さう言ふ禽獣だけが、物陰に集つて、あゝ言ふ風に私語し、交渉して、人間との觸合ひ以外の生活面を持つてゐると考へたのではあるまい。猫たちが、人家のある村の外の草蔭によりあつて、よくない相談をし、彌三郎婆の顔出しが遲いなどゝ言つて、――その日のある時間に、そこをよぎることによつて、僅かに交渉を生ぜむとしてゐる人間に危害を加へようとしたなど言ふ、人獣同居の世界に、稀に別々の條件で、遭遇する人間の物語==それすら實は、世界を別にした人間が、獣類ばかりの棲む他界に足を蹈み入れた場合を根柢に想像(352)してゐる。他界に行つた人間の話に、違つた情趣を多く加へて表現したまでゞある==に出て來る敵愾心を持つた家畜・野獣の話は、あるにはある。併し其も大抵よく考へて見れば、二通りの別々の生き物が、おなじ宙有に呼吸を合せて棲んでゐるなどゝは考へたくなかつたらしいのである。
ひらき直つて、神話・傳説の類の上に見る人間と似ない神・靈物は、結局其が他界の生類であることを示す手段として、違つた姿形《ナリ》が考へつかれたのである。此等の聖物・邪惡のゐる所は、地理を傳へ忘れたものも多いが、少くとも、人間界とは、やゝ遠くして境界を隔てゝ居たことを傳へてゐることは確かである。
人間と境をおいて住むことは、たとへば、他界と言ふほど遠くない所にあつても、ある點までは他界の靈的存在として遇せられる。其場合、訪れ人のやうな性格、容姿を考へるよりも、別の據り所によつて、その像を考へることになる。
神聖靈の性質形態は常に對立的に分化せられていつたから、一方は邪惡の性格を深めて來る。ある神と對立的に分離せられた神は、古い神の考への推移の爲に變化した精靈(庶物靈)、異形を持つ靈體===は、醜惡性を示さうとした動物身を以て表現せられる樣に傾いて行つた。さう言ふ事情で、後には精靈即庶物靈――庶物靈即妖怪像――と言ふ過程を經て、他界の靈魂の想像した姿が益他界靈と似て行くことになつたのである。
(353)えうろつぱ〔五字傍線〕やえぢぷと〔四字傍線〕の神話の上に出て來る偉大な神及びでもん〔三字傍線〕・精靈の類が、禽獣の姿で出現するもの非常に多く、殊にえぢぷと〔四字傍線〕において、頭部が鳥や獣で、胴體が人間と同樣なのが、とりわけ重要な神の場合であるのは、他界生類が他界身を現じた時を以て最偉大を發揮するものと信じて來たからである。幾樣にも變身を持つのは、欧洲の主要神に限らない。佛典の上にも、如來菩薩はじめ諸天の上にもあることであり、又變身の多くあることを、從來その神變力によつて、さうなのだと説いてゐるのは、其は其として、其前に源由があつたのである。變身術は邪神すら最屡行ふ所で、――何故さうした威力を考へたのだらう。
 
    ぜうす〔三字傍線〕 と らあ〔二字傍線〕 と
 
元々、他界の存在に具つてゐるもので、其らの他界身をわれ/\の世界とひき放して考へる所から出てゐる。其が逆に、他界の所屬だと言ふことを見せる變身だと考へられて來たのである。此が人間界に顯れては、他界身を現じて不思議を爲す最偉力ある所以を示すものだから、遂には、此世界の生物も、その行動が、善意思であり、又は惡意思であるに限らず、力を發揮する條件として變身を持つことになつた。ぜうす〔三字傍線〕が人界の女人れだ〔二字傍線〕と遇ひ、卵形の子をなさしめたのは、白鳥の姿になつてゞある。言ふまでもなく白鳥は、世界中に渉つて、靈その物の化したもの、或は靈魂を搬ぶ鳥と信じられて來た。他界に集り駐る淨き靈の化したものが、白鳥なのである。普通(354)死者の靈だと言はれるのと違つたことを示し又、極めて容易に他界なる靈魂が我々が神と考へるものに近いことを教へてゐるのである。白鳥處女傳説と稱せられるものは、相當に戀愛の色彩を持つてゐる。此は日本古代にも、とりわけ此傾向が濃い。而も日本語の古語「とこよ」といふのは、常夜《トコヨ》を意味してゐた。此が第一義、永久の齡を用語例とする常世が第二義、不死にして愛の涸渇を經驗する時なき樂土――さう言つた意味を第三義とし、時としては意義相混じたり、又時には、どれか一方が著しく語の表に出てゐるのが、此語の常の用法である。此うち最語の構成が語義と緊密で、熟語的な連結に飛躍の感じられないのが、常夜即絶對の闇を意味する常世である。併し熟語は構成に先つて、既に造語者の理會してゐる意域を十分に言はず――ある意義飛躍を基礎にしてゐる。其が造語努力を簡單にする。常齡《トコヨ》・常愛《トコヨ》よりも、幾分完全に近いからとて、之を第一意義として作り出されたとは言はれない。「常闇の夜の國」が語原の初めの意義だから、日本古代の他界觀は、底の國・地獄・浮ぶことなき靈魂の國と言つた恐しい世界を意味してゐた。其が純化して第二義――普通常世の本義と考へられてゐるやうな明るい他界觀が生じて來たものと言ふ風に、以前は私も説いてゐた。――これは反省すべき缺點を持つてゐる。
第三義としてゐた常愛《トコヨ》も意義の成立は成程遲れ、仙界と戀愛とを連ねて考へる傾きの最豐かな支那信仰の影響をとり入れてから、第三義と稱するものは、非常に發達したらしいが、日本的にも、古代からないことではない。殊に老翁と處女――多くの場合は、一老人を圍む數人の處女、其に(355)不老不死の説話の纏綿するものが相當に考へ出される。
此が有度濱天人を中にして分化したと言へば、さうも見える竹取翁(萬葉集卷十六)、羽衣天女の物語であつて、皆白鳥處女式の要素を見せながら、他界の白鳥身を現じてゐない。併し常陸風土記・余吾天人その他、鳥の印象は十分見ることが出來る訣である。古代日本の動物では、羽衣を着ると言ふことが、説明を俟たずして、大きな白鳥を現出することだつたのである。早く述べたやうに、雁《カリ》は、鵠《クヾヒ》の類の大鳥で他界の靈魂を搬ぶ鳥だと考へられてゐた。其が一轉したのか、或は寧他界者が、鳥自身になつて、我等の世界を訪れるのか、如何樣にも考へられるが、人は使者としての方を採るだらう。が、使と考へるには、他國の存在が偉大化せられて來たことが考へられるので、さう言ふ王位にあるものを客位又は從位に貶《オト》して考へるやうになつたと見るべきであらう。ともかく比較研究と共に古代日本の單獨研究が、ある點まで古代世界信仰を説明してくれるのである。
白鳥處女譚は言はゞ、他界信仰の一分岐であつて、いと早く世界的信仰が文學時代を暗示してゐるものと言ふことが出來る。白鳥はあのやうに、羽衣を脱ぐことによつて、人となり、著ると即鳥――神となると言ふ根本思想を持つてゐる。他界身は白鳥であつて、現世身は處女である――此考へ方に整理して、我々はこの物語の裏に、古代の他界身信仰を見て居る。
 
(356)     地 下 國
 
豊玉媛の現じた他界身は、大蛇であり、八尋鰐であつた。かう言ふことは、外の立ち場から外の要素として説くことも勿論出來るが、同時に此側から説明すべき要素を十分持つてゐることは事實である。殊に明らかに、綿積宮と此世界との間において、兩界身を現じられたことが基礎になつたものなのであるから。
此と樣子は非常に違つてあるものと思はれるが、實は何の變る所なく、ある點では寧素朴な所さへ殘つてゐるのは、いざなみ〔四字傍線〕の尊の變身である。合理化が思ひがけない程行き屆いてゐるので、誰も變身譚とは思はない。天神が一つ火を照して見ると、妹神の體には、蛆たかり蕩《卜ロ》ろいで、身體の各部に、いかづち〔四字傍線〕がついて、腐肉を貪つてゐるかに感じられるやうな語り方である。いかづち〔四字傍線〕は古代にも既に雷及び雷神であるが、一方、雷神の原躰としての蛇を同時に考へてゐた。妹神の屍についてゐた蛆は、――恐らく巨人としての物語としての立ち場から――日本紀によれば八雷《ヤツイカヅチ》以下のいかづち〔四字傍点〕とある。古事記には、諸々のやまつみ〔四字傍線〕及び雷神である。こゝには古事記の方も蛇神が化成してゐたのだといふことには觸れない。日本紀のいかづち〔四字傍線〕は蛆を巨大化して言つたものだが、同時に此は妹神の變身――夜見の世界の姿と考へたものを傳へたのである。此場合もやはり蛇身が他界身であつた。おなじ地下國に郷里を持つにしても、さう言ふ傳へは誰の上にも傳へ殘されてゐる訣ではなかつた。大國主の妻すせり〔三字傍線〕媛は、根の國から來た。だが夫と共に上の(357)國に遁竄して住み果てゝゐる。出雲人の傳へに、其點の物語があつたかも知れぬが、文獻には殘らなかつた。唯他界の道徳とも言ふべきものを、此土に齎らしてゐる。すせり〔三字傍線〕媛の名義の嫉妬を意味するすせり〔三字傍線〕の心を、此土に留めたものらしい。此はぎりしや〔四字傍線〕のへる〔二字傍線〕が地獄の嫉妬の女神であつたことゝ似てゐる。
他界から此土に持ちこしたものには、さう言ふ心理的な遺産もあつたものと見える。途中から急速に發達した部分が多いらしくて、日本人生得の考へでない附加が考へられるが、薬方は、他界から傳へられたものと信じてゐたらしい。大國主・少彦名を以て、常世の醫術を將來したものゝやうに考へたことは古いことだが、其は常世から來て常世へ還つたらしい少彦名が、大國主と連帶して醫術を行うたやうに考へた所に重點があるのだが、どうせ古代君主の幻影を幾重にも負はされてゐる大國主が、醫術及び古代においては其と同じものと認めてゐた咒術・醫療法が、大國主からはじまつたとせられるのは、問題のないことである。大國主は地下の他界から妻を求めて還つたが、常世の薬療は、少彦名の上に多く語られてゐた。記紀に傳へた神功皇后の藥としての酒を祝《ホガ》ひせられた歌は、少彦名が常世の國に住み、其くすり〔三字傍点〕なる酒を以て、人間を療することが讃歎せられてゐる。
常世の世界との交通を行うたものは、少彦名の外にもあつた。最初に言つたたぢまもり〔五字傍線〕が其だが、此には珍しい薬療の效能を持つた果實が介在してゐた。即、「常世物花橘」である。此は見ても、(358)喰つても、此岸には比類のない靈果であつた。之を中心として、出石族の鎭魂は行はれたのであらう。私は初めに言つたやうに、常世なる語は、出石人の言ひ出した語が、廣く行はれたものでその他の民・氏人たちには、皆別樣の語があつたらうといふ預期を持つてゐる。
 
     他界の竝行
 
唯古代以前或は古代日本における人々は、其に少くとも、二つ以上の他界を持つたらうといふ注意を書き添へることを、今まで延引してゐた。
他界の中には成長しきつて、世界を移すと同時に、互に此世界の人だつたことを完全に忘れる完成靈魂の集る所と、未完成の霊魂の留る地域とを考へてゐた。其が他界の對照的に存在する理由だが、又必しもさうでなく、完成した他界の生物の人間離れした恐しさから、別に未完靈の集る所と混同して恐しい鬼類の國の樣なものを成立させるやうになつたこともある。其外元來完成の考へられぬ庶物の靈の世界、其等の各が對立すべきは對立し、對立すべからざるものも對立して、愈複雜化して、古代における他界觀念が、さう簡明に理會することの出來ぬやうになつてゐたのである。
なぜ人間は、どこまでも我々と對立して生を營む物のある他界を想望し初めたか。其は私どもには解き難い問題なるが故に、宗教の學徒の、將來の才能深い人を豫期する必要があるだらう。私(359)などは智慧も短し、之を釋くには命も長くはなからう。だが此までの經歴から言ふと、はじめからの叙述が、ほのかに示してゐるやうに、人が死ぬるからである。死んで後永世を保つ資格あるものになるからだ。私の考へは、今までの宗教と毫も變る所がなかつた。許されて彼世界を生きようと言ふ望みは、宗教の芳しさを知つたものは、さう思ふだらうが、今において其を希ふこと切實ならざる日本人の如きすらあるのだから、宗教家の教へどほり心を傾ける人ばかりはなからう。我々は宗教家の組織したものを考へ直さうとするのでは、蒙昧なる靈魂の原野に宗教家以前の考へに生きてゐた人々――其が日本人である場合は、我々の了解に便りあるが、さうでなくても、其から類察出來る古代人の芽生えのまゝ、教育の遲れてゐた宗教心のありどころを覓めようとして、一つの據り所らしいものを思ひついた。即、他界信仰の發生である。一旦起つたものだから、其が發育して行つたので、かう言ふ風に向ひたいと言ふ意思が、ちつとも關與してゐぬらしい他界の發生――其を唯つきとめて行けば、世界人の宗教心の發生點に到達するかも知れない。さう思つてしてゐることだが、この答へは、我々の先輩である所の泰西の學者が、既に幾度も、幾冊も書き積んでゐる爲事に過ぎない。
でも私は、かう言ふ學問に――一つの違つた觀察點を顧みなかつた日本人が、更めて手を出してよいことだと思ふ。戰ひは寂しい結果になつて、我等も望みを加へた學の後繼者を見失つたが、この學問では、まだ生き殘つて、指を染める學者の殘つてゐることを忘れないのである。
 
(360)     とてみずむ〔五字傍線〕起原の一面
 
我々の觸れておかねばならぬ多くの話が殘つたやうである。唯日本人の古代生活に關繋なさ相に見られて來た假面と、とてむ〔三字傍線〕の事には、其まゝにしておけぬ繋りを覺えるのである。
この二つは古代日本には關聯がないとしても、日本人以前には、其がないとは言ひきれない。かう言ふ風にして考へてゐる日本人は、必しも現日本の地を生活の主要根據として居なかつたかも知れぬ。或は既に我々の考へる日本の地に一歩も二歩も乘り出してゐたことも考へられる。歴史上の日本人の痕跡は見られぬにしても、前日本人は必、行動を止めてゐた氣遣ひはない。私は民俗研究者の一人だから、其らしい方法で、さうした日本人の行き足をつきとめて行くであらう。とてむ〔三字傍線〕崇拜の基礎觀念は實は、雲を掴むやうな部分がある。たゞある種の動物乃至植物・鑛物・又風・光りなどを、それ/”\の部族又は人々のとてむ〔三字傍線〕と稱へるものとして尊敬してゐる者が、非常な睦しさと近さとを感じてゐる事の故に、とてむ〔三字傍線〕崇拜はあるので、疑ふべからざる此現實の説き難き若干の不審を籠めて、さうした崇拜に關係ない人々が眺め、關心を持つてゐる訣である。我々の周圍にもとてむ〔三字傍線〕崇拜と同じものを持つた人々があつて、日本民族の一部となつてゐる。あいぬ〔三字傍点〕の熊・梟・蛙・狐・鮭などに對して抱いてゐる觀念と所作は、他の種族・部族に行はれてゐるとてむ〔三字傍線〕と肩を並べるもので、別殊なものとは思はれぬ。沖繩の同胞も同樣なものを持つてゐる。(361)宮古島の黒犬・八重山(石垣島)の蝙蝠の如きは島人皆その親昵關係は自ら認めてゐるが、何と説明しやうもない爲に、長い過去において、其々の動物の子孫だと言ふ他島人の惡口を、甘心しない乍ら、半分は認めてゐるやうな形になつてゐた。動物の子孫といふのは、それが人間より低い程度に止つてゐるのに、人間は、其より生き進んでゐる――其中から出て、新しい進んだ生活に入つてゐる――さう言ふ意味から子孫と言ふのだらうが、何の據り所もないことを、半信半疑で、抗辯したり默從したりしてゐる。其ばかりではない、島々における傳承を調べると、思ひの外に此特別な生類親昵の姿が見られるのである。或は部落又は島中で、竊かに自ら其々の動物の子孫らしく感じて居たらしい心持ちも推察することが出來る。ある島は鮫の、ある島は人魚(儒艮dugong)の、又他の島は海龜・海豚《イルカ》の子孫だと稱せられ、又自分其を信じてもゐた。黒犬や、鮫に助けられた人の話は、度々聞くことだが、其も此不可解な親密關繋を説かうとしたゞけで、さう言ふ傳承を持つ島々の傳へを完全に説き果すことは出來まい。打とてむ〔三字傍線〕と言はれる動物その他に對する崇拜の存在することを知らなかつた時代には、問題だつたらうが、この短い單語が、この觀念を簡單に解決してしまつた。だが疑問は其から先にあつて、まだ未解決のまゝに殘されてゐる。動物でないものは、祖先子孫を以て説明することが出來ぬから、存外もつと單純な説明で、兩者の親睦關繋を説いてゐるかも知れぬ。だからさうした植・鑛物に關したものゝ事は、我々の見聞に洩れてゐるのではないかと思ふ。
(362)此等のとてむ〔三字傍線〕動物の中、海洋に關聯あるものゝ目につくのは、沖繩地方の地理によつてゐるのだが、此方はもつと調査に連れて、種目が殖えて來るだらう。
古代日本では、既にとてむ〔三字傍線〕らしいものが、この國土生活の條件に準じて飜譯せられ盡してゐる。この日本國土にそだつたさうした信仰を保つて居たのであらうが、大抵相類似してゐて、竝行的事實を其に宛てゝしまつたのであらう。如何にも純乎《ズブ》なとてむ〔三字傍点〕崇拜らしいものはない。神使――つかはしめ――などは動物で信仰自體に關してゐるものだが、まづ神社の神との關繋が主になつてゐて、人や邑落との關聯は薄れて見える。植・鑛物の精靈を言ふ傳説は多いが、ある意味では、とてむ〔三字傍点〕的には關繋が多過ぎたり、又少な過ぎてゐる。稀に神武紀の大倭入りにあつた母木《オモノキ》傳説のやうに、關聯深げに見え乍ら、人間的には其が薄い――とてむ〔三字傍点〕の一例かとまで思はれるのは少くなつてしまつてゐる。要するに古代日本人以來の特質とも言ふべき因縁深さを思ふ癖が、神話傳説類を變質せしめてゐるのだらう。
 
    沖繩式とてみずむ〔五字傍線〕
 
其から見ると、沖繩は、同胞でありながら、因縁觀が少くて、其點に深入りして變化させなかつたのだらう。もつと深い原因は、國が小く割れて邑落列立の時代が長かつた爲、大きな歴史體系を欲するに到らなかつたのだ。
(363)鮫をとてむ〔三字傍線〕とするらしい間切《マギリ》・村の外に、之を家の守護靈とする舊家もある。海中で、その背に乘せられて、鮫の助けを蒙つたのだといふ。此は二三例ある。支那海を游泳する儒艮が、宛も周遊する時に、之を獲り、村人集つて、其肉を分けて喰ふ。つまり、血食するのである。海豚なども、さうした饗に供へられる祭事が相當にある。
此は恐らく週期的に、又年に稀に遠く來り向ふ動物の寄るのを計つて之を取り、其血肉を族人の體中に活かさうとするのである。沖繩本島では、此風習が變つてゐる。一族中に死人があると、葬式に當つて、豚の肉を出す。眞肉《マジヽ》――赤肉・ぶつ/”\・脂肉――を、血縁の深淺によつて、分ち喰ふ。この喪葬の風と、通じるものがあるのであらう。一つは週期的の祭祀、一つは一族の訣別、之に通じる風を傳へたものと見て、不自然ではない。
郷黨血食の儀禮とも言ふべき祭りに共食せられる海獣は、祖先子孫の關繋によつて續いてゐるものではない。併し食人習俗の近親の肉を腹に納めるのは、之を自己の中に生かさうとする所から、深い過去の宗教心理がうかゞはれるのである。其と近い感情が、儒艮・海豚に對して起る訣である。而も其は親子でもなく親戚でもない――その外のある緊密な關繋と沖繩の人々は感じてゐる。其よりも更に生活の原始的な種部族にとつては、説明し難いものを感じてゐるに違ひない。所謂とてむ〔三字傍線〕ととてむ〔三字傍線〕を持つ人との精神交渉は、彼等の單純な知識では解説の出來ない、併し氣分的には諒解してゐるやうなものであつた。
(364)そのとてむ〔三字傍線〕が單に動物だけに限らず、植物にも、鑛物にもあると言ふことは、特殊な感情關繋を其等の物に寄せてゐるので、必しも口にし腹に納めると言ふ條件以外にも、似た考へ方はあつたのであらう。或は時として定まつてある一方から吹くそよ風、彼等と約束ある如く照し來る方面の光線、或は彼等の爲にばかり其處に立ち、峙つてゐる樣に見られてゐる樹木巖石、移動すると移動せぬとに論なく、人界の姿と違つたものを以て、彼等に接して相貌をかへることがない。日本人の持つ訪れ人が、他界身と人界身とを持つに對して唯一つの「人外身」を以て、彼等に應接する。白鳥と處女との兩身を現ずることがなく白鳥ばかりである樣に、海豚・儒艮の他界身を示すばかりのものも、稀に或は週期に人界を訪れる。この世における彼は、人間身を持つ我等であり、往いて他界にある自分の身はたとへば儒艮身であらうも知れぬ――さう言ふ空想すら起るほどに、深い感情交渉を互に持つ。唯、彼らは人間身を以て我等の前に現れることの出來ないばかりが、常世人・訪れ人と違ふ所である。
とてむ〔三字傍線〕を持つ人たちが、さう考へる理由は、靈魂信仰から來る。海獣の中なる靈魂は、われ/\と共通の要素を持つてゐる。さうして人間身は現ずることをせぬが、變ずることなき他界身の中に、共通のものを持つてゐる。靈魂觀が更に一轉すれば、又更めて、海獣の靈魂が、人身を現ずると言ふやうな考へ方を持つやうになるのである。
 
(365)    動物神話 植物神話
 
其を無生物の上におしひろめると、植物・鑛物のとてむ〔三字傍線〕觀が生じる。一面から言へば、此觀念はらいふ・いんでくす〔八字傍線〕の信仰の根元となつてゐる。遠處にある動物・植物・鑛物が、人の靈魂を保有してゐる。其人を左右するには、現身に手を加へることは無意味である。そのらいふ・いんでくす〔八字傍線〕なる獣・鳥・石・木などに内在する靈魂を自由にする外はない。此外存物と靈魂と、人間現身との關繋が、生命指標の信仰ととてむ〔三字傍線〕とを繋いでゐると言はねばならぬ。
生命指標のある所が、靈魂の存在する所だから、遂には優秀な靈魂は、常の身より外に置いて、犯す者を避けようとする方法に對する信仰などが出來るやうになつた。
此も皆他界を尊重し、そこによき靈魂の保有者が居るものと信じた所から出た信仰の分化したものである。個人の靈魂の重要なるものがそこに護藏せられてゐると言ふ考へが、又分化して、其一としては、どれが靈魂の本體だか、人に知らせぬ樣にしたと言つた説話も出て來るのである。えぢぷと〔四字傍線〕其他の頭部又は年身禽獣であつて、其下は、普通の人體をした神體を多く考へてゐた理由はこゝにある。上は他界身で、殘る所は人間身――即神體と言ふ、彼岸此岸を兼ねた神を想像し、其處にととてみずむ〔五字傍線〕の要素が示されてゐるのである。
假面の事は、既に今までのとてむ〔三字傍線〕の話の條に暗示する所があつたことを感じる。唯一言言ひ添へ(366)れば、假面起原の複雜な中にも、とてむ〔三字傍線〕像から出てゐると言ふことは、眞實である。之を被いて別の服装を以て身を蓋ふものと、大體假面をかぶるだけにとゞめるものとがある。此は併し何れにしても同じ事で、他界の神の來臨する景況と感情を表出することになるのである。
 
(367) 「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ
                 
「ほぐ」・「ほがふ」など言ふ語は、我々の國の文献時代には、既に固定して居たものであつた。だから、當時の用例を集めて、其等に通じた意味を引き出して見たところで、其は固定し變化しきつた不完全な表現を持つたものばかりである。其等の用例に見えた若干づゝの違ひが、段々原義に※[(出/米)+曜の旁]りつめて行くやうである。
「しゞま」を守る神の意向は、唯「ほ」によつて表される。その上一旦、「しゞま」の破れた世になつても、「ほ」を以て示す事の屡あることは、前に述べた。
我が文學なる和歌に、「ほ〔傍点〕に出づ」「ほ〔傍点〕にあらはる」「ほ〔傍点〕にあぐ」など言ふ歌詞が、限りなく繰り返されてゐて、その根本の意義はいまだに漠としてゐる。必學者は秀《ホ》や穂《ホ》を以て解決出來た樣なふりで居る。併し、「ほぐ」と言ふ語の語原を説いた後に思ひあはせれば、今までの理會は妙なものであつた事に心づく事と思ふ。「ほにあぐ」の方は帆に懸けてゐる類のもあるが、大抵は皆忍ぶる戀の顔色に出る〔十字傍線〕・外側にうち出す〔七字傍線〕と言つた意味に使うてゐる。
(368)だが、其では説ききれぬ例がある。古い處では、
 はだずゝきほ〔傍線〕に出《ヅ》る我《ワレ》や尾田《ヲダ》のあかたふしの淡の郡にいます神あり (神功皇后紀)
新古いものでは、
 草深き野中の森のつまやしろ。此《コ》や、はだすゝきほにいづる神 (夫木和歌集、卷十六)
此例などは外面に現れるとばかりで説けきれぬものである。ほにいづ〔四字傍線〕と言ふ語に必、忘れられた變遷のある事を暗示してゐるのである。後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。播磨風土記逸文ににほつひめ〔五字傍線〕の命が、自分を祀つたら善《ヨ》き驗《シルシ》を出さうと言うて、
 ひゝらぎの八尋桙ね底つかぬ國。をとめの眉《マヨ》ひきの國。たまくしげ輝く國。こもまくら〔五字傍線〕寶ある白衾新羅の國を、丹波《ニナミ》以《モ》て平《ム》け給ひ伏《マツロ》へ給はむ。
とかうした文句で諭《ヲシ》へて、赤土を出されて……と言つた風の傳へがある。勿論此赤土を咒術に用ゐる爲に出されたものと解して、桙・舟・戎衣等に塗り、其上海水を赤く撹き濁して行つたら、舟を遮ぎるものはなからうと託宣のあつた樣に説いてゐる。けれども此「善き驗を出さむ」と言ふのは、古意を以て説けば赤土を出された事である。其を當時誤解したものと見ることが出來る。更に後世風の解釋は伴うてゐるが、神武天皇熊野入りの條に見える高倉下《タカクラジ》の倉の屋根から落し込まれた高天个原からの横刀《タチ》なども、此例である。たけみかづち〔六字傍線〕の命の喩しの言が合理的になつて(369)ゐるが、神の「ほ」としての横刀を見て、天神の意思を知つたのである。此外にも大刀を「ほ」として表した神の傳へはある。
中臣壽詞によると、あめの‐おしくもねの〔九字傍線〕命が、かむろぎ〔四字傍線〕・かむろみ〔四字傍線〕の命に天つ水を請ふと、天の玉串を與へられて、「之をさし立てゝ、夕日から朝日の照るまで、天つのりとの太のりと詞《ゴト》を申して居れ。さすれば、驗《マチ》としては若《ワカ》ひるに五百篁《ユツタカムラ》が現れよう。其下を掘れは、天《アメ》の八井《ヤヰ》が湧き出よう……」と託宣せられたと説いてゐる。若ひるは朝十時前後の事(沖繩では、おもろ双紙の昔から、今も言うてゐる)で、夜明けになればの意だと言ふ。併し或は字面どほり「弱蒜《ワカヒル》に」で柔い蒜と五百本からの竹薮が出現しようと言ふのかも知れない。竹薮だけにしても、神の示す「ほ」としての意味のものだと知れよう。天の玉串なども、「ほ」の考へから出たものでないかと思はれるのである。此には「ほ」と言はずに、「まち」と稱してゐる。卜象《ウラカタ》の「まち」なる語に譯してゐるのである。「まち」は實はさして古い語ではない。「ほ」の用語例が忘れられてから、いつのまにかとり換へられたに違ひない。此傳へなども、天神たちが教へた語と言ふのは合理的になつてゐると見られよう。あめのおしくもねの〔九字傍線〕命が神を祷ると、天の玉串が忽然と現れた。其串の自ら擇ぶ地上にさし立てゝ、天つのりとの太のりと詞《ゴト》を申してゐたら、若ひるに五百篁が出現した。かう解すれば、「しゞま」の神の示す「ほ」の樣子が知れよう。「ほ」と卜象との關係は後で説くが、さうした物質を「ほ」とする外、ある動物又は人間を以てし、又其等のある時の状態を以て(370)暗示する事がある。垂仁天皇の時、ほむちわけの〔六字傍線〕皇子が出雲へ向ふのに、三つの道の何れをとらうかと言ふ事になつて、「ふとまに」卜ふと、本道になつてゐる二道では、跛《アシナヘ》・盲に出くはすだらう。だから紀州路は脇道ではあるが縁起のよい道だと出たので、其によつたとある。此も實は訣らぬ話で、跛盲に逢ふと、其道は咒はれてゐると言ふ心あたりを得たのであらう。さうした經驗の積み重りから、かうした逆の言ひ方が生じたものと思ふ。更に此より先、出雲大社に詣でるのが果して神の意かどうかを問ふのに、あけたつの〔五字傍線〕みこは、甘橿《アマカシ》の丘《ヲカ》の鷺が落ちたら神の意思と信じると言ふ約束を立てゝ置いて、鷺をおとし、又其を飛び立たせ、熊橿の葉を枯らしたり蘇らしたりして、神の意思を試してゐる。此は「うけひ」と言ふ神意を問ふ樣式で、どちらかをきめる場合の方法である。此が一轉すると、一極《イチキ》めの方法になるし、又一方既に占ひの方に踏みこんでゐる樣である。「うけふ」は承ふ(ウケガフ)と言ふ語の古い形で、承《ウ》くを語根としたものだ。神がいづれを承けひいてくれるかと其肯否を問ふのである。二つ以上の條件を立てゝ、神の選擇に隨ふ神判を請ふ手段である。だから、此れが一轉して神の保證によつて、自分の心を示す誓ひの手だてにも變化する。「うけひ」と言ふ語には、判斷に迷うた時、神の諭す方に隨ふと言ふ考へと、神に二人以上の者の正邪を判決させる場合と、誓ひの手段として採る場合との三つがある。
其對象となるものは、神の示すところの「ほ」である。あけたつの〔五字傍線〕王《ミコ》の場合にも、うけひまをして〔七字傍線〕鷺をうけひ落しうけひ活し、木の葉をうけひ枯しうけひ生かしたとある。神の「承《ウケ》ふ」象《ホ》を請(371)ふ事になる。
「ほ」と言ふ語早く忘れられて、專ら語部の口から移つて行つた歌詞となつて了うた。其と共に別の語が其位置をとつて、而も意味が一方に偏する事になつて來た。「たゝる」と言ふのが、其である。
たゝる※[三字箱で囲む]と言ふ語は、記紀既に祟《スヰ》の字を宛てゝゐるから、奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて來てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意現れると言ふところにある。允恭紀に淡路の島で狩りせられて、終に獲物がなかつたので、占はれると、島の神祟りて曰はく、獣をとらせないのは自分の心だ。赤石の海底の眞珠を自分に獻つたら獣をとらせようと言うたとある。此文の卜うたら神が祟つたと言ふのは、今の祟るでない。雄略紀の「十握劔に祟りて曰はく」と言ふのも、さうである。「たつ」と言ふ語は現れる・出ると言ふ意義が古いので、其から、出發・起居などの觀念が纏つて來たのである。「月たつ」など言ふのも、月の朔日が來ると言ふよりは、月末に隱れた月が現れると言ふのが元である。「向ひの山に月たゝり〔三字右○〕見ゆ」などを見ても知れるであらう。月神の出現を示すのである。其が段々内的になつて來て、神意の現れる事を示す語になる。更にそこに、意義が固定すると、「けしき‐たつ」「おもかげ‐たつ」など言ふ信仰拔きながら幽界を思はせる樣な内容を持つた、捉へ難きものゝ出現の意になる。たゝり〔三字傍線〕はたつ〔二字傍線〕のあり〔二字傍線〕と複(372)合した形で、後世風にはたてり〔三字傍線〕と言ふところである。「祟《タヽ》りて言ふ」は「立有而《タヽリテ》言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、實は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。ところが此處に考へねばならぬのは、善い意味の神は「そしり」「ことゝひ」を自在にするが、わるい意味の神又は、含む所があつて、心を示さない神が、專ら「ほ」を示す事に變つて來る。「ほ」の意味の下落でもあり、同時に「ほ」なる語の用ゐられなくなつた一つの原因とも思はれる。かうした場合に、唯ある現象のみ見せて、其由つて來る理由を示さないといふ形をとる。あるわるい現象を見て、神の「ほ」と感じ、其意味する所を問ふと言ふよりも寧其原因を求め聞いて、其に對す處置を採らうと言ふ事になる。かう言ふ風に展開して來ると、既にたゝり※[三字箱で囲む]の觀念が確立した訣である。でも其古いものはやはり、人の過失や責任から「たゝり」があるのでなく、神がある事を要求する爲に、人困らせの現象を示す風であつた。
淡路島神は珠の欲しさであつた。龍田の神は社に祀られたい考へから作物をまづ荒してゐる。即人の注意を惹く爲の「ほ」に過ぎない。かうしてくれるかどうかとの強談判に過ぎないので、人のせゐ〔二字傍点〕ではなかつた。かうして「たゝり」が「祟」の字義にはまつて來る。此が奈良朝或は其以前の此語の内容である。ところが、神の内容が段々醇化して來ると、さうした「たゝり」を人間の過・罪から出るものと考へて來る。平安朝に入つては其色彩が強くなつて、天長四年の詔などに見えて來る。「御體|愈《ヤス》からず大坐《オホマ》しますによりて、占へ求むるに、稲荷の杜の樹を伐れる罪、祟(373)りに出づと申す……」。「たゝり〔三字傍線〕 にいづ」と言ふ語と「ほ〔傍線〕にいづ」と言ふ語とには、輪郭には大した變りはない。唯内容には複雜味が加つて來てゐる。「たゝり〔三字傍線〕にいづ」はたゝり〔三字傍線〕として表すと言ふ事である。其を直にたゝる〔三字傍線〕とも古くから言うてゐる。但し、……にたゝる」と言つた發想をとる。「何々となつてほ〔傍線〕を示す」と言ふ事になるのである。語法は後まで固定して殘つてゐても、言語情調や意義は、早くから變化してゐるのだから、「島の神たゝりて曰はく……」など言ふ樣な表現を用ゐる事になつたのである。古い俤にかへすと、「獣一つすら獲ぬほ〔傍線〕を示し給へるは何れの神にいまして、いかなる御心かおはしますとて卜ふるに、神の心出で來たり。……」と言ふ風にあるべき處である。して見れば、「……にたゝる〔三字傍線〕」と言つた語法は、其以前から保存せられたものと見てよい。十握の劔を「ほ」として出現せしめられた。古い形の「たゝり」は「ほ」と言ふ語で表すべきものであつて、單に現象のみならず、ある物質をも出したのが、次第に一つの傾きに固定して來たのであつた。
此序に言ふべきは、たゝふ※[三字箱で囲む]と言ふ語である。讃ふの意義を持つて來る道筋には、圓滿を豫祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出來、「神意が現れる」「神意を現す樣にする」「豫祝する」など言ふ風に意義が轉化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて來た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から來た(374)ものとは言へないのである。
忽然として「は」の出現するといふ思想は、後世まで一夜竹流の民譚を止めてゐる。一夜にして萩の生えたと言ふ播磨風土記の話も、一晩の中に山の出來たと言ふ傳へも、皆此系統である。「ほ」に就いての信仰生活が忘却せられた後に、唯ゆくりなく物の出現したと言ふ姿に固定したのだ。
ほ※[箱で囲む]を語根とした動詞が、ほぐ※[二字箱で囲む]であり、又ほむ※[二字箱で囲む]と言ふ形もある。「ほぐ」が語根化して再活用すると、ほがふ二※[三字箱で囲む]となる。普通の用語例からつきつめてゆくと、「ほぐ」は優れた神が精靈に向うてする動作らしく思はれる。併し「ほ」と言ふ語から見れば、元庶物の精靈が「ほ」を出すと言ふ義であつたらしい。其が出させる方の動作に移して言はれる事になつて來る徑路は考へ難くない。精靈の示す「ほ」を出させると言ふ方面から見れば、やはり「ほ」を出すと言ふ事になる。「ほ」の原義は知れないが、「うら」と似た筋路に立つ事を思へば、末《ウラ》・梢《ウラ》・表《ウラ》(うら<うれ)同樣、秀《ホ》の義だとも言へる。表面末端の義から、さうした出現形式に言ふのだと説けばわかる。秀の意義なども、逆に「ほ」の影響を受けて、愈著しく固つたらうと言ふ事も考へねばならぬ。精靈の「ほ」を現す事が、大きく見て常世神の動作に移して考へられ、其が段々人間の行動らしくなつて來ると、「ほ」を乞ふと言ふ樣な意義をも通つて來た事であらう。ところが、信仰樣式が易つて來ると、「ほ」の有無は別問題になつて、占ひの方面を分化する。其と共に「ほぐ」と言ふ語(375)も、咒言の效果の有無と言ふ側の内容を持つ事になる。神から傳誦した咒言の威力によつて、精靈を其詞に感染させ、誘導すると言ふ義から出で、更に精靈に對して、ある結果を豫約すると言ふ内容を持つ事になり、はては、祝福の詞を、陳べると言ふ樣になつて來たのである。文獻はじまつてからの「ほぐ」は、どうかすれば、一樣に祝福する意に見られる傾きがある。よく見ると「ほ」の觀念は鮮やかに殘つてゐる。酒《サカ》ほがひは元酒の出來あがる樣に咒言を唱へる事ではなかつた。一夜酒の出來方を、「ほ」と見て人の健康を祝福したのである。大歌《オホウタ》の中の本宜《ホギ》歌なども、日本の地で子を産まぬ雁の卵を見て「ほ」と感じ、「ほ」を見て後に唱へた一種の咒言的の歌である。此「ほ」の考へ方などは、やはり數次の轉化は經て來てゐるので、咒言によつて現れる筈の「ほ」を、逆にまづ不思議な瑞祥に對して「ほ」の印象を強く受け、その上で「ほ」の效果を強めようとして謡うた歌なのである。
「うけひ」が一轉すると、「ちかひ」になる。此も語原の知れぬ語である。併し考へて見れば、「とこひ」と言ふ形の語根とtik(=tok)を共通してゐる。けけふ〔三字傍線〕が後に詛《ノロ》ふの内容を持つて來た樣に、此も、音韻の變化と意義分化とが竝び行はれて、誓ふと詛《トコ》ふとの相違を生じる事になつたと類推する事が出來さうである。その上、「ちぎる」と言ふ語とも關係がある。ちぎる〔三字傍線〕は約束者兩人の合意上とる形式的な方法と觀られてゐるが、單なる指きり・口固め・語|番《ツガ》への樣なものでなく、神を中に立てゝの誓約であつたらしい。後期王朝になつて其用語例が著しく微温化して(376)しまうたが、唯の契約ではない事は察せられる。かうして分化してしまうたが、元は一つであつたに違ひない。
うけひ〔三字傍線〕は神を試すといふ基礎に立つて、神意の自由發動に任せながら、神の意向を確める事を中心にして、轉じては神判など乞ふ場合にも用ゐてゐる。ちかひ〔三字傍線〕になると、著しく變つて來る點は、故意に神意の表現を迫る態度を合んでゐる。うけひ〔三字傍線〕の中、神判を待つ態度のものは既に、ちかひ〔三字傍線〕の要素を顯して來たものである。此誓言は僞りでない。若しも嘘であるなら、どんな不思議な結果でも、神が表して見せるであらう。かうした考へに立つて居るのである。うけひ〔三字傍線〕の場合にも、いろ/\むつかしい「ほ」を乞ふ習慣があつた。其觀念を更に誇張して來たのであるから、ちかひ〔三字傍線〕に殆、不可能な「ほ」の現れを約する事になるのである。が最注意せねばならぬ點は、將來の現象を「ほ」としようと約したかどうかと言ふ處である。今日殘つた文獻の上のちかひ〔三字傍線〕の詞は、大抵この言に僞りあらは、今後……言ふ風になるだらうと言うた風に見えるが、實はさうではなかつた。此誓言に對しては、神が責任を負うてゐる。目前〔二字右○〕現状を覆す樣な現象が起るであらう。かうした表現法なので、神を中介とする時に虚言は出來ぬと言ふ信仰の基礎に立てばこそ、こんな方式も認められてゐたのである。神罰至つてみせしめ〔四字傍点〕に不思議な有樣を現じるだらうとするのは、後の考へ方である。まして天罰をかけて起請する樣なのは、遙かに遲れての代の事であつた。後世の考へ方から見れば、むつかしい「ほ」をかけておけば、却つて僞りに都合のよい樣に見え(377)る。現代尚屡、行はれ齒痛のまじなひ〔四字傍線〕で、「此豆に芽の出るまでは、齒の蟲封じを約束しました」と言つた風の言ひ方で、煎り豆を土に埋める樣な風習も、單に神を所謂|詭計《オコワ》にかける訣でなかつた。「煎り豆に花の咲くまでは、下界に來るな」と鬼を梵天國に放つた百合若傳説が、稍古い形を見せてゐる。つまり誓ひの方式が、變化したのである。うけひ〔三字傍線〕の神意を試すところに立脚してゐる處から出て、其に加つて來た神に對する信頼の考へが、どんな事でも神の力で現れない事はないとするからである。
神功皇后三韓攻めの時、新羅王のなした誓ひの詞は、日本人としての考へから言うてゐるのだから、此證據に見てもよい。「則、重ねて誓ひて曰はく、東に出づる日更に西に出で、且、阿利那體河《アリナレガハ》の返りて逆に流るゝ除《ホカ》は、及び河の石昇りて星辰と爲るに非ずば、殊に春秋の朝を闕き怠りて梳鞭の貢を廢《ヤ》めば、天神地祇共に討《ツミ》し給へ」とある。逆に書かれてゐるので、「日本國の爲に忠實ならずは、目のあたり日西に出で、ありなれ河逆に流れむ。されど若し向後懈怠ある時は、わが誓言を保證し給ふ神祇罰を降し給ふも異存なし」とあつたはずなのである。
※[齒+咢]田《アキタ》の蝦夷がした「私等の持つて居ます弓矢は、官軍の爲のものでなく、嗜きな野獣の肉を狩り獲る爲です。若し、官軍の爲に、弓矢を用意したら、※[齒+咢]田の浦の神が知りませう。……」と誓うたのや、「思はぬを思ふと言はゞ、眞鳥栖む雲梯《ウナテ》の杜《モリ》の神し斷《シ》るらむ」(萬葉集卷十二、三一〇〇)とあるのなども一つで神罰を附けて語の僞りなきを證するのは、やはり古意ではなかつた。
(378)發想法が後世風になつて居ても、新羅王の誓言の「天神地祇共に罪し給へ」とあるのは、「罪し給はむ」と言はぬ處に古意がある。「君をおきて、他心《アダシゴヽロ》をわが持たば、末の松山 波も越えなむ」(古今集東歌)。此歌常識風に漠然と、波の越える山だからと感じもし、解釋もせられて、末の松山浪越し峠など言ふ地名もあり、地質の上から波の痕跡ある陸前海岸の山を、其と定めたりして居るのは、とんだ話である。其でなくとも單に、「末の松山を浪の越えざる如く」と比喩に解してゐる説もある。だが此は戀の誓ひの古い形で、波の被《カブ》さりさうもない末の松山を誓ひに立てゝ來た處に意味があるのである。而も「越えなむ」と言ふ語も、「誓ひに反いたら波が越えるだらう」と將來に對する想像的な約束ではない。此場合の「なむ」は、動詞第一變化につく助辭で、希望の意を示すものだ。だらう〔三字傍線〕を表す第二變化につく助動詞ではない。「越えてくれ」「越えてほしい」と言つた意で、從つて上の「我が持たば」も將來持たばでなく、「持てらば」の時間省略で、「持つてるものなら」と言ふ事になる。「この誓言本心を僞つて居るものなら、この陶《スエ》の地の松山其を、波が越えて見せてくれ」と言ふ意である。かうした處から、比喩を立てゝ「あの物のあゝしてある限りは、言は違へまい」と言ふ新羅王風のになるか、「あの物がわたしの心のしるしだ」と言つた風の言ひ方になる。「鎌倉のみこしがさきの岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ(萬葉葉卷十四、三三六五)」は、單なる修飾ばかりでなく、物を誓ひに立てゝ、心の比喩にする風の變形である。おなじ東歌で、古いものゝ方が新しいものよりも、變化した形をとつて居るのも、民間傳承學の上(379)から見れば、不思議はない。
誓ひは神を僞證人とせない事を本則とするのだが、神の名を利用して人を詐く者が出て來る樣になつて來る。日本紀の一書にも、ほのすせりの〔六字傍線〕命が、ほゝでみの〔五字傍線〕命に「我當に汝に事へまつりて奴僕たらむ。願はくは救ひ活けよ。」と言うて置きながら、潮が干ると前言を改めて、「吾は是れ汝の兄なり。如何にぞ、人の兄として弟に仕へむや」と言うて、再び潮滿つ珠の靈力で苦しめられる話がある。新しい樣式に交つて古い樣式の遣つて行くのが常であるから、此話なども誓ひに對する新しい心持ちを見せて居るのである。だから、天罰を背景にして、誓ひをする風が行はれて來る。天智紀(十年十一月)の内裏西殿織佛像の前の誓盟〔二字右○〕は其である。「……大友(ノ)皇子手に香爐を執りて先起ちて誓盟して曰はく、六人(赤兄・金・果安人・大人及び皇子)心を同《トモ》にして天皇の詔を奉《ウ》く。若し違ふことあらは必天罰を被らむ……左大臣蘇我赤兄(ノ)臣等手に香爐を執りて、次《ツイデ》に隨うて起ち、泣血し誓盟して曰はく、臣等五人殿下に隨ひて天皇の詔を奉く。若し違ふことのあらば、四天皇打ち、天神地祇亦復、誅罰せむ。三十三天、此事を證知せよ。子孫當に絶ゆべく、家門必亡びむ……」と言うて居る。此は必しも佛法の儀禮に據つたものではない。大體奈良以前から、此處まで信仰樣式が變つて來て居たのである。欽明紀(二十三年六月)を見ても、馬飼首歌依《ウマカヒノオビトウタヨリ》、冤罪を蒙つて「揚言《コトアゲ》して誓ひて曰はく、虚なり。實にあらず。若し是れ實ならば必天災を被らむ」と言うたとある。此揚言は既に原義から離れて來て居るが、神に對して發言する方(380)法と見ればよい。つまり今言ふ語の虚か實かに對しての誓ひである。直接に罪に對して言ふのではない。此も天罰にかけて語の眞否を誓うてゐるのである。後世ほど段々にその天罰にも細目を考へて來た。武家の天罰起請文の外に、身體の不具、業病を受ける事を以て、貧窮・離散・死滅などをかける。佛教の影響よりも、根源の種子が段々誇張せられて來た方面を考へなければならぬ。町人たちが「何々する法もあれ」と誓ふのを、武家の感化と見るのは、現れたものどうしを繋ぎ合せるから起る間違ひである。
自身の善意に憑んで主張する場合にはちかふ〔三字傍線〕と言ふが、他人の心の善意を判じかねて、惡なら禍あれ。善なら事なかれと言ふ觀念から出る咒言は、とこひ※[三字箱で囲む]であり、其をする事をとこふ※[三字箱で囲む]と言ふ。やはり神の判斷に任せてするのである。其も後には、單なる呪咀を言ふ事になつて來た。尠くとも奈良朝での用語例は、もはや此處に結著して居た。古い正則な使ひ方は、「天神其矢を見て曰はく、此れ、昔我が天椎彦《アメワカヒコ》に賜ひし矢なり。今何故に來つらむとて、乃矢を取り咒《トコ》ひて曰はく、若し惡心を以て射たりしならば則、天椎彦必害に遭はむ。若し平心を以て射たりしならば則、恙なからむと、因りて還し投ず。即、其矢落下して、天稚彦の高胸に中りぬ」と見えるのが其である。唯こゝも「害に遭へ。恙なかれ」と發想する法が古いのである。
うけひ〔三字傍線〕に於いては、神意から出てゐるかどうかと問ふのが、神意がどちらにあるかと言ふ考へに移り、ちかひ〔三字傍線〕では、わが行爲意思が神慮に叶うてゐる事を、神に證して貰ふといふ觀念から、誓(381)約方式となつたが、一方分化したとこひ〔三字傍線〕の例では、倫理觀が著しく這入つて來て、善なら無事であれ。惡なら禍あれと言ふ考へ方になつてゐる。ちかひ〔三字傍線〕の例にも此考へが這入つて、天罰の背景の下に誓約する事になるのである。
とこひ〔三字傍線〕が惡に對する懲罰を請ふ方法と言ふ風に考へられ、更に轉じて自分を不利に陷らした相手を罰の下る事を願ふ咒言と言ふ考へに移つて、純然たる咒詛となる。だが、復讐觀念の伴うてゐないとこひ〔三字傍線〕はなかつた。秋山(ノ)下冰壯夫《シタビヲトコ》に對する春山(ノ)霞壯夫の御母《ミオヤ》の採つた方法などは、此例のとこひ〔三字傍線〕の著しい例である。嫉妬・我欲等の利己の動機から出るものは、かしり※[三字箱で囲む](動詞かしる※[三字箱で囲む])と言ふ語であつたと考へられる。つまりは、とこひ〔三字傍線〕の分化したもので、單に必要上他人の生活力を殺がうとする咒言である。とこひ〔三字傍線〕の後期からかしり〔三字傍線〕に入ると、あひての人格の一部又は表象となる物を對象に据ゑて、此に咒言をかける(即、ことゝふ)事になつてゐる。うけひ〔三字傍線〕の效果として現れるはずの「ほ」が、混亂して逆に當體の代表物を立てる法がとこひ〔三字傍線〕・かしり〔三字傍線〕の上に出て來る。とこはれ、かしられる當體の性質から見て「ほ」の變形と見る事は間違ひでなからうと考へる。大體うけひ〔三字傍線〕は「ほ」の側から見れば、二次的なものである。其「ほ」が積極消極兩方面に現れて來たものが、段々不當不正の場合にばかり出現を乞ふ事になつたのであるが、かしり〔三字傍線〕になると、再、形を變へて「ほ」が出て來る事になつた訣である。
おなじくかしり〔三字傍線〕と言うても、とこひ〔三字傍線〕に近いものだと對照風のもの言ひを忘れて居ない。御馬《ミウマノ》皇子、(382)三輪《ミワ》の磐井《イハヰ》の側で討たれる時、井を指して詛した語は「此井は百姓のみ唯飲む事を得む。王者飲むに能はじ」と言うたと言ふのが其である。
椎根津彦と弟狩《オトウカシ》とが香具山の土を盗んで來て種々の土器を作つて、天神地祇を祭つた條に、「譬はゞ水沫《ミナワ》の如く咒《カシ》り著くる所あり」と言ふのは、單純な祭器を作る爲ではなかつた。香具山の土は倭宮廷の領土の象徴ととり扱はれたのである。「武埴安《タケハニヤス》彦妻の吾田《アタ》媛密かに來て倭の香具山の土を取り領巾《ヒレ》に裹《ツヽ》み、是は倭の國の物實《モノザネ》(又ものしろ〔四字傍点〕)と祈《ノ》み曰ひて乃ち反りぬ」とあるのも、國の咒《カシ》りの爲に土を持つて行つたのであつた。だから土を盗みに行くに先つて、神の訓へた言には、「宜しく天の香具山の社の中の土を取りて、天(ノ)平瓮《ヒラカ》八十枚《ヤソヒラ》を造り、并せて嚴瓮《イツベ》を造りて、天神・地祇を敬祭し、亦|嚴《イツ》の咒詛《カシリ》をせよ。此の如くせば則、虜自ら平伏せむ」とある亦の字の用法が、土を咒《カシ》りの對象にした事を示すと共に、香具山の動植物を神聖視するに到つた徑路を見せてゐる樣である。だから、祭器を作つたと言ふのは、合理的な説明と見てよい。
人をかしる〔三字傍線〕爲に、樣々の物を用ゐてゐる中、秋山下冰壯夫のかたみ※[三字箱で囲む](身代り)として、出石川の河の石を鹽にまぶし、出石川の竹の葉に包み、其竹で造つた八目《ヤツメ》の荒籠《アラコ》に入れて、此竹葉の萎むが如青みしぼめ。又此汐の滿ち干る如滿ち干よ。又此石の沈むが如沈みこやせと詛言して烟《カマド》(?)の上に置かしたと言ふのが著しい例である。
此かしり〔三字傍線〕の咒文を見ると、全くかたみ※[三字箱で囲む]を以て「ほ」と一つに扱うてゐるではないか。かしる〔三字傍線〕の(383)語源は知れぬが、選擇を神に任せる對象的のとこひ〔三字傍線〕から一轉したものなる事は明らかである。かしりつく〔五字傍線〕事が受け身にとつてはまじこる※[四字箱で囲む]で、之を却ける法を行ふ事を、まじなふ※[四字箱で囲む]と言うたらしい。語源まじ※[二字□で囲む]は、蠱物の字面に當る鳥・獣・昆蟲類の人に疾病を與ふる力を言ふのであるが、之を使ふ側をも、後にはまじなふ〔四字傍線〕と言ふが、始めは防ぐ方を言うたと考へられる。此點かしり〔三字傍線〕とまじなひ〔四字傍線〕との違ふ所である。尚一つ違ふ點は、庶物の精靈を術者が役すると言ふ所に在るらしい。此等の語の代表語とも言ふべきのろふ※[三字箱で囲む]と言ふのは、平安朝の用語例で見ると、語根に既に咒詛の義がある樣に思はせる「のろ/\し」など言ふ語がある。けれどものろふ〔三字傍線〕の分化した意義ばかりしか殘らなかつた時代に、出來た新語の語根に、逆に咒咀の義を感ずる樣になつてゐたと見るべきであらう。のろふ〔三字傍線〕がさうした分化を遂げるには、罵《ノ》る・叱《ノ》るなどの惡し樣に言ふと言つた用語例が助けてゐる事であらう。まじなふ〔四字傍線〕だけが少し違ふが、うけふ〔三字傍線〕以下皆一類の語で咒文が惡用せられて行く傾向を見せてゐる。同時に、「ほ」の出現を問題にせなくなつて來る。「ほむ」と「ほぐ」とに違ふ所があるとしたら、「ぼむ」にはおだてる〔四字傍線〕意を持つて來てゐる事である。此點は、ねぐ※[二字箱で囲む]も共通であつた。「ねぐ」の最初から願ふ義でなかつた事は、「ねぎらふ」の語根なる「ねぐ」と同根なる事である。「すめら吾《ワ》がうづのみ手もちかき撫でぞねぎ給ふ。とり撫でぞほめ給ふ」など言ふのは、唯の犒ひではない。對句としての意味の近似性を中心にして、其に「ねがふ」の語根である事を併せて考へると、義は大分變つて來る。まだある勤勞を致さない先から「ねぎ(384)給ふ」と言うてゐるので見ると、どうしても勞力の結果に對する豫め褒める、誇張的な表現の語を言ふのに違ひない。「お前はえらいから、うまくするに疑ひがない」など言ふ風なのが、ねぐ〔二字傍線〕の本義らしい。上の詔勅は其用語例が倫理觀を伴うて來てゐるが、古意はそこにあるので、禰宜《ネギ》と言ふ語も、ほんとうに訣つて來るのである。語根のね※[箱で囲む]はほかで説くが、ほぎ人〔三字傍線〕・ほがひゞと〔五字傍線〕などゝ同樣の成立を持つて居るのである。神・精靈をねぐ〔二字傍線〕人なのであつた。「願ふ人」の意ではない事が知れる。
ほむ〔二字傍線〕も讃美・褒賞の義を分化する道筋を考へて見ると、現状以上の理想的な結果を誇張して言ふ義を含んでゐたのである。即幾分ほぐ〔二字傍線〕よりは、新しく「ほ」なる語根の意識が變化してからの事と思はれる。後に言ふ「ほがひ」の人々に似た職業の「ほめら」と言ふ部落が四國吉野川の中流以下の地方にある。此は「ほめなむ」「ほめようよ」など言ふにおなじ方言で、此等の職業人が、家々に來て「ほめら/\」とほめさせてくれと要求した爲の名で、近世風の者ではあるが、ほぐ〔二字傍線〕に近いほむ〔二字傍線〕のなごりの固定したものと考へる。「まけ柱ほめて造れる殿の如、いませ。母刀自|面《オメ》變りせず」(萬葉集卷二十、四三四二)は眞木柱よ其を建て、其樣にゆるぎなかれとほぎ言して造つた殿と言ふので、ほぐ〔二字傍線〕と殆違はぬ時代の用例である。「ほ」を語根とした語と見えるものに、今一つある。日本紀の一書に見えるもので、「凡《スベ》て此《コヽ》に諸物皆來聚しき。時に、中臣の遠祖|天《アメノ》兒屋命則以|神祝祝之《カムホサキホサキキ》 神祝々之。此(ヲ)云(フ)2加武保佐枳保佐枳々(ト)1」とあるほさく※[三字箱で囲む]と言ふ動詞があつた樣に見(385)える事である。谷川士清はその書紀通證に、今も言ふ「ほざく」と言ふ語の元と言ふ思ひつきらしい説を記しつけてゐる。なるほど託宣から出て、「御託《ゴタク》を並べる」など言ふ類もあるから、一概に否定は出來ない。但し其には、近世まで文獻に現れる事なく「ほさく」と言ふ語が、庶民信仰の上に行はれて居たと見ねばならぬ。此點は、千數吉年間の空白を補ふ用例の出る時まで斷言は預つて置く。
さう見られなくもない事は、古い祭文の藝術化した側から考へられる事實があるのである。其由緒を陳辯する方面から「ほざく」を惡い意味に使ふ樣になつたと見られる。其と共に「ふざける」と言ふ語原不明の近代語も、ほがひゞとの「おどけ祭文」の側から言うたものと見ることも出來さうである。「ことほぎ」を「こどき」と言うた事は、其條に述べたが、此も亦、祭文として藝術化したものと見れば、後世の「口説《クドキ》」と言ふ叙事風な語り物の本義が知れるのである。「くどくど」など言ふ副詞の語根「くど」から動詞化した「くどく」と言ふ語と同根と見、男女間のくどき言が多いからと考へて來たのは、實は間違ひかも知れない。口説《クドキ》の中に男女間の口舌《クゼツ》や妄執・煩悶ばかりを扱はぬ純粹な叙事詩もあるのである。さうすると、こどき※[三字箱で囲む]と言ふ語も文獻に現れないで、民間信仰の上にくどき※[三字箱で囲む]と音韻の少しの變化した儘で、曲節が傳つて居り、さうした節まはしに謠はれる詞曲はすべて、「くどき」と言ふ名に總べられたと見られる。さすれば、「ほざく」の説もなり立ちさうである。
(386)唯萬葉にも一箇所「ほさく」らしいものがある。「千年保伎保吉とよもし」(巻十九、四二六六)と言ふのであるが、鹿持雅澄は伎は佐の誤字として「ほさきとよもし」と訓んだ。宣長が「ほぎほぎとよもし」が「ほぎきとよもし」となつたのだとした説を修正したのである。宣長説も理窟は立つてゐるが、雅澄の方が正しいと思はれる。さて「ほさく」と言ふ語があつたとすると其語源の考へが、「ほ」の議論に大分大きな影響を與へさうである。私の考へでは、ほぐ〔二字傍線〕・ほむ〔二字傍線〕の外に今一つ「ほす」と言ふ語があつて、其を更に語根として、「ほがふ」同様、「ほさぐ」と言ふ語が出來たのかと思ふのである。だが、不安であるから、尚臆説を並べて見る。「ほす」から「ほし上《ア》ぐ」と言ふ形が出來て、其が融合して「ほさぐ」となつたと見る。語源の意義を忘れて活用も變る例はある。併し「上ぐ」の意識を明らかに持つてゐたとすれば、「ほさぎ(第二變化)」と言ふ形の成立は少し問題である。私は語尾を多くの場合單音節に見たいので、「ほ・さぐ」と言ふ樣な形は考へにくいのだが、此方面で考へて見ると、「ほ開《サ》く」とでも語源が説かれさうである。古語では、「さく」の用語例が廣いから、かうした意義にも使はれて不思議はない。唯成立上疑問がある。だから、やはり内心は、「ほす」と「ぐ」との複合と見る方に傾いてゐる。いづれにしても、語源は「ほ」を根にして居るには違はぬ樣である。「ほさく」と言ふ語が文獻の誤りでないとすれば、まだ推測の出來る事がある。九州方面に「ほさ」と言ふ神職又は巫女のあるのは、「ほさく」の意義固定から語根が遊離したものと見られる事である。
(387)泡齋《ハウサイ》念佛と言はれるのも、實は字は宛て字に過ぎないので、江戸期の小唄類の囃し詞に見えるほうさ〔三字傍線〕・ほうさい〔四字傍線〕などゝ關聯して、「ほさき祭文」のなごりでなからうかと思はれるのである。猿樂に神聖せられて來た「翁」の、由來不明な「おうさい/\」の句も、唯の囃し詞ではなく、「ほさき/\」と言ふ風な疊語で、咒文の附屬文句から變化したのではないかとも考へられる。
 
           2007年7月20日、入力終了