萬葉集序説、沢瀉久孝、樂浪書院、1941年
 
(3)       はしがき
 
 本書は初學者の爲の萬葉集解説の書である。
 歌集である萬葉集を學ぶ事は、その集に收められた一々の歌を訓み、解き、味ふ事に、窮極の目的の存する事、申すまでもないが、本書はその目的に進まうとされる人々が、まづ「萬葉集とは」といふ一應の知識を得る爲に必要とする事項について、極めて一般的な解説を試みたものである。勿論專門家に示すつもりのものではなく、また既に萬葉集に親しまれてぬる人々の爲にしたものでもない。全くこれから學ばうとされる人々の爲のものであり、しかも讀者諸氏は本書を手引として、是非萬葉集そのものに就いて.一々の作品に接していただきたいと思ふ。本書中にも作者作品について述べてはあるが、これはたゞ一斑を、極めて簡略に述べたに過ぎず、筆者自身も甚だ意に滿たぬものであり、讀者諸氏みづからの探究によつて本書(4)の不足を補はれる輩を希望する。本書をまとめる事を得たのは、文學部講師池上禎造君の助力によるものであつて、同君の勞に對して厚く謝意を表す。
   昭和十六年十一月十七日
                       著者
(6)   目次
はしがき
第一章 沿革……………………………………九
 節一節 名義…………………………………九
 第二節 成立………………………………一三
 第三節 傳來………………………………二一
  第一期 仙覺まで………………………二一
  第二期 仙覺以後………………………二六
  第三期 江戸時代………………………三二
  第四期 現代……………………………三九
第二章 概觀…………………………………四七
 第一節 歌の種類…………………………四七
 第二節 用字法……………………………五五
(7) 第三節 卷々の解説……………………六六
第三章 作者及び作品………………………八三
 節一節 總説………………………………八三
 第二節 第一期……………………………八六
 節三節 第二期……………………………九六
 第四節 作者不明の卷々の歌…………一一九
 第五節 第三期…………………………一三五
 第六節 第四期…………………………一五七
第四章 特質………………………………一八四
 節一節 萬葉調…………………………一八四
 第二節 言語……………………………一八七
 節三節 四季の景物……………………一九八
 第四節 歌枕……………………………二〇四
 第五節 なげき…………………………二一〇
結語…………………………………………二一六
附表
 
(9)   第一章 沿革
 
     第一節 名義
 
 凡そ古書の名にはそれと確定し難いものも少くないが、本集の場合には傳來の諸本に、又古今集以下の古文獻に、「萬葉集」とはつきり見えてゐるので、古くからこの名であつたことはまづ間違ないものと思はれる。
 ただ、この萬葉といふ語の意味については從來見解が分れてゐて
 一、萬の言の葉
 二、萬代
の二説が普通對立させられてゐるが、或は更に第一説に似て稍異なる
 三、萬の葉
といふ説もある。(一)は從來多くの人々、例へば仙覺・荷田春滿・賀茂眞淵・木村正辭などに(10)となへられてきたもので、常識的にはさう考へられ易いものではあるが、「葉」を「ことのは」の意味に用ゐたのは我國では平安朝中期以絶のことである。一方「萬葉」といふ熟語は唐以前の支那の文を始め、我國でも日本書紀顯宗天皇即位前紀に
  克固2四維1永隆2萬葉1注
とあるのをはじめとし、日本後紀・古語拾遺などに見えてゐる、單に葉を代・世の意味に用ゐたものならば上代の文獻に屡々あるのである。この説は鹿持雅澄もとなへてゐるが、山田孝雄博士の萬葉集名義考(國語と國文學第十號)によつて大體落着いたものと考へられる。そして、その萬代といふのは、千歳集の序に
  過ぎにし方も年久しく今ゆくさきもはるかにとどまらむため
とあるのに準じて解してよいやうである。(三)は岡田正之博士等の説であつて、詩歌を樹木にたとへることから、憶良の歌林といふ集の名などと對して、多くの歌を集めたものと見ようとするのであるが、葉を言葉と考へないのはよいにしても、又集中に「秋山千葉」といふ熟語があるにしても、林と葉とを同一視するのは如何であらう。當時の用例にかかるものを見ない。
 かくて萬代の意に定まつたとして、萬葉集の三字を如何に讀むべきであらうか。これは古事記(11)がコジキかフルコトブミかといふ疑問よりは遙に簡單なのやあるが、よく耳にする處である。まづ音讀すべきことはその漢語由來の熟語であことから自明であつて、從來とてもこれに訓讀を施さうとしたものを知らない。これの假名遣がマンエフシフであるやうに成立の頃には man‐efu‐sifu などと文字通りに稱へられ、ついで國語の音韻變化の法則にしたがひ man‐eu‐siu を經て man‐yo‐syu となり、中世には man‐nyo‐syu と發音されたやうである。現在としてはマンヨウと讀む事をまづ正しいと云へようがそれとて後世の變化であり、マンニヨウといふも後の轉訛であり、集中に「萬」の字がマニの假名に用ゐられてゐる點などから考へるとマンヨウとマンニヨウといづれが原名に近いかは問題であらう。因に清輔本古今集卷十八の萬葉の字に、前田家本ではマエフと振假名があるが、當時は撥音表記法が發達してゐないので、これを以て直ちに「ン」を省いて讀んだ證據とはできないのである。
 尚本集は平安朝に入つて新撰萬葉集といふものが成るに及んで、屡々「古萬葉」といふ名でもよばれてゐる。源順集をはじめ、枕草子・袋草子・新猿樂記などさうである。別名といふ程でもないが一言注意しておく。
  (注) この葉字は流布本或は北野本等大抵〓に作るが舊事紀に引く處、域は語の出典から考へてこの本(12)文を採つた。因に朝日新聞社本六國史に北野本に葉とあるやうにあるのは誤讀である。北野本には處々に薄葉が貼られてをり、こゝもさうである爲に一寸葉の字かとも見えるのであるが、他の同筆の葉の字と比較してやはり業の字である事がわかる。
 
(13)     第二節 成立
 
 現在我々の手許にある萬葉集は二十卷よりなる。それらが如何にして一まとめのものになつたか、それは誰の手によつて何時せられたかといふ所謂撰者・時代については從來こちたき論のあることではあるが、もとより千年の昔のこと、外證も極めて少い現状では、嚴密にいへばいつの世になつたら果してわかることやらもおぼつかないものであらう。併し乍ら、主としてその内部からの手懸りによよつてなされた先人の努力は必ずしも徒らなものではなく、おぼろげながらも歸着すべき處は辿られはしないか。
 まづ注意しておきたいことは、後世稍もすれば萬葉集を自分達より遙に遠い昔の歌集であると考へすぎて、他の勅撰集風に或一時代の歌を或一人の人が或一時期に集めたかのやうに考へたがることである。併し、我々の時代と萬葉集の時代との干年の隔が大であると同樣に、萬葉集自身の中にある前後數百年の隔をも深く思はねばならない。
 さて、萬葉集の成立に關する記録は
(14) 古今集卷十八雜下
  貞觀御時に萬葉はいつばかりつくれるぞと問はせ給いければよみてたてまつりける
                      ふむやのありま
  かみな月時雨ふりおけるならの葉の名におふ宮の古ことぞこれ
 新撰萬葉集序(寛平五年九月二十五日)
  夫萬葉集者古歌之流也。非v未3嘗稱2警策之名1焉。況復不v屑2鄭之音1乎。聞説右者飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之時、玄冬之節、隨v見而興既作、觸v聆而感自生。凡厥所2草藁1不v知2幾千1。漸尋2筆墨之跡1文句錯亂非v詩非v賦、字對雜糅、難v入難v悟。所v謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而有v意者進、無v智者退而已。於v是奉2綸※[糸+悖の旁]1綜輯之外、更在2人口1盡以撰集成2數十卷1裝2其要※[玄+少]1※[韓の旁+媼の旁]v※[櫃の旁]待v價。唯※[女+鬼]非2几眼之所1可v及。 古今集序
  いにしへよりかく傳はるうちにも、ならの御時よりぞひろまりにける。かの御世や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時におほきみつの位かきのもとの人丸なん歌のひじりなりける、(中略)又やまのべの赤人といふ人あり。(中略〕この人々をおきて又すぐれたる人も、(15)くれ竹のよよにきこえ、かた糸のよりよりにたえずぞありける。これより先の歌をあつめてなむ萬葉集となづけられたりける。(中略)かの御時よりこのかた、年はももとせあまり、世はとつぎになむなりにける。
 同眞字序
  昔平城天子詔2侍臣1令v撰2萬葉集1。自爾以來時歴2十代1數過2百年1。
等を比較的古いものといひ得るにすぎない。而して是等から知れることは平安朝初期の貞觀の頃に已にその傳來が禁中たこおいてもわからなくなつてゐたことである。從つて右の記録も記録といふよりは傳説の色彩の多分にふくまれたものであり、ましてその後の榮華物語の
  むかし高野の女帝の御代、天平勝寶五年には、左大臣橘卿諸卿大夫等集りて萬葉集をえらばせたまふ(月の宴)
といふ記事や、或は下つて顯昭・清輔・俊成・道因・勝命等の撰定論は論としては別として、實際上如何ばかりの根據があるのかは疑はしいものである、所謂中世の暗黒時代はかくの如くにしてすぎた。啓蒙的な往來物に
  平城天皇御宇左大臣橘諸兄公御撰也(異制庭訓往來、ソノ他モ大同小異)
(16)の如くみえることや、當時民衆の知的教養の淵叢である謠曲に
  萬葉は奈良の御宇撰者は橘の諸兄(草子洗小町)
のやうに歌はれてゐることはとりもなほさず當時の常識がかかる方面におちつくべきことを示してゐる。而も「ならの御代」と「平城天皇」とを混用した言傳へは、死者に撰集をさせたといふ矛盾を敢ててしなければならないのに誰も氣づかない。眞に萬葉集の撰定について考へようとしたのは文運の復興を見た江戸時代までまたねばならなかつた。勿論江戸時代とても、一般民衆にはその撰定の時期など問題ではないのであつて、謠曲の詞章を通してでも萬葉のま〔右○〕の字を覺えてゐたら威張れたのであらう。それはさておき、この期の知識階級の説、即ち契沖以下の學説は却つて今日の吾々につながるべきものなのである。
 本集の成立に關し、確定的な資料のないことは上述の如くであるから、まづ從來どの範圍まで諸説が擴がつてゐるかを概概しておかう。
   時代      撰者     ソノ説ノ論者又ハ書
  聖武天皇    諸兄・家持  定家・仙覺・由阿・春満
      (甲)聖武  諸兄     教長・清輔・俊成
(17)  ならの宮(乙)平城       顯昭・折口信夫
  平城天皇    諸兄        八雲御抄・異制庭訓往來・尺素往來
  孝謙天皇    諸兄        榮華物語・増鏡
          諸兄・眞楯     顯仲
          家持        契沖以下
極めて大まかに標示すれば右のやうに時は奈良朝中期と平城天皇の御代と、撰者では諸兄が絶對優勢である。撰進を二度若しくはそれ以上に見たのは勝命の聖武天皇の頃諸兄により著手せられ孝謙天皇の御代眞楯にひきつがれたといふのなどが古い方で、又運歩色葉集には孝謙天皇の天平神護元年勅下り、平城天皇の大同元年に成るといふ極めてはつきりした説もみえる。但しその據る處を知らない。概して中世は古今集などを信じての傳説的な方が多く、内證による推定は定家あたりからおこつてきた。そして江戸時代に入り、殊に眞淵宣長のやうに卷々についても詳しく分ち考へるやうに細かくなつたが、以後はあまり進展を見ない。唯時代に於いて山田孝雄博士の寶龜二年以後編纂説と徳田淨氏の寶龜八年説とが出色のものである。前者は東歌の國々の排列の(18)順を手懸とするもので、武藏は本集に相摸と上總との間におかれてゐるが、この國は寶龜二年までは東山道に屬してゐたのでこの年以前に成つてゐたものならば上野と下野との間になければならないといふのである(心の花二十八卷十二號)後者は作者の氏姓の記載法の別に注目したもので、家持が自己より位階の高き者の名は「氏名姓」の順に、低き者の名は「氏姓名」の順に記してゐることにより、その位の高下を史によつて調査の結果、寶龜八年一月七日から翌九年一月十六日までに編纂されたといふ結論になつてゐる。〔「萬葉集撰定時代の研究)兩説とも全體を一つのものとみた點に難點があればあり得るが、少くともある部分の整理された時期を決するに足る近時の收穫である。撰者については諸兄が早くあげられてはゐるが、その死後の時代の作があるので江戸時代以降大抵家持におもむいてゐる。ただ近時、武田祐吉博士に非家持説があるが、それは家持以後の手の加はつてゐることを強調したものである。
 次に勅撰か否かといふことが可なり論議せられてゐる。古く新撰萬葉集に上述の如く
  奉2綸※[糸+悖の旁]1綜緝之外更在2人口1盡以撰集成2數十卷1
とあつて、一部勅撰に私撰の混じてゐることも考へてよい。然るに古今集眞字序や榮華物語などには勅撰といふのて、古今集盛行の中世の擧者は多くこの方をとつてきた。勅撰に非ずとみたの(19)は契沖頃からであつて、その後專ら私撰説が行はれてゐる。近頃品田太吉氏の、事にふれ折にふれての卷一・二勅撰説と、折口信夫博士の全卷勅撰説とがある位である。
 以上が萬葉集成立に關する諸法の輪廓である。卷々については章を改めて述べるから、ここには全體的に扱つてその成立を創造するならば、卷一卷二は或は撰進の運びに至らなかつたにしても早く勅旨を奉じて撰びそめたものと考へてよいだらう。品田氏の説の成立を妨げるものは認められない。その勅を受けた人が誰かはもとより想像すべくもない。それに色々の人の手になつた家集が集まり、家持が捕訂してまづ十六卷は天平十六七年頃にまとめられてゐたと思はれる。それに更に家持四卷の増補をして今日の二十卷ができたのであらう。二十卷といふ數は、これを摸したと考へられる古今集によりまづ誤はないだらう。萬葉集について二十卷以外の記載あるものは前述の新撰萬葉集位のものである。その卷々の順序も今日の通りであつたとみるべき節が少くない。例へば卷九卷頭の
  右或本云崗本天皇御製不審正指因以累載
の左注の如きも、同歌が卷八に已にあることを知つての注である。さて一旦二十卷になつてもそれには時々に手が加へられてゐた。その一つの時期が寶龜二年以後、或はそれは寶龜八年のこと(20)かもしれない。大體今日見るやうな形になつたのはその頃のことであらう、が、或は更に平城天皇の御代に公にまとめられたことを想像してもわるくはなからう。尚目録だけはあまり遠くはない後世につけられたもののやうである。
 
(21)     第三節 傳來
 
 かくの如くにして遲くも平安朝初期には、萬葉集は略今日のやうな姿をなしてゐたのであらう。それは如何にして吾々に傳はつてきたのであらうか。便宜上四期に分つてその傳來の經緯について述べてみよう。
 
       第一期 仙覺に至るまで
 
 もとより印刷の術も發達しない――尤も百萬塔陀羅尼のやうなものが已に奈良朝にあり、以後も内典の刊行はぼつぼつある――頃のことで、わづかに轉寫によつて廣まるわけである。一方祝融氏は常に機を覗つて第二第三の冷然院を求めてゐる。幸にしてわが萬葉集はその赤い舌から逃れて遂に今日に至つた。
 源氏物語梅ケ枝の卷に「嵯峨のみかどの古萬葉集をえらびかかせ給へる四卷」といふことがあるが作物語のことであるから措き、又袋草子と和歌現在書目とに紀貫之の萬葉五卷抄といふのが(22)見えるが、碓かに萬葉集の書寫された記録は河海抄に引く大后御記(醍醐天皇皇后藤原穩子御日記)に
  承平四年十二月九日御賀おむとどとくまかでたまひぬ また御贈物沈のはこ一よろひいれたりせんだいの御てのまんえうしう
とあるのを最初とする。この醍醐天皇宸筆のを初として、以下道風の手のが榮華物語に、行成のが權記(長保三年五月)に、道長のが仙覺の奥書にみえるが、清輔の袋草子に
  萬葉集昔ハ所在稀云々。而俊綱朝臣法成寺寶藏本ヲ申出書寫之。其後顯綱朝臣又書寫。自此以來流布至于今在諸家云々。
とあり、その所謂法成寺本の流を引いたものが後述の如く仙覺の手に入り今日のものの源流をなしてゐるのである。
 さて前述の醍醐天皇宸翰本などはもとより白文であつたわけであるが、貞觀頃に已に一般歌人に縁遠くなつてゐたのであるから、あの漢字を讀み解き得るものも少い、否無いと云つてよい状態であつた。その後繼者を以つて任じた新撰萬葉集が「悟りがたく入りがたし」といふのである。
 その頃は恰も假名が發達して、もはやかかる漢字で日本語をあらはす必要はなくなつて居り、(23)又平安朝初頭の所謂漢學隆盛の機運による和歌の衰微などと相俟つて、かく難解になつてゐた萬葉集も、一度和歌復興の機に乘じ、已に古今集成り、又後撰集の成つた時、この古典に對する興味が急に高まつて、ここに解讀のことが行はれるに至つた。所謂古點であつて、源順集に
  天暦五年宣旨有て初て大和歌えらぶ。撰ぶ所梨壺におかせ給ふ。古萬葉集よみときえらばしめ給ふ也、めしおかれたるは河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所預坂上茂城也。
とあることにより大體が知れよう。點といふのは所謂訓點である。その詳細はわからないが、それによりはじめて萬葉集の歌がとにかく讀めるやうになつたのであつて、萬葉學の發端ともいふべきである。この人達の撰にかかる後撰集に萬葉の歌の採入れられたのも尤もなことである。これ以前には萬葉集を引用した書は前述の外ないやうであるが――尤も古今集の歌には萬葉集との重複が數首ある――源順は早速その倭名類聚抄にも萬葉集の訓の例などを利用した。又己が家集に
  古萬葉集中に沙彌滿誓がよめる歌の中に世の中を何にたとへむといへることをとりてかしらにおきてよめる
(24)などと歌まで引いてゐるのもこの人にしてはじめて諾はれることである。
 この古點に對してそれ以後仙覺の解讀に至るまでの間、古點に漏れてゐた歌に訓を施したものを次點といふ。これは多くの人々に試みられたらしく藤原道長・大江佐國・藤原孝言・大江匡房・言國信・源帥頼・藤原基俊・藤原敦隆・藤原長忠・僧道因・藤原清輔・僧顯昭等が知れてゐるが、是等は一時に加へたものでなくよりよりに加へられたもので、誰の次點本、彼の次點本といふ風に傳へられたもののやうである。この次點についてもあまりはつきりしたことはわからない。この頃、即ち平安朝中期以降になるとそろそろ萬葉集も他の文獻に引かれるやうになつた。その最も注意すべきは古今和歌六帖であつて、全歌數四千五百首に及ぶ中、萬葉集の歌を千二百餘首も採つてゐる。而もその訓たるや、必ずしも古點でもなくこも編者の意の加はつたものと推定される、即ち次點の一種と見られる。中には改作とみるべきものも少くない。六帖の成立時期は諸説があるが大體村上・圓融兩朝の頃と思はれるが、その當時恰も萬葉集への關心の高まりを示すとも考へられる。清少納言の枕草子には、「集は」の條に「古萬葉」を入れ、又「清凉殿のうしとら」の條に伊周が「月も日もかはりゆけどもひさにふるみむろの山のといふふることをゆるるかによみ出し」たことがみえる、これは卷十三、三二三一番の歌で、流布本には左注に「入(25)道殿讀出給」なる後人の注があり、その訓は道長の次點とも考へられるのである。その他個々の歌の語句についても枕草子あたりからその引用がみられる。拾遺集になると又萬葉集の歌は多くとられてゐる。作者不明の歌が人麿作になりすましてゐるが、この事は人麿が萬葉集の代表者として崇拜のあまりに、傳説的存在となりつゝあつた事を示すものである。
 要するに平安朝においては萬葉集は難解のものであつて未だ容易に己がものとはならなかつた。文學作品に引かれるものもその外形的な影響ばかりである。後拾遺集の序に
  かの集の心はやすきことをかくしてかたき事をあらはせり
といふやうな見當違ひをしなければならなかつたのである。ただこの筆者通俊の反對派の源經信や俊頼など所謂新派の歌人によつてその精神はわづかに理解せられ、ここにはじめて萬葉集が内容的に影響を及ぼすことになるのである。尤も新派といつても時代は爭へないもので、例へば好忠の曾丹集をみても、萬葉集の誤讀による難解な造語が多いのに驚かねばならないありさまではある。
 したがつて當期の萬葉研究は、古點・次點によつて示されるやうに漢字で書かれてゐる歌を解讀することを第一とし、その他には語彙の注釋に綺語抄・和歌童蒙抄・袖中抄あり、歌の注釋は(26)俊頼口傳・奥儀抄に見え、又藤原盛方の抄と推定せられる萬葉集抄なる成書が殘つてゐる位である。今一つの傾向として作歌上の參考の爲、歌を類聚することが行はれ、古今和歌六帖もそれと同目的と思はれるが、次の期に入つて萬葉集のみのものに類聚古集・古葉略類聚抄などがある。撰定に關する論も既述の如く鎌倉時代近くになつて漸くやかましくなつた。併し結局是等の研究は作歌上の必要が主であつて、それ以上の學問的異義は有しない、いはば草分けの時代である。尤もこれは我國の學問の歴史から言つて當然のことではあるが、それにしてもこの難解の集を類聚歌林と運命を共に匿せしめずして仙覺に引きついでくれたことだけでも、どんなにかよろこばしいであらう。
 
      第二期 仙覺以後江戸時代まで
 
 讀まれるにしたがつてその本の書寫が盛に行はれたことはいふまでもない。これより先平安中期からの寫本で今日傳つてゐるものに桂本を始めとし藍紙本・金澤本・尼ケ崎本などがあり、殊に天治本の如きは奥書によつて天治元年書寫のことが碓知され、又文獻に名のみ傳はつてゐる本は相當多きに上る。この頃になると諸本を合せて校合することがおこつてきた。元暦校本はその現(27)存せる尤なるものである。かくの如くにして單なる讀解の域を出で本文批評の作業にまで進む機運の中にあつて、それを大成し今日に殘してくれたといつても過言でない功續は實に仙覺に歸せられねばならない。かかる意味に於いて萬葉集傳來史上の一期をここに劃するのである。
 仙覺は建仁三年「あづまのみちのはて」(常陸と推定せらる)に生れ、長じて鎌倉に住んでゐたが、早く歌の方に志をむけてゐたらしい。その間の消息は殆ど知るに由ない状態であるが、恰も將軍藤原頼經が萬葉集の一部を書寫せむが爲源親行に命じて三箇の證本を以つて親行の本に校合させた。併し一人の功では見落しもありかねないことを慮つて仙覺にも校合を命じたのが機縁となつた。かくて仙覺は寛元四年に一つの校定本を得た。これが所謂仙覺寛元本であるが、これに尚慊らずとして更に數種の本を以つて順次校合を加へ、文永二年に別に第二次の校定本を作つた。(この本は將軍宗尊親王に獻じたので翌年更に一本を寫した、その兩者を仙覺文永本といふ)今我々の手許にある本は殆どその系統のものなのである。今其等に用ゐた本を次頁に表示する。
 さてそれより前、寛元本の成る前に從來無點であつた歌百五十二首に新に點を加へたが、自ら新點といつてゐる。その他古點或は次點を訂正したのもある。この新點の歌は建長五年後嵯峨天皇に上つて叡感の深かつたものである。そこで一應訓なき歌はなくなつたわけである。ついで上
 
(28) 法成寺寶藏本〔途中省略〕文永本
 
    附記 諸本の系統は從來その本文のみを問題としてきたが、本文の傍にある校合書入も亦注意すべきである。これについては小島憲之君の「萬葉集古寫本に於ける校合書入考」(國語國文第十一卷第五號)があるが簡單にゆかないのでこゝには紹介しない。
 
述のやうな諸本の校定を終へて、文永六年には萬葉集註釋十卷を著した。所謂仙覺抄である。從來とても注釋はあるが萬葉集のみの成書として、これだけ多くの歌をとり入れたまとまつたもの(29)は、これを以て最初とする。且つその態度が僧侶であつて歌學者と異なり、方法にも独創的なものがあり、悉曇の法則などを國語に應用してあるなど、當時としては可なり進んだものである。
 かくの如くにして萬葉集は中世の初頭に一應の整理を得て、漸く人々の近づき得べきものとなつた。然るに中世の暗黒時代はそれを生かす爲に何等大なる寄與をしなかつたのである。ただ注意すべきは源實朝である。若くして鶴ケ社頭の露と消えたが、金塊和歌集が殘されて、その言靈のささやきは永劫に生きてゐる。この集の歌の萬葉調についてはあまねく知らるゝところであるが、かういふ影響は何時得たものであらうか。東鑑や明月記などによると、少年の頃から歌を詠じ京都から新古今集や三代集などを贈られたこと、或はしばしば鎌倉で歌會を行つたことなどが知られる。萬葉集は二十二歳の時建保元年十一月定家から贈られたことが文獻に見える最初であるが、同年十二月の奥書ある金槐集の寫本のあることによつて、萬葉集に接したのはもつと早くから――否少くとも萬葉集の歌には何等かの方法で前から近づいてゐたとすべきであらう。仙覺は實朝より十一年年少で長じて鎌倉に住んだが、時處を同じうしたか、或は萬一何かの交渉があつたかなどすべて想像以上に出られない。とにかく都を遠くはなれたあづまにあつて、一は直接整理研究し、一は文學的な影響をうけた二人の人があつたのは面白い縁である。しかし文學的(30)影響の點ではその人の一生の如くに彗星的な存在にすぎなかつた。
 鎌倉における業績をよそに、京都は傳統を重んずる歌學がいよいよ株を守ること強く、古今集以下を重んじて萬葉集に對する關心は薄らいでゆく。又事實中世の學者の實力を以てしては難解にちがひない、「このころかたへの人は心詞こはくてつやつや心得ぬ物とてもて出でぬさま(ささめごと)」なのである。折角の仙覺のしごとも發展させられずに殆ど無爲のままに契沖に渡されなければならなかつた所以である。併しその受けわたしをした人までも忘れてはならない。
 僧玄覺・治部亟頼直その後僧寂印・成俊などの手で仙覺の校定本は傳へられてきた。現存の西本願寺本・温古堂本・大矢本・京大本・細井本等皆この仙覺本系のものである。又一方相摸藤澤の相由阿は二條良基の爲に萬葉集を講じ、その著詞林釆葉抄を一覽に供した。更にその補遺として拾遺釆葉抄がある。共に集中難解の語を釋したものである。又良基については近衛家に應永年間書寫萬葉詞と題し「應安八年正月日於攝政殿花本好士被書下了 仍末代之證歌本説異論爲留之也」といふ奥書ある語彙や歌を解いた書――連歌用と思はれるが――もある、その他中御門宣胤の萬葉類葉抄といふ集中の歌詞を天地等に分類したもの、猪苗代兼載の講義の筆記、宗祇の抄といふものなどあり、さすがに知識階級にあつては萬葉集に對する關心も見られる。當時の公卿の(31)日記類にもその方面の記述が可なり見える。それにしても古今や源氏・伊勢があのやうに研究せられたのには比すべくもない寂しさである。正徹が
  仙覺が作りたる註釋、阿彌陀佛が作りたる詞淋採葉集と又仙覺が作りたる新註釋といふもの此三部をだにもたらば人の前にても萬葉をよむべき也
といつてゐるのが、そのありさまをよく説明してゐる。
 このやうな次第であるから、中世の一般社會は勿論上流社會に對しても、萬葉集は文化的な影響を與へることが極めて少い。今の西本願寺本はかつて足利義滿が朝廷に獻じたものであるが、それは讀む爲よりも單なる美術品としての意味が大部分ではなからうか。當時の勅撰集が多く二條家の撰にかかる以上、又その他一般歌壇の風潮からして萬葉集からの影響などみられないのも當然である。この頃の文學作品の中軍記物が盛行した閥係上、萬葉集が引かれたりすることの殆どないのも尤もであるが、一面社會の好尚のかかるものから遠ざかつてゐる――といふよりも近づき難いことを示すことにもなる、唯わづかに中古文學の形態を摸する小説、例へば松浦宮物語などに極瑞な上代摸倣があつたり、或は可なりな學者の手になると思はれる塵袋などに歌が引かれるにすぎない。勿論謠曲は古典故事を多く題材にしたものであるから相當引用がある。而もそ(32)の場合の傳説は、以つて萬葉集理解の状態を察すべき好資料ではないか。
  さてさて萬葉集の歌に東路の佐野の船橋とり放し、又鳥は無しと二流によまれたるは何と申したる謂にて候ふぞ
これは船橋の一節であるが、卷十四、三四二〇番の「上野佐野の船橋とりはなし」の第三句を「鳥は無し」などと解するやうな見方のあつたことがわかる。かかる種類の理解は當時として珍しくないが、かういふものの擴つた時代なのである。
 
      第三期 江戸時代
 
 長い戰亂の後に漸く學術復興の曙光が見え出したのは江戸に幕府が開かれてからである。家康は一般の政治方針を擧問において、まづ書籍の出版が盛に行はれた。わが萬葉集もその恩澤を蒙るやうになつたのである。まづ最初、林道春の校本が木活字、無訓で出版された、年時は詳にしないが寛永二十年より前であることはいふまでもない。次に仙覺文永三年本系の本を以つて修訂を加へ、訓を附して同じく木活字で印行された。これを整版にして出したのが所謂流布本の寛永二十年本なのである。是等の本の系統を表示すると次の如くである。
(33) 仙覺寛元本…神宮文庫本…細井本(十七卷)−道春本−活字無訓本−活字附訓本−寛永本
               細井本(卷四・五・六)−
 仙覺文永本……成俊本…………………………………………………………
この寛永本は後に又寶永年間にも出版せられた。是等の本の訓を今普通に舊訓といつてゐる。
 この文運復興の機をなす徳川家の中に水戸の光圀がある。文事に色々の業績を殘した光圀は、早く萬葉集注釋の志をいだき、諸本を集め校合させ、或が學者をよんでその業を果さうとした。はじめ二三の學者が當つたが、ついでよばれたのが契沖である。契沖は寛永十七年攝津尼ケ崎の生れ、早く出家して密學を學び兼ねて和歌を作つた。水戸家の囑をうけて萬葉集の注釋をはじめたのは天和三年頃と推定される。その稿は數年の中に成つて水戸へ獻じた。これが代匠記である。水戸では更に校本類を貸與したのでそれを基として校本を作り注釋の稿を改め、元禄三年の末頃に完成した。是を代匠記の精撰本といひ、前のを初稿本といふ。契沖の校合に用ゐた本即ち水戸から借りた本は遺憾乍ら自身の底本としたものと系統の近い、仙覺系の本であつたので、その校定の事業にはさしてみるべきものはない。然るに注釋の方は、仙覺と同じく悉曇などの學理を應用するのみならず、語釋などに内證を多く用ゐてゐる點が長處であり、又支那の出典なども(34)豐冨である。中世風の獨斷が少くて實證的になつてきた處などにこの業績の劃期的な特徴が見られる、ここに吾々は萬葉集の刊行と並べて萬葉學に一時期を劃する所以である。勿論江戸時代でも書寫も行はれはしたが、刊本が出た以上はそれとの校合が主に行はれるやうになつた。注釋の方ではこれよりさき、北村季吟の拾穗抄があつて萬葉集全歌の注としての最初の譽を擔つてゐる。しかしその内容は他の源氏物語や枕草子の場合と同じく中世の研究を綜合したものであつて、而も萬葉集にあつては中世の研究が極めて遲れてゐた爲に、本書の價値もただ中世における萬葉集の見方を知るといふやうな點にのみあつて、湖月抄や春曙抄のやうな位置を占め得ないのも無理ならぬことである。唯契沖の先輩下河邊長流の管見や抄には可なり獨創的見解があつて代匠記を導く意味で注意してよいものである。
 契沖によつてよぴさまされた萬葉集の研究はその後順風に帆をあげるが如くに進んだ。荷田春滿の説は萬葉集僻案抄、童蒙抄によつて知られるが、むしろ退歩と思はれるものもあるにしても、又可なり斬新な考方を見ることができる。
 ついで賀茂眞淵に萬葉考がある。眞淵は萬葉集の卷々を時代の順に改め、原本の卷一・二・十三・十一・十二・十四を古い撰とした。まづ成つたのはこの卷々の注で寶暦十年であるがその後(35)卷七以下は狛諸成が藤原菅根・藤原宇万伎。尾張黒生・橘千蔭・源清良などの補助を得て完成したらしく刊行せられず、全集によつてはじめて活字になつたのである。考は單なる注釋よりも歌の批評に注意すべきでその態度には萬葉精神の理解と上代歌謠鑑賞とにおける高い識見がうかがはれ、極めて創見に冨む勞作である。ただあまりに度を越して獨斷に陷り、或は解釋をこえて萬葉集の歌の添削に走つてしまつたやうな點がないではない。併しこの缺點は眞淵の價値を蔽ふものでなく、江戸時代のみならず萬葉學全體からいつてもまことに偉大な存在である。
 その門の本居宣長は師の言にしたがひ古事記の研究に没頭したが、その餘材として萬葉集に關する説も見るべきものがある。古事記傳の中の説・玉の小琴・略解の引用・玉かつまなどによりその考はうかがはれる。量は少いが語釋の方面に卓見がある。
 同じく眞淵門の橘千蔭には萬葉集略解がある。内容は師の説によること多く、又往々宣長の説などをも引くが概して創見も少く、學的價値は低い。ただ注意すべきは大概當時の説を簡單に要領よくあげ、全歌の注であり、殊には寛政年間に成つてまもなく文化年間に出版せられた爲に、入門書として手頃でありそれ以後の萬葉集普及に功績のあることである。勿論拾補抄も元禄に出版されてゐるが、中期の學界は急激な進展を見せてゐるからそれでは物足りなかつたであらう。(36)したがつて略解の存在の異義はかかる方面に大きいと思はれる。
 國學盛行の當時の風潮に乘つて古典の學はひらけにひらけ、その古語を知る爲には古事記萬葉集によるべしとの立場から、萬葉集は急に研究が精しくなつた。本文校訂のことがまづ一段落の時としては專ら歌の解釋に意の注がれたのは勿論であるが、更にその他の方面からの研究もおこつてきた。編纂成立論のことは前節に述べた如く、その他修辭方面では歌格の研究(次章參照)枕詞の研究(長流を初とし、眞淵に冠辭考がある)用字法の研究(次章參照)或は句引索引・地名の研究・作者の傳記、或は傍證の資料として今井似閑の萬葉緯の編纂、或は古今集などの撰集に採られた萬葉集の歌の整理といふ風に諸方面からの研究が行はれ、一方漸く組織立つてきた國語學に教へられて、殊に助詞・助動詞等の解き方も正鵠に近く、中也のやうな滑稽は漸く影をひそめるやうになつた。
 江戸時代末期までに尚色々のものが出てゐる。萬葉考槻の落葉(荒木田久老)萬葉集楢の杣(上田秋成)萬葉集攷證(岸本由豆流)萬葉集檜嬬手(橘守部)など皆全注ではないがそれぞれ特徴のあるものである、この盛期の壓卷として鹿持雅澄の古義は最も注意すべきもので、全卷の注であり最も浩瀚なものである。引用例なども豐冨であり、よく調ぺられてゐるが、ただあまりにこと(37)わりにすぎた筆致が見える處、時代とか作者とかを考へないひたむきな引證など、猥に文字を削補した點などはその短處である。併し江戸時代もしくはそれ以前を通じて最も精しい注であることは否めない。雅澄はこの他、名物・地理・作者等の研究から語法の研究まで、すべて萬葉集に關することは一應まとめあげてゐて江戸期の萬葉學はここに大成されたのである。
 以上は學界のことである。後期に略解なども出て可なり流布する頃でも、それが耳學問でなく直接讀まれた範圍は決して廣くはない。初期にあつては連歌師系の俳諧師がこの方面の中世流の知識を持つてゐた。貞門・談林などの中にはかういふ局部的現象はあつたが、漸次俳諧が民衆化するにつれ、やはり一般的教養としては源氏・伊勢・古今が題材になる世の中であつた。西鶴は勿論、可なり博學の近松でもその作品から萬葉集を直接の出典としてあげ得るものは決して多くはない。例へば近松語彙の典據を見ると二十數條があげられてゐる。而もその中には當時一般の俗説として流布してゐた傳説風のもの、或は古今衆や謠曲などを仲介としてとられたと思はれるものがある。よしやそれが全部近松が萬葉集にあたつたものとしてもあの多くの作中の二十條では決してよく引かれたとはいへない。近松が既にさうでありとすれば、他の群小作家の場合は推して知るべきである。芭蕉さへもおぼつかない引用をしてゐる。尤も元禄頃にはさほど流布して(38)ゐないから無理のないことかもしれない。さすがに中期以後になつて少しでも文字心ある者は略解など手に入る頃にもなれば、一方には物識ぶつて盛にその歌などを見せびらかして川柳子に
  一ツ葉もわからず萬葉もおきやアがれ
とやじられたりする。秋成や石川雅望などのやうな國學の素養ある者の戯作には多く引かれることも當然ではあるが、これは例外といつてもよからう。やはり萬葉集は江戸時代にあつても一般には難解のものとして通つてきたやうである。
 知識階級では可なりの理解に達したことはこの期の特徴をなすのである。殊に和歌の方面に於いては、所謂萬葉振を以つてきこえる人も可なりあつた。賀茂眞淵はその學問的業績のみならず、作歌に於いても自ら古代を知るにはその生活に入るべきことをいひ、殊に晩年は萬葉風の歌に没頭した。その作は物の見方などに尚時代の色あるを免れないが、歌の調子に高く清いものがあつて萬葉調の歌としては時流を拔いてゐた。眞淵と交渉のあつた田安宗武は大樹にも擬せられる身分を以つてよく學問技藝につとめ、歌の方では當時を風靡してゐた古今以下の風を後の風として斥け萬葉調をとつて進んだ。眞淵と行き方を同じくはしないが、又獨自の境地に立つて佳作を殘した。その他越後の僧良寛・平賀元義・橘曙覽など學統なしの歌人があつてそれぞれ萬葉集の精神(39)調子を襲つてゐることはよく人の知る處であらう。
 
       第四期 現代
 
 ここには明治以後を假に現代に入れたが、眞の現代の所謂萬葉學の隆盛ははるかに遲れ、殆ど昭和近くのことであつて、それ以前に長い過渡期をおかねばならない。
 雅澄の古義は成つたがまだ流布してゐない。幕末から明治維新への社會の動搖についで來るものは從來の反動としての極端な西洋崇拜或は功利主義等々、社會の不安は決して學界をも靜かにしてはおかなかつた。この間國學の孤壘を守つた者に木村正辭があつて、萬葉關係では美夫君志卷一・二を出し(出版は遲れて三十年になる)又萬葉文字・字音・訓義の三辨證の著がある。これは考などの文字の私改を極端に斥け、あくまで考證學的態度を固執し、その文字語彙等の出典などの博引旁證ぶりは清朝考證學の系を引いて成果に見るべきものも少くないが、みだりに文字に音を與へて集自體の中における用例を輕んじ、或は舊訓をむやみに偏重するといふやうな點、殊に歌としての精神を輕視するといふやうな點に缺陷を免れない。
 思想的な混亂も二十年代には漸くをさまりそめた。極端な歐化主義は又その反動をもたらし(40)た。恰も二十三年にはかの大著の古義がその附録をも含めて宮内省から出版された。翌二十四年、代々木弘綱・信綱兩氏編纂の日本歌學全書中に萬葉集が頭注附で印行されたことも手頃な本の得られる最初であつて注意すべきものである。東京に文科大學が開かれるや萬葉集の講義も行はれたわけである。その他萬葉關係書もぼつぼつと刊行される。これが明治の中期のありさまで、まだ眞の研究は見えない。少くともその業績は大正に入るまで出なかつた。歌壇に於ける正岡子規の萬葉にかへれといふ叫びが歌壇の新派運動の機縁となつて後のアララギの花を咲かせる下地になつたが、かういふ文藝的な意味では萬葉集も大いに論ぜられてはゐる。
 かくて大正に入るわけであるが、一言ここで觸れておきたいのは外國との交通の影響である。室町時代末期に早く南歐の文化國の宣教師が渡來して日本語の研究なども殘したが、萬葉集には遂に觸れなかつたらしく何等の引用も見ない。本集が外人の記述に見える最初は新村出博士に隨へば、イサーク・ティッチング(天明三年日本を去つた甲比丹《カピタン》)のやうである。これは唯その名が見えるといふにとどまり、明治に入つて漸く注意せられるやうになり數首の飜譯・紹介が行はれた。殊にチェンバレンやフローレンツやアストンなどのものは相當の成績をあげてゐる。
 大正の御代になつては二つの大きな仕事がその初年に着手せられ、その末年或は昭和の初にか(41)かつて完成した。一は校本萬葉集であり、一は萬葉集總索引であつて、現代萬葉集研究の最も著しい業績の中核をなす。他の文學作品に於いては未だかかる例を見なかつたのである。
 校本萬葉集は佐々木信綱・橋本進吉・千田憲・武田祐吉・久松潜一の諸氏が現在見られる限りの資料を博くあつめて諸本の系統を研究し、その代表的なもの十數本により寛永本を底本として本文と訓とに校合を加へ、且つ文字や訓について主なる注釋書の説を附載したものである。萬葉集の研究にとつては坐右缺くべからざるものである。但し本書とても校合の見落しなど多少の缺陷は、「人間わざとして」やむを得ない處であらう。大正十四年廿五册の和製本として刊行、昭和六七年に増打を加へて洋裝十册となつた。
 總索引は專ら正宗敦夫氏の手に成る。集中に用ゐられた一切の文字や語のありかを檢出するもので、本文篇二册は寛永版を影印して頭注(校異)を附し、索引は單語篇と漢字篇其他の二册に分れてゐる。品詞の限界が今の學界で一定してゐない爲に、ある部分に於いて、例へば語尾の方面などに多少の不便を免れないが、それは勿論望蜀の念にすぎない。本書の出現によつて嚢中のものをさぐるが如く用例が引き出せるやうになつた。昭和四年刊行である。
 萬葉集校合のことは平安朝から行はれてゐた。併しその系統についての考察が加へられたこと(42)と、その使用せられた諸本の量とに於いて大正の校本の價値は空前のものといへよう、また索引も部分的には不完全ながらもありはした。殊に國歌大觀の如きは明治に已にできてゐて相當の貢獻をしてゐるわけである。併しこの昭和の總索引とはその目的からして異なるものがあり、その用途に格段の差がある事も當然のことである。
 是等がまだ世に出ない間にも、或は折口信夫博士の萬葉集口譯の如き極めて新鮮味のある解釋(全歌にわたる)、或は井上通泰氏の新考がある。後者は昭和の初に増訂して出版せられたが、代匠記・略解・古義等の説を參照してその書名の如く著者の新考を示されたもので、從來古義が定説の如く重んぜられようとした弊を矯めるに足るもので、その説の矛盾缺陷を痛快に指摘せられてゐる點が特徴であるが、同時にあまりに論理的にすべてを律しようとする態度に缺陷があり、特に初學者の參考書としては十分の注意が必要であらう。
 江戸時代の研究に對して甚だ斬新な自由な考方の右のやうな書が出たのちに、恰もそれを綜合止揚するかの如くにして昭和の所謂萬葉學全盛期が來た、校本・索引によつて道具は備つた。ここに着實な科學的方法を教へるものとして山田孝雄博士の萬葉集講義がある。未だ一・二・三しか出ないが、從來の諸注の中最もすぐれたものである。殊に語釋・語格の引證該博を極め疑問は疑(43)問として殘しておくといつた、極めて愼重な研究方法を教へるものである。ここで一應觸れておくべきは前述の松下大三郎博士編國歌大觀である。早く明治三十年代にできてゐてその索引としての効用は已に説いたが、ここに一言すべきは歌の番號のことである。萬葉集全作品四千五百餘首その用例などの引證が頻りに行はれるやうになると、その歌の所在を簡單に示すことが要求せられる。從來の寛永本の丁數では何かに不便である。折しも國歌大觀は索引としての必要上集中の歌に一首づづ順次に番號をつけていつた。それには今からみて誤もあるが、とにかくこの方法がひろまり出して、昭和の初頃からそれを利用し、近頃では專らこの國歌大觀の番號を附して呼ぶことになつてしまつた。かういふ意味で國歌大觀の存在も忘れられないのである。さて其後、選釋の類は更に多く世に出たが、特徴のあるものもあり、價値の低いものもある。今一々言はない。大體語釋を主としたものが多いが、島木赤彦の「萬葉集の鑑賞及び其批評」などは歌人としての觀察に注意すべきものがある。近くは鴻巣盛廣氏の全釋が完結した。昭和の略解ともいふべき手頃の注釋の、寫眞なども多い親切な本である。又諸家の分擔になる萬葉集總釋も完成し、作者別にした評釋などもある。
 この期には古鈔本の複製が多く行はれた。桂本・藍紙本・金澤本・天治本・元暦校本(三種)・(44)尼ケ崎本(二種)・類聚古集・古葉略類聚抄・西本願寺本などは皆坐右に摸本を揃へ得るやうになつて、更に精密な研究に便するのであるが、是等は殊に佐々木信綱博士の力によるものが少くない。又集中の歌の作者別・或は時代順・或は内容別の排列の書が出て、個人の歌風又はその變遷をみるにも便利になつた。又岩波文庫の中に佐々木博士の新訓萬葉集が出て從來定訓視されてゐたものが、校本の餘業として大膽に改訓せられたことは、その校訂や訓について尚如何とうち傾かれるものがあるにしても太いに意義あることであり、更に白文も出て、共に流布すべき性質の出版だけにその結果も大きいわけである。また佐伯梅友君と筆者との共編にかかる新校萬葉集は、もと前記總釋の附録として出版せられたものを單行本としたものであるが、原文の傍に訓を附し、國歌大觀の番號の他に、寛永版本の丁數をも附記したもので、本文の校合に於いても校本萬葉集の誤と認められたものは訂しておいた。また昨春は佐々木、武田兩博士によつて定本萬葉集第一册が刊行せられた。これは新訓萬葉集に更に多くの改訓が加へられ、文字及び訓については別記が添へられ、臺本として信頼すべきものであるが、訓法に異説の盡きない萬葉集の如き古典の定本の作製といふ事は關門トンネル貫通の如くには成就しがたいであらう。第一册は卷一より卷四までてある。その他注釋のみならず動植物・民俗・染色・地理・用字法・韻律といつた各方(45)面からの研究がいよいよ盛に行はれてそれぞれの成書もある。殊に用字法の研究は橋本進吉博士の石塚龍麿著假字遣奥山路の眞價の闡明によつてますます微に入る事となつた。是等諸般の研究結果を統ぺ、年々の研究状態を綜覽すべきものとして萬葉三水會編の研究年報も昭和五年分から年々刊行せられてゐる。外人の方でも和蘭のピアソン氏は全譯の學術的な詳細なのを刊行中である。學術振興會では約一千首を撰んで譯した英譯萬葉集を昨春出した。海外に我國の文化を知らせる意圖をもつた最初の國家的事業として注意される。
 この頃の文壇、主として歌壇の方では、前述のアララギがその勢力を得て、萬葉にかへる聲は燎原の火の如くにひろまつた。近時は却つてその反動としてか、眞面目にをの立場を反省し盲目的な萬葉崇拜を再吟味して或は古今的なもの或は新古今的なものに戻らうとする氣勢も弱くはない。
 近年になつて殊に萬葉集研究は盛になり、各大學でその講義のない處は少く、年々の卒業論文にも月々の雜誌にもこれに關するものは多い。かういふ空氣の中はいつも亞流といふものが生じるものである。漸く國文學の方法などがやかましく叫ばれ、日本文藝學の聲高い時にあつて、わが萬葉集の研究も亦反省しなければならない處にきてゐないだらうか。量的に盛なよび聲に對(46)して、例へば三水曾の年報に觀ても、徒に初歩的な解説や思ひつきめいた感想文の多いらしくて、いづれの角度にしてもしつかりした研究の名に價するものが果していくばくあるかに想ひ到るとき、いひ知れぬ寂しさを感じなければならない。
 萬葉集の傳來史上に於ける現代の特徴は、初期は勿論本の傳はることらが珍重すべき位だから問はないとして、江戸時代でも概して上流知識階級のものであつたのが今や一般民衆化されたことである。これは他の一般學藝の普及と共に決して不思議なことでもない。國民學校の上級に於いてその名を知り、歌の數首さへ教へられるやうになつた。
 かうして萬葉集が國民の誰にでも近づき得るやうになつたことは、ここに初めてこの古典が吾々の間に生きることになつたとも云ひ得るであらう。
 
(47)   第二章 概觀
 
     第一節 歌の種類
 
 萬葉集に收められてゐる歌の種類をまづ形式上から分つて長歌・短歌・旋頭歌・佛足石歌體歌の四種とする。一體、我國の詩歌の韻律は音數律をその最も著しい特徴とするが、今の場合も短句・長句の繰返しを以つて基本とし、その色々の組合せがこの形式を分つのである。
 長歌は五七・五七の繰返しの最後を五七七で結んだものであつて、その句數は區々で集中最も長いのは人麻呂の百四十九句に及ぶものから、蚊も短いのは
  飯はめど うまくもあらず 行き行けど 安くもあらず あかねさす 君が心し 忘れかねつも (卷十六、三八五七)
のやうに五七五七五七七まである。元來この形式は永い過渡期を經て定着したので、記紀の歌はもとより萬葉集に於いてもこの定型をとらない、即ち短長の繰返しではあるが五七とは限らないも(48)のが相當あり、長歌といへば勿論其等をも含めていふのである。さてこの定型が生じるに從ひ、長歌の次に別に同内容を歌つた短い歌を添へるやうになつた。これを反歌といひ、漢詩の反辭に起源が求められるやうである。これは一首に限らない。長さはその成立過程を示すと思はれる旋頭歌形式のものが卷十三にあるのを除けば皆五七五七七の短歌形式をとつてゐる。卷十三には卷一のはじめと同樣反歌なしの長歌もある。
 集中の長歌二百六十五首の中句數十及二十臺のものが過半數を占め、句數の偶數のものや其他上述の如く不定型のものも可なりある。そのいづれにしても、本來謠物である性質上繰返しが多く對句が多い。對句については江戸時代中期以降二三の研究書もある位で、小國重年の長歌詞珠衣・六人部是香の長歌玉琴・、楠守部の長歌撰格・鹿持雅澄の永言格などが有名である。其等の分類は或は意味より、或は形式よりして稍雜然たるものもあるが、今その心を酌んで形式上整理すれば
 一、短對
 (1)一句中の對  家をも 名をも
 (2)一句對    家聞かな 名のらさね
(49) 二、二句對
 (1) 下句の繰返し   朝がりに 今立たすらし
             夕がりに 今立たすらし
 (2) 上句の繰越し   ことさけば 國にさけなむ
             ことさけば 家にさけなむ
 (3) 一部分の繰返し  國原は けぶりたちたつ
             海原は かまめたちたつ
 (4) 繰返し無きもの  山のまに いかくるまで
             道のくま いつもるまでに
 三、長對句
 (1)          秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻よびとよめ
             春されば 岡邊もしじに 巖には 花さきををり
 四、三並對
             歌人と 吾を召すらめや
(50)     ―― ――  笛吹と 吾を召すらめや
       ―― ―― 琴弾と 吾を召すらめや
のやうになるが、二句對でも(3〕(4)などの方が萬葉集には多く、同語の繰返しは漸次減少する。長對や並對も極めて少い。
 後世の勅撰集や物語の中にも長歌はあるが、それは唯形式を摸したものといふにすぎない程度のものである。眞の内容ある長歌は奈良朝を以つて終るともいへる。但し謠物としては五七が七五の長短にかはつて今樣として別途に進んだ。
 短歌は後世の短歌と同じく五七五七七よりなる三十一文字を基本型とし、いはば長歌の最も短い形のもので、當代に於いても最も普通なものである。集中四千首以上になる。唯後世との違ひは、一つは字餘り字足らずが可なり多いことで、而も字餘りも宣長の言つたやうに必ずしも母音即ちア行の字が重なるのではない。今一つは區切れの問題であつて、これは上代の短歌を見る上に可なり注意すべきことであるから少し説明を加へる。まづその種類と例とをあげる。
 一、句絶無きもの
 秋の野の美草《みくさ》かりふき宿れりし兔道《うぢ》の都の假庵《かりいほ》し思ほゆ
(51) 二 四句絶
 茜《あかね》さす、紫野行き、標《しめ》野行き、野守は見ずや、|君が袖振る
 三 二句絶
 吾はもや安見兒《やすみこ》得たり|皆人の得がてにすとふ安見兒得たり
 四 二句及四句絶
 春過ぎて夏來たるらし|白妙の衣干したり|天《あめ》の香具山
 五 三句絶
 妹が見し楝《あふち》の花は散りぬべし|吾が泣く涙いまだ乾《ひ》なくに
 六 一句絶
 悔しかも|斯く知らませば青によし國内《くぬち》ことごと見せましものを
まづ一が集中甚だ多數を占め、且つ古い方に多く、順次二・三・四に及ぶ。五・六の發生は比較的新しく奈良朝或はその少し前とみるべきで、これが後世和歌を本末或は上下に分つことになるのであり、偶數切と奇數切とは歌の古さ新しさを大體分つことになる。尤も三と五、三と六、五と六などの結合したものもあるが四のやうに一項を立てるまでにはならない。
(52) 因に、長歌、短歌といふことは古今集頃逆に考へられてゐたものの如く、中古の歌學界で問題になつて來たが、その誤りであることは俊成を俟つまでもないのてある。
 旋頭歌は五七七五七七の形から成り、記紀の歌謠にある片歌(五七七の形をなす)を重ねたものと見られる。第四句以下の三句を第一句以下の三句の前に置きかへても意味が變らないといふ處から旋頭といふ名が出たのである。集中六十餘首にすぎないが、是亦眞に見るべきは本集中のものであり、後世のは模倣である。
 最後に佛足石歌體の歌といふのは五七五七七七の形で、短歌に尚七言の一句を加へたものである。大和藥師寺にある佛足石を讃嘆した歌、例へば
  人の身は得がたくあれば法のたのよすがとなれり勉めもろもろ進めもろもろ
のやうな形と同じといふ意味である。集中確かなのは一首
  伊夜彦《いやひこ》の神の麓に今日らもか鹿《か》のこやすらむ皮衣《かはころも》着て角つきながら(卷十六、三八八四)
のみで、他に卷五にさうではないかと言はれるものが五首あるにすぎない。
 次に内容からみた分類は形式のやうにはつきり分ち難いが、當時の編者は雜・相聞・挽歌の三種・或は是に譬喩・問答を加へて五種としてゐる。
(53) 相聞は山田孝雄博士が相聞考(心の花第二十八卷二・四號)で言はれたやうに、語の出典は支那にあり往復存問の義で、隨つて戀歌の多いのは當然ではあるが後代の歌集の戀部とは本義を異にすることがわかる。事實肉親間の贈答もある。この語は訓讀せずに「サウモン」と音讀すべきである。
 挽歌は晋書樂志、崔豹古今注、文心雕龍注所引文章志などに見え、柩を挽く時の歌の意で、哀悼の意を歌つたものをいふが、病中や臨終の作、後人追憶の作までもひろく收められてゐる。出典を支那に求めた以上、やはり「バンカ」と音讀すべきものである。
 雜歌は右のいづれにも屬しない色々の歌、例へば行幸・遊宴・旅などの歌を含むもので、これも「ザフカ」と音讀されてゐる。後の勅撰集の雜歌に比して非常に範圍が廣いわけである。岡田正之博士などは文選に見える分類といはれてぬる。
 以上の三分法が萬葉集の意味上の分類として最も古い、又最も普通なものであつた。これに加へて譬喩といふのは、文字通り何か物に譬へて思を叙べたもので相聞の一種と見られる。現に卷三などでは雜・譬喩・挽の三種に分つてある。問答歌も文字通りの意味で、やはり相聞の一種と考へられる。卷十三などはこの五分法にしたがつてゐる。(54)比較的新しい時代になつて四季に分つことが行はれだした。春雑歌・春相聞歌といふ風に順次に分けてゆくので、卷八・卷十などはこれによつてゐる。これやがて平安朝に入つて勅撰集の部類分に採られるのである。
 
(55)   第二節 用字法
 
 萬葉集が撰ばれた頃にはまだ片假名・平假名いづれもできてゐなかつたから、全部漢字で記されてぬる。かくの如く漢字を以つて國語を寫すに借りたものを、總稱して萬葉假名といふ。漢字を如何に驅使して國語を寫したかといふことは其れ自體に於いても興味ある間題であるが、同時に萬葉集を正しく訓む爲にも必須の前提になるのである。從來この方面の研究はまとまつたものが少く、纔に江戸時代末期に春登上人の萬葉用字格が出て以後それが專ら用ゐられたに過ぎず、漸く近頃になつて新に扱はれるやうになつたのである。
 春登の分類は萬葉假名を正音・略音・正訓・義訓・略訓・約訓・借訓・戯書に分つてその用例をあげたもので、當時のものとしては可なり精しいといへようが、現今は總索引の運用によつてはるかに精密に調べることができる。春登のは常識的な、便宜的なものであるから今少し正確に分けてみる。
 甲 表意文字として
(56)  一、國語の意味に相當した漢字を用ゐたもの、訓讀
   (イ)一語を一字に表はしたもの
     吾《ワレ》 君《キミ》 秋《アキ》 月《ツキ》 來《クル》 去《サル》(正訓)
     暖《ハル》 寒《フユ》 金《ニシ》 勤《ユメ》 疑《ラム》(義訓)
   (ロ) 一語を二字以上に表はしたもの
     年魚《アユ》 芽子《ハギ》 白水郎《アマ》(正訓)
     戀水《ナミダ》 丸雪《アラレ》 未通女《ヲトメ》(義訓)
   (ハ) 一字にてよきものを二字以上にしたもの
     神祇《カミ》 京師《ミヤコ》 古昔《イニシヘ》 辛苦《クルシ》
  二、漢字をそのまま用ゐたもの、音讀
    餓鬼《ガキ》 法師《ホフシ》 布施《フセ》 過所《クワソ》
 乙 表音文字として
  三、漢字の音を借りたもの
   (イ)一字一音のもの
(57)    阿《ア》 多《タ》 那《ナ》 美《ミ》(正音)
     安《ア》 太《タ》 奈《ナ》 民《ミ》(略音)
   (ロ) 一字二音のもの
     南《ナム》 念《ネム》 閑《カナ》
  四、漢字の訓を借りたもの
   (イ) 一字一音のもの
     射《イ》 蚊《カ》 荷《ニ》(借訓)
     市《チ》 跡《ト》 石《シ》(略訓、約訓)
   (ロ) 一字數音のもの
     卷《マク》 蟻《アリ》 申《マシ》
   (ハ) 二字一音のもの
     五十《イ》 嗚呼《ア》
右の下段括弧に注したのは用字格の名稱を大體あててみたのであるが、例へば正訓・義訓の區別の如きは全く程度問題である。二は所謂外來語であつて、集中極めて僅かしか用ゐられてゐな(58)い。是等「甲」に屬するものは意味をとることができるばかりで、古代人の言語、即ち發音を再現することはできない缺點をもつてゐる。それに反し「乙」は發音を寫して意味を表はさない。その中「三」が最も本格的な假名であつて、上代の文獻、紀紀の歌謠など發音を明かに示すべき處はすべてこの用法の假名を用ゐてゐる。この項の春登の分類の正音・略音といふのも可なり常識的なもので、漢字の原音を總て借りてゐるか否か、換言すれば大體所謂無尾韻のものが正音になり有尾韻(m,n・ng等で終る音)のものの韻尾が省かれたものが略音になるのであるが、例へば「奈」の原音は「ナイ」であつて「イ」が省かれて借られてゐるのに正音に入れられてゐるといつた音韻學の知識の缺陷に基く誤がある。併し所詮これは當時の字音の正確なことがわからない以上、便宜的分類を出ないのである。借訓・略訓も同樣のことがいへる。殊に約訓に至つては、荒礒《アリソ》・水沫《ミナワ》などの例でわかるやうに言語自身の問題であつて用字法の範圍外のことである。
 ここに一言すべきは戯書である。これは右の四種の用法に更に戯れの工夫を加へたものと見るべきもので
 (1) 文字の上の戯れ
  山上復有山――出
(59) (2) 擬聲語によるもの
  神樂聲・神樂・樂――ササ 追馬喚犬――ソマ 呼犬迫馬――マソ 馬聲――イ 蜂音――ブ 牛鳴――ム
 (3) 數の遊戯
  二二・重二・並二――シ 二五――トヲ 十六――シシ 八十一――クク
 (4) 義訓の複雜なもの
  火――《意味》(南)――《正書》ナム 義之・大王――《意味》(手師)――《訓音》テシ 折木四・切木四――カリ 一伏三向・一伏三起――コロ
のやうなものがある。是等も日本人が作つたのと支那からきたの――鈴木虎雄博士によれば、古絶句に「藁砧今何在 山上復有山」のやうな字謎がある由――或は朝鮮の遊戯からきた一伏三向など色々のものがある。勿論戯れといつてもあるものにあつてはその意識なく、他の戀水・丸雪などと同じく使はれてゐたわけで、ここにも所謂義訓との明かな限界はつけかねる。
 さて以上のやうな用字法が一首全體を如何にして形成するか、組合せは色々あり得るわけだが事實は次の數種にすぎない。
(60) (1) 一、によつたもの
  春日山雲座隱雖遠家不念公念《かすがやまくもゐかくりてとほけどもいへはおもはずきみをしぞおもふ》(卷十一、二四五四)
文字を連ねる上に於いて漢文的な用法、即ち反讀させるものも可なりあるが、必ずしもそれに泥んでゐないことは「念公」と書かないことでもわからう。尤もこの反讀するか否かにも可なり限界があつてさうむやみなものでないことが報告されてゐる。((上原浩一君「萬葉集に於ける倒置的用字法」(國語・國文第七卷第八號)參照))かかる書式のものは人麻呂集の歌、殊に卷十一などのに最も多く、字が少ければ少いほど訓みときがたいわけである。
 (2) 三、によつたもの
  余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊與余麻須萬須加奈之可利家理《よのなかはむなしきものとしるときしいよよますますかなしかりけり》(卷五・七九三)
卷九・十四・十五・十七・十八・二十の多くはこの書式である。
 (3) 三を主とし一・四などを混ずるもの
  和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由《わがせこをあがまつばらよみわたせばあまをとめどもたまもかるみゆ》(卷十七・三八九〇)
前項の卷々で前項に屬しないものは多くこれである。又卷十四には
  左乎思鹿能布須也久草無良見要受等母兒呂我可奈門欲由可久之要思母《さをしかのふすやくさむらみえずともころがかなとよゆかくしえしも》(卷十四・三五三〇)
(61)のやうな用法が多い。(六十五頁參照)
 (4) 一を主とし三、四を交へたもの
  茜剃日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍《あかねさすけならべなくにわがこひはよしののかはのきりにたちつゝ》(卷四・九一六)
以上にあげた諸卷以外の大部分はこれに屬してゐて、量的にも最も多いものである。
 尚人麻呂集には前述のやうな漢文風の用字の他に
  水上如數書吾命妹相受日鶴鴨《みづのうへにかづかくごときわがいのちいもにあはむとうけひつるかも》(卷十一・二四三三)
のやうなものが多い。
 一字一字の用法に戯書があるやうに一首全體としてたはむれと思はれるものがある。
  言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二《ことにいはばみみにたやすしすくなくもこゝろのうちにわがおもはなくに》(卷十一・二五八一)
  垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《たらちねのははがかふこのまよごもりいぶせくもあるかいもにあはずて》(卷十二・二九九一)
  燈之陰爾蚊蛾欲布虚蝉之妹蛾咲状思面影爾所見《ともしびのかげにかかよふつせみのいもがゑまひしおもかげにみゆ》(卷十一・二六四二)
かういふ用字上の聯想は集中可なり多く見えてゐるが、殊に戯書と見るべきものは卷十三に最も多く、ついで飛鳥、藤原から奈良の始までの撫名作家の作を集めた卷十・十一・十二に多く用ゐられて、新しい卷四・八などに少く、殊に卷十七以後には一つもない。
(62) 一體我國に古代、固有の文字が有つたかどうかといふことは屡々論議せられてきたが、今ではあの神代文字の存在は信じられてゐない。やはり漢字を借りて國語を表はしたものと思はれる。その最も古い現存のものは紀州隅田八幡宮の和鏡の銘以下推古朝に入つては金石文その他に若干の資料が得られる、その主な用字法は前掲の一と三とであつた。當時の文字使用についての考方は古事記の序に
  上古之時言意竝朴敷v文構v句於v字即難。已因v訓述者詞不v逮v心。全以v音連者事趣更長。是以今或一句之中交2用音訓1。或一事之内全以v訓録。
とあることで大體わかる。正倉院文書の落書に
 口款か弼感批難即都戒感も避け戒
とあるので、當時一般の記載法と萬葉集のとに何等隔のないことがわからう、前の用字法の分類で二の少いのは歌に於いては勿論であるが、更に四も單獨では用ゐられてゐない、全く補助的なもにおであることは注意すべきである。以上のやうな漢字の借用法は我國独特のものではなく、朝鮮に於いても古く吏讀といふものがあつて、やはり我國の場合と同じく四つの用法がある。
 尚片假名・平假名は右の四種類の中第三第四のものから發展して今日見るやうなものになつた(63)のである。
 ここで一つ附加してをくべきは近年やかましい所謂特殊假名遣のことである。これはもはや用字法の域を出でて音韻の問題であるが、文字としてここに説明をしておく。
 本居宣長の發見とその弟子石塚龍麿の詳しい調査と、橋本進吉氏の再檢討((「上代の文獻に存する特殊假名遣と當時の語法」(國語と國文學第八十九號)「上代に於ける波行上一段活用について」(國語國文創刊號)等參照))による眞義の闡明とを經て大略明かになつたもので、上代の文獻に於ける假名の用法には現在普通に考へられてゐるよりも細かい區別があることがわかつたのである。即ち國語の音は五十音圖で網羅すると考へられたものが、上代にはエ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロの十三音には二種に分たれるべき用法の差がある。それは一字一音に限らず借訓等をも通じてむ現象である。例へば「夜」を意味する語は如何なる場合でも――即ち單獨で用ゐられようが、語頭・語中・語尾に熟合しようが――「用」とか「欲」とかのある一群の假名で表され、「世」を意味する語のときは如何なる場合でも「與」「餘」等の一群の假名であらはされてゐて、其等の各郡の假名は互に通用することがない。又語彙の方からいへば、基點をあらはす助詞の「ヨ・ヨリ」、「通ふ」の「ヨ」、「清し」の「ヨ」等は「夜」の場合と同樣で、終助詞の(64)「ヨ」、「吉し」の「ヨ」、「横」の「ヨ」、「讀む」の「ヨ」等は「世」の場合と同類であつて、それぞれの間にはつきりと境界がある。その例外になるものは歩合からいつて極めて少い。かういふことが以上の假名にあるのであつて發音の區別を示すものと考へられてゐる。そこで某々の語がこの兩類の中のいづれに屬するかといふことは例へば「故」といふ語の假名遣はユヘかユヱかといふのと同じ程度に、苟も上代語に關係する者の常識として必要なのである。
  大海磯もとゆすり立つ波の依らむともへる濱之淨奚(卷七・一二三九)
の結句は從來「濱のサヤケク」と訓まれてゐるが、もしさう訓む場合ならば「ケ」には「奚」とは別の類の字が用ゐられねばならない。却つてこれは「キヨケク」と訓むものである。かくの如く語法上のことにも關係し、この假名遣の用ゐらるべき範圍は廣い。尤も一時は流行よばはりされる位にこの研究が盛になつて、その兩類の別を過重視する傾がないでもない、何といつても二つの中の一つなのだから、むやみに差異の面ばかりを眺めることは戒めたい。
 最後に一應考へておきたいのは、現在の萬葉集の文字面は編纂の場合に手が加はつてゐるか、或は作者の手記にしたがつてゐるかといふことである。これは尚精査を要することではあるが、概括的にいへば編纂の頃に歌の書式の變更はさう大きく行はれてゐないと思はれる。作者單位に(65)用字の特徴をみるとき、さう著しい別は見出せないが、尚人麻呂集は勿論、田邊福麻呂集などある種の傾向の看取されるものがある。例外はある。但し武田祐吉博士の指摘されたやうに卷十七以後の卷で卷十九の書式の異なつてゐるのや、或は不用意に作と佐、丹と爾が書きかへられるといつたことはあるかもしれない。卷十四の如きは始め正訓を以つて書かれてゐたのが假名書にせられたと想像もできる。例へば六十頁の歌で傍線の部のやうなな多くの正訓・借訓が正音字の中に混じてゐるのはこの想像を助ける。以上を要するに書改められたものもあり、さうでないものもあるといふ、甚だ平凡な結論に到達したのであるが、現在の處では、概してもとのままと見て研究を進めて行つてよいと思ふ。
 
(66)     第三節 卷々の解説
 
 前節で述べたやうに歌は漢字で書かれ、その歌にはその作られた謂れや時や人などを示す題詞がつき、或場合には歌の次に注を加へて――是を左注といふ――是を記し、又其等を併用することもある。勿論そのいづれをも缺く場合もある。そしてその書法は純漢文、若しくは日本文脈化した漢文を以つてする。さういふ群が前々節に述べたやうな分類(意味上の)によつて並べられた卷が二十、是が我々の萬葉集の姿である。その二十の卷々が以後の勅撰集のやうには決して統一されたものでないことは已に述べた。性質のそれぞれ異なる卷々を集めたにすぎないのであるから、その大略の内容を説明するを便宜とする。
 
     卷一・卷二
 
 卷一は雜歌、卷二は相聞・挽歌より成り、その各部分の中が
  泊瀬朝倉宮御宇天皇代
(67)  高市崗本宮御宇天皇代
といふ風に天皇の御代を標記して時代順に排列せられてゐる。かかる體裁からしてこの兩卷が一つのまとまったものであることがわかる。
 卷一の作品の時代は雄略天皇の御代から和銅九年頃までに及び、主な作者は
  雄略天皇・舒明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇・元明天皇・志貴皇子・長皇子・御名部皇女・額田王・柿本人麻呂・高市黒人・春日老・長奥麻呂・山上憶良
などで人麻呂の作最も多く長歌短歌合せて十五首になる。御代々々の標記のしかた其他に持統朝と文武朝との間で差異典が認められるので、持統天皇の御代に一應撰定せられたものに吏に和銅或は養老頃追補され、まだ十分精撰されないものと考へられる。
 卷二の作品の時代は仁徳天皇の御代から靈龜元年までに亘るが、卷頭の仁徳天皇皇后の御歌として掲げられたものは傳誦による假託と思はれるから(拙著「萬葉の作品と時代」參照)實際は齊明天皇四年の作をこの卷での最も古いものとすべきである。主な作者には
  天治天皇・天武天皇・持統天皇・倭姫王(天智天皇后)・有間皇子・日並皇子・高市皇子・舎人皇子・長皇子・弓削皇子・穗積皇子・大伯皇女・但馬皇女・鏡女王・額田王・藤原鎌足・(68)人麻呂目・奥麻呂・憶良・大伴安麻呂・大伴田主・石川郎女・久米禅師・三方沙彌
などがあるが、やはり人麻呂の作最も多く合計三十二首に上る。全體の體裁など卷一と同じことは上述の通りであるが、まま時代の前後した排列などのあるのは追補とみるべきだらう。
 この兩卷が勅撰であるといふことは品田太吉氏の屡々説かれる處であるが、その説を積極的に支持すべき徴證もないが、又反證となるべきものも少しもない。よしそれが撰進に至らず終つたにしても現存二十卷中最も精撰せられたもので、時代に於いても萬葉前記と中期の前半との優秀な作品の採録せられたもので、數こそ少けれ、萬葉集中の代表的な卷であることは否めない。
 
     卷三
 
 この卷は雜・譬喩・挽歌に三分せられてゐる一つのまとまつた集で、雜歌・譬喩歌は持統天皇の御代から天平の始、挽歌は聖徳太子と傳へるものを除けば藤原朝より天平十六年年までの作を收め
  持統天皇・聖徳太子・大津皇子・弓削皇子・紀皇女・長屋王・門部王・湯原王・長田王・春日王・安貴王・人麻呂・黒人・憶良・山部赤人・大伴旅人・春日老・滿誓沙彌・笠金村・坂(69)上郎女・大伴百代・大伴駿河麻呂・大伴家持・笠女郎
などを主な作者とする。卷一・二に比して皇族の御作が少く大伴家の人々があらはれてきた。旅人の二十九首が最も多い。
 この卷も各部類が年代順に排列せられてゐるが、それは必ずしも正確ではない。その上に、各部の作品の時代を詳しく調べてみると、雜歌は既述のやうに藤原朝から天平五年頃までの作があるが、日喩歌は藤原朝のは一首のみで他は天平五年頃から十年頃までの作ばかり、そして挽歌はとび/\に天平末まであるといつた具合になつてゐる。これは増補といふよりも二度の編纂に成ると雪つた方があたつてゐよう。即ち卷一・二の續撰ともみるべき雜歌、挽歌の集が天平の始頃までにできてゐて、それに天平の初期の歌を加へて新に譬喩部を立てて現在の如き一卷をなしたもので、その二度目の編者は家持とみてよいのであるまいか。
 
     卷四
 
 全部相聞の歌で時代順に列べられてゐる。卷頭の
  難波天皇妹奉上在山跡皇兄御謌一首
(70)  岳本天皇御製一首并短歌
は普通前者を仁徳天皇の皇妹の御作、後者を舒明天皇の御製とみてゐるが、それには疑はしい節があり、唯さう言傳へられたものと見る方がよいと思はれるから是等を除けば、大體近江朝から天平初年までの作が收められてゐる。作者には
  聖武天皇・志貴皇子・春日王・安貴王・市原王・額田王・鏡女王・湯原王・人麻呂・金村・旅人・百代・家持・坂上郎女・紀女郎・笠女郎・坂上大孃・田村大孃
などあり、家持の六十四首が最も多い、奈良朝以前の作は三十首ばかりの中、家持の祖父大伴安麻呂の作が一首入つてゐることは注意すべきである。奈良朝lこ入つてからの作は家持の父旅人の周圍の人達の歌と家持自身がその女友達と贈答したものが大部分であつて、即ちこの卷は、家持が手許にあつた古い相聞の作に自分の青年期の贈答を加へて一卷としたもので、その戀歌の中四季に關するものは分つて卷八に入れ、それ以外のものを雜然としてこの卷に編入したのである。そしてこれは家持の手記として手許においたもので、公表ははばかつたであらうと見る人もある。
 
     卷五
 
(71) 雜歌とのみ題されてゐる卷であるが、實は大伴旅人がその公友との贈答歌を集めてそれに旅人と親しかつた憶良の作が追加されたものと思はれる。近頃宮島弘君の麻田連陽春に撰者を擬する説(萬葉集卷五の編纂者附雜考(國語・國文第九卷第八號)參照))も面白いとは思ふが、古來この卷は憶良の家集と信じられてゐて署名のない作は總て憶良のものと考へたのであるが、今日その誤であることは明かになつてゐるのである。作の時代は神龜五年六月廿三日から天平五年まで六年間に亘り、作者は
  旅人・憶良・藤原房前・吉田宜・麻田陽春
などであるが、右のやうな成立なので旅人の二十八首・憶良の四十四首(そのいづれかわからない作二首)が中心であり全體の三分の二を占めてゐる。唯憶良の作が追加された事晴は、旅人の作に家持が補つたのか、或は旅人の作を憶良が寫して己のを附加へ、家持は卷末三首の附加ばかりに與つてゐるのかも知れない。
 この卷で注意されるのは前にも一言したやうに、文字の用法が所謂一字一音の假名で書かれてゐることである。而もその假名の種類は他の假名書の卷々と大きい差異の認められるもので、現存の文獻からいへば古風な假名とも考へられるものが可なり混じてゐる。
 
(72)     卷六
 
 雜歌と見出しのあるやうに、行幸の歌を始め宴席や旅などの歌が多く、養老七年から天平十六年まで一々年代を標記して年代帽に排列せられてゐる。作者も殆ど總て明記せられてゐる。
  笠金村・赤人・旅人・坂上郎女・高橋蟲麻呂・湯原王・市原王・石上乙麻呂・家持
などが主な者で、時代・作者の點で卷四・卷八と略共通のものであるが、卷四が相聞の歌を手控にしたのに反し、これは讀者を豫想して、雜歌を撰集として編纂したものと見られる。やはり家持の手に成るのであらう。
 
     卷七
 
 雜歌・譬喩歌・挽歌に大別せられてゐる點は卷三と似てゐるが、雜・譬喩は更に「詠天」「寄玉」などの小題下に分けられてゐる。人麻呂集を中心とした萬葉前期から、赤人・旅人等を經て萬葉末期に移る過渡期の作品を集めたものらしく、卷十・十一・十二などと同じく作者の記されてゐない卷である(尤も一ケ處藤原卿の名が見える)ただ「柿本朝臣人麻呂之歌集出」及び(73)「古集中出」「古歌集出」の左注のあるものがある 人麻呂集は人麻呂自身の作のみならず同時代の人の作をも含むやうである。古集や古歌集は誰か一人の個人の集ではないだらう。
 
     卷八
 
 この卷はまづ四季に分ち、更にその各を雜歌と相聞とに分け、それを年代順にならべてある。舒明天皇御製最も古く、天平十二年と明記してあるものが最も新しいが、今少し時代は下れるやうである。主なる作者は
  聖武天皇・志貴皇子千・大津皇子・穗積皇子・弓削皇子・赤人・旅人・憶良・金村・湯原王・市原王・坂上郎女・家持・笠女郎・田村大孃・坂上大孃
などで、前述の如く作者、時代共に卷四に似てゐて、同じ作者の歌で四季に分ち得るものがここに入れられてゐる。而して右の如き分類をされてゐることは撰集らしい體裁を整へてゐるが、この分類法と後の勅撰集のとの關係は既述の如くであるから、逆に勅撰集のそれぞれの部と是とを比較することは、奈良朝とそれ以後との風物や物の考方の差を端的に示すことにもなるのである。
 
(74)     卷九
 
 雜歌・相聞・挽歌に分けられてゐるのは卷一・二と同じてあるが、精撰を經てゐない。卷頭の雄略天皇御製とあるものは前卷の舒明天皇御製の異傳であるから、その次にあげられた舒明天皇の御代を最古とすべく、天平十五六年頃まで下れるかと思ふ。但し卷三と同じく、大體雜歌が古く藤原朝から奈良の初頃までらしく、相聞は稍新しく天平五年に及び、挽歌が最も下る。作品の主なものは人麻呂集・高橋蟲麻呂集・田邊福麻呂集のもの多く、福麻呂以外は古い作家の作品が多いが、他に著名の作家の作は少い。
 卷三が卷一・二の續集といはれるならば、この卷は續々集とも言へよう。作品は古いが編者の新しいことが題詞等からうかがはれる。
 
     卷十
 
 體裁は卷八と同じく、まづ四季に分け次に雜と相聞とに分たれてゐる。集中の卷々の中で最も多くの歌を含む卷である。卷七と同じく作者不明の卷で、時代もほゞ同じく、或は多少この方が(75)新しい點もある。分類法が卷七より新しいことは右の如くであるが、同じ自然を詠むにしても卷七では旅などの野外のものが多く、この卷では庭園・家居のほとりの自然が主になつてゐて、題材の上からも後世の歌集に近づいてゐる。歌風からいつても卷八のあるものよりは新しい繊細幽艶を作も少くないが、大體奈良朝初期の詠が多く、卷四卷八などの天平歌人はこの卷の作品から學ぶ處があつたと思はれるものがある。
 
     卷十一・十二
 
 この兩卷は目録に古今相聞往來歌類之上、下となつてゐるが、實際の内容は
  卷十一             卷十二
  旋頭歌【人麻呂集古歌集】    正述心緒 人麻呂集
  正述心緒 人麻呂集       寄物陳思 人麻呂集
  寄物陳思 人麻呂集       正述心緒
  問答 人麻呂集         寄物陳思
  正述心緒            問答
(76)  等物陳思          羈旅發思【人麻呂歌集詠者不明】
  問答              悲別歌
  譬喩              問答
のやうな順で、分類の方法が亘に獨立してゐて、卷一・二が合して始めて全き姿をなすのとは趣を異にする。共に作者不明の卷であるが、大體藤原朝のを主とし、奈良朝初期に及んでゐるとみてよからう。人麻呂集の歌が多く採られてゐる。兩卷に重出のもの五首に上り、又作品の内容が卷十二では奈良附近を詠んだ、即ち新しいものが増してゐることなども、兩卷の編纂が一時になされたものでないことを示すのである、別人の手になるか、少くともまづ悲卷十一成り、後に卷十二がまとめられたのであらう、
 この兩卷の歌は多く天平の歌人達に愛誦せられたらしく、その影響は意識的に或は無意識的に、卷四・六その他の卷々に見られる。
 
     十三卷
 
 この卷は雜・相聞・問答・譬喩・挽歌に分れて、撰集の形をなしてゐるが、決して精撰とはい(77)へない。長歌が多いが、その一部分が獨立して別に記されたり、男の歌の前半と女の歌の後半とが一首の歌のやうに綴り合されたりしてゐるものがあつて亂れてゐる、これは併し、時代の古いことにもよるのである。記紀時代から萬葉への過渡期の作品とみるべきものが相當にあり、音數律の整はない長歌、或は反歌に旋頭歌をとつてゐるもの、反歌のないものなど雜多であるが、これは傳説と結び合されて記紀の歌物語に採り得たものを除いた、いはば衣裳の裁ち殘りの裂地を見るやうな卷である。勿論作者はわからない。併し又、新しい作も少々あつて、まとめられたのはさして古くはなからう。是等も天平期の家持などに愛誦せられたらしく、その影響かと思はれるものが卷四などにある。尚前述のやうに、この卷には非常に戯書が多い。
 
     卷十四
 
 始めに「東歌」と見出しがついてゐて國名の考へられるものと否とにまづ分ち、前者は雜(現存本にはこの見出しはないが脱漏と考へられてゐる)相聞・譬喩がそれぞれ國別にせられ、後者は雜・相聞・防人歌・譬喩・挽歌になつてゐる。國は遠江・駿河・伊豆・相模・武藏・上總・下總・常陸・信濃・上野・下野・陸奥のやうに關東を網羅するのみならず奥州に及んでゐる。この(78)卷の中には東國以外で詠まれた作もあり、又都人の旅で詠んだと思はれるものもあるが、やはり大部分は東歌と認むべきである。それは單に用語に東國方言が多いといふのみでなく、歌の素材・表現・技巧の點から見ても他の卷と色彩を異にしてゐるからである。作者も作の時代もわからない。編纂について、山田孝雄博士は武藏が右のやうに相模・上總の間、即ち東海道に屬してゐることを根據とし、元は武藏は東山道に屬してゐたのが寶龜二年東海道に編入せられたことから、既述寶龜二年以後説を出されたのである。尤もこれは、前から集められてゐて整理の手の加はつたのがこの寶龜二年若しくは以後といふやうにも考へられる。といふのは、國別のこの整理は極めて杜撰で、少し調べれば當時にあつては容易に土地が知られると見えるものもあるのである。從つて蒐集者は整理者と同一とは思へない。蒐集については關東に下つてゐたことのある歌人高橋蟲麻呂を擬する説もあるが、想像より出ない。この卷の用字が正訓字の多く混じた假名書であることは既述の通りだが、この事などと共に編纂蒐集事情も尚明かでない。
 
     卷十五
 
 目録に
(79)  天平八年丙子夏六月遣使新羅國之時、使人等各悲別贈答、及海路立上慟旅陳思作歌并當所誦詠古歌
  中臣朝臣宅守娶藏部女嬬狹野茅上娘子之時、勅斷流罪配越前國也、於是夫婦相嘆易別難會、各陳慟情贈答歌
とあるやうに、唯この二種の歌集を集めて一卷を爲すものである。前者は時代も明記せられ、作者も大使阿部繼呂以下――但し名の知れてゐる人は少い――で、記録的に事件の順序にならべられてゐる。後者は、この事作が史書に見えないので明確にはわからないが、他の事件から推してやはり天平十年頃のことかと思はれる。共に假名書である。
 
     卷十六
 
 標題に「有由縁竝雜歌」とあるやうに、始めに傳説的な歌をのせ、次に雜歌、主として滑稽な歌を集めたものである。文武天皇の頃から天平十五六年頃までの作と思はれる。作者の知れてゐるのも可なりあるが、特にあげるほどのことはない。唯海人の作とか、乞食者の作といつたやうなもののあることを注意しておく。この卷には歌の題材の性質上、餓鬼・檀越・力士・法師・無(80)何有・婆羅門などの字音語が多く見える、
 
     卷十七・十八・十九・二十
 
 卷十六及びそれ以前の卷々には天平十七年以後の明證ある作は採られてゐず、是等四卷に入つて始めて見えることは、最初十六卷が一應でき上つてゐたことを想像させるものである。
 さて、この四卷は家持の手記と言はれてゐる卷々で、事實家持が自作及び周圍の人々の作を得るがままに書きとめたものと見てよいのである。勿論部類別などもなく年代順に排列されてゐる。
 卷十七は天平二年から天平二十年春までの作であるが、その中天平十六年までのは少數であり、補遺的なもので天平十八・十九・二十年のが主であらう。
 卷十八は天平二十年三月から天平勝寶二年二月までの作で、他に天平十六年の作及び年代不明の、聞くに隨つて記入したものが僅かある。
 卷十九は天平勝寶二年三月から、同五年二月までの作と、聞くに隨つて記入した古歌十餘首とが收められ、處々數ケ月作の見えない處がある。歌數から言つても最も純粹な家持の歌日記らし(81)い形であるが、内容も他の三卷のやうな贈答・宴會の歌のみならず、眞に自身の作歌衝動によつて詠んだと思はれる純粹な作が見える。この卷にかぎり、一々作に署名せず卷末に
  此卷中不※[人偏+稱の旁]作者名字徒録年月所處縁起者、皆大仲宿彌家持裁作歌詞也
と注記がある。文字用法も他の三卷に比して正訓の多い、可なり異なつた趣の卷である。
 卷二十は天平勝寶五年五月から天平寶字三年正月一日まで六年間の作を含むが、作の見えない月が非常に多くなつてきてゐる。その他に時代不明(恐らく天平前後の作二十首ほどがある。又防人歌が九十餘首收められてゐることは注意すべきである。これは家持が兵部少輔として、天平勝寶七年交替する防人達に接する機を得た故に採録せられたのである。この卷では宴席の歌が可なり多くなつてきてぬる。家持の身邊も多事になり、作歌の氣分も薄らぎそめたやうに思はれる。ここに天平寶字三年で作が終つてゐることも必ずしも突然でないやうに考へられるのである。
 萬葉集の卷々が如何なる體裁の下に、如何なる時代の如何なる作家の如何なる作品が、如何に集められてゐるものであるかはほゞ明かになつたことと思ふ。では如何許りの歌が含まれてゐるのであらうか。この歌數については古くから色々の物に述べられてゐるが、誰の計算も一致しな(82)い。同じ本文を使つても、或本歌・一云などの校異や、同歌の重出を如何に扱ふかにより、或は卷十三の解説で述べたやうな事情により區々に分れるのである。從つてある意味に於いては何首と數へることは無意味だとも言へるのであるが、別表のやうな數へ方によると、長歌二百六十二首・短歌四千百七十五首・旋頭歌六十二首・佛足石歌體歌六首・合計四千五百五首となる。卷々の歌數などはすべて別家にゆづる。
 
(83) 第三章 作者及作品
 
   第一節 總説
 
 上は仁徳天出御宇より下は天平寶字三年まで、歌數にして四千五百首、作者はその名の記されたるもの四百九十を超え、その他に卷七・十・十一・十二・十三・十四等の無名作家を加へれば更に夥しい數に上るであらう。併し事實は、集中最も多くの歌を殘し編者に擬せられてゐる大伴家持の五百首弱を除けば、他に一人で百首以上を殘してゐる者は一人も無い。逆に一首を殘す爲に名の知れてぬる者は多いのである。それはとにかく、作者の種類は後の勅撰集などと比較すると非常に廣範圍にわたつてゐる。上御一人を始め奉り、皇族・大臣より下庶民に及び、海人・遊女・乞食(今日のこじきではなく旅藝人である)の類に至るまで、まづ社會の各層にわたるとみてよい。
 かくの如き尨大な集の主な作者・作品を紹介するに方つては、色々な態度が考へられようが、(84)今ここでは作者作品を小時代に別つて、年代順に概觀を試みることとする。勿論佳作や何かの意味で有名なものはできるだけ擧げるつもりではあるが、其等ばかりを擧げることが萬葉集の内容を正しく傳へる所以でないことも言ふまでもない。從つてできるだけ廣く各種のものに觸れようと思つてゐる。
 屡々述べてきたやうに、集中の作は古いものから新しいものまで相當の時代の隔りをもつてゐる。そこで歌風などを見る上に於いても時代的差異に注意を要する。時代といふ背景を考へて、その土に作家の掴性を見出してこそ、作品も十分に味ひ得るものと信じるのである。そこでまづ、萬葉集時代を前後二期に分つ。和銅三年三月平城遷都を境界とするのである、次に右の各期を更に二分する。前者は壬申の亂平定を以て、後者は天平五年を以てそれぞれ境とする。この區分は大體政治的なもののやうで、ある場合には便宜的なもののやうにもみえようが、作品の内容から言つても、このやうに分けることは決して不自然なものではないのである。天平五年を境とした如きも、奈良朝初期の代表歌人憶良・旅人・赤人・金村等の作品がこの年前後を以つて終つてゐるといふやうな點からでもあるが、又一面、天平の初年と晩年とでは單に歌風のみならず世の中の空氣にも何かしらある差異が感じられるといつたこともあるのである。
(85) 右のやうな時代區分からいふと、その初期の作品は少く、後期のものが多いといふことになるが、かういふ量的な問題は殘存の偶然性によるもので致方がない。第一期は歌謠から漸く形を備へて固定文藝とならうとする生成期であり、第二期・第三期に於いてその頂點に達し、第四期に入れば漸く後世風な、萬葉約でないものへ推移しようとする傾をみる。かういつた一つの曲線を考へることができると思ふ。
 
(86)     第二節 第一期
 
 この期の下限は壬申の亂平定迄とするが、上限については、前に卷々の解説をしたところ(六七頁)で述べておいたやうに疑問がある。即ち卷二の卷頭
  君がゆきけ長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ(八五)
  かくばかり戀ひつゝあらずは高山の岩根しまきて死なましものを(八六)
  ありつゝも君をば待たむ打なびく吾が黒髪に霜のおくまでに(八七)
  秋の田の穗の上に霧《き》らふ朝霞いつへの方に我戀やまむ(八八)
の四首は題詞によれば仁徳天皇の皇后の御作となつてゐるが、その第一首はこの集にも引用されてゐるやうに、古事記の允恭天皇の卷、衣通王の作
  君が行きけ長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ(九〇〕
が傳誦の間に改作せられたと見るべきであらう。第二首第三首も集中に類歌があり、やゝ後のものが、當時皇后の御作と傳へられるに至つたものであらう。しかしともかくいづれも佳作として(87)推すべきものであり、殊に第四首は古調で上代振の代表とすべきもののであらう。その他卷四の卷頭の灘波天皇妹についても前(六九頁)に述べたやうに異説が生じよう。次に問題になるのは開卷第一にある雄略天皇の
  籠もよ み籠もち ふぐしもよ みふぐし持ち 此の岡に 菜つます子 家聞かな 名宣らさね そらみつ 大和の國は、押しなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそませ 吾こそは宣らめ 家をも 名をも(一)
で、格調が古風で、感動が深く、力あふれ、誠に帝王の御作にふさはしいものであるが、長い傳誦の時代を經てゐるのだから御原作のまゝであるかどうか確實な事は申せないが、古事記のこの天皇の御製と比較する時、その所傳を信ずるならば、是も亦天皇の御製とすることがふさはしからう。記紀の記載もこの雄略朝頃からは正確さを漸く加へたともいはれるのであつて、この御製が卷頭にあることも偶然ではないやうに思はれる。天皇の今一つの御製といはれる卷九の
  夕されば小倉の山に臥す鹿の今宵は鳴かずいねにけらしも(一六六四)
は、後述の舒明天皇の御製の誤傳と見るべきであらう(「萬葉の作品と時代」一六頁參照)
 −體、萬葉集の歌は個人の作であるものが最も多いことは言ふまでもない。併し又、先人の作(88)の傳誦、或は單に一二語句の加工をしたに過ぎないものもある。殊に注意すべきは作者が明記されても、それが假託の場合がある。記紀に於いてかういふ場合が多いのであるが、萬葉集にも案外かゝる場合が少くない。換言すれば、萬葉集のある部分の歌に對しては、記紀に對する時と同じ態度を必要とするのである。再言すれば個人の創作に係る文藝ばかりではないのである。
 さて、かくの如くにして萬葉集の中で極めて古い傳のあるものは一應別にすれば第一期として、まづ信ずべき作者の擧げ得る舒明天皇の御代を上限としてもよからう。この期に屬するものは、作者及び時代の明かなのは百首に滿たない。卷十三のあるものなどは當然ここへ入れてよからうが、今は確實なもののみについて言ふのである。當期の主なる作者は、舒明・齊明・天智の三帝を始め奉り、倭姫王・有間皇子・鏡女王・額田王・藤原鎌足等である。
 舒明天皇の御製で卷一の
  大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙たちたつ 海原は かまめたちたつ うまし國ぞ 秋津島 大和の國は(二)
の如きは、正岡子規が「簡古にして蒼老」と評したやうに前の雄略天皇の御製と並んで第一期の代表的な長歌であり、叙景歌の發生期のものとして注意すべきものであらう。まだ反歌もついて(89)ゐない。卷八の
  夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも(一五一一)
も内容表現相俟つて、集中の傑作と申し奉るべきものであらう。この天皇は岡本宮に皇居を置かれたが、齊明天皇も亦同じ處に宮居をお定めになつた。從つて傳への上で兩帝の御製が混同してゐて明かに分ちがたい。
 齊明天皇の御製で明かなのは、却つて日本書紀に求められる。萬葉にもこの天皇の御製と推定せられるものがあるが碓實ではないからこゝには書紀記記載のものをあげておく。
  今城なる小むれが上に雲だにもしるくし立たば何か嘆かむ
  射ゆ鹿《しし》をつなぐ川邊の若草の若くありきと我《あ》が思《も》はなくに
  飛鳥川みなぎひつつ行く水の間もなくも思ほゆるかも
  山越えて海渡るとも面白き今|城《き》の中《うち》は忘らゆましじ
  水門《みなと》のうしほの下りうな下り後もくれにおきてかゆかむ
  うつくしきあが若き子をおきてかゆかむ
前三首は皇孫建王が八歳で薨去せられたのを御悼みになつたもので、後三首はその後五ケ月程經(90)て、紀の温泉に行幸の砌御追想の御製である。可なり盛に序詞が用ゐられてゐるが、それが切實に生々として、御悲嘆の深さをよくあらはしてゐる。
 天智天皇のは書紀にもあるが、本集卷一の
  香具山は 畝傍を愛しと 耳梨と 相あらをひき 神代より かくなるらし 古も しかなれこそ うつせみも 妻を あらそふらしき (一二三)
は三川の歌として、かかる傳接的素材の扱はれてゐる點で有名である。その反歌としてあげられてゐる
  わたつみの豐旗雲に入日さし今宵の月夜|清明《まさやか》にこそ(一五)
は叙景歌として堂々たる風格をなしてゐる。この結句は古來「あきらけくこそ」「まさやけくこそ」「きよくあかりこそ」など十數種の異訓がある。然しそれらのいづれにも難點があるので今は私按に從つた。(拙著「萬葉古徑」六七頁參照)
 皇后倭姫王は作は少いが、天皇崩御の時の
  青旗の木幡《こはた》の上を通ふとは目には見れども直《ただ》にあはぬかも(卷二・一四八)
のやうな、單純にして、しかも實感の切なるものがある。
(91) 有間皇子は孝徳天皇の御子
  磐代の濱松が枝を引き結びまさきくあらば又かへりみむ(卷二・一四一)
  家にあらば笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を草枕旅にしあれば椎の葉にもる(卷二・一四二)
又この結松の歌には後人の追和したものが卷二に見える。
 鏡女王と額田王とは姉妹である。姉鏡女王ははじめ天智天皇の寵を得たが後藤原鎌足の正妻になつた。
  玉くしげ覆ふをやすみあけて行かば君が名はあれど我が名しをしも(卷二・九三)
はいまだその正妻たる前、鎌足に贈つたものである。これに答へて鎌足は
  玉くしげみむろの山のさなかづらさ寢ずば遂にありがつましじ(卷二・九四)
のやうな積極的な歌を贈つてゐる。鎌足にはまた采女の安見兒を得て歡喜した
  吾はもや安見兒得たり皆人の得がてにすとふ安見兒得たり(卷二・九五)
のやうな作がある。素朴な表現はまた萬葉作風の一面を見るべきものである。
 額田王《ぬかたのおほきみ》はこの期の作者として最も注意すべきのみならず、萬葉作家として有數の人であり、殊に女流歌人としは最も注目すべき作家である。歌數は十餘首しかない。
(92)  茜さす紫野ゆきしめ野ゆき野守は見ずや君が袖ふる(卷一・二〇)
は故も有名である。天治天皇が近江の蒲生野に遊獵せられた時、扈從の皇太弟大海人皇子(後の天武天皇)に上つたものである。女王(上代には女王を單に王と書く事がある。)ははじめ大海人皇子の寵を得て十市皇女を生み奉つたが、後近江朝廷の奥深くお仕へすることになつたのである。「紫野ゆき」「しめ野ゆき」と二句の繰返しを使つてあまた度振られる袖をほのかに思はせ、倒置を以て強くとぢめてある。この歌より少し前に置かれてゐる
  うま酒 三輪の山 青丹よし 奈良の山の 山のまに いかくるまで 道のくま い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 心なく 雲の かくさふべしや(卷一・一七)
     反歌
  三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなもかくさふべしや(卷一・一八)
の山聯は、飛鳥から近江へ召される途上の作である。やはり佳作たるを失はない。反歌の如き、句々が文字通りに嘆きの聲のやうな調子を以つて人々にせまる。この他
  熟田津《にぎたつ》に船のりせむと月まてば潮もかなひぬ今はこぎ出でな(卷一・八)
(93)なども船出にあたつての作者の感慨が實に鮮かに描かれてゐる。
  君待つとわが戀ひ居ればわが宿の簾動かし秋の風吹く(卷四・四八八)
の如きも情感の饒かな女性の作として、この作者の天分の窺はれる佳作である。
 最後にこの期の概觀を試みよう。長歌は漸く記紀の不定型時代を脱して形式が整つてきてはゐるものの、まだ「うつせみも つまを あらそふらしき」「心なく 雲の かくさふべしや」のやうな五・三・七で結んだのが可なりある。技巧の方からいふと、語又は句の繰返しの相當盛なことは右にあげた諸例にも看取されよう。そして
  玉きはる宇智の大野に馬なめて朝ふますらむその草深野(卷一・四)
などでは「宇智の大野」と「草深野」と語をかへて繰返しになつてゐる。口誦謠物から目で味ふ文學としての技巧への轉向を示すとも見られよう。對句の方も一部分の繰返し(前章第一節二ノ3))が最も多く、更に
  山のまに いかくるまで
  道のくま いつもるまでに(卷一・一七)
のやうな全部不揃のものをみる。この形は記紀には見ない處であつた。序詞は當期によほど進歩(94)したが、鏡女王の
  秋山の木の下がくりゆく水のわれこそまさめみおもひよりは(卷二・九二)
などは代表的のものといへよう。句絶では、まだ一句絶・三句絶のないことを注意しておく。
 さてその内容は、記紀時代のやうに物語の師り或は酒宴の餘興といつたものから漸く遠ざかつて、詩歌本來の純粹な欲求から生れたものとなつた。即興的な謠物から轉じて歌の形式が定まらうとした時である。從つて抒情歌としては人間の感情を最も根柢的に動かす戀歌と挽歌とが多い。戀歌の方にあつても、記紀の歌謠などのあるもののやうな官能的なものから憧憬的に轉じてきてゐるのに注意すべきである。歌が民謠から個人の作に移つたことを一面に示すとも考へられる。民謠には露骨なものが多いが、個人の作になるとその影がうすれるからである。次に注意すべきは叙景歌が著しく増したことである。これも歌が個人の創作に移つた爲に、作者の自然に對する凝視が濃かになつて、自然そのものの中に詩趣を酌むやうになつたと見られよう。自然にふれて戀を思ひ、或は自然の景物に心を託するやうなのが多い。前の「君待つと吾が戀ひ居れば」の如きがそれである。
 これには作者即ち皇族や大宮人達が行幸に供奉し又旅をする機會が多く、自然にふれての抒情(95)的な歌が多いといふことも考へに入れねばならない。表現に於いても記紀時代に對象をそのまま投げ出すといふ傾があつたのに一歩をすすめ、感動の中心を凝視するとでもいつたやうな態度が強くなつてゐる。單なる詠嘆よりもそこにある情緒を出さうとしてゐる。
 
(96)   第三節 第二期
 
 前後三十餘年、天武持統文武の三朝と元明天皇の御代少しにまたがる。作品は前期に比して急激に増し、明確なもののみでも六百六十餘首に及ぶ。作者は天武・持統兩帝をはじめ奉り、天智・天武兩天皇の諸皇子がまづあげられる。
 天武天皇の御製
  淑き人のよしとよく見てよしと云ひし吉野よく見よよき人よく見つ(卷一・二七)
には天武紀八年五月五日に吉野宮へ行幸せられた記事を左注として載せてゐる。その折と斷じたのではないが、天武紀には他に吉野行幸の記事が見えないから或はその時かも知れない、この御製は、ヨキ、ヨシ、ヨク、ヨシ、ヨシ、ヨク、ヨキ、ヨク、と同語を繰返し、各句の頭韻を用ゐたばかりでなく、卅三音のうち九音までヨの音を重ねてゐる。短歌にこれだけの同音を重ねたものは他に例が少い。しかもそれでゐて單なる言葉の遊戯に墮してゐないところにこの御製の生命がある。これとよくひきあひに出される作に、坂上郎女の
(97)  來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ來じといふものを(卷四・五二七)
がある。繊巧にしてしかも御製の歌品に及ばない。それは各句の頭韻であるが
  梓弓引きみゆるべみ來《こ》ずば來ず來ば來《こ》そをなど來ずぱ來ばそを(卷十一・二六四〇)
は下三句に同語を繰返したものであり
  わが背子にわが戀ひ居ればわが宿の草さへ思ひうらぶれにけり(卷十一・二四六五)
は上三句に頭韻を用ゐたものであり、大伴家持の
  秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり(卷六。一五九七)
は一句置きに頭韻を用ゐたものであるが、同語の使用に必然性がなく、意識的な技巧に墮ちてゐる。かうした類歌と比較する時、御製の生命が那邊に存するかを會得する事が出來よう。この御製が歌經標式に
  み吉野をよしとよく見てよしと云ひしよき人よし野よき人よく見
となつて引用せられてゐる。これは傳誦の間に形がくづれて謠物化せられたものである。原作では結句が初、二句の繰返しであり、字餘りになつてゐる。
  わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後(卷二・一〇三)
(98)これは天皇が藤原夫人に贈つた御製である、鎌足の女、氷上娘と五百重娘と共に藤原夫人と申したが、この御作を賜つたのは大原大刀自とも云つた五百重娘であらう。その藤原夫人が大原の里にある藤原家の里方へ歸つてゐる時たま/\雪が降つた。その美しい景を御覽になつて興を催された天皇が戯れにお詠みになつたものである。美しく降り積んだ雪を御覽になつての實感には違ひないが、「古りにし里」といふ言葉と同じく「大雪」といふ言葉に多少の誇張が感じられ、輕快な即興の御作であるが、しかも「わが里に大雪降れり」と止めた、大きく張つた格調にも朗々たる天皇の御爲人が偲ばれ、「ふり〔二字右○〕にし…」「ふら〔二字右○〕まく…」と巧まずして重なつた下句の頭韻も輕快の調をたすけて、即興歌として上乘の御作である。
 持統天皇は天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后であつたが、天皇崩御後即位せられた。在位十一年、その間に吉野行幸の記事だけでも卅一回書紀に見え、伊勢・三河・紀伊などへも行幸になつてゐる。書紀に「深沈有2大度1」と記してゐる。おほらかで濶達な御性格は志斐嫗との贈答歌
  不聽《いな》といへど強《し》ふる志斐のが強語《しひがたり》この頃聞かずてわれ戀ひにけり(卷三・二三六)
  いなといへど語れ語れと詔らせこそ志斐いは奏《まを》せ強語と詔る(卷三・二三七)
にも察せられるが
(99)  春過ぎて夏|來《きた》るらし白妙の衣ほしたり天《あめ》の香具山(卷一・二八)
が代表的の御製である事は申すまでもなからう。この第二句の「來るらし」が新古今に「來にけらし」となり、第四句の「ほしたり」が「ほすてふ」と改められて、百人一首にもとられてゐる事は皆人の知るところであるが、内容・表現共に後世の改惡と認むべきものであり、單に音調だけに就いても、原作にある二個のタ音と二個のラ行音とが新古今には消されてゐることが注意せられよう。萬葉の歌にはラ行音の繰返しによる明るい諧調に富んだ作があり、犬養岡麿の
  み民われ生けるしるしあり天地の榮ゆる時にあへらく思へば(卷六・九九六)
の如きも、今の御與と同じく一首中に六個のラ行音が用ゐられてゐる。後章でも述べる如く世界中で日本の風土ほど豐かな季節感に惠まれたところはなく、從つて日本人ほど季節に對する感受性が洗煉せられてゐる國民はなく、その日常生活の上にも文藝作品の上にも季節感が最も豐かに反映されてぬる事は當然であるが、さうした日本の文學作品の中にあつても、この御製と次に述べる志貴皇子の御作とは、季節の推移に關する感動を詠んだ短歌として萬葉集中の双璧と申すべきであらう。
 志貴皇子は天智天皇の第七皇子である。
(100)  石《いは》ばしる垂水《たるみ》の上のさ蕨の萠え出づる春になりにけるかも(卷八・一四一八)
「懽《よろこび》の御歌」と題詞にある御作である。「春來る」の感が、垂水の上のさ蕨に集中されて、一首の聲調の上に遺憾なく表現されてゐる。季節に伴ふ情緒を歌つたものでは
  月見ればもちぢに物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど(古今集・卷四)
  さびしさはその色としもなかりけり槇立山の秋の夕ぐれ(新古今集・卷四)
など有名であるが、さうした作には季節感を示す主觀的な句が用ゐられてゐるに對して、この御作にはさうした主觀句が交へられずして、しかも一首全體の聲調の中に、題詞にある懽の情が直接に表現せられてゐる。そこにこの御歌の生命がある。そしてこれもまた前の「春過ぎて」と同じくラ行音が繰返されてゐる事が注意せられる。
  葦邊ゆく鴨の羽がひに霜ふりて寒き夕は大和し思ほゆ(卷一・六四)
これは文武天皇の慶雲三年に難波宮に行幸せられた時の御作である。續日本紀によると、九月廿五日から十月十二日まで難波宮行幸があつたやうであるから、その時供奉の御作であらう。即ち晩秋、初冬の頃、霜のふる夕ぐれ、難波の入江の葦邊をゆく鴨を見て旅愁を感じられた作者の情懷のしみ/”\味ははれる御作である。
(101) 大津皇子は天武天皇の皇子、母は天智天皇の皇女、太田皇女。懷風藻に「状貌魁梧、器宇峻達、幼年好v學、博覽能屬v文(中略)新羅僧行心、解2天文卜筮1、語2皇子1曰、太子骨法、不2是人臣之相1、以v此久在2下位1、恐不v全v身、因進2逆謀1」とある。少年の頃、天智天皇の寵愛をうけられ、書紀にも「尤愛2文筆1、詩賦之興自2大津1始也」とある。朱鳥元年九月九日、天武天皇崩じられて後、事を謀られたかどを以つて十月二日|磐余《いはれ》の譯語田《をさだ》の舍《いへ》で死に臨まれた時の御作
  百傳《もゝつた》ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲がくりなむ(卷三・四一六)
は眼前に見るその池の鴨に托してこの世への別離を告げられたもので、單純な表現の中に深いあはれがこめられてゐる。悲喜兩極ではあるが、志貴皇子の御作の蕨とこの御作の鴨と、共に目前の景物に衷情を托したその表現態度を同じくし、悲喜の主觀語を用ゐずして作者の感動の讀者に迫るところ、當代歌風を代表する絶唱と申すべきである。懷風藻にはこの時の御作詩を載せてゐる。
  金烏臨2西舍1 鼓聲催2短命1 泉路無2賓主1 此夕離v家向
この皇子には同母姉にあたられる大伯《おほく》皇女がまたすぐれた御歌を殘してをられる。皇女は御年十四にして伊勢神宮へ向はれ、齋宮として十餘年伊勢にとどまられた。
(102)  わが背子を大和へやるとさ夜更けて曉《あかとき》露にわが立ちぬれし(卷二・一〇五)
これは大津皇子が伊勢へ下られて再び大和へ歸られるを送られた折の御作である。さらでだにもののあはれの身に沁みる幾年月を、天さかる鄙の住ひにあかし暮して、廿六歳の秋も暮れようとする折柄、少年の頃お別れになつた弟皇子が、今は御年廿四、「状貌魁梧」の偉丈夫となつてお尋ねになつたのであるから、さうした製作事情をかへりみる時、一見戀歌とも見えるこの御作の切實なる情懷の由つて來るところがうなづかれようと思ふ。「さ夜更けて」と「曉露に」との間に、夜更けて出で立たれる皇子に御名殘を惜しまれた時間の經過がこめられ、下句の聲調には、弟皇子を思はれる純情の響が感ぜられる。その年十一月皇女は都へ上られたのであつたが、その時既に大津皇子はおいでにはならなかつた。
  神風の伊勢の國にもあらましをなにしか來けむ君もあらなくに(卷二・一六三)
  磯の上に生ふる馬醉木《あしび》を手折らめど見すべき君がありといはなくに(卷二・一六六)
たどの佳作がある。
 臣下の第一人者としては柿本人麿がある。その傳記は正史に見えない。古今集の序に「おほきみつの位」とあるが、「みつ」は「むつ」の誤などといふ説もあつて信じられぬ。その生地、(103)終焉の地もまた推定説のみ多くて、確かにはわからない。或は大和といひ近江といひ石見といふ。もとより確證はないのである。わかるのはこの集中の歌によつて、持統・文武兩朝に仕へ宮廷詩人として大いに活躍した人であることだけである。作品の初見は持統天皇三年四月で、和銅初年には五十歳位で死んでゐるらしい。彼については中古歌神として絶體的な尊崇が行はれ、その後の研究も甚だ多いが、齋藤茂吉氏の「柿本人麻呂」などは總覽するに便利である。その作は長歌十六、短歌六十一で多い方である。別に人麻呂歌集の名が見えるが、それには自作の他、他人の作品も含まれてゐることは既述の通りで、其等を辨別することは今の處不可能である。當時としては人麻呂歌集の作は大體人麻呂の作として扱はれてゐたやうである。
 さてその長歌では半數以上、或は行幸に供奉して、或は皇子達の薨去にあつて上つたものであつて――宮廷詩人といはれる所以である――個人としての單なる創作衝動のみにより生れたものでなく、幾分他動的な動機が考へられるから、その作に皇室の榮をたゝへことほぐ心の森ん歌はれてゐる事は當然であるが、しかもそれはまた人麻呂自身の信念の表現と見るべきものである事は勿論である。今、吉野離宮への行幸の時の長歌を一例としてあげよう。
  やすみしし 吾大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りま(104)して 登り立ち 國兒をすれば たたなはる 青垣山 山つみの 奉る御調と 春べは 花かざしもち 秋立てば もみぢかざせり ゆきそふ 川の神も 大御食に 仕へまつると 上つ潮に 鵜川を立ち 下つ瀬に さでさしわたす 山川も よりて仕ふる 神の御代かも(卷一・三八)
といつ雄大・莊重な格調に遺憾なくその特徴が示されてゐる。高市皇子の薨去の時の挽歌は集中の最大篇であるが、皇子御生前の績を稱へた戰場の描寫は一つの漢語をも交へない純粹の國語を以つてかくの如く遒勁、雄渾の聲調をなし得たところ全く驚嘆に値するものである。また現世における功業讃美の心はやがてうつせみの死を悼む心ともなつて皇族の薨去を奉悼したもの、或は己が妻の死を、或は釆女の死を、或は孤島に死人を見て悲しむなどの幾多の挽歌となつて示されてゐる。今一例として妻を喪つた時のをあげよう。
  天とぶや 輕の道は わざもこが 里にしあれば ねもころに 見まくほしけど やまず行かば 人目を多み まねく行かぼ 人知りぬべみ さねかづら 後もあはむと 大船の 思ひたのみて たまかぎる 磐垣淵の こもりのみ 戀ひつつあるに わたる日の 暮れゆくが如 照る月の 雲がくるごと 沖つ藻の なびきし妹は もみぢばの 過ぎていゆくと(105) 玉梓の 使のいへば 梓弓 音にききて 言はむすべ せむすべしらに 音のみを 聞きてあり得ねば 吾が戀ふる ちへの一重も なぐさもる 心もありやと 吾ぎもこが やまず出で見し 輕の市に わが立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 聲もきこえず 玉ぼこの 道行く人も 獨りだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名よびて 袖ぞ振りつる(卷二・二〇七)
又同じ場合の別の長歌の反歌
  去年《こぞ》見てし秋の月夜は照せども相見し妹はいや年さかる(卷二・二一一)
の第五句を拾遺集に「いや遠ざかる」とし、「妻《め》にまかり後《おく》れて、又の年の秋、月を見侍りて」と詞書を加へてゐるが、これは例の萬葉の拾遺化であつて、前の「春過ぎて」の場合と同樣、後世の改惡である。去年の秋は妹と共に月を見たのであつて、今、妻を失つて、その同じ月が去年と同じやうに照つてぬるけれど、その月を共に見た妻は……といふのであつて、さうしてその月は去年のやうに今年も、また來年も…と思ひを馳せるのであつて、「いや年さかる」の句は極めて自然であり、この句によつて、月光の中に立つ作者の悲嘆は如實に生かされると云つてよい。拾遺の如く、「いや遠ざかる」とすれば、意味はわかりやすいが、全く散文的なものになつてしま(106)ふ。「相見し妹は」と云つて、「いや年さかるとうけるところ、例のこの作者特有の省略的な簡潔な句法を見るべきである。
  玉藻刈る敏馬《みぬめ》を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ(卷三・二五〇)
 これは※[羈の馬が奇]旅の歌八首と題されうちの一首である。一首中に二つの地名を詠み込み、その各を枕詞で修飾してゐる。だから内容だけを見れば「ただごと」をつらねたに過ぎないやうであるが、「玉藻刈る敏馬」と云ひ「夏草の野島」といひ、各の枕詞が生きてゐるために、その實景がわれ/\の眼前にはつきり現はれてくるやうに感じると共に、旅にある作者自身の心のひびきをもこの一首の調子の上に聞く事が出來る。この※[羈の馬が奇]旅の作中には佳作が多い。
  淡路の野島の崎の濱風に妹が結びし紐吹きかへす(卷三・二五一)
  稻日野も行過ぎがてに思へれば心|戀《こほ》しき可古《かこ》の島見ゆ(卷三・二五三)
  天さかる鄙の長道ゆ戀ひ來れば明石の門《と》より大和島見ゆ(卷三・二五五)
當時の人が筑紫からはる/”\の船路を經て難波の三津に近づく心は、今の新歸朝がはじめて浦賀海峽の灯を望む心にもたぐへられよう。その旅人のをどる心の感じられる作で、その格調の大きいところやはり人麻呂ぶりの尤なるものであらう。
(107)  もののふのやそうぢ川の網代《あじろ》木にいさよふ浪の行方知らずも(卷三・二六四)
これは近江から大和へ上る道すがら、宇治川の邊で詠んだものである。天智天皇の志賀の都が大和へ移されてから僅か十數年、廿年になるかならず、その間に「大宮は 此處と聞けとも 大殿は 此處といへども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮處 見れば悲しも」(卷一・二九)と感ずる迄にあれはてた舊都となつてしまつた、その近江の荒都を見ての歸途、宇治川の網代木にいさよふ浪を見ての感懷である。作者が目に見るものは眼前の浪の行方である。作者の胸の裡に徂徠するものはあわただしい世の榮粘の姿である。この歌に現はれた無常感は作者の「實感」である。觀念的な「佛教の影響」ではない。この歌を單なる叙景歌と見る人のあるのは、先人が儒佛の意を引用してこの歌を解かうとするにあき足らずして、實感・實景を重んずる上代歌風を高調しようとして「他意なし」とするのであらうが、それは作者に忠實ならんとして、實は多感なる作者の心情を無視したものである。題詞にわざ/\「近江國より上り來る峠」と加へてゐる點も注意すべきである。この歌のうたひ出しの序のつゞきは、實に柄が大きく調が高い。人麻呂の作が音樂的であるといふ事は誰しもいふところであるが、これらの作は特に代表的なものとしてその聲調に注意すべきである。前にあげた「天さかる」の歌がア段(109)の音に富み、今の歌がオ段の音に富んでゐる事も兩首の相違を考へる參考にならう。
  あふみの海夕浪千鳥|汝《な》が鳴けば心もしぬにいにしへ思ほゆ(卷三・二六六)
これもやはり同じ頃の作であらう。「夕浪千鳥」の造語の妙については既にいろ/\の人に述べられてゐるからくりかへさない。ミとナとの音のくりかへしによる諧調についても既に注意されてゐるが、ナ行音・マ行音は一種感傷的な感を添へるものであり、この場合はその内容と相俟つて一首の諧調をいよ/\感傷的なものとしてゐる。しかも單なる感傷の弱さに墮ちず前の「もののふの」の歌に見る強さとは別趣の、はりのある堂々たる格調をなし得てゐるところ、やはり人麻呂の絶品と稱せられる所以であらう。たとへば
  夕月夜《ゆうづくよ》心もしぬに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも(卷八・一五五二)
の如き、奈良朝初期の佳作であり、どこかに似通つたものを感ぜしめるが、今の歌に感じる迫力をそこには認める事が出來ない。
 人麻呂の相聞歌としては、石見國から妻に別れて都へ上る折の作が有名である。
  石見の海 つぬの浦みを 浦無しと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟はなくとも いさなとり 海邊をさして にぎたづの 荒礒《ありそ》の上に かあをなる 王(109)藻沖つ藻 朝はふる 風こそよせめ 夕はふる 浪こそきよれ 浪のむた かよりかくより 玉藻なす より寢し妹を 露霜の 置きてし來れば この道の 八十くま毎に 萬たび 顧みすれど いや遠に 里はさかりぬ いや高に 山も越えきぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山(卷二・一三一)
     反歌
  笹の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れきぬれば(卷二・一三三)
 この反歌の第三句を「みだれども」と訓む説があつて、現代の作家にも「さやげども」では調子が輕快になりすぎるといふ意見もあるやうであるが、わたくしはやはり語法その他から「みだれとも」では不都合に思はれるので「さやげとも」と訓んで、その聲調の美が認めらるべきものだと思つてゐる。(萬葉古徑二五頁參照)
  み熊野の浦の濱木綿《はまゆふ》百重《ももへ》なす心は思へど直《ただ》に逢はぬかも(卷四・四九六)
  をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき吾は(卷四・五〇一)
  夏野ゆくを鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや(卷四・五〇二)
人麻呂の相聞歌にはかうした序詞の技巧に特色のあるものが多い。それらの序詞はただ歌の本意(110)の一語を引出すためのみの技巧でなくして、その序詞の描く世界の中に作者の抱いた情懷が幽かに生かされてゐる事に、注意すべきであらう。人麻呂の枕別については別に(「萬葉の作品と時代」六一頁)に述べたが、枕詞も序詞も、その技巧は人麻呂に至つて殆んどその最大の意義を發揮したものと云へるであらう。しかもそれは枕詞、序詞のみではない。すべての修辭技巧について云へるところである。人麻呂の作に漢詩文の影響を大いに認めようとする人々がある。勿論それはある程度に認められてよいであらう。しかしそこには斷じて「摸倣」と呼ばるべき性質のものをあらはしてはゐない。その作の形式技巧も、思想内容も、人麻呂の旺盛な生命力と豊潤な獨想力とから生まれ出た純日本的な風格を示してゐると云つてよい。藝術は哲學ではない。殊に日本の文藝に哲學的な思想の世界を求める事は、求める方がまちがつてゐる。人麻呂の作の偉大さは、その豐かな表現技巧が、生命から分離した技巧のための技巧に墮せすして、そのあるべき使命を完全に果してゐる點にある、即ち文藝の生命は表現にあるといふ事を、その雄渾な聲調と溌溂たる氣魄ろをもつた作品そのものが示してゐる點にあると思ふ。
 人麻呂集に出づるものは卷七・九・十・十一・十二に多く、旋頭歌卅五首、短歌三百首に餘つてゐる。
(111)  あしひきの山川の瀬の鳴るなべに弓月《ゆつき》が嶽に雲立ち渡る(卷七・一〇八八)
  ぬばたまの夜さりくれば卷向の川音《かはと》高しも嵐かも疾《と》き(卷七・一一〇一)
などは最も人口に膾炙されてをるもので、觀照も澄み、聲調もよくとほり、自然を詠んだものとして集中の代表作とも云へるであらう。
  久方の天の香具山この夕《ゆふべ》霞たなびく春立つらしも(卷十一、一八一二)
この立春の景を詠んだ佳作を
  年のうちに春は來にけり一年を去年《こぞ》とや云はむ今年とや云はむ(古今集卷一)
  ほのぼのと春こそ空に來にけらし天《あめ》の香具山霞たなびく(新古今集卷一)
と比較することは、これら三集の性質を簡單に知ることにもならう。
  玉かぎる夕去り來ればさつ人の弓月が嶽に霞たなびく(卷十・一八一六)
は前にあげた「玉藻かる敏馬を過ぎて」と同じく、枕詞二つを用ゐて一首の單純化が行はれてゐる佳作であり、また
  卷向《まきむく》の檜原もいまだ雲居ねば小松が末《うれ》ゆ沫雪流る(卷十・二三一四)
を新古今集に
(112)  まきむくの檜原もいまだくもらねば〔五字右△〕小松が原に〔2字右△〕あわ雪ぞ降る〔三字右△〕(卷一)
と改惡されてゐるのと比較する時、萬葉の生命が那邊にあるかを最も端的に感得する小が出來るであらう。
  初瀬川夕渡り來て吾妹子《わぎもこ》が家の門《かなど》に近づきにけり(卷九・一七七五)
「夕渡り來て」の句もよく、「近づきにけり」と云ひ下したところ、そのすなほさと張り切つた調子とは近代人の及びがたいものあるを感ぜしめる。卷十一・十二に收められた戀歌にも佳作が多い。
  ますらをのうつし心もわれは無し夜晝といはず戀し渡れば(卷十一・二三七六)
意も表現も直截明瞭である。人麻呂時代には珍らしい倒絶の三句切であ崇か、後の三句切と調子のちがつた線の太さがある。類歌に
  ますらをのさとき心も今はなし戀の奴にわれは死ぬべし(卷十二・二九〇七)
  うつせみのうつし心も吾はなし妹を相見ずて年のへぬべし(卷十二・二九六一)
などがある。これを比較する時、類似の歌ではあるけれども、人麻呂集の作との間に相違が感じられよう。
(113)  戀るやと物語して心やり過ぐせど過ぎずなほぞ戀しき(卷十二・二八四五)
島木赤彦がこの歌を評して『「物語りして心やり」が眞實で甚だいい、それが「過せど過ぎず」「なほぞ戀しき」に至つて愈眞實である。』と述べてゐるが、いかにも眞實一途な心が一首の調に生かされてゐる。
 序詞の特色あるものとしては
  大船の香取の海に碇下しいかなる人か物思はざらむ(卷十一・二四三六)
  わが故にいはれし妹は高山の峰の朝露過ぎにけむかも(卷十一・二四五五)
  新墾《にひばり》の今つくる道さやかにも聞きてけるかも妹がうへのことを(卷十二・二八五五)
  秋山のしたひが下に鳴く鳥の聲だに聞かば何か嘆かむ(卷十・二二三九)
などの佳作をあげる事が出來る。
 人麻呂とほぼ同時代の人に高市黒人がある。持統文武兩朝に仕へ、その行幸の供奉をしてゐることなどが知られるのみで、歴史に名が見えず、やはり人麻呂と同じく、五位以下の身分であつたと思はれる。作品は短歌十八首のみであるが、いづれも旅の歌で人麻呂に次ぐ作者と云はれよう。
  櫻田へたづ鳴きわたるあゆちがた潮干にけらしたづ鳴きわたる(卷三・二七一)
(114)  四極《しはつ》山うちこえくれば笠縫の島こぎかくる棚無し小舟(卷三・二七二)
  いづくにか吾は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば(卷三・二七五)
後述の山部赤人ほどに純客觀的にはなつてゐないが、人麻呂よりはずつと客觀的である。かういふ傾向が萬葉集で現れはじめたのはこの黒人を以つて最初とする。人麻呂の作の音樂的なのに對し繪畫的ともいへよう。修辭なども單純で靜寂枯淡な歌調に特色がある。
 長奥麻呂《ながのおきまろ》も黒人と同時、同じ位の身分と思はれる。旅の歌と戯笑歌とがある。旅の歌は
  引馬《ひくま》野ににほふはり原入りみだれ衣にほはせ旅のしるしに(卷一・五七)
  苦しくもふり來る雨かみわが崎狹野の渡りに家もあらなくに(卷三・二六五)
のやうに主觀的なものが多い。後者は
  駒とめて袖うちはらふ蔭もなしさののわたりの雪の夕暮(新古今集卷六)
の本歌になるものである。戯笑歌といふのは
   詠2行騰蔓菁食薦屋※[木+梁]1歌
  食薦《すごも》しき蔓菁《あをな》煮もちこ※[木+梁]《うつばり》に行騰《むかはき》かけて休むこの君(卷十六・三八二五)
のやうに多くの物の名を詠み込むもの――但し古今集以後の物名のやうに意味なしにではない――(115)、或は
  蓮葉《はちすば》はかくこそあるもの意吉麻呂《おきまろ》が家なるものは芋《うも》の葉にあらし(卷十六・三八二六)
のやうな全體の意味のおどけたものなどであつて、要するに三十一文字の遊戯である。
 春日老は辨基といふ僧で大寶六年還俗後地力官にもなつたことが見える。人麻呂と略同時の人で稍長く生きて居たらしい。
  つぬさはふ磐余《いはれ》もすぎず初瀬山いつかも越えむ夜はふけにつつ(卷三・二八二)
  燒津《やきつ》べにわが行きしかば駿河なる阿倍の市路《いちぢ》にあひし子らはも(卷三・二八四)
  まつち山夕こえ行きて廬前《いほさき》のすみだ河原に獨かもねむ(卷三・二九八)
のやうに固有名詞が多く詠み込まれ、而も耳障にならず全體としてかざりけなく唯實感の人にせまるものがある。
 以上の他にも
  橘の蔭ふむ道の八衢《やちまた》に物をぞ思ふ妹にあはずて(卷二・一二五)
のやうな巧緻なやゝ後世風な序をもつた作のある三方沙彌や
  うちなびく春きたるらし山のまの遠き木末《こぬれ》の咲きゆく見れば(卷八・一四二二)
(116)の作を殘してゐる尾張連某などもあるが、特に注意せられるのは日並皇子の薨去の時その宮の舍人の悼んだ歌二十三首である。無名の舍人の作としてはあまり勝れてゐるので人麻呂などの代作ではないかと見る人もある。
  みたたしの島を見るときにはたづみ流るる涙とめぞかねつる(卷二・一七八)
  橘の島の宮にはあかねかも佐田の岡邊にとのゐしにゆく(卷二・一七九)
  東《ひむがし》のたきの御門にさもらへど昨日も今日も召すこともなし(卷二・一八四)
  朝日照る島の御門におぼほしく人音もせねばまうら悲しも(卷二・一八九)
いづれも沈痛な實感のこもつた作といへる、
 以上述べた處を今一度ふりかへつてみよう。長歌の半數以上が人麻呂作であることもあらうが、その形が五七五七……五七七の典型的なものに定まつて來てゐる。人麻呂以外の作も大抵この定型である。そして繰返しの技巧が單なる音や語でなく、内容の表現として感情氣分を象徴したものとして成功してゐるといふやうな複雜なものが出て來た。これは人麻呂に多いが、人麻呂の作を音樂的といつたのもかういふ點からも考へる事が出來る。
 たまもかるみぬめをすぎてなつくさのぬじまのさきにふねちかづきぬ
(117)のやうな軟い鼻音のくりかへしがなめらかな調子をよぴ
  あしひきのやまかはのせのなるなべにゆつきがたけにくもたちわたる
ははじめにナ行のゆるやかな音をならべ、下句にタ行の硬い音をかさねて強い調子を出してゐる。或は又
  ささのははみやまもさやにさやげどもわれはいもおもふわかれきぬれば
のサ行音は、何となく笹の葉の風にさやぐ音を感じさせる。
 對句では句末のみの繰返し(――、――)が最も多く、ついで一つも繰返しのないものが増してきた。長對句特に六句・八句などいふ長い對句が人麻呂の作にある。又四並對といふ珍しいものが作者不詳の藤原宮御井歌(卷一・五二)にある。即ち
  大和の 青香具山は 日のたての大御門に 春山と しみさび立てり
  畝傍の このみづ山は 日のよこの大御門に みづ山と 山さびいます
  耳梨の 青菅山は そともの大御門に よろしなへ 神さび立てり
  なぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける
といふ大規模のもむである。枕詞及序詞の使用も頂點に達したと思はれる。句絶では三句絶のあ(118)らはれそめたことを注意したい。黒人の
  吾船は比良のみなとに漕ぎはてむ沖へなさかりさ夜ふけにけり(卷三・二七四)
などはその最も古いものである。
 歌の内容からいふと戀が最も普通でやあるが、その感情内容が官能的から憧憬的になつてくる傾は更に前代より著しい。それと共に自然との接觸もますます増加し所謂比喩歌或は寄物陳思歌が多くなる。旅が機縁となつた叙景歌に傑作の多い事は前述の如くであり、赤人を最初の自然歌人と言ひならはしてはゐるが、實はその前代に已に人麻呂・黒人等の叙景歌があつたわけである。又かかる旅でなしに自然を詠んだ作も多くなつた。さういふものが次第に増して中古の勅撰集の四季の歌になるのである。
 この時期は内容表現等すべての點に於いて發達の頂點までゆきついたといへるのである。以後更に内容は複雜になり、表規も繊細になるといふやうな新傾向はあるが、所謂上代風、萬葉の丈夫振の歌風は殆ど發達すべきところまで到り得たといつてよいだらう。
 
(119)    節四節 作者不明の卷々の歌
 
 卷十四・十三・十一・十二・七・十・十六に大部分を占めるものは時代もはつきりとはわからないが大體第二・三期の中間においてよいと思はれる。中には時代の推定できるもの、或はずつと古さうなものもあるが一括して述べることとする。
 まづ卷十四は東歌のみを以つて一卷を成す卷で二百三十首に上る短歌を收めてゐる。東國人の作といふ意味では卷二十の防人歌をも入れるべきだが、これは時代も新しく作者も限られたものであるから別にする。
 内容からみると挽歌一首の他、實際自然を詠んだものは
  面白き野をばな燒きそ古草に新草まじり生ひば生ふるがに(三四五二)
など二三あるのみで、それ以外はすべて戀の歌であり、それも自然に對し或は物に託して情を抒べたのが多い。その多くは東國の農民の中に生れたもので、中には他地方のものが傳誦の間に改作を加へられてその地の民謠となつたものもある。たとへば
(120)  葛飾《かつしか》の眞間の浦回《うらま》を漕ぐ舟の舟人さわぐ浪立つらしも(卷十四・三三四九)
は紀伊の作
  風早の三穗の浦回《うらみ》を漕ぐ舟の舟人さわぐ浪立つらしも(卷七・一二二八)
が傳誦せられて東國の民謠となつたと見るべきであらう。用語が東國方言であつたことが大きい特徴ではあるが、更にその現の素朴であり純なことが最も根本的な特徴である。
 民謠の持つ特色の一面として
  上野《かみつけぬ》あそのまをむらかき抱《むだ》き寢れどあかぬをあどか吾《あ》がせむ(三四〇四)
  こまにしき紐ときさけて寢るが上《へ》にあどせろとかもあやに悲しき(三四六五)
のやうな官能的なものもあるが、それが露骨であり大膽でありながら態度が純である爲に後世の作に見るやうな不快な感を件はないとこちにまたその特徴がある。
 この素朴といふことは東歌すべてにわたる性質でやあるが、その他前述の東國方言の用ゐられてゐること、東國の地名の詠み込まれてゐること、序詞の使用の多いことなどが注意せられる。例へば
  武藏野のを岫がきぎし立ちわかれ去にし宵より背ろに逢はなふよ(三三七五〕
(121)には武藏野といふ地名があり、「背ろ・あはなふ」といふ東國方言固有の接尾語及び否定助動詞が用ゐられ、而も第一・二句は序詞であるが、その上この構造に似た
  春日野に友鶯の鳴きわかれ歸ります間も思ほせ吾を(卷十・一八九〇)
といふ人麻呂集黒の歌と比較すると、序の構成に、域は「歸ります間も思ほせ」といふやうな敬語を重ねた言ひ方と「背ろにあはなふよ」と少しも敬語のない言ひ方との間に、都會人の製作と東國の民謠との相違が見られる。
  うべこなはわぬにこふなもたとつくのぬがなへゆけばこふしかるなも(三四七六)
では中央語のラ行音に相當するものがナ行音で歌はれてゐることが甚だ多く、一讀意を解しかねるが、假に中央語に譯すれば
  宜《うべ》子らは吾に戀ふらむ立つ月の流らへゆけば戀ほしかるらむ
とでもすべきで、「月」の語にしても中央語では熟語の時「月夜《つくよ》・月讀《つくよみ》」の如くなるが單獨では必ず「ツキ」であるのに東國では單獨に「ツク」と言はれてゐる。
  足|柄《がり》のとひの河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに(三三六八)
  夕さればみ山を去らぬ布《にぬ》雲のあぜかたえむと言ひし子ろはも(三五一三)
(122)  とやの野に兎《をさぎ》ねらはりをさをさも寢なへ子故に母にころばえ(三五二九)
などのやうな序詞は甚だ多く東歌の三割以上に用ゐられてゐて、主に作者たちの生活に即した周圍の風物に材が取られてゐる爲に印象が深い。一例を植物にとつても都會人の作になる他の卷のものとこの卷のものとその植物の種類を異にしてゐる事によつて、その特色を見る事が出來る。
  うちひさす宮のわが背は大和女のひざまく毎に吾《あ》を忘らすな(三四五七)
は宮什に大和へ行つてゐる夫をまつ女のやるせない思ひを可憐にもあらはしてゐる。
  稻つけばかがる我が手をこ宵もか殿の若子《わくご》が取りてなげかむ(三四五九)
  こもち山若|楓《かへるで》のもみづまでねもとわは思《も》ふ汝はあどか思《も》ふ(三四九四)
前者は稻つきに※[軍+皮]のできた里の少女と領主との身分のちがつた戀を歌つて田園的な香高く、後者は又極めてうちつけな表現、殊に末句の素朴な言ひ方がよく特徴をあらはしてゐる。
  あが面の忘れむ時《しだ》は國はふり嶺に立つ雲を見つつ偲ばせ(三五一五)
逢へない寂しさに雲を形見と思はせることは例のないことではないがこれなどはその種類の中でも調子の高いものである。
  まくらがのこがのわたりのからかぢの音高しもな寢なへ子ゆゑに(三五五五)
(123)  玉川にさらす手づくりさらさらに何ぞこの子のここだかなしき(三三七三)
などは音調にすぐれて快い諧調をなしてゐる。尚この卷に防人歌も數首あるが
  うらもなくわがゆく道に青柳のはりて立てればもの思《も》ひ出《づ》つも(三四四三)
  戀しけば來ませわが背子|垣内柳《かきつやぎ》末《うれ》摘《つ》み枯《から》しわれ立ち待たむ(三四五五)
の如きは都會人の作をを思はせる繊細な惰緒が窺はれ
  葦の葉に夕霧立ちて鴨が音《ね》の寒き夕し汝《な》をば偲ばむ(三五七〇)
なども眞淵をして「東にもかくよむ人のありけり」と讃嘆せしめた。
 卷十三は前章にも述べた如く非常に古い形の長歌を含んでゐる。即ち形がまだ整はない所謂記紀時代の歌と同じものが多分にあるのであつて、或は句數の偶數であるものが甚だ多いこと、或は全句數の少い長歌の多いことなども注意せられる。ただそれが亂雜に集つてゐて、或は古い長歌に新しい反歌をつけたり、或は長い歌の一部分が獨立して一つの長歌になつてゐるのもある。從つて又古いままではなくて新しい手の入つてゐることも想像せられる。
  みもろは 人の守る山 本べは 馬醉木花咲き 末べは 椿花咲く うらぐはし山ぞ 泣く子守る山(三二二二)
(124)  しきしまの 大和の國に 人さはに 滿ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君がめに 戀ひやあかさむ 長きこの夜を(三二四八)
のやうな長歌が多いのであつて、前者正に反歌も無い。又
  つぎねふ 山背路を 人づまの 馬より行くに 己づまし かちより行けば 見る毎に 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 吾がもてる まそみ鏡に あきつ領巾《ひれ》 負ひなめもちて 馬かへ吾が背(三三一四)
    反歌
  泉河渡り瀬深みわが背子が旅ゆき衣裳のぬれむかも(三三一五)
の作に對して眞淵は「言も飾らず思ふ情をのみいひつづけたるに、すがたよろしくあはれ深くおぼへらるゝはこれらこそ哥てふものなれ」とほめ、また「例の理窟人のいへらく、母が形見を戀の思にかふるはいかにと、己笑うてこたふ、女は夫の家を家とするに、その夫貧しかる時、猶母が形見の寶をたくはへんかは、いま此言を擧て歎くは眞也、これをはなつは夫に二心なき也、古人は思はずして道にかなへり」とたたへてゐる。
 卷四にある坂上郎女の
(125)  佐保川の小石ふみ渡りぬば玉の黒馬の來る夜は年にもあらぬか(卷四・五二五)
はこの卷の
  川の瀬の石ふみ渡りぬば玉の黒馬の來る夜は常にあらぬかも(三三一三)
を改作したものと認められ、その他にもかういふ粉本になつたものがこの卷には少くない。
 卷十一・十二の歌をここへおくのも、又卷十三と用じく天平期の歌人達に影響を及ぼしてゐるからでもある。一二かかるものを擧げると
  戀ひ死なむ後は何せむわが命生ける日にこそ見まくほりすれ(卷十一・二五九二)
  …………………………………生ける日のためこそ妹を………(卷四・五六〇大伴百代)
  思はぬを思ふといはば眞島住むうなでの森の神し知らさむ(卷十二・三一〇〇)
  …………………………大野なえる三笠………………………(卷四・五六一大伴百代)
  あし垣の中のにこ草にこよかに吾と笑まして人に知らゆな(卷十一・二七六二)
  青山をよこぎる雲のいちじろく………………………………(卷四・六八八坂上郎女)
のやうな少しばかりの改作から
(126)  相見ては千歳や去ぬる否をかも我やしか思ふ君まちがてに(卷十一・二五三九〉
  この頃は千歳や行きも過ぎぬると我やしか思ふ見まくほりかも(卷四・六八六 坂上郎女)
のやうに形は一句のみ同じで、構造の同じものなど色々ある。
 さてこの兩卷は内容から言つて殆ど戀であり、その半數は寄物陳思や譬喩歌である。それだけに歌が技巧的になつて、卷十三に比して表現は間接的である。技巧の種類からすれば序詞が多く用ゐられてゐるが、卷十四に比しては、或るものは一層藝術的といへるが、一歩誤つて概念的に墮してゐる嫌もある。感情内容が普遍的である――作者の個性の鮮明さがない――のは作者不明の歌といふことと結びつけて考へて、この兩卷の民謠的性質を示すものである。現に
  なかなかに君に戀ひずば比良の浦の海人ならましを玉藻かりつつ(卷十一・二七四三)
  ……………………………網の浦の…………………………かるかる(同・或本歌)
  後れ居て戀ひつつあらずは田兒の浦の……………………かるかる(卷十二・三二〇五)
のやうな類歌があつて地名が異なつてゐるが、原歌は一つで諸處に傳はつてゆくままにかくの如く異傳作りかへを生じたものと思はれる。「かりつつ」が元で諸處に傳つて地名が入れかへられ、又歌謠形式として「かるかる」といふ風な表規に移つたものではなからうか。其等の一群の_(127)中でたまたま右三首が本集に載つたのであらう。
 かういふ個性の鮮明さを失つたものがありはするが、又次期のやうな作意に傾いた技巧的なものが少く、野趣に富んだすなほな心を歌ひあげた佳作が多いことも認められるのである。
  馬の音のとどともすれば松蔭に出でてぞ見つるけだし君かと(卷十一・二六五三)
  わが背古を今か今かと待ち居るに夜の更けぬれば嘆きつるかも(卷十二・二八六四)
なども作者のなげきが極めて鮮やかに描かれ、後者は卷十四の
  かの子ろと寢ずやなりなむはたすすき裏野の山に月《つく》かたよるも(三五六五)
などの野趣はないが率直で人をうつものがある。
  燈之陰爾蚊蛾欲布虚蝉之妹蛾咲状思面影爾所見《ともしびのかげにかがよふうつせみのいもがゑまひしおもかげにみゆ》(卷十一・二六四二)
  玉かつま逢はむといふは誰なるかあへる時さへ面がくしする(卷十二・二九一六)
といつた感覺的なものもある。前者は書き方も非常に凝つてある。
  窓ごしに月おし照りてあしひきの嵐吹く夜は君をしぞ思ふ(卷十一・二六七九)
  夕|凝《ごり》の霜おきにけり朝戸出にいたくし踐みて人に知らゆな(卷十一・二六九二)
などは自然物をよく生かして心をよそへた觀照のすぐれた作である。
(128) 卷七・十には自然を詠んだものが多い。四季相聞も戀と自然との接觸を示してゐる。卷十一・十二より新しく、ことに卷十の方が新しいことは前にも述べたやうに詠まれた植物などでもわかるが、しかもいづれも天平歌人の粉本となつて一ゐる點では卷十一・十二などと同樣である。例へば
  山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつをるに夜ぞふけにける (卷七・一〇七一)
  山の端にいさよふ月を何時とかもわが待ち居らむ夜は更けにつつ (卷七・一〇八四)
を合したやうな
  山の端にいさよふ月の出でむかとかわが待つ君が夜は更けにつつ (卷六・一〇〇八)
がある。
 さてこの兩卷を通じて自然を詠んでゐるものは次期のやうに技巧が多くない。まだ風流がるものは少い。從つて中には尚萬葉集盛期の代表作として恥かしからぬものもある。
  宇治川を船渡せよとよばへども聞えざるらし揖《かぢ》の音もせず(卷七・一一三八)
  しなが鳥|居名《ゐな》野を來れば有間《ありま》山夕霧立ちぬ宿は無くして(卷七・一一四〇)
  九月《ながつき》の時雨の雨にぬれ通り春日の山は色づきにけり(卷十・二一八〇)
(129)併し次第に第三期以後の作家に見るやうな細かい感情のものに移らうとする傾がある。
  曉と夜烏鳴けどこの岡の木|末《ぬれ》の上は未だ靜けし(卷七・一二六三)
  春されば木《き》の木《こ》のくれの夕月夜おぼつかなしも山かげにして(卷十・一八七五)
  庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く聲開けば秋づきにけり(卷十・二一六〇)
  秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも(卷十・二一七〇)
  萩の花咲けるを見れば君にあはずまこともなになりにけるかも(卷十・二二八〇)
のやうなものから更に
  ほととぎす今朝の朝けに鳴きつるは君聞きけむか朝寢かねけむ(卷十・一九四九)
  吾こそは憎くもあらめわが宿の花橘を見には來じとや(卷十・一九九〇)
などに至れば細かさの點では時期の歌と少しもかはならない。又
  冬ごもり春の大野を燒く人はやきたらねかも吾が心やく(卷七・一三三六)
は戀の心を野火によせてゐるが、單なる譬喩といふよりは象徴の域に至つてゐるといへよう。
 技巧などは別に著しいものもない。
  大君のみかさの山のおびにせる細谷川のおとのさやけさ(卷七・一一〇二)
(130)  うぐひでのかよふかきねのうの花のうきことあれやきみがきまさぬ(卷十・一九八八)
などに同音の繰返しを見る位のものである。唯句絶について
  浪高しいかに揖取水鳥のうき寢やすべきなほやこぐべき(卷七・一二三五)
のやうな明かな一句絶が出たことは注意すべきである。その發生を考へると、この歌などのやうに二句・四句でも切れてゐるといつた多くの斷絶が、第一句にも及んだのではなからうか。三句絶の古い例も
  わが船は比良のみなとにこぎはてむ沖へなさかりさよふけにけり
の如く三句のみならず四句でも切れてゐることも考へ合される。
 卷十六は既述の如くかはつた卷であるが、卷十三と同時或はそれに次ぐやうな古さのものから作者の明かな新しい作もあつて、その中に傳説歌或は民謠風のものが約三分の一を占めてゐる。
  春さらば挿頭《かざし》にせむと我が思《も》ひし櫻の花は散りゆけるかも(卷十六・三七八六)
  妹が名にかけたる櫻花咲かば常にやこひむいや年のはに(卷十六・三七八七)
等の櫻兒《さくらこ》傳説、即ち二人の男が一人の少女をよばひ女は遂に自縊するといつた筋のものをはじ(131)め、同じ型で男が一人増す曼兒《かづらこ》の
  耳梨の池しうらめしわぎも子が來つつかづかば水はあせなむ(卷十六・三七八八)
など三首、更に有名な竹取翁の傳説歌がある。これは今尚訓み難い處の多い長い長歌であるが、内容は天人求婚説話の方に重心がおかれてゐて、竹伐りの話はない。又忍んで逢つた女の親に叱られるのをためらつてゐる男を勵まして女が詠んだといふ縁起の
  事しあらば小泊瀬山の岩城にもこもらば共にな思ひわがせ(卷十六・三八〇六)
は常陸風土記新治郡の條に俗歌曰とある
  こちたけばをはつせ山の石城にも率てこもらなむな戀ひそわぎも
と同歌異傳と考へられるから、是等が民謠であつたことはまづ疑のない處であらう。又題詞からして地方の民謠であることの言つてあるものもある。
  はしだての 熊來《くまき》のやらに 新羅斧 落し入れわし 懸けてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと 見むわし(卷十六・三八七八)
は能登國のであるが、「わし」といふやうな囃詞まであつて如何にも歌はれたらしい。越中では
  大野路はしげ路墾道しげくとも君し通はば道は廣けむ(卷十六・三八八一)
(132)  いや彦の神の麓に今日らもか鹿《か》の伏《こや》すらむ皮衣《かはころも》着《き》て角つきながら(卷十六・三八八四)
などがあるが、この後者は集中確かな佛足石歌體の唯一のものでもある。
  豐國のきくの池なる菱のうれをつむとや妹が御袖ぬれけむ(卷十六・三八七六)
は豐前國の海人の作と題せられてゐるが、やはり民謠と認められる。卷末の怕物歌三首
  天なるやささらの小野に茅がや刈りかや刈りばかに鶉を立つも(三八八七)
  奧つ國うしはく君が染め屋形黄染めの屋形神の門《と》渡る(三八八八)
  人魂のさ青《を》なる君が唯一人あへりし雨夜は久しく思ほゆ(三八八九)
は大分趣のかはつたものである。
 以下は時代上次期以後に屬すべきであるが適當な項目を立てる程でもないので便宜上ここに言ひ添へておく。それはこの十六の卷の前掲以外の所謂戯笑歌についてである。これは作者のわかつてゐるものもあり、(一一四頁)然らざるものもあるが概して新しいと思はれる。長奥麻呂の條に述べた種類の他に無2心所1v著歌と題するものがある。
  わぎも子が額に生ふる双六のことひの牛の鞍の上の瘡《かさ》(卷十六・三八三八)
  吾が背子がたふさぎにするつぶれ石の吉野の山に氷魚《ひを》ぞ下れる(卷十六・三八三九)
(133)のやうな、全く文字通りナンセンスな人を馬鹿にした歌であつて、かういふ遊戯も當時あつたと見えて歌經標式には「離會」といふ歌體の名をつけ
  春日山峯こぐ船の藥師寺淡路の島のからすきのへら
を例にあげ、「譬如2牛馬犬鼠等類一處相會1無v有2雅意1」と説明してある。
 その他漢語の使用の多いといふのも
  心をし無何有の郷におきたらば藐孤射の山を見まく近けむ(卷十六・三八五一)
のやうな老莊派の用語をとつたもの
  この頃のわが戀力記し集め功《くう》に申さば五位の冠《かがふり》(卷十六・三八五八)
といつた戯れもある。又乞食者詠といふ二首の長歌は艶歌流しといつた者の歌つた歌であらうか。今一例をあげる。
  おしてるや 灘波の小江に 廬作り 隱《なま》りて居る あし蟹を 大君召すと なにせむに 吾を召すらめや 明けく わが知ることを 歌人と 吾を召すらめや 笛吹と 吾を召すらめや 琴彈と 吾を召すらめや かもかくも 命《みこと》うけむと 今日今日と 飛鳥に到り 立つとも 置勿《おくな》に到り つかねども つく野に到り 東の 中の御門ゆ 參り來て 命うくれば(134)馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻繩はくれ 足別の この片山の もむ楡を 五百枝はぎたれ 天てるや 日のけに干し さひづるや から臼につき 庭に立つ 手臼につき おしてるや 難波の小江の はつたりを からくたれきて 陶《すゑ》人の 作れる瓶《かめ》を 今日往きて 明日とりもち來《き》 わが目らに 鹽ぬりたまひ もちはやすも もちはやすも(卷十六・三八八六)
 
(135)   第五節 第三期
 
 奈良の都になつてからの二十餘年、まさに咲く花の匂ふが如く榮えてゐた頃の作は五百餘首をとどめてゐる。これを第三期とする。時の帝元明元正兩天皇を始め奉り皇族の御作は極めて少い。
 代表的歌人としてまづ大伴旅人をあげる。大伴氏は代々佐伯氏と共に武を以つて立ち祖先には壬申の亂に功のあつた人達もある。父の安麻呂には
  大君は神にしませば赤駒の腹ばふ田居を都となしつ(卷二十・四二六〇)
の詠もある。かかる背景に生れた旅人の名は四十代頃から續日本紀に見え官吏として都を遠く離れる事は少かつたが、神龜三四年の頃六十歳を越えた身で大宰帥として筑紫に下つた、その間の作が多い。天平二年大納言となり京にかへり翌年七月薨去した。殘つてゐる作品は八十首たらずで尚懷風藻には詩も見える。
 その作の中よくとりあげられるのは
(136)  しるしなき物を思はずは一|坏《つき》の濁れる酒を飲むべくあるらし(卷三・三三八)
  賢《さか》しみと物いふよりは酒飲みて醉泣《よひなき》するしまさりたるらし(卷三・三四一)
  なかなかに人とあらずは酒壺になりてしかも酒にしみなむ(卷三・三四三)
  あな醜《みにく》賢《さか》しらをすと酒のまぬ人をよく見ば猿にかも似む(卷三・三四四)
  この世にし樂しくあらば來む世には蟲に鳥にも吾はなりなむ(卷三・三四八)
  生けるもの遂にも死ぬるもむのあればこの世なる間は樂しくをあらな(卷三・三四九)
等十三首の讃酒歌である。或は老莊思想の影響といひ、或は悲痛の情を強ひて押しかくしたものといひ、或は我國固有の樂天的思想のあらはれとするなど色々に解せられてゐる。彼には琴に代つて歌を詠んだり、松浦川に遊んで海人の少女と贈答の體に擬したりしてゐるやうな可なり遊びの氣持が他の作からうかがはれる。而もそれが單に明るい華かさばかりではなく、彼には一面傷つき易い心もあつた。幸福な環境に育ち平和な都會生活を送りながら齡耳順を越えてはるばる西陲の守りとならねばならなかつた身、更にそこで妻に別れた悲しみの情は十分窺はれる。たゞかかる寂しさの中でも傍觀者としての自分を捨てなかつたところに彼の一面がある。勿論老莊思想の影響もあり、更に多く支那文學心醉といつた傾がうかがはれる。
(137)  淺茅原つばらつばらに物思へば古りにし里し思ほゆるかも(卷三・三三三)
  沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも(卷八・一六三九)
などの中には悲痛な寂しさよりもその寂しさを靜かに味はふ風流な老貴族の面影が偲ばれるのである。石川足人が
  さすたけの大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君(卷六・九五五)
といつたのに對し
  やすみししわが大君のをす國は大知もここも同じとぞ思ふ(卷六・九五六)
と返したのは單に負け惜しみのみとは思はれない。その歸京に際し遊女兒島との贈答に
  大和路の吉備の兒島をすぎて行かば筑紫の兒島思ほえむかも(卷六・九六七)
  ますらをと思へる我や水莖の水城《みづき》の上に涙のごはむ(卷六・九六八)
と詠んだところなどに旅人の姿が最もよくあらはれてゐる。
 その、人としての生活の基調が傍觀的であり、人麿の熱情もなく、黒人の觀照もない、あくまで上品で温雅な點に特徴がある。勿論現存の作が老年のものばかりであることも考へねばならないが、年齡のみではないと思ふ。さういふ意味で讃酒歌も人としてのその特徴と共に歌人と(138)して自在な才を認むべきものであらう。
 併し實際の佳作はさういふ風流を玩んだといふ風なものよりもむしろ、自身の生活感情を平明に歌つたものに見出される。妻を喪つて詠んだ
  吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世《とこよ》にあれど見し人ぞなき(卷三・四四六)
  妹と來し敏馬の崎をかへるさに獨して見れば涙ぐましも(卷三・四四九)
  人もなき空しき家は草枕旅にまさりてくるしかりけり(卷三・四五一)
  妹として二人作りしわが宿は木高くしげくなりにけるかも(卷三・四五二)
などは佳作とするに足る。又
  わが盛り又をちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(卷三・三三一)
  わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ來るかも(卷五・八二二)
なども前にあげた「淺茅原原」「沫雪の」などと相通ずるものがある。
 修辭技巧として特に述べる程の事もないが、序詞にくりかへしのものが多く、序詞以外にも「つばらつばら」「ほどろほどろ」の他に
  松浦川七淵の淀はよどむとも吾は淀まず君をし待たむ(卷五・八六〇)
(139)  ひとみなのみらむまつらのたましまをみずてや吾はこひつつ居らむ(卷五・八六二)
  わが岡にさを鹿來鳴くさき萩の花づまとひに來鳴くさをしか(卷八・一五四一)
のやうな同語同音のくりかへしが多い。これがやがてその詩境を盛るにふさはしいものであつたと云へよう。
 山上憶良は旅人より五年の年長である。大寶二年には遣唐小録として渡唐、歸朝後伯耆守となつた事もあり、養老五年には當時の文人達と共に詔により「退朝の後東宮(後の聖武天皇)に侍せしむ」とある。その學識によるものと思はれる。後神龜の頃筑前守であつたので、旅人との交渉があつたわけである。天平五年頃には歸京して居たらしく、その頃を以つて歌は終つてゐる。病氣のことが見えるから間もなく死んだのでないかと思はれる。九州で妻と子とを喪つてゐる。作品の明かなもむは長歌十首を含めて六十餘首、その他に詩文がある、晩年の作のみが多いのは大伴家との交渉で殘つたからである。別に類聚歌林といふものを編したことが萬葉集中の引用によつて知られるが、鎌倉時代頃まで傳本の事が記されてゐるのみで、その本を見た人は無いやうである。
 彼の作には自然を詠んだのは十首餘の短歌があるばかりで、他は人の死を或は世の無常を悲し(140)むもの、渡世の苦しさ親子夫婦の窮乏を説いたもの、生に對する執着を述べたものといつた人事に關する主觀的なものが多い。「世の中」といふ語の使用が多いこともこれを示すものである。相手に對する愛情を越えて世の中の問題としてみようとする處に社會詩人ともいはれる獨自の世界がある。
 從來卷五に於ける作品の作者の區別が不明の爲、旅人と混同せられてゐて、その性格もしたがつて不明であつたが、この二人は一見多くの類似點をもつやうで――年齡相近く老いて九州に職を奉じそこで妻を喪ひ支那的教養の深かつたことなど――而も性格は正反對のやうに思はれる。旅人が風流をもてあそぶ明るい性《たち》の人に見えるのに反し、憶良はあくまで地味な生眞面目な人であつたらしい。これはその生ひ立ちが、一は家柄ある家に生れて順調に進んだのに對し、他は祖先の名も歴史も殘らないやうな家に生れ四十までも無位で、或は支那にわたり老いては西陲の地方官になるといふやうな生活の苦しさを嘗めてゐる。同じ九州の生活も、同じ妻を喪ふ悲しみにも相違の出きるのは當然である、
  憶良らは今は罷らむ子なくらむその彼の母も吾をまつらむぞ(卷三・三三七)
のやうな多少の滑稽昧ある作にすら寂しさの漂つてゐるのは、悲しみの中に明るさのある旅人と(141)異なるところであらう。この苦しみ悲しみが一方に人の世に對す同情ともなつたと見られよう。貧窮問答歌(卷五・八九二)などはその最も有名なものである。この二人は外來思想の影響をうけてゐるが、旅人の老莊的なのに對し憶良は儒教的であるともいへよう。口に
  厭2離此穢土1本願詫2生彼淨刹1
といひ乍歌では
  水沫《みなわ》なすもろき命もたくなはの千尋にもがとねがひ暮しつ(卷五・九〇二)
と詠んでゐる。佛教の影響も知的なものであつたことが察せられる。
 形式技巧の方面でも旅人と面白い對照をなしてゐる。憶良には長歌も多く又旋頭歌その他佛足石歌體でないかと思はれるものもある。長歌でも五七の繰返しのみならず問答體になつてゐるもの即ち令v反2惑情1歌(卷五・八〇〇)などは五七七の句が一首中三度あるといつた其合で、長歌の平板に流れようとするに封して意識して新機軸を出したとも考へられる。對句にも繰返しのがあるなど復古的なけはひがうかがはれる。枕詞の使用は甚だ少く、長歌にすら二三にすぎず、その種類は可なり古いものである。序詞は一つもない。尚一般に用語の古風なことも注意すべきで「天雲のむかふす」や「少女らがさ鳴す板戸」などあり
(142)  いとのきて痛き傷には鹹鹽をそぐちふが如く……(卷五・八九七)
のやうな諺らしいものの使用、更に「布施」といふ漢語を用ゐたのなどやゝ生硬な用語が見える。要するに形式技巧にも特徴はあるがむしろその思想的内容にこの作家の著しい特殊性が示されてゐる。
 しかも佳作としては、さうした特色の多いものよりも、旅人の場合と同じく、己が至情をのべた短歌に見るべきものがある。
  家にゆきて如何にか吾《あ》がせむ枕づく妻屋さぶしく思ほゆぺしも(卷五・七九五)
  はしきよしかくのみからにしたひ來し妹が心のすべもすべなさ(卷五・七九六〕
  妹が見し楝の花は散りぬべしわが泣く涙未だ干なくに(卷五・七九八)
  大野山霧立ちわたるわが嘆くおきその風に露立ちわたる(卷五・七九九)
右は妻の死をいたんだ反歌である。家持は憶良の影響をうける事が多いのであるが、たとへば
  妹が見しやどに花咲き時はへぬわがなく涙いまだ干なくに(卷三・四六九)
は右の憶良の第三首の模倣と見られよう。
 山部赤人は傳記など史に見えず出自も生地墓地など傳説程度のものはあるがいづれもたしかで(143)ない。その生存時代は神龜元年十月の作から天平八年までの作がある事によつて想定せられるにすぎない。唯時代の注せられてゐない作で神龜より上れさうなのはあるが天平八年より新しさうなのはない。その頃近く世を去つたと考へらる。神龜の頃聖武天皇の行幸に隨ひ吉野紀伊難波などへ行つてゐる。人麻呂と同じく宮廷詩人と考へられてゐる。
 その作品は長短歌合せて五十首に足らないが、その内容は自然を詠んだもの多く、自然詩人として代表的作家の地位を占めてゐる。この人の自然は人麻呂の雄大な音樂的な感じ方に對し、優美、清澄な自然であり、靜かな繪畫的な自然である。
  み吉野の象《きさ》山の際《ま》の木末《こぬれ》にはここだもさわぐ鳥の聲かも(卷六・九二四)
  ぬば玉の夜の更けゆけば久木生ふる清き河原に千鳥しばなく(卷六・九二五)
などをその代表的の傑作とする事まづ何人も異論のないところであらう。
  ますらをは御狩に立たし少女らは赤裳すそびく清き濱びを(卷六・一〇〇一)
などは稍弱く繪畫的で短歌に對句の修辭を用ゐてゐるところにその特色が認められる。又細かい感情を歌つたものには
  春の野に菫つみにと來し吾ぞ野をなつかしみ一夜ねにける(卷八・一四二四)
(144)  百濟野の萩の古枝に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも(卷八・一四三一)
などがすぐれてゐる。黒人と比べると、自然の静寂境を詠んでゐる點は通じてゐるが、赤人の方が更に客觀的なことが認められる。しかしまた一面に
  あしひきの山櫻花日並べてかく咲きたらばいと戀ひめやも(卷八・一四二五)
の如く自然に對する深い愛着を歌つたものもある。即ち自然と人生とを對立した對象として考へてゐるので、かうした態度は人麻呂や黒人の作には認められない。併しこの傾向は奈良朝初期の歌人には多く、卷五の梅花の宴にも、或は漢文學の影響は考へられはするにしても
  春なれば宜《うべ》も咲きたる梅の花君を思ふと夜寢《よい》もねなくに(卷五・八三一)
の如く「梅」に射し「君」といつたやうなのがある。赤人にはなほ
  沖つ島ありその玉藻潮干みちてかくろひゆかば思ほえむかも(卷六・九一八)
の例もある。彼の自然觀は西行のと似てゐるが、世を厭つての自然哀慕でない點が異なつてゐる。而も彼の作としては、前述の如く、純客觀の作に特色があり、右にあげた「ぬば玉の」や「み吉野の」や
  和歌の浦に潮みちくれば潟をなみ葦邊をさて鶴《たづ》なきわたる(卷六・九一九)
(145)などの如き、云はゞ客觀の中に主觀が生かされたものであつて、そこに一面芭蕉とも通じるものがあり、かかる意味で、西行・芭蕉の先驅をなすとも言へよう。
 以上は主として短歌について言つたが長歌は大部分行幸供奉の時の宮廷詩人としての作で、人麻呂の影響が大きい。唯人麻呂の想像的なのに比し寫實的な自然描寫の行はれてゐる點が注意せられる。代表的な作に富士山を詠んだものがある。
  天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の かげもかくろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひおつぎ往かむ 富士の高嶺は(卷三・三一七)
    反歌
  田兒の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪はふりける(卷三・二一八)
 形式も人麻呂を襲つたと考へられるが、長歌でも最長二十五句といふ短かさである。技巧については、枕詞の使用少く、かつ從來用ゐ馴れたものである點が憶良と似てゐる。序詞は割合多く、同音による序よりも内容の譬喩によるものが多い。對句も相當多く、短歌の中にまで對句が用ゐられてゐる事前述の如しである、これなどは人麻呂集に四句の序を短歌にゐてゐるのと對(146)照をなしてゐる。長い對はなく二句對のみが長歌に用ゐられてゐる。要するに赤人はその歌の内容にふさはしい技巧を用ゐてゐると云へよう。もしこれを徒に摸するとすれば薄弱平板に流れるのは明かである。人麻呂により大成された長歌形式が更に洗煉せられると同時にやうやく生氣を失ひ冗漫に赴かうとする傾向が認められるのである。
 笠金村も傳記不明、靈龜元年から天平五年までの作が見える。赤人と略同時代で同じく宮廷詩人と思はれる。大部分は旅の歌で四十餘首、これには金村集とあるのも金村作とみて含めて言つてゐるのである。
 その作品から感じられるのは明るい朗かな作者の心持てある。ただ赤人に感じられる澄み透つた靜寂の境地はこの人に求められない。旅に對しても人生に對しても絶えず明るい勤的な氣持でうけ容れようとする觀があり
  鹽津山うちこえゆけばわが乘れる馬ぞつまづく家戀ふらしも(卷三・三六五)
  布留山《ふるやま》ゆただに見渡す都にぞいもねず戀ふる遠からなくに(卷九・一七八八)
のやうな家を思ふものは異例で
  山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れどあかぬかも(卷六・九〇九)
(147)  初瀬女《はつせめ》の造る木綿《ゆふ》花み吉野の瀧の水沫《みなわ》にさきにけらずや(卷六・九一二)
などの清い韻律をもつ緊張した調子の中に、美しい自然に見入る作者のうかがはれるやうな作品が多く
  海女少女《あまをとめ》たななし小舟漕ぎ出《づ》らし旅のやどりに楫《かぢ》の音きこゆ(卷六・九三〇)
  玉藻刈る海少女ども見にゆかむ船楫《ふなかぢ》もがも波高くとも(卷六・九三六)
  ゆきめぐり見《み》ともあかめやなきすみの船瀬《ふなせ》の濱にしきる白浪(卷六・九三七)
といつた旅を樂しむ心が見られる。それで滲み入る力が弱いとか騷がしいとかいふ難もあげられようが、變化に富んでゐて挽歌などにもすぐれたのがある。志貴皇子薨去の際の
  梓弓 手にとりもちて ますらをの さつ矢手ばさみ 立ち向ふ 高圓山に 春野燒く 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉桙の 道來る人の 泣く涙 こさめに降れば 白妙の 衣ひづちて 立ちとまり 吾に語らく 何しかも もとな言ふ 聞けば 音のみしなかゆ 語れば 心ぞ痛き すめろぎの 神の御子の いでましの たびの光ぞ ここだてりたる(卷二・二三〇)
  高圓《たかまど》の野邊の秋萩徒にさきか散るらむ見る人なしに(卷二・二三一)
(148)  御笠山野邊往く道はこきだくもしげく荒れたるか久にあらなくに(卷二・二三二)
などその代表作である。
 形式技巧の方面では、長歌に三十七句のものもあり赤人の如く短いのばかりではない。枕詞の多いこと、對句の少いことも赤人との差異であつて、その他は大體赤人と似てゐるが、一般に情熱的で、動的である點は人麻呂に近い。人麻呂を摸して至らざるものと云へよう。
 一族らしい人に沙彌滿誓がある。養老五年出家以前は笠麻呂《かさのまろ》と言つた。養老元年從五位下を授かつてゐるが、出家後筑紫觀世音寺を造らしめられたことが見えてゐる。短歌七首が殘つてゐるにすぎないが
  しらぬひ筑紫の綿は身につけて未だは着ねど暖けく見ゆ(卷三・三三六)
は珍らしい素材を用ゐて新鮮な感覺が生かされてゐる。
  世の中た何にたとへむ朝びらきこぎいにし船の跡なき如し(卷三・三五一)
は無常觀を詠んだものとして後世に傳誦せられ、第三句以下「朝ぼらけこぎゆく舟のあとの白波」となつて拾遺集に載せられてゐる。
 高橋蟲麻呂も傳記不明(正倉院文書の中に天平十四年の記事に少初位上と見えるが同名異人か(149)否か尚考慮の餘地がある)その明かな作は卷六の長短二首のみであるが蟲麻呂集中出とあるものは可なり多く、それらも合せると長歌十五首を含めて四十首近くなる。(但しこの計算には右何首といふ左注の解釋により説が分れることをことわつておく)時代の明かなのは天平四年藤原|宇合《うまかひ》を送つた作であるが、もつと古く推定されるのもある。宇合との交渉は、宇合が常陸守の頃であらうか、その頃と推定されるものに蟲麻呂の東國關係の作があり、常陸風土記編纂者にさへ擬せられてゐる。
 その叙事詩人、傳説詩人であることは既に諸學者によつて述べられてゐる如く、中にも浦島・眞間手兒名《ままのてこな》・菟生處女《うなひをとめ》などを詠んだ歌は有名である。浦島傳説は丹後風土記逸文・雄略紀・その他浦島傳・本朝神仙傳などいふものにも見えるが、紀と風土記のものは内容に於いて近く異國的な色彩が濃く、蟲麻呂のものはそれらと違つて日本的である。眞間手兒名《ままのてこな》のは赤人にもあつたがそれが懷古的であるのに對し、これは叙事的になつてゐる。菟生處女《うなひをとめ》についても後期の田邊福麻呂や家持に同じ題材をあつかつたものがあるが前者は墓を過ぎての感慨にすぎず、後者も概念的な追想にすぎない。或はその他|末珠名《すゑのたまな》にしても河内處女にしても蟲麻呂は非常に寫實的な筆を使つてゐる。             (150)  紅の赤裳すそ引き山藍もち摺れる衣きて(卷九・一七四二)
といふ服飾描寫はこの人の作のみに見る處である。今眞間手兒名のを例示する。
  鳥が鳴く 東の國に 古にありける事と 今までに 絶えずいひくる 葛飾の ままの手兒名が 麻衣に 青衿つけ ひたさ麻《を》を 裳には織り着て 髪だにも かきはけづらず 履《くつ》をだに はかず行けとも 錦綾の 中につつめる いはひ子も 妹に及《し》かめや 望月の 滿てる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 水門入りに 船こぐ如く 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたなしりて 波の音の 騷ぐ水門の 奧つ城に 妹がこやせる 遠き代に 有りけることを 咋日しも 見けむが如も 思ほゆるかも(卷九・一八〇七)
    反歌
  葛飾のままの井見ればたちならし水くましけむ手兒名し思ほゆ(卷九・一八〇八)
 形式からいふと長歌には可なり長いのがあり、その數からも長さからも當代第一の長歌作者である。浦島のは九十三句、殆ど五七の整つたもむである。そこに平板に流れる危險があるが、内容の精細な描寫、古語の使用等を以つて變化を與へてゐるのは注意すべきである。「山彦の答へむ(151)きはみ谷ぐくのさ渡るきはみ(卷六・九七一)」「こちごちの(卷三・三一九)」など或は
  飛びかけり來鳴きとよもし橘の花を居散らし(卷九・一七五五)
  濱もせに後れなみゐて(卷九・一七八〇)
のやうな動詞の簡潔な接續などの變つた言ひまはしが注意せられる。對句も相當にあり四句對、六句對のやうな長いのもある。枕詞・句絶はさほど特徴もない。
 大伴坂上郎女は次期にもまたがるがここで述べておく。安麻呂を父とし旅人とは異母妹にあたる。はやく天武天皇の皇子穗積皇子の寵を受けたが靈龜元年皇子の薨去により、藤原不比等の子、麻呂の娉ふところとなつた。この頃麻呂は二十歳ばかりであつて郎女の方が年長でないかと思はれるが、とにかく旅人とは三十年位も齢が隔つてゐたらしい。しかも麻呂との仲も長く續かず、ついで異母兄|宿奈麻呂《すくなまろ》の妻となり養老五年頃坂上大孃を生んだ。しかしその宿奈麻呂とも死別したのではなからうか、神龜初年の記事を最後としてその名が見えない。旅人が大宰帥であつた頃郎女もまた彼の地にあつた。歸京後その娘坂上大孃が家持の妻となつて家持との交渉が深くなつてゐる。天應元年に家持が母を失つた事を續日本紀に載せてゐるが、その母といふのが姑たる坂上郎女の事でないかと思はれる。もしさうだと八十六七歳まで生きたといふ事になる。
(152) その作品は長歌六首を合せば八十首に近く女流としては歌數に於いて第一にある。またその内容の非常に多方面な點が注意せられる。その最古の作は麻呂に答へたもので
  佐保川の小石ふみわたりぬば玉の黒馬の來る夜は年にもあらぬか(卷四・五二五)
  千島鳴く佐保の川瀬のさざれ浪やむ時もなしわが戀らくは(卷四・五二六)
のやうな卷十三の歌の改作(七七頁參照)と見るべきものや
  來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとはまたじ來じといふものを(卷四・五二七)
のやうな同語重複の才氣ばしつたものなどである。その時の麻呂には
  蒸しぶすまなごやが下に伏せれども妹とし寢ねば肌し寒しも(卷四・五二四)
のやうな作があつて官能的描寫の例に引かれる。夫婦關係について惠まれなかつた事は、前に述べた加く、さうした環境にあつて怨恨歌(卷四・六一九)と題した長歌も殘してゐる。その戀歌には
  思はじと言ひてしものを唐棣花色《はねずいろ》の移ひ易きわが心かも(卷四・六五七)
  こひ/\てあへる時だにうるはしき言《こと》つくしてよ長くと思はば(卷四・六六一)
  青山をよこぎる雲のいちじろく吾と笑まして人に知らゆな(卷四・六八八)
(153)などの作があり、終りのものは、既に卷十一に類歌
  蘆垣の中のにこ草にこよかにわれと笑まして人に知らゆな(二七六二)
の如きがあるが、郎女の作の鮮明な印象を與へる序詞は作者の鵜才を窺ふに足るものである。また
  夏の野のしげみに咲ける姫百合の知らえぬ戀は苦しきものを(卷八・一五〇〇)
も女性らしい可憐な作である。たゞかういふ歌がやゝ情熱に乏しく感じられるのは中年の作といふこともあらうが又この人の性格でもあらう。
 人妻としてめぐまれない愛情は甥や娘に對する方に向けられて
  玉守《たまもり》に玉は授けてかつがつも枕と吾はいざ二人ねむ(卷四・六五二)
の如き作をなしてゐ。家持の越中赴任について
  今のごと戀ひしく君が思ほえばいかにかもせむするすべの無さ(卷十七・三九二八)
  族に去にし君しもつぎて夢に見ゆ我《あ》が片恋のしげければかも(卷十七・三九二九)
  常人の戀ふといふよりはあまりにて吾は死ぬべくなりにたらずや(卷十八・四〇八〇)
のやうな叔母として姑としての氣持がよくあらはれてゐるものがある。
(154) その他自然を詠んだもので
  ※[獣偏+葛]高《かりたか》の高圓山を高みかも出でくる月の遲く照るらむ(卷六・九八一)
は「たか」のくりかへしが注意せられる。
  ますらをの高圓山にせめたれば里に下りけるむささびぞこれ(卷六・一〇二八)
などはすなほな、簡潔な、たるみのない調子で男性の作を思はせるものがある。併し概して郎女の作は消極的な寂しさのある細やかな感じが全體を蔽うてゐる。尤もその感情も後世の、例へば蜻蛉日記の作者のやうな感じに比すればさすがに上代風の明るさがある。
  酒杯に梅の花うかべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし(卷八・一六五六)
などの作になると全く兄の旅人を思はせるものがある。人としての性格が似通つてゐたのみならず歌人としての天分に於いてもである。郎女にもやはり巧に歌ひこなすといふ才氣がある。ここに萬葉女流歌人の一方の代表者とすることができると共に、或るもの足りなさもあり、末期への過渡期の人といふ感が深い。その長歌には五十三句といふ長いのもあるが、五七調は正雄で一字の字餘り字足らずもない。對句は少く、枕詞が割合よく用ゐられてゐて、同時代の人々に較べては多い方である。序詞は少いが前掲の「青山を横ぎる雲の」のやうな印象の鮮かなものがある。
(155) 以上でこの期の主な作者を擧げ終つた。この他に
  青によし奈良の都は咲く花の匂ふが如く今さかりなり(卷三・三二八)
の歌によつて有名な小野老がある。その作は合計三首しか殘つてゐず、皆神龜頃のものである。この歌はその内容にふさはしい明るい豐麗な表現をもつてゐる。
 大伴四綱には旅人の歸京の送別宴での
  月夜よし河の音《と》清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ(卷四・五七一)
といふ輕快な調子をもつた、一句と二句とできれた作がある。宴會の歌が見え初めることも漸く末期の特色をあらはすわけであつて、この作などは西郊してゐるが一歩誤れば形式的になつて何等の感動をおこさなくなるおそれがある。
 最後にこの期を概觀する。歌體は長歌をはじめ短歌旋頭歌及び佛足石歌體と思はれるものもある。長歌は前期に整へられた型を守り概して短くなる。句の長さも憶良に例外ある外五七の整調であつて、やがて平板に流れようとする傾を見せてゐる。唯前期には人麻呂一人に長歌が多かつたが、この期には色々の人が長歌を作つてゐる。技巧の方面では繰返しが少く、對句も比較的少い。唯色々な人に詠まれてゐる爲その種類が各種にわたり、長對も憶良・蟲麻呂にはある。枕詞(156)は次第に衰へようとする傾がある。用ゐられ方が平凡であり新しいものが生れない。ただ
  玉はやす武庫のわたりに天傳ふ日の暮れゆけば家をしぞ思ふ(卷十七・三八九五)
が新しい位である。短歌の句絶は次第に多くなり、三句絶などは前期の倍以上になり、一句絶も
  あなみにく|さかしらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(卷三・三四四)
  くやしかも|かく知らませば青によし國内《くぬち》ことごと見せましものを(卷五・七九七)
など明かなものが可なり見えてきて、漸く七五調の兆もあらはれてきた。
 内容表現については各作家についていつたが極めて概括的にいへば、旅の作や、旅以外の自然の詠が多く、自然との接觸が前期より更に密接となり、その内容題材からいつて古今集以下の勅撰集と通ずるものが多く、植物についても梅・萩・櫻のやうな美しい花の咲く草木が目に立つて多く詠まれるやうになつた。
 かうした傾向はやがて「あるがまゝの自然」から「ある選ばれたる自然」への愛着となり、そこに所謂花鳥風月のもてあそびとしての歌が盛んとなり、歌人間の贈答とか、宴席での即興の流行ともなつた。さうして戀の歌を宴席で友人間の贈答に用ゐるといふやうな事も行はれて作歌道の安易化といふやうな傾向が見られるのである。
 
(157)     第六節 第四期
 
 天平六年から萬葉集のをはりまで、聖武・孝謙・淳仁の三天皇の御却代にわたる三十年近く、歌數は第三期よりも増して長短千三百首に近いものが殘つてゐる。前時代のやうな名人は少いが、作者の數も遙かに増してゐる。
 各天皇の御製もそれ/”\傳へられてゐる中に、聖武天皇は、かつて舒明・持統の兩帝がそれぞれの時代を代表せられたのと同じく、この期の歌風を最もよくお示しになつてゐる。
  をす國の 遠《とほ》む御門《みかど》に 汝《いまし》らが かくまかりなば 平けく 吾は遊ばむ 手|抱《むだ》きて 吾はいまさむ すめらわが うづの御手もち 掻きなでぞ ねぎ給ふ うちなでぞ ねぎ給ふ かへり來む日 あひ飲まむ酒《き》ぞ この豐御酒は(卷六・九七三)
      反歌
  ますらをの行くとふ道ぞおほろかに思ひて行くなますらをのとも(卷六・九七四)
は節度使に酒を賜はつての御製で如何にも王者の御作る感がある。
(158) 皇族では多くの王達の御作が少しづつ殘つてゐるが注意すべきもののみを擧げよう。志貴皇子の御子に湯原王と申す方がある、歴史にも殆ど載つてゐないが萬葉集では短歌十九首あり、而も勝れた作が多い。
  吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして(卷三・三七五)
は集中でも有數の作で、吉野川の上流菜摘のあたりの目に見えるやうな、印象の鮮かな作で、「にして」ととめた結句は他にも類例が多く、やゝ後世風になる傾があるが、この作では最も有效に用ゐられてゐる。
  秋萩の散りのまがひによび立てて鳴くなる鹿社の聲のはるけさ(卷八・一五五〇)
もまた佳作とすべきものである。
 同じく志貴皇子の御孫で、春日王を父君とせられる安貴王には
  秋立ちて幾日もあらねばこの寢ぬる朝明の風はたもと寒しも(卷八・一五五五)
の作が注意せられる。
 その御子の市原王には十首近くの中、活道岡に宴飲せられての
  一つ松幾代か經ぬる吹く風の聲の清きは年深みかも(卷六・一〇四二)
(159)といふ作が有名である。靜かに松籟に心をすますやうな清澄なひびきがある。
 次に新田部皇子《にたべのみこ》の御子の道祖王《ふなどのおほきみ》には唯一首
  新しき年の始に思ふとちい群れて居ればうれしくもあるか(卷十九四二八四)
の作がある。かうした題材の作はとかく調子の低いものになりがちであるが、これなどやはり萬葉ぶりの佳作たる事を失はない。
 高市皇子の御孫で、長屋王を父とせられる安宿王《あすかべのおほきみ》には
  少女らが玉裳すそびくこの庭に秋風吹きて花は散りつつ(卷二十・四四五二)
同じく圓方《まどかた》女王には
  夕霧に千鳥の鳴きし佐保道をばあらしやしてむ見る由を無み(卷二十・四四七七)
の作が注意せられる。
 長皇子の御孫で川内王を父君とせられる門部王には
  東《ひむがし》の市の植木の木垂《こた》るまであはず久しみうべ戀ひにけり(卷三・三一〇)
  飯宇《おう》の海の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保川の思ほゆらくに(卷三・三七一)
などの作が殘されてゐる。
(160) 尚系圖は不明であるが厚見王の
  かはづ鳴く神奈備川《かむなぎかは》にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花(卷八・一四三五)
は貫之の
  逢坂の關の清水にかげ見えて今や曳くらむ望月の駒(拾遺集卷三)
の粉本となつたもので、萬葉末期の作たる感が深い。
 臣下にはまづ田邊|福麻呂《さきまろ》をあげる。傳記不明。或は歸化人の家柄かと思はれる。天平二十年橘諸兄の使として越中に下つたことが知られるばかりである。その作は短歌十三首であるが、外に福麻呂歌集出と注のあるものが長歌十首、短歌二十一首ある。これも他の人の集と同じく、自身の作のみか否かは決定できないのであるが、暫く福麻呂の作品として考へることにする。この歌集は天平十六年頃までにできてゐたらしい。勿論それ以後も歌を作つたであらう。併し萬葉の末期には大伴家持關係のものばかり殘る形になつたので、たまたま家持と交渉ある越中での十三首の短歌ばかり家集以外に傳はつて、他は殘らなかつたと考へられる。
 色々の種類の題材をとつて詠んでゐるが、卷六の終にある奈良・恭仁・難波などの都を歌つた長歌にその特色を見る。皆天平十九年過ぎのものと推定される。いづれも叙景を主とした平明なも(161)ので、人麻呂の莊重さはなくむしろ赤人に通ふ處があり、描寫の細かい、幾分近代的な處があつて、なほ家持の概念的なものには至つてゐない。末期の長歌作者としては代表的なものであらう。
 その特色は修辭技巧の點にもよく表れてゐる。初期の作かと思はれる卷九のものには枕詞の使用が多い。對句も多く十首を通じて皆用ゐられ、而も四句・六句・八句といつた長對がある。奈良の故郷を悲しんだ作の中
   かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野邊に 櫻花 木《こ》のくれがくり 貌鳥《かほどり》は まなくしばなき
   露霜の 秋さりくれば 生駒山 飛火が岡に 芽《はぎ》の枝《え》を しがらみ散らし さ男鹿は 妻よびとよめ(卷六・一〇四七)
のやうな八句對があつて人麻呂に學んでゐることが知られる。氣魄の點では到底匹敵し得ないところであるが、末期の歌人としては人麻呂・赤人に對すべき人である。
 橘諸兄は三野王の御子、葛城王と申したが天平八年橘の姓を賜はつて臣籍に列した。天平十年には右大臣、ついで正二位といふ風に官位すすみ、舊勢力より逃れむが爲に恭仁の遷都を畫策したといはれる。天平寶字元年薨去、かつて萬葉集編纂者に擬せられた人であるがその作は八首の(162)み、皆對人關係のもので萬葉集末期の風をあらはしてゐる。
  降る雪の白髪までに大君に仕へ奉《まつ》れば尊くもあるか(卷十七・三九二二)
などはさすがに萬葉らしい古風を存する。
 大伴家持
 旅人を父として養老二年(必ずしも信ぜられないが暫く大伴系圖による)に生れ、父の太宰帥赴任にも隨つて少年の頃を九州に過し、共に歸京して間も無く父を喪つた。時に年十四、萬葉集には天平五年十六歳の時の作が時代の明記された最初のものである。しかしそれ以前の作も卷八などに採録されてゐるやうに思はれる。天平十年から十六年頃まで内舍人《うどねり》として宮中に仕へた。十八年越中守に任ぜられた。これより先天平十一年には子までなした妻を失つたが、やがて坂上郎女の娘で、自分の從妹にあたる坂上大孃を迎へてゐる。越中赴任前に萬葉集卷十六までは大體集つてゐたものと思はれる。七月任國に下つたが間もなく都に殘した弟|書持《ふみもち》の訃報に接し、自身も暫く病床にあつたが、その後五年の歳月を越中に送り迎へてその間にも多くの作を殘してゐる。天平勝寶三年七月に少納言に任ぜられて歸京した。その後暫くの彼の生活は作歌者として最も緊張した時代といへるであらう。六年兵部部少輔になつた。それが縁となつて卷廿に多くの防人(163)歌の收められる事となつた。この頃から歌は漸次少くなり、作歌精進の心もやゝ怠り勝ちに見うけられる。一面官吏としての生活にも不幸な翳がさしそめてゐた。或は一族にして罪に坐する者があつて喩族歌などの作も見られる。萬葉こ殘された作品は天平寶字三年因幡國司として任地にあつて詠まれたものが最後であるが、その後も色々と大作家は反亂に關係して不安な生活がつづき、後薩摩守になつた如きは左遷と見るべきものである。晩年やゝ順調の生活に復し延暦二年には中納言となつたが同四年八月、六十八藏で薨じた。而も大伴繼人・竹良の謀反に嫌疑をうけ名籍を除かれるやうな悲運に會ひ、史には「薨」の字に代ふるに「死」の字を以つて記されてゐる。後罪なき事明かとなり死後廿餘年にして位を復せられた。
 その作は前にも一言した如く集中最も多く五百首に近いので稍詳しく歌人としてのその一生を眺めよう。天平十六年以前、越中時代及び勝寶二年以後の三期に分つ。
 旅人の子として、坂上郎女の甥として、歌人の素質を受けついだ家持は、既に十二三歳の頃大宰府での宴飲の席にも列つたことがあるらしい。天平九年の作
  ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引《まよびき》思ほゆるかも(卷六・九九四)
は時代明記の最初のものであるが、前に述べたやうに、それ以前のものもあるやうに思はれ、た(164)とへば
  春の野にあさる雉《きぎし》の妻戀におのがあたりを人に知れつつ(卷八・一四四六)
の如きは、天平四年、即ち十五歳までの作であるらしく見える。併し第一期は所詮先人の模倣・習作の時代といふべきである。人麻呂既になく赤人との直接の交渉もまづ無かつたと見るべきであらう。尤も卷十七・三九六九の詞書の「山柿之門」について近時從來の説を破つて「山」を「山上憶良」とする説がある。それは憶良の作が赤人のものに劣らず、赤人の作風は王朝風であつて、人麻呂と並べあげられたのは古今集序にはじまるといふ見方であつて、これは一應うなづかれるやうな考へ方であるが、作品の絶對的價値の問題はともかくとして、萬葉當時の歌壇にあつてやはり「歌人」として認められたものは憶良でなくして赤人であり、人麻呂と並べ稱せられた事は決して古今集序にはじまるものでない。むしろ古今集の序は萬葉時代からの歌壇の云ひ傳へを反映したものといふべきてある。家持の作歌修業時代には已に卷一・二はもとより、卷三も前半は、又卷七・十・十一・十二・十三などまとまつてゐたことであらう。其等と交渉の深いのは今までにも折にふれて言つた處であるが、又直截憶良などの影響とみられるものもある。(一四二頁參照)その他本歌取りなどにも類似が見える。此時代の歌は内容からいへば叙情の作が最も(165)多い。今比較的佳作とみるべきをあげる。
  秋さらば見つゝ偲べと妹が植ゑしやどの石竹《なでしこ》咲きにけるかも(卷三・四六四)
  あしひきの山さへ光り咲く花の徹りぬる如きわが大君かも(卷三・四七七)
  夏山の木末《こぬれ》の繁《しげ》霍公鳥《ほととぎす》鳴きとよむなる聲のはるけさ(卷八・一四九四)
  雨隱《あまごも》り心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり(卷八・一五六八)
第一首は亡妻を悲しんだものであり、第二首は聖武天皇の皇子、安積皇子の薨去を奉悼したものである。第四首は既に
  九月のしぐれの雨にぬれとほり春日の山は色づきにけり(卷十・二一八〇)
  物思ふとこもらひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり(卷十・二一九九)
などの類歌がある事が注意せられる。
  ひさかたの雨の降る日を唯一人山邊に居ればいぶせかりけり(卷四・七六九)
などは靜かに詠めたすなほな作で家持の作を通じても笠かに屬する。
 第二期は丁度二十九歳からである。住み馴れた都を離れ、新しい環境にあつて、或は弟を失ひ或は病床に臥し、新しい自然に接してわづかに慰め、又歌友として大伴池主を得た。作は從つて(166)多方面であるが、その數の割合に秀でたものは少い。次期に到る過渡の時代といふべきであらう。
  大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れどあかぬかも(卷十七・三九二六)
は天平十八年正月宮中で雪を見て世を賀した歌である。任地にあつては或は管内をめぐり、或は鷹を放ちなどして折々の作を殘してゐる。立山を望んでは
  立《たち》山の雪しくらしも延槻の河の渡り瀬あぶみつかすも(卷十七・四〇二四)
とよみ、陸奥國小田郡から金を出したことを聞いても長い長歌を以つて慶賀の意をあらはしてゐる。(卷十八・四〇九四)長さに於いて集中第二位のものである。この折に下し給つた宣名にも引用せられてゐる
  海ゆかば みづく屍 山行かば 草むす屍
の句がこの作中にも引かれてゐる。また旱天がつゞいては雨乞の作をなし、その願がかなつては「賀2雨落1」する短歌を作つてゐる。かく色々の題材がすべて歌に詠まれてゐるが、中には十分の感動を伴はないものも認められる。現に
  爲d幸2行2芳野離宮1之時u儲作歌一首并短歌(卷十八・四〇九八)
といふ題詞を掲げてもゐるのであつて、ここに到れば題詠と何等選ぶ處がないのである。
(167) 第三期になつてはじめて作家としての完成がなされたと云へるであらう。越中時代をはりの一年半と歸京後の作である。
  春の苑《その》紅にほふ桃の花下てる道にいで立つをとめ(卷十九・四一三九)
は卷十九卷頭にあつて繪畫的な艶麗な作であるが稍觀念的技巧に墮した難がある。
  春まけて物悲しきにさ夜更けて羽ぶき鳴く鴫《しぎ》誰が田にか住む(卷十九・四一四一)
  もののふの八十少女らがくみまがふ寺井の上の堅香子《かたかご》の花(卷十九・四一四三)
  夜くだちに寢ざめてをれば河瀬|尋《と》め情《こゝろ》もしぬに鳴く千鳥かも(卷十九・四一四六)
  あしひきの八峯《やつを》の雉《きぎし》鳴きとよむ朝《あさけ》の霞見ればかなしも(卷十九・四一四九)
  朝床に聞けばはるけし射水川朝こぎしつつ歌ふ船人(卷十九・四一五〇)
  藤波の影なる海の底きよみ沈《しづ》く石をも玉とぞわが見る(卷十九・四一九九)
などはいづれも彼の墾いた新しい境地を見るべきものである。皆天平勝寶二年のものである。同五年の
  春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯なくも(卷十九・四二九〇)
  我が宿のいささ群竹吹く風の音の幽《かそ》けきこの夕かも(卷十九・四二九一)
(168)  うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しも獨りし思へば(卷十九・四二九二)
は家持の繊細な作風の到りついたところを示すものといふべきでこの期を代表すべき代品である。併しここに峠の頂に達した感が深い。その作歌生活も亦これを頂點として、以後はやゝ惰性の感がある。尤も卷二十にも佳作はある。
  海原のゆたけき見つつ蘆が散る難波に年は經ぬべく思ほゆ(卷廿・四三六二)
  海原に霞たなびき鶴《たづ》が音の悲しき宵は國邊し思ほゆ(卷廿・四三九九)
  家思ふと寢《い》をねず居れば鶴が鳴く蘆邊も見えず春の霞に(卷廿・四四〇〇)
  雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく(卷廿・四四三四)
そして
  新しき年の始の初春の今日降る雪のいやしけよごと(卷廿・四五一六)
が家持のみならず集中最後の歌で天平寶字三年正月一日の作であることは前にも述べた通りである。
 家持の歌を内容から概觀するに
  丈夫は名をし立つべし後の代に聞きつぐ人も語りつぐがね(卷十九、四一六五)
(169)  しきしまの大和の國に明らけき名に負ふ伴の男心勉めよ(卷廿・四四六六)
等に代表される皇室中心の武門の功名を思ふ作品は可なり多く見られるが、これはその生ひ育つた家系や環境によること勿論乍ら、又一面人麻呂・憶良の影響も認めなければならない。神に對する思想もそれがうかがはれる。而も又一面
  うつせみは數なき身なり山川のさやけき見つつ道を尋ねな(卷廿・四四六八)
  渡る日の影にきほひて尋ねてな清きその道又もあはむ爲(卷廿・四四六九)
のやうな佛道を求めた作もあつて、かういふ點では先人と異なつて可なり内容的な影響があるやうである。かかる意味でもこの人が奈良朝から平安朝へ近づかうとする過渡の時代に立つてゐることが察せられる。歌人として人麻呂の雄大莊重な感情、赤人の清澄閑寂な境地もないが、この末期を代表すべき人としてその繊細幽寂な歌風はやはり獨自の存在價値を持つものである。勿論長歌については殆ど前代と比較にもならないのであつて、これは主として短歌について言はるべき事である。
 その歌の形式は長歌短歌旋頭歌いづれもあるが、長歌の長いのは百七句(四〇九四)或は百五句(四〇一一)などから十五句といふ短いのまである。長短の交錯正しく、字餘り字足らずもある(170)にはあるが著しいのはなく、全く整つてゐる。その調子の流暢であると共に平板に流れようとすることも當然考へられる。更に注意すべきはその句の連續が
  (前略)……ほととぎす 來鳴くさつきの あやめぐさ|花たちばなに ぬきまじへ|かづらにせよと つつみてやらむ(卷十八・四一〇一)
のやうに七五調に轉じてしまつてゐるものが二三ある。かかる調子の出現は以前には見られないものであつた。尼との贈答の歌
    尼作2頭句1并大伴宿禰家持所v誂v尼續2末句1等和歌一首
  さほ川の水を塞き上げて植ゑし田を 尼作 苅れるはついひは獨なるべし 家持續(卷八・一六三五)
は一首の歌を二人で連作してゐて正しい意味で連歌の最初といはれるものである。
 なほ技巧としては對句の使用の少くなつたことも一きは目立つ。四十六首中十五首は一つも對句を用ゐず又一首中にあつても多くて四ケ處といふありさまで、人麻呂・赤人・憶良・福麻呂などがその長歌のすべてに對句があり而も人麻呂は六十九句中四十二句まで、赤人は十五句中十二句まで對句を用ゐてゐるのなどと較べて甚しい隔りである。家持の對句は【―― ――  ――】の形が最も多く、全くの繰返しは一つもない。長對もなく連對が三首ばかりある。而も是等のもの(171)の中には先人の作の模倣と見られるものが少くない。その上類似のものを度々用ゐてゐて、語彙に乏しかつたことが思はれる。
 枕詞の使用も從來の作者に比して少く、全く枕詞なしの長歌も少々あり、又一首中唯一つのみといふのが多い。獣類も平凡であつて變化に乏しい。「あしひきの」三十五回「あらたまの」「玉ほこの」各十一回といつた風で、その使用状態が如何に固定したかがわからう。家持の作にはじめて用ゐられてゐるものとしては「水鴨《みかも》なす 二人ならび居」「春風の 音」「かきかぞふ 二上山」「かつらかげ かぐはし」「ははそばの 母」「ちちのみの 父」「しなさかる 越《こし》」「あしが散る なには」「磯松の 常に」「とこ世もの この橘」「のちせ山 後も」などである。
 序詞の使用も少い。短歌四百二十首足らずで、それも後期に多い。その種類は内容の比喩が主で、やはり先人を摸したと思はれるものが少くない。
  片貝の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくありがよひ見む(卷十七・四〇〇二)
などは例のある形式で地名の片貝だけが新しいにすぎない。同音繰返しには
  奥山の八峯《やつを》の椿つばらかに今日は暮らさね丈夫の徒《とも》(卷十九・四一五二)
(172)のやうなのがある。序の中で稍成功してゐるのは
  雲がくり鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立ちしげくし思ほゆ(卷八・一五六七)
  秋風になびく河邊のにこぐさのにこよかにしも思ほゆるかも(卷廿・四三〇九)
などであらう。長歌でもわづかであつて、その内容は眼前の景から離れてゐるのが多い。これは一面進んだわけであるが、實質は概念的になつてゐるのである。唯珍しいのは
  朝なぎに よする白浪
  夕なぎに みちくる潮の いやましに (卷十七・三九八五)
といふやうな人麻呂に多かつた對句式の序のあることである。
 句絶では、無きもの最も多く二句絶・四句絶之につぎ、三句絶の可なり多いことは七五調への推移を物語るものである。
 家持の歌をかく見來ると長歌作者として、殊に修辭の上からは決して成功したとはいへないのである。たゞ短歌に前掲の如き佳作を見るはもともと歌人としての血統と環境とに惠まれた修業の結果といふべきである。萬葉集にとつては作者として末期を代表させてよいが、それ以上に編者としてこの存在意義が非常に高く扱はれなければならないのである。
(173) 家持の周囲の女性
 大伴田村大孃は宿奈麻呂の女で父が田村の里に居たのでかく名づける。短歌九首、妹坂上大孃に贈つたものばかりが殘つてゐる。
  わが宿の秋の萩咲く夕影に今も見てしか妹が姿を(卷八・一六二二)
といつたやさしい惡くすれば微温的な作が多い。
 大伴坂上大孃は宿奈麻呂の女、母は坂上郎女。天平五六年頃から家持との交渉があり、やがてその正妻となつた。その作十一首は家持に贈つたものばかりである。やはり末期的な傾向のものばかりで
  我が名はも千名《ちな》の五百名《いほな》に立ちぬとも君が名立たば惜しみこそ泣け(卷四・七三一)
を額田王の
  玉くしげおほふを安みあけて行かば君が名はあれどわが名しをしも(卷二・九三)
と比較するときその人柄の違ひをよく示すと思ふ。
  春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜に獨かもねむ(卷四・七三五)
も一途な心はあるが感動の人を動かすに足りないことは姉と同樣である。
(174) 笠女郎は金村・麻呂などと同族であらうが傳はかからない。家持の最初の戀人と思はれその贈答歌のみ二十九首殘つてゐる。
  みちのくの眞野の萱原遠けども面影にして見ゆとふものを(卷三・三九六)
  水鳥の鴨の羽色の青山のおぼつかなくも思ほゆるかも(卷八・一四五一)
などはその古い方であらう。いづれも繊細であるが勝れてゐる。後者の序詞も注意せられる。卷四の二十四首は同時のものでない。天平十年頃までの作であらうか。
  わが宿の夕蔭草の白露の消《け》ぬがにもとな思ほゆるかも(卷四・五九四)
なども序のよくきいた細かい佳品である。
  伊勢の海の磯もとどろによする波かしこき人に戀ひわたるかも(卷四・六〇〇)
  皆人を寢よとの鐘はうつなれど君をし思へばいねがてぬかも(卷四・六〇七)
  あひ思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方《しりへ》に額《ぬか》づく如し(卷四・六〇八)
等も多少注意に値する作であり最後の漢語の使用も珍しい。
  夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面かげにして(卷四・六〇二)
は卷十一の
(175)  いつはしも戀ひぬ時とはあらねども夕かたまけて戀ふるはすぺなし(二三七三)
と比較してみれば互の特徴がわからう。要するにこの期の女流歌人としては注意すべき存在である。
 紀女郎は古鈔本の注によれば紀鹿人の女で安遺王の妻といふ。天平の初頃に家持と交渉があつたらしいが可なり遊戯的なものである。
  闇《やみ》ならばうべも來まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや(卷八・一四五二)
  わけが爲わが手もすまに春の野にぬける茅花《つなばな》ぞ食して肥えませ(卷八・一四六〇)
などに見ても歌の巧みさはあつても情熱の胸をうつものはない。
 山口女主も家持との贈答を數首殘してゐるが特にあげるべきものはない。ただ
  秋萩に置きたる露の風吹きて落つる涙はとどめかねつも(卷八・一六一七)
の序詞の形が少し變つてゐて清新な感じを與へる。これに類するものに丹波大女娘子《たにはのおほのめをとめ》の
  鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心わがもはなくに(卷四・七一一)
があるが、いづれも新時代の傾向を示すものである。
 平群女郎《へぐりのいらつめ》も傳は不明、十二首を殘してゐるが皆所謂巧みな歌である。
(176)  萬世に心はとけてわが背子がつみし手見つつしのびかねつも(卷十七・三九四○)
  松の花花數にしもわが背子が思へらなくにもとな咲きつつ(卷十七・三九四二)
の如き當時としては珍しい素材や境地を扱つたものとして注意せられる。
 右の外家持と贈答の作を殘してゐる人の中に大伴池主がある。池主は家持などとどういふ血族關係になるか不明であるが、唯その越の國での交渉によつて作が殘つたものである。長歌四首短歌二十四首を數へるがいづれも宴飲・贈答といつた對人關係の社交の具に用ゐられたもので秀歌としてあげるべきものに乏しい。家持の弟、書持の作は確實なもの四首、古寫本によれば更に六首を加へるが、佳作はない。
 中臣宅守と狹野|茅上《ちがみ》娘子
 中臣宅守は藏部女嬬、狹野茅上娘子と婚した爲に越前に配流せられた。その間二人の燃えるやうな戀情を述べあつた作が男のもの四十首、女二十三首、卷十五の後半に集められてゐる。その年月を明かにしないが天平十二年の大赦に宅守はもれてゐる旨、史に記されてゐるので、十二年以前あまり遠くない頃と思はれる。後、七年從五位下に叙せられてゐる。
  あをによし奈良の大路はゆきよけどこの山道は行きあしかりけり(三七二八)
(177)  あかねさす晝は物思ひぬば玉の夜はすがらにねのみしなかゆ(三七三二)
  逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで吾《あれ》戀ひ居らむ(三七四二)
  今日もかも都なりせば見まくほり西の御馬屋《みまや》の外《と》に立てらまし(三七七六)
などは男の歌ですぐれたものであるが、當時一般歌壇の作とは撰を異にしてゐる。併し更に女の方に佳作が多い。
  君が行く道の長てをくりたたね燒き亡さむ天《あめ》の火もがも(三七二四)
  他國《ひとくに》は住みあしとぞいふ速《すむや》けく早歸りませ戀ひ死なぬとに(三七四八)
  逢はむ日の形見にせよとたわやめの思ひみだれて縫へる衣ぞ(三七五三)
  魂は朝夕《あしたゆふべ》にたまふれど我が胸いたし戀のしげきに(三七六七)
  歸りける人來れりといひしかばほとはとしにき君かと思ひて(三七七二)
  わが背子が歸り來まさむ時の爲命殘せり忘れたまふな(三七七四)
強い情熱と感動とが生々と表現せられて強く讀者に迫るものがある。「燒き亡さむ天の火」といひ「殆と死にき」といひまことに激しい言葉遣が少しも不自然に聞えない。萬葉末期に於ける異色ある存在である。
(178) 卷十五の前半を占めるものに遣新羅使の歌がある。やはり出發前の贈答歌や旅中での作に、眞情の見るべきものがある。
  武庫の浦の入江の渚鳥《すどり》羽ぐくもる君をはなれて戀に死ぬべし(三五七八)
  大船に妹乘るものにあらませば羽ぐくみもちてゆかましものを(三五七九)
  君が行く海邊の宿に霧立たばあが立ちなげく息と知りませ(三五八〇)
  秋さらばあひ見むものをなにしかも霧に立つべくなげきしまさむ(三五八一)
  夕さらばひぐらし來鳴く生駒山越えてぞ吾《あ》が來る妹が目をほり(三五八九)
などは出發前の作である。
  あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れどあかぬかも(三六〇二)
これは途中口誦した古歌であるが、さすがに古風を存した愛誦すべき佳品である。
  吾のみや夜船は漕ぐと思へれば沖邊の方に梶の音すなり(三六二四)
  今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴きぬ(三六五五)
  歸り來て見むと思ひしわがやどの秋萩すゝき散りにけむかも(三六八一)
  百船《ももふね》の泊つる對馬の淺茅山時雨の雨にもみだひにけり(三六九七)
(179)  天ざかる鄙にも月は照れれども妹ぞ遠くは別れ來にける(三六九八)
これらの作、萬葉の作としては、特にとりあげる程のものではないかと思ふが、實情實感のすてがたきものがある。
 新羅は速くても行つて又すぐ歸れる旅である。然るに數年間を東の國々から西陲の守りとならなければならない防人達の心情は、たとひ大君の御楯となる覺悟はあつてもさすがにうつそみの身のなげきを感ぜずにはゐられなかつた。この防人の歌は前に一寸述べたやうに、家持が兵部少輔であつた關係上|部領使《ことりづかさ》の手を經て集められたものと思はれる。尤も卷廿に收められた作九十首總てがその創作とはいへないのであつて、例へば
  時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲きで來ずけむ(四三二三)
は孝徳紀の
  本毎に花は咲けども何とかも愛《うつく》し妹が又咲きでこぬ
と類歌をなし、元來民謠風のものをたまたま防人が誦したと考へられる。
  大君の御言かしこみ磯に觸り海原《うのはら》渡る父母を置きて(四三二八)
  今日よりは顧みなくて大君の醜《しこ》の御楯と出立つ我は(四三七三)
(180)といふやうに大君の命は神の命であり絶對のものとして、忠誠な心を以つてかしこみ仕へたので、彼等の信仰からしてそれは當然のことであつた。併し乍ら人間として父母や妻子に別れて悲しくないものは無い。
  わが妻も畫にかき取らむ暇《いつま》もが旅行く吾《あれ》は見つつ偲ばむ(四三二七)
といふ無邪氣な可憐な嘆きから
  水鳥の立ちの急ぎに父母にもの言《は》ず來《け》にて今ぞくやしき(四三三七)
  父母が頭かき撫で幸《さ》くあれて言ひし言葉《けとば》ぜ忘れかねつる(四三四六)
  百隈《ももくま》の道は來にしをまた更に八十島《やそしま》過ぎて別れか行かむ(四三四九)
  道の邊の茨《うまら》の末《うれ》にはほ豆のからまる君をはかれか行かむ(四三五二)
  蘆垣の熊所《くまど》に立ちて吾妹子が袖もしほほに泣きしぞ思《も》はゆ(四三五七)
  大君の命かしこみ出で來れば我《わ》ぬとりつきていひし子なはも(四三五八)
  筑波嶺のさ百合《ゆる》の花の夜床《ゆどこ》にもかなしけ妹ぞ晝もかなしけ(四三六九)
  松の木《け》の並みたる見れば家《いは》人の吾を見送ると立たりしもこり(四三七五)
  津の國の海の渚に船よそひ立出《たしで》も時に母《あも》が目もがも(四三八三)
(181)  ひなぐもり碓氷の坂を越えしだに妹が戀しく忘らえぬかも(四四〇七)
  小竹《ささ》が葉のさやぐ霜夜に七重|着《か》るころもに益せる子ろが肌はも(四四三一)
 右に擧げたのは一例にすぎないがいづれも中央人の作と大いに趣を異にした素朴な純情が歌はれてゐる處に東歌と同樣の價値がある。この方が東歌より訛語が多いことは注意せられる。用字も奉つたままらしい。
 以上で第四期の個々についてはほゞ述べつくした。再び顧れば長歌は家持の條でのべた如くもはやすつかり下り坂になつたと見てよい。以後長歌は申譯的に勅撰集に採られるだけで、今樣の新形式に代られる。技巧に於いては繰返しの少くなつたことが目立つ。
 對句も家持や福麻呂に述べた如く繰返しの對が殆どなく一部分に繰返しの少しあるものが多い。枕詞も使用が固定してきて貧相になつた。序詞も防人歌などに特色がある外は大體概念化したものが多い、句絶も前代と大差なく、ただ三句絶の増したことは時代を示してゐる。家持の代表作
  春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも
などもさうである。
(182) 内容についても、前代などは憶良・旅人・赤人と有名な歌人多く種々の方面にわたつて樣々の傾向を示してゐたのが、この時代は家持を中心としての歌が大部分を占めてゐるので、前代の旅人及びその周圍の人々の傾向を更に明かに示すといふやうになつてきた。歌が社交の具となり贈答の用に供せられることが益々盛んで相聞が最も多い。勿論その中には純粹の戀もある。が、その外の友人・親族間のが少くない。それも卷三・四・八では尚純粹のが多いが卷十七以下になると贈答が歌壇の中心をなしてぬる、而も特に誇張の文飾多い漢文などを交へた是等の人々の歌に對する態度は想像に難くない。坂上郎女の
  常人の戀ふといふよりはあまりにて我は死ぬべくなりにたらずや(卷十八・四〇八〇)
など一つにはその性格・年齢にもよるが又歌に對する態度が感じられる。家持が妻の爲代作し都に送つたのもある。かかる相聞歌が増すと共に宴席の歌もいよ/\多くなつた。宴は大臣その他高官の人の家ではもとより、或は郊外で、或は豐浦寺の尼の私房にさへ行はれた。
  秋萩は盛すぐるを徒に挿頭にささずかへりなむとや(卷八・一五五九)
といふ意味ありげな尼の歌がある。地方では都から人が來たり去つたりする時の宴も多かつた。又旅行中、船上などでも歌をよみ、古人の詠を誦する。甚しきに至れば宴の爲にかねて歌を作つ(183)ておいたり、句に二案をおいて客の男女いづれの場合にもよいやうな用意までしたのもある。
 從つて題詠のあることも怪しむに足りない。自然、歌枕といふやうなものができる。
  みちのくの眞野の萱原遠けども面影にして見ゆとふものを
は王朝の人と同じく机上の歌枕である。又助詞を封じたやうな遊戯的なものもある。
  ほととぎす今來鳴きそむあやめ草かづらくまでにかるる日あらめや(卷十九、四一七五)
  わが門ゆ鳴きすぎわたるほととぎすいやなつかしく聞けどあき足らず(卷十九・四一七六)
前者は「モノハ」後者は「モノハテニヲ」の助詞を故らに用ゐないのである。かういふ有樣であるから同じ自然でも題詠的な自然、庭園的な自然をよむことが多くなつてゐる。かうして後の勅撰集へと近づいてゆくのである。
 
(184)   第四章 特質
 
     第一節 萬葉調
 
 古の哥はふつつかなる如くしてよく見ればみやびたり
 後の哥は寛なる如くしてよく見ればくるしげなり
 古への哥ははかなき如くしてよく見ればまことなり
 後の哥はことわりある如くしてよく見ればそら言なり
 古への哥はただことの如くしてよく見れば心高きなり
 後の哥は巧みある如くしてよく見れば心あさらなり
 うたちふ物はさきが如くしてとほしろくものよわらに聞えてつよし
これは眞淵の萬葉集大考の中に見える後世振との相違についての論であるが、いはば萬葉調の一つの解釋といふことができよう。
(185) 一體萬葉集の特質といふか本質といふか、或は價値といつたものは、文化史上色々數へられるにちがひないが、これが文學作品であることを以つてすればその文學性が最も重大な關心事でなければならない。それは萬葉風といひ萬葉調といはれるものである。中世的觀點から獨立して文學作品として眺められるやうになつて以來、古今や新古今と對立させてあげつらはれてきたものである。
 文學といふとすぐ内容と表現といふことを考へて、まづ萬葉精神といふやうなものが第一の問題にされがちである。併し乍ら文學といふものは理論でなく作品そのものを味ふことが最初であり又同時に最後の目的であると思ふ。萬葉の精神は作品そのものゝ中にあり、換言すればその表現の中にあるのである。歴史や哲學に於いては、ある文獻の意味を解くことは、その文獻のもつ歴史的事實や思想を明かにする手段と言へようが、文學では中味の思想や事實よりも如何にそが表現せられてゐるかが問題である。
 萬葉調といふ詞は「けるかも調」といふやうに何か外形的なものを指すやうに思はれ易いが、赤彦なども言つてゐるやうに内面の現れとしての形である。「調」は響き乃至節奏であるけれども内外分つべからざるものである。この意味に於いて前の眞淵の言葉を見直してみよう。一言に(186)して覆へば
 いにしへの世の哥は人の眞ごころ也後のよのうたは人のしわざ也(大考一)
といふことにもならう。かういふ理解を以つて近世の萬葉振の歌人達は進んできた。明治に入つて子規の寫生説と結びつき、左千夫・節を經て赤彦にうけつがれてきたのである。其等の人達の意見にも出入があるが一々の經緯を述べる暇はない。併しかうして傳はつてきた萬葉調といふものの特質を箇條書にするとか、或は具體的に説明するとかいふことになると容易なわざではない。否文學作品をさう簡單に型の中に入れることはそも/\誤であり、結局長年の修錬によつて體得すべき直觀の問題であらう。例へば韻律學が進んで萬葉集の音樂的特性が明かになる時が來たにしても、それで萬葉調がすべてわかつたとは言へないであらう。
 或は單純素朴といひ、順直重厚といひ、或は雄健簡勁といふもろ/\の特質も所詮作品に没入してはじめて悟入すべきもの、外部から抽象的な修飾語を列ねることは遂に周圍のぐるぐる廻りにすぎないであらう。
 ここにはそれた近づくべき一つの手引として、その表現を形造る言葉遣や歌の形式修辭或は表現對象たる素材について解説を加へようと思ふ。
 
(187)   第二節 言語
 
 萬葉集の言語がどういふものであるかといふことを説明する爲には上代日本語が如何なる性格を有するものであるかをまづ言はねばならない。是については近頃、國語史の側から述べられたものも二三あり今ここに詳しく説くべき餘地もない。唯極めて大まかに言へば、後世に比し、音韻組織の細かなこと、熟語構成力の強いこと、文法上助詞助動詞等における若干の出入などが數へられる。
 音韻組織の細かな」といふのは前々章用字法の項で特殊假名遣として述べたやうに、音韻の觀念が吾々より細かく、清音だけについても六十位の音を識別して用ゐたことである。その外、音について今一つ注意をしておかねばならないことは、當時の發音の實際の有樣である。例へば
  紫草《むらさき》のにほへる妹を憎くあらばひとづまゆゑに吾こひめやも
を今吾々は
  murasakino nioeru imoo nikuku araba hitozuma yueni ware koimeyamo
(188)と訓んでゐるが傍線の部は當時と今と發音がちがつたと推定せられるのである。箇條書にすれば
 一 ヰヱヲは、wi we wo の音價をもつ
 二 ハ行は語中語尾(助詞助動詞を接したまゝで)に於いてもワ行乃至ア行の音にならず、且つその子音は兩唇摩擦音である
 三 アウ・オウ・エイ等の二重母音もオ・エの長音にならずもとのまま
 四 サ行タ行の子音にも差があるらしく殊にチ、ツは ti tu であつたらしい
 五 特殊假名遣で類を異にするものは發音にも違ひがある
 六 清濁も今とは必ずしも同じでない
などがその著しいもので、而も細部に到れば尚わからぬ方が多い。從つて今吾々は當時の人の發音通りの歌の發音を復原することは不可能といつてもよい位ではある。併し敢てここに言ひたいのは、歌の觀照にあたつて或は音樂的に見ようとする場合などに、稍もすれば現代流の發音を以つてする傾があることに對して一應の注意をうながしておきたいのである。一首の中に於ける音律の相對的な關係を見る場合にはさして障りはないかもしれないが、さもなくて或は鋭い音だの重い音だのと一々の音を分析説明するやうなことになると滑稽にさへ思はれることがある。かの(189)「野」をあらはす音についても歌人の方では「ノ」ではまのびがして「ヌ」でないと感じが出ないと言ふやうな意見もあつたやうである。これは古くは皆「ノ」と訓み江戸中期以降甫めて「ヌ」と訓み出して吾々もさう教へられてきたそれに馴れた感じから言ふにすぎないので本末顛倒も甚しいと言はねばならぬ。(尤も私はこれについて「ノ」と發音すべしと斷ずるのではない)
 次に熟語構成の自由といふのは、吾々は現代語に於いて熟語を作る場合、漢字の力を借りなければ殆ど不可能であるのに反し、純日本語を二つ組合せて容易に新な語を構成し得たことを指すのである。春山とか夕川とかいふやうに自由に實辭を連ねて一語を構成し得る力である。これは後に述べるやうに歌なるが故殊に自由であつたとは考へられるが、後の世から見れば著しい現象である。右のやうに實辭(即ち觀念語)を重ねたものを橘守部は長歌撰格・短歌撰格で連實と言つてゐる。又「稱辭・飾言をそへて美麗くも嚴そかにも雄々しくもいふ」一群の熱語――守部は光彩と名づける――の構成力もゆたかであつた。常宮といふやうに形容語の加はつたものや、接頭語のついたものも是に屬する。この接頭語は上代に於いて最も盛に使はれたやうである。
 名詞につくもの
  み(み雪) ま(ま玉) たま(たまくしげ) 大(大殿) 豐《とよ》(豐御酒) みづ(みづ穗)(190) くはし(くはし女) ふと(ふと幣《みてぐら》) を(を野)  さ(さ霧)
 動詞につくもむ
  さ(さをどる) い(い行く) うら(うらなく)
 形容詞につくもの
  さ(さ遠し) うら(うら悲し) か(か黒し) ま(ま悲し)
括弧の中に一例をあげて主なものを示したにとどまり是等の色々の組合せが考へられるわけである。遂に豐旗雲・夕浪千島といつたものまでも生むやうになつた。ここまでくれば歌としての特別の技巧と見るべきであらう。動詞の場合でも
  あり通ふ 來鳴く 咲き散る
などになると既に一語となつて特別な意味乃至語感を與へる。
 次に文法上の問題は、形容詞の已然形語尾「けれ」がまだ發達してゐないとか、下一段・ハ行上一段の明かな例が見えないとか、「あり」に「なり」が接する時連體形よりせず終止形より連るとかいふ細かいことが多い。助動詞では「る・らる」の他に「ゆ・らゆ」のあつたこと(現代の所謂やあらゆるなどに化石として殘つてゐる)、敬語の「す」が四段に活いたこと、散る――散(191)らふの如く四段活用の未然形についてハ行四段に活く「ふ」といふ繼續を表すといはれる語のあつたことなど注意すべであらう。助詞では、主語につく「の・が」に對して「は」の用法が後世よりはつきり分れて居り、疑問詠嘆の「や・か」の中「や」の方には反語的用法があり、確定の條件を表す場合「ば」なしに用ゐられることなど可なり注意されてよいと思ふ。其地、動詞の名詞形とでも言ふべきものに、く(四段未然形に)らく(其他の終止形)が屡用ゐられ、又詠嘆などをあらはすこともある。中古語とのごくあらい差異はこんなものであらう。併し乍ら萬葉集は一つの文學作品であつて、且つ又音數律を形式的制約にもつ歌である。さういふ點から見て、萬葉集の用語は必ずしも當時の口語と同じものと見做すことはできないと考へられる。
 言ふまでもなく上代の國語資料は乏しく、萬葉集が最も豐富な材料であるのにそれを手懸りとし乍ら口語でないと言ふのは矛盾のやうであるが、同じ集中からもさういふことを推定し得る若干の糸口はあるのである。例へば一つの名詞にしても、集中「鶴」を詠じた歌は多いが假名書のものはすべて「タヅ」とあつて「ツル」とない。然るに鶴といふ字は完了助動詞ツの連體形ツルの假字として屡々用ゐられてゐるのである。ツルと言ふ語の存在もこれにより明かなのに歌には用ゐられないと考へられる。同じやうなことは「蛙」の場合でも歌にはカハヅとのみよまれ、楓(192)の假名としては「蝦手《かへるで》」がある。又「蜻蛉」は蟲の名ではアキヅてあるが、借訓にはタマカギルのカギルに蜻字が用ゐられる。即ち後世のカギロ・カギロフと同じ語と思はれるものも當時既にありはしたのである。題材が歌に詠まれるに不適當なものもあるにしても、同一物に兩語があつて一方のみたま/\集中に出る場合、單にたま/\とは考へられないであらう。語の新古雅俗に對する選擇を物語るものと思はれる。又外來語の問題にしても、當時の文化状態からすれば漢語(梵語系統の語の漢譯をも含む)の輸入も夥しいものと考へられる。然るに卷十六の戯笑歌を除いてはさういふものは歌には用ゐなかつた。却つて大和詞を極めて自由に驅使したのである。次に音數律の制限は語法の破格を許したことも考へられる。
  淡路の野島の崎の濱風に妹が結びし紐吹きかへす
  釆女の袖吹きかへす明日か風都を遠みいたづらに吹く
などはいつも言はれる例である。
 歌に於いて雅語を用ゐることは後世いよいよ甚しくなるばかりで、必ずしも後世との著しい差とはいへなからう。それでも全體的に見て、古今集が趣向の歌であり萬葉集が素朴な歌が多いことは言ふまでもなからう。ところで具體的にその用語の種類を分析してみると萬葉集では名詞・(193)動詞が用ゐられること多く、助詞・助動詞は比較的少くて一首を構成する。觀念語ばかりをつらねて助辭を借りずに一首をなせば表現力が強くなり、古今などの優麗な調と對照をなす所以である。而もその名詞・動詞が前述の如く結合力――熟語構成力が強い。さうして逆に助詞は用ゐなくても歌は作れた。遊戯的な例ではあるがかの家持の
  時鳥今來鳴きそむあやめ草かづらくまでにかるる日あらめや(卷十九・四一七五)
  我門ゆ鳴きすぎわたる時良いやなつかしく聞けど飽き足らず(卷十九・四一七六〕
も亦その一面を示すものと言へよう。(−八三頁參照)係結では萬葉は「か」が最も多く「ぞ」が之に次ぐといふありさまで、「ぞ」が非常に多くなつた古今以後とは趣を異にする。例へば
  かはづ鳴く甘南備川にかげ見えて今か〔傍線〕咲くらむ山吹の花(卷八・一四三五)
を本歌とした
  逢坂の關の清水にかげ見えて今や〔傍線〕引くらむ望月の駒(拾遺集)
に、或は又
  うちきらし雪は降りつゝしかすがにわぎへの苑に鶯鳴くも(卷八・二四四一)
を拾遺集に採つて末句を「鶯ぞ鳴く」と改めてゐるが如き、或は前(一一一頁)に述べた人麻呂(194)集の「小松がうれゆ沫雪流る」を新古今集に「小松が原に沫雪ぞ降る」とせる如き、この間の消息を物語るものである。
 是を結句の方から見ると名詞止や動詞止より助動詞、殊に「む・らむ・けり」などで止めたものと助詞止とが多い。助詞では「かも・も」を合すれば八百首近くまでこれである。古今集では係の結びで止めたものが多く、こゝにも萬葉集の歌の性質が可なりはつきり見える。助動詞の「つ」で止めたのは古今に一つもないが萬葉には可なりある。字餘が第五句に多いことは全句を重々しくする働をしてゐるであらう。
 枕詞及び序詞の使用も萬葉集の特質の一つである。其等の發生は更に前の時代に屬するがその發達は萬葉時代を頂上とし、次の時代はもはや形式的摸倣にすぎなかつた。集中に於けるその椎移や作者による扱方については前章に述べた如く、人麻呂のやうな独創的歌人を除いては既に多分に固定化の傾向をもつてゐる。枕詞の意味などは既にわからないものも可なりあつて、萬葉人の一つの解釋と考へられるものも見える。「あしひき」など語源からはなれて「足を引く」意に解したと思はれる。(「萬葉の作品と時代」六五頁參照)假名の用法からして兩立しないわけなのだが實際は兩樣に用ゐられてゐるのである、併しとにかく、萬葉集に於いては枕詞も序詞も生きて(195)用ゐられたといへよう。然るに古今集になれば「ももしきの・あしひきの・ひさかたの」など今日までもよく知られてゐる數種のものに固定してしまつた。さうして縣詞や縁語の方へと技巧がうつつて行つた。
 歌の特質をなす要素としては尚、歌の形式殊に句切れ、繰返しなどがあるが是等も第二章の記述にゆづつてこゝには省く。
 
(196)     第三節 四季の景物
 
 集中の歌が雜・相聞・挽歌に分たれるのが古い分類法だといふことを述べた、今ほゞこの分類にしたがつて、其の素材をなすものを見よう。まづ雜歌では自然を詠み旅行を歌ふものが多い。本節はその前者について述べよう。豫めことわつておきたいのは、詠まれた題材の多少が必ずしも直ちに當時の好尚を示すものでもなければ、又後世の歌集との用例の多寡が直接何の意味をももたないかもしれないことである。其等の用例の數字的大小を以つて簡單に結論を出さうといふ意志はないのであつて、唯傾向として如何なるものが萬葉集では扱はれ、如何なるものが扱はれなかつたかを見ようとするにすぎない。而もこれもただ無駄骨折には終らないと思ふ。
 動物 動物にかぎらないが、非常に各種のものが題材になつてゐることは歌が作られるものでなく生れたものであることを示すわけであらう。後世の所謂花鳥風月を友とする歌になると題材の固定がおこるのである。まづ鳥に於いては時鳥が最も多く百五十三首も詠まれてゐる。併しこれは純日本的なものといふよりは、多分に支那的な感じのするもので、古今以後にもその一聲を(197)求めて夜を明すことは上代よりも更に普通なことであつた。次に雁がその半數足らずで、これも後世にも歌はれてゐる。鶯もこれに近く、唯萬葉後期に多くなつてくるが、むしろ古今的な感じの鳥である。是等は主として聲を賞するもので、鶯に春の訪れを喜び、時鳥に夏の短夜を嘆き、雁に秋の夜寒を感じることはあながち王朝人に限らないのである。これについで鶴や鴨が出てくるが萬葉集らしい感じの鳥である。黒人の
  櫻田へたづ鳴きわたるあゆち潟潮干にけらしたづ鳴きわたる
や赤人の有名な
  和歌の浦に潮滿ちくれば潟を無み葦邊をさしてたづ鳴きわたる
がのこり、鴨にも
  葦邊行く鴨の羽がひに霜ふりて寒き夕は大和し思ほゆ
  吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして
のやうな佳什がある。鳴く聲のみならず姿をも賞したやうである。古今にも「たづ」はあるが鴨はない。その他
  筑波嶺にかが鳴く鷲の音のみをか鳴き渡りなむ逢ふとはなしに(卷十四・三三九〇)
(198)  烏とふ大をそ鳥のまさでにも來まさぬ君を子ろ來《く》とぞ鳴く(卷十四・三五二一)
  婆羅門の作れる小田を食《は》む烏|瞼《まなぶた》はれて幡幢《はたほこ》に居り(卷十六・三八五六)
の如き後世の歌集には題材となり難い鷲や烏も扱はれてゐる。
 獣類では馬が多く八十三首の用例がある。馬の用ゐられた佳作は既に(一二五頁一二七頁參照)述べたが
  くべ越しに麥|食《は》む小馬のはつ/\にあひ見し子らしあやにかなしも(卷十四・三五三七)
  崖《あず》の上に駒をつなぎてあやほかと人妻《ひとづま》子《こ》ろをいきにわがする(卷十四・三五三九)
などは後世の歌集には見られない萬葉的な特色をなしてゐる。鹿は古今集では唯一つといつてもよい獣類であるが本集には五十九首詠まれてゐる。(八七頁八九頁參照)唯萬葉時代には狩獵の對象にもなつたので、その場合には肉を食ふべき獣の總稱の「しし」といふ語であらはれてくる。其他、牛・犬・むささび・虎などもあるが、虎は
  虎に乘り古屋を越えて青淵に鮫龍取りこむ劔太刀もが(卷十六・三八三三)
といふ作つた歌や「韓國の虎とふ神」(卷十六・三八八五)などに見るやうに想像上の存在であつて、山野に出没するものではなかつた。實際生活に恐れられてゐるものはその名によつてもわ(199)かるやうに狼(大神)であつた。因にこの頃已に十干十二支が入つて居り、人名にその生年の十二支配當の動物名をあててゐたことが前田太郎氏によつて指摘されてゐる。(「外來語の研究」參照)人名に刀羅とか羊とかいふのが古文書に見えるのはこの關係である。
 古今集以後秋の野に鳴く虫は鹿と共に秋の景物をなしてゐるが、萬葉集に於いては鈴虫とか松虫とかいふ分化はせず蟋蟀が末期に少々見える。「かはづ」は萬葉人にひろく賞玩されたらしく吉野はもとより、佐保川神奈備川飛鳥川とどこにでも詠まれる。螢を詠んでも戀によせるやうなことは王朝趣味であつて上代にはない。魚介類は古今に一つもないが萬葉には鮎とか鮪・鱸・鮫など十數種見える。そのうちで特に鮎が群を拔いて多く、十五首も詠まれてゐる事は注意されてよい。鮎といふものが日本にのみ産するものである。鮎そのものの風格が最も日本的なものであり、それが萬葉にかくの如く多く詠まれてゐる事は偶然でないやうに思はれる。
 植物では「はぎ」を詠んだものは百四十一首。大體奈良朝以後に多く、特に天平歌人の愛好した素材と言へよう。「榛」字で現されてゐるものを、或は萩とし或は別とみようとして説があつて、更に播磨風土記の記述によつて複雜化されてゐた。併し榛は染色用の木であり、萩は花を賞する草木である。用例を詳しく見るとき其の別は看取されるのであつて、それぞれ文字通りに解す(200)ればよいと思ふ。(「萬葉古徑」一三一頁參照)榛《はり》は古今以後無いものであり、一面萬葉人が檜原や槻群など花なき木を愛したことと共に注意すべきであらう。梅も多く見えるが輸入のものであり、後世もずつと初春の景物に無くてはならないものになり、必ずしも萬葉集の特徴的な木ではない。櫻も可なり歌はれてゐるが後世のやうに咲くを待ち散るを嘆くといふ風に固定してはゐない。
  ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてこゝにつどへる
が新古今集に採られて「櫻かざして今日もくらしつ」になつたのはこの梅と櫻の重點の相違を示すもので、又柳が萬葉では梅と並べられてゐることも面白い。橘も支那的である。椿・馬醉木・桃などが當時のものとして特徴がある。一例をあげておく。
  巨勢山のつらつら椿つらつらに見つゝ偲ばな巨勢の春野を(卷一・五四)
  磯かげの見ゆる池水照るまでに咲けるあしびの散らまくをしも(卷廿・四五一三)
  大和の室生《むろふ》の毛桃もと繁く言ひてしものを成らずはやまじ(卷十一・二八三四〕
藤・山吹・卯の花‥女郎花などもあるがこれらはむしろ古今的なものと云へよう。菊のないのは注意すべきで、はやくから不思議がられたものとみえ後水鳥院御集に
  奈良の葉の世のにることにもれし菊梅を忘れしうらみ〔五字傍線〕《るるためしイ》なしやは
(201)といふ御製を拜する位である、「もみぢ」について注意すべきは萬葉集では「黄葉」の文字が多く用ゐられ、「赤」の字二例、「紅」の字一例あるのみで、平安朝に入つて紅葉が多くなつてゐる。一つには詩の影響もあらうが又一面當時の人の感じ方を示すともいへよう。
 天象 月を詠んだものの多いことはいづれの世も變らぬ處である。併し古今以後のやうに春は朧月秋は明月といふやうな固定化は萬葉時代に見られない。日を詠み込むことは萬葉の特徴といへよう。古今にも
  峯高き春日の山に出づる日はくもる時なくてらすべらなり(古今集 賀)
のやうな比喩的なのはあつても「寄v日」と題した
  六月の土さへさけて照る日にもわが袖干めや君にあはずして(卷十・一九九五)
のやうなのを初めとして「朝日てる」といふやうな語は見えない。星は日本文學を通して案外詠まれなかつたものである。七夕傳説に關係したものはなか/\多いが、其他には漢詩の燒直しの「星の林」とか、又「夕づつ」といふ語が一寸見える位にすぎない。
  伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹《ぬじ》のあらはろまでもさねをさねてば(卷十四・三四一四)
は東歌なればこそともいへるが、とにかく虹を序に用ゐるなど珍らしい。其の他風・雨・霜・雪(202)など多く詠まれてゐるが今一々あげない。「露霜」といふ語を特に「つゆじも」と訓みならはせ、むつかしい説などあるがやはりあたりまへに「露」と「霜」との事と見る方がよいやうである。霧と霞とが後世のやうに春と秋とに分れず
  春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る(卷五・八三九)
といつた用法もある。
 四季の順行といふことは我國の位置が、諸外國よりはるかに感じ易くなつてゐる、上代人もやはり春夏秋冬をめぐり來る景物によつて知つた。雪消えて佐保内に鶯が鳴き霞立つ春が訪れる。大宮人達は梅をかざして遊ぶ。梅はすぎ櫻・馬醉木が咲くのもしばし、やがて木のくれ繁くなつて時鳥の聲聞く頃ともなれば山々には白衣が干される。更衣も日本人には相當の關心事であつた。川にはかはづが聲振り立てゝ夏の暑さも慰められるころもすぎ、木陰の蜩も一時、空は澄み月明かな秋がめぐり、雁は歸つてくる。高圓の野の邊には萩が咲きををり、妻喚ぶ鹿の聲も悲しく流れてくる。やがて春日山は色づき夜霧の中にいづ方からか鴨の聲がおぼほしくきこえる、冬が來る。都と鄙の違ひはあるが、これが萬葉人の生活であつた。この間に旅もし戀もしたことである。日々の營みはももとより。生活の中に自然があつた。而もそれに甘えたり感傷的になつた(203)りはしない。王朝人になると帳をたれこめて、暦の上で春がくれば花をしたひ、秋がくれば月を待つといつた風に季節が先で風物が後とでもいへる生活に沈んでゐた。古今以下の撰集はその世界をあらはし、そこに生じた歌學はひいて連歌・俳諧の式目に季の觀念を傳へたのである。尤も萬葉人とても末期になれば
  立夏四月既經1累日1而由未聞2霍公鳥喧1因作恨歌二首
といふ詞書(卷十七・三九八三)や
  居りあかし今宵は飲まむ時鳥明けむあしたは鳴きわたらむぞ(卷十八・四〇六八)
   二日應2立夏節1故謂2之明旦將1v喧也
によつて季と歌とを固定させてゆく傾向の既に兆してゐることはわかるであらう。
 最後に山川湖海田野の題材となるものなどに至ると一々擧げられない。次章に述べる如く人々の旅行によつてさういふ自然との接觸が多かつたのは勿論である。それは懷風藻に見えるやうな仁山智水とは關係なく、國士や人々の性質からして山川に眺め入つたと見るべきであらう。田野の平凡なるに比し瀧つ流れの多く注意をひいたのは尤もである。市の歌垣とか温泉とか驛などをも序に擧げておかう。
 
(204)     第四節 歌枕
 
 旅の文學といへば西行・宗祇・芭蕉と誰しも言ふやうになつたのは後世のことである。都に居ながらにして白河の關を越えてみたりした王朝人、京畿の天地に跼蹐した人達の先活から生れた文學への對照として考へられるものである。然るに萬葉時代は特定の旅の詩人はなかつたかはりに、誰しも旅に出でた。みくさ刈り葺き宿る假庵に、椎の葉に盛る飯に餓をしのがねばならないやうな困難も多かつたらうが、上代人はとにかく歩いた。それは一つには行幸巡狩の多い爲でもある。又一つには地方官は揚名の官であり得なかつた爲でもある。驛制が布かれて直接にその恩惠に欲する者は少いにしても、これが一般交通に寄與する處は多かつたらう。併しかゝる表面的な原因からばかりでなく、上代人の性質が自然を愛好し、それに直接觸れて歩くといふ點が考へられる。歌にさういふ自然を詠んだのも偶然ではない。
 さて旅の歌とはつきりわかるのは題詞左注も勿論乍ら、地名――或は歌枕と言つてもよからう――を詠み込んだ作の多いことにもある。この場合、逆に地名の詠み込まれたものはすべて旅の(205)歌とは言へない。凡そ次のやうな場合が考へられる。
イ、歌枕の現地に於いて歌枕を對象としたもの
 一、地名あるもの
  大伴のみ津の濱邊を打ちさらしよせくる浪のゆくへ知らずも(卷七・一一五一)
 二、地名なきもの
  家思ふといをねず居れば鶴が鳴く葦邊も見えず春の霞に(卷廿・四四〇〇)
ロ、歌枕の現地に於いて歌枕以外を對象としたもの
 一、地名あるもの
  大伴のみ津の濱なる忘貝家なる妹を忘れて思へや(卷一・六八)
 二、地名なきもの
  潮待つとありける船を知らすして悔しく妹に別れ來にけり(卷十五・三五九四)
ハ、歌枕の現地以外にあつて地名あるもの
 一 歌枕を對象としたもの
  いざ子ども大和へ早く大伴のみ津の濱松待ち戀ひぬらむ(卷一・六三)
(206) 二、歌枕を對象とせざるもの
  大伴のみつとはいはじ赤根さし照れる月夜に直にあへりとも(卷四・五六五)
萬葉時代に於いてはイ・ロの場合が絶對的に優勢であるのは言ふまでもない。旅の歌といふのもこの意味である。後世になるとハが專らとなる點に大きな差を見るのである。そこで同じ集中でも、イの一に屬するものが最も多く、殊に萬葉集の完成期である第二期に多いことは注意せられる。これに反しハに屬するものは集中少く、且つ末期の作品にのみ見られる。さうして古今集になるとわざ/\立てられた覊旅の部はわづか十六首、それも古歌が多くを占める。他の卷にも歌枕の詠み込まれたのは相當あるが、歌枕は量が限定されて、花といへば吉野、紅葉といへば立田といふやうになつてしまふ。萬葉集ではたとへば萩を詠んだ地が二十一ケ處に及ぶのと思ひ合せれば、その傾向はわからう。これはやがて
 よし野山は何の國ぞと人たづね侍らば、ただ花にはよしの、紅葉にはたつたをよむことと思付てよみ侍らんばかりにて伊勢やらん日向やらんしらずと答べし。いづれの國と才覺はおぼえて詮なし。おぼえんとせねどもをのづからおぼえらるれば吉野は大和と知也。
と正徹をして言はしめるに至る。以つて中世に至る當時の歌人達の好尚を見るに足らう。勿論情(207)趣を重んじ幽玄を尊ぶ中世歌人達にとつて、便艶な餘情を含まない地名などを連ねるやうなことをしないのは當然ではあらうが、併しさうした態度が、一面實感から遊離した觀念の遊戯に墮する危機をはらむ事は考へられる。
 かういふわけで王朝以後の歌枕は、實際その地に臨まない觀念上の情景であるから、それの現地についての研究は大して意味が無いのであるが、萬葉集の場合は全く事情を異にするが故に、土地の變遷の爲に故地の推定は甚しく困難であるにもかゝはらず追究されなければならない意義をもつのである。
 さて萬葉集中に於ける地名の分布には可なりはつきりした背景が考へられる。まづ歴代王城の國大和が第一位にあるのは文化の中心として當然のことであらう。是に次いでは畿内諸國であるが、或は西交通の要津たる難波、或は東、神宮へ又東國への道にもなる伊勢、或は北、山城近江を經て北陸へといふやうに交通と關係するか、又都のあつた恭仁・滋賀との閥係も考へられよう。山城でも今の京都は少しも出てこない。もつと南の方や西の方である。近年の發掘により東郊に寺院のあつたことなども推定せられたが、やはり文化的には未だ鄙の域を脱しなかつたのだらう。地方では大宰府を中心にした北九州が大陸との交通の要衝にもあたり、所謂遠のみかどと(208)して一つの文化圏をなしてゐた。其他では關東や越中や石見といふやうな地方が、その地方官として下つた人々、或は高橋蟲麻呂や大伴家持や又恐らく柿本人麻呂やといつた人の作品中にあらはれてくる。關東はそればかりではなく東歌といふ特別の取扱をうけてゐるやうに、習俗言語の隔りが都人士の注意を惹いてゐたのでもあらう。是等の地方と都とを結ぶ交通路線上の地が次に注意される。潮戸内海沿岸などこれである。
 最後に重要なのは前にも言及した行幸に關係ある地方である。一體行幸御幸のこの時代程多いことは史上稀なことである。その御目的はもとより「國見」であり巡狩であるにしても、亦或は伊豫の湯に、牟漏の湯に幸したまひ、或は吉野の離宮に屡々いでますのは單に政治上のことと拜し得ざるは言ふまでもない。この泰平の御代に、みゆきに供奉する者の詠の多いのは人麻呂以下已に見た如くである。
 今持統天皇紀を案ずるに、御在位の約十年間に吉野には三十一度も行幸あり、遠くは四年に紀伊の湯に、六年には伊勢に、御讓位後三河にといふやうな記事を見る。殊にこの吉野は年中いつといふことなく賞で給うたものと拜されるが、初夏四月、中秋八月が最も多い。御駐輦は數日乃至十日餘である。かういふ折にはいつも多くの供奉があつたことは想像に難くない。遠い場合で(209)あるが、例へば大寶元年の紀伊の行幸は陸行でなかつたので御船卅八雙を作らしめられたのである。又陸路の場合には豫め行宮を造營せしめられることが例のやうである。
 行幸が最も太規模な人の動きである。これについで地方官の赴任歸任巡狩も大きい交通の一つである。私人の交通は或は商用とか物詣でとかもあらうが又遊山もあつたらしい。かういふものは文獻にあまり殘らないから注言され難いのである。那須の湯に病を養つた小野老のやうな場合は偶然文書に殘つた一例である。温泉が早くから出てくるのも、それに浴しにゆく人があればこそである。旅行とは言へないが、都の大宮人――授刀寮の舍人が野へ遊びに出て罰せられたことも見える、王朝人が若菜を摘みに野山にまじるといひ、散るを惜しんで花蔭に立ちやすらふといふのとは形がちがふ。
 
(210)     第五節 なげき
 
 相聞や挽歌についてその素材を分析することは稍意味が無いかに見える。相聞といっても親子の贈答などはおき、挽歌も純粹なものを取つていへば要するに戀と死に對するさまざまな角度からの詠嘆につきるのであるから、むしろ素材といふよりも表現に就いて論ずべきだと思ふ。
 戀と死といふ感動の兩極とも見えるものを同時に述べることは矛盾のやうであづて而も極めて類似の性質をもつものなのである。
 古代人は戀に對して「戀はなげきである」と考へてゐた。戀が歡喜であると考へるのは萬葉精神に遠いと言はねばならぬ。戀とはあるものに對して惹かれる心である。「……に戀ふ」といふ場合が大部分で「……を戀ふ」といはないのもこれを物語るものである。相手の方に心がひかれる、こがれるものなのである。しようと思つてするのではなく、しないでは居れない心である。
  ますらをや片戀せむと嘆けども醜《しこ》のますらをなほ戀ひにけり(卷二・一一七)
己れに對しかく醜いますらをかと叱つてみるがやはり戀しくてたまらない。又「てむ」「なむ」(211)といふ助動詞は前者が意志の加はつた未來に、後者は「夕されば潮滿ち來なむ」のやうに自然現象に多く用ゐられるといふ別をもつものであるが戀の場合には「戀ひわた切なむ」といつたやうに「なむ」が用ゐられて「てむ」は使はれない。ここにも亦上代の戀に對する考へ方を見ることができる。
 戀は苦しい。これを忘れようとする。
  萱草《わすれぐさ》我紐につく時となく思ひわたれば生けりともなし(卷十二・三〇六〇)
  萱草垣も繁《しみゝ》に植ゑたれど醜の醜《しこ》草なほこひにけり(卷十二・三〇六二)
草を身につけてこれを忘れようとしたのである。而もその効《しるし》もなく思ひはもえるばかりで遂には
  吾ゆ後生れむ人は我が如く戀する道にあひこすなゆめ(卷十一・三三七五)
と悲痛な叫びを出す。更に
  春されば先づさき草の幸くあらば後にも逢はむな戀ひそ吾妹《わぎも》(卷十・一八九五)
  草枕旅に久しくなりぬれば汝をこそ思へな戀ひそ吾妹(卷四・六二二)
のやうに自分が思ふ相手に對してすら、私のことは思つてくれるなといふのである。忘れな草を珍重する後の世とは大變な違ひではなからうか。
(212) この「戀ふ」といふ詞とほゞ同じく用ゐられるものに「思ふ・偲ぶ」があることは周知のことに屬するだらう・一體「戀」は離れてゐてこの方にひきつけられる心理である。現に嫌つてゐる時はその氣持は消える筈のものである。だから
  年の戀今宵つくして明日よりは常の如くや吾が戀ひ居らむ(卷十・二〇三七)
のやうに言ふ。「偲ぶ」もやはり眼前にある物を縁にして、ない人を「偲ぶ」といふのが普通である。ところでこの「偲ぶ」と相似たものに「嘆く」がある。人麻呂が妻に別れて石見から歸る歌に
  ……夏草の 思ひしなえて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山(卷二・一三一)
といふのが、或本歌では
  ……夏草の 思ひしなえて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山(卷二・一三八)
となつてゐる。前者の方が稍客觀的で、この方を再稿の時に採つたとでもいふ經緯が想像される。また
  遠き妹がふりさけ見つつ偲ぶらむこの月の面に雲なたなびき(卷十一・二四六〇)
  わがせこがふりさけ見つつ嘆くらむ清き月夜に雲なたなびき(卷十一・二六六九)
(213)は同構想であつて「偲ぶ」が「嘆く」になつてゐる。これは又
  冬ごもり 春さりくれば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りてもとらず 草深み とりても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ思努布〔三字右○〕 青きをば 置きてぞ嘆く〔二字右○〕 そこし恨めし 秋山吾は(卷一・一六)
の場合にも言へることなのである。即ち「嘆く」は是等の場合、悲しみ 哀傷の氣持とはちがつて「心に思ふ人を抱いてつい嘆息が出る」といつた意味なのである。
  君に戀ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも(卷四・五九三)
  かきつばた丹《に》つらふ君をいささめに思ひ出でつゝ嘆きつるかも(卷十一・二五二一)
などの例を見ればわからう。
  稻つけばかゞる我が手を今宵もか殿の若子《わくご》がとりて嘆かむ(卷十四・三四五九)
になると「いたはしい」意味にとるのが普通のやうであるが、やはり「逢ふ瀬を思つて息づく」ことに見られるのである。愛憐の情が餘つて長息となる。そこに
  高麗錦紐ときさけて寢るがへにあどせろとかもあやにかなしき(卷十四・三四六五)
  くべごしに麥はむ小馬のはつはつにあひ見し子らしあやにかなしも(卷十四・三五三七)
(214)などの「かなし」と又似たものがある。「かなし」は上代に於いて「悲し」の外に「いとしい」の意味に用ゐるが、この例などはそれ以上の感じである。
 かくの如く戀の苦しみを見てくるとき、やがて挽歌と通ずるものがあることを見ることができよう。挽歌にも傳説上の古人を偲び、或は行路の死人をいたみ、或は己が辭世の歌などもあるが、多くは自分の身寄りの者の死を痛んだのである。逢ふことのできない苦しみである。唯この場合には再び逢ふことは決してできないことを理性によつて教へられてゐる故に戀とはよほど變つてくる。「嘆き」は心からの慟哭であり、「悲しみ」は骨身にこたへる悲しさである。反語的な助詞「や」や疑問の「か」を用ゐて餘情をたゝへつゝ與へられた現實をいぶかり、或は「かも・も・に・を」等の助詞を以つて詠嘆する歌が全挽歌の半數以上を占めてゐるのは、一つには挽歌は内容が比較的單純なのにもよらうが、やはり挽歌そのものの「なげき」の性質によるものといへよう。戀の方では取材の複雜な爲かそこまで傾向がはつきりしない。もとより「嘆き」といひ「かなし」といひ意味内容は隨分隔つてゐることは言ふまでもないのであるが、そこに一つの連りのあることも爭へないであらう。さうして兩者の違ひは大まかに言つて、質的といふよりも量的な違ひと見られないだらうか。ここに面白い問題がある。
〔以下各巻の歌数等の統計表−折りたたみ一枚−があるが省略する。〕
 
 昭利十六年十二月二十日印刷
 昭和十六年十二月廿五目發行  定價一圓五十錢
著書 澤瀉久孝《おもだかひさたか》
  東京市中野區江古田一ノ二〇五四
發行者 篠田太郎
  東京市小石川區柳町一九
印刷者 刈米窪
發行所 東京市中野區江古田一丁目二〇五四番地 樂浪書院
〔2017年8月26日(土)午前9時35分、入力終了〕