文學博士 澤瀉久孝著
 
   萬葉集講話
                     出來島書店
 
〔富士山の写真〕
 
(1)     はしがき
 
 この書は、男女中等學校の初年級生徒諸子の爲に筆を執つたものであります、併し上級の方が讀まれてもよく、また國民學校を出ただけで、實務に就きながら勉強しようとされる方の參考にもならうと思ひます。或はまたそれら諸子のお母樣方や國民學校の先生方に讀まれる事も多少は意識して筆をとりました。中等學校初年級用といふ事を中心にはしましたが年齡により學力により淺くも深くもうけとつてもらへるやうに相當の彈力性はもたせたつもりです。併しともかく若い初學の人の爲にしたものであつて、專門の學問の書ではありませんか(2)ら、學者は勿論、國文學に既に親しんで居られる方や、作歌の道にいそしんで居られる方の爲にする事は全く考へてをりません。
 いはばこの書は國民の教養書としての萬葉集の講話です。この書は萬葉集の解説書ではありません。萬葉集の時代とか作者とか歌數とか研究書とか、さういつた事は述べてゐません。それに就いては別に述べたものもあり、國民學校でも既に解説はうけられた事と思ひますから、一切はぶきました。萬葉集は歌の書物でありますから、歌そのものを正しく會得する事が根本であり、その根本の事を最初から説かうとしたのです。しかも萬葉集は單に歌人が手本にしたり、國文學に興味のある人が(3)讀み味はふといふだけでなしに、苟も日本人と生まれた者は、この歌集に親しみ、こゝにみづからのいのちの泉を汲み、日本人として生まれた歡をしみ/”\味はふべきだと思ひます。即ちそこに私達は「萬葉精神」といふものに觸れなけばならない。しかも精神と云つたとて、歌の内容だけから抽象して考へた萬葉人の生活や思想を知る事ではありません。一首々々の歌として表現ぐるみ、聲調ぐるみに味はふべきもので、一首々々を正しく會得する事が、やがて私達自身の生活態度を正す事になるので、その意味で萬葉集は教養の書として隨一のものであると信じます。
 くりかへして申しますが、この書は歌や文學に心を寄せる方(4)々だけの爲に書いたのではなく、苟も教養を求める、すべての若い方々の爲に書いたつもりであります。即ち萬葉の歌から人間としての私が感じたところを思ひ浮かぶまゝに述べましたので單に歌だけの事を考へてをられる方には餘談が多すぎると思はれるかも知れません。併しその餘談のやうに見える事も、右に述べたやうに、歌からぬき出した思想や生活を述べたのでなしに、聲調ぐるみ、表現ぐるみの精神として説いたつもりであり、また手近な生活の問題も、口先だけの意見でなく、私自身の生活ぐるみの精神として述べてるところに、多少の信念があるつもりです。
 併し萬葉集は古典でありますから古語の解釋が中心になる(5)事は當然で、時に古語の解釋がむつかしすぎると思はれる點もあらうかと思はれます。特に中等學校初年級用としては無理だといふ難もあらうかと思ひます。併し今の――といふより明治以來の――國語教育がやさし過ぎるといふのが私自身まだ中學生であつた時からの持論です。四十年に近い間私はこの持論を少しも改める必要を認めないで今日に至りました。從つてこの書に述べたところは私としては決して無理ではないつもりなのです。もしこれがむつかしいと思はれるならば、それはあなた方があまりにあまやかされてゐるのです。でなくば外國語や數學などに較べて國語を輕視してゐる爲に力がついてゐないのです。あなた方はもつと國語を尊重し國語を(6)勉強しないといけません。私は高等學校や專門學校の入學試驗の採點もした事がありますが、一題の答案に零點を與へた事が度々ありました。數學なら一題全部だめになる事がわかるけれど國語ならば何とか書けるはずだから零點はひどいと思ひますか。日本人がその國語の答案に何とか書けるのは當然ではありませんか。何も書けなかつたらそれこそ白痴でせう。入學試驗は白痴をよりわけるものとは違ひます。高等教育を受けるに足るだけの國語解釋の要點がすべてはづれてゐれば零點を與へるのは當然です。この事に於てはその要點をはつきりさせる事に相當注意したつもりです。もしそれをこまかしいせんさくをしすぎるやうに思はれるなら、今迄のあなた方(7)があまりよいかげんに國語をあつかつてゐたからです。日本人は萬事に察しがよい。察しのよいのは結構ですが、言葉の如きも一語々々を正しく會得しないでよい加減に察してしまふのは惡い癖です。一語を不用意に見た爲にまるで反對の解釋をしてよい氣な批評などしてゐる滑稽な事があります、これはあなた方ばかりではない、一般の人がも少し國語の一語々々を尊重する必要があります。この書ではやゝ詳細に過ぎるやうな點もあらうかと思ひますが、まづ大體に於てこれ位の國語の知識は國民として必要だと思ひます。
 萬葉人がいかに國語を重んじたかといふ事は本文中にも述べましたが、今の日本人はもつともつと國語尊重の念に目覺め(8)なければいけません。萬葉時代にはまだ今日のかながなく、漢字を借りて國語を書いてゐたに拘らず、人麻呂や赤人の歌には一語も漢語を使つてありません。この事は、今日で云へばローマ字を使ひながら外國語を一語も交へないといふのと同じやうなわけですが、今日の人は立派な國字をもち乍ら、無用な外國語濫用をして恥づる事を知らない點では、世界文明國に類のない醜態だとも云へます。一例をとつても「何々デー」などといふ不愉快な言葉が、さすがに京都では使用されないやうになつて來て喜んでゐましたが、最近また「全國防火デー」といふ文字をいやといふ程見せつけられて誠に不快になりました。國語尊重に就いては外國の例もあげたいのですが、長くなるから省(9)略しますが、この點だけでも私達は深く萬葉人に學ばねばならないと思ひます。
 この書は大體の構想を考へた上で、草案を作らずに直ちに筆を執り、一枚の紙をも反故にせず書上げました。私にとつては全く空前のやり方ですが、かういふ性質の書物としては適當な方法ではないかと思つたからです。私が學生時代に沼波瓊音氏の徒然草講話を讀んではじめて私は徒然草に心が惹かれるやうになりました。教室で學んだ徒然草を全く見直す氣になつたのでした。あの講話を今日も一度讀返したら何と感じるかわかりませんが、私にとつて徒然草入門の書としての深い興奮を今も思かかへす事が出來ます。私はこの書を書きつゝそ(10)の折の事を思ひ出しましたので遂にこの書にも講話の名をつける事にきめました。
 それにしてもこの書はあまり一首々々の歌に就いて多くを語りすぎたやうにも思ひます。も少し簡略に説くといふ事もあつてよいかと思ひます。もし更に寸暇を得てこの續篇を書く時にはさうした態度で書いてみようかと思つてゐます。さうした折の參考にもしたいと思ひますから、この書に就いての忌憚なき讀後感を著者に寄せられるならば誠にうれしい事だと思ひます。
 萬葉集の原文に就かれる方の爲に、引用の歌には、全部にわたる番號をつけておきました。大體よみ方も佐伯梅友君との共(11)編の新校萬葉集によつておきました。この書では僅の歌をあげただけのやうですが、それだけでもあなた方の實力は十分ついてゐるはずですから、更に進んで萬葉集そのものに親しまれる事を希望致します。
 佐野の渡の寫眞は、若林芳樹君の斡旋により中野博明氏がわざわざ同地に出かけ撮影して贈られた四枚の中から選んだもので、兩氏の好意に對して厚く謝意を表します。
 また索引の作製に就いては前著「萬葉の作品と時代」「萬葉古徑」と同樣、増田正君を煩はしました。これまた深くお禮申します。
 このはしがきを記し終つたところへ、ある新聞社の方から電(12)話がかゝり、對米英戰のはじまつた事を知り、まもなくヲジオを通じて宣戰の大詔を拜しました。今こそ我々日本人がこの大地の上にまつすぐに立ち、しやんと坐る事の出來る日が近づいたといふ感激を強く覺えます。しかもこの書を讀まれる方に對して――その大部分の方はまだ學窓に居られる事と思ひますが――今こそほんとにおちついて、しつかり勉強していたゞきたいと思ひます。そしてあなた方がほんとに正しい日本人らしい日本人として世に立たれる時こそ、世界に眞に正しい平和の曙の光がさしそめる時であると私は固く信じます。
  昭和十六年十二月八日
              澤瀉久孝
 
     目次
田兒の浦ゆうら出でて見れば‥‥‥‥‥‥‥一
春過ぎて夏來るらし‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二七
いはばしる垂水の上の‥‥‥‥‥‥‥‥‥四七
ひさかたの天の香具山‥‥‥‥‥‥‥‥‥五九
秋萩の枝もとをゝに‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥六五
みたゝしの島の荒磯を‥‥‥‥‥‥‥‥‥六九
妹として二人つくりし‥‥‥‥‥‥‥‥‥八九
(2)苦しくも降りくる雨か‥‥‥‥‥‥‥‥九八
熟田津に船乘せむと‥‥‥‥‥‥‥‥‥一三一
わたつみの豐旗雲に‥‥‥‥‥‥‥‥‥一四三
ものゝふのやそ宇治川の ‥‥‥‥‥‥一六六
よし野なる菜摘の川の‥‥‥‥‥‥‥‥一七六
わがやどのいさゝ群竹‥‥‥‥‥‥‥‥一八三
夕されば小倉の山に‥‥‥‥‥‥‥‥‥一九二
 索引‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥一
               ……終……
 
  萬葉集講話   文學博士 澤瀉久孝
 
(1)   田兒《たご》の浦《うら》ゆうち出でて見ればま白にぞふじの高嶺《たかね》に雪はふりける    (卷三、三一八) 山部赤人《やまべのあかひと》
 
 百人一首に
  田子のうらにうち出でて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつゝといふ歌のある事を知つてつてゐませう。この歌のもと〔二字傍点〕がはじめにあげた萬葉集の歌です。萬葉集の歌が改作せられて新古今和歌集《しんこきんわかしふ》に收められ、それが百人一首の中に選ばれたのです。そのもとの歌とあとの歌とどう違つてゐますか。どちらがわかりやすいでせう。そしてどちらがよい歌でせう。
(2) まづ「田兒の浦」といふ文字ですが、萬葉の頃は、地名の文字はいろ/\に書きましたから、後世「田子の浦」と書くやうになつたとすれば、萬葉のもさう書いてもよいので、これは同じと見てよいのです。次に「浦ゆ」と「浦に」といふのは違ひます。これも同じに解釋してよいといふ人もありますが、私は違ふと思ひます。「ゆ」といふ言葉は、後世は用ゐなくなつた言葉ですが、上代には、今日の「より」といふ言葉をまた「ゆり」とも云ひ、單に「よ」とも「ゆ」とも云つたのです。萬葉では「より」「よ」「ゆ」の三通りの言葉が、今日の口語の「から」といふ意味に使はれてゐます。たとへば「昔から」といふのを「昔より」とも云ひますが、「いにしへよ」とも「いにしへゆ」ともいふのです。だから私達が萬葉風の歌を作る場合にも「遠い神代の昔から」といふ意味を「神代より」といふのはよいとして、「遠き神代より」と云つては八音になつて調子がわるくなるから「遠き神代ゆ」と云つたらよいのです。さてそれで「ゆ」の意味がわかつたと(3)すると、「田子の浦ゆうち出でて見れば」は「田子の浦から〔二字右○〕うち出て見ると」であり「田子の浦にうち出でて見れば」は「田子の浦へ〔右○〕うち出て見ると」であり、「ゆ」と「に」とで、その上の「田子の浦」がそこから出かける場所〔そ〜傍点〕になるのとそこへゆきつく場所〔そ〜傍点〕になるのとの違ひが出來るやうに思はれませう。その通りですと云はれる學者もあるのですが、私は一寸待つて下さいと云ひたいのです。ここで少し「より」といふ言葉を考へてみたいのです。また實例について申しますが、「東京より京都に歸る」といふ場合には「東京」が出發點であり、「京都」が到着點です。これには間違ひがありませんね。そしてかういふ使ひ方が、「より」とか「から」とかいふ言葉の意味です。ところが、さうばかりも云へない事があるのです。「裏道から行かないで表道からいらつしやい」といふやうな場合がそれです。この「裏道」「表道」は「東京から」の「東京」とは違つて、出發點ではないでせう。通るところ〔五字傍点〕でせう。「裏道を通つて行かないで、表道を通つていらつ(4)しやい」といふことでせう。即ちこれを云ひかへると「浦道を〔右○〕行かないで表道を〔右○〕いらつしやい」ともなりませう。そこが問題です。かういふ使ひ方が昔の「より」「よ」「ゆ」にもあつたのです。さう解釋してはじめて意味のはつきりする歌がたんとあります。この「田兒の浦ゆ」の「「ゆ」が、まさにその實例の一つだと私は思ふのです。即ち「田兒の浦ゆうち出でて見れば」は「田兒の浦をうち出でて見れば」といふに近いので、も少しくはしく云ふと「田兒の浦を通りつゝ見晴しのよくきくところへ出て見ると」といふ事になるのです。もしこの「ゆ」を、右の「東京から」の「から」とすると、田兒の浦からどこへ出るのかといふ事になります。そこで田兒の浦から沖の方へと解釋する人もありますが、それだと「うち出でて」よりも「漕ぎ出てて」とあつた方がよいでせう。それなら作者は田兒の浦からどこへ出て富士山を眺めたのかその作者の位置があいまいになつてしまひませう。一體歌といふものはなるべくさうしたあいまいさを避《さ》けるべきものであ(5)ります。詩とか歌とかいふものを、なにか意味のとりにくい、ぼやつとしたところのあるものがよいと考へる事はとんでもないあやまりであります。詩歌のもつ深い味はひとか言外《げんぐわい》の餘情《よじやう》とかいふ事についてはいづれまた申すつもりですが、その事と表現のあいまいといふ事とは違ひます。それをごつちやにしてどうかするとあいまいなところが歌らしいと考へるやうな根本の誤解は先づはじめにしつかり解いておく必要があると思ひます。さて「田兒の浦から」といふ事になるとその表現のあいまいといふ事が伴なつて來ます。それが右に述べたやうに「を通つて」の意味にすると、作者の通つてゐるところも、富士山を眺めるところも田兒の捕なのであつて、作者の位置がはつきりするのです。さてこゝで田兒の浦といふのはどこであるかといふ問題に移ります。今、田子の浦と云つてるところは、東海道線の鈴川といふ驛のあるところから西南にあたる海岸です。よく繪はがきなどに松並木のある川口に富士山が逆さにうつつてゐる寫眞がありませう。(6)あの南の海岸です。ところがあれは昔の田兒の浦ではなはて、昔はあの邊は沼地であり、今の海岸はむしろ海中になつてゐたと思はれます。私のしらべたところでは、田子の浦といふ地名は三度變つてゐるので萬葉時代の田兒の浦は、もつとずつと西で、東海道線の興津《おきつ》の驛から東へ少し行くと薩?《さつた》山があります。そこから東へ、由比《ゆひ》の驛を通り、蒲原《かんばら》の驛に至りますが、その薩?山の東から、蒲原の町はづれ、富士川の川口に至る二里あまりの海岸が即ちこの歌に詠まれた田兒の浦であらうと思ひます。それが「田兒の浦ゆ」が「田子の浦に」にかへ(7)られた新古今集の撰《えら》ばれた時代、即ち鎌倉時代になるとも少し東へ移り、富士川の河口、今の汽車の驛で申すと岩淵《いはぶち》、高士などといふあたりをさすやうになり、更に近世《きんせい》になつて、も一つ東へ移動して今日の田子の浦となつたのでないかと思ふのです。それで萬葉の歌に詠まれた田兒の浦はどういふところかと云ひますと、海岸近くまで山の迫つてゐるところで、どこからも富士山が見えるといふところではありません。今汽車の窓から見られてもわかるやうに、むしろ山にさへぎられて見にくいところが多く、たゞところどころで富士山の見えるところへ出るといふ地形《ちけい》です。だからこそ「田兒の浦ゆうち出でて」といふ言葉がはつきりするではありませんか。この歌の作者山部赤人はこの田兒の浦の山かげの道を歩いて――歩いてゐたか馬に乘つてゐたかわかりませんが――ともかく通つてゐたのです。そして、その山かげのところから、見晴しのよくきくところへ出て、富士山の秀麗《しうれい》な姿をふりあふいだ時、思はず口ずさんだ言葉が「田兒の浦ゆうち(8)出でて見れば」となつたと考へる事が出來るではありませんか。即ちこの「田兒の浦ゆ」の「ゆ」といふ一つの文字の爲に、その濱邊を歩いてゐる赤人の姿も想像せられ、その赤人が思はず富土山の麗姿《れいし》を眺めた瞬間の感動も感ずる事が出來ると思ふのです。ところがその「ゆ」といふ言葉が萬葉以後には用ゐられなくなつて、その意味もわからなくなつた爲に、「ゆ」といふ言葉は「に」といふのと同じだらう位に考へられて――「ゆ」といふ言葉が萬葉時代にも後期になると「に」と同樣に用ゐられた事もあるのです。――新古今集では「ゆ」が「に」にかへられてしまつたのです。さて「に」にかへられると情景が少しちがつて來ますね。「ゆ」は通るところ〔五字傍点〕を示し、「に」はゆきつくところ〔七字傍点〕を示すと前に申しましたが、ただそれだけの違ひぢやないかと考へられるかも知れませんが、その「通るところ」が示されてゐるといふ事に注意する必要がありませう。「通るところ」が示されてゐればこそ、右に申しました濱邊を歩いてゐる赤人の姿が出て來るのではあ(9)りませんか。即ちそこには「時間」といふものも含まれて來るのです。も少しむつかしく云へば、「ゆ」で立體的《りつたいてき》に示された情景が「に」で平面的《へいめんてき》になつてしまつたとも云へませう。そこで「に」の方になると、田兒の浦といふところが、富士山のよく見えるところだと誰にも考へられますから、それで、中世《ちゆうせい》には富士川の河口の地が田子の浦だと考へられるやうになつたと私は思ふのです。「ゆ」と「に」との相違が名所の位置までかへたといふわけになるのです。かういふ風に考へてみると、「ゆ」と「に」とたゞ一字一語の違ひにすぎませんが、その示す情景は全く違つたものになりませう。そのどららに深い味はひがあるか、よく考へてほしいと思ひます。
 次に第三句以下に移りませう。「ま白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」と「白たへの富士の高嶺に雪はふりつゝ」と第四句は同じですが、第三句と第五句とは、だいぶ違ひますぬ。前の方は「まつ白に富士の高嶺に雪がふりつもつてゐる」と(10)いふのであり、後の方は「白い布のやうな富士の高嶺に雪がふり/\してゐる」といふのです。も少しくはしく申しますと、「ま白にぞ」の「ぞ」は意味を強める言葉で、今の言葉に適當に云ひかへる事が出來ませんが、「まつ白にサ」とでもいへば幾分氣持が出ませうか。さてその「ぞ」といふ言葉があるために、おしまひへ來て「ふりける」と結んだので、「ぞ」がなければ「ふりけり」となるわけです。「ぞ」「なむ」「や」「か」の所謂|係詞《かゝりことば》があると「けり」「なり」「たり」などが「ける」「なる」「たる」となる事は學校で教はつた事かと思ひます。さてその「けり」といふ言葉は詠嘆《えいたん》の意をあらはしたもので、從つて「ふりける」といふのは「降つてゐるナア」とか「降り積つてることだナア」といふやうな意味になるわけです。それて「積る」といふ言葉はありませんが、今現在雪が降つてゐるのではなくて、降り積んでゐる景を詠んだものであります。次に新古今の方は「白たへの」とありますが、「たへ」は「たく」とも云つて「栲《たく》」の字を書きます。穀《かぢ》(11)の木の皮の繊維《せんゐ》で織つた布だと云ひます。その布は色が白いので「白たへ」と云つたのですが、すべて白い布や白い色を白たへといふやうになつたのです。こゝでは富士山の頂の雪の色を形容して「白たへの」と云つたのです。それから「雪はふりつつ」と結んだのですがTふりつゝ」といふのは「讀みつゝある」などの「つゝ」で、今|現《げん》に雪が降つてゐるのであります。これは萬葉の「ふりける」といふ意味を誤解して、かういふ風にかへてしまつたのでありませう。以上で兩方の言葉の違ひを説明したつもりですが、さてどちらがよいでせう。「まつ白に富士の高嶺に雪がふつてゐる事だナア」といふやうな言方と「白い布のやうな富士の高嶺に雪が降り降りして」といふやうな言方とどちらがよいと思ひますか。「前の方のはたゞあたりまへな事を云つただけだが後の方が、白たへなどといふ言葉を使つたり、降りつゝと言ひさしたやうな言方をしたりして、何だか趣があつて新しい感じがするナ」などと考へる方がありはしませんか。そんな風に考へたら(12)落第ですよ。なぜですか。まづ意味の方から較《くら》べてみませう。さつき申したやうに、山かげの濱邊を歩いてゐた赤人が、その山のはづれへ出て美しい富士の姿をふり仰いだ時、「ま白にぞ……雪はふりける」と感嘆の聲を發したといふ事は、あたりまへと云へばさうも云へませうが、誠に自然な表現であるとは思ひませんか。それに反して「田子の浦に打出でて見れば」と云つて「白たへの……雪はふりつゝ」といふ景を考へてごらんなさい。よろしいか、富士山の頂に今雪がふつてゐるのですよ。さういふ景が田子の浦から見る事が出來ると思へますか。お天氣はよくても富士山は雲にかくれて見えない事が多いのです。今汽車であの邊を通つても富士山の美しい姿を心ゆくまで眺めるといふ事は少いのです。まして雪がふつてゐるといふやうな時に何が見えませう。こんな事をいふのは少し理窟を云ひすぎるやうですが、新古今時代の歌が寫生からはなれて行つた爲にかういふ事にもなるのです。新古今集の歌には實景を描いたやうに見えて、實は空想によ(13)つて作られた歌が多いので、この富士山の歌も何の不思議もなく認《みと》められてゐたのでせうが、一寸考へれば「こしらへもの」である事がすぐわかりませう。よく晴れた空に雪の積つた山頂を仰げばこそ「ま白にぞ」といふ言葉が實感になるのですが、今現に雪がふつてゐる場合に「白たへの」といふ形容をつけるといふ事は、全くよけいな事で、頭の中でこしらへた「浮いた句」であるといふ事がわかりませう。第一今雪のふつてる山ならば「白たへ」でなくて「灰色」でせう。それを「白たへの」といふ美しい歌の言葉を用ゐてゐるところ、歌といふものが、實感からはなれて、机上《きじやう》の作になつた事を示すもので、「ま白にぞ」の直接な言方に及ばない事がわかりませう。それからその「ま白にぞ」といふ言葉がまつすぐに「雪はふりける」としつかりうけとめられてゐるその調子と、「白たへの」といふ浮いた形容をつけて「雪はふりつゝ」と云かさしたやうな結び方とを比べてみませう。「つゝ」といふ言葉は、前に述べたやうに、現在何事かがなされてゐ(14)る場合に用ゐられて、萬葉の中でもずゐぷん澤山使はれてゐる言葉ですが、あとへつゞいてゆく言葉ですから、もしこれで終つてゐる場合は、あとの言葉をはぶいた形になります。所謂云ひさした形ですから歌などに用ゐるとやはらかい感じをあたへ餘情があつて趣があります。萬葉集にも「つゝ」で止めた作が四十首ばかりあります。赤人の作にも
  明日よりは春菜|摘《つ》まむと標《しめ》し野に昨日も今日も雪はふりつゝ(卷八、一四二七)
といふのがあります。明日になつたら春の若菜を摘まうとしるしをつけておいた野邊に昨日もけふも雪がふりつゞいてゐるが、いつから若菜をつむ事が出來るやうにならうかといふ氣持を詠んだもので、この「ふりつゝ」などはよく出來てをり、或は新古今の富士山のもこれの影響かとも思ひます。しかしこの「つつ止《ど》め」の作は、そのやはらかい感じと餘情のある言方との爲に、ともすると歌の力を弱(15)め、「おもはせぶり」ないやみ〔三字傍点〕になる危險が多分にあります。萬葉でも人麻呂時代には少く、それ以前には一首もなく、赤人時代以後に多くなつてゐます。今の場合も「ふりける」が「ふりつゝ」になつたところに、萬葉|調《てう》より新古今|調《てう》へといふ感がせられるのであります。その點「ま白にぞ」と「白たへの」との相違とも相通ずるものであります。即ち第三句も第五句も萬葉の方は言方が直接で、ズバリと言切つたといふ感があり、新古今の方はやはらかく婉曲《えんきよく》であるといふ事になります。やはらかく婉曲なのが必ずしもわるいわけではありませんが、ズバリと言切るべきところをその力がなく、もつてまはつた言方をしたり、足が地についてゐないやうな言方になるといふ事はいけません。前にも云ひましたやうに、歌といふものが、なにかもや/\と霞のかゝつたやうなもので、スバリと言切るといふやうな事は歌らしくないと考へられる方があつたら、その根本的な誤解を今のうちにはつきり悟つてもらひたいと思ふのです。この事は殊に若い方に申した(16)いのです。所謂あこがれの少年少女時代にはそのもや/\の霞の中に何か美しい世界があると考へて、足が地をはなれるところにとりかへしのつかぬあやまちもしでかすので、これは歌だけの話ではありません。尤《もつとも》「ズバリと言切る」と云つたとて、やさし少女方に露骨な野卑《やひ》なものいひをなさいと云ふのでは決してありません。餘情のある言葉、深みのある言葉の尊重すべき事は申すまでもないのですが、餘情といふものをわざ/\つくらうとするとそれはいやみなものになつてしまふのです。餘情は自然に産まれるべきものであつて作るべきものではありません。こゝで一つ面白い話をしませう。一寸むつかしいかも知れませんが、だん/\わかつて來ませう。これは能樂《のうがく》の金剛流《こんがうりう》の宗家《さうけ》金剛|巖《いはほ》さんに聞いたお話です。昔能樂の太鼓を打つ人が、ある能の名人からさびの調子−「寂《さび》」といふ事が一寸わかりにくい方があるかも知れませんね。これを説明しようとなるとむつかしくなりますからものにたとへて簡單に申しておきます。たとへばこれを色に例(17)をとればしつとりとおちついた茶色、音にすれば筧《かけい》から落ちる水の音、家にすれば新築のコンクリートの何層樓でなくて、かやぶきの四疊半の茶室、季節にしたら紅葉の落葉が軒をうづめる晩秋、人にしたら眉毛が長くのびて白髪が交つたやうになつた老年、まあかう云つた感じのもの、しかもそのさびといふものは「もの」にあるのでなくて、「風情《ふぜい》」にあるのですから、茶色ならすべてさびがあるとは云へません、その反對に赤い色にもさびはあり得るのです。また櫻の咲いてる春にも十分さびは出す事が出來るのですし、若い人にもさびはあります。老人だからさびがあると早合點したらとんでもない事です。しかしまあ一應は右のやうな例から考へてもらつたら自然にわかつて來ませう。――さてそのさびの調子を出す必要のある曲の太鼓を打つやうに命ぜられたのです。そこでいろ/\工夫した上でその名人の前へ出て太鼓をポンと打つたのださうです。ところが、その音を一つ聞いただけで「いけません」と云はれてしまひました。そこで仕方がない(18)ので、ひき下つて、どうしたらさびの調子を出せるかといろ/\研究した上でまた名人の前へ出て、打試みましたところまた「だめ」と落第させられました。そこでまたひき下つて考へましたがなか/\わかりません。結局あゝでもないかうでもないと工夫をこらしたはてに、とにかく、も一度師匠の前へ出て、力かぎり打つてみよう、それで許されなかつたら代々太鼓の名人として傳はつた家柄だが、もうやめるより仕方がない。さう悲牡な決心をしてまた宗家の前へ出て、一心不亂の力をこめて――よろしいか、力をこめてです、力まかせではありません――ポンと打ちました。そしたらその音を一つ聞いて「よし」とはじめて許したといふのです。どうです、この話わかりますか。さびといふものは出さうと思つて出せるものではない、さびを出さうと考へて出したのではほんとのさびではない。こしらへもののさびだ。さういふたくらみを忘れて、無心になつて自分の力を出しきつたところに自然に出るさびでなければいけないといふのです。この話(19)の殊に面白いのは「さび」が目的になつてゐる點です。さびといふものと力といふものとは一寸反對なもののやうに思はれませう。しかもそのさびさへも力を出し切つたところに生まれるといふのだから面白いぢやありませんか。これは太鼓や鼓の事ばかりではありません。詩や歌やすべての藝道《げいどう》はもとより、一切の生活に於て學ぶべき心構へだと思ひます。然るにまつすぐにいふべき事をまつすぐにいふのは何か趣のない事のやうに考へたり、自分の力を十分に出し切る事をしないで、なにかやゝこしいあいまいな態度をとる事が詩趣のある事だと考へたりする根本の誤解を先づ第一にはつきりさせてほしいと思ふのです。私が赤人の富士山の歌を先づ卷頭《くわんとう》においたのもそこをはつきりさせるところから出發したいと思つたからです。これだけ申したら新古今の富士山の歌の方が歌らしいと考へるやうな間違ひをされる心配はなからうと思ひますが、こゝで賀茂眞淵《かものまぶち》先生の言葉を引用したいと思ひます。
(20) 大かたの人|一節《ひとふし》を思ひ得て本末をつゞくるぞ常なるを、古へ人は直にいひつらねしぞ多き。そが中に、赤人はことにふしあるはいまだしく、心ひくき事と思ひけん、かくうち見るさまをそのまゝにいひつゞけたる也。さてめでたく妙《たへ》に聞ゆるが故にむかしより名高き也。
これは眞淵先生が、この萬葉の富士山の歌をほめられた言葉です。大體意味はわかるかと思ひますが、少し言葉遣がむつかしいところもあるのてざつと意味を申します。「ふし」といふのは竹の師、糸の節などの節ですが、こゝでは思ひつき、趣向《しゆかう》といふやうな意味に使はれてゐます。世間の大抵の人は何か一趣向を思ひついてその上で上の句下の句と考へて歌をこしらへあげるものであるが、上代《じやうだい》の人は、さういふ趣向をこらすといふやうな事はしないで、感じたまゝを言下《いひくだ》したのが多い。その中でも殊に赤人は、さうした趣向のあるといふやうな事は幼稚な低級な事と思つたのであらう、この富士山の歌のやうに見たまゝをそのまゝ歌としたので、そこが誠にけつこうですぐれてゐるので、それで昔から名高いのである。
(21)といふ風な意味でせう。「ふしあるはいまだしく心ひくき事と思ひけん」といふ言葉が面白いと思ひます。「いまだしく」は「未だしく」で、まだ行くところまで到つてゐないといふ事で、「心ひくき」は心の調子の低い事です。普通の人は、あたりまへの事をあたりまへに云つたのでは興味がない、何か趣向をこらしたところがおもしろい。よくかういふ風な思ひつきをしたものだ、などといふやうに考へがちであるが、さういふ趣向なんかを喜ぶのはまだだめなんだといふのです。かう云つたら人が感心するだらうか、あゝしたら珍しいと云つて人がほめるだらうか、といふ風な事を考へるのは、まだ氣高い心とは云へないといふのです。「うら見るさまをそのまゝに」といふのこそ名人の境地だといふのです。即ち私が今さつきくりかへして云つた「まつすぐなものをまつすぐに」といふのがそれです。何度もくりかへすやうですが、ひねくれた趣向なんかを考へてはいけない。まつすぐに、すなほに。まづそれが根本だといふ事を十分得心してもらひた(22)いのです。
     富士の山に雲のはるゝを見て
  心あてに見し白雲は麓《ふもと》にて思はぬ空にはるゝ富士のね(琴後集《ことじりしふ卷六)
この歌をどこかで學んだ事がありはしませんか。これは眞淵先生の門下で村田|春海《はるみ》といふ人の作です。心あてに、當推量《あてすゐりやう》で、即ち雲にかくれて富士が見えないが、どのへんが山の頂《いただき》であらうか、あの白雲のあるあたりが頂であらうかなどと勝手に推測してゐたところ、次第々々に雲がはれてゆくと、そのあの邊だらうと思つた白雲のところは山の麓であつて、それよりもずつと/\上の、思ひがけぬ空に富士の雄姿が現れたといふのでありまして、豫想外に雄大な富士の姿に感嘆した作で、富士がどんなに高い山であるかといふ事を知らせる爲によく引用せられる歌です。あの邊が頂かと思つてゐたところが麓であつてその上にすつくと高く聳えてゐるといふのですからその雄大さがはつきりと思ひやられます。「雲のは(23)るゝを見て」と題詞《だいし》があつて、實景によつた作かと思はれ、「思はぬ空にはるゝ富士のね」といふところは、いかにも雲が次第にはれて秀麗な富士の姿が眼前にあらはれて來るやうで、「白たへの……ふりつゝ」といふやうな調子に比べて遙かにすつきりした表現であると云へませう。しかもこの作の狙《ねら》つたところは「白雲は麓にて」といふところにあつて、讀者もまたそこに興味を感ずるわけであるが、その興味を感ずるといふことはそこに「趣向」を持つ事であり、眞淵先生の所謂「一ふしを思ひ得て本末をつゞくる」といふ事にもなるではありませんか。さう云へば「麓にて」といふ言葉が突然に出て來て、一寸讀者をまごつかせておいて、最後になつて「富士のね」とはじめて「麓」の主があらはれて來るところ、雲にかくれた富士が姿をあらはして來るその内容に相伴なふものであつて、それが自然だと云へば一寸さうも思はれますが、そこにまた作者の「趣向」があるといへるではありませんか。題詞に「富士の山に」とあるからそのつもりで讀(24)みますが、それがなければ「見し白雲は麓にて」とそこまで讀んで來ても何の事だかわからない。「白雲が麓」なんてずゐぶんへんてこですね。それが「思はぬ空にはるゝ富士のね」と終りまで來て、「なる程」と讀者に膝を打たせる。つまりそれが趣向ぢやありませんか。結句をしつかり結ぶといふ事は大切な事ですが、結句まで行かねば何の事だかわからないといふのではやはり「こしらへもの」と云はれませう。萬葉にも
  かはづ鳴く甘南備河《かむなびがは》にかげ見えて今か咲くらむ山吹《やまぶき》の花(卷八、一四三五)
といふのがあります。この「かげ見えて……山吹の花」といふところ、今の「麓にて……富士のね」といふのと似た言方だと思へませう。それだけにこの萬葉の歌は、やゝ後世風の作だと見られるのです。「うち見るさまをそのまゝに」といふのでは、やはり表現もも少し自然に流れ出るべきものだと思ふのです。春海の(25)富士山の歌は、たしかに面白い作には違ひありませんが、所謂「いまだしく」の方であつて、それと較べる事によつて、赤人の作のよいところが一層はつきりすると思ひます。
 私は今年の元日の朝日新聞の中の少年少女新聞の需《もとめ》に應じて、「富士山のやうに」といふ話をしましたが、富士山のあの美しい、清淨な、ゆるぎなき、雄太な姿のやうにまたわれ/\もありたいと思ひます。大智禅師《だいちぜんじ》といふ方が富士山をほめたゝへられた言葉の中に「どこから見ても裏表《うちおもて》がない。あるがまゝの姿を、見るにまかせて、人に示してゐる」といふ意味の事を述べてをられます。飾つたり、樣子をつくつたり、こそ/\とものを云つたり、不純なたくらみをしたり、こせ/\した繩張《なはば》りをこしらへたり、すべてさうしたやゝこしい「つくりごと」や「わたくし事」をすてて、公明に・清く・大きく・氣高く、そしてあくまでも素直に生きてゆきたいといふ事を、富士山の姿に對する時、私達は強く感ずるの(26)でありますが、その富士山を詠んだ歌の中で、その富士山のやうに、「たくみ」を加へず、うち見るさまをそのまゝに歌ひあげ、しかもまたその山のやうに雄大な聲調《せいてう》をもつた傑作として、赤人の作を第一にあげたのであります。
 作者の赤人の事を一寸申しておきます。山部赤人は歴史にその名が見えてゐないので傳記《でんき》はわかりません。萬葉集によつて推察するだけですが、だいたい奈良時代のはじめ、聖武天皇にお仕へ申した人で、身分はあまり高い人でなく、しかし歌人として當時から有名であり、天皇の行幸のお供などをして歌を詠んでゐます。歌の數は四十九首、その作の時代のわかつてゐるのは神龜元年から天平《てんぴやう》八年までになつてゐます。
 
(27)  春過ぎて頁|來《きた》るらし白妙の衣《ころも》乾《ほ》したり天《あめ》の香具山《かぐやま》(卷一、二八)持統《ぢとう》天皇
 
 これは持統天皇の御製ですが、これもまた百人一首に
  春過ぎて夏|來《き》にけらし白たへの衣ほすてふ天《あま》のかぐ山
とある事を知つてゐませう。そしてこれも新古今集の卷三のはじめに出てゐるのです。これも二つ較ぺますと兩方の相違がよくわかりますが、まづもとの萬葉の方を一通りみてみませう。この御歌は、前の赤人の歌のやうに「ゆ」などといふ見なれない言葉もなく、大體の意味はすぐわかりませう。春が過ぎて夏がやつて來たらしい。白い布の着物が乾してある。天の香具山のあたりに。といふのですが、も少しくはしく解説しますと、「きたる」といふ言葉には二つあつて、「來《きた》る」(28)といふ一つの言葉と見る場合と、「來ます」の「來」に「乾したり」などの「たり」がついて「來《き》たる」となる場合とです。あとの場合だと「たり」とか「たる」とかいふ言葉は「てある」がつゞまつた言葉で、現代語に譯すると「た」とか「てゐる」とか「てある」とかいふ風になります。「來《きた》る」と一語に見る場合ももとは「來《き》ます」の「來《き》」に「到《いた》る」といふ言葉がついた、「來到《きいた》る」といふ言葉がつゞまつたものです。今の御歌の場合はそれです。今では「來《きた》る」も「來《く》る」も同じやうに考へてゐますが、もとは「來《きた》る」の方にはそのやうに「來《く》る」の意味に「到《いた》る」の意味が加つてゐたので、今、「時節|到來《たうらい》」などいふ「到來」と同じとみればよいのです。從つて萬葉でも「來《きた》る」と「來《く》る」とが同じやうにも用ゐられてゐますが、特に「來《く》る」の方は人が來るといふやうな場合に多く用ゐられ、「來《きた》る」の方は・「春が來《きた》る」とか「秋が來《きた》る」とか、さうした季節の到來するやうな場合に多く用ゐられてゐるのです。
(29)  冬過ぎて春來るらし朝日さす春日の山に霞たなびく(卷十)
といふ風に「來《きた》る」の方は用ゐられる事が多いのです。次に「白たへ」の事は前の歌で申しました。前の場合は雪をいたゞいた山の白さの形容に使つたのですが、このお歌のは實際の白い布です。「天《あめ》の香具山」は單に香具山とも云ひます。香具山は持統天皇の都のあつた藤原京《ふぢはらきやう》の東にあります。香具山と耳梨《みゝなし》山と畝傍《うねび》山とを大和の三山《さんざん》と申します。耳梨山は藤原京の北に、畝傍山は西――少し南へよつたところ――にあります。畝傍山はその麓に橿原神宮があり(30)ますのでどなたも御存じでせう。耳梨山は大阪から伊勢へ行く關西急行電車の八木驛の少し東に、線路の北側に、香具山はも少し東へ行つた線路の南側に、いづれも車窓から眺められます。三山とも美しい山で、あのへんにゆけばすぐわかります。香具山をなぜ「天の香具山」といふかと云ひますと、もとこの山は天上にあつた山で、天から降つた山で、その天降《あまくだ》つた時、二つにわかれて一つは伊豫の國にある「天山《あめやま》」といふ山になり、一つは大和の香具山になつたといふ傳説があるのです。それで「天の」といふ言葉をつけて呼ぶのです。さてその香具山に白たへの衣を乾してあるといふ事はどういふ事かと云ひますと、香具山はさう高い山ではありませんので、その麓に住んでゐる人達が白い着物をその山に乾してゐるのですが、白い着物といふのは夏の着物でありますから、それを見ると夏の來た事が感ぜられるわけであります。白い着物に夏といふ感をいだく事は、今の人も昔の人と同樣なんでありますが、私はそれについてよく思ひ出す事があるので(31)す。それは私のゐる京都帝國大學の文學部に以前クラークといふ英文學《えいぶんがく》の先生がをられました。その先生が冬の最中にでも時々白い麻の洋服を着てをられる事がありました。よく肥えた大きな體格の先生でしたから、冬でも暖房裝置《だんばうさうち》のしてある教室などでは、厚い毛の洋服では暑いので、それでさういふ服裝をしてをられたのであらうと思つたのですが、どうも私にはそれがへんに感じられてならなかつたのです。私達日本人には、たとへどんなにあつく感じても冬に白い麻の洋服を着ようなどとは考へられないのです。白地の浴衣などといふものは寢間着にこそ冬でも着る事がありますが、もう九月も半ばすぎになれば、たとへ暑い日があつても、さういふ白つぽいものを着て人前へ出る事ははづかしいやうに感ずるのが日本人の常識です。それをクラーク先生は寒中にでも、眞夏と同じやうな服裝をしてをられるのだからへんに思ふのはあたりまへでせう。ところがその後私自身が英國で暫く暮すやうになつて、はじめてなる程と合點が行つたのです。とい(32)ふのは、西洋、殊にイギリスのやうなところには、日本のやうな春夏秋冬がないのです。だいたい冬は寒く、夏は暑いといふ事はあるわけですが、日本のやうな四季の序《じよ》といふものがなく、おぼろげにはあつても日本人のやうにそれを感じません。第一夏が暑いと云つても、日本では土用になつたら暑い日がつゞく事にまづまちがひがなく、立秋もすぎて、八月も末になつてくると、どんなに暑さが殘つてゐても、空の色や、訪れる風の音に、何となく秋のけはひが感ぜられるやうになり、殊に朝夕の凉しさはめつきり肌に感ずるやうになつて、秋が來たといふ事をしみ/”\思はせられます。ところがイギリスの夏はさういふ風に順序立つてゐません。私がかつて讀んだ英語の會話の本に英語では夏の暑さを Warm と云つて Hot とは云はないと書いてありましたが、それはホットといふやうな日が少いからだと思ひますが、やはりずゐぶん暑い日があります。現に私が行つた年の夏などはずゐぷん暑く、新聞などにホット、ホッタア、ホッテスト、などとい(33)ふ文字まで見えてゐました。ところがそんな暑い日があるかと思ふと翌日は忽ち秋のやうな凉しさになつてしまふのです。きのふ浴衣一枚きてゐたのが、けふは袷に羽織を重ねるといふ事がある。その翌日は暖爐に火を入れるといふ事さへあるのです。「土用にこたつ」といふ事は日本ではない事のたとへですが、イギリスではそれもあり得る事なんです。極端にいへば全くめちやくちやです。つまりイギリスでは暑い日や寒い日があるだけであつて、土用とか初秋とかいふ季節の感覺《かんかく》といふものがないのです。季節の感覺といふものがないのだから、寒中でも暑ければ白麻の服を着るのも當然であれば、夏でも寒ければ毛皮の襟卷をする事もあたりまへと思ふのです。現に私は夏の暑い日に蝉の羽のやうな薄い着物を着て、毛皮の襟卷をもつてる婦人を到るところで見うけたのです。これは夏の暑い日でも夜になると急に寒くなる事があるのですから寒ければ毛皮の襟卷を用意する事は當然だとイギリス婦人は考へるのでせう。しかし、日本人にはそれは一寸(34)考へられない事ですね。日本だつて秋のはじめになるとさつき申したやうに朝夕急に寒さを感ずるやうにもなつて、その寒さに對する用心をする事もあるのですが、その場合にだつてやはり季節にふさはしいやうな心づかひは忘れないのであつて、九月のはじめに毛皮の襟卷なんかはしませんね。九月のはじめばかりでない、日本の寒さでは冬だつて毛皮の襟卷はいらん事ですね。私が小學校に學んだ頃、日本は温帶に位置し、暑からず、寒からず、四季の序が正しく、春は鶯が囀り梅が咲き、夏になると垣根に卯の花が咲いて、時鳥の聲が聞かれ、といふ風で、誠に日本のやうなよいお國はないと先生から教へられました。あまりよい事を聞かされたので、正直な事を申すと、少しよい事ばかり云はれすぎるのでないかとさへあとで思はれました。ところが、先年自分で世界を一周《ひとまは》りして來て、あれはほんとであつた、ほんとだといふよりまだ言足りない程だと感じたのです。尤も暑からず、寒からずといふのは一寸云ひすぎですね。それも標準のとり(35)やうで寒いと云つても、今も申したやうに、内地では毛皮の襟卷なんかの必要はないのですし、暑いと云つてもさう仕事にさしつかへる程の暑さではありません。現に八月の上旬の日盛りに私は暑さを忘れてこの原稿を書いてゐるのですからね。しかし、たとへばイギリスの寒暑に較べたら日本の方がはるかに寒暑が強いと申せます。しかしその寒暑がイギリスのはどうも陰性《いんせい》で、日本のやうな男性的なところがなくて、いやだナと私などは感じました。のみならず、イギリスの夏は夜九時頃まで日が照つてゐるのですし、冬は午後の二時すぎにもう街の家屋の上へ日が落ちてゆく――その日も見られる事は少いので、灰色の霧や黄色い煙の中に包まれてゐる事が多いのですから、こんなところに一生を暮す人はほんとに氣の毒だナとしみ/”\感じたのですが、日本の方が寒くもあり暑くもある事は事實です。またハワイのやうなところは所謂|常春《とこはる》の國とも云はれて、それこそ年中暑からず寒からずと申せませう。たしかに暮しよいと云へば暮しよいでせう。(36)しかし、さういふところに住む事がほんとに幸福でせうか。といふのはさういふところに住んでゐるとその刺激《しげき》のない自然に化せられて、高遠な思想も偉大な人物も生まれない事は、事實が證明してゐます。それを思ふと適當な暑さ寒さによつて心身が鍛へられてゆく日本の風土といふものは全く感謝すべきものだと思ひます。そしてその寒暑の交替《かうたい》をあやまらず、春秋の運行の正しく行はれるところ、全く世界に類を絶《ぜつ》したありがたい國士だと思はれます。清少納言《せいせうなごん》の枕《まくら》の草子《さうし》の事はお話を聞かれた事があるかと思ひますが、あの卷頭の
  春は曙、やうやう白くなりゆく山際《やまきは》少しあかりて紫だちたる雲の細くたなびきたる
にはじまる四季の景を述べた名文は、四季の感覺を述べたものとして世界第一のものである事を今更に感じると共に、あの名文を生む國は日本以外にない事を、私はつくづく感じたのであります。勿論西洋にも季節の感覺を描いた人がないわけではありません。特にロシアのツルゲネフの散文詩《さんぶんし》などにはそれがよく出てゐ(37)ますし、文學ではありませんが、フランスのモネーといふ人に水蓮や柳を描いた畫がありますが、それは水蓮や柳の朝、晝、夕の姿を描いたもので、自然の景物の時の推移に伴なふ細かい感覺がなか/\よく描かれてゐます。しかし四季の序が日本のやうに正しく、國民全體が季節の感覺に富んでゐるのは、決して他に類を求める事が出來ないのです。日本人と自然との交渉については、またあとでも度々申す事と思ひますが、私達は、この美しい四季の移りかはりの中に、自然と共に笑ひ、共に泣き、何千年といふ長い歴史を、自然と一つになつて生きて來たのであります。從つて衣食住の日常生活の上にも、季節の感情といふものが實に鮮かに反映されてゐるのです。ところが自然の恩寵《おんちよう》に惠まれてゐない外國にあつては、季節の感覺に缺けてゐるばかりではない、人間の便宜のために、自然に反抗し、自然を征服する事が文化だとさへ思つてゐるのです。だから眞夏に毛皮の襟卷を携《たづさ》へて歩く事を不似合な事だと考へないばかりではない、寒中に夏のやう(38)に室内を暖めて、肌もあらはな服裝をし、氷でひやした洋酒やアイスクリームなどをたべて、それが文化生活だと思つてゐる。とんでもない事です。自然は決して征服出來るものではありません。一時出來たやうに見えてもやがて大自然の大きな力の前に膝を折らなければならない時が必ず來ます。現にさういふ時が西洋の老大國《らうだいこく》のあらこらに迫りつゝあるではありませんか。それを思はないで、日本人ともあらうものが、祖先の人達が自然の心を心として敬虔《けいけん》な生活を送つてゐたのを忘れて、西洋人のまねをして、自然に反抗するやうな生活を文化生活だと考へる人があるなら、それは全く愚を通り越して恐るべき事であります。その事を思ふだけでも私達は萬葉集に親しんで、上代人のすこやかな正しい心にふれる必要があるのであります。また少し慷慨調《かうがいてう》になりましたが、更にもとへ歸つて、持統天皇が白い衣に夏を感じられたお心は、古今を通じてかはらない日本人の季節に對する感受性《かんじゆせい》をお示しになつたものであります。やはらかい美しい姿をした天(39)の香具山、初夏のすが/\しい緑の色にうづもれた香具山に、まつ白な夏衣の乾してあるのを御覽になつて、「春過ぎて夏來るらし」とお感じになつた、その御感懷をそのまゝ率直《そつちよく》にお詠みになつたものがこの御製であります。その景のあざやかに、さわやかなやうに、一首の歌調もまた誠にさわやかであります。調子が明かるもてそして音樂的な律動《りつどう》をもつてゐます。も少しこまかく見ますと、このお歌には「は、な、た、ら」などとア段の音が十もありますが、ア段の音は口を開く音で、調子が明かるくなります。又ラ行音は國語にも比較的に少く、特に語頭《ごとう》には來ない音ですが、音樂的な感じを與へるところがあり、歌には存外多く用ゐられてをり、後世のものでも、
  朝がすみふかく見ゆる〔右○〕やけぶり〔右○〕立つむろ〔右○〕のやしまのわたり〔右○〕なるら〔二字右○〕む(新古今集卷一)藤原|清輔《きよすけ》
(40)  はる〔右○〕雨の降り〔右○〕そめしより〔右○〕あをやぎの糸のみどり〔右○〕ぞいろ〔右○〕まさり〔右○〕ける〔右○〕(新古今集卷一)凡河内躬恒《おほしかうちのみつね》
といふ風に見られますが、この和歌もラ行音の割合に多いのが注意せられます。そしてこの御製は「夏來るらし」と第二句で切れ、また「衣乾したり」と第四句で切れ、そして第五句は「天の香具山」と山の名前で結んであります。歌といふものは最初にあげた赤人の作のやうに、中途に句切《くぎれ》がなくて、一つゞきに詠まれるのが本來の形で、數から云つても多いのですが、それが次第に句切が出來るやうになつたのです。そしてまづ二句切の歌や、四句切の歌が作られるやうになり、持統天皇の御代の頃には第三句で切れる歌もぼつ/\作られるやうになり、奈良朝になると第一句切の作も見えるやうになつた。これらの句切の實例についてはまたあとで述べるつもりですが、一句切や三句切がやゝ後に發達したものであるに對して、二句切や四句切は比較的に古く、萬葉の初期には二句や四句で切(41)れた力づよい感じをもつた好い作があります。二句切のものには、やゝ輕快な調子をもつた、しかもはりのある作がありますが、今の御製はその二句切であつて、同時に四句でも切れてをるので、その内容にふさはしい調子をそなへてゐます。また山の名前で結んだ、所謂「名詞|止《どめ》」といふものも調子の上に一つの特色をもつたもので、この御歌などはそれによつて一首に莊重《さうちよう》な感を與へてゐます。「花ぞ散りける」とか「のどけからまし」とかいふ風な、古今集などのやはらかい調子とらがつて、名詞止は「おきつ白浪」とか「春の夜の月」とかいふ風に、新古今集に特に多く用ゐられてゐるもので、この御製が新古今集に收められたのも、さうした調子の上の好みによるものとも考へられませう。さてこゝではじめにあげておいた百人一首、即ち新古今集に載せられたものと較べてみませう。「夏來るらし」と「夏來にけらし」、「衣乾したり」と「衣乾すてふ」、どう違ひますか。あとの方が調子がはるかにやはらかくなつてゐる事はすぐわかりますね。「來《きた》(42)る」といふ言葉については前に説明しましたが、今日では普通口語には使はなくなつてをり、「來る何月何日」などといふやうな使ひ方に馴らされて、何か漢文調の言葉のやうに感ずるので、特に歌の言葉としては少し強すぎるやうに思ひ、これに反して「來《き》にけらし」といふやうな調子に所謂「歌らしい」語調をもつとしたら、それは前に富士山の作についてくりかへし申したやうな誤解におちたものです。この「來る」といふ言葉と一寸似た別の一例をとると、「べし」といふ言葉などもそれで、今日「べし」といふやうな口語はなく、「何々すべし」などといふとすつかり漢文調の文章だなどと感じて、歌などに用ゐる言葉ではないやうに思ふのですが、萬葉には「べし」といふ言葉は相當多く用ゐられてゐるので、決して漢文|專用語《せんようこ》ではないのです。さういふわけで、かういふ言葉をたゞ今日の私達がふと感ずる語調をもととして判斷する事は間違ひで、も少し昔にかへつて味はゝねばいけないのです。しかもその「來《きた》る」は前述の如く「來到る」の意だとする(43)と、「來にけらし」よりも的確《てきかく》な直接な表現である事がわかりませう。しかもこの「來にけらし」は後世の改作といふよりもむしろ誤讀《ごどく》といふべきものであり、萬葉にも「にけらし」といふ言葉は用例もあり、意味も「來たやうだ」といふのだから、前の「眞白にぞ」が「白たへの」に改作されたのよりはよいと云はれませう。しかし「衣乾すてふ」は全然いけません。「てふ」は「と云ふ」のつゞまつた言葉ですから「衣を乾すと云ふ天の香具山」といふ事になるので、眼前の景ではなくなつてしまひますから、まるでこの御歌のいのちがなくなつてしまふ事がわかりませう。「てふ」といふ言葉も古今集以後の言葉で、萬葉では「とふ」又は「ちふ」と云つてゐます。それに「てふ」では下へつゞく言葉ですから四句切でなくなり、格調《かくてう》もかはつてしまひ、前に述べたア段、ラ行の音も「にけ」と「てふ」とで二つづつ消えてしまふ事になり調子の違つたものになる事はそれでもわかりませう。最後に「天《あめ》」といふのが「天《あま》」となつてゐますが、時代によつて呼び方(44)がかはつて行つたもので、それだけでどうとも申せませんが、私などは上代風にアメと云つた方がすつきりした感がせられます。かうして新古今の方が、萬葉の原作にはるかに及ばないとわかれば、たとへ今迄は百人一首によつて一般の人に親しまれてゐたとしても、百人一首といふものも以前のやうには行はれなくなつた現代でもあり、わざ/\まちかつたものを覺える必要はない事ですから、あなた方も今日からは萬葉集のもとにかへして正しい御歌を拜誦《はいしよう》するやうにして下さい。急行電車の中で案内係の娘さんが「百人一首に」と云つて「衣はすてふ」の方をあげられてゐるやうですが、あれも「萬葉集に……」と改められた方がよからうと思ひます。眞淵先生が富士山の歌を評された言葉を前に引用しましたが、このお歌に對しても「見ますまに/\のたまへる御歌なり」と述べ、このお歌に何かかくれた意味でもあるやうに見るのはあやまりであると云つて「古への歌は言《こと》には風流なるも多かれど、心はたゞ打見打思ふがまゝにそそよめれ」と云はれ(45)てゐます。上代の歌のすなほな姿といふ事をよく/\考へてもらひたいと思ひます。
 持統天皇は申上げるまでもないと思ひますが、天智天皇の皇女《くわうぢよ》で、天武《てんむ》天皇の皇后にお立ちになつて、天皇がおかくれになつてから、そのあとをついで即位せられたのであります。はじめに天武天皇の都せられた飛鳥淨御原宮《あすかのきよみはらのみや》――香具山の南で、飛鳥村のあるあたりです――においでなつたのですが、八年の十二月に前に申しました藤原京へ都を移されたので、宮のあとは今|鴨公村《かもきみむら》の國民學校の南に殘つてゐます。香具山の丁度西のところにあたります。天皇は伊勢や紀伊や吉野へ行幸になつてをり、吉野へは卅一回も御在任中に行幸せられた事が歴史に記されてゐます。文武天皇に位を讓られてからも吉野や紀伊や三河へ御幸になつてゐます。そしてかうしたいでましに、人麻呂や黒人《くろひと》やその他當時の有名な歌人たちがお供を申し上げて澤山のすぐれた歌を詠んでゐるのです。天皇の御製は萬葉集(46)に六首傳はつてゐます。その代表的な御作が今あげましたものであります。
 季節感を詠まれたすぐれた御作をあげました序にそれに似たものを少しあげる事にしませう。
 
(47)   いはばしる垂水《たるみ》の上《いへ》のさ蕨《わらび》の萠え出づる春になりにけるかも(卷八、一四一八) 志貴皇子《しきのみこ》
 
 「式皇子|歡御歌《よろこびのみうた》一首」と題がついてゐます。志貴皇子は天智天皇の皇子で、光仁天皇の御父にあたられる方です。「垂水」は垂れる水で、つまり瀧です。地名にも「垂水」といふのがあちこちにあります。それも瀧があつたところからさういふ名がついたのです。この御歌の「垂水」も地名だといふ説があります。もし地名だとすると、大阪市の北にある吹田市の西に垂水といふところがあり、そこに今も瀧があり、その瀧のある後の小山に登ると、昔|難波《なには》の都のあつた大阪附近の平野が見渡され、遠く生駒山《いこまやま》や葛城山《かつらぎやま》などの山々も望まれますので、大和から難波へ行幸などあつた折に、この郊外の瀧のある小山に登つて酒盛でも催され(48)て、この御歌をお詠みになつたとも考へられます。しかし必ずしもさうきめられるわけではありません。まづ「垂水」は瀧と考へておいてよいでせう。「いはばしる」は「岩走る」で、水が岩の間を激して流れる瀧といふ意味で、「垂水」の枕詞になつてゐるのです。「さ蕨」の「さ」は接頭語で、「さ夜」「さを鹿《しか》」「さ枝」「さ百合花《ゆりばな》」「さ衣《ごろも》」などと用ゐられて、たいして意味はありません。「小」の字をあてる碁もあります。小さいものはかはゆく、親しまれるものですから、さういふ氣持で用ゐられる事もあるやうです。杉の大木の根元に近い大きい枝などは「さ枝」といふにはふさはしくないやうです。「さ走《ばし》る」「さ渡る」「さ寢《ぬ》る」などと動詞につける事もあります。この使ひ方は今はあまりしませんが、歌の場合などには調子の都合で用ゐてもよいと思ひます。「さ渡る風の」とか「海吹く風のさ渡りて」とかいふ風に。「さ蕨」の場合は後世「早蕨」と書くやうですが、「さ」に早いといふ意味があるわけではなかつたのですが、蕨がやつと芽を出しそめた姿はま(49)ことにかはゆらしく、よく何かの模樣にも描かれてゐて、親しまれるものですから、特に「早蕨」の文字を用ゐるやうになつたのです。「早苗」の如きは、御存じのやうに、特に苗代から田へ植ゑる頃の稻の苗をさす事になり、早くから「早」の意味が感じられてゐたものと思はれます。「なりにけるかも」は「なつたことだナア」の意です。「ける」は最初にあげました富士山の「ふりける」の「ける」と同じで、詠嘆の意があります。
  わがやどの萩咲きにけり散らぬ間に早來て見《み》べし奈良の里人(卷十、二二八七)
  九月《ながつき》のしぐれの雨にぬれとほり春日《かすが》の山は色づきにけり(卷十、二一八〇)
などの「萩咲きにけり」「色づきにけり」のやうに「にけり」と結んだものも澤山あり、それも「萩が咲いたことよ」とか「色づいたナア」とかいふ風な詠嘆の(50)意があるわけです。今の場合はそれに更に「かも」といふ感嘆の助詞が加つたので、その詠嘆の氣持が一層強くなつたわけです。「かも」といふ言葉は、平安朝以後では「かな」といふ言葉にかはつたので、古今集から明治以前までの歌人は「かも」といふ言葉を使はずに「かな」ばかりを使つたものですが、明治になつて萬葉集が盛んに愛讀せられるやうになつてまた「かも」といふ言葉が歌に用ゐられるやうになつたのです。その「かも」といふ言葉はもと「か」と「も」と二つの詠嘆の言葉を重ねたもので、そのどらちか一つだけを使ふ場合もあります。その事はまたあとで申す事にしませう。さて、今の場合は「けり」と「かも」とが結びついて「けるかも」となつたので、これがまた萬葉集に澤山用ゐられてゐるので、萬葉調を「けるかも調」などといふ人もあります。「けるかも」とさへ云へばそれで萬葉ぶりの歌になるといふわけではありませんが、萬葉調の一つの特色は感じられます。「けるかも」といふ言葉の用ゐられたものが萬葉集では四十六、七(51)首あります。そのうち一、二首を除くほかは皆「……にけるかも」となつてゐます。古今集に
  君が植ゑし一群薄《ひとむらすゝき》蟲の音《ね》のしげき野邊ともなりにけるかな(卷十六)
といふのがあります。萬葉の「けるかも」がちやんと「けるかな」とかへられてゐます。そして全體としても萬葉調とは少し違つて來てゐることがわかりませう。以上の説明で「なりにけるかも」を口譯すると「なつたことだナア」とか「なつたナア、マア」とかいふ意味になる事がわかりませう。そして一首全體の意味もわかりませう。
 こゝで一寸蕨の事についてまた少し思ひ浮かぶ事を話してみませう。日本内地に住んでゐられる方なら蕨がどんなものか説明するまでもないと思ひます。大抵の人は蕨をたべた事がありませう。又支那にも蕨のあることは支那の歴史を學んだ方は思ひ出しませう。イギリスにも蕨があるのです。私がロンドンにゐた時に、(52)日本人六七人で郊外へ鹿狩に行つた事がありました。ところが實に澤山蕨がはえてゐるのです。日本のよりもつと大きなのです。しかもイギリス人はそれを一寸も採らないのですから、いくらでもよささうなのを採る事が出來ますから僅かの間に澤山採る事が出來ました。イギリス人はなぜこんな見事な蕨をとつてたべる事を知らないのだらうかと私は不思議に思つた位でした。然るにその翌日宿の人に料理をしてもらつてたべてみて、なる程イギリス人がたべないのは尤もだとわかりました。蕨には違ひありませんが、日本の蕨のやうな味がまるでありません。食物に「大味《おほあぢ》だ」とか「小味《こあぢ》がない」とかいふ事を申しませう。イギリスの蕨がそれの甚しいものなんです。一體日本のたべものには小味があり、外國のものには大味なものが多いのです。たとへばほうれん草のやうなものは日本でも西洋でもたべますが、西洋のは大味です。ですから西洋料理ではほうれん草をどろ/\に摺つたのをたべさせる事がよくあります。自然のまゝではまづいから人工(53)を加へて調理をするのです。ところが日本のはほうれん草そのものにこまかい味がありますから、その味を損じないやうに、なるべく自然のまゝでたべるやうにして、おしたしなどにこしらへるのです。それがわからないで西洋料理と云へば西洋人のまねさへしたらよいと思つて折角おいしいはうれん草を摺り餌のやうにしてたべる事などは實にこばか氣《げ》た話です。序に申しますが、蕨と同じやうに、イギリス人は鯛もあまりたべません。日本では「腐つても鯛」といふ諺があるやうに鯛は非常によい魚だとされてゐます。ところがイギリスでは鯛をあまりたべないといふ事を一寸聞くと何だか日本人はイギリス人の輕蔑してる魚を喜んでたべるやうにも誤解する人があるのですが、それはとんでもない間違ひで、イギリスの鯛は實にまづいのです。これなどは特に極端な例ですが、魚類も一體に大味なものが多いのです。それで西洋料理では魚の料理は大抵フライにするのです。これも味の不足を人工的に補ふ料理の仕方なのです。たとへば鮎《あゆ》といふ魚は日本に(54)ばかりある魚です。萬葉集では鮎を詠み込んだ歌が十五首もあつて、魚のうちでは鮎が第一になつてゐます。それほど鮎の姿とか香《かをり》とか味はひとかが上代から賞美されてゐるのです。朝鮮にも鮎がとれますが、内地のにくらべると所謂大味です。日本内地の鮎は全く世界に類のない上品なよい魚です。ところがこれも西洋料理ではフライにするのにきめてゐますが、これはほうれん草の摺り餌以上に愚の骨頂なのです。鮎は塩燒にしてこそその香や味はひを十分に賞味する事が出來るのです。もしあなたのお姉さん方が「鮎を西洋料理にしてあげませうか」と云はれても「僕は日本人です、味はひを生かした料理をして下さい」と云つて、鹽燒にしてもらつて、骨のまゝきれいにたべて、そして骨のある立派な日本男子におなりなさい。女の方も女學校で西洋風なお料理を教はつたからとて、自分達がどういふ土地に住んで、どういふたべ物に惠まれてゐるかといふ事をよく/\考へて、たゞ西洋人のまねをしてバタやラードで自然の味を殺してしまふやうな事(55)をしないやうにして下さい。これはたぺ物の事ばかりではありません。はじめからくりかへして申してゐるやうに、何事もよけいな趣向をこらしてはいけないのです。支那料理や西洋料理にくらべて日本料理が單純だから幼稚だなどと考へてはいけません。材料がすぐれてゐるので、その材料を生かすところに日本料理の道があるのです。人工を加へたものが「文化」だと思つてはいけません。また少し脱線したやうにも見えますが、前に日本の風土のすぐれた事を述べましたので、その風土の物産、畑のものにも海のものにも、いかに惠まれてゐるかといふ事の一斑《いつぱん》を述べたのです。かういふ風にたべ物の上にも季節の感覺がゆたかで、蕨をたべれば春を感じ、鮎をたべれば夏を感じるところに世界に類のない日本の生活があるのです。さてこのお歌はその蕨の萠《も》え出でたのを御覽になつて、「さ蕨の萠え出づる春になりにけるかも」とお詠みになつたので、春の景物の一つである蕨一つをとりあげられたのですが、そこにいかにも春が來たといふ氣持が感じ(56)られます。前の持統天皇の御製は香具山のあたりに乾した衣類に夏の來た事をお感じになつたのであり、この御作は瀧の上に萠え出した植物に春の來た事をお感じになつたので、二つとも、季節に封する御感動が實に鮮かに出てゐます。私はこの二首を、季節感の詠まれたものとして、集中の双璧《さうへき》と申すべきものと思ひます。後世ならば、春といへば櫻、夏といへばほとゝぎす、といふ風にその景物に對する聯想《れんさう》が固定しがちなのですが、こゝには蕨や白衣がとりあげられてゐる事も注意してよいと思ひます。
 この御歌には「歡御歌」といふ題詞のついてゐる事をはじめに申しましたが、お歌の中には「うれしい」とも「よろこばしい」ともさういふ言葉は全然用ゐられてゐません。ただ蕨の萠え出る春になつたナア、マア、と云つてをられるだけであります。しかもこのお歌を拜誦致しますと、一首の調子全體から何となく喜びの感情といふものの流れ出るやうに感じはしませんか。歌といふものには、た(57)のしいとか悲しいとかいふ言葉を用ゐたものですぐれたものもありますが、さういふ感情を直接にあらはさず、所謂|主觀句《しゆくわんく》を入れないで、その感情に作者を導いた自然や環境《くわんきやう》だけを描いて、そこにおのづから深い感動のあふれた傑作のある事は、今迄にもいろ/\學んだ事があるでせうが、これもその一つです。この事についてはまたあとで別の例歌をあげて述べる事にしませう。なほこのお作は、前の御製と同じやうにア段の音とラ行の音とが澤山用ゐられてゐる事も注意せられます。「明朗」といふ事がよく叫ばれますが、かういふお歌こそまさにその明朗といふ言葉を聲調の上にあらはした代表的なものだとも云へませう。明朗といふ事はたしかによい事であり、殊に若い人々は明朗でなければなりません。若い人がむやみに暗い顔をしてゐたり、陰氣にめそ/\ししてゐたりする事は感心出來ません。しかしたゞ表面だけの明朗ではいけません。つけやきばの一寸した事にすぐへこたれるやうな明朗や陰性な心をしひておしかくしたやうな明朗や、ためにす(58)るところのある社交的な快活さなどは一向ありがたくありません。今の世の中にはともするとさういふ不純な明朗さがないと限りませんから、注意をしたいと思ひます。悲しい時には悲しむがよい。うれしい時には喜ぶがよい。泣くにも笑ふにも濁《にご》りのない無邪氣さがなければいけません。あなた方はこゝにあげましたお歌を何度も何度も拜誦してその聲調の美しさを自然に會得するやうにしてほしいと思ひます。なほもう一つ二つ季節の作をあげておきませう。
 
(59)   ひさかたの天《あめ》の香具山此の夕《ゆふべ》霞たなびく春立つらしも(卷十、一八一二)
 
 これは人麻呂集に出づと注のついてゐる歌です。まづ人麻呂の作と考へてよいかと思かます。人麻呂の事はまた後で申しませう。「ひさかたの」は「天」とか「日」とか「月」とか「雨」とか、空に關するものにかける枕詞です。どういふ意味か、いろ/\説がありますが、たしかな事はわかりません。枕詞には今日意味のわからないものがずゐぷんあります。たとへば「あしひきの」といふやうな枕詞も誰でも「山」の枕詞だといふ事は知つてゐますが、なぜ山の枕詞にするかといふ事はわかりません。今の人にわからないばかりでなく、昔の人にもわかりかねたので、私の考では、もう人麻呂の頃には本來の意味がわからなくなつてゐて、(60)人麻呂などほ自分勝手に解釋を考へて使つてゐたのではないかと思はれます。「ひさかたの」などもそれに近いものだと思ひます。それであなた方がかういふ枕詞を讀む場合には、一々古い解釋を讀んでどれが正しいかなどと考へるよりも、「天」の枕詞といふ事だけを知つて、「ひさかたの」といふ言葉から何となく感じられる氣持を味つた方が、却つて作者の心にふれる事が出來ようと思ひます。作者にもはつきりわからないやうな言葉をなぜ使ふのか、そんな位ならもつと意味のはつきりした何か別の言葉を使つた方がよいではないかと考へる人もあるかも知れませんね。ところがさうではないのです。歌といふものは、散文とちがつて、たゞくはしく述べれば氣持が通じるといふものではないのです。むしろその反對に、云はないでもすむ事はなるべく云はないで、その中心となるものをしつかり見つめて精神を一點に集中して、出來るだけ單純に歌ひあげるといふ事が大切だといふ事は、今迄あげて來た歌についても會得出來るはずだと思ふのです(61)が、それであればこそ枕詞が必要になつてくるのです。なまじ意味のある言葉を使つて、歌の内容を複雜にするよりも、却つて意味のない、ただ一種の氣分の感じられるやうな枕詞を使つた方が一首をひきしめる事が出來るからです。つまり枕詞といふものは、歌を「飾る」ものではなくして「單純化」する爲に必要なのです。たとへば
  玉藻《たまも》刈る敏馬《みぬめ》を過ぎて夏草の野島の埼《さき》に船近づきぬ(卷三、二五〇)
は人麻呂の作ですが、この「玉藻刈る」「夏草の」は二つとも枕詞です。五句から成る短歌に二句まで枕詞を使つてるのですから歌の内容は「敏馬を過ぎて野島の埼に船近づきぬ」といふだけになります。敏馬は今の神戸の東のところで、上代の港だつたところです。野島は淡路島の北端から少し西へ廻つたところです。これは人麻呂が船で今の神戸の沖を通つて明石海峽をへて野島の埼へ近づいた折(62)の作で、これを枕詞をとつてしまふとたゞの記録風な散文になつてしまひますし、枕詞の代りに意味のある言葉にすると一直線に言下《いひくだ》した作者の感動が散漫なものになつてしまひます。この二つの枕詞によつて單純化が行はれて、人麻呂らしい調子が出て來るのです。それを思はないで、枕詞といふものを「飾る」ものだと考へて、萬葉集には枕詞や序詞《じよし》や對句《ついく》やいろ/\の修辭技巧があるから萬葉は單純|素朴《そぼく》でないといふ風に見る人があれば、それは修辭技巧といふ概念《がいねん》にとらはれた考へ方です、文藝である以上、惜辭技巧のあるのは當然で、それがどういふ風に用ゐられてゐるかといふ點に根本の問題があるわけです。枕詞の場合にもその單純化がどういふ風に行はれてゐるかといふ事がわかつてはじめて萬葉がわかつたと云へませう。今の「ひさかたの」にしても、その代りにもつと意味のある言葉を入れる事が出來ませう。たとへば香具山のある國名をあげて「大和なる」といふやうな事もいへませうし、香具山の姿を形容するやうな「うるはしき」と(63)か何とかいふ風な言葉を入れる事も出來ませう。しかしさうしないで、殆ど意味のない「ひさかたの」といふ枕詞を置いた方がどれだけよいかといふ事は、よく讀味はつてみればおのづからに合點が行くだらうと思ひます。さて、その香具山に「この夕霞たなびく」といふので、これは解釋の必要はないと思ひます。早春の夕ぐれ、作者が眼前に見る景をそのまゝ「霞たなびく」と、しつかり云ひすゑたので、富士山の「雪はふりける」と結んだのと同じく、作者のこしらへものや趣向が微塵もはひつてゐない。かういふ句は何度よみかへしても飽く事がないのです。そしてこの第四句で一旦切つて、「春が立つらしいナア」と感慨の句で結んだので、これがまた甚だ自然です。前の持統天皇の御製は「春過ぎて夏來るらし」とまづ感慨を先へ述べられたのであり、これは感慨があとになつてゐます。それだけにこれを重厚《ちようこう》といへば、御製は端勁《たんけい》と申せませう。これは四句切であり、御製が二句切である。その句切の相違にも兩者の聲調の相違がよく感じられます。(64)今と同じ發想法によつた類歌でも
  野べ見れば撫子《なでしこ》の花咲きにけり吾が待つ秋は近づくらしも(卷十、一九七二)
とを較べると、香具山となでしことの素材の相違もさる事ながら、すつかり歌品が違つたものになつてゐることが感じられませう。そしてそれは三句切になつてゐるといふ事も狂意して下さい。「らしも」の「も」は前に一寸述べておきましたが、詠嘆の助詞で、後世はあまり用ゐられなくなりましたが、萬葉では實に屡々用ゐられてゐます。今の歌のやうに「らしも」といふ風lこ助動詞につゞいたものが特に多いが、「悲しも」「惜しも」などと形容詞につゞいたものも多く、「鶯鳴くも」とか「鶴が聲すも」などと動詞につゞいたものも相當にあります。
 
(65)  秋萩の枚もとををに露霜置き寒くも時はなりにけるかも(卷十、二一七〇)
 
 前二首は春の訪れを詠んだものでしたが、これは秋が深くなつて、だん/\寒さが身に泌みるやうになつたといふ、やはり季節の推移に驚く心を歌つたものです。萩を詠んだ作は萬葉集中に百四十一首あります。萬葉の草木中では最も多く詠まれた植物です。しかし、萬葉でも古い時代、即ち人麻呂の頃以前のものはあまり多くはなく、奈良朝のはじめ頃、天平時代の作に多いのです。萩の花といふものはこまやかにやさしく、平安朝趣味ともいふやうな感がせられますが、古今集以下の勅撰集には割合に少く、後拾遺集と新古今集とに十八首づつ詠まれてゐるのが多いので、それに較べると萬葉集のは非常に多い事になります。ですから(66)やはり萬葉人に愛好せられた植物と云つてよいでせう。たゞ萬葉のうちでも天平を中心とした頃の作が多いので、從つて數の割には萬葉ぶりの代表作としてあげるものは少いのです。その中でこゝにあげたものを第一に推すべきであらうと思ひます。「萩」の文字は萬葉以後に日本で作られたので、漢字として「萩」の字はありますが、それはハギでなくて、よもぎ又は楸《ひさき》で、それをハギの意に用ゐたのは秋の草といふ意味で日本でこしらへたのです。ツバキに「椿」の文字を書くやうになつたのと同じです。椿の字は既に萬葉に見えてゐますが、萩は萬葉にはまだ見えず、萬葉では「芽子」又は「芽」の字が書かれてゐます。しかし萬葉時代に萩を秋の草の代表と見てゐた事は
  人皆は萩を秋といふよしわれは尾花が末を秋とは云はむ(卷十、二一一〇)
といふ歌のある事によつて察せられます。これは世の人は皆萩を秋の景物とい(67)ふ、世間の人はさう云はうとも、自分は尾花の穂先を秋の景物と云はう、といふので、しひて異説をたててみた歌ですが、これによつて當時の人が一般に萩を秋草の代表と考へてゐた事がわかりませう。「とをを」は「たわわ」と同じく、「枝もとををに」は、枝もたわむばかりにの意です。「露露」は訓み方についてもツユシモと澄んで訓む説とヅユジモと濁つて訓む説とあり、解釋も露と霜とをいふと見る説と、單に露を云ふとも、又は霜をいふとも、或は露の霜にならうとしてゐる頃のものをいふとも、いろ/\むつかしい説がありますが、これはさうむつかしく考へないで、ツユシモと訓んで露や霜をさしたものと見てよからうと思ひます。露や霜と云つても兩方が同時に置くといふわけでもありませんから、或場合は露だけである事もあり、ある場合は霜だけである事もあるのですが、さう嚴格にきめないで、露や霜やと見ておいたらよいでせう。さてこれで一首の意味はわかつたでせうが、萩の枝といふものは長くてしなやかなものですが、そのなよや(86)かな枝がたわ/\とたわむばかりに露や霜が置いて、肌寒の感じられる時節になつて來たナア、と感慨をもらしたもので、萩と露とを詠み合せたものは集中に卅首もありますが、この作の場合、「露霜置き」と云つて「寒くも時はなりにけるかも」と續いてゆくところ誠に何ともいへずよい調子だと思ひます。結句は前にあげた志貴皇子の制作と同樣であり、それは春であり、これは秋であり、それは蕨であり、これは萩である、と云つた具合に、構成も似てをり、共に單純な、調子のはつた佳作だと思ひますが、前者が一層單純で力のあふれたものを感じさせ、そこに時代の相違といふ事も考へられます。かういふ作をよく讀みくらべ、讀味はつて双方の特色を學ぶことにより、いろ/\發明するところがありませう。何遍も何遍も讀みかへして自分でよく會得するやうにして下さい。
(69)  みたたしの島の荒磯《ありそ》を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(卷二、一八一)
「けるかも」の結句の歌をあげました序《ついで》に、同じ結句で別の方面の作にうつります。この作は天武天皇の皇太子|日並皇子《ひなめしのみこ》が薨ぜられた時に、その宮の舍人《とねり》が悲しんで詠んだ作です。日並皇子は歴史では草壁皇子《くさかべのみこ》と申す方で、持統天皇三年正月に御年廿八でおかくれになりました。御墓は佐田といふ丘にあります。橿原神宮前から吉野へゆく電車に乘ると、壺坂口《つぼさかぐち》といふ停車場があつて、その少し西のところで、車窓から北の方に御墓の鳥居ををがむ事が出來ます。この皇子の御殿は高市村島ノ庄といふところにありました。多武峯の西の麓にあたります。その御殿を島の宮と申しました。島といふのは海中の島ばかりでなく、築山《つきやま》や泉水《せんすゐ》など(70)をこしらへて所謂|島山《しまやま》の姿を偲《しの》ばせた庭園をも云うたので、その庭園の特にすぐれた御殿であつたので、そこを島の宮と申したやうであります。それがその御殿のあつた附近を廣く島と地の名にも呼ばれ、今日島ノ庄の名も殘つたと思はれます。この作はその御殿のあるじであらせられる日並皇子がおかくれになつた爲に、その美しい庭園も次第に荒れてゆくのを眺めて、舍人たちの悲しんだ作中の一つです。「みたたしの」といふ言葉は一寸目馴れない言葉ですが、「立つ」といふ言葉を丁寧にいふ場合に「立たす」と云ひます、これは上代によく用ゐられた敬語で「行かす」「採ます」「問はす」などと云ひます。後世は用ゐられなくなつた言葉ですが、萬葉集には實に度々使はれてゐますから、序に説明しておきますが、この「す」といふ言葉は、さ、し、す、せ、と活用する助動詞と見るべきもので、たとへば「おたづになるならば」といふ意味を「とはさば」と云ひ、「おたづね下さい」といふ意味は「とはせ」と云ひます。かういふ言葉で私達にもまた(71)親しぐ感じられる言葉が少しは殘つてゐます。たとへば御佩刀《みはかし》といふ言葉は今も文章には使ひませう。その「はかし」といふのは「佩く」に「す」をつけて「佩かす」と云ひ、その連用形「はかし」を名詞にして「み」といふ接頭語をつけたものです。「みたたし」といふのはそれと全く同じで、「立たす」を「立たし」と名詞にして「み」を加へたものです。それで意味はわかりませう。お立ちになるといふ言葉を名詞にしたので、從つて「の」といふ言葉をつけて「島の荒磯」へつづけたのです。それは行幸になる事を「いでます」と云ひ、名詞にすれば「いでまし」となり、行幸になる宮を「いでましの宮」といふのと同じわけです。日並皇子が御生前にいつもお立ちになつてゐた島のあり磯、といふ事です。島の事は今申しました。こゝでは宮の名前ではなくて、やはり庭園の意味にとつた方がよいでせう。「あり磯」は荒磯《あらいそ》のつゞまつたものですが、荒磯といふ本來の意味は失はれてたゞ汀《みぎは》といふ位に用ゐられてゐると見るべきでせう。庭園を島といふやう(72)に、その泉水の邊を「ありそ」と云つたものと思はれます。「今見れば」以下は解釋の必要がないと思ひますが、皇子の御在世の頃には常にその庭園に下り立たれてゐたので、庭の掃除もゆきとゞいた美しい汀のほとりであつたが、それが、今は一面に雜草の生えしげる荒野のやうな姿になつてしまつた、と嘆いた作であります。しかし、さういふ説明らしい事は何も云つてゐず、たゞ、「生ひざりし草生ひにけるかも」と作者が眼前の景をたゞそのまゝに並べてゐるにすぎないので、皇子の御事や皇子の薨去を悲しむ心などは表面に一寸も出してはゐない點が注意せられませう。このゆき方は喜びと悲しみと兩極端の相違はありますが、志貴皇子の「歡御歌」と題してたゞ「さ蕨の萠え出づる春になりにけるかも」と歌はれてゐるのと全く軌《き》を一にしてゐるものと云へませう。うれしいと云はずして喜びの感動があふれ、悲しいと云はずして哀愁《あいしう》の思が一首の調にしみ出てゐる。そこを十分味はつてほしいと思ひます。しかも「生ひざりし草生ひにけるかも」とい(73)ふのはまた何と單純な云ひ方でせう。「生ひざりし草」と云つて「生ひにける」とくりかへす、かういふ言方が今の人にはなか/\出來ないのではないでせうか。も少し「上手な」言方をしようと考へはしないでせうか。前に(五一頁)引用しました、古今集の「蟲の音のしげき野べともなりにけるかな」はやはりだいぶ上手な方ですね。しかしその上手な言方と、この單純な表現とどらちに深く迫る力があるでせうか。そこをよく考へてみないといけません。單純といふ事の尊重すべき事に就いては前にも一寸述べましたが、こゝでまた少し申しませう。どうも今の人にはこの單純といふ事の意義、力、尊さ と云つたものがなか/\わからないやうに思ひます。一應はわかつたやうな事をいふ人もありますが、なか/\ほんとにわかつてゐません。それで私はくりかへし云つておきたいのです。それがほんとにわからなければ萬葉の精神はわからないし、日本の精神もわからないのです。日本人の生活には衣食住の隅々まで單純といふ精神がよく行き(74)わたつてゐると思ふのですが、どうも今の人にはそれがわかつてゐないやうに思へてならないので、私は極めて手近な例をとつて申してみませう。私達が御飯をいたゞくお箸と西洋人が洋食の時に使ふフォークとどららが單純でせうか。そしてどちらがすぐれたものでせうか。また下駄や草履と靴とはどうでせうか。また疊の上へ座蒲團を敷いて坐る日本のお座敷と、椅子やテーブルを置いた西洋風の應接間とはどうでせうか。かういふ事について考へた事がありますか。あなた方は昔の下駄を見た事がありますか。近頃あもこらで發掘された下駄が展覽會などに出品される事があるので、見られた方もあるでせう。今の下駄は前|鼻緒《はなを》がまん中についてゐますね。ところが古い下駄は片方へよつてゐるのです。右の足にはくのは左の方へ、左の足のは右の方へ、即ち親指の部分が狹くなつてるのです。なる程それが理窟にかなつてゐるナと思ひはしませんか。親指と他の四本の指とでは巾が違ふのですから、それをまん中へ鼻緒をつけたんでは考へが足りないや(75)うですね。だから理窟の上から下駄の發達といふ事を考へると今のやうなのが先づ出來て、それから合理的なものに改良されたと思はれるのですが、事實は逆になつてゐます。そこが甚だ面白いと私は思ふのです。これは理論の問題ではなく、事實の問題なんです。何百年の時日と何萬、何億の人の經驗とを重ねた結果が、一見理窟にかなつたやうな左右形を異にした下駄から左右同形の單純な今日の下駄に發達したのです。即ち今日の下駄は極めて無造作に見える單純な形をしてゐますが、實に深い經輪と工夫とがその裏にこめられてゐるのです。私は京都のある下駄屋さんの主人に草履の鼻緒のすげ方のむつかしい事などを一時間あまりも聞かされた事があるのですが、現在の下駄屋さんでもなほさういふやうに工夫を重ねてゐるのです。しかもさういふ事は表面には一向わかりませんね。が、ほんとの單純といふのはさういふものなんです。單純といふ事は決して幼稚とか無造作とか簡便とかいふ事と同じでありません。あゝでもないIかうでもないと(76)考へぬいた最後に到達するところが單純なんです。即ち今日の下駄の形は「單純」であり、昔の下駄の形は「幼稚」だつたのです。この事がわかつたら、下駄と靴とどちらが幼稚なものだといふ事もわかりませう。昔の下駄は左右の形は違つてゐても甲の人が乙の人の下駄を借る事は出來ますね。ところが靴になつたらどうですか。左右の相違は申すまでもなく、同じ年齡の級友の靴もどうかすると借るわけにゆきませんね。一人々々寸法をはかつてその形に合ふやうに作るのですから、大いに造作をかけたものだとは云へませうが、指一つ一分長くてももう使ふ事が出來ないのです。何といふ氣のきかない幼稚な窮屈な個人主義的な代物でせう。それに較べたら下駄は何といふすばらしさでせう。鼻緒のすれ形や臺のへり方が少し左右違つて來た――といふ事が實は感心しない事ではありますが――と氣づいたらすぐ左右をとりかへて履く事の出來る事は申す迄もない、中學生がお祖父樣の下駄を、女學生がお祖母樣の下駄を拜借する事も出來るのです。いや中(77)學生がお祖母樣の下駄も借れるのです。私なんか郷里へ歸つた時には、庭先にぬぎすててある祖母や母の下駄をいつも借りて用を足してゐます。何といふうれしい融通無碍《ゆうづうむげ》でせう。そこに日本精神があるのです。八紘一宇《はつくわういちう》があるのです。かういふと笑ふ人があるかも知れませんが、笑事ではありません。下駄一つにでも私達の祖先の精神は生かされてゐるのです。しかもその下駄は西洋人にはすぐ履《は》けないのです。「練習」をしないとはけないのでそこがまた面白いところです。下駄一つはくにも日本人は子供の時から一つの訓練をされてゐるわけなんです。しかもその訓練さへすませば、下駄は、右のやうに單純で、自由無礙なんです。大陸で戰爭でもするには靴の方がよいでせうが、日本内地で普通の仕事をするには靴のやうな幼稚な履物を使ふ必要はないと思ひます。昔ミケランゼロは長い間靴をはいたまゝで寢食を忘れて製作に精進した爲に、足の皮が靴にくつついてしまつたといふ逸話を殘してゐますが、まして日本の夏のやうな濕氣の多い土地で靴な(78)どをはくのは愚な事です。前に日本の風土《ふうど》の事を述べましたが、履物《はきもの》一つでもやはりその風土に適したやうに發達してゐるのです。西洋にも昔サンダルといふ日本のわらぢのやうなものがありました。然るにそれが今日は靴になつてしまつたので、その事だけを見て日本の草履は西洋のサンダルの遺物であつて、靴とそ進歩したものだと考へるやうな人があつたらとんでもない考違ひです。西洋では靴になつたものが、日本では下駄や草履になつたのです。そこに風土の相違があり精神の相違があるのです。日本で靴をはかうとすると忽ち皮の不足を感じなければならないのです。西洋人は牛や羊の肉や乳を常食してる國民ですから皮も豐富にあるわけで靴をはいてもよいのですが、日本人が牛や羊の肉などをたぺるといふ事が既に風士に適せず健康にもよろしくないのみならず、牧畜するといふ事が、日本の食糧經濟《しよくりやうけいざい》の上からも不適當なんです。さういふ無理をしてまで幼稚な不衛生な靴なんかを履く必要はないのです。日本は豐葦原《とよあしはら》の瑞穗《みづほ》の國であつて五(79)穀をたべて今日の國力を養ひ育てて來たのであつて、從つて藁には少しも不自由をしないはずなんですから、もつと今の人も藁草履や草鞋《わらぢ》を愛用したらよいと思ふのです。かういふ風に考へると靴と草履との差といふ事がずゐぶん廣く國民生活の問題に關係してゐるといふ事がわかりませう。然るにさういふ事を考へないで、近頃はわざ/\靴の形をした板片へ、足先をさしこめるやうな皮をうちつけたものをこしらへて、女子供が愛用してゐますが、凡そこんなばか氣《げ》たものはないと私は思ひます。五才になる長女が、あれを見て自分もはいてみたいと云ひますから「あれは下駄をようはかない人がはくもんだよ」と説明してやつたら、再びほしいとは云はなくなりました。「三才の兒童」ではありませんが五つの子でもわきまへる事を、相當な年をした人がどうしてあゝいふ不愉快な事がわからないのかと不思議でたまりません。西洋人でも私の知つてる伯林大學の教授のシャールシュミット博士は日本で草履を注文して――足が大きいのであり合はせので(80)は不都合で特別に大きいのを作らせたのでずゐぷん高い値段であつたとの事です――十足も作つて持歸つて、愛用してゐる、もう半分位はいてしまつたが、まだ四五足殘つてるから當分不自由をしないと、先年私が伯林郊外の自宅に訪問した時話してゐました。西洋人でもさういふ風に草履や下駄のよさがわかる人もあるのです。私は比叡山や愛宕山へでも袴をつけて下駄をはいて登るのですが、登山靴などもの/\しくはいた青年ハイカーを片つぱしから追越し乍ら困つたもんだナと思はずにをれないのです。履物の事一つに既に七八頁を費してしまひましたから、お箸とフオーク、きものと洋服、さういた比較をやつてゐたらそれだけで一冊の本が出來てしまひさうですからもうやめておきます。しかしあなた方が應用問題として考へてみて下さい。今私が履物一つについて云つた事が、さういふ他の問題についても實に面白い程一々あてはまる事を發見するでせう。
 とにかく以上の一例によつて單純といふ事と幼稚といふ事の違ふ事、また單純(81)と簡便とも違ふといふ事が幾分わかつたかと思ひます。そして單純の美と力とについておぼろげにわかつたかと思ひます。併し今の人はなか/\實際にはそれがわからないのです。單純といふ事を幼稚な事だと考へたり、たとへそれがわかつてもそれを求めようとする氣力や精進力がなく、單純のかはりに簡便を求めようとする人が實に多いと思ひます。こゝでまた一寸餘談のやうですが、國語の文法の事を申しておきます。今、日本の文法やかな遣をむつかしいと云つてこれを簡便にしようと試みたりする人がありますが、日本文法といふものは決してそんなにむつかしいものではありません。たとへば「云ふ」といふ動詞は「いは、いひ、いふ、いふ、いへ、いへ」と活用しますね。所謂四段活用で、ハヒフヘとすぐ覺えられますね。そこで「云はう」といふ場合は文章語なら「いは」に「む」がついて「いはむ」となるもの「む」の代りに口語だと「う」がついて「いはう」となる、實に單純明瞭ですね。ところが、「云はう」といふ語を今日「イ、ハ、ウ」(82)と發昔しないやうになつてるから、それを昔のやうに「いはう」と書くのはむつかしい、「ゆわう」と書いた方が簡便だなどと云ふ人があります。しかし實際「ユ、ワ、ウ」とは發音しないでせう。それなら「ゆおう」と書いたらどうか、といふ事になるが、「ユ、オ、ウ」とも實際に云ひませんね。そこでそんなら「ゆおお」はどうか。しかし「ユ、オ、オ」とも實際は云ひませんね。そんなら「ゆおー」としようか。「ー」は文字ではなくて記號ですね。それにかりに「ゆおー」と書いてみるとして、そんなら「云はぬ」といふ場合には「ゆわぬ」と書かねばならず、「ゆお」といふ活用と「ゆわ」といふ活用と二つある事になり、「云ひます」といふ場合は「いいます」と書くより仕樣がないから語根まで「ゆ」と「い」と二つになるといふ事になる。誠にやゝこしい事ですね。ところが大昔から用ゐられたやうに「いは」「いひ」とさへ書けば「いはう」「いはぬ」「いひます」と實に單純ですむのです。殊に文字といふものは發音記號ではないのですから、そのか(83)なの文字通り發音する必要はないのです。私達は「いはう」とかなで書いてあつても決してイ、ハ、ウと讀まないので、この三字を一度に「云はう」といふ意味の言葉として讀みとれるのです。文法がむつかしいとかかなづかひがやゝこしいとかいふ人は、本氣にものを學ぶ心がないからで、單純と簡便とをごつらやにして、實は國語を破壞してしまはうとするやうなものです。私達はもつと國語を尊重しないといけません。はじめは少しむつかしく見えても覺えてしまへば決してそんなにやゝこしいものではないのです。すべて入るに努力を要しない「簡便」といふ事こそ、世界を混亂せしむるもとなのです。簡便と單純とをごつらやにしてはいけません。單純といふものは、物により、事により、多かれ、少かれ、努力なしには至れないものなのです。そこに單純の貴さがあるのです。單純が幼稚と違ふ事もそれでわかりませう。萬葉集のいのちは單純なところにあります。萬葉を單純でないといふ人は單純といふ意味がほんとにわからない人です。さて以(84)上述べたやうに單純に到り着くには努力を要するといふ事を認めるとすると、また、萬葉人はそんなに苦心して歌を作つたのだらうか、もつとやす/\と歌を作つたのと違ひますか、といふ人もありはしないかと思ひます。尤もな疑問です。それはたしかにさういふ事もあるのです。それならば單純に到る苦心といふ事とどういふ關係になるかといひますと、萬菓人の住んだ世界がよかつたといふ事です。今日よりも生活が自然であつたといふ事です。今日の私達は昔の人の知らなかつたいろ/\の事を學んでゐる。しかしそれと同時に昔だつたら考へずにすんだ事も考へなければならないやうになつてゐる。黒い眼で見るべきはずなのに茶色の眼で見るべき見方などを教へこまれたりしてゐるのです。世界的の哲學者西田幾多郎先生が
  赤きもの赤しといはであげつらひ五十路《いそぢ》あまりをわれはへにけり
 赤いものを赤いといはないで、いろ/\むつかしく議論をして五十餘年を過し(85)たと述懷してゐられるのですが、今の人はなか/\赤いものを率直に赤いといへないのです。ところが昔の人はそれがいへるやうな世界にすんでゐたのです。だから今の人では非常に苦心をしないと到り得ない單純の世界へ、も少しやす/\と到り得たのです。靴と下駄との比較をするのに何時間もかゝるやうな事をしないで、藁沓《わらぐつ》や木沓をはいてすましてゐたのです。今の人はフォークのやうな野蠻なものは使ひたくないと思ふと、私のやうに宴會に出るのにわざ/\薯を持參しなければならないのですが、昔の人はお箸しかなかつたのだからそんな手數もいらなかつたのです。昔の人はそのまゝで日本人が日本人として生きられたのです。つまり萬葉人は萬葉の歌をつくるのに惠まれた環境にあつたのです。もつとやす/\と歌が作れたといふ事がそれでわかりませう。そして「生ひざりし草生ひにけるかも」といふやうな句が今の人には却つてむつかしいといつた事もそれでわかりませう。それであればこそ私達は萬葉集をありがたいものと思はずにを(86)れないのです。歌のお手本としては勿論であるが、日本人の生活のお手本としても萬葉精神に學ばねばならないのです。日本人が日本人として生きた爲にいろいろ努力を要する今の人にとつて、日本人が日本人として生きやすかつた萬葉の世界を貴く思ふのです。かういふと萬葉人は萬葉の歌を作るに惠まれた世界にゐて萬葉の歌を作つたやうに、私達は私達の世界にあつて作りやすい歌を作つたらよいではないかと思ふ人があるかもしれませんね。さういふ事を考へる事が茶色の目になつてる證據なんです。男が男になり、女が女になる事を外にして立派な人間にはなれないやうに、日本人が日本人になりきる事によつて最もすぐれた世界人になれるのです。いか程文化がすゝんでも赤いものはやはり赤いものなんです。のみならず今の人の考へる文化といふ事には隨分誤解が多いのです。鎖國から開放された明治の初年に、西洋人の「物質生活の便利さ」に驚いた日本人は、すべて西洋風な生活が文化生活だと誤解したのです。しかし人間のしてゐる事は(87)今日がきのふよりよく、明日がけふよりよいとは限らないのです。私達は今日こそ最も根本的にものを考へなければならない時です。西洋もさうするから日本もかうするといふやうな、そんな根柢のない動き方をすべき時ではありません。「隨處(ニ)作《ナル》v主(ト)」といふ言葉がありますが、今の日本人こそまさにその矜持《きようじ》に生きるべき時です。今日の世界を修羅《しゆら》の巷《ちまた》から眞に救ふものは日本を措《お》いて斷じてないと私は信じます。歪《ひずみ》に歪を重ねて來た今日の所謂文化に對して今こそ根本的な反省をすべき時です。然らずんば世界の人類は遂に崩壞《ほうくわい》の一途を辿るより道がないであらうと思ひます。しかもこの危機を救ふものは、われ/\が神代の古からうけついで來た單純素朴の精神を、再び生活ぐるみに生かす事をほかにしてはあり得ないと信ずるのです。そしてその精神を、理論でなしに、端的に、ぢか〔二字右○〕に私達の心に傳へるものが萬葉集です。私がこの萬葉集の歌を、單に歌としてのみでなしに、もつと私達の日常の生活に觸れて述べて來てゐるのもさういふ心からです。(88)「生ひざりし草生ひにけるかも」の解説がずゐぷん長くなりましたが、この一見あたりまへすぎるやうな句を不注意に讀過すべきでなく、中にこめられた餘情を十分に味はつてほしいと思ひます。そしても一つ極めて似た類歌をあげておきませう。
 
(89)   妹《いも》として二人つくりしわが山齋《しま》は木高《こだか》く繁くなりにけるかも(卷三、四五二)大伴旅人《おほとものたびと》
 
 これは大伴旅人が妻の死を悲しんでよんだ歌です。旅人は家持《やかもち》の父です。大伴氏は代々武門の家柄《いへがら》として重きをなしてゐました。旅人は聖武天皇の神龜《じんき》二三年頃|大宰府《だざいふ》の長官、大宰帥《だざいのそつ》になり九州へ下りましたが、神龜五年の初夏の頃、任地で妻を失ひました。天平《てんぴやう》二年十月大納言に任ぜられて奈良の都へ歸つたのですが、その時故郷の家へ歸り着いて詠《よ》んだのがこの作です。「妹《いも》」は今日の妹で《いもうと》ではなくて、「妹背《いもせ》」の妹です。從つてイモと訓《よ》み、妻の事です。一體「妹背」といふのは夫婦といふ意味に用ゐられてゐますが、背といふのは妻が夫を呼ぶ場合ばかりでなく、すべて男を呼ぶ名であつて、男から男に封しても「背」と云つてゐます。(90)昔は男を呼ぶには「背」とか「背子《せこ》」とか「君」とか「背の君」とか呼んだのです。それに對して女を呼ぶには「妹」とか「妹子」とか――この場合は普通「我」を加へてワガのガとイモのイとが約《つづ》まつて「我妹子《わぎもこ》」と用ゐられてゐます――又は單に「子《こ》」ともいひます。母や姉が娘や妹に對しても「妹《いも》」といふのです。後世は女に對しても「君」といひますが、萬葉時代は女に對して「君」といふのは特別の場合に限ります。さういふ用ゐ方を見ても、言葉遣に里女の別があつた事が考へられます。前に「行かす」「讀ます」など「す」といふ敬語のあつた事を申しましたが、この「す」は「行き給ふ」「讀み袷ふ」などの「給ふ」にくらべるとやゝ輕くなつてゐます。それで「す」といふ敬語は男から女に對しても相當用ゐられてゐますが、「給ふ」といふのは女から男に用ゐられる事が普通になつてゐます。かうした敬語の用ゐ方といふ事も今の人はも少し反省しなければいけないと思かます。殊に近頃の女の人の中にずゐぷん亂暴な言葉遣をする人がありま(91)すが、あれは愼《つゝ》まなければいけません。「男尊女卑《だんそんぢよひ》」といふと何か語弊《ごへい》があるやうであり、「夫婦平等」などといふと高級な考へ方のやうに見えたりするのですが、それが即ち茶色の目の見方です。夫婦といふものは夫が年長であるといふ事も昔からのならはしであり、長幼|序《じよ》ある事は當然であり、たとへ年齡だけの例外はあつても、夫は一家の主人たるべきものであり、指導者たるべきものであり、家の代表者たるべきものであり――たとへば何かへ名前を書く場合にも近頃はむやみに夫婦の名を並べたりする事が多いやうですが、あれこそ至らぬ〔三字傍点〕考であつて、妻が夫の世界にすつぽり浸《ひた》りきつてゐたらわざ/\あゝいふ水くさい事をする必要はないのであり――妻はその内助者《ないじよしや》たるべきものでありますから、その間に言葉遣の相違がある事に何の不思議もありません。のみならず男女にはそれ/”\の天分《てんぶん》があり、その天分を生かすところに意義があるのですから、男が男らしく、女が女らしく、物言ひ振舞をするといふ事は當然であり、女がやさしい丁寧な言葉(92)を使ふといふ事はみづからを卑下《ひげ》する事でなくしてむしろその品位を高める所以だといふ事を十分知つてほしいと思ひます。近頃程「教養《けうやう》」といふ事がやかましく云はれる事はないと思ひますが、また近頃程教養のみだされてる事も少いと思ひます。教養は單なる知識ではないのですから、いくらむつかしい事を學んでも、その一言一行の上に示されなければ何にもなりません。お辭儀一つにしても疊の上へ突いた兩手の手先の距離が十糎乃至十五糎で、下げた額と疊との間隔も同樣で、腰を浮かさないやうに靜かに、などと知つてゐてもそれが身についてゐなければだめです。近頃はお辭儀一つ滿足に出來ない人が多く、訪問先で、まだ主人が座にもつかぬうちにピョコンと頭だけ下げて主人がいざお辭儀をしようとすると、客はけろりとしてるといつたやうな事がよくありますが、お辭儀一つ出來ないで教養もあつたものではありません。眞心のこもつた作法とその身にふさはしい言葉遣とは絶えず心がけてゐねばならないと思ひます。
(93) さてこの歌の「妹」は旅人の亡《な》き妻をさしたものです。第三句の「山齋」はシマと訓む説とヤドと訓む説とがあります。山齋といふ漢語は「山莊《さんさう》」といふやうな意ですが、この歌では家そのものを訓んだのでなく庭園の木立をよんでゐます。そこで前の歌について説明しましたやうな意味でシマと訓み、庭園の意にとる説が多く行はれてゐます。卷廿に題詞に「山齋」といふ文字が使はれてゐて歌の中に「しま」といふ言葉が用ゐられてゐる例もあつて、それらと思ひあはせて今もシマと訓んでよいかと思ひます。しかしヤドと訓む事もあたらないとはいへないのです。といふのは「やど」といふ言葉も庭ぐるみのものだからです。「やど」といふ語に「宿」といふ漢字を宛《あ》てる爲に、今の人は「旅の宿」「湯の宿」などの「宿舍」を聯想するのですが、萬葉では、さういふ使ひ方も勿論ありはしますが、宿舍の意味には「旅のやどりに楫《かぢ》の音《と》聞ゆ」などと「やどり」といふ場合の方が多く、「やど」は「君がやど」「わがやど」などとその人の「佳《すま》ひ」で、しか(94)もそれは家の建物だけをさすのでなしに庭をこめてのもので「やしき」とでもいふに近い。「わがやどに植ゑし藤波今咲きにけり」とか、「わがやどの梅咲きたりと告げやらば」とか「わがやどの秋の萩原色づきにけり」といふやうな例を見てもわかりませう。かういふところにも日本人の住ひと自然とのしたしさといふ事が考へられるので、今日の都會の西洋風の建物には庭などは全然なく、自然と全く交渉《かうせふ》をたつたやうなのがあり、例の「簡便」を喜ぶ心からさういふ建物の一部を住ひとするやうな人も生ずるのですが、あゝいふのは「やど」ではないといふ事になりませう。例の歪《ひずみ》を重ねた現代生活ではそれもやむを得ない場合もありませうが、どんな小さい家でも「やど」を求めるのが日本人の心だと思ひます。さういふ風に「やど」といふ語が用ゐられてゐるのですから、今の「山齋」をヤドと訓む事もあたらないとはいへないでせう。
 さて一首の意味は、今は、亡き妻と二人して、あそこへ何の木を植ゑよう、こゝ(95)の築山《つきやま》をどうしようなどと相談しながら造つた庭園は、五年ばかりの田舍住ひから歸つて見ると、すつかり木が延びて枝葉が繁つてしまつたことだナア、となげいたのであつて、「木高く繁くなりにけるかも」は「生ひざりし草生ひにけるかも」と全く同じ感慨であり、主觀を述べないで、その荒廢した庭に立つてゐる年老いた旅人の嘆きが、この二句の一語々々に感じられるやうに思はれませう。この作の前と後とに
 人も無き空《むな》しき家は草枕旅にまさりてくるしかりけり(四五一)
 吾妹子が植ゑし梅の樹見る毎に心むせつゝ涙し流る(四五三)
とあつて、これらによつて一層よく作者の心境は察せられるのですが、この二首には「くるしかりけり」とか「心むせつゝ」とか感情を説明する言葉のあるに對(96)して、右の一首にはそれがなく、たゞ「木高く繁くなりにけるかも」と詠嘆して、しかも前後の二首に比べて遙かに強く迫るもののある點を注意しなければなりません。文藝は「説明」でなくて「描寫《べうしや》」だといふやうな事は先生からも學ばれた事と思ひますが、かういふ實例についてよく讀味はつて下さい。
 以上「けるかも」で結ばれた短歌四首をあげて詳説したわけですが、その四首とも深い感動がこめられてゐることを會解されたと思ひます。しかもその感動はまた「けるかも」といふ詠嘆の言葉を重ねてゐるところから來てゐるといふ點もよく考へて下さい。「また例のけるかも〔四字傍点〕か」、などとよいかげんに見ないで「ける」「かも」といふ言葉の本來の語意を、前に述べた私の解説によつてよく會得して下さい。私は前に「なつたナア、マア」と譯してみましたが、「か」のもとの語意からすれば「なつたのか、ナア、マア」と云つた方が、もつとよく氣持が出る場合もあるかと思ひます。富士山の歌を解きました時、歌といふものを何かもや/\(97)と霞のかゝつたやうなものだと思つてはいけないと申しましたが、歌の語句を解く場合にも、よいかげんにボヤッと理解しないで、一語々々を出來るだけはつきりと會得する態度を忘れてはいけません。その上で言葉に説明する事の出來ない作者の感動をぢかに感ずるといふ事は望ましい事ですが、一語々々をよいかげんに見て直觀を尊重するなどといふ事は、とんでもない間違です。しかもさういふ人が豫想外に多いのだから困ります。どうかあなた方は一語々々をはつきり理解した上で作者の感動にふれ、萬葉の精神を生かして下さい。先づ一語々々を考究する努力をして下さい。その努力に徹《てつ》したところからおのづからに道は開けませう。
 
(98)  苦しくも降りくる雨|か〔傍線〕三輪が崎佐野の渡《わたり》に家もあらなくに(卷三、二六五)長奥麻呂《ながのおきまろ》
 
 長奧麻呂は傳記が不明です。意吉麻呂《おきまろ》とも書かれてゐます。大體人麻呂などと同じく、持統天皇の御代の頃の人です。
 「降り來る雨か」の「か」は、疑問ではなしに前に述べました「かも」の「か」で詠嘆の助詞です。一體「か」といふ助詞は、後世は殆ど疑問の意味にばかり用ゐますが、上代では、單なる疑問ばかりでなしに、詠嘆の意の加つた用ゐ方がせられてゐます。たとへば「花橘を見ずか〔右○〕過ぎなむ」などの「か」は、「これは何ですか」とか、「これが花橘ですか」とかいふ單なる疑問でなくて、花橘を見たいと思つてるのに、いろ/\さはる事があつて、その思がかなへられさうもない、あ(99)あ、あの美しい花橘を見ないで過《すご》す事にならうか、といふやうな用ゐ方で、疑問は疑問でもそこに作者のなげきの感情がこもつてゐる。かういふ使ひ方がいろいろあります。また
  いつの間も神さびけるか香具山の鉾杉《ほこすぎ》が本《もと》にこけ生《む》ずまでに(卷三・、二五九)
の「か」も上に「いつ」といふ言葉もあつて、疑問の形になつてゐますが、香具山の鉾杉――鉾のやうな形をした杉――の根本に苦|生《む》して「いつの間に、マア、神々しく古びたことであらうか、ほんに神さびたことだナア」といふ風な詠嘆の意が感じられます。今の場合は、その疑問の意がなくて、たゞ詠嘆だけになつてるわけです。
  聞きし如《ごと》まこと貴《たふと》く奇《くす》しくも神さび居るかこれの水島(卷三、二四五)長田王
(100)の「神さび居るか」の「か」も今と同じです。水島は肥後國|八代《やつしろ》の西南にあり、その水島を見て「これの水島」と云つたもので、噂に聞いたやうに、まことに貴く、奇しく――くすしはアヤシと訓む人もあります、アヤシと云つても「何だかあやしいぞ」などといふ怪しでなしに、神秘とか、靈妙《れいめう》とかいふ意鰺――神さびて居ることよ、の意です。自然に對する上代人の敬虔《けいけん》な感情がよく出てゐます。かういふ「か」と、前にあげた「春立つらしも」の「も」と、その二つを合せた「かも」と三通りの使ひ方があるわけです。そして「も」の場合は動詞や形容詞などの終止形につゞき、「か」は名詞につゞく場合が多いのですが、動詞、形容詞につゞく時には、「かも」と同じく、連體形からつゞきます。
 三輪が崎、佐野は紀州|新宮《しんぐう》市の南のところです。今も新宮市に、三輪崎、佐野の町名があります。この歌では佐野は三輪が崎の一部であつたと思はれます。「渡《わたり》」は渡しです。上代ではワタシといはず、ワタリといつてます。邊《あたり》ではあり(101)ません。渡守《わたしもり》もワタリモリといひます。今も佐野のそばに木(ノ)川といふ川があります。それだと思はれます。
 「あらなくに」は「あらぬ事なるに」の意。この「なくに」といふ言葉は萬葉集には勿論、その後の歌集にも實に津山出て來る言葉ですから、こゝでくはしく説明しておきませう。少々むつかしいかも知れませんが、中送半端の説明ですます事は嫌ですから、この言葉のみならず、これと同類の言葉をすつかり解説してみませう。もうこの春も峠に近づいて來ましたから、この邊で一つ六花清淨《ろくこんしやうじやう》と力を入れて下さい。先づ「なく」ですが、これは「有り」「無し」の「無く」――即ち形容詞――ではありません。この「な」は打消の助動詞です。打消の助動詞と云へば、「ず」「ぬ」「ね」といふ活用を思ひ出しませう。口語だと「なく」「ない」「なけれ」といふ活用もありますね。ところが「ず、ぬ、ね」といふ活用はどうも少しへんですね。といふのは、活用といふものは、行か、行き、行く、行け、と(102)か、答へ、答ふ、答ふる、答ふれ、とかいふ風に、カ行ならカ行、ハ行ならハ行と同じ行で活用するのが普通でせう。そこが日本の文法の盟純なよいところですが、それをごつちやにしようとする單純嫌ひの簡便文法學者もありますけれど、それは日本精神を知らぬ人です。然るに、この「ず、ぬ」ではサ行とナ行とがごつちやになつてる事になりませう。それで私は考へるのですが、これはもと二つの打消の助動詞があつて、「ぬ、ね」の方は「ず」とは違つた助動詞だつたのではないかと思ふのです。そして「ぬ、ね」の方は、昔は「な、に、ぬ、ね」といふ風に活用してゐたのを、いつの間にか「な、に」の方は亡びてしまひ、別の打消の「ず」といふ言葉が、それに代るやうになつたのではないかと思ふのです。まあこれは想像説ですが、「ぬ」と同行の「な」「に」といふ打消の助動詞が萬葉時代にあつた事はたしかです。そして今の歌の「なく」の「な」がそれだと思ふのです。次に「く」ですが、これは文法上どう見るかといふ事は學者の間にもむつ(103)かしい論があつてまだ一定の説がありません。しかし、この用例はずゐぷん澤山あるのです。たとへば「言はく」とか「申さく」とかいふ言葉は今でも文章には使ふでせう。口語にでも「あの男の言はくにネ」とか、「あの男の言はくがふるつてますよ」などともいふでせう。萬葉では「散らく」「聞かく」「有らく」などといふのもあります。又「言はまく」「散らまく」「聞かまく」などといふのもあります。これらの「く」の解釋にいろ/\説がありますが、山田|孝雄《よしを》博士は
  梅の花散らくはいづくしかすがにこの紀《き》の山に雪はふりつゝ(卷五、八二三)
といふ歌を例にあげて、――「しかすがに」はしかしながら、さうはいふものの、などの意である事は知つてませうね、紀の山は大宰府から見える山、――この「散らく」が「く」の本來の用法で、この「く」は下の「いづく」の「く」と同じで、「ところ」といふ意味である。即ち「梅の花の散るところは何處ぞ」の意味で(104)ある。しかしその「ところ」は必ずしも實際の「場所」には限らないので、抽象的《ちうしやうてき》の「どうする點」などといふ「點」にもあたる。だから「言はく」は「言ふ點」と見ればよい。まあかういふ風に解釋してをられます。なる程語源的の解釋として面白いと思ひますが、一々の場合の解釋としては「點」ではどうもおちつきのわるい事が多い。以前からよく「何々すること」といふ風に「こと」と譯されてゐますが、どうもその方がよくあてはまります。「申さく」は「申すこと」「聞かく」は「聞くこと」「散らまく」は「散らうこと」、口語の場合でも「あの男の言はくにネ」は、「あの男の言ふことにはネ」であてはまりませう。それで「あらなく」は「あらぬこと」になりませう。ところで「申さく」や「言はく」や「散らく」はいづれも動詞で、その未然形へ「く」がついたといふ事ははつきりしてゐますが、「なく」とか「まく」とかいふのは一寸わかりにくいので、もとはたゞ打消の助動詞「ぬ」の延言とか、推量の助動詞「む」の延言とかいつてすましてゐ(105)たのですが、言葉をむやみに延ばしたり約《つづ》めたりする事はないわけで、約める方は合理的のものは認められますが、延ばす方は今日の文法では認められない事になりました。そこで、「なく」の方は今申しましたやうに萬葉時代には「な」「に」といふ形が殘つてゐたと思はれるので、その打消の助動詞の未然形と見れば、「言はく」「申さく」などの動詞の例とも一致してよいので、まづさう見たらよからうと思ひます。そこで、「まく」の方も「む」といふ推量の助動詞は後世「む」「め」といふ形だけしか殘つてゐませんが、右と同じ類推から「ま」といふ未然形があつて、それが「まく」となつて殘つたと見てよいのでないかと思はれます。この「まく」はずゐぶん多く用ゐられてゐますから少し序にあげておきませう。
  久かたの天《あめ》見る如く仰ぎ見し皇子《みこ》の御殿《みかど》の荒れまく惜しも(卷二、一六八)
これは前に申しました日並皇子《ひなめしのみこ》のおかくれになつた後で、人麻呂が詠んだもので(106)す。
  春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも(卷十、l八七〇)
「いたくな降りそ」はひどく降るなの意。「な――そ」の事はもうどこかで學んだ事があるでせう。この歌には「なく」と「まく」と二つ使はれてゐますね。
  梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯鳴くも(卷五、八二四)
「惜しみ」ももう學んでるでせう。「惜しさに」とか「惜しいので」とか譯する言葉で、「風を疾《いた》み」――風が早いので――、「瀬を早み」「暇《いとま》無《な》み」などと歌には特に多く用ゐられてゐます。「鳴くも」の「も」は「惜しも」の「も」と同じで前に説明しましたね。
  一昨日《をとつひ》も昨日も今日も見つれども明日卷さ見まくほしき君かも(107)(卷六、一〇一四)
これは門部《かどべ》王といふ人の家で宴會が催された時に、來客の一人の橘文成《たちばなのふみなり》といふ人が、主人に詠んだ歌です。「明日さへ」の「さへ」は本來ものの重なる場合に用ゐる言葉で「明日もまた」とか「明日までも」とかいふ意味になります。「さへ」「だに」「すら」は今は混同されて用ゐられますがもと區別のあつた事は教はつた事があるでせうが、この「明日さへ」などはその本義のよくわかる例です。「まく」の例はこの位にしておきますが、「かけまくもかしこし」などは、御存知でせうが、やはりこの「まく」で「かけ」は心にかけるとか言葉にかけるとかの「心」「言葉」を略した形で、「言葉にかけて申さむ事も畏し」の意になるわけです。
 ところでも一つこゝで言はなければならない事は、次のやうな例のある事です。
  秋されば春日《かすが》の山のもみぢ見る奈良の都の荒るらく惜しも(卷八、一六〇四)
(108)これは天平十二年の冬から十七年の秋まで、一時都が奈良から恭仁《くに》へ移されて、天平十五、六年頃は奈良が舊都として荒れてゆくのを惜しんで大原|今城《いまき》といふ人が詠んだ作で、「秋されば」は秋になるとの意、「されば」の事はまたあとでくはしく説明します。
  草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の經《へ》ぬらく(卷十五、三七一九)
 これは天平八年に新羅へ遣はされた人が詠んだもので、「草枕」が旅の枕詞である事は知つてますね。「旅に久しくあらめやと妹に言ひしを」は「旅が久しくなるといふ事があらうか、そんな事はない、もうすぐ歸つて來られるのだから、と妻に言つたのに」の意です。
 右の二首の「荒るらく」「經ぬらく」が「荒れること」「經たこと」であつて、前の「言はく」「荒れまく」などの「く」と同じだと思はれませう。その他「見ら(109)く」「老ゆらく」「告ぐらく」「來《く》らく」などと萬葉の中にいろ/\用みられてゐるのも同じだと思はれます。ところが、前にあげましたのはいづれも動詞や助動詞の未然形に「く」がついたと思はれる事、右に申したとほりですが、「荒るらく」以下こゝにあげましたものは、「く」の上に「ら」といふ言葉があり、その上が、動詞や助動詞の終止形になつてゐるやうに見えます。そこでこれを文法の上から説明するために、「く」といふ言葉は動詞の四段活用や、打消の助動詞などにつく時には、その未然形につゞくけれど、動詞上二段とか下二段とか、助動詞の「ぬ」とか「つ」とかいふ語にはつゞかず、その場合は別に「らく」といふ言葉があつて、それらの動詞、助動詞の終止形につくのである.といふ風に述べられてゐる方があります。なる程これで一應説明が都合よく出來るやうですね。しかしさうすると「く」と「らく」と二つの言葉があつたといふ事になるのですが、今日から見ての説明としてはそれでもよいとして、もと「く」といふ言葉の他(110)に、別に「らく」といふ言葉があつたと認めてよいかといふ事になると私はどうもおちつけないのです。それについてはも少し別の例をあげる必要があります。
  住の江の名兒《なご》の濱邊に馬立てて玉|拾《ひり》ひしく常忘らえず(卷七、一一五三)
「住の江の名兒の濱邊」といふのは、今の大阪の南の住吉の海岸です。住吉は大阪即ち昔の難波の都の船つき場であつたのです。「住吉と書いても萬葉時代にはスミノエと訓んでゐました。それが後にスミヨシと訓まれるやうになり、別に墨之江などと書いてスミノエといふ地名も殘つてゐましたが、もと二つあつたわけではないのです。難波の港を廣くスミノエといひ、後にスミヨシと呼ばれるやうになつたけれど、その一部に上代の呼び方も殘つたといふだけです。「名兒」といふのはその住吉の一部と思はれますが、今のどこかたしかな事はわかりません。「玉」はこの場合は濱邊にある美しい貝や石を云つたものと思はれます。「あわび(111)珠」などとも云つて、今の眞珠のやうなものも云つた事は勿論ですが。「忘らえず」は「忘られず」受身の「れ、る、るる、るれ」を上代には「え、ゆ、ゆる、ゆれ」とも云つたのです。さて、住吉の濱に、乘つて來た馬を立たせておいて、玉を拾つた車が、いつも忘れられない、といふのであつて、「拾ひしく」は「拾ひしこと」即ち「し」といふ過去の助動詞に「く」がついたもので、この「し」は連體形といふことになりますね。も一つ同じ例をあげませう。
  天の河|渡瀬《わたりせ》毎に思ひつゝ來《こ》しくもしるし逢へらく思へば(卷十、二〇七四)
これは七夕の歌で、牽牛《ひこぼし》さまが織女《たなばた》さまに逢ふために天の河を渡るのですが、その渡瀬毎に織女の事を思ひつゝやつて來た甲斐があつた、かうして逢うた事を思ふと、といふので牽牛さまの氣持になつて詠んだ歌です。「來しくもしるし」といふ言葉は他にも使はれてゐますが、「しるし」は「著《しる》し」で、いちぢるしとか明ら(112)かとかいふ言葉ですが、「來しくもしるし」は「來たことの甲斐があつた」といふ程の意味になります。この歌にはまた「く」が二つ使はれてゐますね。念の爲に申しますが、「逢へらく」は右に並べた「らく」とは違ひますね。これは「逢へり」といふ「り」の助動詞の未然形「ら」に「く」がついたものです。即ち「逢ふこと」でなく「逢つたこと」です。さてこの「來しく」の「來し」は「拾ひしく」の「し」と同じであつて、これらによつて、「く」が助動詞の連體形にもつゞく事のある事が察せられますね。次にまた別の例をあげませう。
  初瀬川流るる水脈《みを》の瀬を早み井手《ゐで》越す浪の音の清《きよ》けく(卷七、一一〇八)
 初瀬川は長谷《はせ》の觀音のあるので昔から名高い大和初瀬町のそばを流れる川、大和川の上流になるわけです。「井手」は川の水を塞《せ》いた堰《ゐせき》です。この「清けく」は「清くあること」の意で、この「く」がまた右に述べ來つたのと同じものです。そ(113)してこの場合は上が形容詞です。この他に「世の中の憂けくつらけく」とか「やすけくもなし」とか「惜しけくもなし」とか、「矢の繁けく」とか、あちこちに見えてゐます。いづれも「憂きこと」「つらきこと」「やすきこと」「惜しきこと」「繁きこと」の意です。こゝでまた念の爲に申しておきたい事は、これらの「けく」は「明らけく」「さやけく」「はるけく」などの「けく」とは違ふ事です。わかりますか。一寸考へたらわかりませう。これらの「け」は形容詞の語幹で、「く」は形容詞の語尾です。即ち私達の耳に親しい例を一つだけ申せば、「さやけく」は「さやけし」「さやけき」「さやけけれ」と活用する形容詞の連用形なんです。ところが右にあげた「きよけく」は「きよけし」とも「きよけさ」ともならないのです。さういふ言葉はないのです。「きよく、きよし、きよき、きよけれ」といふ言葉はあるのです。その「きよけれ」の「きよけ」に「く」がついたのです。即ちその「け」は形容詞の活用語尾なのです。なほ序に申しますが、今日では「けれ」(114)とい語尾があつて「け」といふだけのはありませんが、上代は形容詞の「けれ」といふ形がまだ十分發逢してゐなかつたので、「きよけれど」とか「きよければ」といふべきところを「きよけど」「きよけば」などといつたのです。そしてまた上代には「清くば」といふ場合にも「清ければ」といふ場合にも同じやうに「きよけば」といひます。從つて後世では「戀しく思ふであらう」と推量にいふ場合に「戀しけむ」といひます。この言方は後世にないので「行きけむ人」などといふ助動詞に「けむ」と混同しさうになりますが、それとは違ひます。とにかく「清けく」の「け」はさういふ形容詞の語尾なのです。なほも一つ序に、その「清けく」の「く」と「さやけく」の「く」とを見わける簡單な方法を傳授しておきますが、その「け」の代りに「か」といふ語を加へてみて、「さやか」「あきらか」などといふ風に一つの言葉が成立したら、形容詞の「けく」と見てよいし、さうでなければ――たとへば「やすか」「惜しか」といふのは方言以外にはありませ(115)んね――右にあげて來た「く」だと思つたらよいのです。その區別がはつきりすれば解釋もはつきりするので、右に例をあげた「音の清けく」は「音の清くあること」ですが、もし「音のさやけく」であつたら「音がさやけくして」と連用形で言ひさした意味になるわけです。
 さて以上の如く「く」といふ言葉は動詞にも助動詞にも形容詞にもつゞき、つづき方も未然形をうけるのもあり、連體形をうけるのもあり、いろ/\になつてゐます。そして「散らく」も「荒るらく」も意味の上では同じであるところを見ると「く」「らく」と二つあつたと見るよりも、いづれも同じ「く」として、「荒るらく」などの場合は、その「ら」をも少し考へてみた方がよくはないでせうか。私にも少し考はあるのですが、今迄私が述べて來たところをよく讀み、それを手引として、あなた方も力のある人は一つ考へてごらんなさい。學者の間に問題になつてる事を考へよといふのはむりだと思ふかも知れませんが、かういふ事(116)を考へるのも面白い事です。何事でさうですが、學問でもたゞ年が若いから出來ないといふわけではありません。時にはその道の人が長い間考へてわからない事が、はじめての人にすらりと解ける事もあるのです。眞劍に打込む態度が大切なのです。
 これで「なく」といふ言葉がはつきりした事と思ひますが、右に引用しました「音の清けく」と「く」で止めたものがあるやうに、「なく」でとめたものがあります。
  天の河|去年《こぞ》の渡瀬《わたりせ》荒れにけり君が來まさむ道の知らなく(卷十、二〇八四)
さつき例に引いたのは牽牛《ひこぼし》さまの心になつて詠んだ歌でしたが、これは去年おいでになつた天の河の渡瀬が荒れたのでどこからいらつしやるかその道がわからないと、牽牛さまを待つ織女《たなばた》さまの心になつて詠んだものですが、この「知らなく」(117)は「音の清けく」といふ結句と同じ調子で、しかもこの「く」止めは、私達が口語で、「まあうれしいこと」といふ場合に「ことよ」と詠嘆の意味になると同じで、「よ」といふやうな言葉を加へて結んだ意味に解釋してよいのです。ところが今の歌の場各は、「家もあらなくに」と「なく」の下に「に」がついてゐます。この「なくに」は「ないのに」とか「ないものを」とかの意味になります。この「なくに」で結んだ歌が萬葉には百首以上もあります。そしてそれらは大抵「ないものを」とか「ないのに」とか譯してよいのですが、その中にはさう譯するよりも「ないことよ」と譯した方がよいやうに見えるものがあります。さういふ例を一つ二つあげてみませう。
  瀧の上のみ船の山にゐる雲の常にあらむとわが思はなくに(卷三、二四二)
これは天武天皇の皇子、弓削《ゆげ》皇子が、吉野でお詠みになつた作です。吉野の離宮(118)のあつたところについては異説もありますが、まづ今の吉野山の登り口にあたる上市町から吉野川に添うて更に五十町ばかかり溯つた宮瀧といふところと見てよいでせう。そこはもと大きな岩の上を水が流れ落ちてゐたので、吉野の瀧と云ひ、後世その岩を切り開いて瀧はなくなりましたが宮瀧といふ名が殘つてゐるのです。この御歌に「瀧の上の」とあるのは、その瀧をさしたもので、み船の山はその瀧のあつた南のところ、今の宮瀧の村から川をへだてて東南にあたる山です。(一七六頁地圖參照)この弓削皇子は御年若くして薨じられたやうで御病弱であらせられたのでないかと拜察しますが、御自身もそのことをお感じになつておられた皇子が、吉野の美しい山川に對して御命のはかなさを思はれてお詠みになつたので、そのみ船の山にいつもかゝつてゐる白雲のやうに、常にかはらずこの世に永らへようとは思はれないに、とお嘆じになつたものと思はれるのですが、この「なくに」を「ないのに」とか「ないものを」と譯しては少し理窟つばくなるので、(119)「ないことよ」とか「ないことだ」とか譯する人が多く、私もずつと前に書いたものへはさういふ風に譯しておいたのですが、それでは「なく」と結んだのと同じ事になつてよくないやうに思はれますので、これは「ないにナア」とでも譯してあとへなげきの心を殘したやうな意味にとるのがよからうかと思ふのです。このお歌は奧麻呂の作以上によいお作だと思ひますが、この御作の感動はその「なくに」をさういふ風に解いて一層よく生かされるのではないでせうか。
  志賀の海女《あま》は海藻《め》刈り鹽燒き暇なみ櫛笥《くしげ》の小櫛《をぐし》取りもみなくに(卷三、二七八)
これは石川|君子《きみこ》――君子と云つても女ではありません――といふ人が博多灣の入口にある志賀《しか》の島の海女を詠んだものです。志賀の島の海女は海藻《め》−和布《わかか》とか荒布《あらめ》とかすべてさういふ海藻の總稱です――を刈つたり鹽を燒いたりして暇がないので、櫛箱――笥《け》はものを入れる器で、「笥に盛《も》る飯《いひ》」などと御飯を入れるも(120)のも云ひます。櫛笥は櫛など頭かざりを入れる箱――の櫛を取りもみないにナアの意。昔の日本婦人は特に髪を大切にしました。髪の毛が身の丈よりも長かつたとか、一筋の髪の毛を一枚の白紙の上へ置いたら紙がまつ黒になつてしまつたとか、さういふやうな髪の長さや美しさについていろ/\書かれてゐます。これは昔の人は前に書いたやうにたべ物でも日本人の性質に叶つたたべ物をたべてゐたから髪の榮養もゆたかであつたのでせうし、又その髪を毎日|梳《くしけず》つて大切にしたので、いよ/\美しかつたものと思はれます。然るに今は電熱でその髪を蒸したりこがしたりして、わざ/\髪のきたない西洋人のまねをしたり、梳るひまがをしいなどと云ひながら頬やら爪やらへは毒々しい彩色をしてみたり、誠にあさましく、おろかな限りをつくしてゐる人がありますが、日本人の髪のやうに美しい黒髪をもつたものは世界にないのですから、折角こんなに美しい髪を惠まれた日本婦人はも少し自分の幸福をありがたく思ひ、日本の女性らしいみだしなみをして(121)ほしいものだと思ひます。上代の都の女は殊に髪を大事にして、毎朝櫛笥の小櫛を手にしてゐたのですから、さういふのを見なれた石川君子は、都遠くはなれた島で、その櫛をとる暇もない海人少女《あまをとめ》に一寸驚いたやうな氣持を感じたのでせう。しかもそれが今の人のやうにわざと梳れないやうにもぢや/\とやつてるのでない、映畫やラグビーを見るために暇がないのではない、藻を刈つたり鹽をやいたりする爲に暇がないので、おそらく無造作に長い黒い髪を束ねてでもゐたのでせう。それが都から下つた人には、却つて新鮮な清楚《せいそ》な感じを抱かせたので、そこに心が惹《ひ》かれたのでせう。その氣持が「取りもみなくに」となつたので、「ないにナア」と餘情を殘した詠嘆になつたものと思はれるのです。
 このやうに「なくに」といふ言葉は餘情をたゝへた言葉ですが、今の「家もあらなくに」は、雨やどりをする家もないのに、とたゞそれだけでも意味は通じると思かますから、しひて「ナア」といふ言葉をつけてみないでもよいわけです(122)が、まあさういふ氣持をこめて味つたらなほよからうと思ひます。「なくに」の解説だけで誠に長くなりました。ずゐぷんむつかしかつたと感じられたかも知れませんが、もうこの書も峠を越しました。峠に登る前には苦しくても、登つてみれば、過ぎ來し方も、進みゆく道も見晴らされてうれしいやうに、「なくに」の三字に關聯して私の述べた事を十分理解されたら、それだけで、今迄わかりにくかつた萬葉集の歌が三百も四百もわかるやうになつてる事を發見されるでせう。
 そこでこの歌をも少し讀味はつてみようと思ひますが、こゝに一つ類歌があります。
  大口《おほくち》の眞神《まかみ》の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに(卷八、一六三六)
これは舍人娘子《とねりのをとめ》の作です。この人も傳記はわかりませんが、やはり大體奧麻呂と同じ頃の人です。從つてどらちの作が先に作られたかわかりません。眞神の原は(123)今の飛鳥村のあたりと思はれます。眞神は狼のことで、もとこの邊はさびしいところで狼が出たりしたのでかういふ名がついたのかと思ひます。その狼は口が大きいので、「大口の」を枕詞としたのです。この兩首を較べると、一方は雨で、他方は雪、一方は「苦しくも降り來る雨か」とまづ感慨を述べ、他方は「……原に降る雪は」と事實の叙述からはじめてゐます。後者の方が單純でおつとりしたところがあります。それがまた二句切と四句切との相違にもなつてゐます。前に(六十三頁)述べた持統天皇の御製と人麻呂集の作との比較とも一脈相通ずるものがありませう。後者の方が素朴だともいへますが、感動が生かされてるといふ點では前者がすぐれてゐませう。當時の人もさういふ風に感じて奧麻呂の作が愛誦せられたのでないかと思ひます。そして後世にも傳へられたので、いろ/\のものに引用せられてゐますが、藤腰定家の
  駒とめて袖うち拂ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ(新古今集卷六)
(124)は今の歌を本歌《ほんか》としたものです。本歌とか本歌取《ほんかとり》とかいふ事は知つてゐますか。一つの古歌があつて、それを本としてその中の語句とか題材とかを取入れて作つた歌を本歌取の歌と云ひ、そのもとになつた歌を本歌と云ひます。類歌とか、影響をうけた歌とか、單に模倣《もはう》した歌とか、いふのとは違ひます。模倣した歌なら、をのお手本にした歌を人が知らない方が作者には都合がよいわけでせう。本歌取の方はむしろその反對で、誰でも知つてるやうな歌をもととして、それに新しい趣向を加へたものです。文章に引歌《ひきうた》といふ事があります。何か一つの氣持を言ひたいと思ふ時、それを眞正面から説明する代りに、その氣持をあらはした古歌の一節をあげて察しさせるといふやり方です。本歌取はそれを歌の形でやつたやうなものですが、一首の歌として表すには表し足りないやうな場合に、本歌取をして本歌の一句を引用しただけで、本歌のもつ氣分とか世界とかを讀者に聯想させる事になつて、一首の歌で、一首の歌以上の效果をあげる事にもなりますの(125)で、新古今集時代の人などは殊にこの本歌取を盛んに用ゐてゐます、「餘情」といふ事を重んじた事が、さうした傾向を助けたとも云へませう。尤も、本歌の取りやうにはいろ/\あるわけですから、むしろ模倣歌といふに近いものもあり、類歌との區別をつけかねるやうなものもありませう。前(廿四頁)に引用しました「かはづ鳴く」の作に對して起貫之《きのつらゆき》の
  逢坂《あふさか》の關《せき》の清水《しみづ》に影見えて今やひくらむもち月の駒(拾遺集《しふゐしふ》卷三)
の作の如きは模倣といふべきでせう。萬葉集の中にも人麻呂の作などを本歌とした本歌取の作と見るべきものが既にあります。さてこの奧麻呂と定家と二つ較べますと、ずゐぷん違つてゐますね。萬葉のを本歌とした事は明らかですが、情景も調子もすつかりかはつてゐますね。佐野といふ地名はそのまゝですが、雨が雪にかへられ、「苦しくも降り來る雨か」の感慨に對して、「駒とめて袖うち拂ふかげもなし」といふ情景の描寫になつてゐます。「駒とめて…」は少しお芝居のやう(126)ですね。そして「家もあらなくに」の句は略されて、「かげもなし」の「も」の一字にその氣持を托したとも見られませう。三輪が崎の地名も本歌にゆづつてその代りに「駒とめて…」のしぐさ〔三字傍点〕になつたと言へませう。そして雪を結句にまはして「夕ぐれ」を加へて名詞止にし、萬葉の二句切を三句切にしたところなど遺憾なく新古今風を發揮したものです。こゝで一寸地名の事を申しませう。萬葉には地名を詠み込んだ歌が非常に多いのです。たとへば、この奧麻呂の作につゞいて載せられた中から拾つてみても次のやうなのがあります。
  住《すみ》の江《え》の榎津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ出づる船人(二八三)高市黒人《たけちのくろひと》
「榎津」は住之江の江の津即ち住之江のその入江の港といふほどの意から出來た地名だと思はれ、住吉神社のあるあたりから南の方をさしたもののやうです。武庫の泊は今の西宮市の東、武庫川の河口で、昔の港は今の河口よりもずつと北へ(127)入つてゐたので、西宮市の今津とか津門とかいふ地名はその名殘です。昔は住之江から武庫、武庫から前に述べた敏馬と、ほゞ同じ距離をたもつた港があつたものと考へられます。
  廬原《いほはら》の清見《きよみ》の崎の三保の浦のゆたけき見つゝ物思《ものもひ》もなし(二九六)田口益人《たぐちのますひと》
「廬原」は今の駿河の庵原《いはら》郡のあたり、もと廬原郡の中に廬原といふ村もあつたのですが、こゝはその邊をひろくさしたものと思はれます。「清見の崎」は今の興津のあたり、清見寺《せいけんじ》のあるあたりは山が海に近く、その邊が昔は少しつき出たやうになつてゐたので、清見の崎と云つたのでせう。三保はその對岸にありますが、三保の浦と云つたのは大體今の清水港の入海をひろくさしたと見てよいでせう。
 こゝにあげた二首、いづれも三句にまたがつて三つの地名が詠み込まれてゐま(128)す。なほその前後に同じやうな作がいくつもあります。萬葉人はその地に旅して實景實感を歌としたので、自然に地名が多く詠まれる事になつたのです。從つて萬葉の歌を味はふには私達も出來るだけその歌に詠まれた地、即ち歌枕《うたまくら》を巡つて、實景に接してその歌を味はふ必要があるのです。いつぞやも私は大和の郡山町のあたりを電車にのつてゐると、春日山の上にまんまるい月が登らうとしてゐます。私は暫くその美しい情景に見入つてゐましたが、氣づくと私の立つてゐる前の椅子には遠方から來たらしい修學旅行の女學生たちが何も知らずに雜談したりゐねむりをしたりしてゐます。私は何だかもつたいないやうな氣がしたので、「あれが春日山ですよ、その前が三笠山で、ずつと南につづいてゐるのが三輪山で…」などと説明してあげましたが、あなた方も歌枕の近くに住んでゐる方や、旅をされる折のある方は、折角の機縁をむだにすごさないやうに心がけて下さい。さて萬葉の歌枕といふものはさういふ風ですが、平安朝以後になると旅をする歌(129)人も少く地名を詠んだ歌が少くなり、歌の名所といふものがきまつたものになつてしまひました。歌人は所謂「ゐながらに名所を知る」といた事が却つて自慢のやうにも考へられ机に向つて名所の歌を詠んだ。今述べた定家を非常に尊敬してゐる人に正徹《しようてつ》といふ人がありましたが、この人は、花といへば吉野、紅葉といへば龍田と覺えておけばよい。吉野や龍田が實際どういふところにあるかといふ事は知つてゐないでよい、人が聞いたら「伊勢やらん日向《ひうが》やらん知らず」と答へよ、と言つてゐます。これはまた、思ひ切つて極端な言方をしたものですが、その人達の歌枕に對する氣持はそれで察せられませう。さういふわけだから、今の定家の歌には「三輪が崎」などといふ言葉は必要がないので、それよりも「袖うち拂ふ」方が大事だつたのです。佐野といふ處もどこでもよいのですが、古歌に詠まれた處として、何となくゆかしい聯想を起させようとしたところに本歌取の技巧があるわけです。それに新古今時代としては「渡《わたり》」は「邊《あたり》」の意になるので、「佐(130)野のわたり」とだけでは、甚だ漠然たる言方で一向興を惹《ひ》かないのですが、萬葉の歌があるために、そこが美しい景趣に富んだ名所として心得てゐる讀者の智識を背景として利用したわけです。要するに、定家の作は、奥麻呂の作を種にして、趣のある畫を描かうとしたので、巧みには出來てゐるが、全く拵へたものであつて、奧麻呂の作に見るやうな實感は感ずる事が出來ないのです。
 
(131)  熟田津《にぎたづ》に船乘《ふなのり》せむと月待てば潮《しほ》もかなひね今は漕《こ》ぎいでな(卷一、八) 額田王《ぬかたのおほきみ》
 
 齊明天皇の七年に九州へ行幸がありました。正月の六日に御乘船になつて瀬戸内海を海路西下せられたのですが、その月十四日に伊豫の熟田津に御着きになりました。そして少しの間そこの行宮《あんぐう》に御滞在《ごたいざい》になつたやうですが、その折の額田王の作がこれです。尤もこれは齊明天皇の御製だといふ説もあります。萬葉の原本《げんぽん》には額田王の作といふ事になつてゐます。
 額田王は魔王と云つた方の二女と思はれます。右に述べました齊明天皇の行幸に供奉《ぐぶ》してゐたものと思はれますから、人麻呂などよりは一時代早い頃の人で、萬葉の第一期に屬する人です。たゞ「王《おほきみ》」と書かれてゐますが、女王です。皇子《みこ》(132)に對して皇女《ひめみこ》と申しますが、女王の場合は單に王と書く事もあるのです。額田王の作は十數首あるばかりですが、春秋の優劣について述べた長歌もあり、いづれも優秀な作で、萬葉女流の代表作家と見るべき人です。
 熟田津は伊豫の松山市の三津《みつ》ケ濱《はま》だといふ説が一般に行はれてゐましたが、今ではそのも少し東の和氣、堀江といふあたりだといふ説があり、その方が正しいやうに思はれます。今、田になつてあるあたりまで昔は入江になつてみたものと思はれます。
 「熟田津に船乘せむと」は「その熟田津の港で船に乘つて出帆しようと」の意味です。今船乘といふと船に乘る事を職業としてゐる人、即ち、船頭さんとか海員とか云はれる人をいひますが、こゝでは船に乘る事をいつたのです。萬葉にはこ(133)の船乘といふ言葉が十あまりも用ゐられてゐますが、「いづくにか船乘しけん」などといづれも船に乘る意味に用ゐられてゐます。「熟田津に」の「に」を「熟田津の方へ」といふ意味に解釋した説もありましたが、今説明しました船乘の意味がわかれば、その説の間違がわかりませう。「に」といふ言葉は、「に於て」といふ意味にも「の方へ」の意味にも用ゐられる言葉ですから、「何々に」といふだけではどららともきめられないのです。その次にどういふ言葉がくるかによつてきまるのです。たとへば、「粟島に漕渡らむと」といふ句がやはり萬葉の中にありますが、この場合は「漕渡」るのですから、「粟島に」は「粟島の方へ」、「粟島へ向つて」、の意味です。船乘は船に乘る事であつて、漕ぎ渡る前の動作ですから、目的地を示す「に」にはならないのです。「いづくにか船|泊《は》てすらむ」といふ句もありますが、それは船が着く事ですからその「いづくに」は「何處へ」の意味になり、同じ「いづくにか」でもさきに引用しました「船乘しけむ」とつゞ(134)けば「何處から船に乘つたのだらう」といふ事になるわです。かういふ場合に一方の例だけを見て、「何々に」といふのは「何々へ」といふ意味だとそゝつかしくきめてはいけません。かういふ事は言葉の解釋をする場合によくある事ですから、よく前後を考へて、その言葉の意味を決定する點がどこにあるかを先づ考へないといけません。たゞむやみに一つの言葉の用例だけをならべてみただけではわからない事がよくあります。かういふ事は平常から心がけてだん/\言葉の解釋に馴れてくると自然にわかつてくるものです。
 次に「月待てば潮もかなひぬ」の言葉はなか/\面白い、よい言葉です。この歌のいのちが、この二句にいかにも簡潔に表現せられてゐるのですが、それだけにまたいろ/\議論も出るのです。「月待てば」は「月の出を待つと」の意で、「かなふ」は「望がかなふ」などの「かなた」であるから「潮が丁度船出をするによいやうに滿ちて來た」の意でよいのではないかと考へるでせう。さうです、それ(135)でよいわけですが、少しむつかしく考へるといろ/\問題が出るのです。先づ「月待つ」とは「月の出を待つ」の意で、「月の出を待つ」といふ事は、月光に照らされて夜船《よぶね》を出すといふ意味もあるが、船出をするには潮の樣子を考へなければいけない、ところで滿潮《まんてう》は月の出たり入つたりする時にあるものですから、船頭さんの實際からいへば、「月待つ」事は「滿潮を待つ」意味になる、まづかう考へてゐたわけですが、それを単に「月待つ」は「月の出を待つのではない、滿月を待つのである、滿月を待つとは、海の潮は新月《しんげつ》と滿月《まんげつ》との時に特に滿潮になる、所謂大潮になる、それを待つのである」といふ説が出たのです。どうです。かういふ説が出たとするとあなた方はどう考へますか。よろしいか、半月《はんげつ》の頃即ち舊暦《きうれき》の七、八日頃は海の潮の一番少い時だから滿月即ら十五日頃になるのを待つといふ事になるといふのですが、それでよいと思ひますか。「ちがひます。大潮の時でなければ船が出せないのなら、朔日《ついたち》頃か十五日頃でなければ船が出せな(136)い事になりますが、はじめに正月七日に御船出をされたとあるではありませんか。だから大潮をわざ/\待つ必要はないと思ひます。」よろしい、なか/\よいところへ氣がつきますね。「まだあります。もし御船が七、八日おそくも十日頃までに熟田津に着いてゐたのだつたら、けふは十二日、あすは十二日と十五日を待つ事になりますが、御船は十四日に着いてるのではありませんか、もう殆《ほとん》ど滿月になつてるのです。だから滿月を待つといふだけの時日はありません。」よろしい、いよ/\はつきりしてゐますね。しかしも少し別の方からも考へられませんか。「わかりました、滿月を待つのなら暦の日數を待つ事ですから、實景の月の事は何もいつてゐない事になります。しかしそれではこの歌はつまらなくなつてしまふぢやありませんか。港に船が停泊《ていはく》してゐます。夜です。港の後の山も、岸も、海も、船もずつかり闇につゝまれてゐます。たゞたぶ/\と舷《ふなばた》を打つ波の音だけがかすかに聞えます。やがて東の空が少ししらんで船の形や山の姿が闇(137)の中から次第々々に浮かび上つて來ます。見てゐるうちに東の空に少したなびいてゐた雲が美しい色に染められて、都會の屋根の上に見るのとは違つた、大きい、きれいな月が、その雲の間から姿を現しました。かういふ美しい景を「月待てば」かう想像されるはずなのに、それがなくなつてはつまらないと思ひます。」よろしい、その通りです。それで歌がわかつたといへますね。「まだあります、さういふ實景の月を待つのでなければ、潮もかなひぬの「も」が何の爲にあるのだかわからない事になります。月の出を待つてゐると、その月も登り、月に伴なつて潮も〔右○〕かなうたの意になつて、そこに簡潔な二句が生きると思ひます。もし暦の上で滿月になるのを待つてゐて、その滿月も海上に登り……といふのではあまり言葉が略されすぎて不完全だと思ひます。」いよ/\畫龍點睛《ぐわりうてんせい》ですね。そこまで一字に注意がとゞいて歌のいのちに觸《ふ》れる事が出來たらまづ滿點ですね。しかもあなた方は工夫をかさねたらそこまで行けるぢやありませんか。と言つて私(138)はむやみにあなた方をおだてるのではありません。なか/\萬葉集はむつかしいのです。一寸位わかつたと言つてよい氣になつてはいけません。何百年の間も澤山の學者がいろ/\苦心をしてもまだなか/\わからない事が多いのです。その學者が時にあなた方の氣づくやうな迂遠《うえん》な間違をしたといつて學者を尊敬する事を忘れてはいけません。萬葉集がともかく今日のやうに讀み解く事が出來るやうになつたのは心血《しんけつ》をそゝいでその研究に一生をさゝげた幾多の學者のおかげです。目先の事ばかり考へてゐる人達と違つて學者は迂遠なところがあります。その迂遠な學者を尊敬する事によつて正しい文化の興隆《こうりゆう》があるのです。だからあなた方も時に學者の説のあやまりを發見したからといつてその學者を尊敬する事を忘れてはいけません。たゞ萬葉の世界は、今迄に述べて來たやうに、單純であり素朴である爲に、歪を重ねた所謂現代文化にすなほさを失つた多くの人達よりも、純眞な感情に生きるあなた方の方が、却つてたやすくそのいのちに觸れる事(139)が出來るのです。前に逃べたやうに、今の人が苦勞して達する境地に萬葉人が比較的たやすく達し得たのと同じです。だからこそ私はしひてあなた方に萬葉の講話の筆をとつたわけでもあるのです。時代が古いからむつかしいと考へるのはあたりません。世間の人が考へるよりもあなた方には萬葉がよくわかるはずなんです。わからねばうそです。そこに萬葉の世界とあなた方の世界と相觸れるところがあり、そこに兩者の尊さがあるのです。さて「月待つ」が「滿月の時を待つ」意味でない事は得心《とくしん》出來たと思ひますが、も少し私が補《おぎな》つておきませう。私は理科の先生にもたづねたのですが、大潮といつたとて潮高《てうこう》の差は一メートルに達する事も稀であり、それも日々少しづつ高くなるので、一日中に於ける滿干《みちひ》の差のやうに目に立つものではないさうです。だからその點からも滿月の時を待つといふ事はあたらないやうです。それから「月待つ」といふ用語例からいつても月の出を待つ事が普通で、滿月の時を待つ事を單に「月待つ」とは云はないやうであ(140)り、月光に船をやる歌は他にも二三ありますが、こゝに傍證《ばうしよう》として一つだけあげておきませう。
  月《つく》よみの光を清み神島の磯まの浦ゆ船出すわれは(卷十五、三五九九)
「月よみ」は月のこと。神島は備中の笠岡といふ町の沖にある島であらうと思ひます。「磯ま」は「磯回《いそわ》」です。「回《わ》」は浦回《うらわ》の回《わ》です。
 以上で「月待てば」は「月の出を待てば」の意である事はきまりましたが、月と潮との關係についても少し問題があるのです。私が子供の時分に「月のまん時港に潮なし」といふ諺《ことわざ》を祖母たらから聞いた事があるのです。つまり月が中天《ちゆうてん》にある時には干潮《かんてう》で、月の出、月の入が滿潮《まんてう》だといふのですが、それが瀬戸内海のやうなところでは月よりも潮の方がおそくなるとの事で、私は理科の先生に三津濱附近の月と潮との關係を調べてもらつたのですが、月の出と滿潮とは季節によ(141)り變化し、一致する時としない時とあつて、今の歌の詠まれたと思ふ前後を調べた結果、正月廿二、三日頃、ほゞ月が出た時分に潮が滿みてくるといふ状態になる事を明らかにしましたので、その頃の作かと思ひついたのです。ところが、村上可卿といた方はもつと潮流《てうりう》の事をよく調べて、あの附近は潮流の關係が、やゝこしくて滿潮時必ずしも船出に適するとはいはれない、しかし西航の場合は滿潮時を船出の時としてよく、九州へ下られるのであるから、さう考へて計算すると、この作は廿三日の年前二時とするのが當つてゐると述べられました。村上氏の説はなか/\科學的《くわがくてき》な研究ですが、私の大凡《おほよそ》の調べとも一致するので大體これによつてよいのでないかと思ひます。さうするとこの月は滿月でなく、有明の月で、既に眞夜中をすぎて、それこそ漆《うるし》を流したやうなまつ黒な闇に、半月の光がさしそめた光景になります。そしてかりに時を齊明天皇七年の正月廿三日とすると今日の太陽暦に直すと三月二日にあたるのですからやゝ春めいては來てゐますが、(142)まだ冴《さ》えかへつた寒さの感じられる頃です。さうした折のさううした情景を思ひ浮かべると何となく身のひきしまるやうな氣持が感じられませう。
 これで「潮もかなひぬ」もきまりましたが、「月待てば」といつて、月の出る事はいはず、「も」の一字に、その美しい情景を托《たく》した簡潔な表現については前に述べた通りです。
 最後に「今は漕ぎいでな」の「な」ですが、これは自分で願ふ意味に用ゐられる助詞で、「行かむ」「偲はむ」「暮さむ」などと推量の助動詞を用ゐたのと似てゐますが、「行かな」「偲ばな」「暮さな」とすると歌の意味が強く感ぜられます。「いざ結びてむ」が「いざ結びてな」となる「てな」といふ用例もあちこちにあります。
 
(143)   わたつみの豐旗雲《とよはたぐも》に入日さし今宵《こよい》の月夜《つくよ》まさやかにこそ(卷一、一五)天智天皇
 
 これは天智天皇のまだ中大兄皇子《なかのおほえのわうじ》と申し上げた頃の御作であります。いつどこでお詠みになつたか記されてはゐませんが、やはり前の額田王のと同じ時、即ち齊明天皇七年九州行幸の折ではないかと考へられます。そして場所は播磨《はりま》の海岸ではないかと推定《すゐてい》せられます。
 「わたつみ」は海です。もと「わた」が海の意であつた事は、海原《うなばら》の事を「わたの原」といふのでもわかります。そして「わたつみ」は海の神の意であつたのです。「山つみ」が山の神であるのと同じです。それが「わたつみ」も海の意に用ゐるやうになつたのです。「豐旗雲」は美しくたなびいてゐる雲です。旗雲は旗(144)のやうな雲ですが、旗といつても今日の國旗などの形を聯想したのでは少しあたりません。昔の旗はもつと細長いものです。源氏の白旗、平家の赤旗などはよく知つてゐませう。また御即位式《ごそくゐしき》の圖などを見た事もありませう。そこに立ててある旗は昔の形のものです。あゝいふ風な旗ですから旗雲といふ意味が大體想像出來ませう。また人麻呂の長歌の中に戰場で旗のなびく樣を形容して、春の野で草をやく火が風につれて靡《なび》くやうだともいつてゐますが、これもまた參考になりませう。今はそれに「豐」といふ讃辭《たゝへことば》を加へたので、豐はゆたかの意味で、ものをほめて使ひます。「豐御酒《とよみけ》」「豐宴《とよのあかり》」「豐《とよ》の年」などとも云ひます。萬葉には地名にも冠《かむ》らせて「豐初瀬道《とよはつせぢ》」などといふ例もあります。それで豐旗雲といふといかにも美しい壯麗な雲の形が想像せられます。「月夜」はツクヨと訓みます。前にあげた「月よみ」もツクヨミと訓みます。さういふ例が上代にはまだあります。そして「月夜」は月のある晩の事であるわけですが、萬葉では月そのものを月夜(145)とも云ひます。こゝもその例です。
 第五句の「まさやかに」の訓み方については昔からいろ/\説があつて、アキラケクとか、スミアカクとかキヨクテリとかキヨクアカリとかマサヤケクとかサヤケカリとか今迄に私が調べただけでも十三通りも訓み方がありました。私は更に新しい訓《よみ》を考へてマサヤカニとしたのです。これは原文には「清明」といふ字が書いてあるので、いろ/\に訓めるやうに思はれるのです。字のまゝよんだらキヨクアカリが一番よいやうにも思はれるかも知れませんが、それではいかにも拙《まづ》い訓み方だとあなた方でも考へませう。それでアキラケクといふ訓み方が今のところ一番多くの人に採用せられてをり、この訓み方は今迄の十三通りの訓み方のうちではやはり一番よい訓み方だと私も思ひます。けれどもさう訓むのだつたら「清」の字はいらない事ですし、それに月をアキラカといふ事は、あなた方はまだ學んでゐない方もあるかも知れませんが、漢文にも「月明星稀《ツキアキラカニホシマレニ》」などと(146)いふ有名な句もあつて、あたりまへの事のやうに思はれるのですが、萬葉集には「月日はあかしといへど」といふ句が一つあるだけで、これは「天地が廣く日月があかい」といふ極めて抽象《ちうしやう》的説明句であつて、今現に美しく照つてゐる月の光を形容してアキラカといつてる例は一つもなく、皆キヨシとかサヤカとかいふ風に使はれてゐるのです。そこで私はいろ/\考へてマサヤカニと訓んでみたのです。くはしい事は別に書いて置きましたから、こゝには略しますが、月の光を形容してアキラカといふのとサヤカといふのとどちらがよいと思ひますか。一體「明らか」といふ言葉は「暗い」といふ言葉と對照した説明的な言葉でせう。サヤカといふのは、「明暗」とか「白黒」とかいふのとは違つた一つの感じをあらはした言葉でせう。別の例をとると風が早いとか遲いとかいふのは、やはり風を説明した言葉でせう。しかし風が清しとかさやかとかいふのは威じでせう。清しとかさやかとかいふのは「早い遲い」には闘係がなく、早い風に「清し」と感ずる(147)も事あり、おそく吹く風に「さやか」と威ずる事もありませう。その場、その折、その人の氣持で戚ずる事でせう。だから早いおをいは氣象通報の用語になりますが清しさやかはなりません。同じ風速何メートルのものでも戰場を吹いてるのは「清し」とはいへないので「風|腥《なまぐさ》し」となり、紺青にすみ渡つた大空の下、鏡のやうな大海原の上を進む船の甲板に訪れる風は「さやか」となりませう。即ち「明暗」とか「遲速」とか「強弱」とかいふ言葉はものの程度を「記述《きじゆつ》」する言葉であり、「清し」とか「さやか」とかいふ言葉はものの情態を「描寫《べうしや》」する言葉といへませう。これだけ言つたら月の光を形容する言葉としてアキラカとサヤカとどちらがよいかといふ事は十分會得が出來るであらうと思ひます。萬葉人が月の形容にアキラカと云はず、キヨシ、サヤカと云つた事がなる程とうなづかれませう。そしてそれを思つても萬葉人の言語感覺が正しく鋭かつた事がわかりませう。前にくりかへして申しましたやうに萬葉人は決して幼稚ではないので(148)す。今よりや何百年も前の人だからもの言ひなども大ざつぱであつたらうなどと考へてはとんでもない間違です。今の人こそ誠に鈍感で、亂雜で、たゞ目新しい言葉でさへあればよい氣になつて亂用するといつた有樣で、甚だにが/\しい流行語を相當教育のある人までも使ふといふ事は、實にはづかしい事だと思ひます。かうした言葉遣の上でも私達は萬葉人に學ばなければならないのです。で、かういふ風に考へると、このすぐれた御作をなされた天智天皇がこの場合アキラケクなどといふ言葉をお使ひになつたとは私にはどうしても考へられないのです。それに「清」といふ字も「明」といふ字もサヤカと訓んだ例があり、サヤカといふ語に漢字をあてるとしたら「清明」といふ文字は誠に適當だと思ひます。しかしサヤカでは音數不足なのでマといふ接頭語を加へてマサヤカとしたのです。マといふ接頭語は「ま玉」「ま袖」「ま葛《くず》」「ま白」「ま悲し」「ま直《なほ》」など萬葉にはずゐぷん澤山用ゐられてをり、「まさやか」といふ言葉も用例があるので、(149)旗雲に豐をかさねたやうに、こゝは「さやか」に「ま」を冠らせたので、「清」と「明」とを重ねた文字でそれを示したと見る事は極めて自然に認められようと思ふのです。
 これで「清明」をマサヤカニと訓むのがよいとわかつたと思ひます。こんどはそれに「こそ」がついて「まさやかにこそ」といふのはどういふ意味かといふ問題になりますが、この「こそ」は所謂|係詞《かゝりことば》の「こそ」で「月こそかゝれ」とか「われこそ行かめ」とかいふ風に用ゐられるもので、今の人も使ふものですが、文章では結びの言葉が「かゝる」「行かむ」といはずに「かゝれ」「行かめ」と已然形になります。それでその結びにかゝるから係詞といふわけですが、今の和歌の場合はその結びが全然なく「こそ」だけで終つてゐます。それでこれは係詞ではないといふ風に見る學者もあるのです。即ちその「こそ」は今は用ゐなくなりましたが、古くは願の意味に用ゐたもので、たとへば「夢に見たい」といふのを(150)「夢に見えこそ」、「散らずにあつてほしい」といふのを「散らずありこそ」といふ風に申します。この「こそ」は「な行きそ」などの「そ」と同じに今では助詞と普通に云はれてゐますが、もとは動詞から出た助動詞で、その命令形であつたわけです。「な行きそ」の場合は「な」といふ否定の言葉が上についてゐますから「行つてはくれるな」となりますが、「何々をしないやうにあつてほしい」と結局願ふ意味を持つてゐるので、その「そ」とこの「こそ」ともとは同じ言葉から出たものである事がわかりませう。もと動詞から出た言葉である爲に「こそ」にしても「そ」にしても「ありこそ」とか「散りそ」とかいふ風に連用形につゞくのです。それで前にあげましたやうにキヨクアカリとかキヨクテリとかサヤケカリとか訓む説は「こそ」を願ひの意味に解釋しようとするのであつて、今夜の月が清く照つてほしいとかさやけくあつてほしいとか見るのです。しかしこの御歌の趣は夕日が美しい雲に照つて、所謂夕燒のしてゐる光景であつて、決して雨雲(151)が垂れて天候が氣づかはれるといふ風には考へられません。さういふ風に解釋してゐる學者もありますが、あなた方でもさうは思へないでせう。「豊旗雲に入日きし」といふ言葉にいかにも美しい夕燒の空が鮮かに思ひ浮かべられませう。そして夕燒がすると天氣がよいといふ事は今の人も信ずるやうに昔の人もさうであつたと思はれますので、今夜の月が清くあつてほしいなどといふ必要はないので、この「こそ」はやはり係詞と見た方が正しいと思ひます。從つてこの「こそ」の下には「照らめ」とか「あらめ」とかいふ言葉が略せられたと見るのです。今でもたとへば「大變御無沙汰しました」「いゝえ私こそ」などといふ風に「こそ」の下を賂する事がずゐぶんありませう。この言葉の省略といふ事を日本人は西洋人に較《くら》べて實によく用ゐます。日本人は西洋人のやうに「盃に一杯の酒を」とか「コツプに一杯の水を」とか云はないで單に「飲む」とだけ云つてそれらの略された意味が十分に察せられるのです。萬葉集にも「洒」と云はずに「飲む」とだ(152)け云ひ、「櫻の花」と云はずに「咲きにけるかも」と云ふなどの例もありますが、かういふところにも日本人の國民性が出てゐると思はれます。西洋の文學には自然の景を描いたり人間の心理の描寫をするやうな場合にも實にこまかく、くはしく述べたものが多いので、さういふものに見馴れない者がはじめてさういふ作品に接すると非常にすぐれた表現のやうに感じたりするのですが、やがて私達はそれに滿足をしない氣持を感ずるやうになるのです。ものの形にしても、人間の心にしても、それを完全に言葉に示すといふ事はなか/\出來るものではありません。それで十のものを十の言葉で不完全に述べるよりも、その三分なり壷五分なりは省略して、述べた以上のものをそこに感じさせるといつた風のものに心が惹かれるやうになります。日本人は年をとるに從つてだん/\さういふ傾向が強くなるやうに思ひます。若いうちはその事もあの事もみんな言はないと言ひたりないやうに感じたのが、こんな事は言はないでよい事だ、これも略した方がよい事だ(153)といふ風に感じて來ます。日本の書簡文の一つに所謂候文といふものがあり、あなた方も少しは習つたかと思ひますが、その候文は日本人としての文章の特色を最もよく示したものだと思ひます。候文の上には日本人の禮儀といふものが正しく示され、しかも出來るだけよけいなおしやべりをせず、だら/\としたところが少しもなく、ぽつり/\述べてゐるやうで極めて簡潔に要點が盡くされ、しかも決して露骨でなく、含蓄があり、餘情があり、すぐれた候文といふものは味はへば味はふ程深さの感じられるものです。候文といふものは、たゞ「あります」といふところを「候」とし、「ございます」といふところを「御座候」としたらよいと思つたら根本的に違ひます。だからいくら口語體の文章が上手に書けるといつて候文も上手とはいへないのです。今の若い人は小さい時に候文の基礎的な勉強が出來てゐない爲に、口語體を文章體に直し、「候」を加へたらよいといふ風に考へる爲にむやみにごつ/\したぎごちない、そして冗漫なものになつてしま(154)つて、候文の生命とする簡潔《かんけつ》、含蓄《がんちく》、餘情《よじやう》といふやうなものが出て來ません。候文といふものは決してそんな窮屈《きゆうくつ》なものでなく、候文の中へでもいくらも自由な口語を交へる事も出來るのです。今更古くさい候文でもあるまいと考へる人があるならそれは候文の持つ日本風な風格を知らないからです。明治時代以來口語體書簡文が大いに唱へられたに拘らずなほ現に候文が廣く實用に供《きよう》されてゐる事は、その事の證明と見る事が出來ます。そして學生時代には口語體の手紙ばかり書いてあた人でも社會に出てだん/\年をとるに從つて候文の手紙を多く書くやうになるのは、決して年をとつてたゞ古いものがよくなつたといふのでなくして、幼稚なものに滿足出來なくなつて、次第に深い日本の傳統精神に目覺めて來た事を示すものです。だからその事を考へると、あなた方も今のうちに一應は候文の基礎的勉強をしておくといふ事が決してむだな事ではないと私は信じます。これは序に申した事ですが、日本人は藝術の上にも生活の上にも表現の省略と含(155)蓄と餘情とを好む事についてはいくらでも例をあげる事が出來ます。たとへば庭園などはその最も著しい例だと思ひます。あなた方はまだ日本のも西洋のもお庭といふものをよく見た事はないでせう。しかし繪葉書や寫眞などで西洋の宮殿の庭園を見た事位はあるでせうし、さうでなくとも日本の公園とか西洋風な建物の前などに作られた庭は見た事がありませう。日本のは、有名なお寺の庭だとかその寫眞とかは見た事がありませう。それで大體想像がつくと思ひますが、西洋の庭は、きれいな赤や紫の花の咲く草木などを圓や楕圓《だゑん》や長方形のいろ/\の形に模樣のやうに植込んだもので、まん中に噴水のある泉があるとそれを中心にして四方に同じやうな道が拵へてあるとか、或はまん中が大きい道になつてるとその右と左とに同じやうな植込があるとか、池が拵へてあるとか、いかにも整然と所謂左右の均齊のとれたもので一寸見るときれいといへばたしかにきれいともいへませう。ところが日本のお庭はさうではありませんね。池の形だつて長方形や圓(156)ではありませんね。そしてまん中にはありませんね。まつすぐな道がないわけではないが、大抵は細い徑が池の汀に沿うたりはなれたりして或は右に折れ或は左に廻つてゐる。こらちに萩が咲いてゐるかと思ふとそららには木犀岸が香つてゐる。向かふ側には苔むした老松が池の上に斜に枝をさしのべてゐる。といつた風で一寸も均齊などといふ事は考へた事がないやうに見えます。自然のまゝで、拵へたあとが一寸も見えないやうに思はれます。しかもかういふ庭と前に述べたやうな西洋風な處とどちらがよいと思ひますか。どららにほんとの美しさがあり深さがあると思ひますか。どららに含蓄があり餘情があると思ひますか。西洋の庭の美しさは見たとほりの美しさです。西洋風の庭は作る人が自分の出さうと思ふ美しさを精一杯出さうとしたので、見る人もその人が狙つた美しさは威ずる事が出來ますがそれ以上のものを感ずる事は出來ません。ところが日本の庭は作者が自身の感ずる美を決して全部形にあらはしてゐません。だからそのあらはしてゐ(157)ないところは見る人が自分の心で感じなければいけないのです。それで見る人によつて淺くも深くも味はゝれる事になります。美といふものを感ずる力の磨かれてゐない人が見ると西洋の庭よりつまらないやうにも見えるのです。私がロンドンにゐました時、宿で日本から觀察に來た或電話技師の人と話してゐますと、その人が西洋の庭園が美しいとしきりに感心しますから、私が「あなたは桂《かつら》の離宮《りきゆう》を御存知ですか」と聞いてみますと、「それはどこにありますか」と尋ねられたので私はも少しでふき出さうとしました。離宮のやうなところは誰でも拜觀するといふわけにも參りませんから、見てゐない事はやむを得ませんが、寫眞で拜見する事も出來るし、解説した書物もいろ/\あるのですから、苟《いやしく》も庭園を云々《うんぬん》する以上、京都桂の離宮が天下の名園であるといふ位の事は知つてゐてもよいでせう。また離宮でなくとも、いつでも見る事の出來るお寺の名園は多いのですから、それらを少しでも知つてゐたら西洋の庭園などに感嘆するはずはないのであ(158)ります。これは庭園の事ばかりではありません。日本にずつと/\よいもののある事を知らないでゐて、西洋のよいかげんのものに感心して「あちらでは」をふりまはしてゐる人がずゐぷんあるのは困つたものだと思ひます。西洋の庭に感心するのは丁度形容詞などを澤山使つて思ふことをあまさずならべたやうな口語體の手紙には感心するが、思ふ事の半分は言外に殘したといふやうな候文の妙味はわからないといふのと同じです。京都の私の住んでゐるそばに龍安寺《りようあんじ》といふお寺があります。そこの石庭と云はれる有名な庭の事は聞いた方もあらうと思ひますが、これは砂を敷いた庭に大小の石を十五置いただけのもので、一木山草も植ゑてはありません。これはまた単純簡素を極めたもので、西洋の庭などに感心する人には全く手のつけやうがないと云つてもよい程で、日本の庭を見馴れた人でも一寸まごつきませう。しかし日本人と生れた冥加《みやうが》にはかうした幽玄《いうげん》な味はひをも十分味はふ事の出來るやうになりたいものだと思ひます。そしてこれらの例をも(159)つても私がくりかへして申す單純といふ事が幼稚といふ事ではなくて、むしろその反對のものである事がはつきりわからうと思ひます。餘談がまた長くなりましたが、も一つだけ序に申しますが、表現の省略による餘情の美しさといふものは日本のお座敷一つにもよく示されてゐると思ひます。西洋風な應接間は第一テーブルやら椅子やらがごちや/\と置いてありますが、この椅子などといふものが既に甚だ氣のきかないもので、一人のお客樣にも他の椅子をかたづける事も出來ず、五つの椅子の場合に六人お客樣があれば一人は立つてもらはねばならないといふ有樣。日本のお座敷であれば一人のお客樣があれば一つ一の座蒲園をもち出してすゝめる。また一人あれば一つをもち出し、先の一人が歸ればすぐにそのあとをかたづける。誠に簡素|淨潔《じやうけつ》にして融通無礙《ゆうづうむげ》です。そのうへ西洋風の應接間には部屋の周圍に一ぱい何やら彼やらごちや/\と陳列されてゐます。「どうです、私はこんなにいろんなものを持つてるのです、なか/\趣味が廣いでせう」とい(160)ふやうな廣告でもしてゐるやうにも見られます。私がまだ子供の頃、「あの家もこの頃はだいぶ下り坂のやうだ、この頃は座敷へいろんな物を並べてゐるが、とかく、下り坂になると却つてあんな事をやりたがるものだ」と人の云つてるのを聞いて、そんなものかしらと耳にとまつた事を今に思ひ出しますが、現代は全盛の人が、西洋風な應接間を飾り立てる事は勿論、日本間にまでいろんなものを置きならべてよい氣になつてゐます。お金のある人が客を招ずる爲に設備をするならば、まづお座敷の疊の吟味からはじめてほしいものだと思ひます。ところが、日本間の疊はブハ/\のインチキ物で、應接間の椅子やカーテンには何百圓何千圓を投ずるといふのでは、日本精神を解しない、本末顛倒《ほんまつてんたう》であるのみならず、物資だけを考へても甚だ國家經濟上國策に添はない事だと思ひます。日本のお座敷といふものは出來るだけよけいなものを省略したのがよい。そして床の間の一つの軸や一つの生花などに、季節のあはれや主人の心がまへなどが餘情として十分(161)生かされてゐるものであるべきだと思ひます。だからお客樣の方でも自分を招じた主人が、軸物一つにも客をもてなす爲に、心をくばつたその心づかひを十分汲取るべきだと思ひます。私は若い學生諸君が何かの相談に來る時にも、その相手と場合とを考へて客間の掛物をかけかへて待つ事があるのですが、どうかすると床の間に一瞥《いちべつ》も與へないで歸つてしまつて私の心づかひが無になる事がありますが、床の間の軸などは人に自分の珍藏品を見せびらかす爲にあるのでは決してなく、客をもてなす爲にあり、或は時には言葉には語らぬ氣持を餘情として示すといふやうな事もあり得るものだと思ひます。だからあなた方が人を訪問した場合にもし自身に讀めぬ軸などがかゝつてゐたら、これは何と讀みますか、どういふ意味ですかと尋ねて教を乞ふといふ事もよい事だと私は思ひます。いつぞやも私が恩師の或先生をお招きした時、あとでお手紙の中で、先夜床の間の花に就いて御挨拶を申さうと思つてつい失念したので、こゝにお禮を申すといふ意味の事を(162)書添へられてゐて恐縮した事がありましたが、所謂お茶人のまねなどをして、若い人が床の間の前でピヨコ/\お辭儀なんかする必要はありませんが、日本間の省略と餘情といふ事はも少し心得ておいてよいかと思かます。
 さて省略についての餘談が長くなりました。「まさやかにこそ」の下の省略は省略としては極めてあたりまへのもので、特に言を費すべきものではありませんが、この「こそ」で結ばれた結句は、この御製の結句としてまことにふさはしく、一首全體の聲調が誠に雄渾で、おほらかで、高朗とも申すべき格調を感ずるのであります。雄渾《ゆうこん》とかおほらかとかいふ調子は萬葉の傑作、特に時代の古い作には通じて感じられるところですが、これまた今の人の大いに學ぷべきところであると思ひます。「おほらか」といふ言葉は大樣といふ言葉と似てゐますが、大樣の方がお芝居のお殿樣のやうに少し間のぬけたところがあるやうな場合にも用ゐられるに反して、おほらかはもつとよい意味にのみ使はれる言葉だと思ひます。(163)今の世にほしいものは實にこのおほらかな精神だと思ひます。今の世の中はあまりに窮屈にこせ/\としてゐます。白といへば黒といひたがり、右といへば左といひたがる。しかし、かうもいはれ、あゝもいはれて、その根本の精神に於ては一致するならば、それもこれも相助けて大成せしめるやうに努力すべきであるにかゝはらず、むやみに小異《せうい》を立てて他を排撃《はいげき》しようとする。さういふ事では、世界を指導すべき偉大なる日本を興隆せしめる事は出來ません。島國|根性《こんじやう》といふ事が日本人の缺點を評する言葉としてよく用ゐられますが、日本人は本來決してさういふケチ臭《くさ》い根性の人間ではないはずだと思ひます。それは萬葉集の歌を讀めばわかる事であり、今のやうな御製を拜してもその事はぢかに感じられるところだと思ひます。私達は日本人本來のそのおほらかな精神にかへらなければいけない。一億一心とは、それもいけない、あれもいけない、みんなこれでなければいけないと、すべての人を一色にぬりつぶす事ではありません。白は白で、赤は赤(164)で、紫も緑も、すべてそのまゝで、しかも渾然たる調和を示すところに、眞の一億一心があり、まことの八紘一宇《はつくわういちう》があります。そこにほんとのおほらかな精神があります。殊に若い人はおほらかでなければいけません。若い人が窮屈にものを考へたり、目先の事だけ考へて所謂|利口《りこう》に立ちまはるために、他のかげ口をつくといふやうな、さういふこせ/\した卑屈《ひくつ》極《きは》まる態度をとるやうな事は斷じて許さるべき事ではありません。今の若い人はもつと打算《ださん》をはなれて無邪氣に、もつともつとおほらかでなければいけません。殊にこの事は都會に育つた方、その中でも、たとへば師範學校の附屬だとか、市内第一の優秀校だとか云はれるやうな國民學校を卒業した所謂秀才組の人達は、特に注意しないといけません。少し位「成績」がよいとか、頭がはたらくなどと云はれて、よい氣になつて、益々目先の事だけを上手にやつてゆくやうな人間になつたり、或はただ感受性だけがむやみに發達して、神經が過敏になり、「これから」といふ時、心身ともにその任に堪(165)へかねるといふやうな事では誠に遺憾だと思ひます。この事は私が、多年所謂最高學府に學ぶ青年諸君に接して來て、特に感ずる事で、それについては國民學校の先生方や父兄方にも考へてほしいのですが、あなた方自身もよく注意して、男も女もほんとに立派な、所謂「たのもしい」人になつてほしいと思ひます。私は切《せつ》にこの事をあなた方に望みます。將來の日本の運命を双肩《さうけん》に擔《にな》ふべき若いあなた方の一擧一動は、もつとほんとにおほらかに、そして同時に雄渾《ゆうこん》な氣魄《きはく》のこもつたものでなければいけません。しかもさういふ偉大な精神を、理論やお説敦でなしに、一首の歌の聲調の上に示されてゐるのが上代の歌です。私はあなた方が、こゝにあげた天智天皇の御製をはじめ萬葉の傑作をくりかへし愛誦する事によつて、おほらかにして雄渾な精神といふものがいかなるものであるかといふ事を、おのづからに會得される事を希望するのであります。
 
(166)   ものゝふのやそ宇治川《うぢがは》の網代木《あじろぎ》にいさよふ浪の行方《ゆくへ》知らずも(卷三、二六四〕柿本人麻呂
 
 これは人麻呂の有名な作の一つです。柿本人麻呂は傳記が不明です。歌などから推定すると天智天皇の御代頃に生まれた人で、作家としては持統天皇から文武天皇の頃にわたつて宮廷に仕へた人だと考へられます。五位以上の人は歴史に名が見えるのが普通ですから、人麻呂は五位に至らない身分の低かつた人と考へられます。死んだ年も不明ですが、和飼《わどう》二三年頃であらうと推定されます。人麻呂の作と明記せられてゐるものは長歌十六首、短歌六十一首ばかり。その他に人麻呂集に出づとあるものが三百六十首あまりあります。古今集以後に人麻呂の作となつてゐるものは、既に萬葉に出てゐるもの以外は、後の作であるか、萬葉の他(167)の作を人麻呂と誤り傳へたものです。百人一首に人麻呂とあるものも萬葉卷十一の作者不明の作を少し詠みかへられたものです。
 「ものゝふのやそ」は「宇治」といふ爲で、「ものゝふの」はすぐ「宇治」の枕詞にもなるのですが、こゝでは「やそ」といふ言葉が更についてゐるので、これを七言の枕詞といふ人もありますし、序詞といふ人もあります。枕詞と序詞との區別は人により相違もあり、一寸むつかしい問題ですが、普通短い句一つのものを枕詞といひ、二句又はそれ以上にまたがるものを序詞といひなれてゐるやうですから、それに從へばこれも序といつた方がよいでせう。枕詞と序詞とはさういふ風に長短によつて普通區別せられますが、修辭としての意義などは大體同じものと見てよいでせう。「ものゝふ」といふのは今日では「武士」といふ漢字をあててさういふ意味にのみ使ひますが、昔はもつと意味を廣く、朝廷に仕へてゐる百官《ひやくくわん》をさしたものです。それでその百官はいろ/\の氏の人が仕へたわけです(168)から「ものゝふの八十氏《やそうじ》」といつたので、「八十」はものの數の多い事で、その「八十氏」の「氏」と「宇治川」の「宇治」と同じ音をかけ言葉にしたものです。それでこの七音は歌の内容とは直接關係はないわけです。宇治川は山城の宇治の里、即ち京都伏見の南を流れてゐる有名な宇治川です。網代木といふのは、鮎《あゆ》や氷魚《ひを》などといふ魚をとるために網代といふものを川の流に張りわたしたので、その網代を張る爲に打つた杙《くひ》です。「いさよふ」といふのはためらふこと。いさよひの月といふのも、舊暦十六日の月は十五日の月即ち滿月に較べると山から出るのが少しおそくなるので、山の端《は》で少しいさよふといふ意で名づけられたものです。こゝでは網代木にさへぎられて川浪がよどんで渦を卷いたやうになつた事をいつたものと思はれます。「も」の助詞については前に述べました。これで太體の意味はわかつたでせう。
 この作には「從《ヨリ》2近江國1上(リ)來(ル)時至(リ)2宇治河邊(ニ)1作(ル)歌」と題詞がついてゐます。卷一(169)に人麻呂が近江の舊都、即ち天智天皇の志賀《しが》の都のあとを見て、荒れた都を悲しんだ長歌と短歌とを詠んでゐます。これも有名な歌ですから知つてる方もあるでせう。それでこの「いさよふ浪の行方知らずも」と浪の行方知らずなつてゆくといつたのも世の無常を悲しんだものであると解釋せられます。さういふ見方に對してこれはただ實景を詠んだゞけで無常感《むじやうかん》などを詠んだのではないと見る人もあります。勿論實景に對して詠んだものである事は明らかでありますが、宇治川の邊に立つてその川浪の行方知らずなつてゆくのを見つめてゐる人麻呂の心に無常を思ふ心が自然に漲《みなぎつ》つてくる事は極めて當然な事ではないでせうか。特に題詞に「近江國より上り來る時」と記されてをり、その近江は舊都であり、その舊都を悲しんだ作をなした人麻呂である事を思ふと、その多情多感《たじやうたかん》な作家が跡方知らずなりゆく浪に無常を感じないとしたら、それはむしろ不思議といはねばなりますまい。たゞ作家のなげきはあくまでも實景に對した實感から發せられてゐる事が(170)注意せられます。當時佛教がく行はれてゐた事はあなた方も知つてゐる通りですし、萬葉にも佛教の無常觀といふものが扱はれてる作もありますが、人麻呂のはさういふ親念的なものでなく、全く實景に對する實感によつてゐます。そこが人麻呂が純粹の日本の歌人と見られるところであり、この作の深く讀者の心に迫る所以でもあるのです。
 この作は人麻呂の力量を最もよく示した代表作の一つといふ事が出來ませう。たゞ意味だけをたどればあたりまへの事を述べたに過ぎないやうに思はれませう。歌は意味を傳へるものではありません。作者の感動を一首の聲調の上に、さながらに歌ひあげたものです。何を詠んであるかといふ事は大した問題でなく、どういふ感動をどういふ風に詠んでゐるかといた事が大切な問題です。たとへば「浪の行方知らずも」といふ事實を詠んだ歌は他にもあります。「事實」ばかりではない、全く同じ言葉を使つた歌もあります。
(171)  大伴《おほとも》の三津《みつ》の濱邊を打ちさらしよせ來る浪の行方《ゆくへ》知らずも(卷七、一一五一)
 「大伴のみ津」は難波の津、即ら今の大阪の港です。その難波の津の濱邊に打よせる浪の行方が知らずといふのであつて、人麻呂の作と場所を異にし、川浪と海の浪との違ひもありますが、極めて似た内容であり、終りの十言は全く同じです。先づこれは人麻呂の作から出たものだとはつきり言つてもよいでせう。さてこの二つを較べてみた時にどう感じますか。同じやうな意味の事を詠んだ歌だから同じやうな歌だと思ひますか。さうではありませんね。だとすればあなた方は既に人麻呂の力量を或程度認めたものと云へませう。枕詞が歌を単純化させ歌の聲調をたすけて歌に命を與へるといふ事については前にあげた人麻呂集の歌のところで述べましたが、この「ものゝふのやそ」といふ序詞についてもあれと同じ事が言へるのです。全く枕詞や序詞の發達は人麻呂に至つて頂點《ちやうてん》に達したといふ(172)感があるのですが、この「ものゝふのやそ」の如きは、まさにその最高峯を示すものと言つてよからうと思ひます。次に「打ち曝《さら》し寄せ來る浪の行方知らずも」と「網代木にいさよふ浪の行方知らずも」とを較べても單に意味からいつて平板《へいばん》な情景と特殊な景觀といふだけでなく、聲調から云つても「いさよふ浪の行方知らずも」といふ言葉の響き具合の何とも知れず美しいものである事が認められませう。
 賀茂眞淵先生がこの歌を解いたところで「さてゆたかにして雄々しく直くしてあはれふかきはこの人の歌なり」と評してゐますが、誠に短い言葉の中に要を盡してゐると思はれます。歌の姿がいかにも素直で、ひねくれたり滯《とゞこほ》つたりしてゐません。殊にこの歌は句切もなく、第一句から第五句へ、まつすぐに言ひ下して、最後に「知らずも」と詠嘆の助詞に感慨をこめて結んだところ、誠に「心ゆく」調といふのはかういふのを申すべきでありませう。しかもその一首の調子に(173)はりがあつて、ひきしまつて、しかもそれでゐて、ゆたかであるといふ事が特に注意せられませう。前章に申しました「おほらか」といふ言葉がまた思ひ出されませう。この「はりがある」といふ事と「ゆたか」といふ事と、この二つの事は輕率《けいそつ》に考へると反對の事のやうにも見えますが、これは一つのものの表裏のやうなもので、兩方が同時にあつてはじめて兩方とも完全なものと言へるのです。萬葉のすぐれた歌にはいづれもそれが示されてゐます。そしてこの事はまたわれわれの日常生活の心がまへの上にも學ぶべき事だと思ひます。「はりがある」といふ事はグニヤ/\したり、だらけたりしてゐない事、シヤンとしてゐる事、緊張してゐる事ですが、それは決して窮屈にしやちこばつたり、コチ/\に固くなつたり、カン/\にのぼせ上つたりする事ではありません。ところが「緊張せよ」などと言はれるとこの二つをごちやにしてしまふ人がずゐぶんありますね。しかしそれはまもがひです。坐るといふ事一つにしてもシヤンと坐るといふ事は(174)決して窮屈な姿勢をする事ではありません。最も正しい坐り方は同時に最もゆたかな坐り方です。座禅《ざぜん》をしたり靜坐《せいざ》をしたりして、肩がこつたり、むやみにねむくなつたり、或は、痔《ぢ》が惡くなつたり、胃下垂《ゐかすゐ》になつたり、心臓が苦しくなつたり、甚しきは精神異状を來したりするのは、正しい坐り方を會得しない爲であつて、どこかに無理があるからです。正しく緊張した姿は、同時に無理のない、ゆたかなものでなければなりません。從つてそれはいつまでもつゞき得るはずのものです。早くやめて休息したいといふのではほんとの態度ではありません。ところが西洋風なものの考へ方では勤勞と休息とか、仕事と娯樂とかいふ風に、とかく二つに考へる傾があるので、さういふ影響を今の人は多分にうけて、緊張といふ事も一時の姿だと考へたりするのですが決してさうではありません。武道の名人が寢てる間にも隙《すき》を作らなかつたといふやうな話は聞いた事がありませう。私達の考へ方によればおのが道にいそしむ事が、最も樂しい遊であるべきで、もし(175)別に娯樂を求めなければならぬとしたらそれは未だ道に對する精進の到らぬ爲か、然らざれば生活がまちがつてゐるからだと斷じてよく、從つてたえざる緊張が、同時にたえざるゆたかさを湛《たゝ》へてゐるべきものだと信じます。この點特に今の人に十分反省してもらひたいと思ひますが、人麻呂の歌は、歌の姿をもつてそれを示してゐると思はれます。
 なほ形の上の事を申すと、前にあげた持統天皇や志貴皇子の御作がア段の音《おん》に富んでゐるのと反對に、これはオ段の音に富んでゐる事が注意せられます。それがこの歌の無常感に伴なふ哀韻《あいゐん》との關係を考へさせます。それからこの歌では助詞の「の」が三つ、「に」が一つ、「も」が一つ、全部で助詞が五つ用ゐられてゐて、それが各句の終りに一つづつ用ゐられてゐるといふ事も、この歌の格調を考へる上に注意されてよい事と思ひます。
 
(176)   よし野なる菜摘《なつみ》の川の川淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴くなる山かげにして(卷三、三七五)湯原王《ゆはらのおほきみ》
 
 湯原王は志貴皇子の御子で、人麻呂より一時代後、即ち赤人などと同じく、奈良朝はじめの歌人と見るべき方です。十九首の短歌が集中に見えますが、こゝにあげたものを第一の佳作とすべきでせう。菜摘の川といふのは、前(一一八頁)に述べました宮瀧の上流で、今も菜摘といふ村がある、その附近で吉野川を特に菜摘の川と云つたので、吉野川以外の支流などをさしたものではありません。今も川(177)が迂廻《うくわい》をしてゐるところで、瀬になつたところや淀んだところがありますが、ここはその淀みになつたところを「川淀に」といつたのです。そしてこのあたりは兩岸ともに山に近く、「山かげ」といふ感じが今もよく味ははれます。「鳴くなる」は上に「ぞ」があるから「なり」が「なる」となつたので、そこで切れます。「山」につゞくのではありません。「鶉《うづら》鳴くなり深草《ふかくさ》の里《さと》」などの「鳴くなり」と同じで、この「なり」は詠嘆の意味をもつたもので、
  吾のみや夜船は漕ぐと思へれば沖邊《おきぺ》の方《かた》に楫《かぢ》の音《おと》すなり(卷十五、三六二四)
などの「なり」とも同じです。
  朝びらき漕ぎ出《で》て來《く》れば武庫《むこ》の浦の潮干《しほひ》の潟《かた》に鶴《たづ》が聲すも(卷十五、三五九五)
「朝びらき」は朝舟が港を出ること。この「鶴が聲すも」と、前の「楫の音すな(178)り」とを較べても「なり」の氣持がわかりませう。
  夕月夜《ゆふづくよ》心もしぬに白露の置くこの庭に蟋蟀於《こほろぎ》鳴くも(卷八、一五五二)
この「蟋蟀鳴くも」と「鴨ぞ鳴くなる」とを較べてもわかりませう。序に申しますが、この夕月夜の作者も湯原王で、幽婉《いうゑん》な作風を示すものとして注意せられるものですが、表現が少し鮮明を缺き、調子が弱く、前のものには及ばないでせう。「しぬ」は萎《な》えることで「心もしぬに」は心もしをれるやうにの意。蟋蟀は今もこほろぎといふもの。平安朝以後はきりぎりすといふ。今俗に「ぎす」といふものを「きりぎりす」(螽?《しゆうし》)ともいふが、あれとは別です。 「山かげにして」の「にして」は單に「に」又は「にて」或は「にありて」といふのと同じ意で、「家にして見れどあかぬを」「旅にして物思《ものも》ふ時に」「獨《ひとり》や飲まむ友なしにして」などと用ゐられてゐます。それで一首の意はわかつたと思ひま(179)すが、よし野の菜摘川の川淀に鴨が鳴いてゐるよ、山かけで、の意で、これを簡單な散文に直すと「吉野の山陰《やまかげ》の菜摘川の淀に鴨が鳴く」といふ事になるが、それではたゞ事實の叙述だけであつて作者の感慨が出ないので、「山かげ」を結句にまはして、上の句の聲調を整へると共に、「鴨ぞ鳴くなる」と第四句で切つて詠嘆の助詞で結び、第五句を「山かげにして」と言ひさしの形をとつて餘情をたたへたのです。
 この作は誰にもすぐ意味のわかるやうに、むつかしい言葉も使はれてゐませんが、その景が非常に鮮明に描かれてをり、その景にふさはしい、流れるやうな調子をもつてゐて、佳作として多くの人に愛誦せられた事が察せられます。
  よし野な〔右○〕るな〔右○〕つみのか〔右○〕はのか〔右○〕はよどにか〔右○〕もぞな〔右○〕くな〔右○〕る
かういふ同音のくりかへしでは、人麻呂の有名な作
  近江《あふみ》の海《み》夕波千鳥|汝《な》が鳴けば心もしぬに古《いにしへ》思ほゆ(180)(卷三、二六六)
の「み」「な」のくりかへしなど最も注意すべきものと思はれます。これらは勿論さういふ一音々々のくりかへしを意識的に作つたものでなく、しかも結果に於て、さういふくりかへしとなつたもののうちの代表的なものといへませう。「思ほゆ」は「思はる」で、上代には受身の助動詞「る」が「ゆ」となる事前(一一一頁)に述べました。この場合は「は」が「ほ」になつてゐます。これは上のオ、モ、の二音がオ段の音でそれに同化せられたのです。「山かげにして」の言ひさしの結句は、この歌にとつては重要なものであり、當時としても目新しく、清新の感を與へたものと思はれ、ほゞ時代を同じくしたと思はれるもので
  しなが鳥《どり》猪名《ゐな》野を來れば有間山《ありまやま》夕霧立ちぬ宿は無くして(卷七、一一四〇)
(181)の如き似た形のものと云へませう。「しなが鳥」は枕詞。猪名野は攝津《せつつ》猪名川の兩岸。有間山は有馬温泉のあるあたりの山をさしたものと思はれます。しかも面白いことは、湯原王の「よし野なる」も、この「しなが鳥」の作も共に新古今集に採録《さいろく》せられてゐることで、そこにこれらの作の新風《しんぷう》といふ事が考へられ、前章に述べた人麻呂の作との間に時代の推移、歌風の變遷が感じられませう。その事は右に引用した「近江の海」と「夕月夜」との二作を比較しても同じ事が感じられませう。眞淵先生の所謂「ゆたかにして雄々しく」強く人の胸に迫る力は奈良朝に入ると共に次第に求めがたくなつて來た事を感じます。
 終りに鴨の事を少し申しておきませう。萬葉集で多く詠まれた鳥はほとゝぎす、鴈、鶯、鶴の順序で、これは古今集にも相當詠まれてゐますが、これらに次ぐものが鴨で、集中廿八首、そして古今集には僅かに一首、それも詠人《よみびと》しらずの古い作で、しかも序詞として用ゐられてゐるに過ぎないので、これは作者の環境《くわんきやう》(182)といふものが萬葉と古今と相違した事を示すもので注意すべき問題だと思ひます。御父志貴皇子の御歌にも
  あしべ行く鴨の羽がひに霜ふりて寒き夕《ゆふべ》は大和し思ほゆ(卷一、六四)
といふ誠にすぐれたものがあります。「大和し」の「し」は意味を強める助詞。なは他にもすぐれた作があります。
 
(183)     わがやどのいさゝ群竹《むらたけ》吹く風の音のかそけきこの夕《ゆふべ》かも(卷十九、四二九一)大伴家持《おほとものやかもち》
 
 大伴家持は旅人の子。養老二年に生まれたらしく、天平四、五年即ち十五六才の頃から作が見えてゐます。即ち萬葉のうちの奈良朝時代を更に二つにわけると、父の旅人《たびと》はその前半、即ち第三期を代表し、子の家持は第四期を代表する事になります。そして今日の萬葉集が傳はつたのは先づ家持の輯録《しふろく》したものによると見てよからうと思ひます。家持の作は全部で四百七十首あまり。數の上からいつたら集中第一と申せます。こゝにあげた作は天平勝寶《てんぴやうしやうほう》五年二月廿三日に詠まれたもので、まづ家持の作中第一の佳作と申すべきものです。
 「わがやど」の語については既に述べました。「いさゝ」の「さゝ」は小さい竹、(184)萬葉には「小竹」と書いて「さゝ」と訓ませたところもあります。「い」は接頭語です。「い」といふ接頭語は「い垣」「い槻《つき》」「い坑《くひ》」などと集中にも用ゐられてゐます。この「いさゝ」をいさゝかの意味だとする解釋もありますが、「いさきかな何々」といふのを單に「いさゝ何々」といふ風に云つた例もなく、意味からいつてもこの場合どういふ竹か竹の姿を示した言葉と見た方がよいでせう。それで私は「い小竹《さゝ》群竹」の意味にとるべきものだと思ふのです。そしてその「い小竹群竹」といふ言葉は、これまた散文にすれば「むらがれる小竹」でよいわけですが、歌としての韻律《いんりつ》をもたせるために、くりかへしの形にして、「い小竹群竹」としたので「い小竹《さゝ》」の方は竹があまり大きなものでなくかすかな風にもゆれる、細いさゝやかな竹といふ意昧を示し、「群竹《むらたけ》」でその竹が一本でなく數株むらがつて生えてゐる事を示したので、苦心の拂はれた言葉だと思ひます。かういふ風に、二つ言葉を疊んだやうな句は他にも例があつて、たとへば散文では(185)「淺茅《あさぢ》(まばらに生えたつばな)の生えてゐる原」といふのを「淺茅原茅生《あさぢはらちふ》」と云つたり、「幾重にも隱す浪」といふのを「かくさふ浪の五百重《いほへ》浪」と云つたりするのと同じです。「かそけき」はかすかなこと。「かすけし」とも「かそけし」とも云つたので、萬葉では「かそけし」の方が用ゐられてゐます。これで歌の意味はわかりませう。
 この作のなされた年の二月廿三日は、今の太陽暦に直すと四月五日にあたります。即ち奈良の都はまさに春|酣《たけなは》の頃です。櫻の花はまづ滿開に近いと思はれる春の夕ぐれです。庭前の小竹の葉を吹く微風のかすかな音に耳傾けた作者の感動を歌つたもので、「この夕かも」の詠嘆で結んでゐますが、例の主觀的な言葉を交へないで、實景をそのまゝ描いて來て「音のかそけさ」「この夕」とつゞけて來た調子のはり〔二字傍点〕はやはり萬葉の佳品と推《お》すべきもので、殊に第二句、第四句の語感の美しさは、小竹の葉を渡る風の音をさながらに聞くやうで、誠に幽寂《いうじやく》の感を深(186)からしめます。この同じ日に作られた
  春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも(四二九〇)
と、二日あとの廿五日に詠まれた
  うら/\に照れる春日に雲雀《ひばり》上《あが》り心悲しもひとりし思へば(四二九二)
の作と、これらの三作は家持の作家生活に於ける最高峯を示すものとしていづれ劣らぬ佳作と思はれますが、先づ私は右の作を第一と致しませう。しかしいづれにしてもこれらの三作は家持|獨自《どくじ》の境地であつて、をの繊細《せんさい》な情緒《じやうしよ》と哀韻《あいゐん》とは他に較べるものがありません。かうして右にならべて來ました人麻呂と湯原王と家持と、かう辿《たど》つて來ますと、そこに實にあざやかに歌風|推移《すゐい》のあとが認められませう。そして萬葉の萬葉たるところはやはり人麻呂以前にある事は勿論ですが、(187)しかもまた家持の作を有する事を世界に誇つてよいと私は思ひます。前にフランスの畫家モネーの水蓮《すゐれん》や柳の畫の事を申しましたが、あの作に見る情緒は家持のそれと一脈《いちみやく》相通じるものだと思ひます。そしてさうした世界はイギリスやアメリカにこれを求める事は非常にむつかしいのでないかど思はれます。私は前におほらかといふ事の讃美《さんび》をしました。しかもおほらかといふ事は粗雜《そざつ》といふ事ではありません。まして鈍感《どんかん》といふ事でありません。しかるに今の世の中には、おほらかに非ずして、粗雜、鈍感な人が何と多い事でせう。こゝに鈍感でないといふのは、目先がよくきいて人の機嫌を察するといふやうな、そんな功利的な鋭さをいふので勿論ありません。さういふ鋭さならば今の世にあり餘つてゐます。私の慨嘆するのは、さういふ俗惡《ぞくあく》な鋭さのみあつて、もつと純粹な「あはれ」に同感し得る神經のこまやかさのないことです。一寸汽車や電車や乘合自動車などに乘つてみても、その粗雜、鈍感な人の一擧一動に幾度|眉《まゆ》を顰《ひそ》めなければならない事で(188)せう。赤ちやんを抱いて車のゆれになやんでゐる人に、席を讓らうとしない若い人を何と度々見うける事か。少し自身が右か左によれば二人分の席のあくはずを中途|半端《はんぱ》なところに腰をかけて何も感じないやうな人の何と多い事か。かういふ場合に、日本人は公衆の訓練が出來てゐないなどとまたしても西洋を學ばねばならないやうな事をいふ人がありますが、私に云はせれば西洋人の言ふ「公徳《こうとく》」こそ、たゞ功利《こうり》の地金《ぢがね》に少し美しい鍍金《めつき》をしただけであつて、さういふものを學ぶ事こそ日本人の墮落《だらく》です。私達日本人は、社會生活の約束などといふ理窟でなしに、本來、人のなやみを座視出來ない鋭いこまやかな感情をもつてゐるはずです。日本人はその本來の感情にかへりさへすればそれでよいのです。
 「あなたは、けふはお疲《つか》れでせうし、お出かけにはならないでせうね」
と尋ねられた時、
「はい。出かけません」
(189)と答へるのが、日本人の普通の答へ方ですね。ところが、かういふ問に對して英語では
「いゝえ。出かけません」
と答へますね。この「はい」「いゝえ」の使ひ方にも相手の感情に自分の感情を合はせる日本人の考へ方と自分の言ふことだけを中心にした西洋人の考へ方との相違がわかりませう。も一つ面白い話をしませう。一寸臭い話ですが辛抱《しんばう》して下さい。私がいつも東京で泊《とま》るある旅館の厠《かはや》では、中へはいつて厠の兩側の大理石に足をのせると同時に、自然にその下を水が流れるやうになつてゐて、それとまた同時に、入口のところの「御使用中」と書いてある電燈に灯がともります。この「御」といふ字を私は面白いと思つたのです。西洋風のホテルとか汽車などの便所では、自分で中へはいつて鍵《かぎ》をかけると扉《とびら》の外へ「使用中」と書いた文字が出ますね。よろしいか、一方は自然に灯がともるのであり、他方は自分で鍵をか(190)けるのです。そこで一方には「御」がつき他方にはつかないといふのも合理的なわけですが、一體旅館の厠はお客樣のために設けたもので、お客が「はゞかり――御不淨《ごふじやう》なんて言葉を使ふものではありませんよ――はどちらですか」と尋ねて「はい。どうぞこちらへ」と宿の召仕《めしつかへ》が案内をする、そしてその入口で召仕は待つてゐる、客が用をたして出て來ると、客の手へ水をかけて、手拭《てぬぐひ》をすゝめる、これがお客樣を遇するゆきとゞいた作法です。そしてもしその待つてる間に他の客が來たら、「只今お使ひになつてをります」と斷ります。ところが多くの客に一々さういふ接待をしてゐる事も出來ない。客もまた召仕を煩《わづら》はすべきではないと思ふ。そこで自分一人で用たしにゆく。すると宿の方でも設備をとゝのへて「御使用中」といふ電燈がともる。「只今お使ひになつてをります」。「御」の字がなければならないわけがわかりましたぬ。この日本風な「御使用中」と西洋風な「使用中」との文字一つの上にあらはれた相違にも、日本人のこまかくゆき(191)とゞいた感情が窺《うかゞ》はれると思ふのです。かういふ風に日本人の神經は本來こまかく、鋭く、すみずみまで行屆いてゐるはずなんです。しかも同時におほらかでなければならないのです。それに現代の人はあまりに色粗雜で鈍感であるかと思へば、むやみに神經|過敏《くわびん》になつて、少しもおほらかなところがないといふのが多い。鈍感と云ひ過敏といひ、兩極端《りやうきよくたん》のやうではあるが、根を洗へば、小さな自己の殻《から》に閉ぢこもつた功利觀にわざはひされたものである事がわかりませう。
 家持の歌に見る幽婉、靜寂な哀韻は、正しく洗煉せられた、日本人本來のこまやかな情緒の美しさを示すものとして、あなた方がくりかへし愛誦せられる事をすゝめたいと思ひます。
 以上萬葉第二期第三期第四期と一つづつその代表作をあげて來ましたので、ここで再び第一期の代表作をあげて、この書の結びとしたいと思ひます。
 
(192)  夕されば小倉《をぐら》の山に鳴く鹿は今宵《こよひ》は鳴かずいねにけらしも(卷八、一五一一)舒明天皇
 
 「夕されば」は夕方になるとの意。「春さらば」とも「夜さりくれば」とも用ゐるこの「さる」といふ事については昔からいろ/\説がありましたが、徳田淨氏がこの「さる」は今日では「去る」即ちこちらからあちらへ行つてしまふといふ意味に使ふけれど、もとはあららからこららへ來る場合にも使はれたので、即ちものの進み移る事を廣く意味した言葉であると説明されたのがよいと思ひます。今日用ゐる言葉でも「後しさりする」などといふ「しさる」は「後《しり》さる」即ち後の方へ動くの意から出た言葉として理解が出來るし、「ゐさる」といふ言葉は足で立つて歩かないで「居さる」即ち居ながら動くの意であつて、これらはいづれも(193)「さる」といふ言葉の本來の意味が殘つてゐるものと言へませう。それだから「春さらば」は「春が來たならば」の意であり「夜さり來れば」は「夜になつて來ると」の意になるわけです。「小倉山」はどこであるかわかりません。京都の嵯峨《さが》にも小倉山があり、大和國王寺の西、立野といふところにある龍田《たつた》神社の西の龍田山にも小倉嶺があり、そこは萬葉にも詠まれてゐますが、舒明天皇の御製のはそこともきめられません。舒明天皇の宮は、後の天武天皇の宮のあつた飛鳥村のあたりと思はれますので、或はその附近の山であつたかも知れません。「いねにけらしも」は寢たであらうナアの意。「寢る」事を昔は「いぬ」とも「ぬ」とも云つたのです。「に」は完了の助動詞の連用形、「けらし」は「ける」「らし」の約《つゞ》まつたもの。
 夕方になると小倉の山にいつも鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう寢たのであらうナアの意、鹿を詠んだ作は集中に五十九首あります。獣のうちでは馬についで(194)鹿が多く詠まれてゐるわけです。鹿は「か」とだけ云はれてゐる場合もあります。一體「しか」といふのは「妻戀ふ鹿」などと昔から歌にも文にも作られ、鹿が鳴くのは妻を求めるためと云はれ、「しか」で「牡鹿」の意に用ゐられたもので、萬葉にも「男鹿」「雄鹿」などと書いてシカと訓ませてゐますが、更に「をしか」とも云ひ、また更に「さ」といふ接頭語を加へて「さを鹿」とも歌はれてゐます。それらの鹿を詠んだ作中の第一のものがこの御製です。齋藤茂吉《さいとうもきち》氏が、
  御製は調べ高くして潤《うるほ》ひがあり、豐かにして弛《ゆる》まざる、萬物を同化|包攝《はうせつ》したまふ親愛の御心の流露《りうろ》であつて、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上《ここんむじやう》の結句だとおもふのである。第四句で、「今夜《こよひ》は鳴かず」と、其處に休止を置いたから、結句は獨立句のやうに、豐かにして逼《せま》らざる重厚《ちようこう》なものとなつたが、よく讀めばおのづから第四句に縷《る》の如くに續き、また一首全體に響いて、氣品の高い、いふにいはれぬ歌調となつたものである。
と讃嘆して居られるが、誠にその言《げん》の如く、これ以上|蛇足《だそく》を加へる必要がないや(195)うに思はれます。「萬物を同化包攝したまふ」大御心とその大御心の表現としての一首の聲調と相俟《あひま》つて、渾然《こんぜん》たる珠玉《しゆぎよく》の御作を成したものと申すべきでありませう。鹿の作の多い事は右に並べましたが、それらはいづれも鳴く鹿の音《ね》に心を惹《ひ》かれたり、萩原を別けてゆく鹿に興を催《もよほ》したりしたものでありますが、その他に「鹿」といふ字をシヽと訓ませたところがあります。その場合は獵の獲物《えもの》としての鹿をさしたものであります。京都に鹿《しゝ》ケ谷といふところのある事は歴史で學ばれた方もありませう。かういふ風に鹿をシヽとも訓むのですが、それは丁度今日田を耕したり車を曳いたりする牛をウシと云ひ、肉をたべる場合にはギウと云ふのにも似てゐます。しかし「シヽ」といふのは鹿ばかりには限らないので、萬葉にも「鹿猪」と書いてシヽと訓ませたところもあります。つまり鹿や猪《ゐのしし》など、肉をたべる獣をシヽと云つたので、それと同じやうに「鶉雉」と書いてトリと訓ませてゐるのも鶉《うづら》や雉《きじ》を獵してその肉をたべたので、それらをトリと總稱したも(196)のと思はれます。さてそのシヽといふのは又「宍」「肉」といふ文字も用ゐてゐるので、「しゝ」といふ言葉は「肉」といふ言葉であつたわけです。今日でも肉づきのよい太つた人を「ふとりじし」の人などいふのはその言葉の殘つたものです。それで今日ニクといふと牛や豚をさすのと同じやうに、シヽと云つて鹿や猪をさす事になつたものと思はれます。「ヰノシヽ」と「シヽ」といふ言葉をつけたのも今日ブタニクといふのと同じやうなわけですが、そのまゝ獣の名となつたものです。さて明治時代以來の日本は牧畜國の西洋の醫學をそのまゝ直譯した爲に肉といへば牛とか豚とかをむやみにありがたがるやうになつたのですが、これは日本の歴史を知らず風土をわきまへぬやり方で、日本にも古くその一部に遊牧《いうぼく》をやつた事はありますが、それは一部の事にすぎなかつたので、聖武天皇の時には肉食禁止の詔《みことのり》まで下されてゐる程で、日本は既に前に履物の事を述べた時に書きましたやうに、牧畜國ではないのでありますから、日本で牛や豚をたべる事は(197)全く有害無益といつてよく、鷄肉《けいにく》や鷄卵《けいらん》の愛用も同樣で、今日「とり屋」といへば鷄肉屋の事になりましたが、昔の「とり」は右に述べたやうに、鶉や雉の「野鳥《やてう》」であつたので、今日のやうに牛や鷄のやうな「家畜《かちく》」をたべるといふやうな野蠻《やばん》な事は上代の日本人は好まなかつたのです。今日電車に乘つたり新聞を開いたりすると到るところに化膿性疾患《くわのうせいしつくわん》に對する新藥の名前が目につきますが、私はあれを見る毎に西洋|妄信《まうしん》の野蠻な惡食の報《むくい》が天下に瀰漫《びまん》してゐるやうに感じられて慨嘆に堪へないのです。かう申すと、まだ牛や豚の所謂「滋養《じやう》」を教へられてる方々は不安を感じられるかも知れませんが、最近もある僧堂《そうだう》に暮してゐる若い人が、お粥《かゆ》と麥飯と澤庵《たくあん》と味噌汁とだけの生活をするやうになつてから二箇月許の間に一貫何百目か體重が増したと言つてるのを聞きました。さて萬葉人は冬になると獵をしたので、その時には野獣や野鳥をもたべたと思はれるので、「しゝ」や「とり」を詠んだ歌もありますが、右に並べました五十九首の鹿の作はいづれ(198)も食欲の對象としてではなく、同じこの世に住む、生きとし生けるものへの、なさけの對象として詠まれたものであります。私が西洋に居ました時聞いた話ですが、外國人が肉屋の店頭に立つて、そこに吊下《つりさ》げてある肉を見入つてある目付は、全く得物を狙《ねら》つてゐる野獣のやうな表情だといふのです。私は肉屋の門は特に目をそらして通りますからさういふ觀察をする機會がなかつたわけですが、この觀察を私は一人ならず數人の人から聞いたのですからうそではなからうと思ひます。それを思ふ時、私は日本に生まれた幸《さいはひ》をしみ/”\感じます。私達は鯉をたべますが、お池の鯉を見てよだれは出ません。麩《ふ》を持つて來ればよかつたと思ひます。そこが日本人たるありがたさです。「今宵は鳴かずいねにけらしも」といふ大和心のありがたさがそこにあります。むつかしく言へば「物我一如《ぶつがいちによ》の精神」と申しませうか。私が現代に於て最も敬慕《けいぼ》してゐる坊さんに澤木興道《さはきこうだう》といふ老師がありますが、その方がよく「繼目《つぎめ》のない」といた事を申されますが、自身と(199)人とつぎめがない、自分と自然とつぎめがない、自分と世界とつぎめがない、自身と宇宙とつぎめがない、かういふ風に申されるのですが、誠にわかりやすいよい言葉だと思ひます。私はつい此間も下野國《しもつけのくに》のある山寺で數日を暮したのでありますが、夜寢る時も部屋と外との間にはたゞ紙障子を一枚たててあるだけですから、枕上《まくらがみ》にあたる廊下のところの洗面所に落ちる筧《かけひ》の水の音が、手にとるやうに聞えます。のみならず、草むらにすだく蟋蟀や松蟲の音が、殆ど何のさへぎるものもないやうに聞かれます。目をつぶつてゐると、まるで自分が草むらの中にねてゐるやうにさへ思はれて來ます。全くつぎめがないナと私は思つたのでありますが、かういふつぎめのない住まひがあつて、自然とつぎめのない萬葉の多くの佳作が生まれたのだと思ひます。私が獨逸にゐました時、私の知合のあるお婆さんの家へ宛《あ》てて、日本から草履を送つて來てゐましたので、それを取りにゆきましたところ、丁度そのお婆さんは出かけようとしてゐました。そのお婆さんは未(200)亡人《みばうじん》で一人住んでゐるので、私は來意《らいい》を述べて部屋へ引きかへしてもらふ事にしたのですが、まづお婆さんは鍵を出して家の入口の戸をあけました。そこは廊下になつてゐましたが、その廊下に戸棚があります。お婆さんはまた一つの鍵をもつてその戸棚をあけました。その戸棚の中には又鍵を入れた箱がありました。その箱を取出したお婆さんはその箱の中から一つの鍵を取出して一つの部屋の戸を開けて、私と共に部屋にはいりました。そして更にその部屋の一つの戸棚を鍵であけて、そこでやつと私に渡す品を取出しました。さうして再び私と共に外へ出る事になつたわけですが、今迄やつた事を又逆にくりかへした事は申すまでもありません。どうです、これはまた何といふつぎめだらけの住まひでせう。しかもかういたつぎめだらけの生活を日本人がまねをして、それを文化生活だと考へる人があつたとしたら、こゝで一番反省してみる必要があるのではないでせうか。土と石とガラスとで、自然は勿論、隣の人とも縁をきつたやうな住まひにゐて、(201)「今宵は鳴かずいねにけらしも」の御精神をぢかに感ずる事はむつかしいのであります。京都帝國大學の元の總長の小西重直先生は今東京の郊外に住んでゐられますが、先生のお宅の縁の下へ野良《のら》犬がよく子を生みに來るのださうです。先生のお宅の近所は西洋風な所謂文化住宅ばかりで、從つて犬も近づく事が出來ない。それで日本風な先生のお宅へばかり來るらしいので、「どうも困るけれど、そこが日本の家のありがたいところだと思ひます」と先生は私に笑つて話されましたが、日本の家は野良犬にまで宿を貸すやうに出來てゐます。廂《ひさし》といふやうなものでも行きずりの人に雨やどりをさせるばかりでなく、燕にも宿を貸すやうに出來てゐます。蕪村の俳句に
  初秋やよその灯《ひ》見ゆる宵の程
といふのがありますが、日本なればこそかういふよい句も生まれるのだと思ひます。この俳句も序によく味はつてみて下古い。「やど」の事は前に述べました。(202)庭園についても述べましたが、西洋風な庭園には多く鐵柵《てつさく》などで垣がこしらへてある事はどこでも見るところです。日本風なものにも垣がないわけではありませんが、日本風な庭園ではその垣で終つてゐるやうにはなつてゐません。その後に遠景の山などを背景としてとり入れてゐます。その多くはその垣のところを見せないやうにしてゐます。即ち垣のあるのはやむを得ないとして、少くもそれを鑑賞《かんしやう》する人にそのつぎめを感じさせないやうにしてゐます。この事はまた衣服の上にも考へられます。履物の上に示されたつぎめなしは既に述べましたが、洋服と和服とを較べるとまた同樣の事がわかりませう。萬葉集には「ころも貸す」などといふ言葉がありますが、ロンドンスタイルの洋服は貸す事は出來ないのです。洋服といふものは身にぴつたりついたもので所謂個人主義の精神が服装の上にも示されたものです。日本のきものは履物同樣日本風土に適して發達したもので、日本のきものの合理性などについては獨逸人であるブルーノ・タウトといふ人な(203)どがくはしく説いてゐますから、心ある人にはさういふものを讀んでもらふ事を希望して、たゞ私としては、きものといふものの中に日本固有の單純の精神と自由|無礙《むげ》の精神とがいかにすばらしく表現せられてゐるかといふ事を、前に述べた履物やお座敷の類推《るゐすゐ》によつて、あなた方がよく考へてみるやうに、宿題として提出しておく事にしておきませう。私の申す事はあまりに衣食住の生活樣式につきすぎるやうに思ふ方があるかも知れないが、世の中に形式をはなれた精神といふものはありません。一つの精神があればそれをあらはす形式といふものがあるはずです。頭の下がる心は頭を下げる形式であらはれます。その反對に合掌《がつしやう》して喧嘩《けんくわ》は出來ません。一つの生活樣式があればその形式にこもる精神があるはずです。勿論|陋習《ろうしふ》は捨てなければいけません。しかし正しく傳はつた傳統《でんとう》の生活樣式を西洋|直譯《ちよくやく》の樣式におきかへる事は、正しい大和心を破壞する事にほかありません。(204) 今や西洋の天地は修羅《しゆら》と饑鬼《がき》との巷《ちまた》に化し去らうとしてゐます」この戰亂の巷を救つて世界に眞の平和をもち來《きた》すものは日本を措いて斷じてないとは前にも申しました。私がロンドンにゐました時、飛行機の競技會を見た事がありました。その時、平和論者の反戰|示威《じゐ》行列を見たのですが、恐らく今日のロンドンに於ても一部にはさういふ運動が行はれてゐるのではないかと思かひす。しかもさういふ人達の唱へる平和と、日本人の考へる平和とは、その根本に於て天地の相違のある事を知るべきだと思ひます。彼等の唱へる戰爭も平和も、その根底は自分又は自分達の生活欲を中心としたものであります。日本人が戰爭を叫び、平和を唱へる時は、はじめから既に「私」といふものがないのであります。「つぎめなし」であります。つぎめだらけの人が唱へる平和は、こしらへものの平和であり、その事自身で既に修羅の種を蒔《ま》いてゐるやうなものであります。私達はつぎめなしの心で戰ひ、つぎめなしの心で平和を思ふのであります。舒明天皇の御製を拜誦(205)する時、かういふ事にまで思ひ至るのであります。
 再び御製そのものに歸りますが、齋藤茂吉氏はまた「此の御歌は萬葉集中最高峯の一つとおもふので、その説明をしたい念願を持つてゐるが、實際に當ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一體《こんいつたい》の境界《きやうがい》にあつてこまごましい剖析《ばうせき》をゆるさないからであらうか」とも述べられてゐます。齋藤氏の如き殆どその生涯を作歌の實參實究《じつさんじつきう》に苦心|惨憺《さんたん》せられてる方が、この御製の傑作である所以を解剖したり説明したりする事が出來ないと嘆じてゐられるのですから、私が今更それを試みるのはむしろ徒勞《とらう》といつてよいでせう。たゞ最後に一つ述べておきたい事は、卷九のはじめに載せられてゐる雄略天皇の
  夕されば小倉の山に臥《ふ》す鹿の今宵は鳴かずいねにけらしも(一六六四)
とある御製との關係についてであります。萬葉集には或本には舒明天皇の御製と(206)云つてあるが、どちらが正しいか明らかでない、因《よ》つて重《かさ》ねて載せる、といふ風に注《ちゆう》がつけてあります。即ち卷八には舒明天皇の御製としてあるのを、かういふ傳もあるので再び卷九に雄略天皇の御製として載せたわけです。ところで注意せられる事は第三句が違つてある事です。前のは「鳴く鹿は」とあり、こららには「臥す鹿の」となつてゐます。そこでこれは一體どちらがもとの形であらうかと考へてみますと、年迄私がこの書にくりかへして述べて來た事によつてあなた方にも答案が書けるのでないかと思ひます。
  鳴く〔二字二重傍線〕鹿は〔右○〕今宵は〔右○〕鳴か〔二字二重傍線〕ず
  臥す〔二字傍線〕鹿の〔右○〕今宵は〔右○〕鳴か〔二字二重傍線〕ず
この二つを較べてみます時、いづれが單純であるかは申すまでもなくすぐわかりませう。そこでそれならば、前者がもとの形であつて後者はそれがかへられたものと考へるべきでせうか。しかるに前者の御作者が舒明天皇で、後者が雄略天皇(207)であるといふ事はどういふ風に考へてよいでせうか。それが逆《ぎやく》になつてゐれば簡單にうなづける事ですが、後のが古い時代の御作者であるので一寸|不審《ふしん》にも思はれませう。そこで一つあなた方にも親しみのある別の例を引いて考へてみる事にしませう。
  秋の田のかりほの庵《いほ》の苫《とま》をあらみわが衣手《ころもで》は露にぬれつつ
これは百人一首の一番はじめに天智天皇の御製となつてゐるので誰でも知つてゐませう。この御歌は後撰集《ごせんしふ》に既に天智天皇の御歌として載せられてゐますが、後撰集は古今集の次に撰ばれたもので、古今集に人麻呂の作とも傳へてゐると注してある歌が實際は人麻呂の作とは思へないやうに、後撰集にさう載せられてゐるからといつて直ちにそのまゝ信ずるわけにゆきません。この御歌は萬葉集には載つてゐず、萬葉集の卷十に
  秋田刈る假廬《かりほ》を作り吾が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
(208)といふ作者不明の作があります。それで眞淵先生などはこの歌を傳へ誤つたもので、この萬葉集の歌が既に天智天皇の御代のものよりも後のものであり、百人一首のは更に後の風で、平安朝になつてから後、弘仁《こうにん》時代頃のものであらうと言はれてゐます。全くその説のやうに萬葉卷十のは奈良朝はじめ頃の作であり、百人一首のはたしかにそれよりも新しい風で、弘仁頃と正確にきめる事はむつかしい事ですが、「露ぞ置きにける」といふ結句と「露にぬれつゝ」といふ結句とを較べて見ても、この書の最初にあげた赤人の富士山の「雪はふりける」が百人一首に「雪はふりつゝ」となつたのとも思ひあはせて、後のものである事が察せられませう。即ち後撰集には天智天皇の御製となつてゐますが、實はそのもとのものが天智天皇の御代のものよりも後のもので、それが更にかへられて天皇の御製と誤り傳へられたものと考へられます。これが今日まで誰も認めてゐる説になつてゐます。さうした例を認めると今の場合も雄略天皇よりも後の舒明天皇の御製(209)が傳へ誤られて雄略天皇の御製となつたといふのですから全く同樣に認めらるべきではないでせうか。尤も百人一首の場合は、萬葉と後撰と撰集の時代を異にしたものですから誤傳《ごでん》の事が認めやすいやうにも思はれますが、今の場合でも同じ萬葉集中とはいへ既に卷九の方に不審の意を注してをり、雄略天皇と舒明天皇とそしてこれらの御製が採録せられた萬葉集|編纂《へんさん》の時代とはそれ/”\長い時代をへだててをるのですから、かうした誤傳があつたと考へる事は決して不當ではないと思はれます。現に集中には他にもさういふ例があり、私も別の書物で述べた事もありますのでまづさう考へてよからうと思ひます。たゞ最後にも一度述べておきたい事は「鳴く鹿は」と「臥す鹿の」との相違であつて、この二つを較べます時、後世の語感や技巧に馴れた氣持からすると「鳴く鹿は今宵は鳴かず」といふのは少し幼稚すぎるやうに考へられたり、調子が少し固く感じられたりするので、「臥す鹿の」の方が技巧が進んだやうに思はれたり、調子もやはらかくなつ(210)てよいやうに考へられたりするのですが、現に今の學者や作者の中にもさういふ風に見る人もないではありませんが、もしあなた方の中にもさういふ風に見る人があるとしたら、この書にくりかへして述べて來た單純の精神がさだ眞に會得されてゐないと私は言ひたいのです。語感の相違といふ事は、前に(九十八頁)述べた「見ずか過ぎなむ」の「か」を後世ならば「や」と言ひたいところで、これなども上代と後世との語感の相違を示すもので今日の私達の語感たけでは定めがたいのであり、歌意から申しても「臥す鹿の」では作意が十分にとほらない事になりませう。これは全く「鳴く」といふ言葉のくりかへしと「は」のくりかへしを避けるために後に「臥す鹿の」と改めたものと認むべきもので、「鳴く鹿は今宵は鳴かず」のこのくりかへしにこそ、後世の人の及びがたい單純の妙境があると認むべきものであります。それは前にのぺました「生ひざりし草生ひにけるかも」のくりかへしと全く節《せつ》を合《がつ》するものと言ふべきでせう。單純の心がくりかへ(211)しの表現となつた例は集中に多くを見出しますが、これらの例はその最も著しいものといへませう。
 萬葉の單純素朴といふ事は、あまりに平凡な題目のやうにも考へられませう。そして一方にはそれを幼稚や平凡と誤解してそれに反對しようとする人々もありませう。しかし單純といふ事は決して幼稚と小ふ事ではありません。況《いはん》や近代の人がともすれば好む簡便といふ事とは凡そ正反對な境地です。萬葉の作品に示された單純の美、單純のいのちがどういふものであるかといふ事が、以上述べ來つたところによつておぼろげながらわかつてもらへたかと思ひます。そして千何百年前にこのすぐれた文藝を有する國に生まれて、このすぐれた作品を味はふ事の喜をしみ/”\味ははれると共に、これを廣くしては、西洋思想直譯のやうな日本精神や、生活から離れた大和魂でなしに、神代のまゝにうけついだ生活ぐるみの大和心がいかなるものであるかといふ事を、心の底から會得していたゞきたいと(212)思ひます。
 過日もある禅堂で修業してゐる坊さんが、同行《どうぎやう》の人と草をむしりながら「鍛錬しようと考へる必要はないのです。たゞ眞劔に坐ることを重ねてゐるうちに、自然に鍛錬の方で身について來るのだと思ひます」と話してゐるのを、私もまた草をむしりながら聞くともなしに聞いてゐましたが、あなた方が萬葉集の佳作にくりかへしくりかへし親しんでゐられるうちに、いつのまにか萬葉集の精神があなた方の身について、それがやがて、世界の眞に正しい文化興隆に奇與《きよ》する日の來る事を心から冀《こひねが》ひつゝ、この講話の稿を了ります。   (昭和十六年九月十二日稿了)
 
   索引〔省略〕
 
(8)萬葉集講話 終
 
 著者略歴
宇治山田市の人 明治二十三年生 京都帝國大學教授 〔主なる著作〕
萬葉集新釋(星野書店) 萬葉集の作品と時代(岩波書店) 萬葉古徑(弘文堂)
昭和十六年十二月S日印刷
昭和十七年一月十五日發行
萬葉集講話
定價壹圓參拾銭
 著者 澤瀉久孝《オモダカヒサタカ》
發行者
大阪市南區竹屋町二五
出來島雅夫
印刷者
大阪市浪速區稻荷町二丁目
井村雅宥
發行折
大阪市南區竹屋町二五
出來島書店
發賣所
大阪市東區北久太郎町四
【合資會社】柳原書店
東京市神田區錦町一丁目
配給元
東京市神田區淡路町二丁目
日本出版配給株式會社
〔2019年6月5日(水)午前9時30分、入力終了〕