中央公論社、折口信夫全集第九巻−國文學篇3−1966年7月25日発行
(1) 目次
萬葉集私論………………………………………………………一
萬葉集の古代風の文字使用法 大伴集 語部の物語 枕詞への前提
萬葉びとの生活…………………………………………………二五
書き出し 萬葉集の成立 大歌所の臺帳 大伴集と平城天皇
上代貴族生活の展開……………………………………………三四
――萬葉びとの生活――
萬葉生活の代表的男女二人格 倭なす神 歌の咒力 こひ歌 怒りと歌と 宮廷生活と貴族の位置と 神を迎へる者 靈魂を扱ふ者 神に近親なる者
(2)萬葉びとの生活……………………………………………五二
――及びその歌――
妻覓ぎ 妻どひ 呼ばひ 名のり 名を秘すこと 竹取翁歌と松浦河歌
萬葉集の研究…………………………………………………六〇
――一種の形態論として――
宣り歌 讃勅歌 長歌の成立 咒歌と長歌との關係 萬葉集の修辭法 短歌樣式意識の發生 反歌 萬葉集の部類
歌の發生及びその萬葉集における展開……………………八五
一 部立の事 二 卷別けの意義 三 相聞と挽歌と 四 卷別けの性質及びその變化
萬葉集講義……………………………………………………一〇六
――飛鳥・藤原時代――
大歌及び小歌 鎭魂の歌としての「ふり」 「うた」の意義 くにぶりの末 敍事詩の撒布 短歌成立の一面 相聞 歌垣と(3)蹈歌と 宴遊歌曲 萬葉の意義 藤原宮以前の歌 代作歌 漢文學發想の效果 創作詩
一 (雄略)天皇御製歌………………………………一三九
二 (舒明)天皇登2香具山1望國之時御製歌……一六一
三 乞食者詠二首………………………………………一九二
四 卷第十三問答の歌…………………………………二二二
五 (日竝知)皇子尊舍人等慟傷作歌二十三吉……二二九
六 柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首……二七三
七 高市(ノ)黒人の歌………………………………二八七
續萬葉集講義…………………………………………………三〇六
一 天武天皇の御製歌…………………………………三〇六
二 持統天皇の御製歌…………………………………三一八
三 藤原宮役民作歌……………………………………三二五
相聞歌概説……………………………………………………三四二
――殊に萬葉集卷二に就いて――
(4) この卷の見わたし 大寶前の歌 大寶以後・寧良宮 相聞の用語例一つでないこと 戀と相聞と 相聞歌の排列
相聞歌…………………………………………………………三五七
萬葉集の戀歌…………………………………………………三六六
あづま歌………………………………………………………四二一
萬葉集の根柢…………………………………………………四三三
額田女王………………………………………………………四四四
柿本人麻呂……………………………………………………四六一
一 柿本氏 二 人麻呂の名義 三 人麻呂の旅行竝びに人麻呂集の歌 四 ※[覊の馬が奇]旅歌 五 文學動機(伶人を離れて) 六 人麻呂集 七 民謠として 八 萬葉歌人との比較
柿本人麻呂論…………………………………………………四八五
――人麻呂歌集の側から見て――
(5)山部赤人短歌の批評………………………………………四九四
――卷第六 神龜元年「幸2于紀伊國1時」の長歌の反歌――
萬葉集に於ける近代感………………………………………四九六
愛國文學の母胎………………………………………………五〇二
評價の反省……………………………………………………五〇六
――家持の歌の評釋――
睦月の歌………………………………………………………五二四
――家持の作物を中心として――
純自然描寫の發足……………………………………………五三二
萬葉集の民俗學的研究………………………………………五四〇
萬葉集と民俗學………………………………………………五五二
萬葉集に現れた古代信仰學…………………………………五六一
――たま〔二字傍点〕の間題――
(1) 萬葉集私論
大正五年九・十・十二月、七年四月「アララギ」第九卷第九・十・十二號、第十一卷第四號
萬葉集の古代風の文字使用法
今度、「口譯萬葉集」を書いたに就いて、何故かう訓んだ、何故かう解いた、何故かう字を改めたなどいふ意見を、こゝ一年ほどに亙つて、書いて見てはどうかと、赤彦・茂吉兩氏に勸められて、わりあひに詳しく管見を述べて見ようといふ考へをおこした。最初二月ばかりは、大づかみに萬葉全體に關する、わたしの考への結論だけを述べさせて頂く。
生物學風な研究法が、文學史の上にも行はれて來なければ、嘘だと思ふ。姑《シバ》らくは没頭することをやめて、無關心な態度で、「個」なる人・作物に對して行きたい。「全」なる時代・事件の進展の跡を辿つて見よう。
明治の新派和歌の革新は、とりもなほさず、復古學派(國學者の流)の桂園派(景樹の流)に挑《イド》みかけた復讐運動であつた。更にもつと廣い目、もつと長い時間から見ると、古今系統と萬葉系統との、絶えざる戰闘の中の、局部の衝突であつたのである。根岸波も、明星派も、此點に於て、(2)成り上りの俄分限ではなく、尠くとも一千年は溯ることの出來る歴史を持つた家の子であつた。眞に、全體として萬葉に同感し、萬葉の態度を學び、ある萬葉を捉へて出ようとする、小さな文藝復興の氣運が動いて來たのは、一昨年頃からの事と思ふ。かうした時代に對して、えぽっくめいかぁ〔八字傍線〕として、憚りなく誇り得る者は、根岸派の人々の外にはない筈である。かういふ氣運に乘つて、其主題となつてゐる萬葉集に關聯した物語りをするのは、非常に氣持ちのよいことである。何時の世・如何なる處でも、文藝が行きづまつて來ると、古典が顧みられる。わが短歌史でも、萬葉集がひきあひに出されたのは、必しも明治が始めてゞはなかつた。基俊・俊頼の競爭時代にも、萬葉集は注意せられてゐた。尤、其以前に、或點まで萬葉情調を解してゐた、曾根好忠が、前驅をなしてゐるのを忘れてはならぬ。其後鎌倉の始、新古今の時代に、非常な勢で復活しようとしたが、我執の強かつた人々は、正直な實朝を除く外は、此萬葉集からは存外つまらぬ物を握つて出て行つた。其から又玉葉・風雅の時代に這入つて、黒人・赤人あたりの觀照態度が採用せられて、其點は立派に完成した樣な觀がある。けれども要するに、訓詁上の研究を度外にしてゐた歌人には、見當違ひばかりが澤山あつたので、眞に萬葉集の解せられたのは、正しく讀むことの行はれはじめた徳川時代の復古學者からである。この樣に萬葉集が持ち出された時代は、必行きつまつた時代である。明治の新派の和歌も、二三年前までは、感傷や生活難に新を求めてゐたのであるが、啄木迄行くと、もう前途は見え透いて了うた。其處で、材料の新を探す前に、態度(3)の深淺の問題が決せられねばならぬといふことになつて、萬葉が五度目の復活をした訣である。わたしの話は、今すこし、さうした目下の問題から、遠のいてゐるのである。
わたしは、眞に萬葉集を讀みたいと思ふ一人である。其爲に、正倉院の古文書や、田文《タブミ》や戸籍の斷篇を讀んで見た。而も此爲事は、まだ遂げては居ないが、ともかくも今さしあたつて、かういふ疑ひに塞がれてゐる。これらの古記録・古文書には、今日康煕字典や玉篇を準據とした漢字を使ひ慣れてゐるわたしらにとつては、文字の畫《クワク》があまり變化があり過ぎ、自在に過ぎてゐる。古い字鏡顆を探しても見當らない樣な、異字や古字がうんとあるのに、驚かずには居られない。支那傳來の古宇の畫を守らないで、隨分|手師《テシ》や、筆耕、或は無學な人々の工夫した、略畫・添畫があり相に思はれる。しかも、さうした字の煩しさに堪へないで、譬ひ其效果は疑ふべきものであつたとしても、字音・字畫を一定せよとの命令を下した平安朝の事實を考へて見ると、更に途方に昏れないではゐられぬ。一方には、官廳で認めない古宇・異字から出た誤字が、尚多く存してゐる。と、今一方には、其時の正字が行はれて居たとすれば、今日の樣な官命通りに動く學校教員などの居ない時代では、愈混亂を重ねたものに違ひない。さういふ状態の平安中期(わたしは此時代からと信じる)から、寫本が現れたとすれば、この萬葉集に及した影響はどうであらうか。右のやうな種々な字を有してゐた社會である。この字は、正字のどれに當る。此字は某正字の誤りに似てゐるが、實は他の某字の古宇・異體である。この字は、某字の焉馬であるなどいふ判斷(4)が、果して筆耕などいふ種類の人々は勿論、學殖があるとはいふでふ、淺薄な當時の學者たちに、見事やり遂げられる爲事であつたであらうか。わたしは、源(ノ)順以下五人の古點、大江匡房以下數人の次點は、單に訓點を加へたといふばかりでなく、正字に書き改めさせるといふ、意味を含んでゐたものではなからうかと思ふ。後にいふ、わたしの想像が誠でなく、萬葉編纂當時から、世間に流布してゐたものとすれば、われ/\は決して、今日の萬葉集を信じることは出來ないばかりでなく、ともかくも、古點・次點・仙覺新點と訓點をつけて來て、一通り讀める樣にしてくれた、古人の放れわざに驚かずには居られなからう。それでなくとも、萬葉集の出來た時代から、轉々して寫し傳へられた長い時代に、更に前述の煩しい事情を組みあはせて見ると、今日かうして、どうなりかうなり讀めるといふことが、どうも奇蹟に對するやうな氣がしてならないのに。わたしの物語りが、よく納得して貰へるやうに、引かうと思ふ實例の四つ五つに、注意を拂うて頂きたい。正倉院文書によると、
〓は柿でなくて抒の字
〓は備でなくて授の字
〓は婁でなくて韋の字
〓は思でなくて忍の宇
鶏は鷄でなくて鷂の字
(5) 〓は眷でなくて養の字
〓は綱の字 〓は幼の字
〓は臘の字 〓は瓦の字
〓は藤の字 〓は冀の字
〓は縫の字 〓は弱の字
かういふ字は、ざら一面にある、萬葉集の樣な傳寫本でなく、其自身原書であるから、毫も疑ひはないが、それらの中のあるものは、今日の寫本の萬葉集にも見られるので、
〓が橘 〓が墻
〓が疊 〓が苅
の如きは敢て珍しくもないが、かうした立ち場から見ると冬木成《フユコモリ》の成をもり〔二字傍点〕と訓む訣も、大した苦勞なく説けるので、かの文書には、戍の字に、成或は戌を使つてゐるから、戍即守で、もり〔二字傍点〕の訓はつくのである。又「そこし恨し秋山我は」なども、※[立心偏+良]の字の通用で、ともし或はうるはしと訓めばよい訣なのだ。
大伴集
これからの萬葉集研究は、まづ字形の比較研究を基礎としてかゝらねばならぬ。これまでの萬葉(6)學者が、むやみにこれは某字の誤寫、それは某字の魯魚であるなどゝ、てつとりばやくかたづけてゐるのは、考へものではあるが、同時にまた、故木村博士のやうに、現在の萬葉集を誤りの極めて尠いものとして、一にも韻鏡二にも韻鏡で、不思議な音を飜切《ハンセツ》して來て訓まれたのは、表面萬葉集の現在本に忠實なやうではあるが、實は字形のかはりに、音を變造してゐられるので、その岡本保孝傳統の韻鏡學の權威も、今日から見れば、頗怪しいものといはねばならぬ。現在本の字形に就いて、辯護保存に努めるよりは、古記録文書の字體との比較をして、寧、どうした道順を經て、どう誤つていつたかといふ方面に、足を入れて見るのが急務なのではなからうか。萬葉學は、今正に、さういふところまでのり出してゐるのだ、と思はれる。
わたしにはどうも、萬葉集が一種類の完結した歌集ではなくて、雜然たる古歌集の集團でありさうな心地がする。大部分を占めてゐると考へられる、大伴家の私集から話しはじめて見る。
この集の出來た動機には、忌部氏の古語拾遺までゞなくとも、ある一種の時代反抗と、氏族の誇りと、多大の遊戯分子とが含まれてゐるやうである。聖武天皇の御遺旨、或は橘諸兄の計劃を家持が繼いで、一部二十卷を撰《ツク》つたと想像せられたのも、この「大伴集」にさう考へさせる點があるからであるが、それは恐らく見當違ひであらう。これ以前或は以後にも、かうした動機で出來た歌集は、だん/\あつたのではなからうか。
舊辭・古傳の中央集權、即官僚化は、天武天皇以來の朝憲であつたが、なぞへくだりに頓挫を重(7)ねて、とん/\拍子に急勾配にかゝつた大伴氏は、伴善男の應天門燒き打ち事件以後、いよ/\浮ぶ瀬もなくなつてしまつた。朝廷では、かうしたをり毎に、努めて書類の没收を行うてゐたことであらう。
大伴舊記のうちに交つてゐた「大伴集」を中心として、前後に文殿に藏められた諸家の歌集、或は欽定の風俗詩集の草稿などは、一括せられてゐるうちに、或混亂を來したものと考へる事が出來る。製本術の進歩してゐない時代に於て、いろ/\な體裁を具へた書物を、ひつくるめて一部ものと考へたのも、強ち不思議ではない。
われ/\は、此處でも、平安初期の世間一般の讀者能力を考へて見る必要がある。六國史は撰進せられても、高閣に束ねられてゐるだけで、尤、其機會も與へられなかつたからではあらうが、一廉の碩學でも讀んでゐた者はなかつたのである。學者で、權力者を兼ねてゐた菅原遺眞の樣な人が出て、はじめて六國史の索引ともいふべき、類聚國史をこさへる資格、即自由と學殖とがあつたのである。
かういふ時代である。萬葉集の名を以て一括せられてゐた、文殿の歌集は、やはり當時の人には知り難いもので、旁、抄本の類を讀むことが出來た位のことであらう。
桂萬葉の筆者として傳へられてゐる紀貫之も、恐らく其萬葉集を見たものとは思はれない。宇多天皇の寛平五年に出來たといはれる、新撰萬葉集の材料の出處はわたしには、略想像することが(8)出來さうに思ふ。同時に又、古萬葉集が、やつと渾沌の域を脱したのも、此時よりあまり遠い以前でなかつたらうと考へるのも、全く可能性のない推論だとは考へない。天暦年中に施されたといふ、梨壺での訓點は、道眞以來の事業を繼續したもの、と見られなくはない。ともあれ、前章にも述べた通り、單純に、訓み方をつけるばかりの爲事だつたのではなさ相である。古點の主任とも見られる源順は、菅公以後の著者不明の、多くの書物の著者に擬せられてゐる。事實|漢才《ザエ》は劣つてゐても、此人を措いては、道眞に比べることの出來る人は、見あたらなかつたのであらう。
神無月 しぐれふりおけるならの葉の 名におふ宮の舊辭《フルゴト》ぞこれ
といふ歌を以て、萬菓集の撰《ツク》られた時代の説明が出來たもの、と滿足してゐた程の無知な世の中であつた。この低能な問答は、當時世間で、萬葉集の知られてゐた程度を度《ハカ》る物さしである。時代は、ずつと下るが、萬葉|通《ツウ》で、萬葉ぶりの歌をよむと目せられてゐた、藤原(ノ)基俊の歌を見ても、憐れな度あひの萬葉通であつたのと、此位の貧弱な知識で、鬼の面をかぶつてゐることの出來た時代の、長閑けさに驚く。
眞淵の篇次案も、首肯の出來ぬ點はあるが、ともかくも、萬葉集は、其だけの疑ひを挾むことの出來る程、頗雜然たる書物で、あまりに粗雜な分類法を採つてゐる。しかし其にも尚、ある前人の型の存在を思はせる處がある。わたしは、この分類法の手本が、必支那にあると信じてゐる。さうして、その書物の渡來した時代を知ることが出來たら、或は思ひがけない光明が、萬葉整理(9)の時代を照し出してくれるかも知れない。又、萬葉集は、ある方面から見ると、どうやら、欽定の匂ひが漂うてゐるやうに思はれてならぬ。催馬樂が、詩經から蒐集欲を唆られて出來たものであることは、ほゞ疑ひはないが、萬葉集にも、大歌所用として、從來あつたものゝ外に、新しくあつめたらしいものが尠からずある。其等の風俗詩は、果して朝廷の儀式の音樂として、實演せられたか、どうかは問題であるが、萬葉集から、「大伴集」以外に、「日本詩經」を拔き出すことの出來るのは、事實である。
人麻呂・赤人らの歌は、大歌所の基本がまじつてゐることを證據だてゝゐるので、この人々は、一面宮廷詩人即朝廷の御用詩人として、事ある毎に、作歌を仰せつかつたものと見える。公式にも、非公式にも、又私人としての依頼にも應じ、隨分代作さへもしてゐたやうである。人麻呂には、殊に著しく此方面に於ける活動が窺はれるやうである。赤人は即興詩人で、人麻呂のやうな大手腕には、缺けてゐるやうである。凡作が多いが、優れたものは高市(ノ)黒人にも劣らぬやうな、觀照態度の確かなものがある。佐佐木博士は、家持が憶良に傾倒してゐた樣な點と、赤人の駄作の多い點から『山柿之門』の山を山上氏だと主唱せられたのであらうが、さのみ鑑賞には長じてゐなかつたらしい家持が、單に名聲の隆んな宮廷詩人であつたといふので、無反省に、傳習の儘に書いたものと思はれる。萬葉集の傳へる所では、かういふ意味に於ける御用詩人の、最後に優れてゐたのは笠(ノ)金村である。わが國の宮廷詩人の生活について、直觀のたよりになるだけの材料(10)がすこしも存してゐないのは、當時の社會制度の上に、あたりまへあるべき筈の一階級として、注意を惹く迄のことではなかつたからなのである。けれども、「大伴集」系統以外の歌で、一度大歌所伶人の手をくゞつて來た、と思はれるある種の挽歌・頌徳歌・讃宮歌・宴歌・勞働歌・無縁の死者を弔ふ歌は、多く、これらの宮廷詩人の作つたものと思はれる。次には、宮廷詩人と縁故のある、語部の生活について短い話をして、愈本論に這人らうと思ふ。
語部の物語
あをみづら 依薙《ヨサミ》(ノ)原に、人も會はぬかも。
いはゞしる 近江|縣《アガタ》の物語りせむ
といふ、萬葉集卷七の旋頭歌を、わたしは自分の書物で、「此廣々とした依羅の原で、誰か自分に行き逢うてくれぬか知らん。近江の縣の古い歴史を知つて話せる樣な人が來て、此邊の話をしてくれたらよいが」と譯して置いた。多くの讀者は此歌にこれだけの含蓄があらうか、とわたしを疑うて下さるだらう。さればこそ、此迄萬葉集の研究に忘れてはならぬ、古代文化の一現象を閑却してゐたことが知れるので、同時にわたしが、此短い議論に、わざ/”\縁遠く見える語部の事を引きあひに出した訣なのである。既に御存じの方にとつては、甚御迷惑な談義ではあるが、行きがゝり上、うたふ〔三字傍線〕・かたる〔三字傍線〕二つの語の用語例を調べて見る必要がある。うたふ〔三字傍線〕も、かたる〔三字傍線〕も、(11)略、律語の形式で綴られた文を、ある曲節に乘せて吟ずるといふ點に於ては違ひはない。唯其文が、昔あつたある一事の顛末を表してゐるものであつた場合にのみ、かたる〔三字傍線〕といふ語が用ゐられてゐるので、うたふ〔三字傍線〕は出來事を述べない、其以外のすべての文を吟ずる動作なのである。是が江戸の律文に、謠ひ物・語り物(總べての淨瑠璃)の區別のある所以である。處が自らある脚色を立てゝ、一つの人事の顛末を捏《デツ》ちあげることを知らなかつた、萬葉人ならびに、其以前のわれわれの祖先は、進んだ意味の敍事詩は持つてゐなかつた。そして纔かに、其|祖《オヤ》の祖《オヤ》たちの生活の痕を傳へる詩があつたのである。
其詩は、絶大の信仰を以て、祖先の眞の歴史と考へられてゐたもので、性質からいうて、やはり一つの敍事詩であつた。かうした敍事詩が一種の節まはしのまに/\吟ぜられるのを、萬葉びと或は其以後の人々も、かたる〔三字傍線〕といふ語で表してゐたのである。このかたられた不文の「根本《ネホン》」即曲節以外の内容を、語り〔二字傍線〕或は物語り〔三字傍線〕というたのである。今日の語で云へば、音樂的の要素を備へた傳説である。この語り〔二字傍線〕又は物語り〔三字傍線〕をかたることを世襲職業としてゐた階級、當時の語に云ひ換へれば、部曲《カキベ》が、此から話さうと思ふ語部なのであつた。
かういふと、讀者の方々の中には、文字のなかつた時代に、國家の歴史を傳誦させる爲に立てられてゐた部曲だ、と從來の歴史家もいうてゐた通りに、早合點をせられる向きもあり相である。しかし共は當らずといへども遠からずとは反對《ウラウヘ》で、當れりといへども甚遠い考へと云はねばなら(12)ぬ。成程、此部曲の起つた原始的の意味は、尤其處にあつた樣である。しかしさういつた意味を離れた語部が、隨分長く存在して、我々祖先の社會的生活の内容を豐富にしてゐたことも、亦事實である。わたしの話は、此からそろ/\萬葉びと或は其以前の祖先の生活と、此部曲との交渉に就いて、説き明して行くのである。古羅馬の歴史を讀んだ方々は、其頃ときめいてゐた貴族の家々には、必家庭教師に似たものがゐて、其家々の子弟に、希臘の昔語りを傳へる、ほうまあ〔四字傍線〕のいりあつど〔五字傍線〕やおぢつせい〔五字傍線〕などの類を口授《クジユ》して、諳誦させてゐたことを覺えて居られるであらう。其はどういふ處に根ざしてゐるかといふに、貴族としては是非知つてゐなければならぬ、祉會的知識が必要であつたからである。かうして育てられた人たちは、家庭教師の課した諳誦科に依つて、上流の人々周知の普通知識なる、故事・歴史或は樣々な教訓を授けられてゐたのである。古代希臘人の生活の實録物語りは、羅馬貴族の子弟の胸にかうして具體的に甦《ヨミガヘ》り蘇《ヨミガヘ》りしてゐたのである。
萬葉集卷三の最初に、
いなといへど強《シ》ふる志斐《シヒ》のが附會語《シヒガタ》り、此頃聞かずて、我戀ひにけり
いなといへど、語れ/\と宜《ノ》らせこそ、志斐《シヒ》いは申せ。附會《シヒ》語りと宣る
といふ持統天皇と志斐(ノ)嫗との贈答の歌がある。これは志斐(ノ)嫗の屬してゐた志斐(ノ)連が語部であつたことを思へば、これまでの學者の説明してゐた以上に、内容のあることが直觀せられねばならぬ。(13)平田篤胤は、語部なる部曲の民の中で、語部の眞の職掌を務める者は女であつた、というてゐる。此志斐(ノ)嫗は持統天皇の御幼時から、樣々な物語りを教へてゐた教師であつたのが、天皇御成人の後も、度々喚び上げられて、曲節おもしろく物語つてお聞かせ申したので、其大人になられた御心には、ある部分は、其荒唐無稽なのを嗤ひ乍ら、尚心惹かれ給うたのである。
一體古事記は、序文で見ると天武天皇が、家々の傳説を綜合して稗田(ノ)阿禮に口授《クジユ》せられたものを太(ノ)安麿が文章に綴り直したものだといふ風に書かれてゐる。即家々の語部のかたり傳へてゐたものを書きあげさせて、其を朝廷の語部のかたりと參酌して、こさへた一つの修正物語りなのであつた。そして其家々の附屬語部の職掌は、單に二六時中黙々として諳誦の繰りかへしをしてゐたといふことは、想像の出來ぬことである。日本書紀の本註に引用した書物の名を集めて見ると、隨分色々な本がある。其中で、帝王本紀・國記・臣、連、伴造、國造、百八十部竝びに公民の本紀・帝紀・本辭・譜第、共から、大三輪・・雀《サヽベ》部・石(ノ)上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野《カミツケヌ》・大伴・紀伊・平群《ヘグリ》・羽田・阿部・佐伯・采女・穗積・阿曇《アヅミ》などの朝臣十八氏の纂記《ツギブミ》と稱する物は、朝廷竝びに豪族の家々に附屬してゐた、語部の物語りの筆記した物と思はれる。
其外、到る處の地方廳(國・郡・村)にも、其々專屬の語部の居たことは證據がある。
扨此等の語部が、どういふ風に生活してゐたかを考へて見たい。唯機械的に諳誦してゐるものでは、平安朝は愚、萬葉びとが世に出ない前に、物語りは亡びて了うてゐたであらう。其がともか(14)くも、平安期迄生命を持ち傳へてゐたといふことは、普通考へられてゐるよりも、更に生きて社會に用ゐられてゐたからである。
其は前に述べた貴族の子弟教育以外に、其屬してゐる家々の公式の席上に出て、神にも人にも聞かせて、快感を催させる樣な曲節でかたり上げたものであらう。それで、平安朝になつても、大嘗會毎に、諸國の語部が召し集められたのである。單に神前ばかりでなく、氏族の宴會には、氏(ノ)上たる主人以外臣下・部民に迄かたり聞かせた爲に、初めは故事・歴史・教訓などを授けた物語りが、一種、家つきの餘興家の演ずる義大夫・浪花節といふ樣な觀を呈することになつたらしい。各國を通じて、詩の初めは諷諭詩にあるとせられてゐる。これはわが國でもおなじで、手近い古事記を見ても知れるのである。事物の起原を説く各種の説明神話、國家・氏族の歴史・故事・譬喩談に現れて來る教訓など、一つとして社會的教育の材料でないものはない。古事記劈頭に出て來るみとのまぐはひ〔七字傍線〕の神話の如き、神聖な物語としては今人のあたまには不思議に感ぜられる樣な事柄も、平安朝以後貴族の子弟にをそくつ〔四字傍線〕の繪が進められたと同じ道理の、性欲教育の材料であつたのである。
多くの語部の存在の對象であつた澤山の貴族は固より、世間一般に世襲部曲制の嚴に守られてゐた世であつて見れば、語部の物語りも亦親から子、子から孫へと相傳せられたのである。
前に擧げた諸氏の語部の物語りを筆記した書物の外にも、歴史の書物は澤山見えて居る。さうし(15)た文字に登録した歴史が出來て後迄も、語部なる部曲が勢力を持ち續けて居たのは、右の樣な必要があつたからである。
萬葉集卷九に見えた葦屋處女の墓を通つた時の歌に「長き世のかたりにしつゝ」とあるのは、どうかすれば單に、傳説といふ程に輕く考へられ相であるけれど、此は語部の物語りとして解かなければなるまいと思ふ。此は地方の語部の物語りが、都迄流布して居たものなのである。全體、地方々々の物語りは、語部などいふ部曲の出來なかつた頃には、故老の口に語られて居たものであつたのが、國家の基礎が固まると共に、宮廷各氏族各地方廳に、語部といふものが出來るやうになつたのだと考へられ相であるが、必しも國家などいふ強固な團體が出來なくとも、其種族の物語りがかたられる事は、あいぬ〔三字傍線〕が各種の物語りを保存してゐるのを見ても知られることである。さうした物語りが單に歴史を傳へるといふだけでなく、諷諭詩の性質を持つて居るといふ事は、やはり其等のあいぬ〔三字傍線〕の物語りが、勇力を讃美する意味の英雄譚ばかりである事に照しても明らかである。
語部の物語りが、曲節を以て謠はれ、時々公衆の前で實演せられたといふことは、長く物語りの絶滅せなかつた原因である。今日古事記程の長物語が、頽齡の老人に諳誦せられて居た事について、疑ひを挾む人もあるが、其は思はざるも甚しいもので、彼あいぬ〔三字傍線〕の物語りですら、一英雄譚ばかりで四五千句に及ぶ長篇がある(金田一先生著「北蝦夷古謠遺篇」參照)のである。
(16)萬葉びとが屡「聞きつぐ人も語りつぐがね」「後見む人は語りつぐがね」或は「語りつぐべき名は立たずして」などいふ感慨を洩してゐるのを見ても、如何に英雄を理想とした英雄譚が、語部によつて語られたかゞ想像せられる。
扨、飛鳥・藤原朝に屡物語りの綜合の行はれたのは、宮廷の語部の傳へと、諸氏の語部の傳へとに齟齬矛盾の多いのを改竄して、國家の目的に適合した傳説系統を立てゝ置く必要があつたからである。大して差し支へを感じない神代にばかり、澤山の異本を擧げた曰本紀を見ても、如何に取り扱ひに苦しむばかりの異説が、諸家の語部に依つて、傳へられて居たかを知ることが出來よう。政治的の意味で、修正綜合せられた物語りなる古事記・日本紀が出來て後にも、大嘗會に三十人ばかり召し上せられた語部が、天孫種族の外に、出雲びと・出石《イヅシ》びとの根據地から出てゐるといふ事實には、此大きな三種族を習合同化するといふ目的が、仄かに見えてゐるやうである。とにもかくにも萬葉びとの生活には、この部曲の直接影響をとり放す事の出來ない程、語部の生命が尚躍動してゐたのである。
さうして其傳へた物語りは、集められて古事記・日本紀となつたが、一方、大歌所の人々に依つて傳へられた歌を、多分に含んで居ると考へられる萬葉集と、此二つは、實際對立的の價値を持つた物で、萬葉集の傳へてゐる歌が、記・紀の傳へに合はないから誤りであらう、とたやすく極められ勝ちであつたのも、かう觀て來ると、一概に記・紀の記事に合一せねばならぬといふ道理(17)のないといふ事が明らかになる。
萬葉學者には今すこし高等批評の態度が必要である。
枕詞への前提
萬葉集と、記・紀との間にある、時の隔りについて、考へて見る。一體これ迄、記・紀傳説の固定した時代が、あまり古く考へすごされてゐた。尠くとも、その芽生えとなつた事實の、まのあたり經過して行つた時から、既にかくまでに完成してゐたものだ、と信じられて來たことが、四方八方の所謂高等批評家の偶像破壞熱を煽りたてた爲、この可なりに廣い溝も、此分では、近々すつかり埋められて了ひ相な容子になつてゐる。日本紀と萬葉集との時間の懸隔(記・紀は九年)は編纂完成と思はれる時を目安にして見れば、僅か四十年(書紀養老四、萬菓最新年號寶字三)にしかなつてゐない。四十年と言へば、ほゞ老少一交替の時期位である。明治の様に目まぐろしい刺戟に、こづきまはされる時勢だつたら格別、でなければ誠に、平穏無事な短日月である。だからと言うて、此溝が既に埋つたものと考へては、大間違ひである。第一、萬葉集の方では、一番年月づけの若いものが、淳仁の寶字三年正月一日である、と言ふに過ぎぬ。だが此でもつて、かの集の出來あがった時日など、早合點してはならぬ。
長・短歌おしなべて、四千首を超える此集の内容の時間上から見た最後を、二十卷の殿に控へた(18)歌だとするには、手とりばやい決斷だけでは、能はぬ處がありはすまいか。記・紀は、語部の物語りの鹽梅配合せられた傳説の集團である。その中から、部分々々の形式に、新古の匂ひを嗅ぎわけて、變つた一體系をこさへあげるのと、おなじ苦しみを、萬葉集の上にも積まなければ、自信深く『萬時』を宣言することは出來ぬ訣である。廢帝の二年から後の歌が、萬葉集に一首もまじつてゐぬとは、誰が保證出來よう。わたしは、大歌所の基本なる采蒐せられた國風や、宮廷詩人の作物、其から朝廷側に關係のある歌の記録が、「大伴集」と雜然合體して出來たものだらうといふ假説を囁いておいたことを覺えてゐる。さうして、此集の、書物としての固定は、新京の初期にあつたらう、と想像をつけ加へておいた。六國史は出來ても、眞の意味の、高閣に束ねられてゐて誰も讀むことが出來なかつた爲に、其等の書物の索引のやうな、「類聚國史」が出來た。其とおなじく、萬葉集も心にくい憧れを唆るばかりで、古點の時迄は、恐らく世には出なかつたものであらう。古今集に這入つた此集の歌は或は、原本からすぐに訓み飜《ウツ》されたものではなくて、「欽定萬葉集」の抄本、又は、各「家集」から拾ひ出されたものではあるまいか。ともかくも、後期王朝に跨つて編纂が了つたものと考へることが出來たら、記・紀の止め筆の年月と、萬葉集の生年月の明らかな歌だけの中の、一番|弟《オト》の日づけとをめど〔二字傍点〕にして、とやかういふ論者は、間隔のあまりあらけたのに、目を瞠るであらう。併しわたしは尚、「大歌所の臺本」と「大伴集」との併合を、家持以下の氏族が、轉變の塵をかづいて後のことゝ信じてゐる。編纂物としての萬葉集の(19)完成はこの通りであるが、内容はほゞ、奈良朝に止つてゐることは、事實らしい。脚をすくはれた家持の後の干潟に、まだ殘つてゐた人々は、既にさし汐を待ちあぐねてゐる、古今集の前驅のひよわい若者たちと、肩を觸れてゐた。此が、融・篁と、六歌仙の人々との關係である。記・紀と、萬葉集との時代の交錯も、物こそ違へ、此とおなじ形のあることは、誰しも否まぬ所であらう。記・紀に筆録した事實や、言語が、現在筆をとつてゐた、安麻呂らの人々にさへ、なごりなく理會せられてゐたのでないことは、言ふ迄もない。古事記で言へば、語部の物語りの固定から、最短く見積つて、三十年以上は、たつてゐた。しかも其固定は、多くの物語りを、きれ/”\にして、其を今一度よせ集めて來た、所謂集大成のことである。其又物語りの一々が、家々の語部の口に同定したのは、其よりも更に、遠い昔の事であつたらう。金田一先生の『あいぬの詞曲』の熱心な讀者は、わたしの語を受け入れるだけの、心證を持つてゐられることゝ思ふ。かたられ、謠はれてゐるといふことは、一篇中の言語が、悉く生きて、聽きての胸に響くといふことではない。記・紀の物語りが、創作・添加・變更などを受け容れなくなつてからも、天武天皇の集大成迄には、隨分長命をして來たことゝ信じられる。記・紀は、決して語部の爲に作つた、まる本〔三字傍点〕ではなかつたのである。さすれば、記・紀と、此集との隔りは、天武天皇晩年から、書紀獲鱗迄の三十年に、其年から、此集の一番若い年號迄の四十年をよせた七十年の上へ、又更に、尠く見ても、數十年を加へなければならぬことゝなる。けれどもまだ、問題は殘つてゐる。記・紀の尾と、(20)萬葉の頭との入り合ひを考へねばならぬ。此集の開卷第一は、雄略天皇の妻まぎの歌である。二の卷頭には、仁徳天皇の皇后磐姫の夫戀ひ〔三字傍線〕の歌を出してゐる。三は、二の續きで、四へ越えると、やはり最初に、難波天皇々妹の皇兄に寄せた歌をすゑてある。内容のたけ比べでは、古事記の下卷と肩を竝べることが出來さうである。けれども其次は、すぐ所謂どか落ち〔四字傍点〕で、舒明・皇極帝といふあたりに降つてゐる。して見ればやはり、飛鳥朝あたりを、まづ此集の一番古い處と見ねばならぬ。且、卷四の初めの難波天皇は、長柄豐崎宮に踏み止つてゐられた、孝徳天皇の御うへとも思はれぬことはない。文の解釋の爲方によつては、皇妹は皇后|間人《ハシビト》(ノ)皇女で、皇兄は夫《セ》なる天子、即孝徳帝ともとれるし、或は皇弟仲(チ)大兄のことゝも考へられる樣である。此推量が當つてゐるとすれば、卷二の磐(ノ)姫皇后も、實はやはり、中(ツ)皇命間人皇后で、高津(ノ)宮は※[手偏+讒の旁]入だ、と解せられ相である。此は、類聚歌林から出た誤りでない、とも言はれまい。さすれば、其次に、近江朝が出て來るのは、頗自然である。
卷二から卷三へ跨つた分類法は、極めて技巧的なもので、時代の移り行く隈々に、相聞・挽歌・譬喩などいふ、榜示を樹てるだけに止めて、肯へて、頭から繰り返さうとはしてゐぬ。だから、譬喩まで來ると、時代は遙かに下つて、「大伴集」の匂ひが、激しく交つてゐる。その挽歌の初めの、上宮太子の歌も、おなじ飛鳥時代で、舒明のすぐ前であるから、不思議はないが、その歌は人麻呂系統の表現で、やはり、書紀や、法王帝説の歌の方が、たど/”\しいだけに、その傳承に、(21)信用がおけるやうである。
第一の泊瀬朝倉(ノ)宮の歌も、實はもつと、新しいものであらう。皇家歴代の中、妻まぎ〔三字傍線〕の事蹟を多くもつてゐられる此天子が、此歌の作者と推定せられることは、ありさうなことに思はれる。殊にかの、和邇(ノ)袁杼比賣を訪はれる道の氣まぐれに、「處女のい隱る岡を、金※[金+且]も五百千《イホチ》もがも。すきはぬるもの」と歌はれたといふ、金※[金+且]岡の傳説を思ひ違へなかつたとも言へぬ。ともかく、大體が舒明以降の歌で、全く傳説の匂ひの離れるのは、『人麻呂以後』即、藤原京この方の事らしい。
わたしは、結論に這入る第一歩をば、記・紀と年子《トシゴ》のやうな違ひで出來てゐる風土記の方から、踏みあけて來ねばならぬ。わたしの感受が、誰にも通ずるものだとすれば、風土記は記・紀に比べて、よほど近代的な氣味あひを湛へてゐる。しかも、五風土記の中、播磨(延長の再撰とも思はれる筋はあるが、和銅・靈龜の間でなくてはなるまい)常陸の分は、靈龜には出來てゐた物と考へられるから、どんなに大きく見積つても、古事記より遲れること五年以上とは思はれぬし、一方日本紀よりは早かつたに違ひない。其に、かういふ氣持ちを起させるのは、尤、國々の語部の物語りもまじつてはゐようが、中央氏族の物語りよりは、郷村の傳説の方が、絶えざる流動・變化を續けてある爲、全體としては、記・紀の方が古めかしく、風土記の方が新鮮に感ぜられるものと思ふ。其に今一つ、それ/”\の筆録者の考へてゐた昔の悠久さも、土にしがみついてゐる(22)者と、國家・皇室・豪族などいふ大きなものを、目前にすゑてゐる者との間に、此位の懸隔は、當然出て來べきなのであらう。一つは方に生きてをり、一つは早く固定してゐたといふばかりで、殆同時に出來たものにも、此程の差は現れて來るのである。況して、四十年といふ、一社會轉換の時間を隔てたのでは、古く固定したものを集成した記・紀と、流動を急に堰きとめて、筆録した萬葉との中に、相違が著しく目立つのは、あたりまへのことである。「言《コト》の語《カタ》り詞《ゴト》も。此者《コヲバ》」などいふ結句をつけて、一人稱から、俄かに三人稱に、抒情をば敍事に急轉させる記・紀の語歌《カタリウタ》が、萬葉の第一期になると、其主人公、或は、作者に重きを置かぬ民謠に、位置を讓つて了ふ。だから、あの輕(ノ)太子・輕(ノ)大部女(衣通(ノ)王)の歌が、此集の卷二と卷十三とに、わかりきつた其作者を誤つたり、忘れたりして、載せられてゐるのである。殊に、卷十三・卷十六の二卷は、その采風歌集たる性質の上から見ても、專門諷誦者の口を離れて、民衆の無知な口號にかゝつた爲に、變形せられて、其意味を文法的に辿ることの出來ぬやうになつた、語部の物語りの斷篇を多く含んで居よう、といふ想像は無理ではあるまい。廢太子の歌が幸に原形の儘に傳つて、卷十三の中に見出されるのは、右の訣あひからである。「隱《コモ》り國《ク》の泊瀬小國に」の問答(卷十三)は、殆、八千矛《ヤチホコ》(ノ)の妻まぎ〔三字傍線〕歌の抄譯、とも言ふ程似てゐる。其でゐて、印象的に景物の記述をして行く、簡潔な手法や、反歌を附けた整うた詩形は、記・紀との隔りを思はせるに、十分である。それが、竹取翁の歌(卷十六)になると、民謠的の不透明と、傳誦の誤りを、多量に持つてゐながら、尚形式の整(23)備は固より、その「和歌」は、連作的の動機から出來てゐるやうである。吉志美个嶽から、旅人の松浦川へ趨く道に在るもので、女を能動者とした、化生神婚形式は、わが國では、新しいもので、萬葉びとになつて出來た常世觀(「異郷意識の進展」參照−全集第二十卷所收)の一種のやうである。その外、水(ノ)江浦島(ノ)子の歌(卷九)の如きは、物語り風なのどかな語り方ではあるが、やはり、敍述は精緻で、曲折があり、第三者の目で、はつきりと、興じて歌うてゐる。のみならず、形から見ても、「人麻呂以後」の整うた長歌である。此などは、寧ろ第二期の物であらう。わたしは萬葉集の第一期に屬するもの、言ひかへれば記・紀と相觸れてゐるものは、大抵傳説的背景をもつて、傳承せられたのであるが、民衆的といふ事を、第一要件とした爲、著しく民謠化して來ねば、ならなかつたのだと考へる。わたしは、立ち入つた言語の話をするやうになる今迄、東歌についての話を、片よせて置いた。
なる程、卷十四・卷二十には、不確實な地理觀念から出た分類の誤り、民謠化して流れ入つて來た知名作家の歌の混入、乃至は、都人の東ぶりなどもまじつてはゐるやうであるが、大體においてまづ、家持時代の物であるに係らず、第三期の他の十八卷半の萬葉集よりは、一時代前の俤を保つてゐるやうに思はれる。わたしは此から試みよう、と思ふ淺いたくらみ〔四字傍点〕を白状しておく。その一時代古いと思はれる東歌を中に立てゝ、記・紀の語と、萬葉の語との間を隔てゝゐる、淺いけれども、わりあひに廣い溝の幅を計つて見よう、といふのである。此爲に、記・紀を距る事甚(24)遠い、東歌を持ち出すのである。話が大分こぐらがり相な氣がする。聽きての方々は勿論、あぶない手品を使ふわたしも、どうぞして、時代錯誤に陷ちこまぬ樣にしたいものである。話は、枕詞から這入る。
を とゝしの夏この方、わたしは、何方を向いても萬葉ばかり、といふ樣な中に、這入つてゐる。此集の名を言はれても、おくびが出さうである。一昨年中に三囘迄書いて、後を續けなかつたのは、全く此爲である。わたしは、最近に、やゝ肩の荷を輕くすることが出來た。さて四囘目を、書かうとしたが、何やら、昔爲さしておいた、話の續きを、突然語り出すやうな、たよりなさがある。其で、この前半分は、前囘の筋書きを作る、煩しさを避ける事が出來なかつた。熱心な讀者には、相すまぬことである。
(25) 萬葉びとの生活 大正九年一月「アララギ」第十三卷第一號
書き出し 萬葉集の成立
延暦四年八月廿八日、大伴(ノ)宿禰の氏《ウヂ》(ノ)上《カミ》、中納言兼東宮(ノ)大夫從三位家持が死んだ。
其年から廿七年前に當る、廢帝(淳仁)の二年(寶字三)の春には、彼は、自分の手でほゞ完成に漕ぎつけた、ある歌集の手記を持つて居た。其は謂はゞ、「大伴集」とも名づくべき物であつた。
彼の父旅人と、其縁者・友人などの歌の書き拔きや、聽き書きの後へ、自身の作物や、一家・知人の歌から、自身の持つたあまたの戀人との相聞歌迄も、書き落さぬ程のおほらかさは、此澆季の萬葉びとの心にもあつた。
其後の廿餘年は、彼にとつては、のどかに過ぎた年月ではなかつた。京官から、太宰府其他五國に外官となつた。參議右大辨となり(寶龜十一)、東宮大夫・左大辨となつて(天應元)、京に居ついたかと思ふと、翌年(延暦元)は、氷上《ヒカミ》(ノ)川繼の亂のまき添へで、解官せられて京を構はれた。其は直に免《ユ》りたが、同時に、陸奥按察使・鎭守將軍(延暦元)となつて居る。
(26)慌しい晩年は、かうして綴められた。併しもう其翌月に、早良《サハラ》太子の種繼伐ちの謀主だと言ふので、名籍を除かれる事件が、既に兆して居たのである。
若い盛りの彼であつたら、此間にも、歌詠に耽ける十分の暇を見つけたであらうが、恐らく既に興味を失ひ/\して來たものであらう。寶字三年以後の作物が散逸したと見るのは、どうであらうか。
其から間もなく子の永手(或は、永主)其外の、流罪となるのである。桓武天皇の遺詔として、家持を本官に復せられる(類聚國史)迄には、廿年を待たねばならなかつたのである。
かの家持の手記が、大伴家を出たのは、此間に在るので、其も恐らく、官庫に没收せられたものであらう、と私は考へてゐる。
種繼伐ちも、單に太子の感觸を害うた爲ばかりではない。あれだけの事件になつた訣は、大和朝廷時代に屡繰り返された舊都囘復熱が、奈良の故家《フルヘ》を思ふ人々の心を煽り立てたからである。家持は事實、奈良の世のはての一人〔五字傍点〕である。彼の足もとには、既に時代轉廻の軋りが聞えて居た。彼の手記の一部分を見る者は、其人麻呂・赤人の古い調子に憧れて居る彼を見ると共に、一方其背には、既に六歌仙の人々の生れ出ようとする、幾多の幻影を見た彼の心に行き觸れた。太子竝びに、大伴・佐伯の氏人が、憑みに思うた中心人物の彼を失うた焦慮と失望とから、無謀な行ひをする樣になるのは、當然過ぎた事である。
(27)寧樂の京を慕ふ心は、豪族大伴氏の滅亡を目のあたりに見ても、懲りようとはせなかつた。更に、平城上皇・高丘太子迄も、まき添へにすることになるのである。
父帝の崩御に慟哭して起つことの出來なかつた平城天皇は、激情の人であつた澤山の事例を殘して居られる。のみならず、其血は、皇孫行平・業平(在原)に傳つたのである。舊都を喜び、古風を愛でた此大同上皇(平城)を中心にして起つた藥子《クスコ》の亂も、實はやはり、故家《フルヘ》の里の執著に根ざして居るのである。
此平城天皇が寧樂の世の文獻の保存・整理を企てられたと言ふ想像は、私にとつて、順調な論理の結果である。まして、學問を好まれたと言ふ事實さへあるのだから、自身も歌は作られ(古今集)、其血統にも歌人が續いて出た(業平の子孫)處から見ても、其文書保存の事業が、家持の大伴集竝びに、朝廷に傳つた歌詠の記録の整理に及ぶのは、あたりまへの事である。
古今集の假名序を見ると、萬葉集は、奈良〔二字右○〕(ノ)宮〔右○〕の代の出來で、醍醐から十代前に出來たもので、百年以上を經て居るとあるが、眞名序には、明らかに大同天子〔四字右○〕の時に成つたものと書いて居る。年數の勘定は、百年以上と言ふのは、大たい〔三字傍点〕を言うたもので、延喜五年から大同元年迄、百年になるのを斥《サ》したと見てよい。奈良〔二字右○〕(ノ)宮〔右○〕は、上皇の御所を言うたもの、代數は、醍醐から起算したものとすれば、眞名序の所謂大同天子の時に出來たものとして居るのは、議論のない話である。桓武の代に出來た(袋草紙)とした説は、起算點を一代前に据ゑた爲の、根據のない理くつゞめに過ぎ(28)ぬ。又、聖武説(人麿勘文)・高野(孝謙)女帝(榮花物語)説など、皆、萬葉集の完成を、奈良朝と信じての上から出た考へなのである。
私は、萬葉集の、平城欽定説を主張したい。
大伴家離散の後、朝廷に這入つた大伴集は、大同迄の間、どうなつて居たのであらう。此虚にも、想像をたよりにして、探りを入れて見ねばならぬ。
光仁の末年(天應元、十一月紀)に雅樂寮樂〔四字傍点〕に對して、大歌《オホウタ》と言ふ名目が、初めて見えて居る。其文意から見ても、大歌なるものが、以前からあつたことは、明らかである。
雅樂寮は歌※[人偏+舞]所(萬葉集)とも書き、後にも、うたまひのつかさ〔八字傍線〕(倭名抄)と言つてゐるから、尠くとも奈良の末には、うたまひどころ〔七字傍線〕と言うた筈である。此雅樂寮の附屬として、大歌〔二字傍点〕を掌る、假りに大歌所〔三字傍点〕と言ふべきものがあつたのも、奈良から平安に持ち越した事で、元々藤原乃至近江朝廷の頃からの事(令)なのである。
大歌は、宮廷音樂の詞曲と言ふことである。民謠・童謠の所謂|小歌《コウタ》と對して、其形式の長短に關係なく、公私の區別を見せて居る名である。併し又、宮廷音樂としては、朝鮮並びに支那・印度の舶來樂なる雅樂に對しての名ともなつて居る。雅樂・大歌共に舞を伴うて居るのであるが、概して言ふと、雅樂の器樂を主にしたのと裏はらで、大歌は、聲樂を主として居る。令の制《サダ》めでは、(29)其樂器としては、笛ばかりがあつた樣である。其笛とても、樂の性質から見れば、拍子の爲に用ゐられたのに過ぎぬと思はれる。勢、其詞曲竝びに舞が重んぜられた筈である。
雅樂寮は單に、雅樂だけを司るのでなくて、此日本音樂部をも籠めて居たのである。令に據ると雅樂寮の日本音樂部の職員は二百五十六人で、内訣は、歌師《ウタノシ》(四)歌人《ウタビト》(三十)・歌女(ノ)師(二)歌女(百)・舞(ノ)師(四)〔雜※[人偏+舞]〕※[人偏+舞]《マヒ》(ノ)生《シヤウ》(百)・笛師(雜笛)(二)・笛(ノ)生(六)・笛|工《フキ》(八)となつて居る。尤、義解と集解とでは、名目・人員に相違がある。此だけの役所であつて見れば、雅樂寮の附屬とは言へ、既に一般に、大歌所と呼ばれて居たことゝ思ふ。大歌所の名は、弘仁七年に初めて見える(日本後紀)のであるが、奈良朝の末には其勢力が認められて、此名で、外國音樂部と區別せられたであらう。雅樂全盛の時代に、大歌の勢力の失せなかつたのは、日本の神を對象とした祭儀に用ゐた爲である。神事に用ゐる音樂としては、神の感情に通じ易い、と考へた古來の音樂、或は新曲でも、日本語を以て作り、固有の舞ひぶりを伴うたのでなくてはならなかつたのである。
大歌の詞章は、誰が創作するのか。雅樂寮の職員の名目を見ても、曲譜の傳承や、節づけの事に與つてゐる人ばかりで、詞章を作る人は見えぬ。さすれば、全く大昔から傳へた記・紀に見えた種類の詞曲ばかりを反覆して居たものかと思ふと、決してさうではない。定例の神事は、あり來りのものを使つて居ても、宴飲歌・挽歌などは、其場合に應じた物を用ゐねばならなかつた。此(30)爲の宮廷詩人が居て、皇室・皇族の儀式に適當な詞章を作つて、大歌所に授けて節づけさせたものと思はれる。人麻呂・赤人等の作物或は、人の爲に代作した物と思はれる歌に、挽歌・賀歌・宴飲歌・行幸從駕歌など、多人數の唱和に適したものゝ多いのも、此等の人が大歌謠ひの爲に、其歌詞を創作することを、爲事にしたことを見せてゐるのである。併し、さうした作物は、飛鳥・藤原時代から、奈良の初めに多く出たが、天平前後からは、非常に減つてゐる樣に見える。唯時々の即興を謠ひ上げた位の物が關の山である。此は雄大な詞章を作る人がなくなつた上に、目で見る文學として、歌を作る方に進んで來た爲である。けれども尚、宮廷專屬の職業詩人が、全く盡きて了うた訣ではない。笠(ノ)金村の如きは、其最後の人と思はれる。但、段々短篇になつて來た爲に、職業詩人を俟たずとも、素人の作でも間にあふ樣になつたといふためもあらう。
大歌を唯宮廷詩人の作物ばかりと言ふことは出來ぬ。其外にも成立を異にしたものがある。其一つは、國風である。
雅樂寮の官人に、外國人の血統の者の多かつたのは、事實である。此等の人の中、支那系統の混血者は、支那音樂の上の傳説を信じて、雅樂のみならず、大歌の上にも、其傳説を應用しようとした痕が見える。詩經以來支那音樂者の理想は、國風に正雅なものがあると信じて、之を宮廷音樂に登用しようとすることである。後奈良院御撰と傳へる山家鳥蟲歌(諸國盆踊歌)の新しいのから、梁塵秘抄(白河院御撰と言ふ)・風俗・東遊・古今集の東歌・催馬樂《サイバラ》・神樂の古い類迄、皆(31)采風の目的から出たものらしく思はれる。此は唯、書物から得た知識で、民謠を正雅な物として蒐めたと言ふよりも、雅樂寮の人々が、家々の傳説を、實地我が國に行うた成蹟と解するがよい。歸化人や其子孫が勢力を持つて居た雅樂寮の大歌の臺本に登録して、宮廷音樂の資料に用意せられたものには此種類が必、多かつたことゝ思ふ。萬葉集に見えた東歌・職業唄などは、大抵此意味で採集せられた民謠であらう。其故、大歌の中には、小歌からなり上つたものがある、と言ふことが出來る。
さうした民謠の中には、諸國の語部《カタリベ》の物語の中から、遊離した敍事詩・抒情詩も交つてゐるらしく思はれる。卷十六と卷十三との有由縁歌及び不明由縁歌とも言ふべきものが、其である。
今一つは、記・紀の記録に洩れた大歌所傳來の古曲である。宮廷の語部の傳へたものゝ斷篇と思はれたもので、且古くから歌はれて來たものである。仁徳・雄略朝の物と傳へて居るものは固より、飛鳥・近江・藤原・奈良に出來たとの傳説を持つたもので、宮廷詩人の作と見えぬものが、其である。
萬葉集の主要な部分が、大歌所の臺本から出て居る、と言ふ私の考へを裏書きする少しの證據が、萬葉集の假名書きの方法に見えて居る。神樂浪・樂浪と書いてさゝなみ〔四字傍線〕と訓ますのは、神樂を擬聲してさゝ〔二字傍線〕としたのであるとするが、此は音樂の知識あつて初めて、納得の出來る神樂の上の特色の約束であらう。
(32)金〔傍線〕をあき〔二字傍線〕(秋)に訓ますのは、諸註釋家皆、禮記月令から出た書物上の知識とするが、此も亦混血兒なる音樂家が、傳説的に親々から聞き傳へた音樂上の知識と見るべきである。即、五音(宮・商・角・徴・羽)の商聲は、金に屬する物で、其表識となるものは、鐘である。其音を譬へるに、四季を以てすれば秋、方角を以てすれば西、色を以てすれば白など、五行説の信仰と共に、彼等の頭に沁み入つて居たので、商聲の金を、秋の假名に使ふことは、あり相である。
反歌〔二字傍線〕と言ふ形式の名も、此等の人の使ひ初めた名であらう。賦の末章の亂を、反辭と言ふこと、賦篇(荀子)に一個處見えてゐると言ひ出したのは、中山嚴水である。併し其は、書物上でこそ珍しい名目であるが、歸化人の子孫の樂人たちには、音樂上實用の術語として、雅樂は固より、大歌に迄使ひ訓れて來たのである。詞曲の末章として、一篇の意を總括したり、反覆する短い形式を反〔傍線〕とか反歌〔二字傍線〕と言うた儘を、さながら書いたに違ひない。私は、萬葉集編纂者が、荀子から此字を探し出したなど言ふ考へは、え持たぬ。音樂者間に普通の知識であつた爲に、大歌所は固より、世間一般にも、反歌と言ふ名目が、流布してゐたのであらう。大歌所の臺帳の記載法を其儘採用して、萬葉集が編纂されたものとすれば、右の話の説明も、簡單につくのである。
私は、大伴家を出た「大伴集」は、采風熱の盛んであつた大歌所にまづ這入つたことゝ思ふ。其にも若干の想像の根據はある。公家の歌※[人偏+舞]所に出入する者が多く、素人樂人の殖えたのは、天平以後の流行(萬葉集)と思はれる。其上、家持も其一人として、雅樂所へ出入したらしく、大伴集(33)編纂の動機の幾分にもなつて居る樣に思はれる以上、樣々の事情からまづ大歌所へ這入り相である。殊に家持の委託で、防人《サキモリ》(ノ)部領使《コトリヅカヒ》等の集めた防人の歌は、采風の希望に叶うたものと言ふことが出來る。
大歌所に這入つた家持手記の「大伴集」は此處に大歌の臺帳と合體して、萬葉集を組み立てることになる、まはり合せとなつたのである。併し乍ら、家持の本官に復せられたのは、平城の初年であることは前にも述べた。さすれば、罪人家持の手になつて、編者自身の歌を多分に含んだ「大伴集」は、延暦中は、世に出ることは出來なかつた筈である。其が、大同天子の萬葉集に組み込まれることになつたとすれば、順序としてよく叶ふ訣である。
安殿《アデ》(ノ)親王《ミコ》と言うた平城帝が、廢太子の東宮大夫であつた家持に、どう言ふ交渉を持つて居られたか知ることは出來ぬ。けれども、性向・趣味に似通うた處が、理會・同情の機縁になり得たらうと言ふことは、想像きりでは終らぬだらうと思ふ。
萬葉集の分類法が卷一・二・三と、可なり完全に行つて居、他の卷々も、一つ/\には其々相應に纏つて居ながら、一つの方針で貫くことの出來なかつたのは訣があらう。此臺帳・大伴集、平城讓位前に大體の整理をしてあつたのを、三卷迄分類して、藥子の亂となつた爲に再、官庫に這入つて、天暦の古點の時迄は、名ばかり高くても、及び難い古萬葉集〔四字傍点〕と言ふ稱へで、更に整理を加へて、世に出す樣な機會が、なかつたからであらうか。
(34) 上代貴族生活の展開
――萬葉びとの生活――
昭和八年十月「歴史教育」弟八卷第七號
私の言ふ萬葉びとなる語は、萬葉集を通じて見られる古代人の内的生活――その推移と傳統・展開をこめて――を斥す。啻に、萬葉集二十卷のどこかに名を止めてゐる人に限るのではない。歴史で言ふ、飛鳥の都以後、奈良朝以前の感情生活の記録が萬葉集である。其で、此時代の内的生活を論ずるとき、假りに此語を用ゐる。
此時代は、我が國の内外《ウチト》の生活が、粗野から優雅に蹈み込みかけ、略、其輪廓だけは完成した。
日本のあらゆる時代の生活の起原にも、又、同時に、規範にもなるのである。從つて、此に對する分解が行き屆けば、日本人の今ある意義が自と訣つて來ようと思はれる。
萬葉生活の代表的男女二人格
第一に、此時代の人が、規範的・理想的な人格としてゐたものがある。萬葉集に即して考へると、(35)卷一の卷頭に、雄略天皇の、
籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》、布久思毛與《フグシモヨ》 美夫君志持《ミブクシモチ》、此岳爾《コノヲカニ》 菜探須兒《ナツマスコ》。家吉閇《イヘノラヘ》。名告沙根《ナノラサネ》。虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》、押奈戸手《オシナベテ》 吾許曾居《ワコソヲレ》。師告名倍手《シキナベテ》 吾己曾座《ワコソヲレ》。我許者背齒告目《ワコソハノラメ》。家乎毛《イヘモヲ》。名雄母《ナヲモ》
の歌があり、卷二の卷頭には、仁徳天皇の皇后磐姫の歌、
君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》。山多都禰《ヤマタヅネ》 迎加將行《ムカヘカユカム》。待爾可將待《マチニカマタム》
以下四首が竝んでをり、卷四の卷頭にも、磐姫らしい、
難波天皇妹奉上在山跡皇兄御謌一首、
一日社《ヒトヒコソ》 人母待告《ヒトモマチツゲ》。長氣乎《ナガキケヲ》 如此所待者《カクマタルレバ》、有不得勝《アリカツマシゞ》
の一首がある。勿論、此「妹」とあるのが、妹樣か皇后かは問題で、萬葉集の性質から言へば皇后と解すべきだと思はれるが、或は難波天皇とあるので、都を難波に遷された孝徳天皇かとも考へられる。しかし、此歌の直ぐ次に、崗本天皇(舒明)の御製が載つてゐる。如何に萬葉集の編纂が杜撰だからと言つて、多少は編年的に竝べてゐるのであるから、此は、間違ひなく磐(ノ)姫のものと思はれる。其から飛んで舒明天皇に至つてゐるのであらう。
更に、卷九の卷頭には、又、雄略天皇の、
暮去者《ユフサレバ》 小椋山爾《ヲグラノヤマニ》 臥鹿之《フスシカノ》 今夜者不鳴《コヨヒハナカズ》。寐家良霜《イネニケラシモ》
の歌が載つてゐる。かやうに、此御二方の歌が、各二个所まで卷頭に載せられたのは、此歌が、(36)當時の人々には、一つの典型的なものに見られてゐた爲であつたと解してよからう。
しかし、さうした、形にだけ因はれないで、自由に考へて見ると、必しも此御二方とは限らない。他にも多くの理想の人々(人格)を考へてゐたと思はれる。其中には、出雲びとの生活の反映も見られる。出雲びとは、倭宮廷でも殆、宮廷御自身に竝べ考へてをられたほど、一部に勢力を持つてゐた。其上に、倭宮廷の勢力が擴つて行つたので、自然、出雲びとの考へ方が宮廷にも、とり入れられ、此が融合し、重り合つたのである。
倭なす神
出雲風土記にやまとなす大神〔七字傍線〕とある。おほくにぬし〔六字傍線〕の讃め名になつてゐるが、此こそ出雲びとにとつて理想の人格と考へられてゐたので、宗教上の人格であり、同時に、實際の權力を持つてゐる人を考へたのであるが、其が誰であるかは、はつきりしてゐない。大體に於ておほくにぬし〔六字傍線〕を考へてゐたのだと思はれるが、ことしろぬし〔六字傍線〕などにも、さうした考へのあつた事は見られる。かうした讃め名は、倭宮廷にもあつた。御肇國天皇《ハツクニシロススメラミコト》と申し上げた。神武天皇がさうであり、歴史上では崇神天皇の事をもさう申し上げてゐる。はつくにしろす・すめらみこと〔十三字傍線〕は疑ひもなく、開發したばかりの國の政を扱ひなされたお方――と解くべきで、此國をお開きになつたお方、とする合理解では、少くとも崇神天皇には適切でない――で、歴聖どなたも、はつくにしろす・す(37)めらみこと〔十三字傍線〕めらみことであつた。此、どなたにも申し上げた御在世中の讃め名が、偶然か必然か、崩御の後にも御物語りの中に這入つて殘つたのが、此二方であつたと見るべきだ。
歴史をしづかに觀ると、同じ事が、異つた天皇の御事蹟として傳へられてゐる事が多い。どなたも共通して、天津神の御命令を遂行なさる御方と思うてゐたから、かうした混同が生じたのである。結局、尊い理想的な人格ははつくにしらす・すめらみこと〔十三字傍線〕になるのであつた。
天皇を顯神《ウツシガミ》と信じたのは、此、天津神の御命令を遂行なさるお方であつたからで、近代的には譬喩と考へるが、昔は、神そのものであつて、にゝぎのみこと〔七字傍線〕以來一續きだと信じた。其肉體は時々御交替になるが、魂は一續きであつた。日本紀に二十所ほど天皇靈とある、此天皇靈が聖躬に密著して、天皇の御威力が發すると信じたのである。たゞ、其中に、傳記の多く傳つた方と少い方とがあつた。つまり、傳へられる形によつて、神の人格――理想的の意――にも、自と差別が生じた訣だ。仁徳天皇などは、如何にも、宮廷のあるじ〔三字傍線〕としての傳記の著しい方である。
歌の咒力
ところが、萬葉集では、また、別の理想を人格の上に加へてゐる。即、歌の上で名高いお方を理想の人格者とした。實は、其方のお作りになつた歌が名高く傳つた事からであるが、雄略天皇・磐姫皇后など、さうした意味で、理想的な人格者と思はれてゐたのである。
(38)威力を持つた歌の作者は、非常に優れた方だと考へた。其歌は、其人の生活力の強さによつて出來た、と考へたからで、其力が後世まで消磨しないと信じた。其で、或は調子によつて、或は形に似せて、同じ樣な歌を作ると、同樣の威力が生じると考へもした。かういふ考への生じた根本は、うた〔二字傍線〕が咒言から發生した事を信仰的に知つてゐたからである。
うた〔二字傍線〕の咒力は鎭魂にあつた。鎭魂は、たまふり〔四字傍線〕と解くのが古く、たましづめ〔五字傍線〕は後である。たま〔二字傍線〕・たましひ〔四字傍線〕に就いては別に述べて置いたが、結局、時あつて外からやつて來るたま〔二字傍線〕なるものがあつて、此が身體に密著すると、威力・活力の根元になる――天皇靈も其一つで、最威力あるもの――と考へた。此、密著させる方法がたまふり〔四字傍線〕で、此から、たましづめ〔五字傍線〕の考へが生じた。即、かうして密著させたたま〔二字傍線〕が、ふら/\と游離しない樣に抑へつけるのがたましづめ〔五字傍線〕である。此、鎭魂の方法としての唱へ言がうた〔二字傍線〕で、其を唱へてゐると、たま〔二字傍線〕が寄つて來て密著する、又、抑へつけられると考へた。前に擧げた、雄略天皇・磐姫皇后の歌は、此鎭塊の詞章であつた、と見られる。此お二方の歌が、二个所までも卷首に載せられた理由が、其で訣るのである。
しかし、卷九の卷首に載つてゐる「暮去者……」の歌に就いては、考へて見なければならぬ事がある。卷八、秋、雜歌の首《ハジメ》に、「崗本天皇御製歌一首」として、殆、同じものが載せられてゐる。卷九のが、「……臥鹿之《フスシカノ》」とあり、卷八のは、「……鳴鹿者《ナクシカハ》」とあるだけの相違である。さうして、一方を大泊瀬幼武天皇《オホハツセワカタケルノスメラミコト》(雄略)の御製歌とし、一方を崗本天皇《ヲカモトノスメラミコト》(舒明)の御製歌としてゐ(39)るのであるが、此、卷九の大泊瀬幼武天皇御製歌とあるのは、やはり、崗本天皇のものであつたかと思はれる。此歌のすぐ次に、「崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌二首」と詞書きして、
爲妹《イモガタメ》 吾玉拾《ワレタマヒロフ》。奥邊有《オキベナル》 玉縁持來《タマヨセモチコ》。奥津白浪《オキツシラナミ》
朝霧爾《アサギリニ》 沾爾之衣《ヌレニシコロモ》 不干而《ホサズシテ》 一哉君之《ヒトリヤキミガ》、山道將越《ヤマヂコユラム》
の二首が載つてゐる。恐らく此は、舒明天皇の御製が三首あり、別に雄略天皇のが一首あつたのが、雄略天皇のお歌がなくなつて詞書きだけが殘つた爲に、三首あつた舒明天皇の歌の首《ハジメ》の一首が、雄略天皇のものになつたのであらう。又舒明天皇の三首も、首の一首が天皇の御製であり、あとの二首はお伴の方の作であつたのだらう。
勿論此は、その反對に、雄略天皇の御製として傳へられてゐたものが、舒明天皇のものになつて行つた、と考へてもいゝであらう。しかし、簡單に言へる事ではない。一方に、雄略天皇を倭成す神〔四字傍線〕とする考へがあつての混同と見られるのである。
雄略天皇の御治蹟の中には、明らかに、すさのをのみこと〔八字傍線〕の、善惡に拘泥せぬ面影を見せてゐるものがある。さうした一面は、仁徳天皇にも、殊に武烈天皇に見られるし此天皇の御名は、をはつせわかさゞきのすめらみこと〔を〜傍線〕で、仁徳の御名おほさゞき〔五字傍線〕と雄略の御名とを合せた樣に見える。單純な偶然として片づけられぬ氣がする――のであるが、かうした事が、萬葉びとの倫理觀からは、倭成す神〔四字傍線〕なるが故に、といふ條件の下に、總てが善事と解されてゐた。同時に、怒りを抑へ(40)る事と鎭魂とは關係があつた。此歌は、かうした方面からも考へて見ねばならぬのである。
「暮去者……」の歌の解釋を試みよう。さる〔二字傍線〕は歩く進行動作を表す語で、くる〔二字傍線〕事もさる〔二字傍線〕と言うた。此第一句は、後には、此を小椋《ヲグラ》に結びつけて、「夕方になるとほのぐらく〔五字傍線〕なる」といふ感じを持つ樣になつたが、昔も、そこまで考へてゐたかどうか――全體の感じとして、「晩方になると小倉の山に鹿が鳴く」感じは棄てられぬが――萬葉時代には、まだなかつた事と思はれる。けらしも〔四字傍線〕はらしい〔三字傍線〕ではなく、違ひない〔四字傍線〕である。全體の意味は、「小倉山にねてゐる鹿が、今晩は鳴かない。寢たに違ひない」で、鳴かない鹿を歌うてゐる、非常に靜かな、瞑想的な歌である。殊に「臥鹿之」の方が一層瞑想的である。
一體、萬葉集には、かうした瞑想的な歌が少くない。かういふ歌が出來たのには理由があつた。晩方になると、魂が土地の精靈に誘はれて游離しようとするので、夕方から眞夜中にかけて、此を鎭めなければならなかつた。殊に旅行中は、其が甚だしかつたのである。赤人の、
鳥玉之《ヌバタマノ》 夜乃深去者《ヨノフケユケバ》、久木生留《ヒサギオフル》 清河原爾《キヨキカハラニ》、知鳥數鳴《チドリシバナク》
の如きも、やはり旅中夜陰の歌で、瞑想的な秀れた歌である。「千鳥しばなく」は、實際に、今見てゐるのでも開いてゐるのでもない、晝見た印象を歌つてゐるのであるが、其印象が非常にはつきりしてゐる。やはり鎭魂歌であつたと思はれる。かやうに見て來ると、前の歌も或は、雄賂天皇の御製でも舒明天皇の御製でもない、かうした旅行歌であつたのかも知れない。其が秀れた鎭(41)魂歌として、咒力の強いお方にくつゝいて行つた、さうも考へられるのである。
こひ歌
磐姫の御作と傳へる歌にも異説があつて、古事記には、
君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》。山多豆乃《ヤマタヅノ》 迎乎將往《ムカヘヲユカム》。待爾者不待《マツニハマタジ》
とあり、三句ね〔傍線〕が|の〔傍線〕になつてをり、作者は、仁徳天皇の皇子允恭天皇の皇女、輕大郎女(またの名、衣通姫)となつてゐる。
かういふ歌をこひ歌〔三字傍線〕と言ふ。こひ〔二字傍線〕と言ふのは招魂の事で、其動作が、こふ〔二字傍線〕である。だから、必しも生きてゐる人だけを對手にしてゐるとは限らない。死は魂が發散した状態で、其が歸つてくれば蘇生する、と考へてゐた古代人は、死んだ人の爲にも魂ごひ〔三字傍線〕をした。後のたまよばひ〔五字傍線〕で、さうして發散した魂は野山にゐると考へたから、多く奥山などへ魂ごひ〔三字傍線〕に出かけた。
後には、こひ〔二字傍線〕を戀愛だけに解したが、やはり、愛してゐる人の魂を自分の身中に招く事であつた。結局、戀愛とは魂を交換する事だつたので、其魂は、衣服(下表)に着けて交換した。後朝の別れ〔五字傍点〕をきぬ/”\の別れ〔七字傍線〕と言ふ樣になつたのは、此から出てゐる。ひれ〔二字傍線〕を振る事も、此から生じた。しかし、單なる戀愛の手段ではなかつた。魂を呼ぶ事だつたのである。戀愛にまで進んでも、其表し方は殘つたのだ。こひ〔二字傍線〕とは、かうした動作を言うたので、たまごひ〔四字傍線〕の歌は、戀愛の歌の樣に(42)見えるが、所謂戀愛歌ではないのである。
萬葉の方では、此歌が相聞の部に入れられてゐる。相聞は、普通したしみうた〔六字傍線〕と訓まれてゐるが、實はかけあひうた〔六字傍線〕である。相聞に對して挽歌があり、此は、葬式の歌――その意味が擴つてくやみうた〔五字傍線〕にもなつてゐる――と言はれてゐるが、此二つの相違は、ほんの紙一重である。其で、編纂の當時、既に間違へて編入したものが存外多い。此歌なども、相聞ではない。勿論、四首全體を通じて見ると、後から加つたものがあるから、全部がさうとは言はれぬが、主なるものは、先、挽歌と見てよい。
如此許《カクバカリ》 戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》、高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》、死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》
四首の中、こゝで問題になるのは、前の「山たづね‥…」の歌と右の一首とである。歌意は、これ位こがれ/\てゐる位ならば(あらずは〔四字傍線〕は特殊な遣ひ方、平安朝にも僅に文學用語として殘つた)、山(誇張して高山)の岩をまきて〔三字傍線〕(枕して)死んだらよかつた(死んだらうものを、は今ある状態を、想像してゐるのである)で、此も完全にこひ歌〔三字傍線〕と見られる。此「こひつゝあらずは」は、よほど招魂に近づいてゐる。「岩根しまきて」は、石棺に這入つてゐる事を言つたので、死んだ人の状態であるが、昔の人は必しも、死骸をまでは考へなかつた。さうしてゐる間に、魂が戻つてくれば蘇生する、と信じたからである。しかし、此歌が戀歌になつて行く過程も考へられる。「あなたのたま〔二字傍線〕は岩の中に。わたしも其樣に。」といふ氣持ちなのであるから、一寸變ると、こが(43)れ〔三字傍線〕に誤解が重つて、意味が變つて行くのである。
「君が行き……」の歌は、必しも皇后の歌であつたと考へる必要はない。かゝる美しい生活をしてをられた方であつた、と言ふ言ひ傳へがあつたと見ればよい。「君が行き」のゆき〔二字傍線〕は、行く〔二字傍点〕事の名詞、け〔傍線〕は暦の上の日〔傍点〕で、上の句は、「あなたが行つてから日がながく經つた。」である。「山たづね〔右○〕」は、古事記ではたづ〔二字傍線〕の〔右○〕になつてゐる。私は、最初、ね〔傍線〕を近代的と考へたが、さうではない樣だ。山たづ〔三字傍線〕は造木《ニハトコ》の事で、葉が對生なところから、むかひ〔三字傍線〕の枕詞になつてゐる。それで下の句の意は、「むかへに行かうか、待たうとしても私は待ち切れない。」である。しかし「山たづね」は、さうではない。死んだ人の魂は奥山にゐると考へたから、招魂には奥山へ行つた。其が「山たづね」である。で、相聞と見ると誇張に見えるが、魂ごひ〔三字傍線〕の歌と見れば訣る。同時に、挽歌が戀歌に變つて行く過程も考へられよう。
怒りと歌と
とにかく、此歌を相聞とすると、輕大郎女の樣な方の歌とすれば適切だが、磐姫の樣な方の歌としては妥當でない。どうして此歌が磐姫にくつゝいて考へられるやうになつたか。此にも理由があつたのだ。古事記には、磐姫の非常に嫉妬深かつた事が傳へられてゐる。嫉むとき足もあがゝに悶えたとある。嫉妬は、女の怒りである。しかし、よみ〔二字傍線〕の國の道徳では、此が善事とされてゐ(44)た。即、夫を讃美する消極的な方法でもあつたから、嫉み妻を持つてゐる事を男の誇りとさへ感じたのである。此歌が磐姫にくつゝいて行つたのには、此だけの背景があつた。こんな美しいお歌をお作りになつた方は、どなたであつたらうと考へた時、すぐに磐姫が思ひ浮んだのである。
雄略天皇も怒りの強い御方であつた。しかし、感情の美しい、すぐに解けてしまふお方であつた。前にも言うた樣に、おほくにぬし〔六字傍線〕にも仁徳天皇にも、さうした一面があつた。いづれも、理想の人格がなしてゐる、と考へたのである。
かうして、古代人は、その典型的なお方として、怒りの強い男女を思ひ浮べたのであるが、又、怒る事は魂が解離する事だと考へたので、其を抑へる事が必要だつた。此から、歴史の上での理想的な人格のお方には、歌に關した怒りの物語りがくつゝいた。鎭魂の歌から出た物語りがくつついたのであるが、其が尊い人格に關聯して語り傳へられた爲に、此土に於て最尊いお方は、天津神の御命令を持つて來られてゐるお方と考へた事から、此物語りが、天皇・皇后に結びついたのである。
恐らく、かうした物語りは、天皇・皇后に結びついたものゝ外にも、幾つかあつたに相違ない。しかし、天皇・皇后に結びついたものゝ外は、絶て消えてしまうた。宮廷のものだけが殘つたのは、其御一代の事を語り傳へるものがあつたからである。古く語部なるものがあり、後、壬生部の傳承が此に絡んだ。此から、各天皇にも個性が傳へられる樣になつて行つたのである。
(45)古い語部時代には、各天子の御意志の發動は、總て天神のみこともち〔五字傍線〕と考へてゐたので、御幾代もの事が、幾らでも重ねられて行つた。其が、漸次個人傳記が挿入せられて行く樣になつたのは、特別に個人の傳を傳へるものが出來たからである。御名代・御子代の起りに就いて考へて見る必要がある。
元來、聖なる御子たちは、皆、他氏《タシ》によつて扶養せられ給うた。壬生は、後、御封《ミブ》の字音に通じる樣に變つて、莊園の初めと解される樣になつて行つたが、奈良朝の文獻に、乳部と書いて此を表してゐるのでも訣る樣に、本來の職業は、貴種族の御子の御誕生に産湯をつかはせ、その後の扶養をした上、后も、此家から奉つたのである。此からして、其家々の名が御名のうちに含まれる、と同時に、其氏々との關係の初めを説く物語りが傳へられて、一代の御事蹟を特殊ならしめた。其上、皇后の事から、其所生の御子に就いても述べる樣になり、更に、其個々の御子達の中、特に聖なる力を持たれた方々の履歴を含む樣になつて、一層特殊化して行つたのである。
同じ事が、地方の豪族達のあるじ〔三字傍線〕に就いても講ぜられてゐた。此から次第に、貴族の生活が展開して行つたのである。
宮廷生活と貴族の位置と
萬葉集に、「さほ河の岸のつかさ〔三字傍点〕……」などゝある用語例から言つて、『つかさ〔三字傍線〕は、丘ではないが、(46)孤立した高いところの事であつたらしい。野阜《ノヅカサ》があたつてゐると思はれる。
宮廷の役人を司《ツカサ》と言うたのは、其控へてゐる場所から、とも説かれるが、宮廷の御命令は高いところから出た。神事の時には、唱へられる詞章の威力で、此土が高天原に戻る、との信仰が根本になつてゐたので、天子が、即位式・初春に、高御座にお登りになるのも、實は此信仰からであつた。さうして、本來、御命令は、此高御座から發せられるものであつた。
其が、後に、其御命令を天皇の御名によつて、代理者が宣布する樣になつた。其場所を司〔右○〕と言ひ、其司に立つて宣旨を傳へる役人をも司〔右○〕と言ふ樣になつた。此らの役人は、京にゐたばかりではない。諸國に遣されて行つたのである。
宮廷では、年に二度、此らの役人をお呼び寄せになつた。地方官をお召しになるのがあがためし〔五字傍線〕、京官を御任命になるのが、みさとのつかさめし〔九字傍線〕であつた。みやこ〔三字傍線〕は宮廷のある處、みかど〔三字傍線〕は宮廷(おやしき内)、宮廷外がみさと〔三字傍線〕、御領地があがた〔三字傍線〕であつた。
神を迎へる者
此らの官吏の最初を伴緒《トモノヲ》と言うた。宮廷の神聖な爲事の下働きをする者を伴部と言ひ、其部曲の長を言うたのである。歴史の上では、天孫に從うて天降つた、のりと〔三字傍線〕を唱へる中臣連の祖(天兒屋命)、まじなひ〔四字傍線〕をする忌部首の祖(布刀玉命)、鎭魂のをどり〔三字傍線〕をする猿女君の祖(天宇受賣命)、(47)鏡作連の祖(伊斯許理度賣命)、玉造り職の祖(玉祖命)の五人を五伴緒と言うて、此が最初だとしてゐるが、恐らくは、此外にもたくさんの伴緒があつたに相違ない。とにかく、神聖な職に與る職人を統括してゐた家筋があつた訣である。
職人と言ふのは、土地に關係を持たない人達の事で、多くは、神事に與つてゐた。だから、此等の人達は、同時に兵力を持つてゐた。古代の戰爭は、武力よりも咒術で戰つたのであるから、魂を自由に扱ふ事が出來れば、其が兵力を扱ふ事になつたのである。
かうして、宮廷に直屬してゐた人達は、皆兵力を扱ふ事が出來たのであるが、其を總活してゐた人達には、又、別に大切な爲事があつた。祭りの時、神を接待する役で、本來は巫女の爲事であつたが、其を統括してゐたのである。後世の常識では、神主を、神の接待役と考へて來たが、神主〔二字右○〕とは、主神〔二字右○〕の事で、祭時に於ける天子の位置を示してゐたのである。此、意義の變化は、天子が信仰上の爲事から遠ざかられた爲に、歴史的傳統をもつた、中臣・忌部などが代つて行ふ樣になつたからである。即、中臣の神主・忌部の神主など言ふ樣になつた爲に、そこに錯覺が生じて、此を神の接待役と考へる樣になつた。勿論、直接の爲事は巫女がしたのであるが、其を統括する者を神主と考へる樣になつたのである。
神を接待する一番大切な事は、饗應をする事であつた。藤原氏には、宮廷に於ける、三種の神器に相當する、朱器・臺盤があつて、氏(ノ)長者が定まると此の授受が行はれた。(48)宮廷の御殿の配置を考へると、朱器殿があつた樣だ。其から想像すると、此朱器・臺盤は、元は宮廷にあつて、あるじ〔三字傍線〕なる天皇がお取り扱ひになつたものである。即、祭りの際に神を饗應する道具であつた。其が、藤原氏のものになつたのは、此饗應役を藤原氏に御委任になつた爲だと思はれる。此饗應役を任命された者が、氏(ノ)長者になつたのである。
元來、中臣氏は、唱へ言をする職であつたから、古くから天皇の代宣をして來たのであるが、更に、あるじ〔三字傍線〕役たる饗應の役をまでする樣になつた。此、中臣氏の分れである藤原氏が強くなつたのは――外にも理由があつたけれども――かうした職を持つた事からであつた。如上の事實は、ひとり藤原氏に限らなかつた。他の家々にも、傳統相應な事があつたと思はれる。かうして、貴族が段々位置を占めて來るやうになつたのである。
天孫に從うて來たのでない、新しく、或天皇の御代に宮廷と關係を結んだ、といふ來歴ある家々でも、やはり、何等かの職によつて結びついた――前述の壬生氏の如く――ので、豪族として勢力を持つてゐた以外に、宮廷との親しみを持ち、宮廷の祭りの時には、其傳承通りの職をしたのである。
地方の官吏は、結局、宮廷から遣されるのではあるが、其中に、宮廷直屬でない、地方の豪族が、次第に混つて來たのは、右の關係からであつた。
(49) 靈魂を扱ふ者
こゝに考へねばならぬ事は、高天原から從うて來た伴緒がたま〔二字傍線〕を扱うたに對して、もの〔二字傍線〕を扱ふ部曲があつた事だ。
もの〔二字傍線〕は、普通、土地に住つてゐる精靈で表され、敵意あるもの、神聖な爲事を邪魔するもの、といふ樣に考へられて來た。此が、平安朝になつて、怨靈と解される樣になつた――怨霧の憑いた病氣をものゝけ〔四字傍線〕と言うた――が、本來の考へ方ではない。此もの〔二字傍線〕の性質を知つてゐる者を物識《モノシリ》と言ひ、物識人は、精靈の意志を判斷し、此敵意あるもの〔二字傍線〕を使役して、役に立たせるまじなひ〔四字傍線〕を行うた。物部は、後に、意味が變化して、大切な魂を扱ふ職人になつたが、元來は、此精靈を扱ふ部曲であつた。
ものゝべ〔四字傍線〕は汎稱で、其中最有力なものゝべ〔四字傍線〕が、固有名詞化する程認められて、物部(ノ)連を形づくつたが、他に、骨《カハネ》を異にする物部が非常に多かつた。此中、一つだけ系統の違つた、神武天皇以來、宮廷で最大切な天皇靈を扱うて來たのが、大和の石《イソ》(ノ)上《カミ》に居つたが、外の物部は、いづれももの〔二字傍線〕を退ける職――戰爭をする役――であつた。此から、ものゝふ〔四字傍線〕が出てゐるのである。が、ものゝふ〔四字傍線〕を、後世の武士と解したら大きな誤りである。
ものゝふ〔四字傍線〕は、宮廷竝びに公式の祭時に當つて、音樂・舞踊――古代の語で言へば、神遊び――に(50)屬するものに深い關係を持つてゐたので、原則として、宮廷武官・六衛府の官人等が關係した。六衛府に仕へる人達を武官と言つたけれども、ふ〔傍線〕といふ語に武官の意味があつた訣ではない。ただのものゝべ〔四字傍線〕だつたのが、官吏化して來たゞげの事である。王朝時代には、其も武官であつた。武官の新舊は、平氏と源氏とによつて明らかに分れる。平氏は、舊來の武官の最後のもので、源氏からは、全く別の意味の武官が生れた。即、元來、宮廷に親しみを持つてゐなかつた地方のものが、宮廷を衛らうとしたのである。
神に近親なる者
次に、舍人《トネリ》・采女《ウネヌ》の事を簡單に言つて置く。
舍人・采女は、天子のお側近くに奉仕してゐた――後には、皇族・貴族にも下された――が、古くからの從者ではなく、新しく服從した、地方の豪族の子女がなつた。宮廷の習慣では、關係の深いものほど遠ざかつた位置にをり、新しく服從した者が、奥深く居た。さうして、宮廷の生活――信仰――に慣れさせ、此を其々の地方に持つて歸らせた。宮廷の勢力・風俗が、漸次地方に押し擴げられて行つたのには、かうした事實があつた。此を、單なる政略と見るのはいけない。新しく服從したものを、側近く置くのは危險の樣だが、神を仲に立てゝゐるのだから、疑ふ必要がなかつた。宮廷と群臣との關係は、たつた一つの唱へ言で續いてゐた。正月に、天皇が高御座(51)で祝詞《ノリト》――服從を誓はなければならぬ由來を説く――を唱へられるのに對して、群臣は、壽詞《ヨゴト》――天子の壽をたゝへる――を奏上した。結局、自分の守護靈を捧げる事になるので、此が、天子が、國々を統治して行かれる根元力になつたのである。
こゝで考へねばならぬ事は、此らの采女・舍人は、宮廷の神の養ひ子になつたのである。今でも、農村には、子分・子方があるが、武家の家の子・郎黨も、實は此關係にあつた。やつ子〔三字傍線〕と言うたのは家つ子〔三字傍点〕であるが、血族關係はなかつた。此らはいづれも、其家の主人の子になるのではないので、其家の神の子〔三字傍点〕になるのであつた。八幡太郎・新羅三郎など言うた、八幡・新羅は、其神名を冠したので、太郎・三郎は、家の子の順序である。寺子〔二字傍点〕も同じ事で、寺子屋は、さうした子分を、僧侶が教育した事から起つた。
かうして、なるべく勢力のある家の子分にしたのであるが、社會が進んで來ると、此が家來の形になる。しかし、其關係は、征服でも服從でもない、どこまでも、神を仲にしてゐたので、誓ひには道徳感を持ち、主の方では愛情を持つた。こゝに、日本人の倫理觀の出發點を据ゑて見る必要があるのである。
(52) 萬葉びとの生活
――及びその歌――
昭和六年十月「婦人公論」第十六卷第十號
萬葉菜を懷しむ人々の爲に、これから暫らくの間、咄し續けてゆきたいと思ふ。今度の試みは、大分慾深い目的を持つて居るのである。出來るならば、萬葉集の成り立ちを説いて行く傍、理會と鑑賞とを完全にする爲の註釋と批判とを、併せて述べて行かうとしてゐる。其から尚、出來ることなら、萬葉集を根據として、我々の國の文學を通じて見ることの出來る、最古い祖先の生活を、ありのまゝに陳べあげたいと思ふ。
萬葉集は、古代の詞章の中、最早く文學化した短歌が、其文學らしい内容を具へて來るまでの長い期間の作物を蒐集してゐる。謂はゞ祖先の感情が、段々醇化せられて來た筋道の全部を、含んでゐるものと見てよいのである。だから、古代人の生活の中、内面的の觀察をしようとするには、この集によるのが、一等確かな道である。萬葉集は、感情を確かに表さうとして焦慮し、又其を、ある部分までなし遂げた徑路を、ありのまゝに殘した書物である。即、祖先の感情生活の記録と(53)言ふことが出來る。
私は、十五六年來「萬葉びと」なる語を使ひ慣れて來た。其は唯、萬葉集の作物の全時代を意味するのではなかつた。萬葉集における全作者の感情を中心に、古代人の内生活を見ようとする時、かう對象を呼ぶことが、如何にも快く感ぜられるからであつた。
求婚[つまよばひ]の歌
筐《コ》もよ み筐《コ》持ち、〓《フグシ》もよ み〓《ブクシ》持ち、この岡に菜つます兒《コ》。家|宣《ノ》らへ。名《ナ》宣《ノ》らさね。』そらみつ 大倭《ヤマト》の國は、おしなべて 我《ワ》こそ坐《ヲ》れ。しきなべて 我《ワ》こそ坐《ヲ》れ。我《ワ》こそは告らめ。家をも。名をも―― 雄略天皇
私の計畫と、萬葉集の記載の順序とが一致してゐたのは、幸であつた。この御製作を代表として、求婚の詞が、どうしてかう言ふ形を採らねばならなかつたかと言ふことから、説き始めようと思ふのである。
求婚を意味すると思はれる語に、大體三通りある。「つままぎ」「つまどひ」、其に茲にあげた「つまよばひ」又單に「よばひ」とも言はれてゐる語が、其である。皆一續きの事柄で、唯階段の差を示すだけである樣だ。つままぎ〔四字傍点〕は、配偶者になる適當な女性を覓める間を言ふらしい。さうして得た人のところへ通ふのがつまどひ〔四字傍点〕で、其手順として、つまよばひ〔五字傍点〕が行はれた。よばふ〔三字傍点〕と言ふ(54)作法は、相手のうけ答へを促す爲に、自分の屬する家名・我が名を唱へかけるのである。其女性から答へがあると、其思ひが受け納れられたことになる。其も亦、處女の家名・其名を以てした。名をも明さず、答へもせない時は、つまどひ〔四字傍点〕は成就せなかつた訣である。よばひ〔三字傍点〕は、條件として、名を言ふからなのり〔三字傍点〕とも言ふ。山野・道路の行きずり、祭りの齋場に竝び立つた場合などにも行はれる。又家の内に居る處女に對して、屋外から呼ばひかけることもあつた。
朝倉や 木のまろ殿に我居れば、名のりをしつゝ行くは、誰《タ》が子ぞ ――神樂歌
かう言ふ風に名のりかけて行くのが、萬葉時代以後にも、普通の形式だつたと見える。まるで、夏ならば、夜鳥が鳴いて過ぎる樣に感じられたであらう。其で、時鳥が啼き渡ることをも、なのる〔三字傍点〕と言ひ慣はすやうになつた。
紫は灰さすものぞ。椿市《ツバイチ》の 八十の衢《チマタ》にあへる子や。誰《タレ》 ――萬葉集卷十二
齋場の一種であつた「市」で、多くの男女が、名のりかはした風のなごりから出來た歌である。
たらちねの 母がよぶ名を申さめど、道ゆく人を 誰と知りてか ――萬葉集卷十二
言へとならば、我が母ばかりの知つた名を言はうが、自ら名のりもせぬ道行きずりの君を、何家の某とも知らないで居て、明して言へようかと言ふのである。
男が名のらない先に、女の名のることはなかつたのである。而も其女の名は秘密で、親以外には、近親とても知らさなかつたのである。族外の人で、女の名を知つたものは、其夫となる資格を持(55)つ訣であつた。だから、つまどひ〔四字傍点〕には、まづよばひ〔三字傍点〕をして名を聞かうとしたのである。自分名のらずに、女性の名を知らうと言つた歌が出來るのは、求婚樣式としては、可なり時代の遲れた頃のものらしい。古代に上る程、嚴重に名のり〔三字傍点〕の條件が守られた。行きずりに名のりかけたつまよばひ〔五字傍点〕の例は多く殘つてゐる。倭の高佐士野《タカサジヌ》で行き逢つた七人の女性のうち、年長の處女を擇んでつまどひ〔四字傍点〕しようとせられたのは、神武天皇である。此名高い傳へは、唯中介者の由來を傳へる點に重きを置いたらしく、肝腎の名のりの御歌を落してゐる。が、ともかく處女たちの山野に出る日があつて、其日行きずりによばふ〔三字傍点〕習慣のあつた事を示してゐる。
今の話の中心の雄略天皇には、かうした傳へが色々ある。其うち最この歌と境遇の似たものが、金※[金+且]《カナスキ》(ノ)岡の物語である。岡の邊で菜を採る處女によばひかけられると、處女は岡に隱れて遁げ去つた。失望あそばして、「金※[金+且]《カナスキ》の五百箇《イホチ》もあればよい。處女の隱れた岡の土をはね返して見ようもの」と仰つた。岡の名の金※[金+且]も、其から出たと傳へてゐる。金※[金+且]と〓《フグシ》と、岡に菜を摘む處女、如何にも御一方の御行蹟の樣に思はれて來たのは、尤らしい。も一つ言うて置かねばならぬのは、上の二つともに、天子のつまよばひ〔五字傍点〕でおありなされても、相手の處女に對して禮儀を失うて居られないことである。單に女性の心を迎へる爲とか、又、其ほど上下の間に親しみが深かつたからだとばかりでは、解釋が出來ないものがあることである。つまり、大倭の國の君主なる方に對して、地方の小國主・邑落の主が澤山居た。其等の家々の尊い處女に絡んだつまどひ〔四字傍線〕の物語の斷篇(56)が、多く殘つてゐた、各其一部なのであつた。土民の娘と見ては、古代の傳への俤を浮べることも出來ぬのである。まづ假りに口譯を試みる。
籠よ。箆よ。その籠や箆持つて、この岡に莱を摘んでゐるお娘《コ》よ。家名をおつしやい。お名をおつしやい。』……一段。
大倭の國は、おれがおし從へて居る。おれが領し從へて居る。おれの方は、かう言ふ風に言はうよ。家名をも。我が名をも。』……二段。
「倭の図はおしなべて……」と言ふのが、家名を示す事で、同時に我が名をも明された訣になつてゐる。だから、「我こそは宣らめ」と言ふ句は、此から新しく名のりをはじめようと言ふのではない。自分の方は此通り言ふであらう。だからおんみ〔三字傍点〕も名のれと言ふので、「家宣らへ名宣らさね」に響いて來るのである。
此御製は、萬葉集の卷頭にあるものだが、雄略天皇御製とするのは、さう信じて來たからで、此天皇はさうした事が多くおありになつたから、かく傳へたものと見てもさしつかへがない。唯、此で一等よい事は、名のり〔三字傍点〕の形が此ほど、はつきりと歌の詞章に出てゐるものが、稀な點である。隨つて、求婚の形がしつかりと印象せられてゐる。我々は、文學的の價値を言ふよりも、まづ古代人の生活の内容を、しつかり掴むことの出來る點を擧げてよい。
筐《コ》や〓《フグシ》を持つて、自分で山野で勞働してゐる樣に見えるから、此處女を普通の農人の子の樣に考(57)へて來てゐるが、古物語や、歌の上に出て來る人物が、皆貴い身分の人で、まる/\の土民などは出て來ないことを考へると、言ふまでもなく、此野遊びは、單なる食料を採る爲に野に出てゐたのでないことが知れよう。一|邑《ムラ》の處女が、家・村を離れて、山野に隔離して物忌みして暮す期間があつた。さうして、神聖なる村の「をとめ」としての資格を獲る爲の行を積む。此が近代まで續いて、山籠り・野遊びの風となつて殘つてゐる。さうして日數も、一日か半日になつて了つたが、古くは幾日かを籠り暮したらしい。此が濟むと、村に於ける神秘な信仰行事に與る事が出來る樣になる。さうした時期に在る處女に、ゆくりなく山野で行き逢ふことがある。其が、昔の人々には、山野の間に神女を見た、と言ふ物語を生む動機になつた。萬葉集で譬へば、卷十六の竹取翁の神女に逢うた物語歌が、其である。此は、恐らく古物語に新しい小説的の趣向を加へて作つたものらしい。かうした作物が奈良朝前後の小説や、歌に多いのである。だから、其長歌もまる/\の空想ではない。
季春《ヤヨヒ》の一日、丘に登つて見|霽《ハラ》してゐると、思ひがけなく羮《アツモノ》を煮る九人の娘子《ヲトメ》を見た。いつの間にか、翁は其席上ににじり込んで居て、暫らくしてから、見知らぬ醜い翁が來て火を吹いてゐるのを見て、互に誰が呼んだのだと咎め合ふ。其處で、翁が長歌《ナガウタ》一首|反歌《カヘシウタ》二首を辯解に作つたのに和《アハ》せた娘子の歌が九首ある。短歌はすべて新作であるが、長歌は幾分元の物語歌の趣きを傳へてゐるのであらう。だが此にも、唯、今こそ老いさらぼうて、人に嫌はれてゐるが、昔はかうだつ(58)たと、若く美しかつた頃の物語をする風に敍べられてゐて、名のりの部分はないが、娘子たちも殘らず感動して、翁の意に從はうと歌うてゐる。さうして、其場合の情景が、如何にも山籠りの間の生活らしく見える。
おなじ傾向の作物で、もつと文學意識を含んだものとして、おなじく萬葉集卷五の松浦河《マツラカハ》に遊んだ贈答の歌と言ふのが見える。作者は大伴(ノ)旅人である。此になると、他處に屡聞かれる傳説を、松浦の玉島河に移して、漢文學風の組み立てを交へて作つたものだ。其はじめにある贈答の歌をあげる。
あさりする海人の子どもと、人は言へど、見るに知られぬ。貴人《ウマビト》の子と
玉島の この河邊《カハカミ》に、家はあれど、君を羞《ヤサ》しみ、顯さずありき
此などは、小説式であつても、やはり名のりを條件とした形を存してゐる。さうして、山籠りする山野の遠い海岸では、かうもあらうか、と思はれる女ばかりの物忌みの姿を思はせてゐる。旅人の歌で見ても、既に海人の子どもに過ぎませぬ、と娘子が名のりを避けた樣に言ひ表してゐるが、やはり昔物語の娘子が貴人の子であつたことの印象を受け繼いではゐる。だから、宮廷の主上でおいでのお方としても、やはり見下しての物言ひは、なさらなかつたのである。農事に絡んだ勞働は、神意の完成である。其で、農人に敬意を拂つた物言ひをする風があつたから、「菜つます子」と言ひ、「のらへ」・「のらさね」と仰せられたもの、と説いて居るのは、(59)考へ方には理由はあるが、徹底せぬ。又、「菜つます子」は「菜つむす子」と訓むべきで、す〔傍線〕はしづ〔二字傍線〕(賤)の約音、すこ〔二字傍線〕は賤人の子だとする説がある。かう言ふ説明は、今日、一言の説明をしないでも、時代自身が價値の判斷を下してある。言ふまでもなく駄目な考へである。さうした貴人のつまどひ〔四字傍線〕の目的になる女性は、皆神聖な巫女としての職を持つてゐた。此事は、萬葉集ばかりでは、解決はつかない。古代の書物に見えた貴い女性の位置を綜合して考へると、達する結論である。かう言ふ處女が、多くの處女と共に、幽かな山間などに、假りに竈を築いて、男まぜずに煮焚きの煙を立てゝゐる、あり樣を想像して御覽。古代の村人でなくとも、何か、神秘なものに對する、憬れを抱かせられるではないか。
「のらじ」と訓むことのわるいのは、既に述べた。序に今一言言ひ添へると、私は名告るまいけれど、お前さんは言へと言ふのは、古代における習俗を誤解して、至尊の御身だからと言ふ一點から、近代的に説明しようとしてゐるのである。其上、天子御自身はすでに名のり〔三字傍線〕をしてゐられるのだから、「我こそはのらじ」でもあるまいと思ふ。尚此歌の説明を完成するためには、「名の忌み」の信仰を述べる機會を、別に持たねばならぬ。名を隱す風が、どれほど萬葉集の歌の上に印象を止めてゐるかを續いて見てゆかうと思ふ。
(60) 萬葉集の研究
――一種の形態論として――
昭和九年五月、改造社「日本文學講座」第六卷
萬葉集の學問は、今方に盛りの頂上にある。從來問題となつて來たものは、凡語り盡され、又説き明された樣に見える。さうして更に、これまで豫期しなかつた方面に、此書物の研究が向き初めてさへ來てゐる。かうして、眞に古代研究の一つとしての「萬葉學」なるものが、成り立つて行きさうに見えるのである。
畢竟するに、大歌《オホウタ》なるものが、宮廷詩の實を發揮して、其が最盛んに行はれた時期が、此所謂萬葉時代なのである。さうして、此萬葉集にも、正確には、幾つかの時代が劃せられる。
平安朝になると、大歌の名は、宮廷傳來の正式なる咒歌と謂つた意義を深めて行くが、萬葉集においては、長い變遷はあるとしても、尚其ほどの意義を分化して居ない。歌《ウタ》自體が、元來咒術的發生を續けて居たもので、其目的が次第に推移してゐたものなのだ。其が、生命の最衰へた時代になつて、一方に文學的位置を開くと同時に、一方著しく固定して、咒術としても、特に機械的(61)な方法に用ゐられる樣になつたらしいのである。
古事記・日本紀は、一面において、宮廷詩――大歌――の傳來を説く目的を持つて居る。其名稱として、「何歌」「何振――何曲」など言つて居るのは、宮廷詩に新古・卑高があり、成立によつて、分類せられて居たことが察せられる。而も、若干の大歌類似の他氏傳承の異傳のあつた事も知れる。其が萬葉集になると、天下の「歌」――即「振」――はすべて、大歌となる事の出來る性質を具へてゐるもので、世間的には、宮廷・他氏・民間の物の區別はあつても、信仰的に、等しく宮廷の物として、大歌の内に包合せられる理由のあるものと信じられて來た事が思はれる。成立から言つて、振《フり》(曲)と言ふべきものも、形式の名としては、等しく歌《ウタ》と言ふべきである、と思ふまでになつて居たのである。だからすべてを歌として、其中に別途の分類法が加へられる樣になつたのが、萬葉集に於ける歌である。必しも萬葉集の時代に現れたものと言ふことは出來ないが、歴史の空虚の上に、我々は論議を置く事は出來ないから、此時代に現象を据ゑて、其前代にも既にあつたことを示したい。記・紀の時代に見えない事で、萬葉になつて、既にはつきりと出來てゐる形は、「宣り歌」なるものゝ存在である。
宣り歌
日本の詞章は、古い時代において、早く呼應・唱和・懸け合ひの對偶發想の形を採る樣になつて(62)居る。だが其前に尚一時期があつて、單なる呼び懸け、應答を豫期しない發言なるものゝあつた事が、思はれるのである。其は神なる權威者の詞章であつたが、後其を授けられる者の答へが出來る樣になつて行つた。さうして、「歌」と言ふ一類の詞章は、其時代から初まるのである。正確に言へば、其應答に當る部分が「歌」であつた。其を併せても歌と言ふ樣になつて來て居た訣なのだ。だから引いては、言ひ懸けの文句即、第一發言者の詞章すらも、「歌」と稱してさし支へのないやうになつて居たのだが、極めて常識的に認容せられたに過ぎなかつたものだ。此期に這入つた事の標《シルシ》と見るべきは、此部類に這入るべき、今假りに命ければ、「宜《ノ》り歌《ウタ》」とも稱すべきものの、現れ成立した事實である。
宣《ノ》ると言ふ發想方法は、普通奈良朝以後の宣命《センミヤウ》或平安朝以來の祝詞《ノリト》に窺はれる形であつて、極めて古くからあつたものである。其に應答する形式が後に發生して、壽詞《ヨゴト》と稱する――普通所謂祝詞に、多くこれの表現法を採つてゐる――ものになつた。此壽詞の主要部分が游離して、歌となつたのであつた。其が逆に刺戟して、「宣り歌」發生を導いた訣なのだ。元來、奈良朝以來の「諺」と言ふものゝ中には、神或は權威者の第一發言と言つた用語例がある。此諺は、早く固定して行つたが、尚此發想方法が、歌の影響を殆完全なと言ふ程度に受けて、現れたものがあつたらしいのである。其を「宣り歌」と稱したいのだ。
私は既に大正八九年頃から、此考へ方の出發點を書いて置いたが、今萬葉集の特徴を書く時にな(63)つて、今少し整理して言ひたいものである。
宮廷生活が擴充して來るに連れて、傳宣法とも言ふべき、綸言傳達の方法が發生して來ずにはゐない。此は、古語に「みこともち――御勅持傳《ミコトモチ》」と言つた。譬へば、祝詞の詞章中にある「神ろぎ・神ろみのみこともちて……〃云々」と言ふ類型的な表現法を採る部分などが、其を適確に示してゐる。平安朝以降の延喜式傳來の祝詞では、其點誠に不正確だが、括弧の内容に相當する部分は、傳宣者の表白でなく、本主の眞言でなくてはならない訣である。だから、宣命・祝詞類では、傳來正確を缺いて居ても、ともかくも、外見、甚律文らしからざる文體をとつて居るが、一方には早くから、傳宣者の自由にならぬ部分だけは、歌の形を採る風が出來て居たのである。其は、抒情詩の例から見れば知れる。壽詞《ヨゴト》が一轉化して、物語即、敍事詩に變化するので、其中に、神の眞言とも稱すべき部分が生じて、歌の形が出來る。其歌の形が、みこともたれた宣命式の詞章の中にも發生する訣である。つまり律語が、宣詞の中にも生じたのだ。今日において、かう言ふ形の古文を見る事は出來ないが、此論理は、日本の詞章・文章發生史の上に、考へられねばならない事である。
讃勅歌
かうして、宣命・祝詞以外に、今一つ主上及び公式の御發意を示す方法が、行はれ出したものと(64)見られる。傳宣者が、聖旨を讃し和げたと言ふ約束的理會の上に立つて、傳へられる事となるのである。尊意を解き和げて傳へるには、唯一の方法として、歌の形を採る外になかつたのだ。此は、宣命・祝詞の側の用語を用ゐると、「いはひごと――鎭詞・護詞」と稱すべきもので、代表者として、多數者の意を、上に奏する方法、上意を多くの仲間に宣下する方法を言ふのだ。鎭護詞としての發表方式は、多く此形を以てしたらしい。謂はゞ讃勅歌とも言ふべきものである。
古代日本において、傳宣者たる地位に立つ者は、宮廷における中臣神主ばかりでなく、多くの官吏が臨時に此役を勤めない者はなかつただらう。而も就中、地方官は專ら、此奉仕に當るものだつたのである。其外に、大きな部分を占めて居るものは、氏々の上《カミ》・助《スケ》など稱する人々である。舊來の氏族の間に生じた習俗を認容すると共に、半公設の機關としたものであつた。或は亦、部曲の頭梁たる部造《トモノミヤツコ》と稱するものも、此である。かう言ふ風に、公的にも私的にも、宮廷の「みこと」は「もたれ」て、其效果の實現が豫期せられてゐたのである。だから、萬葉集における長歌が、その表現に於いて教訓的な調子を持つて居る訣である。
萬葉集に最關係深く、亦古代生活の最後的人物と謂ふべき大伴家持――大伴氏の氏上、大伴部・佐伯部其他の部造としての――を例にとつて見る。
「賀2陸奥國出v金 詔書1哥一首并短歌――(天平感寶元年五月十二日作)」は、其詔書の内容を讃して、族人に適切な訓喩をなしたものである。越中國守館で、此を作つたと言ふことは、恐らく、(65)大伴氏人及び諸國に散在する大伴部・佐伯部の部民に送り與へる交通法のあつた事を豫期せねばならぬものである。
……大伴の遠つ神祖の……負ひ持ちて仕へし官《ツカサ》。……顧みはせじと言立《コトタ》て……祖《オヤ》の子どもぞ。「大伴と、佐伯の氏は、……大君に仕ふるものと言ひ繼げる特《コト》の職《ツカサ》ぞ……」……大君の御言《ミコト》のさき〔二字傍点〕を聞けば、たふとみ
此處に擧げなかつた前段には、詔書の直譯として、髣髴たる部分もある。此部分に、族人を喩す意向を明らかに示してゐる。
長歌の成立
「喩族歌一首并短歌」は、左註によると、淡海眞人三船の讒言で、大伴古慈悲が出雲守を解官せられたので、家持が作つたとあるから、古慈悲に與へたものと見られるが、單に當人ばかりでなく、大伴氏人に訓喩したものと見るがよい程の氣魄が露れてゐる。當時は、一族人に寄せるにも、氏人全部に寄せる宣詞に近い發想をしたものと見るべきであらうか。此をおしひろげて見ると、新興の制度であつた「官吏」としての部下に與へたものも同樣である。
「教喩史生(越中)尾張|少咋《ヲグヒ》歌一首并短歌」
大己貴・少彦名の神代より、言ひ繼ぎけらし。父母を見れば尊く、妻子《メコ》見れば、かなしくめぐ(66)し……」……奈吾《ナゴ》の海の おきを深めて惑《マド》はせる君が心の、すべもすべなさ
この歌には、色々な暗示を合んでゐる。が、最初に注意すべきは、類型とは言へ、宣詞風に説き起した點である。而も此は世間既に注意をしてゐる樣に、憶良の影響を明らかに見せてゐるもので、「好去好來歌」(憶良)の「神代より言ひ傳《ツ》てけらく……」と「令v反2惑情1歌」(憶良)の「父母を見れば尊し。妻子見ればめぐしうつくし」を思はせてゐる。かうして歌ひ起した詞章が、次第次第に文學的に理會あり、同情ある柔軟な表現に移つて行つてゐるあたり、新舊兩途に立つ人としての家持を目に觀る樣である。
私なども從來、單なる文學的題材として、家持が擇んだものとして、輕く其感傷癖に入れて來たものがある。卷二十に數篇ある防人の擬作が其である。東歌及びその一分科として見られる防人歌は、その性質上、すべて忠勤を誓約する意味に於いて奉らせたものである筈だ。たとひ表面は戀歌であり、※[覊の馬が奇]旅歌であり、又單なる雜歌であつても、その歌に伍して、家持の作のあるのは、防人を管する人としての兵部少輔の官としての、鎭護詞《イハヒゴト》的の意義のあることが見られるのではないか。
「爲(ニ)v應(フル)v詔(ニ)儲《マケ》作(レル)歌一首并短歌――天平勝寶四年作」の如きも、右の防人擬作と種類は違ふが、奏壽誓約と言ふ上では、等しく咒壽詞《ヨゴト》である。殊に肆宴の宣詞の爲に、壽詞を豫作したのは、此が大儀である爲に、重く考へたので、家持の詩才の鈍乏を意味するものでない。其上、更に此歌の奏壽(67)諷誦についての習熟を得ようとしたことなども、考へに容れて見る必要があらう。かうした類歌の中、前年作の「向(フ)v京(ニ)路上依(ツテ)v興(ニ)預作(レル)侍(シテ)v宴(ニ)應(ゼム)v詔(ニ)歌一首并短歌」の如きは、如何にも縣司《アガタヅカサ》として、地方に在任した官吏の覆奏する心持ちが、さながら出て居り、壽詞の變態としての應詔歌の意義の窺はれるものだ。
前の應詔歌の一昔前なる、「勅2從四位上高麗朝臣福信1遣2於難波1賜2酒肴入唐使藤原清河等1御歌一首并短歌」で見ると、御製或は、福信等の代作に關らず、宣命の形に代つて來た宮廷の「大事」「中事」の歌の樣子が見える。
又、天平四年、節度使藤原宇合等に酒を賜うた時の歌、「食國の遠のみかどに、汝等がかくまからば……皇わがうづの御手もち、隔きなでぞ犒犒《ネ》ぎ給ふ。うち捨てぞ犒《ネ》ぎ給ふ……」(卷六)と言ふ聖武御製も、趣きは一つである。さうして、此方では明らかに、傳宣者の感情と、發言主の表白とが、一種の敬語法の矛盾を作つて居る。
又、同樣の傾向の、親族友人等の餞したと見える作が多くある。其中、「天平五年贈2入唐使1歌一首并短歌」の如きは、作主未詳とあるが、「そらみつ倭の國」云々から、住吉の大神を言ひ、荒き風浪に逢はせず還さむ事を願ふ類型の一つである。卷十三に出た柿本人麻呂集の歌、
あしはらの 瑞穗の國は、神ながら ことあげせぬ國。然れども ことあげぞ、我がする。ことさきく、まききくませと。つゝがなく、さきくいまさば、ありそ浪 ありても見むと、百重(68)浪千重浪 頻《シキ》にことあげす。我は
此も亦同類であり、人麻呂の作かどうかは、疑はしいが、かうした種類の歌も、私人の作物としてあり得ることを示してゐるのである。だが同時に、宣り歌の變形として見る事が出來る。畢竟、國の大事・中事・小事などに出される宣詞は、之を歌を以てする事も出來ると共に、一方歌に譯して、大衆化した事のあつた事情が窺はれる。
殊に、藤原清河に賜つた歌の場合は、古寫本に、一首全體宣命書きで表記して居り、其他にも數个處、其かと見えるものが散見してゐる由を、友人武田祐吉が述べてゐる。(大正七年、「短歌民族」第一號及び「國文學研究」)さうして、「歌宣命」なる新しい名目を設けて居る。唯、宣命書きを用ゐた事は、第一底本において、さうした歌の性質を明らかに知り過ぎた爲の錯誤として、さうした表記法を採る樣に導いたものとも思はれる程、極めて尠い例でもあり、又如何にもなり得べき誤りの徑路をも考へる事が出來る。だが一方、意味深い殘存として、之を他に延長してよい暗示を含んでゐる事も、認めねばならぬ理由がある。此友人の發見した材料を、私の過去の考へ方の上に、更に加へてよいと思ふ。
咒歌と長歌との關係
長歌の中には、宣詞の意義のものと、壽詞の用途に當るものとのあつた事は、かう言ふ風に考へ(69)られて來る。ところが更に、前の感寶元年に戻つて見ると、「閏五月六日以來起2小旱1百姓田畝稍有2凋色1也。至2于六月朔日1忽見2雨雲之氣1仍作雲歌一首并短歌一絶」は、宮廷の祝詞と違つた發想を持つ所の、壽詞《ヨゴト》式の長歌である。而も、其に接した「賀2雨落1歌一首」『我が欲りし雨は降り來ぬ。かくしあらば、ことあげせずとも、としは榮えむ』を見ると、愈、壽詞的色彩が強く見られる。詳しく言へば、精靈としての素質を明らかに持つた神に、奏上する方面に專らなる咒詞なのだ。
皇祖神《スメロギ》の劃《シ》き坐《マ》す國の 天が下四方の道には、馬の爪 い盡す極み、舟《フナ》の舳《ヘ》の い舶《ハ》つるまでに……あしびきの 山のたをりに、此見ゆる天《アマ》の白雲。海祇《ワタツミ》の底《オキ》つ宮べに、立ち亙り、との曇り合ひて、雨も賜はね
初めは、祝詞式の發想なのが、漸く文學的に傾き、更に其對象たる神の性格の擴張せられて來た痕を示す。
家持は、山上憶良を先輩として、模倣したものが多い。だから此點に見ても、其傾向の來る所が見られる。天平元年四月癸亥の勅に、
内外文武百官及天下百姓(ニ)有(ラバ)d學2智(シ)異端(ヲ)1蓄2積(シ)幻術(ヲ)1、厭魅咒咀(シテ)害2瘍(スル)百物(ヲ)1者u、首(ハ)斬(リ)從(ハ)流(セ)。如《モシ》有d停2住(シ)山林(ニ)1佯(リ)2道(ヒ)佛法(ト)1自作2教化1傳習(シ)授(ケ)v業(ヲ)封2印(シ)書符(ヲ)1合(セ)v藥(ヲ)造(リ)v毒萬方作(シ)v恠(ヲ)違2犯(スル)勅禁(ニ)1者u、罪亦如v此。其妖訛(ノ)書者(ハ)、勅出(タル)以後五十日(ニ)内首(シ)訖(レ)。若有(ハ)d限内(ニ)不v首《マヲサ》後被2糺告1者u、不v問2首從1皆(70)咸(ク)配流(セヨ)云々。
とある。
此は主として、當時、道・佛の區別明らかでなかつた此時代において、方術を山林に修め、人を惑はして家を出奔せしめ、害毒歇き難かつたので、之を禁じようとせられたのである。此趣きを示すものとして、憶良の作物には「令(ムル)v反(サ)2惑情(ヲ)1歌一首并序」がある。此作は、神龜五年七月廿一日の二作に介在してゐる所から、同時の作のやうに見えるが、「思2子等1歌一首并序」と共に、別の時に出來たものと見てもよい。即天平元年の勅よりも遲れて出來たものと見られるのである。更に「好去好來歌一首」を見ると、前の家持の條で述べたと同樣、使節に寄する歌としての類型を保つて居る。
憶良から、殆時を共にして、相觸れて生きたと思はれる柿本人麻呂の作物を見ると、其長歌には、やはり此傾向が多く見える。さうして其現れ方は、極めて内證的になつて來てゐる。宮廷公用の詞章と考へられるものゝ極めて多い中には、前に擧げた人麻呂集のもの以外には、同樣のものは見えず、挽歌が多く、時に宴遊を頌した歌がある位である。こゝに自ら、歌人としての職掌に分擔があつたことが思はれる。即舊式と新式とが區別せられ、其新しい部面として宣詞的なものが出來て來たのであつた。長歌の目的も、次第に展開して來た痕が示されてゐる事を認める事が出來るのだ。
(71)ともかくも、憶良の長歌に見えるものは、如何にも擬古文としてのぎごちな〔五字傍点〕さ、又は生命なき語の斡旋を試みたと言ふ處が見える事である。此は奈良時代の宣命と共通するものであつて、眞に當代現行の語を用ゐたものでない事が感じられる。古語に現れた通則とも言ふべきものを、無制限に利用した點が見える。憶良においては、所謂延約の方則を利用して、盛んに造語を試みてゐる。又、傳來の古語の誤解か、後世から説く事の出來ぬ語が、明確な用語の語間に介在してゐる。此點は、家持には、夏に多く認められる。
人麻呂の實作と傳へるもの及び、其作らしいものには、さうした傳説が起る理由として、如何にも其措辭に、一種の構への感ぜられる事が言はれて來てゐる。即、宣詞口調を斥《サ》すのである。作者未詳で而も、人麻呂作と、認めてもよかりさうな「藤原宮之役民作歌」・「藤原宮御井歌」を例に採らう。
やすみしゝ わが大君。たかてらす 日の御子。……田上《タナカミ》山の……檜《ヒ》のつまでを……やそ宇治川に……浮べ流者《ナガセレ》、其《ソ》をとるとさわぐ御民も……水に浮き居て、新造《イマツク》る日の宮廷《ミカド》に(知らぬ國寄り「來」《コ》「久」〔二字それぞれに)がつく〕世路《セヂ》より、「わが國は不老不死島《トコヨ》にならむ負圖神龜《フミオヘルアヤシキカメ》も、聖代《アラタヨ》と「出」「泉《ミ》」〔二字にまたがって)がつく〕の河に持ち越せる眞木のつまでを……筏に作り、泝《ノボ》すらむ 勤仕《イソ》はく見れば、神《カム》ながらならし
やすみしゝ わが大君。たかてらす 日の御子。……見したまへば、倭地方《ヤマト》の青香具山は、日(72)の經《タテ》の大御門に、……しみさび立てり。畝傍の……山は、日の經《ヨコ》の大御門に、……山さびいます。耳梨の青すが山は、北方《ソトモ》の大御門に……神さび立てり。……吉野の山は、南方《カゲトモ》の大御門ゆ……遠くありける。」高しるや 天のみかげ。天しるや 日のみかげの 水こそは、常《トコシヘ》ならめ。御井のま清水
後の方が、説明に便利だ。疑ひもなく、此歌の題目は、歌によつて繋《か》けたもので、全體としては、御井の歌でない。宮地讃めには、水も亦重要な部分となるから、主要部に置かれて居ると言ふまでゞある事は、誰にも訣るだらう。
萬葉集の修辭法
萬藥集の中、尠くも傳來の古きを誇る卷一・卷二の歌は、殆すべて――と言ふより寧全體――題目・端作・歌引と謂つたものは、後の理會によるものを書いたに過ぎない事は、證明出來る。此亦將來の萬葉學者の討議を經なければならぬ問題である。
歌自身は、傳承せられながら、この由來の細部に到つては、知られなくなつて居たのである。此御井歌においても、新宮地において、天子の國見せられる事を頌へ、宮殿をほめ、四門を讃美し、遂に井水を讃へて、歌を綴めたに過ぎない。總體としては、屋敷ほめの歌である。祝詞の大殿祭は、極めて特殊な場合のものだが、大體あの系統のもので、宮廷生活においては、もつと普遍的(73)な性質を持つたものだ。行幸宴遊の歌には、かうした姿を持つたものが事實多い。結局其等のものも、宮殿ぼめの一分化だと言ふ事が出來る。時代が古くば、單に壽詞《ヨゴト》又は鎭護詞《イハヒゴト》を以てすべきところを、此期に到ると、長歌を以てする方法すら出來て居たのである。勿論、咒詞も用ゐられたのだらうが、さうした儀式の一部として、歌を用ゐる部分のあつた事が考へられる。修辭法において、天の御蔭・日の御蔭などは、平安祝詞にも傳つたが、先代の咒詞からの引きつぎである事がわかる。さうして一轉して「水こそは……」と自由發想をした訣である。而も其上、大陸風な咒法の影響を受けた事は、四門を祝福し、その方角を云ふのに日の縱・横を言ふ樣にすらなつて居る。此は、民俗信仰として、古く浸潤してゐた漢種古代日本人の持つて居たものであつたのであらう。更に思へば「やすみしゝ」と言ふのも、「正寢」――大極殴――に關係ある語だし、「高照らす」の枕詞も、宮殿の直上に照る日を思ひ浮べての語ともとれるから、右の二首その他に通じた冒頭の慣用句は、宮ぼめから出たものと言ふことが出來よう。
さうでなくても、人麻呂の作物の措辭は、祝詞から影響せられてゐると謂はれてゐる。此は單に、祝詞の修辭を學んだのでない。先代咒詞たる宣詞・壽詞から、長歌が出て來たものだから、姿において近接してゐるのだ、と説明し易へねばならない。
前の役民作歌について言うても同じ事で、歌には、役民が中心らしく見えるが、之を諷誦した場合を考へると、簡單に説明は出來ない。唯、祝福の意を籠めて、無制限と言つた程度に、序歌―(74)―諺の分化した二つ以上の好結果を持ち來す咒的修辭法――を利用して居るのは、やはり先代咒詞の姿である。久世路を經て、(宇治川の材木を)泉河に持ち越すと言ふのを、當代以前から盛んになつて居た覓國《クニマギ》の欲望をこめた「知らぬ國よりこせ」と言ふ祝言から導いてゐる。又「わが國は常世《トコヨ》にならむ圓負へる……あらた代と」と言ふ咒的修辭――當代以後益、盛んになつて行つた祥瑞を擧げてことほぐ事によつて、「いづみ河」の語を起して居るのだ。つまり舊式の咒詞と、近代風の生活から出來た修辭法とを兼ね含めた長歌とが、合體してゐる訣である。
萬葉集の長歌には、單純に前代――記・紀に現れた樣な――の宮廷咒詞から、自然に生長して來ただけではなく、非常な飛躍のあることが、もつと/\考へられねばならぬのである。
短歌樣式意識の發生
萬葉の長歌と、記・紀の長歌との相違は、後者では、反歌――短歌の形である所の――を條件としないのに、前者は原則として、亂辭たる短歌が、必要と考へられて來た事である。尤萬葉集においても、創作意識と言ふか、或は時代意識を含んだと言つた方が適切かも知れないが、それの缺けた物、古風な傳承或は、民謠式のものには、反歌のないものがある。ともかくも、萬葉においては、長歌が長歌であり、記・紀においては、長歌の形に似て居ても、畢竟、樣式浮動中の歌に過ぎない。片哥も、旋頭歌も、短歌も、長歌も、後世式の考へ方からしてこそ、其々の軌範に(75)這入るが、其時代においては、單に諷誦の遲速あるばかりで、音數はさのみ、聲樂要素に關係のなかつたもの、と見られるのである。だから、古代の「組歌」が、長短種々のものから出來てゐるのである。だから、短歌の形があつても、短歌が既に、意識せられて居た事にはならない。つまりは、片哥の音數の、膨脹したものに過ぎないのである。だが、かうした形の出現がくり返されて居る中に、次第に獨立した樣式として、意識に上つて來るのである。さうなつて來たのは、片哥そのものとしても屡行はれて、「かつ/”\も いやさきだてる えをしまかむ」と言つた和句に對しての唱句として「やまとの たかさじぬを なゝゆく をとめども たれをしまかむ」と言ふ樣なのも、尠からずあつたのだ。此とおなじ事が、歌が段々長歌らしさを發揮すると共に、其詞章の末段の句に現れて來た。即、或は亂の辭として、末尾の句をくり返して諷ひ反《ヲサ》める風の成立したのが原因である。
おなじ萬葉集でも、古い歌或は、未整頓のまゝ殘つたと見られるものには、反歌がなく、又あつたにしても、反歌らしさが乏しい。寧、後に關係ない短歌を反歌として添へた樣に見えるものがある。卷十三には、さう言ふ形の物が、段々ある。
「小治田のあゆちの水3260」の歌の反歌「思ひやるすべのたつきも 今はなし」の如き、「こもりくの泊瀬の川の3263」の反歌「年わたるまでにも」の如きは、どんな反歌を以て換へる事も出來たのだ。だからとつけ〔三字傍点〕もない歌が、(或本反歌)として傳つて居るのだ。「わが心燒くも我なり3271」な(76)る反歌が(3270)の長歌についた事情は、「さし燒かむ少屋《ヲヤ》のしき屋」と言ふ詞があつた爲であらう。「二つなき戀をしすれば、常の帶を 三重結ぶべく、我が身はなりぬ3273」と言ふ「賦數詞歌」が、「うちはへて」の長歌の反とせられたのは、其末段が「わが戀ふる千重の一重も〔七字右○〕……」となつて居たからの音の聯想に過ぎまい。又合理的に後から、くつゝけられて行つたらしいものもある。「つぎねふ 山城路を3314」と言ふ名高い戯曲的な長歌の反歌は、「泉河 渡り瀬深み」と言ふ如何にも適切さうに見えて、而もありふれたものらしい歌が、續けられてゐる。其に對して、或本反歌とあるのには、長歌の敍事的内容を延長した反歌らしくて、而も著しく、作爲の痕の露骨な「まそ鏡持たれど」「馬|易《カ》はゞ、妹かちならむ」の二首になつて居る。畢竟、古歌があつて、獨り行はれて居たものが、時勢の影響から、自然に反歌を求める樣になつて、生命に流動を缺いた連環が出來て來たものと思ふ。意圖的にも、又無意識にも、調子の聯想に乘つて續いて來る事は、自然にあらはれる事なのである。
だから、萬葉集の長歌の中には、長歌意識のないものを計畫的の長歌から區別する必要がある。其上又、長歌・反歌並んでゐる樣に見えても、實は組歌としての長句・短句で、對等の地位にあるものでないかどうかを見ねばならぬ。譬へば、卷一初頭の雄略天皇御製の如きは、長歌ではない。唯古代の唱和の隻方なのである。單に二聯一律のものに過ぎない。
此二聯を一律とする傾向が、長歌は元より日本古代歌謠の基調となつて居た。二聯が緊密感を持(77)たせる樣に飽和すると、新しく今一聯を以て、此に對照させようとする樣になる。かうして、段々長歌樣式は長さを増すと共に、單なる排律的な配列から救はれて來る。對句・疊句ばかりで、歌の拍子は、益弛緩する一方なのだ。ところが、歌の形を長くする事に、宮廷詩人・邑落警策家の誇りが傾いて來る。さうすると、聯と聯とがつくる段落の緊張感の欲求が、語句の上に移つて來る。さうなると、約束として守られなければならぬ所の聯の契合點は、形式的に最後尾に殘される事になる。かうなると、其段落に對する感觸が鋭敏になると共に、諷ひ亂《ヲサ》めは、此短句を以てする事になつて來る。固有の聲樂上の約束でもあつたらうが、當代の外國音樂のてくにっく〔五字傍線〕として重要視せられてゐた方法であつたからだ。其は單純化せられて、末尾の三句(577)を、用ゐる事になつて來たのが、萬葉集中に見える古い状況である。其が、形式的に熟知せられて來ると、片歌の樣式だつた爲に、又再、57。57。7と言つた形に近い膨脹した句を形づくる樣になつて來る。一方又、對句と、枕詞との修辭欲が、働きかけるのである。
反歌
わこそは。のらめ。いへをも(なをも)。
と言つた形の一聯の前聯からの聯路として、
おしなべて。わこそをれ。……
(78)とあつた筈の處に、對句、
……しきなめて。わこそをれ。
と竝べる樣になつた處で、此歌では、今日の感覺では大した變化を感じない。だが、次の舒明御製では替つて來ないでは居ない。
うましぐにぞ。あきつしま。やまとのくには。
の第二聯の上に、
くにばらは。けぶりたちたつ。
とばかりあつた筈を、
……うなばらは。かまめたちたつ。
と並立せられて來ると、
國原は……』海原は。鴎立ち立つ。うまし國ぞ。秋津島。大和の國は
と言ふ感じに移つて行かずに居ない。但、此歌において言ふのは、唯假りの方便で、他にもつと適切な多くの現象があるのである。
殊に、長歌の末尾の、奇數になつて來る手順を説く必要があるのだが、今は煩瑣を避けて簡單に言ふ。つまり、聯は聯を呼び、句は句、語は語を呼ぶ緊張感欲求が、織細な點まで働くのである。即、右の例で見ても、
(79) わこそは。のらめ。いへをも(なをも)
「なをも」の句は、元來「いへをもなをも」として成立したのでなく、必「いへをも」の對句として生じて來たのである。又句で言つても、萬葉集にも數个處見える佛足石體の、短歌の第五句とおなじ形を今一つくり返すのが、其である。かう言ふ根本欲求から來る句法が、長歌を奇數句にし、さうして其末段を、片歌と同じ形とならせた訣なのだ。
大凡、5|7〔右○〕7に近い末尾句に、枕詞がつくと、歌自躰自然の制約の爲に、5|7〔右○〕577と謂つた形になる。
……網の浦の海人《アマ》處女らが 燒く鹽の 思ひぞやくる。わが下心
などで見ても、「わが下心」は、「わが下心思ひぞ燒くる」の転倒ではない。對照意識から補充せられたものと見るのがほんたうである。
……春草の繁く生ひたる(五字右弓括弧〕立つ春日のきれる)』もゝしきの 大宮處 見ればかなしも
……この川のたゆることなく(この〔四字右弓括弧〕山の いや高からし。)珠水激《スミタギ》つ(?) 瀧《タギ》の宮廷《ミカド》は 見れどあかぬかも
……上つ瀬に鵜川を設《タ》て(下つ〔四字右弓括弧〕瀬に さでさし渡す)山川〔四字右弓括弧〕も よりてまつれる 神の御代かも
一方かう言ふ風に、どうしても上段の對句が、下段の三句から五句を誘發しようとしてゐる。
……たまかぎる 夕さり來れば、み雪ふる阿騎の大野に、はだずゝき しのをおし靡《な》み 〔三字右弓括弧〕くさ〔はだ〜傍線〕(80)まくら旅やどりせす。古思ひて〔 〜傍線〕
などは、段落感が緩んで居る爲に、極めて自然に五句の形を採つて來る。
此類は有名な人では、殊に人麻呂に著しい。
……もゝたらず 筏に作り のぼすらむ いそはく見れば、神ながらならし
……天知るや 日のみかげの 水こそは とこしへならめ。み井のま清水
……いや遠に……いや高に……。夏草の 思ひしなえて偲ぶらむ 妹が門見む。靡け。この山
……ますら雄と思へる我も、しきたへの 衣の袖は、とはりて濡れぬ
……天の如ふりさけ見つゝ、たまだすき かけて偲ばむ。畏かれども
……たまほこの 道だに知らず おぼはしく待ちか戀ふらむ。はしきつまらは
……まそかゞみ 仰ぎて見れど、春草の いやめづらしき我が大君かも
短歌としての不完全なものと、既に短歌としての拍子感を現代人に與へるものとがある。尤他にも、此傾向は豐かに見る事が出來るので、人麻呂には限らないのだ。
……橿の實の ひとりか寢らむ。問はまくの欲しき我妹が 家の 知らなく
……色に出でゝ人知りぬべみ あしびきの 山より出づる月まつと 人には言ひて君まつ我を
……射部立てゝ しゝ〔二字傍点〕待つ如く、とこしきて 我が待つ君を。犬な吠えそね
……あしびきの 山の木ぬれに 延ふつたの わかれの あまたをしきものかも
(81) ……思へども、遺し知らねば、獨り居て 君を戀ふるに、哭《ネ》のみし泣かゆ
此等は、古民謠と見るべきものゝ中から、短歌を孕胎する道筋の見えるものを拔いたのである。とりわけ、民謠としての歩みは、その流傳も廣く久しいから、無意識を意識化し、發生を助ける事が多いのである。此中、「あしびきの山よりいづる」の歌は、卷十二には、「妹待つ我を」と言ふ傳へを採用して、短歌として扱つてゐる。かうした無名氏の歌には、長歌の末段の短歌成立以前に游離して、發生を助けたものが多いのだらうと思ふ。
この長歌の末段をくり返す事が、短歌を發生させるよりも先に、反歌としての階梯を合んでゐる事は忘れてはならない。反歌としての方法が出來て後も、やはり歌の中には、反歌に發生する原動力は動き止まなかつた、以上の短歌類似のものを見せてゐるのである。而も反歌は、單に反歌ではなかつた。一種の「かけあひ」の氣分を多く持つ所から、愈一つの詩の樣式として同定し來つたのだ。
(一)……つばらにも見つゝ行かむを しば/”\も見さけむ山を 心なく 雲のかくさふべしや
反歌
三輪山を しかも隱すか。雲だにも 心あらなむ。かくさふべしや
(二)……神ながら神さびせすと……遊副川の神も、大御饌に仕へまつると、……上つ瀬……下つ瀬……山川も よりて つかふる神の御代かも
(82) 反歌
山川もよりてつかふる 神ながら たぎつ河内に、船出せすかも
此等の歌で見ても知れる樣に、反歌の中には、尻取り文句に近い方法で、新しい展開を作つて行くものがあるのだ。此から見れば、問答・唱和の方法は、反歌の發生を助けて居るに違ひない。歌垣・※[女+燿の旁]歌曾《カヾヒ》、又は小集樂《ヲヅメ》と言ふ名で、本集に見えてゐる歌の唱和を條件とする邑落の祭儀は、長歌から脱落游離する短歌を育てる力強い機會となつて居たに違ひない。其は又同時に、短歌を盛行させる原因にもなつたものであつたのだ。
歌垣を中心にして考へると、短歌時代のあつた前の時代は、旋頭歌《セドウカ》唱和の時期があり、其前は最古い形で、片歌の懸けあひをしたものと思はれる。記・紀になると、組歌をすら用ゐた樣に見えるが、其の敍事詩化した傳奇の插入であるだけに、多少の疑ひは殘る。
萬葉集の部類
萬葉集においては、後世ならば正確に戀歌と言ふべき部類を、相聞《サウモン》又は相聞往來と稱へてゐる。相聞の字義に囚はれた爲、專ら男女の贈答と定める事を避けてゐるが、正しくない。問答・縣け合ひの用語例を用ゐたのである。古來わが國の戀歌は、往來消息とおなじ意義にあるもので、獨り思ひを抒べるものでないのが、本義だつたのである。
(83)此意味において、短歌の本質として、戀愛に傾いて居る事の説明はつくのである。相聞に用ゐられる事によつて短歌は獨立し、更に其内容すら、擴充せられて來たのであつた。
萬葉集における正確な部類は、雜歌を本體と立て、此に相聞を配するにあるらしい。さうして、相聞の一部門として挽歌を加へる所に、本意があるのでないかと思はれる。更に相聞に「正述心緒歌」なるものと、「寄物陳思歌」と稱すべきものとを分ち、之を別の用語例で、「相聞」及び譬喩歌としてゐるのである。而も此名稱は、必しも的確に用ゐられないで居る。汎く言へば、此等の分類は、すべて雜歌の中に籠るので、更に整理を試みるならば、雜歌に種々のものを交へて居る。事實卷一・卷五・卷六・卷十六の如きにも、種々の歌が錯綜して居り、卷十五・卷十七――卷二十に到る卷々も、おなじ見方からすれば、雜歌に部類する事が出來るのである。
つまり歴史的重大性を持つて居るものは、原則として、譬ひ、他の分類に入るべきものも、一樣に雜歌と見なしてよいのであつた。言ひ換へれば、宮廷詩としての意義を明らかに持つものが、雜歌だつたのである。此事は、古今集以後の勅撰集にも、見られる事實である。相聞・挽歌の内容以上に位すべきものを持つて居る、と言ふ事になるのであらう。又宮廷のものでなくても、歌としては、雜歌である事が、第一義である爲に、私人の物にも部類を施さないものは、全體として、さうした歴史價値を有するものと見られたのであらう。
相聞は、卷二では挽歌よりは稍少く、卷四全體を占めて居る。卷三では、譬喩歌として登録せら(84)れて、挽歌より數が減じてゐる。だが、卷七などでは、優勢になつて、譬喩歌として、挽歌の二十倍になつて居る。卷九でも挽歌の十數首に對して、遙かに數が多い。卷十一・十二は殆全部相聞であり、卷十三も全卷の半分を持つて居る。十四の東歌も殆すべてが相聞であり、特に譬喩を分けても居る。十五も多數の相聞歌を含んで居り、殊に中臣宅守相聞とも言ふべき、六十三首がある。十六は名目は雜歌だが、亦多くの相聞がある。十七以下の家持中心の卷々にも、勿論其に屬するものが多い。かうして見ると、宮廷詩には挽歌として傳はるものが多いが、私人のものには、登録せられる事が尠かつたのである。つまりは、宮廷詩としての性質上、挽歌も自然多く傳承せられた訣なのである。唯、その中、卷八・十の二卷には四季の相聞があつて、四季雜歌に對して居る。此とて、雜歌の部に相聞を混じなどして居る。又、處々にある※[覊の馬が奇]旅歌の如きも、相聞歌の一分化したものと見られるのである。結局は、萬葉集は、雜歌と相聞との歌集と言ふ事が出來る訣である。
私の話は、尚相聞の小別け及び、挽歌とについて述べなければならぬ。が、私事を語つては甚すまぬが、今大患に沈んで居るものをかゝへてゐるので、よぎなく、相聞・挽歌の關係を説くに止める。だから自然、この論文も、萬葉集形態考察の、ほんの緒口を作つたに止るのである。
(85) 歌の發生及びその萬葉集における展開
昭和四年十−十二月、五年五−九月、改造社
「現代短歌全集月報」第二−四、七−十一號
私は、萬葉集の編纂法に一貫した方針を見ることは出來ぬ、と考へてゐる。が其間に、歌の本質に隨順した無意識の統一法の現れてゐるのを見る。其特に著しいのは、卷々の形式的の區劃に於いてである。この事實を便宜上、卷一を中心にして説いて行かうと思ふ。
一 部立の事
卷一では難歌《ザフノウタ》が本體になつてゐる。卷一・卷二の兩卷は、大體一つのものであつて、同一の時に、同一の計劃から出來あがつたものだ、といふ事に近來は議論が落ちついて來たやうである。
萬葉集を勅撰集だとする人々は、この兩卷を根據としてゐる。併し萬葉時代に、萬葉を勅撰集だなどゝ論ずるのは、近頃までさう思つて來たが、今では無意義に思へる。この事が、この話から訣つて來れば、幸ひである。さて、卷一・卷二を通じて見ると、
(1) 雜歌(卷一)・相聞歌(卷二)・挽歌(卷二)
(86)この三通りの區劃がある。この區劃がどんな意味のものであるかは、後に述べるが、これが、日本の古い宮廷の歌、即古語で言ふ大歌《オホウタ》、近代の語を用ゐると、宮廷詩とも稱すべきもので、宮廷に關係を持つ内容のものである。ところが、時代を經るにつれて、この宮廷詩の中に、其々の時代の宮廷詩の本體が現れ、次第に整理が行はれて、竟にこの中の挽歌といふものがなくなり、雜歌と相聞とが、本體になつて來た。即、雜歌の中に、新しい時代の意味の變つた、本たうに死んだ人を悼むといふ支那の挽歌に、ぴつたり當る意味のものを、その一部分として、含めて來たのである。
次に、從來の相聞歌は、眞直に思ひを述べるものと、譬喩をもつて述べるものとの、二種あるやうになつた。相聞歌は、元來譬喩的なものであるが、その中から、特に譬喩的な意味の重いものを取り出して、二種としたのである。勿論萬葉では、かうした明らかな意識をもつて、部立を組織してゐる訣ではないが、大體こんな姿の組織がうけとれるのである。それは、卷三・卷四を見て訣る樣に、
(2) 雜歌・挽歌・相聞・譬喩歌
といふやうになつてゐる。これは、實はかういふ風にをさまらねばならぬ、本來の意義があつて、かうなつたのだ。雜歌の中に挽歌が含まれ、相聞から譬喩歌が出たのである。卷三・卷四も、一纏りのものと昔から信ぜられてゐるが、併しこの兩卷は、大分くづれてゐて、分類が正確でなく(87)なつてゐる。殊にある家に所屬した歌集だといふ事を、明らかではないが、ほのめかしてゐる痕跡がある。(2)の分類は、實に(1)から(3)への過渡期の形なのである。つまり、第三の分類の、
(3) 雜歌・相聞(四季)
といふ完全な形になつてしまはねばならぬ。この形の完全に現れたのは、萬葉の卷八と、卷十とであつて、これらの卷には、歌の作者の訣るものと訣らぬものとで、又、年代の異なることによつて、歌を別けてゐる。これは、卷十三・卷十六にもある事實である。卷八・卷十には分類の標準があつて、四季の雜歌・四季の相聞歌によつて別けてゐる。これで大體、日本の歌集編纂の態度が固定し、即、これが、大歌の本體と定まる訣で、他のものは、附けたりといふ事になる。つまり、宮廷詩の中にある、不吉な、厭ふべき内容をもつたもの、不純・不愉快な感じを起させるもの、不快な音覺のものをとり除く、といふやうになつた爲である。かうなると、長上を祝賀する意味のものが、原則になつて來る。是が此集の到達した最後の形で、即、萬葉集は雜歌と相聞との二大對立よりなるものである。
大抵の人は、萬葉を読む場合、卷一・卷二は読む。此はちやうど、源氏物語を讀む時、須磨・明石位まで讀むのと同樣である。もしさうならば、卷八・卷十は卷一・卷二と、對照となるべき大きなもの故、其内容が文學的であるか否かは別問題として、是非読んで頂かねばならぬ。この兩(88)卷は、文學的には賛成出來ないものも澤山あり、そして他にもつとよい卷々もあるのであるが、文學史的に言うて必要な卷なのである。
これ等が、更に分れて、
(4) 雜歌集(卷五・卷六)・相聞集(卷十一・卷十二)
と各獨立して、出來て來た。即、大體からいうて、卷五は雜歌集で、卷六も先、さういふ形を備へてゐる。次に卷十一・卷十二は、明らかに、相聞集としての色合を、著しく出してをり、その他の卷々は、この分類をごつちやにしてゐる。その事は、卷別けの意義を述べる所で話したい。卷五・卷六を純然たる雜歌集とする事には、些か躊躇するが、併し萬葉の編纂者は、雜歌集として、材料をごた/\にして編んだものだと思はれる。なぜなら、その材料の蒐め方が有機的でない、といふことによつても知れる。相聞を主としたとせられる、卷十一・卷十二には、その標目も相聞往來歌としてゐるから間違ひはないが、この集では、奈良朝から平安の初めにかけて行はれた、支那の詩體の論を著しく取り入れてゐる。即、日本の後世の言葉でいふ、歌學・歌論の意識を、多量に出してゐる。
歌論と言へば、古くは、歌學を含む所の、歌の制約などを箇條的に擧げて來たのであつたが、後には、その内容をも説明するに至つた。さうした歌論的なものが、この集の編纂者の頭にも動い(89)てゐたと思はれる。
此歌學歌論は、日本の文學の發生的檢討に於いては、非常に意味の豐かなものであるが、その内容は、くだらないものであつた。我々は新しい日本の文學論を樹立すればよいのだ。私は、以前、日本の歌論はつまらなく、こんな研究に没頭しても、何にもならぬと思うてゐたので、歌學・歌論を主張する人の、氣持ちに同情が持てなかつたのであるが、さうした歌學・歌論の發生・發達の徑路を見ると、大へん面白く、驚くべき收穫があるやうに思はれて來た。併しこの方面の、この意味に於ける研究は、まだ見るべきものがない。古來、明治に至るまで、古い歌論をよいものとして、研究した學者はあるが、こゝにいふ意味で、研究した人は、まだ無かつたのである。從來の國文學者のやつた學問の中で、一番無情値なものは、歌學であつた。
併し、これを新しい立ち場から組織し直したならば、非常に意味あるものが出て來るであらう。これは、我國の文學の性質の研究に暗示を與へるに違ひない。即、歌式の研究は、我々の文學意識の展開を自ら訣らせてくれる。
卷十一・卷十二は形式と内容とが、混亂してゐる。これは分類が極めて不精確な爲であるが、譬へば形式の上で、古《イニシヘ》の旋頭歌を取り入れてゐる樣な事實がある。さうかと思ふと、内容の上で、戀歌らしいものに、いろ/\な包含がある。
正述心緒歌・寄物陳思歌は、事實、相聞の歌の内容になつてゐる。古代の歌を分類しても、やは(90)りこれに落ち著くやうである。寄物陳思歌は、つまり一種の譬喩歌である。萬葉時代になると、純粹の譬喩歌が出來て來た。これは支那の文學の影響であると思ふが、併しここにいふ影響とは、今までの學者のいふ意味とは少し違ふ。これに就いての説明は、他日に讓るが、これが萬葉の相聞歌の一の内容となり、そして同時に、その本體となつた。これに對して、問答歌がある。
一體日本の相聞とは、古來のかけあひ〔四字傍点〕であつて、戀歌ではない。支那の言葉の相聞に盛りきれない意味を持つてゐた。平安朝になると、相聞歌を全く、戀歌の意味にしてゐるが、事實、兄妹親子の間の親しみを現すものもあつて、昔の人も、此をしたしみうた〔六字傍点〕などゝ訓んでゐる。併しかけあひ〔四字傍点〕は男と女とのかけあひ〔四字傍点〕が多く、そこに自と戀愛的・性慾的なものが生じて來て、次第に戀歌の内容をもつ樣になつたのだ。
寄物陳思歌《モノニヨセオモヒヲノブルウタ》は、半分譬喩で、半分直接のものである。そこに、譬喩歌との區別を措かねばならぬ。問答歌は、相聞歌の元來の形で、本たうのかけあひ〔四字傍点〕であり、戀愛的氣分のだん/\稀薄になつて來たものである。すると、この時分の人の頭では、この三つ、即|正述心緒歌《タヾシクコヽロヲノブルウタ》・寄物陳思歌・問答歌の區別が出來なくなつて、混同してゐた樣である。併し便利な事には、問答歌の時には、大體似た形の歌が一つ宛竝ぶか、一つ以上竝ぶか、又は一つの歌を、二部分に分けて歌うてゐる。又、問答歌は、形式上の分類に、多くの意味をもつてゐる。
(91)譬喩歌は、奈良朝で發達したもので、寄物陳思歌と殆その内容上、區別のないものもある。つまり譬喩歌は、自分の考へをすつかり、外界の事象によつて現すもので、これが更に進むと、象徴歌になる。この譬喩歌こそ萬葉集中、最文學意識の豐かなもので、新しい支那の文學意識によつて動かされた、心持ちから出てゐるのである。これを單に、模倣歌だといふのは、その時代の人の生活を顧みないものと言うてよい。
まづ以上の三つの區別が、相聞に出て來る。この外に、所屬不明のものがある。即、大體戀愛の氣分をもつて作つたと思はれるもので、※[覊の馬が奇]旅發思歌・悲別歌といふものが、附録として出て來てゐる。
以上述べたところによると、萬葉集は結局、雜歌と相聞歌とを、大體分類の單位の本體としてゐる。その外のものは、分類が傾き過ぎて、細かになつたか、或は歌が不正確であつた。然らばなぜ、この萬葉集全體を大歌と見てゐるか。なぜ大歌である卷一・卷二を通じて、雜歌・相聞・挽歌といふやうに、挽歌を特別に取り扱うてゐるのか。これを、簡單に説明しよう。
二 卷別けの意義
我々の短歌に對する考へは、昔と今とでは、非常な相違がある。今は、短歌を明らかに、文學として取り扱うてゐるが、併し正月の獻詠歌等に見るやうな氣持ちで作る人もあり、又中には、も(92)つと不純な氣持ちで、茶や花と同樣に、應用文學として作つてゐる人も澤山ある。だん/\溯るに從うて、文學としての色彩が薄くなり、文學意識がなくなつて來る。萬葉集に於ては、この文學意識の發生して來るまでの經過を見ることが出來る。
先私は、萬葉集を文學としては扱はない。文學として扱ふから、涙を流し過ぎ、情熱を發しすぎるのである。私も萬葉を愛する事にかけては、敢へて人後に落ちないつもりであるが、さうかと言つて、信者が佛典や聖書を讀むやうな態度をとる事はいけないと思うてゐる。萬葉集を文學として見ないことに、學問をする者のつまらなさ、淋しさはある。赤彦などは、萬葉を經典のやうに扱うてゐた。併し學問としてやる段には、さうは行かないのである。自分は常に、それを淋しく思ひながら、言はゞ一番面白くない方面から、萬葉集を扱うてゐるのである。
それでは一體、歌とは何か。歌は、發生の初めから抒情的なもので、且、謠ふべきものであつた。これに對して敍事的なもので、謠ふ分子の尠いものが敍事詩即、物語である。そこに抒情詩と敍事詩との對立關係が成立する。
咒詞《ジユシ》とは、神に申し、又は神から申される詞《コトバ》で、古い意味の祝詞《ノリト》である。これが餘りに長いので、そのえっせんす〔五字傍線〕とも言ふべき諺が出來て來た。即、これを唱へただけで、全體を唱へたのと、同じ效力を得たのである。
咒詞が諺を分化したやうに、物語は、歌を派生した。そこでその歌を唱へると、その敍事詩全體(93)の效果が出たのである。この咒詞が發達して、物語と對立し、諺と歌とが、又對立した。これらは全く、無意識的の發生であつて、考へても出來ぬことなのである。諺は、大體二句のもので、それがだん/\擴張したが、結局は偶數句形のものだといふことが出來る。歌は三句のものが古く、それが擴張して奇數の形になるが、かうなる運命をもつてゐたものといふべく、そこに諺と歌との差異がある。
かうして歌を謠ふのと、物語を語るのと同じ効果をもつと考へられて、それが後になると、歌ばかりが、日本の律文の中で、もてはやされる樣になつた。これは、日本の民族の習慣の上で、歌で思ひを述べるといふ事情を、長くもつてゐたからのものである。歌とは、一口に云ふと、自分の思ひを述べるものであるが、目上の人・征服者・君主に對して、衷情を訴へるものである。歌ふ〔二字傍点〕と訴へ〔二字傍点〕るとは、同語源からなつてゐる。かういふ歌を要求した社會生活が、わりあひに長く續いた。恐らく、奈良朝の末までも、これが意識的に續けられたと思はれる。その後だん/\、この意識がぼんやりしたが、併しその形は末に殘つてゐる。
元來日本の古代人の心理には、服從を誓ふと同時に、その人の生命財産の幸福安寧を祝福するといふやうな、多樣の意味を含めて考へる事が出來た。祝詞《ノリト》製作の神としての八意思兼神《ヤゴヽロオモヒカネノカミ》は、口頭の詞章にして永遠の慣値をもつと信ぜられた詞を作つた神で、それを後人が、天兒屋根命《アメノコヤネノミコト》と言うてゐる。これは、歌ひかけられた者は祝福せられ、相手に服從を誓はせた形となつてゐる。こ(94)れが、神文誓詞《シンモンセイシ》の古い形となるのである。即、儀式的に下の者が、上の人に對して捧げる詞が多くなり、其とゞのつまりが歌となつた。それが日本の律文の本體のやうになつたのである。これは社會組織の要求の上から、これを唱へる樣になつてゐたからで、それが文學的で、面白いといふ事からばかりではなかつた。
萬葉集は、歌集である。記紀のやうに物語化し、散文化したものでなく、歌以外のものは、何もない。つまり歌を原則として集めたものである。萬葉集以前にも、かういふものが澤山あつた。即、地方々々・家々に必、歌はねばならぬ歌があつて、それが多く傳つてゐたと思はれる。萬葉集の中には、さうした一個人の歌集と思はれるものが、澤山見えてゐる。
歌の全盛時代が續いてゐる中に、最後に殘つたものが、三十一文字の短歌の形である。併し、この短歌だけで、歌の形を極めては、萬葉以前の歌の形は訣らない。勿論長歌も旋頭歌も這入つてゐたものと考へねばならぬ。それならなぜ短歌だけが、そんなにやかましく口ずさまれねばならないやうに、世の中が爲向けたか。なぜ歌が、そんなに盛んになつて來たか。その事について述べたいと思ふ。
形の長いもの、短いものを通じて、根本になつてゐる理窟が、一つある。それはどの歌にも鎭魂(95)といふ意味がくつゝいてゐた事である。これは萬葉集に限らず、歌からは、凡て鎭魂の意味を離すことが出來ない。つまりは、魂を鎭める爲のもので、歌をうたふとその人の魂が、相手の體にくつゝく事になるのである。この魂をつける鎭魂の律文が即、うた〔二字傍線〕である。それでは、前述の歌の意義との交渉は、どうかと云ふに、服從する時、魂を捧げる歌の文句を唱へる。さうすると、自分のもつてゐる魂が、相手の體にくつゝくものと、昔の人は信じてゐたのである。處が魂は、目に見えないもの故、それでは物足りない感じがするのであらう。後には、珠(玉)や劔をとつて捧げるとか、自分の愛してゐる物を奉るとかして、それを魂のしるしとしたのであつた。これが貢(みつぎ)である。即、語を換へて言ふと、魂を奉る文句が、歌なのである。
然るに、この鎭魂といふ事は、萬葉時代に既に、二段の變化を含めてゐる。まづ、魂を附著させるといふのが、極《ゴク》古い意味で、次には字義どほり、自分の體にある魂を、外部へ游離させないやうに、ぢつと鎭めて置くといふ意味になる。この二つが、だん/\信仰上の混亂を來して、外から魂を附著せしめる信仰と、内にある魂を、發散させないといふ意味とを含めて、鎭魂と云ひ、前者をたまふり〔四字傍点〕後者をたましづめ〔五字傍点〕と云つた。萬葉には、この二つがあるが、古いものには、やはりたまふり〔四字傍点〕の方が多い。
精力の源なる魂を、事《ツカ》へる主人に捧げる事は、絶對の服從を誓ふ事になる。つまり、主人以上には出られない、といふ事になる。そして歌を歌ふ事は、服從を誓ふことゝなり、同時に魂を多く(96)捧げられるものは、健康を増進し、益、幸福になると考へたのである。この服從の誓ひの歌から、問答かけあひの唱和が出て來る。つまり男と女がかけあふ、それの元の形は、土地の惡い魂を、外から來た強い魂が壓服させる事である。近くにゐる土地の神は惡い神と考へられ、それを、遠くから來る尊い神が、壓服してくれるもの、と考へてゐた。併し實際は、神が來るのではなく、神の扮装をしたものが出て來て、土地の神(精靈)に扮装した者が屈服せられ、服從を誓う形で終る。この時に、歌を歌ふのである。
かういふ意味から唱和の歌は、相手に對して、自分の魂を捧げて、その健康・幸福を増進せしめ、永久に服從する事を誓ふものであつた。そして、その内容が更に進むと、相聞戀歌が出て來るのである。
この服從を意味する鎭魂の歌を分析すると、祝賀《ゴトホギ》の歌と、唱和の歌とを考へる事が出來る。かけあひ歌が變化して、ことほぎ歌となる。それはちやうど、前述の咒詞《ジユシ》と對立してゐる物語から、歌が出て來て、諺と對立してゐると云うたが、
宣詞……身分の上の人から下へ宣り下す詞
咒詞
壽詞《ヨゴト》……身分の下の者から上の人に申上げる詞
物語――歌
實は、咒詞の中の奏詞と歌とは、意味がよく似てゐる。話を簡單にすると、歌は本たうは壽詞の(97)中の眞言《シンゴン》から出てゐる。そしてこの奏詞が一變化すると、物語になり易い性質をもつてゐる。諺は、實は咒詞の一分化なる宣詞から出たものである。祝賀《コトホギ》の歌は、大體土地なり、家なりの代表者が、尊い人の前に出て歌ふもので、歌を唱へると、その土地・家の源なる魂が、その人にくつついてゆく。これの發達して今日まで民間に殘つたのが、千秋萬歳《センズマンザイ》で、その直前の形は、ことほぎ〔四字傍点〕といふ藝であつた。宮廷に殘つたものは、大歌の中に次第に變化を起して、踏歌章曲といふものに纏まつて行つた。
三 相聞と挽歌と
これが實は、萬葉の卷八・卷十に集められた歌である。この踏歌章曲は、漢語のまゝに言ふものと、漢語をくづして言ふものと、歌の形で言ふものとある。その中純粹の國語で言ふ歌が多く用ゐられ、その一番古いものが、卷八・卷十の四季の雜歌である、と私は信じてゐる。
その鎭魂の大歌の中に、あそび歌といふものがある。あそぶ〔三字傍線〕は舞踊する事、それもたゞの舞踊でなく、鎭魂の舞踊である。奈良朝より平安朝にかけてあそぶ〔三字傍線〕といふ事が、ある意味で固定して、遊部《アソビベ》といふものがあつた。これは次第に、葬式を取り扱ふものとなつたが、古くは、一旦游離した魂を取りかへして、身にくつゝける、魂《タマ》しづめの役をするものである。それが何故死んだ時にのみ用ゐられたかと云ふに、古代の日本人には、死んだのか、氣を失つてゐるのか、區別がつか(98)なかつたので、魂がくつゝくと再、生きかへると信じてゐた。この生死の區別のつかない期間は大體一年であつた。
處が次第に、生死の意識が明らかになつて來ると、生死の時間關係が短くなる。萬葉の挽歌には、同じく挽歌とは言ふものゝ、生死の意識を明らかにもつてゐる、奈良朝時代の挽歌もあり、今一つ古い時代の死骸の傍を踊りながら、歌うた歌もある。これは、葬式の爲にしてゐるのでなく、一處懸命に魂をよび起して、再、體にくつゝけようとする爲のものである。譬へば、天岩屋戸に天照大神がおかくれになつた時、天鈿女命が、その前で踊られたといふ話に見られる如く、そこには、生死不明の時期だから、魂しづめとしての歌舞を捧げられたといふ事が、想像出來るのである。
このやうに生死の不明の時の鎭魂の歌を、挽歌といふ事は不適當であるが、萬葉では事實、挽歌の中に含め、相聞の歌とごつちやにしてゐる。「こんなに戀ひ慕うてゐるのだから、戻つて下さい」と言ふから、死人を戀ひ慕うた歌も、同時に又、生きた人を戀ひ慕ふ歌ともなる。だから、挽歌と相聞との境目が、非常に曖昧になる。即相聞の中にも、挽歌があるものと見ねばならぬ。このあそび歌の部類から言ふと、挽歌及び、病氣の時の歌も、その内に含まれるものである。病氣は、惡い魂がくつゝいた爲に起ると考へたから、元の健康な魂を戻さうとして、鎭魂を行うた。この病氣の歌の例は、卷二に多い。
(99)又、※[覊の馬が奇]旅發思歌(旅行の時の歌)及び、悲別歌も、このあそび歌の中に含まれる。旅行をすると、魂が病にかゝり易いものと考へた。だから昔の人には旅行が、辛かつた。旅に出るには、自分の魂の半分しか待たず、その半分は愛人の許に殘す。その代り、愛人の魂を、半分自分が持つて出た。故に、兩者とも不安で、病氣などになり易いのである。それで、別れを悲しんだ歌が萬葉集中に澤山見えるのである。
相聞はこれ迄たゞのかけあひであつたのが、この旅行の時のしみ/”\とした心持ちから、戀歌に近づき、竟に、相聞から純粹な戀愛詩といふものが、生れた。萬葉集中にある旅中の人を思ふ歌、旅中から家にゐる妹を思ふ歌などにある紐を、昔から問題にして、これを性欲的に説明してゐるが、奈良・平安時代には、この下紐などゝいふ事は、普通に用ゐられてゐた語で、そんな性欲的な氣持ちはない。旅行の時に、紐を妹が結び、魂をこめてくれる。そして半分づゝだから、自分の家に殘した自分の魂、妹の魂を思うて、たましづめの歌を作る。※[覊の馬が奇]旅發思歌は、殆皆これで、それが妹の事を歌ふ故に、戀愛の歌となつたのである。
あはぢの 野島が崎の濱風に、妹が結びし紐ふきかへす (二五一)
これなども、一種の期待が、何でもないものになるから、理由が訣るとつまらなくなる。萬葉の秀れた戀愛歌も、魂鎭めの歌で、非常に殺風景なものになつてしまふ。
(100) きみがゆく道の長てをくりたたね、燒きほろばさむ 天の火もがも (悲別歌、三七二四)
岩戸わる手力もがも。たよわき女にしあれば、すべのしらなく (挽歌、四一九)
女の生活力の強さが出てゐて、えらい情熱の女だ、と今の人には思はれるが、私の樣に考へて見れば何でもない。定石どほりに云うたに過ぎない。前者は非常に誇張的であつて、魂鎭めの爲の一種の劇詩的な歌。後者はさう云はなければならぬから、さう云うたまでの事で、死んだ時には、昔から、「岩戸わる手力……」といふ事が聯想せられたのである。この原理を知らねば、あばたも笑くぼと見る事になる。さう見る事は面白くなくなるが、此處を一度通らねば、つまり偶像破壞をやらなければ、本たうのことは訣らないのである。萬葉の歌を皆よい歌と見てはならない。そこに殘るものは、古代民族の内生活の底に潜んだ、力強いりずむ〔三字傍線〕、即精神を思ふ所に落ちつくのである。
古代の歌は、かうした鎭魂的の意味のものが、色々に分れたものに過ぎない。所が、萬葉集になると、歌を文學意識に上せて來た。譬へば、卷八・卷十の四季の雜歌・相聞歌及び、古風で強い卷七・卷九などの歌には、深くこの文學意識が動いてゐる。つまり卷八・卷十は、世間一般としての文學意識のあつた事が、明らかに見られるもの、文學意識の動きは別として、文學作品として強いのは、卷七・卷九である。歌を、まだ遊戯化しないものを見るには、卷七・卷九がよいと思ふ。さういふ意味で、卷五(大伴旅人・山上憶良等の)は文學意識が餘りに強くなつて、遊戯(101)化し、享樂的になつてゐる點が多い。つまり、大歌が萬葉集になつて、一つの文學臭を含んで來たと考へたい。
四 卷別けの性質及びその變化
萬葉集は、大體大歌の集である。この大歌には、宮廷に昔から傳つて來た歌と、新しく、時代時代に加つて來た歌とある。私も、この考へに至るまでには、長い變化を經て來たのであるが、今の考へ方で、まづよいと信じてゐる。大歌の中には古くから、宮廷の尊い祖先の方々のお歌ひになつた歌が澤山這入つてゐると思ふが、さうして又、實際宮廷の方々の歌として傳つてゐるものがあるが、古事記等を見ると、古い時代は、尊い方御自身が歌はれた事はない。
勿論、新しい時代のものには、御自身の歌もあらうが、古い時代に於いては、尊い方の歌ひかけられる相手がないのである。唯天子が、處女に出會はれて、歌ひかけられた時、その處女の方のは歌であるが、天子のは歌ではない。が、それを一つにまとめて、歌と云ふやうになつた。天子のお歌には、相聞が多い。臣下の作が、誤つて天子の作とせられたものや、代作や、又ある時代を隔てゝは、天子のお歌と稱して傳へさせた歌も生れて來た。が私は、萬葉の古い時代の歌に、天子のお歌を考へる事は出來ないと思ふ。
相聞の歌・死を悼む歌等に、天子のお歌と認められるものはある。併し、その後次第に、天子御(102)自身も歌をお作りになる樣になつた。何時の時代から、歌の用法が變化したかは云へないが、大體歌は下より上へ申し上げたもので、それが次第に、上から下に對したものも、歌と云ふ事となり、宮廷詩の中にも、天子のお歌と云ふものが見えて來るやうになつた。
天子・宮廷の建て物等を祝福する意味の歌が、大歌の元であつたが、この他に、新しく大歌として取り込まれた歌が加つて來た。即、平安朝の語で風俗歌《フゾクウタ》、古くは國ぶり歌〔四字傍点〕といふものである。國ぶり歌とは、地方の國々の魂ふりの歌で、國々の魂が、くつゝいてゐる歌である。それを歌ひかけられたものは、その國の魂がつくのである。記紀には、うた〔二字傍線〕とふり〔二字傍線〕との區別がせられてゐて、古くから、宮廷に關係あるものは歌と稱せられ、新しく宮廷に附いたもの、又は、その歌を奉つた團體が、中央からかけ離れてゐたと思はれる歌はふり〔二字傍線〕とせられてゐる。この二つの區別も次第に亂れて、平安朝には、ふり〔二字傍線〕と云へば凡て地方のもの、うた〔二字傍線〕は中央のもの、又地方でもすぐれたものといふ樣に考へた。それが、最後には一つになつて、うた〔二字傍線〕と云はれたのである。宮廷詩の中にも、大歌と國ぶりとが這入つてゐる。
萬葉の歌の一番榮えたのは、奈良朝の初期二・三十年間で、その頃這入つた新しいものが、特別の分類で收められてゐる。その中で、特に著しいのが東歌である。平安朝では、東遊・風俗歌というてあるが、奈良朝では、國ぶりの中で、最國ぶりらしい感じがしたので、東歌をば特殊な扱ひをした。東歌が、まづ大歌に對して、國ぶり歌の代表で、これが、も一つ轉化すれば民謠とな(103)る。宮廷に留まつたものが、東國振で、これを歌うて舞うたものが東遊である。平安中期までの風俗歌は、多く價値があるが、東遊は殆價値がない。舞踊を主としたものだからである。東歌とは、つまり東國の鎭魂歌といふ事で、東の風俗歌を、單に風俗と云ふ。宮廷の鎭魂歌の中には、これだけの内容があると見て頂かねばならぬ。
東歌は、卷十四と卷二十の上半にあつて、時代の信仰を示してゐる。卷十四の方が古く、これを見ると、如何にも歌らしいものがある。舊日本の國々も、かゝる時代を經過した事が、これに殘つてゐる。即かけあひから、戀愛味がゝり、尚、民謠化し性欲化した徑路が、如何にもはつきりしてゐる。これが、東歌の喜ばれる所であるが、そこにもやはり誇張があり、私たちの欺される歌が澤山ある。誰が作つたか、その出來た事情に就いても、欺されないやうに、一歩退いて考へて見ねばならぬ。
稻つけば、かゞる我が手を、今宵もか 殿のわく子が、とりてなげかむ
女の奴隷の美しい感じがあるが、そして劇的な悲しさがよく出てゐるが、單なる空想に過ぎない。氣持ちを唯かき亂して、樂しんでゐるのである。未に民謠はそれである。東歌は、まう一歩すれば民謠となる。戀愛と性欲とが結びついた空想で、個人的經驗でなく、その社會全體の經驗を表したもので、あばたは、どこまでも、あばたである。かうした用意をもつて、東歌は見なければならぬ。
(104)大歌には、國ぶりと、昔からの大歌とがある。昔からの大歌には、家々から獻つた歌が、基礎となつてゐるのではないか。即、家々の歌集の類聚ではないかと思はれるのである。譬へば、文學的地位の高い卷七・卷九の如き、恐らく藤原宇合の家に傳つた歌を集めたかと思はれる若干の據り所がある。
もつと著しいのは、卷十七から卷二十までのもので、これは大伴家持が、自らの歌を中心とし、その周圍の人々の歌をも含めてゐるもので、謂はゞ大伴集と稱すべきものである。卷五も、大伴家集と思はれるもので、大伴旅人を中心としてをり、卷三・卷四も、大伴家と、いはれの非常に深いもので、此等は、大伴家に傳つてゐた歌を類聚したものといふ色合が、大へん深い。
かうして宮廷の大歌の中に、本たうの大歌の他に、新しく宮廷に獻られた歌が、澤山取り込まれたものと思はなければならない。かうなると、家々から獻られたその手順を忘れてしまふ。更に大歌の變化する順序から云ふと、雜歌から、挽歌といふものをだん/\棄てゝ、祝賀の歌といふ樣な意味に傾いてゆく。これは雜歌に明らかに見えてゐる事實だが、相聞にも、それが見えてゐる。即こゝにも、挽歌系統が棄てられて、純粹な戀ひの誓ひの歌が、中心になつて來る。これが、大歌の變化の第二期である。
その中に大歌から、鎭魂的な意味のみが、次第に取り出されて、他はだん/\文學化せられ、奈良朝から平安朝になるにつれて、游離して、實用に供せられるものが、大歌として殘つたのであ(105)る。即、平安朝になると、大歌の意味が違つて來た。宴會の時の歌として集められた、宴曲集がこれである。大歌の中心となつたもので、これが前述の卷八・卷十で、既に奈良朝にもあつたのである。これが更に、即興的に作り出す間に、文學化して來て、今度は文學の本流となる。即古今集の四季(春・夏・秋・冬)戀歌のやうに。こゝに至つて、大歌でも何でもなくなつてしまふ。此が大歌變遷の第三期である。
(106) 萬葉集講義
――飛鳥・藤原時代―― 昭和七年二月、改造社「短歌講座」第五巻
私の話は、偶然ながらちやうど、日本律文史の中、完全に短歌成立期間のあり樣を述べる役わりになつてゐる。だから當然、歌といふ言葉の説明から咄しこんで行かねばならない。
大歌及び小歌
日本の歌を大別すると、宮廷の歌、即宮廷詩といふものと、民間の歌、即民話といふべきものとに分けられる。此が、日本の歌に最古からある樣である。宮廷の歌は大歌《オホウタ》と言ひ、其公の歌に對して、民間の歌を小歌《コウタ》と言うて居る。此二つの區別が、前期・後期の王朝を通じて行はれて來たのである。此處に王朝と言ふのは、所謂奈良朝・平安朝及び奈良朝前をもこめて言ふのである。萬葉集の時代は、その前期王朝にあたる。此時代に歌と言ふものは、完成したのである。殊に、著しいことは、短歌の成立したのは此時代であつた。この度の話は、主として、歌といふことに(107)限定して言うて行かうと思ふ。
萬葉集の歌の中には、其成り立ちからして、大歌風のものと小歌風なものとが見えて居るのであるが、小歌の中には、一度は宮廷の歌としての取り扱ひを受けたものが殘つて居る。既に、宮廷詩の準備として、探用されたものがある樣に思はれるのである。
鎭魂の歌としての「ふり」
歌の區別を、大歌・小欲から離れて考へて見ると、歌成立の性質からして、うた〔二字傍線〕といふ名とふり〔二字傍線〕といふ名と、二通りになる。ふり〔二字傍線〕を古事記・目本紀には、振・曲などゝ書いて居る。うた〔二字傍線〕とふり〔二字傍線〕との區別は、今日殘つて居るものから見て、嚴格にうた〔二字傍線〕と稱すべきものがなく、すべてふり〔二字傍線〕と言ふ部類にはひるものばかりの樣である。古事記・日本紀を見ても訣るが、うた〔二字傍線〕と稱しふり〔二字傍線〕と稱するものに本質的の區別が無く、宮廷に長く傳へられたものがうた〔二字傍線〕と稱せられ、民間から臨時に奉られたものがふり〔二字傍線〕と稱へられた。後になると、民間から奉られるものは、總てふり〔二字傍線〕と稱せられた。此二つが固定すると、民間から奉つて居たものも、宮廷のものとなつてうた〔二字傍線〕と稱し、後に臨時に民間から新しく奉つたのをふり〔二字傍線〕と言ふ樣になつた。此處に言ふのは、後のさうしたうた〔二字傍線〕・ふり〔二字傍線〕の區別の無かつた時代のことである。
ふり〔二字傍線〕といふ事は、簡單に言うて見ると、魂を體にくつゝけるうた〔二字傍線〕といふ事で、正確には「魂觸《タマフ》り(108)歌」といふことである。ふり〔二字傍線〕は、魂を密著させる事である。このたまふり〔四字傍線〕の歌なる語が、常用されてゐる間に、たま〔二字傍線〕を落して、ふり〔二字傍線〕といふ言葉に固定した。下の者が長上の者に對して、魂を獻つて密著させる場合に唱へる咒言がふり〔二字傍線〕である。つまり、魂をつける手段に用ゐられる言葉がふり〔二字傍線〕なのである。これには、まう一つの原因がある。古い豪族の家々から、天皇に歌を奉る。これは歌を唱へると、其に誘はれて、魂が天皇に固著する。初めは總ての豪族がしたのであるが、後になると代表的な豪族・廷臣だけが行ふ樣になつた。此形は、歌を謠ひながら盞をさし上げるのであつたらしい。古事記・日本紀に、うたつきまつる〔七字傍線〕といふ言葉がある。歌を捧げる際にする儀禮だつた爲、かう唱へたものらしい。其が、今殘つてゐるものには、原意が忘られて、一種の囃し詞になつて居る。天皇に限らず、下の者から長上者へ、其又上の人へといふ風に、自分の持つてゐる勢力・權力・威力の根源なる魂をさし上げるのである。此は、極めて重大なことになつて居た。
家々の族長が行うたたまふり〔四字傍線〕の歌の外に、同じ樣な性質を持つた、くにぶり〔四字傍線〕の歌がある。宮廷のある地から、遙か離れた地方を現すに、くに〔二字傍線〕といふ言葉を用ゐて居た時代である。國《クニ》といふ言葉の古い用語例から見ると、天子のいます都に近い地域は、くに〔二字傍線〕と言はず、宮廷の直下にある大和から遠く離れて、半屬・半獨立の關係にある地方を言うた樣である。其が國家成立以後、政治上の區劃に於ける最高の單位となつて來た爲に、内容が變じて來たのである。宮廷直屬のあがた〔三字傍線〕に(109)對して、舊來の地方信仰による國造の類によつて支配せられて居たくに〔二字傍線〕といふものは、又感じが違ふ。さういふ地方の豪族の奉るたまふり〔四字傍線〕の歌が、くにぶり〔四字傍線〕なのである。其が、大和國家の權力が廣く行き亙り、地方的の君主を認めない樣な時代になつてから、くにぶり〔四字傍線〕は、地方の君主の持つて居るうた〔二字傍線〕ではなくなつて、たゞ地方のたまふり〔四字傍線〕の歌になつてしまつた。かうして、このふり〔二字傍線〕といふ言葉が獨立する。併し、たゞふり〔二字傍線〕と言うたゞけでは現れなくなつた所から「何々ぶり」と稱するやうになつたのである。
「うた」の意義
ふり〔二字傍線〕といふものゝ概念は、大體述べた通りである。此に對して、うた〔二字傍線〕といふものがある。古事記・日本紀に、「何歌」と記録して居るうた〔二字傍線〕は、ふり〔二字傍線〕と同じに見てよいものである。同時に、宮廷詩といふ意味をも確かに持つて居るものである。かういふうた〔二字傍線〕の成り立ちは、臣下の家々に傳つたものが、早く宮廷にはひつて屡行はれたもの、或は、今は用ゐられなくとも、昔は度々使はれたといふ樣な歴史のあるものである。結局は同じことで、唯宮廷のある土地と、遠隔の地方との區別が其間に働いて、うた〔二字傍線〕・ふり〔二字傍線〕が分けられて居たに過ぎないのである。
この事は、語原の方からも簡單に説明して置かねば、混亂を起させる虞れがある。うた〔二字傍線〕はその諷誦することを表すうたふ〔三字傍線〕なる語を經て、うたひ〔三字傍線〕とうたへ〔三字傍線〕とを分化して來て居る。うったふ〔四字傍線〕の原型(110)がうたふ〔三字傍線〕(=うたへ)なのである。この變化は、歌が何の爲に謠はれるかを示して居る。うた〔二字傍線〕を語根にした動詞のうたふ〔三字傍線〕は、所謂四段活用のものと、下二段活用のものとある。四段に働く方は、「うたふ」の原義を忘れて、唯諷誦することを意味するものと考へた爲の分化である。下二段の方のうたふ〔三字傍線〕には、古い意味があると思ふ。うたふ〔三字傍線〕とうったふ〔四字傍線〕とは同根の語で、訴《ウタ》ふの意義を持つ。訴へるといふ行爲は、下から上に對して、白分の境遇・意志を理會してもらふ事で、愁訴・哀願する義があるのである。萬葉集卷五は、かうした發想法による、表に大伴旅人を立て、内に自らを陳べた山上憶良の哀願歌《ウタヘウタ》の多い集だ。自分を知つてもらふ事から眷顧を乞ひ、保護を願ふ意義が生じて來る。歌を謠ひかけるのは、相手に對して背くことなく、正しい清らかな心を持つて居ることを誓ふと同時に、白分の魂を捧げることであつた。魂を捧げるのは、服從を誓ふことになるのである。かうなると同じ事になつて來るが、用語例から見ると、由緒古い詞、其が、宮廷の恒例として用ゐられてゐるものである。ふり〔二字傍線〕は、地方的のもので、其が鎭魂の意味において、宮廷に奏せられる樣になつた來歴の比較的に新しいものと言ふことになる。だから、後から見れば、起原の如何に拘らず、唯、言ひ習はしで、區別のある樣に見えたのである。此を前に言うた宮廷詩と民謠にあてゝ見ると、うた〔二字傍線〕は宮廷詩に、ふり〔二字傍線〕は民謠といふ部類にはひつて來る。
くにぶりの末
(111)國の魂觸り歌なるくにぶり〔四字傍線〕歌の、最後におちついた形は、簡單に言へば、東歌《アヅマウタ》といふところにおちつく。東歌は、日本のくにぶり〔四字傍線〕の最後の形であり、同時に新興樣式であつた所の短歌を昂揚させたものである。東以外の國のくにぶり〔四字傍線〕は、恐らく東歌同樣、時を定めて屡宮廷に奏上されたのであらうが、段々複雜化し、固定して遂に、正式には、大嘗祭の時に、風俗《クニブリ》歌として奉られる事に俤を止めたのである。大嘗祭には、代表的に悠紀(ノ)國・主基(ノ)國の風俗歌が使はれて居る。古くは、其國々に神歌として傳へられたものが用ゐられたのが、次第に其國々から來て宮廷に仕へた人々の作物を使ふ樣になり、更に新しく創作されたものが使用せられることになつたのである。だから、さうしたものは、形式だけであるが、生きて居た最後のものは東歌で、萬葉だけでなく、後期王朝までも續いた。併しながら、今日存してゐる東歌には、既にふり〔二字傍線〕とうた〔二字傍線〕との區別が忘られて居る。のみならず、萬葉集自身が忘れて居るのである。萬葉集の成立後およそ百年を經た古今集編纂の當時にも、やはり東歌といふ言葉が使はれて居る。この東歌を最後として、眞の意義のくにぶりが絶えてしまふのである。何故かと言へば、宮廷に最後まで服從を誓はなければならぬ、即、魂を奉らなければならなかつた民は東國だけであつた。其爲、東のくにぶり〔四字傍線〕の歌は、非常に印象深かつた訣である。
このくにぶり〔四字傍線〕或はたまふり〔四字傍線〕の歌には、條件的に舞踊《アソビ》がついて居る。聲樂と舞踊とは密接な關係を持つて居るものであつて、東のくにぶり〔四字傍線〕の舞踊は、殊に異國的な感じのするものだつた。其ゆゑ(112)に、東遊び〔三字傍線〕は、宮廷から諸大社に寄與せられて、其演奏を許された爲、保存の道が出來、更に此に多少の雅樂的手法が加へられたので、藝術的にもなつて行つたのである。其は、あそび〔三字傍線〕の場合だが、うた〔二字傍線〕としての東のくにぶり〔四字傍線〕の最後に行きつくしたものは、風俗《フゾク》歌である。風俗《フゾク》はくにぶり〔四字傍線〕の譯語であつて、風俗と言へは、其は即|東風俗《アヅマフゾク》のことであつた。平安朝藝術の整うた時代には、舞踊を伴うた聲樂と、聲樂を專らにするものとが岐れて來てゐる。東のくにぶり〔四字傍線〕の誘導した大きな藝術であつた、東遊びと風俗歌とは、平安朝になつて、東遊びの方は詞章を客體とし、鎭魂の舞踊が中心になつて居た。風俗では、聲樂的方面を主體とすること、催馬樂の如くなつた。
萬葉集時代には、ふり〔二字傍線〕は一種特別の條件を具へてゐる。今迄のうた〔二字傍線〕・ふり〔二字傍線〕總てが、歌と稱せられて來た。長いもの短いもの、或は我々から見て形の整うたもの、整はぬもの全部をひつくるめて、此を歌と言つた。其中、次第に短歌が歌の中心になつて來た。世間にもてはやされて來たからである。此は、短歌に優れた作者が多かつたからではない。文學上の價値といふものは別にして、歌の盛んであつたのは奈良朝である。其には、長歌及び短歌以前のものもあるが、其等は最早、意味がなくなつて、長歌も奈良朝では擬古風に過ぎなく、どの程度まで生命があつたものか訣らないのである。短歌といふものが、日本の謠ひ物の中心になつて來た、と思はれる境目を作つた柿本人麻呂の作を見ても、長歌に優れて居たと考へられると同時に、其が擬古文であつて、生きた杼情詩とは思はれないのである。萬葉集の長歌といふものが、どの邊まで、眞の生の欲求から(113)出たものであるか疑はれるのである。歌と言へば、短歌を考へてゐたと言つて差し支へないと思ふ。さうして、短歌と言へば、殆たまふり〔四字傍線〕の歌である。つまり、古代の人が、たまふり〔四字傍線〕の文句を縮少した形をもて囃し、常に用ゐて居たのが、社會的に色々の用途を開き、文學化して、短歌が盛んになつて來たのである。短歌は洩れなく、ふり〔二字傍線〕と稱すべきものと思ふ。萬葉より後になると、其傾向が愈はつきりして來る。所謂、うた〔二字傍線〕・ふり〔二字傍線〕を籠めて歌と言うて置く。
敍事詩の撒布
この歌が生きて居た時代は何時かと言ふと、歌が歴史的意義を持つて居た時代である。つまり社會的に、其歌の持つ歴史的内容が價値を持つて居た時代である。さうして、諺の樣に歌が用ゐられたといふ傳説の出て來る時代になると、歌も見劣りがする。總括して言ふと、敍事詩――物語――の時代であつた。敍事詩の中には、謠はれる抒情部分がある。その敍事詩が次第に亡びて、抒情部分が生きて來る。この抒情詩は、後になると、誰々がかうした時に作つた歌だ、といふ説明が附いて來る。初めの敍事詩の意義に隨伴することも亦、離れても。本集から例をひいて見る。
麻績《ヲミノ》王流2於伊勢國伊艮虞島1之時、人哀傷(シテ)作歌
うつそを 麻績《ヲミ》の王《オホキミ》。海人《アマ》なれや、伊良胡の島の玉藻刈ります
麻績(ノ)王聞v之感傷作歌
(114) 現身《ウツソミ》の命を惜しみ、浪に濡れ、伊良胡の島の玉藻 刈り喰む
此を見ると、確かに母體なる物語があつて、かういふ歌が其に插まれて居たに違ひないと思ふ。此を持ち運んだ者はほかひゞと〔五字傍線〕と言ふ神人であつた。つまり、歌を謠ひながら家々を祝福、即ほかひ〔三字傍線〕をして歩くほかひゞと〔五字傍線〕の持つて歩いた歌の一つらしいのである。
こゝに言ふほかひゞと〔五字傍線〕には條件がある。所謂、ほかひゞと〔五字傍線〕の中の主要團體であつた海人であらうと思ふ。伊良胡は、萬葉では伊勢になつて居るが、同じ麻績王に關して、日本紀には、因幡國に流されたといふ事になつて居り、常陸風土記を見ると、常陸の板來《イタコ》に流された事になつてゐる。如何にも、此王が名高い人であつた爲、あちこちに傳説を貽した樣に見えるが、實は、地名が、此傳説の結びつく契機を作つたのである。ほかひ〔三字傍線〕人の流離漂浪した地方に、其敍事詩を撒布して歩いたのである。さうして其中、歌の詞に關係深さうな聯想を起させる條件を備へた地に、結び付いてしまつたのである。其が、曰本紀・萬葉集・風土記の三書に三樣に傳つたのである。此は長い物語の一部分が脱落したものなのであつた。元々、敍事的な物語の中に出來た、謂はゞ物語る人が、知らず/\の間に生み出して來た歌であるから、抒情的で、從來のものと違つた劇的・小説的な内容を持つて來てゐるのだ。此が、地方人を刺戟したのである。田舍の粗野な人々の間に、「ものゝあはれ」知る心を植ゑつけて、なつかしいしなやかな戀愛の情緒を、内生活にとり容れさせた。さうして、此まであつたたまふり〔四字傍線〕の歌の内容として、人生を別の意味で觀て見る、謂(115)はゞ我々の人生には、かうした意義があるのだ、といふ反省を起させる機會が重り/\して來ると、俄かに、諸國の歌が育つて來る。
短歌成立の一面
前に立ち戻つて考へると、敍事詩の中に抒情部分の、單獨な詩として、游離しかけたものが段々短くなつて來て、短歌でなくとも短歌の形に近づいて來た。此短い詞曲が次第に意識にのぼり、固定したのが短歌である。其間には、短歌よりもつと短い片歌《カタウタ》もあつた。旋頭歌・長歌もあつた。古い長歌は、短い長歌の幾つも集つて出來たもので、古事記・日本紀を見ても、長歌は幾段にも分けられるのである。物語の中に出來た歌が短歌に落ち著くと迄言はなくとも、短歌に達する暗示だけはある、と言ふ事が出來る。併し、さうなるには、世間の目的ない盲動が解決して行つたのである。此がすべての方面に働きかけて行つて居る。從つて短歌成立の原因も、簡單には解決がつかないのであつて、色々な點から見なければ、正しい理會は得られない訣である。片歌から短歌が出來、長歌が出來たといふ樣な考へは逆で、複雜から單純化して行くのが世の常である。敍事詩の中の短い部分なる歌が、其を意識する樣になると、幾段か重ねて來る。延びて、長くなつて來る。さうすると、最後に打ち止めとなる短い部分が出來る。其最後の一聯を謠ひ返すといふ形をとつて來るのは、寧自然である。日本の歌にも、支那と同じ樣に、調子を變へて謠ひ亂《ヲサ》める(116)といふ事があつた。長い形を短詞曲の一聯で、或は短いのを長い文句で亂めるといふ樣な事をして居つた。三つ四つ或は五つの節が連續すると、最後の一節を調子を變へて亂辭とし、其處に短歌に似た形を作つて來る。此が、萬葉集に短歌が出來て居るにも拘らず、長歌の最後の部分に、短歌の形式をとゞめて居る理由である。萬葉集の長歌には、殆條件的に反歌がついて居るが、歌が大きくなり、反歌を伴つて居ても、尚この形があるのである。此は、長歌の後に、獨立した反歌が出來ても、長い間の盲目的努力が績いて、亂めの一節に現れて來たのである。
此處で、簡單に反歌の説明をして置く。反歌の反は、亂と同意義で、亂《ヲサ》めると言ふ意味である。亂を正確に使つて居るのは、賦である。賦は散文詩とも言ふべき形に近い文學の形式の名、となつてゐるが、元は、歌謡であつた。だから、その最後に短い亂がついて終る。反・亂は、もと聲樂の術語であつたものが、文學の用語になつたのである。反も同じ意味であるが、恐らく、亂よりは使用範園の狹い言葉で、一地方の方言と見なしてよいものと考へられる。反といふ言葉を使用して居た地方の音樂者が日本に歸化し、樂人として宮廷に仕へて居たことを示して居るものであらうと思ふ。反歌は、歌ひ亂めの詞であるところの歌といふ意味で、此事を詳しく説明しなければ、短歌の外形は約得出來ないのである。
相聞
(117)かういふ風にして、歌の外形が出來て來ると共に、其内容も次第に變つて來る。一體くにぶり〔四字傍線〕の歌は、宮廷に對してこそくにぶり〔四字傍線〕であるが、其國自身に於いては、くにぶり〔四字傍線〕と言ふべきではない。古くは、其國の酋長の保持して居た、意義ある謂はゞ其國にとつての大歌なり、たまふり〔四字傍線〕歌なのであつた。事實は訣らぬが、かうした關係から東歌などゝ稱したのかも知れぬ。くにぶり〔四字傍線〕の歌は、どういふ場合に使はれたかと言へば、地方の君主・酋長の下にあつた者が、たまふり〔四字傍線〕として唱へたと考へられるのであるが、日本の古代の書き物からは、適確な證據が上つて來ないのである。古代の記録は、上流の事のみを記して居る。古代日本に於ける上流は、歴史家の言ふ樣な意味のものではなく、宗教的威力を持つて居る人々で、さういふ上流の人以外の事は傳へなかつたのである。宗教的威力を持つて居る人の事を傳承するのは、其物語によつて、物語の中の人物の威力が、此を唱へる人々の内に生じるのであるから、上流方面の事ばかりが殘つて居るのである。從つて、下へ/\と類推して行く事は、或程度に停めて置かなければならないのである。
古い國々で考へられる事は、此は同時に、宮廷近邊の村々でも繰り返されて居た事は確實なのだが、祭りの場合に限つて、祭りの齋場《ユニハ》に來臨する貴い御方があつた。其を攝待することが、村人の役となつて居た。神か人か、一種靈的なものが、單獨にか、或は群衆を隨へて來り臨んだのである。さうして、村人に向つて咒詞《トナヘゴト》を發する。其に對して、村人が――多くは、村の周邊の土地の精靈の代表者としての資格に於いて――唱和の言葉をつける。即、命に服し、保護を願ふとい(118)ふ樣な意味の事を唱へるのである。祭りの時には、まづ其貴い神人から言ひ下しの言葉があつた。祝詞・宣命の起原は、此處から説き起さなければ訣らないのである。村を訪れた神は、其土地に住んで居る人間を祝福すると同時に、此を取りまく自然――野山の精靈――に對して、生活の保證をさせる強い命令を強ひて、精靈を屈服させようとする。其に對して精靈は、返事をするか、緘黙《シヾマ》を守るかするのであるが、外來の威靈ある神に對して開口するに當つては、盛んに抗辯した揚句、負けて服從する事になるのである。
此と同じ樣な事が、人間同志にも行はれた。魂に呼びかけるのである。神との唱和《カケアヒ》、其に下から上に誓約する形が重つて、此が今におき、農村の祭りには行はれて居るのである。本來、年に一度行はれたものであるが、二囘に分裂して、繰り返されもした。此が、祭りの攝待場《イチニハ》に行はれた歌垣《ウタガキ》なのである。
ものを言ひかけられると、うけ應《コタ》へする側の者は村の代表者で、其當初から、形式が一定して居たとは考へられぬ。村の宿者《トネ》として、接することもあつた。が、村の壯夫《ヲトコ》の假装した鬼物の形を以てすることもあり、又單に、多くは、村の處女《ヲトメ》といふ形に統一されて來た。色々な意味において合理的であつた所からして、處女の出る村が多かつた。さうして、かけあひ〔四字傍線〕をする。萬葉集では、問答と唱和とを別にして居るが、又雙方を一つにして相聞《サウモン》と考へて居る様だ。相聞は、つまりかけあひ〔四字傍線〕である。此には、一つの問題に對して言ひ合ふ形と、單なるうけ應への形と二つある(119)此歌垣の齋場《ニハ》に於けるかけあひ〔四字傍線〕の形が、亦次第に、村々の歌を發達させて行く。男、即成年戒を享けた村の若者が、神なる資格で現れたのである。若者自身神なる自覺を持ち、迎へる處女も亦、其を疑はなかつたのである。さうして兩方から歌をかけあふ。女の側では、負けまいとして何處までも抗辯する。負ければ、相手の自由にならねばならぬ規約だから、歌が自然、謂はゞ詭辯的になつて來る。昔の女は、殊に其が上手であつた。奈良から平安朝にかけて、揚げ足取り・ずらかしの歌の上手な者ほど、才女と見られて居たのには、かういふ理由があつたのである。かうした古代生活の印象が、前期・後期の王朝を通じて、見え過ぎる程、多く殘つてゐる。殊に、平安朝になると、其が頻りに見えて來る。日常生活として、奈良朝以前の記録には現れなかつたものが、平安朝になつては、古典化し、儀禮化した爲に、初めて記述を持つた例が段々ある。かうした事は、古代からあるのであるから、平安朝を對象とするにも、奈良朝以前から見て行かなければ訣らないのである。平安朝の歴史から宮廷生活を拔き去れば、殆、何も無くなつて了ふのであるが、其宮廷生活は、さうした色あひが特に濃いのである。かうして、昔の女性は歌は上手であつても、其等の歌といふものは、眞實に乏しい、揚げ足取りの歌が多いのである。
さて、かういふ風にして、國々・村々の間に、歌が次第に發達して來る。從つて男も女も、頻りに鍛煉を重ねることになる。誰がかゝつても叶はぬ歌の巧者な歌人の作物と、空想を多くまじへた其容姿との記憶が殘つたのである。さう言ふ唱和・相聞の詞の中心に、諸國を流れた抒情的な(120)短歌の主題がとり込まれて、歌が純化し、内容が短歌の成立に向つて來る。
歌垣と蹈歌と
顯宗天皇が平群鮪《ヘグリノシビ》を亡されたのは、影媛に對する競戀の爲であつた。其時の三人のかけあひ〔四字傍線〕の歌がある。此には、古事記と日本紀とでは相違がある。日本紀には、武烈天皇となつて居る。其歌は、子供のかけあひ〔四字傍線〕の樣な歌であるが、この歌あらそひ〔五字傍線〕が與へる暗示は、男同志のかけあひ〔四字傍線〕もあつたといふ事である。求婚は、一種の戰爭形式を採つたのである。日本の歌に、宿命的・本質的に絡みついて居るものは、戀愛である。はぐらかし・じらし・すひなげ〔はぐ〜傍点〕など、戀愛を土臺とした一種畸型的な歌が出來て來たのは、歌壇において、歌が大いに盛んになつた爲である。
注意しなければならない事は、普通、歌垣と盆踊りと關聯させて考へて居る樣であるが、盆踊りとは關係が無いといふ事である。盆踊りの落ち込むところは、よく訣つて居る。盆踊りといふものは近世、少くとも室町以後の事である。念佛踊り・伊勢踊り、其に少女のする小町踊りの要素が結び合つて出來たもので、歌垣とは別系統のものなのである。今でも歌垣の要素は、少しは殘つて居る。殊に注意してよいのは、土佐と阿波の境の山の上にある柴折藥師に行はれて居る行事である。祭りの日には、阿波・土佐兩國の人がかけあひ〔四字傍線〕をしたもので、其かけあひ〔四字傍線〕の文句が、固定して今もくり返されてゐる。今では男女が、唯さかんにかけあふのであるが、負けた女は勝つ(121)た男の自由になつたものらしい。此がかけあひ〔四字傍線〕を主としなくなると、所謂大原野の雜魚寢の形になるのである。
ところがこの歌垣も、次第に家の中で行はれる樣になつて來た。村の生活が、大きな家の下に置かれて來た爲である。村の主《アルジ》でも、祭りの場合は祭場に行つたものが變化して來て、神々の群行《グンギヤウ》が、其家を最後にして練り込んで來る。多少の例外もあり條件もあるが、大體さうなつて來た。從つて、歌垣も家の中で行はれ出した。歌垣は、奈良朝になると、支那の上元の蹈歌の風習を重ねて來た。この蹈歌も、貴族の家々を練つて來て、宮廷で色々な行事をするのだ。樣々の藝能を行うて、宮廷の主でいらせられる天子の萬代《ヨロヅヨ》を祝福する。其唱へ言として、漢詩・賦、或は日本の歌を併せ用ゐた。謂はゞ、宮廷で行はれた歌垣が、蹈歌と言はれたのである。この蹈歌に用ゐられた詞を、蹈歌章曲と稱へて傳つて居るが、日本の歌も若干殘つて居る。蹈歌章曲には、即興と多少文句を替へたものとがある。幾らも澤山出來たらしい。此蹈歌の形式を元にかへして見ると、夜になつて不思議な姿をしたものが練り込んで來ると、宮中の女房が其へ出て、かけあひ〔四字傍線〕をし、踊りをする。全く、歌垣と同じ事である。榮華物語のことほぎ〔四字傍線〕を見ても訣る通りだ。尤この形は時代によつて、多少違ひは出來て來た。
かういふ事から段々、天子を讃め、宮殿を讃めるといふ事に分化して來て、同時に又、奈良朝前から宮廷に行はれて居た儀式と一致したのである。
(122)支那との交通が開けて來ると、日本の文化は、次第に支那風に染んで來た。宮廷を支那の文化を以て装ひ立てゝ行かうとしたのは、飛鳥の都の末頃から近江の都時代であつた。その後次第に、浸潤して來て、舊來の傳襲と外來の文化とが、次第に調和する樣になつた。歌垣と蹈歌とが一つ物になつた樣に、其々似た廉々から外來要素をとり入れた。其頃盛んになつたのが、宴遊である。宴遊は貴人を讃美することである。宴遊が盛んであるといふ事は、宮廷の威嚴を示す事でもあつたのである。この宴遊の氣持ちと蹈歌の氣持ちとは、同じなのである。我々の國の宴會は祭りと同じ事であつた。神々の來臨する夜の祭りが宴會《ウタゲ》で、神を迎へ讃へる方法以外に、何の意味も形式もなかつたのである。宴遊唱歌と蹈歌章曲とは、同じ性質のものであつた。迎へる、饗應する、歌を謠ふ、舞ひを見せる、いづれも茲から分化して來たのである。
宴遊歌曲
萬葉集の中、一番新しくて、平安朝に引き續く要素を示して居る卷は、卷八・十である。此は、内容の點からである。この二つの卷は、四季に分類し、雜歌・相聞の二部を立てゝ春雜歌・春相聞・夏雜歌・夏相聞といふ風に、八種に分類して居る。此は、眞すぐに古今集の分類に享け繼がれて行つて居る。宴會の式に、四季の雜歌・相聞の歌を謠ふ理由は訣る。
宴遊の歌詞は、主人を頌へる、又、宴席の樣子を讃める、或は周圍の景色を讃美するのである。(123)宴會が四季に分れゝば、歌も四季になる。古代には、うたげ〔三字傍線〕の席に臨んだ客が舞ひを所望し、舞姫なる處女に言ひかけした所から自然、相聞の歌が出來て來た。其が、實際行はれなくなつた後後も、其印象から類似の歌を作る樣になつて來たのである。景色・家を讃めながら思ひを述べる。四季の雜歌は「正述心緒」で、相聞の方は、「寄物陳思」といふ形になつて行く。此方には、譬喩歌が多い。
かうして、數限りなく即興的の歌が出來て來る。其中、或家の宴會には、是非とも此歌を以て初めるといふ傳來の歌がある。後は、幾つでも類型の歌が出來て來る。從つて、卷の八・十以外にもさういふ歌が多くある訣なのである。
山上憶良《ヤマノウヘノオクラ》の「類聚歌林《ルヰジユウカリン》」といふ書物が、今若し現れて來るとすれば、其題號の性質上、此種の雜歌が多く蒐つて居るであらうと思ふ。
萬葉集から古今集までの間は、實は、飛躍してゐるのではなかつた。萬葉系統の書物が幾種類かあつたらうと思はれるのだ。蹈歌章曲を集めたものと思はれるもので、朗詠の前身ともいふべき、新撰萬葉集《シンセンマンネフシフ》がある。其に引き續いて出た續《シヨク》萬葉集――此集は傳らなかつたものか、其とも他の古書の上に屡ある樣に、古今集異本として別に傳つたかも知れぬ。古今和歌集の稿本ともいふべきものであつた――があり、續萬葉の名と内容とを改めて上つたのが古今集である。かうして、萬葉の名が續いて居る。其處で、萬葉集を平安朝では、古萬葉集と言うて居た。單に古書なるが故(124)の名でなく、其外に、萬葉を稱する類似の書物が、尚あつたらしいことから、其中で、一番古い物と言ふので、古萬葉集と言うて居たらしいのである。此集について、第一に考へなければならぬのは、何故、萬葉集と言うて、萬葉和歌集と言はないのか、といふ問題なのである。
萬葉の意義
平安朝の歌集殊に、勅撰集には皆、和歌集の名がついて居るにも拘らず、萬葉集には、其を言はないのである。其のみか、萬葉系統のものに限つて、新撰萬葉集・績萬葉集と言ふ風に、『集』とだけ言うて居た。此をおしつめて行くと、萬葉と言ふ言葉が特別の意味を持つて居る、といふ事になる。
萬葉といふ言葉は、どういふ事であらうか。一口に言へば、萬代或は、用例に一層近くは、萬年・萬歳といふ事にあたる。此説は、今はもう動かぬものになつてゐる。まう一方の説は、萬の言の葉といふ事――言の葉は語でなく、詞章といふ事だ――とするのである。この二説が、平安朝の末頃から傳統的に歌學者の間に唱へられて居た。さうして、其が長く續いて來たのである。
萬代・萬歳・萬年と解釋して見て、さて「萬代」といふのは、一體どういふ事なのか。其を考へると、多くは、此書物は萬歳に傳はるべきものだといふ、尊重と自負と、其に祝福を加へた心持ちから出たもの、と考へられて居る樣である。併し、尚考へて見る必要がある樣に思ふ。他に萬葉(125)を稱して居るものを見ると、略その考へがつく。今言はうとするのは、謠ひ物としての萬葉集、即萬葉集は謠ひ物を集めた書物だと言ふことである。新撰萬葉集は、疑ひもなく謠ひ物で、後に出て來る藤原|公任《キンタフ》の倭漢朗詠集などの前型であつて、歌と詩とを竝べて居る。この倭漢朗詠集の後をうけて、藤原基俊の新撰朗詠集が出て來る。さうすると、新撰萬葉から新撰朗詠等にわたつては、謠はれたもの或は謠ふ爲の詩歌を用意して集めて居るものであつて、萬葉朗詠の意味が、其から訣つて來る。公任より八十年も前に居た大江(ノ)維時の集めたものに、千載佳句といふのがある。千載に傳るめでたい句といふ意で、千載は、萬代に對して付けた名で、千年を祝福するめでたい句といふ事である。かうして振り返つて見ると、萬葉といふ言葉の意義が、段々訣つて來さうである。
千載佳句といふ語が出來たのは、萬葉集を考へに置いての事ではないかも知れぬ。もつと、自然な動機がある筈である。君主を祝福し、宮殿を讃美するものとしての起原を持つてゐた爲に、千載或は萬葉といふ對句的な言葉が出來たのであらう。偶然、佳句といふ語が出て來たといふ事は不思議であるが、永い間印象して居た事が、其處に現れたに過ぎぬのだ。此萬葉を千載佳句と對立させて考へると、日本における朗詠文學の沿革が知れると共に、萬葉の用語例の見當がつく訣である。朗詠が行はれ始めたのは、公任の頃からの事ではなく、遙かに古い。疑ひもなく、蹈歌の詩句・歌曲が段々聲樂上の分化を遂げて、朗詠となつたのであつて、元へ行けば、蹈歌章曲な(126)のである。かうして兩方から歩み寄つて見ると、萬葉といふ言葉の持つ輪廓が略限定せられて來る。蹈歌の節會の場合に唱へる章曲で、所謂『うた朗詠』となつて行くものには、「よろづ代あられ」といふ囃し詞が多く繰り返されて居た。蹈歌を、古くから「あらればしり」と言うた樣である。蹈歌節會の行はれるのは、小正月前後の夜であるから、ちやうど霰の降る時節である。時節とは言ひ條、必しも霰は降らないであらうが、さう言ふのは、一種の祝ひになる。大空のものも、地上の光榮を祝福する意味であつたのである。それで、「あらればしり」と言うた。ちやうど時季も適切で、昔の人の心持ちにぴつたり叶つた訣であるが、其ばかりでなく、「萬年あられ/\」というた囃し詞から出た名であつた。さうして居るうちに、霰の事を言うて囃して居る樣な氣がするところから、蹈歌の舞踊を、「あらればしり」と日本風に言ひ變へたのである。漢文脈の方は、漢詩賦を用ゐて、後に、「萬春樂」・「千秋樂」と稱する程、其句を繰り返したのである。天子の千秋萬歳をば祝福する意義のものであつた。唯今の處、確實な證據に何時逢著するか、心細いのであるが、結論は、當然達すべき所に達した次第である。天子・皇后の萬葉を祝福する詞章が、萬葉である。言ひ換へれば、萬葉章曲とでも言ふべきものなのであつた。即、蹈歌章曲から出て、帝徳を頌し、聖壽を咒するものなるが爲の名である。さうして其が更に、他の淵醉にも用ゐられる樣に擴つて來たのだと思ふ。萬葉集でも卷八・十は、所謂萬葉風の見方からすれば、瘤の樣な感じのする卷であるが、かう考へて來ると、萬葉でも極めて意義のある卷で、あの程度まで、其(127)蒐集せられた理由が訣つて來る。即、奈良朝末の萬葉といふ用語例に、ぴつたりあてはまつた歌が集められて居るのである。
萬葉といふ言葉を蹈歌の章曲或は、宴遊の歌詞の意味に使つた例は、既に言つた樣に發見出來ぬのだが、例が見當らぬと云ふ事は、無かつた、と云ふ事ではないのである。此考へは、永久に假説に留まるかも知れぬが、天子を祝福する章曲といふ事で、其を集めたので萬葉集と名づけたものと信ずる。從つて、萬葉和歌集と言はなかつた理由が、明らかになつて來る。此結論を有力にする證據は、日本の文獻に限らず、漢籍の中にあつてもよいのである。支那で、萬葉を祝福の言葉の意味に使つて居れば、直に斷案に移してよいものと考へる。
萬葉といふ事は、一方考へると、宮廷詩といふ事になる。併しながら萬葉は、宮廷のものばかりではない。私蹈歌や、私宴遊の禁ぜられた由は、續日本紀にも、本集にも見えてゐるが、其が徹底したものとは考へられない反證は、いくつもある。だから、臣下の家で行つたものに就いても考へる必要がある。臣下の家に傳つた歌、或は全然創作になつたものがあるが、下から奉られて宮廷に納つた歌は、總て宮廷詩となる事が出來た。其で、萬葉と宮廷詩とは同じ事になり、萬葉集は宮廷詩を集めたものと考へられるのである。
此處で、大歌の意義變化を言はなければならなくなつた。萬葉の意義の變化して來て居る點では、卷八・十などが、新しい時代の萬葉を見せて居るものであるが、もつと古くから大歌といふもの(128)はあつた。凡、三段に分けて考へられる。
第一の意義に於ける大歌は、宮廷自身に傳つたものである。これは、宮廷根生ひのもの一途には限らず、外からとり入れられたものもあるが、宮廷に殘つたものを本體とする。多く叙事的のもの、或は歴史的背景を豊かに持つて居るものだ。短い長歌が、此大歌の原則的な形で、勿論短歌もあるが、拘泥せずに見れば、短歌としての獨立の地位を占めて居ない。長歌を主體として、短歌が未だ固定して居ない時代である。例を擧げると此が、卷一・卷二にあたる。此卷も亦、萬葉全體がさうである如く、短歌の列記を原則としてゐるものゝ樣に見える。が、實際は、その短歌は、成熟しきらぬものが多く、中には成熟した後のものも含まれて居るが、主體は長歌である。第二段になると、大歌の意味がゆるくなつて居る。人間の幸福も、禍ひも、病氣も、祝福された生活をする事も、總べて魂の働きに依るのだ、といふ考へが出て來ると、此時代の大歌は、鎭魂《チンコン》歌の内容を具へて來る。たまふり〔四字傍線〕には二段の意義變化がある。第一義のたまふり〔四字傍線〕は、魂を體に密着させる事であつたが、第二義の鏡魂は、正確には游離する魂をおちつける意味のものである。天皇が、あの威力をお持ちになるのは、外から強力な魂が憑くのである。豫め聖躬を淨めて置いて入れる。此を、いはひこめる〔六字傍線〕と言ふ。いはふ〔三字傍線〕は、魂が外に出られないやうにする事なのである。この第二義のたまふり〔四字傍線〕は、游離をふせぐたましづめ〔五字傍線〕に内容が飛躍して居る。
萬葉の大歌は、たまふり〔四字傍線〕から第二段のたましづめ〔五字傍線〕の意味を兼ねて居る。第二期の大歌は、たまし(129)づめ〔五字傍線〕の歌が段々發達して來た時代のものだと思ふ。萬葉では順序が替つて、叙事詩系統のものゝ後が、意義分化した鎭魂歌に移つて來て居る。昔の歌を鎭魂の意味から考へると、謠ひつゝ總べて鎭魂に利用した事が考へられる。記・紀に見えて居る大歌も、奈良朝に記録する當時は、皆鎭魂の意味に引き寄せられて居る。この意味に於いて、宮廷に傳はつて居た大歌は、非常な威力を持つて居ると考へられた。地方の豪族は勢力を失ひかけ、宮廷の權威を強く感じる樣になつた此時代には、宮廷傳承の鎭魂歌の威力が、最大きかつたのである。琴歌譜には、平安朝中頃の大歌が集められて居る。皆明らかに第二次の鎭魂歌である。從つて、大歌の意味も、さういふ風に理會されて居たと思ふ。
第三期の大歌は、舊大歌の亡び殘りや、新しく加つたものなどがあつて、神事よりも、宮廷の儀式の際に用ゐられる樣になつた。だから、此期の大歌は、形は舊大歌を繼いで居ても、内容は萬葉新意義の宴遊・蹈歌の歌曲に偏して了うて居る。かうして見て來ると、萬葉集の大歌が、略、宮廷詩といふ考へで整理されて來るのである。
藤原宮以前の歌
私の計畫を、簡單に言うて置かう。私の受け持ちは、偶然短歌の發生期から、其が文學的動機を含んだ、創作期に這入るまでの期間に當つてゐるのであつて、具體的に言へば、叙事詩から抒情(130)詩に移り、叙景詩が生れ、眞の意味に於ける創作歌の、生れて来る間の話をしようとするのである。
ところが、萬葉集の歌の中、本道に歌らしいものは、私の此から言はうとする部分にあつて、奈良朝になると文學動機が動いて居る。さうして其以前のものには、文學動機は無いが、作つた歌には文學動機の萌して居るもの、つまり文學と言へるものがある。文學なるものは、優れた理論を持つて居ることが、資際は優れた文學を生むことにならねばならぬのであるが、事實は、さうばかり言へないのである。萬葉の歌は、瞬間の感激で複雜な感情を整理したものが多いのであつて、優れた作物は、飛鳥・藤原時代の歌の中に多いと言つてよい。文學意識の有る無しを以て、文學の價値を決める事は出來ない所以である。萬葉集の中には、純粹の文學動機から歌を作つた人が、奈良朝に這入る前に可なりある。柿本人麻呂・高市黒人などは、私のあつかふ時代に居る人である。主として、此二人を目ざして、其作物の顯れて來る原因を辿りながら、話を進めて行かうと思ふ。
代作歌
話は、日本の歌に代作といふものが、現れ始めた時代に溯る。昔の歌に作者の名の傳つて居るのは、寧不思議である。古事記・日本紀にも、可なり傳つて居るが、歌の出來た條件から見て、何(131)の爲に殘つたのか、即座に消えてしまはねばならない樣な事情の歌が、傳つてゐるのを見る。昔の人は物語を語つて居る間に、知らず/\に抒情詩を組み入れて居る。語つて居る人が作つたと言ふよりは、物語自身が作つたと云ふ風な姿をとつてゐる。作者は一切訣らない。誰それの歌といふものには、作者と歌とが同時に傳る。昔の人もかうして、歌によつて永久に傳つたのであるから、我々も歌を作らうといふ考へが出て來ると、其が、日本の古い社會にいろ/\の結果を齎した。
威力あつて、つぎ〔二字傍線〕に入らなかつた人の死後、其執念を散ずる方便として、新しい村が立てられる事があつた。在來の村に新しい名を與へる事もあり、全然新規に村を構へさせる事もあつた。さうした村々には、必、死者の名或は住み處の稱《タヽ》へ名を被せて、一代の物語を傳へさせようとした。此が、名代部《ナシロベ》又は子代部《コシロベ》發生の原因である。後には、子のある人々も或は系譜《ツギ》に這入つた人も、殘後の名を案じて、生前自ら名代部を組織したりするやうになつた。後には、名代・子代の區別はなくなつてゐるが、正しくは、女性に屬する部落をたてた場合は子代で、男の場合は名代と言うたらしい。其人の作つたと稱する歌を心《シン》にして語り出した叙事詩が、此等部民の語り傳へた、新しい物語であつた。
昔は、尊い人の私的生活は、傳承の問題にならなかつたのだ。宮廷に於ける主上の生活すらも、神祭りの公の生活だけで、其は神代以來その儘同じものゝ續きなのである。第一のすめみま〔四字傍線〕の尊(132)の行はれたことを、後々の主上・太子がくり返して居られることになるのである。唯、違ふ所は、作られた歌だけであつた。併し、其も類型を逐うて作られて居るに過ぎない。傳襲的になると、さまで變つた歌は作られないのである。物語が同じく、歌までが類型になつて居る。古事記・日本紀を分類すると、似た物語や歌が幾つもある。さうして見て行く中に、段々變化した形が現れて來る。其には理由がある。尊い御方だから歌が作れるとは限らぬ。昔から傳承した歌はあつても、新しい時代の複雜な利用に叶ふ樣にするには、傳承に依り乍ら、少しづゝ、加へて行く改竄が必要だつたのである。天子には、御傍に仕へて居る人がある。みこともち〔五字傍線〕(御言持者)と言つて、尊い御旨を傳達する職を持つ者としての稱號である。質は、天子躬ら天つ神のみこともちであられるのであつて、尊稱なるみこと〔三字傍線〕(尊・命)は、誰それ樣の.みこともち〔五字傍線〕といふもち〔二字傍線〕を略した形で、主體と同格の感じが導かれる。此みこともち〔五字傍線〕通有の注意すべき特質は、發言者自身と、尠くとも同一の資格が考へられて居た事である。さういふ例も段々ある。此考へは、近代にまで及んで居る。使者の資格が、其主と同等に見られて居るのも、其一つである。天子の御言葉を傳へ傳へして居る間に、進んで時代に叶うたみこと〔三字傍線〕を、此みこともち〔五字傍線〕が代作する樣になつて來た。此には、歌以外に祝詞系統の文學の歴史を、本體として説明せねば、徹底せぬ。だが、繁雜になるのを避けて行きたいと思ふ。日本古代の文學には、祝詞系統の文學と、歌系統の文學とがある。祝詞は散文、歌は律文の系統に屬する。みこともち〔五字傍線〕は主として、祝詞系統の代作に與るのである(133)が、歌もおなじ徑路を傳つて來て、代作せられるに到つたのである。
不思議なことは、日本文學の中でも記・紀の歌は、其初めと終りの部分にあるものが、意義わりあひに明らかであつて、中頃のものが却つて理會しにくいものである事である。すさのを〔四字傍線〕の命や神武朝の歌はよく訣つて、其後が訣らなくなつて居る。さうした事實は、敍事詩傳承の上に窺はれる、複雜にして變態な心理を觀じ得なければ、納得ゆかぬ筈である。だから、第三期(飛鳥)・第一期(神武朝以前)・第二期と言つた順序に、古さが加るのである。其理由は、第一期の歌は、第三期頃の動機的には無意識的の新作が、昔の歌に乘せかけられたのである。
漢文學發想の效果
萬葉集に見える最初の天子は、雄略天皇である。雄略天皇の御製は、理由があつて、卷の初めに出して居るのだと思ふ。女性の歌としては、卷二の冒頭に仁徳天皇后、磐(ノ)姫皇后の御歌と傳へるものが出してある。其を除けば、飛鳥都の時代の歌が初めになる。舒明天皇をはじめ、主として皇極齊明皇帝、即舒明天皇の皇后の御歌が、萬葉では先最初である。此女帝の御製は、日本紀・萬葉集で見ても、非常に優れてゐられる樣に見える。傳へのまゝ信じれば、伊藤左千夫先生もお褒め申し上げた樣に、非常に立派な御作である。併し萬葉で見ると代作らしく思はれるふしがある。だが、そこに古代と近代との作物・作者に對する認定の方法の違ひがある。古代の考へ方で(134)は、單に作つたが故に、其歌の作者だと言ふ條件は、具備してゐなかつたのである。第一義に於ける發唱者と見るべき者を、作者と定めたのである。だから、傳達者の代作であるものも、其主君の作となる。更に轉じては、人の作物を假用しても、其實際上の發言者と言ふ形をとれば、其人の作物となるのであつた。此點、特に律文には、忘れられない本質的の事である。皇極天皇の發言なされた歌ならば、皇極天皇の御歌なのであつた。
皇極天皇の御孫|建(ノ)王(天智天皇の皇子)がなくなられた時の悲しみを述べられた、名高い組歌《クミウタ》がある。此は挽歌として謠つたから出來た歌である。
山越えて 海渡るとも、おもしろき新漢《イマキ》のうちは、忘らゆまじに(ましゞ) (齊明紀)
水門《ミナト》の潮《ウシホ》のくだり 海之降《ウナクダ》り。うしろも昏《クレ》に措《オ》きてか行かむ (同)
うつくしき吾《ア》がわかき子を 置きてか行かむ (同)
秦大藏造萬里《ハタノオホクラノミヤツコマリ》に詔して曰く、此歌を傳へて、世に忘らしむる事なかれと。
今の連作のやうなものである。皇極天皇が萬里をして、孫王を悼む御製を、永遠に傳へさせようとせられたといふのも、實は歌を代作せしめて、永く謠ひ傳へよと命ぜられたのであらう。物語ばかりでなく、歌をば諷誦し傳へる事があつたのである。其は、子代・名代の條で説いた。其を依託せられた人が、秦(ノ)大藏(ノ)造萬里であつた。此人の名及び職掌から見て、歸化人か其子孫であることは知れる。同時に、野中(ノ)川原史滿《カハラノフビトマロ》が、後の天智天皇、即、中(ノ)大兄太子の愛妃を悼む歌(135)を獻つたといふのは、皇太子の爲の代作の事實を傳へたのであらう。此も、歸化人の裔で、河内の野中(ノ)史が、飛鳥の川原に移住したからの稱號である。其歌には、明らかに、文學動機が動いて居る。漢文學的素養の然らしめた事が考へられる。
山川に鴛鴦《ヲシ》二つ居て 竝《タグ》ひよく 竝《タグ》へる妹を、誰か率往《ヰニ》けむ (孝徳紀)
幹毎《モトゴト》に花は咲けども、何とかも 愛《ウツク》し妹が、また咲き出來《デコ》ぬ (同)
かういふ歌になると、單に自然なる日本式發想が、こゝまで伸びて來たのだと認める以外に、何かあるのを感じる。漢文學で馴らされた人と考へることが出來るのだから、此だけ新鮮な歌が出來たのだ。祝詞系統の文學を見ると、國文脈の傳承古詞を模作したと思はれる人には、やはり漢學者が與つて居る。歸化人でなくとも、其子孫である。子孫でなくとも、漢學・漢文學を傳習して居た人々である。
日本の文學が本道の文學らしくなつたのは、飛鳥時代も末のことであつた。祝詞・宣命・壽詞《ヨゴト》の類は勿論、歌詞に到るまで、新しい表現法が展けて來た。而も其には、尠からず漢文學の素養深い學者の力を借りて居る。さうした多くの學者が、日本文學從來の類型を、一段飛躍せしめたのである。此事を以て直に漢文學の影響など、と單純には決められぬ。もつと根本的の事なのである。譬へば、舒明天皇・天智天皇の御歌共に、代作者がある。先に擧げた日本紀に出て居る建王の歌は、代作者こそ記して居ないが、考へて見ると、萬里の代作を其人に傳へさせたものといふ(136)事になると思ふ。舒明天皇が内野に狩りに行かれた時、皇極天皇 ――御同行なされたのか、宮廷に殘られたのか訣らぬ――から歌を贈られて居る。萬葉には、其歌の出來た事情を見せて居る。
天皇遊2獵内野1之時|中皇命《ナカツスメラミコト》使2間人連老《ハシヒトノムラジオユ》獻1歌 (卷一)
「使獻歌」といふ樣な事は、特別の事情のない限りは、書かない筈のものであるが、何の爲に老の名を出したのか訣らない。偶然、事情が訣つて居たと云へば其までゞあるが、此は、老が代作して獻上した歌といふ事になるのである。其他の方々にも、段々さういふ跡が見えるのである。
創作詩
思ふに、此時代を中心として、文學を作る態度が段々變つて來た事が考へられる。さうして次第に、代作が、代作と言ふ意識を露骨に含んで來た。祝詞の方では、代作が公式に行はれて居たが、一方歌の方でも、祝詞が使はれる時と同じ場合に、歌の使はれる場合が出來て來た。歌と祝詞と、用ゐられる場合が接近して來たのだ。つまり、公の儀式に、祝詞の代りに歌を唱へる樣になつた。正式には祝詞、歌は其くだけたもので、祝詞の後に諷誦したものらしい。萬葉集の中、原則的なもの――天子の御病氣、皇族のなくなられた場合、或はおめでたい場合に作られた歌――は、殆皆代作であると言へよう。古い時代の作物には訣らぬものが多いが、其が明らかに訣るものは、柿本人麻呂である。人麻呂などになると、代作としてゞなければ理會の出來ぬ歌がある。人麻呂(137)は他の人の代作をして居る外に、人麻呂時代の歌で、作者未詳となつて居る歌の中には、人麻呂の作つたものが可なりあると思ふ。だが、其と共に、名高いが爲に、人麻呂の作と推定せられた他人の作も多い樣である。殊に人麻呂には、人の爲に作つて居りながら、自分の感情を出して居る歌がある。
柿本朝臣人麻呂獻2泊瀬部皇女、忍阪部皇子1歌一首并短歌 (卷二)
明日香皇女|木※[瓦+缶]《キノヘノ》殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌 (同)
此二首の中、殊に前の歌は、故人が男性か女性か判然せぬ樣な言ひ方で、見方によれば、人麻呂自身の愛人を哀しむと言つた風にもとれる表現を持つて居る。而も此詞書その物が、眈に不審で、或は泊瀬部皇女に寄せた同母兄忍阪部皇子の爲の代作で、河島皇子を悼んだといふ事を示してゐる樣にも見える。代作詩人としては、人麻呂にも、更に先輩のあることが考へられるが、萬葉では其が訣らぬ。代作詩人の系統では、人麻呂を第一に据ゑて、先考へて居る。
人麻呂は、技巧上祝詞の影響を受けたと言はれて居るが、其は、昔の文學の類型を辿りながら、少しづゝ變へて來て居るのである。挽歌は、死んだ人の爲には、類型を追はなければ訣らないのである。文句或は謠ひ方が似て居らねばならなかつたのだ。同じ調子で歌詞が違ふ、つまり調子だけが類型を追うて行く。替へ歌は、かうして出來る。少しでも類型を辿らう/\として謠ふ爲に、人麻呂は、咒詞系統の修辭を用ゐて居る。又、對句・疊句を用ゐて居る點を言ふのではなく、(138)内容の上で、漢文學の素地を十分持つて居ることも、指摘出來る。萬葉で言へは、卷九は大體古くから新しきに亙つて、漢學の影響をうけたらしく思はれる人の歌を集めて居る。
人麻呂に次いで出て來る人で、我々の名ざし出來る人に、高市(ノ)連黒人がある。黒人は、確かに漢文學の土臺を持つて居る。其で此人の作物を見ると、後に非常に喧しくなつた歌體を論ずる歌學の興味が動いて居る。試みに、色々な體の歌を作つた痕がある。黒人に次いで、奈良朝になると、其著しい山部赤人がある。此間にも、大なり小なり色々な人が居る。かうして、日本の文學が文學化して來ると共に、文學の情熱は失つて、奈良朝になると、昔の異體の歌を集めて興味を起したり、支那の文學を模倣した題材を選んで詠むやうな事も起つて來た。中には、大伴旅人の樣な文學意識を多く持つた人もある。さうなると、山上憶良の樣な歌が出て來るのは、寧順路である。憶良は、短歌はまだよいのだが、其長歌に到つては、文學にすらなつて居ない。文學意識を持ち過ぎ、態度が文學になり過ぎ、結局文學でないと言ふことになつた。併し、さういふ歌が歌として認められる徑路は、ずつとあるのである。
萬葉集に、創作と民謠と、二つの流れが交錯してゐることは、既に述べた通りであるが、平安朝以降、短歌は謠ふ歌と創作とに岐れて來る。聲樂と文學とへ、別れ/\になつて了つた。聲樂に屬する歌の方は、形式が變化し、文學上の歌は短歌の形を窮極として來た爲に、此が永く世に傳つた。其運命が、略萬葉集の中にきまりかけて居るのである。
(139)此から歌に就いて、かういふ風に見、解釋する、其見方を、私の考へて居る範圍で述べて見ようと思ふ。
(一)
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシロススメラミコトノヨ》 大泊瀬稚武天皇《オホハツセワカタケルノスメラミコト》
天皇御製歌 (卷質一)
(一) 籠《コ》もよ み籠持ち、※[金+讒の旁]《フグシ》もよ み※[金+讒の旁]《ブクシ》持ち、この岡に莱《ナ》つます子。家|告《ノ》らへ。名告らさね。そらみつ 倭《ヤマト》の國は、おしなべて吾《ワ》こそ坐《ヲ》れ。しきなべて吾《ワ》こそ座れ。吾《ワ》こそは告《ノ》らめ。家をも 名をも
籠毛與 美籠母乳、布久思毛與 美夫君志持、此岳爾菜採須兒。家告閇(吉閑)。名告沙根。』 虎見津 山跡乃國者、押奈戸手吾許曾居。師吉名倍手吾己曾座。』 我許背齒告目。家乎毛 名雄母
【序註】 ▼泊瀬朝倉宮 雄略天皇の宮廷の名。今所在實は不明。別に、其舊地と考證されるものはあるが、近代からは、確定させられる望みはない。但、帝王編年紀に、朝倉宮、在2城上《シキノカミ》郡磐坂谷南廿町許1と言ふのは、古くさうした傳説があつたものだと思はれる。長谷《ハツセ》川|峽野《カフチ》の一部にあつた宮殿及び、その所在地の名。但、朝倉の名は、地名か、其とも宮讃めの語の地名らしくなつ(140)たものか、訣らぬ。秦氏の構へた宮側の八丈大藏から出た名だとも傳へて居る。まづ地名と考へるのが、普通だらうが、古代宮地名については、一應は、此疑ひを插む必要がある。雄略天皇と、短歌若しくは萬葉集との關係については、鑑賞の段で述べたい。
▼御宇天皇 御宇の字は、名詞であるべきだが、動詞に用ゐたらしい用例は、支那にもあり、日本では古くは動詞の方が多い。又馭宇とも通用する。おなじ意義において、臨軒とも書く。「あめのしたしろしめす」又は「あめのしたしろしめしゝ」など訓むが、敬語のつけ方については、徹底しての解決はつけられないから、後世風に繁褥なものを避けて、簡素に呼び奉るのが、古意だらう、と思ふ。其上、歴史表現又は、記録文體として、過去表現に執して訓むのはいけない。古代においては、尊貴の現世以後の御扱ひに、ある信仰があつたのだから、過去表現は、採らぬ方が、正しいのではないかと思ふ。其で、「しろす」と申すことにした。尤、「しらす」でもよい訣だが、幾分でも、古趣を示したかつたのである。
【音訓】 ▼籠 こ、かたま〔三字傍線〕又はかたみ〔三字傍線〕など訓めないでもないが、近時凡、こ〔傍線〕を用ゐてゐる。契沖が第一訓かたみ〔三字傍線〕(又、かたま)、春滿かたま〔三字傍線〕、眞淵かたま〔三字傍線〕など、古意に執して、「又、音數に拘泥して」却て古意を失つたのであらう。其より古い訓も、皆こ〔傍線〕とは訓んでゐるが、正しく、籠を名詞だと知つて居たものと、單なる訓假名としか見なかつたのとが交つてあるやうだ。▼布久思 ふぐし。萬葉假名の清音・濁音の表記は、固定してゐる樣に考へるのは、誤りである。根本事實として、古代の音韻現象には、清音・濁音の音價の動搖(141)が甚しかつた事を考へねばなるまい。文字の問題よりも、音聲自身の問題である。だから自然、表記する假名文字が、清音にも、濁音にも通用せられるのは、當然である。學者の想像以上に混用せられてゐる。但、どうかすると、濁音椴名・清音假名と、きまつたものがある樣に見えるのは、慣用から、次第にさうした傾向を持たうとしてゐるものと見た方がよい樣だ。だからこゝも、ふくし〔三字傍線〕・ふぐし〔三字傍線〕何方でもよいが、姑らくふぐし〔三字傍線〕として置く。▼美夫君志 みぶくし。熟語或は連聲に似た形を作る時は、濁音部分が、移動するのが常である。こゝも、接頭語み〔傍線〕の附加によつて、濁音部分上に移つて、みぶくし〔四字傍線〕となつたものと見るがよい。夫は普通濁音ぶ〔傍線〕を示す字。君〔傍線〕は同じく清音く〔傍線〕を表す。
▼岳 をか。岳の字、たけ〔二字傍線〕ともをか〔二字傍線〕とも、訓じてゐる。をか〔二字傍線〕は正訓。本集のは、「丘」の字を用ゐて、を〔傍線〕にもをか〔二字傍線〕にも、訓じた例は見當らない。又岳の字をか〔二字傍線〕と訓まねば通らぬ用例多く、たけ〔二字傍線〕と訓んだらしい處はない。丘・岳通用する國書の例に從ふべきである。▼菜採須兒 なつますこ〔四字傍線〕。舊訓大抵なつむすこ〔四字傍線〕であつた。宣長に到つて、決定したものと見てよい。採はつむ〔二字傍線〕、須は其敬相を示すす〔傍線〕、即、採は語幹であり、其に須が熟してつます〔三字傍線〕である。採の字は、とる〔二字傍線〕以外に、つむ〔二字傍線〕に當てたらしい用例が、集中に多い。▼家告閇 いへのらへ。本文「家吉閑」。舊くは、「家吉閑名《イヘキカナ》」としたものが多い。其を改修して、閑の字、音kan。之を母韻化して、kanaとして、「家吉閑《イヘキカナ》」と訓む説、春滿の「いへきかむ」以後潜勢力を持つて、木村正辭翁に至つて、「きかな」となつた。今は、通説となりかゝつてゐる。一方又、吉を隣行――恐らく、さう言ふ風に書寫せられてゐたらう――の「師吉名倍手」の告と、目に混同した爲に生じた誤りとする、告・吉入り違ひ説が、眞淵あたりから行はれ出した。其側では、吉は告、閑は閇の誤りとするのである。即、告閇《ノラヘ》である。訓み方にお(142)いては、前説の万が自然らしいけれども、空想法から見れば、心理的に無理がある。「のらへ」説を採る外はない。▼名告沙根 なのらさね。「のる」の敬相を「告沙」で示し、其に懇望の語尾「ね――根」をつけて「のらさね」と訓ますのだ。舊く、「名」を吉閑の下へつけて、助辭の様に扱つて、「きかな〔傍線〕」としたのが多いが、契沖の「いへきけ・なのらさね」以後、名を下に持つて行くのが定説となつた樣だ。「なつげさね」と言ふ古訓は、わるいが、此古訓などから見ると、文法意識が明らかになつて來た事を示してゐる。
▼虚見津 そらみつ。「そらにみつ」と言ふ形もあるから、其に訓めぬ事もないが、此處は、其より古い形に見た方がよからう。▼山跡乃國者 やまとのくには。跡をと〔傍線〕と讀むのは、和訓。「あと」の熟語形「と」から出てゐる。「は」、者をさう讀むのは、「者」の文章法的位置と、日本文における主格助辭「は」との文法職分の類似から、訓み方を固定させたのである。「也」「哉」を「や」、「焉」「乎」を「を」と定めた樣なものである。▼押奈戸手 おしなべて。「なへ」か「なべ」かは、疑問であるが、假りに、「なべて」に定めて置く。清・濁流動時代とする私の假説の上に、どちらになつてもよいと言ふある安心を以て。押《オシ》は訓、奈《ナ》・戸《ヘ》は音。手《テ》は訓を用ゐた。▼吾 我 わ〔傍線〕。あれ〔二字傍線〕・われ〔二字傍線〕・あ〔傍線〕・わ〔傍線〕樣々に訓める。殊に、古義の信用篤い當代においては、――古義は、特に啓蒙的な意義において優れた書物だから、此樣に採用せられるのだが――、雅澄の好んで用ゐた古訓・あ〔傍線〕・あれ〔二字傍線〕l・あが〔二字傍線〕が今人の訓讀にも濫用せられてゐる。此も、當時の人は、適度に萬葉其他の假名書きの物に對して訓んだのだらう。が、さうした自由性を持つ事の出來ない後代からは、ある劃一的な訓み方を定めて置く必要がある。私の考へも、必しも何處までも正しいと言へないが、まづあ〔傍線〕・あれ〔二字傍線〕を用ゐるのは、幼い者か、或は方言的感觸の殊に強い事を表す場合か、或は、殊に高い貴族とか謂つた人々に多いの(143)でないかと思はれる。だから、假りに特別に、あ〔傍線〕・あれ〔二字傍線〕・あが〔二字傍線〕など訓まねばならぬ約束のない場合は、わ〔傍線〕・われ〔二字傍線〕・わが〔二字傍線〕と訓むを標準とする事にしてゐる。この場合は、其にしても、われ〔二字傍線〕でもわ〔傍線〕でもよいのだが、「籠《コ》もよ み籠《コ》もち」と言つた風を重んじて、古風らしく、わ〔傍線〕一音で讀んで置きたく思ふ。勿論、古典的價値と文學約價値とは別であり、人々各言語情調を異にするのだから、強ひようとは思はぬが、假りに、「わこそをれ」「わこそはのらめ」と冒ふ57整調による事によつて、却つて「われこそはをれ」「われこそはのらめ」の古典的調和感を破つて見たのである。だが、返す/\も、私の好みを人に強ひるのでなく、又學問的常識にしようと言ふのでもない。唯、さう言ふ、昔を愛する形だけは、許して頂きたい。學間も結局は其處にゆくのが、本道なのだ。でなくては僞善なのである。さうして、後世必、此説の落ちつく事を、期して居てよいと思ふ。「許曾」をこそ〔二字傍線〕と讀むのは、許《キヨ》の次音こ〔傍線〕である――原音・次音といふ江戸の音韻學者のてくにつく〔五字傍線〕を此からも用ゐて行く――からである。「居」の字、宣長はませ〔二字傍線〕と訓んで、下の座に照應させようとした樣だが、茲も、特に敬語に訓む必要はないから、上下とも、「をれ」を用ゐる。又、舊説は、「居」と次の「師吉名倍手」の師とを結んで、「をらし」と訓まして居るが、此は、文法的には許す事の田來ぬ訓み方だから、顧慮する必要はない。
▼師吉名倍手 しきなべて。舊訓「をらし。つげなべて〔五字傍点〕」は、全然採用の理由がない。眞淵の「のりなべて」も、意味のない試訓である。やはり眞淵説と宣長説とを併用して、「いへのらへ…しきなべて」とするのが、普通だが、正しい。同時に、「吉」の字が告に訛つたものとも見てよい。家吉閑の吉と、こゝの告とは混亂、「師吉」で「しき」と訓む。吉はkitの子韻不發き〔傍線〕なのである。名は訓假名。倍は音。手は訓を用ゐたもの。(144)「倍」も、清・濁無差別。こゝでは、「しきなへて」か、「しきなべて」か、判別出来ない。普通はなべ〔二字傍線〕を採つてゐる。▼吾己曾座 座の字、居の敬語に用ゐる事もあるからとて、「ませ」と訓まうとする説は、當を得て居ない。共に、尊貴御自身の動作・思惟の敬語を用ゐられる例は多いが、其を茲にはめてはならない。前の對句として、やはり「をれ」である。本集にも「をり」に用ゐてゐる。
▼我許者背齒告目 わこそは。舊訓、われこそはせなにはつげめ。此もなんせんす〔五字傍点〕な訓み方である。但、金澤文庫本「許」の下に、「曾」があり。又、「者」の字、古本の中、三本まで正式には存在を示して居ない。而も、下の「背齒」と續けて訓む事も出來る。此二方法(許曾者・許背齒)とも、「わこそは〔三字傍点〕」と言ふ形が出て來る。後説は、井上通泰博士の説であり、前説は、山田孝雄博士の支持する所である。山田博士は當今字學に於て、※[木+夜]齋以後第一人の觀ある大人であり、彼の持たぬ新學を兼ねた前輩だが、此説は賀成出來ぬ。こゝは非常に安らかではあるが、後の方「背齒」に晦澁を感じさせられるからである。「背」は「せ」を示す外に、「そ」とも言はれた語で、熟語としては、「そ〔傍線〕じし」「そ〔傍線〕びら」「そ〔傍線〕がひ」「そ〔傍線〕むく」などある。「許」に「背齒」を續けて、「こそは」と訓むのは、適切である。尤、正辭先生は、「許」の下の「者」は衍字とまで考へて居られ、「われこそはつげめ」と訓んで、次訓の橋渡しを作つてゐられた。井上博士のは、之を完成せられたもの、と見られる訣だ。「せなにはつげめ」以外、「せとしのらめ」「せとはのらめ」その他、細部は區々になつて居る。「とし」と訓むのは、齒を、年齒・尚齒・不齒・齒徳・齒算など言ふ齒で、「とし〔二字傍点〕」と見るのである。「には」「とは」と見る説は、「と」「に」の略表記又は脱字と認めたのであらう。何れにしても、下に、「家をも名をも」とまであるから、特にこゝに「夫《セ》……」を出す必要がない筈である。「わこそはのら(145)め」を採るのが正しいのだ。▼告目 のらめ。告〔傍線〕をのる〔二字傍線〕と訓むこと、本集にも多い用字例である。但「目」の字、古く明らかに、「自」となつたのが一本、又、初畫の縦線の長く伸びたのが一本ある爲に、「告自《ノラジ》」とも訓みかけられて居る。訓としてはおもしろいが、意義の上からは成り立たないから、採ることは出來ぬ。▼乎毛 雄母 をも。乎・毛・母は音。雄は訓。
【口譯】 容《イ》れ物はよ。その容《イ》れ物持つて、くひ〔二字傍点〕はよ。そのくひ〔二字傍点〕持つて、この岡で、菜摘みして入らつしやるお娘《コ》よ。家どころ仰しやい。名仰しやいね。』この(あの)やまとの國は、此〔傍線〕おれがおし從へて居る。おれがしきり〔三字傍点〕從へて居る。』この通り〔四字傍線〕おれは名のらう。おれの家どころも、それから、おれの名も。
【言語】 ○こ 容れ物の總名。多く、容れ物を表す語尾のやうな形を採つてゐる。だから元、籠の類の竹器を「こ」と言つたのが擴げられて、容器を示す語尾となつた樣に考へて居るのが、今の學者の常識の樣である。つまり竹籠〔二字傍線〕を原義だとするのだ。だが其は、或は逆かも知れない。元來底があり、其をかばふ形の縁《へり》のあるものが「こ」だつたのではなかつたか。別に「蓋」を要件としないもので、その中に這入れば、容易に出る事の出來ぬ樣な容れ物だつたのが、段々に變化して、容れ物の通稱語尾の樣になつたのだらう。こゝらのは、例のかたま〔三字傍線〕・かたみ〔三字傍線〕に近い「こ」であつたのだらう。其でわざ/\籠と混ずるのを避けて、筥とか、容れ物とか言つて置かうとしたのだ。○もよ 感動の語尾「も」と「よ」との重複したもの。直譯は出來ないから、はい《ワイ》・はよ《ワヨ》(146)など譯してもよい。似た形には、「置目もや 近江の置目」「我はもや安見子えたり」などの「もや」もある。一體感動の語尾と謂はれる「や」・「よ」の類には、下の語句と熟して、一語を組み立てる傾きがある。或は、感動して注意を呼び起す氣分が、さうさせるのだとも言へよう。だから、かうした單純な場合には、「はよ《ワヨ》、その」と言ふ風に、下に續けて行って譯すると、妥當な感じが出る。○み……。接頭語。今は、その本義は訣らぬ。普通、敬語又は美稱の様に言ふが、其も、氣分々解かも知れぬ。肝要・深奥・中央など言ふに近い義を、含んで居た様に思はれる。だが、最古い、此意義における「み」の用語例の一群を見出さぬ間は、斷言は出來まい。恐らく「身」「實」などに關係があるのだらうと思はれる。だが此場合、其が特に「もち」と連用せられてゐる事情から、或は別の事が考へられてもよいかも知れぬ。單に自家用のものでなく、神器・神饌具としての祭饗時の籠・※[金+讒の旁]を意味するものとして、「み」がついてゐるのではないか。だが此には、一論文を用意した方が、人を誤たない。○もつ 此語も、あまり特殊な注意をせずに、唯の語として見た方が、通りはよい樣だが、こゝの用語例が、きは立つてゐるから注意をする。(神意を傳へ又は、神事を執り行ふ事を、古語にもつ〔二字傍点〕と言つてゐるから、岡の上に出る日で、處女が神事の爲に農具を扱つてゐる状を、目撃せられたことを、言語の上だけに印象してある樣に思はれる)。○ふぐし みぶくし 倭名砂に、「※[金+讒の旁]」を「賀奈布久志」。字金偏に從ひ、かな……と言ふからは、竹・木の類のふぐし〔三字傍線〕の方が、古かつたのだらう。今も「ふぐし」系統の方言を使ふ地方がある。(147)ふぐせ〔三字傍線〕・つくし〔三字傍線〕・つんぐし〔四字傍線〕など言ふ。つくし〔三字傍線〕・つんぐし〔四字傍線〕は、用法似て、元異なるものかも知れぬ。が、子供が遊びに使ふねっき〔三字傍線〕・ねんがら〔四字傍線〕の類を、つくし〔三字傍線〕と言ふ處もあるを思へば、やはり一つのやうである。土佐幡多郡沖(ノ)島では、「ふぐし」と言つて、太い棒|杙《グヒ》の類を言つてゐる。山田博士は、槍《ホコ》・棒の類の「ふぐし」と稱した例を示して居られる。大きいのも小さいのも、あつたのである。結局尖の幾つにも岐れて居ない、單純な尖つた棒状の物なのであらう。掘る串の約音など言ふのは、意は當つても、語としては信じられない。へら〔二字傍点〕と謂つても大體はよいが、くひ〔二字傍点〕が、大小に通じて當つてゐる。
○このをか をか〔二字傍線〕に、尠くとも、二義ある。高みと言ふ義と、丘陵と言ふのとである。をか〔二字傍線〕(丘處《ヲカ》)より行く道など言ふのが、前者である。此處のは、他の人の通らぬ處に、虚女たちが、集つて菜を摘み、羮を煮たりしてゐるのを御覧になつたのである。單なる高みと言ふ事ではなく、特定の岡であらう。○菜つます子 つむ〔二字傍点〕は、爪を活用させた語だが、菜を採る事には、必爪きらずとも言うて居たのだらう。「な」は、勿論副食物である。こゝは山野の菜である。此處に云ふ菜は、其場で處女らが煮て喰ふのであつて、家に持ち還る爲の物ではなかつたのだらう。子 語としては、自由でも、意義としては、幾分下目に物を言ひかける、親しみを持つた語である。つまり卑稱でもあり、昵近稱でもある訣だ。愛人にも、友人にも言ふが、熟語としての場合の外、貴人には言はない。だが、女は公人として、――神事の上の――資格において、「子」と呼ばれる事を注(148)意せねばならぬ。「菜つます子」は、菜をつます子と言ふ風に感じるが、古風にはやはり、「菜つむ」と言ふ句を、そのまゝ敬語化したのが「菜つます」なのだらう。「朝ふます〔四字傍点〕らむ」が「朝ふむ」の敬語である如く。
「菜つます子」と言ふ發想は、すべて、敬語的表白を以てせられて居る。かう言ふ場合、近代人の感じは、菜を摘みに出て居るが爲に、直に、卑賤な田舍娘のやうに解し馴れてゐる。がさうではない。單に里の娘の物語が、宮廷或は地方の物語又は、歌として傳る理由のなかつたのが、古代傳承の性質である。傳來の詞章・歌その他に出て來る女性は、皆地方々々の貴女、又は神女なのであつた。だから、「菜つます子」と、敬語が用ゐてあるのだ。古典學者は、古代には、敬語の混亂のあるものとの豫定觀念がある爲、これなども、極簡單に見られてゐるけれども、やはり正しい用法である。農業勞役は、神業だから、其處女を尊んだとも考へられるが、やはりよくない。つまり傳承上の女性は、大和宮廷或は、其以外の國々では、豪族の女子であるが故に、至尊と謂へども、賤稱を以てなさる事がなかつたのである。宮廷外の國の貴い女性は、之を獲て婚すれば、其國々の威力の中心たる神を迎へる事が出來、其を失へば、他國の威力は、其處女の身と共に、永久に當方に來らなかつたのだ。宮廷以外の國邑の權威の源たる神、其に仕へて居る高貴の巫女と結婚せない以上、國威は他に及ばなかつたのだ。だから結婚は、他國の威靈を當方に持ち來る事であつた。播磨風土記その他を參照せられたい。だから、さうした女性に對して、求婚の詞章(149)として發せられる語が、敬語であるのは、勿論である。第一に、いまだ悉く臣從した國邑ばかりではなく、半屬國も附近に多かつたのである。舊説訓じて、「なつむすこ」として、菜摘む賤兒《シヅコ》の音の融合だとした如きは、意味のない事だ。
○家のらへ 名のらさね 「家聞かな」説は、字を變へることなく、鮮やかに意が通じるので喜ばれてゐるが、かうした發想法が果して、尠くとも、奈良朝から見て、更に古典としての感を、深く唆つた詞章にあるべきだらうか。「お前さんの姓名をおれは聞かう」と仰つたと言ふのである。つまり一種の飜譯臭を帶びた物言ひである。間接的な澄した言ひぶりになる。私はまだかうした類例を知らない。やはり「家のらへ」でなくてはならない。あまりに文字を替へて考へた弊に飽いた結果、錯亂ある文句まで強ひてそのまゝに訓むのは、亦却てよくない。此と同じ態度に、通例ない古音を引き出して來て、合理的な訓を下す方法もあつた。だが、「聞かな」が成り立つものとして、一通り説いて見る。「な」は感動語尾として、「も」とほゞ似たものだ。言ひかへれば、「家聞かも」と言ふ處である。而も此は、屈折によつて、「家聞かむ」と言ふ活用を生じるが、「な」の方は、固定してゐる。だから更に後代的に言へば、「家聞かむ」である。處女に對して、「妹が家聞かむ」と仰られてゐるとするのだ。「名のらさね」、なのる〔三字傍点〕の敬相が、「なのらす」、其懇請法が、「なのらさね」である。「のる」は「言ふ」の敬語だと言はれてゐる。實際において、其に違ひない。唯、多少其には、曲折ある歴史が伴うてゐる様だ。元は單にすべての貴い人の言ふ事が(150)「のる」でなく、神の發言に限つたのだ。其は、精靈に對しての、宣言であり、命令であり、叱咤であり、咒咀でもあつた。かう言ふ色々な方面に働く神の表白が、次第に中心を、貴人の「言ふ」と言ふ義になり、其他の部分は、それ/”\分化して殘つた訣なのだ。だから、「のる」が場合によつて、言ふでもあり、罵るでもあり、命ずるでもあり、又「のろふ」とも、固定したのだ。その例を見ても、語義が、一轉して主上として言ふべき「のる」の語を、其對立者としての處女にかけて「家のらへ」「名のらさね」と用ゐられて居る。「家のらへ」の「のらへ」は「のる」の再活用。のる〔二字傍線〕を語根として、其にふ〔傍線〕の語尾がついたのである。さうして、「名のらさね」の對句として用ゐられてゐる。「名のり」は、まづ神聖な神及び人にある事で、其を轉じて、その「名のり」に應じて「名を明す」事にも用ゐたのだ。尊貴の名のりに應じる事が、亦名のりとなつた訣なのだ。
いづれの家の誰なる事を知らうとする事は、同時に、相手をわが思ふに任せようとする事であつた。人の名は今も種族によつては、たぶう〔三字傍線〕であつて、之を人に知られることを避けてゐる。實名は、ある狹い範圍においてのみ知られて、表に現れるのは、假り名であつた。其すらも、段々實名と類似して來る爲に、絶對に名らしいものを示さぬ樣になつた。子を育む事を、母方の事として居た時代の俤として、「たらちねの母がよぶ名は申さめど、道行く人を 誰と知りてか(卷十二)」一類の歌がある程である。此名の忌みは、貴人ほど激しかつたものと見えて、常に童名《ワラベナ》・物(151)忌名――諱を以て示した事もあるが、女においては、名を人に知らせる必要はなかつた。又人に知られた時はその知つた人には、許婚せねばならなかつた。完全に征服せられた形になるのだ。だから、男性としては、求婚に當つて、まづ女性の名を問ひ出す必要があるのだ。名を聞く事が、同時に、結婚の成立を意味するのだつた。其には前提として、威力ある言語を以て、其を呼び出さねばならない。其詞章は即、おのが家どころ・名を宣る事であつた。此名のりによつて、對者の心中の靈が搖り動されて、自ら應へるものと信じて居たのだ。だから、結婚は求婚者の「名のり」からはじまる。之なくしては、如何に高貴の威力を以てしても、成婚は期する事が出來なかつたのである。此樣式が、後代まで繼承せられて「名のり」の式が、くり返されたのだ。「朝倉や 木のまろ殿に、われ居れば、名のりをしつゝ行くは誰が子ぞ」の類、皆、求婚の古俗を示すものだ。(昔の貴族たちの名は、易く知れなかつた。名は人格の一部と考へられた爲に、秘密にしたもので、名が訣れば、それに對して祝福も咒ひもし、その人格を左右することも出來た。昔の人は、どれが本名か訣らぬ様に、澤山名を持つても居た。殊に女性は、古代生活の保持者として、この秘密を守る程度が強かつた。近代でも、此風は、絶えてゐない。處女の名は、まづ育ての親たる母親以外には、知られない場合が多く、兄弟にすらも、教へなかつたのである。名を知り得た異性は、處女を征服した事になる。結婚することが出來る訣だ。結婚すれば、同時にその處女の齋《イツ》く神は、其男の守護靈となるのである。かう言ふ古傳承に現れる女性は、皆宗教上の高級巫女で(152)ある。さうしてそれが歴史的の存在として殘る。名のる〔三字傍線〕は、對者にその名を表白させる手段として、まづ自分の名をいふことで、此には、何の家の何某と言ふ風な種姓明しを條件としてゐる。其に許さうとすれば、名を言ふ。名を顯すことは、結婚或は、戰爭の前提となつた。男女の場合には、男がまづ名のつて、女が名を白すか白さぬか、を待つのである。男が名のらないで、女の答へを得ることは、絶對になかつたのである。「たらちねの母が呼ぶ名を白《マヲ》さめど……(卷十二)」に於て、名のりの信仰の色々な形を見ることが出來る。かうした樣式の出來る前の姿は、權威ある靈物の名を聞くと、如何に、自己の名を明すまいと緘黙してゐても、遂に開口して、名のる樣になる。さうして後、爭闘が行はれて、威服せられるに到るのであつた。前述の如く、結婚と言ふ事には、戰爭の過程を經ねばならなかつた。宗教上の神の戰爭があるのである。播磨風土記に、澤山例がある。男が勝つこともあり、負けて逃げて行く事もある。名のりの一異式として、錦木がある。平安朝以來の歌枕に、奥州の風俗として、とりこんでゐる。處女の門に、男が錦木を積む。その木の取り込まれた男が、許された事になる。)
○そらみつ やまとの枕詞。前述の樣に、そらにみつの形もあるが、後の合理化らしい。物部氏の祖|饒速日《ニギハヤヒノ》命、天磐船に乘つて太虚に翔り乍ら、是《コノ》郷《クニ》を見て降られたから、「虚空見日本國」と言うた、とある日本紀の風俗諺〔三字傍点〕は、却て「そらに見つ」と訓む方の説明に役立つ樣である。枕詞の語格としては、終止で截つて、連體同樣の職能をするのは、當然であるが、此説話は、新しいも(153)のゝ樣である。古い風俗諺〔三字傍点〕は、其古い時代にすら訣らない處から、色々説明を試みられたので、此も、其一つだらう。山にかゝつたものが展開して(空に滿つの義と見るのだ)大和に專屬する樣になつたのであらう。枕詞の展開の一つの姿である。(けれども古い枕詞には訣らぬものが多い。此もその一つで、強ひて説くには及ばぬのである)○やまと やまとの國を考へるよりまづ、大倭宮廷の勢力の及んだ範圍を考へる方が、實際此語の意義を捉へる車が出來る。大體幾段かの展開があり、その用語例の各々が、後代まで、其々傳へ殘されて、そのまゝ用ゐられて居たものである。大倭宮廷の、大和國以前の發祥地として、山門《ヤマト》の地も考へられるが、其は措く。大和國内においての故地(大倭宮廷の發祥地とも言ふべき)、山邊・磯城兩郡に境した大倭《オホヤマト》郷(今の大倭よりも、山手らしい)を中心として、擴つて行つた舊地。大和平野の中原たる高市・十市・磯城一體の平野(第一段)。其から後更に展開した北平原(奈良附近)を籠めて、吉野山地の荒賊の地に對して稱へた時代(第二段)。其から更に其山地をも大和と言ひ、更に廣く畿内一帶――よりも廣く――を言ふ樣になつた。人麻呂の「明石の門《ト》より、やまとしま見ゆ」と言ふのは、帝の國土を指すので、帝畿である(第三段)。宮廷の勢力の増すに從うて、廣く大八洲に及んだのである(第四段)。さうして、其舊稱が印象して、狹くも廣くも「やまと」と稱してゐた次第であり、此處のは、大和一國或は、恐らく、その一部を指されたものと見るべきだらう。其菜摘みの處女の居た處は、他族の國であつた。さうして、其國へ妻|覓《マ》ぎに來られたもの、と見るべきであらう。だか(154)ら「やまとの國」の主上だと言ふことを、「倭の國はおしなべて、吾こそをれ。……」と言ふ表現で、明《アカ》し名のつて居られるのである。此點殊に、注意せねばならぬと思ふ。
○くに 人麻呂の歌の「倭島」にもあつた通り、國を、兩樣に、「しま」「くに」と言つた。天子直轄の地、即わが國と謂つた言ひ方が「しま」である。「大八洲」「あきつしま」「しきしま」「かるしま」など、其なごりである。其他の、段々臣屬感情を明らかに持つ樣になつて來た國々は、「くに」であつた。其が後には却て、國の方が一般の稱へとなり、「しま」は、分化した狹義のものに殘つて行つたのだ。だから、普通の論理からすれば、主上の御感情としては、「やまとのしまは」と仰るところだが、其は又、詩歌成立と傳承とに關する、他の原因から説明すべきである。
○おしなべて しきなべて 「おし」も「しき」も接頭語ではない。おす〔二字傍線〕は壓すの系統の語で、一方「うし〔二字傍点〕はく」「おそ〔二字傍点〕はく」など言ふ古形と關聯を持つ語。強く占有して居るなど言ふ義。奈良朝近くには、他の者に侵させぬ樣にしてゐると言ふ義になつてゐたらしい。「しき」は「しく」の連用形。區劃を作ることで、此から以内は、わが物と守る形らしい。此が早く「しる」・「敷く」と聯想混亂を來したらしい。古い形は敷くでなく、どうも名詞しき〔二字傍点〕(石柵・石壘を意味する壘)から來たものと思はれる。「なべて」なびけて〔四字傍線〕の融合だと言ふが、逆である。「なむ」又は「なふ」と言ふ形が元で、再活用して、「なびく」「なみく」といふ動詞が出來たのだ。四段自動もあるが、普通は此下二段他動である。甜むなどゝ一つの語で、一方に傾け整へる、なめらかに伏せ(155)る、頭をあげぬ樣にさせるなど言ふ義らしい。「伏せる」「服從させる」と譯すれば當るだらう。但、奈良朝末の擬古典的な詞章に出て來る僞活用には、誤つた四段他動などが出て來る。○わこそをれ おしなべて〔五字傍線〕・しきなべて〔五字傍線〕は、感激突出の文法倒置だ。「わこそおしなべて居れ」「わこそしきなべて座れ」とあるべきなのだ。普通、このをれ〔二字傍点〕――ませ〔二字傍点〕――は輕く見られてゐるのではないかと思ふが、少し力が懸つてゐる樣である。單に「あり」に當るものではない。「かくして靜かに居給ふ」など言ふ主上的發想が含まれてある樣に聞える。「あの倭の國は、此おれが、おし伏せて、さうしてかくの如くいますのだ……」と言ふ風に説くべきものであらう。「ませ」と訓むのは、考へ物だが、「ませ」の氣持ちは十分にある。「ぢつとおちついて居る」と言ふ風に居れ〔二字傍点〕を譯して見れば理會がつく。(彼の方をませ〔二字傍線〕と訓むことは、あながちに誤りではない。唯天子躬らの仰せ言ではなく、詔旨を傳達する人自身の感情が這入つて來るので、尊貴躬らの動作に敬語を入れることになつたのだ。歌でも宣命・祝詞に近い發想法のものにはあるが、素朴な表現の場合には敬語は入れない方がよい樣だ)。
○わこそはのらめ こゝのこそ〔二字傍線〕は極めて力弱く用ゐられてゐる場合もあるが、こゝに重く懸けて來た力を受けて、展開して行く樣になつてゐる。だから、時には意味が終らずに反撥して、反對を言ふ事もある。こゝは、近代の感情を以て譯して宜しいなら、「おれならば〔三字右○〕――おれに言へとならば――かう――以上の如く……宣らう。おれの家も。名も」或は「おれの場合は、かう言ふ風(156)に……宣らうとするのだが、お前はどうだ」と仰つた樣に譯してもよいと思ふ。(「おれの方はかうだが、お前は別の行動をとれ」と言ふ風に説くべきではない)。此「こそ」に力を懸けて説いた人は、木村正辭先生である。又近年氣づいたところでは、故人古泉千樫門の橋本徳壽氏が、雜誌「青垣」において、曾て、此「こそ」を重く見て居たことがある。類聚古集その他の、「自」と見える形から、「わこそはのらじ」と訓む説については、既に言つた。おもしろいが困る。男性から宣らなければ、女性の心には、何の影響も來ないのである。即、「名のり」が、根本的に意味のない事になるのだ。(男が言はなければ、女は返答しないのである。天子だから女に對して名のられる必要はないと言ふ筈はない)。其では、戀愛と戰爭とに亙つて、あれほど行はれて居た「名のり」が、ないものになつて了ふ。此説は、至尊の尊さを頌し奉る敬虔の心深さから、出た事だらうが、せむ方ない。
【鑑賞その他第一】 此歌で、まづ言ふべき事は、段落の問題である。「籠もよ……名のらさね」で一段。後は亦一段と言ふ風に見える。だが、最後に今一段、「わこそはのらめ。いへをも なをも」と言ふ形が分裂して來てゐる。考へ方によれば、「籠もよ」から、「しきなべてわこそをれ」までを一段と見、後の短い一段を對立させる事も出來る程、末二句――である。――は、力強いものである。日本古代の歌謠は、必、常に二部に岐れて、意義からも、聲樂としても、對偶を作つて居るのが、普通であつた。さうして概して、前段の方が、語數多く、後段の音數が尠い傾き(157)を持つて居た。ところが、次第に後段の方に又一つの段落が生じなければならぬ事になつて來た。二部分を作るといふ意識がくり返される爲の分裂である。其は、最後の極めて、音數の少い章句であつた。さうして、從前の前後段を一段と見做して、此に對して出來た對偶と謂つた形を採つて來る。即事實は、三段だが、ABの二段を一段とし、之にCの短章が對して來るのであるから、古代の長歌ほど、反歌がない、などゝ言はれてゐるが、事實においては、既に多く章末に、三句の樣式の反歌に近いものが出來てゐた。さうして、後代の散文的な考へには、映つて來ないが、聲樂的には、既に謳はれて獨立してゐるのと同じ形を採つて居たのだらうと思はれるのである。即、此御製では、「わこそはのらめ いへをも なを※[をも なをに弓括弧]も」の句が、其である。次の舒明天皇御製では、「うましくにぞ。あきつしま やまとのくには」が其である。
恐らく、詞章悉く、一度諷誦せられた後に、最後の短章だけが、調子を替へて再くり返される樣に、なつたのであらう。さうして、そこに修辭による音數の添加が、反歌を意識に上せ、更に他の原因と相俟つて、短歌と云ふ樣式を磨きあげて來たのだらう。が要するに、聯を一つにせずに、必對偶を作ると言ふ日本歌謠根本の欲求――約束――が、二聯を三聯にし、四聯にし、最後の短い一聯を獨立させる事になつたと思はねばならぬ。私どもの唯今の意識からは、「わこそはのらめ。家をも。名をも」を、其聯と言はせるけれども、場合によると、其前の對句の片方「しきなべてわこそ居れ」は、對句、として出來たもので、音示關係以外に、必然性の乏しいものだ。此から(158)下が、一聯に組みこまなければならない樣な樣式もあるのである。
【鑑賞その他第二】 萬葉集卷第一には、まづ此歌があり、次に間が飛んで、崗本宮舒明天皇の御歌になつてゐる。最古い歌としては、卷二の初めに、仁徳后、磐(ノ)姫皇后の相聞の歌がある。卷四の初めに、「難波天皇皇妹奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首」とある難波天皇と、難波高津(ノ)宮御宇天皇とは、全く別のおん方で、難波天皇は、孝徳天皇をさす樣に見える。が、本集の事情から見れば、やはり、高津(ノ)宮の事を言つたものと思ふ方が正しいらしい。大歌の卷々が、男では、雄略天皇、女では、仁徳朝の御歌で始まつて居るのには、理由があると思ふ。磐姫皇后は、嫉妬深い御方で、其に絡んだ長物語が、古事記にある。磐(ノ)姫皇后の御歌は、女の怒りを鎭める効果のある歌なのであつた。男で怒り易くあられたのは、雄略天皇であるが、又、感情の美しい御方であつた。天皇の御製は、同じく、怒りを鎭める爲の歌であつたのだ。さう考へると、萬葉の大歌は、まづ、男と女と兩方の魂しづめの歌を以て始まつて居るのである。男では雄略天皇から、女では磐(ノ)姫皇后から、と言ふ風に、男女の魂を鎭める重要な歌としては、此二顯貴に關する大歌が、宮廷及び貴族の間に、知れ亙つてゐた事が思はれるのである。
平安朝になつて、手習ひの歌の代表とせられた「難波津」「淺香山」の歌は、やはり、鎭魂歌としての意義から、貴族子女の教育の爲に用ゐられたのだ。手習ふ手をとほして、魂に感染作用を與へるつもりなのである。王仁吉師が、大鷦鷯(ノ)命に獻つたと傳へる難波津の歌は、威力ある魂を、(159)この皇子に附著しよう、とした第一義の鎭魂の歌である。「淺香山」の方も亦、第二義の鎭魂(魂を鎭める意味)の目的に供せられたもので、その起原については、本集(卷十六)にも、「安積山《アサカヤマ》 影さへ見ゆる山の井の 淺き心を、わが思はなくに」を擧げて、雄略天皇同樣の故事を述べてゐる。葛城王が陸奥の國に使ひして、國司の待遇を無禮だと怒つた時、前采女――通常淺香山采女と言ふ――が、左手|觴《サカヅキ》を捧げ、右手水を持つて、王の膝を撃つて詠んだとある事情が、殊に、雄略帝に泊瀬の百枝槻の下の宴遊に、三重采女が捧げた盞に槻の葉の浮んだのを怒られた時、采女が歌を詠み、更に、皇后がとりなされた爲に、御心が凪いだ(雄略記)、と言ふ事實と一つである。其から推せば、雄略帝は怒りを鎭める歌の起原をなす御方、難波高津(ノ)宮の後宮を、魂ふり及びうはなり〔四字傍点〕嫉みの鎭魂などに亙つて、やはり鎭魂歌としての大歌の、發祥點と見た事が窺はれる。かうした理由で、卷一・二の卷頭に、飛び離れて古い時代の歌を擧げ、更に卷四の卷頭にも、卷九の初めにも、難波朝と、泊瀬朝との御歌・御製を、起原としたもの、と思うてよからう。
尚、卷九のは、泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮御宇天皇御製歌一首となつてゐる。さうして、其は、卷八では崗本(ノ)天皇の御製として傳へてもゐるのだから、雄略の御製が落ちて、舒明の御製が、其位置に移し寫されたものと思はれる。どう見ても、大歌の記録なる萬葉集の古い部分に、さうした意義の起原を示す傳承歌を据ゑる必要のあつた事が考へられる。
此歌は、雄略の御製とせられてゐるが、元々ある叙事詩から分離したものゝ行はれてゐる間に、(160)處女を靡けようとせられた事跡の多く傳つた方だから、雄略帝だらうと極められ、鎭魂歌の起原に關係深い方として、編み込まれたのだらう。
此が、この天子の御製と推定せられ、傳承せられた動機は、脇からも考へられる。河内|日下《クサカ》の赤猪子《アカヰノコ》の件及び歌。又、春日に御出での時の金※[金+且]岡《カナスキノヲカ》の由來の傳説及び歌、或は、本集卷十三の「こもりくの泊瀬の國にさよばひに」の歌「こもりくの泊瀬|小國《ヲグニ》に、よばひせす吾大皇寸〔三字右○〕與」の歌――恐らく雄略帝に關したもの、と考へてゐたのだらう――などがある。かうした野外又は、家居の處女に、求婚せられたと言ふ傳へが、此外にも多くあつたらうし、殊に、金※[金+且]を持つて岡にゐた處女に、「處女のい隱る岡を。金※[金+且]も 五百箇《イホチ》もがも。すき撥ぬるもの」(雄略記)と歌ひかけられたといふ物語は、此歌を、雄略の御製と極めさせたものとも言へるであらう。が一方、此に似た傳へが、傑れた尊貴の御上に、いろ/\傳つて居たらうから、雄略帝が同時に、さうした傳へは、景行・應神その他の英邁な御方に傳つてゐるのだから、唯單に※[金+讒の旁]と金※[金+且]との類似を以て推論する事は出來ないかも知れない。私の舊説でもあり、澤瀉久孝さんのお考へもあるが、今一應考へたく思ふ。何にしても、神武天皇の高佐士野《タカサジヌ》の物語なども、考へに入れてよい。春の山ごもり・野遊びなど言ふ、處女だけの、屋外の物忌み生活の期間が、他族の男子の窺ひ、妻|※[爪/見]《マ》ぎするに好都合だつた、其實生活と、傳説との關係を示してゐるのだ。
此間は、處女たちは家人と別居し、禊ぎをくり返し、共同の竈で野山の蔬菜を以て羮として喰う(161)て居た。だから、其印象が農業の手わざとして、歌や物語に現れたのだ。
「雄略天皇御製歌」講義は、昭和七年「短歌講座」の分と、昭和九年七月「短歌研究」第三卷第七號「萬葉集の綜合研究」として執筆されたものと二通りある。後者があるゆる點において詳細を極めてゐるので、今それにより、時に前者のみにあつて、後者にない部分だけを括弧にした――編者
(二)
高市崗本宮御宇天皇代《タケチノヲカモトノミヤニアメノシタシロススメラミコトノヨ》 (息長足日廣額天皇《オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト》)
天皇登(リテ)2香具山《カグヤマニ》1望國之時御製歌《クニミルトキノギヨセイノウタ》 (卷第一)
(二) 大倭《ヤマト》には、むら山あれど、とりよろふ 天《アメ》の香具山。」登り立ち 國見をせれば、國原は煙《ケブリ》立ち立つ。海原《ウナバラ》は鴎《カマメ》立ち立つ。』うまし國ぞ。あきつしま 大倭の國は
山常庭、村山有等、取與呂布 天乃香具山」。騰立 國見乎爲者、國原波煙立龍。海原波加萬目立多都』。怜※[立心偏+可]國曾。蜻島 八間跡熊國者
【序註】 ▼高市崗本官 今奈良縣|高市《タカイチ》郡高市村岡〔右・〕及び飛鳥《アスカ》村飛鳥〔二字右・〕の上方に亙る一帶の丘陵を、古く、高市《タケチノ》丘とも、飛鳥《アスカノ》丘とも稱へた。飛鳥丘と云ふ場合は、詳しく謂へば「高市(ノ)飛鳥丘」と稱すべきであつたのである。其だけ、丘陵の名が、「高市丘」で通つて居た事を、思ふべきである。恐らく、此丘が地上における「天(ノ)高市」であらう。其が、大和中原の南東の隣地を、高市と汎稱する(162)樣になつた爲、「高市地方の」或は「高市郡の」と謂つた心持ちに、感受せられる樣になつたのである。其後段々、邑落中心の移動によつて、高市の地名が西北へ偏つて行つた。古代大和地理を説く舊書類に、雲梯杜《ウナテノモり》の所在又は、天高市神社の舊地と稱する、畝傍山北方の今井町・眞菅《マスゲ》村・金橋村《カナハシムラ》に亙る、地域に限つて考へて來たのは、決して誤りではないが、地名にも、歴史的變動のあつた事を思はねばならぬ。飛鳥地方が、飛鳥と稱する以前は、高市と呼んで居た、と考へねばならぬ。今一度端的に言へば、高市(ノ)連族の移轉によつて、地も亦移つたもの、と見るべきである。之について、云ふべき事は多いが、「短歌研究」昭和十年四月號附載の阪口保さんの「萬葉地理奈良縣篇」の記事を待つ事にしたい。但、神代紀の「八十萬神を天(ノ)高市に合せ……」とあるのは、此丘陵であると思ふ。市〔右・〕とは、山と平野との接合點にある丘陵地で、古代、會合點になつてゐた處を意味する語なのであつた。飛鳥丘〔三字傍点〕と神南備(ノ)丘〔四字傍点〕とは、別地である。だから、後の丘の麓と見ることは出來ない。前述の如く、高市(ノ)丘又は、高市飛鳥(ノ)丘と言ふべきものが、後單に、飛鳥(ノ)丘と謂はれたのである。だから、高市(ノ)崗本宮も、飛鳥(ノ)崗本(ノ)宮も、同一地を斥《サ》す事になるのだ。後から見てこそ、此宮廷を直に、崗本(ノ)宮と稱した樣に見えるが、正しくは、高市……又は飛鳥……と言ふべきで、記録の原則としては、單に崗本宮では、通らないのである。「(舒明)二年冬十月(十二日)飛鳥(ノ)岡の傍に遷る。是を岡本宮と謂ふ(日本紀)」とある。此は、通稱に從うたのだ。が、崗本宮の所在は、ほゞ察せられる。多くは、岡寺――龍盖寺――附近を、其趾として居るが、宮(163)地はもつと、平地に下つて居た筈である。ともかく、今の「岡」の地は、岡本寺の略稱「岡寺」の所在地だつたから、と言ふより、「岡本」の音脱か、單に、飛鳥岡の中心とする地の中の、印象的な地名となつてゐたからの名と見る方がよからう。「岡本宮」の所在を、「岡」邊に求めるのは、正しいが、岡|本〔右◎〕と言ふからは、丘の裾曲にあつたのだらう。私は、飛鳥宮廷を前後に分けて、古《トホツ》飛鳥朝・近《チカツ》飛鳥朝としてゐる。用明・崇峻・推古の三朝をば、古飛鳥、舒明天皇以下を近飛鳥とするのである。允恭・顯宗の飛鳥宮廷はあまり古く、偶發的であるから、之に這入らない。おなじ飛鳥の内に、小墾田(小治田)・豐浦・板蓋宮・川原・淨御原と言ふ風に、皇居が御代々々に移つて居る。其一々については、ほゞ地點を指示する事の出來るのもあるし、又あまり區域の接してゐる此邊狹い地域に、多くの宮・邸・第宅があつたものと思はれるから、何處を何宮の趾、と一々指摘するのは、却て誤りを深めるものであらう。
▼高市崗本宮御宇天皇 舒明天皇である。皇后は、後の皇極齊明皇帝。齊明天皇二年秋の條に「是歳飛鳥(ノ)岡の〔右○〕本に、更めて宮地を定め、……遂に宮室を起す。天皇乃遷り、號して後《ノチノ》飛鳥〔二字右◎〕崗(ノ)本宮と曰ふ」とあるが、盛大に宮儀を記したまでゞ、女帝として夫《セノ》帝の舊宮の存した所に、遷られたまでゞあらう。
▼崗 訓、岡に同じい。岡の一體である。古く此體見え、日本の古書にも、之を用ゐたものが多い。
(164)▼天皇 舒明天皇。宮廷傳承の一つとして、此大歌を、此御代の御製と傳へたのであらう。
▼香具山 《カグヤマ》正しくは、あめのかぐやま〔七字傍点〕。香山・高山又は、香久山などに作る。皆、音を採つたのである。磯城郡香久山村にある。今も傳へる山が、其である。北麓の邊に、香山寺があるから、信じてよい。大和三山の一つ。中、最形優なるべく感じられるが、劣つて居る。古代から信仰的に著しく、又其によつて、頌められて居たに過ぎないのである。耳梨・畝傍山と違ふ點は、背後に狹い平地帶を隔てゝ、多武峰連峰に接して居ることである。廣濶な平原を前に、後に深山を控へた前山――端山――と謂つた地形が、古代は、齋場には、屡利用せられてゐるのである。天或は高處から降臨するもの、と信じられた昔の神人の、里に來る足掛りとするに、恰好な地である。おなじ磯城の、鳥見――後世、外山《トビ》――の齋場の趾と思はれるものも、おなじ地形である。香具山は、三山の中でも、古代、宮廷祭儀の屡行はれた處である。齋場は、同時に、天上の地と見做して行ふのが、信仰規約だつた爲、其延長から、平常でも、其地を尊仰して神聖なものとし、又、天上界の地と考へる習俗が、長く遺つたのである。即、天上の所謂「天香具山」と見立てられて祭時にくり返し利用せられた爲、「天《アメ》の」と言はれるのだ。其が、既に萬葉時代にも、單なる讃め辭風に考へられた事もある樣である。天から碎け落ちた片破れだ、とする伊豫風土記逸文の傳へも、古代信仰としては、既に變化した形なのである。つまり、天上の聖地として、地上の祭りを天上化し、直に天神に應答するもの、と見て居たのである。其が更に、ある時期には、大倭の國(165)魂の所在地或は、大倭一國の象徴と見られる樣にも、なつたのである。此爲に、香具山の埴を採取する風は、神代紀にもあり、神武紀にも、崇神紀にも見えてゐる。かうして尊ばれた所から、美しい姿の樣に讃へられたのに過ぎない。此御製で見ても、天子登臨せられた意味は、窺はれる。即、國見と見れば其までだが、更に其以前の、宮廷及び大和人らの信仰が、含まれてゐるのだ。
▼望國 必しもくにみ〔三字傍点〕に適切に當てようとした字ではなくとも、大體、其習俗に當るのであらう。だから、假りに國を望む時、と訓んでもよい訣だ。だが、「くにみ」も、古い語だから、其意義に近づけて、解説を試みよう。「くにみ」と言ふ名詞として、「くにみせす」「くにみさす」などの外に、「くにみる」もある理由だ。一體、わが國の國見らしい行事は、單に、天子巡狩の義ではないのである。又、農村の出來秋を御覧ずる爲でもなかつたのだ。先に述べた高處より降臨する聖者――神の資格に於いて臨む所の――が、邑落に近い高處に立つて、土地の精靈及び、土民に命令を宜下して行かれる風があつた。其効果が土地・人間の上に及んで、その年は祝福せられたのである。此が、多くは變化して、讃め辭の形を採つたものが殘つた。又、一方後代まで、官命を宣布する形式として傳つたのである。後者は、所謂「呼び寄《ヨ》せ塚《ヅカ》」なるものに俤を止めた。塚の上に立つて、官命を地方民に傳へ聞かせたのだ。それでつかさ〔三字傍点〕・野司〔二字傍点〕など言ふ語が見えてゐる訣だ。高處がつかさ〔三字傍線〕で、官人はつかさ〔三字傍線〕に立つ事によつて、命令傳達の資格を持つのだから、遂には、官人其物をつかさ〔三字傍点〕と言ふことになつた。前者は、後世「田ぼめ」として、諸方に傳承せられてゐる。(166)稻の花の咲く頃になると、神主或は長老等の聖事に與る者が、岡に登つて、まだ穗の出ぬ田に向つて、まだ暴風雨《ノワキ》期を過ぎぬ稻を、瑞穗に撓《タワ》んでゐる、と謂つた風の「ほめ詞」をかけて、近く來る出來秋を祝福する。此などは、皆古代の國見或は、其系統の儀禮の變化固定したものだ。
又歳時記類に見える「岡見」と言ふ季題は、必全國的の事でなく、一地方の行事であつたものを採用した事が思はれるが、歳末大晦日の夜の事となつて居る。深更、里の人々笠を冠り、蓑を裏返しに着て、里の岡に登り、肩越しにわが人居を見ると、來年一年中の出來事が、豫め見えるものだ、と傳へて居たと言ふ。舊日本の古俗を遺す沖縄にも、此に似た風がある。此夜、丘上から魂の遊離する――たまがり――のを見ることがある。すると、其家の人は死ぬのだなどゝも言ふ。季語に「岡見」と言ふだけに、「國見」と、ある部分通じてゐることが思はれる。つまり高い聖地から降臨する、と謂つた所で、畢竟里の聖役に與る人々が、竊かに上り行つて、空から降つた風を示したに過ぎないのである。其記憶が薄れゝば、里から上つて行く岡見となるのである。岡見において、來年を豫見すると言ふのは、即、昔降臨したと信じられた聖者の、豫言した形の裏を行くもので、其信頼に變り行つた姿なのである。大晦日の夜或は正月の曉などに、里を見おろす丘山に登つて、一年間の邑落生活を祝福する事が、全國の邑落に行はれて居り、宮廷においても、之を行はれたものと思はれる。さうして、其事の行はるゝ時こそ、天地の春が來るのだ、と信じて居たらしい。
(167)此儀禮が又分化して、宮廷春の行事としては、朝賀の式となつて行くが、天子行幸の時には、時季に區別なく、「國見」として行はせられる樣になつたらしい。さうして、後々は、貴族・大官等が高處に上る事をも、擬古的に國見と言ふ樣になつた。半分は、歴史的の定義を待ち、半分は、合理的に近代化して使つたのだ。吉野宮などの行幸に高殿に上られて、國見せられる樣子を述べてゐるのが、其である。殊に吉野には、さうした行事が行はれたと見えて、雄略紀、河上小野《カハカミノヲヌ》行幸の時の御製「……臂《タクブラ》に虻《アム》かきつきつ。其|虻《アム》を蜻蛉《アキツ》はや喰《ク》ひ、はふ蟲も大君に奉《マヅ》らふ。汝《ナ》が記念《カタ》は殘《お》かむ。婀岐豆斯麻《アキツシマ》 野麻登《ヤマト》(一本に、……斯くの如《ゴト》、名に負《オ》はむと 蘇羅瀰豆野磨等能矩※[人偏+爾]嗚《ソラミツヤマトノクニヲ》 婀岐豆斯麻登以符《アキツシマトイフ》……)蜻蛉を讃へたるに因《ヨ》りて、此地を名づけて、蜻蛉野《アヰツヌ》と爲す」とある。此あきつ〔三字傍線〕が、天子の國見に度々現れて來るのも、理由があるのである。國ぼめに、生産を祝福せられる際常に、此蟲の語の縁を寄せて言はれた爲と思ふのである。此御製も、勿論その色彩の濃いものゝ一つである事は、後に述べよう。
【口譯】 倭中原《ヤマト》地方には、色々の山はあるが、其中では〔四字傍線〕、天(ノ)香具山よ。その山に〔四字傍線〕登りこんで、人居のある平原を見霽して居る時に〔人居〜傍線〕、平原には、霞が立ち/\して居る。廣い水面には、鴎が立ち立ちして居る。あゝ〔二字傍線〕立派な國だと思ふよ〔四字傍線〕。「あきつしま」と讃め詞で謂はれて居るところの〔と讃〜傍線〕大倭の國は。
【音訓】▼山常 やまと。常を「と」の表音假名に使ふことゝ、「とこ」或は「とき」の訓假名に用ゐること(168)とがある。「今も鳴かぬか。山之常影爾《ヤマノトカゲニ》(卷八)」などは中間使用例である。「よしとよく見て好常言師《ヨシトイヒシ》(卷一)」「神ぞ著く常云《トイフ》(卷二)」「春雨を待つ常二師《トニシ》あらし(卷四)」の類の助辭に用ゐたのが、極めて多い。雖の義の「ど」にも多く使はれる。「見禮常飽かぬかも(卷一)」雖常〔二字傍点〕と重複して「ど」と訓むらしいのもある。「沾《ヌ》れにし袖は雖涼不干(卷七)」。又とか〔二字傍線〕・とや〔二字傍線〕・とぞ〔二字傍線〕に常香・常屋・常曾と宛てられる。「とも」「ども」にはない樣である。畢竟、「得」・「徳」の音字を、「とこ」にも「と」にも使ふのと、混同して廣く用ゐられたのだ。漢字音では、子音を取落させて發音してもよい樣に、當時の音博士などが教へて居たであらうが、訓字「とこ」の「こ」を<tok>と一つに見たのは、ひどい錯誤だ。譬へば又、「死者木《シナバコ》(水は誤り)苑《ソ》あひ見ずあらめ(卷十六)」の苑はその〔二字傍線〕であるのを、の〔傍線〕を尾韻、即、子音として切り棄てたのと一つだ。
▼庭 には。用例多い。助辭「には」に宛てたもの。
▼天乃香具山 あめのかぐやま。あま〔二字傍線〕とは訓まぬ。言語の事ゆゑ、勿論例外はあるが、古語の規定として、名詞にはあめ〔二字傍線〕、形容詞的屈折を生じたものはあま……〔四字傍線〕と熟語を作る。だから、の〔傍線〕なる領格の助辭で繋ぐ場合は、上は名詞だから、あめ〔二字傍線〕の筈だのに、稀には、高天原をたかまのはら〔六字傍線〕と訓むやうに、古事記に指定してあつたり、天若日子《アメワカヒコ》をあまわかひこ〔六字傍線〕と訓まなかつたりすることも、あるにはある。だが、此場合は、あまのかぐやま〔七字傍線〕とするのは、後代の例であるが、由來正しくない。但、香具山は、かぐ〔二字傍線〕と濁るのが普通だが、清音に發しないとも限らぬ。高山・香山も皆、<kang>なることを示してゐるのだが、一方香久山など言ふどちらへも屬《ツ》く表し方がある。結局本集だけでは訣らぬ。記・紀を信じれば、かぐやま〔四字傍線〕らしいが、これとても、疑問は殘つて居る。
(169)▼國見乎爲者 くにみをせれば。舊訓すべて「すれば」と訓む。同卷「幸2于吉野宮1之時……歌」の「神《カム》ながら、神《カム》さびせすと 芳野川 激《タギ》つ河内に、高殿を高しりまして、上立《ノボリタチ》國見乎爲波〔二字傍点〕……」は類型だが、二つながら、「せれば」と訓むべきであらう。「すれば」と訓むと、「を」が著しく弛んで聞え、低卑な調を響かせる。「何(名詞)すれば」と言ふべきところで、「を」を插まないのが、通例である。此二つの歌は、恐らく前型と模倣の關係にあるものだらう。だから、二つ乍ら、公論を得るものとする事は出來ない。「せれば」と訓むと、敬相に變じて來る。同時に表現が、他を言ふ事になるから、「を」の浮いて聞える事がなくなる。單に文學的に然《サ》う感じるのではない。古風でなくなるからである。芳野宮の歌でも、其方が調が昂つて來る。
▼國原 くにはら〔四字傍線〕か、くにばら〔四字傍線〕か知れない。事實、古代には發音の區格がなかつたであらう。姑らく清音に讀んでおかう。▼煙 けぶり〔三字傍線〕。本集では、けぶり〔三字傍線〕・けむり、何れに定めてよいか。假字の區別は見えない。恐らくけぶりであらうが、古代音では、紐・蛇など「m」音の方を正しいと見られ易いものもあつたのだ。だが、其も據るべき根柢はないと見てよからう。▼立龍 たちたつ。對句海原の方には、「かもめ立多都」となつて居るのだから、「龍」の字を採用するのが定論であらう。古本多く「龍」だが、「籠」の「こめ」と訓む考へから出た朱書も、萬葉學進歩史の上からは參考にはなる。▼海原 うなはら。此も清濁定まらぬ。▼加萬目 かまめ。かう書いたところに、尚、鴎説に、若干の疑問の餘地ある事は認めねばならぬ。▼怜※[立心偏+可]國曾 うましぐにぞ。怜※[立心偏+可]は、※[立心偏+可]怜の顛倒だ。※[立心偏+可]怜は可怜の變形である。漢字用例に行はれる扁旁同化である。胡蝶を※[虫+胡]蝶とする類である。音と義と字面とが、漢字の上では、各獨立して行くからである。當時輸入せられた漢籍の、殊に軟文學的なもの、文選・遊仙窟などに用字例が見える。其以外の漢籍にも見え、(170)其字面を好んだ昔人が、記・紀以下平安朝の文章にも用ゐた。但、この字は、本集でも、場合によつて、訓み方が色々あつたと見え、又宛てた人々の癖も、あつたらしい。舊訓「あはれ」「おもしろき」と分れて居た樣だが、「うまし」「おもしろし」又、「かなし」「ともし」などゝも訓める樣である。「淡《アハ》路島|※[立心偏+可]怜《アハレ》登君を言はぬ日はなし(卷十二)」の如きは、必あはれ〔三字傍点〕に違ひない。可怜・可隣、元、同音同義で「怜《レン》」「隣」通字。同韻、れん〔二字傍点〕である。擬古文と言ふのは、性質上、前型詞章の末までも模倣するものだから、前の神武紀の『腋上※[口+兼]間《ワキガミノホヽマノ》丘に登りて、國状を廻望して曰はく、妍哉乎國之獲矣。「妍哉。此を鞅奈珥夜《アナニヱヤ》と云ふ」……』とある。此などが、此詞章構成の要素になつてゐるのだから、「※[立心偏+可]怜國曾」で、『あなにやし國ぞ〔七字傍線〕』と訓ませるつもりだつたのかも知れない。ともかく今人では、到底想像の能はぬ事を、讀者の自由に放任した書き方をするのが、萬葉集の常であつて見れば、昔人同士には、自ら讀む事の出來る、と言ふ理會點があつたのだ。ここも、蜻蛉に關係のあるだけに、日本紀古註を信じれば、「あなにやしくにぞ」と讀むと言ふ約束が隱約の間に出來て居たと見てよい。其ほど、あれは名高い物語だつたのである。
▼蜻島 あきつしま。蜻蛉又は、蜻蜒と熱するからの作字である。正しく、「三芳野の蜻蛉《アキツ》乃|宮《ミヤ》」としたのもある。蜻島としたのは、他にも二个處、所謂「秋津野」と言ふ地名を、「蜻野」と作つたのや、「蜻野を人のかくれば……」又|蜻《アキツ》乃|小野《ヲヌ》、蜻領巾(アキツヒレv)などがある。「蜒」の字を使うたのに、「蜒野の尾花」「蜒野に居る白雲」がある。「蜻」及び「蜻蜒」の字に、二訓あつて、又かぎろひ――後のかげろふ〔四字傍点〕――と訓んだ。蜻火・蜻蜒火をかぎろひ〔四字傍点〕に訓ましてゐる。大體|かぎる〔三字傍線〕に近い音譯なのだ。玉蜻・珠蜻・玉蜻蜒どを、「たまかぎる」に宛てゝある。
(171)▼八間跡 やまと。皆訓字。地名「やまと」に宛てるのに、「倭」「和」を以てするもの、枕詞から變轉して來た「日本《ヤマト》」を以てするもの、外に表音的に、訓からするもの(l)、音からするもの(2)、音訓交錯するもの(3)とがある。先の「山常」及び「山跡」、本集以外に「山徳」などあるのは(3)である。「夜麻登」「夜麻等」「夜末等」「夜萬登」などが、(2)である。又慣用久しくて、略字を用ゐるのもある。本集外で、「養徳」と書く地名・人名などは變だ。(1)は珍しい方で、此八間跡である。前の歌に言ひ落したから添へた。▼者は、既に述べた。
【言語】 ○山常 八間跡 第一首に言ひ殘した分だけを述べる。此歌に到つては、既に大倭の觀念が、明らかになつて來てからの作物と思はれるからである。こゝに用ゐた「やまと」の範圍は現在もある大和一國と多く解せられる樣だが、やはりさうではない。正確に磯城・十市・高市の中央平原である。特に此歌においては、この範圍を、知られて居ねばならない。大和の中における故地と謂はれる「大倭」の地よりは、却て久しく慣用せられた樣である。私の最近の考へ方では、「大倭」の地を以て「やまと」と稱する事は、此地方を「やまと」と言ふと同じ理由であつて、別の事情から出てゐるのでないか、とするのである。現在大和國に入つてからの大和の稱への最古いらしい意義は、國境附近を斥《サ》してゐるからである。北原白秋さん編纂「短歌民族第三冊(未刊)」に書いておいたから、詳しくは其を參照願ふ。普通言ふところの山門《ヤマト》の「山へ入り立つ口」とする「やまと」説に近いのだ。さうして、其と違ふ點は、さうした處には、蕃族・精靈等が集(172)屯――門《ト》のある地の特殊條件として――してゐる。此禁忌の觀念を、殊に深く含んでゐるのではないかと思ふ。さうして寧、其地は事實として敵地と謂つた感情が深かつた。「やまと」と言ふ語自身に、古代には、かうした異郷氣分が、つき纏うて居たのである。「やまとの宇陀のまそほ」「やまとの室生の毛桃」「やまとの都祁《ツゲ》」など、皆其であつて、今述べてゐる倭中原觀念とは違ふ。皆邊陬であり、異郷感を持つた所として表された、前代の「やまと」の用語例を殘すものだ。其が、其山門に塞がれた内部の地までを、總稱する事になつたのである。即、門の中は、明朗な地、と見た古代人の考へ方なのだ。此考へからすれば、宇陀高原から、中原へおり立たうとせられた際に、殊に障碍の多かつた理由が訣る。宇陀と、磯城との境界の降り口を守る蕃人・精靈の物語の傳つた訣である。宇陀から磯城へおり立つ二道の下、即磯城峽谷地方がまづ、やまと〔三字傍線〕であつたので、其がおし擴げられて、磯城平原から、其に連る高市・十市の山近い地方が、やまと〔三字傍線〕と呼ばれる樣になつたのだ、と云ふ考へである。だから却て、磯城の北邊、山邊郡と接する地方の「大倭郷」は、後に宮廷が、さうした地形を求めて入り立たれた時代の狹まつた傳へではないかと思ふ樣になつて來てゐる。だが同時に、宇陀高原への間道としての山にも亦、稱呼を擴充して「やまと」と稱へた事もあらう。だからさう言ふ地形を持つ山口地方は、「やまとの……」と言ふ枕詞を据ゑる事が出來たのだらう、と考へてゐる。秋津洲と大倭とについての事は、長くなるから、其條で述べる。
(173)山門を這入ると、同時に廣濶な平野が展け、明朗な地となつて、何の障碍もなくなるものとしたのが、普通の考へである。だからどうしても、「山門《ヤマト》」を中心として考へる樣になる。山門の中にある光明境を、やまと〔三字傍点〕と稱するのである。だから、其で、磯城平野を中心として、倭の中央平原は、次第に「やまと」と呼ばれる。だが同時に、既に大和一國をも、「やまと」とし、又狹い中原の地をも、「やまと」と言ひ、尚其以前の形としての宇陀・宝生・都祁などにもかゝる樣な、古風をも包容する事の出來たのが、昔の「やまと」であつた。尚一言言ひ添へておくべきは、「やまと」と言ふ唱へ詞を誦する特定の場合である。問題は、此からほぐれて來るかも知れない。
○むらやま 群山と宛て、而もさう感じる習慣が出來てゐる樣だ。だが、もろ〔二字傍点〕と語形の上にも、さうした區別がないのだから、時には「諸」の義に近く、採るべきだと思ふ。たゞ「もろ」の義の狹まつたものには、「兩《モロ》」「變《モロ》」に傾いたものがある點が、最大の區劃である。此むらやま〔四字傍線〕は、まされる山〔五字傍線〕・すぐれたる山〔六字傍線〕を、自然に豫期したところから出た表現だらうと思ふ。○あれど 日本の文獻時代では、既に「あれども」との區劃がたゝなくなつてゐる。結局「ど」は、「ども」の脱略だらう。唯「あれど」の用語例について、萬菓研究に向はれる方々の御注意に、備へておきたいことがある。唯「あるけれども」と譯しただけでは足らない場合の多い事である。言語の意義に固定するから、辭書に解説せられてゐる樣な簡單なものになるが、實はもつと動搖して複雜なものなのだ。「あれど」「あれども」の場合、單に「あるが」ではない。「あるが……其とは別で」(174)「あるのとは別で」と譯する事自身すら、既に固定させる事になる。其あるが、他の動詞の代用である場合は、殊に「あれど」の意義が、飛躍して來る。特に「いつ」「いづく」などにつくと、「あれど」が活動する。不定疑問を對象にするだけに、あれどの選擇が活撥になる訣だ。こゝでは、「むら〔二字傍点〕山あれど」とむら〔二字傍点〕と言ふ選擇を俟つ樣な語に對してゐるだけに、特説の必要がある。「色々の山はあるにはあるが、其中で、其等とは別で」と言ふ事になるのだ。かうすると、下の「天香具山」に影響してゆく所も、自ら明らかである。一體「あれど」には、「あらずあれど」の「あれど」と稱せられるものが、以前から學者に考へられてゐて、唯の「あれど」と、意義反封になるのだ。だが〔二字傍点〕、此も結局、初めに説いたところの方便式な説明なのであつた。○とりよろふ 恐らく、天《アメ》の枕詞だらうと思ふ。通説は、とり〔二字傍線〕を接頭語。よろふ〔三字傍線〕を圓滿具足する義で、甲冑を身に装ふ――即、よろふ〔三字傍点〕――などを、用語例に思ひ浮べてゐる樣だ。さうして、天香具山の讃美詞だといふ。だが、とりよろふ〔五字傍線〕が、果して此意味において成り立つものとすれば、枕詞として、「……群山あれど、天の香具山よ」と説いて見れば、極めて適切な感じがする。私は、姑らく之による。つまり天空《アメ》を讃めた詞として、其が直に香具山に續いたとするのだ。だが尚、とりよろふ〔五字傍線〕の適切な例は、實は、見出す事は出來ない。皆|甲鎧《ヨロヒ》の完全に身を固めると言ふ豫備觀念を作つて、其から説明してゐる。だから、一度この考へから離れて見る必要が、ありさうに思ふ。此も必、「國ぼめ」「山ぼめ」に慣用し盡された詞だと思ふ。「よろふ」を以て「よろし(宜)」に通じるものと曾(175)て見られたことのある、金澤庄三郎先生の考へは、かう言ふ觀點から見れば、殊に立ち優れて感ぜられる。「山ぼめ」に「耳梨の青すが山は、北《ソトモ》の大御門に宜奈倍《ヨロシナベ》神《カム》さび立てり」と使つてゐる。其他は、此説明に不適當らしいが、用語例の誤解を延長したものと見れば、通らぬこともない。又「よそふ」説もある。装飾よりも、嚴備の義に採るのだ。だが私としては、「よろふ」は「よる」と言ふ語を基礎にしてゐるに違ひないと考へる。同卷人麻呂の芳野宮の歌「……山川も依※[氏/一]《ヨリテ》――ヨシテ?――奉流《ツカフル》 神の御代かも」同じ反歌「山川も因而《ヨリテ》――ヨシテ?――奉流《ヅカフル》 神ながら 激《タギ》つ河内に、船出せるかも」で見ると、山川其ものでもあり、山川の精靈でもある神が、よる〔二字傍点〕ことを言つてゐるのだし、同じ國見の歌だから「よる」と言ふ例の一つである、と見られぬ事もない。さうだとすると、とりよろふ〔五字傍線〕は、抽象的には、協力する、目に見える樣に謂へば、集注すると言ふ事になる。「むら山あれど、その中で、山靈の集注する天香具山」とでも言へようか。だが其ならば、更に「山々の靈の中心地となつてゐる」と言ふ風に説けば、一種歴史的現實觀も生じ、別に多くある「神靈の憑《ヨ》る」と言ふ用語例に近づいて來る。何にしても、よろふ〔三字傍線〕には例がないので、何とも言へぬ。殊にとり〔二字傍線〕の接頭語らしいものが、説明しきれない。
○あめのかぐやま こゝは、どうしても、天香具山に登り立ちとは見られない。一段落を作つた痕跡を、殘してゐるのである。又さうしてこそ、歌謡は、意義と、樣式的截れ目との區劃に、妥當感が起つた訣である。○のぼりたち 古代詞章を讀む者は、今人の感じないもので、古人が必(176)髣髴に浮べたものまでも、出來る限りは必準備してかゝる必要がある。「のぼり立ち」など言ふ國見の傳承詞章語にも、天子以下登臨して、宣詞を咒せられた状態を、考へるべきであらう。明らかに、山及びつかさ〔三字傍線〕に立つた状を示す語なのだから。殊に立ち〔二字傍点〕に意義がある。以前私は、立ちは、入り立つ義で、山に這入りこむ氣分を深めたのだ、と考へたが、立たねば、宜詞を咒する事が出來ないのである。
○國見 望國と國見との事は、大體「序」の解説において書いた。こゝにも、少々書いておかねばならぬのは、國見の歌には、共通の要素のあることを思つて頂かねばならぬからだ。まづ國見の最初に説くものと信じられてゐるのは、神武天皇の腋上※[口+兼]間丘の事である。だが、其以前にも、その原型はある。だから、國見に關する詞章の各細部まで、隈ない理會を得ておく爲に、其等の物語及び、物語の詞について知つて置かねばならぬ。國見の形の文獻的に初めて現れたのは、二尊天浮橋の段であるが、此は物を生じさせようとする初めだから、多少形式に特殊な變化がある。扨第一に考へなければならぬ事は、國見には、多少とも旅行的色彩の含まれてゐる事である。つまり、さうした形の上において、考へられたのである。稀に仁徳帝の國見の如き、旅を問題とせぬものがあつて、高樓とも、高山とも、言ふのである。順序から言へば、すさのをの〔五字傍線〕尊の天降りなどは、國見の形式を持たねばならぬのであるが、高處に立たれる部分は、ふり落されてゐる。而して、遙か後の垂仁朝のほむちわけの〔六字傍線〕尊の條になつて出て來てゐるのが、すさのをの〔五字傍線〕尊物語の(177)形の變形らしい。さうして後者には、農業關係が表面見えなくなつてゐる。其次のは、天孫降臨の段の天浮橋以下の、古語の訛つたまゝを以て傳へられた表現で、天雲を分けて高千穂峰に下り、山の背傳ひに更に降つて、人界に近づかれた模樣を傳へてゐる。既に述べた國見の岡の信仰である。國|※[爪/見]《マ》ぎと國見とが、一つになつてゐるのだ。つまり、國見は、國※[爪/見]ぎに次いで起るものなのだ。其から、神武天皇の國※[爪/見]ぎが、※[口+兼]間《ホヽマノ》丘の國見に完成した形になつてゐる。之と竝べて傳へられた形を採つてゐるのは、「そらみつ」と言ふ諺の起原を説く所の、饒速日命の大和へ降られた物語である。此「そらみつ」「そらにみつ」も、國見に關係深い語として、此系統から自然解説が出來よう。第三は、景行天皇・倭建《ヤヤトタケルノ》命に通じた九州における「偲國歌《クニシヌビウタ》――思邦歌――」の起原物語で、國見の一面を見せて居る。應神帝の「ちばの かづのを見れば、もゝちだる やにはも見ゆ。國のほも見ゆ」になると、明らかに國見歌らしくなつて來る。國見に名高い史實を構成した仁徳朝には、國見歌が多く記紀に見えて、海及び川のものになつてゐる。其と共に、「國見」の歌が、「戀歌」になつて行く徑路を見せて、同じく景行紀の「偲國歌」が「挽歌」になつた理由をも仄めかしてゐる。「……春されば殖槻が上のとほつびと 松の下道《シタヂ》ゆ登らして國見|所遊《アソバシ》……」の十三の挽歌も、挽歌の中に國見の這入つて來る理由が、あればこそである。履中紀の「國見」歌も、相聞及び宮廷炎上を謠うた樣に見えるが、理由は一つだ。允恭記の輕太子の「泊瀬の山のおほをには……」は、萬葉にある類型から見れば、國見歌で同時に、雄略帝のものと見てもよい(178)のだらう。雄略記(紀)には、國見歌が數首ある。その後も、此流れは榮えたものと見える。さうした、萬葉盛時群臣宴遊には、亦國見の歌が盛つてゐる。だから、官吏として任地に旅した時にも、國見の歌を讀んでゐる。丹比《タヂヒノ》國人の「とりがなく 東の國に、高山はさはにあれども、ふた〔二字傍線〕神の……見がほし山と 神代より人の言ひつぎ、國見爲《クニミスル》(セス?)筑波の山を……」(卷三)、此歌と殆時代と境涯とを等しくするもので、佐佐木信綱博士の唱道以後ほゞ、高橋蟲麻呂作となつてゐる檢税使大伴卿登2筑波山1時一首并短歌なども、「……いぶかしき國のまほらを、つばらかに示し賜へは」(卷九)など言うてゐる調子から見ると、おなじく官人國見の歌らしく思はれる。萬葉も末の、擬古時代になると、國見なども、單なる眺望位に思うてゐたのでないか、と考へられる。「甕の原 恭仁《クニ》の都は、……國見れど人も通はず、里見れど家の荒れたり(田邊福麻呂集)、稍古めかしいが、「…‥神風の伊勢(ノ)國は、國|見者《ミレバ》(?)之毛《シモ》。山見れば、高く貴し……此歌、入道殿下《ニフダウテンガ》令《シメ》2讀(ミ)出(デ)1給(フ)」(卷十三)此歌作者未詳。但、訓點の註者は次點の一人たる藤原道長なる事を、示すのである。「十三」には、道長訓の歌數首ある。
「國見」と言ふ以上は、「國見る」と言ふ動詞も、「國見」とおなじ範圍に亙るものなのに違ひない。其が「國見」では、わりに正確で、「國見る」となると、主上は元より官人・國宰の資格からするものでなくとも、よい樣になつて居たのだらうと感じられる。極めて新しいものでも、「向(フ)v京(ニ)路上、依(リテ)v興(ニ)預《アラカジメ》作(レル)侍宴應詔歌《ジエンオウセウカ》一首并短歌。蜻島《アキツシマ》 山跡國《ヤマトノクニ》を 天雲に磐船浮べ、艫《トモ》に舳《ヘ》に、眞※[楫+戈]繁(179)貫《マカヂシヾヌ》き い漕ぎつゝ、國看之勢志※[氏/一]天降《クニミシセシチアモ》りまし、掃ひ平げ、千代かさね、彌つぎ/\にしらし來る……わが大君の、秋花のしが色々に見し賜ひ、明らめ給ひ、さかみづき さかゆる今日の あやに貴さ江」(卷十九)縁は不思議なもので、こゝも「江」と細書してある。萬葉集全講會又は講義(十數年以來)で發表した、先の入道殿下と同じく、卷十三の「江家」とあるのと同じで、此も次點の一人の大江匡房の點讀を經た、と言ふしるしらしい。さすがに遲れて居ても、正式な作物として、誰もがする樣な用意をしたものだけあつて、堂々たる叙事詩風を採つてゐる。さうして、正式に、國※[爪/見]ぎと國見とを、一續きに見てゐる。而も、今人の、饒速日命の故事とするらしい事を、特別に斷らずに用ゐてゐる。だから、かうした傳承もあつたのかも知れない。此歌で考へねばならない事は、「國見」は、古代において、曾て行はれた歴史上の事をくり返すといふ信念の下に、宮廷儀禮としての年中行事となつた事である。だが同時に、毎年くり返されて居た事が、歴史的起原を考へる樣になり、其意味において、神秘性を保持せられたのだ、とも言へる。かういふ風に、長く續いて來た行事が、一つの意義においてのみ、考へられて居る訣がない。次第に、意義を分化して來ねばならない。だから、單に、民の豐凶を見られたのだ、とのみ解するのは正しくない事は思はれる。
○……乎爲者《ヲセレバ》 せり〔二字傍線〕はす〔傍線〕の敬相である。多くの場合「してゐる」或は「した」と譯すべき現在完了に説くが、又一方、「す」が既に敬語的感覺を深く持つてゐると共に、所謂延言・現在完了形が(180)持ち勝ちな敬相的氣分が加つて來たのだ、とも説明が出來る。事實において、現在完了形と同じ「り」の複合した形に、敬意を持つたものゝ多いのは事實だ。唯、古代詞章には、現代よりも、敬語的發想を省略する場合が、時としては多いので、我々には敬語やら、「す――あり」の複合形やら、判斷がつかないのである。「天皇《オホキミ》は、神にしあれば、天雲の雷がうへに、廬爲流鴨《イホリセルカモ》」此等は、敬相である。其他にも、多いに相違ない。唯、今日の語感で、區別の立たぬばかりだ。『ひさかたの 天《アメ》ゆく月を網にさし、我が皇族《オホキミ》は、花蓋《キヌガサ》にせり」前の例ばかりでなく、爲流を「する」よりも、「せる」と訓む方が、妥當感を與へるものが多くある。「ば」は、主格の「ば」の分化したものか、場所を示す「處《ハ》」から出たものらしく思はれる。が、唯、時・處に關して使はれる事が多い。「……なる時は」「……なる所は」など譯する方が、所謂已然形を受けて、……だから」と言ふよりも、萬葉では適切だ。所謂將然形につく時は、「……だらう時は」「だらう處は」など飜《ウツ》すべきだらう。唯、かう言ふ「時」「處」に飜すべきものは、已然形に接するものが多い樣だ。
○くにはら うなはら 國は、第一首に述べた。「うな」のな〔傍線〕は、領格の〔傍線〕の音轉である。熟語として、特別に緊密感を生じた時には、此形をとり易い。「うのはら」の轉。「天皇《オホキミ》の御命《ミコト》畏み 石《イソ》に觸り、うのはら渡る。父母をおきて」(防人)。「う」は「海」の略音でなく、恐らく古く「うみ」の原形だつたらうと思ふ。「み」は精靈を表す語で、うみ〔二字傍線〕が海となるのは、後の「海之靈《ワタツミ》」が「海」の義になるのと變りはあるまい。唯、文献時代の言語以前に、長い時期のあつた事を考へねばな(181)るまい、と思ふのである。「うなひ」が「海之邊《ウナヒ》」、「うなかみ」が「海之邊《ウナカミ》」であるのも、同樣古い熟語である。「はら」。廣い表面か、又は見渡せる所を斥《サ》すらしいが、此亦、後の語感分解かも知れない。此語なども、數次の變化を經てゐるらしい。林を「はら」と訓むこと、間違ひでもなさ相で、神代紀の竹林はたかはら〔四字傍線〕らしく、杉林・松林が各はら〔二字傍線〕であるのも、平野に生ひたと感じるよりは、群又は群生に近い意義らしく思はれる。だから、一種類の物の多くある處から、一つの形の連つてゐる所を言ふ樣になつた、と言へるかも知れない。古代では、「群」と「面」とを一つに考へて居た、とも思はれるからである。ともかく、こゝは、廣濶な地形と考へた時代だらう。「國」は人居を中心として考へてゐるのだから、國原は、家群のある、ひろ/”\とした地である。つまり、此歌では、海に對してゐるが、通常語としては、山《ヤマ》及び野《ヌ》に對してゐるのである。現在でも、大和では、山に對して、平野の事を「くになか」と言うてゐる。「くに」と言ふ事に、特殊な義があるのだ。「うなはら」の「う」或は「うみ」は、廣い水面を斥す語で、湖水・池などは、普通に稀稱へてゐたのが、萬葉その他の例である。後には特に、湖水を「みづうみ」と言つて、「しほうみ」と分ける樣になつたのだ。こゝの海について、山下の埴安《ハニヤスノ》池だとする説と、さうでないとするのとの、二樣に岐れるだらう。萬葉としても、古い傳説時代のものだから、一概に言へぬが、耳梨池・鷺栖《サギスノ》池又背後には、磐余《イハレノ》池その他も見え、飛鳥川なども隱見する地域であるから、必しも埴安池を言ふ、と見ないでもよ(182)からう。が、かうした讃め歌は、ある點までは、一部分に焦點を持つて行く癖のあるものだから、此處では、古く由緒ある埴安池に限つてほめたと言つてもよいだらう。だが、登臨してゐられる地だけが、はつきりして居て、外の地物は漠然として居るのだから、必しも、一个處に集注して説く必要もない樣だ。即、倭中原をほめて居られるのだから、倭中原の國原と、その海原とを、形式上咒して居られる、と見る方がよさ相だ。だから、こゝを正直な叙景と見てはわるい。唯きまつた型として、村落と、用水とを、口拍子にのつて擧げて來られたに過ぎないと思ふべきであらう。
○けぶり この煙は、普通霞霧の樣なものとする説が多くて、竃の炊煙とは、せない樣である。だが、前に掲げた應神の御製と稱する山背《ヤマシロ》の國見歌では、「もゝちだる屋場《ヤニハ》も見ゆ」とある。ちたる〔三字傍線〕・ちたり〔三字傍線〕は、血垂りの合理化はあつても、結局は、破風に類した煙出しである。「もゝちたる」は「百千足る」と言ふ讃め詞の意義を兼ねた炊煙を出す家を褒められたのだ。又、仁徳帝に民の竃の物語が、あまり著しくつき過ぎて居るが、國見には必、煙・煙出しを讃へる習俗があつたのである。其が時々は、顯はに炊煙・煙出しを以てする事もあるが、大抵はかうした譬喩的な、又象徴的な發想法を採るのである。最甚しいのは、景行帝・倭建命のなどの樣に、「我家《ワギヘ》の方ゆ、くもゐ立ち來も」と、雲と竝べ表現せられ、履中卷では「かぎろひの燃ゆる家むら、妹が家のあたり」と謂つた、極端な誤解を招く樣になつたほど、煙の、間接的な讃め詞が出來た位なのだ。私(183)は單なる水氣と見る説にも從ふが、同時にその底に竃の煙がかくの如く立ち昇るやうになるのだ、と言ふ咒的な意義もあるものと考へる。即、「ほぎこと」「ほかひ」の原則的な二重表現である。
○たちたつ 立ち籠めとしたのは、中世的の妥當感によつたもので、勿論普通稱せられる「立ち立つ」の方を採る。かうした形は、文法上まだ「つゝ」の發達しない時代の俤を、殘したのだと思ふ。勿論「立ちに〔右○〕立つ」と言ふ形の方が、後代的だ。「に」によつて、幾多の同種の現象の、重複を示さうとするのは、單に助辭の爲事でなくて、「ぬ」の助動詞の一偏向を示した、固定形なのだらう。さうすれば、「立ちて立つ」と言つても同じだし、「――つ――つ」の形式化だと説かれて居る「つゝ」でも、同樣である。私は「つゝ」を、譬へば「立ち/\〔四字傍点〕してゐる」と言ふ風に飜してゐる。同種の動作の、平面的な竝行の描寫と見るよりも、時間的の蓮續と考へたいのだ。「見と見る」などの「と」も、一つに考へてゐる。だが、さうした分化した形よりも、最單純な形だけに「つゝ」に近いものとして説くべきかと思ふ。
○かまめ 大體「鴎」に歸一した樣である。「かもめ」をかまめ〔三字傍線〕と發音したのである。此御製と、没交渉の樣に見えて關係ある歌が卷三にある。「あもりつく 天《アメ》の香具山。……松風に池浪立ちて、……沖邊は鴨妻|喚《ヨバヒ》、岸《ヘ》つべに、※[有+鳥]《アヂ》むらさわぎ……」と言ふ香具山・埴安池の歌がある。此「鴨妻」は。「かも〔二字傍点〕つまよばひ」か、「かもめ〔三字傍点〕よばひ」か問題だが、下には、鴨の對照に常になり、竝べ言はれる※[有+鳥]《アヂ》があるから、鴨の方だらう。が、※[有+鳥]の方には妻を言はぬのだから、なは鴎の喚び聲を、(184)言ふのかも知れぬ。だが、此が若し鴨であつたとしても、此歌は、表現は變り乍らも、尚此御製を、心に持つて居るものと考へる。即|加萬目《カマメ》を鴨とその妻と解して居たのであらう。
鴎が、此御製で問題になるのは、大和國に鴎の入るべき理由がない、との豫斷から來てゐるのである。だが、昔の地理を考へると、鴎の入りこまぬ訣はない。今も、信濃川を溯つて、越後の鴎は信州水内・高井郡地方に這入つて來る。其から見れば、大阪※[さんずい+彎]から、大和へはもつと近い。その上に、昔は、淀川が今程川口が西下して居ないで、大阪市附近が落ち口であつた上に、此三角洲に接して、大阪城の東側には、直に難波江が擴つて居た。その外|小椅江《ヲバシエ》・玉造江(?)等の澤山の入り江があつて、飛び/\に、河内・大和國境の日下《クサカ》の日下江《クサカエ》まで、績いて居たし、大和川も、舊流は河内柏原邊から北流して、此等の江の間を縫うて居り、又猫間川・寢屋川その他の川筋が亂れて居た。其略改修の緒に就いたのは、江戸二代將車代から後の事である。だから、海鳥は河内の山下まで行つて、其から直に、大和川を溯つて、大和平野に這入つた訣である。唯、かうした詞章は、融通自在であり、永續性のあつたものだから、必しも、大和國で初めて作られたもの、とも定められない。其點において、鴎の説明に執著する必要もない氣がする。
○※[立心偏+可]怜 右にあげた香具山の歌(卷三)の或本歌の左註に、「右今按ずるに、都を寧樂《ナラ》に遷して後、怜《アハレビテ(?》v舊(ヲ)、此歌を作る歟《カ》」とある。かうした處に、怜の字の出て來るのも、低意識の現れと言はねばならぬ。うまし國か、あはれなる國か、あなにやし國か、訓がきまらないが、姑らくうまし〔三字傍線〕(185)で解釋しておくのが穩當だらう。うましは形容詞ではあるが、かうした熟語形を採つてあるのは、形容詞としてゞなく、語根と言ふ立ち場からである。すべて語根は、其が形容する語との間に、修飾關係によつて熟語を作る。形から見れば、形容詞の終止形とおなじ形である。さうして實は、かうした語根が、他の語に接する關係から、語尾に屈折が出來、其が規則的に成形的になると、語尾變化を生じる訣である。うまし國〔四字傍線〕と言ふ形は、おなじ系統の語であつても、「うまき國」「うまかる國」など言ふ形とは、全然感觸の違ふ語なのである。まづ「うま……」と言ふのに一等近い。うまし〔三字傍線〕は、語としては、くはし〔三字傍線〕の繊細なのに對して、正反對な感覺を持つ語である。元、味覺から出た語なのだらうが、多くの場合、圓滿な美を示す事になつてゐる。「うまし男」「うまし稻《ネ》(?)」「うましあしかびひこぢの神」又「うまし物」なども、此に屬する語だらう。「うましぐに」と言ふ訓み方が正しいとすれば、「※[立心偏+可]怜小汀《ウマシヲバマ》」「※[立心偏+可]怜御道《ウマシミチ》」など訓じた樣に、立派なと謂ふに近い讃め詞である。甘美鏡《ウマシカヾミ》・甘美媛《ウマシヒメ》なども同樣に訓み、譯すべきを示すのである。結局※[立心偏+可]怜の字は、圓萬立派を表す場合のうまし〔三字傍線〕にも、感動のあはれ〔三字傍点〕にも、愛憐を示す「かなし」「うつくし」にも、と言ふ風に樣々の義に宛て用ゐた訣である。又、感動語尾にすら使うてゐる。「哭之曰《ナキテイハク》、於母亦兄《オモニモセ》。於吾亦兄《アレニモセ》。弱草《ワカクサ》 吾夫※[立心偏+可]怜《アガツマハヤ》。……言(フハ)2我夫※[立心偏+可]怜矣(ト)1此(ヲ)云(フ)2阿圖摩播耶《アガツマハヤト》1」又は、場合によつては、あはれ〔三字傍点〕と訓まれてゐるのも、語尾的に使はれてゐると言へる。
○ぞ 此類の「ぞ」は、多く「にてあるぞ」「なるぞ」の略語即、代表的には「あるぞ」「なるぞ」(186)として通つて居り、其《ソ》と言ふ指示助辭から、分出したものと謂はれてゐる。同時に寧、感動語尾的ですらもある。用語例を見ると、却て「なる」と謂つた連體的な職分を、持つて居た樣に思はれる。つまり、日本語の終止形は、循環する所に、連體と通じる所があるので、其が後代程、分離して來たのだと思ふ。新しい處で見ても「……大君の遠の御門曾《ミカドゾ》 み雪ふる越と名に負へる あまさかる夷にしあれば」(卷十七)「いしきをり酒呑むと言ふ曾《ゾ》 この朴《ホヽ》かしは」(卷十九)。此類は、何れも、「ぞ」と截れるやうに見えるが、「……なる、その」といふ連體の形を採つて説明が出來る。截れる樣で居て實は截れない。「鶯の鳴くわが島ぞ。やまず通はせ」(卷六)。鶯の嶋くわが山齋なるその島に〔四字傍線〕やまず通はせ」である。「たぎのうへの馬醉木《アシビ》の花曾《ゾ》。土に置くなゆめ」(卷十、一八六八)は、「激湍の傍の馬醉木の花なる其花を土に置くなゆめ」かう言ふ風に、すべてが終尾辭と見えて、而も連體の形を採つてゐる。つまり「ぞ」は語原どほり「……その……」と謂つた意義を待つものなのだ。「うまし國ぞ。あきつ島大倭の國は」の此場合も、「うまし國なる そのあきつ島大倭の國は」と言ふ形だつたのが、次第に岐れて、「ぞ」で截然と終止にするやうに見えるのだらう。此意味において、數多い「ぞ」に疑問を持つてゐる。
○あきつしま 大伴家持の長歌(卷十九、前掲)で見ても知れるやうに、國見と言ふと、秋津島又は、蜻蛉の古語りを言はねばならなかつたやうだ。神武國見から既に、蜻蛉の「臀※[口+占]《トナメ》」を以て、國形《クニカタ》を表すと共に、昆蟲の生殖と、農の生産の祝福をして居られる。あきつ島と言つた事には、(187)色々な説明もつかうし、日本の國號が豐秋津洲と言ひ、又その國土の精靈を、豐秋津根別と言つたと傳へてゐるが、其は自ら別問題であり、又稍遲れての發達といへる。神武帝に假託申して居るが、とにかく古代に、細長くて、――蜻蛉の二つ繋つた樣で――而も、山谷の出入りが兩方に多くて、翼を比《ナラ》べた状に見立てられたからの、傳襲的な表現の咒詞が傳つて居たので、國見と言へば、必「あきつ」が出る事になり、同時に、「あきつしま」と言ふ國島《クニシマ》の稱《タヽ》へ名を用ゐて祝福する習俗を、續けてゐたものと思はれる。だから後々までも、國見とも見られない天子の狩猟や、行幸にまで、「あきつ」がつき纏ふのであつた。其で、此御製にも、勿論國見の歌の格として、「あきつ島 大倭の國は」を据ゑなければならなかつた訣だ。其で、吉野が殊に、天子平常の行幸地になつた爲に、こゝに蜻蛉の物語と、秋津野とが考へられるに到つたのであらう。此「あきつ」なる語に、「秋」を祝福する意義が、元からあつたかどうかは、疑問である。豐秋津洲と言ふ事が、穀物をことほぐ語としては、語の構成から言つて、わりに後代の聯想から、出て居るらしく思へるのである。だが勿論、古典時代には、既にさうした氣分解も、含まれてゐたには違ひない。
○やまとの國は やまと〔三字傍線〕については、最早二度まで述べた。こゝでは、大倭の枕詞としての「あきつしま」について述べて置かう。「あきつしま」は、吉野に秋津野が出來た如く、腋上の内にも、秋津の地があつて、秋津宮と稱するのが、孝昭・孝安御二代に亙つて奠められてゐた。即、畝傍山西の地域である。即ある時代には、神武天皇の國見の咒詞によつて、秋津島――島は前述國の條(188)参照――の地が固定したもの、と考へられたのだらう。秋津の地としては、※[口+兼]間丘の物語に關係の濃いだけ、此地が深く、その印象を地名に止めたのだらう。が、「秋津」の名は、宮廷の遷ると共に、ついて廻つたに違ひない。御代はじめの國見の詔旨以後、屡くり返される詞章中に、蜻蛉の語が出て來たであらうから。その詔詞によつて、其宮廷の地が秋津洲となつた事は考へられる。其痕跡を止めて居なくとも、ともかくも、大倭宮廷の名には、必秋津洲と言ふ枕詞は、据ゑられねばならぬ、神聖な「風俗諺」として置かれたのだ。此は今言つた宮廷儀禮から出て居ると共に、其後ある時期の間、宮廷の周圍の地をやまと〔三字傍線〕と言ふと共に、其に近接した地として、秋津を稱する所が出來る習慣になつてゐたに相違ない。其が次第に、單なる枕詞といふ感じを深めて來るやうになつたのであらう。更に後には、磯城島の大和など言ふやうになつて、混同する樣になるが、古くは必、代初めの國見と共に、地名地域も定まり、咒詞も必固定したものゝあつた事が察せられる。○は 大和の國は、うまし國ぞ、と言ふのが普通の解釋だが、前に述べた通りとすれば、この「は」は主格の助辭の發達過程には、感動詞として定義のある事が、明らかである。其と同時に、文法的表情の移つて來た徑路が思はれる。
【鑑賞その他】 此御製もやはり、雄略御製と同樣、宮廷の大歌として、さやうお傳へして居たから、舒明御字のもの、と録せられてゐるのである。だが、何として、さうした傳承が生じたかと言ふことになると、今日の我々の知識では、知ることが出來ない。唯、萬葉集において、短歌呪(189)力の起原――と言ふより寧、本縁――を説く男女二尊貴(磐媛后・雄略帝)の御作物の次に、舒明・皇極の御代の御製を載せ申す、と言ふ集を通じて見られる、一つの習性の意義は、説明出來ないではない。其には、久しい宮廷の御流れの中にも、幾筋にも傳統のお岐れになつてゐることを、まづ考へ申さねばならぬ。奈良の宮廷を基礎として考へれば、すべての點から見て、天智・天武の二帝に對して、「すめろぎ」としてのお懷しみを、深く持つて居られた事が見える。この御流れは、御考妣としての舒明・皇極二帝から出てゐる。敏達天皇の宮廷から、二流れに岐れて、一つは、古飛鳥宮廷――と申しよいか――一つは、近飛鳥宮廷――と申すべき――に族岐《ウカラワカ》れがして見える。古飛鳥宮廷のお流れは、崇峻帝・聖徳太子、いづれの例におかれても、斷絶遊してゐる。さうして後、近飛鳥の御族が、皇統を保たれた。(押阪彦人大兄《オサカヒコヒトオヒネノ》皇子を經て)舒明・皇極二天子の御族が是である。だから、萬葉作者系圖の中、宮廷に繋《カヽ》るものは、皆近飛鳥族に包含せられてある訣である。だから、萬葉における宮廷詩は、近飛鳥宮廷の大歌だ、と言ふ事が出來る。即後代の語で言へば、「近飛鳥御家集」と謂つた意味の歌集が、萬葉集を組織する基礎になつてゐるのである。
舒明・皇極二朝の御製の第二次(殆、卷頭)に据る訣である。其と同じ理由で、卷二の天智天皇代、卷三の持統天皇代、卷九の(雄略御製を卷頭に)舒明天皇代を、同樣の位置に据ゑた理由が、納得出來るのである。(卷八においても、稍條件をつけて、同樣の事が言はれる。)
(190)私の所謂「近飛鳥宮廷」時代に於て、短歌が俄かに榮えてゐることは、曰本紀(古事記は、此宮廷の記事に及んでゐない)を見ても察せられるが、一つは傳るべき理由があつて、特別に榮えた樣に見えるのだ、と言ふ點の考へも必要だ。
此歌、その目的が、叙景詩にあつたものと考へることは、どこまでもよくない。叙景詩の發達は、序歌を通して見なければならぬと言ふ事は、「アラヽギ」大正八年卷に書いた。其が譬喩歌に展開して行つた事も、屡説明して來てゐる。さうして恰も、此御製の出來たと稱する飛鳥朝には、觀照態度が著しくなつて來て、叙景詩に迫るものも出來てゐる。が、此歌は、さうでない。國原を叙したのは、單なる祝福詞章の類型であり、海原と疊みかけたのは、單なる形式上の對句表現に過ぎない。其上よく考へなければならない事は、作物に叙事的な技法が通じてゐるから、あの點も、矚目を直敍したものゝ樣に見えようが、さうでない。叙事的になるのは、古代詞章の常法で、其處に歴史觀念も含まれて來る訣である。今であつて昔であり、昔の如く今である。太古以來の傳承と信じられてゐた詞章が、漸次部分的改變を、時代・空間の上に加へて來る。其古い詞章が、後代人の歴史又は敍事とする考へ方の基礎になつてゐるのだ。さうした發想の上に、外界の庶物を咒――祝福――するのである。後世詩歌と云へば、抒情・敍景・敍事など言ふ規範をきめて居る時代から見れば、敍景の型に入れて見るのも、無理のない誤りである。
而も咒詞であるべきものが、歌の形を採つてゐるのは、一段の變化を經た訣だ。元正しくは稍律(191)的要素の尠くて長章であつた咒詞の樣式で、發表せられねばならぬ種類のものが、其部分的游離形なる歌で以てしても、認められるやうになつたので、第一の雄略御製なども、此側の考へが必要だ。萬葉集の全體を思ふ上にも、歌と咒詞との對立を、始中終頭に置いてかゝらねばならぬ。
【萬葉集の鑑賞方針】 以上二つの御製に關聯して申すべきことは、古代歌謠の鑑賞を言ふ事は、其を行ふ事は、自由であるが、どこまでも本質的に可能性を持つものと信じて居てはならない事である。その成立が、文學から自由であつて、而も其傳承した理由も、其を傳承する間に、人々の持つた印象も、文學とは全然没交渉な種類のものである事を思はねばならぬ。たとひ其間に、次第に鑑賞に似た文學的な嗜欲が出て來ても、まだ後代の人の持つたものとは、全然趣きを異にして居たに違ひない。
類型に類型を重ねて行く間に、技巧の意識が出て來る。即、文學的てくにっく〔五字傍線〕が次第に發見せられる訣である。傳承によつて「前文學」が把持せられてゐる間に、愛著から來る好《ヨ》さの追求と、習熟による理會とが、亦内面的に起つて來る。かうして、古典文學に對する鑑賞法の第一歩に屬するものが成立して來る。さうして其が、土臺となつて、國文學の宿命的な方向が立てられる訣なのである。
だから、右二首は固より、萬葉集中大部分の歌――尤、文學意識を含んだ作家もあるにはあるが――は、實は文學作品扱ひをするのは、よほどの用心をして、かゝらねばならない訣だ。だが、(192)其にも段階があつて、文學意識が皆無でも、今曰から其動機に、文學的なものの見られるもの、又文學的態度に飜《ウツ》して考へられるもの、又全然出來た動機と後人の見方とが一致しないで文學的になつて居るものなどがある。だが、最古い作物になると、さうしたどの立ち場にも這入つて來ないものがある。此二御製などは、其である。
重ね/\も言ふ。古典文學の鑑賞は、その作品の含んでゐるものだけに就いてすべきである。今人が、新しい見解を附加して、評價するのは、歌自身の價値に、何の交渉もないものだと言ふ事を覺悟してかゝらねばならぬ。是、私の特に文學的鑑賞を試みない所以である。
香具山望國の御製歌講義は昭和九年八月「短歌研究」第三卷第八號所載のものによつた――編者 〔約半年後の、改造社、石井庄司編、『萬葉集の綜合研究 第一輯』1935.3.20所収のものは改行等小異はあるが同文。雄略の巻頭歌も同様。――入力者注〕
(三)
乞食者《ホカヒヾトノ》詠《エイ》二首 (卷第十六)
卷第十六は、叙事詩のくづれなる長歌或は短歌の游離して、世間に謳はれて居たものが多い。その中、殊に異風な、「乞食者詠」とある二首の長歌について述べる。かうした歌を撒布した人々については、色々考へられるが、不思議な神を持つて、旅行して歩いた巡遊伶人の一團であつた事は、確かである。昔は、新しい怖しい神を持つて居る人が來ると、村人は無事通過を望んで、之を歡待した。敵邑とも見らるべき未知の村々に、漂泊の旅を爲續けることの出來たのは、さう(193)いふ異風な神を齋く宗教團體の者ばかりであつた。此二首の歌は、歌の中にもある飛鳥の時代に出來たものだらうが、飛鳥の地を廣く見て、藤原に都のあつた頃に行はれたものと見てよい。恐らく其から奈良朝にかけて、生きて居つた歌だと思ふ。「乞食者詠」此を「ほかひゞとの詠《エイ》」と訓んで置く。既に其頃から、乞食者をほかひゞと〔五字傍線〕と訓んで居たらう、と思はれるからである。作者は勿論訣らない。
唯斷つて置かねばならない事は、ほかひゞと〔五字傍線〕自身を表す乞食者が、直に後世考へる如き乞食ではない、と云ふ事である。ほかひ〔三字傍線〕は、祝福するほく〔二字傍線〕を語根とした、ほかふ〔三字傍線〕の名詞形なるほかひ〔三字傍線〕である。ほかひゞと〔五字傍線〕は昔の旅行宗教家で、行く先々で家・人・村を祝福して歩いた。神を持つて旅行するので、神靈の容れ物なる箱を持つて居る。平安朝から見える外居《ホカヰ》・外居案《ホカヰツクエ》など云ふ器は、行器と宛て字せられてゐる。現代にも廣く分布して殘り、曲げ物の器をほかい〔三字傍線〕・ほけ〔二字傍線〕・ほつかい〔四字傍線〕など方言で言ふ。は〔傍点〕行音ひ〔傍線〕とわ〔傍点〕行音ゐ〔傍線〕では、音韻の相違はあるが、此時代は、まだ此二音――は〔傍点〕行濁音とわ〔傍点〕行音と――の音價が定まらないで、流動自由であつた時なのだから、假名の相違は、物の相違を意味しないのである。行器は曲げ物で、圓形・楕圓形の物、脚のある物・無い物・深い物・淺い物、大小色々あつた。ほかひゞと〔五字傍線〕の用具であつた爲に、此をほかひ〔三字傍線〕と言ひ、神靈を容れた靈笥《タマケ》なのである。旅行に便宜な處から、一種の旅道具として用ゐられた。
諸國をさすらふ祝言職人《ホカヒヾト》の中、最多かつたのは、海人族の人々だが、其以外の者もある。平安朝(194)以後、段々、所謂特殊的な流民と考へられて來た。地についた生業を營まず、旅に口貰《クチモラ》うてわたらひした處から、段々賤民視せられる樣になつたのだ。一方又、かうした人々の生活を、一層乞食者らしくしたものは、奈良朝の行基門徒の彿者などに限つて免され、其が風をなした托鉢・行乞する者と、同樣に見る樣になつた爲である。
こゝの「詠」なる語が、文字通りの意味に使つてあれば、踊り歌の義。舞踊者自ら謠ふ部分である。萬葉集その物が、宮廷の樂と關係深く、又宮廷の樂人が、萬葉の古い材料に關係深かつた爲に、本集に現れた音樂の用語も正確に用ゐられて居るらしい。此處なども、さう考へて見ると、「詠」の字面及び歌が生きて來る。此が恐らく、古くから言ふよみうた〔四字傍線〕だと思はれる。詠の字は又、ながめ〔三字傍線〕と訓んで居るが、詠《ナガ》めは、其が更に獨吟式の要素を加へて來たものであらう。此に對して意味通ぜぬ歌を謠ふのは囀《テン》と言ふ。日本語のさへづり〔四字傍線〕である。蟹のさへづり〔六字傍線〕もあつた。此長歌を見ると、ほかひゞと〔五字傍線〕が踊つた身ぶり〔三字傍点〕が目に見える樣だ。
ほかひゞとの詠 二首
(三八八五) いとこ汝兄《ナセ》の君。をり/\て 物にい行くとは、韓《カラ》國の虎とふ神を、生け捕《ド》りに八頭《ヤツ》取り持ち來、其皮を疊《タヽミ》に刺し やへだゝみ 平群《ヘグリ》の山に、四月《ウツキ》と五月《サツキ》の間《ホド》に、藥獵《クスリガリ》任ふる時に、あしびきの 此|傍《カタ》山に、二つ立つ櫟《イチヒ》が下《モト》に、梓弓八つ手挾《タバサ》み、ひめ鏑八つ手挾み、鹿《シヽ》待つと 我がをる時に、さを鹿の來立ちなげかく、遽かに我《ワ》は(195)死ぬべし。大君に我《ワ》は仕へむ
我が角《ツヌ》は御笠のはやし。我が耳は御墨《ミスミ》の壺。我が目らはますみの鏡。我が爪は御弓の弭《ユハズ》。我が毛らは御筆はやし。我が皮は御箱の皮に、我が肉《シヽ》は御鱠《ミナマス》はやし。我が肝も御鱠はやし。我が反芻物《ミギ》は御漿《ミシホ》のはやし。老い果てぬ。我が身一つに、七重花咲く 八重花咲くと、申し賞《タヽ》へね。申し賞へね
右の歌一首、鹿の爲に痛みを述べて作れるなり。
伊刀古名兄乃君。居居而 物爾伊行跡波、韓國乃虎云神乎、生取爾八頭取持來、其皮乎多多彌爾刺 八重疊 平群乃山爾、四月與五月間爾、藥猟仕流時爾、足引乃 此片山爾、二立伊智比何本爾、梓弓八多婆佐彌、比米加夫良八多婆左彌、宍待跡 吾居時爾、佐男鹿乃來立嘆久、頓爾吾可死。王爾吾仕牟
吾角者御笠乃波夜詩。吾耳者御墨坩。書目良波眞墨乃鏡。吾爪者御弓之弓波受。吾毛等者御筆波夜斯。吾皮者御箱皮爾、吾宍者御奈麻須波夜志。吾伎毛母御奈麻須波夜之。吾美義波御鹽乃波夜之。耆矣奴。吾身一爾、七重花佐久 八重花生跡、白賞尼。自賞尼
右歌一首、爲v鹿述v痛作之也。
【音訓】 ▼虎云神乎 とらとふかみを。とふ〔三字傍線〕と訓んだが、ちふ〔三字傍線〕とも訓める。▼八頭 やつ。意義から頭の字を書いたので、訓みには、八とあるのと變りはない。▼與 と。上にと〔傍線〕があつて、五月の下にと〔傍線〕のないのは(196)律文では珍しくない。▼間 ほど。▼二立 ふたつたつ。なみたつ〔四字傍線〕・ならびたつ〔五字傍線〕など訓む方がよさ相だが、姑らく、普通の訓みに從ふ。▼加夫良 夫は濁音。▼宍待跡 しゝまつと。下の吾宍者共に流布本「完」、類聚古集「宍」。宍は肉《シヽ》である。肉の音を利用したのだ。又宍喰みする爲の野獣故、宍の字を宛てたか。▼來立嘆久 きたちなげかく。流布本「來立來嘆久」。「來たち、來なげかく」と訓むべきだが、恐らく下の來は衍字だらう。類聚古集「立來嘆久」。たちきなげかくで、都合はよいが、定めかねる。▼頓爾 にはかに〔四字傍線〕。たゞちに〔四字傍線〕又は、とみに〔三字傍線〕など訓める。殊に「王爾吾仕牟」との意義の上の關係からは、とみに〔三字傍線〕かたゞちに〔四字傍線〕がよい樣だが、此亦、通例の訓によつて置く。▼御墨坩 坩は、瓦燒きの壺である。▼御筆波夜斯 みふではやし。の〔傍線〕を挿んで訓んでもよいが、音調の變化から言へば、の〔傍線〕を捨てる方がよい。必しも之・乃の有無に拘らないが。▼美義 みぎ。義の字げ〔傍線〕の音を用ゐて、みげ〔二字傍線〕と言ふ方がよいが、此でも、さしつかへぬから、みぎ〔二字傍線〕として置く。▼耆矣奴 おいはてぬ。耆矣を耆いはつ〔四字傍線〕と意譯して、更に奴をつけて、はてぬ〔三字傍線〕を示したと見れば、無理とも言へぬが、尚おちつかぬ。耆矣は「老いぬるを」などで、奴の字は、下の吾と續けて「やつこわれが」と訓むことも出來さうだ。「身一爾」は、或は「みのひとしへに」として、下の「やへ〔傍点〕」「なゝへ〔傍点〕」に、音調上、對應させてゐるものと見られぬこともない。即、「老いぬるを。奴わが、身のひとしへに」となる。だが橋本進吉氏の、耆は七十に當り、奴婢の朽齡に達したものを、「耆奴」と書いたのだと言ふ説は、極めておもしろいと思ふ。唯、矣の處分がつかぬ。▲八重花生跡 やへはなさくと。生をさく〔二字傍線〕と訓むのは、七重花佐久と一つと見るのである。おふ〔二字傍線〕でもむす〔二字傍線〕でも當らない。はゆ〔二字傍線〕と訓んで、榮《ハ》ゆと見れば、……はやしと重ねて來た調子を反《ヲサ》めることになつてよいが、これも試みに言ふだけだ。▼白賞尼 まをしたゝへね。賞(197)ははやす〔三字傍線〕と訓める。はやさね〔四字傍線〕である。
【口譯】 お懷しい檀那樣。お聽き下され〔六字傍線〕。ぢつとして居て、用に行く物。なあに。碓《カラウス》の柄《カラ》。其〔傍線〕韓の國の虎神と言ふ靈物を、生け捕りに捕つて、八匹まで持つて參り、其から〔三字傍線〕、其皮を針で刺し縫うて疊に作り、其から其皮疊の幾重も重ねた結構な疊を、編《ヘ》るではないが、其又〔二字傍線〕、平群《ヘグリ》の山で、四月と五月の頃ほひに、藥獵を勤めました際、その時は、めでたい詞で申さうなら〔めで〜傍線〕、まづ此そばの山の上に〔二字傍線〕、二本立つてる櫟の幹がくれ〔三字傍線〕に、梓の弓を八挺、小腋にかいこみ、秘密の鏑矢八本、手の股にかい插み、弓を換へ矢を替へ〔八字傍線〕、とっかけひっかけ〔八字傍線〕ありだけ射てやらうと、出て來る〔四字傍線〕鹿を待ち伏せしようと、私が隱れて〔三字傍線〕居ました際、その時に、雄鹿が私の〔二字傍線〕前にやつて來て、ため息づいて哀願してその語るのに、「死ねとなら、此場で死んでお目にかけませう。死んで、皇族のお役に立てませう。」
言ひ立て文句で申しませう〔言ひ〜傍線〕。抑、私の角は、皇族樣のお笠の飾りとなりませう〔六字傍線〕。又、私のこの耳は、お墨壺になりませう〔五字傍線〕。この又私の目なんぞは、上等のお鏡となりませう〔六字傍線〕。其又〔二字傍線〕、私の爪は、お弓の弓弭となりませう〔六字傍線〕。又々〔二字傍線〕、私の毛なんぞは、御筆飾りとなりませう〔六字傍線〕。扨又〔二字傍線〕、私のこの〔二字傍線〕皮は、大事の〔三字傍線〕お箱の張り皮になつて、お役に立ちませう〔八字傍線〕。まだある/\〔八字傍線〕。私の肉は、皇族樣〔三字傍線〕のお鱠《ナマス》のまぜ物に役立てませうし〔七字傍線〕、私の臓腑もお鱠のまぜ物に役立てませうし〔七字傍線〕、私の反吐《ヘド》は、鹽辛のまぜ物に役立てませう〔六字傍線〕。私も、老いぼれました。さうしますれば、老いぼれた私のからだ一つの上に、(198)七重に花さき、八重に花が咲く。おめでたや」とおほめ申しませう。おほめ申しませう。
【言語】 ○いとこ いとこめ〔四字傍線〕・いとこせ〔四字傍線〕など用語例がある。從兄弟のいとこ〔三字傍線〕や、後のいとほし〔四字傍線〕・いとし〔三字傍線〕などにも關係は、大小ともにある樣だ。唯いと〔二字傍線〕は勿論いとこ〔三字傍線〕も、もつと古い語根時代の俤を存した體言風な語である。思ふに、いつく(齋)――大切に仕へる――と同じ起源の語で、itokが體言としては、いとこ〔三字傍線〕、用言としてはいつく〔三字傍線〕になつたものと思ふ。「大切な」と言ふ風の用語例から、「親愛な」と言ふ方へ傾いたものらしい。○なせの君 組織も意味も、我兄《ワセ》・我兄《ワガセ》と一つだ。汝《ナ》で、お身なる兄よといふ義の熟語。汝姉《ナネ》・汝妹《ナニモ》の類。奈良朝文獻には、「吾《ア》が汝兄《ナセ》」などもある。用語例の各自の分岐や、熟語の出來方によつて、輕重が出て來るので、我兄よりは、汝兄の方が敬意深く見える。「いとこなせの君」と「ほかひゞと」が、家あるじに最初言ふ呼びかけの詞である。此が、固定して、「ほかひ」・「ことほぎ」の常用文句になつたらう。此以下は、所謂祝言の言ひ立て文句である。まづ順序として、閲歴・經過などを述べる。更に其以下の文句も、固定し、合理化し、斷片化して、處々に、古い詞章の俤を殘してゐるのである。此よびかけの文句は、西洋の民間傳承にも同樣の事があつて、ばらつど〔四字傍線〕その他の巡遊藝人は、Dear my Rord 系統の語を先に据ゑて言ふ。地方々々の豪族の家に招かれて、藝を演ずる時の開口である。わが國でも同樣だつたので、豪家のことほぎに行つたほかひゞと〔五字傍線〕の文句が、これからはじめられたのだ。○をり/\て 居《ヲ》る動作を長く重ねる義で、動かないのである。ぢつとしてゐてと譯すのが適當(199)だ。をり〔二字傍線〕は、すわりこんでゐることだ。尚考へるに、をり〔二字傍線〕は、ある一つの状態に止る意にとれるから、其を重ねて言へば、かうやつてゐて、さうしてその中、屡の義も出て來る。一方、をる〔二字傍線〕(折)と言ふ同音義の語は、反復する意を持つてゐるから、二つの意識が重りあつて、をり/\と言ふ語が出來た痕も見える。本集中にも「をり/\」の例はある。時々ではなく、くり返し/\である。をり/\〔四字傍線〕と言ふのと、をり/\て〔五字傍線〕と言ふのと、語の出來る事情から言へば一つだ。○ものにい行くとは もの〔二字傍線〕は、眞の名を避ける習慣から出て――其|靈《モノ》をのみさす――、急速に觀念の纏らぬ時、婉曲を欲する時などに用ゐることになつた。通例「何に」「あれに」など譯する外はない。行くと言ふ語のついた句を作ると、大抵、用に出かけると言ふ語感を持つた樣である。いゆく〔三字傍線〕のい〔傍線〕は、意味不明の接頭語。とは〔二字傍線〕、「とては」「と言うては」「と言ふと」など解せられよう。だが、「をりをりて」と一續きに見ると、別の解釋をせねばならぬ樣である。Oをり……いゆくとは 前の説明のまゝ續いて來ると、かうした生活を續けてゐて、――或は、……その場合々々に、偶《タマヽヽ》に用に出かけると言ふ義にとれる。が、よく考へて見ると、こゝの句法が變つてゐることに氣がつく。おなじ乞食者詠の蟹の方の歌の「今日々々跡 飛鳥爾到、雖立 置勿爾到、雖不策都久怒爾到」の條と形が一つである。つまり、謎の一種たる「ものは」遊びの古いものと見るべきだ。即、「しよつちゆう一處に定坐してゐて、ものしに行くものと言ふは……何」と言ふ設問に對して、から〔二字傍点〕と應へた言語遊戯である。「いる時のいらぬもので、いらぬ時のいるもの……何。風呂の蓋」(200)などの類だ。碓は、柄臼で、舂《ウスヅ》くのに長い柄のついた杵を踏むからである。其|柄《カラ》の根は、定著してあつて動かない。而も柄頭は、往つたり來たりする。動かないで、使ひあるきするのである。柄《カラ》と言ふだけでは、やゝ表現不十分の樣に思はれようが、此「ものは」が周知の詞であつた上に、から〔二字傍点〕だけで、からうす〔四字傍点〕を聯想する程、杵柄が農民の口に馴れてゐたのであらう。からうす〔四字傍点〕は韓《カラ》渡來の臼ではなかつたが、さうした合理解もあつた樣である。枕詞・序歌としては、多少樣子のかはつた、通俗化したものであつたのだらう。○から からは朝鮮の一部から、半島全體に擴げて用ゐて來たのである。平安朝になるともろこし〔四字傍点〕の地までもこめて言ふ樣になつた。海の彼方の生活状態の違つた人の住んでゐる國と、言つた考へがあつたのだ。○とらとふ神 今も言ふ虎に變化はない樣である。唯、虎を知つてゐたのでなく、海のあなたにさうした猛獣がゐて、農業の障りになる此土の惡獣・惡鳥を懲らしに、時々來るものと信じて、唱へ詞の中に入れてゐたのである。其がゝう言ふ風に唯、平群の山を起す序歌の一部に組み入れられる樣になつたのだ。象・獅子・豹などを知らないで、きさ・しゝ・こまいぬ(説明略する)など言ふ名を言うてゐたのは、此爲である。而も早くから惡獣をよせつけぬ爲に、虎の皮が、渡來してもゐた。とふ といふ〔三字傍線〕の複合した形で、い〔傍線〕の脱落がとふ〔二字傍線〕。といふ〔三字傍線〕の融合したのが、ちふ〔二字傍線〕である。このちふ〔二字傍線〕から、次の時代のてふ〔二字傍線〕が出て來た。とふ〔二字傍線〕・ちふ〔二字傍線〕は、「といふ」の意義の明らかなのと、既に緩んだ「なる」「ところの」の用語例に變じたものとがある。○かみは醇化しない以前の觀念に溯つて見ねば訣らない。(201)古代からかみ〔二字傍線〕は、一段高いものだとする考へと、かみ〔二字傍線〕元來畏怖すべき靈物と言ふ義から分化して來たものとする考へと、二つに岐れるだらう。かみ〔二字傍線〕とおに〔二字傍線〕、かみ〔二字傍線〕ともの〔二字傍線〕とに大體對照して言うてゐる例から見ると、靈物にも媚びたゝへる時、かみ〔二字傍線〕の稱號を以てした樣に考へてよい樣である。其で神話に現れた神で、人意を指導し、欲求を參酌してくれる神の外に、雷蛇・猛獣・生蕃の類までも、「かみ」の語を用ゐることになつたのだ。つまり、地上のもの〔二字傍線〕(靈)をかみ〔二字傍線〕と言うたのである。○疊に刺し 刺して疊に作りと言ふこと。針を入れる事で、此處はたゝみに仕上げる意味に使つてゐる。たゝみは、近代の樣な床のあるものでなく、ぐる/\卷き、たゝむからの名。即、疊んで持ちはこんだので、材料から、こも〔二字傍点〕と言うたのは、草疊の一種である。編み草にも種類がある。畢竟、常に敷き放してゐるのではない。臨時に、神座を設けるのである。其が尊貴は、常に神聖な座席に居られたので、其から疊の用途が廣まつたのだ。山の獣或は、海獣の皮疊があつたことも考へられる。此亦、神座か尊者の席である。○やへだゝみ へ〔傍線〕一音を起す枕詞。疊をいく重も重ね敷くことが、その座につく尊貴の程度を示す。此習慣から、八重疊と言ふ。韓國の虎神の皮疊を作り、その皮疊を更に八重に敷き、と莊重めかしく言うたのである。「とふの菅薦」などいふふ〔傍線〕は、へ〔傍線〕と關係がある。莚類の一目々々は、古くは、廣かつた。材料を編むのに、所謂へあみ〔三字傍線〕(本集)と言ふ方法で、交錯しながら織るのが、ふ〔傍線〕である。其活用が、へ〔傍線〕である。だから、ふ〔傍線〕・へ〔傍線〕には、「隔」・「經」の義があるらしい。扨、このへ〔傍線〕を起して、平群に續けるので、後にも引(202)く樣に、同類の枕詞に「こもだゝみ」と言ふのもある。○平群の山 大和の西北隅。その後に更に生駒の山地を控へた丘陵地方。大和宮廷發祥以前の先住者の傳説を持つた處。郡名となつてゐた。元「龍田」を境として、宮廷領に對してゐる地の樣な記憶があつた爲に、こゝの山獵りによつて、其地の精靈に服從を誓はせる形をとつたものと思はれる。必しも野獣が多かつた爲ではない。こゝに獵りをしたことの最古い例は、日本武尊の「たゝみこも平群の山の熊※[木+解]《クマガシ》の葉を、髻華《ウズ》にさせ。その子」の歌である。山獵りに物忌みの插頭《カザシ》をつけたのは、懷古の神事だつたのである。○藥獵 五月五日の藥喰《クスリク》ひの爲に行ふ山獵り。推古天皇紀に既に端午の節供と混同した風が見えるが、元は此歌の樣に、初夏の行事で、五月五日ときまらなかつたのである。宮廷は五月五日でも、民間には尚、卯月と皐月との交りに行うたものであらう。後代には、時期を冬季にして藥喰ひをする樣になつた。○あしびきの 山の枕詞。や〔傍線〕の一音を起すのが古いものらしい。其が、專やま〔二字傍線〕に固定したものと見るべきだ。試みに言へば、葦葺《アシブ》きの屋《ヤ》ではないか。山の裾を曳いて居る樣子から言うたとする説は、信じ難い。豐田八十代さんの、馬醉木《アシビ》の木から山を聯想したのだとする説は、參考すべき考へだ。此枕詞には、未だ問題がある。「あしびきの此|傍《カタ》山」などいふ言葉を出して來るのは、ほかひ〔三字傍線〕の唱へ詞だから、新室に關する常套文句を含んでゐる。大殿祭《オホトノホカヒ》や山口祭《ヤマクチマツリ》の祝詞と一筋で、「奥山の大峽小峽《オホガヒコカヒ》に立てる木を」など言ふ言葉を、きまつて用ゐてゐた。即、「此新室の木は、どこから持つて來た。……山から伐り出した木で……」など言ふ發想を自然變(203)化させてゐるのだ。○かたやま 自分の居る傍の山が傍山で、村落を中心として居るから言ふ。傍丘・傍山などいふ言葉の成立も、かうして見ると、村ぼめ・室ほぎの詞から出たものと考へてよい。○ふたつたつ 前述の通り、竝び立つ〔四字傍線〕、或はなみ立つ〔四字傍線〕と訓まれた方がよい。が、此でも説ける。ふたもとの木のめでたさを、咒詞のうちに含んでゐたものゝ變化である。○いちひがもとに 所謂殻斗科の常緑のもの。又いちがし〔四字傍線〕。古くは赤※[木+諸]の字など用ゐてゐる。もと〔二字傍線〕は、元來幹のことだ。その根に近く太くなつた部分を、殊にもと〔二字傍線〕と稱するやうになる。其で次第に、根元の義を持つ。こゝは幹のかげに身をひそめる樣子だ。○あづさ弓 梓の木で作つた弓。恐らく、最神聖なものゝ用に用ゐられたもので、必しも常用でないが、古文學の上から慣れて、その樣に見えたのだらう。梓の原の木に就いては、色々説もあり、方言に保存されてゐるものを見ても、一つの木を指してゐない。普通、紫※[草冠/威]科のきさゝげ〔四字傍線〕を指してゐる。此は、萬葉には楸《ヒサギ》に當るものらしく、後世あづさ〔三字傍線〕とするのは誤解であらう。又、大戟科のあかめかしは〔六字傍線〕をあづさ〔三字傍線〕とする地方もある。此も不適當である。樺木科のうち、みづめ〔三字傍線〕をあづさ〔三字傍線〕だとも言ひ、同科同屬(あさだ屬)のよぐそみねばり〔七字傍線〕、又は方言よぐそあづさ〔六字傍線〕、或はおほばみねばり〔七字傍線〕と稱するもの、とする説があり、白井光太郎博士は、此を梓として居られる。此木についての民間傳承・用途などから言ふと、信じていゝものゝ樣に思はれる。担、みづめ〔三字傍線〕も略あづさ〔三字傍線〕として考へられて居たらうと思はれる。葉が稍細く、樹皮が軟かなところから、やなぎあづさ〔六字傍線〕と稱してゐる地方もある。白井さん(204)の採集では、あづさ〔三字傍線〕をはんさ〔三字傍線〕と言ふ地方も廣いやうだ。が、同時に、あんさ〔三字傍線〕といふ名の分布も多い樣だ。尚、白井博士は、あづさ〔三字傍線〕と支那の梓《シ》とは別木だと言はれてゐる。木質が堅くて石の樣になるところから、特別の信仰を待たれて居つた樣である。弦の響きの高いのを以て、咒法の效果多いものと見られる樣になつた。尚、此木を神聖視するところから、宮廷の使ひの持つ杖を、梓で作つた。本集の所謂たまづさ〔四字傍線〕が、これだ。弓のほめ詞として使ふので、必しも眞の梓でなくとも言ふのだ。○やつたばさみ 數人が居つて、一つ宛手挾みかくれると見れば、後との照應がうまくないが、かうした文章としては、大まかに見てよい。併し同時に、「梓弓たばさみ」とだけ言ふところを、誇張したものとも見える。○ひめかぶら 普通、ひ〔傍線〕をもつて樋とし、鏑矢の鏑に設けた溝だと稱してゐる。即、樋目鏑だとする。けれども、恐らくひめ〔二字傍線〕は秘目鏑――氷目矢《ヒメヤ》などがあるから――即、咒矢と見てよいだらう。後世の蟇目の信仰を起すものであらう。此も、必しも常に此矢を射たのでなく、所謂|上指《ウハザシ》の矢の類で、儀禮用の物だらう。失(ノ)口祭りに要する矢だと思はれるから、「やつたばさみ」は前同樣に解釋すべきものだ。が、此場合には、假に指の股に澤山挾んだと見られない事もない。○しゝ 食用肉、及び其用に供せられる山野の獣。主として、儀禮に關係ある猪・鹿の類を指してゐた。但、しゝ〔二字傍線〕は此以上語義は不明で、肉といふことではなかつたらしい。少くとも、人内をしゝ〔二字傍線〕と稱することは轉用である。○まつと 所謂|鹿道《シヽヂ》に射部たてて射るので、通行の獣を邀《エウ》すること。此にと〔傍線〕といふ助辭がつくと――終止形十と――所謂將然形(205)と同樣の意味を持つ。即待たんとして、待つとしてが同用語例になるのである。○さをしか さ〔傍線〕は鍾愛を現す最小讃辭。鹿は、元めか〔二字傍線〕に對する言葉。鹿《カ》の雄《セ》なるもの。しか〔二字傍線〕が總てを掩ふやうになつてから、をしか〔三字傍線〕・めしか〔三字傍線〕など言ふ。○來たちなげかく く〔傍線〕は體言化する職能を持つた語尾。だから、副詞を作り、又名詞を作る。歎くことには、歎くにはの意。動詞・形容詞・助動詞の第四變化につくのが常例で、動詞の場合は、音の末尾をあ列に變化させる。「來たち」も「たち來」も大體同じであるが、今日の語感を以て解釋すれば、自分の居るのを知つて、わざ/\來てが、「たち來」、で「來立ち」は偶然獵人を見て立ち止つた風にとれる。なげく〔三字傍線〕は、本集では普通、溜息づくことで、平安朝以來の抽象的なものは少い。但、これと語原からの順序は知れないが、愁訴・哀願する用語例も可なり古くからある。其場合、わぶ〔二字傍線〕と同義語。○頓に 自ら死ぬことや殺される事を悟つたのではない。今にも即座に死んで見せようといふところである。だから、にはかに〔四字傍線〕は、實は惡い訓だ。にはか〔三字傍線〕に、「偶然と急に」と譯すべきものである。實は、とみに〔三字傍線〕粗・たゞちに〔四字傍線〕二つながら稍新しい訓であるが、此傾向から説くべきものと、さう訓んだ。○わはしぬべし このべし〔二字傍線〕は決心である。此と似た言ひ方の『死なむ命、にはかになりぬ』などとは違ふ樣である。同じ言ひ方を繰り返して、『大君にわは仕へむ』と重ねて、この四句で、大君の爲には、たちどころに死んで奉仕しようと、誓ひの形を見せたのである。この歌一首としては、第一次的には、『來たちなげかく』で切れてゐるものと見られる。其が「頓爾吾可死」の句に切れ目を移したのが、(206)第三段として、「大君にわは仕へむ」と言つた、重複した句法をつゝみ込んで、これ迄で一段。「わが角は」から二段としてゐる。
○おほきみ 皇族のすべてがおほきみ〔四字傍線〕――王――である。村邑の君主をきみ〔二字傍線〕と言つたのに對して、此をおほきみ〔四字傍線〕としたのだ。おほきみ〔四字傍線〕だけでは、天子・親王・王の區別が場合によつて分れるだけである。普通、稱號としてのおほきみ〔四字傍線〕は、大君の下位にある王を指す。それ以上のおほきみ〔四字傍線〕には、特別の制限がいる。譬へば「やすみしゝ吾がおほきみ」と言つた風である。この言葉があるからといふ一點によつてのみ、古人が夢寐にも皇室の事を忘れなかつたといふ結論に運んでは惡い。同時に、古い見方から、このほかひ〔三字傍線〕の歌が、宮廷に行はれた證據にも出來ない。謂はゞ、一種の誇張と見るべきものだ。○つかへむ 奉侍するの具體的な言ひ方と、なし奉るの抽象化した使ひ方とが既にある。此處は、つくり申す義のつかへむ〔四字傍線〕である。即、「わが角は御笠のはやし」につかへむ・「わが爪は御弓のゆはず」につかへむ、といふのである。○みかさ 此ばかりでは、頭へ直に戴く笠か、或は華蓋《キヌガサ》か訣らない。かぶり笠とすれば、其頂に鹿の角をつけた事になるのであらうが、かうした遺物もなし、ありさうにも思へない。恐らく、華蓋を吊る柄の先に、鹿の角を付けた飾りがあつたのだらう。○はやし 動詞はゆ〔二字傍線〕を語根として再活用した動詞はやす〔三字傍線〕の名詞形。普通、はえあらすものと云ふ風に説くが、其ならば飾りと言つてよからう。一方、はやす〔三字傍線〕は物によつて、土地・生命・財産を祝福するものゝ義を持つてゐる。さうすれば、その義も兼ねて考へ(207)ねばなるまい。○みすみのつぼ 鹿・馬などの耳の形が、竹を殺いだやうに見え、又その中の毛が墨池の肉のやうに見えるところから見立てたとも見える。だが、この邊りは装飾品の事を述べてゐるのだから、唯の墨斗ではなく、黛の容れ物と見る方が自然である。但、單なる墨か、或は其を溶した物を蓄へておく壺か訣らない。○良《ラ》 等《ラ》 所謂、含蓄を思はせる接尾語。本集では、其よりも更に習慣を轉用して、律文としての音數を補ふ爲に付けてゐる事が多い。同時に、稍親しみの感情を持つてゐる。○ますみの鏡 或はまそみのかゞみ〔七字傍線〕とも言ふ。このすむ〔二字傍線〕が果して澄むならば、ますみ〔三字傍線〕と熟して、後鏡を形容する訣で、語原的に見れば、稍無理である。若し、從來の語原説以外に考へなければならぬ點があるとすれば、鏡の光澤からして翡翠《ソヒ・ソミ》の羽色の聯想ではないか。普通、脱化して、まそかゞみ〔五字傍線〕。此は、全くの目に關した譬喩である。二つ見立てを續けて、次は又實際の物を言ふ。○ゆはず 弓の兩端をさす言葉だが、普通、角・爪の類を付け添へたのであらう。○みふではやし 筆の毛そのものをかう言つたのか、筆の表面になる毛を言つたのか訣らないが、箋註倭名抄に引いた崔豹古今注に、「蒙恬之爲v筆也、以2柘木1爲v管、鹿毛爲v柱、羊毛爲v被、亦非v謂2兎毫竹管1也」とある。此とは逆に、鹿毛を以て被毛とするものを言つた、と姑く定めておく。○みはこの皮に はこ〔二字傍線〕は、古代ほど神聖なものと考へられてゐる。神靈の所在としてゞある。このはこ〔二字傍線〕も、恐らく、唯の物容れではなからう。はこ〔二字傍線〕の皮といふのは、はこ〔二字傍線〕を覆ふ爲に被せる皮かと思ふ。に〔傍線〕は、「吾が角は」以下皆名詞止めであるが、このに〔傍線〕でもつて、「…(208)…に吾は仕へむ」といふ意であることを示してゐる。さうして、次では又一轉して、すべて名詞止めにしてゐる。に〔傍線〕のある格と見てもよし、唯、「……なり……なり」といふ言ひ方になつてゐると見てもよい。○しゝ きも…… この邊のはやし〔三字傍線〕は、肉・臓腑を鱠の中に入れることを示したので、あへ物・まぜ物など言ふ意味のものである。○みぎ ※[齒+益]・※[口+司]・※[齒+合]。美義の義は、此場合げ〔傍線〕と訓むべきかも知れない。即みげ〔二字傍線〕。此言葉はいろ/\あるが、大ていえ〔右○〕列になつてゐる。にれがむ〔四字傍線〕・みけがむ〔四字傍線〕・にけがむ〔四字傍線〕など、皆草食獣の腹中の食物を反芻することを言ふ。此等の語根は、皆※[齒+合]を意味する。其うち、鹿の※[齒+益]を以て美食とした。洋の東西を問はず、是を用ゐて食用としたものだ。字では※[齒+合]・※[齒+世]。尚又※[口+司]など書く。○みしほ 鹽干。古くは又しゝびしほ〔五字傍線〕。穀物と鹽と肉とをまぜて漬けるものである。みぎ〔二字傍線〕を醢《ヒシホ》に見立てたのか、みぎ〔二字傍線〕其物に鹽をまじへて製したのか、其點知り難い。○耆矣奴 耆は七十である。橋本進吉さんの耆奴とする説に從へば、七十を過ぎた用にたゝぬ奴隷である。鹿自身が謙遜して言つたものだといふ事になる。此はよい説だが、矣の字に就いて、尚一考を要する。但、顯宗紀の「新室壽」の條に、顯宗天皇の謠に、「倭はそゝ茅原
あさぢ原 弟日僕|是《(ラマ)》也」又、同じく「市部(ノ)宮(ニ)御宇|天滿國滿押磐尊御裔僕是《アメヨロヅクニヨロヅオシハノミコトノミアナスヱヤツコラマ》也」など言ふ類の古い固定したほかひ〔三字傍線〕の詞が、合理化して用ゐられて居ると見ることが出來る。家主《イヘアルジ》に對して、ほかひゞと〔五字傍線〕自分がやつこ〔三字傍線〕と稱する言葉で終るのである。だが、音訓に述べた樣に、奴と我とを接續して訓めば、「やつこわが・やつこわれが」と訓んで、一句を形作ると見ることも出來るので、(209)祝言者の傳襲的の詞が、鹿の感情を表すのに變形してゐるのだ。○身のひとしへに ひとしへ〔四字傍線〕といふ言葉は、後には違つた用語例を持つ樣になつたが、古くはひとへ〔三字傍線〕の義であつたらうと思はれる。老いぼれて了つてゐるのに、この奴隷なる自分の身一つに、と口譯通りに續くのだ。〇七重花さく 八重花さく 七重の花、八重の花でなく、七重に、八重にといふ事であらう。此は恐らく、家屋の屋根を讃へるところから出た詞で、此も合理化せられて、鹿の體の光榮を言ふことに轉用したのだ。○はゆと 前述の通り、生をさく〔二字傍線〕とするのが落ち付かないから、字の通りはゆ〔二字傍線〕と訓んで、花のさかんに咲く姿を言うたものとの考へを記しておく。○まをしたゝへね まをす〔三字傍線〕は下から上へ言ふこと。同時に、請願の意味も持つてゐる。たゝふ〔三字傍線〕は、四段活の方は水のはり滿ちてゐる有樣で、下二段は、その状態にする事だが、圓滿なる状態を將來する意義の動詞となるのだ。助辭ね〔傍線〕は、普通の希望のね〔傍線〕でなく、感動語尾な〔傍線〕の音韻變化で、まをさな〔四字傍線〕が本體である。意味はまをさむ、及び其元の形のまをさも〔四字傍線〕――次の蟹の歌のをさめの詞――と一つである。
○鹿の爲に……此左註は、歌の意味から推察して付け加へたものに過ぎない。鹿の代りに苦しみを述べたといふ趣きは見えない。まして、虐げられた民の叫びなどゝいふ事は出來ぬ。大體に、ほかひゞと〔五字傍線〕がほかひ〔三字傍線〕を續けてゐる間にくづれて來て、更に新しく、かうした演劇狂言風の文句が分化して來たのである。鹿は猪をこめてしゝ〔二字傍線〕と言ふ如く、總ての野獣の代表者である。此を抑壓することが、農村の作始めの咒術であつた。其爲に、鹿が降服して奉仕を誓ふと言つた形を、ほ(210)かひゞと〔五字傍線〕の立場をも交へて現したのである。村讃め・室|壽《ホ》ぎ・人稱《ヒトタヽ》へなど、皆不可分の行事である爲に、かうして、所謂「いとこなせの君」に對してうたひかける詞章となつたのだ。それは、次の「爲蟹述痛作」にも通じた事實で、水中から來る田其他の害物は、蟹を以て代表させたのである。蟹が苗代・苗田に來ると、はさみ切る、所謂蟹|喰《バ》みの災ひをなしたものだ。其で、蟹も奉仕を誓ふ形をとつた。普通の祝詞系統のものでは、過去の征服或は其時の誓ひによつて、かうだといふ風に表現するのだが、此は、すべて現在で言つてゐる。其點、咒詞の歴史から見れば、奈良朝より古くて、而も新しみのある此歌も、古い姿を持つてゐるもの、と言ふことが出來る。
(三八八六)おしてるや 難波《ナニハ》の小江《ヲエ》に、廬《イホ》造り 隱《ナマ》りてをる蘆蟹を、大君召すと。何せむに 吾《ワ》を召すらめや。明らけく我が知ることを。歌人《ウタビト》と 吾を召すらめや。笛吹きと 吾を召すらめや。琴引きと 吾を召すらめや。かもかくも、御言《ミコト》受けむと、今日今日と飛鳥に至り、立てれどもおきなに至り、つかねども つく野《ヌ》に至り、東の中の御門《ミカド》ゆ參り來て、御言受くれば、馬にこそふもだしかくも。牛にこそ鼻繩はくれ。あしびきの この傍《カタ》山のもむ楡《ニレ》を五百枝剥ぎ垂り、天照《アマテ》るや 日の日《ケ》に干し、さひづるや碓《カラウス》につき、庭に立つ※[石+豈]子《ウス》につき、おしてるや 難波の小江のはつ垂《タ》りを 辛く垂り來て、陶人《スヱビト》の作れる瓶《カメ》を、今日行きて明日取り持ち來《キ》、吾が目らに鹽塗り給《タ》べと、(211)申し賞へも。申し賞へも
右の歌一首。蟹の爲に痛みを述べて作れるなり。
忍照八 難波乃小江爾、廬作、難麻理弖居葦河爾乎、王召跡。何爲牟爾 吾乎召良米夜。明久 吾知事乎。歌人跡 和乎召良米夜。笛吹跡 和乎召良米夜。琴引跡 和乎召良釆夜。彼毛此毛、 命受牟等、今日今日跡飛鳥爾到、雖立置勿爾到、雖不策都久怒爾到、東中門由 參納來弖、命受例婆、馬爾己曾布毛太志可久物。牛爾己曾鼻繩波久例。』足引乃 此片山乃毛武爾禮乎五百枝波伎垂、天光夜 日乃異爾干、佐比豆留夜辛碓爾舂、庭立碓子爾舂、忍光八 難波乃小江乃 始垂乎辛久垂來弖、陶人乃所作瓶乎、今日往明日取持來、吾目良爾塩漆給、時賞毛。時賞毛。
右歌一首。爲蟹述痛作之也。
【音訓】▼難麻理弖居 なまりてをる。居訓、其上の四字音。▼彼毛(此毛) かもかくも。諸本皆この通り。代匠記に、彼の下に脱字あるか、或は「かれをしも」と考へ、萬葉考には「そこをも」。其ならば「そこをしも」と訓む方がよからう。略解に此毛〔二字傍線〕の脱として、「かもかくも」と訓んでゐるのがよい。▼命受牟等 みことうけむと。類聚古集に命〔傍線〕とある外、みな令〔傍線〕。どちらでも訓は一つであらう。▼置勿 おきな。この訓は問題だ。この勿〔傍線〕は例の略畫で、置物即すゑ〔二字傍線〕かとも思はれる。▼雖不策 つかねども。下のつくぬ〔三字傍点〕に關係のある言葉だから、つかねども〔五字傍線〕と訓んでもいゝが、此處は策の字をつゑ〔二字傍線〕と名詞に訓みたいところだ。が、つゑならねど〔六字傍線〕・つゑせねど〔五字傍線〕など考へても落ちつかない。舊訓うたねども〔五字傍線〕とあるは、つゑ〔二字傍線〕の一用途だけれど、此處には(212)不適當。▼東中門 ひむがしのなかのみかど。門は敬語をつける習慣があるから、なかのみかどで差し支へない。▼參納來弖 まゐりきて。熟語を作る時には、り音脱略の習慣から假想して、入るの義の納〔傍線〕とで意味を示したのだ。此場合、い音融合。假名はまゐり〔三字傍線〕になる。▼可久物 かくも。或はかくものかも知れない。▼波伎垂 はきたり。たれ〔二字傍線〕と訓まぬ方が古風だ。▲天光夜 あまてるや。本集では照・光二字通用してゐる。共に、てる〔二字傍線〕ともひかる〔三字傍線〕とも訓むやうだ。▼日乃異爾 ひのけに。本集記録の時代、この言葉をかう理會して居たのである。▼庭立 にはにたつ。にはにたつ〔五字傍線〕と訓む類例は多い。「爾波爾多都あさでこぶすま」など書いたのもあるが、古くはにはたつ〔四字傍線〕ではなかつたらうか。▼碓子爾舂 前のも此處のも、舊本多く春〔傍線〕になつてゐるのは誤り。碓子〔二字傍線〕。宣長※[石+豈]子の誤りとしてゐるのは、理にあたつて居る樣だ。だが、その訓すりうす〔四字傍線〕は從へない。唯、うす〔二字傍線〕でよい。▼忍光八 おしてるや。忍をおし〔二字傍線〕と訓むのは、古くからの慣例。▼陶人 すゑびと。陶器をすゑ〔二字傍線〕と訓む。その慣用略字。▼漆給 ぬりたべ。漆の字ぬり〔二字傍線〕と訓むこと、捺部ぬりべ、漆君【ぬりのきみ】など訓むから、此に從ふ。或はひで〔二字傍線〕かも知れない。▼時賞毛 まをしたゝへも。前の鹿の歌の例に從つて、假に訓んでおく。時賞をもちはやす〔五字傍線〕と訓む説は古くからあつて、比較的よい。即、時〔傍線〕を持〔傍線〕の誤りと見るのだ。或は時をと〔傍線〕の假名と見て、其下に白〔傍線〕若しくは申〔傍線〕などの脱けたものと見るか。但、類聚古集には、時〔傍線〕を※[月+昔]につくつて、きたひ〔三字傍線〕と傍訓してゐる。尚、語釋に述べる。
【口譯】 難波の入り江に小屋をかまへて、ひつこもつてる、この〔二字傍線〕葦蟹。この私を、天子様がお呼びになる、と云ふことだ。何の爲に、私をお召しになつてゐるのだらうか。あゝ其は〔四字傍線〕、はつきり私に訣つてゐることよ。歌うたひとして、およびなさるのだらうか。其とも〔三字傍線〕、笛吹きとして、お(213)よびになるのだらうか。其とも亦、琴彈きとして、およびになるのだらうか。併し何にしても、仰せを承つて來ようと思つて、所謂今日か/\と、飛鳥について、其飛鳥のおきなと云ふ所に著き又、桃花鳥野《ツキヌ》と云ふ所に著いて、それから、御殿の東の中門から參入して、仰せをば承ると、まあどうだ〔五字傍線〕。馬ならば絆《ホダシ》をかけるも尤だ。牛ならば鼻繩を通して、引くのも尤だが、此蟹をば嚴重にお縛りなされて〔此蟹〜傍線〕、其上、近くの山の楡もみの皮〔二字傍線〕を、幾枚も/\本から先へ剥ぎとつて、しれを〔三字傍線〕毎日々々、天日にお晒しなされて、一方〔二字傍線〕、碓に入れて搗き、又其上に〔三字傍線〕庭に据ゑた、挽き臼でつき、と云ふ風にして〔七字傍線〕、難波の入り江の鹽の雫の最上垂れの、辛く垂れたのをば垂らして持つて來て、それを燒物作りがこさへた瓶に、所謂〔二字傍線〕「今日行つて、明日直ぐ」と言つた風に持つて來て、その瓶に入れるとて其鹽汁をば、私の目なんぞに御塗り下され。御願ひこの通り〔七字傍線〕、と御めでたやと、おほめ申しませう。おほめ申しませう。
【言語】 ○おしてるや おしてる〔四字傍線〕とも言ふ。難波の枕詞。但、意味不明。本集中既に、合理化して、「直越《タヾゴ》えのこの道にして、おしてるや 難波の海と、名づけゝらしも(卷六)」といふ歌がある。龍田山を越えると、日下江《クサカニ》以下中河内の沼澤地が難波の海まで續いて見えたから、といふ考へである。海の光がおし照つて居ると言ふのだ。おしみてる〔五字傍線〕説、不可。一人の人の歌を以て、其時代の使ひ方を決める事は出來ないのである。萬葉の用語例ばかりで、萬葉は注釋出來ない。萬葉は、長い時代に亙つて居るからである。○難波の小江 小江の小は最小美辭で、親しみの氣分が含ま(214)れる。こ〔傍線〕・さ〔傍線〕などゝ同樣接頭語。難波の海でなく、淀川の入江で、難波近くにあつたからの名だ。江は、川又は海の一部分が、深く※[さんずい+彎]入してゐる處。こゝの江は、又難波入江と言ふ。大阪の丘陵地帶の東に集まる川々が、淀川に注ぐ所で、沼澤地をなしてゐたのだ。○なまりてをる なむ〔二字傍線〕或はなぶ〔二字傍線〕の再活用、なまる〔三字傍線〕・なばる〔三字傍線〕は總てひつこんで、出ない樣子だ。隱れて人に顏を合せない用語例が多い。女が男を避ける場合に多く用ゐた。○蘆蟹 蘆の中の蟹だが、蟹の一種の名と見てよからう。○を 蘆蟹よ、そのわれを、の意。だから、蘆蟹なるに、とも譯せる。唯、直に蘆蟹をばと説くのはよくない。○おほきみ こゝのは、天子と説く方がよいが、尚一般的に皇族と譯して置く。○召すと 召すは、呼ぶの敬語。と〔傍線〕は、と言ふ〔三字傍線〕の意義固定。殊に、歌などに關して、召人《メシビト》を定める例があるから、此召すがきいてゐる。後世の囚人を、めしうど〔四字傍線〕と言ふのは、召して、ある期會まで足止めして置くからだ。○何せむに 何しに。又、何の爲にと譯する。何しように無駄だ、といつた解釋は、本集の用語例には當らない。卷五の「白金も黄金も玉も、何せむに優れる寶。子にしかめやも」も何とて子より優れる寶ならむやの意で、何にならうかではない。此長歌では、殊に用法が明らかだ。外のもの、或は事ではない、といふ義を含む。○召すらめや 此は反語の用法でなく、唯の想像である。呼んで入らつしやるが、それは、かうに違ひない、といふことだ。召すらめやを重ねて來たのは、聲樂上の單調な喜びの爲と、同時に、蟹が多藝を述べてゐる訣で、決して、一つ宛に就いて疑問をもつてゐるのではない。さうした幾つもの對句を山竝(215)べて行くのが、もつと根本的に古い律文の癖である。○明らけく我が知ることを わが明らけく知ることよ〔傍点〕の意で、その訣は、私にはつきり解つてゐる、と云ふことだ。或は、私がはつきり知つてゐることをさせよう爲、とも説けるが、其では表現不足だ。○歌人 令の規定では、治部省雅樂寮の所屬となつてゐる。恐らく本集に見える歌※[人偏+舞]所に務めてゐたのだらう。即、大歌謠ひである。此に對して、女歌を務めるものが、歌女だ。笛吹き・琴彈きも、蟹の動作から聯想して云ふので、必しもこの歌が初めて考へたのでなく、更に古くからの民間傳承と思はれる。殊に、其爪・足の擧動が笛吹き・琴彈きを思はせてゐる。○笛吹き 令には笛工としてゐる。蟹の泡を吹き、鋏を上げ下げする樣子から、言ふのだらう。○琴彈き 横這ひしながら、爪を動かす樣が、日本古樂の立琴を奏する樣の聯想だらう。○と として・と思うて・……にする爲に、と譯すればよい。○らめ 現在完了想像、てるだらう。又時々、む〔傍線〕の想像を緊張させる爲に使ふ。○かもかくも そこをしも〔五字傍線〕、と訓むとすれば、その故にとなる。かもかくも〔五字傍線〕は、ともかくと同じで、かかく〔三字傍線〕・とかく〔三字傍線〕など云ふ對象的な兩端の言葉を擧げて、あゝにしても・かうにしても、あゝ云つても・かう云つても、あゝ思つても・かう思つてもなど云ふ形を表す。かゆきかくゆき〔七字傍線〕・とゆきかくゆき〔七字傍線〕、など無限にある。畢竟、何にしても、何れにしても、といふことになる。こゝでは歌人であらうと、笛吹きであらうと琴彈きであらうと、どちらにしても、といふことだ。○御言受けむ みことは御言。命令にもなる。受くは、信頼させることで、承知した趣を相手に、誓ふとこ(216)ろから承服・承諾の義が出る。○今日々々と飛鳥 又日が變つたと待ち望む心待ち。だが、同時に其を飛鳥――明日《アス》――を起す枕詞の樣に使つたのだ。而し、之はやはり昔の言語遊戯の一つであつたのが、此處へ取り入れられたと思はれる。此歌の場合は、蟹が長旅を續けて來る樣子にとりなされてゐる。
○飛鳥 大和高市郡。今、飛鳥村飛鳥が其中心である。此は飛鳥大神の鎭座地である爲に、特別に此名があるので、古くは、飛鳥の地は、狹くも廣くも、亦多少移動もしてゐる。藤原の都以前、長く宮地となつてゐた爲、都なる言葉と飛鳥と同内容であつた樣に見える。後、藤原の都が榮え、更に寧樂に遷つてからは、舊飛鳥一帶を小墾田と云つた。藤原の都も、或期間は飛鳥の宮とも稱せられてゐたらしい。此點は喜田貞吉博士も述べられた。小墾田は飛鳥の一部分で、舊飛鳥の地よりは南にあつた。土地の汎稱の移る一例である。此歌の飛鳥も果して飛鳥の宮か、それとも藤原の宮の事か訣らない。「采女の 袖ふきかへす飛鳥風」(卷一)の歌も、藤原遷都の時の歌になつてゐるが、或は、寧樂へ遷つた時の作とも思はれる。それで、「都を遠み いたづらに吹く」が訣ると思ふ。○立てれども置勿 例の言語遊戯から地名に續けたもので、此らは、此歌に限つた即興と見られる。立てゝあるけれども、置いてあると云つた洒落だ。此場合立てれ〔三字傍線〕は他動四段の、立つ〔二字傍線〕から出たものだ。置勿 おきな。此地名は書物にも、現在の地理にも證據立てるものがない。勢ひ確かな訓も下されぬ。すゑ〔二字傍線〕と訓んだのも、置く物だから据ゑ物、即、陶器――すゑ(217)と考へて見たゞけである。何れにしても、飛鳥附近の地名であつたに違ひない。○雖不策 つくな〔三字傍線〕・つくぬ〔三字傍線〕。つくぬ〔三字傍線〕は桃花鳥野である。又つきの〔三字傍線〕の同類の地名に桃花鳥坂・桃花鳥田がある。飛鳥の南方、岡・島(ノ)庄の南外れ、多武峯の西登り口の邊である。雖不策。此三字もやはり、つくぬ〔三字傍線〕に絡んだ言語遊戯であるが、つかねどもつく、といふよりは、今少し効果の多い訓み方があらう。即、つくの〔三字傍線〕は土地へつかれない、といつた内容なのだ。だから、杖ではないが、といふ風に訓めれば、一番よいのである。○東の中の御門 中の御門は、其用途から云へば、正門といふことになるが、正しくは、外垣の門を入つて、更に、主人の住む内圍ひに入る門を指す。即、後世まで續いた中門だ。此歌で見ると、當時、東が宮殿の方角であつたと見える。時代が下ると、普通中門は東西にあることになつてゐる。外圍ひと内圍ひの間は、今日考へる程重大では無かつたのだ。單に飛鳥或は藤原宮が、東に正門を持つて居つたにも限らないのだ。○ゆ をば。まゐりくるの補足語としての中門に、ゆ〔傍線〕を附けたのだ。凡て、ゆ〔傍線〕・より〔二字傍線〕・から〔二字傍線〕は、何處をば通る・何處をば渡ると云つた進行動詞に先行する格のてにをは〔四字傍点〕だ。○御言受くれば 此句は正確に結著つかずに了つてゐる。即、御言受くればウマにこそ……牛にこそ……此蟹にふもだし懸け、鼻繩はけ給ふ、と云つた風になる文脈だ。だから口譯には、此はまあどうした事だ、といふ位に説いて置くべきだ。○馬にこそふもだしかくも ふもだしは、後の褌であるが、古く分化して、ほだし〔三字傍線〕といふ形も出來た。漢字絆をほだし〔三字傍線〕と訓んでゐるが、此は脚を繋ぐ綱である。そして、此訓には、ある過程が略(218)せられてゐる。ある信仰上から、馬の荒れすさびないやうに、馬帶に結びつけて置くものが、總てふもだしであつた。馬の脚に繋ぐ以前は、馬の體に引き廻したもので、此家畜の魂を鎭《イハ》ひ込める意味があつたらしい。後に絆は外に移り、身に附いたものは、かい〔二字傍線〕(繋)と稱する樣になつた。即、面繋《オモガイ》或はおもづら〔四字傍線〕、胸に著けるものが鞅《ムナガイ》、臀にかけるのが鞦《シリガイ》であつた。此が古いほだし〔三字傍線〕でありふもだし〔四字傍線〕である。今も蟹に褌と云ふ部分がある。恐らく昔もさう言つた爲の聯想だらう。自分はふもだしはかけてゐるけれど、馬のものとは違ふ。それに馬にかけるふもだし〔四字傍線〕を懸けたと抗辯する言ひ方だ。かく〔二字傍線〕は他動四段。物〔傍線〕はも〔傍線〕の假名か、もの〔二字傍線〕か、どちらでも訣るが、雙方とも落ち著かない。も〔傍線〕は懸くることよ、それに、といふ義。もの〔二字傍線〕もやはり、感動のもの〔二字傍線〕である。此句を文法的に解くと、「それは馬にならふもだし〔四字傍線〕は懸けることだ。が、蟹には懸けるものでない。」と跳ね返るのである。○牛にこそ鼻繩はくれ それは牛には鼻繩つけるのも尤だ。が併し、蟹には懸ける訣がない、と云ふ意味。鼻繩は、牛の鼻孔に通した繩、一方に結び玉を拵へた丈のものであつたらう。後に木質・骨質、或は金屬の輪を用ゐることになつた。はく〔二字傍線〕は他動下二段。併せて著ける、或は嵌め込む意。――此歌、こゝで第一段。
○もむ楡《ニレ》 楡に家楡《ヤニレ》・春楡・秋楡があるが、何れにも當らない。或は蟇のことをもみ〔二字傍線〕とも云ふから、ひきざくら〔五字傍線〕かも知れない。但、唐檜《タウヒ》一名、楡樅(松科、唐檜屬)とも言つてゐるから、此木に當るだらう。今一種たけもみ〔四字傍線〕・日光もみ〔二字傍線〕など稱する樅屬の木を楡樅と云つてゐる。大體此中であら(219)う。楡の類は、其粘液を接合剤にしたり、葉を食ふ外、其白膚を食ふ。○剥ぎ垂り 逆剥ぎに皮をずつとむくことで、たらし剥ぎ〔五字傍線〕と云はゞ言へる。幾本となく皮を剥いだことを、五百枝…と云つたのだ。○天照るや やは體言化する語尾。日の枕詞。○日の日《ケ》に 本集でも既に、け〔傍線〕になる副詞を樣子の變り行く状態、即、いよ/\〔四字傍線〕・いやつのりに〔六字傍線〕など譯すべき用語例を生じてゐたと見えて、音訓で述べた樣な問題があり、其と共に内容にも、一日々々と・益、と云つた解釋をすべき處もある。此處は日に/\・毎日である。け〔傍線〕はか〔傍線〕と同じく、暦日の日を云ふ言葉。○さひづるや 漢《カラ》の枕詞。さへづるや〔五字傍線〕とも言ふ。や〔傍線〕は天照るやのや〔傍線〕と同じ。聲樂の上の「詠」に對する「囀」の訓讀である。樂人が早くさうした譯語を用ゐたのだ。此歌の序に述べた樣に、舞ひ乍ら謠ふ詠の中、意義不明な文句を謠ふことを云ふ術語。所謂蟹のさへづり〔六字傍線〕も蟹の舞踊歌の意味不明のものを指したのだ。通常人語の感じのせぬ物言ひを云ふと解して、所謂南蕃鴃舌に聯想してゐるのは、其過程が缺けてゐる。此も恐らく漢人の雅樂、即、左舞ひの囀の意味不明な部分を云うた言葉だらう。○から 漢人の意義を持つた略語。國土の漢は前の歌に説いた。○碓 前の歌の、「ものにゆくとは」の條に説いた。柄《カラ》を要件とする臼だから、からうす〔四字傍線〕。最印象的な部分を云つたので、今の踏み臼である。○庭に立つ 卷十四に「爾波爾多都、あさでこぶすま…つまよしこせね…」と同樣の卷四の歌、「庭立あさで(を〔傍線〕とも)かりほし…」を見ると、あさ〔二字傍線〕の枕詞らしく思はれる。此場合は、臼の枕詞らしく見える。あさ〔二字傍線〕の枕詞とするのは、恐らく或原歌の誤解であさ〔二字傍線〕と續けた(220)のではないか。而も爾の助辭は、合理觀から入れ込んだもので、庭立つが古い形ではあるまいか。さすれば、此枕詞と見られるものゝ懸り方は違ふ。恐らく突發する・急に設ける、と云つた義らしく思ふ。此を普通に見れば、庭に立て据ゑた臼と云ふことで、祭場に神座として置く臼と見るべきだらう。〇※[石+豈]子《ウス》につき 必しも※[石+豈]子と字を改めずとも、碓の字を臼又は※[石+豈]子に通用したと見てよい。但、※[石+豈]子ならば、挽く・磨ると云つて、舂くと云はない。又、新撰字鏡には、碓をうす〔二字傍線〕と訓み、※[石+豈]をからうす〔四字傍線〕と訓んでゐる。だから、挽き臼にのみ片寄らずともよからう。恐らく臼で荒ごなしゝたものを、更に、臼で舂いたと見ればよからう。こゝでは、蟹は舂かないで、もむ楡だけを、こなすのであらう。○をしてるや 意識的でない繰り返しが、自然「詠」としての効果を増してゐる。○はつ垂り 鹽を作るには、海水を濾過して、飽和液を釜に入れて凝結させる。その液の最濃厚なものを、はつ垂り〔四字傍線〕と云ふ。恐らく最初に垂れた垂れと云ふことでなく、ほつ〔二字傍線〕、即、最上を意味する言葉の音韻變化と見るのがよからう。古語の所謂堅鹽ではなく、燒かない先の垂れ汗である。○辛く垂り來て 今一度、印象強く言つたもので、平易に言へば、辛く垂れた最上の辛鹽汁を垂し來ての意。垂りは他動四段。○陶人 陶器を作る人の意であるが、同時に陶器を作る里の人の義。和泉國最北部陶器莊、古く陶の邑と云ふ。陶器は据ゑ物であるからすゑ〔二字傍線〕と言ふのだ。今も古陶器を發掘することが多い。行基以來の傳承を説いてゐるが、此邊一帶に陵墓散列地であるから、起原はなほ古いものであらう。陶人は大和にも居つたが、此場合は和泉と見(221)てよからう。○今日行きて明日取り持ち來 かなりの距離がある所で、而も至急に往復することを意味してゐる。併し、唯大急ぎでと云ふだけでは、意味をなさないから、思ふにこれにも言語遊戯があるのであらう。此時代から、器用職人の約束を果さないこと、「紺屋の明後日」の樣であつた爲に、註文した翌日には、持ち歸ると考へ、おち〔二字傍点〕の樣に云つて、陶人に聯想させて、笑はせる積りなのであらう。○吾が目ら 目は身かとも思はれるが、同時に顔の代表として、其顔の意に用ゐてゐるから、私の面に、と云ふ風に譯してよからう。○鹽塗り給《タ》べ 給は舊訓たべ〔二字傍線〕とある外多くは、たまふ〔三字傍線〕・たまひ〔三字傍線〕と訓んでゐる。だが、こゝは蟹の感情を述べるのだから、誓約或は降服の積りで、食物になることを願つてゐる、と見なければ、結末にはならない。たぶ〔二字傍線〕はたまふ〔三字傍線〕の融合で古くから使つてゐる。〇時賞毛 音訓にも述べた樣に、此處は諸説皆同感出來ぬ。姑く鹿の歌同樣に訓んで置く。但、類聚古集に、時を※[月+昔]に作つて、きたひ〔三字傍線〕と訓んでゐるのは、此字の訓きたひ〔三字傍線〕なるが爲に、無反省に訓んだのか、意識して訓を下したのか訣らない。※[月+昔]の字、鳥の乾肉で、ほじゝ〔三字傍線〕と同じ物である。唯、鳥と獣とを言ひ分けるだけだ。和名抄に岐太比とある。或は、膺懲を意味する、きたふ〔三字傍線〕・きたむ〔三字傍線〕の假名に使つたものか。古代のことほぎ〔四字傍線〕の言葉に、精靈を歸服せしめる意味から、きたひたゝへも〔七字傍線〕と云ふ句を以て囃したでもあらうか。若し、尚言ふことが出來れば、鳥のきたひ〔三字傍線〕同樣、蟹の鹽干しをもきたひ〔三字傍線〕と言つたので、鹽塗りきたひ〔三字傍線〕給ふとあつたのが、逆になつたのかも知れぬ。此句は、やはり訣らぬ。
(222)【鑑賞その他】 前の歌では、鹿の身が、一物殘るところなく、用立つ事に興味を持つて歌つてゐるのに對して、此は蟹を文章の主人公として、其側から述べて行き、最後に、鹽蟹の贄のことだけを述べてゐる。殊に前段では、蟹の動作の特徴を算み擧げてゐる點、類型的ではあるが、當時の觀客には、おもしろがられたらう。前の方は、其點は、唯鹿の叩頭する形に興味を持つた部分があるだけだ。そして「飛鳥に到り……中御門にの邊に」は、殿讃美《トノボメ》の形を存してゐるらしい。鹿蟹共に對句を際限なく重ねてゐるのは、咒詞系統の修辭法で、主としては、其|家貨《タカラ》讃美に屬する發想法である。古代に於て、蟹が、滑稽な小動物として、或は性欲を聯想せしめるものとして、又邪惡の象徴として見られてゐた爲に、かうした歌が出來た訣である。
(四)
卷第十三問答の歌
次の歌は、大歌(――宮廷詩)と小歌(――民話)と藝謠(――ほかひ歌)とが、互に交流してをつた事實を、示すのだらうと思はれる一例である。即、宮廷の大歌類似の歌が民間に行はれて行つて、それが宮廷にはひつたものか、或は更に、ほかひゞと〔五字傍線〕の歌としてうたはれてをつた大歌系統のものが民謠となり、更に大歌に採用せられたか、その邊の事情は斷言出來かねるが、おほよそ前に言つた、三通りの歌としての過程を經てゐるものと考へる。
(223)この歌には、長歌二首短歌二首一括せられて、一つの問答體のものになつてゐる。それに、歌の内容から見て、眞のかけあひ〔四字傍線〕でなく、藝謠としての一種の演劇味を含んでゐるものと考へることが出來る。
(三三一〇) こもりくの 泊瀬《ハツセ》の國に さよばひに吾《ア》が來れば、 たな曇り 雪は降り來ぬ。さ曇り 雨は降り來ぬ。野《ヌ》つ鳥|雉子《キヾシ》はとよみ、家つ鳥|※[奚+隹]《カケ》も鳴く。さ夜は明け、この夜は明けぬ。入りて且《カツ》寢む。この戸開かせ
反 歌
(三三一一) こもりくの 泊瀬|小國《ヲグニ》に、つましあれは、石は踏めども、なほぞ來にける
隱口乃 泊瀬乃國爾、左結婚丹吾來者、棚雲利 雪者零來奴。差雲利 兩者落來。野鳥雉動、家鳥可鶏毛嶋。左夜者明、此夜者旭奴。入而且將眠。此戸開爲
反 歌
隱來乃 泊瀬少國爾、妻有者、石者履友、猶來來
【音訓】 (一)▼隱口 こもりく。隱は訓。口は漢字口の音の次音か、訓くち〔二字傍点〕のち〔傍点〕を漢音の韻の樣に扱つて、脱略させた假名か、恐らく後者であらう。▼左結婚 さよばひ。結婚の長い過程の局部を云ふ言葉は多い。だから、此字だけでは判斷がつかぬ。類型の古歌(鑑賞參照)から見ると、おほよそ此訓が當りさうに思はれる。▼零 落 ふり。此二字、本集常にふる〔二字傍線〕と訓むべき場合に置いてゐる。▼落來 ふりきぬ。上のきぬ〔二字傍線〕は(224)來奴を以て表して來てゐる。それで訓み方が訣ると考へて、奴を書かなかつたのかも知れぬ。其で、ぬ〔傍線〕を添へて訓んでおく。一方、此はふりけり〔四字傍線〕とも訓める。▼野鳥 家烏 ぬつどり・いへつどり。此を習慣に依頼して、強ひてつを入れなかつたのだ。▼雉 きゞし。音韻の上から言へばきゞす〔三字傍線〕と同じであるが、古くもあり亦正しいものと考へられて居たらう。▼動 とよむ。と〔傍線〕は濁音でない。此字を宛てた例が多い。▼可鷄 かけ。可鷄どちらも音假名。而も表音文字としての一方、鷄でその本義を元してゐるのは、とりわけ東歌の方に多い書き方だが、外にも少くない。假名使用の上の一種の進歩である。▼旭奴 あけぬ。次の和せた歌にも、「ぬばたまの夜は昶去奴」とある。此處と其處とでは、普通あけ〔二字傍線〕に當る字を區別して書いてゐるが、古本では此二つが一致してゐるものと見てよい傾向がある。即、※[衣+直の十のないの]に歸する樣である。これを昶・旭と兩方に書いたものと見える。但、此字不明。更に何かの誤りかも知れぬ。だから、姑く此處も昶の字と見たい。昶の字はあきらか〔四字傍点〕であるから、動詞あく〔二字傍線〕に宛てたものと見てよからう。※[禾+日]の字を類聚古集には宛てゝゐる。疑ひなく昶に近いことを示すのだ。▼且將眠 かつねむ。旦ともなつてゐる。かつねむ〔四字傍線〕・あさねむ〔四字傍線〕兩方に分れる。或はしましねむ〔五字傍線〕と訓むのかも知れない。
(二) ▼隱來 こもりく。來は訓。▼少國 をぐに。小・少は文字及び用字の上で通じてゐる。殊に、此時代のものには多い。▼妻有者 つましあれば。つまあれば〔五字傍線〕とも勿論訓めるが、或部分まで習慣的に見れば、此儀でつましあれば〔六字傍線〕と訓むことを豫期したものと言つてさし支へない。▼石 いし。いは〔二字傍線〕とも訓めるが、和せ歌の反歌「河の瀬の石迹渡」とあるのを見ると、やはりいし〔二字傍線〕がいゝ樣だ。▼猶來來 なほぞきにける。勿論、猶一字でなほぞ〔三字傍線〕と訓ませたものもあるが、助辭ぞ〔傍線〕の付く場合が多かつた。殊に、「なほぞある」から固定し(225)たなほざり〔四字傍線〕などを見ると、其關係が窺はれる。▼來 上の方は動詞、下は助動詞に用ゐた。
【口譯】 (一)泊瀬の國へ、求婚におれが來た時に、雪は空いつぱいに曇つて降つて來た。雨は、空が曇つて降つて來た。野に棲む雉子が、あたり響かして鳴き出したし、飼ひ鳥の鷄も鳴いてゐる。夜があけた、ほんに今夜は明けた。が〔傍線〕、は入つて、ひと寢入りしようよ。この戸を御開けなさい。
(二)泊瀬の路は、石を踏まねば行けぬ。その〔十一字傍線〕泊瀬の國に妻がをるので、石の上をば通るのだけれど、それに拘らず、おれ〔二字傍線〕はやつて來たことだ。
【言語】 (一)○こもりくの泊瀬の國 こもりくのは、泊瀬の枕詞。泊瀬川流域の細長い河内を一つの地域と見做して、泊瀬の國と言つたのだ。古代の國の廣さは、おほよそ郡に對する考へに當る。或豪族が持つてゐるさうした土地は、くに〔二字傍線〕であつた。飛鳥・近江・藤原にかけて郡縣制度が確立して、小さな國が整理せられて郡となつた。併しながら、私には縣《アガタ》を稱してゐたものも多い。それでも古傳承によるところの歌詞《ウタコトバ》では、國とも或は邑《ムラ》とも稱してゐた。だから、この泊瀬の國も、郡でも縣でも或は村でもない、曖昧な内容を持つてゐたのである。扨、それをこもりくが修飾した理由は、泊瀬の國ぼめの詞である。國の形が山に圍まれてゐるのをよい地相と見て、讃へたのであらう。その上、こもる〔三字傍線〕といふ言葉に絡んだ聯想が働いてゐる。即、老い先長いと云つた讃美の意が見える。○さよばひ さ〔傍線〕は最小美辭か、其外か訣らぬ接頭語。よばひ〔三字傍線〕はよばふ〔三字傍線〕の體言。名のり〔三字傍線〕の状態から出た言葉で、高聲で相手の注意をひく事である。即、その魂を搖り動かす爲にし(226)たものだ。この言葉、後には民間語源が別の説明を作つてゐるが、唯、名のり〔三字傍線〕と裏面になる言葉に過ぎない。後に引く大國主の歌にもある樣に、つまゝぎと同義語の樣に見えるが、これは家所を知つて、其處へ行つて名のること。彼は、探しに行くことである。○たな曇り お列韻になると、とのぐもり〔五字傍線〕・とのびく〔四字傍線〕など言ふ。又、たな知る〔四字傍線〕・たな知れ〔四字傍線〕とあるから見れば、たな〔二字傍線〕は全體・完全を意味する語根である。棚の宛て字に捉はれては惡い。○さ曇り さ〔傍線〕は接頭語。内容に關係ない聲樂上の調和からかうした對句が出來、同じ理由で、接頭語さ〔傍線〕をつけたのである。○ぬ けり 二つの句が同じぬ〔傍線〕で結ばれてゐるのは、對句としての效果はあるが、同時に均整を破つてぬ〔傍線〕・けり〔二字傍線〕としたと見ても、一種の調和が出て來る。けり〔二字傍線〕ならば、降つた・降ることよなど譯すべきだ。○降る 降るは、古來降下する状態か、降下してある状態か、曖昧に用ゐられてゐる。明らかに降下を示す場合には、ながる〔三字傍線〕・ながらふ〔四字傍線〕を以てしてゐる。譬へば、雪の場合ならば、降るは流らふと同じく下降を意味する場合と、地に積つてゐる樣を主とする場合とある。だから、この言葉は、凡、氣分的な部分を多く含んでゐたものと見ねばならぬ。○野つ鳥 家つ鳥 此も類型を襲うた爲で、大國主命の沼河媛を訪うた時の歌と傳へるのも、やはり前型があつたのだ。必しも雉子を野鳥の代表としてゞはなく、偶然原歌にあつたものを襲いだゞけに過ぎないのだ。但、曉飛び立つものであるから、雉にしたのは、論がない。山つ鳥と言つてもよいところである。○とよむ 高い響きを立てること。振動すると譯してよい。かうした使ひ方は數多いが、多く自動四(227)段か他動下二段か、判斷がつかない。普通ならば下二段ととるべきだが、四段と見る方が古い發想であらう。「とよめ鳴く」の過程を含んで、自動のとよむ〔三字傍線〕になつて居るのだ。○さ夜は明け この夜は明けぬ 謠ひ物としての樣子を明らかに示してゐる。無内容の繰り返しで、日然或喜びの氣分を表したもの。この疊句が起させる氣分は――近代的かも知れぬが――切迫した焦慮を見せてゐる。「この夜」は、適切には譯出來ない。今の夜と言つた風に、目前の時をさして居るのだ。近代では、夜明けを遲く感じてゐる。中世迄は、眞のあかとき〔四字傍線〕は、一番鷄の鳴く時をさす。新撰字鏡にも、鷄鳴を丑刻としてゐる。鷄鳴と同時に翌朝になると云ふことは、信仰に關係があつた。鷄の聲と共に神があがり、祭りがすむのである。祭りの夜、神又は神に扮する神人が女と起き別れるのが此時刻で、後代迄も結婚以前の長期間此形をとつて、男が通つてゐたのである。○且 全部でなく、一部分を表す。其が平安朝になると、半分といふ意に稍近づく。又、一方にといふ意味が出て來る。寢るべき時ではないが、と反省して、片方にかう思ふと云ふのだ。又、はつ〔二字傍線〕・はつ/\〔四字傍線〕と共通する言葉を、氣分的に支へてゐる樣だ。萬葉の用語例では、其點はつきりしない。此をあさむ〔三字傍線〕と訓む時は、あさ―ねむ〔五字傍線〕と熱語に見なければならない。唯、いぬ〔二字傍線〕に對して、朝も愛人の所に寢てゐることをあさ―ぬ〔四字傍線〕と特別に言つたものと見なければ、不自然である。「しばし寢む」は、稍通切でない氣がする。此を語根から「しば寢む」の形があればよいが、其は考へられない。
(二) ○小國 最小美辭から出た接頭語。○つま 配偶者。夫婦・愛人の片々から、いま一方をさ(228)す言葉。夫をも妻をも言ふ。○石は踏めども ふむ。或物の上を足で通る義。近代の踏むより意味廣く、歩くの意を表す場合もある。今も方言にはある。かうしたところに動く直感が、律文には必要であり、其鑑賞にも微細な感覺が基礎になつてをらねばならない。○なほぞ 拘泥せず其儘に。即、直の義を持つてゐるのだ。にも拘らず、更になどの意も出て來る。これでよいのに其上にの意味もあつて、其から、此だけではもの足りない、といふ意を含んだ副詞にもなる。後の例だが、「天の下の色好みの歌にては(としては)、なほぞある(伊勢物語)」などある。
【鑑賞その他】 この歌の前型と見るべきものに、大國主(ノ)命が沼河媛に求婚《ヨバヒ》した時の歌、勾(ノ)大兄(ノ)皇子(安閑天皇)が大春日皇女(後、皇后)につまどひせられた時の御製と傳へられるものがある。その系統の歌の一變化で、この歌に和せた歌は、いま少し類型から離れてゐる樣に見える。
泊瀬の國を問題にしてゐる點は、泊瀬地方へ流れて行つて、其地に適切な形をとつたのか、或は雄略天皇が、第一講に言つた樣に、をとめ〔三字傍線〕を訪はれた叙事詩の一つとして傳はつたものゝ斷片とも思はれる。民謠・藝謠としては、諸國に流布し、定住し、分化し、斷片化し、又或延長を加へて行くが、さうした傳播の外に、歴史的個性化が加はる場合も考へねばならない。大國主の婚姻に就いての叙事詩が、皇族の間に於ける恒久の樣式として繰り返される樣になつて、常に繰り返すうちに、その歌も或結婚の場合の創作の樣に考へられる傾きを持つて來る。勾(ノ)大兄(ノ)皇子の歌も、大春日(ノ)皇女との結婚の儀禮の一部分としての舊傳承歌が用ゐられ、其が御製と考へられた(229)ものだ。其と同樣に、さうした幾多の尊貴の婚姻が、みな此系統の歌を諷誦せられた事が考へられる。その一つの記憶の斷片が、泊瀬小國の歌となつたのである。かうした事情から、天子・皇后その他の御方の御事蹟と思はれるものが、考へ出されて來るのであつた。同じ卷の「こもりくの、泊瀬の川の上つ瀬に、齋杙をうち、下つ瀬に、眞杙をうち……」の如きは、輕皇太子の作と傳へられてゐる。其が本集には、民謠或は藝謠としての傳習の考へられる形で収められてゐる。此處にも、宮廷詩・民謠・藝謠の間の交互作用が窺はれる。普通の考へ方なる、宮廷のものとする傳へを先とする考へは、思ひ直さねばならぬ。
この反歌は、長歌が獨立して久しく行はれた後に、時代聲樂の要求から他の類型を辿つて、自然に附加して來たものと思はれる。この短歌の如きは殊に類型的で、更に新しく踏襲した作物を限りなく隨伴してゐるのだ。
以上(三)乞食者詠と(四)隱口長反歌は、改造社「短歌講座」第五卷執筆のまゝ――編者
(五)
藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロススメラミコトノヨ》 高天原廣野姫天皇《タカマガハラヒロヌヒメノスメラミコト》
皇子尊(ノ)宮(ノ)舍人等慟傷(シテ)作(レル)歌 二十三首 (卷二)
此卷の時代わけで、藤原宮御宇天皇代とあるのは、卷一よりは、稍不正確になつて、即持統・文(230)武兩天皇の代に瓦つてゐる。註に、高天原廣野姫天皇とあるのは持統天皇のことで、例の追記である。持統天皇の時に、皇子尊《ミコノミコト》と稱せられた方は二方あつて、前の方は草壁(ノ)皇子、彼の方は高市(ノ)皇子であつた。草壁(ノ)皇子はなくなられて後、尊んで日雙斯《ヒナメシ》と謚せられた。或は日並知、略して日竝とも書いて居る。皆「ひなめし」である。しる〔二字傍線〕の語尾を漢字同樣に見て、し〔傍線〕だけを訓ませる爲に、「知」の字を宛てたのだ。(前の續きと言ふので、日竝知皇子尊と書くべき所を、省いたのであらう。尤、此あたりの歌の記録の出來た頃、「後(ノ)皇子尊」なる高市皇子に對して、かう申すだけで疑ひを生じることもなかつたので、旁略してあつたのかも知れぬ。原文獻のまゝの書き方と見る方がよからう。)
皇子尊は、大體、皇太子に當る。日雙斯皇子尊は、皇子にして天皇に代つて政治をとられた、攝政でおありになつた。日本の昔は、皇太子を御決めになる必要はなく、「ひつぎのみこ」と稱する御子が數人おいでになつて、次代の天子たる資格を持つてゐられた。其が更に、女帝の在世中、攝政をなさる方を皇子尊と言ふ樣になつたらしい。此方が自然、皇太子の樣に見られて來る。遂には、皇太子草壁皇子尊薨(持統紀)と言ふ風にも記された。「みこのみこと」なる語は、「皇子《ミコ》」にして、「みこともち」なる方の義で――總論の中、みこともち〔五字傍線〕參照――天子の御代理を行はれる皇子即、攝政と言ふ稱へに當るのである。
皇子尊二方は、皇子の儘おかくれになつた。草壁皇子は、皇子尊として、殆、天子同樣政に攝つ(231)て居られた爲に、崗宮御宇天皇と申す御謚は、公式の宣命にすら用ゐられてゐる。(皇子尊 古代にも、此御稱號なく、後代にも絶えてゐる。凡飛鳥朝の頃、外來文化の盛んに這入つて來た頃、之に對して敏く日本語による表現の意欲が動き出して、新しい語が現れ、古語が復活せられた。皇子方の中のある方を、皇子(ノ)尊と稱へる宮廷風のはじまつたのも、皇子の中で特に貴い方と言ふ事ではなかつた。又、皇太子に恰もお當りにならせられて居ても、語自身は、皇太子の日本武尊樣と申すことは出來ぬ。皇太子が、即攝政の任にお當りなされる時に、讃へ申した稱へと言へば當る。此事も古く書いて置いたが、今では少し意見に動搖が出來たから、簡單に記して置く。天皇を「すめらみこと」と申すことは、「すめら――極めて尊き――みこともち」の御義で、習慣として、みこともちは、特殊な場合の外は、みこと〔三字傍線〕と略稱して敬稱とすることになつて居た。普通みこともち〔五字傍線〕で通るのは、宰・大夫などの字を宛てゝ訓ましてゐる。天皇の御詔《ミコト》を「傳達《モツ》」ことをする者の意義において、宮廷から命じ遣された執行官の事である。其が通用することになつてからは、高い意味のみこともち〔五字傍線〕、宮廷の御代役として命を傳へ給ふ方又は、其義から出た地位の高い人々の敬稱に用ゐたみこともち〔五字傍線〕は、皆凡別にみこと〔三字傍線〕と言ふ風が生じた。神代・古代の神々、貴人の名の語尾は皆其である。天の下中で、最尊い「みこともち」をなさる御方は、天皇でいらせられた。即、天つ神の命を傳達して、此天の下に布かれるのだから。其で顯貴の神聖を示す爲の、「すめらみこともち」なる讃辭「すめらみこと」と申すことになつた。後代には、中宮と申(232)してゐる御稱へは、飛鳥・近江・藤原時代には、「中つすめらみこと」であつた。萬葉集に、中皇命と書き、又記録・文献には、中天皇とも記し奉つてゐる。絶對に尊い御方に並ばせられて、又天つ神との中間に在して「みこともた」せ給ふからの義として、「中つすめらみこと」と申したのであつた。其頃、又皇太子として、女帝の御代に攝政遊ばす御方を、同じ意想を辿つて、「みこのみこともち」即、「みこのみこと」と申すことが行はれ出したのである。
持統天皇の御代に攝政の御務めに當らせられたから、草壁皇子を皇子尊と申し、薨じて後、高市皇子を又、皇子尊と申したのである。前皇子尊は特に、日竝知皇子尊と言ふ日本宮廷風の新しい發想法によつた御名を謚られたのである。
此皇子尊は、文武天皇の御父に當らせられ、奈良朝第一代女帝の夫の君で在したので、奈良平安初期にも、高く御とり扱ひ遊ばされて居た。此皇子に關した傳説の歌の多いのも、理由のある事である。)
(舍人 諸國の舊豪族――後に郡領階級――の子弟が召されて宮廷に仕へる。其中員數の剰るのは、初めから見越されてゐるので、宮廷に直屬して、聖躬に仕へる舍人の外は、――帳内・資人などゝ字は書くが、等しくとねり〔三字傍線〕と總稱して稱皇族又は貴族に事へしめられた。こゝの舍人は、帳内舍人である。)
大和中央平野の東南の隅にある丘陵が、飛鳥の崗で、此崗の下にある御殿を飛鳥(ノ)崗本宮と言ふ。(233)飛鳥時代には飛鳥のあちこちに宮があつた。曰雙斯皇子尊の居られたのは島の宮で、飛鳥川の流れを利用した宮殿であつたところから、島の宮と言ひ、蘇我氏の舊邸宅の跡を、蘇我氏没落の後に宮殿としたものであつた。蘇我馬子を島《シマノ》大臣と言うて居る。「しま」は、水を利用した處で、水を主としないものは、山齋《ヤマ》と言うてゐる。何故、持統天皇が兩皇子尊が薨ぜられるまでも、久しい問、十一年もの間、位に居られたのかには、信仰上の理由があつたのである。皇太子は天子の御資格の御身に顯れるまで待つて居られたのである。
日竝知(ノ)皇子(ノ)尊の宮の舍人《トネリ》等の、慟傷して作つた歌。 二十三首
高光る 我が日の皇子の、萬代に國知らさまし島の宮はも
高光 我日皇子乃、萬代爾國所知麻之島宮婆毛 (一七一)【音訓】 ▼高光 たかひかる。又「高照・高暉」とも書いてゐる。互にたかてらす〔五字傍線〕又はたかひかる〔五字傍線〕と訓める訣である。姑く、たかひかる〔五字傍線〕と訓むことに定める。▼我日皇子 わがひのみこ。此處もあが〔二字傍線〕と訓むべき明證がないから、通例に從つてわが〔二字傍線〕と訓む。之・乃をさし插んでゐる例も多く、又同時代の文獻にもひのみこ〔四字傍線〕と訓むべきものがあるから、問題はない。▼所知 しろす。同じ時代にも、しらす〔三字傍線〕・しろす〔三字傍線〕兩用したことゝ思はれる。其うち、稍後者が古い。この歌などは、新しい氣持ちを持つてゐるから、しらす〔三字傍線〕の方に從つておく。所〔傍線〕は使役にも敬語にも、受け身にも使つてゐる。其習慣から、更に、所〔傍線〕を單なるら〔傍線〕叉はる〔傍線〕の假名に使つた例(234)もある。此處などは正確な使ひ万で、しらさ〔三字傍線〕と活用させてゐる。舊訓しられまし〔五字傍線〕と云ふなどは、時代文法からは不都合だが、訓む理由はある。▼婆毛 はも。異本類に波毛〔二字傍線〕と書いたのも多いが、其に改める必要はない。外にも類例があり、その上、大體にば〔傍線〕の假名ではあるが、清濁混合してゐる本集のことだから、さし支へない。
【口譯】 わたしの仕へる〔三字傍線〕日の神の皇子様が、いらつしやつたとしたら、こゝで〔いら〜傍線〕萬年まで國をお治めになる筈だつたところの、島の宮はよ。
【言語】 ○高光る 日の枕詞。類型を襲うた言葉と見えて、殆、すべてひのみこ〔四字傍線〕に續いた形で、ひのみかど〔五字傍線〕と云ふのが例外の樣にあるだけだ。(高光 高照 二つ乍らタカヒカル〔五字傍線〕l。記・紀による。日の枕詞。高く光つてる義である。日の讃美から日に續いたと見えるが、其には今すこし細やかな過程がある。日と言つても、「日の神」神聖なる神の義に多く考へて、かけて行つたらしい。萬葉に現存してゐる歌では、「日のみこ」に固定しようとする傾向が見えるが、尚「日のみかど」と宮廷の讃美にかゝつた例がある。雄略記には「日の宮びと」にかけたのもある。萬葉だけで見れば、後代ほど、顯貴の徳を讃へる爲に、莊重な「たかひかる」を「日のみこ」の枕詞とする樣に傾いた事が察しられる。) ○我が日の皇子 わたしの・うちのなど譯すべき言葉だが、わがせ〔三字傍線〕と云ふ形を參考すると、尊い方なるが故にわがみこ〔四字傍線〕と言ひ、又わがひのみこ〔六字傍線〕と、せ〔傍線〕よりも重い言葉に替へた形と考へつく。ひのみこ〔四字傍線〕。歴代天皇を、日の神の皇孫と考へると同時に、日の(235)神直接の皇子とも信じた。日神の命を傳達《モチ》傳へて、此國につぎ/\に現れる御方と考へたので、神道信仰の核心をなしてゐる。總て天子を示す言葉で、皇子を指すことはない。皇太子にすらも云はない。こゝに用ゐたのは、前に述べた通り、天子御同列に考へられた方だから、主として信仰の上から云つたのだ。(我日皇子 「わが」と申すのは、恐らく壽詞《ヨゴト》の舊風で、天皇に向ひ奉り、畏んでお呼びかけ申す形をとつたからで、單なる親しみの表現と思ふのでは足らない。日皇子日之皇子・日之御子とも記す。天皇を申しあげる。但、稀に皇族の中極めて顯貴な御方をさして申した例もある。即、此日竝知皇子尊、又此卷置始東人の歌に、弓削皇子の薨じた時「高光日之皇子」同じく人麻呂作卷三、新田部皇子八釣宮におはした時の歌に「高輝曰之皇子」と言ふ風に用ゐてゐる。後々はさうした利用も出來たと説明出來るが、其根據は誤用ではなかつた。尊貴にして、天皇に代り奉つて、まつりごち〔五字傍点〕給ふと言ふ樣な嚴肅感に充ちた時は、皇子をも直に「日のみこ」と申しあげたのである。古事記にも宮簀媛の歌に倭建命に「たかひかるひのみこ。やすみししわがおほきみ」とよびかけ申して居る。倭建命は、常陸風土記には倭武天皇とあるやうに、皇子の中にも殊に尊くいらつしやつた上に、天業を攝《カハ》り行はれた所があつたから、かうした一つ表現〔四字傍点〕をなし申しあげたのである。だが正式には何としても、天皇の御事である。弓削・新田部兩皇子をさう歌に申しあげたのも、歴史上又御系譜上に現れたやうに親王中とりわけ顯貴でおありなされたから、かうした詞章の歴史を踏まへて幾分強調して申しあげたのだと言ふべきである。日(236)竝知皇子尊は、後に岡宮天皇とも追謚申されたほど尊い御方であり、御在世中から皇子尊と尊敬せられたほどの御方だから、殆「日のみこ」と申して、申し過ぎる感じがしなかつたであらう。「日のみこ」は、「神聖なる神の御子」の義で、日の神のお代りとして此世界に臨ませられる方の義であつた。だから正確には、天皇を、祖宗に對して、申しあげる御稱へなのである。みこ〔二字傍点〕とある爲に、今も相當な學者が誤つてゐることが多い。決して「ひつぎのみこ」と同意には用ゐ申さぬのである。唯、長い民族の詞章諷誦の歴史の間に、前に言つたやうに天神の御心を攝行遊す方を、深く讃へて申した例もある訣である。申さば、「日の神のみ子」の義で、代々此世界に御降りになる方として申すのである。)○よ 多く代・世などの字に囚はれて考へるが、時間の一區域を意味するのだから、一年でも一生・年齡にもいふ。又、漠然と年月をさす場合がある。○に 副詞の指辭だから、特別にに〔傍線〕と譯すに及ばない。○知らす 知るの敬相。しる〔二字傍線〕は、聞く・見るが、感覺から領有の意義を持つ場合がある如く、此はしる〔二字傍線〕の内容を延長して、占有する・支配する意に用ゐた。唯、うしはく〔四字傍線〕と對照的に考へ過ぎるのは悪い。ともかく、明淨な感じを與へる言葉だつたに違ひない。○まし 現實と反對な事を想像する助動詞。としたら……であつたらうにと云つた風に、必、空想的な條件を前提に含む言葉。律文では早く其條件を振り落して來てゐるけれども、散文式な文章には、「……ませば……まし」・「……ましかば……まし」・「(動詞第二變化)せば……まし」と云つた形を殘すのを正確としてゐるものが多い。但、ませば〔三字傍線〕・ましかば〔四字傍線〕に、時間(237)的區別があると考へるのは誤りだ。ませば〔三字傍線〕・ましかば〔四字傍線〕兩方とも、であらうならばと云つた將然的な意味を持つたものはなく、所謂已然的なもので、としたら・であつたならばと云ふ風に、過去と現實との對象を作ることに決つてゐる。この歌などは、生きて居られようならば、と今人は譯すところだが、古人の觀念では、現實に對して死の時を過去に据ゑてゐるのである。このまし〔二字傍線〕も、未來永遠に……だらうでなく、寧、「萬代に」が輕く插入せられたと見る方が、古風の文法である。このまし〔二字傍線〕の職能は、所謂連體風の發想で、島の宮に對して、上の句を修飾語にする形である。「であつたらうところの」である。(○後世よりも、目につくのは連體形のまし〔二字傍線〕(終止のまし〔二字傍線〕も勿論使はれてゐる。)が、有力に働いてゐることだ。「……此間もあらまし柘《ツミ》の枝はも」(卷三)などの類だ。今で謂へば、「國知らさまくあるべき島の宮」と言ふ風に續く形である。其と同時に、まし〔二字傍線〕一語に暗示せられてゐるのは、上に、「高光るわが日のみこのいましせば、わが日のみ子のよろづよに國しらさまし島の宮はも」と言ふ重複した表現になるのを避けたことである。だから、「高光るわが日のみこのいましせば、國しらさまし島の宮はも」となる方向を持つて居た歌だといふことが出來る。さうすると、第三首の歌にも似て來る。)○島の宮 日竝知(ノ)皇子(ノ)尊の條に書いたが、其位置は、今存する地名に信頼出來るならば、高市郡高市村岡の南に接した島の庄の地で、飛鳥川に臨んだ處であらう。尚、橘の島の宮と言ひ、「橘の島にしをれば」(卷七)など云ふのから見れば、對岸の橘にも接して居た處であらう。(○地名は移るのが普通だから、必しも、(238)そこと定めることは出來ぬが、「橘の島の宮」とあるのから思へば、さのみ現在の島の庄から遠い處とも思はれない。)○はも は〔傍線〕は格の助辭ではなく、感動の語尾だ。此が分化して、主格のは〔傍線〕になつたのだ。更に感動のも〔傍線〕と重つて、深い感動を現す。口譯すれば、は《ワ》よ或は、は《ワ》いである。
【鑑賞その他】 以下二十三首は、統一のない樣で、大體組織立つてゐる。この一首は、まづ概括したものである。後代の文學の見地から見ると、感傷に過ぎないで、大まかに悲しんだところを褒むべきである。
この二十三首は、恐らく一人々々或は數人の舍人が作つたのではなく、或一人の代作者のものと見るのが適當らしい(總論參照)。この直前の同皇子の殯宮の時の柿本人麻呂作と同じく、是亦、人麻呂の物と考へてよからう。唯、彼は殯宮で宮人(舍人以上の人達を含む)等のうたふ爲の代作であるのに對して、此は墓所に於いて、舍人のうたふ料としての代作と見るべきで、二つながら人麻呂自身の感情を直接に現したものでない。從つて、人麻呂は草壁(ノ)皇子の宮人・舍人でもなく、同樣に高市(ノ)皇子の殯宮の歌(殊にその反歌)によつて、高市皇子の舍人と定めることの謂の無いことも訣る。
(▼人麻呂調の歌とても、萬葉當時、幾人も同じ意想・似た感激・傳來の詞使ひをする者があつたことだらうから、結局今日は、人麻呂らしいと言ふ程度ほか、斷言出來ない。最近には、友人齋藤茂吉さんなども同じ意見で、其大著「柿本人麻呂」の最後に此歌々と、藤原奠登都の際の長歌(239)とを添へて、解釋を加へられた。誠に穩當な企てゞあるし、私自身もみかたを得た氣がする。)
島の宮。上の池なる放ち鳥。荒びな行きそ。君まさずとも
島宮。上池有放鳥。荒備勿行。君不座十方 (一七二)
【音訓】 ▼上池 神田本其他に池上となつてゐる。さすれば池の上であるが、上の池の方が良からう。直前の殯宮の歌の反歌に、島宮勾乃池之放鳥とあるのを見れば、尚間題がありさうだ。▼不座 いまさず〔四字傍線〕でもよいが、かうした細部になると、當時の人の訓むに委せた後が見えるのである。▼十方 方〔傍線〕は元來|面《モ》である。その意味から方の字を宛てゝ、四方《ヨモ》・八方《ヤモ》・官舍人|方《モ》など、も〔傍線〕の假名にしたのである。
【口譯】 島の宮のその〔二字傍線〕傍の池にゐる放ち鳥よ。段々荒んで來な。たとひ〔三字傍線〕あの方が、いらつしやらないとしても。
【言語】 (○島宮 管拙著「萬葉集辭典」は、改修を要する所は多いが、此部分はさのみ間違つて居なかつたと思ふ。參照を乞ふ。尚、阪口保氏「萬葉集地理辭典」奈良縣も御覧を願ふ。地圖すら持參しなかつた山の中での起稿だから、誤りを書きさうな所は避けたい。日本造庭術の歴史から注意すべき宮であつたらしい。此外にもあつたかも知れぬが、まづこゝが最初に庭に川水を利用して大がゝりに池を周らした「島」を造つた所らしい。「東のたぎの御門」とあるから思へば、東方から水を引いて宮地に落し、その取り入れ口に東門があつたのだらう。此が後代の東中門を(240)暗示するものと思ふ。此水は飛鳥川の水とするよりは、他の山川などゝ見る方が當つてゐるかも知れぬ。)○上の池 上は上方の意義にも、近邊の意義にも用ゐてゐる。こゝは後者である。此歌、島の宮の中の池と見る方が適切らしいから、池の上なる説も成り立つのだが、さうまで繊細に歌つたと見ない方がよい。(○うへは、ほとり〔三字傍点〕・あたり〔三字傍点〕・そば〔二字傍点〕であるが、今よりはもつと漠とした用法だから、島の宮の中の池のことも、島の宮の上の池と言つて不都合はない。但、恐らく島の宮の勾配の上部にあつたとは考へられない。)○放ち鳥 放ち飼ひにした鳥。だが、單に苑囿の觀賞物として飼ひ始めたのではないが、此頃は既にさうした意味も持つて來たであらう。鑑賞の條に詳しく述べるが、かうした鳥は、優れた靈魂を貴人に附著せしめる爲に飼つてゐたのである。○荒びな行きそ にぎぶ〔三字傍線〕の對稱。人馴れせなくなるの義で、放ち鳥が荒まない間は、主人の魂も靜穩なのである。此鳥が野性を出すにつれて、人から魂が去る不安を感じてゐるのである。(○荒備勿行 鳥がすさんで野性を待つて來ることを嫌つたのである。こゝは寧「すさびなゆきそ」と訓む方が適してゐるかも知れない。把持してゐる靈魂の游離することが、すさぶ〔三字傍線〕或は熱語としては、――さび〔二字傍線〕・――さぶ〔二字傍線〕と言ふ形を採る。こゝは鳥が君の御魂を放散させてしまふ事に當る。あらび〔三字傍線〕と訓んでも、細やかさはなくなるが、大體その意味にはなる。)○とも 假定の條件句を作る語。いらつしやらないとしても〔三字傍線〕・いらつしやらなからうとも〔二字傍線〕など譯するのが、本道だが、決定的な條件句を作るまさねども〔五字傍線〕と同じ用語例に用ゐる例は澤山ある。さうした場合は、多く此に應ず(241)る文句が想像で終つてゐる時で、條件を整頓する爲に無意識の文法観念が、前提を動かしてとも〔二字傍線〕とするのだ。「さゝなみの 志賀の大|※[さんずい+彎]《ワダ》淀むとも、昔の人に またもあはめやも」(卷一)の類、次いでは、禁止の語が條件文に這入つてゐる場合、前提があれば、假定の形をとる。禁止は現状を禁ずるのでなく、今より後の延長を止めるのだからである。(○君不座十方 文學としての一段階を上つてゐるのだから、鳥が荒《アラ》びると御魂が失せるといふ舊信仰から、飛躍して新しい趣向らしいものゝ立つて來てゐることが見える。)
【鑑賞その他】神代記に言代主が、美保の崎に鳥の遨遊《アソビ》をしたことが見えてゐる。あそびは元より鎭魂舞踊である。鳥に依つて身に靈力を遨《ムカ》へようとしたのである。水鳥殊に白鳥は靈魂をもち運ぶものとも、靈魂そのものゝ化顯だとも信じてゐたのだ。殊に出雲人は白鳥の玩物《モテアソビモノ》或は白鳥の生調《イキミツギ》(神賀詞)など唱へて、鳥を媒介として靈魂を附著させようとした。更に鵠《クヾヒ》(白鳥《ハクテウ》)の聲を聞いて物言ふ魂が這入つたこと(垂仁紀)、死んだ場合に靈魂が白鳥の形をとつて飛散した例(景行紀)など多くある。水鳥を見、又は身に觸れることによつて、常に新な威力を生ずるものとし、又死んだ場合には、其死の決定する期間、魂の鳥を飼つて、それに死者の魂を保留させようとする咒術があつたのだ、こゝの放ち鳥は、平常の玩物から、凶時鎭魂へ延長して用ゐられて居つたものなることは明らかである。「荒びな行きそ」と云つたのは、その靈魂が次第に鳥の身をすら離れて行かうとしたのを怖れたのである。これも、皇子尊鍾愛の鳥が、荒びて行くのを見て、鳥の(242)感情に同化して、自分の淋しさを表したものと見るのは、後世風である。
(放鳥 舊拙著「古代研究」に稍細かに述べた。今も其部分は改める必要を感じて居ない。御覧を願ふ。苑囿に鳥獣を養ふのは、支那宮廷の風である。其先進文化模倣の激しくならうとした時代の飛鳥の地である。さうした設けのあつたのは當然である。たゞ鳥を飼ふ風は、支那の風を移すより前からあつて、其と合成したものと思はれる。此は此舍人の歌では、大切な點だから、一言した。仁徳天皇・武内宿禰の雁《カリ》の卵《コ》問答の御製及び歌に關する物語が、記紀に大同小異の傳へを殘してゐる。常世《トコヨ》の鳥なる雁についての奇蹟が、宮廷の行事として傳へられ、雁の卵でないものを雁に抱かして雁と稱し、天皇・皇親の御壽を賀したものと思はれる。平安の宮廷でも、鴨の類の卵をかりのこ〔四字傍点〕と言つて居た。鵠・雁・鴨その他の水鳥を飼うて顯貴の威靈を保持せしめると共に、其等に所謂かりのこ〔四字傍点〕を孵化せしめてゐたものと察せられる。其等の大鳥は、古代日本民族の信じてゐた人の靈魂を持ちはこぶ鳥だから、常は固より不豫の際には、とりわけ大切に飼つて顯貴の御魂を保たしめようとしたのである。「一五三」の御歌でも、天皇御大事に當つて、宮廷において、水鳥の行動に敏感にならせられた樣子が見える。「かりのこ」は、卵と見ずとも、既に孵化したものとしてもよい。さすれば、野鴨の類の雜種で、此も平安朝文獻に見える。)
高光る わが日の皇子の 坐しせば、島の御門は、荒れざらましを
(243) 高光 吾日皇子乃 伊座世者、島御門者、不荒有益乎 (一七三)
【音訓】 ▼益乎 ましを。舊本蓋〔傍線〕。古本多く益になつてゐる。【口譯】 こんなに、島の御所が荒れてゐる。私の仕へる日の神の皇子樣が、今もいらつしやつたとしたら、この島の御門は荒れずにあつたらうものを。……それに……。
【言語】 ○いましせば ませば〔三字傍線〕・ましかば〔四字傍線〕よりも強い條件を作る樣である。第二變化を受ける。此も下にまし〔二字傍線〕を伴ふものが多いが、時としては、まし〔二字傍線〕を過程のうちに含めて、文章には表さないこともある。○島の御門 みかど〔三字傍線〕は門《カド》の敬語、第一義。第二義では御門を代表とする住居、即宮殿。殊に宮廷。第三義、おほやしま〔五字傍線〕を主上のいらつしやる宮廷そのものと見て、其儘みかど〔三字傍線〕と言ふ。本朝などいふ字があたる。その意味から異譯すれば、版圖。この第三義に第一義の反省の加はつたものに、「遠《トホ》の御門」がある。宮廷の版圖で、而も遠方の入り口と云ふ意義だ。第四義、御門の主たる御方、即、天皇。但、この用語例は、萬葉集では、これに傾いた一例のある外、まだ出て來ない。
【鑑賞その他】 この二十三首の歌、此より後の分は、なるべく要點だけを言つてゆきたい。
この歌、まし〔二字傍線〕の用法が、讀者の生活にはひる程になつてをらなければ、單調・無意味の樣に考へられる歌。他の要素は、總てまし〔二字傍線〕によつて整頓せられたものである。
(244) 外《ヨソ》に見し檀《マユミ》の岡も、君坐せば、常《トコ》つ御門と侍宿《トノヰ》するかも
外爾見之 檀乃岡毛、君座者、常都御門跡 侍宿爲鴨 (一七四)
【音訓】 ▼外 よそ。ほか〔二字傍線〕・そと〔二字傍線〕ゝ訓めない、多くの例がある。▼君座者 きみませば。此處は、或はいませば〔四字傍線〕と古人も訓んでゐたかと思はれる程、ませば〔三字傍線〕よりも效果がある。▼侍宿 とのゐ。他に訓み方があるかも知れねが、まづ此でよからう。意を持つて書いてゐる。
【口譯】 何の縁もないものと見てをつた、檀のこの岡も、あの方が御いでになることになつたので、その永遠の宮廷と思うて、御伽ぎをしてゐることよ。
【言語】 ○外に 脇から、脇のものとしてなどが當る。○檀の岡 高市郡坂合村眞弓の地。檜(ノ)隈から北へ亙つてゐる檜(ノ)隈の岡の一部。その佐太の地についた部分が、後に出る佐太の岡で、眞弓によつた方が檀の岡である。此邊、飛鳥宮の最廣かつた時代の西方の極限。○常つ御門 永久の宮廷。即絶對の讃美《ホメ》詞である。其を轉用して、永久に鎭座ますべき御墓山をさう見立てたのだ。基讃美の一つ。○とのゐ ゐる〔二字傍線〕は、其用語例のうちに、寢ないで居ることを言うてある。殿で起きてゐることだ。恰、宿直にあたるのだ。○かも か〔傍線〕・も〔傍線〕。感動の助辭を重ねたのだ。か〔傍線〕がな〔傍線〕と續いたのがかな〔二字傍線〕で、意味は殆、同じである。唯、本集にはまだ發達してゐない。但、かな〔二字傍線〕は感動ばかりであるに拘らず、かも〔二字傍線〕には疑問の用語例もある。か〔傍線〕ゞ感動から疑問に移るからである。大抵、その場合には、條件文の前提に位置をとる。
(245)【鑑賞その他】 近代の人は、此を見て、直に墓に對して悲しみを述べてゐると感じるであらうが、出來た當時は、表面は何處までも宮ぼめの形である、それに、仄かに現實の悲しみを感じさせる程度に止めてゐた。屋敷ぼめは、同時に土地ぼめである。死人の居所なる塚山を一種の屋敷と見て、其を讃へる形で、墓の永久であるやう、墓主の魂が游離せぬやうにしたのである。尚、後に言ふ機會がある。
夢にだに見ざりしものを。鬱悒《オボヽ》しく宮出もするか。佐日の隈|囘《ワ》を
夢爾谷不見在之物乎。鬱悒宮出毛爲鹿。作日之隅囘乎 (一七五)
【音訓】 ▼鬱悒 此に久《ク》を添へたのもあり、更に鬱一字に之苦《シク》を加へたのもあるから、大體しく〔二字傍線〕活形容詞に訓むのであらう。而も外に同義の用語例に、おほゝしく〔五字傍線〕・おほゝしき〔五字傍線〕が多いから、此もかう訓んでよい。唯二つのほ〔傍線〕は總てが清音か、總てが濁音か、或はおぼゝし〔四字傍線〕と上を濁るか、其判斷は出來ない。私は、おぼつかなし〔六字傍線〕・おぼろ〔三字傍線〕など云ふ例が、總てのおほ〔二字傍線〕系統の語のうち、これに近いから、其意識が、其發音を限定してゐたゞらうと考へて、おぼゝし〔四字傍線〕を採つてゐる。▼宮出 此は宮いで〔三字傍線〕よりも宮で〔二字傍線〕の方がよい。▼佐日之隅囘乎 日は田の誤りとしてさだ〔二字傍線〕と訓むのもあるが、此儘でよからう。隅囘〔二字傍線〕 隅は隈に作つた古本もあるし、さうでなくても、此字自身くま〔二字傍線〕である。▼囘 萬葉に於ける總て此系統の囘・廻・曲などをわ〔傍線〕と訓む舊來の説に對して、み〔傍線〕と訓むと、ま〔傍線〕と訓むと二通りの説がある。三つの中み〔傍線〕が最榮えてゐる。が、ま〔傍線〕を否定出來ない材料もある。尚、同類の用語例にみ〔傍線〕を證するものがあるとしても、其が周邊・含蓄を示す總ての曲・囘・廻を限(246)定することが出來るかは問題だ。だから逆に廻・曲をみ〔傍線〕と訓まなければならない證據の擧つてくるのを待つ。
【口譯】 正氣では勿論〔六字傍線〕、これまで夢の上ですら見なかつたものよ。それに〔三字傍線〕、ぼうとして御所下りをして來ることよ。檜隈の岡の邊をよ。
【言語】 ○見ざりしものを 普通漠然と、かうした状態を空想にも夢にも浮べなかつたと考へるだらうが、此歌の上では、檜隈の岡の附近の樣子を見なかつたといふので、もつと實際的に、夢想にも現れなかつたと云ふことに取るべきだ。○鬱悒しく 見當が立たないと云ふのが意義の中心だらう。或は、ぼんやりと〔五字傍点〕・いゝかげんに〔六字傍点〕などゝ云ふ風に延長した場合もある。其上に、此語と同類語のいぶかし〔四字傍線〕に近づいて、憂鬱なといふ意義に於ての、ぼんやりと〔五字傍点〕と譯さなければならぬ場合もある。言語は意義が、常に動搖してゐるものだから、こゝなども、それらを併せ思ふ必要がある。○するか か〔傍線〕は、感動だが、幾分反省の意を含んでゐる。○佐日の隈囘を これも此歌一つとしては、餘りに突如とした新表現と見られよう。その爲さだ〔二字傍線〕と訓む説が出たのだ。だが、これは類型のある語に違ひない。時代の前後は知れないが、本集に「さひの隈 檜隈川に駒とめて」とあるのを見ると、檜隈の疊語式枕詞である。此風のものは枕詞が、即、實際語となる。み吉野〔三字傍線〕・ま熊野〔三字傍線〕の例があるから、佐日の隈を、直に檜隈のことゝしたのだ。そして更に、其地名を丘陵の側にある爲に隈〔傍線〕なる地形語が附いたものと感じて、直に檜隈の岡隈と云つた感じを、この語に表したものと思はれる。○囘 此がみ〔傍線〕であつても或は、び〔傍線〕・ま〔傍線〕にしても、その周邊・含蓄を(247)示すことに變りはない、口譯する場合は、なるべくは「檜隈の隈を」と譯して、漠然と語以外にその周りを思はせた方がよい。
【鑑賞その他】 當代としては、此一聯に現れたおぼゝしく〔五字傍線〕ほど、新鮮で詩語らしい感じを持つたものは無い樣である。此歌、宮殿の宿直勤めての翌朝の退出の經驗を、現在の状態と比較する氣が起つたのだ。此歌でも讀者は強く、古代人の墓と家とを同視した信仰を心に持つてかゝらねばならない。
○此から下は、一部分宛一括して説いて行く。其が作者の氣持ちを順調に傳へる方便でもあり、既にある目當ての御つきになつた方々にも 好都合であるからでもある。
天地と共に完《ヲ》へむと思ひつゝ 仕へまつりし情《コヽロ》 違《タガ》ひぬ
天地與共將終登念乍 奉仕之情 違奴 (一七六)
朝日照る 佐太の岡邊《ビ》に群れゐつゝ、我が哭《ナ》く涙 やむ時もなし
朝日弖流 佐太乃岡邊爾羣居乍、吾等哭涙 息時毛無 (一七七)
御立たしの島を見るとき、行潦《ニハタヅミ》ながるゝ涙 とめぞかねつる
御立爲之島乎見時、庭多泉流涙 止曾金鶴 (一七八)
橘の島の宮には飽かねかも、佐田の岡邊《ビ》に 侍宿《トノヰ》しに行く
(248) 橘之島宮爾者不飽鴨、佐田乃岡邊爾 侍宿爲爾往 (一七九)
御立たしの島をも 家と住む鳥も、荒びな行きそ。年かはるまで 御立爲之島乎母 家跡佳鳥毛、荒備勿行。年替左右 (一八〇)
御立たしの島の荒巖《アリソ》を 今日見れば、生ひざりし草 生ひにけるかも
御立爲之島之荒礒乎 今見者、不生有之草 生爾來鴨 (一八一)
【音訓】 (一)▼乍 つゝ〔二字傍線〕と訓む例が極めて多い。却つて、此をながら〔三字傍線〕と訓んだ例がない。(ニ)▼岡邊 をかび〔三字傍線〕。をかべ〔三字傍線〕でもよいが、古風にび〔傍線〕と訓みたいと思ふ。▼吾等 わが。侍宿同樣、わが〔二字傍線〕が舍人達の一人稱だから等を入れたのだ。用字の上に、漢文學的の意識の働いてゐる點を注意せねばならぬ。(三)▼御立爲之 みたゝしの。みたゝしゝ〔五字傍線〕と訓むのは惡い。舊訓みたちせし〔五字傍線〕。寧、その方がよいくらゐだ。動詞或は動詞句に、名詞の接頭語なるみ〔傍線〕をつける例がない(三矢重松先生説)から、此四字のうち一部分を名詞として、殘りを動詞なり所有格の助辭なりに訓むがよからう。御立爲を名詞と見てみたゝし〔四字傍線〕。之を助辭と見ての〔傍線〕と私は訓む。尚、みたちせし〔五字傍線〕と訓むならば、寧みたちしゝ〔五字傍線〕とする方が本格であらう。▼庭多泉 にはたづみ。にはたづみ〔五字傍線〕に宛てた本集の假名のうち、他は正確に訓める樣に書いてあるが、此は用字の上に合理化をして、泉の字を宛てゝ、如何にも語原めかしく書いたのだ。(四)▼不飽鴨 あかねかも。あかぬかも〔五字傍線〕と訓めぬこともないが、文意からすれば、前の方がよい。(五)▼左右 まで。兩手を以てする時に、まで〔二字傍線〕と言ふ。左右・左右手・二手・諸手、と云ふ風に宛てゝゐる。(六)▼荒磯 ありそ。あらいそ〔四字傍線〕の融合。當時の音聲學の知識を以て、かう讀ました事は察してよい。▼今 けふ。今日の略劃。いま〔二字傍線〕と訓む場合も多いが、此處は其によらないものと見てよい。
(249)【口譯】 (一) 天地と共に、完全に續けてゆかうと、これまで思ひ/\して御仕へ申し上げてゐた自分の心が、はづれて了つた。
(ニ) 結構な佐田の岡に群《タカ》つて居り/\して、わたしどもの泣く涙、それがやまる時もない。
(三) 御立ち場所の池の築山を見てゐる時、その池水ではないが、一時《イツトキ》の水溜りのそれの如く、流れて來る涙を、とめきれないでゐることよ。
(四) 一體わ村たしは、この〔六字傍線〕橘の傍の島の宮では滿足出來なくなつたからか、それで〔三字傍線〕佐田の岡のところへ、夜伽ぎに行くのだらうか。
(五) 御立ち場所の島、それをよ、家と感じて住んでゐる汝〔傍線〕、鳥等も、段々荒んでゆくな。年が替るまでのあひだ。
(六) 御立ち場所の池の築山の荒い巖石を、今日氣がついて〔五字傍線〕見るといふと、今迄生えたことのなかつた草が、生えてゐることよ。
【言語】 (一) ○天地と共に この言葉は、皇祖の咒詞以來のめでたい類型句で、此處にも其をとりこんだのである。だから、勢ひとも〔二字傍線〕の用語例も、本集時代よりは古い。このとも〔二字傍線〕には、と其儘・の如く、の義が含まれてゐるのだ。だから、一方、「卯の花のともにや來《コ》し」(卷第八・一四七二)と言つた用法すらあるのだ。○完へむ 完了する。圖滿に終結するの義だが、尚古くは終るの意でなく、唯完成するだけにも使つてゐる。此處は、其つもりの古用例から當代風になつて居たもの(250)と見るべきだらう。○情違ふ それる。脇へゆく・思ひがけない結果になる。此處では、豫期した心にそれる意だ。ぬ〔傍線〕 現在完了の助動詞。意義の上で終結に達した事象を、感情の上で、前からの連續を考へて表す場合に使ふ。だから、た〔傍点〕にもてる〔二字傍点〕にも當る。即、現在完了の外に、現在存續態をも兼ねる訣だ。
(二) ○朝日照る 此も屋敷ぼめの詞で、南向きに位置を占めて、朝は朝日を受け、晝は南日をあび、昏れには西日にあたる、さうした高處に家造りするのが理想であり、咒詞の慣用修辭法であつた。其が、塚山のたゝへごと〔五字傍線〕に多く用ゐられて、後世まで影響を殘した。寶埋藏傳説を伴ふ塚には、殆例外なく、「朝日さす夕日輝く」の句を据ゑてゐる。一例、「朝日さす夕日輝く木の下に、漆千ばい、朱千ばい」。だから、此言葉は歌の内容には關係ない、外形だけの讃め詞である。口譯には譯せずともよい。○岡邊 び〔傍線〕・ベ〔傍線〕などは、邊《ホト》りといふより、……の處、と詳した方が適切だ。外廻りでなく、其物を中心として擴つた範圍を述べるのだ。○やむ時もなし やむ時なけむと同じ樣にとれるが、實は現在の反省で、まだ今もやまないと云つた言ひ方なのだ。
(三) ○御立たしの 音訓參照。たゝす〔三字傍線〕。敬語。たゝし〔三字傍線〕に敬語み〔傍線〕のついたもの。始終立つてみそなはす場所に島を用ゐたのだらう。この御立たしには、古代政治上、何かの意味があつたらしく思はれる。單に、庭を眺められた場處ではなからう。若し、みたちしゝ〔五字傍線〕が成り立つとすれば、やすみしゝ〔五字傍線〕と同じ組織の言葉である。みたち〔三字傍線〕なる名詞に、せす〔二字傍線〕を意味する敬語々尾、即「爲《シ》なさる」(251)をつけたもので、後代の文法では、やすみせす〔五字傍線〕・やすみさす〔五字傍線〕或はやすみしす〔五字傍線〕と云ふべき場合を、固定した句に爲立てる爲に、名詞感覺を與へるし〔傍線〕の活用で固定さしたものである。さすれば、みたゝしゝ〔五字傍線〕は、御立ちなさるところの――安見なさるところの――島といふことになる。○島 草壁(ノ)皇子(ノ)尊の末段疊照。○行潦 枕詞。多くは「流る」にかゝる。通常、雨の爲に急に出來る水溜りのことゝしてゐる。其には、には〔二字傍線〕を「俄か」に聯想するのと、廣場《ニハ》に聯想するのと二通りあるのだ。その他、つみ〔二字傍線〕に就いても、泉の略とするものと、み〔傍線〕を水と觀じるものとある。果して、さうした水溜りを言ふかどうかも疑問である。恐らく、今日では訣らなくなつたものであらう。豪雨とか夕立とか言つたものであるかも知れない。流る〔二字傍線〕は雪・雨などの降る事でもあるから。○かぬ ……難くする。‥‥‥敢《カ》てずなどの意味で、能力のないことを言ふ。今のかねる〔三字傍線〕ではない。○つる 現在完了助動詞。ぬ〔傍線〕に對するつ〔傍線〕の活用。やはり、た〔傍点〕或はてる〔二字傍点〕と譯する。古文で見ると、ぬ〔傍線〕は文章的、つ〔傍線〕は口語的なところが見える。
(四) ○橘 高市郡高市村、橘附近。此頃から飛鳥川の西岸であつたらう。島の宮は川の東岸だと思はれるが、地が接近してゐる爲に、かうした表し方をするので、橘の區劃内の島の宮といふ事ではない。隣接した地名を並べたのである。○飽かねかも あく〔二字傍線〕は腹に滿ち足ることで、十分に感じる意だ。十分なる爲に嫌になるといふのと、滿足しきるとに分化する。此は、滿足しきらないからかで、助辭ば〔傍線〕を脱略した形だ。殊に動詞の第五變化に續くば〔傍線〕を發音しない事が多い。この(252)文脈から見ると、「侍宿あかねかも」の意であらう。島の宮では、寢泊りしても滿足しないからかといふ意があるらしい。
(五) ○をも なるものを、それをと云ふ義である。元來、を〔傍線〕もも〔傍線〕も感動から出て、疊用せられ、別の意義を生じたのだ。○住む 始終中そこに居る事で必しも、住みきりにして居なくてもいゝのである。此處では、さうした鳥の宿り場所を通用してゐるが、實は、飛び立つことの自由を失つた鳥なので、近代のすむ〔二字傍線〕には當つてゐても、この頃の用法としては間接である。○年替はる 年替へる〔四字傍線〕と用法に於いて違ひはない。兩方とも、元に戻る義だ。通常、古人の陵墓に奉仕する人人は、一年間を經ると、愈その主を離れたことになつて退散するのである。元、正確に一年の物忌みはしなくて、年の替つて新しくなる迄居たのだらう。其が年を跨ぐところから一年とする樣になつたのであらう。○まで この言葉、正確にはまでにと言ふ。早くから、語尾に〔傍線〕を離しても言ふ樣になつた。距離の極限を指す意義から轉じて來たのである。
(六) ○島のありそ 島の周圍、又は島の中にある岩石を指す。必しも粗剛なものでなくとも、さうした誇張をしたものと見てよい。そ〔傍線〕し〔傍線〕と同じく、磯・石の變形だ。普通言ふ岩濱の磯は、岩石のある海岸の義である。萬葉には、磯ばたと誤解されてゐる岩石のいそ〔二字傍線〕が多い。○生ひざりし草 今日氣のつく迄、岩の上に草のなかつた事を示すのか、見かけた事のない草を發見したといふのか。後者は稍理に勝つて聞えるが、前者の類型的なのを救ふ解釋になるかも知れない。だか(253)ら、「見れば」の見る〔二字傍点〕に、多少の違つた意味が感ぜられる。世話をやく・監督する・手入れするなどに近いのではなからうか。
【鑑賞その他】 (一) 誄詞《シヌビゴト》系統の類型を辿つた歌。單純で、強い氣魄はあるが、稍無反省に傾いたところが見える。其は、此頃の歌として爲方のないことだ。
(二) 此には、死者の靈をにぎはす爲の誇張のあることを看取せねばならぬ。三句以下が其である。更に、この「哭く」は、所謂發哀・奉哀・擧哀・發哭又は哭之など日本紀に書いて、みねたてまつる〔七字傍線〕と訓んでゐる儀禮で、慟哭の式を考へに入れて讀まねばならない。佐太の岡で、群臣が擧哀をしてゐる、其を直に内生活にとりなしたのである。
(三) この歌、行潦《ニハタヅミ》なる言葉が、必、島の聯想によつて出たものと見なければ、二句三句の移りが稍突然である。我々に解せられない連絡を持つてゐるのだらう。此も單純化出來たものゝ樣に見えるが、誇張と空虚がある。其はうたひもの〔五字傍点〕として成立した爲であらう。
(四) この歌などは、實生活と音樂要素と挽歌に伴ふ誇張とが圓滿に結合してゐる。が、稍劇的な氣分がある。
(五) この表現法は、一等平安朝の挽歌の要素をなしてゐるものと言へよう。其だけ、行きとゞいた物言ひである。その繊細を救ふ爲に、おほまかな音覺が用ゐられてゐる。殊に、二・三句が其だ。
(254)(六) 御墓仕へを專にするだけでなく、島の宮へも奉仕に來るのである。その間が長く隔つてゐるのではないのだらう。其によつて、此歌の類型的なのが救はれる。其意味に於いて、今日と訓むと日の接近を感じ、今と訓むと、却つて日數の隔つた感じがするのだ。今は現在の意味ではない。新しくといふ事であるから、「新しく見れば、生ひざりし草、新しく生ひにけるかも」といふのだ。
鳥塒《トグラ》立て飼ひし家鴨《カリノコ》。巣立ちなば、檀の岡に飛び反《カヘ》り來《コ》ね
鳥塒立飼之雁乃兒。栖立去者、檀岡爾飛反來年 (一八二)
吾が御門《ミカド》、千代 常磐《トコトハ》に榮えむと、念《オモ》ひてありし 吾《ワレ》し悲しも
吾御門。千代 常登婆爾將榮等、念而有之 吾志悲毛 (一八三)
東の激湍《タギ》の御門《ミカド》に侍《サモラ》へど、昨日も 今日も、召すこともなし
東乃多藝能御門爾雖伺侍、昨日毛 今日毛、召言毛無 (一八四)
水傳ふ巌《イソ》の浦|囘《ワ》の 石躑躅《イハツヽジ》もく咲く道を、また見なむかも
水傳礒乃浦囘乃、石乍自木丘開道乎、又將見鴨 (一八五)
一日には千度《タビ》參入りし ひむがしの激湍《タギ》の御門《ミカド》を 入り敢《カ》てぬかも
一日者千遍參入之 東乃大寸御門乎 入不勝鴨 (一八六)
交渉《ツレ》もなき佐太の岡邊に反りゐば、島の御階《ミハシ》に 誰か住まはむ
(255) 所由無佐太乃岡邊爾反居者、島御橋爾 誰加住舞無 (一八七)
【音訓】 (一)▼鳥※[土+(一/血)] 古本四種まで垣らしい字を書いてゐるから、其總てが※[土+(一/血)]の誤りとするよりは、垣の字の草體を誤り寫したものとする方が、正しさうだ。此※[土+(一/血)]の字を栖の誤とするよりは、鳥垣の方がよいと思ふ。和名抄鷄栖の條に、「垣を穿ちて鷄を棲ませるを塒と曰ふ」と云ふ切韻を引いてゐるのを見れば、鳥塒の樣子も訣り、同時に、鳥垣を以てとぐら〔三字傍線〕と訓む理由もなり立つ訣だ。倭名抄の前の條に「和名止久良」とある。▼栖立去者 すだちいなば〔三字傍線〕と動詞に訓んでもよいが、助動詞にしてなば〔二字傍線〕と訓む方が、文法上、後の文と照應がいゝやうである。▼來年 來《コ》は訓。年《ネ》は音假名。(二)▼常登婆爾 常、訓。登婆爾、音。この婆も濁音に訓む必要はあるまい。は〔傍線〕の假名である。(三)▼東 ひむがし。東の古形ひむがし〔四字傍線〕で、此から類推したのが、みむなみ〔四字傍線〕・みゝなみ〔四字傍線〕だ。▼多藝 Geiの重母音が、い〔傍線〕になることも、え〔傍線〕になることもある。本集では、ぎ・げ兩用してゐる。▼伺侍 さもらふ〔四字傍線〕又はさぶらふ〔四字傍線〕。同訓字を熟字にして竝べたのである。▼召言 言は、事の假名か、言《コト》そのものか。どちらにも説ける。(四)▼石乍自 石乍、訓。自、音。いそつゝじ〔五字傍線〕とも訓める。▼木丘開 木、音。K音脱落。丘、音。拗音を直音化して、く〔傍線〕の音に用ゐたのだ。開、訓。▼將見 みてむ〔三字傍線〕・みむ〔二字傍線〕とも訓める。みむ〔二字傍線〕の場合は、又もみむかも〔六字傍線〕であらう。姑く、みなむ〔三字傍線〕に從つて置く。(五)▼參入 まゐる〔三字傍線〕のら行音脱落の習慣で、まゐ〔二字傍線〕といふ形と入とが融合して、まゐり〔三字傍線〕に用ゐられたのだ。▼大寸御門 大寸二字は普通の清濁を逆用してゐる。大は多く濁音、寸は多く清音、こゝはたぎ〔二字傍線〕。の〔傍線〕に當る假名を略してゐる。その爲おほき御門〔五字傍線〕と訓む説もある。本集には、大・多通用してゐる。だが、やはりこゝはたぎの〔三字傍線〕であらう。▼不勝 かてぬ。清音。下二段のかつ〔二字傍線〕に四段の勝の字を宛てた理由がある。此語、終止形を用ゐる事が多いから、其(256)場合、此宛字は不都合を感じなかつた。又古く、このかつ〔二字傍線〕が四段活であつたこともある。それに更に、此かつ〔二字傍線〕の意義が、勝の字の内容と似てゐる爲に用ゐられたのだ。一方同じ語を表すのに「難」を以て示してある場合もあるが、それは寫音の上ではよいとしても、意義の上では反對になる。(六)▼所由無 人麻呂作の殯宮の歌には、「由縁母無」としてゐる。更に大體似た用語例と思はれるところに、都禮毛奈吉・津禮毛無或は都禮無などの類例が相當にあるから、まづつれもなき〔五字傍線〕でよいと思ふ。▼反居者 かへりゐば。萬葉古義に反を君として、きみませば〔五字傍線〕としたのは考へ過ぎだ。▼住舞無 舞をもつて、住ふの語幹・語尾まで表した注意すべき用字法。
【口譯】 (一) 塒設けて、餌をやつて來た家鴨よ。お前(リ)が〔三字傍線〕巣立ちをしたら、此檀の岡へ、も一度飛び戻つて來てくれ。
(二) 私の仕へる御所よ。それが千年更に云へば〔五字傍線〕、永久に我等が祝福によつて〔九字傍線〕榮えるだらう、と思つて居つた私が、いとしいことよ。
(三) 早瀬の側の東の御門、その控へ所に祗候申してゐるけれど、幾日も/\、御呼びになる御言葉も下さらない。
(四) いよ/\退散した後は、あの〔十二字傍線〕岩石のある島の〔二字傍線〕入り込みの岩躑躅の花、それがみつしり咲いてゐる道を、も一度と見る時はあるまいことよ。
(五) 以前一日に就いて言へは、千返も參上した早瀬のある側の東の御門を、這入りきれないでゐ(257)ることよ。
(六) 無關係だつた〔二字傍線〕佐太の岡の處に、私が〔二字傍線〕處を變へて居着いたら、この〔二字傍線〕島の宮の階《キザハシ》に誰がぢつと伺候してゐようよ。
【言語】 (一) ○鳥塒 今の塒《ネグラ》に當る。特に飼ひ鳥の塒をさすやうである。若し切韻の説明が、其儘國風にも當つてゐるものとすれば、恐らく壁などに穴をあけて棲ましたのであらう。かうした魂の鳥は家の中に飼つたものと見えて、「まくらづく つまやの中に鳥座結《トクラユ》ひ据ゑてぞわが飼ふ。眞白斑《マシラフ》の鷹」(卷十九 家持)とある。こゝの家鴨は、まだ放ち鳥になつてゐないものを云ふのだ。○立て 設備する・擧行するなど、幾分ことを興すといつた感じを持つた語だから、設けて〔三字傍線〕と譯するがよい。○飼ふ 物を食はせることを第一義として、食はせ置く即、飼養の意味に多く用ゐる。こゝでは、飼ひし〔三字傍線〕にやゝ不適當な感じがある。(次の項參照)○家鴨 かり〔二字傍線〕は常世即、古代人の考へた理想國から來る鳥だ。魂の信仰から其鳥を止めて置く爲に、雁の卵を孵化せしめて養ふ習慣があつたらしい。かりのこ〔四字傍線〕は普通の用語例では雁の子鳥ではなく、其卵である。此歌には、雁の子に餌を飼つたのが巣立つたら、と云ふ樣に表現してゐるが、雁の卵が孵るまで長く注意した爲に、かりのこ〔四字傍線〕といふ語を用ゐたので、實は子鳥といふことになる。此文から云へば、さうしては意譯になり過ぎるのだ。雁が日本で卵を生むことは、殆、無いものとせられ、仁徳天皇の代に河内又は攝津の水邊でこれを發見して、天皇を祝福《ホ》ぎ奉つた本宜歌の由來がある。さうした壽(258)命のことほぎ〔四字傍線〕をする爲に、常にかりのこ〔四字傍線〕から雁に育て上げて、飛び立たせる事は望まれないから、此卵は實は、家鴨の類の鳥の雜種の卵である。鴨の子とするのは、此風が平安朝に遺つてのことで、古くは鴨でない樣だ。まして※[麻垂/雁の中]の字の點をとつて雁にしたもの、即、たかのこ〔四字傍線〕と訓む説は、卷十九の歌が、完全に説明的來ない間は成り立たない。○飛び反り來ね 此反る〔二字傍線〕は幾度も繰り返す義であるが、同時に、方向を反すといふ義もある。若し繰り返す意ならば、毎年々々秋毎に檀の岡へやつて來てくれ、といふことになる。でなければ、遠くへ飛ぶ方向を變へて、御墓へ來いと云つた風にとかねばならない。
(二) ○御門 御門に吾がを直接につけて、その間に親しみと敬意とを表してゐる。この御門は島の御所である。○千代常磐 常磐は常津|磐《イハ》だと云ふが、感じだけは訣つて、語原を徹底して知り難い語だ。強ひて云ふなら、床つ磐でなければならぬ。常磐《トコハ・トキハ》と同系統の詞である室讃美《ムロボメ》の詞が、常《トコ》の聯想を加へて來たものだ。だから語は用ゐながら、意義は單に氣分的に感じて居つたゞけであらう。張ひて譯すれば、永久に〔三字傍線〕・永遠に〔三字傍線〕といふ程に感じたのだらう。○榮えむ さく〔二字傍線〕は上機嫌の有樣で、笑ふ貌・健康な貌などから、賑はひ、繁昌する意義に延長せられた語。だから、それらの過程を總て含んでゐる、讃美《ホメ》詞と見てよい。宮廷の建築は、いよ/\大きく擴り、主君はいよいよ健康になられ、その配下の人・國はその光榮に與る、といつた語である。即、一句以後ここまでは、咒詞の固定した形である。(念ひてありし參照)○念ふ 總論に述べた樣に(思兼神參(259)照)、かく〔二字傍線〕が心に思ふと、口に出すと二樣の用語例を持つてゐると同じく、心の中のことゝする念ふ〔二字傍線〕も、古くは口にかけて唱へる意義があつたのだ。咒詞を唱へると云ふことになる。此歌では、明らかに「かく/\と唱へ言してをつたわれが」といふ意識は持つてゐまいけれど、語の聯絡から、過去の用語例が、自然に導かれ復活し來る適例と見てよい處だ。表面は思ひ信頼してゐた、と譯してよいが、輕くこの唱へ言を稱へことほぎ〔四字傍線〕したといふ意味を感じてゐなければ、完全な解釋でない。○し 緊張の助辭。○悲しも かなし〔三字傍線〕の語根かな〔二字傍線〕は小さいことを意味する語だ。それが、いとほしむ〔五字傍線〕・かはいがる〔五字傍線〕・きれいだ〔四字傍線〕など云ふ意義を、形容詞かなし〔三字傍線〕として展開して來たのであるが、いたはる心から、悲傷し易い心持ちを述べるやうになつて來たのだ。中心意義はいとしい〔四字傍線〕にある。こゝのかなし〔三字傍線〕は、さうばかり信頼して居つた自分の心の失望を、勞はる氣持ちである。だから、「わが心し悲し」といふ風に説いてはわるい。
(三) ○たぎ 水の、傾斜を激して流れる樣を表す動詞。又、其場所。水のたぎつて流れる場所。つまり、早瀬である。音價流動してをつた爲に、清音にたき〔二字傍線〕ともいつて居つたらしい。其形が後世に遺つてたき〔二字傍線〕となつた。尤、そのたき〔二字傍線〕に宛てる瀧の字も、實は瀧でなく、早瀬のことである。唐代の文學、譬へば、韓退之の文などには、瀧川と書いてゐる。だから、訓と古い用語例とは、合致して居つたのである。後、傾斜の程度に關係なく、すべてをたき〔二字傍線〕といふ樣になつたらしい。萬葉の「たるみの邊《ウヘ》のさ蕨」など云ふ語に、多少疑問を挾む人もあるが、今日の分布廣い方言(260)らみるも、たる〔二字傍線〕・だる〔二字傍線〕は確かに瀑布のことである。或はだるみ〔三字傍線〕とも云ふ。恐らく、地形を表すたぎ〔二字傍線〕が原の語であらうが、動詞たぐ〔二字傍線〕があつたことは、想像される。この再活用がたぎつ〔三字傍線〕で、後代で言ふたぎる〔三字傍線〕と同じだ。たぎつせ〔四字傍線〕といふ語は、そのつ〔傍線〕が所有格の助辭と見られ易いが、全く動詞の蓮體形とも言ふべきものである。垂直的に落ちるものがたるみ〔三字傍線〕、傾斜を以て流れるものがたぎ〔二字傍線〕、或はたぎつせ〔四字傍線〕。○たぎの御門 此はほかひゞと〔五字傍線〕の詠にあつた樣に、當時の宮廷では、東中門を正門としてゐた。その御門の所にたぎ〔二字傍線〕があつたに違ひない。餘り適確な説明をする事は、却つて、事實を枉げるかも知れぬが、島の宮の位置から言ふと、多武峯・細川山其他から來る水が、導き込まれてをつたことも考へられるし、殊に大體に於て、此地形は傾斜地であるから、御所の東に落ちて來る樣が思はれる。そして、此が、後世其起原不明な遣り水の形を作つたのかも知れない。私の考へでは、平安の宮殿造りの構造は、所謂神代の建築の考察をする前に、飛鳥以後の状態を觀察する必要があると思ふ。單に唐風模倣では、片づかない點が極めて多くある。同時に此等の舍人が控へてゐた東中門廊の樣式が、流れ落ちる水を、一つの要件とするところから、後世宮廷の瀧口の武士の形が、自然に導き出されたのだ。所謂瀧口所、又は瀧口の陣と稱するものは、一に瀧口の廊と呼んでゐる。其職分から判じると、舍人の役目を繼いだものが多かつたらしい。而も、これを宇多院天皇の時を初めとするのは間違ひで、事實は古くからあつたのだ。其爲事の一部に射藝に通じてゐることを資格としたのは、王朝の物語によつても訣る樣に、弓の咒術に達し(261)てゐることを意味するのだ。又、壺前栽の栽植を司つてゐたことは、此歌などに見える舍人の職分が遺つてゐるのだ。第一に清涼殿の艮のみ溝《カハ》水の落ち合ふ處に、その控所が在つたと云ふことは、清涼殿との關係上中門に當り、同時にたぎ〔二字傍線〕の御門の形式を存してゐた痕跡と見られる。○さもらへど さもらふ。樣子を覗つて待つ。必しも上長に對して言ふのではなく、波風の景色を覗ふ、或は、神の機嫌を覗ふなどの義が主であつたのだ。それから轉化して、お伽、或は祗候の意になつたのだ。後世の瀧口の職掌を見ると、夜に這入つて、宿直《トノヰ》申しと云ふことがあつた。即、夜半に呼び召されて、鳴弦の役を承つたのである。この事情を知れば、大體舍人の職分が訣り、この二十三首の背景もはつきりすることゝ思ふ。鎌倉以後中門に祗候するものを遠侍といふ。これを參考する必要がある。恐らくは、藏人及び藏人所なるものも、かうした舍人が段々に擴張せられて、一つの重要な役人・役所となつて來たものであらう。○昨日も今日も かうは言つてゐるけれど、主として昨日の晩、今日の晩、といふことだと思ふがよい。かうした夜は、普通、前夜と接して午前零時以後のことを指すのだ。○召すこともなし 唯、用事を御言ひつけの爲に呼ばれるのでなく、鳴弦の役として奉仕せしめられるのだ。宿直申しの外に、名對面・問籍といふやうになつたのがそれだ。○召す 呼ぶの敬語。主として、舍人・采女などを遠國から呼ばれた時の用語例を延長して、宮廷に仕へて後も、此人々を呼ぶことを召すといつたのが、通用語になつたのであらう。
(262)(四) ○みづゝたふ 枕詞らしいが不明。磯に懸るか、浦囘を起すか亦不明。いろ/\説けるが恐らく、處々の岩を接續地として、水を渡つて行く意味であらう。それでなくては、つたふ〔三字傍線〕が完全でない。〇礒の涌囘 浦の用語例が、少し違例である。此語は海岸線の一區域をなしてゐる間を言ふので、地物によつて、兩端を限定せられてゐる。本集にも稍延長して、川に用ゐてゐる例が無いでも無い。「三重の川原の礒の裏に」、かうした海岸の地形を轉用して、ほめ詞に使つた例は幾らもある。その意味に於て、こゝも島の宮の池及び島のことに云つたのだ。礒は例の通り岩石。濱に對する語。○石躑躅 岩壁或は※[石+堯]※[石+角]に生えた躑躅である。所謂山躑躅・赤躑躅とも云ふもの。人の健康の咒詞の上の譬喩として用ゐられる慣用のあつたもの。これが轉じて、さうした場合に列する舞人なる處女のほめ詞になつたのが、「躑躅花句へる處女」、と云ふ風の詞だ。○もく咲く道 延喜式祝詞には、もくさかに〔五字傍線〕或は、むくさかに〔五字傍線〕と副詞に使つてゐる。だから、前期王朝の宣命・古祝詞・咒詞などにも使つてゐたに違ひない。それを擬古文の誤解からして、熟語動詞と考へて利用したものだらう。もく〔二字傍線〕は密集してゐる意味の語根。さか〔二字傍線〕は咲く(ほかひゞと〔五字傍線〕の詠參照)の副詞的變化、新造語としてのもく咲く道〔五字傍線〕は、一杯咲いてゐる道を云ふのだらう。○また見なむかも また〔二字傍線〕の字によつて意義が限定せられて、唯の見なむかも〔二字傍線〕でなしに、見るときあらじ〔七字傍線〕の義になつてゐる。此歌は、忌明け退散の時期が迫つてゐる時分の歌で、而も、やがて躑躅花咲く晩春初夏の來向うてゐるのを心に持ち、其時期には、既に宮人として資格を失つてゐることを思うたの(263)である。
(五) 〇一日には 此は帳内舍人として、お召しによつて、控へ所なる東中門から、幾度も參上したことを思ひ出してゐるのだ。即、一日として數へて見れば、と云ふ位が古意であらう。○入り敢てぬかも 入り敢へずすることよ・入り敢へずゐることよ・入り切れないことよ・入り得ぬことよ。云はゞ、遠侍に控へてゐる爲に、召しがなければ、中門以内に這入ることが出來なかつたことを見せてゐる。それを感情を掛けて云ふと、傷心の爲に參入する氣にならない、と云つた感じが出るのだ。此頃、既にさうした二重の發想をしてゐたのだらう。
(六) ○反りゐば 居變る・住み變ると同じ語。○島の御階 島の宮廷の階段の意味だと思はれるが、又、島の宮の築山へ通ふ橋の樣にも見える。結局、當時の風習が知れないから、斷言出來ない。但、このはし〔二字傍線〕は、その二つの意義に關係薄く、尊貴と人との間を繋ぐ所謂、間人《ハシビト》のはし〔二字傍線〕に關係ある語で、それが中門廊――橋殿・長橋――に控へて居つたことを示すものではなからうか。さすれば、同時に、間人が舍人の職分の一つであつたと云へる。激瑞の御門の内側御|廊《ハシ》のことだらう。○誰か住まはむ か〔傍線〕は疑問でなく感動だ、と云はれてゐる。かうしたところから、疑問のか〔傍線〕或はや〔傍線〕が出るのである。誰が住まはうよの意だが、住むは常住通ふことで、誰とある以上は、一人も〔三字傍線〕と云ふ風に、住む人を指定したのではない。我の外に、と云ふ意味だ。自分だけは來るけれども、外の誰が來ようか、と云ふ義だ。
(264)【鑑賞その他】 (一)魂の鳥が飛來すると、死者・假死者の身に魂が這入つて、復活するといつた信仰から、かうした連作歌が出來て、其仄かな記憶が、尚、かうした歌を作らせたのである。だから、單に御遺愛の鳥だから、とばかり解するのはいけない。それと共に云ふべきことは、平安朝にもさかんに雁の子のことを書いてゐる。或意味に於ては、玩具となつてゐる。一體われ/\の稱する玩具は、もと手に持ちならして、それによつて、鎭魂の效果を収めようとする目的のものであつた。だから、雁の子が雁の卵でなくとも、他の水鳥の卵を雁の子と稱して代用して居つたのである。
(二) 此歌、咒詞の表現法を或點まで用ゐ乍ら、卒然轉換して、抒情詩にしたのである。かう云ふものをこそ、短歌發達の過程にある内容形式の問題を解決するものとして、味はふべきであらう。今日から見て、全體としての單純化は行はれてゐるが、部分的には複雜な感じを起させる。「千代常磐に」などいふ咒詞としての對句風の云ひ方がそれだ。
(三) 此も當時の生活條件を知らないで見ると、主君無き宮殿の靜けさが、却つて、音となつて聞えて來る樣な氣がする。今の標準から云つて優れた歌であらう。其上咒詞風な發想法から、獨立した歌になつてゐる點を注意すべきだ。
(四) 多少宴遊の頌歌式なところを持つてゐる。さうした發想法から、次第に反省に移つて行つたのであらう。此歌を以て皇子尊が、嘗て旅行せられた地方を回想した歌、と解することも出來るが、(265)やはり島の宮の内圍ひに容易に入り難くなつた人が、更に退散後のことを考へたものと見ればよい。
(五) いさゝか獨立性に乏しい所はあるが、所謂連作としては、避け難いことであらう。唯此歌の内容の曲折は、人を憂鬱ならしめる力がある。とり分け、皇子尊との交渉が、問題になつてゐる點に、注意せねばならぬ。(六) 交渉《ツレ》もなき、と云ふ語を使つてゐる氣持ちは、宮殿・住所の移動によつて凶事のあつた場合に、咒詞によつて其結果を引き直さうとする方法が這入つてゐるので、既に、結著の著いた後までもさうした詞を唱へて、長い禍ひを消さうと試みるのである。人麻呂の近江の荒都で詠んだ、「たまたすき」の長歌に「……いかさまに思ほしめせか」などあるのと同じことである。此當時の人麻呂の長歌にも「……天つ水仰ぎて待つに、いかさまに思ほしめせか、由縁もなき檀の岡に宮柱太しきいまし」としてゐる。かう説かなければ、つれもなき〔五字傍線〕が如何にも突然である。
且覆《アサグモリ》 日の入り去《ユ》けば、御《ミ》立たしの島に下りゐて、嘆きつるかも
且覆 日之入去者、御立之島爾下座而、嘆鶴鴨 (一八八)
朝日照る 島の御門に、おぼゝしく 人音もせねは、まうらがなしも
且日照 島乃御門爾、鬱悒 人音毛不爲者、眞浦悲毛 (一八九)
(266) まきばしら 太き心はありしかど、この我が心 しづめかねつも
眞木柱 太心者有之香杼、此吾心 鎭目金津毛 (一九〇)
けごろもを 春冬|片《カタマ》設けて 出でましゝ 宇陀の大野《オホヌ》は、思ほえむかも
毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者、所念武鴨 (一九一)
朝日照る 佐太の岡べに鳴く鳥の、夜鳴きかはらふ。この年ごろを
朝日照 佐大乃岡邊爾鳴鳥之、夜鳴變布。此年己呂乎 (一九二)
賤民《ヤツコ》らが夜晝《ヨルヒル》といはず 行く路を。我はこと/”\宮道《ミヤヂ》にぞする
八多籠良家夜晝登不云 行路乎。吾者皆悉 宮道敍爲 (一九三)
【音訓】 (一)▼且覆 あさぐもり。覆の字、異本みな此字を書くが、此儘では訓めさうもない。異訓あさぐもり〔五字傍線〕とするのは、且を旦とする古本が多いからよいが、覆をくもり〔三字傍線〕とすること、如何にも無理である。木村正辭先生が、旦をたな〔二字傍線〕の音假名として、たなぐもり〔五字傍線〕と訓まれたのは巧みだけれども、尚不足の點がある。鹿持雅澄は日の枕詞たる位置にあるものとして茜指《アカネサス》の誤りとしてゐるのも、適切にして勇斷すぎる。橘守部のあさかへり〔五字傍線〕説は、字を改めないからよいが、下の句との連續に飛躍がある。姑く、あさぐもり〔五字傍線〕として置くが、假に言へば、此句の覆の字は西に復るの合字、或は一字と誤解せられたものと見ることが出來る。上の字は日一たびの義か、或は日と覆の字との間に一を誤入したものとも思はれる。さすれば、日西に復るといふ書き方で、ゆふべ〔三字傍線〕に關聯した言葉を表すものかも知れない。音調上に難點はあるが、ゆふぐれに〔五字傍線〕など訓むのが、(267)稍當を得てゐるかも知れない。▼入去者 いりゆけば。いりぬれば〔五字傍線〕とも訓める。(二)▼且日 旦日とする古本も多い。あさひ〔三字傍線〕である。(三)▼之香杼 しかど。之音、香訓、杼音jyoの次音。(四)▼毛許呂裳遠 けごろもを。毛・裳訓。許・呂・遠音。遠、古本に無いものが多い。四音でけごろもと言つたのかも知れない。▼所念 おもほゆ。受身のる〔傍線〕と誤解して、其に同じゆ〔傍線〕の意味に使つたのだ。(五)▼變布 かはらふ。類聚古集に戀に似た、下に心のある字を書いてゐる。さすれば、こほしき〔四字傍線〕である。だが、尚かはらふ〔四字傍線〕がよからう。(六)▼家 此は、我の草體の誤りと見てもよいが、かうした家の用法も多い。其總てを誤りとすれば論はないが。▼八多籠良 やつこら。はたこら〔四字傍線〕・やたこら〔四字傍線〕など、いろ/\訓む。但、やつこ〔三字傍線〕の音韻變化やたこ〔三字傍線〕といふ形があつたか、或は多が豆(眞淵)箇(守部)などの誤りで、つ〔傍線〕と見るべきか不明である。又、疇の古文〓が變形したものと見れば、ちう〔二字傍線〕の次音つ〔傍線〕である。但、本集に其例は無いから、主張することが出來ない。▼皆悉 ことごと。みなから〔四字傍線〕と訓む説を否定することは出來ない。▼敍 ぞ。zyoの次音zo。。
【口譯】 (一) 夜明けの曇りに、日がひつこんで行つた時に、かの〔二字傍線〕御立ち場所の島に入りこんで、溜息づいてゐることよ。
(二) 「この輝かしい」島の御所に、氣がぼうつとする程、人音も聞えて來ないので、何だか悲しい氣がすることよ。
(三) 眞木柱、それではないが、今迄は太い心は持つてゐたけれど、今では變つて〔三字傍線〕、この我が心が鎭めきれないでゐることよ。
(268)(四) 早春を一途に待つて御出かけなされた、あの〔二字傍線〕宇陀の大野原のこと〔三字傍線〕は、今後何時までも、思ひ出されようよ。
(五) 佐太の岡のところに、何時も〔三字傍線〕鳴く鳥の夜聲が變つてゐることよ。幾月このかたをば。
(六) 賤民部落〔四字傍線〕の賤民たちが、夜と言はず畫と言はず通る路、それを私どもみんなは、御所への路としてゐることだ。
【言語】 (一) ○旦覆 守部は朝、佐太の岡から島の家に歸り、夕べ佐太へ行く時のなごり惜しみの樣に説いてゐる。其處に、初句と二句との間に過程の飛躍がありすぎる。唯、あさぐもり〔五字傍線〕説をとるならば、「日の入りゆけば」迄を譬喩と見て、草壁皇子の薨去を暗示したと見れば、適切な氣がする。但、その場合、幾分譬喩なる日の隱れゆく氣分を感じなければ、成り立たない。尚、直前の長歌に、「あかねさす 日は照らせれど、ぬばたまの 夜わたる月の、隱らく惜しも」では、皇子を月に譬へてゐる。だから、稍不安がある。言葉としては不具な感はあるが、ゆふぐれに〔五字傍線〕・ゆふべに〔四字傍線〕など訓めば、第二句が完全に働いて來る。○下りゐて おりたつ〔四字傍線〕などゝ同じく、其場所に自ら臨むのがおり〔二字傍線〕である。即、入りこんで坐する事である。○嘆きつる なげくは溜息づくこと。其から擴つて、抽象的にも使ふ。だが大體に、溜息づく樣を誇張して言つてゐるものと思はれる。今ならば、思案投げ首、大息づくといふところである。つる〔二字傍線〕は助動詞つ〔傍線〕の活用で、現在完了・現在|存續體《プログレス》又は習慣を表す。本集に於いては、當時の人は場合々々によつて判斷したであら(269)うが、今はいづれにも解することが出來る。先、存續體と見るのが無事であらう。
(二) 〇朝日照る 島の御門 例の宮殿讃めの詞から出てゐる。而も、挽歌に此を用ゐた動機は、墓讃めの心持ちと交錯してゐるのだ。○おぼゝしく 前に述べた。唯、「人音もせねば」につくものか、「まうらがなし」について居るのかはつきりしない。後者の場合は、人音もせない時に、茫然として悲しむ心の起つた有樣を言ふのだ。○人音 人の動く氣配・響きで、必しも足音ばかりを言ふのでない。○まうらがなし 接頭語ま〔傍線〕は、「うらがなし」についたので、まうら〔三字傍線〕ではない。うらは用法廣くて、適切な譯語がない。要するに、本集時代には、意義の大部分を忘却して、接頭語に用ゐたのだ。通例心と譯するが、其ならば氣分とする方がよい。何となくと言つた譯の當る場合が多い。この言葉にも、かなし〔三字傍線〕に重點を置くものと、全體として意義を感ずるものと二通りの使ひ方がある。後者は、心細いと云つた使ひ方が多い樣だ。
(三) ○まきばしら まき〔二字傍線〕は建築用材に用ゐられる喬木。檜を指すだけではない。後、所謂槙に固定した。この柱を言ふのは、殿讃めの詞。此場合、墓讃めの聯想から出たのである。其を枕詞として太きにかけ、更にその言語勢力が、しづむ〔三字傍線〕を言ふに至る迄續いたのである。○太き心はありしかど 此は、たゞ心がしつかりしたと言ふだけでなく、魂を鎭める力の源をこゝろ〔三字傍線〕と見て言ふので、魂の對象である。思ひがけない悲しみに逢つて、今は其こゝろ〔三字傍線〕がないの意を含んでゐる。○この我が心 前の句の「太き心」と此とは、別々と通常考へる樣だ。即、必しも適切でないが、(270)意思と感情の二つを心で表したと見ることが出來る。だが、恐らく、今のこのわが心はの意で、太さを失つて、魂を鎭め難くしてゐるといふのらしい。即、わが心でなく、わが心が悲しみにうかれたつ魂を、と云ふことだ。
(四) ○けごろもを 枕詞。を〔傍線〕は感動の助辭。この句などでは、幾分をば〔二字傍点〕の意を生じてゐる。けごろも〔四字傍線〕は裘ではなく、褻《ケ》の衣である。祭時に著る晴れの衣に對して、日《ケ》の衣を言ふらしい。衣の聯想からはる〔二字傍線〕にかけたと見てよいが、尚疑問がある。○春冬かたまけて 此は春と冬ではなく、春にして冬の氣深く冴え返つた頃を言ふものでなくては、かたまく〔四字傍線〕といふ言葉が不適當になる。かたまく〔四字傍線〕のまく〔二字傍線〕は所謂待ち設けるで、心づもりする。用意するの用語例を持つてゐる。かた〔二字傍線〕は偏する義だから、一途に待つ義である。此が熟語を作つて、ゆふかたまく〔六字傍線〕となる。考へ方によれば、違つて考へられさうだが、專、夕べの景色になつての意である。○宇陀の大野は 宇陀高原のうち、その西邊をさす。即、本集に見える阿騎野の邊である。多く、押坂から入り立つのである。推古紀十九年五月五日、菟陀野の藥獵りの條に、鷄鳴に藤原(ノ)池の邊りに會集して、その夜明けに行つた事が書いてある。此記事の地理も時間も相適つてゐる。此處に、「宇陀の大野」が主格の樣な形をとつてゐるが、實は出でましゝ人が主格で、此處のは〔傍線〕は、をば〔二字傍点〕に當るものだ。即、草壁皇子を強く心に持つたが爲に、却つて文中には出なかつたのである。○思ほゆ 後、融合しておぼゆ〔三字傍線〕。思はれる・感じる。此處では、思ひ出されるの意。或はまだ、口に繰り返すといふ義を含んでゐ(271)るかも知れぬ。
(五) 〇朝日照る 此も墓讃めの詞。本文に關係がないから、夜鳴きなどに矛盾しないのだ。○夜鳴きかはらふ 鳥の夜鳴きの聲が、舍人達の御哭《ミネ》奉る聲に變るのを言ふ。○この年ごろを ころ〔二字傍線〕は年月・日の稍久しい連續を漠然とさす言葉。だから、日頃と月頃が同内容のことがあり、殊に年頃と月頃とでは殆區別がない。を〔傍線〕は感動のよ〔傍線〕に譯すべきものか、客語の助辭と見るべきか、恐らくは、この下の句全體が流動してゐると思はれる。即、夜鳴き變れるこの年頃よ、と云つた意味から、この年頃を夜鳴き變らふに轉化する過程にあるものと見たがよい。
(六) 〇やつこら 今日に於いては、想像も能はぬ過去の或事象を表して居るとすれば、せん方の無い訣だ。假にやつこ〔三字傍線〕と見ると、奴婢のことになる。殊に、其賤民の居る處が墓への道に當つて居たのか、それとも、陵墓に仕へる所謂陵戸、又はもりべ〔三字傍線〕の類の居る處をさしたのか、問題である。はたこ〔三字傍線〕と訓む説を採用すれば、旅行者の荷物の通る街道といふ事になるが、其はあまり後代風だ。姑く、賤民説を採る外はあるまい。但、八多を機の假名に使つた例もあるから、上帛を司る人を機子と見て言へば、新陵墓に機織りが關係することが多かつた爲かも知れない。○夜晝といはず 夜だからどう、晝だからどうと指定選擇することなく。○吾者 此處には第七の「吾等」と反對に書いてゐるが、やはり舍人全體を指すのである。○こと/”\ どれもこれも、誰も彼も。但、この訓み方には疑問のあること、音訓に述べた通りだ。○宮路 宮廷に通ふ大道。都城制を(272)採つてからの朱雀大路の如きである。單に、宮へ往く路の意ではない。其路を通らねばならぬ正門の路があつたのだ。
【鑑賞その他】 (一) 上一・二句の間が不明だけれど、それ以下は、近代の見方に煩はされることなく、古風に見ても、沈靜した氣分のうちに、強い悲しみが現れてゐる。
「島に下りゐて」には、何か意味があるのかも知れない。
(二) 儀禮歌と抒情詩との間を行きながら、尚、最優れた歌である。
古代及び中世に亙つて、貴族以上の古屋敷は其儘たち腐れに殘された形跡があるから、此はまだ一年に達しない間ながら、さうした事實を考へてかゝると強く感ぜられる。
(三) 讃へ歌の形式で、恐らく、無反省にうたつたものとしての表現不足を含んでゐるのだらう。其にも拘らず、歌としての價値は、その調子と單純な内容から生じてゐる。
(四) 「輕皇子宿(レル)2于安騎野(ニ)1時、柿本朝臣人麻呂作(レル)歌」(卷一)と前後照應してゐるもので、日竝知(ノ)皇子が狩獵を好んでゐられた、その皇子の御伴をした時の事を思ひ起してゐる。
(五) 御哭《ミネ》奉ることは、この歌にある樣に、毎夜した事ではあるまいが、其を誇張して言つたものだらう。皇子を思ひ出して、自然に哭くのではないが、既に此歌には、さうした舊習と新表現とが相交つてゐるのであらう。
(六) この歌も亦、舊表現のうちから新發想が現れようとしてゐるもので、半ばは御墓に仕へる實(273)情を述べながら、片方に、主を失つて退散の時を見かけた人々の境遇に對する反省が、出かゝつてゐるものと見るべきだらう。殊に末句に近づくに從つて、抒情氣分の整つて來るところを見ねばならぬ。
○「皇子尊宮舍人等慟傷作歌」の講義は昭和十三年九月號「短歌研究」の「萬葉集の綜合軒究」所載の分もあるが、二十三首の口譯と、はじめ二首の語釋で終つてゐる。今「短歌講座」の方を本とし、二首の語釋の之に見えない部分だけを(○……)として補つた。 以下黒人の歌の講義まで、すべて「短歌講座」のまゝ。――編者
(六)
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂※[羈の馬が奇]旅歌 八首 (卷三)
(二四九) 三津の崎。浪を恐《カシコ》み、隱《コモ》り江の船漕ぐ君が行くか野《ヌ》島に
三津埼。浪矣恐、隱江乃舟公告奴島爾
【音訓】 ▼矣 訓。此字をを〔傍線〕と訓むのは、音ではない。漢文の終尾辭に施す直譯が、大體固定してゐたのを假名に用ゐたのだ。多く感動或は疑問として訓んだので、を〔傍線〕に焉・乎及び矣を宛てることが多い。此に對してや〔傍線〕には也及び哉を用ゐ、又疑問の意味に耶を用ゐ、を〔傍線〕に焉(烏に誤つてゐる)、か〔傍線〕に又哉・歟を用ゐ、同時に疑問にも通用してゐる。乎も亦疑問のか〔傍線〕に使つた樣である。つまり、古く字と訓とが固定してゐたこと(274)が知れる。▼恐 かしこみ。大體に於てまづ不都合のない訓法らしいが、隱江乃の訓が不安定だから、今後此が動かないとは限らない。▼隱江乃 此句最動きの無い樣に見え乍ら、却つて此ある爲に四句以下の訓が自由でなくなる。殊に乃が落ち著かないのだ。卷一の「旅にして物戀之伎乃」の乃をに〔傍線〕に當る字の誤字とする説の中、木村正辭先生の乃にに〔傍線〕の音のあることを稱せられた説、竝びに「かび家が下乃〔傍線〕鳴くかはづ」にもに〔傍線〕を用ゐてゐるのを採用すれば、こゝも此儘に〔傍線〕と訓むことが出來る。こもりえに〔五字傍線〕と訓めば、多少自由になる樣だ。▼舟公宣 此には枚擧するには堪へぬほど説はあるが、其中不自然でないものを擧げれば、宣長の「舟八景何時寄」《フネハモイツカヨセム》、岸本由豆流の「舟漕ぐ公が乘るか野島に」、荒木田久老「舟はも行かず(不通)野島の崎に」加茂眞淵「舟令寄敏馬埼爾《フネハヨセナムミヌメノサキニ》」などあるが、やはり適切らしくもない。類聚古集・古葉略類聚鈔には、舟の下に爾の字があるけれど、此亦從うてよいかわからぬ。公の字は無い本もある。宣は總てのる〔二字傍線〕と訓んでゐるが、これも安定してゐない。井上通泰氏は、「隱り江に舟下而泊奴美奴馬爾《フネヲオロシチハテヌミヌメニ》」と訓む。三句と五句との訓は直感の鋭さを見せてゐるが、「舟を下して泊てぬ」は萬葉調に似ない。▼奴鳥爾 古葉略類聚鈔には、奴の上に美の字がある。さすれば、奴の下に女のあつたのを字形の類似から、書き落したのかも知れぬ。さうすればみぬめの〔四字傍線〕と訓める。島の字を馬と見て埼を補へば、みぬめの崎〔五字傍線〕と訓めるが、又みぬめの島〔五字傍線〕と見れば自然である。尚本集二十に、さきもり〔四字傍線〕と訓む筈の處に島守の字を宛てゝゐる處を信じれば、その儘みぬめの崎に〔五字傍線〕となる。
【口譯】 三津の崎よ。そこに立つ浪の恐ろしさに、そこの深い入り江の中で船に…………敏馬の島に……………。
(275)【言語】 〇三津の崎 攝津國難波の御津を擁した砂洲の發達したものであらう。○浪を恐み 浪の恐しきにといふ風にとらねばならないのは、他動詞でありながら、一句としては自動詞句と同じ效果を表す爲である。○隱り江 此は地名と云ふよりも地形から出た通稱で、當時の稱へであらう。御津の崎の外側、西北方に當る處に在つたので、恐らく神崎川近くの入り江であらう。○舟公宣 訓をつけることが出來ぬから、勿論意味も知れぬが、唯見當を立てゝ見れば、隱り江に暫く隱れて、更に敏馬の島を指して船をやらうとする意ではあるまいか。○野島 淡路島の西北方。津名郡の中、凡、今の野島村附近。野島の崎も此處である。唯歌の趣きでは、三津の崎を離れて、直ぐ荒い海波を避けて這入つた入り江から、舟の目的《メド》とすべき土地としては、餘りに遠く又地物の障害があつて見える筈はない。だから、此附近で、此に適當な地としては、まづ敏馬が當るであらう。敏馬は攝津國武庫郡、今、御影町から神戸へかけての地名と思はれる。此地に就いては次の歌の條に説く。但、敏馬の崎ならば本集にも見えてゐるが、島は訣らない。唯、當時敏馬の浦附近に在つたものと考へることも出來る。
【鑑賞その他】 かうした歌だから云ふべきことはない。唯注意すべきは、人麻呂の歌或は人麻呂集の歌と稱するものには、かうした字を省き過ぎた爲に、結局細部に於ては、どう訓んでよいか訣らぬものがあることで、此は恐らく漢文風に表記した爲の弊であらう。
(276)(二五〇) たまもかる 敏馬《ミヌメ》を過ぎ(なつくさの 野島が崎に、舟近づきぬ
一本に云ふ。處女《ヲトノ》を過ぎて、なつくさの 野島が崎に、廬《イホリ》す。我等《ワレ》は
珠藻苅 敏馬乎過、夏草之 野島之埼爾、舟近著奴
一本云。處女過而、夏草乃 野島埼爾、伊保里爲。吾等者
【音訓】 ▼敏馬 敏の南方音minを母韻化してみぬ〔二字傍線〕とするのも、當時の音韻學の知識から出てゐる。▼過 すぎ。すぎて〔三字傍線〕とも訓めるが、すぎ〔二字傍線〕に從ふ。▼處女 敏馬に關聯した史實を辿れば、處女をみぬめ〔三字傍線〕と訓ませたとも思へるし、或はをとめ〔三字傍線〕とも同じ地名を呼びさうな理由も考へられるのだ(言語の條參照)。▼伊保里爲吾等者 伊保里、音。爲、訓。吾等者は前の二十三首の用字例と同じく、一人でない場合のわれ〔二字傍線〕を示してゐる。者、訓。格のてにをは〔四字傍点〕として、訓を固定させたのだ。
【口譯】 俺の舟は〔四字傍線〕、もう〔二字傍線〕敏馬の浦を通り過ぎて、野島が崎に俺の〔二字傍線〕舟は接近したことだ。
一本の歌。俺の舟も〔四字傍線〕處女《ヲトメ》神のゐられる浦を通つて、野島の崎で俺達は、小屋掛けをしてゐることよ。
【言語】 ○たまもかる 枕詞。海に關したものに廣く著いたらしい。本集の用例以外にも自由であつたと思はれる。唯それを陸上の水にも轉用して、「たまもかる堰《ヰデ》のしがらみ」(卷十一)と云ふのもある。○敏馬 浦を云ふか崎を云ふか明らかでない。但、浦は崎を西の限界として東に擴つてゐたらしい。説は樣々あるが、恐らく兵庫の和田岬を指すものと思はれる。平安中期には、大(277)輪田と稱してゐる。思ふに舟旅の行路では、海邊の有力な神の鎭座する所の前をよぎる時、殊に注意するのが常であつたから、こゝも敏馬の姫神のゐられる所の意味にとつてよからう。而も、さうした旅に歌を奉る海邊の社は、大抵岬にゐられるのだから、敏馬の崎と見るのがよからう。攝津武庫郡には、西部日本に分布の廣いみぬま〔三字傍線〕・みつま〔三字傍線〕・みぬめ〔三字傍線〕・壬生〔二字傍線〕など同系統の語で稱へる姫神の御在所が、水邊に多くあつた。元此神は水の女神として、尊貴の方々の沐浴に奉仕して、其御身の復活を掌つた、歴代の巫女の神格化したものである。此信仰が諸國へ傳播せられて、譬へば此處或は阿波の美馬郡――元みるま〔三字傍線〕であらう――、筑後の三瀦《ミツマ》などが、その有名な所在地で、根原地と見られるのは、丹後の國竹野郡|比沼《ヒヌマ》――ひぢ〔二字傍線〕とするのはいけない――麻奈爲神社である。此姫神の信仰がある部分變つて、航海の舟の恐れ所るといつた部分も出來たのだ。外國の使臣が來朝すると、此崎で住吉の神酒を飲ませる習慣になつてゐたと云ふ。海岸の障|碍《ゲ》神であると同時に、住吉神の姫神であつた容子がよく訣る。この神水中より出現して、禊ぎをすゝめる處女神であつたが爲に、或は多少音韻の類似もあるから、をとめ神〔四字傍線〕と云つたことも考へられなくない。
○なつぐさの ぬの枕詞。又、しなゆ〔三字傍線〕にもかゝるところから、ぬを萎靡する義の語として此にかかるものと考へてゐるが、寧、「なつぐさのあひねの濱」などある古歌を見れば、臥しなびく状態らしい。即、寢《ヌ》である。此意味でかゝつてゐるのか、又は草の名か、或は端的に夏草繁る野を指したのか決定は出來ない。尚試みに云へば、天武天皇の妃に蘇我赤兄の娘|大※[草冠/(豕+生)]《オホヌ》娘がある。※[草冠/(豕+生)]を(278)珠の義と説いて來てゐるが、この字の訓ぬ〔傍線〕を珠の一種なるぬ〔傍線〕に、宛字したまでのことであらう。説文に草木華垂貌、周語に委※[草冠/(豕+生)]柔貌とある。皆草垂れて萎へる貌であつて、前述の寢に當るらしい。○野島が崎 分布の廣い地名。こゝのは前歌に述べた處で、今の野島よりも北へ廣く稱へたものらしく思はれる。但、淡路南方の海中にある沼《ヌ》島と混同せぬがよい。此崎は窟の鼻を指した趣に見えるが、野島附近は地形に變遷があつて、岬の崩れた傳へもあるから、何れにも定めかねる。○舟近づきぬ 近づく。つく〔二字傍線〕にはその方に寄る・接するの意がある。○處す いほ〔二字傍線〕はもといへ〔二字傍線〕と同根。それを語根として動詞化したのがいほる〔三字傍線〕。その名詞がいほり〔三字傍線〕だ。假小屋である。それにす〔傍線〕の語尾が附くと、宿ると云ふよりは、小屋掛けをする動作になる。
【鑑賞その他】 如何にも長歌の斷片とも見るべき、人麻呂式の對句を竝べた歌だ。野島が崎の假屋で、宴を開いた時の即興で、今日の行路を思ひかへさせるものである。一本の歌も同じく酒宴の歌で、假屋造りまでの心遣ひを相共に囘想させたのである。思ふに明石海峡を西に離れた舟は、播州一帶舟泊りに便誼がない爲に、一先づ淡路の側に宿つたのであらう。
(二五一) 淡路の 野島が崎の濱風に、妹が結びし紐 吹き飜《カヘ》る
粟路之 野島之前乃濱風爾、妹之結紐 吹返
【音訓】 ▼粟路 あはぢ。淡路に宛てたのだ。▼前 さき。崎に代用すること、當代の習慣である。▼妹之(279)結之 いもがむすびし。過去の助動詞し〔傍線〕を訓み添へる。▼吹返 ふきかへる。返の字、通例かへす〔三字傍線〕と訓んでゐる。
【口譯】 淡路の野島が崎の濱吹く〔三字傍線〕風に、可愛い女の結んだ紐を、吹き飜へさせてゐる。
【言語】 ○濱風 濱から吹き起る風でなく、沖から濱へ吹く風であらう。作者は海岸にゐるのである。濱は岩石の無い砂地の海岸。磯の對。○妹が結びし紐 詳しくは、鑑賞の條に述べる。門出にあたつて、愛人又は妻が、帶その他に紐をつけるのが當時の民俗であつた。○吹き飜る 吹かれ飜る。これを、ふきかへす〔五字傍線〕と訓むのも誤りではない。唯、吹きかへる儘にまかせるのを「吹きかへす」と言ふので、謂はゞ、吹きかへさしめる事になるのだ。
【鑑賞その他】 この歌に就いて、誤解のありさうな點だけを注意しておく。紐といふと、直に下紐の聯想をするのが常だ。だが、下紐そのものが既に下體部を覆ふものではなく、下袴につける紐のことだ。紐と言へば、上袴にも又、帶にもつけ、その外、袖・褄にもつける。一口に言へば、魂を結びこめる秘密の結び目を作つた緒である。この紐緒が取りつけてあると、魂は其人の身を離れないものと信じた。その魂は、元、外來の威力の源なるものであつたが、信仰分化の結果、女性の魂を男性の身に固著させる方法と考へられる樣になつた。即男女相別れる時に、女は自分の魂を男につけてやるのである。我が國古代に於いては、愛人或は夫婦關係にある女としてゐたらしい。が、沖繩諸島現存の民俗に徴すると、親戚の女性、多くは妹・從妹などの毛髪――鬘――(280)の一部と見做すのだ。毛髪を袋に納めて携帶することになつて居る。だから、我が國の紐結びの風も、必しも、前に述べた女性に限らぬかも知れない。唯、その民俗の起原は家の巫女としての女の魂を身につけることが、旅の平安を全うする方法だとしたものである。旅行者は、家の常座或は寢室《トコ》に分割した魂を殘して來るので、かうして相補ふ訣である。此處の紐は、衣裳の表につけたものに違ひない。唯、紐を問題とするのは、性欲に關してゞはなく、旅行中なるが爲に、自然これを主題としたものに傾くのである。即、紐を見れば、それを結へた妹を思ひ出す。それから他人の上へ及して、同樣の境遇にある同伴者の同感を促すやうに出來た宴歌である。
(二五二) あらたへの 葛江の浦に鱸《スヾキ》釣る 海部民《アマ》とか見らむ。旅行く我を
一本に云ふ。白栲《シロタヘ》の 葛江の浦にいざりする
荒栲 藤江之浦爾鈴寸釣 白水郎跡香將見。旅去吾乎
一本云。白栲乃 藤江能浦爾伊射里爲流
【音訓】 ▼荒栲 白栲 あらたへの。栲・※[栲の異体字]をやへ〔二字傍線〕と訓むのは國字。又たく〔二字傍線〕と言ふ字。▼鈴寸 すゞき。鱸の假名。▼白水郎 あま。又泉郎。早くから我が國の海部《アマベ》の民に宛てゝゐる。崑崙白水の郎子なるが爲に、此字を書くのだ。又、泉州の民だともしてゐる。其地の漁人の水によく潜くことから出たのである。▼將見 みらむ。この字面では、みむ〔二字傍線〕・みてむ〔三字傍線〕・みなむ〔三字傍線〕など色々訓めるが、此場合はみらむ〔三字傍線〕が最適切だ。讀者の理會(281)にまかせた書き方だ。▼伊射里爲流 いざりする。射は濁音に用ゐる。
【口譯】 葛江の浦で鱸を釣つてゐる人は、海部民の一人と見てゐるだらうよ、旅行してゐる私をば。
【言語】 ○あらたへの しろたへの 葛《フヂ》の枕詞。和栲《ニギタヘ》に對して粗製の衣、或は其を以て製した著物を云ふ言葉。庶民の服は荒栲の部類に入るべき葛の繊維を織つたものだから言ふ。即、葛衣を思ひ浮べての枕詞だ。一本の歌に「しろたへの」として葛の枕詞としたのは、葛衣が喪服の總稱と考へられた事が、平安朝以前既にあつたからで、その喪服に白栲を用ゐる樣になつてから、葛衣の枕詞としたのだ。卷二の挽歌に、「しろたへの 麻衣著て」又は卷十三の挽歌、「大殿をふりさけ見れば、しろたへに かざりまつりて」などあるのを誤解して、白栲を直に喪服と見た奈良朝末の「しろたへに 衣とり著て(卷三)」・「しろたへに 舍人|扮装《ヨソ》ひて(家持)」など言ふ擬古文の間違ひから出たものと思はれる。挽歌ならば、「しろたへの麻衣」とでも言ふべきところなのだ。○葛江の涌 播州明石郡。古く葛江郷がある。今、林崎附近。江と稱してゐるが、單に地名で船がゝりすべき處でなかつたと思はれる。○海部民 日本民族の主流以外の一種族。主として海岸を移動したもの。元、南方から來て、日本の兩沿岸を東北へ上つた痕跡の見えるもので、大體、天孫族以前に同じ方向から來たものと思はれる。近代まで普通の良民とは一つに見られなかつたもの。古く海人部《アマベ》又海部、此を略してあま〔二字傍線〕とも稱へてゐた。單に、漁業を職とするものを言ふの(282)ではない。後人の感ずるのと違つて、部落を異にし、交際もせぬ海岸漂流民である。〇……とか見らむ か〔傍線〕は疑問でなく、感動である。稍古くは、「海部民とを見らむ」と言ふべきところだ。みらむ〔三字傍線〕、みるらむ〔四字傍線〕の融合。現在完了想像。○旅行く 旅に行く・旅を行くなどゝ違つて、旅する意の熟語動詞である。○……を 感動のをから目的格のをに移る過程を、明らかに示してゐる用語例。をば〔二字傍点〕の意味十分出て居りながら、尚、感動の氣分を存してゐる。○いざりする いざる〔三字傍線〕は沖漁すること。
【鑑賞その他】 自分の船を知らぬ人は、葛江の海部民と思つてゐるだらうと云ふ、人に知られないで、旅行を續けて行く寂しさに思ひ至つてゐるので、當代の歌としては新しみも深みもあつたものなのだ。而も、かうした歌が、海邊流謫の憂ひを詠んだ多くの歌の古い一つで、亦最すぐれたものである。「ほの/”\と明石の浦」・「わくらばに訪ふ人あらば」・「わたの原やそしまかけて」などの歌は此から直接に出ないまでも、かうした歌が基礎となつてゐることは事實だ。文學意識の既に出た歌の例として人麻呂の覊〔馬が奇〕旅歌八首を上げたが、此後四首及び最文學化したものと見てゐる高市連黒人の本集所載の歌全部をこれまでの方法を以てすれば、解釋し盡されない。以下はなほ簡略に從ひたいと思ふ。かういふ風にして古歌古文を見なければならないといふ方法をお見せしたのだから、それによつて、以下の歌竝びに本集の全體を見る態度として頂きたい。
(283)(二五三)印南野《イナビヌ》も行き過ぎ不敢《カテニ》 思へれば、心戀しき加古の島見ゆ 一に云ふ。川口《ミナト》見ゆ
稻日野毛去過勝爾 思有者、心戀敷可古能島所見 一云。潮見
【音訓・言語】 ▼稻日野 加古川の兩岸に擴つて海岸に沿うた曠原。いなみ〔三字傍線〕とも云ふ。▼……勝爾 此字義既に述べた。爾は副詞語尾のに〔傍線〕ではなく、否定助動詞ぬ〔傍線〕(通常ず〔傍線〕)の連用中止形。かてず〔三字傍線〕……と云ふのと同じ。直譯すれば、「敢へずに」となる。(此に〔傍線〕と關係はない。)▼思有者 字は意義に從つて書いてゐる。思ふの現在存續體。▼心戀敷 ものを求めんとするやるせ〔三字傍点〕なさを表す。▼可古能島所見 所は受身の助動詞ゆ〔傍線〕から轉じてゆ〔傍線〕の假名にした。加古島。加古川口から離れて海上にあつた島で、所謂本集その他に印南都麻《イナミヅマ》と稱するものであらう。▼潮 他にも類例ある如く、こゝも湖の字を書いたものが多い。みなと〔三字傍線〕は水之門《ミナト》で、川口及びその内部の廣くなつたところである。その形あたかも鹹水湖と似てゐるところから宛てた字。
【口譯】 印南野、それを行き過ぎにくゝ思うて歩いて行つた時に、遙かに〔三字傍線〕やるせなく氣にかゝる加古の島(加古川の川口)が見えて來た。
【鑑賞その他】 此歌恐らく歴史の知識が、現實の淋しさに重つて來てゐるのであらう。景行天皇が印南大郎女に求婚して、追ひ求めて遂に印南都麻の島で捕へて、望みを達せられた傳説があるからだ。此歌なほ家妻を心にもつて來た時に、加古の島を見て傷心した、とだけ説くべきものではなからう。今日から見れば、氣分的には優れた歌だが、細かい理會の屆かぬ點がある。
(284)(二五四) ともしびの 明石大門に入らむ日や、漕ぎ別れなむ。家のあたり見ず
留火之 明大門爾入日哉、榜將別。家當不見
【音訓・言語】 ▼留火之 留の字を誤字とする説もあるが、留《トム》と火と連書して自らともしび〔四字傍線〕と訓ませる積りだつたのだらう。明石の枕詞。▼明大門 門は狹門《セト》即、海峡。明石大海峽の義。▼榜 本集漕ぐに多く此字を用ゐてゐる。木に從ふものと、手に從ふものとあるが、手の方が動詞となる。
【口譯】 向うに見える〔六字傍線〕明石の大狹門に漕ぎ入る日となれば〔四字傍線〕、家のあたりの山も〔二字傍線〕見えなく、漕ぎ別れることになるだらうよ。
【鑑賞その他】 漕ぎ別れなむは、その前に家或は家のあたりに、と置いて見るべきで、家のあたりは必しも家及び國を見ずとも云ふので、次の歌の京畿地域《ヤマトシマ》とあるのと同じことだ。意譯して山を出した訣だ。此歌後の大輪田の泊などで、遙かに見える京畿《ヤマト》境の山々に對して、別れの儀式を行つた時のものであらう。これも氣分に優れた歌で、とり分け四句に据わるべき句を五句に倒置したことは、心を深く動かす。
(二五五) あまさかる 鄙の長路ゆ戀ひ來れば、明石の迫門《ト》より 京畿地域《ヤマトシマ》見ゆ
一本に云ふ。やどのあたり見ゆ
天離 夷之長道從戀來者、自明門 倭島所見 一本云、家門當見由
(285)【音訓・言語】 ▼天離 あまさかる。日の枕詞。天に遠くある意。日からひな〔二字傍線〕に使つたのが固定したのだ。▼夷 ひな。元蕃人及び蕃人の居る處の稱。後、意やはらいで、都遠い地方の用語例になる。大體、九州を暗示する言葉と見てよい。▼從 ゆ。前に述べた。進行の意の動詞の對象になる言葉につく。をば〔二字傍点〕と譯する。▼自明門 あかしのとより。あかしのとゆ〔六字傍線〕と訓む説もあるが、上のゆ〔傍線〕と重るから、やはり、より〔二字傍線〕がよい。門《ト》は前の歌に説いた。▼倭島 やまとしま。淡路に屬した島の一つと説いてゐるが、誤り。宮廷直轄地として、畿内邊をさしたのだ。しま〔二字傍線〕は水中の島でなく、宮廷領である。倭の畿内をさすことは、第一講に説いた。▼家門當 やどのあたり。「家のあたり」と字を改めて訓む説があり、又、常は古本、島となつたものもある。類例は見當らないが、やどのしま〔五字傍線〕は古風に感ぜられる。此處の門の字は、前から續いて出て來る字の影響によつて、竄入せられたものではなからうか。
【口譯】 遠い地方から來る〔四字傍線〕長い距離をば、焦れて來た時に、明石の迫門から、宮廷領の山が見えたことよ。
【鑑賞その他】 この歌では一轉して、西から明石海峡を過ぎようとしてゐるのである。だから、八首ながら同じ旅行の歌とは言へない。
(二五六) けひの海の海面《ニハ》よくあらし。かりごもの 亂れ出づ 見ゆ。海部民《アマ》の釣り船
一本に云ふ。武庫の海。ふなにはならし。いざりする海部民《アマ》の釣り船 浪の上ゆ見ゆ
飼飯海乃庭好有之。苅薦乃 亂出 所見。海人釣船
(286) 一本云。武庫乃海。舶爾波有之。伊射里爲流海部乃釣船 浪上從所見
【音訓・言語】 ▼飼飯 けひ。近代慶野〔二字傍点〕に作る。三原郡松帆村。▼庭 には。一本に舶爾波とある。海面の意とし、或は其凪いだ樣を言ふともしてゐるが、舶爾波ともあるから、民俗に関係ある一種の言葉と思はれる。いざり〔三字傍線〕の行事を或時に限つて神事と見て、その行はれる場所がふなには〔四字傍線〕或はには〔二字傍線〕。その祭場に船を扱ふことを船乘り〔三字傍線〕と言つたらしく見える(前に注意を述べた)。其が平常に迄延長せられて、には〔二字傍線〕と言ひ、いざり〔三字傍線〕と言ひ、船乘り〔三字傍線〕と言うたのだらう。▼苅薦乃 かりごもの。枕詞。多く、亂るにかゝる。▼亂出 みだれいづ。見ゆ〔二字傍線〕に先行する用言は、終止形の形をとるのが古語の格である。即、その動詞・助動詞以前の文は、見ゆの爲に動詞句化せられるのだ。「かしこき海に船出爲利〔傍点〕所見(卷六)」・「海部民のいざりはともし安敝里〔傍点〕見由(卷十五)」などが證據である。▼武庫乃海 むこのうみ。攝津武庫郡の沖あひ。▼有之 あらし。此處ではあらし〔三字傍線〕と訓む樣に見えるが、他には幾らもある〔二字傍線〕をにある〔三字傍線〕の過程を含んだものとして、なら〔二字傍線〕・なり〔二字傍線〕・なる〔二字傍線〕・なれ〔二字傍線〕に通じて使つてゐる。ならし〔三字傍線〕と訓んで差し支へない。▼浪上從所見 なみのうへゆみゆ。遠い水平線あたりにある物が、浪の上を通して見え〔二字傍線〕ると云ふことで、見ゆ〔二字傍線〕に見えて來るの過程を含んでゐるのである。
【口譯】 飼飯の海の船には〔三字傍点〕が、よく凪いで〔三字傍線〕ゐるに違ひない。海部民の釣り船が、てん/”\ばらばらに乘り出してゐる、それが見える。
【鑑賞その他】 複雜な情景を統一して感じさせる歌は、かうしたところから赤人に繼承せられてゐる。唯、一・二句が、其條件は訣つても氣分に觸れ難い爲に、後代の人の鑑賞に入りにくい。(287)或は、海部民の平常の生技を見ながら、いざりの神事〔六字傍線〕と見立てたのか、當代の人には理會出來たのかも知れぬ。
いざり〔三字傍線〕は、恐らく、海の彼方から來る神を迎へる祭りらしい。沖繩の久高島にいざいほう〔五字傍線〕といふ行事があつて、島人はいざり〔三字傍線〕の行事と解してゐる。
武庫の海よ。其處はいま〔五字傍線〕、船《フナ》にはの祭りが行はれてゐるに違ひない。沖漁してゐる海部民の釣り船が、浪の上を通して見渡される。
この方になると、沖の釣り船を見て、海の神事を思ひ浮べてゐる樣が、明らかに見えてゐる。但、單に感じたゞけか、かうした歌を作ることが、一種の咒術にでもなつたのか、今日では知る由もない。人麻呂の歌と稱するものは、傳承せられること廣く、又久しい爲に、樣々な附加や改竄が加つて、かうした異本を生ずるのである。
(七)
高市(ノ)黒人の歌
高市(ノ)古人感2傷(シテ)近江(ノ)舊堵(ヲ)1作歌 二首 或書(ニ)云(ハク)高市連黒人 (卷一)
詞書の註は、例の通り後に加へたものである。歌の質から見れば、黒人に相違なからうと思ふ。古人《フルヒト》説もあるが、其理由は、此處に古人と書いてある、と云ふに過ぎない。其も、歌の最初に古人とあるから、(288)古人と見たと考へられる。歌から推定すると、詞書が違ふ。捉へ所がない。卷一・二の例を推して見ると、詞書と内容とのくひ違つた例だ。古人説は、何の據るべき理由もない。却つて、黒人と見る方が正しい。歌の第一句の古人から詞書を作つたと見る方がよいと思ふ。
古の人に我あれや、漣の古き宮處《ミヤコ》を見れば、悲しき
古人爾和禮有哉、樂浪乃故京乎見者、悲寸 (三二)
【音訓・言語】 ▼古 いにしへの。ふりにし〔四字傍線〕でなくともよい。又、ふるひとと訓むのも、無理の樣である。▼有哉 あればや〔四字傍線〕か、あらめや〔四字傍線〕か兩樣にとれる。あればや〔四字傍線〕として、あるからかと口譯して見た。らめ〔二字傍線〕が融合してれ〔傍線〕になる類例から見ると、あらうかあるまい、と云ふ否定になる。今のところ、ある筈がないんだ、とする方に見てゐる。▼樂浪 さゝなみ。第二音は清む。さゞなみ〔四字傍線〕と訓まぬこと。近江の湖水の小浪に聯想して説く説が多いが、よくない。小浪はさゝれなみ〔五字傍線〕或はさゝらなみ〔五字傍線〕である。此は近江の地名である。漣の國とでも云ふ所があつたので、滋賀と比良との中程邊に當る。樂浪は本集でも正確に書いた處は、神樂聲浪と書いてゐる。神遊びの寫聲か樂器の名か訣らぬが、こんな文字を遣つたのは、宮廷の樂人が、萬葉集の根本資料に關與してゐたからである。後には遣ひ慣れて、神を略し、聲を省いて、樂浪でも表せる樣になつた。大津の宮を漣の宮とも云うたのだ。「漣の大津」と云ふと、隣接地名を出して來てゐるので、近江の國の漣に續いてゐる大津、と云ふことだ。大津は、近江に限らず處々にあつた。滋賀にも九州にもあるので、區別して隣接地の漣と共に言うてゐるのだ。▼古き 古びてる或はすさんでる樣を云ふ。語根はふる〔二字傍線〕で、平安朝にな(289)つても、尚、小野(ノ)小町の歌「わがみよにふる」と言ふ樣に、相手にされなくなる事に使つてゐる。寂れて人も來ぬ、と云ふ位。▼寸 丈《タケ》・尺《サカ》・寸《キ》など舊尺度を表した語を以て、新尺度を飜譯したもの。
【口譯】 古の人で自分があるからか、没交渉のやうな、さびれた漣の都の跡を見る時に、心が悲しいことよ。
漣の國つ御神のうらさびて、荒れたる宮處《ミヤコ》見れば 悲しも
樂浪乃國都美神乃浦佐備而、荒有京見者 悲毛 (三三)
【音訓・言語】 ▼樂浪 さゝなみ。前に述べた外、神樂浪・神樂波とも書く。其を略した形が此だ。▼國都美神 天つ神に對する國つ神、即、土地の庶物の精靈の、所謂……つみ〔二字傍線〕。其向上した國つ神と稍違つて、此は國魂である。漣の國を治める威力を持つ爲には、此魂の來觸を要する。國魂を社に祀ることもあるが、元は國つ神と別だつたのだ。▼浦佐備而 浦は假り字。此は靈魂の游離する状態を云ふ。さびしい〔四字傍線〕、及び、平安朝のさうざうし〔五字傍線〕など、皆心の空虚で、魂の身にそぐはないことだ。「國つ御神のうらさぶ」とは、國魂の游離した爲に――近江宮廷の主上から――此國を治める威力がなくなつたのである。▼荒有 あり〔二字傍線〕に現在完了とLての訓をもたせた例が多い。其威力の根元が御身を離れた爲に、其宮廷も荒れたのだ。▼京 本集には、都城と宮廷と二通りに遣ふが、宮廷の方が多い。
【口譯】 漣の國の國魂《クニタマ》の神が、游離せられた。其爲に荒廢してる宮處を見る時は、いとしいことよ。
(290)【鑑賞その他】 既に述べた如く、此歌は精靈と其向上した神の信仰とが、まだ分れ切らない時代のものである。敍事脈は勝つてゐるが、所謂、詠史の形としては、古風でまた別樣な理會を以て述べてゐるところに、愛惜の情が見える。
高市連黒人近江舊都歌一首 (卷三)
かく故に見じと言ふものを。漣の舊き宮處《ミヤコ》を見せつゝ、もとな
如是故爾不見跡云物乎。樂浪乃舊都乎令見乍、本名 (三〇五)
右(ノ)歌、或本(ニ)曰、小辨(ノ)作也。未v審2此小辨(トイフ)者1也。
これも、右二首と同じ題材であり、表現法が似てゐるので、黒人のものと傳へられてゐたのだらう。だから、一方|小辨《セウベン》説もあつたのである。三首ながら人麻呂の「近江舊都之歌」とは、趣きが變つてゐる。口譯だけを添へよう。
こんな有樣なのだから、見ずに置かうと云つたものを。この〔二字傍線〕漣の舊い宮どころを見せ/\して、氣のないことよ。
この逆説的な言ひ方が、やはり黒人らしい新しい言ひ方で、奈良朝には喜ばれたものと思はれる。この歌の促す氣分に於いては、卷三の刑部垂麻呂の、「馬ないたく打ちてな行きそ。日《ケ》ならべて見ても我が行く 志賀ならなくに」と同樣である。いづれも漢文學の素養が、和歌の發想法を變化(291)させてゐると見るべきだ。
【言語】 是非解かなければならぬもとな〔三字傍線〕に就いて述べる。副詞。もとなく〔四字傍線〕・もとなし〔四字傍線〕と言ふべきところを、總てもとな〔三字傍線〕で表す。東歌に一つ、うらもとなくも〔七字傍線〕があるだけだ。從來、この言葉に對して適切な解釋がない。恐らく、平安朝のわりなし〔四字傍線〕に當る言葉で、多くの場合、それに修飾せられるべき形容詞・動詞を略して、意味を深くならせるものと思はれる。語原は不明。尚これに就いては、一昨年の「奈良文化」に出た、山田孝雄博士の考へ、又昨年冬の「國語及び國文學」に見えた、小林|好日《ヨシハル》氏の説は、必読むべきものだ。
二年壬寅太上天皇幸(セル)2于參河國(ニ)1時歌 (卷一)
何處にか 舶泊てすらむ。安禮の崎。漕ぎ廻《タ》み行きし ※[木+世]《タナ》なし小舟
何所爾可 舶泊爲良武。安禮乃埼。※[手偏+旁]多味行之 ※[木+世]無小舟 (五八)
【音訓・言語】▼船泊爲良武 ふなはてすらむ。泊ははつ〔二字傍線〕である。到著或は著岸すること。船がゝりしてるだらう。上の可は感動。▼安禮之埼 あれのさき。大寶二年三河御幸の時の歌だから、大體、尾張・三河の地名と見えるが、同時に出來た長(ノ)奥麻呂の歌は遠江引馬野の作であるから、此亦遠江のものとして、後の新居の邊だとしてゐる。其點に不安がある。▼※[手偏+旁]多味 こぎたみ。※[手偏+旁]の字は既に述べた。たむ〔二字傍線〕は、曲線状になること。廻る意。▼※[木+世]無小舟 たなゝしをぶね。普通の船は龍骨《カハラ》の上にかじき〔三字傍線〕、其上に重つてゐる※[木+世]との三(292)部分から出来てゐる。元來は、かはら〔三字傍線〕の部分に當るものゝみから出來てゐた。即、獨木舟の形だ。水跳ねを避け、惡魚の攻撃を防ぐ爲に設けた板が發達してかじき〔三字傍線〕となり、其上に兩側面につけた板が、更に舟邊となつて艇と言はれた。だから、※[木+世]無しは、かはら〔三字傍線〕だけの舟で、原始的な形に近いものだ。獨木舟でなければ、田舟の様なものであつたらう。
【口譯】 今頃、何處に行つて、船がゝりしてゐるだらうよ。日のある頃、安禮の崎、其處を漕ぎ廻つて行つた※[木+世]なしの舟、それが。
【鑑賞その他】 晝間、立つてゐた前をよぎり去つた船の印象が、夜復活した、極めてかすかにして靜かな氣分を詠んだもの。かうした境地は、他の人に見られない。夜になると、鏡魂の咒術をする爲に、其に適ふかうした夜の歌が發達したのだ。かう言つた類型は数多く、而も優れたものが澤山ある。夜の瞑想の歌のうち、単純で圖拔けたものだ。
あともひて 漕ぎ行く船は、高島の安曇《アド》の水門《ミナト》に、泊てにけむかも (卷九)
足利思代 ※[手偏+旁]行舟薄、高島之足速之水門爾、極爾監鴨 (一七一八)
この歌は、卷九に高市(ノ)歌一首とあるものだ。口譯だけして見ると、
澤山ひきつれて漕いで行つた船は、もう今頃、高島の郡の安曇《アド》の川口に、船がゝりしてしまつたらうよ。
(293)前の歌と、大體似た傾向のもので、やはり夜の靜寂に思ひを潜めてゐるのだ。但、前の歌ほど特殊な處はなく、興味が普遍的である。
我が船は、比良《ヒラ》の港に漕ぎ泊《ハ》てむ。澳《オキ》べなさかり。さ夜|更《フ》けにけり (卷三)
吾舶者、枚乃湖爾※[手偏+旁]將泊。奥部莫避。左夜深去來 (二七四)
何處にか我《ワレ》は宿らむ。高島の 勝野《カチヌ》の原に、この日昏れなば
何處吾將宿。高島乃 勝野原爾、此日暮去者 (二七五)
夜の靜寂と夜の鎮魂の目的の相反映した歌として、尚二首ある。かいつまんで述べる。
【音訓・言語】(一)▼比良の港 枚は片と同じくひら〔二字傍線〕と訓む。比良川の川口。▼澳べなさかり この部は方向を示す助詞へ〔傍線〕ではない。澳べに、と譯すべきところだ。(二)▼高島の勝野 高島郡のうち高島郷。今、湖水の西岸北部。饗庭野を北の限りとして、安曇川の兩側に擴つた地域。勝野は、その南限。大溝村明神崎附近。▼暮去者 くれなば。去は時の助動詞の第一變化な〔傍線〕に依つてゐる。が、語自身は將然・已然分岐以前の職能を殘してゐる。單なる音韻變化ではない。但、將然と見て説けぬ事はない。既に述べた通り、「我は宿らむ」の條件として、意味はぬれば〔三字傍線〕でも、形式はなば〔二字傍線〕でなければならない點もある。
【口譯】 (一) おれの船は、あの〔二字傍線〕比良川の川口に漕ぎ止めて、船がゝりしようよ。澳の方に離れて漕ぐな。夜が更《フ》けたことだ。
(294)(二) 何處らに、おれは泊らうよ。この高島の勝野の曠原で、今日の日が昏くなつてしまつたとしたら。
【鑑賞その他】 後の歌は、※[羈の馬が奇]旅の淋しさが、如何にも個性化せられて出てゐる。この點に於いて、最後の「婦負の野」の歌が、黒人のものとなつたと推定せられる理由かも知れない。
高市連黒人歌 二首 (卷三)
吾妹子に、猪名野は見せつ。名次《ナスキ》山 角《ツヌ》の松原。何時かしめさむ
吾妹兒二、猪名野者令見都。名次山 角松原。何時可將示 (二七九)
いざ子ども。大和へ早く。しらすがの眞野《マヌ》の榛《ハリ》原 手折りて行かむ
去來兒等。倭部早。白菅乃眞野乃榛原 手折而將歸
(二八〇)
黒人妻答歌一首
しらすがの眞野の榛原。行くさ 來《ク》さ、君こそ見らめ。眞野の榛原
白管乃眞野之榛原。往左 來左、君社見良目。眞野之榛原 (二八一)
旅中に愛人のことを言へば、直に紐を聯想する風な歌は、當代以後にも跨つてゐるが、其と變つて、既にかうした※[羈の馬が奇]旅相聞の新しい形を持つてゐたことの例として擧げる。尚、此後に出す「二見の道」の二首などゝ併せ見ると、或點まで黒人自身創作したものゝ樣に思はれる。恐らく、黒(295)人家集があつたなら、さうした種々の試みの行はれた跡が見えるであらう。
【音訓・言語】(一)▼猪名野 攝津國河邊郡猪名川の中流地方の曠野。池田・伊丹に亙る間と思はれてゐるが、古くは、尼个崎邊まで擴つて居たであらう。唯この歌によれば、奈良から二通りの道が思はれる。普通の猪名野を通るならば、山城の久世附近から川を渡つて、後世の酉國海道線に沿うた道を來たと見える。又、猪名野を下流の神崎川邊まで考へれば、難波邊を經過して行つたものと思はれる。▼名次山 古語すく〔二字傍線〕は、又しく〔二字傍線〕とも言ふ。接續近似する意味。次・如・及など宛てる語である。西(ノ)宮の北西に連つてゐる丘陵。角の松原も、其に隣接した地であつたのだらう。倭名抄、津門郷のあつた地が角〔傍線〕であつたとして、今の西(ノ)宮東南から北東へ亙る地方だとしてゐる。(二)▼いざ 誘ひかける言葉。時々いで〔二字傍線〕と混同することがある。▼子ども 多く從屬・部下の人たちに言ふ。但、旅行宴歌の類型として此句を使ふ習慣があつたから、おほよそ反省なく用ゐたものと見てよからう。▼大和へ早く 山上(ノ)憶良の「いざ子ども。早も倭へ。大伴の御津の濱松 待ち戀ひぬらむ」は、此歌の影響と見てもよい。文章の前後から見て、早く行かう、早く急げなどの意が出て來るのだ。▼しらすがの眞野 しらすが〔四字傍線〕も地名であらう。眞野・しらすが〔四字傍線〕近接して居つた爲に、かう言ふのだらう。しらすが〔四字傍線〕は、此歌によつて三河に考へる人もあるが、前後の關係から見れば、遠江でもよい訣だ。地名の永續を信ずる事が出來れば、後の白須賀を其と言ふことも出來よう。眞野は分布の廣い地名。單に野と云ふことではない。▼榛原 榛、この字ははり〔二字傍線〕の木、即はん〔二字傍線〕の木である。此皮を煮て茶染めの汁を取るが、本集で、嚴重に木本のはり〔二字傍線〕と考へられるものは尠い。同じく草本ではり〔二字傍線〕があつた。本草では王孫と書き、倭名ぬはり〔三字傍線〕又はつちばり〔四字傍線〕に當る。曇華科だんどく〔四字傍線〕か或は百合科に屬するものらしく、花の汁は濃い鬱金色を捺(296)すことが出來る。榛原などゝあるのは、みな此だ。歌に、「榛に匂ひて行かむ」・「衣にすりけむ。眞野の榛原」など言ふのは、類型に類型を重ねた結果、榛原に行つて直に色のつく筈はないのだが、かうした空想的な表現が出來たのだ。さすがに黒人は、「手折りてゆかむ」と衣に摺る料にするつもりを述べてゐる。此等の歌、有名であつたと見えて、「古にありけむ人の求めつゝ衣にすりけむ。眞野の榛原(卷七)」・「白菅の眞野の榛原。心ゆも、思はぬ君が衣にすりつ(同じく寄木)」などある。殊に木と見た處から見ても、此等が奈良朝末の歌人家持輩をまつ迄もなく、傳襲模倣をうけたものである。(三)▼行くさ來さ 細部に於いては、尚不明である。が、大體、行きしな歸りしなといふことらしい。▼君こそ見らめ 社の字をこそ〔二字傍線〕と訓むこと、本集以前からもあつたらしく、神名・神社名にもついてゐる。通常、立願の趣の表れを、來《コ》そと祈るところから、社にこそ〔二字傍線〕の訓を付けたのだとなつてゐる。尚疑問である。貴方は見てゐられませう、と強く言ひ切るところから、餘勢が殘つて、が私は見てゐないの意が出て來るのだ。
【口譯】 (一) いとしいお前に、猪名の原は見せた。さて〔二字傍線〕、わたしの今見てゐる〔さて〜傍線〕名次山、其處〔二字傍線〕の角の松原、それ〔二字傍線〕を何時、これだと見せようか。早く見せたいものだ。
(二) さあ者どもよ。國へ早く急がうぢやないか。さて、この〔四字傍線〕しらすがの傍の眞野の榛原。其處の榛を、暇がないから、折つて持つて行かうよ。
(三) 仰しやる通り、しらすがの眞野の榛原。行くというては、歸るというては、貴方は十分〔二字傍線〕見ていらつしやるでせう。が、わたしのまだ知らぬ、その〔わた〜傍線〕眞野の榛原よ。
(297)【鑑賞その他】 (一) 同じ旅行の歌か、それとも前回の旅を思うての歌か。先づ、「わが欲りし野島は見せつ。底ふかき あごねの浦の珠ぞ 拾《ヒリ》はぬ」(卷一)といふ古い御製の今樣に現れたもので、歌は朗かなものである。但、旅宴の歌だから、かうした即興を述べたゞけで、飜案の興味を覺えさすに止めたものらしい。
(二) 榛染めは、小忌衣の捺染の料だ。さうした旅中の祭事の印象が、唯の※[羈の馬が奇]旅宴歌にも、傳襲上現れて來るのだ。
(三) 二・五句繰り返しの形は、聲樂關係を十分に思はせる一種の古格であるが、歌の調を單純化する。宴歌として適切な、無内容な氣分を表現する。これも、妻の答へた形で黒人が作つて、同伴者全部の興味を唆つたのであらう。
妹も 我《ワレ》も、一つなれかも、三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる (卷三 ※[羈の馬が奇]旅)
一本に云ふ。 三河の二見の道ゆ別れなば、わが夫《セ》も我もひとりかも行かむ
妹母 我母、一有加母、三河有 二見自道 別不勝鶴
一本云。水河乃二見之自道別者、吾勢毛吾毛獨可毛將去
(二七六)
【音訓・言語】 ▼二見自道 三河寶飯郡御油を起點として、東へ海道が分岐して、濱名湖を渡る濱海道と、其を迂廻する姫海道の二つとなり、引馬《ヒクマ》・濱松邊で合つた。其姫海道を二見の道と説いてゐるが、成立から(298)見て、不都合である。二見は地名であらう。
【口譯】 いとしい〔四字傍線〕女も俺も一つ身であるからか、三つ三河の、二つ二見の道をば、別れて行きかねてゐる。
三つ三河の、二つ二見の道を別れて行つたら、いとしい〔四字傍線〕私の男も、私も一つ一人行かなければ、ならないだらうよ。
【鑑賞その他】 總論に述べた樣に、新しい歌體論の標本として作つて見た歌で、單なる遊戯とばかりは見られない。一二三を正逆に言ひ變へて、二首の唱和を作つたもので、此亦、前歌の樣に黒人一人の作である。別るといふのも、道に別れ進む義ではなく、唯行く者と歸る者ととつてよい。姫海道・濱海道の如き偶然の一致は、傳説・文學には、幾らもあることで、拘泥する必要はない。意味の理會なく、形の類似から、問答・相聞の歌の片方を一本とした例は、他にもある。類聚古集・古葉略類聚鈔の本文に、「一本云」がない。
旅にしてもの戀しきに、やましたの朱《アケ》のそほ船、沖に漕ぐ見ゆ (卷三 覊〔馬が奇〕旅)
客爲而物戀數爾、山下赤曾保船、奥※[手偏+旁]所見 (二七〇)
作良《サクラ》田へ鶴《タヅ》鳴き渡る。愛知潟《アユチガタ》潮干にけらし。鶴鳴き渡る
櫻田部鶴鳴渡。年魚市方鹽干二家良之。鶴鳴渡 (二七一)
(299) 磯《シ》齒津山うち越え見れば、笠縫の島漕ぎ隱る、※[木+世]《タナ》なし小舟
四極山打越見者、笠縫之島榜隱、※[木+世]無小舟 (二七二)
磯の崎漕ぎ囘み行けば、近江の湖《ウミ》八十の港に、鶴《タヅ》さはに鳴く
礒前※[手偏+旁]手囘行者、近江梅八十之湊爾、鵠佐波二鳴 末詳 (二七三)
住の江の榎津《エナツ》に立ちて、見渡せば、武庫の泊《トマリ》ゆ 出づる船人 (卷三)
墨吉乃得名津爾立而、見渡者、六兒乃泊從 出流船人 (二八三)
黒人の覊〔馬が奇〕旅の歌八首の中、類似の傾向のもの四首及び、同じ卷の「高市(ノ)連黒人(ノ)歌一首」とあるのを一括して云ふ事にする。現存の黒人の歌十八首の中、廣水面と其處を行く船の遠望を歌つて、更に、幽情を寓するものが、可なり有るのは、當時新手法と見られてゐたのだらう。
【音訓・言語】(一)▼山下 赤埴の山の崖方に露出してゐるのをとつたから、とする説に從ふ。枕詞。▼赤曾保舟 そぼ〔二字傍線〕は土の色、或は土の名。朱色である。赭土《ソボニ》・まそぼ〔三字傍線〕などいふ。そび土〔三字傍線〕を塗つた船が、そぼ船〔三字傍線〕で、其赤いことを表す爲に、更に、あけの〔三字傍線〕で修飾したのだ。洋上を行く船のする咒術である。官船とする説もあるが、當時の一般の民俗であつたのだ。(二)▼櫻田 倭名抄、愛知郡佐良郷とある。熱田の西南に方る海岸。知多半島の咽喉部。佐良の低地部で、田を作るからの名。飛鳥田・衾田の類。▼年魚市方 年魚あゆ〔二字傍線〕に市を熟せしめて、あゆち〔三字傍線〕と訓むこと本集以外にもある。愛知潟《アユチガタ》、熱田附近の遠淺の海。所謂宮の渡し、熱田を中心として愛知縣《アユチアガタ》があつた。……縣《アガタ》の地方の潟と云つた聯想から轉じたこと、海上《ウナカミ》潟の海上縣に於ける例だ。(300)(三)▼四極山 極ははつ〔二字傍線〕の宛字。又磯齒津とも書く。大阪の南、住吉の北。丘陵の下に在つた津。古代には、此から倭への道があつた。▼笠縫之島 後代は陸地になつたゞらう。大阪※[さんずい+彎]の三角洲の一部か。今、深江を言ふのは誤り。▼榜隱 こぎかくる。自動四段。かくるゝ〔四字傍線〕と同じ。(四)▼磯前 いそのさき。磯崎と訓んで地名とするのは、わるい。▼手囘 同一字でたみ〔二字傍線〕・たむ〔二字傍線〕であるのに、更に手《夕》を添へて、訓を確かにしたのか、それとも、手のた〔傍線〕に對して、囘をみ〔傍線〕の假名に遣つたものか。▼近江海 「あふみのみ」と訓むのもあるが、すべて、「あふみのう〔傍線〕み」がよからう。近江の國の湖水。うみ〔二字傍線〕は廣い水面を云ふ。池・沼・湖水・海洋に通じて云ふ。▼八十之湊 野洲郡・野洲川の川口。やす〔二字傍線〕ともやそ〔二字傍線〕とも云ふ。▼鶴 たづ。白鳥《シラトリ》をたづ〔二字傍線〕と云つたのだ。鵠の字を書いても、必しも、くゞひ〔三字傍線〕とは定らない。字と訓を融通しあつたのだ。▼未詳 八十港所在不明の由を書き入れたのだ。(五)▼墨吉 又|住吉《スミノエ》或は住江《スミノエ》。遠からずして住吉《スミヨシ》と直譯的に訓んだ。▼得名津 住吉に接した津があるが、多く其南方にあつたものと見てゐる。確には知れぬ。▼六兒之泊 武庫川々口、即、武庫の水門附近か。或は「泊」と云ふ地の性質上、和田岬の内側と見る方がよいか。不明。
【口譯】 (一) 旅に居つて、やるせなくさへあるのに、その時〔三字傍線〕朱い丹塗りの舟が、沖で漕いでゐる。それが見える。
(二) 作良の低地へ鶴が鳴いて飛び渡る。それよ〔三字傍線〕。愛知潟、そこでは〔四字傍線〕、潮が引いて了つたに違ひない。あれ、鶴が鳴いて飛び渡る。
(三) 磯齒津山、それを〔三字傍線〕越えて見た時に、向うにある〔五字傍線〕笠縫の島かげに、這入つて行く※[木+世]なし小舟よ。(301)それが見える。
(四) 巖石の立つてゐる〔五字傍線〕岬、それを漕ぎ廻つて行つた時に、近江の湖水、その野洲川の川口で、鵠が一ぱい鳴いてゐる。
(五) 住の江の脇の榎津の岸〔二字傍線〕に立つて、ずつと眺めると、武庫の船泊《フナドマリ》をば、出離れる船人、その船〔三字傍線〕が見える。
【鑑賞その他】 (一) 官船の都へ行くを羨む心持ちと考へなくてもよい。叙景詩として明確な意識で、朱のそぼ船を捉へた、と見ればよい。
(二) 赤人の「和歌の浦に潮みちくれば、潟をなみ、葦邊をさして、たづ鳴き渡る」は此摸倣だ。かの歌の趣向を持ち過ぎてゐるのに對して、此は單純なだけに優れてゐる。唯、例の通り二句五句重複する形が、聲樂としての單調と、論理的な遊戯感を含む。
(三) 此歌數多の類型歌を生じた。單純な趣好が、何時までももてはやされたのだ。古今集に「しはつやまぶり」として輯められたのを見れば、聲樂の上からも喜ばれたのだ。
(四) 此歌、やはり、聲樂として喧傳せられた爲か、「近江海 湖者《ミナト》八十《ヤソヂ》」(卷七)「近江のうみ泊《トマリ》八十有《ヤソアリ》。やそ島の島の崎々……」(卷十三)と云つた類型を生んだらしい。尤、泊八十有の方は、更に黒人の歌の前型でないとは云へぬ。
(五) 此歌などは、恐らく、叙景詩として非常に新味を以て迎へられたものであらう。唯、眞の寫(302)生でなく、空想を交へてゐる點は、餘り手に取る樣に印象鮮明に、事實を枉げ過ぎた上に、其船の船人の擧動をまで表さうとした事である。けれども尚、こゝに船人を出して來たのには、今からは訣らない理由があるのかも知れない。
夙《ト》く來ても、見てましものを。山背《ヤマシロ》の高槻《タカツキ》の村 散りにけるかも (卷三 覊〔馬が奇〕旅)
速來而母、見手益物乎。山背高槻村 散去奚留鴨 (二七七)
【音訓・言語】 ○夙く來ても もつと以前にといふ意を含んでゐるのだから、はや〔二字傍線〕來てもは不適當で、とく〔二字傍線〕來てもの方が勝つてゐるが、訓み方が尚あるかも知れぬ。○見てましものを て〔傍線〕は時間を表すよりも、音調に關係がある。まし〔二字傍線〕に、て置いたらよかつたものを、の意があるのだから。○山背 もと、奈良坂一帶の山彙の裏側の義から、木澤川の南岸から北岸に擴げて言つたのを、更に山城一國に擴げたもの。その以前は、木津・淀兩川合流地を中心に、漠然と山背を稱したらしい。○高槻 攝津國三島郡高槻。汎稱としての山背に含まれたと見られる。又、所謂古い山背地方と隣接してゐる爲に、竝べ言ふ地名例をとつたのかも知れぬ。新訓萬葉集「たかきつきむら」と訓んでゐる。生田耕一氏は、山城綴喜郡|大賀《タカ》、高神社の所在地附近を言ふ地名とし、槻村を槻の樹林と考へて居られる。この説、今迄のうち最優れてゐる。
【口譯】 こんな事なら、もつと以前に來て見て置いたらよかつたことよ。山城附近の高槻の名に負ふ槻の林が、散つてしまつたことよ。(一)(……山城地方の多河《タカ》の郷の槻の林が‥…)――(二)
(303)【鑑賞その他】 高槻の村の訓法竝びに解釋に就いては、いろ/\あつたが、近時は略、高槻の村〔傍線〕の槻の葉或は口譯の樣に説いて、「散りにけるかも」と、突如として言ひ續けたと解することから來る、力強い語調を古風だとしてゐた傾きがある。生田氏の説は、最當を得たやうに思ふ。併し、この歌に就いて持つ今人の聯想が棄て難くて、假に口譯(一)を試みた。
太上天皇、幸(セル)2于吉野宮(ニ)1時、高市(ノ)連黒人(ノ)作歌 (卷一)
大和には 鳴きてか行《ク》らむ。呼子鳥。象《キサ》の中山 よびぞ越ゆなる
倭爾者 鳴而歟來良武。呼兒鳥。象乃中山 呼曾遊奈流 (七〇)
【音訓・言語】 ○呼子鳥 諸説あるが、その鳴き聲のわこ〔二字傍点〕と聞えるところから付いた名で、恐らく郭公、即かんこ鳥のことであらう。○象 きさ。西域の歸化人などから得た傳説的知識であらうが、象をきさ〔二字傍線〕と名づけた訣は知れぬ。○象の中山 中山は道のよぎる丘陵で、後世の何々越えに當る。おほよそ、今の宮瀧の南岸に推定せられて居るが、訣らない。現存の地名喜佐谷も、古への象の中山の地に當るかどうか疑問である。
【口譯】 鳴いて、倭へは越えて行かうとしてゐるんだらうよ。あの〔二字傍線〕呼子鳥。それが象の中山、其處を高聲に鳴いて越えることよ。
【鑑賞その他】 黒人の正式な宴遊の歌として存する唯一首である。此にも、後に類型が出來てゐる。「來らむ」を普通口譯の樣に行くに解してゐるが、此處は普通の「來らむ」で説いてよくない(304)かと思ふ。
倭へは、この鳥が〔四字傍線〕、いつも鳴いて來てるんだらうよ。あの呼子鳥、それが……。
と譯すると、歌としての品位はおちるが、如何にも即興歌らしいところが出て來る。而も、象山・象の小川等を吉野川の南岸とする説に多少の疑問が起る。吉野川の北岸にあつて、飛鳥・藤原への山越え道になつて居り、其邊から流れ出る川の名でもあつたと思はれるのである。此處に言ふ倭は、吉野の山地に對して云ふので、宮廷の在り場處なる高市・十市・磯城附近、狹く見れば、飛鳥・藤原地方を指すのである。――大寶の太上天皇は、持統天皇でいらせられる。
高市連黒人歌一首 年月不審 (卷十七)
婦負《メヒ》の野《ヌ》の薄《スヽキ》抑し靡《ナ》べ降る雪に、宿|假《カ》る今日し かなしく思ほゆ
賣比熊野能須々吉於之奈倍布流由伎爾、夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊 (四〇一六)
右、傳2誦此歌1三國(ノ)眞人五百國是也。
【音訓・言語】▼賣比 めひ。越中國婦負郡。歌では、婦負川の兩岸地方をさしてゐる。後にはねひ〔二字傍線〕と言うた。▼夜度加流 やどかる。宿を借りるのか、假《カ》り廬《ホ》を構へて假り泊りするのか、此言ひ方では訣らぬが、姑く泊めて貰ふ方にとつて置く。▼可奈之久於毛倍遊 かなしく思ほゆ。倍は、へ〔傍線〕・ふ〔傍線〕と訓むから、ほゆ〔二字傍線〕でよい。今日がかなしい、と云ふのは、今日の今の自分がいとしい、と云ふことなのだ。けれども、尚當時のがかなし〔三字傍線〕なる語の用語例の一部を考へて見ると、魂が愛人の方へ游離してゐる状態を言ふ義を殘してゐる。即、(305)人を思ひ心の寂しく空しいあり樣なのである。
【口譯】 婦負川の曠野に生えてゐる薄。それを押し伏せて降る雪の中で、假り小屋を造つてゐる今日の今がいとしう感じられる。
【鑑賞その他】 心細いやうな、身が緊つて來る、いゝ感じのする歌だ。黒人が越中に旅した時に作つたものが、土地に傳承せられてゐたのであらう。大伴家持が、越中守として北國に行つた折に、此歌を採集した。家持は黒人を尊敬してゐたから、こんな歌が偶然にも出て來たのだ。黒人の歌は、此で打ち止めになつてゐる。
(306)續萬葉集講義 【昭和十年六月・昭和十一年一月「短歌研究」第四卷第六號・第五卷第一號】
(一) 天武天皇の御製
天皇御製(ノ)歌
みよしぬの みか〔二字傍線〕の嶺《ネ》に、時なくぞ 雪はふりける。間なくぞ 雨はふりける。』
その雪の時なきが如、その雨の間なきが如、隈もおちず 思ひつゝぞ來《コ》し。』
その山道を (二五)
天皇御製歌
三吉野之 耳我嶺爾、時無曾 雪者落家留。間無曾 雨者零計類。』其雪乃時無如、其雨乃間無如、隈毛不落 思乍叙來。』其山道乎
【音訓】 ▼耳我嶺 みかのね。「或本歌」に、耳我山とある。山峯の名が、「耳我」であつたのだ。守部は、前者には嶽を配したものとし、後者には、嶺を脱したものと見て、「嶺」が即ね〔傍線〕を表し、みかね〔三字傍線〕だとしてゐる。さうして、みかねの嶽・みかねの山など言ふ金御嶽《カネミタケ》に近い訓み方を附けようとした。巧である。此山名に關(307)するだけの事は、後に述べるが、山名をかね〔二字傍線〕と言ふと見ない方がよいのではないか。仙覺の、「みか」と訓をおろした前後、すべて、みゝか〔三字傍線〕であつた。みか〔二字傍線〕と訓んだ根據不明。但、誤りではない樣だ。守部の説は之に誘導せられて出たのだ。固有名詞に領絡の助辭「の」を入れたり、外したりすること、古くは自由であつた。みかね〔三字傍線〕・みかのね〔四字傍線〕・みかのやま〔五字傍線〕、皆同一である。更にみかね〔三字傍線〕(ノ)山と謂ふやうな呼び方も出て來る訣だ。だから山を意味するね〔傍線〕・やま〔二字傍線〕を外すと、名稱は「みか」であつた事が訣る。唯、みが〔二字傍線〕・みがね〔三字傍線〕・みかね〔三字傍線〕など、濁るかどうかは、疑問だ。萬葉の眞の用字例から見れば、「我」は濁らずともよいのだ。私は、みか〔二字傍線〕と清《ス》みたい。古く「みゝかね」「みゝかのみね」とあるが、此中には、「みゝが」と濁つて訓むつもりのがあつたに違ひない。近代多く、「みゝが」。みか〔二字傍線〕・みかね〔三字傍線〕二通りの外は、著しい誤訓。春滿の耳梨・耳成の誤字とする説も、地理不案内から出た臆説に過ぎない。▼落家留 零計類 ふりける。落・零をふる〔二字傍線〕に宛てた例は、極めて多い。疑ひはない。家〔傍線〕は、か〔傍線〕又は、け〔傍線〕に宛てる字。類〔傍線〕はruiの韻i或は、uiを落して表音した例によつたのだ。▼間無曾 まなくぞ。間の字ひま〔二字傍線〕にも使ふが、比處は、「ま」に定めてよからう。古義以前、大體「ひま」としてゐた。▼時無如 間無如「……がこと」と讀むのが、普通であり、當時あつた用法だが、「……ごと」▼思乍敍來 敍は原音Zyo、直音化してzo、之を次音と言ふのも、太田全齋の方法だが、便利だから、利用する。
【口譯】 この〔二字傍線〕吉野のみか〔二字傍線〕の峰には、時の差別もなく雪は、いつも降つてゐることだ。しつきりなく雨は、何時も降つてゐることだ。(308)おれは、あなたの事を考へて〔九字傍線〕、その雪の時の差別もない樣に、しよつちう〔五字傍線〕、その雪のしつきりない樣に、しよつちう〔五字傍線〕、山道の曲り角毎に立ち戻り、ため息づく程、思ひ/\してやつて來たことだよ。そのみかの峰の〔五字傍線〕山道をよ。
【言語】 ○みよしぬの 吉野と地名を言ふのとおなじだ。之《ノ》は、枕詞を示す一つの格となつて來てゐた。枕詞の格には、「の」を伴はない古格を傳承したものもあるが、後程「の」を盛んに使つた。「の」を以て、如く〔二字傍点〕・ではないが〔五字傍点〕など譯してよい譬喩的な意義の轉換を含めてゐるのが常である。この「之」などは、其とは別だが、枕詞の格から言へば、意義の差こそあれ、大した區別は感じられない。「之」がある故に、三吉野と言ふ語の描寫力が輕くなるのだ。但、此場合などは、稍違ふ樣に見える。「みよしぬのよしぬ」と言ふ枕詞的呼應において、「吉野」に對して、「みよしぬの」は、之を收約する樣な姿を取つて了つて居る。同じ地名のくり返しなるところから、枕詞そのものが、描寫力を張つて、根部になる「よしぬ」を併呑したのである。「まくまぬ――眞熊野の熊野」「さひのくま檜隈《ヒノクマ》」の如き形は、恐らく同名異地の多かつた地名から、其本源地又は最著しい處を區別して表す爲に、探つたものらしい。其が慣用の結果、枕詞が根部に代る勢力を持つて來る約束によつて、「みよしぬ」「まくまぬ」で、直に地名を示す習慣を生じたのだ。だから、かうした枕詞出の地名は、必今一つ以前に「みよしぬの……」「まくまぬの……」と言つた形のあつた事を考へねばならない。○みかのねに 平安朝以來かねのみたけ〔六字傍線〕或は單にみたけ〔三字傍線〕と言ふ。(309)又字を宛てゝ、金(ノ)御嶽、更に金峰山《キンブセン》など書く。此歌から見れば、みか〔二字傍線〕が山の名であつたのだ。其に山を示す嶺《ネ》なる語が割り込んで、かね〔二字傍線〕の方が重く見られ、み〔傍線〕は接頭語・敬語の扱ひを受けて、脱落せられるやうにもなつた訣だ。從つて嶺と言ふ語が二重について來るやうにもなつた。古くはみかね〔三字傍線〕とも、みか〔二字傍線〕のね〔傍線〕とも謂つた訣なのだ。○ときなくぞ まなくぞ 對句に使つて居るのだから、殆同義語程近づいてゐるのである。「時なく」の方は、何時と時に區別なく、常住など言ふ意。ある状態が持續せられてゐる事を示す副詞である。「間なく」は、隙き間のない状態を現す語で、「しきりなく」と譯するのが適切である。但、「ま」も亦、時を意味する語だから、空間の「ま」でなく、時間の上に言ふものと見て、「時なく」と正確に對句になつて居るものと見てよい。○ふりける このける〔二字傍点〕は經驗又は現實を表さうとするものではない。ある事象を知識化して示す場合に使ふのである。だから、過去でも詠歎でもない。「以前から言はれてゐるところでは、……言ふ風であるのが、常である」と謂つた形なのだ。
○そのゆきの そのああの で、今までの詞句を一擧に譬喩化するので、「その」は、さうした停頓の辭である。こゝに到つて、「みよしぬの……雨はふりける」の詞章は、序歌となるのである。但、最後の句に到つて、又關係が變化して來る。○くまもおちず 「も」は副詞句を作る語尾で、近代の感じでは、句の最後に移して考へればよい。くまおちずも〔六字傍線〕である。隈は隅とおなじであるが、入り込んだかど〔二字傍点〕に當る所。山のくま・河のくまなどがある。道が山の隈に行き當つた處が道(310)の隈である。其地點に到つて道は、屈折する。だから、曲り角と言ふ事にもなり、必しも山阿《ヤマクマ》に行きついた地形でなくとも言ふ。「おちず」は洩るゝ事なくで、「隈々すつかり」であり、「どの道の隈においても必」と言ふ事になる。○おもひつゝぞこし 此御製の中には、君とも、妹とも現れないが、此歌をお與へになつた意中の人があるのである。道の隈を曲る毎に山を高く登り、その人の家のあたりから遠ざかる思ひがするので、思ひ出されてならなかつたのである。隈毎に思ひ/\して來たと言ふのは、歌の類型的な表現である。「思ひつゝぞ來る」でもやはり、「來し」とおなじ過去表現と言ふことにとるのが、古意である。だが、「思ひ/\してやつて來てゐる」と意味にとることも、誤りだとは言へない。○そのやまみちを この一句で、今まで序歌の一部のやうに感じられてゐた「みよしぬのみかのね……」が甦つて來て、意義根部に這入つて來る。「を」は「をば」でなく、「よ」であることは勿論だ。近代風の感じを尊重すれば、「……よ。それを」と言ふ風に見れば、全然古風に反く訣でもない。
【鑑賞その他】 この御製、元より眞に御製であつたか、どうか保證せられない。さやう信ぜられて久しいものだから、單に眞作と言ふよりも、歴史的價値は高まつて居る訣である。天皇と吉野との深い交渉や、其入山の動機を傳説的に知つてゐる世間からは、この歌を御製と定め、さうして如何にも、おいたはしい感じを導きとして感じたものと思はれる。かういふ歌は、さうした背景を心に持つてこそ、表現の隱微な、類型から來る倦怠感も救はれるので、古代歌謡の價値は、(311)多くさう言ふ點にかゝつて居たのではあるまいか。
ある本の歌
みよしぬの みかの山に、ときじくぞ 雪はふるとふ。間なくぞ 雨はふるとふ。』
その雪のときじくが如《ゴト》、その雨の間なきが如、隈もおちず 思ひつゝぞ來し。」
その山道を (二六)
右、句々に相換れり。因つて、此《コヽ》に重ねて載せたり。 或本歌
三芳野之 耳我山爾、時自久曾 雪者落等言。無間曾 雨者落等言。』其雪不時如、其雨無間如、隈毛不墮 思乍敍來。」 其山道乎
右句々相換。因此重載焉。
(ことわり書き)或本歌については、尚相當に書かねばならぬものがある。近い月ごろに、之は別に書いて、この雜誌の卷末に附けて貰ふことにしたい。
天皇幸(セシ)2干吉野(ノ)宮(ニ)1時御製(ノ)歌《ウタ》
よき人の よしと よく見て、よしと言ひし吉野 よく見よ。よき人よ。君 (二七)
紀に曰ふ。八年己卯五月、庚辰朔甲申の日、吉野(ノ)宮に幸したり。
(312) 淑人乃 良跡 吉見而、好常吉師芳野 吉見與。良人四。來三
紀曰、八年己卯五月、庚辰朔甲申幸2于吉野宮1。
【序註】 ▼天皇 前の歌同様、天武天皇である。幸2于吉野宮1時とあるのを、左註には日本紀を引いて、八年五月の行幸だらうと言ふ暗示を作って居るが、當つて居るとは思はれぬ。上代の史實は、記録に載せられなかったものが多く、稀に記録せられたものだけを、日本紀その他の史書が、資料としたのだから、正史にあるからと言つて、譬へばこの「行幸」の件の如く、何囘となくあつたに違ひない吉野行幸を、一項の記事を以て規定するのは、却て誤つた方法である。殊にこの天子の樣に、即位以前も吉野に御隱栖あり、その後も、屡お出遊された事が想像せられ、其宮廷の慣習から、持統天皇の頻繁な行幸があつたらしく思はれもするのだから、相見て何時と定める事が出來ない。寧、吉野宮と言へば、この帝を思ひ浮べる所から、この歌が、この御代の御製と傳へられたのではないかと思はれる位である。吉野宮は、この帝御隱栖以來、皇室御領の一つとして、傳襲せられる樣になつてゐたのであらう。譬へば、蘇我氏の舊地島邸が、――恐らく――宮廷に没収せられて、島宮として繼承せられた樣に。
【音訓】 ▼※[淑の異体字]人 よきひと。淑の一態「※[淑の別の異体字]」が、書き拗げられたものである。奈良朝以下、この形は屡見えてゐる。山田孝雄翁は旁《ツクリ》の形は、「叔」の隷書「※[叔の又が寸]」から出て居るのだとせられた。諸家の説、大體よきひと〔四字傍線〕に一致して居る樣だ。定説と見てよからう。淑は善であるが、日本におけるよきひと〔四字傍線〕の内容は廣い。▼良跡吉見而好常言師 よしとよくみて。舊説に少しく「よしとき〔右○〕くみて」「よしとよし〔右○〕みて」を採るのゝあるのが、異風な位だ。此も定説と見てさし支へはない。「常」を「と」と訓むこと、(二)の歌に述べた。和訓(313)「とこ」のこ〔傍線〕を脱却したのである。▼吉見與 よくみよ。よしみよ〔四字傍線〕とする舊訓の外は、古い異訓は凡、誤字であらう。▼良人四來三 よへひと〔四字傍線〕と見える訓のある本は、「キ」の前型「\」である。やはり「よきひと」だ。良人をよしと〔三字傍線〕として、「よしとよくみて」をかへして〔四字傍点〕「よしとよくみつ」と亂《ヲサ》めたのだとするのが、一等異風だ。四來三には、諸説がある。「よくみつ」「よくみよ」「よくみ」などあるが、現代では「よくみつ」に據る人が多く、殆定説の樣になりかけてゐる。美夫君志が採用して以來、荷田御風の説が有力になつて來たのだ。だが、私は最舊訓によつて、「よきひとよきみ」でなければならぬと考へてゐる。
【口譯】昔居つたと言ふ〔七字傍線〕よい人が、よく思ひ見て、よい處だとして、あゝ〔二字傍線〕よいと言つた其から名の起つた〔八字傍線〕この吉野よ。よく思ひ見られよ。そのよい人と同じ〔八字傍線〕よい人なるあなたよ。
【言語】 ○よきひと 淑人の字義は必しも適切に據つて居ない。淑人は君子と同義語だから、君子として見ても、凡は當るが、少し漢意が強きに過ぎるかと思ふ。尤、儒學・漢文學式の發想は多く採り入れられて居る萬葉集だが。字を宛てた人は、さう言ふ理會の下に、この御製を感じて居たのだらうが、歌自體は、そんな考へ方からは、自由であつたと見る方が、ほんとうだらう。之をうまひと〔四字傍線〕と、訓んだ學者のあるのは、意義がある。單なる有徳者とか、美人とか言ふ事でなく、牡會的に顯貴として、肯《ムベナ》ひ認められた階級の人々を言ふのがうまひと〔四字傍線〕だが、其に近い意である。さうすると、淑人・君子にも、語義どほりに近よつて來るので、上流の人、大體に天子をさし奉る樣にも見える。「よしと言ひし」の項に述べるつもりであるが、其よりももつと、漠然とし(314)た意義に亙つてゐるのではないか。歴史上の天皇・偉人などの考への外、飛鳥朝には既に盛んに出て居た神仙などが這入つて來て居るのではないか。
歴史的に言へば、吉野に關係の深く入らせられる 雄略天皇などを斥《サ》すのでもあらう。又、この時代には、從來の山人《ヤマビト》或は山神に仕へた種族の人々に對する記憶が、神仙的の色彩を佩びて現れて居る。さうした民俗のあつた時代だ。殊に土地が吉野だけに、一層其が思はれるので、此「よきひと」は、神仙を斥《サ》すのではないかとも考へられる。大伴仙・久米仙・安曇仙など言ふ類のよき人〔三字傍線〕と見ても、不都合は感じられない程だ。私の考へは、此側に傾いてゐるのだが、假りに、天子・偉人のその代表の方として、牡略帝を考へると、「みえしぬのをむろ〔三字傍点〕が岳に……(古事記)」「やまとのをむら〔三字傍点〕の岳《タケ》に……(日本紀)」の御製は、元來|國見《クニミ》の歌としての成立を示してゐるのだから、追求して行くと、元は國ぼめ〔三字傍点〕などの意義が深かつたのではないか。「からごろも著《キ》 奈良の里の島松に、玉をしつけむ 好人《ヨキヒト》もがも(卷六)」「いもがひも ゆふや川内《カフチ》を いにしへの淑《ヨキ》(?)人《ヒト》見きと、此《コ》を誰か知る(卷七)」「妹がりと 新漢《イマキノ》嶺に茂《シ》み立てるつま 松の木は、吉人《ヨキヒト》見けむ(卷九)」の「よき人」と、「與伎比止乃現目《ヨキヒトノマサメ》に見けむ み足痕《アト》すらを 我はえ見ずて、岩に彫《ヱ》りつく。珠にゑりつく(佛足石歌)」では、稍距離があるやうに見える。が、後の方も歴史的確實性よりも、傳説的な色彩を含んだ言ひ方と見た方がよい。凡、「よき人」は、神仙の樣なものを意義中心に据ゑて居る事が察せられる。
(315)○よしとよくみて よしと思ひて、よく見、さうしての意だから、かつきりと譯する爲には、「よく見てよしと思ひ」と逆に説いても同じである。此よし〔二字傍点〕・よく〔二字傍点〕には我々が考へるよりも含蓄がある。「よく見て」は熟々見てゞはない。心豐けく見てなど異譯した方が當るのだらう。枕詞の「みこゝろを よしぬ」と言ふ呼應する形は、之を暗示してゐる。「御心〔右○〕よ。よしぬ……」で、國形を見ておいでになると、御心が和《ナ》ぎ、豐かになる事を言ふ頌詞《タヽヘゴト》である。よし〔二字傍点〕と言ふ語の讃美詞《ホメコトバ》に使はれた趣きに推察出來る。宮廷の周圍の國形をほめる頌詞を、直に宮殿の名に結びつけて來たのが、あの枕詞である。傳説上の聖儒・神仙がこゝに來て、豐けき心になつて之を眺め、心|和《ナ》ぐ眺めかなと思うて、ほめことばを發したと言ふのだ。
○よしといひし 前述の讃美詞《ホメコトバ》が、地名となり、更に宮號にもなつて行つた事を含んで居るのである。其地・其家に臨んだ人の讃美詞は、其地の運命を決定的に言ひ定めるものと信じられて居た。「よし」は讃美であると共に、豫言なのである。未來何時までも「よからむ」と言ふ意をも兼ねて居る。『速須佐之男《ハヤスサノヲノ》命、宮つくるべき地を出雲(ノ)國に求《マ》ぎ給ひき。爾《コヽ》に須賀の地に到りまして、詔《ノ》り給はく、我が御《ミ》心須賀々々斯と詔り給ひて、其地に宮作りましき。故其地は、今に須賀《スガ》と言ふ(古事記)」又、丹後風土記逸文の奈具社《ナグノヤシロ》の條「わが心なぐしくなりぬ」と言はれたとようかのめの神〔八字傍線〕の詞によつて、奈具の地名が出來たと言ふのも、其である。結局「よしと言ひし」と言ふ事自體が、其地に命名したことにもなるのである。即|吉野《ヨシヌ》の地名は、此事蹟から出たとする(316)物語があつたのだ。○よくみよ 昔居つた淑人同樣、よく見られよと言ふ敬語發想を省いた形である。二句の「よしとよく見て……」に呼應するので、其は古人、此は今、君よ豐けく和《ナグ》しく見よと言ふので、其人を讃《タヽ》へる事になる。
○よきひとよ。きみ 「よき人よくみ〔三字傍点〕」と訓む説は、「よき人よく見よ」と訓むのと同じで、み〔傍線〕の連用止めで、命令形になつて居るものと見るのである。連用命令形は、禁止の意を示す時には、著しく活動するものだが――勿行《ナユ》き・勿思《ナオモ》ひ・勿距《ナサカ》り――、溯れる限りの古文法で、連用形だけで完全に命令を示した時代の俤は薄れてゐる。「よく見《ミ》」が、「よく見よ」の意だと定めるのは、無理である。「よき人よく見つ」の方は、一二句を少しく形を變へてくり返した事になる。さうすると、感受が單純になるから、古風に見えるが、五句の迫つた調子が、安心出來ない上に、「見つ〔右○〕」のつ〔傍線〕が、「見き〔右○〕」となければ、時間が適應しない氣がする。勿論、一文章における過去表現は、一箇處あれば、他の時間は現在完了でも、唯の無時間の用言で表しても、よい樣にもなつてゐるが、かう言ふ場合は無理である。「來三」を「きみ」と訓む例は珍しいが、意義から言へば、一等叶ふ樣である。「あしびきの山に行きけむ山人の、心も知らず。山人や誰《タレ》(卷二十)」は、太上天皇を神仙と見做し、而も上皇御自身「あしぴきの 山行きしかば、山人の、われにくれたる山づとぞ。是」と仰せられた其山人は、上皇を除いて外にあるべくもないのにと逆説風に言つて、神仙であると言ふ讃美を申し上げたのと、同一手段である。吉野の地名を命けた淑人と、同樣なる淑(317)人なる君よ。古への淑人のした樣に、吉野をよく〔二字傍点〕見よ」と言ふので、結局、淑人――神仙としてとり扱つたのである。○きみ この君は、誰をさしてゐるのだらう。序を信じれば、天皇が、從駕の人々、上は皇后、皇子から大臣以下の者の誰かを對象として、歌はれたものゝ樣に説かれてゐるが、尠くとも、皇后でなくは、皇族の中にも尊い方に仰せられたものと言はねばならぬ。だが、此序は、恐らく誤傳を信じて書いたものではないかと思はれる。此程の頌詞を天子から受けられる方は、從駕の人々の内にある訣はない。こゝに君と呼びかけられた對象なる方は、天子御自身で、作者は、尠くとも皇子以下の人々と思はねば訣らぬのである。天武天皇の吉野と關係深くおありになつた事から、直ちに御製と感じて傳へたものと見る方が正しさうである。
【鑑賞その他】 この歌、ありてれいしょん〔八字傍線〕を意識的に用ゐたらしい例として引かれるものである。だが、其より寧、「よし」と言ふ語を疊みかけて行く興味から出來てゐると言ふべきである。其を極端につきつめて言へば、最後に今一つ、「四來《ヨク》……」とある方が適當らしくも思はれるが、「よき人よ。君」と、其格をはづしたところに、意表外に出た餘裕が感じられるのだ。だが、何にしても、此は單なる口拍子に乘つた偶然と見るよりも、一種「歌式」を意識した試みで、詩學の上の知識から出た學的遊戯と見るべきものゝ極めて古い一つでないかと思ふ。歌經標式即、濱成式には、「みよしのを〔五字右○〕よしとよくみて……」として記載し、一つの標目と見做して居る。後に歌式に列したゞけでなく、初めから多少、學的色彩を持つたものと見るべきであらう。
(318) (二) 藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロススメラミコトノヨ》 高天原廣野姫天皇《タカマノハラヒロヌヒメノスメラミコト》
天皇|御製取《ギヨセイノウタ》
春過ぎて 夏來たるらし。白栲《シロタヘ》の衣乾したり。天香具《アメノカグ》山 (二八)
天皇御製歌
春過而 夏來良之。白妙能衣乾有。天之香來山
【序註】 藤原宮 持統・文武兩天子の宮廷。但、萬葉集に藤原宮とあるのは、持統天皇の御宇を斥《サ》すので、文武天皇の御代には、大寶の年號を記してゐる。だから、高天原廣野姫天皇と、持統天皇の國謚を記し奉つたのである。藤原宮の所在地については、阪口保氏の研究及び集録以上の物はあるまい。「短歌研究」四月號「萬葉集大和地理辭典」を御覧願ひたい。
【音訓】 ▼來良之 初めて「きたるらし」と訓んだのは代匠記であらう。「きにけらし」が、舊訓として通用してゐたが尚、元暦本及び、類聚古集には、「なつぞ〔三字傍点〕きぬらし」とある。「きぬらし」の方は、萬葉の風としてはあるべきことだが、「きに〔二字傍点〕けらし」は、氣分訓みである。新古今築も此訓み方なのは、其以前の訓本に從つたのだらう。「百鳥の聲の戀しき波流岐多流良之《ハルキタルラシ》(卷五)」は、同樣の表現である。來有・來在などせずに、「來」一字で「きたる」に宛てたらしい例は、相當にある。「墨江に還來而《カヘリキタリテ》」「吾待ちし秋は來沼《キタリヌ》」「この月のこゝに來者《キタレバ》」「ありつゝも春し來者《キタラバ》」などは、「きたる」と讀むことに疑ひはない樣だ。尚半疑しいも(319)のは幾らもあるが、其中、「うちなびき春|來良之《キタルラシ》」「寒過暖來良之《フユスギテハルキタルラシ》」などは、發想法も用字法も似て居る。
▼白妙能 妙は「栲」の宛て字として、古くから用ゐられてゐるが、意義には没交渉である。▼乾有 「……來にけらし……ほすてふ……」と新古今にあるのは名高いが、由來は古いのだらう。「有」の字をてふ〔二字傍点〕に訓んだのは、來にけらしよりは、理由がある。元暦本一訓・古葉類聚抄に「ほしたり」以後「ほしたり」「ほしたる」説もないではなかつた。が、舊訓「さらせり」が行はれた樣である。唯「乾」をさらす〔三字傍点〕に宛てた例もないし、近代の古典感には、適合しないと言ふところから棄てられた傾きもある樣だ。「かわかぬ」と訓む説も古くは、相當力があつた樣だが、此は、元暦本「かわかる」の系統であらう。「乾有」だから、強ひて訓めば、「かわかる」である。其を合理化して「かわかぬ〔右○〕」と直したものと思はれる。「てふ」も、「さらせる」も「ほしたる」も、皆天香具山へ連續するのだが、其では、意義が循環する。やはり「ほしたり」に從ふのが、當然だ。▼天之香來山 「あま〔二字傍点〕のかぐやま」に馴れた向きもあるが、やはり「あめの……」でなければならぬ。此は一貫しては言へぬ言語の事だから、稀に除外例もあるが、領絡「の」のつく場合は、「天」は名詞。「の」なくして、「天」が直に下の名詞と熟語を作る場合は、屈折して「あま」となる。「天比登都柱《アメヒトツハシラ》【自v此至v都以v音。訓v天如v天】(記)」とあるのは、特例なるが故の註である。あま〔二字傍点〕と屈折すべき場合だが、あめ〔二字傍点〕と訓めと指定したのだ。「天を訓ずること」と言ふのは、此天の字は……と訓むべしとの意だ。「天の如くす」とは、名詞としての「天」を言ふのであめ〔二字傍点〕と訓む事を知らしたのだ。香來山は、香具山・香久山・賀久山・香山・高山などゝも書く。いづれも宛て字である。普通、「かぐやま」と濁音に定つてゐるが、清音「かくやま」かも知れない。
(320)【口譯】 春が行つてしまつて、夏がやつて來たにちがひないことよ。白栲の衣が乾してある。天(ノ)香具山。そこに。
【言語】 ○春すぎて 「すぐ」は、單に後世風に過ぐと感じるだけでは、割りきれないものが、古典を讀む上に殘る。「すぐ」に數義あつた時代だからである。どの場合にも等しく、此數義が強く現れて來るものとは言へないが、特に近似の意義として、此語を使ふ時に必隨伴して感じないでは居られぬ他義の聯想を、考へなくてはならない。「すぐ」は「つく(盡)」と語形に分化があつたに過ぎないと思はれる程、類義を持つてゐる。「無くなる」「死ぬ」「盛りが過ぎる」「經過する」などの義が、可なり常に交互に働きかけてゐる事を思はねばならない。「もみぢ葉の過去《スギヌル》君が」「時ならず過去《スギヌル》子らが」などは、死ぬることである。おなじ樣でも、「命|周疑南《スギナム》」は、「盡きる」と言ふ方に包含せられる。「歎きも未過爾《イマダスギヌニ》、思ひも未|盡者《ッキネバ》」は、對句表現として、「盡きる」と同義・同原なる事が示されてゐる。「花橘の落過《チリスギ》而」「思ひ應過《スグベキ》戀にあらなくに」は、なくなる用語例である。「須宜可提爾《スギカテニ》息づく君を」「花橘を見ずか將過《スギナム》」は、經過し、暮すことである。「つぬさはふ石村《イハレ》も不過《スギズ》」「二人行けど去過難寸《ユキスギカタキ》秋山を」などは、すつかり通つて了ふことである。いまだ磐余の間に居ることを意識して言つたのが、前例だ。「しきたへの袖|交《カ》へし君 たまだれの越《チチ》野に過去《スギヌ》。またもあはめやも」の如きは、こゝを通つて行つて了つた事と、死んだことゝ聯想が離れて居ない。通り過ぎる意の「すぐ」は、全然行き離れた事を言ふのが、正しい用語例ら(321)しい。「春過ぎて」は、すつかり春が行つて了つたことになる。
○なつ 昔の人には、なつ〔二字傍点〕と言ふ語を聞くと共に、特殊な聯想が起つたのだらう。其が此御製には強く働きかけてゐるのでないかと思ふ。語原論をすることは、時によつては最低劣な學問化して了ふ。だから避けるが、なつ〔二字傍点〕は「撫で物」の「なづ」と深い關係があつて、接觸によつて、穢れを落し去る祓への古法を修する季節の祭祀を、中心として出來た語であるらしい。だから、直に禊《ミソ》ぎ・祓《ハラ》への聯想が起るのであらう。此事は詳しく言はねば徹底すまい。唯、全體の意義に交渉のある點だけ觸れて置くにとゞめる。
○きたるらし 來にたり〔二字傍点〕と言ふ時の助動詞現在完了――てる〔二字傍点〕・た〔傍点〕――が連結せられた形と言ふ説によれば、活用はら行〔二字傍点〕變格と同樣にならねばならぬ。だが、四段活用に類した形を持つて居る所から、柴田猛猪氏は「來至る」の融合して出來た合成動詞とせられた。だから、「來てる」と譯するよりも、「屆く」「到著する」など言ふ風に言ふ方が近いのである。「み冬|都藝《ツキ》春は吉多禮登《キタレド》、梅の花 君にしあらねば、をる人もなし(卷十七)」都藝《ツキ》はつぎ〔二字傍点〕でなく、つき〔二字傍点〕である。「春過ぎて夏きたる……」と同じ形である。「きたる」には、場處を明示する傾きがある。茲に來た、手もとに屆いたと言ふ風である。○らし 故三矢重松先生は、根據ある想像助動詞と言はれた。但、必しも一文中に「らし」の推定の原由になる證據があるとはきまつて居ない。「靭《ユキ》かくる件緒《トモノヲ》ひろき大伴に、國榮えむと 月は照良思《テルラシ》(卷七)」「こゝにありて、筑紫やいづこ。白雲のたなびく山の(322)方にしあるらし(卷四)」。此等は割りに自由な想像である。だが他の想像と違ふ點は、自信を以て言つてゐるのである。だから、「……に違ひない」と譯すれば當ると思ふ。此歌などでは、明らかに、想像の根據となる「白栲の衣乾したり」があるのである。かう言ふ形をとるのが、普通だと思はれるまで、此例の類型が多い。
○しろたへのころも 白栲と書くのが正しい。たへ〔二字傍点〕又はたく〔二字傍点〕とも言ふ。恐らくたふ〔二字傍点〕と言ふ形が中間にあつたものと想像せられる。紙質の木の繊維を引いて作つた織物。此木が古くたふ〔二字傍点〕と言つたのであらう。多く穀《カヂ》(かぞ・かうぞ)の木を使つた樣だ。洗へば益白く曝れる所から好まれたのである。布の名でもあり、更に其から作つた衣服の名となり、習慣の結果、衣服はすべて、栲製の物でなくとも、「白栲の麻|衣《ゴロモ》」など言ふ樣にもなつた。たく〔二字傍点〕は、萬葉には、既に固定した古典的な熟語として殘つて居たゞけで、たへ〔二字傍点〕を普通としたのだらう。尚たへ〔二字傍点〕・たく〔二字傍点〕には、その利用法から聲音分化によつて、區別を示したのだと思はれる痕も見える。之呂多倍《シロタヘ》・之路多倍・志路多倍・思路多倍・思漏多倍など書いてゐるから、しらたへ〔四字傍点〕でない事も訣る。こゝでは、明らかに「白栲の衣」と言つて居る。白栲衣は、常用の衣でなかつた。祭祀儀禮時の物忌みを示す齋服であつたことは、本集を見ても、すべて明らかに知れる。又たへ〔二字傍点〕に細布――略して細――を宛て字するのは、栲布を讃美したものである。
○ほしたり たり〔二字傍点〕は現在完了助動詞。強ひて譯すれば、……てある〔三字傍線〕・てる〔二字傍線〕などに當るが、もつと(323)自由に見てよからう。詳しくは、「白栲の衣ほしたり。見ゆ」と言ふところである。衣を乾す事は、鑑賞の條に述べる。「はすてふ」と新古今に訓んだのは、有をなる〔二字傍点〕と同視したので、「衣乾すなる天香具山」と讀み換へて見ると、點者の意見のある所は訣る。なる〔二字傍点〕は、氣分表現の語で、意義に關係がない。……ところの……と譯して、説くことが出來る。「衣乾すところの天香具山」の意と考へたので、古く之に當るてふ〔二字傍点〕――とふ〔二字傍点〕・ちふ〔二字傍点〕などの稍新しい形、といふ〔三字傍点〕の融合形――を訓に用ゐたので、近代ならばなる〔二字傍点〕で行くところである。○あめのかぐやま 大和中央平原郷、奈良朝以前久しく都のあつた飛鳥地方の東北に立つて居て、後に連亙する山脈を背負つた樣に見える端山であり、獨立丘でもある山。其で注意を牽くと共に、信仰を集めるやうになつた。山の名「天」を冠するのは、伊豫風土記逸文に天上の香具山が、地上に落ちて大和・伊豫兩國に分れ殘つたのだと言ふ。が、天堕來の故に「天――」と言つたとの考へは、後世的である。古代祭祀に、地上の祭りも、天上において行ふと同じ靈感を以てしたところから、之に關與する人も土地も悉く、其間は天上のものと見做されるのであつた。祭祀時の感激が久しく續いて、日常にも、神聖なる場處は、やはり、天上の地域の如く感じた。「天香具山」は、天上の其靈山と見做されて用ゐられた爲に、遂に其名がついたのである。今大和磯城郡、時代によつては十市郡にも屬してゐた。此等の事も、既に(二)の歌の解釋の條に説いた。
【鑑賞その他】 季候の推移に驚くと言つた類型の中の極めて古い一つで、其だけに注意もせられ、(324)人に喜ばれてゐる。あまり名高く、民族的知識の底にこびりついてゐる爲に、今更此歌の價値を判斷するに適しない難物を聯想の中に交へてゐる氣がする。が、歌としては單純直截なものであらう。近代的の見方でよいと思へば名歌とも感じられるが、古歌として見れば、單なる文學として味ふだけで足れりとすべきではあるまい。
藤原の都を圍む大和三山の中、一番都に近く、東の宮門に迫つて立つてゐるやうに見えたであらう。その山の上と見なくとも、近邊の村里にでも乾してあると見てよい樣に思はれる。が、又新にやはり山の中腹、或は上の方に見えると思はねばならぬかとも考へるのだ。其は、單に春夏交替の時期に行はれる更衣《コロモガヘ》の爲の曝衣《サラシギヌ》だと見られて來たのだが、さうばかりも思はれない。穂積忠君の考へと、私の考へと搗きまぜて述べさせて貰ふ。山ごもりする處女たちが、齋衣《ヲミゴロモ》を乾して置くのでないかとの推測である。穂積君は、南島の清水に關聯した島の巫女たちの舊傳承を思うての美しい聯想である。香具山で、禊ぎをする巫女が、其|天羽衣《アメノハゴロモ》とも言ふべき聖衣を脱ぎかけて置くものとするのだ。さなくとも、此頃村の處女の野遊び・山行きの時季で、後代は一日だが、以前は幾日か山中に處女だけが籠つて、當年の田栽ゑの五月處女《サヲトメ》たるべき資格を得る爲の物忌みをする事になつて居た。春夏の交の村の此行事は、古代から行はれてゐて、比叡山の花摘社《ハナツミヤシロ》の故事などもある。持統天皇、香具山の上邊に掛け連ねた白栲の齋服を望まれて、おなじ御女性としての思ひ推《ヤ》りを、山籠りの人々の上に走せられたと見るのは、或は正しいのでなかつたかと考へる。
(325) (三) 藤原(ノ)宮の役民《エノタミ》の作れる歌(五〇)
やすみしゝ わが大君 たかてらす 日の御子《ミコ》。あらたへの 藤原がうへに、食國《ヲスクニ》を めし給はむと 都宮《ミヤコ》は高しらさむと 神《カム》ながら思ほすなべに、天地《アメツチ》もよりてあれこそ、いはゝしの 淡海《アフミ》の國の、ころもでの 田上《タナカミ》山の、まきさく 檜のつまでを、ものゝふの やそ宇治川に、玉藻なす 浮べ流せれ。』其《ソ》を操《ト》ると集動《サワ》ぐ御民《ミタミ》も、家忘れ 身も全知《タナシ》らに、鴨じもの 水に漂《ウ》き居て、『新《イマ》造《ツク》る日《ヒ》の朝廷《ミカド》に、知らぬ國より』久世路《コセヂ》ゆ、『我が國は常世《トココ》にならむ 圖《フミ》負《オ》へる靈《アヤ》しき龜も、新代《アラタヨ》と』泉《イヅミ》の川に、持ち越せる眞木のつまでを、もゝたらず 桴《イカダ》に作り、溯すらむ 勤《イソ》はく 見れば、神ながらならし
右、日本紀に曰ふ。朱鳥七年癸巳、秋八月、藤原(ノ)宮の地に幸す。八年甲午、春正月、藤原(ノ)宮に幸す。冬十二月庚戌朔乙卯、藤原(ノ)宮に遷居す。
八隅知之 吾大王 高照 日之皇子。荒妙乃 藤原我宇倍爾、食國平安之賜牟登 都宮者高所知武等 神長柄所念奈戸二、天地毛縁而有許曾、磐走 淡海乃國之、衣手能 田上山之、眞木佐苦 檜乃嬬手乎。物乃布熊 八十氏河爾、玉藻成 浮倍流禮。』其乎取登 散和久御民毛、家忘 身毛多奈不知、鴨自物 水爾浮居而、『今※[□の中に吾]作曰之御門爾、不知國依』巨勢道從、『我國者常世爾成牟 圖負留神龜毛、新代登』泉乃河爾 持越流眞木乃都麻手乎、百不足 五十日太爾(326)作、泝須良牟 伊蘇波久 見者、神隨爾有之
右、日本紀曰。朱鳥七年癸巳秋八月幸2藤原宮地1。八年甲午、春正月、幸2藤原宮1。冬十二月庚戌朔乙卯、遷2居藤原宮1。
【口譯】 我が天子樣、日の神の御子なるおん方。その御方が、藤原の邊《アタリ》で、天つ神の御領土なるこの國をお治めなさらうと、宮殿をば荘嚴にお作りにならうと、尊い御意志を以て、お思ひ立ちなさると同時に、天の神・地の神も、協力し奉られるので、それで、神は、近江の國の田上山の檜の榑木《クレキ》を、宇治川に浮べ流し出された。その木を取り扱ふために、どや/\と働いてゐる天子のおん民も、家のことを念頭から離ち、身のこともすつかり訣らなくなつて、鴨のやうに水の上に漂流して居つて、『新造の日の神の宮廷に、今まで經驗したことのない國が寄つて來よ〔二字白ごま傍点〕といふめでたい名の』久世道《コセヂ》をば、『この我が國及びわが宮廷は、永久不變になるだらうといふ、そのめでたい模樣を背《セナ》に持つた不思議な龜も、結構な御代として、現れ出る〔二字白ごま傍点〕るといふ、縁起のよい名の』泉川に運び越した、その眞木の榑木を、筏に作つて、あのやうに川を溯してゐるのだらう。その忠實にと立ち働いてゐるのを見ると、神の御意志によつて、かく現れるにちがひない、と思はれることよ。
【序註】 藤原宮之 本文の註に述べる。此は、藤原宮を造る時のゝ意である。▼役民 古本多く※[人偏+殳]となつてゐる。役の古躰である。役は元來名詞としては、え〔傍点〕と謂はれ、賦役の義である。役に徴發する事を、「えーだ(327)つ」と言ふ。賦役に徴《メ》されたのを、役民と書いたのだ。だから、「え〔傍線〕のたみ〔二字傍線〕」又は、「えだち〔三字傍線〕のたみ〔二字傍線〕」或は、「えだてるたみ」何れでもよい。唯、古姓に役《エ》君・役首などある。衣君《エノキミ》などの借名でなければ、役民の部領者である。かうした獨立性もあつた語だから、役民《エノタミ》と訓むことにする。
▼此歌果して、藤原宮造営の時の役民の作歌か、どうかは頗疑問がある。その諸點は、後に述べるが、作者が別にあつて、役者の謠ふ所の詞章を與へたとも思はれるのである。又、藤原宮について、出來たものかどうかに、第一の疑惑がある。古代の歌、殊に、かうした咒詞に近い内容を持つた詞章には、特別の約束があつて、前代の詞章によつて、祝福せられた故事を重んじて、其を多く改める事なく、次代又次代に流用した。其處に種々なる矛盾が起つて來る。此歌の如きは、實に藤原宮役民歌と見るよりも、恭仁宮に關するものと見る方が、當るのである。而も、何の爲に、かうした形を採つたのか、又どうしてさう謂ふ詞章上の傳習が生じて來たかについても、敍述する積りで居る。萬葉集を讀むにも、單に語句以上にある約束を、考へに入れてかゝる必要があるのである。
【音訓】 ▼八隅知之 やすみしゝ。「八隅」は、合理的な宛て字。徳八荒に及ぶと言つた聯憩である。「知」をし〔傍線〕と訓ませるのは、語尾のる〔傍線〕を漢子の子音同樣に考へて、これを省いて發音してもよいとの考へからだ。「日雙知」をひなめ(み)し〔五字傍線〕と訓むのと同じ理由である。即、「常」をと〔傍線〕の表音假名とし、「苑」をそ〔傍線〕と宛てたりするのと同じで、誤解乍ら廣く用ゐられたらしい。「之」は音假名。▼高照 又、高光とも書く。たかひかる〔五字傍線〕と訓む説と、たかてらす〔五字傍線〕と訓むのと、兩説ある。尚、一處、「高輝」ともある。どちらかに統一して訓まれねばならぬ筈である。近年、たかてらす〔五字傍線〕説が有力になつて來てゐる。▼宇倍 うへ。「倍」は、こゝは(328)恐らく、清音に用ゐたのであらう。▼都宮者 みやこは〔四字傍線〕と訓むのがよからう。舊訓みやこには〔五字傍線〕、古訓みやこをば〔五字傍線〕・とつみやは〔五字傍線〕などあり、新訓では、春滿おほみやは〔五字傍線〕、眞淵みあらかは〔五字傍線〕、近年、眞淵説が行はれてゐたが、今は、「都宮」でみやこ〔三字傍線〕と訓み、「者」をは〔傍線〕と訓む説が、普通のやうだ。▼高所知武 「所」は用法の廣い漢助辭である。敬語に使つた例も、當代文獻に多い。こゝは「知」の敬相を示すのだ。即高しらすで、其に武がついて、「しらさむ」と訓む事を表す。▼神長柄 かむながら〔五字傍線〕で、かみながら〔五字傍線〕ではない。字はながゝら〔四字傍線〕が融合してながら〔三字傍線〕となり、地名は勿論、器具にも通用したのであらう。本集には、「つまと言長柄」などある。隨神を宛てるが、本集は寧、神隨と音の順序に竝べてゐる。又、一處、語原的に、神在隨を以てしてゐるのもある。▼縁而有許曾 よりてあれこそ。普通、よりてあれこそ〔七字傍線〕と訓んでゐるが、私は又、よして……と訓む考へをも持つてゐる。▼磐走 又、石走とも書く。「石走之」の例もある。これを名詞に訓んで、「瀬々ゆわたる石走もなし」「石走の間々に生ひたる顔花の」は石橋・石椅に通ずる。又、「石走激ち流るゝ」の如きは、「伊波婆之流たぎもとゞろに」と同樣の熟語動詞である。たぎ〔二字傍線〕の例から見れば、垂水《タルミ》にかゝる「石走」も、いはゝしる〔五字傍線〕だらうが、それは、いはゝしの〔五字傍線〕と訓めないとも限らぬ。但、「石走遠き心」「石走甘南備山」などは、いはゝし〔四字傍線〕と定めてよからう。たゞ、近江にかゝる枕詞の場合、單に、語原説を以て、訓み方を定める訣にもゆかぬ。甘南備山に石橋があつたやうに、近江といへば、聯想せられる石橋の考へられない今からは、結局、消極的に、水の激する意味のいはゞしる〔五字傍線〕なる動詞が、近江にかゝる理由がないといふ位を根據にして、いはゝしの〔五字傍線〕説を採るより爲樣がない。▼田上山 たなかみやま。近江栗太郡の地名。古くから、田上に宛てゝゐる。神功紀に、「淡海の海 瀬田の済に潜く鳥 多那伽瀰須疑※[氏/一]《タナカミスギテ》、宇治に捕へつ」とあるのや、雄(329)略紀に見えた、「谷上濱《タナカミノハマ》」、天孫本紀の「谷上刀婢《タナカミノトメ》」などに據つて、たなかみ〔四字傍線〕と訓んだことは訣る。▼檜乃嬬手 ひのつまで。この歌の末に、眞木乃都麻手とあるから、訓假名としてつまで〔三字傍線〕と訓む。▼浮倍流禮 うかべながせれ。「倍」の字の無い古本も「流」の字の無い古本もあるが、揃つてゐる方がよい。茲は、うきてながるれ〔七字傍線〕かうかべながせれ〔七字傍線〕である。他の訓み方では、意が通らぬ。▼散和久 さわぐ。この「久」は濁音に訓む。尤、當時の發音は訣らない。▼身毛多奈不知 みもたなしらず〔七字傍線〕又みもたなしらに〔七字傍線〕と訓む。今は、しらに〔三字傍線〕を採る。▼今作 いまつくる。「今」は、意味から改めた。「吾」でも十分訣るが、かうした詞章では、「今」であるべき理由がある。▼不知國依巨勢道從 「しらぬくに、よりこせぢゆ」と五音六音に訓む。尤、調子の點以外はゆ〔傍線〕でもより〔二字傍線〕でもよいやうだ。▼圖負留 「圖」はふみ〔二字傍線〕、「負留」はおへる〔三字傍線〕。天平元年八月五日の詔にも、負圖龜一頭の字が見えて、ふみおへるかめひとつ〔十字傍線〕と訓んだらしく思はれる。▼神龜 古訓・舊訓、凡、あやしきかめ〔六字傍線〕に一致してゐる。恠・奇・靈・神、皆通じて、あやし〔三字傍線〕である。その中、後の二つは、くすしき〔四字傍線〕とも訓めさうである。姑らく、あやしき〔四字傍線〕に從つておく。神龜の字面は、神龜元年二月の詔にも、天平元年八月の詔にも見えてゐる。▼新代 あらたよ。古訓・舊訓、「新」をあたら〔三字傍線〕・にひ〔二字傍線〕などゝしてゐるのは、宛らない。▼百不足 もゝたらずといふ例は、古くからある。▼五十日太 いかだ。「五十」も「五百」も皆、い〔傍線〕である。日に熟して「五十日」は、いか〔二字傍線〕と訓む。た〔傍線〕の濁音を表記するのに、「太」を使つて、「筏」に當てたのである。▼泝須良牟 のぼすらむ。泝は溯である。須の屬《ツ》いた場合は、のぼす〔三字傍線〕と訓むべきである。▼神隨爾有之 爾有はなら〔二字傍線〕・なり〔二字傍線〕を表す例である。即、ならし〔三字傍線〕である。かむながら〔五字傍線〕は既出。
(330)【言語】 ○やすみしゝ 本集では、「安見知之」「八隅知之」に大體書き分けてゐる。八方をお治めになる義と、安らかにお治めになる(安治)と、君徳を祝福讃美したと言ふ風に、合理解を加へてゐたのである。だから、既に元の意義は決定出來なくなつてゐたことが訣る。采女に安見兒《ヤスミコ》あり、宮殿に安殿《ヤスミドノ》――大安殿・小安殿――のあることなどが、この語の起原を暗示してゐる樣だ。御息所《ミヤスドコロ》は、皇子を生み奉つた婦人の名で、元はみやすみどころ〔七字傍線〕である。而も、安殿が大極殿に當る我が國古來の正寢であり、又祭日の夜、こゝに同床の儀あるを思へば、いこひ〔三字傍線〕の意味のやすみ〔三字傍線〕と通ずる處ある事は明らかである。別説に述べたが、此夜、神降臨の信仰のもとに、正寢に入らせられるのである。やすみ〔三字傍線〕の原義はそこにあつて、あもります〔五字傍線〕に近いものであらうと思ふ。その第二義以下に、正殿に一夜臥し給ふことを言ふ樣になつたのであらう。しゝ〔二字傍線〕は、本集時代の標準的な敬語法から言へば、せす〔二字傍線〕である。その一つ前は、さす〔二字傍線〕である。更に溯れば、しす〔二字傍線〕であつた。この三段の展開は、ほゞ本集によつても察しることが出來る。そのしす〔二字傍線〕時代に於いて、やすみしす〔五字傍線〕(やすみせす・やすみさす)があり、その固定句を作る形が、「……しゝ」であつた。通常枕詞の格は、連用名詞句によつて示されるのであるから、やすみしゝ〔五字傍線〕がやすみせすこと〔七字傍線〕(或はものところ〔五字傍点〕)などを意味することは訣る。即、皇族を呼び申すに、おほきみ〔四字傍線〕の稱號をもつてしたが故に、その天子で在すことを示す爲に、特につけるやうになつた枕詞である。だが、慣用の久しき、逐に唯、おほきみ〔四字傍線〕にかゝる枕詞と思ふ樣にすらなつた樣である。而も尚、皇子尊《ミコノミコト》の樣な尊い方を(331)言ふのは、古義を失ひきらなかつたのであらう。○わが大君 わが〔二字傍線〕はおのが奉仕する御方なることを示す。多少誓約の義を殘してゐるのだらう。おほきみ〔四字傍線〕は、諸國の君々《キミヽヽ》と稱した舊國主族に對して、その上に臨ませられる尊貴なる御一族の稱呼となつた。骨《カバネ》と言へば畏いが、その考へ方で見るべき古代だから、大君は御|族《ウカラ》全體の稱へであつた。故に、天子の御ことにもなり、皇子にも當り、又皇子の御子以下にして、大君の族《ウカラ》なる方々までもこめて言つた。だから、或場合には、諸王をおほきみ〔四字傍線〕と言ふこともある。尊貴族の御うち、最神聖なる御方を示す爲にやすみしゝ〔五字傍線〕を冠して、混じない樣にしたのだ。○たかてらす 高光る〔三字傍線〕と訓むにしても、義は一つである。日〔傍線〕の枕詞。形容詞語根と動詞との熟語である。日が天高く輝いてゐる處から言ふ。而もこの枕詞が、日の皇子を頌し奉るに最ふさはしい聯想をおこさしたのであらう。○日の皇子 本集時代にも、末期には既に、神聖を表す爲の修飾或は譬喩の樣に「日」の語を感じてゐたかも知れぬが、この語起原及び正格な用語例は、日の神の御子と申す處にある。而も、日の神の御子と言ふものにも、その尊貴を示す譬喩表現の樣にも思ふ人があるのは違ふ。信仰的に、常にお一人づゝ替り/\に、この世に日神の御子下らせ給ふと信じてゐた。だから日神の御子孫と言ふ樣な緩かな表現ではない。以上の對句が、天子の御資格を表現するので、古い形に從へば「やすみしゝ我が大君」一つだつたのが、延長せられたのだ。その句の後に、「その御方が」と言ふ位の語をもつて、下に續けて解けばよからう。○あらたへの 枕詞。藤〔傍線〕をおこしてゐる。たへ〔二字傍線〕は「栲」であり、「栲布」であり、(332)又「栲布の衣」であつた。更に擴つては、總ての衣の稱ともなつた。あらたへ〔四字傍線〕は、にぎたへ〔四字傍線〕の對照で、精製しない布衣である。粗服である。ふぢ〔二字傍線〕は、まふぢ〔三字傍線〕である。其繊維を以て布を作る。今も山村には用ゐる。その布衣が、この語によつて聯想せられるからである。○藤原がうへに 藤原もと大和國高市郡飛鳥の丘陵によつて、大原と稱へた地。特に、その地に居住した一族の聖職の名と思はれる藤原といふ名を稱する樣になつた。藤原は、必しも藤原氏の專有した稱號ではない。衣通姫を藤原琴節郎女と言つたのも、其一例だ。持統天皇の御代に至つて、飛鳥京を香具山の西、甘橿鷺栖阪の北、今の高市郡鴨公村を中心とした地に遷し、漢土の制に則つた都城を造られて、之を藤原の宮と稱せられた。宮號は飛鳥の地名を將來せられた訣だ。このこと次の「五十二」の長歌に、「藤井我原」に奠都せられた由を言ふのと矛盾する樣だが、さうでない。飛鳥の藤原それ自身が、水の聖職に基く「藤井」の清水のあつたのと一つ理由の名であらう。此外又、飛鳥|八釣《ヤツリ》の地が、藤原にも移つてゐる。左註に引いた日本紀の本文の通り、朱鳥七年以前既に、四年十二月朔日にも記事がある。「天皇藤原に幸して宮地を觀る」とあり、其後四年を經て、八年十二月藤原の都に遷居せられた。昭和九年四月、藤原宮趾發掘研究の企てがあつて、物的證據も收められたから、大體に於いて、鴨公村高殿中心説は動かないものと言つてよい。尚、此歌については、阪口保氏著「萬葉集大和地理辭典」參照を乞ふ。○うへに うへ〔二字傍線〕・かみ〔二字傍線〕共にほとり〔三字傍線〕を意味する。こゝもほとり〔三字傍線〕が、周圍を意味するだけでなく、その中を言ふのだ。○食國《ヲスクニ》 天子の御領土(333)と言つた意味に感ぜられてゐるが、元、食國は天神の御領で、そこに、神の食物《ヲシモノ》たる稻を作るものと、考へてゐた。その意味に於いて、後代からは飛躍した言ひ方に聞えるが、をす國〔三字傍線〕といつたのだ。その天の直下の地へ、天神の御子が下つて食國の政をとり行はれるとの古代信仰が、遂に食國を神の御子なる天子の御料の地と言ふ風に、内容を擴充していつたのである。○めし給はむと めす〔二字傍線〕は、語原的にはみる〔二字傍線〕の敬語。みる〔二字傍線〕が種々の動詞の代用となるところから、めす〔二字傍線〕の意義も範圍が廣い。こゝは、治める意味のみる〔二字傍線〕の敬語である。即、見、知ることである。これに近いみす〔二字傍線〕・みし〔二字傍線〕と言ふ形もある。見爲・見之など書く。相當の用語例を殘してゐる。見をもめす〔二字傍線〕・めし〔二字傍線〕と訓んで了ふのはわるい。めし給はむと〔六字傍線〕の句は、四句を隔てた「思ほすなべに」に論理的に續くのである。同じく次の、二句も、「思ほすなべ」に續く。○みやこは 萬葉に於けるみやこ〔三字傍線〕は都城を意味するものよりも、宮地・宮殿の所在、或は宮殿を意味するものが多い。其が又古義なのだ。宮廷を圍む地をみやこ〔三字傍線〕の邑と見るからの轉義だ。だから「都宮」をみやこ〔三字傍線〕と訓んでも不都合はないと思ふ。意義から言へば、おほみや〔四字傍線〕と言ひみあらか〔四字傍線〕といつても不都合はないが、さう訓む根據が乏しい。尚次條參照。○高しらさむと この語は、古代咒詞以來、常に宮殿のほめ詞に用ゐられて、次第に意義の理會を變じて來たと思はれる。語原的には、しる〔二字傍線〕はいちじるしくあり〔八字傍線〕・いちじるしくする〔八字傍線〕と言つた風に考へられ、又慣用の對句から考へると、「宮柱太しきたて」のしく〔二字傍線〕と同義のものとも考へられる。だが、對句としての慣用から、類音の語が次第に歩みよる傾向をもつ(334)てゐるから、一概にさうも言へない。或は舊説の如く、天子の領治せられる意味のしる〔二字傍線〕に、敬語としてたか〔二字傍線〕の接頭語をつけたものと見る方が正しいかも知れぬ。尊貴の御方に關する語として、次第に意義を變じて、末には第一義に嵌らない多くの例をもつて來たと見られるのである。高しる〔三字傍線〕の敬語高しらす〔四字傍線〕の第一變化、高しらさむ〔五字傍線〕である。○かむながら 古代國語は、熟語を作る場合、上にある語の、屈折を生ずる例が多い。かみ〔二字傍線〕も亦かむ……〔四字傍線〕と言ふ風に、音韻を變じるのである。この語に就いては、神道の本髓と考へられてゐるところから、神道者の意見が百出して收拾出來ないほどである。が第一に考へられねばならないのは、この語が昔どうして行はれたかといふことである。單に歌語として、又口語として世にあつたものでない。古代咒詞のうち、宮廷より下される最重い詔詞に、必附隨して居た語句だつたと思はれる。「このみ言《コト》は我が言ならず、天に坐す神のみこと〔三字傍線〕なり」と謂つた御ことわりの御詞だつたと思はれる。それが段々、天子の御言《ミコト》の尊重すべき御資格を示す語となつて、襲用せられてゐる間に、種々の聯想を加へて來たものだらう。だから後代から見れば、神そのもの〔五字傍線〕・神として〔四字傍線〕・神のまゝに〔五字傍線〕・神の心によつて〔七字傍線〕など、樣々に解ける程、意義が流動してゐたのだ。この語について考へなければならぬ第二の點は、天子御自身仰せられる詞であるのが、轉じて聖上の神聖なる御威力を、他から申し上げる語となつたことだ。第三に思ふべきは、神のうち、山川の靈の如き神にすら、その神みづからの行ひを示す場合の敬語として用ゐることである。だから、神自身行ふの義が、此語にあることが知れる。これは明ら(335)かに、古語の誤解であるが、本集、殊に奈良朝の作物には、それが見える。本集のかむながら〔五字傍線〕は、正確に第一義に用ゐたものはない。この歌などは、第二義のうちに流動してゐるものと見られる。語源論者は、常にながら〔三字傍線〕の解剖から、この語を理會しようとしてゐるが、錯誤に陷り易い。結局正確な使ひ方に於ける神ながら〔四字傍線〕の示す神は天神であり、聖上と對立して考へられるが爲に、ながら〔三字傍線〕といふ助辭をもつて、天子との御關係を示すのである。第一義第二義に亙つて支障のない用語例として、神の資格に於いて〔八字傍線〕・神の資格なれば〔七字傍線〕位に譯すれば、間違ひはなからう。總て、下に行ひ・思ひなどする意義の語が來るのが例である。即、かく思ふは神ながらなり〔かく〜傍線〕・かくなすは神ながらなり〔かく〜傍線〕の表示を含んでゐるからだ。だから、この歌の最後の「神ながらならし」は明らかに語句の省略がある。「神ながらかく現るゝならし」「神ながらかくふるまふならし」の意義である。○思ほすなべに 思ほす〔三字傍線〕は思ふ〔二字傍線〕の敬語形。なべに〔三字傍線〕は語原的に言へば、竝べに〔三字傍線〕であることは勿論だ。或事象に隨伴しておこる事象を言ふ語。これと似たものにしかすがに〔五字傍線〕があつて、常に前提に逆行することを述べる點が違ふ。語尾に〔傍線〕を略して、なべ〔二字傍線〕とばかり言ふこともある。又、時としては、から〔二字傍線〕に近いのもある。かう言ふ場合は、「思ほすなべに」を説いて、「神ながら」を譯しなくとも訣るのである。○天地も 靈的の存在としての天及び地、更に廣く天地間に在つて神靈の寓り得るやうな事物を斥す。これは、多少誇張を含んだ表現で、「三九」の反歌竝びに「三八」の長歌に見えた、「山川もよりて奉《ツカ》ふる」と言つた表現の方が、實感的なのだらう。だから、歌の内容も、(336)田上の山の靈、宇治・泉の川の靈、同時に御民らの心の内のものゝ發動を敍べてゐるのだ。○よりてあれこそ 「三八」・「三九」に「山川もよりてつかふる」とあるから見れば、「天地の靈も一つによつて」、協力してと譯してよい處だ。言ひ換へれば、一致してお仕へ申してゐるので、といふことになる。但、本集としては、これらの「よりて」(依・因・緑)をすべて、「よして」と考へても、訓・釋兩面倶に不都合はない。「山川もよして仕ふる」と言へば、山靈・川靈も、天子に物を寄與し奉仕する事になる。こゝは、天地の靈物も、それ/”\の物を寄與し奉るからと譯することが出來る。私は寧此方が古風だと思うてゐる。○あれこそ 十句距てゝ、「浮べ流せれ」に呼應してゐる。あればこそ〔五字傍線〕のば〔傍線〕の音脱である。
○いはゝしの 枕詞。近江にかゝる理由は訣らない。眞淵等の先覺の解説も、必然性が信ぜられない。又、古い枕詞ほど、さうした必然の動機らしいものを、振り落してゐるのだから、研究は困難な訣だ。いはゝし〔四字傍線〕なるが故に、足〔傍線〕とか踏む〔二字傍線〕とかを聯想すると言つた説明は、始めから必然性のないものである。又、いはゝしる〔五字傍線〕と訓む側から見ても、それが、何故、近江の一部分の特徴をも表すことになるかゞ、考へることが出來ない。湖水の水の激湍になつた場處から出たのだとするのも、考へにくい。○淡海の國 近江の國。この歌としては、尚、湖水のある國の感じを持つてゐるだらう。あふみ〔三字傍線〕は、言ふ迄もなく、眞水の湖。多く、あふみ〔三字傍線〕で第一に聯想したのは、その東西の地方である。此以下、一句々々皆、枕詞を冠して進んでゐる。○ころもでの 枕詞。極め(337)て廣く用ゐられる。茲では、田上山の一部にかゝつてゐる。ころもで〔四字傍線〕はそで〔二字傍線〕である。衣〔傍線〕説はわるい。手《タ》にかゝるか、手上《タナカミ》にかゝるか不明。尚、古義の手長《タナガ》説は木綿《ユフ》疊の枕詞のある點から見ると、手量《タバカリ》の長さを言ふので、成り立ちさうである。かうした枕詞にも、それが、用ゐ始められた意義だと思はれる、供へ物としての、著物の感じを殘してゐる。さうして多少とも、田上山の讃美になるのであらう。○田上山 近江。栗太郡の南西の大部分を占めた山地の總稱。山を距てゝ、南は伊賀、西は、川を距てゝ、山城に對つてゐる。古く、「田上の杣」があつた。江州には杣山多く、その中、最山深く亦水利の便も持つてゐたので、重要視せられてゐたと見られる。山田孝雄博士は、正倉院文書によつて、「田上山作所」のあつた事を證してゐられ、田上は、杣山でなく、製材所であつたといふ説を出された。名説だが、杣のあつたことも事實である。○まきさく 「ひ」の枕詞。記・紀に類例が二つまで見えるから、新しいやうに見えて舊いものなのだ。家讃めの語が、慣用の結果、枕詞となつたのだらう。さすれば、これのかゝる「ひ」といふ語は、やはり檜〔傍点〕であらう。まき〔二字傍線〕をさき祝つて作つた檜の……と言つた成立をもつてゐるのだ。さく〔二字傍線〕は、木を拆く義に、幸福・歡笑・光榮の義をもつた、めでたい語意を兼ねさせた祝福だ。私は、以前、まきにさく〔五字傍線〕の枕詞形式と考へてゐたが、それもいけない。尚、「ひ」の一音に、製材關係のてくにく〔四字傍点〕に語義を求める説も、すべて、あたるまい。○檜のつまでを 檜はひのき〔三字傍線〕である。つまで〔三字傍線〕、古く、「爪木」の聯想から、契冲の、細やかに麗しい小材木を女の手に喩へた名だらうなどいふ説に(338)至つたのだが、眞淵の「冠辭考」以來、説が一轉して來て、守部に至つて、或完成を見た。眞淵の粗削りした材木は、角爪があるから、つまで〔三字傍線〕だとし、て〔傍線〕は語尾としてゐるに對して、守部は、その角をつけることを、つまどり〔四字傍線〕するといふ。後世語を持つて來て、つまどり〔四字傍線〕がつま〔二字傍線〕で、つまで〔三字傍線〕は、さうした材木だと説いてゐる。これらの説も、つまで〔三字傍線〕といふ語が在つて言ふのでなく、※[木+爪]といふ語からの想像であるから、信は措き難い。尚、山田博士は「古今韻會」を引いて、「木四方なるを※[木+陵の旁]と爲し、四※[木+陵の旁]なるを※[木+瓜]と爲す」とあるのから、「※[木+瓜]」の別體「※[木+爪]」であらうとし、更に、其からつま〔二字傍線〕なる國語の意義を窺はうとしてゐられる。字の説明は、感じるが、それが直ちにつまで〔三字傍線〕の説明に役立つのは、多少考への餘地がある。而も却つてつまぎ〔三字傍線〕らしいものを、つまで〔三字傍線〕といつてゐるのが方言にある。愛媛縣新居郡の林業者の間でつまで〔三字傍線〕と言つてゐるのは、枯木の枝條又は灌木を薪材として採取せるもの(林業辭典)とある。方言は新しい聯想を加へて、變化することの多いものだから、爪木などの知識から、かうした語が出來たのかもしれない。が、結局、つま〔二字傍線〕に關する古語は、神代紀に見えた※[木+瓜]津姫《ツマヅヒメ》の御名だけである。其も果して眞淵以下の大材説に落ちつくともきまらない。瀬田川に流した神業の木だから、又、泉川で筏に造つた木だから、相當の材木でなければ、妥當感を缺くものと思つてゐるに過ぎない。以下の考へは、恐らく、空虚な説に歸して了ふだらうが、つまで〔三字傍線〕及つま〔二字傍線〕が、確かに材木を意味する證據がない限りは、つまぎ〔三字傍線〕のやうに考へて見てもよい。勿論、「玉藻なす」は、單なる枕詞で、つまぎ〔三字傍線〕なるが故に、玉藻のやうに見(339)えるといふ理由はないが、爪木〔二字傍点〕として見れば、譬喩が適切だ。「今作(或は吾作)日の御門」といふ語は、既に造營せられた建物の存在を思はせてゐるのでないかといふ氣がせられる。そこへ搬ぶのだから必しも大材の意でないとも思へる。又、筏といふと、今日、材木を運ぶ爲の物とのみ考へるが、元は、さうした爲ばかりでなく、一時的に木の枝を組んで作つた、別の用途を目的とした物だつたかもしれない。さうして運んだ枝を新築の宮廷の何かの式事用に用ゐたとも考へられる。尚、思ふに、このつまで〔三字傍線〕といふのは、材木を意味するのでなく、榑《クレ》をいふのでありさうだ。さすれば、檜・杉 樅等の榑木《クレキ》もあり、細いのも短いのも色々あつたし、ひのつまで〔五字傍線〕ともまきのつま〔五字傍線〕でもと言ふに當る。又、榑とすれば、丸太を選りすぐつたものだから、先に引いた方言のつま〔二字傍線〕でに近い内容をもつてゐる訣だ。ともかく、この語は、柱・梁等に用ゐる材を言ふものと思ふから間違ひを起すのではないか。此句は、三句越えて、「浮べ流せれ」とつゞくのだ。
○ものゝふの 正しく書けば、物部である。ものゝへ〔四字傍線〕が、音韻分化を起して、ものゝふ〔四字傍線〕となつたので、元廣く汎稱であつたものゝへ〔四字傍線〕が、氏族の名となつたゝめに、更に、廣く内容をもつた物部は、ものゝふ〔四字傍線〕をもつて表すやうになつたと見るべきであらう。もの〔二字傍線〕は靈《モノ》、それを驅使する民團なるが故に、ものゝべ〔四字傍線〕と稱した。主として、戰爭の精靈を取扱つたのだ。これらの多くの部曲の中から、宮廷に附屬する物部が、稱號を專らにするやうになつたのである。元々、宮廷に仕へた靈魂驅使團も多かつたし、國中には更に、多くのものゝべ〔四字傍線〕があつたので、最大數を表現する「八十《ヤソ》」の語(340)で表したものである。ものゝふ〔四字傍線〕に八十氏あり、八十氏人があつた訣である。それで、「ものゝふ〔四字傍線〕の八十氏」といふ成句を利用して、宇治川のうぢ〔二字傍線〕の音を起したのである。もののふのやそ〔七字傍線〕が序歌である。○玉藻なす このなす〔二字傍線〕の語原は、東歌に示されてゐる。なす〔二字傍線〕・がす〔二字傍線〕・のす〔二字傍線〕の三樣に用ゐられてゐるのは、その各が、所有格の語尾なることを示すので、同時に、「何の物」「何の事」の意味である。「の」の機能については、「玉藻の」「水鳥の」等の「の」を考へ合せれば、自ら理會がつく。此「の」の後につくす〔傍線〕は、接頭語の縁によつて、状態をなすの意をもつたものと思はれる。さうして、このなす〔二字傍線〕は、ごとき〔三字傍線〕の義とごとく〔三字傍線〕の義とをもつてゐる。その枕詞のつく語の、名詞であるか、動詞であるかによつて岐れる。玉藻は、本集時代に於て、喜び用ゐられた語で、殆、文學語に近いもの。普通、玉は讃め詞のやうに言つてゐるが、元、藻を咒術に用ゐたからで、靈的な〔三字傍線〕・神聖な〔三字傍線〕といふ意義である。この枕詞の發生は、この玉藻の示す象徴のやうに、かくの如くなるだらうと言つた咒言が、次第に一つの修辭的な類型となつて、用ゐられる事になつたのだ。なびく〔三字傍線〕・よる〔二字傍線〕などにかゝるのがそれで、こゝのやうな例は、既に枕詞として、意義が轉じてゐる訣だ。○浮べ流せれ 田上山の神が、宇治川に流し浮べたと見るのである。だが、同時に、川の神の力も添うてゐるものと、考へてもよい。こゝで、大きな一段に切れてゐる。天地山川の靈も協力して居るので……田上山の檜のつまで〔三字傍線〕を宇治川に浮べ流してゐる、或は、浮べ流したとなる。○其《ソ》をとると 「其《ソ》を」は、多く句或は文章の句切を受けて言ふ時に使ふ。「それを」といふより(341)は、尚、調子の切迫してゐる場合のやうである。「とる」は、とりあつかふ〔六字傍線〕である。或は、收集の義と見てもよい。「と」は、として〔三字傍線〕・と思ひて〔四字傍線〕である。取らむとして〔六字傍線〕である。○集動《サワ》ぐ 職についてのみ言ふのでなく、動く樣をも言ふ語。集動の字を宛てればよい。本集には、「散動」を宛ててゐる。散で音を表し、動で意味を示したのであらう。○御民 こゝでは、作者が傍觀した態度で言つてゐるので、「御民われ」の義ではない。御民は、天子の民としてつけた敬語である。宮廷の御所有たる民といふ意である。併し、元々、天つ神の御田を作る人の義であつた。たみ〔二字傍線〕はたべ〔二字傍線〕(田部)とする説は、その意味に於て成立する。○家忘れ 忘る〔二字傍線〕は、忘却する義の上に、心に浮んで來ないこと、或は目にちらつかないことをも含んでゐる。古風な用語例になると、さうした解釋によらねばならぬものがある。こゝに、對句として次の句を並べたのである。○身もたなしらに たなしる〔四字傍線〕を否定して、たなしらず〔五字傍線〕・たなしらに〔五字傍線〕と言つたのだ。たな〔二字傍線〕は、全部を意味する。たな曇り〔四字傍線〕は、全體が曇ること。たなびく〔四字傍線〕は、全體にかゝるのだ。たなしる〔四字傍線〕・たなしれ〔四字傍線〕は、十分辨へよ、全體の事情をよく知れである。身もたな知らに〔七字傍線〕は、自分の身もすつかり訣らなくなる程にである。こゝは、意味から言へば、たな知らず〔五字傍線〕でもたな知らに〔五字傍線〕でも、變りはない。たゞ、次の句への粘著力を思つて、知らに〔三字傍線〕を採つた。(此稿未完)
(342) 相聞歌概説
――殊に萬葉集卷二に就いて――
昭和十三年一月「短歌研究」第七卷第一號
この卷の見わたし
相聞の歌に絡んだ問題は頗多い。こゝには卷二の前半を持つた其歌群の上に現れた事情を見てゆくつもりである。まづ言ふべきことは、此部類に見えた體裁である。「仁徳天皇朝」の磐姫皇后御作歌と傳へた四首を最初に、藤原宮――持統天皇――の柿本人麻呂が石見から上京する時の長歌・短歌及び、其事に關聯のあると見られる其妻依羅娘子の歌一首を、最後とした一團である。萬葉集卷二の相聞がどうして、さう言ふ形をとつて居るのだらう。偶然であらうか。相聞に限るものなら偶然と言ふよりも、何の意義もないことゝ見られよう。だが、其他の大きな萬葉式の部類に渉つて、此事實が見られるとしたら、一應考へて見ねばならぬと思ふ。
私の見方からすれば、正に卷一の雜歌も、人麻呂關係の歌で綴《トヂ》めてゐる。卷二の今一半の挽歌も、人麻呂歌群で終つてゐることになるのである。
(343)その後半の挽歌の起しは、齊明天皇朝の有馬皇子の作として傳承せられた、磐白のむすび〔三字傍点〕松の歌及び其に關聯した後人の歌四首が、時代の區劃を離れた追記の形で竝べられてゐる。殊に大寶元年云々の詞書ある人麻呂歌集の歌の如きは、意吉麻呂・憶良の作物よりは、前に出るのが、原則に叶うた記載法だと思ふ。
奧麻呂・憶良は、人麻呂と同時代の人であり、殊に前者は大寶元年の行幸にはお伴してゐるのだし、片方は人麻呂作でも「集」の方だから、かう言ふ記載法を採つたのだと見ることも出來る。が、順序とすれば、人麻呂集のものを先にしさうなものと思はれる。そこでまづ考へられるのは、右二人の三首は、早くから本文有馬皇子の歌の左註――とも謂へぬが――式に竝べられて居たらうが、大寶元年――(傳、人麻呂)の分は、書き込み――(又は、截り込み)を思はせてゐる。第二次の編纂の時に這入つたものらしい。
此姿は此卷の末にも見えるのだ。「寧良官」と標出して、和銅四年河邊宮人姫島松原の歌二首、靈龜元年の笠金村に關聯した志貴親王葬送の作三首――其外に或本の歌二首ある――とある五首が、其である。此形は卷二其自體の上において大きな飛躍があることを思はせてゐるのであつて、奈良朝以前に年號がなくば知らぬこと、事實がさうでない以上、これに複雜な説明が加へられねばすまないのである。以上、齊明天皇即位の年、從來大化・白雉と年號を建てゝ來たのを廢せられ、三十年後朱鳥と建元せられるまでは、表面年號を稱へなかつた。其舊事に則つて〔七字傍点〕「天皇朝」を以(344)て時期を示したものと見られぬでもない。だが其なら、持統天皇朝は其まゝで、文武天皇朝の作物になつて、元號を掲げる訣は、ちと合點が行きにくい。
殊に、藤原宮は持統・文武二聖の宮廷である。其を前期を藤原宮と言ひ、後期になつて大寶某年で表すのは、訣つた樣で訣らぬことだと思ふ。等しく、藤原宮では、區別がつかぬと言ふので、後期をさうしたと言ふ考へは、私も久しく持つて來たことだつた。だが、今考へると、其なら前期も朱鳥何年で製作年月を示して行きさうなものである。其にしても此は、どうとでも考へなすことは出來る。だが若し、元來の編纂が、宮廷號を以て排列して行つたのか、年號をも交へる事を考へて行つたのかをきめることによつて、又問題が起つて來る。
「寧良宮」とあるのは、一應形式に叶つてゐるが、其中に又小別けをして年號を配つて行つてゐる。此事については、私ばかりでなく、既に澤瀉さんも書かれたし、其前に品田太吉老もお書きになつた樣である。私も長く問題にしてつい書かずに居たが、此機會に少々書かぬのも殘念だから、記しつける訣である。
大寶前の歌
卷一が、やはり同じ式である。藤原宮の中、人麻呂の長・短歌で了ひになつて、其後に、人麻呂に關係あるらしい藤原宮の咒歌二章を列ねて居る。其二首の長歌の間に、志貴皇子の藤原奠都後(345)の歌――歌の意から見て、奈良遷都後のものかと思はれる。此は、喜田貞吉さんも同説で、夙くに書かれてゐる。――を插んで居る。さうして、大寶元年以下和銅五年に到る三十首が竝んで、其又後に、寧良宮と標記して、長皇子の作一首を据ゑてゐる。卷一の體裁を此まゝに見ると、文武天皇朝以下の作物は、二重に區劃せられてゐることになる。
大寶元年、太上天皇紀伊行幸の時の歌以下、大行天皇吉野の御製までが、文武天皇のもの――大行天皇は文武帝で、從つて大寶の歌以下は、元明天皇御宇に集められたものと言ふことが出來る。併し此は女帝の場合には、特殊の考へ方が、古くはあつたと言ふ事實を考へに入れて見ると、聖武天皇の時に出來たものとも思はれぬのではない。續日本紀宣命の中には、さうした論理の立て方が見えてゐるのだ。
大寶元年以下三十首は、和銅五年が止りになつて居るから、早く撰《ツク》られても、元明朝と言ふことになる。併しさうした事も、實は不自然なので、或はもつと遲れて居るかも知れぬ。而も、其後に出て來る一首は、「寧良宮」としてある。此を何かの誤りと見ることなしに説明すれば、寧良宮は元正天皇朝を意味すると言ふ理由も立つ。其は、平城京奠都は、和銅三年だが、此後初めて平城京に即位なされたのが、元正天皇だから、嚴密には寧良宮は、此帝の宮廷からと言ふことが出來る。だが、卷二には「寧良宮」に和銅四年の歌二首を含んで居る。之を錯誤と見ることは、卷一の和銅元年以下八首の歌を、寧良宮の標記より後に廻すよりも、自然らしいが、さうした考(346)へ方は、結局首鼠兩端で無意味である。
其處で私は思ふ。和銅時代の歌までを、ともかく第一次のものと見れば大體にさし支へはない。さうして後、何かの事情があつて、寧良宮の歌と思《オボ》しいものを一首(卷一)、又五首(卷二)を追記したものとするのである。其が單なる空想に終らない樣に、一つの考へ方を用意してゐる。
桓武天皇の父帝は、光仁天皇であらせられ、其帝の父親王は、志貴皇子である。平安京の宮廷から申せば、光仁天皇・志貴皇子は最大切な御方である。だから、志貴皇子に關した御歌を傳へることは、桓武・平城の諸帝から申せば、大切な意義ある事である。其で、萬葉集編纂の際、從來形の整はなかつた點を修めると共に、既にある完成をなして居た卷々に迫補をしたものと考へてよい。私は昔から萬葉集の大成せられた眞の編纂時期を、平城天皇朝――若し、誤つても桓武天皇朝――であるとして來てゐる。
光仁天皇も志貴皇子も、田原東西の陵に鎭つて居られる。直系の御父祖は一つ皇統の御中でも、殊に尊崇遊したから、荷前使を進られた田原東陵も、先仁朝頃からの爲來りで、光孝天皇の御代までは近陵と定められてゐた訣である。即、志貴皇子の御墓なのである。其で、平安遷都後直前の宮廷としての、光仁天皇朝に關するものを收める爲に、特に「寧良宮」との區割を立てたのであらう。即、其處に田原天皇の――志貴親王の追謚――の葬送の歌と、佐紀宮の歌とを、挽歌と雜歌とに收めたと見ることが出來る。
(347)かう考へると、寧良宮といふ名目の立て方は、其以前の宮廷の名目の含む所と、意味が違つて居ることが知れる。唯、卷二の「和銅四年、河邊宮人の歌二首」が、其區劃に這入つてゐるのは、單なる誤記か、其とも、志貴皇子と特殊の關係があつての爲か、判然しない。
大寶以後・寧良宮
さうすると、大寶以後の歌と、寧良宮の歌とが、追加せられたといふ兩度の手入れが思はれて來る。其でまづ、「寧良宮」の分と、其から大寶以後の歌とを除いて考へると、卷一・卷二とも、雜歌・相聞・挽歌に渉つて、柿本人麻呂關係の物で綴めて居ることが明らかに見えて來る。人麻呂集は別として。此説明は「相聞の歌が、磐姫皇后からはじまり、雜歌が雄略天皇から起つて居る事の説明を遂げた上でないと解決は出來ない。
此事は既に、私は書いた事があるから詳しくは述べない。唯、お二方の男女の貴人が、鎭魂に關した名高い方々であられたと言ふことが知られねばならぬ。雄略天皇は屡お怒りになり、其都度、歌の持つ鎭魂の咒力によつて憤りを銷散せられてゐる。三重采女・葛城山で猪を避けた舍人・木工猪名部眞根《コダクミヰナベノマネ》、此等は皆其獻つた歌によつて御心鎭り、御躬ら亦御製を詠じて罪を免して居られる。歌の靈力を説明するのに、此帝の舊事を説いた事が明らかである。
神代におけるすせり媛〔四字傍線〕同樣、人王の御代になつて、女性の怒りを最激しく表された御方として傳(348)るのは、磐姫皇后である。其「うはなりねたみ」に關する傳へも、最後に折れて居られること、亦すせり媛〔四字傍線〕の歌の如きである。口子臣《クチコノオミ》――又、口持臣《クチモチノオミ》――の妹の歌が、咒力を發するに到つて、漸層的に發した怒りが鎭つて行つたのである。此亦女性の怒りの鎭魂咒力を、歌が持つたと考へたからである。必しも怒りに限らず、鎭魂の威力あるものとして、此古い撰集――必しも欽定と言はず――の一・二の卷のはじめに、由來正しい歌を据ゑた訣だ。
萬葉集卷一・二の標準時代は、舒明天皇以後である。其から遙かに遠い昔の二尊貴の御歌を、各最初に置いた事は歌集としての舊事に從つたものであらう。今一つの大きな部類になつて居る挽歌にも、昔の歌を据ゑさうなものだが、卷二としては既に舊事歌を出した。此には唯、萬葉時代に這入つてゐる孝徳天皇の御子有馬皇子の歌を、齊明天皇時代のものとして、置いたゞけであらうが、此歌には特別の咒力があつたと考へられた點もありさうだ。歌意に副うて、別に在る〔四字傍点〕起死囘生の咒力を考へてゐたのであらう。「磐白の濱松が枝をひきむすび〔三字傍点〕、まさきくあらば、またかへりみむ」。靈魂の遊離した肉身に結《ムス》びつく魂の信仰が含まれて居るらしい。其でこそ、此歌、後世までも傳へられたのである。ところが、もつと著しい事は、一・二と成立事情の相異るらしい卷三の挽歌に、やはり標準時代に在る大津皇子の作を最古いものとして据ゑ、其上に一首、上宮聖徳皇子の龍田山で死人を見られた時の御歌が載せられて居る。「家ならば妹が手枕かむ。くさまくら 旅にこやれる、この旅人あはれ。」此には、表面蘇生の咒力に關した意義は出て居ない。が、(349)やはり其を考へられて居たのだらう。法王帝説の「斑鳩の富の井の水 活かなくに。たげてましもの。富の井の水」があり、又お薨れの後、巨勢三枝の作つたといふ「斑鳩の富《トミ》のを川《カハ》の斷えばこそ、わが皇族《オホキミ》の御名忘らえめ」がある。いづれも、蘇生・招魂の義を含んで居る。三枝の歌は、後代、其餓ゑた人の首をあげて和《アハ》せまつゝた歌と言ふ事になつて居る。つまり太子の歌の靈力によつて、復活したものと傳へたのである。
弊姫御歌と傳へるものが、左註にあるとほり、古事記や古歌集に、別人の作のやうに傳つて居ても、其から、何れが正しいと言ふ答への出て來るものと考へてはならない。尠くとも萬葉集の成立した時代に廣い範圍に渉つて、さうも考へて居たのである。此が萬葉集としての眞實である。同樣な事が譬へば古事記・日本紀に出て來ても、萬葉集所傳の價値を破る訣にはいかないのである。記・紀は記・紀、萬葉は萬葉として、別々の傳來の權威を把持して行くのである。萬葉一・二に記載せられた歌としては、上に述べたとほり、飛鳥朝のものが古いものとなつて居る、と見てよいのだから、相聞の場合は、近江大津宮朝の天皇・鏡王女の唱和の歌が第一のものと見るべきである。其から第二次飛鳥朝の歌、即、清御原天皇・藤原夫人唱和の歌、藤原宮御宇の歌と排列せられてゐる。
さうして其末に、柿本人麻呂關係の歌が來るのである。既に言つたやうな姿が、一・二の卷からとり出されるのだから、人麻呂に屬した歌群も、單に歌の時代を人麻呂代に限つたものとだけで(350)は説明にならない。雜歌の部類で、宴遊・※[覊の馬が奇]旅・祝福其他の意義における咒力を、特に人麻呂の歌に考へる樣になつた時代の編纂なのだらう。又挽歌で見ても、人麻呂の死の前後の自他の歌で見ても、ある幽暗な神秘なものが漂うて居る事を感じる。相聞ひとり唯文學作品に近い興味を以て載せられたものとは思はれない。此にもやはりある靈力を、人麻呂作歌に考へたことを思ふべきであらう。
かうして見ると、萬葉集一・二の歌は、前後に咒力ある歌を控へて居る宮廷詩の蒐集である。さうして、其にも亦咒力を持つもの、或は、其舊事を伴ふものと信じられたのだらう。さうして又其徑路を經て殘つたものと言ふことが出來よう。
相聞の用語例一つでないこと
其ならば、相聞歌は全體に、どう言ふ目的を持つて居るのかといふ事が考へられて來る。
ひと口に言へば、かけあひの歌である。かけあひの歌は表現上の習慣として、戀愛發想に傾く。其理由は唯一つ。男女對立して物|諍《アラソ》ひをするのが、日本古代の祭儀の一部だつたからである。異性間の唱和・問答が、常に採る方法は、性的屈服を強ひるか、又は之を彈ね返さうとする外にないのは考へるまでもない。だから、戀愛或は性欲の衝動なくとも、さうした樣式は出來て行くのである――此言ひ方は實は荒つぽい――。其上祭儀の附屬行事として、神として、巫女としての(351)男女の語らひが、續く事が多かつたのだから、益かけあひは相手《ツマ》すぐりの手段になつて行つた。だから極めて稀に行はれたらしい同性間のかけあひを見ると、戀愛發想を採らないで居る。即、其場合は語《コトバ》いどみ〔三字傍点〕が行はれ、戰ひの前提になる。平群鮪を歌垣の相手とした貴人――古事記は、顯宗天皇、日本紀は、武烈天皇――の場合は、其例である。此例に入るものも決して尠くはない。此が次第に「惡態《アクタイ》」を發生して行く。萬葉集だけについて言へば、「嗤笑歌」と謂ふべき類のものが、其である。
併し都會・邑落における祭儀が、多く男女贈答の形を條件とする樣になつて居り、漸く歌垣・蹈歌式の形が完成するので、かけあひは此方に發達しないでは居られない。即、相聞は原義が萬葉自身にも「古來相聞往來歌類(十一・十二)」とあるやうに、互に問ひ交す義から出て居ることは明らかであつて、山田孝雄さんの「相聞考」に書かれたのは、其まゝ受け入れてよいお説である。往來存間の義で、信書・消息の意味にもなることは勿論である。だが本集の用語例は、古い意義に近いと思はれる若干の戀愛動機のないものゝ外は、殆皆後の戀歌である。而も唱和といふ根本義を忘れてしまつて居るものさへ、極めて多い。つまりかけあひの歌として發逢したものが、優れた唱、或は和の片方が傳つて、他は忘れ去られた事が多かつたのだ。
さうした歌は、必しも一人に一人でなく、一人に對して數人でかける事もある。其間に有名な辯口に長けた作家が出て來るのである。
(352)祭儀の場合のかけあひから、求婚・懸想《ケサウ》の表白としての途が開かれて來た。此側では最、相聞往來の義が明らかに出るのである。萬葉には、かうして出來た唱和の一對を多く殘してゐるが、又多く其一方を失つた片方のみのものもあるのだ。
一つの場所に相對して即席問答を行ふ事から、場所を異にして、往復の時間の餘裕を置いた贈答が行はれて來る訣である。――此にも懸想・消息の發生を説かねば、話が屆かない。我々の想像では、唯一人遂げられざる思ひに歎息した歌も、多からうやうに思はれる。さうして、事實萬葉集にも、さう見られるものが多くあるが、大抵其等は、自分の心に止めておかれたのではなくて、思ひ人の處へ傳達せられたのである。即、相聞歌である。極めて稀には、人の見ることを豫期せぬ詠歌・述懷の歌もあつたらうといふことは、後期萬葉びとが、文學としての作品を、意識して作つた事實からも考へられる。
だから、相聞と言つても、萬葉自身において、色々の用語例を持つて居ると見るが正しい。
戀と相聞と
かけあひ〔四字傍線〕を本義として、相聞の字面を借りて書き、其音を借りて通用言語としたのだが、かけあひ〔四字傍線〕に初つて、戀歌に到るまでの變化を、本集一部の中にも示されて居る訣である。だから、原義に即し過ぎて説くのは、却て誤りになることが多い。謂はゞ言語の用語例を語原に膠著して置か(353)うといふことになるのだ。唯、戀歌と言はなかつたらうと思はれるのは、かけあひと、稍方法を異にするものに、「こひ」及び「こひうた」があつたからだらうと思ふ。「こひ」は相手の返答を豫想して居るものではない。言語のみならず、色々な行事によつて、他所にある魂をとり迎へようとする咒術が、「こふ」の古意であつた。磐姫皇后の「かくばかりこひつゝあらずは」は、原義の「こふ」に譯すると共に、數次の變展を重ねた「戀に焦れる」義の「こふ」の側からしても、意義全體が説いて行ける。此御歌は、「わが思ふ人は死んで奥山の石の槨《カラト》に枕してゐる。こんなに招魂法を行つても/\かひのない位なら、かの人の許に行つて、其石を枕の死骸となつて横つてしまつた方がよかつたのに」と言ふのが、本義であらう。其が、早く別義に解せられて、戀に苦しむものが寧、死を希うたものと思はれ、さうした側に多くの類型を生じて來た。前の譯からすれば挽歌のやうに見える。だが、古い意味における「こひうた」と見るべきだらう。其が變化して、はじめて相聞――此こそ戀歌――の歌と考へられるやうになる。卷二卷頭の「君が行きけ長くなりぬ」も亦同樣である。山尋ねは「山たづの」の變化したものと考へる人の方が多いかも知れぬが、却て「山たづの」と枕詞に見る方が、合理化せられ、單純化せられて來たのだと思ふ。「山たづね」は靈魂が逸して山中にあると信じ、其を迎へる方法のあつた事を示してゐるのだ。山路をたづね行くと、魂を迎へ出す事も出來、魂を失つた人も活き返るものと考へた咒術なのだ。人の死を旅の如くに考へて、君が行きを日長(354)くなつたとするのである。其を山尋ねの咒術で呼び迎へようか、どうせうかと迷つて居る心である。此場合、聲を立てゝ死者の魂を「こひ」迎へるのであらう。氣絶したものも、安心したものも、危篤の病ひに居る者も、かうした方法で救ふことが出來ると考へるのである。併し、之を挽歌と考へる人はない。だが、挽歌と考へつめるのも、考へ足らない。つまりは「こひうた」として、挽歌の方に廣い利用範圍を持つたまでゞある。
「こひうた」は、此意義において相聞の部に這入るものもあり、挽歌の部に這入るものもあつた訣だ。戀も、招魂《コヒ》――魂《タマ》よばひ――から來た一つ精神の分化なのだから。
かうして見ると、卷二が、近似した相聞と挽歌との二部類を、一卷の中に立てゝゐる理由も訣る。古人は此關係を知つてゐたのだ。其は相聞・挽歌の字義説からは出ない。民間に行はれた風俗式な歌などでは、かうした理由から挽歌が相聞になり、相聞が挽歌になり、色々な合理解によつて、本義が轉換して考へられてゐたことは察せられる。
相聞歌の排列
卷二には、相聞の字義に近い姿を持つたものが多かつた。其次の「近江天皇御製と鏡王女の奉和歌」、「藤原鎌足と鏡王女との唱和」、其次に「采女安見兒を娶つた時の歌一首」を插んで、「久米禅師・石川郎女の唱和」同じく「大伴安麻呂と巨勢郎女との贈答」、更に清見原宮廷代に入つて、(355)「天皇と藤原夫人の唱和」、藤原宮では、「大津皇子・大伯皇女」、「大津皇子・石川郎女」の一對の歌々があり、其後へ、大津皇子の「津守の占にのらむとは」の歌、日竝皇子尊の「大名兒ををち方野べに刈る萱の」と言ふ二首、兩方ともに石川郎女の和《アハ》せた歌は出さずに、單獨に載せてあるが、郎女の和せ歌のあつたことは察せられる。
其次が「弓削皇子と額田王との、吉野宮を中心にした唱和三首」である。此は普通單なる唱和の歌と見られ、相聞が直に戀歌を意味せないことの例に當るものである。尤、此頃額田女王は相當に傾いた年〔四字傍点〕に達してゐるのであらうが、必しも戀愛相聞でないとは言へない。又、實は古人の考へから見て近親ではない。併し何よりも考へてよい事が一つある。山の時鳥を「魂ごひ」する靈鳥――魂を呼び出す鳥聲の信仰は深く保たれた――と聞きなして、其を直に額田王に推し當てたのが弓削皇子の歌で、額田王の和せ歌もまた「吾が戀ふる如」と兩方から「こふ」を持つてゐる所から見れば、戀歌でないまでも、魂ごひ歌、即古い意義における「こひうた」らしい俤は備へてゐるのだ。
次が、「但馬皇女を中心にした情史の歌物語から出たと思はれる三首」で、必しも穗積皇子との唱和を其まゝ傳へて居ないが、大體に、片方づゝが殘されたものと見える。其から、「舍人皇子と舍人娘子の唱和」、其後が詞書では、「弓削皇子作四首」となつて、和せ歌を亡つた樣に見えるが、一一九・一二一は紀皇女作と見れば、各一對と見られぬでもない。其から、「三方沙彌と園生羽臣(356)の女との唱和歌の中三首」、之に次いで、支那小説を學んだ樣な引を持つ「大伴田主・石川女郎の贈答三首」、大伴集の編纂方法を思はせてゐるものである。又「同人の大伴宿奈麻呂に與へた歌を次に置いてゐる。此も男の和せた歌を記さなかつたと言ふまでゞあらう。其から「長皇子與皇弟御歌一首」。皇弟といふ字面不正確であるが、此は戀愛の歌ではなさゝうに見えるが、内容からは戀歌と擇ぶ所がない。歌柄から見て、魂に關した「こひうた」なることは察せられる。恐らく皇弟――弓削皇子か――から達した病氣平癒を祈るやうな魂ごひ歌の答へらしく思はれる。
扨最後に、「柿本人麻呂の歌群」である。「石見國から妻に別れて上京する時の長歌・短歌」、「或本の歌」の末に、其に和せたらしい「妻依羅娘子の歌」――この妻の住み處については、種々議論も立つ。又此娘子に關しては、齋藤茂吉兄の名説がある。其も述べたいが今はあきらめる。――が出て、相聞の部は終つてゐる。此は和せ歌として見ると、今日の感じでは、稍不穩當らしいが、よく見ると、長歌の「なつくさの 思ひしなえてしぬぶらむ妹……」「我がふる袖を妹見つらむか」などに、妹に思ふ女〔三字傍点〕と言ふ義のあることが古代人の考へ方としては含まれて居り、其に關して述べられた和せ歌と見てよい。併し全然別な他の歌に合せたものと見ても、固よりさし支へはない。――(未完)――
(357) 相聞歌
昭和十二年七月、鑑賞短歌大系「萬葉戀愛歌讀本」解説
萬葉集に、戀歌といふ部類はない。戀歌といふ名は古今集から始まつてゐる。併し、戀歌といふものは、古今集以前にもあつたには相違ないが、ずつと昔に溯ると、戀歌の意味が違つて來る。其は戀愛歌といふ意味ではなかつた。
こひ歌といふことは、相手の魂をひきつけること、たま迎へ〔四字傍線〕の歌といふことだ。その手段にも目的にもいろ/\とある。人が死んだ時もこひ〔二字傍線〕歌があるし、勿論生きてゐる人に對しても、また、女なら女を靡かせようとする時も、女の魂を引きよせる爲のこひ〔二字傍線〕歌がある。だから、こひ〔二字傍線〕歌とは、結局魂乞ひ〔三字傍線〕の魂〔傍線〕が脱落したことになる。古今集で戀歌が出來たのは、こひ〔二字傍線〕の意味が一方に傾いたからで、萬葉集で戀歌といふことを使へば、きつと、まだ誤解があつたらう。で、萬葉集から古今集に到る、凡百年位の間に、いつかこひ〔二字傍線〕歌が、戀愛の意味を表すことになつたと見てよい。
古今集でいふ戀歌を、萬葉集で求めると、所謂、相聞〔二字右○〕、或は相聞歌〔三字右○〕と書いてある部分にあるもの(358)が、之に當るらしい。けれども中には、當らぬものがある。其は相聞といふ部立《ブタテ》の意味からして、戀愛とは違ふからだ。昔の戀歌の、古今集の戀歌に近いものは、掛合《カケアヒ》の歌、またはその約束で發達して來たものとみた方がよい。つまり、男と女との掛合ひの歌〔五字傍点〕だ。だから、正確に戀歌に這入らないものがある。處が、此掛合ひが、支那の相聞往來――とりかはせ〔五字傍点〕――に當る訣だ。お互に問ひ交はすことが相聞である。しかし日本の掛合ひに、正確に「相聞」があたるといふ訣ではない。日本の掛合ひ歌には約束がある。問ひ掛ければ、當然、答へなくてはならぬが、問答〔二字右○〕は初めから答へがあるけれども、掛合ひは、答へを豫期しないものもあつたので、ちやうど、掛合ひといふことゝ、相聞とがよく似て來る。
つまり、問ひ交はしと日本の掛合ひと、ちよつと意味が似て來るので、相聞といふ字を用ゐたのである。だから、相聞の部には男女の掛合ひでない歌もある。また、全然、戀愛歌でないと見られてゐるものでも、何處かにその形跡をもつてゐるのもあり、どうしても戀愛歌でないものもある。相聞の部にはさういふ類の歌がある。これらは戀愛歌としては、むしろ除外してよいものである。
その時分は戀は魂乞ひであるから、戀歌といふ部を立てなかつた。で、萬葉集では、先程言ふやうに、相聞は掛合ひだから、問ひと答へがある筈だが、答へがなくとも、戀愛的の氣分のあるものなら獨白でも掛合ひと言へる。これは、考へなければならぬ事だが、一首だけあつたからとて、(359)初めから一首だけの歌ではないと言ふことだ。二首ならず、數首に亙る場合もあらう。譬へば宴會の時とか、春秋のどちらがよいかといふ、春秋の諍ひの時など、澤山の人が作つても、其時の有名な歌だけ殘つてゐると、其だけだと思ふ樣になる。同時に、一首の相聞、つまり、初めから一首だけの、答へを伴はぬ歌もある。萬葉時代に文學的の意識も生じて來るから、文學作品として作つてゐるもの、相手から言うて來るのでなく、一人で嘆息するといつた歌もあるのだ。新しいものには、明らかにこれがみえる。かういふ訣で、相聞の中のもの、必しも相聞と、簡單に言ひ切れない。
譬喩歌〔三字右○〕といふものが、おほよそは宴歌である。掛合ひは、祭りに行はれる男女の歌だから、戀愛みたいに見えるけれども、譬喩歌も殆、戀愛歌である。萬葉の分額の原則に從へば、雜歌・相聞・挽歌の三つがある。處が出來た動機によつて、其に對して違つた、内容的な分類を行うたものが、譬喩歌である。普通の抒情詩は正述心緒歌〔五字右○〕、其に對しての寄物陳思歌〔五字右○〕と、同じ抒情詩でも二つの分類を作つてゐる。譬喩歌は、中には賀歌で祝福を目的としたものがある。これは、宴會などで歌ふからであらうが、多くは戀愛歌である。
又、卷に依ると春雜歌・春相聞・夏雜歌・夏相聞といふ風に、雜歌・相聞を四季に分けてある。春の雜歌は普通の自然描寫、春相聞は譬喩的におもひをのべてゐる。支那の言葉でいふと興體と(360)いふ。別のものをいうてゐるうち、ひよつと戀愛の想ひを表してゆくといふ樣なのが、四季の相聞に多い。
處が、いま一つ言ひ殘してゐる挽歌〔二字右○〕といふのは、人が死んだことを中心にしてゐる歌だが、先程言つた樣に、その一つの形が戀歌である。死んだ人の魂を呼びよせることが忘れられると、挽歌も戀歌の樣に見られて來る。だから、歌の出來た場合を知らずにゐると、戀愛歌であるか、挽歌であるか、實の處訣らない。たとへば卷二の、
かくばかり戀ひつゝあらずは、高山の岩根しまきて 死なましものを (八六)
これは立派に相聞の歌として殘つてゐる。高山の、岩の枕をまいてゐる人がある。其人に對して言うてゐるので、「人を高山の石根――石槨 《カラト》――に送つてしまつた。こんなに焦れてゐる位なら、あの人と一處に死んだらよかつた」といふのである。後の人からみると、死の考へを拔いて、「こんなことなら、いつそ死んでしまへばよかつた」と自分の希望の樣にとる。挽歌とも相聞とも、どちらにでもとれるが、これは挽歌だと思ふ。萬葉集もその事情を忘れてゐるのだ。實は、これは死者への慰めなのである。この歌は磐姫皇后の御歌と傳へられてゐるけれども、その傳へを離れて考へるのである。
君がゆき け長くなりぬ。山尋ね迎へかゆかむ。待ちにか待たむ (八五)
古事記の方では、輕大郎女《カルノオホイラツメ》の歌になつてゐる。どちらにしても、「あまり戀しいから、その人の(361)來さうな道を進んでいつて探しに行かうか」といふ心で、磐姫の御歌と、輕郎女の歌とは多少變つた處があり、今では輕郎女の「山たづの迎へをゆかむ。待つにはまたじ」の方が正しい、少くとも單純化したものと思つてゐるが、何方が本道かはわからない。たゞ、「山尋ね」は魂のありかを、つきとめに行くことを言つてゐるのだ。山たづ〔三字傍線〕は接骨木のこと、迎へるの枕詞で、たとひ山尋ねではなくとも「その魂をむかひに行かう。待つてゐても到底まちきれぬ」といふ意味は考へられる。かう考へると、挽歌と相聞との間は、ほんのちよつとの差があるにすぎないことが知れよう。戀しい/\といふ死者に對する慰め、その中から死といふことを取り除けば、戀愛歌となる。
戀愛歌にしても、相手の魂を引き寄せようとするのだから、どうしても誇張が必要である。また、譬へば卷三の挽歌、
岩戸破る手力もがも。手弱《タヨワ》き女《ヲミナ》にしあれば、すべの知らなく (四一九)
河内王を葬る時、手持女王の作られた歌で、その境遇が傳つてゐるから、挽歌となつてゐる。非常に強烈なものとして推賞されてゐる。こんなに強烈に表したら、今なら誇張と言はれよう。處が、「手力雄が、むりに岩戸を開いてしまうたあの力が、私にもほしい」と解するなら、大分生ぬるくなる。又、今一つ有名な例で、卷十五に中臣宅守と狹野茅上娘子の戀愛歌がある。あれも、果して二人が作つたのか、それとも、奈良朝の後の文學者の作つた文學作品か、どうか、訣らな(362)い。
君がゆく道のながてを繰りたゝね、燒きはろぼさむ 天の火もがも (三七二四)
女の情熱のはげしい歌として、代表的なものと思はれてゐる。山の蔓草にたとへて、君がゆく道のながて〔五字傍点〕というてゐるので、この譬喩からして生ぬるい。後の鑑賞家はその實感を持たないから、「道をくり疊んで燒いてしまふ」といふ風な強烈さを感じるのだ。とも角、言葉だけは烈しい言葉を使つてゐる。使はなくてはいけないのである。手持女王にしても、茅上娘子の歌にしても、遠くへ行つてゐる愛人の歌としてみると、なまぬるいが、聲だけは大きい。それにしても、近代の我々が感じるほどの情熱はないのだ。
萬葉集の鑑賞も、本道はさういふ考へ方から出發してゆくと、新しく開拓することが出來る訣だ。鑑賞する以上は、まづ萬葉の歌の一字一句と雖も、等閑に見てはならない。併し、文字の解釋だけしてゐても訣らないものがある。萬葉びとの心を動かしてゐる處の前代知識――民俗とも傳誦とも――を知つてゆかなくてはならない。人はお互に共通するものをもつてゐる。中には古代から今に直通してゐるものもある。此を究めるには、民俗學を補助として考へなければならない。國語學をいくら積み上げてみた處で、もう今は得る處は少い。だが、同時に何というても、歌の佳し惡しが訣らなくては困る。鑑賞はまづ第一に文句に即した解釋でなくてはならぬ。處が、大抵は歌を離れて、一部分を延長してゆくことが多い。國語學的に解釋してゐるものも精神が拔け(363)てゐて、その上に文學としての鑑賞が低級である。其を亂す爲には、戀愛歌などは都合がよい。
短歌といふものが、戀愛的な動機から發達してゐるから、自然戀愛詩が多いことになる。所謂民謠〔二字右○〕をみると、大よそは戀愛詩――敍事詩のこはれたものもある――である。殊に、東歌をみると、勿論多少は自然描寫になつてゐるものもあるが、殆、皆戀愛歌である。東歌の戀愛歌も掛合ひがあるけれども、今一つ東歌の中で注意すべきは誓ひ〔二字右○〕の歌の多いことだ。女が男に、或は男が女に、二人の間の絶えないやうに誓ふ。これも實は誓ひの歌か、こひ〔二字傍線〕歌か、つきつめると訣らぬ。
人皆の言は絶ゆとも、埴科の石井の手兒が 言な絶えそね (三三九八)
民謠としてよい歌である。「石井の里の石井――岩の間から泉の出てゐる處――で水を汲んでをるをとめよ。世間の人がみな絶交しても、俺にだけは絶交するな」といふことで、これは獨白ではない。誓約の歌だ。かういふ種類の歌が、かなり澤山ある。東歌の戀愛歌は、どうで本道の抒情詩ではないわけだが、やるせない心を慰めるといつた民謠が多い。それも實は、敍事詩から離れて來たものを歌つてゐる中に變つて來たもので、個人の作ではない。
この歌も、本道は、村人共有とも思はれてゐる處女をば專有することに對しての、村の制裁――村八分――を心におくべきだ。それで「人皆の言は絶ゆとも」がきくのだ。一方に強く一方に弱く、女の爲に哀願してゐる處が面白い。又この單純さは、古代の歌なればこそと思はれる。だが、(364)同時に單なる抒情詩でなく、傳説上の女を、つい最近居つた樣に考へ、それがどうかすれば手に入る樣に見てうたふ處に、民謠としての抒情法があるのだ。結果から見れば劇詩的であり、敍事詩的でもある。
昨夜《キゾ》こそは 子ろとさねしか。雲の上ゆ鳴き行く田鶴の ま遠く思ほゆ (三五二二)
この歌など、まじめに歌つてゐる樣に見える。「雲の上ゆ鳴き行く田鶴の」は間遠を起す序歌であるが、其を生かして來た方が美しいから、實景の樣にして、現に「雲の上を鳴いて通る鶴のこゑが遠くに鳴いてきこえる樣に」といつた近代的な鑑賞も行はれてゐる。この歌は男が女と後朝の別れをして、戻つて來て女の處へやつた歌で、「昨夜逢うたばかりの今朝なのに、遠い昔の樣な氣がする」といふのだ。
民謠とは言へ、純抒情詩と見てよい程のものをもつてゐる。
坂越えて 阿倍の田の面に居る鶴の ともしき君は、明日さへもがも (三五二三)
地名の阿倍《アベ》を喘ぐに通はせたので、山坂を越えて喘ぐ、とかけた。近代的に考へると、靜岡の邊りを見はらした樣な感じを持たす。「阿倍の田圃に降りてゐる鳥のちよぼ/\ゐる――山坂越えて喘ぐ、その阿倍の田圃に居る鶴のともしい――よい此人は、明日までも逢ひたいものだ。」といふことで、もつと來てほしい、明日も曾ひたい。或は明朝までも會ひつゞけてゐたいといふ意だが、多分、前者にとるのが本道だらう。山を越えて阿倍の里の田の面を見た樣に説くが、實は(366)さうした感をもたせるに過ぎない。でも、其氣持ちを含んで見る餘裕もある歌だ。此歌は、序歌が傑れてゐる事によつて、下の句も勝つて見える。ともかく、傑れた歌の一つである。きぬ/”\〔四字傍点〕の歌だ。だが、そんな個人同志のものが傳る筈がない。さうした形式の時には、從來ある歌を使つたに違ひない。個人の經驗と思ふ方が面白いかも知れないが。
かうした歌には必要以上の誇張をしてゐるので、ために抒情詩であるべきものが、敍事詩の領域になつてゐたりする。で、萬葉集の戀愛歌についても、いろんな方面があることを注意しなくてはならないと思ふ。
(366) 萬葉集の戀歌
昭和十三年一−六月「婦人公論」第二十三卷第一−六號。原題「萬葉集戀歌讀本」
戀歌は、私にとつては、謂はゞ大きに苦手であるけれど、短歌の分類として廣い部分を占めて居り、又萬葉集にも、名こそ變れ、「相聞《サウモン》」として、凡想像以上の分量を持つて居る。さすれば、國文學を研究するものにとつては、どうしても、知つて置かねばならぬと言ふこと以上に、なぜさうした領域が、短歌の上に開けて來たか、と言ふことを思はなければならぬのである。歌が抒情詩だからさうなつた、と言ふ樣な答へは、其自體答へになつて來ない。却て、戀愛の歌が多かつたから、短歌が抒情詩として見るべきやうになつた、と逆に言ふ方がほんとうなのである。こんな問題も考へて行くことが出來れば、民族文學の本質研究の爲にも、何かの役に立つことゝ思ふ。一體、明治・大正・昭和に渉る新派短歌も、新詩社の作風が主情的であつて、所謂ろまんちつく〔六字傍点〕な態度をつきつめて行つた爲に、戀歌として異常な伸び方をしたものである。其にとり替つて出て來た根岸派――今のアラヽギ派をその主流とするもの――は、謂はゞ没主觀主義の正岡子規の唱道した寫生を態度と立てゝ居たのである。萬葉集に相聞――戀歌――を多く持つて居ると言ふ(367)點から、戀歌に理會はないではなかつたが、立て前として、多く自然描寫の方へ進んで行つた。だから、此派が短歌の世間に著しい勢力を出して來て以後、今になつても、尚戀愛歌の數は、敍景詩と比べれば、わり合ひにもならぬほどしかないと言へる。だから其意味でも、萬葉集の戀歌から、今一度、見直して行く必要がありはすまいか、と思ふのである。
今度の書き物は、學問くさい爲方を幾分緩めて、鑑賞的に萬葉集を見て行くのであるから、まづ作物について話して行きたい。
君が行き 日《ケ》長くなりぬ。山たづね 迎《ムカ》へか行かむ。待ちにか待たむ (八五)
かくばかり戀ひつゝあら《一》ずは〔二字二重傍線〕、高山《タカヤマ》の磐《イハ》ねし枕《マ》きて、死なましものを (八六)
ありつゝも 君をば待たむ。うちなびき 吾が黒髪に霜のおくまでに (八七)
秋の田の穗の上《ヘ》に霧《キラ》ふ朝霞 いづへの方に わが戀ひやまむ (八八)
右の口譯、
(八五) あの方のお出かけ……其が日數長くなつた。あゝ私は、山を尋ねて迎へ行かうか。其とも此まゝ、待ちに待つて居ようか。
(八六) こんなに焦《ジ》れ/\して居るよりは、いつそ〔三字傍点〕、山〔右○〕の岩に枕して、死んでしまつたらよかつたのに……。
(368) (八七) このまゝぢつとして居て、あの方をお待ちして居ようよ。私の此髪に、曉の霜がおく時分まで。
(八八) 稔り田の穗の上に、もや/\立つて居る朝の霞――霞は消えて行く方がある――其ではないが、私は焦れ心が止《ヤ》まらうか。どつちの方へ。
口譯が不出來で恥しい。唯忠實に逐語譯をして、其々の歌の趣きをも出さうとするのだが、古語と近代語とでは、どうにも繁りのつかぬ所が出來て來る。
此四首は、萬葉集で嚴格に言つて、相聞歌の一等最初にあるものである。だから、宮廷における傳誦の正しい歌と考へられて居たことが思はれる。
詞書には、仁徳天皇の皇后|磐姫《イハノヒメ》の御歌と言ふことになつて居る。尤、かうした傳へは、古く格式のある文學には、ついて來易い考へ方であつて、古代日本では長くさう信じられて居たので、却て偶然高貴の方が作られたと言ふよりは、久しい歳月に磨きをかけられ、其處に民族としての眞實感が寄せられて居ることを考へなくてはならぬ。だから、古事記には、別の傳へが此と殆同じ歌詠の上に稱へられて居た。仁徳天皇の皇子であられた允恭天皇の皇女|輕大郎女《カルノオホイラツメ》が、輕太子《カルノタイシ》の伊豫に流されておいでになるのを慕はれて、追ひ往かれた時の御歌だと言うて居る。
君が行き 日長くなりぬ。《二》やまたづ〔四字二重傍線〕の迎へを行かむ。待つには待たじ (九〇)
(口譯) あの方のおでかけ……其が日長くなつた。やまたづの向き合ふ――其ではないが(枕(369)詞)迎へ行かうよ。こんなにして待ち/\しては居まい。
歌の姿は似てゐるが、氣持ちはすつかり變つて來て居る。長い年月の間には、いや皇后樣のだ、いや御孫皇女のだといふ風に、貴族の家に、國々の語部の間の傳へが、作主から、歌の形まで異説を主張して居た樣子が見えるではないか。
さう言へば、同じ並びの中の(八九)の御歌が、萬葉集の現在本では、「或本歌曰」と詞書して、
居|明《アカ》して 君をば待たむ。ぬばたまの 吾が黒髪に、霜はふるとも (八九)
(口譯) 坐つたまゝ夜明けまで、あの方を待つて居よう。私の髪に霜がふる樣になつても…。
「ありつゝも」と「居明して」では、大分違ふ。横にならずに居る状態を持續して、ととれば、語は替つても、意義は結局おなじだが、若し「霜のおくまでに」を白髪になることの譬喩だと見れば、旅行きから還り遲いお方が、戻つて來られない限り、此まゝで居てと言ふことになるのだから、餘程二つは變つた歌になつて來る。どうも(八五)(八六)の歌からすれば、さうした考へも成り立つので、白髪の譬喩は、もつと時代が降つての事だとは言へないのである。
「居明《ヰアカ》して」の傳へは、「古歌集」と言ふ名で、萬葉集に一括して稱せられてゐる昔の歌集群の一つの中に出て居たよしは訣るが、作者も境遇も傳へないから、唯普通に、夜夫《ヨヅマ》と許した人の來るのを待つて、時間が霜の降る曉方《アケガタ》――午前二時〔二字右○〕頃、昔は曉は早く、暗い中である。――に近くなつても、其人の來ない心細さを歌つたものと見る外はない。
(370)尤、「ありつゝも」「秋の田の」の御歌と言ふものには大した問題はない。唯、表現が仁徳天皇の御代よりは新しくて、我々にぴつたり來ると言ふ點が、頭に殘るだけである。此とて古歌の時を經て通じなくなつたものは、其訣らない固定したまゝを、そつくり傳へた事は多い。が一方に物語を語り傳へる人々――語部――が、知らず識らずの中に語り換へ、歌ひ替へした痕迹も確かに見られるのである。夫々、人間の語を扱ふ者として當然ある筈のことだと思ふ。
磐姫皇后の御歌が、もつと古い時代の語で傳へられて居たのが、何時か段々かうした形に變形して行つて、而も中の精神が變らなかつたのでないか。さすれば、傳へる者が虚僞の意識を以てせず、信じ/\て居る以上、やはり民族文學としては、此御方の御作と見るべき訣である。だから序に、今少し此二つの歌の解釋をして置いて、(八五)(八六)に進むことにしよう。
(八七)は、うちなびき〔五字傍線〕が枕詞で、髪にかゝつて居ることは勿論だが、此をうちなびく〔五字傍線〕と讀む説に從ふと、そのものに掛つて靡いて居る有樣から、うちなびく髪となるので、枕詞ではないことになる。其でも殊更、なびき掛つて居るとまで譯せねばならない程の使ひ方でなく、唯慣用上、髪と言へばふと〔二字傍点〕古くからのうち靡く〔四字傍線〕と言ふ修辭が、くつゝいたと言ふ程度と見るべきなのだ。此がすこし新しくなると、
君待つと 庭《ニハ》にし居れば、うちなびき(く) 吾が黒髪に、霜ぞおきにける (三〇四四)
と言ふ風に一・二句の條件がついて來る。はつきりするが、感情を寧、敍事に替へてしまつて、(371)つまらなく淺くしたものと言ふ外はない。「霜のおくまでに」の「までに」は、古くは正確には「までに〔右○〕」と言ひ、「まで」をも併用したのである。「秋の田の」は、大體この上の句の樣な形が流行して居た事が察せられる。「秋の田の穗の上における白露の」と言ふのもある。だから、口を衝いて、かう言ふ類似した句は幾らも出る。其を言つてゐる間に、自分の言はうと思ふ心持ちが整頓せられて來る。つまりかう言ふ句が、枕詞と同じ爲事をする訣で、其と違ふ點は、句が長くなつたゞけである。一句以上の枕詞を「序歌」と言つて來てゐる。つまり、「秋の田……朝霞」は序歌である。
纔かのきつかけ〔四字傍点〕を見出して、心のはけ口がつく訣だ。朝霞は、どつちかへ靡いて消えるが、自分の思ひは消える方が知れないと言ふので、消える事がなからうと悲觀したのである。
「山たづね」と「山たづの」とは、人によつて、どちらかに定めようとする傾きがある。中には元、「山たづの」とあつたのが段々うたひ訛つて「山たづね」と合理化したのだと、可なり有力に主張してゐる向きもある。若し前後を假りに定めてもよいものなら、私にも一説はある。「山たづね」の方が小説的に見えて、新しく思へるかも知れぬが、さうした近代感を此歌に持つのが間違ひであらう。素朴に考へて見ると、どうも此方が古い。山尋ねを、戀人を尋ね求めて山路を越えて行くやうに考へればこそ、戯曲的な興味を狙つてゐるやうにも見えるのだ。元々さうではない。山たづね〔四字傍線〕とは、魂を呼び迎へる、所謂招魂法で、後世もした「魂呼《タマヨバ》ひ」の古い一つの方式である。(372)魂が拔けた樣に茫然としてゐる場合、又死に瀕した危篤の際、もつと、屡死んでしまつた後、蘇生の手段として行ふ招魂の法に、山に入り立つてするものがある、山たづねとは、山に魂を呼び尋ねる意であつた。さうして其魂が呼び迎へられて還つて、其人の身に入ると、呆人《ハウジン》は元の知覺・記憶をとり戻し、篤疾者《トクシツシヤ》は平癒し、死人はよみがへる訣であつた。こんな咒術が信じられた時代には、屡さうした奇特な效驗が實際にも現れた。勿論今はない。魂呼《タマヨバ》ひと一口に言ふが、古代の語で言ふと、此が「魂ごひ」である。略して又「こひ」とも言つた。
思ふ人ある時、其魂の一部を呼んで、自分の身に迎へる事に成就すれば、其心は叶ふのであつた。叶うたものと信じたのだ。戀愛を遂げる爲に「魂ごひ」を行ふ事は、あるべきものがないから思ひが叶はぬもの、と逆推理を立てゝ居たのである。之を迎へるのには、袖をふり、又女は殊に頸にかけた領巾《ヒレ》なる布を其人に向つて振つた。「魂ごひ」の咒術である。其がもう、萬葉でも、大半は戀愛の意思表示の方法と言ふ風に考へられた。やるせない時にもする事のやうにすら思はれて居る歌が多い。此等は皆、戀愛成就の爲に行うた方式だといふ事を、忘れはじめて居たのである。魂《タマ》ごひを行ふ心構へに居なければならぬやうな境遇を「こひ」と言ふ樣になつたので、實は「魂ごひ」の略語とも言ふべきである。だからこひ〔二字傍点〕――魂ごひ――を通じて見ると、死者の爲の魂呼ひも、生人のする戀愛も、相通ずる一つの信仰を底に持つてゐたのである。だから、思ふお人の旅長きに思ひ煩うて、この爲に魂ごひをすることもなかつたとは言へない。さうすれば、此は夫《セ》(373)の君のお還りを迎へに行く歌と言ふよりは、還りを促す方式としての山尋ね〔二字傍線〕と見る方が正しいと思ふ。だが(八六)の歌と照し合せて見ると、どうも別の事に考へる方がよいのではないかと思ふ。我々が戀の御歌と思ふ樣に、萬葉集既に相聞の歌としてゐるが、どの御方かの御喪に籠つて居られた時のものが、傳誦の間に誤解せられて、魂ごひの一方の意義に感じられて行つたものと思ふ。殯宮《ヒンキユウ》に据ゑた貴人の御身に、魂の還り憑《ヨ》つて蘇生せられるやうに咒せられたものと見るのが、どうもほんとうではないかと思ふ。
「かくばかり」の方は、かの深く人を愛し給ひ、思ひあまつて激しく嫉妬心《ウハナリネタミ》を發揮なされた磐姫皇后の御作、と傳へるだけの情熱は感じられる。萬葉集の編者もさうであつたらうが、後人も亦此歌をかう考へる。「焦れるよりは死んだ方がまし〔二字傍点〕である」。戀に堪へないからの自棄《ヤケ》のもの言ひ〔四字傍点〕と見るのは、一應尤である。だが、御歌と傳へる此作が、若しかう言ふ風に解けたらどうだらう。わが思ふお方は、山の岩枕にかくれなされてゐる。其お方をよそ〔二字傍点〕に、生きて焦れて居る位なら、私も其山の岩を枕して死んだら、よかつたのに――或は死なうものを――。かう説明して大して不都合はないのである。さすれば、此皇后でない他の古代人の作物が、どうした理由でか、かう言ふ傳誦の形で傳へられた。さうして、死者を慰める歌であつたものに、別の解釋を生じて來たのだと見ることが出來よう。又、其方が正しいのだが、表現に新しい方法が生れて來る徑路を考へると、全くかうした誤解が、實感よりも一際強く張つて、言ふ快さを感じさせる所から、段々(374)用ゐられてゐるうちに、次第に新しい妥當性が出來て來て、後で思へば、古い表現の方が却て間違つて居るやうに、考へられ出して來るやうになつたのでなからうか。
最初の話としては、少しむつかしくなつた。だが、戀歌といふものゝ原義を説き得たと思ふ。其と共に、歌には長い間に、意義解釋が段々變つて行つたものだといふことも、序を得て、一口言つた訣である。
註一 (ずは)ずば〔二字傍点〕ではない。……するよりは、又は、……位ならば、と譯すべき古語。
註二 (やまたづ)接骨木《ニハトコ》の木で、其葉が對生する所から向ふ〔二字傍点〕・迎ふ〔二字傍点〕の枕詞になる。此には異説がある。
妹《イモ》が家もつぎて《三》見ましを〔四字二重傍線〕。大倭《ヤマト》なる大島《オホシマ》(ノ)嶺《ネ》に、《四》家もあらましを〔七字二重傍線〕 ――天智天皇(九一)
磐姫皇后の御歌の次に出てゐるのは、近江大津宮の御宇の歌々で、其初めのが、此御製になつてゐる。昔の歌には色々な傳へがあつたもので、此お歌にも、「妹があたりつぎても見むに……家居らましを」となつた形も傳つてゐたのである。
假りに、男の人から、しみ/”\とした思ひを訴へて來たとする。さうした時に、どう言ふ返事を與へるだらう。かう言ふことが、昔の貴族の家庭での女性教育には、一等大切な問題としてとり扱はれて居た。事實、古代から中世へ渉つての女性生活では、此以上重大なことはなかつたのである。貴族社會に限らず其以下の人々の間、又部落の民の中でも、さうたやすく男の人の欲する(375)答へをやることはしなかつたのである。
さうかと言つて、全く其を黙殺してしまふ樣な態度を採ることはよくないもの、とせられてゐた。後代式に考へると、其が相手を侮辱したことになるのだが、さうした考へ方よりも、もつと先に考へなければならぬことがあつた。つまり全く壓服させられてしまつて、所謂音をあげたことになるのだ。だから、言ひかけた詞に對しては、必其に相當した和《アハ》せの詞《コトバ》が返された。此を女性は常々練習して、當意即妙の返しが出來るやうにして居た。さう言ふ中にも、殊に巧な婦人が屡現れて、村の男・他郷の男が、とつかけひつかけ歌ひかけて來るのに、即座に應酬して、かけ詞を壓倒すると謂つた人々があつた。其が地方歌人として名を高め、其作物と傳へるものが、後世までも段々殘つて來たのである。萬葉集の作者にも、其以後の女流歌人にも、さうした人が隨分ある筈である。
吾を待つと君が濡《ヌ》れけむ あしびきの 山の雫《シヅク》にならましものを (一〇八)
かう言ふ歌を見て、極めて從順な女性を想像しては、それは大きな誤解である。
わたしを待つと言ふので、あなたがお濡れになつた筈の、その山の雫になつたらよかつたわ――。考へ方によつては、纏綿たる情に呆《ホ》けた女の人の心のやうに見えませう。山下雫《ヤマシタシヅク》が、人の著物を濡す。さうして其膚について離れない。さう言ふ雫をも羨まなければならない境遇にある男女を、空想してはならない。古代の歌を、さうした読み方をしては、文學的にとれるかも知れぬが、其(376)と同時に内容は、歌自身を游離したものになるのだ。知らず識らずの間に、自分や自分の持つてゐる時代の文學に近づけて、古典を解釋してゐると言ふことは、古典自身とは關係の頗薄いことになる訣である。古典は其自身の作られた時代――出來るだけ其時代らしい解釋を立て前としなければ、一切むだごと〔四字傍点〕になるのである。文學的に讀んで見たところで、作者の心持ちや、其歌の出來たに近い時代の讀者の心持ちと、没交渉な讀み方では、しかたがない。「文學」を失つても、「時代」なり「作者」なりに幾分なりとも近づいた方が、正しいことは言ふまでもなからう。
此は、石川郎女《イシカハノイラツメ》の歌で、大津皇子《オホツノミコ》のお歌に和せたものである。
あしびきの 山の雫《シヅク》に 妹待つと吾《ワレ》立ち濡れぬ。山の雫に ――大津皇子(一〇七)
吾を待つと君が濡れけむ あしびきの 山の雫にならましものを ――石川郎女(一〇八)
かう竝べて見ると、單獨で見た場合とは、意味が變つて來ずには居ない。
彼女――即おまへ〔三字傍点〕を待たうとして、山の雫におれは立つて居て濡れたよ。その山の雫によ――。
普通の場合、女の人から來り訪ふことはないが、このお歌で見ると、石川郎女の方から通うて來るのを、お待ちになつて居るやうに思はれるかも知れない。だがさうした事は、ないのが當り前だから、やはり大國主命が沼河媛《ヌナカハヒメ》を妻訪《ツマド》ひせられた場合と同樣、郎女《イラツメ》の宿の表に立つて、戸をあけてあひに出るのを待つて居られたのである。ところが、屋敷の外に丘陵があり、其|樹立《コダチ》や、崖から夜更けの露が雫となつて落ちかゝつた訣である。山の雫と言はれたのは、曉露《アカトキツユ》と言ふ風に(377)考へて居たのだから、今で言へば午前二時過ぎまで立つて居られて、露のおりるまで家《ヤ》の戸《ト》のあくのをお待ちになつた訣である。尤、實際が此通りだつたとは言へない。昔からの妻訪ひ歌の型もあつたらうし、又其時々、其人々の誇張もあつたであらうから。だが妻訪ひは結婚の前提として、必行はれたのだから、かうしたお歌の出來るのは當然である。此で見ると、第一の夜、逢はずに戻られた訣なのだ。郎女が夜戸を開いて現れなかつたのだ。で、翌朝、怨み歌を贈られたことになる。
贈られた歌がまじめなのに對して、女の歌は極めて恣《ホシイマヽ》な言ひ方をしてゐる。戸もあけず、會はずにお還しゝて置いて、「その露になりたかつたものですわ」もないものだと言ふ氣がする。讀者は、會はれなかつた事情を素直に想像するだらう。だが、はじめて訪はれた夜は、會はずにお戻しするのが、昔の上流女性の必守つた掟だつたのである。沼河媛も、大國主と長い問答歌を歌ひ交された日には會つて居られない。古事記を見ても、「故、其夜は會はさずして、明くる日の夜、御會《ミア》ひましき」とある。石川郎女ほどの女流が、誇りを棄てゝ會ふ氣遣ひはない。かう言ふ昔からの爲來りを守ると守らないとで、女性の格式がきまるので、古代の貴族の女の人は、皆之を何處までもおし通さうと努めた。其處に、男性の思ふまゝにはならない、女は女としての歴史的品位を保つ、と言ふ風が出來て來た訣なのだ。平安朝時代の貴族及び其傍に居た女房――高級侍女――たちが、女としての權式――時代の語で言へば、おもひあがり〔六字傍点〕――を固く持つて少しでも傷(378)つけられまいとした。其心意氣は、かうした處から來てゐるのである。だから、うはべは情あはれを知らぬと思はれるのを恥ぢて、柔軟にあしらつて居るが、底意は強く彈ね返すものを持つて居た。古くからもさうであつた。
石川郎女の歌を其まゝ、現代式にとり込んだら、もう「萬葉女性」の歌などは訣らないのである。彈《ハ》ね返し、牾《モド》き嗤《ワラ》つて居るのだ。平安朝になると、もつと其が激しくなる。最すなほに見えるものでも、
わびぬれば、身をうきくさの根を絶えて、さそふ水あらば、いなむとぞ思ふ
小野小町の歌である。文屋康秀《フンヤノヤスヒデ》が三河掾《ミカハノゼウ》と言つて、なか/\收人の高い地方官になつて行く際、「どうです、地方見物にいらつしやる思ひきりはつきませんか」と言つてよこした。地方官の客分として奉られながら――事實は妻となるのである――出掛けて、贅澤三昧の生活をして來ることは、當時の女房たちには、とても誘惑だつたのである。其誘ひに對しての答へが、此である。うつかり見れば「私は悲觀して暮してゐるから、一處に行かうと思ふ」と言ふ返事をしたやうに、とられさうな歌だ。併し、此歌に現れてゐる反撥力を感じないやうでは駄目だと思ふ。こんなに悲觀して暮して居るのだから、憂き身――浮き草のやうに根のきれた如く、誘ふ水――人さへあるなら、そちらへ出かけようと思ふ。大體かう言ふ風に説いてゐるが、其でも柔軟に、――情知らずと見られないやうに言つて、而も「往なむと思ふ」とだけで人を焦らしたまゝで、うつちやつ(379)て居ると言へる。併し「ねをたえて」の理會が不十分である。つまり二人の間に仲絶えのした事を言ふ慣用語だつたのだ。つまり、小町に前々から續きあひの斷《キ》れぬ男が居て、其人との間が思ふやうでないので、悲觀してゐる最中なのだ。其で、「こんなに悲觀してゐるのだから、いつそ〔三字傍点〕其關聯を斷つて、誘ふ水がありさへしたら、出かけようと思うてゐる際です」と言ふのである。だから、以前からの男の人との間の、まだ續いて居ることを言つてゐる。「いなむとぞ思ふ」とは言つても、愈行かうと決心してゐるのではない。却て男の人の存在を示してゐるのは、彈《ハ》ね返してゐるのである。
山の雫になつたらよかつたと言ふ思はせぶりは、十分男の人の心をうけ入れてゐる事を見せてゐるのではないのだ。人を惱殺するやうな語で、實意のない言ひ方と見るのが本たうなのである。考へ方一つで從順なやうにも見える。既に述べたやうに、古代の女性は、男の言ふなりになるのを最恥辱とした。思ひあがつた矜持を失ふまいと努めた。其上に女として優しみを何處までも保つて行かうと言ふのである。だからかうした歌々が出來るのは、當り前である。
秋山の木の下隱り行く水の 我こそ益《マ》さめ。御思ひよりは ――額田女王(九二)
秋の山の木の下蔭を水層《ミヅカサ》増して流れ行く水。それではないが、私の方が増して――より以上だと思ひます。あなた樣の仰言る御思ひよりは。(此歌の作者については本卷「額田女王」參照)。
此は最初に掲げた天智天皇御製に和せた歌である。御製の方は、世間では大島(ノ)嶺と言ふ大和の(380)平群《ヘグリ》郡邊の山と説いてゐる。此には異論を持つて居るが、かう言ふ書き物で、かれこれ言ふこともないから、大和説によつて説明の根據を少し更へて行かう。
額田女王《ヌカタノヒメオホキミ》は、近江鏡山の邊に居られた鏡王の御娘であつた。其で、其鏡(ノ)里から北へ三里位離れた――湖水につき出た大島郷――今の長命寺を中心にした地方に、別に家を持つて居られたものと思ふ。大和へ上られゝば勿論宮廷近くに居られたゞらうが、近江へ還られると、大島の家に入られる。此御製は、女王故郷に在る時、道々近江まで遣されたものと思はれる。大和にも大島(ノ)嶺のあること、近江とおなじである。大和の大島山なら望み見られるのだが、近江では見えない。大和の同じ名の山に、彼女の家があつてくれたらよかつたのにと、仰せられたのである。「つぎて見ましを」と申されたのは、連續的に見て居ようものをと言ふことで、つぐ〔二字傍点〕は今の次ぐよりも、もつと接續する意が深いのである。
此「唱《シヤウ》」のお歌に對して、何かそぐはない所のある「和《クワ》」の歌である。古人は此間に必然的な連絡を考へて居たのだらうから、考へると、近江の大島山の家に、秋の木の葉の降る時分に籠つて居られた生活を、基礎として作つて居られるのである。目前の情景を敍逃して、近頃の生活を思はせるのが昔の人の爲方だから、さう考へてさし支へはない。大和の大島(ノ)嶺と言はれたが、近江の大島(ノ)嶺を思ひ遣つて言ひ遣されたのだから、大島山の家居の現状を述べたのである。
かうした最すなほであるべき歌であり、又すなほにも見える歌だが、やはりさう見てしまつては(381)爲方がない。「我こそ益さめ。み思ひよりは」と言つた――殊に「み思ひよりは」と反撥したところに氣をつけて欲しい。四句までは如何にも柔順に見えるが、五句になつてはつきりと、あなた樣どころなものですかと威張つてゐる。お思ひ申し上げてゐることの深さを示すのなら、柔順になつたことが出てゐるのではないかと思はれるだらう。勿論久しくお仕へ申して後だらうから、お目見え初めではない。其點に問題はない。唯お馴れ申して後までも、かうした答への爲方を續けるのである。結局同等な身分の人にも、身分違ひの方にも、その點では同じやうに、どこまでも靡き從ふと言つた風に言はないのが、「かけあひ歌」の常であつた。
註三 (まし・ましを)唯の想像を冒ふ語ではない。現實と反對したことを想像するので、「かうだつたら、かうした筈だのに」とか「あの時あゝだつたとしたら、あゝなつて居たわけなのに」と言ふ風の、今現れて居ない事を空想する語法である。
註四 (家もあらましを・家居らましを)天子樣が、御自身、宮がそこにあつたらよかつた、家構へて居つたらうものを、と申されたやうに聞え、さう説く學者もあるが、其では訣らない。此事も、此短い解説では避ける。
我はもや 安見兒《ヤスミコ》得たり。みな人の得|敢《カ》てにすとふ 安見見得たり ――藤原鎌足(九五)
おれはよ。この安見子を手に入れた。すべての人が手に入れにくがつて居る、と言ふ所の安見子(382)を手に入れたぞ。
内大臣藤原卿、采女《ウネメ》安見兒に娶《ア》ひし時作れる歌一首とある。此があの英雄鎌足の歌だと思ふと、此人の生活の全面が、俄かに明るく潔いものにとり捲かれて來る感じがするではないか。
例に引くのも畏れ多いが、昔はこんな歌の多かつたことの説明の爲に、「第一」の皇后の御歌に關聯深い、夫《セ》の君仁徳天皇の御製、
道《ミチ》の後《シリ》 こはだ處女《ヲトメ》を。雷《カミ》の如聞えしかども、相枕《アヒマクラ》まく
道の後 こはだ處女は、あらそはず寢しくをしぞも、可愛《ウルハ》しみ思《モ》ふ
日向國|諸縣君《モロガタノキミ》と言ふ、地方の豪族の娘、髪長媛《カミナガヒメ》を得た歡《ヨロコ》びに歌はれたもので、まだ大鷦鷯尊《オホサヾキノミコト》と申した頃のおん事と申し傳へる。――遠い筑紫の群國《ミチ》の奥日向《オクヒウガ》のこはだの處女よ。其人は、鳴る雷の如、聞き懼《オ》ぢして居たが、今、相枕まき寢ることよ。
遠い筑紫の群國の奥、その日向のこはだ處女。其人が、おれにあらがふことなく、柔順に從ひ臥したことをば、おれは可愛く思ふよ。
かう言ふ、魂、空にあがるやうな歡聲を、宴席《ウタゲ》の場《ニハ》であげさせられた。
我はもや 安見兒得たり。みな人の得敢てにすとふ 安見兒得たり
この歌に對して應へた歌があるとすれば、どう言ふ内容を持つたものであらう。其が、我々にはちよつと想像出來ないのである。だから此は恐らく、前の御歌と同じ樣に、譬へば戰爭の「勝ち(383)名のり」の如く、妻を得たことを表白する形式――たとへばたけび〔三字傍点〕と言ふ風の――があつたのであらう。事實其がなければ、この當時の結婚として、必しもすぐに家へ迎へるのでないから、その後、他人が又、その妻にしようとするかも知れないのである。
安見兒は、采女《ウネメ》である。采女である以上、宮廷の神竝びに主上に奉仕する爲に、諸國の舊族から奉られて上つて來た、その國々での最神聖な格式の正しい家の娘である。この歌、ちよつと見たところは、他の貴族たちと安見兒を爭うた結果、成功したことを誇つてゐるものと説かれてゐるのも、眞らしく思はれよう。併し其は、あるべからざる考へ方なのだ。何故なら、宮廷の采女を犯すことは、最畏るべき禁忌《モノイミ》に觸れることで、大罪に當る訣であつた。長い歴史の間には、さうした間違ひを起した者もないではなかつたらしいが、鎌足ほどの人が、其に觸れたはずもなからうし、萬一さうした過ちがあつたとしても、こんな勝ち名のりのやうなたけび〔三字傍点〕のあげられる性質のことではない。だからこの場合は、采女の人數に剰《アマ》りのある時に、王族・貴族に分ち與へられた例に當るのである。ちやうど舍人の場合、王族・貴族に對して帳内《トバリノウチ》・資人《モトンド》など稱して、お與へになつたのと同じことであると思ふ。宮廷をちら/\行きかふ者で、すべての人が好意を寄せてゐて、しかも手も觸れることの出來なかつた安見兒なる采女を、藤原内大臣家に賜うた時の歌と見るのは、よからうと思ふ。この場合も、前の髪長媛《カミナガヒメ》を宮廷から大鷦鷯尊《オホサヾキノミコト》が頂かれて、作らせられた御歌と同じ場合である。私の考へでは、此が鎌足の嫡妻《ムカヒメ》として傳へられてゐる、鏡|姫王《ヒメオホキミ》(384)の采女名《ウネメナ》であつたらしいのである。「姫王」といふことは、「女王」と別であつたらしい。更にまた額田「姫」王の姉君である。
健《マス》ら男《ヲ》や 片戀《カタコ》ひせむと歎《ナゲ》けども、醜《シコ》の健ら男 なほ戀ひにけり ――舍人《トネリ》(ノ)皇子《ミコ》(一一七)
なげきつゝ 健ら男の子の 戀ふれこそ、吾が髪結《モトヾリ》の漬《ヒ》ぢて、ぬれけれ ――舍人《トネリ》(ノ)娘子《ヲトメ》(一一八)
立派な男で居て、片思ひすると言ふことがあるものか、と溜め息づいて情なく思つて居るのだが、立派な男は男でも、いくぢなしの男めが、其にも繋らずやつぱり焦れてゐることよ。――此が、親王の御歌。あゝ其で訣りました。溜め息つき/\して、立派な男が、私に焦れて居たからして、其で私のとりあげた髷が、じとついて〔五字傍点〕すつぽ拔けたことでした――。右の御歌にお答へした舍人家の女子の歌。
舍人娘子と言ふのは、この書き方で見れば、舍人氏《トネリウヂ》の娘《コ》である。氏名を舍人と言つた家も澤山あつたらしいが、恐らく、その内最高の家がらと思はれるから、舍人臣《トネリノオミ》・舍人連《トネリノムラジ》とある家の、而もその宗家の人と思はれる。親王の御名からお察しすると、この舍人氏に育まれて成長あそばしたのであらう。其は、父帝、天武天皇が大海人宿禰《オホアマノスクネ》に傅育せられて成長なされたので、大海人皇子と申しあげたのと、同じ事情であるに違ひない。此は、最古い尊い歴史である。宮廷の貴い皇子方が、豪族の手によつて成長なされるのが慣例であつたのだ。さうすれば皇子と娘子とは、幼い(385)時は一つ家で育つてゐられるはずである。さて成長せられると、男女互に顔を見ないのが、兄弟姉妹の場合でも、さうだつた古風習だから、互に別居の後、かうした歌のとりやりのおありになつたことも、なる程と思はれる。
親王の御歌から見ると、此は、たゞ率直に御心を述べられた形式に傾いた部分も考へられる。恐らくまだ初めの頃に遣された御歌だらう。而も、幼い時のなじみであるだけに、歌にも何となく親しみから來る、うちあけ話の樣な姿が出てゐるのである。娘子の歌は、かうしたものは、この當時から平安朝へかけて、類型として相當に行はれたものと思はれる。戀歌《レンカ》と咒歌《ジユカ》(まじなひ歌)又は卜歌《ウラナヒウタ》とは、非常に關係が深い。結ひあげても/\髪が空解けて來るのは、自分を思ふ男があるのだと言つた信仰が、この歌の底にある。これは親王の御歌ほど、まともにかゝつたものでなく、幾分そら/”\しい部分をも含んでゐるやうに思はれる。まともに御應へしたものと見えぬこともないが、其はほんとうではなからう。第四句に『吾髪結』とあるが、「わがゆふかみ」或は「わがもとゞり」などゝ訓んでゐるが、どちらも多少どうかと思ふが、適切な訓み方がないのでもとゞり〔四字傍線〕にしておく。字から見れば、後世の髷に當る語に當てたものと思はれる。どうも、歌の持つてゐる情熱、其歌としてとつた形、整頓せられた氣分、さう言ふものがすべて此場合、女の方が劣つてゐる樣である。皇子の御歌は、文學としても享け入れられるほどに出來て居るが、娘子の方は、單なる實用のものにすぎない。
(386) 橘《タチバナ》の蔭《カゲ》履《フ》む路の 八衢《ヤチマタ》に ものをぞ思ふ。妹に逢はずして ――三方《ミカタ》(ノ)沙彌《シヤミ》(一二五)
作者の三方は氏名《ウヂナ》、沙彌は名。三方沙彌麿《ミカタノシヤミマロ》など言ふ姓名であらう。園臣生羽《ソノヽオミイクハ》の女との贈答三首の内である。その娘の家は、詳しくは、薗氏《ソノウヂ》であつて、家名を生羽《イクハ》と言つた一族の子、親の名前は書いてない。言ひ換へれば、薗翳臣某《ソノヽイクハノオミボウ》の女《ムスメ》と言ふべきところである。
たけばぬれ たかねば長き妹が髪、この頃見ぬに掻《カキ》入れつらむか ――三方(ノ)沙彌(一二三)
人皆は、今は長しと たけと言へど、君が見し髪 亂れたりとも ――娘子《ヲトメ》(一二四)
とある二首の後にのつてゐるのが此だ。數囘往復あつたうちの一首が、この「橘」の歌である。この二人の間がらは、娘子がまだ初々しい年頃で、初めて男の人に逢つたと言ふ氣持ちが、よく出てゐるのを見落してはならない。「君が見し髪」と言ふのは、たゞ男に見てもらつたことではない。男が、契つたしるしに、女の髪を梳《クシケヅ》るのである。だから、後に出した歌の場合は、あなたが手にかけて下さつたこの髪、亂れても現状のまゝにしておきたいと言ふのである。男の歌は、その娘に逢つた時に、櫛を入れた髪を思ひ出して遣したもので、初めて逢ふ夜の髪形《カミカタチ》が、とりあげないすべらかし〔五字傍点〕であつたことが、此から察せられる。たゞ漠然と彼女の髪の長さを言つたものではないと思ふ。あのまゝとりあげずにおくと、長いからと言つても、空解けするだらう彼女の髪、その夜のまゝにあげずにもおけないし、自分がその後、をり返しても行かないのに、自由にとりあげて結ぶ訣にも行くまいから、ただかりそめに押しこんだ樣にしてゐるだらうと、若々し(387)い彼女の上を思ひやつたのである。かう言ふ贈答を幾首か、毎日重ねて往復するのが結婚の初めの風であつた。唯此等の歌では、男が病ひで行けなかつたゞけだ。
(一二五) 橘の陰を暗んで通る路の、八方面に岐れてゐる其ではないが、幾方面にも心が岐れて、もの思ひをしてゐることよ。彼女に逢はないで。そのために。
「八衢《ヤチマタ》に」は、正面の意味は、八方に・種々・樣々と謂つた意で、煩悶する心がいろ/\に思ひ亂れる樣子である。而も、その八ちまたは、元、路の八衢から轉じて、心が八ちまたに向ふ義に使つたのだ。一・二句は、古くからあつた古典的な類型句で、市《イチ》或は歌垣《ウタガキ》の場所の樣から言つたものであらう。さうした廣場に、道が集つて居り、橘の植ゑ木が立つてゐる。さうした姿を、歌垣の歌に詠み込んだものが多かつたので、其が次第に歌詞として用ゐられる樣になつたのである。
つまり、さうした木陰に路が集つてゐる、直觀的な事實を以て、直に抽象的な心の中を表すことに轉じて行つたのである。
この二つの句の樣に、次の句を、違つた意味において呼びおこす役目をする場合のてくにっく〔五字傍点〕を序歌と言ふ。即、枕詞の、一句に止まらず長くなつたものを言ふのである。譬ひ二音でも三音でも、二句日に跨つてゐる場合は、枕詞と言はないのが常である。
この歌で思ふと、男が女を愛するあまりに、病氣であることを悲しんである樣に説くのが正しいが、併し、此とてまた一つの禮儀である。女と結婚して、直さま通ひ路が絶えてしまつた場合、(388)女の家では、親始め女のつき添ひに至るまで、非常に案じるのが常であるから、婿たる男は、その誤解を釋いて慰めねばならなかつた。さうすればこの歌、非常な純粹な情熱から出たともとれるし、又一方には言ひわけだけの詞章ともとれる。だが、こんなことは、どこまで行つても決定の出來る訣ではないから、先づ普通の解釋に從つておくがよからう。
石見《イハミ》のや 高角山《タカツヌヤマ》の木の間より わが振る袖を、妹見つらむか ――柿本人麻呂(一三二)
小竹《サヽ》の葉は み山もさやに さやげども、われは妹思ふ。別れ來ぬれば ――おなじく(一三三)
柿本人麻呂の、石見の妻に別れて上京するときの長歌の反歌である。
(一三二) 石見のその高角山の木の間。そこから彼女は、おれの振る袖を見てゐるだらうよ。
(一三三) 笹の葉は、山もざわ/\するほどに騷いでゐるが、おれは彼女を思つてゐる。あゝして別れてやつて來たので。
人麻呂には、必しも石見に一人妻があつたゞけではない。だが、旅に出た初めに、先づ思はれるのは、別れて來たばかりの人の上である。女の、別れかねてしをれて居たのが、目にまざ/\と浮ぶ。彼女は、この土地の人の、別れにする如く、都濃里《ツヌノサト》のうち高地部にある、その高角山に上つて見送つてゐた筈である。今自分も彼女を思つて彼女の住み、又は居る方へ向けて、招魂の爲の袖ふりをしてゐる、此姿を遠い高角山の木の間から、さだめし見てゐるだらうよ、と言つたの(389)だ。招魂と戀との關係は前に書いた。笹の葉の歌は、畫山道を上つてゐる時に、山おろしが吹いて、山道をかへり見/\してゐる自分に吹き當る樣を表したと思ふのが、普通であらう。が、此は疑ひなく夜の歌である。夜、寢つかれないで起きてあると、夜山に生え充ちた篠の葉は、心澄むばかり夜の響きをたてゝざわついてゐる。だが、おれは別れて來たので、この夜、彼女を思ひ偲んでゐると言ふのだ。
初めの歌は、或本の歌には「……なる……木の間ゆも……見けむかも」となつてゐる。意味は大體一つだが、「見けむかも」は少し違ふ。此場合は、遠く來離れて、もう都濃(ノ)里も見えないのである。だから、高角山から見える間は、こちらを見て居つたらうと言ふのである。尤、「見つらむか」でも、夜になつて、別れた晝の程の事を思ひ返してゐるのだ、と見て間違ひではない。唯此歌、近代的にはかう解釋せられるであらう。袖を振つてゐるのは、高角山で木の間に立つてゐるのは自分である。妹は家の門に立つてゐるのだと。此は勿論成り立つ筈の考へである。長歌の方は「……夏草の 思ひ萎《シナ》えて偲《シノ》ぶらむ 妹が門見む。靡け。この山」とある。だが、此を據り所として歌に自由な展開を考へない事になる。次に高角山で袖をふつたとすれば、妹は何處まで送つて來たか訣らなくなる。習慣からすれば當然、邑落の境で旅人を送り迎へするのが、常のきまりである。門に立つのは、送つて後、家に歸つて、尚去り行く人の上を思ひ念じてゐるので、送りは一旦境界まで出るのだ。だから、高角山まで來て手を分つたのだ。さうして男は次第に山(390)高く登り去つたものと思ふべきだ。そんな處から考へても、高角山の歌も、やはり別れた直後の歌と見るより、其時の感情を其夜、心靜めて旅の鎭魂《タマフリ》を行ふ時に歌ひ出たと見るべきだらう。
「み山もさやに」と言ふ、後の歌の句が、鎭魂《タマフリ》に關聯してゐる。すべて「さやに」「さやかに」「さやぐ」など言ふ語は、其が逆意義に使はれてゐても、其歌の出來た場合は、其を鎭めようとする場合だつたことを暗示するのである。
「袖をふる」ことは、初めに觸れて置いたが、男或は女が、其相手の魂を招く方法で、此が「魂ごひ」であつた。人を慕うてゐる時も、此咒術によつて相手の心を自分に引きつけることが出來ると考へた。領巾《ヒレ》を振るのもおなじ事である。一方に又、思ふ人の無事を祈る時にも、病氣平癒、死を呼び活す時にも、やはり此方法を用ゐたのだ。此處に旅に行く人麻呂が妹の魂を自分に呼び迎へて、我が旅の平安を祈つたことが見える。又家人が旅行く人に、領巾や袖を振ることも勿論ある。後代には、旅人に對しては、巾《キレ》を其方――外へ向けて振り、迎へる時は内へ向けて振るのだといふ樣な風習も出來てゐる。袖を振ることが、戀愛の意志表示だといふ風に、簡單に考へてしまふことは出來ないのである。
額田王《ヌカタノオホキミ》 近江天皇《アフミテンワウ》を思《シヌ》びまつりて作れる歌。一首。
君待つと わが戀ひ居れば、わがやどの簾《スダレ》うごかし 秋の風吹く (四八八)
(391) 鏡王女作れる歌。一首。
風をだに 戀ふるは羨《トモ》し。風をだに 來むとし待たば、何かなげかむ (四八九)
今まであまり、卷一・二を低囘して居たから、今度は、卷四へ飛んで見ようと思ふ。作者はやはり額田女王である。此方の事を「王」と書くことは既に申しあげた。從つて其に和せられた「鏡王女」の事も大體はお訣りにならうが、一通り説明する。近江國蒲生郡|鏡里《カヾミノサト》に居られたから鏡王《カヾミノオホキミ》と謂つた方の御女、姉君は鏡姫王《カヾミノヒメオホキミ》、妹君は、額田姫王《ヌカタノヒメオホキミ》と日本紀などには書いて居る。萬葉にも同樣な書き方をした部分もある。が大抵妹君は「額田王」姉君は「鏡王女」としてゐる。此鏡姫王は後、鎌足の妻として、藤原不比等を生んだ方である。だが、初めは鏡から參つて、宮廷に入り、妹額田王と共に、近江天皇に仕へられたのである。宮廷に神聖な職を奉ずる人々は、必、姉妹數人で入内し、年長者から次第に、近侍を辭する定めになつて居たやうで、決して何時までも君寵を恣にする、と言ふことはなかつたのである。此唱和の御歌にも、其趣きはよく見えて居る。此まで考へられて居たやうに、鏡姫王の君寵が衰へたのだ、と簡單に解釋してしまふわけにはいかない。近江天皇は、天智天皇でおはせられる。
(四八八) 彼の御方のお出でになるのを待つとて、焦れ/\て居る時に、――秋、私の屋敷の簾を搖り動して、秋の風が吹き寄つた。
(四八九) 吹き寄る風――其をあなたは、つまらなさうに言ふが、風だけでも其によつて焦れ(392)て居られるのは、羨しいことよ。私にもせめて、其風だけなりとも、御方が來られるものと待たれるものなら、何の爲にこんなに溜め息づいてばかり居るものか。
額田女王の歌、待ち焦れてやつと其人が見えたと思へば風だつた、と言ふ風な解釋によるものが多い。だが其はやはり、古代の歌の解釋方法を失つて居るのである。鏡姫王の歌を見ても、單に其だけのものでないことは察しられる。風が人の來る前《サキ》ぶれなのである。併し焦れて居る心は、其風では待ち遠しくて堪へられない。此には、古人の行つた戀の咒術《マジツク》について説明をせねば、圓滿な理會は得られないだらう。私の待つのは前兆ではない。彼の御方だと言ふのである。だが、早くさうした考へ方は忘れられてしまつて、戀人に秋風がつらく吹きあたる、と言つた方面へ表現が轉じて行つた。此御歌、風の觸覺は固より、今日の人々には、秋の光線までも感じられさうな歌である。其は一つは、此調子である。三句以下の男性の歌の樣に拘泥のない、張つた調子が、させるのである。外的にばかり見れば、第五句は印象深いものと言へようが、私などは寧、第四句に内的な強さが出て、此が調子の基礎になつてゐるものと思はれる。此歌に對して、鏡姫王の歌は、すつかり別な姿をとつてゐる。
第三句の「風をだに」は第一句のくり返しだが、こゝで出來るだけ念をおして、更にこゝから違つた方面へ感情を展開して行つて居る。風が來た。だが、唯の風ばかりだ。――そんな贅澤を言つてられるのが羨しいといふのである。その前兆だけを得た――其ばかりでも君が來られること(393)に期待出來るのだ。私を御覽。こんなに溜め息づいてゐる。尊貴に近づき奉ることを憚らねばならぬ年齡に達した――さう年長けたわけではないが――昔の宮廷の女性の生活が、思はれるではないか。次に、柿本朝臣人麻呂の歌四首のうち、
みくまぬの浦の濱木綿《ハマユフ》 百重《モヽヘ》なす 心は思《モ》へど、直《タヾ》に逢はぬかも (四九六)
今のみのわざにはあらず。いにしへの人ぞまきりて、哭《ネ》にさへ泣きし (四九八)
口譯からはじめる。
(四九六) 熊野の浦の濱木綿、其ではないが、百重も千重も、心では思つてゐるが、彼女が直接には、おれに逢はないことよ。
(四九八) おれの事をさう咎め立てすな。今の時代にはじまつた、おれだけの爲《シ》わざではない。昔の人の方が、もつと激しくて、泣いてまでした戀なのだ。
みくまぬ〔四字傍点〕は三熊野と書いてゐるが、單なる宛て字で、又まくまぬ〔四字傍点〕ともある。地名を讃める義のある接頭語だつたのだ。元、「みくまぬの熊野」と枕詞風に言つたのを一つだけにしたのである。熊野の濱だけでは廣過ぎる。今で言へば三重縣東西牟婁郡、和歌山南北牟婁郡の地域である。だが歌としては、熊野の中心地をさしてゐるのだらう。熊野川の流れる地方、殊にこゝでは新宮から勝浦あたりをかけて言つてゐる、と見てよいのだらう。だが此歌一つについて見ると、どうも民(394)謠らしい要素を深く持つてゐる。名高い民謠で、人麻呂作だと傳へられたものか。十に一つは、人麻呂の歌が民謠化したものとも思はれる。ともかくも創作詩としての角のとれた感じのあるものである。
濱木綿は、はまおもと〔五字傍点〕の事として、今專ら信じられてゐる。花が木綿《ユフ》のやうに白いからだと説明する。元、熱帶植物で、古くから流れついて熊野邊には自生して居たのだ。濱木綿の皮が幾層にも重つて居るからだ、とするのは正しいか知らん。この歌などは、濱の波が百重にもよせて濱木綿を濡らすといふやうな形の言ひ方が固定して、此植物の皮に聯想をするやうになつたと見る方がよいのではなからうか。此歌はもう其からは獨立してゐる。皮は剥いでも/\芯に達せない、さう謂つた感じから、「たゞにあはぬかも」と言つてゐるやうな氣がする。「百重なす」は、皮の百重なる如く百重に心は思うてゐるが、と言ふことだ。
「今のみ」の方では、自分の事を棚にあげて、昔を主として言うた歴史語りの樣な所がおもしろいのだ。概念的な感じを與へる所に、調子の張つて來る訣がある。而もはつきりと自分の境遇を描寫してゐる。よそ〔二字傍点〕を言ひ乍ら自ら深く語つたのである。辯護に昔の人を前に立てゝ來た訣である。「ねになく」と言ふ語、早くから「音に鳴く」と言ふ風に考へられてゐるが、古語では、泣く事を「ねになく」「ねをなく」「ねのみなく」などゝ言つたので、其が又色々に分れて行つた。こゝでは執こくなるから略する。自分は泣きまではしなかつたけれども、衰へ痩せて思ひこんで居たの(395)だ。其を人が咎めたから、昔びとの戀の激しさを例に引いて、自分を諌めた人に答へたのである。
山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒト》春日野に登つて作つた歌。一首 竝びに短歌
春日《ハルビ》を 春日《カスガ》の山の、たかくらの 御蓋《ミカサ》の山に、朝さらず雲居《クモヰ》たなびき かほ鳥の間無く屡《シバ》鳴く。雲居なす 心いさよひ、其鳥の片戀ひのみに、晝はも日の盡《コト/”\》、夜はも夜の盡、立ちて坐《ヰ》て思ひぞ 我がする。逢はぬ子ゆゑに (三七二)
反歌
たかくらの 御蓋の山に鳴く鳥の やめばつがるゝ戀も するかも (三七三)
卷三にある。長歌は長過ぎるから、口譯にとゞめよう。
(三七二) 春日山の内の御蓋山に、毎朝必、雲が一ぱいにかゝつて居り、かつかう鳥がいつもいつも鳴き續けてゐる。其雲のやうに心が漂ひ、其鳥のやうに片戀ひの音をあげて、晝は日中、夜は夜どほし、立つたり坐つたりして、おれは思つてゐる。おれに逢つてくれぬ娘、その娘の爲に。
反歌〔二字傍点〕と言ふのは、長篇の歌に附屬した短章で、此文句で、前の歌を調子を替へて謠ひ收めることになつて居た。聲樂の上のてくにっく〔五字傍点〕が、萬葉集には、詞章の一つの形式でゞもあるやうに出てゐるのである。「はんか」と読む。反は、即をさめ〔三字傍点〕の意。をさめ歌が反歌なのだ。
(396) (三七三) 御蓋の山に居る鳥――の鳴き止むと思ふと連續して鳴く――其ではないが、とぎれる間なく、つぎ/\と心に浮んで押へられない戀をすることよ。
天子の正式の祭の御座の上に翳《カザ》す御蓋とかゝる枕詞が、たからの〔五字傍線〕である。「高し――――鳥の」までの一・二・三句は第四句を起す序歌である。やめばつがるゝ〔七字傍線〕は、やんで又起る思ひと謂つた悠長な言ひ方ではない。鳥の聲のやんではつぐ樣に絶え間なく、と譯したのも、其爲である。思ひきらうと決心しても、あきらめきれないのだと言へないこともない。其なら又暫らく絶えてまたより〔二字傍点〕の戻ると言つた風にもとれる。いづれにしても、つがるゝ〔二字傍点〕に對して適切でないやうだ。る・らる〔三字傍点〕は不可抗に反射的に起る感情を示す辭である。「つげてならない」と言ふ處だ。つがうと言ふ氣でないが、つげて/”\爲方がないと言ふのだ。春鳥の鳴き聲を喜ぶと言ふより、かう言ふ風に憂鬱に聞くのは、我が民族が昔から持つて居た考へ方らしい。春鳥が鬱陶《ウツタウ》しいと言ふよりは、春なく鳥を嫌つたのが原因なのだ。だから、稀にある種の鳥の聲をほめる歌があるのである。
此歌、枕詞・序歌と重ねて、何の事もなく單純に見えるが、季候と其に促される心理とが、糾《ナ》ひまぜて感じられる外に、調子として下の句が張つて居て、其に對して、上三句が相叶つてよい調子を作つて居る。
山部宿禰赤人の歌。一首
わがやどに韓藍《カラアヰ》蒔《マ》き生《オフ》し 枯れぬれど、懲《コ》りずて 又も、蒔かむとぞ思ふ (三八四)
(397)からあゐは「鷄冠木《ケイクワンボク》」とも書いてあるので、鷄頭だらうといふことになつてゐるが、確かには知れない。藍は染料の廣い稱へである。必しも後の藍ばかりでない。藍と言ふのは、赤花と青花である。くれなゐ〔四字傍線〕もすべての人に知れてゐるやうに呉之藍で、赤色である。韓藍も朝鮮傳來の赤花の染料であらう。二句・三句と疊みかけた調子から見て、稍まともに藍を歌つてゐるのでなさゝうな暗示を受ける。其が四句になると、失戀の歌だといふ考へが纏つて來る。五句になつて、はつきりと其が具體的に受け入れられるのである。紅・紫などが、單に戀のしんぼる〔四字傍点〕に用ゐられて居た樣に考へるのは、早計である。かう言ふ歌のもつと古いものから、はで〔二字傍点〕で好まれた當時の嗜好色、其が戀歌の譬喩に屡用ゐられたから、其一つ出しても、さやう感じられるやうになつたのだと言つてよからう。こゝも勿論、戀心或は戀人の譬喩だけれども、紫が色褪せ易いとか、紅の心に染むとか言ふ樣な譬喩ではなくなつて居る。もつと進んで、戀自身の譬喩になつて來てゐる。わがやど〔二字傍線〕は屋敷内の事だ。こゝは屋敷の園畠《ニハハタ》なのである。かう言つて居る以上、唯人を思うたと言ふだけではなく、家に迎へた樣に聞えるが、輕くとつて置いてもよい。「かれぬれど」は花が枯れたと直觀的に言つたと見るよりも、離《カ》れると、とれないでもない。つまり離れるは男からすることで、ある女を愛しはじめて時經て、自分から、もうふりむく氣もなくなつたが、と言ふ風にとるのである。「かれぬれど」を、女を思ふ心かひなくなつたと、とるのが普通だが、さうは見ない方がよいやうだ。
(398)「懲りずて又も」、同じ女に言ふのか、別の女をさすのか、はつきりしない。此も他の女と見るのが多からう。唯他の人の處へ行くのは、あたり前の事で、別に歌に詠むほどの事はない。まる/\失戀した爲に、新しく戀をはじめようとしてゐるか、同じ女性へ通ひ出さうとするか、此二つなら意味がある。「蒔かむとぞ思ふ」此句は、四句と相俟つて滑稽感が出て來るのである。此を感じないのは間違ひだらう。つまり作者は自ら嗤《ワラ》つて居るのである。極めて淡白な詠み口で、拘泥して居ない。恐らく宴遊の即興で、昔共に住んだ女の居たのに聞かせるつもりで、謠つたものだらうとすれば、歌の柄が生きて感じられて來る。韓藍の歌、萬葉集には尚少々あるが、作られた當時の人には、はいから〔四字傍点〕な題材に聞えたのだらう。
天平二年|庚午《カノエウマ》冬十二月、太宰帥大伴卿《タザイノソチオホトモキヤウ》、京に向つて道に上《ツ》く時作れる歌。五首。
わぎも子が見し鞆《トモ》(ノ)浦の天木香《ムロ》の木は、常世《トコヨ》にあれど、見し人ぞなき (四四六)
鞆(ノ)浦の いその天木香《ムロ》の木見む毎に、相見し妹は、忘らえめやも (四四七)
いその上に根延《ネハ》ふ天木香の木 見し人を いづらと問はゞ、語り告げむか (四四八)
妹と來し 敏馬崎《ミヌメノサキ》を、還るさに、獨《ヒトリ》して見れば、涙ぐましも (四四九)
行くさには、二人わが見し此崎を ひとり過ぐれば、心かなしも (四五〇)
大伴家の人で太宰(ノ)帥になつたのは、家持の父旅人である。都から筑前國へ下る時は、妻|大伴郎女《オホトモノイラツメ》(399)を連れたのだが、任地で亡くした。さうして自身も大病にかゝつたのが、やつと京官《キヤウクワン》として、奈良都《ナラノミヤコ》へ還るのだから、嬉しくなければならぬ筈だが、心に樂しみきれぬものがあつたのである。備後鞆の浦を過ぎての歌。
(四四六) 彼女が見たことのある鞆浦のむろ〔二字傍点〕の木は、永久不變の生命を持つて居るが、其を見た人は居ないことよ。
(四四七) 鞆浦の巖の上のむろ〔二字傍点〕の木。此後も其を見る度毎に、一處に其を見た彼女のことを忘れられる氣遣ひはあるまい。
(四四八) 其木を見た人を、巖の上に根を張つて居る天木香《ムロ》の木。其に何處に行つて居るのだらうと問うたら、靈的な木だから、彼女の居處を語り告げようよ。
(四四九) 彼女と二人で來た敏馬崎だが、其を還り際《シナ》に、たつた一人で見ると、涙が目にたまつてぼう〔二字傍点〕とする。
(四五〇) 行き際《シナ》には、我々二人が見た此崎だが、其を今、ひとり通つて行くと、心悲しいことよ。
此歌第五句『見もさかず來ぬ』とした傳へもあつた。此方なら、「見さけもせずに」即、目を放つて眺めることもないで通つて來たとなる。天木香又|※[木+聖]《ムロ》と書く。※[木+室]《ムロ》は宛て字。※[木+聖]は誤譯した字である。栢槇《ビヤクシン》の種類であるが、尚問題がある。此木の種が漂ひよつた處々に育つて、自生したものと(400)思はれる。其にさうした木だけに、古代人の考へた常世の國――海の彼方にある樂土――から流れついたと思はれ、同時に常久《トコヨ》の齡《ヨハヒ》のあるものと見られて居たのだ。其で、死んだ人の行つて居る常世《トコヨ》の消息にも通じて居るものと見、其に聞けば知つて居るだらうと考へたのである。
歌は、純然たる日本的のよみ口だが、さうした心の持ち方に、漢文學の影響らしいものが見える。譬へば最近い例が、楊貫妃の靈が、東海の他山に生じて、太眞《タイシン》といふ女仙になつて居た。其を、方術士《ハウジユツシ》が尋ねて行つた、と謂つた類の傳へが多かつた。其を心に持つてゐるのだ。
多摩川に晒《サラ》す調布《テヅクリ》 さら/\に、何ぞ この子の、こゝだ愛《カナ》しき ――武藏國の歌(三三七三)
人皆の言は絶ゆとも。埴科《ハニシナ》の石井のてこが 言な絶えそね ――信濃國の歌(三三九八)
次には少し飛躍して、東歌に見えた戀歌を解説して見ます。まづ卷十四から。
東歌は、戀歌的要素を多く持つて居ます。と言ふよりは、寧その本體が戀歌であつて、其から、外の分類に這入るものが出て來た、と言つてもいゝ位なのです。其で、こゝに東歌を拔いて來た理由に似たものを、言つて見たいと思ひます。其は、昔の人が歌に持つて居た信仰と、其から一つの考へ方を、自由に外の方に展開して行く心について言ふことになるのです。
此文章の始めの方でいひました樣に、戀歌《コヒカ》(相聞《サウモン》)が、死《シ》の歌《ウタ》(挽歌《バンカ》)と、相通じて用ゐられて居ました。歌の表面に出てゐる意味と謂つたものよりも、もつと底に潜んだものがあつて、其が(401)諷誦する人の心によつて、どの方角へ向いても、意味を表すことになるのです。其人が死者を弔ふ氣持ちで居る時は、戀歌が悲傷歌の氣分を持つて來るのです。謠ふ人が父子兄弟その他、身に近い人々に對しての親愛を表さうと言ふ時には、歌は自らさうした向きに效力を示して來るのです。此は、歌詞の根元になつて、威力が外的な意義に囚はれないで居る、と言ふ信仰を示してゐるのです。謠ふ人の氣持ちが、歌の根元力に觸れて行くと、外的意義は自由に變つて來たものなのです。併し其と同時に、其歌を聞いてゐるものは、人間たちです。おなじ世に生活してゐる同胞たちです。其聞く人の心が、さうした理會を持たないことには、謠ふ人の考へは徹しない訣です。つまりさうした二つの場合を通じて、信仰がものを言つて居たのです。
東歌の場合に最はつきりと出てゐるのは、倭宮廷に忠誠を誓ふ、と言ふ心づかひの出てゐることです。つまり東の國々に行はれた古くからの由來正しい歌々が、たとひ表面の意は戀歌であつても、此を倭の京に向つて申し上げた場合には、其歌にこもる忠實心《マメゴヽロ》が、宮廷へ奉仕の誓ひ詞としての力を持つて來るのです。其なら人々が新作をして奉つたらよかりさうですが、此は後には、段々さうなつて來ます。だが古くはさうではないのです。新しい歌が作れなかつたと言ふよりは、もつと外に深い理由があるのです。古くから傳つてゐる歌は、其地方々々の神の語と同じ、と謂つた力を感じられて居たのです。人の語よりは神の詞の方が威力があります。其國の神の古い詞を以てすることは、即、昔もかくの通り、現實の今の我が心も此如くと言ふ誓ひ方になるのです。(402)私は東歌はすべてさう言ふ意味で、古代に久しくゝり返された、宮廷へ對しての誓ひの詞の集り殘つた部分だと信じてゐます。少し咄が重くなりました。
(三三七三) 多摩川で晒してゐる手織りの布、其ではないが、さら/\――くり返し/\――どこまでも、どうしてこの娘《コ》が、こんなにひどく可愛いのだらう。
(三三九八) みんなの人が、おれに絶交しても構はない。あの埴科の石井の村の娘の絶交があつてくれるな。
此二首などは、読んだゞけで訣ります。口譯すると、こんなに固くるしくなります。つまり今人の理會と古代人の詞づかひとは、少々異つて居るのです。其をまる/\近代的に飜《ウツ》してしまつても、いけないと思ふからです。
調布はてづくりのぬの〔七字傍線〕とも言ひます。武藏に限つたことではありませんが、さうしたほうむすぱん〔六字傍点〕が、宮廷への調《ミツギ》として獻上せられたのです。其中でも武藏のは、都で久しく由來を持つたものとして、とり扱はれることになつたのでせう。さうした多摩處女たちの勞作によつてなつた布を、多摩の川原で晒したのです。其さらす〔三字傍線〕の音をきつかけ〔四字傍点〕に「さら/\」が出て來ました。「さら」とか「さら/\」とか言ふ語は、くり返す意ですから「くり返しても」と言ふことになつて、「どこまでも」と轉義してあるのです。「何ぞこの子のさらにかなしき」の意で、自分ながら不思議がつてゐる。言ふ所は、ほんのわづかな單純なものです。其だけに心に沁みます。たゞ地方色を出(403)してゐる上二句が、其單純さに色づけてあるのが、此まで人々にはよいと思はれてゐるのですが、私には目障りに感じられます。だが追つては、こんな處に優美と言ふ、新しい日本文學の味ひが出て來る訣だから一概にも言へません。其よりも、此歌で考へてよいことは、多摩地方の古い風俗歌《フゾクウタ》が、適切に、調布を獻る際に少しばかり轉義して用ゐられることが察せられる點です。愛人に對しての深い愛を、其まゝ宮廷に向つて、かくの如くと示し申してゐるのです。「この子」だとか「かなしき」とか謂つた外的意義には、拘泥して居ないのです。「自分ながら説明出來ないほど宮廷をお慕ひ申しあげて居ます」と言ふことになるのです。
埴科郡は、千曲川の中流に臨んだ地です。小縣《チヒサガタ》・更科《サラシナ》、其から此地方などは、最早く文化をとり入れた美しい國原でした。石井の地は今日知れません。唯、名高い清水の湧く石井があつたから、自然出來た地名なることは言へませう。井は湧き水を湛へた水汲み場、石と言ふのは、石井筒などのあつた時代ではありません。岩石の中に水が溜る。其を處女が朝或は夕方、群をなして汲みに出る。さうした想像をして間違ひのない用水溜めなのです。てこ〔二字傍線〕は萬葉では、あかんぼ〔四字傍点〕の事にも使つてゐますが、東國では、娘を意味したらしく、下總には眞間《マヽ》の手古奈《テコナ》と言ふのが居つたと傳へてゐます。此も眞間の井と言ふ井水《ヰドミヅ》を汲みに出たのです。てこ〔二字傍線〕は娘でも、かう言ふ場合は、すべての娘をさすのでなく、ある美しい娘を、其稱へで傳へたのです。「てこが」は「てこがこと……」と續くので、「てこ其人が……」ではありません。「てこのことがたえるな」で、石井の娘(404)の絶交さへなくば、親戚・同輩・世間から絶交を宣せられてもよいと言ふのです。近代までも行はれてゐることで、村の制約に背いた者が、「村八分《ムラハチブ》」など言つて、つきあはれなくなつたのです。其が古代ですから、ずつと激しかつたのです。單純であり、激情的でもあつて、萬葉の中でも有數な歌だと思つて居ます。かう言ふのが、作者は訣らないのです。下總歌を見ませう。
葛飾《カツシカ》の眞間《マヽ》のてこなを。まことかも。我によすとふ。眞間のてこなを (三三八四)
葛飾の眞間のてこなが在りしかば、眞間のおすひに波も とゞろに (三三八五)
跫音《アノオト》せず行かむ駒もが。葛飾の眞間の繼橋《ツギハシ》 やまず通はむ (三二八七)
訣りきつた歌ですが、口譯を試みます。
(三三八四) あの葛飾の眞間の娘よ。其をば、ほんとうか知らん。私に神が妻《メ》あはせて下さるといふことよ。その眞閏の娘よ。それを。
(三三八五) あの眞間の娘が居つた時分に、眞間の波うち際によせる波ではないが、とゞろに――騷ぎ騷いで、人がよつて來たことよ。
(三三八七) 足音立てず歩くところの駒がほしいことよ。娘のうちへの葛飾の眞間の繼橋、それをとぎれず通はうよ。
此は純然たる戀歌とは言へません。昔居た名高い娘の物語を、後の代の人が、かうして歌によん(405)で、其に焦れて居るやうに作つたのです。勿論純文學としても作つたのではありません。必多人數の人の中で謠ひ出したものに違ひありません。誰一人知らぬ者のない知識の範圍で、其を應用してこんな歌を諷誦すると言ふのは、宴會とか、協同作業とか、さうした場合と思はれます。下總國の國府、今なら縣廳所在地のすぐ側に傳はつて、昔物語があつた爲に、「眞間のてこな」は、早くから都へも聞えて居たものと思はれます。或は又かうした歌が、宮廷へ奏上せられた爲とも思はれます。
(三三八四)の「我によすとふ」は、人によると、「思ひよせて居るといふ」といふ風に感じる方が多くおありでせう。だが古くは、さうした表現はありません。よす〔二字傍点〕は神樣が物を託せられることから、下さることに轉じて用ゐた語です。神の意思で、おれの妻に定まつた、さう言ふ神判を知り乍ら歡喜から來る疑念なのです。幸福の疑懼とも言へませう。「まことかも」と疑つたから「よすとふ〔二字傍点〕」と自信のない表現をしたのです。「てこなを」のを〔傍点〕は「をば」ではありません。萬葉によくある感動のを〔傍点〕です。昔物語のてこな〔三字傍点〕を現實的に扱つて、宴席などで、自分がその幸福な男だといふ風に言ふことが、滿座の哄笑を催すことが出來ると言ふ、座興のこつ〔二字傍点〕を知つて居る心にくい物言ひです。「まゝのてこな」は事實は、誰にも從はず、清淨無垢の身を眞間の浦の浪に沈めたのです。日本古代の女性には、かうした型の、異性を避けて「永遠の處女」として死んだ娘が多かつたのです。
(406)「眞間のおすひ」の歌は、口譯をお疑ひになり、頑な解釋だとお笑ひになるかも知れません。が、古代と近代とでは感じ方が一つではありません。本居宣長は詩人的な素質よりも學者風な理智の人でしたが、珍しく此を詩らしくとり扱ひました。「てこな〔三字傍点〕が海岸に立つて居ると、波までが騷いでよせて來た」と言ふ風にとつてゐるのですが、其解釋は直觀的に過ぎたのです。やつぱり學者的な固さの少い賀茂眞淵の説のやうに、眞間のおすひに浪のとゞろに寄せる如く、人がとゞろに騷いだとせねばなりません。つまり「眞間……波も」、これだけは「とゞろに……」の序詞なのです。こゝまで言へば、昔の人には訣つたのです。浪までが讃美したと言ふやうな近代的な考へ方はなかつたのです。古い文學は、我々が其を其本體以上に詩にし美化してはならないのです。古典を讀む教養は、まづ其邊からはじめてよいのです。そんな低い興味よりもゝつと高い意義のよさ〔二字傍点〕が、必發見せられるものなのです。おすひ〔三字傍線〕はいそべ〔三字傍線〕の音韻變化だらうと言はれてゐますが、ひ〔傍線〕は邊《ヒ》ですけれど、おす〔二字傍線〕はもつと外の意義がある樣です。波のよせる事と姑らく考へて置きます。
(三三八七)になりますと、物語を現實感の中に生かさうとしてゐます。實際處女の處へ通ふ習慣をくり返して居る人たちが、古代から傳る典型的な婦人の許へうけ入れられて、毎夜往來すると言ふことは、考へても幸福感に滿ちることなのでせう。「跫音せず」といふのは、處女との交情を人に覺らしたくない、といふ心遣ひを見せてゐるので、たゞ行つて還るだけなら、こんなことは言ひません。眞間の繼橋は、勿論名所でも何でもありません。昔の川や入り江には、よくあ(407)つたもので、一枚橋で行けない幅の水上に柱を竪《タ》てゝ、板を幾枚もわたした橋です。眞間の入り江にかゝつて居たのでせう。
かう言ふ昔物語に育まれた芽生えが、遂には文學に達する道程を示してゐるものとしてあげました。まう一轉して文人がとりあげると、態度としては、おしも押されもせぬ文學となる訣です。
あまり詳しくなり過ぎましたから、すこし口譯だけを竝べて見ませう。上野歌は、澤山あります。其中から數首。古くは勿論|上《カム》つ毛野《ケヌ》です。
伊香保ろの岨《ソヒ》のはり原 ねもごろに おくをな豫《カ》ねそ。まさかしよかば (三四一〇)
上《カミ》つ毛野《ケヌ》佐野《サヌ》の船橋《フナバシ》 とり放《ハナ》し 親はさくれど、我《ワ》はさかるがへ (三四二〇)
伊香保風 吹く日吹かぬ日ありといへど、我が戀ひのみし 時なかりけり (三四二二)
我が戀ひは まさかもかなし。くさまくら 多胡《タコ》の入《イ》り野《ヌ》の おくもかなしも (三四〇三)
上つ毛野 安蘇《アソ》の眞麻群《マソムラ》 かき擁《ムダ》き臥《ヌ》れど、飽《ア》かぬを。何《アド》か 我がせむ (三四〇四)
新田山《ニヒタヤマ》 嶺《ネ》にはつがなゝ、我《ワ》によそり はしなる子らし あやにかなしも (三四〇八)
(三四一〇) 伊香保地方の岨路《ソバミチ》の王孫《ハリ》(ぬはり)の原ではないが、さうまで、ねもごろ――しみじみと行く末のことを言ふな。今さへよくば、それでよいではないか。
(三四二〇) 上野國よ。その佐野の船橋。とりはなしてのける其ではないが、親は二人を引き(408)のけるが、私は引きのけられるものか。
(三四二二) 伊香保――榛名――おろしの風よ。吹く日と吹かぬ日とあるけれど、おれの焦れる心ばかりは、時の區別と言ふものがないよ。
(三四〇三) おれの焦れ心は、彼女が目の前に居ても可愛《カハユ》くてならぬ。更に又その多胡の入り野の奥でゞはないが、將來《オク》かけて可愛さに變りはないことよ。
(三四〇四) 古典的な味ひは、現代にひき飜《ウツ》して見ると、大凡匂ひがなくなる。このまゝ鑑賞してほしい。
(三四〇八) 新田山それが、ほかの峯につゞいて居ない。其ではないが、私に關聯して、中途半端な境遇になつてゐる彼女が、むしやうに可愛いことよ。
上野歌ばかりではない。東歌には、隨分方言や、方言的發音がまじつて居て、今日わかりにくいものもある。當時は大體わかるものを拔いたのだらう。其は宮廷に奏上した國ぶりの歌の、宮廷に殘り傳へられたものが澤山あつて、其が次第に記録せられる樣になつたことは察せられる。其記録の中から更に、萬葉集の集成者が拔粋したもの、と言ふべきであらうと思ひます。
相聞のうちでないものにも、戀歌はいろ/\ある。譬喩歌《ヒユカ》は勿論、相聞の譬喩的表現をしたものだから、別に問題にならない。雜歌《ザツカ》の中から數首。
(409) つむが野に鈴が音《オト》聞ゆ。上信太《カムシダ》の殿《トノ》の仲男《ナカチ》し 鳥狩《トガ》りすらしも (三四三八)
すゞがねの 驛舍《ハユマウマヤ》のつゝみ井《ヰ》の水を賜へな。妹が直手《タヾテ》よ (三四三九)
うらもなく 我《ワ》が行く道に、青柳《アヲヤギ》の發《ハ》りて立てれば、もの思《モ》ひ出《ヅ》つも (三四四三)
かぜのとの 遠き我妹《ワギモ》が着せし衣《キヌ》。袂のくだり まよひ來にけり (三四五三)
此等の歌は、國所がわからないものとなつてゐる。だから、宮廷などに傳り乍ら、古く這入つた爲に、もう出處が知れなくなつてゐたのだ。其中には、今日考へても、地名の見當のつくものもないではない。
「つむが野に……」は、常陸歌だらうと思ふが、駿河の國ぶり〔三字傍点〕かも知れない。上信太の殿と言ふのは、其地方の、豪族なのだらう。鳥狩りは小鳥狩りで鷹狩りだ。鷹には尾鈴と言ふものがつけてあつたので、空に鳴りわたる音が聞えたのである。
(三四三八) つむが野で尾鈴の音が聞える。上信太のお屋敷の仲の公達が、鳥狩りしてお出でなさるに違ひないことよ。
此も、女の歌と見るのが正しくもあり、味ひも出るのではないか。すゞがねの歌、地名は訣らない。鈴鹿嶺《スヾガネ》だとする説もあるが、其では伊勢歌になる。此ははゆま〔三字傍点〕の枕詞である。官道《ハユマヂ》の馬つぎ場が驛《ハユマ》であり、其役所がはゆまや〔四字傍線〕又ははゆまうまや〔六字傍線〕と言はれた。其あたりに泉があつたのだらう。つゝみ井と言ふのは筒御井《ツヽミヰ》とも言はれてゐるが、どうであらうか。包み井で、人工的な堰を築い(410)て湛へた水らしく思はれる。口譯すると、
(三四三九) 驛馬のゐる驛舍のつゝみ井の水をおくれなさいよ。それも、彼女のぢか〔二字傍点〕の手からして。
宴會の歌と思はれます。馬に飲《ミヅカ》ふといふ事は、昔は、一つの宴會の附帶條件となつてゐました。驛使を饗應した時の歌、とまで思はなくとも訣るでせう。
(三四四三) なんの氣なしに、おれの歩いてゐる道ばたに、青い芽出し柳の、芽を出して立つてゐるのを見た時に、この頃するもの案じが、心に浮んで來たことよ。
(三四五三) 遠くの彼女の以前着て居られた着物――この今、おれの着てゐる着物の袖のさがりが、すき切れして來たことよ。
此だけの内容が、かう言ふ歌になつてゐるのだ。
うらもなく わが行く道に、青柳の發《ハ》りて立てれば、もの思ひ出つも
かぜのとの 遠き我妹が着せし衣。袂のくだり まよひ來にけり
野徑の柳でもよい。町の街路樹でもよい。濠端の物でもよい。我々の心に――と言ふより、我々の近代の生活にも、ぴつたり來さうな歌で、道端でふつと見て、心から暫らく去つてゐたことを思ひ出した。さう言ふ氣持ちにぴつたりと來る。こんなのになると、外界と、内界とが、今日と違つて感じられない。と言ふより、どうしてこんなに近代的にぴたりと來るのかと思ふほどであ(411)る。そこに古典文學に對する驚きを發する處があるのである。いつもかうした處から、行きづまつた文學が出直してゐるのである。ところが、前にも言つたが、其が近代人の古代に對する知識不足から來る所の近代化なので、實はさうした境遇で、まづかう言ふ心持ちを起すのではなさ相なのだ。外にも例はあるが、占ひ或は心の誓ひの爲に插《サ》し柳《ヤナギ》をして、それが芽を出せば吉、又は、誓ひに僞りのない證《アカ》しとしたのである。其柳は芽を出して、しつかり立つてゐる。而も現實はさうでない、と言つた事から、こんな歌が出來たと見るべきだらう。私の解釋は甚、おもしろい歌をつまらぬ歌にした氣がする。だからと言つて、國文學の乾燥した方法がいやだと言ふ人もあらうが、其はしかたがない。事實以外につけ添つて考へるのは、どんな場合にも間違ひである。おなじ樣に、次の歌の「着せし衣」なども、別れの際に着せてくれた衣でよいではないか。お着せになつて、今もおれが着てゐる衣と言つた處で、結局おなじ事ではないか。かう思ふ人が相當にゐるだらう。又、さう簡單にはいかぬと思ふ人でも、唯「おれに着せた衣」の方が、色氣があつてよい。そんな干乾びた解釋をすることはないぢやないか、と考へるだらう。だが、元來の意義に忠實な方がよい筈だ。語なしに文學はないのだから。何も読む方から持ち出して、古文學をよく見直さなくてもよい。其だけでなく、語と心とをとり入れる練習が、人によつては足らない。自分らの欲する樣な、世間普通の言ひ方でなくば、皆よくないと思ふのはわるい考へだ。もつとさう言ふ心持ちを調節する稽古が必要だ。
(412)かぜのと〔四字傍線〕は遠しの枕詞。説明しない方が、今では安心なほど氣分にとけこんでゐる。遠き我妹《ワギモ》、故郷にゐる愛人又は妻で、こゝは概念的に言つたのが、却て深く感じを待つ樣に思はれよう。「着せし」は着せたと見てもわかるが、昔の習慣では、男女の別れには、肌の着物をとり交して着たので、之を形身と言ふ。つまり身の形、身代りである。愛人と愛人は、逢ふ毎に此風習をくり返して別れる。「きぬ/”\の袖の別れ」など言ふ語も其から出、果ては「きぬ/”\」と言ふのが、男女の別れを意味する語になり、近代には其が急速に遊廓的な色彩を持つた語になつてしまつた。かう言ふ處で「着せてくれた」のどうのとは言はない。とりかへて着るにきまつてるのだから。そんな處の纏綿たる艶情を思ふのは、近代の癖である。妹の着てゐた衣だから、旅人には殊に愛執が深いのだ。其で語にまで出して着せしと言うたのだ。「着せし」はお着になつて居たと言ふ意の古い文法表現だ。愛人の事だから、さう敬語を使はなくともよい筈と思ふ人もあるだらうが、愛人が身分があつたり、又さうでなくとも、愛人自身にやるのに、ぞんざいに言へないのが當り前だから、「あなたが着ておいでだつた衣」と言ふ風に言ふのは當り前である。此は戰爭といはないまでも、召されて遠く國を離れた人の歌である。つまり東歌の小さな區分で言ふと、防人《サキモリ》――筑紫の防備に遣《ツカハ》された軍團――の歌に入れるべきだらう。
きぞこそは 子ろとさねしか。雲のうへゆ鳴き行く鶴《タヅ》の 間どほく思ほゆ (三五二二)
(413) 坂越えて 阿倍《アベ》の田の面に居る鶴の ともしき君は、明日さへもがも (三五二三)
(三五二二) ほんのつい〔二字傍点〕きのふの晩、彼女の家で寢た。それにどうだ。雲の上をば鳴いて通る鶴ではないが、何だか遠いことのやうに思はれる。
(三五二三) 山坂越え喘《アヘ》ぐ、その阿倍の田圃にゐる鶴ではないが、あのよいお方は、明日もまた來てほしいものだ。
前の歌では「雲の上……鶴の」、後の方では上句全體、序歌に使はれてゐる訣だ。近代に偏した歌の解釋は極端に却《シリゾ》ける私でも、鑑賞の方面では稍ゆとりをつけて居る。鑑賞を科學に近づけるのは間違ひで、何と言つても感情の上の事なのである。我々に「雲の上ゆ鳴きゆく鶴の」が序歌だと訣つて居ても、愛人と遭つた最近の夜を思つてゐる男の頭の上の空を、鳴いて通る鶴の聲の聯想を、完全にひき離してしまふことが出來るだらうか。又山坂を越えたから息がはずむ(あへ)に、あべ〔二字傍点〕がかゝつてゐるのだから、本文としては何も關係はないと知つて居ても、丘陵越しに阿倍の田圃を見晴した想像のつき纏ふのを、拂ひのけられるものではない。更にもつと「ともし」――少いから珍しい、欲しい、いゝなあ〔四字傍点〕と謂つた意に轉じる――を、鶴がまばらに田に立つてゐる樣子に持つて行つた修辭など、言ふことは、はつきり訣つて居ても、其樣子が目について、歌の意義の根柢に這入つて感じるのは避けられない。此を否むことは、私にも出來ない。萬葉にも既に、相當に序歌・枕詞を二重に使ひ活した歌があるのである。其後は益、盛んになつて、序・(414)枕きりで終らず、意義本部に絡みついて行つて、歌の一つの姿を形づくつてゐる。此二つの歌になると、平安朝の優美な歌と言つても、こゝまでは來てゐない氣さへする。此方に生活經驗が――たとひ民謠であるにしても――しみ/”\と出てゐる。平安朝の戀歌にも、隨分優れたものはあるから、一概にがむしやらな〔六字傍点〕言ひ方はいけないが、どうも、こゝ迄しんじつ〔四字傍点〕は行つて居ない氣がする。萬葉の戀歌に傑れたものは擧げきれないが、今度の企ては、東歌で留めて置かうと思ふ。一つは萬葉集中で、最新しく作られた一群に亦、東歌があるからである。萬葉集卷二十の末尾の歌が一番新しく、天平寶字三年正月一日の大伴家持の作である。その同じ卷二十の中に、其四年前即、天平勝寶七年二月に進《タチマツ》られた凡九十首の防人歌が殘つてゐるのだから、東國人の作つた防人歌・東歌のある種のものが、凡萬葉時代の最後に作られたと見てよい訣である。だから、今は之を以て、萬葉の相聞歌のある部分を代表させて讀みきる。
わぎめこ(我妹子《ワギモコ》)と 二人わが見し うちえする 駿河の嶺《ネ》らは、くふ(戀《コヒ》)しくめあるか
――春日部《カスカベ》(ノ)麻呂《マロ》(四三四五)
(口譯) 彼女と二人、おれが見て居たあの駿河嶺――富士山――は、戀しいことよ。
方言としての訛音《ナマリ》が、駿河・遠江歌には多く見えてゐる。O列音をE列音に發音して、も→め、よ→えと、此歌でもなつてゐる。うちえする〔五字傍線〕は枕詞で、外にも類はあるが、正しくはうちよする〔五字傍線〕(415)と言うたらしく、するが〔三字傍線〕にかゝつてゐる。ねら〔二字傍線〕はねろ〔二字傍線〕と言つても同じで、山の頂即、嶺であるが、山の事にも使ふ。くふしくめあるか〔八字傍線〕は言ふまでもなく、「戀しくもあるか」で、今では缺點と感じられるかうした訛音も、昔は東歌のおもしろさの主要部になつて居たのである。景色も感情も、境遇も、此單純な表現の中に出て來てゐると思ふのは、買ひ被りでもあるまい。
道の邊《ベ》の茨《ウマラ》が梢《ウレ》に延《ハ》ほ豆の からまる君を はかれか行かむ ――丈部《ハセツカヒベ》(ノ)鳥(四三五二)
此は上總國の防人歌である。
三句までは序歌である。類型の多いものかも知れぬが、此が殘つたゞけだから、まづ此鳥と言ふ人の獨立して言つたものと見ておいてよからう。東歌の例から見ると、別れて行く道々の樣子をよんだものが多いから、此も其旅行く道々の歌とも見える。だがそこまで見ず、單なる序歌とした方が正しいだらう。野茨が伸びてゐる。つまり雜草の叢である。花が咲いて居るか、どうかは此歌では言へぬ。其伸びた叢の上まで劃つて蔓を張つてゐる荳《マメ》――此も畠の物でなく、古い野草である。――其を序歌にしてからまる〔四字傍線〕と起したのだ。だから又、からまる〔四字傍線〕までが序歌だと言つてもさし支へはない。からまる〔四字傍線〕は今も言ふ語だが、こゝのはからめる〔四字傍線〕の古い形である。絡んでゐると言ふこと。旅に出た後とすれば「心に絡みかゝる」「絡んでゐた」と言ふ風に譯すべきだが、此語を活して考へると、今絡みついて離れないのである。この絡み放さぬ愛人を離れて行くのか、(416)と歎くことに言ふべきだらう。「はかれか行かむ」は「わかれ」の音韻變化と考へてはよくない。「が」の半濁音が――鼻にかゝる――だから、「な」と通じてゐる訣だ。「……か行かむ」行かねばならぬか、と言ふ反省を示す語で、「行かう」の意ではない。
此歌の後、今日まで此上の句にあるやうな表現がなかつた上に、而も今も見得る平凡事だけに、古典の上に新しさを感じないではない。だが類型的に用ゐられたものだとしたら、何でもないことになる。唯一つか、類型を辿つて出來たかで、こんなに値うちに違ひがあるのである。おなじ防人歌の、
松の木の竝《ナ》みたる見れば、いはびと(家人《イヘビト》)の我を見送ると 立たりし同樣 《モコロ》 (四三七五)
などでも、普通の解釋の樣に、行く道々の竝み木――自然に竝んでゐたのだ――の松の木が、別れ際に見送るとて、立つて居た家人たちの姿を聯想させる、と考へると、とても新しく感じられる。我々も考へる事で居て、言つた事のない、其平凡さが、我々に普遍感を起させずには居ない。調子も、題材も我々の生活から飛び離れたものでない事などが、其だけに心に觸れるのである。
家風は 日に日に吹けど、我妹子《ワギモコ》が家言《イヘゴト》傳《モ》ちて來る人もなし ――丸子《ワニコ》(ノ)連大歳《ムラジオホトシ》(四三五三)
(口譯) 家の方から吹く風は、このとほり毎日々々吹いてゐるが、彼女からの家のたよりを傳へ持つて來る使の人もない。
此もやはり、鳥の歌に續いた上總歌である。我々は旅行に出ても、家の方角から吹く風を特別に(417)考へることもないが、古代人は特に其に注意する信仰を持つて居たのだ。だから詩として美しく上二句が述べられたのでなく、さう言ふ信仰が、こんなことを言はせたのである。日に/\吹く風によつて安心してゐるとか言ふことでなく、やはり日に/\吹いてゐるにかゝはらず、と譯す所だらう。――家風が吹けば家ごとが聞えて來ると信じたのである。其に、毎日々々何の家ごとも聞えて來ないといふのだ。其に昔とは言へ、奈良朝の盛時だから、邊陬の東人にも新しい知識が閃いてゐる。たゞ風に乘つて家ごとが傳へられるなどゝは考へない。其を傳達する人をはつきりと思ひ浮べてゐる。「我妹子が」は、「我妹子からおこす」か、「我妹子に關した」か、我々にははつきりしない。或はまだ家に迎へてない愛人として親の家に居る。其處から來るから、我妹子の家ごとは、男の家ごとゝ言ふことでないかも知れぬ。ともかく家ごとは輕く見て、さとのたより位に感じてよいのだらう。風は吹いたり止んだりするものだから、之を主題にしてみることが、一つの技巧を生んで、「……日に/\吹けど」など言ふやうな形を幾らでも出して來る。十四の卷の東歌には、
伊香保風 吹く日吹かぬ日ありといへど、我が戀ひのみし 時なかりけり (三四二二)
など言つた型も出て來る訣である。文學としての歌の技巧と別に變らない程の味を持つて來る。
むらたまの 樞《クル》に釘《クギ》さしかためとし 妹がこゝり(心《コヽロ》)は、搖《アヨ》くなめかも
(418) ――刑部志加麻呂《》ヲサカベノシカマロ(四三九〇)
下總人の歌の中から採つた。むらたまの〔五字傍線〕はぬばたまの〔五字傍線〕と一つ語らしく思はれる。こゝでは、くる〔二字傍点〕にかゝる枕詞。くる〔二字傍点〕は所謂|樞《クルヽ》である。こゝは樞戸《クルド》の事と思へばよい。扉《トビラ》の返らぬやうに戸に釘をさすのである。「かためとし」は方言發音で、かためてし〔五字傍線〕である。口がためによつて、動かぬ誓約をしあつたのである。「あよく」は以前は危くだといふことになつてゐた。だが、橋本進吉さんの説、あよく〔三字傍点〕は動《アヨ》くだとする考へによるべきだらう。「搖ぎなむかも」の意で、あれほど口がためはしたけれど、年月を經た遠人《トホビト》の心は、搖ぎそめて居るだらうと言ふのだ。「危《アヨ》く」説は「危く無めかも」危い氣遣ひはなからうと言ふことで、全然反對になる。以前は私も、此考へであつた。よい學説が出て見れば、間違つた考へは霧散するものである。併し又、さうなれば、「あよぎなむ〔三字傍点〕かも」と言ふよりは、「あよぐらむ〔二字傍点〕かも」として、あよいでゐるだらうよ、即、搖いでゐるだらうと訓み解く方が、もつと正しいと思ふ。旅の久しさを歎いたのである。
(四三九〇) 樞戸に釘をさす其ではないが、かため誓つた彼女の心が今は、ゆらいでるだらうよ。
難波路《ナニハヂ》を行きて來《ク》までと 我妹子《ワギモコ》がつけし紐《ヒモ》が緒《ヲ》 絶えにけるかも ――上毛野牛甘(《カムツケヌノウシカヒ》(四四〇四)
我が妹子《イモコ》が、しぬびにせよとつけし紐。絲になるとも、我《ワ》は解《ト》かじとよ ――朝倉益人《アサクラノマスヒト》(四四〇五)
(419)二首ながら上野歌である。旅の歌には、紐といふ語が出過ぎるほど出て來る。其を皆昔から性的に解釋してゐる。大きな間違ひである。紐といふと直ちに、下の紐を思ふのが、いけない。牛甘《ウシカヒ》の歌にある樣に、ひもがを〔四字傍線〕といふのが正しいのだ。皆簡單にひも〔二字傍線〕と言つてゐる。緒を結んで、其解けない秘密の結び目を作つておく。其結び目がひも〔二字傍点〕なので、結ぶ品物が紐なのではない。紐の字を宛てたのが、早くから間違ひの元なのである。だから結んだ人でなくては、解くことが出來ない。結び目を作るのは何の爲かといふと、其處へ魂を籠めて置いたのだ。結んだ人が、其魂をひものを〔四字傍線〕に入れて出ないやうにする。さうしたひも〔二字傍点〕を身につけて居る人は、其魂の守りを受けて災がないと信じたのである。其を切つたり、色々な方法で拔いてしまふことも出來たゞらうが、しなかつたのは、此爲である。ひも〔二字傍線〕を誰が結ぶか。我が古代では、妻となるべき人である。愛人どうし別れる時、此「ひも結び」をした。旅立ちには殊に、心をこめて行つた。だから、旅行先で紐の結び目を氣にし、又其を結んだ妹を偲ぶのである。又さうした紐の歌を歌ふことが、一つの咒《マジナ》ひになつた。其が多く外部よりは見えない處につけて大切にせられ、特別に一身の中、緊密だと考へた部分に結んだことが多かつた。其結び人《テ》の魂の力が加つて居るのだから、旅中には他の愛人に逢ふことを遠慮せねばならなかつた。男女の行ひに、其を解かねばならなかつたと言ふより、自ら其が解けねばならなかつたから、紐解くといふことが、さうした意義を持つやうになつた。勿論萬葉集にはあり過ぎる程多いが、東歌でいふと、卷十四の、
(420) 筑紫なるにほふ子ゆゑに、陸奥《ミチノク》の香取處女《カトリヲトメ》の結《ユ》ひし ひもとく (三四二七)
紐といへば、性を聯想する樣になつた理由を者へて、古代の紐の歌の本義の、別にあることを思はねばならぬ。
(四四〇四) 難波への道を行つて戻つて來るまでの間と言つて、彼女がおれの身につけてくれた咒ひの緒、其が切れてしまつたことよ。
(四四〇五) 彼女が、焦れ心の慰めにしろと言つて、つけてくれた咒ひの緒、其がもうよほど細つて來た〔其〜傍線〕。たとひ絲筋だけになるとしても、おれはつけたまゝで、解くまいよ。
二つ乍ら、旅の長くなつたことを歎く心でゐるのである。一つは、遠くて攝津國まで行くのだと思ひ、妹も思うたのが、更に筑紫の長旅になつたので、其がきれたと言ふのである。
一つは、からだや着物に摺り切れて、紐の緒があぶなくなつて來たのである。だが尚、妹の「守《モ》り目《メ》」の魂はこゝにこもつて居る、と信じてゐる。此歌などでは、性の考へはないが、妹の好意――深情を心から受けて失ふまいと努めるといふ處まで、日本の戀歌の戀心も、進んで來てゐると言へる。
(421) あづま歌
昭和二十四年九月刊「萬葉秀玉集」
信濃なる すがの荒野に、杜鵑《ホトヽギス》 鳴く聲きけば、時過ぎにけり (卷十四、三三五二)
信濃の國におけるすが〔二字傍点〕の荒れ野原で、時鳥それが、鳴いてる聲を聞く時に、思へば、時の過ぎてしまつたことよ。
此歌、まづ昔から旅人の歌のやうに考へられて來てゐるやうである。旅人が信濃の國のすがの地のひろ/”\とした未開墾の、もとより人居も見えぬ山野を歩いてゐる。ふと、足をとゞめた。其は、一くぎりづゝ斷續して鳴く、鳥の聲が耳についたからである。あゝ時鳥が、鳴いてゐる。さう思つた。と――ふと心をよぎる寂しさがある。あゝさうだつた。春の過ぎぬうちに戻つて來ようと言つて旅に立つた、その時の彼女の顔、其と、今の自分の靜かな思ひ――旅は信濃路に時を費して、あゝあの聲聞けば、もう夏の初めになつた。契つた時は、きのふ、をとつひと過ぎて、信濃路も、今は夏である。あゝふるさとびとは、不信の自分を待ちこがれてゐるであらう。
(422)かう言ふ解釋が普通であらう。又さう考へると、類型の中でも、いつまでも古びない、清純なものを持つて來るやうである。「鳴く聲きけば」と言ふ輕い反省めいた言ひ方が、よい下の句を構成してゐるやうに見えるからであらう。
だがさう言つて、歌を見る人の了解を得るのも、解釋法や、鑑賞法に、型が出來て來たからである。「時過ぎにけり」などは、確かにさうした約束を考へない時には、もつと自由なものになる。戀歌における慣例を考へなければ、必しもさうは考へないでもよい訣である。
萬葉學者は、其歌々に對して、素朴をその價値の中心におかうと言ふ努力感みたいなものを、初中終持つてかゝつてゐる。だから、其點で新しい解釋をも見出し、又非常に歌の實際から遠のいた理會に、おちこんでしまふこともある。この歌などは、何とも結著のつけられない疑問に入りこむことがある。
時鳥が鳴くと夏である。暦の信用が深くなつて來ると、この鳥を舊暦五月に入らねば鳴かぬもののやうに、經驗や記憶を固定させて行つた。家持の周圍の歌などを見ると、萬葉も相當、自然に向けての自由な觀察を忘れて來てゐる事が訣る。だが其も單に、知識の上で、さうした考へが出來たのだとは言へぬ。極めて自由だつた風土・季候・生物などの關係から、『自然暦』を考へてゐたのが、逆推理せられて來るやうになつたことが、その固定の原因の主なものであらう。鳥にも明らかに、動物季節と言ふべきものがあつて、ほゞ毎年同じ頃に來て、おなじ頃に鳴く。時鳥と(423)郭公では、郭公の方が大體に稍先だつて來る。土地によつて違ふが、大體半月の差であらう。新の五月の半には、時鳥も出て來る。其までは山に潜んでゐるものと考へられてゐたが、留り鳥として本土に殘つてゐるものも、稀にはあるが、やはり渡り鳥として、遠方から渡來するのである。暦は固定するが、動物や植物の季節は、寒暖その他の自然事情に順應する。だから鳥の聲や、其そぶり、又植物の葉や花の状態を農業暦の據り所として、田畠の事を行ふ。暦でもあり、占ひでもあつた訣である。さういう生活に關する知識が傳承せられて、歌や、「ことわざ」になつて殘つて來た。
この東歌なども、よく東人ばかりの作つたものでなく、あづまを旅した人の作つたものもあるといふ例にあげられるものであるが、當然さう言ふ解釋法に這入つた時代もあつたらうが、恐らくはじめは、さうした相聞風な内容を持つたものではなかつたらう。尤、此歌自身は、卷十四の「雜歌」に分類せられてゐる。が、おなじ雜歌の中に、此とおなじく戀歌風の歌もあるから、其には拘泥する必要はない。が此歌は、たゞ雜歌と見て置くのが、此歌の謠はれ出した頃の、早期的な解釋と言ふことが出來よう。
時鳥が鳴いた。田にかゝらねば、手遲れてしまふ。かう言ふ古代農村の人々の、動物季節に向けての關心が、この歌の構造になつてゐるのであらう。其上、民謠は、多く其謠はれてゐる國土・地方の名を入れることによつて、地方々々の「風俗歌」としての威力を持つものと見られたのだ(424)から、特別な事情のない限りは、地名を中心にしてゐる。信濃のすが〔二字傍点〕人は、其すが〔二字傍点〕の地名を插むことを忘れない。さうして出來た歌は、最初どうしても感情の隈の乏しい、空虚な調子だけの歌謠である。此歌の單純化の出來たと思はれるよさ〔二字傍点〕なども、そこから來るのである。古代の歌に調子が尊ばれて、内容の貧しいことを問題とせなかつたのは、かう言ふ理由からも來てゐる。
さうして、歌はれてゐるうちに、次第に解釋法が變つて、だん/”\複雜な感情や、人生知識が注入せられて來る。――かういふ徑路を示すものとして、此歌などは注意せらるべきものであらう。
上《カミ》つ毛野《ケヌ》 佐野田《サヌダ》の苗の むらなへに ことは定めつ。今は如何にせも (卷十四、三四一六)
上野の國、その佐野の低地部の田の苗ではないが、むらなへ――うらなひ――によつて、はなしはきめたことだ。この上、どうしやうがあらう。
かう言ふ序歌や、枕詞などの入りこんで出來た歌は、細部の解釋は、色々絡みついてゐるので、實にいろ/\な説明が成り立つ。其だけ、かう言ふ歌の實際行はれてゐた時代の人々も、之を實用しながら、色々な意義の間を動謠しつゝ歌つてゐたものであらう。さうしてさう言ふ人たちが、皆かう言ふ歌の意義を組み上げて行つたのである。最初の發言人――作者と言はれぬ程度の作者――は、却てそこまでは考へなかつたと言ふ程度だつたであらう。
(425)古代の部落は、一體|丘處《ヲカ》にあつた。低地部に臨んだ高地である。田は一般に其部落を上に控へた低地《タヰ》(田居)にあつた。秋の收穫期になると、勞役に從ふ男女又は特殊な信仰に關係して一部の貴い女性などが、降つて低地部に滞在する。其で其小屋などのある處を、田居と言ひ、さう言ふ處に一時的な集團住居が出來るのをゐなか〔三字傍点〕(田舍)と言つた。だから今もある地名例によると、岡佐野・田佐野とでも言ふべき地形である。萬葉にある飛鳥田《アスカダ》・衾田《フスマダ》・櫻田など、皆本村に對して言ふ稱號である。さうした田方の地で、苗を以てする占ひと言つたものがありさうにも、此歌の趣きからは見える。だが古典のむつかしさは、さうした無限にある解釋の迷路を、ふり棄つべきものは棄て、採るべきものは採ると言ふ判斷にある。此歌などは、發言者が、最初何を歌はうといふ豫期する所なくして歌ひ出し、まづ風俗歌の條件である所の、歌はれてゐる所の地名から歌ひ出したものであらう。さうして佐野田と言つて、稻とか苗とか歌ひ寄せるあたりから、稍方向がきまつて、佐野田の苗として、次には一氣にむらなへ〔四字傍線〕と續けて、こゝで目的がきまつたのであらう。苗と言つたから其とり分けるべき苗|束《タバ》のむらなへ〔四字傍線〕が出て、同時に占への同音聯想が、はつきり考へに浮んで來たものであらう。さうして、この第三句を轉換の軸として、一二三句を序歌とし、第三句を出發點とする表現部に移るのである。
中世の末に表記法に現れて來て、更に近世から現代にも續いてゐる鼻母音が、實は古代音韻の上にも見えてゐる。此なども其例で、うらなふ〔四字傍線〕と言ひ慣れて來たが、此時代に、少くともある地方(426)では、鼻母音の|う〔右△〕(む〔傍点〕を以て表記する)があつたのである。さうしてうらなへ〔四字傍線〕と見るべき語の尾音のへ〔傍線〕は音韻變化でなく、はらひ〔三字傍線〕に對してはらへ〔三字傍線〕があつた樣に、うらへ〔三字傍線〕・うらなへ〔四字傍線〕があつて、神或は尊貴から課してする場合などに、所謂下二段活用系統の語尾變化をするのが法則であつたのである。恐らく、神判によつて、衆人の行動を決定する場合に行つたものと思はれる。さうした「占《ウラナ》へ」によつて、婚姻の相手が定つたことを言ふのが、この「むらなへにことはさだめつ」なのであらう。此邊まで言ひおとす間は、まづ勢に乘つた形があつて、靜かな反省は現れて來ない。だから、「今は如何にせも」に至つてはじめて、深い安定が來るのである。其だけ、「今は如何にせも」、不可抗の運命に隨順しようと言ふ氣持ちを示してゐて、敍事詩風なあはれ〔三字傍点〕すら感じさせる。消極的な表現が、積極的な效果を示したものと言つてよいであらう。
「ことはさだめつ」は、自分が定めたことを言ふやうに見えるが、さうではない。事態が決定するに室つたのを言ふので、其社倉における大事件が、權威によつて決著した。さうして自分のことも、その一部であることを言ふのである。大決定に達したことを思ひ乍ら而も、徐々に反芻するやうな形で、「今は如何にせも」――如何にせむ――と、自分には何ともする力がなくなつた、さう言はれても何ともなし難いと、人に望みをのべさせないのである。
他人の結婚の申し出を拒むものと言ふ風に解する説は、動機が足らない。女子を保有する婦人などが、さう言ふ男たちをあきらめさせるものと言ひ添へれば訣る。
(427)私は、男の外心《ホカゴヽロ》を戒めて、どうあなたが心移りしても、神意によつてきまつた間柄だ。今更どうならう、と言つたものと考へたこともあるが、「むらなへ」が利かない。
此などは、現實性が乏しく、敍事詩質の勝つたものである。古代人が既に架空的な内容を好んで來てゐることを示すものと言へる。
この川に 朝菜洗ふ子。汝《ナレ》も 我《アレ》も よち〔二字傍点〕をぞ持てる。いで 子たばりに
一に云ふ。ましもあれも (卷十四、三四四〇)
この川で、朝げのさいの菜を洗ふ娘ごよ。おまへさんも、おれも、相手する者を持つてゐる。どれ、娘ごよ。おまへさんの相手する者を頂戴しませうよ。
名高い伊勢物語の筒井筒の條を見ても、「くらべ來しふりわけ髪」と言つたり、又他の一首もそれに似た趣きを言つてゐながら、少し意味の徹しない例のあるのは、この吾同子《ヨチコ》(與知子)の慣習を忘れてゐるからであらう。萬葉にも、よち〔二字傍点〕・よちこ〔三字傍点〕五个處ほど出て來るが、皆少しづゝ表現がもつれてゐる。此はよちこ〔三字傍点〕を持つてゐる貴公子女と、よちこ〔三字傍点〕自身との關係が、表現の上で混同し勝ちであつた爲に、不思議な解釋例を生じたものと思ふ。後世の貴人の傍にゐた「伽の衆」などとは違つて、もつと親しく、幼少の頃から貴公子と一所に育てられて、何事も一つに行動するも(428)のを、よち〔二字傍点〕(よちこ〔二字傍点〕)と言つたのである。女には女のよち〔二字傍点〕、男には男のよち〔二字傍点〕があつた。だから婚姻にも、女は數人のよち〔二字傍点〕と共に嫁いで夫の家に入る。夫は妻と婚すると同時に、妻のよち〔二字傍点〕とも婚するのであつた。比べ來しふりわけ髪は、幼友たちの男と女との幼時の髪を言ふのではない。此は、よち〔二字傍点〕に當る女が、妻の夫に與へるもので、よち〔二字傍点〕が結婚することは、よち〔二字傍点〕の仕へ主が結婚することになるのだから、あなたの奥方なる私の女主と私と、幼時から比べあつて來たふりわけ髪も、肩を過ぎました。その一人のふりわけ髪をあげるのは、あなたならではないと言つた奇妙な表現なのだが、後世の解釋は、さう説かないで、新しく合理化してゐる。さうして其方が、筋の通つてゐるやうに見える。萬葉でも、「年の八歳を斬る髪のよち〔二字傍点〕を過ぎ」と二つまで出てゐるのも、難解例に數へられてゐるが、八歳位になると、女は裳著《モギ》をするから、髪殺《カミソ》ぎもあるのである。髪殺ぎにあたつて斬る髪は、同じく成長したよち〔二字傍点〕の少女よりも伸びてゐて整つてゐるといふ褒め詞である。よち〔二字傍点〕を持つ者は貴族の子であり、婚姻には、女はよち〔二字傍点〕を連れて輿入れする。求婚する場合には、「よち〔二字傍点〕を我に與へよ」と乞ふ。さうすることが、我が妻となれと言ふことになるのであつた。この歌の場合、男のよち〔二字傍点〕の事は必要はないが、身分を示す時には、よち〔二字傍点〕の事をいふ必要があつた。一方のよち〔二字傍点〕を「賜《タバ》らな」と言つてゐる。類型表現から、飛躍したのだ。男女のよち〔二字傍点〕を、交換しようと言ふのではない。
求婚の譚は、古代にも歌を中心として、古代の貴人たちに關するものが傳つてゐた。此歌なども、(429)稍外部の景を描き過ぎてゐるやうに見えるが、此は此東歌よりも、更に古い形があつて、朝川に出て朝菜洗ふ處女に求婚した形を傳へてゐたのを、さうした敍事詩までも、抒情詩化する風が行はれて來たのだ。其で抒情歌には不自然な外界描寫が、歌の一部をなしてゐるのである。
記・紀・萬葉の歌を見ても知れるやうに、野山に出でゝ菜を摘み※[金+且]を携へた處女などが、皆國邑の首長の女であつたことを思へば、此歌の朝菜洗ふ子も、時代降つた王政時代の貴族の公女に當る身分の者であつたことに不思議はない。東の國々にも、さう言ふ婚姻譚が、既に短歌によみかへて歌はれてゐた時代を見せてゐるのだ。
誰ぞ この家《ヤ》の戸|押《オソ》ぶる。にふなみに わが夫《セ》をやりて いはふこの戸を (卷十四、三四六〇)
どなたが、うち〔二字傍点〕の戸を押しゆすつてゐるのですか。新嘗の物忌《モノイ》みにこもつてゐる爲に、うちのひと〔五字傍点〕を外へ出して、齋みこもつてゐます、うちのこの戸よ。その戸を……
新嘗と言ふ字が、偶然にひなめ〔四字傍点〕と言ふ古語の意義に合せて作られたものゝ樣に見える。「嘗」は嘗祭で、秋祭りを示す漢語である。「新」は唯合理化して、新米でもあげるからとの考へである。にふなみ〔四字傍線〕は、同じく東歌に、「にほとりの葛飾《カツシカ》早稻をにへ〔二字傍点〕すとも、その愛《カナ》しきを外《ト》に立てめやも」と(430)ある、にへ〔二字傍点〕は勿論|贄《ニヘ》で神の食物である。調理した野菜・魚鳥であり、又飯のことでもある。にへす〔三字傍点〕と言ふ形をとると、「贄を奉る」ことから、「贄まつり」に關聯したすべての儀式行爲をすることを言ふやうである。此贄することの物忌《モノイ》みが、「にへのいみ」「にへなみ」「にふなみ」で、東北地方では、最近まで「にはなひ」といふ行事を殘してゐる位だ。我々の古代語「にひなめ」は、新しい穀物を嘗めることではなかつた。「にへなみ」が民俗語原追求から、「新なめ」と「にふなみ」とは、一語原から出た語である。苅り上げ祭りに絡んだ物忌みが、新嘗である。其日は、神を迎へて饗應するから、前夜から家族は皆家を出て他の虚に籠つてゐる。女の聖なる仕へをするものだけが家に殘つて神を待つのである。さうした神秘な嚴重な謹愼を守る夜にすら、忍び來る戀人のあることを空想してゐるのである。現實には、さうした事は、神罰を恐れて犯されなかつたに違ひないが、想像は既にさうした、恐しいせつ〔二字傍点〕ない事を夢みてゐる。
併し、此は單に素朴な文學ではなかつた。新嘗の夜に神を待つ、地方々々の大家《オホヤケ》に訪れる「まれびと」は、神にして實は、其邑里の男が其祭時にのみ扮裝して家々をおとづれるのであつた。だからさうした神秘が、何時かは洩れて、神の來る夜に訪れる竊人《ミソカビト》と言つた關聯が意味ふかく、又現實性を持つて考へられるやうになつたのであつた。さうして、この夜、神の爲の一夜妻《ヒトヨヅマ》として饗応にあたる女は、未婚の處女であつた地方もあり、「わがせ」をやつて籠つてゐる主婦の事もあつたのである。
(431)いづれにしても、其夜は神を迎へる爲の巫女として、清く、すがしくふるまうたのである。
新室《ニヒムロ》のこどきに至れば、はだずゝき ほに出《デ》し君が見えぬ このごろ (卷十四、三五〇六)
新室の祝福時期がやつて來ると、屋根に葺くはだずゝき――其ではないが、ほにあらはして言ひよつたあの方が逢ひに來られない、この日ごろよ。
口譯はむつかしくて、書きかへる程ぎこちなくなる。この歌恐らく技巧が極度に拙い爲であらう。三、四、一、二、五といふ風に譯すると、「こどきに至れば」がまづ一わたり解けるのだが、とても落ちつきのわるい部分である。前の譯で筋はとほりさうだが、事實に矛盾して來る。
新室の祝福時は、逢はれぬ人にも逢はれる時なのだから、話は不自然になる。「至れば」を古風に見て、かう譯したこともある。「新室の祝福に入りこんだ時に、はだずゝきではないが、ほ〔傍点〕に表して、私に言ひよつたあの方が、訪うて來られないこの頃よ」。新室のことほぎは、その時舞人として舞うたのを、賓客に望まれて枕席に侍つたのを言ふと考へるのは、正しいのだが、「至れば」が頗異樣である。其で「こどき」を「ことほぎする爲に」ととらず、「ことほぎの日」と言ふ風に見ると、正式にやつて來ると、と言ふ譯がつく。其で一・二・三を歌の表現部と見ないで、修飾部と見る。さうすると、「ほに出づ」の序歌にをきまる。はだずゝきを苅り屋根葺の形式を行ふ。薄(432)で本葺きはしない。新室に見たてゝ、屋根も葺いたものと見るのだ。
新室ことほぎの日になると、葺き草に使はれるはだずゝき、其ではないが――ほに出づと、かう言ふ風に解して、初めて落ちつく樣だ。一・二・三句は全然表現部からおし出すのである。たゞ「ほに出し」は、「人が」か「自分が」かゞ、はつきりしないのである。相手が君とあるから、歌は女のものと見てよさゝうだが、女にも君と言ふから、男の歌と見ると、「自分がうちあけたあの女性」と言ふことになる。「見えぬ・見える」と言ふのは、男に限ることだから、やつぱり女の歌で、「私に思ひをうちあけた男」と言ふことになる。表現部はまことに少分であつて、其だけ純粹な效果も得られるのであるが、序歌が優れてゐぬと、其は目的は達せられない。この場合は、こみ入つた序歌がまづ印象を濫すから、「見えぬこの頃」のあはれが響かない。何か宴會の即興のやうにしか受けとれない。
「ほに出づ」については、長いこちたい〔四字傍点〕説明を重ねなければならぬが、既に私の書くはずの分量はのり越えてゐる。
(433) 萬葉集の根抵
昭和九年一月「中央公論」第四十九卷第一號
短歌は、その作者なる人々の集團によつて、發生の事情を異にしてゐた。その爲、おのづからにして、格調の違ひが※[まだれ/臾]《カク》されない。宣下せられる宮廷の御歌と、奏上の表現に馴れた人々の歌とでは、根本的に違つた音聲の構成が見られる。尠くとも、かうした差別が、平安朝の末まで續いたのである。かう言ふ風の最後と思はれる平安末期の歌風を目安として、區分を作つて見ると、第一宮廷ぶり、第二貴族ぶり、第三女房ぶり、第四武官ぶり、第五寺家ぶり、第六|國風《クニブリ》と言つた形がある。さうして其が、だん/\融合する樣になつて來たのが、この頃の有樣である。この觀察の發足點を作る爲に、先づ萬葉集に見えた宮廷ぶりを覗ふことによつて、天つ日の光り恰も太初の如き、汪洋《ユホヒ》かに、つゝましい、今年の睦月の春心を持ち來したいと思ふ。
夕されば をぐらの山に、臥す鹿の 今宵は鳴かず。い寢にけらしも ――舒明天皇
(この眞向《マムカ》ひのをぐらの山に、來て臥る鹿が、今夜は鳴かずに居る。……寢ついてしまつた(434)に違ひないことよ。)
私の作つた口譯文が、論理に拘泥して、御製の自在さをかたくろしくしたことに、畏《カシコ》さを感じるが、訓詁は出來るだけ、忠實に正してかゝらねば、眞實の鑑賞もない訣だから、この方法をとらねばならぬ。
山の歌の表現の習慣として、自然に、をぐらの山を向つ峰《ヲ》として感じるのである。卷の八の傳へでは、「鳴く鹿の」となつてゐるが、此は躊躇する迄もなく、「臥す鹿の」の方を採るべきである。其は、限りない靜寂さと發想の上の落ちつきとを感じさせる句である。「鳴く鹿」であると、下にもある「鳴く」と呼應して、一見、單純化の快さを感じる樣であるが、同時に技巧らしいものゝ感じを受ける。人によつて、議論あるべき筈だが、どうしてもこゝは「臥す」でなくてはならないと思ふ。「鳴かず」が「鳴かないで……」と續くのではなく、はつきりと切れて了ふ處に、「い寢にけらしも」のお詞が、いかにも深い反省を湛へて來るのである。
雄略天皇御製とも舒明天皇御作とも傳へてゐるが、大體に飛鳥朝のみかどの御歌と定めて、差しつかへない樣である。
山の端に ※[有+鳥]群《アヂムラ》 集動《サワ》ぎゆくなれど、われはさぶしゑ。君にしあらねば ――岳本天皇
(山際に亂れて渡るあぢのむら鳥ではないが、人はどよみを作つて行くのだけれど、朕《オレ》はも(435)のたらないことよ。其が一人として、あなたでいらつしやらないから。)
この岳本天皇とあるのは、岳本の宮に居られた天皇の意で、萬葉の左註には、前後御二方がある。舒明天皇・皇極天皇、いづれをおさし申すのか訣らぬと言ふ風に書いてゐる。この歌及び、これのついてゐる長歌の趣きから、女帝の御製と定めてゐる。
この御製は、夫《セ》の君舒明天皇に奉られたものと思はれる長歌の、反歌である。長歌の表現に煩はされる事なければ、寧上句は、山際に飛び亂れて行く※[有+鳥]鴨《アヂガモ》のむら鳥を實感して居られるもの、と見た方がよい。※[有+鳥]鴨の澤山飛ぶのを見ても、心が寂しくなると言つた、わたる鳥群を見てゐて、君を思ひ出されたお心持ちを詠まれたもの、と解する事が出來るからである。だが何としても、幾分、近代的な感じが交つて來るのだ。『人さはに國土《クニ》には滿ちて あぢむらの さわぎは行けど、わが戀ふる君にしあらねば……』といふ譬喩法によつて、單純化せられて居るのが、長歌だ。だから古い修辭法に、却てよい感銘を受ける練習が、古典を讀むに用意せられなければならない。つまり、長歌の表現の一部を繰り返して意義を展開するのが、反歌の音樂的職分であつた。だから今言つた通り、『山の端にさわぐ〔三字傍点〕あぢむらではないが、さわぎ行く……』と、意義の決著點を變へて行くのである。
ひそかに察するに、宮廷の人々のとよむ〔三字傍点〕群集のうちに、一人思ふ君の交つて居られないのを歎かれたのである。古事記・日本紀・萬葉集を通じて、この帝には、優れた御製が多く傳つてゐる。
(436) わたつみの豐旗雲に 入り日さし、今夜の月夜 清明《キヨラ》けくこそ ――天智天皇
(目立つて靡いてゐる海上の旗雲に、入り日させ。さうして今晩の月が、清らかであれ。)
此は、三山歌と稱するものゝ一首で、皇太子時代の御歌と思はれて來てゐる。名高い大和三山の爭ひを詠まれた歌の動機は、人間の妻爭ひを辯護なされての事ではなかつた。三山の神爭ひの仲裁に、出雲から上つて來た阿菩《アホ》(ノ)大神の、旅を思ひ止まつた古蹟のあつたはずの、播磨印南野に行啓あつて、偶然三山歌を作られたのである。三首目の、この御作は單に印南野の敍景で、前の二首が懷古のお作であるに對して、此は囑目即景で、等しく旅中宴遊の朗詠である。さうとると、部分々々に、字句の疑問になるものはあるが、後世の直感に快くはひつて來る。第五句、いろいろな訓み方はあるが、私は原文「清明」とあるのを、字面通り「きよ」と訓み「明」が「あきらけく」の語尾「らけく」を示してゐるものと見るのだ。此は、萬葉式の用字例なのだ。從來この「こそ」が、命令の語尾か、或はその下に、「あらめ」など言ふ詞を略する格と考へてゐる。そのどちらかによつて、「入り日さし」の力の入り方が違つて來る。口譯としては假に命令の方を採つておく。今一方ならば、「入り日がさして居て、さうして……」と言ふ風になるのだ。
淑人《ヨキヒト》のよしとよく見て、よしと言ひし芳野 よく見よ。よき人よ。君 ――天武天皇
(昔のよい人が、よい處だと思つて眺めて、『よい』と言つたその爲に名を負つた、芳野。(437)それをよいお心で御覽なさい。昔のよい人と同じよい人なるあなたよ。)
この口譯文、とりわけ拙さを恥ぢる。この天皇は、終始吉野に關係深くおありになつた。此も、その一つを示すもので、「よき人」は、唯の地位・富・容貌などの優れた事を言はれたのではあるまい。吉野山の地名傳説が、或時の行幸に、思ひ浮べられたのである。芳野の名は、古代或人が、其處を讃めたゝへて「よし」と言つたから名になつたと傳へてゐたのであらう。其を思ひ出して、同行の貴人を顧みて、親しみ心を持つて、言ひかけられたのである。適切に言へば、神仙などを「よき人」と言つたのであらう。或はこのお作、逆に皇后或は大臣などが、陛下に向つて奏し上げられた頌歌であつたかも知れない。「よき人よく見つ〔四字傍点〕」といふ訓を採る人が多いが、私には承服が出來ない。今見れば少し煩はしい程の頭韻も、古風には却て單純な整頓感を與へたものと見てよからう。
春過ぎて 夏|來到《キタ》るらし。白栲《シロタヘ》の 衣ほしたり。天香具山《アメノカグヤマ》 ――持統天皇
(春が過ぎて、夏がとゞいたに違ひない。白栲の衣がほしてある。天(ノ)香具山。そこに。)
今におき、多くの鑑賞家が、一致して讃へる御製である。この以後類型が多くなつて、此恐らく最初に近い形だらう、と察せられるお作の效果をさへ、減じる程だ。季節の推移に驚く歌である。あまり論理の確實すぎるのは、却て内容の寂しい氣のするものだが、此は又其以外に、かつきり(438)と自然を捉へて居られる。その點に、生命があるのであらう。私は、この御製は單に衣がへの時期の感じを出されたゞけでなく、里の處女たちが、夏の祭りに先だつ山ごもり〔四字傍線〕をしてゐる樣が目に浮ぶ。御|女性《ニヨシヤウ》でいらせられるだけに、同性の處女たちの上を考へに入れて居られるのだ、と思うてゐる。天香具山に、人々が山籠りをしてるのを、察しられた御製である。山籠りは淨らかな衣を着ては、又其を脱いでは、禊ぎを頻々とくり返すのであつた。
健《マス》ら男《ヲ》の鞆の音すなり。物部《モノヽフ》の 大臣《オホマヘツギミ》 楯《タテ》竪《テタ》つらしも ――元明天皇
(宮廷に仕へる立派な壯夫《ヲトコ》の著けた鞆の音がしてゐるよ。あゝ物部の大臣が、今楯を竪てゝゐるに違ひない事よ。)
和銅元年の御製だから、御即位式當時のものに相違ない。その上「楯たつらしも」の句が、いよ/\其を證してゐる。「ものゝふ」と言ひ、又「楯……」の句から、東國の夷の反亂を思ひ起す人は多いが、物部の竪楯の式は、當時即位式に當つて行はれたので、宮廷の正門に楯を竪て、弓を射かける方式を石(ノ)上(ノ)大臣などが行つてゐるのが、事實である。宮廷の大事に乘じて、忍びよる障碍《シヤウゲ》の靈物《モノ》を斥ける儀式であつたのだ。その音をお聞きになつて、神に對する責任觀から來る不安をお感じあそばしたのである事は、このお歌に答へられた姉君御名部(ノ)皇女の『わが大君。ものな思ほし。皇神の序《ツ》ぎて給へる君なけなくに』のお作で訣る。
(439) はだずゝき 尾花さか葺き、黒木もち造れる宿は、よろづ代までに ――元正天皇
(この宿は、葺き草としては尾花を逆葺きに葺きあげ、用材としては皮つきの木をもつて造つた宿だ。この宿は萬年まで榮える。)
尾花を言ふ爲に、「はだずゝき」と言ひおこしたので、枕詞と言ふ程ではないが、違つた事をいふ詞ではない。「逆葺き」は、屋根下地は葺き上げるものだから言はれたのだが、「榮《サカ》」の聯想を豫期せられてゐる。左大臣長屋王の佐保の家に、天皇と共にみゆきあつた宴遊の御製だといふ。宮殿を祝福する咒詞の技巧を採り入れたお作であるが、形からは複雜な印象を與へるに拘らず、内容の空虚に近い處が、朗らかな鮮やかさを感じさせる。賓客として家あるじより上位にゐる方々を迎へて、家開きをするのが、後世に至るまで、長いわが國の習俗であつたので、此は新室――舊屋でも新室《ニヒムロ》と見做す――のことほぎに、まれ人〔三字傍線〕として迎へをうけてのお作である。
健《マス》ら男《ヲ》の行くとふ道ぞ。おほろかに思ひて行くな。ますらをの伴《トモ》 ――聖武天皇
(この道は立派な壯夫《ヲトコ》として赴く處の道であるぞ。あだおろそかに思つて行くな。心を務《シ》めて向へ。立派な壯夫たちよ。)
天平四年西海道節度使として、藤原宇合以下が遣された時に、酒を賜うての御製である。或傳へには、元正上皇の御作とも傳へたらしい。此には理由がある。このお歌から、命令の御口吻ばか(440)りを聞くのでは、上世の御製のお味ひは訣らない。此等の臣の壯夫《ヲトコ》を愛撫なされて、しみ/”\としたお詞をかけさせ給ふと言つた、ねんごろな調子を感受しなければおもしろくない。而も、宮廷ぶりのおほどかで圓滿《マドカ》な、調子の太い、堂々としたものが、拘泥なくはひつて來るのに注意する必要がある。平安朝の末期までは勿論、その以後も、かうした主上特有の歌がらと言ふものがあつたのである。内容の有無は、そこに至ると問題にならない。
此里は、つぎて霜や置く。夏の野に わが見し草は、もみぢたりけり ――孝謙天皇
(この間、此處の夏野の中で朕《オレ》が見つけて來たこの草は、こんなに黄葉してゐることだ。この家のある里では、年中しつきりなく霜が降つてゐることなのか。)
この御製、序の解釋によつては、御母光明皇后のお作とも採れる。藤原仲麻呂の家に、天皇御母后のみゆきがあつて澤蘭《サハアラヽギ》に歌をつけて、内侍|佐々貴《サヽキ》(ノ)山《ヤマ》(ノ)君《キミ》某に持たせて、仲麻呂竝びに陪從の人たちに與へられた御製とあるから、列座の臣下を、祝し給うたお作である。命婦とあるのも、佐佐貴(ノ)内侍にあたるのだらう。後世の御歌會・歌合せなどにも、主上の御製を女房の傳達することのある、其古い形である。近代の人々は、霜と言へば凋落を考へるが、日本古代の習俗では、「霜八たびおけど枯れせぬ」――(古今)など言ふ發想の出て來る道筋として、益、健康であることを祝福する發想に用ゐられたらしい。『霜のうへに霰たばしり、いやましに 我は參來《マヰコ》む。年《トシ》の(441)緒《ヲ》ながく』(卷第二十)この歌はめでたい御降《オサガ》りを二つ重ねたので、霰の方は、殊に舞踏と關聯して、祝賀の意味が含つてゐた。霜の置くことは、健康の兆であり、其によつて草木の赤くなることは亦、人間の繁榮健康の象徴だとした考へを持つてゐるのだ。だから、草を求め得られた時が、夏で、既に黄葉してゐた。夏さへめでたい霜がふるのだから、祝福せられた家里だと言ひ做されたのである。この御製も亦、おほまかな謂はゞ天皇調とも申すべきものが出てゐる。殊に「つぎて霜や置く」といふ句に注意がいる。
かくばかり 戀ひつゝあらずは、高山の磐ねし枕きて、死なましものを ――磐(ノ)姫皇后
(これ程に焦れ/\して居る位なら、山の岩を枕にして死んでゐたらよかつたものを。)
萬葉集に、仁徳皇后磐姫の御歌として傳へる四首の中の、一つである。時代から言へば、古事記・日本紀に表れた此皇后のお歌よりも後世調であるが、記・紀と萬葉と、書物の性質上、年代の上下の標準をおく事は、出來ない。だから、記・紀を信じるからは、萬葉集をも信じる必要がある。「高山」は山の修辭的な表現である。その「磐ね」と言ふのは、山の基なる石槨の中に、石枕して寢ることを、さう表現する習慣があつたのである。磐を枕にして死ぬる事を覺悟するのでなく、磐枕が即、死ぬことなのである。だから、「死なましものを」の註釋的な言ひ方である。「まし」といふ詞は、空想を現すのが文法で、而も過去にかけて言ふのが普通である。死んでゐたらこん(442)な苦しみもなかつたゞらう、と言ふのと同じことになる。「……つゝあらずは」は「あらずよ」・「あらずに」と言ふ位の意である。普通は、「あらないで」と言ふ風に譯してゐる。舊譯は、「……ようよりは」と譯する。あの力強いうはなりねたみ〔七字傍線〕をなされた仁徳皇后が、一面かうしたなごやかな、お歌を詠まれた方として、古代人には考へられてゐたのだ。
天の原 ふり放《サ》け見れば、大君の御壽《ミイノチ》は長く 天足らしたり ――倭姫皇后
(ひろ/”\とした天よ。其を目を放つて見ると、天子樣の御壽命は、なが/\しく十分でいらつしやる……氣がする。)
天智天皇御危篤の際、皇后の奉られたものである。即御平癒を所られた咒言である。近代的に見れば、神に祈つて、さてひろ/”\とした天を見やると、わが願ひの必叶ふと言ふ信頼の心が、十分に湧いて來た、と言ふ風に採れる。併しこのお歌には、習慣の周知から來る表現の飛躍があるので、健康・長壽は、家の祝福と關聯してゐる。家を讃めるにも家主をことほぎ、家主を祝福するにも家を讃める。家の棟から垂れてゐる長い黒葛《ツヾラ》の綱を以て、生命の長さに比する祝言があつたのである。だから、このお歌の「天の原」は、屋の棟のあたりをさす誇張である。そこから垂れてゐる繩の長きが如く、み命は長く、と譬喩で言ふ所を、飛躍して表されたのである。其と共に「天たらしたり」も、葛が高い處から垂れてゐる意の「天垂る」が直に天に遍滿してゐる事を(443)意味する「天足らす」の聯想をも兼ねるのである。「たらす」は貴人に關する事として、「垂れてゐる」・「足りてゐる」と言ふ敬語のいらぬ部分までも、敬語化してゐるのである。日本式の發想法として深く考へ見るべきである。
わが夫子《セコ》と 二人見ませば、いくばくか、このふる雪の、うれしからまし ――光明皇后
(これが、あなた樣と二人で見てゐるのだとしましたら、どれほどに、今降つてゐるこの雪が、うれしく感ぜられたことでせう……。)
聖武天皇に奉られたお歌である。いかにもしなやかであり、曲折の豐かなお作である。そして、他の同類の歌、譬へば、『吾を待つと 君が濡れけむ。あしびきの 山の雫に、ならましものを』(卷第二)の樣な、なまめかしさ、そら/”\しさをお出しになつてゐない。「幾許か」など言ふお詞に、いかにも寂寞に思ひしまれてゐる趣きが出てゐる。
萬葉集には尚、皇族・大貴族の作物の、宮廷ぶり〔四字傍線〕に屬すべきものが澤山ある。だが、どうしても、天皇の御製には、短歌發生の歴史其ものに由來する所があるのか、おのづから違つた姿があるのである。今、皇后の御歌を添へて宮廷ぶり〔四字傍線〕の俤を綴つた個々のお作で見れば、又違つた趣きの窺はれるのは勿論である。
(444) 額田女王
昭和十年六月「婦人公論」第二十巻第六号
妹が家も 連續《ツギ》て見ましを。やまとなる大島《オホシマ》の嶺《ネ》に 家もあらましを ――萬葉集巻二
日本紀元千三百年代になると、俄かに文學らしいものが出てまゐります。短歌がはじめて、文學になつて來たことを意味するのです。さうして又、殊に宮廷の方々が、その側に優れた才能を示してお出でになつた様子が見えて來る。たとへば、舒明天皇であります。又その皇后、皇極天皇も、さやうで入らせられました。この御二方からの御流れを近《チカ》(ツ)飛鳥《アスカ》御族《オンウカラ》と、私《ヒソカ》に申しあげて、話をつゞけようと思ふのです。
今の世に傳る萬葉集も、實は此御族《オンゾウ》の尊貴の御作物を中心に、編纂せられたもの、と私は見てゐるのです。天智天皇・天武天皇二方は、この御間に、お生れになつた同胞《ハラカラ》でお出でなされますが、亦歌の歴史の上には、忘れ難い作物をお遺しになつて居ります。書き出しに据ゑた一首も、近江大津(ノ)宮に天の下を治《シロ》しめした天智天皇の御製であるのです。皇后倭姫《ヤマトヒメ》におかれても、又天武天星の皇后、持統天皇にしても、其から先々に到るまで、此御族は、短歌とは、きつてもきれぬ交(445)渉のお在りになつた事が、窺はれるのです。
近《チカ》(ツ)飛鳥《アスカ》御族《オンウカラ》の宮廷に、歴代お仕へ申した人にも亦、歌に傑れた人たちが、なか/\多かつた様です。私の謂はうと思ふ額田女王《ヌカタノオホキミ》――習慣的に、此方だけは、萬葉集に額田王《ヌカタノオホキミ》と「女」の字を省いて記載して居ますが、理由ある事なのです。――は其最古い一人で、殊に飛びぬけた力量を見せた女性です。
萬葉集の年代の立て方から言ふと、持統天皇の御代、吉野行幸にお伴せられた弓削皇子《ユゲノミコ》が、その頃恐らく藤原都《フヂハラノミヤコ》邊に居たらうと思はれる額田王に、歌を遣されました。其に和せた歌と言ふ、右の女王の、
いにしへに戀ふらむ鳥は、ほとゝぎす。けたしや 鳴きし。我が戀ふるごと ――巻二
の作物などが、此方の製作期を傳へたものでは、一等後の歌と言へるのです。だから、持統天皇の御宇には、まだ生きて居たものと見てよい訣です。
古代人は、結婚年齢が非常に若かつたのは、言ふまでもありません。其で、普通の女性の母となつた時期の、最若いものを見つもつて、假りに十六・七と考へて、此方について推定を重ねて行つて見ませう。
額田王は、天武天皇の皇女|十市皇女《トヲチノヒメミコ》を生んでゐます。此皇女、弘文天皇妃として、葛野王《カドノヽホキミ》をお生みになりました。葛野王誕生を、此又皇女十六・七の御時とすれば、額田王は、最低三十二・(446)三・四になつて居た訣でせう。尤、十市皇女が、額田王にとつて初産とはきまりません。十市皇女は、父帝の七年までお出でになつて、お薨れになつて居ますから、夫帝崩御後六年は現世なされたのです。葛野王の年は歿年が訣つて居ます。逆算すると、十九歳であつた事が知れます。此時、皇女御年三十五・六だつたと見られます。さすれば額田王は、五十を一つ二つ出た位と見るのが、一等若く見つもつた勘定になります。天武天皇は、其後七年世を治しめして、崩ぜられたのです。だから、持統天皇吉野行幸の節の歌は、凡又十年後と見てよからうと思ひます。かう推定して來ると、若く見つもつた上でも、六十前後と云ふ事になりはしませんか。持統帝御在位は、十一年ですから、歌を贈答したのが、若しや、この御代の末の事だつたとすれば、更に五年乃至十年近くの年齢を加へねばならぬ。七十にはなつて居る訣です。萬葉集に「藤原宮御代《フヂハラノミヤノミヨ》の歌」とあるのを信じれば、持統天皇即位後、満八年以後ですから、ちやうど其助定になります。
こゝまではともかくも、従來の考へ方に立つて言つたのです。だが、存外學者の推定と言ふものも、その想像の方向が、正しくないこともあるものです。たとへば、天智天皇の宮廷に召される前に、大海人皇子《オホキアマノミコ》――後の天武天皇――に仕へて居たとする説です。江戸時代の學者にも、宮廷にありながら、皇弟にお會ひする事もあつたのだ、と説いた人もあるのです。だから、さうすると、今日の定説もあてにならない事になります。ある程度以上、書物にない想像の部分を一切棄て、新しく出直した方がよからうと思ひます。私なども、額田王はまづ宮廷に入られたものと考(447)へるのが、正しいとするのです。
此人について信じてよい記事は、萬葉集にある歌と、其詞書きとに過ぎません。其からもつと正確らしく見えるものに、日本紀にある天武天皇二年の記事があります。
天皇初め、鏡王女《カヾミノワウノムスメ》額田姫王〔四字圏点〕を娶《メ》して、十市皇女《トヲチノヒメミコ》を生む。
初め〔二字傍点〕とあるのは、御即位の前で、正式ではなかつた事を示してゐるのです。ところが、この鏡(ノ)王の女と言ふのは、一人でなかつたと信じられてゐます。萬葉集を讀む人が、さう考へて來てゐるのです。だが、ほんとうの確かな證據は、唯一つ、やはり日本紀(天武紀)に、
秋七月(十二年)……天皇、鏡姫王《カヾミノヒメオホキミ》の家に幸《ミユキ》して、病を訊《ト》ふ。(翌日)鏡姫王薨ず。
とある文だけです。
萬葉集で見ますと、前の「大島の嶺《ネ》」の御製に御和《オアハ》せ申した歌が、「鏡王女《カヾミノワウノムスメ》奉v和御歌一首」となつて居て、「鏡王女、又、額田姫王と曰ふなり」とある位です。さうして鏡王女と言ふ名で出た歌が、四首あります。ある時は、明らかに額田王と區別し、又時には、區別を忘れて混同して考へてゐることもあるやうです。額田王の性行なども、かうした考へ方から出て居るのです。
額田王の作物と謂はれるものも、評判のわりには尠くて、短歌八首・長歌三首を、残すに過ぎません。その中、短歌一首・長歌一首を除いては、皆何らかの意味で、ある土地・地名と關聯したものです。而も、近江に關したものが多くて、短三首・長二首もあります。(448)さて、此方の故郷について述べる必要を感じ出しました。琵琶湖の南岸|野洲《ヤス》・蒲生《ガマフ》・甲賀《カフガ》の郡界に立つて居るのが、御承知の鏡山《カヾミヤマ》です。この山に關聯して「鏡」の名を持つた郷は、山の東北にあるから、大體において、山の中心地は蒲生郡にあるものと見てよいでせう。鏡姫王も、額田王も、此地から出て、おなじ近江の大津宮《オホツノミヤ》にも、又後には大和|飛鳥宮《アスカノミヤ》にも出仕したものと考へられます。鏡王女とも鏡姫王とも、日本紀・萬葉集を通じて書いてゐるのは、どう言ふ訣でせうか。此については、學者は、鏡王と言ふ近江在住の皇族に、娘御が二人あつて、姉が鏡姫王、妹が額田姫王と言ふ風に説いて來てゐます。さうして姉を鏡王女と記し、妹を特に額田王と記すこともあつたのだとしてゐます。
茲には細やかな論理を述べる事は控へます。「鏡王」と言ふ名稱の「王《ワウ》」は普通考へる様に、皇族の御末と言ふ事を示すだけではありません。古代には、歸化人は、支那朝鮮の国王の裔《スヱ》だと稱したものが多いので、「王」を氏《ウヂ》としたものが多くあります。此と混亂する例もあります。其上まだ、古くから別の「王」がありました。
山陰道の入り口に當る丹波・丹後に勢力を持つて居た丹波氏《タニハウヂ》と言ふ豪族が居りました。此家の祖先は、「丹波道主王《タニハノミチヌシノワウ》」「丹波道主命《タニハノミチヌシノミコト》」とも、「彦多々須美知之宇斯王《ヒコタヽスミチノウシノワウ》」とも言ふ方でありました。其後裔も亦、いつまでも宮廷の御用を勤める際、自ら「丹波道主王《タニハノミチヌシノワウ》」の名の下に行つて居ました。其は、大和宮廷と、伊勢神宮へ、歴代常に八人の處女を獻つて、奉仕の務めをさせて居たのです。(449)之を「丹波《タニハ》の八處女《ヤヲトメ》」と言ひ、「丹波道主王《タニハノミチヌシノワウ》の女《ムスメ》」と言ふ資格を稱《トナ》へて進めたものでした。これと同じ事が、外の国々の舊族からも宮廷に對して行はれて居たものと考へられるのです。
都に奠《サダ》められた近江の大津宮は、倭宮廷の延長せられた訣であります。古代の人の考へ方では、宮廷の在る處、即「やまと」です。事實そこをやまと〔三字傍線〕と稱しました。湖水の岸の天子御在處は、やまと〔三字傍線〕であり、其處に堺を隔てゝ向きあつた地は、舊來の近江の名で呼ばれたでせう。だから東南岸の蒲生・野洲の地方は、新しいやまと宮廷の國に、直《ヒタ》と向ひあつて居た訣です。鏡山の西に續いてゐるのは、三上山《ミカミヤマ》です。昔も今も名高い、姿の優れた山。近江富士とさへ謂はれて居ます。聖き水の信仰を、大昔から傳へた山でした。だが、三上と言ふ稱へは、山に三峰ある事を示してゐる名なので、日本國中に数多い二上山が、夫婦嶽《メヲトダケ》或は双子山《フタゴヤマ》の恰好に極つてゐるのと一つです。だから元、三上山と言つたのは、恐らく三上・鏡との外に、今一峰|敷智《フチ》と言つた峰を、見渡しての名であつたらうと思ひます。湖水を漕ぎ出て見ると、三峰連立した樣、如何にも惚々しく見えます。三上には、「三上の祝《ハフリ》」と言ふ家があつて、後まで記憶せられたが、鏡山の神に仕へる「鏡王」の家は、忘れられて了つたのでせう。私は、此家を「丹波道主王」の家からの分れと思つて居ます。
「鏡王」の家から、宮廷へ献げられた處女は即「鏡王の女」と言ふ事になります。後世は忘却して了つたが、當時は名高かつたので、唯「鏡王女」と言ふ漠然とした字が通用して居た訣でせう。(450)鏡王と言ふ皇族のないのも、其で訣ります。「鏡王女」と言ふ資格で、宮廷に奉仕した近江の國の神聖なる處女は、宮廷の神及び天子に側近中しあげる巫女《ミコ》だつたのです。鏡王女として、其正式の資格者、謂はゞ兄媛《エヒメ》とも言ふべきのが、鏡(ノ)姫王だつたのです。さうして其弟姫も「鏡王(ノ)女」の資格で呼ばれるのが普通だつたのでせうが、「近飛鳥御族《チカツアスカオンウカラ》」の盛んだつた頃に仕へた名高い歌よみが、特別に、「額田姫王」又は「額田王」と言はれた訣です。
其から、其名の額田ですが、大和にも河内にも、その他到る所にあつて、数へきれぬ地名です。人によると、大和の額田の地を賜つたから額田王と言つたのだとさへ申して居ますが、どうか、あてになりません。額田は、どうやら「鏡王」家に、交渉の深い近江の地名だつたらしいのです。阪田郡の中に狭額田《サヌカタ》といふ地があつたらしいのです。阪田は、さぬかた〔四字傍線〕が約《ツヾマ》つた地名だと言ふ位です。蒲生野《ガマフヌ》と言ふのは、大體鏡山から北東、愛知《エチ》郡との境なる愛知川へかけた、湖岸に近い沼澤地を含んだ地でせう。こゝに行幸のあつた時、額田王の名高い歌があります。だが先の様に考へて來ると、單に天智天皇の遊獵《イウレフ》の御伴をしたと言ふ事にはならないと言ふ事が訣ります。
天皇、蒲生野《ガマフヌ》に遊獵せられた時、額田王の作つた歌
あかねさす 紫野《ムラサキヌ》ゆき 標《シ》め野《ヌ》ゆき、野守《ヌモリ》は見ずや。君が袖ふる ――萬葉集巻一
皇太子(天武帝)答への御歌
むらさきの にほへる妹を。憎くあらば、他《ヒト》づまゆゑに、吾戀《ワレコ》ひめやも
(451)紫草の生えてゐる野は、人の手を出すことの出来ぬしるしのついた野です。其野に入り込んで、袖をふつていらつしやる。野の番人は、目をつけさうだ。「こゝへ這入つて袖をふつたりしてはいけません」。「さう言はれて、やまる位ならよいが、憎くなければこそ、持ち主のきまつた人に焦れてゐるのだ。憎くば焦れようか、はなやかな思ひ人よ」。「鏡王女」ですから、すべて宮廷に所属するものです。だから、他《ヒト》づまと仰せられたのです。だが天智天皇から申しても、此時はじめて、鏡姫王及び額田姫主に遇《ア》はれた事を意味してゐる傳へなのかも知れません。兄媛《エヒメ》は主賓に奉仕し、弟媛《オトヒメ》は、次賓に仕へると言ふ事もあつた事なのですから、一應は宮廷の人として遠慮をせられても、やがて額田王に、大海人皇子の會はれた事も不思議はありません。右の唱和の御歌は、宴會の座興を催した歌と見てよいと思ひます。
思ふに、萬葉集自身にも、鏡王女と額田王との関係が、よく呑み込めないところから來た、誤りはあるだらうと思はれます。天智天皇にお伴して居たからと言つて、寵を受けて居たとも言へないのです。萬葉集でも巻四には、
額田王、近江天皇を思《シノ》んで、作つた歌。一首
君待つとわが戀ひ居れば、わがやどの簾《スダレ》うごかし、秋の風吹く
鏡女王の作つた歌。一首
風をだに戀ふるはともし。風をだに 來むとし待たば、何かなげかむ
(452)此などは、果して詞書《コトバガ》きどほり、姉妹の唱和《シヤウワ》せられたものと言ふ傳へは、其まゝ信じてよいか、どうかわかりません。この歌の解釋も色々ありませうが、まづ寵衰へた兄媛が、まだ愛《メ》での盛《サカ》りにある弟媛に同情しながら、果敢《ハカ》なさを溜め息づいて居ると見るのが、正しいでせう。
風が簾を動かすと言ふ事に、一種の暗示を感じて居るのでせう。人は來ないで、前兆ばかりなのを悲しんでゐると、今一人は、「あなたはまだよい。風だけの前兆にでも、心を動揺させて焦れて居られるからよい。私だつて、吹く風を來訪の前兆と待つ気になる頼みがあれば、こんなに溜め息づいたりしては居ない」と言ふ事らしい。
近江天皇が、額田王に通はせられたのだと見るのがあたり前でせうが、或は詞書きを疑ふ事も出來る訣です。鏡王女が、果して一人の兄媛たる鏡姫王を意味するものと信じる事が出來ないからです。
秋山の木の下がくり 行く水の われこそ増さめ。み思ひよりは ――巻二
「大島嶺に家もあらましを」の御製に和《アハ》せた歌で、鏡王女のものとなつて居り、同時に額田姫王と同人だと云ふ説のある歌です。天智御製は、妹の家が大島嶺にある事を望んでお出でになるのだと言ふ説もあるが、萬葉集の別傳に「家をらましを」とあるのを、普通に解釋すると、どうしても、御自身家居することを欲してお出でになると採るのが、正しいやうです。こゝでは、やまと〔三字傍線〕が問題になる。単なる大和國と見るのが通説だが、其はどう考へても、無理になります。大島嶺《オホシマノネ》(453)の地名の説明にも、納得が出來ません。此は、都の所在に近い所か、或は行宮の地などを言ふ語であらう。ともかくも近江の上に假りに、さうした表現をする事の出來る事情がおありになつたのでせう。「大島《オホシマ》」と言ふ地は、おなじ蒲生郡の中、鏡から五六里隔つた眞北にあたつてありました。今の近江八幡から湖水へ岬の様につき出てゐる島山が、其です。長命寺《チヤウメイジ》と言ふ札處《フダシヨ》の寺のある處です。平安朝にも大島郷《オホシマガウ》の稱號を持つた地です。後に、島村《シマムラ》と言つて、奥島《オクノシマ》・北津田《キタツダ》・白王《ハクワウ》などいふ村を含んで、津田《ツダ》の細江《ホソエ》(?)だらうと言ふ水路で、島の様な形になつて居ます。此島は全體が山になつて居るのですから、大島の嶺によく當ります。始終居つて、「鏡の村」を望まうと仰つたお考へにぴつたりはまります。やまとなる〔五字傍線〕の語の意義が知れゝば、よく訣る歌なのです。「大島山に家がないのが困つた事だ。其がありさへしたら、愛人の家を絶え間なく見ようよ」と仰つたのです。
其に和《アハ》せた「鏡王女」とある此歌は、頗縁遠いものとなつて居ます。此間に、今一往復の御歌でもあつたのではないか、と思はれる程です。時が秋であり、又大島山を主題の様に扱つて居られるのに續けたのだと見ておきませう。「あなたの仰やる其大島山の秋げしき――其木蔭を流れる水が、秋の事とて、水嵩増して居るでせう。それ其如く、私の思ひの方が何層倍か、かさが高いでせう」と、しなやかに御製の趣きを跳ね返したのです。
昔のかけあひ〔四字傍線〕其――唱和《シヤウワ》・贈答《ゾウタフ》――の歌と言ふものは、皆かう言ふ風に作つたものなのです。女性(454)は殊に、男性の歌の謂はゞあげあし〔四字傍点〕を取る事に馴れて居ました。宮廷から、都會・田舎に拘らず、すべて社會的儀禮として、恒例的に又は臨時に、男女の歌のかけあひ〔四字傍線〕が行はれました。其歌が、近代の人の考へるやうに、文學的であるよりは、今言つた點に上達した人たちが、その國・地方での歌人として騒がれたのです。萬葉歌人の多くは、さうした歌の上手だつた所から、名の傳へられた人たちなのです。特に女は、其に熟達した者が、周圍の男性からもて囃されました。美人である事の一つの條件――と言ふより、最大の――要素は、「早歌《ハヤウタ》よみ」と言ふ所にありました。歌で言ひ勝つた者が、負けた女を従はせる事が出來たのでした。當時の女歌人や、「女歌《ヲンナウタ》」を考へるのに、かうした點を度外視する事は、正しくはありません。
此も、額田王やら、又眞實の鏡姫王やら、判断の出來ない作者の歌とせられてゐる萬葉集巻二の、
内大臣藤原卿(鎌足)、鏡王女に娉《ア》つた時、鏡王女が内大臣に贈つた歌。一首
たまくしげ おほふを易み、あけていなば、君が名はあれど、わが名し惜しも
内大臣藤原卿、鏡王女に報《コタ》へ贈つた歌。一首
たまくしげ みむろの山のさなかづら さ寝《ネ》ずは、つひに在りかつましゞ
二首ながら、おなじ語からはじめて居ます。かけあひ歌〔五字傍線〕の常用手段なのです。男の歌は、概してまじめですが、女の方は詭計的であり、皮肉な表し方をするのです。此歌にも「我が名はあれど、(455)君が名……」だと言ふ説もありますが、其では贈答の味ひがありません。「隠されるものと安心しきつて、あなたは夜が明けてから還るつもりなの。早く還つて下さらないで、人顔が見える様になると、あなたの噂などはどうでもよろしいが、私のうき名の立つのが大事です」。事實はそれほど冷淡なのではないでせうが、かう言ふ邪見な言ひ方をしたものです。其に對して、鎌足の方はすなほです。「早く還れ/\と言ふが、こんなに毎晩泊めて貰へずに還つては、とゞのつまりは、生きては居られまいよ」と言ふのです。詞書きは、「娉」の字を書いて居るが、歌では、鏡王女は従つて居ないのです。後には「鏡姫王」と言はれた人が、鎌足の正室になつて居ます。此はまだ許さない時代の歌でせう。結婚の最初に物語るもの、と言ふべきでせう。秋山の歌の鏡王女と、此作者とが同一人であるか、ないかは判断しかねますが、同一人としても、別に不思議はありません。宮女《キユウヂヨ》或は舎人《トネリ》は、宮廷から皇族・貴族に與へられる例になつて居たのですから。
今一つ、額田王の歌で、近江に関係あるものを擧げて見ませう。
額田王、近江國に下つた時の歌。井戸王《ヰドノワウ》 即《ソノバ》で、和《アハ》せた歌
うまさけ 三輪の山、あをによし 奈良の山の山の際《マ》にい隠るまで、道の角《クマ》い離《サカ》るまでに、精密《ツバラ》にも見つゝ行かむを。頻繁《シバ/\》も見放《ミサ》けむ山を。心なく 雲の隠さふべしや
反 歌
三輪山を 然も隠すか。雲だにも 心あらなむ。隠さふべしや (巻一)
(456)此は恐らく、天智天皇近江遷都の途すがら、額田王代作を命ぜられたものと思はれます。大和鎮護の三輪の神山《カミヤマ》に別れて行くと言ふ、なごり惜しみの歌です。奈良山を北に越えれば、山城の木津川の河原に出る。さうして大和は見えなくなる。奈良山に立つて顧みてゐるのです。
「三輪山が、奈良山の外輪《ソトワ》に隠れて了ふまで、山道の曲り角/\を経て上つて來た。出來るだけ、しみ/”\見て行かうと思つてる山を、雲が先づ隠した。隠せる筈のものぢやないのに隠した。山だつて理會があつてほしいものだ」と言ふのが、長歌。短歌は、「あの三輪山を、こんなに隠したことよ。雲だつて理會があつてくれ。隠せるものぢやないのに、隠したことよ」。此はともかくも、鶴田王の作物なのでせうが、次の歌、
三輪山(?)の林の崎のさぬはりの 衣《キヌ》につくなす 目につく。わが夫《セ》
井戸王《ヰドノワウ》の歌と傳へるものであるが、王孫《ヌハリ》と言ふ草を出したところ、わがせ〔三字傍線〕と囃《ハヤ》し詞を入れたところ、皆近江歌の姿を持つてゐるのです。後世まで、此國では、此に似た歌が行はれて居たのです。話が少し専門的になりましたから、近江國に關した事から、離れて見ませう。額田王の若い時の歌と思はれるものは、三首傳つて居ます。一つは、皇極天皇の御代、他の二つは同じ御方の重祚せられて、齊明天皇と申した御代の作と傳へてゐます。
秋の野《ヌ》のみ草刈り葺《フ》き やどれりし宇治の宮地《ミヤコ》の 假廬《カリイホ》し思ほゆ ――巻一(1)
熟田津《ニキタツ》に船乗りせむと 月待てば、汐《シホ》もかなひぬ。今は 漕《こ》ぎ出でな ――巻一(2)
(457) 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本 ――巻一(3)
三番目の歌は、紀伊温泉行幸の時に作つた歌とある。訓みのくだらぬ歌で、多少の考へもあるが、今は問題としません。(1)は、曾遊の地を思つた歌、(2)は現状を述べて居るのです。
自分も、行幸のお伴として、茅を刈つて小屋がけして宿つたことのある其字治の宮地で、今又、人々は假り小屋を作つて泊つて居るだらう。其小屋が目に浮んで來る――と言ふので、「……やどれりし宇治のみやこ」までは、過去の経験で、「そのみやこの」と言ふ風に語が再用せられて、「其都に今又、人々の作つた假廬」を空想して、懐しんでゐるのです。
熟田津は、古代から名高くて、今もある伊豫国道後温泉に近い海岸、船乗り〔三字傍線〕と言ふのは、何も實際の出帆ではありません。船御遊《フナギヨイウ》と言つてもよいでせうが、宮廷の聖なる行事の一つで、船を水に浮べて行はれる神事なのです。持統天皇の御代の歌、
英盧《アゴ》の浦に船乗りすらむ處女《ヲトメ》らが、たま裳のすそに、汐みつらむか ――巻一、人麻呂
などゝ同じく、禊《ミソ》ぎに類した行事が行はれるのでせう。「月を待ち受けて、船乗り〔三字傍点〕をしようとしてゐると、汐までが思ひどほりにさして來てゐる。さあ漕ぎ出さうよ」と言ふ儀式歌《ギシキウタ》です。女帝陛下には、聖《セイ》なる淡水《タンスヰ》・海水《カイスヰ》を求めての行幸が、屡行はれたのです。此二首も、やほりさうした場合を背景に考へて見れば、一等よいやうです。
(1)・(2)の歌が、萬葉に書いてあるとほり、飛鳥(ノ)河原宮《カハラノミヤ》の御時と、後《ノチ》(ノ)岡本宮《ヲカモトノミヤ》の御時に出來たもの(458)とすると、蒲生野遊獵――天智帝七年――まで、十三四年は立つて居る。之を前に数へた額田王の年齢に加へて考へることも出來ると思ひます。すると少くとも六十を越して居る筈です。又考へ方によつては、七十以上になつても、健やかで居つたものと思はれます。かうして、弓削《ユゲノ》皇子との贈答の歌を考へて見ませう。
吉野宮に幸する時、弓削皇子、額田王に贈り與へた歌。一首
いにしへに戀ふる鳥かも。楪葉《ユヅルハ》のみ井《ヰ》のうへより 鳴きわたり行く (巻二)
額田王和せ奉つた歌。一首
いにしへに戀ふらむ鳥は、ほとゝぎす。けたしや鳴きし。わが戀ふるごと
年数を今の様にして繰つて釆ると、額田王が吉野行幸に加らなかつたのは、老年であつたからでせう。さうして、此人が行幸の際に憶ひ起されたのは、昔は屡、吉野の行幸に従つたからなのです。弓削皇子と直接贈答したと見るよりも、持統天皇の御製としての代作者が、弓削皇子だつたとする方が、ほんとうらしい気がします。持統天皇は、其こそ、何十度とも知れぬほど、吉野宮へ御出御になりましたのです。時鳥の聲を開いて、ふつと思ひ當つたのは、人の靈魂は、憧れ出て鳥となると言ふことです。自分は來られないで、魂だけがついて來た人があるのではないか、といふ事です。其で、「楪葉のみ井といふ木蔭の淵の邊をば、鳴いて通つた鳥、あれは、以前の事を思ひ焦れて飛ぶ鳥であつて、其でこゝを鳴き過ぎて行くのだらうか」と言ふので、鳥を言うて(459)居られるやうだが、實は鳥に代つた生魂《イキスダマ》を思つての、極まじめな歌なのです。額田王も亦正面から、「その以前の事を戀ひ焦れて鳴いて通つたと仰る鳥は、時鳥に違ひありません。ひよつとしたら、私の焦れて居るとほり鳴きはしませんでしたか」。此も鳥を言つてる様だが、自分の魂だと認めて居るのです。この歌には、外に寓意はないので、勿論戀愛の歌などではありません。又、同じ場合のでせう。
吉野より蘿《サガリゴケ》の生えた松の柯《エダ》を折り取つて遣《ツカハ》された時、額田王|奉《マツ》り入れた歌。一首 みよしぬの たま松が枝《エ》は、愛《ハ》しきかも。君が御言を執《モ》ちて通はく
「吉野の神秘なマツの杖は、可愛いものだな。あなた樣の仰せを傳達して、やつて來ることよ」。此は、弓削皇子ではなく、天皇をさし奉つてゐるやうである。人なら勅使として來るが、霊的な松だけあつて、木が勅使となつて來たと言ふのである。此も謹厳な歌です。勿論松の枝は、歌が結びつけてあつたのです。と同時に、蘿《サガリゴケ》は白髪を思はせるものですから、壽《コトブキ》を祝し給うたものと思はれます。
かうして見ると、額田王は、世間で思つてゐるほど、自由放恣な生活をした人とは思はれぬところが多いのです。「鏡王女」の考へ方や、歌の出來た動機を思ひ誤つての評判が、さうさせたところが多いと言へます。
まだ此外に、名高い長歌としては、天智天皇崩御の時の歌、春秋の優劣を判じた歌があります。(460)此は、額田王だけが、歌を詠んだのでなく、天智天皇の宮廷にをつて、春方《ハルカタ》・秋方《アキカタ》を分けて、歌合《ウタアハ》せの様な事をおさせになり、其時、額田王ほ判者《ハンジヤ》として、長歌を以て、判詞《ハンノコトバ》を作つたと解するのが、一等正しい見方らしく思はれます。
額田王ばかりではありません。古代の歌は、我々が考へるやうに、文學そのものではありませんでした。だが又同時に、我々がどうかすれば見くびる程、文學動機を含まないものでもなかつたのです。
額田王については、尚、仲大兄皇子《ナカチオヒネノミコ》の「三山歌」を中心にした戀争ひの物語が、問題になるのですが、歌自身、さうした事件に関係もなし、又、所謂御同胞の間に妻争《ツマアラソ》ひのあつた事實なども、學者の誤解らしく思はれますから、こゝには言はない事にしました。
(461) 柿本人麻呂 昭和八年二月、春陽堂「萬葉集講座」第一巻
一 柿本氏
ひとり、柿(ノ)本(ノ)朝臣に限つた訣ではない。古代の人物傳を考へるのに、まづ、用意してかゝらねばならぬことがある。其人を知るよりも第一、其属してゐる氏族についての知識を用意してかゝることである。其は、記録の上で、個人の歴史と考へられるものが、数代に亙つての出來事の綜合であつたり、或は又、其族長たる人の誰が上にも、通じて稱せらるべき家傳の根柢なることに繋つてゐる點が多いからである。若し、最初からこの事を念頭に置かないで、合理的な歴史方法で見て行くことは、歴史を形づくる要素を失念した事になるからだ。この落すことの出來ないものは、古代宗教の上における考へ方である。人麻呂の場合は、やはりかうした見方をすることが正しいものだと共に、此による外、辿り難いほど、乏しい生活の痕をしか止めてゐないのだ。其にしても又、柿(ノ)本氏に關した文献は、人麻呂傳の輪郭を考へさせる側に、用に立つ程にも備つてゐない。
(462)柿本氏族の本質は、大和の中にあつたものと見てよい。さうして、其に當るものが、後世、二个處を考へられてゐる。一つは、添上郡櫟本附近で、此は、平安朝末期に、其處と推定せられてゐたものである。堂の廃墟と、古墳とが、初瀬海道に當つて残つてゐた所から、物詣での京人の目に觸れ易かつたのだ。さうして、此を認定するに到つたのは、一種の夢想によるのであつた。此堂及び安置せられた木像が、修理せられる様になつたのも、かうした地理と、歌學の流行し出した時勢とによつたのだ。文明八年の勧進帳――柿本像綵色勸進帳――なるものには、其頃の歌よみ気質を覗うた所が見える。
其と今一つは、北葛城郡新生町の東に接してゐる地で、今も、其地名がある。河内越えの岐路に當つてゐて、後には、注意せられてゐる。此二つの土地の関係は、部落の移轉か、又は、支村の繁榮によるのだらうが、明言は出來ない。
此族名は、其氏人の、大和國外から移住して來たことを思はせる地名か、どうかについて考へても、極めて問題の乏しい稱號である。柿本氏の傳へに據つた、と思はれる新撰姓氏録の説明で見ても、「柿《カキ》(ノ)下《モト》(ノ)朝臣、大春日(ノ)朝臣と同祖。天足彦國押人命の後なり。敏達天皇の御世、家門に柿の樹あるに依つて、柿《カキ》(ノ)本《モト》(ノ)臣《オミ》を氏と爲す」とあつて、地名であつて、而も偶發的な、半固有名詞式なものなることを示してゐる。大春日氏族の複姓と稱へてゐる所も、當つてゐる。添上の北邊から分離して、殆山邊郡と入會地の、郷・郡縣の境界部落なる垣(ノ)本――後世にも村の範圍を示す(463)に言ふ垣内《カキツ》・垣外《カイト》など――でないかを疑はせる程の郡堺に居たものらしい。「かきのもと」なる姓が、果して家門の柿の木によるか、どうかは疑問である。「久米歌」の「垣下《カキモト》に……」其他、宮廷の外圍を言ふ語であるから、其を延長して、宮廷領の境界、又は其處を守ることを意味してゐると思はれる。大春日氏の岐れであつて、柿本氏とは比較にならぬ程大族だつたと見られる、春日(ノ)和珥(ノ)臣の根據地と、非常に隣接してゐる。思ふに、大春日の支族の、宮廷在地《ミカド》やまと〔三字傍線〕の北邊大倭(山邊郡)の地境――後には、却て奈良(添上郡をこめて言ふ)の南端となつた――に居たからの族名でないか。さうして、此がやがて、此一族の表の職業を暗示してゐる様に思ふ。布瑠氏同様、地境において、靈物の擾乱を防ぐのにあつたらしいことは、大春日氏の場合にも考へられる。大和の最北邊に居るからである。
臣から朝臣に昇格した家だが、尚、臣で殘つた家もあつた。而も、庶流に到つては、大和以外にも、多く散つて居たものと考へてよい。だから必しも、人麻呂をば、此添上郡を本貫とする人とも定められない。
二 人麻呂の名義
人麻呂の名も、極めて類型的なもので、前後王朝に亙つて多い者であつた。「玄同放言」には、正史に現れた人麻呂なる名を九人まで擧げてゐるが、其に止るものではない。右の外、戸籍文献に(464)は、あり過ぎる程の名である。「人」を名とするもの、人・必登・比等を初めとして、萬葉集だけ
でも、人|長《ナガ(?)》・人|上《ガミ(?)》・人|足《タリ》・人|名《ナ》・人主などを憶ひ浮べる事が出來る程だ。おなじ熟語でも、其語尾に用ゐるものに到つては、更に幾倍かになることゝ思はれる。が、其に「まろ」の熟した人麻呂なる形に到つては、一種異様の成立を含んでゐる様に思はれる。
「まろ」なる名は、近頃では、一人稱の代名詞と關聯して説かれ來て、此が賤民の稱號から出て、代名詞に使はれる様になつた、と言ふ風に固定しかけて來てゐる。人名の「まろ」の如きも、さうして出來たことは言ふまでもないのだ。賤民の名を命ける事によつて、邪神の咒視を避けようとするのだ。此上に、更に特殊な意義を示す語が複合して來るのだが、人麻呂には、稍變つた徑路が見える。即、姓《カバネ》に於いて、「人《ヒト》」なる稱號の見られる事である。眞人麻呂・史滿など言ふのを見ると、どうも、さうした結合點の意識が轉じて來た様に思はれるのである。唯の名の麿と、姓《カバネ》の一部なる人とが、一つになる傾向が現れてゐるのだ。そこに、人麻呂と言ふ風なものが出て來る。それと今一面、之を推進する事情がある。寺人・手人・藏人など言ふ一種の雜戸式――一概に言ふのは、よくないが――のものゝ語尾である。即、麻呂よりは、少し上だが、稍卑しい感じがある。此が融合して出來た名らしいことは考へてよいと思ふ。この名が、さほど遠くない頃から流行し初めて、最ありふれた童名の一つとせられ、其が成人の後までも持ち越したものと見える。
(465)柿本家の人の正史に現れた人物は、おなじく馬琴の計算によれば、奈良朝に五人、平安に入つて、二人である。統計に見ても、一度も文献の上に出て來ない氏族だつてあるのに、かうして見ると、族人の尠からず分布して居つたか、でなければ、都城に近く本據を持つてゐたことが思はれるのだ。その中、柿本安永については、承和九年十二月紀(續日本後紀)伯耆守笠朝臣梁麻呂傳に、「承和二年、左中辨に拜す。此時、諸(所?)司柿本安永なる者あり。利口の人なり。自ら口の佞なるを憑み、屡干す所あり。官、其身を喚《メ》して、詰問すること數《シバヽヾ》なり。巧に百端に避けて、曾て諾伏せず。梁麻呂纔かに、一問を發す。安永舌を巻いて退く。同僚倶に云ふ。及ばざること遠し。」此は、單なる官吏の不始末を懲戒しようとした事の記述ではない。其にしても、安永の興言利口には、其氏族と、本質的に関係がありさうである。
今日においては、推測は出來るが、決定の出來ぬ多くの事實がある。其中にも、考慮に残してよい事は、柿本氏人が、巡遊神人であつたのであらう、と言ふことである。大春日氏と同祖は同祖でも、單に其だけではなく、寧、春日(ノ)和珥《ワニ》(ノ)臣の分れと見る方が、當然であらう。其程、春日和珥臣の本貫と地域の區分が立たないのである。恐らく和珥(ノ)柿本(ノ)臣など稱へた和珥氏の小氏であつたものではないか。其が後に、和邇氏を超えて、和邇の本族たる大春日の複姓と言ふ形を示したものではないか。和邇神を齋く人々のある運動は、明らかに考へることが出來る。畿内附近に分布廣い氏族和邇は、後多く、小野氏に勢力を譲つて居る。氏神も即、近江滋賀郡和邇の地の小(466)野神、と言ふことになつて來てゐる。だから、同一神といふことが出來る。春秋の祭りに、春日氏族の一部、和珥系統の人々が参向した樣だ。此は、大春日氏の出の複姓の間に、「氏長」の資格が移動したからで、或期間は、其が小野氏にあつたことを見せてゐるのだ。「小野の氏神の社、近江國滋賀郡に在り。勅す。彼氏の五位已上の、春秋の祭りに至る毎に、官符を待たずして、永く以て往還することを聽《ユル》せ」(續日本後紀、承和元、二月二十日?)。「是日、勅す。大春日・布瑠・粟田三氏の五位以上の、小野氏に准じて、春秋二つの祀《マツ》りの時、官符を待たずして、近江國滋賀郡に在る氏神社に向ふことを聽せ」(同、四年二月十日紀)」などある點から見ると、春日氏族の中、和邇一統が榮え、其中更に、小野氏が氏(ノ)上の様な形をとつたことが見える。従つて、其所謂小野神が和邇神でもあつたことが訣つて來るのだ。祭禮の月も二月(秋は、八月か)だつたことも考へられるし、氏神祭りに、諸国の氏人――記録に見えたのは、官人だけだが、同時に廣く氏人に亙つてゐることを示す――の集つて來る樣が訣る。だから、常は諸国に散在する者も、其一部は必、小野祭りに参與したのだ。さうして、古代信仰の形式上、柿本氏も亦、此小野神祭りに集る一族と見ねばならぬのだ。
小野神の布教の事は、既に、柳田国男先生の「神を助けた話」に發表せられてゐる。後世大規模に行はれた小野氏人の運動は、春日部・和邇部などの形式を學んだに過ぎないので、其中間のものとして、柿本氏人の巡遊を思ふべきであらう。一つの信仰樣式を、どこまでも、同氏族の間で(467)は、くり返すのが常であつたからである。
三 人麻呂の旅行並びに人麻呂集の歌
柳田先生は、小野神の祭主の資格を、猿丸大夫の名で表したもの、と決定してゐられる。此點を擴充して行くと、思はれるのは、故芳賀矢一博士の、柿本氏の中、最著しい「※[獣偏+爰]朝臣」を猿丸とする説と、ある暗合を示す事になるのだが、其では、人丸・猿丸の交渉が、あまり近づき過ぎる。姑らくとり放して考へる方がよささうである。後世の假託は、古い形を想見するに足らぬと言へば、其きりだが、柿本氏には、「安永朝臣」に限らず、ある辯口についての記憶が、民俗の上にあつた様だ。一種の御伽草子には過ぎないとしても、其が比較的古く、又、連歌の上の柿(ノ)本・栗(ノ)本の座の名義と、通ずる所があると思ふ。元来、ある利口興言を玩ぶ技なる連歌の上に、柿本を正式のものと考へた理由も訣る。單に人麻呂の流だからの柿本では、この場合説明出來ないのだ。必此語に、一種の俳諧昧があつたのだ。其が、俳諧を分出する様になると、栗(ノ)本と言ふ語を作つて、其に對する眞面目な作風を示すものと考へる様になつたのだらう。
さうして、此も恐らく偶然と見られるだらうが、所謂柿本氏系圖と似た事が、この一族の名にも見えてゐる。※[獣偏+爰]と言ひ、柿本朝臣|枝成《エダナリ》(文徳實録、仁壽元年十一月紀)と言ひ、此名に一種の利口が見えてゐると思ふ人も多い。尤、柿本氏系圖の如きは、連歌師などの筆のすさびと思はれるか(468)ら、強ひて謂ふ訣ではない。唯、さうした印象がないとは言へなからうと思ふのである。
今日存する柿本集は、人麻呂集としては、第二次的――と言ふよりも寧、末流的――のものであるが、殊に下巻になると、甚雜駁である。其中更に異様に感じられるのは、畿内七道の国名の「物名」歌である。六十六國をよみ込んで、六十六首ある。其詞書きが、極めてしやれてゐる。「柿本の人丸、あからさまに、京近きところに師走廿日あまり下りけるを、とう上らむと思ひけれど、いさゝかに障る事ありて、え上らぬに、睦月さへ二つある年にて、いとゞ春長きこゝちして、なぐさめかねて、此世にある國々をよみける。是なむ、ゐなかに罷りたりつる〔六字傍点〕『つ』と〔傍点〕『め』て〔傍点〕、あるやんごとなきところに奉りけるとなむ。」これも、異本によつて、多少増減がある。歌の上の、混乱の度の過ぎたのも、まだ若干理由も考へられるが、此などになると、其あまり超越し過ぎた態度が、不思議と言ふより外はない。
単に、人麻呂作と思はせる様に、平安中期以後の學者が、偽造したとだけでは納得の出來ぬものがある。確かに、後撰集以後次第に意識的になつて來た題詠の一つであり、而も、源順・曾根好忠その他も試みてゐる方法である。此一続きは、其等よりも、更に遅れて居る。さう言つた時代の隠者の作物に相違ない。歌論・歌式や物語類にも、常に行はれてゐた假託・増益した結果ではないか、と考へられるものである。
(469) 四 覊※[覊の馬が奇]旅歌
萬葉集に見えた人麻呂の歌で、閑却せられてゐる、ある特徴がある。恐らくは、読者がその作物を概観して感得しただらう、と思はれるものである。其側に属する歌の多少に關せず、考へてよいことは、若干の優秀な覊〔馬が奇〕旅歌と、邊土の生活に関係ある作物とのある事である。諳誦せられる様な歌が多ければ、實際の作物の多少に繋らず、其名を傳へて行くのが、短歌文壇上の読者|気質《カタギ》なのだ。人麻呂においても、覊〔馬が奇〕旅歌は、全作物の幾分により當らないが、此側において賞讃せられてゐたことが思はれる。さうした傳統的の評價法が、かう言ふ作物を、歌聖の實作と言ふ信仰を導いたと考へてもよい様だ。
だがその上に、更に考へねばならぬのは、人麻呂自身の旅行よりも、もつと昔から、更に後世にも亙つて、続いて行はれてゐた柿本族人の絶えざる漂泊生活の、社会に投じた一つの姿である。だから、萬葉集に載録せられた人麻呂作と稱するものにも、この氏人等の旅中作歌――と言ふよりも、巡遊詞人としての吟詠――が、多く含まれて居るのではないか、と考へる。たとへば、人麻呂の實在ほ、儼たる事実であるとしても、世間から、柿本人麻呂の名を以て認められた筈の幾多の詞人が、幾代に亙つてあつたことも考へて見ねばならぬ。つまり、日本古代における神事聖職に與る者は、神主以下神職・神人すべて、傳統的の名を以て職掌を示して居たところから、人(470)の身は亡くなつても、名は後々と繼がれて行つた。さうして、その名にも階級のあつた訣である。其と共に、今一つ見られるのは、一群の神職・神人が、ある氏《ウヂ》を號してゐた所から、後世にも其風の及んだ事である。ある派に附屬する神人は、血族・氏族、或は部族としての関係がなく、単に籍を置いた、と言ふだけで、其姓氏を名のる習慣を生じる様にさへなつた。即、全国的に山の奥などに部落を営むもの――の姓又は、地名――に「藤原」を稱することの多いのも、其例だ。中臣祓を唱へることを免許された神人が、「中臣」を稱する事の代りに、藤原を言うたのである。此などは、さのみ古くはないが、其でさへ、此とほりである。又山地を渡り住む木地屋の輩が、小椋氏を名のるのも、職と神事との関係から出た通有の氏名で、後には神事方面を忘却して、單に職團の守護神と言つた形になつたまでゞある。
更にまた、其一つ前の形が、何某部の稱を持つ所の神人團で、其所屬の伴造の神と共に、部曲自身の神を齋いてゐた。だから譬へば、柿本朝臣に附属する柿本部があつたとすれば、柿本氏族の小野神を主神として、其信仰を持ち廻る旅を續けて居た訣である。さうして、落ちついたところに村を構へ、その分割したものが、更に漂泊して廻る、と言つた形をとつて移動して行つた事は、日本古代の漂泊種族の生活様式から、言うてよい。一面から見れば、かばね〔三字傍点〕が昇る程、其定住性が認められた訣で、低いものほど、古い姿に近いものと見てよい。だから、伴造は、単に部曲民以外の家が、之を管理したのが本式でなく、部民の中から、游離して來たと言ふ系統上に關聯を(471)持つものが多いと見られる。だから、後者の形などに、ある家の神を伴造神として、其下に部曲民を預ける形を採つてゐたのだ。
かう言ふ形の部民の漂泊には、條件として、咒術を行ひ、咒詞を諷誦して廻つた。此が、神人移動の通有形式である。小野神にさうした痕跡の、著しく見られるからは、此神を、氏神とする柿本族人の巡遊状態も考へてよい訣だ。其資格を表す氏名が、「柿本」であり、其代表者とも言ふべき大作詞人を出して後、何時からか柿本の上に更に「人麻呂」の稱號を附加することゝなつたものと見るのが適当であらう。さうして、眞の人麻呂以來、長歌以外に、漸く短歌の数を増して來たものと考へられる。だから、極めて合理的な考へ方をすれば、此布教様式が、古くから続いて居て、其唱文として用ゐられた歌が、人麻呂在世時代の作物以外に、段々加つて來たものと思はれる。だから假りに人麻呂作と稱するものゝ中に、區劃らしいものを立てゝ見れば、大體に實作物としての成書のあつたもの、成書以外、柿本人麻呂作として信ぜられたもの、柿本作と言ふ傳説及び判断を以て、一部の歌集に集めたもの。此三通りになる。萬葉集に見られる歌を通観した所が其である。
而もなほ此上、先に述べた柿本集又は人麻呂集と稱する平安朝以後のものがあつて、此にも、本によつて、可なり出入りがあつたのだ。殊に此方になると、萬葉集三種の傳人麻呂作物を超越して、傳來不明のものは勿論、歴然と他人の作物であるものまでも、とり込んでゐる。又、書籍の(472)姿から見れば、多くの點に於いて、古今六帖と通じる所のあるものと思ふ。又、猿丸大夫集などとも共通した處がある。即、同時に、古今集の「よみ人知らず歌」の持つ特質である。即、右の歌々に對して、「古今集讃人不知考」のある事――後世乍ら――は、眞作者に對する理會と決定とが、常に動揺してゐたことを示すものであると共に、柿本集などの解釋に、よい理會を補つてくれる。
歌の作者と、その口唱者とが混乱して傳へられる事と、其既に民謡化を経たものが更に還元せられて、創作詩としての待遇を受ける径路とを併せ考へると、古人のある作物に對する作者推定の動機は、窺へる。其と共に、どんな作物でも、人麻呂作と信じることが出來た理由も訣るのである。従つて後に、成書として編纂せられる際にも、其考へ方が自由に働きかけてゐるのだ。
實在性の極めて不確かな、巡遊神人の中心的名義なる猿丸大夫の如きになると、更に自由に「よみ人知らず」の態度を以て、あらゆる短歌を採用することが出来たのである。
こゝに當然起る筈の疑問は、現存の柿本集が、猿丸大夫集と、元來一つものでなかつたかと言ふ事である。猿丸集の一々の歌を検して、猿丸集の本人を考證し出さうとする試みは、従來もさうであつた通り、必直に蹉きを再びする。其は、右に述べた成立法のあることを、信じることの出來ないところから來るのだ。
五 文学動機(伶人を離れて)
――萬葉集の人麻呂歌の作者推定法――
今、萬葉集に即して、その事實を見る。實際ある點まで、短歌を完成したものは、人麻呂だと言へる。尠くとも、其中心勢力と見てよい。短歌の様式が、聲樂から獨立して意識せられたのは、藤原時代である。組《ク》み歌の一部として短歌の形を持つたものや、其斷篇として、獨立して見える短歌らしいものなどは、まだ、ほんとうの短歌ではない。だから、長歌の「乱」「反」の辭として其末尾をくり返す事に、右樣式の反省を加へて生み出した短歌とは、別物と見てよいのである。さうした反歌を、全く自由なものとしたのが、凡、藤原時代前後の歌人のした事なのである。かうした反省は、どうして起つたか。代作についての苦心が、従來よりも深く加つた爲と謂へる。従來多くの歌は、其が譬ひ、作者を傳へて居ても、多くは、語部の物語に現れた、傳承者の内的律動に促された發想であつた。此が進めば、意識的な代作となる。恒例としての宮廷咒詞――宣命或は祝詞、宮廷詩――大歌が、単純な世相においては、その儘反復することが出來ても、段々繁雑になるに連れて、改作・新作に俟たねばならぬ特殊な感情が、多くなつて來る。だから一人の衝動にも、群衆の感激に對しても、此を作る者が出來て來る。即漸く専門化して來る訣だ。代作詩人であり、宮廷詩人である。飛鳥時代末から、さうした人々の見え出して來たことは、別に(474)述べたことがあるが、藤原朝に到つて、相應の素養ある人が、之に當る事になつたらしく見える。
其一人――最大きい一人が、柿本朝臣族から出た訣である。
ある考へ方によれば、人麻呂をも、ほめろす〔四字傍線〕同然架空の人物であると考へられる。更に、柿本氏人の假想した職業祖先と見ることも出來ようが、一方存在の否定すべからざるものもある様だ。其は、萬葉集巻七その他に見える漢文學素養を豫期する事の出来る人々――其は同時に、存在の明らかな――と、作物が排列せられ居る事、さうして其配置が如何にも適切なる事から見られる。其上、人麻呂より前に、短歌様式の獨立を導くと共に、内容を文學的に、發想を正確に鍛へあげて來た人々は、亦皆歸化人の子孫か、漢学素養のあつた人である。
私は、單なる人麻呂の對句や畳句などの、普通漢文學的修辞法の影響と考へられてゐるものは、問題とせない。其は、何國でも、古代詞章共有のものであつて、故ら問題にする程のものではない。唯、詞書きに、柿本朝臣人麻呂作――人麻呂作と傳へるものゝ中、最確からしいもの――とあるものゝ中に、支那學的知識を豫期する事の出來るものを見る。かうした態度は、単なる柿本族人等の口誦集〔三字傍点〕の中から、偶然抽出せられて來るものでない。必個性の著しい作家の作物に相違ないのだ。
人麻呂は、かうなつてもやはり、多くの代作をなしてゐる。其傳記の一部を形づくるもの、と見られた作物の多くも、或は他人の爲の用に作り、他人の感情を直観したと言はねばならないものも(475)多いことは言ふまでもない。萬葉集の詞書きは、歌の意味から逆推して作つたものが多く、殊に、古く正式なものと思はれてゐる巻一・二の物においては、殆全部がさうであつた、と言へるのだ。人には誇張の様に聞えるかも知れぬが、暇さへあれば、書きあげることも出來るのは、一つとしてどの點かで、内容と喰ひ違ひを持つて居ないものはない。だから、序詞によつて確實なもの言ひは出来ないのである。随つて作物の内容に推測を補足して、人麻呂が某々皇族に仕へた、とすることも出來ない。勿論又、某地に旅行したとも、何|人《ニン》の妻を喪うたとも、断言は出來ないのだ。さうした行はれ易い錯誤の外に、實は、人麻呂の作であるものが、代作せしめた當人の物となつてゐる一群が、亦あるに違ひない。譬へば、ある皇族・貴族の儀禮用の詞章、又は群衆の諷誦したものゝ如きに、其が多く感じられる。日並知皇子尊宮舎人等慟傷歌二十三首・藤原宮役民歌・藤原宮御井歌の類である。かうして見ると、最信頼の出來さうな詞書きを持つた歌から窺へる作歌の境遇は固より、人麻呂作品その物にすら、可なり用心を要する訣だ。だが同時に、此に因つて、萬葉集に見える尚一つの人麻呂の作品群たる「柿本朝臣人麻呂集」の底に横はる動機が、推察せられるかも知れない。
個々の作物に亙つては、議論の餘地はあらうが、すべての作物を中心として、人麻呂の作歌経歴を考へて見ることも出來よう。さうすると、全體として、代作物の修練によつて、次第に個性を發揮する様になり、さうした作物を作るに到つたと見ることが出來よう。さうして、其が代作で(476)あつても、後期の作物は、著しく特異性を露して來たと見てよい。其だけに、長歌の様に、形式を偏重した、傳習的な擬古作物においては、却て前期において、長く且、緊張した様に見える作物があり、後期になると、短くもあり、實用的で興趣の豊かでないものになつてゐる。高市皇子尊の挽歌と、吉野宮の歌とを比べて見るとよい。さうした事の反對に、逆に短歌においては、観照の届いた表現の的確な方に段々向つて來たのである。
六 人麻呂集
萬葉集引く所の人麻呂集は、凡、
○右、首(又單に、右〔傍点〕)柿本朝臣人麻呂之〔8字傍線〕(或は、之〔傍線〕なし)歌(稀に謌)集出〔六字傍線〕(又は、出也〔二字傍点〕)
○右(或は、右・首)見柿本朝臣人麻呂之歌(集〔傍点〕の字脱したかとも言ふ)中也
○柿本朝臣人麻呂歌集〔九字傍線〕曰、等保久之※[氏/一] 又曰、安由賣久路古麻。
柿本朝臣人麻呂集〔八字傍線〕中出見上已詮也。(b)
柿本朝臣人麻呂歌集〔九字傍線〕云、爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨。(b)……。
〔○柿本朝臣人麻呂歌集歌已、……。柿本朝臣人麻呂之集〔九字傍線〕歌(題)〕
○右、首(又は、件歌)或云柿本朝臣人麻呂作〔八字傍線〕
○右柿本朝臣人麻呂歌〔八字傍線〕曰……(b)
(477) ○柿本朝臣人麻呂歌〔八字傍線〕曰‥‥‥(b)
此等の中、柿木朝臣人麻呂歌とだけあるもの――歌集の「集」の脱落したものと見ることが出來る――を加へて、皆一本と見るか、否か断定を下すことは出來ぬが、大體において、定本と見るべき一種があつて、其他に尚幾種類か異本があつたと考へる方が、穏当らしく思はれる。つまり、諸家採集する所の歌数は勿論、一部の詞句の出入りがあつたものと見る方がよい。
確かに言ふ事の出来るのは、人麻呂の作物以外のものをも含んでゐることである。誤解・錯乱を除けば、恐らく人麻呂と多少の交渉のあつた人々の作を含んだのであらう。作者未詳の作物・民謡(東歌)・異體歌(旋頭歌など)・物題歌(寄物・詠物・七夕歌)・作者既知(巻九、覊〔馬が奇〕旅歌)等の種類を含んだところから見れば、人麻呂集の外の、笠金村集・高橋蟲麻呂集・田邊福麻呂集などにも、共通の事実として、さうした事が考へられる。其上、此三歌集並びに、同様な家集に通じて考へられる古代社會の信仰状態からすれば、其が、當人或は其近親の者の編纂になつたものを、或機會に、其擁護者なる皇族・貴族に上つたものらしい。上られた家では、更に其等の歌を包含した「家の歌集」と言ふものを持つ事になる。萬葉集の大部分は、「大伴家集」として、各歌人の歌集を含んでゐる訣だ。家集〔二字傍点〕が、他氏・他人の歌を含む理由は、あるべき筈の動機から出てゐるのだ。人麻呂自身、新手法を出す以前は固より、以後にも、無成書なる多くの詞章の影響、と言ふより寧露骨に其類型を襲うてゐる。其間に特殊なものを、若干出す事になつたのだ。譬へば、枕詞に(478)おいて、以前からある序歌の上の直観的な譬喩法を強調した。又、序歌においては、二重主題を表白する方法を自覚して、これを盛んに昂揚した。新しい語句の上に、社會的関心を織り込む事を考へ出した。だが、其方法の効果を顯したのは、主として、古典的な表現の間に、挟つて居たればこそであつた。鮮明な斬新味は、其新しい調和性を發揮した訣だ。此人の歌、殊に長歌において、祝詞の影響がある、と言はれてゐるのは、尤なことである。だが、其については、少し説明をつけ加へた方がよい。
宣命・祝詞は、元々出發點において、歌とは筋道を異にしてゐる。だが、その並行して來た道程において、互に影響してゐる事は事実である。殊に、歌が優勢になつて來ると共に、咒詞の範圍に立ち入つて、其効力を考へて來る様になる。長大な咒詞の代りに、短小緊密な歌を以てする事は、歌が咒詞の性命の壓搾せられたものであつた歴史から、信仰的に持ち續けられた訣なのだ。篤疾を咒する歌・舟行を祷る歌・宮殿を賀する歌・戦士を送る歌・族人に論告する歌など、皆宣命或は祝詞の文體に似通うて來るのだ。而も、最著しく、又可なり古く其を見せてゐるのも、人麻呂だ。唯必しも祝詞を模したものと言ふことは出來ない。さうした姿の、長歌に露出して來るのは、長歌の目的自身に、咒詞的なるものを含んでゐたと共に、長歌が咒詞に代用せられ、咒術者の代りに、其事に與る群衆が、之を合唱する様になつたからと見られる。現在する祝詞は、その固定は、時代において、寧萬葉の歌よりも遅れてゐる。歌及び祝詞が等しく、一つ前の咒詞か(479)ら出てゐる、と言へるのだ。だから、祝詞よりも祝詞式に見えると言うてもよい位なのだ。「日並知皇子尊宮舎人歌」について見ても、短歌乍ら、咒詞要素を持つてゐる。又、「藤原宮御井歌」において、四神相應・宮殿井水の祝福を述べる様な陰陽道式な内容と、之に調和する様に古風と今様との修辞法を交錯し、其間に漢種族の傳承した民俗などを織りまぜて居る。皆、人麻呂作なることの推定せられるものだが、祝詞式修辭法は、必しも人麻呂に限る事ではない。唯、其を此人が、最高限度まで伸して行つた、と思はれる點に注意せられるのである。
七 民謡として
萬葉集に、人麻呂作と假定せられてゐるものゝ今一群は、萬葉に録せられた歌の、一説に人麻呂作と稱するもの。人麻呂作の一部分が變化してゐるもので、尚人麻呂作らしさを持つてゐるもの。多くは、宴遊の即興を部分的に改め、或は記憶違ひをしたもの、又異傳と思ふべきもの。又全體の趣きは人麻呂作と稱するものに似て居て、其歌を本としてゐる事の著しいものなどで、其に加へて言ふべきは、「或本」である。人麻呂作の名高い歌で、部分的に文句の相違を傳へたものがある。六章の註(b)を附けたものが、其である。尚、人麻呂の歌なるものについては、異説が色々あつた様子を見せる例として一つあげて置く。巻十二、
念西《オモフニシ》 餘西鹿齒《アマリニシカバ》 爲便乎無美《スベヲナミ》 吾者五十日手寸《ワレハイヒテキ》 應忌鬼尾《イムベキモノヲ》 (二九四七)
(480) 或本歌曰、門出而《カドイデヽ》 吾反側乎《ワガコイフスヲ》 人見監可毛《ヒトミケムカモ》 可(一?)云、無乏《スベヲナミ》 出行《イデヽゾユキシ》 家當見《イヘノアタリミム》
柿本朝臣人麿歌集云、爾保鳥之《ニホトリノ》 奈津柴比來乎《ナツサヒコシヲ》 人見鴨《ヒトミケムカモ》
恐らく萬葉集の異本でなく、人麻呂集或は、其類の本(類聚歌林なども、此一つか)にあつたのであらう。此で見ると、其歌が、まだ人麻呂作と言ふ約束は忘れずに記憶せられ、或は既に、其作なる事を忘却せられてゐたものもあつた事が思はれる。其と共に、色々な形に變じ乍ら、多くは小部分の差違に、止つてゐた事が知れる。
民謡として、流れ出た人麻呂の歌が、諸国の風俗歌の根本的刺戟となつた點を考へれば、所謂人麻呂集のものゝ、技術的に、また人生的に複雑な効果を残した事が考へられる。謂はゞ、古代人の社会生活を感受する力が、此人の作物に刺戟せられることに由つて、深められて行つた訣である。「ものゝあはれ」と稱すべきものが、邊土の人々の上に栽ゑつけられたのだ。この人麻呂作と考へられる様になつた歌が、誰の手によつて流行せられたのか。近代の民謡ならば、その流布の径路や、機關の訣らない程、運搬の便利が開けてゐるのであつたが、古代においては、概してさうした撒布者が一定してゐるのだ。単なる流行歌として、風の如く東国に、九國に流れて行つたとは考へられない。必此には、柿本族人としての神人の巡遊が、與つて力あつたに違ひない。言ひかへれば、小野神と同系の神の信仰が、其よりも早く或は晩くまでも、宜傳せられた、その布教用の咒歌が、其根柢をなしてゐた事である。其中には、その神人等の常用詞章もあらうし、(481)他の有名な作物の民謡化したものをも、含んでゐたらう。さうして、其が一様に、柿本族人の諷誦したものとして、柿本人麻呂の歌と言ふことになつて行く道程は考へられる。即、人麻呂の歌は、多人数の諷詠用の代作であり、宗教歌であり、又同時に、創作歌としての方面をも兼ねてゐたのだ。
人麻呂作物は、代作・創作その上に、その作物の民謡化したもの、或はその作物と仮定せられたものゝ外に、一群の「柿本氏人」の諷詠があつた訣なのだ。だから、覊〔馬が奇〕旅歌については、特殊な意味のあるのを考へねばならぬ。而も人麻呂として、眞の立ち場は、数量において、さのみ多きを占めてゐぬ此點にあつた訣である。又後世、彼の歌の鑑賞法も、實は之を推し擴げての事である。此等を以てすべて、巡遊した柿本族人の作と決断することの出來ぬ程、個性的なものではあるが、或は其考へ自體が、近代的なのかも知れぬ。尠くとも人麻呂自身にも、其に似た経歴があり、又族人の歌には、人麻呂の傳の一部として語る事があつたとも見られるのだ。譬へば、人麻呂の石見に居り、又石見から都へ還つたり、又石見において死んだ痕を想像させる歌などは、悉くは、人麻呂自身のものと言ふことが出來ない様にも思ふ。其死に際に作つた歌、和銅二年頃の作、
鴨山の岩ねし枕ける我をかも、知らにと 妹が待ちつゝあらむ ――柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌
は、人麻呂自身よりも、後世の傳承者が、此時に死んだものと信じて傳へてゐたので、萬葉集に(482)もかう書いたことは明らかである。事實については、問題はあつても、傳説上の人麻呂は、茲に終つてゐるのだ。翌三年一月には、奈良奠都があつた。だから、かう言ふ所から見れば、人麻呂は正確に、奈良朝前の歌の、最後を記念した人になる訣だ。此歌や、此に和《アハ》せた妻|依羅《ヨサミノ》娘子の『石川の……』の歌の如きは、人麻呂墓と言ふものが、石川の地にあつた事を意味する外には、何の確實性も持たぬものと思ふ。歌自身は共に比擬作であらう。人麻呂は、さうした歴史と傳説と、真実と空想とを、併せて成立した人格と見た方が、ほんとうなのではないかと思ふ。
八 萬葉歌人との比較
人麻呂と、おなじ萬葉作家の中でも、歴史上の存在の證明の出來る者を竝べて見ると、稍意外な感の催す事がある。たとへば、大伴旅人である。天平三年は、大伴旅人の薨じた年で、山上憶良七十二、旅人六十七である。その後二年、天平五年には、憶良が卒した。山部赤人の歌は、尚三年後の八年までのものが、萬葉に出てゐるから、憶良の年にすれば、七十五の筈だ。大體において普通より長命だから、赤人は、此頃もすこし若く、生年も、憶良より遅れてゐるだらう。旅人は天智三年の生れだが、赤人は或はまだ生れて居なからう。憶良で言ふと、此より前三年齊明の白雉六年に生れた筈だ。眞淵等の假説の如く、人麻呂が五十で亡くなつたとすれば、此年頃生れてゐる訣で、其歿年和銅二年は、憶良も亦五十である。さすれば、同時代の此二人の間に、あれ(483)だけ、歌風の相違のある事は驚かれる事となる。と共に、人麻呂の作物の持つてゐる近代味、或は外國文化の影響についても、會得が出來る訣だ。問題は、憶良と同年位か、稍若いか、或はもつと長じてゐるかと言ふことだ。普通は、年長説に傾くだらう。其ほど、二人の間には、發想の新舊性が見られる。之を事実化する方法は、よくある間違ひである。子規子存命時代、根岸派同人の間に、人麻呂の風貌について議論があつたが、ほゞ其とおなじ水掛け論になりさうだ。若いとすれば、旅人と同年位或は、更に年少と言ふことも出來る。是より二十年前、持統三年が、萬葉における人麻呂作物の正確な初見である。さすれば、三十歳を中心として、其より若いか、長じて居たかである。此時二十代にしても、四十代にしても、大して不都合はない。更に二十年前の壬申乱は、十歳或は、はたち代で、知つて居たのかも知れない。さうすると、壬申の功臣柿本朝臣※[獣偏+爰]《サル》とも、さほど年齢において相違がない訣で、同時代に生きて居たことはある訣になる。笠(ノ)金村は霊亀元年、山部赤人は神亀元年の歌を以て、正確な初見の作物とすれば、此二人との間には、どうしても、歿後の十二・三年に、生前の幾年かを加へた距《ヒラ》きがある。其にしても、一つ時代に生きてゐた期間のあつた事は考へられる。
大伴家持すら養老二年生れだから、八年を間にして、生死を隔てゝ居るばかりだ。『未※[しんにょう+至](ラ)2山柿之門(ニ)1』と言ふ歎息を洩したのは、尤である。私案は、山柿を以て、柿本を意味するものとするのであるが、今は其に及ばない。
(484)此頃ならば、既に社會制度が更つて來て、宮廷以外にも亦、勢力家を擁護者として出入りする形式が出来てゐるに係らず、人麻呂には、まだ其らしい事が見えぬ。人麻呂関係の巻九にも、藤原南家・北卿・宇合などの名の見えてゐるに繋らず、何の交渉も窺へぬ。山部赤人には、「詠故太政大臣藤原家之山池歌」、
いにしへの舊き堤は、年深み〔三字右○〕、池のなぎさに、水《ミ》草生ひにけり
と言ふ、藤原族を讃美した様な作を遺して居る。萬葉集を以てすれば、人麻呂は、単に宮廷詩人たるに止つて、貴族との交渉はないと見られるのである。唯、皇族の爲に代作したと見えるものが多いのは、皆宮廷詩人として、誄詞・宴歌などを命ぜられたものと考へてよいのだ。
萬葉集の記述を以て、萬葉歌人各自の總作物・全生面を見ようとするのは、誤りではあらうが、或は、人麻呂においては、こんな事をも考へてかゝらねば、此人の一代は、自由に考へられぬかも知れぬ。民間における柿本族人としての詞章・詠作以外に、宮廷の命を受けて、召歌《メシウタ》を奉つたに過ぎないと見ることである。一方には、憶良その他がした様に、権門と特殊な交渉を結んで出入りする、と謂つた生活法が行はれて居たと見るべきなのだらう。
かう言ふ風に何處まで行つても、實在の個人柿本人麻呂と、柿本人麻呂を以て呼ばれた、群衆の神伶柿本族人との交錯が、明らかには辨別出來ないのである。其故に、私のこの記述の道も、この通り術環を極めなければならなかつたのである。
(485) 柿本人麻呂論
――人麻呂歌集の側から見て――
昭和八年十月「短歌研究」第二巻第十號
柿本人麻呂の生活の外輪らしいものは、今年早く、他に記録を作つたことがある。其時に書き残した方面を、こゝに綴つて置かうと思ふ。
私は、これまで度々、赤人について、異論らしいことを言ひ立てゝ來た。最初故らに、異見を立てる様で心苦しかつたが、此頃は、其でも人も認めて下さるやうになつたと思ふ。私としては、其で、反對に益、萬葉的な作家と言ふことによつて、人麻呂の價値を高めて見ることになつて來たのである。ところが此頃、人麻呂にも、傳襲的な見方に叶うた方面があると共に、もつと自由に見直すべき側のあることが、訣つて來た気がし出したのである。其で主として、此両方面について、古代人が見てゐた人麻呂と、其から次代の人々が引き出したらしい新しい人麻呂を考へて見たくなつた訣である。
ある人の作物を論じるのに、必前代の批評の固定から来る概念が、先に立つ。だから、見易い作(486)物の價値すらも、存外抽象的に扱はれ勝ちなのだ。それでまづ、實際の作物をあげて見る。
大船のさもらふ水門《ミナト》。ことしあらば、いづこゆ君が我《ワ》を率《ヰ》凌がむ (巻七)
風吹きて海は荒るとも、明日と言はゞ、久しかるべし。君がまに/\ (同)
秋山のしたびが下に鳴く鳥の 聲だに聞かば、何かなげかむ (巻十、秋相聞)
秋の野の尾花がうれの うちなびき、心は妹によりにけるかも (同)
秋山に霜ふりおほひ、木の葉散り 年は行くとも、我忘れめや (同)
我が袖に霰たばしる。捲き隠し、消たずてあらむ。妹が見む爲 (巻十、冬雜歌)
ふる雪の空に 消ぬべく戀ふれども、あふよしもなく 月ぞ経にける (同、冬相聞)
いつはしも 戀ひぬ時とはあらねども、夕かたまけて、戀ひはすべなし (巻十一)
かくのみし 戀ひしわたれば、たまきはる 命も知らず 年は経につゝ (同)
しろたへの 袖をはつ/\見しからに、かゝる戀ひをも 我はするかも (同)
故もなく 我が下紐ぞ今解くる。人にな知らせ。直に會ふまでに (同)
ちはやぶる 神に所れる命をば 誰がためにか、長く欲《ホ》りする (同)
山科《ヤマシナ》の木幡《コハタ》の山に馬はあれど、陸道《カチ》ゆ 我が來《コ》し。汝《ナ》を思ひ難《カ》ね (同)
(かちよりぞ來る君を思へば「拾遺」)
(487)殆、古今集「よみ人知らず」其まゝの姿である。単語や、表情の一點を改めれば、古今以後のものとしても、通りさうに思はれる。古今其他の「讀人不知」にも、現に、さうした多くの人麻呂作を載せて居る。現存の柿本集の成立などは、此と一つの事情において考へて見られると思ふ。
忘るやと 物がたりして、心やり過せど過ぎず。不拘《ナホ》ぞ戀しき (巻十二、正述心緒)
夜も寝ず 安くもあらず。白|栲《タヘ》の衣も脱がじ。直《タヾ》に會ふまでに (同)
後に會はむ我《ワ》をな戀ひそと 妹は言へど、戀ふる間に、年は経につゝ (同)
直に會はずあるほ宜《ウベ》なり。夢にだに 何しか 人の言《コト》の繁けむ (同)
此等の歌は、殆言語に對する選擇や、整頓のあんばいまでが、平安初期のものと見ても、さしつかへのない感じを持たせる。かう言ふ風に擧げて來ると、際限のない気がする。が尚少し、
人見れば 表《ウヘ》を結びて、人見ねば下紐あけて、戀ふる日こゝだ (巻十二、寄物陳思)
人言の繁けき時に、わぎも子し 衣《キヌ》にありせば、裏《シタ》に着ましを (同)
またまつく をちこちかねて思へれば、一重の衣 ひとり着て寝ぬ (同)
白栲の わが紐の緒の絶えぬ間を、こひ結びせむ。會はむ日までに (同)
私は、煩しいまで例を擧げて來たが、此中には、従來の鑑賞法から別にして見ねばならぬと思はれるものを、擇り分けて見たつもりである。
我々が持つてゐる人麻呂集は、二道りある訣であつて、一つは、萬葉集に編入せられた部分、今(488)一つは、後世成書として傳つたものである。特に、後者――柿本集――については、其が頗、人麻呂離れのしたものゝ様に思はれて來てゐる。が、私どもの目からして見れば、果して其ほどの違ひがあるやうにも思はれない。殊に、其が抒情的なものである部分は、驚くほど我々の知識に豫備せられて居る所謂「萬葉ぶり」でなく、又其代表者と言はれる人麻呂風ではない。けれども、これを人麻呂の作物と信じてゐたのが、古代の人々である。であつて見れば、単に、近代の萬葉觀を以て、萬葉集を識別することの誤りであることが思はれねばならぬのである。と同時に、萬葉歌風について、反省を促したい點は、所謂「古今ぶり」なるものが、我々が豫期してゐる以上に、萬葉調を含んでゐることを認めねばならぬと言ふことだ。
譬へば、其戀愛心理を描寫したもの、と言ふよりも寧、懸想人《ケサウビト》の行動――とも言ふべき外的傳習行爲――を寫したものにおいて、其がよく現れて居る。私は、日本の短歌の上に、戀愛心理描寫の最初の人として小町を擧げて居たが、其は既にある程度まで完全に、萬葉集に見える人麻呂集の人麻呂に出てゐたのである。謂はゞ小町の歌なるものは、人麻呂の延長に過ぎなかつたことを、改めて見出した訣である。元々、かうした歌口の發生した原因は、わりあひ明らかに指摘することが出來る様である。咒術の爲の短歌である。咒文である。私は「戀《コヒ》」を以て、「靈《タマ》ごひ」の方式から出て、代を経るに随うて、抽象化して行つたものと信じてゐる。「靈ごひ」の儀靈に用ゐた咒文が、戀歌の内容を作つて行つたと考へるのである。此處には、此方面の説明をくり返してゐる(489)ことの出來ぬのが残念だ。ともかく唱和問答の爲の言語形式であつた短歌が、とりわけ相聞・戀愛の歌に純化して行く過程において、咒術的な内容を含んでゐたことは、明らかである。私どもが前から解決つかずに居たことは、平安朝の歌にある、
いとせめて 戀しき時は、うばたまの 夜のころもを、かへしてぞ寝る (古今集、小町)
思ひあまり 出でにしたまのあるならむ。夜深く見えば、魂結びせよ (伊勢物語)
かうした例が、何處から出て來たかと言ふことであつた。在來の鑑賞を以てすれば、此をも、やる瀬ない戀愛に住む者の熱情から出たもの、と見る風の癖があつたのである。だが、今日は寧、かうした平叙式なものが、何處に抒情昧を湛へて居るか、を疑はせるに過ぎないのである。私は、これを咒歌と見て居る。尠くとも、短歌の中には、咒歌から、唱和相聞の歌或は、文學としての歌の領域に轉じて來たものがあると思ふのである。さうして、其傾き向のものを追うて見れば、やはり平安朝のものゝ方が、文學昧が深まつて來てゐる。謂はゞ、まるみ〔三字傍線〕としなやかさ〔五字傍線〕とが加つて居ると言へる訣だ。此意味において、小町と、其から一部分の作品から見た業平などは、人麻呂集の歌風の繼承者である。言ひ換へれば、人麻呂の作物と傳へられたものが、平安以前から、特別な姿を以て世間の戀歌に影響を落し、其を次第に文學らしい形に整へて行つたことが知れる訣である。
さう言へば、人麻呂集自身、既に咒歌から一轉化した多くのものを、含んでゐたらしいのである。(490)尤、此は人麻呂に限つたことではなく、他人の多くの作物の中からも、多くの例を引くことは出來るのだが、とりわけ、人麻呂の名で傳へてゐるものには、此痕を顯はに見ることが出來る。
巌すら行きとほるべきますら雄〔十四字傍線〕も、戀ちふことは、後悔いにけり (巻十一、正述心緒)
日くれなば人知りぬべみ 今日の日の、千年の如くありこせぬかも〔十二字傍線〕 (同)
戀するに、死にするものにあらませば、我が身は千度死に更《カ》へらまし〔十三字傍線〕 (同)
玉久世の〔四字傍線〕 清き河原に禊して〔八字傍線〕 いはふ命は、妹がためこそ (同)
眉根掻き〔四字傍線〕 嚔《ハナ》ひ紐解け〔五字傍線〕 待てりやも、いつかも見むと思ひし我君《ワギミ》 (同)
君に戀ひ、うらぶれ居れば、くやしくも わが下紐の〔五字傍線〕 結ふ手たゆしも〔七字傍線〕 (同)
わぎも子に戀ひすべなけれ。夢に見むと〔五字傍線〕 我は思へど〔五字傍線〕、寝ねられなくに (同)
故もなく 我が下紐ぞ今解くる〔九字傍線〕。人にな知らせ。たゞに逢ふまでに (同)
戀ふること心やりかね〔十字傍線〕、出で行けば、山も川をも 知らず來にけり (同)
水の上にかずかく〔八字傍線〕如きわが命を、妹に逢はむと うけひつるかも (同、寄物陳思)
遠づまのふりさけ見つゝしぬぶらむ この月のおもに〔七字傍線〕、雲なたなびき〔六字傍線〕 (同)
あしびきの 名におふ山菅。押伏せて 君し結ばゞ〔五字傍線〕、逢はざらめやも (同)
君來ずば、かたみにせよと 我《ワ》と二人栽ゑし松の木。君を待ち出でね〔七字傍線〕 (同)
夕されば、床のべさらぬつげ枕〔九字傍線〕。何時しか 汝が主待ち難き (同)
(491)言靈の 八十のちまたに、夕卜《ユフケ》とふ うら正《マサ》に宣《ノ》れ。妹に逢はむ縁《ヨシ》(同)
たまぼこの 道行き卜《ウラ》に占へば、妹に逢はむと 我に宜りてき (同)
しきたへの 枕動きて夜寝《ヨイ》も寝ず 思ふ人には、後逢ふものを (同、問答)
しきたへの 枕に、人はことゝへや、其枕には、苔むしにけり (同)
假に、巻十一の分から、手あたり次第に抜いて見た。咒術の方式を叙事的内容としたものか、其が序歌・枕詞に形式化したものでなければ、其を一飛躍して抒情の爲の表象にして了つたものかになつてゐる。その過程の詳しい説明は、一首々々に就いて長い語を要することだから略するが、此とほり筋の明らかなものと、既に痕跡だけとなつたものとがある。
此等の歌について考へられることは、人麻呂の作物と稱せられて來たものゝ中には、「創作以前」の姿を残したものが、極めて多量にあることだ。さうして其が、人麻呂なる名をとほして、新しい力を生じて來たのである。咒術的の利用は勿論行はれて居ると共に、その作者に對する傳統的信用の下に、新しい文學技術として、盛んに襲用せられることになつて行つたことである。
平安抒情詩の新しい姿と思はれる心理描寫の態度が、かうして見ると、人麻呂に、尠くとも人麻呂集から引き出されて來た姿が見える。つまり、實生活を離れた優美、其には、多くの叙景味と譬喩法と表現が、赤人から來てゐる様に、心理的な、さうして社會的習俗をとり容れた様に見えるねばり〔三字傍点〕強い戀歌は、人麻呂から導かれて來てゐるのであつた。
(492)我々は、人麻呂集に収められた歌について、今一度見直す必要があ各。と同時に、萬葉集に於けるすべての人麻呂の作物の上に、此考へ方をおし擴げて見ねばならぬのではないかと思ふ。かう言ふと、或人々は言ふだらう。其は傳説を包含する人麻呂集のものだ。個人の家集そのものが、眞淵以外に支持者の少い説であるとしても、他人の作物をも包むものと言へる。だから其で、眞の人麻呂を論じるのは問題だと言ふであらう。だが全體、萬葉集研究者の目安となつてゐる「古代的であるが故に」「よい作物であるが為に」萬葉的だ、として來た見方は、どうなるであらう。實際はさうした態度は、もう棄てゝよい程、萬葉研究は成長してゐる、と考へてもよいところ迄來てゐる。現に、人麻呂の作として、多くの信頼を繋けられ、又繋けられようとしてゐる、
穴師川 川波立ちぬ。纏向の齋槻《ユツキ》が岳に、雲居たつらし (巻七)
あしびきの 山川の瀬の鳴るなべに、齋槻が岳に 雲立ちわたる (同)
ぬばたまの 夜さり來れば、纏向の川音高しも。あらしかも疾き (同)
みけむかふ 南淵山の巌には、ふれる斑雪《ハタレ》か、消え残りたる (巻九)
つまごもる 矢野の神山。露|霜《ジモ》ににほひそめたり。散らまくをしも (巻十)
纏向の檜原も いまだ雲ゐねば、小松が梢《ウレ》ゆ、抹雪ながる (同)
などの類も、人麻呂集に記録せられてゐるものである。だから、人麻呂の實作と信じられて居るものと、人麻呂作と想像せられて來たものとの隔たりを、も少しとり除けて考へねばならぬ。
(493)巻一から巻四までは、わりに正式らしい編纂態度であることゝ、其に載つた人麻呂作と稱する作物が、古代風であり、佳作である爲に、疑ふことをせないと言ふのは、単に比較上の問題で、全體としては、謂はれのないことゝ思ふ。つまりは、宮廷詩人としての作物が多く出てゐるのだ。私自身度々言つた様に、「宮廷詩人としての人麻呂」であるのだから、その作物は、代作を依嘱した人或は團體の所作と言ふことにも解せられて來てゐる。又、作物の内容が、人麻呂の眞の内的経験の様にも考へられてゐる。又、逆に代作者としての人麻呂の閲歴から、他人の作物を誤り傳へ、又作物が優れてゐると言ふ単純な理由からも、誤認せられて居ることは、もう問題でなく、事実になつて來て居るのだ。
長谷川如是閑さんが、昔から短歌についての理會者・同情者であつたことは、以前から、先輩花田比露思さんからも聞いてゐた。先頃の本誌の上で、「御用詩人柿本人麻呂」なる論文を公にせられてゐるが、其には、歌人から偶像をとりあげようとする成心が、露骨に見えてゐた。私などは、あのやまひづかせる〔七字傍線〕様な語の裏をよく受け取ることが出來たが、人々の中には、其眞意のある所を酌みとることの出來なかつた人も多いと思ふ。如是閑さんは其にしてもあんまり在來の人麻呂に對する鑑賞法を重く見過ぎられてゐた様である。もつと、人麻呂を自由な形に戻して見られねばならない筈だつたと思ふ。代々の耳食者流の積み上げた人麻呂を、あまり考へに置き過ぎて居られたのだと思ふ。 (未完)
(494) 山部赤人短歌の批評
――巻第六 神亀元年「幸2于紀伊國1時」の長歌の反歌――
昭和十二年五月「文學」第五巻第五號
奥《オキ》つ島 荒磯の玉藻潮干満ち、い隠ろひなば、思ほえむかも (九一八)
たゞの寄物陳思歌と、見られてもよいところがある。其ほど玉藻と戀愛現とは、もう熱して來てゐたのである。この紀伊行幸とは別時の作で、赤人らしい譬喩歌と見る事が出來る。反歌の成立の歴史から考へても、既製のものをさし入れたことも考へられる。其點で又、古歌と見ることも出來る。唯かうした覊〔馬が奇〕旅作の性質上、「宴會即詠」といふ意味が濃く考へられる。さうすると、長歌及び反歌、
若の浦に、鹽満ち來れば、潟を無み 葦邊をさして、鶴鳴き渡る (九一九)
と少し趣きが變つて来る。群座の間に居て、竊かに思ひを寄せてゐる處女の、隠れることを惜しんでゐるのである。上句は所謂序歌。さうした最適切な場合を考へれば、舞のはて方に、舞人の(495)樂屋に這入らうとするのを歎いてゐる――さう言ふ形をとつた褒め詞と見るが、ほんとうだらう。さすれば、下の句殊に四句が、生命を持つて来る。私はやはり「いかくろひなば」(第一)「いかくれゆかば」(第二)と見る。聲調の上から見れば、「いかくろひなば」(第一)、「かくろひゆかば」(第二)、「いかくれゆかば」(第三)になると思ふ。又純粋な叙景詩としても、たま藻は主にはならない。「奥つ島」が隠れ行くのを惜しんでゐるのだと見る。其意義において、宴席即興などいふ事情を考へないでも、獨立の價値を持つものとなる。
(496) 萬葉集に於ける近代感
昭和十三年一日「遠つびと」第四卷第一號。談話筆記
天平二年十一月、太宰(ノ)帥大伴(ノ)旅人が大納言に任ぜられて、都に上る際、伴の人達が、主人と別に、海路をとつて上つた時の歌(卷第十七)は、私には常に、最初の驚きを失はずに讀み返すことが出來るのである。
(三八九〇) わが兄子《セコ》を我《ア》が 松原|從《ヨ》見渡せば、海人處女ども 玉藻刈る。見ゆ
「わがせこをあが松(待)原よ」と言つた表現は、類型の著しいもので、宴席の主賓を迎へる心をあらはしてゐるのである。歌は、この松原から見渡すと、海人の村の處女たちが玉藻を刈つてゐる。それが見える、といふだけである。「玉藻」の玉〔傍点〕は單なる美稱ではない。靈的なものを示す。これには説明がいる。三野(ノ)石守《イハモリ》の歌、
(三八九一) 荒津《アラツ》の海潮干潮滿ち 時はあれど、何れの時か 我が戀ひざらむ
荒津は博多に近い處となつてゐる。太宰府への往來は、こゝからしたのである。「潮干潮滿ち…」は潮のさしひきに時のあることから「何れの時」を言ふための序と見てよい。荒津の海には潮の(497)滿ち干の時〔傍点〕がきまつてゐるが、私のこがれてゐる心は、何時と言うて焦れないでゐる時があらうか。以下は作者不明の歌。
(三八九二) 巖《イソ》毎に、海人の釣り舟 泊てにけり。我が舟|泊《ハ》てむ巖《イソ》の知らなく
いそ〔二字傍線〕は、岩石から岩石の多い海岸線にも言ふ。舟が海岸傳ひに進んでゆくと、そこの岩蔭にも、こゝの岩蔭にも海人の舟が、舟がゝりしてゐることだ。我々の旅は遠いので、どの岩のかげにも舟どまりすることがないといふのである。早い舟がゝりをしてゐる靜かな舟を見つゝゆくと、自分たちだけが、果てしない旅をしてゐるのだ、といつた不安な心が、しみ/”\と感じられて來るのである。いづれは舟がゝりをするのだから、そこに實際生活と文學との交錯してくるところはあるが、つきつめた感情を表す爲には、この樣なあがつたもの言ひもしなければ、その效果が出ないことがある。この歌には更に敍景的な要素がある。上句に、敍景詩の我々に與へるよさを與へて、而も「我が舟泊てむ巖の知らなく」で其心持ちをいつてゐる。萬葉集中にも、それ以後にも、かうした歌に出會すことの少いほど、我々の胸にひゞくよさがある。傑作である。
(三八九三) 昨日こそ、舟出はせしか。いさなとり 比治奇《ヒチキ》の灘を、今日見つるかも
比治吉の灘には説が多い。この歌、これ以前にもこの後も、この種の類型歌は、どの位あるかも知れない。我々の知つてゐるAの歌とBの歌との間――譬へば「昨日こそ舟出はせしか」と「昨日こそ早苗とりしか」との間――には、もつと澤山の類型歌のあつたことを考へねばならない。(498)更に今の人の歌にも、かうした類型は求めることが出來るのである。だからこの歌に、近代感がないとは簡單に言ひきれない。
(三八九四) 淡路島|門《ト》渡る舟の※[楫+戈]間《カヂマ》にも 我は忘れず。家をしぞ思ふ
かぢまにも〔五字傍線〕は、潮の流れの速い水門を渡る爲に、※[楫+戈]のあやつりのいそがしい、その一漕ぎの間にもの意で、これも類型の多い表現である。
(三八九五) たまはやす 武庫《ムコ》のわたりに、あまづたふ 日の昏《ク》れ行けば、家をしぞ思ふ
たまはやす〔五字傍線〕は、むこ〔二字傍点〕の枕詞。何故むこ〔二字傍点〕にかゝるか訣らない。「玉の樣にはやす婿」「玉のさびをむこ〔二字傍点〕の葉(珪酸質)で磨くから」……と言つた風にいろ/\舊説はある。「たまはやす」とは、魂を分割することを言ふ語だが、その意義のまゝむこ〔二字傍点〕にかゝつてゆくかどうかは、訣らない。その枕詞の意味も、昔の人には訣つてたらうし、又訣つた方がよかつたかも知れぬが、我々には却て訣らぬ方がよいかとも思ふほど、この語のもつ音調から來る氣分が、しつくりと歌にかなつてゐる。短い表現形式をもつ短歌では、判然とせぬ語づかひが、却て鑑賞を助けることもあるのである。萬葉以後には、殊にさうでも言はねば助からない作物が多い。言ひたくないことだが事實さうである。句読をつけるのに反對する人々の心持ちも、こゝらにその主張があるのだが、やはり其は、短歌の病的な表現のよさを夢見てゐるのである。武庫は、灘、住吉、兵庫に近い。
こゝのわたり〔三字傍線〕は渡り場〔三字傍点〕か邊〔傍点〕の意か不明。武庫のわたりで、日がくらくなつてゆく時に、おれは家(499)を思つてゐると言ふのである。解釋してゆけばつまらぬやうであるが、二つも枕詞があつて、而もそれが些かも内容を空疎にせず、却て單純化され、莊重な調子を單に外的に張つたばかりでなく、氣分的に含むところを深くもたせてゐる。佳作である。譬へば長田王――特殊の力があり、姿が違つてある――の作の、
うらさぶる心さまねし。ひさかたの 天の時雨のながらふ 見れば (卷一)
聞きし如、まこと尊く靈《アヤ》しくも 神さび居るか。これの水島 (卷三)
等、何でもないことをもの/\しく言はれてゐるのだが、とにかく姿は颯爽としてゐる。一體、古典から受ける我々の感じは、その製作當時の感情そのまゝではない。我々の感情を透して古典に接するのである。さうして見た時に、この歌から或近代感を受けることは事實である。些三八九五番の歌も同じく、我々の近代感にぴたりと來る處がある。
(三八九六) 家にてもたゆたふ命 浪の上《ウヘ》に漂《ウ》きてしをれば、奧處《オクカ》知らずも
半分は何か感ぜられながら、「家にてもたゆたふ命」には、まだ抽象的なところがのこる。本集の歌を素朴だ、といふのは總括しての概觀であつて、奈良朝及びその前代は、外來文化の消化せずにはひつて來た時だから、ちやうど桃山時代などに似てゐて、もつと思想的な動搖のあつた時代である。長歌は既にその時代、古典であつた。併し短歌にはぴち/\した生命を保つてはゐるが、それですら一時代前の生活が出て來てゐる。だから藤原・奈良の時代が、必しも萬葉集で見る通(500)りの時代ではない。勿論、それらの時代も反映はしてゐるが、一時代前の生活が出てゐることは見逃せない。「家にてもたゆたふ命〔傍点〕」は生命とのみは解ききれない。在來の考へに、外からの思想を交へたものである。心〔傍線〕と命〔傍線〕との間を考へるのが、このいのち〔三字傍線〕にあたる樣である。だから、我々より大まかな粗雜な遣ひ方をしてゐるのである。「うきてし」は漂流してゐること。「おくか」は心の奥にも言ふが、將來・行末の意で「將來どうなることか見當のつかないことだ」の意。こんな歌に出會ふと、我々は思ひがけぬものに、ぶつかつたこゝちがする。佛教的なある思想性を持つてゐて、漠としてゐる點もあるが、われ/\の近代感にぴつたりはひつて來る歌である。自分の將來がこれから先、どうなつてゆくか見當もたゝない氣持ちで船に乘つてゐて、非常な不安を感じてゐるのである。當時としてははいから〔四字傍線〕過ぎたか、とも思はれるほどである。
(二六九七) 大海の奧處《オクカ》も知らず行く我を。何時來まさむと、問ひし子らはも
これは類型的な表現の歌である。「大海の」を普通、解釋に入れて解くが、「おく……」をおこす枕詞とした方がよい。「……われを〔傍点〕」のを〔傍点〕は感動。「……われよ。それだのに……」となる。
(三八九八) 大船の上にしをれば、あまぐもの たどきも知らず。歌乞和我世
第五句「うたひこそわがせ」と訓んでゐるが、定説がない。四句だけで歌を見て、思想性を深くもつてるかどうかは、ほんとうは言へないことだが、三八九七番に比べて、調和した感じのおこる歌である。
(501) (三八九九) 海人處女《アマヲトメ》漁《イサリ》焚く火の おぼゝしく、津濃《ツヌ》の松原 思ほゆるかも
これも類型歌である。上二句で「おぼゝしく」をおこしてゐる。津濃の松原が、もつとはつきり見えてくれたらよいと言ふのである。「おぼゝしく」はぼんやりと、憂鬱に。
以上の中、類型から離れたものは、幾度見ても、初めて接したやうな驚きをもつて、我々の近代感に解れて來る。だから、よいと言ふことは一概には言へない。が、少くとも類型でないところに、生命のあることは考へてよい。
(502) 愛國文學の母胎
昭和十六年一月「公論」第四卷第一號
萬葉集は、一面から見れば、大伴|旅人《タビト》・家持《ヤカモチ》等の家集とも言ふべき姿があり、殊に家持の個人の作品集と書いてさし支へのないのは、その卷十七以下の二十に到る四卷である。かう言ふ見方をおしひろげて行くと、大伴氏人に關係のない歌ばかりで出來た卷々も、何かの事情で、此舊族の家に傳承せられて來た歌々だ、と言ふ事も出來るのである。かう言ふ傾向の考へ方から、萬葉集を吏めて見て行くと、今まで閑却してゐた事實の目について來ることが、なか/\にある。卷十七以前の卷々の歌の持つてゐる内外の要素は、何かの形で家持自身の作物に吸收せられて現れて來てゐる、と言ふやうな事も出來る。彼が模倣したに違ひない人麻呂・赤人・憶良等の作物以外にも、影響を彼に與へた多くの舊時代の人々の歌の、目につくのである。
さうした事の一つで、彼の一生に、ある深みを考へさせられるものがある。
彼の歌に宮廷の宣命《センミヤウ》・祝詞《ノリト》・壽詞《ヨゴト》の古い姿が、そつくり出て來て居つて、さうして、別に新な生命を開いて來てゐることの、窺はれることである。かう言ふ短文には、完全な引用をしてゐるだ(503)けの餘裕がない。殊に著しい點だけを拔き出して置く。
(一) 高御座天《タカミクラアマ》の日嗣《ヒツギ》と すめろぎの神のみことの、きこしをす國のまほらに、山をしもさはに、多みと……(霍公鳥の歌)
(二) あしはらの瑞穗の國を 天降りしらしめしける すめろぎの神のみことの御代かさね、天の日嗣と しらし來る……(陸奥の國黄金を出した時の歌)
(三) 高御座天の日嗣と天の下しらしめしける すめろぎの神のみことの……(芳野離宮の歌)
(四) 大汝、少彦名の神代より言ひ繼ぎけらし。父母を見れば尊く……(尾張少咋を喩す歌)
(五) かけまくもあやに畏し。すめろぎの神の大御代に、田道間守《タヂマモリ》常世《トコヨ》に渡り……(橘の歌)
(六) 天照す神の御代より、安の河中に隔てゝ向ひ立ち 袖ふり交し……(七夕の歌)
(七) 天地の始めの時|從《ヨ》、現身の八十伴緒《ヤソトモノヲ》は、大君にまつろふものと……(挽歌)
(八) ひさかたの天《アマ》の門《ト》開き、高千穗の峰に天降りし すめろぎの神の御代より、はじ弓を た握り持たし、眞鹿兒矢をたばさみそへて、大久米のますら武夫を先に立て……(族を喩す歌)
と言ふ風に幾つともなく、長歌の始めに、神代以來の由緒を告げる堂々たる詞章を据ゑてゐる。かう言ふ歌の中には、其題目を見ても知れるやうに、此樣な姿で歌ひ起す必要のない歌が多いのである。だが彼には、其が一つの發想の癖になつてゐた。かう言ふ姿によらねば、彼の歌心は、自由に流れて出なかつた、とも言へるであらう。其等の形の一つ/\を見ると、祝詞の影響や、(504)宣命の印象が強く出てゐると言ふべきものもあるが、概して言へば、壽詞の形式から出發したものと見れば、凡は當るのである。
壽詞と言ふ詞章は、世間普通には、祝詞の更に古い時代のもの、とまだ考へてゐる人もある。だが、全く正反對な性質のものであつた。本格の壽詞は、奏上する目的を持つもの、其に對して、宣命があつたのである。宮廷から宣り下される詞章である。宣命の、神を對象としてゐる場合のものが、祝詞だつたのである。だが今ある祝詞には、右の壽詞の意味のものまで包合してゐる。其で、宣下・奏上兩方面に渉つてゐるのだ。壽詞は其と全く別で、下から上へ申しあげる外はなかつた。臣下から、宮廷に申すと言ふのが、壽詞の意義であつた。壽詞のやゝ完全なものとしては、「中臣壽詞《ナカトミノヨゴト》」と「出雲國造神賀詞《イヅモノクニノミヤツコノカムヨゴト》」とが殘つてゐる。宮廷に對して、臣の家代々、此聖なる職を以て奉仕して參つた事を説く事によつて、自分の代にも、奉仕を更《アラタ》めないよしを誓ひ奉る詞である。
久米氏の後を物部氏が、物部氏衰へて後は、大伴氏之に替つて、宮廷の防備に仕へたのである。だから勿論屡、此誓言を申す機會が多かつたに違ひない。だが、彼の歌に特別に其傾向が著しいのは、彼自身の性格によるものと見るべきであらう。單に宮廷に奏した形ばかりでなく、自ら心に言ひ聽かせるやうに、忠誠を誓はなくては居られなかつたほど篤く、思ひの深い人だつたのである。
(505)其なればこそ、ちよつと見には、さうした堂々たる形を採るまでもない述懷の歌や、季節の推移を敍べるやうな作物にまで、古風で重々しい數句をまづ言ひ据ゑて行つたのであつた。ほんとうに詳しく見て行くと、まだ/\此に似た傾向が、歌々に充ちてゐる。其にはもつと/\深い根ざしがあるのであつた。彼に於いては、壽詞の發想は、決して一通りの型を襲うたものではなかつた。此聖職を傳統した家系に對する愛、又更に宮廷に對し奉つて持つた敬愛、其から宮廷の歴史に感じた尊信、其宮廷の久しき時を持ち傳へ給ふ國土の上に、其等のすべての感情を集注したものとしての愛國の情熱が、さうさせたのである。此點では、萬葉集に見えた誰の歌よりも、彼の歌が最深く國家愛を湛へてゐると言ふべきであつた。
(506) 評價の反省
――家持の歌の評釋――
昭和二十六年五月「婦人之友」第四十五卷第五號
戰爭の後、日本の古典の中でも、殊に古い時代のものを、日本人があまり問題にしなくなつた。こんな風にいつ迄續くものではないが、ちつとでも立ち直りの時期の遲れるといふことは、其だけ文化の損失になる。こんな機會に、少しでもさう言ふことについて、戰後の青年の汚風に染むことの少いあなた方に、考へてもらつた方がよいと思ふから、萬葉集の話をする。
今迄日本の歌は單に、感情的なものだと考へられて來た。從つて、歌を主流としてゐる日本文學も、一般に主情的な文學だと言はれて來てゐる。併し、此事については、我々はもつと反省してみる必要がある。祖先を知らないといふことは、祖先にいけないといふだけではない。はつきりと自分を知らない、といふことゝ同じことになるのである。事實、日本文學の中にも、さう言ふ人の豫想の外に、冷靜な理智的の文學が、あつて存するのである。昔はどう考へてゐたにしろ、我々にとつて、我々の祖先の文學作品の中に、さうしたものが無かつたと言ふことゝ、あつたと(507)考へられるのとでは、大きな相違なのである。本來無かつたものを、あつたと買ひかぶるやうな考へ方は望ましくないが、あつたものを、無かつたとしてきめてかゝつて、考へ誤つてゐる事が多いから、――まあさう言ふ同時代人の、無知なるが故に犯してゐることを、罪滅しするつもりで、さう言ふことを話してみようと思ふ。
萬葉集の歌人のうちで、最名高くてゐて、最歌のまづい〔三字傍点〕と考へられてゐた人がある。此頃はさうでもないが、どうかすれば今も、さう言ふ批評をする人があつて、又若い人たちがどうかすれば、無理會の爲に、なるほどまづい〔三字傍点〕と思ひさうな人がある。大伴(ノ)家持が其である。文學を知ることの最手近い肝要なことには、作品の評の評價が正しいかどうかを知ることである。家持を「やかもち」とよむのは、昔抽象性を持たして家を考へた時、「家といふこと」を「やけ」と言つた。「やけ」が他の語に重つて熟語になると、「やか」と發音するのである。百人一首の中にある「かささざのわたせる橋におく霜の 白きを見れば、夜ぞ更けにける」と言ふのゝ作者である。
なるほど、家持の歌には、味ひの薄いものや、平凡なものもあるが、半生の間に、數多く作つたものが、さう皆々良い作物ばかりである訣はない。殊に外の人よりも多く殘つたのだから、よい歌が傳ると同時に、大したこともない作物も、人の目につくのである。外の人の作物は、時のふるひ〔三字傍点〕がかゝつてゐて、殘したいと後人の思ふものだけが殘つたが、家持のは、ある時期の間の作物が、大半殘つてしまつたといふ事情がある。だから、代々の人の適當に與へる選擇が加つてゐ(508)ない。而も、家持といふ名に、人が期待をかけて見るから、何でもない歌が、目について來るのである。かう言ふことも勘定に入れてかゝらないでは、年代を經た作物の批評などは出來たものではない。併し、中でとりわけ注意をせねばならぬことがある。つまらぬと思はれてゐる歌が、果して本とうに價値のないものなのか、又は前時代の誤つた批判を受け纏いで來た後人が、何となしに、つまらぬものときめてしまつてゐることもある。さう言ふ點を考へてかゝることが最重要なことである。文學藝術の作品は、前代の人々の與へた評價を、自分たちの判斷に置き直して、其が自分にも安定して受けとることが出來るか、どうかといふことをみる事が、大切である。昔の生活は非常に單純であつたから、文學意識だつて、甚單調なものだつたらうし、或はまだ芽生えだけだつたといふことも、大體は言つてさし支へのないことだ。
今日我々として考へてみて、當時のもので文學と考へられるものは、歌だけである。それだけに又、昔の人の歌に對して持つてゐる氣持ちは、我々よりも、もつと深いものを感じてゐた――信仰的にさう思つてゐたのである。
家持は時代的に言ふと、奈良・平安兩時代に跨つて生きた人である。が、本とうから言ふと、まだ平安朝の氣分の整はぬ桓武朝の早い時期に亡くなつてゐる。萬葉集は、家持によつて作られたのではないが、彼に作られた歌の外、彼によつて集められ、彼の編輯しておいたらしいものを含んでゐる部分が非常に多い。萬葉集二十卷のうち、卷十七・十八・十九・二十の四卷は、家持自(509)身の歌と、其周圍の人々の歌を記したもので、言はゞ、家持の日記のうちから、歌に關する部分だけを、書き拔いたものだと思つてよい訣である。
家持の父|大伴旅人《オホトモノタビト》は、晩年になつて太宰府の長官――太宰帥《ダザイノソツ》に任ぜられてゐる。太宰府は、九州全體の統治と、外國との關係が起つた時、交渉に當る役所だから、重大な所である。併し、大伴家は古い歴史を持つた大きな一族で、其族長である旅人は、もつと高い位置を奈良において持つてゐなければならぬ筈だが、當時は新しい勢力の勃興して來た時代であつたから、舊勢力によつて立つ者は、外見非常に重大に見えても、實は京における實際勢力と關係の遠い地方に、遠のけられてる事になつたのである。旅人は、其在官中、重い病氣にかゝつたので、京にある親しい貴族連の取りなしによつたものであらう――都へ召し還される事になり、迎へとして、十三歳の家持が、叔父稻公に隨行して下つてゐる。太宰府は、大陸との交渉の最初に行はれる地である。新しい文化に觸れたいと思ふ人々にとつては、又憬れの地であつたから、學藝に關係ある物資が澤山集つてゐた。勿論大陸の知識に通じた人たちも、こゝには屯《タムロ》してゐた訣である。家持もきつと此頃、歌を作つたであらうと思はれるが、殘つてゐるものはない。
旅人は京に歸つて其翌年死去した。家持は其時から大伴氏一族の長として、重い責任を負ふ事になつたのである。一族の族人の爲、一族の昔から祀つた大伴の氏神の爲に。而も新勢力興隆の勢ひは、殆此古い歴史を持つた豪族の最後まで迫つて止まなかつた。家持は桓武天皇の御代まで生(510)きてゐるが、晩年再度まで政治上の陰謀の疑ひで罰せられてゐる。就中、後の度は死後に罰せられて、官位を奪はれた。だが平城天皇は凡、古典的な生活に興味をお持ちになつた方だつたので、家持の罪は、赦されることになつた。此事のあつた爲に、今に到るまで、中納言家持と呼び名せられてゐる訣である。
此家持が、歌の上でどんな爲事をしてゐるか、其がどんな意味を持つてゐるかといふ事を話すには、その以前の歌には、どんな型が行はれてゐたか、と言ふ事について考へて見なければならぬ。
移りゆく時見る毎に、心いたく 昔の人し 思ほゆるかも (四四八三)
段々と世の中が變化してゐる事を、しみ/”\と考へてゐる時に、いつでも、心がうづくほどに昔の人の生活が、戀しく思はれる。――昔の人はかう言ふ時に、もつと幸福に生きてゐたのに、おれはどうして、こんなにつらい目を見るのであらう。
家持四十歳の時の歌である。
しみ/”\と昔の人をうらやましく思ふのは、自分の生きてゐる時代が、昔と大きく變つたと言ふ事を考へる時である。當時古い家が衰亡し、王族の人々でさへも、他氏との勢力爭ひに對抗しかねて、罰せられたり死んだりした。家持は大伴と言ふ歴史ある大きな一族の長であるから、さうした世の樣子を廣く見て考へてゐる。だから今の我々が見ても、此樣に胸にうつたへて來る樣な(511)歌が出來るのである。
歌は、昔の人にとつて、知識のえつせんす〔五字傍点〕であつたのだから、出來れば多く、それを覺えてゐて、いろんな場合に、咒力のあるものゝやうに扱つたり、故事來歴を説く場合には、物事の證明などにも使つてゐた。だから、あなた方もさうした意味で、心の深い、何かの時に心のより所となる樣な、すぐれた歌は覺えておかれた方がよい。
此歌は、自分だけが世の中に孤立して存在してゐる――さう言ふ考へに立つて、言つてゐるのである。こんな歌をおぼえてゐると、人に頼らないで生きてゆく、さうした決心に似た思ひが湧いて來る。かう言ふものゝ言ひ方の出來た家持である。日本の古い歌人たちの言ひ殘しておいた多くの歌の持つものと、少し違つた内容を持つた歌だと言へる。昔からあつた型とは違つたものを掴まうとしてゐる。
旅人は不遇であつたとは言へ、太宰府の長官にまでなつてゐる。家持になると、旅人の時から又もう一時代が過ぎてゐる。一口に言へば、地方官だけれども、越中守と太宰帥とでは、比較にならない。當時地方官の任期は、丸四年であつた。此四年の越中在任中に多くの歌を作つた家持である。其中から、家持三十三歳(天平勝寶二年)の時の歌を三首だけ拔いてみる。天平勝寶二年と言へば、奈良の都は、咲く花の盛りの樣な時である。それに大伴家の族長である彼が、何かの事情があるにしても、又越中の國の重要性が當時相當に認められてゐたにしても、遠く越の國に(512)やられてゐたのである。
春の苑《ソノ》 紅句ふ桃の花 下照る道に、出で立つ處女《ヲトメ》 (四一三九)
「その」――今では立派な庭園の樣に考へるが、昔は家の脇や、裏にある畑のこと。
「紅にほふ」――紅色に美しく輝いてゐる。にほふ〔三字傍線〕は平安朝になると、もつとほのかな感覺を言ふ語になつて來るが、萬葉の時代には、はでやかな色・香・にほひを言ふ語であつた。はでに色めいてゐるのである。
「下てる」――色彩の反射で木暗かるべき所が、ぱつと明つてゐるのである。
春の後苑。其處にくれなゐ色に、ぱつと咲き照つてゐる桃の花。花の爲に木蔭が明るく輝いてゐる、其木蔭の道に出て立つてゐるをとめよ。
唯これだけの内容の歌である。唯これだけの歌を作らうとした家持の動機が、我々には訣らない。一種の感歎するやうな氣持ちで、家持のかう言ふ歌を作つた動機が考へたくなる。昔のものには、かう言ふ種類の歌が全くないのだから、さう言ふものをとりあげようとしたこと、及びさう言ふ動機を持つた家持の新しい感覺が考へずにゐられないのである。昔の人は、何の爲に家持がこんな何でもない歌を作つたのだらうと、不思議に思つたに違ひない。でも此は所謂「たゞごと歌」ではない。前人の考へなかつた領域に物を掴んだのである。だが昔の人は、家持の才能が乏しくて、こんなものを作る外はなかつたと思うたであらう。家持の歌のへた〔二字傍点〕だと言はれる理由は、こ(513)んな所にもあつたのだらう。併し、作つて見ても爲方がないと思はれてゐる題材を歌に作つたと言ふことは、慣値のない歌を作つた事と同じではない。時には、それまでの人々の、見出すことの出來なかつた價値を見出して、優れた作物を作つてゐる場合もある。今の我々にすら、價値の存在の姿の説明はむづかしいが、ともかく家持の見出してゐるものは、確かに認められるといふこんな歌を作つたのは、家持に何處か、先輩とも同時代人とも、更に亦後世人とも違つた所があつたからだといふ外はない。家持は、父親、旅人以來支那の書物に親しんでゐる事は、ほゞ證明することが出來るから、親の影響も、自身進んで攝取した所もあつて、其が内的に深く印象したものが、こんな形をとつて現れたものと見る外はない。まことに珍しい事なのだ。だが、正に現實にあることで、嘘でも、幻想でもない。作品として此樣に殘つてゐるのである。
吾が苑の李《スモヽ》の花か 庭に散る。はたれのいまだ 殘りたるかも (四一四〇)
庭が所々斑らに白く見える。自分の家の畑の李の花が、庭土の上に散つてるのか、それとも斑雪《ハタレ》がまだ殘つてゐるのか。
此歌では、其白いものを、李とも殘雪ともきめてゐない。かう言ふ言ひ方も、それまでには無かつた。其ばかりか、此以後もない。日本人は氣が短いせゐでもあるまいが、李の花と見まがふまでに、雪が消え殘つてゐるのだと言つてしまふ。前のは、何處に價値があるかを考へさせるのだが、此は表現の上に、日本人的な價値の採り方をしてゐない。ともかくも今迄の普通の日本文學(514)にない變つた言ひ方をしてゐる。
さう思つて見ても、平凡人のやうに見える家持だのに、なぜか歌には、かうしたものがあるのである。さうして、其は明らかな現實なのだから、人を考へさせる。
同じ日に、飛びかける鴫を見て作つた歌、
春まけて物悲しきに、さ夜更けて 羽ぶき鳴く鴫《シギ》 誰《タ》が田にか棲む (四一四一)
待ちまうけてゐた春がやつと來て、愉快な筈なのに、而も自分の心には、ある憂鬱さが湧いて來る。
夜が更けて外の方で、羽根をぶる/\言はせながら鴫が起《タ》つてゐる。あれは誰の家の田に落ち著かうとしてゐるのだらうか。
しいんとした澄み切つた夜の空氣が感じられる。あなた方の氣づいてゐるものとは、可なり違つたものを感じて詠んであるやうである。此歌は、我々には二樣にとれる。「どこの田に居ついた鴫が、羽掻きをしてゐるのか」と言ふのと「羽掻きをして鳴き起つた鴫は移つて行く。誰の家の田におちつかうとするのか」。どちらにしても、優秀な作品だ。だが前の方が一層よい。昔の人は此氣持ちを歌に詠んでおけば、自分の考へるやうに人は理會してくれるものと思うてゐたらしい。とり違へられるといふ心配は、しなかつたらしい。だから、あまり技巧のごみ/\とこみ入つた歌は作らなかつたのである。どちらにとつて見ても、極端な靜寂の中にぽつりと目をあいてゐる樣に、作者が居る。「春まけてものかなしきに」が其である。此は何を言はうとしてゐるか、(515)何處に價値があるかは、訣る歌である。唯其靜けさは――心づかない人もあるが――萬葉特有の夜の心から出てゐるので、家持も其を自分の生活に入れて來たのであるが、作者個人といふものを、著しく其に參興させてゐる。作者を拔くか、作者を出すか、二樣の方法はあるが、抒情的な敍景詩として、かう言ふ行き方が、日本にはあつた。今もある。
此等の歌を作つた翌年の三月二日には、又十首近い歌を記録してゐる。其はじめの歌、
ものゝふの 八十處女《ヤソヲトメ》らが汲みみだる 寺井がうへの、かたかごの花 (四一四三)
「ものゝふの八十處女」――ものゝふの〔五字傍線〕は、八十を導く爲の枕詞。多勢の娘たちが家々から來て、共同の清水を汲む。其時間もほゞ同じく、毎日くり返される。村の娘を見るのは、其時を窺うてする事が多かつた。
「寺井」――寺があつて其近くに湧いてゐる泉であらう。井は範圍が廣く、泉・磐の溜め水・池・川・湖などの用水場をもいふ。
「かたかご」――かたくりのこと。詳しくは近代は、かたこゆりと言うた。
澤山の娘達が、始終水を汲みに出て、汲んでは散し、汲んでは散してゆく、寺の清水のそばに咲いてゐるかたくりの花よ。
をとめたちが集つては、代る/\水を汲んで行くので、美しいかたくりの花が亂されて脆い花が(516)折れて井の中に落ちてゐる、其樣子である。――をとめ達が水を汲まうとすると、花も一緒に這入つて來ると言つた風に解釋するのは、汲み亂るではなくなる。何も別に深い意味はないので、唯繪の樣な斷片の生活が、我々の前に浮んで來る。現在、雜誌や新聞に出てゐる歌は、大體此に似た敍景であるが、實際は違つてゐる。其等の歌は皆、以前に類型がある。其をなぞつて來てゐる。さうして、先型から少しでも變つたやうに見えれば、賞讃に値するものとなつてゐる。だが、此「かたかご」の歌には前型がない。正確に言へば、後隨者もなかつたのである。何の因によつて、かやうな敍景目的を開いて來たかゞ問題なのである。たゞ音律の類型57577の上に、唯はじめて字を置くやうな平靜な氣持ちであつたのだらう。何といふ事なく、傳來の音の關聯よりは、自由な、謂はゞ散文的な語の配置をして行つたものと思はれる。
なぜかう言ふものを作つたか、事情を知るすべての資料の失はれた今は、やはり家持に、一種不思議な才能のあつたことを考へない訣にはゆかぬ。此も同じ日の歌、
朝床に開けば遙けし。射水河 朝漕ぎしつゝ うたふ舟人 (四一五〇)
朝の床で聞いて居る時――、其は、遙かに聞える。射水川 川水に朝漕ぎしながら唄つてゐる舟人。其聲が。
此歌の意味は直ぐ訣らうし、價値も認め易いものである。併し、かう言ふ作品なら、此以前にこそ珍しかつたが、此後にはありさうだと考へられる。家持はかうした訣り易くて、清新で、古び(517)ない傾向のものを多く持つてゐる。が其にまじつて、もつと特殊なものが出て來る點に、文學の不思議を示してゐるのである。昔の人にも理會され易く嗜好に叶ひさうなものも出來るのに、どう言ふ訣で、割りに此方面に進まず、家持はへた〔二字傍点〕な歌よみだと考へられるやうな傾向を作つたのだらう。
やがて天平勝寶三年。三十四歳になつた家持は任を終つて、大佛造營の爲に沸騰してゐる都――來年は開眼供養を行ふはずの都へ歸つて來る。都へ歸れば、大伴家が神代から仕へて來たと信じてゐる宮廷があり、又彼の下には大伴家に屬する多くの家々や、部曲の民たちが居る。家持の心にはどうしても、家の歴史・國の歴史が、大きな問題として考へられて來る。歌風も自ら、古典的に、昔風な感觸が現れて來る。歸つた翌々年の正月の歌、
大宮の内にも外《ト》にも めづらしく降れる大雪 な踏みそね。惜し (四二八五)
大宮の内側にも、表側にも、けつこうに降つた稀な此大雪。人々よ。踏まずにおいてくれ。踏んでは大事だ。
世間で考へるほど、「大宮の内にも、外にも」と言つてゐる驚きが、新しさをおし出してゐる。上句下句と調子が一貫して、がつしりした纏りを感じさせる。さう言ふ所に、古典的な調子が出來あがつてゐる。新鮮なものを古典的に纏めあげる調子が、古風な歌にはあるのだ。所が其中に、非常に變つた感じのする歌が出て來る。
(518) 春の野に霞棚引き、うらがなし。此夕かげに、鶯啼くも (四二九〇)
春の野に霞が一ぱいにかゝつてゐて、名状出來ぬ悲しい氣持ちがおこつて來る。此暮れ方の光線のさしてゐる所に鶯が鳴いてゐることよ。
此歌の「うらがなし」といふ語の使ひ方は、普通の場合と違つてゐる。あなた方は、これまで歌つた歴史の纏め方によつて、こんな風に考へてゐるだらう。古代であり、素朴であり、健康な生活をしてゐた此頃の祖先たちは、近代の人のする感傷などゝ言ふことには、凡縁のないのんびりした感情しか持たなかつた――感傷など言ふことが、人間の生活に關係があるとも思はなかつたこと、と考へて來たことであらう。ところが、現にこんな歌を作つてゐる。少くとも、家持は、自分一人で悲しんだり、傷んだりする歌を作つてゐるのが事實だ。必しも此は、家持一人ではないが、さうした近代人の抱くやうな心を持つ事もあつた、家持だつたのである。やつと支那の文學にあるやうな要素が、日本の歌にもあることを發見したばかりの時代に、文學の中のある特殊な近代的な情趣を掴むことが出來た家持であつた。寂寥や孤獨感が、とりあげて文學にすることが出來ることを知つた彼であつた。感傷質の文學は屡咀はれるが、それを早期にとりあげた文學や文學者は、注目せなければならぬ。感傷は悲劇質を持つ文學の基礎なのだから、今の人が事もなげに扱ふやうに、輕蔑してしまふ事は出來ない。
所が又、こんな歌がある。おなじ日の作――天平勝寶五年二月二十三日、(519) 我が宿のいさゝ群竹《ムラタケ》吹く風の、音のかそけき 此ゆふべかも (四二九一)
自分の屋敷の中に、わづかばかりかたまつて生えてゐる竹――其竹を吹く風の音が〔二字傍点〕、ごく幽かにして來る、今日の夕暮れであることよ。
實際はそんな響きなどは起つてゐないで、作者の耳だけが徴かなけはひを感じてゐるのかも知れないと思はれるまで、深い靜けさを感じさせる歌である。ところが、此歌は調子と内容の間に大きな矛盾がある。即、調子は大まかで堂々として、古風なよさ〔二字傍点〕を保持してゐる。一方内容は、近代的な鋭い感覺が、而も鋭いとは言ひ難いしづけさ〔四字傍点〕の中に動いてゐる。萬葉の時代に、既にこんな歌があつたのかと思ふほどである。家持の内生活と外生活とが矛盾を示してゐる。しづかな心を表現するのを妨げる古代以來の整頓した、壯大な、内容を問題としない――に近い――歌の調子が、家持の近代心を捲き込んで行つてゐる。此矛盾は、彼の生活そのものであつた。彼の生活史は、彼の歌に現れた二つの流れ其まゝの現實であつた。
悠々《ウラヽヽ》に照れる春光《ハルビ》に 雲雀揚り、心かなしも。ひとりし思へば (四二九二)
此も、右の二首の出來た二日後、二月二十五日の歌である。暮れ遲い日ざしの、のんびり〔四字傍点〕と照つてゐる春の光り――雲雀が空へ鳴き上つてゆく。もの悲しい事よ。獨りで、ぢいつと物を考へてゐる時に――。
獨りで物を考へる事のしづかなやすらひ〔四字傍点〕を知つた人である。之を日本の文學の上に表したのは、(520)家持が最初の人だと言へよう。此はきつと家の内から、外が見晴らせる樣な所であらう。――野外に出て、ある時間、さうした儘でゐると考へることも自由だが――日がゆつたりと照つてゐて、雲雀が鳴き上つてゆく。かう言ふ周圍に對して、古い感情を持つた人なら、「心かなしも」とは言はない。今でも、青年から壯年にさしかゝつた人でも、此と似た心持ちの歌を作ることが多い。さうして別に古びた心持ちだとは思つてゐない。こゝで考へるべきは、此歌は、奈良朝の終り頃に作られてゐることである。私どもが初めて此歌を見つけたのは、今から三十年もつと前の事である。かう言ふ心の微動を寫すことが唱導せられ出した頃のことだ。其頃、此歌を見つけたのである。私の驚きを察して貰ひたい。今考へて見ても、不思議な其時の感じは印象してゐる。其から此だけ年がたつても、此歌はちつとも新鮮さを失つてゐない。のんびりと生活をしてゐたであらうと、我々の想像してゐた昔にも、こんなに深い心で、靜かにものを考へ、獨り悲しんでゐる人があつた事は、餘程反省して見てよいことである。
あしびきの 山邊にをりて、秋風の日に日《ケ》に吹けば、妹をしぞ思ふ (一六三二)
かう言ふ風に山の邊にぢつとして居て、秋風が一日々々と吹き募つて來るにつけて、家に殘しておいた彼女の事を思うてゐる。
家持はかうした歌も詠んだ。多分二十四歳の頃の作であらう。新しく出來た恭仁《クニ》(ノ)都にゐて、川一つ山一つ向うの平城《ナラ》の家に殘して來た妻、坂上(ノ)大嬢に贈つた歌である。非常に純粹で、内容(521)と言つてはあり得ないほど純粹になつてゐる。清潔な氣持ちが、誰の心にも這入つて來る。
家持は當時としては、非常に高い教養を持つた人であるが、一方に、前言つた樣な大きな負擔を持ち、出來るだけ其を切りひらいて行かうと努力した。併し、其目的は、つひに達せられなかつた。萬葉集は分量のある立派な歌集であるが、其が出來る爲の原動力となつた家持は、自分の心のまゝには生きる事の出來なかつた人らしい。彼には長い昔と、新しく迫つて來る未來とが、彼の心を重くした。併し、此をどうする事も出來ずに過ぎた人である。だが歌の上では、――かう言ふ風に考へて來ると、赤人などゝは肩をならべさせて考へてよい人だと思ふ。私は、萬葉集の中で高市《タケチ》(ノ)黒人《クロヒト》・山部赤人それから家持と言ふ風に、聡明な生活をした人らしく、燃え立つやうではなく靜かな客觀的な作物を殘した人を考へてゐる。かう竝べて考へてみたら、萬葉集に對する今までの考へも、少しは變つて來るだらうと思ふ。
此話に絡んでまう〔二字傍点〕少し、不思議な深さを持つた歌をあげてみよう。
前に言つた天平二年家持の父旅人が、太宰府で病氣になり、大納言に任ぜられて陸路を都へ歸つて來るが、伴の者達――後で言へば、隨身《ズヰジン》武官に當る人たち――が主人と別れて、別に海路を通つて歸つてゐる。その隨身武官の人達が、旅中作つた歌で、一首のほかは、すべて作者の名の傳らぬ歌が、卷十七に十首載つてゐる。その中に非常に變つた歌が竝んでゐる。こゝでは二首をあ(522)げる。
家にてもたゆたふ命。波の上に漂《ウ》きてしをれば、奧所《オクカ》知らずも (三八九六)
「おくか」――未來の事も言ひ、心の底をも言ふ。將來どうなつてゆくかと想像して言ふ心持ちと、心の底を追尋する心とは、一つのやうな氣持ちになつて現れる。
自分は家に居ても、人間の生命と言ふものゝ浮動して、定まりなく漂流してゐることを感じてゐる。其がかうして、大海の波の上に漂流してゐて思ふと、ましてさき〔二字傍点〕の見當がつかなくなつてしまふ。
後には佛教的な考へ方が、かう言ふ場合の主題《テマ》になつて來る筈だが、當時はまだ、さうした無常感に近いものが、一般の心を支配してゐなかつた時代なのに、旅人の隨身程度の身分の人が、こんな歌を作つてゐる。而も此歌は、單なる無常觀を詠んだといふより、もつと人生的な、底のある、永遠に對する恐怖といふ樣なものが出てゐる。萬葉では、一等哲學的なものを持つてゐると思はれる歌である。かう言ふ歌もあつたことを覺えておいて、折々心に思ひ浮べてもらひたい。さうすれば、われ/\の祖先を輕蔑する心が恥ぢられるだらう。
巖《イソ》毎に 海人の釣り舟|泊《ハ》てにけり。我が舟|泊《ハ》てむいそ〔二字傍点〕の 知らなく (三八九二)
「いそ」――巖石。單に磯濱の磯ではない。
舟旅をしてゆくと、巖石のそば立つてゐる處に、海人の釣舟が、舟がゝりして泊つてゐる。併し、おれは旅行者だから、舟やどりする所の巖の見當もつかないで行く事よ。
(523)旅行者と、旅行者でない者との生活が對照されて、旅ゆく者の悲しみが限りもなく出てゐる。先の歌と比べると、彼は思想的で、一方は抒情的だと考へられるが、此は、人麻呂にも、赤人にも類型があつた。でも、其等よりは、もつと人間の悲しみに即してゐる。此を家持の「うら/\に」の歌と比べると、似通つてゐる所を見るであらう。この寂しさをついで歌つたものは、萬葉以後今に到るまでない。此二首は、殊に傾向の著しいものとして擧げたのだが、其外のものも、今までとりあげて來た歌々は、強く個性を出し、自分だけの窓を持つてゐて、ぢつと物を見つめてゐる。さう言ふ先人の瞳が、目に見えるやうである。古い祖先の世から殘されてゐる文學作品の中には、實に我々を驚すに十分な作品が多く、其思想の深さ・新しさにおいても、我々の想像を超えて、近代に迫つてゐるのに氣がつく。我々はもつと、祖先を尊敬してよい。
(524) 睦月の歌
――家持の作物を中心として――
昭和九年一月「短歌月刊」第六卷第一號
萬葉集の末の卷第十八に、越中(ノ)守であつた大伴家持が任地の正月を迎へて詠んだ歌として、
あしびきの 山の梢《コヌレ》のほよ〔二字傍点〕とりて、かざしつらくは、千歳ほくとぞ (四一三六)
といふのがある。これは、「山の木の梢に生ひ育つてゐるほよ〔二字傍点〕をとつて、わが頭にかざしてゐるのは、それは天子の千歳を祝福申し上げようと思つてする事だ」といふ意味である。つまり、越中(ノ)國の郡司たちと、ほよ〔二字傍点〕のかざしをつけて歌ひながら、遠く宮廷の萬歳を祝福申し上げた歌である。このほよ〔二字傍点〕は今は大抵ほや〔二字傍点〕といつてゐる。ほや〔二字傍点〕は今いふやどり木〔四字傍線〕のことである。やどり木といふものは、木の梢に寄生してゐるものにも拘らず、まるで海藻の馬屋藻《ホンダハラ》などの感じがする。此やどり木のほや〔二字傍点〕を、かういふ風に歌つた例は、恐らく他にはないであらう。
この歌でみると、ほよ〔二字傍点〕の木を頭にかざすのだから、冠にさして、舞つたのであると思つてよいであらう。何にしても、頭にほや〔二字傍点〕をかざすといふ事が、とりも直さず天子の千歳を祝福申し上げる(525)事にはなるまい。つまり物忌みの意味からするので、其をかざすことが、特に天子を祝福申し上げる事にはならない。
民間生活では、ほや〔二字傍点〕は長い間不思議なものに考へられて來てゐるが、我が國の書物の上にはそんなに出て來ない。紋所の中に、ほや〔二字傍点〕の紋といふのがある。ほや〔二字傍点〕に鳩があしらつてある。ほや〔二字傍点〕はもみぢ〔三字傍点〕の花の樣なもので、衣裳的には之の方がいゝのに、かへつて海藻のかたまりのやうに描いて、それに鳩がついてゐるから、神聖なものと考へてゐた事は爭はれない。ほや〔二字傍点〕は、元來は木の高い枝にあるものである。ところが古いものになると、やどり木は必しもほや〔二字傍点〕と限られてはゐない。源氏物語の「寄生木の卷」は、本道のやどり木の事ではなく、蔦《ツタ》のことが中心になつてゐる。元來本草的な知識のない人のいふ事だから、かういふものもさういつたのであらう。
併し大體は、やどり木はほや〔二字傍点〕の事である。今一つ海中にも海鞘《ホヤ》といふものがある。岩石に定著して海綿のやうなものになる。その海のほや〔二字傍点〕も、やどり木のほや〔二字傍点〕のやうに宿るものだからか、或は生えた状態からか、何か似よつたものゝ樣に考へて、ほや〔二字傍点〕といつたらしい。
このやどり木は、西洋では、宗教的に重大な意味をもつてゐる。私は、丁度それと同じ事を聞いた。信州下高井郡の澁温泉に温泉寺がある。その前を大きな川が流れてゐる。その上流に大きな沼があり、そこから石が流れてくる。――寺には先住の基である無縫塔といふものがあるが――その沼から、さうした楕圓形の石が流れてくると、早速寺へその由を報告する。すると其寺の院(526)主が死んで代《ダイ》替りになるといふ前兆である。その寺には現に、その川石を拾つてきて、立てた墓が裏山に二三十基もある。それを見てゐるだけでは、別に陰慘でもないが、考へ樣では陰慘にも考へられるのである。何故かといへば、名高いふれざあ〔四字傍線〕教授の最代表的な書“GOLDEV BOUGH”(黄金の小枝)の書き出しは、この事から始められてゐるが、それによれば、伊太利の或地方では、寺の近くの森の梢に生えてゐるやどり木に、朝日がきら/\輝いてゐるのを發見すると、今の牧師と次の牧師となるべき人と二人連れ立つて森に入り、その黄金の小枝を折つて來るといふのである。その話を總合すると、今の代の牧師は、次の牧師の爲に、森の中で殺害されるのである。さうして次の牧師が寺をつぐのである。私は澁温泉で、この話と思ひ合せて、何となくいやな感じにとらはれてゐた。ともかくも、さういふかくれた習俗は、持つてゐないかも知れないが、日本にもさういふ事があつたといふ事だけは、いはれる。即、何かの現れを、代替りの前兆だと信じたことだけは訣る。
私はほよ〔二字傍点〕には何か宗教的な意味があると思つてゐる。ふれざあ〔四字傍線〕教授の話に關聯しさうにも思はれる。ほよ〔二字傍点〕を歌つた唯一つの家持の歌では、ほよ〔二字傍点〕はお正月の物忌みの意味に用ゐられてゐる。
伊勢物語には、「睦月《ムツキ》はことたつ〔四字傍点〕」など書いてあるが、ものゝはじまるといふことは、實は繰り返し、新にかへるといふことにすぎない。
家持の歌には、正月のものが多い。一體、家持は、萬葉の末には屡、儀式の歌を創作してゐる。(527)彼は元來、短歌作者としては非常に優れてゐたが、創作動機の起る事がしきりではなかつたらしい。さうして萬葉集に殘されたものは、止むに止まれぬ創作動機からの歌ではなく、餘儀なく作らねばならぬ時の作か、文學としていはゞ練習として作つたものが多い。從つて、さういふ家持の歌には擬古的な態度が露骨で、その擬古的手法にとらはれた點がある。この儀式の歌は天子の御魂に申し上げるといふ形式である。だから儀式の歌といふものは、あらかじめ作つたものと思はれる。家持はそれを日記のやうに書き殘してゐるから、其によつて評價されるきらひがあり、さういふ創作動機は固定してゐたものだから、後世には損な立場にある。この家持の正月の歌に、萬葉集卷二十の最後の歌、
あらたしき 年のはじめの初春の 今日降る雪の いや頻《シ》け。よごと (四五一六)
といふのがある。これは天平寶字三年の歌である。今一つの歌は、
初春の 初子《ハツネ》の今日の 珠帚《タマハヽキ》手にとるからに、ゆらぐたまのを (四四九三)
これも萬葉集の末の方にある歌である。「初春の」の歌を説明する。この歌は、かつて好事學者たちの好事的興味をひいた歌である。「初春のはつねの今日」といふのは、初春らしい印象で重つて來る初めのね〔傍点〕の日といふ意味で、支那の信仰から――日本でもその日は珠帚を用ゐる儀式を行つたらしい。(この珠帚といはれるものが、今も正倉院に保存されてゐるが)、珠帚は初春のまじつく〔四字傍線〕として、魂を一个所に集中する爲(528)に用ゐたものだ。それ以上は私にも訣らないが――元來、帚を使ふ事は魂を散らすことで、旅行者の出立や病氣には、帚を使ふと魂が散るとされた。けれども正月のみは、特に帚をもつて掃き寄せるといふやうな事をしたのかも知れない。或は、舊い魂を掃きちらして、新な魂を鎭める意味かも知れない。
珠帚とは、つまり、鎭魂の行事に關係する帚は魂帚であるが、神聖なものといふ意味でたま〔二字傍点〕と言ふ辭がついてゐても差支へない。また靈的なものだから、たま〔二字傍点〕をつけて、しるしとしてゐるとも考へられる。初春の初ね〔傍点〕の日にまづこの珠帚を使ふので、それを手にとると同時に、その人の魂に微妙な働きが生ずるのである。さういふ風に、ごく神聖に考へてゐたものであらうと思ふ。私の説では、ゆらぐ〔三字傍点〕といふのは、微妙な音を發することで、たま〔二字傍点〕の音に限つてゆら〔二字傍点〕と言つた。たま〔二字傍点〕のかち合ふ音を聞くと、心に或安らひを感じたのである。玉の緒は、玉をいれた箱に一二の結び目があり、それをゆすると玉のかち合ふ音がして、その中に魂の活動が生じ、その人の身體によい魂がつくと信じてゐた。この玉の緒は命の枕詞であるが、枕詞の使用例は固定したものではなくて、段々と移つてゆくものであつた。私は玉の緒を以て命を表した例を知らないが、さう思へば思はれぬでもない例があるから、玉の緒と言つただけで多少命〔傍点〕を聯想したかも知れない。この「初春」の歌は、天子の御壽命を祝福申し上げたもので、つまり外見の美しい辭をつらねて讃めたゝへた歌に違ひない。ともかくも珠帚を使ふといふ事は、魂を身につける爲に行ふまじつ(529)く〔四字傍線〕であらうと思はれる。その微妙な刹那を詠んで、天子に奉つたのである。
次に天平寶字三年の歌であるが、これは普通の解釋では、少し混亂してゐると思ふ。これは、年の始めにかうして降りつゞけてゐる雪ではないが、非常に頻繁にくりかへされるよ。よごとは。といふ意味である。
よごと〔三字傍点〕は、吉いことゝも言はれてゐるが、實は、よい事でも、よい辭でもなく、天子の御壽命を祝福し奉る壽詞、或は賀詞、後世にいふ賀正事《ヨゴト》の事である。よごと〔三字傍点〕とは、お正月に天子をことほぎ申し上げる詞である。故に此歌は、天子に奉つた正月の賀詞にちがひない。昔は上位の人から下位の人へ下されるものはのりと〔三字傍点〕であり、下から上へ申し上げることはよごと〔三字傍点〕と言つた。よ〔傍点〕は魂のことで、魂を奉る辭といふ意味である。魂を奉るとは、その壽詞を奏すると、その壽詞のもつ威力が尊い方のお身體に這入つてゆくといふ信仰で、奉つた人は、其によつて服從することの證《アカシ》とした。奉られるその魂は、その家々の守り魂である。魂はかうして分割されると考へてゐた。天子から下されるのは、みたまのふゆ〔六字傍点〕と言つた。つまり自分の氏々の魂を奉つて、天子に服從を誓ふと、それによつて天子は御健康になられ、奉つたものは、そのお蔭で、家富み、身が榮えるといふ信仰である。
昔はかうして、宮廷の朝賀の儀式にのりと〔三字傍点〕を下されると、氏(ノ)上《カミ》がよごと〔三字傍点〕を申し上げてゐたに違ひない。ところが、日本紀などをみると、後には、氏の代表者が壽詞を申し上げるやうになつた。(530)前出の、
あしびきの 山の梢のほよとりて、かざしつらくは 千歳ほくとぞ
の歌は、家持が越中(ノ)守として、天子を賀し奉る遙拜の爲の歌だと思はれる。そのほよ〔二字傍点〕の木が、單なるものいみ〔四字傍点〕のしるしであるか、どうかは少しあやしいが、ものいみ以上に説く事は今はさけておく事にする。
何故、このほや〔二字傍点〕が神聖な行事に關係があるのであらうか。
前述のみたまのふゆ〔六字傍点〕のふゆ〔二字傍点〕といふ辭は増《フ》えるといふことだが、元來は分割を意味してゐるので、ふゆ〔二字傍点〕といへば魂を分割することである。
ほや〔二字傍点〕・ほよ〔二字傍点〕は音韻學上は、ふゆ〔二字傍点〕と同じことである。これは音韻變化といふ程のこともなく、ふゆ〔二字傍点〕は同時にほよ〔二字傍点〕とも聞え、又言つてもよいほど近接してゐたのである。ふゆ〔二字傍点〕は前述の如く、魂の分割を意味し、分割した魂は人に分け與へる事を意味する。多くは尊い魂を分割したことを意味した。「みたまのふゆをかゞふる」とは其事である。近代的にいへば、お蔭をいたゞくことである。はつきりとは斷言出來ないが、このほよ〔二字傍点〕の歌でみると、日本にもほや〔二字傍点〕のやどり木の何かの信仰があり、同時にほよ〔二字傍点〕或はふゆ〔二字傍点〕といふ辭が、繰り返しを意味したのだと思ふ。冬といふのも、春を待つてゐるといふ意味である。それから繰り返すことを意味するやうになつたのだと思ふ。
「變る」を昔はかふ〔二字傍点〕で表してゐる。正月に用ゐる榧《カヘ》の木は、もとへかへつてくるといふ事である。(531)つまり更《アラタ》まり、繰り返してくる春を待つ心で之を用ゐたのであらう。ほよ〔二字傍点〕の木は春に用ゐるものであるから、ほよ〔二字傍点〕と言ふのだと言つてよいか、又は、その物の名が「ふゆ」「ほよ」といふ音を持つてゐる爲に、その木を使つたか、この點は、今われ/\には解決しきれない。寧われ/\から考へれば、かへ〔二字傍点〕といふ名だから、ものゝかはるまじつく〔四字傍線〕の性能をもつてゐるものと見、ふゆ〔二字傍点〕は同じく、繰り返しといふ意味をもつてゐるから、そのふゆ〔二字傍点〕の木を用ゐ、その辭の能力を出來るだけ伸さうと考へたと見てよいと思ふが、さういふのは少し不安でもある。繰り返すといふ事は、新しくなるといふ事、若がへるといふことである。さうすると、三つのしのにむ〔四字傍線〕、かふ〔二字傍点〕・をつ〔二字傍点〕・ふゆ〔二字傍点〕があるが、結局は一つの意味を表すことになつた。古代人がどれほどにか、生れかはる・若がへるといふ事を重く考へたかゞ訣る。殊に新年といふ時期を、すべてがもとへかへる・生れかはるといふ心持ちで考へてゐた事が訣る。
(532) 純自然描寫の發足
昭和十九年十二月「鳥船」新集3
天平勝寶二年三月一日之暮、眺矚春苑桃李花作歌二首
春苑 紅爾保布 桃花 下照道爾 出立※[女+感]嬬 四一三九
吾園之 李花可 庭爾落 波太禮能未 遺有可母 四一四〇
見飜翔鴫作歌一首
春儲而 物悲爾 三更而 羽振鳴志藝 誰田爾加須牟 四一四一
攀折堅香子草花歌一首
物部能 八十乃※[女+感]孃等之 ※[手偏+邑]亂 寺井之於乃 堅香子之花 四一四三
家持と言ふ人は、短歌では非常に勝れた實力を持つてゐた人であるが、其長歌になると、ずつと文學價値が下つてゐる。これは單に、家持自身のせゐではなく、時代がもう、長歌の上に、此まで傳つて來た律力を失はうとする時代だつたのである。彼自身、人麻呂の風格を學び、憶良等の新しい文學感情を採つて勉めてはゐるものゝ、長歌の上では、結局擬古式以上のものにはならな(533)んだのである。古典式なものに新しい文學感情を盛つて、父の旅人等の複興しようとした點を、家持もうけ繼いで作つて來てゐるのであるが、今まで彼の作物を批判する人々の中には、家持は文學的素質の薄い人で、即興式に歌の出來なかつた人の樣だ、など言ふ向きもあるが、其は餘り考へなさすぎる。彼の作品のうち、大體宮廷に奉る樣な公向きの歌は、眞面目な心構へから、豫め前以て、製作しておいたものであつた樣である。併し、此は家持の今一つの方面を深く見定めずに言つてゐるので、此と別な方面に、彼獨自の文學感情の深い優れた作品の、ある事を考へねばならぬ。萬葉集の中でも卷十七以下は、家持の日録の中の拔き書きの樣なもので、歌の出來た動機もはつきりとしてゐる。これ等をしみ/”\と味つて、家持の歌に對する、在來の考へ方をかへて欲しい。
初めの二首は、天平勝寶二年三月一日の日暮れに、春園に、桃の花の咲いてゐるのを見て、作つてゐる。三首目の鴫の歌も同じ日の作である。――天平、この頃ぴ〔傍線〕音があつたか、なかつたかは、未だ訣つて居らぬ。こゝでは濁音によんでおく。
春の苑。紅匂ふ桃の花 下照る道に、出で立つ處女《ヲトメ》
〔口譯〕 春の畑。そこに紅はで/”\しく咲いた桃の花。その下かげのあか/\と反射してゐる道に、出てゐる娘よ。
かう言ふ歌を見ると、我々の所謂調子の感じ方など1、殆、交渉のないものゝ樣な氣がする。一(534)體、萬葉時代の歌には、無内容で而もたゞ、調子一つによつて、生命のある歌がある。歌自身には、思想内容と言ふよりも、もつと素朴に、ほんとうに意味もないが、調子が歌に絡んでゐる處から、感情が明らかに出て來て、其だけで凡、十分と言ふべき内容が出來て來る。其又調子に育てられて、歌全體の氣分の豐かになつて來てゐるといつたものが多い。ところが、この歌など、さういふことゝ、ちつとも關係のない歌なのだ。而も散文風でもない。又、人麻呂などの作り出す調子とは、凡變つた内容の出てゐる歌である。この樣なものになると、家持が、或繪畫を、詞で描かうとしてゐるやうに見える。そんな點から言ふと、家持には、繪模樣を歌に詠み出して見ようと言ふ試みを持つてゐたのかも知れぬと思はれる樣なのが、ぽつ/\ある。「出で立つ」は、そこまで出向いて行つてゐるといふ事なのだから、桃の花の下照る道に、わざ/\出て來てゐる娘、それを、歌に爲《シ》立てゝゐるのである。かういふ歌の作れるに至る價値觀は、萬葉集の、いまゝでの歌には、見られなんだものである。これと同じ樣に、次の歌、
わが園のすもゝの花か、庭に散る。斑雪《ハタレ》のいまだ、殘りたるかも
〔口譯〕 うちの畠の李の花が、畠の庭に散つてゐるのか。それとも、春の殘雪がまだ、畠に殘つてゐるのか。
この歌になると、すもゝの花を言つてあるのか、殘雪を言つてゐるのか、その主眼となつてゐる(535)ものが、論理に拘泥すると、却てわからぬ。我々から言へば、李《スモヽ》の花も散つてゐるし、殘雪も殘つてゐるのを見てゐる。兩方とも詠んでゐるのだ、としか思へぬところがある。併し、今までの歌の解釋例からすれば、どつちかへ片づけたいところである。歌の習慣として、あとの方に重みがかゝつてゐる筈だから、斑雪の方が現實で、李の花は咲いてはゐるけれど、散つてゐぬのだと言ふことも言へる。併し又逆に、李の花があまりまつ白だから、殘雪の樣に見えるともとれる。だがそれは、後代風の考へ方であつて、正しい説き方とは言へぬ。ともかく、この歌では解決がついてない。恐らく家持も自身で判斷つけず、きつぱりした解決をつけてゐぬのだらう。だが、古風な私の解釋は、家持としてはどちらかを譬喩にしてゐるのだと思ふ。
かう言ふ類型は、萬葉自身にも幾らでも出て來る。だが、此歌自體はまだ類型の尠い昔のことだつたから、この時代では清新な作品だつたのである。何方とも、兩方に考へて見るのもよいだらう。それよりもこの歌には、も一つ、家持の見てゐるところよりも、感觸式なところを出してゐることに注意したい。李に光線の照つてゐるところ。殘雪にあたつてゐる光線。繪描きは雪を眞白には描かぬ。何か澄んだやうな、深く流れるやうな色合ひを感得する。つまり、李の花の色と、殘雪の色と、我々の見てゐるところより、もつと光線の洩れ徹《トホ》つてきたその色を、深く感じてゐるのである。それでなくては、こんな歌を作る必要はない訣だ。かつて赤彦の賛めた、傳人麻呂の作、
(536) みけむかふ 南淵山の巖には、ふれるはたれか 消え殘りたる
斑雪《ハタレ》の歌には、疑問のものが多い。この歌、「か」を疑問の助詞とすると、殆、無内容の歌となり、「か」を疑問にせぬと、もつと單純になり、同時に淡すぎるのである。此等には、もつと何か知らん、我々に感じられぬものがあるのであらう。「斑雪のいまだ……」こゝに彈力がある。單純ではあるが、きつと斑雪と言ふものが、何か別の意味を感じさせるのではないか。こゝに、内容がこもつて感じられるのではないかと思うてゐる。この歌は調子のたつてゐるものだが、併し却て、こんな歌は、調子の低い方がよいのである。調子をなくすることは出來ぬが、この歌の如きは、我々の心を躍らせる、胸にひゞく樣な調子を、一まづ遠ざける事が必要だ。いつそもつと調子のない方が、この風の歌としてはよいのである。
鴫の歌でも、題から見ると、とび立つ鴫を見て作つた歌だ。だが内容から見ると違ふ。萬葉集では、この樣に往々、題を離れて考へねばならぬのがある。即、その内容と、ことば書きとに違ふところがあり、原文の「見2翻翔鴫1作歌一首」の「見て」と言ふところは、文章の上だけのことで問題にならぬのである。
春まけて 物悲しきに、さ夜更けて、羽ぶき鳴く鴫 誰《タ》が田にか棲む
〔口譯〕 春を待ちつけて、何となく悲しい心に、夜がふけて後、羽をぶる/\いはせて鳴くところの鴫は、どこのうちの田に落ちつくだらうか。
(537)以前、羽根をぶる/\して鳴いてゐるあの鴫は、どこの家の田にゐついてゐる鴫か、と譯しても 見た。感情の點から言つて、どうもこの方がよいかも知れぬ。さうすると、「見る」と言ふことゝいよ/\關係がなくなつてしまふ訣だ。春を待ちまうけてゐた、その春に行き逢つたことが即「春まけて」である。ところが何となく、もの足らずなつて來るものである。その訴へたい樣な氣持ちを「物悲しきに」と言つたのだ。「羽ぶき」は、「鴫の羽掻《ハネガ》き。百羽掻き」などいふ、飛び立つ時の、多くの鴫のぶる/\羽振ひする音である。「羽ぶき鳴く鴫」は澤山の鴫の飛び立つ響きで、靜かな夜に立つのであるが、飛んで來ると言ふ事は、この語では出て來ぬ。
それにしても「鳴く」と言ふところは、無反省に作者の作つてゐるところである。家持が、これを省略《ハブ》くことが出來たとすれば、もつと優れてゐたのだが、鳴いて飛んで行くのなら、どこの田に落ちつくのかとなる。繼續を表すなら、あの鴫の羽をぶる/\させてゐる鴫は、どこの田にゐついてゐる鴫であらうかとなるのだ。さうすると、題の意味とは一致しなくなるのである。
これなどで見ても、夜鳥が鳴いて目がさめるとか、鳴く爲に、妹(或は家)が思はれる……など、夜の歌でよい歌の多い萬葉集のうちでも、又別の趣きの出てゐる歌である。作者は、鳥が鳴いて、心を動かす以前に、何か感じて、心が悲しんでゐるのである。物悲しいといふことは、普通ならばこんな場合に、鳥が原因となり、結果として出て來るのであるが、この歌は、さうではなく、春まけて悲しくなつてゐる心へ、鳥の鳴くのを受け取つてゐるのである。どうも家持の作品には、(538)こんなところに、其までのものと異つてゐる趣があるのである。この私の話のうちから、もつといろ/\な方面を考へて行つて欲しい。
ついでに二日に作つた歌が九首載つてゐる。「堅香子草の花を攀折する歌一首」、かたかご〔四字傍線〕、は今のかたくりである。かたこ〔三字傍線〕といふゆり〔二字傍線〕、かたこゆり、といふところから、かたくり〔四字傍線〕と言ふ語が出た。
ものゝふの 八十處女《ヤソヲトメ》らが※[手偏+邑]《ク》み亂る寺井が邊《ウヘ》の かたかごの花
〔口譯〕 大勢の娘達が、くみ散らかすところの、寺の泉のそばのかたくり〔四字傍点〕の花よ。
ものゝふの〔五字傍線〕は、八十の枕詞。我々には古典式に感じられるが、果してこの當時でも古典風な使ひ方であつたのか、それとも現代風に感じて言つてゐたのか、その點になると不明である。でも、彼が古典式に言つたものと見れば、娘たちを古風に感じて作つてゐる氣分はわかる。かたかごの花まで一緒に汲むから、汲みまがふとなるのだともとれるが、こゝは「くみゝだる」でいゝ。但、「亂」にまがふの訓はある。――「わが岡に、盛りに咲ける梅の花。殘れる雪に亂鶴鴨《マガヒツルカモ》(萬葉集卷八)」。澤山の處女たちの水汲みにうち寄る寺の泉のそばに、かたくりの花が一ぱい咲いてゐるといつた、この歌詞以上には、なにも言つてゐぬ。ほんのかたかごの花のことだけ言つてゐるのだが、その調子で結局、この歌の效果も、前の春の園の歌と同じ繪模樣に近い興味を與へてゐて、從來の萬葉のものとは違ふ味ひを出してゐるのである。
(539)平安朝になると、屏風の繪などを歌にうたつてゐるが、優美でみやびやかな調子が、かへつて繪としての印象をなくしてゐるのを感じる。繪畫風に表現するなら、どうしても、この家持の處から出發し直さねばならぬ。ともかく、繪心を持つた歌のはじめといふべきである。
家持のかういふ繪畫風に作る爲には、かうするより外に爲方がなかつたのだらうが、どうしてこんなに調子の立たぬものを考へ出したか。ともかくも、變つた傾向を出して來てゐる訣である。しかし變つて來たといふことは、文學の上では、ある點よいことになる。文學は類型をきらふ。この點、家持の歌は變つて居り、印象のはつきりしてゐる點、一つの進歩を見せてゐる訣である。この話は、もつと續けねば、本筋にはひらぬ訣だが、今日はこれで止めておく。
(540) 萬葉集の民俗學的研究
昭和九年十二月十六曰、上代國文研究會講演
昭和十年五月「上代國文」第二卷第一號
問題が餘りに大きすぎるやうな氣もしますが、早急で良い思ひつきがなく、大きい問題ならば、それだけ片がつきさうなので、そのつもりでお話したいと思ひます。
萬葉集は私の見るところ、最健全な發展をとげてゐる學問であると思ひます。字句の解釋にしても非常に細かくされ、大ざつぱな研究の爲方がありません。亡くなられた生田耕一さんなどは、非常に細かな點にまで注意を拂はれてゐたやうでありました。これは猶、將來も續けてなさるべきことでありませう。私はいま「源氏物語全講會」をやつてをりますが、源氏物語は割合に早くすみます。しかし萬葉集は無限といつてよい位、片がつかないのであります。萬葉集は、つまり問題がありすぎるのです。私も萬葉集の研究は久しくやつてをりますが、量的にはやつてゐますが、一向に飛躍がなくお恥しい次第です。國學院では武田祐吉氏が講義をされてゐますが、そのほか、どんな方でも本道に研究を積んだ人には、萬葉集の講座を私はゆづりたいと思つてゐます。いつたい私は、萬葉集は大好きなのですから、これからも心むなしくせず、良い研究をしたいと(541)思つてをります。
今日題に出してあります「萬葉集の民俗學的研究」ですが、考へて見れば、こんな研究とは限らない訣で、つまり萬葉集の本道の姿が出て來れば良いのですが、どうしても人間は形に拘泥するし、又一方から言へば、それを考へることは便利でもありますので、私としても完全な意味で民俗學的にみる意味ではなく、いはゞ民俗學的研究の利益とでもいふものを、お話してみたいと思ふのです。萬葉集の研究方法については、常々森本さんから聞いてゐられると思ひますが、歌そのものに即した研究以外に、その歴史的背景の研究があります。これらのものに對して、民俗學的の研究を考へて見たいのであります。萬葉集を歴史的に見る立場が、唯今までに先輩同輩の研究に澤山あります。それらが安心して見られるか、どうかについて、お話したいのです。譬へば大和三山の歌、或は額田王の「あかねさす紫野ゆき」の歌、そんな歌を見て、これが壬申の亂の原因をなしたものだと普通見てゐる。萬葉集の價値はそこにある、こんなでりけいと〔五字傍線〕な氣持ちは外のものでは訣らない、などゝ言はれてゐるが、これはとんでもない事で、あの歌から、そんな氣持ちは到底うけとることはできません。又そんな筈がないのであります。歴史的な見方といふものは、理由がありさうで案外あやしく、時代の姿を無視してゐる事が多いのです。十市皇女が伊勢に赴く時、吹黄刀自の歌、
河の上の五百箇磐群《ユツイハムラ》に 草|生《ム》さず 常にもがもな。常處女《トコヲトメ》にて
(542)でも、橘守部はこの皇女は伊勢へ行つて歸つてから宮中でなくなられたが、これは自殺だとみてゐる。ちやうど草双紙をよむやうな見方です。十市皇女が自殺の樣子があるので内々警戒してゐた、それであの歌を吹黄刀自がよまれた、と守部は考へたのでせう。これは江戸時代の學者の歴史觀にすぎません。十市皇女が俄かに亡くなられたから、といつて自殺とは限らない。昔の人も貞操觀念に變りはありませんが、果して自殺しようとなされたかどうかは疑問です。當時の人々が、そんなに考へたかは訣りませんが、私は寧、疑ふのです。或點で人にすぐれた女性は、その人氣が定まれば美女とされるのです。つまり額田王にしても、美人といふ、顔の美しい以外に、その當時の人にせんせいしよん〔七字傍線〕をまきおこす何かゞあつたのでせう。私の教へ子が郷里に歸ると鈴木傳明みたいだと言はれるさうです。傳明に似てゐる所から、美男子ではないのに美男子だと言はれる。私は傳明をよく見たことはありませんが、それ程美男子ではないやうです。併し彼は役者だから、美男子だと思はれるし言はれるのです。額田王はどんな方かわかりませんが、きつと容色以外に美人たる資格があつたかもわかりません。ありふれた、どこにもゐる普通の女性であつたかも知れないのです。萬葉集に現れてゐる戀愛は、そのやうな簡單なものであつたのかも知れぬと思はれます。それなのに、その場合に限つて、その樣なわだかまりが起つたとは考へられません。それは確かに江戸時代の學者の美しい小説化であります。
秋の野のみ草苅り葺き 宿れりし兎道《ウヂ》の都の假廬し 思ほゆ
(543)の歌でも、我々の友人は、大海人皇子が吉野にこもられた時、額田王も吉野へ皇子を送つてゆかれたのであらう、その時かう歌はれたのであらうといふが、それは仲々うまく合理化してゐますが、併し此は江戸時代の人の小説化の、又その上に立つてゐる見方であります。昔の人には戀愛事件は、それほどたいしたものではない、といふことだけは考へねばなりません。さうしなければ歌が重苦しくなるのです。
あかねさす 紫野行き標野《シメヌ》ゆき 野守は見ずや。君が袖振る
此歌でも極輕く作られてあるものを、いかにも重苦しく考へます。逢引きなどゝみるのはをかしいと思ふ。つまり歴史觀といふものは、なんでももの〔二字傍点〕を合理化しやすいもので、一方合理化とは不自然の替へ名みたいなものです。とにかく人間は歴史を合理化しよう、合理化しようとする。我々が一寸でも歴史に觸れると、心が急に敏活に動き出す。萬葉集が記・紀の一部分に觸れると、急に我々の心が動き出すのです。左註を見ますと、いろ/\とくはしく書かれてゐる。譬へば、軍王の存在を論證するために、日本紀の記事をもつて來る。それはさうしなければ他により所がないからです。併し一方、疑ふ事も出來るのです。所が左註が眞面目に書いてあるだけ、考へさせられるのです。我々は此樣に、出來るだけ合理化しよう、歴史化しようとしてゐる、又出來ると信じてをります。處が實際は出來ない事が多いのです。第一に、萬葉集にいかにも歴史上の事實らしく書いてある事自身が、その歌と詞書きとに交渉がない事が多い。歌が記録されるまでに(544)は、永い間口誦されてゐた時代がありましたらうし、そんな訣で詞書きと歌との關係は第二次的なものになつてしまふのです。其を無視して、無理に合理化して我々は解いてゐる。ところが歌と詞書きとは矛盾だらけなのです。此事は決して私が意地が惡い訣でもなく、偶像破壞者でもありません。一字一句をこまかく解いてゆくと、歴史的に確實性のあるらしいものほど、あやしくなつて來るのであります。他に據り所がないから、詞書きに依つて解いてゆく、併し或點に至ると、その足場が自らくづれ出してしまひます。
藤原京より寧樂宮に遷りませる時の歌
天皇《オホギミ》の 御命《ミコト》かしこみ、柔《ニキ》びにし 家を釋《ス》て、隱國《コモリク》の 泊瀬の川に、船浮けて〔九字傍点〕、吾がゆく河の 川隈の 八十隈おちず、萬度《ヨロヅタビ》 かへりみしつゝ、玉桙の 道行き暮らし、あをによし 奈良の京の 佐保川に、いゆき至りて〔あ〜傍点〕 わが寢たる 衣の上ゆ、朝月夜 清《サヤ》に見ゆれば、栲《タヘ》の穗に 夜の霜降り、磐床と 川の水凝り、冷《サ》ゆる夜を、息ふことなく 通ひつゝ、作れる家に、千代までに 來まさむ君と、吾も通はむ
の歌は、地理的には決して其樣に歌へる訣がありません。又、
天雲の 影さへ見ゆる 隱口の 長谷の河は、浦無みか〔長〜傍点〕 船の寄り來ぬ。磯無みか〔四字傍点〕 海人の釣せぬ。よしゑやし 浦はなくとも、よしゑやし 磯は無くとも、おきつ浪〔四字傍点〕 きほひ榜入り來。白水郎《アマ》の釣船
(545)この歌の、大和の泊瀬に「浦無みか」とか「磯無みか」とか、或は「おきつ浪」「白水郎《アマ》」とか詠んでゐる、我々は非常にうろたへさせられてしまふのです。同時に考へさせられるのです。どうも歴史的事實の統一をさまたげるものがあるのですね。それを私は古い歌を燒き直して歌ふのではないのかと思ふのです。口から口への傳誦による簡單な歌が、社會の複雜化するにつれて、その簡單な唱へ方の意味の妥協が、いつのまにか段々こはれて來る。昔のまゝの唱へ方では意味が通らなくなつて來るので、その所一部分だけを變形する。又しばらく歌はれてゐる中に、更に、一部分を訂正しなければならなくなつて來ます。それが何度かくり返されてゆく中に、矛盾だらけになつてゆくのです。一部分々々々の訂正が、いつのまにか矛盾だらけのものになつてゐる。だから我々も、其樣に歌には矛盾が多いものである事を知らねばなりません。つまり歌自身も、その歌の作られた時から、時をふるにつれて合理化されてしまふのであります。
また此處に歴史的にみることの出來ぬものがあります。譬へば作者の傳記であります。柿本人麻呂の傳記は、齋藤茂吉さんが熱情的にやつておいでゞすが、今そのお爲事を離れて言ひますが、萬葉集の中の人麻呂は、我々がどう考へても、どう纏めても、この人だけだといふ人麻呂(一人の)と、傳説的な人麻呂(集團的な)の二人が數へられるのです。皆さんはこれをきいて、きつと私の言葉に不安を感じられることでせうが、昔の人でも合理化して、ものを考へる性能を持つてゐたのです。こんな歌がある、どうも人麻呂の歌らしい、いやそれに違ひないだらうといふ考(546)へ。口の上で歌があやつられてゐる時代は、歌も作者も浮動してゐる。それが人麻呂といふもので整理されてしまふのです。
歌は作者がそれを傳へない。天子のお言葉とは、お側のものゝ言葉であります。又さういふものでなければ、天子の御言葉ではないのであります。一人稱で敬語を使つてをります。それを誰も怪しみません。むしろ當然だと思つてゐます。發想法が非常に複雜なのです。宣命などよい例で、天子が言はれたのかどうか訣らない樣なもの〔二字傍点〕の言ひ方があります。萬葉集卷十九に、藤原仲麻呂の家へ孝謙天皇と光明皇太后が行幸なされた時、仲麻呂と陪從の大夫達に、澤蘭に託して賜つた歌がある。其を取り次いだのが佐々貴(ノ)山(ノ)君といふ女性です。その歌を見ると、天皇の歌か皇太后の歌か訣りません。これは一つのかたまり〔四字傍点〕として考へてゐるのです。どなたがおつしやつても同じなのです。恐らくは佐々貴(ノ)山(ノ)君といふ女性が歌つたものに違ひありません。
この里は、繼ぎて霜や置く。夏の野に吾が見し草は、もみぢたりけり
の歌、このやうな歌には必、祝賀の意味が這入つてをります。身分の上の人が、低い方へ祝賀を述べる事はないのでありますが、とにかく其家が幸福であるやうに祝福してゐる。我々の立場から言ひますと、一番不安なことは、萬葉集には饗應《アルジフルマヒ》の形式が非常に多いことです。卷十七・十八・十九等にはとりわけ多い。
あらかじめ 君來まきむと知らませば、門にも屋戸にも 玉敷かましを (門部王)
(547)といふ歌がありますが、これに對して榎井王の歌があります。
玉敷きて待たましよりは、不意《タケソカ》に來る今夜し 樂しく念ほゆ
偶然來て、却て愉快だつたと、このやうに饗應の歌には、人の意表に出る歌が非常に多いのであります。まれびと〔四字傍点〕は、其家に幸福を與へると考へられてゐますから、我々からみれば祝賀する樣に見えます。前にのべた、「この里は、繼ぎて霜や置く」などの如き霜の歌に、祝賀の意味が多分に含まれてゐます。霜がふるともの〔二字傍点〕が赤くなる、收穫が出來るやうになる。色をかへるのです。それは健康さうなしんぼる〔四字傍線〕でもある。それを霜がする。即この歌には、幸福を與へようとする企てが見られます。併し萬葉集の歌をそんな樣に見ることが、決して民俗學的の研究とは限りません。そんな事は、少し敏感な地方生活者ならば訣ることであります。たゞ我々がすぐに訣らぬだけなのです。その樣な時、僅かでも、日本の民俗學的な考へ方では、霜をどのやうに考へてゐたかと考へて來ますと、その歌の意味が訣つてくる。佐々貴(ノ)山(ノ)君の歌を、そのまゝ理會しようとするのは無理な話です。十市皇女の死を自殺と考へる解釋と、同じ事になつてしまひます。とはいふものゝ歌の解釋は、まづ字句・言葉そのものゝ意味から出發せねばなりません。或ところまで言葉そのものゝ意味を知る、だが何を意味してゐるか、はつきり訣らない場合がある。そこで始めて語句以外の解釋の方法が這入つてきます。だから民俗學的方法といつても、歴史學的方法といつても、それらは、いはゞ第二次的のものでなければなりません。
(548) わが戀は、千引の岩を七ばかり 首にかけむも、神のもろぶし (大伴家持)
かういふ種類の歌こそ、民俗學的に働きかけねばならぬものです。柳田先生・山中さんなどは、この歌を婦女子は神と一處に寢るものゝ例として引かれますが、言葉・語句の意味が訣らないから結局訣りません。民俗學の對象になるには、もつと形がきまつてからでなくては駄目なのです。形がきまつたならば、そこで始めて民俗學が働きかける。萬葉集には民俗學から見ますと、いろ/\な民俗學的類型がありますが、いつも民俗學は始めから〔四字傍点〕歌を解釋しかけるものと思つてはなりません。卷一の初めの歌、
籠もよ み籠もち、〓もよ み〓もち、この岳に菜摘ます兒。家告らへ。名告らさね。そらみつ 大和の國は、おしなべて吾こそ居れ。敷きなべて吾こそ坐せ。吾こそは告らじ〔三字傍点〕。家をも名をも
の歌に於て、告らじ〔三字傍点〕よりも告らめ〔三字傍点〕の方が良いので、疑ひは持つ必要はありません。昔の結婚は相手の名を聞き出せれば、それで第一の條件が出來るので、其で夫として認められたのですから。殊に記・紀に出て來るやうな女は、大概種姓の正しいものですから、他の國の男と結婚するのは、自分の國の神に背く事になるから、夫から逃げるぐらゐの話は、いくらでもある訣です。そんなものですから、天子でさへも、「吾こそは告らじ〔三字傍点〕」などゝは言はれないと思ひます。又、「吾こそ居れ」といはれてゐるのですから、告らじ〔三字傍点〕ではありません。この樣な意味の訣りきつた歌から叩(549)き鍛へてゆくことです。その中に民俗學的な類型の竝べ方が訣つてまゐります。萬葉集で適切な歌を思ひ出せないから、伊勢物語から借りて來ませう。伊勢物語の歌は仲々興味があります。それはこの邊の歌になると、歌が出來上つてから非常に時代が經つてゐるからです。萬葉集は型がまだ定りきらぬ時代でしたが、時代がそれ以後になると、ずつと傳説的になつて來ます。
大原や 清和井《セガヰ》の水を、結びあげて、あくや と問ひし人はいづらぞ
の歌は、神樂歌の、
大原や 清和井《セガヰ》の水を、ひさごもて とりはなくとも、あそびてゆかむ
と、
白玉か 何ぞ、と人の問ひし時、露と答へて、消なましものを (伊勢物語)
の歌の二つのものが、歌はれてゐるうちに、どうかして意味に貪著なく變つてしまつたのです。この二つのものは歌の言葉は違ひますが、型式と發想の類型は同じものなのです。
私はこの頃|饗宴《アルジブルマヒ》の歌を調べてゐますが、これは大變意味が廣いやうです。家をつくる時、旅・祭りの時、何でも歌はれます。今、旅の歌についてお話致しませう。旅の歌には必、魂の不安を根柢に感じてをります。すぐに紐が歌はれて來ます。
淡路の 野島が崎の濱風に、妹が結びし紐、吹きかへす (柿本人麻呂)
の歌、これをすぐにえろちっく〔五字傍線〕な意味に解かれるが、それは必しもさうではなく、魂を結びつけ(550)る紐を意味してゐるのです。紐を結ぶと家人(特に妹)の魂が、そこに宿つてゐる、同時に旅人の魂の一部も家に殘つてゐる。妹の魂を持つて行くのが紐であるから、始終懸念してゐるのです。
難波津にみ船はてぬ ときこえ來ば、紐解きさけて、立ち走りせむ (山上憶良)
の歌もえろちっく〔五字傍線〕に見えますが、之も魂を迎へにゆくものと思ひます。一つのまじっく〔四字傍線〕です。山部赤人などの或歌には、一種の細い凄みが出てくる。之は歌の歴史が夜を通つて來たからです。
ぬばたまの 夜の深けぬれば、久木生ふる清き河原に、千鳥|數《シバ》なく
の歌で、「ひさぎ生ふる河原」を赤人が見たか見なかつたか、私は其を見なかつたのだと思ひます。それは晝間の經驗を繰り返したのです。
われのみや、夜船は漕ぐ、と思へれば、沖邊のかたに、かぢの音すなり
でも、夜の歌は特別な調べをもつてゐます。外にもあるかも知れませんが、日本の文學の開けてゆく道に、こんなものがあるのは、甚突然のやうに見えますが、民俗學の方から見れば、これは不思議でもなんでもない。夜になると鎭魂〔二字傍点〕をやるのです。その時に生れる歌は、調べが自ら沈まつて、細かい一種の凄味が出てくるのです。
玉藻苅る沖邊は漕がじ。敷妙の 枕のあたり 忘れかねつも (藤原宇合)
「枕のあたり忘れかねつも」は目の前にちらつく事です。其は旅での鎭魂の歌であります。夜船を漕いでゆくのが、どうもちら/\する、沖へは漕ぐまい、と不安の歌なのであります。
(551)此樣に考へてゆくと、今迄はつきりせぬ歌の意味が訣つて來る。歌は一つの民俗として發達して來たのですから、民間傳承のうちに文學となつて來ました。歌は面白いからではなく、魂を貯藏出來るものと思はれて傳承されたのです。其樣な信仰をもつて傳へたから、ほろびなかつたのです。口頭に傳承された歌が、段々文學に近づいてくる。これを口誦文學と言つてよいでせう。そして或時期に到つて、文字に記録されましたが、永い間口に傳へられた口誦の歌は、記載文學とは別に、口承文學として發逢してゆく。お互に影響し合ひ、變化しながら。かく考へてきますと、歌そのものが民俗そのものゝ姿として、生長し來つたものですから、民俗學的な考へを除けては、歌そのものが訣らなくなる訣です。だから、どの側からみても、民俗學的な理會を一つでも餘計に考へることが大切だと思ひます。前に申しました歴史觀が、とんでもない小説を作りやすい事をいましめなければいけません。民俗の間で育つた歌、萬葉集は或處は民謠で、或處は文學にならうとしてゐる時の歌なのでした。人でいへば赤人・旅人・家持など、或程度までは文學的な態度をとつてゐるが、その背後には、まだ/\古い姿がほの見えるものです。とにかく、民間傳承的のものから出發して、それを離れて、文學へ行かうとする、その過渡の色彩が強いのですから、その理會のために、萬葉集をよむには、絶えず民俗學の方法を考慮に入れて頂きたいと思ふのであります。
(552) 萬葉集と民俗學
昭和二十七年五月三十一曰、上代文學會講演。昭和二十九年「上代文學」創刊號
「萬葉集と民俗學」といふ題は、非常に關係が深さうですが、強ひて關係づけるとつまらなくなります。そこで、今日は一つの事項に就て申し上げてみませう。
民俗學の最古い問題の一つで、今では大變に變化して、いろ/\の段階を示してゐるものに、道祖神の信仰があります。此信仰は、日本中に行き渡つてゐるやうで、實は、濃淡があります。だから、道祖神を知らない處もあれば、又、同じく道祖神と言つても、別に關係のないものを關係づけて、道祖神と言つてゐる事もあるやうです。只今の研究者は、これらを皆、一つのものだと考へて居りますが、今のうちは、其考へでもよいでせう。古今集あたりを見ますと、あの古い時代に、そろ/\道祖神の歌が見られます。
たむけには ひつり(ィつゞり)の袖もたつ(ィ截る)べきに、紅葉にあける 神やかへさむ
たむけ〔三字傍点〕には、二つの意味があります。たうげ〔三字傍点〕(峠)といつた場所が、たむけ〔三字傍点〕であると同時に、其處に祀られてゐる神――でもん〔三字傍線〕・すぴりっと〔五字傍線〕と言つた靈的なもの――に供へものをすることが、(553)たむけ〔三字傍点〕でもあるのです。かうした峠の神に供へものをすることを、たてまつる〔五字傍線〕・まつる〔三字傍線〕とは言ひません。ひつり〔三字傍点〕は、昔の僧侶の纏つてゐた粗末な衣――表も裏も同じ著物――です。漢字で書けば直綴で、それを日本語でひつり〔三字傍点〕と言ひます。一首の意は、峠の神の手向けとしては、直綴の袖を截つて差上げてもいゝのだが、此處にいらつしやる神は、紅葉の錦で滿足していらつしやるから、つき返されるだらうといふので、さう解釋すると、文學的ではありませんが、前代の生活が、緩やかな、長閑な感じで這入つて來るのを覺えます。昔は、山の峠にものを手向ける神が居た訣で、此處を越えてゆく旅人が、その著物の袖を差上げる風習があつたのですが、此歌では、其神は贅澤だらうと想像してゐるのです。さうした處にゐる神は、ものを欲しがるものと、人間が考へてゐました。人間がさう考へてゐたのですから、神が欲しがるのは事實です。其が手向けの神の信仰です。中世から今に到るまで、さうした事を信じてゐる人は、澤山ゐます。
田舍へ參りますと、坂口で躓き仆れると、一年以内とか、三年以内に死ぬと言ふ處があります。其時、著物の袖を剥いで置いて來る習俗があり、其神を袖もぎ樣〔四字傍点〕と稱してゐます。これは、袖もぎ樣〔四字傍点〕といふ神が、袖を欲しがるものと考へ、神の意思をはかつて、人間が袖を截る訣です。此神は、彼方此方にあつたのですが、今では、山の中へでも行かなければ、殆、見られません。恐らく、神が著物――袖は著物の一部分であり、その代表――を催促するのだといふ風に、昔の人は、神の意思を推し量つてゐるから、袖だけをちぎつて上げたのですが、今なら、袖だけでも上げな(554)いでせう。長い道を旅してゐる人が、切《キ》り幣《ヌサ》を用意して、峠とか山を越える時、それを撒いて通つて行つたもので、幣袋《ヌサブクロ》に切《キ》り幣《ヌサ》を容れたといふ事は、よく聞いて居られるでせう。
ところが、さうした處にゐる神は、著物ばかりではなく、何でも欲しがるのです。峠・坂以外、譬へば、海の渡り場を船で通る時でも、其海峽に神がゐて、船にものを要求し、船の顛覆しさうになつた時、大事なものを海中に投じて、渡りの神の機嫌を取り結ぶ訣で、中には、女を投じたといふ言ひ傳へ迄あります。それは、神が何でも欲しがるといふことです。旅に出た人間の通らねばならぬ處が、峠であり、海の渡り口であり、海峽であり、其處にゐるでもん〔三字傍線〕・すぴりっと〔五字傍線〕といつた精靈が、ものを催促するのです。先に申しました歌は、古今集に見えるものですが、萬葉集にも相當あります。東歌の相模國の歌に、次のやうな歌が見えます。
足柄の御坂かしこみ、くもりよの 我がしたばへを言出《コチデ》つるかも
くもりよの〔五字傍点〕は、したばへ〔四字傍点〕に懸る枕詞で、自分の心に深く擴つてある戀心が、したばへ〔四字傍点〕です。その思ひを口に出して、さんげ〔三字傍線〕(懺悔)したといふことです。昔からさんげ〔三字傍線〕といふことを言ひ、山に登つて行をして、神に言ふのがさんげ〔三字傍線〕で、近年ではざんげ〔三字傍線〕と濁つて言つてゐます。今まで言はなかつたことを口に出すのが、言出づ〔三字傍点〕なのです。足柄の御坂〔五字傍点〕は、坂の敬語で、同時に坂の神を言ふ訣で、足柄峠の神の恐しさに、とう/\思ひを口に出したことよ、の意となります。つまり、道の神にどうしても、ものを獻上して通らねばならぬ信仰の見られる歌で、此場合は、心の底で思(555)ひつめてゐる事を告白したといふので、着物の袖などの物質的なものに較べて、抽象的ですが、かうした道の神に對する信じ方もあつたのです。人間のものを欲しがる道の神を、田舍の人は考へてゐたし、又、旅行者もさうした信仰を持つて歩いてゐたので、自然、この恐しい神にものを手向けて、その前を無事に通して貰はねばならなかつたのです。それが後には形式化して、着物が袖だけになり、更に幣《ヌサ》となり、切《キ》り幣《ヌサ》になると言ふ風に簡單になつて行つたので、さうした話は範圍の廣い話なのです。凡、道祖神の信仰とは縁の無さゝうな萬葉集のあちらこちらに、かうした信仰の見られる點を考へていたゞきたいと思つて、此話を出して見ました。
萬葉集で名高い有間皇子の歌に、次のやうなのがあります。
磐代の濱松が枝を引き結び、まさきくあらば、復歸り見む
磐代の濱に生えてゐる松を引き結んで、かうして神に頼んで置くが、その效果が現れて、萬一自分が健康であつたなら、まう一度あなたの前を通つて行きませうと言ふ歌になります。有間皇子が、紀伊の牟婁の温泉――海寄りの白濱温良とも、山寄りの本宮温泉とも言ふが、どちらか不明。多分、前者で、鉛山温泉あたりと思はれるのだが――に召された時、その途中の海岸にある磐代――此處は崖になつて居り、明治前までは崖下の道を通つたが、現在では崖の上を通つてゐる――の道の神に、供物を手向けて通つた時の歌です。單に松の枝を結んだと言ふだけでは、空虚な話ですが、實は、其處には、靈的な一種のまじっく〔四字傍線〕が秘められてゐるのです。つまり、人間の持(556)つてゐる靈魂の一部分を取り出して、一種の方法で、其を松に結び附けると言つた、當時の咒術的風習が、其處には窺はれるのです。神にものを獻上する時は、木の枝に結び附けるのが普通で、昔の人は、さうして通つた訣です。「無事にまう一度磐代を通るやうにしてくれ」と願つた御利益があつて、有間皇子は、まう一ぺん磐代まで立ち戻られ、其處を過ぎて後、藤白坂で縊り殺されました。牟婁の温泉で、天子に逢つた後、再び磐代まで戻り、其處を過ぎて殺されたと言ふことは、神との約束を神が守られた訣で、さうでなければ、意味がありません。笑ひ話みたいに聞えるかも知れませんが、此處には、神の權威を信じてゐた昔の人の考へが見られる點を、忘れてはならないと思ひます。この歌には、うつかり考へると、道祖神信仰は無い樣に思はれるのですが。ところが、皇子の死を追悼して、後に作られた集中の歌は、
磐代の野中に立てる結び松、心も解けず いにしへ思ほゆ
など、一向、道祖神には觸れて居りません。それが更に、平安朝になると、結び松〔三字傍点〕は歌の題になつて居り、そんな神のゐた事は、すつかり忘れてしまつて居ります。つまり、面白いてま〔二字傍線〕に捉はれて、興味の中心が他へ行つてゐる訣です。
萬葉集に現れる中皇命は、一體誰方だらうかと言ふ詮議を昔からして居りますが、今日では、天智天皇の御母、舒明天皇の皇后であつた斉明・皇極天皇と極めてよいでせう。このお方の作に、
(557) 君がよも 我がよも知らむ 磐代の岡の草ねを、いざ結びてな
と言ふ名高い歌がある。第二句、訓みの上で、「しれや」と「しらむ」との二説がありますが、前説は少しひつかゝりがあるやうですし、圓かに釋ける點、後説に從つて置きます。此歌は、舒明天皇と御一處に、尊い方がお二方揃つて紀伊の國へ旅行された時の作で、有間皇子よりは大分以前のことです。君〔傍点〕は舒明天皇。よ〔傍点〕(齡)は壽命・健康。草ね〔二字傍点〕は草のことで、ね〔傍点〕は接尾語。一首の意は、あなたの健康も、私の健康も支配し、自由にするところの、この磐代の神の居る岡の草を、さあ結んで祝福しませうと言ふことで、一處に結ぶことを相手に勸誘してゐる訣です。道の神に、重大な捧げ物をして通らねばならなかつた風習は、天子と言へども、それをせなければ具合が惡かつたのです。此場合は、松の枝ではなく、草を利用してゐられるので、其草に靈魂を結び附けて置かうと云ふのです。道の神は、人間の靈魂の殘つた部分を欲してゐると、昔の人は考へたからで、お年玉も、その考へから生れて居ります。現在では、お年玉と言へば、金目の物を考へる風が擴つて居りますが、それでも古風な地方では、鏡餅の小さいものを考へて居ります。此は靈魂のしんぼる〔四字傍線〕で、換言すれば、歳神の靈魂がお年玉といふ事になる訣です。神に靈魂の古い缺片《カケラ》を與へて通れば、その無事息災を神が護つてくれるといふのが、古代における咒術的風習で、私も魂結びしますが、あなたもなさい、と歌ひかけてゐられる此歌には、道の神に對する考へが、はつきりと出て居ります。かう解釋しますと、一番面白くない、田舍臭い解釋をする事になりま(558)すが、併し、さうなつても爲方がございません。その程度、我々の祖先の信じた儘、感じた儘を現せばよいと、私などは考へて居ります。
これで肝腎の話の入口に達しましたが、あと、一足飛びに話は飛びます。海のほとりに、海峽の神があて、渡海を妨げる神を、渡しの大神と言ひますが、柿本人麻呂の作にある、
玉藻かる 敏馬を過ぎて、夏草の 野島が崎に、舟近づきぬ
の歌に見られる敏馬の神も、その一つです。そして、其神の性質は、皆少しづゝ違ふやうです。萬葉集卷三に、阿倍女郎が、屋部《ヤベ》の坂を通つた時に作つた歌があります。
人見ずば、我が袖もちて隱さむを。燒けつゝかあらむ。著ずて來にけり
此歌は、かはいさうな歌で、餘り顧みられて居りません。註釋書を讀んでゐる人は、或點までは解けますが、さうでなければ解けません。これは、肝腎のものが省かれてゐるのです。だから人が見てゐるからさうはしないが、見てゐなければ、私の袖をもつて隱さうと思ふのに、それが燒け燒けしてゐた爲に、ものを著ないでやつて來たことだ、とかう譯しても本道は訣りません。これは恐らく、屋部の坂にゐた道の神を歌つたものと思はれます。今の道祖神は、文字は新しく、大抵は人間の姿で表現されてゐます。近世のものは、男女二人像で、少し進むと、手を握り合つたり、肩を抱き合つたり、酒を勸めたりしてゐる。これはえろちっく〔五字傍線〕な行爲を説明してゐる訣で、芝居でも濡れ場になると、極端にえろちっく〔五字傍線〕な形を示します。さうした説明に使つたのですが、(559)地方に行くと、そこまで現して居り、もつとひどいのもあります。處が、石像以前には、觀念的に考へてゐた訣で、さうした現在、道祖神のあるやうな場所で、男女の靈的なものがみとのまぐはひ〔七字傍線〕をしてゐたと想像してゐた時代があり、其處を通過する時には、いろ/\しなければならない約束があつたのが、後には石像で現し、その技術が變化して來たと言ふことになります。此歌、多分、屋部の神が裸でゐたのでせう。だから、同情心から、人が見てゐなければ、袖で隱してあげようと思ふが、人が見てゐるから、さうは出來ないといふのです。而もこの神は、始終燒け燒けしてゐる爲、始終裸でゐる訣で、かうなると、道祖神の歌としなければ、此歌は解けません。併し、今の良俗をその儘註釋に用ゐるには、時代が經ち過ぎてゐる爲、中間に間隙があつて、一續きにはなりませんが、さうした知識がなければ、解釋が出來ません。道祖神が坂道に裸で立つてゐるといふのは、自然石の像かも知れません。道祖神信仰が訣つて來ると、さうした解釋が出來て來ます。だから、直譯しようとすると、とんでもない説明になつてしまふのです。併し、私の説明も、とんでもないかも知れませんが、解だけは立つて來ると思ひます。その上に、我々の學問に對する要求が出て來る訣です。
萬葉集には、死骸を詠んだ歌が多い。柿本人麻呂が、死骸を見て詠んだとか、終ひには、人麻呂自身が死骸になつて轉つてゐるやうな歌までがあり、萬葉集には、變死を悼む歌が澤山に出て參ります。これは、死靈に對する懼れをどう鎭めるか、ひいては、如何にして死靈を慰めるかとい(560)つた方法として、歌を詠んだからで、旅で死んだ人を弔ひ、變死者を弔ふ民俗信仰であつたのです。そして、これは、又、道祖神の出來る徑路とも關係して居ります。聖徳太子が死骸を御覽になつた傳へは有名で、その歌は日本紀を始め諸書に擧げられ、萬葉集では、次のやうな短歌形式で俺へられてゐます。
家ならば、妹が手纒かむ。草枕 旅に臥《コヤ》せるこの旅人 あはれ
家に居たならば、自分の愛人の世話を受けることが出來るであらう。だのに、旅で倒れていらつしやるこの旅人よ、あゝ、といふのが一首の意ですが、この歌なんかを見ますと、死骸を隱して置いてやると、死者の靈魂が感謝するものと考へてゐたのです。道の神は、その信仰の一面を見ると、旅で變死したものを葬つて蔽つてやると、酬いによつて、人間に良いことをする――さういふ神がゐるといふことが、萬葉集をみても、有力に訣ります。
話が肝腎の所で短くなりましたが、阿倍女郎の歌にも、變死したものに對する勞りが、根本の知識となつて居ります。何か人が、變死者を庇つてやらうといふ精神があつて、民間信仰となつたのです。さういふ風に考へが結びついて參ります。磐代の道の神、屋部の坂の話、聖徳太子の話、それを合して來れば、結論が出て來ますが、それを納得して貰ふためには、時間がありません。
(561) 萬葉集に現れた古代信仰
――たま〔二字傍点〕の問題――
昭和二十三年七月「肇國」第百十三號
萬葉集に現れた古代信仰といふ題ですが、問題が廣過ぎて、とりとめもない話になりさうです。それで極めて狹く限つて、只今はたま〔二字傍点〕に關して話してみます。
玉といへば、光りかゞやく美しい装身具としての、鑛石の類をお考へになるでせう。又、萬葉集で「玉何」と修飾の言葉としてついてゐるのは、その美しさを讃美した言葉だ、とお考へになるでせうが、多くの場合、それは昔からの學者の間違ひの傳承です。
我々が、神道の根本の認識を改めねばならない時に當つて、それと關係の深いたま〔二字傍点〕についての考察に、一つの別の立場を作るのも、思索上のよい稽古になると思ひます。萬葉集に、
むらさきの 粉滷《コガタ》の海にかづく鳥。玉かづきいでば、わが玉にせむ (三八七〇)
といふ歌があります。おなじ萬葉集でも「寄物陳思」の歌は、概してつまらない歌が多いものですが、これなども文學的に言へば、大きに失望させられる歌です。併し、昔の歌は文學的な動機(562)で作ったものが少くて、もつと外の動機――ひっくるめて言へば、信仰的な動機――で作つてゐるのです。此歌の意味は「粉滷の海にもぐつて、餌をあさつてある鳥――その鳥が、潜《モグ》つて玉を取り出して來たら、おれは、その玉を自分の玉にしようよ」といふので、誰が見ても、すぐ何かもつと奥の方の意味があり相な氣がします。まづ極平凡に考へてみても、古代人の饗宴の歌だと言ふことは思ひ浮びます。
年齡も、身分もまち/\〔四字傍点〕でせうが、およそ同じ程度の知識を持つた同時代の人々が集つて、饗宴をしてゐるといふやうな場合です。その席で歌はれる歌は、列席の人々の知識で、解決出來るものでなければならないのです。併し、昔の人に訣つた歌だからといつて、今の人に訣る訣ではありません。昔の人の間だけに訣つた知識を詠んだ歌ほど、今人の知識には訣りにくいのです。この海には、玉が沈んで居相だ。それを自分の玉として装身具にしようといふ事によつて、列座の人々の興味をそゝつてゐるので、つまり海邊の饗宴の歌になりませう。「かづく」といふ事は、水に潜るといふ事ですが、獲ものを得る爲に、もぐり込んで行つて、又もぐり出て來るといつた過程を含んだ言葉になります。だから「玉かづきいでば」は、もぐつて玉を取つて來たら、といふ事です。かういふ詞が、古人をして、一時颯爽たる生活に、遊ばしめたものでした。
萬葉集に限つたことではなく、平安朝の民謠の中にも、玉が海邊に散らばつてゐる樣に歌つたも(563)のが澤山あります。此は我々の經驗には無い事だけれど、本とうに阿古屋《アコヤ》貝か鮑珠《アハビダマ》を歌つてゐるのだらう、其に幾分誇張を加へて歌つたのだらうと思はれる位、玉の歌はうんと〔三字傍点〕あります。又世間の人はさう信じてゐる樣です。けれども、これは昔の人が眞實を歌つてゐるのではありません。かういふ場合、あゝいふ場合といふ風に、歌を作る機會が習慣できまつてゐる。さうして、機會に適當な題材があり、約束的な、ものゝいひ方といふものがあります。玉だの、海の鳥だの、島の遠望だのと、列座の人の知つた類型がありますから、皆簡單に興味を感じる事が出來るのです。鳥や海人がもぐつて、容易に玉を得て來る樣に言つてゐるが、誰もそれを信じてゐたと思つては、いけないのです。唯、玉をさういふ風に歌ふのには別の原因があつて、その上に、類型を襲うて歌ふ習慣が出て來たのです。それは、我々の樣な平凡な生活の中から得られる經驗でなくて、特殊な性格を持つた人が、特殊な場合に出合ふ事の出來る經驗から來るものなのです。つまり、宗教的特質を持つてゐる人は、我々には認める事の出來ぬ神靈のあり場所をつきとめる能力を持つてをり、又靈魂の在り所を始終探してもゐます。日本人は靈魂をたま〔二字傍点〕といひ、たましひ〔四字傍点〕はその作用を言ふのです。そして又、その靈魂の入るべきものをも、たま〔二字傍点〕といふ同じことばで表してゐたのです。
凡信仰に無關心な人々も、装身具の玉は、信仰と多少の關係を持つてゐると考へてゐますが、はつきりとは考へてゐません。昔の人は、其を密接に考へてゐました。即、尊いたま〔二字傍点〕(靈)が身に(564)這入らなければ、その人は、力強い機能を發揮する事は出來ないと信じてゐました。だから威力ある靈魂が、其身に内在する事が、宗教的な自覺を持つた人々には、重要な條件であり、さうした人々が、靈魂のありかをつきとめてゆく考へが、玉に到達するのです。日本の歌に、海岸と玉との關係を詠んだものが多いのは、此場合も、海岸に玉が屡、散らばつてゐるから、といふのではなく、靈魂をつきとめる特異な經驗が、海岸のある時期に多かつたことを意味してゐるのです。其特殊事を、さうでない時期にも歌ふやうになつたから、何だか、常住、玉が散布してゐるやうに見えるのです。たとへば、暴風雨の後の海岸は、その印象が平時とは、すつかり變つてゐる。いろ/\な物が、遠くから押し流されて來てゐます。それが、普通に言ふ寄神《ヨリガミ》の信仰の元で、主としては石體です。この信仰は、古代から近代まで續いてゐて、それを發見するのが、宗教的經驗を積んだ人の力なのです。我々から見ると、一種の狂的な神經だと言つてしまひますが、どうせ異常精神から來る宗教的經驗を、そんな調子に、かれこれ常識的なあげつらひ〔五字傍点〕をする事は、はじめから間違つてゐます。普通人にも認められる方が、都合のよい處から、さうした岩石が、人の形や、人の顔を備へてゐる樣に考へて行くのです。我々の幼い頃、京都邊で、夜、きむすめ〔四字傍点〕といふものがよく見えると言はれました。處女《キムスメ》の意と、木が娘の姿に見える、といふ二つを掛けた、しやれ〔三字傍点〕た呼び名だつたのです。それと同じ事で、さう見えると言へば、なる程と、人間の雷同性がこれを信じるやうになつて來ます。名高い大洗|磯前《イソザキ》の神が、或朝、忽然と海岸に現れた大汝・(565)少彦名の神像石《カムカタイシ》であつたことは、齊衡三年十二月の出來事で御存じの筈です。
日本の信仰では、靈魂が人間の體に入る前に、中宿《ナカヤド》として色々な物質に寓ると考へられてゐます。其代表的なものは石で、その中で、皆の人が承認するのは、神の姿に似てゐるとか、特殊な美しさ・色彩・形状を具へてゐるとか言ふ特徴のある物です。神像石《カムカタイシ》の場合は、石全體を神と感じる樣になつたのです。又、玉だと思つてゐるものゝ中には、獣の牙だつたり、角だつたりするものもあります。之を一つの紐に通しておくのが、古語で言ふみすまるのたま〔七字傍点〕です。だから、考古學の方で、玉の歴史を調べる前に、どうしても靈魂の貯藏所としての玉といふ事を考へてみなければ訣らぬものが、裝身具の玉になつた後にもあるのです。古代には、單なる裝飾とは考へてゐず、靈的な力を自由に發動させる場合があつたに違ひないのです。併しそれは、非常に神秘的な機會だから、文字に記される事が少かつたのです。
それから又、古事記・日本紀や萬葉集には、玉が觸れ合ふ音に對する、古人の微妙な感覺が示されてゐます。我々なら何でもない音だけれど、昔の人は、玉を通して靈魂の所在を考へてゐるし、たま〔二字傍点〕の發動する場合の深い聯想がありますから、その音を非常に美しく神秘なものに感じてゐるのです。それを「瓊音《ヌナト》もゆらに」といふ風に表現してゐます。みすまるの玉〔六字傍点〕が音をたてゝ觸れ合ふ時、中から靈魂が出て來ると信じてゐたのです。結局、たま〔二字傍点〕の窮極の收容場所は、それに適當(566)する人間の肉體なのです。其所へ收まる迄に、一時、貯へて置く所として玉を考へ、又誘ひ出す爲の神秘な行事が行はれました。手につけた鞆《トモ》なども、狩獵の爲の靈のありかで、とも〔二字傍点〕と言ふ音が、たま〔二字傍点〕との關係を示してゐるやうです。
日本には、中國古代の裝飾具としての玉を讃める文學的な表現に同感して、喜悦の情を陳べる樣になつた前に、玉をたゝへる詞章――つまり玉が含んでゐる靈魂をたゝへる詞章――が多く現れてゐたのです。
かう言ふ信仰が合體して、萬葉集には、中途半端な表現をした歌が澤山あります。又、さういふ所から起つて來る意味の上の錯覺が、新しい表現を展いて來たものが澤山あります。かう言ふことも知らなければ、古い詞章の意義は訣らないのです。
あも刀自《トジ》も 玉にもがもや。戴きて、みづらの中に、あへ卷かまくも (四三七七)
おつかさんが玉であつてくれゝばよい。それをとつておいて、何時も頭のみづらの中に交へて纏かうやうに、玉であつてくれゝばよい。
月日《ツクヒ》夜は 過ぐは行けども、母父《アモシヽ》が 玉の姿は、わすれせなふも (四三七八)
月日や夜はとほり過ぎて行くけれども、父母のたまの如き姿は、忘れない事よ。
父母の圓滿な姿を、「玉のすがた」と言つたので、其と同じ樣で、一歩進めてゐるのが前の歌です。一つは、みづらの中に入れようと言ひ、一つは直接に讃へてゐるのだが、結局は、父母の靈(567)魂の一部を、旅に持つて行つて、自分の守りにしようと考へてゐるのと、さうした習慣が變じて別の歌になつて出てゐるのです。家に居る人が、自分のたま〔二字傍点〕の一部分を添へて、旅行者に持たせるのは、古代日本では主に愛人か、妻がする形式になつてゐますが、沖繩では、最近まで妹や姪・女いとこ〔三字傍点〕のする事だつたのです。この二首は、親の生身の靈を分割する信仰から出てゐると言へます。前の歌は、母の靈魂を身につけて行きたいと言ふ、信仰上の現實が、裝身具の玉として身につけて行きたいと言ふ、文學的な表現に推移してゐる事が訣りませう。後の歌にしても、自分の身體に添へて行く父母の靈魂から、玉になり、それを通り越して、父母の姿そのものをほめて、玉と感じてゐるのです。
人言のしげきこのごろ。玉ならば、手に纏《マ》きもちて 戀ひざらましを (四三六)
人の評判がうるさい此頃だ。あの愛人が玉だつたら、人目につかない樣に手に纏きつけておいて、常に離さないで暮して、こんなにこがれないで居られたらうのに……
この歌は、表現が二つに分れて、氣の多い言ひ方をしてゐます。五句が「手にまきもちてあらむと思ふ」と單純にあるべきのが、まう一つ別な方に進んで、「戀ひざらましを」といふ風に、結んでゐる。かうした表現は、萬葉集の歌の惡い方面を示してゐることになります。一首の内容は、「あもとじも」の歌と同じ事を言つてゐるのです。この類型は非常に多いのです。かういふ言ひ方をするのは、まう一つ前に、靈魂なら、ある點すぐ自由に分離したり、結合させたりすること(568)が出來るといふ考へがあつたからの事です。その表現が、靈《タマ》の中心觀念から裝身具の玉に移つて行つても、ついて廻るのです。文字の上にも、信仰の推移が、非常に影響してゐる事を考へなければなりません。
所が、玉の歌には、まだ相當に訣らない歌があります。
沖つ波來寄る荒巖《アリソ》を しきたへの枕とまきて、寢《ナ》せる君かも (二二二、柿本人麻呂)
沖の方の波が來寄せる所の、岸の荒い岩石を、枕の如く枕して、寢ていらつしやるあなたよ。
死者の靈の荒びを和める爲に、慰撫した歌ですが、まう一つ、大伴坂上郎女――家持の叔母――の作つた歌とつき合せて考へてみると、我々が既に忘却し去つた、ある事が考へられます。
玉主《タマヌシ》に玉はさづけて、かつ/”\も 枕と我は、いざ二人ねむ (六五二)
これは、自分の娘を嫁にやつた母の氣持ちを詠んでゐるのです。「かつ/”\」といふ言葉が、二人寢るといふ條件を、完全には具備してゐない事を示してゐるのです。つまり、枕と自分とだけでは、やつと形だけ二人寢るといふ事になるので、もつと何か特別な條件がつかないと、完全な二人寢ではないのです。たま〔二字傍点〕の本來の持主にたま〔二字傍点〕を授けた、保管せらるべき所にかへつた、といふのが「玉主にたまは授けて」といふ事なのですが、この意味が、はつきり訣れば、「かつ/”\も」が解けるのです。これは唯、今まで二人ねて居て淋しくは思はなかつたが、これからは、そ(569)れが出來ないから、枕と二人寢しようよと言ふ事だけでは訣らないと思ひます。つまり、枕べに玉を置いておくのは、そこに、その人の魂があるといふ事なのです。其で完全な一人なので、そこへ自分を合せて二人となるのです。旅行とか、外出し又、他の場合、死者の床――の時には玉を枕べに添へて置く。さうすると、「たまどこ」といふ言葉で表される條件が整つて來ます。「たま床の外に向きけり。妹がこ枕」と言ふのは、もう魂がなくなつてゐる事を言つてゐるのです。この場合は、嫁にやつた娘と私と、二人分を表すものはないが、これくらゐで二人寢てゐるのだと條件不足だが、まあ、さう思うて寢ようと言ふ意味です。だから、枕邊に玉を置くまじつく〔四字傍点〕があつた事を、考へに入れて解かなければ、此等の歌は訣らないのです。
人麻呂の歌も、本道なら、枕に玉を置かなければならないのに、岩の枕だけだといふので、昔の人には、これだけで靈魂《タマ》がなくなつて死んでゐる事が訣つたのです。
荒波により來る玉を枕に置き、吾こゝなりと、誰か告げなむ (二二六、丹比眞人某)
これは、人麻呂の思ひに擬して作つたものと傳へてゐます。枕べに玉をおかずに寢てゐるのでは、旅の死者と言ふ事になるから、「玉を枕におき」といふ風に、條件を具備してゐるやうに言つたのです。具備はしてゐるが、其は海邊の荒床だ。其處で行き仆れて寢てゐることを、誰が彼女に告げたらうか、といふのです。
私らの、そこで行きづまる事は、枕に這入つてある靈魂と、人間が生きてゐる上に持つてゐなけ(570)ればならぬ靈魂とは、同じものかどうか、といふ事です。此までは、別のものと考へてゐました。それは、神事を行ふ時、靈的な枕をすると、たま〔二字傍点〕が體に這入つて來て、神秘な力を發揮して來ます。だから、その神事の時のたま〔二字傍点〕と、平生、身體にあるたま〔二字傍点〕とは別だと考へてゐたのです。併し、枕の〔二字傍点〕たまと人間の靈魂とは、深い關係にあるらしい事が、前の歌々を見ると考へられて來ます。さうなると、この點はまだ、私にも疑問として殘ることになるのです。
とにかく、かういふ風に、神の靈・人の靈・旅行中の靈魂と、靈魂を考へて行けば、いろんな古代の信仰問題が訣つて來ると思ひます。萬葉集の歌にも、從來の研究では、半分位しか意味の訣らないものも澤山ありましたが、さうした點も追つて、十分理會が出來る樣になるでせう。
既に皆さんが正しいものと考へてゐる知識も、今は改める必要のある事、そして今迄、問題にならなかつた事を、新しく問題にとりあげる必要があるといふ事を、今日はお話ししたのです。
折口信夫全集 第九卷
〔2017年10月12日(木)午後7時、入力終了〕