道家齊一郎著
歐米女見物
      東京 白鳳社 出版
 
〔写真説明、獨逸ベルリンの大ダンスホール兼バーで二階からも、下のダンスが見える樣に出來てゐます。四角の處から下のダンスホールを見下し乍ら、酒をのむのである。勿論女が澤山客をさがして居る。こうした所では踊り乍ら取引の相談をするのが普通です。此れが敗戰國のドイツかと思ふ迄こうした享樂場はどこも繁昌して居るには驚きました。〕
〔写真説明、獨逸、ハンブルグの或るダンスホールで當地の名士の來る所です。日本人は餘り行きません、後に立つて居るのが酒場の女主人です。歐州のダンスホールは凡て兼酒場になつてゐます、吾々の前面は大ダンスホールです、シガーと香水と酒の香の中で燦然たる五色のシャンデリヤに輝らされて舞踊する光景を見ると、こうした場所らしい一種の感が自ら浮び出して來ます、恐らくハンブルグの地方程美人の澤山集まつて居る處はありますまい、寫眞では餘り美人にも見えませんがそれはそれは頗る美人が居りますシガレツトや花やチヨコレートを賣る美人が混雜する客の中を縫ふて歩いてゐます、客は眞面目な夫婦も居れば娘さんも居ますが、其の八分迄は貴婦人風な最高笑婦です、こうした酒場の女は大概美人で酒ものみます、美人で飲むことが酒を賣る一つの商策なのです、寫眞は著者と所謂貴婦人連です。〕
〔写真説明、此の手紙は女が土曜日に男を誘ふて芝居か活動に出かける手紙です。歐米の女で男を持つか男の友人をもつ女は大概土曜日はこうして出かけてしまう。電話プリモースヒル六七〇番金曜日
私の最愛なる貴方よ、先日の日曜日に御目にかゝつてから別に御變りも御座いませんか、御壯健でいらつしやつて下さい、明日貴方の御都合のよい時に御尋ねして活動へでも御一所に參りたいと思ひましたので、木曜日の夕方七時頃御電話をいたしましたが御留守でした、それでまた今朝九時半におかけしましたが矢張御出ありませんでした。私には貴方がいつ御在宅さかよくわかりませんから、どうぞ土曜日の午前中にお電話を下さいませんか、私は九時から十時の間貴方からの御電話を御待ちして居りますから萬々一貴方が旅行の準備の爲めに御多忙であれば、私は我慢できませんけれど辛抱してお待ち致しますから御知らせ下さい。私は非常に淋しくて貴方に是非御目にかゝり度いのです。貴方と御一所に居たのについ先週のことなのですがねえ、それでも非常に永く御遇ひしばい樣な氣持がしてなりません。貴方の最愛なるマインズ
此れはロンドンの或職業婦人で、時々内職をする女から或男(英人)へ來た手紙です。こうした女は男がやめる迄交際をつゞけてやたらには春を賣りませんが、然し永くて一ケ年位には男の方で變つてしまひます。〕
〔写真説明、歐米各國ともレビウや、バライヱチーが大流行です。こうした日本の輕業の樣な事もやります何分にも日本人より色が白く肉體美がよい爲めに非常に輕るくて美しく見えます。〕
〔写真説明、佛國マルセイユの娼家の女主人に名前と番地をかゝせて見たのです。佛蘭西のこうした女主人は二三ケ國の言葉が出來る佛蘭西が世界の遊覽地である必然の結果です。
(マルセイユの淫奔な活動寫眞一七三頁參照)〕
〔写真説明、シヤトル市のパイオニア、スクウヱヤーである。此の通りを眞すく行くと日本人のくらぶのある通へ出る、それから少しさきにやみの女の家がある。
又此の通りに平行した通りに「禁酒破りとホテルへ來ぬシヤトルの闇の女」の記事のホテルがある。〕
〔写真説明、此れはニーヨルクの市役所です。此の前の通りをも少し下町の方へ下ると、交通が盛んな爲めに、自動車より歩く方が早いと云はれて居る繁華な通りになります。此の通りをブルドツグを連れた「イザリ」の乞食が歩いて、忽ちの中に大した金を貰ふのです。(乞食ノ記事參照)〕
〔写真説明、此は世界でで一番混雜する「シカゴ」のステート通りとマデイソン通り此れに平行した通りに女の家がある。〕
 
(1)       序
 
 彼の哲人「カーライル」の著「衣裳哲學」は衣裳によつて其の人の心理を洞察した名著である、また有名な佛人「スーヴヱル、スール」の著「屋根裏の哲人」は往還の人の夕立に偶ふた瞬間の動作から各國の國民性を捕へてゐる。斯うした名著のことが春洋丸の甲板でふと腦に浮いてきた。そのためかアメリカに上陸すると無意識の中にその大きな大陸が彼の肉體美のアメリカ女を産んだ樣に見えた。快速力の大陸横斷鐵道がアメリカ女の?溂たる元氣と、ビジネス、ライクな素質を作つたのではないかと思はれた。してまたその七千億の富が傲慢不遜のアメリカ女を造り上げたかの樣に考へられた。英國の狹い國土と老大國の誇りが英國貴婦人の氣風を造り、ロンドンの霧と小雨からロンドン子の衣裳と氣分が出來た樣にも思はれた。昔榮えたオランダの女にオランダの古くさい氣分が漂ふてをり、ベルギーの女に商人のタイプが付いてゐる。
 獨り女ばかりではない社會に對するこうした感想を思ふまゝに一度書いて見たい(2)のは山々ではあるが、カーライルならぬ私が書いたところでそれは三文の價値もない。本屋が慈善事業でない限り此の不景氣の眞最中に叶はぬことである位は知つてゐる、この本がさうした心算で書いたものでないことは云ふ迄もない。
 極めて單明通俗に婦人に對する見聞と、事に觸れた感想をかいたに過ぎぬ。然しこうした通俗な感想を入れることは實を云へば本書の眞の目的ではない。それは配合に過ぎぬそしてその一部は本年「サンデー毎日」に連載したものである。
 私の眞の目的は世界大戰以後亂れた歐米の社會状態に關する欺かざる記述を資料として永遠に殘すと云ふことにある、それと云ふのもこうした方面の文獻が少ないからである。尤も獨逸のブロホ博士の「賣淫」シヤトレー博士の「パリー公娼論」やフレツクスナーの「歐州賣淫」サンガー博士の「米國の賣淫」等を數へ來れば相當にあるには、あるが、然し歐米の最近の實况を描寫したものは殆んどないと云ふてもよい。此の種の出版にシカゴ市の委員の貴重な報告がある、それは先年シカゴ市が大英斷を以て私娼撲滅を行ふた其の直前の調査である、此の調査に基づいて面白く脚色した性病撲滅宣傳の映畫も出來てをる。此の調査は今では亂れた、過去の(3)シカゴを知る無二の好資料になつてゐる。ムツソリニーが驚いてローマ市の私娼取締を行ふに至つたのもローマのこうした資料に基づいたのである、シカゴの資料は今では中々手に入らぬ。私はシカゴ市の古本屋を一軒殘らず捜して見たが殘念ながらとうとう手に入れることが出來なかつた。各國の都市にも皆此の種の調査があつて出版せられては居るがその多くは世界大戰以前のものであつて又今日では殆んど個人の手に入らぬ。これ等の資料は貴重な社會資料である。
 賣淫は近代的社會問題の一つとして學問的に研究せねばならぬ問題である、こうした考へから自分の專門で ある統計的研究の歩を進めて賣春婦と乞食の研究に入つたものであつて。資本主義社台の必要な制度として數へられる性慾取引市場の實况を描寫しておくことは、單に現在に必要であるのみならず後世の社會の貴重な資料となると思ふ。この期待は決して空想でないことを信ずる、バビロニアの賣春婦の記録は當時の宗教に對する研究の貴重な資料となつて居るではないか。掘り出された伊太利ボンベイの古都の壁畫は當時の人間性慾に對する市民の考へ方を教へ、古代ギリシヤのドラゴンの法典時代には生殖力を神秘化して其の清淨な力によつて(4)自然の生産力を助長するものと考へたことを知るではないか。燦然たる現代文化の裏に咲く享樂の巷は、現代物質萬能の氣風と生活苦を物語つてゐるがこれが數百年の後には如何に變化するであらうか、そうしたことを考へて僞らず、あざむかざる實况を傳ふることは決して無益ではあるまい。
 萬葉集に殘された遊女の一節や源氏物語そのものは當時の風俗をよく教えてゐる奈良朝から平安朝時代にかけて著しで發達した賣淫の風は源平時代になつて一層盛になつた。平家の没落はこうした裏面を見れば首肯せられるであらう、彼の有名な白拍于の記事や清盛の寵を一身に集めた祇王祇女や、佛御前の如き更に鎌倉時代の「遊君」「傾城」のことなどから當時の人の氣風をよく知ることが出來る。こうした方面から時代思想や風俗習慣を察し歴史の大きな動き迄をうがつことが出來る。
 然しこうした方面の描寫がやゝもすれば淫奔の一言で酬いられ勝ちなことは甚だ遺憾である、社會の人はどう考へやうとも兎に角著者の記録を殘すことが出來るとすれば、それは忍び得べき苦痛である。こうした考から從事した調査であるから、それは所謂世の中の話ではなでく僞らざる實寫であることを呉々も了解していたゞき(5)たい。その爲めには可成の危險と時間と勞費を費して居る。去りとてこうした調査それ自體の爲めに歐米を巡つたのではない。著者が最近東京市から都市行政、經濟の調査の爲めに出張した其の餘暇を利用したものである、二十四時中の晩の七時から朝の七時迄を自分の時間として利用したのである、高價なホテルの一室に十二時間を靜かに過ごすことは、私には餘りに無駄である樣に考へられたのみならず、斯うした調査は年來の希望であつたからである。百年の後の貴尊な資料になることを夢みつゝこれを認めた、その私の理想としては標題そのものも内容も、も少し徹底的に資料として書き度かつたのである、がそれでは出版が出來ぬから止むを得ず此の程度に止めためである。
  一九二九年
          旅の記録をたどりつゝ
                  四ッ谷三光町の書齋にて
                     道家齊一郎
 
(1)歐米女見物 目次
 各國異る美人の義徴……………………………………………………一
 ハワイの闇の室の十分間……………………………………………一七
 婦人裁判所所に引出された賣春婦の樣々…………………………三五
 商賣女を呼ぶ方法……………………………………………………四三
 ピカデリーの夜………………………………………………………四六
 亂れたハイドパークの夜……………………………………………五二
 アメリカ大陸に發見する斷髪文明のかゞやき……………………五五
 街頭を過るオーストリヤの女………………………………………六一
 男には見せない映畫…………………………………………………七九
 ニユーヨークの婦人ばかりのホテル………………………………八三
 支那へ行き度がるハワイ生れの日本女……………………………八五
 素人の女の來るダンスホール………………………………………八八
 幾千の活動女優の集るホリーウツド………………………………九四
 禁酒破りとホテルへ來ぬシヤトルの闇の女……………………一〇四
 ニユーヨークの婦人本意の新聞…………………………………一一三
 裸體で藝當する家…………………………………………………一一七
(2) シカゴの賣春の宿………………………………………………一二〇
 ロンドンの或る女…………………………………………………一二五
 日本人の必らず税を拂ふベルリンのカフヱー…………………一三八
 昔のニユヨークの闇の女…………………………………………一四三
 明るい人生を樂しむ歐米の夫婦生活……………………………一四七
 不良少女や家出女を保護する機關………………………………一五四
 世界で一番安いハンガリーの女…………………………………一五六
 バンクーバーのホテルの美人と黒人の辻君……………………一六五
 マルセイユの淫奔な活動寫眞……………………………………一七二
 ボクサーを呼んで來たオランダの女……………………………一七九
 ベルリンの同性愛のカツフヱー…………………………………一九三
 ニユーヨークの女の乞食…………………………………………一九六
 各國ホテルと米國婦人……………………………………………二〇四
 水の都.ベニスの女………………………………………………二〇九
 伊太利フローレンスの公娼と日本の遊廓………………………二一六
 晝から稼ぐブレーメンの女達……………………………………二一九
 マツチを賣る英國女優の思出……………………………………二二九
 ハンブルグの踊場と醉はせた女の家……………………………二三四
(3) 二千年前のポンペイの型……………………………………二五二
 ミラノの賣笑婦……………………………………………………二五九
 ロンドンの金髪美人お金ちやん…………………………………二六五
 歐米のカフヱとバー………………………………………………二六九
 ニユーヨーク黒人の女の媒介者…………………………………二七八
 丁抹と威諸と西班の女あさり……………………………………二九〇
 ロンドンの或ステノグラハー……………………………………二九五
 洗滌器の失敗………………………………………………………二九九
 世界に一つの酒と女の町…………………………………………三〇二
 金髪婦人からの誘惑の數々………………………………………三〇五
 外國の遊廓…………………………………………………………三一二
 善美を盡した巴里の娼家巡り……………………………………三一四
 室内に春畫を飾ったポンペイの遊廓……………………………三二一
 ローマ時代の公娼の家……………………………………………三二二
 女の同性愛のカフヱ―……………………………………………三二三
 ニユーヨークのアパートメントの探訪…………………………三二五
 迷信と結びついた古代の賣淫……………………………………三三五
 世界にない「バー」………………………………………………三三八
(4) 和蘭公娼と辻君の收入…………………………………………三五六
 獣的生活から蘇生した女事務員…………………………………三六五
 カルメンの様になつた女…………………………………………三六九
 マルセイユの名物…………………………………………………三八二
 黒人のダンスホールと白人のキャバーレー……………………三八七
 チヱツクスロヴアキヤの或夜……………………………………三九〇
 春賣女の墮落の原因………………………………………………三九七
 佛國マンモートルへ出る女とロンドンの女の比較……………三九九
      (目次終り)
 
(1)歐米女見物
 
   各國異る美人の表徴
 
     一、優秀な女性美をアメリカに見る
 
アメリカ ◇…… 世界一の美人は矢張り二タこと目には世界一を誇るアメリカに多い。實にアメリカは美人に富んでゐる。それに美人といふ美人は足がすら
〔写真、小作りな「アメリカ」美人の姿態 日本婦人が小さいから、洋裝が似合はないのではありませんまだ馴れぬからです〕
(2)りとしてゐて細く長く體格が立派だ。日本の樣に貧弱ではない。この足のすらりとしてゐるのはアメリカばかりではない歐米共通であつて、またこれが美人の第一要件となつてゐる。
 それから歐米の美人は鼻が高い、眼と鼻の間が調つてゐる、日本の女は眼と鼻の間にゴルフのグラウンドや競馬場位な平地を持つてゐる、又眼の表情が非常によい。日本の女の眼は物をいはない缺點がある。然しもう五十年もするときつと物をいふやうにならう。又齒が眞ツ白で如何にも美しい。決して金齒を入れぬ、日本人の樣に金やプラチナの齒を好むのは野暮の骨頂である。アメリカに美人の多いのは恐らくその人種に起因してゐよう。アメリカ人はもと混血兒である。アングロサクソ
〔写真、アメリカに見る女性の肉體美 現代の美人には肉體美がその要件です日本の女は體格をよくせねば汰目である〕
(3)ン人種が十六世紀のころ初めてこの大陸に移住してからオランダやスペインを初めとして世界の有りと有らゆる種族がそれぞれの理想を追うてこの國に集まり、遂に融合一致して出來上つたのが今日のアメリカ人である。
 元來種族の違つた間に出來た民族には美人が多い。アメリカ美人の原因は遠くこゝに根據を有してゐよう。それにこの國は氣候と風土とに惠まれてゐる。風土と氣候は民族に影響する所が多い。そこにもアメリカ美人の原因があらう。
◇…… 由來東洋人と歐米人とは美を鑑賞する標準を異にするから、歐米人の美人とするものも、東洋人には一概に美人とは受取れぬといふのが、一般の人の説である。が、そんなことはないと私は信ずる。
◇…… およそ判斷には標準を必要とする。私はその標準を如何にして定めたであらうか。米國の婦人服を賣る店は非常に澤山あるが、何れも大きなショウウインドーがあつて、その中に?細工の美人を飾つてゐる。それにいろ/\流行の衣裳を飾り立てゝ、顧客の購買心をそゝるのであるが、その人形が實によく出來てゐて、よくほんものゝ人問と間違へることがある。また時には飾りつけのためにこの中に入つた美人を人形と間違へることもある。それ程よく出來てゐる。私は美人の標準(4)を選ぶにまづ第一にこの人形をおす。人形はその國の美人のモデルと見做してよからう。しかし日本の人形はこれと同樣には行かない。日本の人形は死んでゐる。考へやうでは死人に衣服を着せたやうな不氣味な感じがする。あの顔の色! 黄ばんだのは日本人の顔色を現す心算かも知れないが日本の女は白粉をこて/\つけてぬるからあんな顔の色とは違つてゐる。それにもかゝはらず美術眼のない馬鹿なお客達は、
『なんとよく出來てゐますこと』
 と、褒めてゐる。日本聖のデパートメントの支配人もかういふ民衆を相手にしてゐるんだから暢氣なものだ。
◇…… さて本道にかへつてそれから又、婦人服を賣る店で着物を着て見せる美人や美の女神ビーナスや雜誌の口繪に表はれる美人の顔姿、活動女優を志願する美人の寫眞、その他あらゆる方面にわたつて美人の寫眞を眺めて判斷するに彼等の代表的美人とするものには私も躊躇なく賛意を表することが出來る。
◇…… が、人にはそれ/”\個性と趣味とがある。それによりて選ぶ美人の標準の異るのはやむを得ない、植物の花を例に取つても、薔薇を欲する人もあればダリヤを好む人も櫻を愛する人もあるや
(5)〔写真、セントカタリナの帽の佛國美人 此れが「セントカタリナ」の帽子で此れを十一月の二十五日に冠つて往來を歩いて居る女に對しては、何人でも自由に「○○」をすることを許されてゐる佛蘭西の面白い風習で若者の大悦の日である。(一一頁記事參照)〕
〔写真、英國の令孃と、目下ロンドンで大流行の競爭犬クレイフアウント犬〕
(6)うに、その個性と趣味とによつて各々差異がある。諺にもあるが「たで喰ふ虫も好き/”\」とはうまいことをいつたもので、これだからこそ酉の町の賣れ殘りでも立つ瀬があり造花の神も首にならないのだ。もとより歐米人と日本人とでは、個性も違へばその趣味も相違してゐる。また眼や髪の毛の色もその纒ふ衣服は違つても、異性の容色から心に受ける美の感銘に違ひはないやうに思ふ。譯山見てゐると漆のやうな黒髪よりも金髪の方があつさりした感じがして、又瞳にしても眞ツ黒なのは強過ぎる、寧ろとび色の方がいゝ。これは私獨特な感じであるかも知れない。だが歐米のみならず日本でも男の見た美人と女の見た美人とでは同じ美人でも太いに違ふといふことである。美人として母親がすゝめる嫁の候補者の寫眞を息子が人目見て『おかあさんの美人はあてにならない』と撃退するのはよくあることだ。
イタリー ◇…… かく男と女との見方の相違するの仕止むを得ないこととして、世界中の女を見るに最も美人に富んでゐるのはアメリカとイタリーである。イタリーの美人は殊に日本人向で、瞳はいく分黒味勝で髪の毛も餘程黒味がある。そして眼鼻や顔の輪廓か如何にも美しく出來てゐそ。耳、鼻、眼、口等の配合乃至身體の諸部分のよく均整の取れてゐるのはラテン型の美人の特徴の一つである。同じラテン人種でもフランス美人は名倒れで、大したのはゐない。
(7)ノールウエー ◇…… ノールウエーのオスロはなか/\美人に富んでゐる。概して北國には美人が多い。日本でも秋田美人、東北美人の稱がある通りオスロの町を夕方歩いて感ずることだが春を賣る女の中にはなか/\惜しい程の美人が澤山ゐる。
     二、やゝ劣る歐洲大陸の女性
イギリス ◇…… ロンドンとなると、元來英國人があまり綺麗ではないので美人國とはいへない、しかし他の歐洲の都に比すれば遙に綺麗だといへる。少くも日本人向きの顔が多いのは事實だ。アメリカやイタリーと比べたら、勿論問題にならない。同じ英國でも北部のスコツトランドの都エヂンバラあたりは比較的美人に富んでゐる。それに反してアイルランドの女は實に不美人極まつてゐる。アメリカへ出稼ぎに出て春を賣
〔写真、英國代表的美人 ヨールク公爵夫人〕
(8)る女の中に、アイルランドの女が多いのは生活難のためからである。さうした女の中には美人はゐず、それに教養に劣り、品性が下劣で、眉をひそめさせるのが多い。
ドイツ ◇…… ドイツは禮格はがつしりと肥え太つた堂々たる婦人に富んでゐる。しかしダンスホールや春を賣る女には意外にもほつそりした美人が多い。ドイツの女房連の容貌體格を見ると、如何にも熱血宰相ビスマークの子孫であるやうな感を起こさせる。犬ではブルドツクがよくドイツ婦人の感じを表はしてゐる。一般にドイツ人は傲慢不遜、負けぬ氣に富み、融通がきかぬ,體格がガツチリしてゐて赤ら顔で鼻が低い、これは女も同じで、感心なことには日本の女と同樣に頗る世話女房式な所がある。これはドイツに留學した幾多の日本紳士の臨時夫婦生活の尊い體驗が雄辯に物語つてゐる。
 ドイツでは青年が結婚する時第一に婦人に望むものは、強健な體格である。だから女の要件として體格の立派であることが必要なのである。ドイツ婦人が體格美人であるのは、かうした氣風の産物であらう。こゝにもドイツ人の實質的な性質が現れてゐる。芝居やバライエチーで夫人連中を見渡すと申し合せたやうにこわい樣な顔の體格美人が多い。ドイツの芝居見物はそのせゐかぎこちない感がする。日本人も結婚する時には多少ドイツに見習つて然るべきであらう。が、美を愛するの(9)は人間自然の本能であるから、寧ろドイツに習ふよりは體格のよい美貌の持主である所の米國美人式の女を製造することに努めなければならない。ドイツの男は愛人や遊女には身體のやせぎすな美しい女を好む。ベルリンやハンブルグのカツフエー、ダンスホールその他賣春婦の集まる場所には
〔写真、獨逸美人〕
(10)しんなりした優美な頗る付きの美人が多い。暗に咲く花を辿つて歩くとドイツは、表面いかめしい國柄とは大に相違して居て、寧ろ諸國に拔きんでて、美人に富んだ亨樂の盛んな關であることに驚く。女房の選擇と男子の享樂とは餘程關係があるらしい。
フランス ◇…… フランスに行つて驚いたのはよく繪葉書で見るやうな美人のゐない事だつた。しかし遊女の中にはなか/\美しいのがゐるから、フランスが美人國といはれてゐるのは女優の繪葉書やさうした方面から出たのかも知れない。ラテン民族のフランス人は隣のドイツのゲルマン民族とは全く違つて居て、ドイツのやうに體格がよくない。背は餘り高くはない。髪はやゝ黒味を
〔写真、フランス美人 各國の美をよく比べて御覽なさい各々顔に特色がありますから〕
(11)おびてゐて、鼻は高くない。低い方が多い。一體に顔の造作が頗るお粗末である。フランスの女に面白い習慣がある。それは十一月二十五日の夜になると、その年に二十五歳になつてまだ嫁に行かない女は畫にあるやうなセントカタリナの帽子をかぶつて友人や兄弟と町を歩くといふ習慣があるその時町の若い男達はキツスをしてもよい。即ちその夜だけキツスの自由が與へられるので、若者達は面白半分に連立つて歩いてゐる。(五頁寫眞參照)
ハンガリー ◇…… ハンガリーの首府ブダペストへ行く途中、汽車で偶然乘り合はせた一人の紳士があつた。その紳士はよもやまの話の末ブダペストには、頗る美人の多いといふ事を大眞面目で吹聽した。まだ見ぬマジヤール美人に醉はされて、旅の疲れにうと/\しながら、ハンガリ―の都ブダペストへ着いたのである。その人がいふにはハンガリーに美人が多いのは、その先祖が日本と共通であるからだと、或る學者が主張してゐると熱心に私の注意を喚起した。そこで疑問にしたのは又久々で日本の女の樣な申譯程の鼻がついてゐて頬骨の出た凹凸の多い黄色い顔の女を見るのか、或は、ほんとうに美人に拜顔するのかといふ事であつたが、先づ安心したことには、マジヤール人も白人であつたことだ、しかし畢竟田舍者であるに過ぎないといふ印象だつた。ハンガリーの女の大部分が田舍臭く、何といふことなしに古臭いのは成程二等國であるとの感を深うした。改行
(12)スペイン ◇…… スペイン美人といふがスペインの女はイタリーの女と同じくラテン系に屬してゐるからイタリー人と同樣日本人向きである。眼と髪は黒昧がある。そのせゐか私は屡々スペイン人と間違へられて苦笑を禁じ得ないことがあつた。スペインも美人國としての名が高い。首都マドリツドに行くにはどの鐵道線を通つて行つても、良い枯野色の平原を通つて退屈な汽車旅行をしなくてはならない。だから眼にも少しは保養を與へることが出來ると思つたのだが、町の女の中にはとう/\大した妻人を發見することが出來ないで終つた。矢張りスペインの女は美人型ではない。眼も鼻も口も特徴がない。
オーストリア ◇…… ウイーンはオーストリアの首府である。オーストリアはドイツと同じ民族であるせゐか、ウイーンの女はしつかりした身輕體の所有者が多く、ドイツの女にフランスのラテン系の血を交へた優しさがある、が、東部歐洲のパリと嘆美せられて、その昔の榮華を誇つたウイーンの都には大した美人はゐない。たゞ賣笑婦の中に往々得難い美人を發見したに過ぎない。ウイーンにはも早昔の面影はない。歐洲戰後には僅か八百萬人の人口を有する一小國の首都たるに止まつてしまつた。
エヂプト ◇…… 「カイロを見ない者は世界を見ないものである。その土は黄金、そのナイルは不(13)思議、その女は黒眼の天女。その家は宮殿、その空氣は柔かく、その匂は伽羅にもまさり人の心を陽氣にする。さもあるべき筈、カイロは世界の母であるんだから」とはアラビヤ物語り中の一節であるが、それは五千年の昔のこと、世界文化の源をなした當時のことであつた、今のエヂプトの上流の女は比較的眼、鼻の整つた容貌を有してはゐるが、どう見ても美人とは考へられないそして女には妙な習慣があつて、顔全體を布で覆ひ、たゞ眼と眉毛と鼻の上部だけを出してゐる。それに鼻と眉との間に九分ばかりの竹を割つたものをつけてゐる。何のためだか確には解らないが恐らく古代における女子の貞操の監視から來たものらしい。
 昔ギリシヤ時代には、妻は兩親や夫の友人以外には何人にも會ふことを禁ぜられてゐた。又我國でも嫁入すると眉毛をそり落したものであるエヂプトの習慣もさうした事に原因してゐるらしい。
〔写真、エヂプトの美人〕
(14)だから美人であるかどうかはちよつと判らないが、顔立のまさつてゐるのは相當にゐることはゐるが、何分色が黒いのであるから、憧れの氣持はどうしても起こりかねる。甚だしいのは丁等の男女になると、男女の區別さへつかない。古代の人間は外見では一寸男女の區別がつかなかつた。有色人種の野蠻人の中ではエヂプト、トルコなどは綺麗な部に屬するであらう。
 
       三、最後に東半球の女性を見る
 
インド ◇…… インドでも中以下の女が歩いてゐるのを見ると男女區別はつきかねる。かつてはエヂプトと相並んで偉大なるアーリヤン人種の文明を築き上げたのであるが今日では劣りも劣つて顔の形まで壞れてしまつたやうに思はれる。一般に温和な顔をしてぬるが男の中にはなか/\高貴を容貌をしたのがある。色の黒いのは仕方がない。女も上流のになると男のやうに高貴む顔容を存してゐるのもあるが多くは鼻の眞中が低く男より餘程劣つてゐる。インド人は中以上では男の方が綺麗である。
支那 ◇…… 支那那となると民族が全く違つてしまふ。歐米人から見ると日本人との區別がつきかねるらしい、尤もそれは無理のない事で、私も支那人を日本人と隨分間違へた支那人は鼻が低く、顔色が黄で、日本人と同樣頗る造作の惡い人間である。マレー人はシンガポールへ行くとゐるが、これ(15)が日本人の先祖であるとの説があるが成捏大分よく似てゐるところがある。世界中で一番造作の惡い汚い民族は支那人とアフリカから輸入せられた米國のニグロであらう。しかし支那はまだいかに大負けに負けても世界の文明國とはいへぬのだから、甚だ殘念であるけれど、造作の惡い、しかも『文明國民』は日本人であらう。
日本 ◇…… 日本人の顔付きは支那人より優つてゐる。それは文化がずつと進んでゐるからである。一體文明が進むと人間の顔も莞しくなるといふ説は事實である。日本人も昔から見ると次第に顔かたちがずつと綺麗になりつゝある。現日本にも歐米に優るとも劣らぬ美人も澤山ある私がバーミンガムへ行つた時或新聞社のシヨウ、ウインドに美人の寫眞がはり出してあつたが其中の日本美人は決して白人美人に決して見劣り
〔写真、日本美人〕
(16)はしなかつた。文化は進化を生ずる。これはフランス美人について見ることが出來る。昔フランスの國民は全世界の崇敬の的であつた。殊ニナポレオン一世全盛時代のフランス文化は實にその絶頂にあつた。從つて當時フランスには多くの美人が輩出した。フランス美人の名が世界の耳目を捉へたのはけだしその時の名殘りである。
◇…… 以上光、源氏の君のやうに歐米を股にかけて美人の品定めをした。甚だ漠として要領を得てゐない部分があるかも知れない。しかし觀察は比較的正確で嚴密であることを一言して置き度い。即ち或る都市では或る時は顔ばかり、ある時は着物ばかり、また或時は足。ある時は帽子等と、所用で外出する度毎に用意周到に觀祭して、斷案を下したものである。多くの人の中にはこの意見に反對する意見を抱いてゐるものもあるかも知れない。それは人おの/\趣味と個性が相違してゐる以上已むを得ないことであらうと思ふ。
 
(17)       ハワイの闇の室の十分間(三箇所抹削)
 
 横濱から十日間の航海で太平洋の波に浮くエデンと謳はれるハワイ群島の首都ホノルヽへ寄港する。
 ハワイは日本に鎖國主義が行はれてゐなければ當然日本の領土となつた所である。今日から考へて見れば如何にも惜しい氣がする。ハワイは年中非常に氣候のいゝ所で、常春の國と云はれ、やし〔二字右○〕やびんろう〔四字右○〕樹やマンゴー〔四字右○〕やココナツツ〔五字右○〕等の熱帶樹がよく繁茂し、これ等に依つて作られた並木がある。
 コバルト色に澄んだ空に時々來る村雨は塵を佛ふて一層南國の空氣を爽かにする。野山は一面の濃厚な緑につゝまれて、その中に赤や緑や青や黄と互ひに強烈な色彩を競ふいろ/\の草花が咲き亂れ,またその間に白や赤の色どり〔二字傍点〕の文化式の住宅が散見してぬる。しれは正しく一幅の繪であり、春の夢の樣な快感を與へる。
(18) コンクリートで平坦に敷き詰められた道路は並木の中央を貫通してゐる。その上を自動車で走る心地は終生忘れることは出來ない。一度死火山ポンチボル丘に登れば碧海の中にホノルル全市が展開せられ、パインアツプルや砂糖きび〔二字傍点〕の耕地は起伏する丘陵の間に毛氈を敷き詰めたやうに見える。製糖業と果樹の栽培はホノルルの生命である。年七十五六萬弗の砂糖と二百三十八九萬弗の鑵詰を生産してゐる。此の生産はホノルルの景氣を支配してゐるのである。
 ホノルルは各國人種の展覽會と言つてもいゝ。此等各國人種を相手にする各國の女がゐる。もと
〔写真、ハワイにはおしい樣な上品な美人〕
よりアメリカの領土であるから本國と同じやうに賣春婦の取締りは嚴重を極めてゐる。しかし本國に比ぶればいくらか寛大である。
 ホノルルには各國の賣春婦が居る。日本の藝妓も勿論居る。藝妓は日本の着物を着てゐて、お客と外出することもある。丁度此處が日本藝妓の分布上西の境を示してゐる。東の方はシンガポールで止まつてゐる。皆抱主に抱へられては居るが、所謂自前で單に看板借りと言つてもいゝ。一晩外出すると三十圓位取る。
 此處には又ニグロの女が居る。ハワイの土人の女も居る。其他フランス人、スペイン其他各國の女が居る。これ等の女の居る所は町の郊外つゞきで、少し淋しい所である。が、しかし電車の通る所もある。一軒構への家でぽつ/\散在してゐる、造りは文化式で小さい平家が多い。此處へ行く
〔写真、米國婦人のハワイの海水浴〕
(20)には多少の危險性はあつても自助車の運轉手に案内させるといゝ。警察が喧しいから皆秘密になつてゐるので、住居なども一つ所にかたまつてるのでは無い。
 私は運轉手に案内させて或る一軒の家へ車を乘り付けた。家の少し手前で車を乘り捨てゝ、次の家へ行く爲めに待たしといた。その家といふのは電車通りから少し引つ込んだ所にあつて、大木立の蔭になつてゐる。ベルを鳴らすと三十四五の肥つた女が出て來た。
『今晩は。美人が居ますか』
 と言ふと直ぐ
『お入りなさい』
 と、請じ入れた。案内さるゝ儘に玄關の直ぐ次の間に通つた。家の中には粗末なソフアーと椅子があつて、壁には所動の男優の雜誌か何かに出てゐる口繪でも切り取つたらしいものが三四枚と、カリフオルニヤ大學の旗が貼り付けてある。其他の裝飾も低級で下卑てゐる。女の持物、身なりもよくない。それらから察すると生活の餘裕は餘り無いらしい。又知識の程度も極く低い。いろ/\話して見るに全儲けの外に何も無いらしく、殆んど機械的に肉の切賣をしてゐるのである。
『あなたが客の相手をするのか』
(21) と、まさかこれが商賣の女とは思はれ無かつたが念の爲めに聞いて見ると
『そうです』
 といふ答には一寸あきれ返つてしまつた。が、女は直ちに附け加へて、
『もう一人居ます』
『若いのか、年増か』
『若い人です。今顔を洗つてる所ですから直ぐ來ますよ』
 これを聞いてほつと一息した。同じ話をするなら恐しいやうな年増よりは若い美人の方がよいのは人情だもの。
 やがて若い女が來た。十八九で眞赤な着物を着てゐる。顔は非常に美しく愛嬌のあるところが人好きがする。それに案内されて別室に行くと、だしぬけに女は
『病氣は有りませんか』
 と聞いた。そらとぼけて
『病氣とは一體何のことかね』
『病氣とは此のこと』……………………
(22)『安心おしなさいよ。そんな病氣には生れてから取り付かれたことは無いから』
 一體歐米の女は病氣を非常に恐れる。病氣でもあると如何なる客でも斷はつてしまふ。なぜそんなに病氣を恐れるかと言ふと、病氣になると治療費が非常にかゝる。だから極度に警戒するのだ。病氣が無いとなると、約束の金を請求する。金高は五弗。女は金を受取ると直ぐに靴下の中に入れてしまふ。それから手早く着物を脱ぎ棄てゝ殆んど○○○○る今度は此方から
『お前は病氣はないか』
 とためしに聞いて見ると
『えゝありませんとも』
 と云ひ乍ら勇敢に女はベツトに上つた……………………………………すえ膳食はぬは男のはぢとか云ふ事もあるが、すえ膳じやない當方がすえた辨當だが。もう此れで研究の目的は達して居る。刑法の研究とはちがうから未遂でも既遂でも大した差はない此れ以上に實行すれば、わたしはこゝに研究として書く資格がない、それは享樂である。享樂の部分は私の本書には書いてないことを呉々も御斷りする。アメリカに上陸もしない内に病氣にでも取りつかれては事だ先方より遙にこつちの方が病氣が恐ろしいと思ふて居るその瞬間に女はやをら身を起すと慌てた態度で
(23)『一寸待つて下さい』
 何事だらうと思つて見てゐると女はドアを細目に開けて靜かに戸外の樣子を覗いてゐる樣子。すると以前の女らしいのがそつ〔二字傍点〕と歩んで來て、一寸何か囁くと戸を閉めてしまつた。
 女は蒼くなつて私の側に進み寄り、
『大變です/\』
『何だ! 一體』
『大變です! 靜かに! /\』
『私は靜かにしてゐるぢや無いか。慌てゝ居るのはお前だ』
『巡査が來ました』
『巡査?』
『そうです。大變です。巡査が來たんですよ』
 と女はおろ/\と私を捉へて
『そうつと貴方は其の直ぐ隣りの室に入つて下さい。私はこつちから鍵を掛けるから』
 何をそんなに巡査を恐れるのかは知らないが、豫ねてからハワイでは賣春婦の取締りが嚴しいの(24)を聞か無いでも無い。が、しかし眞實に巡査が來たのか何うかは一向判然しない。でも爭つても仕方が無いと思つたので
『あそこへ入つて靜かにして居ればいゝのだな』
『そうです。靜かに動かずに居て下さいよ』
 これはてつきり〔四字傍点〕女のトリゆクにかゝるんでは無いかと一瞬間思つた。人の話しに聞いたり、活動寫眞でやつたりする惡らつ〔二字傍点〕な所謂つゝもたせ〔五字傍点〕の光景が走馬燈のやうに私の頭の中を通り過ぎた。ピストルやナイフを突き付けて、獰猛な惡漢が現れて來て、財布とか其他金目の物を捲き上げる。そんなことがあるだらうと思ふから大した金は持つて來ないし、腕力なら腰のよわいアメリカ人の事だ年はとつても柔道四段の手前大したひけもとるまい。こうした落付は全く柔道の御蔭だと思ふた私には今迄の世渡りの内にどんなにか此の柔道が自信をつけてくれたかわからない。大正八年に日立の鑛山でストライキが暴動になつた時も非常に役に立つた。青年は是非心得ておくべきだなどゝ色々の潜在意識が暗の室の一分間にせんこ花火の樣にひらめいた。
『兎に角面白いことになりさうだ』
 と、私は自ら劇中の人物になつた氣で、忍び足で戸口に近寄つた。女は戸を細目にそつ〔二字傍点〕と開けて(25)私を導いた。室に入ると女は直ちに鍵で錠を下してしまつた。
 室の中は眞暗だつた。何が何やら明るい所から突然入つたので一向に分らない。暫らくじつとしてゐると眼がだん/\闇に馴れて來た。戸の隙間からは僅かばかりではあるが光が洩れてゐる。そこでよく室の樣子を見ると何うも物置らしい。一方の隅にベツトのやうな大きい棚がある。床には絨氈も何も敷いては無いらしい。
 耳をすましてそと〔二字傍点〕の樣子を聞いて見た。聲はちつとも聞えない。ものゝ十分もじつ〔二字傍点〕としてゐた。闇の中の十分は可成り長い。暫らくしても一向何も聞え無い。出やうとしても戸には錠が下りてゐる。たゞでは出られない。出ようと思へば戸を蹴破るばかりだ。何くそ! いざとなつたら蹴破つてやらうと面白半分事の成行を待つてゐた。すると反對側の戸をすつ〔二字傍点〕と開けて以前の肥つた年増の女が顔を出した。
『一體私を何うする氣なのだ』
 と稍怒氣を含むできいた。
『靜かに! 早く用意をなさい』
『用意はしてある』
(26)『では此方へ來て下さい』
 と、女は私をさしまねいた。言はれる儘に室を出て、女の後に隨つて行くと、女も拔き足差し足で歩いて行く。で、私もそれに倣つて三間ばかりの廊下をやつ〔二字傍点〕とのことで臺所の裏にある戸口へ來た。
 女は戸を開けて
『此處から歸つて下さい』
 と、言ふ。私は  唖然として
『歸れ? 何を言ふのだ』
『今日は巡査が來たんです。早く歸つて下さい』
 と、聲をます/\小さくして頼むやうに言ふ。私は戸の所でわざ〔二字傍点〕と
『何? 巡査が來た? 嘘だらう。お前は私をだます〔三字傍点〕氣たのだらう」
 と、大きな聲を立てた。
『ハツシュ! ハツシュ!』
 と、女は大慌てゞ且つ大いに怒つて肩を上げ下げして、手眞似で私を制した。そして頻りに靜かにせよ/\と眠顔で示した。
(27) 女の驚きと恐れと怒りの有樣が、何うも普通では無いらしいので、私は少し考へながら立つて見てゐるより仕方が無かつた。と、女は大急ぎで戸を閉めて奥に引込んでしまつた。
 私は暫らく其處に佇んでゐた。一つは原因を知りたかつたのだ。何故女は慌てたのか、又は何故中途で自分を裏口から放逐したのか、一向に合點が行かない。つゝもたせ〔五字傍点〕とは何うしても思はれない。尤も私は、こうした場所へ來るのに金は餘り持たない樣にしてゐた。しかしボケツトを探つて見ると蟇口は確かにある。別に取られたものは無い。「つゝもたせ〔五字傍点〕でも無く、物取りでも無いとすると、さては女の情夫でもやつて來たのでは無いかな。それで慌てたのでは無いかな』
 と考へた。そう考へるより見當がつかなかつたのだ。それなれば面白い。一つ踏込んで驚かしてやらう。變つた經驗は調査の尊い資料になるが、ハワイくんだり迄來て女の情人が來たからと言つて中途で戸外に放逐されたのでは蟲が收まらない。行く處までやつて行つてやれになつた。
『ピストルを用意して來たのは伊達では無い』
 と、づか/\と又戸口によりドカ/\叩いた。暫くあたり〔三字傍点〕は靜かな無氣味に落ち入つてゐたが、戸が靜かに、しかし慌てた樣子と怒つた調子を籠めて開かれた。肥つた女がぬつ〔二字傍点〕と顔を出し
『靜かにして下さい』
(28) と大見幕。
『入るぞ!』
 と私は虚勢を張る。女は怒つて、しかし口調は低く力を籠めて
『早く歸つて下さい! 今巡査が來てるんです。大變なのです』
 こう言ふか言はぬ中に慌てゝ戸を閉めんとした。私はどつこいとその戸を押へた。女は兩手を水車のやうに振り立て、早く歸れと云ふ合圖を示してゐる。我は一向知らん顔で、わざと大きな聲を立てゝ
『お前は不正な詐欺をした。巡査を呼んで來るぞ!』
 と、二三回怒鳴つた。女は顔を眞赤にして、白い齒をむき出して今にも喰ひ付きそうな樣子を示して怒つたがいきなり〔四字傍点〕戸をピシヤンと閉めて奥に逃け込んでしまつた。
 邊りを見廻すと裏口には二三間の垣根があつて細い路がある。それを通つて行けば家が廻れるやうになつてゐる。私はもう一度玄關へ戻らうとその路を通つて行かうとした。
 もとより狹い家のことであるから、そこを通ると初めの私の通された應接室の窓の下へ出る。私はその窓の下に出ると佇んで中の樣子を聞いて見た。確かに人の聲がする。それも男の太い聲であ(29)る。よし! 正體を見届けてやらうと玄關に戻り、初めのやうにベルを押した。出て來ない。で、續け樣に押して見た。すると又肥つた女が出て來て、私であることを知ると、當惑と怒りとで泣き出しさうな表情をした。私は大きな聲で
『私と一緒に來た男は何うした』
 とその場を繕つて聞いて見た。
『もうとつく〔三字傍点〕に歸りました』
 と女は答へた。
『靜かにして歸つて下さい』
 と相變らず慌てゝゐる。そして私が立去りさうな樣子を見せないので、ぴしやりと戸を閉めるとまた奥へひつ込んだ。
 私は足を擧げると今度は靴で力まかせに二三回戸を蹴飛ばして戸を叩いた。すると女はまた出て來た。もう怒つて、泣かんばかりの風情で、
『困ります! 困ります』
 と哀願した。
(30)『私の方だつて困る』
『靜かにして下さい。巡査が居るんです。警察が居るんです。困ります。困ります』
 私は片手で素早くその戸を押し乍ら、わざと恐ろしい顔をして
『乃公がほんとに警察を呼んで來るぞ!』
 と、怒鳴りながら二三歩玄關に踏み込んだ。と、驚いたことには私が初め案内された客間には大きな肥つた二三十貫もあらう程の巡査がゐた。客間の戸は開け放してあつたのでよく見えた。
 巡査は椅子に腰掛けてゐたが、私が怒鳴り乍ら廊下へ二三歩踏み込むと同時に、椅子からヌツクリと立上つて、くるりと向き直つて、私の方へ脊中を向けた。そして壁の方へずか/\と歩いて行つて汚れた壁に貼つてある繪や寫眞に見入る樣子をした。
 私は僞り無くその男が巡査であることを確かめるや否や早速その家を飛び机した。
 これは後で運轉手に聞いて見たら、運轉手が密偵の來たことをベルで知らしたとのことであつた。ハワイの密偵はこうして賣春婦の宿を時々襲撃しては酒代をゆするのだそうである。褒めたことでは無い。
 ハワイのワイキキといふ濱に海水浴場がある。ハワイ名物土人の波乘なども此の海岸で見られ(31)る。美しいやし〔二字傍点〕の木の繁つた海岸で、昔は島の土人が戀を囁く歡樂の場所であつたが、今では白人の大きなホテルが出來て歐米式の新しい海水浴場となり、貴顯淑女が苦熱を流す所となつたり夜は戀を囁く汀となつた。實にハワイ情緒は此のワイキキを措いて他に求めることは出來ない。これ等の戀を囁く男女を密偵が捉へては脅迫して金を捲上ることがよくある。私が行つた時には土地の新聞が、密偵のゆする行爲を大いに非難して警察の反省を促してゐた。ハワイの警察は頗る紊れてゐる。日本の警察はその點では世界に模範を示すに足らう。何うか永遠に日本の警察は賄賂、情實の爲めに動かないやうに、そして公平無私に社會公衆の警護に任じられんことを切望する。慾を言へば日本の警官にも少し民衆に對して親切、丁寧といふ餘事が加つたなら、理想的の警官と誇るに足るに至らう。
 日本の警官は頭で取るが、英米のそれは體格で取る。だから警官は皆大きくて肥つてゐて一見堂堂としてゐる。しかし大男總身に智慧が廻り兼ねの譬に洩れず、體格の立派な割りに始末におへぬ鈍物がゐる。私が英國愛蘭のベルフアスト市に着いた時のことであるが、ステーシヨンに居た大きな巡査に
『此のベルフアストの町で一番賑やかな商店が軒を並べてゐる町は何といふか』
(32)と、聞くと巡査はたゞ一言
『知らない』
 と答へた。全く馬鹿氣た返事なので、ふざけてゐるのか、それとも馬鹿にしてゐるのかと、その樣子を見れば至極眞面目である。不思議なので再度説明して聞いて見ると、矢張り
『知らない』
 と答へる。私は呆氣に取られて暫くその巡査の顔を眺め入つた。すると、傍をポーターが通りかかつた。巡査は私に向ひ、
『それは赤帽なら知つてゐるだらう。あなたお聞きなさい』
 と言つて、自ら赤帽を呼んで聞いて呉れた。私は初めて巡査が知らないのだと合點することが出來た。驚いたのはその通と言ふのは、ステーシヨンからものゝ三町とは離れてゐない、東京の銀座通りと言ふべき目拔きの場所なのである。それも停車場にゐる巡査が知らないとは嘘のやうな話である。
 話が横道に入つたが、私はそれから二三軒ハワイの女の家を見て歩いた。こうした家は皆同じやうな大きさである。その一軒へ入つて見た。直ぐと女の室へ通された女は濃く化粧してソフアーに(33)横になつて客の來るのを待つてゐた。年の頃は未だやつと十九位で、眞赤な着物を着てゐて、非常に美人である。もつとも化粧が濃くて少し夜目をあざむいてゐるかも知れない。しかし眼付は愛らしいのが感じが好かつた。その女に
『室を見せて呉れないか』
 と頼み込むと心よく承知して先に立つて案内して呉れた。もう一人の女の室を通ると、二十四五の中肉の非常な美人がゐて頻りに化粧してゐた。輕く會釋すると愛嬌たつぷりな眼付で迎へ、
『よく來て下さいました』
 と、言つた。その女は日本の着物を着てゐる。米國では日本の羽織や着物が流行してゐるのだ。室内を見廻すと鏡臺その他の調度から持物を見るに、なか/\金がかゝつてゐる。全然前の家とは違つてゐて一體に生活に餘裕があるらしい。そこには風呂もあつて、これは二人して共同で用ふ
〔写真、こういう風に平素室に居るときに日本服を着ているのも太平洋岸には少なくない〕
(34)るのだとのこと。ハワイの女の家は大概こうした風で大同小異である。その中に一人の男が訪ねて來た。女は私をその男に逢はせないやうにして別の室に案内した。こういふ所は日本の待合と同じで客同志がぶつつかるのを避けるやうに努めてゐる。
 私は女に何うしてハワイに來たのか、又彼女等の生活の有樣は何んなかとか、年はいくつであるとかその他いろ/\の事を詳細に質問した。女は心よく僞りもかくしもせずすら/\と答へて呉れた。そうした女は皆淡白で氣持がよかつた。
 一體に歐米の女は赤裸々で僞りが尠ない。割合にかくしごとをしない。そういふ點は非常に美點だと思ふこの時私は日本の婦人にも少しよそゆきをやめてもらいたい。ものだとつく/”\感じた此れは御婦人ばかりではない男子にも強く強く要求せねばならぬことである。
 こうした女達の生活はいろ/\であるが多くは共同で家を借りる。こうした家には、男名儀のもあるが女名儀のもある。私の行つた家は男名儀になつてゐた。電話も持つてゐて、家賃は二人で半分づつ拂ふ。此の女は英國のアイルテンドからはる/”\渡つて立身を夢みて來たのが。パンの爲めに此の道に入つてしまつたとのことで、こうした經路を辿つた女がなか/\多い。こうした不幸な女達をどうしたら救濟出來やうか、各國が現代的だと心得てやつて居る社會救濟事業などは實はな(35)んにもならない。根本的解決は文明諸國が一齊に人口制限を行ふにありはせぬか但し一國丈けやることは現状に於ては不利である。
 
     婦人裁判所に引出された賣春婦の樣々 (四箇所抹削)
 ニユーヨークには賣春婦と不良少女とを取締る爲めに婦人裁判所(ウーマンコート)がある。アメリカでは各都市を通じて賣春婦の取締りが嚴重を極めてゐる。何故かといふと肉慾の享樂引いては花柳病の蔓延が國を亡ぼすことを恐れてゐるからである。この事は昔から歴史が明らかに證明してゐる。燦然たる現代文化の源をなしたかの羅馬帝國も女の爲めに滅びた。ベスビヤスの噴火に埋れた――今は掘り出されたポンペイの市も二千年の昔女色の爲めに衰へてゐる。勇猛な米國の拳闘王デムプシーも美しい女優エステルテラーが出來てから衰へてしまつた。國を減すものは女である。米國は女を取締ると同時に酒をも取締つてゐる。女と酒とは切つても切れぬ因果關係があるからだ。
 ニユーヨークには又花柳病の傳播を防ぐ爲めに賣春婦取締りを使命とする世界に有名なる社會衛生學協會《アメリカンソウシヤルハイジン》が設立されてゐる。これには世界各國の學者、社會政策家が入會してゐて、現に私もその(36)一會員である。協會の目的とする所は社會政策の立場から、各方面に活動してゐるが花柳病豫防の爲めにはアメリカの各都市に於ける賣春婦を調査して婦人裁判所と共力して、その撲滅を圖つている。米國はかく自の發達に努力してゐる。これは我々の大いに學ぶべき所である。
 私は此の裁判所を見に行つた。特に檢事の側に席を與へられたので檢事の地位になつて被告を見學することが出來た。餘り大きな建物ではない。書記は六七人居たが皆女で、何十年も勤めたといふ女の白髪交りの老書記もゐた。檢事は男である。簡易裁判所ですべてを即決する、目的とする所は肉慾の禁止と花柳病の防止とである。そして賣春婦を見つけ次第檢擧して厭應なしに先づ第一に醫者に病毒の有無を檢査させる。多少なりとも病毒を持つて居れば直ちに附屬病院に送り込む。病院へ一度入れた以上完全に治癒するまでは絶對に出さない。なほつてから正式に裁判にかけて罪の有無を決するのである。多い時には日に三十件も處理するとのこと。
 賣春婦を起訴する者は主に刑事巡査である。密淫賣の現場を捕へて引立てるのだが、これらは何れも近所のものではない。
 裁判所内の有樣は檢事の向つて右側を少し離れて下手に板で圍まれた芝居のボツクスのやうな小さい席がある。そこへ先づ發見者である、刑事が呼び出される。判事が日本と同じやうに型の如く(37)職業、姓名、現行の月日時間等を訊問して
『間違はないか』
 と、念を押す。
『間違はありません』
『よし。右手を擧げよ』
 と、右手を擧げさせる。一切の訊問は聞取書に書き記して置く。日本の檢事と同じやうに嚴格な口調で訊問する、或る刑事などは覺え書きの紙を持つた手が慄つてゐた。
 次には相手の男が呼び出されて、それから被告の女が同じ席に着く。そして質問を受ける。密淫賣の相手の男は處罰はされないが證人として呼び出されて訊問を受ける。少しでも曖昧なことを言ふと檢事は聲を強めて叱る。その日出て來た女は十人以上もゐた。大概は生活の爲めに餘儀なく賣春行爲をするものが多く、中には良人と共謀でやつてゐるのもあつた。美人は殆んどゐない。大部分は裏店生活者で、第三階級に屬する者許りである。それ以上の暮しをしてぬるらしい者は見當らなかつた。一人その中に四十四五の並外れた妙な顔をしてゐる婆さんがゐた。何うしてこんな女が商賣出來るかと不思議に思へる程醜いといふよりは寧ろ滑稽な顔付をしてゐた。
(38) 檢事も不思議に思つたと見えて
『お前も現場を捕へられたのか』
 と、念を押した。婆さんは小聲ではあつたがしやあ/\として
『はい』
『捕まつたのは姶めてか』
『いゝえ、前にもありました。罰金を取られました』
『では二度目か』
『はい』
『今日も現場をやられたのか』
『いゝえ、私は今日はほんとにへまをやりました。たゞ相談をしたゞけの所を捕まつてしまつたんです』
『たゞ相談しただけなのか』
 と檢事は刑事に訊いた。
『えゝ、さうです』
(39) と、刑事は肯定し
『私はこの女がすれ違つた一人の男にちよいと言葉を掛けたのを見たのです。男は相手にしないで行つてしまひました。私は變な奴だと直ぐ尾行したのです。がこの女は一向氣が付きませんでした。暫くすると又すれ違つた男に話しかけていよ/\相談を始めましたから私は捕へました、』
 檢事はまた婆さんに向ひ
『何故、そんな年をしてゐてお前はこんな商賣をしてゐなければならないのか』
 婆さんはせゝら笑ふやうな口調で
『それは分り切つて居ります。私達は喰べて行かなければなりません。此の商賣をやめでもしたらその日からパンを得ることが出來なくなります』
 檢事は一言もなくたゞ汚ない婆さんの顔に見入つてゐた。
 うぶな女も居た。これなどは相手の男が三人同時に呼び出されて順々に訊問されてゐたが、專問の賣笑婦とは見えなかつた。素人らしい身のこしらへと態度で、夫があると告白しながら生活難から此の道に入つたと答へた。その夫も呼び出されてゐたが、妻の行爲は知らなかつたらしく、檢事に問はれて自分の妻であることを消え入るやうな調子で答へた。とその妻はさめざめと泣き出した(40)その純な態度には尠なからず泣かされた。一入きはだつて妖艶な二十五六の體格のよい女がゐた。顔形も先づ普通で、平氣で後の方に腰をかけて待つてゐた。これは職業的の女で、病院から出て來たばかりの賣春婦だつた。裁判長の訊問と應答で私の驚いたのは一家こぞつて賣春を幇助する家のことだつた。夫も家内と共力して客を引くことに努め、○○が見張りの役に廻り梯子段や室の前、時には往來で見張りをしてゐて、刑事らしい者が見えると直ちに合圖をするのである。又娘が客を取れば母親までも……………………斯く一家が全部本職としてゐるのには唯あきれたと云ふより外になかつた。
 こうした話をかくは少し露骨すぎるかも知れないが、此れが世界第一の文化を誇る『ニウヨルク』の眞中の最近の出來事であるから特に社會の實況として書いて見たのだ非常に高い文化の中には人間としてあるまじき非文明な事實のあるものである。斯うした現象は田舍では決して見ることは出來ぬ。都市と云ふ所は實に不可思議な所である。都會と云ふ所は親子人倫の道すらパンの爲めに攪亂するかと思へば恐ろしくなる。
 裁判されるのを見て滑稽だつたのは證人として呼び出された男で、一時に三人も呼び出されて、これらがそれぞれに時聞その他を訊かれてゐた。そして、お五ひに
(41)『お前もか』
 と、いふやうな額付でじろ/\見合つたりしてゐた。その光景には失笑を禁じ得なかつた。女を相手にする男に對するこれより以上の教訓は恐らくあるまい、こうしてお互に顔を合せた時若し人間らしい血が少しでも通つて居るものなら、將來此の種の女を相手にする氣はなくなるであらうそして肉をうる女の心を割つて見て其の口から甘言を聞かせたら此れよりよい、みせしめはあるまい。
 これらの者は初犯であれば罰金で濟むが再犯、三犯となるとそれ/”\體刑に處せられ、留置場に拘留される。そんな憂目にあふのは主として貧民階級の女で、此の外に高等な賣春婦もぼつ/\居るのだが、此等は巧に官憲の目を逃れてなか/\裁判所の厄介にはならない。何しろ五百六十萬人からの人間の住んである世界第一の大都會のことであるから、いくら嚴しく取締つても撲滅することは不可能らしい。裁判所で捕へられるのはその中の僅少の無知な貧民階教の女が多い。常に何事によらず、苦しめられるのは金の無いプロレタリアートであるのは、何處の國へ行つても同じである。社會は中々公平にゆかぬものだ、いつになつたら公平になることか兎に角私しは公平であつて欲しいとは希ふが平等であつてほしいとは必しも云はぬ。それはそれとして病毒防止の方面から見(42)れば無知な貧民階級の淫賣を檢擧する方が所期の目的に適ふには相違ない。高等的な女は衛生思想が發達してゐるから、政府や公共團體の御厄介にならなくとも自發的にそれ/”\病毒の防止には努めてゐる。何しろ身體が彼等の唯一の商品なのだ。花柳病にかゝれば治療費が非常にかゝるから、彼女等は頗る要心してゐる。彼女等の手提の中には必らず消毒の藥が入つてゐて、賣春行爲が濟めば直ちに洗滌する。此等の娼婦は定めし醫者をうらんで居るであらう。それもその筈此の亡國病が地上に蔓延した十六世紀の半から今日に至る迄、三百年間そのまゝにしておいたのだから。然し人は云ふであらう。それは人間の徳性を完成しなかつた社會の罪であると。然し乍ら。孔子が食色は人間の性であると云ふた其のことばが眞であり、また宗教や道徳に萬能力がないとしたならばその責は醫者に歸すべきではなからうか? 或はそんな發明はせぬ方が社會の爲めであるとして考へなかつたのであらうか? たしかに黴毒の傳染に對する恐怖は制欲の唯一の教訓である。もし青年が買娼の危險のないことを知れば、忽にして邪道に陷るであらう。若し道徳や宗教が人間を教ふるまゝに陶化する萬能力をもつものだすれば、こんな結構なことはない、然しながら彼のクリスト教全盛の歐洲の歴史も亦賣淫を止めることは出來なかつたではないか。恐らく人間そのものゝ改造を行はない以上到底絶滅は望むべくもあるまい。若しその根絶が望み得ないとしたら、それに件ふ(43)花柳病の豫防と完全な治療方法を一日も早く發明せねばなるまい、此れは醫者の仕事ではなからうか? 吾々は醫者にまだまだ澤山の發明をしてもらはねばならぬ。進んだ樣で幼稚なのは醫學界である、それにも一つ御願があるそれは醫者の診察が餘りにも商品化され、餘りにも營利化されたことである、ひどいのになると病氣でない者を切つたりはつたりすることさへある、現代の社會でパンの問題を外に醫は仁術であるなどゝ云ふ一世紀も前の思想は持つてゐないが、も少し診察に道徳と人情味を加へてもらいたいものである。
 
     商賣女を呼ぶ方法
 
 戰後疲弊したドイツには賣春婦が澤山ゐる。ドイツの重な町には――歐洲の榔市でも、そうだが――そうした女が出没しない所は無いと言つても宜い。ハンブルクはブレーメンと同じやうに牛後の二時頃から出る。牛後の二時頃出るのがロンドンあたりと相違してゐる。こうした女を何うして男は見別けるか、私はそれを實際に見度かつた。で、女の出没する頃を見計らつて町をぶらついて見た。
 ハンブルクの湖水に面した町の、日本の正金銀行支店のある通りだが、そこにはいろ/\の商事(44)會社が並んでゐる。その通りを歩いてみると私の前を二十七八の小綺麗な男が歩いて行つた。何とはなしに私はその後をつけて見た。
 と、向ふから一人の若い女が來た。女は若い男を注視した。男は少し足を早めると、すれ違ふ程接近した時、帽子を取つて輕く女に會釋して、行き過ぎ乍ら振り返つた女もそれに應じて振り返つた。それをみとめると男は廻れ右して女に近づいた。女は湖水に沿ふた散歩路の眞中をゆるゆる歩き乍ら、男の近着くのも待受けてゐた。
 二人は直ちに低聲で何か相談し始めた。淫賣婦を見別けるには可成りの自信を持つてゐる私ではあつたがその女がそうした女であるとは何うしても思へなかつた。如何にも地味ななり〔二字傍点〕をしてゐて、足早にあるいて居たから眞面目な事務員としか受け取れなかつたのだ。まるでオフイスから家へ持歸つて行くやうな格恰なのである。と
〔写真、歐洲の賣笑婦達は二人連れで歩くのが多い〕
(45)言つて、二人が前からの知合で無いことは、その態度ではつきりと分る。私は湖水に面した所の木立の下のベンチに腰を下して二人の擧動をそれとなく窺つた。やゝ久しく交渉してゐたが、やがて左右に別れて行つてしまつた。
 交渉は明らかに不調だつたのだ。私は直ちに男の後をつけた。すると又向ふから女が歩いて來たそれもどうやら事務員と言つたタイプである。男は通るなり帽子を取つて輕く笑釋して、相變らず振り返つて見たが、女は見向きもしないで急き足で行つてしまつた。男は別に顔色も變へずに何に喰はぬ顔をして、すた/\と歩み去つた。町ゆく人も別に笑もしなければ氣にも止めない。
 これで察して見るに女が素人であるや否やはドイツ人ですらたま〔二字傍点〕には間違ふのである。ロンドンでは誰が見ても直ぐ分る。けば/\しい濃厚な化粧をしてゐるから、誰でも賣春婦を見誤ることは無い。が中にはちよつとやそつとでは分らぬのも可成あるにはある。所がドイツでは素人のやうななり〔二字傍点〕をしてゐるから、これと思ふ女を見たら自ら勇氣を奮つて試みて見なければならないのだ。
 英國では帽子を取つて合圖するのは尠い。ヂツト笑を浮べるか、笑を浮べて首を一寸傾けるか、チヨツト輕く顎を下げ眼で物を言ふか、或は又輕く頭を下げるのだ。そうすれば向ふでも直ぐそれに應ずる。歐洲の女は眼でものを言はせるのが實に上手だ。應じないのは他に待合す男があるのか(46)乃至はその男が氣に入らないかのどちらかである。日本人でよくロンドンその他の所で賣春婦に合圖するのには目をつぶつてするといふ者もゐるが、今そんな眞似をする者は少い。此の帽子を取る習慣は北の歐羅巴にも行はれてゐる。即ちノ―ルウエー、デンマーク、オランダあたりは皆此の式でやる。しかし英國では實際にそうしたことはしない。
 私がノールウエ―のオスロへ行つた時のこと。一人の男が三人連れの令孃の中の一人を目指して脱帽した。所が令孃達は活動の歸りらしかつたが、三人で笑ひ乍ら逃げ出して行くのを見た。男も失敗したなと思ふたものか、振り返つてニツコリ笑ふと早足で行つてしまつた。
 
     ピカデリーの夜
 
『淫賣は堪へ得る害惡であるのみならず。避くべからざる害惡である。それは女を姦通から救ひまた貞操から保護するものである』
 とは歐洲の某博士の言であるが、まさかこれを金言として實行して居るわけでもなからうが春を賣る女が公然往來で活動するのは、歐洲の大都市の共通した現象である。中でも世界的に有名なのがロンドンのピカデリーとパリーのグランド・ブルバードで、現代の男で恐らくピカデリーの名を知(47)らぬ者はあるまい。あつたとしたら道學先生か仙人であると心得て差支へなからう。
       ×
 ロンドンで一番賑やかな通りはピカデリ―とオックスフォード・ストリ―トと昨年出來た賑やかな通りであるリージエント・ストリートである。實は最近ピカデリーよりこのリージエント・ストリートの方が女の中心になつてしまつた。夕方の八時頃からこの種の婦人が澤山出初める。殊に十時過ぎに歩いてゐる女は皆この種の女と思つても差支へない。しかし稀には眞面目な主家へ歸る女中さんも居る。
 或る貴婦人が芝居の歸りに一人でこのピカデリーを散歩してゐたら、或る一人の男から聲をかけられた。婦人は非常に立腹して侮辱罪として法廷に訴へたが結局そんな所を夜晩く一人で歩くのが
〔写真、ロンドンの有名な女の出るピカデリー街〕
(48)惡いといふことになつて、貴婦人の負けとなつてしまつた。こんな馬鹿氣た貴婦人が英國にもゐる。日本の貴婦人などの中にもかうした氣分の馬鹿者が隨分居るらしい。
 女は大概二人連れまたは三人連れで濃厚に白粉を刷き、口紅をつけてゐるから一見してそれといふことは分る。なか/\の美人が居るがなかには日本の藝妓にもあるが隨分顔と相談してもらひたい樣な醜婦も居ないことはない。
 そしてその數は正確なことは分らないが、或る學者の説によると八萬といひ或は三萬位といふが、私の推算ではそれ程居るとは信じない、いくら多くとも二萬人位であらう。これに次ぐのはパリーである。パリーには公娼だけでも七千
〔写真、ロンドンオツクスフオールド街ピカデリーと並び繁華で女の澤山出る通り〕
(49)近くから居る。或る學者は矢張り三萬人の私娼が居ると述べてゐるが私はロンドンと殆ど同數の二萬人位と見てある。ベルリンもほゞ同數位であらう。公娼は約四千人ある。日本の藝妓は勿論體裁のよい私娼であるが、その數が東京市で一萬二百五十六人ゐた(大正十五年)娼妓は吉原、新宿、洲崎、品川のいはゆる四宿で四千人以上居る。東京はさすがに世界第六位を占める大都會だけに如何なる方面にもひけを取らない。偉いものだ、日本の藝妓の制度は世界に珍無類で、公娼廢止の方法は、西洋人ですら知つてゐる『ゲイシヤガ―ル』を何うするつもりか伺ひたいものだ。かうした理由から私は公娼絶對廢止を強く主張しない。私は藝者も公娼とみなすのである。歩いてゐる女の眼付で少し馴れるとすぐに見分けられるやうになる。彼女等は絶えず男の眼を見て歩く。此方で首肯くと、笑を浮べてこれに應ずる。何等の反應を呈しない女は客と約束があるか又はその男に氣がないか、若くはたゞの素人女であるかである。店のシヨウウヰンドウなど見て居ると、傍に近寄つて來て同じやうに立止つて見る。その時相手の眼付を見るとすぐ相手の何者であるかゞ讀める。
       ×
 日本人がロンドンの町をあるいてゐると、向うから積極的に話かける女が可成りにある。日本人がお世話になる女は大抵かうした女である。その中には日本人のいはゆる『税關』と稱する女が居る(50)ロンドンに渡つた日本人のかも〔二字傍点〕をひつかけるのだ。又大概の者はこの「税關脚』にひつかゝる。日本人で得意になつてこの「税關」を連れて活動寫眞などを見に行くのがある。ロンドンに住む日本人の古狸連がこれを見付けると
『又税關を連れて居る』
 と、後指を差すが御當人は一向に知らぬが佛の顔をLてゐる。こんな日本人は澤山ある。又念入りのになると、日本人相手の女を連れて旅行する。英語の會話の練習には極めて妙であるが、連れて歩くなら日本人の御親類關係のない美人にして欲しいものだ。
 一度日本人を知ると、ばかに日本人を好むやうになる。何故といふに日本人は金を出すからである。それにあつさりしてゐるからだ。白人の惡いのになると金を呉れる所かあべこべに取らうといふのがある。日本の紳士連も公金であるから氣前よく出すものゝ日本に歸ると案外小さな家にくすぶつて居るのが多い。彼女等に見せたら或は氣絶するかも知れない。
       ×
 しかしロンドンの辻君の大部分は英國式の誇りを持つてゐる。それは白人以外の相手をしないことだ。さうした女の中には概して美人が多い。アメリカの美人を見た眼でピカデリーの女を見ると、(51)一般に小さくて汚なく見えるが、ヨーロツパの國からロンドンに歸つてピカデリーの女を見ると前よりは非常に美人に見える。私は大都市へは二度づつ立歸つて見る事にして、色々な感じを比較した。
 かうした女に往來で會つて、眼で會圖をするとすぐに一緒になつて歩き出す。行き過ぎて居る者でも戻つて來て一緒に歩く。そして近所の安ホテルに連込むのだ。そのホテルは殆ど連込みを目的としてゐる。上等の女になるとそれぞれ自分の部屋を持つてゐるから、ホテルへは行かない。直に自分の部屋へ客を案内する。相場は二磅から三磅位で即ち二十圓乃至三十圓といふ所で、これは相手との相談で取りきめる。日本人でいふなりに四五十圓も出す馬鹿者もゐないではない。かうした男は多く歐米で赤毛布をやる連中である。ボイルドエツグを血の上で割つて見たり、一皿で安くあげようと思つて、わざ/\一品だけ特別に誂へて眼のむき出る程取られたり、日本の浴衣を着て廊下へ出たり、いろ/\の失敗をやる、日本でホテルへ行つたことのある人なら、今日では歐米を旅行しても赤毛布はやりたくとも出來ない。
       ×
 女の最も多く出る所はリージエント・ストリートであるが、それ以外にもロンドン目拔きの場所(52)であるオツクスフオード・ストリートにも盛んに歩いてゐる。リージエント・ストリート、マリボン停車場のグレートセントラル・ホテルの近所にも又ケンシントンの方面にも可成り出没する。しかし上物の出る所は何といつてもリージエント・ストリート、ピカデリー・サーカスとオツクスフオード・ストリートである。
 物質文明の進歩は淫賣の増加を伴ふものであるが、精神文化の進歩は人間社會から賣淫の事實を除去することは出來ないであらうか。徒らに物質文明に風靡せられた歐洲は獨りロンドンに限らず到る處に春を賣る女の横行濶歩するのを見る。これに例外なのはアメリカ位なものである。イタリーもムツソリニがもう十年も政權を掌握してゐるならばアメリカのやうになるかも知れない。何はともあれあらゆる方面に物質文明と精神文明が併行して、善良なる社會の出現するのが一日も早ければ人類に取つて利する所尠少であるまい。
 
     亂れたハイドパークの夜〔一箇所抹削)
 
 ハイドパークの夜は若い男女の密會する場所として世界的に知れ渡つてゐる、それと同時に自由の演説場としても有名である。この二つの事實を見るために私はある日の夕方から出かてみた。
(53) 丁度その時はアメリカで有名だつた事件のバンザツチと、サツコーの二人の共産主義者が死刑にされた日であつた。この日も日頃の特徴を表はして此方に一團、彼方に一團と或る者は共産主義を宣傳し、或る者は宗教を説き、又或る者は國家主義を主張するといつた風に、それ/”\聽衆を集めてゐた。如何にも言論が自由であるといふ感銘を與へた。聽衆も非常に冷靜で如何にも英國民の特徴を出して傾聽してゐた。英國人は一體に冷靜である。ハイドパークの自由放任主義にも拘らず大した問題の起らぬのもこの性向のためであり、又この性質があればこそ自由放任主義が取られたのである。日本人にはかうした方針は到底望みがない。
       ×
 しかしその夜は全英國の社會主義者、共産主義者が、同じ主義者である二人の同志の死刑に興奮して大行列をしてハイドパークに集合してゐた。そのために非常に多くの警官が召集されて、これ等の警戒に當たり、彼方此方の草むらに腰をおろして萬一を警戒してゐた。警戒の光景は日本と餘り違はない。私は行列を見るために歩きながら少し後について行つてみた、婦人にも熱心な主義者がゐて眞赤な旗を持ち、赤の手提に赤の帽子をかぶつたりして、この行列に加はつてゐるのも見受けられた。それ/”\に彼等は革命歌を高唱してゐた。行列に對する警戒はなか/\嚴重で日本のメ(54)ーデーの勞働者の行列以上であつた。殆ど四五人おきに行列の兩側に警官が附きこれに多くの騎馬巡査が加はつて行列と共に進行してゐた。
       ×
 その夜彼等の一團はアメリカ大使館を襲撃したとのことで、大使館の近所は物々しく警戒されてゐた。私はその報に接するとすぐに自動車を飛ばして現場へ行つて見た。しかし大して變つたこともなかつたのでまたハイドパークに引返した。丁度十一時頃だつたらう。暗くなつた森の中をそれとなく散歩してゐた。戀をさゝやく男女の影も間々見受けたが、その夜は警官が多數出張したせゐか比較的男女の數が少いらしかつた。
 廣いハイドパークの森の草むらの中の薄暗い老樹の下では、定まつて男女が抱き合つて戀を囁いたりキスをしたりしてゐるのが幾組もある。中には膝に乘つたりしてゐる。しかし驚くやうな痴態を公然と演じてゐるのはない。なか/\要領がいゝ。滑稽なのは或る老樹の蔭で一組の男女がキスしてゐると、その木の反對側の洞の中では他の一組が   立つてゐるのである。私はこの有樣を見てつくづく男子は飽までも性的に一種の狂人であるとして考へられると思つた。外國人は一體に日本人と違つて、餘り他人のことには注意を拂はない。男と女が抱き合つて居ようがキスして(55)居ようが殆ど無關心に見捨てゝ行き過きてしまふ。日本人なら憤慨これを久しうする所なのだが向うでは人の事だと無關心である。この點は日本と非常に違つてゐる。英國では紳士ともあらうものは一般にかうした男女が抱き合つたりキスしたり戀をさゝやいたりする場所をじろ/\見るものでないといふ風に教へられてゐるのである。うまいことを考へついたものだ。
 
    アメリカ大陸に發見する斷髪文明のかゞやき
 
 サンフランシスコに上陸して以來、私は米國の各都市を旅行した。市役所を始めとして官廳や取引所や工場、銀行、商業會議所や大學、病院、警察、その他各社の研究所社會團體等と、ありとあらゆる方面を時間のゆるす限り訪問した。そしてその途中の時間は婦人の服装から容貌、態度、習慣等とこれも出來るだけ觀察した。その結果感じたことであるが日本では裾の短い髪の毛を切つた女は、新しい女といはれてゐるが、アメリカや英國ではそれは新しい女でも何でもなく、普通のことになつてゐることである。中には男と同じやうに髪を分けてゐるのもあつたが、別に惡くはない。髪の毛を長くした裾の長い女は時代錯誤と思はれてゐるばかりで無く、今は捜しても若い女の間では見付けられない。たまたま居るにしても大抵は白髪交りのお婆アさんの部に屬してゐる。それも(56)その筈、髪の毛を切ることは衛生的であり、且つ又特に朝の早い職業婦人などには缺くべからざる事なのである。裾の短いのは布の經濟であると同時に現代の活動的な婦人には最も必要な條件なのである、月に一度位しか洗はない日本婦人の髪程非衛生的なものはない。殊に黄塵萬丈の都では塵埃は勿論黴菌の巣であるといつてもよい。これを考へれば黒髪の亂れて云々の戀も醒めてしまふ。あゝした髪は封建時代に女が終日家に引つこもつてゐた時にはふさはしかつたが、今のやうにデパートメント・ストアーを散歩する時代には全く不向きである。
 流行といふものは妙なもので、流行が短い裾で髪の毛を切るといふとなると、これと反對の物を見るとをかしく感じられる。しかし日本ではまだ洋裝が一般化せられないから、今でも新聞雜誌の
〔写真、彼女等の斷髪は更に一新紀元を劃しつゝあり〕
(57)類には時々婦人服の裾の短いのは挑發的で、誘惑する感じを與へるから宜しくないとか何んとか道學先生や頭にかびの生えた先生達の愚にもつかない意見に接することがあも。これなどは勿論問題にならない。
       ◇
 決して歐化したわけではないが、歐米の服裝は現代の社會生活に適してゐて日本のそれよりは確に進歩してゐるといへる。歐米の婦人は長い間胸をコルセツトでせめつけ足はスカートの大風呂敷で包み甚だしく閉ぢこめられた生活をして身を拘束してゐた。所が最近は大いに眼醒めて來て、彼女等は自由な輕裝なしやうしやたる形に變つてしまつた。もう再びもとの服裝に退歩するやうなことは恐らく有り得まい、裾の短い絹の靴下を長く出して踵の高い靴をはいて帽子のふちの短いのをかぶつて、腰で調子を取り、よく發達したその腰を輕く振りながら快活に歩いて行く姿を見ると何ともいへないチヤームを感ずる。
 元來男女の服裝は文明と共に醇化するのが世界共通の現象である。單純の中に藝術的の美しさを示すのが最も進歩した服裝の裝飾方法なのである。かういふ意味においてアメリカの服裝は最も進んだものであるといへる。歐洲の重な國英國、フランス、ドイツ乃至は他の國々でも裾の長い、(58)そして髪の毛を束髪に結つた女は年寄りか、ゴク/\舊思想の保守的な人間でなければ見出すことが出來ない。歐洲の婦人をアメリカ婦人に比較すると垢拔けない點がある。まだ相變らす耳飾りや胸飾りや頸飾りなどででこ/\飾り立てゝ得意になつてゐるのが多い。それに比べるとアメリカの婦人の裝飾はあつさりしてゐて垢拔けがしてゐる。
 もとを質せば野蠻時代の裝飾は毒々しかつた。それが文明化すると共にあつさりしやうしや〔五字傍点〕になつて來たのである。それは男女に共通した現象であるといへる。例へば太平洋中の諸島の土人の飾りである。彼等の首や足や手はでこ/\と澤山の金、銀、寶石で飾り立てられてゐる。かうしたくどい前世紀の裝飾は文明が進むと共に廢れて來た。男でも女でも服裝の非常に毒々しい時代があつた。フランスの宮廷の男の服裝や、英國やフランスの古い時代の殿上人や軍人の服裝は隨分赤や黄や青の澤山入つた、こつてりとした服裝であつた。それが時の流れと共に變化して來て、男は單純な黒、鼠色等のさつぱりしれ清楚なのを用ひるやうになつたのである。女の方は男程單純には行かない。心なき動物ですらも色素の美麗、曲線の配合によつて誘惑せられる。動物學者はこれを種族進化の大原因としてゐるが、もとより相當の裝飾は女の性の必要であらうが、單純化の中に高尚な傾向を追うて來るのは事實である。田舍の娘さんと都の娘さんとはかうした違ひがある。
(59) 文章についてもこのことがいへる。昔は歐米でも日本でも形容詞澤山のくど/\しく毒々しい美文が歡迎せられたが、現代ではあつさりした内容のあるものが喜ばれると同じである。流行の變遷にもあるが、この單純の中に高尚化するのは人間生活の向上に從つて各方面に當然起る現象なのである。
       ◇
 然るに日本の女の着物を見ると模樣色合等においては確に歐洲のそれよりも美術的ではあるが服裝裝飾として見ると、何う考へても原始的である。その趣味も大西洋の土人の趣味と似たり寄つたりで進歩の法則に明らかに逆行してゐる。彼女等は帶といふ拘束物でかたくしめる。襦袢、下着等幾重にも重ねてこれを見せる爲に身をしばり肉體美を全部包んでしまふ。女性としての人間の特長を全然隱してしまふのである。着物それ自身虚飾の見世物のやうな形で歩行する。それに女の衣裝に金のかゝることまさに世界一であら。女の服裝の形は百年も前から一向變化を示さない。そして年々歳々いろ/\なもので、ます/\その服裝を不便にする。可哀想に愛らしい女の子が七つになると親はあらゆる手段を以てその娘を扮飾する。彼女等は自分の娘を虚榮の見世物にして公衆の貪慾の目的物にする。かうして幼い子供等に虚榮の心を養成してゐこ日本の親達は天晴れ也界にま(60)れな賢母良妻といつてよい、日本の婦人の非活動的なのは全くその服装のために、身を飾るだけでなく、また身體ばかりでなく金の方も身動きが出來なくなるのも顧慮しないのである。こんな風習は一日も早く改善しなければならない。
 有名な英國の大經濟學者ジヨンスチユアート・ミルは
『婦人をして男子の如く社會の事物にあたらしめよ。彼女等は遂に羽毛扮飾の美に魂を蕩かす愚をなさゞるに至らん。』
 と、いつてゐる。こんなよい教訓はあるまい。又更に
『野蠻人をして今日草莽野蠻の境より脱却せしむるには彼等に新奇なる慾望を與へ、これを滿足せんとして勤勞せしむるに如かず』
 と。現代の野蠻な日本婦人に與へねばならぬ新奇な慾望は運勤であらう。
 婦人の服裝で裾の短いのは性を誘惑せしむるとの説は馬鹿氣た時代錯誤の觀察である。ロンドンで遇つた帝大の某老教授が
『あの裾の短い頭の毛を切る風俗だけは日本に入れたくない』
 と、いつてゐたが、かうした意見を持つてゐるのは決して保守的なこの老人ばかりでない。恐ら(61)く日本人中での九分九厘までの意見であらう。然し私は婦人の服裝は歐米式に改善した方が最良であると信じてゐる。現に小學校の子供は洋服が多い。これは便利であると同時に身體の動作に適してゐるからである。それが女學生になつて多少色氣づくと、非活動的な日本の服裝を好むやうになる。それは古い母親の教育方法と運動を廢めて日本特有の婦人になつてしまふからである。日本の現代の女は子供の時は自由に解放されてゐるが成熟する頃から牢屋の中に閉ぢ込められてしまふ。男はすでに今日洋服を着てゐる、女の洋裝が惡いといふ理由はない。國粹の保存などはそんな所にあるのではない。わが帝國の國粹は長い歴史と國民の精神とにあるのだ。服裝や食物は時代に應じて變つて行かねばならぬ、そんなことで日本魂を失ふ樣なら、いくら日本服を着ても眞の國民精神を保ち得る道理がない。
 
     街頭を過るオーストリヤの女(六箇所抹削)
           教授の行つたホテルと金を立替へるウイン女
 オーストリヤの首府ウイーンは人口百八十餘萬を有し、世界第八位を占むる大都市で、西ヨーロツパのパリといはれてゐる。繁華な都で、またドナウの流れを市内に持つてゐる美しい古い都であ(62)る。こゝの博物館には歐洲戰爭の導火線となつたオ――ストリヤのフエルヂナンド皇太子が暗殺された血なまぐさい上衣や自動車がある。
 ウイーンのオペラはパリのオペラとならんで世界的に有名である。女優も綺麗で美しい聲の持主が澤山ゐる。しかし今日では何といつてもアメリカのオペラには敵はない。ウイーンやパリのオペラよ郎つたのは昔むことである。今では世界で一番善いのはアメリカのオペラであらう。それといふのも彼等は素晴らしい金を出してヨーロツバからオペラを呼ぶ。オペラは缺損が多い。その缺損は株主の大金持が負擔するのだ。かうしてやるオペラであるから、善いのも無理はない。アメリカは何でも金の力で、科學でも藝術でも運動でも、その他あらゆるものを世界から吸收して自己のものとしてゐる。今のアメリカは大きな文化の熔解爐である。も三四十年經つとアメリカの文化は歐洲のそれを壓倒するに至るであらう。
 ウイーンの春賣る女の美しいのは有名である。成程ウイーンの最も賑やかな通りを歩いてゐると女は盛んにゐる。ウイーンは今衰亡の極に際會してドイツの合併を希望してゐる位だから。生活難から春を賣る女も非常に多い。そして人種の區別もなく無闇矢鱈に客を漁つてゐる。こゝの一番賑かな銀座通り、そこらを女の出る所と目標を定めて歩いてゐると、果せる哉先方から近寄つて來て(63)聲をかけた女がある。見ればまだ十九許りの美しい女だ。媚を可愛らしい口もとに浮べてニツと微笑してゐるのだ。私は一言もいはずにいきなり女の右腕を組むと町の通りの横へ入つた。そして
『いくら要るか』
 と、聞いて見ると
『十圓下さい』
 と、答へる。
『實は私はお金を持つてゐない』
 と、いつても承知しない。
『決して高くはありません。一緒にホテルへ行きませう』
『駄目だ。ほんとに私はお金がないのだ』
『そんな筈はありません』
 と、私の手を握つて何ともいへない愛くるしい瞳で見詰める。
『ほんとだ。今日チエツク・スロバキヤからこゝへ着いたばかりで、今食後の散歩をしてぬるのだからオーストリヤの金は殆ど持つてゐないのだ』
(64)『それでは英國のポンドを持つてゐますか』
『ポンドなら持つてゐる』
『いくら』
『たつた一枚だけさ』
『そんなことはありませんよ。もつと持つてゐるでせう』
『それ以外には全く何も持つてゐない』
 と、紙入を見せ
『一體貴女の家へ行くのかそれともホテルへ行くのか』
『ホテルが直ぐ傍にありますからそこへ行きませう』
 と、女はホテルの名前をいひながら電車線路の向側を指さした。
『どの位あるのだ』
『あの横町を一丁程行けばいゝのですよ』
『近所にホテルは澤山あるのか』
『幾らでもあります』
(65)『ホテルは幾らかゝる』
『三圓程です』
『その外に室の女などにいくら要るだらう』
『三十錢か五十錢やればいゝんです』
『それでは全部で十三圓五十錢あればいゝんだね』
 と、私はわざとポケツトから小錢を出して見せた。女は早速それを數へ立てたが丁度三圓六十錢あつた。偶感であるとはいへ面白かつた。
『三圓六十錢ありますよ』
『それだけだよ』
『これで澤山です。さあ、行きませう』
 ウイーンの相場としては一ポンド即ち十圓は實は高い。半分位でいゝのだ。兎に角私は一緒に隨いて行つて見た。この賑やかな町を眞直ぐに行くとクツク旅行社の横を通つてドナウ河にかゝつてゐる橋の所へ田る。かうした女の澤山出る所である。通りを横に入ると、そこには汚ないダンスホールやバーが軒を並べて立つてゐる。そして若い男や女が澤山歩いてゐる。古い都のウイーンには(66)いはゆる虹燈をつけたホテルがまだチラホラある。
 ホテルといふのは左程汚なくはないが、何んとなく安宿めいてゐた。その前まで來た。入口はなかなか大きいので、どうしたのだらうとよく見ると、その入口はホテルだけではなく、地の事務所にも當てゝあるのだ。入口の室には門番のやうな爺さんがゐた。女は入つて行くと室の交渉に取かゝつた。爺さんは眞面目な顔を始終くづさないで三圓くれといふ。三圓拂ふ。有難うと濟ましたもの女は鍵と小さい札を貰つて室の番號を聞いて行かうとするのを爺さんは呼びとめ
    は要らないか』
 と、それも大眞面目で聞いた。日本人なら一寸笑顔を作る所だが――一體歐米人は日本人のやうに愛嬌笑ひをすることが少い。
 私はいさゝか恐縮した。が、爺さんは一向平氣な顔で
    を持つてゐなければ、こゝにある』
 と、机のひきだし〔四字傍点〕から出した。念のために聞いてやらうと、
『いくらだね』
『三十銭だ』
(67) 馬鹿に高い。それも仕方がないかも知れない。實は私には入用はないのだ。たゞ値段さへ分ればそれでいゝのだ。
『有難う。持つてゐるからいゝ』
 爺さんは別に失望もしないで、それをしまつてしまつた。
 女はこのホテルの勝手を餘程よく知つてゐると見えて先に立つて二階へ上つた。そして、室女のゐる室の前まで來て輕く戸を叩いた。
『今晩は。五番の室を頼みますよ』
 と、札を渡した。女は鍵を貰ふと室の戸を開け、また鍵を渡して歸つて行つた。
 室の廣さは十疊位。型の如くダブルベツドがある、水も湯もある。洗面器が一個ある。勿論顔を
 
 女は間もなく私に向ひ、
    はいりませんか』
と、爺さんと同じ文句をいつた。
    が必要なのかね』
(68)『いるなら買つて來て上げませう』
 試みに聞いて見ると、女のいひ値は頗る高い。
『高いね』
『一つで買ふと高いのよ、私、一ダ―ス買つて上げませうか。安くなります』
『まあよして置かう』
 と、私は斷つてしまつた。かうした女はサツクを賣つて一儲けするのだ。イギリスでもかうしたことはやる。女の中にはサツクをあらかじめ手提の中に用意してゐて、客が欲しいといふと室を一寸出て買ひに行く振をして高く賣り付けるのがある。こんな副業をやるのは珍しくない。
 私は約束の金を與へて、いろ/\と女に質問して見て、何か聞き出さうとしたがこの手の女はさつさと的束を履行して一刻も早く歸らうとするらしく、さつさと上衣を取りながら、頻に急き立てる。私はなるたけ話しを聞き出さうとして、わざ/\手を洗つたり何かして愚圖々々して、
『どうしてこんな商賣をしてゐるのだ』
 女はきよとんとして、
『そんなことはどうでもいゝぢやありませんか』
(69) と、てんで相手にならない。いくら話を向けても話さない。しかし話の中から兩親があつて、自分は高等小學を出るとすぐある事務所へ通つてゐる。だから晩くまでそとにゐることは出來ない。急いで歸らうとするのも、それが原因であるらしい。
『どこへ勤めてゐるのか』
 と聞いても
『そんなことを聞いても、何にもならないぢやありませんか』
 と、どうしてもいはない。いろ/\の話しから察すると、勤めて得る給料は兩親の扶養だけに消えてしまふらしい。化粧代とか自分の着物代の不足を補ふために時々稼ぐらしい。そしてオーストリヤの金よりイギリス式のポンドを好む所から見ると、又英語を知つてゐる。(オーストリヤはドイツ語)點から察して見るに英米の客を主として相手にするのは分る。
『英語が大變上手だが、アメリカへでも行つたことがあるのか』
 と、聞くと、
『アメリカへ行つたことはありません、私の從兄はニユーヨークにゐますけれども』
『アメリカ人が澤來るか』
(70)『滞山來ます』
 成程來るに違ひない。毎年アメリカからヨーロツパに來る見物人は非常なものだ。アメリカ人は旅行好きである。卅萬人からあるといはれてゐる。その歐洲各國におとす金は大したものでパリの商店などは大切なお客筋としてゐる。
『どんな客が來るかね。アメリカの大學生は來ないかね』
『そんな職業を聞いて何にするんです。私はお金を貰へばそれでいゝんです。相手の職業など聞く必要はないんです』
 女は少しのお世辭氣もなく思ふまゝハキ/\と答へる。品を作る日本の女よりは遙に氣持がいゝ。
『實は私もアメリカには二三ケ月ばかりゐたのだよ』
『アメリカの大抵の大學は知つてゐる、又教授にも澤山知人がゐるがそんな人達は來ないかね』
 と、いひながら私は上衣を取つてぽつ/\ネクタイを外す眞似をした。女は大分話につり込まれたと見えて或る米國人の名前をいつて、
『では、かういふ大學の教授を知つてゐますか』
 と、聞き返した。
(71)『知らないね、どうしてまたその人を知つてゐるのだね』
『私の所へ來たんです』
『遊びに? このホテルへ?』
『えゝ』
 その大學の教授も度々通つたと見えて、名刺を置いて行つたらしい。日本の大學の先生ばかりでない。何れの國の人間も大した變りはない。但しこの教授は獨身者かさもなくば細君を置いて來たに違ひない。歐米人は大低細君同伴で旅行をする。して細君の監視が頗る嚴重である。あへて大學の教授でなくとも、この女には大概の男なら參るだらう。如何にも愛くるしい所がある。背は小作りの方なのだが美しい白い皮膚の持主で、人形のやうな可愛らしい顔をしてゐた。
 一通り會話も終つたので、私は
『では私は歸るから』
 と、いふと、
『何故?』
 と、女は驚く、
(72)『實は酷い  で貴女に氣の毒だから』
 かういふのが一番利く逃口上なのだ。女は呆然と私の顔を見入つた。
『實は私はたゞ話を聞けばいゝのだ。だから、心配しないでもいゝ』
 とはいつたものゝ、私は旅先で病氣を背負ひ込むのが恐ろしかつたのだ。だから實行は決してしないことにしてゐた、それに夫として義務を感じたからである。
『さうですか』
 と、女は至極あつさりて、
『では行きますよ左樣なら』
 と、いひ、
『私は一足先に歸ります』
 と、身仕度をした。
『何もそんなに急がなくてもいゝではないか、一緒に行かうよ』
 と、いふと女はしばらく待つてゐた。やがて二人は腕をくんで段をおりた。ホテルを出ると二人は直ぐもと來た通りの方へ歩き出した。そして大通りの角まで來ると別れた。女は早足でどん/\(73)歩いて行つた。私はその後姿を見送ると、女が果してどこへ行くのだかを急に知りたくなつた。で、往來に出ると直ぐ野良犬のやうに、女が直に次の男を探し廻るかどうかを試さんと暫く尾行した。
 
       金を立替へる辻君
 
 が、女は非常な急ぎ足で、眞赤な絹の短いマントに波を打たせて側目も振らずに歸つて行つた。女のいつたことは嘘ではないらしい。家に歸るのでなければ、あんな早足で歸つては行くまい、多分は英國のポンドでもせつせと稼き溜めて爲替相場のいゝ時を見計らつて兩替でもする氣なのだらう。いやそんな餘裕はあるまい、明日あたりはオーストリヤの金に替へてしまふだらう。我は女の尾行を諦めると直ぐ廻れ右をして、またもとの道へ引き返した。すると先刻二人で入つたホテルの角に一人の女が立つてゐる。私がその前を通ると、女は近寄つて來て、
『ホテルへ行きませう』
 と、ドイツ語で引き留めた。この女は英語もフランス語み出來なかつた。
『金がないんだよ。一文もない』
 と、私が答へると、
(74)『そんなことはないでせう』
『ほんとだよ』
『でも.貴方は今この先のホテルへ行つたでせう』
 私は驚き、
『行つたよ』
『それだのにお金を持つてゐないんですか』
『さうだよ』
『それでは皆使つてしまつたんですか』
『さうだ』
『相手は赤いマントを着た背の低い女でせう。今さつき行つた――いくらやつたんです』
 私は首肯かんとして危く思ひ止めて、
『違ふ』
『ではどんな女ですか』
『そんなことを聞いて何にするんだ』
(75) 今度はこちらでこの文句を口にした。
『少し知りたいことがあるんです』
 私は最前の女と正反對のことをいつて見た。
『女は白いコートを着た、すらりとした背の高い、それは美人だつたよ』
 相手の女は眞面目に考へてゐたが、
『そんな女に心當たりはありませんね――』
 と、暫くして
『兎も角、一緒に行きませう』
 と、誘つた。
 かうした女達でも歐米の女は人のいふことを疑はない性質がある。
『もう一厘もない』
『金は私が持つてゐますからタクシーに乘りませう』
『それはお前の金で私の金ではないぢやないか』
『宿屋へ行けばあるんでせう』
(76)『ある』
『では一緒に行きませう』
『宿屋へお前は一緒に來ても差支へないのか』
『いゝえ、少し工合が惡いんです。そとで持つてゐますから、貴方取つてお出でなさい』
『實は宿へ行つても金はないのだ』
『何故、今あるといつたぢやありませんか』
『あるといつても信用状で持つてぬるんだから、あしたにならなければ金は取れない』
『それではようとざんす。我がお金を持つてゐるから。これから自動車でどこかへ行きませう。そして二人で泊りませうよ』
『ほんとうに金を持つてゐるのか』
 と、私が聞くと、女は手提袋を開けて見せた。意外に相當の金が入つてゐるのに驚いた。どこの國の女でも手提の中には大した金は持つてゐないのが普通なのだ。私はかうした女の手提の中を度々見たから知つてゐる。所がこの女は持つてゐる。一體この女は何者だらう。顔も先きのマントの女に比べると問題にならない。
(77)『金がありますから、自動車代はあります。一緒に行をませう。』
『行つてもいゝが』
『自動車で行つてホテルへ泊つて明日一緒に銀行へ行きませう。そこで貴方が拂つてくれゝばいゝんです』
 女はなか/\放さない。私は女がほんとにしないんだと思つて紙入を見せた。
 その夜はほんとに私には金がなかつた。全くの無一物なのだ。この位綺麗に勘定を拂つてしまつたことは恐らく旅行中なかつた。私の持合せといつては胴に付けた護身用の短刀一口があるのみだつた。それにしても女がどうしてこんなに金を持つてゐるのか不思議でならなかつたから、いろ/\と突つ込んで聞いて見た。しかし女は私が遊びに行く意志がないと見て取ると、たゞのひやかしの客と見てそんな質問には一切取り合はないで、返つて向うから逃げ仕度にかゝつた。こちらは追つかけて聞かんと、しつこく攻め立てると、女は到頭逃げて行つてしまつた。女の方から逃げ出したのは歐米の旅行中これが最初でありまた最後であつた。
       ◇
 それから出遇うた三四人の女にいろ/\聞いて歩いて見た。しかし金を拂はずに往來などで身(78)の上話を聞かうとしても相手にされない。大概女の方でひやかし〔四字傍点〕の客と睨んで逃げてしまふ。こちらは金を一文も持つてゐないから強い。ます/\追撃して聞いて見たが一向に要領を得なかつた。しかし、ウイーンにかうした種類の女の多いことは事實である。從つて彼女等の間には競爭が容易でない。オーストリヤは今經濟的に困窮のどん底にある。だからウイーンの彼女等の大切な客は皆外國人である。そのせゐかどこの國の女よりも外國人に馴れてゐる。外國人となると先方から積極的に出る方がよい彼女等はたとへ日本人でも績極的に女の方から盛んに眼でものをいうたり話かけたりする。
 しかしウイーンの女の中にも矢張人種的偏見を持つてゐるのも尠くない。また鈍然たる商賣化しない女や、ほんの小便ひ取りにやつてゐる女たちはオーストリヤ人以外には相手にしない。生憎その夜の一文なしの私に、客を探す間に彼女等が往來の隅で語つてくれた話が以上のやうなことである。
 私は自動車に乘る金もなく暗い道を通つて、つい一月程前に共産黨の一味が破壞してそのまゝになつてゐる高等裁判所の前を通つてホテルへ歸つた。時計を見るとすでに一時を廻つてゐた。また明日は早起きをせねばならない。女の調べも人から見ると呑氣なやうであるが、身體の疲れを慰す(79)る夜活勤するのだからなか/\容易な仕事ではないとつく/”\感じた。
 
     男には見せない映畫
 
 今アメリカでは性の活動寫眞が所々の都市で行はれてゐる。廣告を示すと『男ばかり』といふのと『女ばかり』といふのがある。この女ばかりといふのは女の入場を許すのみで一切男の入場を許さない、かうした廣告が新聞によく出る。そして方々の都市で行はれる。ロスアンジエルスで私はその新聞廣告を手にするとすぐ出かけた。で道行く人に聞いて見ると知らないと答へる人が多い。でも一人勞働者風の男が知つてゐて、その場へ行くことが出來た。相當大きい館で『女ばかり』と『男ばかり』と入口がちやんと別れてゐる、『女ばかり』の方は一切男に切符を賣らない。仕方がないので『男ばかり』の方へ入つた。切符を賣る窓口のそばに大きな硝子の箱が横になつてゐる。中を見ると一人の美人が絹の極く薄い着物を着て寢てゐる。口紅をつけ白粉も濃く眉も引き眼のふちもくま取つて、舞台の化粧そのまゝである。それがじつとしてゐて動かない。その隣りにもう一人寢てゐる。如何にも誘惑的な廣告である。その片方の女が實は?で造つた人形であるには驚いた。アメリカの人形は實によく出來てゐる。日本の人形は人形らしくて直ぐ分るが、向ふのは人間と區別が出來(80)ないのがある。片つ方のも人形かと近寄つて見ようとすると、見知らぬ男がやつて來て、硝子箱に近附くと何か話しだした。それで人間だと氣がついた。女も氣がついたらしく何か答へて、やがて二人は喋り出した。何を話してゐるのかと耳をすまして聞くと、
       ランデブーの話その他
『今夜は何うだい』
 と、男。
『ようござんす』
 と、女。
『何處かで遇はうか』
『遇ひませう』
『何處がいゝだらうか』
『何處でもいゝわ』
『それではいつものカツフエーに行つてるからそこで遇はう』
『よろしい』
(81)『何時頃なら來られる』
『さあ、これがおしまひになるのは何うしても十一時過ぎになりませう、終つてから直ぐ行きますわ』
『それでは待つてゐるよ』
 てなことで二人は手を握つた。これには驚いた。人形になつてゐる人間が情夫と逢引の約束をしてゐるのだ。苦笑し乍ら切符を買つて『男ばかり』の方へ入る。
 廣告は頗る跳發的だが中はそれ程でもない性教育の寫眞であるが、花柳病の危險を宣傳するのが主たる目的である。先づ醫者が出て來て、性の病氣の恐るべきことを講演する。卅分以上もかゝつた。それが濟むといろ/\の映畫を見せる。それも女の生殖器の解剖、胎兒の状況、胎兒の發育、花柳病に罹つた各種の生殖器等を幻燈、活動寫眞で見せるのだ。これが三時間位續く。そしてそれに一々説明が加へられる。
 觀客は少い。他の館が滿員でもこゝはそんなことは滅多にない。見物人の中には老人はゐないが相當の年輩のものがある。しかし青年が一番多い。寫眞合間には性の病氣豫防に關するパンフレツトを賣つてゐる。こんな風にたゞ性教育の活動寫眞を公開して、それによつて金を取るのはアメ(82)リカだけである。
 それにつけても私は曾て某工場附屬の工業學校の校長を兼務してゐた時のことを思ひ出す。そこの生徒は職工などの子弟が多かつた。或る時ふと考へついて卒業間際に生徒等に性教育を施した。即ち生殖詩の學理的説明、黴毒、花柳病傳播の状況、豫防方法などを工場の醫者に頼んで講義して貰つたのである。僅か一二回の經驗で非常に好結果を收むることが出來た。職工階級の子弟は二十歳前後で女を知るのが多い。地方の曖昧屋、だるま茶屋等で徴兵適齡前に皆慘憺たる童貞の誇りを捨てるのである。それを防止することは出來ない。この企てをした後、生徒の告白を聞くと、依然として遊びには行くが病毒の感染を防禦する手段を請ずるとのことであつた。即ち自衛的豫防策を講ずるのである。教へても教へなくとも遊ぶのであるから寧ろ教へてその危險を防止する手段を講ぜしめた方が宜しい日本でも一日も早く性教育を施す機會を見出したい。
 要するに性慾の發動を無暗につゝしめといつた所で効果はないのである。寧ろ不純な性交の危險を知らしめて各自の忍耐心にうつたへしめた方が現代の青年には宜い。見られぬ物を見たがるのは人情の自然である。臭い物に蓋をする主義の消極策は却て今日の青年に適さない。殊に性の問題では然りである。宜しくその知識を徹底せしめて危險な性慾の滿足を知らしめ自ら防衛策を取らしめ(83)た方が有意義である。
 なほ話しが少し横道へ外れるが日本の公娼制度は一寸安全のやうに見えてその實危險極まるものである事を一言したい。公娼には如何にも檢黴の制度がある。檢黴制度があれば病毒が感染しないかといふと、さう安心はなか/\出來ない。實際完全に檢黴などは決して出來るものではない。今やつてゐる日本の田舍の檢黴などは徹底どころか不完全も甚だしいのである。ほんの形式的であるに過ぎない。餘程ひどいのでない以上營業を停止させない。それに病院へ入れても完治するまで置くことをしない。また娼婦自身も無知なのか多く衛生思想の缺除してゐるのはざらにある。そこへ行くと外國のかうした種類の女たちは、また客も勿論さうであるが衛生思想が發達してゐる。公娼でなくとも日本よりは餘程危險性が少ない。將來日本の青年の性問題を積極的に解決するには無暗に道學先生が性慾の中止觀念を進めるよりは結婚前の男女に自制を教へると同時に性の教育をよくする即ち花柳病の恐るべきことを説きこれに對する豫防的知識を普及せしむる方が良策である。
 
     ニユーヨークの婦人ばかりのホテル
 
 ニユーヨークには婦人ばかりの裁判所ホテルもある。アメリカは婦人のためにあらゆる便宜を(84)講じてゐるがニユーヨークは殊にその點は著しい。それにこの國は分業が極度に發達してゐる。であるからあらゆる方面に分化が行はれてゐるのだ。
 この婦人ばかりのホテルはジユニオール・リーグ・ホテルといつて、ニユーヨークの東七十八丁目の五四一番地にある。大きな建物で五六百の室がある。宿泊する者は重に職業婦人またはニユーヨークに見物乃至は岳問しに來る學生、先生等である。そしてこれらに一時的な宿をしたり一週間貸をしたりするのである。なみのホテルより此較的に料金が安くてすべての點が便利である。一人室も二人室も同じで二弗である。一週間になると十二弗に割引する。朝飯と夕飯附で日曜日には三食附く。入浴は隨時で共同風呂があり洗濯屋もある。
 このホテルはホドソン川を見下すことの出來るサツトン・プレイスにあつて、夏は比較的に凉しい宿屋の中には圖書館、客室、舞踊室などがあつて何時誰でも使へることになつてゐる。屋上には庭園があつてこゝではバスケツト・ボ―ル、テニス等が出來、その他戸外運動もやれる、病氣の時その他に世話を燒く女も居る。
       ×
 ホテルの室は何れも滿員である私もこのホテルを見に行つたことがある。こゝにゐる婦人は一體(85)に質素で學校の先生が多い。それといふのもニユーヨークには各期の夏期講習會が開催せられて、地方の都市の女の先生が澤山勉強のために出て來るからだ。總じてアメリカの先生はなか/\よく勉強する。日本の先生達の比で無い。体暇などになると大抵旅行などして實地の見聞を廣めるそのせゐか實際の見聞に富んでゐて常識がよく發達してゐる。だから旅行や講習のための便宜を計つて女だけを宿泊させるホテルがあるのである。
       ×
 それからアメリカには慈善團體がよく發達してゐる。そして團體のために安い便利なセツツルメントを建てゝゐる。富豪や公共の寄附で毎年補助を受け、教育者やニユーヨークへ見物に來た人のために室を貸すのである。男女を問はず希望する人は誰でも借りることが出來るが、いつも滿員である。こうした設備がも少し日本の都市にもほしいものだ。
 
     支那へ行き度がるハワイ生れの日本女
 
 ハワイにはハワイで生れてハワイで學校教育を終つた日本の男女が澤山ゐる。こうして成長した女は日本を全く知らないで、自國の文化を餘程低く許價してゐる。甚だしいのになると本國を恥ぢ(86)て劣等國と思つてゐる。そうした女達に何處の國を旅行し度いかと質問すると支那の旅行がして見たいと答へる。日本へ行き度いと言ふものは少ない。
 支那はアメリカによく紹介されてゐるから生所の状況其他が全く異なつた面白いものゝやうに感じてゐるのだ。之に反して日本の印象は殆んど無い。彼女等は日本をたゞ文化の低い國だと思ひ込んでゐるのみである。それと言ふのも日本の紹介がアメリカには十分されてゐないからだ。所が支那は風俗と言はず美術と言はずよく紹介せられてゐる。汽車に乘つても支那風俗の寫眞帖はあつても日本のはない。日本のお役所を始め實業家はこうした點に何等の努力を拂つてゐない。日本の紹介に努めることはなまなかを商品の廣告より遙に有効なのである。支那はこういふ點には萬事に拔目がない。
 一例を擧げるとワシントンに歐洲大戰に名譽の戰死を遂げた無名戰士《アンノンソルジヤー》の墓がある。此處で毎年大
〔写真、形も魂も米化そのくせ決して凡てが米人と同樣には取扱はれぬやはり日本人はどこで生れても日本人になる樣にせなければ駄目である〕
(87)統領は施政の方針を演説する。此の演説は世界國民の注目の的となるので、從つて此の場所も米國民に取つては忘れられない關係を持つてゐる。であるから世界に於ける各國はそれ/\紀念物を寄附してゐる。そこに支那は列國の中で一番目に付く眞正面の入口に据え付けてゐる。それが非常に目立つ。しかし獨り日本は何も寄附をしてゐない。淋しいこと夥しい。日本はこうしたことになると官民共に手拔かりである。『殊に日本の外務省と來たら何ういふ考を持つてゐるのかは知らないが、その活動振りは餘り感心出來ない。日本を紹介する考はおろかその國の事情の調査すら出來て居ない。その國の官憲ともよく連絡が取れてゐないで紹介状など書くのも遠慮ばかりしてゐる。内地人に對すると馬鹿に強いが相手が外國人だと頗る弱い。我々旅行者の手紙すら完全に保管してくれぬそれもその筈である。夕べに外交官が代つて朝に次の者が來る始末だから。徹底した事情など分るものでない。外務省が門戸開放、人才登庸を策するに非れば將來の日本の外交政策は憂慮すべき事態に立至るであらう。』
 話が横道に外れたがだからアメリカに生れて育つた日本人は肝甚の本國である日本を措いて支那に憧れてゐるのである。しかしこうした日本人が觀光團を組織して一度日本へ來ると思想ががらりと變つてしまふ。本國の日本が思つたより立派で文化が進んでゐるのに驚異の瞳をみはる。歐米(88)の諸國に比較して大した遜色のない點を見て嘆稱する。そして急に日本を誇るやうになり親しみを感ずるやうになる。要するに見ない所より見た所がよくなるのは當り前で何も不思議はないが實際日本の文化は大して歐米のそれに比較して劣つてはゐない。彼等がそれを見て始めて今迄抱いてゐた思想を變へるのも當然である。
 以上の點などから考へて見ても、今日の進歩した日本を紹介するのは何人にも急務であると考へる。政治、外交、通商の上からしても今少し徹底的に現代の日本を紹介させる必要がある。政府當局に此の點を少し考へて貰ひ度い。
 
     素人の女の來るダンスホール
          (電話で話をする)
 
 ベルリンの勞働者や中以下の者の住んでゐる方面に――即ちブルーインスストリートの一〇番にレセデンス、カシノといふダンスホールがある。主として素人の女の澤山來る所である。此の方面は一體に中以下の人の住宅が多くあつて、皆此の邊からベルリンの中心にある商店や會社に女事務員として通つてゐるのである。
(89) これらの女は家に歸ると、ダンスをしたり、或は男を探したりする爲めに、此のダンスホールに來るのだ。それが此のダンスホールの繁昌する所以となつてゐる。それらの女の中に少しは春を賣る專問の女も交つてゐるが、その數は極めて尠い。八分通りは職業婦人や娘さん達で占めてゐる。此の女達は自分の男友達や、またはそれに準じた人々と一緒にダンスに行つたり、また此處で友達になつたりする。こうした所で墮落する女も少なくないまた結婚の相手を得る幸福の女もある。
 実内の造りは相變らず眞中にダンスホールがある。相當に廣い平家で、地下室があり、そこにもダンスホールがある。オーケストラがあつて、天井からは燦然とした光線が放たれて室内の情景をそれぞれいろどつてゐる。客は二三百人位入ることが出來る。奥の方にはカウンターのやうなバーがありテーブルの間を煙草や菓子を賣る女が首から箱をかけて廻つて來る。各テーブルには室内電話が設けてあつて、自由に話しが出來るやうになつてゐる。テーブルには番號が付いてゐるから相手の無い男などは此の電話で遠くからあの女と踊り度いと思ふと、そのテーブルに電話をかける。
『もし/\貴方は私と踊つて呉れませんか?』
 と、言つてやるのだ。
 女の方からも遠慮なく掛ける。承知したら向ふも立上るし、此方も立上るから直ぐ分る。それか(90)らダンスの間に女と親友になるのである。一回二回位では難かしいかも知れないが、幾度も會つてゐて,お互に共鳴すれば相手を得ることが出來る。だから素人の女を得るカフエーとして、ダンスホールとして非常に榮えてゐる。客には殆んど日本人は居ない。綺麗な女も來れば、醜い女も來る。つんとしたのも來れば愛嬌のある女も來る。何しろ面白い組織だ。
 私は此處で一人の美人を見出した。殆んど今まで見たことも無い程の女であつた。が惜しいことには一人の女連れがあつた。こうした所へ來るせいか春を賣る女のいでたちでは無く、何處迄も今樣式にけば/\してない令孃然たるつくりをしてゐた。私が下のダンスホールを見に降りると、その女も又降りる所で偶然一緒になつた。そして一群の女の中に交ると、彼女もダンスに見入つた。一體此の女は何者だらう。まんざらの素人とは思へぬし、と言つて、玄人とも思はれない。が、何しろ面白い對照物が見つかつたので、私も興味を感じ、此の女を探る氣で、それとなく、彼女の樣子を窺つて見た。
 私は地下室のダンスホールのテーブルに腰を下すとビールを注文した、女は客の間に立ち交つてそこら邊りを見てゐた。が、一向に私の方へは顔を向け無かつた。その中にふと氣を付けるとその女の連れの方の女が、私の方を見た。しめたと思つて、私はすかさず微笑を送り乍ら、ビールのコ(91)ツプを輕く擧げて敬意を表した。若し相手が素人の女なら知りもしない、男の席へは來ないが、何うするものかと思ひ乍ら前の椅子へ手を差向けて、輕くお坐りといふ合圖をすると、女は連れの美人の手を引き乍ら私の席へやつて來た。
『お酒を飲みますか』
 と、聞くと、
『飲みます』
 と、答へる。で、甘い酒を二つ取り寄せて薦めると、女は遠慮なく飲んだ。私も眞面目なら先方も至極眞面目で、いろ/\とダンスホールのことや、電話の設備のあるカツフエーは世界にも類の無いことだなどと、話をした。やがて女は禮を言ふと立上つた。で、私も上のダンスホールを見に行くことにして立上つた。
 上のダンスホールへ行くと、その二人の女も依然令孃然と取り濟まして、人込みの中に立つてゐた。私は自分の席に歸ると、チヨツト顎で合圖をして來るやうにと言ふと女は早速來た。
『席が無いのですか』
『そうです』
(92)『此處へ坐つたら何うです』
『ではお邪魔します』
 と、また話し込んだ。かれこれと取り留めも無く話をしてゐると、二人の女にダンスの申込みがあつて、二人はダンスをしに行つた。それが濟んで席に歸つて來ると、私に向ひ
『バーの近い方へ行きませんか』
 と、誘ふ。で、私も心よくそれに應じて、バーの一隅で女と相對し、酒を注文してまた話し込んだ。魚心あれば水心で女はだん/\話がはづむと、いつの間にか令孃風を脱して露骨になつて來たそして、盛んに誘惑をし始めた。わたしは面白くなつたと思つた。
 私はこうした娘は何處に勤めてゐるのか、その家庭は何んな有樣かといふやうなことを聞き出さんとしたのであるが、その目的は美事に外れてしまつた。彼女がくろうとの女であるなら美人の方が遙かに相手とするに氣特が宜い。もう私に話しかける女には用はない。でその美人の方にのみ話を持かけて話し込んだ。しかし、その會話は、よそのお客に對するやうな上調子な態度を取つてゐるので、油の乘らないこと夥しい。その中に、一人の醜い方の女は電話が掛つて來てダンスに行つてしまつたので、私は美人に向つて
(93)『私は貴女のやうな美人を見たことが無い。貴女は天女のやうですね』
 と、もち上げると美人は眼を丸くして私の顔を見た。
『實はさつきのお酒は貴女に飲んでもらいたかつたのですに、それだのに貴方はちつとも察して呉れませんでしたね』
 と、矢繼早に油をかけると、女は褒められて嬉しかつたと見え、少し燥いで
『それは貴方が惡いのです、貴方が初めに呼んだのは私では有りません。私の友達ぢやありませんか』
 と、なじる表情をする。
『私は貴女を呼び度かつたのだが、しかし、貴女が私の方を向かなかつたものだからね』
『私は知らなかつたのですもの』
『所が丁度貴女の、お友達が私の方を見たのです。しかし私の目的は言ふ迄もなく貴女にあつた』
『でも私の友達は貴方を自分のものだと主張してゐますよ』
『え!?』
 と、私はうんざりして、
(94)『それは飛んでも無いことになつたものだ』
 と、思はず苦笑した。もと/\職業婦人の樣子を調べたいと思ふた所が、商賣人ではもう珍らしくも無い。おまけに將を?まずに馬を?まなくてはならなくなつたとは! それにしても、こうした女の間にも秩序と順序はあると見えて、その美人が控へ目にしてゐた理由が分つた。
 日本には將を射んとする者は先づ馬を射るといふ諺があるが、外國ではそれは應用出來ない。すべて物ごとを赤裸々にしないで、日本のやうに寮せよごかしにすると失敗するのは何も此事ばかりでは無い。日本式の遠廻しの問答は歐米には不向きである。私も所謂馬を射る政策を行はんとしたのだが、國が變つてゐたので美事に失敗してしまつた。
 私は酒の勘定を拂ふと、やつとのことで女の手から逃げ出した。振り返つて見たら相手の女は、うらめしさうにまだ見送つて居た。
 
     幾千の活動女優の集るホリーウッド
 
 ロスアンゼルスは魔の市と言はれてゐるが、同市の發展振りは實に人間業以上であつて此の十年間は毎年十萬人からの人間が流れ込んで忽ち百三十萬の人口を算する樣になつた。爲めにアメリカ(95)人はこれを魔の市とか『ワンダブル』即ち驚く可き市とか呼んでゐる。アメリカ人はワンダフルといふ言葉を何にでもよく用ふる癖がある。
〔写真、アメリカ映畫女優〕
 同市の發達は遙かにサンフランシスコを凌駕してゐて、又石油の産地として知られ、農産物に富み、春の如き氣候に惠まれ、メロンや西瓜、葡萄などの甘味い果物が澤山出來て、太平洋岸では將來最も有望な良港場である。活動寫眞お馴染なホリウツドは此のロスアンゼルスの町つゞきにある。此處には米國の殆んど全部の有名な活動寫眞の撮影曾社が集つてゐて、映畫會社のみ二百四十七からあり、フイルム製造會社は四十二も有つて、これに世界のフアンの血を湧かす俳優が集まつてゐ(96)て同所の繁榮を助けてゐる。俳優は映畫の必要上各國の人間がゐる。日本人としては上山草人などがよく知られてゐることは既に御承最知であるが、此の俳優達は日本のやうに何々座所屬ときまつて居ないので必婆な場面で役を演じて、その時には報酬を貰ふのである。時には有名な俳優は他の曾社の映畫には出ぬ池といふ契約をする場合もあるが、一般には藝術の切賣りである。從つて自分の出たのが何の映畫であるか知らぬのが多い。彼等は日本の俳優のやうに役割の事で泣いたり騷いだりするやうな馬鹿氣たことは少ない。日本の芝居は家の格といふものがあるから、よい役者を一座に揃へることが出來ないのである。何とか組織を變へないと日本古來の藝術の將來の發展は到底おぼつかないであらう。
 此の活動寫眞曾社に關係を持つてゐる人間が驚く勿れ、二萬五千人からあつて、その給料全額が百二十萬圓を算する。實にホリウツドは映畫王國の名に背かぬ。何故こう映畫會社が集まつたかといふと、それは經濟上の原則に依つてゞある。即ち同一の場所に同一の企業が集合すると、相互にいろ/\の點で便利があるからである。それがたとへ競爭する會社であつても利益があるのに變りはない。
 附近には俳優の美しい住宅が集合してゐて、各自の趣味と個性とに依つてそれ/”\數奇を凝らし(97)てゐる。遊覽自動車はこれをも名所の一つとして案内する。遊覽自動車は日に幾臺となく世界のあらゆる人種を乘せて此の町に運ぶ。そしてあれがジャツキークーガンの家、これがバレンチノの家、向ふに見えるのがチヤツプリンの家であるなどと説明して聞かせる。映畫でお馴染みになつた見物人の興味を引くのは言ふまでも無い。
 俳優達の住宅の廻りは燃え立つやうな芝生で覆はれ、椰子や檳榔樹などの熱帶の大木が立ち並んでゐる。又桃色、ばら色、赤や黄や青のやうな樣々な美しい草花が一面に咲き亂れてゐる。さうした家がコンクリートの美麗な大路に面して相並んで立つてゐる。周圍には遠い霞の山々があつてその光景は繪のやうにほがらかで美しい。その大路を自動車で走ると恰かも公園の中を乘り廻して居るやうなそう快な氣分を味ふ。有名なバレンチノの家は高い小山の上にあつて、今は主もなく徒らに有りし昔の華やかさの名殘りをとゞめて管理者の手に保管されてゐる。彼の臨終の際は此世のありとあらゆる美しい數千の花輪が送られたとのことである。
 ホリウツドには又ニユーヨークの百萬長者の別莊がある。長者達の中には女優の所謂後援者もある。女優や百萬長者連の泊るアンバサダーといふホテルがあるが、これなどは實に贅澤極まるもので室代が一ケ月千四五百圓もするのがある。貧乏人にはとても眞似が出來ない。夜はこゝで綺羅び(98)やかに金にあかして着飾つた女優連のダンスが開催される。その贅美をつくした夜裝はパリーでも到底見られないものがある。又香水を始めパリーその他で最新流行を誇る贅澤な女の身の廻り品は各國から輸入せられる。此のホルウツド程商賣で贅澤な婦人用品の揃つてゐる所は世界に類がないといふことである。ニユーヨークからホリウツドまで一時間四十哩も走る汽車で一週間はかゝる。樺太、北海道の二倍位の距離があるのだ。そんなに離れてゐても平氣で別莊通ひをする。日本で樺太位の距離にある土地に別莊を持つてゐる紳士が何人あらうか。大陸の大金持は流石に大きい。日本人もも少し凡てに於て大陸的に大きくなる必要があらう。
 ホリウツドには歐米各國から美人が集まつて來て俳優志願をする。そうした美人の寫眞が度々新聞紙上を飾つてゐる。俳優になるのが難しいのは日本以上である。當然志願者間には幾多の悲喜劇が演ぜられる。中には家出をして歸れぬ女達もゐる。そうした失望の女達を誘惑してメキシコなどへ連れ出して金にする惡い男が入り込んでゐる。これの警戒の爲めに私服の女巡査が釋山ゐる。日本の女優志願者はまだこうした虫が附く程澤山ゐないが、大會社には平均毎日五人位の志願者があるそうだ。なまやさしい斷り方をすると採用されなければ死ぬなんて駄々をこねるそうである。斷る秘訣はいきなりそんな顔では駄目だと言ふに限るそうだ。であるから美人は安心して可なりであ(99)らう。
 女優には日本の女優と同じやうに富豪の所謂後援者がつく。そして衣裳、寶石類を購つて彼女等を綺羅びやかに飾り立てる。米國の富豪のすることに比べると、日本のそれなどは足下にも及ばない。しかし米國の女優はこうして後援を受けるが、この生活は日本の女優の生活に比べると遙に藝術的である。日本の映畫俳優は新派のペイ/\連中のふしだらな生活を見習つてぬるやうである。日本の女優達は映畫に出る時丈けのにはか俳優であるのが多い。帝劇の女優にしても舞臺の上の女優であつて、芝居を見てゐるやうな感がする。だからその場面にちつとも情熱や人格が現はれてゐない。少しも力を持つてゐないのだ。映畫は現代の生んだ一つの新しい藝術であつて、その價値は彼女等の力に依つて定まると言はれてゐる。映畫が社會を支配する力は非常なもので、戀をきざし愛をつくり家庭生活を左右し、時代の習俗習慣を動かす力は絶大なものであるといふことができる私は現代の女優さん方に藝術家としての見識と、人格とを養成するにやぶさかならざらんことを切に願ふものである。
 私がホリウツドへ行つた時、會社の前にはその當時世界の人氣を沸騰させた古代社會の状態を寫したロスト・ワールドの映畫に使用した太古動物の骨や模型などが澤山、芝生にさらされてあつ(100)た。その大がゝりな道具立は日本で想像した以上である。
 日本でも同じだが撮影場の參觀はなか/\許されない。嚴重な監視者がゐて詮議立てが喧しい。であるから何か特別の知人があるか.確かりした紹介者が無ければ參觀は先づ不可能である。私はある便宜を以て入場を許された。
 有名なラスキー・フイルム會社は特別に大きい。その規模の廣大なのにはたゞ一驚を喫する許りである。場内には山、森.川などが自然の儘に殘されて居り、馬その他の動物もゐて、撮影に使ふ家などの殘骸が所々に立つてゐた。立派で充分の構造を具へてゐたには驚く。川ではメキシコ人の服裝をした俳優の一團が馬を乘り廻はして渡つてゐた。何かの場面であらう。
 撮影に使ふ虎、鰐魚、貌等はロスアンゼルスの市立動物園から借りて來る。これらの猛獣は日頃よく馴らされてゐるから人に危害は加へなぬ。美しい女や可弱い女が虎を抱いたり、鰐魚に乘つたり、獅子にたはむれたりする場面を見たりすれば、日本の觀客は膽をつぶすかも知れないが、何も種を洗つて見れば不思講でも何でもない。動物園でよく馴らされた飼殺しのものを借りて來て應用するのである。冒險俳優でなくとも誰でも出來る。
 ホリウツドにはヱジプト、シヤターとチヤイニースシヤターといふのがある。映畫の芝居小屋(101)であるが、これがなか/\立派である。エジプトシヤターはすつかり埃及式に飾つてチヤイニースシヤターは支那式に飾り立てゝある。内部は濃厚な赤、黄、青等とり/\の色で裝飾されその極彩色振りは眼も醒めるばかりである一體に刺戟が強い。壁飾も美しく、日本では比を見ない程の廣大な芝居小屋である。案内する女も美人がより拔いてある。案内の女は日本の芝居にゐるやうな下品で不美人は殆んどゐないと言つてもよい。それが西洋化した華美な支那服を着てゐるから妖艶さが餘計目立つ。支那の美人より支那服が似合ふやうだ。又エジプト、シヤターには人形かと思へる女神のやうな美人がエジプトの女の眞似をして身動きもせずに、何とも言へない感のよい光線に照らされて廊下に立つてゐた。此處では一番善い寫眞が封切りされる。今一つはニユーヨークで封切する。入場料は日本に比して非常に高い。時には十、五六弗即ち三十二圓位する時がある。それでも滿員だからえらい。一兩日前に申込まないと座席が取れないことが屡々ある。
 世界に分布するアメリカの映畫數の八パーセントはロスアンゼルスで賣出される。そして世界到る所でフアンの血を湧き立てゝゐる。偉大なものではないか。有名な會社も數多いが中にもラスキー、クルーネー、オールナイ、ウエストコースト、クリススチー、フイルム、コルポレーシヨン等は名高い。それらの曾社がロスアンゼルスの市を取り卷く山の麓に軒を並べて建つてゐる樣は一(102)偉觀であつた。此地を中心として交通は盛んである。日に幾十臺となく自動車が往來する。
 芝居の内外の有樣を述べて日本と比較して參考に供して見やう。場内を案内する給仕女に美人が揃つてゐることは前に述べた。彼女等の着物は明るい感じのいゝ美しいのを着てゐる。日本になると帝劇あたりでも殺風景極まる裏腹のやうな黒い服を纒はされて、襟に白いきれを着けてゐる。いくら場末のカツフエ―女でもあんな殺風景な服裝はしてゐない。あれでカンテラでも提げさせたら此世からあの世への三途の川の道案内宜しくの態となるだらう。最高の舞臺藝術を觀賞する客を導く案内人の服裝としてほ非美術的で非藝術的も甚しいが然し經濟にはちがひない。
 それに玄關を入ると一番先に眼に着くのは、あの近松の像である。それからその邊にゐる男だ。その服裝がまるで監獄の監視人よろしくで氣分をそぐこと夥しい。場内へ入つても案内女の無作法な物言ひが氣分を尠なからず傷ける。東洋一の宣傳の手前少し考へて貰ひ度い。世界の何處へ行つてもあんな非藝術的な感じを受ける享樂の場所はあるまい。それに入場料がべら棒に高い。まさに世界一だ。現代の劇場の經營者は營利の半面に藝術を民衆化する役目があるのではなからうか。
 話が飛んでもない所へ行つたが、享樂につれて幕があく。と、活人畫が一幕ある。その繪の氣分はよく華やかな周圍と調和を保つていていゝ。時に依ると實演のあることもある。又は名優が出て(103)挨拶することもある。活人畫はすべて美しい光線を受けて全體的に場面、時代、相氣分等をよく考へて表はしてゐる。殊に光線の色彩と使ひ方が非常に上手であるから畫面に奥ゆかしさと重みがつくこれに反して日本では光線に金をかけないから畫が死んでゐる。も少し何んとかならぬものだらうか、日本のフアンは一般に藝術的には低腦であるから、あれで滿足してゐるのかも知れない。それにフイルムもよく活人畫などの實演を入れたりして程よい變化を示してゐる。こうした所は日本にもあつて欲しい。
 藝術の話の序に一言附け加へたいのは、日本人に如何にも藝術眠のないことである。何故藝術に封してそれ程幼稚なのであらう。舊劇と言へば勸進其他に極まりきつたものだ。また一流役者の演じる役柄は、殆んど年中定つてゐると言つてもよい。それを明治元年以來飽きずに繰り返してゐるのである。いくらシエクスピヤの芝居がいゝと言つても、いくら英國でも年百年中やつてはゐない。たつた一座では專問にやつてゐるが、そこ位なものである。近頃は日本の民衆も大分醒めて來て相當藝術眼が發達したから、早晩演劇界にも變轉が起るだらう。そうした日の一日も早く來たらんことを私は心待ちにしてゐる。そしてどん/\面白いものが見られるのを期待してゐる。そうなつたら、私でもちよい/\舊劇見物に行くつもりだ。改行
 
(104)     禁酒破りとホテルへ來ぬシヤトルの闇の女
 
 シヤトルはサンフランシスコの北部にあり、ロスアンヂエル、サンフランシスコと相並んで太平津岸の大都市の一つで人口三十餘萬を有する。
 私はシヤトルではホテル、サボイに宿を取つた。此の土地では古くからあつて一流の人の來るホテルである。此處でも私は酒と女とについて何か變つた經驗を積まんものと、秘かにその機會をうかゞつてゐた。が、そうした機會は容易に見出せない、米園のホテルには春を賣る女が澤山出入するとは日本人のよく言ふ所であるが、多くは傳へ聞きをして、恰かも自分で實驗でもしたかの如く吹聽するのだ。實は私は出發前から最近米國の取締りが非常に嚴重を極めてゐるとのことを讀んでゐたから半信半疑でゐたのだ。サンフランシ
〔写真、女の室内生活〕
(105)スコに上陸すると早速調べたが案に相違してゐて、ホテルなどでそんな女と逢ふなど出來るものではない。これはロスアンジエルスでも同じであつた。ホテルの信用にかゝはることであるから三流所のホテルでも支配人《マネーヂヤー》はなか/\嚴しい。ボーイなどにもチツプを與へて實を吐かせようと手を變へ品を變へて試みたが、ほんとうに知らないのだつた。それが當然かも知れない。そうした事實が現に公然と行はれてゐるとするならば、
『アメリカを旅行する日本人は、よく神經衰弱にかゝる』
 と、いふ文句は消えて無くなる譯である。
 酒もなか/\實際手に入らない。たゞ町には藥屋即ちドラツグ、ストーアに置いてある位だ。
 或る日ボーイを呼び留めて、酒が簡單に手に入るか何うかを試みて見た。
『君、何とかして酒を買つて來て呉れ給へ』
『酒ですか』
 ボーイはあり/\と困惑の色を浮べて
『酒は一切禁止されてゐます』
『ドラツグ、ストーアに行けば賣つて呉れるぢやないか』
(106)『それは賣つて居ります』
『酒として飲まずに藥用としてなら買へるのじやないか』
『それには醫者の證明がいります』
『日本は禁酒で無いから私は毎晩夕食に酒を飲んでゐた。(實を言ふと飲んではゐない。)それが此の國へ來てから一切禁じられてゐるんだから、すつかり身體に變調を來たしてしまつた』
『それはお氣の毒です。けれども私は酒をちつとも飲みませんから藥屋に知り合がありません』
『此の際同情は言葉の上でなく、なんとかして買つて來て呉れないか』
 ボーイはまざ/\當惑の表情を浮べた。私は金を少し掴ませて
『駄目だと言ふのかね。酒は現在の私に取つては享樂の爲めではない。藥なのだ。生理的習慣から來た絶對必要な藥なのだ。なんとか便宜を圖つて呉れ給へ』
『それならば』
 と、ボーイも流石にしびれを切らしたと見え
『それ程貴方が要求して居られますなら、私は貴方にジヨージを運れて來ませう。ジヨージは酒が大好きですから』
(107)『ジヨージつて一體何者だね』
『日本人のボーイですよ』
『日本人か』
『えゝこちらに隨分長く居るんですよ』
『さうか』
 と、私も面白く思つて
『それでは早速寄越して呉れ給へ』
『夜の九時が交替時間ですから、來たら直ぐ話をしませう』
『有難う。では頼むよ。若し我が此の室に居なかつたらライチング、ルームに居るからね。少し手紙を書くから』
『承知しました』
 と、ボーイは出て行つた。
 私はアメリカ人がよく法を守つて又禁酒に對して案外不平を言はぬのに感心した。アメリカ人、は一體に不平が少ない。何事につけても不平の多い國民は蓋し日本人であらう。世界に類が無いと(108)言つてもよい。少しお互ひに考へなければならない。
 ジヨージと云ふ男は米國へ來てから既に三十五六年にもなるとのことで、五十を幾つか越して居た。日本語より英語の方が達者で、難かしい日本語はあらかた忘れたと言ひにくさうに語つた。
 ジヨージと對談すると故國を同うするといふ氣分も手傳つて直ぐ心安くなつた。それに如何にも氣のいゝ人物であつたから早速酒の問題を持ち出した。
『ボーイやマネージヤーに幾ら頼んでも無駄ですよ。知れると後が面倒ですから』
 と、彼はニヤ/\笑ひ乍ら語つた。
『案外融通が利かないんだね』
『えゝ、今日では何處でも信用に重きを置きますから滅多なことはしません』
『ウヰスキーは幾ら位だね』
『ポケツト用で十弗します』
『日本の二十圓? 滅法高いんだね』
『だから酒屋は禁酒法を喜んで居ますよ。ドライに賛成して居ますよ』
 米國では俗に禁酒をドライ――乾くと言ひ酒を許すことをウエツト――濡れると言つて居る。
(109)『成程ね』
『高價な藥でさ。無闇に口にすることも出來ません。ほんの甜める位で滿足しなければなりません。ハツハツヽヽヽ』
 と、元氣に笑ふ。
『君は始終手に入れて居るのかね』
『藥屋と顔馴染ですから』
『餘程好きだと見えるね』
『えゝ、そればかりが樂しみで、此の歳になるまで生れ故國を外にして。貧乏して居る始末ですから。こうなれば酒は病を癒すかけがへの無い藥も同じですよ。思へば高い藥代を拂はされて居ります』
 ジヨージは苦笑したが、十弗の紙幣を手にすると立ち上つた。そして室外へ去つたが待つ間もなくウヰスキーの瓶を持つて歸つて來た。米國の富豪や飲み助はこうして何時でも酒を手に入れることが出來る。そればかりでなく密造してゐるのもある。自分の家に客を招待する時などは酒を出すのであるが、米國全般に就て見ると禁酒はなか/\よく實行されて居る。そして飲み助が非常に減(110)少した。
『今夜は大いに君と此のウヰスキーを飲み合はうぢやないか』
 と、早速瓶を開けると二人で飲んだ。私は頃合を見はからつて、
『話は變るが最う一つ君を見込んで頼み度いことがあるんだがね』
 ジヨージはキヨトンとして
『何です』
『美人さ』
 彼は笑つて
『今直ぐですか』
『ならうことなら直ぐがいゝね』
『ですが、此頃は何うなりましたかしら』
『居るには居るんだもう』
『居ないことも無いのですが、何しろ警察や此處の支配人が嚴しいんですから、あゝした女は最う近頃はホテルには喜んで來なくなつてしまつたんです』
(111)『米國でも矢ツ張り警察を恐れるかね』
『それは賄賂の物言ふ國として知られてゐますが、何しろ面倒ですから。そんな危險を冒して迄こうしたホテルには來ないんですよ』
『では全然駄目かね』
『駄目といふこともありますまいが』
 と、少し考へ込んで
『去年のことでしたか、矢張り日本の方が見えまして、そうです、何でも大きな或る土木會社の重役でした。金はいくらでも出すから女と酒を世話をしろといふことになりまして、その時或る女を世話しました。女とは三十弗の約束でした。私も十弗のチツプをもらいましたボーイも五弗もらいました。たつた一晩に四十五弗かゝつた始末で、日本の百圓騷ぎですからね』
『隨分と金をかけたものだね』
と、大きく笑つた。
『しかし私は呼ぶにしろ、そんなに馬鹿氣た金は費はないよ』
『死んだも同然な金ですからね』
(112)『女は三十弗も取つて何うして喜んで來ないんだらうね。不思議ぢやないか』
『それが三十弗みな自分の懷中に入るんではありませんから。半分の十五弗は紹介者にやる習慣になつて居ますし、ボーイにも二弗や三弗位のチツプはやらねばならず、行き來には自動車に乘らねばならず、それにホテルに行くには相當の着物も身に着けねばなりませんから、手取り十弗かよくつて十一、二弗位の見當しか自分の懷中には入らないのです』
『へえ、驚いたね』
『それよりは自分の室で客の三四人も取つて居た方が危險もなく樂ですからね。あれ等に言はすれば、ホテル出張はさして有難いお客ではないんですよ』
『成程』
 しかし、ジヨージは電話をかけて見ると言つて立ち上り、受話機を手にすると女を呼び出した。そこで暫らく問答をかはしたが
『とても來ませんよ』
 と、匙を投げた。女の言ふにはホテルに二三人そうした客があればついでに行つてもいゝが一人切りなら御免を蒙むると言ふのである。實を言へば私も強いて女が欲しいのではない。たゞ何處ま(113)でほんとなのかを親しく實驗すれば宜いのだから、此處らで切り上げてもいゝのである。しかし此處まで話を進めた以上、女の住んでゐる家を見るのも一興に思つた。で、ジヨージに明晩にでも此方から訪ねるから都合のいゝ時間を知らして呉れるやう頼むと、晩からならいつでもいゝと返事がであつた。
 翌日の晩十時が鳴るのを合圖に、私は單身自動車を飛ばして女の住んでゐる家を訪ねた。その家はシアトルの日本人街にあるばくち場を眞直に行く所にあつた。木造の粗末な構への家で、相場はシヨート・タイムで三弗オール・ナイト即ち一晩で十弗の見當だつた。シヤトルにはこうした家が極めて僅かではあるが町の所々に散在して居る。
 
     ニユーヨークの婦人本位の新聞 (一箇所抹削)
 
 ニユーヨークは人口五百六十二萬を有し世界第一の都市であるから、此地で發行される新聞の種類も從つて多い。各國語の新聞があつて國語の種類は四十六箇國からある。發行されてゐる種類は一萬を超えてゐる。日本では東京でも新聞の發行種類は未だ千を少し超えてゐる位であるから到底ニユーヨークの比ではない。大きい有力な新聞でも定價は概して安い。大概二セントで夕刊が三(114)セントである。平日四十頁もある婦人の讀者を相手とする婦人本位の新聞にデーリーニユースがある。これは米國の繪入新聞の草わけで非常な發展振りを示してゐる。何しろ創刊以來僅か五年間に百萬の讀者を得たと評判された位で、米國新聞界ではハーストに對抗する勢力を持つてゐる。これは、婦人を基礎にした新聞が立派に對立することを有力に物語つてゐる。日本には此種の新聞は殆ど無い。あつても存在を認められない週刊か月刊で到底お話にならぬ。一時大阪で日刊大阪新聞の發行されたのを見たが直ぐつぶれてしまつた。内容は大したものでは無かつた。日本の婦人は總じて智識が低く、讀書の趣味といふより寧ろ之の習慣が無いせいか婦人を基礎にした新聞が成立してゐない。又成立しさうな案配も見えないのは如何にも嘆かはしい至りである。
 歐米の婦人に比すると日本の婦人は常識、趣味の點に於て著しく劣つてゐる。私は何も皮相な觀によつて所謂「新しい婦人」をむげに謳歌するのではない。新しい婦人と云ふ言葉は實によい言葉だと思ふが甚遺憾なことは、日本の今の所謂新しい女といふものは、實は不良少女のことで、歐米の惡い點ばかり眞似たくじやく〔四字傍点〕の羽根をさした鳥のやうなものなのだ。その身は眞黒で闇のやうに譯が分らない。日本の現状から察すると婦人の進歩向上は何よりの急務であると信ずる。早い話が新聞にしても讀めば講談か、デモ文士の續きものゝ小説か、三面記事位のもので、一面などは見て(115)も分らぬから自然趣味も持てぬのは當然であらう。他の讀物に於てもさうである。たゞ讀めば幼稚極まる少女の讀物程度のものが、誇大な廣告で性の問題○○でごまかした婦人雜誌の類である。さもなくば身も骨もない、いつも同じやうな筋で女に味方をする戀愛小説位である。こうした女達には夏目さんのやうな小説は難かしくて分るまい。それから丸髷の先生たちには講談本位のもので此の種のものを除いては今の歸人の多くは何も讀まないと言つても過言ではあるまい。
 日本がニユーヨークのやうに婦人本位の新聞を持つ迄には、なほ百年以上の月日をかも知れない。男が丁髷を切つてから百人一首ぢやないが、鹿の聲聞く奥山の村長さんの着てゐるやうな怪しげな洋服になるまで、最大急行で歐米の文明をうのみにしても、なほ五六十年かゝつた點から考へても、日本の婦人が此の最大急行に乘れるかゞ先づ問題であるが、明治維新の當時ステーシヨンに取殘された女房達が文明の急行列車に乘るとしても、今日の歐米婦人の文化に追付くにはまだ/\百年以上かゝるかも知れない。
 序でにニユーヨークの大新聞の事を少し書いておこう。
 ニユーヨークで發せられる新聞は二十二三種あるが、世界的に有名なのは英國のロンドンタイムスと並び稱さるゝニユーヨークタイムスであるが、此の社の建物は、パタラマウント其他有名な大活動(116)寫眞館の集合してゐるタイムス、スクウヱーヤーの盛り場にある。此のタイムス、スクウヱーヤーは米國の學者の調べた所に依ると人と車で一日五十萬の交通があると云う所である。これを東京の一番交通の頻繁な元の須田町の廣瀬中佐の銅像のあつた時分のことであるが、万世橋の入口を一廓としたスクウヱーヤの交通量十九萬に比較すると雲泥の差がある。(此の調査は私の苦心してやつと行ふた東京市の交通調査の結果であるから正確なものであることを覺えてゝ戴き度い)タイムス、スクウヱーヤーの裏通りは女を求めるナイトクラブが澤山ある。これは會員組織になつてゐる。此の邊を夜の十一時頃から女優が澤山通るニユーヨークタイムスの社長はアドルフオツクでユダヤ人系の米國人である。しかし新聞にはユダヤ人臭味は無い。ニユーヨークのみならず世界的の大新聞で政治的には獨立民衆黨系で、日曜には繪入のポンチやその他で附録が約百頁位ある。此の外有名なのにイーヴニング、ジヤーナルがある。此の經営者はハースト系であるヘラルド、トリビユーンも有名だが、これは英國系統の米國人オゲデン、リードが社長である。ニユーヨーク・ヘラルドは新聞界の麒麟兒の稱ある。フンネツトの經營する所であつたが、今は死んでゐない。どちらも純共和黨に屬してゐる。ワールドは朝刊と夕刊の新聞で社長はユダヤ人系米國人ラルフ、パリザーで、言論界の新人を以て目されるウオーター・ソツプスンが主筆をしてゐる。夕刊ポストは最も讀者が少なし(117)しかしその讀者は智識階級ばかりであると云ふので名有であるが、これはカーチスの經營する所。カーチスは新聞の覇者の名がある。其他枚擧に遑もなく一々數へ上げることは出來ない。
 
     裸體て藝當する家(三箇所抹削)
       パリの酒場をのぞいて見れば
 花の都パリは人口二百九十餘萬を有する大都會で、世界の弟四位を占めてゐる。そのグランド・ブルバードはパリの一番賑やかな通りだが、これとニユーヨークのフイフス・アヴエニユー、ロンドンのリージエント・ストリート、同じくボンドストリートは共に世界の最も繁華な大通りであつて、こゝから流れ出る。その國の流行は世界の流行の先陣を承つてゐる。それ程有名な通りなのである。
 パリの大通りを眞つ直に行くと右に曲る横町がある。そこを曲ると一つのバーがあつて、表口に赤い燈火が點いてゐる。間口は三四間位、薄暗い陰氣な感じを起させる家だ。あたりも殷やかなグランド・ブルバードの近くにあるにも似合はず、人通りも少くて、どちらかといふと淋しい所ろである。さうした町並に調和して、そのカフエーもごく地味に出來てゐる、知らない者が見たのでは、それと氣付かずに通り過ぎてしまふ。
(118) これは巴里名物の一つであるが、勞働者や下級な人の行く所である。中には夫婦連れで見に行く各國の紳士もある。ブロンデル通りの三十二番館のオーベルブールであるが、入口の戸を入つて奥の方へ四五間も行くとまた戸があけると、そこには明るい燦然とした燈火の輝くバ―がある。酒の匂ひがぷーんと鼻を打つ。カウンターの中の棚にはウヰスキー、ブランデーまたは青や赤のいろいろの酒が澤山並んでゐる。客は五六人ゐた。室の廻りにはソフアーのやうな壁に着いてゐる腰掛がある。室の眞ん中は鏡の壁で半ばしきられて居る。入ると肥つた背もそれに應じて高いマダムがゐる。これが支配人格なのである。先づ入ると驚くことには二十人位の裸の女がいきなり馳け集まるやうに傍に寄つて來て取り圍んでしまふのだ。テーブルの席に着くと同時に
『私を! 私を!』
 と、口々にいつて側に付き纒ふ。その中の女を一人、二人指定すると、殘つた女達は蜘蛛の子を散らすやうに廻りの腰掛に集まつて、また客の來るのを待つのだ。
 この女達は非常に徹底してゐて全部丸裸である、中にはちよつと腰の邊りに日本の女の子が七つのお祝ひの時にしめる腰帶見たやうなものを締めてゐて、これを左の腰の上で結んで垂らしてゐるその布はごく薄い輕い綺麗な絹で出來てゐる。
(119)酒を女にも取つてやつて飲み乍ら話をするのだ。テーブルの角に二法を置くと上手に○○○○んで取つては靴下の中に入れる。   。ビアノの奏樂が始まると一齊に裸體の女が踊り出す。こうした女の出身は娼家をかせぎぬいたなれのはてが多い。中には子供のあるのもゐた。年は二十前後のが多く黒人の娘も二人程ゐる。中には日本語を知つて居るのもある。二階では例の通り○○○○れば泊りも『シヨウトタイム』も御隨意に出來て居る。何れも安値であるが、然しこんな家で二階へ行くのは極の田舍者とされてゐる。此の三軒は特色のある公然の娼家であるがあとも大同小異で、唯設備の大小の差があるのみである。勞働者の行く處になると三十法即二圓四五十錢で事足りるのがあるが、何れも居並ぶ裸女の中の一人を撰ぶに變りはない。室や其他の設備も流石はパリー丈けに實に美しい。ほんとうに美しい。燦然と輝くパリー文化よ華美を誇るシヤンデリゼーの影に汝は汝の知らず生み落した醜骸のあることを!
 パリーにはこうした公娼が榮えで居るが、然し何んと云ふても時代の要求に最も適するものは街娼である。現代人の希望は簡單に經濟的に取引の行はれることだ。然し一度街娼が出始めると勢の赴く所到底阻止することが出來ぬから十分の取締を要するものである。英國が現に非常に困つて居るではないか。然し此の困難な取締をムツソリニ―はローマで完全に成功して居る彼は偉大な政治(120)家であらねばならぬ。
 
     シカゴの賣春の宿
 
 ニユーヨーク、ロンドン、ベルリン、パリーに次ぐ大都會はシカゴで人口二百七十餘萬を有し世界第五位を占めてゐる。此のシカゴはアメリカの都市中淫賣狩りを卒先して徹底的にやつたので有名である。一九〇二年頃のこと市長が率先してやり出した。淫賣婦は居たゝまらず退去するに至つたが、その時彼女等は捨科白を殘して市長に喰つてかゝつた。
『私等にパンを如何なる方法に依つて與へるのか』
 これには流石の市長もぐうの音も出ずひたすらに閉口したとのことだつた。
 その後市會議員の調査委員も出來て彼女等の殘徒を檢擧一掃することに成功した。しかしシカゴは繁華な町であるから無いと言つても、全然影のないといふわけではない。
 それでは何うした場所で何んな凰に營業してゐるのかといふと、それはアメリカの都市に殆んど共通である所のホテル制度でやつてゐるのが一番多い。此のホテルは繁華な裏通りに面して入口を持つてゐるのが多い、二間位の間口で、そこに看板がかけてある。勿論ホテルの名前である。昔は赤い(121)硝子で出來た燈火をつけてゐたからレツドライトと言はれてゐた。入つて梯子段の所を開くとそこには室が三つか四つある。やり手婆さんがゐて大概二三人の女を置いて營業してゐる。現在シカゴには繁華な町へ行くとまだこうした家が四五軒殘されてゐる。取締りの嚴重な米國に何故こうしたホテルが公然と繁華な大通りにあるかといふと、これはホテルの主人が市會議員と連絡を取つて警察に渡りを付けてゐるからである。賢明な市會議員達はきつとキヨーエン博士の言ふたことを忠實に實行してをるに相違ない。「都市に於ける賣春の必要なことは恰かも宮殿に便所が必要であるやうなものだ。もし便所が穢ならしいと言つて取除けたら宮殿は遂に惡臭鼻をつく處となるであらう。』
 と、いふ名言を知つて、シカゴの臭氣を止めてゐるのかも知れない。『日本もそうした考へ方から模範的私娼窟玉の井や龜戸を始めとし神樂坂や道玄坂其他を許してゐるのだらう。そのお蔭で東京市も便所の臭氣から逃れて居るのかも知れぬが、それにしては餘り便所が立派過ぎるではないか。雨でも降ると東京市の道路は田植が出來る程になるし、吉原、須崎、新宿、品川、千住の五宿があり新橋赤坂柳橋など名は美しいが兎に角非常に澤山の集團式共同便所があり、市内と府下で娼妓が五千七、八百人、藝者が一萬三百人程居て年に遊客の數が三百九十萬人以上ありその消費額が千四百八十萬圓以止にもなるとは何んと有難い都市生活ではないか。』話が少し横道へはいつたが何(122)處でも同じやうにベルを押すと女が出て來る。値段は三弗か五弗位である、高等な或るホテルでは二十弗も取るのがある。アパートメントでも四流五流位の所で、その一室を借りて時々内證で男を引張り込んで商賣をしてゐるのもあれば、又はホテルのボーイと連絡を取つてゐて、呼んで貰ふのもある。これは十弗乃至二十弗位である。こうしたホテルは三四軒しかない。アメリカの或る商店の賣り子に聞いたら此の頃は高くついて困るとこぼしてゐた。
 少し收入のいアメリカの若い獨身者の店員、事務員などは、それ/”\ラヴアーを持つてゐる。或は又ナイトクラブといふのに入會して相手の女をこしらへる。このナイトクラブはアメリカに澤山あつて會員組織になつて居り、必しも淫奔のみを目的とするものではないが、女を得に最もよい會合である。ヲヴアーのないのになると性的滿足を遂げるのに苦しまねばならない。それにアメリカ人は表面性に關した事柄は口にするのも恥としてゐるやうであるが、親しい友人同志の間となると日本人以上で、體格もよいしその慾望もなか/\強いからより以上に露骨な話をする傾向がある。若い男でそうした場所へ行つて性の滿足を遂げる者も可成りあるが、全米國の男子の五千二百萬人からいふと、そうした場所へ行く者は少い。大多數の者は簡單に行かないで苦しんでゐる。結婚をするにも金はかゝるし愛人を持つにも金がいるので、此の機關を絶對に廢止するのも何うかと思へ(123)る點がある。然し日本の現在の樣な公娼制度は改造せねばならぬ。
 賣春婦も、淫賣狩り以來清くなつて近頃は普通の女とあまり變ない樣子をしてゐる。昔のレツドライト頃には眞赤な絹の着物を着たりして非常に誘惑的な格恰をしてゐたが、今日ではそうとは限らない、町を歩いてゐても眞赤な着物を着てゐる者も見受けるが、必ずしも闇の女とは限つてゐない、
 アメリカを旅行する日本人はよくこういふことを言ふ。
『アメリカの青年は闇の女が居なくとも困らない。彼等は皆ラバーを持つてゐるから』
 と。しかしこれは深く研究しない皮相の觀である。アメリカでは女の友人を持つと意外に金がかゝる。自動車の一台位持つて日曜や土曜日には何處かへ連れて行つてやらねばならず、衣服も買つてやらねばならない。多少金に餘裕でもなければ女が寄り着かない。アメリカは給料は高いかも知れないが、それにつれて物価も相當に高いから生活費がなか/\かゝる。だからいくら國は金持でも低い給料取りは自由に女の友達と遊ぶことは出來ない。况して結婚を目的としての交際なら全然性的の關係はない。しかし結婚がきまると結婚式の前から既に夫婦關係が成立してゐるのは普通である。これは獨りアメリカのみではなく歐洲も大體同じである。結婚式はほんの形式であるに過ぎない。此の點が日本の結婚式と違つてゐる。日本のは式に大なる意味があるのだ。こういふ風で(124)あるから青年、勞働者等は私娼を禁止されて困つてゐるのは事實である。
 春を賣る女の中には好きな男を持つてゐるのもある、こうした男は普通の者ではない。ゴロつきか遊び人で中には拳闘家《ボクサー》などもある。これは何處でも同じて大抵儲けた金をその男の爲めに入れ揚げてしまふ。遊女の戀が死を誇る程強いといふことは東西同樣である。これは彼等の頼りない生活の反勤であらう。中には眞面目に親を扶ける爲めに稼いでゐるのもある。又子を養育する爲めにしてゐるのも隨分ゐないではない。こうした女は米國よりロンドンの方が多い。
 彼女等の收入はホテルのマダムと折半である。假りに二十弗取つても十弗にしかならない。その代りホテルの室代は無料である。
 アメリカの『ロスアンゼルス』の活動寫眞館で見た性の教育の映畫の中にあつたが、不良青年に誘惑された女がシカゴ、ニユーヨークと到る所で身を墮す。そしてとう/\或る專門の女の家の室で處女の肉ばかりあさる男の爲めに強制的に貞操を破られるといふ筋の教訓的の映畫を見たが、今日ではアメリカにはそんな誘拐は無いでもないが、女の智識が發達してるしことに歐洲では監禁などは出來ない。こうしたこともあるかと警察その他各方面を調べて見たが、そんな事件は殆んど無かつた。彼女等が此の社會に落ち込むのは誘拐の結果ではなく生活難から來るのが一番多い。
 
(125)     ロンドンの或る女
 
 私はロンドンの女の生活を知りたいために、或る一人の女の家へ行つたことがある。女はロンドンの郊外に住んでゐる。そして時にはピカデリーを歩いたり又時にはオツクスフオード・ストリートを歩いたりして春を賣る商賣を營んではゐたが、しかしそれは極くまれであつて毎晩出るロンドンの辻君とは違つてある英國の男をもつてゐる女であつた。私が訪ねたのを知ると女は嬉しさうに手を差出した。
『よくいらしつて下さいました』
『嘘だと思つて居たの』
『えゝ、通り一遍の挨拶だと思つて居ました』
 と、女は晴れやかに微笑んだ。その一週間許り前、ピカデリーの支那料理店で、この女を紹介されたのだが、一度是非共女の家を見せて貰ふから、折を見て防問すると堅くその場で約束したのであつた。
『誰も居ないの、貴女一人ですか』
(126)『えゝ、私一人だけです。何うぞお這入り下さい』
 女は私を導いた。室の廣さは十二疊位で古くはあるが上等なカーベツドが一杯敷詰められてゐる。英國式の古い据付ストーヴの上には大きな鏡がかゝつてゐる。そこに人形と子供の寫眞が飾り立てゝあつた。テーブルもソフアーも中位のもので、粗末な客椅子が二三脚ほんの申し譯に供へつけてあつた。
 私は與へられた椅子に腰を下すと、改めて女を見た。
『今日來たのは別に意味はないのですよ。實は貴女にお聞きしたいことがあつてね』
 女は不安らしく眉を寄せると、
『聞きたいことつて何か難かしいことなのですか』
『いや、何も難かしいことではない。たゞ眞面目に貴女が答へてくれゝばよいのです』
『眞面目な答へ――』
 と、女は少し思案するやうな樣子をする。
『答へてくれますか』
『えゝ、私は御覽の通りの貧乏で、こんな暮しをして居るんですから、それは私の持物といふ程の(127)ものは何も有りません。ですけれど、貴方のおつしやるその眞面目とやらいふものなら、十分持合せて居るつもりです』
 女は顔を上げると、私の顔を熟現し、
『それに貴方は私のNさんの御親友ですもの』
『いや、有逢う。その眞面目さに私は感謝します』
『有難う』
 と、女は甘えるやうに笑ひ、
『私もさう褒めて戴くと嬉しいんですよ』
 愛くるしい、ふつくらした頬を彼女は兩手で押へた。
 私はボケツトからかねて用意してゐたポンド(十圓)の紙幣を取り出して、
『チヨコレートでも買つて下さい』
 と、與へた。女は
『まあ有難う!』
 と、美しく笑つて、幾度も謝意を述べた。そして、
(128)『−體私は何を眞面目に答へたら宜いんでせう』と待ちきれないやうにまた聞いた。
『實は私は貴女方のいつはらざる生活を知りたいのです。何故貴女方はかうした生活をして居るのかまた何うしてかうしたことをしなければならなくたつたのか。私はそれが知りたいのです』
『變つた御道樂ですね』
『えゝ』
 と、私も思はず笑つていつた。
『自分でももの好きだといふことは承知してゐるんですがね』
『で』
 と、女は中途から私の言葉を遮ぎり、
『貴方は大變ゼントルマンでいらつしやるわ。貴方は何處か眞面目な所がありますわ。それは私多くの男の方に接するから一目で知れますわ』
『さうですか。褒めて貰つて御禮をいひますよ』
『えゝ。私はたゞ眞實に私の感じた所を申し上げたのです。何も貴方を褒めたのではありません』
 と言葉を呑み、
(129)『で、私、貴方の仰言ることを眞面目に答へようと思つて居りますの』
『有難う。私は貴女の口からそれを聞いて樂しまうとするのではない。我は少し調べたいのでね。それでわざ/\貴方にお願ひするのですよ』
『あゝさうですか』
『今日私は只貴女の身の上話を聞けばよいのですよ。私は絶對にその外の愛を滿足さして貰はうとは少しも思つてゐないのです。それだけは堅く信じてゐて下さい』
 女は明るくほゝゑんで、
『えゝ、信じます。私も何だか今晩は妙に愉快で堪らないんですから、一晩中寢ないでもお話し致しませう』
 と、急に打つてかはつてしんみりしたが、突然
『あゝ、子供のことが心配になる!』
 と、憂ひと悲しみを籠めた口調で顔を胸に埋めるやうな恰好をした。今まで陽氣であつた女が、急に過ぎ去つた身の上を振返つて、暗い悲しみの連續した日の有樣を思ひ浮かべたのだと思ふと、私も氣の毒に思ふ情に驅られた。
(130)       ◇
『貴女には子供が有つたのですね』
『えゝ』
 と、女は寂し氣に首肯き、
『子供があればこそ、子供のためにこそ、私は生きた屍となつて、かうした淺ましい生活をしてゐるのです』
『子供は幾つです』
『まだ三つ――』
『可愛盛りですね』
『子供の愛だけは忘れることが出來ません。私は心配になつて時々見に行きます』
『子供のお父さんは』
『子供の父は――』
 女は天井に瞳を轉じて、それから子供の寫眞を凝視してゐたが、はき出すやうに、
『私を捨てゝ逃げて了ひました』日本の女なら小さな聲でいふのだが情を其儘に強い口調で云ふた。
(131)『逃げた?』
『えゝ』
 女はさびしく笑ひながら、今度は平然として云ふた
『他の女と手を取つて私を捨てたのです』
『それは何年前のこと――』
『三年前のことです』
『貴方はその時何をしてゐたのです』
『事務所のタイピスト』
『貴女の夫だつた人はその事務所の人でゞもあつたのですか』
『いゝえ、夫は銀行の書記でした』
『何うして結婚したのです』
『若さのために男を見過つたのです。男から求婚されたのですが、男は何も私を愛しては居なかつたのです。たゞ私の貯金と收入とに眼をくれて居たんです。結婚してからといふものは、私の得た金は皆男が持ち出してしまひました』
(132)『そして男はよそで他の女をこしらへて居たんですね』
『えゝ、そして私が身重になるのを知ると、急にその女と共に行方不明になつてしまつたのです』
 女はその時受けた心の痛手を思ひ出したやうに身振ひをし、
『私は身重です、何うしようもなかつたんです。でも私はぢつと堪へられるだけは堪へました。そしてやつと決心したのです』
『決心?』
『えゝ、自分の播いた種は自分で刈らねばならないと決心したのです』
『成程――』
『それからやつと子供だけは産みました。それからの私には完然に光りといふものは神樣の手から取り上げられてしまひました。それはじめ/\した暗い蔭ばかりの日が私の身の上に續きました。工場勤めもして見ました。商店へも行きました。オフイスにも行きました。けれども親子二人の口を糊するには、それだけの收入では到底やつて行けないのでした。金のない私達女の落ちて行く先は餘りに分り過ぎてゐました。いつか私はピカデリーの女の群に投じてゐました……』
 女はほつと溜息をついた。
(133)『子供は何うしたの――』
『子供は生れ落ちると直ぐ里子に出してしまひました。そして私はわが身を忘れてそれに仕送りを續けてゐました』
『今では不自由もなく仕送りが出來ますか』
『えゝ、何うやらかうやら、その日だけは過ごして行けます。女の細腕では一人だつてなか/\なのですもの。子供一人育てるのは大變な苦勞ですよ』
 この快活な女の胸の中にそんな苦しみがあるかと思ふと、私はしみ/”\と女の顔に見入つた。
『子供の寫眞はありますか』
『え、あります』
『見せてください。その不幸に似て幸福な子供の顔を見たい。』
 寫眞を取り出すと女は愛撫に堪へ兼ねたやうに無意識的に寫眞にキスした。その自然な有樣に私は思はずほろりとした。
『貴女によく似てゐますね』
『私は時々思ひ出すのです。すると會ひたくて/\ならなくなります。その時には何事をうつちや(134)つても會ひに行きます』
『さうでせうね』
 と、私も少からす感動し、
『で、何か他の仕事をしてゐないんですか』
『他の仕事といふと――』
『事務所に勤めるとか商店に行くとか――』
『そんな事は到底出來ませんわ、まるで兩方からろうそく〔四字傍点〕に火をつけるやうなものですもの。自分の壽命を速めるのが落ちですよ。――それに今の生活は夜が晩いのですから、二時三時に寢るのはざらにあるんです。ですから何うしても朝が晩くなるでせう。他の仕事は到底出來やしません』
 私は女がはき/\と問はるゝまゝに答へてくれるのが嬉しかつた。その態度には少しも浮ツ調子な所がなかつた。嘘、僞りで事實を虚飾するやうな氣振は更になかつた。歐米の女は概して嘘をつかない。事實を誇稱した申、理由もなくそれを恥ぢたりしない傾向がある。日本の商賣する女に子供の事を聞いても隱し立てするのが多いが、あちらの女は有るなら有るとはつきり答へる、確に日本の女よりさつぱりしてゐて、その點は感じがよい。殊に年など聞いても別に隱し立てなどしないで、有(135)りのまゝに答へるのが多い。日本の女はそれを答へるのを嫌ふが――。その女は二十五だといつた。
       ◇
 私は咽喉が渇いて仕方がなかつたので
『湯が呑みたいのだが、沸かしてくれませんか』
 と、頼んだ。すると女は即座に
『二ペンス持つて居ますか』
 と、事務的に答へた。
『何故――』
『ガスに入れるのです、ガスのメ―トルの器械の中に入れるのです』
 私はその生活を見るために女の立つた後から臺所へついて行つて見た。狹い四疊位の場所で、湯殿も兼ねて居ると見えて、バスの瀬戸物があつた。料理場にもなつてゐて、手狹ながら割合に整つてゐた。
 ガスは日本の自働電話式になつてゐて、二ペンス入れるとそれだけの量が出て來る裝置になつて(136)ゐる、入れなければ無論出て來ない。私にはそれが面白かつた。
 彼女等が客を捉へるのは主として、ピカデリーの通りやカフエーである。それは決して容易な仕事ではない。客のない時はさうした場所で費やした酒代や食物代は皆自分で拂はなければならない。さうした中から子供の養育費を出し、又自身の着たり食べたりする費用を辨じ、室代を拂つて暮らして行くだけの收入を得るのは決して容易な努力ではないのである。タイピストのやうな眞面目な職業に從事して居たのでは到底そんな藝當は出來ない。だから一度この職業に入ると再び正業につき得なくなるのである。
 彼女等に馴染客が出來ると、土曜日や日曜日には活動寫眞へ行くとか郊外へ散歩に行くとかして樂しい一日を過ごす。よく賣れる女は大概愛人を持つてゐる。だから土曜日あたりにはダンスホールなどには來ない。總じてピカデリー邊の辻君は土曜日になると美人が尠くなるのはこのためである。
 この女の住んでゐる建物の中には大勢他に人が住んでゐる。その人達には商賣をかくして知らさないやうにしてゐる。だから客を連れて來る時には拔き足差し足で音を立てないやうにしてゐる。
『でも一人で淋しい時もあるでせうね。夜晩く客でもない時は――』
(137) 私はさうした場合を想像して問うて見た。
『えゝ、それは淋しいこともあります。でも馴れて居ますから。それに近所に女のお友達が居りますから、それ程でも有りません。えゝ、友達はこの五軒先に住んでゐるんです。この家と同じやうな建物です。私と矢張り同じ生活をして居ましてね。よく/\淋しい場合にはそこへ行つて一緒に寢てしまふのです。向うからも時々來ては泊つて行きます』
       ◇
 知らぬ間に夜も可成り更けた。で、私は立ち上ると自動車を呼ぶやうにと頼んだ。
『さあ、電話もないし、その上何しろこゝは町外れてすから、うまい工合に自動車が通りますかしら』
 と、女はわざ/\戸外へ出て、通る自動車を待つてくれたが、なか/\來さうもないので、
『では、お友達の家へ行つて電話で呼んで來て上げますわ。近所に自動車が有りますから』
 私は商賣氣を離れた女の態度に尠からず動かされた。
『では、私もそこまで行かう』
 私は女と並んで歩いた。更けたロンドンの夜の空には星が降るやうに輝いてゐた。
(138)『貴女も折角身體を大切にしてね――』
 女はしんみりと首肯き
『有難う! 貴方もおたつしやで早く日本へ無事にお歸りになるのを祈ります』
『有難う』
 と、私は女の差出した手を堅く握り
『貴女の子供に幸福の多いやうに祈つてゐますよ』
『何うぞ!』
 と、女も堅い握手をむくいた。
 自動車の中でしよんぼり歸り行く女の後姿を見送つて、私は何故だか知れない涙が目がしらに湧くのを感じた。
 
     日本人の必らず税を拂ふベルリンのカフヱー
 
 ベルリンのビクトリヤ・ルイゼプラツといふ町にヴイクトリヤ・カフヱーといふのがある。日本人の旅行者、遊覽者は必らず一度は行つて税金を拂はせられる場所である。相當に廣いカフヱーで(139)奥行が長い。日本人は澤山行つてゐて、客の八分通りを占めてゐる。その後の一部が他の有色人種で印度人、安南人その他で恰度ロンドンの支那人のダンスホールの出張所のやうな感じがする。此の店の方が大きいから本店と言つても宜からう。
 日本の會社員や軍人を始め私の樣なピー/\カン/\のお役人又は醫者の留學生等がお上の金を貰つて一時成金になつて洋行すると、毎日此處へ來て入り浸りになつてゐものもある。あつちには外交官の連中こつちには陸海軍の席、或は旅行者の幾組等と、恰かも日本の各方面の代表者の會合でもあるかのやうに見える。尤もこうして洋行させられる人はビクトリアに入りびたつて居ても有爲な人は矢張有爲なのだ。皮肉はやめてビクトリアからでもよいから日本現在の政治を改革せねばならぬの實際、政治、經濟、社會、外交あらゆる方面に行きつまつた日本は若手によつて思ひ切つた改革をせねば駄目である。所がよく見るとどれの顔もこれの顔もドイツのビールで熟柿のやうになつてゐて、それが目尻を下げていろ/\とマルクを秤にかけてゐるのだから、國政などとても審議出來ようとも思はれない。おまけに四つか五つの子供の樣な片言でドイツ語を操つて居るのだ。さもなければ本を讀んでゐる樣なドイツ語の朗讀だ。文法の本を見乍ら文章を書いたやうな會話などはいゝ方の口だ。相手の女はと見ればいつの間にか日本語を仕込まれたと見えて、九官鳥のや(140)うに片言を彼方でも此方でも囀つてゐる。
『私、アナタ、アイスル』とか
『ドウ、イスト、大馬鹿野郎――(貴方は大馬鹿野郎だ!)』
 などと言つてゐる。中には日本まで來た女もある。
 日本の旅行者や留學生の捉へる女は大抵此處の女である。だから女の名前を聞くと常連には直ぐあゝあれかと首肯かれる。女の歴代の關係者の名前は過去帳を一枚々々めくるやうに分る。意外の名士の名前が一人の女の名前を呼ぶと出て來るのだ。
 此の女連に日本のお役人や學者達は肩書の着いた名刺をやる。私には何の爲めにやるのかやつた本人の眞意が解せかねる。女はその名刺を大切にしまつておいて次ぎの相手に見せる。中には女と同棲するのもある。そして最後に手切れ金を出して別れる。その手切金を出すのはなか/\大變で、銀行からやつと借りたり、俸給の前借りをやつたりして拂つた人もある。女がまた幾ら貰つたと次の客に話す。だからそれからそれへと傳はつていろ/\の噂を播く。中には女を連れて旅行したはいゝが、お土産に早速毛じらみ〔三字傍点〕を頂戴して(白人の賣春婦には毛じらみ〔三字傍点〕の所有者が多い)藥屋へ水銀軟膏を買ひに行つたところが、醫者の證明書が無ければと斷はられ、かゆくて/\汽車の中じうせつか(141)くの景色も見ないで前ばかり氣にして居る中にステーシヨンに着いてしまつたといふ樣な飛んだ笑ひぐさもある。又はる/”\日本へまで連れて來るのもある。そうした紳士を二三知つて居る。そしてドイツの女は綺麗だとか世帶持がい/\とか言つてるが、それがベルリンの日本人專門の賣春婦經驗と聞いたら、天晴洋行歸りの紳士の顔も丸つぶれとなるだらう。中々辣腕だと思はれたのも何んだそうかと聞いた口がふさがらなくなるだらう。ふれこみの令孃もばけの皮があらはれるだらう。
 留學生や官費で洋行した者が連れて來る女は、そうした者かさもなければ下宿屋の娘乃至は何處かの賣子の樣なものが多い。處女の賣子や下宿屋の娘さんなら職業に貴賤はなく、人の子に變りは無いのだから妻君にするのも別に差支のあらう筈はないが、然しこうした女では問題にならない。
 某名士でこうした女を妻君と同伴して歸つた人がある。妻君はその女がドイツ語の家庭教師であるといふ夫のふれこみを信じてゐて、船中でも至れり盡せりの歡待をしたとは、當の女から聞いた話だが、どうして日本の婦人はそんなことが分らない程無智なのだらう。それは此の夫人ばかりではない。日本の婦人は萬事に付けて一世紀捏すべてが後れてゐるからだ。その女は大森に家を持つて東京に半年程住んでゐたが、大阪や日光を見物すると故國のドイツへ歸つた。そして今ではベルリンで小さい煙草店を開いてゐる。誰方か心當りは有りませんか。ベルリンやロンドンの賣春婦の(142)中には日本へ來たがつてゐるのが澤山あるから、一つ移民會牡でも起したらどんなものだらう。藝者だ娼妓だ酌婦だ、やとなだ私娼だとよくも種類を考へ出した物だ。兎に角女ならでは夜の明けぬ國だから、いくら不況を喰つてもたこ〔二字傍点〕配などの苦肉策を講せずに濟むのは請合だ。して株主もたち所に集るであらう。忽滿株になるだろう。天晴な國民だもの、こんな曾社を造り上げるに、何んの良心もある筈なない。此の男あつて此の女あり女自身も奴隷で甘んじて居るとはよく出來たものだ。
 我はその樣子を見るために一人の女の家を訪れたことがある。女は奥に自分の室を持つてゐて、私が日本へ行つたか何うかを詳細に聞かして呉れと頼むと、旅行券や銀行の信用状まで出して來て見せた。その證據を見ると日本へ來たのは事實らしかつた。女の中には自分の友達が日本へ行つたことを聞いて、自分も行つた事があると、客取りの手段として話をする者がないではないが、此の女は實際に證據を持つて居るし、それに澤山の日本の絹の着物を大切にしまつてゐたから嘘僞りであらう筈が無い。何んでも奥さんに貰つたり紳士に買つて貰つたりしたのだそうだ。すべての物が日本の物で女は大變日本びいきであつた。それもその筈である。煙草の店まで持つて相當の暮らしが出來るやうになつたのも日本人のお蔭なのだから、日本へ好意を持つのも當り前だらう。それに(143)日本人と知己が多いと見えて、お茶やいろ/\の物など各方面から送つて來てゐる。きうす〔三字傍点〕や土瓶なども皆日本物である。私はこうした日本人に親類のある女と樂しむ氣には到底なれないので、女の相場である十圓を置くと、又來ることを約して歸つて來た。
 
     昔のニユーヨークの闇の女
 
 ニユーヨークは今でこそ人口五百六十餘萬を有し押しも押されもせぬ世界第一の都となつてゐるが、その歴史を見ると、一六〇九年の九月即ち今から三百十九年前にはハドソンといふオランダ東印度會社の船長が發見した一寒村に過きなかつた。當時の航海業者は印度に向つて北西の航路があると信じて、度々探險に出かけたのである。ハドソンもその中の一人であつたが、彼が第二回の航海の時に愈々印度を發見したと思つて投錨した河口が今日の所謂ハドソン河口である。ハドソン河の名はもとより彼の名前を記念したものである。彼は直ちに上陸して十八名の乘組員と共にオランダの國旗を此地に樹てた。その後オランダの船が毛皮の貿易を目的として度々航行したが、一六二六年遂に西印度商會が太西洋岸の貿易の根據地にしやうとの方針の下に重役のピーター、ミヌイウトが二隻の帆船に移民を乘せて來て今日のニユーヨークの一區となつてゐるマンハツタン島を買(144)收したのである。當時マンハツタン島にはアメリカインデアンが居住してゐて、彼は此の無知な土人と交渉して僅か六十ギルター即ち日本の四十八圓ばかりで大きな島を貿ひ取つたのである。そして此地をニユーアムステルダムと命名した。その時には黒い樹木で作つた皮の屋根の家が三十軒ばかりあつて住民は二百人程しかゐなかつた。それが僅か三百年ばかりの間に世界第一の都會となつたのである。ニユヨークの歴史を見るとアメリカが如何に急速な發展を遂げたかの縮圖を眼のあたりに見るやうな氣がする。
 賣春婦が開墾の先驅者と言はれてゐるのは各國共通の現象である。寧ろ植民とは切つても切れない關係があると言つてよい。ニウヨルクの淫賣を學問的に研究するとそれが種々の道程を通つて變遷してゐることが分る。簡單に言ふと十八世紀の半ば頃から英國を始め各國人が此地に澤山入り込んで來た。それと共に春を賣る女も流れ込んで來たのである。その時代には萬に近い女の數がニユーヨークに出没してゐた。女で亡びたローマのトラヤヌスの時代にはローマ市中に三萬二千の娼婦が居たし、我が國の元禄時代には吉原に居る女の數のみで八千と言はれ、その後京の島原に千人、吉原に三千人といふ數を算したのであるから、ニユーヨークに一萬近くの女が居たのは別に怪しむに足りぬであらう。
(145) サンガー博士の研究によると、當時二千人の賣春婦に就いて警察の調査の結果、千二百三十八人即ち其の六割一分が外國生れの者であつた。この中八百六十三人は英國から來たもので、その七百六人はアイルランド生れの者だつた。アイルランドは永年獨立を叫んでゐるが實は貧乏で移民となつて米國に渡り、賣春婦となるものが多かつたのである。次にドイツ人が多くて三百五十七人、伊太利人は一名、オーストリヤも一人、オランダ三名等となつてゐて、ロシヤ及び南歐羅巴の諸國の者は一人もゐなかつた。
 何故こうして外國から來た女が賣春婦の群に投ずるやうになつたかと言ふと、若い婦人は自國ではそれぞれ職業を見出すことが出來ない。で、何か新天地へ行つて運命を拓かんとアメリカ目がけて出て來たのであるが、いくら金の洪水してゐるアメリカでも見知らぬ國であるから、特種な技術もなく又運命に惠まれてゐないものには、自國に於けるよりなほ一層職業を求めるのに時日がかゝる。その中に持金も費ひ果して無一物となり、遂に賣春婦の群に入るやうになるのであそ。賣春婦の中にはアイルランドの農家出の女が多い。
 その後五十七年に即ち一九一二年にジヨージ・ニーランドが同樣の研究をしたが、その時は二千三百六十三人に就て研究したのであるが、以前と違ふて六百六十四人が外國生れで即ち總數の約二割(146)八分を占むるに過ぎなかつた。アメリカ生れの女が非常に増加したのが分る。人種から見ると以前尠なかつたロシヤ人が増して百九十七人となつて第一位を占め、次はドイツ人で百二十二人、英國人が百十五人、オーストリヤ・ハンガリの女は百十人、南歐羅巴の女が四十九人となつた。
 アメリカ生れの女が何故こんなに殖えたかと言ふに、田舍から都會熱にうかされて都會に職を求めて飛び出して來る女が多くなつたからである。都會へ來ても、田舍育ちの女には工場や會社の勤めは向かないからなか/\職業が得られない。又偶々職に有り付いてもその仕事に適せなかつたりして失業する。その結果遂に賣春婦の群に投ずるやうになるのである。自から好んでなるものは殆んど無いと言つても宜い。實際、女性として變態性慾の持主でない限り、こんな商賣を初めから好むものゝ無いのは當然である。都會は色々な人口が集中するのだから、こうした不幸な女も澤山出來る。身を誤る女の幸福の爲めにも賣淫の取締りは嚴重にせねばならない。
 ロシヤの賣春婦が第一位に上つたのは歐洲大戰後殊に自國の經濟状態が惡くなつたので、アメリカに流れ込む者が著しく殖えたからである。又バルカン方面の諸國でも過ぐる世界大戰による疲弊でアメリカに人を送り込む樣になつて、ブルガリヤ、オ―ストリヤ、ルーマニヤの不幸な女達は年を追ふて數を増して來てゐる。それが爲めに『ニユーヨーク』『シカゴ』を始めとして米國の諸都市は(147)風規が非常に亂れてきた。中でもシカゴの紅燈の蔭に生息する女などは世界的に有名になつてしまつた。しかし最近は取締りが非常に嚴重になつたので、殆んどその姿をかくしてゐるのは事實である。ローマは女の爲めに亡びた。アメリカがこれに目覺めたのは賢明であると言はねばならない。然し未だナイトクラブと云ふ闇の蔭にかくれて賣春行爲が行はれて居るのは遺撼てある。我が國でも亂れた元禄の後に松平定信が出て所謂寛政の改革をなし、風紀振肅の先鞭を遊里に着けて、新たに妓樓を構へることを嚴禁し、私娼を取締り、男女の混浴を禁じたりした。政治が頽癈すると闇の女がはびこるのは洋の東西を問はず同一の現象廢である。一國若くは一都市の繁榮せんとする時には必ずそれらは衰へる。此の取締りは寛嚴よろしきを得なければならない。
 吾々は東京の將來にてて考へねばならぬ。『止れ而して考へよ』と『トルストイ』の叫んだ樣に吾々は靜かに其の政策について考へやう。
 
     明るい人生を樂しむ
       歐米の夫婦生活(一箇所抹削)
 
 アメリカの細君
(148) 歐米の夫婦は殊に米國の夫婦は金でつながれてゐるといふがししかしそれは間違ひで矢張り親密な愛でつながれてゐる場合が多い。むしろその愛が露骨なのである。日本のやうに包まれた愛ではない。赤裸々の愛である。妻が夫を愛する餘り『ベビー』と呼ぶことがある。『マイ・ボ―イ』と云ふこともある。即ち情は愛兒に接する愛を持つてゐるそして性的生活は日本人より餘程徹底してゐる。
 所が金錢の上では夫婦は全然他人同土である。會計は獨立してゐて支拂ふ場合には細君が立てかへると、これは夫が支拂ふべきものと嚴しい區別を立てる。はたから見ると他人行儀であるが、習慣によつて所有權がはつきり區別されてゐるのである。では夫婦生活でお互に濫費でもするかといふとそんなことはない。一家の主婦として極力貯蓄する。日常の生活に共力して餘裕を見出す。アメリカの婦人が衣服や身の廻り品のために金を拂ひ過ぎるのは事實である。しかし日本の現代の女のやうに髪まで金や
〔写真、夫婦でモーターボートへ乘つて競争します〕
(149)銀や寶石でごた/\に飾らない。のみならず、羽織だ帶だと色々のものがないから遙に安上りである。一般にはなか/\−質素で子供を連れた婦人の食事などを汽事の中で見たが、決して御馳走を食べさせない。一人前のが多いと見ると二人前三人前に分けて子供に食べさせる。
 汽車で私の隣りの席にゐたアメリカの婦人は、子供がしきりに私の食べてゐるアイスクリームを欲しがるのを聞いても決して取つてはやらなかつた。サンドウイツチを取つてやつて、それに一皿の野菜を取つて、それを可成大きい二人の子供に分けてやつてゐた。かうした例は澤山ある。日本などでは子供が欲しがればいふまゝ
〔写真、家族連れで郊外へ行く米國勞働者の日曜大低の勞働者は自動車を持つて居るだから共産主義も盛にならぬはずである〕
(150)になつてゐる。日本の母親は子供に甘すぎる。この點は大いに歐米の婦人に學ぶ必要があると思ふ。
 
     日曜日
 
 日曜日になると家族のために全部を費す。日曜、祭日は細君と子供の友となつて、一家がうちつれて郊外散歩をするとか、ピクニツクに行くとか、船遊びに出るとか或は旅行をするとか或は自動車で、ドライヴするとか、或はゴルフに行くとかする。殊に郊外散歩の時には自動車を持つてゐる者は勿論、必ず辨當持もで公園や森に行く。日本では直に料理屋で食事をする。さもないと遊んだやうな氣がしないと思つて居る、であるから公園又はさうした場所には食台が備へつけてある。そこで知らない家族が澤山一緒になつて辨當を食べるのである。その光景を見ると如何にも樂しさうで一家團欒とはこのことであると感じさせられる。
 この日曜日を家族のために費して、一切の訪問客も仕事を止めるといふことは確にいゝことである。日本でも是非この習慣を實行したい。生活改善を説く會あたりの御婦人達は一體どこでどうしておられるのやら…。そのために何か日本の社會の習慣が改善されたであらうか。一寸伺ひたいものだ。日本の婦人は旅行や運動をする體力もなければ趣味もない。日本の女の第一の要務は體育の奨(151)勵である。日本の婦人からお轉婆といふ言葉を取去らない以上、婦人の眞の幸福な生活は望まれない。
 サンフランシスコの或る床屋の硝子窓の廣告に
『今日は家族のために休業致します。』
 と、あつたのを見て、ひどく感心したことがある。これが歐米人の日曜日に對する一般の考へである。
     細君と『食事』
 外國では食事を一家の樂しみとしてゐる。であるから夫として家族に斷らずに食事時間に歸らぬといふ事はない。夫も食事時間には歸宅する樣に心掛けてゐる。私が二三度經險したことであるが
『これから食事を一緒にしよう。』
 と、誘つても
『今日は家族のために家で食事をすることになつてゐるから』
 とか、
『折角の御厚意だが今日は歸らねばならないから』
(152) とか、いふ言葉を屡々耳にした。一つは經濟上から、一つは一家の團欒の上から見ても、かうした習慣はいゝことである。日本ではよくあることだが、忙しいに取まぎれて、一緒に食事が出來なかつたり、また何時歸るやら分もぬことが多い。それは家族に取つては迷惑なことこの上もなからう。然し此れが日本の現在社會の風習であるから致し方がない。
 これはフランスの話であるが、或る日本人の床屋を夫に持つてゐる女が、友達に向ひ
『日本人の夫を持つのは非常にいゝ、何故というと全收入を財布ごとほうり出し、一切の會計をまかしてくれる。何も自分が勝手に使へるからではない。さうなると却つて貯蓄するやうになるが、困ることが一つある。それは自分に金があつてもなくても、勝手の時にお友達を連れて來て、食事を出せといふことである。金がないといつても承知しない。これには困る。それに食事時間以外の時に歸つてきても食事をすることだ。これも困る。このことがなければ申分はない。』
 と、いつたことがある。食事の不規則、我儘は日本人の主婦泣かせで又不經濟極まるものである。これは日本の社會全體の風習を直さなければ改善することは出來ないついでてあるか。
 日本の家は一體に客が多い。これも主婦泣かせの一つである。歐米では親しい人でなければ訪問しないことになつてゐる。それに三時のお茶の時の外は何も出さないから手がかゝらない。恐らく(153)客で菓子や茶を飲みに來る人はないのだから、日本の風習は廢めたいものだ。
     髯と愛人
 アメリカの男は髯を殆ど剃ることにしてゐる。髯のあるのは老人か又はあつても數へる程しかゐない。この風習は少しづゝ歐洲の若者の間に入つて來た。髯のない理由は、よくいはれることだが、それはアメリの細君の利なのである。キスをする時に女には髯がないが、男には有るから少からず邪魔になる。男女平等の權利として取ることを要求するといふのである。なる程呵々。
 私がボストンの或る有名な局長を訪問した時、その人は最近私を頼つて日本へも來た事がある、その人に私がボストンの或るクラブで御馳走になつた時、ニコ/\笑ひながら
『日本では君の細君は髯について文句をいはないか』
 と、聞かれた。私は笑ひながら
『日本の細君はそんな要求はしない。その必要がないから』
 と、答へると、
『さうか』
 と、彼は快活に笑つた。次に日本の夫婦はお互に愛人をもつかと聞かれた。
(154) 歐米の上流の夫婦はお互に愛人を持つてゐものが普通のやうにいはれてゐるが、決して皆が皆さうではない。ニユーヨークの或る富豪で夫婦共お互に戀人がある爲に、日本のボーイを置いてそれ/”\秘密にしてゐた。ボーイは兩方からチツプが貰へるので大喜びであつた。又或る富豪で黒人の女を持つてゐるのがゐた。日本の夫の藝者狂ひは社會一般から公認せられてゐるといつても差支はない。米國のもこうした程度である。近頃では日本の女の中にも發展するのを平氣なのがぽつ/\出て來た。と云ふが人の噂ほどではないがもし女にあるとすれば重罪に處してもよい。
 
     不良少女や家出女を保護する機關
 
 ニユーヨークには社會奉仕局といふ私設團體があつて、移民局その他の公私の社會事業團體と連絡して、移民や旅客や家出女の人事相談に應じてゐる。こゝ一ケ所で一年の間に取扱ふ人數は八千名から九千名に上る。その中外國生れの婦人を取扱ふことだけでも毎年二千六七百件からある。初めてニユーヨークに來る男女で無斷家出をした者が約五百名から六百名内外ある。それに精神病にかゝつた女を三百七十一人から扱つてゐる。
 その外にニユーヨークには各方面の社會施設が完備してゐて、婦人、幼少年の保護が行屆いてゐ(155)る。警察には失踪者を捜索する捜査局があつて、各新聞紙と連絡を取つて行方不明者の捜査に從事してゐる。千九百十七年に出來たもので毎年二萬五六千の事件を扱つてゐる。失踪者の約九割が毎年捜査局の盡力で發見されるのである。
 アメリカの少年少女又は男女の失踪原因は多くは冐險的性質に原因してゐるか、又は戀愛關係から來てゐて他は主に家庭内の紛爭が原因となつてゐる。殊に戀愛關係から來るものがなか/\多數ある。不良少女も澤山ゐて年中カツフエーやその他の盛り場を渡り歩いて、果は賣春婦の群に投じるやうになるのも尠なくない。不良少女の中でひどいのになると往來の人通りの少い場所に待つてゐて、自動車が來ると手を擧げて止めさせて、客に向ひ、
『自分は今非常に困つてゐる。何々町迄行き度いのだが送つて呉れませんか』
 と、嘆願する。客もアメリカ人のことだから氣輕でしかも非常に女を尊重するから斷はるやうなことはしない、これなどは立派な無錢自動車使用で平氣でそんなことをするのもある。
 最近ではラヂオが失踪者の捜査に使用されるやうになつた。子に逢ひ度いといふ母親の切なる願ひを偶然アナウウンサーから聞いて、急に良心の苛責に堪へ兼ねて家に戻つたといふやうな實例が澤山ある。日本のラヂオもくだらぬ唱歌や愚にもつかない演説のたぐひをちと遠慮して、こんな風に(156)使用して其の他の社會奉仕の方面に二三分間を割いたら世を益する所尠なくはあるまい。
 
     世界で一番安いハンガリーの女
 
 世界で三十萬以上の人口を有する大都市は百十九あるが、その中の第廿九番目を占めてゐるのは人口九十三萬を有するハンガリヤの都ブタペストである。
 私はオーストリヤのウインから汽車でブタペストに入つた。丁度汽車の中で、某省のお役人に會つた。何しろ汽車が五時間半程かゝるので、いろ/\と話し込んだ末、
『私は賣春婦の研究をしてゐる』
 と、口をすべらしでしまつた。實はよく知らない人にうつかり話すと研究とは思はずに遊蕩兒と見はれるからめつたには云はぬことにして居た。はたせるかな
『へえ、うまいことを考へましたね』
 と、その人はちよいと微笑して、私の顔をぢつと凝視してゐたが、突然何か思ひ出した樣に
『あゝ、そう/\』
 と、はづんだ聲で、
(157)『そう云へば貴方の出發の時の寫眞が報知新聞に出てゐましたよ』『そうでしたか』
 相手は本氣になつて興味を感じたらしく一膝乘り出すと、
『隨分面白いこともあるでせうね』
『仕事のようにすると面白いどころでは有りませんよ。しかし、もう街へ行けば、大概何ういふ所へ彼女等が出るか位のことは分りますよ』
『成程、街を歩けばそうした女の出る通りが分なますかね』
『まあ、大抵は間違無く見當がつきますよ』
 思はず私は自慢してしまつた。相手は頻りに感心してゐた。
 同室にハンガリヤの宣教師が居た、これが頗る開けた人で,ハンガリヤ人で日本の代理領事をして居る博言學博士の居ることや、此れもハンガリヤ人だがハンガリヤの大學に日本語の教授が居ること等を快活に話した。私もハソガリヤの商業會議所の會頭から、その博士への紹介状を持つてゐることなどを話した。その中にその男は、ハンガリヤの學者の説に依ると、日本人とハンガリヤ人とは同じで、共にマジヤールの子孫であると言ひ出し、私の賛成を求めた。しかし、私にはその(158)説に心から賛することが出來なかつた。
 相手が英語が達者な所から、話がいろ/\とはづんで、終ひには御多聞に洩れず話が下へ下がつて來て、到頭女のことに及んだ。
『ハンガリヤには甘いトーカイといふ旨い酒がある。行つたら是非飲んで御覽なさい』
 そして、
『ハンガリヤは美人國として有名です』
 と、眞面目になつて付け加へた。
 旨い酒に美しい女! 宣教師君の話に依るとブタペストは名にも似合はぬ好い都らしい。宣教師も矢張り男だつた。近頃の僧侶や宣教師は表面は精神生活で内心は物慾で一ぱいになつてる。昔の宗教家は頭の先から爪の先迄精神生活であつた。物質は精神生活を續ける糧食に過ぎなかつた。宗教は人間を毒するものであるとはマルクスの言であるが今の宗教ではそうであらう。「ルーテル』の樣な人が出て宗教改革を行はない以上宗教界の將來は暗黒である。そしてもう時代に合はぬ過去の遺物になつて居る。宗教でも道徳でも時代と共に變化して行かねばならぬ。
 ステーシヨンに着いた時は夜の九時頃で、連れになつたお役人もまだホテルは定めてないといふ(159)ので、二人一緒に私のホテルへ行くことにした。ホテルへ着くと私は例によつて例の通り早速ブタペストの地圖を買つた。そして例によつて十時頃から出かける計畫を立てた。
『今夜これから行くのですつて?』
 と役人はぐつたりして言つた。
『行きますとも。時間の經濟でね。直ちに取掛るのですよ』
『それは大變だ。私はもう今夜はいくらなんでも休まれるんだと思ひましたよ』
『そんなことをしては居られませんよ。夜も私は仕事をするのですから、』
『だから樂ではありませんと云つたのですよ』
『そうですか。それで誰か案内者でも頼んであるのですか。』
『いゝえ別に』
『見ず知らずの街へ着いたばかりで危險ではありませんか』
『ナーニ、案内者なんぞいりませんよ。大體見當はつきますからね。此處に地圖がありますよ。女の出る所はその町で最も賑やかな所ですから、直ぐ分りますよ』
『成程』
(160) と、相手は感心した。そして
『面白そうだから疲れては居るけれども、私も一緒に行くかな』
 と、言ひ出した。
『御希望なら案内しますよ。美人の國のブタペストを觀察するのも惡くはないですからね』
『その道の先生である貴方が附いて居れば、安心して簡單に見物が出來ますからね。此の好機は逸しない方が利口かも知れませんね』と
 そこで、二人は一緒に出かけた。私は大いに得意になつて、鵜の目鷹の目になつて、ブタペストの大通りを撰つて歩き出した。が、一向にそれらしい女は見當らなかつた。何うしたものか、いつもなら賑やかな通りを中心に右か左の通りに必らず居るのであるが、その時は一向に見當らなかつた。
『一向居ませんね』
 と、相手は疲れた聲を出した。私は大いに面目を失し、
『まあ、暫く黙つてお歩きなさい』
 と、お茶を濁したが、心細いこと夥しかつた。で、暗間が早かつたかなと一應は思つて見た。時(161)間が少し早いのは確かであつた。元來女の出没する時間は街によつていろ/\と違ふ。兎も角ドイツでは早いのになると晝頃から出る。又フローレンスのやうに十二時近くならないと一人も居ない所もある。しかし、それにしても一人も見受けないとは變で仕方が無いので、内心大いに心配して通る女をそれでは無いかと盛んに物色して歩いた。
 街の角の大道で燒栗を賣つてゐる婆さんがゐた。日本と同じやうな燒栗である、それを見ると、そゞろに日本の秋の栗のことを思ひ出した。私はその店に立寄つて、少しばかりの栗を買つて、婆さんにそれとなく訊いて見た。が、一向に要領を得ない。するとその側に一人の勞働者風の男が立つて居たので、私は燒栗を包んだ新聞紙から五つ六う燒栗をつまみ出して、その男にやつた。男は大變喜んで、
『女の出る所は此の通りから丁度裏になつてゐる通りです』
 と、教へて呉れた。幸ひに、此の男は英語が解つた。
『成程、他の場所と少し見當が違ふ』
 と、合點し、私は直ぐ目的地に向つて進んだ。淋しい通りなので相手が苦情を言はないかとピク/\し乍ら、どん/\歩いた。が、いくら歩いても女は居ずにたゞ薄暗い通りが果しなく續いてゐ(162)るやうに思つた。私の借用はすつかり地に墜ちてしまつた。相手は案のじやう落膽の色をあり/\と態度に表はし、
『もう歸りませう。つかれました。いくら歩いても無駄ぢやないですか』
 と、言つたなり、突つ立つて、何うしても動かなかつた。これまで來たのであるから、もう少しとすゝめて見たがもとより私の方にも自信は無いにはないが
『しかし、私は行きますよ』
 と、單獨でも行く決心を見せた。
『一應歸つて明日の晩にでもしたら何うです』
『でも、此處まで來たおのですから私はいくら晩くなつても見屆けるまで歩いて見ますよ』
 相手も私の態度が強硬なので、思ひ切つたらしく、一人で歸ると言ひ出したから、足まといがなくなつて結局幸ひと私は別れることにした。
 一人になると私は冷靜になつて、その邊一體を隈なく探して見た。そして直覺的に此處を行けば居るぞといふ信念を得たので、構はずどん/\進んで行くと、少し賑やかな所へ出た。電車の交叉點がある。今迄の經驗によると、女の出没する場所は非常に人通りの多い繁華な邊りか、さもなく(163)ば街の薄暗い所にあるか、又は賑やかな電車通りから一寸入つた裏通りのやうな所にある。それらしい感じがしたので、私は足を早めて歩き出した。ものの一町も行かぬ中にやつと見當がついた。その前兆ともいふべき、バーがあつたのだ。バーの硝子戸はしまつてゐて、中から布が下つてゐる。バーがある以上、もうしめたものだと私は勇み立つた。して町ゆく人の樣子を見るとたしかに此の近所に女の出没する場所が有るのに違ひ無いと信じたのだ。
 試しにバーの戸を開けて見ると、果せる哉女が坐つてゐた。男も二三人居た。狹いバーのテーブルの間で一組の男女がダンスをしてゐた。それ丈け見屆けると私はいきなり戸を閉めて出た。そこを少し行くと、同じやうなバーがまたあつた。覗いて見ると同じやちな有樣である。その邊を歩いてゐると右に入る横町があつた。見ると小汚い薄暗い横町であるが、勞働者風の男達がボツ/\歩いてゐて、女もあちこちにバラ/\立つてゐた。その横町を入つて行くと、ひどく汚い家ばかりで勞働者相手の女がずらりと並んで五六軒おきに澤山ゐた。傍へ寄るのも恐ろしい、そして汚ならしい女達で、それらが盛んに誘惑するのだ。裏通りには縱横になつた横町があつて、一番淫賣の出没する所だつた。勞働者相手の家ばかりで汚ないことお話にならぬ。深川、本所の貧民窟にゐる女のやうなのばかりである。値段を訊くと、安いのは値切ると六十錢位で、一圓のお二圓のもある。(164)相對相場であるが、兎も角、その程度の相場である。日本の遊廓でも新宿や品川や板橋などの安いのになると、全夜で一圓から八十錢位のがあるが、しかし此の外に席料が約同額要るから結局此處よりも遙に高いことになる。しかもそれは表面の相場で、實際登樓すれば又何やかと中々かゝる。
 女の中に地下室のやうな室の入口に立つて、年取つたのや若いのが四五人一緒になつて頻りに來い/\と言つてゐた。また勞働者を捉へて放さないのもある、醉つ拂つて歩いてゐる男もゐた。私を捉へた女の家はとてもひどく汚れてゐて、足踏みでもしたら、しらみ〔三字傍線〕がたからう程の家だつた。値段を訊いた。何うして商賣をしてゐるのかと聞いても、此方の話の意味が先方には通じなかつた。喰へ無いからやつてぬるのが多く、勞働者の家内や娘達がその大部分であつた。あらかたは無知なハンガリヤ人ばかりであつた。兎も角、∧ンガリヤは現在經濟的に極度の疲弊をしてゐる譯でも無いが、農業國の貧民であるから汚ないことお話の外である。
 此のブタペストの淫賣宿は私が歐米各國で見聞した中で一番ひどい状態にあつたが、しかし、それでも日本の田舍の貸座敷の『割り部屋』の制度に比べればより文明的である。日本の所謂『割り部屋』のひどいのになると四疊半一室を屏風一枚で仕切つて、同じ部屋に二人の客を案内するのだ。如何に肉の切り賣りであるとは言へ、如何に性の遊戯場であるとは言へ餘りに淺まし過ぎると(165)言はねばならぬ。こんな獣的生活はそれがハンガリヤであらうとも何處であらうとも現代の人間世界から一日も早く葬り去らねばならぬ。世界を廣く廻つて見ても、日本の割り部屋のやうな獣的な制度のある所は一つも無かつた。衰へたハンガリアと同樣な辱をもつ日本の此の制度を一日も平く破壞せねばなるまい。
 
     バンクーバーのホテルの美人と黒人の辻君
 
 サンフランシスコから北へよつて、英領のカナダへ入つた所にカナダ第一の都會のバンクーバーがある。
 私が汽車で此の都會に着いた時は夜の一時であつた。時間表に依ると十一時には着いて居なければならないのであ
〔写真、一見貴婦人の樣に見える女です其の服裝を御覽なさいこうして靴下を止めるのです勿論非衛生的なコルセツトは用ひません日本の女も早く胸をしばる帶をやめて洋服にしたいと思ひます。〕
(166)るが、一時間半も延着したのである。日本なら氣短の連中が黙つてゐまいが、此の點はアメリカ人は至つて平氣である。尤も怒つてゐては遣り切れまい。といふのはアメリカの太平洋岸の汽車は時間通りに着くことが稀だからである。大概十分や十五分位の延着はする。
 日本の東海道線は之に比べると遙かに正確だ。或は世界一かも知れない。しかし歐米とは發着の列車運轉回數が非常に違ふから餘り威張つた物ではない。歐洲大陸でも各國は大概延着する。フランスは殊に甚しい。設備から言へばアメリカは日本の狹軌とは違つて廣軌を採用し、車内の調度その他も比べ物にならない程立派である。列車内には理髪店もあればプレスをする洋服屋もぬる。展望車もあれば雜誌もあり又手紙も書ける。氷の水はいつでも自由に飲めるよいふ風に誠に至れり盡せりの設備がしてある。これが時間の點になると不正確なのだから『時は金なり』の本場の國ではちよつと意外の感に打たれる。
 その夜はバンクーバー・ホテルに宿を取つた。當地第一のホテルで實に堂々たるものである。如何な私でもその夜は遲かつたので、その儘寢てしまつた。翌日市役所や港灣局や商業會議所を訪問してそれ/”\用事を終へると早速自動車を雇ふて女の宿を探りに行つた。或るホテルにゐるといふので乘りつけて見ると三流所のホテルである。一階二階三階と一々室の前を歩いて見たが、闇の女(167)が出没するやうな怪しい氣配は見えない。と言つて無闇に人に問ふことも出來ない。ホテルいマネージヤーやボーイに訊いても頭から否定するのは分り切つてゐる。實際そうした者の出入は三流所のホテルでも嚴しいのである。
 訊ねあぐんで四階迄來ると丁度廊下に掃除女がゐた、女は迂散臭そうな眼付をして私をジロ/\見てゐたが
『誰を訊ねるのですか』
 と、訊き出した。渡りに船とは思つたが、合憎女の名前を知らないので、私は一寸返答に困つた。で、
『此のホテルに令孃は居ませんか』
 と、ニツコリ笑つて見せた。
『あゝそうですか』
 と、女は別に笑ひもしないで
『それは四十二番の室ですよ』
 と、少し考へ、
(168)『しかし今は外出してゐませんよ』
 私は念のために女の話したその四十二番の室をノツクして見たが、外出したのは事實らしく返事がなかつた。こうした女は家に居る時には、よく室の戸を開け放しにして寢台の上に寢ころんで新聞などを讀んで居るものなのだ。
 私は表へ出ると運轉手に女の居なかつたことを告げて、
『君はまだこうした家を知つてるだらう。何處に居るかね、この近所では』
『ぢや、あのアパートメントへ行つて御覽なさい』
 しめたと思つて私は細々とその樣子を聞くと、極く低級な勞働者の住まつてゐる所で、その中の一軒に黒人の闇の女が十人程住んでゐて夕方仕事歸りの勞働者を家の前に出て引張り込むのだとのこと、
 その女達の家の妃近所に日本人の經營してゐる自動車屋があつた。その前を眞直に通り過ぎて少し行くと、古い/\二階建の薄汚ない木造のアパートメントがゴミ/”\した中にあつた。汚ない階段を上るとうす暗い細い廊下に出る。兩側には物置のやうな三疊位の室が五室づゝ並んでゐた。丁度二室ばかりの戸が開けてあつたから覗いて見ると、汚ないよごれ切つた寢台が一個、その上にボロ(169)のやうな衣服が無雜作にほうり出されてあつた。その他には殆んど何もなかつた。私はむつと胸に詰るやうな不快の感に襲はれた。
 宿の女主人の一室の戸をノツクすると、暫くして小さい聲がして人相の惡い四十四五の黒ん坊の大女が戸を少し開けて顔を出した。古ぼけた汚ならしい着物を着てゐて裾の長い大戰爭以前の服裝が如何にも變挺に見えた。私は出鱈目に女の名前を言つてその女が居るかと問ふた。
『え?』
 と、眞黒い顔を突き出す。私は二度女の名前を言つた。
 女は小首を傾け乍ら恐ろしい顔をして私の全身に瞳を放ち乍ら
『知らない』
 と、不平さうに答へた。その顔付を見るとこれでも女かしらと疑ひ度くなつた。
 女の室の中を見るとベツトの上に五十位の黒ん坊の男が横になつてじつと私の方を見てゐた。女の氣配と男の樣子から見ると、此の大女と寢てゐたらしかつた。その家を出てから運轉手に聞くと、その黒ん坊の女は獨身者であるとのことだつた。
 その夜の晩い汽車でバンクーバーを出立して米國のポートランドへ行く豫定であつたが、私はも(170)う一度さつきのホテルの女が見度くなつた。室の内に入つて見たかつたのだ。不氣味な黒ん坊の女を見た私の眼は知らない内に美しい女を求めて居た。いつの間にか研究心が好奇心に變つてゐた。私は早速自動車を走せると其のホテルへ飛ばした。まだそれ程遲くは無かつた。
 ホテルの階段を上つて四十二番の室の戸をノツクすると、
『オーライお這入りなさい』
 と、いふ聲が微かに聞えた。ドアを開けると、だらしなく寢台に轉がつてゐた若い相當に美しい女が顔を上げた。見知らぬ外國人の私が立つてゐたので、驚いたやうな顔をした、私は帽子を取つて微笑し乍ら輕く挨拶して
『入つてもよいか』
 と、訊ねると、女は心得たといふ風で
『お入りなさい』
 と一寸愛嬌を見せた。
『今晩は』
 と、私はづか/\女に近寄り
(171)『何か面白い記事がありますか』
『えゝ』
 と、女は誇張的に大きく首肯き、
『有りますよ、澤山』
 と、ほゝ笑むだ。私は大丈夫だと思つたから、いきなり、
『幾らです』
 と、ずばりとためしに切り込んでみた。
 怒るかと思つたら『五弗』と一寸笑顔を見せた。
『五弗は高い』
『高いことはありませんよ』
『高い』
『では幾らならいゝんです』
『三弗では』
『オーライ、三弗でようござんす』
(172) と、女は身を動かした。その薔薇色の寢衣には香水の匂が一杯こもつてゐた。
 女はフランスから金に憧れて來たとのこと。
 米國にもこうしたホテル生活の高等が澤山居たのであるが、取締がやかましくなつてから見えなくなつてナイトクラブに田入するやうになつた。此の樣な生活をして居る女は上から下迄貴婦人の樣ないでたちをして居る。
 
     マルセイユの淫奔な活動寫眞
 
 マルセイユの街を見ると、案外小さくて詰らないといふ感じを受ける。人口は五十八萬餘あるがフランスの發展が止まつて以來その著しい發展も見えなくなつてしまつたのだ。しかし今なほ世界の良港として昔乍らの賑やかさは見せてはゐる。東洋並びに地中海方面の貨物は此處からパリーその他の歐洲各地へ分散され、歐洲大陸に入る貨物の集散地として榮えてゐるのだ。
 此街を港から眞直に行くと一番賑やかな通りに出る。その通りを上つて行くとクツクの旅行社とマルセイユ一のホテル・ルーブルの前に出る。そこにあるカフヱーについて左に曲つて行くと、直と又左に曲る小さい路がある。其處らは一帶に勞働者の居る所で、夜行くとごろつきなどがゐて、(173)危險であると言はれてゐる。しかし私は夜歩いて見たが、そんな危險はちつとも無かつた。此の町に小汚ない三階建の家がある。公娼の居る家だが、此處でわいせつ〔四字傍点〕な活動寫眞を見せる。こうした家がマルセイユにもう一軒ある。これはマルセイユの舊港にある大きな女郎屋で、日本人のよく行く所である。私は二軒とも行つて見たが、小さい方は丁度私が行つたのが最後で、次の週からは禁止される事になつてゐた。警察の取締りが嚴しくなつたのだ。
 ベルを押すと汚ない着物を着た婆さんが顔を出した。家の表札にはミス・マルセイユとあるから、此の婆さんは取次なのである。(手跡は口繪の寫眞參照)
『活動寫眞を見に來たのだ』
 と、言ふと、
『お這入りなさい』
 と、言ふ。で、二階へ上つた。二階の廊下にはホテルのカウンター見たいな台があつて、そこには若い女がゐた。なか/\の美人で、此の女が春を賣る女だとすると大したものだと感心し乍ら、
『今晩は』
 と、言葉をかけると、
(174)『今晩は』
 と、愛想よく迎へて、
『此方へ來て下さい』
 と、案内に立つた。で、
『貴女が相手をするのか』
 と、質問に及ぶと、
『私はしません』
と、あつさり答へる。後で聞いたら誰かの妾で公娼の上りだとのこと。此の女が所謂『ミス・マルセイユ』なのである。で、先づ室に入つた。すると、
『何種類見ますか』
 と、聞く。
『一體幾種類あるのか』
『澤山あります。二種類一組で幾らもあります』
『値段は』
(175)『一組見るのが百フラン(約八圓)です』
『少し高いね』
『高くはありませんよ』
『いや高い。三十フランなら見よう』
『そんなに安くは出來ませんよ』
『いや、そんなにふつ掛けても駄目だよ、私は此のマルセイユへは今度で二度目であるからよく相場を知つてゐるよ』
『値段を負けることは出來ません』
 と、強硬な態度を持續してゐる。しかし實際は此の寫眞は三十フランから五十フランの間で見せてゐるのだ。けれども相場は相對で、人に依るとふつ掛けることがある。もう一つの家では最低二十五フラン位から交渉のしやうで見られる。
 活動の仕度をするから暫らく待つてゝくれといふから、暫らく待つてゐると、十人ばかりの女が薄い肌着を着て――その下には豐かな柔かな、そして眞白な肉體が見えてゐる――入つて來た。何をするのだと思つてゐると、
(176)『此の中で氣に入つたのを一人でも二人でもいゝからお撰びなさい』
 と、言ふ。で、
『私は女を買ひに來たのでは無い。一體何うするのだ』
 と、聞くと、
『氣に入つた女を連れて、それと一緒に見るのですよ』
 と言ふ。成程、そいつはうまい考へだと感心して、よさそうな女を一人ひつこ拔いた。すると女は、
『シヤンパンを拔いて下さい』
 と、せがむ。私もシヤンパンは好きだから一本飲んだ。それから地下室のやうな所へ下りると寫眞が始まつた。誰も居ない。私と女丈けだ。
 寫眞といふのは紳士の面をそむける劣惡なもので寧ろ不愉快の感のするものである。その寫眞につれて側にゐる女は手を握つたりして、徴發的な事をいろ/\とする。が、然し物は極端になると却つていや氣のさすものである。こうした事を好む人間が多いからこうした事をするのだろう。此の時私のつく/”\考へたことは人間が性的に野獣とことなつて居ることだ、然かも違つて居ることは野(177)獣より遙かに劣等であると云ふことだつた。然しよく歴史的に研究して見ると性慾の享樂化は文明に從つて増進する樣であるが、此れを將來道徳や人格と如何に調和させてゆくかと云ふことである。
 そして寫眞が終つて出て行く時に、
『活動の技師にチツプをやつて下さい』
 と、すゝめる。技師といふのは二十七八の若い男である。
 シヤンパンの代は一本六十フラン取つた。町では普通三十フランからよいのになると四・五十フラン見當である。こうした所にしては六十フランは割合に安い方なのである。うつかりすると百フランから時には百二十フラン位取ることがある。或る日本人の某材木商が行つた時には、全部で五百フランから取られた。尤も此の人は女を買つたのだが、合憎語學が殆んど出來ないので、何が何んだかわけがわからず、五百フラン拂つて這々の態で逃げ歸つたといふことだつた。
 日本ではこうした寫眞は到底見られない。日本の或る實業家や所謂名士が組織してゐる會があつて、毎月何か奇拔な珍品をお互に持ちよる事にしてゐる、といふが、世の中には暇な變態性慾家の居るものだ。頭のはげと御相談になつては如何であらう。さもなくば子供の前で其の事を御考へになつたらきつと脱會届を出さずには居られなくなるに相違ない。一昨々年であつたか、新橋の或る待合(178)で、そうしたわいせつな活動寫眞を見たことがあつたが、警視廳の知る所となつて、一同呼び出された上、年がひもなく説諭を喰つたことがある。そして名士達は新聞に名の出るのを冷々して、その二三日といふものは眞青になつてゐたといふ馬鹿げたことがある。こうした實業家の譯山居る間は財界に好景氣はとても來さうにない其の上にこうした實業家が政治家と結ひついて利權を漁るのであるからたまらない。眞面目に額に汗する實業家は馬鹿げて來る。日本にある凡てのものゝ中で一番無駄な一番よくないものは恐らく待合ではなからうか、娼家の方が遙かに存在の意義があらう。
 この映畫は日本では先づ見られないものゝ一つである。こんな寫眞は他の何處の國へ行ても決して公開してはゐない。とにかくパリーの裸のカフエーと好一對の徹底した見世物で、佛國の辱をさらすこれより大なるものはない。外國人の金をとるのを目的にこうした營業を公認する『フランス』は國民の魂がくさつたのではなからうか、國家的自覺といふことは風教の上にも大きな力をもつてゐることを忘れてはならぬ。あらゆる意味から國民は國家に關して十分な自覺を持つてほしい。
       ◇
 今一つの舊港の方のは町の通りも細くて、汚ない勞働者が住んでゐて、人氣も非常に惡い所であ(179)つて、日本の海員で齒を折られた者や半殺しにあつたものが澤山あるといふ話が傳へられてゐるので、私は一度そうした經驗を味ひ度いものと例の通り腰に短刀をつけて、太いステツキを持つて一晩歩いて見たが一向そんな目にも逢はなかつた。横町には巡査が巡回してゐた。どうも噂程では無いらしい。上海でもこうした噂を聞いたので、夜十時頃から獨りで出かけたが、一向そんな惡人達には出遇はないで、返つて白人の闇の女に盛んに誘惑されたことがある。因に東洋に於ける白人の女の出稼ぎの最終點は上海である。
 
     ボクサーを呼んで來たオランダの女(二箇所抹削)
 
 オランダのアムステルダムは世界のダイヤモンドの取引の中心地である。此處には世界に二つしかないダイヤキンドの取引場がある。世界各國の注文により取引するブローカーが株式の取引所のやうに毎日集つて相場をしてゐる。此種の取引所は世界に二つであつて建物も堂々たるものである。今一つはベルギーにある。が、これは小さい。であるから目がきいて上手に買へば此處でダイヤモンドを買ふのが一番安い。私は歐米各國を廣く歩いて見て、アムステルダムが一番安いことを知つたので一つ買つた。ダイヤモンド工場の製作場を見に行くと、紙のやうに薄い銅板でダイヤの原石(180)を切つてゐた。
 ホテルで夕食を濟ませてから土地の樣子を聞かうと或るオランダ人に訊ねてアムステルダムで一番女の出る通りにあるシテイといふホテルのカフエーへ行つた。その人には主として私娼のことを訊ねたのだ。
『ありふれた辻君の家でなく何か變つた面白い所があるだらうか』
『今は無い』
 との答。
『變つた經驗がして見度いのだ。冒險交りの私娼窟があるといふことを聞いたのだがね』
『昔はあつた。しかし、今日ではそうした危險な場所は無い』
 と、一應は否定し、
『二十年も前には、此の通りの裏の川通り即ちホテルから一つ先に運河がある。暗い、そして交通の少ない通りだが、或るホテルの女に連れ込まれたことがあつた。すると男が出て來て脅喝し出したのた。私はいろ/\と口實を設けて、やつと逃げ出したことがあつた。それも昔のことで今は恐らくそんな場所はあるまい』
(181) と、私の質問の無意味なることを説明した。
 私はオランダ人に別れるとその運河の暗い通りをあても無く歩いた。夜も十二時頃で、川の通りは人ツ子一人通つてゐなかつた。
 薄暗い川に沿ふて建物が並んゐる。その薄暗い建物の所々に女が立つてゐた。私はわざ〔二字傍点〕とその傍を通つて見た。と、女は聲を掛けた。
 勿論夜晩く人通りの少ない所でドイツ語で人を呼び留める女なら、商賣をする者であるのは言はずと知れてゐる。で、いろ/\と話しかけ相場を聞いて見ると五圓位から十圓の程度である。高いから負けろと値切ると、それでは三圓でいゝと讓歩した。これはオランダばかりでは無いが、餘り安くする女にうつかり引つかゝると、後で文句を付けられて、辛い目に遇ふことがある。物好きかも知れないが研究の爲めに成る可く變つた種を捜して歩いてゐるのだから、私も一度酷い目に週つて見度かつたのだ。それにドイツ語の話せる女であるから一層好都合だつた。で、此の女は或はそうした場所へ連れて行くのでは無いかと思つて、神妙に女の言ふ儘、その指示したホテルへ行くことにした。
 月は無かつた。星の光りも妙に薄らんで見える夜であつたが、古びた感じのする橋を渡ると、行(182)手にほんのり〔四字傍点〕と赤い四角な軒燈が見えた。それがホテルの目標で,夜稼ぐ女の連れ込む場所なのである。此の赤い光りはアメリカではレツドライトと言つて、賣春婦の居る宿の代名詞となつてゐる。
 一間程の入口の石段を三つ四つ上つてベルを鳴らすと、肥つた五十格恰の婆さんが出て來て、二階の一室に案内した。婆さんにチツプをやつて呉れと女が頼むので一圓ばかりやつた。室代は三圓である。女は室へ入るなり、
『約束のお金を下さい』
 と、言ひ出した。
 今迄暗くてよく見えなかつたが皎々と光つた明りでつくづく其の顔を見ると見込通りの女らしいので、内心面白いことがあるかも知れないと勇み立つたが、素知らぬ態で、約束の三圓をやると、女は眼をむき、
『三圓では餘り酷いではありませんか』
 と、私の顔をうらめしさうに見てぬたが、
『チツプを下さいな。ね。チツプを下さいよ』
(183)『チツプは後でやらう』
『チツプを呉れないんですか!』
 女は瞳に力を入れて私を睨むやうにし、
『貴方の拂つたお金は室代の三圓と私の三圓丈けぢやありませんか。室代と私に呉れる金と同額なんてそんな馬鹿氣たことがあるもんですか』
 と、開き直つた。私は其の文句がしやくにさはつたので、
『初めの約束では無いか。馬鹿氣てゐるなら何故約束した』
『そんな馬鹿氣たことが何處にある。貴方は解らず屋だ。そんな馬鹿氣たことは何處にも無い』
 私は冷然と、
『馬鹿氣てゐる位初めつから分つてゐよう。今になつてそんな文句を云つてお前は乃公を強要する氣だな』
『何!』
 と、女は猛り立ち
『そんな馬鹿氣たことは何處にも無い。お金を下さい。もつとお金をお出しなさい』
(184) と、強硬に主張する。
『駄目だ。約束だ。それ以外に金は一文だつてやらない』
『では』
 と、女は私の權幕を見て取ると、急に態度を變へ、
『全部此の着てゐる○○を取るから二圓下さい』
 と、新問題を提出した。益々面白いと思ひ、
『宜しい』
 と、首肯き、
『着物を脱いで見ろ』
『お金を下さい。先にお金を下さい』
 と、女は腹をへらした子供が菓子をせびるやうに態度を急にかへて云ふた。
『必らずやる。脱いで見せろ。金は後で屹度やる』
『先にお金を下さい』
(185) と、女はしつこく、矢つぎ早に聲を立て、此方の言ふことは一切聞き入れやうともしない。少しうるさく〔四字傍点〕なつたので、
『着物を脱ぐのが二圓なのだな』
『そうです』
 私は二圓取出すとテーブルの上に置いた。と、女はいきなりそれを攫ふやうにして、慌てゝ持つてゐる手提の中に押し入れた。私は一時その素ばしつこい動作に眼を見張つたが、女が着物を脱ぐと同時に立上り、
『俺は歸る』
 と、帽子を取つた。女は驚き、
『もう三圓下さい』と、血走つた眼付で、
『私は六圓よ、安くはしないのです』
『何もお前の身體を何うしたんでも無い。もう三圓やる必要は無い』と云ふたが、下手なドイツ語だからよく通じなかつたらしい。
『何ですつて!』あとは早言でよくわからないが兎に角、
 女は眞蒼に顔色を變へて飛びかゝらん樣子を示したが、ぐつと折れ、
(186)『三圓下さいね。それで――貴方はそれを望みに來たのでせう。それで私と一緒に此のホテルへ來たのでせう。もう三圓下さい』
 こんな女と寢るなんて考へてもぞつとするので、それにそんなことは此方の目的でないから、私は飽逼迄歸ることを言ひ張つた。その私の態度を見ると、女は大いに怒つて、大急ぎで着物を着るとオランダ語で何か頻りに口走つた。何を言つてゐるのか分らない。大方私の惡口でも言つてるのだらう。しかしオランダ語では一向私には通じないから此方は平氣だ。その中に女はだしぬけにドイツ語で、
『お前の頭を割つてやる!』
 と、叫んだ。飛んでも無いことを言ふ奴だと笑ひ乍ら、
『お前に俺の頭が割れるか』『われるなら割つてみろ』
『ボクサーを呼んで來る。そしてお前の頭を割つてやる!』
『割れ』
 と、思はず私も大聲で怒鳴つた。
『ボクサーでも何でも引張つて來て割つて見ろ! ボクサーなど恐れる俺では無い。日本の柔道で(187)殺してやるぞ!』柔鰭がなんだかわからなかつたらしい。
 女は又オランダ語で何を言ふのかギヤー/\我鳴り出した。察する所ボクサーでも呼んでゐるのだと、私は思つた。女の言ふボクサーは此のホテルに居るに違ひ無い。女とぐるになつて客から金でも捲き上げる氣なのだらう。よし! こいつは面白いと、
『うるさい! 黙れ!』
 と、私の顔を見て狂犬のやうに吠え立てゝゐる女を一喝して、いきなり腰に提げてゐた短刀を引拔いた。それはこうしたこともあるものと、夜の探險の時はいつも用意して胴じめに下げてゐたのだ。ピストルも持つてゐたのだが、それは英國へ上陸する時サウザンプトンの税關で携帶許可證を持つてゐなかつた爲めに取り上げられてしまつた。
『そんな大聲を出すと、これで刺し殺すぞ!』
 女は慌てゝ手提を掴むと戸の方へ逃げ乍らます/\大聲を立てゝ怒鳴つた。
『ボクサーを呼んで來る!』
『呼べ!』
『待つてろ!』
(188)『うるさい! 早く行つて呼んで來い』
 女は彈丸のやうに飛び出して行つた。
 間も無く二十五六の一人の筋骨逞ましい大男を連れて來た。如何にもボクシングでもやりそうな六尺豐かの快漢で、急いで室内に馳け込むと私の前に仁王立ちとなつた。そして大聲で何か怒鳴つてゐるがオランダ語だから分らない。わからないから私は平氣で、
『馬鹿野郎! 此の短刀は伊達ぢや無いぞ!』
 と、日本語で怒鳴り返してやつた。がお互にわからない同志、
 こんな大男でも足拂ひを一つかければもんどり打つてひつくりかへるだろうと思ふとちつとも恐ろしくない。瞬間にこうした觀念が走馬燈の樣に頭の中を走つてゆく。柔道をやつた事の有難味が走つて通る。丁度ハワイの闇の十分間の時の樣に、
 男も負けずに怒鳴つてゐる。こんな者を相手にして斬つた所で事は面倒になるし、さりとて弱身を見せてはつけ込まれるし、一寸實は進退に困つたのだが、短刀を拔いた儘
『一體何しにやつて來た、金でもゆする氣か。此の馬鹿奴!』
 と、大喝して男を睨み付けた。が、日本語だから向ふには通じ無い。
(189) 女は昂奮して頻りに男にうつたへてゐる。私はわざと冷靜を裝ひ、一にらみして椅子に腰をおろした。
『約束の金をたゞでやつて歸るのだ。差支は無いじやないか?』
 と、ドイツ語で女に話しかけ、女が私を注視すると、
『お前達はぐるになつて客を脅迫する。よく無い奴等だ。俺は俺のやうな世界の遊覽者が再びこんな目に遇はないやうに警察に一應注意するから、そのつもりでゐろ!』
『公乃はこうした處を探して歩いてゐるのだ』
 警察といふ言葉を聞くと、女は急にやはらいだ。一體オランダばかりではない。賣春宿は勿論賣春婦はどこの國でも矢張警察を極度に恐れる。歐米の警察は賄賂で自由になるのはなるが、それにしても彼女等の營業に支障を來すこと夥しい。高が一人位の客の爲めに警察問題を引起しては女の方でも非常に金がかゝるので損失となる。元來金の爲めに苦しむ者達であるから、損得の事になると話が早い。おどし文句には警察が一番いゝ手段であることを從來の經驗で知つてゐるので、私はいざとなると警察を引合に出した。
 ボクサーも強硬な態度で私に向つてゐたが、急に樣子を變へて、何かぐど/\言ひ乍ら室を出て(190)行つてしまつた。意外にあつ氣なかつたので、私はほつとしながらも手持無沙汰だつた。
 最も其態度はなんとはなしに心の底から力のあつたものではない樣に第六感に感じた。わたしの方はどんな目に遇ふか知れないからにらんだ眼にも力の入れ方が違つてゐたに相違ない。人間の眼は非常に大きな力を持つものだ。犬が吠えてきた時に、黙つて立止まつて全身に力を入れてにらみ付けて居ると犬は首をたれて、おとなしくなつて逃げてしまう。これをオランダのボクサーに試みた處が見事に成功した。後で考へるとおかしくてたまらなかつた。
 私は一人殘つて、女に向ひ、
『お前は俺の頭を割ると言つたが、一向割らないぢやないか』
 と、からかふと、女はなほも怒つてゐて、私を睨んでゐる。で、
『お前のやうな惡い奴を此の儘にして置くと後の爲めによくないから、これから警察へ行つて注意しとくからそのつもりでゐろ!』
 と、言ふと、女は憎惡の色を眼にも口にも表はし、
『貴方のやうな惡い奴は警察へ行く途中で、酷い目に遇はせてやる』
『またボクサーを呼ぶのか』
(191)『川向ふに私の男の友達がゐる。それに頼んでお前を酷い目に遇はせる!』と云ふ。此の女は餘程たちの惡い女らしく見受けられた、わたしはまだこの位、性質の惡い女に今迄出遇ふたことがなかつた。成る程此邊に出る女は用心しないと命迄とられると別れた案内者から呉れぐれも注意せられた通りである。船付場の女のすごいことをつく/”\味ふた。
『いゝとも』と私が答へるなり、
 女は手提を取つてどん/\出て行つた。私も後に從つた。
 戸外に出ると女は興奮してゐて、急ぎ足で、口の中でぶつ/\言ひ乍ら、人通りの絶えた通りを驅け出すやうにして、もと來た道を歩いて行つた。私も女と並んで無言で橋を渡つた。前に女の立つてゐた所の少し先まで行くと、女は立止つて、
『お前は此處に待つてお出で』
 と、言ひ棄て、家の中へ驅け上つて行つた。その家のある場所は勞働者の多く住みさうな所で家もまた汚ない、そうした者の住家らしかつた。それを見屆けると、此の上立止る用も無く、それに無知な低級な人間を相手に、愚にもつかないことで爭つても始まらないと思つて、一目散に逃げ出して、またもとのカフエーのある、そして女の澤山出る賑やかな通りに出た。
(192) こんな經驗はオランダで始めてゞあつた。しかし、日本のゴロツキよりは質は遙かに善さそうだ。女がしつこく強硬に出て、友連まで呼んで來て、私をものにしやうとしたのも、つまりは私が外國人であるのと私が旅の者であることを判斷したからかも知れない。私は自ら好んで冒險的な經驗を得る爲に夜出る時には常に寫眞にある樣なゴルフ用の上衣に半ズボンといふ輕裝で、護身用の短刀を所持してゐた。それは第一身輕にしておくことゝ女に土地の樣子を知らぬ旅人であるといふことを無言に物語り、よく話に聞くやうな何か面白い瓊驗を得たい爲めであつた。しかし私の豫想は綺麗に裏切られた。よく聞く話のやうにピストルで脅迫された事も無ければ衣服を掠奪せられた事も無かつた。人の語り傳へる話は恐らく人の噂かさもなくば教訓の爲めの活動寫眞にあるのを實在化して語り傳へたのであらう。實際に出遇ふことがあれば私の此の經驗の程度位のものであらう。それも私が素直に六圓やれば問題は簡單に解決するのだ。アムステルダムの相場は五圓位であるから五圓でも話は充分ついたのだ。船付場アムステルダムの薄暗い堀わりのある寂しい夜道と其の女の立つてゐた家の有樣はまだ頭の中にありありと殘つてゐる。日本の警察は世界に誇る可き模範的のものであるからこうしたことは絶對に出來なからう、將來もないことを呉々も願ふておく。
 
(193)     ベルリンの同性愛のカツフヱー
 
 ベルリンには同性の愛を目的とするカツフヱーがある。それに男ばかり來るのと女ばかり來るのと二種類ある。ドイツに知名の博士連の入つてゐる男色を目的とするクラブがあることは有名な事實であも。こうしたカツフヱーが二三軒ある。あまり大きなものではなく、小さいテーブルが四五脚位しか置かれてない程の廣さで、入口は往來に面してゐるが、知つた者でなければ、それといふ事が解らない位である。
〔図、獨逸ベルリンの「ドミノ」カツフヱーの男裝した二人の女のスケツチです上の字は男裝した此の女が書いたのです〕
(194)あるものは全然外部の戸にカーテンが下りてゐて眞暗であるから、外から見れば戸を閉めたやうになつてゐる。だから容易に發見出來ないのだ。
 私は定めしカツフヱーには美人を欺くに足る紅顔の美少年がゐるのかと思つて入つて見た。が、案に相違してゐて、そんな男は見られなかつた。時間でも早いのかと思つて時計を出して見ると十時である。切角來たのであるから少し待つことにしたが、一向やつて來なかつた。一時間も待つてゐたであらう。客は男ばかりで女氣は更にない。よく見てゐると頻りに小聲で話をしてゐる二三組の男がある。相手は何れも二十から二十二三位の男で、小綺麗ななりをしてゐて、顔かたちは目鼻立の揃つた好男子である。それに女に見るやうな優しみがある。よく/\見るとこれが相手をする男なのだ。
 その男は時々私の方を見た。私も見てやるとます/\向ふは見る。私は全然豫想に反したので少し驚いた。何う見ても少年とは信じられない。聞いて見るとそれが相手になる所謂男なのである。最前から話し込んでゐた男はやがて一人で歸つて行つた。その少年の顔を見ると女が客を探すと同じやうに流石に笑顔は見せないが眼に物を言はせるやうな風をするのが、あり/\と解る。
 私はドイツ人の物好きには感心した。否、ドイツ人が物好きなのではない。これは變態性慾者の(195)中介所だと考へる。さう考へれば何も不思議なことはない。一口に日本でもドイツでは男色が盛んだと言ふが、ドイツ人の男色は日本の男色とは意味が違ふ。日本のは女を愛するやうに優しい小さな、弱い美しいものゝ意味で少年を愛するのであるが、ドイツのはそれと全然性質を異にしてゐる。單に變態性慾者の集合所であつて酒もあまり飲まず話し合つて他へ出て行くのである。
 私は前後一時間位座を占めて立代り入つて來る男の樣子を見てゐた。そしてその話し振りを見てゐたのだが小さい聲で話をするのでよく聞き取れない。たまに聞えればその仲間同志の知つてゐる人間の話などである。聞いてゐても一向に興味はない。こうした男は商賣化した變態性慾の持主で合圖さへすれば直ぐ來る。これらの男は互ひに性慾の一方的の滿足を遂げるばかりでなぐ相互に樂しむのである。
 フランスにもうしたカツフヱーがあつて、希望とあれば公娼の家へもやつて來る。
 序でゞあるから參考の爲めに我國の男色の起源を述べて見やう。我國の男色の起源は戰國時代にある。殺伐な此の時代には室町時代ののやうな遊墮な女色は不向であつたので、軍馬の奔馳する戰場にふさはしい美童を以て女に代へるやうになつた。男色の歴史を遡つて見ると遠く平安朝時代にある、降つて藤原時代には僧侶の間に美童を愛する風が禁制の寺院に行はれた。源平、平安時代に(196)は一時廢れ、戰國時代の末期頃から再び起り、近くは明治時代にまた/\復活して三十年前後はなか/\旺盛を極めた。最近には稍頽れたが、昨今の都の青年達は男色よりは女色に走るやうになつた。同時に青年の活氣を失ふに至つたのは爭はれない。近代の青年に男色を復活せしめないで元氣を付ける方法は、先づ運動の奬勵より他に適當な手段はあるまい。昔から一國が榮える時には運動と體育とに注意が向けられてゐる。過去の英國と今日の米國とはこれを雄辯に物語蘇つてゐる。公私の團體の老ぼれ幹部はも少し運動に了解をもつてもらひたい。殊に家庭のおかあさん達に願ふことは娘の教育上お天婆といふ觀念を取り去つてもらひたいことである。但し女らしいと云ふことゝ從來云ふお天婆と云ふことゝは似て非なるものであることは云ふ迄もない。
 
     ニユーヨークの女の乞食
 
 私は日本の乞食に就て調査したことがある。その爲に歐米の乞食も出來るだけ澤山視察しやうと思つて居た。
 アメリカは流石に富んだ國丈けあつて歐洲の諸國に比べると乞食の數が著しく尠い。しかし全然無いといふわけでは無く、各都市に少しづゝある。アメリカの各市は乞食を全然許さない方針を取(197)つてゐる、盲目その他の片輪には仕方なく警察の監札を與へて許可して居るが、それ以外の者では人に物を乞ふことは出來ない。であるから形式的に鉛筆を賣るとか又はしるしばかりのマツチを持つてるとか人道へ坐つて畫をかいて通行人に物を乞ふとかするのである。此點は日本と違つてゐる。然し中には何も持たないで人に物を乞ふのもたまにはある。
 ソートレーキ市で四十歳を越えた女の乞食に出遇つた。私は此の女乞食を捉へて、少し金をやり、何うして人に物を乞ふやうになつたかを問
〔写真、此れは大正十四年の十月一日の午前二時頃に於ける淺草雷門の浮浪者の光景です著者が國勢調査の機會を利用して浮浪者を調べて居る寫眞ですこうした浮浪者は東京全市に今でも三百人から五百人位はたえません此の調査の結果は浮浪者に關する調査として市統計課から出版しておきましたから御參考下さい〕
(198)ふて見た。日本と違つてアメリカの人間は比較的に嘘、いつはりを言はない。その點は乞食でも同じである。話に依るとその乞食は英國のアイルランドに生れたが、兩親には幼少の時に死別れた。年頃になると志を立てアメリカに渡つて何か仕事を求めやうとしたのであるが、他國の事で知人は居らず、それに土地不案内で思ふやうな仕事も見付けることが出來ず、工場に勤めて居る中に病氣になつてしまつた。そして何うすることも出來ず、いつの間にか人に物を乞ふやうになつたのであると。
 シカゴやヒラデルヒヤで他に五六の男の乞食に就て調べて見た。皆言ふ所の原因は日本と異ならない。主として病苦や失業から喰べられぬ樣になり、遂に乞食の群に投ずるやうになるのである。賣笑婦になる原因も亦同樣なのが多い。こうした不幸な人達を完全に救ふ制度は出來ぬものであらうか。なぜ世の中の人はも少し
〔写真、スソの長い腰の屈つたのが女乞食です此の乞食のあとをついてニユーヨークの古本屋のある通りを歩いて見たのです〕
(199)こうした社會生活の敗殘者の事を考へぬのであらうか? 文明の下層に沈淪する無産階級層の中のどん底生活を見る時に人類文明の誇は慘にも裏切られるではないか。
 シヤトルでほんの名ばかりの衣服を纒ふた身すぼらしい十三四の男の子が、道行く人につきまとふて金を乞ふてゐるのを目撃した。私はその子供に金を與へて話を聞いて見たが、少し低腦兒で一向に要領を得なかつた。とにかく兩親はあつて、初めは兩親に内證で小使欲しさに考へ出した試みであつたがうまく行くので以來味を覺へ、毎日夕刻になると、會社、銀行の退けるラツシユ・アワーに出かけて人に金を乞ふのである。兩親も赤貧なので低腦を大目に見て故任して置くらしい。
 ニユーヨークは人口五百六十萬から有る世界一の繁榮な都會であるから、乞食も隨分と毛色の違つたのがある。營利的に此の職業に從事してゐて、やり方が非常に進歩してゐるのである。その乞食といふのはいざりで小さいブルドツグを連れてゐて、その背中に短い筒をつけ、自分はその犬に引かれ乍ら地上をいざりはつて行くのである。通る場所は人の最も出盛る下町《ダウンタウン》で、撰りに撰つて十二時から二時の間に町を練つて行く。此の間がニユ―ヨークでは最も人通りが多い。
 私はその乞食について三四町歩いて行つて見た。そして寫眞を撮つて見ようとしたのだが、人が多くて撮る機會を失してしまつたが、乞食の連れてゐる犬の背中の革筒に道行く人が金を投げ入れ(200)るので、一人入れると群衆心理で我れも/\と入れるので忽ちそれが一杯になつてしまつた。銅貨もあれば銀貨もある。アメリカは富んでゐるから乞食にやる金高も自然に多い。筒が八分目になると乞食はポケツトにそれを收めてしまふ。そして空の筒を犬に背負はして行く。見て居る間にそれが忽ち一杯になる。如何にもいゝ商賣であると感心した。
 此の十二時と二時との間は食事時間で、事務所、商店の男女が食事の爲めに外出したり散歩したりするので、街路は非常に混雜するのである。その乞食は怜悧者だと見えて、此の大切な時間を捉へて、一二時間の間に忽ち大金を儲けてしまふのだ。大通りが盡きると横路に入つて乞食は休息した。何をするのかと私も離れて樣子を見てゐた。
 人通りは尠い。從つて金をやる人も居ない。乞食は暫くすると歩き出した。相變らず金を貰ふには貰ふたが、その額は以前と比較にならぬ程少額のものである。私は此の乞食がニユーヨークの下町《ダウンタウン》の目拔きの場所を行くのを二度見たことがある。いつも金を革袋に杯になる程貰つて居た。そして尠からず此の乞食の手段に感心した。犬を養ひ仕込むには如何にも骨が折れよう。また相當の資本もかゝらう。しかし商賣としては僅少の時間に實に驚く可き程の收入を得て居る、此の乞食は女房も子供もあつて、東の貧民窟に家を持つてゐると言ふことを當人から聞いたが、訪問する暇が(201)無かつたので止めてしまつた。此の乞食は私が見た世界中での一番商賣化したものであつた。尤も日本の乞食でもよく調べて見れば淺草などに、
『右や左のお且那樣よ』
 と、言つて地面に坐つて人にあはれを乞ふてゐるのは一種の商賣となつてゐるもので、相當な收入がある。中には家を持つて居て夜になると晩しやくをして活動位に行くのも隨分ある。
 乞食の話のついでだがスペインに行つた時、足の無い乞食がプラツトフオームの中に居て、汽車の着くのを持つてゐたことがある。汽車が着くと同時に窓の下に來て客に金錢を乞ふのである。客は金を投げてやつてゐた。各國では乞食をプラツトフオームなどには一切入れないことになつて居るから外では見なかつた。
 アメリカには女の乞食は極めて尠い。私はニユーヨークでいろ/\の人に何處に行つたら乞食に遇へるかを辱ねたが誰れも知らないと言ふ。そして大低の人はアメリカには乞食は居ないと言つてゐる。しかしそんなことは無い。或る人が古本屋のある通りで見たと告げて呉れたので、古本を探しがてら幾度も行つて見たが一向に見當らなかつた。諦めて斷念しやうと歸りがけた或る日のこと、うまく古本屋の澤山ある通りで婆さんの乞食を捜し當てた。日本式に戸別訪間をやつて居るのであ(202)る。七十位の年輩で皺だらけの顔に頬かむりをしでゐて、少し腰が曲つてゐる。舊式の長い裾を引ずるやうにして戸別に物を乞ふて居たのである。(寫眞參照)私は暫らく婆さんについて行つて見た。日本と同じやうに商店ではうるさいと見えて少しづゝ金をやるが斷る所も無論ある。或る本屋では小僧が
『何んだ! あの婆あ、また來たよ』
 と、言つてるのが聞えた。呉れる家へは得意先のやうにしてゐて毎度行くものと見える。一軒毎に行くのは日本と同じである。呉れる家と呉れない家は分ると見えて、婆さんは呉れない家へは入らなかつた。
 暫くして私は婆さんに話しかけて見た。が、婆さんは自分の商賣に氣を取られて居ると見えて、私の方を見向きもせずに、知らん顔して行き過ぎた。こうした年輩の乞食を二三見受けたが行處へ行つても老年で困つてゐる者があると見える。養老院はこうした者を救助する爲めに建ててあるのだが、乞食は養老院へ行くのを好まない。不足を忍び,人の袖の下を乞ふても矢張り自由が好ましいと見える。人間に最も尊いものは自由である。淺草公園の雷門のあたりへ夜の一時頃行くと、夜露をしのぐ屋根は無くとも寢るに蒲團は無くとも、觀音堂あたりに巣喰つて自由の生活を守る人間が(203)ある。經濟的自由を奪ひ去らんとする共産主義には、こうした乞食が先づ第一に自由の擁護を叫ぶであらう。地下に眠るルーソーも立つであらう。私の調査した所ではこんな乞食が東京全市に亙つて常時的三百名から五百名位住んでゐる。私は二度程國勢調査の日に手分けをして一齊に東京市内を徹夜で捜したことがある。
 ニユーヨークには何れ程の乞食が居るものかと警察へ行つて調べて見たが、何等の統計が無いのではつきりとした數は分らない。アメリカでは乞食を全然認めて居らないからそれに對して一切調査もしなければ又統計も取らない方針とのことであつた。
 アメリカの人間に、『乞食は居るか』と、問ふと、言下に、
『アメリカには乞食は居ない』
 と、答へる。それがと言ふにアメリカは裕福だからだ。しかしニユーヨークには確かに居るには居る。これはアメリカのニユーヨークのみには限らない。乞食は世界の大都市に共通した現象なのである。都市が繁華になればなる程貧民と乞食は増加する傾向がある。
 都市は文化の中心地であると何時にまた陰慘階級の巣窟である。一休和尚と地獄大夫の問答ではないが、極樂の裏をかへせば地獄であり、地獄の裏をかへせば極樂である。
 
(204)     各國ホテルと米國婦人
 
 ホテルはアメリカが世界中で一番發達してゐて.新式で氣特がいゝ。洗濯屋なども經營してゐて朝出せば夕方には出來る。理髪店も洋服屋もある。大きなホテルになるとナイフやフオークの鍍金工場迄持つてゐる。
 雜誌新聞は勿論織道の切符賣場も遊覽自動車、飛行機、芝居等の切符も皆賣つてゐるから頗る便利である。その上ホテルの廣場は丁度停車場の樣に人の待合所や面會所になつてゐるから頗る混雜してゐる。又客の便宜の爲めに必ず案内所といふのがあつて何事でも客の質問に答へてゐる。之も大抵女である。中には非常な美人もゐる。そして大きいホテルになると五千からの室がある。これは也界第一で最近シカゴに出來たホテル・シェブンのことである。その食堂は素晴ら
〔写真、この米國美人ははシヤトルのカフエーテリヤの收納掛〕
(205)しい大理石で造られ勿論オーケストラをやつてゐる。食事は大食堂とグリル・ルームとカツフエーの三種があつて隨意に出來る。此のホテルには地下室に日本の食堂があると書いてあつたので早速行くと唯壁の畫が富士山や松の日本畫であるといふだけであつて、普選のカツフエーに過ぎぬ。此處の給仕は全部女である。ホテルの支拂口もアメリカでは殆ど全部女が預つてゐる。室のシーツや手拭を代へに廻つて歩くのは歐米共に女で、此の女に一晩二十五仙位やるのが米國では普通になつてゐる。英國でもその位の見當で差支は無い、米國ではそれを枕の下へ置いておくのである。
 宿帳は日本式に族稱、氏名等面倒臭く書かなくても宜い。名前と宿所位で、簡単に誰にでも直ぐ室を借す。決して人種の差別はしない。歐羅巴では日本式に長つたらしく職業、出發地、行先、前夜宿泊地、年齢、國籍、滯在日數等と細かなことまで書くのがある。伊太利では父の名前まで書く習慣がある。私は餘り馬鹿らしいので父の名前を書いて何にするのかと尋ねた所が宿屋の者は苦笑して、毎日警察へこうした宿泊人屆を出さねばならぬからだと答へた。アメリカの宿屋ではシーツ、枕のおほひ等は汚れ無くても皺にならなくても一晩で全部取更へてしまふ。おの/\の室には水と湯と氷の水とが出るやうになつてゐる。顔を洗ふ所には小さな石鹸が置いてあつて、それは一寸使つても毎日捨てゝしまふ。こうした仕末をするのは歐米共に皆女である。英米ではチエンバーメイ(206)ドと言ひ払、フランスではガルソン、ドイツではチエンバ−メイチエンと言つてゐる。支拂の窓口に居るのはカツシヤーと言つてこれも大概女である。これに比ぶれば英國のホテルはずつと保守的で十九世紀そのまゝのが澤山ある。田舍では相當な所でも二流三流の室になると瀬戸物の大きい器物の中に水を一杯持つて來る。それで顔を洗ふのだ。朝はひげ剃りに一々熱い湯を持つて來る。實に面倒で不便で不愉快此の上も無い。家庭生活はまだこうして居るのが多い。アメリカのホテル生活に馴れた者には判底我慢が出來ない。室の洗面所の側には大概顔洗ひや髭剃の水をすてるバケツがある。そのバケツは非常に汚ない。醜業婦などは面倒臭がつて此のバケツの中に小便をする。實に不潔極まるものである。まだ白人尊敬病にかゝつて居る日本人にこうした有樣を少し見せると此の病氣が全癒するかも知れない。然し之れと反對にわけもなく白人に敵意をもつ者のあるのは尊敬病者より尚一層仕末の惡い連中である。何れにしても早く心からの大國民にならねばならぬ。
 歐米を通じてホテルの便利な點は風呂のある室には必らず便所があることである。便所のあるなしに拘らず湯と水の出る顔洗ひはどの室にもある。便所のある室でも寢台の側に置台諌兼用の箱があつて、その戸を開けると陶器の小便壺が置いてある。その上に枕時計などを置くのだ。これに馴れると日本の便所は起きて歩いて行かなければならないのだから不便極まる。寢る前にビール、湯茶(207)などをやり過ぎるとその不便が餘計わかる。此の點は西洋人の方が怜悧である。夜中に起きて便所へ歩いて行くのでは眼が醒めてしまふ。日本人は清潔好きの國民であるから小便器を枕の横の箱に入れることは出來ないと言ふものもあるが、それにしては餘り日本の便所は汚な過ぎる。早く洗滌式の歐洲の便所に代へたいものだ。しかしまだ日本では高價なので一般には一寸出來ない。日本では文化生活/\とよく言ふが實の所口ばかりで生活の樣式はちつとも改造されてはゐない。一般化してゐないせいもあらうが便利な設備も高價につくので容易に出來ないのだ
 電化なども電力が世界一に高價なのだからその便利なことを知つてゐても實現するに到らない。
 日本の文化生活と言ふのは赤い屋根のバンガロー式に蓄音器とラヂオを立てゝ聞くか性の雜誌をテーブルの上に置く位のことにとゞまつてゐる。何しろ困つたことだ。駱駝の樣に足を折つて坐り和服と洋服の入る日本人の家庭生活は一日も早く改善せねばならぬ。私は米國へ行く船中で日本を旅行して歸るシカゴ大學の教授に合つたから、
『日本で一番困るのは何か』
 と、問ふて見た。すると教授は即座に、
『便所だ』
(208) と、答へる。
『一番驚いたのは何か』
『男女の便所が同じであることだ』
 便所には餘程困つたらしい。歐米では往來の便所でも、男女入口の異るどころか建物も全然違つてゐるのがある位だから無理もない。そして感心に堪へないのは内に落書がしてないことだ。米國の缺點は往來に便所の無いことである。尤も『ビルヂング』の便所は共同便所である。これに反して便所の多いのはパリー第一の繁華な通りグランド・ブルバードであるが餘りに澤山きたないのがあるのも實は感心出來ぬ。
 アメリカのホテルの室には電話がある。だから帳場の註文はいつでも事足りる。歐洲にでも一流のホテルにはあるが二流のホテルではまだ室にベルがあるのがある。用があれば一々ベルを押して女を呼ぶのであるから不便だ、何を云ふてもアメリカは一歩進でゐる。歐米ともホテルの室の鍵は自身で持つてゐて出入には自分で閉めるのである。外出する時には帳場に鍵を預ける。よく此の鍵では日本人が失敗する。それは歸る時に鍵を持つた儘歸つてしまふことだ。そして途中から思ひ出して小包正して送り屆けると言ふ話は度々耳にした。アメリカの大きなホテルでは各階毎に客の便宜(209)を計る爲めにボツクスがあつて、女が一日つめてゐて客の鍵を預つたり訪問客に室を教へたりしてかた/”\火災、盗難等の注意をしてゐる。
 ホテルの客で金を拂ふのを忘れて立つてしまつて後で送る人もあると云ふ。これはシカゴのホテル・ステブンの現金出納係りをやつてゐる美人からきいた話である。米國のホテルは支拂場の窓口が必らず別になつてゐて大底女が現金の出納をやつてゐる。何しろアメリカといふ國は女のよく働く所である。アメリカの大きいホテルになるとその待合室などは丁度停車場の待合室の樣で非常に澤山の人が出入りをしたり、人を待つたりしてゐて、客の出入りが全く分らない。黙つて室を出て行つてしまへばそれ迄なのである。日本人なら逃げる人間が相當にあらうがそれが殆んどないとは誠にうらやましい事ではなからうか?。
 
     水の都、ベニスの女
 
 ベニスの街が鹽湖の上に建てられたためにベニスに水の都といふ名を與へたが、それが少からず世界の觀光客を引きつける。いくら水の都といつても、まだ見ぬ人にはあれ程水が多いとは思はれぬであらう。實際豫想されない程水が多い。水の都とはよくいつたもので、道路としてあるのは(110)僅か家と家との間の露路位の通りで、廣くて一間半位の往來なのである。それが家と家との間を縱横に走つてゐて、それが全部敷石で敷き詰められ到る所に太鼓橋がかゝつてゐる。重な道はすべて川が往來になつてゐるのだ。
 乘物は船より外に何も無い、今では往來である川をモータ―ボートが横暴に波を立てゝゴンドラを弱らせてゐる。昔は商業の港として地中海の貿易を握つて頗いんしん〔四字傍点〕を極めたが、今ではその面影も無い、旅行者の眼には珍しいが水の都も人の短い一生を送るには、如何にも狹苦しく不便さうで、外目には不幸のやうに感じられるが、しかし、諺にもある通り、住めば都になるから、ベニスの人に取つてはこの上もない都であらう。
 汽車はベニスの町まで、海の中に築き止げたレールの長い道を走つて、フローレンスの町へ連續してゐる。停車場を降りると直ぐ川で、川にはゴンドラが澤山客を待つてゐる。
〔写真、ベニス市の道路即ち水〕
(211) 私がベニスに着いたのは夜であつた。で、ゴンドラに乘つてホテルへ行つた。眞暗な夜で雨が少し降つてゐて、風が強かつた。ゴンドラに乘つて約四五十分でホテルへ着いた。舟が川の曲り角に來た時、船頭が妙な大きな聲で合圖をする。川の水は汚ない。兩側には家が並んで立つてゐて、その間にある細川を通つて行くと、詩的なはずのベニスも不氣味な薄暗い町に見える。
 十時頃ホテルに着いた。で、早速夜の仕事に取かゝらうと、いろ/\ホテルで聞いて見た。今までは地圖で一番繁華な商店街を聞くと大抵見當はついて、單獨でも行動は取れたのだが、何しろ水が往來の町では、どこが何うやら少しも見當が付かない。まさか舟で女が歩いてゐようとは思はれない。で、カフヱーのある所を訪ねて見た。するとベニスの眞中に淺草の觀音樣の前を大きくしたやうな敷石にコンクリートで敷詰めた大廣場がある。これをセント・マルコヲといふが、この廣場に有名な寺院があつて、鳩が澤山遊んでゐる。こゝはなんとはなしにベニスらしい感を與へる所である。
 そこにはベニスの産物を賣る家が兩側に並んでゐて、カフヱーもあつて盛んにオーケストラをやつてゐる。人出もなか/\多く狹い場所を行つたり來たりして散歩してゐる。中には美しい軍服を纒うた將校もゐる。女もポツリ/\と出てゐる。矢張り例の通りホテルがある。こゝの女は眞面目な店の賣子をはじめ、英語を話せるのか多い。一二の女に會つて話して見た。一人はおぼつかない(212)英語が出來る。他の一人は殆ど出來なかつたが、頗る用意周到で自分の手提の中から英、伊の字引を出して、
『これがあるから大丈夫です。分らないことがあつたらこれで話をしますから』
 と、熱心に且つ眞面目に私を勸誘した。年やその他のことをいくら聞いても一向に通じないと見えて、英語の字引のあることを説明して、大丈夫だ/\といふばかりで、到底問題にならない。結局話を綜合して見るに相場は五十リラ(約五圓位)で、ホテル代は二十五リラ(二圓五十錢位)だ。こんな女を相手にしてゐては埒があかないと思つたので少し金をやつて別れてしまつた。
 それからその邊をぶらついて見た。水の都でも別に變つた所は無い。しかし、かうした町には何か遊覽地獨特のものがあるに違ひないが、何うしても着いたばかりの私には見出すことが出來なかつた。早速ホテルへ歸るとボーイを道案内として連れ出した。クツク旅行社の場所を今晩あらかじめ知つて置き度いといふのを口實にして。クツクの事務所の前まで來るとボーイに金をやつて、女の居る所へ案内しろ、と、いふとボーイは幸ひドイツ語が少し分る。話が通じたと見えてニコ/\笑ひながら案内した。
 クツクの事務所に向つて左手の横町に入つて、突き當たると左手に小さい石の太鼓橋があつた。(213)それを渡つて又左へ行くと薄暗いトンネルのやうな所へ出た。そこから初めての横町を突き當たるとカーレド・グリン・アルメニーといふ横町がある。家の上の方にミス・エレザといふ名前が出てゐる。そこらは殆ど人通りも無い位で、薄氣味の惡い所でボーイは家の前に立止るとベルを押した。
 やがて肥え太つた大きい女主人らしいのが二階から降りて來た。ボーイはその女にイタリー語で何か話をした。が少し金をやるとボーイはドイツ語で、
『ダンケ・シエーン』
 と、いつて丁寧にお辭儀をして、大眞面目な顔をして歸つて行つた、女主人は、
『二階へお上りなさい』
 と、いふ。私は上つた。その女は英語が少し出來る。上ると直ぐの右手の室の戸が開いてゐる。チヨツト覗くと四人の肥つた女がトランプをしてゐた。それ/”\口紅をつけて眉を引いて、瞼を薄鼠のやうな藍色のやうな色でくま取つてゐた。如何にも醜業婦で御座いとかんばんをぶら下げてゐるやうな化粧だ。一人はシガレツトをすぱ/\吹かしてゐた。何のことはない、日本でいへば龜戸や王の井の私娼窟で硝子障子から顔を出して
『フランス式にやります』
(214) といふ女のやうな醜惡な感じがした。
 女達はかうやつて客の來るのを待つてぬる樣子で、女主人に聲かけられると、トランプを投げ棄て、どや/\と私の前に立ち並んだ。私は四人を相手に先づ試驗のつもりで英語が話せるかと英語で問うて見た。が、一向に通じない。今度はドイツ語で
『ドイツ語が分るか』
 と、聞いたが、矢張り手應へが無い。フランス語で、
『フランス語が話せるか』
 と、問うても、先方には通じない。殆ど問題にならない、話を聽かうにも言葉が通じないでは何うすることも出來ない。女主人公に値段を聞くと、
『チヨツトの間(シヨート・タイム)ですか』
 と、聞き返した。
『さうだ』
『三十リラ(約三圓)です。貴方は泊つて行くのですか』
『いや、私は』
(215) と、思はず口を濁し、兎に角
『室を見せて呉れないか』
 と頼むと日光の射さうもない晝でも電燈をつける薄汚ない室に案内された。と、私は逃げ仕度で、
『實は今夜はホテルに友達が待つてゐる。だから何れ改めて來る』
 と、告げると、
『左樣ですか。ではまたお出でなさい』
 と、至極あつさりと切り上げる。日本の遊廓のやうにしつよう〔四字傍点〕にからんで來ない、なんだか此方で氣の毒のやうな氣がした。戸口に出ると二人のベニス青年らしいのが入れ違ひに入つて來た。
 時刻も遲いので私はホテルへ引上げて、蚊帳をかけると寢てしまつた。ベニスの川は鹽水だが下水が惡いので蚊が出る。歐米を旅行して夏ではあるが蚊帳を吊つたのはベニスばかりだ。蚊の多い點では東京とよく似てゐる。文明の都市には蚊はゐないものだ、東京はいつになつたら蚊がゐなくなるだらう?東京の市民は蚊がよほどすさだと見えて誰も文句をいはぬ、夏は蚊の出るものだと、あきらめてゐるらしい、誠にすなほな、寒心〔二字右●〕な誤性質〔三字右●〕である。
 
(216)     伊太利フローレンスの公娼と日本の遊廓
 
 私は伊太利の旅行は先づミラノを振り出しにベニスへ行つて、それからフロ――レンスへ行つた。此の地は昔から美術と藝術とで發達した都で、世界のオペラは此處から始まつたのである。そして今日なほ市の人達は美術で生活を立てゝゐる。此處で出來る大理石の彫刻は世界到る所に輸出されてゐる。日本などでも三越で大理石の彫刻の展覽會を開いたことがある。それは皆フローレンスの産物である。
 フローレンスは一體に地味な所で商工業が無いせいか生活が樂でない。女も野暮臭くて伊太利人がフローレンスの女の足は大根のやうだと惡口いふ位である。序でのことだが歐羅巴では美人の第一要件は足がすらりとしてゐて格恰がよいといふことである。
 此の町では非常に晩くならないと女が歩かない。女は矢張り一番賑やかな通りに出る。例へばビヤセレンタニーといふ通りなどにはよく出る。又ビヤカリマラー・ロンヂンといふ通りには公娼の家がある。パンザツツアン通りは一番多く私娼か出る所で、夜の十一時頃から盛んになる。しかしロンドン、パリーに比べれば町も小さいから、その人數は知れたものである。こゝいらに出る女は歐(217)米の都市と同じやうにホテルへ連れて行く。ムツソリニーの女の取締は實によく行はれたが然しまだ伊太利全市に徹底して居ないのを遺憾とする。私娼の歩かないのは僅かにお膝下のローマとネープル位のものである。辻君の取締りは一に警察の方針如何にあることを此のイタリアの短時日の取締が證明してゐる。
 公娼の家は三四軒づつ市内の二三ケ所に散在してゐる。公娼といふと日本人は直ぐ吉原や洲崎を思ひ出すであらうが歐洲ではあんな宏大な構へをして一廓をなし公然と盛大に營業をしてゐる集娼制度の所は世界中一つもない。この初は室町時代の天正十七年京都萬里小路に新屋敷といふのを作つた。これが大遊廓の始めでこれから江戸の吉原や京の島原、大阪の新町等の一大集娼的遊廓が各所に出來るやうになつたのである。尤も公娼制度なるものゝ歴史を調べると我國の起原は遠く鎌倉時代にある。吉原や新宿のあの堂々たる立派な妓樓は憐れな女の血と肉とから出來てゐて、そこの女達は外出も自由に出來ないのである。借金も一生ぬけないで、彼女達は自分達の肉の塊で造り上げた殿堂、その外見は如何にも美しいが實は獄舎の内に監禁せられてゐる奴隷に外ならないのである。
 文化の闇にあゝした奴隷を公然許してゐる國は日本と支那丈けである。支那はいざ知らず吾々國(218)民はこれを見て恥ぢないであらうか。名は前借であるが實は人身の賣買に外ならないのである。日本の公娼制度は改善せなければならない。歐洲の公娼は全く自由の營業で前借の爲めに人間の自由を束縛などしない。序でゝあるが日本の娼妓は一體どの位で身を賣るかを私は調べて見たが身の代金は千圓から千二百圓程度のものが多數である。三千圓以上のも少しはある。即ち五千百五十二人の中二十八人程あつた。この人身賣買の制度も大遊廓の出現と同時で室町時代に始まつてゐる。子賣りと云つて小供の時から買ひ取つて育てる制度も出來たのである。
 フローレンスの勞働者を相手にする公娼は市の外れにある。こゝはほんとうの肉の切賣りで一番安い。七十錢位からある。先づ伊太利の金にすると六リラ位であるが、三十リラも出すと、ゆつくり宿つて行くことが出來る。それから段々上等のになると六十リラ位のもある。歩いて客を取る私娼は普通三十リラから六十リラ位までの相場である。檢黴は一週間に三回づゝある。但し公娼に對してである。こうした女の中には美人はゐない。しかし全體からいふと一體に伊太利人は綺麗な質で町を歩いてゐる女の中にもなか/\美人が多い。
 フローレンスへ來る日本人は大概大理石の彫刻を買ふが、之に就て注意して置きたいのは、食ひ詰めた日本人のごろつきが此町にゐて、日本人と見ると近寄つて來て、町を案内したり、大理石を日本(219)へ荷造りなどすることを盛んに勸めたりする。此奴等は危險極まるもので、大理石など荷造りを頼んで日本へ送つて貰ひでもすると飛んでもない目に遇ふ。運賃を取られる位はまだしも品物まで取られてしまふ。初めての人は要心した方がよい。
 
     晝から稼ぐブレーメンの女達 (二箇所抹削)
 
 ベルギーからドイツに入つてハノーバーに一泊してからブレーメンに行つた。ブレーメンやハノーバーは見る所が大してない。古臭い感じのする町に過ぎない。
 その日は恰度絹絲のやうな小雨が降つてゐて少し寒かつた。町の太體見る所を見て、夕方のハンブルグ行の汽車を待つ間に、町をぶらつくことにした。停車場の前を直線に走つてゐる大通りがある。そこを通つて行くと曲り角から二三軒目に活動寫眞館があつた。大した小屋ではない。その少し手前に蟇口や其他文房具類を賣つてゐる革細工屋の店があつた。何氣なく私はその前に立止つて窓の中の品物を見てゐた。
 すると何處からか知らぬ間に一人の女が私の側に來て同じやうに窓を覗き込んだ。それが私と同じやうに何も品物の必要に迫られて見てゐるのではないらしいので、私は思はず女の方を見た。と(220)女も我の方を見返した。變な女もあるものだ、てつきりこれは晝出る辻君の類だらう。普通の女の態度とは受取れない。それなら意外の拾ひものと思つて、わざと時々女の方を見た。と、女もそれに感じて私の方を見る。
『間違ひなく此奴は辻君だな。いゝかもでも引つかける氣でゐるかも知れないが、此の問屋は品物を卸すにや少し信用が堅いぜ』と心で物いひながら
 私はニツコリ笑つて見せた。待つてましたと計り女も笑を酬ひた。そしてピタリと私に寄り添ふた。
『何處か散歩でもしませう』
『散歩? 宜からう。しかし雨が邪魔だね。』
『私の家へいらつしやいよ』
『行つても宜いが近いのか』
『えゝぢき側です』、
『では行かう。近ければ行く。私は四時の汽車でハンブルグへ行かなければならないのだから。汽車が出るのを實は待つて居るのだ』
(221)『此の次の汽車で』
『さうだ。だから遠い所では駄目だ。』
『分りました。さあ、お歩きなさいな。』
 と、女は私を促がし、
『私の家は直ぐ側なのです。あそこに四ツ角があるでせう』
 と、その方を指差し、
『あそこを曲るとぢきなのです。さあ、早く行きませう。』
 女は腕を組んで放さない。で、私も不承/\女と手を組んで歐米式に足並揃へて歩き出した。もと/\此方の研究目的に向ふから飛び込んで來て呉れたのであるから、心の中ではしめたと快哉を叫んだ始末。
 何氣ない顔をして女と連れ立ち町の角を曲ると、四五軒目に三四人の女が傘をさし、靴下を濡らして話し乍ら立つてゐた。皆一齊に私達の方を見た。女はそれらに一寸笑顔を見せた。
『あれは君のお友達かね』
『えゝ、お友達』
(222)『何をしてゐるんだね』
『話をしてゐるでは有りませんか』
『作戰かね』
『いゝlえ、話をしてゐるんですよ』
『話をしてゐるのは分つてゐる』
 少し歩くと我は切り込んで見た。
『一體、いくら欲しいんだ』
『十五マルク』
 女は即坐に明確に答へた。十五マルクと言へば日本の七圓五十錢である。
『其の外に君の家かホテルかへ拂ふんだらう高いねえ』
『私の家へは行きません。ホテルへ行きますから室代がいります』
『室代はいくら位だね』
『六マルク』と云ひ乍ら歩く中に
 そのホテルの入口に來てしまつた。見るとアメリカやイギリスのとによく似てゐて、間口は極く狹(223)く二間位しかない。何々ホテルといふ看板が下つてゐた。梯子段を上ると直ぐ室がある。
『君はブレーメンで生れたのかね』
『えゝ、私はブレーメンで生れました。ドイツ人ですよ』
『他の國語が出來るかね』
『ドイツ語丈けで外に何も出來ません。必要ないんですもの』
 此處まで來たものゝ、私は遊んで行く暇もなければ又興味もなかつた。何處も同じ樣子なので大して變つた所もなかつたので、切上げるつもりで、
『少し君のは高いよ』
 女は昂然と。
『高くはありません』
『いや、高い』
 女は平然と。
『そんなら五マルクにしませう』
 負けないと言へば直ぐ引下がる氣だつたが、こうガタ落ちに出られると始末にならない。で、方(224)面を變へて、
『惜しいことに時間がない。汽車に乘り遲れると事だ。また來よう。その時ゆつくり二人で遊ばうぢやないか』
『大丈夫。汽車の出る迄充分時間が有ります』
『いやもうあるまい』
 私は時計を出して。
『これは大變だ!』
 と、叫んだ。
『汽車の時間だよ。もう行かなければならない。歸りに來る。屹度來るよ』
 女は見る/\怒りでした。
『汽車の時間、汽車の時間と言ふのはおよしなさいよ。そんなことは初めつから分つてゐるぢやありませんか。』
 と、語調に怒氣を含ませたが、直ぐ、
『時間が間に合はなければ次の汽車にすればいゝぢやありませんか。ね、そうおしなさいよ』
(225) と、優しく品を作つて私の顔色を覗つた。
『それが出來ないので私は困つてゐるのだ』
 と、私が當惑の表情を浮べると、女は、
『そんなことを言ふものぢやありません』
 と、色つぽく私に寄りかゝり、いきなり私のリボンを掴んだ。
『何を馬鹿をするのだ!』
『そんなことをするともう歸るよ』
 が、女は押へられない方の手で又私の手首を掴んで、不思議そうな顔をし乍らはなさない。まるで小供につかまつた樣だ。仕方がないので、
『約束の金だけは拂つて上げるから手をお放し』
 と、言ひ聞かせても女はなか/\放さない。
『金は欲しくはないのか』
『欲しい』
『それでは手をお放し、そんなにしがみ着いてゐては何も出來ないではないか』
(226)『ほんとにお金を呉れますか』
『やる』
 女は漸くのことで私の手を解放した。その樣子が不憫なので約束した丈けの金を與へた。女は不思議さうに金と私とを見比べてゐたが、
『×××に行きませう』
 と、言つてしきりに勸める
『×××には行かなくとも宜い。』と云ふにも拘らず、
『行きませう』と二三度くりかへした。
 その義務を遂行せんとする熱心な有樣を見ると、笑つて宜いのやら感心していゝのやらわけがわからなかつた。私が振りもぎるやうにして女の手を離して歸りかけると、女は、
『有難う! 有難う!』
 を、連發して、  然として私を見送つてゐた。彼女には不思議に思はれるのも無理はなからう。
 停車場の前の大通りを歩いて來ると、なか/\女達がゐる。此處らが彼女等の繩張りなのかも知れない。私は試みにまたその中の一人を捉へ、
(227)『君は何處の生れだね』
 と、訊いて見た。女は喜んでこれに應じ、
『私はブレーメン生れよ』
『外國の言葉を知つてゐるか』
『別に知りません。知る必要がないから』
『何うしてこんな職業をしてゐるのか』
『何を詰らないことを言つてゐるんです。さあ、私と一緒に好い所へ行きませう』
 と、女が危く私の手を掴まんとしたので、體よく拂ひのけ、
『此の商賣はいゝかね』
『何を言つてゐるんですよ。貴方のお國は何處。おかしな人ね。そんなことを聞いて何にするの。さあ、いらつしやいよ』
『私はその詰らないことが知り度いのだ。何も君の家へ遊びに行き度くはないのだよ』
 女はこれを聞くと、さも腹立たしさうに舌打ちを三つ四つ續け樣にして、頬をふくらませて行つてしまつた。その他ちらちら歩いて客を物色してゐる女を見受けた。
(228) 晝の二時頃からこんな女が出るのはドイツ丈けであらう。他にもボツ/\出る所があるかも知れないが、取りわけドイツのはハンブルグやその他の都は劇しい。何しろ牛後から賣春婦が出るといふことはドイツの著しい特社である。
 停車場へ來ると、未だ一時間も待たなければならなかつた。で、入口の所へ立つて、先の大通りを歩いてゐる彼女達の行動も見守つた。此の商賣も決して樂ではない。大通りをそれ/”\用有り氣に、それでゐてゆつくりと歩いて、これはと思ふ場所を行つたり來たりしてゐるのだ。幾度も同じ場所を歩いてゐる女もあつた。私は或る女を目標に定めて、その女の行動を見守つて見た。が、とう/\女は一時間ばかり歩いてゐたが一人の客も捉へることが出來なかつた。で、私は物好きにも研究の爲めに、女の顔を見に雨の降る中を歩いて行つて見た。女とすれ違ひによくその顔を見ると顔は決して惡くはない。雨の中を長く歩いてゐたので、女の長靴下は半分も濡れてゐた。容易な商賣でないことがよく分つた。尤もブレーメンは盛んな町ではない。女が二三十人も居れば客を得るのは困難な仕事だらち。兎に角現状に於ては毎日のパンの爲めにこうして稼がねばならぬ彼女達の生活を必ずしも非人の行爲とのみいやしむことは出來まい。氣まゝ三昧に暮す富豪の娘達はどんなことをしても令孃として社會が尊重し七重のひざを八重に折つてゐる。こうした春賣る女でも天晴(229)れ立派な主婦となつて居るものが少なくはない。日本の昔の政治家には隨分あるではないか。どうして社會は凡てのことを客觀的にばかり見たがるのであらうか。
 
     マツチを賣る英國女優の思出
 
 ミス・カタリヌと言へば、その昔は多くの男の血を湧き立たせた名女優の一人であつたが、今では見る影もなく、ユートンの汚ない一室に住んで、やつと其日を送りつゝ老いてよる邊も無い身の末路を嘆いて居る。女優の末路やカフエー女の末路は日本も歐米も變りは無い。そこには多くの悲劇がかもされてゐる。現に私はそれを目撃して、人生無常の感を深うした一人である。
 その女優はロンドンのフオルトの或る芝居小屋の前でマツチを賣つて其日々々を過してゐた。甞てはその芝居の舞台に立つて、多くの觀客の血を躍らせたのである。名聲の盛んな當時は、オーストリヤの大尉で、非常に金持な男に見込まれて結婚し、頗る豪奢な生活を送つたのであるが、間もなく歐米の婦人間によくあるやうな離婚をして別れ、次にロンドン市長の甥であり、煙草商を營む百萬長者と結婚し、世間の羨望の的となるやうな生活を送つたが、今度は夫に死に別れ、その遺産として七萬パウンド――日本の七十萬圓を貰つた。そしてメータ・バールに宏壯な邸宅を構へて、(230)その豪奢振りは人目を驚かしたとのことである。間もなく三度目の結婚を或る金持としたが.これとも死別し、又幾十萬圓の遺産を貰った。そして「キウ」に廣大な家を建てゝ、王侯も及ばぬやうな生活を送つた。
 この『キウ』といふのはロンドンの郊外にあつて、テームス河の上流に位してゐる。有名なキウガーデンといふ皇室植物園のある所である。これは一般に公開せられてゐて、日本から行くと誰でも一度は見物する。日曜日などはなか/\の人出である。この先にリツチモンドがある。矢張りテームス河に沿うてゐて、河の兩側には散歩する道が出來てゐる。あたりにはカフエーがあり、ボートも澤山あつて、遊樂に興を添へてゐる。テームス河を遡る汽船も此地へ廻航してゐる。周圍の銛と相映じて公園の景色は繪のやうに美しい。
〔写真、彼の女の住むテームスの流域リツチモンドの夏の日曜の人出〕
(231) かうした自然の美に富んだ景色を背景にして暫くは彼女も無事な後家生活を送つた。此の 俳優協會に寄附をしたり、種々善い方面にも寄附をしたのであるが、金のある未亡人に有り勝な蟲が着いて、毎日財産を取られるやうな仕儀となり、果ては到頭家も手放し、無一物となつて乞食のやうに零落してしまつた。こうなると社會は完全に彼女を見捨てゝしまひ、彼女は何處へ行つても相手にされないやうになつた。
 俳優協會にも救助を求めて見た。しかし協會はそれを拒絶した。歐米は個人主義が極度に發達してゐる。だから自分に金が無ければ他人は言ふ迄も無く、親族、故舊、縁者とても援助はしない。それが當り前のことになつてゐる。據る可き何等の筋を持つてゐない彼女は、遂にマツチ賣りとなつて路傍に立ち、行人の情に縋つて數年の生活を經て來てゐる。その姿を見ては何人も哀愁の感を深めずにはゐられない。
 私も若干の金を與へて彼女の口から過去の經歴を聞いたことがある。その時感じたことは幾度も書いたが、外國人はさつぱりしてゐて、既に零落してどん底に落ちた時分の身の上を語るにも、少しも包まず隱さず、赤裸々に淡々と物語ることである。彼女も問はるゝ儘にキウガーデン、リツチモンド邊を自動車で乘り廻した過ぎし昔のこと――、その時代は常に美しい流行着を纒ひ、夕方(232)はダンス若くは赤い酒に醉うて夜の短きを嘆いたのである。又彼女がロンドンの舞台に立つた時には多くの觀客の血を躍らせ、毎日毎晩讀み切れない程の手紙を貰つた。交際を求める男の數は蟻が甘きに寄る捏あつた。劇場から送り迎へするのを無上の光榮と喜んだ客の多かつたこと。彼女はそれらの華やかであつた過ぎし日の光景を何等の感激を籠めず、そうした榮華に輝いた日が自分にもあつたことを誇るでもなく、また現在の寄る邊なき慘憺たる身の上を嘆くでもなく、全く他人事のやうに乾からびた口調でぼつ/”\と語つた。
 日本の女優の中にも品行の善くないのがなか/\に多いが、英國の活動女優でもいろ/\とあつて、一本立は困難な場合か多い。日本と同じやうに男を持たなければ、過せないといふのが尠くない。しかし又多くの中であるから、隨分眞面目なのもゐる。品行、生活態度に於て全然貴族的なのもゐる。
 英國の或る軍人の未亡人であるが、夫の死後、生活を支へるために自己の天禀を撥揚し女優になつた。そして夫亡き後の子供を養育してゐた。その女優はロンドンの郊外のハンプステツドlこ住んでゐて、その家には日本人の留學生もゐたことがある。夕方になると家族はドレスを着更へて食卓に着いた。そして嚴重な家庭生活を送つてゐた。英國の女優の中には亂れたのも多いが眞面目なの(233)も決して尠くない。
『お婆さん』
 と、私は別れ際に此の名女優のなれの果であるマツチ賣りの婆さんの手を堅く握つて、
『貴女も過ぎ去つた日を思へば定めし人の世の無情を恨み度いやうな氣になるだらうが、又考へやうでは此の世で女の身でやり度いと思ふことは、何一つ殘らずやつて來たのだから諦めも出來ませうね。』
 有りし日の名女優はさぞ美しかつたらう、鈴のやうな眼をしよぼつかせ、私の握らせた若干の金を此上もない惠みでもあるやうに押し戴き
『御親切に有難う!《サンキユウヴエリマツチヴイリカインド》』
 と、幾度か繰り返し、活き返つたやうな明晰な口調で、
『貴方のやうな親切が誠の親切です。私にはそれがやつと分りました。今から考へると、私が榮えた夢のやうな日の幾百の親切は返つて私にはかり知れない禍をもたらしました。』
 彼女は感からびた頬に血を漲らし、
『此のロンドンには幾百の若い俳優が居りますが、私はこれ等の人々に、こんな身の有樣になつた(234)私から、ほんとうの教訓を與へたいものだと思つて居ります。』
 私が深くうなづくのを見ると、彼女は一層情熱を籠めて、
『どんなに金があつて豪奢の生活を送りましても、過ぎ去つた日のことなんぞ何にもなりません。考へて見ますに私はもう駄目です。其日のパンが三度無事に咽喉に通りさへすれば、神樣に心からの感謝を捧げて寢る始末なのですよ。』
 汚なく老いてみすぼらしさを増したマツチ賣りの面影にも、態度にも、流石にまだ有りし日の豐かな女優の名殘りがあると見えて、その仕草が上品に見えたのは餘計哀れを思はしめた。
 
     ハンブルグの踊場と醉はせた女の家
 
 ハンブルグと隣の市との境の邊には勞働者が澤山住んでゐる。此處には女郎屋が多い。兩方に市を受けてゐるせいか、此の町へ犯罪者で逃げ込む者が尠なくない。であるから兩方の市の巡査が境界線に四五人づゝ立つて夜になると警戒してゐる。殊にその近所は警戒が嚴しい。しかし犯罪者は此の境界線を越えて逃げ込むことがある。
 ハンブルグは所謂自由都市で、その市長は一國の大統領の如き權限を有してゐる。ドイツ帝國に(235)對して一獨立國を成してゐるのである。たゞ軍隊の權限が無いだけである。ドイツ聯邦の一つで、獨立國と少しも違はない形をなしてゐる。
 自由都市である爲めに隣から犯人が逃げ込むと警察の力が及ばない。そこで、境の警戒が嚴重にしてある。港であるから女郎屋や酒場が澤山ある。市の境には無頼漢が多く、そのために犯罪も多い。女郎屋へは勞働者が一番多く行く。相場は三圓見當である。即ち七マルク位が普通の相場になつてゐる。
 此の近所に上品な中以上の人達の行く場所として酒場兼踊場がある。實業家や名士連もよく來る。日本人は殆んど來ない。客種は先づよい方で中以上の紳士ばかりが來る所と思へばよい。入口には門番が立つてゐて、外套を預かる。一
〔写真、贅をつくした其の女の室〕
(236)マルクのチツプをやるのが普通である。入るとテーブルが幾つもあつて大抵滿員である。
 私が行つた時には盛んにダンスが行はれてゐて、音樂と酒の香と紫の煙草の煙とで氣も遠くなるばかりであつた。テーブルには客と女、女と女がそれ/”\相對したり、又は男同志で互に酒を飲んで居るのもあつた。室の大きさは踊場だけで日本の百疊敷位あつた、色彩は歡樂の場所にふさはしい濃厚な色で飾られ、床は赤地に青の模樣の入つた燃えるやうな緋に青紫の花形のついた絨緞で敷き詰められてゐた。
 入ると右手の奥に酒場がある。高い椅子に腰掛けて男女が盛んに飲んでゐる。女は勿論商賣人で素人の夫婦連れもある。客はその間に交渉をつけるのである。見てゐる間に話が定つて一緒に出て行く者もある。酒場には男もゐるが、非常に美しい女が酒を注いで呉れる。これにふざけたりからかつたりするのだ。相手の女は盛んに酒を客にねだる。がそうやたらにどん/\酒を取つて女に飲ませてはやらぬ(口繪の著者寫眞參照)
 酒場のウエーターは客に酒を注いだり註文を聞いたり、物を運んだりして非常に忙しい。女達は酒場の酒を調合する美人にも酒を振舞つて呉れと客に要求する。客も三度に一度は女の言ふことを肯いて御馳走してやつてゐた。シヤンパンなどを拔くのもある。が、こんな所でシヤンパンを拔く(237)のは田舍者である。そして客はそれぞれすいた女達を相手にして踊るのである。
 此處へ來てゐる女は春を賣る女の中でも、ずつと高尚で、最も上等な口に屬してゐる。服裝も立派なら、容貌も優れて美しいのが多い。此等の女を見てあると、何うしてドイツのぎこちない肥つちよの妻君連の間から、こうした美しい天女のやうな女が生れて來たのか不思議に思へることもある。ドイツ人かと疑ふ程綺麗なのがある。此の女連と酒を飲んだり、御馳走をしたりして、十人近くも話をして見たが、ドイツ語以外の言葉を話せるのは非常に尠ない。皆ドイツ生れで、ハンブルグ生れがなか/\多い。外國から來た者も居るには居る。ドイツでは田舍者のことをチース臭いといふ。そうした土臭い田舍者らしい客は一人も來てゐなかつた。
 酒をよく飲む女もゐる、が、一體に度を過ごさない。日本の商賣女の一部に見るやうなへべれけになる迄醉ふものは先づ少ないと言つてもいゝ。そして一體に輕い甘い酒を好んで飲む。しかし酒は總體に好きな方である。
 天井から照らされる五色の光はチカ/\廻つてダンス場に反映する、それに音樂が交錯して如何にも美しい歡樂の國で遊んでぬるやうな氣分がして、時の經つのも忘れてしまふ。そうした間に私は思ひ出したやうに相手の女の出生地、や何かを聞いて見た。頃合を見計つて煙草賣りの女が來る。(238)シガレツト/\と連呼して來るのである。又チヨコレートや花を賣りに來る女もゐる。その女は首から箱を吊つて客の間を縫つて歩くのである。此の女達は揃ひも揃つて皆美しい。相手の女は此等の物を買ふのを客にすゝめる。こうして仲間の商賣をお互に助け合ふらしい。それに向ふの女はよく客にチヨコレートを買つて呉れとねだる。大方家へ持つて歸つて喰べるのだらう。一寸驚いたことは酒場のスタンドの台の上に美しいチヨコレートの箱が置いてあつて、それを買つて呉れと一人の女が頻りに私にねだつたが、私は斷然と拒絶した。所がそれから一時間も經つと私が見てゐるのにも氣が付かずスタンドにゐる美人が、紙をむき出した。食べるのかと思つて知らん顔をして見てゐると、その箱は空であつた。こうした箱で醉つた客をだますらしいのである。私は戰爭がドイツの女の魂をこんなに迄くさらしたのかと思ふと慄然とした。私もその時多少酒を飲んでゐたのではあるが、確かに見違へではなかつた。しかし私は今でもあのことが見違へであつて呉れゝばよいと思ふ。私はこうしたことを見るのが大嫌ひなのであるから。こうして客に物を買へとねだることは客に取つては迷惑此上も無いが、彼女等の間の相互協力だけは感心する。
 私は時計を出して見た。いつの間にか更けたと見えて、夜中二時を過ぎてゐた。客は幾分か減つてはゐたが、まだなか/\歸りそうにも思はれなかつた。私は前を通る煙草賣りを低聲で呼び留め(239)た。賣子の中でも若くて美しいのが最前から私の眼を惹いてゐたのである。私は試驗的に然し僞らずに云へば多少は魚心を出して酒のせいもあつたろう。兎に角充分熱意を籠めて、
『何時から貴女は暇か』
 と、聞いた。女はぱつちりと美しい瞳で私を見返したが、近寄ると私に劣らぬ低聲で
『三時迄は駄目です』
 と、言ふ。
『三時を過ぎれば自由になれるか』
『えゝ、自由の身體になれます』
『散歩でもして見ないか』
 女は嬌然と笑つて首肯き、
『えゝ、ようござんす』
 と、私の手を堅く握り返して立ち去つた。
 私は微笑したがグラスに手をかけた。最前からのワインでほんのり顔も上氣し、氣分もそれに連れて輕く元氣だつた。改行
(240) 私の醉眼は再び場内に注がれた。と、最前から私の三つ目の右手のテーブルで、一人の女が酒をチビリ/\やつては室内の男をそれとなく物色してゐる樣子に氣が付いた。二十二三の年輩で、顔立は今夜此處に集つた女連の中でも際立つて美しく、豐かなその頬は桃色に上氣し、鼻から顎にかけての恰好が、商賣をする女としては品があつた。それにも増して私の注意を惹いたのはその華麗な贅を盡した服裝だつた。餘程の金目につもれる持物だつた。
『商賣人とすると』と、私はうつとりと考へざるを得なかつた。
『尤も商賣人には違ひない。餘程の金を取らなければあれだけの身なりは出來まい』
 初めは感心して見てゐたのだが、ふら/\と當つて見る氣になつた。それに女の目付が私に對して滿更でもなさそうだつたのである。酒と云ふ水はこまつたものだやゝもすると研究から脱線しさうになる。
『試してやれ。あの女の生活を見極めるのも一興だらう』
 で、私はウエーターにチツプを掴ませると、意を女に通じさせた。
 女は直ちに私の前に米た。私は酒を命ずると女にもすゝめた。
『直ぐ行きますか』
(241)と、
『貴女はもう酒はよいのか』
『まだ飲んでもようござんす』
 と、言つたものゝ、女はかなり醉ふてゐる樣子だつた。
『私はもう酒は澤山なのだ』
『では、私も飲みません。早くこゝを出ませう』
『よろしい。何處へ行くのか。ホテルか』
『何處でもいゝぢ晋やありませんか。早くお出でなさいよ』
 と、女は私にもたれかゝつた。大分醉ふてゐるらしかつた。
 私が立ち上らうとすると、女は先に立つて私の腕を取つた。私もふらつく足を踏みしめると女の後を追ふた。
 戸外には自動車が客を待つてゐる。金ボタンのポーターは戸をて私達を待つてゐた。女は乘ると私を持ち受けた。
 私は女に從ひ車中の人となると、聲を低め、
(242)『貴女はいくら要求するか』
 女は私の顔をぢつと見詰めると、
『くだらないことを言ふんぢやありませんよ』
『きまつたものだけははつきり聞いといた方が此方には便利だから』
『黙つて! 黙つて! たゞ私と一緒に來ればいゝんです』えらいけんまくだ。
 女はホロ醉ひ氣嫌で私を押へ付けた。私も強ひて問ふ程のことでもあるまいと、それ以上の返事を追求しなかつた。自動車は間もなく或る淋しい住宅地の一つのビルヂングの前で止つた。あたりはしんとしてゐて、薄暗い電燈の光りが大路の並木を青白く照らしてゐた。
 導かるゝ儘に立つて私は女に從つた。女は手提から鍵を取出すと入口を開けた。と、梯子段がある。それを見定めると女は再び電燈を消してしまつた。そして正氣に返つたやうにひどく眞面目に、
『話をして呉れては困りますよ。どんなことがあつても聲を立てないで下さいよ』
 私が首肯くと女は梯子段を上つた。私も黙つてそれに從つた。
『靜かに! 靜かに!』
 と、女は振り向くと、眼の光を強くして、
(243)『足音を立てゝはいけません。そつと歩かなければ駄目ですよ』
 言葉は細くて低いが、刺すやうに鋭い。
『面倒なんだね。これは貴女の家なんだらう。何もこそ/\して行かなくとも宜からうに』
 女は慌てゝ私の肩を押へ付け、
『口を聞いてはいけませんといふに』
『何故』
『黙つて! 黙つて!』
 と、手に力を籠め、
『他の人に聞こえるぢやありませんか』
 知れたつて構ふまいと思つたが、私も女の言ふ儘に黙つて梯子段を上つた。
 電燈の光りの消えたあたりは眞暗だつた。その暗闇の中を手探りで行くのであるから馴れない私には困難な仕事だつた。夜の靜けさの中で何うしてもゆか板がなつた。
『もつと靜かに歩いて』
 と、女。
(244)『これ以上靜かには歩けない』
 私も死にさうな低聲で答へる。
『では仕方がない』
 と、女は立止つて、
『私の足と一緒にしませう。一人の足音にしませう』
『何うするんだね』
『もつと此方へお寄りなさいよ』
 と、女は私の肩に掴まつて、二人で足を揃へた。そして拔足で上つて行く、まるで女と二人で盗棒にでも入つたやうな氣がして、すつかりほろ醉氣分も醒めてしまつた。
 やつと三階の女の室の前まで來た。そこは燈りで明るかつた。女は又手提鞄から鍵を出して戸を開けた。
『お! 驚いた!』
 と、私は思はず飛退るやうにして日本語で叫んだ。と、言ふのは戸を開けると同時に、それを千秋の思ひで待ち受けてゐたかのやうにテリヤ種の小犬が飛び着いたからである。
(245)『吃驚させやがる!』
 と、私。
『貴方は何故そう大きな聲を出すのです』
 と、女は大いに怒つて私の腕を嫌といふ程抓つた。我はすつかり縮み上つて、
『此の犬がだし拔けに飛び着いたからさ』
 と、地獄からのやうな細い聲を出した。
『此の犬は決して喰ひつきはしません』
 と、女は自分の歸りを待つてた小犬をさも可愛氣に抱き上げて頼ずりをした。
『私は犬が大好きなんです。こんなにも可愛い』
 と、女は犬を抱きしめて見せた。そして電燈をつけると傍のソフアーにがつかりしたやうに腰を下した。
 私も女と並んでそのソアアーに腰を下した、所が此のテリヤ種の犬は非常に女主人に忠實で、私が女にからかひでもしさうな樣子を見せると、今にも噛みつきさうな威嚇を示す。危險なこと此上もない。
(246)『恐ろしくて側へ寄れないね。此の犬は』
 私は撫然として女を顧みた。女は媚を作つて、
『キスをしませうよ』
『そんなことでもしたら、私の咽喉笛は此の犬の爲めに噛み切られるかも知れない』
 女は不思議さうに私の顔を見て、
『何故』
『貴女の抱いてゐる犬は貴女に驚く可を程忠實らしいから』
 女は困つて、
『では何うすればいゝの』
『犬を何處かへやつて呉れ』
『まあ!』
 と、女は小さい叫びを出したが、思ひ切つて犬を床の上に下ろして、
『お前はあつちへ行つといで』
 と、追ひやつた。犬は言はれる儘に主人公の寢床にもぐり込んだ。で、私もやつと安心して女と(247)肩を並べて話をしだした。すると、犬公は出し拔けに唸つて飛び出して來た。
 私は立ち上り
『此の犬が此の室に居る以上、私の生命はしよつ中脅かされ通しだ!』
 と、慨嘆した。女も困つて、犬を抱き上げると、室外に放逐した。そして言ひ憎さうに、
『でもあの犬は非常に怜悧な犬なのです。私に取つてあの犬は忠實な護衛者なのです。ですから私はいつもあれを連れて散歩するんです。私の危險な時には屹度あれが守つて呉れるんです』
『テリヤは怜悧な犬だからね』
『えゝ、ですから私は安心してゐられるんです』
 と、女はしみ/”\として言つた。
『貴女には立派な防衛とはなるかも知れないが、こうした客商賣にはその存在の理由が解らないね』
『そんな大きな聲を立てゝはいけませんよ』
 と、女は慌てゝ遮つた。
 私は今更乍ら女の室を見廻した。すべてが贅澤極まつてゐる。一流のホテルの一流の室より立派である。絨毯、ソフアーは殆んど貴族の生活にも等しく、寢台は贅美を盡して絹のカーテンを上か(248)ら垂らしてある。スリツパその他の持物も金にあかしたものばかり。寢卷も絹づくめである。こうした春を賣る女に今まで隨分出くはしたが、こんな華美な豪奢な生活をてゐるものはゐなかつた。今日ではすべてが疲弊してゐるドイツで、賣春婦がこれ程の生活を送られる收入を得ることが出來るのだらうか。若し出來るとするとそれは確かに奇蹟であると言はねばならない。
 私は私かに喜んだ。いゝ家へ來たものだと勇み立つた。それにしても女は一體何者なのだらう。で、私は出來る丈け遠曲にいろ/\の方面から女に質問して見た。女もさるものなか/\事實を言はない。が、いろ/\話の末、或る金持の妾であると白状した。金持といふのは七十近くの老人でベルリンにゐる。が、どうしてもその住所と姓名を明さない。女はもとよりその老人を嫌つてゐる。が、金の爲めに身をまかしてゐる。いゝ事には老人はいつも家に居ない。日を定めて商用でハンブルグへ來る。
『その患おさんは明晩來ることになつてゐるんです』
 と、女はつけ足した。
 で、女は老人の來ない日は氣ばらしをする爲め、又若き日の放縱な歡樂を享樂せんが爲めに、その酒場や踊場へ行つては酒を飲み且つ氣に入つた男を探して遊ぶといふのである。金には不自由し(249)てゐないから、大して取るつもりも無いらしい。が、餘り安いのは自分を安く見つもられるとでも思つてゐるのか高く言ふらしい。で、私は再び問ふて見た。
『一體幾ら欲しいのだ』
『金など大して欲しくありません』と少し不平顔でいふた。
『でも幾らが普通になつてゐる』
『二十圓以下では交渉しないことにしてゐます』
『それは氣の毒だ』と、思はず私は聲をはずませた。
『私は生憎今二十圓の金を持合せてゐない』
 その時は實際に持つてゐなかつたのである、酒場やその他で費つてしまつたから。然し女はもとより眞實とはしないで、
『そんなことを言ふもんぢやありませふよ』
『いや、私は英國の一ポンドとドイツの金を極く少ししか持ち合せてゐない』
『ほんとなんですか』
 と、女は瞳を見張る。
(250)『ほんとだ。嘘など言つても仕方が無い。今打は方々を飲み歩いて來たのだから、金は持つてゐないのだ』
 それでも女はどうしても信用しないので、私は紙入を出して中を開けて見せた。すると女は始めて得心した。
 氣が付くとその時には夜もしら/”\と明けかゝつてゐた。私に取つては視察の目的さへ遂げればいゝのだから、いつまでも愚圖ついてゐる必要はない。それに明日は視察の豫定もあるので退却することにした。で、
『此の上居ても貴女に氣の毒だ。私は歸る』
 と、仕度をし出すと、女はなか/\歸さない。
『歸つてはいけません』
『私には金がない』
『1ポンドでもいゝんですから、歸るのは止して下さい』
『一ポンドでいゝのなら』
 と、私はその札を取出すと女に手渡した。
(251)『今日はほんとに金が無いのだ。氣の毒だつた。今日はこれで歸る。また來る』
 女は恨めしさうに
『明日の夜は來て貰つては困りますよ』
『お爺さんが來るんだつけね』
『そうです。屹度來てはいけませんよ』
『では一週間の後に來よう。その時にも老人は來るか』
『商賣用で時々來るんですから。一過間の後なら恐らく來ないでせう』
『その時必らず來る』
 と、私は早速と此の家を辭した。女は下まで送つて來て戸を開けた。
 街路にはほんのり曉の光りがたゞよつてゐた。朝の大氣は流石に氣持がよかつた。私はほつとしたが、さて、どちらへ行つていゝのやら方角の見當が殆んどつきかねた。ホテルへ歸り度くとも路が解らないのである。咽喉はかはくし、腹はへるし、それに眠くもあつて辛かつた。
 往來には人ツ子一人通らなかつた。でもぶら/\歩いてゐるとタクシーが通つた。しかし運惡く客を乘せてゐる。二三台皆あてが外れたが、やつとのことで空のやつを捉まへてホテルへ歸つた。(252)その時には四時を少し過ぎてゐた、ホテルは夜通し起きてゐるから、いつ歸つても不自由は無い。
 ハンブルグの紳士連の集まるこうした場所へは、いろ/\の種類の女が集まつて來る。そして、そこに歡樂の不夜城を現出して日に夜をついで享樂するのである。ドイツ人で或る地位のある人から聞いたのだが、彼女等の生活は非常に贅澤を極めてゐるさうである。私も別れた女の家へ幾度も行つて色々のことを聞かうと思ふたが生憎その暇も無かつた。此の女の收入は何でも老人から月に三百圓づゝ貰つてゐて、ほかにカツフヱーあたりで道樂に稼ぐのである。女の生活も行爲も自由を極めてゐた。
 
     二千年前のポンペイの型(二十一箇所抹削)
 
 ポンペイの町は今から二千年前ベスビヤの火山で埋められたが、今では堀り出された。此の町に遊廓がある。此處にある遊廓の壁畫には色々な極端なのがあつて羊のいるのもある。此等の繪は今ネープルの博物館に保存せられてあるが、八ケ月前までは一般に公開されてゐた。それを最近ムツソリニが禁止してしまつたから今では特別な許可書がなければ見ることが出來ない。
 博物館の玄關を出ると少し左手に眞直ぐに走つてゐる廣い通りがある。此處を行くと右側に古く(253)さい小さな家がある。その家では壁畫を全部寫眞にして、それを秘密に賣つてゐる。此の壁畫にポンペイの當時の有樣を網羅したものである。
 ネープルの銀座通りと呼ばれる大通りに大きなアーケートがある。此のアーケードは伊太利の都市にはよくあるが、カツフヱーや商店などが並んでゐて、恰度東京驛の切符賣場所の廣場のやうなもので、その中に大勢の人が行つたり來たり、立つて話し合つたりしてゐる。何んのことはない。東京驛で澤山の人が見送人を侍つてゐる時のやうな光景である。アーケードには廣い入口が四方にあつて、大きな店が並んでゐる。丁度丸ビルの下の中央を二十倍もした樣なものである。その一方の入口はネープルの一番賑かな通りに面してゐてこゝから少し先に左に入る横町がある。一帶に小汚い町になつてゐて裏通りは勞働者の澤山ゐる所である。その中にパロツオ・クリスタロといふ三階建の家がある。その汚い一軒のドアのベルを押した。と、例の如く四十五六の女が出て來た。
『ダンスを見に來た』
 と、告げると
『二階へお上りなさい』
 と、言ふ。細い薄暗い梯子段をそのマダムが先に立つて上り乍ら、所々にあるスウイツチをひね(254)る。三階の薄暗い室の前に出ると、そこに女が居た。女は既に壁に着けてあるベルで合圖がしてあるので私を見ると、
『お出でなさい、今日は』
 と、待構へたやうに言ふ。
『見物に來た』
 と、私が答へると、女は私を薄暗い廊下にある一つの室の前に案内して、スウイツチを捻ると戸を開けた。と、何時に私はこれはどうもとばかり驚いた。今まで薄暗い小汚い梯子段を上つて、薄暗い室の前に立つて、すつかり憂欝に閉されてゐたのであるが、戸を開けると同時にいきなり燦然たる光が眼を射、華やかさと明るさに眼もくらやむばかりだつた。中は綺麗に調つた室に適はしく緋の絨毯が敷き詰められてゐて、廣さは四十疊位、室の廻りには取り付けの緋の緞子の腰掛が壁に着いてゐて、それに、かけると柔かい豊かな感じがずる。
 室全部は鏡で張り詰められてあつた。天井まで鏡になつてゐて所謂鏡の間である。電燈の光が輝くはずだ。室の眞中には圓形の可成り大きい緋のビロード張りの柔らかな感覺を與へる台がある。電燈は百燭光位のが幾つも輝いてゐてそれが周圍の鏡に反射して、何とも言へない華麗な光景を現(255)出してゐる。
 私が壁についた腰掛に腰を下すとマダムが前に立つた。此の女はまだ四十五六の年輩なのだが、ばかに老けて見えた。眼鼻口と仔細に見ると立派な道具立で、別に醜い感じを與へる女では無いのだが、生各苦のために何んとはなく力が無く、陰氣に見えた。それに家といふのが日の當らないじめ/\した所なので餘形顔色が惡く、營養不良に見えたのだらう。女の顔や態度を見てゐると、附近にある薄氣味の惡い第三階級の町の人達を見るやうな感銘を受ける。女は、
『百リラ出すとポンペイの遊廓の壁畫
 百りラと言へばリラがその時十二錢程であるから十二圓ばかりである。
     それは五十リラのもあれば二十五リラのもある』
 といろ/\説明する。
 それを女が一々説明しては、    を訊ねる。
で、女は戸を開けて出て行つた。
 暫くすると  四人出て來た。最前の女とは違つて營養不良の影は無い。よく肥つてゐて血色もよく、肉態的の者ばかり撰定してある。その中の一人     
(256)     らチップを下さい』
 と。一人がやつて來て要求した。
 
『先づチツプを要求するのか』
『下さいな』
 と、甘える。
『それは不合理だ。
『乾度ですよ』
 と、女は堅く念を押して、が首肯くと引返した。
 
 と、捧持ちに聞くと、
『これは』
 と、棒を私の前に差出して見せる
(257)     丸い台の上に乘り、頻りに口々でで
『これがローマの古式です。/\』
 と、言ひ乍ら
ない。
         身體は立派で肉感的だが顔を見ると美人は一人も   のだが流石にローマは藝術的の國だけあつて腰に手を當てたり、身をそらしたり如何にも美術的のモデルでゞもある
ポンペイを亡したのはこうした女であつたことがまざ/”\と腦裡に描き出される。滑稽とも思つたが非常に嫌になるのは     ことである。その執拗にして厚顔なのには唖然とするより外に手段はない。まるでがきである。その中の一人    私の側にやつて來て頻りにチツプをねだる。まるで子供が菓子をねだるやうで、やらないとなか/\動かない。實際うるさくてやり切れない感じがする。その    少しづつチツプをやると一同神妙に引下つた。
 第二の幕になると    入つて来た。背は餘り高くない五尺二三寸位で、普通の人と同じやうな身體付きである。顔はこうした場所へ出るのだから綺麗と思ふかも知れないが、少しも綺麗で(258)はない。その   
やつて來た。結局專門の商賣人だけあつて商取引をするに過ぎない。暫くして歸らうとすると、女が出て來てチツプをねだる。やると二人揃つて出て行つてしまう。    他には誰もゐない。
 
 入れ代りにマダムが入つて來て女を買へと勤めた。と、どや\と先刻の女共が五六人裸體で飛込んで來た。
『此の中のどの女が氣に入りましたか』
 と、マダムは女を立たせて頻りに私にすゝめる。が、私は堪らなく嫌氣がさしたのでいゝ加減にあしらつて逃げ出さうとした。するとマダムは逃がしては大事と、
『此の女がいゝでせう』
 と、早速一人の女を推薦したその女はわたしを捉へて、
『此方へお出でなさい。/\』
 と、頻りに引張る。で、これは面白い、どんな所へ連れて行くのかとついて行つて見ると、その隣りの室に極めて小さい室があつてそこへ連れ込んだ。非常に小さい室でそれが女の室になつてゐ(259)るのである。それだけ見定めると私はいろ/\と誤魔かして、
『明日來る。今度は友人を連れて來る。友人も非常lこ見度がつてゐるから』
 と、ばかり逃口上を述べ立てゝ這々の態で引上げた。
 ネープルの此の家はフランス式で頗る徹底してゐた。此處の女達は皆鑑札を持つてゐて、鑑札の無いものは營業が出來ないのである、ネープルは取締りが嚴重なため最近では辻君が殆んど居なくなつてしまつた。彼女達の檢黴は毎朝ある。それも色々聞いて見るとなか/\嚴重で日本の檢黴の比ではないらしいこうした家はネープルに一軒しかない。
 
     ミラノの賣笑婦
 
 伊太利のミラノは昔から宗教で成立つた都市として歐羅巴では有名である。宗教で出來た町としては一番大きく依然として今日も繁榮してゐる。人口七十二萬餘で世界の都市中第四十二番目を占めてゐる。
 世泉の人氣役者ムツソリーニが伊太利を乘取る手始めに先づ占領したのが、此のミラノで、當時ミラノは、赤化思想の中心地で一番反對の多かつた所である。ムツソリーニが第一にこれを占領し(260)たのは、既に將來に對する彼の非凡な手腕術策を雄辯に物語つてゐると言へよう。それから彼は五萬の黒シヤツ黨を指揮してローマを攻略して、直ちにその足で伊太利皇帝の下に馳せ參じ、例の黒シヤツのまゝ「唯今ムツソリーニが伊太利帝國を提げて陛下の御前に參じました』
 と、大見得を切つたのは有名な事實である。
 ムツソリニーは最初腕力を以て全伊太利を壓倒し、終に統一の業を建てた。そして政治、經濟、外交、教育とあらゆる方面に向つて着々その治績を擧げた。今日では彼は全伊太利國民の敬慕の的となり、彼の後繼者の無いことを國民一般は氣づかふ樣にまでなつた。
 私が此國を訪れた時は丁度彼が國政を掌握した五周年の記念日に當つてゐたので、全國民が如何に彼を崇拜してゐるかを親しく見ることが出來て、その豫想以外なるに一驚を喫した。ムツソリー
〔写真、正面の建物は世界的に有名なミラノの宏大な寺院です此の左側の大きなのは大ア―ケードです此通りを眞直ぐ少し先へ行つた邊が一番女が出る處です〕
(261)ニは末葉のこと迄も詳細な注意を拂つてゐる。二千年の昔の貴いローマの名所舊蹟で彼の手によつて荒廢から救はれたものが非常に多い。又彼は人口増加を策して、伊太利の人口を六千萬にして歐洲大國の一に加はらんとしてゐる。その手段として獨身者に課税をして一昨年即ち一九二七年の三月頃から既に實行してゐる。一方ローマの亡びた原因に鑑みて、賣春婦の取締りを勵行してゐるために可成り紊れたローマの通りも殆んど最近には賣春婦を見なくなつた。しかしまだ全伊太利を通じて徹底的に行はれる迄には至らない。ミラノ。ベニス。フローレンスなどはまだ女が相當に居る。
 ミラノには有名なカシイ―ドラル即ち寺院がある。その横手に市有の大きなアーケードがある。此處らが先づミラノの銀座通りで最も賑やかな所である。ヴイクトル、エマニヱ―ル通りと言はれてゐて、ナシエンテと言ふデパートメント、スト―アがある。これから少し行くとビヤ、サン、ピエトロといふ横通りがある。商賣する女の盛り場であるが此處の女は牛後から既に往來を歩いてゐる。夕方が最も多く出る。その邊で逢ふ女は、どの女も人種的區別をしない。白人でも有色人種でも構はずに相手になる。それといふのも伊太利が今日經濟的に疲弊しつゐる結果であらう。英國人のやうに啓の撰り好みを殆どしないのみならず又、高振つてもゐない。此方で笑顔でも見せると直ぐにやつて來る。又はジヨウ、ウインド―でも見てゐると、直ぐ傍に立寄つて覗き込む。
(262) 三三の相手に英語かドイツ語を話すかと問ひ掛けて見た。大概はフランス語を話すのが多い。三十リラから五十リラ位を要求する。一リラは十二錢ばかりである。その中の女を一人呼び留めた。妖艶な男好きのする女であつた。その女を連れてデパートメント、ストーアの少し先にある角のカフヱーへ行つた。そしてコーヒーを飲み乍らそれとなく話をすると結局は生活難から、こうした商賣に入つたらしい。或る所へ勤めてゐて内職に此の商賣をやつてゐるとのことで、何のために内職をやるのか、何處に勤めてゐるのかを何うしても口外しない。
『フランス語が出來るか』
 と、聞くと
『讀める丈け。話すことは出來ません』
 私は歸る氣で
『お前と別れよう』
 と、席を立つと、案の定放さない。
『言葉が分らないから遊んでも面白くない』
『大丈夫です、伊太利語など知らなくとも大丈夫です』
(263) 何が大丈夫なのだか知らないが、女は頻りに大丈夫を連發する。そして
『自動車で行きませう』
 と、すゝめる。が、いゝ加減に打切つて女を歸した。
 一人になると又私はゆつくり通りを歩いて行つて、店の飾り窓を覗き込んでは通る女の樣子を見たりした。と、その前を年頃三十がらみの女房らしいのが歩いて行つた。風つきが地味で商賣女でも無さそうな樣子である。女の顔を見ると向ふでも意味あり氣にぢつと此方を見た。顔と杲とが合つてしまつた。女の樣子では散歩してゐるか又ちよいと買物にでも出て來た人の妻君らしいのだ。私は早足になつて女の先に立ち、とある飾り窓の前に立つて眺め入つた。と、女も近寄つて來て立止つた私はいきなりフランス語で、
『英語が分るか』
 と、聞くと
『分りません』
『ドイツ語は何うだ』
『分りません』
(264)『此の邊を毎日散歩に來るのか』
『時々來ます、』
『これから何うするのだ』
『ホテルへ行きませう』
『言葉が分らないから駄目だ』
 と、女は面到とさつさと行き過ぎた。
 伊太利の女には美人が多い。が、それにも拘らず、こうした女の中には一向に美人が見當らない。此のミラノにもアメリカや英國にあるやうなホテルがある。勿論一時の連れ込みの男女を專門にする所だ、その樣子は他の國のホテルと違はない。二圓乃至三圓の室代を取る。家は汚なくてそれに小さい。ホテルの看板丈けは掛けてある。
 終りにミラノで見る可をものを記すと、それはお寺と墓地だ。墓地は殆んど美術館と言つてもいゝ位で、大理石の種々な彫刻が墓場に飾つてある。それを見ると伊太利人が如何に美術的であるかゞ分る。
 
(265)     ロンドンの金髪美人お金ちやん
 
 支那人は英國と言はず米國と言はず到る所に支那料理店を經營してゐる。殊にアメリカには多い。それが皆繁昌してゐる。ニユーヨークには日本人の日本料理店もあるが白人で相當に繁昌してゐる。
 ロンドンのピカデリーサーカスに支那人の營む料理屋がある。これが恐らく支那料理で一番成功してゐるであらう。いつも白人で滿員である。又同じ支那人の經營するダンスホールが二軒ある。一軒はオツクスフオード、ストリートの地下鐵道の入口の隣りにあり、一軒はピカデリーサーカスの裏通りにある。此處には日本人が澤山行く。その他印度人、安南人、シヤム人等も行く。亞細亞人全盛の場所で常に客の七分を占め、白人は四分位である。時に依ると白人が相當にゐる場合もあるが、そうした白人は概して田舍者が多い。
 此のダンスホールには澤山の賣春婦が入り込んで客を捜してゐる。各自が酒代を拂つて來るのだ。女の顔ぶれは大概定つてゐる。或る日はオツクスフオードのダンスホールに又或る日はピカデリーといふ風に時々場所を變へるが、顔ぶれは大抵同じだ。此の女達はそれ/”\日本人と御親類筋(266)の中やあるのが多い。此のカツフヱーの女達の顔をつく/”\眺めてゐると、有名な伊太利の刑法學者で骨相學者であるロンブラツソーが娼婦に先天的惡性のあることを主張した言葉を思ひ出す。
『娼婦は娼婦の原形的特徴を以て生れて來る。そしてそれは同時に墮落の肉體的基礎を持つ』と
 果して此の言婆が眞であるか何うかを確かめたが現在の春賣る女は大部分が生活のためであるから、そうした惡性は認められなかつた。此の試驗は至る所でやつて見たのであるからたしかだ。
 日本人の留學生の中に女のために萬金を
〔写真、著者がパリーから有名なロンドンの霧を見るために飛んだ飛行機です内部の模樣はカツフヱーとバーの所にあります著者は危險を豫想して夜出る時は此の輕裝で娼家を探つたのです〕
(267)注ぎ込んだのがある。又日本の留學生からしぼつた金で電話を引いたり家を貿つたりした者もゐた。中には日本迄來て一萬圓もらつた女もゐる。此のダンスホールでは日本人は特に歡迎せられる。何ぜといふに日本の留學生、旅行者は金離れがいゝ。そして比較的に金を持つてゐることを彼女達はよく知つてゐる。
 氣に入つた女が眼に付けば自分のテーブルへ呼び寄せる。そして酒を飲んだりアイスクリームを食べたりサンドウイツチを突付いたりしていろ/\と話し乍ら更に交渉を進める。離れたテーブルに客と居れば紙片に書いて相手の男が、ダンスでもしに行つてる間に通信をしたりするダンスを申込めばどの女でもこれに應じて踊る。此處は完全に日本人全盛の取引所であると言へる。しかし行けば必ず女と取引をするとは限らない。その儘歸る者も澤山ゐる。ロンドンに行つた日本人で此のダンスホールへ一度も行かない人は恐らくあるまい。
 白人ばかりの行くダンスホールは一軒しかない。私も支那料理店のダンスホ―ルを見學に行つたことがある。出入する女の樣子を見てどれもこれも皆日本人と親類筋になつてゐるのかと思ふと苦笑を禁じ得なかつた。此處へ來る女はピカデリーの往來に出る女に比べると裕福である。從つて又なりもよい。日本からはる/”\送る學資金や旅行者の公金や會社員の出張費などで養はれてゐるせ(268)いであらう。女は大抵立派な家を持つてゐるから客は自分の家へ連れて歸る。往來の辻君などと馬鹿には出l來ない。それもその弭某銀行家の大事な/\馬鹿息子は手切金に數千圓を與へたこともあるし、又或る若い學生は三千圓から出した。東京の有名な某○○の令息の同棲までした相手はお金ちやんと日本人からあだ名を付けられた。お金ちやんは日本人式に背が低く顔はゴム人形のやうにふつくらしてゐて、眼は夢二式で日本人向きのする女だつた。日本の金持で息子が中學を經ると直ぐロンドンやベルリンの大學へやる人があるがあれは考へものである。内地の大學でも終つたのならいざ知らずさもなければ此の誘惑の多いロンドンへ獨りで放り出すことは危險極まることである。これで失敗した實例は非常に多い。私はロンドンへ來て裏面を見てつく/”\此の感じを深うした。海外へ大切なお子さんをやる親御さんに歐米の裏面を書いた此の本の一讀をおすゝめしたい。
 日本の待合の所謂ほうき式のことを此のダンス場でやると、狹い範圍内のことであるから忽ち女の間に知れ渡つて嫌はれる。新顔の日本人が行くと、女共は競争してこれを虜にせんと争奪戦を開始する。その男の方に笑を浮べたり小首を傾けたりして盛んにモーシヨンをしかけるのだ。歐洲では一般に女の方から男に對して積極的に攻勢は取らない。男から合圖があつて始めて女の方から應ずるのが普通となつてゐる。しかしピカデリーの辻君で日本人を手がけた女はよく日本人の心理状(269)態を知つてゐて積極的に自分の方からモーシヨンをしかけるのがある。滑稽なことにはピカデリーの支那のダンスホールの前には巡査が立つてゐる。それだから恰も賣春婦の保護でもしてゐるやうな感じがする。賣春婦の出入するダンスホールの前に巡査が立番してゐるのは、流石に英國丈けである。
 
       歐米のカフエとバー
 
 アメリカは禁酒以來酒場は總てソ―ダ・フアウンテやカフエ―に變つてしまつた。ソーダ・フアウンテンはアイス、クリームとかアイス、クリーム・ソーダのやうな飲み物を主として飲ましてゐる。大きいカフエーは主にホテルにあつて誰でも入れる。こゝで簡單に食事を取ることが出來て、朝食は大抵カフエーでするのが多い。カフエーでもフアウンテンでもアメリカのすべてが實用本位になつてゐて、スタンドの酒場と同じやうな組織に出來てゐるのが多い、そして町の到る所に澤山ある。給仕人は男のも女のもある。客は歐洲のカフエーのやうにコーヒー一杯で三十分も一時間も坐つてゐるやうなのは一人もゐない。飲んだり食つたりするとサツサと出て行つてしまふ。日本のいはゆるカフエーのやうに女給と話を交へるのは殆どない。ほんとに食はせる飲ませるの實用式であ(270)る。アメリカの忙しい生活の縮圖がよくカフエーに出てゐる。
     ◇
 英國では日本や米國のやうなカフエーもあるが、バーが澤山ある。バーには簡單に食事が出來るのと全く酒ばかりしか飲ませないのとの二種ある。ロンドンのカフエーでは食事が出來る。英國のコーヒーにはブラツクとホワイトとの二種があつて、ホワイト・コーヒーはまたクリーヤー・カフエー、ストロングカフエーともいはれてゐる。ブラツク・コーヒーは實は大豆を粉にしたものでコーヒーでは無い。英國ではコーヒーは多く食後に飲む。英人は三時にたるとお茶を飲む習慣か上下を問はずあるから、カフエーでも三時になると一時に榮える。
〔写真、飛行機の中のカツフエー ロンドンパリー間の定期飛行機で茶國機である正面のビンは酒やソーダ水で之を飲み乍ら英國海峽を飛ぶ時の心持は何んとも云へぬ愉快さである〕
(271)     ◇
 會社でも銀行でも三時には皆にお茶とトーストか菓子を出す。下級の人達はこの三時のお茶を腹の足しにしてゐて、晝食の儉約をしてゐるものが多い。それ程英國の下級俸給生活者は收入が少いのだ立派な料理屋やホテルでもこの三時から四時の間の一時間位はお茶の時間として毎日テーブルの用意をする。そしていろ/\の菓子だのトーストだのが出て、これらが附いて幾らときめてあるのが多い。先づ一圓か一圓五十錢位の見當である。その時になるといろいろの種類の女が來る。賣春婦も勿論來る。
     ◇
 ロンドンのピカデリーの地下鐵道の入口の反
〔写真、獨逸ベルリンの大カツフエー「ゾウ」のダンスホ−ルである煙草の煙と酒の香の中に美しい女や男が踊つてゐる〕
(272)對側の所にスコツトといふロンドンで一番高いので有名な料理店がある。この家の料理はなか/\うまい。元來英國といふ國は料理の非常にまづい國で、まづい點では世界第一といつてもよからう。殊にスープなどはひどいものだ。このスコツトはエビの料理で當てた店で、得意なだけあつてエビは高いが旨い。大分儲けたといふ話である。この家でも三時にはお茶の用意をする。その五六軒先に徹夜で開いてゐるカフエーがある。丁度新宿または大阪心齋橋の明治製菓の喫茶ホールを十五倍程大きくしたやうなものでそこは三時のお茶のときにも食べただけ仕拂へばよいから簡單だ。この家には賣春婦が多く出入する。極く簡單な食事や各種のサンドウイツチなどが出來るから、殊に晩の食事時間頃になると、ピカデリーに出る女が澤山來て食事をする。顔馴染の客に出遇つてふざけてゐる樣子はこの家へ行つてゐるとよく見受けられる。店の前では菓子を賣つ
〔写真、天幕張りはフランスボルドウ葡萄酒で名高い市のカツフエーボルドウで女が澤山客を捜して居る〕
(273)てゐる。
     ◇
 ピカデリー・サーカスにサージエント・パレス・ホテルといふのがある。アメリカ式のホテルで、非常に安くて便利なので知られてゐる。一晩九シルリング半で――日本の約五圓――晩飯と朝飯が附き湯は室にはないが、入浴隨意である。ロンドンのホテルは一般に高くて、かうした所は他にはない。ホテルの大ホールは人でいつも一杯だ。丁度東京驛の待合室と廣場のやうな有樣で、面會人とか茶を飲みに來た客などで滿員の盛况なのだ。それに食堂では安く喰ぺさせる。お茶や
〔写真、獨逸ミユンヘン市の南歐第一を誇る大カツフエーで柱なども大理石で恰も堂々たる大食堂の樣である〕
(274)夕飯の時には女が澤山來る。こゝで腹をこしらへて女達はピカデリーへ稼ぎに行くのだ。さうした女に取つては慥に便利な所だ。私はロンドンで經驗のために四十日程の間に四度ホテルを變へて見たが、このホテルが一番便利で安かつた。我はニユーヨークからロンドンへ渡り、パリから飛行機で再びロンドンへ歸つてロンドンの有名な霧を見物した。その時のことだがスペインから約三週間前に電報で申込んでやつと室が取れた捏このホテルは繁昌してゐる。
     ◇
 私は夏目さんの倫敦塔の最初に二年の留學中一度ロンドン塔を見物した事がある。その後再び行かうと思つた日もあるが止めにした。人から誘はれたこともあるが斷つた。一度で得た記憶を二度目に打こはすのは惜しい。三たび目に拭ひ去る
〔写真、河につき出た家がハンブルク第一の大きいカツフエーである終日音樂の絶え間がない其の中には澤山の女が客を待つて居る此並木のある通りは一番賑やかな處であつて女の澤山出る通りである日本の正金銀行の支店は向つて左手の建物の先きにある〕
(275)のも殘念だ。塔の見物は一度に限ると思ふ。
 と、いふ文句のあることを記憶してゐたが、塔ならぬ都市の見物は二度見るに限ると思ふ。二度見ねば比較が出來ない。私は大都市には必ず二度行くことにしてゐた。で、ニユーヨークへもパリへもロンドン其他へも二度行つたのだ。
 このホテルの近所にライオン・カフエーがある。簡單に食事やお茶が出來る場所で、銀座のライオンよりは餘程大きいが、組織は同じである。銀座のライオンはこれから取つたのかも知れない。
     ◇
 ドイツ、ベルギー、フランス、スペイン、イタリー、スエーデン、ノールウエー、デンマーク等のカフエーは殆ど共通で、夏になると皆往來に向つて、コンクリートの人道にテントを張出して屋根を作る。そして椅子を澤山並べてビールやコーヒーを求める客に席を作る。ベルリンやパリーのかうしたカフエーは滿員なのが多い、女の居る所もあるが、ゐないのもある。外國のカフエーではコーヒー一杯ビールー杯で一時間位居るのはざらにある。人を待合せたり新聞を読んだりして居るのだ。殊に日本と違ふ點は正面が硝子張りになつてゐて、往來に面してテーブルが置いてあるから(276)往來を通る人を眺めて、それを肴にしてビールなりコーヒーなりをゆつくり飲んでゐることだ。日本でうつかりこんな眞似をすると、ボーイ達に嫌な顔をされる、大きいカフエーになるとオーケストラがある。殊にドイツ人は世界一の音樂好きな國民で、ベートヴエン、シユーベルト、ワグネル等を出した關係からか、音樂趣味が頗る發達してゐて、ホテル、料理屋、カフエーには大概オーケストラがあるから食事の時も頗る氣持がよい。
 フランスのカフエーはドイツ、スエーデン、デンマーク、スペイン、オランダ等と同じで、勿論色々の酒がある、夜になるとトランプをやる客が多い。もつとも、パリやマルセイユでは餘り行はれてゐないが、リオン、ボルドーでは夜になると殆どすべての客がビール一杯、コーヒー一杯で長い間盛んにやつてゐる。然しボーイにはチツプをその割に餘りやらない失張一割くらゐだ。パリにはグランドブルバーといつて銀座通りのやうなパリ一の賑やかな通りがあつて、そこには大きいカフエーが澤山あるが、トランプはやつて居ない。音樂などを樂しんで酒やコーヒーを飲んでゐる、客の中には春を賣る女も居ることがある。
     ◇
 スペインのカフエーは殆どドイツ、フランスのと變りは無く、夏になると往來に張出して、椅子(277)を澤山持ち出し、客は往來を眺めながら飲食する。中には全部の椅子を往還に向けて並べた所もある。カフエーに腰をかけてゐると履磨きが來て靴を磨いてくれる。人を待合せたりするには便利だ。スペイン人には妙な習慣があつて、一般に働くことをいやしんでゐる。これは亡國の民に共通した慣習であるよいへよう。金を持つてゐる者が、のらくら遊んでゐるのを善いことゝしてゐる。カフエーの中で一日の中の二時間、三時間を何等なすことなく過すのを羨やましい生活の一つとしてゐる如何にも困つた國民だ。かうしたスペインも今日ではお隣りのイタリーと同じやうに軍人に依る專制政治か布かれ、議會はその中復活することになつてゐるが現在は廢止せられてゐる。市長は總理が任命するのだが新人だから思ひ切つた都市計畫をやつたり、地下鐵道を建設したりして、都市の改造大いに見る可きものがある。東京市長にも大政造的新人を連れて來なくては駄目である。
     ◇
 政治、經済、教育をはじめ、各方面に覺醒の機運著しく、どし/\改善をやつてゐるのは注目すべき現象である。丁度イタリー、ポルトガルの行つてゐる絶對的專制政治と同樣である。これ等の國の專制政治が昔の暴君に依る專制政治と異なり、大いに治績を擧げてゐるのは一意專心社會民衆の利益を目標として、何等私心のないことゝ、民衆を基礎とした專制であるからだ。だからこれを(278)單純な昔の專政と同視するのは非常な誤りである。要するに政黨政治の行き詰つた結果現れ出た一つの政治形式と見る必要があらう。これ等の國はもとより君主政對を奉じてゐる。がつまりは總理大臣による專制政泊なのである。昔榮えたラテン民族即ちフランス、イタリーその他の諸國がかうして立てば、又昔の勢威を得るやうになるかも知れない。歴史は昔をくり返すといふ事は爭はれぬ事實のである。
 
       ニユーヨーク黒人の女の媒介者
 
 アメリカでは今日でこそは黒人の差別的待遇を徹廢したが、二三年前迄は非常に虐待せられて住所は勿論便所や電車迄も白人とは全然區別されてゐた、料理屋へ行つても斷られたものである。最近ではこの思想も變つて、平等の取扱を受けるやうになつて來たのである。が、黒人の住居は全然一廓をなしまだ白人とは區別されてゐる。ニユーヨークの百二十四丁目の一廓は全部黒人の家ばかりである。そこへ行くとまるでアフリカへでも行つた樣な氣がする。
 黒人の中には如何にも野蠻人むき出しのがゐて、どう見ても黒ヒポポタマスと思はれるやうな醜惡な容貌をしてゐる者がある。これでは排斥されるのも無理では無いと思はれる。印度人やエヂプ(279)ト人は眞黒ではあるが比較的立派な容貌をしてゐる、ニグロはこれに相違して黒光りがしてゐて鼻が低く、口が大きくて口びるが赤く厚く、如何にも奴隷のやうな感じがする。動物の代用として開墾のためにアフリカから連れて來たのも無理ではないと思はれる。それでもたまには身成の細い顔形の整つた美人も居ないではないが稀にしか眼につかない。
 或る黒人の女が黒人の賣春婦を媒介するといふことを聞き込んだので、早速行つて見る氣になつた。女は黒人の町に仕んで居た。百二十四丁目の通りで地下鐵を降りると廣い通りへ出る。そこを右へ入ると一軒の家がある。そのアパートメントの五階の小さい部屋にその女は住んでゐた。
 構はす戸を叩くと、戸を細目に開けて眞黒な女が顔を出した。流石に眼と齒だけが不氣味な程白く光つてゐた。
『遊びに來たんだがね』
 と、言ふと、女はじろ/\私の顔を見て、油斷しない。こんな女でも愛する男があるのかしらとその瞬間妙な疑問に捉はれたが、馴れ/\しい調子で、
『私は怪しい者では無い。實は君をよく知つてゐる人の紹介で來たんだ』
 女が安心するやうに、私は紹介した人間の名前を附け加へた。
(280)『そんなら』
 と、女はやつと安心したらしく私を笑顔で迎へ、
『お入りなさい』
 女は戸を開けた。そして私を導いた。
『此の頃は忙しいかね』
『大したことはありません。いつも相變らずですよ』
『馬鹿にひつそりしてゐるではないか。いつもこんなかね』
 女は私の顔を見詰めて、
『今日は何曜日だと貴方は思ひますか』
『今日は?』
 私は問の何たるかゞ解せなかつたので、
『それを聞いて何うするんだね』
『別に何もしませんが、しかし今日は日曜日ですよ』
『さうだ。今日は日曜日だつたね』
(281) 女はニツと白い齒を少し見せ、
『ですからひつそりしてゐるんですよ。多分女は一人も居ないでせう』
 私は不思議なやうな、ふりをして、
『女は一人も居ない?』
『えゝ、ふだんなら居るんですがね』
『そんな習慣があるのか』
『日曜日は休み日です。女は皆自分の好きな男達と何處かへ遊びに行つてしまひますからね。例へば活動あたりへね。ですから呼んでも來ては呉れないんですよ』
『成程』
 と、私は合點が行つた風をして、
『日本とは違ふね、日本では日曜日でも大した變りはないんだがね』
 女は私の氣を引き立てるやうに、
『でも、遊んで行きなさいよ。電話を掛けて見ますから』
『切角來たんだから何分頼むよ』
(282)『此方へいらつしやい』
 と、女は椅子を勸めた。年の頃は二十二三、何う見ても美しくは無いがこうして話してゐると段々醜いといふ感じが薄らいで來た。人情と云ふものは變なものだ夫婦結合の原理はこゝか?
 私を入れた室は八疊位の廣さでピアノのあるのが眼を惹いた。眞中には室に似合はぬ大きなテーブルがあつた。此の室に續いて六疊位の室が一つあつた、その室から左手の突き當りにカーテンが下つてゐる。カ――テンの奥には薄暗い小さい五疊位の寢室がある。室數は全部で三つあつた。
 此の女の亭主は勿論黒人で汽車のボーイをしてゐるとのことだ、女の内職に此の商賣をしてゐるといふ。
『よく警察でやかましく言はないね』
 女は眼をむき、
『言はない所か此の頃はとても嚴びしいんですよ。私達の恐ろしいのは警察の眼丈けですよ。その他の人のことは別に氣にも留めませんが』
 女は椅子に掛け乍ら煙草に火をつけて、私にもシガレツトを勸めた。
『女を早速掛けて見ますから』
(283) と、電話口に立つた。私は内心女の來ないのを祈り出した。女が來た所で、何うせ電車や往來で澤山見受けるやうな愚ん坊なのだらう、實際そんな女に取りつかれたら慄へ上る許りだ。此の家の樣子を見て、この女主人公と話をすれば、此方の目的は完全に果せるのだ。がそんなことも言へないから、
『うまくゐて呉れゝば宜いが』
 女は獨り言をいひながら、
『とにかくお待ちなさいよ』
 女は三四軒頻りと電話をかけた。しかし、皆ゐないらしかつた。女はアメリカ人やイギリス人のよくやる舌打を重ね、
『仕樣が無いね、皆出てゐるんですよ』
『駄目かね』
『でも、一軒あるらしいの。今は居ないんどすがね。一時間ばかりすると歸るんだらうと言ふんですよ』
『心細いね』
(284)『でも仕方が無い。貴方の來る日が惡いんだから。』
 と、私を睨む眞似をした、してその眼は物を云ふてゐた。
『でも來るのを待つてゐらつしやいよ』
『待つてるかな』
『そうおしなさい』
 と、女はいそ/\と承諾を促がした。實はいろ/\聞いて見ることもあるので、女の來ない方が好都合なのである。
 女は私が待つと言ふと、
『では私、ちよいと着物を着更へて來ますから』
 と、立ち上つた。
『着物? 何もちゃく更へなくとも宜いではないか、その儘で居給へ』
『でも、これはふだん着ですから』
 と、女は恐縮するやうに、
『今私は寢る所だつたのですよ。客もありませんし、それに女だつてゐませんから。所へ貴方が見(285)えたんですから着物も何にもふだんの儘なのですよ』
 私はこの女も人並に春賣る氣があるのかと思ふと内心可笑しくなつた。女は寢室に入つて行つた。室には最前から十七ばかりの黒人の女中が一人ゐた。
 間もなく女は黒地の腰から裾へかけて銀色に光つてゐる、可成り綺麗な着物を着て出て來た。然しその銀色は鐵屑であつた。
『馬鹿に綺麗な着物だね』
 女は嬉しさうに、
『あら、そんなに綺麗ですか』
 と笑つた。笑顔を見ると女らしい優さしみが感じられる。何處の國も同じで女はおだてるに限る。
『なか/\よく出來てゐる。ほんとによく似合ふ』
『妾は此の着物が好きなんです』
『非常に美人に見えるよ』
 と、私はからかつてみた。
『有難う。お禮を申します』
(286)『君が居れば外の女は來なくともいゝよ。一つ君がお相手になつて呉れないか』
『あら』
 と、女は慌てゝ打消し、
『妾の夫は鐵道に出てゐるんです。私はこれでも夫があるんです。だから商賣することは到庭出來ないのです。それに私の主人は格別嚴ましやなんですから』
 女が大眞面目なので、私は尠からず驚き、
『それは濟まないことを言つた』
『お氣の毒ですね』
 と、女は品を作つて、客をそらさぬ樣に愛嬌を見せた。
『貴方はお酒は上らないのですか』
『うむ。飲むよ』
 こうした場所では酒か何か飲みものを奢るのが習慣になつてゐる。
『何をのみますか』
 ほんとうを言ふと其時はのみ度くは無かつたが習慣だから『何か甘い飲物でもあつたら持て來て呉(287)れ』
 女は早速下女を買ひに出した。そして、下女が買つて來るとそれをコツプに注いで私の前と自分の前に置き下女にも與へ。
 暫くすると、だしぬけに女は、
『貴女、ダンスしませうか』
 私は實はこまつた、
『ダンスは知らない。』
『知らなくとも大丈夫です。ね、やりませう』
『出來ないから駄目だ』
『大丈夫です。簡單なのですから』
 と、女は熱心に、
『妾が教えて上げますから』
 まゝよと私も元氣に、
『では踊らうか』
(288)『えゝ、踊りませう』
 女は私の手を取つた。どんな風にして踊るのかと思つたら、別に踊りその者に意味があつたのでは無い。たゞ女が商賣上手で私を逃がすまいとする努力に過ぎないらしかつた。踊りはなか/\跳發的で、女は身體を私にぴたりとくつつけると、慾情をそゝるやうにいろ/\手段を弄する。畢竟こんな風なことをして、女の來るまで客を歸さない思惑であるらしい。私もその商賣上手には少し感心したが、大體樣子が分つてしまへば何も女が來る迄愚圖ついてゐるには當らないので、急に時計を出して眺めた。
『もう歸らねばならない』
 女は驚き、
『歸るのですか』
『約束の時間が來たから歸らなくてはならない』
『まあ』
 と、女はます/\驚く。
『また來る。今日は歸る』
(289)『女は直きに來ますよ』
『それ迄待つてはゐられない。また直ぐ遊びに來るから』
『何日來ますか』
『それは分らない』
『明日來ますか』
『明日は來られない』
『あさつては來ますか』
 わたしが首肯くと、
『では明後日ですよ。屹度ですよ』
 と,堅く念を押す。
 勘定となると飲物の値段は一杯七十セントであるから三杯で四圓二十錢である。一瓶二十セントもするやつを買つて來て慥らえればゆうに二十杯は出來る代物である。こんなことでもして儲けてゐるに違ひなかつた。蓋し女の内職としては單に金を儲ける點から言へば、うまい商賣だ。こうした黒人の家が町には四五軒あつた。可成り金をためてるのもある。
 
(290)     丁抹と威諾と西班の女あさり
 
 デンマークへはハンブルグかられ汽車で渡る。首府のコツペンハーゲンへ行くには汽車を其まゝ汽船に積んで運ぶ。これは非常に便利だ。早く日本も關門海峽其他でこれを實行したら旅客は大助かりだらう。
 コツペンハーゲンでは美しい燒物が出來る。小鳥とか、犬とか馬とか言つたやうに色々あるがボカシの技術が如何にもよく出來てゐる。非常に高價なもので、昨今世界の大都市に盛んに流行し出した。味はへば味はふ程味の出るやきものだ。私も一つ買つて來た。
 コツペンハーゲンの目拔の場所である所謂銀座通りには女が出没する。女の男をつかまへる有樣は大して他の國と違ひは無い。ともかく日本人が少ないせいか、ロンドンみたいに日本人專門の女は無い。往來で女を見受けたら、此方で合圖をすれば、女の方でも大概は之に應ずる。瓢客專門の『ホテル』の有樣なども英國、ドイツあたりと殆んど變らない。かうした制度は歐洲共通のものである。
 デンマークからノールウエーに入つて首府のオスロに行く。オスロはもとクリヤチヤニヤと呼ば(291)れてゐた。最近名を變へたのだ。此處へ着いたのが九時頃で、ホテルへ着くと直ぐ飛出して女の見物に出掛けた。十時頃だつたらう。
 此の街で感じたことは美人が多いことだ。此町はロンドンや、パリーの樣に美しいシヨウウインドが澤山あるわけでもないのに夜目拔の場所に人が澤山出て居て、何をするんでもなく往來をぞろ/\歩いてゐる。町の到る所、活動寫眞館の前で、青年が女をひやかしてゐる。
 女も澤山うろついてゐた。私も此の國の人と同じやうに、うろついて見た。三四人の女が向ふから歩いて來た。私の前には一人の男が何か用あり氣に、急ぎ足で歩いて行つたが、女の中の眞中の女に帽子を取つておじぎし、眞中を突
〔写真有り、説明なし〕
(292)き切るやうにしてどん/\歩いて行つた。それを見ると四人の女は笑ひ出して逃げるやうにチヨツト振り返つて行き過ぎてしまつた。男は微笑して平氣で歩き出した。令孃達を春を賣る女と間違へたらしい。
 實際見誤ることがあるのも無理では無い。服裝から何から職業婦人と町の令孃とは少しも違はぬから歐米では妻君と娘と職業婦人とが日本程服裝其他では分らない。がその日本も近頃はだん/\變つて來て、下町のおかみさんでも黒襟や丸まげをやめて『ハイカラ』に結ふ人も出來女中さんでもハイカラになつてお召の着物などを着てゐる。少し貴品のある人になると、令孃と間違へるやうな場合が少なくない。職業婦人もなか/\贅澤になつて來て區別出來ない程ハイカラになつた。職業や階級に從つて衣服の相違を教訓するのは十九世紀の事である。もともと區別があつて區別をつけるのではない。生れた家の富の程度によつて名前が違ふとは面白い社會ではないか。
 私は男の後姿を眺めて居たが、女あさりらしい樣子が見えたので、尾行してやれとばかり、直ぐ踵を接してつけて見た。所が男の足は中々に早い。途中で女に會つてもこれと思はぬためか合圖をしようとしない。
 男は行つたり來たり人の混雜して居る町角で、それとなく女を物色して居た。そこへ色の眞白な(293)赤い帽子をかぶつた美人が通りかゝつた。男はそばに寄り帽子を取らずに何か言葉を掛けた。女もそれに應じて返事をしたらしかつたが、二人は直ぐに道の横へ入つて立ち話をし出した。それが交渉の開始らしく、ものの二分もふざけ乍ら話し込んで居たが談判不調に終つたらしく、ウロ/\と又男は歩き出した。それから少し尾行して見たが別に土地の男でも變つた方法を持つて居るのでない事をたしかめたから一人で歩くことにした。一體歐洲を通じて男の合圖には何れの國でも變つた方法はないのである。
 或る町角へ出た。とそこはひるは花賣りの屋たい店の澤山出る小さい廣場であつたが、女が立つて居た。で、ドイツ語で話しかけてみた。
『ホテルへ行きませう』
 と、女は誘ふた。私は、いい加減にして逃げた。
 また次の女に同じことを聞くと、同じ返事をした。
 オスロは實に美人に富んでゐる。が、言葉が自由で無かつたのが惜しかつた。英語、ドイツ語を話すのは尠なかつた。それに外國人が少ないせいか偏見に捉はれて居て、外人を相手にしない女の方が多い。彼女等の重な相手は白人の青年である。私もかなりぶらついて樣子を見屆けたが、相當(294)に老人も女を物色に出て居る。老人と言つても五十出た位で、それ/”\女に交渉してゐる姿を度々見受けた。そんなのには獨身者が多い。
 オスロは寒い國だけあつて、こうした女でも皆毛皮の外套を着てゐる。私が行つた時は九月の末だが、可成り寒かつた。ちやうどデンマークからオスロに渡る間の汽車の山道は一面に紅葉してゐて、箱根のやうに美しかつた。スウエーデン、ノールウエーの秋は歐洲の名物の一つになつてゐるから相當に旅行者も多い。
 寒い國だけあつて毛皮を買ふならオスロに行くと安くていゝ物が手に入る。
 尾行の話で思ひ出したがスペイン第一の港、バルセロナで日本大使館から歸りの事であつた、例の通り女見物に取かゝつて何か變つた事もがなと、うの目鷹の目で見て居ると夕方の六時頃であつた。中央に並木のある大通公園から港の方へ少し下つて行くと其右側に一番賑やかな通りがある。其の通りを水色の洋服をきた事務員風の斷髪美人が歩いて居た、すると向ふから水兵が來て女とすれ違つたと思ふと何を思ふたか、ふと立止つて其の女を見送つて居たが、やがてまたきびすをめぐらして又きた方へ歸つた。きつと女をつけるのだと思ふたから私は水兵の尾行をした。すると水兵はやがて其女に追ひついて其の女の顔をのぞき込んだ、勿論女は氣がついた樣子であつたが、然し女は(295)一向平氣で歩いて行つた、少し行くと女は何の爲めか廻らなくてもよい細い裏通を廻つて急ぎ歩でいつた。細い道を曲つたりくねつたりして、やゝしばらく行つて少し人通りの少ない通りへ出ると又水兵が追ひ付いて顔をのぞき込んで、何か言葉をかけたが知らぬ顔をして行つてしまつた。氣の毒に水兵はしほしほと又もと來た道を歸つて行つた。スペインの水兵服が目立つたからスペイン人の女あさりの行動がはつきろ分つたのであるが 此都では斯うして工場の歸りや何かに夫々適當な女をつかまへる風があるのである。風紀の亂れたスペインに昔の繁榮のないのも無理はない。
 
       ロンドンの或ステノグラハー
 
 ステノグラハーと言ふのは日本で言ふと文章を作り、それをタイプライターで打つ者のことで非常に便利であるから、忙しい實業家やアメリカの大きいホテルではこれを雇つてゐる。タイピストは單にタイプライターを打つだけであるがステノグラはーは文章も作るところから、學問もあり教養もある。
 世間では英國とドイツの女は世話女房であると言つてゐるからその眞相を確かめやうと、友人の紹介で或ステノグラハーを案内人として、二人でロンドンから五六時間で行けるイーストボンと云(296)ふ有名な海水浴場へ行つた。こうした女の性質や動作を見やうと思ふたのである。切符を買つたり食事をしたり其他いろ/\のことをするところを詳細に見て、金ばかりに目をつけるか或は世話女房振りを發揮するか、何うかを興味を持つて確かめようとしたのである。
 イースト、ボンにホテルがある。そこで中食をすることにした。すると、モーニングを着たマネージヤーが來て、特別に
『食物は如何ですか。不都合はありませんかと、丁嚀に取あつかふ。英國では婦人が居るとその婦人が何んな身分の者で有つても鄭重である。日本人が一人で行くと、餘程ボーイにチツプでもやらなければ、お世辭を言はない。
〔写真、此の話の主人公〕
(297) 三時になると海岸へお茶を呑みに行つた。海の見はらしのいゝカツフヱである。元來英國では三時にお茶を殆んどすべての所で出す。日本のおやつの如きもので、事務所や銀行、會社あたりでも出す。英國のタイピスト、其他薄給な勤人は給料が少なくて生活が困難である、爲に晝飯を儉約して、極端なのになると林檎一つ位で濟ます、そして、三時には會社から茶とトースト位出すから、それでおなかをつなぐ。そんな悲慘なことをしてゐるのが多い。歐洲大戰後英國の疲弊は甚だしい。從つて給料も安い。歐洲のサラリーマンは惠まれてをらぬ。
 女は日本と同じやうにお菓子を取つたり、砂糖を入れたりして世話をする。コーヒーを呑んで居ると女があやまつて同席の見知らぬ紳士にミルクをかけてしまつた。一眼見れば此の女が職業婦人であることは分かのであるが、紳士は頗る丁嚀に、レデイーに對して禮を失はぬ態度で、
『心配はありません、構ひませんよ』
 と、言ふ。私は日本式に、自分の同伴の女が不始末をしたのであるから、
『甚だお氣の毒でした』
 と、言つた。すると紳士も女も殆んど同時に異口同音に、
『貴女がしたのではない。決して構はない』
(298) 女はなをも加へて、
『貴女が惡いのではないからあやまる必要はありません』
 と、言ふ。私は異樣に感じた。彼等の間には個人主義が徹底して居て、自分のしたことと他人の行爲との差別をつける。日本と甚しく異なる所である。
 その店の下で菓子を賣つて居る。酒が菓子の中に入つてゐるので、定まつた時間以外には賣らない。英國では酒を賣る時間が定まつてゐるのだ。日曜日は四時から夜の十一時迄しか賣らない。四時十五分前だつたから、ためしに其店でウイスキーの入つてあるボン/\を賣つて呉れと聞いて見ると、時間外であると言つて、何うしても賣らない。英國人の物堅いのには敬意を表する。
 歸り路は自動車を走らすことにした。可成長くかゝる。で、息をつかせる場所がある。其處には田舍の婆さんがダリヤや其他の草花を賣つてゐる。それに田舍の新しい卵を賣つて居る。それを見ると女は、
『此の田舍の卵はロンドンのより新しくて安い。私は郊外に出る度にこれを買ふことにして居るから一ダース買つて行く』
『何うする。それを買つて』
(299)『朝ボイルドエツグにして食べてあとは料理に使ひます』
 肉でも新しくて安いのを見ると買つて行く。歐米の女は思つたより經濟的である。彼等の毎日の食事も沢山血數を食ふと聞いてゐたが、そんなことはない。主食物はバンとコーヒーである。歐米の女は一體生活につましい。女は日本ばかりではない歐米でも皆世話女房である。これは女の共通點であらう。米國の女は何を云ふても一番さつびらを切る、そして着物や裝飾、旅行や遊びや芝居に金をつかう。然しそれも日本人が考へる程ではない、尤もブルジヨアの婦人は何處の國でも違ひはない。ブルジヨアの女達が世の中の一番のごくつぶしであらう。
 
     洗滌器の失敗 (一箇所抹削)
 
 アメリカ、イギリスに限らず、歐米一般にホテルの戸は閉める時は鍵を用ひないで開ける時だけに用ひるやうな作りが多い。日本人の或る夫婦が、イギリスのグランド・セントラル・ホテルへ泊つた。そして妻君が夜中に便所に起きたのだ。餘程はづんだせいか急いで飛出して行つて、廊下の共同便所へ行つた。此の室には風呂場が無いので便所が無かつたのである。
 用を濟まして妻君が戸を開けやうとするとしまつたことには鍵を忘れて飛び出したから鍵が無(300)い。どうしても戸を開けることが出來ない。妻君は途方に暮れて、ノツクはして見たが眠り込んだ夫はなか/\起きさうにも見えない。眞夜中のことで、日本の着物それもゆかたを寢卷に着た妻君は困り果てた。幾ら叩いても夫は起きない。階下に行つて合鍵を借りるにも夜中のことで、おまけに寢卷の婆である。思案に暮れて、それでも叩きつゞけて一時間も立ち通しでゐた。やつとのことで夫が眼を醒まして無事に室に入ることが出來た。
 眠いところを起された夫はぶつ/\言ひ乍ら入れちがひに便所へ行つた。歸つて見ると戸が開かない。開かないも道理鍵を忘れて出たのだ。戸を叩いたが今度は妻君なか/\起きない。二十分もガタ/\慄へ乍ら戸を打ちつゞけてやつとは入れたとは笑ひ話の種である。
       婦人の洗滌器
 フランスのホテルには如何なる室にも〇〇〇〇〇を洗滌する特別の裝置がある。便所の有無に拘らず、これだけは必ず有る。
 フランスのホテルに必要な婦人の設備の一つになつてゐる、形はいろ/\あるが白い瀬戸物で出來てゐる。大きさは便器より低く、自働裝置の便所より小形でひやうたん形をしてゐる。ねじると温かい湯と水とが出る。それを適宜に調合して洗滌するのだ。巧妙に出來てゐるものは一つのねじを(301)ひねると、噴水のやうに湯と、水とが飛び上つて洗滌が便利に出來る。普通これは小便には用ふることもある。
 所が日本人で初めて旅行して、初めて此の裝置を見た某市の技師が、何うしてもこれが判斷出來ない。結局大便壺と思ひ込んで大便をしてしまつた。いざ流さうとなると穴が細くて流れない。大きい穴がないから流れない。湯を出しても一杯になるばかりで途方に暮れてしまつた。箸をさがして見たが有り得やう道理が無い。やつと智惠を絞つた揚句、大切な鉛筆を持つて來て、穴を突つき分解してやつと流した。三十分間以上もかゝつてやつと一仕末をしたのだ。
 後でボーイが來た時、
『これは何にするんだね』
 と、聞いて見ると、ボーイは唯だ笑つて行き過ぎてしまつた。
 これは新聞の某主筆のことであるが、初めてこれを見た時、何に使ふのかと頭をひねつた。揚句やつと智惠が出てハンカチ洗ひの道具だらうと合點した。で、洗滌しやうと湯を出したが、低くて洗ひにくい。諦めて到頭湯を流してしまつた。と云ふ珍談がある。佛蘭西へ行く人は御用心!!!こうした特別の設備ならいざ知らず、今日では外國へ旅行をして昔の樣に赤毛布はしたくても出來(302)ぬ。凡ての設備はもう日本にある、實は日本にまだないものをと思ふて隨分さがして見たが殆んど見當らなかつた、歐米で赤毛布をする人は不注意な人か、日本のホテル其他でも失敗をする人に相違ない
 
     世界に一つの酒と女の町
 
 世界にはいろ/\と特徴のある市や町がある。文化が進むに從つて分業の法則が都市に迄おし廣められてきて都市が各々其の特色によつて、工業都市とか商業都市とか貿易の都市とかはつきり岐れる樣になる。例へば絹織物のリオンとか、葡萄酒で名の有るボルドーとか、或は刃物で有名な『シエフイールド』とか、或は又近代の海水浴や温泉等の所謂保健の爲めに發展した都市もある。しかし酒と女とばくちを特色として、存在して居る町は廣い世界にも恐らく類がないであらう。都市の行政經濟を調べ夜の副業に賣春婦の研究を目的とした私には、是非一度參考の爲めに見て置く必要があつたので、遙々『メキシコの國境迄出かけて行つた。アメリカの國境から約二哩ばかりの所に『メキシコ』の『チヴアナ』といふ小さな町がある。此の町は全く『アメリカ』の酒と女を賣ることを嚴禁した爲めに出きた道樂町で、『アメリカ』人の爲めに存在し、又繁榮してゐるのであ(303)る。國境には兩國の税關があつて出入するものを檢査して居るが、酒に對しては殊に嚴重である。此の『チヴアナ』の町の兩側には一面にバーが並んで居る。バーは申合せた樣に奥行が間口よりづつと廣く奧迄酒場の『スタンド』が並んで居る。獨逸のミユンヘンには世界で一番大きいカツフヱーがある。これと對立して長い方では此處であらう。世界で一番長いバーだと彼等が意張つて繪はがきに迄して居る。そこらには春賣る女がひるひなかゝらチラホラ出入して居る。極氣輕なのも、陽氣なのも、品よくして居るのもある。此のバーの反對側にはバクチ場があつて、テーブルが置いてある。中には二階にばくち場のあるのも、又『ダンスホール』のあるのもある。例の酒場の眞鍮の棒に足をかけて飲んで居る男や女にやがて世の中がバラ色に見
〔写真、メキシコ人が誇る世界第一の長いバー〕
(304)え出すと妥協が始まり、手に手をくんで或はダンスに或は暗の方へ姿を消してゆく。
 日本でも昔から、打つ飲む買ふと所謂三拍子そろつた者を資格がそろつた道樂者と云ふて居るが此の町は道樂町の世界的有資格者である、數十軒のバーが軒を並べて風紀を紊して居る。こんな町は世界にまたとあるまい。然しあんまり大きな事もいへまい、日本には大厦高樓が軒を並べて居る遊廓と云ふ立派な所があるから。『アメリカ』の禁酒はいゝかげんなものだと、よく無責任に皮相の感を述べる者があるがそれは非常な誤解である。成る程ブルジヨアの宴會では酒は付きものであると云ふが、然し米國一億の人の手には酒はそう容易に入らぬ。米國の禁酒が米國青年の飲酒の弊風を矯め濫費を防止して居ることは非常なものだ。日本でも是非やりたいものだが日本の政府と國民には到底出來ない相談であらう、此の意味に於て。フーバーが大統領に當選して、スミスの落選したことはアメリカ將來の爲めに大いに賀すべきである。切角出來た禁酒を破る政治家などは永遠に葬つてしまはねばならぬ。世界の人間から無駄な酒と煙草を取り去つたならそれこそ眞の世界的經濟が實現せらるゝことになる。世界共通の無駄と云ふたら此の兩大關の右に出ずるものは恐らくあるまい。誰れか世界的運動を起す人はなからうか。
 
(305)     金髪婦人からの誘惑の數々 (一箇所抹削)
 
 歐羅巴を旅行する人の話に外國には時々淫奔な女が居て面白いといふことである。事實は殆んど例外である。稀にはさうした話もあるだらうが、それを普通と思つたら大間違である。決して外國人は淫奔では無い。結婚してからの女は大概男を持つてゐると、よく言はれてゐるが、多くの中にはそうした女も居やうが、普通そうした婦人は尠ない。日本でも新聞種になる貴婦人が相當にあるのと少しも相違はない。近頃の米國の離婚に可成そうした原因がある樣に云ふが、女の性質には根本から非常な相違のあるものではない、女には性的道徳觀のあるものである。
 元來婦人の亂れたやうに言ふのは婦人の先天性を理解しない考へちがひである。變な男が日本にもボツ/\あるにはある。最近丸ビルで或る貴族の令夫人が、一見相當の紳士から小さな聲で、いきなり傍に來て聞くに絶へぬ露骨な言葉をさゝやかれて喫驚して逃げ出したといふ實話を聞いた。又電車の中に腰かけて居ると、
『これから二人で遊びに行きませう。』
 と、小さい聲で話しかけた洋服のみなり〔三字傍点〕卑しくない紳士が居た。之は私の家内の經驗であるが其(306)他澤山私の知つて居る問題の實話がある。そうした男は色魔と言ふより考方が違つて居るのだ。尤も相手が變態性であれば例外的に應ずる場合が無いでもない。然し犬も歩けば棒に當る位のものだ。
 餘程前のことであるが、今から二十年も前のこと、オーストリヤの或る婦人が、年頃は五十ばかりであつたが、日本を一人で漫遊してゐた。夫は家に居たのだ。その婦人は東京へ來ると上野の精養軒に泊つた。そしてふとしたことから或る大學生と知り合ひ、大學生に遊びに來るやうにと言つた。大學生は英語の會話の練習のつもりで遊びに行つた。所が意外の歡待を受け、食事の馳走にあづかるばかりでなく、酒も勸められた。その婦人も酒は好きだと見えて、したゝか飲んで陶然とした。食後部屋に歸つて話をすると、頻りに婦人は學生に挑むのである。其後學生は面白半分に友達を連れて遊びに行つた。それは名前は明されないが、今は二人とも相當な名士である。その女は金のあるに任せて世界を性欲旅行してゐるのである。世界の男を征服しやうとしてゐるので、もとより變態性慾者であるから所謂例外の例外だ。
 次にこれはロンドンで逢つた某醫學士に關する話であるが、眞實であるか何うかも保證の限りで無い。ライプチツヒの町に此醫學土が病院を見學に行つた時のことである。その途中の電車の中で向ひ側に坐つた綺麗な女が居た。それが頻りに自分の顔を見て居るので變な女だと此方も頻りに見(307)返しはした。所が電車を降りると、その女も續いて降りて後から隨いて來るのだ。
 病院へ來て、院長に紹介状を出して、取次を待つ間、廊下にある椅子に腰を掛けて待つてゐるとその女も廊下をウロ/\歩いて、何をするとも無しに、醫學士の顔を見る。變な女も居るものと、考へて居る内に三川回視線が合ふ。水心に魚心、食指動いたものか、
『貴女は私に何か用でもあるんですか。』
 と、醫學士は問ふて見た。女はそれに答へやうとはせずに側に來て、
『貴方は何の爲めに此處へ來たの』
 と、あべこべに問ひ返す、
『實は私はドイツに三年間留學して居た。今度日本へ歸るに當つて、方々の病院を見學して居るのですが此の病院へも見學に來たので、これから院長lこ會ふ所です』
『では見學が濟んだら一緒に散歩しないこと?』
『宜しい』
 その道にかけては猛者である某醫學士は喜んで約束した。そして病院の見學をそこ/\に濟ませると、女と連れ立つて歩き出した。
(308)『ホテルへ行かう』
 と、女が誘つたので、早速、
『行かう』
 と、承知して、二人で泊つた。醫學士は金を取られるかと内心ひや/\して居たが、一向女はそれを要求しない。そして、
『あしたも一緒に遊ばう。』
 と、約束すると女はさつさと別れて行つてしまつた。氣味の惡い女だとは思つたが醫學士も滿更惡い氣持はしなかつた。
 翌日更に會ふと、醫學士は自分のロンドン行の切符が期限が切れるから、此地に留つて居ることは出來ない。次の日は何うしても別れなければならぬと告げて、其日も一緒にホテルへ泊つた。そして二人は別れた。
 その女は何でも美容院に勤めて居るとのことであつた。ドイツあたりでは、こうした獨身の女は自國の者とかゝり合ふと後が面倒になるので、旅の外國人を捉へたのだといふことである。しかし話のやうな話で、眞否の程は分らない。眞實であつてもそれは例外の例外だ。
(309) 或る人が英國で或る相當の婦人に逢つた。その婦人が何かしら度々此方を意味あり氣に見るのでこつちから話しかけると、待つてゐたとばかりに話をし出した。その中、
『私の家へ遊びに來ないか』
 と、言ひ、
『私の家には日本の寫眞がいろ/\ある。それを見て貰ひ度い』
 と、頗る熱心に勸めるので、其人も何んな處かと行く氣になつた。途中で婦人と一しよにレストラントで食事を取つた。其人は勿論御馳走になつた。
 先方の家へ行くと女中も一人居て、何う見ても中以上の暮しである。始めは辻君の高等な奴だと思つて、たかをくゝつて居たのだが、どうやらそうでも無いらしいので、薄氣味惡く感じ始めた。
 コーヒーや酒を出して、いろ/\鄭重にもてなす。その立居振舞は何うしても上流階級に屬して居る婦人であるらしい。何うなるものか乘りかゝつた船だと許り、其人も腹を定めて、大膽に其家へ泊つた。朝起きて見ると婦人は既に居ない。
『先に起きたと見えるな』
 と、其人も今に來るだらうと待つてゐると、一向に來る樣子が無い、着物など着更へて居ると、(310)女中がノツクして入つて來た。そして、
『御食事て御座います。』
と、言ふ。案内されて食堂へ行つて見ると、其處にも婦人は見えなかつた。女中一人きりである。夫れらしい人影は見えない。女中の言ふには、奥樣は用事があつて朝早く外出なさいまして明日も或は歸つて來ることが出來ないかも知れないから、貴方には御飯を差上げて、此の事を傳へて呉れとのことでございますと云ふ。そして、
『貴方にこれをお歸りの時に差上げて呉れと申されました。』
 と、包紙に包んだ物を差出した。妙なこともあるものだと思ひ乍ら、金は一文も取られずそれに朝飯は御馳走になり、何んだか知らぬが兎に角を土産まで貰ふとはこんな旨いことは無いと、急いで飛出して家へ歸つた。そして、何だらうと包みを明けて見ると、それは昨夜婦人と一緒に着て寢た自分の寢卷であつた。寢卷と言つても新しい上物である。それにチヨコレートの箱が入つて居た。
 これは相當の地位になる婦人が、空閨の淋しさを癒やさんがために、見ず知らずの日本人を連れ込んだと解すべきであるが、もとより何處まで事實として受け取つてよいか分らない。若し事實と(311)しても千に三つもないことだ。斯うした氣で外國婦人を見たらそれこそ大間違である。
 マルセイユで聞いた話だが、歐洲戰爭當時に夫が戰場に出たために、空閨を守つて淋しい妻君連が、船の着くのを待つてゝ、上陸する日本人を捉へては、
『私は日本が好き。かたきのドイツを打ち懲らして呉れたから。』
 と、頗る歡迎して、御馳走したり、酒をを飲ましたり、    して呉れた。こうした話は澤山聞いたことがある。特に私がその方面の調査をするのを知つて、わざ/\知らして呉れたものもあつた。それをついでにも一つ書いて見やう。
 アメリカのニユーヨークでは、或る人が面白いからと言つて、次のやうな話をして呉れた。
 其人はニユーヨークの或る商品の地方委託販賣に從事して居て、日本の或る會社の支店に出入りして居た。地方を歩いてゐる時、或る田舍の宿屋のチヱンバーメイドにすかれて其處に泊つて居る一週間の間、非常に歡待せられた。勿論女は慾や得でかゝつて居るのでは無かつた。で、一週間目に別れる時、定めし女は惜しむであらうと、自惚れて期待して居ると、女はまるで今迄のことは忘れてしまつたやうな冷淡な顔をして、其人を送り出した。アメリカには單に性の滿足の目的のために、こうした女が澤山居る。其の男が自動車を買ふてから一層、そうした女の相手が幾人も出來た(312)と言つてゐた。何うもこれもおかしな話で、一向に信じ切れないが、そんなことも廣い世の中とかづ多い女のことであるから稀には小説的に起るかも知れない。しかし、それだからと言つてどの女を見てもそうしたことをすると思つては飛んだ失敗に終るのは言ふ迄も無い。世の中には話と云ふことが澤山あり過ぎて困るが青年は人の話と實際とをよくかみ分けねばならぬ。之れは獨り婦人の關係ばかりではない世渡りの萬事にこうした話が中々あるものである。
 
     外國の遊廓
 
 公娼の制度は各國ともに古い沿革を有するものである。現在公娼制度を有するのは決して日本ばかりではない。歐洲にも澤山ある。米國と英國は鈍然たる廢娼國てあるが、佛蘭西、獨逸を始め、歐洲の殆んど凡ての國は娼婦の登録制度を採用して居る。即ち日本の樣に遊廓を許して居るのは、佛、獨、伊、墺、西班牙、ハンガリヤ、スイス(但しゼネバに一軒)の諸國である。
 然し此等の國は、何れも集娼制度を採つて居らぬのみならず、家の數も越めて少ない。日本の樣に、幾百軒も軒を並べた大厦高樓の盛觀は見られぬ。これは恐らく誇りにならぬ東洋の名物であらう。香港も其の一つである。そして各國共に遊廓は檢黴の制度を行ふてゐる。英國も今は廢娼國で(313)あるが、一八六四年ビクトリア女皇の時代に公娼制度を設けた。然しその後盛んな反對運動が繼續せられて、遂に一八八六年に廢止せられてしまつて以來私娼全盛國になつたのだ。丁抹も一九〇六年に公娼制度を廢止した。日本に次で娼家の多いのは花の都の『パリー』であるが、近來は次第に減少しつゝある。以前は巴里に四五百軒もあつたが、現今では最早や三四十軒になつてしまつた。その代りに街娼が多くなつてきた。公娼は十八歳以上で鑑札を所持して居る。客引についても、丁年未滿の男子を誘引してはならぬとか、種々な取締があるが實際には勵行されて居らぬ。この外に街頭を歩く私娼は萬を超えて、殊に巴里のマンモートルの如きは非常なものである。取締はロンドンを始め其の他の大都市と同樣非常に寛大なもので、放任主義と云ふても差支あるまい。パリーでもロンドンでも同じ通を二三回も往復すれば、公娼か私娼かは知らぬが、鬼に角娼婦とみられてもしかたがないとされてゐる。又夜十時過に女連れで歩いて居れば、娼婦と間違へられても怒ることは出來ぬとされてゐる。
 何んと云ふても、女の享樂の一番發達して居て面白いのはパリーであらう。世界で一番安いのも又、パリーである。殊にそれにつきものゝタクシーとシヤンパンと葡萄酒が世界で一番安い。巴里は遊蕩兒のパラダイスである。然しパリージヤンの感心なことは、外國人を遊ばせても自分達は決し(314)て遊ばぬことである。
 
     善美を盡した巴里の娼家巡り (四箇所抹削)
 
 彼のジヤンジヤツク・ルツソーがパリーを痛罵して、
『此のパリーの都は奢侈と腐敗の生産地であり、又人間の欲望が無限の刺戟によつて興奮せられるのも此處で、歡樂のあらゆる種類が相和して沸騰するのも亦此處である』
 と、言つてゐる。そのパリーも今では昔のやうに盛んでは無いが、矢張り世界第一の歡樂の都と言へばどうしても、パリーを擧げねばならない。パリーも大通りには非常に澤山の辻君が出没する。しかしロンドン程ではない。相場は五十フランから百フランの間で相對相場である。その外にホテル代を拂はなければならない。ホテルは別に他の國と違つた所はない。私娼の外に公然鑑札を持つてゐる公娼がある。公娼と云ふと日本の遊廓を連想するかも知れないが、日本のそれのやうなものとは全然違ふ。鑑札を受けてゐるといふに過ぎない。女は全然自由でその家の女主人に室代を支拂ふ丈けである。こうした家は電話帳などには明瞭に家の名前が出てゐる。然し以前には酒屋などとして職業別電話帳には載せられた。その中で日本の旅行者のみならず、各國の人が一度は見物に行(315)く所で有名なハウス・オブ・オールネーシヨンといふ家がある。堂々たる構への家で、間口は四間位ある。淋しい町並の、人通りの少ない所にある。近所に商店はなく大概事務所らしい家ばかりである。
     一、一軒の娼家で各國の情緒
 パリーに行つた外國人が、必ず見て來る名物がある。パリーの株式取引所から程遠からぬシヤバネ通りの十二番館である。近所は皆事務所の樣な大きな建物ばかりで、夜は極寂しいうす暗い所であるが、その内に一軒かなり大きな構への家がある。ドアーを開けて入ると先づ目に付くのは、洞窟の構造があつて、洞の内には紅蓮の焔が燃えて居る樣に造られてゐることである。正面には大理石の裸女の像があり又その側には鐵の柱に鎖が卷きつけてある。これは變態性慾者の爲めに設けられたものだ。其處を奧へ廻ると、主婦の家があつてデツプリ肥つた四十前後の色の白い女が居る。二階三階四階は何れも英
〔写真、「クリスタルパレス」の廣告用の名刺 名前の下に一寸數寄と特別の魅力を有する説明を付けてゐる此の案内は英語で書いてあるのを見ても如何に外人の爲めに用意されてあるかを知るであらう「マダム」は流暢な英語と獨逸語が出來る〕
(316)國、佛蘭西、白耳義、印度、埃及、露西亞、西班牙、日本と云つた樣に、各國の裝飾をした室が澤山ある。何れも華美をつくしたもので、ダブルベツドがあつて上には美しい覆ひがかけてあつた、各室とも隣には必ずタイルのモザイツクで張られた浴室と便所がついてゐる。日本の室は藤色の絹に花鳥を刺繍した美しいカーテンがかけてあつて壁には人力車の畫なども書いてあつた。こういふ風に夫々各國の特色と氣分とを見せて非常に綺麗に飾られて居る。
     二、ウイスキーの風呂、鑑の部屋
 殊に案内の女が説明するのは英國の某  の爲めに造つたと云ふ艶麗な室で、佛國ベルサイユの宮殿の寢台を模ねて造り壁畫や寢台も實に華美に出來て、流石はフランスだと思はせる。又某  がウイスキーの湯を沸かして入つたと云はれる湯殿も見せる。案内の婦人は二人程居るが、一人は非常な美人で佛蘭西式の黒い衣服を着て勿論斷髪をしてゐたが、仲々上品でフランス美人の代表者の樣に見えた。此うした
〔写真、パリーのハウスオブオールネーシヨンの廣告名刺英語で書いてあることを前のと同樣注意して下さい〕
(317)家の女將や女は大方娼婦の上りである。見物する丈けで四十法即ち三圓二三十錢とる。
 それがすむと、周圍を鏡で張りつめ燃える樣な緋のカーペツトの敷いてある大きな美しい室へ案内する。幾百燭光の電燈が周圍の鏡に亂射して、實に目ばゆいばかりに美しい室である。やがて腰に赤や青や緑の極うすい絹布を纒ふた女が、裸體で次から次と十人程入つて來る。希望によつてはダンスをする。ダンスをすればこうした家の習慣としてシヤンパンを拔かされる。町で買へば三十法位のものを六十法から百法もとる。其の中の氣に入つた女を撰んで、各國いづれでもお好みの室へ行くのだ。室料共で二百五十法即二十圓は要るといふ。
     三、大理石の彫像の樣なパリー女の裸體
 も一つパリーに名物がある。それはタリスタルパーレスと云ふコルベー通りにある家だ。これも一軒ぽつりんとあるが、ドアーを開けて『今晩は』と云ひ乍ら入ると、例の通り主婦が居る。海老茶色の美しいカーペツトに燦然たる電燈の光が輝く二十四五疊の廣間に通される。ソツフアーに腰をかけると、電氣仕掛で自動ビヤノが鳴り出し、裸體の女が數名しとやかに入つて來て、馴れ/\しく笑顔を見せる。やがてダンスが始まる。均整のよくとれた眞白な裸體のパリー子の姿は丸で大理石の彫刻の樣で、性的感念よりは藝術的の氣分に支配される樣な感がする。ダンスがすめば例の(318)通りシヤンパンをしきりに勸められる。日本では高くてやたらに飲めぬシヤンパンを拔くのも亦一興である。此處では性に關する活動寫眞も見せる。勿論泊ることも出來る。泊れば百五十法だそうだ。註文によつては木で出來た   の模型を持つ二人の女が       
     四、家によつて異る樣々
 或家は行くとすぐ先づ客間へ連れて行かれる。そこには肉體を出した女が二十人許りゐて、ペチヤ/\喋り立てゝゐたり、椅子にだらしなく腰を掛けてゐたりして客を待つてゐる。客の顔を見るや否や思ひ思ひに、廣い廣間の中をすばやく一人は椅子の上に飛上るかと思ふと、一人は絨緞の上に横になつて、肱を枕に横になつて見せたり、或者は腰に兩手を當てゝダンスの時のやうな身構へを見せる。そうかと思ふと、眞直に立つてゐるのもある。又壁に手を置き乍ら身體をしなはせ〔四字傍点〕て曲げて見せるのもある。
 その他いろ/\の型をして室の壁に沿ふて並び立つ。恰度活人畫を見るやうで實に美しい。吉原や洲崎の遊廓を見ると何んとも言はれぬ不愉快な氣分が起るが、パリーの公娼は美術的で誠に感じがよい。日本の娼妓は奴隷生活に疲れたやうな顔色をしてゐるが、パリーの女は生きいきして居る上に藝術的であるといふやうな感じがする。それだからパリーの美人の名が高いのであらう。
(319) 女の世話役見たいなものがゐて、どの女が氣に入つたかと聞く。美しいと思つたのを指しすると、別の室に連れて行く。室は世界各國の何れでも勝手で日本、スペイン、印度等と自分の好いた所へ行く丁度ハウス、オブ、オール、ネーシヨンと同じである。
 裸の女の中に黒人の女がゐて異彩を放つてゐた。しかし此の女は黒人でも細つそりした眠鼻立ちの整つた女であつた。
 こうした家はパリーに澤山ある。よい家だけでも三十軒以上もある。各國の室の繪を畫いたのも此の家ばかりでは無い。まだ外にもある。しかし他のは小規模で、此の家程大々的で無い。嘘か眞實かは知る由も無いが、何しろ外國の貴族が澤山くる、といふ話も傳へられる程有名なのである。
 各國の壁畫を持たずに普通の室を持つてゐる公娼の家もある。これも皆同じ設備で、皆相當な立派な室を持つてゐる。私はこうした種類の家を十數軒歩いて調べて見たが、別に大して違つた所は無かつた。
     五、變態性慾者の設備
 大きな公娼の家にはオールネイシヨンは勿論變態性慾を持つてゐる男のために特種の設備をしてゐる。オールネーシヨンには牢屋の中に入つてゐる女の人形がある。鐵の格子で圍まれてゐるのだ。(320)その人形は蝋で出來て人間の背丈位ある。またそのそばには女がしやがんでゐて、その女の尻にナイフが刺してある。そして血が流れてゐる大きな蝋細工の人形もある。又その反對の側に天井から綱が下つてゐて、先に一枚の板が吊してある。板には男を乘せるやうになつてゐて下には鞭がある。それで女になぐられたり或は女をなぐるのだ。こうして快感を覺える男もある。日本でも怒ると妻君の髪をむしる人があるが、そういふ人の中には變態性慾の爲めにする人が少なくない。此の變態性慾を滿足させるのは五十フラン、一フランは八錢だから約四圓である。こんな具合で變態性慾者のための設備は他では見られない。衛生は非常に注意してゐる。こうした家は多くフランス遊覽の外人客を主たる御客にしてゐて、世話を燒く婦人これをマダムと言つてゐるが、皆英語が出來る。ドイツ語も出來るのがゐて、中には三箇國の言葉が使へるのもある。廣告の名刺に三ケ國語が出來ると書いてあるのもある。家の前には眞鍮の表札が出てゐて、それも女名前が多い。
 一體にフランス人は金錢に對してしまつてゐるから無駄な金は費消しない。流行の中心地であるパリーは又享樂の都であるが、それは全然外國人に對してゞある。日本の遊廓のやうに自國の者を相手にしてゐるのとは違ふ。フランス人は一般に頗る勤儉貯蓄の氣風に富んでゐて、金を浪費しない。そうした方面には全くケチである。大戰後の疲弊は更にそうした氣風を助成した。
(321)     六、勞働者相手の家
 この制度は又勞慟者方面の町にもあつて、それ等は皆パリーの下級者を相手にしてゐるのである。小さいのになると二室乃至三室しか無く、極く細い梯子段を上つて行くやうな所である。しかし、何んな小さな汚ない家でも室の中は非常に美しく幾百燭光かの電燈の光りが輝いてゐて、綺麗な絨緞を敷いて、大鏡を澤山かけて、明るい愉快な裝飾を施してあるから少しも違ひはない。
 安いのになると表面は十フランからある。勿論プロレタリアを相手である。しかし、それでもチツプや何やかやと取られる。兎も角王、パリーの公娼の特徴は勞働者方面でも室も女も綺麗だといふことにある。徹底的に享樂の場所であるといふことができる。世界にパリー位徹底した享樂の都はあるまい。勞働者の方面でも他國のやうに汚ない感じは起らない。女も美人が相當にゐて、立派な肉體を所有してゐるのが多い。
     室内に春畫を飾つたポンペイの遊廓
 『ポンペイ』のうね/\横町にパン屋があつた。此のパン屋を出てすぐの町角を東の方へ行くと、『狩の屋』と云ふのがある。其の前方斜左手の横町が女郎屋町であつた。改行
(322) 道の右側に二階造りの家があつて、其所には番人が居て、鍵を開けて案内してくれる。中には小さな部屋が四五あつて粗末な寢台がある。壁には『ギリシア』語や『ラテン』語で遊蕩兒の樂書が其の昔を語つてゐた。土間の左右の壁には、五六の春畫がまだ殘つて居た。奥には便所がある。下は少しの間遊んで行く客の爲めに設けられた室で、階上は主として泊り客の爲めに使用せられたものである。二階は外の入口から入る樣に出來て居て、廊下がある。二階から女が客を呼んでゐたと云ふが、その廻廓は他の家との比較考證から、發掘後ありし當時の模樣に造り直したものである。
 これ等の女郎屋の壁畫の大部分は、今は伊太利のネープルの博物舘に陳列せられて、一咋年の春迄公開して居たが、『ムツソリニー』が『ローマ』の賣春婦の取締を嚴重にすると同時に、風教上宜しからずとして公開を禁止してしまつた。私が一昨年行つた時も閉ざされて居た。兎に角ポンペイの娼家は、『ローマ』當時の有樣を知る唯一の實證である。
     ローマ時代の公娼の家
 ローマ時代になると、專門の所謂公娼の家が現はれて來ると同時に、法律によつて私娼の取締が嚴重になつた。女と酒で不夜城のローマ時代の内で、娼婦全盛とも云ふべきは、紀元元年頃の『トラ(323)ヤヌス』帝時代であつて、全伊太利を通じて三十二萬以上に達した。『ダンサー』もあれば浴場の湯女や、我國で云ふ『かげ馬』即ち男娼を始めとして、種々樣々の公私娼があつた。
 アウグステン時代には、一流の公娼の家が四十六軒あり此の外私娼の家もあつた。公娼の家は『ルパナリア』と呼んだ。之の殘形は掘り出された『ポンペイ』の廢墟によつて明かである。最も上級なものは、當時の『ローマ』の貴族の家と同樣、中央に眞四角な噴水のある中庭をもつてをり、この中庭を取圍んで二階の室が並んでゐた。
 この室は薄ぐらく作られ、夜になると青銅の『ランプ』が點ぜられた。室によつては『ベツド』のあるのもあるが、多くは四、五のクツシヨンが置いてあるばかりである。中には、蓆の上にきたないよごれた敷布をしいただけのもあつた。其の室の前には女の名前と値段のかいた札がかけてある。其の反對側には室の使用中と云ふ札がかけられる。家の入口の戸には、目じるしに暗示の畫や大理石の彫刻が置いてあつた。此の樣子は、掘り出されたポンペイの殘骸によつて想像できる。
 
     女の同性愛のカフエー
 
 ドイツ人はなか/\生活把は堅實であるが、性慾の方面には發達振りを示してゐる。巴里が最も(324)其方面の第一流と目されて居るが、ドイツの實質は決して巴里のそれに劣つては居ない。たゞ巴里は遊覽客を相手に極端な眞似をするから高い評判を取つたのである。ドイツ人は體格がよいから、その方面の遊びも盛んである。男の同性愛カフエーに對して、女の同性愛のカフエーが三四軒ある
 私は夜の十時頃に行つて見た。そのカフエーは男の方と同じやうに、外から見ると分らない。中にカーテンが垂れて居て、往來に光りが洩れ無いやうにしてあるから眞暗である。家の造りは概して大きくは無い。小さいのになると四組位しか客が入らない。
 中へ入ると女の客が三人居た。初めは誰れが何やら區別が出來なかつたが、その中の一人の女は頭の毛を切つて、勿論男のやうに分けてカラーを付けてネクタイを結んで居る、その相手の女を見ると、如何にも優しい女らしい女で、その二人の一組が頻りに話しをしてゐる。その中にネタタイをしてゐる女が、その前に居る優しい女を捉へてかぢり付くやうにして、額つぺたをキスした。幾度も/\強烈にキスして終りに噛んでしまつた。相手の女は聲を出して逃げやうと騷いでゐた。しかし、眞實に恐怖のために騷いでゐるとは受け取れない。要するに痴話狂ひである。
 こうした女同志を見に來る男がチヨイ/\ある。酒を註文して眺めて居さへすれば男ても構はないのだ。こうした女同志の愛は日本の『御親友』とは多少意味を異にして居る。矢張り變態性慾で(325)お互ひに享樂し合ふのである。
 歐米にもこうした變態性慾者の幾組かのあることは聞いたが、しかし特殊な機關のカフエーを持つてゐるのはドイツだけで、各國にはあまり聞かない。
 
     ニユー・ヨークのアパートメントの探訪(三箇所抹削)
 
 ニユーヨークの上町百十五丁目にはアパートメントが澤山建つてゐる。その中の或る一室に面白い家があるといふことをやつとの事で耳にした。
『何うだい、行つて見ようぢやないか』
 と、或る日三人の知り合ひが寄り合ふたとき、一人が提議した。私が娼婦の研究の爲めにこうした所をさがして居ることを云ふたからである。
『あんまり變つても居ないだらうぜ』
 と、他の一人。
『でも此の方面の研究はプログラムの一つであるから一通りは通行税を拂つて行かう』
 と、私が主張する。で、結局行くことにした。
(326) いくら警察の取締りが嚴重を極めてゐても闇の世界の絶滅は恐らく不可能であらう。昔ローマのオーグスチンが賣淫を廢めれば情慾の力は凡てを覆すだらうと云ふたが、こうした家があるのでニユーヨーク子の安全辨となつてゐるのかも知れない。
 そこまで地下鐵道が通つてゐたので、時間が早いとは思ふたが日暮れ頃から出かけた。地下鐵を乘り捨てゝから二度程聞くと場所は直ぐ分つた。エレベーターが無いので梯子段を幾つも昇つて、それと覺しき五階の一室の前まで來た。此のアパートメントは可成り大きく室の數が凡そ百五六十もあつた。
『こんな所に女が居るのかね』
 と、一人が不安さうに囁く。
『居たにしろ大した代物では無いね』
 と、また他の一人がけなすやうな口調。
『ベルは此處にあるよ』
 と、私はベルを押して見た。ひつそりとしてゐて誰も出て來ない。再び強く押して見た。
『誰だらう』
(327) と、低い聲が戸の隙から洩れた。見れば戸をほんの申し譯に明けて五十前後のデツプリ肥つた女が顔を出した。私はいきなり、
『レデイを見に來たんだ』
 婆さんは慌てゝ、
『そんな大きい聲を出しては駄目どすハツシユ/\』と、眼顔を寄せて合圖する。
『警察ぢやないから安心おし』
 と、私は氣の毒になり、聲を低くして、
『女は三人居るか』
『何だつて?』
 と、婆さんは怒つたやうな聲を出して、引張り込むやうにして三人を戸内に引き入れた。そして
『何ぜ貴方は、戸の外で女が三人居るかなんて言ふんですか』
 と、困つた顔をしていましめる樣に問ひ詰めた。
『御覽の如三人で來たんだから念を押したのだ』
『それにしてもどやどや一度に三人も連れ立つて來て、戸の外であんなことを言はれては困ります(328)よ』とかたをゆすぶつた、
『三人一緒に入つてはいけないのかね』
『此のアパートメントの他の人に見られたら忽ち文句が出ますからね。それに此頃は警察が喧しくてね』
『そうか、それは濟まなかつた。惡いことをした』
 婆さんはやつと落着いて、
『此頃此の家も實は警察から睨まれ出したのですよ。いつ來るかからないから私は近々何處かへ引うつる覺悟でゐるんですよ』
 いやな事を云ふと思ふので私は少し不安になつた、其の時思はず三人は顔を見合せた。
『今晩あたり警察が來るやうなことはないかね。ほんとに大丈夫かね』
 婆さんは慌てゝ打消し、
『それは大丈夫です。私が氣を付けてゐるから御安心なさい』
『ほんとかね』
『受合ひますよ』
(329) 此の受合もあながち商賣大事のその場限りの言葉ではない。一體米國の警察は日本の警察のやうに臨檢だと言つていきなり他人の家に侵入するやうなことはしない。殊に婦人でも出て來れば相手がたとへこうした職業の婦人でも婦人には相當な禮をつくすことになつてゐる。だから十分に餘裕はあるわけだ。
『こんど來るには三人一緒に入つて來ては困りますよ。屹度一人づつで入つて下さい。それに入口から女がゐるかいなんて大聲を出しては駄目ですよ』
『その教訓は骨身に徹つた。もうこれからは心得たから大丈夫だ。安心をさい』
 と、私も仕方なく笑ひ、
『よくわかつたよもういゝ加減に叱言は切り上げてもいゝぢやないか。ともかく美人を三人直ぐ呼んで呉れないか』
『さあ、三人今直ぐにはむづかしいかも知れませんよ。一同食事に出てみる時刻ですから』
 と、時計を見て、
『何んを女がいゝんです』
『若いのがいゝね。それに綺麗なのを頼むよ』
(330)『三人でなくともいゝぢやありませんか』
 私はいさゝか呆れて冗談に言つてるのかと思つて顔を見たら、婆さんは非常に眞面目な顔をしてゐる。で、
『こつちは三人なんだが、一人ぢや困る』
 と一人の紐育ツ子が云ふたにもかゝわらず、
 婆さんは平氣で言ふ。三人は顔を見合せて魂消る。
 婆さんは立上ると早速電話をかけて女を呼び出した。待つて居ると二十五六の女が入つて來た。美人とは言へないが先づ普通である。色が頗る白くて棺格のいゝのが目をひく。一同がつかりしたやうにお互ひに顔を見合せる。年増が頻りに電話をかける。しかし何れも堆さうには見えない。
『女が拂底してゐると見える。マダム、忙がしいのかね』
『別に忙がしくもありません。うちに出入りする女は十人許り居ますが、皆それ/”\仕事を持つてゐるものですからね』
『へえ! 仕事を? どんな仕事かね』
『工場へ通つてゐものも、事務所へ行つてみるのも、商店へ行つてゐるのもありますよ、いろ/\(331)でさあ』
『ぢや内職に此處へ來るんだね』
『まあ、さうです。しかし本職のもゐますよ』
『こゝの家は廣いのかね』
『室は四つあります。皆私が借りてるんです。別に室代はいりません。そうですね女とは半分づつ分けるのです』
 後の二人の女はなか/\來なかつた。三人の中で誰れか一人行かなければならないが、私はその家の樣子や客の出入りが見度かつたから、女が來ないで待つてゐる時間の長い方が好都合だつた。
 結局一人が撰定せられて他の室へ行つた。二人は婆さん相手に待つことになつた。婆さんはぽつ/\と、
『此の三四年馬鹿に警察が喧ましくて三月位に移轉しなければならない』
 とか、
『私は米國生れです。夫に死に別れてから仕事に困つてとう/\この職業を本職とするに至つた』
 等々と話して呉れた。話が盡きる頃になつても女は來ない。
(332)『まだ歸らないと見える』
 と、婆さんはつぶやく。そこへ最前の女が入つて來て、二人の顔を等分に見て
『            ぢやないか』
『何がおかしいの』
 と、女は不思議さうな顔をする。私は説明してやつたが此の無知な徹頭徹尾商賣化したフランス生れだといふ女には私の言ふ意味が何うしても理解されぬらしかつた。歐米の女が皆こうであると思ふのではないが此うしたのは日本の娼妓と同樣になつたものだ。此の女は米國へ出稼ぎに來てゐてフランス生え拔きの賣春婦であるから、その長い生活がかく迄徹底したのであらう。
 女はなほも男の手を取らうとした。
 そうこうしてゐる中に次の室の戸を叩く者があつた。婆さんは立ち上つて戸を開けると間もなく一人の五十がらみの男を導き入れた。男は婆さんにふさはしくでつぷりと肥つて、頭が大半禿げ上つてゐた。
 男は入つて來るなり椅子の上にどつかと腰を下した。夏のことで熱いと見えて上衣を取つてしまつた。そしてポケツトから新聞を取出すと何事もないかの如くそれに讀み耽つた。話し振りから察(333)すると婆さんの亭主でも無い。と言つてお客で無いのは分り切つてゐる。要するに情夫なのだらう。その男は少し經つと當時米國で噂の中心になつたデムブシー對シヤーキーの拳闘勝負の話を婆さんとし出した。わたしも高い入場料を拂つて參考の爲めに見たのだ。
 その中に電話をかけてあつた女が來た。フランスの女である。これも大した美人ではない。たゞすんなりした姿勢が男性の眼を惹く位のものだ。
『貴方』
 と、婆さんは私達の注意を促がし、
 微笑し乍ら小聲で言ふたことがある。
『         』
 と、私が問ふと婆さん眼をむき『知らないんですか。    さうですよ。此の人はそれで人氣を取つてゐるんです』
 話題になつてゐるこのフランスの女は聞えたのか聞えないのかは知らをいが、別に惡びれた樣子も見せず三人をじろ/\見てゐた。
 女もマダムも丁度商人が商品を賣ると同樣惡びれた樣子もしない。連れの紳士は少し照れたやう(334)な好奇心にかられたやうな一種言ふに言はれぬ表情をしてフランスの女と連れ立つて室へ下つた。
 もう一人のニウヨルク子は約束の所があるので先へ歸つてしまつた。そこで私は獨りぼつちに殘された譯だ。
 其處へまた客が來た。もう室は何處も滿員なのである。女主人は私に向つて、
『貴方、濟みませんが』
 と、一應氣の毒な表情を示して、
『此の隣りの室へ行つて話しでもしてゝ呉れませんかあの人は構はないのですから』
 と、情夫らしい男を指す。
『此方へいらつしやい』
 と、商賣がら男も一向惡び群れずに隣の室から聲をかけた。私がその室へ入ると女主人はつい立を引張り出して來て、その室から隣の室が見えないやうに仕切りをした。男は私にボクシングの話などし出した。
 連れの男が來ると早速私は二人でその家を出た。
 此の家は今迄度々宿所を變へた。三月か四月位で轉居してしまはなければならないのだ。場合に(335)よつては二階から五階の一室に引越して名前をかへて知らん顔の半兵衛を極め込んでゐた。丁度丸ビルの樣な大きなアパートメントであるから、一寸は分らないのである。それと言ふのも警察が直ぐ嗅ぎつけるからである。その時には馴染客だけに引越先を知らせる。そしてそこが危險になるとまた轉居する。こうしてニユーヨーク中を轉々として歩いてゐるわけだ。だからたまに行く客は半年も經つて行つて見ると、家は既に引越してしまつてゐて分らないことが度々ある。引越したのを知らない客が室の戸をノツクして飛んでもない爺さんなどが出て來て慌てゝ逃げ出すやうな滑稽な話が往々ある。外國では私人の室には名前札が出てゐないから分らないのも無理ではないのだ。
 こうした家はたゞ女を媒介するのみでなく連れ込みも歡迎する。現に私達が歸る時にも女を連れた客が入れ違ひに入つて來た。こうした家がニユーヨークには未だ少しはある。何處の國にもこうした法網をくゞる家はあるものだ。
 
     迷信と結びついた古代の賣淫
 
 ユダヤの文明が榮えたのは、今から三千七八百年以前のことであつた。當時一般にはまだ性に對する道徳觀念が非常に薄かつた爲めに、ユダヤ人の間には、賣春は普通の慣習となつてゐた。のみ(336)ならず神聖なるべき神話の一節さへも此の話でけがされて居た。
 其後クリスト教の現はれるに及んで、清新な貞操觀念は、幾多の處女を廓清するに大に功があつたのではあるが『グリーク』『ローマ』の文明黄金時代の裏面は、なだ/\亂れたものであつた。『グリーク』の文明の以前に文化の最も早く開けた亞細亞人の『エジプト』文明の全盛時代にも、迷信から盛に行はれてゐたものである。
 ユダヤ時代と云ひエジプト時代と云ひ夫々色々な原因があつたが、賣淫の今日迄繼續し益々榮えてゐるのは享樂と云ふ一事である。十二三歳で熱帶の温かい血に成熟するエジプトの子女の性的發達は、無理ならぬことであるが、かてゝ加へて、迷信が大いにこの風習を助長してゐた。彼の宏大な『バール』の寺院では賣淫が行はれた形跡が明かである。『ヘロドートス』は當時此の風習をうれへて寺院の境内では禁止した。又それと同時に、神聖化する爲めに、男女共に性交の前には寺院で沐浴をすることを奨勵した。又『ナウクラチス』の町の如きは、賣春婦の爲めに富み且榮えたもので、其の美しい娼婦の名は、『ギリシア』を始め遠く歐洲諸國へ迄なりひゞいてゐた。
 またバビロン王國では『ミリタ』の神を祭る『チヤルダ』の神殿で、女は一生の中に一度は必ず賣淫をする事を、法律で定められてゐた。爲めに、神殿はいつも髪を糸で結んだ女で滿たされたといふこ(337)とである。『ヘロドータス』は、神殿の境内に肉を糶ぐ此等の女を屡々見たといふてをる。女が一度神殿に入つた以上、相手を捜すことが出來なければ、幾年も幾年も出ることを許されなかつた。相手の男から貰つた奉納物を捧ぐる迄は出られないから、中には三年もゐた女がある。『附近には男の群が市をなして居た。』此の奇妙な風習は『フエニキア』『シリア』『カルタゴ』にも行はれた。一般に云へば、當時の賣淫の原因には迷信が非常に強くはたらいてゐたのである。
 商業政策のために世界最初の海運國民として知られた『フエニキア』では、迷信的賣淫の外に貿易政策として行はれた。即ち『フエニキア』を訪れる外國人に、異國情緒を味はせて引寄せる政策として、娘達に肉をうることを強制したと聞いては驚くの外ない。『フエニキヤ』を始めとして、阿弗利加の北端にある『カルタゴ』や『サイプラス』島を通る外國船の目をひいたことは、美しく着飾つた若い女達が、海岸に出て白い腕をさしのべて、情緒たつぷりな赤い唇で外國船を歡迎してゐることであつた。此の風習は、『リヂア』地方を始め『ペルシア』迄も浸入して、一般に行はれた。
 又『フエニキヤ』の薫陶によつて夙に航海の術を習ひ、紀元前九世紀の頃盛に航海や殖民を行ひ、一時通商の中心となつた『アゼン』にも、此の賣淫の風の入つたのは勿論であつたが、『ペルシヤ』戰爭以後から、取締が次第に嚴重になつてきた。そしてアゼン文明の最高潮時代になると、公認せ(338)られた四種類の賣春婦が出來た。
 此のアゼンの女達こそ、今日のやうな職業娼婦の祖先であると云ふことが出來やう。その最高の地位の女は、之を『ヘタイヤー』と呼び、市中最も繁華な目拔の場所に住んで、當時の婦人の流行や作法迄も支配する勢力をもつたばかりでなく、政治上にも勢力を持つてゐたと云ふことである。
 之に次ぐのは『アウレトライド』と云ふて今日の『ダンサー』の樣なもので、其の次が最も低い『ヂイクテリア』である。尚此の外『コングビン』と呼ばれる女があつた。それは富豪の家の奴隷で、公然主婦の許しの下に女中けんたいに働いてゐたのである。『ペリクレス』の治世には、國家の歳入中此等の女の税の收入が非常に多かつた。斯くして賣淫は『グリーク』にも盛に行はれて『ローマ』時代に及んだのである。
 
     世界にないい『バー』(四十箇所抹削)
 
 巴里のクツクの遊覽自動車の中で、朝鮮總督府の或るお役人と偶然一緒になつた。旅の異郷の邦人同志のことであるから忽ち親しくなつて、何くれとなく話しに興じた。ベルサイユの宮殿を見物して車に乘るとその人は聲を秘めて、
(339)『切角來たのだから巴里の美人を見度いと思つてゐるのですがね』 と、半ばうつたへるやうに言つた。
『いくらでもありますよ。一人で不安なら誰か人と一緒に行けばいゝぢやありませんか』
『實はそんなことを話す友人が巴里にはあいにく、居ませんし、そうかと云ふて、一人では見當がつかないんですよ』
『成程そうですか』
 と私も大いに旅の淋しさを察し、
『實は私は日本に居る時から賣春婦の研究をしてゐるのです。で、今度歐米の都市視察旅行の序に夜は暗黒面の状況を徹底的に調べてゐるんですよ』
『へえ!』
 とその人は感嘆の叫びを發した。
『變つた御觀察ですね。それはよい機會です。是非一つ私にもその調査の隨行をさせて下さいませんか。忠實なる隨行者と成りますよ… あつはつはつ』
『それが私の副業なのですから、實はもう二晩もつゞけてバーへ行きましたよ』
(340)『バー? それは羨しいですな。毎晩いらつしやるのですか』
『さあ、毎晩でもありませんが、もう三回行きましたよ。大概女達から話も聞き、見度い所も見てしまつたので、もう行きませんが』
『何うです』
 とその人は急に膝を進めて、
『貴方も短い御滯在で、お忙しいお身體でせうが、今晩私を其處へ連れていつて下さいませんか。是非お願ひしますよ。巴里迄來て見物しないといつては、歸つて話が出ても肩身が狹くなりますからね』
『そうですね。貴方も巴里へ來て、名物を見ないでお歸りなさるのも心殘りでせうから、ようござんす。御案内しませう』
 相談は纒つて、巴里の有名なグランドブルバーの通りのオペラ座の角にある大きなバーで夜の十時に遇ふ拘束で別れた。
 歐米式にピツタリ十時に行くと、その人は既に待受けてゐた。二人は早速連れ立つてバーへ行つた。そのバーの有樣は既に書いたやうである。
(341) その人は喫驚してもぢ/\して恥かしそうな種子を示したが、私は構はず先に立つて中へ入り、腰を掛けると女を二人撰んで酒を註文した。
 私は撰んだ女が勸める儘にその人に向ひ、
 
『えゝ、    で、萬事交渉を一つ貴方にお願ひしますよ』
 私は承知して女と交渉した。所が室を貸すのが三十フランだといふ。
 
ランづゝ呉れといふ   
『それは高い。一人三十フランにしろ』
 と、値切ると、やつとのことで、
『承知しました』
 と、云ふとすぐ二階へ案内された。
       その中の奥の一つの室に通された。室の中は小ざつぱりとして別に裝飾とて無く、たゞ絨緞の美しいのが眼を惹いた。    その上に新しい綺麗な      ある。
(342) 戸を閉めると二人は椅子に腰を下した。女の一人は
、又一人の    と、同時にチツプを呉れとねだり〔三字右○〕出した。
 こうした女は必らずチツプをねだる。やらないとしつこく〔四字右○〕いつ迄もねだる〔三字右○〕のだ。賣春婦の下等なのになると約束の値段の増金を請求するのも珍らしく無い。こんなことの有るのは覺悟の前であつたから、私は入る時に連れの人に支拂は一切私がやるからと斷つておいた。さもないとボラれる恐れがあるのだ。
『チツプは後でやる』
 と、私は拒絶した。それと殆ど同時に、
『拘束の金を拂つて下さい』
 と、連れの男に六十フランの請求をした。これだけは先に拂はなければならない。女は私がチツプを呉れないと見ると、
  出した。
 私は何の氣無しにその人の方を見ると、その人は丁度財布から百フランの札を出して、まさに女(343)の手に渡さうとする所であつた。
『私はだめです/\』
 と、手を出して止めようとすると、女はいきなり脱兎の如く、その札を横取りした。そして手にしつかりと握つて、
『有難う、/\/\』
 と、頻りに言つてゐる。私は黙つて見てゐられないので、
『四十フランのつり〔二字右○〕をお出し』
 と,言つたが、なか/\出さない。私は連れの人に向ひ、
『私が支拂をする約束なのですから、やたらに金を出しちや駄自ですよ』
『いや、遂うつかり、忘れてゐたものですから』
『馬鹿なことをしましたよ、この女たちに金を見せたらお終ひですからね』
 すると、百フランの札を取つた女が、またその上にまだチツプを呉れと言ひ出して勤かない。私は連れの出した百フランの中から強いて、その釣銭を取らうとは思はないが、女が餘り連れを甘く見て、なほチツプを要求する、そして何んと言つても(344)圖々しさを見ると、つい腹が立つた。で、
『馬鹿にするな!』
 と一喝し、
 
 と、叱つたが、女は少しも恐れない。
 
 と、二人で動かない。
 
 
 と、今度は二人して連れの人にせびり出した。その人はおとなしいから黙つてゐると女はいきな
     そして機嫌を取つてゐる。その人は    薄氣味惡がつて大いに面くらつてゐた。側で見てゐると可笑しくてならなかつたが、うつちやつても置けず犬いに弱つた。
 
 
そう/\手荒なことも出來ない。殊に歐米ではこうした女でも女には
(345)絶對と言つてもよい程荒々しいことはしない。さりとて五十フラン呉れてやるのもいま/\しい。それに癖になると思つたのだ。日本人を見るとこうすれば金を出すなんて先例を殘し度くないと妙な所に氣を入れて、怒鳴つたり、睨み付けたりしたが、圖々しい女で、
 
 一つおどかしてやれと思つて腰の短刀を拔くと、日本語で、
『斬るぞ!』
 と、大喝一聲すると共に突き付けた。
 女は二人とも喫驚して、     一人は逸早く大きな聲を立てゝ戸口に向つて栗鼠のやうに走り出した。その格恰がおかしかつたので私も思はず噴き出しさうになつたが、ぢつと堪へて睨み付けた儘、短刀を手早く收め、同時に今にも逃げ出さんとするもう一人の女の首ツ玉を押へ付け、
 
 と、日本語で叱るやうに怒鳴つた。
(346)と英語で云ふた。
 女は眞當になつて慄へ乍ら、
『お金は返します。許して下さい』
 と、悲鳴を擧げ出した。
『出せ!』
『今出します』
 女は餘程恐ろしかつたと見えて百フランを出した。
『お前達は惡者だな』
 と、言ふと、言下に、
『私達はフランスの女です。我れ/\フランスの女は決して惡いことはしない』
 と、反抗する。
『フランスの女は惡いことはしない。フランスの女は善い女です』
 と、頻りに昂奮する。こうした女にも自國を誇る心があると見える。私もその態度には感心し(347)た。で、約束の六十フランを女に與へて、握手して、
『今一人の女を呼んでお出で』
 と、最前眞先に逃げ出した女のことを言つた。女は金を受取ると靴下の中に入れてしまつた。
 
 と、言ふと、女はその儘階下に降りそうにした。こうした所の女は、なか/\一筋繩では行かない。何んな眞似をするか見てやらう。そして出やうによつては徹底約にやつ付けてやらうと、連れの人に向ひ、
『私はこれから階下へ降りて談判して來ますから待つてゝ下さい』
『いや、もう歸りませう』
 と、その人は眞蒼な顔をして言ふ。
『いや、お待ちなさい。乘りかゝつた船です。行く所までやつて見ますよ。こんなことが私の研究の資料になるのですよ。書いて殘しておくと後々の爲めに、巴里の状態として參考になりますからね』
 私はこう言つて了解を得ると、階下へ降りて行つた。連れの人も隨いて來た。(348)階下に行くと直ちに肥つた大きなマダムを呼んで、事の?末を話した。此の女は非常によく英語が出來るので都合がよかつた。
『女共は私達を欺いた。お前達は明らかに詐僞だ。約束を實行しろ』
 と、大聲を出して怒鳴ると、バーに腰を掛けてゐた勞働者風の大きな男が顎髯を生やした顔を此方へ向け乍ら、こんな場所へ來て不粹なことをする奴だと言はぬ計りの輕蔑の眼付で私を見、何か低い聲で相手の女に二三言言つて冷笑したので、私のその男に對する闘爭心は勃然と起つた。で、二三歩進むと腰の短刀を?んで、ありつたけの、しはをみけんによせて、ありつたけの力を眼に入れてぐつとその男を睨み付けた。その時私の服裝は運動用の半ズボンで輕裝してゐたので、無頼漢とでも思つたか大きな男は述げるやうに横を向いて知らん顔をしたので、腹の虫がやつと收まつた。
 女主人は私に不都合を責められると、
『私は何も貴方と拘束はしません。貴方は    私は知りません』
 と、答へる。女達二人は頻りに大聲で女主人に何事か早口にうつたへてゐた。
『それは何うでもよい。
つたのだ。よし巡査を呼んで來る。その上で解決しやう』
(349) と、太いに怒つて見せた。
 私は今にも歸らうとする樣子を見せると、女主人は少し狼狽して
『待つて下さい、今女達に話しますから』
 と、私を留め、梯子段の中途から恐がつて降りて來ずに覗いてゐる女に交渉し出した。で、結局二  これから○○○○   といふことになつた。
『これから○○○○からお出で下さい』
 と、デツプリ肥つた女王人が言ふので、
『では行こう』
 と、答へて階段を上りかけたが、又女が愚圖/\言ひ出すと連れの人に氣の毒だと思つたから、私は女主人に向ひ、
『お前も來て貰ひ度い。證人として立會つて貰ひ度いのだ』
 と、同行を促がし、四人でどや/\とまた二階の室へ取つて返した。女主人は眞中に椅子を持つて來て、それに腰を下して、頻りに   ゐる。私も建れと並んで腰を掛けた。二人の女は女主人に   ゐるので、いつまで私もしかめつ〔四字右○〕面もしてゐられないで、思はず(350)笑ひ出すと四人も一緒に笑ひ出した。
 で、女もすつかり機嫌を直して     私は一體に外國人の氣質が好きである。と言ふのは此の女達びしてもいさかひ〔四二字右○〕をしても一度笑ふと、過去のことは笑つてしまつて、    その氣質が氣に入つたのだ。日本の女になると、商賣女でなくとも過去のことをいつまでも根に葉に持つてゐて、さつぱりと笑ひ流すことをしない。こうした女の性質にも歐米人共通の素直な明るい所がある。そして比較的單鈍で猜疑心がなく、包みかくしと、いふことをしない。そうした所は日本人に比べて非常にいゝ所だと思ふ。しかしこうした女が金に汚ないやうに、一般に金となるとさつぱり〔四字右○〕しないのは物質文明の極度に發達した歐米の缺點であらう。況してこうした商賣をしてゐる者に取つては極度に金に汚なくなるのも無理ではあるまい。
 
『これを紀念に持つてお歸りなさい』
 と、笑つて出した。私はいさゝか面喰つて、
(351)『馬鹿を云へ、そんなものは持つて行けないよ』
 と、言ふと、連れの人の所に持つて行く。私はその無邪氣な態度に妙に哀愁をそゝられ、少し多いと思つたが、
 
『これ、よくお聞き』
 と、私は女の手を取つて引き寄せ、
『日本人は欺したり、ごま〔二字右○〕かしたりすることが大嫌ひなのだ。そんなことをしなくても、チツプ位出すのはよく心得てゐる。だからよく覺えてゐるのだよ』
 と、言ひ聞かせると、女は有難う/\と口を揃へて感謝した。
『では又來る』
 と、私達二人が立上ると、三人の女は嬉々として送り出した。殊に女主人は爭ひの渦中に捲き込まれて、私から多少のチツプを貰ふことが出來たので、
 その意外の儲けにニコ/\してゐた。
 戸外へ出ると夜も更けて一時半になつてゐた。流石巴里の通りも人通りが殆んど無く、大空の色(352)と星のかゞやく光景は他國では見られない明るさを持つてゐた。巴里は不夜城だとよく人が言ふがそんなことは無い。十二時過ぎると、大通りのグランド・ブルバーでも人通りは少なく寂然としてゐる。
 二人で飛んでもない芝居を演じてお笑ひ草だつたと笑ひ乍ら來ると、向ふから三四人の男がやつて來た。そして、いきなり〔四字右○〕、
『もし/\!」
 と、立止つた。呼び止められたので、何のことかと思ふと、
『旅券を持つてゐますか』
『いや、持つてゐません。が、貴方は誰方ですか』
 と、逆襲した。私は實際その時持つてゐなかつたのた。連れの人は小聲で、
 と、日本語で囁いて心配顔をした。
『大丈夫です。私に任してお置きなさい』
 と、私は力付けた。その中に二三間先にゐた自轉車を持つた正服の巡査が近寄つて來て、
(353)『私達は警察官です、パスボートを持つてゐますか』
 と、聞いた。
『茲には持つてゐませんが、ホテルには有ります』
 連れの人も調べられたが、幸ひ旅券を持つてゐたので、
『貴方も日本の官吏ですか。此人と一緒に居られるのですか』
 と、一應私をたゞし、
『それではいゝが、今度から出る時には必らず持つてゐて下さい』
 と、一同立去つた。
 ついでの事であそが、歐洲の人は自分の國の中でも常に自分の國籍證明書を持つてゐる。持つてゐないと罰金を取られる。私は危險な場所へ行くのであるから落すといけないと思つて、わざとホテルへ置いて來たのである。ほんとうに持つてゐないと追放せられる。
 警官に別れて少し歩くと、連れの人はほつとして、
『恐ろしい目に逢ひましたね』
 と、述懷するやうに言つた。
(354)『想像以上でせう』
『私はあんなことがあつたので、
 
 
『しかし恐ろしい經驗をしました。もうあんな所へは二度とふたゝび行くもんぢや有りませんね。私は懲りましたよ。とても獨りでは行かれませんね』
『貴方はよく見ず知らずの各國のこうした所へ獨りで行かれますね』
 私は苦笑し乍ら聞いて居たが、オペラの前の大通りの角迄來ると、私は左に別れた。その人は大通りをマデリンの方へ眞直歸つて行つた。
 ホテルへ向つて歸つて行くと、向ふからごろつき〔四字右○〕らしい風態の男が近付いて來た。顔を見ると、二三日前に女の宿へ案内をさせたフランス人だつた。此奴は女の宿の主人とぐる〔二字右○〕になつて途方も無い事を吹きかけて私を困らせた。勿論そんな要求には應じなかつたが――私は此の男の顔を見ると理由なしに腹が立つて、腕がむづ/\し出した。で、
してやれと、身構へてゐると、
(355)『今晩は』
 と、元氣よく言葉を掛けて握手を求めた。私がその手の親指を逆に取ると、男は大いに怒つて左手で私の胸を突いた。
『間拔け奴!』
 と、私は力一杯顔をなぐると、絡みつく男の襟を捉へて、大外刈で投げた。
『うわつ!』
 と、男は異樣な叫聲を出したと思ふ間もなく倒れたまゝ地上を匍ふやうにして脱兎の勢で逃げ出した。
 その姿を見て、やつと溜飲が下がつた。
 月は笑ひ乍ら巴里の『ブルバード』を照して居た。
 こうした案内者が夜になると巳里の町を澤山歩いて客を探してゐる。そして不當な要求をする。私はこれを到る所で利用しては闇の女を探したのだ。改行
 
(356)     和蘭公娼と辻君の收入
 
 オランダは早くから日本に交渉があつて、昔は可成りの人間が長崎へ渡來した。醫者は主として醫術をオランダ人から學んだのである。
 オランダの都ヘーグには有名な國際裁判所がある。王宮は入場料を取つて一般の參觀を許してゐる。これなどは歐米の物質主義をよく表はしてゐる。王宮といつても貴族の邸宅位で誠に貧弱なものである。大理石の柱で巧に構造してあつた。その中には昔日本から寄附した室がある。それなどは昔の密接な關係を物語るものである。
 オランダは實業國として榮えてゐて、英國其の他に製産物を輸出してゐる。世界大戰にはその破壞から免かれ、返つて利益した國である。牛のホルスタインは世界にその名が響き、日本にも澤山入り込んでゐる。チーズの名産地で英國その他へ輸出して、味は非常によい。昔は海運業が發達してゐたが最近は振はなくなつた。殊に一九二四年以來造船力がへつてしまつた。もと/\船着場として知られた國で、アムステルダム、ロツテルダムは今なほ入り船出船が多く商港として榮えてゐる。
(357) 私はアムステルダムのホテルに泊つた。そのホテルの前が一番多く賣春婦の出る所なので、私はオランダ人の案内者を雇ふと、オランダの商賣女を見物に行つた。
 公娼の家は二十軒程あつて、こうした家では牛後から女が窓の所に出る。窓硝子は戸になつてゐて、通る客を呼び込むのである。家は大抵小さく女は三四人位しかゐない。此處の女は公娼と言つても日本のやうに奴隷制度ではない。鑑札があつて營業を許されてゐる。日本の娼妓は樓主から外出の自由さへ束縛されてゐるが、此處ではそんなことはない。行動は一切自由である。彼女等の得た金は家の主人と半分別けといふことになつてゐる。日本の娼妓になると、七割五分は主人に取られて、その上前借の返濟に一割五分を出すことになつてゐる。殘の一割はなんだかんだとかいふ名目の下に主人から取り上げられてしまふ。歐洲の公娼制度は大同小異で大抵此の式である。私も返つてこうした公娼制度なら賛意を表する。
 オランダの女が客を呼ぶ有樣はまるで日本の龜戸、玉の井といふ感じがする。しかし龜戸のやうに兩眼と鼻の一部だけ出す覗きのあの細い□の形をしたものは無い。あれとは全然違つてゐて、すつかり顔が見える、身體も見える。硝子窓の所で客を待つてゐる丈けが同じである。家は粗末な木造で、洋風である。中の女は勿論洋裝をしてゐる。そして日本の龜戸や玉の井のやうに外套を引張(358)つて離さないやうなしつこいことはしない。
 相場は勞動者相手の安いのになると一圓五十銭位からある。此の相場は龜戸と丁度同じである。往來を歩いてゐるのもあるが、時にはカツフヱー、ダンスホールへ入つてあみを張つてゐるのもある。時間が早いとバーなどがら空きのことがある。人は十時頃から出盛る。そしてオランダは一體に下品で白人であらうが外人であらうが向ふから聲をかけるものが非常に多い。
 私が或るダンスホールに入ると、一人の女がたつた一人でテーブルでブランデーをかけた果實を喰べてゐた。そして私の婆を見ると妙に盗見をし始め、時々笑を送るのである。私は知つてゝも知らん顔をしてゐると、ます/\露骨になつてわざ/\私の方を向いて笑を送る。その内にボーイがやつて來たので、あの女に此方へ來るやうにと言傳さした。
 女は早速やつて來たので、私の目差す例の女の身許調べに取かゝつた。
『まだオランダには馴染はないんです』
 と、女。
『生れは何處です』
『ドイツのハンブルグ、此の土地へはベルリンから來たのです』
(359)『いつ頃來たのです』
『まだ六ケ月にしかなりません』
『オランダ語は少しは出來ますか』
『えゝ、少し既位なら出來ます』
 と、けんそんしたが、六ケ月位にしては可成り上手に話をする。これを見ても日本人が語學に不得てなのがつく/”\解つた。
『此の土地はいゝ客があるのかね』
『有りませんよ』
 と、女は強く言葉で否定して、同時に首を振り、
『その中ベルリンに歸り度いと思つてゐるんです』
『不景氣かね』
『非常な不景氣ですよ。ですから私達の生活は非常に苦しいのです』
『不景氣の所へ何故來たんだね』
『客が相當あると思つたんですよ。所が案に相違してゐるんで、がつかりしました』
(360)『オランダは戰爭にも加はらないのだから、そんなことは無いと思へるのだが、一般に駄目なのかね』
『他のことはよく知りませんが、私達の樣な女が少し多過ぎるんです。だから客を取るのになか/\骨が折れるんです』
『此の國の女が多いのかね』
『いゝえ、そんなことはありません。ベルギーやデンマーク、ロシヤ、ドイツ等の各國の女が流れ込んでゐます。皆いゝことがあると思つて來るのですがね』
『外國から流れ込む女が多いのかな。餘程いゝと思はれてゐるのだね』
『えゝ、所が此の國は遊覽客が少ないのです。お客は主にオランダ人なのです。だからお客が少いのです』
『相場は何の位か』
『三十圓』
『三十圓とは馬鹿に高い』
『ちつとも高くはありません、そのかはり朝迄泊りますよ』
(361)『高いよ。決して安いことはありません』
『では一體いくらならいゝんだ』
『十圓位ならいゝ』
 アムステルダムの相場は普通十圓位である。女は平氣で、』
『十圓なら宜うござんすよ』
『それはシヨートだね。オールナイトはいくらにする?』
『オールナイトなら十五圓です』
 私はそろ/\逃げ仕度にかゝつた。
『何か喰べようか』
『えゝ、私はフルーツ・ブランデーが食べ度いんです。飲んでもいゝでせう』
 女は媚を含めて同意を求める。それを取寄せていろ/\話してゐる中に、此の女の收入は一ケ月大體百圓位であることが解つた。
 女は嬉しさうにフルーツ・ブランデーを食べてゐるので、私はまた明日ゆつくり會はうと言つて立上つた。女は慌てゝ私を押へなか/\承知しない。いくら私が言つても合點しない。仕方が無いの(362)で私は取つて置きの奥の手を出した。
『では、私のホテルへ來て呉れるか』
 女は不安らしい表情を浮かべて、
『何處のホテルなのです』
 私は濟まして一流のホテルの名を告げた。女は案の通り見る/\因惑の色を漲らして、
『あのホテルは駄目です』
『何故』
『何故でも駄目なのです』
 そこが此方のつけ目、こうした女は何處の國でも一流や二流の上等のホテルへは入れない。が、相手もさるもの、その儘おとなしく引下らうとはしなかつた。
『此の側に私のよく知つてゐるホテルがあるんですよ。そこへ行きませう』
 と紋切型に出た。その手には乘らない。
『私は外國人だ、此の土地へは始めて來たものだ。知らないホテルへは絶對に行かないことにしてゐる。だからいくら君がすゝめても知らないホテルへは行かない』
(363)『何うしても行くのは嫌なのですか』
 と、女はうらめしさうな眼付をする。
『行かない。君の方で來て呉れゝばいゝが、さもなければ他の日に約束しよう』
 女も私の態度が強硬なので諦めたらしく、
『それでは仕方がない』
 と、至極あつさりして行つてしまつた。此の手が歐洲では女を追ひ拂ふ最上の手段である。
 女に別れると私はブラ/\表通りを歩いた。居るわ/\女共が行つたり來たりしてゐる。皆盛んに眼で合圖したり、笑で誘つたり、あとをつけて來たりする。我は知らん顔してその間を歩いた。一時間ばかり歩いたと思ふとぴつたり最前の女と出遇つた。
『しまつた!』
 と、思つたが追つ付かない。女は私の腕を捉へると、
『一緒に行きませう。いゝでせう』
 私は冷然と、
『駄目、駄目』
(364)『ホテルは此の近くなのです。一緒に行きませうよ。先刻貴方が言つたのは嘘なのでせう』
『嘘では無い。ホテルへ歸つて今また出て來た所だ』
『何しに?』
『お腹をすかしに散歩をしてゐる所なのだ』
『さう』
 と女は別に疑もせずに、
『では左樣ならお休みなさい』
 と、笑顔を見せると氣持よく挨拶して去つた。もしこれが日本の女であつたち厭味を言はない迄もいゝ顔はしないであらうに、此の點が日本の女と性質が違つてゐる。日本の女にもこうした好い性質はこしらへ度いものだ。
 スペインの首都マドリツドへ行つた時のこと、私はそこの町の裏町を歩いて見た。その時小汚ない活動寫眞館の隣りの入口に立つてゐて勞働者風の男と交渉してゐた女があつたが、話しが纒らなかつたと見えて、女はいきなり男の横面を平手でいやといふ程なぐつて館の入口へ逃げ込んでしまつた。男は平氣でなぐり返せば返せるのに、それもしないでぶら/\歩いて行つてしまつた。こうし(365)た時に日本の勞動者なら必ずなぐり返すか、大聲で惡口をいふか、その何れかであらうが、歐米の男は女に對して無抵抗主義を奉じてゐる。日本人は女に餘り強く當り過ぎるが、歐米の男は又餘りに優し過ぎるきらひがある。
 
     獣的生活から蘇生した女事務員
 
 世界文化の中心を誇るニユーヨークにも驚く可き暗黒面がある。信じられない程の悲惨な人間の生活がある。聞いた丈けでも慄然とする獣的生活が存在してゐる。次に話すのも數多いそうした生活の中の一つであつて米國の婦人裁判所の生んだ美談である。
 ニユーヨークも場末の貧民街に或るユダヤ人の一家があつた。文字通りの貧困に陷り、加ふるに一家の者は獣の如くに無知であつた。家族は四人暮しである。
 彼等の家には−それは辛うじて家と名付けられるもので、普通の人間の生活状態から見ればそれは家では無い。犬小屋にも劣つてゐる。−家具と名付く可きものは殆んど無い。其他の調度にしろ全然形のないのは言ふ迄もない。たゞ半分壞れた汚ないテーブルがある。彼等は食事時には此の上に肉を抛り出して手掴みで先を爭つてそれを頬張るのである。分けて盛る可を皿も無ければ皿(366)にそれ/”\盛る程多量の肉は彼等に惠まれてゐなかつためだ。ナイフも無ければフオークも無く、手で引きむしつてむさぼり喰べる樣は野蠻人より劣つてゐたらう。
 文化の闇に光を受けずして咲く可憐な女は、こうした家庭に多く生育する。子が女なれば両親は年頃になるのをひたすらに待ちわび、子が生育すればそれが當然であるかの如くに子に賣春を強ひる。貧の前には道徳も無ければ宗教も無い。彼等の無知は敢てこれを不幸とも不運とも悲慘とも考へずに、親の爲め自らの爲めに、それが與へられた最上の使命であるかの如くに日に夜をついで賣春の營みに人生を此上もなく暗憺たらしめてゐる。
 天國は胸にある。胸の扉を排する力は學問ではない。況してや金ではない。悲慘なユダヤ人の家庭に人となつた此の女は、年頃になると定められた道を踏む如くに賣春婦となり、日夜肉を切り刻んで賣つては一家四人の糊口をつないでゐた。しかし女には惱みがあつた。こうした生活が人間の生活ではない。人の生活には今少し光があつて欲しい。心からの喜びがあつて欲しい。貧しくとも理想のある生活であつて欲しい。彼女は惠まれない日の多くをひたすらに光明を描いて過してゐた。
 當時米國には私娼撲滅策が盛んに唱導され、シカゴが徹底的にこれ等を驅逐するやニユーヨークもその取締りを嚴にした。彼女等は發見され次第厭應なしに――彼女等が居なければ後に殘された(367)家族の者が、明日からのパンに困らうと一切お構ひなしに――裁判所に擧げられ病院へ抛り込まれた。
 不幸にも――或は幸運にも――彼女もその取締りの網を逃れることが出來ずに捕へられ、直ちに裁判所に送られた。こうした女は大概病毒の保有者であるから、彼女も有無を言はせず病院へ投げ込まれた。病氣が全癒する間彼女はいろ/\の教訓を耳にした。眞面目な生活のことを聞かされた。今までの生活は決して人間の行ふべきものではないことを諭された。
『しかし私にはお金が有りません』
 と、彼女は恨めしさうに訴へるのだつた。
『商賣をしなければその日のパンを購ふことすら出來ないのです。いゝえ、私一人なら我慢も致しませう。私は一人身ではないのです。私には養はねばならない老いた兩親もあれば幼い弟も有るのです。私が商賣をしなければ皆の者は餓え死んでしまひます。私に働く仕事を教へて下さい。私に出來る職業を與へて下さい』
 彼女が泣き乍ら訴へた言葉に檢事は尠なからず動かされた。彼女をその兩親から解放することに決心して、一切の交通から絶つてしまつた。そして裁判所で職を與へた。
(368) 間もなく彼女は裁判所から推薦せられて、ある會社に事務を執る身となつた。更生した彼女は一切を投げうつて仕事に没頭した。そして夜學に通つてせつせと學業に勵んだ。こうした女は或る期間中必らず仕事が終ると毎日監視の意味で裁判所に出頭して、手帳に署名を求めることになつてゐる。彼女は毎日怠らずに顔を出した。裁判所に出頭することは勿論同僚には内證である。
 彼女の勤務は立派に酬いられて今では押しも押されもしないニユーヨークの某會杜の事務員となり、一家の者を引取つて樂しい光ある生活を送つてゐる。蓋しこれなどは裁判所が産んだ美談で、人間の改善の爲めに氣を吐くところであらう。
 凡そ獣的生活を營む女を救ふには喰べて行かれる程度の職業を與へて、それ相當將來の見込みをつけてやらなければ効果はない。食べて行かれないからこうした職業に從事するやうになるのが多いのである。それに働らく仕事もなく、よしあつても食べて行かれる保證がなければ結局此處迄落ちるより仕方のない場合が多い。一度落ちたら容易に救へるものではない。そうなる前にいろ/\の方策を講ず可きである。
 日本には未だこうした裁判所はない。恐らく無いで濟まされるなら濟ましたいが、設けなければならない必要のある程アメリカにはこうした蔭の生活が到る所にある。歐洲の諸國にはまだ裁判所(369)はないが米國以上にこうした生活にうごめく不幸な女達がゐる。總じて米國を歐洲に比較すると感ず可き點がいろ/\ある。中でもこの賣春婦の取締りなどは徹底してゐる。その爲めに裁判所を設けるなど他國では眞似られぬ偉い所である。アメリカが日進月歩よく世界に頭目を表はす進展振りを示したのも理由のないことではない。物質の豊富のみでアメリカの今日の進歩を物語るのは皮相である。その裏面の由つて來たる所を深く考察する必要がある。
 
     カルメンの樣になつた女
         (黒人人形を寢かす哀れな女)
 
 ハンブルグの町を歩く女に幾度も話をして見たが、教育のある女は尠なかつた。それに外國生れの女も尠ない。大概ドイツ生れで言葉も自國語以外使へるのは數へる程しか居なかつた。教育程度もいる/\質問して見たが、小學校卒業程度大部分で、女學校卒業程度のは殆んど居ないと言つて宜かつた。日本の藝妓にも高等教育のあるの仕尠い。此の點は各國共によく似てゐる。時には高等教育をよそふ女も居ないではないが、眞に卒業してゐものは尠ないのである。たまには英語を話したり、フランス語の使へる女も居るには居るが、數から言へば極く僅かである。外國語の話せる(370)女も多くは學校で正式に會話を修業したのではなく、實際その國の賣子などをしてゐた關係から覺えたのが多い。
 私はたま/\降等女學校を出たといふ女に巡り合つた。で、その家へ行つたことがある。女はホテルへ行こうと言ふのだつたが、私は、
『是非貴女の家へ行き度い』
 と、頼んだ。
『私の家など來ても駄目です。それよりいゝホテルが此の近くにありますから、そこへ行きませう』
『ホテルへ行くのなら私は嫌だ。お前の家へ案内するなら、私は喜んで行く』
 女は呆れて、
『妙なことを言ふ人ね』
『いや、貴女には教育がある。それを見込んで私は頼み度いのだ』
 と、私は私の考へを僞らずに述べ、彼女に少し金を與へて、
〔写真説明、カルメンの樣になつた女〕
(371)『私は貴女の家へ行つて生活の實際の状况を見度いのだ。ホテルへ行き度くはない』
 相手の女は流石に高等女學校を卒業したといふ言明に背かず、相當私の意中を察したと見え、
『研究をしてゐられるなら、私の家へ案内しませう。しかし、非常に汚なくて貴方が恐れ入つてしまふだらうと今から心配してゐます』
 女に導かれ乍ら、私はいろ/\と彼女の身の上を問ふた。
『貴女はよく英語が話せるが、學校で習つたのか』
『そうです。英語は學校で可成りやりました』
『貴方の家は』
『私の家を詳しく問ふのは止して下さい。それは貴女の調査の目的には適ふでせうが、私に取つては魂のふる創をさいなむ錐を意味するのですから』
 話しによると、ハンブルグから少し離れた或る村で、相當に商賣をしてゐた家の娘らしい。不良少女の群に入り、都に憧れてベルリンに行つた。小説にあるやうに何か職業を求めて立派な職業婦人として故郷に錦を飾り度かつたのである。しかし何の知邊もない一個の女に直ぐ職業を與へる程、實世間は寛大ではない。女の持金は段々少くなつた。が、今更田舍へ歸つて單調な無趣味な(372)生活を送る氣にはなれない。で、何か女優にでも成らうと機會をうかゞつてゐたのだが、とう/\カツフヱーのウエイトレスに成つた。都へ出て職業に有りついて成功しやうと云ふやうな漠然たる目的で出て來たのでは、そうした經路を辿るのが十中の八九であらう。
 カツフヱーへ入ると或る大學生と戀に落ち入つた。で、二人で同棲したのだが、自分も男もお互に大して執着を感じてゐないことが分つた。
 お互にこうした氣分であり乍ら唯單に異性といふ氣分に導誘されて、青年男女の將來を誤ることが可成多いから、カツフヱーなどに出入する若い學生は特に注意をせねばならぬ。私はこうした若い青年の告白を聞いて、それを救ふたことがあるのを思ひ出した。
 それからいつとはなく別れてまたカツフヱーに入つた。が、滿足な生活を送るには收入が餘りに少い。その結果客を取ることになつた。今では醜業婦の生活から足を洗ふことすら出來ない迄に、深く泥水に足を突込んでしまつた。
『今更家へ歸れませんわ』
 と、女はしみ/”\と述懷するやうに言つた、
『貴女の兩親はさぞかし心配してゐることだらう』
(373)『そのことを言つて下さるな、それで無くてさへ私の良心は私を咎めるのですから』
『こんな生活がいつまで續くものでも無しね』
『それを知つてゐればこそ餘計惱みが多いのですよ。でも、私だつて處女であつた時には隨分眞面目な考へを持つてゐたんですよ、ですが多くの男を知つてからは、もう世の男達を眞面目に考へようともしなければまた戀を感じやうとも思つてゐません。今では享樂と生活の問題しか考へません』
 所謂『モガ』はこうした享樂主義刹那主義を新しい事の樣に考へて居るが、女がこういふ氣分になつた時に女性たるの特質を失ふたものと云はねばならぬ。女の特質を失ふた女は最早社會に存在する理由がない。男性の享樂も惡いが、それは決して同視することは出來ぬ。夫が遊んで女に貞操を守れと云ふこともよくないが、夫の如何に拘らず女には男より以上に重大な貞操の責任がある、こうした考へ方は舊思想でも男に勝手な論でもなからうと信ずる。
『私は眞から、貴女に同情しますよ。貴女はカルメンの樣な氣分になつてしまつたのですね』
『えゝそうです。ベルリンを喰ひつめて今では故郷に近いハンブルグの町へ來て、パンの爲めにカツフヱーづとめの合間にこうした商賣をして居るんですもの』
『カルメンの樣に男をおもちやに其場其場の甘い戀を渡つて歩くのならまだいゝのですがね』
(374)『え妾はもう押しも押されもしない商賣人になつてしまつたんですよ』
 彼女がハンブルグに來たのは今から一年許り前だとのことであると云ふ。
『これから先、何うなるか自分でも分りませんよ。たゞこれだけは解つて居ますよ。もう此のハンブルグにも長くは居られないといふこと丈けは』
 女の年頃は二十二三。子供は無いとのこと。女としては十分の美しさを持つてゐる。それに教養ある者だけが示す態度の洗練さがある。腦もよく物解りも非常によかつた。話題も高尚になつても相當に持ちこたへることの出來る知蝕を持つてゐた。これから幾百年位たつたらこうした女を救ふことの出來る世の中になるであらうか、今の樣な社會事業家の研究の方法とやり方では恐らく百年たつても駄目なことはきまつて居る。
 女の家はハンブルグでも、裏町で湖水に面した町にあつた。暗いじめ/\した横町の二階建の家で、造りは舊式で、それに餘程古い建物らしかつた。
 戸にあるベルを押すと、薄暗い汚ない家の中から婆さんが出て來て戸を開けた。相變らず細目に開けて樣子を見るやうな態度をする。女はニツコリ笑つて、
『今歸つたのよ』
(375) と、言つて入り乍ら私を顧みて、
『少しチツプをやつて下さいな』
 と、小聲でいふので、私が少し金を與へると、婆さんは非常に喜ぴ、
『今晩は、お入り下さい』
 と、丁嚀に言ふ。女は入ると直ぐ右手の自分の室の前まで來ると、手提から鍵を取出して戸を開けた。室は一階《メインフロワー》で往來に面した所にある。極く小さくて六疊位の大きさのそれに汚なくて一帯が粗末である。電燈が無いと晝間でも暗い。光線が殆んど入らないのである。床も汚なくて粗末な薄ぼけた絨緞が敷いてある。寢台はあるが剥げてゐて骨董物のやうに汚ない。シーツと枕覆は古いものではあるが洗濯はしたでのやうに見えた。持物と言つては鞄が一つある位である。
『貴女の持物はこれ一つだけか』
『そうです。鞄が一つあるつきり。それも開けて見れば喫驚しますよ』
 女が開けて見せると中には二三着の着物と、よい外套が一枚あつた。頗る質素な生活である。外にはきたない洋服戸棚に二三着きぬの洋服があつた外には殆ど何もない。強ひて探せば香水や化粧道具と萎みかけた花のさした花瓶がある女けだつた。花はスウイートピーであつた、その他に身の(376)廻りの持物として、靴一足汚ないスリツパ一足、タオルが室の隅に二三枚ある。此の他には殆んど何もない。
『これが貴女のすべての生活か』
『そうです』
『隨分極度の必要品で充たしてあるんだね』
「えゝ、生活は何んをことをしてゞも暮らして行けるものですよ』
『食事は何うするんです』
『大抵食べに出るのです。朝はお婆さんにトーストと牛乳を頼みますけれど。私達のやうな者は朝は食べない時の方が多いのです。夜が晩かつたり、時には徹夜なんかしたりしますから。大抵は三時か四時頃まで起きてゐるんです』
 女の寢床の中を見ると、眞黒な黒人の子供の人形の顔が出てゐる。よく見ると枕を當てがつて、ちやんと蒲團に入れて丁度自分の子供のやうにして寢かしてある。私はそれを見ると女の淋しい心に瞼の熱くなるのを覺えた。
『これは何んです』
(377)『可愛いでせう』
『なんだ黒ん坊の人形ぢやないか』
『そうです。私その人形が好きなんです』
『黒ん坊の人形が?』
『だつて白人だつて、黒人だつて可愛さに變りは無いぢやありませんか、人間は皆同じじやありませんか』
『そうだ私は心ひそかに私の人種的偏見を笑はれた樣な、辱しさを覺えた日本人にはこうした人種的偏見が世界の何れの國民よりも多い樣である。
『そうですよ。これを眺めてゐると、ます/\可愛くなるんです』
『貴女には子供が無いから淋しいのだらう』
『そうかも知れませんわ。でも子供が欲しいとも思ひませんよ』
『早く結婚でもしたらいゝだらう』
『それは結婚生活をしたいのは山々なのですがね。なか/\相手が無いのですよ。有つたにしてもうつかり出來ません。恐ろしい人達ばかりなのです。滿足な生活は出來そうもないのです。それに(378)妾がこうした商賣をしてゐるでせう、なか/\結婚は出來やしないんです』
 女の本能として家庭生活を營み度いのも無理は無からう。白人でも日本人でもそうした心は共通である。女の優しい心から人形を愛するのを見てほんとうに淋しからうと心から哀情をそゝつた。日本の藝妓にしても娼妓にしても、結局は早く自分を愛する相手を見付けて人生の自然である眞面目な夫婦生活に入り度いといふ願ひは常に心にあるらしい。恐らくこうした稼業で、一生を終らうなんて思つてゐる者は一人もなからう、道徳家や宗教家が無暗矢鱈に藝妓や娼妓を勤物の樣に卑しめるのもそれは餘りに酷ではなからうか。
 此の女も年を取ると共にそうした人間の本能に立ち歸つてゐるに違ひない。
『貴君の兩親は健全なのかね』
『えゝ。私はこんなことをして居ますから一切音信をしませんけれども、丈夫でゐること丈けは事實なのです』
『親に逢ひたいと思ふ日もあるだらう』
『それはね。でも、いくらハンブルグにゐても、こんな暗い蔭の生活をしてゐるんでは兩親に逢ひ度くても所も知らしてやることも出來ませんからね』
(379) 女は懷舊の情に堪へ兼ぬるやうな表情をした。
『カツフヱーは澤山あるのだらうかね』
『そんなに澤山ありません』
『友達はあるのかね』
『ありません。一人だけは有りますけれども。毎日同じ所に出て商賣をしてゐても女同志ではなか/\友達にはなれないのです。私の友達は男の友達ばかりです。時々遇ひに行きます』
『相手は一日に何人位あるのかね』
『晝の二時頃から出る時には、夜は早く歸つて來てしまふのです。疲れてしまつて堪へ切れませんから。馴れると半日位立ち續けて歩き廻ること位何んでも無くなるんです。たゞ夜も一時を過ぎると冬なぞ辛くて泣くことがあります。でも休むことなんか出來ません。一日体んでもその日のパンに差支へますから。家賃は一遇間拂ひです。拂ひが出來ないと直ぐ追ひ出されます』
『ホテルへ行かすに此の家へ客を連れて來ることもあるのかね』
『有ります。何しろ小さい家ですから。お客が公然と來ると同居人に知れて文句が出ます。ですから出入りは氣を付けて靜かにしてゐます』
(380) 私は女を慰め度くなつてカツフヱーに行かないかと聞いたら、女は非常に悦んだ。外國の女は少しのことでも直ぐ喜ぶから氣持がよい。日本の女は大それた事でもないとなか/\悦ばない。日本の女の物質的欲望はなか/\小さくない。
 私は女を連れて近所のカツフヱーへ行くことにした。そのカツフヱーは女の家から二町も無い位の所にあつて、入口は一間位しか無いけれども、中へ入ると廣がつてゐる。眞中は廊下になつてゐて外國の汽車のコンパートメントに似てゐる。晝間でも電燈がついてゐて、テーブルには衝立が立つてゐる、仕切り毎にカーテンが下りてゐた。その中で一組の男女み且つ唄つてゐるのである。一人のピアニストが頻りに音樂を奏してゐる。大きな男のボーイがゐて酒の註文を聞きに來た。
『酒は飲むかね』
「えゝ、甘い酒を少々』
 で、私は一番旨いといコンニヤクと少しのものを註文して女に飲ました。
『今日は大變愉快だつた!』
 と、女は三四杯の酒でほんのり上氣した頻に笑を浮べて言ふ。で私も餘計不憫が増し、
『では、他のカツフヱーへ行かう。そしてまた話し乍ら今度はコーヒーを飲まうではないか』
(381)かたがた色々なカツフヱーを見物することも出來るのでそういふた。
『いゝえ、もう澤山』
 と、女は首を振り、
『それに同じことを繰り返すだけで無駄なことですよ。次の日に來て連れてつて呉れませんか』
『そうしよう』
 と、私は答へて、女が果して約束を守るか何うかと考へて、
『では明日の夜十時頃、今日遇ふた所へ來ないか。そこで逢はう』
 と、約束してその日は別れた。時間はまだ十一時だつた。念のためにこれから商賣に出るのかと聞くと、行かないと言つたが、その返事は曖昧だつた。何うも出るらしい。私も話を聞いただけで到底今晩此の女とあの汚ないニグロの子供の人形の寢かしてある、寢床に入つて寢る氣にはなれない。で、約束の十マルク−約五圓を拂つて、それに少し心付けをやつて別れた。女は非常に喜んで頻りと禮をくり返し、かたい握手をした。その喜びから察すると、女には今夜客が無かつたに違ひない。これからもう一仕事するらしく見えた。私は少し經つて女が自分の家の方へ曲るかと振り返つて見ると、女はさつきと反對の方向に曲つて行つた。仕事のある時せい/”\稼がないと仕事が(382)無い時の埋合せが出來無くなる。で、休むことなんか出來ないのだらう。客は多い時で四人位まで取る。それ以上は自分の身體には堪え切れないから欲しないと言つた女の言葉を思ひ出した。
 女の行く方向は、私の宿泊してゐるホテルの方向になつてゐて、『歐米のカフヱーとバー』の節(二七四頁)に這入つてゐる寫眞にある湖水のそばである。此の寫眞の正面の遠くの河岸の通りに正金銀行のハンブルグ支店がある。寫眞にある湖水につき出て居る家が女の澤山來るハンブルグ一のカツフヱーである。此のカツフヱーの附近は女が出る場所の一つである。
 
     マルセイユの名物 (九箇所抹削)
 
 マルセイユ獨特の名物の一つである『覗き』は如何な旅行者でも必らず一度は見物する。今はマルセイユに一軒しかない。ルーエ・メーテルといふ名前の家である。
 此の家はステーシヨンへ行く道の繁華な Rue Cannnegiere の通りから右に入つた所にある。汚ない三階建の家で近所に勞動者相手の安い    。そして頻りに    張り込んでゐる。
 入ると五十恰格の女がゐる。
(383)
 
『暫く待つて下さい。今に客が來るでせう』
 と、戸を開けると右手の一室に案内して待たせる。三十分ばかり待つてゐると、また入つて來て、
『急いで二階へ上つて下さい』
 と、言ふ。で、梯子段を上つて突き當ると室の戸が開いてゐる。其處へ入ると細長い室でベツドも何もない暗い室だ。室の壁に立つて目の高さ位の所に窓がある。其處に高さが一尺二三寸、横一尺位の壁が切拔いてある。見ると壁には鏡があつて、それには金網が張つてある。
『靜かにして此處から見てゐて下さい』
 と、言ふので、覗いて見ると、隣りの室が晃々と明るく見える。
 
 と、覗いて見ると,
 
(384)
 
暫くするとマダムが上つて來て戸をノツクした。戸を開けると、
 
つて出來ないこともあるまいと考へて見た。此の鏡を見る人は、何れも不思議だといふ疑を持つ。
 
(385) 或る人は相手が知つてゐて、室を出ると同時に鏡を引つくり返すのだと、いろ/\の臆説を立てゝるが私の行つた時には、そんなことでもしはしないかと特に注意してゐたが、そんなことは絶對になかつた。科學的に設備して細い鋼鐵の網を硝子に張るとか、或は特殊な手段で製造した鏡がこうした奇妙な働をを示すかといふやうなことを或るドイツの雜誌で讀んだことがある。鏡の構造は何んな風になつてゐるのか知らぬが、ともかく手づま〔二字右○〕使ひでないこと丈けは明かである。日本にも鏡を自動車の窓に應用してつけてゐる者があるといふことだが、それに依ると、中から見ると往來の人が見えるが、往來からは乘つてゐる人の顔が見えないといふ具合に出來てゐるとのことである。こんな鏡は新聞記者に後をつけられる政治家や政商や、見越しの松の家へ通ふ實業家連には至極便利なものであらう。
(386)
 それから故意か本心からかは知らないが、マダムは客が旅行者か否かを非常に氣にして聞く。フランス人には絶對に見せないと言つてゐる。土地の人には何うしても見せないらしい。しかし土地の者でも長く居る日本人で顔馴染みになつてゐる者には見せる。
 
 十年も昔の話であるが、その時にはこうした家が澤山有つた。今では此の家丈けで、他のは無くなつてしまつたのだ。此の家は警察とも相當の連絡を取つて居るのである。
 
から聞いてゐた。恐らくぼや/\した日本人なぞが、おとり〔三字右○〕に引張り込まれてボロイ儲けをされたことだらう。
(387) こうした光景は一九二七年から八年の現状である。私はこうした癈頽した風俗がマルセイユから果して何年後に消えうせるであらうか、此の文獻が過去の寫實として一日も早く價値を生ずることを祈るものである
 
     黒人のダンスホールと白人のキヤバーレー
 
 アメリカにはキヤパーレーやダンスホールが澤山ある。ダンスホールはダンスをする孃樂場であるから表面は眞面目であり、又眞面目な男女も少なくないが、それが若い男女の媒介の場所に成つてゐるのである。米国の職業婦人やその他の若い女のすきな人はこんな所で出來るのが多い。キヤバーレーといふのはアメリカの名前で、酒場のあるダンス場を云のである。此キヤバーレーは大概早くても十時以後に始まるのが普通である。晩いのになると十二時以後のがある。集る客と云のは馴合の男女が多く、之らが踊るのである。賣春婦もゐて、それ/”\客を物色してゐる。黒人の町に黒人の經營してゐるキヤバーレーがある、此處は入場料を二圓取る。入るとテーブルで何か飲物を取らねばならないことになつてゐる。ソーダ水でもニウビヤー(アルコールの極少しある)一杯でもアイスクリームでも何んでも註文さへすればそれでよい。ウエーターは全部黒人の男である。客はいろ(388)/\で黒人も白人もゐる。白人には上流の人間はゐない。概して中以下のが多い。それといふのもこうした場所へ來る白人はものづきにも黒人の相手を見付けるのが目的だからだ。さもなくば、何處かの商店やデパートメントに勤めをしてゐる女が、あまり人に逢ふのを厭うて男を連れて黒人の領域へ侵入して來るのである。そうした男女がダンスをして互に享樂する。纒まると伺處かへ相手を連れて消えてしまふ。ダンスの合間/\には黒人の男や女の踊り子がニグロのダンスや其他いろ/\の藝當を演じて見物させる。客は酒が無くなると何か後の飲物を註文しなければならないからソーダ水一杯位を要領よく三時間でも、四時間でもチビリ/\く飲み乍ら
〔写真、白人のキヤバーレーのダンサー客のダンスの間に出て踊りを見せるのです黒人のチヤーレレストンもあれば其地色々のダンスがある。〕
(389)ダンスをしたり話をしたりしてゐる。コツプは空にしないやうにして置く。コツプが空になるとボーイが見てゐて直ぐに新しい註文を取りに來る、此處らあたりのチツプは普通のチツプの三四倍置く習慣になつてゐる。此處ではアメリカの水兵をよく見受ける白人の女が水兵を捉へてダンスをしたり、又は水兵が黒人の女を相手にダンスをしてゐたりする。煙と酒の香と埃の中で彼等は撒宵踊り明かすのである。衛生上よくないのは言ふまでもない。日本でこうした媒介所の樣なダンスホールを禁ずるのは至極結構である。然し帝國ホテルの樣なダンスホール迄やかましく云ふとしたら時代錯誤ではなからうか、ものは程度である。
 ニユーヨークの乘物は地下鐵でも、タクシーでもこうした者の用意の如くに徹夜で走つてゐる。だからこうした場所から二時三時に歸つても困りはしない。
 ニユーヨークの活動や芝居の集つてゐるタイムススクウエーヤーの裏通りには『ナイトクラブ』や『キヤバーレー』がある。また電車通りではタイムススクウエヤーから少し上町の方へ上つた所にウインターガーデンといふ芝居がある。こゝの通りを上町に一町程行くと裸體の美人がダンスをしてゐる看板がかゝつてゐる、私がそこへ行つたのは芝居見物の歸りで夜十一時頃だつた。もう始まつてゐるだらうと思つて行つたのだが、まだ/\始まる氣配は少しも見えなかつた。中には女を連れ(390)た客が一組居る丈である。此のキヤバーレーは地下室で五弗の入場料を取る。飲物のメニウを持つて來るが見るとべら棒に高い。テーブルの上にはダンスが始まると拍手を取る棒切が置いてあつた。ウエーターは皆男である。十二時十分から始まるとのことで客は活動社眞のはねた後の客が多く、活動の俳優もやつて來る。ほんとの白人だけが來るキヤバーレーである。
 こうした場所は市の所々に散在してゐる。またこれはニユーヨークばかりで無い。フランスやオランダを始め歐羅巴の諸國にもある。しかし歐羅巴のになると十二時過ぎてから始まるやうな所は殆んど無い。ドイツなどでも宵の口から始めて三時頃になると店を閉めてしまふ客も居なくなる。アメリカのキヤバーレーは恐らく世界唯一の歡樂の不夜城であらう。
 キヤバーレーでも男の方から女にダンスを申込む。それが禮儀になつてゐる。賣春婦であつてもそれに變りは無い。歐米の女は、男からダンスの申込を受けるのを光榮と考へてゐる。しかしダンス場では連れの男と來てゐる女には申込まない。そんな場合に申込むと野暮な人間と言はれる、しかし普通のダンスの會などでは誰れに申込んでも構はない。
 
     チヱツクスロヴアキヤの或夜 (一箇所抹削)
 
(391) 汽車でドイツからチヱツクスロヴアキヤに入ると、型の如く税關の官吏が汽車の中に這入つて來て、簡單な調べがある。が、頗る寛大だ、チヱツクスロゲアキヤはチヱツク族とスラヴ兩民族が民族獨立の主義によつて、一九一八年十一月にドイツのハツプスブルグ家から獨立の誕生をあげた新しい中歐の小共和國である。人口は僅かに一千四百萬しかない。
 此の國は歐羅巴の比鮫的裕福な土地を占めてゐるので、天産物に富んでゐる。都のプラーグ鱒は人口六十七萬餘、八世紀の頃出來た古い歴史を持つてゐる市で、十三世紀の頃はドイツ最大の都市であつた。今のプラーグは都市計劃の實行中で、市の中心をなす通りを擴張してゐる。此の大通りにはチヱツク國民の敬慕の的となつてゐる獨立の偉業を遂げたマサリツク教授の銅像がある。今七十九歳の高齡で大統領である。此の大通りが女の出没する所であるがさほど多くは無い。
 此の通りを夜の十一時頃歩いてゐると、向ふから一人の女が近寄つて來て聲をかけた。そして、誘惑の身振を示すのだ。が、生憎此方にはチヱツク語が分らない。何を言つてゐるのやら、勿論見當はついてゐるが、わざ〔二字傍点〕と知らん顔をして見せると、頻りに一緒に來いとすゝめる。
 女に從つて大統領の銅像の所から右に折れて少し行くと、直ぐ電車通りに沿ふた小さい公園の所へ出る。女は私の手をとつてその薄暗い木の傍に連れて行くのだ。
(392) そして何かひそ/\と言ふが、もとよりハンガリア語であるから言葉は一向に通じない。その中女は面倒と思つたのか、色々な誘惑を始めた。これには弱つたが怒ることも出來ず、ぢつと笑ひ乍ら何うするか辛抱してゐると、ホテル、ホテルと度々言ふ。私を引張つて、これからホテルへ行こうといふのだ。そのホテルといふ言葉丈けは分る。此の言葉は萬國に共通して用糊ひられるからだ。
 此方も何やかやとドイツ語、英語を取りまぜて喋つては見たが、先方には一向通じないから始末が着かない。ホテルといふ以上大概後のことは分つてゐる。そろ/\逃げようと試みたがなか/\手強い。放さない。私は面到と思つて、ボケツトから有り合せの小錢を出して見せ、
『金はこれだけしかないから今夜は駄目だ』
 と、いふ意味を身振り手振りで釋明した。
 で、女もやつと納得したらしく放した。歸らうとすると、何か言ひ乍ら手を出した何をするのかと思つてゐると、私の手を堅く握りしめると微笑んだ。で、私も心よくそれに應じて握り返した。
 私は斷つたのにも拘らず、笑顔で相手を求める女の心の温かさに感じ入つた。女は次の會見の機を待つ爲めであるらしかつた。
 女と別れると、ぶら/\歩いて、またもとの大通りを歩いてゐると、また別れた女にばつたり逢(393)つた。女は違つた大路から出て來たらしい。仕方が無いので、微笑すると女も何か言ひ乍らニツコリ笑つて、またくどき始めた。心で不憫とは思つたが、いゝ加減にあしらつて追つ放した。大通りには女共がぽつり/\歩いてゐる。皆誘惑するやうな眼で合圖したり、言葉をかけたりする、ドイツ語の分る女が少しゐた。しかし美人は一人も居ない。女らしい女は一人も見當らなかつた。
 それからその大通りのダンスホールのある町に行つて見た。安バーもある。その近邊にはボツ/\女もゐた。一軒のバーに入つて見ると、何處でも同じように酒とコーヒーを飲んでゐる男と女がゐた。別に他國のと變つた趣はない。
 大通りの銅像の所を右に――先刻とは反對の方向に向つて、木立の薄暗く立ち並ぶ小公園を拔けると上の通りへ出る。人通りのない淋しい通りだ。そこを少し行くと町角へ出た。四五人女が立つて暗暗の中に客を待ち受けてゐる。上等の部類の女だと見えて、身なりも容貌も相當なのが居る。その女達に英語で話しかけて見た。英語を話すのが居る。何うして英語を習つたのかと聞いて歩いて見ると、中にアメリカへ行つてたといふ女がゐた。
『何うして此の商賣に入つたのか』
 と、聞くと、
(394)『仕事が無かつたから』
 と、答へる。
『アメリカの方がいゝだらうに』
『アメリカはいゝ所です、けれども歸らねばならない事情が、私をチヱツクに引き戻したのです。チヱツクは淋しい國ですいくら求めても仕事がありません』
『金でも溜める氣なのか』
『アメリカへ行くにも今ではお金が一文も有りません。だからアメリカへの旅行費を稼いでゐるんです』
 此の女は女らしい女で、流石に他國の空氣を吸つたゞけに態度も言葉も洗練されてゐた。
 他に一人英語を使ふ女がゐた。その女は此の土地の英語速成學校で學んだとのことで、
『何故英語など習つたか』
 と、聞くと、
『必要だから』
『商賣上に必要なのか』
(395)『そうです。以前は知らなかつたのですが、此の商賣を始めてから急に習ひ出したのですよ』
『商賣上役に立つかね』
『大いに役に立ちますとも。現に貴方に役立つてゐます。それに此國へは毎年澤山外國人が這入り込みます。その人達との取引上英語を知つてゐないと不便を感じますから』
 職業の爲めには誰しも並々ならぬ努力は拂ふが、こうした女にまで、その努力を拂はせねばならぬとすると、それを褒めていゝのやら、惡いのやら判斷がつき兼ねる。兎に角歐米の女は教育の程度は別として少なくとも日本の娼妓や藝者よりも智識がある。日本の娼妓は勿論だが藝者程無智なものは文明諸國にないことを今度の旅行によつてたしかめ得た。
 女との質問を打ち切つて通りを眞直ぐに歩いて行くとホテル・アトランチツクの前に出る。そのホテルの手前であつたが、そこに事務所風の大建物があつた。あたりは暗かつた。その入口は少し引き込んでゐて鐵の戸が閉めてあつた。そこに人のうごめく氣配がするのだ。何事だらうと瞳をこらして凝視すると、キスでもしてゐるのだろうか男が女に抱きついてゐた。流石の私も驚いて呆然とした。
 しかし勇氣をこらして篤と見屆けんものと、索知らぬ顔をして近寄つて見た。女は中年だ。三十五六か或は四十位かも知れない。大きな肥えた女で體重三十貫もありさうで、ビールの廣告に出そ(396)うな身體付きだ。女は平氣で私の顔を見返した。もつとも往來に面してゐるのだからよく分る。男は往來に背を向けて、大きい肥つた女の兩腕の中に身を包まれてゐた。
『淺ましい人の子は、何處の國にもゐるものだ』
 こうしたことを取締らぬのは警察の亂れて居る證據である。賣淫程警察の寛嚴が直接に結果に現はれるものは他にあるまい。
 私は少し歩むと角で立止つた。そして、後から來る人は此の樣子を見て何うするだらう。それを見んものと、闇の中の建物のかげから眼を光らして見てゐた。
 運よく一人の男が通りかゝつた。が、男はちよいとその方を見はしたが、何事も無かつたやうな顔をして、さつさと行き過ぎてしまつた。又その後から男女の連れも通りかゝつたが、知つてはゐたらしかつたが、特にその方に注意する樣子もそれに付て話をするやうにも見え無かつた。こうした風習は學ばねばならぬ。日本の公衆にもこうした心懸を養ひ度いものであると私はつく/”\感じた。
 私は驚き呆れ、加ふるに名状すべからざる味氣ない氣持を抱いて其の場所を立去つた。チヱツクスロヴアキヤは如何にもまだ開け無い國ではある。だからこうした事も見られるのだらう。それに(397)しても餘りにひどい。ハイドパークの夜より、それが往來だけに餘計ひどい。が、餘りチヱツクの事は言はれぬかも知れない。東京でも本所方面の木賃宿の附近などになると、下層勞働者相手の辻君がゐて、その中の或る者などは暗い露路裏でひそ/\と語り合うて十錢か二十錢で商賣をするものがあるから  、日本も大きな顔は出來ない。
 それから街の少し賑やかな所を方々歩いて見たが、チヱツクスロヴアキヤには餘り賣春婦は居なかつた。それは各方面から女が入り込まないせいもあらう。
 
     春賣女の墮落と原因
 
 春賣る女の墮落の原因の先づ五割は經済的原因である。又ニユーヨークの女に就いて學者の調べたものに依つても經濟的原因が大部分を占めてゐる。佛國のシヤトレーが、パリーの五千百九十三人に就て調べた原因を見ると、
   貧困         一四四一
   妾生活に馴れて    一四二九
   自己の生活の爲め    二八〇
(398)   老父母のため     三七
   兄弟の爲め        二九
   家族を養ふ爲め      二八
   放蕩の爲め追放され  二二五五
   誘惑の爲め       四〇五
   主人に欺かれ      二八九
   計          五一九三
  ニユーヨークの私娼
   貧困の爲め       五二八
   好んで         五二一
   墮落           二九
   計         一、〇六九
 しかし乍ら以上は彼女達が賣春活に入る迄の話である。一度此の生活に入ると性格が一變してしまふ、だから彼女等を救濟するには、茲に至らざる以前に取計らふ必要がある。こうした人生の(399)闇黒街に落ち込む不幸な婦人達の救濟は、社會萬人の協力して行はねばならぬ所である。殊に婦人達の活躍を願ひ度い、然しそう云ふと甚だ失禮だが現在の日本の婦人達にはそんなお願をしても無駄である。極少數の先覺者があつても組織的の運勤を起す力と闘争的精神がない、こまつたものだ。我が國で何より先に着手せねばならないのは、現在の藝者と公娼の制度を改善することである。凡そ天下に藝者程馬鹿げた制度はあるまい。あの低腦兒の樣な話か、さも無くば、うその話しか出來ない。あんなものに高い金を拂ふ日本の紳士程馬鹿な男性は世界にあるまい。然し時代は流れてゆく。最早五六十年の後には藝者制度に革命が起らない以上、あんな制度は續きもすまい。此の制度がなくならない以上政治に金がかゝつて贈收賄のたえ間があるまい。それから公娼や藝妓家に行はれる養女の制度は何を措いても禁止するやうにせねばならない。養女の制度は非常な弊害を伴ふ人身賣買の方法であることを知る必要がある。我國の状況に就ては拙著『賣春婦論考』を參照あり度い。
 
     佛國マンモートルへ出る女とロンドンの女の比較
 
 巴里のグランドブルバートの通りにマドリンといふ古いチヤーチがある。その傍の地下鐵道に乘ると三十分ばかりでマンモートルへ行くことが出來る。此處は恰度日本の淺草公園のやうな民衆娯(400)樂所で、不夜城と云はれて居る、メリー・ゴー・ラウンドを始めとして、淺草式のいろ/\の飲食店がある。活動や芝居は勿論料理屋、ダンスホールなども澤山ある。
 そこで一番大きなダンスホールと云ふのは、なか/\大きな家で、入ると右手に樂隊席があつて左手に長い大きなバーがある。バーには高い腰掛があつて、澤山の男と女とが腰を掛けて酒を飲んでゐる。酒場の前のテーブルには、春を賣る女が二十人位も居たろう。其中には黒人の女も一人居た。
 中央にダンスホールがあつて、其周圍は觀覽席になつてゐて、テーブルが置いてある。一部分はボツクスになつてゐて、少し高くなつてゐる。そこで客がダンスをやるのだ。此處には賣春婦が多く居るが、これらにダンスを申込むと、一回二フランやることになつて居る。女はテーブルの側に來て相手に成り度がる。承諾して席を與へると、女に酒を飲ませなければならない。場内にはチヨコレートや煙草を賣る女がゐて、女はそれを相變らす買へとねだる。
 私が行つた時は、十月も末の少し寒い時で、巴里は遊覽客が去つて不景氣の時節だつたので、客は極めて尠なく八九人しか居なかつた。大きなダンスホールはうつろのやうな感じを與へた、此處でもアメリカと同樣お客のダンスをする合間々々に本職のダンサーが居て、いろ/\のダンスを見(401)せる。客の尠ないのを幸、女達をつかまへてはいろ/\と質問して見た。こゝの女は餘り眞面目に身の上話などを答へてくれぬ。丁度日本の藝者を相手にして話をして居る樣ないやな感じがした。こゝへ來て始めて歐洲の笑婦らしい笑婦に遇ふた。此處へ來る女は最も下等なこうした所のくひつめ者ばかりであるからこうした感も無理のないことだ。一日こうした酒場をとり卷いて二三十人の女が集合して居るから、益々性質が惡くなるのだ。斯うした女達に禁物なことは集合生活である。日本の藝者が所謂げびて來るのも置やの集合生活からである。此のマンモートルの女から見ればお金ちやんの來るロンドンの女の方が餘程上品である。それは各自獨立生活をしてゐる女達であるからである。最も比較はロンドンの中央に出る女と田舍相手のマンモートルの女であるから多少見劣りのするのも無理はない。
『此處へ來るのは主として外國人やフランス人は少ないといふことだが眞實か』
 と、たしかめると、
『フランス人は極少ない。來ても、それは田舍から巴里見物に來た者位です』
『では今居る客は全部外國人か』
 と、女に訊くと、大きくうなづき、
(402)『皆外國人ですよ』
『何處の國の人だか分るか』
『分ります』
 私は一々あれは何處の國の人、これは何處の國の人と尋ねると一々此れに答へた。流石は商賣だけあると私は驚いた。で、結局客はソイツ人二人、安南人二人、他の各國の人、即ちフランス、スイス、伊太利が一人づ1と言ふことになつた。フランス人は來ても決して馬鹿な金は使はないから彼女たちには決していゝお客ではない。殊に田舍の人となると質素を極めて居るとのことだ。獨佛戰爭の時、獨逸に拂つたフランスの償金五十億フランは農民の貯蓄であつたと云ふのは有名な話である。此の氣質は今も尚變らないと見える。殊に歐洲戰後一層引きしめられた感がある。しかしフランス人には氣の毒だが、昔のナポレオン全盛時代の樣な戚勢が無い。現在の佛蘭西人の特色は機械的方面、拔術的方面である。が一般に言へば現在の佛蘭西人は智識も教育の程度も一般に高いとは言へない。それに國民の氣力がない。運動に對する理解が無い。そのせいか國民の體格が惡い。
 元來國が榮える時には國民の體育に深い注意が拂はれる。今日の國際オリンピツク競技會は昔ギリシアの全盛時代に起つた。スパルタは勿論アゼンでも體育は重んじた。スパルタは弱い子供を殺(403)し獅子の樣に谷底に棄てた程である。羅馬帝國は浴場と女の爲めに亡びたが、其の浴場で終日湯につかつては山海の珍味を賞かんし胃袋に充滿すると、銀の長柄の匙で舌をおさへてはき又食ふと云ふ遊怠な生活の中にも運動は忘れなかつた。有名なカラカラの浴場にも運動場が設けてあつた。近くは鼎の輕重を問はれ出した英國も、まだ運動熱が衰へない處めにその體格が一段によい。世界を征服せんとしてゐるアメリカは、非常に運動熱が盛んで、國民の體格はために善い。ドイツ又然りである。新しく榮ゆる國に運動は盛んである。
 日本人の體格はフランス人に似て大きくない。それに感情的な點もよく似て居る。しかし我國はどうであらうかと考へると、毎年國民の體格がよくなつて行く日本の過去十年間の國民の體育を統計によつて見ると日本人は皆だん/\と伸びて居る。五尺二寸以下の人間は段々減つて行く五尺三寸以上のが毎年増すのだ。今は國民の大多數は五尺二三寸の間にある。目方は十三貫が平均である。これはまだ/\少い。フランスの方がよほど重い。
 日本人をフランス人に比べて劣るのは、フランス人の如く勤儉貯蓄の觀念が無いことである。日本の郵便貯金は世弗で一番少い。歐洲各國は信用制度が發達して居て、各方面とも金を廻す制度は充備して居る。それにも拘らず郵便貯金を利用する者の多いのは國民の勤儉であることの證據であ(404)る。第一が伊太利で四十一億第二が英國の二十六億第三が佛蘭西の十億五で第四が日本の十一億である。次にフランス人は數理的觀念に優つて居る。
 それから技術的方面に特異な力があるのは世界一と言つて宜からう。戰争當時の大砲はドイツのより遙に優つて居た。其他の機械即ち飛行機にしろ自動車にしろ、なか/\精巧を極めたものが出來る。巴里の水道、下水など、或は塵埃の燒却裝置の如き科學的設備は世界の模範を以て任ずることが出來よう。
『貴方は何をぼんやりして居る?』と、女に肩を叩かれて、私は苦笑した。酒場の一隅で取り留めもなく考へ込んで居たのだ。時計を出すと既に一時を過ぎてゐた。慌てて飛び出すと、近所には女が二人づれで澤山客を物色して歩いて居た。
『好い型を見せるからお出をさいな』とか『一所にいらつしやい』
 と、頻りに誘惑するが、また例の型かとネープル以來鼻についてゐるので、いゝ加減に切り上げてホテルへ引き上げた。
 私は此のマンモートルを見た翌日パリーからロンドン名物の冬の霧を見物に飛行機で飛んでロンドンに一週間程ゐて又パリーに歸つた。又しばらく居てからリオンへ行つた。(終り)
 
昭和四年十二月一日 印刷
昭和四年十二月五日 發行
昭和五年九月十五日 普及版發行
  歐米女見物普及版
 定價 壹圓
 著者 道家齊一郎
  東京市神田區今川小路一丁目三番地
 發行者 伊藤三郎
  東京市神田區今川小路一丁目三番地
 印刷者 岩崎由之
發兌 東京市神田區今川小路一丁目三番地 白鳳社
〔2019年3月3日(日)午後5時25分、入力終了〕