上代歴史地理新考、南海道山陽道山陰道北陸道、井上通泰、三省堂、1941.4.20、
 
(1)    緒言
 
サキニ豐後肥前二國ノ風土記ノ新考ヲ作ルツイデニ西海道ノ風土記ノ逸文ヲ整理シテ其註ヲ作ツタ。ソレガ西海道風土記逸文新考デアル。其時ニハマダ全國ノ逸文ノ新考ヲ作ル考ハ無力ツタ。此等ノ書ハ無論大衆ニ歡迎セラレルモノデ無イガ購求者ノ中ニハ熱心ニ讀ンデクレル人ガアツテ自餘ノ國ノ逸文ヲモ註シテクレト乞フ者モアツタ。自分ニモ漸々興味ガ湧イテ來タカラ、マヅ南海道ノ逸文ヲ註シ次ニ山陽道ノヲ註シ次ニ山陰道ノヲ註シタ。抑五畿七道ハ畿内、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海ノ順序デアルガ、右ノ如ク註シタ順序ガ偶然ニ倒ニナツタ。今回南海山陽山陰三道ノモノヲマトメルニ就イテ古制ニ從ウテ順序ヲ改メヨウカトモ思ウタガ何分數年ニ亙ツテノ著述デ、體裁ナドモ次第ニカハツテ來タ事デアルカラ順序ヲ改メル事トナルト新ニ草稿ヲ作ツテ樣式ヲウルハシクセネバナラヌガ、七十二歳ノ暮齢デハソンナ事ニ日ヲ費ス事ガ出來ヌカラ出來上ツタママノ順序ニシタ。カヤウナワケデアルカラ今後ハ北陸、東山、東海ト進ミ畿内ヲバアトマハシニシヨウ。サウシテ若餘命ガアツタラ(多分ムツカシカラウ(2)ガ)常陸出雲(ノ)新考ヲモ作ツテ見ヨウ
西海道風土記逸文新考ノ例ニ依ルト今回ノ書ハ南海道・山陽道・山陰道風土記逸文新考トセネバナラヌガ、ソレデハアマリニ長イ名ニナルカラ風土記逸文新考第二篇トシタ(○書名ハ後ニ變更ス)。ツマリ西海道風土記逸文新考ヲ第一篇ト追認シタワケデアル
目次ノ標題ノ下ニ舊題ト記セルハ纂訂古風土記逸文ノ標題デアル。余ノ標題撰定ノ方針ハ西海道風土記逸文新考ノ緒言四頁二述ベテオイタ
栗田氏ノ纂訂古風土記逸文所收ノ内
 一 淡路國ノ鹿子湊
 二 伊豫ノ二木
 三 オナジキ息長足日女命御歌
 四 備後ノ蘇民將來
 五 因幡ノ武内宿禰
以上五節ヲ削ツタ。然《シカ》削ツタワケハ一ハ僞物デアルカラデアル。然シ淡路國ノ總説ノ中ニ收メテオイタ。二ハ伊社邇波之岡ノ中ニコモツテ居ルカラデアル。三ハ逸文ト稱スベ(3)キモノデ無イカラデアル。二ト三トハ栗田氏ノ考證ニハ出テ居ラヌ。四ハ僞作デアルカラデアル。然シクハシク註シテ山陽道風土記逸文新考ノ末ニ附ケテオイタ。五モ僞作デアルカラ削ツタ。土左ノ三輪川ハ纂訂本ニ在ツテ考證ニ出テ居ラヌガ、コレハ省カレタノデハ無クテ落サレタノデアラウ
索引ハ作ル方ニハ國別ニスル方ガ都合ガヨイガ讀者ノ便ヲ計ツテ道別ニシタ(昭和十二年八月二十四日)
         〇
大震災前カラ心ガケテ新刊ノ活版本ナガラ歴史地理ニ關スル書物ヲ集メ始メタガ大正十二年九月一目ニ悉皆燒失シテシマツタ。災後ニ盛ニ書物ヲ集ムルニ際シテ歴史地理ニ關スルモノノ蒐集ニハ以前ヨリ多ク力ヲ入レタ。無論自慢ニナル程ノ蒐集デハ無イガ圖書館ニ行カイデモ大抵ハ間ニ合フ程ニハナツタ。サテ之ヲドウイフ場合ニ利用スルカトイフ考ハキマツテヰナカツタガ播磨風土記新考ノ著作ニツヅイテ肥前風土記新考、豐後風土記新考、西海道風土記逸文新考ヲ著作スルニ當ツテ右ノ蒐集ガ大ニ益ニ立ツタ。カクスル内ニ歴史地理ニ對スル感興ガ起ツテ來タカラ次々ニ(順序ハ逆ナガ(4)ラ)右ノ蒐集ヲ利用シテ南海道、山陽道、山陰遣ノ風土記逸文ヲ註シタ。是ヨリ先ニ西海道ノ逸文ヲ註スル時ニ一國ノ地理ヲ述ベズシテ直ニ逸文ヲ註シテハ分リニクカラウト思ウタカラ最初ノ逸文ノ註ノ初ニ略一國ノ地理ヲ述ベタガ、對馬ノ如ク逸文ノ無イ國ノ地理ヲ述ベル機會ガ無カツタ(多禰島ノ事ハ大隅國ニ附ケテ略述シタガ)。サテ南海道ノ逸文ヲ註スル時ニモ讃岐國ノ地理ヲ述ベル機會ヲ得ナカツタ(已ムヲ得ズ阿波國ノ末ニ僅バカリ書イテオイタガ)。機會ガナカツタカラ書カナカツタマデデアルト云ハバ理窟ハ立ツデアラウガ、カクスルト種々ナ不都合ノ生ズル中ニモ驛路ノ記述ガ中絶シテ讀者ヲシテ不満ヲ感ゼシムルデアラウト思ウタカラ筆ガ山陽道ニ及ブニ至ツテ、從來逸文ノ註ヲ主トシ一國ノ地理ノ記述ヲ從トシタ方針ヲ變ジテ逸文ノ註ト一國ノ地理ノ記述トヲ兩頭ニ扱ヒ、逸文ノ無イ備前・周防・長門ノ地理ヲモ述ベ同時ニオノヅカラ一國地理ノ記述ガ精シクナツタ。山陰道デモ逸文ノ無イ丹波・石見・隱岐ノ地理ヲモ述ベタ。進ンデ北陸道ノ風土記逸文ヲ註スルコトトナルト逸文ノアルハ越後ノミデアルガ、夙ク方針ヲ變ジタコトデアルカラ今ハ平氣デ若狹・越前・加賀・能登・越中・佐渡ノ地理ヲモ述ベタ。ココニ昭和十三年ノ初夏一代ノ名士ガ澤山集合シテ居ル席デ一人ガ近江ノ舊(5)都ノ事ヲ聞カレタカラ愚考ヲ述ベタ。ソレデ話ガハズンデ次々ニ諸國ノ史蹟ニ就イテノ質問ガアツタガ、終ニ「ナゼ今日マデノ研究ヲ發表ナサラヌカ」ト聞カレタカラ「研究者自身ニハ面白クテモ世間ガ共鳴セヌカラ進ンデ出版シテクレル者ガアリマスマイ」ト答ヘタラ、某氏ノ如キハ多少興奮シテ
 先生ナドニソンナ悩ガアラウトハ知ラナカツタ。我々ハ微力トイヘドモ誰デモ出版イタシマシヨウ
ト云ハレルカラ
 今日迄ニ原稿ノ清書ノ出來テ居ルモノハ活版ニスルト二三册ニシカナルマイカラソンナモノノ出版費ヲ負擔スルコトハ諸君ニ取ツテ何デモアルマイガ、素人ガ出版シテハソレヲ讀ミ又ハ讀ンデ益ヲ得ル人ニ配布スルコトガ困難デシヨウ。或ハ讀マヌモノガ買ヒ。讀ミタイ者ガモラハレヌ事ニナリハシマスマイカ。折角ノ御厚意デスガ出版ハヤハリ營業者ニ限ルデシヨウ
ト云ヒ棄テテ此日モ余ハ人ヨリ先ニ歸ツタ。アトデ此事ニ就イテ人々ノ意見ノ交換ガアツタサウデアルガ、ソレガドウナツタカハ知ラヌ。其時恰東山道ノ研究ヲ始メテ居タ(6)ガ、東山道ノ逸文ハ近江陸奥ニ各二節ガアルダケデアルカラ逸文ノ註ハ諸國ノ地理ノ記述ニ比スルト一駄ノ荷ニ一束ノ秣ヲ添ヘタル如ク両者ハ對等トシテ扱フワケニハ行カヌ。ソコデ再方針ヲ變ジテ諸國ノ上代歴史地理ノ記述ヲ標的トシ、モシ逸文ガアツタラ其註ヲ附記スルコトニシタ。元來出版ノ時ニハ西海道風土記逸文新考ヲ樣トシテ南海道風土記逸文新考等トスベキデアルガ、南海道以下ハ西海道ノヤウニ分量ガ多カラズ從ツテ一道一册トスルコトガ出来ヌカラ
 風土記逸文新考 南海 山陽 山陰 北陸等
トシヨウカト思ウタガ、北陸道以下ハソレモ無理ニナツテ
 上代歴史地理新考 北陸道等
トシナケレバナラナクナツタ。然シ一書ヲ前後デ稱ヲ改ムルノモ體裁ヲ失スルカラ山陰以前ニ對シテハ不適當デモアラウガ
 上代歴史地理新考 南海 山陽 山陰 北陸
    附風土記逸文註釋
トデモシナケレバナルマイ。今ハ追々ニ書キ進ンデ東山道ノ中デハ羽後ガ残ツテ居ル(7)ダケデアル。ソレガスンダラ東海道ヲ書クツモリデアル。畿内ハ讀ムベキ書物ガアマリニ多ク、考フベキ史蹟ガアマリニ多ク、ソレヲ讀ミソレヲ考フルニハ壽命ガ足ルマイカラ風土記逸文ノ註ダケデスマスツモリデアル。實ハ古ク出来上ツタ南海道等ハ勿論、新ニ書イタ東山道ニモ訂正スベキコトガ少クナイカラ今一度手ヲ入レネバナラヌ。サテ本年八月二十日二執筆中ニ或危険ナル病ノ徴候ガ現レ爾来靜養ヲ續ケテ今ハ回復ノ途中ニアルガ正宗敦夫君ガ見マヒノツイデニ著書ノ整理ヲ頻ニ勸メテ來タ。整理ヲシタ所ガ直ニ出版ノ運ニナルカナラヌカ分ラヌガ、何分年ヲ累ネタ著述ノコトデアルカラマヅ記憶ヲ整理セズバ咄嗟ニ始中終ノ事ヲ語ルコトモ出来マイ。ソコデ思立ツタノヲ機會トシテマヅコレダケノ事デモ鉛筆ヲ執ツテ書附ケテオクノデアル。外ニモ思出シタ事ガアツタラ書添ヘヨウ。唯今ノ氣分デハコレガ遺言状代トナラウトハ感ゼヌ。
 庭におりたちふる太刀の、風きるおとのここちよさ、あまたのふみを書きしかど、ああわれいまだ衰へず
コレハ昭和十一年七十一歳ノ時ノ作デアルガ、ナル程ソノ頃ヨリハ少シ弱ツタカナ(昭和十四年十月九日)
(8)         〇
散歩スル時ニハ路傍ノ草木ヲセメテハ名ダケデモ知ツテヰタラ面白カラウト思ヒ、旅行ノ際ニハ到ル處ノ古蹟ノ歴史ヲ心得テヰタラ興味ガアラウト思フノハ恐ラクハ余一人ノ情デハアルマイ。余ハ幼時カラ歴史ト文學トヲ好ンダ。姫路ニ居タ時ニ漢學ノ師(6)田島廉介先生ノ末女ニ佳枝《カシ》トイフ才女ガアツテ余ヨリ三歳ノ姉デアツタガ此娘ニ誘ハレテ日本外史地名考トイフ外史カラ地名ヲ抄出シテ之ニ國郡ヲ註シタ一書ヲ共作シタノガ十三歳ノ時デアル。タトヒ幼稚ノ著作デモ今殘ツテヰタラヨイ記念デアラウニ養父ノ甥ノ中川某トイフ者ガ持出シテソノ放浪中ニ無クシテシマウタ。カヤウナクダラヌ舊事ヲ語ルノハドコノ家カノ本箱ノ中カラデモ見附ケ出シハスマイカトイフ未練ガ殘ツテヰルカラデアル。十五歳デ上京シテ養父ノ命デ大學醫學部豫科ニ入ツタ後モ暇サヘアレバ御茶ノ水ノ聖堂跡ノ圖書館ニ通ウテ史學文學ハ勿論、手當リ次第ニ諸種ノ古書ヲ讀ミ耽ツタ。ソレガ故郷ノ養父ニ聞エテ在京中ノ實兄ヲ通ジテ學校ノ正科ト、歌ヲ學ブコトト、武藝ヲ修ムルコトトノ外ハ一切ノ學問稽古ヲ禁ゼラレタ。無論史學モ亦許サレナカツタ。カクテ遂ニ醫師トナツタガ岡山在任時代ニソロソロ又史癖ガ(9)出テ來タ。正續蕃山考ナドハ此時代ノ著作デアル。然ルニ歸京シテ開業シタ後ハスベテノ便宜ヲ失ウタカラ史學ノ研究ヲ止メテ一時ハ作歌バカリニナツタガ、ソレデハ無聊ニ堪ヘラレヌカラ長年月ヲ費シテ萬葉集新考ヲ作ツタ。ソノ間デモ少暇ヲ得レバ史籍ヲ繙イタ。然ルニ余ハ種々ナ事情ガアツテ旅行トイフモノヲ殆シタコトガ無イノデ、史籍ヲ讀ンデ常ニ飽カズ思ウタノハ地理ノ知識ノ缺亡デアツタ。史籍ヲ讀ンデ地名ガ出テ來ル毎ニ少シ地理ヲ知ツテ居タラドンナニ面白ク興味ガアラウト思ウタ。ソレガ不思議ニ縁ガアツテ晩年ニ及ンデ今ノ如ク地理ニ親ムヤウニナツタノデアルガ、ソノ事情ハ正宗君等ニ見セル爲ニ書イタ別文デ明デアラウ。本書ノ著作ハ初ニハ自分ノ缺ヲ補ハン爲デアツタガ、中ゴロハ門人知人ノ有志ニハ見セテモヨイト思フヤウニナリ、終ニハ出版ヲ乞フ者ガアルナラ許シテモヨイト思フヤウニナツタノデアル。年月ヲ重ネテ書イテ行クウチニハ右ノ如キ思念ノ變遷ガオノヅカラ筆端ニ顯レテ居ルデアラウ
(昭和十四年十一月七日)
    ○
此書ヲ著作スルニ際シテモ亦多クノ人ノ厚意ヲ蒙ツタ。左ニ其人々ノ芳名ヲ掲ゲルガ(10)誤ツテ漏シタモノガアルカモ知レヌ。
 外山且正君、蘆田伊人君、故高木利太君、森繁夫君、齋藤周吉君、松崎謙二郎君、矢野茂平君、原邦造君、故垣田廉吉君、侯爵前田利爲君、南弘君、正宗敦夫君、長島豐太郎君、柳田國男君、森銑三君、故中野忠一郎君以上
内外兩題ハ今回ハ長島豊太郎氏ノ筆ヲ煩シタ
              南天荘主人
 
    目次
 
風土記逸文新考
 南海道
  紀伊國 二節
   あさもよ ひ
   たつかゆみ
  淡路國 無
   附録 鹿子湊
   同  伴嶋並淤能碁侶嶋
(2)  阿波國 五節
   大八島國所知天皇(舊題宮號)
   中湖《ナカノミナト》
   奈佐浦(舊題奈汰浦)
   勝間井
   あまのもと山(舊題あまのりと山)
   伊豫國 六節(實ハ五節)
   御嶋(舊題大山積神)
   熊野岑
   美枳多頭(舊題熟田津)
   湯郡(舊題温泉)
(3)   伊社邇波之岡(實ハ前節ノ一部)
   天山
  土左國 四節
   土左高賀茂大社
   朝倉神社
   玉嶋
   神河(舊題三輪川)
 山陽道
  美作國 二節
   線説
   ○國守
(4)  ○勝間田池
  備前國 無
   總説
  備中國 三節
   總説
   ○松岡(舊題新造御宅)
   ○宮瀬川
   ○邇磨郷
  備後國 無
   總説
  安藝國 無
(5)   總説
  周防國 無
   總説
  長門國 無
   總説
  附録 疫隅國社(舊題蘇民將來)
 山陰道
  丹波國 無
   總説
  丹後國 三節
   總説
(6)   ○天|椅立《ハシダテ》(舊題天梯立)
   ○日置里(舊題浦島子)
   ○比治里(舊題奈具社)
  但馬國 無
   總説
  因幡國 一節
   總説
   ○高草郡(舊題白兎)
  伯耆國 二節
   總説
   ○粟嶋
(7)   ○震動之時(舊題震動※[奚+隹]雉)
  出雲國 有完書
   總説
  石見國 無
   總説
  隠岐國 無
   總説
 
上代歴史地理新考
 北陸道
  若狹國
(8)  越前國
  加賀國
  能登國
  越中國
  越後國
   八坂丹(風土記逸文)
   八掬脛(風土記逸文)
  佐渡國
    以上
 
(1) 南海道風土記逸文新考
                     井上通泰著
 
  紀伊國 二節
 
   あさもよひ
 
今案にあさもよひ〔五字傍点〕は朝にもやして飯を炊也。さてあしたにもやしていひかしぐ木とつづくるなり。……萬葉抄云。あさもよひ〔五字傍点〕とは人のいひかしぐを云也。見2風土記1(○袖中抄卷五あさもよひ〔五字傍点〕之條)
 
(2) 新考 原本即萬葉集抄には人ノとイヒとの間にクフの二字あり○延喜式民部上に
 南海道 紀伊國上、淡路國下、阿波國上、讃岐國上、伊豫國上、土佐國中
とあり。南海道の名はいつ始まりけむ。仲哀天皇紀二年三月に
 天皇巡2狩南國〔二字傍点〕1……至2紀伊國1而居2于|徳勒津《トコロツ》宮1
とあり神功皇后紀元年に
 命2武内《タケシウチ》宿禰1横出2南海〔二字傍点〕1泊2于|紀伊水門《キノミナト》1
とありて後者の南海にミナミノミチと傍訓せり。されど此南國・南海は地名にあらじ。從ひて南海にミナミノミチと傍訓したるは當らじ。地名として南海といへる始は天武天皇紀十四年九月に直廣參|路《ミチノ》眞人|迹見《トミヲ》爲2南海使者1とある即是なり。此時東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫に各使者一人に判官・史各一人を副へて國司郡司及百姓の消息を巡察せしめられしなり。道を添へて云ひし例は同十四年七月に東山道東海道とあり。南海道といへる例も文武天皇大寶三年正月の紀に見えたり。紀伊國は初より南海道に屬せしか、史文闕けて知るべからねど同書天平勝寶八歳十月の下に
 太政官處分。山陽・南海諸國舂米自v今以後取2海路1漕送。……但美作・紀伊二國不v在2此限1
(3)とあれば當時は確に南海道に屬したりしなり。元來紀伊を四國並に淡路と共に一道に屬するは地理上には無理なる事にて偏に行政上の便宜に從ひしなり。さればこそ古事記の國生の段に紀伊を伊豫之二名嶋に加へざるなれ。南海道は恐らくは初より音讀せしにて西宮記卷五郡司讀奏の條に見えたるミナミノミチ又ミナミノウミツヂといふ名は用ある時の爲に設けたる訓に過ぎざらむ。年號などの例を見て、初より音讀しけむことを知るべし○紀伊國の名は夙く神代紀に見えたり。即四神出生章の第五一書に
 伊弉冉尊生2火神1時被v灼而|神退去矣《カムサリマシキ》。故《カレ》葬2於紀伊國〔三字傍点〕熊野之有馬村1焉
とあり。之に次ぎては寶劔出現章の第四一書に
 初|五十猛《イダケル》神天降之時多|將《モチテ》2樹種1而下。然不v殖2韓地1盡以持歸、遂始v自2筑紫1凡大八洲國之内莫v不3播殖而成2青山1焉。所以《コノユエニ》稱2五十猛神1爲2有功之神1。即紀伊國〔三字傍点〕所v坐大神是也
とあり(又第五一書に)。されどこは固より追書にて夙く神代に紀伊といふ國名ありしにあらず。紀伊國熊野と云へるにても追書なる事は知らる。太古には紀伊と熊野とは別國なりき。なほ下に云ふべし○紀伊はキとよむべし。いつの頃にか地名は二字に書くことと定められしに(諸書に和銅六年の詔に依ると云へるは證なき事なり)キは一音にて二(4)字に書かれねばキの母韻を漆へて強ひて二字としたるなり。さてキの義は木にて、木と名づけしは此國は樹木の茂るに適し特に樹神イダケルノ命が此國に坐すが故なり。さて太古には紀國と熊野國と相並びたりしに後に(恐らくは大化改新の時)熊野を紀に合せしなり。即國造本紀に
 紀伊國造 橿原朝御世|神皇産靈《カムミムスビ》命五世孫天道根命定2賜國造1
 熊野國造 志賀高穴穗朝御世|饒速日命《ニギハヤビ》命五世孫大阿斗|足尼《スクネ》定2賜國造1
とあり。紀伊國造は即今の官幣大社|日前《ヒノクマ》神宮及|國懸《クニカカス》神宮の宮司紀氏の家なり。神武天皇以來連綿として此神宮に奉仕せるなり○平安遷都以前に記しし律書殘篇中の國名表に紀伊國郡七とあれば此國は夙くより七郡なりしなり。其郡名は和名抄に據れば伊都《イト》・那賀《ナカ》・名草・海部《アマ》・在田・日高・牟婁にて其順序は東より西へと數へ、西北より東南へと數へたり。同書に國府在名草郡といへり。今の海草《カイサウ》郡紀伊村大字府中即其址なり。紀之川の北に在りて和泉界に遠からず。牟婁は明治十一年郡區編制の時北南東西の四郡に分たれ名草・海部の二郡は明治二十九年に合せて海草郡とせられたれば今は伊都・那賀・海草・有田・日高・西牟婁・東牟婁・南牟婁・北牟婁の九郡なれど北牟婁は近古土豪堀内氏の盛なりし時(5)に志摩國より奪ひ取られしにて王政の紀伊國の内にあらず。さて明治の始に東牟婁以西を和歌山縣とし南北牟婁をば三重縣に屬しき。さるは北山川及熊野川を以て縣界とせしなり
 ○南北牟婁郡は明治四年十一月度會縣に屬せられしが九年四月度會縣を廢して三重縣に合せられしかば爾來三重縣に屬せるなり
○驛は續日本紀大寶二年正月に始置2紀伊國賀陀|驛家《ヤケ・ウマヤ》1とあり。又延喜式兵部省に荻〔右△〕原・賀太驛馬各八疋とあり。然るに日本後紀弘仁二年八月に廢2紀伊國|萩〔右△〕原・名草・賀太三驛1。以2不要1也
同三年四月に
 廢2紀伊國名草驛1更置2萩〔右△〕原驛1
とあり。紀伊續風土記以下之に由りて荻原を萩原の誤として今の伊都郡|笠田《カセダ》町大字萩原に充てたり。なほ下に云はむ。賀太《カタ》は今の海草郡|加太《カダ》町大字加太なり。賀太驛、兵部式に見えたるを思へばこれも後に再置せられしなり。名草驛の廢せられし事の重見せるは不審なり。二年の記事に誤あらむ。即二年八月に廢せられしは萩原・賀太二驛のみならむ。(6)さて荻原と萩原といづれか正しからむ知るべからねど(高山寺本和名抄に見えたる驛名にも荻原とあり)しばらく萩原に從ひて之を笠田町萩原に充てむに平安京より山城の山埼、河内の楠葉・槻本・津積(大和川北岸。今の中河内郡堅下村大字法善寺)和泉の日部《タサカベ》(今の泉北郡鶴田村大字草部)呼《ヲ》唹(今の泉南郡|雄信達《ヲノシンタチ》村大字|男里《ヲノサト》)を經、雄《ヲノ》山峠を越えて紀伊に入りさて賀太に到らむに今の笠田町萩原は經べからず。
 日本地理志料(五十三卷八丁)に
  萩原 圖ヲ按ズルニ大和ノ眞土山ヨリ此ニ至リ海部郡賀太ヲ經テ淡路ノ由良ニ航ス。是當時ノ路次ナリ
 と云ひたれど都を平安京に遷されし後は大和の驛路は廢絶せしかば(延喜式に大和には驛なし)南海道に到るに眞土山は經べからず
思ふに延喜當時の驛路を從來山中越(即雄山峠を經るもの)のみと思へるが根本的に誤れるにて驛路は和泉の日部驛にて分れて一は西南に向ひ一は南に向ひしなり。甲は今の小栗街道にて乙は今の父鬼街道なり。さて甲は呼唹《ヲノ》驛・雄《ヲノ》山峠を經て紀伊國名草郡の東端に出で、乙は遙に東なる鍋谷峠を經て伊都郡の西端なる萩原驛に到りしなり。かく(7)の如く延喜當時に驛路二條ありきと斷言するは兵部式に和泉にては日部・呼唹二驛を擧げ紀伊にては萩原・賀太の二驛を擧げたればなり。呼唹を經れば萩原を經ざる事前に云へる如くなれば呼唹を經るものと萩原を經るものと二條ありとせざるべからざるなり。細に國史を味はふに弘仁二年八月までは或は日部・呼唹・名草を經て賀太に達し或は日部・萩原・名草を經て賀太に達せしが同月に萩原驛を廢せられしかば官道は日部・呼唹・名草の一條となり
 ○弘仁二年八月紀に廢2萩原名草〔二字右△〕賀太三驛1とあるは廢2萩原賀太二驛1の誤なるべき事上に云へる如し。賀太は船と馬とを併せ備へたる驛なるが、そを廢せしは郡家の所管に移ししならむ
同三年四月には名草驛を廢して更に萩原驛を置かれしかば官道は日部・萩原の一條となり
 ○此時呼唹驛は不要となりたれば廢せられしを國史には録し漏したるにこそ。其後賀太驛を再興せし事も國史に漏れたり
延喜當時には再二條となり甲は日部・呼唹を經て賀太に達し乙は日部・萩原を經て賀太(8)に達せしなり。かく二條を存じたれど甲の方距離近ければ恐らくは甲を主とし乙を副とせしならむ。然も乙を廢するに至らざりしは全く無用ならざる事情ありしならむ。其後萩原驛は終に永く廢せられ復名草驛をぞ置かれけむと思へどいまだそこまでは研究せず。その名草驛の址は古の名草郡驛家郷の内、今の海草郡山口村大字里の附近なるべく賀太驛の址は今の同郡加太町大字加太の邑里より東方なるべし。今の邑里は近古隆起せし海濱に建てられたるものなればなり。紀伊績風土記卷之二十三海部郡加太莊加太村の條(刊行本第一輯五一八頁)に
 賀陀驛家址 今村の入口平井町の東の端に古驛の馬繋のありし處とて猶除地若干あり。又村の入口を上《ノボ》りといふ。京都に上るの名の今に遺りたるなり。古道は葛城山(○北山)に傍ひて今猶殘りて淡島道(○即加太に到る道)といふこれなり。續日本紀曰云々。日本紀略曰。桓武天皇延暦十五年二月勅。南海道驛路※[しんにょう+向]遠、使令難v通。因廢2舊路1通2新路1。後紀曰云々。延喜式曰云々と見ゆ。以上の文を考ふるに桓武帝の朝より以前には本國に萩原・名草・賀太三驛を置れしなり。平安の京となりて官道迂遠なるを以て四國より直に攝津に至りて本國を經る事を廢せらる。よりて弘仁に三驛とも皆廢せるなり(○後(9)紀の誤記なり。廢せしは二驛なり)。幾程なく驛家なくては不便なるより又更に名草加太の二驛を置き(○臆測なり。史には見えず。もしありとせば弘仁二年八月より翌三年四月までの間に三たび變更ありきとせざるべからず)又名草驛を廢して萩原驛を置く。此より萩原・加太二驛と定りしならん。此《コレ》延喜式に萩原・加太二驛とある是なり。加太驛より名草驛に至る其間五里許、名草驛より萩原驛に至る其間六里餘なり。名草驛廢する後は加太より直に萩原に至る。其問道路甚遙遠なり。おもふに平安の京の後は本國の往還希少にして驛舍の間遙遠にても事足りしならん
と云へり。「四國より直に攝津に至りて本國を經る事を廢せらる」といへるは本書編者の臆測にて國史に見えざる事なり。もしさる事あらば紀伊國は南海道より除かるる事となり又當國の國府への使命は通ぜざる事となるにあらずや。思ふに因廢2舊道1通2新路1と云へるは所謂四國内の事にて、やがて日本後紀延暦十六年正月の條に
 廢2阿波國驛家△伊豫國十一土佐國十二1新置2土佐國吾椅舟川二驛1
とあるにぞ當りなむ。又同書卷之一(二六頁)に
 桓武天皇都を平安城に定給ひて後延暦十五年勅に云々とあるは山城國山埼驛より(10)河内國津積槻本の二驛を經て本國伊都郡|紀見《キノミ》峠を越えて萩原驛に至りしなるべし
といへり。兵部式に楠葉・槻木・津積とついでたれば槻本は津積より北方にあるべし。編者は津積と萩原との距離の遠きを思ひて妄に所在不明の槻本を津積の南方に移したるなり。又右の説の如くならば和泉の日部・呼唹二驛はいづくに通ずる驛とかせむ。又同書卷之十名草郡山口莊の條(二一四頁)に
 此莊は古の驛家の地にして名草驛の地なり
といひ又同書卷之四十三伊都郡加勢田莊萩原村の條(第二輯二〇頁)に
 當村今の街道よりは少し北にあり。古道は村中寶來山明神の社前を過ぎて兄《セ》山の北の方を越えたりといふ
と云へり。思ふに此驛は平城京の時代(即官道が眞土山を經し時代)よりの物なるを平安京の時代となりてもさながらに存用せしならむ
萬葉集の歌にアサモヨシといふ枕辭を使ひたり。文字には朝毛吉・朝裳吉・麻毛吉・麻裳吉など書きてキ・キヂ・キノ川・キ人(以上のキは皆紀伊)またキノヘ(大和の地名)に冠らせたり。平安朝時代の歌人はいかにしてか之をアサモヨヒと訓誤りてアサモヨヒキノ關守ガ・(11)朝モヨヒ紀ノ川ユスリなどよめり。顯昭も亦アサモヨヒとよみ誤れる一人にて之を釋して「アシタニモヤシテ飯炊グ木とつづくるなり」と云へるなれどモヤスをモヨフといふべからざる事勿論なり。
 ○アサモヨヒの事は又顯昭の作なる柿本朝臣人麻呂勘文(群書類從卷二百八十三所收)に出でたり
さてアサモヨシの釋は萬葉集古義に宮地春樹といふ人の説を引きて
 アサモは麻裳、ヨシは助辭にて麻裳ヲ著とつづけたる枕詞なるべし
と云へるぞよき。これより先に倭訓栞に「麻ノ裳ヲ著ルといふ意につづけたる成べし」と云へれど士清はいまだヨシを説明する事を得ざりしなり。古義に又
 ヨシてふ助辭は集中に玉藻ヨシ・眞菅ヨシ・ハシキヨシなど多く云るヨシと同じと云へり。アヲニヨシ奈良のヨシも之に同じ。古義にはアヲニヨシは青土ネヤシなりと云へれどこは適に麻裳ヨシ著と同例にて青土ヨシ平《ナラ》とかかれるなり。ナラは集中にフミナラス・タチナラスなどいへるナラスの略言なり○顯昭が引ける萬葉抄は久しく世に埋れたりしを明治四十二年に佐々木信綱博士、宮内省圖書寮にて發見せられき。撰者(12)は藤原範永と傳へたれどその非なる事は夙く古人の云へる如し。佐々木博士は萬代集及忠度集に見えたる藤原盛方の撰かと云はれたり(和歌史の研究五八頁)○見風土記といへる風土記はいつの世のにか知られず。恐らくは奈良朝時代の風土記にあらじ
 
   たつかゆみ
 
顯昭云。たつかゆみ〔五字傍点〕とは考2紀伊國風土記1云。弓のとつかをおほきにするなり。それは紀伊國の雄《ヲノ》山のせきもりがもつ弓なり。とぞいへる。さればとつか弓〔四字傍点〕といふを|た〔右△〕と|〔右△〕とと同五音なればたつかゆみ〔五字傍点〕と云なるべし(○袖中抄卷五たつかゆみ〔五字傍点〕之條)
 
 新考 はやく傳範水の萬葉集抄に
 タツカユミトハ紀伊國ニ有。風土記ニ見タリ。弓ノトツカヲ大ニスル也。其ハ紀伊國ノ雄山(ノ)也木〔二字左△〕守(○セキ守の誤)ノ持弓也トゾ云ヘル
と見えたり。萬葉集卷十九に
 (天平勝寶三年)十月二十二日於2左大辨紀飯麻呂朝臣家1宴歌三首 手束弓〔三字傍点〕手にとりもちて朝獵に君はたたしぬ多奈久良の野に 右一首治部卿船王傳誦之。久邇京都時歌。未v詳2作主1也
とあるに就きて云へるなり。又今鏡の打聞の内奈良の御代〔五字傍点〕の條に人麻呂が奈良朝の末までながらへたりけむ證として
 そのかみ人丸といふ集所々きき侍しに天平勝寶五年の春三月左大臣橘卿の家に諸卿大夫たち宴し給ひけるにあるじのおとど問ひのたまはく。古歌にも
  あさもよひ紀のせきもりがたつか弓ゆるす時なくまづゑめるきみ
 といふ歌のはじめいかが(○アサモヨヒの義如何となり)。と侍りければ式部卿石川卿こたへ給へることなど侍るは高野姫のみかど(○孝謙天皇)の御時にこそ侍るなれ
といへり。袖中抄なるたつかゆみ〔五字傍点〕の條にも
 又古歌に「あさもよひきのせきもりがたつかゆみ」云々此歌同心歟
といへり。又袖中抄あさもよひ〔五字傍点〕の條に萬葉五卷抄の序を引きて
(14) 天平勝寶五年春|二〔右△〕月於2左大臣橘卿之東家1宴2飲諸卿大夫等1。于時主人大臣問曰。古歌云
  あさもよひ如何(○如何は衍字ならむ。今鏡に據りて紀ノセキモリガタツカユミユルストキナクの十九言を補ふべきか)あがもへるきみ
 其情奈如|者《トイヒキ》。式部石川卿説云……
といひ又袋草紙卷二に
 又世間有2萬葉集抄序(トイフ)物1(不v知2作者1)。件序云。柿本朝臣人丸歌集云。天平勝寶五年春|二〔右△〕月於2左大臣橘卿之東家1宴2饗〔右△〕諸卿大夫等1。于時主人大臣問云々。如此
といへり。
 ○此歌は無論萬葉集に見えず。今鏡の著者は此歌を含める天平勝寶五年云々の文を人麻呂歌集にて見し趣なれど人麻呂は勝寶五年までは存生せざれば彼文もし人麻呂集中にあらばそは後人の附記ならむのみ。抑奈良朝以前にはアサモヨヒとは云はず。又上三句はユルスにかかれる序にて
  ○弓にはユルブルといふが常なれど又ユルスといへる例あり。たと へば萬葉集卷十一にアヅサユミヒキテ不許アラマセバカカルコヒニハアハザラマシヲとあり。(15)又六帖に人丸とありてアヅサ弓ヒキハリモチテユルサズトワガ思フ妹ハシルヤシラズヤとあり
 主文は下二句なるがその主文は意を成さず。ユルストキナクをユルストモナクの誤とせば僅に通ずべし。又は結句を袖中抄所引に從ひてアガモヘル君とせばよく通ずべし。即タユム時ナク君ヲ憶フといへるなり。式部卿石川卿といへるは石川年足なるべし。げに續日本紀勝寶元年八月辛未に式部卿從四位上石川朝臣年足爲2兼紫微大弼1とあれど正倉院文書勝寶二年三月三日の治部省牒に參議從四位上守卿兼紫微中臺大弼勲十二等石川朝臣年足と署したれば勝寶五年には式部卿ならじ。否五年には左大辨なり(三年以來)
萬葉集卷五なる哀2世間難1v住歌に又タツカヅヱとよめり。さて顯昭は右のタツカ弓を紀伊國風土記に「弓のとつかを大にするなり」とあればトツカを訛りてタツカといふなりと云へるなれどタツカは手ツカ、トツカは取ツカにて元來別語なり。さればこそタツカ弓とは云へどトツカ弓とは云はざるなれ。思ふにトツカはやがて萬葉集に
 みな淵の細川山にたつまゆみ弓束まくまで人に知らえじ(卷七)
(16) おきていかばいもはまがなしもちてゆくあづさのゆみの由都可にもがも(卷十四)などいへるユヅカにて今いふ弓ノニギリならむ。ユヅカは又ユミツカといふ。即和名抄弓の下に弓末曰v※[弓+肅](由美波數)中央曰v※[弓+付](由美都賀)といへり。弓束と書けるは擬字にて實は弓柄なり。さてタツカ弓を仙覺は「ただ手にとるをタツカといへるにや」といひ契沖は之に同意したれど
 ○契沖は夙く卷五なるタツカヅヱを「手に握る杖といふ意なり」といへり
手に握らぬ弓又は杖あらばこそ手に握るを取分きてタツカ弓タツカ杖と云はめ。いづれの弓又は杖も手に握るものなれば取分き云はむ由なきにあらずや。思ふにタツカ弓タツカ杖は握の一つかばかりなるを、即常のよりはやや太きを云へるならむ(萬葉集新考八六六頁參照)
萬葉集卷四に
 わがせこが跡ふみもとめおひゆかばきの關守〔四字傍点〕いとどめなむかも
といふ歌あり。このキノ關と本文(袖中抄所引風土記)に見えたる雄の山の關とを混同すべからず。抑大和より紀伊に到るには眞土山に由る道と河内和泉を經て紀泉國界の山(17)脈(葛城連峰、紀伊にては北山といふ)を越ゆる道とあり。ヲノ山越は後者の一路なり。奈良朝時代にはヲノ山越はいまだ官道とならざるのみならず今の歌の長歌にアサモヨシ紀路ニイリタツ眞土山コユラムキミハとあれば少くとも此歌のキノ關は(今鏡などに見えたるはともかくも)ヲノ山ノ關にあらず。然らばこのキノ關は眞土山に置かれたりしかと云ふに恐らくは然らじ。ここに大化二年正月の改新之詔の第二に
 置2畿内・國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬1及造2鈴契1定2山河1。……凡畿内東自2名墾横河1以來、甫自2紀伊|兄《セ》山1以來(兄此云v制)西自2赤石櫛淵1以來、北自2近江狹々波合坂山1以來爲2畿内國1
とあり。思ふに此時兄山にぞ關は設けられけむ。
 ○セ山はやがて關山といふ事か。萬葉集卷四にウマセを馬柵と書けり。關の本語はセならむ(新考六五八頁及一〇四六頁參照)。そのセにクを添へてセクといふ動詞を作り更にそのセクよりセキといふ名詞を作りしならむ
但其關のありしは一時の事なるべく無論此歌をよみし神龜元年にはもはや存ぜざるべく此歌にキノ關といへるはただ漠然として云へるなるべし(新考六七一頁參照)
(18)雄《ヲノ》山は葛城山脈の一部にて和泉紀伊二國を界せる連峰なるが雄の山の關のありし處は平安朝以後の官道なり。和泉の呼唹《ヲノ》驛より紀伊の名草驛に到る途なり。今の國道は略この驛路に同じく其高處を今も雄の上峠といふ。阪和電鐵の隧道は適に峠の地下に當れり。紀伊績風土記卷之十名草郡山口莊湯屋谷村の條(刊本第一輯二二四頁)に
 ○雄山關  白鳥關
 雄山の内にありしならん。今何れの地とも定めがたし。雄山關の事は袖中抄たつか弓の條に云々。又萬葉集に木國之昔弓雄之響矢用云々の歌あり。これらを并せ考ふるに此關守強弓の名ありしなるべし。此關は何れの時に置れし關にや。孝徳天皇紀に大化二年正月詔曰云々とある時などに置れたるにや。今西村(○同莊内)の小島某の家は坂上姓にて先祖坂上五郎は雄山の關守の末孫なりなどいひ傳へたり。又白鳥の關といへるは古本今昔物語に云々(○後に引くべし)。此故事を夫木抄鴨長明が歌にオモフニハ契モ何カアサモヨヒキノ川上ノシラトリノ關とよめり(○卷二十一、關)。此歌によれば雄山の關を白鳥の關ともいへるなり云々
といひ又同莊の下(二一四頁)に
(19) 山口の稱は雄山の山口の義なり。永仁の文書に山口領主新左衛門尉坂上明繼といふあり。或は此邊古は坂上と稱せしといふ
といひ同莊西村の條(二一五頁)に
 相傳ふ。此地舊名は坂上村といひしとぞ。今田地の字に坂上といふあり。古の遺名にや。又坂上姓の舊家村中にあり。萬葉集に木國之昔弓雄之響矢用鹿取靡坂上〔二字傍点〕爾曾とある坂上は地名とも定め難く又歌も本國の内いづれの地にての歌とも定め難けれども弓雄の事風土記にある雄山の關守がもつ弓の事と縁ありて坂上氏の人古く此地に住ける事なれば萬葉の坂上も此地の事にして土人の此村を坂上村といひしといふもよしある傳へならんかし
といひ又卷二十八那賀郡山埼莊山村小名|夙《シユク》の條(第一輯五九七貢)に
 本村乾の方往來の官道にありて別に一村をなし山口莊湯屋谷村と東西官道を隔てて相對す。古より此地弓を作るを業とす。古の紀ノ關モリノタツカ弓の遺流を傳ふといへり。弓工甚宜く雨中に用ひて※[魚+票]膠《ニベ》離れざるを賞す。今これを雁金弓〔三字傍点〕といひて藩中の士多くこれを用ふ。因りて稍々城下に移りて出職をなし今は村中にては弓工なし(20)云々
といひ又卷一(八頁)に
 今其弓の本弭に燒印を以て雁の形を畫けり。因て世俗雁金弓といふ。按ずるに中古の書に或女弓を形見に殘し白鳥に化して雄山の關邊に至りしより其關を白鳥の關といひし趣に記せり〔雄山〜傍点〕。然らば彼雁金弓は形見に殘しし弓の故事に因てもと白鳥の形を畫きたるを後世、形の雁に似たるより雁金弓とはいひ誤れるなるべし。又萬葉集に木國之昔弓雄とあるも此關守の弓術に長じたるを稱せるならん
と云へり。萬葉集卷九なる大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首の中に
 木の國の昔|弓雄之《サツヲガ》かぶらもち鹿《カ》とりなびけし坂の上にぞある
といふ歌あり。第二句は弓雄之昔の顛倒としてサツヲガムカシとよむべし。結句はココゾソノ坂上ナルといへるにて坂上は地名にはあらじ(新考一六九〇頁參照)。續風土記の編者はこの弓雄を雄山の關守としたれど、そは何の證も無き事なり。右のサツヲは恐らくは獵夫にて關守にはあらじ。又坂上はいづくの坂の上にか知るべからず。又同じき編(21)者は雄山の關を大化二年に置かれしかと云へれど紀の關こそ此時置かれけめ、雄山道は當時未開けざれば
 ○雄山道の史に見えたるは日本後紀延暦二十三年に冬十月壬子幸2紀伊國玉出島1、甲寅自2雄山道〔三字傍点〕1還2日根行宮1とあるが始にて續風土記の編者も然云へり(二二三頁)
雄山關を置かれしは平安朝以後ならむ。又同じき編者は姓氏と苗字とを混同せり。永仁文書に山口領主新左衛門尉坂上明繼とあり應安文書に山口入道明教とありと云へば坂上は姓氏なるが其家は有名なる大和高市郡の坂上氏の分流にて、たとひ西村の舊名を坂上と云ふとも、その坂上に依れる稱號にあらじ。恐らくは文徳天皇實録天安二年六月に癸卯從五位下山口伊美吉〔五字傍点〕西成爲2紀伊介1とある人の裔ならむ。山口忌寸は彼坂上大宿禰と同租なり
今昔物語卷三十人妻化成v弓後成v鳥飛失語第十四に
 今昔△△ノ國△△ノ郡ニ住ケル男有ケリ。其ノ妻形チ美麗ニシテ有樣|微妙《イミジ》カリケレバ夫難去ク思テ棲ケル程ニ妻、夫寢タリケル間ニ男ノ夢ニ見ル樣、此ノ我ガ愛シ思フ妻我レニ云ク、我レ汝ト相棲ト云ヘドモ我レ忽ニ遙ナル所ニ行ナムトス。汝ヲ今ハ不(22)可見ズ。但シ我ガ形見ヲバ留置カム。其レヲ我ガ替ニ可哀キ也。ト云フト見ル程ニ夢覺ヌ。男驚キ騷テ見ルニ妻無シ。起テ近キ邊ニ此レヲ求ムルニ無ケレバ奇異《アヤシ》ト思フ程ニ本ハ無カリツルニ枕上ニ弓一張立タリ。此レヲ見ルニ夢ニ形見ト云ツルハ此レヲ云ケルニヤト疑ヒ思テ妻若シ尚ヤ來ルト待テドモ遂ニ不見エズシテ夫戀ヒ悲ブト云ヘドモ甲斐無シ。此レハ若シ鬼神ナムドノ變化シタリケルニヤト怖シク思ヒケリ。然リトテ今ハ何《イカ》ガハセムト爲ルト思テ其ノ弓ヲ傍ニ近ク立テ明ケ暮レ妻ノ戀シキママニハ手ニ取リ掻巾《カイノゴ》ヒナドシテ身ヲ放ツ事無カリケリ。然テ月來《ツキゴロ》ヲ經ル程ニ其ノ弓前ニ立《タテ》タルガ俄ニ白キ鳥ト成テ飛ビ出テ遙ニ南ヲ指テ行ク。男|奇異《アヤシ》ト思テ出テ見ルニ雲ニ付テ行クヲ男尋ネ行テ見レバ紀伊ノ國二至ヌ〔七字傍点〕。其ノ鳥亦人ト成ニケリ。男、然レバコソ此ハ只物ニハ非ザリケリト思テ其レヨリハ返ニケル。然テ男和歌ヲ讀テ云ク
 アサモヨヒキノカハユスリユクミヅノイツサヤムサヤイルサヤムサヤ
ト。此ノ歌|近來《チカゴロ》ノ和歌ニハ不似ズカシ。アサモヨヒ〔五字傍点〕トハ朝《ツト》メテ物食フ時ヲ云フ也。イツサヤムサヤ〔七字傍点〕トハ狩スル野ヲ云フ也。此ノ歌ハ聞ク(〇人〔右△〕脱せるか)何トモ心不得マジケレバナム亦此ノ語《モノガタ》リ奥|戀《ユカシ》ク現《ゲ》ニトモ不2思《オボ》エヌ事レvドモ舊キ記《フミ》二書タル事ナレバ(23)此《カク》ナム語リ傳ヘタルトヤ
といひ俊頼口傳集上卷(續々群書類從第十五の二〇三頁)にも
  手束弓手に取持て朝狩に君は立來ぬ〔三字傍点〕棚倉野に 朝もよひ紀關守|は〔右△〕手束弓許す時なく待夜ぬる君〔五字傍点〕 朝もよひ紀川ゆすり行水のいつさやむさや /\(○結句は他書にはイルサヤムサヤとあり)
 むかし男ありけり。女をおもひてかくしこめてあひあひ〔・四字傍点〕(○愛シの誤)けるほどにゆめにこの女われははるかなる所へゆきなんとす。ただしかたみをばとどめんとす。われかくばかりに〔・八字傍点〕(○ワレガカハリニの誤)あはれにすべきなり。といひけるほどにゆめさめぬ。おどろきてみるほどに〔・五字傍点〕(○ミルニの誤)女(○ハ脱)なくてまくら(○ガミ脱)にゆみたてり。あさましとおもひて〔・二字傍点〕(○ヘドの誤か)さりとてはいかがはせむとてその弓をかたはらにたててあけくれ手にとりてのごひなどして身をはなつことなし。月日ふる程に又白きとりになりてとびいでてはるかに南の方に雲につきて行をたづねゆきてみれば紀伊國にいたりて〔八字傍点〕人に又なりにけり。さてこの歌はそのをりによみたりけるとぞ。アサモヨヒとはつとめて物をいふ〔・二字傍点〕(○クフの誤)時をいふなり。イツサヤムサヤと(24)はかりする(○野ノ〔二字傍点〕脱せるか)名なりとぞ。おくゆかしうげにともきこえねどもふるき物にかきたればそのまましるし申なり〔その〜傍点〕(○袖中抄所引にはソムクベキコトナラネバカキツクルバカリ也とあり)
と云へり。乙は甲に據れるならむ。甲乙同一源より出でたるにはあらじ。袖中抄には無名抄云といひて俊頼口傳集の文をさながらに引けり。さて右の文に女が弓に化し弓が又白鳥に化して紀伊國に到るとはあれど雄山關に到るとはあらざるなり。又白鳥關といふ名は鴨長明の歌に見えたるのみ。然るに僧由阿の詞林采葉抄に至りて始めて此傳説を雄山關と結附けたり。即同書第四朝毛吉紀の條に此傳説を略敍し其末に
 此弓アル時白キ鳥トナリテ南ヲサシテ行ク。男跡ヲタヅネテオヒ行ニ紀伊國雄山〔二字傍点〕ト云所ニテ又人トナリテウセヌ。此女ハ彼山ノ關守ノ弓ニテアリケルトカヤ〔此女〜傍点〕
と云へり
アサモヨヒの事タツカユミの事の見えたりといふ紀伊國風土記が奈良朝以前の物にあらざる事は勿論なるが、さる風土記實にありけむにや頗うたがはし。あらぬ歌を掲げて萬葉集に出でたりと稱して自説を扶けたる類にあらざるか
 
(25)   淡路國
 
僧由阿の詞林采葉抄第七水手の條に左の一節を引けり
 淡路國風土記云。應神天皇廾年秋八月天皇淡路ノ嶋ニ遊獵ノ時海上(ニ)大鹿浮來レリ。則人也。天皇召2左右1詔問。答曰。我是日向國ノ諸縣|郡〔左△〕《君》牛也。角鹿皮着。而年老雖v不v與〔左△〕《奉》v仕、尚以v莫v忘2天恩1、仍|汝〔左△〕《我》女|長髪〔二字左△〕《髪長》姫貢也。仍令v榜2御舟1矣。因v茲此湊曰2鹿子湊1
 
淡路國は迫門内海の東口を塞げる一島にして適に紀伊・阿波・播磨三國の間に嵌まれり。形状略、蜘牛の首を昂げたるに似、其首は東北に向へり。東北播磨との海峽を明石迫門(明石のと)といひ東南紀伊の友が島(沖島)との海峽を由良迫門(由良のと)といひ西南阿波との海峽を鳴門といふ。淡路は古典に淡道とも書けり。名義は阿波路にて阿波ニ到ル途といふ事なり。此國は國史上最早く開けし島なり。即古事記にココニ天神諸ノ命モチテ伊邪那岐命・伊邪那美命二柱ノ神ニコノタダヨヘル國ヲ修理固成《ツクリカタメナ》セト詔《ノ》リテ天沼矛《アメノヌホコ》ヲ賜ヒテ言依《コトヨサ》シタマヒキ。故《カレ》二柱ノ神天津橋ニ立タシテ鹽コヲロコヲロニ〔七字傍点〕畫鳴《カキナ》シテ引上ゲタマフ時ニ其矛ノ末《サキ》ヨリ垂落《シタダ》ル鹽、累積《ツモ》リテ嶋ト成(26)ル。是淤能碁呂嶋〔五字傍点〕ナリ。其嶋ニ天降《アモ》リマシテ天之《アメノ》御柱ヲ見立テ八尋殿ヲ見立テタマヒキ
といへり。オノゴロ島は淡路の南方の海中にありて今三原郡に屬したる沼《ヌ》島なり。今同郡|榎列《エナミ》村大字|幡多《ハタ》にオノゴロ島社あるは姦人の作りたる古蹟なり。古事記に又子|水蛭子《ヒルゴ》ヲ生ミ次ニ淡嶋〔二字傍点〕ヲ生ムといへる淡島は彼紀伊國の友が島にて此二子不良なりしかば過を改めて次々に國又は神を生みたまひし其第一が淡道之穗之狹別《アハヂノホノサワケ》嶋にて即淡路國なり。但淡道と云へるは追言なる事勿論なり。當時いまだ阿波といふ國名無く從ひて阿波ニ到ル途とは稱すべからざればなり。日本紀には
 伊弉諾尊・伊弉冉尊、天津橋ノ上ニ立チテ共ニ計リテ曰ク。底下ニ豈國ナカラムヤト。廼|天之瓊矛《アメノヌホコ》ヲ以テ指下シテ探リシニ、ココニ滄溟ヲ獲キ。ソノ矛ノ鋒《サキ》ヨリ滴瀝《シタダ》ル潮、凝リテ一島卜成りキ。之ニ名ヅケテ※[石+殷]馭盧《オノゴロ》島ト曰フ。二神ココニ彼《ソノ》島ニ降り居《マ》シ因リテ共ニ夫婦ト爲リテ洲國ヲ産《ウ》生マムト欲スココニ陰陽始メテ※[しんにょう+構の旁]合シテ夫婦トナル。産時ニ至ルニ及ビテ淡路洲ヲ以テ胞トシ(意所不快故名之曰淡路洲)廼大日本豐秋津洲ヲ生ム
(27)といへり(十種の一書は略す)。オノゴロを※[石+殷]馭盧と書きたるは※[石+殷]の呉音オヌを轉じてオノに充てたるなり。意所不快故名之曰淡路洲の十一字は今本に本文の中としたれど元來註文なり。否中世人がアハヂの名義を吾耻《アハヂ》として行間に書入れたるが註文にまがひ終に本文に闌入したるなり。例の舊事紀に先産生淡路州爲胞。意所不快。故曰淡道州。即謂吾恥也と云へり。當國の誇は開國の古き事のみならず猪鹿多くして屡天皇の行幸を仰ぎし事、供御の魚介を貢《タテマツ》り來りし事などなり。
 ○天皇の此國に遊獵したまひし事は應神天皇紀十三年註・同二十二年・履仲天皇紀五年・允恭天皇紀十四年などに見えたり。伊勢志摩などと共に御饌《ミケ》に仕へし事は萬葉集卷六なる山部赤人作歌にミケツ國〔四字傍点〕日々ノミツギト淡路ノ野島ノアマノワタノ底オキツイクリニ鰒珠サハニカヅキデ船ナメテ仕ヘマツルガ貴シ見レバといひ其反歌に朝ナギニカヂノトキコユミケツ國〔四字傍点〕野島ノアマノ船ニシアルラシと云へるにても知らる。ミケツ國は御饌奉仕の國といふ事にてそのミケは主として魚介を云へるに似たり。このミケツ國と同卷にミケムカフアハヂノ島といへるとを混同すべからず。然るに現に地理志料なども混同せり。ミケムカフは御饌ニムク(適)といふ事にてアハ(28)ヂのアハ(粟)にかかれるなり。集中には又キ(葱)ミナ(蜷)アヂ(鳥か魚か)に冠らせたる例あり。さて淡路國が供御の魚介を貢し來りしは其海が魚介に富める上に此國には夙くより海人《アマ》部落が住みし故なり。淡路の海人は上に擧げたる(又履中天皇前紀に見えたる)野島ノアマの外に應神天皇紀二十二年に淡路御原之海人見え和名抄三原郡の郷名に阿萬あり。今三原郡加茂村の大字に内膳あり。もと上内膳村下内膳村と稱せられ中古には内膳莊又は内膳保と稱せられき。これも亦御饌奉仕に關係ある名か
國造本紀に
 淡道國造 難波高津朝御世|神皇産靈《カムミムスヒ》尊九世孫矢口|足尼《スクネ》定2賜國造1
とあり。此國、後に津名三原の二郡に分たれき。俗に前者を上郡といひ後者を下郡といふ。津名郡は國の北部と東部とを占め三原郡は殘れる西南部を占めたり。かくの如く津名は三原より廣きが古は今よりなほ廣かりしなり。今の加茂・大野・廣田三村は古の賀茂・廣田二郷に當れるが其二郷を和名抄に津名郡に屬せり。されば古は加茂廣田二村の西眼を以て郡界としたりしなり。辭を換へて云はば桑間川(洲本川)と三原川との分水嶺を以て郡界としたりしなり。津名郡は廣けれども山多く三原郡は狹き代に平地多し。古は四(29)國九州に赴く船殆皆(阿波土佐に到るものの一部の外)明石海峽を通過し又四國に赴く船は淡路の西岸に治ひて航行せしかば津名郡も其北部西部の治岸地は夙く都人に知られしかど國内にて夙く開けしは平地多き三原郡なり。されば國府は三原郡に置かれたりき。今の榎列村大字榎列に府中といふ字あり其南なる市村大字十一箇所に惣社あり同村大字市に國衙といふ字あり又市はやがて國府市の遺名なるべく市村の東なる八木村の大字|※[竹冠/矢]《ヤ》原(本來ノハラとよむべきを今ヤハラと唱ふ)に國分寺及國分尼寺址あれば國府のありしは今の榎列村の南部及市村の北部ならむ。神代《クマシロ》村の大字國衙は守護の國衙址なりといふ。南海流浪記(後嵯峨天皇の御世に高野山の僧道範が讃岐國に流されし時の記にて群書類從卷三百三十に收めたり)に養宜《ヤギ》の國府と云へるも亦守護の政所ならむ。養宜は今の八木村大字養宜なり。津名郡〔三字傍点〕の郡家は古の郡家郷の内なる今の郡家町にありき。和名抄郡家郷の訓註に久宇希とありて學者之を一般郡家の稱呼の典據とせり。但此稱呼は時處を貫けるものなりや。即何處にても又何時にてもクウケと唱へしか。こはなほ研究を要す。三原郡〔三字傍点〕は日本紀に御原と書けり。されど延喜式以來三原と書けり。其郡家の址は明ならず。驛は延喜兵部式に由良・大野・福良各五疋とあり。紀伊の賀太(30)より船にて此國の東南端なる由良に渡り大野を經て西南端なる福良より船にて阿波の石隈(今の撫養町附近)に渡りしなり。大野は今の三原郡(古は津名郡)大野村大字大野の附近にて由良よりは西北、福良よりは東北に當れり。由良より道を正西に取らざりしは柏《カシ》原山に障へられたる故なり。さて由良大野の間の近きに反して大野福良の間は頗遠ければ古はその間になほ一驛ありしなり。神本《カミノモト》驛即是なり。續日本紀神護景雲二年三月の下に
 南海道使治部少輔從五位下|高向《タカムカ》朝臣家主言。淡路國神本驛家行程殊近。乞從2停却1。詔許v之
とあり。大野福良間の行程、厩牧令規定の三十里(今の凡五里)よりは稍遠けれど中間驛ありては又近きに過ぐれば經費節減の爲にその中間驛即神本驛を廢せしなり。今も三原郡榎列村大字幡多字下八太に神本といふ地名ありて其處に神本八幡宮と神本《ジンポン》寺といふ眞言宗の寺とあり。されば神本驛址は幡多附近ならむ。幡多は適に大野と福良との中央に當れり。驛名の神本を地名辭書にはミワモトと訓めり。こは同處幡多山に縣社|大和《オホヤマト》大國魂神社あるが故なるべけれど此社は大和《オホヤマト》神社の分靈なるべく大神《ミワ》神社とは關係(31)あるまじければ神本をミワモト又はミワノモトと訓むべき理由とはすべからず。神本は宜しくカミノモトと訓むべし。但今はカウノモトと唱ふといふ。モトはフモトなり。神名帳に見えたる當國十三座の内なる淡路伊佐奈伎神社は今伊弉諾神社と稱せられて官幣大社に列れるが津名郡多賀村大字多賀にあり。されば俗に多賀大明神と稱す。此神社の存在も亦當國の誇なるが茲に近江國犬上郡多賀村大字多賀に官幣大社多賀神社あり。祭神は同じくイザナギノ尊(並にイザナミノ尊)なり。此神社と淡路多賀なる所謂多賀大明神との關係如何。まづ日本紀に
 是後伊弉諾尊神功既ニ畢リ靈運遷リナムトス。是ヲ以テ幽宮ヲ淡路之|洲《クニ》ニ構《ツク》リ寂然トシテ隱リマシキ。亦曰ク。伊弉諾尊功既ニ至リテ徳亦大キナリ。ココニ天ニ登リテ報命シ仍リテ日之|少宮《ワカミヤ》ニ留宅《トドマ》リタマヒキ
と云へり。即或は淡路國に留りたまふと傳へ或は天上に歸りたまふと傳へたるなり。イザナミノ尊は淡路國を基として國を開きたまひしなれば若地上に留りたまはば淡路國に幽宮を作りて其處に隱れたまはむ事決して意外に非ざるなり。然るに古事記には
 故《カレ》其伊邪那岐大神者坐2淡海〔二字傍点〕之多賀1也
(32)とあり。この淡海は淡路の誤寫ならざるかとは誰も思ふべき事なり。現に所謂伊勢本には淡路之多賀とあり。但此本に據りて淡海を誤字とは斷ずべからず。彼系統の本の最初の執筆者が淡海とあるを訝りてさかしらに淡路に改めけむも知るべからざればなり。宣長は
 路字を海に寫し誤れるかとも疑ふべけれど淡路に古より多賀てふ名聞えず。近江には今に名高くて(○夙く神名帳に近江國犬上郡多何神社二座と見えて)神社も坐ませば此記は固より淡海なり
といへり(記傳卷七)。然るに田中頼庸の校訂古事記に坐2淡|道〔右△〕之多賀1也に改めて欄外に
 淡道ノ道、諸本ニ海ニ作レリ。勢本(○應永三十一年道祥書寫本)勢一本(○應永三十三年春瑜書寫本)舊本竝ニ路ニ作レリ。大同類聚方ニ淡路藥ト稱セル、神遺方ニ據レバ亦多賀社祝人ノ方タリ。而シテ大同類聚方ニ淡路多賀ノ明文アリ。乃元々集ニ引ケル舊本ノ文ト合ヘリ。是ニ由リテ之ヲ觀レバ淡道多賀ノ名ハ其由來久シキナリ。今定メテ之ニ從フ。但路ヲ道ニ作ルハ本記ノ例タリ。故ニ正シツ(○原漢文)
と記せり。大同類聚方所稱淡路藥以下は宣長が「淡路に古より多賀てふ名聞えず」と云へ(33)るに對して云へるなり。又元々集所引舊本(ノ)文といへるは同書卷二に亦坐2淡|路〔右△〕之多賀1者矣とあるを指せるなり。
 〇元元集は北畠親房の著、我文庫なるは日本古典全集本なり。又道祥書寫本は松井簡治博士の所藏、春瑜書寫本は伊勢の御巫清白氏の所藏にて共に古典保存會にて刊行せり
なほ田中氏の驥尾に附きて云はばイザナギノ尊が聖蹟を近江に留めたまひし事記紀に見えざるにあらずや又淡海ならば近淡海とあるべきにあらずやと云ふべし。地名辭書の如きは
 近江の多賀は犬上氏の氏神にて伊弉諾神には關係なきが如し
とさへ云へり。當國の地名の萬葉集に見えたるは松帆乃浦・野島・淺野・飼飯《ケヒノ》海なるが、上に云へる如く皆本島の北岸又は西岸にあり。即松帆浦は今の津名郡岩屋町に、野島は同郡野島村に、淺野は同郡淺野村にあり。又|飼飯《ケヒノ》海は三原郡松帆村の海なり。さて飼の字はケに充て難ければ笥の誤ならむと云へる人あり。又カヒの反キなるをケに轉じたるならむと云へる人あり。按ずるに飼飯の飼《ケ》は飼《カフ》といふ字とは同形別字にて笥の變造字なり。(34)抑ケといふ語には廣狹二義ありて狹義のケは今いふメシビツの事なるが(西海道風土記逸文新考六六頁參照)古メシビツノメシ即笥ニモル飯を一語としてケヒといひそのケ(即メシビツのケ)を他のケと別たむが爲に笥の竹冠を去りて食扁を加へたるなり。さてケヒノ浦の名義は如何にもあれ飼飯《ケヒ》といふ熟字あればそれを借り充てたるなり。萬葉集には又粟島をよめる歌少からず。此島は當國の西北の海中にぞありけむと思はるるに今其形跡を留めず。恐らくは夙く海中に沈没し又は海水の侵蝕によりて消滅せしならむ(新考一三一二頁參照)。彼野島之埼(野島我崎とも書けり)なども粟島と運命を共にぞしけむ。今も野島といふ地あれば人は皆之に安んじたれど二里半にも及ぶべき今の野島村の海岸線に崎と稱すべき地形無きにあらずや。又未行きては見ねど岩屋の海岸なる給島などもいたく侵蝕せられたりと云ふにあらずや
本文は萬葉集叢書第十輯なる詞林采葉抄に據れるなり。纂訂古風土記逸文に引けると小異あり。同書に我女とあるは改めたるならむ。此湊を同書に此港と書けり。ミナトに港字を充てたる例は古き物にはをさをさ見えず。同書考證に諸縣郡牛の郡はもと君とありしを誤りて※[おおざと](大ザト)を添へたるならむといひ又雖不與仕の與は奉を誤り長髪姫は(35)髪長姫を誤れるならむと云へり○日本紀應神天皇紀に
 十三年春三月天皇遣2專使1以徴2髪長媛1。秋九月中髪長媛至v自2日向1。便《スナハチ》安2置於桑津邑1
とありて註に
 一曰。日向諸縣君牛仕2于朝庭1年既|老耆之《オイテ》不v能v仕。仍致仕退2於本土1。則貢2上己女髪長媛1。始至2播磨1時天皇幸2淡路島1而遊獵之。於v是天皇西望之、數十麋鹿浮v海來之、便入2于播磨|鹿子水門《カコノミナト》1。天皇謂2左右1曰。其何麋鹿|也《ゾ》、泛2巨海1多來。爰左右共視而奇。則遣v使令v察。使者至見皆人也。唯以2著角《ツヌツケル》鹿皮1爲2衣服1耳。問曰。誰人|也《ゾ》。對曰。諸縣君牛是年|耆《オイテ》之雖v致v仕不v得v忘v朝。故以2己女髪長媛1而貢上矣。天皇悦之、郎喚令v從2御船1。是以時人號2其著v岸之處1曰2鹿子水門1也。凡水手曰2鹿子1蓋始起2于是時1也。
とあり。本文に云へるは此事の異傳なり。然るに日本紀に同じき天皇、その二十二年秋九月に淡路島に狩したまひし事見えたれば考證は其時の事として本文の二十年を二十二年の脱字とし又日本紀の十三年を年を誤れるかと疑へり。されど日本紀二十二年の記事の中に故乘輿屡遊之とありて天皇が淡路島に行幸したまひしは一回にあらねば強ひて十三年の記事と二十二年の記事とを同時の事として「實はこの二十二年なるを(36)書紀に十三年の事と誤りしにはあらじか」などは云ふべからず。本文に二十年の事とせるは齒牙に掛くるに足らず。其由は下に云はむ〇本文に應神天皇とあれば此風土記は奈良朝末造以後の所撰なり。否決して中古以前の物にあらず。然らば本書は中古以後の私撰かと云ふに鹿子湊といへるは播磨國の賀古川の河口の事なるが若淡路の人の所撰らば他國の湊を指して此湊とは云はじ。
 ○大日本地名辭書に淡路國の末に鹿子湊を出して
  今詳ならず。古風土記に見ゆ。鹿子水手相通ず。蓋淡路(ノ)海部《アマ》の住所にして三原湊(○西海岸三原川の河口)を指せるにや
と云へるは本文に誤らられたるなり
されば本文は地理だに心得ざる後世人の日本紀に據りての僞作ならむ。或は由阿の僞作か。又然らば淡路の古風土記には逸文なきかと云ふに應神天皇紀十三年の註に一曰とて引けるが適に其逸文ならむかし〔淡路〜傍点〕○淡路の北端は明石迫門を隔てて略明石と相對し其距離凡二海里なり。又加古川の古の河口は明石の西北方に當りて其距離五里許なり。因に云はむ應神天皇紀十三年の本文に見えたる桑津邑は和名抄に見えたる攝津國(37)|豐島《テシマ》郡桑津郷即今の兵庫縣川邊郡神津村の大字桑津か(伊丹町と猪名川を隔てたり)。又は攝津志に云へる如く同國住吉郡桑津村(後の大阪府東成郡北|百済《クダラ》村の大字、即今の大阪市住吉區桑津町)か。同書住吉郡の部に
 八幡神祠 在2桑津村1。土人云。應神帝十三年使d髪長媛居c于此u。後人立v祠
といへり。髪長媛は後に仁徳天皇の妃となりて大草香皇子と幡梭《ハタヒ》皇女とを生みまつりき
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新撰龜相記といふ書あり。今傳はれるは四卷中の第一卷にて近古に矢野玄道の發見せしものなり。本文の末に天長七年八月十一日卜(ノ)長上從八位下卜部遠繼が同業の人々と詳に議して之を注せし由云へり。眞僞はなほ考へざるべからず。其書の第一節なる伊佐諾伊佐波兩神生2淤能己侶島1本辭一條の中の淤能碁侶嶋の註に
 所謂此嶋在2紀伊國海部郡1。此〔左△〕以西加太浦建2加太驛1通2淡路國津名郡由良驛1。乾在2伴嶋1。此嶋西南在2淤能碁侶嶋1。々體|圓《△》六十町無有人居〔・四字傍点〕高廾丈許。冬見2草|石〔左△〕1。唯有2聚木1茂高。相2去伴嶋1二三。亦非2人居1。兩嶋同v根屬也。湖生通v海。凡此三嶋從v艮連v坤
(38)といふ文あり。菅政友の淤能碁呂嶋考(全集二五七頁以下)に之を紀伊國風土記の逸文として
 此以西ヨリ從艮連坤マデノ一段疑ラ〔左△〕クハ風土記ニヨレルニヤ。コノ國(○紀伊國)ノ風土記ハ袖中紗ニ二ケ條引ケルノミ今世ニハ殘リタレドソレモ原文ノママナラネバ其體如何ナリケン合ハセ考フルニ由ナシ。サレドココノ文ハ風土記ノナベテノ書キザマニ大方似タルノミナラズ在海部郡トイヘル下ニ此以西ナド上文ヲウケタル語ノアリテ穩ナラヌモタマタマ原語ノ殘レル故ニアモアランカ
といへり。げに紀伊國風土記にぞ據りけむ。但風土記曰とあらでは、然思はるるものにても逸文として採用せざるが余の主義にて(西海道風土記逸文新考緒言二頁以下參照)近くは應神天皇紀十三年の註の如きも恐らくは淡路國風土記よりぞ取りけむと思へど之を逸文に列ぬる事を憚りしなれば此龜相記の文も逸文としては採用せず。さて之を紀伊の逸文の後に附けむかとも思ひしかど事主としてオノゴロ島に係りて此島の事を云ひし後ならでは不便なれば殊更に淡路の末に添ふるなり。又此文を擧げ置くに止めむかとも思ひしかど元來此文は頗解し難くて菅氏の如き碩學も此文に據りてオノ(39)ゴロ島を誤りてあらぬ島に擬せられたる程なれば世人の爲に粗解説を試みむ
オノゴロ島を今の沼《ヌ》島とすれば淡路國三原郡の所屬なる事勿論なり。然るにここに所謂此嶋在紀伊國海部郡と云へり。菅氏の錯誤も此文に胚胎せり。元來此一句は菅氏も云へる如く龜相記の文なり。されば風土記の本文(正しくはと思はるるも〔七字傍点〕のと云ふべけれど煩しければかくは云ふなり)の如く重視すべからず。恐らくは龜相記の作者が紀伊風土記海部郡の下にオノゴロ島の事を記述せるを見て輕率に海部郡の所屬ぞと心得てかくは書けるならむ○此以西を菅氏は
 海部郡ノウチニ此トサス一所ノ地アリテソレヲ受ケタル語勢トオボシケレバ或は郡家ヲアゲテソノ以西ナドアリシニヤ
といへり。略かくの如し。郡以西の誤にて郡家ヨリ西方ニといふ事ならむ。たとへば常陸風土記に自郡以東とあり○乾は加太驛の西北なり。上に擧げたる原文は明治二十二年出版の本に據れるなるが菅氏の引けるには其加太驛〔四字傍点〕乾とあり。在伴嶋・在淤能碁侶嶋の在は有の通用なれど正しからず。嶋體圓六十町の圓は圍の誤なり。菅氏は
 始メ圓ハ圍ノ誤字ニテ周廻ヲイヘルモノゾト思ヒタレドサテハ體字徒ニナリテ聞(40)エガタシ
といへり。體は體勢なり。やがて周と高との關係なり○冬見草石の冬を菅氏も單行本の校訂者も共に不の誤としたるは非なり。石を花の誤として冬モ草花ヲ見ルと訓むべし。氣候の温暖なるを形状せるなり○菅氏は
 無有人居コノ一句、下ノ亦非人居ノ句トカサナレリ。故ツラツラ按フニ前文在伴嶋ノ下、原書ニハソノ伴嶋ノ姿ヲモイヒテ無有人居トアリツランヲ龜相記ノ撰者伴嶋ノ事ハ淤能碁侶嶋ニハ用ナケレバ略キツルモナホ前句ノ混レ入リシニハ心ノ付カザリシニテモアランカ。然イフ故ハ亦非人居トアル亦字ハ前嶋ニハ人モ住マネドコノ嶋ニモ亦ト前文ヲ受ケタル語勢ナレバゾカシ。コトニ周廻ト町數ト地勢ノ高卑ヲイヘル中間ニ人居ノ有無ヲ序《ツイ》デタルモイト似ツカハシカラヌ事ナラズヤ。カニカクニ此四字ハ刪ルベシ
と云へり。無有人居はもと冬見草花の次にありしがまがひて上に移れるなり。即もとは
 嶋體圍六十町、高廾丈許。冬見2草花1。無v有2人居1。唯有2聚木1茂高とありしなり。さればこそ無有人居を受けて唯有云々と云へるなれ。茂高は菅氏の引け(41)るには高茂とあり。さる本あらばそれに從ふべし○相去伴嶋二三の下に菅氏も單行本の校訂者も共に里字を補ひたるが、宜しく十里の二字を補ふべし。オノゴロ島が菅氏のいへる如く伴島の沖島にあらで淡路の沼島なる事明にならば十里の二字を補ふべき事も亦明にならむ○亦非人居は正しくは亦不有人居とあるべし。さて菅氏が之をオノゴロ島の事とせるは此上に脱字あるに心附かざる爲なり。又之をオノゴロ島の事と誤解したる爲に上の無有人居を重複として「刪るべし」と云へるなり。亦非人居の上に伴嶋の二字を補ふべし。即原は
 相2去伴嶋1二三十里。伴嶋亦非2人居1。兩嶋同v根屬也
とありしなり○兩嶋同根屬也は兩嶋根ヲ同ジクシテツケリとよむべし。或は屬の上にもと相字ありしか。兩島は伴島の地島と沖島となり。伴島古名は淡島、今友ガ島といふ。類聚國史祥瑞部なる天長三年十二月の右大臣藤原緒嗣の奏言中に紀伊國守從五位下占野王等奏※[人偏+稱の旁]。去八月廾八日慶雲見2於海部郡賀多村伴島上1とあり。龜相記の文にも伴嶋と書けるを見れば古くは、少くとも天長の頃には友と書かで伴と書ききと見ゆ。紀伊國海部郡加太浦の西方に地の島あり。其西南に沖の島あり。兩鳥相距る事五町許。伴島即今の(42)友ガ島は此兩島の併稱なり。而して兩島は適に葛城山脈の西極にして兩島間の所謂中の迫門は谿谷の海水に没したるものに過ぎざれば兩嶋同根屬也と云へるはよく地理にかなへり。沖の島の西南五里許に沼島あり。されば凡此三嶋從艮連坤といへるも亦よく地理にかなへり。三島といへるは伴島の兩島とオノゴロ島となり。今の名稱にて云はば地島・沖島・沼島なり。然るに菅氏は誤りてオノゴロ島を沖島に充て伴島を地島に充てたる故に此三嶋と云へるに叶はずなりて遂に三嶋ノ三は二ノ誤ナルベシと云はざるを得ざるに至りしなり。龜相記の文はオノゴロ島が沼島なる事を證するものなり。菅氏が此文に依りて新説を立てたるは精しく此文を解し得ざりし爲なり。さて古の一里は今の凡六町なり。相去伴嶋二三の下に前人は里の一字を補ひたるに余が十里の二字を補ふべしと云へる所以は茲に至りて明になりぬらむかし。以上述べ來れる所頗煩はしかるぺければ左に龜相記の文の誤脱を正し補ひて再掲げてむ
 郡以西加太浦建2加太驛1通2淡路國津名郡由良驛1。其加太驛乾有2伴嶋1。此嶋西南有2淤能碁侶嶋1。嶋體、圍六十町高廾丈許。冬見2草花1。無v有2人居1。唯有2聚木1高茂。相2去伴嶋1二三十里。伴島亦不v有2人居1。兩嶋同v根相屬也。湖生通v海。凡此三嶋從v艮連v坤
(43)別に拙稿「妹之鳥形見之浦」あり。萬葉集追攷に收めたり。此一篇と參照せられなば便ならむ○なほ云はむに湖生通海を菅氏は獨立の文と見たれど兩嶋同根相屬也と關聯せる文ならむ。即兩島はもと一島なりしが其中間に湖生じて後に海に通ぜしかば、それが爲に分れて二島となれりと云へるならむ。さらば湖生ジテ海ニ通ゼシナリと訓むべし
 
(44)   阿波國 五節
 
   大八島國所知天皇
 
八隅知之我大王之云々此詞所々多以詠v之。或文書2之安見知々〔四字傍点〕1。其點不2一准1。……仍勘2日本紀・續日本紀等1謂《イヘリ》2之也須美師志〔五字傍点〕1。其心詞尤諧當。……次耶須彌斯志〔五字傍点〕ト云フ意|何者《イカニトイフニ》ヤスミ〔三字傍点〕トイフハ八島也・シシ〔二字傍点〕トイフハ始ノ|シ〔右△〕ハシロシメスコトバ、次ノ|シ〔右△〕ハコトバノタスケ也。コレ我國ノ國主大八島國ヲムケタヒラゲテシロシメス詞也。……聖主知2食此八洲國1。故ニヤスミシシワガオホキミ〔ヤス〜傍点〕ト詠也。サレバ風土記等ニモ令v記2代々御宇事1所ニモ此義見エタル也。所謂常陸國風土記ニハ或云2卷向日代宮大八洲照臨天皇之世1或云2石村《イハレ》玉穗宮大八洲所馭天皇之世1或云2難波|長柄(45)豐前《ナガラノトヨサキ》大朝八洲撫馭天皇之世1、阿波風土記〔六字傍点〕ニモ或云2大倭志紀彌豆垣|國〔左△〕《宮》大八島國所|知〔右△〕天皇朝|庭〔右△〕1或云2難波高|△《津》宮大八島國所|知〔右△〕天皇1或云2檜前伊富利野《ヒノクマイホリヌ》乃宮大八島國所知天皇1。……已上八隅者八洲(ト)云(ト)同言(ナル)例證也(○萬葉集仙覺抄卷一、天皇遊2※[獣偏+葛]内野1之時中皇命使2間人《ハシビト》連老獻1v歌之註)
 
 新考 全集本(十四頁以下)に據れるなり。纂訂古風土記逸文に宮號と題せるものなり。國〔右△〕字は同書に宮とせるに從ふべく又高宮の間に同書に從ひて津字を補ふべし。同書に朝庭を朝廷としたれど古典には多くは庭と書けり(肥前風土記新考凡例參照)。又所知といふ語三つ見えたる第一と第二とを同書に所治とせり○其點不一准は其訓一樣ナラズといふ事なり○常陸風土記の例を擧げたる中の石村《イハレ》玉穗宮大八洲所馭天皇之世は行《ナメ》方郡の下夜刀神の條に見えたり。難波長柄豐前大朝八洲撫馭天皇之世は八洲の上に大を落せるにや。さて香島郡の下に難波長柄豐前大朝馭宇天皇之世とあり。即馭宇とありて八洲撫馭とは無し。全本の別處に見えたるにや。卷向日代宮大八洲照臨天皇之世も見えざる如し。仙覺の見しは全本なり
(46) 〇栗田氏の考證に「今の全本(○即抄本)に卷向日代宮大八洲照臨天皇之世と云のみありて次の二條は見えず」と云へるはいぶかし
○卷向日代宮は景行天皇、石村玉穗宮は繼體天皇、難波長柄豐前大朝は孝徳天皇、志紀彌豆垣宮は崇神天皇、難波高津宮は仁徳天皇、檜前伊富利野乃宮は宣化天皇の御事なり○ヤスミシシのヤスミは大ヤスミ殿小ヤスミ殿などのヤスミにて御坐といふ事、シシは知ラシなり。いにしへシラスをシスとも云ひしなり。さればヤスミシスといふべきをヤスミシシといへるは枕辭の一格にてイサナトリ海などと同格なり(萬葉集新考八貢及七八頁參照)
 
   中湖
 
中ノミナトトハ阿波國ニミナトアリ。中湖《ナカノミナト》トイフハ牟夜戸與2※[関の中]〔右△〕湖1中ニ在ルガ故中湖ヲ爲(スト)v名見2阿波國風土記1(萬葉集仙覺抄卷二|中乃水門從船浮而〔八字傍点〕之註)
(47) 新考 栗田氏の逸文考證に※[関の中]を咲とせり。同書に據れば異本に美〔右△〕湖又咲湖とありといひ地名辭書に依れば一本に呉潮ともありといふ。仙覺抄卷三湖風寒吹良武津乎能埼羽毛の註(全集本一一五頁)に湖字……ミナト〔三字傍点〕ニツカヘルコトは阿波國風土記ニ中湖奥湖〔二字傍点〕ナドニモ用之タリといへり。或は奥とあるが正しきにて中ノミナトに對して奥ノミナトと云へるにあらずや。※[関の中]は元來癸の俗體なり。古寫本に往々此處の如く美と書誤れり
 ○たとへば和名抄山城國久世郡の郷名に奈美とあるは奈※[関の中]の誤にて同郡那紀郷の訓註を誤りて別郷としたるなり。即同書高山寺本には那紀(奈※[関の中])とあり
もし※[関の中]とあるが正しくばミヅノトノミナトとよむべけれど聊たゆたはる○阿波國は所謂四國の東北部に位せり。その東北端は鳴門を隔てて淡路島と相對し、北は其東部が播磨灘に臨める外讃岐國に接し、西は伊豫國に、西南は土佐國に隣り、東と東南とは海に沿ひ、就中東方は紀伊水道を隔てて遙に紀伊國と相向へり。今板野・阿波・美馬《ミマ》・三好・麻植《ヲヱ》・名東《ミヤウトウ》・名|西《サイ》・勝浦・那賀《ナガ》・海部《カイフ》の十郡に分れたり。山脈東西に走りて國を南北二部に分ちたれば名西以上の七郡を北方と稱し勝浦以下の三郡を南方と稱す。又吉野・那賀の二大川あり(48)て甲は北方を、乙は南方を貫けり。古は粟《アハノ》國と長《ナガノ》國とに分れ粟國造は吉野川流域なる阿波郡に住し長國造は那賀川流域なる那賀郡に在りき。然るに大化改新の時二國を合せて阿波國とし國造を廃して國司を置かれしが其國司の治所即國府は名方郡に在りき。今の名東郡|國府《コクフ》町の大字|府中《コフ》は即其址なり。府中と書きてコフと唱ふるは面白し。コフといふ語が純然たる邦語となりたりし證とすべし。右の府中は徳島市の西方に當りて相遠からず○律書殘篇に收めたる國名表(延暦遷都以前のもの)に阿波國、郡七とあり。板野・阿波・美馬・麻殖・名方・勝浦・那賀即是なり。其後貞觀二年三月に美馬郡を割きて三好郡を置かれ(國史)寛平八年九月に名方郡を東西に分たれしかば(類聚三代格卷七郡司事)是より當國は九郡となりき。さればこそ延喜民部式に
 阿波國 上 管、板野・阿波・美馬・三好・麻殖・名東・名西・勝浦・那賀
和名抄に
 阿波國(國府在2名東郡1。本是名方郡也。今分爲2東西二郡1云々)管九 板野(伊太乃)阿波・美馬(美萬)三好(美與之)麻殖(乎惠)名東・名西・勝浦(桂)那賀
とあるなれ。此時いまだ海部郡は無かりき。初七郡を置かれしはいつの御世にか知られ(49)ねど國史に始めて見えたをは板野・阿波・名方三郡は神護景雲元年三月、麻殖郡は同二年七月、勝浦郡は寶龜四年五月、美馬郡は貞觀二年三月、那賀郡は元慶五年四月なるが如し。海部郡は和名抄那賀郡の郷名に海部(加伊布)とあるが後に獨立して郡となりしなり。その初出は拾芥《シフガイ》抄なり。思ふに紀伊國の名草郡等の海岸に海部《アマ》郡の起りし如く當國にても那賀郡の南部の海岸に海部民族が來住せしが
 ○允恭天皇紀に阿波國長邑〔二字傍点〕之海人|男狹磯《ヲサシ》見えたり。長邑は後の那賀郡なり。又那賀|潜女《カヅキメ》といふ事延喜式神祇七踐祚大嘗祭式由加物の條に見えたり
次第に勢力を得て遂に那賀郡より獨立せしならむ。其後板野・那賀の各東西に分れし時代あり。さて名東・名西は元來名方東・名方西なるを地名は二字に書くべき制に從ひて方字を略したるにて名東名西と書きても始はなほナカタノヒガシ・ナカタノニシと唱へしを後に字に引かれてミヤウトウ・ミヤウサイと唱ふることとなりしなり。又那賀は成務天皇の御世に置かれし長國の後にて又允恭天皇紀に見えたる長邑と齊しければ諸國の郡名郷名の如くナカとは清まで紀伊國の郡名の如くナガと濁りて唱ふべし。賀は古典に多くはカに充てたれど又ガに當てたる例あり。海部はもとアマ又はアマベなり(50)けむを和名抄に加伊布と註したるを見れば夙く字音にて唱ふることとなりしなり。
 ○但和名抄の郡郷部の訓註は郡郷を録せし當時のものにあらで後世の添加ならむ。此事は夙くも云ひき
勝浦は桂と訓註したればカツラと唱ふべきを今カツウラと唱ふるは又字に引かれたるなり。又麻殖は古くは麻殖と書きしを近古以來麻植と書く事となれり。殖植は別字なれどウウの時にはいづれをも書くべし○驛は兵部省式に南海道阿波國驛馬石隈・郡頭各五疋とあり。又和名抄高山寺本には南海驛石隈・都〔右△〕頭(以上阿波)とあり。
 ○延喜式國史大系本には石隈を石濃に改めたり
郡頭と都頭とは郡頭ぞ正しからむ。頭は田頭・林頭・野頭(常陸風土記茨城郡)などの頭にてホトリといふ事なり。今も郡家の邊にあるが故に郡頭とぞ名づけけむ。現に天武天皇紀に菟田《ウダ》郡家頭とあり(播磨風土記新考五五頁及三〇三頁參照)。さて二驛共に板野郡に在りて石隈は今の撫養《ムヤ》町附近、郡頭は今の板西《バンサイ》町附近ならむ。淡路の福良驛より海を渡りて石隈驛に來り郡頭驛を經て讃岐の引田《ヒケタ》驛(今の大川郡相生村)に到りしなり
 ○地理志料には石隈は恐ラクは井隈ノ譌と云ひて板野郡井隈郷に充て又郡頭は今(51)ノ撫養ヲ言フカといへり。共に從はれず
○今の徳島市は名東郡に在り。上古は海底なりけむ
考證に當國の人某氏の説を引きて「これにて此風土記の地勢いとよく知られたり」と云へれど其文にたどたどしき處ある上に地名辭書に引ける説の方後出ならむと思はるれば今は彼を棄てて此を抄出せむに其説は
 鳴門の一里ばかり南に流れたる潮筋を今も門《ト》筋といひて土佐日記に「阿波のみとを渡る」と書かれしも即此門筋をいひしなり。……咲湖〔二字傍点〕は此牟夜戸〔三字傍点〕の海畔に今も岡崎・林崎・黒崎などいふ浦つづきみな鳴門の海に出向ひたる岬のみなればサキといふ名ある謂なるを咲とかけるは假字なるべし。さてその牟夜戸と咲湖との中にある中湖〔二字傍点〕は今の鳴門の海に中瀬といふ處あるが……恰も鳴門のただ中なり。又ここにいふ湖の字は假字にて水門の意なる事いふまでもあらずかし。そもそも崎の水門〔四字傍点〕といひしならんといふ岡崎・林崎・黒崎などいふ海邊は今時すべて食鹽を製造するのみならず一村落をなしかの南海流浪記に佐伊田といへる所は紀津(今は木津村)につづきて廣き一村となり當今この十二浦邊より出す産物の食鹽をすべて才田しほと名づく。(52)……又才田・佐伊田と云ふは古の崎の水門の跡なればやがて崎田の義なるべし
と云へるなり
 ○文意不明なる處少からざるを辛くして要文を抄出したるなり。此人の文のととのはずして其意の聞取りがたきは生前より定評ありしなり
此説いとわろし。まづ述者はトを潮流の事としたれど古トといひしは今いふセト即海峽なり。ユラノト・アカシノト・アハノトなどの例を思ふべし。述者はかくの如き誤謬を基とせしかば中ノミナトを鳴門の中にて最嶮惡なる中の瀬に充てたるなり。夙く地名辭書に
 鳴門の激湍を中湖に擬せられしは湖《ミナト》の名義に背く。且此鳴門の激湍は撫養の東北なれば之を中間と謂ふべからず
と云へり。次に地名辭書に撫養《ムヤ》の下に
 牟夜戸〔三字傍点〕即撫養の港にして中湖〔二字傍点〕は那賀郡に在るべし。咲湖〔二字傍点〕は蒲生田埼(○那賀郡)の邊歟
といひ長國の下(一二三四頁)に中湖と標して
 中湖〔二字傍点〕は今小松島などに當るべし。
(53)  ○前に「那賀郡に在るべし」と云へると矛盾せり。小松島町は勝浦郡の内なり。但勝浦郡も古の長國の内なり
牟夜戸〔三字傍点〕は撫養の港にして咲湖〔二字傍点〕は蒲生田の埼の港なるぺければなり
といひ那賀郡橘浦の下に
 咲湖〔二字傍点〕は一本呉潮に誤る。地形を以て推せば咲湖は蒲生田埼の傍にて埼港の謂なるべし。今橘浦・椿泊(○橘町・椿村)などに當る如し
といへり。又徳島縣誌略の板野郡の部(一二一頁)に
 港湾ハ岡崎港ヲ郡内第一トス。古昔中湖〔二字傍点〕ト云フ。港口東ノ方岡崎ノ地ナルヲ以テ竟ニ港名トナリシナリ
と云へり。按ずるに牟夜戸は(もし戸が誤字ならずば)粟ノト明石ノトなどの如くムヤノトと訓みてムヤノセトと心得べし。そのムヤノトは板野郡の東端なる撫養町及瀬戸町と大毛島・高島・島田島との間なる海峽なり。此海峽の東口は後世の岡崎港にて泊船に堪へたる處なり。岡崎は今撫養町の大字となれり。されば本文の牟夜戸《ムヤノト》は撫養ノセトをいへる中に特に岡崎港を指せるならむ○中湖の湖は古ミナトに充てしなり。又潮と書け(54)り。夙く萬葉集新考(三六四頁)播磨風土記新考(五六頁及一五七頁)肥前風土記新考(五三頁)などに云へり○中湖の所在を考ふるにはまづ奥湖(假定)の所在を考へざるべからず。抑本文の牟夜ノト中ノミナト奥ノミナトを從來沿岸航行船の寄泊處とのみ見たるに似たれど此等の港は又紀伊國より渡航する船の寄泊せし處ならざるかと思はる。古といへども紀伊と阿波との直接交通あらざる事はあらじ。南海道の驛路こそ紀伊より淡路を經て阿波に到りけれ、官使ならずして淡路に用なくば紀伊より直に阿波に渡るべし。萬葉集卷六に石上《イソノカミ》乙麻呂卿配2土左國1時歌ありて其反歌に
 大埼の神の小濱はせまけども百ふなびともすぐといはなくに
とあり。此時も恐らくはまづ阿波に渡りそれより陸路又は海路を經て土左に到りしならむ。大埼は今の海草郡(もとの海部郡)の内にて和歌浦※[さんずい+彎]の南岸なれば、もし此處を發して正西を指さば今の徳島市附近なる津田港に到るべし。もし奥湖を津田港とせば中湖は北、岡崎港と南、津田港との中間に求めざるべからず、ここに板野郡の北島村の大字に中あり。北島村は吉野川の河口の三角洲にありて恰岡崎港と津田港との中間に當れり。されば中ノミナトは吉野川の一分流なる南川の河口にあらざるか
(55) ○中村といふはいつの世よりの地名にか。又吉野川の河口の變遷は如何。此等に就いて今少し研究したく思へど當國の地方誌の我文庫に在るものは徳島縣誌略一册に過ぎざれば心に任せず
○考證に「なかのみなと、萬葉二に神乃御面跡次來中乃水門從船浮而とある是にて云々」と云へるは仙覺の誤を繼げるにて阿波と讃岐との混同なり。彼歌に云へるは讃岐の那珂ノミナトなり
 
   奈佐浦
 
阿波國風土記云。奈佐浦(奈佐(ト)云由者其浦、波之音無2止時1。依而奈佐(ト)云。海部《アマ》者波|矣者《ヲバ》奈|等《ト》云)(○萬葉集仙覺抄卷三留火之明大門爾〔七字傍点〕之註所v引)
 
 新考 右は仙覺全集本に據れるなり。纂訂古風土記逸文には寶永の印本と一古寫本とに依りて
 風土記云。奈|汰〔右△〕浦(奈|汰〔右△〕云|事〔右△〕者其浦波之音無止時。依而奈|汰〔右△〕云。海|邊〔右△〕者波|立〔右△〕者奈|汰〔右△〕等云)
(56)と書けり。
 ○弧を以て括したるは余の私にて原本には(全集本にも纂訂逸文にも)分註としたるなり
兩本相異少からず。今纂訂逸文を基として其是非を決せむ。まづ風土記云の上に阿波國の三字を補ふべし。次に奈汰と奈佐とは如何と云ふに仙覺は明石大門をアカシノナダと訓みて(但こはオホトと訓むべし)其説を固めむが爲にナとタとの義を釋せるにて其原文は
 ナタはナと云はナミなり。阿波國風土記云奈佐浦云々。タと云はたかき義也
とあり。即風土記はナタの例に引けるにあらで波をナといふ證に援けるなり。然るに後に轉寫せし人思誤りてさかしらに奈佐を奈汰に改めたるにこそ。次に事は由とあるに從ふべし。萬葉緯にも由とあり。栗田氏自身も事古本作v由と云へり。かく一本に由とあるを知りながら何故に事に從ひたるにか。由はユヱヨシなり。勝間井の節にも勝間井云由者とあるにあらずや。次に海邊者波立者奈汰等云とあるいと心得がたし。かくの如くならば海邊ニテハ波立ツヲバ奈汰トイフと訓まざるべからざるがテニヲハのトを顯し(57)て等と書く程ならばニテとヲとに當る字も添ふべきをや。又海邊と云へるは一般海邊といふ事にや。又何に對して特に海邊と云へるにか。殊に波ノ立ツヲバ奈汰トイフといふ原文ならば波をナといふ證とはならじをや。轉じて全集本の文を見るに海部者波矣者奈等云とありて海部《アマ》ハ波ヲバ奈トイフと訓むべければ義理文辭共によくととのひたり。即波をば一般人はナミといへど海部族はただナとのみ云ふと云へるにて勝間井の節に粟人は櫛笥ヲバ勝間トイフ也と云へると相似たり。
 ○矣をテニヲハのヲに充てたる例は萬葉集にあまたあり。全集本に海部|者《ニハ》波矣者|奈等《ナタ》云と傍訓したるはいとあさまし
波の殘をナゴリといひ志摩國の海岸の地名波切をナキリと唱ふるもこのナにや。萬葉集卷十四にヒダチナル奈左可ノウミと見えたるも亦然らむ。
 ○後者に就いては夙く仙覺抄卷八に
  風土記ニハコレヲ流海トカケリ。イマノ人ハウチノウミ〔五字傍点〕トナン申ス。……カノウチノウミ〔五字傍点〕シホノミツトキニハナミコトニサカノボル。シカレバナミノサカノボル義ニヨリテナサカノウミ〔六字傍点〕トイフベキナリ。ナミ〔二字傍点〕ヲ海人ナド|ナ〔右△〕トイフコト前ニ釋ス(58)ルカゴトシ(○全集本にはナトの二字脱せり)
と云へり
右に云へる如くなれば全集本と纂訂逸文との相異は全部甲を可とし乙を非とすべし○奈佐云由者以下を仙覺抄の原本に分註としたるは上に云へる如くなるが風土記の原本には恐らくは
 奈佐浦 奈佐云由者其浦波之音無止時依而奈佐云【海部者波矣者奈等云】
とありて海部者以下のみをぞ分註としたりけむ。又思ふに右の九字の續になほ佐の釋義もありけむを仙覺の要せしは奈の釋義のみなりしかば佐の釋義は捨てて抄せざりけむ○此一節は那賀郡の逸文なり。今も海部郡(古の那賀郡の内)に那佐港といふ良港ありて鞆奥・宍喰の二村に屬せり○考證に
 奈汰は今も那賀郡の海上を上ナダといひ海部郡の海上を下ナダと云ふ。又海部郡中北にある海上を上ナダ南にある海上を下ナダともいふなり。と小杉氏云り
といひ地名辭書に板野郡北灘の下に
 古風土記に奈汰浦と云は此なるべし
(59)と云へるは共に誤りて奈汰浦とあるに従ひて云へるなれば省みずしてあるべし
 
   勝間井
 
阿波國風土記云。勝間井|冷水《サムミヅ》、勝間井(ト)云由者|倭健《ヤマトタケル》天皇|乃《ノ》大御櫛笥(ヲ)忘(レタマフニ)依而勝間ト云。粟人者《アハビトハ》櫛笥|者《ヲバ》勝間(ト)云也已上(○萬葉集仙覺抄卷七玉勝間相登云者誰有香〔玉勝〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 右は全集本に據れるなり。萬葉緯に引けるは之に同じ。ただ健を建とし天皇を天皇命とし忘を忌とせるが異なるのみ(日本書紀通證卷七所引亦少異)。之に反して纂訂逸文に擧げたるは同じく仙覺抄より抄しながら
 阿波國風土記云。勝間井冷水出于此焉〔四字傍点〕。所以名勝間井者|昔〔右△〕倭建天皇命乃依大御櫛笥|之〔右△〕忌而勝間栗人者穿井故爲名也〔六字傍点〕
とありて大に全集本並に萬葉緯なると異なり。即右傍に△又は、※[傍点]を附けたる字多く勝(60)間井云由者が所以名勝間井者となり依が大御櫛笥忘の上に在り粟人が栗人となれり。又櫛笥者勝間云也の七字無し(栗田氏は此七字を萬葉緯より補ひて栗人者の分註とせり)。栗田氏は仙覺抄の寶永版本(卷十四)に據れるなり○まづ本文と萬葉緯との優劣を判せむに健と建とは後者に從ふべし。古事記を始めて其外の古書にもタケ・タケルを皆建と書きたればなり(古事記傳舊版二三四頁參照)。天皇と天皇命とは後の方古風にてまされり。天皇命の例は古事記傳卷十六(九四四頁)を見べし。忘と忌との事は下に云ふべし。次に本文と纂訂逸文との可否を決せむに昔は有無いづれにてもあるべし。依を漢文の格に從ひて大御櫛笥の上に置かば忘も亦上に移さざるべからず。之字はた有るべきならず。即、依忘大御櫛笥とあるべきなり(こはしばらく忘とあるを正しとして云 へるなり。もし忌とあるが正しくば原のままにてよきなり)。而以下も全集本及萬葉緯の如く依而勝間云。粟人者櫛笥者勝間云也とありてこそ聞ゆれ。纂釘逸文の如く而勝間栗人者穿井故爲名也とありては通ぜず。恐らくは纂訂逸文に擧げたるものは後人のさかしらの加はりたるものならむ。更に本文を※[手偏+僉]せむに倭健天皇乃の乃は添假字のノが本字となりて本文に闌入したるにはあらで初よりぞかかりけむ。奈佐浦の節に海部者波|矣〔右△〕者奈|等〔右△〕云(61)といふ例あるを思ふべし。之に反して勝間ト云のトは添假字が本文に闌入したるなり。されば原文は
 勝間井冷水 勝間井(ト)云由者倭建天皇命(ノ)乃大御櫛笥(ヲ)忘依而勝間(ト)云。粟人者櫛笥|者《ヲバ》勝間(ト)云也
とぞありけむ(粟人者以下或は分註)。これと
 奈佐浦 奈佐云由者其浦、波之音無止時。依而奈佐(ト)云。海部者波|矣者《ヲバ》奈|等《ト》云
とあるとを並べ見て思ふに阿波國風土記の文は元來日本紀體の純漢文にはあらで古事記風の日本式漢文にぞありけむ。元來純漢文なりしを仙覺の書下しに改めて今の如くなれるなりと思はむは未聰明ならず○冷水はサムミヅと訓むべし。ツメタシ(爪痛)といふは平安朝中期以後の語なり。古はつめたきをもサムシといひしなり。
 ○もし仙覺抄の傍訓の如くシミヅとよむべくば冷を※[さんずい+令]の誤とすべし。シミヅはスミミヅの約にて之に寒冷の義は無ければなり。但こは理を正して云ふのみ。實際涌泉は澄めると共に冷なる物なれば冷水とあるをもシミヅとよみ習ひけむ。景行天皇紀十八年四月に
(62) 召2山部|阿弭古《アビコ》之祖小左1令v進2冷水〔二字傍点〕1。適《アタリテ》2是時1嶋中無v水。不v知v所v爲。則|仰之《アフギテ》祈2于天神地祇1忽寒泉〔二字傍点〕從2崖傍1涌出。乃酌以獻焉
とありて冷水にサムキミモヒ、寒泉にシミヅと傍訓せり。ミモヒは飲料水の義なるモヒに敬語のミを添へたるなり
ヤマトタケルノ皇子を天皇と申し奉れるは私稱なり。古書に例多し。夙く播磨風土記新考(二五八頁及四八七頁)西海道風土記逸文新考(四六頁)などに云へり○忘と忌といづれか正しきと云ふに大御櫛笥之忌といふは聞えざる事なれば忘に從ひて仙覺抄全集本の訓の如く大御櫛笥ヲ忘レタマフニ依リテとよむべし。筑後國|生葉《イクハ》郡にて景行天皇の膳司が御酒盞を忘れし事も思出でらる。ヤマトタケルノ皇子が阿波國に到りたまひし事は正史に見えざれど國にてはさる事ありし如く傳へしならむ。舊事本紀に此皇子の御子|息《オキ》長田別命の下に阿波君等祖と註せり(息長田別王の名は古事記に見えて日本紀に見えず)。此事もし妄ならずば皇子に關する傳説はそれが爲にも多く當國に傳はるべきなり○倭建天皇命ノ大御櫛笥ヲ忘レタマフニ依リテと云へる、文簡にして義詳ならず。思ふに此井ノホトリニ忘レタマヒシニ依リテといふ事ならむ。粟人は阿波國人なり(63)○ここに僧由阿の詞林采葉抄卷一に引ける美作國風土記の逸文に
 日本武尊落2入櫛於池1給。因號2勝間田池1
とあり。こは櫛の下に笥を落したるか又は初より櫛と傳へたるか。ともかくも櫛笥(又は櫛)をカツマといふは阿波國のみの方言にあらじ。勝間・勝間田などいふ地名は諸國に多し。但それ等の中には名義の異なるもあるべし○勝間井に就いて考證に當國人野口年長の粟の落穗〔四字傍点〕に見えたる説を擧げたり。それに據れば年長は慶長二年の分限帳に阿波郡勝間井とあるを發見し更に同郡の勝命村に勝間井といふ地ありと聞きしかば人をして調査せしめしに
 勝命村の西に勝間井といふ字あり。されどそこに冷水は無し。隣村大俣村の南にスケノカタと云所に二坪許、深さ三尺五寸許の冷水あり。此水二段ばかりの田にかかれり。此所勝命村より六町許あり。これなん勝間井の冷水なるべき
と云ひおこせきと云ひ又
 思ふに昔は大俣村かけて勝間井といひしを後に勝命村といひその西方を大俣村と名付しも知るべからず(○余の所藏本と文少異なり)
(64)といへり。勝命《カツミヤウ》は今の久勝村の大字にて吉野川の北岸にあり。
 ○久勝村は久千田《クチタ》・勝命、の二村を合併しその各一字を取りて新村名としたるなり。いとあさまし
又大俣は今の大俣村の大字にて勝命の西北に接したり。カツミヤウはもとカツマヰを訛りてカツメイと云ひ之に勝命の字を充て更に字に就きてカツミヤウと唱ふる事となれるならむ。又冷水の今は勝命の字勝間井に存ぜずして大俣の字スケノカタに存ずるは同一の水脈の前者に涸れて後者に湧けるにてもあらむ。されば勝間井の遺址は今の阿波郡久勝村大字勝命字勝間井と認むべし○考證に本文の大御櫛笥をオホミカタマとよむべしと云へるはいみじきひが言なり。無論オホミクシゲとよむべし。又勝間はカツマとよむべし。考證の如くカタマとは訓むべからず
 
   あまのもと山
 
アマノカグ山〔六字傍点〕トハソラノ香ノカ|ホ〔左△〕ル所ナレバイフトモ云ヘリ。……(65)アモリツクアマノカグ山〔アモ〜傍点〕トツヅケタルコトハソラノ香ノカ|ホ〔左△〕リクレバアモリツク〔五字傍点〕トモヨメルトココロエツベシ。又阿波國ノ風土記〔七字傍点〕ノゴトクバ、ソラヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ阿波國ニフリクダリタルヲアマノモト山〔六字傍点〕ト云《イヒ》ソノ山ノクダケテ大和國ニフリツキタルヲアマノカグ山〔六字傍点〕トイフトナン申。此儀ニヨラバ別ノ心エヤウモイルベカラズ。アマクダリツキタルアマノカグ山〔アマ〜傍点〕トイヒツベシ(○萬葉集仙覺抄卷三天降付天之芳來山〔八字傍点〕之註)
 
 新考 全集本より拔けるなり。纂訂逸文に出したるにはアマノ|リ〔右△〕ト山とあり。此事は後に云ふべし。又フリクダリタルは二處共にただ降リタルとあり(寶永版本にもフリクダリタルとあるをや)○釋日本紀述義三天香山の註に
 伊豫國風土記曰。伊豫郡自2群家1以東北在2天山1。所v名2天山1由者倭在2天加具山1。自v天天降時二分而以2片端1者天2降於倭國1以2片端1者天2降於此土1。因謂2天山1本也
(66)とあるは同一傳説の伊豫と阿波とに傳はりたるなり○考證に
 大和風土記には天より天香山の天降りつきし事を傳へ伊豫風土記には天山ある事を傳へたり。大和伊豫二國の風土記に云ふ處よくかなへり。此國なるは少しく(○少しトアルベシ)異なれどかかる説もありしなるべし
と云へるは右に挙げたる伊豫の逸文と神代紀口訣に引ける
 風土記、天上有v山分墮v地。一片伊豫國天山、一片大和國香山
といふ文とを云へるにて後者を大和國風土記の逸文と認めたるなれど後者は元來伊豫の逸文に據りて書けるにて大和の逸文にあらじ。然云ふ所以はもし大和風土記にさる文あらば仙覺はアモリツク天ノカグ山といふ事を解釋するに物遠く阿波風土記を援かで直に大和風土記を引くべければなり。或は云はむ。仙覺は阿波風土記は見しかど大和風土記を見ざりしにあらずやと。答へて云はむ。萬葉抄卷一|中大兄《ナカノオホエ》三山歌の註に
 三山者畝火・香山・耳梨山也。見2風土記1。
とあれば仙覺が大和風土記を見し事確なりと○アマノ|リ〔右△〕ト山とアマノ|モ〔右△〕ト山といづれかよけむと云ふにまづアマノリト山は義を成さず。又傳説の趣と相與からず。傳説の(67)趣は天上の山が阿波に落ちて某山となり其一片が大和に落ちて香山となりきと云へるなればアマノモト山とあるこそつきづきしけれ(版本には|も〔右△〕を|り〔右△〕と誤ちしにこそあらめ)。さて伊豫にては其國の天山と大和の香山とを封等的に語り傳へたるに阿波にては其國のモト山を揚げ大和の香山を抑へたり。かく阿波が伊豫の上に出でたるを見れば傳説はおそらくはまづ伊豫に起り後に阿波にぞ移りけむ○今阿波にアマノモト山又はモト山といふ山なし。アマノモト山は同國の西南部に聳え、高さも麗しさも共にすぐれたる劍山の古名にあらざるか。ともかくも此山は當時阿波人の誇とせし山ならでは、即並々の山にては叶はず
以上五節延喜式及和名抄の郡名順に從はば大八島國研知天皇・勝間井(阿波郡)中湖(名東郡)奈佐浦(那賀郡)あまのもと山(郡不明)と序づべきを説明の便に依りて順を亂したるが偶然に纂訂逸文の次第と合へるなり
纂訂逸文には阿波國と伊豫國との間に讃岐國一節あり。其文左の如し
 讃岐國屋島北去首歩許有v島名曰2阿波島1
こは仙覺抄卷三に丹比眞人笠麿下2筑紫1時作歌詞中と標したる中に(歌は本集卷四に出(68)でたり)
 粟島乎背爾見管ハアハシマ〔四字傍点〕トハ讃岐國屋島北去百歩許有v島名曰2阿波島1ト云ヘリ。此島ヲヨメル歟
とあるを抄したるなり。此文はげに讃岐國風土記の逸文なるべけれど風土記曰とあらねば例の如く探らず。ただ二事を云ひおかむ。少くとも此|丹比《タヂヒ》笠麻呂の長歌の粟島は上なる淡路の國の處(三四頁)並に萬葉集新考一三一二頁に云へる如く曾て淡路島の西北に在りし小島なり。是一なり。讃岐國屋島の北なる阿波島を地名辭書木田郡の下(一二五二頁)に
 今|庵治《アヂ》村の西北二海里なる大島と呼ぶもの疑|ふら〔二字右△〕くは是なり。屋島の北岬を去る一海里
と云へれど屋島北去百歩許とある百歩は今の百間なれば阿波島は大島にはあるべからず。恐らくは今は陸に屬したるならむ。是一なり。なほ一二書添へむに讃岐國は昔は大内《オフチ》・寒川・三木・山田・香川・阿野《アヤ》・鵜足《ウタリ》・那珂・多度・三野・刈田《カツタ》の十一郡、今は大川・木田・香川・綾歌・仲多度・三豐の六郡にて國府は阿野郡に在りき。文驛路は阿波國郡頭驛より國界の大坂山を(69)越えて大内郡の引田《ヒケタ》(今の大川郡相生村)に來り松本・三谿・河内・甕井《ミカヰ》の諸驛を經て、刈田郡の柞田《クニタ》驛より海岸に沿ひて伊豫國の大岡驛に到りしなり
 
(70)  伊豫國 六節
 
   御嶋
 
伊豫國風土記曰。宇《乎》知郡御嶋、坐《イマス》神(ノ)御名(ハ)大山積神一名和多志大神也。是神者|所2顯《アラハレマシキ》難波高津宮御宇天皇御世1。此神自2百済國1度來坐而津國御嶋|坐《イマス》
云々。謂2御嶋1者|△《本》2津國御嶋名1也(○釋日本紀卷六述義二、神代紀上大山祇神〔四字傍点〕之註所v引)
 
 新考 宇知は乎知の誤なり。即越智郡なり。謂御島者の下に本などを落せるなり。播磨風土記|揖保《イヒボ》郡大田里の下に
 所3以稱2大田1者昔|呉勝《クレノスクリ》從2韓國1度來始到2於紀伊國名草郡大田村1。其後分來移2到於攝津國三島賀美郡〔五字傍点〕大田村1。其後又遷2來於揖保郡大田村1。依v是|本〔右△〕2紀伊國大田1以爲v名也
とあり
(71)伊豫國は其縱徑東北より西南に度れるが其東端聊讃岐・阿波の二國に續き東南は悉く土佐國に接せり。或は伊豫國は土佐國の西北にかさなれりとも云ふべし。又北と西とは海に臨めり。當國と備後安藝との間に許多の島嶼ありて殆迫門内海を二分したるが其半は當國に屬せり。抑當國の形状は無頭の怪獣が後肢にて立ち前肢即腕を東方に突出したるに似たり。讃岐阿波に觸れたるは其拳にて腕下・胸腹・脚前はすべて土佐に倚りたり。海に沿へるは背と脚後とにて尾は適に斗出九里なる佐田岬なり○古事記に
 カク言《ノリ》竟ヘテ御合シマシテ子|淡道之穗之狹別《アハヂノホノサワケノ》嶋ヲ生ミタマヒキ。次ニ伊豫之二名嶋ヲ生ミタマヒキ。此嶋ハ身一ニシテ面四アリ。面毎ニ名アリ。故《カレ》伊豫國ヲ愛比賣〔三字傍点〕《・エヒメ》ト謂ヒ讃岐國ヲ飯依比古ト謂ヒ粟國ヲ大|宜都《ゲツ》比賣ト謂ヒ土左國ヲ建依別《タケヨリワケ》ト謂フ
と云へり。伊豫之二名島は所謂四國なり。今伊豫國を愛媛縣といふは右の國魂《クニタマ》の名に依れるにて府縣名中管内の地名に據らざるものは是のみなり。日本紀には伊豫之二名島を伊豫二名洲と書けり○延喜式に據れば當國は上國即第二等國にて所管は
 宇麻・新居・周敷・桑村・越智・野間・風早・和氣・温泉・久米・浮六・伊豫・喜多・宇和
の十四郡なり。新居はニヒヰとよむべし。今は修《チヂ》めてニヰと唱ふ。周敷はスフ、越智はヲチ(72)とよむべく又温泉はただユとよむべし。近古まではウンゼンと唱 へしを今はヲンセンと唱ふ。浮穴を和名抄に宇城安奈と訓註したるは正しからず。宜しくウケアナとよむべし(肥前風土記新考一三七頁参照)。否ウケナと訓むべし。今も里人はウケナと唱ふと云ふ。穴字をナに充てたる例はたとへば大名持命を大穴持とも書けり。郡内に今羅漢窟といふ大なる鍾乳洞あるに由りて名を獲たるなり。明治年中に或は合せ或は分ちしかば今は
 宇摩・新居《ニヰ》・周桑・越智・温泉・上|浮穴《ウケナ》・伊豫・喜多・東宇和・西宇和・北宇和・南宇和
の十二郡となれり。宇摩は延喜式に宇麻と書きたれど和名抄に宇摩とあり。否夙く續紀神護景雲元年十月癸巳に伊豫國宇摩郡人云々とあり。古人は深く字に拘はらざりしなり。周桑郡は周敷・桑村を相併せ、越智郡はもとの越智郡に野間郡を併せ、温泉郡はもとの温泉郡に風早・和氣・久米・下浮穴の四郡を併せたるなり。是より先明治十三年に浮穴都を上下に分ちしに是に至りて下浮穴郡を温泉郡に併せしかば後には無偶の上浮穴郡が殘りしなり。以上の合併は皆明治二十九年郡制施行の時に行はれしなり。宇和郡が東西南北に分たれしは明治十三年なり。右十二郡中宇摩・新居二郡は彼怪獣の腕に當り、越智(73)は頸に當り、周桑・温泉・伊豫・上浮穴は胴に當り、東宇和・喜多は腰に當り、西宇和は臀と尾とに當り、南北宇和は脚に當れり○國造本紀に據れば當國、大化改新までは伊余・久味・小市《ヲチ》・怒麻《ヌマ》・風速の五國に分れたりしなり。伊余は伊豫郡、久味は久米郡、小市は越智郡、怒麻は野間郡、風速は風早郡なり。されば當國にて早く開けしは今の越智・温泉・伊豫の三郡にてやがて臨海の中部なり。久味は或は久昧の誤か。昧は呉音メなり○中古以來道前道後の稱あり。京に近きを道前とし京に遠きを遺後とせしなり。されば備前備後・豐前豐後などいふ類なり。但乙は公稱なるに甲は私稱なる事、乙は國の名を冠らせたるに甲は然らざるが相異なり。乙の内たとへば豐前豐後はトヨノミチノクチ・トヨノミチノシリといふべきを略したるなり。道前道後の道はそのミチなり。國内のみにての稱なるが故にただミチと云ひしなり。たとへば備後を萬葉集卷十一にただ路ノシリ深津島山云々といひ越中を同集卷十七にただミチノナカクニツミカミハ云々と云へり。道前道後の指す所必しも一定せざれど多くは道前五郡・道後七郡といひて高繩山を界とせり。されば道前五郡は宇麻・新居・周敷・桑村・越智にて道後七郡は野間・風早・和氣・温泉・久米・浮六・伊豫なり。喜多・宇和は道前道後の外なり。道前の稱は夙く廢れしかど道後の稱は温泉郡の名だたる温(74)泉(古書にいへる石湯《イソノユ》又伊豫湯)の名に殘れり○和名抄に國府在越智郡とあり。其跡は今の越智郡櫻井町大字|古國分《フルコクブ》なり。古國分は古國府の誤なり。國府はコフとよみ國分はコクブとよみしを後に前者をコクフとよみて國分と混同したる例、他國にもあり
 ○近世國府は今少し北方ならむと説ける人あり。たとへば甲氏は櫻井町の北なる富田村の大字松木は馬次の字を更へたるにて郎越智驛なるべく然るに終驛が國府よりあなたに在るべきならねば府趾は今の富田村の内ならむと云ひ、乙氏は今も櫻井町大字國分附近を府中と稱し其外にも傍證あれば此處に國府のありしは信ずべけれど又平安朝中期以後の文書に松木(富田村)中寺(清水村)方面を府中と稱せしこと見ゆれば國府は此方面に移轉せしならむと云へり。乙氏の説特に傾聽すべし。さればこそ櫻井町の方を古國分(古國府)と稱せるならめ。右の説どもは文意を取りて書けるなれば或は余の誤解もあらむ。深く此問題を研究せむとする人は伊豫史精義七四頁以下を熟讀すべし。國分寺の事も愛媛縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書のみにては滿足ならず。彼書の一一二頁以下を見べし
○驛は延喜式に大岡・山背《ヤマシロ》・近井・新居《ニヒヰ》・周敷《スフ》・越智《ヲチ》各五疋とあり。大岡驛は今の宇摩郡川之江(75)町なり。讃岐國刈田郡|柞田《クヌギダ》驛(今の三豐郡|柞田《クニタ》村)より海岸に沿ひて此處に到りしなり。さて此處にて當國の國府に到ると土佐の國府に到るとの二路に分れ後者は山背驛を經て土佐國長岡郡の丹川《タヂカハ》驛に到りしなり。山背は國界三榜示山の後に在る謂にて今の宇摩郡|新立《シンリツ》村大字|馬立《ウマタテ》なり。近井は不詳なれど大岡と新居との間なれば今の同郡津根村附近ならむ。新居は今新居郡|新居濱《ニヰハマ》町あれどそれよりは山寄即南方にて今の中萩村大字|中《ナカ》の附近ならむか(地名辭書の説と暗合す)。周敷は今の周桑村周布村附近ならむ。
 ○周布村は今シウフと唱ふといふ。あさまし
越智驛は南海道二終驛の一(他の一は土佐國の頭驛《トウヤク》)にて國府の附近なるべければ今の越智郡櫻井町の内と認むべし。續日本紀に
 養老二年五月庚子土左國言。公私使直指2土左1而其道經2伊與國1。行路迂遠山谷險難。但阿波國境土相接往還甚易。請就2此國1以爲2道路1。許v之
とあり。直指土左とは途中ノ國々ニ用アラバ格別、サモ無クテ直ニ土左ニ來ラムトスルニと云へるなり。以前は恐らくは伊豫の國府より今の温泉・上浮穴の二郡を經て仁淀川に沿ひて土佐に入りしならむ。さて其迂路をこたび請に依りて阿波の海岸線に更へら(76)れしなり。即阿波の石隈驛より分れて南又は西南に向ふこととなりしなり。されどかくては特に土佐國の爲に阿波の國内にあまたの驛を置かざるを得ざる事となりて損ずる所少からざればにや延暦十六年に至りて再路を改められき。即日本後紀同年正月甲寅の下に
 廢2阿波國驛家△、伊豫國十一、土佐國十二1新置2土佐國吾椅丹川二驛1、
とあり。撫養《ムヤ》より土佐國の甲浦《カンノウラ》まで二十九里許なれば缺字は六又七の字ならむ。驛路を改めて伊豫國の大岡驛より三榜示山の西方なる笹が峯を越えて土佐國に入る事となりたる上は阿波の若干驛と土佐の若干驛とは不用となれば之を廢するは當然なれど伊豫國の驛路中大岡より越智即國府に至る驛々は之が爲に廢せらるる理なし。思ふに今回廢せられし伊豫の十一驛は國府より南方土佐國界までに在りしものにて彼養老元年に阿波の海岸線を開きし後も廢せずして伊豫の國府を經て土佐に赴くには此路を經、直に土佐を指す時には彼阿波の新路を經しを今や兩者を兼ぬべき路を開きたれば阿波の石隈驛より南下して土佐の國府に到る兩國の驛々と伊豫の國府より土佐の國府に到る兩國の驛々とを一齊に廢止せしにて、これぞ即阿波國驛家△、伊豫國十一、土(77)佐國十二と云へるものならむ。さて延喜式に據れば新道即延暦十六年以後の驛路には伊豫にては山背驛、土佐國にては丹川・吾椅・頭驛の三驛あるを延暦十六年の紀に新置2土佐國吾椅・丹川二驛1とあるは初に兩驛を置き後に至りて土佐の國府附近に頭驛を置き又三榜示山の北麓に山背驛を置きしならむ○萬葉集に見えたる當國の地名はイヨノ高嶺・イザニハノ岡・ニギタ津・ミ湯・イハユノ行宮などなり。イヨノタカネは即石鎚山なり。四國第一の高山にて新居・周桑・上浮穴の三郡に跨れり。字は又石槌と書けり。又石※[金+夫]と書けど※[金+夫]は斧にてツチとは訓むべからず。故ある事にや。又石鐵と書くは※[金+夫]を鐵の略字と看做さるる鉄にまがへたるにてこは斷じて誤とすべし。其他は逸文の註に出來むぞ○當國幕末の藩治は左の如し。
 松山     温泉郡    久松氏
 宇和島    北宇和郡   伊達氏
 大洲     喜多郡    加藤氏
 今治     越智郡    久松氏    松山ノ一族
 西條     新居郡    松平氏    紀州ノ分家
(78) 吉田    北宇和郡   伊達氏   宇和島(ノ)分家
 小松     周桑郡    一柳氏
 新谷《ニヒヤ》喜多郡    加藤氏    大洲(ノ)分家
當國には今三市あり。松山といひ宇和島といひ今治《イマバリ》といふ
乎知は又乎致・小市・越智など書けり。越智に一定したるは延喜式以來なり。越智郡は大化以前の小市《ヲチ》國の跡なり。國造本紀に
 小市國造 輕島|豐明《トヨアキラ》朝(○應神天皇)御世物部連同祖大新川命孫|乎致《ヲチ》命定2賜國造1
とあり○御島は即三島なり。本郡の東北海中に三島群島あり。其首島を大三島といふ。本郡|波方《ハガタ》村の大隅崎と安藝國豐田郡|忠海《タダノウミ》町との中間に在り。其西岸に在りて其主邑なる宮浦村にぞ大社はまします。本文に據れば古は群島をも首島をも共に、ミシマとはひて總特の別なかりしに似たり。さるにさては紛らはしきに由りて後に至りて首島を大三島といひ始めしにこそ○從來乎知郡御島ニ坐ス神とつづけて讀めるはわろし。熊野峯・湯郡・天山《アメヤマ》の逸文と合せ見るにまづ乎知郡と標し次に御島と標し、さて坐神云々と書きたりしなり。さればこそ句の末に也とあるなれ。然るに今はそを抄出するに際して大標・(79)小標・主文を書續けたるなり。かくの如くなれば乎知郡御島と讀切りて、坐ス神ノ御名ハ云々と讀むべし○大山積神は古事記神代卷に既生v國竟更生v神とある中に
 水生2山神名大山津見神1。次生2野神名鹿屋野比賣神1。亦名謂2野椎神1
とあり、日本紀四神出生章の第八一書に
 伊弉諾尊斬2軻遇突智《カグツチ》命1爲2五段1。此各|化2成《ナル》五|山祇《ヤマツミ》1。一則首|化2爲《ナル》大山祇〔三字傍点〕1云々
とありてイザナギノ尊の御子にて山を掌る神なり。又ニニギノ尊の御妻カアシツ姫一名コノハナノサクヤ姫の御父なりといふ〇一名和多志大神とあるに就きて考證に
 和多志とは下文に百済より度來坐せる由か。然らば和多理大神とこそ云ふべきなれ。和多志とは云ふべからず
といひて首肯すべからざる一按を出したれど、ワタシはワタラシの略なり。ワタルの他作格をワタラスといふ、そのワタラスを略してワタスといひ、そのワタスを名詞にしてワタシと云へるなり。さればワタシはワタラシにて渡御と云はむが如し。若敬意を加へずばワタリと云ふべし。ワタラスを略してワタスと云ふはヤスミシラスをヤスミシスといふが如し(四六頁參照)。又格は異なれどナラスをナスと云ふが如し。否ワタル・ワタス(80)といひて打見には自動詞の時には語幹ワタにルを添へ他動詞の時にはスを添ふるに似たれど實はワタスは令渡なればワタラスのラを省きてワタスといふならむ○難波高津宮天皇は仁徳天皇の御事なり。所顯を考證に現御身《ウツシオミ》の顯れまししなりと云へるは狹し。託宣に由りて顯れまししにこそ。神功皇后前紀に諸神の託宣ありし如き之を所顯といひて不可なる事あらむや○是神ハ難波ノ高津ノ宮ニシラシシ天皇ノ御世ニ顯レマシキといへる句と此神百済國ヨリ度來マシテ云々といへる句とは無關係にあらじ。恐らくは皇軍の韓國出征中に託宣ありて皇軍を援けたまひしかば凱旋の暗に御魂を捧持ち來りて攝津國の三島にいはひまつりしならむ。さて此時よりぞ此神は山神の外に武神とぞなりましけむ。仁徳天皇の御世に韓國を出征せしは日本紀に依れば
 五十三年新羅朝貢セズ。夏五月|上毛野《カミツケヌ》君ノ祖|竹葉瀬《タカハセ》ヲ遣シテ其闕貢を問 シム。……俄且《シバラク》シテ重ネテ竹葉瀬ノ弟|田道《タヂ》ヲ遣ス。則|詔《ノ》リタマハク。若新羅距ガバ兵ヲ擧ゲテ撃テト。仍リテ精兵ヲ授ケタマフ。新羅兵ヲ起シテ距グ。爰ニ新羅人日日ニ挑ミ戰フ。田道塞ヲ固メテ出デズ。時ニ新羅ノ軍卒一人營外ニ放《ハブ》レタル有リ。即|掠俘《トラ》ヘ因リテ消息ヲ問フ。封ヘテ曰ハク。強力者アリ。百衝ト曰フ。輕捷猛幹、毎ニ軍ノ右前鋒ト爲ル。故ニ伺(81)ヒテ左ヲ撃タバ敗レナムト。時ニ新羅左ヲ空クシテ右ニ備フ。是《ココ》ニ田道精騎ヲ連ネテ其左ヲ撃ツ。新羅ノ軍潰ユ。因リテ兵ヲ縦チ之ニ乘ジテ數百人ヲ殺ス。則四邑ノ人民ヲ虜ニシテ歸ル
とある是のみなり。大山積神が顯れたまひ又還り渡りたまひしは此時にや然らずや。上古の國史には脱漏殊に多かるべければ當代の韓國出征は必しも此時には限るべからず○津國御島は攝津國の東北部なり。延喜式に島上島下とありて夙く二郡に分れたりき。島上島下は三島上・三島下を二字に修《チヂ》めたるなり。播磨風土記にも三島賀美郡とあり。其文は初に引けり。津國御島|坐《イマス》とあるを從來神名帳の三島鴨神社に充てたれど、こはなほ深く研究せざるべからず。三島鴨神社は三島ニ坐ス鴨神社の謂なれば初より事代主神をいつけるにて
 ○この鴨は大和の葛城の鴨の名を取れるなり。鴨氏又賀茂氏には二流あり。大和の鴨氏(朝臣)は事代主命の裔にて(據味※[耜の右が巨]高彦根事代主同神説)山城の鴨氏(縣主)はカムムスビノ命の後(即タケツヌミノ命の後)なり。相混ずべからず。古典にも往々相混じたれば特に警告するなり。右二流の外にもなほ數流あり
(82)大山積神とは關係あるべからず。元來本文の大山積神は記紀に見えたるとは(郎上に出自を示したるとは)同名異神にあらざるかとさへ疑はるれど思ふになほ同神なるべく、但其神の荒御魂ならむ。さて此神を奉じて韓國より歸朝せしは其後裔にはあらで神宣を蒙りし別姓の人ならむ(或は物部氏か)。其人所縁に附きて此神を攝津の三島にいはひて其氏神といつきしに
 ○かかれば三島には此神の子孫はあるべからず。強ひて此地に其後裔を求めて三島ノ溝クヒ耳(此人の娘に事代主神の通ぜし事、神代紀寶劔出現章第六一書並に神武天皇紀前一年に見えたり)を此神の子に擬するは愚なる業なり
世を經て其家衰へ、從ひて神社も廢れて終に三島鴨神社に合併せられしならむ。社傳に祭神大山祇神、相殿事代主神といへるは主客の顛倒ならむ○本文の大山積神は俗に三島大明神と稱し當國の世家河野氏の氏神として崇敬守護せし神にて畏けれど余も亦其氏子の一人なるが今國幣大社に列れり。此社と伊豆の官幣大社三島神社との關係は從未解決せられざる問題の一なり。今の伊豆國田方郡三島町の三島神社は元來神名帳に賀茂郡伊豆三島神社と見えたるを遷したるものなるが
(83) ○地名辞書には
  然るに其後田方郡國府に此神社を勸請し彼地は海道の交衢にあたり源頼朝其祠に祈祷報賽したるより國府の三島神大に顯れ賀茂郡の古大社大に衰ふ。……此に怪むべきは田方郡の國府府中の神域を賀茂郡と稱する事と其新宮は天平七年に賀茂郡より府中へ移祀すと傳ふる事是也。古典の義理より推せば府中の神域は決して賀茂郡にあらず。已に新宮と云へば天平七年の遷坐にあらず。是れ恐らくは近世府中の新宮を以て延喜式の古大社に牽合せんが爲にかかる妄説を生ぜるものならん。……すべて府中の新宮は延喜以前のものたるの明證は一も之を見ざる也(〇二六三五頁)
 といひ又
  明治維新の初官幣大社に列せらる。異數に屬するに似たり(〇二六〇五頁)
 と評せり
中古以來の書にその三島神社を伊豫より分靈したるなりと云ひ又伊豫の大山積神社を伊豆より勸請したるなりと云へり。思ふに伊豫なるも伊豆なるも共に攝津より奉遷(84)したるにて伊豫と伊豆とは本支の關係なからむ。但伊豫なるは社名の如く大山積神をいはひ伊豆なるは祭神を事代主神とも大山積神とも傳へたるを見れば
 ○今官幣大社三島神社の祭神は事代主神と定められたり。こは平田篤胤の古史傳第百三十二段(卷二十五)に彼二十二社本縁(群書類從卷二十一所收)賀茂事と云へる條に
  葛木ノ賀茂ハ鴨ト書ケリ。都波《ツバ》八重事代主ノ神ト云。……伊豆國賀茂郡ニ坐《オハ》スル三嶋ノ神伊豫國ニ坐スル三嶋ノ神〔伊豫〜傍点〕同體ニテ坐スト云ヘリ
 とあるを(丶を批ちたる字を削りて)たたへて「いとも珍しき説《コト》の正説《マサゴト》にぞ有ける」と云へるに由りて明治の初年平田流の神道家の跋扈せし時代に然治定せしなり。之に反對せる者はた少からず。たとへば特選神名牒に
  古へより大山積命と傳へたるを近來八重事代主命を祀れる由云出たるは甚しき誤り也
 といひ又附箋に
  潔云。祭神事代主命に定めたれど大に誤れる説なり。古來のまま大山積神と改正ありたし
(85) と云へり
 伊豫なるは攝津國三島の大山積神社がなほ獨立せし時代に分靈し伊豆なるは同社を三島鴨神社に合併せし後に勸請せしならむ
 以上述べたる所は簡單に過ぎて人も滿足せざるべけれど、云ふべき事書かまはしき事いと多くて筆に任せなば大論文ともなるべきに由りて控へにひかへて風土記逸文の解説たるに止めしなり。但余の説の結論は右にて略盡されたりと信ず
 
   熊野岑
 
伊豫國風土記曰。野間郡熊野岑、所2名《ナヅケタル》熊野1由者|昔時《ムカシ》熊野|止《ト》云船(ヲ)設v此《ココニマケタルガ》至v今《イマニイタルマデ》石(ニ)成(リテ)在。因謂2熊野1本《コトノモト》也(○釋日本紀卷八述義四、神代紀下熊野諸手船〔五字傍点〕之註所v引)
 
 新考 流布本には熊野岑を熊野峯としたれど前田家本には峯とあり○野間郡は越智(86)郡の西北に隣りて其西北は海に沿へり。明治二十九年に越智郡に併せられき。今の乃万村の大字野間は古の野間郡家の所在なり。天平神護二年四月以後の國史に見えたる野間神即神名帳に見えたる野間神社は同村大字|神宮《カンノミヤ》にあり。如何なる故にか三代實録貞觀九年閏三月に野間天皇〔二字傍点〕神と見えたり。同書元慶五年十二月に授2伊豫國正四位上野間|神〔右△〕天皇神從三位1とあるも二神にはあらで上の神は衍字ならむ。今俗に此神社を牛頭天王と云ふを思へば天皇とあるは天王にて祭神は或は蕃神か。牛頭天王の天王は往々天皇と書けり。特選神名牒には明細帳に據りて飽速玉命と定めたり。飽速玉命は怒麻《ヌマ》國造の祖先なり○國造本紀に
 怒麻國造 神功皇后御代阿岐國造同祖飽速玉命三世孫若彌尾命定2賜國造1
とあり。怒麻は即野間なり。字は又濃滿又乃万と書き和名抄郡名の訓註には野間今作2能滿1とあり。今といへるは舊《モト》よりある郡名表に訓註を添へし時代なり。これに由りても亦國郡郷名表を作りし時代と訓註を添へし時代との相異なるを知るべし○熊野岑は愛媛乃面影卷二に
 按今世野間郡に熊野と云所ある事をきかず。風土記殘篇にいふ所怪しき事多し。悉く(87)は信《ウケ》がたし
といへり。此逸文は毫も疑ふべきものにあらず
 ○本書の著者はその慶應二年の自序に
  そもそも古風土記といふ書六十餘卷ありて諸國の山川神社名所舊蹟貢調産物等の事迄くはしくしるしたりしをいつの頃にかほろび失て今は全く傳らず
 といひ、其子榮に書かせたる漢文序にも
  曾聞古者國有2風土記之作1。……歴世之久或經2兵燹1或罹2水害1散佚泯亡、莫d復殘帙蠹簡之可2以徴1者u矣
 と見えて世に常陸・播磨・出雲・豐後・肥前五箇國の古風土記の傳はれる事だに知らず。風土記に就いての其知識は絶無なり。元來國文學の素養だにかたなりなるが彼淡路常磐草の著者仲野安雄と比するに安雄は實、名にまさり面影の著者は名、賞に過ぎたり。但面影は良書なり
○所名はナヅケタルとよむべし。さればこそ所字を添へたるなれ。纂訂逸文にナヅケシとよめるは格にも叶はず字にも親しからず○熊野止云船とありて助辭のトを顯して(88)(但横に寄せて)書けるは阿波の逸文(勝間井及奈佐浦)にも例あり。設此と云へる意義たどたどし。昔此山ニテ大木ヲ伐リテ熊野型ノ船ヲ作リ設ケタルガと云へるにて設と云へるは未使はざる爲にや。考證に「熊野と云舟を造りて此地に置れしが」と云へる如くにはあらじ○熊野船は神代紀天孫降臨章に
 故以2熊野諸手船〔五字傍点〕1載2使者|稻背脛《イナセハギ》1遣v之而致2高皇産靈《タカミムスビ》尊勅於事代主神1且問2將報之《カヘリゴトマヲサム》辭1
とあるを始出とす。諸手船を從來モロタブネとよめれど、ここの手はタとよまむ由なし。宜しくモロテブネと訓むべし。萬葉集にも
 島がくりわがこぎくればともしかもやまとへのぼる眞熊野の船〔五字傍点〕(卷六)
 みけつ國志麻のあまならし眞熊野の小船〔六字傍点〕にのりておきべ こぐ見ゆ(卷六)
 浦|回《ミ》こぐ熊野の舟〔四字傍点〕のめづらしくかけて思はぬ月も日もなし(卷十二)
とあり。島ガクリは島陰ヲなり。トモシカモは羨シキカナなり。ミケツ國は志摩の準枕辭、奥の歌の初二はメヅラシクにかかれる序なり。カケテは心ニカケテなり。熊野船は集中に見えたる伊豆手船・松浦船の類にて熊野型の船なり。その熊野型は出雲及紀伊の樣式なり○昔時以下は
(89) ムカシ熊野トイフ船ヲココニ設《マ》ケタルガ今ニ至ルマデ石ニ成リテ在り
とよむべし○山中にて船を作りし例はまづ萬葉集卷十四なる相摸國歌の序にアシガリノ安伎奈ノヤマニヒコフネノとあり。アシガリは即足柄なり。ヒコはヒクの東訛なり。こは山中にて船を作りて其船を引下す趣の序なり。次に播磨風土記|讃容《サヨ》郡|中川《ナカツガハ》里の下に
 船引山 近江天皇ノ世|道守臣《チモリノオミ》此國ノ宰タリシトキ官船ヲ此山ニ造リテ引|下《オロ》サシメキ。故《カレ》船引ト曰フ
とあり。次に日本靈異記下卷第一に
 熊野村ノ人熊野河上ノ山ニ至リテ樹ヲ伐リテ舶ヲ作リキ。……後半年ヲ歴テ船ヲ引カムガ爲ニ山ニ入ル
とあり。又晋書幸靈傳ニ
 時ニ順陽ノ樊長賓、建昌ノ令タリ。百姓ヲ發シテ官船ヲ建城山中ニ作ル。……船成リテ當ニ下スベシ。吏二百人ヲ以テ一艘ヲ引ケドモ動ス能ハズ云々
とあり。何故に山中にて船を作りしかと云ふに古の船は獨木舟なりしかば山中にて大(90)木を伐りてそのまま引下さむよりは船にゑぐりて引下さむ方、便よかりしなり(萬葉集新考三〇四一頁及播磨風土記新考三三二貢參照)○熊野岑は、山中にて船を作りてそを引下ししを思へば大川又は海に近からざるべからず。
 ○萬葉集相摸歌なるは酒勾川に、播磨風土記なるは志文《シフミ》川に、靈異記なるは熊野川に引下ししなり
然るに野間郡には大川なければ熊野岑は海に近き處ならむ○因謂熊野本也を纂訂逸文に因謂2熊野1本也と點じてカレ熊野トイフハコノコトノモトナリと訓じたり。因はヨリテとよまば勿論、たとひカレとよみても熊野トイフハコノコトノモトナリと相叶はず。カレはカカレバ・サレバといふ事なればなり。されば本を岑の誤としでヨリテ熊野岑トイフナリとよまむかとも思へど、同じく伊豫の逸文なる天《アメ》山の節にも因謂2天山1本也とあり又伊社邇波之岡の節にも因謂伊社爾波本也とあれば誤寫にはあらじ。
 ○國史大系の新訂増補本に因請熊野|岑〔右△〕也に改めて其頭書に岑原作v本、今意改と云へるは他の二例に心附かざりしなり
茲に日本紀に縁と書きてコトノモトと傍訓せる例いと多し(私記にはヨシとよめり)。古(91)事記應神天皇の段に春山之霞|壯夫《ヲトコ》が伊豆志ヲトメを獲しことを云へる處の註に此者|神《カム》宇禮豆玖之言本《・コトノモト》〔二字傍点〕者也とあれば縁にコトノモトと傍訓したるはよく叶へり(ウレヅクは賭物なり)。コトノモトのコトは此處の如く言の義なるもあれど多くは事と解すべし。モトは根元なり。さればコトノモトには語源の義なると起の意なると二樣あり。さて日本紀に見えたる例は略二樣式に分つべし。一は云々スルハコレコノ縁ナリといひ今一はコレ云々スル縁ナリと云へり。即一はたとへば世人慎收2己爪1者此其縁也、世人惡2以v生誤1v死此其縁也などいひ他の一はたとへば此世人短折之縁也、此海陸不2相通1之縁也など云へり。但稀には稍異なる樣式もあり。たとへば故猿女君等男女皆呼爲v名此其縁也といひ又即以2口女魚1所2以不1v2供御1者此其縁也と云へり。本文の例の最近きは猿女君の例なるがこれと相同じくせむとならば因謂熊野此其本也と云はざるべからず。ともかくも原のままにてはととのひがたし。思ふに因謂2何々1本也といへるは伊豫風土記を書きし人の筆癖ならむ
 ○因に云はむ。日本靈異記の標目に促v雷縁、狐爲v妻令v生v子縁などいへるは轉義にて今昔物語の聖徳太子於2此朝1始弘2佛法1語、行基菩薩學2佛法1導v人語など云へる語と斉しく(92)物ガタリ・ハナシといふことなり。正しく訓ぜむとならばモトツガタリと訓ずべし
 
   美枳多頭
 
百式紀《モモシキ》乃大宮人之|飽〔左△〕《饒》田津爾船乘|將爲《シケム》年之|不知久《シラナク》 ニギタヅ、日本紀第廾六卷ニハ天皇七年春正月丁酉朔庚戌御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1(熟田津此云2※[人偏+爾]枳陀豆1)。伊豫國風土記〔六字傍点〕ニハ後岡本天皇御歌曰。美枳多頭爾△△《布禰》波弖丁美禮婆云々。ニ〔右△〕ト|ミ〔右△〕ト同韻相通ノ故ニニギタヅ〔四字傍点〕トモイヒミギタヅ〔四字傍点〕トモイフトエラ〔二字左△〕ハレタリ。ミ〔右△〕ト|ニ〔右△〕トは殊ニカヨハシテイハルル字トキコエタリ云々(○萬葉集仙覺抄卷三)
 
 新考 本歌は萬葉集卷三に見えたる山部赤人が伊豫温泉に至りて作りし長歌の反歌なり。飽は眞淵の云へる如く饒の誤とすべし。饒速日《ニギハヤビ》命などの饒なり。シラナクは知ラレナクにて、やがて知ラレヌコトカナと云へるなり(新考四二六頁參照)。同集卷一に後崗本(93)宮御宇天皇代、額田王歌と標して
 熟田津にふなのりせむと月まてば潮もかなひぬ今はこぎでな
といふ歌を載せたり。赤人は此時の事をしのびて右の歌を作りしなり。後崗本宮御宇天皇は齊明天皇の御事なり。同天皇の六年に新羅、唐の力を借りて百済を攻め百済は爲に殆亡びむとしたるが救を皇朝に乞ひしかば天皇は其乞を容れたまひて援軍を遣し、御老年又御女性にましましながら御自身も筑紫に行幸し給ひき。さるは筑紫を大本營とし給ひしなり。さてかのニギタ津ニフナノリセムトといふ歌は此途中の歌なるが熟田津に著き給ひしは七年正月十四日、此地を發して娜《ナノ》大津即後の博多に著き給ひしは三月二十五日なれば此熟田津にはしばらく留まり給ひしなり。さるは各方面の準備のととのはむを待ち給ひしにこそ○波弖丁美禮婆に全集本にウチデテミレバと傍訓せり。此傍訓に據らば波を打の誤とすべけれど實は波の上に布禰を落したるにてフネハテテミレバとよむべきならむ。さて此大御歌は日本紀にも萬葉集にも見えず。此天皇の大御歌は齊明天皇紀四年五月に
 皇孫|建《タケル》王(○天智天皇御子)八歳薨。今城《イマキ》谷上起v殯而收。……輙作v歌曰。いまきなるをむ(94)れがうへにくもだにもしるくしたたばなにかなげかむ(其一)いゆししをつなぐかはべのわかくさのわかくありきとあがもはなくに(其二)あすかがはみなぎらひつつゆくみづのあひだもなくもおもほゆるかも(其三)天皇時々唱而悲哭
とあり、又同年十月に
 幸2紀温湯1天皇憶2皇孫建王1愴爾悲泣乃口號曰。やまこえてうみわたるともおもしろきいまきのうちはわすらゆましじ(其一)みなとの、うしほのくだりうなくだりうしろもくれにおきてかゆかむ(其二)うつくしきあがわかきこをおきてかゆかむ(其三)詔2秦大藏造萬里1曰。傳2斯歌1勿v令v忘2於世1
とある外に萬葉集卷四に
 岳本天皇御製一首 神代より、あれつぎくれば、人さはに、國にはみちて、あぢむらの、かよひはゆけど、わがこふる、君にしあらねば、晝は、日のくるるまで、よるは、夜のあくるきはみ、おもひつつ、いねがてにと、あかしつらくも、ながき此夜を 反歌 山のはにあぢむらさわざゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば あふみぢのとこの山なるいさや川けのころごろはこひつつかあらむ
(95)とあるも岳本宮天皇即舒明天皇の御製にあらで後岳本宮天皇即齊明天皇のならむ(新考六一五頁參照)。否かのニギタ津ニフナノリセムトといふ歌も其左註に
 右※[手偏+僉]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午(○舒明天皇九年十二月十四日)天皇大后(○當時の皇后、後の齊明天皇)幸2于伊豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征、始就2海路1。庚戌御船泊2于伊 豫熟田津|石湯《イソノユ》行宮1。天皇御2覧昔日(〇二十四年前)猶存之物1當時忽起2感愛之情1。所以《ユヱニ》因製2歌詠1爲v之哀傷也。即此歌者天皇御製焉。但額田王歌者別有2四首1
とあるに據らば額田女王の作にあらで齊明天皇の御製なり。かく歌は巧におはすれば御製はあまたありけむをたまたまに地方の口碑に殘りしを録したる伊豫風土記さへうせ果てて日本紀・萬葉集に加ふる所あるに至らざるはいとあたらし○天皇が初よりミキタヅとよみ給ひしか、實はニギタヅとよみ給ひしを國人が口より耳に傳ふる程にミギタヅと訛られしか、今は知るに由なけれどナ行とマ行とは相近くて相通ふ音なればこそ五十音圖に相隣らせたるなれ。ナ行とマ行と相轉じたる例は無數にて言ふも興なく聞くもすさまじかるべければ今は一般學者の多くは知らぬ例を擧げてむ。即和泉(96)國大鳥郡の郷名に上神《カムツミワ》あり和田《ニギタ》あり。然るに今はカムツミワのカムツを略したるミワを訛りて爾和といひニギタを訛りて美木多といふ。即一往一來の轉訛なり。此例も國人には勿論、地理學者にはめづらしからじ。エラハレタリはオモハレタリなどの誤か○ニギタ津は舊《モト》の和氣郡にあり。和氣郡は今の温泉郡の内にて其地域は今の松山市及道後湯之町の西北に當れり。ニギタ津は其地域の西南隅に在り。愛媛乃面影卷三(二十二丁)に
 三津濱 松山城下より一里餘西に在り。古《フル》三津より此所に移したりと云。……熟田津は此處なるべし。そは温泉にいでましし時御船|泊《ハテ》玉ひけん所外にあらざればなり。里人云。昔は湯のあたり迄入海なりしを築留て今の如くなりぬと。實にさもありけんかし。されど御津と云名は御船泊玉ひしによりての名なるべければ古の熟田津也といはんも誣事にはあらじ
と云ひ又温泉郡の下(三十八丁)に
 舊蹟考(○宍戸大成著伊豫舊蹟考)曰。土俗の傳説に昔は温泉の地名をナリタヅといひアキ田津ともいひ又ニギ田津とも云。湯のあたり迄海にて船つきなりしが今は地脈變じて二里ばかり西に隔りぬ。ナリ田津アキ田津ニギ田津を合せて三津といふなり。(97)など或書にいへり。大成按に古はニギタ津といへるのみにてナリタヅ・アキタヅといふ名、古書にも其外の書にもいまだ見あたらず。……或人の説は非也。飽田津と云地名あるにあらず。又ナリ田津といふも固よりなき事也。……三津濱人のいへらく。かの山際まで昔は海にて此あたりは築地なりと。實にさる事なるべし。さて三津の三は例の假字にて古、天皇等の行幸の時御船の泊し所なれば御津といひしを築地と成ても猶海際なれば今も御津とはいふなるべし。又熟田津石湯とある石は古書に磯と通じ書ければ昔は温泉かの柔田津ちかきあたりに在しか。又はかの山間の迫門などより潮の滿來て入江なりしか云々
と云へり。又地名辭書に
 熟田津 今の古《フル》三津村・三津濱等の舊名なり
と云へり。右の大成の説略よろし。齊明天皇紀七年に見えたる熟田津石湯行宮の石湯を從來多くはイハユと訓みたれどこはイソノ湯とよみて礒の湯〔三字傍点〕と心得べく、さてそのイソノ湯は今の道後場なれば熟田津は道後湯に近からざるべからず。斷じて今の三津濱町の地にあらず。三津濱町附近は近古の埋立地にて上古には海底なりしなり。古《フル》三津村(98)といふ名殘りて之に對せるを見ても此地が上古の熟田津即御津にあらざるを知るべきにあらずや。否|古《フル》三津も恐らくは上古の御津にはあらじ。上古は海水深く進入して道後湯附近に達し其※[さんずい+彎]の底にぞ御津はありけらし○飽田津は仙覺の訓の如くニギタヅとよむべく、その飽は眞淵の説の如く饒の誤なるべき事初に云へる如し。然るに萬葉集名處考にはなほ飽田津を守りてアキタヅとよめり。又三津を借字と認めずして津頭三處の謂とせり。其説は夙く宍戸大成等に粉碎せられたれば重ねて論ぜず(萬葉集新考四二六頁參照)
 
   湯郡
 
伊豫國風土記曰。湯郡、大穴持命|見〔左△〕《忽》悔耻而宿奈※[田+比]古那命(ヲ)欲v活而|大分《オホキダノ》速見湯自2下樋1持度來|△《而》以《ヲ》2宿奈※[田+比]古奈命1※[而を□で囲む]|涜浴〔二字左△〕《浴漬》者※[斬/足]問|有v活《ヨミガヘリテ》起居、然詠曰。眞※[斬/足]寢哉《マシマシイネツルカモト》。踐健《フミタケビシ》跡處今在2湯中石上1也。凡湯之貴奇不2神世時耳1、於2今世1染2※[病垂/尓]〔右△〕痾1(99)|萬〔左△〕《蒼》生爲2除病存身要藥1也。天皇|等〔右△〕於v湯幸行降坐五度也。以d大|帶《タラシ》日子天皇與2大后八坂入姫命1二躯《フタハシラ》u爲2一度1也。以d帶中《タラシナカツ》日子天皇與2大后|息長帶《オキナガタラシ》姫命1二躯u爲2一度1也。以2上宮《ウヘノミヤ》聖徳皇|△《子》1爲2一度1。及|侍《ミトモ》高麗惠|總〔左△〕《慈》僧・葛城臣等也。于《ソノ》時立2湯岡側(二)碑文1記云。
 法興六年十月|歳《ホシ》在2丙辰1我法王大王與2惠|※[公/心]〔左△〕《慈》法師及葛城臣1逍2遥夷與村1正觀2神井1歎2世〔左△〕《其》妙驗1。欲v敍v意聊作2碑文首1
 惟夫日月照2於上1而不v私。神井出2於下1無v不v給。萬|△《機》所以※[機を□で囲]妙應。百姓所以潜扇。若乃照給無2偏私1、何異d于壽國隨2革〔左△〕《華》臺1而開合u。沐2神井1而※[病垂/蓼の草冠なし]v※[病垂/尓]〔右△〕※[言+巨]|舛〔右△〕d于|落〔左△〕《浴》2花池1而化uv弱〔右△〕。窺2望山岳之※[山+嚴]|※[山+愕の旁]〔右△〕1、反冀2子平之能往1。椿樹相※[まだれ/陰]而穹窿、實|想〔右△〕2五百〔二字左△〕之張1v蓋。※[臨朝の二字を□で囲む]啼鳥|△v△《臨朝》而戯|吐下〔二字左△〕※[口+弄]、何曉2亂音之※[耳+舌]1v耳。丹花卷v葉|△《而》映照、玉菓彌v葩以垂v井〔左△〕。經2過其下1可2優遊1。豈悟2洪灌霄庭意1與。才拙、實慚2七歩1。後(100)|定〔左△〕《來》君子幸無2蚩咲1也、
△以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1。△以2後岡本天皇・近江大津宮御宇天皇・淨御原宮御宇天皇三躯1爲2一度1。此謂2幸行五度1也(○釋日本紀卷十四述義十、舒明天皇紀幸于伊豫温湯宮〔七字傍点〕之註所v引)
   又
伊|與〔右△〕國風土記云。湯郡、天皇|等〔右△〕於v湯幸行降坐五度也。以d大帶日子天皇與2大后八坂入姫命1二躯u爲2一度1也。以d帶中日子天皇與2大后息長|足〔右△〕姫命1二躯u爲2一度1也。以2上宮聖徳皇子1爲2一度1。及侍高麗惠|慈〔右△〕僧・葛城臣等也。立2湯岡側碑文1。其立2碑文1處謂2伊社邇波之岡1也。所v名2伊社邇波1由者當土諸人等其碑文欲v見而伊社那比來。因謂2伊社爾波1本也云々〔其立〜傍点〕。以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1。于時於2大殿戸1有3椹與2臣木1。於2其木1集3止鵤與2比米鳥1。天皇爲2此鳥1枝繋2穗(101)等1養賜也〔于時〜傍点〕。以2後岡本天皇・近江大津宮御宇天皇・淨御原宮御宇天皇三謳1爲2一度1。此謂2幸行五度1也(○萬葉集仙覺抄卷三、山部宿禰赤人至2伊豫温泉1作歌之註所v引)
 
 新考 釋紀仙覺抄共に原文を節略したりとおぼゆるにその節略したる處幸にも相異なれば二書を併せて原文に近きものを得つべし。即原文は
 于時立2湯岡側碑文1、記云。法興六年云々
 其立2碑文1處謂2伊社邇波之岡1也云々
 以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1。于時於2大殿戸1云々
とぞありけむ。即釋日本紀に引けるは以岡本天皇并皇后二躯爲一度とある前と後との文を略したるならむ○釋紀の流布本(舊國史大系本)には誤字多し。其原本なる前田家本(新訂増補國史大系本)と對照するにまづ染※[病垂/尓]痾また※[病垂+樛の旁]※[病垂/尓]の次を疹と誤れり。※[病垂/尓]は※[病垂/火]の俗字にて音チン、訓ヤマヒなり(萬葉集新考三三七〇頁參照)。※[珍の旁]を俗に尓とも書けば疹と誤れるなり。萬葉緯には※[病垂/尓]とあり。次に天皇等の等を脱せり。仙覺抄及萬葉緯には等字あり。(102)次に舛を升と誤れり。こは半井梧庵夙く心附けり。舛は音セン、タガフ・ソムクなど訓むべき字なり。次に化弱を化溺と誤れり。萬葉緯には弱とあり。次に※[山+愕の旁]を号傍に作り又想を相と誤れり。其外の異同は後に云ふべし。次に釋紀を仙覺抄に比較するに息長帶姫命の帶を仙覺抄に足とせり。もとのままにてあるべし。聖徳皇の下に仙覺抄に子字あり。之に從ふべし。惠總僧は仙覺抄に惠慈僧とあり。これも之に從ふべし。于時の二字仙覺抄に無きは落したるなり。ある方まされり○湯郡にて切るべし。湯郡は標目なるを抄出の際に大穴特命以下の本文とつづけて書きしなり。湯郡は即温泉郡なり。本來ユノ郡と云ひしかば、ただに湯郡と書きしに地名は二字に書くべく定められしかば字は温泉と書くこととなりしかど、なほ初は二字をユとよみしなり。和名抄郡名の訓註に温泉(湯)とあり。然るに後に字音に就きてウンゼンとよみ終にヲンセンと唱ふることとなりしなり(七二頁參照)。さて湯郡は明治二十九年以來の温泉郡の一部にて松山市・道後|湯《ユノ》町などを含める地域なり○大穴特命云々は本文の始にあらず。此前になほ文のありしを略したるにてそが爲に見悔耻の誤字を正すにも※[穴/君]まるるなり。考證に
 この見悔耻といふ事解り難し。思ふに云々
(103)と云へる、皆從はれず。見は忽の誤ならむ。此前に恐らくは大ナモチノ命と少ビコナノ命とが相爭ひて大ナモチが少ビコナを打殺しし事などぞありけむ
 ○大ナモチノ命をさるさがなき神と認むるはかしこき事と思ふ人もあるべけれど播磨風土記|神前《カムサキ》郡埴岡里の下に
  埴岡ト号《イ》フ所以ハ昔|大汝《オホナムチ》命、小比古尼《スクナヒコネ》命ト相爭ヒテ云ハク。埴ノ荷ヲ擔ヒテ遠ク行クト屎マラズシテ遠ク行クト此ニ事イヅレヲカ能ク爲ムト。大汝命曰ハク。我ハ屎マラズシテ行カムト欲スト。小比吉尼命曰ク。我ハ埴ノ荷ヲ持チテ行カムト欲スト。カク相爭ヒテ行キキ。數日ヲ經テ大汝命云ハク。我エ行カズト。即|坐《ヰ》テ屎マリキ。ソノ時小比古尼命咲ヒテ曰ク。然リ。苦シト。亦其埴ヲ此岡ニ擲チキ。故埴岡ト号フ云々
 と見えて古人は二神の一面を人間に近く思ひ做ししなり
○欲活はスクナビコナノ命ヲ蘇生セシメムト思ヒテとなり。古史傳に大穴持命と宿奈※[田+比]古那命と主格を顛倒したる説ありき。煩しければ探し出でず。大分《オホキダノ》速見湯は大分國ナル速見ノ湯にて今の別府温泉なり。此温泉の事くはしく豐後風土記新考にいひ置けり。下樋は地下道なり。所謂暗渠なり○浴漬を流布本に涜浴とし萬葉緯に漬浴とせり。宜し(104)く浴漬とすべし。次に云ふ如くスクナビコナノ命ヲアムシヒタスと云ふべくヒタシアムスとは云はれざればなり。さて自下樋持度來|以〔右△〕宿奈※[田+比]古奈命|而〔右△〕浴漬者とあるを訓みかねて考證に
 この以また而よみ難けれどスクナビコナノ命ニアムセシカバ云々など訓てあるべし
といへり。而字はもと持度來の下に在りしを轉瀉の際に書落し後にそを補ふとて誤りて浴漬の上に入れしのみ。以はヲに充てたるなり。さればスクナビコナノ命ヲアムシ(又はユアムシ)ヒタシシカバと訓むべし。ヲはヒタスにかかれるなり。アムシと照應せるにあらず。アムスは俗語のアビセルなり。萬葉集卷十六に
 さしなべに湯わかせ子どもいちひ津の檜橋よりこむ狐《キツ》に安牟佐武
とあれば古は四段にはたらきしなり。考證の如くアムセとよむは後世風なり○※[斬/足]は暫の通用なり。有活は二字を聯ねてヨミガヘリテと訓むべし。されば※[斬/足]間以下九字はシマシガホドニヨミガヘリテオキヰ・サテナガメテイハクとよむべし。考證にイキテハタラキキ又はイキタチマシテとよめるはいとわろし。ナガムはゆるやかに言ふなり。眞※[斬/足]寢(105)哉はマシマシイネツルカモトと訓むべし。眞は添辭なり。少ビコナノ命は己が假死せし事を悟らでただ睡眠せし如く思ひしなり○踐健跡處は考證の如くフミタケビシアトドコロと訓むべし。フミタケブは力を入れて地を蹈むなり。今シコヲフムといふが如し。フミタケビシ跡處今湯ノウチノ石ノ上ニ在リといへるを見れば天然の湯壺に直に浸りしなり。後世に至りてこそ湯桁を架し又は湯槽《ユブネ》を設けたれ。當初は何の設備もなかりしこと勿論なり。因に云はむ。辭書などに往々湯ゲタをやがて湯ブネの事としたれど石にて甃めるにもあれ木にて固めるにもあれフネをいかでかケタと云はむ。湯桁とは湯壺と湯槽との中間にて湯壺に縱にいくつも木を渡して其上にゐて浴すべく設けたるならむ。さればこそ伊豫ノ湯ノ湯桁ノ數などいひ習へるなれ。
 ○豐原統秋の體源鈔卷十末なる風俗歌の伊豫湯(日本古典全集本一二四五頁)にイヨノユノ、ユゲタハイクツ、イザシラズヤ、カズヘズヨマズ、ヤレソヨヤナヨヤ、君ゾシルラウヤとあり。源氏物語空蝉の卷なる「伊豫の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ」はこれより出でたるならむといふ
揚中は湯ノウチとよむべし。湯ノナカとよめるはわろし。中字をナカともウチとも訓め(106)どナカとウチとは義相同じからず。ウチの對は外、ナカは中央にて其對は邊なればなり
 ○別にアヒダの意のナカあり。そは別なり
○於今世以下八字は今ノ世ニテモ※[病垂/尓]痾ニ染メル萬生ニハとよむべし。※[病垂/尓]痾ニ染メルは病ニ罹レルなり。さて萬生は恐らくは蒼生の誤なるべし。神代紀に
 夫大己貴命與2少彦名命1戮v力一v心經2營天下1復爲2顯見《ウツシキ》蒼生〔二字傍点〕及畜《キク》産1則定2其療病之方1
とあるを思ふべし。存身は身ヲナガラフルなり。要藥は若訓讀せむとならばただクスリと訓むべし○神名帳に見えたる湯神社はやがて此湯を開きし二神を祭れるにて今は縣社に列れり。愛媛乃面影に
 此社もとは温泉の東二町ばかり山際に立たししを何の世にか出雲岡神のたたせる冠《カムリ》山に遷奉れり。舊地には小祠ありて土人二神といふ。二神とは二柱の神を祭ればなり
と云へり○於湯幸行降坐は湯ニイデマスト降リマシシコトと訓むべし○大帶日子天皇(景行)帶中日子天皇(仲哀)上宮聖徳皇子の行幸行啓は史に見えず。景行天皇は筑紫に行幸し給ひし御往路又は御歸路に立寄りもぞし給ひけむ。疑はしきは仲哀天皇の行幸な(107)り。天皇も筑紫に降り給ひしかど史に據れば皇后を伴なひ給ひてにあらざればなり。岡本天皇(舒明)の御事は日本紀に
 十一年十二月己巳朔壬午(〇十四日)幸2于伊豫温湯宮1
 十二年夏四月丁卯朔壬午(〇十六日)天皇至v自2伊豫1
と見えたり。後岡本天皇(齊明)の御事は美枳多頭の節に引ける如く筑紫に行幸し給ひし便《ツイデ》なるが此時天智天皇の扈從し給ひしは史に見えたれど天武天皇が供奉したまひし事は此逸文によりて始めて明に知らるるなり(妃大田皇女の御名は供奉中に見えたり)。大后はオホギサキの直譯にて即皇后なり。上古は妃・夫人をもキサキと云ひしかば皇后をば特に大ギサキと申し奉りしなり○侍は陪從なり。ミトモとよむべし。惠總(又惠※[公/心])と惠慈とは當時惠總(或作惠聰)といふ僧もありしかど(崇唆天皇紀元年及推古天皇紀三年)そは百済の人なれば惠慈とあるを正しとすべし。推古天皇紀元年に聖徳太子の御事を云ひて
 且習2内教於高麗僧惠慈〔五字傍点〕1學2外典於博士覺※[加/可]1兼悉達矣
とあり、同三年五月に高麗僧惠慈歸化則皇太子師v之と見え法王帝説にも上宮王師(ハ)高麗(108)慧慈法師といへり。
 ○因に云はむ。惠と慧とは屡(特に僧の名には)通用したれど本來同字ならざる事勿論なり。そは沈約宋書卷八十七蕭惠開の傳に初名慧開、後改v慧爲v惠とあるにても知るべし
葛城臣は法王帝説に
 太子起2七寺1……葛木寺(賜2葛木臣1)
とあり。即崇唆天皇前紀に見えて蘇我馬子が物部守屋を滅すに與りし葛城臣|烏那羅《ヲナラ》ならむ。烏那羅は太子傳に小楢と書けり○湯岡は即イザニハノ岡なり。次節に云はむ○法興は國史に見えざる私年號か。法隆寺釋迦像光背銘文に法興元(ノ)卅一年歳次辛巳とあれば丙辰は即聖徳太子が伊豫湯に遊びたまひしは推古天皇の四年にて此年號は崇唆天皇四年を元年とせるなり。考證に史には見えねど此年に本元興寺一名法興寺の造營成りしが故に此年を法興元年と稱せしならむと云ひ又
 法興元世一年とあるは(○銘文の原刻に卅の下に横線ありて世字の俗體の如く見ゆ)元世とよみつづくにはあらずして法興元と云る崇唆天皇の四年辛亥より卅一年に(109)て推古天皇の廾九年辛巳に當れり
といへり。法興元の下は無論卅にて其下に横線あるは今廾を廾とも書くに齊しき衍畫なり。さて法興元卅一年は法興元ノ卅一年とノを添へて訓むべきにて上(九五頁)なる美枳多頭の註に引きたる類聚歌林の文に舒明天皇の九年を飛島岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉と云へると類例ならむ(同例とは云はず)。これも元年己丑ノ九年丁酉と訓むべし。又思ふに法興は私年號にあらで法興六年は法興リテノ六年と訓むべく法興元卅一年は法興リシ元《ハジメ》ヨリ卅一年と訓むべきか。されど然いひ習へば法興といふ語が崇唆天皇四年を指すこととなれば之を私年號と云はむも不可なきなり。但その法興といふ事は崇唆天皇四年にいひ始めけむやおぼつかなし。元年二年などは云はざりしに數年の後に至りて當年を回顧して始めて法興何年といひけむも知るべからず○夷與村の夷與は無論國名にも郡名にもあらず。此時いまだ國郡を立てられざればなり。但國造本紀に
 伊余國造 志賀高穴穗朝(○成務天皇)御世|印幡《イナバ》國造同祖敷桁彦命兒速後上命定2賜國造1(110)とあれば夷與村といへるは其伊余國(國造國)ならむ。村とあるに拘はるべからず。國の下を郡といひ郡の下を里といひ里の下を村といひしは後の事にて上古は一の處を心に任せて國とも村とも云ひしなり。本來國といふは地理上の名稱、村といふは人文上の名稱にて矛盾する所なければなり。ともかくも夷與村といへるを見れば當時温泉の附近には夙く部落の生じたりしなり。抑イヨの名義に就いては諸家の云へる所いと多くして然もいづれもげにとは思はれぬ事なるが試に一説を示さむにイヨのヨはユの轉(又はユはヨの轉)にてイはイガキ・イグシ・イグヒなどのイならむか。即イヨは齋湯にて國號郡號などのイヨは温泉より起りたるならむか。こは夙く云へる人もあるべし。ヨをユの轉としイを發語(添辭)とせる説は確にありしかど今得探し出でず○正觀神井の正はマサニともマサシクとも訓みて分明ニと心得べし。神井は靈泉なり。後漢張衝の温泉賦序に觀2温泉1浴2神井1とあり、魏曹植の述行賦に濯2余身於神井1とあり、北齊劉※[しんにょう+狄]の浴温湯詩に神井堪v消v※[病垂/萬]とあり。歎世妙驗の世は其などの誤か。原のままにては妥ならず○惟夫以下の本文もくはしく註せむと思へど誤脱も少からじと見ゆるに僅に釋日本紀に引けるのみにて對照すべき物は無きを、もし徹底せむとせば卻りて罪を世人に得べきが故に(111)唯聊撫摩の痕を留め置かむ○萬所以機妙應は栗田氏並に半井梧庵(愛媛乃面影の著者)のいへる如く萬磯所以妙應の誤なり。即機字は所以の上に在るべきなり。所以は栗田氏の如くコノユヱニと訓むべし。若乃は二字を聯ねてスナハチとよむべし。若にも乃の義あり。たとへば國語に必有v忍也|若《スナハチ》能有v済とあり。栗田氏が二字をシカノミナラズとよめるは非なり○革臺は二氏の説の如く華臺の誤とすべし。何異以下十一字は半井氏の如く何ゾ壽國ガ華臺ニ隨ヒテ開合スルニ異ナラムと訓むべし○半井氏の説の如く落を浴の誤とし、さて※[言+巨]舛以下は又其説に基づきてナニゾ花池ニ浴シテ弱キヲ化スルニ舛《タガ》ハムと訓むべし。但半井氏は前田家本を知らず又萬葉緯に化弱とあるに心附かずて流布本に從ひて化溺スルニ舛ハムと訓めり○※[山+嚴]は巖に同じ○實想以下は實ニ五百ノ蓋ヲ張レルカト想フと訓むべし。五百は誤字ならざるか○臨朝啼鳥は啼鳥臨朝の顛倒ならむ。吐下は栗田氏の説に※[口+峠の旁]を二字に誤れるにて※[口+峠の旁]は哢の俗字なりと云へり。こは一發見なり○栗田氏の本には丹花卷葉の下に而字あり。次句の以字に對したるなれば之に從ふべし○垂井の井は誤字か。彌葩といふ事妥ならねど半井氏の本に珍葩とせるは愈妥ならず○豈悟以下を半井氏は與を上に附けて豈洪灌※[雨/肖]庭ノ意ヲ悟ラムヤとよめ(112)り。これも亦一發見なり。與は疑辭に用ふる事あればヤに充つべし○後定は後來の誤ならむ。幸無蚩咲也の幸をサイハヒニとよまむは俗訓なり。ネガハクハとよむべし。日本靈異記の序に幸勿嗤焉とあるを訓註にヲカシクモとよめり。ヲカシクトモのトを落せるならむ。蚩と嗤とは同音にて義相近し
于時於大殿戸以下は
 ソノ時大殿戸ニ椹ト臣木トアリ。其木ニ鵤《イカルガ》ト比米鳥ト集《スダ》キ止《ヰ》キ。天皇此鳥ノ爲ニ枝ニ穗《イナボ》等ヲ繋《カ》ケテ養《カ》ヒタマヒキ
とよむべし。大殿戸は御殿の入口なり。萬葉集卷三見2三穗石室1作歌のイハヤ戸ニタテル松ノ樹、又卷五貧窮問答歌のネヤトマデキタチヨバヒヌのトに同じ。山上憶良の類聚歌林には宮前と書けり。椹は音シン、本來桑實なり。ここは何の木に充てたるにか。仙覺抄全集本に原文を引ける處(甲)にはトガと傍訓したれど同書卷一幸2讃岐國|安益《アヤ》郡1之時歌の左註の註(乙)には
 伊豫國風土記云。二木者一者|椋《ムク》ノ木、一者臣ノ木ト云ヘリ。臣木可v尋v之
と云へり。栗田氏も亦ムクノキとよめり。夙く新撰字鏡にも椹(牟久乃木)とあればしばら(113)く之に從ふべし。今此木をサワラに充つるは據あるにやおぼつかなし。
 ○地理志料安藝國|沙田《マスタ》郡椹梨郷の註に
  椹梨讀ミテ牟久奈之ト云フベシ。天神本紀ノ天椹野命ヲ國造本紀に天牟久怒命ト作《カ》ケリ。天武十年紀ノ次田倉人椹足ヲ本註ニ椹此云武矩トイヘリ
 といへり。今新村名を椹梨(クハナシ)といひ其大字ニ椋梨(ムクナシ)あり、其處を流るる川を椋梨川(ムクナシ川)といふ。もとは椹梨《ムクナシ》なりしをムクとは訓みがたきに由りて椋に改めたるなり。こはなほ可なり。新村名の椹梨《クハナシ》はあさまし(同書周防國大島郡屋代郷之註椋野古稱椹野莊〔七字傍点〕參照)
臣木は訓はオミノキとあるべけれど何の木にか知られず。仙覺は甲の末にも乙の終にも臣木可尋之と云へり。乙の處の頭書に私勘臣木者モミノ木也とあるは後人の加書なり。考證に臣木可尋之に私勘云々を書き續け、さて「臣木は抄にあるが如くモミノ木にて云々」と云へるは疎漏なり。同抄の甲の處に臣木にモミノキと傍訓したるは(椹にトガと傍訓したると共に)乙の處に云へると一致せず。思ふに本書の傍訓は(少くとも其一部は〉仙覺の舊にあらで後人の添加ならむ○萬葉集卷一なる彼軍王見v山作歌の左註に
(114) 右※[手偏+僉]2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰。紀曰。天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸2于伊豫温湯宮1云々。一書云。是時宮前|在〔左△〕2二樹木1。此之二樹斑鳩|此〔右△〕米二鳥大集。時勅多掛2稻穗1而養v之、乃作歌云々。若疑從2此便1幸之歟
とあり。一書云と云へるは即伊豫國風土記にやとも思へど其文、逸文と相同じからず。又これには乃作歌とあれど逸文には歌を作りし事見えざればなほ風土記にはあらじ。鵤も斑鳩も共にイカルガに充てたれど狩谷望之の説に斑鳩はイカルガに當らずと云へり。即箋注和名抄卷七なる班鳩の考證に
 今俗ニ數珠掛鳩・八幡鳩ト呼ブ者是ナリ。以加流賀ト訓ズルハ是ニ非ズ
と云へり。イカルガは今マメマハシといふ鳥なり。比米は右の左註に此米とあり、萬葉集卷十三の歌にもイカルガト此米トとあれば此米の誤かと思ふに右の二例共に流布本にこそ此米とあれ異本には比米とあり、又和名抄にイカルガの次に※[今+鳥]漢語抄云比米、白喙鳥也。※[旨+鳥]漢語抄云之米、小青雀也と擧げたれば妄に比米を誤とは斷ずべからず。思ふにイカルガに似たる鳥にヒメとシメと二種ありて、そが名もそれに充つる文字も(比米と此米と)共に相似たれば夙くより一を他に誤てるならむ。更に思ふにヒメとシメとは原(115)は一なるを其小異に就いてヒメとシメとに分ちしならむ。ともかくも仙覺抄所引逸文に比米とあるを濫に改むべからず。さて比米又は此米と書きたるは其漢名不詳なりし故なり。否當時のみならず今も其漢名はよく分らざるなり。抑鳥は往々近屬共遊するものなるがイカルガと比米(又は此米)と共遊せし事は此處の外に萬葉集卷十三アフミノ海泊八十アリといふ長歌の末にアソバヒヲルヨ、イカルガト此米トとあり○萬葉集卷三なる山部宿禰赤人至2伊豫温泉1作歌に
 すめろぎの、神のみことの、しきます、國のことごと、湯はしも、さはにあれども、鳥山の、よろしき國と、こごしかも、伊豫のたかねの、いさにはの、崗にたたして、歌おもひ、辭《コト》おもはしし、みゆの上の、こむらをみれば、臣木も、おひつがひけり、なく鳥の、こゑもかはらず、とほき代に、かむさびゆかむ、いでましどころ
とあるは聖徳太子行啓の事と舒明天皇行幸の事とを織交へて文を成せるなり
 
(116)   伊社邇波之岡
 
伊與國風土記云。以2上宮聖徳皇子1爲2一度1。及|侍《ミトモ》高麗惠慈僧・葛城臣等也。立2湯岡側(ニ)碑文1……其立2碑文1處謂2伊社邇波之岡1也。所v名《ナヅケタル》3伊社邇波1由者當土諸人等其碑文(ヲ)欲v見而伊社那比|來《キキ》。因謂2伊社爾波1本也云々(〇萬葉集仙覺抄卷三山部宿禰赤人至2伊豫温泉1作歌之註所v引)
 
 新考 前節の一部なれど讀者の悩まむを慮りて別節としたるなり。……の處に釋日本紀より記云の二字と前節に一字下げて擧げたる文とを補ふべき事前節に云へる如し。釋日本紀に伊|豫〔右△〕國風土記とあり本書には伊|與〔右△〕國風土記とあれど別書にあらざる事勿論なり○伊社邇波はイザニハとサを濁りて唱ふべし。社といふ濁音の假字を用ひ(社は呉音ジヤなるを直音としてザに假りたるなり)又諸人がいざなひ來しかば然名づけきと云へればなり。
(117) ○社は萬葉集に阿麻社迦留、日本紀に伊社邇波(率川)久斯社志(捜籤)など濁音につかへり
但赤人の長歌に射狹庭と書き延喜式神名帳に伊|佐〔右△〕爾波神社と書きたればイサニハと清みても唱へしか。丹後國の余社郡も與謝とも書きたれば(謝も呉音ジヤにて濁音の假字なり)ヨザと濁るべきなれど清みても唱へしかと思はるる事あり。又いにしへ同一語を清濁二樣に唱へしかと思はるる事あり。オホホシ・ヒツ(沾)など其例なり○イザニハノ岡は湯岡の一名なり。但今イザニハノ岡といふ處なきは勿論、湯岡といふ處も無し。されど彼伊佐爾波神社はイザニハノ岡にありし故に然いふなるべければ其神社の地よりイザニハノ岡の地は推知らるべきなり。今縣社伊佐爾波神社あり。近古は湯月八幡宮と稱せられき。是式の伊佐爾波神社なりといふ。此神社今道後山の東南端にあれど始より此處に在りしにあらで河野通盛が
 ○河野九郎左衛門通治、後對馬守通盛といひ鎌倉にて剃髪して善惠といふ。通有の嗣子にて後醍醐天皇の御世の人なり
湯月城一名道後城を築きし時其繩張の内に在りしを此處に移ししにて其舊址に祠を(118)建てて城の鎭守とせしが岩崎權現なりといふ。即豫陽郡郷俚諺集(豫陽叢書第一集所收)に
 或人の曰。人語て云。石手寺(〇本郡道後村大字石手にある一大寺)の住僧實秀法印と云る人あり。其弟子辨海と云僧後には參州に行しが父茂右衛門、東武往來の節彼僧の元へ尋ねしが八十餘の老僧也。咄の序に「道後伊佐庭の岡と云名所あり。知り給ふや」と問ふ。知らずと答ふ。「然らば此口決(○口傳の秘訣)を授くべし。社人等(○湯月八幡宮の社人)も知るべからず。便あらば云聞されよ。伊佐爾波の岡と云は今八幡宮の後柿の木谷の邊より古城の邊迄(○温泉の東方より南方にめぐりて)昔は山續也。是をすべて伊佐爾波の岡と云へり。河野殿、城(○湯月城)を築かるる時山を切開き堀をほりける故今別のやうに見ゆる也。其時までは八幡宮も彼山に有し也。築城の時今の鐘樓の邊へ遷座し奉り其跡へ小社を建て奉幣信仰なし給ふ。今古城竹林の中、南の山鼻にあり。俗に是を岩崎權現と云。實は誘庭《イザニハ》の出崎に在し故に庭崎と云べきを誤りて岩崎と云ならはせり。是は垂跡の所に其舊跡を存ずる迄に建たる也。本社は則湯月八幡宮にて伊佐爾波の神社也」……實秀法印は其比八幡宮の別當なりし故社傳委く覺へ〔左△〕辨海にも語り(119)傳へられたり
といへり。さればイザニハノ岡は今温泉の南方にある湯月城址、即今の道後公園なり○伊佐爾波神社の祭神は仲哀天皇・神功皇后・應神天皇の三柱なるが之に關して仲哀天皇が神功皇后を伴ひて行幸し給ひし時の行宮はイザニハノ岡に在りしにて伊佐爾波神社は其跡に建てしなりといふ説あれど(右の辨海僧の話中にも)これは輕々しく信ずべからず○彼碑文は幸に釋日本紀に引かれて殘りたれど其碑は今傳はらず。これに就いて諸書に云へる所を拾はばまづ橘春暉の北窓瑣談卷四に
 寛政甲寅(〇六年)の春伊豫國道後温泉の傍に畑ありて古昔より土民いひ傳へ不淨を忌む。もし此畑を穢すときは忽ち祟を得て寒熱を發す。今年松山の士某の考にて此土中に必聖徳太子の温泉の碑有べしとて人して掘しめしに果して大なる碑石を掘出せり。さればこそとていまだ全く出終らざる前より水にて洗ひなどして見たりしに聖徳太子其むかし温泉にめされし時の御文章にて其時に隨從の人の姓名を載たり。稀代の珍物なりとて悦び掘たりしに温泉のあたり近き土地を掘穿しゆゑに温泉の中に濁水出たりしかば所の人大に驚き「もし温泉に別條ある時は此里の人民數百人(120)※[食+幾]渇にもおよぶべし。此碑掘る事無用なり」とていましめ止めたりしかば餘義なくて又其ままに埋みたり。いと殘り多き事なりきと彼あたりの人の語りき
とあるは好事者の造説ならざるか。いといとうたがはし。次に國人宍戸大成の伊豫舊蹟考に(據愛媛乃面影)
 曾テ聞ク。郷民山間ノ莽茸ヲ披キ地ヲ鑿ツコト數尺ニシテ一古碑ヲ得。人ノ之ヲ怪異セムコトヲ憚リテ私ニ還《マタ》之ヲ填ムト云フ。此《コレ》温泉ノ近境ナレバ果シテ夫《カノ》古碑タルコト誣フベカラズ。痛ムベシ(○原漢文)
といへり。温泉の附近なればとて地に埋もれたる古碑は彼法興碑には限るべからず。同書に又一説を擧げて
 温泉之東南ニ古城址(○湯月城祉)アリ。其東北ノ岡ヲ通俗伊社爾波ト呼ブ。一院堂アリ。藥師ヲ安《オ》ケリ。寶龕直地ニ地ニ架シ龕扉開闔ニ便ナラズ。釘著シテ深ク秘シテ之ヲ鎭ス。口碑ニ之ヲ傳フラク。此像ハ毒石ナリ。地ヨリ涌出シ確乎トシテ拔ケズ。若直ニ之ヲ視バ毒氣眼ヲ射テ乍《タチマチ》瞽セムト云フ。所以《ユヱ》ニ幾百年歴住ノ僧侶モ瞻禮ヲ容サザルナリ。議者云ハク。是必|夫《カノ》古碑ナラム。或ハ碑上ニ藥師ノ像ヲ※[金+雋]リテ碑ト稱セズシテ像ヲ(121)以テ稱スルカ。若果シテ然ラバ只|恁麼地《カクノゴトク》蘊覆シ去ルコト太惜ムベシ
と云へり。著者大成はいつの頃の人か知らねどイザニハといふ地名其世にはなほ殘りたりしにや。その藥師堂は築城以前より有りしものにやおぼつかなし。面影の著者は之を義安寺の藥師〔六字傍点〕と稱したれど舊蹟考に云へる一院堂は郎義安寺なりや、これもおぼつかなし。考證に引ける矢野玄道の説には
 道後の湯の東北(○面影には東南とあり)湯の元といふ所に義安寺といふ小寺あり。其寺に湯の藥師の小堂あり。堂中に平らなる石凡高さ五尺ばかり幅三尺ばかりなるを建たり。いつの頃より歟其石の平面を壁の如く土にて塗おけり。此土剥落れば災ありと云傳て剥れば即ちに塗る例なるが故に石面見る事あたはず。或説に文字ありといへど慥ならず。さて建石の前に尋常の藥師佛の像を安置せるがあり
とありて舊蹟考に云へると一致せざるにあらずや。又考證に引ける松山村井知衡記温泉古碑事文に
 先年我友大高坂四郎兵衛が雜話しけるは遺後南町に居住せる大工あり。此もの先年義安寺本尊の御堂朽損したる處ありて修補しける時御堂の後板等を取除け内を見(122)るに石を建て文字を彫たり。其文字を悉く泥を以て塗り隱しありけると語りぬ
とあり。諸人の眼、義安寺の藥師堂に鍾れる如くなれどなほいかがあらむ○かく記しての後に景浦直孝氏の伊豫史精義(大正十三年發行)を見しにその一〇三頁に
 右の義安寺の藥師堂は明治四年神佛引分の際實驗せしに丈五寸許の小石像にして其臺は巨大なる石なれども碑石にはあらざりしかば更に臺石をとり除けて其下なる地を一丈餘り掘り見たるも寛永錢四五十文を掘り出したるのみ。碑石に似たる石もなかりきと云ふ
とあり。河野氏築城の時まで此碑もし殘りたらば恐らくは彼大和國益田池の碑・筑後國上妻郡の石人などの如く取りて石垣などにぞ使はれむ。又もし心ありて他處に移して保存せばたとひ書に書殘さずとも口碑にだに其由は傳はりたらむかし○更に思ふに右の碑文に疑はしき事若干あり。試にその主なるものを云はば、まづ太子の伊豫行啓の事の日本紀に見えざる事前(一〇六頁)に云へる如くなるが、傳説に過ぎざらばこそあらめ、かかる碑文世に殘り特に降坐の年月さへ明白なる上は當然推古天皇四年の下に記さるべきなり。或は日本紀編纂の時には伊豫風土記はいまだ撰進せられずして碑文の(123)世に殘れる事だに朝廷には知られざりしならむといふ辯護説も出づべけれど、さりとも此事は太子の諸傳のいづれにか見えざるべからず。然るに聖徳太子傳暦の如き編年體の太子傳即太子の事蹟並に太子に關せる傳説を悉く暦年に繋けたるものにさへ此事の見えざるを思へば法興六年即推古天皇の四年に太子が伊豫に行啓して湯岡の側に碑を建てたまひきといふ事は所謂平氏傳(藤原兼輔の著とも平兼昌の撰ともいふ)の成りし時にもなほ中央には知られざりしなり。是不審の第一なり。次に風土記撰進の時に其碑はなほ殘りて同書の撰者は彼碑文を直に碑より寫取りしか、又は碑はもはや存ぜざりしが碑文のみ紙に寫されて殘りたりしにや。もし甲の如くならば風土記に其碑見ニ存ズなどあるべく又もし乙の如くならば其碑今存ゼズなどあるべく、かく貴重なる物の存否を註せざることあるべからず。然もそのいづれの記載も無き是不審の第二なり。次に碑文は其末に才實慙七歩、後來君子幸無蚩咲也といへるを見れば太子の御撰と見え其序に我法王大王といへるを見れば陪從者の筆と思はる。或は本文が太子の御撰にて序は陪從者の筆にや。是不審の第三なり。次に法王といふ稱は俗界の天皇に對し奉りて靈界の王者といふ事と思はる。更に大王と重ねたるを思へば佛法を奉ズル皇子(124)などいふ意にはあるべからず。太子の生前に然僭稱し奉り又太子が安んじてさる僭稱を受けたまひきや頗疑はし。法王とは太子の薨後年を經て其崇敬者が稱し始めしにあらざるか。その確なる初見は上宮聖徳法王帝説といふ書名ならむ。
 ○太子傳暦推古天皇三年の下に
  大臣率2群臣已下1敢獻2御名1稱2厩戸豐聰八耳皇子1又稱2大法王皇太子1。太子辭讓
 とあり。又因に云はむ。法王帝説の帝説は諦説の義か。法王帝とつづけるにはあらじ
右不審の第四なり。次に碑を作る事はともあれ、堅石に小字を刻むことは專業の者ならずば得せぬ事ならむ。當時歸化韓人中に偶然にさる技を善くするものありて(さる需要の無かりし時代なれば特にさる技を挿みて歸化せしものはあるべからず)又偶然に伊豫の如き邊境に在りしにや。是不審の第五なり。よりて思ふに伊豫國に夙く太子の行啓また建碑の傳説ありて風土記の原文は
 于時建2湯岡側(ニ)碑文1×:其立2碑文1處曰2伊社邇波之岡1也云々
とありしを中古文才ある姦人が碑文を僞作して記云の二字と碑文とを×の處に挿入せしならむ。而して碑文中の法王と法興六年と壽國(天壽國の略とせば)とは法王帝説よ(125)り取來りしならむ。顧みるに仙覺抄に引ける逸文は適に右の推定原文の如くにて記云の二字と碑文と無く、建湯岡側碑文より直に其立碑文處に續けり。初には中略したるならむと思ひしかど今にして思へば仙覺は姦人の嵌入なき眞本に據りしならむ。以上は前人の未言はざりし所なるべし。後人なほよく考へよ
 ○天壽國といふ語は法王帝説の外三井家所藏隋開皇三年所寫華嚴經第四十六の跋に見えたりといふ
 
   天山
 
伊豫國風土記曰。伊與郡、自2郡家1以東北|在〔左△〕2天山1。所v名《ナヅケタル》2天山《アマヤマ》1由者倭(ニ)在〔左△〕2天加具
山1。自v天|天降《アマクダシシ》時|二分而《フタツニワケテ》以《ヲ》2片端1者天2降於倭國1以2片端2者天2降於此土1。因謂2天山1本也其御影敬禮奉久米等〔九字□で囲む〕(○釋日本紀卷七述義三、神代紀上方香山〔三字傍点〕之註所v引)
 
(126) 新考 此節は上(六四頁)なる阿波國あまのもと山〔六字傍点〕の節と參照すべし○伊與郡はもと標目なりしを抄出の際に本文に續けて書けるなり。されば伊與郡の下にて切りて讀むべきこと乎知郡御島・野間郡熊野岑・湯郡の例の如し○在天山・在天加具山の在は正しくはあらねど有の通用なり。古典に例多し。天降はアマクダスと訓むべし。天より地に降すなり。二分も二ツニ分レテにあらずて二ツニ分ケテなり。以はヲに充てたり。湯郡の節にも以《ヲ》2宿奈※[田+比]古那命1浴漬者とあり。されば以片端者はカタハシヲバと訓むべし。カタハシはたとへば宇都保物語祭の使にカタハシハ水ニノゾキカタハシハ島ニカケテイカメシキ釣殿造ラレテとあり○倭國は畿内の大和國にて此土は伊豫國なり。天上の天香山は日本紀寶鏡開始章に掘2天香山之|五百箇《イホツ》眞坂樹1と見え又同章第一一書に採2天香山之金1と見えたり○和名抄郷名に久米郡に天山ありて伊豫郡には無し。久米郡は今温泉郡の内となれるがその石井村の大字に天山《アマヤマ》あり。是郷名を傳へたるなり。但舊村名は尼山と書きき。舊久米郡の西北端は伊豫郡の東北部と相觸れたり。愛媛乃面影久米郡の部に
 天山 天山郷に特立してよの山と同じからず。低き山なれども畝尾長く引て大かたの形容大和國天香具山に似たり。此山あるによりて郷名におひたるなるべし。……(127)按天山今久米郡に在り。さるを風土記に伊豫郡といへるは昔は此邊まで伊豫郡なる事しるし
といひて其圖を出せり。日本地理志料に半井梧庵曰とて面影の著者の説を擧げたるには
 天山ハ久米郡ニ在リ。天山郷ニ屬セリ。平田中ニ孤立シ高サ七丈周十三町、形大和ノ香山ニ似タリ。山上ニ天山神社アリ。郷名ハ此二取レルナリ
と云へり。又地名辭書久米郡天山郷の下に
 國郡制置の初に久味國を伊余國に合同して(○國造本紀に伊余國造久味國造と並び出でたり)伊豫郡と稱せられしにやあらん。續紀天平神護二年久米郡の名見ゆれば(○本國風土記は此年以前の編纂にて)古風土記編集の後に分郡せられし歟
といひ伊豫郡の下にも
 風土記逸文に伊豫郡郡家東北天山云々とありて久米郡浮穴郡等も一時本郡の屬地なりしやの疑あり
と云へり。此逸文はもと久米都の一節なりしを抄出の際に誤りて伊豫郡とせしにやと(128)も思へど天山は久米郡の西北端に近き處に在れば其郡家いづくにありとも(郡家址は今の久米村か)自郡家以東北とあるに叶はざらむ。さればなほ面影の説の如く少くとも此地は風土記編纂の時には伊豫郡に屬したりしものと認むべし○因謂天山本也の次に前田家藏正安年間古寫本(即國史大系新訂本の據れる本)に其御影敬禮奉久米等の九字あれど(等は無論寺の誤)よく思へば疑はしき一句なり。まづ某と云へるは何を指せるにか。若天山を指せりとせば其御影は天山の姿を繪に寫したるものとせざるべからざれど眼前に眞山の見ゆるをそを繪にうつして敬禮せむこと如何。流布本にも萬葉緯にも此句は無し。恐らくは此句は後人の添加ならむ。さてこそ木に竹を接げる如くなれるならめ。伊豫の久米寺は物に見えず○更に思ふに其御影敬禮奉久米寺といへる久米寺は大和國高市郡なる久米寺なり(夙く地名辭書の大和國久米寺の下に「此古語に云ふ久米寺は本寺にや」といへり)。伊豫國風土記の逸文の中に大和國のといはでただ久米寺といへるによりて伊豫にも久米寺といふがある如く聞ゆるなり。かかれば此一句は本來本文の中にはあらで後人が稱日本紀所引逸文の傍に註したるが本文中に混入せしなり。さてこそ此句の有る本と無き本とあるなれ。然らば何の故に大和の久米寺に伊豫の(129)天山の影をいつきたりしぞと云ふに其故は詳には知られねど元來久米寺のある大和の來目郷と伊豫の久米郡(天山は久米伊豫二郡の界に近くて風土記編纂の時には伊豫郡に屬したりしかど.今は久米郡の内なる事上に云へる如し)とは無縁故にあらず。即大和の來目は神武天皇の御世に日向より御ともせし大來目を居らしめ給ひしより來目(久米)といふ名起りしにて、伊豫の久米郡は應神天皇の御世に其大來目の子孫なるべき伊與主命を國造に定め給ひしより久味(久米)といふ名は起りしならむ。此外にも大和の久米と伊豫の久米とには深き關係ありと見ゆる事あり。たとへば伊豫國久米郡石井村大字南土居(元弘延元の忠臣土居通増の本領)なる萬福寺は近古の開基ながら大和國久米寺の末寺なりといふ(土居得能勤王史一八頁參照)
     ――――――――――――――――――――――――
萬葉集仙覺抄卷五なる橘之島爾之居者河遠不曝縫之吾下衣といふ歌の註に
 此歌如2伊豫國風土記1者息長足日女命御歌也。……橘島者伊豫國宇摩郡ニアリ
と云へり。纂訂逸文には之を一節として採りたれど考證には省きたり。逸文と稱すべからざるに心附きし故ならむ。さて宇摩郡に橘島といふ處あるを聞かず。和名抄の郷名を(130)※[手偏+僉]するに新居郡又越智郡又温泉郡に立花郷あり。就中新居郡の立花は和名抄流布本にはただ花とあれど地名は二字なるを要する上に同書高山寺本には正しく立花とあれば立字を脱したるなる事明けし。文徳天皇實録嘉祥三年五月壬午の下に伊豫國神野郡云々郡下橘里〔二字傍点〕とあるは即此立花郷なり。神野郡は新居郡の前稱なり。はやく大同四年九月に改稱せられしなれど
 ○類聚國史卷廾八天皇避諱の條に見えたり。續日本後紀の此處は缺けたり
今は舊事を云へるなれば舊稱に依れるなり。此新居郡は宇摩郡の西隣なれば風土記撰進當時には右の立花郷は宇摩郡の内なりしかと云ふに立花郷の名を傳へたる今の橘村は新居郡の西偏なれば、たとひ郡界古今同じからずとも宇摩郡に屬せし事あるべきに非ず。然らば當時宇摩新居の兩郡は一郡なりしかと云ふに神野郡の名は夙く天平十年に現れたれば(法隆寺縁起資財帳)當國風土記編纂の年は知られねど當時宇摩郡と一なりきとは思はれず。又伊豫二名集(豫陽叢書第一輯所收)宇摩郡の部に
 橘島 號瓢箪山。又上野(○今の關川村の大字)之内橘の島と云。是は橘の岡にして橘の島に非ず
(131)と云へれど其瓢箪山はいづくにあるにか。之を橘島に擬せる理由は如何。ともかくも問題とすべきにあらず。されば仙覺が橘島者伊豫國宇摩郡ニアリと云へるは恐らくは誤ならむ。しばらく仙覺抄に云へる橘島を新居郡立花郷の内とせむに神功皇后が此處にいでましてかの橘之島爾之居者といふ歌をよみたまひしかと云ふにこは頗うたがはし。抑右の歌は萬葉集卷七に見えたる寄衣譬喩歌の一にて作者不知のものなるが無論神功皇后時代の古調にはあらで明白に奈良朝時代の調なり。又夙く契沖の云へる如くこの橘之島は大和國|高市《タケチ》郡の地名なり。くはしく云はば橘は大名、島は小名にて橘は飛鳥川に跨り島は飛鳥川の右岸にて飛鳥岡の南に在りしなり。島の名の起は蘇我馬子が此地に宅を營みし時飛鳥岡の谿流を引きて庭中に池を作り其池中に島を作りしに時人めづらしみて馬子を島大臣《シマノオホオミ》と稱せしが其島轉じて地名となりしなり。
 ○蘇我氏亡びし後年を經て此宅天武天皇の離宮となり終に皇太子草壁皇子の御ましとなりき。こは事の因に云ふのみ
此歌の島は地名なるが其地は飛鳥川の右岸に在れば川トホミとは云ふべからず。されば島爾之居者は不居者の不を落したるにて島ニシヰネバと訓むべく一首の意は
(132) 媒ヲ得ル便ナケレバ不本意ナガラ媒ヲ立テズシテ今ノ女ニハ逢ヒソメシナリ
といふ事を衣に喩へて云へるなりと解すべし(萬葉集新考一三九三頁及一三四九頁參照)。歌意かくの如くなれば此歌は斷じて神功皇后の御歌にあらず。抑由阿の詞林采葉抄こそあれ、仙覺の萬葉抄に風土記を引用せるはいづれも信頼すべきに此歌如伊豫國風土記者息長足日女命御歌也の一句に至りては不審少からず。或人の彼歌をよみしと當國の風土記の編纂とは多く年を隔つまじきに其歌はやく當國に傳はりて古歌と誤られて人口に膾炙せしにや。返すがへすも不審なり。もし五百何十年前の仙覺にあらざる現代人が或處に傳はれる伊豫國風土記を見しに萬葉集卷七に見えたるかの橘之島爾居者といふ歌を神功皇后の御歌として載せたりと云はば聞く人は皆之を一笑に附せむ。臆を以ていはば當國風土記に彼歌と聊相似たるがありしを仙覺が誤りて同一歌とせしにはあらざるか
 
(133)  土左國 四節
 
   土左高賀茂大社
 
土左國風土記曰。土左郡、郡家西去四里有2土左高賀茂大社1。其神名爲2一言主尊1。其祖未v詳。一説曰。大穴六道《オホナムチ》尊子|味※[金+且]《アヂスキ》高彦根尊(○釋日本紀卷十二述義八、雄略天皇紀一事主神〔四字傍点〕之註、並同書卷十五述義十一、天武天皇紀土左大神以神刀一口進于天皇〔土左〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 釋紀卷十二に右の文を引けるに次ぎて暦録曰云々の文あり。斷じて風土記の内にあらず。土佐國式社考|都佐坐《トサニマス》神社の下に
 重遠謂。風土記録2當社本縁1極詳。且發2明道要1尤爲2警切1。本國當時有v人可v知矣。以2文多1不v能2具載1
(134)と云へるは暦録曰云々の文を指せるなり。又古事記傳卷四十二(二四一〇頁)に
 土左國風土記に有土左高賀茂大社其神名爲一言主尊云々、暦録曰云々、國記曰云々、多氏古事記曰云々、論者曰云々
と書續け、さて「これまで皆彼風土記の文なり」と云ひ日本書紀通釋にも「論者曰云々以上風土記なり」と云へり。
 ○宣長が神名の言離を土左國風土記に言放と書けりと云へるも(二四〇五頁)彼附加文中の多氏古事記なり
されば谷重遠も宣長等も右の附加文を誤りて風土記の文の内と思へるなり。さて右の附加文は釋紀の著者卜部兼方が引來れるにやと云ふに亦然らず。恐らくは兼方が見し土左國風土記にかく書續けたりしにて、もと裏書なりしが本文に混入したるならむ。仙覺が見し本書も兼方が見し本書も共に竄入ありし本と思はる。此事はなほ後に云ふべし。然も二人の見しは同本にはあらざりけむ。
 ○伊豫風土記にも竄入あること伊射邇波之岡及天山の下に云へる如し
又右の附加文の中に國記曰とあるは或は一種の風土記か。栗田氏の古風土記逸文にも(135)擧げ漏したれば茲に擧げおかむに其文は
 雄略天皇即位二年戊戌奉v移v郷
と云へり。其下に者の字あれどこは誤也の二字と共に附加したる人の語ならむ。栗田氏の古風土記逸文に多くは土佐と書きたれど原本には(釋紀にも仙覺抄にも)皆土左と書けり○國名は古事記・日本紀には土左と書き後のものには左とも佐とも書けり。國は其形弦月の如く(夙く地誌提要に東西兩岬南海ニ斗出シテ彎月状ヲナスといへり)其彎面は東南、太洋に向へり。其東北は阿波國に接し北より西に亙りては伊豫國に接したり。讃岐國とは相觸れず○今七郡に分れたり。即東より數へて安藝・香美《カガミ》・長岡・土佐・吾川《アガハ》高岡・幡多《ハタ》なり。延喜式・和名抄以來然り。ただ式に幡多を播多と書き高岡を高崗と書けるのみ。香美はカガミ、吾川はアガハ、幡多はハタと訓むべし。延喜以前は如何といふに仁明天皇承和八年紀(續後紀卷十)に
 八月庚申土佐國吾川郡八郷各分2四郷1建2二郡1新郡號2高岡1
とあれば此時までは六郡なりしなり。然るに又光仁天皇寶龜九年紀(續紀)に
 三月己酉土左國言。去年七月風雨大切、四郡〔二字傍点〕百姓産業損傷。加以《シカノミナラズ》人|畜《キク・キウ》流亡廬舍破壞
(136)とあり。されば寶龜九年(一四三八年)より承和八年(一五〇一年)までの間に四郡を分ちて六郡とせられしなり。其四郡は前人の説に安藝・土左・吾川・播多にて土左を割きて長岡を置き更に長岡を割きて香美を置かれしなりと云へり。國造本紀に都佐《トサ》・波多《ハタ》の二國造を擧げたり。都佐は土左にて波多は播多なり。思ふに土左國は浦戸※[さんずい+彎]と宿毛《スクモ》※[さんずい+彎]とよりや開けそめけむ。されば上古には後の土佐郡以東を都佐國とし後の幡多郡以東を波多國とせしに大化の世に二國を合せて土左國とし更に之を四郡に、次に六郡に、終に七郡に分たれしなり○國府は長岡郡にありき。今の國府村(新名)大字比江は其址なり
 ○明治二十二年に國分・比江・左右《サウ》山の三村を合併し各村の首字を集めて國比左村と稱せしを後に國府村と改めしなり
○驛路には沿革あり。但夙く伊豫國の處(七五頁)に云ひたれば今は略敍に止めむに初は土左の國府に到るに伊豫を經、その西南部より土左の西南部に入りしに道遠く又險しければ養老二年に改めて阿波より直に土左に到ることとせられき。然るに其後八十年許を經て延暦十六年に又改めて阿波讃岐を經、伊豫の大岡驛より南下して土左に入る事とし、初には大岡驛と土左の國府との間に新に二驛を置かれ」が又後に大岡驛と國(137)界との間に山背驛を置き土左にても一驛を増されき。即延暦十六年紀に新置2土佐國吾椅|舟〔左△〕川二驛1とあるに延喜式には
 土佐國驛馬 頭驛・五椅・丹治川各五疋
とあり。日本後紀に舟川とあるは丹川の誤なり。元來丹治川と書くべきを地名は二字に書くべき定なれば治を除きてなほタヂカハと唱へしなり。又延喜式に丹治川とあるは取外して三字に書けるなり。今長岡郡大杉村の大字に立川|上名《カミミヤウ》・立川|下名《シモミヤウ》あり。伊豫國宇摩郡より笹が峯を越えて本郡に入りたる處にあり。又その立川はチを濁りてタヂカワと唱ふといふ。是丹川驛の址なり。
 ○タヂ川は元來此附近より發し南下して吉野川に注ぐ川の名なるが其名、地名となりしより地名と川名との混同を避けむ爲に川名を立川川といふこととなれり
頭驛は諸國の例を思ふに國府の附近にぞありけむ。頭の義はホトリにて本來府頭といふべきを然云ひてはまぎらはしければ府を省き驛を添へて二字とせしならむ。阿波國に郡頭驛あり(五〇頁參照)。こは板野郡家の附近にありしが故にかく名づけしにて此を以て彼を照すべし。夙く地名辭書に「頭驛は國府々頭の初驛の義なるべし」といへり(頭を(138)ホトリとせるにかハジメとせるにか少し曖昧なり)。さて題辞はトウヤクと訓むべきか。又其址は今の久禮田村大字|領石《リヤウセキ》の邊とすべきか。領石は地誌提要に見えたる伊豫川江路の一驛なり。領石より戸手野・川口・立川を經て伊豫馬立に到るにてその馬立は古の山背驛なり。立川が古の丹川なる事は上に云へる如し。今一の驛名は延暦十六年紀に吾椅、延喜式に五橋とあり。今之に擬すべき地名なく吾と五といづれ正しきか知るべからず。從ひてアハシとよむべきかイツハシと訓むべきか知るべからず。地理志料には
 吾椅ニ作レルハ恐ラクハ譌ナラム。土佐二驛考ニ云ヘラク。本山郷ハ即五椅驛ナリ。今長徳寺アリ。五橋山ト號セリ。其名安元二年ノ廳宣ニ見エタリ。地勢ヲ以テ之ヲ推スニ國府ヨリ穴内《アナナイ》・甫喜山・本山・川口ヲ經、立川・千本ヲ過ギテ伊豫ノ馬立ニ入ル是古道ナリ
といひ地名辭書には吾椅に從ひアガハシとよみ、さて
 即今の本山土居の地なり。南方、國見峠を越え穴内川の水源を渉り椎若峠を越え長岡(ノ)國府の頭驛に達せしなり。……五は吾の誤なり。長徳寺古文書建長元年守護所下知状に吾橋山長|得〔右△〕寺と録す
と云ひ土佐名勝志(一六六頁)にも寶治二年古文書に土佐國長岡郡廳北條吾橋長徳寺と(139)ありと云へり。寶治二は建長元の前年、安元二は寶治二より六十二年前なり。因に云はむ。延暦二十四年紀(日本後紀)に
 夏四月甲辰令d士左國帶2驛路1郡加c置傳馬五匹u。以2新開之路山谷峻深1也
とあり。新開之路といへるは同十六年に伊豫の大岡驛より岐れしめし驛路なるが、その經過せしは長岡一郡のみなるに長岡郡と云はで帶驛路郡と云ひてさも數郡あるが如く聞ゆるは不審なり。さて余は豐後風土記新考(三六頁)に「傳馬には驛傳郡傳の別ありて郡傳は馬を郡家に備へたるなり」と云へるが右の一節は余の説の一證に供すべし
土左高賀茂大社は延喜式神名帳に都佐坐《トサニマス》神社とあり。當國二十一社中唯一の大社なり。明治維新以前には一宮高賀茂大明神と稱せられ今國幣中社土佐神社と稱せらる。其所在は土佐郡|一宮《イツク》村大字一宮にて今一言主神を祭神と認めたり。土左高賀茂神社の土左は地名にて即和名抄の土佐郡土佐郷なり。郡家も此郷に在りしなるが本文に郡家西去四里有土左高賀茂大社とあり、四里は今の二十四町なれば郡家の在りしは一宮村の東南なる今の布師田《ヌノシダ》村なり。布志田村は本郡の東偏に在りて東、長岡郡に斗入せり〇一言主神は古事記雄略天皇の段に
(140) 又|一《アル》時天皇、葛城山ニ登リ幸《マ》シシ時百官人等悉ニ紅紐ヲ著ケタル青摺ノ衣ヲ給ハリテ服《キ》タリキ。彼《ソノ》時ニソノ所向《ムカヒ》ノ山ノ尾ヨリ山上ニ登ル人アリ。既《コトゴト》ク天皇ノ鹵簿ニ等シク亦其装束ノ状マタ人衆相似テ傾〔左△〕《ワカ》レズ。ココニ天皇|望《ミヤ》リテ問ハシメタマハク。茲《コノ》倭國ニ吾ヲ除《オ》キテ亦王ハ無キヲ今誰人ゾカクテ行クト。即答ヘマヲシシ状モ天皇ノ命ノ如クナリキ。ココニ天皇|大《イタ》ク忿リテ矢刺《ヤザシ》シタマヒ百官人等失刺セシカバ其人等モ矢刺シキ。故《カレ》天皇亦問ヒタマハク。然ラバ其名ヲ告《ノ》レ。各名ヲ告リテ矢ヲ彈《ハナ》タムト。ココニ答ヘマヲサク。吾先問ハレツレバ吾先|名告《ナノリ》セム。吾ハ雖惡事而《マガゴトモ》一言|雖善事而《ヨゴトモ》一言|言離《コトサカ》之神葛城之一言主之大神ト。天皇ココニ惶畏《カシコ》ミテ白シタマハク。恐《カシコ》シ我大神|宇都志意美《ウツシオミ》マサムトハ覺ラザリキ。ト白シテ大御|刀《タチ》マタ弓矢ヲ始メテ百官人等ノ服《キ》タル衣服ヲ脱ガシメテ拜ミテ獻リタマヒキ。爾《カレ》其一言主大神|手打《タウ》チテ其捧物ヲ受ケタマヒキ。故《カレ》天皇ノ還リ幸《マ》ス時其大神山末ヲ滿〔左△〕《クダ》リテ長谷《ハツセ》ノ山口ニ送リ奉リタマヒキ。故|是《コノ》一言主之大神ハ彼《ソノ》時ニゾ顯レタマヒシ
とありて神名帳に大和國葛上郡|葛木坐《カヅラギニマス》一言主命神社とある即是なり。社の所在は今の南葛城郡|吐田郷《ハンダガウ》村大字森脇にて社格は縣社に過ぎず。次に日本紀雄略天皇紀に
(141) 四年春二月天皇葛城山ニ射獵シ忽長人ヲ見タマフ。面貌容儀、天皇ニ相似タリ。天皇是神ナリト知ロシメセドモ猶|故《コトサラ》ニ問ヒタマハク。何處ノ公《キミ》ゾト。長人對フラク。現人之神《アラヒトガミ》ゾ。先、王ノ諱ヲ稱《ノ》レ。然《サテ》後ニ道《イ》ハムト。天皇答ヘタマハク。朕《アレ》ハ是|幼武《ワカタケ》尊ナリト。長人次ニ稱《ナノ》リテ曰ク。僕《アレ》ハ是一事主神ナリト。遂ニ共ニ盤于遊田シ一鹿ヲ駈逐シテ箭ヲ發《ハナ》ツコトヲ相|辭《ユヅ》リ轡《タヅナ》ヲ並ベテ馳騁ス。言詞恭恪ニシテ逢〔左△〕仙ノ若シ。是ニ日晩レテ田《カリ》罷ム。神、天皇ヲ侍送シテ來目水《クメガハ》ニ至ル。是時百姓|咸《ミナ》有徳ノ天皇ト言ス
とあり。古事記と比ぶるに大同にして簡單なるが、ただ時を四年二月と定めたると彼には於長谷山口送奉とあるに此には侍送天皇至來目水とあるとが異なり。盤于は盤紆なり。訓讀せむとならばメグリツツとよむべし。遊田は獵なり。尚書無逸に文王不敢盤于遊田とあり。之を遊田ニタノシムとよめるはいかがあらむ。次に釋日本紀に引ける本文の次に
 暦録曰。雄略天皇四年庚子春二月天皇獵2于葛城山1。忽有2長人1面形似2天皇1。天皇知2是神人1故《コトサラニ》問2何處公1。對曰。現人《アラヒト》神。願|稱《ノレ》2皇諱1。答勅。朕是|稚武《ワカタケ》尊。長人曰。僕是一言主神也。遂與般于遊田、言辭恭恪有v若2逢〔左△〕仙1。日斜田罷。神送2天皇1至2來目川1。群臣各脱2衣服1而獻。神拍v手而受v之(142)凌v空而還〔群臣〜傍点〕。一説懸2一指末1而受v之〔七字傍点〕。是時咸知2有徳天皇1矣
とあり。其内容丶點を批ちたる處の外は日本紀に同じきのみならず文辭はた殆相同じ。されば甲が乙に依れりとするか又は乙が甲に據れりとせざるべからず。暦録はいつの世に成りしものか知らねど雄略天皇四年庚子春二月と書出したるを見れば恐らくは日本紀に依れるにて群臣各脱衣服而獻云々は古事記と他一書とに據れるならむ。般于は盤紆に同じ。般が盤に通ずるは猶于が紆・迂に通ずる如し。彼書に次ぎて又
 或説云。時神與2天皇1相競有2不遜之言1。天皇大瞋奉v移2土左〔八字傍点〕1。神隨而降。神身已隱。以v祝代v之。初至2賀茂之地1後遷2于此社1。而高野天皇寶字八年從五位上高賀茂朝臣田守等奏而奉v迎鎭2於葛城山東下高宮岡上1。其和魂者猶留2彼國1于v今祭祀而云々
とあり。神隨而降とは天皇ノ命ニ隨ヒテ土左國ニ降リキといふ義にや。神身已隱の已は夙クといふことにはあらで全クといふことならむ。
 ○既・已には夙クの義と全ク悉クなどいふ義とあり。邦語のスデニは後者なり。今夙クをスデニと云ふは誤なり
神身已隱以祝代之とは神ノ身は全ク隱レテ見エザレバ祝ヲ土左ニ流シ以テ神ニ代ヘ(143)キといふことならむ。さて神名帳に見えたる彼葛木|男《ヲ》神社葛木|※[口+羊]《メ》神社は此祝の祖先又は父母又は彼祝夫妻をいつけるにあらざるか。初至2賀茂之地1後遷2于此社1とは今土佐郡土佐郷ニマシマセド初ニハ賀茂ノ地ニマシマシキといふことにてその賀茂は同郡鴨部郷なりと云へり。
 ○今鴨田村の大字に鴨部あり。鴨田は鴨部と神田とを合併したる名なり
東下は東麓なり。高宮は大和國葛上郡高宮郷にて即今の森脇(一四〇頁參照)の地なり。或説とは何書にか知らねど葛城山の上に大和國を添へず又土佐國を指して彼國と云へるを見れば土佐人の説にはあらず。さて神(名を擧げず)が天皇に對して不遜の言ありて天皇の御怒を蒙りて土佐に流されきと云ふ事は古事記・日本紀に見えざる所にて續日本紀天平寶字八年紀に
 十一月庚子高鳴神ヲ大和國葛上郡ニ復《カヘ》シ祀ル。高鳴神ハ法臣圓興其弟中衛將監從五位下賀茂朝臣田守等|言《マヲ》ス。昔大泊瀬天皇(雄略)葛城山ニ獵シタマフ時ニ老夫アリテ毎《ツネ》ニ天皇ト相逐ヒテ獲《サチ》ヲ爭フ。天皇之ヲ怒リ其人ヲ土左國ニ流シタマヒキ。先祖ガ主《ツカサド》レル神、化シテ老夫ト成リテ爰ニ放逐セラレシナリト(今※[手偏+僉]前記不見此事)。是《ココ》ニ天皇乃(144)田守ヲ遣シテ之ヲ迎ヘテ本處ニ祠ラシメタマフ
とあると相同じ。但ここには高鴨神とあり。然るに高鴨神は神名帳に大和國葛上郡高鴨阿治須岐|託《タカ》彦根命神社とありてアヂスキタカヒコネノ命にて一言主命にあらず。社の所在は今の南葛城郡葛城村大字鴨神、今の社格は郷社、今の社號は高鴨神社なり。
 ○然るに三代實録貞觀元年紀に
  春正月廾七日大和國從二位勲八等(高)鴨阿治須岐|宅《タカ》比古|尼《ネ》神・正三位高鴨神並從一位、正三位勲二等葛木一言主神從二位(○節略)
 とあり。アヂスキタカヒコネノ神の頭なるは流布本には鴨とのみあれど異本には高鴨とあり。そはいづれにもあれタカヒコネノ神と高鴨神とを竝べ擧げたるを思へば高鴨神はタカヒコネノ神にはあらで別神なるか。但神名帳にはただ高鴨神と云へるは見えず。されば宣長及栗田氏は此貞觀元年紀の文を擧げて「此文疑はし。誤あるか」といへり(記傳六三七頁及逸文考證卷六の五七頁)。更に按ずるに寶字八年に高鴨神を大和に復《カヘ》し祠りし時以前の處とは別なる處にいつきしにて是に依りて同一神が高鴨阿治須岐宅比古尼神と高鴨神とに分れ後に又相合ひまししにあらずや
(145)元來鴨といふは葛上郡の地域の名にて神名帳なる鴨(ノ)都味波《ツミハ》八重事代主命神社も鴨山口神社も此處にあるなるが篤胤の説に
 此御社(○出雲國造|神賀詞《カムホギノヨゴト》の葛木之鴨之神奈備〔八字傍点〕即神名帳の高鴨阿治須岐託彦根命神社)の地は葛木山の東南の麓の高き所に在る故に彼事代主神社と分む爲に高鴨と云なるべし
と云へり(古史傳二十三之卷−全集第三卷一四八頁)。鴨山口神社といへるもあれば鴨山といふ山ありてタカヒコネノ命は其山の高處にましますならむ。實地は知らず。夙く宣長も
 迦毛と云は此あたりの大名にてこの御社の地は高き故に彼事代主神社と分む爲に高鴨とは云なるべし(此御社今佐味莊神通寺村と云にあり。高鴨山〔三字傍点〕と云もあるなり云云)
といへり(記傳十一−全集第一の六三七頁)。篤胤の説は之に據れるなり。神通寺村と云へるは上(一四四頁)に云へる鴨神と同處ならむ。共に葛城村の内にて地圖を見るに地相接したり。但山の名を高鴨と云へるは如何あらむ。右の如くなれば初には雄略天皇、葛城山(146)に獵して一言主神と邂逅して交歡したまひきといふ傳説ありしに(古事記・日本紀)いつの程にか天皇が葛城山にて逢ひ給ひしはアヂスキ高彦根神にて神は天皇の御怒に遭ひて土佐國に流されましきといふ傳説が生ぜしなり。此傳説は後出のものなればこそ續日本紀にも今※[手偏+僉]前記不見此事と評したるなれ。釋日本紀には次ぎて又
 國記曰。雄略天皇即位二年戊戌奉v移v郷者誤也
とあり。者誤也の三字は土左風土記に裏書したる人の語なる事上(一三五頁)に云へる如し。次に
 多氏古事記曰。天皇一時獲2葛城山1。向堆之上有d如2天皇儀1者u彼此同容。天皇大異、遣v使問曰。大倭之國豈有2如v朕之人1。※[人偏+爾]是誰。何與v朕同儀耶。大神所v答之辭與2天皇1同。天皇懷v嗔更問。然即稱v名。大神答云。先問v吾者汝也。汝宜2先稱1v之。天皇勅答。朕是大倭根子稚武天皇也。大神答曰。吾是吉事一言凶事一言言放之葛木一言主神也。天皇大驚下v馬而拜。百官羅拜。大神答拜又如2天皇1。而共狩2山獣1言諸相通|者《・トイフ》。蓋此時有2不恭之言1
とあり。者以下十字は附註者の語なり。多氏古事記といへるは常の古事記ならむ。仙覺抄に引ける神《ミワ》河の節の附註にも多氏古事記曰とあり。彼節の下に云ふべし。さて右の一文(147)の内容は古事記のと大同小異なり。ただそを省略し又漢文に書改めたるのみ。次に
 論者曰。夫神祇者陰陽不測與寂寥虚無利用出入民咸用之者也。雖懷自然之聰明蘊自然之猛烈、而不得勝於天皇之威。慝質幽明之境降魂邊鄙之邦。是所謂剛而柔弱以蒙養正妙萬物而爲言不可以形語者也。而今女巫計利假威宣|※[言+(ノ/友)]〔左△〕頑俗迷溺流弊不止。非鎖禍招福調氣和物之本意者也。今正月十五日立v例佰姓相聚行2射禮於社下1。五月下旬申2南畝功竟之事1。△月上旬貢2封戸調物1國司必向。自v古成v蹤
とあり。論者とあるは郎附註者なり。その附註者は當國の國司などならむ。南畝は春耕なり。南畝功竟は挿秧の準備のととのひたるなり。正月十五日云々は今の一月十五日の射初《イソメ》祭なるべく五月下旬云々は今の五月十二日の御田《オンダ》祭に當るべし。月上旬の上に脱字ありと見ゆ。十一月か。封戸調物《フコノテウモツ》は神戸《カンベ》の租調なり○此大社の神を又土左大神と申しき。即天武天皇紀四年三月に土左大神以2神刀一口1進2于天皇1とあり○本文に一言主命を其祖未詳といへれど舊事本紀卷四地神本紀に素盞烏尊の御子の列に
 次葛木一言主神(坐2倭國葛上郡1)
といへり。但此書の安んじて據るべからざるは人の知れる如し○本文に祭神を一言主(148)命とし又味※[金+且]高彦根命とする一説を擧げたれど葛城山にて天皇に出逢ひまつりし神こそ二神の内いづれとも知られざれ、社名を高賀茂神社といふからは其祭神は(高彦根命と定めむことこそ貞觀元年紀の記事に由りて聊妨げらるれ)少くとも一言主命に非ること明なり。一言主命は大和の賀茂にいまさず又此神を高賀茂神と云へること無ければなり。然るに現に土佐神社の祭神を一言主命と定めたるは古典に戻れる業なり。夙く宣長も記傳卷十一(六三八頁)に
 土佐國風土記に其神名爲一言主尊と云るは誤なり。一言主神と高鳴神とは本より別なり。然るに右に引る續紀の葛城山の事(○一四三頁參照)と此記・書紀に見えたる一言主神の現(レ)賜ひし故事(○一三九頁及一四〇頁參照)と共に雄略天皇の御世にして處も同く事のさまも似たるゆゑに一(ツ)にまぎれて土左(ノ)高鴨をも一言主と申し傳しなるべし
といひ又同書卷四十二(二四一〇頁)に
 そもそも此風土記の説は高賀茂神と一言主神とを一(ツ)にまがへたる物にしてひがごとなり。かの土左國に遷されまししは高賀茂神にこそあれ、一言主神には非ず。此天皇(149)の此山に御獵の時にあらはれませりし事の状のよく似たるに依てまがひつるなり。されど一言主神の御事は此記・書紀に見えたる如くなれば(○日本紀には遂與盤于遊田駈2逐一鹿1相2辭發1v箭並v轡馳※[馬+娉の旁]言詞恭恪とさへ云へり)放逐《オヒヤ》られ賜ふべき由なければ彼高賀茂神の事は別事なり。されば書紀釋に此一言主神の處に彼風土記を引るも誤なり
といへり。狩谷望之も
 亦按ズルニ風土記前説ニ高鳴神ヲ以テ一言主命トセルハ誤レリ。當ニ後説ニ據リテ正トスベシ。雄略紀ニ載セタル一言主神ノ事ト自別ナリ。混ズベカラザルナリ。註(○績紀寶字八年紀之註)ニ今見前紀不見此事ト云ヘルモ亦證トスベシ
と云へり(續日本紀考證卷八の三十六丁裏)。平田篤胤はかにかくに思煩ひし末に一言主命と味※[金+且]高彦根命とを一神とし更に事代主命をも一神とせり(古史傳百段・百三段・百十七段・百三十一段等參照)。此一神説は平田派の學者の中にも首傾くるものあるべし
 
(150)    朝倉神社
 
土左國風土記曰。土左郡有2朝倉郷1。々中有v社。神名天津羽々神。「天石帆別|耶〔右△〕今〔左△〕」天石門別神子也(○釋日本紀卷十四述義十、齊明天皇紀朝倉社〔三字傍点〕之註所v引)
 
 新考 前田家本に據れるなり。新訂増補國史大系(一九五頁)には耶を神に改めて頭書に
 神原作v耶。今意改。刊本作v命
と云へり。命よりは神の方原本の耶に近かれど此改字は從ひがたし。なほ下に云ふべし○釋紀に齊明天皇紀の朝倉社の註に此文を引けるは彼紀の朝倉社を土左國なる朝倉神社なりと思へるにや。彼紀の七年に
 春正月壬寅御船西征始就2于海路1。……三月庚申御船|還〔左△〕至2于娜大津1居2于磐瀬行宮1。……五月癸卯天皇遷居2于朝倉橘廣庭宮1。是時※[昔+立刀]2除朝倉社木1而作2此宮1之故神忿壞v殿云(151)云
とありて紀の朝倉社は筑前國に在りしなり。還は遷の誤か。朝倉社の社はモリとよむべし○延喜式神名帳に土佐國土佐郡五座の内に朝倉神社あり。是本文に云へるものなり。神社は今も土佐郡朝倉村(字赤鬼山)に在りて今縣社に列れり。朝倉村は高知市の西南に當れり○天石帆別耶はもと天石門別神の傍註〔天石帆〜傍点〕にして書入なりしが誤りて本文に入れるなり。谷重遠の土佐國式社考に
 度會氏(○延經)曰。天石帆別命五字當爲注文
といへるは今一簣の功を缺けり。今は衍字か。又はもと天石帆別命耶とありし終二字を顛倒し更に命を今と誤てるか。此按に依りて復原せば左の如くならむ
         天石帆別命耶
 神名天津羽々神。天石門別神子也
○神名帳に吾川郡一座小天石門別安國玉主天神社とあり。是天津羽々命の父神をいつける社ならむ。吾川《アガハ》郡は土佐郡の西南に續けり○朝倉神社に今天津羽々命の外に齊明天皇をいつけるは釋紀の如く筑前の朝倉社を本社と混同せるか又は釋紀に誤られたるなり。明治維新以後の合祀なりといふ
 
(152)    玉嶋
 
土左國風土記曰。吾川郡玉嶋。或説曰。神功皇后巡國之時御船|泊之《ハテキ》。皇后下v嶋休2息礒際1得2一白石1。團如2鶏卵1。皇后安《オクニ》2于御掌1光明四出。皇后大喜詔2左右1曰。是海神所v賜白眞〔二字左△〕珠也。故爲2嶋名1云々(○釋日本紀卷十述義六、仲哀天皇紀皇后得2如意珠於海中〔皇后〜傍点〕1之註所v引)
 
 新考 玉嶋一名巣山、浦戸※[さんずい+彎]内に在りて横濱に屬せり。二十萬分一帝國圖に見えたり。横濱は吾川郡長濱村の大字にて高知市の南方に當り郡界に近し○神功皇后巡國の事、特に土左國に到りたまひし事は國史に見えず。泊之の之は助字なり。讀むべからず。安は置なり。ここにてはオキタマフニと訓むべし○白眞珠は白き眞珠と心得べきか。されど上に得一白石とあれば眞珠にはあるべからず。又眞珠は皆白ければ特に白き眞珠とは云ふべからず。恐らくは自眞珠は眞白珠の顛倒としてマシラタマとよむべく又殊は借字(153)と認むべからむ○或説曰以下は恐らくはもと裏書なりしが本文に混入したるならむ(一三四頁高賀茂大社註參照)。さて原文には吾川郡玉嶋の下に文辭ありしを釋紀の著者が節略せしならむ
 
    神河
 
土|左〔右△〕國風土記云。神河訓2三輪川1。源出2北山之中2屆2于伊|與〔右△〕國1。水清故爲2大神1釀v酒也用2此河水1。故爲2河名1。世〔右△〕訓2神字1爲2三輪1者多氏古事|紀〔左△〕曰。崇神天皇之世倭迹々媛皇女爲2大三輪大神婦1。毎夜有2一壯士1密來曉|去〔右△〕。皇女思v奇綜※[緩を□で囲む]麻貫v針及2壯士之曉去1也以v針貫v襴。及v旦看之唯有2三輪遺1v器者。故時人稱爲2三輪村1。社名亦然云々(○萬葉集仙覺抄卷一味酒三輪乃山〔六字傍点〕之註所v引)
 
 新考 右は全集本に據れるなり。流布の木版本には左を佐とし、故爲河名の下に也あり(或は次の世を也と誤てるならむ)、世訓神字爲三輪者多氏古事紀曰崇神天皇之世の二十(154)字なく、上の曉去を曉歸とし、綜の下の緩なく、及旦の下に也あり。又纂訂逸文に擧げたるには左を佐とし、與を豫とし、世を也とし、紀を記とし、綜下の緩なく、下の曉去を曉出とせり。全集本の紀は記の誤にて綜下の緩は衍なり。又全集本には頗句點を誤てり。煩しけれど左に假名交に書下して讀むべきやうを示さむ(妨なきは通用文の格に從ひて)
 神河《ジンガ》ハ三輪川ト訓ム。源ハ北山ノ中ニ出デテ伊興國ニ屆《イタ》ル。水清キガ故ニ大神ノ爲ニ酒ヲ釀《カ》ムニハ此河ノ水ヲ用フ。故《カレ》河ノ名トス。世ニ神ノ字ヲ訓ミテ三輪トスルハ多《オホノ》氏ノ古事記ニ曰ク。崇神天皇ノ世ニ倭迹々媛《ヤマトトトヒメノ》皇女、大三輪大神ノ婦トナル。毎夜一壯士アリテ密ニ來テ曉ニ去ル。皇女|奇《アヤ》シト思ヒテ綜麻《ヘソ》ヲ針ニ貫キ壯士ノ曉ニ去ルニ及ビテ針ヲ襴《スソ》ニ貫ク。旦ニ及ビテ看ルニ唯三輪ノ器ニ遺レルアリトイフ。故《カレ》時人稱シテ三輪村トス。社名モ亦然リ云々ト
古事記に據れば三輪の故事の婦人は陶津耳《スエツミミ》命の女活玉依毘賣《イクタマヨリビメ》なり。ここに倭迹々媛皇女とせるは日本紀なる崇神天皇紀に倭迹々|百襲《モモソ》姫命爲2大物主神之妻1とあるに混同せるなり。多氏古事記といふ事高賀茂大社の逸文の附加文中にも見えたり○世訓神字爲三輪者以下は附加文なり。風土記の原文にあらず。恐らくはもと裏書なりしが本文に混(155)入したるならむ○此一節纂訂逸文にありて考證に無し。栗田氏は如何に思ひて削り去られしにか○從來の説に此川を仁淀《ニヲド》川としたれど仁淀川(古圖に似淀川と書けり)は伊豫國浮穴郡より當國に到れるにて本文に源出于北山之中屆于伊與國とあると相反せり。すべて當國より發して伊與國に到れる川はあらず○附加文に崇神天皇とあるに注目すべし。漢風謚を奉りしは奈良朝時代の末なり
 
(157) 山陽道風土記逸文新考
                    井上 通泰 著
   美作國 二節
 
美作國は備前國の北方に在りて備前の東西二大川(吉井川及旭川)の上流地方なり。ミマサカを美作と書來れるは強ひて二字とせむが爲にマに充つべき字を略したるにて、作をサカに充てたるはサクをサカに轉じたるなり。和銅六年に備前の六郡を割きて此國を置かれしその六郡は英多・勝田・苫田・久米・大庭・眞島なり。されば律書殘篇には
 美作國 郡六・郷六十九云々
とあり。然るに三代實録貞觀五年に
(158) 五月廾六日分2美作國苫田郡1爲2苫東苫西郡1
とあり。されば延書式民部上には
 美作國 上 菅英多・勝田・苫東・苫西・久米・大庭・眞島
とありて七郡とせり。和名抄にも
 美作國 管七 英多(安伊多)勝田(加豆萬多)苫田(有2東西1)苫田(西)〔三字傍点〕久米・大庭(於保無波)眞島(萬志萬)
とあり。苫田(西)の三字は衍ならむ。英多の訓註アイタは音便なるぺければ原はアギタなりしか。英の一書アウ(又アグ)なれば轉じてアギに充てたるなり。勝田は訓註の如く本來カツマタなるを二字とせむが爲にマに當る字を省きたるなり。苫東苫西はトマタノヒガシ・トマタノニシとよむべし。これも二字とせむが爲に田字を略したるなり。大庭は無論オホニハなり。於保無波と訓註せるはオホンバと訛りし後の唱に從へるなり。然るにンに克つべき字なきが爲に枉げて無と書けるなり。ンはn、無はmなれば實は相當らざるなり。さて和名抄郡郷名の訓註が後世の追加なる事は屡云へる如し。後に英多を割きて吉野郡を置き又勝田・苫東・苫西・久米を各二郡に分ちしかば十二郡となりし事あれど(159)明治三十三年四月に英田・吉野を合せて英田郡とし(夙くより英多を英田と書けり)勝南勝北を合せて勝田郡とし、東《トウ》南條・東北《トウホク》條(もとの苫東)・西北《サイホク》條・西西《サイサイ》條(もとの苫西)を合せて苫田郡とし、久米南條・久米|北《ホク》條を合せて久米郡とし、大庭眞島を合せて眞庭郡とせしかば爾來五郡となれり。さて稱呼はアイダ・カツダ・トマダ・クメ・マニハといふ○和名抄に國府在2苫東郡1とあり。美作略史卷之一(五丁)に
 相傳フ國府ハ今ノ酉北條郡上河原・小原・總社・山北四村ニ在リト。而シテ未ダ其何レノ地ニ屬スルヲ詳ニセズ
といひ其頭書に
 總社村、地アリ幸《カウ》畑ト稱ス。明治十三年十月始テ其國府ノ遺址タルヲ知ル。乃チ碑ヲ立テ之ヲ表ス
と云へり。幸畑を》國府《コフ》畑の轉訛と認めしなり。西北條郡はもとの苫西郡の内なり。苫田郡の分合・郡名の改稱紛々として記憶に便ならざれば左に圖示せむに
(160)
      苫東 東南條
   苫東 苫北 東北條
苫田           苫田     
      苫西 西西條
   苫西 苫南 西北條
 
西北條はもとの苫西の内なれば和名抄に國府在苫東都とあると相合はず。又岡山縣地誌提要に
 國府遺址 西苫田村大字總社にありて今國府の碑を總社賽路の右方に建設す。地は現今田圃と變ずれども方凡五町許、隆然として岡阜を爲し一望遙に國内の群峰を眺め四時の風光自ら心神をして爽快ならしむるものあり。明治十三年津山の人矢吹氏其遺址を捜り有志と謀りて前記の碑を此地に建つ
と云へり。矢吹氏名は正則、釦美作略史の著者なり。總社・小原・山北・上河原の諸村は津山の西北に接し近世西苫田村の大字となりしが其西苫田村は今は津山市の内に入れり。總社には縣杜總社神社あり。所謂國府址は其東方なり。又勝田郡河邊村大字國分寺に今も國分寺ありて郡を異にし又加茂川を隔てたれど總社と程遠からず。國府と國分寺と川を隔てたる例は播磨河内などにもあり。かかれば國府の在りし處は今の津山市の西北(161)部なる事疑なからむ○續紀養老六年八月丁卯の下に
 美作等國司先v是奉v使入v京不v聽v乘v驛。至v是始聽v之
とあれど延喜兵部式を檢するに當國には驛なし。播磨の中川《ナカツガハ》(後の佐用郡三日月)又は備前の高月(後の赤坂郡|馬屋《マヤ》)まで出でて始めて乘驛せしにや
 
    國守
 
美作國云々。舊記曰。和銅六年甲寅〔二字左△〕四月依2備前守|百済《クダラ》南典・介|上毛野《カミツケヌ》堅身等|解《ゲ》1割2備前六郡1始置2美作國1云々。但風土記〔三字傍点〕以2上毛野堅身1便《スナハチ》爲2國守1(伊呂波字類鈔)
 
 新考 右の文は黒川本(三卷本)には見えず。同書美部の國郡の條には
 美作 上、山陽 英多・勝田・苫東・苫西・久米・大庭・眞嶋
とあるのみ(同じく三卷本なる尊經閣本には美部缺けたり)。今は纂訂古風土記逸文に引(162)けるに據れるなるが栗田氏は流布の十卷本に據れるなり。十卷本は日本古典全集に入れり。色葉字類抄は養和壽永の頃内膳典膳橘忠兼といふ人の撰せしものなり(内膳典膳は内膳司の判官即第三等官なり)。十卷本即伊呂波字類抄と題せるものには後人の増補多ければ右の文も恐らくは忠兼の舊本には無かりけむを後人が増補せしものならむ。考證に據れば原本には南典を南曲とし上の堅身の上には上毛野の三字無きを纂訂本には補ひ訂したるなり。續日本紀和銅六年に
 夏四月乙未割2丹波國五郡1始置2丹後國1、割2備前國六郡1始置2美作國〔五字傍点〕1割2日向……四郡1始置2大隅國1
とあるに一致せり。但和銅六年は癸丑にて甲寅にあらず。甲寅は翌七年なり。百済南典は續紀和銅元年三月丙午の新任中に從四位下百済王南典爲2備前守1とあり。王はカバネなり。朝鮮語のままにコニキシとよみしなり。堅身も同書慶雲四年正月甲午に授2无位上毛野朝臣堅身正七位下1とあり。「但風土記云々」は考證にいへる如く和銅六年に美作國を置かるるまでは備前介なりしを此國を置かるるに及びて其國の初代の守に任ぜられしにて國史の缺を補ふべきなり。但續紀和鋼七年十月丁卯の下に以2從五位下津守連|通《トホル》1爲2(163)美作守1とあれば堅身の美作守に任ぜられしは一時の權宜にや。便は即にてヤガテなり。解《ゲ》は上申なり
 
    勝間田池
 
美作國風土記曰。日本武尊櫛ヲ池ニ落シ入|玉《タマフ》。因テ號2勝間田池1云々(○詞林采要抄卷七玉勝間〔三字傍点〕之條所v引)
 
 新考 勝間田池の址は勝田郡勝間田町大字岡に在り。即日本地誌提要に
 勝間田池 一名轟池。勝南郡岡村。周回五町四拾間、東西壹町貳拾間、南北壹町五拾間。下流瀧川ニ注ギ梶並川ニ入
とあり。梶並川は倉敷川の一源なり。瀧川は勝間田の傍を流るる川にて梶並川の一源なり。又岡山顯名勝誌(卷二の七一丁)に
 今は廢池なれども天保初年までは遺蹟として充分に觀取するに足るべき形跡を存(164)じたり。同八年十一月里民、藩主に乞ひて開墾して耕地となせり
といへり。勝田郡は東美作の内にて英田の西、苫田及久米の東に在り。勝田と書けるは勝間田と書くべきを修して二字とせるにて間を省きて書きてもなほカツマタと訓むべき事又今は文字に泥みてカツダと唱ふる事は上に云へる如し。和名抄に見えたる本郡十四郷の首に勝田あり。是郡家のありし郷ならむ。同書流布本の訓註に加都太とあるは末などを落せるならむ。現に高山寺本の訓註には加豆末太とあり(豆も太も古書には清音にも充てたり)。中世勝田郷に並びて勝田莊あり、今勝間田町あるは古の勝田郷の地なり○ここに阿波國風土記逸文に
 勝間井冷水 勝間井ト云フ由ハ倭健天皇ノ大御櫛笥ヲ忘レタマフニ依リテ勝間井ト云フ。粟人ハ櫛笥ヲバ勝間ト云フナリ
とあり、阿波なるは井、美作なるは池、又井の名は勝間、池の名は勝間田、又阿波なるは櫛笥、美作なるは櫛なるの差はあれど共にヤマトタケルノ尊に假托したるを思へば右二つの傳説は本來同源にて一方より他方へ傳はりしものと認むべし。又ここに大和國に勝間田地あり。萬葉集卷十六に見えたれば最人耳に熟せり。地名辭書勝田郡の下に
(165) 蓋倭建命の故事は和州|添下《ソフノシモ》郡の勝間田の地なるを其地の氏人勝間田氏が美作にも阿波にも移住して彼名稱起れるならん
と云へるは臆斷に過ぎたり。かく云へるは日本武尊が美作並に阿波に下り給ひし事史に見えざるが故なれど、大和の勝間田池に此尊の傳説あらばこそかくも云はめ。大和にはさる事を語り傳へざるをや。さてカツマは櫛の事にや又は櫛笥の事にやと云ふに恐らくは櫛笥の事ならむ。カツマは劈竹をもて編める容器なるを特に櫛を容るるを單にカツマともいひしなるべし。
 ○櫛を容るる笥即クシゲを押廣めて諸種の笥の總稱としたるとうらうへなるべし。又櫛は上古には笥にも嚢にも入れて丈夫も常に携へしなり。たとへば神代紀海宮遊行章第一一書に老翁即取2嚢中|玄櫛《クログシ》1投v地と云へり。さてその玄櫛が五百箇竹林《イホツタカハラ》になれる其竹を取りて無目堅間《メナシカツマ》を作りしと櫛又は櫛笥をカツマといふとの間に關係ありはせずや。彼一書の本文には大目※[鹿三つ]籠《オホメノアラコ》とあれど其一書の一云(即註文)には無目堅間《メナシカツマ》とあり
さて勝間井・勝間田池などは形そのカツマに似たるに由りて名づけしにあらざるか
 
(166)   備前國 無
 
備前國の風土記は逸文の殘れるもの無けれど此國の地理を知らでは備中の地理は解すべからざるによりて簡單に此國の上代地理を述べむ。後の備前・美作・備中・備後はもと一國にてその地域をキビノ國と云ひき。字は記紀共に吉備と書けり。
 ○近世の學者好みて黄薇・寸簸など書けど古は地名を書くにうるはしくは音或は訓に依り、音訓を交へ書く事は無かりき。黄薇・寸簸は音訓の交へ書なり。されば古く又正しき物には黄薇・寸簸など書ける事なし
吉備國はまづ三國に分れしなるが、その三國に分れし時代明ならず。欽明天皇紀十七年七月に遣2蘇我大臣稻目宿禰等於備前〔二字傍点〕兒島郡1置2屯倉《ミヤケ》1とあるは誤字にあらずば追書ならむ。次に天武天皇紀二年三月に備後〔二字傍点〕國司獲2白雉於龜石郡1而貢とあり。備後國あらば備前國もあるべきなり。但大日本地名辭書には是より後なる八年三月に吉備〔二字傍点〕大宰石川王|病之《ヤミテ》薨2於吉備〔二字傍点〕1とあり又十一年七月に吉備〔二字傍点〕國言。霜降亦大風、五穀|不v登《ミノラズ》とあるに據りて右の天武天皇紀二年なるをも追書とせり。次に文武天皇元年閏十二月に播磨・備前・備中等國(167)飢とあり。こは追書と思はれねば之をぞ確なる國史初出と認むべき。思ふに天武・持統・文武三天皇の御世の頃に三國に分れしならむ(豐後風土記新考六頁・西海道風土記逸文新考七九頁〔三字傍点〕及一四三頁參照)○備前はうるはしくはキビノミチノクチといふ。地名辭書に「分置の初めより其實は音に讀みたるならん」と云へり。げに當時の人はさばかり音讀を嫌はざりし證あれば分置の時より夙くビゼンとも唱へけむ。されどなほうるはしく唱ふるにはキビノミチノクチとぞいひけむ。もし晴にも褻《ケ》にもビゼンと云ひけむにはキビノミチノクチといふ訓はあるまじきが故なり(南海道風土記逸文新考三頁「南海道の訓」參照)。國造本紀に大伯《オホク》國造・上道《カムツミチ》國造・三野國造見えたり。共に應神天皇の定めたまひしなりと云ふ。大伯は即|邑久《オホク》なり。又應神天皇紀二十二年に見えたる上道縣は即上道國にて、同じき三野縣は三野國なり。おなじき織部《ハトリ》縣は後の邑久郡服部郷にや又は後の備中國|賀夜《カヤ》郡服部郷にや。恐らくは後者ならむ。右の如く大伯・上道・三野の三國造國を定めたまひしを思へば備前國も亦海岸より開けしなり。さて吉備が三分せられし當時の備前國は後の備前及美作なり。美作が備前より分れしは和銅六年なり。美作が備前より分れし後の備前國は邑久《オホク》・赤坂・上道《カムツミチ》・御野・津高・兒島の六郡なりしなり。さて養老五年に邑久郡(168)の北部と赤坂郡の東部とを割きて藤原郡を置きしかば爾來七郡となり
 ○藤原郡は神龜三年に藤野と改め神護景雲三年に更に和氣と改めき
延麿七年に和氣郡の西部(東大川即和氣川の西方の地域)を獨立せしめて磐梨郡を置きしかば八郡となりき。
 ○律書殘篇に備前國郡七とあるは同書に載せたる國名表は延暦七年以前の物〔八字傍点〕なればなり。延喜式及和名抄には八郡とせり。和名抄に磐梨郡をも同郡石生郷をも伊波奈須と訓註したるは後の轉訛に從へるならむ。初には恐らくはイハナシとぞ唱へけむ。
 さて近古上道郡の東部を分ちて上東郡とせし事あり
然るに明治三十一二年四月赤坂・磐梨を合せて赤磐郡とし、御野・津高を合せて御津郡とせしかば今は和氣・邑久《オク》・赤磐・上道《ジヤウダウ》・御津・兒島の六郡となれり。右の内和氣郡は國の最東に、邑久郡は和氣の西南に、赤磐部は和氣の西に、上道郡は邑久の西に、御津郡は赤磐・上道の西に位せり。兒島郡は備前國とは續かで備中國の都窪・淺口二郡に接せり。岡山市は御津部の東南端に在り。邑久は今つづめてオクといひ上道は今音にてジヤウダウと唱ふ〇國府址は上道郡高島村大字|國府《コフ》市場にて岡山市の東北に當れり。和名抄に國府在御津郡(169)とあると一致せず。恐らくは郡界の移動せしならむ○驛は延喜式に坂長・珂磨・高月各廾疋、津高十四疋とあり。坂長は今の和氣郡|三石《ミツイシ》町の内、珂磨は今の赤磐郡|可眞《カマ》村の内、高月は今の同郡西高月村大字|馬屋《マヤ》、津高は今の御津郡一宮村大字西辛川なり(辛川市場ならで西辛川ならむ)。國府に近きは高月驛なり。播磨の野磨《ヤマ》驛(今の赤穗郡上郡町大字|山野里《ヤマノサト》)より船《フナ》坂を越えて當國の坂長驛に到り、當國の津高驛より備中の津※[山+見]驛に到りしなり。當時の驛路は近古以來の中國街道よりは遙に北方に偏れり。源平盛衰記「木曾備中下向及兼康板藏城戰」の條に船坂山より三石宿・藤野寺・和氣渡(○東川)可眞郷・西河裳佐の渡(○今の西高月村馬屋の西なる牟佐)福輪寺の阡《ナハテ》〇一本に福隆《フクリン》寺縄手とあり)岩井・一宮・佐々ガ※[廻の回が白](○又篠ノセマリとあり)を經て唐河の宿(○又唐皮宿とあり。今は辛川と書く)に到りし趣見えたり。是略、古驛路のままならむ。但一宮と佐々ガ租とは顛倒せり。今笹ガ瀬川あ
り。佐々ガ※[廻の回が白]の傍を流れし故に(三代實録元應元年二月廾三日に備前國津高郡佐々山とあり)笹ガセマリ川と稱し後にセマリをセと略し更に瀬の字を當てしなり。さて驛路中坂長・珂磨の間最遠し。續紀延暦七年六月の下に
 備前國和氣郡河西ノ百姓一百七十餘人款シテ曰ク。己等ハ元是赤坂上道二郡ノ東邊(170)ノ民ナリ。去《イ》ニシ天平神護二年割カレテ和氣郡ニ隷ス。
 ○彼年五月丁丑の紀に赤阪郡珂磨・佐伯二郷、上道郡|物理《モトロヰ》・肩背・沙石三郷等を割きて藤野郷に隷《ツ》けし事見えたり。沙石は磯名の誤か
今是郡ノ治は藤野郷ニ在リ。中ニ大河(○和氣川即吉井川)アリテ雨水ニ遭フ毎ニ公私通ジ難シ。茲ニ因リテ江西百姓屡公務ヲ闕キテキ。請フ河東ハ舊ニ依リテ和氣郡トシ河西ハ磐梨郡ヲ建テム。ソノ藤野驛家〔四字傍点〕は河西ニ遷シ置キ以テ水難ヲ避ケ兼《マタ》勞逸ヲ均シクセム。トイフ。之ヲ許ス
とあり。されば坂長の次駅は初藤野に在りしを新建郡の珂磨に遷し、それによりて第一驛(坂長)と第二驛との距離が遠くなりしなり。
 ○もとのままにては和氣郡は坂長藤野の二驛、磐梨郡は無驛にて和氣のみ勞し磐梨は逸する理なれば一驛を磐梨に遷して勞逸を平均せむと願へるなり
藤野は今も和氣郡に藤野村あり。新遷の驛を土肥經平は松木とせり。即松木を馬次の改字として之に擬したるなり。松木は今の赤磐郡豐田村の大字にて古の石生郷の内と思はる。豐田村は可眞村の東に接せり。若新遷驛を松木とせば後に更に珂麿に遷ししなり(171)とするか又は松木を珂磨郷の内とせざるべからず。經平は
 今是を考ふるに和氣川より西、磐梨郡に松木村あり。民間の口碑に松木はもと驛、ムマツギ村の訛なりといふ。さらば此松木村は藤野の驛を川西へ延暦にうつせし所なるべし。……その驛又西へうつりて珂麿の驛は出來しなるべし。しかる故か坂長(三石)より珂麿に至るは遠くして四里にもあまるべし(○寸簸之塵卷下官道驛家の條)
と云へり。津高驛を今の辛川とせるも亦經平の説なり。辛川市場及西辛川は御津郡一宮村の大字にて一宮村は古の驛家《ウマヤ》郷即近古の馬屋《マヤ》郷の内なり。一宮村の北に今馬屋|上《カミ》・馬屋下の二村あり。近世刊行の書に此二村を驛址に擬したるものあれど馬屋上下村は古き稱にあらで近世の命名なり。此二村も亦馬屋郷の内なれば馬屋上・馬屋下と名づけしのみ
 
(172)   備中國 三節
 
備中を和名抄にキビ(ノ)ミチ(ノ)ナカと訓註せり。備前備後と同じく夙くより常には音讀しけむ。但ビッチユウとは唱へずしてビチュウとぞ唱へけむ。吉備が三國に分れしは天武天皇より文武天皇までの御世なるべき事上に云へる如し。國史に國名の見えたるは文武天皇紀元年閏十二月に播磨・備前・備中等國飢とあるが始なり○國造本紀に下道國造・加夜國造・笠臣國造・吉備中縣國造を擧げたり。就中初三國は應神天皇の御世の設置にて中縣國のみは夙く崇神天皇の御世に創められしなり。下道國は後の下道郡にて加夜國は後の賀夜郡なり。笠臣國(姓氏録笠臣參照)と中縣國とは知られず。又應神天皇紀二十二年に當國の葉田(ノ)葦守(ノ)宮にましましし時吉備國を割きて御友別の子弟に授けたまひし中に當國に屬すべきは川嶋縣・苑縣なり。織部《ハトリ》縣も當國の内か。葦守は和名抄郷名に賀夜郡足守とあり。葉田葦守宮の址は今の吉備郡足守町大字上足守の内なる大神谷なりと云ふ。川嶋は仁徳天皇紀六十七年に於2吉備中國川嶋河|派《カハマタ》1有2大※[虫+糺の旁]1とあり。川嶋川は備中(ノ)大川即今の高|梁《ハシ》川なり。此川の東西兩派に夾まれたるデルタ(三角洲)を川島といひ、よりて川(173)を川島河といひ、又右の三角洲を中心としたる地域を川島縣といひしなり。
 ○右の三角洲は後の窪屋・淺口二郡に跨り其西南部即淺口郡に屬したる部分は今は南方なる連《ツラ》島と陸つづきとなれり
苑は和名抄郷名に下道郡曾能とあり。今の吉備郡薗村是なり。織部縣、もし當國に屬すべくば和名抄郷名の賀夜郡服部、即今の吉備郡服部村を以て之に擬すべし。右の應神天皇紀の記事を見て誤りて當時の備中國は中縣國の外川島縣・苑縣・織部縣に大別したりきとは思ふべからず。從ひて御友別の一族を從來無采地なりきとは思ふべからず。當時の備中國にはいまだ開かれざる處多く、夙く開かれたる地にも名の無き又は名の傳はらざる處多く、御友別の一族は貴族又豪族としてあまたの(名の無き又は名の傳はらざる)土地を擁したりしが茲に至りて、恐らくは新に點定せられし御料地の縣主に任ぜられて從來の富力の外に更に權力をも獲得せしにこそ○延喜民部省式に
 備中國 上 菅 都宇・窪屋・賀夜・下道・淺口・小田・後月・哲多・英賀
とあり又和名抄に
 備中國(國府在2賀夜郡1) 管九 都宇(津)窪屋(久保也)賀夜・下道(之毛豆美知)淺口(安佐久千)(174)小田(乎太)後月(七豆木)哲多・英賀(阿加)
とあり。都宇〔二字傍点〕は元來ツの一音なるを二字にせむが爲に宇を添へたるにて、なほキに伊を添へて紀伊と書ける如し。近江・越後・安藝の郷名に同例あり。備後の郷名の津宇も都宇の誤ならむ。賀夜〔二字傍点〕は和名抄高山寺本に國用2賀陽1とあり。中央政府の認めたるは賀夜なれど國廳にては夜の字を忌みなどして賀陽と書きしなり。さて後に賀夜の字は廢せられき。下道〔二字傍点〕は備前の上道郡に對したる名なり。哲多〔二字傍点〕はテタとぞ唱へけむ。アガを英賀〔二字傍点〕と書けるは英の一音アウを下略してアに充てたるなり。さて初にはカを濁らずしてアカと唱へしなり。近古以來訛りて都宇をツウ、賀陽をカヤウ、下道をシモミチ又はカダウ、哲多をテツタ、英賀を阿賀に改めてアガと唱へき。又都宇を僻めて津宇とも書けり。以上九郡、後に下道より河上(後川上)を分ち賀陽より上方(後上房)を分ちしかば
 ○上房郡の初出は拾芥抄にて上方郡と見えたり。賀陽より川上に當るが故に上方と名づけしなり。さて初より音にてジヤウバウとぞ唱へけむ。後に文字を上房に改めしは上方にてはカミガタなど讀僻めらるべく、さらずともジヤウハウとハを清みて唱へらるべきが故に女房の房を以て方に更へしならむ。さて始めて上房と書けるは正(175)保國圖なり。或書に始出を元禄國圖とせるは正保圏を見ざりしなり
都合十一郡となりたりしを明治三十三年四月に都宇・窪屋を合せて都窪とし、賀陽・下道を合せて吉備とし、阿賀・哲多を合せて阿哲とせしかば今は都窪《ツクボ》・吉備・淺口《アサクチ》・小田《ヲダ》・後月《シツキ》・上房《ジヤウバウ》・川上・阿哲《アテツ》の八郡となれり。十一郡時代の地圖を閲するに一國大川(即高|梁《ハシ》川一名河邊川)によりて西北より東南に向ひて二分せられたる其東部を北より數ふれば阿賀・上房・賀陽、次が都宇(東)窪屋(西)にて、西部を北よりよめば哲多・川上、次が下道(束)小田(中より西南に亙れり)後月(西)次が淺口(東南)なり。然るに合郡の爲に今は阿哲・吉備の二郡川に跨れり○國府の在りし處は今の吉備郡|總社《ゾウジヤ》町大字總社なり○驛は延喜兵部省式に
 備中國驛馬 津※[山+見]・河邊・小田・後月各廾疋
とあり。津※[山+見]は訓だに明ならず。徒來ツサカとよみ或はツサキとよめり。按ずるにもしサカ・サキなどならば目馴れたる坂・埼などを書くべし。然らざるを思へば擬字の一定せざる語ならむ。試に云はばタワか。さらば津※[山+見]はツノタワとよむべし。今も當國には何タワと稱する處少からず。タワは後世語にあらず。古事記垂仁天皇の段に山(ノ)多和とあり(萬葉集には山ノタヲリとあり)。
(176) ○出雲風土記楯縫郡に※[山+見]之社ありて流布本にミネと傍訓せり。再按ずるに大寶二年御野國山方郡三井田里戸籍五百木部與呂の戸口に御※[山+見]ありて其弟に乎御佐加あり。乎御佐加はやがて小御※[山+見]とおぼゆれば※[山+見]はサカと訓むべきか
さて津※[山+見]液の地は即和名抄の都宇郡液家郷なるべけれど其郷の址も今は知られず。思ふに津※[山+見]の津はやがて郡名の都宇にて其附近に峠路ありしかばツノタワ(或はツノサカ)とは名づけけむ。飜りて地名を檢するに今の都窪郡加茂村の大字に津寺あり(津寺といふ寺の遺址は同村大字惣爪字西原にありといふ)。正保國圖を見るに中國街道の北に加茂庄村あり其北に接して津寺村ありて鴨村ノ内と傍書せり。共に足守川の左芹に沿へり。又元禄國圖を見るに加茂村の西北に隣りて津寺村あり。思ふに此處古船附なりしによりて津と稱せられ郡名の都宇は適《マサ》に此地の名より起りしならむ。然るに津寺村の附近は平地にて※[山+見]と稱すべきものなければ津※[山+見]驛の所在は津寺村の對岸新庄村否其南なる矢部村ならむ。次驛河邊が川の右岸にあるを思へば津※[山+見]驛も川の右岸にあるべきなり。即此驛を發して直に山路にかかり、山路を出でて大川を渡り、さて河邊驛に達せしなり。其距離|適《マサ》に二里なり。津※[山+見]驛を矢部村とすれば前驛なる備前の津高驛(辛川)との(177)距離二里に足らず。且其間に峻坂大河なし。是津高驛の馬數の少き所以ならむ。津高は大路の驛なるに拘はらず其馬數僅に十四疋なり
 ○備中國巡覧大給圖に窪屋郡宿の下に
  此地古津宇郡ニ屬ス。津岬驛(○※[山+見]を岬に改めたり)ト云蓋是乎
 と註したれど宿とすれば次驛河邊との距離近きに過ぐ又備中誌窪尾郡卷之三(六三頁)に
  津※[山+見]驛 今其處定かならず。おもふに西郡村の枝郷今は宿と云處有。……河邊川と辛川との間に津※[山+見]といふ地今はなし。この宿村は加陽郡板倉村とわづか隔りて此間に都宇郡矢部村接したり。……此ほとりに津寺などいふ村も有。こは都宇郡の寺の有たる名殘ならん(○郡名の都宇によれる名にあらで津は此附近の稱にて郡名の都宇は卻りてこの地よりぞ起りけむ)。かかれば津※[山+見]も津の郡の※[山+見]也しなるべし(○否)。毎に其あたりの小名を尋ね探りしに先年宿村の西、是より少し西南に岡谷と云|間〔左△〕に通りしに小川の樋に津坂と記せり。其地の者に問へば此あたり小名を津坂と云よしいへり。されば宿村を去事遠からず
(178) と云へり。此説の從はれざる事は第一津※[山+見]をツサカとよむ事確ならず。從ひて津坂といふ處ありとも津※[山+見]と同處と斷ずべからず。第二津※[山+見]は都宇郡の驛家郷にあるべし。然るに岡谷(今の山手村の大字)は窪屋郡に在り。第三岡谷は宿と同じく西郡村の枝村ながら(今の山手村は西郡・地頭片山・岡谷・宿の四大字に分れたり)宿よりは西に在りて宿よりは一層次驛河邊に近く其距離僅に一里なり。されば津※[山+見]驛は岡谷にあらざるは勿論、宿にもあらで前にも云へる如く津寺の對岸矢部ならむ。矢部は今の庄村の大字なり
○次驛|河邊《カハノヘ》は和名抄の下道郡河邊郷にて今の吉備郡|川邊《カハベ》村なり。次驛小田は和名抄の小田郡驛家郷(高山寺本には驛里とありて无末也と訓註せり)にて今の小田郡|矢掛《ヤカゲ》町附近か。備中誌には明に云はねど小田驛を小田村に擬せるに似たり。和名抄郷名に小田郷と驛家郷とを並べ擧げたるを思へば小田郷には小田村を擬し驛家郷には(從ひて小田驛には)矢掛町を擬すべし。其上に小田驛を小田村とすれば河邊驛との距離遠きに過ぐ。
 ○矢掛はヤカゲとよむべし。古く屋影・屋蔭など書けるのみならず今もヤカゲと唱ふ次に後月驛は後月郡高屋村ならむ。備中誌後月郡の部(二頁)に
(179) 此名は絶てけれ共高屋村の内に後月谷と呼る所有。自ら古名の殘れるなり
と云へり。川邊と矢掛との間は三里にて矢掛と高屋との間は三里強なり。同書に又
 延喜式驛(ノ)傳馬の條に備前國津高より備中津※[山+見]・河邊・小田・後月それより備後國安那云云と見えたり。然るに何れの頃にや式に載られし地を廢せられて今は板倉・河邊・矢掛・七日市・高屋等を驛場とす
と云へり。當國の驛路は後の中國街道と一致せり
 
    松岡
 
備中風土記云。賀夜《カヤ》郡松岡、去〔右△〕v岡|東〔右△〕南|維《コレ》二里驛|路〔左△〕《家》。在〔右△〕2※[今を□で囲む]新造|御宅《ミヤケ》1。奈良朝廷|以〔右△〕2天平六年甲戌1國司從五位下勲十二等石川朝臣賀美・郡司大領從六位上勲十二等下道朝臣人主・少領從七位下勲十二等薗臣五百木時造始云云(○萬葉集仙覺抄總論所v引)
 
(180) 新考 全集本に據れるなり。木版本には去を書に、東を束に誤てり。又二本共に句讀を誤てり。地名辭書に賀美を誤りて下に附けて
 ここに賀美郡とある美は夜の謬なるべし
といへるは右の句讀に欺かれたるなり○松岡は其地今知られず。なほ後に云ふべし。維は助字なり。二里は十二町なり。纂訂逸文には驛路の下を句とし、在を有に改め、その有以下を今新ニ造レル御宅アリと訓めり。然るに考證には
 驛路の下有今二字よみ難し。錯誤あるべし
と云へり。按ずるにまづ驛路の路は誤字ならむ。驛路は東西に通じたるを或地點より指して東南などは云ふべからず。驛路は恐らくは驛家の誤ならむ。さて驛家の下にアリを添へて驛家アリと訓むべし。次に今は恐らくは衍字ならむ。新の傍に今と書きたりしを傳寫の際に脱字と誤り心得て新の上に書入れしならむ。古、新造をイマツクルといひしなり。萬葉集卷六及卷八に
 今造る久邇のみやこは山河のさやけき見ればうべしらすらし
 今造る久邇のみやこに秋の夜の長きにひとりぬるがくるしさ
(181)とよめるも新ニ造レルといふ事なり。さて新造御宅はその御宅の假稱なるべければイマツクリノミヤケアリと訓むべし(在は有の通用なり)。驛家より僅に十二町ばかり距たりて便利なる賀夜郡松岡といふ處に天平年間に屯倉を設けられしなり○驛家とあるは何驛か。まづ賀夜郡の地理を述べむに本郡は後に賀陽・上房二郡に分れその賀陽郡は今下道郡と合せられて吉備郡となれり。當國中最東に位せる郡、國府の在りし郡にて東は備前國津高郡に隣れり。驛路は津高郡の西南端なる津高驛(辛川)より來り本郡の東南端を横ぎりて都《ツ》宇郡津※[山+見]驛に到りき。其次驛河邊は本郡と相接せず又大川を隔てたればここに驛家と云へるは津※[山+見]驛なる事疑なからむ。
 〇右は驛家の所在が本書撰進の時代と延喜の世とかはらざるものと假定して云へるなり
その津※[山+見]驛は今の都窪郡加茂村大字津寺の對岸なるべければ此處より西北に當りし松岡は今の吉備郡服部村大字長良附近にや。巡覧大繪圖に同處に鳥居を描きて松岡社と標せり。但長良と津寺の對岸との距離は十町に止まらじ○御宅は又屯倉・屯家など書けり。皇室の御料地なり。封建時代にこそ皇室の御經済の爲に御宅を置きたまふ必要あ(182)りしが大化改新の時封建制度を郡縣制度に改めたまひし後は天下悉く天皇直屬の御領となりしかば特に御宅を存じたまふ必要無くなりき。されば此時御宅は一切廢したまひしにここに天平年間に新に御宅を置きたまひし由記せるを見れば大化の改新のややに廢れそめしにて夙く後の莊園制の兆しそめしならむ。更に云はむにミヤケのヤケは家屋なり。ミヤケは無論田地を主とするものなれど之を管理するには舍宅倉庫を設けざるべからず。ミヤケとはもと其建築物の稱にして之に對して田地をば御ヤカダと稱しけむを(ヤケが下に續く時にはヤカとなるなり)後には田地建築物を通じてミヤケといふ事となりしなり(播磨風土記新考八〇頁參照)。諸國に三宅郷・三家郷あるは(恐らくは大宅郷・大家郷あるも)右のミヤケの名の殘れるなり。無論古、御宅ありて其名の殘らぬもあり。本郡の如きもミヤケといふ郷なし○奈良朝廷は奈良宮御宇時代即奈良朝時代といふ事なり。獨聖武天皇の御代を指すに非ず。考證に「聖武天皇の大御世を云り」と云へるは仙覺の誤を襲げるなり。仙覺が以前三箇國風土記之文以2聖武天皇御宇1稱2平城1事更無2相違1矣といひて引用せる中の尾張風土記に奈良宮御宇聖武〔二字傍点〕天皇時とあるにあらずや。もし聖武天皇の御世を指すものならばただに奈良宮御宇天皇時とこそ云ふべけ(183)れ。以は奈良朝廷の上に在るべし。當時の漢文に例ある錯置なり○勲位は武功ありしもののみに賜ひしものにて十二等はその初敍なり。軍防令に據ればその加盡は從五位は六等、徒六位は八等、從七位は十等なり○石川賀美の名は續紀天平三年正月丙子に授2正六位上石川朝臣加美從五位下1とあれど備中守に任ぜられし事は國史に見えず。本文に國司守とは無けれど恐らくは守ならむ。國司は國の職員にて守以下の總稱なり○郡司は郡の職員にて大領以下の總稱なり。大領は郡の長官、少領は次官なり。下道《シモツミチ》朝臣並に薗臣《ソノノオミ》は土豪なり。大化改新の時郡司は專土豪を採用する事に定め給ひしなり。應神天皇紀二十二年に
 天皇於v是看2御友別謹惶侍奉之状1而有2悦情1。因割2吉備國1封2其子等1也。則分2川嶋縣1封2長子稻速別1。是下道臣之始祖也。……即以2苑縣1封2兄|浦凝別《ウラコリワケ》1。是|苑臣《ソノノオミ》之始祖也とあり。浦凝別・御友別等兄弟は稚武彦命の子孫にて稚武彦命は孝靈天皇の御子なり。下道朝臣とあるは後に朝臣のカバネを賜はりしなり。人主と同時に同姓|眞備《マキビ》あり。顯達して天平十八年に吉備朝臣の姓を賜はりき。薗は園に艸冠を加へたるにて兔・瓜・刈などに艸冠を加へたると同例なり。園と苑とは別字異韻なれど同義類音なれば我邦にては通(184)用せり。苑縣は今の吉備郡(舊下道郡)薗村の附近なり○本文に奈良朝廷とあれば此風土記は平安朝時代に至りて撰進せしなり
 
    宮瀬川
 
備中國風土記云。賀夜《カヤ》郡伊勢御神社東有v河名2宮瀬《ミヤノセ》川1。河西者吉備(ノ)建《タケ》日子命之宮。造2此|三世王《ミツギノミコ》之宮〔二字右△〕1故仍名2宮瀬1(○諸社根元記下卷吉備津宮〔四字傍点〕之條所v引)
 
 新考 之宮を纂訂古風土記逸文には宮之とせり。余が見し根元記には之宮とあり。此方まされり。纂訂逸文及考證には三世王をただにミコとよめり。こはわざと三世を省きて訓めるなり。なほ後にいふべし。栗田氏は河西者以下を訓み誤てり。即造の下を句として
 河ノ西ハ吉備建日子命ノ宮ヲ造リキ。此三世王ノ宮アル故ニ
とよめり。さて考證に
(185) 吉備建日子命之宮造は吉備建日子命の宮を造れ|る〔左△〕との義にや。文字整はず。考べし
 三世王宮といふ事何とかや疑はしき心地す。本文の意味は三世王の爲に造れる神宮〔二字傍点〕のある處に河あるを以て宮瀬と號けたりと云ふなるべけれど聞えがたき文なり。誤脱あるにや
と云へり。誤脱あるにあらず。訓方わろきなり。宜しく造を下文に附けて
 河ノ西ハ吉備建日子命ノ宮ナリキ。此三世王ノ宮ヲ造リシ故ニ
と訓むべし。宮ナリ・造レルとよまで宮ナリキ・造リシと訓める所以は後に云ふべし。伊勢御神社・は今知られず。備中誌賀陽郡卷之八(二八二頁)に
 按伊勢御社今不詳。宮瀬川は宮内のあたりなるべし。されど此あたりに足守川の外川と云べきなし。強ひて是を宮瀬川と名をおほすとも吉備津宮は備前との國境きびの中山に鎭座し給へば川西にあらず川東也。それより東に|と〔左△〕《よカ》つては備前境の山の峰より流れ落る細谷川のみにて川の有べき地にあらず。是より東、辛川村と云に北より南へ流れし小川(○笹がせ川)有どもこは備前國津高郡にて備中の國にあらず。……されば前に圖せし地の利を見ても其説の齟齬せるを知るべし。かかれば此風土記も亦(186)後人の僞作にやあらん
と云へり。私に「宮内のあたりなるべし」と定め其地理に合はずとて風土記を僞作と疑へるはいとあさまし。同書に又
 宮瀬川 こは伊勢の御社を建しより名付たる成べし(○風土記に造2此三世王之宮1故仍名2宮瀬1とあるにあらずや)。大井の川(○即足守川)の下流をいへるか。永仁六年書寫服部郷古圖に宮妹と云地、田の名に載たり。宮妹は宮瀬の事にあらずや
と云へり。考證には
 伊勢御神社の神字、神名帳頭注にはなきを根元記によれり。此宮(〇總社なり。まぎらはし)の祠官堀安道が説に「賀陽郡福井村に神明神社あり。祭神天照大御神にて云々」といへり。伊勢御神社は極めて神明神社なるべし○宮瀬川は永仁六年服部郷の古圖に宮※[女頁夫]川とあり。神明社に近し。こは和名抄に賀夜郡庭妹郷(爾比世)とあると同地なるべし
と云へり。まづ福井村の神明神社を風土記の伊勢御神社に擬したる、輕々しくは同意せられず。次に備中誌には「永仁六年書寫服部郷古圖に宮妹と云地、田の名に載たり」と見え考證には「永仁六年服部郷の古圖に宮※[女頁夫]川とあり」と見えて一致せず。乙は甲の訛傳にあ(187)らずや。次に「こは和名抄に賀夜郡庭妹とあると同地なるべし」といへるは地理にかなはず。服部郷は今の服部村附近、庭妹郷は今の庭瀬町附近なるべければなり。上房郡にも宮瀬といふ處あり。即備中誌同郡の卷之四(一八七頁)に
 宮瀬村 古瀬《コセ》郷の内也。名義詳ならず
と云へり。此宮瀬は今の上房郡|巨瀬《コセ》村の内にて鳥井川一名|有漢《ウカン》川の一支源に沿へる部落なり。上房郡は古の賀夜郡の内なり。所詮宮瀬川は今の何川にか知るべからず。此川の名は、處は異なれど萬葉集卷十四にウチヒサス美夜能瀬ガハノカホバナノ云々とあればミヤセとよまでミヤノセとぞよむべからむ○吉備|建《タケ》日子命は景行天皇紀四十年に日本武尊をして東夷を征せしめたまふ處に天皇則命3吉備武彦與2大伴|武日連《タケヒノムラジ》1令v從2日本武尊1と見えたり。さて姓氏録に
 下道朝臣、稚武彦命之|男〔右△〕吉備武彦命之後也
 眞髪部、稚武彦命|男〔右△〕吉備武彦命之後也
とあるに據れば稚武彦命の子にて又
 庵原公、稚武彦命之後也。孫〔右△〕吉備建彦命景行天皇御世被v遣2東方1伐2毛人《エミシ》及|凶鬼神《アラブルカミ》1云々
(188)とあるに依れば稚武彦命の孫なり。孝靈天皇の御子吉備津彦命(古事記にいへる大吉備津日子命)その御弟稚武彦命(古事記にいへる若日子建吉備津日子命)なれば稚武彦命の御孫とすれば風土記に三世王と云へるにかなへり。三世王は離身式にて云はば天皇の御曾孫なればなり。さて稚武彦命の御子とあるや正しき御孫とあるや正しきと問はむに皇統は孝靈・孝元・開化・崇神・垂仁・景行とつづきたまへるが稚武彦命は孝元天皇の御弟なれば、景行天皇の御世の人にて其御子日本武尊の東征に從はしめられし吉備武彦は少くとも稚武彦命の御孫ならざるべからず。恐らくは其御父なる人の名の傳はらざる爲に稚武彦命の御子なるが如くにも傳へしならむ。三世王はミツギノミコとよむべし○吉備建日子命之宮とあるを從來神社と誤解したる如し。現に考證には神宮と釋せり。
 ○備中誌も之を吉備津神社と早斷せり。さればこそ「宮瀬川は宮内のあたりなるべし」と云へるなれ
按ずるにここに宮と云へるは神社にあらで第《テイ》宅なり。畢竟吉備武彦は宮瀬川の西に住みしなり。さて風土記を撰せし時には其第宅は無論亡せて無かりしなり。もし其址だに存ぜば同じく河西なる伊勢御神社との位置的關係に言及せざるべからず。當時は伊勢(189)御神社のみありて所謂吉備建日子命の宮は其址だに知られざりしかど川の名を宮瀬といふは吉備武彦命の宮ありし爲なりといふ傳説殘りたりしかば、そをさながらに書き記ししなり。されば初に云へる如く
 河ノ西ハ吉備建日子命ノ宮ナリキ。此三世王ノ宮ヲ造リシ故ニ云々
と訓むべし
 
    邇磨郷
 
臣去寛平五年任2備中介1。彼國下道郡有2邇磨《ニマ》郷1。爰見2彼國風土記〔五字傍点〕1、皇極〔二字左△〕天皇六年大唐將軍蘇定方率2新羅軍1伐2百済1。百済遣v使乞v救。天皇行2幸筑紫1將v出2救兵1。時天智天皇爲2皇太子1攝v政從行、路宿2下道郡1。見2一郷戸邑甚盛1。△△△《乃奏天皇》。天皇下v詔試徴2此郷軍士1。即〔右△〕得2勝兵二萬人1。天皇大悦、名2此邑〔二字右△〕1曰2二萬郷1。後改曰2邇磨1。其後天皇崩2於筑紫行宮1、終不v遣2此軍1(○本朝文粹所v載善相公意(190)見十二箇條中所v見)
 
 新考 右の參議三善|清行《キヨヤス》、の上書に右の文に續けて
 然〔右△〕即二萬兵士|彌〔右△〕可2蕃息1。而天平神護年中右大臣吉備朝臣以2大臣1兼2本郡大領1、試計2此郷戸口1、纔有2課丁千九百餘人1。貞觀初故民部卿藤原保則朝臣爲2彼國介1時見d舊記〔二字傍点〕此郷有2二萬兵士1之文u、計2大〔二字右△〕帳1之次閲2其課丁1、軍2七十餘人1。某到〔二字右△〕v任又閲2此郷戸口1、有2老丁二人正丁四人中男三人1。去延喜十一年彼國介藤原公|利〔右△〕任滿歸v都。清行問2邇磨郷戸口當今幾何1。公|利〔右△〕答曰。無v有一人1。謹計2年|紀〔右△〕1自2皇極〔二字左△〕天皇六年庚申1至2延喜十一年辛未1纔二百五十※[二を□で囲む]年、衰弊之速亦既如v此。以2△《此》一郷1而推v之、天下虚耗指v掌可v知
と云へり。右文粋に見えたると扶桑略記延喜十四年四月廾八日の下に引けるとを比較するに後者にはまづ即の字と此邑の二字と無し(本文の右傍に△を附けたる字なり)。次に後改曰邇麿の後字の下に日宇あり。次に本文に續きたる意見の文の中にて然字を闕き、彌を子孫とし、計大帳之次を大怪計帳之次とし、某到任を到其任と誤ち、公利を公則と誤ち、年紀を年記とし、二百五十二年を二百五十年とせり。又纂訂逸文(並に考證の本文)には皇極を齊明とせり。こは栗田氏が訂したるならむ○本文に皇極天皇といひ天智天皇(191)と云へるに注目すべし。初よりかくありしにや。又は清行が漢文の封事に引用するに就いてかく改めしにや。藤原保則が見し所謂舊記の文は即本文にて、舊記といへるは即風土記ならむ。されば本文を含める風土記は夙く貞觀の初に存在せしなり○下道郡は賀陽《カヤ》郡及窪屋郡の西、川上郡の東南、小田郡の東、淺口郡の北に在りて賀陽窪屋二郡とは大川を隔てたり。近世賀陽郡と合せて吉備郡とせられたり。邇磨郷は和名抄郷名に邇磨(爾萬)とありて其高山寺本に國用2二萬1とあり。即中央政府にては邇磨と書けども地方廳にては二萬と書きしなり。國衙にて別字を用ひしは簡便に從ひ誤讀を防ぐなどの爲にてたとへば近江の敷智郷・大隅の志摩郷を淵・島と書き甲斐の眞衣《マキヌ》郷・日向の瓜生《ウリフノ》郷・大隅の仲川《ナカツガハ》郷を眞木野・瓜生野・中津川と書きき。畢竟國衙にては美字制及二字制に拘泥せざりしなり。邇磨郷は官道に沿はず。河邊驛の西南に當りて小田川を隔てたりき。今も吉備郡に二萬村ありて大字上二萬・下二寓より成れり○皇極天皇は齊明天皇の誤なり。原文には國風謚又は宮號なりしを清行が改譯し其際に誤れるにはあらざるか○唐を大唐と云へるはよくも思はで其世にいひ慣れたるに從へるなるべければ獨清行を咎むべきにはあらねど元來今も西洋を泰西といふが如き卑屈なる尊外心の發露したるにてい(192)とうたてし。特に此處はただ外國を云へるにはあらで敵國を指せるなるをや○唐將蘇定方が百済を伐ちし事は新唐書の高宗本紀・列傳第三十六の蘇定方傳・同第一百四十五の東夷傳に見えたり。ここには最短きものを學げむに本紀第三顯慶五年(○我齊明天皇の六年)の處に
 三月辛亥左武衛大將軍蘇定方爲2神兵道行軍大總管1新羅王金春秋爲2※[山+禺]夷遺行軍總管1率2三將軍及新羅兵1以伐2百済1。……八月庚辰蘇定方|及《ト》2百済1戰敗v之。……十一月戊戌蘇定方俘2百済王1以獻とあり。又本傳に蘇烈字定方、以v字行とあり○時天智天皇爲皇太子攝政從行路宿下遺郡を文粹・紀略の通行本にも考證などにも句讀を誤ちて從2行路1とせり。宜しく柿村氏の註釋の如く從行の下を句として
 時ニ天智天皇、皇太子トシテ政ヲ攝シタマヒシガ從ヒ行キテ、路ニテ下道郡ニ宿リタマヒキ
など訓むべし。從行は天皇の行幸に扈從したまひしなり。路は途中なり。さて一郷の戸邑の甚盛なるを見たまひしは天智天皇なるべければ見一郷戸邑甚盛の下に乃奏天皇〔四字傍点〕な(193)どの辭無かるべからず。さらでは時天智天皇爲皇太子攝政從行といふこと無用となりて此十三字を削らでは文を成さず○勝兵はスグレタル兵士なり。勝は後世にいふ究《クツ》竟ナルなり。勝敗の勝にあらず。史籍に無數に例あり。某書に孫子軍形の勝兵先v勝而後求v戰、敗兵先v戰而後求v勝を引きたるは誤れり○國史に據れば七年春正月壬寅御船西征始就2于海路1とありて陸路に由りたまひしにあらず。從ひて備中の下道郡を經たまふべからず○以下ほぼ封事の文を註せむ。吉備|眞備《マキビ》が右大臣にして下道郡の大領即郡長を兼ねたりしは面白し。眞備前姓は下道朝臣、もと本郡の土豪なり。されば大化以來の御定に從ひて本郡の大領に任ぜられしなり。課丁は正丁・次丁・中男・老丁・殘疾の總稱なり。即一戸の男子中十七歳以上六十五歳以下にして廃疾篤疾ならざる者の總稱なり。大帳は課口を記したる帳簿なり。男子の六十一歳以上六十五歳以下なるを老丁といひ、二十一歳以上六十歳以下なるを正丁といひ、十七歳以上二十歳以下なるを中男といふ。中は男女に通じていふが故にその男子なるを特に中男といふなり。丁は勿論男子に限れり。清行問邇磨郷戸口當今幾何の戸口は課丁と心得べきか。齊明天皇の六年より延喜十一年までは滿二百五十年にて二百五十一年に亙れり。されば二百五十二年とある二は衍字なり○(194)考證に
 得勝兵二萬人は古への語り傳へにかく云るにて實に二萬人ありし事とも思はれず。いかにとなれば戸令に凡戸以2五十戸1爲v里……とあるに慶雲三年の格、戸内八丁以上を大戸とし六丁以上を上戸とし四丁を中戸とし二丁を下戸とすと云るを合せ考へ平均一戸二十人(〇二十丁か)と定めて五十戸に正丁千人あらんには多きに過る事はありとも少しとは云ふべからず。たとへ令前後の制、差別ありとも一郷に二萬人の勝兵を得る事いと疑はしきに似たり。かつ名2此邑1曰2二萬郷1後改曰2邇磨1と本文にあれど邇磨と云ふが本名なりしより二萬といひ二萬と云ふより二萬の兵士を得たりと云る誤り詞なるべし
といへるは卓見なり。日本地理志料にも
 弼謂フ。一郷は五十戸ノミ。豈正丁二萬ヲ容ルベケムヤ。亦文ヲ望ミテ説ヲ成ス者ナリ
といへり。なほ云はむに吉備眞備が此郷の戸口を計へし時課丁千九百餘人ありきと云へるも疑はし。千九百人とすれば一戸の平均課丁略四十人なればなり。又藤原公利が清行の問に答へて無v有2一人1と云ひけむも疑はし。一郷の人口中に廃疾篤疾ならざる十七(195)歳以上六十五歳以下の男子一人だに無き事は考へられざればなり。清行の意見中此一條は極めて不確實なる根據の上に築き上げたるものなれど、ともかくも邇磨郷が古極めて盛なりし事と延喜の時代にいたく衰へたりし事とは之によりて察知せらるべし(星野恒博士稿史學叢説第一集五五頁讀史ノ心得〔五字傍点〕參照)
 
(196)   備後國 無
 
備後國の正稱はキビノミチノシリといふ。萬葉集卷十一に路ノシリ深津島山シマラクモ君ガ目ミネバクルシカリケリとある路後は吉備ノ路ノシリの略にて、やがて備後國なり。今はビンゴと唱ふれど古はビゴとぞ唱へけむ。國造本紀に見えたる吉備穴國・吉備品治國は此國の内なり。
 ○穴國は穴海に沿ひたる地域なり。穴海は今は埋もれ果てたり。福山志料卷二十九(三頁)に
 海枝西北ニ曲入ル事二里バカリ、ソノ形洞穴ノ如シ、コレムカシノ穴海ニテソノワタリヲ穴|濟《ワタリ》トイヒ、ソノ傍近ノ地ヲ穴國ト云。今ミナ田畝トナリテ海トハオモハレザレドモ五月雨ツヅキ川水(○蘆田川及高屋川)溢ルルトキハE漫トシテムカシノ樣ヲミルナリ。……又按ニ福山開城ノ後ソノ傍近皆新田トナリテ潮汐イヨヨ遠ザカレバ地形マスマスヤウカハレリ。然ドモ東は川北・川南ノ西端、北ハ徳田・道上・岩成ナドノ南端ミナ海ナリシ事證多シ
(197)といひて想像圖を描けり(同卷六頁)。志料の著者菅茶山は古の穴國(神邊《カンナベ》川北村)の人なり
或人は波久岐國をも此國の内に擬せり。大化改新の時|大伯《オホク》國以下を合併して吉備國とせられしに後に前中後三國に分れしなり。三國に分れしは天武・持統・文武三天皇の御世の頃なり。天武天皇紀二年三月に
 備後國司獲2白雉於龜石郡1而貢。乃當都課役悉免。仍大2赦天下1
とあるを追書と認めたる人もあれど乃當郡課役悉免といへる、明に郡といふ行政區ありし如く聞ゆ。さて郡を分ちしは國を分ちし上なるぺければ恐らくは此時夙く三國に分れたりけむ。さて延喜式以前には幾郡に分れたりしにか知られねど和銅二年に甲奴《カフヌ》が葦田より分れ養老五年に深津が安那《アナ》より分れしを思へば初より十四郡なりしに非ざるなり。延暦遷都以前の作製なる律書殘篇所載國名表に郡十四郷九十とあり、延喜式に
 備後國 上 菅 安那・深津・神石・奴可・沼隈・品治・葦田・甲奴・三上・惠蘇・御調・世羅・三谿・三次
とあり、和名抄に
(198) 備後國(國府在2葦田郡1) 管十四 安那(夜須奈) 深津(布加津) 神石(加|女〔右△〕志) 奴可(奴加) 沼隈(奴乃久萬) 品治(保牟知) 葦田(安志太) 甲奴(加不乃) 三上(美加三) 惠蘇 御調(三豆木) 世羅 三谿(美多爾) 三次(美與之)
とあり。郡の順位は東と南とを元とせり。此例に違へるは安那深津の順次のみ。元來深津は安那の分郡にて安那より先としがたき故ならむ。安那は正しくはアナと訓むべし。國造本紀に吉備穴國といひ安閑天皇紀二年に婀娜國といへるを以て證とすべし。後にヤスナと唱へしはアナといふ語を忌みしにや。又は自然に古訓の失はれしにや。神石は即天武天皇紀二年に見えたる龜石なり。字は更りたれど訓は古のままに殘りしなり(今郡中に龜石村あるは新名ならむ)。近古以來音にてジンセキと唱へらる。沼隈は本郡に沼名前《ヌナクマ》神社あれば古くはヌナクマなりしにて、それが後にヌノクマとなり又後に今の如くヌマクマとなりしなり。
 ○此神社は鞆町にありて國幣小社に列れり。明治初年の當局者の苦辛糊塗の痕は特選神名牒に顯然たり
葦田は近古以來蘆田と書けり。續紀和鋼二年十月の下に
(199) 備後國葦田郡甲努村相2去郡家1山谷阻遠、百姓徃還煩費太多。仍割2品遲郡三里1隷2葦田郡1建2郡於甲努村1
とあり。葦田郡の北部を削りて甲努郡を建てし代に葦田郡の東方なる品治郡なる三里(後の三郷)を割きて葦田郡に屬せしなり。品遲は延喜式以來品治と書けり。甲努も式以來多くは甲奴と書けり。ミヨシのヨシに次の字を充てたる所以は知られず。最可をヨロシといひ次可をヨシといふ故にや。明治三十一年十月に安那・深津を合せて深安とし、品治・蘆田を合せて蘆品とし、奴可・三上・惠蘇を合せて比婆とし、三次・三谿を合せて雙三とせしかば今は深安・沼隈・蘆品《アシナ》・御調《ミツギ》・世羅・神石《ジンセキ》・甲奴《カフヌ》・比婆・雙三《フタミ》の九郡となれり。雙三の名特にうたてし○國府の址は今の蘆品郡|國府《コクフ》村附近なり。同村大字府川が其中心なり。府川の北に隣れる廣谷村大字町に總社あり、國府村の西北に接して府中町あり。但國府村といふは新名なり
 ○府川はもと府中といひしを領主其名を忌みて改めしなり
○驛は延喜式に安那・品治・者度各廾疋とあり。安那驛は安那郡にあるべく品治驛は品治郡にあるべし。又者度驛は御調郡郷名に者度あれば御調郡にあるべし。然るに和名抄の(200)郷名を閲するに安那・品治二郡の外葦田郡にも驛家郷あり。品治驛と者度驛(驛址不明)との距離は大に過ぐべければ兩驛の間に今一驛ありて然るべし。さらば式に唯三驛を擧げたるは一驛を落せるにやと思ふに高山寺本和名抄の驛名にも安那・品治・者度(以上備後)とあり。或は初は三驛にて國府に代驛設備ありしを後に國府附近に新驛を置きしにや。以下しばらく四驛ありしものとして其驛址を擬定せむにまづ安那驛〔三字傍点〕は今の深安郡|神邊《カンナベ》町にて大字川北ならむ。備中の後月《シツキ》驛より此處に到りしなり。地名辭書と廣島縣小誌とには此驛を道上《ミチノウヘ》に擬せり。道上は川北の西北に當れり。川北の次が徳田にて其次が道上なり。今の道上村大字道上なり。福山志料卷十四(一頁)に昔ノ山陽道は今ノ石州路ニ由リシナリといひ又卷十六(一頁)に昔ノ山陽道ハ今ノ道上村ヲ經、府中ヲ過テ八幡ノ方ヲ通ズト云といひ、廣島縣小誌(三〇五頁)に
 神邊城址 高屋川の右岸に當る。中古山陽道此地を經由して備後國府に向ふ。近古漸く轉じて高屋川左岸に沿ひて下る
といへり。高屋川は備中國高屋より發し西流して蘆田川に注げる川なり。次に品治驛〔三字傍点〕は今の蘆品郡|驛家《エキヤ》村の大字中島ならむ。同地に驛《ウマヤ》山(又馬宿山又馬驛山)最明寺といふ寺あ(201)り。小誌(一四頁)に
 品治郡驛家郷 蘆品郡戸手村近田(驛山馬宿山最明寺)
といひ又(二〇頁に)
 品治驛(品治郡驛家郷) 蘆品郡戸手村近田
といへると同處なり。中島と近田とは相接せり。又近田村と戸手村とは今は別村なり。近田村は驛家村と戸手村との間なり。驛家村は新名なるがエキヤと訓ませたるはいと拙し。驛家はいにしへウマヤと唱へ又は音にてヤケ又はヤカと唱へしなり(播磨風土記新考六〇頁參照)。次に葦田郡の驛家〔六字傍点〕は小誌(二〇頁)に
 ○○驛(蘆田郡驛家郷) 驛家郷の位置詳ならず。國府即驛家なるべし
といへれど國府の所在は葦田郷なれば驛家郷は國府なるべからず。思ふに葦田郡の驛家は府川の西南に當りて府川と同じく葦田川の左岸に沿ひて其距離半里許なる岩谷村大字父石の附近ならむ。御調川、西南より流れ來りて此處にて大田川と相會して蘆田川となれるなり。次に者度驛〔三字傍点〕は訓むべきやうだに知られず。否誤字ならむも知られず。版本和名抄御調郡郷名に者度とありて伊都土と訓註したれど同書高山寺本即古寫本に(202)は訓註なし。又同本の驛名には者を看と書けり。※[看と者が一つになったような字]は古寫本に※[看と者が一つになったような字]に代へて書ける字なり(又之に之繞《ジネウ》を添へたるを遁に代へたり)。さて地理志料に
 富永氏曰ク。者ハ恐ラクハ都ノ省文ナリ。瞽者ノ名、某一ト稱スル者或ハ都ノ字ヲ用フ。塙保己一・葦屋|麻績都《ヲミイチ》ノ如シト。因リテ謂フニ吾總ノ相馬郡ニ都部村アリ。呼ンデ伊知夫トイフ。凡四方輻湊ノ所之ヲ市ト謂フ。即|五十路《イチ》ナリ。……都ヲ讀ンデ市トイフハ蓋義訓ナリ。附シテ攷ニ備フ。福島正則ノ領地目録(ニ)御調郡宇都戸村アリ。寛知集ニ宇都登ニ作レリ。是者度ノ轉ナリ。……意フニ品治ヨリ國府ニ至リ此ヲ經テ安藝國眞良ニ入ル、是古道ナリ。藝備國郡志ニ柞原《ミハラ》郷東野村絲埼ノ地ヲ以テ之ニ當テタルハ地理ヲ失セリ
と云へり。是亦地理を失せり。宇津戸は尾道より發し同郡市村・世羅郡甲山町を經て出雲國に到る道に在りて市村よりは西北、甲山町よりは東南に當れり。備後の府中より安藝の眞良に到るには市村より北方を經べからず。地名辭書には
 者度は其訓註より推せば字畫を誤れる如し。恐らくは壹字を謬寫したるならん。後世ツを省きて今の絲崎そのイツトの埼なるべし
(203)と云へり。著者は府中より先の古官道を如何にか想像したりけむ。葦田郡驛家郷の下に「栗柄《クリカラ》・柞摩《タラマ》などの山中なるべし」と云へるを見れば府中より南下して今津に出でし如く想像したりけむ。今津より更に西南に向ひて絲崎に到らむに其途中(柞磨・絲崎間)無驛にして可ならむや思ふべし。思ふに古官道は彼父石より御調川を泝り今の市村・河内村・八幡村を經て安藝國に入り佛通寺の附近を經て今の豐田郡高坂村大字眞良に達せしならむ。此道今も里道として殘れり。即佛通寺よりその鎭守神なる備後國御調郡宮内(今の八幡村の大字)の御調八幡宮に通ひし路なり。さて所謂者度驛は今の市村附近ならむ。廣島縣小誌に
 御調郡者度郷 御調郡市村
 者度驛(御調郡者度郷) 御調郡市村
とあり又(一三頁に)
 驛路は高屋川の流域より蘆田川の流域に移りて備後國府に達し御調川の谿谷を溯り山を越えて安藝國に入り云々
といへるは適に余の考へたる所と一致せり○當國十四郡の内深津・沼隈・品治・蘆田の四(204)郡と安那・神石の一部とは福山領、御調・世羅・三谿・三次・惠蘇・奴可・三上の七郡と甲奴の一部とは廣島領にて其他は幕府及中津藩の領地なりき。福山領の事は福山志料によりて知らるべく廣島領の事は藝藩通志によりて知らるべし。右二領以外の事をも記述せるは廣島縣小誌なり○此國の風土記の逸文として疫隅國社の一節ぞ傳はれる。そは明に後世の僞作なれば註釋は作らざらむかとも思ひしかど世々の學者をも惑はししものなればなほ註釋を作りつ。但總説の次には附せずして卷末に掲げつ
 
(205)   安藝國 無
 
此國の名古くより安藝と書ける、その藝は濁音の假字なれば古はアギとぞ唱へけむ。名義は知られず。神代紀の一書に是時素盞嗚尊下2到於安藝國|可愛《エ》之川上1也とあり、神武天皇紀に至2安藝國1居2于|埃《エノ》宮1(古事記には阿岐國之多祁理宮)とあり、仁徳天皇紀三十八年に安藝|渟田《ヌタ》とあり、安閑天皇紀元年に獻2安藝國|過戸《コシベ》廬城部屯倉1とあり、推古天皇紀二十六年に遣2河邊臣於安藝國1令v造v舶とあるなどは無論追書なり。皇極天皇紀元年九月に東限2遠江1西限2安藝1發2造宮丁1とあるも大化改新以前なればなほ追書ならむ。されば當國名の眞に國史に現れたるは孝徳天皇の白雉元年十月に遣2倭漢直《ヤマトノアヤノアタヒ》縣等於安藝國1使v造2百濟舶二隻1とあるを始とすべし。國造本紀に
 阿岐國造 志賀高穴穗朝(○成務天皇)天湯津彦命五世孫飽速玉命定2賜國造1
とあり。鈴木重胤は則知ル安藝は諸《コレ》ヲ飽速玉命ニ取ルヲ(據志料)と云へれどいかが。飽速玉命のアキと阿岐國のアキとは偶合に過ぎざらむ。少くとも人名が原、國名が次にはあらじ。三代實録貞觀九年紀十月十三日に授2安藝國從五位上安藝都彦神正五位下1とある(206)は伊勢國の伊勢津彦の如き國神にや。
 ○當國神名帳に國府に阿藝都彦明神とあるが是なり。總社の祭神の中に阿支國地主神とあるも是にや
さらば或は此神の名よりや國の名は起りけむ。否それも輕斷すべからず。彼伊勢風土記の逸文に
 天皇大歡詔曰。國宜d取2國神之名1號c伊勢u
とある、はた鵜呑にはすべからず○當國、古より八郡にて延喜式に
 安藝國 上 菅 沼田・賀茂・安藝・佐伯・山縣・高宮・高田・沙田
とあり、和名抄に
 安藝國(國府在2安藝郡1) 管八 沼田(奴太)賀茂・安藝・佐伯・山縣・高宮・高田・沙田(萬須多。今沙作v豐、止與太)
とあり。沙田は此訓註を添へし時代には豐田と改稱せられたりしなり。抑和名抄の國郡郷名表を作製せしと之に訓註を添へしとは時代頗隔ちたり。訓註の中には後世の轉訛に從へるものあるのみならず往々臆測を以て訓みしにはあらざるかと疑はるるもの(207)あり。誤りて訓証を當初のものと思ふべからず。さて八郡の順序は東南に始まりて西へ西へと數へ、それより北に轉じて東へ東へと數へ、終に東南に歸れるなり。くはしく云はば當國の東南隅は沼田《ヌタ》、其西が賀茂、其西が安藝、其西が佐伯《サヘギ》、其北が山縣、其東が高宮、其東南が高田、其東南が豐田、其東南が初の沼田なり。中古に至りて右八郡中高宮は高田に呑まれ沼田は豐田に(其西部は恐らくは賀茂に)併せられて古の郡は六となりしかど其|代《カハリ》に安藝が安北安南に、佐伯が佐東佐西に分れしかば八郡の數は變ぜざりき。
 ○藝藩通志卷一に
  嚴島棚守家に藏せる長元(○後一條天皇御世)永承(○後冷泉天皇御世)間の國|解《ゲ》みな安南・安北・佐東・佐西の郡名を載せて沼田・高宮は見えず。其時既に八郡なり。蓋二大郡を分ちて二小郡を廢し戸口の多寡を均くせるにや。但故府田所家に所藏保安(○鳥羽天皇御世)頃の免田牒に吉田郡ありて(○右八郡ノ外ニの意)沼田郡なければ九郡とす。又豐田郡樂音寺古神名帳(○此寺に當國の神名帳一卷を傳へたるなり)には沼田吉田二郡倶に存じ餘郡猶八名あればそのかみ十郡の制亦證とすべきに似たり。然るに吉田郡は他書に見えず。おもふに高宮の名忌み避るものありて一時|權《カリ》に置(208)き易ふるに吉田を以せるにや。今高田郡の内に吉田村あり(○今の高田郡吉田町)。即古の高宮郡の地なり
といへり
然るに寛文四年にその安北を高宮と、佐東を沼田と改稱せしかば名のみは式抄の舊に復せしかど古の沼田と後の沼田と、又古の高宮と後の高宮と全く地を異にするに至りき。なほ彼大隅の姶羅《アヒラ》郡が後の姶良郡と、薩摩の伊作郡が後の伊佐郡と地を異にせるが如し。注意せずば迷ふべし。明治三十一年十月にこの紛らはしき高宮沼田二郡を合併して一郡とし、もと安藝佐伯二郡より分れしものなるが故に安佐《アサ》郡と名づけき。されば今は廣島・呉の二市を除きて豐田・賀茂・安藝・安佐・佐伯・山縣・高田の七郡なり○沼田郡を和名抄にヌタと訓註せるは沼の古言はヌなるが故なり。
 ○萬葉集にもヌマとよめる例あれど卷十一なる青山ノイハ垣|沼間《ヌマ》ノミゴモリニコヒヤワタラムアフヨシヲナミといふ歌の外は皆東歌なり
然るに後世はヌといはでヌマとのみ云へばそれに引かれて今も本郡の故地に殘れる地名及河名の沼田をヌマタと唱ふるものあり。仁徳天皇紀三十八年に猪名縣(○後の攝(209)津國)の佐伯部が鹿を獲て獻ぜしを惡みたまひし由見えて
 乃令3有司移2郷于安藝|渟田《ヌタ》1。此今渟田佐伯部之祖也
とある渟田は即此地なり。又仲哀天皇紀二年に
 皇后從2角鹿《ツヌガ》1發而行之。到2渟田門《ヌタノト》1食2於船上1。時|海※[魚+即]魚《タヒ》多聚2船傍1。皇后以v酒※[酉+麗]2※[魚+即]魚1。※[魚+即]魚即醉而浮。而《ソノ》時海人多獲2其魚1而歡曰。聖王|所v賚《タマヘル》之魚焉。故其處之魚至2于六月1常傾浮如v醉。其《ソハ》是之|縁《モト》也
とあるをも國人は此處とし藝藩通志にも能地《ノウヂ》村(今の豐田郡佐江崎村の大字)の青木(ノ)迫門《セト》なりと云へり。按ずるに越前の角鹿津より船にて長門の豐浦津に到りたまふに此地は經たまふべからず。ここに伴信友はその若狹國官社私考下卷|常神《ツネガミ》社の下(全集第二の一三七頁以下)に
 若狹國三方郡丹生浦の琴引が崎(○今の山東村大字丹生の内)と同郡常神の岬(○今の西田村大字常神の内)との間を管絃の渡といひ古名をノタノトといふ。是仲哀天皇紀の渟田門なるべし(○大意抄出)
といへり。しばらく此説に從ふべし。さて此一節は本國(若狹にもあれ安藝にもあれ)の風(210)土記より採りしならむ。信友もおぼろげながら「古傳の本書ありて採られたる文なるべきか」と云へり○豐田郡の舊名沙田をマスダとよむ所以に就いて地名辭書に
 沙字は万佐古の訓あり。之を約めてマスに訛れる歟。又沙田を古言にマスタと呼びしにや。その豐田と改稱したるより見れば本義は増豐のマスにて沙礫のマサゴにあらざるに似たり。兩意今決し難し
といへり。按ずるにマスのマは美稱、スは沙の本語なり。今も白沙をシラスといひ沙濱をスハマといふを思ふべし。神代紀に神名のスヒヂニを沙土煮と書きて沙土此云2須※[田+比]尼1と註したるも沙をスに充てたるなり。地理志料にも按陸奥磐井郡沙澤村、村名帳作2鱒澤村1といへり。スは往々洲と混同せられたり。元來|沙《ス》ノツモレル處といふ意にて洲をスカといひしに(復軒雜纂にも「奥州方言に洲沙の地をスカといふ」と云へり)後には略してスとのみ云ひて、沙はスナ・スナゴ・マサゴ・イサゴ・マナゴなどいふが常なる事とぞなりにけむ
 ○地名の大須賀・横須賀・高須賀などは本來大|洲《スカ》・横|洲《スカ》・高|洲《スカ》にてそのカは初には濁らざりけむ。今も相摸の横須賀・氏の蜂須賀などはカを濁らず
(211)されどマスタを沙田と書けるは擬字にて、名義は或は益田ならむ。地名辭書の著者は擬字と名義とを分つ事を忘れしかば「兩意今決し難し」と迷へるなり○以上古八郡中海に臨めるは沼田・賀茂・安藝・佐伯の四郡なり。古官道は右四郡を貫けるなるが今の國道と一致せる處もあれど大部分は北方に偏れり。其事は次々に云はむ。驛名は延喜式流布本に
 安藝國驛馬 眞良 梨葉 都宇 宇鹿〔二字傍点〕 附□〔二字傍点〕 木綿 大山 荒山 安藝 伴部 大町 種箆 濃唹 遠管各廾疋
とあり。然るに高山寺本和名抄には宇鹿は無くて鹿附とあり。延喜式流布本は誤りて都宇の字を再書しそれに鹿附の鹿をつづけたるなり。されば都合十三驛なり。抑當國の廣徑は凡二十里(據日本地誌提要)古官道の延長は知られねど十三驛は多きに過ぐるここちす。ここに類聚國史卷八十三正税の下に
 承和五年五月乙丑安藝國言。驛家十一處。驛家|別《ゴトニ》驛子百廾人、山路嶮阻送迎繁多、良《マコトニ》倍2他國1勞逸不v等云々
とあり(此文續日本後紀には脱漏せり)。されば初十一驛なりしに當國の驛路は多くは山中を通過して嶮岨なるが上に紆曲多きに由りていつの御世にか二驛を増置せられし(212)なり。さて驛路は備後御調郡の者度驛より來りて當國沼田郡の眞良驛に到り當國佐伯郡の遠管驛より周防玖珂郡の石《イハ》國驛に到りしなり。十三驛中眞良・梨葉・都宇は沼田郡に、鹿附・木綿は賀茂郡に、大山・荒山・安藝は安藝郡に、伴部以下五驛は佐伯郡にぞ屬しけむ○眞良〔二字傍点〕は和名抄流布本郷名に新良、同高山寺本に信羅と訓註せり。此訓註に依りて地理志料にはシラギとよみ地名辭書にはシンラとよめり。宜しくシラとよむべし。播磨風土記飾磨郡の部に今の白國の事を
 所3以號2新良訓《シラクニ》1者昔新羅國人來朝之時宿2於此村1。故號新羅訓1
といひ(新考一三六頁參照)欽明天皇十五年・繼體天皇紀七年などに斯羅とあり。されば母名なるべき新羅國も必しもシラギと云はでシラとも云ひけむかし。さて藝藩通志卷八十七豐田郡の部(一四二九頁)に
 按に當郡官道の故路、東は御調郡界中野村より西は賀茂郡高屋東村に出るといふ。延喜式驛馬の部には眞良・梨葉・都宇とあり。都宇其所を失ふ
と云へり。中野村は今の高坂村大字山中野にや。余は今少し南方にて國界を踰え今の大字|許《モト》山(即佛通寺の所在)を通過せしものと認む。又
(213) 眞良《シンラ》材 此村と別迫村とを合せて今も眞良の郷とよぶといへり。別迫《ベツサコ》は即今の許山なり。地名辭書に眞良驛を「今の長谷《ナガタニ》村の下沼田に當るべし」といへり。下沼田と云へるは同村の大字|沼田下《ヌタゲ》の誤ならむ。さてかく云へるは前驛者度を備後の絲崎と認めたる餘勢のみ。古官道は沼田下を經べからず。眞良驛址は今の豐田郡高坂村大字眞良なり(今はシンラと唱ふ)。同村に馬井谷といふ字あり。關係はなき名にや。次に梨葉驛〔三字傍点〕は通志(一四三〇頁)に「梨葉は南方北方の邊を今も梨羽郷といへり」と云へり。北方村は今上下二村に分れその下北方村は南方村と國道を相夾めり。又上北方村は下北方村の西方に在りて國道より岐れたる縣道に跨れり。古官道は沼田川に治ひて泝りきと思はるれば梨葉驛址は今の上北方村附近ならむ。廣島縣小誌には南方村に擬せり○次に都宇驛〔三字傍点〕を通志に
 都宇いまだ詳ならず。或人は今の入野《ニフノ》村を以都宇にあてたり。是は延喜式驛馬の次第によりての考なり。されど入野はもと倭名抄賀茂郡の内にて沼田郡にあらず。都宇はもと津の義にて海上の稱なるべければその忠海《タダノウミ》以西の海邊より山手をかけていへりしか云々
(214)といへり。地名辭書に「賀茂郡三津・三津口の邊なるべし」とい へるは通志の考證に基づきただ通志に竹原より東の地方を擬したる代に西の地方を充てたるのみ。古官道は三津町・三津口村などは經べからず。されば辭書にはその安直《アチカ》郷の條に「此驛は山陽道の別路にて眞良驛より安鹿・都宇を經て荒山に向へるごとし」と云へり。辭書に古官道に別路ありとしたるは固より非なり。通志に今の上北方村より今の賀茂郡東高屋村に至る縣道を以て古官道としたるも亦非なり。此道は後世の開通にて、古官道は上述の如く沼田川に沿ひて泝りしなり。都宇の本語はげに津ならむ。されど津は海邊に限らず。河にも河津あること言ふを待たず。この津即都宇は河津より起りし名ならむ。さて都宇驛址は今の豐田郡|河内《カフチ》町大字|中河内《ナカガフチ》(山陽本線かうち驛)の對岸か○藝藩通志卷一(三一頁)に「延喜式に云安藝國驛馬眞良・梨葉・都宇・左宇鹿・附木綿云々」といへり。都宇・鹿附・木綿とあるべきを流布本に誤りて宇を再書し又句讀を誤りて都宇・宇鹿・附口・木綿とこそしたれ、左の字は無きを、通志には造果郷に擬せむ爲にことさらに左を補ひて都宇・左宇鹿・附木綿としたりとおぼゆ。さて卷七十八賀茂郡の部(一二四五頁)に
 當郡官道の古路は東は高屋東村・堀村・杵原村・造賀村・正力村・飯田村・宗吉村を經て大山(215)をこえ安藝郡に出づといふ。延喜式驛馬部佐宇加・木緜二名當郡に係る。
  ○鹿を無心に加に改め又妾に附の字を除きたり。これが爲に鹿附といふ驛名は二字共に無くなりたり
 倭名抄郷名にも造果・木綿あり。佐宇加・造果は今の造賀なり
といへり。都宇・鹿附を流布本延喜式に誤りて都宇・宇鹿・附口とせるに妾に左又は佐を加へて左宇鹿又は佐宇鹿といふ一驛名(三字にして其上に音訓の交りたる)を造り、それを和名抄の造果郷即今の造賀村に充てたる爲に古官道を造賀村へもて行きたるなるが古官道は恐らくは造賀村を經ざりけむ。地名辭書賀茂郡高屋郷の下には
 高屋は驛路にあたる。延喜式梨葉木綿の間とす。同書に木綿の上に附とあるは蓋驛名二字を脱して附の一字を誤り遺したるものとす
と云へり。梨葉・木綿の間にあらず、都宇・木綿の間にてその驛名は適に鹿附なり。辭を換へて云はば鹿附驛〔三字傍点〕地は今の賀茂郡東高屋の内にぞあらむ。
 ○同書には流布本延喜式に宇鹿とあるに誤られそを更に安鹿の誤として和名抄安直郷に擬したり
(216)又通志に
 又壬生忠見集に「あきの國あし山を雨のふるにこゆる」といへる和歌見えたり。アシ山は即杵原村の内にて造賀村の路筋なり。忠見は延喜頃(○少し後)の人にて倭名抄同時なれば彼此まじへ考へ古路の所由を證すべし
と云へり。忠見集は群書類從卷二百六十二に收めたり。その中に
 つくしにくだるにあきの國あこ山(○こノ傍ニしのイト註セリ)を雨のふるにこゆ※[るを□で囲む]とて 一たびもまだ見ぬ嶺(○傍ニみちイト註セリ)にまどはぬは雨のあしこそ指南《シルベ》也けれ
とあり。杵原は今の西高屋村の大字なり。此處を經しを思へば今の里道より北方を通りきと見ゆ。無論造賀に到らむとするにはあらざるなり○次に木綿驛〔三字傍点〕は通志同卷(一二四六頁)に
 木綿は今寺家村の内にユフツクリといへる地名あり。古、此あたりを木綿の郷と稱せしと見ゆ
といへり。寺家《ジケ》は今の寺西村の大字にて西町の西に續けり。以上二驛は賀茂郡なり。梨葉・(217)都宇・鹿附・木綿の間の驛路は今の國道よりは遙に北方に偏れり○賀茂郡と安藝郡との間に瀬野大山といふ峠あり。其西南麓に上瀬野村あり。其字に大山あり。是大山驛〔三字傍点〕祉なり。通志卷三十七安藝郡の部(四九九頁)に
 當郡の官道古は瀬野・畑賀より故府に出る(其道より山を國府ごえ〔四字傍点〕とよぶ)。故府より西は矢賀村より牛田村の山足をめぐり新山村に至り大田川を渡りて西佐伯郡に出たりと見ゆ。延喜式驛馬部に所載大山・荒山・安藝の三名は皆當郡の郷里にて驛郵のある所と覺ゆ。大山は今の瀬野にて安藝は故國府なるべし云々
といへり。廣島縣小誌には大山驛を賀茂郡川上村大安宗吾とせり○次に荒山驛〔三字傍点〕は通志に「詳ならず」と云へり。大山驛と安藝驛との間なれば今の中野村の内にや。同書に又
 今中野村に荒山といへる山名あれど是は此地の八幡、甲斐荒山より移せし後の名なりともいへり
と云へり○安藝驛〔三字傍点〕は同書に
 安藝は故國府なるべし。保安(○鳥羽天皇御世)の文書に府驛家とあれば昔の官道の故府を經しこと知るべし
(218)と云へり。又同書に本郡の郷名を吟味して「驛家郷は或は云今の矢賀村その遺名なりやと」と云ひ又矢賀村の下に「或云當村は倭名抄所載の驛家郷なるべしと」と云へり。本書の著者は當郡の驛家郷を兵部省式所載の大山・荒山・安藝三驛と別とせるに似たれど驛家無くば驛家郷と稱すべからず。さて其驛家郷の驛家を右三驛と別とせむに國府は佐伯郡界に近ければ府驛家と佐伯郡界との間に更に一驛を置くべからず。思ふに安藝驛は矢賀村に在りしにて其地國府に近ければ府驛家〔三字傍点〕とも云ひしならむ。さて矢賀村は初國府と共に安藝郷の内なりしかど後に獨立して驛家郷とぞ稱せられけむ。その矢賀は驛家の換字なり。古驛家を音にてヤケともヤカとも云ひし事備後國の下(二〇一頁)に云へり。矢賀村は今廣島市に入りて矢賀町といへり。以上三驛は安藝郡の内なり○通志卷六廣島府の部(一〇〇頁)に
 昔の官道東は矢賀村の内より山を越えて尾長山下に沿ひ牛田村に出、川(○太田川)を渡りて今の沼田郡(○佐東郡)伴大町を經、佐伯郡石内村の方に出しと見えたり
といひ又卷四十五沼田郡の部(五九七頁)に
 昔は當郡の官道東西往還の路、東は長束村より金山の麓をめぐり西に行こと數里、海(219)邊に出て周防に向ふ。延喜式驛馬の部に大町・伴部の二名あり。今村名に現存すれば故路の所由しるべし
 大町村 倭名抄大町(○郷)あり
 伴村 倭名抄(○郷名)に土茂と書す
と云へり。即同書は伴部を今の安佐郡伴村に、大町を今の同郡安村大字大町に擬したるなり。伴部は部を略してトモとも訓むべく(海部を部を略してアマとも訓む如く)又之をトモと訓めば郷名の土茂と一致すれば件部驛を今の伴村とするは可なれど大町驛を今の大町とせば延喜式に伴部・大町と擧げたるを顛倒とせざるべからず。又國府即今の府中村より長束村を經て伴村に到るに北方なる大町を經べからず。又次驛種箆を佐伯郡平良村とすれば伴村との距離大に過ぐ。地名辭書には伴部を安藝郡失賀村とし大町を佐伯郡草津村とせり。かくすれば各驛の距離は恰好なれど矢賀村は安藝驛の址なるべき事前に云へる如し。思ふにもし件村を伴部驛とし平良村を種箆驛とせば大町驛は兩者の中間とすべきなり○種箆驛は通志卷五十一佐伯郡の部(七三九頁)に
 古當郡の官道東より西に通ふに伴部・大町・種※[竹冠/昆]・濃唹・遠管の五驛ありと見えて延喜式(220)驛傳の部に見ゆ。是皆古は當郡内なりしが今伴部・大町は沼田郡(○佐東郡)に入る。種箆以下の三驛は今の郡内にあるべけれど皆其所在を詳にせず。おもふに※[竹冠/昆]は箆の誤なりや(○延喜式驛名には種箆とあり)。されば今の平良《ヘラ》村其遺名にても有べきか。然れども種の字義詳ならず。……古は大町伴より石田・寺田・保井田・千同・佐方洞雲寺の邊に出たり
といひ又(七四三頁に)
 上平良村 或は平樂の字を用ふ。倭名抄の種※[竹冠/昆]なりや。後唯一村の名となり元禄中に又上下二村に分つと見ゆ。今も此邊を總稱して平良の庄といふ
と云へり○次に濃唹驛〔三字傍点〕は通志に
 濃唹は淤濃に作るべきか。今官道の村名に大野あり
といへり。濃唹は顛倒にあらず。訓はノにて一音なれば之を二字にせむ爲に母韻の唹を添へたるにて參河の郡名|寶《ホ》飫・大隅の郡名|※[口+贈]《ソ》唹・和泉日根郡の郷名|呼《ヲ》唹・備後奴可郡の郷名|斗《ト》意・石見那賀郡の郷名|都《ト》於・日向兒湯郡の郷名|覩《ト》唹などと同例なり。廣野中に設けたる驛なれば野と名づけ後に其廣野を開きて村を起ししかば大野と名づけしならむ。今(221)此村と嚴島との間を大野(ノ)※[廻の回が白]門《セト》といふ○次に遠管驛〔三字傍点〕はその名三代實録貞觀十七年十月十日の條に見えたり。通志に
 此驛今其所を失ひぬ。地理を以考れば小方・木野《コノ》の内なるべし
といひ地名辭書には遠管をヲクダと訓みて今の小方をその轉訛とせり。按ずるに所謂四十八坂などの山路を經て海岸の平地におり立ちたる處なるべければ恐らくは今の玖波《クバ》村ならむ。玖波の西南が小方村、小方の南が大竹村、大竹の西が木野《コノ》村にて後の二村は大竹川(木野川)に臨めり。大竹川が安藝周防二國を界せる事今も猶昔のごとし。大竹川は俗に堺川といふ。續日本紀天平六年九月に
 制。安藝周防二國以2大竹河1爲2國堺1也
とあり○和名抄流布本に據れば本郡にも驛家郷あり。地理志料には
 驛家ノ二字宜シク遠管ノ下ニ移シテ之ヲ小書スベシ。蓋傳寫ノ譌
といへり。按ずるに和名抄流布本郷名に建管驛家大町土茂とあり。同高山寺本には建部大町土茂とありて驛家なし(高山寺本には驛家といふ郷名を録せざるが例なり)。通志も地理志料も地名辭書も皆建管を遠管の誤としたれどこは高山寺本に建部とあるが正(222)しからむ。
 ○或は建部驛家とありて驛家の傍にさかしらに遠管と書きたりしを流布本には誤りて建管驛家としたるか
即和名抄郷名に建管驛家とあるは建部驛家の誤ならむ。もし諸書に云 へる如く之を遠管驛家の誤とせば遠管郷の外に更に驛家郷ありとせざるべからず。さればこそ志料に驛家を遠管の註と認むべしと云へるなれどさる例、外に無きをや。或は遠管驛家と續けて見べきかとも思へど一郡に二つの驛家郷あらばこそ地名を添へて△△驛家郷とも云はめ唯一つあるには地名を添へていふ必要もなく又さる例もなし。ともかくも本郡の驛家郷は遠管驛所在地と認むべくや○ここに萬葉集卷五に
 大伴君熊凝者肥後國益城郡人也。年十八歳以2天平三年六月十七日1爲2相撲使某國司官位姓名從人1參2向京都1。爲v天不幸在v路獲v疾即於2安藝國佐伯郡高庭驛家〔四字傍点〕1身故也
とあり。延喜式には高庭といふ驛名見えず。されば天平時代に有りしが後に廢せられしなりとするか又は後に改稱せられしなりとせざるべからず。延喜式所載本郡五驛の所在多くは明ならざれば各驛間の距離確には知るべからず。從ひて各驛の排置適當にし(223)て廢驛嵌在の餘裕なしとは云はれず.但常識上よりは驛名が變更せられしにあらざるかと思はる。さて前説如何と見るにまづ通志には其卷五十一(七四四頁)に
 玖波村 萬葉集に見えたる高庭驛の音訓轉じて玖波の字になりしにやといへり
といひ又卷五十四(七九一頁)に
 高庭驛 此驛は今の玖波驛なるべきか。玖波・高庭《カウバ》國音相近く轉訛して字を改めしにや。或は今の谷和村なるべしともいへれど谷和は正中の頃闢きしといへば玖波是なるべし
といへり。今の玖波驛といへるは玖波は本書編纂當時の山陽道の一驛|站《タン》(宿驛)なればなり。高庭を上古は勿論の事、中古近古といふともカウバとは訓むべからず。著者の國文學素養今少し深からば、たとひかかる愚説を傳ふる者ありとも之に耳を貸し之を紙に載せざらまし。
 ○因に云はむ。紀伊續風土記の編纂は仁井田好古に本居内遠・加納諸平副ひたりしかば國文學上の缺陷は無きに近し。菅茶山の福山志料は此點におきては本書即藝藩通志よりも劣れり
(224)次に地名辭書にはその濃唹郷(○和名抄の郷名※[口+替]濃を改めたるなり)の下(一一四二頁)に
 濃唹驛は萬葉集に安藝國佐伯郡高庭驛とあると同所なるべし。今|地御前《ヂノゴゼン》村と大野村の間に中山と云ふ峠あり。其邊に高畠と字する地は高座《タカバ》の遺號とす。或はおふの中山と號す
といへり。高庭と高畠と音の相近きに似たるは偶然のみ。否高庭はタカバと唱へずしてタカニハと唱へしなり。庭又場をバといふは後世の轉訛なり。思ふに高庭の名義は高き平地なれば其地は山の麓ならむ。おそらくは彼熊凝男は周防國より此國に入りてまさに山路にかからむとして病の爲に登攀に堪へず獨一行に後れ路傍に困臥して終に異郷の鬼となりしならむ。右の如くなれば高庭驛は熄後の遠管驛にて今の玖波村ならむ。大野村及玖波村の地形圖は通志卷四十九(六六三頁及六六四頁)に出でたり。玖波の宿より山路にかからむとする處に馬ダメシといふ地名あり。昔は馬ココロミとや云ひけむ。ゆかしからずやは。さて高庭を遠管と改めしは天平三年六月より貞觀十七年十月までの間なり
 ○因に云はむ。山陽道は廣島の城下の開けて同處を通過する事となりし後までも二(225)十日市より玖波までは山中を通過せしなり。今の如く海岸を傳へるは明治十三年以來の事なり
○國府は和名抄に在安藝郡とあり。今廣島市の東北郊に府中村あるが其址なり。廣島縣史第三編(八八頁)に
 國廳址 府中村石井にあり。地名を國廳と呼ぶ。王朝時代安藝國廳のありし所なり。今は往昔の在廳田所氏の裔孫ここに住す
 總社址 國廳址の東北にあり。往昔の總社明治七年まで存在せしが同年故ありて之を廢す
とあり
 
(226)   周防國 無
 
周防は和名抄國名に須波宇と註し今もスハウと唱ふれどこは後世の音便にて、原名はスハならむ。古事記傳卷七(四二五頁)周芳國造の註に
 師(○眞淵)は須波と訓れき。まことに萬葉などにも芳は波の假字に用ひ又スハウと云むよりは古言の體なり。されど此國名を正しく然云る例を未見ず(萬葉四に周防在磐國山乎とよめるもスハナルかスハウナルか定めがたし)。和名抄にも周防(須波宇)とある故に今も然訓つ。名義いまだ考得ず
といひ小寺清之の老年餘喘中卷に
 諸の國の號皇國言ならぬはなきに周防のみ皇國言ならぬはいかにもしかあるまじき事にて和訓あるべきなりとおもふに、まづ其名義をたづねずしてはいかにとも定がたし。よりて其國形をも聞て考つるはもとはスハといへるなり。古事記に周芳國とあり。此芳の字をば萬葉集に芳宜《ハギ》などと波のかなに用ひたり。スハは岨にてスとソとは常にかよふ音也。……然れば岨の國の意なればスハと訓べし。信濃の諏訪も地の(227)さま同じ。萬葉の周防在はスハナルと四言によむべきなり。初句を四言によめる例多し。和名抄に周防(須波宇)とあるは後の唱への訛れるままにせるなり。彼抄はさる例多し。……古事記に周芳國とあるを眞淵はスハとよめれど名義をとかず。本居氏は「此國の名を正しく然いへる例を見ず」といひ又「萬葉四に周防在磐國山乎とよめるもスハナルかスハウナルか定めがたし」といへり。是みな考のたらざるなり
といひ日本地理志料に
 按ズルニ古事記・日本紀ニ周芳ニ作リ信濃ノ諏方郡訓ジテ須波ト云 ヘリ。蓋同語ナリ。宇ノ字は方言ニ從ヘルノミ。古訓ニ非ザルナリ。安房ノ安房郡・下野ノ芳賀郡・安藝ノ志芳郷ノ如キ方・芳・房皆|波〔右△〕ト訓メリ。以テ例トスベシ。隋書倭國傳ニ秦王《スワ》國ニ作レリ。當時未|譌《アヤマ》ラザルナリ。神名式ニ都濃《ツノ》郡二俣神社アリ。世ニ周方大神ト稱ス。ソノ古|諄辭《・ノリト》ニ云ハク。建御名方神、出雲ヨリ遁レテ此ニ居リ建御雷神、兵ヲ稱《ア》ゲテ來リ逼ル。建御名方神之ヲ聞キ驚キテ曰ク須波耶《スハヤ》ト。遂ニ信濃ニ遁ル。故ニ其地ヲ號シテ周芳《スハ》國ト云フ。遂ニ信濃ニ居リ。故ニ亦諏方ノ稱アリト。姑ク附シテ考ニ備フ
といへり(此外日本紀標註卷八及好古叢誌初編卷三飯田武郷氏「國名の周防は古、須波と(228)稱へしこと」參照)○周防の原名スハなるべき上は萬葉集卷四(新考六八六頁)なる
 周防在、磐國山をこえむ日は手向よくせよあらき其道
といふ歌の初句はスハウナルといふ舊訓を棄ててスハナルと四言に訓むべきか。但當時夙く音便に從ひて音を延ぶる事行はれてヤヤニをヤウヤウニといひマクをマウクといへる例あれば(萬葉集新考九九五頁漸々可多知久都保里又同三七九四頁布禰毛麻宇氣受參照)或はスハも亦夙くスハウとや云ひけむ○國造本紀に大島國造・波久岐國造・周防國造・都怒國造と並べ擧げたり。大島國が後の大島郡、周防國が後の熊毛玖珂二郡、都怒《ツヌ》國が後の都濃《ツノ》郡なる事は論なし。波久岐國は後の備後の一地方に擬する説もあれど大島國と周防國との間に擧げたればなほ後の周防國の内ならむ。
 ○應神天皇紀二十二年に因以割2吉備國1封2其子等1也。則……次……次……復以2波區藝縣〔四字傍点〕1封2御友別弟鴨別1。是笠臣之始祖也とあるはここの波久岐國とは別ならむ。然るに後の周防國の内に波久岐といふ地なければ出口延佳は之を與之岐國の誤として後の吉敷郡に充てたり。しばらく此説に從ふべし。然らば波久岐は都怒の後にあるべきをと云はむに國造本紀の順序のととのはざるは此處のみにあらねば異とすべから(229)ず。さて右の國々を大化改新の時に合併して一國とせられしなり○景行天皇紀十二年九月に到2周芳娑磨1とあり仲哀天皇紀八年正月に參2迎于周芳沙麼之浦1とあり推古天皇紀十一年二月に仍殯2于周芳娑婆1とあるなどは無論皆追書なり。大化改新以後の國名初出は天武天皇紀十年九月に周芳國貢2赤龜1。乃放2島(ノ)宮(ノ)池1とある是なり。古は稱呼を主とし從ひて後世の如く文字に重きを置かざりし事勿論なるが文武天皇紀元年十二月に周防等國飢とあるが周防と書ける始なり。但次年九月の紀には又周芳と書けり。畢竟此頃より漸々に周防と定まりしなり○當國は延喜式にも和名抄にも大島・玖珂《クガ》・熊毛・都濃《ツノ》・佐波《サバ》・吉敷《ヨシキ》とありて六郡なり。然るに續紀養老五年四月に分2周防國熊毛郡1置2玖珂郡1とあればそれまでは五郡なりしなり。大島郡〔三字傍点〕は玖珂郡の東南海中にある島嶼なり。玖珂都〔三字傍点〕の名義は陸なり。海路より云へば地方《ヂカタ》なるが故にかく名づけしなり。
 ○因に云はむ。クガはクヌガの略、クヌガはクニカ(國處)なり。ニが下へつづく時にヌとなるは神がカムとなり幸《サチ》がサツ(サツ矢など)となり栗がクル(栗栖など)となると同例なり。
熊毛郡〔三字傍点〕に周防郷あり。國名は此郷名より起りしなり。續紀光仁天皇寶龜十年六月に周防(230)國周防郡と見えたるは熊毛郡の一名を周防郡とも云ひしにや。都濃郡〔三字傍点〕は初ツヌと唱へしを後にツノと訛りしなり。雄略天皇紀九年に角國《ツヌノクニ》といへり。佐波郡〔三字傍点〕は和名抄に波音馬とあり。娑婆と書けるは勿論、佐波・婆磨・沙麼と書けるも皆サバと訓むべし(豐後風土記新考一三五頁參照)。和名抄に國府在2佐波郡1と云へり。なほ後にいふべし○驛は延喜式に
 石國 野口 周防 生屋 平野 勝間 八千 賀□各廾疋
とあり。高山寺本和名抄に依りて賀の下に寶を禰ふべし。石國驛〔三字傍点〕は地名辭書に「今の藤河村の大字關戸蓋是なり」といへり。關戸は岩國町より川上にて其西北に當れり。ここより岩國山を越え小瀬《ヲゼ》川一名大竹川を渡りて安藝の玖波《クバ》村に到りしなり。玖波は關戸より東北に當れり。古官道は今の國道より西方を走れり。今も里道ありて安藝の小方《ヲガタ》村にて國道に會せり。和名抄郷名に驛家石國とあるを地理志料に石國(驛家)の誤とせり。石國郷と驛家郷とは別にてその驛家郷なる驛の名は石國といひしか。熊毛郡にも周防郷と驛家郷とは別にて驛の名を周防といひし例あり。次に野口驛〔三字傍点〕は今玖珂村に字野口ありて國道に沿へる是なり。以上二驛は玖珂郡の内なり。次に周防驛〔三字傍点〕は辭書に「今の呼坂なるべし」と云へり。呼坂は熊毛郡勝間村の大字なり。和名抄當郡郷名に周防・熊毛・多仁・美和・餘戸・(231)驛家・波濃とあり。されば周防驛の所在は周防郷にあらず。志料には驛家の上に波羅の二字を補ひて波羅(驛家)とせり。如何なる根據ありてかと見るに驛址と思はるる呼坂に接して原といふ部落あり、その原を波羅と書けば次の波濃郷と頭相同しくなりて
 按ズルニ諸本ニ波羅ノ二字ナシ。偶、波濃郷ニ渉リテ脱簡ヲ致セルナリ
と云はるるが故なり。頗武斷ならずや。寧もとのままにて驛家郷と認むべし。志料には驛家といふ郷名の存在を認めざれど驛家といふ郷名もあるべき確なる證は播磨風土記賀古郡の部に後の賀古驛に相當するものを驛家里と云へり。右一驛は熊毛郡の内なり。次に生屋驛〔三字傍点〕はイクノヤと訓むべし。今の都濃郡花岡村の大字に生野屋あり。次に平野驛〔三字傍点〕は今の同郡|富田《トンダ》町の字に平野ありて共に今の國道に沿へり。和名抄當郡郷名に生屋・驛家・平野・驛家とあるを志料に生屋(驛家)平野(驛家)と改めたるはよろし。同郡に二つの驛家郷あるべからざればなり。以上二驛は都濃郡の内なり。次に勝間驛〔三字傍点〕は志料に爲2佐波郡西國衙村1といひ辭書に「今|富海《トノミ》村是なり」といひ山口縣史略に東|佐波令《サバリヤウ》村ニアリといへり。距離より見れば富海とするが叶へり。これも國道に沿へり。國府に近かりしは此驛なり。右一驛は佐波郡の内なり。次に八千驛〔三字傍点〕は辭書に「今臺道村なるべし」といひ史略に「八千詳(232)ナラズ。蓋今ノ臺道村ノ内」といへり。臺道は吉敷都大道村の大字なり。次に賀寶驛〔三字傍点〕はカガホとよむべく又今の嘉川村に當れりといふ。和名抄吉敷郡郷名に八千・嘉寶とあり。但ここには驛家とは無し。嘉寶驛より長門の阿潭《アタミ》驛に到りしなり。以上述べ來れる如くなれば當國の古官道は其東端の外はほぼ今の國道に齊し○國府址は佐波郡防府町大字東|佐波令《サバリヤウ》字國衙に在り。俗に其址を指して國府八町といふと云ふ。陸中國膽澤の鎭守府址を俗に方八町といふを思合すべし○萬葉集に見えたる當國の地名は彼磐國山の外は皆卷十五なる天平八年遣新羅使人等海路慟情陳思作歌の中に見えたり。まづ備後國|水調《ミツキ》郡長井浦・同風速浦・安藝國長門島・同長門浦にての歌ありて次に周防國玖珂郡麻里布〔三字傍点〕浦行之時作歌八首あり。今熊毛郡にも麻里府村あれど、ここには玖珂郡麻里布浦とあればなほ今の玖珂郡麻里布町なり。こは岩國町の東に接したる地域、今津・装束・室木《ムロノキ》・柱島の四大字に分れたる町にて室木の字に麻里布あり。右八首の中に
 いつしかも見むとおもひし安波之麻をよそにやこひむゆくよしをなみ
 安波思麻のあはじとおもふいもにあれややすいもねずてあがこひわたる
といふ歌あり。今此附近に阿多田島・甲島あり又|大畠《オホバタケ》迫門の手前には前島などあれどア(233)ハ島といふは無し。名のかはれるにこそ。又彼の八首の中に
 いへびとはかへりはやこと伊波比之麻いはひまつらむたびゆくわれを
 くさまくらたびゆくひとを伊波比之麻いくよふるまでいはひきにけむ
とあり。今祝島(一名岩見島)といふがあれど、そは熊毛郡室積町の南方海中に在りて大畠迫門より遙に西南に當れり。もし是とすれば麻里布浦行之時作歌とあるに合はず。無論行之時とありて船泊之時とあらねば作者の位置は固定せざれど大畠迫門より遙に西南に當れる島に寄せたる歌を麻里布浦行之時といふ題詞の下には收むべからず。或はこれも麻里布浦に遠からざる島にて其名今かはれるにあらざるか。又彼八首の中に
 筑紫道の可太能於保之麻しましくも見ねばこひしきいもをおきてきぬ
とあり。こは彼|大畠《オホバタケ》迫門を隔てて玖珂郡と相對せる大島一名屋代島なる事論なし。此島は古事記に二神が八大島を生みし後に六小島を生み給ひし事を敍べたる中に次生2大島1亦名謂2大多麻流別1といへる島にて日本紀にも次生2大洲1と見えたり(後者には大島を吉備子島と共に大八島の内に加へたり)。かかれば大島は太古よりよく知られたりし島なり。さて何故にツクシヂノ加太ノ大島といへるにか明ならず。余は萬葉集新考(三二二(234)九頁)に契沖の一説に從ひて
 可太は方なり。大島は諸國にあれば取分きてツクシヂノ方ノ大島といへるなり
といひしかどいまだ徹底せざる感ありき。再按ずるに此歌は麻理布浦附近を航行せし程に南方遙に大島を望みて作りしにて、ユクテニ見ユルといふことをツクシ路ノ方ノといへるなり。なほ云はば還路をヤマト路といふに(たとへば卷六にヤマト路ノキビノコジマヲとあり)對して往路をツクシ路といふ事勿論なるが、大島にはいまだ到らざるが故に方ノといへるなり。加太をカダと訓みて地名とせる説はひが言なり○次に過2大島鳴門〔四字傍点〕1之後追作歌二首あり。大島鳴門は即今の玖珂郡鳴門村|大畠《オホバタケ》と大島郡小松町との間なる大畠迫門なり○次に熊毛浦〔三字傍点〕船泊之夜作歌四首あり。和名抄に熊毛郡熊毛郷あり。熊毛浦は今の佐賀村大字小郡か。小郡は本郡の東南部の、半島を成せるその西岸に在りて近く上の關海峽の北方に當れり。その四首の中に
 おきべよりしほみちくらし可良能宇良にあさりするたづなきてさわぎぬ
といふ歌あり。カラノ浦は熊毛浦の一名か。さらずとも相續ける浦ならむ。地理志料には
 萬葉集ニ熊毛浦アリ。一名可良泊。可良ハ韓ナリ。韓人入貢スルトキ此ニ繋泊ス。因ツテ(235)名ヅク
と云へり。可良泊とは何に據りて云へるにか○次に佐婆海中〔四字傍点〕忽遭2逆風1漲浪漂流經宿而後幸得2順風1到2著豐前國下毛郡|分〔左△〕間浦1於衰v是追2怛艱難1悽惆作歌八首あり。佐婆海中は佐婆郡の海中にてやがて周防灘の内なり。長門の海を經て豐前國の北端に到るべきを暴風に遭ひて西南万に流されて豐前の下毛郡に著きしなる事萬葉集新考に云へる如し
 
(236)   長門國 無
 
長門の古名は穴門《アナト》なり。穴門を長門と別地とせる説は從はれず。穴門をもナガトとよむべしといへる説も從はれず。穴門の名義は海峽なり。されば古典に穴門といへるには普通名詞として用ひたるもあるべく又他處の海峽を指せるもあるべし。誤りて悉く國號とは見べからず。たとへば古事記景行天皇の段に倭|建《タケル》命が熊曾|建《タケル》を誅したまひし事を述べし後に
 然シテ還リ上リマス時ニ山神河神マタ穴戸神皆コトムケ和《ヤハ》シテ參上リマシキ
といへり。この穴戸神は山神河神に對したればただ海峽神といへる事にてその穴戸は特に下之關海峽を指し從ひて長門國を指せるにあらじ。又垂仁天皇紀二年の註に
 對ヘテ曰ク。オホカラ國王ノ子、名ハツヌカアラシト〔七字傍点〕。日本國ニ聖王アリト傳聞シテ歸化ス。穴門ニ到リシ時ニ其國ニ人アリ。名ハイトツ〔三字傍点〕比古。臣ニ謂ヒケラク云々
とあるは筑前國の怡土と志摩との間の海峽にあらざるか(西海道風土記逸文新考五頁參照)。確に長門國を指せるは國造本紀の穴門國造を除きては仲哀天皇紀二年に
(237) 天皇ココニ熊襲國ヲ討タムトシ則|徳勒津《トコロツ》宮(○紀伊)ヨリ發シテ海ニ浮ビテ穴門ニ幸ス。……天皇|豐浦津《トヨラノツ》ニ泊ス
とあるが始出なり。又長門といふ名の始めて見えたるは繼體天皇紀二十一年の詔に長門以東朕制v之、筑紫以西汝制(セヨ)v之とあるがそれなれどこは例の如き追書にて實は大化改新の時にぞ長門といふ國號は始まりけむ。ともかくも天智天皇紀四年に始めて築2城於長門國1と見えたり。これより後には穴門の名は見えず。さて大化改新以前には穴門國と阿武《アム》國とありしに之を合せて長門國は立てられしなり。或書に穴門國造管2厚狹豐浦美禰三郡地1阿武國造管2阿武大津二郡地1といへるは事情に疎し。ただ夙く開けたる地方に二國造國を置かれしのみ。固より精しき地圖の無かりし世なれば兩國造國の境界などきはやかなるべからず○延喜式に
 長門國 中 管 厚狹 豐浦 美禰 大津 阿武
とあり。然るに和名抄には
 長門國 管五 厚狹 豐浦 美禰 大津 阿武 見島〔二字傍点〕
とあり。見島を加ふれば六郡なるになほ管五とある事と郷里部に見島郡は無くて大津(238)郡に三島郷ある事とを思へば國郡部の見島は後人の記入したるなり。
 ○郷里部の三島も高山寺本には無し
拾芥《シフガイ》抄に
 長門五郡 厚狹 豐浦 美禰 大津 阿武 「見島」
とあるはこれも記入かと云ふに記入には相違なけれど拾芥抄に後人の記入したるにあらで拾芥抄の著者が民部省所藏の國郡帳(いつの世の作製にか知られず)を掲ぐとて現在に據りて見島を記入したるならむ。されば見島郡の起りしは略足利時代ならむ。思ふに地方の小豪族が此孤島を占領して私に見島郡と稱せしを亂世の事なれば朝廷にても黙認せられしならむ。右の如く拾芥抄にはなほ厚狹豐浦とあれど後に厚狹を厚狹厚東の二郡に、豐浦を豐東豐西豐田の三郡に分ちし事あり。無論朝廷の命によりて分ちしにあらず。ともかくも當國は九郡に分れし時代あり。寛文四年に幕府命じて天下の郡名を復舊せしかど當時歴史地理又は地理歴史の學いまだ開けず吏胥は和名抄、然もその流布本を金科玉條とせしかばにがにがしき事あまたある中に(たとへば安藝の安北佐東二郡を高宮沼田と改稱したるを思へ)見島郡も亦和名抄の流布本に據りて其獨立(239)を認められしが明治二十九年に之を廢して阿武郡に屬せられき。されば今は厚狹《アサ》・豐浦《トヨラ》・美禰・大津・阿武《アブ》の五郡なり。云ひ忘れき。此見島は萩の北北西二十餘海里の海中に在る周圍八海里許の小島なり。此外厚狹郡の西偏を吉田郡といひし事あり。又阿武郡を阿武・奥阿武に分ちし事あれど此等は一般には認められざりけむ○厚狹の訓はアツサなり。和名抄に安豆佐と訓註せり。近古以來アサと唱ふ。豐浦は同書に止與良と訓註せり。トヨウラの約なればトユラなるべきをトヨラと唱ふるは訛れるなり。猶|豐受《トユケ》大神宮をトヨケとも稱し奉るが如し。阿武の訓はアムなり。今アブと唱ふるはうたてし○驛は延喜式に
 阿潭 厚狹 埴生 宅賀 臨門各廾疋
 阿津 鹿野 意福 田〔左△〕宇 三隅 參美 填〔左△〕田 阿武 □佐 小川各三疋
とあり。高山寺本和名抄に填田を埴田、□佐を宅佐とせり。田宇も由宇の誤なり。類聚國史卷百七に
 嵯峨天皇弘仁九年八月戊午勅。長門國部内不要驛家十一所馬五十五疋、朝使無2往還之要1公民有2守飼之費1。宜3毎v驛置v□自餘充2鑄錢料鉛駄1
とあり。缺字は三ならむ。毎驛五疋なりしを三疋に減じ不用となれるもの都合二十二疋(240)を同國の鑄錢使《ジユゼンシ》の用に供せしなり。右の十一驛は無論大路の驛にあらで小路の驛なるが、小路の驛の延喜式並に高山寺本和名抄に見えたるもの十所なるを思へば後に一所を廢せられしなり。厩牧令に
 凡諸道置2驛馬1大路廾疋、中路十疋、小路五疋。使稀之處國司量置|不《ザレ》2必須1v足
とあり。阿津以下は石見國に通ずる小路の驛なれば令制に依りて毎驛馬五疋を置かれしを茲に至りて勅旨にて各三疋に滅ぜられしなり○さて山陽道の五大驛より云はむにまづ阿潭〔二字傍点〕はアタミと訓むべし。周防の賀寶《カガホ》の次驛なり。地名辭書には
 其里程より推せば山中吉見の邊にあたり吉見には舊熱泉ありしと云へばアタミは温水の義にして持世寺を驛址とす
といへり。吉見は今の厚狹郡|厚東《コトウ》村の大字なり。持世寺《ヂセジ》は吉見の字にて山陽本線ことう〔三字傍点〕驛の西南に在り。次に厚狹驛〔三字傍点〕は和名抄の厚狹郷にて今の厚狹町又山陽本線あさ〔二字傍点〕驛是なり。次に埴生驛はハニフと訓むべし。今生田村に大字|埴生《ハブ》ある是なり。今の山陽本線はぶ〔二字傍点〕驛の南方なり。地名辭書には小路の埴田驛と混同せり。以上三驛は厚狹郡の内なり。次に宅賀〔二字傍点〕を地理志料にタカと訓み地名辭書にタクガとよめり。さて志料に今ノ小月《ヲヅキ》村ヲ言(241)フといひ辞書に「埴生と臨門の間なれば今の清末の邊なるべし」といへり。前者に從ふべくや。但小月村と清末村とは相隣れり。次に臨門驛〔三字傍点〕を志料に躯門と改めて
 臨ハ躯ニ作リテ讀ンデからとト云フベシ。今ノ赤間關ノ北ニ唐戸町アリ。是ソノ遺名
といひ辭書に
 臨海門驛の義なるべし。即赤間關にあたる
といへり。前者の説は非なり。諸國にカラウト・カラトなどいふ地名あるは唐櫃の訛なり(その唐櫃は恐らくは發掘したる石棺の謂)。さて驛名を命ぜし時代にはまだカラトといふ訛言はあるべからず。辭書に「臨海門驛の義なるべし」と云へるもいかが。臨關門の義ならむ。今の下關市の内なるは論なし。此驛より海峽を渡りて豐前の社埼《ミサキ》驛(今の門司市の内)に到りしなり。以上宅賀臨門の二驛は豐浦郡の内なり。又|阿潭《アタミ》より臨門までの五驛は山陽道の驛なり。當國の古官道は略今の山陽道に同じ。ここに日本後紀大同元年の下に
 五月丁丑勅。備後・安藝・周防・長門等國驛館本備2蕃客1瓦葺粉壁。頃年百姓疲弊修造難v堪。或蕃客入朝者便從2海路1。其破損者農閑修理。但長門國驛者近臨2海邊1爲2人所1v見。宜2特加v勞勿1v減2前制1。其新造者待v定v樣造v之
(242)とあり。之によりて知らるる事四。備後以西四箇國の驛館《ヤクワン》は瓦葺粉壁にて他國のより美しかりし事、蕃客の入朝せし時長門の臨門驛より備後の安那驛までは陸路を經し事、安那海にて船に乘りし事、長門國埴生以西の驛館は海路より見えし事即是なり○小路十驛中阿津・鹿野・意福は美禰郡に、由宇・三隅は大津郡に、參美・埴田・阿武・宅佐・小川は阿武郡に在りき。まづ阿津〔二字傍点〕はもと阿都と書きたりしを寫し誤れるならむ。地名を書くに音訓を交へたる例はいと少ければなり。今の美禰郡西|厚保《アツホ》村の内ならむ(大字厚保本郷か)。厚保は本來厚の保にて、その保は所謂莊園郷保の保にて一種の村なれば本名はアツなり。次に鹿野〔二字傍点〕を地理志料に麻野の誤としヲノと訓み今の美禰郡赤郷村に充ててソノ驛次ヲ考フルニ阿都意福ヨリ麻野ニ至ルナリといひたれど延喜式に阿津・鹿野・意福とついでたる上に阿津と意福との距離遠くして其間に一驛を要すれば志料の説は從はれず。或は今の大嶺村の大字大嶺|東分《ヒガシブン》の内か。次に意福〔二字傍点〕を志料にはオフキ辭書にはオフクとよめり。今|於福《オフク》村あり。志料に「地ノ馬路ト名ヅクルアリ。是其驛址」といへり。次に由宇はただユと訓むべし。一音なる故に母韻の宇を添へたるなり。今の大津郡|深川《フカハ》町大字深川湯本是なり。次に三隅〔二字傍点〕は今の同郡三隅村大字三隅|中《ナカ》か。次に參美〔二字傍点〕は今阿武郡の西端に三見《サンミ》村あ(243)る是なり。驛址はその大字三見市附近か。次に埴田〔二字傍点〕、次に阿武〔二字傍点〕なるが二驛共に明ならず。但埴田は今の萩市の東部にて阿武は今の紫福《シフキ》村の内にあらずやと思はる。紫福村は大井村の東、奈古村の南にあり。次に宅佐〔二字傍点〕はタカサとよむべし。タカに宅を充てたるは宅の音タクを轉用したるにて適に安宅の宅に同じ。今高俣村に大字高佐上・高佐下あり。次に小川〔二字傍点〕は今も小川村ありて當國の東北端に近く石見國美濃郡に接せり○以上小路十驛の始驛阿都は山陽道の埴生驛(驛家郷)に連れり。本來此小路は山陽山陰二道を連絡するものなるべきが山陰道の終驛は伊甘《イカミ》即石見の國府にて、それと長門國小川驛との間の驛路の絶えたるは如何。抑驛路に沿へる山陽道七國の中にて(美作國には驛路なし)別路あるは首國の播磨と尾國の長門とのみなるが(地名辭書に安藝國にも別路ありと認めたるは誤解なり)播磨國の九驛中別路に屬せるは揖保郡の越部《コシベ》と佐用郡の中川《ナカツガハ》とにて山陽道の大市《オホチ》驛より分れて右兩驛を經て美作國|英多《アギタ》郡に入りしなり。然るに前に云へる如く美作には驛路なし。然も中川驛と美作の國府との距離は頗遠し。その趣今の長門石見の關係と相似たり。國府(美作にては苫東郡、石見にては那賀郡)には無論馬の儲も十分なるべければ美作の國府より播磨の別路の終驛中川(又は備前の高月驛)に出で又は石(244)見の國府より長門の別路の終驛小川に出づるには不自由もあるまじきが播磨の中川驛より美作の國府に到り又は長門の小川驛より石見の國府に到るには如何にかしけむ。元来驛傳の事には不敏にしていまだ詳にせざる所多きが右の事も亦いまだ詳にせざる所の一なり(信濃國別路参照)○當國には厚狭・豐浦・美禰・大津・阿武五郡共に各一所の驛家郷あり。その驛家郷と大小路十五驛との.關係如何。まづ厚狹郡の驛家郷〔七字傍点〕は(厚狹驛に對しては同名の郷あれば)阿譚埴生二驛の内なり。地理志料には埴生驛に擬したり。驛家郷を良田郷の前に掲げたるを思へばげに埴生驛ならむ。次に豐浦郡の驛家郷〔七字傍点〕は臨門驛にあらざるぺければこれも志料に云へる如く宅賀驛ならむ。次に美禰郡の驛家郷〔七字傍点〕は(鹿野驛は美禰郷なるべければ)阿都か意福とせざるべからず。これも志料に云へる如く首驛阿都ならむ。次に大津郡の驛家郷〔七字傍点〕は(三隅驛に對しては同名の郷あれば)由宇驛なり。終に阿武郡の驛家郷〔七字傍点〕は、阿武宅佐二驛には同名の郷あれば他の三驛の中、おそらくは終驛の小川ならむ。志料には埴田驛とせり。以上は頗曖昧なれば更に郷名掲記の順序より推してば如何とも思へど古の郷を今の町村に擬定するは不可能とは云はねど頗困難なり。少くとも時を量りて筆を執るものには容易ならず。播磨・豐後・肥前に就いて多少此事(245)を試みしは此等の國には幸に風土記が(缺本又は略本ながら)傳はりたればなり。○當國の國府の址は豐浦郡長府町大字豐浦町字總社なり。仲哀天皇の豐浦宮の址も此地にあり
 
(246)附録
 
   疫隅國社《エノクマノクニツヤシロ》
 
備後國風土記曰。疫隅國社、昔北海坐【志】武塔神、南海神之女子【乎】與波比【爾】△《出》坐【爾】日暮。彼所蘇民〔二字□で囲む〕將來二人在【伎】。兄蘇民將來甚貧窮、弟△△《巨旦》將來富饒屋|倉〔右△〕一百在【伎】。爰△《武》塔神借2宿處1、惜而不v借。兄蘇民將來借奉。即以2粟柄1爲v座以2粟飯等1饗奉。爰〔右△〕畢出坐。後【爾】經v年率2八柱子1還來【天】詔【久】。我將3奉〔左△〕《率》v之爲2報答1。△《又》汝子孫其家【爾】在哉【止】問給。蘇民將來答申【久】。己女子與2斯婦1侍【止】申。即詔【久】以2茅輪1令v著2於腰上1。隨v詔令v著。即夜【爾】蘇民|之〔左△〕《與》2女|子一〔二字左△〕《人二》人1【乎】置【天】皆悉許呂志保呂保志【天伎】。即詔【久】。吾者速須佐△《能》雄能神也。後世【仁】疫氣在者、汝蘇民(247)將來之子孫【止】云【天】以2茅輪1著v腰〔二字右△〕在人者將v免【止】詔【伎】(○釋日本紀卷七述義三、神代上素盞嗚尊乞宿於衆神〔九字傍点〕之註所v引)
 
 新考 新訂増補國史大系に據れるなり。新訂増補本は前田侯爵家所藏の正安年間古寫本を底本としたるなり○坐爾の上に伊勢本古事記裏書と二十二社註式とに據りて出の字を加ふべし○彼所の下の蘇民の二字は衍《アマ》れり。國史大系の頭書に蘇民を存じて蘇民將來、此下恐脱2巨旦將來四字1といへるは非なり。註式には蘇民の二字なし○弟の下に巨旦を脱せる事國史大系の頭書に云へる如し。註式には有り。屋倉を註式に屋舍とせり○爰の下に武を脱せり。註式には有り○原本に饗奉の次に奉爲と書きて消ちたり。流布本(即舊國史大系の底本としたるもの)に々々|既〔右△〕畢出坐とせり。々々は抹消の符なる々々を誤てるなり。既と爰とはいづれかよけむ○我將奉之爲報答 鹿本に我我と書き第二の我を消ちて右傍に將と書けり。又答の下に曰と書きて消ちたり。大系本には句讀を誤ちて報の下を句とせり。奉は恐らくは率の誤ならむ○汝子孫の上に又の字あるべし。我將〔二字傍点〕以下在哉〔二字傍点〕以上は一連の御辭にあらねばなり○蘇民之女子一人【乎】 裏書にもかくあ(248)れどさては蘇民夫婦も殺されし如く聞ゆ。註式には蘇民之女子止婦止置天とあり。これもいまだし。流布本に蘇民與女人二人【乎】とあり。是正し。宜しく從ふべし。或は後人の手を加へたるにや○速須佐雄能神也 速須佐の下にも能字あるべし。裏書には有り○原本に著腰の下に上|詔〔右△〕隨詔令著即夜と書きて消ちたり。誤りて上文を再書したるに心づきて消ちたるなり(その中にて上の詔は衍れり)。流布本には之をさながらに存じ又夜を家と誤てり。裏書にも註式にも此八字なし。又註式には在を有とせり。在有は古書に通用せり○次に讀者の爲にその目に馴れたらむ考證の本文を掲げて其誤を訂してむ
 
備後國風土記曰。疫隅國社、昔北海坐【志】武塔神南海神之女子【乎】輿波比【爾】出〔右△〕坐【爾】日暮【多利】。彼所【爾】蘇民〔二字□で囲む〕將來巨旦將來〔四字□で囲む〕二人在【支】。兄蘇民將來甚貧窮、弟巨旦〔二字右△〕將來甚富饒屋倉一首在【支】。爰【仁】武〔右△〕塔神借宿處、惜而不借。兄蘇民將來借奉【留】。即以粟柄爲座以粟飯等饗奉【留】饗奉〔二字□で囲む〕既畢出坐。後【爾】經年率八柱子還來【天】詔【久】。我將|奉〔左△〕之爲報答。曰〔□で囲む〕△《又》汝子孫其家【爾】在哉【止】問給。蘇民將來(249)答申【久】。己女子與新婦侍【止】申【須】。即詔【久】。以茅輪令著於腰上。隨詔令著。即夜【爾】蘇民與女人二人【乎】置【天】皆悉許呂志保呂保思【天伎】。即時【仁】〔二字□で囲む〕詔【久】。吾者速須佐能雄能神也。後世【仁】疫氣在者、汝蘇民將來之子孫【止】云【天】以茅輪著腰上詔隨詔令著即家〔八字□で囲む〕在人者將免【止】詔【伎】
 
考證に「出字、釋紀にはなきを古事記裏書に據て補ひ多利二字は註式によれり」と云へり。註式にも出坐【爾】とあり。出を加へたるはよろし。多利を加へたるは不可なり。元來二十二社註式(群書類從卷二十二所收)祇園社の項に神社本縁記云として引ける文は風土記に據れるにはあれど原文のままにはあらで聊それをいろひたるものなれば少くともそのテニヲハ送假名の如きは以て原文の補訂に供すべからず。特に此處は日クレヌとよむべきをや○又「巨旦四字は本書になきを下文に據て補ふ」と云ひて然せるは非なり。巨旦將來を補ふべきにあらず。上なる蘇民を削るべきなり。註式にも彼所【仁】將來二人在【伎】とあり○又「弟巨旦將来、巨旦二字註式による」と云へり。これはよろし○爰【仁】武塔神とある仁と武とは註式より補へるなり。仁は無くとも○次の饗奉(否之に相當する奉爲の二(250)字)は原文には抹消したり○曰も原文に消ちたり。又を補ふべき事上に云へる如し○又「即時【仁】、詔【久】、本書時仁二字なきを註式に從ふ」と云へるは非なり。原書に即とあるを註式に時仁と書更へたるなり。即を存じながら時仁を加ふぺけむや○上詔隨詔令著即|家〔左△〕の八字が衍文なる事は上に云へる如し○栗田氏は奉を註式に據りて又は私に奉留とし又私に伎を支に改めたり○神宮文庫本古事記裏書(文永十年卜部兼文註、應永三十一年僧道祥寫)に
 備後國風土記云。昔北海坐志武塔神南海之女|如與被《・カヨヒ》〔三字傍点〕【爾】出坐【爾】日暮。彼所蘇民將來二人在【伎】◎即夜【爾】蘇民之女子一人【乎】置△皆悉任任〔二字左△〕志【天伎】。即詔【久】。吾【者】速須佐能雄能神也。後世【爾】疾〔左△〕氣在【者】汝蘇民將來之子孫【止】云【天】以茅輪著腰在人者將免【止】詔【支】
とあり。本書の著者兼文は釋日本紀の著者兼方(懷賢)の父なれば本文としては釋紀なるより此方を引くべきなれど惜いかな◎の處に文を中略せり。釋紀と比較するに彼の南海神之女子乎を南海之女とせり。又彼の與波比爾坐爾を加與被爾出坐爾とせり。出字は此に據りて彼を補ふべし。又速須佐の下に能あり。これも此に據りて彼を補ふべし。置の右下に天を脱し任任は殺亡などを誤ち疾氣は疫氣と誤てるなり○蛇足に似たれど左(251)に訂正文の釋文を擧げむ。本文には補削多くして之に直に傍訓を附けば組むにも讀むにも便ならざるべきが故なり
 
疫隅國社、昔北海ニ坐《イマ》シシ武塔神、南海ノ神ノ女子ヲヨバヒニ出|坐《マ》シシニ日暮レヌ。彼所《ソコ》ニ將來二人アリキ。兄蘇民將來ハ甚貧窮ナルニ弟|巨旦《コタン》將來ハ富饒ニシテ屋倉一百アリキ。爰ニ武塔神宿處ヲ借ルニ惜ミテ借サズ。兄蘇民將來ハ借シ奉ル。即粟柄ヲ座《オマシ》トシ粟飯等ヲ饗《ア》ヘ奉ル。爰ニ畢リテ出坐シキ。後ニ一年ヲ經テ八柱ノ子ヲ率《ヰ》テ還來テ詔《ノタマ》ハク。我之ヲ率テ報答《ムクイ》ヲセムトスト。又汝ノ子孫其家ニ在リヤト問ヒ給フ。蘇民將來答ヘ申サク。己、女子ト斯婦ト侍リト申ス。即詔ハク。茅輪《チノワ》ヲ腰ノ上ニ著ケシメヨト。詔《ノラシ》ノマニマニ著ケシム。即夜ニ蘇民ト女人二人トヲ置キテ皆悉コロシホロボシテキ。即詔ハク吾ハ速須佐能雄能《ハヤスサノヲノ》神ナリ。後世ニ疫氣アラ(252)バ汝蘇民將來ノ子孫ト云ヒテ茅輪ヲ腰ニ著ケタラム人ハ免レム。ト詔ヒキ
 
原文の文體を按ずるに漢字國文式なると漢文式なると相雜れり。即古事記の文體に近く日本紀の文體に遠し。其上に送假名を右方に寄せて書ける、宣命の書式に同じ。備後風土記はすべてかかる體式にや。此外の逸文傳はらねば知るべからず。なほ未にいふべし。本來本文の傳説はスサノヲノ尊が根國に下らむとして途にて宿を借りかねて辛苦し給ひし事と牛頭《ゴヅ》天王の傳説とを糾ひて作りたるものなり。まづ寶鏡開始章の第三一書に
 時ニ霖《ナガメ》フル。素盞嗚尊、青草ヲ結束ネテ笠簑トシテ宿ヲ衆神ニ乞フ。衆神曰。汝ハ是躬行濁惡ニシテ逐謫セラルル者ナリ。如以ゾ宿ヲ我ニ乞フ。トイヒテ遂ニ同ジク之ヲ距グ。是ヲ以テ風雨甚シカレドモ留休スルコトヲ得ズシテ辛苦シツツ降リキ
とあり。次に安部清明(安倍晴明)の撰なりといふ※[竹/甫/皿]※[竹/艮/皿]《ホキ》内傳金烏玉兔集(續群書類從卷九百六所收)の序に
(253) ○原文頗長ければ節略に止む。又頗晦澁なれば讀者の爲に釋讀を試みしかど釋讀はた容易ならず。或は誤謬あらむ
倩以《ツラツラオモヒミルニ》中天竺摩※[言+可]陀國靈鷲山ノ艮、波尸那城ノ西ナル吉祥天源王舍城ノ大王名ヲ※[滴の旁]貴帝〔三字傍点〕ト號ス。曾テ帝釋天ニ仕ヘ善現天ニ居リ三界内ニ遊戯シ諸星ノ探題ヲ蒙リ名ヲ天刑星〔三字傍点〕ト號シキ。信敬ノ志深キニ依リテ今娑婆世界ニ下生シ改メテ牛頭天王〔四字傍点〕ト號ス。頭ニ黄牛面ヲ戴ケリ。兩角尖リテ猶夜叉ノ如シ。厥《ソノ》勢長大ナルコト一由繕那ナリ。厥《ソノ》相顔他ニ異ナル故ニ更ニ后宮有ルコト罔《ナ》シ。四姓|咸《ミナ》悲歎ス。……時ニ虚空界ヨリ青色ノ鳥來ル。名ハ瑠璃鳥、形翡翠ノ如ク聲鳩鴿ニ似タリ。來リテ帝王ノ檻前ニ居、等〔左△〕※[口+弄]天王曰。我ハ是天帝ノ使者タリ。汝元同朋タルノミ。汝ノ名ヲ天刑星ト號シ我名ヲ毘首羅天子ト曰フ。……爾《ココ》ニ御宮ノ采女|罔《ナ》シ。故ニ天帝我ヲシテ教告セシム。是ヨリ南ノ海ニ娑竭羅龍宮アリ。是ニ三人ノ明妃アリ。……爰ニ第三ヲ頗梨采女ト號ス。……汝彼宮ニ至リテ嫁ヲ請フベシト。斯ノ如ク※[口+弄]リ終リテ虚空界ニ歸ル。
 ○以下も此式に依らむかと思ひしかど文飾多くして紙を費すこと少からざるべければ以下は要領を摘むに止めむ。さて以上も書更へむかとも思へど原文の體裁(254)を知らしむるが爲にさし措きつ
 ココニ牛頭天王大ニ歡ビテ眷屬ヲ率テ南海ニ趣カムトスルニ其道八萬里程ナルガ未三萬里ナラズシテ人馬共ニ疲ル。ココニ南天竺ニ夜叉國一名廣遠國トイフガアリテ其王ヲ巨旦大王〔四字傍点〕トイヒ其民ハ皆魑魅魍魎ノ類ナリ。天王ソノ鬼關ニ入ラムトスルニ鬼王巨且、門ヲ閉ヂテ入レズ。サテ千里松園トイフ處ニテ一賤女ニ教ヘラレテソレヨリ東ノ方一里許ナル淺茅生原(○原文ノママ)ニ住メル蘇民將來〔四字傍点〕トイフ善人ヲ訪ヒテ宿ヲ求メシニタダ三閣(〇三室)アル上閣ニ粱粟ノ莖ヲ布キテ天王ノ席ヲ設ケ餘ノ二閣ニ眷屬ヲ收容シ又僅ニ半瓢ナル粟米ヲ煮テ大王並ニ眷屬ニ供ス。サテ大王前途ノナホ遠キヲ歎ゼシニ蘇民一寶船ヲ貸ス。此船ニ乘ルニ須臾ニ龍宮城ニ到ル。サテ頗梨采女ヲ娶リテ居ルコト二十一歳ニシテ八王子ヲ得。ココニ天王、中天竺ニ歸ラムトシテ八王子並ニ眷屬ヲ率テ廣遠國ナル彼巨且大王ノ城ニ入リテ其主從ヲ鏖ニス。タダ彼賤女ノミハ大王ガ桃木ノ札ヲ削リテ急々如律令ノ文ヲ書キテソノ袂中ニ投ゼシカバ禍ヲ免レキ。サル程ニ蘇民ハ變ジテ富人トナリタリシガ、コタビハ宮殿ヲ造構シ諸珍菓ヲ供シテ大王八王子等ヲ犒ヒシカバ大王大ニ喜ンデ彼夜叉國ヲ蘇民ニ與(255)ヘ又我末代ニ行疫神トナリ八王子眷屬等國ニ亂入セムニ汝ノ子孫ト曰ハバ害スベカラズ云々ト誓ヒ又二六ノ秘文ヲ授ケ又五節ノ祭禮ヲ行フコトヲ教ヘキ
大意右の如し。なほ末に
 長保元年六月一日於2祇園精舍1三十日間調2伏巨旦1。至2于今世1學2此威儀1云々
といへり。長保は一條天皇の御世なり。晴明は適に此時の人なり。但此書は晴明の作にやいとおぼつかなし。恐らくは後人が作りて晴明に假托せしものならむ。祇園精舍は即祇園社即今の八阪神社なり。注目せよ。此書に蘇民巨旦を南天竺の人とせるに、又二人を兄弟とせざるに、又牛頭天王といひて武塔神といはざるに、又五節の祭禮として正月の赤白鏡餅・三月の蓬莱草餅・五月の菖蒲結粽・七月の小麥素麺・九月の黄菊酒水を擧げて茅輪の事を云はざるに。特に注目せよ。此書に牛頭天王は即スサノヲノ尊なりと云はざるに。さて此書に云へる事が印度より傳來したるものとしても原のままにあらざる事は勿論なるが、いまだ本地垂跡説の痕なきを見れば彼疫隅國社の傳説よりは古からむ事を知るべし○一人が宿を貸さず又一人が宿を貸しきといふ傳説特に備後風土記の如くその兩人を兄弟とせるは東國に行はれし彼富士筑波傳説と相似たり。或は備後風土記(256)に蘇民と巨旦とを兄弟とせるは故意に富士筑波傳説に似せたるにあらずやとさへ思はる。富士筑波傳説は常陸風土記に見えたり。即同書筑波郡の下に
 古老ノ曰。昔|祖《オヤ》神ノ尊諸神ノ處ニ巡行ス。駿河國|福慈《フジ》岳ニ到リテ卒ニ日暮ニ遇フ。請ヒテ寓宿セムト欲ス。此時福慈ノ神答ヘテ曰。新粟ノ初嘗《ニヘ》シテ家内諱忌セリ。今日ノ間ハ冀許不堪ト(○冀ハクハ不堪ヲ許セとよむべきか)。是ニ祖神ノ尊恨ミ泣キ詈リテ告曰《ノリケラク》。即汝ガ親ナルヲ何ゾ宿スコトヲ欲セザル。汝ノ居ル所ノ山ハ生涯ノ極冬夏雪霜アリ冷寒重襲シ人民登ラズ飲食|奠《タム》クル者ナカラムト。更ニ筑波岳ニ登リテ亦容止ヲ請フ。此時筑波ノ神答ヘテ曰。今夜新粟ヲ嘗《ニヘ》スレドモ尊旨ヲ奉ゼズバエアラジト。爰ニ飲食ヲ設ケ敬拜祗承シキ。是ニ祖神ノ尊歡然トシテ謌ヒケラク。
  愛乎我胤、巍哉神宮、天地竝齊、日月共同、人民集賀、飲食富豐、代代無絶、日日彌榮、千秋萬歳、遊樂不窮
 トイヒキ。是ヲ以テ福慈岳ハ常ニ雪フリテ登臨スルヲ得ズ。ソノ筑波岳ハ往集ヒテ歌舞飲喫スルコト今ニ至ルマデ絶エザルナリ
とあり
(257)疫隅は夙くよりエノクマと訓みて縁起に江熊疫隅ト通ズとあり。然るに福山志料の著者菅晉帥はなほエキノスミと訓みしに似たり。即品治郡江熊なる牛頭天王の下に「江の字エキと訓じがたく熊の字スミとも讀がたし」といへり。疫の邦語はエなり。たとへばエヤミ・エノヤマヒ・時ノエなど云へり。
 ○疫をエといふは字音の略ぞと思ふ人もあるべけれど宣長(古事記傳卷二十三)は「もとよりの古言なり。おのづから字音と同じきなり」といひ狩谷望之(和名抄箋註疫の下)も自是皇國古言、非2以d字音u爲1v訓也といへり。又もし字音の略ならば寧ヤといふべし(驛家の驛の如く)
次に隅をクマに充てたる例は萬葉集卷二に佐日之隅囘とかき卷三に八十隅坂とかき卷六に隅毛不置とかき卷十六に川隅とかきて隅をクマに充てたり。但右の中には一本に隅を隈とせるもあれば確なる證とはしがたけれど、スミクマとつづけても云ひ又ノコルクマナクなど云ひてクマは即スミなればクマを隅と書くまじきにあらず。かくて疫隅はエノクマと訓みつべけれど疫隅は語を成さず。疫には隅といふものあるべからざればなり。恐らくは本字は江隅又は江隈なるを後に淺人が行疫の神を祭りたればと(258)て疫字に更へしならむ。かく江隈を疫隅と書きたるを見ても此逸文が古きものにあらざるを知るべし〔此逸〜傍点〕○武塔坤を前書に往々タケアラキノ神とよめるはいみじきひが事なり。武塔神は天竺の神人の名なれば之に國訓はあるべからず。その上に塔を齋宮の忌詞にアララギとこそいへ(おそらくは蘭の訓を借りて)アラキとは云はず○ヨバヒはツマドヒなり。娉なり○彼所とは略したる文の中に見えたる處を指せるならむ○將來は身分を示す語なるべけれど其義不明なり。恐らくは陰陽家の間のみに通用せし語ならむ○粟柄は粟の莖なり。稻の藁の如く軟ならねば之を敷きたらむはいとわびしかるべけれど直土《ヒタツチ》ならむよりは優るべし○率之は八人ノ子ト共ニなり。將爲報答は巨旦ガ宿ヲ貸サザリシ怨ニ報イムトスとなり。斯婦は蘇民の妻なり○茅輪の茅はアサヂ即チガヤなり。其花をツバナといふはチバナの轉じたるなり。サチ矢サチ弓がサツ矢サツ弓に轉じたると同例なり。茅もて輪を作りて腰に著けて疫氣を避くる習は此傳説より始まりしにあらで夙くさる習のありしを此傳説に取入れしならむ○疫隅國社は後世のいづれの社ぞ。諸書に之を沼隈郡鞆の祇園とせり。たとへば福山志料卷二十五鞆津の處に
 祇園宮 諸書ニイチジルキ疫隅社是也
(259)といひ又卷二十八なる辨説の中に
 疫隅神社 和爾雅・本朝諸社一覽・國花萬葉志・神社啓蒙・和漢三才圖會・國名風土記・あくた川等(○牛頭天王辨にも)並曰。疫隅社在沼隈郡鞆浦。祭神與祇園同。號鞆祇園云。今按ニ備後國ニ祇園ト稱スル大社三所アリ。一ハ品治郡江熊、一ハ世良郡(○廣定村)小童《ヒチ》祇園、一ハコレ(○此鞆祇園)ナリ。イヅレヲカ備後風土記ニハノセタル。シカレドモ前ノ諸書皆同説ナレバ疫隅社ハ鞆ノ祇園ナルコト明ケシ
と云へり。祇園と稱していつきしは牛頭天王なる事云ふに及ばず。又備後風土記に見えたる武塔神が牛頭天王の一名なる事言ふを待たず。今備後國なる名高き祇園は三處にて其中に江熊祇園ありと知らば自然に疫隅國社は即江熊祇園なりといふ結論に達すべきを諸書に(其著者は多くは他國人にて鞆祇園の外は知らざらむを)鞆祇園としたればとてあたら知識を放棄してそれに盲從したるは疫隅をエノクマとよむべき所以を知らざりしが故なり。そをだに知らば著者は夙く江熊祇園ぞと唱へまし。江熊は今の蘆品郡戸手村大字戸手の字なり○さて此江熊祇園即江熊の牛頭天王社を特選神名牒に神名式なる深津郡須佐能袁能神社に擬したり。
(260)○同書に又「疫隅社は今この神社(○須佐能袁神社)の江熊郷江熊と云にますを疫隅社と云る説も聞ゆるは誤なる事沼名前神社の條に粗云るが如し」といへる、文義たどたどしけれど江熊祇園は式の深津郡須佐能袁神社にて風土記の疫隅社にあらずと云へる如く聞ゆ。さて沼名前《ヌナクマ》神社の條にいかに云へるかと見るに
 今按、本社の事或は渡守神社なりと云ひ(○たとへば福山志料)又は祇園社なりと云より終に祇園社を沼名前神社と定めたるは誤りなる故に明治八年五月十五日舊に復して渡守神社を沼名前神社とし其御靈代を祇園社に遷奉り祇園社を以て相殿とせられたり(○失策を糊塗せむ爲に乙社を甲社に合併し甲社の主神を變更せしなり)。さて祇園神を式社と誤認せしは當國風土記にのする所の武塔神疫隅社を天野信景が牛頭天王辨に備後國沼隈郡鞆浦有2疫隅社1俗云2鞆天王1と云て當社の事とし鞆浦志にも風土記を引て當社なりと云なせしより起れる事なれども式に深津郡須佐能袁神社ありて神代卷口訣に武塔神在深津郡須佐能袁神社にして鞆津祇園神社に非る事明かなり
と云へり。反復玩味すれど其意のある處を知る能はず。鞆祇園ヲ式社カト思ウタノハ(261)古人ガ風土記ノ疫隅社ヲ此祇園ニ擬シテ居ルカラデアルガ、ソレガ誤デアル事ガ分ツタカラ鞆祇園ガ式社デナイ事ガ分ツタと云へるのみにて毫も疫隅社が江熊祇園に非ざる證とならざるにあらずや
按ずるに深津郡と品治郡とは相隣れる郡にはあれど江熊の所在は郡界に近からず。されば郡界に多少の變遷ありとも江熊が深津郡に屬せしことあるべからず。されば神名式深津郡の須佐能袁神社を品治郡の江熊祇園には擬すべからず。地名辭書深安郡市の下に
 延喜式須佐能袁能神社深津郡と注すれば此地市村天神たること疑なし。然るに今品治郡に疫隅(○江熊に改むべし)天王社ありて之を須佐能袁能神社とす。不審。延喜式の誤りにや。但し其風土記逸文に疫隅《エノクマ》とあるは江隈の義にして地形は全く深津に合ふ。品治郡戸手村の状態にあらず。按ふに後世深津の舊祠衰へて戸手村に於て古傳を唱ふることとなれる如し
といひ又蘆品郡江熊神社の下に
 今按に疫隅社は本來深津郡に在りしを後世故ありて此に移せるなるべし。猶舊名を(262)冠らせて江熊と稱するも戸手村は蘆田川に沿へど江と云はるべき所にあらず
といへり。ここに福山志料品治郡牛頭天王の下に同社なる磬の銘に
 備後國深津郡〔三字傍点〕江熊牛頭天王社再興之事依瑞想天文九年四月十日始釿|同〔右△〕二十日成就鐘鑄之事同年八月十七日形作始同月二十七日成就、於長者原鑄之(下略) 于千時天文十年八月朔日 願主長岡五郎左衛門正重
とあるを録して
 コノ磬神前ニカク。郡ノ字右ニヨセテ細書ス
と附記せり。銘文を味はふに神社の再建と鑄鐘と二事の顛末を記したるなり。同の下二十日の上に脱字あるにあらざるか。僅に十日にして再建を了すべきにあらねばなり。或は再興といへるは修繕と解すべきか(釿始《テウナハジメ》は大工の工事の始なり)。さて此銘文に據れば江熊は天文十年には深津郡に屬せしなり。
 ○同書になほ縁起ニ爰當社再興記(天文十年)備後深津郡江熊(疫隅ト通ズ)牛頭天王(江熊今品治郡ニ屬ス)云々と見えたれど全文を擧げざればその再興記の成りし時代明ならず。再興記の下に天文十年とあれば磬銘と同年の作かとも思へどさては下に江(263)熊今品治郡ニ屬スとあると矛盾せり。おそらくは縁起は後年の作ならむ
然るに今の江熊は上に云へる如く深津郡界と遠く相離れたり。されば此社は地名辭書にいへる如くもと深津郡江熊にありしを今の處に移ししにて其際に地名をも移ししかといふにさらば縁起に江熊今品治郡ニ屬スとのみは書くべからず。恐らくは江熊は初より今の處に在りながら一時飛地として深津郡に屬せしならむ。今も稀には郡村の一部飛地として他郡他村の中に存ずる例あり。たとへば安藝豐田郡の吉名木谷二村は本郡より離れて賀茂郡の内にあり○さて江熊が一時深津郡に屬せし事ありとも之を以て神名帳の深津郡須佐能袁能神社を江熊祇園に擬する一論據とはすべからず。江熊祇園は即風土記の疫隅國社にして其社は國社とあればなり。スサノヲノ尊は天神なればそをいつけるを國社とは云ふべからず。武塔天神一名牛頭天王をスサノヲノ尊なりといふは一部の陰陽家の私言にて初は陰陽家にすら之を認めざるものありき。まして朝廷にては之を認められざりき。播磨國飾磨郡の廣峯社・山城國|愛宕《オタギ》郡なる祇園社が神名式に見えざるはそれが爲ならむ。今後者の後身なる八坂神社を官幣大社に列せられたるも牛頭天王即スサノヲノ尊と認められたるにあらず。同社の祭神をスサノヲノ(264)尊と認められたるまでなり○以上所述の如くなれば此逸文は深津郡のにあらで品治郡のなり。なほ前言を概括して云はば
 一 疫隅國社の本字は江隅國社ならむ。又疫隅はエノクマと訓むべし
 二 疫隅神社の所在は初より今の蘆品郡戸手村大字戸手字江熊なり
 三 祭神は本來武塔天神一名牛頭天王なるを後に陰陽家がスサノヲノ尊と習合したるなり
 四 同社と神名式なる深津郡須佐能袁能神社とは全く別なり
 玉 江熊は故ありて一時深津郡に屬しきと見ゆ
右の如し○なほ云はむに此一節には不審なる事多し。まづ不審なるは疫隅といふ名なり。かく書けるは純然たる擬字かと思ふに其祭神は行疫神なれば疫は擬字にあらず。然も疫には隅といふものあるべきにあらず。されば疫隅は江隅の江をさかしら人が疫に更へたるなり(上にも云へり)。次に國社といへる事なり。天神を祭れるが天社、地祇をいつけるが國社なる事は日本紀に天神地祇又は神祇をアマツヤシロ・クニツヤシ ロとよめるにても明なり。スサノヲノ尊は固より天神なり。然るに之を祭神とせる社を國社とい(265)へるは如何。或ははやく天より降り給ひ舊事紀にも地神本紀に入れ奉れる故か。次に其文體及書式なり。他國の風土記にも漢文式に國文式の交れるはあれど此一節の如く主として漢字國文式にして然も宣命書なるは他國の風土記に見ざる所なり。要するに此一節は古風土記中の物にあらざる事勿論なり。然らば何時の世の物かといふに所謂金烏玉兎集より新しきを思ひ文永十年に卜部兼文が引用せるを思へば恐らくは鎌倉時代の始〔十字傍点〕(又は平安朝時代の末)に作りし物ならむ〔八字傍点〕。又恐らくは備後國風土記全卷を作りしにあらで初より此一節のみを風土記の逸文に托して僞作せしならむ。なほ云はむに牛頭天王傳説は外來の傳説なるが其本國は知られず。蓋或民族の傳説が印度化したるに非ざるか。無論日本にて附加したる所もあるべし。又蘇民將來。巨旦將來の將來は漢語にはあらじ。或異民族語の音譯即擬字ならむ(昭和十二年六月六日再治)
 
(267) 山陰道風土記逸文新考
               井上通泰著
   丹波國 無逸文
 
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隱岐の八國之を山陰道といふ。山陰道の正訓はソトモノミチなり。ソトモはソツオモの約、ソツオモは背面即後側といふ事なり。成務天皇紀に山陰曰2背面《ソトモ》1とあり。山陰道の名のまさしく國史に現れたる始は文武《モンム》天皇の大寶三年正月にて東海道・東山道・北陸道・山陽道・南海道・西海道の名と並び出でたり。本道の所管はもと七國なりしに和銅六年四月に丹波國の五郡を割いて丹後國を置かれしかば爾來八國となれるなり
(268)丹波國は東は僅に近江に、北は若狹及丹後に、西は但馬及播磨に、南は攝津に、東南は山城に接して海に臨まず。此國の本名はタニハなり。字は又旦波(古事記開化天皇の段)又但波(倭姫命世紀)又丹婆(大同類聚方)など書けり。丹旦但は音タヌなればそを轉じてタニに充てたるなり。タンバと唱ふるは後世字に引かれて唱へ僻めたるなり。名義は田場《タニハ》にてタンボといふ事なり(タンボは或はタニハの轉訛にあらざるか)。無論初は一國の名にはあらで一地方の名なりしが後に國名となれるなり。夙く國造本紀に
 丹波國造 志賀高穴穗朝(○成務天皇)御世尾張(○國造)同祖建《タケ》稻穗命四世孫大倉岐命定2賜國造1
とあり。其起源の地は後の丹後國丹波郡丹波郷即今の中郡丹波村にて峯山町の附近なり。和銅六年に丹波國北部の五郡を分ちて丹後國を立てられし時起源の地はあたら丹後國に入りしなり。さて二國に分れし後丹波國は管六郡となりしが明治十二年に桑田が南北に分たれしによりて今は七郡となり其東北部五郡即南桑田・北桑田・何鹿《イカルガ》・船井・天田は京都府に屬し西南部(所謂西丹波)二郡即|氷上《ヒカミ》・多紀は兵庫縣に屬せり。さて京都府に屬せる町村は龜岡・綾部・園部・須知《シウチ》・福知山等にて兵庫縣に屬せる町村は柏原《カイバラ》・黒井・佐治・成(269)松・篠《ササ》山(269)等なり○上代の丹波國の文化中心地は桑田郡、就中今の南桑田郡なり。桑田の名の初出は日本紀垂仁天皇八十七年に昔丹波國桑田村有v人名曰2甕襲《ミカソ》1云々とあり又繼體天皇前紀に今|足仲彦《タラシナカツヒコ》天皇(○仲哀)五世孫倭彦王在2丹波國桑田郡1云々とあり。仁徳天皇十六年に見えたる宮人桑田(ノ)玖賀媛も此地に依れる名ならむ。桑田の名義は字の如し。郡名は郷名の桑田より起りしにて古の桑田郷は今の篠《シノ》村ならむ。同村大字山本に式内桑田神社あり。以て證とすべし。國府は和名抄に國府在2桑田郡1といへり。日本地誌提要に其遺址を船井郡屋賀村とし日本地理志料は之に從へり。屋賀は今の富本村の大字にて南桑田郡との郡界に接したれば古は桑田郡に屬しもしたりけむ。されば和名抄に國府在桑田郡といへると必しも矛盾せじ。されど同書に行程上一日下半日とあると相叶はじ。この行程は京と國府との往來を云へるなるが、上りには租調などを※[手偏+(山/雋)]へ、下りには徒手なれば上程は長く下程は短きなり。さて京(驛路通には五條と朱雀大路との交叉點を起點とせり)と屋賀との距離は七八里なるべければたとひから身なりとも半日の行程とはすべからず。公式令に凡行程歩ハ五十里とある當時の里は今の六町なれば一日の歩程は今の凡八里にて半日の歩程は今の凡四里なり。右の如くなれば丹波國の國府は大技(270)山即今の老の坂の西北麓即今の篠《シノ》村の内にあるべきなり。國郡考に「桑田郷は國府の在所にて龜山(○即今の龜岡)に當る」といひ大日本地名辭書に
 今詳ならず。篠村もしくは龜岡の邊に求むべきに似たり
といへり。龜岡としても遠きに過ぐ。古の桑田郷即今の篠村の内なるべし。
 ○律書殘篇に丹波國去京行△(○程脱)三日とあるは其國名表は奈良朝時代のものなればなり。龜岡はもと龜山といひしを明治の初伊勢國龜山との混同を防ぐ爲に改稱せしなり。龜山は丹波國舊七藩治の一なり
國分寺は南桑田郡千歳村大字國分にありき。龜岡より出雲神社に到る道の西方なる田間に今も一寺院あり。是其址なり。尼寺址は知られず○兵部省式に
 丹波國驛馬 大枝・野口・小野・長柄・星角・佐治各八疋、日出・前浪各五疋
 傳馬 桑田・多紀・氷上郡各五疋
とあり。大枝以下佐治以上六驛は山陰道の本路に、日出・前浪二驛は丹後國府に到る支路に在りき。本路は桑田(南桑田)船井多紀氷上の四郡を經て但馬國|朝來《アサコ》郡に入り支路は多紀郡長柄驛にて分れ天田郡を經て丹後國與謝郡に到りしなり。大枝驛〔三字傍点〕は山陰道の首驛(271)にて大枝山の西北麓即今の南桑田郡|篠《シノ》村に在りき。次に野口《ノノクチ》驛〔三字傍点〕は船井郡の南端、南桑田郡との郡界に近き地に在りきと思はる。地名辭書に「今の埴生の邊なるべし」と云へり。埴生《ハブ》は今の船井郡西|本梅《ホウメ》村の大字なり。此附近を中古、野口莊又野之口郷と稱しきといふ。次に小野驛〔三字傍点〕は今の多紀郡福住村の内なり。同村に今も小野新又小野奥谷といふ大字あり。此附近を中古小野莊といひきとぞ。同村に大字|二《ニノ》坪あり。是驛址なりといふ。次に長柄驛〔三字傍点〕を地理志料に野中に充てたり。野中は今の多紀郡城南村の大字なり。其舊名は長柄なりといふ。畢竟地名辭書に云へる如く今の篠山町附近なり。丹後國に到る別路は此驛にて分れしなり。次に星角驛〔三字傍点〕を志料に今の多紀郡味間村としたれど味間とすれば前驛野中と頗近く次驛佐治と非常に遠し。さればしばらく地名辭書に「蓋石生の地にあたるごとし」と云へるに從ふべし。石生《イシフ》は今の氷上郡|生郷《イクサト》村の大字石負《イソ》にて柏原《カイバラ》町の北方なり。次に佐治驛〔三字傍点〕は同郡佐治町の内なり。以上六驛中南桑田・船井二郡各一驛、多紀・氷上二郡各二驛なり。佐治の次驛は但馬國|朝來《アサコ》郡粟賀驛なり。別路の二驛は共に天田郡の内ならむ。就中日出驛を地名辭書に
 今詳ならず。比伊豆とよむべきか。花浪(○即前浪)を金山・天津の邊とすれば其南方|拜師《ハヤシ》(272)郷の近傍歟。一説生野は山陰道の別路にあたりて古驛なれば彼地にあらずやと云ふ
と云へり。生野《イクノ》は天田郡上|六人部《ムトベ》村の大字なり。終に前浪驛〔三字傍点〕は志料天田郡|雀部《ササキベ》郷の下に
 三嶽山アリ。一名富國山。古來銀ヲ出ス。俗ニ宮垣銀山ト稱ス。金山郷ノ名蓋此ニ本ヅケルナリ。天平神護二年紀ニ天田郡華浪山出2白鑞1トイヘルハ豈此山ヲ言フカ。花浪里、主基方ノ風土記(○主基國の名所附といふ事)ニ見エタリ。因リテ謂フニ兵部省式ニ丹波國前浪驛馬五疋トアル、馬匹ヲ以テ之ヲ推セバ蓋丹後ノ別路ニ屬セルナリ。前ハ恐ラクハ花字ノ譌ニテ亦此間ニ在ルカ。姑ク附シテ攷ニ備フ
といひ地名辭書に
 主基方風土記天田郡花並里あるによれば前浪は花浪の誤りなる事疑惑を容れず。即華浪山下の驛里たるべく今の金山・天津などの位置にあらずや
と云へり。三岳《ミタケ》山は天田郡の北端にありて三岳村とその東北なる雲原村又東方なる金山村とに跨れり。宮垣なる富國山とは別なり。金山はもと三岳山附近の稱なりしが今は三岳の東方なる一村の名となれり。雲原・金山の二村は丹後の與謝郡に接せり。金山村の東南が下川口村にて上下の天津は其大字なり。橋立道は下川口・金山・雲原三村を貫けり。(273)續日本紀天平神護二年七月己卯に
 散位從七位上昆解宮成得d似2自鑞1者u以獻、言曰。是丹波國天田郡華浪山〔三字傍点〕所v出也云々
とあるも主基國地名の花浪里も今のいづくにか知るべからず。二書に前浪を花浪の誤とせるは炯眼なり。和名抄の高山寺本には明に花浪とあり。又日出は同本に白出とあり
 
(274)   丹後國 逸文三節
 
もと丹波國と一國なり。續日本紀和銅六年四月に割2丹波國五郡1始置2丹後國1とあり。丹波の北部を割きしなり。績紀流布本には郡名を擧げざれど村尾元融の續日本紀考證に據れば一本に丹波國の下、五郡の上に加佐・與佐・丹波・竹野・熊野の十字ありといふ。此十字は固より有りしにや又は後人の傍書が本文に混入せしにや知られねど延喜民部式に
 丹後國 中 管、加佐・與謝・丹波・竹野・熊野
とあり今も加佐・與謝・中・竹野・熊野の五郡なれば郡數は古今相同じきなり。ただ丹波郡が中郡と改稱せられたるのみ。中と改稱せられしは何時の頃にか詳ならねど拾芥抄にも、享徳長禄の間に注進せし丹後國諸莊郷保惣田數帳(成相寺所蔵國寶)にもなほ丹波郡とあるに天文七年に記録せし伊勢御師の丹後御檀家帳に「中郡、たんばの郡とも申」とあるを思へば近古以前の事と思はる。さて丹波郡といふ名を廢せしは丹後國に丹波郡あるが異様に思はるるが爲ならむ。國名を丹後と書きタニハノミチノシリとよませたるは京師より遠ければなり。國名に前といひ後といへるは皆然り。吉備・筑紫・豊・肥・越の例を思(275)へば丹後國を建てし時丹波國は丹前と改むべかりしなり○和名抄に國府在2加佐郡1とあれど國府址は與謝郡の内にて天橋立の北方なる府中(今の府中村の内)なり。此村内には國分といふ大字もあり又大字溝尻に飲役(印鑰)神社あり。地理志料には初加佐郡に在りしが後に與謝郡に移りしならむと云へり。或は然らむ。なほ本文の註に云ふべし。
 ○美作國府址苫西郡(抄苫東部)肥前國府址佐賀郡(抄|小城《ヲキ》郡)など同例とすべきか
當國の文化の中心は上代には今の中郡の北部(峰山町附近)なりしかど國司時代には與謝郡の中部(宮津灣の北岸)なりしなり○當國に置かれたりし驛は勾金《マガリガネ》一驛のみ。勾金驛は今の與謝郡の市場村大字四辻か。地名辭書の説の如く丹後但馬の間に直通の別路ありとせば愈四辻を以て驛址に擬すべきなり。さて山陰道本路の長柄《ナガラ》驛(丹波國篠山附近)より分れ日出・花浪二驛(並に丹波國天田郡)を經、丹波・丹後の界なる千丈(ガ)岳の西を越え與謝郡の勾金驛を經て國府に達せしなり。續紀養老六年八月に伊勢以下十九國の國司が是より先には奉使して京に入るに乘驛を許されざりしに是に至りて始めて之を聽すとある中に丹後も見えたり。されば丹波至丹後の驛馬は是より先には朝廷より差遣せらるる使のみの専用なりしなり○當國は東は若狭に、南は丹波に、西は但馬に接し北は(267)海に沿へり。幕末に三藩治ありき。峰山・宮津・田邊是なり。峰山藩主は京極氏、宮津藩主は本莊氏、田邊藩主は牧野氏なか。田邊城一名舞鶴城、明治維新の始に紀州田邊との混同を避くる爲に田邊を舞鶴と改めしは城の名に依りしなり。
 ○維新の始に藩を直に縣とせし時代あり。當時紀伊の田邊縣と丹後の田邊縣と同名の二縣を生ずる故に後者の名を改めしなり。なほ伊勢の龜山縣と丹波の龜山縣とを生ずるに由りて後者を龜岡と改めしが如し
今邑里の主なるものは舞鶴町・中舞鶴町・新舞鶴町(以上加佐郡)宮津町・加悦《カヤ》町・岩瀧町(以上與謝郡)峰山町(中郡)網野町・間人《タイザ》町(以上竹野郡)などなり○山の名高きものは由良岳(一名由良富士)千丈(ガ)岳・普甲山(古くは布甲と書けり)成相《ナリアヒ》山などなり。千丈(ガ)岳の一名を大江山といふ。但大江山の本宗は老の坂の山なり○川の大なるもの二、由良川・竹野川是なり。由良川一名福知川、その上流が福知山を過ぐるが故にしか云ふなり。由良川の河口の左岸に由良村あり。所謂山椒大夫の遺蹟なり○港灣の主なるものは舞鶴灣・宮津灣・久美濱灣なり。宮津灣は天橋立によりて内外に二分せられたり。風土記には東海則外灣を與謝海といひ西海即内灣を阿蘇海といへり○社寺の主なるものは府中村大字大垣なる國幣中(277)社|籠《コ》神社・同村大字成相寺なる成相寺(觀音)同郡吉津村大字文殊なる智恩寺(文殊)にて天橋立の附近に集れり。是此地が當國の文化中心なりしなごりなり○丹後風土記殘篇といふ書あれど僞書なり。僞作の疑を負へるは鈴鹿連胤・六人部是香《ムトベヨシカ》なり(如蘭社話卷三十九村岡良弼氏述丹後風土記僞撰考參照)。眞正の風土記の殘れるは諸書に引ける逸文のみ。其逸文三節に見えたる地名は
 與謝郡速石里・天橋立・久志濱・與謝海・阿蘇海
 與謝郡日置里筒川村・水江浦
 丹波郡比治里・比治山・眞井《マナヰ》・土形里・荒鹽村・丹波里|哭木《ナキキ》村・竹野郡船木里・奈具村・奈具社
なり。又萬葉集卷九詠水江浦島子歌に見えたるは水江・墨吉《スミノエ》のみ
 
    天|椅《ハシ》立
 
丹後國風土記曰。與謝郡郡家東北隅方有2速石《ハヤシ》里1。此里之海有2長大前1(長|二〔左△〕《一》千二百廾九丈、廣或所九丈以下、或所十丈以上廾丈以下)。先(ニ)名2天椅立1後(ニ)(278)名2久志濱1。然云者國生大神|伊射奈藝《イザナギ》命天(ニ)爲2通行1而《カヨハムトシテ》椅(ヲ)作立。故《カレ》云2天椅立1。神|御寢坐間《ミネシマセルホドニ》仆伏。仍|怪久志備坐《アヤシミクシビマシキ》。故云2久志備濱1。此(ヲ)△《自》2中間1云2久志《クシトイフナリ》1。自v此東海云2與謝海1西海云2阿蘇海1。是二面(ノ)海|雑魚貝《クサグサノイヲカヒ》等住。但蛤乏少(○釋日本紀卷五述義一、神代上天津橋〔三字傍点〕之註所v引)
 
 新考 新訂増補國史大系本に據れるなり。與謝は和名抄に與佐と訓註せり。古典に吉佐とも書きたれど又餘社・余社とも書きたり。謝・社は濁音の假字なればもとはヨザとぞ唱へけむ。佐は清音の假字なれど清音の假字を濁音に轉用するは常の事なり(伊豫國逸文|伊社邇波《イザニハ》之岡參照)。日本紀雄略天皇二十二年に丹波國餘社郡|管《ツツ》川人水江浦島子とあり又顯宗天皇前紀に避2難丹波國余社郡1とあり。郡と書けるは追書なれど後の與謝郡の地を夙くよりヨザと唱へしならむ
 ○丹波國を割きて丹後國を置かれしは元明天皇の御世なり。故にここには丹波國餘社郡と云へるなり
(279)○郡家を古風土記逸文考證にグウケとよめるは和名抄淡路國津名郡の郷名郡家に久宇希と訓証せるに據れるにて考證の著者のみならず學者悉くかく訓む事なれど思ふに往古といへどもグウケとは訓までグンケとぞ訓みけむ。ただ當時ンといふ假字なかりしに由りてしばらくウを充てしならむ。されば郡家をグウケと訓まば恐らくは古人に嗤はれむ〇本郡の西南端に與謝村ありて丹波の天田郡に接したり(明治十三年地理局編纂の郡區町村一覽にこの與謝の傍訓にヨザと濁をさしたり)。地名辭書には此村を古の謁叡《アチエ》郷に屬したり。與謝郡家の所在は此村の内ならむ○東北隅方は東北又は東北方といはむに齊し。隅字には意なし。比治里の下にも郡家西北隅方とあり。撰者の筆癖と見ゆ○速石里はハヤシと訓むべし。即和名抄の拜師《ハヤシ》郷にて所謂好字に更へたるなり。さてここに速石里とあり別文に日置里とあり又別文に比治里・丹波里・船木里とあるを思へば丹後風土記は靈龜元年より前に成りしなり(和銅六年分國、靈龜元年はその翌々年)。出雲風土記に依2靈龜元年式1改v里爲v郷とあること人の知れる如し。さて速石里は内灣を圍める地域、今の町村名にて云はば府中村・岩瀧町・吉津村なるべし
 ○地理志料には吉津村の文殊を宮津郷に、同じき須津を物部郷に屬せり
(280)○長大前の前は埼の借字なり。釋紀の流布本に長大石前とあるはわろし。天橋立は砂堆にて磐石にあらねばなり○長二千二百廾九丈(本に二千を二十とせり)とある、いぶかし。二二二九丈は凡六十二町なり。天橋立はさばかり長からず。地名辭書には「今尺を以て論ずれば丈字は尺の謬なるを知る」といへり。二二二九尺とすれば六町十二間なり。天橋立はさばかり短からず。地誌提要に二十七町四十間といひ今概數三キロメートルと云へり。三キロは凡二十七町なり。思ふに二千二百廾九丈とある二千は一千の誤ならむ。一二二九丈は三十四町餘なり○廣廾丈以下といへるは提要に幅三十二間と云へると一致せり。三十二間は十九丈餘なればなり○天椅立以下の椅を流布本には皆梯とせり。漢字の椅《イ》はイヒギリノ木又は倚子にて之にハシの義は無けれど我邦の古典には好みて橋に代用せり。たとへば萬葉集の石椅《イハバシ》・倉椅山・倉椅川の如し。箋注和名抄橋の下に
 按ズルニ皇國ノ古籍ニ椅字ヲ用ヒテ橋梁トセルアリ。蓋爾雅ニ石杠謂2之※[行人偏+奇]1トアリテ郭註ニ或曰今之石橋トアリ。故ニ※[行人偏+奇]ヲ以テ橋トシソノ旁ヲ變ジ木ニ從ヒテ椅ニ作リ椅桐ノ字ト混ジタルナリ
といへり○國生《クニウミ》大神はイザナギノ尊のたたへ名なり。なほ出雲風土記に大穴持命をた(281)たへて所造天下大神といへる如し。イザナギノ尊に命字を用ひたるに、即日本紀の用例に違へるに注目すべし○天爲通行而は例の如き日本式漢文なるが考證に之をアメニカヨフタメニとよめるはわろし。もし然よむべくば而字を使はじ。宜しくアメニカヨハムトシテと訓むべし○ハシダテは即今いふハシゴなり。語例は垂仁天皇紀八十七年に
 諺曰2神之神庫隨樹梯之1(神ノホクラモハシダテノママニトイフハ)此其|縁《モト》也
とあり○御寢坐間(本に間を開に誤てり)を考證にミネマセルホドニとよめるはわろし。動詞にミを添ふる事は無し。宜しくミネ|シ〔右△〕マセルホドニとよむべし(萬葉集新考二三七頁參照)。仆伏はタフレフシキ(又はタフレキ)とよむべし。タフレタリとは訓むべからず○仍怪久志備坐を考證にカレクシビニマスコトヲアヤシミと訓めるはいとわろし。宜しくアヤシミクシビマシキとよむべし。クシビはクシビ・クシブルとはたらく動詞(トモシブルなどの類)にて不審ガルといふことなり○此〔右△〕の下に自を補ひ此|自〔右△〕中間としてコヲ中間ヨリと訓むべし。中間は中葉中世なり。訓讀せむとならばナカツヨとよむべし。比治里の下に
 故云2土形里1。此自2中〔右△〕間1至2于今時1便《スナハチ》云2比治里1
(282)といへり。此自中間も亦撰者の筆癖と見ゆ。初アマノハシダテといひ、大神の眠りたまひし程に怪しくも仆れ伏ししかばクシビ濱と改めしを中世以來略してクシ濱といふと云へるなり○但蛤乏少は前の記事に蛤の多き事を云ひたりけむに對して云へるならむ○考證に
 此中間云久志は速石里と天梯立のある久志濱との中間を久志とも云る義ならん。久志は後世久志渡と云所と聞ゆ
と云へるはいみじき誤解なり。久志は即久志濱一名天椅立なり。又天椅立も亦速石里の内なり。又クシドは久志門即久志と南岸との間の小海峽にて久志と混同すべからず○本文に據れば初天ノハシダテと云ひしがクシビ濱クシ濱とかはりしなれど今はクシ濱といふ名は亡びたり。天橋立は丹後國與謝郡府中村大字江尻より(古くはノを挿みてエノシリと云ひし如し)起れる沙※[嘴の旁]にして初西南に向ひ後は南に向ひて宮津町の西北端に近き處まで達し宮津灣を内外二海に分てり。内の海は今も阿蘇海といふ。今北凡二分と南凡一分との間に水路ありて之に橋を渡せり。此水路は近世洪水の爲に生ぜしなりといふ。その北部を大天橋と稱し南部を小天橋と稱せり。小天橋の西側と對岸吉津村(283)大字文殊との間を切戸《キレド》ノワタシ又クセド(古くはクセノト)は久志|門《ド》の訛なり。それより南に、狹水道ありて宮津町の西北端に達せり。切戸の渡には今廻旋橋を架せり。思ふに昔より存ぜしは今の大天橋にて今の小天橋は近古に現れ始め、爾來年を逐うて延び行きしなり。そは小天橋の尖端に近づくに從ひて土の益椎きに由りて知られ又山内侯爵所藏傳僧雪舟筆天橋之圖、享保十一年上版の丹後與謝海圖誌に附したる天橋立之圖などに橋立の洲崎が(後者には橋立明神を描けり)斜に智恩寺即所謂文殊と相對せるに由りても知らる。
 ○此等の圖には今の小天橋に當る沙※[嘴の旁]は無きなり
地名辭書に「切戸の南なる小沙嘴を久志濱と云ふ」といへるは所謂小天橋を指せるか。されど久志濱は元來天橋立の一名なること本文に云へる如し。辭書の著者は或は本文を誤讀誤解せるにや。又
 切戸 今吉津村大字文殊の海濱を云ふ。もと橋立の南なる狹水道の名にして又其南なる濱岸に及ぼして切戸濱と呼ぶ。風土記逸文に久志又は久志備濱と云ふに當ると云へり。キレドは決裂口といふ事にてもとの橋立の洲崎と智恩寺との間の幅二町許(284)の小海峽なり。海濱の稱にあらず。又切戸の南なる狹水道は近古以來の成立なり。辭書の著者は或は現今の地圖を按じて云へるにあらざるか。抑橋立の地理を記せるものはいと多かれど徃々實地に即せず。地名の所指も亦往々處を失へり。土人の言の如きも或は外來人に誤られたるにあらざるかと思はるる事あり。名所遺物の僞造はた少からず。研究者はよく此等の事を心得置くべし○大天橋の南端部もとの天橋立の洲崎に橋立明神の社あり。或郷土誌に是倭姫命世紀に見えて天照大神を四年が程ませまつりし但波乃吉佐《タニハノヨサ》宮を今の文殊堂の處より遷し奉りしなりと云へり。其説うべうべしけれど恐らくは然らでイザナギノ尊をいつき奉れるならむ○此逸文に一大不審あり。速石里はやがて國府の所在地なれば冒頭の文は與謝郡郡家東北隅方有2速石里1此里之海有2長大前1云々と書かで國府東|南〔右△〕隅方之海と書くべきにあらずや。ここに和名抄に
 丹後國(國府在2加佐郡1云々)
とありて今府址の與謝郡に在ると相叶はず。加佐郡は與謝郡の東南方に接して東西に長き郡なり。今の與謝郡の府址は加佐郡の界より遠ければ郡界の變遷せしものとは思はれず。加佐は吉佐などの書誤とも思はれず。されば地理志料には蓋初加佐ニ在リシガ(285)後ニ此ニ徙リシナリといひ地名辭書には
 和名抄注、在加佐郡と云は誤なり。拾芥抄加佐與謝兩部の下共に府と註す。亦誤れり。當に與謝郡と爲すべし
と云へり。右の如く國府在加佐郡とあると此逸文に國府東南隅方之海など云はざるとを對照するに此風土記の成りし時代(即和銅六年以後靈龜元年以前)には國府は與謝郡にあらで加佐郡に在りしならむ。さるにても和名抄に國府在加佐郡とあるは如何。和名抄を編纂せし時代には夙く與謝郡に移りたりけむを。と云ふに元來和名抄の郡郷表は本書編纂の爲に特に作製せしものにはあらで民部省に備へたる帳より寫し取れるなるがその原帳はた恐らくは新に作る事は稀にて古き帳に就きて改むべきを改めしに過ぎざらむ。さて此處はたまたま改め忘れしか又は正しく改めたりしを寫し取る時に誤りて原のままに寫し取りたるならむ。されば和名抄に國府在加佐郡とありても和名抄編纂に近き時代まで丹後の國府が加佐郡に在りしなりとは思ふべからず
 
(286)    日置里
 
丹後風土記曰。與謝郡日置里、此里有2筒川村1。此△《村》|人夫※[日/下]部首《タミクサカベノオビト》等先祖名曰2筒川(ノ)嶼子《シマコ》1。爲v人賓客秀美、風流無v類。斯《コレ》所v謂水(ノ)江(ノ)浦嶼(ノ)子|者《トイフモノ》也。是《ココニ》舊宰伊預部|馬養《ウマカヒ》連所v記無2相乖1。故略△△陳2所由之旨1。長谷《ハツセ》朝倉宮御宇天皇御世嶼子獨乘2小船1汎2出《ウカビイデテ》海中1爲v釣經2三日三夜1不v得2一魚1。乃得2五色龜1。心思2奇異《アヤシト》1置2于船中1即寐。忽爲2婦人1。其容美麗更|不〔右△〕v可v比。嶼子問曰。人宅遙遠、海庭人乏。※[言+巨]〔左△〕《誰》人忽來。女娘微咲對曰。風流之士獨汎2蒼海1。不v勝v△2近談1就2風雲1來。嶼子復問曰。風雲何處來。女娘答曰。天上仙家之人也。請君勿v疑、乘〔左△〕《埀》2相談之愛1。爰嶼子知2神女(ナルコトヲ)1鎭〔左△〕《慎》鐘懼疑v心。女娘語曰。賤妾之意|共《ト》2天地1畢《ヲハリ》倶《ト》2日月1極(マラムトス)。但君|奈何《イカニゾ》早先|△2許不〔二字左△〕《見不許》之意1。嶼子答曰。更無v所v言何|觸〔左△〕《解》乎。女娘曰。君宜3廻v棹赴2于蓬山1。嶼子(287)從住。女娘教令v眠v目。即不意之間至2海中博大之嶋1。其地如v敷v玉、闕臺|※[日+奄]〔左△〕《掩》映樓堂玲瑯目所v不v見耳所v不v聞。攜手徐行到2一|太〔右△〕宅之門1。女娘曰。君|且《シバシ》立2此處1。開v門人v内。即七豎子來相語曰。是龜比賣之夫也。亦八豎子來相語曰。是龜比賣之夫也。茲知2女娘之名龜比賣(ナルコトヲ)1。乃女娘出來。嶼子語2豎子等事1。女娘曰。其七豎子者|昴《バウ》星也。其八豎子者畢星也。君莫v怪焉。即立v前引導進入2于内1。女娘父母共相迎、揖而定v坐、于斯《ココニ》稱2説人間仙都之別1談2義人神偶會之嘉1。乃薦2百品|尊〔左△〕《芳》味1。兄弟姉妹等擧vさかずき坏〔右△〕獻酬。隣里幼女等紅顔戯接。仙歌寥亮、神※[人偏+舞]|逶※[しんにょう+施の旁]《ヰイ》、其爲2歡宴1萬2倍人間1。於v茲《ココニ》不v知2日暮1。但昏之時群仙侶等漸々退散。即女娘獨留、雙v眉〔左△〕《肩》接v袖成2夫婦之理1。于時《カクテ》嶼子遺《ワスレ》2舊俗1遊2仙都1既|※[しんにょう+至]《フ》2三歳1。忽起2懷v土《クニヲオモフ》之心1獨戀2于〔左△〕《二》親1。故吟哀〔二字右△〕繁發、嗟歎日益。女娘問曰。比來觀2君夫之貌1異2於常時1。願聞2其志1。嶼子對曰。古人言。少人懷v土死狐首v岳〔左△〕《丘》。僕以|△《爲》2虚談1今|斯《ココニ》信v然也。女娘問曰。(288)君欲v歸乎。嶼子答曰。僕近離2親故之俗1遠入2神仙之堺1不v忍《タヘズ》2眷戀1輒|申《ノベツ》2輕慮1。所v望|※[斬/足]《シバラク》還2本俗1奉v拜2二親1。女娘拭v涙歎曰。意等2金石1共期2萬歳1。何眷2郷里1棄2遺一時1。即相攜徘徊、相談慟哀。遂|接〔左△〕《投》v袂退去、就2于岐路1。於v是女娘父母親族|但〔左△〕悲v別送v之。女娘取2玉匣1授2嶼子1謂曰。君終不v遺2賤妾1有《アラム》2眷尋1者《ニハ》堅握v匣慎莫2開見1。即相分乘v船。仍教令v眠v目。忽到2本土筒川郷1。即瞻2眺村邑1人物遷易、更無v所v由《タヨル》。爰問2郷人1曰。水江浦嶼子之家人今在2何處1。郷人答曰。君何處人、問2舊遠人1乎。吾聞2古老等相傳1曰。先世有2水江浦嶼子1獨遊2蒼海1復不2還來1今經2三百餘歳1者《トイフ》。何忽問v之乎。即銜2※[云/廾]〔左△〕心1雖v廻2郷里1不v會2一親《ニダニ》1。既|※[しんにょう+至]《フ》2旬|月〔左△〕《日》1。乃撫2玉匣1而感2思神女1。於v△《是》嶼子忘2前日|期《チギリ》1忽開2玉匣1。即未v瞻之間芳蘭之體|率《シタガヒテ》2于風雲1翩2飛蒼天1。嶼子|即〔左△〕《既》乖2違期要1。還《マタ》知2復難1v會。廻v首踟※[足+厨]咽v涙徘徊。干v斯拭v涙歌曰。等許余弊爾久母多智和多留美頭能睿能宇良志麻能古賀許等母知和多留《タチワタルミヅノエノウラシマノコガコトモチワタル》。神女(289)遙飛2芳音1歌曰。夜麻等弊爾加是布企阿義天久母婆奈禮所企遠理等母與和遠和須良須奈《ヤマトベニカゼフキアゲテクモバナレソキヲリトモヨワヲワスラスナ》。嶼子更不v勝2戀望1歌曰。古良爾古非阿佐刀遠比良企和我遠禮波等許與能波麻能奈美能等企許由《コラニコヒアサトヲヒラキワガヲレバトコヨノハマノナミノトキコユ》。後時人追|加〔左△〕《和》歌曰。美頭能睿能宇良志麻能古我多麻久志義阿氣受阿理世波麻多母阿波麻志遠《ミヅノエノウラシマノコガタマクシゲアケズアリセバマタモアハマシヲ》、等許與弊爾久母《トコヨベニクモ》弊爾久母〔四字□で囲む〕多知和多留《タチワタル》多由女久女波都賀末等|和禮曾加奈志企《ワレゾカナシキ》(○釋日本紀卷十二述義八、雄略天皇紀浦嶋子〔三字傍点〕之註所v引)
 
 新考 新訂増補國史大系本に據れるなり。雄略天皇紀二十二年七月に
 丹波國餘社郡|管《ツツ》川ノ人水江浦島子、船ニ乘リテ釣シ遂ニ大龜ヲ得。便《スナハチ》化シテ女トナル。是ニ浦島子感ジテ婦トシ相逐ヒテ海ニ入リ蓬莱山ニ到リテ仙衆ヲ歴賭ス。語ハ別卷ニ在リ
とあり。又萬葉集卷九高橋|連《ムラジ》蟲麻呂歌集所v出歌の中に詠2水江浦島子1歌ありて
 春の日の かすめる時に 墨吉〔二字傍点〕の 岸にいで居て 釣船の とをらふ見れば い(290)にしへの 事ぞおもほゆる 水の江の 浦島(ノ)兒が かつをつり 鯛つりほこり 七日まで 家にも來ずて うなさかを すぎてこぎゆくに わたつみの 神のむすめに たまさかに いこぎむかひて 相とぶらひ こと成りしかば かきむすび 常世にいたり わたつみの 神の宮の 内のへの たへなる殿に たづさはり 二人いりゐて おいもせず しにもせずして ながき世に ありけるものを 世のなかの かたくな人の わぎもこに のりてかたらく しまらくは 家に歸りて 父母に ことものらひ 明日のごと 吾は來なむと いひければ 妹がいへらく 常世べに またかへり來て 今のごと あはむとならば このくしげ 開くなゆめと そこらくに かためしことを 墨吉〔二字傍点〕に かへりきたりて 家みれど 家もみかねて 里みれど 里もみかねて あやしみと そこにおもはく 家ゆいでて 三とせのほどに 墻もなく 家うせめやも 此筥を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉くしげ すこしひらくに 白雲の 箱よりいでて 常世べに たなびきぬれば たちはしり さけび袖ふり こいまろび あしずりしつつ  たちまちに こころけうせぬ 若かりし はだもしわみぬ 黒かりし (291)髪もしらけぬ ゆりゆりは いきさへたえて 後つひに いのちしにける 水の江の 浦島子が 家どころみゆ
 常世べにすむべきものをつるぎだち己《ナ》が心からおそやこの君
といへり。此等の外に水江浦島子の事は群書類從卷百三十五に收めたる浦島子傳及續浦島子傳記、扶桑略記の雄略天皇の段などに見えたれど夫等は萬葉集追攷の浦島の子〔四字傍点〕に讓りてここには擧げず○日置里は和名抄の郷名にも見えたり。流布本には置を量に誤てり。日置の訓はヒオキにやヘキにや明ならず。古風土記逸文考證及地理志料にはヘキと訓みたれど今も此里の一部なる村に日置の名の傳はれるをヒオキと唱ふればしばらくヒオキと訓まむ。
 ○古事記應神天皇の段なる是《コノ》大山守命者幣岐君等祖の傳(二〇四一頁)に
  日置と書てヘキともヒキともヒオキとも云地名國々に多し(和名抄に伊勢國一志郡比於木〔三字傍点〕能登國珠洲郡比岐〔二字傍点〕越後國蒲原郡比於木〔三字傍点〕但馬國氣多郡比於岐〔三字傍点〕この外なほ多し。さて右の中に能登國なるは比岐とありて其外は比於岐とある多し。幣岐とあるは無し。そもそも此地名諸國に多くあるを思ふにいかさまにも故あることとは(292)聞ゆれどもいかなる由の名にか未考得ず。又日置と書を思へば幣岐と云は訛のごと聞ゆめれど此記に既に然あれば返て是ぞ正しき唱なるべき。さて元幣岐ならむには日置と書こといかなる由にかあらむ。又幣岐を正しとせば比於岐とあるは文字に就てやや後のさかしら訓にやあらむ。右の伊勢國なるも比於木とあれども近世には戸木《ヘキ》村と云。其外にもヘキと唱る地名今も多きを思へば國人などは古より皆然唱へ來つるなるべし)
と云へり。按ずるに若ヘキガ原ならば日置とは書かじ。ヒオキと唱ふるはさかしら訓にあらず。原はヒオキなるを夙くよりヘキと訛れるなり。さてヒオキがヘキとなれるはヒオキの約ホキをヘキと訛れるにてなほ靱負(ユギオヒ)の約ユゴヒをユゲヒと訛れるが如し
さて此里は速石里の北方なる廣き地域と思はる。此地域は南は成相山に至り東北と東南とは海に臨めるが其東南端に今日置村あり。是大名の小名となりて殘れるなり。又北端に本庄村ありて其西南に筒川村あり。筒川村は新名にてもと此附近の總名を筒川といひしなり(據天保十一年發兌丹後國大繪圖)。本文に筒川村といへるは今の筒川村に止(293)まらで少くとも本庄村に亙れな名なり。今の筒川村は海に臨まず○此人夫は此の下に村を落したるならむ。又人夫は民といふ事ならむ(日本紀應神天皇紀以下に人夫と書きたるにオホミタカラと附訓したるがあり)。※[日/下]は日下の二合字なり(麿の類)。日下部|首《オビト》は姓氏録に
 日下部首(ハ)日下部宿禰同祖|彦坐《ヒコイマス》命之後也
とあり。流布本に名云(名曰)の下に三河の二字あるは衍《アマ》れり○筒川嶼子の筒川は地名、嶼子は人名なり。其人を世に稱して水江浦嶼子と云ひしに由りてコレ所謂水江浦嶼子トイフ者ナリと云へるなり。水江浦嶼子は水ノ江ノ浦ノ嶼子とよみて水江浦を地名とすべきか、又は水ノ江ノ浦嶼子とよみて水江のみを地名又は氏とすべきかと云ふに歌に宇良志麻能古とあり天慶六年の日本紀竟宴歌に宇羅志麻とあれば浦ノとは訓むべからず。さて水江は地名なりや氏なりやと云ふに恐らくは地名に依れる名字ならむ。又嶼子・島子はシマコとよむべきかシマノコとよむべきかと云ふにこれも宇良志麻能古と書きたればウラシマとつづきたる時はウラシマノコといひし事明なり。然らばただ嶼子・島子とあるはシマノコとよまむかシマコとよまむかと云ふに恐らくはシマコとぞ(294)いひけむ。思ふにうるはしくはウラシマノコといひ略してはシマコといひしならむ(萬葉集新考一七四一頁參照)
 ○伴信友は萬葉集に浦島兒・浦島子とあるはウラノシマコとよみ風土記の歌に宇良志麻能古とあるは二つ共に宇良能志麻古の顛倒と認むべしといへり
○斯はコレと訓むべし。比治里の節にも斯所v謂竹野郡奈具社坐豐宇賀能賣命也とあり
 
○舊宰は前の國司守なり。伊預部馬養連《イヨベノウマカヒノムラジ》は日本紀持統天皇三年六月に以2勤廣肆伊|余〔右△〕部連馬|飼〔右△〕等1拜2撰善言司1とあり、續日本紀文武天皇四年六月に勅2直廣肆伊|余〔右△〕部連馬養等1撰2定律令1とあり、又懷風藻に皇太子學士伊|與〔右△〕部馬養(目録には伊|預〔右△〕部馬|甘〔右△〕)とありてその從駕應詔の五言一首を載せたり。但丹|波〔右△〕國守たりし事は國史に見えず。雄略天皇紀に語在2別卷1といへるは即馬養連所記にて二十二年秋七月の記事はこれより採れるならむ。又續浦島子傳記に
 所謂浦島子傳は古賢ノ撰スル所ナリ。其言不朽ニシテ千古ニ傳フベ ク其詞花麗ニシテ萬代ニ及バムトス
といへる浦島子傳も亦彼馬養の所記を指せるならむ(群書類從所收の浦島子傳を指せ(295)るにはあらず)。その所記は今傳はらず。考證に扶桑略記の文を引きて「こは浦島子傳にて思ふに風土記にいはゆる伊預部馬養連所記といへる者なるべし」と云へるはいかが。恐らくは然らじ(萬葉集追攷參照)○無相乖の次の故の義曖昧なり。彼所記、傳説ト相乖フ所ナケレバソレニ據リテ所由之旨ヲ述ベムと云へるにや、又はソレニ讓リテ今ハ簡單ニ所由之旨ヲ述ベムと云へるにや。ともかくも辭足らず。或は略の下に據此〔二字傍点〕などありしが脱したるにや。所由之旨は事の由といふ意ならむ○更不可比の不は无の誤にあらざるか。もし原のままならばモノニをよみ添ふべし○人宅は邑里と心得べし。海庭は海上なり。※[言+巨]人は誰人の誤ならむ。誰人忽來はタレシノ人ゾ忽來レルハと訓むべし○不勝と近談との間に恐らくは冀〔右△〕などを落せるならむ。風雲何處來はソノ風雲ハと心得べし○乘相談之愛の乘は考證本に據りて垂とし鎭懼疑心の鎭は流布本に從ひて慎とすべし。疑心は心ニ疑フとよむべし○共天地畢倶日月極の畢は竟に同じ。されば此八字は天地トヲハリ(即キハマリ)日月ト極マラムトスと訓むべし。考證にヲヘとよめるは自他を誤てり○但君奈何早先許不之意は通じがたし。考證の傍訓は訓にあらで臆測の意譯なり。思ふに許不は不許の顛倒にて不許の上に見などを落したるならむ。宜しくイカニゾ早ク(296)マヅ不許ノ意ヲ見《シメ》スなど、訓むべし○觸は考證本に從ひて解の誤とすべし。考證の傍訓例の如し。宜しく更ニ言フ所ナキヲイカニゾ解《サト》ラムなど訓むべし。明ニノタマハネバ御心ノ程サトリガタシと云へるならむ○蓬山といひ海中博大之島といひ昴星畢星といひ仙都といひ仙歌といひ群仙侶といひ神仙之堺といへる、道家思想の蓬莱山に到りきとせるなり。然るに高橋蟲麻呂作歌にはワタツミノ神ノ宮ノ内ノヘノタヘナル殿ニ云云といひて日本思想の海神宮とせり。兩者の相違は一は漢文、一は國歌なるに由るか○眠目は俗にいふ目ヲツブルなり。坂上氏註(續浦島子傳記の前半)にも此語を踏襲せり○※[日+奄]映は掩映の誤ならむ。掩映は陰を成すなり。映は影なり日陰なり。考證にキラキラシクと傍訓したるは字義と正反對なり。太は大の通用なり。君且立此處の且はシバラクなり。昴星畢星は共に二十八宿の内なり。昴星は邦名スバル、昴は七星相並び畢は八星相聯れり○嘉を考證本に喜とせり。もとのままにて可なり。嘉はやがて喜なり。尊は流布本に芳とあるぞよけむ。坏は漢字の坏とは別なり。我邦にて杯の扁を土に變へたるなり。萬葉緯・考證本などに杯と改めたるはさかしらなり。戯接の接は接近の接か。さらば二字をタハブレチカヅクと訓むべし。神※[人偏+舞]は仙※[人偏+舞]なり。仙歌の仙との重複を避けて字を更へたるな(297)り。寥亮は澄みてひびく状なり。逶※[しんにょう+施の旁]《ヰイ》は斜に進退するなり。雙眉は雙肩の誤ならむと云ふ。さらば肩ヲナラベと訓むべし。于時は他書にてはソノトキと訓むべきなれどここにてはカクテに當てたるなり。比治里の節に于時其家豐土形富とあるも同じ。これも撰者の筆癖の一なり。※[しんにょう+至]は逕の俗字にて經の通用なり。古寫本に往々此字を書けり。懷土の土はクニなり、郷土なり。戀于親を流布本に戀二親に作れり。之に從ふべし。下にも二親とあり。吟哀は哀吟の顛倒か。比治里の節にも俯地哀吟とあり○少人の少は小の通用なり。首岳は首丘の誤なり。禮記|檀弓《ダングウ》に狐死正丘首仁也(狐死シテ正シク丘ニ首スルハ仁ナリ)楚辭に狐死必首丘とあり。首は頭を向くるなり。丘はおのが穴のある岡なり。以の下に爲を落せるにや。以爲はオモヒシニと訓むべし。俗は間なり。申はノベツと訓むべし○意はワガ心なり。共期萬歳は期共萬歳とあるべきか。棄遺一時は一時棄遺を取外したるか。さてその一時は忽と心得べきか○接袂退去といふこと聊解しがたし。接は投の誤か。さらばハラヒテとよむべし。但は皆などの誤か○筒川郷は前に出でたる筒川村を漢めかして云へるのみ。靈龜元年式の郷にあらず。由はタヨルなり。舊遠は昔なり。復不還來は不復を取外したるなり。者はトイフと訓むべし。六朝唐初の文に多く用ひたり。語辭の終を限る字(298)にて後世の云に似たり○棄心は歸心の誤ならざるか。即字妥ならず。措辭の拙きか。又は上に脱句あるか。一親の下にニダニを訓み添ふべし。※[しんにょう+至]を流布本に送とせるはわろし。旬月は流布本に旬日とあるに從ふべし○於の下に萬葉緯に從ひて是を補ふべし。未瞻之間は玉匣ノ内ナルヲ何物トモ視定メザル間ニといふ事か。芳蘭之體はカグハシキ物ガといふ事ならむ。率はシタガヒテとよむべし。考證に即未瞻之間以下十七字を「其壯年の容貌|※[炎+欠]《クツ》忽に風雲の吹散るが如く飛去て老たる由なり」と譯したるはあやなし○嶼子即|乖《クワイ》違期要の即は既の誤なり。復難會は難復會を取外したるなり○コトモチワタルを考證に「詳ならず」と云へり。コトモチワタルは消息ヲ持チ傳ヘ行クとなり。萬葉集卷二に
 みよし野のやま松がえははしきかも君が御言をもちてかよはく
又卷八に
 此花の一よのうちにももくさの言もちかねてをれにけらずや
とあり○遙飛芳音は常世國より歌ひおこせしなり。今のラヂオおもほゆ。この
 やまとべに風ふきあげて雲ばなれそきをりともよわをわすらすな
といふ歌は古事記仁徳天皇の段に見えたる吉備の黒比賣の
(299) やまとべに西ふきあがて雲ばなれそきをりともわれわすれめや
といふ歌の燒直しなり。西は西風なり。君ノ大御船ヲ西風ガ都方ニ吹上ゲテといふべきを略したるなり。上古の歌の習なり。クモバナレはソキにかかれる枕辭なり(記傳に上三句を序としたるは非なり)。ソキヲリトモは吉備ニヰテ都ヨリ離レ住メリトモとなり。次の
 こらにこひ朝戸をひらきわがをればとこよの濱のなみのときこゆ
といふ歌は此文の作者の作れるにや古歌を探れるにや知らねどめでたき歌なり。考證本に奈美能於等とあるは流布本に遠等とあるを訂したるなるがナミノトとある方古風に叶へり。仙覺抄卷入カゼノトノトホキワギモガの註(全集本二九四頁)にも此歌にナミノ等キコユとあるを例に引きたり○後時人《ノチノヨノヒト》追加歌の加は和の誤なり。考證本には此字を削れり。その第一首の結句にマタモアハマシ遠とあるを流布本に遠を落したり。第二首の弊爾久母は重複なり。一を削るべし。多由女久女波都賀末等は誤字ありて訓まれず。女は無論誤字なり。他は皆字音なればなり。六人部是香《ムトベヨシカ》は多麻久志義波都賀爾阿氣志の誤なるべしといへりと云ふ。なほ別に考ふべし○萬葉集の長歌の中に墨吉ノ岸ニイ(300)デヰテまた墨吉ニカヘリキタリテとあり。此地名は風土記の文には見えねど群書類從に收めたる續浦島子傳記の後半(擬浦島子並龜媛作詩歌)にも
 世をうみてわが泣くなみだ澄江にくれなゐ深き浪とよらなむ
とあり。同上の前半(坂上氏註)にも常ニ澄江浦ニ遊ブまた忽故郷澄江浦ニ到ルとあり。特にこの忽到故郷澄江浦と萬葉の墨吉ニカヘリキタリテとは風土記の忽到本土筒川郷に當ればスミノエは筒川村の内なること明なり。然るに地名辭書には竹野《タカノ》郡網野町の東西にある小殯池と淺茂川池との事を記して「萬葉集浦島子傳等に澄江浦と云も此とす」といひ又
 水江は必定網野にして筒川にあらず。筒川に江灣の名づくべきものなし。蓋浦島子は筒川網野の兩地に來往せし人なりければ兩地に其事を係くるのみ
といへり。かく強く網野説を主張せるは鴨長明の無名抄に
 丹後國よさの郡にあさもがはの明神〔八字傍点〕と申神います。國の守の神拜とかやいふ事にもみてぐらを得たまひて祭らるるほどの神にてぞおはすめる。是は昔浦島のおきなの神になれるとなむいひ傳へたる
(301)とあると筒川の海岸なる本庄村に港灣なしといふ地理學的偏見とに由れるなり。まづ無名抄に「與謝郡にあさも川の明神といふ神います」と云へるは誤なり。淺茂川は與謝郡の内ならで竹野郡の内にて網野の西(今は網野町の大字)なり。げに網野町にある式内網野神社の一名を浦嶼明神又淺茂川明神といふと云ふ。その祭神は此地方に蔓りし日下部氏の祖先とのみ傳へしをさかしら人が風土記に浦島子を日下部首等先祖といへるに依りて浦島子ぞと唱へ始めしならむ(神祇志料略同説)。もし浦島子をいつけるならば恐らくは官社に列せらるべからず。否たとひ眞に浦島子を祭れるなりともそれに依りて此地を浦島子の故郷又は縁故地に擬すべからず。はかなき事に由りて或人を更に縁故のなき處にいつき祭る事あるは播磨の明石及石見の高津の柿本神社を見ても知るべし。又本庄村は海岸に臨みて浦もあり礒もあり岬もあり江もあれば大船を泊つべき港こそ無けれ漁舟を出し又は寄すべき處のなどか有らざらむ。されば辭書の網野説は排斥すべし。考證の末の方に「内山眞龍が地名記には筒川今號淺藻川。川東網野村也。有浦島社と記したり」と云へるは地理を知らで云へるなり○浦島子傳説の原形即世々の文士が装飾を加へざりし昔の傳説は如何ありけむ。恐らくはただ筒川に水江浦島子とい(302)ふ若き漁夫ありしが出漁して歸らざりしかば村人は夙くうせきとのみ思ひたりしに多年を經て恙なく歸り來りきと云ふに過ぎざらむ。それを次々に文人歌人が飾り立ててかく道家思想の濃厚なるものに作り上げしならむ。就中龜比賣が別に臨みて櫛笥を授けて決して之を開くなと云ひきといふ一節は捜神後記に乃以2一腕嚢1與2根等1語曰。慎勿v開也とあるを飜したるならむ。全文の梗概は左の如し。
 袁某根某ノ二人ガ深山ニ入ツテ二人ノ仙女ト相逢ウテ各同棲シタガ故郷ニ歸リタクナツテ仙女ノ不在中ニ歸路ニ就イタ。仙女ハ之ヲ見附ケテ呼還シタガ事情ヲ聞イテ強ヒテ留メハセズニ一腕嚢ヲ二人ニ與ヘテ決シテ開イテハナラヌト戒メタ。歸郷後或時根ガ外出シタ跡デ家人ガソノ嚢ヲ開イテ見シニ小サナ青イ鳥ガ嚢ノ中カラ出テ飛去ツタ。又ソノ後根ガ田ニ出テ耕シテ居ル時ニ家人ガイツモノヤウニ辨當ヲ持チ行キシニ根ガ動カヌノデ、ヨク見ルトモヌケノカラ〔六字傍点〕トナツテシマツテヰタ。即根ハ仙人トナツタノデアル
右の如し。捜神後記は晋の陶淵明の撰と傳へられたり。そは或は假托なるべけれど夙く隨書經籍志に捜神後記十卷陶潜撰とあれば六朝の遺書たるには疑あらじ
 
(303)    比治里
 
丹後風土記曰。△△△△△△△△△△《丹波郡々家西北隅方有》2△△△《比治里》1。△△《此里》比|沼〔左△〕《治》山頂有v井。其名云2眞井〔二字傍点〕1。今|既成《ハヤクナレリ》v沼。此井(ニ)天女八人降來|浴v水《ミヅヲアム》。于《ソノ》時有2老夫婦1。其名曰2和奈佐|老夫《オキナ》・和奈佐|老婦《オミナ》1。此老|△《夫》等至2此井1而竊取2藏天女一人衣裳1。即有2衣裳1者皆|△《天》飛上。但無2衣裳1一人|△《留》、即〔右△〕身隱v水而獨|懷v愧居《ヤサシトオモヒヲリ》。爰老夫謂2天女1曰。吾無v兒。請2天女娘〔四字傍点〕1汝爲v兒。天女答曰。妾獨留2人間1。敢不v從。請許2衣裳1。老夫曰。天女娘何|存《オモフ》2欺心1。天女云。凡天人之志以v信爲v本。何多2疑心1不v許2衣裳1。老夫答曰。多v疑無v信|率土《コノヨ》之常。故以2此心1爲v不v許耳《ユルサザヲムトセシニコソ》。遂許、即相副而往v宅〔二字傍点〕。△《即》相住十餘歳。爰天女善|爲2釀《カモシキ》酒1。飲2一|盃〔左△〕《坏》吉《ヨク》萬病|除之《ノゾコリキ》。其一坏之|直〔右△〕(ノ)財(ヲ)積v車送|之〔右△〕。于時《カクテ》其家豐、土形富《ヒヂガタニトミキ》。
故云2土形里〔五字傍点〕1。此(ヲ)自2中間1至2于今時1便《スナハチ》云2比|沼〔左△〕《治》里1。後老夫※[婦を□で囲む]等謂2天女1曰。汝非2吾(304)兒1。※[斬/足]借住《シバラクカリニスマシメシ》耳。宜2早出去1。於v是〔二字傍点〕天女仰v天〔二字傍点〕哭|働〔左△〕《慟》俯v地哀吟、即謂2老夫等1曰。妾非d以2私意1來u。是老夫等所v願。何發2厭惡《エンヲ》之心1忽存《オモフ》2出去之痛〔左△〕1。老夫|増《マスマス》發v瞋願v去。天女流v涙微退2門外1、謂2郷人1曰。久沈2人間1不v得v還v天。復無2親故1不v知v由所〔二字左△〕《所由》居1。吾何々|々哉〔二字左△〕《哉々》。拭v涙嗟歎、仰v天歌曰。阿麻能波良布理佐兼美禮婆加須美多智伊幣治麻土比天由久幣志良受母《アマノハラフリサケミレバカスミタチイヘヂマドヒテユクヘシラズモ》。遂退而至2荒鹽村1、即謂1村人等1云。思2老夫老婦之意1我心無v異2荒鹽1(トイヒキ)者。仍云2比|沼〔左△〕《治》里荒鹽村1。亦至2丹波里|哭木《ナキキ》村1據2槻木《ツキノキ》l而哭。
 
故云2哭木村1。復〔六字傍点〕至2竹野《タカヌ》郡船木里|奈具《ナグ》村1、即謂2村人等1〔五字傍点〕1云。此處我心|△《成》2奈具志
久《・ナグシクナリヌ》1(古事《フルゴトニ》平善者云2奈具志1)。乃留2居〔右△〕此村1。斯《コレ》所v謂竹野郡奈具社(ニ)坐《イマス》豐宇賀能賣《トヨウカノメノ》命《ヌ》也(○元元集卷七所v引)
 
 新考 日本古典全集本元元集(二二四頁)に據れるなり。古典保存會本古事記裏書(文永十年卜部兼文記)に
(305) 丹後風土記曰。丹後國※[三字□で囲む]丹波郡々家西北隅方有2比治里1。此里比治山頂有v井。其名云2麻奈〔二字傍点〕井1。今既成v沼。此井天女八人降來浴v水。于時有2老夫婦1其名曰2和奈佐老夫・和奈佐老婦1。此老等至2此井而1竊取2藏天女一人衣裳1。即有2衣裳1者皆天|飛〔右△〕上。但無2衣裳1女娘一人留、△《即》身隱v水而獨懷v愧居。爰老夫謂2天女1曰。吾無v兒(○請天女娘より往宅までの八十二字を略せり)。即相住十餘歳。爰天安善爲2釀酒1。飲2一坏1吉萬病除|云《之》々〔二字左△〕。其一坏之財積v車送△《之》。于時其家豐、土形富(○故云土形里より於是までの四十二字を略せり)。天女云々(○云々に仰天より故云哭木村復までの一百八十三字を托せり)。至2竹野郡船木里奈具村1△△2△△△《即謂村人等》1云。此處我心成2奈具志|人〔左△〕《久》1(古事平善者曰2奈具|△《志》1)乃留2△《居》此村1。斯所v謂竹野郡奈具社坐豐宇|加〔右△〕能賣命也
とあり。丹後國は不要なり。削るべし。飛に人扁を添へたり。云々は之字の誤なり。註の奈具の下の字讀みがたし。加は元々集に賀とあり。其他は本文の考定の處にいふべし。考證に出典として元元集・古事記裏書の外に萬葉集註釋・類聚神祇本源を擧げたれど仙覺抄には見えず。神祇本源は我文庫に無し。さて本文を考定せむにまづ發端に裏書に依りて丹波郡郡家西北隅方有比治里此里の十五字を補ふべし。次に裏書に從ひて比沼山を比治(306)山に改むべし。眞井は裏書に麻奈井とあり。いづれか原ならむ。次に此老等は原のままならばコノオイビトラとよむべけれど下に二處まで老夫等とあればここも此老夫等にて夫を落したるにや。次に皆の下に裏書に依りて天を補ふべし。次に一人の下に裏書に依りて留を加ふべし。其下の即事裏書には無し。次に相住の上に裏書に即字あり。次に盃は坏とあるべし。下なると字を異にすべきにあらねばなり。裏書には坏とあり。次に直字、裏書には無けれどソノ一杯ノアタヒノタカラヲとあるべきなれば直字は無かるべからず。次に比沼里は比治里に改むべし。ヒヂカタを略してヒヂと云ひきと云へるなれば比治とあらでは叶はず。次に哭働は哭慟の誤なり。次に存出去之痛の痛字妥ならず。次に不知由所居は所由居の顛倒ならむ。次に何々々哉は何々哉々の顛倒にて何哉何哉とあらむに齊し。次に裏書に依りて我心の下に成を補ふべし。なほ云ふべき事あらば註釋の處に云はむ。塵袋卷一宇加の條(日本古典全集本六二頁以下)に
 又丹後國竹野郡船木ノ里奈具村ニ奈具ノヤシロアリ。神ヲバ宇加能賣命ト申ス。其神ノ本縁ヲキケバ丹波郡比治山ノイタダキニ井アリ。麻奈井ト云フ。今ハヌマトナレリ。コノ井ニ天女八人クダリテ水ヲアミケルニゼウ〔二字傍点〕トウバ〔二字傍点〕トアリ。二人ガ名ヲトモニワ(307)ナサ〔三字傍点〕トゾ云ヒケル。一人ノ天女ノヌギタルキ物ヲトリテカクシテケリ。水アミハテテソラニトビアガル(○ニ脱か)一人ガキモノナクシテステラレヌ。水ニ身ヲカクシテナキヲリケレバゼウ〔二字傍点〕ガ云フヤウ。汝我子トナレ。家ニ具シテユカント。天女シヒテ命ニシタガヘバキモノキセテ(○ヰテ脱か)家ニカヘリヌ。サテ十餘年ガアヒダ此天女ゼウ〔二字傍点〕ニシタガヒテスギケルニヨク酒ヲツクテ(○ツクッテ)其酒ヲ一坏ノミツレバ萬病皆イユル故ニ人擧リテ是ノ(○原本直字脱)財物ヲ車一兩ニツミテカハリニトラセナンドシケレバ其家立所ニタノシクナリニケリ。心ニネガハシキホドマデ〔心ニ〜傍点〕(○土形の處に當れり)ヨクトミニケルノチ此翁今ハ事カケズトヤ思ヒケン不知恩ニ此天女ヲオイ出シケリ。汝實ニハ我子ニアラズ。トクイデネ。ト云ヘバヲハレテ出ヌレドトビカヘルコトモワスレヤシニケン、スムベキ里ヲ思ヒワヅラヒテ門ノ外ニタタズミツツ空ヲナガメテ歌ヲヨミケル
 アマノハラフリサケミレバ霞タチ家路マ|ヨ〔左△〕ヒテエクヱシラズモ
是ヨリ足ニ任テ一ノ里ニイタリヌ。其時心ノ愁ヤスマリテスミヨカルベキ里トオボエケリ。其レヨリ此里ヲバナグノ里ト云フトカヤ。此所ニオハシツキテハ心ナグシ人(308)ニナリヌトノタマヒケルユヘナリ(○我心成奈具志久を古事記裏書の如く奈具志人と誤れる本に據れるなり)。ナグシ〔三字傍点〕トハ心ノクナク善ナルヲ云フコトバトカヤ。此所ニヤシロニイハハレテイママデナグノヤシロ〔六字傍点〕トテオハス。宇加ノメカミト申ハ宇加ノ女神也。ヲンナガミナレバ宇加ノメトハ云ヘリ。此宇加ノ神福神ニテ翁ガ家モホドナクタノシクナリニケルナルベシ云々
と云へるは同じく丹後風土記に(おそらくは裏書に引けると同じき本に)據れるなれど文を書きやはらげたれば本文の考定の資とはすべからず。さて鎌倉時代の人なる本書の著者も土形富をば心得かねきと見えて直解を避けたり。これだに此書にて明めてむと思ひしを○下に丹波里見えたり。是和名抄の丹波郷にて即今の中郡丹波村大字丹波を中心としたる地域なり。郡家の所在地は丹波ならむ。比治は和名抄郷名に見えず。比治里は恐らくは今の中郡|五箇《ゴカ》村ならむ。五箇村は丹波村の西南に當れり。されば丹波郡々家西北隅方有比治里の西北は西南の誤と認むべし。抑丹波村は本郡の北尖に當りて東北西の三方|竹野《タカノ》郡に圍まれたればこれより西北に一里あるべきにあらず。さて五箇村は本郡の西南隅に當りて其南端は但馬國出石郡に接したり。宮津府志に
(309) イサナゴガ嶽、中郡五箇村にあり。當國第一の高山也。一説に奈具社縁起に天女の比治山といふは此山也。此山のつづき西の方を肱山峠といふ。往古はすべてヒヂ山といふ。後世はイサナゴと呼ぶにや
といへり(宮津府誌は文庫に無し。考證に引けるに據れるなり)。日本地誌提要に
 足占《アシウラ》山 土俗|磯砂《イサナゴ》山ト云。中郡常吉村ヨリ壹里餘
とあり。標高六六一米なれば當國第一の高山といへるは事實にあらず。肱山峠は本村鱒留より熊野郡佐野に越ゆる菱山峠なり。ヒヂを今ヒシと訛れるか○井は泉なり。湧水のたまれる處なり。マナ井は井をたたへて云へるなり。なほ子・娘・鹿をマナゴ・マナムスメ・マナカといへる如し。されば本來常の語なるがここにては井の名となれるなり○懷愧居はヤサシトオモヒヲリとよむべし。元來漢文式ならず○何存欺心の存は考證の如くオモフと訓むべし。萬葉集に多く心ヲオモフとよめるは心ヲモツと云はむに同じ。心ヲモツといふ辭は奈良朝時代の末に現れそめき。率土を考證にコノヨとよめるはよろし。爲不許耳は許サザラムトセシニコソなど訓むべし○爲釀酒を釀酒ヲナシキとは訓むべからず。釀酒と云はばシキとは云ふべくナシキとは云ふべからざればなり。されば此三(310)字は酒ヲツクリカモシキとよむか又は爲釀を聯ねてカモシキと訓むべし。カモスはやがてカミナスの約なり○吉萬病除之の吉は誤字かと思ひしかどなほ日本式の漢文と認めてヨク萬病ノゾコリキと訓むべし○土形に就いて考證に「土形とは地形の肥えたるをたたへていへる辭にや」といへり。按ずるに土形は田地の名稱ならむ。さてその土形といふ田地は山村には少くて珍重せられしものならむ。よりて更に思ふに土形のヒヂは無論濕土、カタはアガタにてそのアガタは元來田畠に亙りし名なれば土濕ひて米を作るに適する地を特にヒヂガタ(カは濁るべし)と稱せしにや。さて富士形と書かで土形富と書けるも例の日本式なり。此自中間はコヲ中間ヨリとよむべく中間は中世といふ意なる事上に云へる如し○老夫婦等は婦又は等を削るべし。恐らくは婦の衍《アマ》れるならむ○不知由所居は不知所由居の顛倒としてタヨリ居ラム所ヲ知ラズと訓むべし。日置里の節にも更無所由とあり。何哉何哉はイカニカセム、イカニカセムとよむべし○フリサケミレバは遙ニ見ヤレバとなり。仰ぎ見る意は無し。萬葉集に振仰而ミカヅキミレバと書きトホツイモノ振仰ミツツシヌブラムと書けるは意を迎へてものせるのみ。イヘヂマドヒテは家路がまどふにあらず家路ニマドヒテと云ふべきニを略したるなり。後(311)世ならば略すまじきニを略せるは(否使はざるは)古歌の常なり(萬葉集新考索引、にヲ略シタル參照)。ユクヘシラズモは行クベキ方ヲ知ラヌカナとなり。俗語の途方ニクレルに當れり。後世のユクヘは皆ユキシ方なれど古歌のユクヘにはユキシ方の意なるとユクベキ方の意なるとあり。萬葉集卷二にもミコノ宮人ユクヘシラズモまたユクヘヲシラニ舍人ハマドフとあり(新考二二九頁及二八五頁參照)○荒鹽村は今の五箇村大字|久次《ヒサツギ》ならむ。なほ後にいふべし。無異荒鹽のアラシホは荒潮にて鹽と書けるは借字ならむ。大祓の祝詞にも荒鹽とあり○哭木村は今の中郡新山村の大字内記なり。ナキキが音便にてナイキとなれるに内記の字を充てたるなり○船木里は今の竹野郡|彌榮《ヤエイ》村の大字に船木あり。但奈具村といふ部落は中古大水に流れ失せて今は無し。成奈具志久はナグシクナリヌを日本式に書けるなり。ナグシクナリヌはオダヤカニナツタとなり。註の古事は古言なり。さればコジとよまでフルゴトニと訓むべし。トヨウカノメノ命は飲食を掌る女神なり○考證本に吾無兒〔二字傍点〕請天女娘汝爲兒の無兒を落せり。其註に
 上古は土形の地名によりて比遲乃麻奈爲と云しを後沼となりし故に比沼と改めたるなるべし。此文の首に比治山頂有井其名云眞井今既成沼また下文に此自中聞至于(312)今時便云比|沼〔右△〕里とあるを以て按ふに比沼とは比遲山なる井の埋りて終に沼となれる由をもて比遲沼と云るを約めて比沼と云しにやあらむ
と云へるはいとわろし。著者は便云比|沼〔右△〕里とあるが便云比|治〔右△〕里の誤なる事を悟らざるよりかく支離滅裂なる事を云へるなり。老夫が土形に富みしによりてヒヂガタノ里と名づけしを中世以來そを略してヒヂノ里といふと云へるのみ。なほあらあら傍訓及送假名の正しからざるを訂さむに老婦の傍訓オフナはオミナに改むべし。オミナを音便に任せてオウナと書く事はあれどオフナとは書くべくもあらず。天女云ラクは云ハク、除の傍訓イヘヌはイエヌ、否ノゾコリキ、土形富の傍訓ヒヂカタトミキはヒヂカタ|ニ〔右△〕トミキ、暫ク借リ住タル耳はシバラクカリニスマシメシ耳とあるべし。また忽存出去之痛を忽ニ出去ラシムル痛ヲナスヤとよめり。出去は戸令の七出三不去の出去なればイダシスツルとよむべし。痛の字穩ならねどしばらく痛毒の義即惨酷ナル心の義として存は上の何存欺心の如くオモフヤと訓むべし。微にクを添へたるはたわろし。雅言はスコシなり。スコシクは訛語なり。不知由所居にヲルベキニヨシヲシラズと傍訓したるは糊塗なり。哭《ナ》ケリはナキキ又はナキニキとあるべし○古事記裏書に
(313) 攝津國風土記云。稻倉山、昔止與|宇〔右△〕可乃賣神居2山中1以v盛v飯因以爲v名。又曰。昔豐宇可乃賣神常居2稻椋《イナクラ》山1而以v山爲2膳厨之處1。後有2事故不1v可v得v已遂還2於丹波國比遲乃麻奈韋1(○前の字に口扁を添へたり)
とあり○本郡の式社にしてトヨウカノメノ命をいつけるもの三所あり。即比治麻奈爲神社・咋岡神社・名木神社なり。竹野郡に一所、即奈具神社なり。比治麻奈爲神社は今の五箇村大字鱒留なる藤|社《コソ》大明神なりとも同村大字久次なる眞名井明神なりとも云へり。恐らくは前者ならむ。さて後者は本文に
 遂退而至2荒鹽村1即謂2村人等1云。思2老夫老婦之意1我心無v異2荒鹽1者。仍云2比治里荒鹽村1
といへる遺蹟にてやがて咋岡神社なるをいつの世よりか比治麻奈爲神社の名を冒せるならむ。宮津府志に「丹波郡周枳村荒鹽大明神あり。此邊古への荒鹽村なるべし」とある由なれど風土記の荒鹽村は比治里の内なれば周枳村(古の周枳郷)にたとひ荒鹽明神ありとも其處にはあるべからず。豐岡縣式社未定考案記に
 久次村ハ咋岡神社ナルヲ同村ノモノ眞名井神社ト申張リ古キ棟札アリト云フ。取調ベシニ眞名井大神宮ト記セドモ元ノ字ヲ消シ改メテ記セシモノナリ。比治眞名井ハ(314)鱒留村藤|社《コソ》神社ト記セル社ニ相違アルマジ
宮本池臣の丹後但馬神社道シルベに
 今比治山トテ高キ山アリ。其麓ニ藤|社《コソ》大明神トテ養蠶ノ守護神ナリト云ガ即麻奈爲神社ナリ
大原美能理の丹後國式内神社考にも
 丹後國中ニテ名山ハ此比治山ニテ一山四名ヲ有ス(○比治山・いさなご岳・あし占山・眞名井山)。此山二國三郡ニ亙リ(○二國ほ丹後但馬、三郡は中郡・熊野郡・出石郡)何レノ郡ニモ麓ニ比治ト云フ神社アリ(○出石郡には式内比遲神社)
といへり。咋岡神社は今丹波村大字赤坂にあれどそは久次より峰山に、峰山より更に此處に移ししなりといふ。されば久次は咋岡神社の舊地なり。今の所謂眞名井神社の後の山をクヒシガ岳(咋石岳)といひしを今は久次ガ岳といふ。天正年間に咋石の文字を久次に改め細川忠興在城の時にヒサツギと呼び更へしなりとぞ。
 ○咋石の字を久次に改めしは如何。思ふに近古次々〔二字傍点〕といふ事をイシイシと云ひしかば久次と書きてクイシと訓ませしならむ。山城國綴喜郡にも式内咋岡神社あり。祭神(315)はウカノミタマノ神なり。ウカノミタマも亦飲食を掌る神なり
名木神社は哭木村の遺蹟に在り。哭木は上に云へる如く今の新山村大字内記なり。竹野郡奈具神社は今彌榮村大字船木に在れどこは神社の舊地にあらず。もと神社の在りし奈具村は嘉吉年間の大水に流されしかば村民は靈石を奉じて溝谷村と外村とに分れて流寓しさて靈石は外村鎭坐の溝谷神社の相殿にませまつりき。然るに後に舟木の村人私に其村に奈具神社を建てしかど靈石はなほ溝谷神社にありしに
 ○天保十一年の丹後國大繪圖に舟木に鳥居を描きて奈具社と記せるはこの舟木私設の神社なり。元來古の船木里は廣き地域にて近古の舟木村は其一部なりしなり。無論舊奈具村は舟木村の内にあらず
明治六年神祇省の命にて溝谷神社合祀の奈具神社を舟木村に遷坐せしめ彼靈石をも引渡さしめき。これによりて奈具神社と舊氏子即舊奈具村民の子孫とは分離する事となりていたく神慮人心をそこなひきといふ。余が今かくくだくだしく述ぶるは後世の學徒が誤りて風土記の船木里奈具村を今の彌榮村大字船木ぞと思はむを恐るるが故なり。ただ憾むらくは奈具村及神社の舊址を明にせざる事なり○天女の衣を奪ひし説(316)話は今はめづらしからぬまで諸國に廣まれり。就中古書に見えたるは帝王編年記に
 古老傳曰。近江國伊香郡與胡郷|伊香《イカゴ》小江在2郷南1。天之八女倶爲2白鳥1自v天而降浴2於江之南津1。于時伊香刀美在2於西山1遙見2白鳥1其形奇異。因疑2若是神人乎1往見v之實是神人也。於v是伊香刀美即生2感愛1不v得2還去1。竊遣3白犬盗2取天羽衣1得v隱2弟衣1。天女乃知、其兄七人飛昇2天上1。其弟一人不v得2飛去1。天路永塞、即爲2地民1。天女浴浦今謂2神浦1是也。伊香刀美與2天女弟1※[女を□で囲む]共爲2室家1居2於此處1遂生2男女1。男二女二。兄名意美志留、弟名那志等美、女名伊是理比※[口+羊]、次名奈是理比賣。此伊香連之先祖是也。後母即捜2取天羽衣1著而昇v天。伊香刀美獨守2空床1※[口+金]詠不v斷
とあり。天女が白鳥に化せし事、天人の衣を奪ふに白犬を使ひし事、天女と夫歸となりし事、天女後に天に還り昇りし事以上比治眞井傳説と異なり。又天人の衣を天羽衣と云へり。次に本朝神社考卷五に
 三保松原者……案2風土記1古老傳言。昔有2神女1自v天降來曝2羽衣於松枝1。漁人拾得而見v之其輕軟不v可v言也。所v謂六銖衣乎、織女機中物乎。神女乞v之漁人不v與。神女欲v上v天而無2羽衣1。於v是遂與2漁人1爲2夫婦1。蓋不v得v已也。其後一旦女取2羽衣1乘v雲而去。其漁人亦登仙云(317)とあり。天女の一人なりし事、夫壻も亦天に上りきといふ事など伊香小江傳説と異なり。又ここには水を浴みきといふ事見えざれど羽衣ヲ松枝ニ曝シキとあればなほ海水を浴みしならむ。次に河内志|交野《カタノ》郡天河の下に
 曾丹集曰。有2仙女1來浴2此水1。少年戯藏v衣。因不v能2歸去1。遂爲2夫婦1。後三年而飛去。與2江州余吾湖・駿州三保浦・丹州奈具社1同一古話
とあれど流布の曾丹集にはかかる事見えず。同書に毎月集の初秋七月の處に
 田子の浦にきつつなれけむをとめ子が天の羽ごろもさぼすらむやぞ
といふ歌あり。右の天川傳説は恐らくは元來三穗浦傳説の異傳にて彼歌に書添へたりしを河内志の著者並河誠所が誤りて集の本文と認めしならむ。次に漢籍より一例を抄出せむ。淵鑑類函卷三十三、池三に
 南昌府子城東有2浴仙池1。相傳。有2少年1見d美女五人脱2五彩衣於岸側1浴c池中u。少年戯藏2其一1。諸女浴竟化2白鶴1去。獨失v衣女不v能v去。隨至2少年家1爲2夫婦1約d以2三年1還c其衣u、亦飛去
とあり。伊香小江傳説と最よく相似たれど彼は八人此は五人、彼は白鳥此は白鶴なりしが相異なり。今一例或書に捜神後記曰として掲げたるものあれど同書にも捜神記にも(318)見えず。眞原を※[手偏+僉]出せば追加すべし。我邦にては伯耆民談記に見えたる羽衣石《ウエイシ》山傳説以下世に知られたるもの少からざるのみならず沖繩喜界の島々にさへ同種の傳説の採集を待てるもの多しといふ(柳田國男竹取翁考參照)○再本文に就かむに天女が初比治山の頂に降り次に老夫婦に率られて山麓なる五箇村鱒留に住し次に逐はれて同村久次に徙り次に新山村内記に移り終に竹野郡彌榮村の内舊奈具に到りて永く此處に留まりし事、即竹野川に治ひて次第に東北に下り然も海岸に達せずして止みし事は注目に値らざらむや○倭姫命世記に
 酒殿神 豐宇賀能賣命|缶《モタヒニ》坐《マス》。丹波竹野郡奈具社坐神是也。天女善爲釀酒。飲一杯吉萬病除之〔天女〜傍点〕。形石坐也
といへるは丹後風土記に依れるにて形石坐也といへるは奈具社の靈石を云へるか。外宮の酒殿にては形|缶《ホトギ》に坐せば形石坐也は奈具社にての事ならむ○後に袖中抄を※[手偏+僉]せしに其卷十六に
 よご〔二字傍点〕のうみにきつつなれけん|お〔左△〕とめごがあまのはごろもほしつらんやは 顯昭云。これは曾丹三百六十百中に七月上旬の歌なり。歌の心は昔近江のくにによごのうみ(319)に織女〔二字傍点〕のおりて水あみけるにそこなる|お〔左△〕とこゆきあひてぬぎ|を〔左△〕けるあまのはごろもをとりたりければたなばた〔四字傍点〕えかへりのぼり給はでやがて其男の女《メ》になりてゐにけり。子共うみつづけて年ごろになりにけれどももとの天上へのぼらんの心ざしうせずしてつねにはねをのみなきてあかし暮しけるにこの男の物へ行けるあひだにこのうみたる子の物の心をしるほどになりたりけるが「なに事に母はかくなき給ふぞ」といひければしかじかとはじめよりいひければ此子、父のかくし|を〔左△〕きたりけるあまのはごろもをとりてとらせたりければ母よろこびてそれをきてとびのぼりにけり。のぼりける時に此子にちぎりけることは「我はかかる身にてあればおぼろげにてはあふまじ。七月七日〔四字傍点〕ごとにくだりて此うみの水をあむべし。其日にならばあひ待べし」とて母も子もともに別の涙をなんながしける。さて其子孫は今までありとなむ申つたへたる。或人の申《マウシ》しは「河内國天の河〔六字傍点〕にこそさることはありけれ。其たなばたの子孫いまにか|う〔左△〕ちに有」と申《マウシ》しかど曾丹がよめるは中比の人たしかに申ける事にこそ。うたがふべからず。近江にも河内にもともにありけることなるべし
といへり。河内志の誤認したる河内天河の傳説と曾丹集との關係は袖中抄にや胚胎し(320)けむ。但並河氏は袖中抄に據りしにはあらじ。又袖中抄の著者顯昭は與胡《ヨゴ》郷伊香小江傳説の原文(おそらくは近江國風土記〔六字傍点〕)を見しにあらじ。又曾丹即曾禰好忠の歌は天ノハゴロモサボスラムヤゾとよめるを思へば伊香小江傳説に據りしにはあらで三穗松原傳説に據りしならむ。さるからにタゴノ浦ニとよめるを(田子の浦と三穗の松原とは少し相離れたれど)顯昭は伊香傳説の外に三穗傳説のあるを知らざりしかばタゴを誤としてヨゴノ浦ニと改めしにあらざるか。結句も歌集にはサボスラムヤゾとあるを袖中抄にはホシツラムヤハとせり
 
(321)    但馬國 無
 
但馬國は東は丹後・丹波に、南は播磨に、西は因幡に接し北は海に臨めり。名義は明ならず。字は夙く日本紀垂仁天皇三年に但馬と書けり。又多遲麻・多遲摩(古事記懿徳天皇段及開化天皇段)又但遲麻(國造本紀)と書けり。さて地名字音轉用例(字ヲ省ケル例)に
 但馬 是モ但字たぢニハ用フベキニ非レバぢニ當ル字ヲ省ケル也
といへるを地理志料に之を非として「但音太知、丹比ノ丹字ト同ジ」といへるは卻りて非なり。但・丹の音はタヌなり。之をタヂには轉用すべからず。タヂヒを丹比と書くは丹治比の治を省けるなり。タヂマを但馬と書くも中間にあるべき遲などを省けるにこそ。さて垂仁天皇紀に當國の人田道間守(古事記には多遲麻毛理)が天皇の仰に依りて常世國より橘を採り歸りし事を記せり。それに就いて宣長(記傳卷二十五)は「此名は將《モチ》來つる人の名に因て多遲花と云なるべし」といひ新撰姓氏録考證卷十八橘守の註(一一六三頁)に
 その人は遙けき國に渡りゆきて其橘を守り來し故に田道間守即橘守の名を負へるが其子孫に仰せて橘を殖生さしめ又そを守らしめたまへるを以て氏にも其職號を(322)負ひしなるべし。もしくは田道間守はもとより但馬國に住めりし人にて垂仁の御世に非時香菓をもたらし歸りし故に田道間守が名を非時香菓に負せて田道間花と云ひし(○即宣長の説)ならんか。前説の如くならば橘が本にて田道間守の名は末なり。又後説の如くならば田道間守は本にて橘の名は末なり。いづれよけむ。思ひ決めがたし
といひ、日本書紀通釋卷二十九(一五六二頁)に
 神代紀にも既に云へる如く神代より橘といふ物はありしかど(○橘之|檍原《アハキガハラ》ノ註參照)それは野山に自然生ふるものにて味もうまからずあるを今般賚來れる種はいとうまくかの固よりあるものとは味もこよなく勝りてはあれどなほ同種類のものなれば此物にも其名を負はせしなり。されば名義を但馬花などは解くべからず
といひ、日本地理志料但馬國の下に
 姓氏録ニ橘守氏出v自2天日桙命1トイヘリ。但馬ハ蓋橘守ノ省呼ナリ。初新羅ノ王子天日¥槍《ホコ》歸化シテ本州ニ居リ其裔田道間守垂仁帝ノ時常世國ニ奉使シテ橘ヲ得テ還ル。因リテ其物ニ名ヅケテ田道間花ト云ヒ其國ヲ號シテ田道間國ト曰ヒ以テ其功ヲ録スルナリ
(323)と云へり。按ずるに橘は我邦に無かりしものなればタチバナといふ名はかねてあるべきならず。さればこそ此物を始めてもち歸りし時に之を呼ぶに假にトキジクノカグノコノミとはいひしなれ。トキジクノカグノコノミは形状語にて狹義の名にあらず。なほ硯の事を墨ヲ摩ル器といはばいまだ名とは云ふべからざる如し。物にははやく存ずる事千年にしていまだ邦名なきものあり。然るに常世國にしかじかの物ありといふ事を僅に一人二人の聞き知れる時代に豫其物の名を作るべけむや。其上に田道間守は其曾祖父を但馬諸助といひ祖父を但馬|日楢杵《ヒナラキ》といひき。さればタヂマは此家代々の慣用名にして此人に至りて始めてタヂマ某と稱せしにあらず。右の如くなれば橘を本とする説は廢絶すべし。然らば人名を本としてタヂマモリが持ち歸りし木なればタヂマ花といひしをマを略しチを清みてタチバナといふかといふに此木は實をも花をも賞するうち實が主、花が副なるをタチマ花と云ひては花が主となりて適當せず。少くともタヂマ木などいふべきなり。ここに眞淵はその冠辭考タチバナヲの考の頭書に
 紀に此コノミを釋て今謂橘是也と有に依にそのもて來し人の名をもて多治婆名とは後に呼し也けり
(324)と云へり。然るに宣長は之を斥けて
 此説持來し人の名に因れるは然ることなれども終《トヂメ》のナを名とせられたるはいかが。そは此名を稱く言にこそさもいはめ。直《タダ》に名と云ことを名に負すべきに非ず。彼|任那《ミマナ》國と云例などとは一に云がたし
と云へれど手兒といふ事、珠といふ事を人名に命せて手兒名・珠名といひ否人といふ事を人名に命せて人名《ヒトナ》とさへ云へる例あれば(萬葉集新考五三一頁參照)タチバナの語源はなほタヂマ名なるをそのマをバと訛りチを清みたるならむ。所詮タヂマといふ地名が本にてそれより人名が起り又それより木の名が生ぜしなり。さて地名のタヂマの名義は冒頭にいへる如く不明なるなり。地理志料の説は前半は木名を本とし後半は人名を木名地名の本として前後互に矛盾せり。彼日向ノ小戸ノ橘ノ檍《アハギ》ガ原の橘といふ地名に就いて通釋卷五(二四〇頁)に
 小戸にある橘と云地名なり。故其|小門《ヲト》の名を橘小門と云 へり。さてかく名付たりしは神代に此處橘樹の生ひたりし地なるからに小門の名となれる也。橘といふ樹かく神代にありしかど中頃絶たりしを垂仁天皇御世にまた海外よりわたして今世にある(325)は即其種なり
といひて其註に
 田中頼庸氏云。今も薩摩地方の山には自然なる橘生茂りて實なども多く結びて其味こそ彼の相柑子などには劣りにけれ、皆人の取りて食ふはさらにて今も橘と云へりと云へりごれぞまことの神代の橘なること明らけきを他國には殘らでそのかみの日向の域にしも今もあるこそかへすがへすめでたけれ。なほ其餘の國人にもひろく問試むべし
といへり。假に橘樹に依れる地名とすとも其地名は後世の稱なるをここには溯せて用ひたるにてもあるべし。即ここに小戸橘之檍原とあればとて夙くイザナギノ尊の御時より存ぜし地名なりとは斷ずべからず。從ひて此地名を以て神代に橘の有りし證とはすべからず。げに我邦に自生の橘はあり。即薩摩・日向のみならず土佐・對馬・筑前の沖の島・長門の萩・紀伊國日高郡にもあり。抑植物には思ひも寄らぬものの山野に自生する例あり。日向の柚・海棠(霧島山中)、九州南部及肥前の蘇鐵、豐後土佐紀伊周防(祝島)若狹の枇杷、豐後土佐紀伊の梧桐、日向(霧島山)肥前(東背振山及多羅岳)筑前の茶梅、肥前東背振・周防玖珂(326)郡・遠江榛原郡の茶、甲斐岩殿山の南天、日向紀伊の芙蓉、紀伊那智山・安房清澄山の秋海棠、肥前紀伊安房隱岐の水仙、能登のオモト、安藝|忠海《タダノミ》の木斛など是なり。此等のものを悉く我邦固有の物と認めむは非なり。背振山の茶の如くもと舶齎せしものが土性に合ひて今は自生するものもあればなり。又自生あればとて必しも邦名あるべからざるは柚・蘇鐵・海棠・枇杷・南天・秋海棠・水仙・木斛などの例を見て知るべし。されば九州の南境に自生の橘ありとも夙くよりタチバナといふ邦名ありきとは斷ずべからず○國造本紀に但遲麻國造と二方國造と見えたり。甲は圓山川の流域を、乙は矢田川及濱坂川の流域をぞ領したりけむ○和名抄に
 但馬國(國府在2氣多郡1) 管八 朝來(安佐古)養父(夜夫)出石(伊豆志)氣多・城崎(岐乃佐木)美含(美具美)二方(布太加太)七美(志豆美)
とあり。朝來は初にはアサグといひしなり。播磨風土記(新考三八九頁)に但馬國阿相郡とあり。相はサグとはよむべくサコともサクともよむべからず。美含は音訓混用なり。含の訓はフクム又ククム又クムなり。右の如く昔より八郡なりしに明治二十九年に氣多・城崎・美含を合併して城崎とし二方・七美を合併して美方とせしかば今は朝來《アサコ》・養父《ヤブ》・出石《イヅシ》・城(327)崎《キノサキ》・美方《ミカタ》の五郡となれり。就中朝來は國の東南端に、養父はその西北に、出石はその東北に、城崎はその西に、美方は又その西に在り。又新城崎郡の内舊城崎は東に、舊美含は西に、舊氣多は南に在り。又美方郡の内舊二方は北に、七美はその東南又氣多養父の西に在り。山陰道は東南より西北に向ひて朝來・養父・美方(七美・二方)の諸郡を貫けり○國府址は城崎郡(の内舊氣多郡)國府《コクフ》村(新名)大字府市場に在りて圓山川(朝來川)に沿へり。日本後紀延暦二十三年正月壬寅に遷2但馬國治於氣多郡高田郷1とある是なり。金葉集連歌部に
 源頼光が但馬守にてのぼりける時館の前にけた川〔三字傍点〕といふ川ありかみより舟のくだりけるを蔀あぐるさぶらひして問はせければ蓼と申すもの刈りてまかるなりといふを聞きて口すさびにいひける源頼光朝臣 たでかる舟のすぐるなりけり。これを連歌にききなして相摸母 朝まだきからろの音の聞ゆるは
とあり。氣多郡は即圓山川なり。相摸母は即頼光の妻なり○驛は日本後紀大同三年五月癸未に廢2但馬國△△△△△△三驛1以v不v要也とあり。又兵部式に
 但馬國驛馬 粟鹿・郡△・養耆各八疋、山前五疋、面治・射添各八疋、春野五疋
 傳馬 朝來・養父・二方・七美郡五疋
(328)とあり。當國の驛路は丹波の佐治驛より遠坂峠を越えて當國に入り圓山川の支源に沿ひ下りて今の玉置附近にて圓山川を渡り、同じ川に沿ひ下りて今の八鹿《ヤウカ》附近にて圓山川の支源なる八木川を渡り、其左岸に拾ひ上りて今の關(ノ)宮に到り、それより八井谷峠(分水嶺)を越えて矢田川に沿ひ下り、今の和田附近にて同じ川を渡り、又春來峠(分水嶺)を越え濱坂川の支源に沿ひ下りて今の細田附近にて濱坂川を渡り、それより蒲生峠を越えて因幡國山埼驛に到りし如し。さて七驛中の初驛粟賀〔二字傍点〕を地名辭書に今の朝來郡粟賀村大字和賀とし又和賀を粟賀の上略とせり。之に從ふべし。アを略すればハガなれど波賀と書きてはワガと訓まれねば和賀と書けるならむ。次に郡〔右△〕を國史大系本に異本に據りて郡々としククヒと傍訓せり。地名辭書に
 郡は誤れり。松江本考異に郡々に作れる異本ありと云ひ郡々をば其訓久々比とし神名式城崎郡久々比神社の地に引きあてたり。然れども久々比神社の地は粟鹿養耆の間にあらず。恐らくは衍字、刪去するを可とす(又疑ふ。郡々は郡家の誤にて養父の郡家歟。路程合ふ)
と云へり。當園の驛路は朝來養父七美二方の四郡を經しなり。城崎郡は經ず。其上久々比(329)神社のある今の三江村大字|下宮《シモノミヤ》は丹後國熊野郡の界に近くて驛路とは風馬牛なり。又郡々はクグヒとは訓まれず。皇典講究所の校訂延喜式には粟鹿に連ねて粟鹿郡としたれど郡字を添へて三字にしたる驛名の例は無し。地理志料には兵部省式但馬國養父驛馬八疋とあれど流布本はもとより異本にも養父といふ驛名は見えず。余は初異本に郡郡とあるを見て郡名の誤かとも思ひしかど(志料の著者も恐らくは郡名の誤とし更にそれを養父の誤と認めしならむ)高山寺本に郡部とあるを思へば諸本に郡々とあるは恐らくは郡部を郡郡と誤りたるを更に略して郡々と書けるならむ。さて驛名はしばらく高山寺本に郡部とあるに從ふべし。その郡部は郡邊の借字にて名義は郡家傍近の驛と云へるか。郡家の所在は當郡十郷中の養父郷なるべし。もし想像に任せば其驛を養父と名づけば同郡の養耆驛と紛れやすかるべければわざと郡邊と名づけしか。さて驛址は今の同郡養父市場村の大字養父市場なるべし。同村に何米地といふ大字四あり。志料に
 按ズルニ米地讀ンデ麻伊知ト云フ。蓋驛路ノ轉ニテ即驛阯ナリ
といへれど米地は東北の郡界に近き山地にて驛路に供せられけむ河邊より遠ざかれ(330)り。其上米地の稱呼はメイヂにてマイヂにあらず。又當國には他郡(たとへば美含郡)にも米地といふ處あり。さて國府に到るには此郡部驛にて分れしなり。校補但馬考には郡々を輕部の誤とし驛址を小城廣谷邊(今の養父郡廣谷町の内)とせり。次に養耆〔二字傍点〕は今の高柳村の大字八木なり。次に山前〔二字傍点〕を伴信友は樂前の誤として氣多郡樂前郷に充てたり。樂前郷は氣多郡の西南偏なるべく八木を經し驛路はかかる處を經べからず。此地を經むとならば養父市場より今少し圓山川に沿ひ下りて宵田より谿谷に入るべければなり。地名辭書には「七美郡の驛家にして今の熊次と訛るもの此驛址なるべし」といへり。即七美郡驛家郷に擬したるなり。同書に又養父郡養耆驛より八木川に添ひて山前に至り氷山《ヒヨウノヤマ》峠を踰え因州八束郡|若櫻《ワカサ》驛に至るべし
といへり。驛路は射添を經れば、蒲生峠を越えて因幡の岩美郡に出づべく氷山峠を踰えて八頭《ヤヅ》郡には入るべからず。辭書の著者は驛路に別路ありと認めたるにやいぶかし。按ずるに養耆と射添との間に一驛を要するが其驛即山前驛にて八井谷峠を越えし處おそらくは今の美方郡兔塚《ウヅカ》村大字福岡の附近ならむ。而して此地即七美郡の驛家郷なら(331)む。又山前と次驛射添とは距離遠からざる上に矢田川に沿ひたる平路れば馬數を減じて五疋とせしならむ。すべて馬數を量定するには下り路を標準とするなり。さて山前はヤマサキとよむべし。名義は彼長等山之山前又因幡の山埼驛などと同一ならむ(校補但馬考には因幡國山埼の混入ならむと云へり)。次に面治驛〔三字傍点〕に就いて地理志料に
 兵部省式ニ但馬國面治驛馬八疋ト。是七美郡射添ヨリ本驛ヲ經テ因幡ノ蒲生ニ通ズルナリ。神名式ニ面|沼〔右△〕神ニ作レリ。沼治恐ラクハ一誤アラム。但馬考ニ云ヘラク。其祠畑荘|井土《ヰド》村ニ在リテ面治《メヂ》明神ト稱シテ八上比賣命ヲ祀レリト
といひ地名辭書に
 面沼《メヌ》 古驛名なり。今湯村の西大字竹田に延喜式二方部面沼神社存ず。即此地とす。山陰道の舊路にして七美郡射添驛より面沼を經て因州蒲生驛に通ぜる也
といへり。兵部省式記載の順序に依れば面治は射添の前驛なり。或は顛倒せるにや。特選神名牒に
 面沼神社 今按面沼の沼は治の訛りなる事社地の字を面治山と云にて知るべし。所在竹田村字面治山(332)といへり。驛名は兵部省式流布本に面治とあるを國史大系本に神名式に據りて面沼に改めたるは卻りてわろし。高山寺本和名抄にも面治とあり。次に射添驛〔三字傍点〕は神名帳に七美郡伊曾布神社ありて今の美方郡|射添《イソフ》村大字|味取《ミトリ》に在れば驛址も此地にやと云ふに味取は山陰道の傍路(香住道)に在れば此地にはあらず。地名辭書に「今大字和田川會などの邊ならん」と云へるに從ふべし。次に春野驛〔三字傍点〕は高山寺本和名抄には春部とあり。地名群書には之を出石郡|埴野《ハニノ》郷に充てて
 延喜式春野郷とあるは丹後勾金驛より資母郷を經て本驛に達する者にして亦此地に外ならず。今の(○合橋村)大字出合矢根の邊を驛家とす
と云ひて例の如く別路とせり。按ずるに京使、丹後の國府を經て但馬の國府に赴く事あらむに、もし山陰道の本路に由らば勾金・花浪・日出の三驛を經て長柄に歸り更に豐角・佐治・粟賀・郡部の四驛を經ざるべからず。之に反してもし今の與謝郡市場村大字四辻より温《アツ》江峠を越えなどせば但馬の國府には中間一二驛にて達すべし。又上述の如く面治と射添とを転倒とせば射添と因幡の山埼驛との間は面治のみにて足るべく春野を容るる餘地は無かるべし。是辭書の著者が春野を別路驛と認めて丹後の勾金驛と但馬の國(333)府との間なる出石郡|出合《デアヒ》(今の合橋村の大字)の附近に擬したる所以ならむ。此別路驛説は傾聽するに堪へたれどただ不審なるは出石郡に傳馬の無き事なり。驛路その郡を經ば特殊なる事情の無き限傳馬は置かるべきなり。或は此路は利用する機會少きによりて傳馬を置かれざりしにや。右の如くならば當國七驛中粟賀は朝來郡に、郡部及養耆は養父郡に、山前及射添は七美郡に、面治は二方郡に、春野は別路驛として出石郡に在りしなり。但校補但馬考には春野を大野の誤とせり。大野は美方郡兔坂村の大字なり。本書に山前を混入と認めたる故に養耆の次に一驛を補はざるを得ざるなり。然るに春野を(大野の誤として)養耆の次驛とすれば養耆・春野・面治・射添となりて兵部式記載の順序と一致せざれば「以上驛の順序は道路の順序によらず」とことわれり○世に往々丹波丹後但馬を併せて三丹と稱すれども但馬は初より丹波、丹後と關係なきなり
 
(334)   因幡國 一節
 
因幡國は東は但馬に東南は播磨に、南と西南とは美作に、西は伯耆に隣り北は海に沿へり。國名は古書に又稻羽・稻葉・因播と書けり(天孫本紀には音訓を交へて印葉とも)。因印の音はイヌなれば轉じてイナに充てたるなり。名義は地理志料及地名辭書に稻場・稻庭なりと云へれど此國名をイナニハと云へる例なく又イナニハはまづイナンバと訛らずばイナバとはならじ。恐らくは稻葉が本義ならむ。國造本紀に
 稻葉國造 志賀高穴穗朝御世|彦坐《ヒコイマス》王兒彦多都彦命定2賜國造1
とあり。彦坐王は開化天皇の皇子なり。古事記に據れば日子坐王の御子に丹波《タニハノ》比古多多須〔三字傍点〕美知能宇斯王あり。御父を彦イマスと申し奉りしに對して彦タタスと申ししならむ。さてタタスはタツの敬語(實は他作格)なれば彦タツ彦命はやがて彦タタス(ミチノウシノ)王ならむ。崇神天皇紀十年に丹波道主命とあり、垂仁天皇紀五年又景行天皇前紀に丹波道主王とあるはやがて此王なり。さて此王は景行天皇の御外租父なれば其御子(即道主命には外曾孫)なる成務天皇の御世に稻葉國造に任ぜられけむは時代叶はざるに似(335)たり。國造に任ぜられしは恐らくは道主王の子孫ならむ○因幡國の名の始出は天武天皇紀二年なれど初よりイナバ又はイナバノ國と云ひしなり。國名の原たる地は法美郡稻羽郷、即今の岩美郡|宇倍野《ウベノ》村附近なり。府址は同村大字廳なり。同村の大字に又國分寺・法華寺(尼寺《ニイジ》址)あり○和名抄に
 因幡國(國府在2法美郡1) 管七 巨濃(古乃)法美(波不美、國府)八上(夜加美)智頭(知豆)邑美(於不美)高草(多加久佐)氣多
とあり。巨濃は後の石井(又岩井)なり。改稱は何年か知らねど夙く拾芥抄に石井とあり。元禄圖に岩井とあるはイシヰと訓み誤らむを恐れて石を岩に更へたるなり。名の起の地は今の岩美郡岩井町大字岩井(舊岩井莊)にて岩井の名は名水あるに由りて得たるなり(豐後風土記日田郡|石《イシ》井郷參照)。法美の訓註に波不美とあるはいかが(抄の地名訓註には誤れる事多し)。法は漢音ハフ呉音ホフなればホフミの誤ならむ。否實は法の呉音ホフを轉用したるにてホホミと訓むべく含の義とすべきにあらざるか(夙く志料に蓋含之義といへり)。
 ○出雲島根郡の郷名法吉もホフキにはあらでホホキならむ。こは夙く地名字音轉用(336)例に云へり。フフムをホホムといへる例は萬葉集卷二十にチバノ野ノコノテガシハノ保保マレドとあり
邑美を於不美とよめるも於保美の誤ならむ。石見の郡名邑知・備前の郡名邑久を於保知於保久とよめるを思ふべく播磨明石郡の郷名邑美を播磨風土記に大海と書けるを思ふべし(和名抄の訓註はこれも於布美)。又播磨風土記の揖保《イヒボ》郡邑智を和名抄に大市と書けるを思ふべし(これも抄の訓註は於布知と誤れり)。共に邑の呉音オフをオホに轉用したるなり。或は云はむ。地理志料に
 邑美ハ蓋淡海ノ義ナリ。古大湖アリ。因ツテ名ヅク。今郡北ニ鯰池(○多鯰ガ池の誤)アリ巨濃郡湯山池・高草郡|湖山《コヤマ》池ト相並ベリ。當初一大湖タリシコト推知スベシ
とあるに據れば邑美の名義は大海即大湖にてオホウミを約めてオフミといへるにあらざるかと。答へて云はむ。海の古言はミなれば大海の義にてもなほオホミなり。又志料に淡海之義と云へるは非なり。淡海即アフミの義ならば鴨美(アフミ)など書くべし。右の如く當國はもと管七郡なりしに後に八上の東部を分ちて八東郡を建てき。八東郡の始めて見えたるは拾芥抄なり。但同書の流布本には誤りて八束と書けり。さて八東郡は初(337)にはヤカミノヒガシと唱へけむを後に音にてハツトウと唱ふる事となりき。明治二十九年に右八郡の内岩井・法美・邑美三郡を合併し岩井の岩と法美・邑美の美とを取りて岩美郡とし、八東・八上・智頭の三郡を合併し八東・八上の八と智頭の頭とを取りて八頭郡とし、高草・氣多二郡を合併し氣多の氣と高草の高とを取りて氣高郡とせしかば今は岩美《イハミ》・八頭《ヤヅ》・氣高《ケタカ》の三郡なり。八頭を初にはあさましくもヤツカミと唱へしを今はヤヅと唱ふ。三郡中岩美は國の東北に、氣高は西北に、八頭は兩郡の南に在り○驛傳は兵部省式に 驛馬 山埼・佐尉・敷見・柏尾各八疋
 傳馬 巨濃・高草・氣多各五疋
とあり。按ずるに古の山陰道は但馬の面治《メヂ》驛より蒲生峠を經て當國に入り西の方伯耆の笏賀《クツガ》驛に到りしなれば當國の北部を東西に通ぜし事勿論なり。さて當國の北部の郡を東より數ふれば巨濃・邑美・高草・氣多の四郡なれど邑美は小郡にてその廣(東西徑)僅に一里許なれば本郡には驛は置かれず、郡傳も無かりきと見ゆ。四驛址はいづれも不明なるが地理上より其位置を推測するにまづ山埼驛〔三字傍点〕は但馬の面治驛よりの距離を思ひ途中に蒲生峠の嶮あるを思ひ又山埼の名義を思へば蒲生峠の西即巨濃郡の東偏にある(338)べし。次に佐尉驛〔三字傍点〕は山埼驛との距離を思へば巨濃郡の西偏にあるべし。八上郡に佐井郷あれど其地にあらず。驛路は八上郡を經ざればなり。次に敷見驛〔三字傍点〕は佐尉驛との距離を思へば高草郡の中部にあるべし。次に柏尾驛〔三字傍点〕は前驛敷見との距離又次驛なる伯耆國笏賀との距離を思へば氣多郡の東部にあるべし。抑今岩美郡服部村大字岩戸より氣高郡|正《セイ》條村大字|八束水《ヤツカミ》まで五六里の間は所謂長汀曲浦を成せるが上古は多少の出入ありけむに海沙年々に打上げられて今見る如き洲渚を成すと共にもとの海灣は其口を塞がれて湖山《コヤマ》池・多鯰《タネガ》池・湯山地・水尻池などを作りしならむ。されば古の官道は恐らくは此等の湖沼の南方をぞ通りけむ。今服部村大字細川にて街道の屈曲して南方に向へるは鳥取市を經むが爲にて無論鳥取開府以後の事なり。さてかく大體に觀察しおきて一々の驛址を擬定せむ。まづ山埼驛〔三字傍点〕に就いて地名辭書に
 今詳ならず。……其形状を推すに蒲生驛(○宿)に一驛ありて之より法美の國府に通ぜるやに思はる
と云へり。蒲生峠の西北麓に蒲生といふ部落あり。今岩美郡蒲生村の大字となれり。山埼は地理に依れる命名ならむ。國府に通ぜし驛は次驛なり。此驛にあらず。次に佐尉驛〔三字傍点〕に就(339)いて辭書氣多郡の下に
 本郡の中歟かと思はるるも佐尉の名亡びてなし
と云へり。著者はいかでか、かかる事を云ひけむ。佐尉は四驛中の第二驛なるに氣多郡は縁海四郡中最西に位せるをや。佐尉驛址は今の岩美郡(舊岩井郡)服部村の内にあるべく、今此村より鳥取市に到る道は古、國府に到りし道を利用したるならむ。國府址は鳥取市の東南方に在りて相近し。次驛敷見〔二字傍点〕に就いて辭書岩井郡の下に
 今詳ならず。延喜式の驛名にして山埼敷見とつづき山埼は蒲生と思はるれば敷見は鹽見にして此より法美の府に至れるごとし。鹽見を誤りて敷見とせる歟
 鹽見 又志保美に作る。服部村の南なる山谷にして今鹽見村・元鹽見村の二に分つ
と云へり。兵部省式記載の順序は山埼佐尉敷見なるをや。さて此驛は湖山池の南岸今の氣高郡松保村にぞ在りけむ。次驛柏尾〔二字傍点〕に就いては辭書には云へる所なきに似たり。其次驛|笏賀《クツガ》が今の東伯郡泊村なる事、その泊村は因幡國に隣れる事を思へば柏尾驛址は今の氣高郡|正《セイ》條村ならむ。さて始置の驛は幾許にか知らねど元正天皇紀養老七年八月に加2置因幡國驛四處1とあり又平城天皇紀大同三年六月壬申に
(340) 省2因幡國八上郡莫男驛・智頭郡道俣驛馬各二疋1。以d不v縁《ソハズ》2大路1乘用希u也
とあり。此二驛は千代《センダイ》川・智頭《チヅ》川に沿へる官道(今の智頭街道)に在りしにて其驛路は播磨と往來する別路なるが太古には播磨と出雲との往來には此路を本道としたりけむ事播磨風土記揖保郡立野・同郡佐比岡・同郡琴坂・讃容《サヨ》郡彌加都岐麻などの記事に由りて推測せらる。ともかくも山陰山陽を連絡せる唯一の官路として(長門と石見とを連絡せるものの外)平安朝時代の始までは保存せられしなり。大同三年の記事に據れば驛馬の數を減ぜしにて驛を佩せしにあらねど其後終に廢せられきと見えて兵部省式には莫男・道俣は勿論此官道に擬すべき驛名見えず。道俣《チマタ》は辭書に「智頭の今驛のみ」と云へり。智頭は今の八頭《ヤヅ》那|智頭《チヅ》町なり。此處にて路が分るるに由りてチマタと名づけしならむ。美作國を經て播磨國佐用郡に出づるには其東路を取るなり○當國には三藩治ありき。就中鳥取は邑美郡にありき。今の鳥取市是なり。若櫻《ワカサ》は八東郡(今の八頭郡若櫻町)に、鹿野《シカヌ》(又鹿奴又志加奴)は氣多郡(今の氣高都|鹿野《シカノ》町)に在りて共に鳥取池田氏の支封なりき
 
(341)    高草郡
 
其ノ上《ウヘ》因幡ノ記ヲミレバカノ國ニ高草ノコ|ヲ〔左△〕リアリ。ソノ名ニ二ノ釋アリ。一ニハ野ノ中ニ草ノタカケレバタカクサ〔四字傍点ト云フ。ソノ野ヲコ|ヲ〔左△〕リノ名トセリ。一ニハ竹草ノ郡ナリ。コノ所ニモト竹林アリケリ。其ノ故ニカク云ヘリ。竹ハ草ノ長ト云フ心ニテ竹草トハ云フニヤ。其ノ竹ノ事ヲアカスニ昔コノ竹ノ中ニ老タル兎スミケリ。アルトキニハカニ洪水イデキテソノ竹ハラ水ニナリヌ。浪アラヒテ竹ノ根ヲホリケレバ皆クヅレソンジケルニウサギ竹ノ根ニノリテナガレケル程ニオキノシマニツキヌ。水カサ|ヲ〔左△〕チテ後本所ニカヘラント思ヘドモワタルペキチカラナシ。其ノ時水ノ中ニワニト云フ魚アリケリ。此ノ兎、ワニニイフヤウハ(342)汝ガヤカラハ何《イカ》ホドカヲヲ〔二字左△〕キ。ワニノイフヤウ。一類ヲヲ〔二字左△〕クシテ海ニミテリト云フ。兎ノイハク。我ガヤカラハヲヲ〔二字左△〕クシテ山野ニ滿テリ。マヅ汝ガ類ノ多少ヲカズヘム。コノシマヨリ氣多ノ崎ト云フ所マデワニヲアツメヨ。一々ニワニノカズヲカズヘテ類ノヲヲ〔二字左△〕キ事ヲシラム。ワニ、ウサギニタバカラレテ親族ヲアツメテセナカヲナラベタリ。其ノ時兎、ワニドモノウヘヲフミテカズヲカズヘツツ竹〔左△〕《ケタ》ノサキヘワタリツキヌ。其ノ後今ハシヲヲ〔二字左△〕セツト思テワニドモニイフヤウ。ワレ汝ヲタバカリテココニワタリツキヌ。實ニハ親族ノヲヲ〔二字左△〕キヲシルニハアラズ。トアザケルニミギハニソヘルワニ、ハラダチテウサギヲトラヘテキモノヲハギツ。カクイフ心ハ兎ノ毛ヲハギトリテ毛モナキ兎ニナシタリケリ。ソレヲ大己貴神ノアハレミ給テヲシヘ給フヤウ。カマノハナヲコキチラシテ(343)其ノウヘニフシテマロベ。トノ給フ。ヲシヘノママニスルトキ多ノ毛モトノゴトクイデキニケリト云ヘリ。ワニノセナカヲワタリテカゾフル事ヲイフニハ兎蹈2其上1讀來渡ト云ヘリ(○塵袋卷十所v引)
 
 新考 塵袋卷十(日本古典全集本六七九頁)に
 (問)モノノカズヲカズ|ウ〔左△〕ルヲヨム〔二字傍点〕ト云フ ハ下賤ノ詞歟。(答)ツネニハゲスノコトバト思ヘリ。但シ「ヨムトモツキジ」ナ|ム〔左△〕ド歌ニモヨメルニヤ。歌ヨムニソヘタルニヤ
とありて本文に續き、さて本文より
 ココニヨム〔二字傍点〕トイヘルハカゾフル心ナリ。一向ニ下臈ノカタコトニハアラザル歟
と續きて終れり○因幡記は即因幡國風土記とおぼゆ。塵添※[王+蓋]嚢抄卷二に此文を載せたるに高草にタカサと傍訓し又タカクサをタカサとせり。高草郡は和名抄に多加久佐と訓註したる事、タカサと訓むべき理なき事、名義二説共にタカサに叶はざる事を思へばもとタカクサト云フとありしをクを書落してタカサト云フとし更にそれに據りて高草にタカサと傍訓したるなり。現に永正五年書寫の古典全集本にタカクサとあり。され(344)ば郡名はタカクサにてそのタカクサを或は高草の義とし或は竹草の義とせるなり○ソノ竹ノ事ヲアカスニは此處ニ竹林アリシ事ヲ證セムニとなり。竹ノ中は竹ノ間なり。竹の下に林字ありしが落ちたるにもあるべし。竹ハラは竹林なり○オキノシマは隱岐島にや。隱岐は高草郡の西北に當りて(隱岐の島前より南に向ひて眞直に海を渡れば出雲の舊島根郡なり)其距離いと大なれば(凡六十里)ここにオキノシマといへるは高草郡海上の小島にやあらむとは誰も疑ふべき事にて現に郷土誌には或小島を以てこのオキノシマに擬したるものあり。其言や理なきにあらず。但その人は此事が幼稚なる架空談なることを忘れたるなり。談中のオキノシマはなほ水天の間に彷彿たる隱岐島として聞くべし○ワニはサメなり。今も山陰道にはサメをワニと稱する處あり。然るに今もこのワニをクロコダイル又はアリガトールと心得、日本海にクロコダイルの棲みし事を怪み、或人がこのワニは沙魚《フカ》ぞと誨へしに對して沙魚はハゼにあらずやと反問せし人あり。憫むべし。夙く箋註倭名抄鰐の註にも
 按ズルニ鰐魚ハ皇國ニ産セズ。和邇ハ鮫魚ノ一種、大頭巨口ニシテ大ナル者ハ人ヲ呑ム。漢名未詳ナラズ
(345)と云へるにあらずや○氣多ノ崎は舊高草郡と舊氣多郡とを界せる、即今の氣高郡末恒村大字内海と寶木《ハウギ》村の水尻池との間なる岬なりといふ○竹ノサキは氣多を顛倒して多氣と書き更にそれを竹と書更へたるならむ○兔踏其上讀來渡の七字は原文のままなりと見ゆ。但來渡は顛倒か○古事記神代上に
 故《カレ》此大國主神ノ兄弟八十神|坐《マ》シキ。然レドモ皆國ハ大國主神ニ避《サ》リキ。避リシ所以ハ其八十神各稻羽之|八上比賣《ヤカミヒメ》ヲ婚《ヨバ》ハムノ心アリテ共ニ(○出雲より)稻羽ニ行キシ時ニ大穴牟遲神(○即後の大國主神)ニ※[代/巾]ヲ負ハセ從者トシテ率テ往キキ。是ニ氣多之|前《サキ》ニ到リシ時ニ裸ナル菟伏セリ。爾《カレ》八十神其菟ニ謂ヒケラク。汝|爲《セ》マクハ此|海鹽《ウシホ》ヲ浴ミ風ノ吹クニ當リテ高山ノ尾上ニ伏セト。故其菟八十神ノ教ニ從ヒテ伏シキ。爾《カレ》其鹽乾クマニマニ其身ノ皮悉ニ風ニ吹キ拆《サ》カレシ故《カラ》ニ痛苦《ナヤミ》泣伏シシニ最後ニ來リシ大穴牟遲神其菟ヲ見テ「何ニ由リテカ汝ハ泣伏セル」ト言フ。菟答フラク。僕淤岐島ニアリテ此地ニ度ラムト欲スレドモ度ル因《ヨシ》無カリシ故《カラ》ニ海ノ和邇ヲ欺キテ言ヒケラク。吾汝ト競ヒテ族ノ大小ヲ計《カゾ》ヘテム。故汝ハ其族ノ在ルガマニマニ悉ク率テ來テ此島ヨリ氣多前マデ皆|列伏《ナミフシ》度レ。爾吾其上ヲ踏ミテ走リツツ讀度ラム。是ニ、吾族ト熟カ多キヲ知(346)ラムト。カク言ヒシカバ欺カレテ列伏《ナミフ》シシ時ニ吾其上ヲ踏ミテ讀度リ來テ今地ニ下リムトスル時ニ吾云ハク。汝ハ我ニ欺カレキト。言ヒ竟レバ最端ニ伏セル和邇我ヲ捕ヘテ悉ニ我衣服ヲ剥ギキ。此ニ因リテ泣患ヒシニ先ニ行キマシシ八十神ノ命モチテ海鹽ヲ浴ミ風ニ當リテ伏セト誨ヘタマヒキ。故教ノゴト爲《セ》シニ我身悉ニ傷《ソコナ》ハレキト。是ニ大穴牟遲神其菟ニ教フラク。今急《トク》此|水門《ミナト》ニ往キテ水ニテ汝ガ身ヲ洗ヒ即其水門ノ蒲黄《カマノハナ》ヲ取リ敷散シテ其上ニ輾轉《マロ》ビナバ汝ガ身、本ノ膚ノ如クテ必|差《イ》エムト。故教ノゴト爲《セ》シカバ其身本ノ如ナリキ。此《コレ》稻羽之素《シロ》菟トイフ者ナリ。今ニ菟神トゾ謂フ。故其菟、大穴牟遲神ニ白サク。此八十神ハ必八上比賣ヲ得ジ。※[代/巾]ヲ負ヒマセドモ汝《ナガ》命ゾ獲マサムト
とあり。稻羽之八上比賣は後の因幡國八上郡を領せし神の娘なり。水門といへるは水尻池ならむ。此池は古は入江なりけむと察せらる。吾蹈2其上1走乍讀度また吾蹈2其上1讀度來といへると兔蹈2其上1讀來渡といへるといとよく相似たり。されば古事記と因幡風土記との間に必關係あるべきなり。古事記の方が先なる事云ふまでも無けれど古事記に據りて風土記を書けるにあらで恐らくは兩者同一の史料に資《ヨ》りしならむ○今内海の南(347)の谷合に白菟神社一名兔宮とてあるは古事記に於2今者《イマニ》1謂2菟神1とある其社の一たび亡せにしを再興したるなり○考證本に此次に武内宿禰の節あり。其文左の如し。
 武内傳曰。因幡國風土記云。難波高津宮天皇治2天下1五十五年春三月大臣武内宿禰御歳三百六十餘歳當國御2下向於龜金1双履殘御陰所不v知
右の如し(又神名帳頭註に見えたり)。こは斷じて古風土記の文にあらず。否室町時代の文なれば斥けて採らず
 
(348)   伯耆國 二節
 
伯耆國は東は因幡に、南は美作及備中に、西南はいささか備後に、西は出雲に續き北は海に臨めり。其形首なき獣の東方に向ひて跳るに似たり。その後脚は日野郡にしてその尾は弓の濱半島なり。國名はいにしへハハキといひしを今は音便にてハウキと唱ふ。字は古事記に伯伎、國造本紀に伯岐、播磨出雲兩風土記及續日本紀(大寶元年)に伯耆と書けり。然るに伯の音はハクなればハカなどには轉ずべく、ハハには充つべからず。よりて思ふにもとハカキといひしを軟音にてハハキと唱ふることとなりしか。又は本來ハハキにて伯伯耆と書くべきを二字に修して伯耆と書來れるか。神名帳當國川村郡に波波伎神社あれば前説は廢棄すべきに似たり。伯をハに充つるは萬葉集に泊・薄をハに借りたると同例なり。
 ○又伯の一音ハなり。即王|伯《ハ》の伯なり。王伯は王覇の本字なり
國の名義は知られず。應神天皇紀二十二年の波區藝縣・國造本紀の波久岐國造とは相渉らざらむ。古事記傳卷五(二八二頁)に
(349) 若箒より出たる由など有にや。或は此伊邪那美命の事(○葬d出雲國與2伯耆國1堺比婆之山u也とある事)によりて母君《ハハキ》國なるべしと云るはいかが
といへり。國造本紀に
 伯岐國造 志賀高穴穗朝御世|牟邪志《ムザシ》國造同祖|兄多毛比《エタモヒ》命兒大八木|足尼《スクネ》定2賜國造1
とあり。同じ御世に父は无邪志國造に任ぜられしにてその兄多毛比命は出雲臣祖名(ハ)二井之宇迦諸忍之神狹命十世孫とあり○和名抄に
 伯耆國(國府在久米郡) 管六 河村、久米(國府)八橋(夜波志)汗入(安世利)會見(安不美)日野
とあり。國府址は今の東伯郡社村大字|國府《コフ》に在りて倉吉町の西方に當れり。六郡中河村は東方に、久米はその西に、八橋《ヤハシ》は久米の西北に在りしを明治二十九年に合併して東伯郡とし、汗入《アセリ》は八橋の西に、會見は又その西に在りしを同時に合併して西伯郡とせしかば今は日野郡と合せて三郡なり。日野は西伯の南方より西南に亙れり○驛傳は延喜式に
 驛馬 笏賀《クツガ》、松原、清水、和奈、相見各五疋
 傳馬 河村、久米、汗入、會見、八橋郡各五疋
(350)とあり。八橋郡は久米の後汗人の前に在るべし。以上五驛五傳、傳馬は通常驛に備へしにあらで郡家に備へしなるが(豐後風土記新考三六頁參照)當國は驛傳各五處なるを思へば縁海五郡の各郡に一驛ありしならむ。さて驛路は因幡國氣高郡柏尾驛より來りて當國河村郡に入れるなるが同郡の東北端に久津賀村ありき。今は東伯郡泊村の内に入れり。然らば笏賀《・クツガ》驛〔三字傍点〕址は此久津賀なるかといふに此名は古郷の名を其一端に殘せるにて(正しくは殘シシニテといふべし。今は久津賓といふ名、大字にも殘らず)今の泊村を近古まで久津賀莊といひし由なれば驛址は泊村の内久津賀にあらで同村大字泊ならむ。今同郡旭村(二十萬分一帝國圖に高勢村とせり)に笏賀と書きてツガと唱ふる大字あれど其地は天神川の支源加茂川の上流にありて驛路の經過する處にあらねば笏賀驛とは相與からず。或は古、笏賀郷の民が移來りて新村を開きそれに故郷の名をおほせしか。次に松原驛〔三字傍点〕址は舊久米郡内にあるべし。地理志料に
 今北條郷ニ米里村アリ。米《マイ》、驛《マヤ》卜音訓相通ズ。蓋|驛家里《マヤサト》ノ轉ナリ。今與禰佐登ト呼ブハ※[言+爲]音ノミ
といひ地名辭書に
(351) 今の下北條村大字松神の地歟。然らざれば國坂・江北の天神川の渡口の舊稱とす
といへり。米里及松神は今の下北條村の大字にて米里は今の國道より少し離れて南に在り。江北・國坂は之に反して國道より北に在りて今中北條村の大字となれり。松神はた國道の北に沿へり。此附近の海岸線も亦上古に比していたく前進したりとおぼゆれば古の驛路は今の國道よりは南をぞ通りけむ。此點をも顧慮して驛址は擬定すべし。次に清水驛〔三字傍点〕址は距離より推すに八橋郡内なること必定なり。思ふに今の八橋《ヤバセ》附近ならずば赤碕町附近ならむ。次に和奈驛〔三字傍点〕は高山寺本和名抄にもかくあれど志料・辭書共に奈和の誤とせり。奈和は古郷名にて後の名和莊、即名和長年の名字の地なり。驛址は今の西伯郡(舊汗入部)御來屋《ミクリヤ》町か。次に相見驛〔三字傍点〕の所在は會見郡會見郷なる事勿論なり。郡名の會見を和名抄に安不美と訓註したれど恐らくはもとアヒミなりしを夙くアウミと訛りしならむ。志料に今安比美ト呼ブハ妄ナリといへるは余の意見と正反對なり。今アヒミと呼ぶは偶然に正しきに復せしのみ。志料に又
 會見ノ言ハ淡海ナリ。上古美保灣、中湖ニ通ジテ一大湖タリキ。故ニ之ニ名ヅク
といへるは從はれず。さる時代には中湖は淡水湖にはあらざりけむ。さて相見驛址は日(352)野川の左岸なる今の西伯郡|車尾《クヅモ》村附近ならむ。此驛より出雲の野城《ノギ》驛に到りしなり○國中第一の高山は汗入郡の南部に在りて八橋・日野二郡に跨れる大山《ダイセン》なり。其主峰を大神《オホカミ》山といふ。出雲風土記|意宇《オウ》郡の下國引の段に
 持引キシ綱は夜見島是ナリ。固堅《カタメ》立テシ加志(○船を繋ぐ杙)ハ伯耆國ナル大神岳是ナリ
といへる夜見島は彼弓之濱にて大神岳は即大山なり。
 ○神名帳會見郡の大神山神社は今の西伯郡大高村大字尾高に、即平地に在り。大神山上に在るは其奥官(境外末社)なり
史上に名高き船上《センジヤウ》山は大山の支峯にて主峯の東北に在り。尾上を傳ひて到るべし○川の大なるは日野川及天神川にて日野川は西伯郡福|生《イケ》村の東にて、天神川は東伯郡中北條村の東にて海に入れり○邑里の主なるものは東伯郡(舊久米郡)の倉吉町・西伯郡(舊會見郡)の米子《ヨナゴ》市なり。伯耆國も亦鳥取池田氏の領分なりしかど當國には支封は無かりき。ただ老臣荒尾氏が倉吉を領し又世襲の城代として米子に在りしのみ○特に記すべきは彼弓之濱の地理なり。弓之濱の成立次第は略天之橋立に齊し。ただそれより大規模な(353)るのみ。弓之濱(ユミノハマまたはユミガハマ)は又夜見之濱又濱の目と稱せらる。出雲風土記に見えたる夜見(ノ)島に當る事上に云へる如し。西伯郡の西北部より斗出し西北に向へる尾状の半島にて長さ凡五里巾凡一里、中海(即萬葉集に見えたる飫宇《オウノ》海)と美保灣とを遮斷し僅に其尖端と出雲國八束郡森山村との間において兩海の交通を許せるのみ。その海峽を中江|追門《セト》(又境水道)といふ。長さ凡五十町、巾は數町に過ぎず。海峽の東端に境町、西端に外江《トノエ》村あり。出雲風土記嶋根郡の下に
 戸江※[錢の旁+立刀]《トノエノセキ》 郡家正東廾里一百八十歩(非v島。陸地|濱〔左△〕耳。伯耆|郡〔左△〕内夜見島|將《ト》相向之間也)
とあり。濱は續の誤、郡は部の誤ならむ。將は與と同義なり。トと訓むべし。將2伯耆部内夜見島1相向之間也と書くべきを倒置したるなり。
 ○將をトに充つるは常の事なり。不要なるべけれどなほ二三の例を擧げむに湖濶|將〔右△〕v天合、雲低與v水和また靜|將〔右△〕2流水1對、高與2遠峯1齊また貌|將〔右△〕v松共痩、心與v竹倶空また病|將〔右△〕v老齊至、心與v身同歸などあり(共に白樂天詩)
かくトノ江ノ關を出雲國島根郡の下に擧げたるを思へば上古弓濱半島がまだいくつかに切れたりし時代にはトノ江は出雲國に屬し又一見島の如くなりしかどもなほ陸(354)地續なりしなり(たとへば筑前の志賀島の如く)。然るに後にトノ江と夜見島との間埋もれしかば海水トノ江の北を通ひて今の中江迫戸を生ぜしなり。出雲風土記の次文に
 栗江埼 (相2向夜見島1促戸渡二百一十六歩)埼之西入海堺也
とあり。所謂|促戸《セト》ノ渡はトノ江と夜見島との間にて夙く埋もれて今は殘らぬなり。栗江埼はトノ江の南端なり。而して此埼の西が意宇海の東界なりしなり。以上二節の意前書皆誤解せり。夜見嶋の名は又※[虫+呉]蚣嶋の下に見えたり。今弓之濱が十六町村に分れたる中に夜見村あれど古、夜見といひしはかかる狹き地域にあらず。又夜見島といへるを思へば弓之濱は此地の東方にて少くとも今一處切れたりしなり。さて弓之濱はもと夜見之濱なりしをヨミを訛り又は忌みて半島の形の多少弓に似たるに由りて弓之濱といひそめしならむ。一名濱の目を志料に是餘戸之轉也といへるは牽強傅會なり。寧地名辭書に「濱部《ハマノベ》の訛なるべし」と云へるに從ふべし。但「一説|海部《アマベ》かとも云ふ」と云へるは從はれず。又同書に
 粟島 今彦名村に屬す。往時は中海の一嶼なりしと云ふも後世全く陸岸の一丘となる。風土記に此を以て少彦名命の故蹟と載せしに因り新墾の村名を彦名と命じき(355)と云へり。粟島の事は伯耆風土記に見えたるのみならず出雲風土記意宇郡の下門江濱(今の米子市より出雲の安來《ヤスキ》町に到る途)の次に
 粟島 有2椎・松・多年木・小竹・眞△△葛1
と見えたり。又同書同郡の末に通2國東堺手間|※[錢の旁+立刀]《セキ》1四十一里一百八十歩とあり。郡家よりの距離なり。今西伯郡に手間村ありて天津村を隔てて國界に接せり。古の天萬《テマ》郷は國界に達せしにて兩國の界に手間關といふがありしなり。地名辭書に
 手間山 今天津村に屬す。出雲能義郡安田村に跨る(安田に關と云ふ大字もあり)
といへり。大字を安田關といふ。その字に關山あり。古事記神代上に
 故爾《カレ》八十神怒リテ大穴牟遲《オホナムチノ》神ヲ殺サムト欲シテ共議《アヒハカ》リテ伯伎《ハハキノ》國ノ手間《テマノ》山本ニ至リテ云ヒケルハ云々
とあり。又出雲風土記仁多郡の末に通2伯耆國日野郡堺阿志毘縁山1卅五里一百五十歩と見えたり。今日野郡に阿毘縁村ありて出雲の仁多郡鳥|上《カミ》村の東北に接せり。之を今アビレと唱ふるに由りて栗田氏の標註に繰ハ緑カといひ志料に縁ハ蓋緑ノ誤寫といひ辭書に「其縁字は絡の誤とす」と云へれどたとひ緑字なりともレとは訓むべからず。宜しく(356)もとのままにてアシビエと訓み、さてアビレをアシビエの略又訛とすべし。アシビエの名義は脚冷か
 
     粟嶋
 
伯耆國風土記曰。相見郡々家西北有2餘戸《アマリベ》里1。有2粟嶋1。少日子命蒔v粟|※[草冠/秀]〔左△〕《秀》實離離。即|載《ノリ》v粟彈(カレテ)渡2常世國1。故云2粟嶋1也(○釋日本紀卷七述義三、神代上少彦名命適於常世郷矣〔少彦〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 相見郡の郡家の在りしは相見郷の内にて(相見は又會見と書けり)今の西伯郡|車尾《クヅモ》村ならむ。本に相見にヱミと傍訓したるは誤れり。アヒミと訓むべし○餘戸郷とあらで餘戸里とあれば此風土記は靈龜元年以前の撰進なり。餘戸はアマリベと訓むべし。アマルベ は訛なるべくアマベは略なり。餘戸は本名にあらで假稱なり。一里の戸數十戸以上五十戸未滿なるをしばらく餘戸又は過戸《コシベ》と稱し、その五十戸に達するを待ちて新に(357)命名せしなり。さて此餘戸里は相見里の郷戸なるべければ相見餘戸と稱すべきなれど同郡に唯一の餘戸里ありて混亂の恐なき時は單に餘戸里といひしなり。此餘戸里の所在は夜見之濱即今の弓之濱なり○粟島は今弓之濱の内、彦名村の海岸に在り。古は孤島なりしが陸との中間やうやうに埋もれて今は地續となれるなり。その孤島なりし程は所屬曖昧なりきと見えて出雲風土記|意宇《オウ》郡の下、門江濱の次に
 粟島 有2椎松多年木小竹眞△△葛1
と記せり○※[草冠/秀]實は秀實の誤なり。※[草冠/秀]は音イウ訓ハグサ、禾本科の雜草にて所謂田ノクサなり。一種の草の稱にあらず。秀實の秀はやがて穗なり。離々は實の垂りたる状なり。詩經|湛露《タンロ》に其桐其椅、其實離々とあり。載はノリテと訓むべし。常世國は遙なる外國をおほよそに指して云へるなり○スクナビコ又スクナビコナ又スクナビコネノ神は古事記に
 波ノ穗ヨリ天ノ羅摩《カガミ》ノ船ニ乘リテ※[我+鳥]《ヒムシ》ノ皮ヲ内剥《ウツハギ》ニ剥ギテ衣服トシテ歸來《ヨリク》ル神アリ。……其少名毘古那神ハ常世國ニ度リキ
とあり。日本紀の∴齒曹ノ
 是時海上ニ忽人聲アリ。乃驚キテ求ムルニ都《フツ》ニ見ル所ナシ。頃時《シバラク》アリテ一箇ノ小男ア(358)リテ白※[草冠/斂]《カガミ》ノ皮ヲ舟トシ鷦鷯《サザキ》ノ羽ヲ衣トシテ潮水《ウシホ》ノマニマニ浮ビ到ル。大己貴神即取リテ掌中《タナウラ》ニ置キテ翫ビシニ則跳リテ其|頬《ツラ》ヲ齧ム
また
 其後少彦名命行キテ熊野之御碕ニ至リテ遂ニ常世ノ郷《クニ》ニ適ク。亦曰ク。淡嶋ニ至リテ粟莖《アハガラ》ニ縁《ノボ》リシニ則彈カレ渡リテ常世ノ郷ニ至ル
とありていと小き神にてオホナムチノ神と力を合せて國土を經營せし後行方知られずなりし神なり。カガミは今いふカガイモなり。カガイモは蔓草にてその果實は殻ありて種子を包めるが後に種子を放ち出すとて自然に二に裂くれば細長く中空にして恰獨木舟に似たり。※[我+鳥]は蛾なり。ヒムシとよむべし。蛾には羽あれば鳥によそへて虫扁を鳥旁に書更へたるにや。古事記仁徳天皇の段に蠶の事を一度ハ匐《ハフ》虫ニナリ一度ハ殻ニナリ一度ハ飛鳥ニナリテ三|色《クサ》ニ變ル奇シキ虫アリといへり。或は古、蛾と※[我+鳥]とを通用せしにや。此處とは反對に※[我+鳥]を蛾と書ける例あり。即持統天皇紀六年九月に越前國司獻2白蛾1とありて詔にも獲2白蛾於角鹿郡浦上之濱1とあり。こは白※[我+鳥]なるべし。ウツハギはマルハギなり。ウツを内と書けるは假借なり。サザキは即ミソサザイにて雀よりも小さき鳥な(359)り。熊野之御碕は中海の南岸なるべし。意東村と揖屋《イヤ・イフヤ》村との間なる意東が鼻か。日本紀に亦曰至淡嶋而縁粟莖者則渡而至常世郷矣とあるはやがて此風土記の説を採れるならむ○考證に「かく出雲風土記には出雲とし伯耆風土記には伯耆とせるは伯耆風土記は稍後勘造せしなるべし」といへるは非なり。伯耆は靈龜元年以前の撰、出雲は天平五年の作なり。同書に伯耆志に
 粟島村、土人或は略してアジマと呼ぶ。粟島は今社のある山なり。上古は海中の孤島にて出雲に屬す(○所屬曖昧なりしなり)。故に出雲風土記意宇郡に粟島云々とみえたり。何の頃當國に屬せしにや。寶暦の頃までは此地に一川ありて參詣の入船にて渡りしが故に三文渡と呼びしが賃錢三文にて渡りしなり。新田開發するに從ひ遂に陸地となりし
と云へるを引けり
 
(360)     震動之時(舊題震動※[奚+隹]雉)
 
伯耆國風土記云。震動之時※[奚+隹]雉|悚《シヨウ》懼(シテ)則鳴、山※[奚+隹]踰2嶺谷1即|樹《タテテ》v羽|磴踊《トウヨウス》也ト云ヘリ(○塵袋卷三所v引)
 
 新考 塵袋(古典全集本二一五頁)に
 (問)雷鳴ト地震トニハ雉ナク事アリ。其心如何。(答)洪範五行云。正月雷微動而雉|※[句+隹]《ナク》。雷諸侯之象也。雉亦人君之類也ト云ヘリ。コレニテ思ニハ同類ヲ感ジテナク心ナリ。地震ニハカナラズナク。是ハ|ヲ〔左△〕ソレオドロク歟。伯耆國風土記云。……※[奚+隹]雉ヤマドリコレラハミナ陽ノ氣ヲウケタルトリナリ。地震ハ陰陽フサガルトキ必アル事ナリ。サレバ陽ノ精ナルニヨリテイタミオドロク歟
とあり○悚は音シヨウ、オソルなり。磴は音トウ、地ヲ履《フ》ムなり。但磴踊とつづける例を知らず○考證に「震動とは雷鳴と地震とを云り」と云へるは非なり。塵袋の文は二段に分れ(361)たるにて同類ヲ感ジテナク心ナりまでが雷鳴に鳴く事、地震ニハ以下は地震に鳴く事にて風土記の文は後者の證に引けるなり。されば震動は地震の事なり。さて※[奚+隹]と山※[奚+隹]とは知らず雉は地震の前に鳴くものなり。或時目白の椿山荘(今の藤田男爵邸)に行きたりしに邸内自生の雉の俄に鳴くを聞きて地震があるナと主人(故山縣有朋公)の云はれしに間も無くゆり始めし事あり○塵添※[土+蓋]嚢抄卷八に此文を載せたるには山※[奚+隹]の二字を脱し又陰陽フサガルを陰陽主サドルと誤れり
 
(362)   出雲國 有完書
 
當國は東伯耆に、南備後に、西石見に接し北は海に臨めり。世人多くはスサノヲノ尊の御歌のイヅモを國名の初現と思へど尊がヤクモタツイヅモヤヘガキツマゴ微(昧)ニヤヘガキツクルソノヤヘガキヲとよませ給へるイヅモはただイヅル雲といふことにて地名國名としてのたまへるにあらず。
 ○此御歌を正解せるものをさをさ無きやうなれば煩はしけれどまづ其解釋を試みむ。即ヤクモタツはあまたの雲が湧くといふ事にてイヅモの装飾辭(一種の枕辭)なり。次にイヅモはイヅル雲といふ事なり(或書にイデクモの約とせるは淺し)。さらばイヅルと云ふべきをイヅと云ひてルの言無きは太古には連體格と終止格との別無かりし故なり。即切るる時も名詞に續く時も共にイヅと云ひし故なり。萬葉集新考の索引に就いて連體格の代に終止格を使ひたる例ども(六五四頁以下)を檢出して聯ね見べし。次にイヅルをイヅといふともクモのクは省くべきにあらねばイヅクモと云ふべきにあらずやと云はむに、こはクの音がおのづから含蓄せられしなり。抑古は歌を作(363)りて人に傳ふるには口に唱へし事なるが、もし音數多き時は或音をつめて唱ふるが故に其音が明にあらはれざるなり。上に含蓄といへるは此事なり。さて耳にて聽かばなほ或音が潜めりと知らるべけれど、もし字を以て寫さば其音に當る字を略する外なきなり。或書に「いにしへ雲をただモとぞ云ひけむ」と云へれど初句にヤクモ〔二字傍点〕タツと云へるを思へばさる事はあらざるなり。次にイヅモヤヘガキは出雲の八重垣にて雲の造れる八重垣なり。又八重垣は物ぶかき家屋なり。さて此句にて切れたるなり。第三句に續けるにあらず。次に第三句は古事記にはツマゴミニとありて日本紀にはツマゴメニとあり。コミはコメに同じ。コムルは後には下二段の活なれど古は四段活なりしなり。さてツマゴメニは妻ヲ入レオクベクとなり。次に第四句のヤヘガキツクルの上に出ヅル雲ガといふ主格を略したるなり。古は妻を迎へて相棲むとてまづ新屋を作りし事あるなり。萬葉集卷三過2勝鹿眞間娘子墓1時歌にフセ屋タテツマドヒシケムといひ(新考五二七頁參照)出雲風土記|神門《カムト》郡八野郷の下に
  須佐能袁命御子八野若日女命|坐之《イマシキ》。爾《ソノ》時所v造2天下1大神|大穴持《オホナモチ》命將2娶給1爲而令v造v屋給。故云2八野1
(364)とあるなどを見て之を知るべし。次にソノヤヘガキヲのヲは感動詞にてカナに近し。一首の趣は天の四周に白雲の湧き登るを見そなはして我爲ニ雲ガ屋作スルニ似タリケリと興ぜさせ給へるなり
さて出雲が國名となれるは出雲風土記に據れば八束水臣津野《ヤツカミヅオミツヌ》命の語より始まりしなり。即同書の初に
 所3以號2出雲1者八束水臣津野命詔2八雲立|語〔右△〕1之。故云2八雲立出雲1
とあり。此一節の意を前人悉く誤解し甚しきは語字を詔字に改めたり。こは
 出雲ト號《イ》フ所以《ユヱ》ハ八束水臣津野命、八雲立トイフ語《コトバ》ヲ詔《ノ》リタマヒキ。故《カレ》八雲立出雲ト云フナリ
とよむべきなり。八雲立トイフ語とは八雲立云々ノ語といふ事にて(之は助字)やがて國引の段に見えたる
 八雲立出雲國ハ狹布《サヌノ》ノ稚《ワカ》國ナルカモ。初國小ク作ラセリ。故《カレ》作縫ハム
といふ語なり。下に見ゆるが故にそれに讓りてここには八雲立トイフ語とのみ云へるにて風土紀の撰者の意は「此語の中に見えたるが國名となれる始なり」と云へるなり。因(365)に云はむ。萬葉集卷三なる人麻呂の歌に八雲刺出雲ノ子ラガ黒髪ハといへるがあり。このヤクモサスはヤクモタツの訛にはあらでサスもタツも同意にて生ずる事なり。即サスはミヅ枝サスなどのサスなり。さてスサノヲノ尊の御歌をヤクモサスイヅモヤヘガキとも傳へたりしかば人麻呂は無心にてそれに依りしならむ。特に異を好みてヤクモサスと云ひしにあらじ○當國の郡の風土記に見えたるは意宇・嶋根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の九郡なり。然るに延喜式には意字・能義〔二字傍点〕・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原とあり。和名抄にも
 出雲國(國府在2意宇郡1) 管十 意字(於宇)能義(乃木)島根(之末禰)秋鹿(安伊加)楯縫(多天奴比)出雲、神門(加無止)飯石(伊比之)仁多(爾以多)大原(於保波良)
とあり。されば風土記を勘造せし天平五年より延喜式を撰上せし延長五年までの間に一郡増加せしなり。即意宇郡の東南強半を割きて能義郡を立てしなり。高山寺本和名抄には能義を首位に置けり。こは能義郡が意宇郡より分れし歴史に拘はらで專地理に依れるならむ。さて高山寺本に據りて排列の順序を按ずるに東部なる能義に始まり次に其西北なる意宇、次に其北なる島根、次に其西なる秋鹿、次に其西なる楯縫、次に其西南な(366)る出雲、次に其西南なる神門、次に其東南なる飯石、次に其東なる仁多、終に其北なる大原に及べり(流布本風土記には仁多と飯石とを顛倒せり)。大原は恰國の中央に在り。國の北部に宍道《シンヂ》湖あり。東西に長し。其東端は馬潟《マガタ》ノセト(即風土記に云へる朝酌|促戸《セト》)によりて中海に連なり中海の東北端は中江ノセトによりて美保灣に連なれり。中海に臨めるは能義・意宇・島根の三郡にて宍道湖を圍めるは意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲の五郡なり。松江の市街は宍道湖の東端に在りて意宇島根の二郡に亙り大橋川及天神川に跨れり。二水の東端は即馬潟ノセトなり。次に郡の訓に就いて云はむに和名抄の訓註に秋鹿をアイカとし仁多をニイタとせるは例の如く後世の音便に從へるなり。宜しくアキカ・ニタと訓むべし。楯縫はもとはタタヌヒとぞ呼びけむ。タテが下へ續く時タタとなるは竹天がタカ・アマとなるが如し。飯石は古ヒを濁りてイビシと唱へしにあらざるか。風土記同郡の下に飯石郷本字伊鼻志とあり又
 飯石郷 伊|毘〔右△〕志都幣命|天降《アモリ》シマシシ處ナリ。故伊|鼻〔右△〕志ト云フ
とあればなり。イビシツヘノ命は天夷鳥命の別名なりといふ。近古以來出雲郡をシュットウ又シュット又スットと唱ふ。之に就いて懷橘談に
(367) 今の俗出東と書。國の東にもあらず。あやまりなるべし。又シュットウと云はいかなる故にや。出雲郡といへば國の名にまぎるる故に音にてシュッヲウといふなるべし。雲は音ウン、漢音にはツン、呉音にはヲウ、我國まづ呉國へ通じたれば今に至るまで國人の言葉多くは呉音也。故に雲の字を呉吾にいへばヲウ也。出の字をつむる響にてヲウをトウと云なれば出ヲウ郡といひしを俗の了筒に雲の字にトウの聲なしと思ひて東の字に改め書たるなるべし
といひ雲陽誌にさながら此文を引けるはいたく惑へり。一時出雲郡を分ちて出東出西の二郡としその出東を初にはイヅモノヒガシと唱へしを後にシュットウと唱ふる事となりしのみ。然らば出西郡は如何になりしかと云ふに出雲郡は北は次第に楯縫郡に、西はやうやうに神門郡に侵されしかば出西郡の地域の大部分は夙く隣郡に入りしなり。今も簸《ヒノ》川郡に出西《シユツサイ》村あるはそのなごりなり。
 ○出西村はもとの出西郡の全域にあらずして其小部分なる事勿論なり。此出西村は三種の地圖を檢するに甲乙にては神門郡に屬し丙にては再出雲郡に屬せり
かくの如く郡としての出西は夙く亡びしかば出東郡は出雲郡の別名の如くなりしな(368)り。出東郡の名義の事ははやく志料及辭書に云へり。即志料には
 杵築社明徳三年ノ文書ニ出東郡アリ。元禄地圖同ジ。村名帳ニ出西村アリ。當時私ニ東西二郡トシタリシナリ。享保郡名付ニ出雲郡ニ復シ猶讀ンデ出東ト云ヘリ。今ノ制之ニ因レリ
といひ辭書には
 出雲郡 そのシットの訓あるは此地往時の出東郡にして出雲の舊郡域(○分割以前の出雲郡の全域)にあらざればなり。出雲は宍道湖と杵築海の間出雲川以北の地を舊域とす。中世以還分ちて出東出西の二郡としたりしが出雲川の流勢大に變じけるより郡村の境界田野の廣狹亦改易す。出西郡の廢亡はその何時なりしを詳にせざるも杵築・河内・伊努・出雲の四郷(○共に和名抄出雲郡郷名)蓋其域内とす。後世杵築・河内・伊努等は神門郡に入り出雲は出東郡に復歸し宇賀・美談《ミタミ》等(○これも)は出雲郡より脱して楯縫郡に入る。正保國圖に出東郡の名を擧げ寛文年中出雲郡の名を復し出東の地を以て之に充つ。土俗尚沿習を改めずシットウと呼びシットに訛る。但し出東の郡界を斐伊川(○出雲川)に限るは寛永以後の事とぞ
(369)と云へり。明治二十九年|意宇《オウ》・島根・秋鹿《アイカ》の三郡を合併して八束郡とし(彼國引の神の名に依れるなり)楯縫・出雲・神門《カント》の三郡を合併して簸《ヒノ》川郡(大川即斐伊川の古名に依れるなり)とせしかば今は能義《ノギ》・八束《ヤツカ》・簸《ヒノ》川・飯石《イヒシ》・仁多《ニタ》・大原の六郡となれり○國府は風土記の末に
 自2國東堺1去v西廾里一百八十歩(○當時の制に從ひて六町一里とすれば今の三里十五町)至2野城《ヌギ》橋1。長卅丈七尺廣二丈六尺(飯梨《イナシ》川)。又西廾一里(○今の三里十八町)至2國廳意宇郡家|北十字街《キタノチマタ》1
とあり又意宇郡の下に黒田驛、郡家同所(今屬2郡家東1)とあれば黒田驛に國衙と郡衙と相並びて驛舍の西に在りしなり。さて其址は今の八束郡|出雲郷《アダカエ》村大字出雲郷の内下出雲郷なりといふ。下出雲郷は中海の西岸に臨み府址は熊野川(古名意宇川)の左岸に沿ひたれば出雲守門部王が萬葉集卷三に
 飫宇《オウ》河の河原のちどりながなけばわが佐保河のおもほゆらくに
とよみ又卷四に飫宇ノ海ノ鹽干ノ滷ノ云々とよみ又出雲掾|安宿《アスカベ》奈杼麻呂が卷二十に
 おほきみのみことかしこみ於宇のうらをそがひにみつつみやこへのぼる
とよめるに叶へり。出雲郷をアダカイ又はアダカエと呼ぶは此處に風土記の阿太加夜(370)神社(式外)あるが故なりといふ。おそらくは初國郡の出雲また出雲郡の出雲郷と區別する爲にアダカヤノイヅモと呼びしに後に略してただアダカヤといひ然も文字はもとのままにしたるが故に恰出雲と書きてアダカヤと訓む如くなりしならむ。さて村の名を出雲郷と云へるを(少くとも文字に然書けるを)思へば此地を曾て出雲郷といひし事しるし。然るに風土記にも和名抄にも本郡に出雲といふ郷名は無し。地名辭書には之を和名抄の神戸郷、風土記の出雲神戸に充てたり。和名抄の何郷に當るかはなほ研究を要すれど風土記の出雲神戸には當らず。風土記に據れば國府は意宇郡家と同處にて出雲神戸は郡家南西二里廾歩とあればなり。又辭書に
 國府址 今竹矢村の大字竹矢の地なるべし
と云へるはいかが。竹矢《チクヤ》は下出雲郷の北に隣れり○官道の本路は伯耆の相見驛より來り當國の能義・意宇・神門の三郡を横斷して石見の波禰に到れり。別に一路、黒田驛より分れ北に向ひて嶋根郡の千酌驛に到りそれより海を渡りて隱岐に到れるものあり。即風土記に
 自2國東堺1去v西廾里一百八十歩至2野城橋1。長卅丈七尺廣二丈六尺(飯梨川)。又西廾一里至2(371)國廳・意宇郡家(ノ)北十字街1即分爲2二道1(一正西道、一枉北道)
といへり。正西道は即本路にて枉北道(北ニ枉レル道)は支路なり。十字街はただチマタと心得べし。實に十字を成せるにあらで※[上の一画目なし]かくの如き形を成せるなればなり。次に
 枉北道去v北四里二百八十歩至2郡北堺朝酌渡1(渡八十歩渡船一)又北一十里一百四十歩至2
嶋根郡家1自2郡家1去v北一十|七〔右△〕里一百八十歩至2隱岐渡《オキノワタリ》千酌驛家濱1(渡船)
と云へり。朝酌渡は今の馬潟《マガタ》迫門の矢田渡にて迫門は宍道湖と中海とを聯ねたる水路なり。嶋根郡家の在りし處は今の八束郡持田村なり。島根縣史に大字福原なりと云へり。隱岐渡は隱岐島への渡頭なり。一十七里は一十九里の誤か。風土記に又
 正西道自2十字街1西一十二里至2野代《ヌジロ》橋1。長六丈廣一丈五尺(野代川)。又西七里至2玉作|街《チマタ》1即分爲2二道1(一正西道、一正南道)
といへり。野代川は今の乃白川なり。玉作街は今の八束郡玉湯村大字玉造なり。又
 正西道自2玉作街1西九里至2來待橋1。長八丈廣一丈三尺(來待川)。又西廾三里卅四歩至2出雲郡家1。又自2郡家1西二里六十歩至2郡西堺出雲河1(渡五十歩渡船一)。又西七里廾五歩至2神門郡家1。即有v河(渡廾五歩渡船一)。自2郡家1西三十三里至2國西堺1(通2石見國|安農《アヌ》郡1。)※[手偏+總の旁]去v國|程《ミチノリ》(372)一百六里卅四歩
といへり。出雲郡家の所在は島根縣史に今の簸川郡出西村大字|求院《グヰ》なりといへり。神門郡家は志料に今の古志村とせり。
 ○辭書には今の知井宮村とせり。知井宮は式内智伊神社に依れる名なり。智伊は正しくはただチとよむべし。風土記には知乃社とあり
古志村の大字上古志か。有河と云へるは神門川なり。神門川の河道は今はいたく北に移れり。至神門郡家即有河といへるを味はふに郡家は川の手前に在りしなり。即神門川は古は郡家の南を過ぎて神門水海即今の神西《ジンサイ》湖に注ぎしなり。總去v國程といへる國は國衙なり。一百六里總四歩は今の十八里弱なり。同書になほ
 自2東堺1去v西廾里一百八十歩至2野城驛1。又西廾一里至2黒田驛1。即分爲2二道1(一正西道、一渡2隱岐國1道也)。隱岐道去v北卅四里一百三十歩至2隱岐渡千酌驛1。又正西道卅八里至2宍道驛1。又西廾六里二百廾九歩至2狹結驛1。又西一十九里至2多岐驛1。又西一十四里至2國西堺1
といへり。野城驛〔三字傍点〕は風土記意宇郡の下に
 野城驛、郡家正東二十里八十歩。依2野城大神坐1故云2野城1
(373)とあり。意宇郡家が下出雲郷にありし事は上に云へり。野城大神は神名帳に見えたる野城神社なり。驛址は今の能義郡能義村大字能義なり。辭書に此地の舊名を松井といふは馬次《マツギ》の轉訛なりと云へり。次に黒田驛〔三字傍点〕は風土記意宇郡に
 黒田驛、郡家同所。今郡家西北二里有2黒田村1。舊《モト》此處有2此驛1。即號曰2黒田驛1。今屬2ニ郡家東1。今猶追2舊黒田號1耳
といへり。驛址は今の八束郡|出雲郷《アダカエ》村大字出雲郷の内下出雲郷なる事上に云へる如し。次に宍道驛〔三字傍点〕は風土記意宇郡に
 宍道驛、郡家正西卅△里
とあり。缺字は七ならむ。同書に別に宍道郷あれば郷驛同處なりしなり(既述の野城・黒田は同名の郷なし)。今八束郡宍道村大字宍道ありてシンヂと唱ふ。シンヂはシシヂの音便なり。次に狹結《・サユフ》〔三字傍点〕は神門郡家と同處なれば上に云へる如く簸川郡古志村の内ならむ。風土記神門郡に
 狹結驛、郡家同所。古志國佐與布|云《トイフ》人來|居之《ヲリキ》。故云2最邑《サヨフ》1。(神龜三年改2字狹結1也云々)
とあり。從來最邑をサエフとよみたれど最邑の音サイオフを約すればサヨフにてサユ(374)フにあらず。又佐與布といふ人の名より出でたるなればサヨフとこそ云ふべけれ。恐らくは初サヨフなりしを漸に訛りてサユフといひしかば狹結の字を充てたるならむ。次に多岐驛〔三字傍点〕は右につづけて多岐驛、郡家西南一十九里とあり。多岐には同名の郷(多伎)あり。又上に引ける文に多岐驛と國界との距離十四里とあり。今簸川郡の西偏に田岐村大字多岐あり。別路の千酌驛〔三字傍点〕は風土記嶋根郡に
 千酌驛、郡家東北一十九里一百八十歩。伊佐奈枳命御子都久豆美命此處坐。然則可v謂2都久豆美1而今人猶千酌|號《トイフ》耳
といへり。ツクツミのツミはワタツミのツミにてツクツミは月持(領月)の義とおぼゆれば標註に「月夜見命か」といへり(内山眞龍の説なり)。又
 千酌濱廣一里六十歩(東有2松原1南方驛家。……此則所v謂度2隱岐國1津是也)
また通3隱岐渡千酌驛家湊1といひまた卷末に隱岐渡千酌驛家濱(渡船)といへり。今も八束郡千酌村の大字に千酌あり。以上意宇郡三驛(内一後屬能義郡)、島根郡一驛、神門郡二驛、都合六驛、延喜式に見えたる所と一致せり。但式には各五疋と附記せり。當國には博馬は無し。そは山陰道の終に近づきて驛馬の乘用少く從ひて傳馬を備ふるを要せざる爲なら(375)む○出雲は越前系松平家の領國にて藩治は松江に在りき。又能義郡内に廣瀬・母里《モリ》二支封の藩治ありき○官幣大社出雲大社は舊神門郡杵築(今簸川郡大社町)に、國幣大社熊野神社は舊意宇郡熊野(今八束郡)に、國幣中社美保神社は舊島根郡美保關(今八束郡)に在り。其外國幣小社日御碕神社(舊神門郡)同須佐神社(飯石郡)同佐太神社(舊秋鹿郡)などあり○出雲風土記は完書として傳はれり。抑今も傳はれる諸國風土記は僅に常陸・出雲・播磨・豐後・肥前の五國の物のみなるが其中にて常陸・豐後・肥前は略本、播磨は缺本なるに獨出雲のみは完本なり。其上に記事くはしく體裁よく整へり。唯一、他國のに劣れるは撰進の時代の後れたる事なり。即常陸播磨は靈龜元年以前のもの、豐後肥前は日本紀撰上以前のものなるに出雲は天平五年の勘造なり。文體は漢文の中に往々國文に漢字を填めたる處〔國文〜傍点〕交れり。たとへば賜・給・坐など一般的のものの外にも大神之宮將奉與(ツカヘマツラムト)將娶給爲而(ツマドヒタマハムトシテ)宇良加志給鞆(ウラカシタマヘドモ)木葉頭刺而踊躍爲時(木葉ヲカザシテ踊躍セシ時)など書けり。但こは疵とするに足らず。卷初國引の段は文體古事記に似て自餘とは異なるが、こは古文をさながらに採れりと見えていとめでたし
 
(376)   石見國 無
 
齊明天皇紀三年に「石見國言。白狐見」とあり文武天皇紀慶雲四年四月に
 天下疫飢。詔加2賑恤1。但丹波・出雲・石見〔二字傍点〕三國尤甚
とあり。是國名の國史に見えたる始なり。又播磨風土記|揖保《イヒボ》郡|石海《イハミ》里の下に
 右石海ト稱スル所以ハ難波ノ長柄《ナガラ》ノ豐前《トヨサキ》ノ天皇(○孝徳天皇)ノ世、是《コノ》里中ニ百枝ノ野アリテ百枝ノ稻生ズ。即|阿曇連《アヅミノムラジ》百足仍リテ其稻ヲ取リテ獻リキ。ソノ時天皇勅シタマハク。此野ヲ墾《ハ》リテ田ニ作ルベシト。乃阿曇連|太牟《タム》ヲ遣シ石海〔二字傍点〕ノ人夫ヲ召シテ墾《ハ》ラシメキ。故《カレ》野ノ名ヲ百枝ト曰ヒ村ヲ石海〔二字傍点〕ト號《イ》フ
とあり(新考二六四頁參照)。國造本紀に
 石見國造 瑞籬朝(○崇神天皇)御世紀伊國造同祖蔭佐奈朝命兒大屋古命定2賜國造1
とあり。紀伊國造は同書に
 橿原朝御世|神皇産靈《カムミムスビ》命五世孫天道根命定2賜國造1
とあり○當國は山陰道の西端にて、国の軸東北より西南に向ひ、その形傾ける几に比す(377)べし。。即上(西北面)略平にして中央薄く左右(東南及西南)に脚の如き突起あり。東は出雲に東南は備後に、南は安藝に、西南は周防に、西は長門に接し西北は日本海に面せり。民部省式に
 石見國 中 管、安濃・邇摩・那賀・邑知・美濃・鹿足(○邑智と那賀とは宜しく顛倒すべし)
とあり和名抄に
 石見國(國府在那賀郡) 管六 安濃、邇摩、那賀、邑知(於保知)鹿足(加乃阿之)美濃(○邑知を那賀の先とし美濃を鹿足の前とすべし)
とありて昔も今も六郡なり(但邑知は今邑智と書く)。否初は五郡なりしに仁明天皇の承和十年五月に美濃郡を割きて鹿足郡を置きしなり。鹿足は一時カノアシのノアを約めてカナシといひしを今は又カノアシと呼ぶ。カナシが悲シに通ずるを忌みてならむ。六郡の内|安濃《アノ》・邇摩《ニマ》は小郡にて安濃は國の東北端にあり。其西が邇摩、兩郡の南が邑智《オホチ》、邇摩・邑智の西が那賀《ナガ》、その西南が美濃、又その西南が鹿足《カノアシ》なり。當國の名邑の内大森町は邇摩に、濱田町は那賀に、益田町は美濃に、津和野町は鹿足にあり。明治維新前當國は略三治に分れたりき。即東部は幕領、中部は濱田領、西部は津和野領なりき○國府在那賀郡とある(378)は古の伊甘《イカミ》郷の内今の下府《シモコフ》村なり。下府村は國府村といひしが上下二村に分れしなり
 ○官道は安濃・邇摩・那賀三郡を横斷しき。即出雲の多岐驛より當國の波禰驛に到り、それより四驛を經て伊甘驛に到りて官道は終りき。長門國の官道に別路あり。そは當國と交通する爲なれど長門の別路の終驛小川と當國伊甘驛との間は斷えて續かず。如何にして彼小川驛と當國府との間を結びしかはなほ研究を要す。兵部省式に
 石見國驛馬 波禰、託農《タクノ》、樟道、江東、江西、伊甘各五疋
とありて傳馬なし。波禰驛〔三字傍点〕は安濃郡に同名の郷あり。今國界に接したるが朝山村、その西が波根東村、その西が波根西村なり。此三村は古の波禰郷なりと思はるるが驛址は波根東村の波根ならむ。此波根は波根湖(今屬波根西村)の東に在り。恐らくは此處にて馬を次ぎて湖口を渡りしならむ。次に託農驛〔三字傍点〕にも和名抄邇摩郡に同名の郷見えて多久乃と訓註せり。今の宅野村是なり。次に樟道驛〔三字傍点〕は和名抄高山寺本驛名にもかくあり。ここに和名抄邇摩郡の郷名に杵道ありて都知と訓註せり。杵道をツチとは訓むべからねば高山寺本に津道(都知)とあるぞ正しからむ。地理志料に
 津道 津モト杵ニ作レリ。今高山寺本ニ從ヒテ訂シツ。兵部省式ニ石見國樟道驛馬五(379)疋トアリ。樟道杵道ハ皆津道ノ譌
といひ地名辭書にも
 津道郷 刊本津を杵に誤る。今高山寺本に因る。……延喜式に津を樟に誤り樟道驛馬五疋と見ゆ
といへり。杵道郷が津道の誤なる事は論なし。樟道驛は高山寺本にもかくあるをこれをも津道の誤とせむ事は聊たゆたはるれど、なほ津道の誤なるべくおぼゆ。さてその津道郷及津道驛を志料に
 今都賀郡ニ都知本郷村アリ。蓋其地ナリ
といひ辭書にも
 津道郷は今那賀郡の所管となり都治等の六村と爲る。温泉《ユ》・大家《オホイヘ》の西南にして江川《ゴウノカハ》に至る
といへれど少くとも津道驛址は今の都賀郡|都治《ツチ》村にはあるべからず。さては前驛託農との距離遠きに過ぎ次驛江東との距離近きに過ぐる故なり〔さて〜傍点〕。論を進むるには先道路の事を明にせざるべからず。今は國道安濃郡の波根西村より同郡の大田町・邇摩郡の大森(380)町及大家村を經て那賀郡淺利村に到りたれど、こは近世以來の事なり。日本地誌提要に波根・大田・久利・大森・西田・福光・黒松・淺利を出雲路とせるはた大森銀山の開けし後の事なり。此等の道は宅野(託農驛址)を經ざればなり。同書に又波根・鳥井・宅野・天河内《アマカフチ》・温泉津《ユノツ》・福光・黒松・淺利の海岸線を出雲路別路とせり。此道は宅野を經れど、これもなほ古官道のままならで温泉津の發展せし後の道ならむ。温泉津は邇摩郡内に在りて當國有數の港灣なり。温泉津町その東北に臨めり。更に論を進むるには和名抄の郷を今の町村に充て試みざるべからず。まづ抄の邇摩郡に託農・大國・湯泉《ユ》・津道・大家・郡治の六郷を擧げたり。
 ○郡治郷に就いては志料と辭書との説甚しく懸絶せり。私見は後に聊述ぶべし
右の内託農が今の宅野村附近なる事は前に云へり。大國は今の大國村附近にて託農の南方に當れり。湯泉は今の湯里《ユザト》村・温泉津《ユノツ》町にて大國の西方に當れり。大家《オホイヘ》は今の八代《ヤシロ》・大家《オホヘ》・井田・波積《ハヅミ》の村々にて湯泉の南方に當れり。湯泉大家兩郷に抱かれて即湯泉の西南大家の西北に當りて大濱・福光・福浦の三村あり。辭書には之を湯泉郷に屬したれど此地域ぞ津道《ツヂ》郷ならむ。今も馬路《マヂ》村より湯里村大字西田に到る里道あり。又西田より大濱村を横斷して福光村の下村に到りて所謂出雲路別路と合する里道あり。是古官道のなごり(381)にて馬路村の名義は驛路といふ事にあらざるか。驛址は恐らくは今の大濱村の内にあるべし。驛名の、否郷名の津道は温泉《ユ》ノ津ニ到ル道といふ義ならむ
 ○今の那賀郡の内|江川《ゴウノカハ》の右側にある黒松・都治《ツチ》・松山・下松山・淺利・渡津の六村はもと邇摩郡に屬せしならむ。和名抄那賀郡郷名に此地域に當るもの無きが故にかくは思はるるなり。さて其地域が所謂郡治郷にあらざるか。更に思ふに郡治は都治の誤にて、もと東方なる津道と一郷なりしを二とし一を津道と書き一を都治と書きしにあらざるか(いとまぎらはしけれど)
○江川《ゴウノカハ》は山陰道第一の大河なり。備後安藝の北部より發し兩國の界を縫ひて當國に入り北に向ひ西南に向ひ西北に向ひて那賀郡の江津《ゴウツ》町と渡津《ワタツ》村との間にて海に入れり。古名は可愛《エ》之川、一名を石見川といふ。江《ゴウ》ノ川といふ名こそあやしけれ。辭書に
 一説舊エノカハと呼び其海門の渡津に江東江西の二驛を置かれしより江字を音讀してゴウと呼びならはし以て古稱を失へりと
と云へり。即エノカハに江川の字を充てなほエノカハと呼びしに河口に江東江西の二驛を置きそをゴウトウ・ゴウサイと呼びしより川の名も之に引かれてゴウノカハとな(382)りしなりと云へるなり。思ふに驛名の影響を受けしにはあらで初さかしら人が川をただに江と稱し又エノカハに江川の字を充てしより終にゴウノカハと唱ふるやうになりしならむ。さて驛路は河口にて、河幅廣く、渡るに時を要するが故に之を夾みて二驛を置きしなり。その二驛の名は初にはエノヒガシ・エノニシと唱へけむに便に從ひてやうやうにゴウトウ・ゴウサイと呼ぶ事とぞなりにけむ。江は漢音カウ呉音コウ、我邦にては濁りてゴウと唱へしなり(江河をゴウガとよむ如く)。江津町は河口の西に在り。所謂江の船附なれば江津と名づけしなり。江の行體は郷の草體と相似たり。其上に郷の呉音はガウにて音も相似たれば二字の相紛れたる例あり。江川・江津町の如きも亦郷川・郷津と書けり。さて江西驛の址は郷津町にて江東驛の址は渡津村なり○次に伊甘驛〔三字傍点〕は和名抄那賀郡の郷名に伊甘あり。之を流布本に伊加無と訓じ高山寺本に伊加三と訓ぜり。甘の音はカムなれば轉じてカミにも借りつべし。伊甘郷は今の國分村・上府《カミコフ》村・下府《シモコフ》村・伊南村に當れり。伊南は伊甘ノ南をつづめたるにや。國府は同郷にありき○出雲風土記意宇《オウ》郡の下國引の處に
 カクテ竪メ立テシ加志(○杙)ハ石見國ト出雲國トノ堺ナル名ヲ佐比賣山トイフ是ナ(383)リ
といひ同|飯石《イヒシ》郡の下に
 佐比賣山 郡家正西五十一里一百四十歩(石見與2出雲1二國堺)
といへる佐比賣山は今の三瓶《サンベ》山にて飯石郡と簸川《ヒカハ》郡と石見の安濃郡との相接したる處に屹立せり。サンベはサヒメの轉訛なり。即サヒメがサビメとなりサンメとなりサンベとなれるなり。ビがンとなるは動詞の活ビテがンデとなるが如し(たとへばナラビテ、ナランデ)。地名辭書に「サンベは蓋三瓶の字をサヒムに假りしより云々」と云へるは妄なり。サヒメ又はサビメは五月の農事(插秧)を掌る女神なり。今山下佐比賣村の佐比賣山神社の祭神を大名持命等とせるは古のままならじ。飯石郡家は古の多禰郷の内即今の掛合村にありき。出雲風土記に
 多禰郷 所v造2天下1大神大穴持命與2須久奈比古命1巡2行天下1時稻種墮2此虚處1。故云v種
とあり。これと、佐比賣神社の所在地を多根といふと、祭神を大名持命及少彦名命とすると、此神等が此處に來りて農事を教へ給ひきと云傳へたるとの間に或は關係あるべし。同じ風土記|神門《カムト》郡の下|薗《ソノノ》松山の處に起《ヨリ》2松山南端美久我林1盡《マデ》2石見與d出雲u二國堺中島埼1(384)之間云々といへり。所藏の出雲國圖第三號にも神門郡多儀村(今の簸川郡多儀村大字口多儀)の西なる國界に
 中島埼(源藏松・源藏岩)ヲ雲石ノ境
と記せり。又同じ風土記神門郡の末に
 通2石見國安農郡堺多枳々山1卅三里(路常有v※[錢の旁+立刀]《セキ》)。通2同安農郡川相郷1卅六里(徑常※[錢の旁+立刀]不v有。但當2有v政時1權《カリニ》置耳)
とあり。又卷末に自2郡家1(○神門郡家)西卅三里至2國西堺1(通2石見國安農郡1)とあり。多枳々山は口田儀より朝山村大字|仙山《センヤマ》に越ゆる峠なり。此峠が山陰道の本路なるが故にここには常に關を置きしなり。抑神門郡の西端に多岐村と田儀村とありてまぎらはし。思ふに多岐は古、郷名をも驛名をも多岐(又書多伎)といへば初より多岐にて、田儀は多枳々の約、その多枳々の名義は薪ならむ。川相郷は和名抄郷名に川合とあり。今も川合村ありて郡の西南端に在り。安濃邇摩の郡界は東方へ移動せりと思はるれば古は郡の西南端にはあらざりけむ。されど東、出雲の國界に接せずしては通2安農郡川相郷1といへるに叶はず。もし川合郷を今の川合村より富山《トミヤマ》村に亙れる地域とせば一郷の廣袤大に過ぐべく又(385)地名辭書(安野郡波禰郷の下)に云へる如く富《トミ》山村をもと出雲に屬したりきとして此村の西界を國界とせば又神門郡家よりの距離卅六里(今の六里)とあるに叶はじ。いぶかし。さてその徑は奥田儀より富山村|神原《カンバラ》に出づる路ならむ。ともかくも此徑は間道にて人の往來少ければ常には關を置かで事ある時のみ關を置くと云へるなり。有政は有事なり○萬葉集卷二柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首の第一首に
 石見の海、角の浦み〔四字傍点〕を、浦なしと、人こそ見らめ、滷なしと、人こそ見らめ、よしゑやし、浦はなくとも、よしゑやし、滷はなくとも、いさなとり、海邊《ウナビ》をさして、和多豆〔三字傍点〕の(或本歌云。柔田津〔三字傍点〕の)荒磯の上に、か青なる、玉藻おきつ藻、朝はぶる、風こそよせめ、夕はぶる、浪こそ來よれ、浪のむた、がよりかくよる、玉藻なす、よりねし妹を、つゆじもの、おきてしくれば、この道の、八十くまごとに、よろづたび、かへりみすれど、いやとほに、里はさかりぬ、いや高に、山もこえきぬ、夏草の、おもひしなえて、しぬぶらむ、妹が門みむ、なびけこの山(或本歌云。おもひしなえて、なげくらむ、角のさと〔四字傍点〕》見む、なびけこの山)
   反歌
 石見のや高角山〔三字傍点〕のこのまよりわがふる袖を妹みつらむか
(386) ささが葉はみやまもさやにさやげどもわれは妹もふわかれ來ぬれば
とあり。右の歌に見えたる地名は角乃浦・和多豆(柔田津)乃荒磯・角里・高角山なり。人麻呂當時石見の國司たりき。
 ○掾にや目にや史生にや知られず。介以上にはあらじ
而して國府は古の那賀郡伊甘郷の内今の下|府《コフ》村にありき。角《ツヌ》は都農に同じ。都農は和名抄那賀那郷名の第一に擧げたり。名義は津野ならむ。今江川の西に都濃《ツノ》村と都濃津村とあり。是都農郷の地ならむ。都濃村の東に江津町ありて江川に臨めり。是古の都於《ツノヘ》郷に當り(志料には此郷名をトとよみて於を助字とせり)その郷は江西驛の所在地ならむ。然らば和名抄郷名には都於・都農とついづべきを都農を先としたるは如何といふに都於は都農より分れけむが故ならむ。人麻呂の時代の都農には今の江津町をも含みたりけむ。歌に角乃浦といへるはこの都農の海岸、角里といへるは此地に在りし村落ならむ。さて角の里の在りしは國府の東北方二三里の處なるべければ人麻呂は此地に妻と同棲して日々國府に通ひしにあらで妻のみ此地に置きて時々國府より通ひ來りしならむ。和多豆は或本歌の柔田津に當れり。之によりて或は和多豆をニギタヅとよみ又或はワタ(387)ツと訓みて或本の柔田津を誤とせり。江川の右岸に今渡津といふ村あれば後説宜しきに似たれど、それと定むる前にまづ人麻呂が東上せし道筋を尋ねざるべからず。第一に考へらるるは山陰道を經し事なれど山陰道は海岸線なればイヤ高ニ山モコエキヌといへる、反歌に高角山ノコノマヨリワガフル袖ヲといへる之に叶はず。又第二首をも同時の作とせばワタリノ山ノモミヂバノチリノマガヒニ妹ガ袖サヤニモミエズといひ屋上ノ山ニヲシケドモカクロヒクレバといへるも地理にかなはじ。よりて思ふに江川の河口の渺茫たるを渡るを憚りて江川の左岸を泝り或川門にて(川平村と松山村との間か)川を渡り
 ○下松山村の大字に上河戸下河戸あるは渡瀬に關係ある名か
更に川の右岸を下りて渡津に出でしか。もしそれならば未山口にかからぬ先に和多豆乃荒磯の事をいふまじく又若それならば渡津には出でずして寧淺利に出づべし。されば和多豆は今の渡津村の事にはあらざるべく從ひてワタツとよむべきかニギタヅとよむべきかはなほ研究せざるべからず。而して和多豆は恐らくは江川の左岸にある角乃浦回の一部なるべし。高角山は都濃村の東南方に聳えて標高四七〇米なる島星山な(388)るべし。
 ○今も隱岐國島後の東郷村に津居《サヰ》といふ處ありて其上の山を高〔右△〕サヰといふと同例なり
同じき從2石見國1別v妻上來時歌の第二首に
 つぬさはふ、石見の海の、ことさへぐ、辛の埼〔三字傍点〕なる、いくりにぞ、深みるおふる、ありそにぞ、玉藻はおふる、玉藻なす、なびきねし兒を、深みるの、ふかめてもへど、さねし夜は、いくだもあらず、はふつたの、わかれしくれば、きもむかふ、心をいたみ、おもひつつ、かへりみすれど、大舟の、渡の山〔三字傍点〕の、もみぢ葉の、ちりのまがひに、いもが袖、さやにもみえず、つまごもる、屋上の山〔四字傍点〕(一云室上山)に、雲間より、わたらふ月の、をしけども、かくろひくれば、あまづたふ、入日さしぬれ、ますらをと、おもへる吾も、しきたへの、ころもの袖は、とほりてぬれぬ
   反歌二首
 あを駒のあがきをはやみ雲居にぞ妹があたりをすぎてきにける
 秋山にちらふもみぢ葉しましくはなちりみだれそ妹があたりみむ
(389)とあり。右の歌に見えたる地名は辛乃埼・渡乃山・屋上乃山(又室上山)なり。此歌は第一首と同時の作と認めらる。但第一首は江川左岸にての作にて此歌は川を渡りての後即右岸にての作ならむ。辛乃埼は邇摩郡宅野村に辛の埼及辛の浦ありといふ。宅野は行手遙なる地にて作者が此歌を作りし處の附近にあらねど此地名の見えたる初八句は興即一種の序なれば別處にてもあるべし。
 ○第一首に和多豆といふ地名の出でたるも興の中なれど、そは初に角ノ浦ミヲとあれば別處とは認むべからざるなり
渡乃山を地名辭書(江津の下)に島星山にやと云ひたれど此歌は右岸にての作と思はるれば川を渡りし處の山即川門の北なる山にて恐らくは屋上乃山に續きたる山ならむ。屋上乃山と室上山とはいづれか正しからむ。下松山村に八神といふ大字あれば此處の山かと思ふに豐田氏の萬葉地理考に
 石見國邇摩郡(○那賀郡の誤)淺利村の南方に室上山あり(○附圖には屋上山と記せり)。一に淺利の小富士と稱す。海拔二四五、九米突。江川を隔てて遙に那賀郡なる島星山に對し山容端正、西より來るものの目標となれり。人麿の歌に屋上山と詠めるはこの山(390)なるべし。地名辭書に「屋上山、渡津の東なる大字八神といふ地是なり」とあれど予の實地踏査する所に據れば八神には歌に詠み入るべき程の山を見ず
と云へり。さて人麻呂は此處を過ぎし後出雲・伯耆・因幡の路を取り美作を經て播磨に出でしか。又は備後を經て安那海などより乘船せしか。そは窺ひ知るべきにあらず○同じき萬葉集卷二に
 柿本朝臣人麻呂在2石見國1臨v死時自傷作歌一首 鴨山の磐根しまける吾をかもしらにと妹がまちつつあらむ
 柿本朝臣人麻呂死時妻|依羅《ヨサミ》娘子作歌二首 けふけふとわがまつ君は石水の貝に(一云谷に)交りてありといはずやも ただのあひはあひがつましじ石川に雲たちわたれ見つつしぬばむ
とあり。この鴨山・石川は從來いづくとも確には知られざるを齋藤茂吉氏は鴨山考を著して江川の上流とせり。即石川を邑智郡濱原村濱原の前を流るる江川とし鴨山を對岸粕淵村の津目《ツノメ》山とし人麻呂の死處を濱原とせり。
 ○齋藤氏は鴨山ノイハ根シマケルを鴨山ニ葬ラレム(イハ根シマカム)の意と認めた(391)るによりて人麻呂の死處と鴨山とを別處とするに憚らざるなり
情味を主としたる論にて安からざる所無きにはあらねど實地を踏査しての言なれば耳を傾くべし。又卷七なる羈旅歌中人麻呂の歌集より採れる歌に
 君がため浮沼《ウキヌ》の池に菱とるとわが染《シメ》ごろもぬれにけるかも
とあり。此歌は眞に人麻呂の作なりとも、己が事をよめるにはあらで一婦女の作に擬したるならむ。即一婦女の心になりてよめるならむ。さて浮沼の池は今も三瓶《サンベ》山の西麓なる安濃郡佐比賣村大字池田にあり。但今は浮布池といふ。又今は菱なしといふ。又同卷三に
 生石村主《オフシスクリ》眞人歌一首 おほなむちすくな彦名のいましけむしづのいはやはいく代へぬらむ
とあり。玉勝間に津和野の士小篠|敏《ミヌ》の説に依りて當國邑智郡岩屋村に在りと云へるに古史傳卷十九には邇摩郡靜間村魚津の海岸に在りと云へり○ここに石見國府に就いて一説あり。即
 國府は前後其位置を異にせり。前期の國府は邇摩郡仁萬村字御門にありき。そを那賀(392)郡下府村に移ししは承和前後ならむ
といへり(島根縣史蹟調査報告第六輯)。此説、彼萬葉集卷二なる人麻呂從2石見國1上來時歌と相容れず。人麻呂は角乃浦・高角山・渡乃山・屋上乃山などを經き。されば國府は此等の地より西方にあらざるべからざるに邇摩郡二萬村は此等の地より遙に東北方に在り。又今柿本神社ある美濃郡高津が人麻呂の歌なる高角山と風馬牛なる事は夙く萬葉集新考(一八五頁)に云へり
 
(393)   隱岐國 無
 
隱岐國は出雲國の北方なる洋中に在りて四大島と無數の小島とより成れり。最大なるものは圓形にして孤立せり。之を島《ダウ》後と稱す。他の三島は首尾相銜みて一團を成し前者よりは西南方に在り。之を島前と稱す。島前といひ島後といふは京よりの遠近に由るなり。
 ○島前島後はもと道前道後とぞ書きけむ。さるからに道を島と改めたる後もなほダウと唱ふるならむ。一國の内京に近きを道前といひ遠きを道後といふ例は伊豫國にもあり
島前三島の圍擁せるを島前海と稱す。三島の内、南にあるものは知夫里《チブリ》島なり。赤灘|迫門《セト》といふ狹き海峽を隔てて北、西島に對せり。西島は東西の二部より成り船越といふ地峽によりて相連れり。
 ○船越は諸國にある地名なり。皆地峽なり。ここの地峽は實は今運河に由りて横斷せられたり
(394)東部は又二半島を成せるがその南方のものは島前海に挺出せり。その中に燒火《タクヒ》といふ山あり。今は事なけれど名の示すが如く火山にて三島はやがてその外輪山なるべし。西島の東に中島あり。西島と中島との間は所謂中井口、中島と知夫里島との間は所謂大口にて彼赤灘迫門と共に島前海に通ぜり。島後の東南面に西郷灣あり。是一國の文化中心なり。其外西島の東部の東面に別府灣、西部の東面に浦郷港あり。知夫港は知夫里島の南面に在りて出雲國八束郡の加賀浦と相去ること十二里許なりといふ○古事記神代上、國生の段に
 次生2隱伎之|三子《ミツゴ》嶋1。亦名2天之|忍許呂別《オシコロワケ》1
といへり。三子島は記傳(二三四頁)にいへる如く即島前三島なるかと思ふに宗とある島後を閑卻したるが不審なり。或は島前の三島まづ知られ島後の一島は後に至りて知られしか。又は島前三島の相抱きたるが異樣なればその樣を標して島前島後に亙れる名としたるか。國造本紀に
 意岐《オキ》國造 輕島|豐明《トヨアキラ》朝(○應神天皇)御代|觀松彦伊呂止《ミマツヒコイロト》命五世孫十挨彦命定2賜國造1
とあり。又文武天皇紀大寶二年三月に
(395) 因幡・伯耆・隱岐〔二字傍点〕三國蝗。損2禾稼1
とあり。是國艶が大化以後の國史に見えたる始なり。右の如く國號は隱伎とも意岐とも隱岐とも書けるが終に隱岐に一定せしなり。名義は無論沖ならむ
 ○古事記神代上稻羽之素菟の段なる淤岐島は氣多崎海中の小島とする説もあり
○民部省式に
 隱岐國 下 管 知夫《チブリ》・海部《アマ》・周吉《スキ》・穩〔右△〕地
和名抄に
 隱岐國(國府在2周吉郡1) 管四 知夫、海部、周吉、隱〔右△〕地
とあり。穩の音はヲン略音ヲ、隱の呉音はオン略音オ、名義は國府所在の周吉郡より指してのヲチなるべければ穩の方正しきに似たり。知夫はチブリとよむべし。知夫里と書きしを二字に修したるなり。古くよりチブリとよみ今も島の名は知夫里と書くなり。名義は道觸にて通過といふ事、船舶が通過するに由りてチブリと名づけたるならむ。
 ○太平記卷七「先帝船上に臨幸の事」といふ段なる千波湊をチブリとよめるはいかが。千波はチブリと訓むべからず(地理志料の説は牽強傅會なり)。少くとも地は知夫にあ(396)らじ。天皇が商人船に投じたまひしは島後の海岸なるぺければなり。島根縣史には周吉郡東郷村の千波なりと云へり。千波の傍訓チエバはチイバか。即チを引きてチイといふを訛りてチエバと唱ふるか
海部はアマ、周吉はスキと訓むべし。視聽合紀に周吉をシキチと訓める、シは出雲訛にてキチは字に引かれたるなり。穩地を延喜式の流布本にオンチとよめるはヲチに改むべし。穩の音は上に云へる如くオンにあらず。さて知夫郡は知夫里島及西島、海部郡は中島なり。爾餘の二郡は島後にて東部を周吉とし西部を穩地とす。國府の所在は今の周吉郡磯村大字下西字甲野原(國府原の訛字)にて西郷灣に近し。此國には驛なし。驛使は出雲の千酌濱にて乘船して直に西郷灣に渡りしなり○此國はかしこくも後鳥羽天皇と後醍醐天皇とを迎へ奉りき。後鳥羽天皇の遷幸したまひしは島前の海士郡海士村大字海士字吉田の勝田《カツタ》山なり。
 ○郡名は古は海部と書きしが近古以來海士と書く事となれり
行在所の跡は源福寺といふ寺となりたりし其寺は明治二年に暴徒によりて破壞せられしかど其地は幸に失はれずして今本堂の址に後鳥羽天皇行在所牡と記せる標柱を(397)立てたりといふ。又別に御火葬所址も保存せられたりといふ。後醍醐天皇蒙塵の址は島前とも云傳へたれど實は島後ならむ。太平記卷四「備後三郎高徳が事」といふ條に
 佐々木隱岐判官貞清|府《コフ》の島といふ所に黒木の御所を作りて皇居とす
といひ増鏡第十九くめのさら山に
 海づらよりはすこし入たる國分寺といふ寺をよろしきさまにとりはらひておはしまし所にさだむ
といへるは信を置きがたしとすとも出雲國鰐淵寺所藏僧頼源筆國寶文書に
 一通先朝御願書 元弘二年八月十九日於2隱岐國國分寺御所〔五字傍点〕1被v下v之
とあるは信ぜざるを得じ。さて太平記に「黒木の御所を作りて皇居とす」といへるは「國分寺を點じて」の誤と認むべし。同書にいへる府の島〔三字傍点〕は島後の島名とすべきか又は國府アル島の意とすべきかと云ふに「府の島といふ所に」といへるを思へば島名と認むべし。島後には島前三島の知夫里島・西島・中島に匹敵する稱は無きなり。さて國分寺址は周吉郡|中條《ナカスヂ》村大字池田字風呂前にあり
 ○國府及國分寺の附近の略圖は島根縣史蹟調査報告第六輯に附したり。後醍醐天皇(398)の行在所に就いては島根縣の史蹟調査委員二人の内一は島後説を主張し一は島前説を鼓吹せり。さればなほ研究の餘地あるべし
○神名帳所載神社の内水若酢命神社は穏地郡五箇村大字郡にあり。もと一宮と稱せられしが今國幣中社に列せり。又玉若酢命神社は周吉郡磯村大字下西に在り。もと總社大明神と稱せられき。今縣社に列せり。社司は國造氏
 ○國府に近き式内社が總社を兼ねたりし例は他國にもあり。たとへば播磨國姫路の射楯兵主神社は今も俗に總社と稱せられ本殿の後に祠十六を建て聯ねて國内十六郡の諸神をいつけり
○隠岐にも國内神名帳を傳へたり。隠州視聽合祀の末に之を附録せり。又此國には上古朝廷より給せられし八稜形の驛鈴二口を傳へたり。もと總社の所蔵なりしが今は四郡十二町村の共有となれり。此驛鈴は天明元年に社司が※[手偏+(山/雋)]へて京師に上りしより世に知られ同六年天覽を給はり寛政二年より三年に亙りて宮中に徴し置かれし事人の知れる如し。圖は集古十種以下の請書に出でたれど、もし眞形を知らむと思はば島根縣史第五冊の附圖第百三至第百六を見べし○此國にも亦院を踏める地名あり。即|都萬《ツマ》院(又都(399麻縣といふ)美田《ミタ》院などなり。院の事は豐後風土記新考(一一八頁以下)に云へり。視聽合祀に「或人曰。造藏院のある處を院と云とぞ」と云へる、造藏院を正倉院の誤記とすればよく當れり
 
(401) 上代歴史地理新考 北陸道
                   井上通泰著
 
北陸道の風土記の逸文は僅に越後の二節あるのみ。されば直に越後風土記逸文新考として播磨風土記新考に明石赤穗二郡を略し又南海道風土記逸文新考に讃岐國を略せしに倣ひて若狹・越前・加賀・能登・越中・佐渡六國の記述を略せむかとも思ひしかど、さては地理の概念を得がたく又驛路の聯路を知りがたしと人のわぶるに由りてなほ他の六國の總説をものする事とす。書きもて行く内には多少の獲物もあるべきなり
 
(402)   北陸道
 
北陸道はホクロクダウと唱ふ。ロクは陸の呉音なり。クヌガノミチ・クルガノミチ・クニガノミチ・キタノミチの諸訓あり。右の内クルガはクヌガの訛なり。なほツヌガ(角鹿)がツルガに轉ぜる如し。クニガはた正しからず。クニが下へ續く時にはクヌに轉ずべきなればなり。されば四訓の内正しきはクヌガノミチとキタノミチとなり。本來キタノクヌガノミチと訓むべきなれど長きを厭ひてクヌガノミチともキタノミチとも云ひしなり。さて常には音にてぞ唱へけむ。歌にはコシヂ又はミコシヂとよめり。是古事記崇神天皇の段なる高志道《コシノミチ》の熟語となれるなり。ミコシヂのミは美辭なり。吉野熊野をミヨシノ・ミクマノといふが如し。戸令に太宰部内及三越・陸奥・石城《イハキ》・石背《イハセ》等國者云々といへる三越《サンヱチ》の譯語にあらず○本道は山陰道の東に接し日本海に臨み西南より東北に向へり。但佐渡は海中に孤立せり。本道中越前以東を古は汎く高志《コシ》(越)と稱しき。されば本道は古の高志國に若狹を添へたるものと謂ひつべし。元來高志國の跡のみを一道とすべきに似たれど高志國に到るには若狹國を經ざるべ からず。是若狹を本道に屬せし所以にしてなほ四(403)國に紀伊淡路二國を添へて南海道とせし如し。然るに後に鹽津道又は海津《カイヅ》道開けて近江より直に越前に入りて若狹を經ざる事となりしが故に若狹は恰本道の贅疣の如くなりにき○國造本紀に見えたる本道の國造國十三、若狹といひ高志といひ三國といひ角鹿《ツヌガ》といひ賀我といひ賀宜といひ江沼《エヌ》といひ能等といひ羽咋《ハグヒ》といひ伊彌頭《イミヅ》といひ久比岐といひ高志《コシノ》深江といひ佐渡といふ。就中崇神天皇の御世に久比岐・高志深江を、成務天皇の御世に高志・三國・角鹿・能等・伊彌頭・佐渡を、仁徳天皇の御世に加宜を、反正天皇の御世に江沼を、允恭天皇の御世に若狹を、雄略天皇の御世に賀我・羽咋を置ききといふ。但創立の時代はなほ考へざるべからず。少くとも此等の國悉く大化改新の時まで儼として存ぜしにはあらじ。當時後の越前國より後の出羽國までを混一して越國と稱しき。かくの如き廣き地域が混一せられたりし事、天武天皇十四年九月に東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫の六道に使者を發遣して國状を巡察せしめられしに北陸のみは漏らされし事などを思へば北陸道、特に越國は昔時まだいくらも開けざりし事を知るべし。さて越國を越前・越中・越後の三國に分たれしは天武天皇の御世の末又は持統天皇の御世ならむ。越前の名の初見は持統天皇紀六年九月なり。越前|既《ハヤ》く有れば越中越後も亦有りけむかし。(404)佐渡國の始出は文武天皇紀の四年二月なり。其後和銅五年九月に越後を割きて出羽國を置き
 ○和銅元年九月に越後國言。新建2出羽郡1。許v之とあり同五年九月に於v是始置2出羽國1とあり。後に東山道に屬せらる
養老二年五月に越前を割きて能登國を置き遙に後れて(九十餘年後)弘仁十四年二月に又越前を割きて加賀國を置きき。此時始めて本道の所管は七國となりしなり
 
   若狹國
 
西は丹後丹波に、南は丹波に、東南は近江に、東は越前に接し、北は海に臨めり○若狹の名義を若櫻の略なりとする説は一般に認められたれどもこはなほよく考へざるべからず。延暦十一年に撰せし高橋氏文に六雁《ムツカリ》命の薨ぜし時に景行天皇の賜ひし詔の中に
 和加佐ノ國ハ六鴈命ニ永ク子孫等ガ遠世ノ國家《クニイヘ》い爲ヨト定テ授ケ賜テキ
とあり。此詔は文字まだ無かりし時代のものなれば固より書き傳へたるにあらで語り傳へたるを後に(延暦十一年ならずとも)文とはせしものなれば一字一句まで宣命のま(405)まなりとは思はれず。否もし疑はば宣命の大意のみ語り傳へたるをそを敷衍してうるはしく宣命體の文を作りしなりとも疑はるべし。就中和加佐國とある當時さる名稱あるべきにあらねばこは斷じて追語又は追書と認むべし。但或地域を人に賜はむにもし指すべき名稱なくばいづくを賜ひきとも知るべからず。されば景行天皇の御代に少くとも和加佐といふ地名はありしものと認めざるべからず。但若此詔辭を僞作即|無端事《アトナシゴト》とせば余の説は無論消滅すべし。さて履中天皇紀三年冬十一月に
 天皇|兩枝船《フタマタブネ》ヲ盤余《イハレ》ノ市磯《イチシノ》池ニ泛ベテ皇妃ト各分レ乘リテ遊宴シタマフ。膳臣余磯《カシハデノオミアレシ》酒ヲ獻ズ。時ニ櫻花|御盞《ミサカヅキ》ニ落《チ》リヌ。天皇|異《アヤシ》ミタマヒ則物部|長眞膽連《ナガマイノムラジ》ヲ召シテ詔《ノ》リタマハク。是花ヤ非時《トキジク》ニ來リヌ。其《ソレ》何處ノ花ゾ。汝自求ムベシト。是ニ長眞膽連獨花ヲ尋ネテ掖上《ワキノカミ》ノ室(ノ)山ニ獲テ獻リキ。天皇ソノ希有《メヅラ》シキコトヲ歡ビ即宮名ト爲タマフ。故《カレ》磐余《イハレノ》若櫻(ノ)宮ト謂フ。其ハ此ノ縁ナリ。是日長眞膽連ノ本姓ヲ改メテ稚櫻部造ト曰ヒ又膳臣余磯ヲ號《イ》ヒテ稚櫻部臣ト曰フ
とあり。膳臣余磯は六雁命の子孫なり。イハレノイチシノ池は埴安池の一名なりといひ別なりともいふ。いづれにもあれ香久《カグ》山の東北麓、今の磯城郡阿倍村大字池之内に在り(406)しなり。又皇宮は池邊に在りしなり。掖上は今南葛城郡に掖上《ワキガミ》村あれど室は秋津村の大字にて御所《ゴセ》町の南に當れり。さて磐余とは三里ばかりも離れたり。此處より花の散り來べきにあらねど返咲の櫻花をぞと尋ねて終に掖上の室山にて求め得しならむ。但大和志十市郡の下には
 市磯池在2池内村1。而|石寸《イハレ》掖上山亦隣2于此1
とあり。さらば磐余にも掖上といふ處はありしにやいぶかし。或は臆測にあらずや。さて長眞膽連には改2本姓1曰2稚櫻部造1といひ膳臣には號曰2稚櫻部臣1といひて二樣に書き分けたるに注目すべし。甲は氏もカバネも改められしかど乙はカバネは原のまま、氏も改められしにはあらで稚櫻部とも稱する事を許されしなり(膳は職を氏としたるなれば職のかはらざる限かはるべからず)。伴信友は「かくて余磯が賜はりたる嘉號《ホメナ》の稚櫻といふをすなはち領《ウシハ》ける國の名にも負せて和加佐といへるにぞあるべき」と若狹舊事考にいひて之を若狹といふ國名の始としたれど、まづ前に云へる如く和加佐といふ地名は夙く景行天皇の御世よりありけむ事、次に櫻をサとは云はざる事、次に宮號はイハレノワカサクラノ宮といひてワカサノ宮とは云はざりし事、次に天皇は稚櫻の瑞によりて(407)宮號を命じたまひその花を求め得し功を賞して長眞膽連に稚櫻部造といふ氏カバネを腸ひ、余磯にはその奉りし酒に花の散入りし縁に由りて稚櫻部と稱する事を許されしに過ぎざるにその稚櫻をもとより領ぜる國の名とせむは不遜僭越なる事、此等を思へば若狹といふ國名は稚櫻の事より起りしにあらで、もとより知れる國の名のワカサと特に許されし稱號の若櫻部と稱呼の相似たるにめでて少し無理ながら稚櫻部をワカサベとも唱へしにこそ。因幡國八上郡に若櫻郷のありし跡に今若櫻町あるをワカサと唱ふるは右の椎櫻部のワカサベと關係あるべし。但郷名の若櫻は和名抄に(高山寺本にも)訓註なきを思へばなほワカサクラとぞ唱へけむ。若ワカサと唱へけむには和加佐といふ訓註あるべきなり。さて國造本紀に
 若狹國造 遠飛鳥朝御代|膳《カシハデノ》臣祖佐白〔左△〕米命兒荒礪命定2賜國造1
とあり。荒礪は即余磯と思はる。礪は磯などの誤か。たとひ人々の云 へる如く礪に石の義ありとも殊更にさる難訓の字は充てじ。さて允恭天皇の御世に至りてぞ始めて國造國は建てられけむ○郡は遠敷・大飯・三方の三なり。近古甲を中郡(又分ちて上中・下中)乙を西方郡、丙を北方郡といひし事あり。遠敷〔二字傍点〕はヲニフと訓むべし。又|乎入《ヲニフ》と書けり。名義は小丹(408)生なりといふ。大飯〔二字傍点〕郡はオホヒと訓むべし。オホイヒ又オホイとよめるはわろし。和名抄に於保伊太と訓証せるも誤なり。高山寺本郷名に(郡名部は傳はらず)正しく於保比と訓註せり。本郡は淳和天皇の天長二年七月に遠敷郡を割きて建てられしなり三方郡〔三字傍点〕の名義は三湖なり。北國の方言に海邊の湖をカタといふなり。土人の書けるものに三潟とせるがあれど潟もなほ擬字なり。本郡の西北部、古官道の西方に三方・水月・久久子《ククシ》・日向《ヒルガ》の四湖あり。前三者は水相通じ後者は分離せり。三カタは元來前三者の總稱なるを今は或は最南のものの名とせり。ミカタは三湖といふ事なれば重複して三カタ湖とはいふまじきに似たれど後に湖東の地を三方と稱する事となりしかばそれと區別せむが爲に水には湖を添ふる事となりしなり 
 ○湖の數は實は五なれど菅湖は水月湖の附屬と認めたるなり
○國府址は遠敷郡今宮村大字府中にて小濱町の東方なり○驛は兵部省式に彌美・濃飫各五疋とあり。彌美《・ミミ》〔二字傍点〕は三方郡に同名の郷あり。驛址は今の南西郷村の大字|郷市《ガウイチ》より東にはあるべからず。さらでも前驛なる越前國松原に近く次驛なる當國濃飫に遠ければなり。信友の若狹舊事考(全集第五の二〇六貢)にも
(409) )その地は今の山西《サンセイ》郷郷市村のわたりなりしなるべし。……さてその郷市村今耳莊にはあらざれどいにしへ彌美郷の内なりけむ事上に辨へたるがごとし
といへり。三方郡の郷を和名抄に
 能登 彌美 餘戸 三方 驛家
と擧げたるを地理志料に妄に驛家を彌美の註とし即能登・彌美(驛家)餘戸・三方とし、さて
 驛家|舊《モト》三方ノ下ニアリ。亦錯簡ナリ。兵部省式ニ依リテ之ヲ正ス
といへるは非なり。彌美郷の外に驛家郷ありしなり。さて其驛を彌美驛といひしなり。抑驛には或郷に屬せしものあり。たとへば濃飫驛が野里郷に屬せし如し。もし驛の周圍に民戸増加して五十戸に達する時は本郷より分離して獨立郷としそれを驛家郷と稱するか又は爲に新に名を命ぜしなり。彌美郷は餘戸郷を帶びたる程の大郷なれば驛を中心とせる五十戸を分ちて別郷とせむ機會は來りやすかりけむ。さて此彌美驛より濃飫驛〔三字傍点〕に到りしなり。地理志料に近江の鞆結《トモユヒ》驛を高島郡今津としその鞆結より濃飫に到りきとせるは誤解なり。地名辭書には鞆結驛を高島軍|劍熊《ケンクマ》村の大字浦としたれど(實は海津なり)濃飫驛を遠敷郡の東南偏なる熊川に擬したるを思へばなほ驛路を近江より若(410)狹に入りしものと誤解したるなり。愛發《アラチ》關が北陸道の口に當りしこと國史に見え北陸道に到るに伊香《イカゴ》山又は愛發《アヲチ》山を越えしこと萬葉集の歌に見えたれば少くとも奈良朝時代の官道は近江より越前に出でしなり。北陸道の首驛は越前の松原なり。此驛より西南は彌美・濃飫を經て若狹の國府に到り東北は鹿蒜《カヒル》・淑羅《シラギ》などを經て越前の國府に到りしなり。さればこそ松原には特に馬八疋を備へしなれ。又さればこそ若狹の驛は濃飫・彌美とつ いでずして彌美・濃飫とついでたるなれ。さて濃飫驛が若狹の國府の近傍に在りし事は明なれど其址は今知るべからず。ここに府中及國分の手前に上野及平野といふ村あり(今は共に松永村の大字)。濃飫驛址はその平野にあらざるか。若狹舊事考(全集第五の一九二頁)に上野木村(今遠敷郡野木村の大字)に擬したり。地理上には叶はざる事無けれど驛名の野飫を一本に從ひて野飯としてノイと訓み(さらばノヒとこそ訓むぺけれ)又郷名の野里《ノノサト》を野伊の誤字とし、さて野木をそのノイの轉訛としたるは重々の妄説なり。キが音便によりてイとなるは常の事なれどイが轉訛によりてキとなる事は無きにあらずや
 ○濃飫の命名は比較的新しからむ。野をヌといはでノといふは奈良朝時代の末に始(411)まりしなり
○神名帳に若狹比古神社見えたり。今上下二宮に分れて遠敷郡遠敷村にありて國幣中社に列れり○萬葉集卷四なる大伴坂上大孃贈2家持1歌に
 かにかくに人はいふとも若狹道の後瀬の山ののちもあはむ君
とあり。三四はノチモといはむ序のみ。後瀬山は國府(並に今の小濱町)の西南に當れる小山なり。又萬葉集卷七なる羈旅作の中に
 若釈なる三方の海の濱きよみいゆきかへらひ見れどあかぬかも
とあり。官道が三方湖の東を經し事上に云へる如し。イユキカヘラヒは徘徊シテなり。又日本紀仲哀天皇二年に
 皇后|角鹿《ツヌガ》ヨリ發《タ》チテ行《イデ》マス。渟田門《ヌタノト》ニ到リテ船ノ上ニ食《ミヲシ》ス。時ニ海※[魚+即]魚《タヒ》多ク船ノ傍ニ聚ル。皇后酒ヲ以テ※[魚+即]魚ニ灑《ソソ》ギマス。※[魚+即]魚即醉ヒテ浮ク。而《ソノ》時海人多ク其魚ヲ獲テ歡ビテ曰ク。聖王ノ賚《タマ》ヘル魚ナリト。故《カレ》其處ノ魚六月ニ至レバ常ニ傾倒《アギト》フコト醉ヘルガ如シ。其ハ是ノ縁ナリ
とあり。安藝の人はこの渟田門を其國の能地《ノウヂ》村の青木迫門としたれど越前の角鹿津即(412)今の敦賀より船にて長門の豐浦津即今の長府に到りたまふに安藝の海は經たまふべからず。ここに伴信友はその若狹國官社私考下卷|常神《ツネガミ》社の下に
 若狹國三方郡丹生浦の琴引が崎(○今の山東村大字丹生の内)と同郡常神岬(○今の西田村大字常神の内)との間を管絃の渡といひ古名をノタノトといふ。是仲哀天皇紀の渟田門なるべし(○大意抄出)
といへり。此説に從ふべし。さて右の渟田門の一節は恐らくは若狹國風土記〔六字傍点〕より採りしならむ(昭和十二年八月二十八日稿)
 
(413)   越前國
 
しばらく敦賀郡を除きて語らむに此國東北は加賀に、東は飛騨・美濃に、南は美濃・近江に接し西北と西南とは海に臨めり。さて敦賀郡は此國の西南端に附き東と南とは近江に、西は若狹に隣り北は敦賀灣に莅めり○此國は越國の中にては京に近きままに最早く開けき。又一般の例の如く港灣より聞け始めき。國造本紀に
 三國國造 志賀高穴穗朝(○成務天皇)御世|宗我《ソガ》臣祖|彦太忍信《ヒコフトオシマコトノ》命四世孫若長|足尼《スクネ》定2賜國造1
 角鹿國造 志賀高穴穗朝御代吉備臣祖若武彦命孫|建功狹日《タケイササヒノ》命定2賜國造1
とあり。三國國は三國港附近、角鹿國は敦賀港附近にて甲は今の越前國の北端に、乙はおなじき南端に在り○延喜式に敦賀・丹生・今立・足羽・大野・坂井の六郡を擧げたり。和名抄も拾芥抄も之に同じ。いつの頃にか丹生・敦賀より南條を分ち足羽・坂井より吉田を分ちしかば近古以來は敦賀・南條・丹生・今立・足羽・吉田・大野・坂井の八郡なり。敦賀郡〔三字傍点〕は古くツヌガといひき。字は角鹿と書き假字にては都怒我・都奴賀など書けり。敦賀も元來ツヌガに充(414)てしなり。敦の一昔チュン(チュヌ)その直音ツヌなり。日本靈異記(中卷第二十四)には越前之|都魯鹿《ツロガ》津とあり。ヌがロに轉じたるなり。又此頃やうやうに地名をうつすに音訓を雜へ用ひしなり。名義は不明なり。垂仁天皇紀二年に
 一云。御間城(○崇神)天皇ノ世ニ額《ヌカ》ニ角アル人一ノ船ニ乘リテ越國ノ笥飯《ケヒ》浦ニ泊リキ。故其處ヲ號《イ》ヒテ角鹿ト曰フ。問ヒテ曰ク。何國ノ人ゾ。對ヘテ曰ク。意富加羅《オホカラ》國王ノ子名は都怒我阿羅斯等《ツヌガアラシト》云々
とあり。朝鮮半島の任那より皇化を慕ひて此處に來りし人あり、其人|額《ヌカ》に角ありしよりツヌカ(ツヌヌカの略)と名を負ひたりしかばそのツヌカを移して地名としきと云へるに似たれど
 ○都怒我の我は必じも濁るべからず。清音に借りたる例あり。西海道風土記逸文新考一三六頁を見べし
此傳説は信ずべからず。角ある額を任那語にてツヌカと云ふまじきが故なり(但太古は日韓同語なりきと云へる説もあり)。又此記事にては角鹿の舊名を笥飯浦と云ひしに似たれどこもなほ考ふべし。即次に云はむ。古事記仲哀天皇の段に
(415) 故《カレ》建内《タケシウチ》宿禰命、其太子ヲ率《ヰ》マツリテ禊《ミソギ》セムトシテ淡海及若狹國を經歴セシ時ニ高志前之《コシノミチノクチノ》角鹿ニ假宮ヲ造リテ坐《マ》セマツリキ。其地《ソコ》ニ坐ス伊奢沙和氣《イザサワケ》大神之命夜ノ夢ニ見エテ云《ノ》リタマハク。吾名ヲ御子ノ御名ニ易ヘムト欲スト。爾《カレ》言祷《コトホ》ギテ白サク。命ノ隨《マニマニ》易ヘ奉ラムト。亦其神|詔《ノ》リタマハク。明日ノ旦濱ニ幸《イデマ》スベシ。易名《ナガヘ》ノ幣《ヰヤジリ》獻《タテマツ》ラムト。故 其且《ツトメテ》濱ニ幸行《イデマ》シシ時ニ鼻|毀《ヤブ》レタル入鹿魚《イルカ》既《コトゴト》一浦ニ依レリ。是ニ御子、神ニ白サシメタマハク。我ニ御食《ミケ》ノ魚《ナ》給ヘリ。故亦其御名ヲ稱ヘテ御食津《ミケツ》大神ト號《マヲ》サムト。故今ニ氣比大神トゾ謂《マヲ》ス。亦其入鹿魚ノ鼻ノ血|※[自/死]《クサ》カリキ。故其浦ヲ血浦ト謂ヒシヲ今ハ都奴賀トゾ謂フ
とあり。イザサワケノ大神、其御名を應神天皇の御名と易へむとのたまひしなり(記傳に「互に相易へむとには非ず」と云へるは非なり)。これよりイザサワケノ命は皇子の御名を得て大鞆和氣命といひ皇子は神の御名を得てイザサワケノ命といひ給ひしが常には品陀和氣命といひ給ひしにや。
 ○古事記仲哀天皇の段に是大后生2御子大鞆和氣命〔五字傍点〕1亦名品陀《ホムタ》和氣命とありて應神天皇の御本名は大鞆和氣命なるを後には品陀和氣命とのみ申し奉りて大鞆和氣命と(416)は申し奉らず。イザサワケの命と稱したまひし事も史に見えねど御子の中に伊奢之眞君命と申すがあるを思へばイザサワケを御一名とし給ひてそのイザを取りてぞ御子の御名に冠らせ給ひけむ。又應神天皇前紀の註に上古時俗號v鞆謂2褒武多1焉とあれどこは誤傳にてホムタは地名(河内國の)ならむ。皇后|中日賣《ナカツヒメ》命等の御父の名を品陀眞若王といへばなり(やがて伊奢之眞若命は御父天皇の御一名なる伊奢と御外祖父眞若王の名とを合せたる御名ならむ)。河内の譽田に御陵ありて此地との御關係の深きを思へば天皇は或は譽田なる眞若王の許にてや生長したまひけむ。此等の事は夙く云へる人あるべし。誰も心づく事なるべければなり。但今は主とする事外にあれば座右の諸書をだに檢し見ず。後に暇を得たらばこそ。彼前紀の註に
 一云。初天皇、太子トシテ越國ニ行《イデ》マシテ角鹿笥飯大神ヲ拜ミ祭リタマフ。時ニ大神、太子ト名ヲ相易ヘタマフ。故大神ヲ去來紗別《イザサワケ》神ト曰ヒ太子ヲ譽田別尊ト名ヅクト。然ラバ大神ノ本名ヲ譽田別神、太子ノ元ノ名ヲ去來紗別尊ト謂フベシ。然レドモ所見ナシ。未詳ナラズ
といへり。こは宣長もいへる如く古傳の誤解なり。古事記に伊奢沙和氣大神といへる(417)は御改稱後の名にあらで御改稱前の名を擧げたるなり
既はコトゴトと訓むべし。又はスデニとよみてコトゴトクと心得べし。記傳にはスデニとよみてハヤクと釋きたれど古語のスデニはコトゴトクといふ事にて、ハヤクといふ事には非ず。又既依一浦とある既をハヤクの意とせば一といふ字徒なるべし。又於v我給2御食之魚1故亦稱2其御名1號2御食津大神1とある十九字が皇子の代白せしめ給ひし御辭なり。記傳には誤りて初七字のみを御辭として
 我ニ御食ノ魚給ヘリト白サシメタマヒキ。故亦其御名ヲ稱ヘテ御食津大神ト號ス
とよめり。御食ノ魚給ヘリ、故云々ト號《マヲ》サムとのたまへるなり。其御名の其の字がまぎらはしきに由りて讀み僻めしなり。ケヒを宣長は氣靈《ケヒ》の義とせり。げに笥飯(メシビツノメシ)の義とせむに妥ならず。此文に據ればケヒといふ名は此御獻名に由れるなり。是に由りて宣長は垂仁天皇紀二年の笥飯浦また仲哀天皇紀二年の笥飯宮を追稱と認めたり。但古事記の記事といへども打任せては信ずべからず。日本紀神功皇后十三年に命2武内宿禰1從2太子1令v拜2角鹿笥飯大神1とあり。記傳には古事記の記事と一致せずと云へれど古事記の文は淡海若狹の處々にて禊し給ひし果に角鹿の神を拜み給ひし趣とも聞かる(418)べし。故號2其浦1謂2血浦1今謂2都奴賀1也といへるは信じがたし。ツヌガを血浦の轉訛とせば同じ天皇の(古事記應神天皇の段なる)御歌にコノ蟹ヤイヅクノ蟹モモツタフ都奴賀〔三字傍点〕ノ蟹とあるを如何にかことわらむ(此事は宣長はやく云へり)。所詮ツヌガの名義は不明なり○南條郡〔三字傍点〕は丹生と敦賀とを割きて建てたるなり。歌によまれて名高き鹿蒜《カヘル》山も此時敦賀郡より新郡に入りしなり。次に今立郡〔三字傍点〕はイマタチとよむべし。新立の義なり。日本逸史弘仁十四年六月に
 越前國言上。丹生郡管2郷十八驛三1。割2九郷一驛1更建2一郡1號2今立郡1。以2地廣人多1也
とあり。次に丹生郡〔三字傍点〕はさきに九郷を今立に讓りしが後に若干郷を南條に取られし時海岸の南部にて敦賀の一郷を侵ししに似たり。次に足羽郡〔三字傍点〕はアスハと訓むべし。こは恐らくは土人の訛に從へるにて鹿蒜《カヒル》をカヘルと唱ふる類ならむ。次に吉田郡〔三字傍点〕は足羽の北部と坂井の南部とを分ちて建てたるならむ。次に大野郡〔三字傍点〕は東北、飛驛の大野郡に隣り南、美濃の大野郡に續けり。次に坂井郡〔三字傍点〕は和名抄にサカノヰと訓註せり。サカノヰもなほ訛にて本來サカナヰなり。繼體天皇前紀に
 天皇ノ父、振媛ガ顔容※[女+朱]妙ニシテ美色アルコトヲ聞キテ近江國高島郡三尾ノ別業ヨ(419)リ使ヲ遣シテ三國ノ坂|中〔右△〕井(中此云v那)ニ聘シ、納レテ妃トシタマヒ遂ニ天皇ヲ産ミマス
とあり又神名帳越前國坂井郡に坂名井神社あり。大野郡及坂井郡は北、加賀國に接せり
○國府址は南條郡武生町に在り。催馬樂にも道ノ口タケフノコフ〔六字傍点〕ニ我ハアリト親ニハ申シタベ心アヒノ風ヤといへり。此附近は丹生郡より分れし内なり。さればこそ和名抄には國府在丹生郡といへるなれ。武生一名は府中、明治維新後は專、武生と呼ばる。武生を土人はタケオと唱へそのタケは長の如くにはあらで竹の如く唱ふ○兵部省式に
 驛馬 松原八疋、鹿蒜・濟羅・丹生・朝津・阿味・足羽・三尾各五疋
 傳馬 敦賀・丹生・足羽・坂井郡各五疋
とあり。濟羅は高山寺本に淑羅とあり。之に從ふべし。右八驛中鹿蒜には敦賀郡に、丹生朝津には丹生郡に、阿味足羽には足羽郡に同名の郷あり(但阿味の郷名は安味)。されば松原は敦賀郡に、淑羅は丹生郡に、三尾は坂井郡にあるべきなり。又かかれば敦賀郡二驛、丹生郡三驛、足羽郡二驛、坂井郡一驛にて傳馬を備へたる郡の敦賀・丹生・足羽・坂井なると一致すれど弘仁十四年紀に
(420) 丹生郡管2郷十八驛三1。割2九郷一驛1更建2一郡1號2今立郡1
とあるに叶はず。なほ下に云ふべし。まづ松原〔二字傍点〕は北陸道の初驛にて今の松原村の東南端大字松島の内なり。官道は此處より西南は若狹の彌美驛に到り東北は五幡《イツハタ》を經て即海岸を經て鹿蒜驛に到りしなり。鹿蒜〔二字傍点〕は和名抄の訓註に加倍留とあり。古今集離別歌に
 越へまかりける人によみて遣しける かへる山ありとはきけど春がすみたち別れなばこひしかるべし
 相知れりける人の越の國にまかりて年へて京にまうで來て又歸りける時によめる、
 かへる山何ぞはありてあるかひは來てもとまらぬ名にこそありけれ
又雜歌上に
 しら雪の八重ふりしけるかへる山かへるがへるも老いにけるかな
とあればはやくよりカヘルと唱へしなり。されど蒜の字を充てたるのみならず神名帳敦賀郡の下に加比留神社とあれば本來カヒルなる事は疑なし。思ふに足羽をアスハといふが如く國人の訛に任せたるならむ。もし萬葉集卷十八なる
 可敝流△末能みちゆかむ日は伊都波多のさかにそでふれわれをしおもはば
(421)が夜などを脱したるにてカヘル山ノならばカヒルをカヘルと訛りしは古今集よりも古き事を知るべし。さて鹿蒜驛は地名辭書に
 二屋の地なるべし。此と杉津浦の間に鉢伏山あり。之を踰ゆるを歸山と云ふ
と云へり。二屋《フタツヤ》は南條郡鹿蒜村の大字にて杉津《スイヅ》は敦賀郡東浦村の大字なり。鹿蒜村の大字歸かとも思へど前驛また次驛との距離を思へばなほ二屋ならむ。但萬葉集の歌にイツハタノ坂とあれば杉津まで行かで五幡より山路にかかりしならむ。鉢伏山の南の山路は即木の芽峠なり。
 ○新村名の鹿蒜はカヒルと唱ふるなり。但大字に歸あり
次驛濟羅〔二字傍点〕は高山寺本和名抄に從ひて淑羅の誤とすべき事前に云へる如し。地理志料に淑羅の誤なる事を看破したれど之をシクラとよめるは口をし。宜しくシラギとよむべし。地名辭書に此驛を鯖波に擬せむとして「延喜式濟羅とあるは澤羅《サハアミ》の誤」と云へるはいとわろし。此驛は日野川即|叔羅《シラギ》川の沿岸にありし事と次驛丹生と同側即左岸に在りし事とは疑ふべからず。距離より思ふに地名辭書が鯖波(南杣山村大字)に擬したるは當を得たるに似たり。地理志料が王子保村大字小松に擬したるは地理を失せり。次驛丹生〔二字傍点〕は(422)國府附近にて今の武生町の内とおぼゆ。不明なるは朝津〔二字傍点〕驛と阿味〔二字傍点〕驛となり。抑丹生驛(武生町)と足羽驛(福井市北部)との間五里許、此間に二驛を置かむは多きに過ぎたれど途中日野・足羽の二大川を渡らむに時を費し勞を要すれば厩牧令の規定には拘らざりけむ。さて弘仁十四年紀に
 丹生郡管2郷十八驛三1。割2九郷一驛1更建2一郡1號2今立郡1
と見えて此時より後は丹生郡二驛、今立郡一驛となりしなるが、その丹生郡の二驛は淑羅と丹生となれば(共に後に南條郡の地となりき)若兵部省式記載の順序に誤なくば次驛朝津を今立郡所在の驛とせざるべからず。然るに今足羽郡麻生津村に大字淺水ありて前書等に云へる如く朝津驛は此處に擬すべきに似たり。されど朝津驛を淺水に擬すれば
 今立郡に屬すべき驛のなくなる事是一
 和名抄の朝津郷は丹生郡に屬せるに今の淺水は足羽郡に屬せる事是二
 足羽郡が朝津・阿味・足羽の三驛となる事是三
 淺水と足羽驛との間二里未滿なるべきに其中間に阿味を置かば淺水と阿味驛との(423)間一里許となるべく然も其間に山河の嶮なき事是四〔次改行せよ〕
 淺水と丹生驛との間は三里十町許にて其間に日野川の渡あれば淺水・阿味驛間の短距離にして嶮なきと權衡を失する事是五
以上の如き不審あり。淺水は今立郡界に近ければ那界の變遷を認めなば一と二と三とは除卻せらるべけれど四と五との解決せられざるを如何にせむ。前書或は兵部省式の順序を錯亂と認めて阿味を他郡に擬せるものあれど和名抄郷名に足羽郡に安味郷あれば阿味驛はなほ足羽郡に求むべきなり。再思ふに朝津驛は今の足羽郡の麻生津村大字淺水にあらで淺水川(日野川の支源)のこなた今の今立郡神明村に在りしにあらざるか。神明村と麻生津村とは郡を異にすれど南北に相接せり。さて朝津は和名抄郷名の訓註に阿佐布豆とあり今も大字淺水をも川の名をもアサウヅと唱ふればアサミヅと訓み訓註の阿佐布豆はアサミヅの音便阿佐宇豆の誤と認むべきかとも思へどアサミヅならば朝水など書くべければ朝津はなほアサヅとよむべし。さてそのアサヅを後の世に延べてアサウヅと唱へけむ(朝津を朝生津の略とせる説あり)。ともかくも訓註の布は衍字又は字の誤と認むべし。催馬樂淺水に
(424) あさんづの橋の、とどろとどろと、ふりし雨の、ふりにし我を、たれぞこの、仲人たてて、御許のかたち消息し、とぶらひにくるや
とあるはこのアサウヅ川にかけたりし橋なりといふ(一説飛騨)。カタチは古語のアルカタチ即今語の樣子なり。太平記卷二十「義貞の首獄門に懸くる事附勾當内侍の事」といふ條に
 其秋(○延元三年)のはじめに今は道の程も暫く靜になりぬればとて迎の人を上せられたりければ内侍は此三年の間暗き夜のやみに迷へるが俄に夜の明けたる心地してやがてまづ杣山(○今の南條郡南杣山村)まで下り著き給ひぬ。折節中將(○義貞)は足羽といふ所(○今の福井市)へ向ひ給ひたりとて此處には人もなかりければ杣山より輿の轅《ナガエ》を廻《メグラ》して淺津の橋〔四字傍点〕を渡り給ふ處に瓜生彈正左衛門尉百騎ばかりにて行合ひ奉りたるが馬より飛んでおり輿の前にひれ伏して「是はいづくへとて御渡り候ふらん。新田殿は昨日の暮に足羽と申す所にて討れさせ給ひて候」と申しもはてず涙をはらはらとこぼせば内侍の局「こは如何なる夢のうつつぞや」と胸ふさがり肝きえて中なか泪もおちやらず輿のうちにふし沈みて「せめてはあはれ其人の討れ給ひつらん(425)野原の草の露の底にも身をすて置て歸れかし。さのみ後れさきだたじ。共に消えもはてなん」と泣き悲み給へども「早其輿かき返せ」とて急ぎて又杣山へぞ返し入れまゐらせける
とありて此橋の哀史を傳へたり○足羽驛〔三字傍点〕は今の福井市の内なり。福井市は足羽川に跨れり。驛址は川より南なりといふ。いぶかし。恐らくは北ならむ。次驛は延喜式の流布本に二尾とあれど同書の九條本・一條本・近衛本また和名抄高山寺本に三尾とあれば三尾を正しとすべし。其三尾〔二字傍点〕に就いても亦諸説一致せず。即地理志料には
 長畝《ナウネ》ノ北ニ前谷村(○坂井郡坪江村大字)アリ。疑ハクハ驛家《マヤ》谷ノ轉
といひ地名辭書には
 二面 今蘆原村と改む。三國町の東北一里餘。……北陸道の驛站とす。延喜式に二尾と記し阿味より此に繼ぎ加賀國に赴く。地形符合す
といへり。前説うべうべしけれど足羽驛より加賀の朝倉驛に到らむに長畝・前谷は過ぐべからず。後説は三尾を二尾と誤りてそれに音の近き二面を引充てたるのみにて地理には叶ひがたし。其上三尾は足羽の次驛にて阿味を承くるものにあらず。抑足羽驛を發(426)せし後九頭龍の大河を渡らざるを得ざれば次驛は蘆原村|二面《フタオモテ》の如く遠かるべからず。恐らくは高椋《タカボコ》村の長崎附近ならむ○萬葉集卷十三(新考二七九八頁)に
 おほきみの、命かしこみ、見れどあかぬ、なら山〔三字傍点〕こえて、眞木つむ、泉の河〔三字傍点〕の、はやき瀬を、さをさしわたり、ちはやぶる、うぢのわたり〔六字傍点〕の、たぎつ瀬を、見つつわたりて、近江ぢの、あふ坂山〔四字傍点〕に、たむけして、われはこえゆく、さざなみの、しがのから埼〔六字傍点〕、さきからば、又かへりみむ、道のくま、八十くま毎に、なげきつつ、わがすぎゆけば、いや遠に、里さかり來ぬ、いや高に、山もこえきぬ、つるぎだち、鞘ゆぬきでて、伊香胡山〔四字傍点〕、いかにかわがせむ、ゆくへ知らずて 反歌云々。右二首、但此短歌者或書云。穗積朝臣老配2於佐渡1之時作歌也
とあり。又卷三(三九三頁)に
 幸2志賀1時穗積朝臣老歌一首 吾命しまさきくあらばまたも見む志賀の大津によする白浪
とあり。此歌は行幸從駕の作とせるは誤にて前の長歌の反歌ならむ。さて其歌どもは續日本紀養老六年正月に
 正五位上穗積朝臣老坐《ツミセラレテ》v指2斥乘輿1處2斬刑1。而依2皇太子奏1降2死一等1配2流於佐渡嶋1
(427)とある時の歌なり。長歌に見えたる地名はナラ山・イヅミノ河(木津川)ウヂノワタリ(宇治川)アフ坂山・シガノカラ埼・イカゴ山にて奈良より佐渡に赴くに此等の地を經て近江より直に(若狹を經ずして)越前に入りしなり。又卷三(四五四頁以下)に
 笠朝臣金村鹽津山作歌二首 ますらをのゆずゑ振起し射つる矢を後見む人は語りつぐがね 鹽津山うちこえゆけばわが乘れる馬ぞつまづく家こふらしも
 角鹿津乘v船時笠朝臣金村作謌一首并短歌 こしの海の、つぬがの濱ゆ、大舟に、眞梶ぬきおろし、いさなとり、海路にいでて、あへぎつつ、わがこぎゆけば、ますらをの、手結《タユヒ》が浦に、あまをとめ、鹽やくけぶり、草枕、たびにしあれば、獨して、見るしるしなみ、わたつみの、手にまかしたる、珠だすき、かけてしぬびつ、やまと島根を 反歌 こしの海の手結が浦をたびにして見ればともしみやまとしぬびつ
 石上大夫歌一首 大船にまかぢしじぬきおほきみのみことかしこみ礒廻《イソミ》するかも、
 右今案石上朝臣乙麻呂任2越前國守1。蓋此大夫歟
 和歌一首 もののふのおみのをとこはおほきみのまけのまにまにきくといふものぞ 右作者未v審。但笠朝臣金村之歌中出也
(428)とあり。以上長短六首は共に笠金村の歌集より取りしにて和歌の作者は恐らくは金村ならむ。さて前四首の趣にては湖北の鹽津山を越えて越前の敦賀郡に入り角鹿濱即敦賀港より乘船し灣内の東岸に沿ひて航行し今の敦賀町の東北なる今の東浦村大字田結浦にて海人の鹽を燒くを見て興ぜしなり。もし石上乙麻呂が越前守となりて赴任するに隨行しての作ならば神龜天平の間なるべし。但乙麻呂が越前守に任ぜられし事は國史に見えざる如し。又もし越前守となりて赴任せしならむに何が爲にか角鹿浦より乘船しけむ。未國府に入らざる前とおぼゆれば部内を巡行する爲にはあらじ。或は鹿蒜山即木芽峠が雨に崩れなどして通行不能なりし故に敦賀より河野浦(今の南條郡河野村河野にて國府即武生の西南に當れり)などまで海路を取りしにあらざるか。明治の御世になりても湯尾《ユノヲ》峠(今莊の北)木芽峠(今莊の西南)の交通雨雪の爲に妨げらるる時は四郎丸(武生の南)より西南河野浦に出で河野より海上敦賀に到り敦賀より近江の鹽津又は海津に出でし由若越小誌(四四五頁)に見えたり。鹽津山は今の近江國伊香郡鹽津村の北方なる國界の山にてやがて穗積老の歌に見えたるイカゴ山(汎稱)ならむ。今此山路を新道野越《シンダウノゴエ》又沓掛道といふ。下には便宜の爲に鹽津道と云はむ。七里半越(下にいふ海津《カイヅ》道)(429)よりは東北に當れり。卷八(新考一五六六頁)に
 笠朝臣金村伊香山作歌二首(○節一)いかご山野べにさきたるはぎ見ればきみが家なる尾花しおもほゆ
とあるも同時の作か。もし然らば金村が越前に下りしは秋の初なり。さて古は專、此鹽津道を通行せしかと思ふに又卷十(新考二二〇八頁)に
 八田の野の淺茅いろづくあらち山みねの沫雪さむくふるらし
とあり。アラチ山は近江國高島郡|劍熊《ケンクマ》村の北方なる國界の山にて鹽津山の西南に當れり。海津より越前の敦賀郡に出づるには此山を越えしにて今其山路を七里半越といへど(海津と敦賀との距離七里半なるが故にかくはいふなり)下には便宜の爲に海津道と云はむ。右の如くなれば奈良の世には鹽津道と海津道と相並びて存ぜしなり。
 ○もとの北國街道伊香郡|柳瀬《ヤナガセ》より左折して敦賀郡|刀根《タウネ》に到る道は近古に至りて開かれしなり。鹽津道は今國道となり海津道は縣道となれり。不審なるは近江の共結驛(海津)と越前の松原驛との距離の遠き事なり。其距離適に七里半なり。是共結驛は特に馬九疋を設けたりし所以か
(430)續紀天平寶字八年九月の惠美押勝が誄せられし條に
 遂起v兵反。其夜相2招黨與1遁v自2宇治1(○相坂を經て)奔據2近江1。山城守日下部子麻呂・衛門少尉佐伯伊多智等直取2田原道1(○宇治川の左岸を經て)先至2近江1燒2勢多橋1(○東山道に奔らむ道を斷つ)。押勝見v之失v色。即便《スナハチ》走2高島郡1(○湖西を北に走りて)而宿2前少領角(ノ)家足之宅1。……伊多智等馳到2越前國1斬2守辛加知1(○押勝の子、時に越前守たり)。押勝不v知而……遣2精兵數十人1(○海津を經て)而入2愛發《アラチ》關1。授刀物部廣成等捷而卻v之。押勝進退失v據。即乘v船(○角家足の家より發して)向2淺井郡鹽津1。
  ○此淺井郡は淺井郡の飛地にて本郡とは伊香郡に隔てられたり。近世西淺井郡と稱せられき。今は伊香郡と併せられたり。さて押勝が鹽津に向ひしは美濃に奔らむとせしなり
忽有2逆風1船欲2漂没1。於v是更取2山道1(○海津に上陸せしなり。山道は海津道)直指2愛發1。伊多智等拒v之。
  ○越前の國府に到りて守惠美辛加知を斬り引返して愛發關を守りしか。速きに過ぐるここちす。或は辛加知は關國司なれば愛發關に來らむ途にありしか
(431) 八九人中v箭而亡。押勝即又還到2高島郡三尾埼1(○郡の南界の明神崎)與2佐伯三野・大野眞本等1相戰云々
とあり。以て海津道の要路たりしを知るべし。愛發は又荒道・有乳など書けり。アラチと訓むべし。愛發關を置きしはいつの時にか明ならねど軍防令凡置v關應2守固1者の條に三關とありて義解《ギゲ》に謂《イフハ》伊勢鈴鹿・美濃不破・越前愛發等是也とあり。國史には養老五年十二月に太上天皇の崩ぜし時に始めて遣v使固2守三關1とあり。非常に備へしなり。之を固關《コゲン》といふ。延暦八年七月に至りて三關共に廢せられき。關址を諸書に今の敦賀郡愛發村大字山中に擬したれど山中にては海津道のみを塞ぐべく鹽津道を固むべからず。されば關址は二道の相會せる今の同村大字疋田なるべきなり。萬葉集卷十五なる中臣宅守が越前國に流されし時の歌に
 あをによし奈良の大路はゆきよけどこの山道はゆきあしかりけり
 かしこみとのらずありしをみこし路のたむけにたちて妹が名のりつ
とよめるは海津道また愛發山にて、又配處に到りし後にトホキ山關モコエキヌまた過所《クワソ》ナシニ關トビコユルホトトギスまたアガ身コソ關山コエテココニアラメとよめる(432)は愛發關なり。又|茅上娘子《チガミヲトメ》が安治麻野ニヤドレル君ガとよめるは今立郡(當時は丹生郡)味眞郷にて今も味眞野村あり○同書卷十八なる越中守大伴家持が橘諸兄の私使なる田邊|福《サキ》麿の京に歸るを送りし歌に
 かへるやまのみちゆかむ日は伊都波多の坂に袖ふれわれをし思はば
とあるは今の敦賀郡東浦村大字五幡にて木芽峠の西口なり○同書卷十九なる家持が支族にして舊部下なる越前掾大伴池主に贈りし長歌の反歌に
 吾のみしきけばさぶしもほととぎす丹生の山邊にいゆきなかなも
とある丹生山はただ汎く丹生郡の山を稱せるならむ。必しも鬼が岳一名丹生が岳を指せるにあらじ。國府即武生の屬する南條郡は昔は丹生郡の内なり。又同卷なる家持が池主に※[盧+鳥]※[茲+鳥]を贈りしに添へたる長歌(新考三八七五頁)の中に
 ますらをを、ともなへたてて、叔羅河、なづさひのぼり、平瀬には、さでさしわたし、早湍には、水烏《ウ》をかづけつつ云々
とありて反歌にも叔羅河湍ヲタヅネツツ云々とよめり。叔羅川今名日野川一名白鬼女川、當國三大川の一にて武生の國府の傍を流れたり。この叔羅川を古くよりシクラと訓(433)み來たれるを眞淵は新羅の誤としてシラギとよみ鴻巣盛廣氏は升羅又は齊羅の誤としてシラギと訓まれ池田毅氏(雜誌學苑昭和十二年二月號)は叔にシの音あることを證明して叔羅のままにてシラギと訓まれたり。後説特に宜し。延喜式の驛名濟羅(かくてもシラギとよまるれど)を高山寺本和名抄に淑羅と書ける事上に云へる如し。淑叔同音なれば淑とも叔とも意に任せけむ。さて新羅と書きてシラともシラギとも訓みし如く叔羅淑羅と書きても亦シラともシラギとも訓みにけむ。神名帳當國敦賀郡に白木神社あり。今も松原村大字|白木《シラキ》に在り。又丹生郡に信露貴神社あり。今の南條郡今莊村の新羅神社か。又松原村大字沓に信露貴彦神社あり。これは式外なり。又日野川の水源地なる南條郡境村の岩谷に尸羅の池あり。又回國雜記に敦賀と高木(武生の對岸)との間にシラキドノ橋見えたり。其外何といひくれといひ此地方には新羅との關係を思はしむる名稱少からず。思ふに敦賀は太古より知られたる良港なれば新羅人しばしば入來りて其附近の處々に部落をぞ造りけむ(南條郡は敦賀郡の東北に續けり)。さて丹生郡(の内今の南條郡)に在りて日野川の左岸に沿へるもの特に大なりしかばそを本國の名に據りてシラギ又はシラギ部と稱し終に川の名をシラギ川と稱する事となりにけむ。川の名は水源な(434)る尸羅池より起りしにあらで池の名は卻りて川の名が水源に及びしならむ。白鬼川はやがてシラギに白鬼の字を充てたるなり。之に女字を添へたる白鬼女を或はシラキメと訓み或はシラキニヨと訓む事なるが、シラキニヨと訓むは鬼女といふ熟字を思ひてのさかしらにて、實はシラキメにてやがてシラギベ即新羅部の轉訛ならむかし。地理志料に引ける所に據れば夙く越前國誌に叔羅即志良岐とある由なれど其書は持たず又見ず○當國の神社の主なるものは敦賀町なる官幣大社氣比神宮、同町なる官幣中社|金崎《カネガサキ》宮(祭神は尊良親王・恒良親王)丹生郡織田村なる國幣小社劔神社、福井市足羽山なる別格官幣社藤島神社(祭神は新田義貞)なり。義貞の戰死せしは福井市の北方なる今立郡中藤島村大字燈明寺、その骸を葬れるは坂井郡高|椋《ボコ》村大字長崎の往生院稱念寺なり
 義貞の墳墓の保存その廟宇の復興を首唱せしは余なれども、そを實現せしは時宗總本山より此事を命ぜられし高尾察玄君の驚くべき努力なり。同窓の友人中にて最親しかりし東大醫學部教授土肥慶藏君は武生の出身、おなじき侍醫高田壽君は福井の出身なり。共に歌道を余に學ばれき。此稿成りて兩君を憶ふ事頻なり(昭和十二年九月五日稿)
 
(435)    加賀國
 
加賀國は縦に長く北狹く南廣く北は能登に、東は越中及飛驛に、南は越前に接せり。西北は日本海に臨めるが其海岸線には凹凸なし。即港灣も無く岬角も無し。此地形は南方江沼郡の半に至り北方能登の羽咋《ハグヒ》川に及べり○上古越國を三分せし時礪波山脈以西を越前とせしがあまりにも南北に長くして一國として統治せむに不便なりしかば養老二年にまづ北端を割きて能登國を置き、次いで弘仁十四年に次北を分ちて加賀國を建てしなり。即類聚三代格卷五なる弘仁十四年二月三日の太政官奏に割2越前國江沼加賀二郡1爲2加賀國1事云々と見えたり(日本後紀此年缺。日本紀略爲三月)○延喜式及和名抄に管、江沼・能美・加賀・石川四郡と見えたり。實は初は江沼加賀の二郡にて手取川を以て界とせしに建國の初に江沼の東北の大部分を割きて能美郡を置き又加賀の西南の大部分を割きて石川郡を置きしなり。即日本紀略弘仁十四年六月に
 加賀國(言上)江沼郡管2郷十三驛四1。割2五郷二驛1更建2一郡1號2能美郡1。加賀郡管2郷十六驛四1。割2八郷一驛1更建2一郡1號2石川郡1。以2地廣人多1也
(436)とあり○國府は和名抄に在能美郡といへり。今の能美郡國府村大字|古府《コフ》なり
 ○加賀能登越中の三國には古府といふ地名あり。初古府は國府《コフ》の擬字かと思ひしかど然にはあらで守護の政廳に對して國司の政廳を古府と稱せしならむ。たとへば加賀にては富樫氏の石川郡野野市の政廳に對して能美郡なるを古府と稱せしならむ。能登の如きは七尾の近傍に古府といふ地と府中といふ地と並び存ぜり
○江沼郡〔三字傍点〕は古くはエヌとぞ呼びけむ。今エヌマと唱ふるは沼の今訓に引かれたるならむ。江沼と名づけられたるは柴山潟(又書芝山)木場《キバ》潟・今江潟の三湖のある爲ならむ。三湖は品字形を成し前二者の水は各後者に通じ後者の水は梯《カケハシ》川の河口に注げり。又木場・今江の二湖と柴山湖の東部とは能美郡に屬せり。本郡は國の西南境に在りて今大聖寺町・山代町・山中町などあり。又大聖寺川ありて國界にて海に注ぎ、動橋《イブリハシ》川ありて柴山湖に入れり。次に能美郡〔三字傍点〕はノミと訓むべし。郷名に野身あり。當郡には邑に小松町・安宅町などあり川に梯《カケハシ》川一名安宅川あり。當國第一の巨川なる手取川も其下流今は郡内を流れたり。次に石川郡〔三字傍点〕は當國の中枢なり。郡名は犀川より出でたるならむ。川に犀川あり。河北《カホク》潟も當郡内にて海に注げり。邑に鶴來《ツルギ》町・松任《マツタフ》町・美川町・金石《カナイハ》町・大野町などあり。金澤市は(437)當郡と河北郡とに跨れるが大部分は當郡に在り。次に加賀郡〔三字傍点〕は今の名河北《カホク》、私には夙く室町時代よりかく稱せしが此名の公認せられしは元禄十三年なり。又かく名づけしは淺野川の北に位せるが故なり。
 ○或は云ふ。古は犀川を以て石川郡との界とし又加賀郡を二分して淺野川以北を加賀北郡又加北郡といひ以南を加賀南郡又加南郡といひしに後に加南都を石川郡に屬せしかば加北郡のみ殘りたりしを加を河に書き更へたるなりと。此説耳傾けらるれど加賀郡を二分せむに淺野川と犀川との間の地域は狹少に過ぐべし如何
淺野川は河北石川二郡の間を流れて未は河北潟に注げり。河北潟(一名|八田《ハツタ》潟)は當國の四湖中最大なるものにて其南端は石川郡に接せり。當郡の邑には津幡町・高松町あり。當郡は北は能登に、東は越中に隣れり越中界に峙てるが即有名なる礪波山一名倶利加羅山なり○當圖には舊日本三山の一と稱せらるる白山あり。白山は當國能美郡と飛騨の大野郡とに跨れり。數峯より成りて最高きは御前峰、之に次ぐは其南に離れたる別山、又之に次ぐは御前峰の北なる大汝峯なり(又劍が峯及三の峯を加へて五峯と稱す)。明暦元年此山の所屬に就きて越前との間に爭の起りし事あり。幕府、越前に憚りて加賀に屬せ(438)しむること能はず寛文八年以來收めて直領としたりしが二百年餘を經て明治五年に至りて太政官命じて加賀國能美郡に編入せしめき。當然の事と謂ふべし○當國の神社の主なるものは石川郡|河内《カハチ》村大字三宮(鶴來町の東南方)なる國幣中社|白山比※[口+羊]《シラヤマヒメ》神社、江沼郡福田村大字|敷地《シキヂ》なる國幣小社|菅生石部《スガフノイソベ》神社、金澤市西町なる別格官幣社尾山神社(祭神前田利家)なり。尾山は金澤城の在りし山なり。戰國の世眞宗の凶徒此山に本源寺といふを建立し山を尊びて御山と稱せしを佐久間盛政が凶徒を※[巣+立刀]滅せし後字を改めて尾山とせしなりと云へるは俗説にて山崎山の麓山《ハヤマ》なれば夙くより尾山といひしを或時代には枉げて御山とも書き後には尾山に定まりしならむ。さて又後には城下にかけて金澤とも尾山とも稱しき
○延喜式兵部省に
 加賀國驛馬 朝倉・潮津・安宅・比樂・田上・深見・横山各五疋
 傳馬 江沼・加賀郡各五疋
とあり。越前の三尾驛より朝倉驛に來り横山驛より能登の撰才驛に、深見驛より越中の坂本驛に到りしなり。地理志料越中坂本驛の下に蓋從2加賀田上1入v此と云へるは萬葉集(439)卷十八に驛使を迎えふる事に依りて加賀郡境深海村に到來せし由云へるに心附かざりしにこそ。さて傳馬に江沼・加賀郡とのみあるはいぶかし。弘仁四年六月以前のままなりしか○朝倉驛〔三字傍点〕は地理志料に熊坂とし地名辭書に橘とせり。古官道は今の丸岡道にあらで金津道なるべければ橘(今の江沼郡三木村大字)を以て驛址とすべし。次に潮津驛〔三字傍点〕は流布本に湖津とあれど九條家本及和名抄高山寺本に潮津とあり、神名帳江沼郡に潮津神社あれば湖は潮の誤なることを知るべし。さてシホツと訓むべし。今柴山潟の西南隅に鹽津村ありて其大字に潮津あり。是遺址なり。今潮津をウシホヅとよむは恐らくは字に引かれたるならむ。さて潮津が驛址なるを思へば古官道は柴山湖の西北を經しならむ。以上二驛は江沼郡なり。次に安宅驛〔三字傍点〕の所在は今の能美郡安宅町なり。安宅町は梯川の河口の右岸即北岸に在り。次に比樂驛〔三字傍点〕は志料の如く相樂などを例としてヒラカと訓むべし。辭書などにヒラと訓めるは恐らくは非ならむ。三代實録貞觀十一年二月廿三日に
 詔加賀國比樂河〔三字傍点〕置2半輸渡子二十五人1
とあり。
 ○半輸は全輸に對する語にて詞庸難徭を輸《イタ》すものを全輸といひ調のみを輸すもの(440)を半輸といふ。渡子は即舟子なり。舟子として服務するが爲に庸雜徭を免じたるなり
又主税寮式上越前國海路の註に自2比樂湊〔三字傍点〕1漕2敦賀津1船賃云々とあり。されば手取川の河口を比樂湊といひ其附近の地を比樂といひしなり。比樂驛の所在が此地方なる事は明なれど尋ぬべきは川のこなたなりや彼方なりやといふ事なり。三州地理志稿には本吉(今の石川郡美川町)を以て之に充て、辭書には同じく川のあなたなる今の石川郡|比樂島《ヒラシマ》村大字水島を以て之に擬したり。比樂島は水島・源兵衛島・上安田・福永・運上島・番田・出合島の七村を合併して新に命ぜし村名なり。無論比樂驛址を考へ定めての事にあらで手取川の一名を比樂川といひきと云へるに由りてかくは命名せしならむ。抑手取川はもと石川郡と能美郡との(弘仁以前は加賀郡と江沼郡との)界を成ししに、否川を界として兩郡を分ちしに其河道變遷して今は下流は能美郡内に在りて河口は石川郡内に在り。前に擧げし比樂島村の大字のみならず此川の下流の右岸に何島といふ地名の多きは皆もと此川の川中に在りしなり。さて此川は特に渡子二十五人を置きしばかりの大河なれば驛使は川口の此方にて馬を棄て舟にて川を渡り、川より上りて新に馬に乘りしならむ。即河口を夾みて能美郡と石川郡とに各一驛をぞ置きたりけむ。其例とすべきは石(441)見の江川《ゴウノカハ》を夾める江東驛と江西驛となり。さて能美郡比樂驛の址はいづくぞと云ふに恐らくは今の流の河底とぞなりたらむ○日本紀略弘仁十四年六月の記事に江沼四驛中の二を割きて能美郡に屬し加賀郡四驛中の一を割きて石川郡に屬すと云へり。されば江沼二驛、能美二驛、石川一驛、加賀三驛合八驛なるべきに兵部省式に出でたるもの七驛にて既述の江沼郡の朝倉・潮津、能美郡の安宅・比樂を除ける三驛即田上・深見・横山は皆加賀郡に求むべければ(次に云はむ)石川郡に屬すべきもの無く其上比樂驛より加賀郡界まではいと遠く又其上石川郡の北部に二川の渡るべきもの(犀川及淺野川)あれば其中間に一驛あるべきなり。或は之を松任附近に擬すべきかとも思へど前に云へる如く手取川を渡るに馬を率ては渡るまじく川の北岸に新に馬に乘るべき一驛あるべければ此處より直に田上驛にぞ到りけむ。兩驛の距離げに頗遠ければ例の如き五疋の驛馬にては如何と訝る人もあるべけれど此驛より馬を出すは下路に限る事なればかくても事は缺けざりけむ。さてその缺名驛〔五字傍点〕の址は恐らくは今の石川郡蝶屋村大字|平加《ヒラガ》にて驛名は又恐らくは河南驛と同じくヒラカなりしかば傳寫の際に重複と誤り認めて削り捨ててけむ○次に田上驛〔三字傍点〕に就いて三州地理志稿に今上下田上アリといへり。上田上・(442)下田上は河北郡(即もとの加賀郡)淺川村の大字にて金澤市の東南に當れり。古官道は恐らくは此附近を過ぎざりけむ。辭書には金澤市中尾山の邊ならむと云へり。此驛は加賀郡に屬すれば恐らくは淺野川の彼岸即今の金澤市の北部にぞ在りけむ。さて古官道は河北潟の東側をぞ通りけむ。西側は砂濱なればなり。河北潟の地形は因幡の湖山《コヤマ》池などに似たり。相照して古今の變遷を察すべし。次驛深見〔二字傍点〕は辭書に云へる如く今の津幡町なるべし。此處にて二路に分れ東は越中に到り北は横山驛に向ひしなり。横山〔二字傍点〕は今の高松町大字横山なり。和名抄加賀郡郷名に驛家とあるを辭書に此驛に擬したり○萬葉集卷十八天平二十年三月十五日越前國掾大伴池主來贈歌の序(新考三七〇四頁)に以2今月十四日1到2來深見村〔三字傍点〕1とあり又勝寶元年十二月十五日池主更來贈歌の序(新考三八〇六頁)に
 依d迎2驛使1事u今月十五日到2來部下加賀郡境1。面蔭(ニ)見2射水之郷1戀緒(ヲ)結2深海之村1云々
といへる深見村は即深見驛なり。加賀郡は當時まだ越前國の内なりしかば部下とは云へるなり○國造本紀に賀我國造・加宜國造・江沼國造と並べ擧げたり。加宜國は不明なり。其國造と高志深江國造と同名(共に素都乃奈美留命)なるもいぶかし(昭和十二年九月八日稿)
 
(443)    能登國
 
能登國は加賀の北端及越中の西北端より起りて北海に斗出せる一大半島なり。南は加賀の河北郡に、東南は越中の氷見郡及西礪波郡に接し其他は海に臨めるが其先端は東北に向へり。之を珠洲《スズ》岬といふ。
 ○珠洲岬に二義あり。一は長手崎より禄剛崎までを指し一は北部の逢崎・金剛崎・禄剛崎の三岬を指す
半島の西南及西北面を外浦といひ東面を内浦といふ。内浦に一大灣を抱けり。之を七尾灣といふ。灣は能登島《ノトジマ》一名|島之地《シマノヂ》によりて横に二分せられたり。其北部を北灣といひ西南部を西灣といひ南部を南灣といふ。島の西端と陸との間にいと狹き海峽あり。之を三口《ミツガクチ》瀬戸といふ。北灣は大口瀬戸に由りて、南灣は小口瀬戸を經て大海と交通せり。又南灣は屏風瀬戸に由りて西灣と相隔てらる。瀬戸はやがて島の須曾と陸の石崎との二つの屏風崎の間なり。此國形状細長なれば川は皆小なり。山にはやや高きものあり。海岸湖一あり。邑知《オホチ》潟といふ。なほ各郡の下に云ふべし○國造本紀に能等國造と羽咋《ハクヒ》國造と見え(444)たり。能等國は今の鹿島郡にて羽咋國は後の羽咋郡なり。鳳至珠洲二郡は後れて開けしならむ。右の二國造國は大化改新の時越國に入り越國の三分せられし時越前國に入りしが元正天皇の御世に新建の能登國の内となりにき。即養老二年五月の紀に
 割2越前國之羽咋・能登・鳳至・珠洲四郡1始置2能登國1
とあり。其後此國は一たび越中國に併せられしが又其後に再獨立して今に至れるなり。即天平十三年十二月の紀に能登國并2越中國1とあり又天平寶字元年五月の紀に能登國依v舊分立とあり。大伴家持が越中守たりしは能登が越中に併せられたりし程なり。さればこそ家持は能登を巡行せしなれ。なほ後にいふべし○此國は分置の始より今に至るまで四郡なり。但能登郡は後に鹿島郡と改稱せられき。又郡境に多少の變動ありき。たとへば珠洲郡の西南端鳳至郡に入り能登郡の北部即七尾灣の北岸の地域も亦鳳至郡に入りき○國府は能登郡に在りき。今の鹿島郡矢田郷村大字|古府《フルフ》是なり。加賀國の下に云へる如く加賀・能登・越中三國には古府といふ地名あり(加賀及越中にてはコフと唱へ能登にてはフルフと唱ふ)。こは國司の政廳の在りし處にて狹義の國府なり。後に起りし武家の政廳と分たむ爲に古府と稱せしなり。此國の如きは古府の外に府中といふ地名あ(445)り。こは前田利家が始めて政廳を置きし處なり。地理志料には府址在鹿島郡府中村と云へり。こは誤りて古府を國造所鎭とし府中を國司所治と認めたるなり。府中は今一部は七尾町に入りて大字府中町と稱せられ一部はもとのままに矢田郷村に屬して大字府中と稱せらる。今一つまぎらはしき事あれば筆を費さむに古府の東南なる城山に七尾城一名松尾城ありき。こは此國の守護畠山氏の居りし處なり。諸書に此城を源順等歴代の國守の居りし跡なりといへるは三州地理志稿の誤を繼げるなり。守護こそあれ國司は山城などに居るべきにあらず。松尾城は守護畠山氏がもとの國府の東に接して新に築造せしものにて歴代の國守の居りし跡にあらず。天正十年前田利家新に城を古府の西北なる所(ノ)口の小丸山に築き其城下町に七尾町と名づけき。これより舊城附近を舊七尾と稱しき。府中・古府の名も此時に生ぜしにこそ○四郡の内珠洲鳳至を俗に奥郡といひ鹿島(もとの能登)羽咋を口郡といふ。奥郡の東北端が珠洲にて爾餘は鳳至なり。又口郡の東北部が鹿島にて其他は羽咋なり。羽咋郡〔三字傍点〕は國の南部と西南部とを占めたり。山には東南界の三國山・南部の寶達山・北界の高爪山などあり、川には羽咋川・神代《カクミ》川(一名米町川)あり。
(446) ○神代はカクミと呼ぶ。越中國氷見郡|神代《カウジロ》村大字神代に式内加久彌神社あり
呂知潟一名|千路《チヂ》潟、本郡と鹿島郡とに跨れり。艮坤の斜徑凡一里半、その水は羽咋川と合して海に入れり。邑里には羽咋町・高濱町・一ノ宮町などあり。一ノ宮町には國幣大社|氣多《ケタ》神社あり。福浦村は本部北部の海岸に在りて和船に取りては外浦第一の良港なり。又今は微々たれども當國中最古く國史に現れたる地なり。即續紀寶龜三年九月に
 送渤海客使武生島守等解v纜入v海忽遇2暴風1漂2著能登國1客主僅得v免v死。便《スナハチ》於2福良津1安置
又三代實録元慶七年十月に
 勅令2能登國1禁v伐2損羽咋郡福良泊山木1。渤海客著2北陸道岸1之時必造2歸舶於此山1。住民伐採或煩v無v材。故豫禁v伐2大木1。勿v妨2民業1
とあり(此文六年十月の下に重出し其處には造を迷に誤り北陸の下に道を脱し妨の上に勿を脱せり)。地理志料に
 六年紀勅2能登國1禁v伐2羽咋郡福良津山木1以3渤海客認以爲2標識1也
と云へるは誤りて六年紀に據り又丈そを誤解せるなり。次に鹿島郡〔三字傍点〕は延喜式にも和名抄(447)にも、拾介抄にも能登郡〔三字傍点〕とあり。鹿島郡と改まりしは何時にか知られず。恐らくは室町時代ならむ(或云自鎌倉時代)。寛文年中一たび能登に復せしに元禄年間に又鹿島と定めき(加賀河北郡參照)。和名抄當郡の郷名に加島あり。香島・香島津・加島津は萬葉集卷十七の歌並にその題辭・延喜主税式上能登國海路の註に見えたり。共に今の七尾なり(地理志料には今の鳳至郡兜村甲とせり)。新郡名は之より出でたるなり。當郡、山には南界の石動《イスルギ》山・東北界の別所岳などあり。イスルギはイシユルギの約なり。邑里には七尾町(舊名所口)和倉町(舊名湧浦)あり。七尾町は當國の首邑にて南灣の南岸に臨めり。和倉町は南灣と西灣とを隔つる小半島(石崎半島)に在り。能登島も亦當郡に屬せり。次に鳳至郡〔三字傍点〕は和名抄の訓註に不布志とあり又二三の古典の傍訓にフシとあれども近古の國圖に鳳氣志と書けるものあり。今もフゲシと唱ふればフゲシを正しとすべし。和名抄の訓註は或は不|希〔右△〕志の誤字ならむと云へり。鳳の一音フグなればグを轉じてフゲに充てたるなり。當郡、山には西海岸に近き鵠巣山(又書高洲)珠洲郡界なる寶立山(提要に羽咋ニ跨ルとあるは誤記)などあり。邑里には外浦に輪島町あり内浦に宇出津《ウセツ》町・穴水町あり。宇出津をウセツと訓むは宇出を直音にてウスツと唱へ更にそのスを訛りたるにて又更に不要の津を加へて(448)宇出津と書くにや。輪島の北方海中に七ツ島あり。舊名を邊津島といふ。又その北方に舳倉《ヘクラ》島あり。舊名を沖津島といふ。輪島より十二三里なりといふ。今昔物語卷三十一第二十一語の能登國の鬼(ノ)寢屋(ノ)島は七ツ島にて猫(ノ)島は舳倉島ならむ。鬼の寢屋に渡りきといふ光の浦(又光島といふ浦)は輪島町の西に接して今は大屋村の大字となりてヒカリウラと呼ばる。次に珠洲郡〔三字傍点〕はスズと訓むべし。初にはススと唱へけめど少くとも中古以來は下のスを濁りてスズと唱ふ。さてスに洲を充てたるは訓を借れるにはあらで字の呉音を借れるなり(シユの直音ス)。或は洲を邦語にスといふは音より出でたるにあらずやとも疑はるれど恐らくは音と訓と偶然に一致せるならむ。出雲風土記|意宇《オウ》郡國引の段なる高志《コシ》之|都々《ツツ》乃三埼はやがて珠洲岬ならむと云へり。ツとスと相通ふは普く知られたる事なり。當郡には山に金剛崎に近き山伏山あり。一名鈴が岳、鈴は即珠洲なり。邑里の主なるものは内浦の飯田町のみ
 ○山名は日本地誌提要に擧げたるもののみを擧げつ。其外地方誌に見えたるは二子・大峯・桑塚・鉈打・赤倉の諸山なり
○驛は兵部省式に撰才・越蘇各五疋とあり。撰才〔二字傍点〕は異樣なる名なれば誤字ならむといふ(449)説もあれどそれも確ならず。今之に似たる地名も無し。辭書に敷浪《シキナミ》(今の羽咋郡柏崎村の大字)に擬したり。シキナミと訓までシクナミと唱ふるを思へば敷浪又は敷波と書けるは擬字にて宿並即宿ニ准ズル處といふ義なるべければ寧同村の大字宿を以て驛址に充つべし。前驛なる加賀の横山との距離はいづれにてもかなへり。次に越蘇《・ヱソ》〔二字傍点〕驛は今鹿島郡徳田村の大字に江曾あり。越のヱと江のエと假字は異なれど是なるべし。江曾は古府の西南二十町許の處に在り。日本後紀大同三年冬十月に
 廢2能登國能登郡越蘇・穴水、鳳至郡三井・大市・待野、△△△珠洲等六箇驛1。以2不要1也
とあり。珠洲の上に珠洲郡の三字を脱したりとおぼゆ。此頃、頻に諸國の驛を整理せしなり。穴水〔二字傍点〕は今穴水町ありて七尾灣の北岸に在り。今は鳳至郡の内なれど古は能登郡(即鹿島郡)に屬せしなり。次に三井〔二字傍点〕は今|三井《ミヰ》村あり。穴水町の北に接し分水嶺(市の坂)を隔てたり。驛址は同村大字|新保《シンボ》などにや。次に大市〔二字傍点〕は輪島町の東、鵠巣山の北麓なるべければ今の鵠巣村西大野あたりにや。辭書に同村|谷内《ヤチ》に擬したり。ヤチは沮洳の謂なればその開けしは恐らくは新しからむ。其上次驛に偏れり。次に待野〔二字傍点〕は今町野村あり。驛址は町野川の河口なるべければ今の皆戸(湊の擬字にや)などにや。終に珠洲〔二字傍点〕驛は珠洲岬の北端今の(450)西海《ニシウミ》村の大字|狼煙《ノロシ》にや。抑驛路は本路にもあれ支路にもあれ道の終は國府附近なるを
 ○たとへば伊豫の終驛が越智、石見の終驛が伊廿《イカミ》にして共に國府附近なるを思ふべし
此國のみ南、加賀界より東北に向ひて國府に到り、そこに止らずして七尾灣の南岸を西行し、西岸を北行し、なほ北行して外海岸に到り、更に東北行して國の突端まで達せるは此國が大海に斗出して外蕃來寇の上陸點となる虞あるが爲ならむ。さて大同三年に至りて其虞も無くなりしに由りて當國七驛中の六驛を廢せられしが後に第二驛にして國府に近き越蘇のみ再置せしならむ○萬葉集卷十二作者不詳覊旅發思の申(新考二七一四頁)に
 能登の海につりするあまのいざり火の光にいゆく月まちがてり
とあり。この能登は能登國にあらで能登郡ならむ。さらば能登海は即七尾灣なり。七尾灣は今は北半を鳳至郡に、南半を鹿島郡に抱かれたれど古は全周能登郡なりしなり。さて此歌は如何なる際の作かといふに此國は陸路よりは海路の方開けたりしかば此歌も國司が部内を巡行するに海路を取りて國府附近の今の七尾港より出發する趣ならむ
(451)○次に卷十六に能登國歌三首あり(新考三四四六頁)。その第一首に
 はしだての、熊來のやらに、しらぎ斧、おとし入れつ和之」、河〔左△〕毛低河〔左△〕毛低、な泣かしそね、浮きやいづると見む和之
  右歌一首傳云。或有《アル》愚人斧ヲ墮2海底1而不v解2鐵沈無1v理v浮v水聊作2此歌1口吟爲v喩《サトシ》也
とあり。初四句は斧を落しし人の言、河毛低以下は傍に在りし愚人が其人を慰めむとて云ひし辭なり。ハシダテノは枕辭なり。ヤラは海岸の水深き處か。シラギ斧は朝鮮式の斧なり。ワシは添へ云ふ語のみ。河毛低は阿毛低の誤にてアリ待テの訛か。さて熊來は和名抄能登郡の郷名に見えたり。今鹿島郡に熊木村あり。但古の熊來郷は今の熊木村より地域遙に廣くて七尾灣の西岸に臨みたりしなり。否西岸の南方強半をぞ占めたりけむ。第二首は
 はしだての、熊來酒屋に、まぬらる奴和之、さすひたて、ゐて來なましを、まぬらる奴和之
といふ歌なり。酒屋は官設の釀酒處なり。マヌラルは罵ラルルにて罵り使はるる事か。サスヒタテは誘ヒ促シテなり。ヰテ來ナマシヲは我家ニッレテ來テ酒ヲ造ラセヨウモノヲとなり。第三首には
(452) かしま禰乃、机の島の、しただみを、いひりひもち來て、石もち、つつきやぶり、早川に、あらひすすぎ、から鹽に、ここともみ、高つきにもり、机にたてて、母にまつりつや、めづ兒のとじ、父にまつりつや、身女〔二字左△〕兒のとじ
とあり。シタダミは今のキシャゴの類なり。イヒリヒは拾ヒなり。カラシホは鹽汁、タテテはスヱテ、マツリツヤは奉リキヤなり。メヅ兒は親のめづる子なり。身女兒は眞名兒の誤字にあらざるか。トジは主婦なり。さてカシマ禰乃を從來誰もカシマ峯ノと心得たれど島をいはむとするに山ノとは云ふべからず。或は乃彌(カシマノ海)を禰乃と誤りたるにあらざるか。机の島は中島村の附近なる廣さ僅に十間許なる岩島がそれなりといひ面平にて机に似たる岩あるによりて然名づけたるなりといふ。中島村は熊來村の東に隣りて古の熊來郷の内なり○次に卷十七に大伴家持の能登國の歌五首を載せたり。即左の如し(新考三六四四頁以下參照)
 赴2參氣多大神宮1行2海邊1之時作歌一首 之乎路からただこえくれば波久比の海あさなぎしたり船梶もがも
越中の國府より發し今の氷見郡より國界を越えて羽咋郡志雄村に出で子浦《シホ》川(羽咋川(453)の上流、子浦はシヲの訛なり)に沿ひ下りて今の羽咋町附近に出で、それより北上して氣多神社に詣でしなり。ハクヒノ海を諸書に邑知潟の事としたれど歌に朝ナギシタリとよみ題辭に行海邊之時と書きたれば羽咋郷前面の海と認むべし。次に
 能登郡從2香島津1發v船|射《サシテ》2熊木村1往時作歌二首 とぶさたて船木きるといふ能登の島山、けふ見ればこだちしげしも伊久代神備曾
以下四首の次に右|件《コノ》謌詞者依2春|出擧《スヰコ》1巡2行諸郡1當時△v所2屬目1作v之、大伴宿禰家持とあり。此左註はトブサタテ以下に係れるにてシヲヂカラに亙れるにあらじ。シヲ路カラは氣多神社參拜途次の作、トブサタテ以下四首は部内巡行途次の作にて同じく能登國の旅行ながら旅行の目的を異にすればなり。されば前一首と後四首とは同時の作にあらじ。新考には心得誤れり。さて此歌は今の七尾港より發船して能登ノシマ山即|能登島《ノトジマ》を右に見て熊木郷に到らむとする途即西灣にての作なり。トブサタテは大木を伐り採る時切り離ちたる其梢を根にたてかけて山神に報謝するをいふ。イクヨカムビゾはイク代ノ神サビゾといふ事か。疑がはし。
 香島より久麻吉をさしてこぐふねのかぢとる間なくみやこしおもほゆ
(454)熊來は香島より西々北に當れり。第四句はただシキリニと譯すべし。
 鳳至郡渡2饒石《ニギシ》河1之時作歌一首 妹にあはず久しくなりぬ爾藝之《ニギシ》河きよき瀬ごとにみなうらあへてな
熊來より道を西北に取り、仁岸《ニギシ》川といふ小流に沿ひて西海岸に出で、その仁岸川の河口を渡りて北行せむとして作りしならむ。今|劍地《ツルギヂ》村といふがありて大字劍地の部落、仁岸川の河口の北岸に沿へり。ミナウラアヘテナは水占ヲ合セテムとなり。
 從2珠洲郡1發v船還2太沼|郡〔左△〕1之時泊2長濱灣1仰見2月光1作歌一首 珠洲のうみにあさびらきしてこぎくればながはまの浦に月てりにけり
珠洲郡の然るべき處より東海岸(今の飯田町附近か)に出で、それより南下して越中に歸らむとする途の作なり。太沼郡は大沼邨の誤にて(邨は即村にて郷の下の里の別稱)今の大呑ならむ。今鹿島郡の東南端に南北の大呑村ありて越中氷見郡の北端に隣れり。長濱灣は崎山村の内にて觀音崎と丸山鼻との間の小灣か。崎山川といふ細流此灣に注げり。故に川尻といふ字あり○萬葉集には此外になほ一首能登國の歌あり。即卷十八(新考三七四八貢)に爲v贈2京家1願2眞珠1哥(長歌)ありて其初に
(455) 珠州のあまの、おきつみかみに、いわたりて、かづきとるといふ、あはびたま、いほちもがも云々
といへり。オキツミカミは即舳倉島なり。古名をオキツシマといひて神名帳の奥津比※[口+羊]《オキツヒメ》神社此島にあり。此神のいますに由りて島を直に沖つ御神といへるなり。但反歌にはオキツシマイユキワタリテとよみオキツシマナルシラタマモガモとよめり。邊つ島即鬼の寢屋だに今昔物語にソノ島ニハ河原ニ石ノアル樣ニ鮑ノ多クアルナレバと云へり。蚫多かれば蚫玉も多かりけむ(昭和十二年九月十四日稿)
 
(456)   越中國
 
越中國は東は越後信濃に、南は飛騨に、西は能登加賀に隣り北は日本海及富山灣に※[草冠/位]めり。國の東強半を新川郡とし西半の東部を婦負《ネヒ》郡としその西北を射水郡とし西を礪波郡とす。合せて四郡なり。然るに明治十一年十二月に新川郡を分ちて上新川(西南部)下新川(東北部)とし明治二十九年四月に射水郡の西北部(二上山脈以北)を割きて氷見《ヒミ》郡とし礪波郡を東西に分ち上新川郡の東部を割きて中新川郡とせしかば今は氷見・射水・西礪波・東礪波・婦負・上新川・中新川・下新川の八郡となれり。立山《クナヤマ》(今タテヤマと唱ふるは訛)は國の東南部に聳えて中新川郡に屬せり。諸大川南より北に流れて最東の黒部川の外は皆富山灣に注げり。即|小矢部《ヲヤベ》川は西礪波郡及射水郡を貫けり(もとは其末、庄川に合せしが明治四十五年河身改修に由りて全く別流となりしなり)。庄川一名射水川は東礪波射水の二郡を貫き神通《ジンヅウ》川は婦負郡と上新川郡とを界せり。以上二川は飛騨國より來れり。次に常願寺川は上新川・中新川二郡の間を流れ早月川は中新川郡と下新川郡とを隔て片貝川は下新川郡を貫けり。黒部川も亦下新川郡を貫けり。但日本海に注げり。右の内小矢(457)部・庄・神通・常願寺・黒部の五川を五大川と稱し又早月・片貝二川を加へて七大川と稱す○此國の内先開けしは射水郡の地方なり。されば成務天皇の御世に伊彌頭《イミヅ》國造を置かれき。其後越國の内となり越國が三分せられて越中國が出現せしが其越中國は遙に東北方に亙りて古の(崇神天皇の御世に置かれし)久比岐《クビキ》國造國をも包含せしが大寶二年に其東北部を割きて越後國に屬せしめられき。即同年三月の紀に分2越中國四郡1屬2越後國とあり。その四郡を地名辭書に
 當時越中越後の境界は沼垂に在り。即信濃會津(○阿賀)二水の海口是也。大寶二年三月越中の四郡を割き越後に屬す。四郡は史に具注せずと雖頸城・魚沼・古志(三島は古志郡の分郡なるべし)蒲原の地たること形勢を推考して之を知る
と云へり。信濃川を以て國界としたりしにあらざるか。なほ越後國の處に至りて云ふべし○式及抄の四郡の順序は礪波・射水・婦負・新川なり。礪波《トナミ》郡(又書利波)が今東西に分れたる事は上に云へり。西礪波郡〔四字傍点〕は西、加賀の河北郡と礪波山を隔てたり。古の官道即倶利伽羅峠は今の國道より南方にあり。邑里には石動《イスルギ》町あり(もと今石動といひき。今の義は新なり。能登の石動に對して然いひしなり)。東礪波郡〔四字傍点〕の高瀬村に國幣小社高瀬神社あり。射(458)水郡〔三字傍点〕の邑里には高岡市・新湊町(舊名放生津)伏木町・小杉町などあり。高岡市舊城址に國幣中社射水神社あり。明治八年に二上山麓に在りて小矢部川を隔てたる二上神社を移ししなり(舊社は今も存じて射水神社の分社となれり)。新湊町の東に放生津潟あり。射水郡より分れたる氷見郡〔三字傍点〕の首邑は氷見町にて其西南に氷見潟一名十二町潟あり。婦負郡〔三字傍点〕は萬葉集卷十七に賣比ガハノハヤキ瀬ゴトニ云々といふ歌あればメヒと訓むべきを和名抄の訓註に禰比とあり。ここに三代實録貞觀五年八月十五日に
 越中國正六位上鵜坂姉比※[口+羊]〔三字傍点〕神・鵜坂妻比※[口+羊]〔三字傍点〕神・杉原神並授2從五位下1
とあれば郡名はネヒメともメヒメとも云ひしにあらざるかと疑ふ人もあるべけれど婦事はネとは訓むべからず。思ふにメとネとは五十音圖に相隣りて相通じやすければメヒを訛りてネヒとぞ唱へけむ。近古の書に往々姉負と書けるはネヒの唱に合せて婦を姉に書き更へたるなり。鵜坂は今も然いふ村ありて神通川の左岸に沿ひ富山市の西南に當れり。神名帳に鵜坂神社あれど右の二女神とは別なり。當郡の邑里には八尾《ヤツヲ》町あり。新川郡〔三字傍点〕を和名抄に邇布加波と訓註せるは例の如く後世の訛稱に從へるなり。萬葉集卷十七なる立山賦に爾比可波ノソノタチヤマニとあるに據りてニヒカハとよむべし。(459)さて思ふに新川は元來立山より發する常願寺川の古名なりしが轉じて郡名となれるにあらざるか。當郡が今三郡に分れたるは上に云へる如くなるが當國の首邑にて又舊富山藩治なりし富山市は上新川郡〔四字傍点〕に在りて婦負郡に跨れり。當郡には其外東岩瀬町などあり。中新川郡〔四字傍点〕の邑里は五百石町・東西水橋町・滑川《ナメリカハ》町(螢烏賊の産地)などにて下新川郡〔四字傍点〕の邑里は魚津町(蜃氣樓の見ゆる處又螢烏賊の産地)三日市町などなり○國府の址は今の射水郡伏木町大字古國府《フルコフ》の眞宗勝興寺なり。
 ○同町の大字に別に古府《コフ》あるはいぶかし。同じき大字に國分あり
之に對する守護の治所は守山城ありて今の射水郡守山村なる二上山の西峯にありき。又舊二上村の大字に守護町あり。二上村は今高岡市に入れり○兵部省式に
 驛馬 坂本・川合・亘理・白城・磐瀬・水橋・布勢各五疋、佐味八疋
 傳爲 礪波・射水・婦負・新川郡各五疋
とあり。坂本驛〔三字傍点〕は西礪波郡埴生村の大字蓮沼か。即礪波關と同處か(源平盛衰記には埴生を垣生に誤れり)。次に川合驛〔三字傍点〕は高山寺本には川人とせり。和名抄礪波郡郷名に川合あればなほ川合ならむ。さて川合は二川相合する處の稱なれば川合驛は小矢部川が左岸よ(460)り支源を容るる處ならむ。次に亘理驛〔三字傍点〕は高山寺本に曰理とあるを正しとすべし。曰の音ワツ、そのツをタに轉じてワタに借れるなり。諸國にワタリを亘理と書ける地名の多きは曰がワタに充てらるべき事を知らざる俗人がもと曰と書けりしを亙の俗體なる亘の脱畫と認めて亘に改めたるなり。屡云へる如く古はうるはしく(ここにウルハシクといふはシドケナクの反對なり)地名を書くに音訓を交ふる事はをさをさ無かりき。此事村岡良弼氏は反復切言したれど他の地理家は之に重きを措かざるに似たり。因に云はむ。亘は音クワンにてワタルの義なし。ワタルに充つるは亙にて音コウなり。さて和名抄婦負郡郷名に曰理あれど(流布本には日と誤り高山寺本には正しく曰と書けり)國府附近に必一驛あるべく又射水郡にも傳馬を備へ殊に萬葉集に射水郡驛館とあれば官道は射水郡を通過せしにて川合の次驛は必射水郡にあるべきなり。さて曰理の名義は渡なれば射水郡に曰理といふ驛ありとすれば射水川の津頭ならざるべからず。又國府との交通の便を顧みれば國府と同側即射水川の左岸ならざるべからず(近世以前は小矢部川と射水川と相合して海に入りし事上に云へる如し)。中古國府の東即國府と放生津(古の奈呉浦今の新湊町)との間に六動寺の渡といふがありき。されば源平盛衰記卷二十(461)九に當國の府の事を六動寺の國府〔六字傍点〕といへり。今も新湊町の大字に六渡寺ありて新庄川の口と小矢部川の口(即伏木港)とに夾まれたり。その對岸ぞ曰理驛址ならむ。次に白城驛〔三字傍点〕は婦負郡に傳馬の設あれば同郡なる事明なり。地名辭書に「もしくは海老江の邊にや」と云へり。驛路は奈呉江(今の放生津潟)の南岸を迂回せし後海岸に出できと思はるれば海老江に擬せるは理なきにあらず。海老江村は今射水郡の内なれど此附近は古の婦負郡の境なりし如し。次に磐瀬驛〔三字傍点〕は和名抄新川郡の郷名に石勢(訓註に伊波世とあり)ありて今上新川郡に神通川の河口の右岸に東岩瀬町あり。次に水橋驛〔三字傍点〕は今中新川郡に常願寺川の東なる白岩川の河口を夾みて東西の水橋町ある東水橋の方か。次に布勢驛〔三字傍点〕は和名抄射水郡の郷名に布西あれど無論それにはあらで新川郡の内なり。今下新川郡に東西の布施村又大布施村あり。又片貝川の支源に布施川あり。布勢驛は地理志料に沓掛即古驛址といひ地名辭書に「今大布施村に沓掛の大字あるは即驛址なるべし」と云へり。まづ之に從ふべし(但東水橋と沓掛との距離頗遠し)。近古以來宿驛を沓掛と稱する處諸國に在り。大布施村の沓掛は適に黒部川の左岸にあり。終に佐味驛〔三字傍点〕は和名抄新川郡の郷名に佐味ありて左比と訓註したれど恐らくはサミの訛ならむ。此驛は斷じて今の泊町なり。(462)此處より越後の青海《アヲミ》町(滄海驛)まで六里許は山根海岸にて彼親シラズも其間に在るなり。此嶮路の東西を扼したるがやがて青海町と泊町となり。右の如くなれば古の驛路は常願寺川の河口より射水川の河口までは略今の濱街道に齊しく常願寺川河口以東は凡今の國道に同じかりしなり○公式令に
 凡朝集使東海道(ハ)坂東、東山道山東、北陸道〔三字傍点〕神濟《・カムノワタリ》以北、山陰道出雲以|北〔左△〕、山陽道安藝以西、南海道土左等國、及西海道皆|乘《ノレ》2驛馬1。自餘各乘2當國馬1
とありて神濟の義解《ギゲ》に謂(フハ)越中與2越後1界河也とあり。類聚三代格卷七弘仁十年五月の太政官符の末にも遠國の例として
 東海道坂東、東山道山東、北陸道神濟以北云々
と云へり。
 ○怪しくも此處にも出雲以北とあり。以北は以西の誤ならざるべからず
越中越後の界に境川といふがあれど此川の事にはあらじ。神ノワタリは神ノミサカなどの如くカシコキ渡の義と聞えて今のサカヒ川の如き小流とは思はれざればなり。地理志料(卷三十四の十五張)に
(463) 三洲志ニ云ヘラク、今ノ境川是ナリト。愚謂フニ神名式ニ新川軍神度神社ヲ載セタリ。其祠森尻村ニ在リ。濟度並ニ和多利ト訓ズ。是神濟ナリ。森尻ハ常願寺川ノ上游ニ在リ。或ハ中古二越ノ國界タリケム。果シテ然ラバ今ノ下新川郡ハ當時越後ノ頸城郡ニ屬セシナリ。先哲或ハ神通川ヲ以テ之ニ擬セリ。附存シテ考ニ備フ
と云へり。右の文の中に地理に叶はざる事二あり。即森尻村(今は中新川郡宮川村の大字)は上市川の西岸に臨める地にて常願寺川とはいたく離れたり(其間に白岩川あり)。次に下新川郡の西界は早月川にて常願寺川にあらず。常願寺川は中郡と上郡とを隔てたるなり。地名辭書下新川郡の下(一九七六頁)には
 境川 宮崎の東境村と越後西頸城郡市振|上路《アゲロ》の間とす。古之を神濟と曰へり。大蓮華の北なる大嶽(○犬が岳か)に發す。長四里といへり。令義解《リヤウノギゲ》に越中與2越後1界河也と云へるはただ大凡に云へるにて實は彼四十八瀬の稱ある黒部川の下流を云へるにて、やがて布勢驛までは乘驛を許すと云へるにあらざるか。もし今の境川とせむには其處には驛なければ滄海驛と佐味驛との途中にて馬より下らざるべからざるにあらずや。次に主税式越中國海路の註に自2亘理湊〔三字傍点〕1漕2敦賀(464)浦1船賃云々と云へり。此亘理驛(正しくは曰理と書くべし)は小矢部川の(近世以前は射水川の)河口なる今の伏木港なり。此河港は越中國唯一の良港なり○萬葉集の編輯者なる大伴家持、天平十八年六月より天平勝寶三年七月まで六年に亙りて(滿五年の間)當國の守たりしかば同集には當國の地名の見えたる歌いと多し。さてあまたの地名を考證せむに出現順とせむか地理別とせむか五十音別とせむかとたゆたひしが讀者の便を思ひて五十音別とし、なほ末に郡別表を附する事としつ。まづ卷十八(新考三七二五頁)に
 行2英遠《・アヲ》浦〔三字傍点〕1之日作歌 安乎のうらによする白浪いやましにたちしきよせくあゆをいたみかも 右一首大伴宿禰家持作之
とあり。英遠は今の氷見郡(もとの射水郡の内)に阿尾村大字阿尾ありて氷見町の北方に當れり。部内巡行の時(當時は能登も越中の内なりき)此處を經過せしなり。されば行英遠浦は英遠浦ニとよまで英遠浦ヲと訓むべし。因に云はむ。家持は好みてアユノ風を使へり。即アユノ風イタクシフケバといひ、アユノ風イタクフクラシといひ、アユヲイタミカモといひ、アユヲイタミといへり(三六一四、三六三五、三七二五、三九〇一頁)。さて自註して東風、越俗語東風謂2之安由乃可是1也といへり(三六三五頁)。抑アユノ風アイノ風アエノ風(465)は越俗のみならず今も諸國に行はるる語にて國によりて東風又は北風又は東北風を指すなり(柳田國男著風位考)。さて越中國は四季を通じて北東の風多しといふ(富山縣一〇頁)○卷十九の詠白大鷹歌の中に秋ヅケバ、ハギサキニホフ、石瀬野〔三字傍点〕ニ、馬太伎ユキテとよみ(三八三〇頁)又留別の歌に
 伊波世野に秋はぎしぬぎ馬なめてはつとがりだにせずやわかれむ
とよめり(三九三九頁)。イハセ野は和名抄新川郡の郷名に石勢あれば神通川の下流の右岸にて略富山市と東岩瀬町との間ならむ(今の西岩瀬即婦負郡|四方《ヨカタ》町大字西岩瀬も近古以前は神通川の右岸なりきといふ)。次に射水川〔三字傍点〕は多くよまれたり。即卷十七に伊美都河、イユキメグレル、タマクシゲ、フタガミ山ハ(三五八五頁)伊美豆ガハミナトノスドリ(三五九四頁)伊美豆ガハキヨキカフチニ(三六一四頁)卷十八に射水河ナガルミナワノ(三七五五頁)射水河ユキゲハフリテ(三七七九頁)卷十九に
 朝床にきけばはるけし射水河朝こぎしつつうたふふな人
などよめり。近世以前は小矢部川と庄川との下流相合したりしにて國府はその河口の西に近かりしなり。又卷十八(三六九六頁)に射水郡驛館〔五字傍点〕之屋柱題著歌あり。こは即曰理驛(466)にて射水川の河口の西岸、國廳の東方に在りしなり。新考に云へる所は誤れり○卷十七(三六四一頁)に
 婦負郡渡2※[盧+鳥]坂河〔三字傍点〕1時作歌 宇佐可がはわたる瀬おほみこのあが馬のあがきの水にきぬぬれにけり
とあり。前後四首は部内巡行の時の作なり。神名帳に鵜坂神社あり。又今富山市の西南に鵜坂村ありて東、神通川に至り西その支源なる井田川に至れり。三州志以下ウサカ川を神通川の事としたれど此歌の次なる賣比川が神通川なればこは別ならざるべからず(地名辭書には此川をも賣比川をも神通川の事とせり)。恐らくは井田川ならむ。井田川は室牧川の下流にて八尾《ヤツヲ》町・鵜坂村などの西を流れ富山市の西にて神通川に合せり。次に卷十七なる遊2覽布勢水海1賦(三五九〇頁)の中にマツダエノ、ナガハマスギテ、宇奈比ガハ〔五字傍点〕、キヨキ瀬ゴトニ、ウガハタチ、カユキカクユキ、見ツレドモ、ソコモアカニト、布勢ノウミニ、船ウケスヱテ云々とよめり。和名抄射水郡郷名に宇納(宇奈美)とあり。地名辭書に
 納は網の誤なるべし。納にては奈美に假借し難し
といへるはいとわろし。宇網と書かむには音訓混用にあらずや。又網をナミに充つべけ(467)むや。按ずるに納の音はナフ、之を轉じてナヒに充て後それをナビと濁り又其後にナミと訛りしなり。ウナヒ(ヒは或は清み或は濁れり)は元來海濱といふ事、ウは海の略、ナは之の轉(例はウナガミ・ウナバラなど)ヒは邊の古言なり。今氷見郡に宇波村大字宇波ありて氷見町の東北に當れる海岸に臨みて能登國界を去ること二里許なり。宇納郷は此宇波村附近にて宇奈比川はその宇納郷を過ぐる川ならむとは誰も思ふべき事にて現に三州志以下皆然認めたり。然るに彼歌にマツダ江ノ、長濱スギテ、宇奈比河、清キ瀬毎ニ、鵜河タチ、カユキカク行キ、見ツレドモ、ソコモ不飽ト、布勢ノ海ニ、船ウケスヱテとよめるを味はふに國府の次がマツダ江ノ長濱、その次がウナヒ川、その次が布勢ノウミなる如く聞えてウナヒ川が布勢湖より彼方にあるやうには思はれず。或は此歌の趣を布勢湖に赴く途中のやうに聞做すが誤にて湖を廻りて其北方なるウナヒ川に到りて鮎獵を催ししが面白からざるに由りて布勢湖までもどり來し趣にや。次に同卷なる大伴池主が家持の上京を送りし長歌の中(三六一九頁)にミワタシノ、宇能波奈夜麻〔六字傍点〕ノ、ホトトギス、ネノミシナカユとあり。今埴生村大字道林等の西なる山を卯花山と稱すれど右の歌に見えたる卯花山は地名にはあるべからず。又同卷なる哀2傷長逝之弟1歌の反歌(三五三八頁)に(468)コシノ海ノアリソノ浪モ見セマシモノヲ、又布勢水海賦の和歌(三五九四頁)にシブタニノアリソノサキニとよめる此等のアリソをも國人は名所として今氷見町東南の海邊一帶の稱とせり。卷十九(三九二〇頁)なる雪島が島の名にあらで雪中の庭園といふ事なる由は夙く新考に云ひおけり○卷十七なる立山賦の中(三六〇二頁)にオバセル、可多加比ガハ〔六字傍点〕ノ、キヨキ瀬ニ、アサヨヒゴトニ、タツ霧ノ、オモヒスギメヤとあり。カタカヒ川は今片貝川と書く。立山連峯の一なる瀧倉が岳より發し下新川郡の西部を貫きて富山灣に注げり。當國七大川の一なり。さて家持は立山に登らずして此川の邊より遠望せしなり○卷十九なる潜※[盧+鳥]歌(三八三五頁)にアシヒキノ、山下トヨミ、オチタギチ、ナガル辟田ノ、河〔四字傍点〕ノ瀬ニ、アユコサバシル云々と見え反歌にも
 年のはに鮎しはしらば左伎多河※[盧+鳥]やつかづけて河瀬たづねむ
と見えたるに就いて新考に
 澁谷の附近なる西田《サイタ》といふ處(○氷見郡太田村の大字)にモミヂ川といふ小流あり。いにしへは川幅廣かりきといふ。サキタ川はおそらくは是なるべし
と云へるに對してモミヂ川は細流にて鮎の住むべき川にあらずといふ難も聞ゆれど(469)いにしへ廣瀬なりしが狹き瀬となり、いにしへ石川なりしが泥川となれる類諸國に例あるにあらずや。但實地を熟知せる氷見郡の人嶋畑氏は紅葉川の北なる澁谷川ならむと云へり。其處も西田の内にや○シブタニも多くよまれたり。即卷十七なる二上山賦(三五八五頁)にスメガミノ、スソミノ山ノ、之夫多爾〔四字傍点〕ノ、サキノアリソニとあり。スメ神は二上神のうしはきたまへる二上山を云へるなり。又布勢水海賦(三五九〇頁)にシラナミノ、アリソニヨスル、之夫多爾ノ、サキタモトホリ、同上和歌に之夫多爾ノ、アリソノサキニ、オキツナミ、ヨセクル珠モ、卷十九の題辞(三八三九頁)に過2澁溪埼〔三字傍点〕1見2巖上樹1歌また布勢湖を遊覽しての歸路の作(三八九〇頁)に之夫多爾ヲサシテワガユクなどあり。澁溪は二上山脈の東北麓の海に臨める處にて氷見郡太田村の大字なりしが新圖に見えぬは雨晴《アマハラシ》とや名を更へたる。此處に自然の岩屋根ありて源義經が奥州落の時その陰に入りて雨を避《ヨ》ききと云ひ傳へたり。是に由りて地名をアマハラシといふなるが由緒正しき澁溪といふ名を棄ててかかる奇名を取れるは理由ある事にや。此地の海岸の寫眞は富山縣寫眞帖に見えたり。第五十一圖義經雨霽とあるもの即是なり。家持の聲望は義經に及ばぬにや呵々。次に卷十七なる天平二十年正月二十九日家持作歌四首の第四(三六三七頁)に
(470) こしのうみの信濃のはま〔五字傍点〕をゆきくらしながき春日も忘れておもへや
とあり。第一首に奈呉ノアマノとよみ第二首に奈呉ノ江ニとよみたれば(第三首には地名なし)シナヌノ濱もナゴノ江即放生津潟とコシノ海即富山灣との間ならむ。地名辭書に
 信濃濱といふも此邊(○澁溪)の古名とす。近世魚津の邊に信濃濱の名所を説くものあり。然れども當時遊覽の地區が國府布勢の間なれば魚津の濱にはあらず
と云へり。魚津説を斥けたるは可なれど「當時遊覽の地が云々」と云 へるは萬葉集を見る事のおろそかなりし爲ならむ○卷十七思2放逸鷹1歌の反歌(三六三二頁)に
 こころにはゆるぶことなく須加能夜麻〔五字傍点〕すかなくのみやこひわたりなむ
とあり。古義に「源平盛衰記三十に越中國に須川山と云あり是なるべし」と云へれど彼書に須川林また須川山と見えたるは加賀國の南端なる江沼郡の南部の地名なれば無論別なり。越路の栞といふ書に「礪波郡宮島村の字|須川《スガ》の山なるべし」といへるも非なり。天平寶字三年の東大寺越中國諸郡庄園總券に射水郡須加村・須加山・須加里見え同地圖に須加野見え(大日本古文書卷四)神護景雲元年の同墾田地檢校帳に須加庄見え同墾田野(471)地圖目録帳に須加村見えたり(同書卷五)。されば須加山は射水郡の内なり。次に卷十九なる天平勝寶二年三月二日家持が家に在りて作りし九首の中の聞2曉鳴雉1歌(三八二六頁)に
 ※[木+媼の旁]の野〔三字傍点〕にさをどるきぎしいちじろくねにしもなかむこもりづまかも
とあり。スギノ野は二上山麓の野と思はる○卷十七に立山〔二字傍点〕賦・同上和歌見え(三六〇二及三六〇八頁)またタチ山ノ雪トクラシモとよめる歌あり(三六四三頁)。いづれも多知夜麻と書きたれば立山はタテヤマとよまでタチヤマと訓むべし。今も正しく唱ふる人もありと見ゆ(此國出身の横綱力士に太刀山といふがありき)。次にタコ〔二字傍点〕は布勢湖に屬せる地の名なるが島とも埼とも灣とも浦とも云へり。即卷十七思2放逸鷹1歌(三六二四頁)に
 麻都太要《マツダエ》の、はまゆきくらし、つなしとる、比美の江すぎて、多古のしま、とびたもとほり、あしがもの、すだく舊江に、をとつ日も、きのふもありつ云々
とよみ卷十八至2布勢水海1遊覽歌(三六八三頁)に多胡ノサキコノクレシゲミとよみ卷十九に船泊2於多※[示+古]灣1望2見藤花1作歌とありて多※[示+古]ノ浦ノ底サヘニホフ藤ナミヲまた多※[示+古]ノ浦ニサケル藤ミテとよめり。思ふにタコといふ處は湖水に臨める地にて恐らくは半(472)島なりけむ。今氷見郡宮田村の大字に上田子下田子あり。今は十二町潟より一里許離れたれど古は湖水此邊まで達せしならむ。宮田村は太田村の西に隣れり。タコのコは清みて唱ふべきか。大字の田子はタゴとは濁らずといふ。次に卷十八なる彼遊覽歌(三六八〇頁以下)にカムサブル多流比女〔四字傍点〕ノサキコギメグリまた多流比賣ノウラヲコギツツまた多流比女ノウラヲコグフネとよみ又卷十九なる遊覽長歌(三八七二頁)に
 布勢の海に、小船つらなめ、まかいかけ、いこぎめぐれば、乎布の浦に、霞たなびき、垂姫に、藤浪さきて、濱きよく、白浪さわぎ云々
とよめり。今タルヒメといふ地名は殘らず。思ふに夙く湖岸より遠ざかりしにこそ○卷十九(三八二二頁)なる
 もののふの八十をとめらがくみまがふ寺井〔二字傍点〕のうへのかたかごの花
とある寺井は地名にはあらで國府附近の名水の稱ならむ。寺といへるは或は國分寺か。國分寺址も今の伏木町の内なり。大字に國分《コクブ》あり○卷十七(三六四〇頁)に礪波郡〔三字傍点〕雄神河邊、卷十八(三八一五頁)に礪波郡主帳多治比部北里之家と見え卷十九なる越前掾大伴池主に贈りし歌(三八六四頁)に君トワレヘダテテコフル利波山〔三字傍点〕云々とあり。當時加賀は越(473)前の内なりしかば礪波山は越前と越中とを隔てしなり。卷十七なる池主が家持の別を送りし歌(三六一九頁)に刀奈美ヤマ、タムケノカミニ、ヌサマツリ、アガコヒノマク云々とあり。此神は埴生村大字石坂の西なる矢立山の麓などにまししか(官道が石坂を經しは豐臣秀吉の佐々征伐以來にて古は矢立山の南麓より所謂矢立道を經て東南に向ひしなりといふ)。地名辭書に加賀國河北郡倶利加羅村大字|竹橋《タケノハシ》の東一里餘の路傍にある手向神社を之に擬したれどそは加賀より越中に下る人の手向する神にこそあらめ。ここに云へるは三代實録元慶二年五月八日の下に云へる越中國手向神なり。又卷十八なる家持が東大寺の使僧平榮の別を送りし歌(三七一七頁)に
 やきだちの刀奈美のせき〔六字傍点〕にあすよりは守部やりそへ君をとどめむ
とあり。三州志に
 土人云。今石坂新村(○今の埴生村大字石坂)ヨリ七町南ニ安居山觀世音ノ石碑アリ。此處左右ハ高キ畑ニテ中通リハ低キ山田ナリ。即チ古ノ關跡トナリ。故ニ今モ此邊ヲ關畑トモ呼ビ或ハ關ノ谷内《ヤチ》トモ呼ブ。今此地蓮沼村ノ農夫ニ關五郎右衛門卜云故家アリ。古ノ關守ノ後卜云
(474)といへりと云ふ。蓮沼も亦西礪波郡埴生村の大字なり○奈呉〔二字傍点〕は卷十七に奈呉ノアマノツリスルフネハ、また奈呉ノウミノオキツ白浪、また奈呉ノ江ニツマヨビカハシタヅサハニナク(三五三二、三五八九、三六三六頁)卷十八に
 奈呉のうみの船しましかせおきにいでて浪たちくやと見てかへりこむ
またナミタテバ奈呉ノウラミニヨル貝ノ、また奈呉ノウミニシホノハヤ干バ、また那呉ノウミノオキヲフカメテ、またタヅガナク奈呉江ノスゲノ(三六七一、三六七二、三七五五、三七七九頁)卷十九に奈呉ノアマノカヅキトルチフシラタマノ、またアユヲイタミ奈呉ノウラミニヨスル浪(三八五三、三九〇一頁)などよめり。ナゴノ海またナゴノ江は今の放生津潟なり。但今よりは遙に廣く又今の如く湖を成さずして灣を成ししなり(此潟のみならず日本海沿岸の湖は皆然り)○卷十七(三六四三頁)に新河郡〔三字傍点〕見え同卷なる立山賦(三六〇二頁)に爾比河波ノソノタチヤマニと見えたり。云ふべき事ははやく云ひつ○卷十七(三六四三頁)に新河郡渡2延槻《・ハヒツキ》河〔三字傍点〕1時作歌とありて
 たちやまの雪とくらしも波比都奇のかはのわたり瀬あぶみつかすも
とよめり。今中新川郡と下新川郡との間を流るる早月川なり。此川は當國七大川の一に(475)て立山山彙の大日岳より發せり○卷十七なる思2放逸鷹1歌にツナシトル比美乃江スギテとあり。氷見湖の入江なり。今の氷見町は湖の口に當れり○二上山〔三字傍点〕は卷十七なる集3于守大伴家持館1宴歌(三五三一頁)にフタガミヤマニツキカタブキヌとあり。家持の館は國府の内にぞ在りけむ。同卷に二上山賦ありて題下に此山者在2射水郡1也と註し歌にイミヅガハ、イユキメグレル、タマクシゲ、フタガミ山ハとよめり。射水川は山の東南麓を流れたり。又同卷にフタガミヤマニナク鳥ノ(三五八七頁)フタガミヤマニハフツタノ(三五九〇頁)フタガミヤマニ、カムサビテ、タテルツガノ木(三六一四頁)二上ノ山トビコエテ(三六二四頁)二上ノヲテモコノモニ網サシテ(三六三一頁)とよみ卷十八にフタガミノヤマニコモレルホトトギスとよみ(三六九八頁)卷十九(三九二七頁)に
 二上のをのへの繁《シゲ》にこもりにしそのほととぎすまてど來なかず
などよめり三上山は標高僅に二五九米なれども山容秀麗なる上に近く國府の西北に聳えたればかく多く歌によめるなり。二上は二神の借字なり。二峯あるが故に二神と(山をやがて神と認めて)いふなり東峰の麓に二上神社あり、西峯の上に守山城ありし事略上に云へる如し。今の射水郡と今の氷見郡とは此山の峯を界とせり。次に布勢湖〔三字傍点〕は卷十(476)七(三五九〇頁)に遊2覽布勢水海1賦ありて題下に此海者在2射水郡舊江村1也と註し歌に布勢ノウミニ、フネウケスヱテ、オキベコギ、邊ニコギ見レバとよみ反歌に布勢ノウミノオキツシラナミとよめり。又同卷(三五九四頁)にウラグハシ、布勢ノミヅウミニ、アマブネニ、マカヂカ伊ヌキとよめり。卷十八(三六七三頁)にも
 いかにある布勢のうらぞもここだくに君がみせむと我をとどむる(田邊|福《サキ》麿作)
とよみ又(三六七五頁)布勢ノウミノウラヲユキツツ玉モヒロハム又
 おとのみにききて目に見ぬ布勢のうらを見ずばのぼらじ年はへぬとも
 布勢のうらをゆきてし見てばももしきの大宮人にかたりつぎてむ(共福麿作)
また敷勢ノウラミノフヂナミニなどよめり。又卷十九(三八七二頁)にも遊2覽布勢水海1作歌見えて布勢ノ海ニ、小船ツラナメ、マカイカケ、イコギメグレバとよみ又遊2覽布勢水海1般泊2於多※[示+古]灣1望2見藤花1歌あり(三八八四頁)。萬葉集に見えたるのみにても家持は四たび此湖に遊びき。即天平十九年四月二十四日と、同二十年三月二十五日と、勝寶二年四月六日と、同月十二日となり(三五九三、三六七九、三八七二、三八八四頁)。最後の時の前回と僅に五日を隔てたるは藤花の盛に逢はむとなるべし。布勢湖は今十二町潟又氷見潟といふ。(477)鬼蓮の繁茂せるによりて有名なる沼なり。古はいと廣く又大いに口を開きたりしに海陸雙方より埋もれて今の如くにはなれるなり。一本盛衰記卷二十九に
 但十郎藏人殿(○源行家)ノ志保(○能登國志雄山)ノ戰コソ覺束ナケレ。イザヤ行キテ見ン。トテ……馳向フ。爰ニ氷見湊〔三字傍点〕ヲ渡ラントシ給ヒケルガ折節潮滿テ深サ淺サヲ知ザリケレバ木曾殿先|謀《ココロミ》ニ鞍置馬十疋許追入ラレタリケレバ鞍爪ヒタル程ニテ相違ナク向ノ岸ニゾ著ニケル
とある是湖口なるべし。クラヅメは鞍橋《クラボネ》の下端なり。和名抄射水郡の郷名に古江〔二字傍点〕と布西〔二字傍点〕とあり。さて卷十七の註に此海者在2射水郡舊江村1也とあると湖の名を布勢といひしとを思へば此湖は古江郷と布西郷とに圍まれたりしなり。その二郷の關係は如何といふに國府より澁溪を過ぎ辟田《サキタ》川を渡りなどして到著せし處が古江郷にて布西郷は奥の方ならむ。即古江は今の神代《カウジロ》村・太田村などにて布西郷は今の布勢村・十二町村などなるべく今の氷見町の少くとも一部は古の湖口の底ならむ。次に舊江村〔三字傍点〕は卷十七思2放逸鷹1歌にツナシトル、比美ノ江スギテ、多古ノシマ、トビタモトホリ、アシガモノ、スダク舊江ニ、ヲトツ日モ、キノフモアリツとよみ卷十九(三八三八頁)に季春三月擬2出擧之政1行2於舊江(478)村1と書けり。擬は托なり。舊江は和名抄の古江郷なり○卷十七なる布勢水海賦(三五九〇頁)にシラナミノ、アリソニヨスル、之夫多爾ノ、サキタモトホリ、麻都太要〔四字傍点〕ノ、ナガハマスギテ、宇奈比ガハ、キヨキ瀬ゴトニ、ウガハタチ云々とよみ同卷思鷹歌(三六二五頁)にナガコフル、ソノホツタカハ、麻都太要ノ、ハマユキクラシ、ツナシトル、比美ノ江スギテ云々とよめり。マツダ江は恐らくは今の太田村の内ならむ。但今は地名も傳はらず。入江はた跡を失へり。恐らくは夙く埋没しけむ。或は云ふ海底に沈みしなりと○また思鷹歌に三島野〔三字傍点〕ヲ、ソガヒニ見ツツ、二上ノ、山トビコエテと見え又卷十八(三七七一頁)に
 更矚目 美之麻野にかすみたなびきしかすがにきのふもけふも雪はふりつつ
と見えたり。後者は館ながらの矚目と思はる。さて和名抄射水郡郷名に三島あり。地名辞書には之を今の高岡市の東方なる大門町・二口村・大島村・小杉町に充てたり。三島郷はともかくも三島野は歌の調より推して二上山の南麓小矢部川の左岸なるべくおぼゆ。恐らくは三島郷も二上山脈と小矢部川との間の地域ならむ○婦負郡〔三字傍点〕は卷十七(三六四一頁)に見えメヒノ野・メヒ川は同卷(三六三四頁、三六四二頁)に
 賣比能野〔三字傍点〕のすすきおしなべふる雪に宿かるけふしかなしくおもほゆ(高市《クケチ》黒人作)
(479) 賣比がは〔四字傍点〕のはやき瀬ごとにかがりさしやそとものをはうがはたちけり
と見えたり。メヒ川は今の神通川にてメヒノ野は其川の左岸の平野なり。神通川は今も盛に鮎を産し其點は美濃の長良川のと共に御料に供せらる○卷十八(三八一六頁)に礪波郡の主帳の家に宿してよみし
 夜夫奈美のさと〔七字傍点〕にやどかりはるさめにこもりつつむと妹につげつや
といふ歌あり。今西礪波郡に埴生村の東南、小矢部川の左岸に籔波村あり。但新名なり。神名帳礪波郡に荊波《ヤブナミ》神社あり。今のいづれの社にか未明ならず○卷十七(三六四〇頁)に
 礪波郡雄神河〔三字傍点〕邊作歌 乎加未がはくれなゐにほふをとめらし葦附とると湍にたたすらし
とあり。雄神川は庄川の上流なり。東礪波郡に此川の右岸に今雄神村あり。但新名なり。大字に庄あり。この庄ぞ今の河名の原なる。さてその庄に神名帳の雄神神社あり。次にヲフノ埼・ヲフノ浦といふ名見えたり。即卷十七なる布勢水海賦の和(三五九四頁)に乎布ノサキ花チリマガヒとよみ卷十八に家持が田邊福麿をそそのかして
 乎敷のさきこぎたもとほりひねもすに見ともあくべき浦にあらなくに
(480)とよみ(三五七四頁)さて遊覽せし時に福麿が
 おろかにぞわれはおもひし乎不のうらのありそのめぐり見れどあかずけり
とよめり。卷十九なる遊2覽布勢水海1歌(三八七二頁)にも乎布ノ浦ニ、霞タナビキ、垂姫ニ、藤浪サキテとよめり。今は並々の田面とぞなりたらむ。名だにも殘らず○卷十七以下三卷に見えたる當國の地名は右にて説き恁したる如し。此外に卷十六(三四五六頁以下)に越中國歌四首とありて
 大野路は繁|道〔左△〕《シゲミ》森徑《モリミチ》しげくとも君しかよはば徑はひろけむ
 澁溪の二上山に鷲ぞ子《コ》産《ム》ちふ、さしはに毛〔左△〕《ト》君が御爲にわしぞ子生ちふ(○旋頭歌)
 いや彦、おのれかむさび青雲のたなびく日すらこさめそぼふる
 いや彦の神のふもとにけふらもか鹿のふすらむ皮のきぬ著て、角附ながら(○佛足石體)
とあり。大野路〔三字傍点〕は和名抄礪波郡の郷名に大野あり。其地を經て來る路なるべし。郷の址は今知られず。シブタニノ二上山は二上山ノシブ谷なり。イヤ彦〔三字傍点〕は越後國西蒲原郡に在りて國幣中社彌彦神社のある山なり。此地名が越中國歌に見えたるは越後の西南部は大(481)寶二年までは越中に屬せしが故なり。之を思へば此四首の歌は大寶二年以前の作なり。宜なり其調の蒼古なる○右の外に卷十二(二七〇八頁)に
 み雪ふる越の大山〔四字傍点〕ゆきすぎていづれの日にかわが里を見む
とあり。和名抄婦負郡の郷名に大山あり。其地は今の何處にか知られねど當郡の官道は坦々たる縁海路なれば歌の大山は決して當郡にあらず。思ふに大山は山の高きを云ふ外に山路の長きをも云ふべければ歌の大山は或は越前の愛發《アラチ》山にあらざるか。ともかくも新考に白山かと云へるは抹殺すべし
 ○山中を大山と云へる例は景行天皇紀四十年に然日本武尊披v烟凌v霧遙|徑《ワタル》2大山1既逮2于峯1而飢之、食2於山中1云々と云へり。こは信濃と美濃との界なる今の神坂峠にて地勢愛發山に似たり
○豫定の如く左に郡別表を掲げむ
 西礪波郡  利波山 礪波關 夜夫奈美能里
 東礪波郡  雄神河
  礪波郡  大野路
(482) 氷見郡 英遠浦 宇奈比河 辟田河 澁溪 多古埼(又灣又浦又島) 垂姫埼(又浦) 比美乃江 布勢水海(又浦) 麻都太要 乎布乃埼(又浦)
  射水郡  射水河 射水郡驛館 信濃濱 須加乃山 ※[木+媼の旁]野 奈呉海(又江又浦) 二上山 三島野
  婦負郡  ※[盧+鳥]坂川 賣比野 賣比川
 上新川郡  石瀬野
 中新川郡  立山 延槻河
 下新川郡  可多加比川
  非地名  荒磯 卯花山 寺井 雪島
                   (昭和十二年十月三十日稿)
 
(483)   越後國
 
西は越中に、南は信濃上野に、東は岩代に、東北は羽前に隣り西北は海に面せり。近古以来上下又は上中下に分てども其境界漠然たり。但西南を上とし東北を下とせり。民部式に
 越後國 上 菅 頸城・古志・三島・魚沼・蒲原・沼垂・石船
とあり。又和名抄に
 越後國(國府在2頸城郡1) 管七 頸城(久比岐)古志・三島(美之末)魚沼(伊乎乃)蒲原(加無波良)沼垂(奴太利)石船(伊波布禰)
とあり。抄の訓註の中伊乎乃は伊乎奴とあるべし。野・角などこそあれ沼のヌは後世といへどもノとはならざればなり。イヲノと訓註したるは地方の訛稱に從へるならむ。蒲原も初にはカマハラとこそ唱へけめ。カンバラと唱ふるはそれも邊土の訛なり。上國にてはマをンに轉ずる事は無し。さて夙く古志《コシ》の西部を分ちて山東郡とし、三島を刈羽に改め、沼垂を蒲原に併せしかば同じく七郡ながら頸城・古志・山東・刈羽・魚沼・蒲原・岩船となりたりしを
(484) ○寛文四年に山東の字を三島に改めし爲にもとの三島《ミシマ》郡と新しき三島《サンタウ》郡と字の上にては同一となりていとまぎらはし。然も兩郡相隣れるをや。機會あらば三島《サンタウ》郡は西古志と改むるか又は山東に復すべし。然らずば後に三島《サンタウ》をミシマと訓む事となりて益紛糾すべし(大隅國姶良郡・薩摩國伊佐郡・安藝國高宮郡・同沼田郡參照)
明治十三年に頸城を東西中に、魚沼を南北中に、蒲原を東西南北中に分ちしかば今は西頸城・中頸城・東頸城・刈羽・三島《サンタウ》・古志・中|魚沼《ウヲヌマ》・北魚沼・南魚沼・西蒲原・南蒲原・中蒲原・北蒲原・東蒲原・岩船の十五郡となれり。魚沼を今ウヲヌマと唱ふるは字に引かれて古來の稱呼を失へるなり。十五郡中西南端なるは西頸城にて東北端なるは岩船なり。又海に沿ひたるは西頸城・中頸城・刈羽・三島《サンタウ》・西蒲原・中蒲原・北蒲原・岩船の八郡なり。北陸道は三島《サンタウ》郡の寺泊町にて終れり。なほ後にいふべし○國府の在りし處は中頸城郡の内にて今の直江津町の西南部なり。但其地點は明ならず○兵部式に
 驛馬 滄海八疋、鶉石・名立・水門・佐味・三島・多大・大家各五疋、伊神二疋、渡戸船二隻
 傳馬 頸城・古志郡各八疋
とあり。右の内佐味・三島・大家に對しては頸城郡に佐味郷、三島《ミシマ》郡に三島郷、古志郡に大家(485)郷あり。滄海〔二字傍点〕はアヲミと訓むべし。今の西頸城郡|青海《アヲミ》町なり。此驛の馬數の特に多きは次
驛越中國新川郡佐味驛との距離遠く又其間の嶮路なるが故なり。次に鶉石〔二字傍点〕は同郡|能生谷《ノフダニ》村に大字鶉石あり。但驛路が此大字を經しかなほ研究を要す。次に名立〔二字傍点〕は同郡|名立《ナダチ》町なり。次に水門〔二字傍点〕はミナトと訓むべし。今の中頸城郡直江津町にて國府に近きは此驛なり。次に佐味〔二字傍点〕は同郡潟町村か又は同郡柿崎町か。以下四驛は佐渡に赴く爲に設けたるなり。次に三島〔二字傍点〕は今の刈羽郡柏崎町なり。次に多大〔二字傍点〕は異本並に高山寺本和名抄に多太とあり。伴信友は多支の誤として和名抄郷名三島郡多岐に充てたり。今の刈羽郡高濱町か。次に大家〔二字傍点〕はオホヤケと訓むべし。今の三島《サンタウ》郡出雲崎町なり。次に伊神〔二字傍点〕の訓は不明なり。地名辭書にはコレカミと訓みたれど地名の伊をコレと訓む例を知らず。音にてイジヌと訓むべきか。ともかくも今の三島《サンタウ》郡寺泊町にて北陸道の終驛なり。此驛の馬數の僅に二疋なるは渡戸の水驛と相接して下路には殆用なきが故ならむ。次に渡戸〔二字傍点〕はその戸は人戸の意なるべければワタベと訓むべし。即佐渡に渡る埠頭にて出雲の千酌驛家濱と相似たり○國造本紀に(若狹國造と三國國造との間に)
 高志《コシ》國造 志賀高穴穗朝御世|阿閇《アベ》臣祖屋主|男《ヲ》心命三世孫|市入《イチリ》命定2賜國造1
(486)又(伊彌頭國造の次に)
 久比岐國造 瑞籬朝御世大和直同祖|御戈《ミホコ》命定2賜國造1
 高志《コシノ》深江國造 瑞籬〔二字左△〕朝御世道君同祖素都乃奈美留命〔七字傍点〕定2賜國造1
とあり。然るに素都乃奈美留命は加宜國造の下に難波高津朝御世能登國造同祖素都乃奈美留命〔七字傍点〕定賜國造とあれば地名辭書は高志深江國造を定められしを仁徳天皇の御世の誤とせり。思ふに高志國(これを越前の内とする説もあれど)と高志深江國とは本支の關係あるべければ高志國まづ建てられ高志深江國次いで置かるべきを國造本紀の趣にては崇神天皇の御世に高志深江國建てられ成務天皇の御世に高志國置かれしにて建置の時代常識とは先後せり。さればしばらく辭書の説に從ひて成務天皇の御世に高志國建てられ中間二御世を經て仁徳天皇の御世に高志深江國置かれしものと認むべし。さて久比岐國は略、後の頸城郡なるべく又高志國は略後の古志郡なるべし。獨不明なるは高志深江國なり。或人は之を後の出羽國なりと云へれど從ひがたし。ここに崇神天皇の十年に大彦命を北陸に遣して教化を布きたまひき。久比岐國を置かれしは其結果なるべし。さて大彦命は東海に遣されし其子|武渟川別《タケヌナカハワケ》と相津(會津)にて逢ひし趣なれば(487)阿賀《アガノ》川の左岸に沿ひ上りしにて當時皇化は阿賀川の彼方に及ぶべからず。否成務仁徳二天皇の御世までも同樣なるべければ高志國と高志深江園とは阿賀川と信濃川との間にて、久比岐國とは信濃川を以て界とせしならむ。又高志と高志深江との關係は川上が高志にて川下が高志深江ならむ。深江といふは深き江あるが故なるべくその深き江のあるは海岸に近き處なるべければなり。其後に皇化漸々に東北に及びしかば和銅元年九月に新に出羽郡を建て同五年九月に始めて出羽國を置かれしなり○越後國の名の初見は文武天皇の元年十二月なり。但持統天皇の六年九月に越前國の名見えたれば越國が所謂三越に分たれしは持統天皇の御世ならむ。天武天皇の御世とせる書もあれど臆説に任せたる説なり○大寶二年三月に越中國の四郡を分ちて越後國に屬せしめられき。其四郡を星野恒氏は頸城・魚沼・古志・三島とし地名辭書には頸城・魚沼・古志・蒲原としたり。それより延喜までの間に郡界の移動・郡境の分合・郡名の變更などのありけむも知るべからねば明に四郡の名を指す事は不可能なれど越中越後の舊界は信濃川にて、四郡は古の久比岐國の地域なるべし。ともかくも舊界の今の西蒲原郡に達したりし事は萬葉集卷十六なる越中國歌の中に彌彦山をよめるにて知るべし○皇極天皇紀元年(488)九月に越邊蝦夷數千内附とあり。又孝徳天皇紀大化三年十二月に造2渟足柵《ヌタリノキ》1置2柵戸《キヘ》1とあり。又翌四年に
 是歳治2磐舟柵1以備2蝦夷1遂選d越與2信濃1之民u始置2柵戸1
とあり。渟足は後の沼垂郡にて磐舟は後の石船郡なり。沼垂郡は今の中蒲原郡の縁海の地及北蒲原郡なり。柵を置かれしは阿賀川の右方なるべし。此時皇化始めて阿賀川以北に及びしなり。柵戸はキヘと訓むべし。萬葉集卷十一に
 あらたまのきへの竹《タカ》垣あみ目ゆも妹しみえなばわれこひめやも
とあり。城下の民戸なり(新考二三五一頁參照)○地理志料頸城郡物部郷の下に
 菅原神社在2菅原村1。萬葉集所v詠越之菅原蓋是
といへるは誤なり。志料に指せるは萬葉集卷七なる
 またまつく越能菅原わが苅らず人のからまくをしきすが原
といふ歌なるがこの越はコシとはよまでヲチと訓むべきにて(マタマ ツクヲチコチカネテと同じく眞玉ヲ附クル緒とかかれるなり)そのヲチは卷二なる柿本人麿獻2泊瀬部皇女1歌にタマダレノ、越ノ大野ノ、アサ露ニタマモハヒヅチといひ其反歌にタマダレノ(489) 越野ヲスギヌとある越と同じくある處なり。萬葉集に當國の地名の見えたるは上に云へるイヤヒコと下に云ふべきイグリノモリとのみ○當國の邑里の主なるものは西頸城郡の絲魚川《イトイガハ》町、中頸城郡の高田市・直江津町、刈羽郡の柏崎町、三島《サンタウ》郡の出雲崎町・寺泊町、古志郡の長岡市、北魚沼郡の小千谷《ヲヂヤ》町、西蒲原郡の新潟市(北蒲原郡に跨れり)南蒲原郡の三條市、中蒲原郡の新津町、北蒲原郡の新發田《シバタ》町などなり。新興の町にして上記のものを凌ぐものもあるべし○當國の舊藩は左記の十一藩なり
   藩名      藩主     今ノ地名
 高田       榊原氏    中頸城郡
 長岡       牧野氏    古志郡
 新發田      溝口氏    北蒲原郡
 村上       内藤氏    岩船郡
 村松       堀氏     中蒲原郡
 與板《ヨイタ》  井伊氏    三島《サンタウ》郡
(490) 椎谷《シヒヤ》  堀氏    刈羽郡高濱町
 絲魚川      松平(越前家)西頸城郡
 黒川       柳澤氏    北蒲麻郡黒川村
 三日市      同      同   加治村
 三根山      牧野氏    西蒲原郡峰岡村
右の外幕領(代官陣屋は北蒲原郡|水原《スヰバラ》町にありき)會津領などなり。絲魚川の名は春初イトイといふ魚が海より上りて河川溝|洫《キヨク》に群游するが故にて、そのイトイは鱗の状、白絲にて卷きたる如くなれば絲魚といふと云ひ又鰭、針に似たれば痛魚といふと云ふ。此説の如くならばイトイヲガハのヲを略したるなりと云ふべけれど古きものに厭川又は挑川と書けるを見ればもとは外の名義なるが厭と書くはゆゆしく挑にてはイトイの唱に叶はざればかのイトイといふ魚に托して絲魚川とは書きそめしならむ。新發田も近古以來の擬字なるべし○當國の神社中國幣社以上なるは西蒲原郡なる國幣中社彌彦神社のみ。大國なるに拘はらず名祠の少きは國の開けしが遲き爲ならむ。但神名帳に見えたるは五十六座(内大一座)なり○延喜式主税上に越後國海路(自2蒲原津湊1漕2敦賀津1(491)船賃云々)とあり。蒲原津は信濃川の河口の右岸即新潟の對岸に在りしが近古に至りて流失しきと云ふ。又今の新潟市の内の蒲原は昔の蒲原津の南方に當れりといふ○袖中抄卷十九ははき木の條に
 今勘2國史1云。陽成天皇元慶四年云。弘仁十三年(○嵯峨天皇御世)國分寺尼法光爲v救2百姓濟度之難1於2越後國古志郡渡戸濱〔三字傍点〕1建2布施屋1施2墾田四十餘町渡船二隻1令3往還之人得2其穩便1。而年代積v久無2人勞1v濟、屋宇破損田疇荒廢。望請被v充2越後國※[人偏+搖の旁]五人1永令2預守1云々
とあり。此文三代實録に見えず。濟度は佐渡島に渡る事、古志郡|渡戸《ワタベノ》濱は今の三島《サンタウ》郡寺泊、布施屋は無料宿泊所、穩便は便利、勞濟は所謂濟度に努力する事、※[人偏+搖の旁]は夫役《ブヤク》即義務奉仕の人夫なり。右の渡戸濱は渡戸驛家と同處なれど右の施設は驛制とは關係なし。驛制にて渡戸の水驛に船二隻を備へたれど其船に乘り得るものは驛使のみにて驛使以外特に平民は常に宿と船とを得るに困難すれば法光尼は奇特にも宿と船とを設けて佐渡に渡る人をして便利を得しめ又其施設の永續を期して莫大の墾田を寄附せしなり○萬葉集卷十七に
 古歌一首(大原高安眞人作) いもが家に伊久理のもりの藤の花今こむ春も常かくし(492)見む
とあり。神名帳蒲原郡に伊久札神社とあり又和名抄蒲原郡の郷名に勇礼(以久礼)とある是なり。イグリがイグレに轉ぜしなり。久は濁りて唱ふべし。勇の一昔イグなればなり(香《カグ》山・望多《マグタ》・安相《アサグ》などを思へ)。今の南蒲原郡井栗村大字井栗はやがて勇礼郷の名を殘せるなり。この井栗を老人は今もイグレと唱ふと云ふ(門人外山且正談)。今同處に伊久礼神社あれど、もとは字藤の木といふ地に在りしを今の地に移ししなりといふ(新考三五三〇頁參照)
 
    八坂丹
 
越後國風土記曰。八坂丹ハ玉名。謂2玉色青1故云2青八坂丹玉1也(○釋日本紀卷六述義二、神代上八坂瓊之五百箇御統〔八坂〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 無きにはまされど物足らぬ逸文なり。思ふに本文に青八坂丹玉とありけむが註(493)なるべし。ヤサカニは古典に八坂瓊とも八尺瓊とも書けり。八坂は八尺の借字にて大きなる玉をいふと云ふが通説なれど恐らくは八坂も八尺も共に借字にて本義は彌榮瓊ならむ(西海道風土記逸文新考二七頁參照)。丹は瓊の借字なり。ニとタマとの別は知らねどニを赤玉なりといふ説の非なる事は此處に青八坂丹玉といへるにても知るべし。さて釋紀天之瓊矛の註に蓋古者謂v玉或爲v努《ヌ》或爲v貳《ニ》といへるは從はれず。瓊の本語はニにて、そが瓊矛などの如く下に續く時にヌに轉ずるにて、なほ國が下に續く時にクヌ(國處《クヌガ》即陸などの如く)となる類ならむ(彼書三三頁參照)○謂玉色青は謂フハ玉ノ色青シと訓まで玉ノ色ノ青キヲ謂フガ故ニ青八坂丹玉ト云ヘルナリと訓むべし
 ○ニとタマとの別はニは質についての名、タマは形についての稱にや。即タマは圓き瓊をいふか。ともかくも後にはタマが總名となりて圓からぬをも云ふ事となれるなり。なほ云はばニは質に就いての名なれば眞珠には亙らざらむ。即眞珠をニと云へる例なからむ
 
(494)    八掬脛
 
越後國風土記曰。美麻紀天皇御世越國有v人名(ハ)八掬脛《ヤツカハギ》(其脛長八掬、多力太強。是|出〔左△〕《土》雲之後也)。其屬類多(○釋日本紀卷十述義六、景行天皇紀以七掬脛爲膳夫〔七字傍点〕之註所v引)
 
 新考 美麻紀天皇は崇神天皇の御名御間城入彦|五十瓊殖《イニエ》天皇の略なり。此天皇の十年に大彦命を北陸に遣しき。八掬脛の事は其時の見聞ならむ○脛の長きは跳るにも走るにも利なれば古人は脛の長きを稱せしならむ。景行天皇紀四十年の七掬脛(古事記に久米直之祖租名七拳脛とあり)のみならず孝徳天皇白雉四年紀に大使大山下高田|首《オビト》根麻呂(更名《マタノナ》八掬脛)とあり又姓氏録に竹田連|神魂《カムムスヒ》命十三世孫八束脛命之後也とあり。彼長髄彦も神武天皇紀に
 長髄是邑之本號焉。因亦以爲2人名1。及3皇軍之得2鵄瑞1也、時人仍號2鵄邑《トビノムラ》1。今云2鳥見《トミ》1是訛也
(495)とありて其妹|三炊屋《ミカシギヤ》媛の一名を長髓媛といひしを思へば長スネは地名なる如くにも思はるれどなほ脛の長きをたたへてナガスネ彦といひしにて、たとひナガスネといふ地名ありとも人名が本、地名が末にあらじか。さて八掬即ヤツカは八握なり○纂訂古風土記逸文に出雲にツチグモと傍訓せり。思ふに土雲の誤字と認めたるならむ(以上二節共に考證には見えず)。此説めでたし。土蜘蛛は古事記神武天皇の段|忍坂《オサカ》大室の處にも土雲〔二字傍点〕と書けり。土蜘蛛は一種の先住民族にて恐らくは今のアイヌの祖先ならむ。越國特に越後國には元明天皇の御世までもなほあまたの蝦夷住みたりき○上野國利根郡後閑村に八掬脛社あるはこの越の八掬脛と關係あるか。又は彼羊太夫傳説中の八掬脛をいつけるか(昭和十二年十一月十八日稿)
 
(496)   佐渡國
 
佐渡は越後の海中に在りて新潟の西、寺泊の西北に當れり。大日本地名辭書に
 此島は地形二條の山脉より成り東北より西南に并馳するを以て其前(○東南)なる卑小の山を小佐渡と名づけ後(○西北)なる高峻の山を大佐渡と名づく。其大佐渡小佐渡の間なる沖積層の平野を國中《クニナカ》と號す。國中の左右に海水灣入し島の形法馬に似たりと書けるは要領を得たり。島の形げに法馬即|分銅《フンドン》又は絲卷を斜に据ゑたるに似たり。左右の灣人の東北なるを兩津灣といひ(灣底に夷町湊町の二津あり。よりて兩津灣といふなり)西南なるを眞野灣といふ。又島の右岸(北に向ひての右)を内浦又内海府《ウチカイフ》(北端)東濱・東浦・前濱・内三崎(西南端)といひ左岸を外海府《ソトカイフ》・西濱・西浦・外三崎といふ。又島の東北端を彈《ハジキ》崎といひ西南端を澤崎といふ。川の最大なるは南岸に注げる羽茂《ハモチ》川と眞野灣に注げる國府《コフ》川とにて山の最高きは大佐渡の金北山・五月雨山・金剛山・檀特山、小佐渡の經塚山・一頭山(一ノツンボリ)などなり。兩津灣の奥に加茂湖あり。天然の砂堤に由りて外海と隔離せられたり。夷町(北)と湊町(南)とは其砂堤の上に發達したる邑里なり(今合して兩津町とい(497)ふ)。兩町の間に狹き水道ありて湖海の交通を許せり。然も加茂湖は淡水湖なり○古事記神代國生の段伊伎嶋・津嶋の次に次生2佐度嶋1とありて此島は所謂八嶋《ヤシマ》の一なり。日本紀には筑紫洲の次に
 次雙3惺隱岐洲與2佐渡洲1。世人或有2雙生者1象v此也《コレニカタドリテナリ》
とありて隱岐と佐渡とを合せて八洲の一と認めたり。茲に注目すべきは古事記に八島中七島まで一名即擬人名を擧げたるに佐渡嶋のみは一名を擧げざる事なり。こは記傳に云へる如くたまたまに落ちたるならむ。別名を建日別《タケヒワケ》といふといへるは妄説なり(記傳二四四頁參照)。名義は諸説あれども宣長が狹門《サド》の義とせるに從ふべし。萩野由之博士が日本紀の雙3生隱岐洲與2佐度洲1を隱岐も佐渡も各雙生せしなりといへる説は從ひ難けれど地形を按ずるにげに佐渡島は太古小佐渡と大佐渡と、今の國中《クニナカ》の處にて二つの島に分れたりきと思はるれば其兩島の間を指して狹門《サド》(狹き海峽)といひしが後に國名となりしならむ○國造本紀に
 佐渡國造 志賀高穴穗(○成務天皇)朝阿岐國造同祖久志伊麻命四世孫大荒木|直《アタヒ》定2腸國造1
(498)とあり。大化改新の時し佐渡國を建てられけむに天平十五年二月に越後國に併せられ九年の後天平勝寶四年十一月に復佐渡國を置かれき。郡は初|雜太《サハダ》郡のみなりしに養老五年四月に分ちて賀茂羽茂二郡を置かれ、これより三郡となりき。民部式に
 佐渡國 中 管 羽茂・雜太・賀茂
とあり和名抄に
 佐渡國(國府在2雜太郡1云々) 管三 羽茂・雜太(佐波太、國府)賀茂
とあり。三郡の内賀茂は國の東部を占め雜太は西北を、羽茂は西南を占めたり。又羽茂最狹く賀茂最廣し。但郡界は古今相同じからざるに似たり。さて明治二十九年に三郡を合して佐渡郡としき。されば今は志摩國と同じく一國一郡なり。羽茂の稱呼は如何(和名抄には高山寺本にも訓註なし)。或はハモとよみたれどこは音訓混合なれば從ひがたし。地理志料にはウモとよみて欽明天皇五年紀に佐渡嶋禹武邑とあるを證としたれど禹武は今のいづくにか即實に當郡の内なりや知るべからず。なほ後に云ふべし。地名辭書にはハモチと訓めり。今もハモチと唱へ、享保改正郡名附以下にハモチと訓み、當國中古の守護本間氏の一族に羽持氏ありて恰此郡を領し、國華萬葉記に佐渡國葉持浦とあれば(499)辭書に從ひてハモチとよむが妥ならむ。但人名こそあれ地名の茂をモチとよむはめづらし。さて茂をモチとよむは如何なる故ぞといふにシゲルの古言はモにて(字音にあらず)シゲシ・シゲクをモシ・モクといひシゲリ・シゲルをモシ・モスといひき(萬葉集新考二四三頁ムクサク道ヲ又ミナムカモの註と參照すべし)。森のモリも茂有《モリ》にあらじか。さてタ行とサ行とは往々相通ずればシゲリのモシをモチとも云ひけむによりて人名などの茂を古來モチとよみ來りけむ。サハダを雜太と書けるは雜の音サフ(漢音サフ)をサハに轉用したるにてなほ肥後の郡名カハシを合志と書くが如し(合の漢音カフ)○國府の在りし處は今の眞野村大字竹田の字澤田なりといふ。按ずるにこは守護の居城即所謂檀風の址にて國府のありしは今少し北方にあらずや。地名辭書には國府川に亙れりと云へり。少くとも國府川の南岸に沿ひしならむ○驛は兵部省式に
 佐渡國驛馬 松崎・三川・雜太各五疋。通充2傳馬1
とあり(五の字流布本に落ちたり。九條家本によりて補ひつ)。越後古志郡の渡戸より船にて當國松崎に渡り三川を經て國府に到りしなり。ここに舊羽茂郡の東北端に松ケ崎(今の松ケ崎村の大字)といふ處あり又其西南に三川(今の赤泊村の大字)といふ處あれば前(500)書多くは右の松ケ崎を以て松崎驛に、三川を以て三川驛に擬せり。されどよく思ふに松ケ崎と三川とはいと近く三川と雜太とはいと遠し。又本島の南岸に小木ノマといふ良港あるを
 ○マは港の方言なり。或は夷語か。地方誌には澗字を以て之に充てたり。此字は溪澗の澗にはあらで間に三水を添へたるなり
そこを措きて松ケ崎を津頭とはすべからず。よりて更に思ふに松崎驛は今の小木港(在今小木町大字小木)にて三川驛は西岸の西三川(今の西三川村の大字)ならむ。さらば小木港より上陸し小比叡野を經、島の西南部を横斷して西三川に出で、それより海岸に沿ひて終驛雜太に到りしなり。地名辭書の説正に之に同じ。雜太驛は今の眞野村の大字長石又は四日市にや○當國は萬葉集には其卷十三なるアメツチヲナゲキコヒノミといふ歌の左註に
 此短歌者或書云。穗積朝臣老配2於佐渡1之時作歌者也(○者と也と一は衍か)
とあるのみ。此人が乘與を指斥せし罪に由りて佐渡に流されしは養老六年にてその赦に遭ひしは十八年の後なれば島に在りてあまた歌をよみけむを(新考二八〇一頁參照)
(501)○欽明天皇五年紀に
 十二月越國|言《マヲ》ス。佐渡島ノ北ノ御名部ノ碕岸《サキ》二肅慎人アリテ一ノ船舶ニ乘リテ淹留《トドマ》レリ。春夏ニ魚ヲ捕リテ食ニ充ツ。彼島ノ人、人ニ非ズト言ヒ亦|鬼魅《オニ》ナリト言ヒテ敢テ近ヅカズ。(○ココニ)島ノ東ノ禹武邑ノ人|椎子《シヒノミ》ヲ採拾《ヒロ》ヒテ熟《コナ》シ喫《ハ》マムトシテ灰ノ裏ニ著《オ》キテ炮《ヤ》キシニ其|皮甲《カハ》、二《フタリ》ノ人ニ化成《ナ》リテ火ノ上ニ飛ビ騰《アガ》ルコト一尺|餘許《バカリ》、時ヲ經テ相闘フ。(○カノ)邑人深ク異《アヤ》シト以爲《オモ》ヒ取リテ庭ニ置キシニ亦前ノ如ク飛ビテ相闘フコト已マズ。人アリテ占ヘテ云ハク。是邑人(○即椎子を炮きし人)必|魃鬼《オニ》ニ迷惑《マド》ハサレムト。(○ソノ)言ノ如ク其《ソレ》ニ(○鬼ニ)抄掠《カス》メラレキ。是《ココ》ニ(○サテの意)肅慎人瀬河浦ニ移就《ウツ》リキ。(○然ルニコノ)浦ノ神|嚴忌《イチハヤ》クシテ人敢テ近ヅカザルコトナリキ。(○肅慎人)渇シテ其(○其浦ノ)水ヲ飲ミシニ死者|且《マサ》ニ半ナラムトシ骨、巖岫(○洞なり)ニ積レリ。俗ニ肅慎《ミシハセノ》隈《クマ》ト呼ブト
とあり。按ずるに禹武邑の人の事は同じ頃の珍事にて其人後に行方不明となりしを御名部碕に留れる所謂鬼に掠められしものと時の人の信ぜしにて實は肅慎人とは關係なき事にてもあるべし。さて御名部碕・瀬河浦と禹武邑とは何處ぞ。これに就いて從來諸(502)説あれど要するに何處とも確には知られぬなり。まづ肅慎《ミシハセ》とは滿洲の東北部海濱に住せしツングース民族なりといふ。次に御名部碕は島北とあり碕岸とあれば佐渡島(舊加茂郡)の北部にして岬を成し又船を泊するに便よき處なるべければ今の鷲崎か(今の内海府村の大字)。次に瀬河浦(一本に瀬波河浦とあり)は御名部碕といたくは遠からで其處より便よき處なるべく又瀬河と名を負ひ又渇飲其水とあれば谿流の注げる浦なるべければ今の浦川か(今の加茂村の大字)。此灣の北岬を宮ノサキといふもよしありげなり。又此處にイタダキ山より發する谿流あり。次に禹武邑は島東とあると邑とありて早く開けたりし處に似たるとを思へば島の東岸に在りて地勢上早く開けけむ加茂湖附近か。さて聊先輩の説を點※[手偏+僉]せむに萩野由之君は「御名部碕は詳ならず。禹武邑は羽茂本郷なるべく(○同氏も羽茂をウモとよめるなり)瀬河浦は羽茂郡の背合《セナカフ》村(○今は眞野村の大字となれり)なるべし」といひ、更に
 セノカハを訛りてセナカフといひ背合の字となりしものと見ゆ。此地に蝦夷塚といふあり。今訛りてエンヅカといふ。夏秋の交雨暗き夜には一團の鬼火出でて海上を※[行人偏+尚]※[行人偏+羊]すること古より名高し。海岸に峙てる小岡なればこれ所謂肅慎隈にやあらん。浦神(503)嚴忌にして其害を除きたまひしは度津神社古此に在しものなるべし(今は羽茂村大字飯岡にあり)
といへり(據日本書紀通釋)。禹武邑を羽茂郡とし度津神社を瀬河浦の神に擬するは釋紀(述義九)以來の説なり。又吉田東伍君は御名部碕を鷲崎とし禹武邑を梅津村(今の加茂村の大字)とし瀬河浦を三瀬《サンセ》川(今の吉井村の大字)とせり。梅津は加茂湖の北方(夷の北隣)に在り。されば御名部碕と禹武邑とに就いては余の説と一致せり。三瀬川は湖の西方に在り○順徳天皇の遷幸は措き奉りて古より名流の此島に流されしもの頗多し。天皇の御遺蹟と傳ふる處頗多けれど恐らくは初國分寺(眞野村大字國分寺)にませ奉り後に和泉(今の金澤村大字泉)に行在所を營みてぞ遷し奉りけむ。崩御せしは眞野山中の堂ドコロといふ處なりと傳ふるは如何あらむ。今正しく御遺蹟の殘れるは所謂眞野陵と懸社眞野宮となり。眞野陵は眞野村大字眞野字林の丘上に在り。但御遺骨は夙く寛元元年即崩御の翌年に京都に遷し奉りて葛野郡大原に藏め奉りしかば佐渡に殘れるは御火葬所址なり。又眞野宮はもと眞輪寺境内に在りて御木像をいつき奉りし御影《ミエイ》堂なるが明治六年に神靈を攝津國の水無瀬宮に遷し奉りしかど翌年に御劍を賜ひてそを御靈代《ミタマシロ》と(504)して奉祀することを許されしなり。されば所謂眞野陵は御火葬塚、眞野宮は御分靈なれど國人が之を大原の眞陵の如く水無瀬の本廟の如く崇敬し奉るはいとも尊き事なり。此二靈蹟ぞ永く佐渡人の忠誠心を培はむ○日野資朝の墓は眞野村大字阿佛坊なる妙宣寺に在り。又小倉實起同公連の墓は相川町の内|鹿伏《カブス》の觀音寺に在り。父子の事は南天莊墨寶解説一六五頁以下に云へり○當國の神社にして官國幣社以上なるは羽茂村大字飯岡に在る國幣小社|度津《ウタツ》神社のみ○主税式上に佐渡國海路(自2國津1漕2敦賀1船賃云々)
とあり。國(ノ)津は一島の門戸即小木港ならむ○徳川幕府の時當國は直領とし奉行を相川に置きて一國の政治と共に金山の事務をも掌らしめき○當國の主邑は舊雜太郡なる相川なり。有名なる金山は其東北に在り。兩津町の事は夙く云へり(昭和十二年十一月二十五日稿)
 
 
(1)參考書目
 
  ○左ニ掲ゲルモノハ皆我玉川文庫ノ藏書ナリ。余ニハ圖書館ニ通フ暇ナシ。又余ハ人ヨリ書籍ヲ借ルコトヲ好マズ。カカレバ必見ベクシテ見ザリシモノモアリ。カク不完全ナル書目ヲ載スルハ自己ニ取リテハ恥トモナルベケレド人ニヨリテハ多少益ヲ得ラルルコトモアルベシ○此ニ擧ゲタル外ニモ一讀セシモノアレド無用トオボエシモノハ省キテ加ヘズ。地圖モ此ニ擧グル前ニ一應淘汰ヲ加ヘツ○書籍ノ著者ノ時人ナルニハ知ル知ラヌニ拘ハラズ氏ノ字ヲ添ヘタリ○此書目ハ一時ニ作リシモノニアラネバ體裁ハ其時ノ心々ニテ一定セズ
 一般又ハ數國ニ亙レルモノ
日本地誌提要
  菊判洋装八册。元正院地誌課編纂。自明治七年十二月至同十二年十二月刊行
日本地理志料
  半紙本七十一卷、附録考據書目一卷、合爲十五册。邨岡良弼氏著。漢文。明治三十六年九(2)月發行。和名抄ノ國郡郷部ノ考證ナリ。狩谷望之ノ箋註和名抄ニ國郡郷部ノ無キハ人ノ知レル所ナリ
和名抄地名索引
  半紙本一册。内務省地理局編纂。明治二十一年七月出版
和名抄高山寺本
  昭和七年複製。史料編纂掛選定古簡集影ノ内ナリ
大日本地名辭書
國造本紀考
  四六判洋装一册。栗田寛氏著。明治三十六年九月訂正再版
驛路通
  菊判假装二册。大槻如電氏著。上册ノ發行ハ明治四十四年七月、下册ノ發行は大正四年九月ナリ
南海道諸驛廢置及所在考
  寫本一册。松岡調氏著
(3)郡名異同一覧
  美濃紙判一册。明治十四年六月内務省地理局編纂
郡區町村一覽
  美濃紙判厚一册。内務省地理局編纂。明治十四年三月出版
市町村大字讀方名彙
  菊判洋装一册。小川琢治氏著。大正十四年一月發行
六十五大川流域誌
  四六二倍判洋装一册。明治十九年九月内務省土木局編纂。所藏本ニハ當局者ノ補正アリ
神宮官國幣社一覽
  秩入折本一帖。内務省神社局編纂。昭和四年一月發行
寛文印知集
  二十四卷。續々群書類從第九所收
縣令集覽
(4)  小横本。元治二丑正月改正
列藩武鑑
  小横本。明治二巳年改
大武鑑
  極大本、附纂ト共ニ十三册。自昭和十年四月至同十一年十二月刊行。明暦元年ヨリ明治二年マデノ武鑑ヲ網羅セリ
大日本國全圖
  銅版。南北五尺三寸七分、東西四尺九寸八分。地理局地誌課製作。明治十六年十月補正
地誌目録
  半紙本一册。明治十八年二月内務省地理局編纂
同上
  菊判假装一册。昭和十年六月複刊。限定二百部
日本地理志料考據書目
  志料附録。同書第十五册ノ末ニ附ケタリ
(5)家藏日本地誌目録
  菊判假装一册。高木利太氏著。昭和二年十二月發行
同 續篇
  同上。昭和五年十二月發行
萬葉緯卷十八 諸書所引風土記文
  大本一册。寫本。今井似閑著
纂訂古風土記逸文
  菊判假装一册。栗田寛氏纂訂。明治三十一年八月發行
古風土記逸文考證
  菊判假装二册。栗田寛氏著。明治三十六年六月發行
輯採諸國風土記
  日本古典全集本。小本洋装一冊。正宗敦夫氏編纂校訂。昭和三年三月發行
 
(6)  南海道
 
   紀伊國
紀伊續風土記
  四六倍判洋装厚册五。明治四十四年再版發行
紀伊國名所圖會
  美濃紙判二十三册。初編五册高市志友著。文化八年發行○第二編五册著者同上。文化九年發行○第三編七册加納諸平著。天保九年發行○第四編六册(在田郡以下)未見
和歌山縣史蹟調査報告第一
  四六倍判假装。大正十年發行
和歌山縣史蹟名勝天然記念物調査會報告第二輯以下
  菊判仮装十三册
和歌山縣名勝地寫眞帖
  四六四倍判。大正十二年行啓記念發行
 
(7)   淡路國
淡國通記
  美濃紙判謄寫版一册。一名淡島記。元禄四年禅僧碧湛著。昭和五年發行
淡路常磐草
  寫本六册。享保十七年仲野安雄著。當國地誌ノ白眉ナリ
味地《ミチ》草 三原郡篇
  大厚册三。謄寫版。大正十三年發行
同    津名郡篇
  大厚册四。謄寫版。味地草ノ著者ハ小西友直、記述頗精シ。但議論識見ハ常磐草ニ及バズ
淡路國名所圖繪
  美濃紙判五册。曉鐘成著。昭和九年新刷發行
淡路國繪圖
  松川半山畫。元治元年版
(8)淡路國全圖
  明治三庚申歳上梓。木版
兵庫縣史蹟名勝天然記念物調査報告
  第四・第六・第七・第十等ニ淡路ノ史蹟名勝ニ關セル記述アリ。就中國分寺址ノ事ハ第十ニ見エタリ
胞洲誌
  大厚册一。謄寫版。津名郡誌ナリ。平野安澄著カ。昭和十二年刊行(本文稿了後入手)
 
   阿波園
粟の落穗
  寫本三卷合本一冊。野口年長著。安政三年改稿
徳島縣誌略
  菊判洋装一冊。明治四十一年縣發行
阿波名所圖會
(9)  美濃紙判二册。
徳島縣寫眞帖
  四六二倍判一册。明治四十一年四月發行
徳島縣史蹟名勝天然記念物調査報告第一輯
  昭和四年縣發行
阿波國全圖
  明治二十六年十月印刷。版權者徳島縣
阿波國圖
  肉筆著色。東西四尺三寸、南北四尺一寸。年記ナシ(本文稿了後入手)
 
   伊豫國
愛媛乃面影
  美濃紙判五册。慶應二年半井梧庵著。昭和四年第三版發行
愛媛縣誌稿
(10)  菊判假装厚册二。大正六年縣發行
伊豫史精義
  菊判洋装厚册一。景浦直孝氏著。大正十三年發行
松山市誌
  菊判洋装一册。大正十三年市役所發行
愛媛縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書第一輯
  菊判假装。大正十三年發行。頗シドケナシ
愛媛縣管内地圖
  明治十七年三月縣蔵版。コレ無クテハ舊郡境ヲ知ルニ困難ナリ
 
   土佐國
土佐日記地理辨
  一册。安政四年鹿持雅澄著。歿後文久元年刊行
高知縣史要
(11)  菊判洋装厚册一。大正十三年縣編纂發行。高知縣沿革略志及元禄大定目ヲ附セリ
土佐紀要
  菊判洋装一册。明治四十一年東宮殿下行啓奉迎會發行
土佐名勝誌
  四六判洋装一冊。寺石正路氏著。大正十一年訂正發行
土佐國式社考
  美濃紙判一册。寶永二年谷重遠著。度會延經ノ閲ヲ經テ多クソノ説ヲ載セタリ。歿後享保五年?刊行。朝倉神名辨ヲ附セリ
高知縣神社誌
  菊判仮装一册。昭和六年高知縣神職會發行
土佐神社誌要
  半紙判一册。大正十三年土佐神社社務所發行
高知縣史蹟名勝天然紀念物
  菊判假装三册
(12)土佐國各郡圖
  一帖。肉筆。原無題號又無年記。元禄圖ナドノ縮寫カ
 
  山陽道
 
   岡山縣
岡山縣地誌提要
  四六判假装一冊。伊藤光雄氏著。明治四十五年再版發行
岡山縣名勝誌
  中本擬唐本三册。大正四年岡山縣内務部發行。南爲吾氏執筆カ
岡山縣地誌
  菊判洋装一冊。通俗書。大正十五年岡山縣教育會發行
岡山縣史蹟名勝天然記念物調査報告
  四六二倍判假装初十册(但第六缺)
(13)岡山縣案内寫眞帖
  一帖。縱六寸横八寸。大正十五年縣發行
岡山縣三國全圖
  現岡享編纂。明治二十年十一月出版
 
   美作國
美作略史
  中本二册。矢吹正則氏著。明治十四年刻成。同四十一年増補
院莊作樂香
  中本一册。矢吹正則氏著。明治三十八年發行
美作國圖
  版圖。東西二尺五寸。南北一尺六寸。無題號無年記。作者書畫當國倉敷住人野村十左衛英至トアリ。大庭眞島ノ郡界ヲ見ルニ文政十年以後ノモノナルコト明ナリ。恐ラクハ天保八年幕府ガ津山藩ニ命ジテ國圖ヲ正サシメシヨリ後ノ物ナラム
(14)美作國地圖
  肉筆著色無年記。東西五尺五寸、南北三尺八寸弱
 
   備前國
寸簸《キビ》之塵
  二卷。安永七年土肥經平著。備前一圓ノ歴史地理ヲ隨筆體ニ記シタルモノニテ書名ノ塵ハ地理ヲ寓シタルナリ。僻説モ多シ。著者ノ名聲ニ呑マルベカラズ。所藏ノ寫本ハ燒失セシニヨリテコタビハ吉備群書集成第一輯ニ收メタルモノヲ一讀シツ
吉備温故 郷莊村落島嶼山川官道神社等部
  吉備群書集成第七輯所收。著者大澤惟貞ハ備前ノ士、通稱市太夫、文化元年歿ス。年六十五
東備郡村誌
  八卷三册。備藩松本亮著。同書第二輯所收
吉備之國地理之聞書
(15)  平賀元義著。オソラクハ口述ノ筆記ナラム。同書同輯所收。赤阪・邑久二郡ノミノ地理ナレド初ニ全國地理ノ總説アリ
備前略史
  中本二册。成田元美氏編輯。明治十年岡山縣出版
をかやま
  寫眞帖。四六二倍縦本。昭和五年岡山市役所發行
備前國圖
  肉筆著色、無年記。東西三尺、南北二尺七寸。一里塚ヲ標セリ。帝室博物館ニ同種ノ物ヲ藏セリト云フ。余ノモノハ原本ニ非ズ
兒島灣古圖
  東西四尺六寸、南北二尺一寸五分。西大川即今イフ旭川ニ岡山川ト記セリ。岡山川トイフ一名ハ寸簸之塵ニモ東備郡村誌ニモ見エズ。又上道郡平井・湊・中川三村ノ南ニ部落ヲ描キテ上道郡新田ト記セリ。倉田村・倉富村・倉益村ト記サザルヲ思ヘバ恐ラクハ寶永比ノ作圖ナラム。此圖ト備前上道郡|湯迫《ユハザマ》松殿關白謫居址圖一葉トハ保存(16)ヲ期シテ備前ノ正宗文庫ニ寄贈シオケリ
 
   備中國
備中名勝考
  美濃紙判二册。小寺清之輯録。文政五年三月刻成
備中誌
  著者不詳。松山人奥田盛香著カ。哲多郡缺。明治三十六年岡山縣發行。非賣品。菊判假装十二册
吉備津社記
  菊判假装一小冊。故沼田頼輔氏著。明治四十四年吉備津神社社務所發行。又同氏著「上代の吉備」ノ口繪ニ元禄四年九月所描ノ吉備津宮御繪圖ヲ出セリ
正保度備中國圖
  肉筆著色。東西五尺八寸五分、南北七尺強。摸寫ハ古カラズ。高崎文庫ノ印ヲ押シタリ。郡名ハ都宇・窪|田〔左△〕・加〔右△〕陽・上|房〔右△〕・下道・川上・淺|江〔左△〕・小田・後月・哲|田〔右△〕・阿〔右△〕賀ト記セリ。窪屋淺口ヲ窪(17)田淺江ト書誤テルヲ見レバ他國人ノ筆ナラム。又蒔田權佐ヲ一部前田ト誤記セリ。正保度()國圖ト定メタルハ各村ノ領主ヲ註記セル中ニ松平新太郎・新太郎母福正院ナドアルガ故ナリ。福正院ハ福照院ノ誤字又ハ擬字ナリ。新太郎母福正院トアルハ藩翰譜ニ
   慶長十四年利隆ノ北ノ方(○將軍秀忠ノ養女)ニ備中ノ國ニテ湯沐ノ地賜ヒヌ(千石)
  トアルニ當ルベシ(兩照院ノ卒去ハ寛文十二年十月)。右母子ノ知行都合三萬六千石ト御藏入五萬石弱トノ外、當國ハ水谷伊勢守・木下淡路守・戸川土佐守・水野日向守、又諸旗本、又二條殿・吉備津宮・諸寺ニ分領セラレタリ
元禄度備中國圖
  肉筆著色極美圖。紙袋、打紐附木函添。共ニ備中國繪圖ト題セリ。函ノ蓋ノ右上方ニ故局不知ト朱書セル紙ヲ貼リタリ。南北六尺三寸五分、東西一丈八寸五分。保存サヘ完全ナレバ大名所藏ノ國圖ノ標本トシテモ後ニ傳フベシ
備中國圖
(18)  無年記。肉筆著色。南北二尺七寸、東西三尺七寸。西南ニ若干ノ衍溢《ハミダシ》アリ。又備前兒島郡ト記シテ兒島郡ヲ描キ漆ヘタリ
備中國巡覽大繪圖
  天保六年二月十五日藤井高尚ノ推薦文アリ。笠岡杏隱製、倉敷藏六補トアリ。「別ニ名勝圖會ニ著ス。諸君子就テ見ルベシ」マタ「他日名勝圖會ニ記スベシ」トアリ。又左下端ニ「草稿浪華蔀關牛、畫圖同松川半山云々。嘉永七甲寅二月發行云々」トアリ。夙ク備中人ノ作レル稿本ノアリシヲ二十年許ノ後安政元年(嘉永七年)ニ浪華人ガ校訂淨寫シテ世ニ出シシナリ
 
   廣島縣
藝備國郡志
  黒川道祐著。續々群書類從第九所收
廣島縣史
  菊判洋装一册。史蹟名勝天然記念物志。大正十三年十二月縣發行
(19)廣島縣小史
  菊判洋装一册。森田俊左久氏編纂。大正元年八月發行
廣島縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  假装四册(国分寺ハ第四)。初三册ハ菊判、第四以下四六二倍判
廣島縣寫眞帖
  四六二倍判。大正十五年五月縣廳編纂發行
廣島縣管内地圖
  明治二十五年十月出版。宗孟寛氏編輯
 
   備後國
福山志料
  三十五卷。文化六年春成。菅茶山等輯録。明治四十三年四月發行。洋紙、和装二册
増補三原志稿
  菊判洋装一册。前後二編ニ分レタリ。前編ハ青木充延充實父子ノ編纂ニテ文政二年(20)完成ス。後編ハ澤井常四郎氏ノ増補ナリ。大正元年九月發行
 
   安藝國
藝藩通志
  原本百五十九卷。頼杏坪等修。文政八年成。自明治四十年七月亙大正四年八月刊行。四六二倍判洋装五册
嚴島誌
  菊判洋装一册。重田定一氏著。明治四十三年六月發行
 
   山口縣
山口縣史略
  半紙判六册(周防長門各三册)。近藤清石氏著。明治十六年出版
大内氏實録
  半紙判五册。同氏著。明治十八年出板
(21)防長志要
  菊判洋装一冊。明治四十年十月山口縣發行
防長名蹟
  厚殆二寸ノ美本ナリ。縱七寸、横九寸ノ寫眞二十二葉ヲ貼リ附ケタリ。年記モ奥附モ無シ。獻上本カ
山口獻史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判假装七册(第六缺)
 
  山陰道
 
   丹波國
日本國誌資料叢書 丹波丹後
  四六判洋装一冊。太田亮氏著。大正十四年三月發行
京都府史蹟勝地調査會報告
(22)  四六二倍判假装十八册。第一ニ丹波國分寺アリ
丹波國古圖
  肉筆著色。東西一丈二尺六寸、南北一丈一尺三寸
丹波國大繪圖
  寛政十一年上版。矢野貞利著
 
   丹後國
丹後史料叢書
 第一輯 丹後舊事記(天明中峰山人田中其白撰)
 同   丹後風土記(僞書)
 第二輯 丹後御檀家帳
 同   丹後風土記(近古所作。大日本風土記之内)
 同   古丹後風土記(六人部是香校正。末ニ逸文ヲ附セリ)
 第二輯 注進丹後國諸庄郷保惣田數帳目録
(23) 同   丹後与謝海圖誌傳貝原益軒著。按ズルニ決シテ益軒ノ著ニアラズ。内海ノ下ニ「然に諸州めぐりに風土記を引て阿蘇海と云へり。不審也」トイヘリ。諸州めぐりハ益軒ノ著ナリ。益軒ノ天橋立ノ記ハ全集卷之七西北紀行卷之上ノ内(八七頁以下)及扶桑記勝卷之六ノ内(四七九頁以下)ヲ見ベシ
 第四輯 丹後舊語集
 同   比治眞奈井考(僞書ノ殘缺丹後風土記ニ據リテ書ケルナレバ採ルベカラズ)
 第五輯 丹後國式内神社取調書
京都府史蹟勝地調査會報告
 第六珊 丹後國分僧寺
 第七册 皇大神社、豐受大神社(加佐郡河守上村)
文部省發行史蹟調査報告第六輯 丹後國分寺
丹後國大繪圖
  天保十一年發兌。編者池田東籬亭
 
(24)   但馬國
但馬考
  十卷。出石藩士櫻井良翰藩主ノ命ニ依リテ撰ス。寛延四年(寶暦元年)季秋成ル。所藏本ハ薄樣紙寫本二册
校補但馬考
  菊判洋装一册。櫻井良翰著。玄孫櫻井勉氏補訂。大正十一年發行
朝來志
  十二卷六册。木村發氏著。明治三十六年發行
兵庫縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  第七輯 但馬國分寺址
但馬國大繪圖
  天明七年上版。植村禹玄製圖
 
   因幡國
(25)因伯記要
  菊判一册。明治四十三年七月再版。鳥取縣發行
島根縣管下〔五字傍点〕因幡國全圖
  明治十四年八月出版。合併前ノ郡界ヲ見ルニヨシ
 
   伯耆國
因伯記要
伯耆國|大山《ダイセン》記
  寫本。岡部春平ガ天保三年五月晦ニ大山ノ主峯ナル彌山ニ登リシ記ナリ
船上山行宮址 文部省史蹟調査報告第七編
島根縣管下〔五字傍点〕伯耆國全圖
  明治十四年三月翻刻
 
   出雲國
(26)訂正出雲風土記
  美濃紙判二册。千家|俊信《トシザネ》校合。文化三年刻成
標注古風土記
  栗田寛氏著。明治三十二年十二月發行
出雲國風土記考證
  四六判洋装一册。後藤藏四郎氏著。大正十五年十一月發行
校定出雲國風土記
  半紙判一册。昭和四年十一月發行。天平時代出雲國想像圖一葉附
懷橘談
  二卷。承應年間松江家中黒澤三右衛門弘忠所記。江戸ニアル母ニ贈リシモノナレバ書名ヲ然イフ。懷橘ハ母ヘノミヤゲト云フ事ナリ。續々群書類從第九册所收
雲陽誌
  享保二年松江家中黒澤長尚ガ藩主ノ命ニ依リテ撰セシナリ。懷橘談ニ據レル處多シ。大日本地誌大系第二十七卷
(27)出雲路日記
  文政十一年春藤井高尚ガ大社ニ詣デシ道ノ記ナリ。記事クハシカラズ
加賀神埼文
  寫本。岡部春平著
島根縣史要
  菊判洋装一册。明治四十一年三月再版發行。縣廳編纂
島根縣史第五 國司政治時代
  菊判洋装厚一册。大正十五年六月縣發行
島根縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  假装九册。第二マデ菊判、第三以下四六二倍判
 出雲國廳址 第六輯
島根縣寫眞帖
  四六四倍判。明治四十年五月發行
國圖三種
(28) 版圖 著色。刊記ナシ。東西一尺一寸六分、南北八寸四分。最古シ(タトヘバ出雲郡境廣シ)恐ラクバ古圖ノ摸ナラム
 寫圖(出雲圖) 些著色。年記ナシ。東西二尺一寸六分、南北一尺七寸。次古タトヘバ出雲郡界、懷橘談ノ記事ト合ヘリ)
 寫圖(雲州全圖) 著色美圖。年記ナシ。東西三尺四寸、南北三尺。最新シ(タトヘバ出雲郡狹クナリテ海ニ臨マズ)。但正シク(タトヘバ隣國弓之濱ノ形状)且詳ナリ(タトヘバ各村界ヲ記シ又能義郡ニ就イテ母里領廣瀬領ヲ、又飯石郡ニ就イテ鹿瀬領ヲ描キ分ケタリ)
 
   石見國
石見風土記辨 如蘭社話卷四十一所收。黒川眞道民稿
石見國安濃郡池田村湯谷記
  寫本。岡部春平著
島根縣史第五
(29)島根縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
 三瓶景觀 第一回
 石見國府阯 第六輯
 
   隱岐國
隱州視聽合紀
  四季(第一卷沿革篇ノミ漢文)。寛文七年松江藩士齋藤豐仙著。續々群書類從第九册所收
島根縣史第五 國司政治時代
同   第六 守護地頭時代
島根縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
 源福寺阯 第五輯
 隱岐國府阯及國分寺阯 第六輯
 第八輯 隱岐號
 
(30)  北陸道
 
   若狹國
若狹舊事考
  一卷。伴信友全集第五所收
若釈國官社私考
若狹國神名帳私考
  各二卷。信友全集第二所收
若越小誌
  菊判一册洋装。明治四十二年九月福井縣發行
越山若水
  菊四倍判寫眞帖一。福井縣發行。東宮殿下行啓記念。年記ナシ(明治四十二年)
若狹國古圖
  肉筆著色。一尺九寸對四尺一寸。古圖、但粗
若狹國并越前敦賀郡圖
(31)  肉筆著色。四尺對一尺八寸。小濱領ノ圖ナリ。餘白ニ大飯郡、遠敷郡、三方郡、越前敦賀郡ト書キ又石高ヲ擧グルニハ遠敷郡ヲ下中郡、上中郡ニ分テリ。戰國以來上中下中ト云ヒシヲ寛文中ニ遠敷ニ復セシナリ。サレバ此圖ハ寛文以前ニ作製セシモノノ摸本ナラム。石高モ寛文印知集ニ見エタルト少差アリ
 
   越前國
若越小誌
丹生都誌
  菊判洋装一册。明治四十二年郡教育會發行
越前人物志
  菊判洋装二厚册。明治四十三年發行。著者福田源三郎氏ハ生前屡來リ訪ヒキ。本業ハ扇折ナル由ナレド學問凡ナラザリキ
越山若水
福井縣敦賀郡名所古蹟寫眞帖
(32)  四六四倍判。敦賀郡發行。東宮殿下行啓記念
敦賀郡圖
  肉筆著色。一尺九寸對三尺三寸四分。精且美。年記ナシ
 
   石川県
三州地理志稿
  加賀・能登・越中三國地誌。十五卷。富田景周著、津田鳳郷補。漢文。五畿内志ノ體裁ニ倣ヘリ。大日本地誌大系第二十八册
加能紀要
  菊判洋装一册。明治四十二年九月石川縣發行
石川縣志要
  菊判洋装一册。同上。明治維新以來ノ事ヲ記述シタルモノニテ前者ト對ヲ成セリ
石川縣地理詳説
  菊判洋装一册。明治三十九年八月發行。明石某著。アカヌ事モアレド無キニハマサル(33)ベシ
加賀藩史料
  菊判洋装十三册(内編外一册)。發行自昭和四年。前田侯爵家編輯部著作
加賀藩史稿
  半紙判十六卷八册。明治三十二年四月發行。前田侯爵家編纂
石川縣史蹟名勝調査報告
  假装三册(一、二ハ四六二倍判、三以下ハ菊判)。石川縣發行。天然紀念物調査報告ハ別
石川縣寫眞帖
  四六四倍判一帖。明治四十二年九月縣發行
石川縣地圖
  四六二倍判一帖。明治二十六年十二月出版。末ニ新舊町村名一覽表ヲ附シタリ
 
   加賀國
金城三河考
(34)  美濃紙判寫本一册。富田景周著。文化乙亥(十二年)ノ引アリ
金澤市史
  菊判洋装五册(市街編三、學事編二)。市役所發行。自大正五年六月至同八年一月
 
   能登國
能登半島
  四六判和装一冊。大正二年十月發行。山口毅一氏著
七尾町誌
  菊判和装一册。明治四十二年九月町役場發行。東宮殿下行啓紀念
洲洲神社誌
  半紙判一册。大正十三年同神社社務所發行
能登國圖
  肉筆著色。五尺二寸對四尺四寸四分。「青仕候村數六十四个所能州之内土方掃部助領知也」トアレド圖面ヲ空白ニセルノミニテ青ク著色セズ。又石動山ヲ不動山ト誤チ(35)寶達山ヲ寶建山ト誤テルヲ見レバ無論摸本ナリ。サテ土方掃部助トアルハ掃部頭|雄《カツ》重ナルベキガ同人ノ叙爵ハ慶長十四年十二月、ソノ卒去は寛永五年十二月ナレバ此國圖ハ元和前後ニ加賀藩ニテ作製セシナリ。土方氏ガ前田氏ヨリ給セラレシ越中新川郡布市村等ノ地ヲ能登四郡ノ内六十餘村ニ替ヘラレシハ慶長十一年ナリ。寛政重修諸家譜ノ記事ハ誤レリ
 
   越中國
三州地理志稿
越中史料
  菊判洋装四册。外附卷假装一册。皇太子殿下行啓記念。明治四十二年九月富山縣發行
富山縣
  菊判洋装一册。昭和四年三月發行。縣編纂
富山市史
  菊判洋装一册。明治四十二年九月市役所發行。皇太子殿下行啓記念
(36)高岡史料
  菊判洋装二册。高岡市役所發行。同時同上
射水郡誌
  菊判和装二册帙入。郡役所發行。同時同上
婦負郡志
  菊判假装一册。郡役所發行。同時同上
庄川産葦附苔 富山縣史蹟名勝天然記念物調査會報告第三輯所收
礪波山古戰場
  菊判假装一册子。大正十三年一月縣發行
富山縣寫眞帖
  四六二倍版和装一冊。明治四十二年九月縣發行。皇太子殿下行啓記念。表紙ニ縣下特産ノ經木織ヲ用ヒ立山名物黒百合ノ著色寫眞圖ヲ打出セリ
越中古圖
  銅版。越中史料附録
(37))越中國圖
  肉筆著色粗圖。東西三尺七寸、南北二尺九寸餘。射水郡ヲ泉の郡ト書ケリ。或ハ訛リテカクモ云ヒシカ。本圖ハ恐ラク軍學用ナラム
越中國地圖
  木版。明治十六年六月改正。大屋松原二氏編輯
富山縣礪波郡地圖
  木版。明治二十三年十一月調査、同二十四年十月出版。郡役所著作
 
   新潟縣
越佐史料卷一及卷二
  菊判洋装二册。高橋義彦氏著。大正十四年及十五年發行
日本國誌資料叢書 越後佐渡
  四六判洋装一册。太田亮氏著。大正十四年六月再版發行
新潟縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
(38)  四六二倍判假装五册
新潟縣寫眞帖
  四六二倍判一帖。無刊記
 
   越後國
越後地名考
  三巻。文化末年國人佐味東正蓮著。越佐叢書卷四所收
端郡風土記
  續々群書類従第八册所收。會津風土記附録
新編會津風土記卷九十九以下
  大日本地誌大系第五冊所收。蒲原郡小川莊(今ノ東蒲原郡)ト魚沼郡トヲ記述セリ
北越雪譜
  美濃紙判七册。魚沼郡鹽澤ノ人鈴木牧之ノ著。初編三冊ハ天保六年、二編四册ハ天保十一年ノ刊行
(39)正保二年越後繪固縮寫本
  一軸。二尺五寸對四尺八寸(原圖ハ縱三間横六間ナリトイフ。サレバ凡七分一ニ縮メタルナリ)。會津領小川莊ハ無シ。昭和十一年六月發行。三百部限定版。紙面正保二年越後繪圖ノ下ニ公儀御國繪卷三十四ト附記セリ。附録國中石高調一册ヲ添ヘタリ
越後國圖
  肉筆著色。東西三尺二寸二分、南北五尺。惜ムベシ長岡マデニテ南半缺ケタリ。侍從政敬之印トイフ印ヲ押シタリ。政敬子ハ榊原氏、高田藩最後ノ主ナリ
頸城郡圖
  肉筆著色。東西五尺五分、南北四尺三寸六分
南蒲原郡圖
  肉筆著色。一尺八寸對一尺八寸七分。蒲原郡ヲ五部ニ分チシハ明治十三年ナリ
新潟縣管内實測圖
  銅版。小林左一郎氏編輯。明治十四年十一月出版。蒲生重章氏ノ題言アリ
 
(40)   佐渡國
佐渡志
  十五卷、附録一卷(ノ内初十卷)。越佐叢書第四所收。文化末年田中美清著。美清通稱從太郎、號葵園。佐渡奉行配下ノ地役人ナリ。弘化三年五月年六十四ニテ歿ス
佐渡の史蹟
  四六判洋装一冊。本間洒川氏著。昭和六年六月再版發行
順徳院天皇御遺蹟捜索之記
  明治十一年九月侍從富小路敬直奉勅奏上。越佐叢書第四所收
くぬが路の記
  半紙判二册。近藤芳樹氏著。明治十一年秋行幸扈從日記。佐渡ノ事ハ上卷六十三丁及八十三丁以下ニ見エタリ
小倉大納言實起卿
  半紙判二册謄寫版。大正二年波岡茂輝氏著
佐渡國圖
(41)  肉筆著色。三尺一寸五分對一尺八寸。紙隅ニ
  佐渡國ニ事有ル時ハ越後國ヨリ警衛ノ人數渡海ノ國也。サレバ彼國ノ人氣并地ノ利害常ニ穿鑿シテ知リオクベキニ彼國圖類本數多アリト雖何レモ誤リ多クテ具ニ知ルコト不能。於是予先年類本ヲ集校合セシムト雖未全カラザルニ今年 御巡見使ヘ上書并國圖ヲ差出タル寫ヲ得テ速ニ改正スル所ノ圖是也。從テ此圖ハ村名ニ一字一點ノ違ヒナク海邊ノ村々在場所モ違ヒアルマジキニ仲筋ノ村々ハ未不審ナル所アリ。サレド仲筋ハ僅ニ四五里四方ニテ村數モ少キ平地ナレバ彼國ノ案内者ニツキテ正サバヤスカルベシ。天保十四年孟秋鈴木魚都里撰
ト記シ雑太郡ノ中央ノ處ニ
  此仲筋ノ村々在場所心モトナキ所多シ。地利ニクハシキ人ニツイテ可正
ト記セリ。著者ハ越後ノ人ナラム
新訂佐渡圖
  銅版一帖。本莊了寛氏著。明治二十七年五月發行
 
    2008年12月22日、午前10時23分、入力終了
    2009年1月12日(月)、午後5時15分、修正