萬葉集論究第二輯、松岡靜雄、章華社、405頁、3圓80錢1934.6.23、
『万葉集研究基本文献叢書』第三回配本全五册、教育出版センター、1986.3.25
 
(1)凡例
 
一、歌詞、前書、左注の原文は仙覺本(覚水版)に據り、「校本萬葉集」及「萬葉集總索引」を以て考異し、誤字は△、衍字は▲を旁記して表示した。
  變體、略所、省劃等活字に之を求め得ざるものは、新鑄の勞を憚って正字に改めたが、論議のあるものは原文の通り特製した。
二、旁訓は仙覺點(本編では舊訓と稱へる)を出來るだけ尊重することにしたけれども、明に誤訓と認められるものは、契沖以下の諸學匠の説を參照して、其可なるものに從ひ、いづれも採るに足らざる場合には新に考定した。釋義の標目に圏點を附したのは私の新訓である。
三、屡々引用する文獻には便宜の爲、左記の略字を用ひた。
〔紀〕  日本書紀
〔記〕  古事記
〔舊〕  舊事本紀
〔釋紀〕 釋日本紀(卜部兼方)
〔記傳〕 古事記傳(本居宣長)
〔姓〕  新撰姓氏録
(2)〔字鏡〕 新撰宇鏡(天治本)
〔拾〕 萬葉集拾穗抄(北村季吟)
〔童〕 萬葉集童蒙抄(荷田春滿)
〔略〕 萬葉集略解(橘千蔭)
〔薪考〕 萬葉集新考(井上通泰)
〔地辭〕 大日本地名辭蓄(吉田東伍)
〔和〕 和名類聚鈔
〔代〕 萬葉聚代匠記(圓珠庵契沖)
〔考〕 萬葉考(賀茂眞淵)
〔古〕 萬葉聚古義(鹿持雅澄)――〔品物解〕同上附録
〔薪訓〕 新訓萬葉聚(佐佐木信綱)
 右の外は全書名と、要すれば著者名とを掲げる。
四、既刊の拙著中に摘げた所説は、參照の勞を省くため、成るべく要點を摘記したが、長文のもの又は直接關係の少いものは、左記の略称を用ひて所出を示すに止めた。
〔神代篇〕 紀紀論究「神代篇」    〔建國篇〕 同上「建國篇」
〔語 誌〕 日本古語大辭典「語誌篇」 〔訓 詁〕 同上「訓詁篇」
〔要 録〕 同附録「語法要録」
五、集中の歌を指示するには、便宜上「國歌大觀」の番號を用ひた。
 附記。萬葉集總索引(正宗敦夫)によつて檢出の便を得たことについては、特に編者に感謝する。
 
(3)目次
序説……………………………………………………………一
東歌……………………………………………………………七
上總國雜歌一首………………………………………………一〇
下總國雜歌一首………………………………………………一一
常陸國雜歌二首………………………………………………一三
信濃國雜歌一首………………………………………………一七
遠江國相聞往來歌二首………………………………………二〇
駿河國相聞往來歌五首………………………………………二四
伊豆國相聞往來歌一首………………………………………三五
相模國相聞往來歌十二首……………………………………三七
(4)武藏國相聞往來歌九首…………………………………六一
上總國相聞往來歌二首………………………………………七五
下總國相聞往來歌四首………………………………………七八
常陸國相聞往來歌十首………………………………………八五
信濃國相聞往來歌四首……………………………………一〇二
上野國相聞往來歌二十二首………………………………一〇九
下野國相聞往來歌二首……………………………………一四六
陸奥國相聞往來歌三首……………………………………一五〇
遠江國譬喩歌一首…………………………………………一五六
駿河國譬喩歌一首…………………………………………一五八
相模國譬喩歌三首…………………………………………一五九
上野國譬喩歌三首…………………………………………一六五
陸奥國譬喩歌一首…………………………………………一六九
(5)未勘國雜歌十七首………………………………………一七二
未勘國相聞往來歌百十二首…………………………………二〇三
未勘國防人歌五首……………………………………………三五七
未勘國譬喩歌五首……………………………………………三六二
未勘國挽歌一首………………………………………………三七〇
(附録第一)用字一覽表……………………………………三七三
(附録第二)訛音表…………………………………………三七八
語句索引………………………………………………………三八一
 
(1〜6)序説(再録)
〔論究巻十三の方と同じなので省略〕
 
(7)萬葉集卷第十四
 
  東歌
 
 東歌として萬葉集第十四卷に收録せられた短歌二百三十首は、國土未勘のものを除き、遠江、駿河、伊豆、相模、武藏、上總、下總、常陸、信濃、上野、下野及陸奥に區分せられ、外に國土未勘歌中、甲斐歌及安房歌と推定せられるものが各一首あるから、後の東海東山二道中遠江及信濃以東の諸國を網羅したものと見るべきで、之をアヅマウタと稱へ、東歌とかくのは此等諸國が畿内よりも東方に位し、アヅマの國と呼ばれた爲なることは勿論であるが、アヅマに東といふ意があるのではなく、之を明端《アケツマ》の意なりとする説【大言海】は大なる誤りで、九州人は其東方にあることの故を以て山陽、山陰、南海諸道至乃近畿をアヅマと呼んだことはないのである。案ずるにアヅマはアマ族の別名アツミの轉呼で、今のアイヌ語に於て海〔右○〕をアツイといふやうに、夷族は新來のアマ(海)人を呼ぶにアツミといふ語を以てしたらしく、此種族の蕃息した地方には美濃國厚見(阿都美)郡厚見郷、參河國渥美(阿豆美)郡渥美郷、信濃國安曇郷(阿都三)郡、上野國吾妻(阿加豆末とあるは訛)郡【和】及伊豆(8)國阿多美郷【東鑑】等に其名が殘つて居る。此種族が居住した地方をアヅマの國と稱したことは奇とするに足らず、ヤマト人及ヒナ(夷)人を始め他の種族も雜居したのであらうが、大體に於てアヅマ人が多數を占めて居たものと思はれる。歌によれば其言語はヤマト言葉と本質上の相違はなく、方言といふ程度の訛があるに過ぎぬが、尚ヤマト歌に於て見ることの出來ぬ用語及音韻變化があるから、恐らくは口頭語はかなり違つて居たのであらう。彼等は夙に朝廷に歸伏し、其先驅として先住の蝦夷を抑壓した大功があるのみならず、精悍の故を以て邊防の任に充てられた時代があつた。
 さりながらアヅマ歌は必しも盡くアヅマ人の作とは限られぬと同時に、國土未勘の歌の中には他國に於て詠じたものも若干混じて居るやうで、要するにアヅマの國々に於て傳誦せられた歌をいふものと了解すべきである。採録者又は編輯者については二三の説があるが、新資料の發見せられざる限り、之を確言することは殆ど不可能であらう。唯吾人の注意を惹くのは表記樣式の統一せられて居ることで、地名及|中下《ナカシモ》の二字の外は常に一音に一字を配し、少數の正訓を混じて居るけれども、大體に於ては音符文字を用ひて居る。此は東歌の如き訛音の多いものを、口吟の通り筆録するには必要條件であつたに違ひないが、任意に筆記したものならば、勿論此齊一は期しがたく、訛音がよく保存せられて居る所を見ても、原稿が尊重せられたものとすべきで、編輯者によつて統一せられたとは思はれぬから、採集に關しては次の二つの想像が許されるのである。
 (一)同一人によつて行はれたか、又は
 (二)官命により一定の方式に從うて國々で採録したものか。
(9)當時の社會及交通状態に於ては、如何に歌道執心な人でも、上掲諸國を遍歴して民間傳誦を採集するが如きは殆ど不可能事であつた筈で、今日尚且然るが如く好事家の智識は概して一地方に限られたものである。されば記録には殘つて居らぬが、和銅年間に諸國から風土記を徴せられたと同一の趣旨を以て、國々の古歌の採集を命ぜられたことも有り得べきで、同一音を寫すに七八種の文字が用ひられて居る所を見ても(卷末附録一)、筆録者は一人ではなかつたとせねばならぬ。訛音が一齊ではなく國によつて大差があるのは、傳誦者の口吻を其儘模した爲で、必しも原歌の訛ではなかつたかも知れぬ(卷末附録二)。
 萬葉集に收められた東歌は恐らくは右の舊記録を底本としたもので、之を上記諸國と未勘國とに區別し、更に雜、相聞、譬喩、防人歌、挽歌等に分類したのは編者の考案によるものと思はれる。何となれば若し其が原記録であつたなら、此やうに多數の未勘國の歌が存した筈がないからである。思ふに本初國別に徴集せられたものが混淆し、雜然列記してあつたのを編者が整理したのであらう。其年代を武藏國が東山道から東海道に轉入した寶龜二年以後にありとする山田孝雄博士の考證は【萬葉學論纂】傾聽に値するが、官撰にあらずとすれば其以前に於ても地の理に從うて武藏國を相模の次に序したことはあり得べきで、本集第二十卷によれば天平勝寶七歳の武藏國の防人は足柄の御坂を越えて任に赴いたものゝやうであり、山田氏の引用した寶龜一年の武藏國の上奏にも難v屬2山道1兼承2海道〔二字右○〕1とあるから【續紀】、兩屬であつたことは疑なく、國造本紀の如きも、嵯峨朝弘仁年間の記事もあるけれども、原本は大化以前の記録と推定せられるにも拘はらす、國々の序次はほゞ本卷と一致して居るのである。
 
(10)雜歌 五首  〔国歌大観番号の算用数字は入力者で付したものである〕
 
刊本には此題目を掲げて居らぬが、目次には上總國難歌等とあり、次の相聞以下の例によれば、必然之あるべきであるから、拾穗抄に從うて之を補うた。
 
3348 奈都素妣久《ナツソヒク》 宇奈加美我多能《ウナカミガタノ》 於伎都渚爾《オキツスニ》 布浦波等杼米牟《フネハトドメム》 作欲布氣爾家里《サヨフケニケリ》【三三四八】
 
 なつそひく 海上潟の 沖つ渚に 舟はとどめむ さ夜ふけにけり
 
      右一首上總國歌
 
なつそひく 夏麻抽《ナツソヒ》クといふ意(第一輯一一六頁)。ウミ(績)にかかる枕詞である。
うなかみがたの ウナカミは古の上海上國をいひ、和名抄にも上總國海上(宇奈加美)郡とあり、今の市原郡の一部分である。語義は字の如くウミ〔二字右○〕カミであるから、夏麻抽を枕詞としたのであるが、ウミは複合名詞の前續分子としては海原《ウナバラ》、海坂《ウナサカ》、海下《ウナダ》リの如くウナと轉呼せられることを例とする。――恐らくはウニ(ミとニとは相通)とも稱へられたからであらう。八重山語では海をインといふ――カタのカはカコ(水手)、カイ(楫)、カヂ(梶)等の語根で、舟行を意味する概念語であつたらしく、タはト(處)に通ずるから、可航海(11)面をカタと稱したのである。上古大船が尚未だ出現しなかつた時代には、航海の安全を期する爲に可能なる限り陸岸を離れなかつたので、カタといへば陸に近い水面と了解せられ、干潮には露出する淺水即ち斥鹵をヒ(干)カタと稱へた。都人は之をカタと混同して一列に潟の字をあてるやうになつたが、尚紀伊國の加太海峽又は周防國の可太の大島の如き干潟にあらざる水路もあり、十三潟、八郎潟のガタも恐らくは可航水面の意であらう。されば此もウナカミ郡の海面を意味するものと丁解すべきである。
おきつすに 沖の渚といふ意。渚は訓假字であるが、上記の如く本卷には一音の語には多くは正字を用ひ(卷末附録一、後掲【三五三三】にも渚をスと訓ませた例がある。
ふねはとどめむ 舟ハ停メム
さよふけにけり サは接頭語、ニケリは過去完了(繼續格)表示であるから、夜が更けてしまうて居るといふ意である。
【大意】滞上潟の沖の渚に舟をば停めよう。夜が更けてしまうて居る
 
3349 可豆思加乃《カヅシカノ》 麻萬能宇良未乎《ママノウラマヲ》 許具布彌能《コグフネノ》 布奈妣等作和久《フナビトサワグ》 奈美多都良思母《ナミタツラシモ》【三三四九】
 
 かづしかの 眞間のうらまを こぐ舟の 舟人さわぐ 波たつらしも
 
      右一首下總國歌
 
(12)かづしかの 和名抄に下總國葛飾(加豆志加)郡とある地で、今は南北東の三郡に分れ、武藏下總兩國に分屬して居る。此名は集中にも屡々見え、眞僞は不明であるが、高橋氏文にも景行天皇が此野に御獵あらせられたとあるから、舊地たることは疑なく、播磨國|飾磨《シカマ》郡、陸奥の色麻《シカマ》郡(今の陸前國賀美郡色麻村附近)と同じく、シカ〔二字右○〕の海人の居住地であつたから此名を負はせたので、カヅは恐らくはカミ(上)ツを連約し、區別稱呼として之を冠したのであらう。
ままのうらまを ママはミマと通じ、ミは御又は水の義で、マは地區を意味する原語であるから、貴人の領地をミマといふと同時に、水域又は水際を呼ぶにも此名を用ひたことは有り得べきである。相模方言に於て谷會又は水際の※[龍/土]土をママと稱するのは後者の義によるもので、足柄上郡福澤村にはママ下《シタ》といふ大字がある。――之を※[土+盡]下又は盡下とかくのはママの假宇なる儘〔右○〕の變體又は省劃で、下野國下都賀郡|間間《ママ》田村も儘〔右○〕田とした例がある。されば※[土+盡]の字によつてママを斷崖の義なりとするは臆斷とせねばならぬ――葛飾のママも眞間の入江、眞間の繼橋などゝ詠まれて居る所を見ると、水域を意味したものと思はれる。今も下總國東葛飾郡市川町大字眞間に其名を留め、江戸川の流にそひ、眞間川が此處に合流し、沼澤が連亙して居る所を見ると、古は大きな入江が存したのであらう。ウラマのマも亦地區を意味し、浦の界隈をいふのであるが、音便によりウラミとも稱へ、浦箕〔右○〕【五〇五】、浦囘〔右○〕【一八五】とも表記せられたので、雅澄は此末〔右○〕をも未〔右△〕の誤寫なりとし、ウラミと訓したが、其は本末を轉倒したものである。
こぐふねの 漕グ舟ノ。コグも亦上記舟行を意味する原語カに行爲を表示する活用語尾グを連ねたカグの轉(13)化である。
ふなびとさわぐ 船人騷グ
なみたつらしも モは感動詞で、浪が立つらしいといふ意である。此は陸上の人が水手の罵り騷ぐ越えを聞いて詠じたもので、第七卷の「風早の三穗の浦廻《ウラミ》をこぐ舟の船人さわぐ浪立らしも」【一二二八】と下三句が全然同一であるが、さのみ奇拔な著想でもないから、偶然暗合したことも有り得べきである。
【大意】葛飾の眞間の浦のあたりを漕ぐ舟の水手が騷ぐ。浪が立つらしいよ
 
3350 筑波禰乃《ツクバネノ》 爾比其波麻欲能《ニヒグハマヨノ》 伎奴波安禮杼《キヌハアレド》 伎美我美家思志《キミガミケシシ》 安夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》【三三五〇】
 
或本歌、曰|多良知禰能《タラチネノ》。又云、安麻多伎保思母《アマタキホシモ》
 
筑波峯の(たらちねの) 新ぐは繭《マヨ》の 衣はあれど 君がみけしゝ あやに著欲しも(あまた著欲しも)
 
つくばねの(たらちねの) ツクバ嶺《ネ》即ち筑波山は常陸風土記にも見え、本集中には此卷を始とし、第三卷、九卷及二十卷にも屡々詠まれて居る名山であるが、ツクバは本來山名ではなく、日本武尊の御歌にニヒバリツクバ〔三字右○〕ヲ過ギテとあるやうに【紀】【記】、新治に隣する地域即ち風土記及和名抄に筑波郡とあり、今も同じ名を以て呼ばれる地方の稱號で、語義は構築地區《ツクマ》である。上古毛野川の水を治めて耕地を作り設けたか(14)ら此名を與へたことは、隣地をニヒハリ(新墾)といふによっても分明である。――今の新治郡は後世の改定で、古は現在の眞壁郡及西茨城郡の一部分を包括したのである――筑波山はその所在地の名を負うたので、裾野に山桑を産したが故に新桑繭とつゞけたのであらう。或本のタラチネは原義からいへば足主禰《タラチネ》即ち富人に對する敬稱であるが(一輯一二四頁)、本集には常にハハ(母)の枕詞として用ひられて居るから、此も母の意に代用せられたのであらう。若し然りとすれば母より與へられた新桑繭の衣といふ意と了解せねばならぬが、聊か言葉が足らぬやうである。
にひぐはまよの 和名抄に唐韻を引いて※[虫+象]【音象、久波万由】桑上繭也とあり(箋注本による)、廣韻の説も之に同じく、山繭をいひ、ニヒ(新)を冠したのは新採集を意味する。マヨはマユともいひ、マとヨ(ユ)との二語分子より成り、マは眞の意の接頭語か、若くはマ〔右○〕ル(丸)、マ〔右○〕トカ(圓)、タマ〔右○〕(玉)等の語根で、ヨ(ユ)はイ(糸)の轉呼と思はれる。されば專ら繭の意と了解せられるやうになつたのは寧ろ後世のことゝすべきで、本初は蠶糸そのものを意味したから、直にキヌ(衣)につゞけられたのであらう。
きぬはあれど キヌには絹(黄布《キヌ》)と衣(著布《キヌ》)との二義があるが、これは兩者にかけて用ひたものと解してよい。更に詳しくいへば、新しい山繭て作つた絹の衣はあるけれどもといふ意である。
きみがみけしし 君が御衣《ミケシ》こそといふ意、ミケシのミ(御)は美稱で、ケシはキ(著)の敬語形であるが、太刀を御ハカシ(佩爲)、弓を御トラシ(執爲)といふと同例に屬し、口語のオメシにあたる。句末のシは強意の助語である。
(15)あやに(あまた)きほしも アヤはイヤ(彌)の轉呼で、彌益にといふ意。――口語でも此場合にはイヤ〔二字右○〕ニ著たいといふ。之をアヤシク又は怪シキ迄ニと釋するのは誤である――キホシ(著欲)は勿論著たいといふことで、モは感動詞である。或本の歌のアマタも衣の數を多くといふことではなく、著欲シの修飾で、夥多《オビタダ》シク著たいといふことである。他人の衣服を著たいといふのは君の愛を得たいといふことの譬喩であるが、作者が男性か女性であるかは、歌詞だけでは判定することが出來ぬ。キミといふ語は口語のアナタと同じく、男女相互に用ひる第二人稱代名詞で、繭の衣もまた決して女人の服装とは限られぬのである。上代社會の習俗として、婦人から先に求婚すべからずとせられたことは諾※[冉の異体字]二尊のオノゴロ島傳説にも明示せられ、集中の歌謠によつてもほゞ推定せられるのであるが、例外もあり得ることであり、或本の歌に初句がタラチネノとある所を見ると、母の手許に養はれて居る少女の作とせられたものとも思はれる。私は歌の風趣から判して寧ろ後者のやうに解したいと思ふ。
【大意】筑波山(産)の新しい山まゆの(糸で織つた)著物はあるけれども、アナタの御召がいやに著たい
 
3351 筑波禰爾《ツクバネニ》 由伎可母布良留《ユキカモフラル》 伊奈乎可母《イナヲカモ》 加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》 爾努保佐流可母《ニヌホサルカモ》【三三五一】
 
筑波峯に 雪かも降らる いなをかも かなしき子ろが 布《ニヌ》干さるかも
 
(16)     右二首常陸國歌
 
つくばねに 前出
ゆきかもふらる 雪カモ降レ〔右○〕ルの轉訛。レ〔右○〕をラ〔右△〕とした例は此外にも【三四一九】の歌にある。フレルは降つて居るといふことで、カモは疑問助話カに感動詞モを添へたものであるから、雪が降つて居るかよといふ意になる。
いなをかも イナは否、ヲは諾の意であるが、否カ諾カといふ意を以てイナヲカモと約言したのではなく、潮の滿つことを潮干〔右△〕ミチ【九一八】、花散りといふべきを花サキ〔二字右△〕チリ【一八三四】と表現したやうに、ヲは文飾の爲に添へられたに過ぎず、カモは感動詞であるから、單に否といふに同じい。或は女の居住地を稻岡と稱へたので、之にいひかけたのかも知れぬ。
かなしきころが カナシには語幹カナの原義に基き、悲愴と愛惜との二義があるが、此は後者に屬する。コロは大和語の兒《コ》ラ〔右○〕に同じく、ラ(ロ)は虚辭であるから、男女いづれに用ひても差支はないが、此は女《メ》之子《コ》を意味し、相思の婦人をいふのである。
にぬほさるかも ニヌはヌノ(布)の謂であるが、原語はヌ一音で、上記キヌ(衣)(絹)の如くも用ひ、之を疊合する場合、音便によつてヌノ〔右△〕とも、ニヌ〔右△〕とも稱へたものと思はれる、ホサルはホシアルの約で、大和語ではホセ〔右○〕ルといふを例とするが、東國ではホサルとも稱へたのであらう。大和語から見ればいづれも方言であるが、言語學的には必しも訛語ではない。――難聚古集に企〔右△〕努とあるに從へばキヌ(衣)の意とすべき(17)で、第一卷持統天皇の御製にも衣乾有《コロモホシタリ》天之香來山【二八】とあるが、其は初夏の光景を詠ぜられたものなるに反し、雪と誤たれたとある以上、此は冬のことであらねばならぬから、尚漂白の爲に布〔右○〕を乾したものと解する方がよい。恐らくは字形の相似の故を以て〓〔右○〕を企〔右△〕と見誤つたのであらう。
【大意】筑波山に雪が降つて居るのか。否、可愛いあの子が布を乾して居るのか
 
3352 信濃奈流《シナノナル》 須我能安良能爾《スガノアラノニ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈久許惠伎氣婆《ナクコヱキケバ》 登伎須疑爾家里《トキスギニケリ》【三三五二】
 
信濃なる すがの荒野に ほとゝぎす 鳴く聲きけば 時すぎにけり
 
      右一首信濃國欣
 
しなのなる 信濃を上古シナヌ〔右○〕と唱へたことはほゞ疑がないが、ヌ(野)は夙にノと轉呼せられたと見えて、波流能能〔右○〕【八三九】、夏能能〔右○〕【四一一三】といふ例があり、次句にも荒野を安良能〔右○〕と表記して居るから、少くとも此歌に於ては國名も亦シナノと發音せられたのであらう。和名抄にも之奈乃と訓せられて居る。此ナルはニアルの約とも解せられぬことはないが、ノ(ナ)と同義を以てナルを用ひた事實が證明せられたから(國學院雜誌第三十八卷第十號以下坂西新君論文)、此も信濃ノ〔右○〕といふ意とすべきで、大和ノ〔右○〕高佐士野、津國ノ〔右○〕難波などいふと異りはない。
すがのあらのに 和名抄に信濃國筑摩郡苧賀(曾加)とある地で(考)、今も東筑摩郡に宗賀といふ名が殘つて(18)居る。雅澄の名處考には信濃國地名考を引いて伊奈郡阿智川の南なる菅野邑村之に擬して居るが、伊奈は本初信濃の管轄外で、孝徳期の國郡制定に際し、信濃國に編入せられたものゝやうで、其後に於ても養老五年から天平三年に至るまで諏方國として分立して居たこともあるから、假に此歌が右期間の前又は後に詠まれたものであるとしても、菅野といふ小字に直接大行政區劃名なる信濃を冠したとは思はれぬ。――其は上記葛飾の眞間を下總の眞間とした例のないのと同一の理である――之に反し苧賀は當時の國府に近い地であるから(今の松本市)、信濃ナル須賀というたこともあり得べきである。スガの原義は栖處《スカ》で、聚落を意味し、諸國に多い地名であるが、通例音便によりソガと轉呼せられた。アラノは勿論荒野の謂で、開拓せられた野を意味する小野(第一輯一五二頁)に對し、曠野をいふのである。
ほととぎす 和名抄には唐韻云、〓〓和名保度々岐須、今之郭公也とあり、新撰字鏡には〓《フクロフ》にも此訓を與へて居る。本集には多く霍公(鳥)の字をあて、其他杜鵑、子規、不如歸の稱があるが、此等は皆鳴聲を模したもので、――外に蜀魂及杜宇といふ異名がある――ホトトギも亦擬聲語であらう。スは朝鮮語※[ハングルでセ]と同じく鳥の謂である(一輯九頁參照)。但し此鳥及※[(貝+貝)/鳥]が歌に詠まれるやうになつたのは明に漢文學の影響で、我上代人が其鳴聲について深い關心を持たなかつたことは、紀記の歌謠にも傳説にも全然あらはれて居らぬのを見ても推斷に難からず、ホトトギス及ウグヒスの如き多音節から一單語が構成せられることも古言の例ではないから、此名稱も亦萬葉時代の所産と見るべきで、東國にも弘通したかは疑問である。此一首を除いては東歌にも防人歌にも二鳥を詠じた歌のない所を見ると、此は都人の作とせざるを得ぬ。
(19)なくこゑきけば 鳴ク聲聞ケバ
ときすぎにけり 時過ニケリ、即ち時が過ぎてしまうたといふ意で、期待に背いたことを歎じたのであらうが、其時期が何を意味するのか明示せられて居らず、ホトトギスが鳴き出したといふことによつて初夏の詠と認定せられるのみである。さりながら此歌が上述の如く都人の作とすれば、在住の官人若くは其眷族の吟懷と推定するのが至當で、歸京の時機を逸したことを悲しんだのであらう。
【大意】信濃のスガの荒野にホトトギスの鳴く聲を開くと(蹄京の)時が過ぎてしまうて居る
 上述の如く都人の詠とすれば、東歌といふべからずと論ずるものがあるかも知れぬが、既述のやうに東歌は必しもアヅマ人の作ならざるべからずといふ理由はなく、此國に於て傳誦せられたが故に東歌としたのは何等不思議のないことである。
 
(20)相聞 七十六首
 
3353 阿良多麻能《アラタマノ》 伎倍乃波也之爾《キヘノハヤシニ》 奈乎多※[氏/一]天《ナヲタテテ》 由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》 移乎作伎太多尼《イヲサキダタネ》【三三五三】
 
あらたまの 柵戸《キヘ》の林に 汝を立てて 行きかつましゞ いを先立たね
 
あらたまの 和名抄に遠江國麁王郡【阿良多末今稱2有玉1】とある地で、現今引佐、濱名、磐田の三郡に分屬して居るが、其名は引佐郡麁玉村及濱名郡積志村大字有玉に殘つて居る。宣長が之を年月の來經《キヘ》ゆくといふ意を以て言ひかけた枕詞であると説いたのは【記傳二八】、本集五卷に「アラタマの來經行く年の限り知らずて」【八八一】とあるに由るものゝやうであるが、其は來經行クを隔てゝ年にかゝるもので、キヘの林〔右○〕とつづくべき理由は語義上――アラタマノはアラタ(更新)モノ(者)の轉呼である(一輯一二一頁)――あり得ぬことである。之を郡名にあらずとする論據は、和名抄の當郡の條下に伎倍といふ名が見えぬといふことに有るが、同書に掲げたのは當時の郷名のみで、總名又は小地名は收録せられず、例へば大和の蘇賀の如き有右な舊地で今日まで存續して居るものすら掲載せられて居らぬのであるから、麁玉にキヘがなかつたといふ證據にはならぬのみならず、第十二卷に「アラタマのキヘが竹垣」【二五三〇】と詠じた例もあるのである。和名抄に今稱有〔右○〕玉とあるのは、必しもアリ〔右○〕タマと唱へたといふのではなく、恐らくは有玉の二字を用ひることを意味したので、續紀【二十三】に遠江國荒玉河とあるのも此地を貫流する川をいひ、語義はアラタ(新)マ(地區)(21)であらう。
きへのはやしに キヘのキは防禦地點を意味し、柵または城の字をあて、岩石を以て構築したものをイハキ(石城)、鹿柴を繞らしたものをウバラキ(茨城)などと稱へた。之を守備する兵勇の營舍をキヘ(柵戸)と稱へたのであるが、轉じて地名となつたものも少くはなく、古くは道尻岐閇國【記】及道口岐閇國【舊】があり、遠江國山香郡岐階【和】も岐陛の誤寫であらう。さりながら其は今の周知郡の北部にあたり、麁玉郡とは遠く離れて居るから、アラタマのキヘとは謂はなかつた筈で、次にもキヘ人の云々といふ歌のある所を見ると、當時軍團の分駐地をキヘと稱したのであらう。上記有玉村に近い濱名軍豐西村大字貴l平は其名殘であらうといはれ【考】、風土記傳には同郡北濱村大字貴布禰を以てキヘの林の遺跡として居るが(大日本地名辭書所引)、果して此等の地點であつたかは尚精査を要する。ハヤシの原義は榮爲《ハエシ》であるが、皇極朝の童謠にヲハヤシ〔三字右○〕に我を引入《ヒキレ》て云々とあるやうに此時代には既に森林の意に用ひられて居たものゝやうで、某氏の説のやうに魂ハヤス儀式の謂と解することは言葉の上では到底思ひも及ばぬ。
なをたてて 汝ヲ立テテ
ゆきかつましじ カツは克《アタ》フといふ意で、マシジは推量の助動詞マシと打消の未來形ジとより成り、マジ(口語マイ)の原形であるから、行き得まいといふことである。此明白なる表現を曲解して、自〔右○〕を目〔右△〕の誤記と推斷し、雪ガ積リシモ【考】【略】、若くは行|難《ガテ》マシモ【古】の意とすることの誤なるは勿論であるが、新考が殊更に加都をガツと訓し、行得ヘジと釋したのも迂論である。新訓は正しくカツマシジと訓んで居るが、次句(22)を「寢を先立たね」と書下した所を見ると、尚句意を明にし得なかつたものと思はれる。
いをさきだたね 眞淵は「寢を先立たね」と解讀したが、其は上句の誤釋に基くものであるのみならず、イ〔右○〕ヲ寢ルなどいふイ〔右○〕はヨ(夜)の轉呼であるから(一輯一四六頁)、臥床の意にはならぬ。其故に大平は乎〔右○〕を毛〔右△〕の誤記としてイモ(妹)とよみ【略】、古義は之に從ひ、新考は移邪〔右△〕と改めてイザと訓して居るが、改竄を敢てするに先ち、原文の儘で解讀を試みる必要がある。案ずるに記の兄宇迦斯誅戮の章下には汝之といふ意を以て伊賀〔二字右○〕所作仕奉《ツクリツカヘマツレル》云々と敍し、皇極紀にも※[人偏+爾]之をイガと訓してあるのみならず、イ〔右○〕マシ(マシは敬語)といふ第二人稱のある所を見ると、汝を意味するイ〔右○〕といふ古語が存したものとすべきで、今も關東方言にはイ〔右○〕シといふ形に於て保存せられて居る。ヲは感動詞ヨの音便であるから、イヲは汝ヨといふ意と了解せられ、上句にナ(汝)を立てゝとあるので、同一語の重出をいとひ、殊さらに言ひかへたのであらう。サキダタネ(舊訓サキタタニ〔右○〕とあるは非)は先立テといふに同じく、ネは希望表示であるが、此は自分の前に立つて歩めといふのではなく、一足先に家路についてくれといふ意である。作者は恐らくは柵戸人で、林の先なる或女の許に通うたが、交情の濃かな彼女が別れを惜しみ、キヘの林まで送つて來たけれども、際限のないことであるから、「もはや此處で別れよう。おまへが其處に立つて居ては後髪を引かれるやうで足が進まぬから一歩先に歸つてくれ」というたものと思はれる。
【大意】麁玉の柵戸の林に汝を立てゝ(は)行き得まい。其方よ先立つて(家へ)歸つてくれ(23)
 
 
3354 伎倍比等乃《キヘヒトノ》 萬太良夫須麻爾《マダラブスマニ》 和多作波太《ワタサハダ》 伊刹〔左△〕奈麻之母乃《イリナマシモノ》 伊毛我乎杼許爾《イモガヲドコニ》【三三五四】
 
きへ人の まだら衾に わたさはだ 入りなましもの 妹が小床《ヲドコ》に
 
      右二首遠江國歌
 
きへひとの 此キヘも上記の麁玉の柵戸をいふのであらう。キヘ人は其柵戸に居住する人の謂であるが、歌によれば常人よりもやゝ高級の生活をして居たものゝやうで、役附にあらずとするも城下町の住民と、田家との間には若干の相違が存したものと思はれる。
まだらぶすまに マダラは田麻科に屬し、學名をTija condataと呼ぶ机物をいふものゝやうで、秋田地方ではマダと稱し(ラは恐らくは虚辭的接尾語であらう)、今も其樹皮繊維を取つて衾褥を製する。從來これを斑の義と解したのは、當時の社會状態を詳にし得なかつたためで、斑染(摺)または斑織即ち友染模樣や縞物の夜具蒲團を用ひるやうになつたのは遙に後世のことに屬し、此ころには山上憶良臣の貧窮問答の歌によつても明なるが如く、庶民は出土《ヒタツチ》に藁解き敷き、やゝ上級のものでも麻衾を引被つて寢たものゝやうで【八九二】、ワタを入れたフスマ(臥裳)すらも珍しがられたのであるから、斑〔右○〕衾と稱するが如きものが有り得たとは思はれぬ。
わたさはだ ワタは腸の意から、填充物の義に轉用せられたので、麻及繭の屑、植物の絮、樹の内皮乃至藁の如きものが之に充當せられたことは有り得べきである。今いふワタ(木綿)の種で、延暦十八年に參河國(24)に漂著した異人の將來したものは、久しからすして絶滅し、現存のものは天文年間の輸入に屬し、本集第三卷に白縫筑紫乃綿【三三六】とある綿は借字に過ぎず、ハタ即ち布の謂である。サハダはシバ(屡)の轉呼サハ(多)とココダ〔右○〕、コキダ〔右○〕などいふタ(恐らく數の意のチの轉呼)とより成り、澤山といふ意であるが、上二句とワタまでは序で、柵戸人のマダの衾にワタが澤山入れてあるといふことを、屡々妹が寢床に這入るといふ意にいひかけたのである。
いりなましもの 刹〔右△〕は利〔右○〕の誤記であらう。類聚古集以下には利とある。モノは本來反接助語であるが、此例の如く未來格に連り且終止に用ひられた場合には、實現に至らざる時代即ち空望を表示する。口語に譯すれば這入らうものを〔右○〕であるが、ヲを略したのではなく、モノ自體に其意が備はつて居るのである。
いもがをどこに ヲドコのヲは小の義から出た愛稱で、トコは勿論寢床である。此は上句に先行すべきであるが、律調の爲に倒敍せられたのであらう。
【大意】柵戸人のマダの衾にワタ(絮)が澤山入れてあるやうに、屡々彼女の可愛い寢床に這入らうもの
 
3355 安麻乃波良《アマノハラ》 不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》 己能久禮能《コノクレノ》 等伎由都利奈波《トキユツリナバ》 阿波受可母安良牟《アハズカモアラム》【三三五五】
 
天の原 富士の柴山 このくれの 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ
 
あまのはら 高天原を略して天原といひ【記】、或は天空をアマノハラと稱へた例もあるが【三二八〇】、こゝは孰れにしても意が通ぜぬ。從來天空に聳えるといふ意を以て富士の修飾としたものと了解せられたやうであるが、山頂ならばともかくも、其裾野の柴山を敍する爲に天ノ原といひ起すことは、其が慣用枕詞である場合の外は穩當でない。さればアマノハラには天原(天空)以外の意があつたのではないかと考へて見る必要がある。案ずるに海人《アマ》族の占住した原野はアマ(海人)の原と稱したことも有り得べきで、固有名詞化した例は羽前國東村山郡天童にある。此地は北畠顯家卿の子息天童丸が占住したが故に其名を負うたのであるといふ説もあるが【大日本地名辭書所引風土略記】、舊祠愛宕神社の神樂歌に「久方のアマ〔二字右○〕のハラ〔二字右○〕マ」と詠まれて居る所を見ると、天童はアマノワラハの假字で、ワ〔右△〕ラハ〔右△〕はハ〔右○〕ラマ〔右○〕(マは地區の意)の轉呼とすべきである。應永年間最上直家の次男左京大夫頼直此地を領し、天童を以て苗字とするに及び、其ころの習に從うてテンドウと音讀し、天堂ともかくやうになつたけれども、字義によつて命名せられたものとは思はれぬ。されば富士の裾野にアマノハラといふ地があつたとしても敢て怪しむに足らず、駿東郡原〔右○〕町は或は其名殘で、通説の如く浮島原〔右○〕から出たのではないかも知れぬ。若し然りとすれば句末に助語ハを補うて聞くべきである。
ふじのしばやま フジ(冨土)の名の義については、古來數多い異説中、樺太アイヌ語のフチ(火)と同語なりとするバッチェロアの主張が、學界に容れられようとして居るが、私は寧ろホチ(火靈)の轉呼と考へたい。(26)チとジとは國語では屡々相通じて用ひられ、ヒ(火)はもとFi(又はhi)と發音せられたものゝやうであるから、フともホとも轉呼したことは有り得べきで、一萬二千有餘尺の高峯から炎々たる火※[火+陷の旁]《ホノホ》を吹き上げた光景は太古の人をして火神(ホノイカヅチ)の威靈を空想せしむるに足り、自ら此名を以て呼ばれるやうになつたものと思はれる。――アイヌ語に於ても火神をフジ・カムイと稱する――轉じて其所在地方の總稱となり、川野にも同じ名が與へられたから、此柴山も勿論山巓の謂ではなく、杣木の生ひた裾野を意味するのである。シバの原義はサバ(細葉)で、ソマとも轉呼せられ、濶葉樹に對しては針葉樹をいひ、良材に對して雜木を呼稱するに用ひられた。上記のアマの原が裾野の雜木林の中にあつたので、富士の柴山とつゞけたのであるが、尚コノクレ(木梢)といひかけて次句の序を兼ねしめたのであらう。
このくれの 此ノ晩《クレ》ノ【宣長】
ときゆつりなば ユツリは集中【六二三】【二六七〇】【二六七三】の用例によるも、ウツリ(移)の音便と思はれるが、必しも訛言ではなく、空間推徙を意味する助語ユ(ヨ)から派生せられたのであるかも知れぬ。若し然りとすれば寧ろユツリを以て原形とすべきで、ツリは恐らくはツレ(連)の意の自動詞であらう。此日暮の時が移り去らばといふ意である。
あはずかもからむ カモは感動詞であるから、逢はずあらむ哉《カナ》といふに同じく、口語に直せば逢はないだらうよといふ意である。眞淵以下コノクレを木之暗と解し、カモを疑問助語と速斷した結果、男の歌として説いて居るが、「夜更なばいもが待時の違ひて逢がたく〔三字傍点〕やあらむ」【略】とあるのも、「木暗き折しも我隱妻(27)を率て立隱るべきなれば此時節〔三字傍点〕を過してはさることも叶ひがたければ逢はずなりなむか」【古】といふのも條理の立たぬことであるのみならず、語法を無視した解釋といはねばならぬ。疑問と否とに拘はらず、アハズアラムを逢ひ難く〔二字傍点〕あらむ又は逢はずなり〔二字傍点〕なむと譯することは出來ぬのである。案ずるに此は女性の歌で、其居住地が冨土の柴山であつたから、日暮を過ぎては男の訪ねて來る望がないといふ意を詠じたのであらう。
【大意】アマの原(は)富土の柴山(であるから)此暮の時が移り去らば逢はぬであらうよ
 
3356 不盡能禰乃《フジノネノ》 伊夜等保奈我伎《イヤトホナガキ》 夜麻治乎毛《ヤマヂヲモ》 伊母我理登倍婆《イモガリトヘバ》 氣爾餘婆受吉奴《ケニヨバズキヌ》【三三五六】
 
富土の峯の いや遠長き 山路をも 妹がりとへば 日《ケ》によばず來ぬ
 
ふじのねの 富士ノ嶺ノ
いやとほながき 彌遠長キ
やまぢをも 山路ヲモ
いもがりとへば 妹ガリト云ヘバの約。イフが助語に連る場合にはイを省いてニフ、トフ等とするのは古言の例である(第一輯二一二頁)。ガリの原義は之在《ガアリ》であらうと思はれるが、許の意に轉用せられ、夙に遊離して一助詞となり、國司ノガリ【土佐日記】の如く、更にノを以て名詞と連繋せられた例もある。此句に於て(28)は尚原義により妹ガ在りとイヘバの謂とも了解せられる。
けによはずきぬ 日《ケ》ニオヨバ〔三字右○〕ズ來ヌ、即ち日を重ねず即日來たといふ意であらう。オヨブといふ語は本集には用例がないが、日本紀には及、逮、曁等の訓に用ひられ、イヤ(彌)の轉呼オヤの活用形で重複を意味し、シキ(重)と同樣に及の義を生じたものと思はれる。之をケとニヨブとの二語に分析し、靈異記中卷(第廿二條)の訓によつてニヨブを呻の意とし、ケは氣息の義【考】又は異《ケ》の謂とする説【新考】もあるが、右の兩語は互に熟合すべき性質のものではなく、假にケを無意義の接頭語としても、ニヨブは木來ニ――アニ〔右○〕(兄)アネ〔右○〕(姉)の原語――を呼ぶといふ義から助を求めることに轉用せられたものゝやうであるから、此場合には適合せぬ。宣長がヨバズの意としたのは卓見であるが、ケを例によつて來經《キヘ》也と斷じたのは【略】遺憾とすべきで、來經に不及としては其主張のやうに時刻を移さずと了解することが出來ぬ。
【大意】冨士の嶺の甚遠く長い山路をも、妹が居るといふので日を重ねずに來た
此は恐らくは前の歌に對する返歌であらう。
 
3357 可須美爲流《カスミヰル》 布時能夜麻備爾《フジノヤマビニ》 和我伎奈婆《ワガキナバ》 伊豆知武吉※[氏/一]加《イヅチムキテカ》 伊毛我奈氣可牟《イモガナゲカム》【三三五七】
 
霞ゐる 冨士の山邊《ヤマビ》に 我が來なば いづち向きてか 妹が嘆かむ
 
かすみゐる カスミはカスカ(幽)の語根カスの活用形で、ミは主觀表示語尾であるが、幽に見えるといふ意(29)から、靄霞の義に轉用せられたのである。霞には立ツといふ述語を用ひることを例とするが、其は平地から見た場合のことで觀測點次第によつては、居るともいひ得られる。要するに霞がこめて居るといふことである。
ふじのやまびに 富士の山邊にといふ意。べ(邊)は畝傍、山備、河備、岡備、濱備の如く、ビとも轉呼せられるのである。
わがきなば 女の家を出て朝霞の中に自分が來てしまふならばといふ意。門に立つて見送つて居る彼女に見えなくなるであらうといふ意味が含められて居るのである。
いづちむきてか イは不定代名詞の原語で、他の體言と結合する場合には、連繋助語ツを接著したイツの形をとり、イヅク又はイヅコ(何處)の如くも用ひられる。チはカタ(方)の原語タの轉呼で、アチ〔右○〕(彼方)コチ〔右○〕(此方)などといひ、イヅチも亦イヅカタ(何方)の意となるのである。自分が見えなくなつたら何の方に向うて彼女が後を慕ふであらうかといふのである。
いもがなげかむ 妹ガ嘆カム
【大意】霞のこめて居る富士の山邊に自分が來てしまうたなら(姿が見えなくなるから)、何《イヅレ》の方に向うて妹が嘆くであらうか
これは別離の歌なることは勿論であるが、從來了解せられたやうに、旅に出る人の吟詠ではな(30)く、寧ろ後朝の述懷と見るべきである。此時代に於ては少くとも結婚の當座は、女の許に通ふことを例とし、終日鼻をつき合はせて居たのではないから、會ふ度毎に此やうなつらい別をしたのである。或は此歌の作者も前のと同一人であつたかも知れぬ。
 
3358 佐奴良久波《サヌラクハ》 多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》 古布良久波《コフラクハ》 布自能多可禰乃《フジノタカネノ》 奈流佐波能其登《ナルサハノゴト》【三三五八】
 
或本哥曰、麻可奈思美《マカナシミ》 奴良久《ヌラク》波〔右△〕思家良久《シカラク》 △奈良久波《サナラクハ》 伊豆能多可禰能《イヅノタカネノ》 奈流左波奈須與《ナルサハナスヨ》
 
一本歌曰、阿敝良久波《アヘラクハ》 多麻能乎思家也《タマノヲシケヤ》 古布良久波《コフラクハ》 布自乃多可禰爾《フジノタカネニ》 布流由伎奈須毛《フルユキナスモ》
 
さ寢《ヌ》らくは 玉の緒ばかり 戀ふらくは 冨士の高嶺の なるさはの如
(或本歌) ま悲しみ ぬらくしからく さ鳴《ナ》らくは 伊豆の高嶺の 鳴澤なすよ
(一本歌) 逢へらくは 玉緒しけや 戀ふらくは 富士の高嶺に 降る雪なすも
 
 編者は二首共に異傳と認めたのであるが、或本歌は伊豆歌であるから寧ろ類歌と見るべきで、眞の異傳は一本歌のみであるから、之を本歌と併説し、伊豆歌は別に説くことゝする。
 
(31)さぬらくは(あへらくは) サは原義を失うた接頭語、クは第一輯(第四五頁)に述べたやうに、コト(事)と同義で、可能なる限り前續母類をaに轉化することを例とするから、サヌラクは寢ルコト、アヘラクは逢ヘルコトといふ意である。
たまのをばかり(たまのをしけや) タマノヲは小孔を穿つた珠玉を貫通して之を身體の或部分に懸吊又は轉著する爲の緒で、用途によつて寸法が不定であつたことはいふ迄もないが、聯珠《ミスマル》の緒の如きは相當の長さを有したから、本集にはナガ(長)の枕詞としても用ひられた【一九三六】【三〇八二】【三三三四】。さりながら其は主觀の問題で、他の長いものに比すれば物の數にもならす、短いことの比況ともなり得るから、玉ノ緒|計《バカリ》短シともいひ得べく、之に反して遺傳に玉ノ緒(ニ)及《シ》ケヤとあるのは、及ぶべしや否及ぶべからずといふ意で、玉の緒を長いものとして比較に用ひたのである。
こふらくは 戀フルコトハといふ意。
ふじのたかねの(に) 富士ノ高嶺ノ(ニ)。句末の助語の相違は後句に因するものである。
なるさはのごと(ふるゆきなすも) 原義は猶未だ之を詳にし得ぬが、サハは本來カハ〔右○〕(河)に對し谿流を表示する語で、大和に於ては夙に沼澤地の意に轉用せられたけれども、靈異記(上卷第十二條)には溪〔右○〕をサハと訓してあり、今もこの意に用ひて居る地方が少くはない。ナルは鳴の義で、水聲の※[鼓/冬]々たる谿流を意味する。――茨城縣東茨城郡朝房山麓(山根村大字成澤〔二字右○〕)、山形縣南村山郡龍山西麓(堀田村大字成澤〔二字右○〕)にも此地名があり、青森縣には岩木山の麓(西津輕郡鳴澤〔二字右○〕村)及八甲田山中に此名を以て呼ばれる谿流が存する。大(32)和の泣澤【紀】又は哭澤【萬二】も恐らくは同意を以て命名せられたのであらう。――異傳は降雪のやうであるよといふ意で、ナスのナは助語ノ〔右○〕(之)の原形であるが、「鳴神ノ吾のみ聞きし」といふやうに比況表示にも用ひられるので、之に其《シ》の轉呼ス〔右○〕をそへたノス(ナス)は、同じく比況助語たる職能を有するのである(第一輯五〇頁參照)。モは感動助語。
【大意】共に寢るあひだは玉の緒ほど(短く)、戀することは富士の高嶺の水音の高い谿流の如く(咽び泣くの)である。――(一本歌)會うて居ることは玉の緒(の長き)に及ばうや。戀ふることは富士の高嶺に降る雪のやうに(積り積るよ)
伊豆歌も組立はほゞ同樣で、同じ語句が用ひられて居るが、内容は左記のごとく大に相違して居る。
 
まかなしみ マは眞の義の接頭語で、まことに愛憐《カナ》シミ即ち可愛くおもひといふ意である。
ぬらくしからく(奴良久波〔右△〕思家〔右○〕良久) 波は恐らくは衍字で、細井本には除かれて居る。家〔右○〕の呉音はケであるが、漢音によつてカの假字に用ひたものと思はれる。例は八多籠良家《ヤタコラガ》【一九三】、和家曾乃乃《ワガソノノ》【八二四】、和家夜度能《ワガヤドノ》【八二六】【八四二】等があり、本卷【三三八五】【三三九二】【三四六〇】【三四九三】の家も亦之に屬する。されば此句は寢ルコト辛ラクの謂とすべきで、シは強意助語、カラクは乏シクとほゞ同意である。
さならくは(△奈良久波) 西本願寺本及細井本に佐〔右○〕奈とあるを可とする。サは上述の如く接頭語で、ナラク(33)は鳴ルコトの意であるが、ナルはナク(鳴、泣)と同じくネ(音)から派成せられた動詞で、上古は相通じて用ひられたものゝやうであるから、此も泣クコトハといふ意とすべきである。
いづのたかねの 伊豆ノ高嶺ノ。――天城山のことであらう。
なるさはなすよ 鳴澤|如《ナス》ヨの謂で、ヨは今も常用せられる感動詞である。
【大意】眞に可愛く思ふが、寢ることは纔で、泣くことは伊豆の高嶺の鳴澤のやうであるよ
 
3359 駿河能宇美《スルガノウミ》 於思敝爾於布流《オシヘニオフル》 波麻都豆夜《ハマツヅヤ》 伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》 波播爾多我比奴《ハハニタガヒヌ》 一云|於夜爾多我比奴《オヤニタガヒヌ》【三三五九】
 
駿河の海 おし《イソ》へに生ふる 濱つゞ|や《ラ》 いましをたのみ 母にたがひぬ(おやにたがひぬ)
    右五首駿河國歌
 
するがのうみ 駿河ノ海
おし《イソ》へにおふる オシヘは契沖説の如く磯邊の謂で、後掲【三三八五】にも麻末乃於須比〔三字右○〕とあり、齊明紀の童謠に於社幣陀《オソヘダ》とあるのも磯邊田の轉呼と思はれる。イソ(磯)の語根はイシ(石)と同じくシ〔右○〕で、スと轉呼しては洲(砂堆)の義となり、イは發音の便宜の爲の接頭語に過ぎぬから、オとかへても妨なしとせられたのであらう。
(34)はまつづ|や《ラ》 ツヅヤは先學の所論の如くツヅラの轉呼であらう。ラ行とヤ行とは相通で、本卷にも其例が少くはない。延喜式には黒屑をツヅラと訓して居るが、本來ツラ(蔓)の疊頭語であるから、一般に蔓性植物をいふものと了解せられ、海濱に自生するものをハマツヅラと稱へたのであらうが、或は濱豌豆の謂であつたかも知れぬ。――以上三句は觸目の品物をかりて序としたので、濱ツヅラは容易く切斷するが故に、中斷えた男の比況とし、濱ツヅラのやうな汝《イマシ》とつゞけたものと解すべきである。集中には玉葛、ハフ葛《クズ》等をもタエ(絶)の枕詞に用ひて居る。
いましをたのみ イは上述の如く第二人稱原語で(第二二頁)、マシは御爲《ミシ》の意から出た敬語であるから、之をそへて敬稱としたのである。タノミ(頼)は接頭語タとノミ(祈)とから成り、信頼を意味する。
ははにたがひぬ(おやにたがひぬ) オヤはウ(上)ヨ(代)の轉呼らしく、先代といふ意から祖親の義に轉じたのであるが、上代は一般に母系承統であつたから、單にオヤといへば母親または其直系尊屬の女性と了解せられ、此オヤもまたハハの同義語として用ひられたのであらう。男心の變り易きことを察せず、其甘言を信頼して母の意志にたがひ、身をまかせたのに、早くも秋風の立ちそめたことを怨んで詠じたものと思はれる。
【大意】駿河の海の磯邊に生ひる濱ツヅラのやうに、君を憑として母(親)に背いた(ことの悔しさよ)
 
(35)3360 伊豆乃宇美爾《イヅノウミニ》 多都思良奈美能《タツシラナミノ》 安里都追毛《アリツツモ》 都藝奈牟毛能乎《ツギナムモノヲ》 美太禮志米梅揚《ミダレシメメヤ》【三三六〇】
 
或本歌曰、之良久毛能《シラクモノ》 多延都追母《タエツツモ》 都我牟等母倍也《ツガムトモヘヤ》 美太禮曾米家武《ミダレソメケム》
 
伊豆の海に 立つ白波の ありつゝも つぎなむものを 亂れ|し《ソ》めゝや
 
(或本歌)…………白雲の たえつゝも 繼がむともへや 亂れそめけむ
    右一首伊豆國歌
 
いづのうみに 伊豆ノ海ニ
たつしらなみの(しらくもの) 次句の比況的序である。立ツ白彼については異議がないが、或本歌の白雲がタツにつゞくものとすれば聊か疑がある。海にタツ雲といへば水平線に立ち上る白雲をいふものと解する外はないが、タエツツの比況となるやうな斷雲が、直接水面にあらはれるといふが如きは事實上あり得ぬ現象で、奇峯多しと形容せられる夏の雲は層雲《ハタクモ》の上に出るものであるから、海ニ立ツと描寫することは不適當である。其故に青雲ノ靄《タナビ》ク極ミ白雲ノ墜座向伏《オリヰムカフス》限【祈年祭祝詞】などとも敍述せられて居るので、第七卷【一〇八九】に「海原のたゆたふ波にタテル白雲」とあるのも、積雲または卷雲が水面に立上るといふ意ではない。或は此首句は伊豆ノ嶺《ネ》ニ又は伊豆ネロニ等とあつたのを誤傳したのではあるまいか。
ありつつも(たえつつも) アリツツモは在在リテモ即ち現在の儘といふ意で、タエツツモは絶々でもといふ(36)に同じい。此一句の相違によつて歌意にも大差を生じたのである。
つぎなむものを(つがむともへや) ツギは元來自他兩用の動詞であるが、後世自動詞には專ら疊頭語ツヅキを用ひ、ツギは他動詞とのみ了解せられるやうになつたが、此句に於ては自動詞即ちツヅキの意に用ひられた。ツギナムといふ完了形の未來格を以て表示したのは作者の氣もちによるもので、口語には此活用形態はないが、他の言葉をかりて表現すれば、續き行かうものをといふ意である。或本歌のツガムトモヘヤは之に異り、ヤは純然たる間投詞で句意を増減することはなく、トモヘはト思《オモ》への約であるが、前卷にも屡々述べたやうに、已然形は助語ドモ(又はド)を連結せずとも反接の意を合むから、つゞけようと思ふのにといふ意で、之を思ヘバニヤ【略】又は思ハメヤ【古】の意とするのは誤である。
みだれ|し《ソ》めめや(みだれそめけむ) ソメ(始)は染《ソメ》と同源から分化した語であるから、八千矛神の歌にソメ〔二字右○〕木が汁にシメ〔二字右○〕衣をとあるやうに、ソメともシメとも稱へられたので、シミ(侵)といふ語もある所を見ると、シメを原形とすべきであらう。さればミダレシメメヤは亂れ始めようやといふ意の反語、ミダレソメケムは亂れ始めたのであらうといふ意で、不審を表示したのである。ほゞ同樣の情緒を敍述するに其形式を異にしたのは、第三句の相違に因するもので、此儘で續《ツヅ》かうものを何として亂れ始めようやといふに對し、或本歌は絶々ながらも尚つゞけようと思ふに、どうして亂れ始めたのであらうと敍したのである。ミダレは思ひ亂れの意である。
【大意】伊豆の海に立つ白波のやうに、現在の儘つゞいて行かうものを、(何として)亂れ始めよ(37)うや――(或本歌)伊豆の嶺(?)に立つしら雲のやうに、絶々ながらも續けようと思ふのに、(何故に)亂れ始めたのであらう
 
3361 安思我良能《アシガラノ》 乎※[氏/一]毛許乃母爾《ヲテモコノモニ》 佐須和奈乃《サスワナノ》 可奈流麻之豆美《カナルマシヅミ》 許呂安禮比毛等久《コロアレヒモトク》【三三六一】
 
足柄の をても此面《コノモ》に さすわなの かなる間しづみ 子ろ吾紐とく
 
あしがらの アシガラはアシガリともいひ(第五一頁)、相模の西部に位する地方の總稱で、今の上下足柄郡にあたる。名の義は判明せぬが、或は蘆刈の謂か、又は夷語によつて命名せられたのかも知れぬ。續歌林良材集に相模國風土記を引いて、此山の杉の木を採つて作つた船は足が輕いので足輕山と名付けたとあるのは後人の附會であらう。
をてもこのもに ヲテはヲチ(遠方)の意、モはオモ(面)の語根であるから、ヲテモコノモといへば彼方此方と了解せられるのである。
さすわなの ワナ(罠)はワ(輪)から出た語で、單にワとも稱へられるから、ナはネに通ずる虚辭的接尾語分子と思はれる。此時代東國人が用ひたワナは如何なる形式のものであつたか判明せぬが、神武紀(記)の歌に鴫ワナ張ル〔二字右○〕とあり、後掲【三四三二】にワをカケ〔二字右○〕山と詠まれて居る例を見ると、場合に應じて張りもし、(38)掛けもし或は桿條に取りつけて地上に挿すこともあつたのであらう。ワナノ〔右○〕とあるのは罠のやうにといふ意で、以上三句は序である。
かなるましづみ カは顯著の意の接頭語、ナル(鳴)は上記の如くナクに通ずるから(第三一頁)、カナルはけたゝましく鳴くことで、後掲【三三九〇】に「筑波嶺にカカナク鷲の音のみをか泣き渡りなむ」とあるカガナクと意を同うし、マは時間の謂である。シヅミはシヅ(靜)の活用形で、口語シズマリに同じい。此は罠にかゝつた禽鳥がけたゝましい聲を立てやがて靜になつて行くのを、物音の靜まることに言ひかけたので、或は女が羞澁の餘り抗拒する状況を暗示したのであるかも知れぬ。
ころあれひもとく コロは上記の如く女子の謂で(第一六頁)、眞淵の解釋のやうに女と自分とが紐を解くといふのである。獲物のかゝつた罠も騷が靜まるを持つて紐を解き緩めるものであるから、比況に用ひられたのであらう。上代人の上衣は襟の仕立が不完全で、胸があき易かつたから、紐を取つけて之を結び合はせたが、脱衣の爲には之を解く必要があつたので、同衾の意にも紐トクといふ表現を用ひた。之を下裳の紐と説くのは穿ち過ぎである。
【大意】足柄(山)の彼方此方に挿す罠のやうに、騷がしい物音が靜まつて女も自分も紐を解く
 
3362 相模禰乃《サガムネノ》 乎美禰見所久思《ヲミネミソグシ》 和須禮久流《ワスレクル》 伊毛我名欲妣※[氏/一]《イモガナヨビテ》 吾乎禰之奈久奈《ワヲネシナクナ》【三三六二】
 
(39)或本歌曰、武藏禰能《ムザシネノ》 乎美禰見可久思《ヲミネミカクシ》 和須禮遊久《ワスレユク》 伎美我名可氣※[氏/一]《キミガナカケテ》 安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》
 
さがむねの 小|峯《ミネ》見|そ《ス》ぐし 忘れくる 妹が名よびて 吾をねしなくな
 
(或本歌) 武藏嶺の 小峯見かくし 忘れ行く 君が名かけて 吾《ア》をねし泣くる
 
或本の傳に從へば此は武藏歌であらねばならず、歌意も若干相違して居るから、類歌ではあるが、必しも同源とすることは用來ぬ。されば上掲【三三五八】と同じく別首と見て各別に説くことゝする。
 
さがむねの 相模は舊訓サガミとあり、和名抄にも作加三と註せられて居るが、記に相武〔右○〕の字をあて、弟橘比賣の歌にも作賀牟〔二字右○〕能袁怒とあるに從ひ、サガムと訓むを可とする。國造本紀によれば、相武國の外に師長(今の中郡方面)といふ國が存したが、此當時は既に相模に統一せられて居たやうであるから、サガム嶺は今の丹澤山彙を意味したものと思はれる。東部地方から望見すると、この連山が最もよく目につくのである。
をみねみ|そ《ス》ぐし ヲ峯のヲは上記の如く愛稱で(第二四頁)、好もしい峰といふ心持で冠せられたのであらう。或は小《ヲ》の意を以て特に雨降《フフリ》山(大山)の峯をさしたのかも知れぬ。ミソグシは眞淵説の如く、見ス〔右○〕グシの訛で、口語の見過ご〔右○〕しにあたる。家郷を離れて旅行く人が相模連山、就中そのヲ峯を見て過ぎたといふのである。
(40)わすれくる 全く忘れたといふのではないが、旅の興に心を奪はれて暫く念頭を離れて居たことを忘レ來ルと表現したので、妹だけにかゝるのである。後句によると同行者があつたことは疑なく、山水の風景を賞しながら、雜談に花を咲かせて樂しく旅して居たのであらう。
いもがなよびて 此作者の妻が特に話題になつたのではないとしても、同行者が不用意に發した片言が女の名を想起せしむるに足るものがあつたのであらう。
わをねしなくな 吾を泣かすといふ意。句末のナは感動詞で、大御葬の歌の「空は行かず足よゆくナ〔右○〕」【紀】と同一用法である。シは強意助辭で、ネナクは哭泣の意を明示する爲にナク(泣)にネ(音)を冠したのであるが(第一輯二六七頁)、イネと同樣に分離的で(同一四六頁)、ネとナクとの間に助語の介在を許し、哭《ネ》ノミを〔三字右○〕泣キツツ在リテヤ【一五五】の如くも用ひられるのである。泣クは四段活自動詞であるが、之を下二段活に轉用すると作爲動詞とも成り得るから、泣カスの意を以てナケ、ナク、ナクルと活用したので、吾《ワ》ヲといふ目的語を添へたのも之に因るものである。――宣長ガ泣カスのカスの切クなりとしたのは延約説に捉はれたもので論ずるに足らぬ――從來ナを禁止語分子と解して居たが、後掲【三五五八】に安乎彌思奈久與〔右○〕とあり、本集第二十卷先太上天皇の御製に「かけつゝもとな朕ヲネシナクモ」と詠まれて居る所を見ると感動詞とせねばならず、或本歌に我ヲネシ泣クルとあるのも、句末にヨを略したものとすべきである。
【大意】相模連山の佳峯を横に見て(切角)忘れて居た女の名をいうて自分を泣かすよ
 
或本の歌は次の通りである。
 
(41)むざしねの 武藏は平野を以て有名な國であるから、多麻ノ構山と詠じた例はあるけれども【四四一七】、武藏嶺といへば秩父連山と解する外はない。
をみねみかくし ヲ峯は秩父連山中の一峯をさしたのであらうが、之を點足し得ぬ。ミカクシ(見隱)は眼に觸れぬやうにするといふ意で、此山の方に向つて旅立つた夫を思ふまいとして眼をそむけて居るといふのである。從來之を旅行く人の歌と豫斷して、ミカクシを「遠く來ては隱るゝなり」と牽強し【考】、或は見所久思も見可久思も共に見都都〔二字右△〕思の誤寫で、見ツツといふ意なりとする説【新考】もあるのであるが、女の歌として上記の如く解すれば、歌意は容易に氷釋せられるのである。
わすれゆく 忘レ行クといふことであるが、行クは如實の行動をいふのではなく、進行格の一形式で、口語に於ても「日を經るに從ひ忘れてゆく〔二字右○〕」の如く用ひられるのである。
きみがなかけて キミは男女相互の呼稱であるが(第一輯二三一頁)、此は上述の理由に基き、旅に出た夫のことを其妻から呼んだものとすべきである。男の名をいひ出したのは女伴の一人であらうが、此は前の歌と異り留守をなぐさめる氣で、彼の人も今はどの邊まで行つたであらうなどと噂したことをいふのではあるまいか。
あをねしなくる 連體形で結んだのは餘韻を殘す爲で、自分をなかすことよといふ意であらう。
【大意】武藏連山の佳峯を見まいと眼をそむけ、(漸く)忘れかけた夫の名を呼んで自分を泣かすことよ
(42)右の如く類歌ではあるが、相模のそれとは作者の性を異にするやうであるから、同一歌の異傳と見ることは困難である。恐らくは偶然同じ趣向の歌が相模と武藏とに傳へられたのを、深く考察することなくして、編者が漫然之を併記したのであらう。
 
3363 和我世古乎《ワガセコヲ》 夜麻登敝夜利※[氏/一]《ヤマトヘヤリテ》 麻郡之太須《マツシダス》 安思我良夜麻乃《アシガラヤマノ》 須疑乃木能末可《スギノコノマカ》【三三六三】
 
わがせこを 大和へやりて まつしだ|す《ソ》 足柄山の すぎのこの間か
 
わがせこを セは女性から同世代の男子に對する一般的稱呼で、コは愛稱であるが、之にワガ(吾)を冠すると、昵近の男性就中夫をいふものと了解せられることは第一輯(第一七七頁)に述べた通りである。
やまとへやりで 大和へ遣りテ
まつしだ|す《ソ》 シダは關西方言に於て、行キシナ〔二字右○〕、歸リシナ〔二字右○〕などいふシナと同一語なることは疑なく(ダ、ナ相通)、其は行クサ〔右○〕、歸ルサ〔右○〕の意であるから、恐らくは「時」を意味する原語サ〔右○〕に接尾語タ――エ(枝)ダ又はココ(許多)ダ等の如く用ひられる――を添付したサダの轉呼であらう。本集は【二七三二】【三一六〇】に此左〔右○〕太過而とあるのも此時〔右○〕を過してといふ意で、之をシダと訛つた例は此外にも本卷には少からサ、防人歌【四三六七】にもある。句末のスは助語ソの轉呼であらう。從來此語義を解きなやみ、翳立【マブシタツ】又は待《マツ》シ立【代】、松シ如《ナス》【考】、令2待慕1《マチシタハス》【古】の轉訛若くは約と牽強して居るが、假に右の如き語句が存立し得るとしても前後の脈(43)絡がたどたどしく歌としての風趣がない。案ずるに以上三句は、男を大和へ遣つて待つ間《シダ》ぞ〔右○〕といふ意であらう。
あしがらやまの 足柄山ノ
すぎのこのまか 上句のマツ(待)が松〔右○〕に通ずるから、其縁によつて杉ノ木間《コノマ》とつゞけ、スギ(杉)を過《スギ》に、コノマを木ノ間と此間とに言ひかけたので、留守の徒然に足柄の杉林を眺めながら、時日の過ぎ行くことを連想したものと思はれる。句末のカは感動詞である。
【大意】夫を大和へやつて(其歸り)を待つ頃ぞ。(此足柄山の杉の木間《コノマ》に因《チナ》み)早く此間は過ぎよ
表現方法が聊か安穩を缺くので、誤解を招いたのであるが、教養の高くない束國の婦人の歌とすれば、決して拙劣ではなく、其著想の奇抜なることが世人の興味を惹いて傳誦せられたものと思はれる。
 
3364 安思我良能《アシガラノ》 波姑禰乃夜麻爾《ハコネノヤマニ》 安波麻吉※[氏/一]《アハマキテ》 實登波奈禮留乎《ミトハナレルヲ》 阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》【三三六四】
 
或本歌末句云、波布久受能《ハフクズノ》 比可|利〔左△〕與利己禰《ヒカバヨリコネ》 思多奈保那保爾《シタナホナホニ》
 
あしがらの 箱根の山に 粟まきて 實とはなれるを あはなくもあやし(はふ葛《クズ》の ひかば(44)寄り來ね 下《シタ》なほなほに)
 
或本歌は上二句が同一であるといふだけで、全然別首であるから、各別に説明する。
 
あしからの 足柄ノ
はこねのやまに 箱根の山は天下周知であるが、名の義については碓説がない。其形態は決して筥に比すべきものではないのみならず、ハコを以て名とする地は箱浦(和泉)、箱御崎(讃岐)、筥潟(伊豫)、筥崎(筑前)及箱ノ渡(越前)等諸國に存在するから、ハコといふ語に箱以外の意義があつたものとせねばならぬ。案ずるに神世七代中の豐國野尊は葉木國野ともいひ、播擧矩爾《ハコクニ》と訓めと註せられて居るから【紀】、ハコがトヨ(豐)に匹偶する美稱であつたことは疑なく、應神紀及國造本紀に擧げた波區藝(波久岐)國も同語から出たものゝやうで、朝鮮語のパルク( )と語原を同うするのであらう。此語は今では專ら光明を意味するが、崔南善君の説によれば古語では天、神、太陽等の意に用ひられたといふことであるから、ハコネも亦神嶺の意を以て命名せられたのであらう。現在葦湖と呼ばれる湖水が大噴火口の遺跡なることは地質學上疑ひがないから、往昔富士山に匹敵する大火山であつたので此名を負はせたものと思はれる(第二六頁參照)。
あはまきて 粟播キテ。以上三句は序。
みとはなれるを 實となつて居るものをといふ意で、粟の結實を情交の實現に譬へたのである。
あはなくもあやし アハナクは逢はぬ事といふに同じく(第三一頁參照)、アヤシは奇怪なりといふ意である。夫婦關係は既に事實となつて居るのに、逢はぬのは奇怪であるとの意であるが、アハナクは粟無クをもじ(45)つたので、一羽の鳥をニハトリとは如何といふと同工異曲の口合である。
【大意】 足柄の箱根の山に粟を播いて實を結んだと同樣に、(既に)事實になつて居るのにアハないとは奇怪である
此も前の歌と同じく一種の洒落であるが、其故を以て之を俳諧歌と同一視してはならぬ。上代に於ては語戯は重要なる話術の一樣式で、今日吾人が枕詞と呼び、序と稱するものゝ多くは之に屬する。歌謠といふものゝ性質上、聽く人の興味を促す爲に巧に口合を用ひたのであるが、決して遊戯的氣分のみを以て詠出したのではない。或本歌の内容は左の通りである。
 
あしがらの
はこねのやまの}此二句は前の歌と同一なるが故に省かれて居る。
はふくずの 延フ葛《クズ》ノといふ意。和名抄に葛〓和名久須加豆良乃禰とあり、本草和名には葛根に久須乃禰の訓を與へて居るから、クズは恐らくはクズカヅラの略稱であらう。其根は澱粉として頗る美味なるが故に韓語※[ハングルでクス]《クス》※[ハングルでハダ](味美也)の語幹クスを以て名としたものと思はれる。日向風土記(殘簡)に俗語謂栗爲2區兒1とあるのも同語原から出たのであるかも知れぬ。
ひかばよりこね 比可|利〔右△〕とあるに從へばヒカリ〔右○〕ヨリコネで、被牽寄來ネ(ネは希望表示)の意とも了解せられるが、元暦校本、類聚古集、西本願寺本等に比可波〔右○〕とあり、舊訓もヒカバであるから、利〔右△〕を誤寫と見て姑く(46)之に從ふ。引くならば寄り來れよといふ意である。
したなほなほに 下直々ニ、即ち下方を眞直《マツスグ》にといふ意に、下|延《ハ》へてすなほにといふ心持をいひかけたのである。
【大意】足柄の箱根の山に延ふ葛のやうに、(自分が)引くならば下延へてすなほに寄り來よ
 
3365 可麻久良乃《カマクラノ》 美胡之能佐吉能《ミコシノサキノ》 伊波久叡乃《イハクエノ》 伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》 己許呂波母多自《ココロハモタジ》【三三六五】
 
鎌倉の みこしの崎の 岩くえの 君がくゆべき 心はもたじ
 
かまくらの 和名抄に相模國鎌倉郡とある地で、今も此名を存する。高座(太加久良)と久良(久良岐)との二郡の間に介在して居る所を見ると、或はカミクラ(上倉)の轉呼であるかも知れぬ。クラは昔の屯倉《ミヤケ》の所在地をいふのである。――倭建命の後裔なる鎌倉之別【記】は參河國寶飯郡蒲郡(舊名蒲形)地方に占住したもののやうで、相模の鎌倉と無關係なることは建國篇第四卷(第二八五頁放下)に考證した通りである。
みこしのさきの 代匠記に引いた相模國風土記に、鎌倉郡見越崎、毎v有2速浪1崩v石、人名號2伊曾布利1謂v振v石也とあるが、稻村崎を除いてはこの郡に海角と名づくべき地形はないから、同處をいふのであらう。ミコシは水越の意か。
いはくえの 石崩の意。名の所由は右の風土記の説明につきて居る。――以卜三句は序で、クエ(崩壞)を悔《ク》(47)ユにいひかけたのである。
きみがくゆべき 君ガ悔ユベキ
こころはもたじ 心ハ持タジ、即ち夫が後悔せねばならぬやうな淺ましい心は持つまいといふので、女の誓詞と了解すべきである。
【大意】鎌倉のみこしの埼の石くづれがクユル(崩)やうに、君がクユ(悔)べき(淺ましい)心は持つまい
 
3366 麻可奈思美《マカナシミ》 佐禰爾和波由久《サネニワハユク》 可麻久良能《カマクラノ》 美奈能瀬河泊〓《ミナノセカハニ》 思保美都奈武賀《シホミツナムカ》【三三六六】
 
まかなしみ さねにわは行く 鎌倉の みなのせ川に 潮みつ|な《ラ》むか
 
まかなしみ 前出(第三二頁)。
さねにわはゆく サは接頭語で、寢ニ吾ガ行ク即ち自分が寢にゆくといふ意。
かまくらの 前出
みなのせかはに〔右○〕 〓〔右△〕は〓〔右○〕の變體であらう。旁訓ニ〔右○〕とあり、元暦校本以下諸本にも〓と書かれて居る。ミナは蜷の謂で、前輯(第二一八頁)に述べたやうに河川に産する貝類をいひ、其多く棲息する瀬川〔二字右○〕といふ意を以て此名を負はせたものと思はれる。常は乾たる川なりとする眞淵以下の解釋は不當で、水が無くば瀬〔右○〕も亦あ(48)り得ぬ。長谷の奥から流出して由比濱に注ぎ、現今稻瀬川と呼ばれる細流が之に當るやうで、イ〔右△〕ナセは恐らくはミ〔右○〕ナセの轉訛であらう。
しほみつ|な《ラ》むか ナムはラ〔右○〕ムの轉呼であらう。ナ行とラ行とはヤマト語に於ても相通するが、ことに東國でラをナと發音することが多かつたと見え、次々にも例が少くはない。潮滿つらむかといふ問を發したのは川を泝つて女の家のあたりまで舟行することを例としたからであらう。從來滿潮の爲に徒渉し得ざらむかといふ意と釋かれて居るが、千餘年の昔に於ても稻瀬川がさばかりの大河であつたとは地勢上考へられぬことである。
【大意】眞に可憐《カナシ》と思うて(女の許へ)自分は寢にゆく。鎌倉の蜷の瀬川は滿潮であらうか
 
3367 母毛豆思麻《モモヅシマ》 安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》 安流吉於保美《アルキオホミ》 目許曾可流良米《メコソカルラメ》 己許呂波毛倍杼《ココロハモヘド》【三三六七】
 
百づ島 あしがら小舟 あるき多み めこそかるらめ 心は思《モ》へど
 
ももづしま 從來百ツ島または百箇《モモチ》島の謂と釋かれて居るが、百を意味するモモはモモカ(百日)、モモエ(百枝)、モモヨ(百世)の如く直接名詞に結合するか、若しくは百《モモ》ナ人【神武紀】の如く用ひられ、連繋助語のツを介し、或はモモツ(モモチ)の形を以て他の名詞と結合せられた例はなく、相模の海には島嶼が極めて少(49)く、たとひ誇張的表現にしても百島(熟語としては此場合八十島といふことを例とする)は不適當である。或は伊豆の島乃至遠國の諸島をかけていふと強辯するものがあるかも知れぬが、次句以下によるも大船を乘り廻すことを意味したものと思はれぬ。加之此句は助語ヲを添へて聞かねばならぬから、必要のヲを省いて迄も百島《モモシマ》をモモツ〔右○〕シマと言ひかへた筈はない。案ずるにモモはモロモロ(諸)の謂で、ツシマはツ(津)とシマとを併稱し、シマには島嶼の外に原義により洲間《スマ》(第一輯四三頁)をも含めたのであらう。さればこそ連濁してモモヅシマと稱へたのである。句末にヲを略したものと思はれることは上記の通りである。
あしがらをぶね 足柄小舟の意であるが、アシガラを脚輕にきかせたことは眞淵説の通りであらう。相模風土記(殘簡)には足柄山の杉の木を以て作つた舟は特に足が輕いので足輕山といふとすらある。
あるきおほみ 紀には行、少、歩行及行歩をアリクと訓し、中古の歌文にも多くはアリキとあるが、既に宣長も指摘したやうに【記傳一〇】其は寧ろ轉呼とすべきで、本集には常に阿流〔右○〕久【四二五】、阿留〔右○〕伎【八〇四】、安流〔右○〕氣騰【四一三〇】の如く表記せられ、ルをリと假字書した例は一つもない。されば從來アリキを原語として之が本義を求めようとしたのは誤で、――私も最近まで其一人であつたが――アル〔右○〕キを以て古い形とし、之について考察せねばならぬ。案ずるに語幹アルは「道路」を意味するポナペ語のアル、中央カロリン及マーシャル語のアール、サモア・マオリ語のアラ等と同語で、アイヌ語でも之をルと稱へる所を見ると、夙に我國にも輪入せられたものとすべく、之に活用語尾キ(ク)を通結して歩行の意を表示したのであらう。パラウ語に於て歩行をアルーアルー(アルの疊合語)といふのと趣を同うする。アリ〔右○〕キと轉呼せられるやうに(50)なつたのは原語が忘却せられた後のことで、アリ(在)キ(來)の意と混同せられた爲ではあるまいか。
めこそかるらめ メカルは目が離れるといふことであるが、目は前輯(第六五頁)に述べたやうに容姿を代表することがあり、後摘【三三八三】にも汝に會ひたからうといふことを汝ガ目〔右○〕欲リセムと表現した例があるから、此も姿が見えぬといふ意であらう。コソは強指定助語、ラメは推量法で、女性が夫又は情夫の來訪せざる理由を推測して詠じた歌なることは先學の所説の通りであるが、已然形を用ひたのは餘情を殘す爲に外ならず、口語に直せば姿こそ遠のくだらうがといふ意で、尚一縷の望を屬することを言外に示したのである。此を前句のコソに呼應する爲の一終止形態と見なして、打絶エテ來ザルラムと解するのは【新考】、歌の趣を没却するものといはねばならぬ。眞淵が之に注意しながら、「下に聊かなげく言あるべきにかくのみいへるは世中の事繁きをいふ也けり」といひ、世態の已を得ざることを詠じたものであるかのやうに解したのも、已然形の用法に關する誤解に基くものである。
こころはもへど モヘドは思《オモ》ヘドの約。上句の目に對して心ハというたので、契沖説の如く己は思慕すれどもといふ意である。眞淵は男の心と解し、新考も之に從うて居るが、若し然らば思フラメ〔二字右○〕又は思ヘラメ〔二字右○〕といふべきで、如何に配偶者なればとて人の心中をいふに斷定的表現を用ひる筈はない。本來此句は前句の上にあるべきであるが、二聯一長句の正格(歌學一二一頁)に遵ふ爲に倒置したので、古歌には例の多いことである。
【大意】足柄小舟は諸の津と島(洲間)とを巡行することが多いと見えて、(自分の)心は思慕する(51)けれども、(男の)姿こそは遠のくのであらう(が忘れはしまい)
 
3368 阿之我利能《アシガリノ》 刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》 伊豆流湯能《イヅルユノ》 余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》 故呂何伊波奈久爾《コロガイハナクニ》【三三六八】
 
あしがりの 土肥のかふちに 出づる湯の 世にもたよらに 子ろがいはなくに
 
あしがりの アシガラ(足柄)と同語。ガラ、ガリいづれを原とするか判明せぬ。
とひのかふちに 足柄のトヒは今では下郡揚河原町の小字に過ぎぬが、古は吉濱村以南を總稱した郷名で、頼朝の功臣土肥次郎實平は實に此地の土豪であつたのである。カフチはカハウチの連約で、カハが川の謂なることはいふまでもないが、ウチを内の義とする舊説は不當とせねばならぬ。川に内外の別は有り得ぬが、假に河水が環流し、若くは二川の間に介在する地區をカハウチと言ひ得べしとするも、之に對してカハト又はカハソト(河外)というたことを聞かぬのみならず、通例其やうな地形は川島又は川中島と呼ばれて居る、案ずるに播磨風土記神前郡〓岡里の條下に大内川〔二字右○〕を大川内〔二字右○〕とも記し、宍禾郡御方里にも大内川〔二字右○〕、小内川〔二字右○〕、金内川〔二字右○〕といふ名を擧げて居る所を見ると、川内を内川と稱へても差支がなかつたとせねばならず、山城の宇治川のウチもまた同語であらうと思はれる。此川は源を琵琶湖に發し、山峽の間を過ぎて跳激奔騰し、所謂|鹿飛《シシトビ》、米浙《コメガシ》の急湍が存するが故に落流の意を以て名を負うたものゝやうであるから、ウチは恐(52)らくはオチ(落)の轉呼であらう。若し然りとすれば川ウチも亦河流中の急湍を意味したものとすべきで、本集にもタギツ河内【三八】【三九】【九二一】、オチタギツ〔三字右○〕清キ可敷知〔三字右○〕【四〇〇三】のごとく用ひられて居るのである。されば土肥のカフチは今の湯河原溪谷の急湍の稱呼であつたと忠はれる。
いづるゆの ユは天然の温泉を意味する原語で、火熱を加へて煮沸した水をユ(湯)と稱へるのは寧ろ轉用である。殊に此は出ヅルユ〔右○〕とあるのであるから、噴泉を意味することは勿論で、今も盛に流出して居る。湯ノ〔右○〕とあるのは温泉のやうにといふ比況で以上三句は序である。
よにもたよらに 後掲【三三九二】に「筑波嶺の岩もとゞろに落つる水世にもタユラに吾がおもはなくに」とある所を見ると、タヨラがタユラの音便なることは疑なく、雅澄説の如くタユタの轉訛と思はれる(タ行ラ行相通)。タユタは本來ユタカ(寛裕)の語幹ユタに接頭語タを冠したもので、タユタヒ(猶豫)とも活用せられ、本集第七卷には「吾心ユタにタユタに浮ぬなは邊にも沖にもよりかつましじ」と用ひられ【一三五二】、古今集の戀歌にも「いで我を人なとがめそ大船のユタのタユタに物思ふころぞ」とあるが、此は原義により温泉の漫々たることをいふに用ひられたので、之をタヨラに物いふ、即ち世にも頼もしげに意志を發表するといふ意に言ひかけたのであらう。
ころがいはなくに コロは上述の如く相手の女子のことで(第一六頁)、イハナクは言ハヌコトの意であるから、被女が頼もしげに言はぬのにと釋すべきである。極めて隱微な表現であるが、女の意中が尚末だ判然せぬのに自分は既に戀ひわびるといふ意であらう。タヨラを猶豫と解し、其反對即ち「たしかにかたく吾(53)と言ひ交はしたるなるに」其を疑うて物思をする意なりとした古義の解釋は、餘り穿ち過ぎであり、緩々の義としてイト氣長ニハ女ガイハヌ否性急ニハヤク逢ヒタイト催促スル義とする新考説は、タユラを特にタヨラといひかへ且句尾に反接助語ニを添へたことを無視した嫌がある。
【大意】足柄の土肥の落流に湧出する温泉の漫々たるやうに、世にも憑もしげに彼女が言はぬのに(徒に思ひこがれることよ)
 
3369 阿之我利乃《アシガリノ》 麻萬能古須氣乃《ママノコスゲノ》 須我麻久良《スガマクラ》 安是加麻可左武《アゼカマカサム》 許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》【三三六九】
 
あしがりの まゝの小菅の 菅枕 あぜかまかさむ 子ろせ手枕
 
あしがりの 前出
ままのこすげの ママは上述の如く相模方言では谷會のことで(第一二頁)、今の足柄上郡福澤村大字|盡下《ママシタ》を之に擬するものがあるが【考】、下の字を省くと名の義が違つて來るから、必しも此地をいふのではなく、一般的地形名として用ひられたのであらう。コスゲは種名ではなく短い菅の謂と思はれる。スゲについては前輯(第一八七頁)に詳述した。
すがまくら 菅の莖を束ねた枕をいふのであらう。薦《コモ》枕といふ語もあり、上代人は普通この種の枕を用ひたものと思はれる。
あぜかまかさむ アゼが何故といふ意なることは以下の用例によつても分明であるが、ナニゾ〔三字右○〕の約濁ナゾ又(54)は其轉呼のナドを訛つたものと、ナニト〔三字右○〕の連約ナドの轉化との二樣がある。後掲【三四六一】の安是〔二字右○〕登仰敝可は何ヅト云ヘ(バ)カであらねばならぬが、此は疑問助語カと連結せられて居るから、何ゾカではなく、何トカ即ちナドカの訛とすべきである。ナ(na)が其子音を脱落することは希有な例であるが、今も東北ではナ〔右○〕デフ爲ベキをア〔右△〕ジウシベイなどゝ言ふ所を見ると、東人の間に此音便變化の存したことは有り得べきである。本集に於てもアゼ又はアドと用ひたのは此卷だけである。マカスはマク(纏)の敬語若くはマキナスの謂で、マキは枕にすることであるが、次句の例によれば此は恐らくは敬語ではあるまい。何故に菅枕を用ひるのかといふ問で、男の歌とおもはれる。
ころせたまくら 我手枕をせよといふ意で、コロは上述の如く女之子《メノコ》をいふ。
【大意】足柄のママ(溪谷)の小菅で作つた菅枕を何故にするのか。(我)手枕をせよ、(此)子よ
 
3370 安思我里乃《アシガリノ》 波故禰能禰呂乃《ハコネノネロノ》 爾古具佐能《ニコグサノ》 波奈《ハナ》都〔左△〕豆麻奈禮也《ヅマナレヤ》 比母登可受禰牟《ヒモトカズネム》【三三七〇】
 
あしがりの 筥根のねろの にこぐさの 花づまなれや 紐とかず寐む
 
あしがりの 前出
はこねのねろの ハコネは上述の如く神嶺の意であるが、夙に固有名詞化したものとすれば、ハコネの嶺と(55)いうても妨はなく、――淡海の海と同例である――ロはラに通ずる虚辭的接尾語である。
にこぐさの 箱根の嶺ロとあるによつてハコネ草即ち石長生の謂なりとする説があるが、集中にも「薦垣〔二字右○〕の中のニコ草にこよかに」【二七六二】、「秋風になびく川邊〔二字右○〕のニコ草の」【四三〇九】等と用ひられ、箱根又は高山には限らぬ草であるから、一般に柔《ニコ》草を意味したものと解すべきである。但しハナ(花)とつゞけてあるから、此は特に開花する草をさしたものと思はれる。以上三句は序であるが、尚ニコといふ形容語によつて柔媚を連想せしめたものゝやうである。
はなづまなれや 字によればハナ|ツ〔右△〕ヅマであらねばならぬが、契沖説の如く都豆の中いづれか一字を衍として花妻の意と解すべきである。――考にはツを助辭として花ツ妻と解讀せられて居るが、野ツ鳥、庭ツ鳥の如く二つの名詞をツで繋いだのは、野ノ〔右○〕鳥、庭ノ〔右○〕鳥を意味する複合名詞なるが故で、此は花ノ〔右○〕妻といふ意ではないから、花ツ妻といふ語は成立せぬ――語例は本集第八卷及十八卷にもあり、「花嬬問ひに來鳴くさを鹿」【一五四一】、「其ハナツマにさ百合花ゆりも逢はむと」【四一一三】の如く用ひられ、殊に後者は家持が越中在任中、五ケ年も逢見ぬ妻に擬したのであるから、花は美稱で、單に妻を意味するものと思はれるが、此は次句によれば花〔右○〕に意があるものとせねばならぬ。宣長は此を實ならぬ妻と解し、古義及新考は口語の花嫁と同じく新婚の妻の謂なりと説いて居るが、一は之を男性の歌なりとし、他は勿論女の作であると斷定して居る。此やうに見解が區々であるのは、ナレヤといふ活用形態の解釋の相違に關するものゝやうであるから、先づ之から論究せねばならぬ。ナレヤは次の如く分解して考察するを可とする。
(56)(一) ナリの已然形ナレにヤを連ねた場合
 (ィ) 本類には例がないが、ナレといふ命令法に感動ヤ(ヨに通ず)を添へたものとも了解し得られる。
 (ロ) ヤを疑問助語とすれば「思ふらむ其子ナレヤモ」【四一六四】の如く反語となる。
(二) ナレバ〔右○〕ヤのバを省いた場合
 (ハ) ヤを感動詞とすれば、單にナレバといふに同じい。
 (ニ) 疑問句としてナレバニヤの謂とも了解することが出來る。
(三) ナリ〔右○〕ヤを轉呼した場合
 (ホ) ヤを感動詞とすればナルカナといふに同じい。
 (ヘ) ヤを疑問助語とすれば單純なる問の形式で、若し其が疑のない事實なる場合には反語と丁解せられぬことはないが、通例(ロ)のナレヤを用ひるか、然らざればナラメヤといひ、ナリヤ(ハ)とは表現しない。
略解がナリヤハの意也として、眞淵説に從ひ「花妻ならぬからは紐解べしと言ふ也」と釋いたのは、(ヘ)に述べたやうに此時代の語法ではない。されば雅澄は(ロ)によつて反語と解したのであるが、之を花妻ニテハナキニ〔右○〕と譯したのは反語法と反接法とを混同したもので、口語でも「そんな事があるかい」(反語)と、「そんな事ないのに」(反接)とは同じ意味ではない。新考が花ヨクナラメヤと解したのは、ナラメ〔二字右○〕とナレ〔右○〕との時格上の相違を無視したものであるのみならず、花ヨメニハアラヌヲと譯した古義の誤を踏襲して居る。(57)いづれにしてもナレヤが反語として用ひられたのであるならば、次句は必然紐解カズ寢シとあつた筈で、未來格を以て終止するのは不調である。同樣に(ニ)の意としても其歸結は寢ム〔二字右○〕ではあり得ず、(イ)又は(ホ)と解することも不可能であるから、此場合は(ハ)の意味とするの外はなく、花妻ナルガ故ニといふのである。されば當然女性の歌とすべきで、紐を解かずに寢る理由は花妻たることにあらねばならぬ。實の妻であるならば、縱ひ新婚又は初夜であつても、夫に肌を許さぬといふ法はないから、此ハナは新考のいふ端《ハナ》又は始めの意でもなく、家持の用例のやうに美稱でもあり得ず、實ならぬといふ意を以て用ひられたものとすべきである。然らば實ならぬ妻とは何を謂ふかといふに、此は私の推測に過ぎぬけれども、此當時東國に於ては姉妹共姉の名殘として、妻の女弟をハナヅマと稱へたものと思はれるのである。
ひもとかずねむ 衣の紐を解かず、丸寢しようといふ意(第三八頁參照)。
【大意】足柄の箱根の嶺の柔草《ニコクサ》のやうな花妻(※[月+騰の旁の馬が女])なれば紐とかず寢ようよ
 
3371 安思我良乃《アシガラノ》 美佐可加思古美《ミサカカシコミ》 久毛利欲能《クモリヨノ》 阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》 許知※[氏/一]都流可毛《コチデツルカモ》【三三七一】
 
足柄の 御坂かしこみ くもり夜の 我《ア》が下ばへを、言出《コチデ》つるかも
 
あしがらの 足柄ノ
(58)みさかかしこみ ミ(御)は美稱で、足柄峠には靈伸が鎭座すると信ぜられたから御坂と稱したので、第九卷の過2足柄坂1見2死人1作歌にもアヅマノ國ノ恐キヤ髪之三坂〔四字右○〕爾とある。此神は恐らくは上記ハコネ(神嶺)の靈で、此國人のみならず、普く東國人によつて畏敬せられたと見え、武藏及常陸の防人歌にも、無事に此峠を越えることを神が許し給ふことを、御坂タマフといふ語を以て表現して居る【四四二四】【四三七二】。さればカシコミも亦神威を畏れといふ意とせねばならぬ。從來坂其ものを恐れることゝし、次句との間に頻に妹を戀しく思ひてといふ意を補うて解したが、山路の寂寞【考】又は峻險は思慕の情を誘發する動機となるものではなく、寧ろ當面の恐怖と艱難とに心を奪はれ、望郷の念から遠ざかるのが人情の常である。
くもりよの 陰夜の謂で、木蔭の薄暗い足柄坂の連想によつて續けたのであるが、眞淵のいふが如き純枕詞ではなく、次句との間に想の聯絡が存するのである(後記參照)。先學之を察せず、略解の如きは己〔右△〕毛利奴〔右△〕の誤記なりとし、新考はコ〔右△〕モリヌ〔右△〕の訛なりと説いたが、元暦校本には久毛利夜〔右○〕とさへ表記せられて居るのであるから、奴〔右△〕の誤記又は轉訛にあらざることは勿論である。
あがしたばへを シタハヘは下を延《ハ》ふといふ意であるが、下伸(延)から出たシヌビ(偲)(忍)と同じく、外にあらはさずして思念若くは行動することをいふにも轉用せられた。されば陰夜のシタハヘといへば、夜陰の密行とも了解せられ、下延を單に心裏の思慕の意とすればクモり夜は其比況的枕詞と見てもよい。恐らくは此は兩者に言ひかけたのであらう。
こちでつるかも コチデはコト(言)イデ(出)の連約で、言葉に出すといふ意である。深く心中に秘して居た(59)ことであるが、御坂の神の威靈の怖ろしさに白状に及んだといふのであらう。想像に過ぎぬが、密事を藏するものは無事に此峠を越すことが出來ぬといふやうな俗信が存したのではあるまいか。
【大意】足柄の御坂(の神威)を畏み、自分の暗夜の密事を白状したよ
 
3372 相模治乃《サガムヂノ》 余呂伎能波麻乃《ヨロギノハマノ》 麻奈胡奈須《マナゴナス》 兒良|久〔左△〕可奈之久《コラハカナシク》 於毛波流留可毛《オモハルルカモ》【三三七二】》
 
相模道の よろぎの濱の まなごなす 子ら|は〔右○〕かなしく 思心はるゝかも
     右十二首相模國歌
 
さがむぢの チはミチ(道)の原語であるが、アヅマ|ヂ〔右○〕(東路)、ヒタ|チ〔右○〕(常陸)、コシ|ヂ〔右○〕(越路)の如く用ひられた場合にはミチノオク(陸奥)、吉備のカムツミチ(上道)等のミチと同じく、「國」と同義語とせられたもののやうで、此も相模國といふ程の意である。
よろぎのはまの 和名抄に相模國餘綾郡餘綾(與呂木)とある地で、今の中郡國府邑界隈をいふ。風俗歌には古〔右○〕與呂木とあり、兵部式には陶綾の字をあてゝユルギと訓し、動木とかいた例もある。語義は恐らくはユラギ(動搖)で、大浪の打寄せることによつて名を負ひ、ユルギ、ヨロギとも轉呼せられたのであらう。
まなごなす マナゴはマサゴ(眞砂)の類語で、マサゴがイ〔右○〕サゴ又はア〔右○〕サゴとも稱へられ、タカサゴ〔二字右○〕(高砂)といふ語もある所を見ると、マは眞の意の接頭語なることは疑なく、サ(石《シ》の轉呼)の粉なるが故にサゴとも(60)スナゴ(石之粉《スナコ》)とも呼ばれ、之に對してニ(土)コ(粉)を音便によつてナコと稱へたものと思はれる。されば大和の畝傍山南なる懿徳天皇の御陵の地にも眞名子谷(繊沙谿)といふ名が與へられて居るのであるが、海濱の繊沙をもマナゴといふので、眞砂と混同せられるやうになつた。ナスは上記の如く比況表示であるが(第三二頁)、マナコには愛子といふ意もあるので(第一輯三五七頁)、特に此語を用ひたのであらう。
こらはかなしく 字によればコラク〔右○〕であらねばならぬが、意をなさぬのみならず、舊訓もコラハ〔右○〕とあり、元暦校本、類聚古集其他には波とあるから、久〔右△〕は誤寫であらう。眞淵は八〔右○〕の誤としたが、句尾に久の字があり、次句に波〔右○〕の字があるから、波〔右○〕とすべきを誤つて久〔右△〕と傳寫したのかも知れぬ。コラのラは虚辭的接尾語で、單に兒の謂であるが、通例女子の意に用ひ、本卷に於ては多くはコロ〔右○〕と轉呼して居る。カナシは上記の如く可憐の意である(第一六頁)。千蔭及雅澄がコラハを不可とし、久〔右△〕を之〔右△〕の誤寫ならざるべからずとしたのは偏狹で、ハもシも強意的助語であるから、口語に出せばいづれも彼の子が可愛く思はれるよといふことである。
おもはるるかも 思ハルは當時のヤマト語では專らオモハユ〔二字右○〕又はオモホユ〔二字右○〕と稱へ、語原的にいへば勿論オモハユを舊形とせねはならぬが、東國に於ては此當時既にオモハル〔右○〕と轉呼して居たものと思はれる。此外にもヤをラと訛つた例がある所を見ると(卷末訛音表參照)、ラ行の發音がヤマト人よりも自在であつたのかも知れぬ。但し上記の如くラムをナ〔右△〕ムと訛つて居るから(第四八頁)、此語音は今日のrよりも摩擦音乃至鼻音に近かつたのであらう。句尾のカモは感動詞である。
(61)【大意】相模國の餘綾の濱の沙のやうな彼の子が可愛く思はれるよ
 
3373 多麻河泊爾《タマカハニ》 左良須※[氏/一]豆久利《サラステヅクリ》 左良佐良爾《サラサラニ》 奈仁曾許能兒乃《ナニゾコノコノ》 己許太可奈之伎《ココダカナシキ》【三三七三】
 
玉川に さらす手づくり さらさらに 何ぞ此子の こゝだかなしき
 
たまかはに 源を雲取山の奥に發し、和名抄の武藏國多磨(太婆)郡を貫流して荏原郡より東京灣に注ぐ多摩川の謂で、上流は丹波川と稱し、多波又は田波とも書くから、郡名と同じく古はタバと稱へられたのであらう。タバはアイヌ語、Tao(丘頂)と同語であるかも知れぬ。
さらすてづくり 和名抄に唐式の白絲布について今按俗用2手作布三字1云2天都久利乃沼乃1是乎とあり、新撰字鏡【天治本】には紵及※[糸+易]の字に此訓を與へて居るが、テヅクリは勿論手製の意で、服部、倭文部の如き工作部員以外の民家に於て製した布をいひ、之を漂泊して調布にも充當したから、白糸布及紵※[糸+易](上白紬布)の訓にあてたのである。靈異記中卷に麻細※[草がんむり/疊]とある※[草がんむり/疊]は弖都九里と訓してあるが、草の疊といふ會意字と思はれ、古は其をも同じ名を以て呼稱したから借りて用ひたのであらう。――以上二句はサラサラの序であると同時に、作中の女性が布晒す少女であつたことを暗示したものと思はれる。
さらさらに 更ニ更ニといふに同じく、サラはアラ(新)に接頭語サを冠したものなるが故に、更新の義があるのである。サラス(晒)といふ語も之から出たもので、アラ(新)がアラヒ(洗)の語幹となつたやうに、水(62)に漬して白くすることをいふに用ひられたのである。
なにぞこのこの 何ゾ此《コノ》兒ノ
ここだかなしき ココはココノツ(九)の語根で、木來許多を意味し(第一輯二六四頁)、ダは上記の如く虚辭的接尾語である(第二四頁)。カナシキといふ連體形で結んだのは疑問助語を含める爲で、上に何ゾといふ語が用ひられて居るからではない。
【大意】多摩川に布を晒す此少女が何として更に更に夥多しく戀しいのか
 
3374 武藏野爾《ムザシノニ》 宇良敝可多也伎《ウラヘカタヤキ》 麻左※[氏/一]爾毛《マサデニモ》 乃良奴伎美我名《ノラヌキミガナ》 宇良爾低爾家里《ウラニデニケリ》【三三七四】
 
むざし野に うら|へ《ハ》兆《カタ》やき 正でにも 告《ノ》らぬ者が名 占《ウラ》に出にけり
 
むざしのに 野の字舊訓ノ〔右○〕とあるのを、眞淵以下ヌと改めて居るが、上越の如く當時既にノと稱へた證跡があるから、ヌと訓まねばならぬ理由はない。原作者は何と唱へたか判明せぬが、舊訓に從ふ方が穩當であらう。但し發音の便宜上ヌを可とする場合もあり得る。
うらへかたやき ウラヘはウラハ(占葉)の轉呼であらう。他にも八十言の葉を許登乃敝【三四五六】、吾は離《サカ》るカハ〔右○〕を佐可流我倍〔右○〕【三五〇二】とした例がある。占葉に闘する傳説乃至記録は見あたらぬが、古代《ウラシロ》となるべき樹葉をウラハといひ得ることは勿論で、カタヤキ(象灼)とつゞけてある所を見ると、俗にカタツキ葉(63)と稱するタラエフ(學名Llex hatifolia,Thumb.)と同樣に、革質葉を焦して形象を現はし、之によつて未來を卜したものと思はれる。――第十五卷の保都手乃宇良敝〔三字右○〕も之をいふのであらう――古義以前の註釋者はカタヤキを肩灼の義とし、鹿の肩骨を灼いて占ふ意と解いて居るが、鹿骨卜といふ古習が存したとも考へられぬことは紀記論究神代篇(三−一二七頁以下)に詳論した通りであるから、新考が兆灼《カタヤキ》の義なりとしたのは卓見といはねばならぬ。しかしながら尚ウラヘといふ語の眞義を明にし得なかつたのは遺憾とすべきで、紀には占又は卜定をウラヘと訓して居るが、前輯(第二〇一頁)にも述べたやうに、其は本來卜に合はすといふ意で、ウラナフと同義ではなく、カタヤキと通用し得べき語ではない。カタヤキといふ形態を用ひたのは二句を隔てゝ占ニ出ニケリと續ける爲で、後代語ならば象《カタ》を灼きたるに〔右○〕といふべき場合である。
まさでにも マサデについては眞定《マサタカ》の約【考】又は眞實《マサネ》の轉呼なりとする説もあるが、テは面《オモ》テ(表)、後《ウシロ》デ、隈《クマ》デ、端《ハタ》テ、逆《サカ》テ、直《タダ》テの如く屡々用ひられる接尾語で、マサが正の義なることは疑がない。テは本來タ(方)の轉呼であるが、此語に於ては原義を離れて強意的に添付せられたので、後掲【三五二一】にも用例があり、單にマサ(正實)といふと大差はない。
のらぬきみがな 宣ラヌ君ガ名。ノルは聲明の意である(第一輯二七七頁)。
うらにでにけり 占葉の兆に現はれてしまうたといふ意。昔は或時機まで愛人の名を秘密にすることを慣例としたから、正《マサ》しくは聲明しなかつたのである。其が占に出たといふのは此作者の思ひなしか、或は當時せまい部落内では各個人個別に○△□の如き記號を有し、誰にも周知であつたので、若い女性が集まつた(64)時、占葉を灼いて其々の意中の人をあてゝ見ようといふことになり、此歌の作者の順番に來ると、不思議にも相愛の男の記號が葉面にあらはれたといふのであらう。いづれにしても興趣のある題材で、巧に描寫せられて居る。此やうな遊戯にまで鹿の骨を灼いたとしたら、武藏野の麋鹿は夙に根絶して居た筈であるのみならず、シャーマン教徒が卜占の用に供する羊の肩胛骨――我國に於ても希に鹿骨なりとして襲藏せられて居る――の實例によれば、之を焦がしても細線が出現するだけで、其によつて人名を判ずるが如きことは因難のやうに思はれる。
【大意】武藏野の占葉を象灼《カタヤキ》(したるに)、正《マサ》しくは聲明せぬ君の名が卜に出てしまうた
 
3375 武藏野乃《ムザシノノ》 乎具奇我吉藝志《ヲグキガキギシ》 多知和可禮《タチワカレ》 伊爾之與比欲利《イニシヨヒヨリ》 世呂爾安波奈布與《セロニアハナフヨ》【三三七五】
 
むざし野の 小|岫《ゲキ》が雉《キギシ》 たち別れ いにし宵《ヨヒ》より せろに逢はなふよ
 
むざしのの 前出
をぐきがきぎし ヲは愛稱で、ヲ〔右○〕ミネの如くも用ひられ(第二四頁)、後出の歌にはヲ筑波、ヲ新田、ヲ林等の例がある。クキは和名抄には岫、新撰宇鏡には〓巒の訓にあてゝ居り、ククマ(菊麻)、ククチ(菊地)などいふ地名も同語から出たものゝやうであるから、原語を詳にせぬけれども、或はククリ(潜)の語幹で、洞をクキと訓むのも(仲哀紀)之に因るものであらう。此やうな地形には雉が好んで棲息するから、ヲ岫のキ(65)ギシ(第一輯二五八頁)とつづけたので、次句の立別レとの聯絡は、八千矛神の歌にも詠まれたやうに、拂曉に至り野ツ鳥なる雉の聲を聞いて男が暇を告げたといふ意によるか、或は雉の鳴別れといふやうな諺が存したのかも知れぬ。いづれにしても此二句はタチまたは立別レの序である。
たちわかれ 立別レ
いにしよひより 去ニシは男が去んだといふ意。ヨヒの原語はヨ(夜)フ(經)で、ケ(日)フ(經)即ち今日に對して夜間を意味し、專ら初更の意に用ひられるやうになつたのは寧ろ後世のことである。
せろにあはなふよ 夫に逢はぬよといふ意。セは一般的に女性から男子を呼ぶに用ひられる語であるが、夫をいふ場合が多く、一音の語は誤解が起り易いので、ラを接尾してセラとも稱へたが【皇極紀】、東國では之を訛つてセロ〔右○〕又はセナ〔右○〕というた。ナフは東國独特の打消助動詞で、ナシ(無)の語幹ナに活用語尾ヒ――歌ヒ〔右○〕、玉ヒ〔右○〕、墳ヒ〔右○〕等のヒ――を連結した四段活用形である。本卷及二十卷の防人歌中武藏、上野、下野、常陸、陸奥歌にのみ見え、兩總及相模以西並に信濃歌には用ひられて居らぬ所を見ると、古い形式で當時既に廢用になりかゝつて居たものと思はれる。さりながら今日に於ても關東人はズ、ヌ、ネの代りにナ(無)の形容詞活用ナイ、ナク、ナケレを好んで用ひるのは決して偶然のことではないのである。
【大意】武藏野のヲ岫《クキ》の雉のやうに立別れて歸つた夜から夫に逢はぬことよ
 
(66)3376 古非思家波《コヒシケバ》 素※[氏/一]毛布良武乎《ソデモフラムヲ》 牟射志野乃《ムザシノノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾豆奈由米《イロニヅナユメ》【三三七六】
 
或本歌曰、伊可爾思※[氏/一]《イカニシテ》 古非波可伊毛爾《コヒバカイモニ》 武藏野乃《ムザシノノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾低受安良牟《イロニデズアラム》
 
こひしけば 袖も振らむを むざし野の うけらが花の 色に出《ヅ》なゆめ
 
(或本歌)いかにして 戀ひばか妹に 武城野の うけらが花の いろに出ずあらむ
 
或本歌は同一首の遺傳ではなく、後述の如く寧ろ返歌と見るべきものであるから、別個に説くことにする。
 
こひしけば 形容詞の活用語尾がキ、ク、ケレと屈折するに至らなかつた以前には、ケの一形のみであつたから(要録九二二頁)、ケバはクバにもケレバにも相當するが、此は勿論戀シクバの意で、假設條作である。
そでもふらむを 袖を振ることは今もよく見る少女の媚態であるが、此時代には戀情表示とも了解せられたと見え、第十三卷にも軸振ル見エツ相思フラシモ【三二四三】と詠まれて居る。句末のヲはガと同じく接續詞として用ひられたので(要録九五三頁)、袖も振らうがといふ意である。古義は之を別の歌として「我袖ふりてなりてもそこの意を慰めむぞ」と解したが、別の合圖などに手を振ることを袖振ルと表現した例はあるにしても、慰藉の爲に袖を振る風習が存したとは思はれず、此意味を以て振るに足るほどの長袖を當時の東國男子がつけて居たかも疑問である。新考が武乎〔二字右○〕を奈武〔二字右△〕の誤記として、男から女に對しモシ戀シカラバ人知レズ袖ダニ振レカシというたのであると説いたのも之に因るものであらうが、考及略解の如く女の歌と(67)すれば、改竄を敢てせずとも意はよく通ずる。但し「よその人を思ふ如くして」とある兩書の説明は蛇足で、戀しくば袖振ることもあらうがといふ意と解すべきである。
むざしのの 武藏野ノ
うけらがはなの ウケラは恐らくはヲケラの轉呼で、和名抄には爾雅注云、朮似v薊生2山中1故亦名2山薊1也とあり、乎介良と訓註して居る。本草和名も亦同じ訓を與へ、白朮と赤朮とに分ち、新撰字鏡は白朮を乎介良としたが、今ヲケラと稱へて居るのは蒼朮で【植物圖鑑】、契沖によれば赤朮即ち紅色のものをいふやうである。武藏國には今も到處に野生し、ことに入間郡堀兼村の淺間神社及北足立郡大和田町字野火止の平林寺附近に多く、郷人はオケラツブと呼び、四五月ごろ稚苗を摘んで食用に供するといふことである(武岡善次郎君報)。ウケラ又はヲケラといふ名の義は詳でないが、古來其根を藥用とし、天武紀に美濃に於て白朮を煎《ネラ》しめたとあり、釋紀に白朮煎の三字を引合せてヲケラと訓してある所を見ると、或は藥方名で、外來語であらたかも知れぬ。此句はウケラ(ヲケラ)の花のやうにといふ比況である。
いろにづなゆめ 色ニ出ヅナ謹《ユメ》といふ意。ユメは第一輯(第二四六頁)に述べたやうに、イミ(忌)と同義の動詞ユミ(齋見)の命令法で、戒謹せよといふ意である。
【大意】戀しくば袖も振らうが、(其を見て)武藏野の朮《ウケラ》の花の如く色に出さぬやうに謹めよ
上記のやうに此は女の歌で、人中で相思の男を認め、袖を振つて見せたら、男が赤くなつた(68)爲に殆ど戀中が露顯しかゝつたので、彼に詠みおくつて戒心を求めたのであらう。上述の如く此時代には戀愛關係を人に知られることを極力廻避したので、此歌に詠まれたやうな場合も起り得たのである。或本歌として擧げられたのは左記の如く之に對する返歌である。
いかにして 如何ニシテ
こひばかいもに 妹ニ戀ヒバカといふ意であるが、決して誤記ではなく、吟調の爲に故意に倒敍したものゝやうである。第二句の七音を三音と四音との二節に分つことは、前の歌を始め其例が極めて多いのに、何故に此歌に限り四三律を必要としたかは説明不可能であるが、戀ヒバカ妹ニと吟ずる方が耳に快く響くことは事實で、或は戀ヒバカに語勢を置く爲であつたかも却れぬ。
むざしのの
うけらがはなの} 前出
いろにでずあらむ 動詞としてアリ(在)を連用する場合には、古語では約縮せざることを法則としたから、音數が過剰となるにも拘はらず、出《デ》ズアラムというたので、口語に直せば色に出さず(に)居られようかといふ意である。若し連約してデザラムとすれば「出ないだらうか」と解せられ、歌意に協はなくなる。此用法上の差別は大に注意を要することである。
【大意】どのやうにして妹に戀をすれば、武藏野の朮の花のやうに色に出さずに居られようか
 
(69)3377 武藏野乃《ムザシノノ》 久佐波母呂武吉《クサハモロムキ》 可毛可久母《カモカクモ》 伎美我麻爾末爾《キミガマニマニ》 吾者余利爾思乎《ワハヨリニシヲ》【三三七七】
 
むざし野の 草は諸向 かもかくも 君がまにまに 吾は依りにしを
 
むざしのの 前出
くさはもろむき 草ハ諸向の意で、草が一所に向くことを意味する。此二句は比況的序であるから、其やうにといふ語を補うて解すべきである。
かもかくも カは彼の義、カクはコ(此)ク(事)の轉呼で(第三一頁)、彼も此もといふ意である。口語では何モ彼モ又はト(孰)モカクモといふ。
きみがまにまに 君次第といふ意(第一輯一九四頁)。
わはよりにしを 舊訓ワレはとあるは不可。吾の字は勿論ワ(又はア)と訓むべきである。ヨリニシ〔二字右○〕は寄つてしまうたといふ意で、句末のヲはモノヲと同じく豫期に反することを表示する反接語であるから、次に或る語句が省略せられて居るものとすべきである。男の變心を恨んだ歌と思はれる。
【大意】武藏野の草が一齊に靡くやうに何も彼も君次第に寄つてしまうたものを
 
3378 伊利麻治能《イリマヂノ》 於保屋我波良能《オホヤガハラノ》 伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》 和爾奈多要曾禰《ワニナタエソネ》【三三七八】
 
入間道の 大屋が原の 岩ゐづら ひかばぬるぬる 我《ワ》にな絶えそね
 
(70)いりまぢの 和名抄に武藏國入間(伊留末)郡とあり、今も郡名及村名としてイルマと稱へて居る。入間道は恐らくは相模國高座郡から今の八王子市附近を經て本郡を横斷し、上野及下野に通じた街道の謂であらう。
おほやがはらの 和名抄に入間郡大家(於保也介)郷とある地で、今の大家《オホヤ》村が之に當るのであらう。上記入間道に横つて居るのである。オホヤケといふ名號によれば、此處に公倉が存したものとすべきであるが、尚未墾の原野が多く、大家ガ原の名を以て呼ばれたものと思はれる。
いはゐづら、石居葛の謂であらう。ツタ(蔦)を絡石とかくやうに【和】、或種の蔓草は岩にも絡まるので、東國人は此名を以て呼稱したものと思はれる。後掲【三四一六】にもカホヤが沼のイハヰヅラとある。此は比況に用ひられたのである。
ひかばぬるぬる ヌルはヌブ(伸)の語幹ヌに活用語尾ルを連ねたもので、ヤマト語には用例はないが、東國特有の動詞であつたと見え、後掲【三四一六】並に國土未勘中安房歌と思はれるものにも、同一句が少しく語をかへて用ひられて居る【三五〇一】。即ち曳かば伸びつゝといふ意であるが、寢ルにきかせたことは勿論である。
わになたえそね 吾ニ〔右○〕莫絶の意で、ソは指定助語、ネは希望表示である。上に引いた上野歌には吾ヲ〔右○〕とあり【三四一六】、吾ト〔右○〕というても然るべき場合であるが、吾ニ〔右○〕關係を絶つなといふのであらう。タエ(絶)は自他兩用であつたと思はれる。
【大意】入間道の大家が原の絡石《ツタ》のやうに、曳かば伸び伸びて自分と絶えてくれるな
 
(71)3379 和我世故乎《ワガセコヲ》 安杼可母伊波武《アドカモイハム》 牟射志野乃《ムザシノノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 登吉奈伎母能乎《トキナキモノヲ》【三三七九】
 
わが背子を あどかも言はむ むざし野の うけらがはなの 時なきものを
 
わがせこを 我夫子ヲ(第四二頁)
あどかもいはむ アドは何トの約ナドの轉呼(第五四頁)、カは疑問助語であるが、疑のない場合には反語表示となるから、何といはうや即ち何とも言ひやうがないといふのである。
むざしのの 武藏野ノ
うけらがはなの 前出
ときなきものを 時無キモノヲの謂であるが、ウケラ(朮)はほゞ時を定めて開花するもので、時無の比況とすることは困難であるから、略解以下「時」だけにかゝる序であると説いて居る。さりながら開花時〔右○〕といふだけの縁によるものとすれば、ウケラには限らず、櫻の花の時とも、橘の花の時とも用ひられた筈であるが、曾て其やうな例はなく、枕詞として慣用せられたと思はれぬから、他に理由があるものとせねばならぬ。案ずるにウケラの花は、本草綱目に紫碧色または黄色とあり、陶隱居の注には淡紫碧紅數色と記され(和名抄箋注による)、今ヲケラと稱する蒼朮の花はやゝ白色を帶び【植物圖鑑】、さのみ美しいものでもないから、上掲【三三七六】の歌に色に出ることの譬に引かれたのは紅化する一種で、其變色が時を定めず起るも(72)のであつたのであらう。されば此歌にも時無とつゞけたものと思はれるが、尚其道の專攻家の教を待つべきである。モノヲはモノナルヲといふに同じく、――此モノは反接表示ではなく、ヲは接續詞として用ひられたのである――ウケラの花のやうに時ともなく色に出るものなるをといふ意で、男の謹慎が足らずして戀中をもらしたことを、ウケラの花の紅化に況へ、何トカモ云ハムとあきらめて之を恕したものと思はれる。されば此歌は【三三七六】の二首と同時の作とすべきである。
【大意】わが夫子《セコ》を何と咎めやうもあるまい。武藏野のウケラの花のやうに、時ともなく色に出るものであるから
 
3380 佐吉多萬能《サキタマノ》 津爾乎流布禰乃《ツニヲルフネノ》 可是乎伊多美《カゼヲイタミ》 都奈波多由登毛《ツナハタユトモ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》【三三八〇】
 
埼玉の 津に居《ヲ》る舟の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
 
さきたまの 和名抄に武藏國埼玉(佐伊太末)郡とある地で、ほゞ今の南北埼玉郡にあたり、北東二面は利根川の舊河身を以て限界せられ、西方は元荒川を以て足立郡と境したものゝやうである。名號は和名抄の埼玉郷即ち今の北埼玉郡埼玉村大字埼玉にある前玉神社【式】から起つたものゝやうで、幸魂の意と想定せられる。
(73)つにをるふねの ツ(津)は埼玉郡中の一河津の謂なること疑はないが、利根川及荒川の流域は古來劇しく變遷したから、其所在を碓説し得ぬ。但し埼玉之津といふ名號が存したとすれば、共サキタマは局地名であらねばならぬから、上記埼玉郷に近い元荒川の一津であつたかも知れぬ。寛永年間の水路變改以前には元荒川が此の水網の幹流であつたから、此地點まで舟楫を通じたことも有り得た。津ニ居ルが在泊の意なることは言ふまでもない。
かぜをいたみ イタミは痛シの主觀的表示で、強風になやみといふ意である。
つなはたゆとも 泊舟の爲には當時既にイカリ(碇)といふ舟具も存したけれども、河川に於ては其よりも繋泊を便としたのであらう。されば烈風に際し其繋索が切斷する事も有つたであらうが、希有のことに屬するから、消極的譬喩に用ひられたので、東日更出v西、阿利那禮河返以之逆流、河石昇爲2星辰1【神功紀】の如くどんな場合にもといふ意を表示する爲には、殆ど有り得ぬことを對照とするのが例であつたのである。
ことなたえそね 如何なる場合にも音信を絶つなといふ意(第七〇頁參照)。此一句が歌の本旨で、恐らくは女性の作であらう。
【大意】埼玉の津に居る舟が風になやみ、綱が斷えることがあつても、吉信を絶つてくださるな
 
3381 奈都蘇妣久《ナツソビク》 宇奈比乎左之※[氏/一]《ウナビヲサシテ》 等夫登利乃《トブトリノ》 伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》 阿我之多波倍思《アガシタハヘシ》【三三八一】
 
(74)なつそ引く うなびをさして 飛ぶ鳥の 至らむとぞよ あが下|延《ハ》へし
     右九首武藏國歌
 
なつそびく 枕詞(第一〇頁)。
うなびをさして ウナビは古義説の如く地名とすべきで、編者が之を武藏歌と認定したのも此名稱によるものと思はれるから、當時知名の地點であつたとせねばならぬが、之が所在を詳にせぬ。但し其語義はナツツビクといふ枕詞に徴するも、次句以下の意から推しても海邊《ウナビ》であらねばならず、第二卷【一三一】の海邊〔二字右○〕乎指而も舊訓はウナビとあるのである。雅澄が海邊をウナビと稱ふべからずと主張したのは頑迷で、ウミ(海)が他の名詞に接頭せられる場合にウナと轉化することは他にも例があり(第一〇頁)、邊は既述の如くビとも發音せられる(第二九頁)。海濱の地なるが故に此名を負はせられたことはあり得べきで、恐らくは女の在所であらう。
とぶとりの 飛鳥のやうにといふ意。
いたらむとぞよ イタルの原義が入リテアルであるといふことは前輯(第二八四頁)に述べた通りであるから、海邊をさして飛ぶ鳥が其地に到るといふことに、女の懷に入リテアラムの意を言ひかけたのである。ゾは次句の終りに移して聞くべき指定助語で、ヨは感動詞である。
あがしたはへし 我ガ下延ヘシといふ意。シタハヘは既記の如く外に表はさずして思念することをいふのである(第五八頁)。歌意は下二句に存し、上三句は地名に因む序である。
(75)【大意】海邊をさして飛ぶ鳥のやうに(彼女の懷に)入りてありたいと思うた(のである)ぞよ
 
3382 宇麻具多能《ウマグタノ》 禰呂乃佐左葉能《ネロノササバノ》 都由思母能《ツユシモノ》 奴禮※[氏/一]和伎奈婆《ヌレテワキナバ》 汝者故布婆曾母《ナハコフバゾモ》【三三八二】
 
馬來田の 嶺ろの笹葉の 露霜の ぬれて別きなば 汝は戀ふばぞも
 
うまぐたの ウマグタは國造本紀に馬來田國とある地で、須惠國と上海上國との間に序してあるから、和名抄に海上、畔蒜《アヒル》二郡と周准《スヱ》(季)郡との中間に掲げた望陀(末宇太)郡にあたり、現今君津郡に屬し、中郷村の大字に其名を留めて居る。天武紀の大作連馬來田は望多〔二字右○〕とも記され、繼體天皇の皇女として紀に掲げた馬來田皇女と茨田皇女とは、茨田連小望の女關媛が生みまゐらせた茨田大娘皇女と同一柱が區々に傳へられたものゝやうであるから、ウマグタ、マウダ、マムタは相通とせねばならぬ。武藏國荏原郡にも滿田といふ郷名があり【和】、命名の所由を詳にせぬが、ウマクは或はアイヌ語マク(後方)と同源ではあるまいか。
ねろのささばの 嶺《ネ》ロのロは接尾語(第五四頁)、ササバは笹葉の意である。
つゆしもの 露霜のやうにといふ意。新考が句末の能〔右○〕を爾〔右○〕の誤寫としたのは、上句を比況表示と見て、笹葉のやうに露霜に濡れてといふ意と解した爲であらうが、これは笹葉の露霜に濡れたやうに〔三字右○〕といふべきを、「濡れて」を次句に讓つてツユシモノ(やうに)としたので、特異な表現法ではあるが尚誤傳ではない。
ぬれてわきなは ヌレテは勿論涙に濡れてといふ意味である。ワキナバを從來吾來なばの謂とし、或は字を改めて吾來ヌ〔右△〕ハと解讀したものもあるが【新考】、ワキはワカレ(別)の語幹で、古へは四段に活用し、ワケ(76)(他鋤詞)とワカレ(自動詞)の二語が分岐する以前には、自他兩用であつたと思はれるから、ワカレの意にも用ひられたことは有り得べきで、當時東國ではワカレといふ形と併用せられたのであらう。されば此句は涙に濡れて別れなばといふ意になるのである。
なはこふばぞも 新考は者〔右○〕の字をハに借れる例本卷になしというて爾〔右△〕の誤記とし、次の婆〔右○〕をも禮〔右△〕と改めたけれど、吾者〔右○〕【三三七七】、信濃道者〔右○〕【三三九九】等とあるのみならず、改竄の根據は前句の誤解にあるのであるから問題にならぬ。コフバゾモの毛は感動詞で、バもゾも強意的助語であるから、口語の戀フハヨ〔二字右○〕と戀フゾヨ〔二字右○〕とを一つにまとめて表現したものと見れば大差はない。此は尚未だ女の家を立去らぬ前の歌で、別を惜んで泣きくづれる女を見、己も亦涙に濡れながら、快く別れねば未練が殘るぞといひ聞かせたものと了解すべきである。戀フラム〔二字右○〕と云はずして戀フと斷言したのは、推量以上の必然性があるからで、さればこそ特にバゾといふ強意語分子を重ねて用ひたのである。
【大意】望多嶺の笹葉の露霜(に濡れた)やうに(涙に)濡れて別れるならば、汝は(必ず)思ひこがれるぞよ
 
3383 宇麻具多能《ウマグタノ》 禰呂爾可久里爲《ネロニカクリヰ》 可久太爾毛《カクダニモ》 久爾乃登保可婆《クニノトホカバ》 奈我目保里勢牟《ナガメホリセム》【三三八三】
 
馬來田の 嶺ろに隱《カク》り居 かくだにも 郷の遠かば ながめ欲りせむ
(77)     右二首上總國歌
 
うまぐたの 前出
ねろにかくりゐ 嶺に隱れ居りといふ意。隱れるものは何であるか明示せられて居らぬが、郷里を意味することは下句によつて推定せられる。可久里〔二字右○〕を可須美〔二字右△〕の誤寫として霞のかゝることよといふ意なりとする新考説は根據のないことであるのみならず、連用形を以て終止法にあて、その下に詠歎の意を含めるといふやうなことは語法上あり得ぬ。此は近里に他行した男が※[山+章]巒の蔭に家郷の隱れたのを見て詠じた歌とすべきで、ウマグタの嶺ロは望陀の里に近い丘陵の謂と思はれる。
かくだにも カクは上記の如く此事の義であるが、ゴト(如)の原語も亦コトであるから、如此の意にも用ひられるのである。ダニはタダ(唯)ニといふに同じく、唯此やうにもといふのである。
くにのとほかば 此クニは郷土を意妹する。遠カのカは形容詞活用語尾ケ(第六六頁參照)の原形であるから、トホケバといふに同じく、此處では遠クバの謂である。――遠カラバと混用してはならぬ。
ながめほりせむ ナガメは眺に汝之目《ナガメ》を云ひかけたので、目は上記の如く容姿の代表とせられ(第五〇頁)、君ガ目ヲ欲リ【齊明紀】、妹ガメヲ欲リ【三二三七】の如く用ひられるから、汝の顔が見たからうといふ意になるのである。未來格を用ひたのは前提が假設なるが故で、實際に遠方に行つたのではなく、何時でも歸ることの出來る近距離であるけれども、丘陵によつて展望が遮られたので、遠く離れた場合を假想して詠じたのである。從つて防人として出發の途上吟とする略解の説は不可とせねばならぬ。
(78)【大意】望陀嶺に(家郷が)かくれて居る。此やうにだに國が遠くば眺めたいであらう。(否)汝の目が見たいであらう
 
3384 可都思加能《カツシカノ》 麻末能手兒奈乎《ママノテコナヲ》 麻許登可聞《マコトカモ》 和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》 麻末乃※[氏/一]胡奈乎《ママノテコナヲ》【三三八四】
 
勝鹿の 眞間のてこなを 實かも われによすとふ まゝの手兒奈を
 
かつしかの 前出。清音符が用ひられて居るが、或は之もカヅシカと唱へたのかも知れぬ。木卷に於ては清濁音の識別は餘り嚴重ではないやうである。
ままのてこなを 葛飾のママは上述のやうに今の東葛飾郡市川町附近の稱呼で(第一二頁)、此女性は第三卷過勝鹿眞間娘子墓時作歌【四三一 】、第九卷詠2勝鹿眞間娘子1歌によれば、往昔此地に在住したと傳へられる薄命の佳人であるが、テコナは決して固有名詞ではなく、テコとナとの二語から成立し、ナは夫《セ》ナナ〔右○〕、妹ナ〔右○〕ロ等の用例によれば敬稱ネの音便で、テコは本卷にも埴科の石井の手兒【三三九八】、左和多里の手兒【三五四〇】とあり、或身分の女性の稱呼として一般的に用ひられたものゝやうである。案ずるに原語はチ(靈)コ(子)で、女祝即ち巫をミコ(御子)、又はカムナギ(神之子)といふやうに、神前奉仕の女性を意味し、音便によつてテコとも轉呼したのであらう。神田祭の手古〔二字右○〕舞も恐らくは此から出たので、女性が之に任ずることを例とする。下河邊長流の續歌林良材集卷上には「束俗の詞に女をテコといふ」とあるが、女子と同義縞と(79)して用ひられた形跡はなく、上記石井の手兒及サワタリの手兒の如きも、假令に巫祝ではなかつたとしても、衆人の敬愛を集めた特種階級の女人であつたやうである。――或は近世までポリネシア民族間に存したといふ容色が優れ、由緒の正しい娘から選ばれたサオアウルマ(少女の伴緒)と同樣のものであつたかも知れぬ(太平洋民族誌三二二頁)――之を要するに葛飾の眞間に限らず、東國に於ては各地に此稱號を繼承した美女があつて、異性の憧憬の的となつたのであらう。但し此テコナは必しもこの名號所有者ではなく、美貌の故を以て古への手兒奈に擬せられたことも有り得べきである。
まことかも 眞實カモ即ち眞實歟といふ意で、モは感動詞である。
われによすとふ、トフはト云フの約。吾ニヨスについては從來解釋區々で、契沖は之を女の歌とし、古への名高い手古奈に我を擬するといふ意と解したが、ヨソフをヨスとは言ひ難く、眞淵以下の解釋も納得が行きかねる。言ヨス【考】【古】又は取モツをヨスと表現したとも考へられぬから、之は自分にくれる〔三字右○〕といふ意と解する外はない。さりながら此時代に於ては尊屬若くは其依囑を受けた媒介者にしても、當人の意嚮を無視して或る女性を一男子に許すが如きことは有り得なかつた筈であるから、此は事實を敍したのではなく、餘り執心が強いので儕輩が調戯《カラカヒ》半分に、テコナは汝にくれて遣ると言明したか、若くは夢に此女を妻に貰うたと見て驚喜した心もちを詠じたのではあるまいか。餘りに想像に過ぎるといふ非難があるかも知れぬが、此歌が手古奈に言ひ寄られ【考】若くは戀中をいひ囃された場合【古義】の作にあらざることは、藤原鎌足の「吾はもや安見兒得たり皆人の得がてにすとふ安見兒えたり」【九五】といふ歌と比較しても、推定に(80)難からぬことである。
 ままのてこなを 第二句を反復して驚喜の氣分を強く表示したので、上に引用した鎌足卿の歌と同一句法である。
【大意】葛飾の眞間の手兒奈を自分にくれるといふのは眞事かいなア
 
3389 可豆思賀能《カヅシカノ》 麻萬能手兒奈家《ママノテコナガ》 安里之可婆《アリシカバ》 麻末乃於須比爾《ママノオスヒニ》 奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》【三三八九】
 
かづしかの 眞間の手兒奈が ありしかば 眞間の|おすひ《イソベ》に 波もとどろに
 
かづしかの 前出
ままのてこなが 家の字は元暦校本及西本願寺本等に我〔右○〕に作り、契沖以下も誤寫と認定したが、家はカの音符にも用ひられたことは既述の通りである(第三二頁)。第十六卷にも、懸有を位家禮流と訓註してある。此は前の歌のテコナと同人をいふのではなく、寧ろ第三卷及第九卷に見えた美人を意味するのであらう。
ありしかば あつたが故にといふ意。新考が安里之の里をヒの假字の誤寫と推斷したのは、前の歌と同一人の作と見た爲であらうが、假に然りとするも上記の如くテコナが一人の固有名詞でないとすれば、字の通りに懷舊の歌としても少しも差支はなく、今のテコナに執著するの餘り、曾て艶名をとゞろかしたテコナを想起して詠じたものとも了解せられる。それは第二卷の城上殯宮之時歌【一九九】に吾大王といふ語を、(81)數句を隔てゝ天武天皇と高市皇子との尊稱として用ひたのと趣を同じうするもので、同時代の人には之を聞わけることが容易であつたのである。或は又別人が別の機會に詠じたものとすれば、テコナといふ名號によつて表示せられた女性が全く別人であつたとしても少しも怪しむに足らぬことである。
ままの|おすひ《イソベ》に オスヒは上掲【三三五九】のオシヘと同じくイソベ(磯邊)の轉呼であらう。磯邊に在り【宜長】又は磯邊に立チアリ【雅澄】と解したものもあるが、語句の排列に從へば、上句アリシカバは磯邊につゞくのではなく、眞間に在〔右○〕住したからといふ意であらねばならぬ。
なみもとどろに 眞間の磯邊ニ〔右○〕波モ〔右○〕※[鼓/冬]々と打寄せるといふ意。トドロニの次に省語があるものと解すべきである。波の寄る理由は、昔日此地にテコナといふ美人があつて、波さへも慕ひ寄つた名殘であらうといふのである。
【大意】葛飾の眞間の手兒奈(といふ絶世の美人)が居たから、眞間の磯邊《イソベ》には波がどうどうと寄せるのである
 
3386 爾保杼理能《ニホドリノ》 可豆思加和世乎《カヅシカワセヲ》 爾倍須登毛《ニヘストモ》 曾能可奈之伎乎《ソノカナシキヲ》 刀爾多※[氏/一]米也母《トニタテメヤモ》【三三八六】
 
にほとりの かづしか早稻《ワセ》を 甞《ニヘ》すとも 其かなしきを とに立てめやも
 
にほどりの 和名抄に方言注云、※[辟+鳥]※[帝+鳥]、野鳧小而好没2水中1也として邇保と訓し、宇鏡にも※[帝+鳥]に此訓を與へて(82)居る。應神天皇の御製には美本杼理《ミホドリ》とあり【記】、今いふカイツムリの事で、よく水を潜《カツ》ぐが故にカヅの枕詞に用ひられたのであらう。
かづしかわせを 早稻をワセといふ【和】。稻《イネ》をシネとも稱へる所を見ると、セはシの轉呼とすべく、ワは端の語根【東雅】又はワセ(走)の義なりとする説もあるが、尚斷定が國難である。葛飾を冠したのは此地方が早稻を以て有名であつたからであらう。今も埼玉縣北葛飾郡の南部舊二郷半は此地方隨一の早稻産地であり、新設ではあるが早稻田《ワセダ》といふ村名もある。
にへすとも ニヘ(贄)の語原はナ(食物)アヘ(饗)で、新穀等を神及支配者に貢進することをいふ。此ニヘは恐らくは神嘗を意味し、極めて主要なる祭典とせられたが故に、當日は謹戒することを例としたのであらう。後掲【三四六〇】にも「誰ぞこの屋の戸おそふるニフナミに我が夫をやりて齋はふ此戸を」とあり、ニフナミも亦新嘗である。
そのかなしきを カナシキヲはカナシキ兒ヲの略言とも了解せられるが(第一六頁參照)、コ(子)をキと點呼した例は極めて多いから、或は愛《カナ》シ子の謂であるかも知れぬ。いづれにしてもカナシ妹と同じく、可憐の女子を意味したので、之を愛人たる男性のことなりとする在來の説には從はれぬ。カナシ親、カナシ夫《セ》の如き用例のないのは、カナシといふ語に愛憐の意が含まれ、強者から弱者に對してのみ用ひるものと了解せられたからである。
とにたてめやも トは戸又は門の意である。從來之を戸外【考】、外【古】、屋外【新考】と解し、上に引いた【三四(83)六〇】の歌及常陸風土記の筑波岳傳説を例證として、新嘗の夜は屋内に外人の入ることを禁忌とすれども、愛人を引入れずに置かうやといふ意と説いて居るが、カナシキが上述の通り愛《カナ》シ(女)子《キ》の謂とすれば、女性が男の許に通ふといふやうなことは上代の社會及居住制度上、殆ど有り得ぬから、トニタツは門に立つて空しく男の來るを待つことを意味するものとせねばならぬ。タテメヤモとあるのは勿論反語表示で、最愛の彼女を門に立つて待たしめようや、否待たせてはなるまいといふ意になるのである。
【大意】葛飾の早稻の神嘗にあた(り物忌をして居)るが、いとしい彼女を(空しく)門に立たせようや
 
3387 安能於登世受《アノオトセズ》 由可牟古馬母我《ユカムコマモガ》 可郡思加乃《カヅシカノ》 麻末乃都藝波思《ママノツギハシ》 夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》【三三八七】
 
足《ア》の音《オト》せず 行かむ駒もが かづしかの 眞間のつぎ橋 やまず通はむ
      右四首下總國歌
 
あのおとせず 脚の音せずの謂なることは勿論で、足は足橙《アガキ》、脚結《アユヒ》、足代《アテ》【地名】等の如く、アと訓ませて居るから、シは下の意を以て添付せられたので、アを語根とすべきであらう。脚音はアノト〔右○〕と約することも可能であるが、古語に在つては連繋助語ノ(ガ)を介在する限り、連約せぬことを原則とし、音數超過をも厭(84)はず、須受我於等〔二字右○〕伎許由【三四三八】、可治乃於等〔二字右○〕須流波【三六四一】の如く唱へたのである。
ゆかむこまもが ガは願望を表示する語分子で、感動詞カと區別する爲に濁音化することを例とし、體言に在りてはモ、用言に在つてはシを介して連結する。脚音せず往かむ駒モガと要望したのは、忍びて通ふことを人に知らせぬ用心であらう。
かづしかの 此も亦可都〔右○〕といふ清音符を用ひてあるが、ヅと發音したと見え、西本願寺本其他には都を豆〔右○〕と改記してある。
ままのつぎはし 此ツギ橋の外に、眞野の浦の淀の繼橋【四九〇】、久米道のツギ橋【神樂】の如き用例があるから、ツギハシと稱する橋型が實在したものと思はれるが、眞淵説の如く柱を樹て板〔右○〕を長くつぎ〔二字右○〕合はせた橋の謂とすれば、大橋は皆ツギハシであらねばならぬのに、勢多のツギ橋とも、宇治のツギ橋とも稱へた例がない。葛城の久米橋は神話中のものであるから論外であるが、此時代に葛飾の眞間又は眞野浦の淀などに大技工を要する高架橋がかけられて居たとは信ぜられぬことで、上記【四九〇】の歌に「心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる」と續けてある所を見ると、「續いて」といふ意を含めたことは疑がないとしても、或は小舟を連繋した舟橋の謂であつたかも知れぬ。
やまずかよはむ カヨフはヨブ(呼)に接頭語カを冠したもので、本來往訪を意味するヨバフに通じ、來往又は通行の義となつたのは寧ろ轉化であるから、此も脚音のせぬ駒に乘つて斷えず女の許を訪れんといふ意と解すべきである。
(85)【大意】脚音のせぬ駒もあれかし、眞間の繼橋を渉つてやまず通はう
 
3388 筑波禰乃《ツクバネノ》 禰呂爾可須美爲《ネロニカスミヰ》 須宜可提爾《スギカテニ》 伊伎豆久伎美乎《イキヅクキミヲ》 爲禰※[氏/一]夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》【三三八八】
 
筑波嶺の ねろに霞ゐ すぎかてに、息《イキ》づく君を ゐねてやらさね
 
つくばねの 前出
ねろにかすみゐ 筑波嶺の禰ロと重ねたのは、上掲ハコネの嶺《ネ》ロ(第五四頁)と同一語法で、筑波山の峯《ミネ》といふに同じく、カスミ(霞)居ルといふ用例は上掲【三三五七】にもある。此は比況的序である。
すぎかてに 可提爾を刊本にガ〔右○〕テニと旁訓したのは難ニと解した爲のやうで、古義以前の諸註は其意味に説いて居るが、新考が之を排して、不知をシラニといふに準じ、カテズ〔右○〕の義としたのは卓見といはねばならぬ。カタシ(難)の語幹カタはカテ、カツ、カツルの如く活用せられることはないから、カテニと用ひることは出來ず、且カテヌ【三四二三】及カテネ【四二三四】のやうにニを活用した例もあるから、此ニは助動詞〔三字右○〕であらねばならぬが、どの例に於ても完了時格表示と見ることは不可能なるが故に、打消のニとするの外はない。集中にはカテニを難爾【九五】【四八五】【九〇一】【九八七】【二四八三】【二五三九】、難丹【九四八】等と表記した例もあるが、舊訓の如くいづれもガテ〔二字右○〕ニと唱ふべしとすれば、カタシ(難)の語幹カタに助語ニを添へたカタニ(副詞的表示)の轉呼か、然らずば難は借字と見るべきで、第七卷【一一二四】の爾音聞《シガコヱキケバ》宿不難爾をイネガ(86)テナクニ〔三字右○〕と訓み、難を字の義として、夜更けて千鳥の聲を聞くと寢《イネ》がたからぬ〔五字右○〕のにと解しては意をなさぬやうである。然らばカテは如何なる義かといふに、集中「勝」と書いたのを正字とすべきで、勝は字書に克也とあり、タフ(堪)又はアタフ(能)の意がある。此語は今では四段にのみ活用せられるが、負《マケ》の反對の意の勝と區別する爲に、古はカテといふ下二段活動詞が用ひられたものと思はれる。さればカテニは不克即ち不能又は不堪の意で、新考が不敢と譯したのもほゞ同義であるが、尚詳しからざる憾がある。
いきづくきみを イキヅク(息衝)は長大息の謂で、ナゲキ(長息)といふに同じく、戀人の門を過ぎ去り能はず、歎息する彼君をといふ意である。
ゐねてやらさね ヰネは率ゐ寢ること、即ち同衾の意、ヤラサネはヤル(遣)の敬語形ヤラスに願望表示のネを結びつけた一形態で、ヤリタマヘといふ意味である。これは女伴の集合して居る處へ、其中の一人の情夫が通りかゝり、或は通うて來て、入りも敢へずさりとては又立去りも得ずして、躊躇して居るのを見つけて女友が揶揄した作と思はれる。
【大意】筑波山の峯に(棚曳いて)居る霞のやうに、放れもやらず歎息して居る(彼)君を寢せて歸しなされ
 
3389 伊毛我可度《イモガカド》 伊夜等保曾吉奴《イヤトホソギヌ》 都久波夜麻《ツクバヤマ》 可久禮奴保刀爾《カクレヌホドニ》 蘇提婆布利※[氏/一]奈《ソデハフリテナ》【三三八九】
 
(87)妹が門 いや遠そぎぬ 筑波山 かくれぬほどに 袖は振りてな
 
いもがかど 妹ガ門
いやとほそぎぬ 舊訓トホゾキ〔二字右△〕ヌとあり、後《シリ》ゾク(退)といふ語例もあるが、後掲【三四七九】の久左彌可利曾氣〔二字右○〕(草根刈り除ゲ)をカリゾ〔右△〕ケと訓むことは出來ぬから、此曾〔右○〕は清音符とすべきであらう。ソギはサキ(先)(割)から出た語で、サカリとほゞ意を同じうし、山乃曾伎〔二字右○〕野之衣寸〔二字右○〕【九七一】、天雲乃曾久〔二字右○〕敝能|極《《キハミ》【四二〇】の如くも用ひられるのである。
つくばやま 筑波山ニ〔右○〕といふ意。
かくれぬほどに 隱レヌ間《ホド》ニ
そではふりてな 類聚古集及萬葉考には婆〔右○〕を波〔右△〕と改記してあるが、此は袖ヲバ〔二字右○〕の意であるから、九州方言のやうにソデバと發音したかも知れず、清音ハに婆の字をあてたのも絶無の例ではないから、必しも誤寫と斷定することは出來ぬ。フリテナを振リテムと同義【略】とすれば、眞淵以下の説の如く作者が袖を振らうと欲したことになるが、ムをナと轉呼することは國語の音便方則上あり得ず、其例も見えぬから、ナはネと同じ希望表示として、今將に筑波山に隱れむとする家の門に立つて見おくつて居る女に對する要望と見るべきであらう。普通ならばフラナム〔二字右○〕といふべきであるが、特にフリテナ〔二字右○〕と表現したのは作者の氣もちに由るもので、時格に相違があるからである。フラナムは振ラナモの轉呼で、フリの未來分詞形フラに願望表示ナを連ね、更に感動詞モを添加したものであるから、フラナというても了解せられるが、フリテは決(88)してフラと同義ではない。テといふ語分子は私が年來南方諸族語の研究の結果、此ごろ漸く明にした所によると、事態(state、Zustand)を表示するもので、此例を以て説明すればフリといふ一般的(無制限的)表現とは異り、振ルといふ行爲の實在を意味するから、フリテナは振リテアラナといふと同樣に、何時でも振れといふのではなく、即今如實に振れかしといふ意になるのである。之を口語に譯すれば振ツテネーにあたり、振リナではない。極めて微細の差別であるが、其々含蓄を異にすることに注意すべきである。袖を振るのが見える程ならば、彌《イヤ》遠ソギヌとはあるが、さのみ遠距離ではなく、道路が筑波山の岬を廻る爲に山麓にある家が見えなくなることを詠じたのであらう。されば作者は必しも防人【考】【略】又は旅行人【古】には限らず、少しく離れた隣里から通うて來る男であつたかも知れず、後朝の別を敍した歌とも丁解せられるのである。
【大意】妹の門が益々遠ざかつた。筑波山に隱れぬ間に袖を振つてくれよ
 
3390 筑波禰爾《ツクバネニ》 可加奈久和之能《カガナクワシノ》 禰乃未乎可《ネノミヲカ》 奈岐和多里南牟《ナキワタリナム》 安布登波奈思爾《アフトハナシニ》【三三九〇】
 
筑波嶺に かがなく鷲の 音のみをか 鳴き渡りなむ 逢ふとはなしに
 
つくばねに 前出
かがなくわしの カは顯著を意味する接頭語で、之を二つ重ねたのは最も顯著なることを表示する爲に外な(89)らず、音便のため下のカを濁つてカガと唱へたことは有り得べきであるが、之を擬聲語としてガガ【考】又はカカ【古義】と訓するのは不當である。ナクとナルとは上古同義語と見なされたので、上掲【三三六一】にもカナルといふ用例があり、今も大聲怒號することをガナル(カカナルの約濁か)といふのである。ワシは和名抄に※[周+鳥]の訓とし、唐韵を引いて※[咢+鳥]別名也、大※[周+鳥]也、山海經注云、鷲小※[周+鳥]也とあり【箋注本】、古事記には雄略天皇の高鷲原〔右○〕陵を高〓と表記してあるが、字書によれば※[周+鳥]はクマタカ、※[咢+鳥]にはミサゴといふ訓もあり、〓はハシ〔二字右○〕タカ(〓)の一名で【和】、いづれも鷹の屬である。案ずるに古言では高翔する鳥をすべてタカ(高の義)というたものゝやうであるから、ワシも亦ワシタカの略稱で、恐らくはハシタカと同語から分化し、其ハシ(嘴)が特に巨大尖鋭なるが故に此名を負はせたのであらう。――以上兩句は比況的序である。
ねのみをか カは感動詞で、ネノミヲといふに同じい。音ノミヲナクと用ひた例は本集【一五五】にもある(第四〇頁參照)。
なきわたりなむ ワタリは海を意味するワタから出た動詞で、本來渡水の義であるが、空間時間を經由することをいふにも轉用せられた。此も世をワタルといふ意である。ナムといふ未來完了表示を用ひたのは渡リ行カムといふに同じく、單に渡ラム(渡ラウ)としては意嚮表示と誤またれる虞があるからである。
あふとはなしに 逢フトハ無シニ
【大意】つくば山にけたたましく鳴く鷲のやうに、泣いてのみ世を渡るであらう。逢ふことはなしに
 
(90)3391 筑波禰爾《ツクバネニ》 曾我比爾美由流《ソガヒニミユル》 安之保夜麻《アシホヤマ》 安志可流登我毛《アシカルトガモ》 左彌見延奈久爾《サネミエナクニ》【三三九一】
 
筑波嶺に そがひに見ゆる 葦穗山 あしかる咎も さね見えなくに
 
つくばねに 前出
そがひにみゆる ソガヒはセ(背)カヒ(交)の轉呼で、後掲【三五七七】にソガヒ〔三字右○〕ニ寢シク今シ悔シモとあるやうに、木來背中合せといふ意であるが、背又は背向といふ字を充て【三五七】【三五八】、背面の義にも轉用せられた。但し此は上句筑波嶺ニ〔右○〕とあるから、尚原義によるものとすべきで、同時に背中合せに寢た後の歌なることを暗示するのである。
あしほやま 筑波山の北方にあたり、加波山の南に接し、現今アシヲ(足尾)と呼ばれる山のことである。常陸風土記にも葦穂山と見え、山上に葦穂神社が鎭祭せられて居る。山名も恐らくは此神から出たので、防人歌の阿須波の神【四三五〇】と同一神靈がアシホと轉訛せられたのではあるまいか。アスハは出雲族の神で、此地の國造の始祖がその族人なる比奈良布命であつたことを見ても【國造本紀】、由縁があるやうに思はれる。――以上三句はアシといふ語を導く序であるが、作者が此神の氏子であつたが故に引合に出したのであらう。
あしかるとがも アシカルは惡シクアルの連約であるが、單に惡いといふだけならば惡シキといふ連體形を以て足れりとするから、少しく異つた意味を表示する爲に、特にアシカルといふ形態を用ひたものとすべ(91)きで(要録九四五頁)、恐らくは不吉ナルといふ意であらう。トガは清淨(神聖)を意味するユ(齋)又はイ(忌)と正反對の概念を表示する原語ツーーツ〔右○〕ミ(罪)、ツツ〔二字右○〕ミ(障)、ツツ〔二字右○〕ガ(恙)の形に於て用ひられる――の音便ト〔右○〕に、ケガ〔右○〕(穢)、マガ〔右○〕(※[示+央])、サガ〔右○〕(祥)などいふ接尾語ガ(顯著の意)を連結したもので、不淨不祥等の謂であるが、此は神譴の義に用ひられたものゝやうである。されば從來の説のやうに姿または心の缺陷といふ意【考】【略】【古】でも、作者の犯した過失のこと【新考】でもなく、不吉なるトガメ(咎徴)も見えぬのにといふ意であらう。
さねみえなくに サネはタネ(種)と同源から分化したものらしく、核又は實を意味し、轉じて眞實の義に用ひられたのである。されば句意は事實に於て見えぬのにといふことで、逢瀬が絶えたことを不審としたのである。男の述懷とも了解し得られぬことはないが、交情の中絶は男の心がはりに因る場合が多いものであるから、此も女性の怨言と了解すべきであらう。新考に見エを見セと同義としたのは、前句のトガを瑕瑾の謂と解した結果であらうが、見エ、聞コエが供覽、上聞の意となるのは可能法なるが故で、作爲又は使動の義は少しも含まれて居らぬのであるから、上述の如く神譴に觸れた形跡は少しも見えぬのにと解するの外はない。
【大意】筑波山に背中合せに見えるあし穂山(の神の怒をかふ)不吉なる咎は事實見えないのに、(中絶したことよ)
 
(92)3392 筑波禰乃《ツクバネノ》 伊波毛等杼呂爾《イハモトドロニ》 於都流美豆《オツルミヅ》 代爾毛多由良爾《ヨニモタユラニ》 和家於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》【三三九二】
 
筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水 世にもたゆらに わが思はなくに
 
つくばねの 前出
いはもとどろに トドロは擬聲音ト(ド)の疊合に接尾語ロを連結したもので、上記下總歌にも用例が見え(第八一頁)、トドの形に於ては後掲【三四六七】の歌に「眞木の板戸をトドとして」と用ひてあるが、いづれもドードーと音することの形容である。岩もトドロニとつゞけたのは、落下する水に衝撃せられて岩石が鳴動することをいふのである。
おつるみづ 落ツル水。――以上二句は序である。
よにもたゆらに クユラは上記の如く落流の混々たることをいふのであるが(第五二頁)、寛々の意にいひかけたので、之に冠したヨニモは此世に於ても特にといふ意を表示し、形容語の最上級を表現する一形式に外ならず、口語に於ても世ニモ稀ナルの如く用ひられるのである。
あがおもはなくに 元暦校本には和我〔右△〕毛波奈久爾とあるが、家がガの音符にも用ひられることは既述の通りで(第三二頁)、モフはオモフ(思)の上略であるから、意に於ては異りはなく、自分は思はぬのにといふことである。ニといふ反接助語を添へたのは、豫期に反する結果を生じたことを表示する爲で、恐らくは男の中絶したことを悲しんで、自分は決して緩怠に思はぬのにと怨じたのであらう。宣長が男の心を頼み難く(93)思ふ意としたのは【略】、上掲【三三六八】との混同で、雅澄が今更何をか疑はむやといふ言葉をそへ【古】、新考がイカデ早ク逢ヘカシと釋したのも穿ち過ぎである。
【大意】つくば山の岩石を鳴動させて落ちる水のたゆたふやうに、世にも緩怠には(自分は)思はぬのに
 
3393 筑波禰乃《ツクバネノ》 乎※[氏/一]毛許能母爾《ヲテモコノモニ》 毛利敝須惠《モリベスヱ》 波播已〔一字左△〕毛禮杼母《ハハハモレドモ》 多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》【三三九三】
 
筑波ねの をてもこのもに もりべ据ゑ 母は〔右○〕もれども たまぞあひにける
 
つくばねの 前出
をてもこのもに 彼方此方にといふ意(第三七頁)。
もりべすゑ 刊本にも毛利敞〔右△〕と書き、モリベと訓じてあるが、敞は音シヤウ又はサウで、ヘの音符にはならぬから、細井本以下に敝〔右○〕とあるに從ひ敢て改記した。以下にも此誤記は少くはないが、魯魚の衍と見て一一は指摘せぬ。モリベは應神朝に設定せられ、山川林野の管掌に任じた山守部の略稱で、他の民部と同じく大化革新の際解消したのであるが、東國に於ては其名のみが殘り、山野の番人の呼稱に用ひられたものと思はれる。雅澄以前の學匠が猪鹿の跡見《トミ》または監守に任ずるものとしたのは、イメ(第一輯一七四頁)と混同した爲のやうで、其場合にスヱとはいはず、立ツといふ述語を用ひることを例とする。スヱ(据)はオキ(94)(置)と同義語として用ひられたのであらう。――以上三句は序で、「守るやうに」といふ意味を補うて會得すべきである。
はははもれども 波播已〔右△〕とあり、ハハコモレドモと訓じてあるが、已《イ》はコの音符とはなり得ず、母子守レドモと解しても、母籠レドモの意としても次句と抵觸するから、宣長の紹介した或人の説に從ひ、已〔右△〕は巴〔右○〕の誤字としてハハハ〔右○〕と訓むべきであらう【略】。眞淵は可〔右△〕の誤寫としてハハガと訓じ、字に從へば佐佐木訓の如くハハイ〔右○〕で、イを主格表示乃至間投詞的に用ひた例は、本集及續紀宣命にも見えるが(要録九五九頁)、此は母コソ〔二字右○〕守レといひたい所で、意を強める必要があるから、少くとも母ハ〔右○〕とせねばならぬ。母は監守すれどもといふ意である。
たまぞあひにける タマ(魂魄)が相會したといふことであるが、此は新考説の如く情意投合を意味し、且タマにタ(直)マ(間)即ち即今《タダイマ》の意があるから之に言ひかけたのであらう。ニケルといふ過去完了(繼續)時格を用ひたのは、逢うてしまうて居るぞといふ意なるが故である。ゾは口語の用法によつても明なるが如く句尾につくべき助語であるが、歌謠に在つては律調上、述語の上に移すことがあるので、連體形を以て終止したかのやうな觀を呈するけれども、其は所謂係り結びの法則に因るものでないことは前卷に屡々述べた通りである。
【大意】筑波山の彼方此方に守部を配置して(番をするやうに)、母は監視するけれども、心魂は(既に)投合してしまうて居るぞ
 
(95)3394 左其呂毛能《サゴロモノ》 乎豆久波禰呂能《ヲツクバネロノ》 夜麻乃佐吉《ヤマノサキ》 和須良延許波古曾《ワスラエコバコソ》 那乎可家奈波賣《ナヲカケナハメ》【三三九四】
 
さ衣の を筑波ねろの 山の崎 わすらえこばこそ 汝をかけなはめ
 
さごろもの サは音便的接頭語で、衣の緒著《ヲツク》といふ言葉のつゞき合を以て次句の枕詞に用ひたのである。衣の緒は襟の紐を意味する(第三八頁)。
をつくばねろの ヲは愛稱で(第二四頁)、ロは虚辭的接尾語分子であるから、筑波嶺といふに同じい。
やまのさき 山の崎の謂であるが、諸國に神埼(前)といふ地名の多いことを見ても、山の岬角には峠と同樣に、其地を領《ウシハ》く神を鎭祭することを例としたものと思はれ、此も唯の山の鼻ではなく、神崎であつたと了解すべきである。
わすらえこばこそ ワスラエは後世の忘ラレにあたり、コバは來バ即ちク(來)の假設條作、コソは強指定語であるが、ヤマト語には稀な組合せであるから、從來難解とせられたものゝやうで、延の字を除いた本が多く、元暦校本の如きは和須良詐婆古曾とし、眞淵は、ワスラエ〔二字右○〕のラエをレの延言と説き、新訓は「忘ら來ばこそ」と讀み下して居る。ワスラは來バとは續かぬから、ラをレの訛として、眞淵に從ひ忘レ來バと解したのであらうが、ワスレとワスラエとの間には語法上大差がある。即ち前者は直敍法(連用)であるが、後者は可能法で自然に忘れるのではなく忘れることが出來るといふ意である。いづれでも意味は通ずるが、(96)作者の氣もちは後者にあつたればこそ、八音となるにも拘はらず、ワスラエといふ形態を用ひたので、語音の制限により多少無難な省約を試みた例は往々見うけるけれども、標準句長を無視してまでも、レをラエと言ひかへる必要はなく、加之延言と稱する音韻變化が眞淵等の幻覺に過ぎぬことは、近代の學者によつて論破せられた通りである。又本卷にはe韻をaと訛つた例がないではないが、連用形に在つては絶無であるから、ワスレをワスラと發音したとも思はれぬ。ワスラエ來とつゞけたのは、【三三六二】の忘レ來ル及忘レ行クと同じく、如實の來往を意味するのではなく、事の進行を表示する準助動詞として來(行)を用ひたので、忘ラレテ行カバコソ即ち忘られて行くならばといふ意と解すべきである。
なをかけなはめ ナハメは東國特有の打消助動詞ナヒ(第六五頁)の未來格(已然形)であるから、ヤマト語のザラメに匹敵し、現代語でいへばカケナハメは懸けないだらうが〔右○〕となるのである。即ち一種の反語的表示で忘られぬから懸けたといに意味を含むものと了解せられる。懸ケは心にかけとも若くは口にかけとも解することが出來るが、此は山の崎での述懷で、其處に鎭座する神に行旅の安寧を祈るに際し、汝をカケたといふのであるから、宣長説の如く女の名を口に出したことをいふものとせねばならぬ。
【大意】ヲ筑波嶺の山の崎で、忘られて行くならこそ汝(の名)を(口には)懸けないだらうが
 
3395 乎豆久波乃《ヲツクバノ》 禰呂爾都久多思《ネロニツクタシ》 安比太欲波《アヒダヨハ》 佐波太奈利努乎《サハダナリヌヲ》 萬多禰天武可聞《マタネテムカモ》【三三九五】
 
(97)を筑波の ねろにつ|く《キ》た|し《チ》 逢ひ|だ《タル》夜は さはだなりぬを また寢て|む《モ》かも
 
をつくばの 前出
ねろにつ|く《キ》た|し《チ》 ツクタシは月立ちの謂で、ツキはツク〔右○〕ヨともいふから必しも訛言ではなく、東語ではツクとのみ稱へられたと見えて、本卷【三四七六】【三五六五】及第二十卷【四四一三】にも都久〔二字右○〕とあり、ツキと假字書した例は東歌にも防人歌にも皆無である。シはチの音便で、他にも其例が少くはない。筑波山の嶺に月が立つと夜行に便になるから、又もや女に會ひたくなつたといふので、二句を隔てゝマタ寢テムカモにかかるのである。
あひだよは 逢ヒタル〔二字右○〕夜ハといふべきを、後代の口語と同樣にル音を省いたので、次句にも類例がある。安比太〔右○〕と表記したのも恐らくは約濁によつてアヒダと發音したからであらう。然るに之を間夜《アヒダヨ》の意とし【考】【略】、或は太〔右○〕を之〔右△〕【古】又は努〔右△〕の誤【新考】として、逢ひし〔右△〕夜又は相寢〔右△〕夜と説いたのは考の精しからざるものと云はねばならぬ。アヒダ(間)夜は語をなさず、度々逢うたとあるのであるから、逢ヒシといふ不定過去格を用ひることは不當で、相|寢《ヌ》ルをアヒヌといへぬことはないが、誤寫を前提としての説であるから、無條件に同意することは出來ぬ。タル(タリ)がタと約せられるやうになつたのは、ヤマト語に於ても相當に古いことで、平家物語、源平盛衰記等にも例があるから(口語法別記二六五頁)、奈良朝以前東國に其傾向が存したとしても少しも怪しむに足らぬ。
さはだなりぬを 作波太の次に爾の字を加へた本もあるので【類聚古集等】、拾穗抄は之に從うてサハダニ〔右○〕ナリ(98)ヌヲといふ一訓を與へ、考及略解には太〔右○〕を爾〔右△〕の誤記としてサハニ〔右△〕と訓んで居るが、此は多クナツタといふよりも寧ろ多カツタと表現すべき場合であるから、原文舊訓を可とせねばならぬ。サハダの語例は既に【三三五四】に見え、ナリはニアリの連約で、多《サハ》ダニアリヌル〔五字右○〕ヲといふべきを略して、ナ〔右○〕リヌ〔右○〕としたのである。連用形の代りに終止形を用ひるのは古語の一形式であるが(第一輯九五頁)、此は寧ろ上句アヒダ夜〔右○〕と同じくルを略したものとすべきで、後掲【三四六一】にも明ケヌ〔右○〕シダ來ルと用ひた例がある。
またねて|む《モ》かも 復寢たいといふ意なることは眞淵の説の通りであるが、テムカモが希望表示となる説明を與へなかつたので、略解及古義は之を疑問句と誤解し、相見て後程を經たるが故に再び同衾し得べしやと危んだのであると説いて居る。さりながら其意ならばマタヌラム〔三字右○〕カモとあるべきで、ネテムといふ形態は適切ではなく、前句も今少し巧な表現法が用ひられた筈である。案ずるにネテムカモはネ・テ・ム・カ・モといふ五つの單音語分子より成り、更にネテとム及カモとに區分することを得べく、カモは願望表示、――通例ガモと濁るけれども其は音便に過ぎす、原語はコフ(乞)の語幹コの轉化であるから、當然無聲音で、本集にも此語に可毛、可母、加母のかき清音符を用ひた例が少くはない――ネテは動詞ネ(寢)の一活用形態で、ネテケリ(キ)の如く用ひられる場合には完了分詞であるが、アリテノ〔右○〕後、相見テノ〔右○〕後、寢テ〔右○〕ノ朝ケ等に於てはテの原義により(第八八頁)、見ル、アル、寢ルといふことの状態を表示する準名詞であるから、前者とガモとを連繋する場合にはシを挿入して寢テシ〔右○〕ガモといひ、後者に在つてはモを仲介として寢テモカモといふべきで(第八四頁)、音便によりネテム〔右○〕カモと轉呼したことも有り得べきである。昨今の(99)戀中ではなく、以前から屡々相寢たことがあるから、逢ひたる夜はサハダ(數多)ニアリヌル〔五字右○〕ヲというたので、筑波山の峯に月が立のぼり、夜行に便になつたのを見てマタ寢たくなつたのは人情の自然である。表現形式も亦何等間然する所はなく、勿論己が部落に於て詠じたので、女の許に宿つた夜の吟懷ではない。先學が其趣を解し得なかつたのは、此一句の構成を詳にしなかつた爲であらねばならぬ。
【大意】筑波山の嶺に月が立ち(夜行に便利になつたので)逢うた夜は(既に)多くなるけれども、また寢たいものである
 
3396 乎郡久波乃《ヲツクバノ》 之氣吉許能麻欲《シゲキコノマヨ》 多都登利能《タツトリノ》 目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》 左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》【三三九六】
 
を筑波の 茂き木の間よ 立つ鳥の めゆか汝を見む さねざらなくに
 
をつくばの 前出
しげきこのまよ 繁キ木《コ》ノ間ヨ(リ)
たつとりの 立ツ鳥(ノ)。――以上三句はメ(群)といふ語の縁によつて次句の序としたのである。
めゆかなをみむ メユが目從の謂なることは勿論で、汝を目から見ようといふのであるが、或は愛著の眼を以て見るといふ意を東國では目ユ見ルというたのかも知れぬ。「逢ひたい」を目ヲ欲リといひ(節七七頁)、愛子をマ〔右○〕ナコ(第一輯三五七頁)又はマ〔右○〕コ【四四一四】と稱するのも同じ趣である。此は人に向つて問ひかけた(100)のではないから、カは感動詞とすべきであらう。新考が目由〔右○〕を目耳〔右△〕の誤寫として、メノミカ汝ヲ見ムと訓したのは、次句の誤解に基くものであるから問題にならぬ。
さねざらなくに サは接頭語、ネザラナクニは寢ズアラナクニの約で、直譯すれば寢ないでも無いのにといふ意になるが、本集中ザラナクニの用例を見るに打消のザラとナクとの相殺を認めて居らぬやうである。例へば
 【一九一六】今更《イマサラニ》 君者伊不往《キミハイユカジ》 春雨之 情乎人之《ココロヲヒトノ》 不知有名國〔五字右○〕
 【三七三五】於毛波受母 麻許等安里衣牟也 左奴流欲能 伊米爾毛伊母我 美延射良奈久爾〔五字右○〕
之を再否定なるが故に肯定的表現ならざるべからずとし、「心を人が知るのに」「夢にも妹が見えるのに」と譯しては歌の意が通ぜぬ。眞淵は【三七三五】及本歌の射〔右○〕をヤの假字として、ミエヤ〔右△〕ラナクニ及サネヤ〔右△〕ラナクニと訓んだが、射をヤの音符に用ひた例は集中は勿論、紀記にも紀無であるのみならず、第四卷には不遂爾(印木不遂等〔右△〕とあるは非)とかいてトゲザラナクニと訓ませて居るから【六一二】、不見爾、不寢爾をミエザラナクニ、寢ザラナクニと唱へたことがあつたとせねばならぬ。此事は既に宣長によつて注意せられ【略】、雅澄は【六一二】の歌釋に於て此ナクを輕く添へたる語としたが、いづれも言語學的説明を與へて居らぬ。案ずるに其は打消に關する觀念の相違に關するもので、フランス語のne(國語ナ、ニ、ヌ等と同源であらう)とpas(メラネシア語にもpaといふ打消がある)とが、共に否定語なるにも拘はらず、ne……pasは相殺することなく、依然として打消の効力を有すると同樣に、ズ系とナ系とが連用せられても、單用と同(101)一視せられたのではあるまいか。右の外にも思ひの外を思ハザル外といひ、――第十六卷竹取翁歌の前書に非慮之外と記され、續後紀第十二卷の宣命にも不慮ノ外ニ太上天皇崩ルニ依テとあり、其他江戸時代まで類例が見える――生まるゝ前を生マレヌ前といふが如く、ジ及ヌが打消の用をせぬ場合のあることもフランス語のneと相類するものがある。但し宣長が其例として擧げたケシカラヌ〔右○〕、ハシタナシ〔二字右○〕のヌ〔右○〕、ナシ〔二字右○〕は純然たる打消で、之をケシカル及ハシタと同義としたのは【玉の小琴】、錯覺といはねばならぬ。右の如くサネザラナクニは寢ないのに〔四字右○〕といふ意で、未だ情交はないけれども眦を下げて汝を見ようというたのである。
【大意】つくば(山)の繁つた木の間から立つ鳥の群《メ》(以上序)。我はその(愛著の)目を以て汝を見よう。相寢たことはないのであるが
 
3397 比多知奈流《ヒダチナル》 奈左可能宇美乃《ナサカノウミノ》 多麻毛許曾《タマモコソ》 比氣披多延須禮《ヒケバタエスレ》 阿杼可多延世武《アドカタエセム》【三三九七】
 
常陸なる なさかの海の 玉藻こそ 引けば絶えすれ あどか絶えせむ
      右十首常陸國歌
 
ひだちなる 常陸ノといふ意。ナルがノと同一職能を有することは既述の通りである(第一七頁)。
たさかのうみの ナサカの海は今も浪逆浦と稱へ、行方郡と鹿島郡との中間水域の南部にあたり、北利根川が大利根川と會流する附近をいふ。但し此時代とは餘ほど地形が變化して居るやうである。名の義は恐ら(102)くはナ(魚)サカ(榮)であらう。
たまもこそ タマ(玉)は美稱で、モ(藻)は海草を意味し、コソは強指定語である。
ひけばたえすれ 曳けば斷絶するものなれどといふ意。已然格を用ひたのは、屡々述べたやうに反接の意を寓する爲である。タエスは動詞原形タエを準名詞として動詞語尾スを連ねて活用したもので、絶ユと同義であるが、此は絶エモスレといふ意に用ひられたのである。
あどかたえせむ アドは既述の如くナド(何ト)の轉訛であるから(第七一頁)、などか斷ゆることあらんといふ意であるが、反語的に用ひられたので、絶えはしまいといふのである。上句との間に我々の戀中はといふ言葉を補うて會得することを要する。古義以下の所説の如く此句の主格を我はと想定して意嚮表示と解することは、述語の形態及時格が之を許さぬやうである。
【大意】常陸の浪逆の海の藻こそ引けば絶えもするが、(我々の戀中は)何として絶えることがあらうや
 
3398 比等未奈乃《ヒトミナノ》 許等波多由登毛《コトハタユトモ》 波爾思奈能《ハニシナノ》 伊思井乃手兒我《イシヰノテコガ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》【三三九八】
 
人みなの 言は絶ゆとも 埴科《ハニシナ》の 石井の手兒が 言な絶えそね
 
ひとみなの ミナはモロ(諸)、モモ(等)の語幹モに接尾語ネを連ねたモネの轉呼のやうで、本集第五卷太宰(103)帥大伴宿禰旅人餞別の歌には、人皆の意を以て比等母彌〔二字右○〕能と詠じた例がある【八七七】。恐らくは九州には其ころ尚未だ原形が存したのであらう。モネがムナ〔二字右○〕となり、更にミ〔右○〕ナと轉ずることは音韻變化原則上あり得べきである。此語は名詞としてミナヒト(諸人)の如くも用ひられるが【九五】、此用法に於ては不定代名詞と見るべきで、意義は皆人と變りがない。
ことはたゆとも、言ハ絶ユトモ即ち音信は斷絶すともといふ意。
はにしなの 和名抄に信濃國埴科(波爾志奈)とある地で、今も存續して居る。此國にはシナを以て名とする土地が多く、和名抄にあげた埴科〔右○〕郡倉科〔右○〕、更級〔右○〕郡|當信《タギシナ》、高井郡穗科〔右○〕を始め、佐久郡と諏訪郡との境には蓼科〔右○〕山があり、其他明科〔右○〕(東筑麻郡中川手村)、豐科〔右○〕(南安曇郡)、信級《ノブシナ》(更級郡)、科〔右○〕野(下高井郡)等いづれも國名のシナと同語によつて命名せられたことは疑がないが、舊説の如く段階《シナ》の意、シヌ(篠)又は風之《シノ》の轉呼、若くはシナの木(上掲マダと同種)から出たとすることは困難であるから、私はヒナ(夷)の轉呼とし、往古の占住種族の名を負うたものと推定するのである。――拙著「日本古語大辭典」及「紀記論究」參照――ハニ(埴)、サラ(新)、タキ(瀧)、ホ(秀)、クラ(倉)等は恐らくは區別稱呼として冠せられたのであらう。
いしゐのてこが 石井は埴科郡内に存した一邑落であらうが、夙に其名を逸したので所在を明にすることが出來ぬ。本來石を以て堰とした湧泉の謂で、上古鑿井術の發達しなかつた時代には、地下水の露頭を求め之を中心として聚落を設定することを例としたので、井を以て名とする地點が到處に存在するのである。テコは上記の如く特別の身分を有する美人に與へられた稱號と想定せられる(第七八頁)。
(104)ことなたえそね ナタエは絶エルナといふ意の古語法で、之に強意のソを連ね、更に希望表示のネを添へたのであるから、石井の手兒の音信は、冀くは絶ゆる勿れといふ意になるのである。
【大意】衆人の音信は絶えても、埴科の石井の手兒の音信は冀くは絶えるな
 
3399 信濃道者《シナノヂハ》 伊麻能波里美知《イマノハリミチ》 可利婆禰爾《カリバネニ》 安思布麻之牟奈《アシフマシムナ》 久都波氣和我世《クツハケワガセ》【三三九九】
 
信濃路は 今の治道《ハリミチ》 かりばねに 足ふましむな 履はけわがせ
 
しなのぢは 信濃は舊訓の如くシナノ〔右○〕と稱へて可なること既述の通りである(第一七頁)。次句に今の治道《ハリミチ》とある所を見ると、この信濃道は續紀和銅六年の條下に、秋七月戊辰、美濃信濃二國之堺徑道險阻、往還艱難、仍通2吉蘇路1とある木曾街道のことゝ思はれる。此道路は大寶二年の紀にも始開2美濃國岐蘇山道1とあるから、同年に起工せられ、十二ケ年を經て竣工したものとすべきで、此歌も其ころの作と思はれる。其までは神坂峠を越えて伊奈郡に出たものゝやうである【地名辭書】。
いまのはりみち ハリは墾田、鑿井等を意味する動詞であるから、恐らくはホリ(掘)の轉呼で、岩石株根を掘り起すことを要するが故に轉用せられたのであらう。今の治道《ハリミチ》は新開道路の謂である。
かりばねに カリバネは苅|許《バカリ》根【考】又は苅生根【新考】の意とする説もあるが、恐らくはカリ(刈)ホネ(骨)の轉呼であらう。刈杭を骨と見たてることは不當ではなく、顯宗紀に骨をカバネ〔二字右○〕と訓して居る所を見ても、(105)バネと轉呼したことは有り得べきである。
あしふましむな アシフムを從來足を以て踏付ける意と解し、シムは敬語なりといひ【玉勝間】【古義】、或は元暦校本に之奈牟〔二字右△〕とあるによつてフマシナムと改訓して居るが【新考】、輕大郎女の歌に蠣貝ニ足フマス〔右○〕ナとあると同じ趣であるから(「古代歌謠」下−五二頁)、シナムの誤記とすることは出來ず、同校本にも右旁に赭字を以てムナと書入れてあるのである。案ずるにフミはフリ(振)と語幹を同うし、本來|擧手《フリ》に對し、擧足を意味したが故に、紀には蹶の字をもフミと訓し、景行天皇が蹶上げられた石を踏石といふとあるので、踏みつけるといふ意に專用せられるやうになつたのは、寧ろ後世のことであるから、此も足(ヲ)蹶ルといふ意と解すべきで、今もフミヌキといふ語が此意に用ひられて居るのである。さればこそ上句も刈バネニ〔右○〕とあるので、若し刈杭を踏つけるといふ意ならば、少くともニといふ助語は不適當である。シムが使動助動詞なることはいふまでもなく、之を敬語に轉用するやうになつたのは、宣長自身も注意したやうに、やや後世のことである。
くつはけわがせ クツは履物の總稱と了解せられ、和名抄にも唐韻を引いて草曰v〓、麻曰v〓、革曰v履とあり、共に久豆と訓し、其外にもシタグツ(襪)、化《クワ》乃クツ(靴)、千開《センカイ》乃クツ(線鞋)、イトノクツ(絲鞋)、ヲクツ(麻鞋)、キグツ(木履)、ワラグツ(〓)等をあげて居るが、其はクツが一般にハキ物の意に用ひられるやうになつてからの區別稱呼で、原語は恐らくはク(木)チ(道)から分化し、裸足で土を踏むことの代りに木を履むといふ意を以て命名せられたのであらう。和名抄に〓を阿帥太と訓したのも大言海の説の如くア(106)シ(足)イタ(板)の通約で、――但し下駄及雪駄のタは鞜の韓音※[ハングルでタン]から出たものと解する方がよいやうである――板金剛又は四ツ竹のやうなものを足裏に縛著したのが、履物の最も古い形式であつたのではあるまいか。刈杭の爲に怪我せぬやうにと此作者が夫に薦めたのは、少くとも草履ではあるまい。
【大意】信濃道は新開路(であるから)、刈杭に蹈みぬきすな。履をはけ我夫よ
 
3400 信濃奈流《シナノナル》 知具麻能河泊能《チクマノカハノ》 左射禮思母《サザレシモ》 伎彌之布美※[氏/一]姿《キミシフミテバ》 多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》【三四〇〇】
 
信濃なる 千曲《チクマ》の川の さざれ石《シ》も 君しふみてば 珠と拾はむ
 
しなのなる 前出
ちくまのかはの 今も千曲川と稱へ、源を甲武信嶽に發し、南北佐久、小縣、埴科諸郡を經て北流し、犀川と合して信濃川となる。筑摩郡をも今ではチクマと稱へるが、此川の流域でないのみならず、和名抄には此郡名を豆加萬と訓し、天武紀の束間温泉も筑摩の湯をいひ、今も松本市大字筑摩はツカマと稱へられる所をみると、チクマが後世の訛であることは疑なく、千曲川とは關係がないやうである。前の歌も埴科の石井を詠み入れて居るから、當時其界隈は要地であつたものと思はれ、此歌の作者も郡内千曲川沿岸の人であつたかも知れぬ。
さざれしも サザレ石モといふ意。類聚古集には左射禮伊〔右○〕思母とあり、和名抄にも細石を佐々禮以〔右○〕之と訓し(107)て居るけれども、イシのイは接頭語で、複合の際には省略せられるのが例であるから、尚サザレシ〔右○〕を可とする。細石の字を充てたのは、説文に礫小石也とあるによるもので、――和名抄には礫也水中細石也とある――ササには些細の意もあるが、ササ石といふ用例のない所を見ると、サラサラといふ音によつて名を得たものと見るを可とし、略してサザレともいひ、更にザリと訛つたのである。
きみしふみてば シは強意助語、フミテバは踏ミナバと相似形であるが、ナが純乎たる完了助動詞たるに反し、テは状態表示であるから(第八八頁)、時相に於て聊か相違があり、――此差別については從來私が下した説明に不備の點があることを發見したから、遠からず一論文を草して訂正したいと考へて居る――助動詞タリの未然形にバを添へたタラバと同一視することも妥當とはいひ難く、強ひて口語に譯すれば踏んであらばで、踏ミタラバ即ち踏んだらではない。
たまとひろはむ 玉トのトは比況表示で(要録九八五頁)、玉と見てといふ意である。ヒロフ(拾)は古言ではヒリフというたものゝやうで、本集に於ても常に比利(里)と假字書してあるが、東國に於ては當時既にヒロ〔右○〕フと發音したのであらう。此は女の歌である。
【大意】信濃の千曲川の礫石《サザレイシ》も君が蹈んだとあらば玉と見なして拾はう
 
3401 中麻奈爾《ナカマナニ》 宇伎乎流布禰能《ウキヲルフネノ》 許藝※[氏/一]奈婆《コギデナバ》 安布許等可多思《アフコトカタシ》 家布爾思安良受波《ケフニシアラズバ》【三四〇一】
 
(108)なかまなに 浮き居る船の こぎ出なば 逢ふことかたし 今日にしあらずば
     右四首信濃國歌
 
なかまなに 編者が之を信濃歌と認定したのは此一句に基くものであらねばならぬから、當時よく知られて居た地名と思はれるが、其所在を詳にせぬ。或は麻〔右○〕をヲの假字としてヲナと訓み、之に類似した地名を物色し【考】》、或は志〔右△〕麻を奈麻と誤記した上に更に倒置したものと推測して、和名抄に水内郡中島(奈加之末)とある地なりといひ【古義】、荒木田久老の信濃漫録(新考所引)は國人の説として、千隈川と犀川との合流地點にある水内郡中俣村と推定して居るけれども、いづれも確證はない。マナの語義は判明せぬが、次句に浮キ居ルとある所を見ると、水に縁のある語とせねばならぬから、或は此やうな方言が存したのではあるまいか。國人に尋ぬべきである。
うきをるふねの 浮キ居ル船ノ
こぎでなば 漕ぎ出てしまはゞといふ意。
あふことかたし 逢フコト難シ
けふにしあらずば ケフはケ(日)フ(經)の二語より成り、ヨ(夜)フ(經)の轉呼なるユフ又はヨヒに對して日中を意味し、轉じて今日の義になつたのである。シは例の強意助語に外ならず、今日にあらずばといふ意であるが、假設條件が重複するから、此句の歸結は逢フコト難シではなく、別に存在するものとせねばならぬ。恐らくは下に詮なしといふやうな意味が含まれて居るのであらう。舟路出發せんとする男に向つて(109)是非とも今夜逢ひたいと女からいひ遣つた歌と思はれる。
【大意】中マナに浮いて居る舟が漕ぎ出してしまうたら逢ふことは出來ぬ。(是非)今日であらねばならぬ
 
2401 比能具禮爾《ヒノクレニ》 宇須比乃夜麻乎《ウスヒノヤマヲ》 古由流日波《コユルヒハ》 勢奈能我素低母《セナノガソデモ》 佐夜爾布良思都《サヤニフラシツ》【三四〇二】
 
日の晩に 碓氷の山を 越ゆる日は せな|の《ネ》が袖も さやにふらしつ
 
ひのくれに 日ノ暮ニといふ意。眞淵は之を日影薄しといふ意を以てウスヒにかゝる枕詞とし【冠辭考】、略解以下は之を非として時の副詞と解して居るが、恐らくは兩者を兼ねたのであらう。
うすひのやまを 上野國碓氷郡と信濃圖北佐久郡との境界にある山で、今も碓水嶽とよび、北は鞍部が碓氷峠である。ウスヰとも稱へ、碓井または臼井の字をあてるが、其は決して訛言ではなく、常陸風土記によれば、景行天皇東巡の時穿たれたといふ碓井〔二字右○〕が信太郡雄栗村に殘存すとあり、その他播磨國賀毛郡の碓居〔二字右○〕谷【風】、筑前國嘉麻郡碓井〔二字右○〕郷【和】等諸國の地名に見える。ウスはウサ(儲)の轉呼で、ヰは上記のやうに水の逸流を堰留めた湧水の謂であるから(第一〇三頁)、ウスヰと稱へられたものと思はれる。ヒは水の古語で、――韓語※[ハングルでピ](雨)と同源――右のウスヰに儲へられた水はウスヒである。恐らくは上古碓井郡に著名な井堰があつたので地名となり、更に山名、川名にも轉用せられたのであらう。
(110)こゆるひは 越ユル日ハと解消し得られるが、越ユルものを女性たる作者自身とし、碓氷山を越えて他行せんとするのを、其夫が見おくる趣を詠じた歌なりとする説【古義】は當時の慣習と一致せぬのみならず、時格及語法上からも肯定し得られぬことで、此山に遠からぬ里で別れたといふのも【略】、餘りに言辭を離れた説明である。從つて山越えする人は旅行く夫と見ねなならぬが、其場合には少くとも越エツル〔二字右○〕今日ハとあらねばならず、其にしても敬語を以て敍した筈で、且來往の旅人の越えるのは碓氷の坂(峠)で、山(嶽)ではない。其故に・新考説に從ひ、夕陽が碓氷嶽に没せんとすることを、山の縁によつて越ゆる日(太陽)と表現したものと解したいのであるが、其は末句の布〔右○〕良思をテ〔右○〕ラシの誤記若くは誤傳とする前提の下にのみ可能のことで、而も諸本いづれにも誤寫の形跡は現はれて居らぬから、改竄を敢てすることは聊か憚りがある。されば姑く此句を越エツル今日ハの意と假定して説明を試み、一考として改字改訓による解釋を附記することにする。
せな|の《ネ》がそでも ナノは汝禰《ナネ》の轉呼で、ネは敬稱であるから、アナタ(貴方ガといふに同じく、記にも神沼川耳命(綏靖天皇)が御兄神八井耳命に對して那泥〔二字右○〕汝命といはれたとあり、後掲【三五四四】にも勢奈那〔二字右○〕と用ひられ、第九卷【一八〇〇】には妹名根〔二字右○〕といふ語例がある。袖モ〔右○〕とあるのは袖だけに限らぬ爲であるが、自分の袖モ〔右○〕といふ意味を含むものと解することは困難であるから、夫《セ》ナノガは袖の所有格表示ではなく、軸フルの主語として用ひられたものとせねばならぬ。さりながら其も甚好ましからぬ表現法で、且句跨りとなるから、恐らくは作者の本意ではあるまい。
(111)さやにふらしつ フラシはフリ(振)の敬語形であるから、爽に振りなされたといふ意と解せられる。即ち碓氷峠を登つて行く夫の姿を遠望し、若くは遠望し得たと想定して詠じたものとせねばならず、略解及古義の説の如く互に袖を振りかはしたといふ意とは考へられぬ。
【大意】日暮に碓氷の山を越えた(今)日は夫君が袖もさやかに振りなされた
右の如く牽強して説けぬことはないが、句々に無理があるのみならず、薄暮にさしかゝつて山越えすることが既に有り得ぬ事實であるから、新考説に從ひ末句をテ〔右○〕ラシツと改めて讀み直すと次の如き意味になる。
 薄暮碓氷山(嶽)を越える日(太陽)はおまへ樣の袖も分明《サヤカ》に照した(よ)
即ち碓氷の山を越ゆるものは太陽であるが、この語句によつて、男が信濃路から歸つて來たものと想像することが可能で、夫を待ち迎へた其夜の睦言に、おまへ樣を遙に見つけた時は、恰も碓氷山に沈まうとする夕日が、お袖にもさやかに照り映えて居たと女が語つたので、有り得べき實景であると同時に、其女性の悦のかゞやきも亦夕映に劣らなかつたことが目に見えるやうである。改竄の慎しむべきことは云ふまでもないが、此歌の如きは僅に一音の改修によつて其面目が革まり、駄作が一變して極めてめでたい歌になるのであるから、縱ひ誤傳の證據はあがらぬとしても、原作は此やうであつたと斷定することは決して不當ではなく、新考の所説は(112)實に千古の卓見であると云はねばならぬ、
 
3403 安我古非波《アガコヒハ》 麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多胡能伊利野乃《タゴノイリヌノ》 於父〔左△〕母可奈思母《オクモカナシモ》【三四〇三】
 
あが戀は まさかも悲し 草枕 たごの入野の おくもかなしも
 
あがこひは 我ガ戀ハ
まさかもかなし マサカは前輯(第二一三頁)に述べたやうに現實の謂で、カナシは勿論悲愴の義である。
くさまくら 草枕の謂で、旅の枕詞であるが タゴと言掛けた例はないから、眞淵は「旅のさまをいふめり」といひ、夫と旅別の際の歌と解したが【考】、旅中の男の作ならばともかくも、未然に於て旅の光景を豫想し、クサマクラを以て旅の代名詞に用ひたとは考へられぬことで、古義が枕をタクといふ縁により多胡にいひかけたものとし、多久は總束るをいふ古言なりと説いたのも、タクの語義に關する限りは明に誤解である。ツカネはツカ(束)より出た語で、之をタガヌといふのはタバ(把)――タハリ(手張)の轉化――を活用したタバネとの混淆らしく、本集第五卷哀2世間難1v住歌にタツカ杖腰ニ多何禰〔三字右○〕提【八〇四】とあるのは、杖を腰にかふことで、束ねるといふ意ではない。タクは本集に髪多久【一八〇九】、駒多具【三四五一】、船多氣【一二六六】の如く操作の意に用ひられ、記の吉野の國主の歌に加良賀志多紀〔二字右○〕能佐夜佐夜とある句が橿作りの鞘をいふものとすれば、手工の義をも有するものとせねばならぬから、枕を作ることを枕タクともい(113)ひ得られぬことはないが、薦枕及菅枕の外に、草枕といふ品物が存したかは疑問である。加之假寢の枕に草を結ぶとはいふが、草を束ぬと表示し得べしとも思はれぬから、草枕は假寢に譬へたので、此入野が野合などに適する地なるによつて準枕詞として用ひられたのであらう。
たごのいりぬの 野は上掲信濃歌には能と假字書せられて居るが(第一七頁)、此國に於ては國名を多くは可美都氣努と表記し、可美都氣乃としたのは唯一首であるのみならず、イリノノとノ音を重ねるよりもイリヌノと唱へる方が口調がよいから、舊訓はノとあるけれども、ヌと改訓するを可とする。多胡は和銅四年に分設せられた郡名で、和名抄には上野國多胡(胡音如v呉)とあり、今|多野《タノ》郡に屬し、多胡村といふ地がある。入野は山奥に深く入り込んだ地形をいふものと思はれるが、若し今の入野村が典據のある舊稱であるとすれば、或は其地を意味したのかも知れぬ。此句はオクの序であるが、タコはテコ(第七八頁)に通ずるから、或は美人を聯想せしめる爲に特に此地名を擧げたのかも知れぬ。
おくもかなしも 於父〔右△〕は舊訓オフとあるが、意をなさぬから、契沖説のごとく於久〔右○〕の誤寫で、奧の謂であらう。此は將來又は行先の意に用ひられたものとすべきで、現實も悲しく將來も悲觀であるといふのは、纔に假寢したばかりで深く契るに至らなかつたはかなさを歎じたものとすべく、事情があつて女の許に通ふことの出來ぬ男の述懷であらう。
【大意】自分の戀は(假寢の)草枕に過ぎぬ。現實も悲しく行先も心許ない
 
(114)3404 可美都氣努《カミツケヌ》 安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》 可伎武太伎《カキムダキ》 奴禮杼安加奴乎《ヌレドアカヌヲ》 安杼加安我世牟《アドカアガセム》【三四〇四】
 
上つ毛野 あそのまそむら かき抱《ムダ》き寢《ヌ》れど飽かぬをあどか我《アガ》せむ
 
かみつけぬ 上ツ毛野
あそのまそむら アソは後掲【三四二五】には下ツ毛野アソの河原とあり、和名抄に下野國安蘇郡安蘇とある地で、今も下野に屬して居るが、邑樂郡が深く突入して古の阿蘇郷と隣接して居る所を見ると、或は足利郡と共に上野に隷屬した時代があつたのであらう。アソはアサ(麻)の轉呼で、之を産するが故に名に負ひ、マソ(眞麻)ムラ(叢)とつゞけられたのであるが、此句は麻をカク(梳)といふ縁によつて序として用ひたのである。
かきむだき カキ(掻)はかき寄せる意もあるが、カキ登り、カキ拂ヒ、カキ消スの如く、半ば強意的接頭語として用ひられたものと了解すべきで、ムダキは抱擁を意味するウダキの轉訛と思はれる。今では專らイダキと稱へるが、ダキは本來タガル語のダキブ(捕捉する)と同原の外來語で、イ〔右○〕は發聲の爲の接頭語に過ぎぬから、ウダキとも稱へられたので、靈異記にも于田支と訓注せられて居る。之をムダキとしたのはウメ(梅)をム〔右○〕メ、ウマ(馬)をム〔右○〕マといふと同樣の變化で、後掲【三四一八】にもウラナヘを武〔右○〕良奈倍と轉呼した例もあるから、東國に於ては八重山語と同じく語頭のuを鼻音化する傾があつたのであらう。眞淵説の身抱《ムウダ》キの約とも解せられぬことはないが、此場合に特にム(身)といふ語を冠する必要もないやうである。
(115)ぬれどあかぬを 寢レド飽カヌヲ
あどかあがせむ アドは何トの約ナドの轉訛で(節五四頁)、何トカ我爲ムといふ意である。
【大意】上野の阿蘇の眞麻叢をかき寄せるやうに、抱擁して寢ても飽き足らぬが、何としたらよからう
 
3405 可美都氣乃《カミツケノ》 乎度能多杼里我《ヲドノタドリガ》 可波治爾毛《カハヂニモ》 兒良波安波奈毛《コラハアハナモ》 比等理能未思※[氏/一]《ヒトリノミシテ》【三四〇五】
 
或本歌曰、可美都氣乃《カミツケノ》 乎野乃多杼里我《ヲヌノタドリガ》 安波治爾母《アハヂニモ》 世奈波安波奈母《セナハアハナモ》 美流比登奈思爾《ミルヒトナシニ》
 
かみつけ野 をどのたどりが 河ぢにも 子等は逢はな|も《ム》 獨のみして
 
(或本歌) かみつけの 小野のたどりが あはぢにも せなは逢はなも 見る人なしに
 
かみつけの 上ツ毛野の意。本歌の乃の字は元暦校本、類聚古集、西本願寺本等には努〔右△〕とあるが、或本歌の乃〔右○〕については諸本一致して居る所を見ると、此國名はカミツケヌ〔右○〕ともカミツケノ〔右○〕とも稱へられたものとすべきで、和名抄にも加三豆介乃〔右○〕とあるから、強ひて乃をヌと訓むにも及ぶまい。
をどのたどりが(をぬのたどりが) タドリは恐らくは地名で、多多良沼の所在地、即ち今の邑樂郡多多良村界隈のことであらう。此沼の水は舊渡瀬川(今の矢場川)に落ちたから、其水路の狹窄なる部分を小門《ヲド》と稱(116)へたことはあり得べきである。タタラ(タドリ)には踏鞴即ち吹革《フイガウ》といふ意もあるから、其縁によつてカハ(皮)とつゞけたのであらう。或本歌のヲヌは勿論小野の謂であらうが、タドリに冠したのは開けた野といふ意(第一八頁)を以て修飾に用ひたのか、若くは附近に此名の聚落が存し、之をかりて限定としたのか判明せぬ。
かはぢにも(あはぢにも) 河路に於てもといふ意。小門に沿うた道であつたが故にカハヂと呼ばれたものと思はれる。餘り來往が繁くなかつたから、此處で行會ひたいといふ意であらう。或本歌のアハヂが誤記でないとすれば、アハダ(粟田)の訛と解することも可能で、小門を小野と言ひかへて居るから、タドリの小野の粟田で逢ひたいといふ意としても妨はないが、尚語脈のたどたどしい所を見ると、或はカハヂの訛傳であるかも知れぬ。
こらはあはな|も《ム》(せなはあはなも) ナモは願望表示のナに感動詞モを添へたもので、大和語では夙にナムと轉呼したけれども、東語には當時尚原形を存して居たのであらう。モ(ム)を除いてアハナと用ひた例もあり【神功紀】、逢へかしと祈る意である。コラは女子の謂であるから(第一六頁)、男性の歌とせねばならず、或本歌のセナ(第六五頁)に從へば女性の作とすべきである。
ひとりのみして(みるひとなしに) 獨ノミシテも見ル人ナシニも詮ずる所は同義で、人目に觸れすに單獨で行き逢ひたいといふのである。散文ならば當然前句に先行すべき副詞句なるが故にシテ又はニを添へたので、シテは動詞シ(爲)の一活用形態(分詞形)であるが、此場合には作爲の意はなく、前續體言を敍述形と(117)するための助動詞である。後世に於ては多くはニシテの形を用ひ、略してニテといひ、更にデと連濁して用ひるが、テは勿論助語ニに直接連結し得べき語分子ではなく、ニシテとシテとの間には若干の相違が存し、人シテ言ハシムなどいふ場合には人ニシテを以て代用することが出來ぬ。それはニ自身に其固有職能があるからである。
【大意】上毛野(の)小門のタドリの河路に於ても彼女に逢へかし。唯獨りのみで――【異傳】上毛野(の)小田のタドリの粟田(又は河路)に於ても夫に逢へかし。見る人なしに
 
3406 可美都氣野《カミツケヌ》 左野乃九久多知《サヌノククタチ》 乎里波夜志《ヲリハヤシ》 安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》 許登之許受登母《コトシコズトモ》【三四〇六】
 
かみつけ野 佐野のくくたち 折りはやし あれは持たむゑ 今年來ずとも
 
かみつけぬ 野はノとも稱へたと思はれることは上記の通りであるが、此國名はカミツケヌ〔右○〕と假字書した例の方が多いから其に從ふ。次句の野の字も亦發音の便宜上ヌ〔右○〕と訓むを可とする(第一一三頁參照)。
さぬのくくたち サヌといふ地は後記の如く群馬郡にも存するが(第一三九頁)、其地は沼《ヌ》によつて名を負うたものゝやうで、ククタチとつゞけた所を見ると、此は榮野《サヌ》又は狹野《サヌ》の謂であらねばならぬから、恐らくは安蘇郡佐野庄のことであらう。――今の佐野も此庄内に含まれて居たかも知れぬが、舊佐野城は田沼町の東方唐澤山に存した――安蘇郷に隣する地で、以前上野國に屬したことは上述の通りである(第一一四頁)。(118)クはキ(木)の古言で、水神をクク〔二字右○〕之靈《ノチ》といひ、榑をク〔右○〕レ(木末の約)、莖をク〔右○〕キ(木子《クキ》)等と稱へるから、東國に於ては木立《コダチ》をクタチといひ、疊頭してククタチと稱した事も有り得べきである。木立といふ語は出雲國造神賀詞及常陸風土記にも見え、舒明紀の童謠にも「畝傍山虚多智〔三字右○〕うすけどたのみかも」と詠まれて居るから、樹木の林立をいふに用ひられたものと思はれる。從來和名抄に〓(ハ)蔓菁(ノ)苗也、和名久久太知とあるによつて蕪の薹《トウ》の意とし 食膳の料と説いて居るが、次句の折ハヤシ及今年來ズトモとある趣に副はぬ。
をりはやし ハヤシは榮爲の謂で(第二一頁參照)、光彩を添へることを意味し、歌のハヤシ(囃)をいふにも用ひられるが、これは數多く折たてるといふ程の意味であらう。サ野の木立を折はやすのは道行く栞とせんが爲で、來年までの闘に通路が草に埋もれて蹈み分け得られぬやうになりはせぬかといふ懸念があるからであらう。
あれはまたむゑ 我は待タムヨ〔右○〕といふ意。ヨ(ヤ)をヱと轉呼したのは例のあることで、天智紀の童謠にエ苦シ衛〔右○〕と用ひられ、本集第四卷【四八六】にも吾者サブシ惠〔右○〕とある。
ことしこずとも 故あつて今年來ずとも道しるべを作つて自分は待たうといふので、第四第五句は倒敍である。此は勿論女の歌であらねばならぬ。
【大意】土毛野(の)佐野の木立(を)折はやして自分は待たうよ。今年來ずとも
 
(119)3407 可美都氣努《カミツケヌ》 麻具波思麻度爾《マグハシマドニ》 安佐日左指《アサヒサシ》 麻伎良波之母奈《マギラハシモナ》 安利都追見禮婆《アリツツミレバ》【三四〇七】
 
上毛野 まぐはし|まど《ミヅ》に 朝日さし まぎらはしもな ありつつ見れば
 
かみつけぬ 上ツ毛野(ノ)
まぐはし|まど《ミヅ》に 契沖は目細窓と解し、宣長はマドを眞門の義としたけれども【記傳卷一二】、前後の句から推測するに地名か又は地名を地形地物名に連ねたものゝやうである。但し之に類する名稱すらも殘つて居らぬので、未だ地點を推定し得たものがない。案ずるにマグハシマドの如き多音節から成る一語は古言には有り得ぬから、二語以上に分拆して考察せねばならぬ。今先づ之を二分するとせば次の組合せのいづれかであらう。
(一) マゲハシマとト。 眞淵は之を取り、「眞桑島てふ川島〔二字右○〕など有て其潮瀬〔二字右○〕を門といふならん」と曖昧に説いたが、トを海門の謂と解したものとすれば、宣長及雅澄も難じたやうに上野歌には不當とせねばならぬ。若し潮瀬〔二字右○〕は誤記で、トはミト(水門)の意なりとせば、川島の門といひ得られることは勿論であるが、眞桑島といふ川島の存在は全然想像に過ぎぬ。
(二) マグハシとマト。 ミトは音便によりマトともいひ得られるから、マグハシといふ地の水門の謂とも解せられ、且マグハシ(目妙)にいひかけたことも有り得るので、私は曾て此説を主張したが【訓詁】、右の如き地名の存否は不明である。今の前橋の舊名マヤハシ(厩橋)とやゝ語音が類似して居るが、ヤと(120)グとが相通じたとも思はれぬ。
(三) マグハとシマド。 略解には「今まぐはといふ所有と言へり」とあるが、其所在を示して居らず、大日本地名辭書の著者も物色し得なかつた。さりながら其が根據のある説とすれば、或は今の前橋市桑〔右○〕町が其名殘ではあるまいか。此地は和名抄の群馬郡驛家郷にあたり【地名辭書】、往昔は利根川の右岸に位し、驛路が貫通して居たやうであるから著名な地點であつたかも知れぬ。桑町が果して由緒のある舊い地名であるか、又は本初眞桑と呼ばれたかは尚郷人の研究を煩はさねばならぬが、假に此地の謂としても、シマドの意義については次の如き諸懷釋が可能である。
 (イ)川島〔右○〕の渡瀬の門〔右○〕【略】または半島〔右○〕状の突角によつて窄められた水門〔右○〕【新考】。
 (ロ)シマヅ(島津)の轉呼【地名辭書】、即ち川島〔右○〕の津〔右○〕。
 (ハ)シマはスマ(住區)に通じ、其地の田所の謂を以てシマダと呼ばれたか。
 (ニ)後掲【三五四六】には清水《シミヅ》を西美度〔右○〕と訛つた例があるから、此シマドもシミヅ〔右○〕の轉呼か。
 之に朝日が照映したことを以てマギラハシの序とした所を見ると、(イ)(ロ)(ハ)よりも(ニ)の考察が最も適當して居るやうである。前橋市を距ること遠からざる群馬郡國府村の大字冷水〔二字右○〕は、現今何と稱へて居るか知らぬが、或は此シミヅ(冷水)の遺跡ではあるまいか。
あさひさし 朝日射シ。――以上三句はマギラハシの比況的序である。
まぎらはしもな モナはいづれも感動詞で、マギラハシはマ(目)とキラハシとの二分子より成り、後者はキ(121)ラビヤカ(煌々)の語幹キラビの形容詞形と思はれる。マ(目)ハユ(映)を語幹とするマバユシとほゞ同義で、羞明の意であらう。キリ(切)から導かれたキラヒ(嫌棄)の形容詞形キラハシ又はキリ(霧)の活用形態とマ(目)とを結びつけたマギラハシ(紛々)といふ語とは全く語原を異にするものゝやうである。
ありつつみれば アリツツはアリアリ(在々)の謂であるが、此は歴々《アリアリ》即ちマザマザの意に用ひられたので、心の中には戀ひ焦がれて居てもマザマザと見れば目映いといふのである。恐らくは女の歌で、相手は貴人又は美男子であつたのであらう。
【大意】上毛野(の)眞桑清水に朝日がさしたやうに、ありあり見れば眩しいよな
 
3408 爾比多夜麻《ニヒタヤマ》 禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》 和爾余曾利《ワニヨソリ》 波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》 安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》【三四〇八】
 
新田山 ねにはつかなな 吾《ワ》によそり 端なる子らし あやにかなしも
 
にひたやま ニヒタ山は和名抄に上野國新田【爾布太】郡――現今ニツタと稱へる――新田郷にある丘陵の謂で今の太田の金山である。後掲【三四三六】にヲ新田山ノモルヤマ(禁山)とある所を見ると(第一六八頁)、恐らくは神靈の鎭座地であつたのであらう。
ねにはつかなな ネは山の根即ち山麓をいひ、ナナは動詞の連用形に添付する場合と、未然形につくものとによつて意味を異にする。此例を以ていへばツキ〔右○〕ナナは末來完了のツキナム〔右○〕のムに代へるに願望表示のナ(122)を以てしたものであるが、ツカ〔右○〕ナナの上のナは願望表示と見るか、然らずば打消ナシ(無)の語幹とせねばならぬ。然るに更に感動詞ナを添へて居るのであるから、後者と見るの外はなく、東國獨特の表現法で、本卷【三四三六】【三五五七】及第二十卷【四四一六】【四四二二】【四四二八】にも用例があり、ヤマト語のジナのジに代へるに同義語ナを以てしたものゝやうである。さればツカナナは附カジナ即ち口語の附クマイヨといふ意とせねはならぬ。眞淵は後掲【三五一四】の「高き嶺に雲のつくのす我さへに君に都吉〔二字右○〕奈那たかねと思ひて」とある歌のツキ〔右○〕ナナを故意にツカ〔右△〕ナナと改めて引證し「雲といはねども雲の事也」と説き、千蔭も之に從ひ、ツカナナはツカナク〔右○〕の訛なりとし、其他不v著【古義】、附カズシテ【新考】等と釋して居るが、ナク又はナフ(打消)がナナとなるのは音便原則上あり得ざることで、ズシテをナナと表現すべき理由がない。此一語の爲に先學は歌意を解き誤つた。
わによそり 我ニ寄セアリといふ意。ヨセアルをヨソルと約した例は前卷にも見え、第一輯二四六頁)、こゝでは心ヲといふ目的語が略せられて居るものと解すべきである。
はしなるこらし 端ニ在ル兒(女子)の謂で、ラは接尾虚辭、シは強意助語である。
あやにかなしも アヤは彌益々といふ意(節一五頁)、カナシは可憐なりといふことで(第一六頁)、モは感動詞である。自分に心を寄せて端に居る彼女が彌々可愛いから、新田山の根(麓)にはつくまいといふので、男女が群集する此山の神の祭等に於て、偶然意中の人を見つけ、例ならば率先挺身して山本目がけて進むのであるが、女故に之を欲せぬといふ意を詠じたのであらう。
(123)【大意】新田山(の)根にはつくまいよ。自分に(心)を寄せて端に居る彼女が彌《イヤ》に可愛いことよ
 
3409 伊香保呂爾《イカホロニ》 安麻久母伊都藝《アマクモイツキ》 可奴麻豆久《カヌマヅク》 比等登於多波布《ヒトトオタバフ》 伊射禰志米刀羅《イザネシメトラ》【三四〇九】
 
伊香保ろに 天雲いつきかぬまづく 人とおたばふ いざ寢しめと|ら《ヤ》
 
いかほろに ロは接尾語で、伊香保は今も温泉地として有名であるが、ホは高千穗の例によれば秀の意を以て山峯の稱呼に用ひられたものとすべきで、イカは嚴の意なること云ふまでもないから、本初は山名で、恐らくは今の伊布保富士の謂であらう。本集にハルナ(榛名)山を詠じた歌のない所を見ると、當時は此山彙をイカホと總稱したのかも知れず、延喜式の伊加保神社も此山の靈を祀つたものと思はれる。今大己貴命を祭神とするのは、此神が醫療の方を定めたと傳へられ【紀】、温泉は治病の効を有するからであらうが、其は温泉の開けた後に祭祀せられた湯前明神のことであらねばならぬ。山上の舊社は他にも例があるやうに、奉齋に便ならずとして或時代に新宮に合祀せられたのであらう。さればこそ湯前宮は藥帥如來なりとする説もあるのである。
あまくもいつき 天雲が就きといふ意で、イは接頭語である。都藝〔右○〕と表記せられ、舊訓もツギとあるが、恐らくは其は音便で、續《ツグ》といふ意ではあるまい。雲が山の峯にツクというた例は後掲【三五一四】にも見え、「高き嶺に雲の都久〔二字右○〕のす」とある。此句は叙景と同時に次句の序と了解せられる。
(124)かぬまづく 考に「今も可奴万の苧とて麻を出す所有」とあるが、其は下野國下都賀郡鹿沼町のことで、伊香保とはかけ離れて居るから、此カヌマは恐らくは神沼《カヌマ》を意味し、山上の湖水即ち今の榛名湖のことをいふのであらう。ヅクはイツク(齋)の連濁なるが故に、上句にはこと更に接頭語イを添へてイツキというたので、神沼とすれば人々が奉齋したことも有り得べきである。以下は後掲【三五一八】の下三句と殆ど同一で此國に於て有名な古歌であつたが故に、色々に傳へられたのであらう。
ひととおたばふ ヒトトはヒト(人)の疊尾語で、人々といふに同じく、【三五一八】に準じて登を曾〔右△〕【古】または楚〔右△〕【新考】の誤寫とする説は無稽と云はねばならぬ。於多波〔右○〕布は舊訓オタバ〔右○〕フとある所を見ても、オタビといふ副詞の進行形なることは疑なく、本集には他に用例がないが、續紀の宣命中に見える於多比または意太比之と同じく、オダヤカ(穩)の語幹オタに活用語尾ビ(ブリの意)を接著したもので、沈黙スル即ち靜マルといふ意と思はれる。從來ノタマフ【代】、ヲラバフ【考】の轉訛とし、或は於呂〔右△〕波布の誤記【古】又は音タバフの約、即ち音信の義にあらずやと釋し【新考】、私も前著にはウタフ(謠)から出た動詞と説いたが【語誌】、オタバフといふ語の存立が可能とすれば、強ひて轉訛又は誤寫と見る必要はあるまい。案ずるに此は夜間の祭典の光景を描寫したので、神沼を齋く人々のざわめきが鎭まつたといふのであらう。
いざねしめと|ら《ヤ》 イザは促し進める意の間投詞で、シメは使動詞原形であると同時に命令法ともなるから、ネシメは寢サセヨといふ意であるが、此は自分達をといふ目的語が省かれて居るものとして、寢ヨといふ意味と解すべきであらう。トラについてはラを虚辭【代】又は口語のサに通ずる助辭とし【新考】、或はタラ(125)ムの約轉【考】又はコ〔右△〕ラの誤記【略】とする説もあるが、上掲【三三五九】にツヅラ〔右○〕をツツヤ〔右△〕と詠じた例によれば、ラとヤとは相通じたものゝやうであるから、トヤ〔右○〕の訛とすべきである。即ちイザ寢ヨトヤといふことで、ヤはヤラムといふに同じく疑を含める爲に添へたのである。以上三句はいづれもヤマト歌には類例のない表現であるので、從來解釋に悩み、題材の趣旨をすら明にしなかつたが、上述の説明に從へば伊香保山の祭の夜に行はれた歌垣《ウタガキ》又は※[女+燿の旁]歌會《カガヒ》の歌で、神沼を齋く人々も靜になつた。サア寢よといふのであらうと詠じて利手を挑んだものと了解せられる。東國には近世まで※[女+燿の旁]歌會の遺習を存した事實がある。
【大意】伊香保山に天雲が降り、神沼を齋く人々も靜まつた。イザ寢よといふにや
 
3410 伊香保呂能《イカホロノ》 蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》 禰毛己呂爾《ネモコロニ》 於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》 麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》【三四一〇】
 
伊香ほろの そひのはり原 ねもころに 奥をなかねそ まさかしよかば
 
いかほろの 前出
そひのはりはら イカホロのソヒは後掲【三四三五】にも詠まれ、國土未勘の相聞歌中にもイハホロのツヒの若松【三四九五】とあるから、地形若くは其から出た地名と思はれる。契沖は之を川ソヒ柳などいふ傍《ソヒ》とし、山の岨《ソバ》も同語から出たのであらうと説き、眞淵以下之に從うて居るが、ソバはソバダツ(峙)とも活用せられるが故に、寧ろ稜《ソバ》の義から轉化したものと見るべきで、ソビエ(聳)の語幹ソビも其轉呼らしく、ハリ原な(126)どの存すべき地形稱呼ではないから、此ソヒは單に傍地の意であらう。ハリは針のやうに刺《トゲ》々しい草木の總稱で、ハリ(榛《ハンノキ》)、ツチバリ又はヌハリグサ(王孫)も之に含まれ、バラ、イバラ、ウバラ(刑棘)も之から分化したものゝやうである。隣地|榛名《ハルナ》の榛が正字で、榛野《ハリヌ》の轉呼であるとすれば、此ハリハラも榛原の謂と類推せられるが、延書式神名帳には椿〔右○〕名とあり、春名とかいた例も見えるから、榛は借字とすべきで、後掲【三四三五】に「ソヒのハリ原我|衣《キヌ》につきよらしもよ」とある所を見ると、其花が摺染可能のものであつたとせねばならぬから、「衣にツク〔二字右○〕ナス」【一九】と訓まれたサ野バリ又は「思はぬ人の衣にスラ〔二字右○〕ユナ」【一三三八】とあるツチバリ(土針)即ち王孫【和】のことゝ思はれる。之をツクバネ草(百合料)なりとした小野蘭山の説はハリといふ名にあたらぬやうで、現名を何といふかは尚植物學者の研究をまたねばならぬが、秋日花をつけたが故に萩《ハリ》の字をあてたので(但しハギ即ち芽子のことではない)、此はネにかゝる序であるから、根株に特色のあるものとせねばならぬ。
ねもころに ネモコロの原義は前輯(第一八七頁)に詳論したやうに共根同系で、懇、懃等の意にも用ひられるが、これは骨肉の親をいふものゝやうである。上代の社會制度に於ては同母系の近親結婚を嚴禁としたから、之を犯した男女を戒めた歌と想定せられるのである。ネモコロがクダクダシ【古】又はヒツコク【新考】の意となることは、其例がないのみならず、語原的にも不可能である。
おくをなかねそ オクは上述の如く將來の意で(第一一三頁)、カネは豫定することをいひ、現代語を以て表現すれば末の約束するなといふことである。
(127)まさかしよかば マサカは現實の謂(第一一二頁)、ヨカバはヨクバの古形ヨケバ(第六六頁參照)の轉呼で、シは例の強意助語であるから、現實さへよくばといふ意になるのである。從來第三句のネモコロの語義を明にしなかつた爲、深刻なる歌意が十分了解せられるに至らなかつた。
【大意】――上二句は序――同糸の人と將來の約束すな。現實さへよくば
 
3411 多胡能禰爾《タゴノネニ》 與西都奈波倍※[氏/一]《ヨセツナハヘテ》 與須禮騰毛《ヨスレドモ》 阿爾久夜斯豆之《アニクヤシヅシ》 曾能可把〔左△〕與吉爾《ソノカホヨキニ》【三四一一】
 
多胡の嶺《ネ》に よせ綱延へて 寄すれども あにくやしづし 其顔よきに
 
たごのねに 上記の多胡郡(第一一三頁)の山嶺、即ち今の多胡村の西南山地を謂ふのであらう。名跡考には三株、八束、牛伏の三峯をいふとある【地名辭書所引】。
よせつなはへて ヨセツナが寄綱の謂なることは勿論で、考以下には祈年祭祝詞及出雲風土記の國曳を例に引いて居るが、其には綱打挂〔二字右○〕テとあるに反し、此はハヘ(延)テといふ連語を用ひて居るのであるから、少くとも綱を張り亙したものとせねばならぬ。さりながら地曳網のやうに兩端を引いて掻き寄せることは、木立繁き山中に於ては不可能であるから、恐らくは野獣の習性を利用し、其通路を塞いで自ら一地點に集まるやうに仕かけたのであらう。眞淵が寄らぬものを強ひて引寄せることゝし、雅澄が水底に沈める石を多胡の嶺に引寄せる意と説いたのは、祝詞の八十綱、國曳傳説の三自《ミツヨリ》の綱と同一視した爲で、多胡の嶺に(128)ハヘたとある趣に副はぬ。
よすれども 契沖はヨスルものを鹿なりとしたが、廣く野獣を意味するものと解したい。勿論女性を寄せ集めることに譬へたのである。
あにくやしづし アニクについては敢惡【考】、豈來【古義】、難獲《エニク》【新考】の意とする説もあるが、略解にアヤニク(生憎)と釋したのが當を得て居るやうである。アヤニクはアナ憎シといふ意で、アナ(アヤ)は感動詞であるから、ア一音にかへても大差はなく、東國ではアニクと稱へたことも有り得べきである。ニクヤのヤも亦感動詞で、斯豆之を舊訓シヅノ〔右△〕としたのは意をなさず、之〔右○〕を久〔右△〕の誤寫としてシヅク〔右△〕と訓み、鎭り居て寄らぬ也とする説【考】【略】も第二句の誤に累せられたものとすべく、上句ヨスレドモとあるを見ても(寄セムトスレドモではない)、既に寄せたことをいふものとせねばならぬ。古義は第二句を水底の石を引寄せる意と説いた結果として、此句をも豈來耶沈石《アニクヤシヅシ》、即ち水底に沈んだ石が何として寄り來むやと牽強したが、前提を誤つて居るのであるから問題にならず、新考がシシノ〔三字右△〕と改訓したのも、上四音を獲《エ》ニクヤの訛とする臆測が肯定せられぬ限り妄斷とせればならぬ。案ずるにシヅはシタ(下)と同語で、降下を意味し、シヅシは其形容詞活用形であるから、劣つて居るといふ意と了解せられる。即ち多胡の嶺に寄綱を亙して野獣を寄せるやうに多くの女性を寄せたけれども、生憎劣つて居るといふのである。
そのかほよきに 舊訓カホ〔右○〕ヨキニとある所を見ると、把〔右△〕の字は大矢本の如く抱〔右○〕の誤記とせねばならぬ。カホヨシは紀に佳、美、麗、美麗、艶妙、美姿顔、有國色等の訓にあてられて居るやうに美貌の意で、此歌に於ては(129)意中の佳人をさしたのである。此句は前句の前にあるべきであるが、【三四〇五】乃至【三四〇七】の如く四句切の正調に從ふ爲に特に倒敍したのであらう。――新考が字によつてカムハ(皮)ヨキニと訓み、女を鹿《シシ》に譬へ、皮のよい鹿は獲にくしといふ意としたのは、趣のない歌になるにしても、尚條理は通つて居るが、古義がカホヨキを皮肉表現《イロニカル》として「うはべのみ心よげに相ゑみなどして心裏にはさも思はぬをいふなり」と斷定したのは、誣言も亦甚しきもので、古來幾多の用例中、私の知る限に於ては、此語に右の如き意味を寓したものは一つもない。
【大意】多胡の嶺に寄綱をわたして(獣を寄せるやうに女性を)寄せたけれども、生憎彼の顔よき(人)に劣つて居る
雅澄は「此歌昔來解得たる人なし」といひ、暗に我こそ説き得たれと誇つて居るが、首句の外は盡く誤解とすべきこと上述の通りである。同人ほどの學匠すらも此通りであるから、私の説明の如きも決して末代不易であるとは考へぬが、文字を改竄せず、語句の脈絡を無視せぬとすれば右の如く説かざるを得ぬのである。
 
3412 賀美都家野《カミツケヌ》 久路保乃禰呂乃《クロホノネロノ》 久受葉我多《クズハガタ》 可奈師家兒良爾《カナシケコラニ》 伊夜射可里久母《イヤサカリクモ》【三四一二】
 
かみつけ野 くろほの嶺ろの 葛葉|がた《ゴト》 かなしけ子らに いやさかり來も
 
(130)かみつけぬ 上ツ毛野
くろほのねろの クロホの嶺《ネ》(ロは接尾語)は、名跡志に赤城連山の黒檜獄をいふとあり【地名辭書所引】、西北麓の利根郡久呂保村及東南麓に位する勢多郡黒保根は、此川名を負うたのであらう。名の義は黒秀《クロホ》で、暗黒の山峯を意味するものゝやうである。
くずは|がた《ゴト》 ガタはゴト(如)の訛で、葛《クズ》(第四五頁)の葉の如くといふ意であらう。眞淵がタをツラの約とし、葛葉カヅラ也と説いたのは妄誕論ずるに足らぬが、「もと久受葉成とありしを一音一字に書き改むるに當りて成を方と見誤りて我多とは書けるならむ」といふ新考の臆測も餘りに込入つて居る。契沖、雅澄は地名と見たが、假に葛葉|縣《ガタ》といふ邑落が或時代に實在したとしても、クロホの嶺ロは之が限定たるに適せぬのみならず、次句以下との掛合もおぼつかない。されば此は葛の葉の延び行くやうに彌遠ざかるといふ意の比況と解するの外はない。
かなしけこらに カナシケ〔右○〕はカナシキ〔右○〕の古形で、可憐ノといふ意。コラは屡々述べたやうに女子の謂である(第一六頁參照)。
いやさかりくも 彌離り來といふ意。來《ク》は往來の來ではなく、其事の進行を意味するのであるから、離れ行くといふ意に外ならず、モは感動詞である。
【大意】上毛野(の)黒秀《クロホ》山の葛の葉の(延びる)やうに、可愛い彼の兒に益々離れ行くよ
 
(131)3413 刀禰河泊乃《トネカハノ》 可波世毛思良受《カハセモシラズ》 多多和多里《タダワタリ》 奈美爾安布能須《ナミニアフノス》 安敝流伎美可母《アヘルキミカモ》【三四一三】
 
利根川の 河瀬も知らず ただ渡り 波に逢ふのす 逢へる君かも
 
とねかはの 上野國利根郡に源を發する川なるが故に此名を負うたのである。郡名の所由については種々の説があるが、トネは本來トミ(富)またはトヨ(豐)の語幹トと敬稱ネとより成り、主として女性の敬稱に用ひられるトジ(富主《トチ》の轉呼)即ち刀自に對し、身分のある男性の呼稱に用ひられ、トネリ(舍人)といふ語をも派成し、後世トノと訛つて若殿原の如くも用ひられた。思ふに隣郡を吾妻(第七頁)と呼ぶにより、其縁によつて命名せられたのであらう。但し河名としては郡疆を離れた後にも此名稱を失はず、古利根川を流れて東京灣に朝宗したのであるから、――幹線が常總間を東流するやうになつたのは遙に後世のことである――どの部分をさしたのか判明せぬ。上野歌に相違なしとすれば其國内の流域をいふものとせねばならぬが、或は刀禰とあるによつて編者が臆測を以て此國の歌としたのかも知れぬ。緒言に述べたやうに原記録には國別はなかつたやうである(第九頁)。
かはせもしらず 河瀬モ知ラズ
ただわたり 直渡りの謂。勿論徒渉を意味する。此は向ふ見ずに冒險したことの譬であらう。
なみにあふのす ノスはヤマト語にては通例ナスの形を以て行使せられる比況助語であるが(第一輯五〇頁)、必しも之を訛つたのではなく、記の吉野の國主の歌にも冬木ノス〔二字右○〕と用ひた例があり、本來ノに比況の職能(132)が備はつて居り(要録九八五頁)、スは「其」の意を以て添加せられたものゝやうで、ノの原語はnaなるが故にナスともいひ、※[ingの発音記号の後半の方]aとも轉呼せられたから、後掲【三五二六】にはガスとも用ひられて居るのである。此は渡河中波に會ふやうにといふことで、辛くもといふ意が含まれて居るのである。――「命に向ふばかりの危きを經て」【考】、「あやふくかしこき時に」【略】、「高き浪に逢て危く恐き目を見る如く父母兄弟又さらぬ人目などのさてもゆゝしき時に」【古義】と説いたのは考へ過ぎであるが、新考説のやうに單に逢ヘルの序としては特に「波」といふ語を用ひた作者の苦心が無になる。
あへるきみかも アヘルは會うて居るといふ意で、キミは新考説の如く相手の女をさしたものとすべく、この語から推して之を女性の歌とするのは誤である。キミは二人稱敬語であるから、男女相互に用ひたので(第一輯一三一頁)、アヘルといふ繼續時格を以て修飾した所を見ても、此は戀の冒險に成功して密會中に詠じたものとせねはならぬ。
【大意】利根川の河瀬も知らず直渡りに渡つて波に逢ふやうに(今)會うて居る君かな
 
3414 伊香保呂能《イカホロノ》 夜左可能爲提爾《ヤサカノヰデニ》 多都弩自能《タツヌジノ》 安良波路萬代母《アラハロマデモ》 佐禰乎佐禰※[氏/一]婆《サネヲサネテバ》【三四一四】
 
伊香保ろの やさかのゐでに 立つ|ぬ《に》じの あらは|ろ《ル》までも さねをさねてば
 
いかほろの 前出
(133)やさかのゐでに ヰデはヰド(堰處)の轉呼、即ち井(第一〇三頁)のある處といふ意で、今掘井をヰドといふのも其名殘である。ヤサカがヰデの修飾語であるとすれば、雅澄説の如く八尺の義とも或は彌榮《イヤサカ》とも解せられぬことはないが、恐らくは此は處の名で【考】、ヤ(彌)スカ(住處)の轉呼、即ち大聚落の謂であらう。既述の如く上代の聚落は天然の井泉を繞つて發達したから、井出(手)又は井戸(門)と稱する地名が諸國に存するので、伊香保の附近にも、和名抄によれば井出といふ一郷が存した。それは現在の群馬郡箕輪町にあたり、水之廓《ミノワ》といふ意を以て命名せられたものゝやうであるから、或は古のヤサカの遺跡であるかも知れぬ。
たつ|ぬ《ニ》じの 立ツ虹ノといふ意(舊訓ノジとあるは非)。虹は和名抄に爾之とあり、今では專らニジと稱へるが、天武紀にもヌジと訓せられて居るから、ニジの訛と斷定することは出來ぬ。原義は不明であるが、靈異記上卷(第五條)には電に此訓を與へ、アイヌ語では黎明をニシュといふから、或は空の赤いことを意味する語であつたかも知れぬ。この立ツヌジは勿論紅霓の謂であらうが、大噴泉の周圍の空氣は多量の濕分を含み光線を屈折して虹を現出することが頻々であつたので、ヤサカの堰處と限定したものとも了解せられ、ヤサカといふ地名に彌榮の意をきかせたことも有り得べきである。――以上三句は序である。
あらは|ろ《ル》までも アラハロ〔右△〕は現ハル〔右○〕の訛で、東國ではルをロと轉呼することが稀ではなかつたと見え、後掲【三四一九】【三四二三】【三四六九】【三五〇九】【三五四六】にも其例がある。虹のやうに色に出て分明に露はれるまでもといふ意である。
(134)さねをさねてば サは接頭語で、寢ヲ〔右○〕寢テバといふに同じく、他に用例が見えぬから、新考が記の輕太子の歌に準じてサネシ〔右△〕サネテバの誤記なりと斷じたのも一理ありとすべきであるが、夜《イ》ヲ〔右○〕寢ル(第一輯一四六頁)、音ヲ〔右○〕泣ク(第四〇頁)などとも謂ふ所を見ると、必しも不當の用語と斷定することは出來ぬ。されば東國獨特の語法と見て、尚原字原訓に從ひ、寢といふ語を兼ねて意を強めたものと解すべきであらう。テバは既述の如くテアラバといふとほゞ同義で(第一〇七頁)、何をか悔いんといふ意を下に含めたものと解すべきであらう。
【大意】伊香保のヤサカの堰處《ヰデ》に立つ虹のやうに露顯するまでも寢に寢てあらば(何を悔《クヤ》まう)
 
3415 可美都氣努《カミツケヌ》 伊可保乃奴麻爾《イカホノヌマニ》 宇惠古奈宜《ウヱコナギ》 可久古非牟等夜《カクコヒムトヤ》 多禰物得米家武《タネモトメケム》【三四一五】
 
上つ毛野 いかほの沼に うゑこなぎ かく戀ひむとや 種求めけむ
 
かみつけぬ 上ツ毛野
いかほのぬまに 八雲御抄に上野國イカホの沼は在2山上1池とあり、略解も國人の説として、此嶺の半上に在りて云々と記注して居るが、山上の池としては次句の趣にかなはぬから、或は麓野に此名を以て呼ばれた沮洳地が存したのかも知れぬ。古義は厩橋の上、赤木山の邊にありといふ説をあげて居るが、之をイカホの沼と呼稱したとは考へられぬ。句尾の爾はノとあつて然るべきやうに思はれるが、第三卷にも春日里(135)爾〔右○〕殖子水葱《ウヱコナギ》【四〇七】とある所を見ると、ウヱを一活用形態と見て、故意にニといふ助語を用ひたのかも知れず、誤記と速斷することは出來ぬ。
うゑこなぎ ナギは和名抄に水葱の訓とし、本集及延喜式にも水葱の字をあてゝ居る。コナギは其小なるものゝ謂で、今もコナギ又はササナギと呼ばれる食用水菜であるから、語義は恐らくはナ(食)キ(葱)であらう。形態からいふとウヱコナギは複合名詞であるが、之を名とする一種が存したのではなく、植ヱタル小水葱の謂で、本來野生植物であるが、食用として需要が多かつたから栽培したものと思はれる。さればわざわざ山上の沼を選ぶ筈もなく、上掲【四〇七】の如く里〔右○〕に植ゑたものとせねはならぬ。其花は觀賞に値するものであるから、意中の女性に譬へたのであらう。
かくこひむとや 此やうに戀ひんとてといふ意で、ヤは感動詞である。
たねもとめけむ 種を求めたのであらうかといふ意で、タネが水葱の種子と思の種とに言ひかけられたことは勿論である。此は反語的表示で、かういふつもりではなかつたがといふ意味が含まれて居るものと會得せねばならぬ。
【大意】上毛野の伊香保の沼に植ゑてある小|水葱《ナギ》よ。(其花のやうな彼女を)かほど戀ひ慕はうとて(思の)種を求めたのであらうか
 
(136)3416 可美都氣努《カミツケヌ》 可保夜我奴麻能《カホヤガヌマノ》 伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可波奴禮都追《ヒカバヌレツツ》 安乎奈多要曾禰《アヲナタエソネ》【三四一六】
 
上毛野 かほやが沼の いはゐづら 引かばぬれつゝ 我《ア》をな絶えそね
 
かみつけぬ 上ツ毛野
かほやがぬまの 所在を詳にせぬが、語義からいへばカホはイカホ(嚴《イカ》のイは本來接頭語である)に同じく(第一二三頁)、ヤはヤマ(山)、ヤツ(谷)等の語根であるから、或は伊香保山の沼即ち上掲のカヌマ(神沼)をカホヤが沼と稱へたのかも知れぬ。――地名辭書には邑樂郡の沼澤地ならんとあるが、其根據を詳にせぬ。
いはゐづら 以下三句は上掲【三三七八】の武藏歌と大體に於て同一である。或は有名な古歌が地名だけをかへて兩國に傳はつたのであるかも知れぬ。イハヰヅラの語義も右の歌に於て述べた。
ひかばぬれつつ 上記武藏歌にはヒカバヌルヌルとある。カルカル(苅々)を苅リツツともいふやうに、ヌレが下二段活用の動詞であるとすれば、ヌルヌルをヌレツツと言ひかへることも可能であるから、既述のやうにヌレはヌビ(伸)の意のアヅマ語であらう。沼の絡石《ツタ》のことであるから、濡レツツに言ひかけたことも有り得べきである。
あをなたえそね 此句も亦【三三七八】には和爾〔二字右○〕ナタエソネとある。タエといふ動詞が上古自他兩用であつたとすれば、吾ヲ〔右○〕莫絶ともいひ得られた筈で、目分と絶縁してくれるなといふ意味である。
【大意】上毛野のカホヤが沼の絡石《ツタ》のやうに、曳かば伸びつゝ自分と絶えてくれるな
 
(137)3417 可美都氣奴《カミツケヌ》 伊奈良能奴麻能《イナラノヌマノ》 於保爲具左《オホヰグサ》 與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》 伊麻許曾麻左禮《イマコソマサレ》【柿本朝臣人麿歌集出也】【三四一七】
 
かみつけ野 いならの沼の 大ゐ草 よそに見しよは 今こそまされ
 
かみつけぬ 上ツ毛野
いならのぬまの 邑樂郡に伊奈良といふ村があるが、其はこの地の板倉沼が首尾にイ音とラ音とを有することの故を以てイナラの轉訛として、之によつて附與せられた近年の名稱なるが故に、輕率に肯定することは出來ぬ。ナがタと變化することは有り得るが、其が更に二音に伸ばされたのであらうといふが如きは、音便原則を無視した説であるから、郷人の失望不滿を買ふかも知れねが、荒唐無稽といはねばならぬ、案ずるにイナラのイは接頭語なるが故に、ナラ(楢)を以て名づけたものとすべきで、今の下野國阿蘇郡堀米町大宇奈良〔二字右○〕淵は或は其遺跡ではあるまいか。隣地田沼町に戸奈良〔二字右○〕といふ大字があり、此地方が當時上野國に屬したことは既述の通りである【第一一七頁】。
おほゐぐさ 和名抄に莞を於保井と訓し、可以爲席者也とある。ヰ(藺)の大なるものをいひ、蓆とするが故にヰ(座)草と呼ばれたのであらう。現今フトヰと稱へられるもので、高さ五六尺の莖を抽き、打見にも趣のあるものであるが、其花は觀賞するに足らず、オホヰといふ名から受ける印象によるも男性に擬したものと思はれる。
(138)よそにみしよは ヨソは外の義(第一輯一二七頁)、ミシヨハのヨは勿論ヨリの原語で、外で見たよりはといふ意であるが、無關係であつた時よりもといふ意味を寓して居るのである。
いまこそまされ 間近く見る今こそ戀慕の情が愈々まさるといふ意。已然形を以て終止したのは、決定的表現《コンクルユシーン》を必要としたからである(要録九九一頁)。此は初めて男と會うた夜の女の作と思はれる。
【大意】上毛野のイナラの沼の莞《オホヰ》草のやうに、外《ヨソ》に見たよりも今こそ(愛《メデ》たさが)まさる
 分注は、此歌が人麿集中に東歌として收録せられて居たのを、拔萃して此に加へたといふ意か、若くは人麿集にも〔二字右○〕同じ歌が見えるといふことであらうが、私は第一の解釋に從ひたい。本卷は原記録を其まゝ點寫したものではなく、編者の手によつて類別序次せられたと思はれることは上述の通りであるから、其際柿本朝臣人麿集の東歌を擇り出して編入したことも有り得べきで、後掲【三四七〇】【三四九〇】にも同樣の注記が施されて居る。
 
3418 可美都氣努《カミツケヌ》 佐野田能奈倍能《サヌダノナヘノ》 武良奈倍爾《ムラナヘニ》 詐登波佐太米都《コトハサダメツ》 伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》【三四一八】
 
上つけぬ 佐野田の苗の むらなへに ことは定めつ 今はいかにせ|も《ム》
 
かみつけぬ 上ツ毛野
(139)さぬだのなへの 舊訓サノ〔右△〕とあり、今の群馬郡|佐野《サノ》村のことゝ思はれるが、多野郡八幡村大字根小屋にある神龜三年の古碑に、上野國群馬郡下|賛《サヌ》郷とあるに當り、――流布本和名抄に片岡郡代没〔右△〕とあるのも恐らくは佐沼〔右○〕の誤記で、此郷をいふのであらう――烏川の流に瀕する低地なるが故に、沼を以て名としたものとすべきで(サは接頭語)、野は借字と見てサヌと訓まねばならぬ。此は神代紀一書に以2卜定田《ウラヘダ》1號曰2狹名田1とあるサナダに言ひかけたものらしく、サナダはサネ(種實)田の轉呼で、播種田即ち今いふ苗代田のことである(神代篇六−一四〇頁參照)。
む《ウ》らなへに 上掲【三四〇四】にウダキ(抱)を武太伐と表記したやうに、東國人はウをムとや轉呼したやうであるから、此ムラナヘもウラナヘ(ト苗)の謂とすべきである。上に引いた神代紀に卜定田《ウラヘダ》とあるやうに、上古は年の豊凶を卜する爲に、先づ一定の田を限つて播種し、之をサナ田と號したやうであるから、其をウラ(卜)苗と稱へたことも怪しむに足らぬが、之を稼穡以外の占斷にも應用したとは考へられぬから、恐らくはウラナへ(卜占)に言ひかけたのであらう。
ことはさだめつ 事ハ定メツの謂であるが、此コトは縁組を意味したものと思はれる。
いまはいかにせ|も《ム》 モ〔右△〕はム〔右○〕の轉呼で、今ハ如何ニセム即ち如何ともしやうがないといふ意である。案ずるに此は女人の歌で、故あつて離別し、更に他の男に會うた後に至り、先夫から懇に復縁を申込まれ、十分に未練はあるが、何ともしやうがないので、拒絶の意を詠み贈つたものであらう。
【大意】上毛野のサヌ田の苗の卜苗(卜占《ウラナヘ》に事は定めた。今は何ともしやうがない
 
(140)3419 伊加保世欲《イカホセヨ》 奈可中次下《ナガナカシシモ》 於毛比度路《オモヒドロ》 久麻許曾之都等《クマコソシツラ》 和須禮西奈布母《ワスレセナフモ》【三四一九】
 
伊香保せよ 汝がなかししも 思ひ|どろ《ヅル》 隈こそしつ|ら《レ》 忘れせなふも
 
舊訓は第二句をナカナカシケニ〔三字右△〕とし、其他は字の通りに訓み、契沖も之に從うて解説を試みたが、牽強論ずるに足らぬので、眞淵以下之を不可讀とし、其因を不測の誤脱に歸して居り、新考は多くの文字を改竄して次の如く解讀した。
  いかほ加〔右△〕世 欲奈可爾吹爾〔三字右△〕 おも|ひ《へ》度母〔右△〕 可禮〔二字右△〕こそしつ禮〔右△〕 わすれせなふも
即ち初句に加一字を加へ、欲〔右○〕を次の句につけた外、七字を改竄したが、其中第二句の吹〔右△〕の字のみは元暦校本以下に既に改記してあり、同句末の爾〔右△〕は類聚古集に添加せられて居るもので、多少の根據があるけれども、他の六字は全然臆測によるのであるから、縱ひ之によつて僅に意が通ずるにしても、四句二十四字中の三分の一を取かへたら、集中いづれの歌でも全然別首となるであらう。加之伊加保風が夜中〔二字右○〕に吹くといふことが、カレコソシツレの條件にならうとも思はれす、第三句を思ヘドモとしては、末句の忘レセナフモとの聞に不調を生じ、支離滅裂になる。改記を絶對不可とする新訓は、元暦校本によつて次〔右○〕を吹〔右△〕と訂正した外、概ね原字に從うて居るが、尚初頭は新考説を踏襲して次の如く讀み下した。
  伊香保風夜中吹き下し思ひどろ隈越《クマコ》そしつと忘れ爲《セ》なふも
(141)説明が與へられて居らぬから、同書の著者がいかに之を解釋したかは不明であるが、字面から見ると新考訓よりも一層晦澁で、判じものゝやうな感がある。私の見る所では第二句の表記法が聊か異例であるのと、一二東國訛が雜つて居るといふだけで、原字の儘でも解讀可能であるのみならず、よく意が通ずるやうである。以下句を追うて説明を試みる。
    ――――――――――
いかほせよ セは婦人から男子に向つて用ひる呼稱であるから、伊香保に住む男の謂で、今の東國語でも伊香保のせ〔右○〕なア等といふのである。ヨは呼格表示。
ながなかししも〔五字右○〕 奈可の可は濁音によむべきで、本卷にもオモガ〔右○〕タを於母可多【三五二〇】、エガタキを衣可〔右○〕多伎【三五七三】と表記した例がある。中の字は上掲【三四〇一】に見えるのみで、本卷には假字に用ひた例はないが、周知の字であるから、漫然ナカに充てたことも有り得べく、之に對して下をシモの假字に用ひたのであらう。又次〔右○〕の字は第十一卷に常目頬次吉《トコメツラシキ》【二六五一】とあるによれば、シの音符たり得べきにより、汝ガ泣カシシモを奈可中次下と表記したことは、特例ではあるが、決して不當ではない。曩日離別に際し男が之を悲しんで泣いたことが思ひ出されるといふので、ナカシはナキ(泣)の敬語形である。
おもひ|どろ《ヅル》 度と豆が相通ずることは、神代紀の歌のカモ豆〔右○〕句シマを記にカモ度〔右○〕久シマと表記したことによつても立證せられ、本卷にも立ツ月を多刀〔右○〕都久【三四七六】、待ツを萬〔右○〕刀または麻〔右○〕刀【三五六一】とした例がある。ルをロと訛つたのもめづらしからぬことであるから(第一三三頁)、思ヒ出《ヅ》ルの謂とすべきで、連體形を(142)以て終止したのは餘情を含める爲である。
くまこそしつ|ら《レ》 等〔右○〕は異例ではあるが、ラの假字として用ひられたものゝやうで、シツレ〔右○〕の訛と思はれる(第一六頁參照)。即ち隈こそ爲つれの謂で、クマには物蔭といふ意もあるから(第一輯七八頁)、俗語に直せば袖にこそしたけれどもといふのである。
わすれせなふも ナフは上記の如く東語特有の打消助動詞(終止法)で、ヤマト語のズに相當し、モは感動詞であるから、忘レセズモ即ち忘れないよといふ意である。
【大意】伊香保の夫《セ》よ。お前が位かしやれたのも思ひ出されるワイ。袖にこそしたけれども(決して)忘れはしないよ
右の如く釋明すると、或る事情の爲、心ならずも絶縁した女が、伊香保に居る昔の情人に贈つた歌なること疑なく、其卒直なる述懷は一層哀を催すものがある。然るに表記法の小瑕瑾によつて數百年來解讀したものがなかつたのは惜しむべきことであつた。
 
3420 可美都氣努《カミツケヌ》 佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》 登利波奈之《トリハナシ》 於也波左久禮騰《オヤハサクレド》 和波左可禮〔左△〕賀倍《ワハサカルカヘ》【三四二〇】
 
上つ毛野 さぬの船橋 とりはなし 親はさくれど 吾《ワ》はさかるかへ
 
かみつけぬ 上ツ毛野
(143)さぬのふなはし 佐野は上掲【三四一八】に詠まれたのと同地で、烏川の沿岸であるから、舟橋も此川に架したものと思はれる。
とりはなし 舟橋の舟を取離すことに戀中を引割くといふ意をかけたのである。
おやはさくれど 親は遠ざくるけれどもといふ意。
わはさかるか|へ《ハ》 舊訓サカルとある所を見ると、禮〔右△〕の字は元暦校本以下に流〔右○〕とあるを正しとすべきである。賀は清音符にも用ひられる字で、ヘはハの轉呼であらう。上掲【三三七四】にもウラハ(占葉)を宇良敝と表記し(第六二頁)、其外にも二例があるから、東國ではハをヘと訛ることがあつたとせねばならぬ。サカルはサケ(離又は避)の意の自動詞で、カハ(カヘ)は反語表示であるから、吾は離れようや、否離れぬといふ意になるのである。
【大意】上毛野の佐野の舟橋を取放して親は遠ざけるけれども、自分は離れようや
 
3421 伊香保禰爾《イカホネニ》 可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》 和我倍爾波《ワガヘニハ》 由惠波奈家杼母《ユヱハナケドモ》 兒良爾與里※[氏/一]曾《コラニヨリテゾ》【三四二一】
 
伊香保|嶺《ネ》に 雷《カミ》な鳴りそね 吾方《ワガヘ》には 故はなけども 子等によりてぞ
 
いかほねに 伊香保嶺ニ
かみななりそね カミはナルカミ(鳴神)の上略で、雷鳴のことである。ナナリ(莫鳴)は禁止語法、ソは指定(144)助語、ネは希望表示であるから、雷が鳴つてくれるなといふ意である。
わがへには 吾ガヘ(邊)にはといふ意。之を我家《ワガイヘ》【考】又は吾之上《ワガウヘ》【古】の約とする説もあるが、ガを以て連繋する場合には約濁せぬのを原則とし(第八三頁)、ワギ〔右○〕ヘ(我家)、ワギ〔右○〕モ(我妹)の如き慣用語もあるが、次の下野歌の伊毛賀伊〔二字右○〕敝乃安多里【三四二三】を始め、都麻賀伊〔二字右○〕弊能阿多埋【記若櫻宮】、兒呂我宇〔二字右○〕倍爾【三五二五】、夜敝乎淡我宇〔二字右○〕倍爾【四三六〇】、伐美我宇〔二字右○〕倍紋【四四七四】の如く、語音過剰となるにも拘はらずイヘ、ウヘと唱へることを例とするから、此は吾邊《ワガヘ》即ち自分の側近の謂とせねばならぬ。――後掲【三四四一】の伊毛我敝もまた妹が邊の意で、第五卷梅花歌三十二首中の和我覇【八一六】及和何弊【八三七】は從來我家と釋して居るが、或は我方の謂ではあるまいか。
ゆゑはなけども ナケはナケレの古形で(第六六頁)、故はなけれどもといふことである。
こらによりてぞ コラは相愛の女子のことで、雷を恐れるから、彼女の爲に鳴つてくれるなと祈つたのである。夕立の雲が伊香保山にかゝつて電光の閃めくのを、やゝ離れた地に住まふ男が見て、其山麓に家居する愛人を案じて詠じたのであらう。第三句を我上とすると、古義のやうに男女同伴と説かねばならなくなるのであるが、落雷の場合男だけ無事であり得べき理はなく、自分は恐ろしくないといふことを、故ハナケレドモと表現することは出來ぬ。
【大意】伊香保嶺に雷鳴してくれるな。自分の方は事故はないけれども、(其あたりに住む)彼女の爲に祈るぞ
 
(145)3422 伊香保可是《イカホカゼ》 布久日布加奴日《フクヒフカヌヒ》 安里登伊倍杼《アリトイヘド》 安我古非能未思《アガコヒノミシ》 等伎奈可里家利《トキナカリケリ》【三四二二】
 
いかほ風 吹く日吹かぬ日 有りといへど 我《ア》が戀のみし 時なかりけり
 
いかほかぜ 伊香保風
ふくひふかぬひ 吹ク日も吹カヌ日もといふ意。
ありといへと 有りト云ヘド
あがこひのみし 我ガ戀ノミハ〔右○〕といふに同じい。シはハよりも一段意を強めるに用ひられ、指定助語のゾとほゞ同一の効力を有する。
ときなかりけり 止む時がなかつたといふ意。ケリといふ過去繼續時格を用ひたのは、當初から今に至るまでといふ意を寓せんが爲で、之を現在格と同一視するのは粗漏である。
【大意】伊香保風は吹く日も吹かぬ日もあるが、自分の戀ばかりは(曾て)やむ時がない
 
3423 可美都氣努《カミツケヌ》 伊可抱乃禰呂爾《イカホノネロニ》 布路與伎能《フロヨキノ》 遊吉須宜可提奴《ユキスギカテヌ》 伊毛賀伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》【三四二三】
 
(146)かみつけ野 いかほの嶺ろに ふ|ろよ《ルユ》きの 行き過ぎかてぬ 妹が家《イヘ》のあたり
 
右二十二首上野國歌
 
かみつけぬ 上ツ毛野
いかほのねろに 伊香保嶺ニ(ロは接尾語)。
ふ|ろよ《ルユ》きの ロがルの轉訛なるべきことは既に屡々述べた通りで(卷末訛音表參照)、ヨキも亦ユキ(雪)の訛であらねばならぬ。さればこそユキ(行)の序として用ひられたのである。
ゆきすぎかてぬ 行き過ぎ能はずといふ意(第八五頁)。ズといふ打消語が混用せられなかつた以前に於ては、打消助動詞は四段活正格であつたやうであるから、終止形はヌで、連體形を兼ねたのであるが、之は終止法として用ひられたものである。
いもがいへのあたり 九音であつても其中に母韻が三つ含まれて居るから、耳障りとはならぬけれども、通約は不可能でないのに、之を敢てしなかつたのは、上述の如く助語ガ(ノ)を以て連繋せられる時は約縮せぬのが例であつたからである(第八三頁)。妹が家の邊を行き過ぎ能はずといふ意を倒敍したのである。
【大意】上毛野の伊香保山に降る雲の(以上序)、行き過ぎることが出來ぬ。妹が家のあたりを
 
3424 之母郡家野《シモツケヌ》 美可母乃夜麻能《ミカモノヤマノ》 許奈良能須《コナラノス》 麻具波思兒呂波《マグハシコロハ》 多賀家可母多牟《タガケカモタム》【三四二四】
 
(147)下つ毛野 みかもの山の 小楢のす まぐはし子ろは 誰がけかもたむ
 
しもつけぬ 上毛野と同じく、此國もまた當時は下ツケヌ〔右○〕とも下ツケノ〔右○〕とも稱へたものと思はれるが、次の歌に準じて姑く野をヌと訓んで置く。
みかものやまの 兵部式諸國驛傳馬の項下に下野國三鴨とある地、即ち今の下都賀郡三鴨村の山の謂で、大字大田和の大田和山が之に擬せられて居る。西方に越名《コエナ》沼が接在する所を見ると、ミカモは恐らくは水鴨の意、――語例は第三卷【四六六】にある――又はマ(眞)鴨の轉呼であらう。
こならのす ナラ(楢)の一名をコナラともいふが【植物圖鑑】、此は小い楢のことで、小楢のやうなといふ意と想はれる。ノスがナスと同じく比況助語であることは既述の通りで(第一三一頁)、歡賞に値する木ではないが、到處の山林に自生し、幼樹の新葉は光澤を含み、風情のあるものであるから、少女に譬へたのであらう。
まぐはしころは マグハシは目妙シの謂で、目は既述の如く容姿の代表であるから(第五〇頁)、少くとも美貌を意味したものと解すべきである。――マを接頭語としてクハシ(妙)の意に用ひた例も少くはないが(第一輯五一頁)、此は美しい女の子といふ意であらねばならぬ。
たがけかもたむ ケも亦コ(兒)の轉呼であるが、直接の變化ではなく、アコ(阿子)をアギ(阿藝)と轉じて男子の呼稱に用ひたと同樣に、一旦ギとなり、更にケと訛つたものと思はれる。其故に前句のコロは女子を意妹するが、此は男子を表示し、誰ガ子カ持タム即ち誰氏の子弟が此女子をば妻に持つであらうかといふ(148)意になるのである。三鴨の山の附近を通行中、美しい少女に行逢うて、誰の妻になるのかと心にくく思うたことを其儘吟詠したのであらう。――從來此趣を解せず、高クカ待タムの訛とし【考】、或は家〔右○〕を多〔右○〕の誤記としてタカタカ持タムと訓み【新考】、大神眞潮は誰ガ笥カ持タムの謂として、笥を持つといふのは妻となることである【古義】と牽強したが、いづれも承服しかねる。
【大意】下毛野の三鴨の山の小楢のやうに、美しい女の子をば誰が(氏の)子弟が(妻に)持つであらうか
 
3425 志母都家努《シモツケヌ》 安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》 伊之布麻受《イシフマズ》 蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》 奈我己許呂能禮《ナガココロノレ》【三四二五】
 
しもつけ野 あその川原よ 石ふまず 空ゆ|と《ツ》きぬよ 汝が心のれ
 
右二首下野國歌
 
しもつけぬ 下ツ毛野
あそのかはらよ アソ(阿蘇)川は國誌によれば今の秋山川のことで【地名辭書】、其流域なる阿蘇及佐野の里は、上記の如く上野歌にも詠まれて居るが【三四〇四】【三四〇六】、恐らくは此歌の作られたころには既に編入替せられて居たのであらう。
いしふまず 河原の石を蹈まずといふ意。
(149)そらゆ|と《ツ》きぬよ トキの登を助辭【略】【古】又は楚〔右△〕の誤記【新考】とする説もあるが、上記の如く東國に於てはツを、トを發音したやうであるから、――今の沖繩語に於てもトウである。ツは本來多行の音ではなく、tsを子音とするツア行に屬するもので、tuは寧ろト(トウ)に近く發音せられたものとすべきであるから、ヤマト語に於ては既にts化した後に於ても方言には保存せられたのであらう――トキヌが著きぬの意なることは疑なく、ユはヨリ(自)の語根ヨの音便で、句末のヨは感動詞であるから、空より著いたよといふ意である。其は事實あり得ぬことなるが故に、心空ナリ土ハ蹈メドモ【二五四一】【二九五〇】と同意【考】【略】又は急ぎ來たといふ譬【古義】等と説かれたのであるが、末句によれば尚未だ事の成就せぬ以前の歌であらねばならず、有頂天となるには早過ぎる嫌があり、空を翔らうとも土を潜らうとも、相手の女の諾否にはさのみ關係はあるまいから、此は當時の俗信に基くものか、若くは戯に來自を神秘化したのであらう。
ながこころのれ 汝の心中を宣れといふ意。斷言は出來ぬが、歌の趣から推測すると、阿蘇川を渡つて宿を取つた旅の風流漢《ミヤビヲ》が、一村孃の容色を賞でゝ言ひ寄つた所が、何處の誰かと危げに問ひかへしながら、尚觸らば落ちん風情を示したので、更に此歌を以て挑んだのであらう。
【大意】下毛野の阿蘇川の河原を石も踏まず空から著いた(ものである)よ。(先づ)おまへの心持を明かせ
 
(150)3426 安比豆禰能《アヒヅネノ》 久爾乎佐杼抱美《クニヲサドホミ》 安波奈波婆《アハナハバ》 斯努比爾勢牟〔左△〕等《シヌビニセモト》 比毛牟須婆左禰《ヒモムスバサネ》【三四二六】
 
會津嶺の 國をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね
 
あひづねの アヒヅ嶺即ち會津山は今の磐梯山のことである。其地は和名抄の陸奥國耶麻郡に屬するが、古は會津と總稱せられたのであらう。神名帳にも※[王+耶]磨郡|磐椅《イハハシ》神社をあげて居る。
くにをさどほみ クニは郷土をも意味し、コモリクの初瀬のクニなどとも用ひられた(第一輯二五七頁)。サドホミは遠ミに音便的接頭語サを冠したもので、郷土を遠しとしてといふ意である。
あはなはば ナハは打消ナフ(第六五頁)の未然形であるから、ヤマト語の逢ハズ〔右○〕バ又は逢ハナク〔二字右○〕バに相當する。新考ガ逢ハズ在ラバと譯したのは聊か失當である。
しぬぴにせもと 勢牟〔右△〕を本にセモ〔右○〕と訓してある所を見ると、牟は元暦校本等に毛〔右○〕とあるを正しとすべきであらう。次句に毛牟の二字があるので、紛れて書き損じたことも有り得べきである。考以下牟の字に即してセムと訓して居るけれども、新訓がセモを復活したのは當を得て居る。セムといへば爲《シ》ようといふ作者自身の意嚮となり、末句と抵觸するので、古義はトにゾと同一職能ありと解し、新考は等〔右○〕を乎〔右△〕の誤寫と推定したのであるが、セモとすれば敢て改義改竄せずとも意はよく通ずる。モは感動詞で、ヨに通ずるから、偲ビニセヨトといふ意になるのである。
ひもむすばさね ムスバサネはムスブ(結)の敬語形ムスバスの未然形に願望表示のネを連ねたもので、紐を(151)結んで下されといふ意である。集中の歌に屡々見えるやうに、衣の紐は配偶者以外には手を觸れしめぬものとせられたので、磐梯山の麓に仕む女が後朝の別に際し男に對つて、此|郷土《クニ》を遠しとして暫く逢はぬならば、思出にせよというて紐を結んで下されというたのであらう。從來之を防人又は旅に行く男の歌と説いたのは、第二句のクニといふ語に對する誤解と、第四句のセモをセムと訓み、未來(意嚮)表示と見たからで、宣長及雅澄が初句を倒置として逢ハナハバの序としたのも、畢竟歌意を正解し得なかつた爲であらねばならぬ。
【大意】會津嶺の郷士を遠しとて逢はなくば、思ひ出にせよと(いうて)紐を結んで下され
 
3427 筑紫奈留《ツクシナル》 爾抱布兒由惠爾《ニホフコユヱニ》 美知能久乃《ミチノクノ》 可刀利乎登女乃《カトリヲトメノ》 由比思比毛等久《ユヒシヒモトク》【三四二七】
 
筑紫なる 匂ふ兒ゆゑに 陸奥《ミチノク》の かとり少女の ゆひし紐とく
 
つくしなる ナルは上記の如くノと同價値の連繋助語である(第一七頁)。
にほふこゆゑに ニホフはニホ(丹秀)即ち赤土《アカニ》の秀《ホ》(辰砂)から出た動詞で、色澤を放つことをいひ、香にニホフの如くも轉用せられ、ニホヒ(句)といふ語をすら生じたのであるが、此は原義により艶麗ナルといふ意に用ひられたのである。コ(兒)は屡々述べたやうに女子を意味する。此當時筑紫には官人の外に防人等も多く駐在したので、其旅情を慰めんが爲に、既に遊女のやうなものが出現して居たやうで、本集第六卷(152)にも太宰帥大伴宿禰旅人が、歸洛に際して府吏と共に見送りに來た遊行女婦兒島と贈答した歌が載せてある。此歌のコ(兒)は民家の女子とも了解せられぬことはないが、ニホフといふ修飾語が何となく華美な婦人を聯想せしめるのである。
みちのくの ミチは既述の如く州又は國と同義にも用ひ(第五九頁)、其最奥に位するを以てミチノオクと稱へ、陸奥の字をあてたので、和名抄にも三知乃〔右○〕於久と訓せられ、此場合には連約せざることを原則とするが(第八二頁)、固有名詞化したので、夙にミチノクと急呼せられたと見えて、本集にはミチノオクと假字書した例がない。
かとりをとめの カトリは恐らくは地名で、神名帳に陸奥國牡鹿郡香取〔二字右○〕伊豆乃御子神社(陸前國牡鹿郡荻ノ濱村大字折ノ濱鎭座)または栗原郡香取御兒神社(同郡築間町大字筑館鎭座)とある地のいづれかであらうが、今では地名としては用ひられて居らぬ。雅澄は和名抄の磐城那|片依《カタヨリ》郷を之に擬したが、カタヨリがカトリと約縮せられることがあつても、カトリがカタヨリとなることは絶對にあり得ぬ。カトリには※[楫+戈]取及※[糸+兼]の二義があり、※[糸+兼]は字書に并絲絹也とあるやうに、蠶糸を并せて織つた帛の謂であるが、國語で之をカトリと稱へたのは、カタ(堅)オリ(織)の義に由るものと思はれるから、堅實を印象せしむるに足り、仇な筑紫女に對して野暮な陸奥少女を描出したものと思はれる。
ゆひしひもとく ユヒはヤップ語のユイ(繋ぐ)又はユルイ(結ぶ)と同原の外來語である。――ユフ(木綿)といふ名も之から出たのであらう――既述の如く紐トクは同衾を意味し(第三八頁)、之を解きもし結びもす(153)るのは配偶者に限るとせられたのであるから、筑紫の艶女の故に香取少女の情を忘れたといふので、郷里に於て待詑びて居る女に聞かせてはならぬ吟懷である。されば勿論之に贈つたのではなく、筑紫の女に與へた戀歌とせねばならぬから、陸奥に於て此歌が傳誦せられたかは疑問で、防人の作として或歌集に收録せられたのを、陸奥とあるによつて編者が賢しらに東歌中にをさめたのかも知れぬ。語句中にも少しも東歌の句はない。
【大意】筑紫の艶女の故に陸奥のカトリ少女の結んだ紐を解く
 
3428 安太多良乃《アダタラノ》 禰爾布須思之能《ネニフスシシノ》 安里都都毛《アリツツモ》 安禮波伊多良牟《アレハイタラム》 禰度奈佐利曾禰《ネドナサリソネ》【三四二八】
 
あだたらの 嶺《ネ》に伏すしゝの ありつゝも あれはいたらむ 寢處《ネド》なさりそね
 
右三首陸奥國歌
 
あだたらの 本集第七卷【一三二九】及後掲【三四三七】にはアダタラ眞弓と詠まれ、神樂歌及古今集には同一物をアダチの眞弓と表現して居る所を見ると、フグタラがアダチと通ずることは明白で、ラは虚辭として添付せられたのであらう。今の岩代國安達郡のことであるが、此郡は民部式頭註によれば、延喜六年安積郡を分つて設置せられたとあるから、此當時は尚一郷名に過ぎなかつたと思はれる。名號の所由は明記せられて居らぬが、兵部式驛傳馬の項下には伊達といふ地名をあげ、和名抄にも國郡部陸奥國信夫郡の條下(154)に志乃不國分爲2伊達郡1とあるから、安達《アダチ》の外に伊達《イタテ》といふ舊地が存したものとすべく、イ及アは區別的接頭語で、タタタ(タチ)又はタテを以て名號としたものとせねばならぬ。案ずるにタテ(タタ)には楯の義があるから、其縁によつて上掲のやうに眞弓とつゞけられたのであらう。此兵器は防禦陣地の設備に必要とせられたが故に、小寨をもタテと呼び、居城の意を以て舘の字を充てるやうになつたので、今も奧州地方には舘を以て名とする地點が少くはないのである。
ねにふすししの 安太多良の嶺は今の安達太郎山のことで、シシは食用獣の總稱であるが、特に猪鹿をさすことが多い。此もアダタラ山に偃す猪鹿《シシ》のやうにといふ意である。
ありつつも 在り在りテモといふに同じく、其儘といふことで、一句を隔てゝ寢處《ネド》ナ去リソネにかゝるのである。其は末二句が倒敍せられて居る爲で、既述の如く格調上四句切を選んだのであるが(第一二九頁)、先學は此に氣がつかなかつたと見えて、此句をアリアリテ後モ【代】若くは暫クシテ【新考】と解し、強ひて次句と續けようと試みたが、アリツツモには語構成から見ても右の如き意味はあり得ぬ。
あれはいたらむ 我ハ到ラムと解しても意は通ずるが、イタリの原義は入テアリであるから(第一輯二八四頁)、寢所に入りてあらむといふ意を以て特に此語を用ひたのであらう。若し單に到來せんといふ意ならば通ハム又は來タラムといふべきである。句末にヲを略したといひ【考】【略】、或はゾを添へて釋き【古義】、若くは第三、第四句を初頭に移すべし【新考】としたのは次句との倒敍に思ひ至らなかつた爲である。
ねどなさりそね ネドは勿論寢處の謂で、ナサリソネは勿去に指定助語ソと希望表示ネとをそへたので、去(155)つて呉れるなといふ意である。上述の如く此句はアリツツモの次に移して會得するを要する。
【大意】阿太多良(安達)の嶺に偃す獣《シシ》のやうに其儘にして寢床を離れてくれるな、自分が其寢床に這入るであらう
此歌は卒爾によむと、離れて住む男から近々訪問することを豫報したものゝやうに聞えるが、アリツツ及イタラムといふ語に注意し、右の如く語原的釋明を下すに於ては、夜中男が訪ねて來て起き上らうとする女に對ひ、其まゝ寢て居てくれ、自分が寢床にもぐり込むからといふ意を巧に吟述したものと見るの外はなく、其意味に解してこそ始めて東歌らしい氣分が表はれるのである、後日通うて行く意志が切實であつたにしても、其まで寢處を去るなといふのは無理な註文であるから、作者は決して其を要望したのではあるまい。
 
(156)譬喩歌 九首
 
3429 等保都安布美《トホツアフミ》 伊奈佐保曾江乃《イナサホソエノ》 水乎都久思《ミヲツクシ》 安禮乎多能米※[氏/一]《アレヲタノメテ》 安佐麻之物能乎《アサマシモノカ》【三四二九】
 
遠つあふみ 引佐《イナサ》細江の みをつくし 我《アレ》をたのめて あ|さ《セ》ましものか〔右○〕
 
右一首遠江國歌
 
とほつあふみ 遠江國をいふことは勿論で、第七卷の旋頭歌に丸雪《アラレ》降遠江〔二字右○〕吾跡川楊【一二九三】の遠江もトホツアフミノと訓むの外はない。トホツはトホ(遠)に連繋助語ツを添へた接頭語で、アフミは第一輯(第六四頁)に詳論したやうに大水を意味し、淡海の義ではないから、往昔は入海であつたと思はれる濱名湖がこの名を以て呼ばれたのは奇とするに足らず、近ツアフミに對し遠ツアフミと稱へられ、國名にも轉用せられたのであらう。急呼によつてトホタフミとなり、更に訛つて等倍多保美《トホタホミ》【四三二四】――トヘ〔右△〕タホミと訓むは非。倍はホの音符にも用ひられる字で、神功紀にもニホドリを珥倍〔右○〕廼利と表記した例がある――と稱へたことは有り得べきで、和名抄に止保太阿〔二字右○〕不三と訓註したのは、タが長く韻を引いて發音せられたからであらう。
(157)いなさほそえの イナサは現在の引佐郡で、和名抄にも伊奈佐と訓せられ、濱名湖に瀕し、其入江を今も引佐細江と稱する。細江といふ名によれば往昔は狹長な水域で、僅に一脈の可航水道が通じて居るのみであつたが故に、澪標を樹てゝ之を標識したものと思はれる。
みをつくし ミヲは水尾(水脈)の謂で、之が標識の爲に樹てられた木桿即ちクシ(串)をミヲツクシ(澪標)と稱へたのである。身ヲ盡クシと語音が通ずるので、歌謠には之に言ひかけた例が多く、これも其意を寓して居るのであるが、表面は次句のタノメテの譬喩として用ひられたのである。
あれをたのめて タノメは頼ミ(四段活用)から分化した作爲動詞で(下二段活用)、使動詞にも通用せられるから、頼マセテといふ意とも了解せられる。新考は米〔右○〕を未〔右△〕の誤寫としたけれども、其は次句の誤解から逆推したものゝやうである。
あ|さ《セ》ましものか〔右○〕 乎をカと訓むのは異例であるが、第十九卷【四二一四】に逆言《サカコト》乎〔右○〕人之告都流とある乎〔右○〕も、カとせねばならぬ語勢であるから、絶無のことではない。舊訓のやうにヲとしては前句と調和せぬので、考以下淺キのキがミと轉呼せられ、更にマシと引伸されたものとして、我を頼ませて(置きながら人の心は)淺きものをといふ意と解し、新考は佐〔右○〕の字を良〔右△〕と改めて我ヲ頼ミ〔右△〕テアラ〔右△〕マシモノヲと訓み、女の心の淡くなりしを恨む歌と説いたが、眞淵の轉訛論は沙汰の限りであるし、假に安良麻之とした本があつたとしても、切角澪標の縁語とした用ひた「淺」といふ語を捨てねばならぬやうになり、上三句の序の効力が半減するから、其方が誤記であるといはねばならぬ。右の如き牽強改竄を敢てせずとも、乎をカ〔右○〕と訓めば意はよ(158)く通ずる。アサマシは大和語のアセマシに當り、自分を深く思ひ憑ませて置きながら、アセムモノカといふ意で、勿論女の歌と了解せられるのである。アセは木來アサ(淺)から出た動詞であるから、東國に於ては四段に活用したことも有り得べきで、淺くなることをいひ、口語で表現すれば句意は水臭くなつてよいものかといふ意である。マシはムの未然形マから分化した助動詞で、普通の未來格よりも更に假想的の場合に用ひられる。
【大意】遠江の引佐細江の澪標を頼みとするやうに、自分を頼ませて(置きながら)淺くなつてよいものか
 
3430 斯太能宇良乎《シダノウラヲ》 阿佐許求布禰波《アサコグフネハ》 與志奈之爾《ヨシナシニ》 詐求良米可母與《コグラメカモヨ》 奈〔左△〕志許佐流良米《ヨシコサルラメ》【三四三〇】
 
志太の浦を 朝こぐ舟は 由なしに 漕ぐらめかもよ よしこ|さ《ソア》るらめ
 
右一首駿河國歌
 
しだのうらを シダは和名抄に駿河國志太郡とあり、今の志太郡から舊益頭(益津)郡を除いた地域で、其海濱をシダの浦と稱したのであらう。シヅ(倭)とよばれた海人《アマ》族の占住地であつたが故にこの名を負うたものゝやうで、郡内には靜濱といふ村があり、同じ國内の靜〔右○〕岡、賤機《シヅハタ》山、靜〔右○〕浦等も所由を同じうするものと(159)思はれる。
あさこぐふねは 朝漕グ舟ハ
よしなしに 由無シニ即ち理山なしにといふ意。
こぐらめかもよ コグラメは推量法であるが、反語なることを表示する爲に已然形を用ひたので、カは疑問助語であるから、漕ぐだらうかといふ言葉の裏に、漕ぎはせぬといふ意味を含めて居るのである。
よしこさるらめ 新考説の如く句頭の奈〔右△〕は元暦校本に余〔右○〕とあるに從ひ、ヨシコサルラメと訓み、由コソアルラメの急呼とすべきである。理由なしに早朝志太浦を舟行する筈はないから、必然譯があるのであらうといふので、已然形を以て結んだのは決定格表示《コンクルユシーヴ》の爲である。此は勿論女の歌で、前夜は通うて來なかつた男が、早朝舟こぐ姿を發見し、他の女の許に宿つたに違ひないと思ひ、嫉妬の氣分をもらしたのである。濱海の漁村に於ては女の許に來往するにも舟楫を用ひたものと思はれる。
【大意】志太の浦を朝こぐ舟は理由なしに漕ぎ行かうや、譯があるに違ひない
 
3431 阿之我里乃《アシガリノ》 安伎奈乃夜麻爾《アキナノヤマニ》 比古布禰乃《ヒコフネノ》 斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》 許己波故賀多爾《ココバコガタニ》【三四三一】
 
あしがりの あきなの山に ひ|こ《ク》舟の 後《シリ》ひか|し《ス》もよ 此處ば來がたに
 
あしがりの 足柄ノ(既出)
(160)あきなのやまに アキナの山は、足柄連山の一峰であらうが、所在を詳にせぬ。アキは上記の如く男子の呼稱で(第一四七頁)、ナはネに通ずる敬稱であるから(第七八頁)、或は足柄の神の御子神を祭つた山なるが故に此名を負はせたのかも知れぬ。――阿藝那臣【記】、阿支奈臣及阿祇奈君【姓】等のアキナ、並に一種の稱號として用ひられた阿祇奈君【氏族志所引除秘抄】も同語から出たのである――後記の如く歌の趣から見ても祭典の光景を敍したものゝやうである。
ひ|こ《ク》ふねの ヒコはヒクの訛であらう。山中に於て船を曳くことについては二つの想定が成立する。其一は新考にも詳述せられて居るやうに、此當時は尚丸木舟が常用せられたから、山中舟材を伐り倒した地點に於て之を刳り、舟の形とした後に引おろしたもののやうで、播磨風土記(讃容郡中川里の條)及靈異記(下卷)にも明白な記録があり、重量を輕減して運搬に便ならしめる爲と思はれる。其二は神の舟として祭典に當り之を曳くことである。神舟の觀念は常陸風土記香島神の條下にも見え、同社に於ては今も其渡御の儀式を存し、その他長崎の諏訪神社の舟曳を始め、海濱の村落に於て神輿を舟に載せて漕行する例も少くはない。或は山村に於ては有り得べからざることゝ考へるものもあるかも知れぬが、現に信濃國南安曇郡穗高神社等に於ても行はれて居ることで、磐船傳説が諸國に分布して居る所を見ても、神靈は舟に乘つて高山の巓に天降したものと普く信ぜられたやうであるから、輿車の出現しなかつた以前に於ては舟が神靈の唯一の乘物とせられたことは必然である。いづれにしても此歌に於ては年少男子が力を戮はせて舟を曳くのを女人も雜つて見物して居る光景を敍したものゝやうで、職業的な第一の場合と見るよりも、多數の男女(161)が參集する祭祀の場面とする方が遙に趣が深い。
しりひか|し《ス》もよ ヒカシといふ連用形から感動詞につゞけることは許されぬから、シは新考説の如くス〔右○〕の訛とすべきであるが、引キナスの意ではなく、ヒク(曳)の敬語形と見るべきで、曳くものは作者の夫または愛人と丁解せられる。シリについては從來舟の尾《シリ》即ち艫《トモ》の謂として、急奔を阻止する爲に控へ綱をひくことゝ説いて居るが、其は事情に疎い机上學者の空想に過ぎず、丸木舟に舳艫のないことは現在實用に供せられて居るものを見ても分明で、控へ鋼を用ひて牽制せねばならぬやうな急坂を落下させては、進水に先ち船腹に孔があく虞があるから、引下【播磨風土記】、引船【靈異記】とあるのも緩傾斜地の草または軟い土の上を曳行する謂と了解せねばならぬ。されば此シリは綱尻即ち曳綱の末端をいひ、船側に立つて見物する女群から遠く離れて、綱尻を執りたまふよといふ意で、之を譬喩とするのは誤解である。
ここばこがたに 許己彼〔右○〕は舊訓ココバとあるから、波は濁音假字に用ひられたものとすべきで、例のないことではない。ココダ(許多)の意をココバと表現することもあり【三五一七】【三六八四】、古義及新考はココバク(幾許)の義と解して居るが、其は前句を控制の謂とする臆斷に其くもので、上記の如く尋常に曳行するものとすれば、幾許難來とつゞけることが出來ぬから、眞淵説に從ひ此處ニハと意とすべきであらう。ガタニをカテニ(第八五頁)の訛とする新考説も一理はあり、少くとも來の連用形はキ〔右○〕で、難クといふ意をガタニと表現した例も他に見えぬが、間近クを間近ニというてもよいやうに、形容詞カタシの語幹カタに助語ニを接續して副詞とすることは決して違法ではなく、天、※[氏/一](弖)、低等を多と誤認したとも思はれぬ。此(162)は初々しい男が女群を憚つて故意に遠く離れて居るのを揶揄するやうな氣もちで、其相愛の女性が詠じたものと了解せられる。
【大意】足柄のアキナの山に引く舟の(綱)尻を引いてござるよ。此處には來得ずに
 
3432 阿之賀利乃《アシガリノ》 和乎可※[奚+隹]夜麻能《ワヲカケヤマノ》 可頭乃木能《カヅノキノ》 和乎可豆佐禰母《ワヲカヅサネモ》 可豆佐可受等母《カヅサカズトモ》【三四三二】
 
あしがりの わをかけやまの かづの木の 吾《ワ》を且さ寢も かづさかずとも
 
あしがりの 足柄ノ
わをかけやまの ワ(輪)はワナ(罠)の原語であるから、罠をかける山といふ意であるが、契沖説の如くカケ山といふ地名に潤飾的にワ(罠)ヲを冠し、後句のワ(吾)ヲを導く序としたのであらう。但しカケ山の所在を詳にせぬ。
かづのきの カヅはカヂ(穀)の轉呼で、和名抄に楮(ハ)穀木也、和名加知とあり、訛つてカゾともカウゾとも稱へる。――大言海にカウゾを紙麻《カミソ》の音便としたのは疑はしい。紙の原料とはなるが、其場合にはソ(麻緒《サヲ》の約)とはしなかつた筈である――白膠木《ヌルデ》をも相模方言ではカヅノキと稱へ、正月の祝箸に造り、一年中之を用ひる地方もあるが、此は後句によるに楮のことであらねばならぬ。カケ山のカヅの木とつゞけたのは其地にこの木を多く産した故であらうが、尚罠の材料に楮の繊維が用ひられた爲であらう。
(163)わをかづさねも カツは且の意で、獨音假宇豆〔右○〕を用ひたのは、此歌に於ては上句の調子に引かれてカヅ〔右○〕と發音したからではあるまいか。此語は常用せられるにも拘はらず、從來の定義は甚曖昧で、區々の説があるけれども、語原的に考察すると、カテ(添加)の轉化と見るの外はなく、且の字をあてたのも之に因るものと思はれる。字書にも且(ハ)又也とあり、マタとほゞ同義であるが、マタは對立を表示するモから出た語であるから、聊か含蓄を異にし、獨逸語のnebeneinanderとauseinanderとの相違に類するものが存し、此句に於ては又更にといふほどの意と了解すべきである。サネのサは接頭語で、サ寢《ヌ》ラクの如く用ひられた例もあり(第三一頁)、單にネ(寢)といふことであるが、此は命令法を表示し、モは感動詞であるから、寢ヨ〔右○〕といふに同じい。即ち又更に吾ト〔右○〕寢ヨといふ意であるが、吾ヲ〔右○〕としたのは前句のワヲ〔二字右○〕カケ山に呼應する爲で、イヲ〔二字右○〕寢ルなどゝいふやうに、寢は他動詞とも了解せられたから、吾ヲ〔右○〕寢ルというても妨なしとせられたのである。上句との續き合はカヅといふ同語音を疊んだことにあるとも説明し得られるが、或はフサネ(總括)をサネと略稱したか、――フサ(總)の語根はサ(麻)である――或はカツフサネを急呼すればカヅサネとなるが故に、楮皮をフサネといふ意にかけたのかも知れぬ。
かづさかずとも サクはカヅ(楮)の木の繊維を割くことを離《サク》に言ひかけ、又更に離れずとも自分と寢よといふ意を、カヅの木の縁によつて巧にいひ廻はしたので、女性の歌である。從來此二句を正解し得ず、カヅサをカドフ(勾引)の使動未然形カドハサの轉訛とし【考】、或は和波〔右△〕可豆作禰呼奈波〔二字右△〕佐禰〔右△〕受等母の誤記なりと説き【新考】、私も少からす迷うた末、第四句を命令法と解することによつて始めて釋然たることを得た(164)のである。句法からいうても五句連續して言葉の切れ目のない歌は破格といふべきで、右の如く解讀することによつて四段切の正調となるのである。
【大意】足柄の罠をカケ山の穀の木のやうに、更に又さかずとも自分と此上も寢ようよ
 
3433 多伎木許流《タキギコル》 可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》 許太流木乎《コダルキヲ》 麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》 古非都追夜安良牟《コヒツツヤアラム》【三四三三】
 
たき木こる 鎌倉山の 木《コ》だる木を まつとながいはば 戀ひつつやあらむ
 
右三首相模國歌
 
たきぎこる 薪樵ルの謂で、カマ(鎌)にかゝる枕詞である。
かまくらやまの 鎌倉山ノ
こだるきを 木足木《コタルキ》の意で、枝條の繁茂した木をいふのであらう。木といふ語が重複するやうであるが、第三卷にも東ノ市ノ殖木〔右○〕ノ木足《コタル》マデ【三一〇】とあり、コタルが既に獨立した修飾語と見られたので、更に木を連ねても差支なしとしたのであらう。以上三句は序であるが、句末の乎〔右○〕を之〔右△〕または乃〔右△〕【略】【新考】の誤記としてノと訓み、若くはヨに通ずるノにあらすや【略】としたのは理由のないことで、兒ラガ手ヲ卷〔右○〕向山【一二六八】、我妹子ヲ早見〔右○〕濱風【七三】等と同一語法である。
(165)まつとながいはば 松に待ツを言ひかけたので、汝が待つといはゞといふ意。
こひつつやあらむ 戀ヒツツ在ラムの謂で、アルは存在を意味する動詞で、ヤは聞投詞に挿入せられたのであるから、戀ツツモ〔右○〕在ラムというても、戀ヒツツヲ〔右○〕在ラムでも歌意には大差がない。從來此ヤを疑問助語と見た爲に、聊か説き悩んだやうである。此は男の歌であるが、必しも防人または旅中の作ではなく、尋常の相聞歌と解する方がよい。
【大意】鎌倉山の茂つた木ではないが、マツと汝がいふなら戀ひつゝも生きて居よう
 
3434 可美都家野《カミツケヌ》 安蘇夜麻都豆良《アソヤマツヅラ》 野乎比呂美《ノヲヒロミ》 波比爾思物能乎《ハヒニシモノヲ》 安是加多延世武《アゼカタエセム》【三四三四】
 
上つ毛野 あそ山つゞら 野を廣み 蔓《ハ》ひにしものを あぜか絶えせむ
 
かみつけぬ 上ツ毛野
あそやまつづら アソ山は和名抄に下野國安蘇郡安蘇とある郷の山地をいふのであらう。上野國に屬した時代があつたと推定せられることは既述の通りである(第一一四頁)。延喜式には黒葛をツヅラと訓して居るが、六帖に「わが戀はアソ山もとの青〔右○〕ツヅラ夏野を廣み今盛なり」とあるから、此ツヅラは青ツヅラ即ち木防己のことゝすべきで、今もアヲツヅラフヂと稱へる【植物圖鑑】。和名抄には防己を阿乎加都良と訓して居るが、箋注によれば空穗、枕草子、拾遺集に見える青ツヅラと同一物とある。
(166)のをひろみ ヌ〔右○〕ヲ廣ミと訓むも可。阿蘇山の麓のツヅラが野を廣しとしてといふ意である。
はひにしものを 蔓うたものをといふ意。以上は譬喩で、深く思ひ込んだものをといふ意味を言外に寓して居るのである。
あぜかたえせむ アゼはナド(何ト)の轉訛(第五三頁)。いかでか斷えることがあらうやといふ意である。此は男女いづれの述懷とも解せられるが、第三第四句の口吻から推すると、男性の作と思はれる。
【大意】上毛野(の)阿蘇山のツヅラが野を廣しとして蔓延するやうに、深く思ひ込んだものを何として絶えようや
 
3435 伊可保呂乃《イカホロノ》 蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》 和我吉奴爾《ワガキヌニ》 都伎與良之母與《ツキヨラシモヨ》 多敝登於毛敝婆《タヘトオモヘバ》【三四三五】
 
伊香保ろの そひのはりはら わが衣《キヌ》に つきよらしもよ 細布《タヘ》とおもへば
 
いかほろの
そひのはりはら}前出(第一二五頁)
わがきぬに 吾衣ニ
つきよらしもよ 著ヨシといふ意。ヨラシはヨロシの古言で、ヨシ(良)といふと同義である。モヨはいづれも感動詞。
(167)たへとおもへば 元暦校本以下比〔右△〕多敝とあり、仙覺律師はヒ〔右△〕タヘと訓み、ヒトヘ(偏)ニの意と解したものゝやうで、新訓には純栲の二字を充てゝ居るが、孰れも本集の語例には見えぬ。原字に從うてタヘと訓み、シロタヘ(第一輯九一頁)のタヘ即ち布の義と了解すべきであらう。「はりの花も自分の衣には著きよいわい。タヘ(布)と思ふから」といふ意であるが、少しく想像を加へて會得する必要がある。恐らくは此は女房の悋氣に對する辯解《イヒワケ》で、あだし女が狎れ寄るのは自分を男とは考へず、唯布の端くらゐに見て居るからであるといふ意であらう。
【大意】伊香保の傍《ソヒ》のハリ原(のハリの花)は自分の衣にはつきよいわい。(自分を)布《タヘ》と思うて居るから
 
3436 志良登保布《シラトホフ》 乎爾比多夜麻乃《ヲニヒタヤマノ》 毛流夜麻能《モルヤマノ》 宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》 登許波爾毛我母《トコハニモガモ》【三四三六】
 
しらとほふ をにひた山の 守る山の うら枯れせなな 常《トコ》葉にもがも
 
右三首上野國歌
 
しらとほふ 常陸風土記に白遠新治之國とあるから、ニにかゝる枕詞なることは分明で、シラトホともいふ所を見ると、シラは白を意味し、トホはトホル(透)の語幹と思はれる。東國に於ては之をトホフと活用し(168)た事も有り得べく、或はホの韻を伸してトホーと稱へ、之を登保布〔右○〕と表記したのかも知れぬ。ニは土石の總稱であるが、この場合には白堊《シラニ》を意味し、其色澤を形容してシラトホ(フ)を冠したのであらう。枕詞として用ひられたのであるから、其地に白堊を産すると否とは問題ではないが、この地名を和名抄にニフダ〔三字右○〕(爾布太)と訓註して居る所を見ると、新田〔二字右○〕は借字で、丹生處《ニフド》の意を以て名を負はせたのを、夙にニヒダ〔二字右○〕と訛つたものとすべきで、今も大田の金山と稱へられるから、礦土(石)の産地であつたことは疑なく、白鉛を産したことも有り得べきで、常陸邦には久慈郡から白堊を獲たとある【風土記】。――古義が宣長説に從ひ保留〔右△〕と改記して白砥掘ル意とし、新考が登保志刀〔四字右△〕布の誤寫としたのは、考察の周到ならざるものと云はねばならぬ。
をにひたやまの ヲは愛稱で(第二四頁)、新田山の謂である(第一二一頁)。
もるやまの 守山の意であるが、此は人を配して守る山をいふのではなく、神が樹木を惜んで伐採を許さぬ山即ち禁山《モルヤマ》の謂と了解すべきである。恐らくは此山に有力な神靈が鎭座したのであらう。――以上は比況的序で、新田山の禁山のやうにといふことである。
うらかれせなな ウラカレは末枯《ウラカレ》の謂で、交情の離《カ》れることに況へたのである。ナナは既述の如くジナの意の東語で(第一二一頁)、末枯しまいよといふに同じく、此句を以て一旦語脈が切れるのである。古義が之を爲ナクの意とし、新考がセズテと飜譯したのは、いづれも末句とつゞけて解釋するに都合がよいやうに語義を案出したもので、言語學的論據はないやうである。屡々述べたやうに東歌は四段切の正格を重んじ(169)て居るから(第一二九頁)、此句を以て一段落とし、次に一句を添加したものと見るを可とする。爲《ス》ナの意とした略仰の説は沙汰の限りである。
とこはにもがも トコハは契沖説の如く常葉の意。モガモは願望表示で(第九八頁)、是もいつまでも變らぬやうにといふのである。
【大意】新田山の禁山《モルヤマ》(の樹木)のやうに、末枯することなく常緑でありたい
 
3437 美知乃久能《ミチノクノ》 安太多良末由美《アダタラマユミ》 波自伎於伎※[氏/一]《ハジキオキテ》 西良思馬伎那婆《セラシマキナバ》 都良波可馬可毛《ツラハカマカモ》【三四三七】
 
陸奥の あだたら眞弓 はじきおきて ※[女+夫]《セ》らしま〔右○〕きなば 弦《ツラ》は|かま《ケム》かも
 
右一首陸奥國歌
 
みちのくの 前出(第一五二頁)
あだたらまゆみ 既述の如く安達の眞弓と同意であるが、此地が弓の特産地であつたのではなく、アダタラ(アダチ)が本來楯を意味し、弓の縁語であるから續けたのであらう。弓にはアヅサ弓、ツク弓・ハジ弓等の種類があるから(第一輯二九九頁)、尋常の弓といふ意を以てマユミ(眞弓)と稱へたので、今いふ大弓のことである。
(170)はじきおきて 彈キ置キテ即ち弦を脱して撥らせ置くことをいふ。此は弓幹《ユホコ》の彈力を減ぜしめざらんが爲の用意であるが、此歌に於ては一旦縁を切ることの譬に用ひられたのである。
せらしま〔右○〕きなば(西良思馬伎那婆) 舊訓サ〔右△〕ラシメ〔右△〕キナバとあるが、西をサと訓むのは異例であるから、代匠記以下セと改訓したけれども、馬の字は尚舊訓に從ひ、セラシメ〔右△〕キナバと稱へ、撥ラシメナバ【考】、撥ラシメ置キナバ【略】【古義】、反ラシメ來ナバ【新考】等と解して居るが、ナバをキ〔右△〕ナバといふことはなく、置キは前句と重複する嫌があり、ソラシメといふ使動詞は自動詞キ(來)と連用することは出來ぬ。案ずるに馬は本卷【三三八七】【三四三九】にもマの假字に用ひられて居るから、セラシマ〔右○〕キナバと訓み、夫《セ》ラシ求《マ》キナバの謂であらう。東國では通例セナ又はセロといふが、其原語がセラ〔二字右○〕なるべきことは既述の通りで、皇極紀にも用例があり(第六五頁)、ラは虚辭、セは婦人から男子就中夫に對する稱呼である。シは強意助語で、マキは弓束マク(卷)とも用ひ、弓の縁語であるから、求の意のマキに言ひかけたものと了解せられる。此は一旦手を切つて置いて、男が復縁を求めたら再び逢はうといふので、甚水くさい心意氣のやうであるが、他に新しい情婦が出來て、久しく通うて來ぬ男に對し、あきらめはしたものゝ、尚未練を有する氣もちを敍べたものと忠はれる。
つらは|かま《ケム》かも 波可馬をハカメと訓み、反語と心得たために、從來歌意が明白にせられなかつたのであるが、上句と同じくマの假字に馬を用ひたものとすれば、ハケム〔右○〕カモの訛と解せられる。カモは感動詞と見るべく、弦をかけようよといふ意である。弦は後世專らツル〔右○〕と稱へられるが、カツラ(葛)、ツヅラ(黒葛)(171)等のツラ(蔓)と同語で、上古は植物の蔓の強靱なるものを選び、之に充當したから其名を負うたので、ツラの方が原形である。ハケは四段活用のハキ(佩)から出た作爲動詞(下二段活)で、佩カス即ち装著するといふ意である。表面は男の要求に應じて弓に弦を取附けるといふに過ぎぬが、縁を結ぶといふ意の譬に用ひられたことは上記の通りである。
【大意】陸奥の安達の眞弓(を)彈き置いて、夫が求めたら(再び)弦を取附けようよ
 
(172)雜歌 十七首
 
 以下は國土未勘の歌で、目次に見えるやうに雜歌の外に相關、防人歌、譬喩歌及挽歌に區分せられて居る。この分類は勿論編者の手によつてなされたもので、原記録に存したのではない。されば國土勘定可能のものも若干首雜つて居るのである。
 
3438 都武賀野尓《ツムガノニ》 須受我於等伎許由《スズガオトキコユ》 可牟思太能《カムシダノ》 等能乃奈可知師《トノノナカチシ》 登我里須良思母《トガリスラシモ》【三四三八】
 
或本歌曰、美都我野爾《ミツガノニ》 又曰、和久胡思《ワクゴシ》
 
つむが野に(みつが野に) 鈴が音《オト》きこゆ 上《カム》志太の 殿の中|主《ナ》し(わく子し) 鳥狩すらしも
 
つむがのに(みつがのに) 所在を詳にせぬが、後句にカムシダとあるから、駿河國志大部(第一五八頁)の上部地方に存した野であらう。ツムガ野もミツガ野も――野はヌと訓んでもよい――或はナガ野の謂で、之にマ(眞)に通ずる接頭語ミを冠してミツガ野と呼び、ツガを訛り若くはツミカと言ひかへて、更にツム〔右○〕ガと轉呼したのではあるまいか。ツガ野(又はトガ野)といふ名は神功紀(記)、仁徳紀、攝津風土記等に見え、(173)いづれも狩獵に關する傳説を有するから、上古殺生の地をツガ(トガ)野と稱したのかも知れぬ。トガは既述の如く不淨を意味し、ツガを原語とするものゝやうで(第一九頁)、屠殺は穢とせられたから、遊獵地に此名を負はせたことは有り得べきである。
すずがおときこゆ スズ(鈴)は放鷹の逸走を防止せんが爲に其尾に取附けたものをいひ、仁徳紀にも百濟の酒君が鷹を馴して韋緡《ヲシカハノアシヲ》を其足に結び、小鈴〔右○〕を其尾に取つけ、腕上に据ゑて之を獻じたとある。其鈴の音がツムガ(ミツガ)野の方に聞えるといふのである。
かむしだの 上記の如く上志太の謂で、大井川の上流の地をいふのであらう。
とののなかちし(わくごし) トノは本來タナ(棚)即ち板擧の轉呼で、中段に板を張ることを意味したのであるが、ムロ(室)作り(第一輯九頁)の家屋に對し、床をあげた高屋をトノ作りとよぴ、轉じて貴人の邸宅の義に用ひられ、地方ではトノといへばその地の支配者または其住居の意と了解せられたのである。チは靈の義から轉じて主の意にも用ひられる語であるから、ナカチは中|主《チ》即ち貴人の仲子をいひ、ワクゴもまた郎君を意味する(第一輯三八二頁)。若者が〔右○〕といふべきを意を強める爲にシを用ひたのである。
とがりすらしも 鳥《ト》狩するらしいといふ意。トはトリ(鳥)の語根で、句末のモは感動詞である。
【大意】ツムガ(ミツガ)野に鈴の音が聞える。上志太の殿の二郎(若)君が鳥狩するらしいよ
 
3439 須受我禰乃《スズガネノ》 波由馬宇馬夜能《ハユマウマヤノ》 都追美井乃《ツツミヰノ》 美都乎多麻倍奈《ミヅヲタマヘナ》 伊毛我多太手欲《イモガタダテヨ》【三四三九》
 
(174)鈴が音の はゆま驛家《ウマヤ》の 堤井の 水をたまへな 妹が直手《タダテ》よ
 
すずがねの 此スズ(鈴)は驛鈴の謂で、公用を以て驛路を來往する官人に給はり、馬匹徴發の契印としたものであるが、之を馬頭に取つけ、其音は遠方から聞えるが故に、次句の叙景的序としたのである。
はゆまうまやの ハユマはハヤ(早)ウマ(馬)の約で、大化二年驛傳の制が定まつてから、驛または驛馬の字をあてるやうになつたが、ハユマ(早馬)は其以前から存したものと思はれる。古事記の崇神、垂仁、景行朝の記事に驛使〔二字右○〕とあるのは、當時尚末だ馬匹が輸入せられて居なかつたやうであるから(建國篇六−八七頁)、文飾とすべきであるが、清寧紀二年の條下の乘驛馳奏は早馬の使を以て上奏したことをいふのであらう。欽明朝に良馬七十匹を百濟に下賜せられたとある所を見ても、馬匹の蕃殖したことは疑なく、諸道に官馬を配置せられたことは有り得べきで、崩御に際し驛馬を以て皇太子を召されたとあるのは【紀】事實であらう。推古天皇十一年の紀に、來目皇子薨2於筑紫1仍驛使以奏上とあり、又皇極紀にも百濟の使が從2筑紫國1乘2驛馬〔二字右○〕1來言云々(元年)、筑紫大宰馳驛奏曰云々(二年)とあるが、當時既に驛〔右○〕又は驛馬〔二字右○〕といふ字が用ひられたかは疑問である。ウマヤは勿論厩舍の謂であるが、ハユマウマヤは驛馬傳馬の調辨配給を掌る民家の意で、大寶令に驛家とあるにあたるものゝやうである。和名抄國郡部中に驛家とあるのも此ハユマウマヤの存する郷邑である。
つつみゐの ツツミはツミ(積)の疊頭語で、土石を堆積して包裹するにより坡塘をもツツミとよび、包《ツツミ》の義を生じたのである。此は沼澤の堤防をいふのではなく、井堰の大なるものを意味するが故に、ヰ(堰)とい(175)ふ語を添へてツツミヰとしたので、既述の如く上代の聚落は天然の湧泉を中心として發達したから、驛家の前に廣く取圍はれた井泉の存することを例としたのであらう。
みづをたまへな 水ヲ給ヘといふ意。ナは願望表示として添附せられたので、現代語でも此やうな場合には下さいナ〔右○〕といふ。
いもがただてよ 妹ガ直手ヨは女性の手から直にといふ意である。鈴の音の慌しい或る驛家に、清冽な泉と美しい娘があつて、馬を代へる間其處に休息する(恐らくは都下りの年若な)旅人が、耻かしがる娘を捉へて「其水をそもじの手から直《ヂカ》にたもれ」と挑戯《カラカ》うたといふことを意味し、繪にかいてもよいやうな情趣のある題材である。
【大意】鈴の音の(する)驛家《ハユマウマヤ》の坡井《ツツミヰ》の水を給へな。妹が手から直《ヂキ》々に
 
3440 許乃河泊爾《コノカハニ》 安佐奈安良布兒《アサナアラフコ》 奈禮毛安禮毛《ナレモアレモ》 知余〔二字左△〕乎曾母底流《ヨチヲゾモテル》 伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》【三四四〇】
 
一云、麻之毛安禮母《マシモアレモ》
 
此川に 朝菜あらふ兒 汝《ナレ》も我《アレ》も(ましもあれも) よちをぞもてる いで子たばり|に《ネ》
 
このかはに 此河ニ
(176)あさなあらふこ 朝菜は種名ではなく、朝は時の副詞で、早朝に菜を洗ふ兒(女子)よといふ意であらう。
なれもあれも(ましもあれも) 汝も我もといふ意。マシは御爲《ミシ》の轉呼で、敬語として在の義の動詞または助動詞に用ひられるが、之に古言の第二人稱イを冠したイマシは「汝」の意の敬稱となり(第三四頁)、更にミ(御)を接頭してミマシともいふから、マシは其略語であらう。――アイヌ語の第二人稱敬語エオカイもエ(汝)とオカイ(在)との複合語である――神樂歌の小前張及催馬樂の高砂にも用例がある。
よちをぞもてる 印本に從へばチヨ〔二字右△〕であるが、元暦校本以下諸本盡く余知〔二字右○〕とあるから、誤寫と認定すべきであらう。ヨチはヲチ(若)の轉呼で、通例はヨチコ〔右○〕の形に於てヲト〔二字右○〕コ(少年)ヲト〔二字右○〕メ(少女)の總稱に用ひられるのであるが(第一輯九四頁)、此歌に於ては故意に之をヨチとコとに分解し、コを女子の義に取なして次句に擧げたので、後掲【三四六二】にも類例のある語戯である。汝も我もヨチ(若さ)を持つて居るぞといふ意であるが、其は次句求婚の前提として表出せられたのである。
いでこたばり|に《ネ》 イデはイザの轉呼で、ある事を促す場合に用ひる間投詞である。允恭紀に壓乞をイデと訓し、本集にも此語に乞の字をあてた例があるので、物を乞ふ意と解するものもあるけれど、語原上理由のないことゝ云はねばならぬ。コは上述の如くヨチコといふ語の片われであるが、女之子に言掛けたので、タバリはタマハリの約濁、ニは眞淵説の如く願望表示のネの訛と思はれるから、サア女の子を給はれといふ意味になるのである。此は朝河に白い脛を浸して菜を洗ふ少女を、通りがゝりの若い男が見つけて、之を挑む光景を敍したもので、ヨチ(若さ)は自分も持つて居るからコ(兒)を下さいなといふ言葉の裏には、(177)お互に似合の年ごろであるから、夫婦になつてはくれまいかといふ意が含まれて居るのである。當事者の自作か、第三者が想像を加へた描寫であるか判明せぬが、前の歌にも劣らぬ興味のある場面《シーン》で、考乃至古義の如く傍に居る母親に向つて、或人が其娘を自分の息男の嫁にくれと交渉したものと解することは、歌詞の上からも無理であるのみならず、作意を蹂躙するものである――新考が兒〔右○〕を曾〔右△〕の誤寫として、自分の男にやりたいから其菜を給へといふ意と説いたのは、上句のヨチを若い男と誤解し、女伴の歌と見たためで、此は男性の作であらねばならぬ。
【大意】此河に早朝菜を洗ふ少女よ。汝も自分もヨチ(若さ)をもつて居るぞ。いでやヨチコのコ(女子)を給はれナ
 
3431 麻等保久能《マトホクノ》 久毛爲爾見由流《クモヰニミユル》 伊毛我敝爾《イモガヘニ》 伊都可伊多良武《イツカイタラム》 安山賣安我古麻《アユメアガコマ》【三四四一】
 
柿本朝臣人麿歌集曰、等保久之弖《トホクシテ》 又曰、安由賣久路古麻《アユメクロコマ》
 
ま遠くの(遠くして) 雲ゐに見ゆる 妹がへに いつか至らむ 歩め我が駒(黒駒)
 
まとほくの(とほくして) マトホクはマ近くと對立する語でもるから、古義説の如く間遠クといふ意であらねばならぬ。此を準名詞としてノを添付し、雲居の限定語に用ひたので、人麿集の遠クシテも亦遠クといふ準名詞形(分詞)を更に活用したものであるが(第一一六頁參照)、副詞的用法なることを異りとし、此歌に(178)於てはマ遠クの方が適切である。第七卷には行路歌と題して遠有〔二字右○〕而雲居ニ見ユル妹ガ家〔右○〕ニ早ク〔二字右○〕至ラム歩メ黒駒とあり【一二七一】、柿木朝臣人麿之歌集出と註せられて居るが、恐らくは同一原歌が三樣に傳誦または傳寫せられたのであらう。
くもゐにみゆる クモヰは雲際の意(第一輯三八一頁)。
いもがへに 妹ガ邊《ヘ》ニの謂である。上に引いた第七卷の歌に妹家爾とあるによつて、從來此へを家の義と解して怪しまなかつたが、其場合にはイモガイヘニと六音に唱ふるを例とすること既述の通で(第一四一頁)、家屋が見える程ならば餘り遠距離とはいへぬから、此は女の郷里が雲際に遠望せられることをいふものとせねばならぬ。
いつかいたらむ 何時カ到ラム――上掲【一二七一】には早將至とある。
あゆめあがこま(あゆめくろこま) アユメはアユミの命令法で、大槻説の如くア(足)ヨ〔右○〕ミ(數)の轉呼、即ち足掻を數へるといふ意から運歩の義を生じたのであらう【大言海】。されば俚言ではアヨ〔右○〕ムともアヨ〔右○〕ベともいふのである。我駒というても黒駒でも歌意には變りはなく、女の里が遠く心がせくのに、乘手の氣もちを知らぬ馬は悠々と道草をくひ、何時行きつくか分らぬので、早く歩めと命じたのである。
【大意】遠くの雲際《クモヰ》に見える妹の邊に何時到者するであらうか。歩め我(黒)駒よ
 
3442 安豆麻治乃《アヅマヂノ》 手兒乃欲妣左賀《テコノヨビサカ》 古要我禰※[氏/一]《コエカネテ》 夜麻爾可禰牟毛《ヤマニカネムモ》 夜杼里波奈之爾《ヤドリハナシニ》【三四四二】
 
(179)あづまぢの 手兒のよび坂 こえかねて 山にか寢むも 宿りはなしに
 
あづまぢの チは道の義であるが、上述のやうに州または國の意にも用ひられるから、此も東國に通ずる街道とするよりもアヅマの國(第七頁)の謂と解する方がよい。
てこのよびさか ヨビ坂は地名で、テコノは上掲【三四三二】のワヲ〔二字右○〕カケ山、後記【三四六八】のヲロ〔二字右○〕ノ太緒《ハツヲ》、【三四八六】の弓束〔二字右○〕ナベマキ並に第十二卷【三〇一三】の石上袖〔右○〕振河等の如く短い序で、テコ(第七八頁)をヨブといふ縁によつて冠したものゝやうである。然るに夙に其名を逸したので所在を詳にし得ぬが、下河邊長流の續歌林良材集には駿河風土記を引いて、廬原郡|不來見《コヌミ》の濱に住む女神の許に、岩木山を越えて通ひ來る男神が、荒ぶる神に塞へられて來らぬ夜は、女神は男神の名を呼び叫ぶによりヨビ坂と名付けたとあるから、岩木山即ち今の薩陲峠の麓とせねばならぬ。風土記の地名所由説は概して信ずるに足らぬものであるが、此名の坂が駿河國に存したことだけは事實とすべきであらう。紫式部日記にたこ〔二字右○〕の呼坂とあるにより、手兒をタコと改訓し、田子浦に引つけて説くものもあるが、本集に於てはタゴ〔二字右○〕は多胡、田兒、田籠等とかき、テコの意の手兒、※[氏/一]胡と區別せられて居る。――唯一つタコと訓むべき場合に手兒と表記せられた例があるが【三四八五】――加之此手兒は上記のやうに序として用ひられたので、タゴといふ地のヨビ坂の謂ではなく、風土記によればコヌミの濱と稱する地に存したものとせねばならぬ。コヌミは本集第十一卷に「磐木山たゞ越え來ませ礒崎の許奴美の濱に吾立待たむ」【三一九五】とあり、岩木山(薩陲峠)の麓なること(180)は疑なく、イソ崎といふ名も殘つて居らぬが、此附近に於て埼と名づくべき地形を物色すれば今の※[山+由]崎の外はないから、コヌミの濱及ヨビ坂も、之を距ること遠からぬ地點とせねばならぬ。案ずるにヨビはヨミ(夜見)の音便で、ヤミ(暗)とも通ずるから、東麓のクラサハ(由比町大字倉澤)は或は暗溪《クラサハ》を意味し、ヨビ坂即ち暗《ヤミ》坂の義によつて號けられたのかも知れぬ。ユヒといふ地名も之に縁があるやうに思はれる。
こえかねて カネはカテ(克)の語幹カに打消のネを連ねたものであるから、カテニ(第八五頁)と同じく不能又は不堪を意味し、コエカネは越え得ずといふ意になるのである。
やまにかねむも 山ニ寢ム歟といふ意で、モは感動詞である。
やどりはなしに ヤト(屋處)とアリ(在)とを連ねたヤドリは動詞原形であるが、準名詞としてはヤド(宿)と同義に用ひられる。此は岩木山を越えて東行せんとする旅人が、山中に於て日暮に會した時の吟懷で、此峠を超えると名もゆかしい呼坂といふ泊があるのであるが、其までは達し得ずして山中に於て宿もなく寢むかといふのである。
【大意】東路(東國)の呼坂へ越えかねて、宿もなしに山中に寢ることか
 
3443 宇良毛奈久《ウラモナク》 和我由久美知爾《ワガユクミチニ》 安乎夜宜乃《アヲヤギノ》 波里※[氏/一]多氏禮婆《ハリテタテレバ》 物能毛比豆都母《モノモヒヅツモ》【三四四三】
 
うらなくも わが行く道に 青柳の はりてたてれば 物|思《モ》ひ出《ヅ》つも
 
(181)うらもなく ウラはウラギ(歡喜)、ウララカ(朗々)等の語根で、之に否定語ナク(無)を添へると、其反對即ち侘シクといふ意になる(第一輯三五六頁參照)。
わがゆくみちに 吾行ク道ニ
あをやぎの 青柳ノ――柳楊をヤナギといふのは矢之《ヤナ》木の意であるから、之《ナ》を略してヤギとも稱へられたのである。
はりてたてれば ハリは張の義であるが、春季草木の伸張することをいふにも轉用せられ、就中柳條の發芽を表現するに用ひられたと見え、本集第十九卷にも春ノ日ニ張流《ハレル》柳乎とある【四一四二】。春をハルと稱へるのも此義によるものであらねばならぬ。立テレバは柳の木が立つて居ればといふことである。
ものもひ|づ《デ》つも ヅツは出《イ》デツの急呼デツの訛で、モは感動詞である。憂心※[立心偏+中]々として歩み行く路邊に青柳の芽を吹いて居るのを見て、思出に耽つたといふので、高適の杜甫に贈る詩に柳條弄v色不v忍v見梅花滿v枝空斷腸とあると趣を同うする。人の歡賞する青柳梅花も、物思ある身にとつては傷心の種となるが故で、從前の諸釋のやうにウラモナクを心ナク又は無心ニテと解しては此感懷があらはれぬ。
【大意】佗しく歩行く道に青柳が芽を張つて立つて居るのを見て物を思ひ出した
 
3444 伎波都久乃《キハツクノ》 乎加能久君美良《ヲカノククミラ》 和禮都賣杼《ワレツメド》 故爾毛乃〔左△〕多奈布《コニモミタナフ》 西奈等都麻佐禰《セナラツマサネ》【三四四四】
 
(182)きはつくの 岡の莖蒜《ククミラ》 吾《ワレ》つめど 籠《コ》にもみたなふ せなら〔右○〕つまさね
 
きはつくの 萬葉抄によれば、キハツクの岡は常陸國眞壁郡にあり、風土記に見えたりとあるが、所在を詳にし得ぬ。語義は恐らくは來終處《キハツク》であらう。
をかのくくみら ククミラは莖韮の意。クキ(莖)の原義は既述の如く木子《クキ》と想定せられるから(第一一七頁)、ククと轉呼したことは怪しむに足らぬ。和名抄には薤にオホミラ〔二字右○〕、韮にコミラ〔二字右○〕、細辛にミラ〔二字右○〕ノネクサの訓を與へて居るが、いづれも葷菜であるから、ミラは恐らくは紀記の來目歌のカミラの略稱で、臭氣のあるナ(菜)の謂であらう。ナをラと轉呼し、之に接頭語ミ(マに通ずる)を冠してミラと稱へたことは有り得べきで、今ニラと呼ぶのは其音便である。
われつめど 吾摘メド。――此ワレは複數と解すべきである。
こにもみたなふ 諸本咸く乃〔右△〕多奈布とあるが、語をなさぬから、眞淵説の如く乃〔右△〕は美〔右△〕の草書を誤寫したものとすべきであらう。コ(籠)にも滿タヌといふ意で、打消のヌ(ズ)は東國ではナフとも表現せられたのである(第六五頁)。
せなら〔右○〕つまさね 西奈等とある等〔右○〕の字をラの假字に用ひた例は、上掲の【三四一九】にもあり、殊にこれは正訓で、複數表示として用ひられたのである。セナ〔右○〕も亦セラ〔右○〕》の轉呼で【第六五頁】、婦人から男子に對して用ひる一般呼稱セに接尾語ラを連ねたものであるが、既に單語化した上であるから、之に等の意のラを添加(183)するも妨なしとせられたのであらう。ツマサネはツミ(摘)の敬語形ツマシに願望表示ネを連結したもので、摘んで下されといふ意である。案ずるに此歌は初夏の候、野遊に出た女伴が男子の一群に行逢ひ、調戯《カラカヒ》半分に莖韮を摘んでくれとせがんだ光景を敍したもので、等の字をトと訓み、又はモの誤寫とする限り此趣は味はれぬ。
【大意】キハツク岡の莖韮を我々は摘むけれども籠にも滿たない。セナ達も摘んで下され
 
3445 美奈刀能也《ミナトノヤ》 安之我奈可那流《アシガナカナル》 多麻古須氣《タマコスゲ》 可利己和我西古《カリコワガセコ》 等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》【三四四五】
 
水門のや 葦が中なる 玉こ菅 苅り來《コ》わがせこ 床のへだ|し《チ》に
 
みなとのや ヤは間投詞で、水之門《ミナト》ノといふ意。されば元暦校本以下也の字を省いて四音とした本もあるのであるが、此ヤの用例は集中極めて多く、石見乃也〔右○〕高角山【一三二】の如く用ひられて居るから、※[手偏+讒の旁]入と見ることは出來ぬ。ミナトには本集にも湊の字をあてた例があるが、本來水門即ち河口を意味する語で、往昔渡海の船舟は、可能なる眠り陸岸を航行し、泊地を河口に求めることを例としたから、湊津の義に此語を轉用するやうになつたけれども、此ミナトは尚原義と了解せられる。河口に於ては川幅が廣くなつて、兩岸には葦も菅も生ひ茂つて居たのである。
あしがなかなる 葦ガ中ナル
(184)たまこすげ タマ(玉)は美稱で、小菅は相模歌にも見え、莖の短い菅をいふものゝやうである(第五三頁)。
かりこわがせこ ワガセコは良人に對する愛稱で(第四二頁)、右の小菅を苅り來れと依囑したのである。
とこのへだ|し《チ》に ヘダシはヘダチの音便で、夙に廢用となつたが、四段活用動詞の原形であつたから、隔障といふ意の名詞にも用ひられたのである(第一輯三五四頁參照)。上代の家屋には室房の設はなく、寢床は蓆帳の類を以て掩蔽せられたのであるから、其料にしようといふのである。勿論小菅に限るのではないが、其嫋やかな姿態を見て、此目的に適するやうに作者が感じたので、語感の上からいうても如何にも適はしい氣もちがする。契沖以來之を板床と躯體との隔、即ち敷蒲團代用と解したのは、上代風俗に通ぜざるものといふべきで、此當時に於ては庶民の寢床は直土に藁とき敷き(貧窮問答歌)、上流者と雖、簀の子に蓆を敷き、衣を重ねて寢ることを例としたものゝやうで、板敷の床などが有り得たとは考へられず、敷物をヘダチと稱へた筈もない。
【大意】水之門の葦の中なる玉小菅を床の隔障に苅來れ我|良人《ツマ》よ
 
3446 伊毛奈呂我《イモナロガ》 都可布河泊豆乃《ツカフカハヅノ》 佐左良乎凝《ササラヲギ》 安志等比登其等《アシトヒトゴト》 加多里與良斯毛《カタリヨラシモ》【三四四六】
 
妹なろが 使ふ河津の ささら荻 あしとひとごと 語りよら|し《ス》も
 
いもなろが ナロといふ語は他に用例もなく、第九卷の妹名根【一八〇〇】の例に準じ、ナネの轉呼と見るこ(185)とも困難である。ナ行とラ行とは相通であるが、子母音共に同時に變化することは原則上有り得ぬから、夫《セ》ナネ〔右○〕を勢奈能(第一一〇頁)といふやうに、一旦ナノとなり、更にナロと訛つたものとせねばならず、此歌に於ては妹汝禰としては意をなさぬ。案ずるに東國に於ても琉球語と同樣に、ノリ(宣)から分化したノロといふ語が祝《ハフリ》の義に用ひられ、ナロと轉呼せられたので、――ノリ(宣)とナリ(鳴)とは同原である――妹ナロは女祝即ち巫を意味したのであらう。此語義を解し得なかつた爲に、先學は甚しく歌意を釋き悩んだやうである。
つかふかはづの 使フ河津ノといふ意で、次句ササラヲギの限定語である。ツカフは手草に使用することをいふものゝやうに思はれる。――此句については從來色々に牽強せられて居るが、いづれも初句の誤解に因するもので問題とするに足らぬ。
ささらをぎ ヲギは和名抄には荻の訓にあて、與v※[草がんむり/亂]相似而非2一種1とあり、靈異記には蘆の訓に用ひ、諺にも難波の蘆〔右○〕は伊勢の濱荻〔右○〕といふから、木來種名ではなく、神靈をヲグ(招)といふ意を以て巫祝の手草に供する禾木の稱呼としたのであらう。されば神樂歌にも「みしまゆふ肩にとりかけ吾《ワレ》韓神のからヲギせんや」とあり、愚案抄によれば、試樂の際人長が枯荻を手にして舞うたとある。ササラは荻を打振る時の音聲を模したものであるが、轉義により此原始的樂器を以て演ずる神樂をもササラといひ、本集には神樂【一五四】【二〇六】【一二五三】又は神樂聲【一三九八】をササの假字に用ひて居り、此句に於ても其意味をきかせて尋常の遊戯にあらざることを暗示したのである。
(186)あしとひとごと アシ(蘆)も亦荻の一種とせられたことは上記の通りであるから、ササラ荻アシとつゞけたのであるが、凶の意のアシにいひかけ、不吉《アシ》と一言といふ意で、女祝《イモナロ》に託して或事につき神意を問うた所が、唯一言「凶」といふ宣示を得たといふのである。上二句の誤解のため此語義を釋きかねて、蘆と一ツ如の意とし【考】【略】【古義】、或は句末の等〔右○〕を比〔右△〕の誤と斷じてアシトヒトゴヒと訓み、葦ト生ヒ比《タグ》ヒの訛と説かれて居るが【新考】、いづれも牽強といはねばならぬ。
かたりよら|し《ス》も ヨラシはヨル(寄)の敬語形ヨラスの訛で(第一六一頁參照)、モは感動詞である。語リ寄ルと用ひた例は他に見えぬが、イヒ〔二字右○〕寄ルと同一用法で、寄語の意なることはいふまでもなく、凶といふ一言を寄せなさるよといふ意と解せられる。
【大意】女祝が(手草に)使ふ河津の荻の(音がサラサラと鳴り)凶《アシ》と一言語り寄せられるよ
 右の如く解すれば歌意は極めて明白であるにも拘らず、從來極度に解きひがめられ、從つて異説區々である。此を逐一論破することは餘りに煩しいから差控へたが、一語の為に如何に大なる誤解が生ずるかと云ふことの一例として、眞淵以下の諸説を、左に列擧する。――括弧内の註記は誤解の囚となりたる語句を示す。
 【考】男の行河津の向ふより、よそながら心かけたるをとめの來るに行ちがはん〔四字傍点〕(ツカフ)時、何ぞに事つけて言問よらんと思ふに、こゝにあしとをぎの有て、分ちがたく見ゆれば(アシ(187)トヒトゴト)何れが何れぞとこととひよらんといふ也
 【略】宣長説。つかふは東生など言へる地名也。初句のがの言は結句へかけて見べし、ひとごとは他事也。妹が思ふ事をえいひ出ずして先つかふ川の荻よ蘆よと他の事〔三字傍点〕(ヒトゴト)を語りてそれをしるべに言ひよらすと也
 【古義】本(ノ)句は序にて荻と葦とはよく相似て一(ツ)物なる如く(アシトヒトゴト)、吾(ガ)夫婦のなからひの縁も熟《ウマク》相|應《カナヒ》て、さても宜しや〔三字傍点〕(ヨラシモ)といふなるべし
 【新考】妹ガ舟ヲサシ寄スル〔七字傍点〕(つかふ)河津ノササラ荻ハ芦ト生ヒ偶ヒテ〔七字傍点〕(あしとひとごと)、外ヨリウカガハレネバシノビ語ラフニフサハシ〔八字傍点〕(かたりよらしも)
此やうな意味を上掲の語句を以て表現したものとすれば、措辭用語の不當甚しきものといふべきで、註釋者自身が詠出する場令には決して右の如き言ひ廻しはしなかつたであらうと思はれる。之を要するに先學は語句の意義を明にせず、漫然相聞歌と豫斷して牽強附會したもので、作者が神宣を請うたのは、或は戀の成否如何であつたかも知れぬが、其故を以て相聞歌なりとすることは出來ぬから、本卷の編者は之を雜歌中にをさめたのであらう。東歌以外には見ることの出來ぬ興味のある題材である。
 
(188)3447 久佐可氣乃《クサカゲノ》 安努弩奈由可武等《アヌヌユカムト》 波里之美知《ハリシミチ》 阿努弩波由加受※[氏/一]《アヌヌハユカズテ》 阿良久佐太知奴《アラクサダチヌ》【三四四七】
 
草かげの あぬ野行かむと 治《ハ》りし道 あぬ野は行かずて 荒草立ちぬ
 
くさかげの 草蔭のア(畔)とかゝる枕詞で、本集第十二卷には草陰之荒藺之崎【三一九二】とあり、倭姫世紀にも草蔭阿野國とある。
あぬぬゆかむと 安努弩奈の四字は舊訓アノト〔二字右△〕ナとあり、契沖はアノノナと改めたが、いづれも意をなさぬにより、眞淵はアヌノ〔右△〕ナと訓み、吾主根之《アヌネガ》の轉訛と牽強した。但し元暦校本其他弩の字のない本もあるので、拾穗抄以下之に從ふものも多く、安努爾の誤記【略解宣長説】、又は安努|野《ヌ》の轉呼とし【古義】、新考は奈を桁として安努|弩《ヌ》は安努ニの訛と説いたが、衍誤轉化を云々する前に先づアヌヌといふ語の成立の能否とナの語義とを考察する必要がある。アヌは上記の如く伊勢にもある地名で、古は阿野國といひ、和名抄には安濃(安乃)郡とあり、現に安濃《アノウ》郡安濃村大字|安濃《アノ》といふ名を存し、津市も亦近世まで安濃津と呼ばれたが、其はアヅマの國には屬せぬから、他に物色せねばならぬ。大日本地名辭書には此外に駿河國阿野庄をあげ、今の駿東郡浮島村大字井出附近と考證して居る。此は源頼朝の末弟阿野法橋金成及其子阿野冠者の居住地で、舊名たることは疑がないから、此歌に詠まれた地點であるかも知れぬ。若し然りとすればアヌは其語義の何たるを問はず(或は野の意から出たのかも知れぬが)、既に固有名詞化したものなるが故に、(189)其近郊をアヌ野《ヌ》といひ得べきことは勿論で、弩は上掲【三四一四】及第八卷【一六〇九】【一六二四】にもヌと訓ませてあるから、野にあてた假字と見て差支はない。之に反してヌ(野)をナと轉訛した例は、雅澄が指摘したやうに繼體紀の歌及他に一二求め得られるけれども、寧ろ稀有のことで、助語のニをナ又はヌと訛つた例は私の知る限りに於ては皆無であるのみならす、安努ニの謂としては、個人用として開設せられたかのやうに聞え、往還の道路の義にはならぬ。然らば字に即してアヌヌナと解讀することが可能であるかといふに、其場合のナは薩摩方言のやうに、助語ハが前續語音のnに類化せられたものと見るの外はなく、アヌ野ハ〔右○〕の意とせねばならぬが、第四句には之を訛らずして安努弩波〔右○〕とあるのみならず、此句に於ては助語は不要で、萬一之を用ひるとすればヲであらねばならず、ハは決して適切ではない。右の如く論究すれば不本意ながら奈は衍字か若くは乎〔右○〕の誤寫とすべきで、此は七音句であるから、アヌヌ行カムトとあつたものと推定せられる。
はりしみち 治《ハリ》シ道の意なることは勿論で、ハリは既述の如く開拓の意であるが(第一〇四頁)、築道の如きは一人の力の能くする所ではないから、作者自身が作つた道の謂ではなく、郷黨が開拓したのであらう。從つて之を女の許に通ふ專用道路と解するのは不當である。
あぬぬはゆかずて 此句に於ては特に取立てゝいふ爲にハといふ助語を必要としたので、アヌ野ヲバ行カズテといふ意と解すべきである。眞淵は之を女の許に通はなくなつてと釋して居るが、上述の如く此野道が公衆の爲に開拓せられたものとすれば、假令作者自身は行かずとも郷黨は來往した筈で、荒草の生ひ立つ(190)わけがないから、荒廢に歸した理由は他に存したものとせねばならぬ。表面には何等説明が與へられて居らぬから、讀む人の推測に任す外はなく、野を隔てた彼方の部落との間に不和を生じた爲とも解し得られるが、其だけでは平凡に過ぎるやうである。案ずるにアヌは幽鬼を意味する古語であつたやうで(第一輯一四五頁)、惡靈が出没する野をアヌ野ともいひ得るから、之が爲に往還が絶えたことを本名の阿野野にいひかけて巧に敍したのであらう。
あらくさたちぬ アラクサは雜草の意であるが、荒寥たる光景を強く印象する爲に、特に此表現を用ひたのであらう。此歌はアヌ野の治道の荒廢したことを述べたもので、素面には或は女の心がはりを怨ずる意を含めたのかも知れぬが、眞淵のいふが如き戀歌ではない。此學匠は雜歌の大部分は相聞なりとする見解を有し、之に捉はれて牽強したのであるが、門人千蔭すらも之を肯定することを憚つた程であるから、問題とするに足らず、古義及新考は語釋のみに留め寓意には觸れて居らぬ。
【大意】アヌ野を通行するために開いた道は、アヌ(幽靈)が出て人が來往せぬので、雜草が生ひ繁つた
 
3448 波奈知良布《ハナチラフ》 己能牟可都乎乃《コノムカツヲノ》 乎那能乎能《ヲナノヲノ》 比自爾都久佐麻提《ヒジニツクサマデ》 伎美我與母賀母《キミガヨモガモ》【三四四八】
 
(191)花散らふ 此向つ丘《ヲ》の を|な《ネ》の尾の ひ|じ《ヂ》につくさまで 君が代もがも
 
はなちらふ チラフはチルの進行格で(要録九六六頁)、花が散りつゝあるといふと略同義である。
このむかつをの 此向ツ丘ノといふ者。ムカはムカヒ(向)の語幹であるが、古は名詞に準じ、ツを以て他の名詞と複合したので、皇極紀童謠にも用例があり、向ノ岡といふ意である。
を|な《ネ》のをの 從來ヲナといふ地の峯《ヲ》と解かれて居るが、其修飾又は限定としては初句は不適當であるのみならず、假に同位格と見るにしてもヲナノヲノ此向ツ丘といふのが順序であるから、ヲナのナはネに通ずる接尾語として筑波ネ〔右○〕のネ〔右○〕ロ(第八五頁)と同一表現法と見るべきで、――今も山岳の稜線をヲネと稱へる――下のヲは尾の義と了解せられる。即ち向の岡の尾といふ意を、標準句格に合はせる爲に、引伸ばしたに過ぎぬ。
ひ|じ《ヂ》につくさまで ヒジはヒヂ(泥)の轉呼で、原義はヒ(水)ツチ(土)であるから、水漬りの土砂をいふに用ひられたので、仙覺抄に引いた大隅國風土記に、必至里、昔者此村之中、在2海之洲1因曰2必至里1、海中洲者隼人俗語云2必至1とあるのは之をいふものであるが、必しも隼人の俗語ではなく、アイヌ語でも海岸をヒシ〔二字右○〕と稱へるのである。ツクサのサは「時」を意味する原語で、サダ、シダ、シナ等の形に於て用ひられるから(第四二頁)、ツク時《サ》マデといふ意と了解せられる。元暦校本以下に佐の字を省いたのは、ツクマデとしても意が通ずるのみならず、却つて標準句長に合致するからであらうが、サ(時)といふ一語を加へる方が意(192)味が判然するから、必しも※[手偏+讒の旁]入ではあるまい。要するに桑田變じて海となる(時)までといふ意である。
きみがよもがも ガモは屡々述べたやうに願望表示で、體言と連接するにはモを介することを例とする(第九八頁)。君が代は天皇の御代といふ意で賀の歌である。
【大意】向つ丘の稜線《ヲネ》の尾が水につく時まで君が代であれかし
 
3449 思路多倍乃《シロタヘノ》 許呂母能素低乎《コロモノソデヲ》 麻久良我欲《マクラガヨ》 安麻許伎久見由《アマコギクミユ》 奈美多都奈由來《ナミタツナユメ》【三四四九】
 
白たへの 衣の袖を まくらがよ 海人こぎ來見ゆ 波立つなゆめ
 
しろたへの 白布ノといふ意で、衣、袖、袂等の枕詞である(第一輯九一頁)。
ころものそでを 衣ノ袖ヲ――以上二句は序で、歌意には關係はないが、未通女《ヲトメ》等之袖振山【五〇一】などゝ同じく優婉な感じを與へるものである。
まくらがよ 衣の袖を枕とするといふことを地名のマクラガにいひかけたので、後掲【三五五五】【三五五八】にもマクラガのコガと用ひられて居るが、其所在が不明であつたので、國土未勘歌中に入れたものと思はれる。從來コガとあるによつて下總の地名とし、マを接頭語として此國にクラガといふ地が存したものと推定したが、下總の古河は河邊の地で、此歌及外二首の趣に合はぬのみならず、其附近にはクラガ又は似寄の地名がない。案ずるにマクラガは御倉處の謂で、屯倉所在地を意味し、クラガ又はクラキと意に於て(193)變りはないから、和名抄の武藏國久良(久良岐)郡即ち今の久良岐郡のことではあるまいか。――コガといふ地點については後に述べる――ヨはヲに通ずる助語で、クラガの海〔右○〕ヲといふ意であらう。
あまこぎくみゆ 海人漕ギ來見ユの謂で、アマは本來南島から渡來した海住種族名であるが、東國に於ては通例アヅマと呼ばれ(第七頁)、原稱呼は轉義により海員乃至漁人と了解せられ、此も舟人といふほどの意に用ひられたのである。
なみたつなゆめ 波立ツ勿と海を戒めたので、ユメは戒謹せよといふ意である(第六七頁)。靜なるマクラガの海上に釣舟が三々五々漕ぎ歸る光景を賞でゝ、波が立たぬやうにと祈つた作者の心もちは、吾人も同感を禁ぜざる所で、深い意味はないやうであるが、初二句の序と相待つて如何にも美しい情緒である。
【大意】 マクラガ(の海上)を漁人《アマ》(の舟)が漕いで來るのが見える。(海神よ)決して波を立てるな
 
3450 乎久佐乎等《ヲクサヲト》 乎具佐受家乎等《ヲクサスケヲト》 斯乎〔左△〕布彌乃《シホフネノ》 那良敝※[氏/一]美禮婆《ナラベテミレバ》 乎具佐可利〔左△〕馬利《ヲグサカチメリ》【三四五〇】
 
をくさをと 小草|助丁《スケヲ》と し|を《ホ》舟の ならべて見れば 小草かちめり
 
をくさをと 乎久〔右○〕佐は次句及末句の乎具〔右○〕佐と清濁の相違はあるが、其故に別語と見ることは困難で、具は音便によつて濁つたものと思はれるから、眞淵説の如く同一地とすべきであらう。所在が判明せぬので國土未勘中に入れられたのであるが、駿河國志太郡大草村(今大津村の大字)に對し、小草といふ地が存したの(194)かも知れぬ。ヲグサヲは次句によれば此地の上丁をいふものゝやうである。
をぐさすけをと 受は濁音符であるが、舊訓もスとあり、此場合は連濁したものとも、スケを方言でズケと發音したとも思はれぬから、恐らくは清音符に流用したのであらう。スケヲは眞淵説の如く助丁の謂で、本集第二十卷の防人歌の作者中にも上丁と助丁との別があるから、上句ヲクサヲを小草|丁《ヲ》即ち上丁と解することは不當ではあるまい。然るに雅澄が之を謂れなしとして、スケヲを好色男の謂なりとしたのは牽強で、好色をスキというた例は本集には見えず、キとケとは相通することもあるが、此は動詞であるから、語尾を變化すれば語義も亦相違し、例へばマキ(卷)とマケ(任)とを同一視することは許されぬのである。スキモノ(好色漢)を俗語ではスケベイといふので、或は之から思ひついたのかも知れぬが、其は後代の轉訛であるから例證とすることは出來ぬ。
し|を《ホ》ふねの シヲはシホの訛で、類聚古集以下には乎を抱と改記してあるが、ホとヲとは音が近いので古來混同せられた例が少くはなく、大和の十市も和名抄に止保知と訓註せられて居るやうに、遠市の意を以て命名せられたものと思はれるから、必しも誤寫と見ることは出來ず、元暦校本には斯於〔右○〕とすら表記せられて居るのである。シホフネは潮舟の謂で、海の貝をシホ貝(古今一九長歌)といふやうに、海上を渡航する舟の意を以てシホ(潮)を冠したので、後掲【三五五六】にはオカレ(沖荒)とつゞけて用ひ、防人歌【四三八九】にも「シホ舟の舳《ヘ》こ|そ《ス》白波」と詠まれて居るのである。此はナ(魚)の枕詞として用ひられたのであらうが、尚港津に並泊して居る光景に況へたものと思はれる。
(195)ならべてみれば 並べテ見レバ
をぐさかちめり 字に從へばカリメリ(舊訓)であるが、意をなさぬから類聚古集に從ひ知〔右○〕の誤記とすべきであらう。元暦校本其他の古寫本にも傍書又は頭書に知とあるのである。助動詞メリは目《メ》アリの約で、觀アリといふに同じく、推量法にも轉用せられるが、終止形に連なることを例とするので、古義はカチをカツの訛とし、新考はメリをケリの誤記としたのであるが、此語は平安朝以降の歌文に屡々見えるにも拘はらず、本集には此以外に用例のない所を見ると、未だ助動詞となつて居なかつたものとすべきで、カチ(勝)は名詞としてメ(目)と結合し、之にアリを連ねて述語としたのであらう。口語でも此やうな場合にはカメ目ガアルといふ表現を用ひるのである。ヲグサは眞淵の所見の如く、小草正丁即ちヲグサヲのことで、ヲを脱したのではなく、今も姓名の代りに雲州、信州等其生地を呼ぶと同樣に、ヲグサとのみいうても小草丁と丁解せられたのである。此歌は或地に滯在中の小草の上丁と助丁とを捉へて戯に「並べて見た所が上丁の方が勝ちさうだ」というたので、シホ舟といふ語を枕に用ひた所を見ると、或は港町に船待中、其地の女性の詠じたものであるかも知れぬ。
【大意】小草|丁《ヲ》と小草|助丁《スケヲ》と(を)並べて見れば小草(丁)の方に勝目がある
 
3451 左奈都良能《サナヅラノ》 乎吋爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》 可奈之伎我《カナシキガ》 古麻波多具等毛《コマハタグトモ》 和波素登毛波自《ワハソトモハジ》【三四五一】
 
(196)さなづらの 岡に粟まき かなしきが 駒はたぐとも 吾《ワ》はそと|もは《オハ》じ
 
さなづらの サナヅラはサナ(サネ)カヅラに同じく(第一輯一七九頁)五味子の謂で、其茂生した岡なるが故に此名を負はせたのであらうが、所在を詳にせぬ。粟を播くころには帶黄赤色の花を開き、頗る觀賞するに足るから、敍景を兼ねたのであるが、尚之を枕詞とする「後も逢はむ」といふ成句の意を寓したので、神名帳に常陸國那賀郡|酒烈《サカツラ》礒前藥師菩薩神社とある地【考】、又は和名抄の陸奥國名取郡名取郷なりとする説【古義】は歌の趣を解せざる附會といはねばならぬ。
をかにあはまき 岡に粟を播いて居る所へといふ意を略言したので、播いて居るものは男性である。
かなしきが 可憐《カナ》シ子《キ》即ち可愛い女子がといふ意(第八二頁)、ガは主格表示である。從來男性の謂としたのは誤解で、東人は今の北海道婦人のやうに女性でも馬を乘り廻し得たのである。
こまはたぐとも タグは上記のやうに操作を意味し(第一一二頁)、馬太伎〔二字右○〕由吉※[氏/一]【四一五四】の如く馭の意にも用ひられる。ケ(食)の義から出たタゲといふ語もまた下二段に活用せられるが、種粟を駒の喰むにまかせた筈はないから、此は手の意のタに活用語尾ギを連ねたものとせねばならぬ。
わはそと|もは《オハ》じ 吾《ワ》ハソトモ追《オ》ハジの約。ソは前輯(第一〇六頁)に述べたやうに追馬の聲である。粟を播く爲に切角切りかへした畑を馬蹄にかけるものがあるので、一喝を食はせようとしてよく見ると、豫て懸想して居る女性であつたから、怒るどころかシイとも追ふまいといふのである。人込の中でしたゝか足を踏ま(197)れ立腹して顔を見ると、妙齡の美人が眞赤になつて陳謝するので、決してお構ひなく、こんな足なら宅にいくらもありますと挨拶したといふ一つ話と同じ點で、其男または之に代つて他のものが詠じたのである。以前發表した私の見解は誤つて居た。
【大意】サナヅラの岡に粟を播いて居る所へ、いとしい彼女が駒を乘入れても、自分はシとも追ふまい
 
3452 於毛思路伎《オモシロキ》 野乎婆奈夜吉曾《ノヲバナヤキソ》 布流久左爾《フルクサニ》 仁比久佐麻自利《ニヒクサマジリ》 於非波於布流我爾《オヒハオフルガニ》【三四五二】
 
おもしろき 野をばな燒きそ 古草に 新草まじり 生ひは生ふるがに
 
おもしろき 語原を詳にせぬが、琉球のエト(歌)をオモ〔二字右○〕ロといひ、アイヌ語オモモ(オモオモの約)は副詞|善《ヨク》に相當する所を見ると、オモを語幹とすることは疑なく、オムガシ又はウムカシ(欣感)のウム(オム)とも關係があるやうで、或はカロリン語のウム(誘引)と源を同じうする外來語であつたかも知れぬ。されば本初は形容語尾シを連ねてオモシの形を以て用ひられたことも有り得るが、重の意のオモシと紛れるので、派生語オモシロ(名詞形)に更にシ、キ、クを添へて活用したものと思はれる。本集に於ては音符の外に※[立心偏+可]怜と譯し、或は面白の假字を用ひて居るが、古語拾遺天窟章下に言2衆面〔右○〕明白〔右○〕1也としたのは附會である。
(198)のをばなやきそ 野はヌと訓んでもよい。野をば燒くなといふ意で、打消のナを動詞原形(連用形)に冠し、指定助語ソを添へ、若くは添へることなくして、禁止の意を表示するのは古語法である(第七〇頁)。
ふるくさに 古草ニ
にひくさまじり 新草雜り
おひほおふるがに 生ヒといふ語を二つ重ねて生ヒ生フル(即ち生ヒツツアル)といふべきを、語勢を強むる爲に助語ハ〔右○〕を挿入したので、舊訓バ〔右△〕とあり、眞淵が波〔右○〕を婆〔右△〕と改記したのは理由のないことである。ガニはカニの連濁音便でカは疑問助語であるから、カ〔右○〕のやうニ(思ふ)といふ意になり、今もゲニと轉呼して一般に用ひられ、伊豫方言ではキニ〔二字右○〕ともいひ、アイヌ語のクニ(爲に)も之から分化したものと思はれる。集中にも零雪乃消者消《ケナバケヌ》香二〔二字右○〕【六二四】の如く清音符を用ひ、或は蟹の字を借りた例が、少くはない(第一輯九一頁)。之をガネの訛とするのは誤で、ガネに願望の義ありとしたのは眞淵の臆測に過ぎず、豫《カネ》の意とすることも此場合不適當である。舊草の間に新草も生ひつゝあるやうであるから、其儘にして置けといふので、單に新草の發生を促す爲ならば寧ろ舊草を燒く方がよいのであるが、枯野の風情を愛惜するの餘り之を制止したのであらう。田園の生沼に親しむものにあらずば解し得ざる趣味である。此歌には別に寓意はないから、雜の部に入れられたのである。
【大意】おもしろい野を燒くな。古草の中に新草がまじり生ひつゝあるかのやうに思はれるから
 
(199)3453 可是乃等能《カゼノトノ》 登抱吉和伎母賀《トホキワギモガ》 吉西斯伎奴《キセシキヌ》 多母登乃久太利《タモトノクダリ》 麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》【三四五三】
 
風の音《ト》の 遠き吾妹が 著せしきぬ 袂のくだり まよひきにけり
 
かぜのとの 風ノ音ノといふ意。此場合にはオト(音)のオを省略せぬことを原則とするが(第八三頁)、急呼によつてカゼノトと唱へることは必しも不當ではない。此は現代語に於て風ノ便リといふと同じく、風聞を意味すると同時に、遠キといふ語の準枕詞である。
とほきわぎもが 音信の遠々しい我妻がといふ意で、決して所在地の遠近をいふのではない。
きせしきぬ 著セシ衣
たもとのくだり クダリは下降の義から行《ギヤウ》または條の意に轉じたもので、音便によつてクダンともいひ、件の字をあてるが、此はタモト(袂)ノとあるのであるから、袖(衣手)の手本《タモト》、即ち袖付の邊の線《イト》をいふのであらう。
まよひきにけリ マヨヒはマ(間)ヨリ(寄)といふに同じく、間隔の片よることを意味する。ヨリ(寄)の語幹はヨで、リは活用語尾であるから、之に代へるに行爲を表示する接尾語ヒを以てしても意に於て大差はなく、和名抄にも※[糸+比](ハ)※[糸+曾]欲v壞也とし、萬與布〔三字右○〕一云與流〔二字右○〕と訓してあるのである。上代のタヘ(布)即ち手織布(第六一頁)は緻密ではなかつたから、經緯線《タテヨコイ》が片より易く、殊に袖附の邊はいたみが早かつたので、第七卷にも麻衣肩乃|間亂《マヨヒ》【一二六五】とあるのである。キニケリのキは上記の如く進行表示であるから(第一三〇頁)、(200)段々と線が片よつてしまひつゝあるといふ意で、女と疎遠になつた爲に手入をしてくれるものもなく、※[糸+比]《ヨリ》を生じたことをいふのである。
【大意】風の便も遠々しくなつた我妻が著せてくれた衣に※[糸+比]《ヨリ》が出來た
 
3454 爾波爾多都《ニハニタツ》 安佐提古夫須麻《アサデコブスマ》 許余比太爾《コヨヒダニ》 都麻余之詐西禰《ツマヨシコセネ》 安佐提古夫須麻《アサデコブスマ》【三四五四】
 
庭に立つ あさでこぶすま 今夜だに つまよしこせね あさで小衾
 
にはにたつ 庭に生ひ立つといふ意で、次句アサデの準枕詞として用ひられたのである。
あさでこぶすま アサデはアサヂの訛で、チ(茅)に似て非なる草をいひ、――通例淺茅とかくが、淺は借字で、ア(彼)サ(方)の二語分子より成り、アザムキ(欺)、アザナ(綽名)、アザワラヒ(冷笑)等の如く、すべて正實にあらざることを表示する接頭語である――今ではチバナと稱へる。本集第八卷に茅花〔二字右○〕拔淺茅之原【一四四九】ともあり、チ(茅)即ちカヤ(萱)に比すれば草丈短く、且柔軟なるものなるが故に、小衾(臥裳)に編んで寢具としたのであらう。節四卷【五二一】にも庭立麻手〔四字右○〕刈|干《ホシ》シキ慕フとあるのである。然るに從來アサを麻、手をタヘ(布)の約とし、庭ニ立ツは麻のみにかゝる枕詞なりと説いて居るが、其は枕詞の本質を解せざるものゝ言で、庭ニ立ツが麻の序または比況とならぬことは勿論、修飾としても甚漠然たるもので、麻には限らず他の庭樹乃至作物にも通用し得られるから、枕詞とはならぬのみならず、【五二一】の如(201)く刈干と續ける爲には麻布《アサタヘ》は不都合であるから、此歌に限り麻乎〔右△〕の誤記と強辯したのであるが【考以下】、麻は刈取つたのち水に漬して繊維を抽くもので、之を乾すのは仕上げた後のことであるから刈干とはいへず、麻稈のまゝでは縦ひ干しても小衾にならぬ。
こよひだに ヨヒは本來夜間の義であるから(第六五頁)、コヨヒは此ヨヒ即ち今夜の意、ダニはタダ(唯)ニといふに同じく、せめて今夜でもといふ意味になるのである。
つまよしこせね ツマはツ(連)ム(身)の轉呼で、口語のツレアヒと同じく配偶を意味し、夫妻相互の稱呼であるが、此は良人をいふのである。ヨシは寄の意で(連用形)、今では下二段に活用せられるが、古くは四段活用であつたと見えて、ヨサ〔右○〕ス(ヨスの敬語形)の如くも用ひられたのである。又コセネは願望表示のコソに更に同意のネを連ねて意を強めたもので、八千矛神の歌にも宇知夜米許世泥〔三字右○〕とあり【紀】、本集第九卷にも妻依來西尼〔三字右○〕【一六七九】と用ひた例があるから、良人を寄せてくれといふ意なることは疑がない。舊訓にコサ〔右△〕ネとあるのは、右の九卷の歌によつてコセを令來の義とし(眞淵もさう説いて居る)、ヤラサネ(第八六頁)の例に準じて、ネのみが希望を表示するものと解した爲であらうが、其意ならばヨリ〔二字右○〕來サネといはねばならぬのみならず、本集には西をサの假字に用ひた例はない。
あさでこぶすま 第二句を反誦して意を強めたのである。アサデ(ヂ)小衾に依囑したのは、此寢具を用ひると意中の人に逢へるといふやうな俗信が存したからであるかも知れぬ。せめて今宵は良人を引寄せてくれと小衾に祝しつゝ寢につく閨婦の情痴を寫し出して餘りがある。
(202)【大意】庭に生ひ立つ淺茅(で作つた)小衾よ、今夜《コヨヒ》だに夫を寄せてくれ、淺茅小衾よ
 
(203)相聞 百十二首
 
3455 古非思家婆《コヒシケバ》 伎麻世和我勢古《キマセワガセコ》 可伎都楊疑《カキツヤギ》 宇禮都美可良思《ウレツミカラシ》 和禮多知麻多牟《ワレタチマタム》【三四五五】
 
こひし|け《ク》ば 來ませわがせこ 垣内柳《カキツヤギ》 末《ウレ》つみからし われ立ち待たむ
 
こひし|け《ク》ば 戀シクバといふ意(第六六頁)。
きませわがせこ 來マセ吾|夫子《セコ》ヨ
かきつやぎ カキツはカキ(垣)ウチ(内)の約、ヤギは矢木の謂で、ヤナギ(矢之木)とも稱へられる(第一輯二九八頁)。垣内に植ゑた柳といふ意で、籬の柳の謂【考】【古義】ではあるまい。
うれつみからし ウレはウラ(末)の轉呼で、之を摘ミ枯ラシといふのは新考説の如く人待つ間の手すさびで、其はシダリ柳であつたのであらう。無意識に嫩葉を摘み棄てたことをいふので、カラシといふ語をそへたのは摘ミ荒シといふ程の意味に過ぎず、枯さんが爲に摘んだのではない。眞淵が之を「其柳の末枝を採からして越るにやすからしむ」と説き、雅澄が「奴僕などに令せて柳の末を採(ミ)刈しめ」云々としたのは誤りで、記の應神天皇御製にもはな橘は上枝《ホツエ》は鳥居カラシ下枝は人採カラシ」といふ例があり、紀には後の二句を「下枝らは人皆トリ〔二字右○〕」と敍して居るのである。
(204)われたちまたむ 吾立待タム――此は勿論女の歌で、白樂天の詩に妾弄2青梅1憑2短牆1郎騎2白馬1傍2垂楊1【長慶集】とあるのと趣がよく似て居る。
【大意】戀しくば來たまへ我良人よ、垣内の柳のうら葉を摘み枯して私は待たう
 
3456 宇都世美能《ウツセミノ》 夜蘇許登乃敝波《ヤソコトモヘハ》 思氣久等母《シゲクトモ》 安良蘇比可禰※[氏/一]《アラソヒカネテ》 安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》【三四五六】
 
うつせみの 八十言の|へ《ハ》は 繁くとも 爭ひかねて 吾《ア》をことなすな
 
うつせみの ウツシ(現)ミ(身)の轉呼で、世、人、命等の枕詞としても用ひられるが(第一輯二〇九頁)、此は世人の意に轉用せられたのである。
やそことのへは ヤソ(八十)は多數を意味し、コトノヘは新考説の如く言の葉の謂で、東國に於てはハをヘと訛ることがあつたのである(第六二、一四一頁)。コトノハといふ語例は本集には見えぬので、言ノ上《ヘ》の意【考】又は言ナヒの轉訛【古義】と解したものもあるが、言ノ上としては次句との續合が不穩であり、言ナヒといふ語例は前代未聞で、東國獨特の表現として之をしも許し得べくば、言ノハ〔右○〕といふ語が此當時既に東國に於て用ひられたと認定することも決して不都合ではあるまい。防人歌に言ヒシ古度婆〔右○〕ゾ忘レカネツル【四三四六】とある所を見ると、早くコトバとも約濁して用ひられたものとすべきである。コトバからコトノハといふ語が派生せられたとは語構成法上寿へられぬから、コトノハを以て原語とすべきで、ニ(丹)か(205)らニノホといふ語が生まれたと同樣に、コト(言)の意義は餘りに廣いので、言辭といふ意を明示せんが爲に作られたのであらう。ハには葉、端等の義もあり、ホ(穗)と語原を同うし、本來尖端を意味したものと思はれる。――古語大辭典に於て發表した私見は牽強であつた。
しげくとも 繁クトモの謂で、繁は葉の縁語である。以上三句は世人の口は五月蠅くともといふ意味を美しく敍したのである。
あらそひかねて カネはカテ(克)の語幹カに、打消のネを連ねた動詞であるから(第八五頁參照)、爭に克ち得ず、即ち人言に抗辯し得ずしてといふ意である。
あをことなすな コト(言)ナスは言ヒナスと意に於て變りはないから、我が名をいふなといふ意であらう。古義が「いひ成されて吾名を立しめ〔三字傍点〕給ふな」と解したのは、言ナスを言ナサス〔二字傍点〕と同義と見た爲であらうが、ナスとナサ〔傍点〕スとを同一視することは許されぬ。此は男女いづれの述懷と見ることも出來るが、末句に敬語を用ひて居らぬ所を見ると、男から女に與へた歌と解したい。此當時は男女共に戀愛の秘密の漏れることを憚つたのである。
【大意】現身の(世の)言の葉はしげくとも、爭ひかねて自分(の名)を口にするな
 
3457 宇知日佐須《ウチヒサス》 美夜能和我世波《ミヤノワガセハ》 夜麻登女乃《ヤマトメノ》 比射麻久其登爾《ヒザマクゴトニ》 安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》【三四五七】
 
(206)うち日さす 宮のわがせは 大和女《ヤマトメノ》の 膝まく毎に 我《ア》を忘らすな
 
うちひさす 珍日射スの轉呼(第一輯五三頁)。ミヤ(宮)の枕詞である。
みやのわがせは 此ミヤ(宮)は皇宮をいひ、朝廷に宮仕する我夫といふ意を略して、宮ノ吾|夫《セ》というたのであらう。
やまとめの 大和女ノ
ひざまくごとに 膝枕をする毎にといふ意。ゴトはコト(事)の疊頭語ココトの約濁で、コトゴト(盡)と同義であるが、轉じて毎次の意に用ひられるやうになつたのである。
あをわすらすな ワスラスは忘ルの敬語形で、我を忘れたまふといふ意。ナ〔右○〕は感動詞で、上掲【三三六二】の吾ヲ音シ泣クナ〔右○〕と同一法である(第四〇頁參照)。從來ナを莫〔右○〕の義と解した爲、新考が指摘したやうに前句と不調であるかのやうに感ぜられたのであるが、第二句に我夫ハ〔右○〕とあるから、之を打消の命令法(禁止)と見ることは出來ぬ。若し感動詞ナの代りにモが用ひてあつたら、此やうな疑を生じなかつたであらう。
【大意】宮(仕)の我夫は大和女の膝枕をする毎に自分を忘れ給ふ(であらう)よ
 
3458 奈勢能古夜《ナセノコヤ》 等里乃乎加耻志《トリノヲカヂシ》 奈可太乎禮《ナカタヲレ》 安乎禰思奈久與《アヲネシナクヨ》 伊久豆君麻※[氏/一]爾《イクヅクマテニ》【三四五八】
 
汝《ナ》せの子や とりのをか道|し《ソ》 中たを|れ《リ》 吾《ア》を音《ネ》しなくよ い|く《キ》づくまてに
 
(207)なせのこや ナセは汝夫《ナセ》の謂、コ(子)は愛稱で、汝|夫子《セコ》といふに同じく、ヤは感動詞であるが、記の本岐歌《ホキウタ》の片歌に「汝が御子ヤ〔右○〕つひに知らむと」云々とあると同樣に、ハ〔右○〕とあるべきを省いて其位置にヤを配したのである(要録九五八頁)。
とりのをかぢ|し《ソ》 トリの岡は眞淵説の如く地名とすべきで、古義は和名抄に常陸國鹿島郡下鳥〔右○〕郷とある地を以て之に擬して居るが碓證はない。ヲカヂは勿論岡路の謂で、シはソに通ずる指定助語であるが、兩者用法に多少の相違があるから、此はソの訛と見るべきである。以上二句を口語に引直せば「お前はヨ、鳥の岡路ぞよ」といふ意になるのである。新考は此句及次句を等能〔右△〕乃奈〔右△〕加耻志安耳〔二字右△〕太波〔右△〕禮の誤記としたが、屡々述べたやうに何等の證跡もない右の如き大規模の改竄は許されぬことであるのみならず、我ニタハレ我ヲ音シ泣クヨといふやうな拙い修辭が用ひられたとすれば、恐らくは選に入らなかつたであらう。
なかたを|れ《リ》 タヲレ〔右○〕はタヲリ〔右○〕の訛ではあるまいか。若し然りとすればタヲ(タワ)ヤ女《メ》、タワミ(撓)等の語幹タヲに活用語尾リを連ねた動詞の原形であるが、準名詞として峯のタヲリ(第一輯一七四頁)の如く山脈の鞍部をいふに用ひられるから、鳥の岡路の中タヲリも亦、丘脊に沿うて設けられた道路が中程に於て窪んで居ることをいひ、之を交情の中絶に譬へたのであらう。雅澄が之を岡を繞る道路が岬角に於て屆折することをいふものとし、後朝の別の歌と解したのは、山の側面の凹〔右○〕入をも地方によつてはタヲと稱するからであらうが、折廻《ヲリタミ》即ち凸〔右○〕出部をタヲリとはいはぬやうである。
あをねしなくよ 我ヲ音シナクは自分を泣かせるといふ意(第四〇頁)、ヨは感動詞である。
(208)い|く《キ》づくまてに イクヅクはイキツク(息衝)の訛で、長大息の謂(第一輯一二五頁)。麻※[氏/一]爾はマテ〔右○〕ニと清みて訓むべきで、マデと同義である(第一輯二九頁)。――此歌も格調の爲に四五兩句を倒敍したのである。
【大意】おまへ樣はヨ、鳥の岡路の中窪のやうに中絶して太息《トイキ》をつくまで自分を泣かすよ
 
3499 伊禰都氣波《イネツケバ》 可加流安我手乎《カガルアガテヲ》 許余比毛可《コヨヒモカ》 等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》 等里※[氏/一]奈氣可武《トリテナゲカム》【三四九九】
 
稻舂けば かがる吾《ア》が手を 今夜もか 殿の稚子《ワクゴ》が とりてなげかむ
 
いねつけば 稻舂ケバといふ意。此當時の稻舂は脱穀を目的とし、竪臼に籾を入れて月菟の繪に於て見るやうな手杵を以て搗いたものゝやうで、主として婦人の什事であつたと見え、――今もチャモロ族に於てはさうである(拙著「日本古俗誌」一〇二頁挿繪參照)――播磨風土記揖保郡萩原里の條下にも舂米女〔右○〕に關する記事があり、神樂歌にも稻つく男を嘲つて、「葦原田の稻舂蟹のやおのれさへ嫁〔右○〕を得ずとてやささげてはおろしや、下してはささげや、腕擧《カヒナゲ》をするや」と詠まれて居る。勿論貴女が乎づからする業《ワザ》ではないから、此作者は農家の女子であつたと思はれる。
かがるあがでを カガリはカキ(虧)アリ(有)の連約で、罅裂の義であるが、之に接頭語アを冠したアカガリは手足の龜《キン》を意味し、今もアカギレ〔二字右△〕と訛つて用ひられる。稻舂の爲に龜裂した我が手をといふ意。
こよひもか コヨヒは此夜の意(第二〇五頁)。カは感動詞で今夜モといふのである。
(209)とののわくごが 殿ノ若君ガ(第一七三頁)
とりてなげかむ 執リテ歎カムといふ意。領主の若殿とよい仲になつて居る村孃が、稻つき作業の爲に出來た※[軍+皮]《アカガリ》を、あの方に見られるのが辛いというたので、可憐な歌である。
【大意】稻つけば※[軍+皮]する我手を今夜も殿の若君が執つて歎息せられるであらう
 
3460 多禮曾許能《タレゾコノ》 屋能戸於曾夫流《ヤノトオソブル》 爾布奈未爾《ニフナミニ》 和家世乎夜里※[氏/一]《ワガセヲヤリテ》 伊波布許能戸乎《イハフコノトヲ》【三四六〇】
 
たれぞこの 屋の戸おそぶる にふなみに 吾《ワ》が※[女+夫]《セ》をやりて 齋《イ》はふ此戸を
 
たれぞこの 誰ゾ此《コノ》の謂で、コノは次句屋〔右○〕にかゝる指示代名詞とも了解せられるが、句跨となる嫌があるから、本集第十一卷に誰《タレゾ》此乃吾〔三字右○〕屋戸|來喚《キヨブ》【二五二七】とあり、催馬樂「淺水」に誰ゾコノ仲人立テヽ云々とあると同じく、コノは次句につくのではなく、此ハ誰ゾといふ意を律調の爲に倒敍したのではあるまいか。第一卷に此也是能〔四字右○〕倭ニシテハ我戀ル木路ニアリトフ名ニ負フ勢ノ山【三五】とあるコレヤコノも此ハコレ(ヤは問投詞)の意とすれば歌意が一層明白になる。誰ゾは誰カと同じく疑問表示で、東京の子供は何カ〔右○〕頂戴といふが、關西では何ゾ〔右○〕オクレとねだるのである。強ひて其差異を求めるとなら、ゾを用ひた場合には疑の中にも若干指定の意が含まれるといひ得る(要録一〇〇九頁)。
やのとおそぶる ヤノトは字の通り屋ノ戸の謂で、オソブルはオシ(押)ハフル(放)の約濁であらう。オシ(210)(押)フル(振)の轉呼と見るものもあるが、戸を振ることは有り得ず、震ルハスをフルと表現することも出來ぬ。但し實際押放つといふのではなく、押放たうとするといふ意と解すべきである。
にふなみに 原義はニヒ(新)ハ(菜)ノ(之)アヘ(饗)で、紀は之を約して新嘗をニハノアヒ、嘗をニハナヒと訓して居るから、ニフナミは後者の轉訛と見るべきであらう。ニヒ(新)ナ(食品)アヘ(供饌)の約なるニヒナヘ(新嘗)――訛つてニヒナメ〔右△〕ともいふ――若くは上掲のニヘ(第八二頁)もほぼ同義であるが、語構成に若干の相違がある。後世神嘗と新嘗とに區別せられたけれども、此當時に在つては新果穀を氏神又は産土神に獻じて奉賽することを主目的としたので、其當日は神社に參集して祭典を擧行し、不參者は家に引籠つて戒謹したものゝやうである(第八二頁參照)。
わがせをやりて 吾夫を遣はしてといふ意。ニフナミの祭事の爲に夫が出て行つたといふのである。
いはふこのとを イハフは今では專ら祝福の意に用ひられるが、語幹イは清淨(神聖)を意味するユ(齋)と同語で、ハヒは行爲の意の活用語尾であるから、淨化する若くは神聖にするといふ意の外にイミ(忌)を守ること即ち齋戒するといふ義とも了解せられたのである。イハフものは勿論作者たる女性であるが、齋戒の爲に戸を固く閉して引籠つて居たので、イハフ自分の家の戸をといふ意を以てイハフ此戸ヲとつゞけたのであらう。戒謹をも憚らず侵入しようとしたものは、本夫以外の情人とも了解せられるが、或は上掲の常陸歌と同樣に、可愛い女房の顔が見たさに、夫が祭場から拔けて歸つたのを、其と推察しながらも、尚神の祟を恐れて、よもやニフナミに出て行つた良人ではあるまいというて戒めたのであるかも知れぬ。若し(211)然りとすれば上掲の【三三八六】と一對をなすもので、同じく常陸歌であらう。
【大意】此は誰ぞ、家の戸を押すのは、新嘗に夫を遣つて齋戒する此家の戸を
 
3461 安是登伊敝可《アゼトイヘカ》 佐宿爾安波奈久爾《サネニアハナクニ》 眞日久禮※[氏/一]《マヒクレテ》 與比奈波許奈爾《ヨヒナハコナニ》 安家奴思太久流《アケヌシダクル》【三四六一】
 
あぜといへか 實《サネ》に逢はなくに ま日晩れて 宵|な《ニ》は來なに 明けぬしだ來る
 
あぜといへか アゼは何ゾの約濁ナゾの轉訛で(第五三頁)、何ゾト云ヘ(バ)カの謂であるが、其やうな表現樣式はヤマト語には見えぬから、東國方言とすべきで、第回句の次に移して會得すべきである。
さねにあはなくに サネは略解説の如く實《サネ》の意とすべきであらう(第九一頁參照)。宿をネと訓むのは會意で、本卷の書例によれば正訓の外は音符を用ひることを原則とするのであるが、此は借字ではなく、筆者が此サネを寢の義なりと誤解して用ひたものと思はれる。アハナクニは逢はぬのにといふ意で、新考が奈〔右○〕久爾を末〔右△〕久爾の誤寫としたのは、サネを上掲【三三六六】に準じ、寢の義と解したからであらうが、寢ニ行クといふ意をサ寢ニ逢フと表現することは不可能である。
まひくれて マ(眞)は接頭語、ヒには日と火との兩義があるから、之を冠して日の意なることを明示したので、日暮レテといふに同じく、後といふ語を補うて聞くべきである。
(212)よひ|な《ニ》はこなに ヨヒは夜間の義であるが(第六五頁)、ユフ(夕)とも轉呼せられ、初更の意に用ひられた。ナ〔右△〕ハはニ〔右○〕ハの轉訛で、コナニは大和語の來ズニのズに代へるに打消のナを以てしたものである。新考が之をコナナ〔右○〕の轉呼としたのは、ナナをズシテと同價値なりとする見解に其くものであるが(節一二一頁)、既述の如く其は誤解であるのみならず、此場合は來ズテ〔右○〕ではなく、反接の意を含める爲に特に來ズニ〔右○〕としたのである。
あけぬしだくる シダは時の意で(第四二頁)、明ヌル〔二字右○〕時といふべきを、ルを略したか(第九七頁參照)、若くは終止形を連體法に流用したのであらう(要録九四三頁)。
【大意】如實に逢はないのに、日が晩れて(後)宵には來ずに何といふ譯で明けた頃來るのか
 
3462 安志比奇乃《アシヒキノ》 夜末佐波妣登乃《ヤマサハビトノ》 比登佐波爾《ヒトサハニ》 麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》 安夜爾可奈思佐《アヤニカナシサ》【三四六二】
 
あしひきの 山澤人の 人|多《サハ》に まなといふ子が あやにかなしさ
 
あしひきの 枕詞(第一輯一六九頁)
やまさはびとの ヤマサハは山溪の意(第三一頁)。ヒト(人)とつゞけたのは其地の住人を表示する爲であるが、サハには多《サハ》の義もあるから之に言ひかけ、次句の序を兼ねしめたのである。新考が妣登〔二字右○〕を彌豆〔二字右△〕の誤記としたのは、以上二句を歌意に直接關係のない純然たる序と見た爲であるが、其ではマナトイフの主語が(213)なくなるから、山溪人は實敍とせねばならぬ。
ひとさはに 人多ニアレドモといふべきを略したのか、若くは其意を含めたのであらう。之を大勢ガ〔右○〕といふ意とする新考説は、ニといふ助語のある以上肯定することが困難で、強ひて云へば人ガ多《サハ》ニの謂と解せられぬこともないが、上句の言ひかけによるも、人を以て分節するものとは思はれぬ。前輯にも山跡之|土《クニ》ニ人多ニ滿チテ有レドモ(第一輯一〇〇頁)といふ例がある。
まなといふこが 愛子をマナコ〔右○〕といふので(第一輯三五七頁)、山溪の縁により眞魚の意のマナに言ひかけ、トイフを挿入してマナ〔二字右○〕トイフコ〔右○〕と表現したのである。先學は此語戯を解し得なかつたやうである。
あやにかなしさ アヤはイヤ(彌)と同義、カナシは愛憐の意で(第一六頁)、之にサ(然)を接尾したカナシサは體言ではあるが、尚述語として用ひられる特種の語法である。此は山溪に旅した男が其地で評判の美女に懸想する趣を詠じたのである。
【大意】山溪人が多くの人の中でマナ(眞魚)というてもてはやす其マナコが愈々|可憐《イト》しさよ
 
3463 麻等保久能《マトホクノ》 野爾毛安波奈牟《ノニモアハナム》 己許呂奈久《ココロナク》 佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》 安敝流世奈可母《アヘルセナカモ》【三四六三】
 
ま遠くの 野にも逢はなむ 心なく 里の|み《マ》中に 逢へるせなかも
 
まとほくの 間遠クノ(第一七七頁)
(214)のにもあはなむ ヌ〔右○〕ニモと訓んでもよい。ナムは願望表示のナ(ネに通ずる)に、感動詞モをそへたナモの轉呼で(第一一六頁)、動詞の未然形に接續するが、活用せられることはない。此は野にでも逢へばよいのにといふ意と了解すべきである。
こころなく 心ナク即ち思ひやりもなくといふ意。
さとの|み《マ》なかに サトの原義はサ(榮)ト(處)で、山野に對し聚落をいふに用ひ、轉じて郷里の義となつたのである。ミはマ(眞)に通ずる接頭語で、里の眞中にといふ意である。
あへるせなかも 逢ヘル夫《セナ》哉――此は人目の多い閭里に於て相愛の男に逢ひ、言葉を交はすことも出來なかつたのを遺憾としたのである。
【大意】遠方の野にでも逢へばよいのに、無情にも里の眞中で君に逢うた(ことの口惜しさ)よ
 
3464 比登其等乃《ヒトゴトノ》 之氣吉爾余里※[氏/一]《シゲキニヨリテ》 麻乎其母能《マヲゴモノ》 於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》 和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》【三四六四】
 
人言の 繁きによりて 眞を菰の お|や《ナ》じ枕は 吾《ワ》はまかじやも
 
ひとごとの 人言ノ
しげきによりて 繁キニ因リテ
まをごもの コモ(薦)の材料となる草を總稱してコモ(菰)といふやうになつたのは、スガ疊の材料をスガ(215)(菅)と呼ぶと同樣の轉用である。其中最も普通のものをマ(眞)コモとも稱へるが、種名ではないから、更に接頭語を挿入して、マヲゴモとも稱へたので、鹿をマヲシカともいふ(記の高天原傳説)と趣を同じうする。但しヲには小の義があるので、長大ならざる菰草を意味したと見え、後掲【三五二四】にはマヲゴモの節の短くて云々とあるのである。菰草は右の如く編もの材料とする外に、其莖を束ねて枕に供用したものゝやうで、コモ枕といふ語がタカ(高)の冠辭としても用ひられる。
お|や《ナ》じまくらを オヤジはオナジ(同)と同義で、天智朝の童謠にも見え、本集にも此外に第十七及十九卷に於夜自と假字書した三例があるが、其故を以てオヤジを原語なりと斷定することは出來ぬ。童謠及東歌には訛言もあり得ることであり、右の三例はいづれも大伴宿禰家持の歌で、此作家はウツツ(現)をヲ〔右△〕ツツとしたやうに、獨特の言葉僻があるから、例證とすることは出來ず、同時代の人なる狹野の茅上娘女の歌【三七七三】及大伴宿禰池主の作【四〇七三】には於奈〔右○〕自とあるのである。案ずるにオナジはオ(俺)ナ(汝)シシ(其々)の約濁で、各自の意から同等の義に轉じたのであらう。オヤジは其轉訛で、同じ枕とあるのはコモ(菰)草を束ねた長枕を共にすることをいふものと思はれる。
わはまかじやも マクの原義は卷(纏)であるが、男女腕をさし交へて互に頸に卷いて寢るので、頭首の質《アテ》をマクラ(ラは接尾語)といひ、之を用ひることをもマクといふやうになつたのである。ジは打消の未然形、ヤモは反語表示で、枕とせざらんやといふ意である。
【大意】人言の繁きによつて眞小菰の同じ枕をしないで居られようや
 
(216)3465 巨麻爾思吉《コマニシキ》 比毛登伎佐氣※[氏/一]《ヒモトキサケテ》 奴流我倍爾《ヌルガヘニ》 安杼世呂登可母《アドセロトカモ》 安夜爾可奈之伎《アヤニカナシキ》【三四六五】
 
高麗錦 紐とき放《サ》けて 寢《ヌ》るが上《ヘ》に あどせ|ろ《ヨ》とかも あやにかなしき
 
こまにしき ニシキ(錦)は虹絹《ニジキヌ》を意味し、色彩の絢爛たることを虹に況へたので、――キヌ(絹)を略してキとのみ稱へることはカヒキ〔右○〕(甲斐絹)、ツムギ〔右○〕(紡絹即ち紬)等の例がある――高麗國から渡來したもの若くは其を模したものは特に精巧であつたが故に、コマ錦と呼ばれて珍重せられたのである。上古衣の紐(第三八頁)に錦を用ひたことは、允恭天皇の御製にササラ型錦の紐【紀】とあるによつても明であるが、東國の民衆も一股に此貴重品を使用したかは疑問とすべきで、此外にも本集第十、十一、十六卷に狛(高麗)錦紐とつづけた數例がある所を見ると、恐らくは枕詞として用ひられたのであらう。
ひもときさけて 上に引用した允恭紀の御製にも錦ノ紐ヲ解キサケテ〔三字右○〕とあり、サケは放の意の他動詞で、同衾に臨み脱衣する爲に紐を解き放ちてといふ意である。
ぬるがへに 寢ルガウヘ(上)ニの急呼である。後掲【三四七九】にも逢ハスガヘと用ひた例がある。此は末句につゞくものと了解すべきである。
あどせ|ろ《ヨ》とかも アドはナドの訛で何トといふ意(第五三頁)、セロはセヨに同じく、今も起キロ、見ロ、爲ロの如く用ひられる。トカはト云フ歟で、モは感動詞である。
(217)あやにかなしき 上掲【三四六二】の末句と同意で、唯サをキに代へ、其下にハといふ助語を含めたことを異りとする。此は前句と倒敍せられたものと了解すべきである。
【大意】(衣の)紐を解き放ちて寢ても尚可愛さの彌益さるのは何とせよといふのか
 
3466 麻可奈思美《マカナシミ》 奴禮婆許登爾豆《ヌレバコトニヅ》 佐彌奈敝波《サネナヘバ》 己許呂乃緒呂爾《ココロノヲロニ》 能里※[氏/一]可奈思母《ノリテカナシモ》【三四六六】
 
まかなしみ 寢《ヌ》れば言に出《ヅ》 さ寢なへば 心の緒ろに のりて悲しも
 
まかなしみ 既出(第三二頁)
ぬればことにづ 寢レバ言ニイヅ(出)の急呼。言ニイヅは言葉に現はれるといふに同じく、人の口にかゝることを意味する。
さねなへば サは接頭語、ナヘはナフ(第六五頁)の已然形で、大和語の打消ネに相當するから、寢ネバといふ意になるのである。
こころのをろに 心ノ緒ニといふ意(ロは接尾語)。息《イキ》の緒〔右○〕(第一輯一一七頁)、靈《タマ》の緒〔右○〕と同じく、心魂氣魄を繋ぐ無形の緒が存するといふ觀念に基いて添加したもので、漢語の心緒〔右○〕情緒〔右○〕等とは趣を異にし、單にココロ(心)といふと同義に用ひられたのである。
のりてかなしも 心ニ乘ルは此當時の慣用句で、相手の心が自分の心に乘り移るといふ意味である(第一輯一(218)七三頁)。カナシは上述の如く愛憐の意、モが感動表示なることはいふ迄もない。
【大意】眞にいとしと思うて相寢ると(人の)言葉に出る。逢はねば(自分の)心に乘り(移つ)て可憐《イト》しい
 
3467 於久夜間能《オクヤマノ》 眞木乃伊多度乎《マキノイタドヲ》 等杼登之※[氏/一]《トドトシテ》 和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》 伊利伎是奈左禰《イリキテナサネ》【三四六七】
 
奥山の 眞木の板戸を とどと《オシ》して 吾が開かむに 入來て寢《ナ》さね
 
おくやまの 奥山ノといふ意であるが、此は眞木の枕詞として用ひられたのである。
まきのいたどを マキ(眞木)はソマキ(杣木)其他の雜木に對し建築用材たる樹木を意味し(第一輯七六頁)、檜も勿論之に含まれるから、其枕詞を眞木サク(榮處)または眞木ムク(茂處《モク》)ともいふのである。後世は專ら羅漢松屬の名稱とし、槙といふ國字すら出現したのであるが、此は恐らくは檜の板戸の謂であらう。此當時は尚蓆戸または簀戸を常用としたものゝやうであるから、板戸の設けがあつたとすれば上流の住宅を意味したものとせねばならぬが、奥山といふ語を以て人氣の少いことを聯想せしめ、其縁によつて眞木の板戸といひ、更にトドトシテといふ句を導いたのであるから、或は言葉の文で必しも板戸を用ひて居たのではないかも知れぬ。
とどと《オシ》して トドは擬聲語(第八一頁)、トシテは新考説の如くト押《オ》シテの急呼であらう。上掲【三四五一】には(219)ソトモオ〔右○〕ハジをソトモハジ〔三字傍点〕というた例があり、此も上に同韻が三つも續いて居るので、オを省いたものと思はれる。第十一卷に馬音之跡杼〔二字右○〕登毛|爲者《スレバ》【二六五三】といふ例があるから、此もトドト爲《シ》テと解すべしといふものもあるかも知れぬが、其は副詞的に用ひたので、トドトモを省いても意が通ずるに反し、此場合は板戸ヲシテと云へず、音たてたといふ意を表現する爲には、少くともトドとサセテ〔三字右○〕といはねばならぬから、一律に論ずることは出來ぬ。此は屋内の女が音たてゝ板戸を押開いたといふことで、誰憚るものが無いといふ意に外ならす、男のしわざとする説【考】【新考】は誤解である。
わがひらかむに 吾ガ開カムニ。助語のニは順の接續詞として用ひられたので、開かうからといふと大差はない。
いりきてなさね 入り來て寢たまへといふ意。ネ(寢)は本來四段活用であつたから、その敬語形はナシで、願望表示のネは之が未然形ナサに連なることを原則とし、記の沼河日賣の歌にもイはナサムヲとあるのである。
【大意】眞木の坂戸をトドロと押して自分は開かう。入り來て寢たまへ
 
3468 夜麻杼里乃《ヤマドリノ》 乎呂能波都乎爾《ヲロノハツヲニ》 可賀美可家《カガミカケ》 刀奈布倍美許曾《トナフベミコソ》 奈爾與曾利鷄米《ナニヨソリケメ》【三四六八】
 
山鳥の 尾ろのはつをに 鏡かけ となふべみこそ 汝によそりけめ
 
(220)やまどりの 和名抄には山鷄を夜萬土利と訓し、形如2家※[奚+隹]1とあり、本草和名には此鳥有2美釆1、終日映v水、目眩而溺死と説き今も山鳥と稱へ、雉に似て尾の長さ三四尺に達するものである。
をろのはつをに ヲロのロは例の虚辭的接尾語で、ヲは尾の謂である。此はハツヲといふ語を導く爲の短い序、ハツは今では專ら初始の義と了解せられて居るが、原語はホ(秀)に連繋助語ツを添へた接頭形語分子で、フト(太)及ホテ(最手)といふ語をも分派し、時としては相通じて用ひられ、ハツセの如きも太瀬即ち大溪を意味し、長谷とも書くのである。さればハツヲは其長い尾羽中の最〔右○〕なるものゝ謂であると同時に、太《ハツ》緒に言ひかけたので、其は鏡を懸吊する太い紐のことである。先學此意を察せず、一筋に尾をいふものとのみ了解した爲、この歌を釋きなやんだやうである。
かがみかけ 太緒を以て鏡(ヲ)懸ケといふ意。何處にかけたか明示せられて居らぬが、此は身邊の装飾をいふものゝやうであるから、多分頸から垂下したのであらう。鏡は姿を寫す爲のものであるが、上代に於ては貴重品とせられたから、玉と共に神幣に供せられ(第一輯一三五頁)、日本武尊は東征の際、御座船に大鏡を掛けられたとある【紀】。之と同樣に小鏡を陶にかけて装飾としたことは極めて有り得べきで、確證はないが東人の風俗であつたかも知れぬ。若し然りとすれば其目的の一半は異性を魅惑することにあつたと想像せられ、山鷄の雄が羽毛の美を以て雌を誘引すると趣を同じうするが故に、山鳥の尾ロを以て序としたので、詩的情趣に富んだ極めて巧妙なる敍述といはねばならぬ。從來上句の誤解に累せられて之を明にしたものはなく、契沖は劉敬叔の異苑といふ書に、魏武の時南方から貢獻した山鷄を鳴舞せしめんが爲に、(221)大鏡を前に置いたら、己が姿の寫るのを見て舞ひ止まずして斃死したとある故事を引いて説明し、或は鏡を以てハツ尾のよく光ることに譬へたものと見、此鳥の習性に關する俗説と結びつけて論じて居るが【宜長】【雅澄】、條理が立たぬので、新考はカガミをカケアミ(掛網)の約言とし、以上三句は次のトナフ(捕フの訛とす)の序なりと斷定したが、鏡は勿論掛網にしても尾〔右○〕にかけたとは思ひも寄らぬ。
となふべみこそ トナフの語幹はト(音)で、ナフは活用語尾であるから、原義はオトナヒ(訪)と同一であるが、下二段に活用して稱(唱)の義とし、コトムケ(言向)が平定の謂に用ひられると同樣に、馴致の意を以て徇の字の訓とするやうになつたから、此句に於ても亦女性を懷柔するといふ意味に此語を用ひたのである。ベミは可シと兒ル(思フ)といふことで、コソは強意の指定であるから、靡かせようと思うてといふ意と了解すべきである。宣長が紹介した或人の説に、トナフをトラ〔右△〕フ(捉)の訛としたのは、上二句を出鷄捕擒の光景と誤解したからで【略】、新考がトラフ説を繼承したのも、カカミを掛網の謂と説いた結果であるから、問題にならぬ。
なによそりけめ ヨソリは上記の如く寄セアリの約で(第一二二頁)、此は身を寄せることをいひ、ケメといふ已然形を用ひたのは反接の意を寓する爲であるから、汝に寄りそうて居たらうが〔右○〕と譯すべきである。此は戀の勝利者の歌で、或女性の歡心を求めようとし、物々しく装を凝してつきまとうたが、遂に目的を達し得なかつた男を嘲つて、其女によみ與へたものと思はれる。山鳥は上に引いた本草和名の説の如く、水に寫つた己が姿に見とれて溺死することがあるとせられたから、之に況へて、自惚の強い男が女の意中が既(222)に他に傾いて居ることを知らずに、思ひつかれようと苦心して居る愚さを罵倒したので、相手の女も此歌を聞いて定めて破顔微笑したであらう。事實を詠じたのであらうが、興趣のある題材で、歌詞もよく洗練せられて居る。
【大意】山鳥のやうに、太い緒に鏡をかけて(著かざり)、靡かせようと思うて汝に寄り添うて居たのであらうが
 
3469 由布氣爾毛《ユフケニモ》 許余比登乃良路《コヨヒトノラロ》 和賀西奈波《ワガセナハ》 阿是曾母許與比《アゼゾモコヨヒ》 與斯呂伎麻左奴《ヨシロキマサヌ》【三四六九】
 
夕|占《ケ》にも 今夜とのら|ろ《ル》 吾《ワ》がせなは あぜぞも今宵 夜|しろ《スラ》來まさぬ
 
ゆふけにも ユフケは暮夜衢に出でゝ或るケ(兆)を捉へ、之によつて卜占することをいひ、所謂辻占の起原である(第一輯二七六頁)。
こよひとのら|ろ《ル》 コヨヒは今夜の意(第二〇一頁)、ノラロ〔右△〕は宣ラル〔右○〕の轉訛で、ル〔右○〕をロ〔右△〕と訛つた例は本卷には少くはない(卷末訛音表參照)。夕卜《ユフケ》が宣ルといふ意を受動法を以て表示したのである。
わがせなは ワガセは吾夫の謂で、ナが接尾語ラの轉訛と思はれることは既述の通りである(第六五頁)。
あぜぞもこよひ 何ゾの約ナゾも亦アゼと轉訛せられるから、更に指定助語ゾを添へることは重複のやうに感ぜられるが、此は何トの約ナドの訛で(第五三頁)、ゾモ(モは感動詞)は次句末につくべきものを引上げ(223)たのである。されば此は何故今夜といふ意と釋すべきである。
よ|しろ《スラ》きまさぬ ヨシロは夜スラの訛であらう。兒ラをコロ〔右△〕(第一六頁)、夫《セ》ラをセロ〔右△〕(第六五頁)ともいふやうに、ラをロ〔右△〕と訛るのは東國の常で、スラのスは本來シ(其)の轉呼であるから、シロと稱へたとしても敢て怪しむに足らぬ。之を倚《ヨリ》【考】、依《ヨシ》ロ【古義】、ヨソリ【新考】の訛とすることは無理で、今夜すら來給はぬゾといふ意を、今夜夜スラと同語を疊んで強く表現したのである。
【大意】夕占にも今夜(來る)とあらはれたのに、何故に今夜すら來たまはぬぞ
 
3470 安比見※[氏/一]波《アヒミテバ》 千等世夜伊奴流《チトセヤイヌル》 伊奈乎加母《イナヲカモ》 安禮也思加毛布《アレヤシカモフ》 伎美末知我※[氏/一]爾《キミマチカテニ》【三四七〇】
 
逢ひ見てば 千年やいぬる 否諾《イナヲ》かも 吾《アレ》やしか思《モ》ふ 君待ちかてに
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
あひみてば 逢見テヨリハといふ意。ヨリ〔二字右○〕を略したのは異例であるが、ヲハを約濁してバとするのは常のことで、ニハを略して單にハともいひ、ニヨリテをニテと略稱し(要録一〇〇一頁)、有ラジ其ヨリ〔三字右○〕ハといふ意をアラズバとも表現する所を見ると、決してあり得ぬことではない。
ちとせやいぬる 千歳ヤ去ヌル
いなをかも イナヲのヲ(諾)は添辭で、單にイナ(否)の意なることは既述の通りである(第一六頁)。但し此(224)カモは疑問助語で、逢見て以來千年も過ぎたカ否カといふ意と思はれる。
われやしかもふ ヤは間投詞で、我(ハ)然思フといふ意(第二〇七頁參照。從來之を疑問句と解して居るが、上句と重複する嫌があるのみならず、自分はさう思ふというたものとする方が哀が深い。
きみまちかてに 我〔右○〕※[氏/一]といふ濁音假字が用ひられて居り、ガタ(難)ニの轉訛と見ることも可能であるが、上掲【三三八八】の例に準じ、カテニ即ち不克(不得)の謂と解すべきであらう。清濁音符を流用した例は本卷には少くはないのである。君を待ち迎へ得ずして自分は千年も過ぎたやうに思ふといふ意とすれば、此歌は容易に會得せられるのである。
【大意】逢見て以來千年も過ぎ去つたか否か。自分は其やうに思ふ。君を待ち(迎へ)得ず(して)
 此歌は第十一卷の正述心緒中にも見え【二五三九】、其には何等の注記も施されて居らぬが、出典を同じうすることは疑なく、恐らくは本注の如く人麻呂集所載の東歌であつたのであらう。イナヲカモは東國方言と思はれる。
 
3471 思麻良久波《シマラクハ》 禰都追母安良牟乎《ネツツモアラムヲ》 伊米能未爾《イメノミニ》 母登奈見要都追《モトナミエツツ》 安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》【三四七一】
 
しまらくは 寢つつもあらむを 夢のみに もとな見えつつ 我《ア》をねしなくる
 
(225)しまらくは 暫時はといふ意。今では專らシバラクといふが、語根シバの原語はシ(密接の意の原語)とマ(間)との複合語で、シミと轉呼しては繁密の意に用ひられ、形容詞シマ(バ)シは寸間の意を表示し、複語尾ラカの轉呼ラクを連ねてシマ(バ)ラクといふ語を派生したのである。
ねつつもあらむを ツツは行爲の反復を表示する助語で、ネ(寢)は此場合睡眠を意味し、眠り眠りてもあらうものをといふのである。
いめのみに イメはユメともいひ、原語はヨ(夜)メ(目)であるが、夜間睡眠中に見るといふ意を以て夢の義を生じたのである。其故に夢ヲ見ルといふことを夢ニ〔右○〕見ルとも稱へるので、古語法に於てはノミは助語ニに先行することを例としたから、夢にばかりといふことを夢ノミニと表現したのである。
もとなみえつつ モトナは徒ニ又は無益ニといふ意味の古語で(第一輯一一七頁)、ミエツツは見エ見エの謂である。徒に夢にのみ繰り返し見えといふ意。
あをねしなくる 我を泣かせるよといふに同じい(第四〇、四一頁)。
【大意】暫時は眠り眠つてもあらうものを徒に夢にのみ見えつゝ自分を泣かすよ
 
3472 比登豆麻等《ヒトヅマト》 安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》 志可良婆加《シカラバカ》 刀奈里乃伎奴乎《トナリノキヌヲ》 可里※[氏/一]伎奈波毛《カリテキナハモ》【三四七二】
 
(226)人妻と あぜかそを言はむ しからばか 隣の衣を 借りて著なは|も《ム》
 
ひとづまと 人妻ト即ち他人の妻とといふ意。
あぜかそをいはむ 何故に云はうやといふ意味で、懸想した女は既に定まつた男をもつて居るから、戀したとて無益であると人の諫めたのに對し、人の女房であるからとて其を問題とする必要はないと理窟を捏ねたのである。
しからばか 然ラバといふ意。カは契沖説の如く疑問助語として末句に移して會得すべきである。
となりのきぬを 隣(人)ノ衣ヲ
かりてきなは|も《ム》 モはムの訛で、ナハムは東國の打消ナフの未來格であるから、借りて著ざらんといふ意である。人妻の故を以て戀してならぬといふならば、隣人の衣を惜りて著ぬたらうか、否借衣は妨なしとせられて居るのに、人妻を借りられぬ法はないといふので、著物と女房とを同一視した甚亂暴な論理であるが、東人らしい眞率さが見えて面白い歌である。
【大意】人妻と何故に其をいはうや。然らば隣の人の衣を借りて著ぬだらうか
 
3473 左努夜麻爾《サヌヤマニ》 宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》 等抱可騰母《トホカドモ》 禰毛等可兒呂賀《ネモトカコロガ》 於由〔左△〕爾美要都留《オモニミエツル》【三四七三】
 
佐野山に うつや斧音《ヲノト》の 遠か《ケ》ども 寢も《ム》とか子ろが おも〔右○〕に見えつる
 
(227)さぬやまに サヌは諸國にある地名であるから斷定を憚るけれども、此は上掲上野歌に左野乃九九多知と詠まれた地で(第一一七頁)、今の下野國安蘇郡佐野町附近の山丘をいふのであらう。
うつやをのとの ヤは間投詞、ヲノトは斧音の謂で、佐野山に於て丁々と木を伐る斧の音が遠く聞えるといふ目前の事實を以て次句の序としたのである。
とほ|か《ケ》ども トホカは遠ケの轉呼で(第七七頁)、遠ケドモ〔三字右○〕は後世の遠ケレドモに相當する。女の家が作者自身の所在から遠いけれどもといふ意である。
ね|も《ム》とかころが ネモは上例と同じく寢ムの訛で、コロは屡々述べたやうに兒(ロは接尾語)から轉じて、女之子就中情婦又は妻の謂に用ひられたのである。念が叶うて彼女が寢ようといふのかといふ意と了解せられる。
おも〔右○〕にみえつる 於由〔右△〕は意をなさぬから、眞淵説の如く於母〔右○〕の誤寫とすべきで、面影に見えるといふことであらう。新考は由を面〔右△〕と改めてオメと訓み、イメ(夢)の訛としたが、第三卷【三九六】に「陸奥の眞野の草《カヤ》原遠ケドモ面影にして見ゆとふものを」とあると趣が似て居るから、此も面影が髣髴せられるといふ意と思はれる。
【大意】佐野山に木を伐る斧の音のやうに遠いけれども、寢ようといふのか、かの女が面影に見える
 
(228)3474 宇惠多氣能《ウヱタケノ》 毛登左倍登與美《モトサヘドヨミ》 伊低※[氏/一]伊奈婆《イデテイナバ》 伊豆思牟伎※[氏/一]可《イヅシムキテカ》 伊毛我奈藝可牟《イモガナゲカム》【三四七四】
 
殖竹の もとさへどよみ 出でゝいなば いづ|し《チ》向きてか 妹が歎かむ
 
うゑたけの 上記上野歌の宇惠古奈宜【三四一五】と同じく、植ゑたる竹の謂で、野生のものでないことを示し、前栽を想起せしめる爲、特に此語を用ひたのである。
もとさへどよみ 本サヘ鳴響《ドヨ》ミといふ意。此は慌しい出發の譬喩で、上を下への混雜故、前栽の木竹もどよめいたといふのである。
いでていなば 出テ去ナバ即ち出發するならばといふ意。突發的の要務または不意の官命等のため、旅装もそこそこに出て行く有さまを敍したのである。
いづ|し《チ》むきでか イヅシはイヅチ〔右○〕(何方)の轉訛で(卷末訛音表參照)、東國ではチをシと發音したと見え、本卷及防人歌には其例が少くはない。何方向きてかといふ意。
いもがなげかむ 奈藝とあるにより眞淵はナギと訓み、雅澄は元暦校本に從うて奈氣と改記した。本集には藝をゲの音符に用ひた例はないが、氣をキの假字とした除外例があるやうに、藝も亦漢音によつてゲと訓み得られぬことはない。いづれにして舊訓に從ひナゲ〔右○〕カムと訓むべきである。突然の別離に途方にくれたイモ(妻)が何方を向いて歎くであらうかといふ意である。此二句は上掲【三三五七】の駿河歌にも見える。
(229)【大意】前栽の竹の本までどよめき(自分)が出て行つたなら、何方に向うて妻が歎くであらうか
 
3475 古非都追母《コヒツツモ》 乎良牟等須禮杼《ヲラムトスレド》 遊布麻夜萬《ユフマヤマ》 可久禮之伎美乎《カクレシキミヲ》 於母比可禰都母《オモヒカネツモ》【三四七九】
 
戀ひつゝも 居らむとすれど ゆふま山 かくれし君を 思ひかねつも
 
こひつつも 戀ひ戀ひても即ち戀ながらさてもといふ意。
をらむとすれど 居ラムは在らむといふに同じく、上句を受けてさても在らむとすれどといふのである。契沖説の如く堪へて居らむとすれどと解してもよいが、口語に譯すれば戀ひしたひながらかうして〔四字右○〕居ようとすれどもとなるのである。
ゆふまやま アサマ(淺間)山といふ名稱もあるから、ユフマ山も實在地であつたかも知れぬが、所在を詳にせず、少くとも此歌並に本集第十二卷の木綿間山【三一九一】は理想の地と見て差支はない。ユフは豐後國速見郡の郷名山名【風土記】を始め、下總の結城郡結城【和】、本集第五卷の結石《ユフシ》山(對馬)及第七卷の結八川(大和か)の如く地名に用ひた例が少くはなく、常陸國那賀郡の※[日+甫]時臥之山【風】も或はユフ〔二字右○〕シと稱へたのかも知れぬが、その語義については末だ確説がない。豐後の柚富郷は風土記に此郷之中栲樹多生、常取2栲皮1以造2木綿1、因曰2柚冨郷1と説明せられて居るが、それはタクといふ語に充てられた拷〔右○〕を樹名と誤解し、ユフ(タフ)と栲(アフチ)とを混同した説であるから、後人の附會と見るべきで、結城といふ地について古(230)語拾遺に穀木所v生、故謂2之結城郡1とあるのも疑問である。假にカチ(穀)をユフとも稱へたことがあつたとしても、ユフ木〔右○〕と用ひた例のない所を見ると、他に命名の所由を求めねばならぬ。近ごろ世に公にせられた山村語彙(柳田國男著)によれば、會津及東蒲原地方では岩石の多い溪谷をユウ〔二字右○〕といひ、八丈島でも岩窟をヨウ〔二字右○〕と稱へるといふことであるから、或は右の如き意味を有するユフといふ古語が存したのかも知れぬ。上記の柚富峯にも頂有2石室1其深一十餘丈、高八丈四尺、廣三丈餘云々とあるから、此石窟によつて名を負うたことも有り得べきで、山名から郷名に轉じたと推定しても差支はあるまい。若し然りとすれば、マは地區の謂で、岩窟地區のある山をユフマ山と稱へたのであらう。岩窟は死體を收※[歹+僉]するに適するのみならず、ユフといふ語は本來夜間の意で(第六五頁)、夜間は靈魂の世界であるから、ユフマ山に隱れたといへは死去の義と了解せられるのである。されば新考説の如く句末に助語ニを補うて會得すべきである。
かくれしきみを 隱レシ君ヲ
おもひかねつも 思ひに堪へかねるといふ意で、後掲【三四八一】と同じ歌を、第四卷には末句の思ヒ苦シモを思金津裳と改めて掲載し【五〇三】、其他【二四二五】【二八〇二】【三五二八】【三六七八】【四四七九】等にも思ヒカネ、思ヒカネツ(モ)、思ヒカネテが同じ意味に用ひられて居る。
【大意】戀ひながら(さて)も在らんとおもへど、ユフマ山に隱れた君を(思ふ)念ひ(に堪へ)かねたよ
右の如く此は明白なる哀悼歌で、相聞中に編入したのは編者の誤解に基くものであらう。
 
(231)3476 宇倍兒奈波《ウベコナハ》 和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》 多刀郡久能《タトツクノ》 奴賀奈敝由家婆《ヌガナヘユケバ》 故布思可流奈母《コフシカルナモ》【三四七六】
 
或本歌未句曰、努我奈敝由家杼《ヌガナヘユケド》 和奴賀由〔二字左△〕乃敝波《ワヌユカノヘバ》
 
うべ兒な《ヲ》は わぬに戀ふ|なも《ラム》 立|と《ツ》つ|く《キ》の ぬ《ナ》が|な《ラ》へ行けば(ぬ《ナ》が|な《ラ》へ行けど) 戀|ふ《ホ》しかる|なも《ヲム》(わぬゆか|の《ナ》へば)
 
うべこ|な《ラ》は ウベはペシ(可)の語幹ベの鼻音化で、mbeの如く發音し、當然といふ意の副詞として用ひられたものゝやうである。さればこそ平安朝に於てはムベと表記せられ、本集にもナベnabeといふ語が同樣の意味に用ひられて居るのである。コナ〔右○〕は兒ラ〔右○〕(第一六頁)の轉で、夫《セ》ラを夫ナ(第六五頁)といふと趣を同じうし、本來子の意であるが、妹と同じく意中の女性をいふにも思ひられるのである。
わぬにこふ|なも《ラム》 ワヌはワ(吾)ナ(汝)の轉呼で、本來は自他稱inclusive first personであるが、同じ意味を宥するオ(我)ノ(汝)が第一人稱に用ひられると同樣に、ワレ(吾)の義に轉用せられたのであらう。――但し防人歌の和努〔二字右○〕等里都伎弖【四三五八】のワヌは吾《ワ》ニの訛で同音異義である――コフナモ〔二字右○〕は戀フラム〔二字右○〕の訛で、ラをナと發音した例は上句の外にも少くはなく、ムも亦屡々モと轉呼せられて居り(卷末訛音表參照)、ラ・ム兩語音共に訛つた例も後掲【三五二六】【三五六三】に見える。之を要するに以上二句は當然彼女は我に戀するだらうといふ意と丁解せられる。
(232)た|と《ツ》つ|く《キ》の タツ(立)ツキ(月)ノの訛
ぬ《ナ》が|な《ラ》へゆけば(ぬ《ナ》が|な《ラ》へゆけど) ヌガナヘはナガラヘの轉訛で、集中には流相、流歴、流經等の字を充てて居るけれども、本來ナガ(長)の名詞形ナガラから出た語で、ナガレ(流)とも活用し、更にハヘ(延)を連結してナガラヘとしたものと思はれる。されば生存の意の外に流の義にも用ひられ、事物の移り行くことをもいふのである。殊に此は行くといふ語が連用せられて居るから、「空澄む月の影ぞナガルル」【源氏】と同樣に、太陰の空を渡ることを意味したので、歳月の經過をいふのではあるまい。行ケバは行くが故にといふ意であるが、或本の歌の如く行ケドとすれば、逆歸結を導く前提句となり、僅に一音の差に過ぎぬが、全然話法を異にする。
こ|ふ《ホ》しかる|なも《ラム》(わぬゆか|の《ナ》へば) コフシはコヒ(戀)シの訛とも了解し指られぬことはないが、古語ではコホシといひ、本集第五卷にも古保〔右○〕志枳、故保〔右○〕斯苦の如く假字書せられて居るから、恐らくは其轉であらう。ナモは上記の如くラム〔二字右○〕の訛で、戀しからうといふ意である。第二句を反誦することは古歌に例の多い一格であるが、其場合には全然同一表現を用ひてワヌニコフナムとすべきで、多少言ひかへた爲に却つて重複の感を與へた嫌がある。其故に或本の歌は前句を反接條作とし、此句を和奴賀由〔二字右△〕乃敝彼と改めたので、眞淵は由の下に可の字脱としたが、標準語音數を無視してまで助語ガを挿入する必要を認めぬから、姑く宣長説に從ひ賀由の二字は上下顛倒として【略解】ワヌユカノヘバと訓して置く。ノヘはナヘの轉呼で、東語獨特の打消助動詞ナフの已然形であるから、我行カネバといふ意になり、上句|我《ワヌ》ニ戀フラムの理由表示で(233)ある。語法からいへば此傳の方を可とすべきであるが、其故を以てこれを原歌なりと斷定することは早計で、即興の歌とすれば稚拙のものが却つてもとの形であつたかも知れぬ。いづれにしても此歌は、女と約束しながら或事情の爲に往訪し得なかつた男が、深夜月に對して、彼女もさぞ待ち焦がれて居るだらうと思ひやつて詠じたものとすべきである。
【大意】必然彼女は自分にこがれて居るだらう。立ち上る月が移り行けば戀しからう。(或本歌)月は移り行けど自分が訪ねて行かぬから(必定彼女は自分に焦がれて居るだらう)
此は本卷中最も訛言の多い歌で、十音(或本の歌は八音)を算するが、必しも殊更に訛音を以て詠ぜられたのではなく、傳誦者の轉訛僻によるものであつたかも知れぬ。卷中最も訛言の多いのは上野歌であるから、或は此も其一つではあるまいか。
 
3477 安都麻道乃《アヅマヂノ》 手兒乃欲婢作可《テコノヨビサカ》 古要※[氏/一]伊奈婆《コエテイナバ》 安禮婆古非牟奈《アレハコヒムナ》 能知波安此奴登母《ノチハアヒヌトモ》【三四七七】
 
あづま路の 手兒のよび坂 越えていなば 我《アレ》はこひむな 後は逢ひぬとも
 
あづまぢの
てこのよびさか}  前出(第一七九頁)
(234)こえていなば 越エテ去ナバ即ち越えて行かばといふ意。
あれはこひむな 我は戀ヒムといふ意で、ナは感動詞である。
のちはあひぬとも アヒヌは契沖説の如く相寢の謂で、第十二卷にも相宿友【三一九〇】、會宿友【三二〇三】といふ用例がある。之を逢ヒの完了時格としては、ノチ(後)ハといふ副詞と抵觸し、上句戀ヒムとも時格が調和せぬので、逢なむ〔二字右○〕なれども【古義】、逢フトモ【新考】の意とも説かれて居るのであるが、逢ヒヌと逢フとを同意とすることは不可能で、ヌは雅澄のいふが如くナに通ふことが有り得るとしても、アヒナムを略してアヒナとすることは出來ぬ。――逢ハナムの意を逢ハナと表現することのあるのは、此ムが感動詞モの轉呼なるが故で、此例に適用すべきでない――右の如き牽強を敢てしたのは、此歌を以て「此も防人の別か、三年にて歸れば也」とした眞淵説に捉はれた爲らしく、三年後のことをいふものとすれば相寢〔二字右○〕は聊か過度と考へたからであらう。さりながらイナバは實際に手兒の呼坂を越えたことをいふのではなく、假設條件に過ぎぬのであるから、恐らくは坂の彼方に住む女から呼び出しをうけ、之に應ずることの出來ぬ事情が存したのを此やうな形式を以て表現したのであらう。後刻相寢るにしてもヨビ坂といふ名の聯想から戀ひ焦がれるであらうといふので、此歌に於てもテコといふ序がよく利いて居る。
【大意】東路(東國)の呼坂を越えて行くならば自分は戀しくなるだらう。後刻相寢るにしても
 
(235)3478 等保斯等布《トホシトフ》 故奈〔左△〕乃思良禰爾《コシノシラネニ》 阿抱思太毛《アホシダモ》 安波乃敝思太毛《アハノヘシダモ》 奈爾己曾與佐禮《ナニコソヨサレ》【三四七八】
 
遠しとふ 越〔右○〕の白嶺に 逢ほ《フ》しだも 逢は|のへ《ナフ》しだも 汝にこそよされ
 
とほしとふ 遠シト云フ(第七九頁參照)。
こしのしらねに 原文に從へばコナ〔右△〕で、地名と思はれるが、今も知られて居るのは伊豆國田方郡川西村大字古奈のみである。此地は東鑑にも見え、現に温泉を以て有名であるが、其附近にはシラネと呼ばれる山はなく、遠シトフといふ修飾も意をなさぬから、古義説の如く奈〔右△〕は志〔右○〕の誤記で、古志の白嶺即ち加賀の白山を意味するのであらう。東國ではないが、作者がアヅマ人で、且東國に於て傳承せられたとすれば、アヅマ歌というても差支はなく、下にも「たく衾白〔右○〕山風の寢なへども」云々といふ歌がある【三五〇九】。若し然りとすれば作者の郷國とは遠く距つて居るから、遠シトフといふ修飾語を用ひたことも有り得べきで、八千矛神の歌に遠々シ故志ノ國【紀】とあると同じ趣であるが、なほ人里通しといふ意をも寓したものと思はれる。故あつて其地に假寓した東國人が白山比※[口+羊]神社の祭日に、其地の女子と一夜の契を結び、後日此歌を寄せたものではあるまいか。此山にも※[女+燿の旁]歌會《カガヒ》が存したことは有り得べきである。新考は爾をノ〔右△〕と訓み、以上二句を序と見なしたが、其は上掲【三四一五】に伊可保乃奴麻爾〔右○〕とある句の誤釋に基くもので、ノを爾と表記すべき理由もなく、其自認の如く序としての繋りが覺束ない。宣長が見ゆる日と見えぬ日とがあるのを逢ふ日と逢はぬ日と有に譬へたりと説いたのも【略】謂れのないことで、如何に古歌なればとて白山ヲ(236)見ル時といふ意を白嶺ニ逢フシダと表現したとは思はれぬ。
あ|ほ《フ》しだも アホ〔右△〕は逢フ〔右○〕の轉呼、シダは既述の如く時の謂である(第四二頁)。
あじゃ|のへ《ナフ》しだも 東語特有の打消助動詞ナフの已然形ナヘをノヘと轉呼した例は上掲【三四七六】の異傳にも見えるが(第二三二頁)、此は逢はぬ時の意であらねばならぬから、連體形を用ひてナフといふべきである。然るに此歌ばかりではなく、後掲【三四八三】【三五二九】【三五五五】にも解ケナヘ〔二字右○〕紐、寢ナヘ兒の如くナフの代りにナヘが用ひられたのは何か理由の存したことゝ思はれる。或は終止法以外にナフを用ひることを欲しなかつたか、或は區別の爲に終止法に於ては時にナヘと轉呼したのであるかも知れぬ。
なにこそよされ ヨサレはヨセアレの約で、ヨソリ(第一二二頁)、ヨソル(第一輯二四六頁)の例によればヨソレとあるべきであるが、ヨサレの方が寧ろ正しい發音である。即ち汝にこそ心を寄せあれといふ意で、アレは決定的語法である。
【大意】(里)遠しといふ古志〔右○〕の白嶺に逢ふ時も逢はぬ時も汝にこそ(心を)寄せて居る
 
3479 安可見夜麻《アカミヤマ》 久左禰可利曾氣《クサネカリソゲ》 安波須賀倍《アハスガヘ》 安良蘇布伊毛之《アラソフイモシ》 安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》【三四七九】
 
あかみ山 草根苅りそげ 逢はすが上 あらそふ妹し あやにかなしも
 
あかみやま 下野國阿蘇郡に赤見といふ村があり、其西北を彦間(今飛駒と書きヒコマと訓む)村と稱へる。(237)アカ(我子)とヒコ(孫)とは意義が近く、マは地區の意で、ミと通音であるから、古は此附近一帶をアカミと呼び、其山地をアカミ山と稱へたのかも抑れぬ。若し然りとすれば此は上野または下野歌であらねばならぬ(第一一四頁參照)。
くさねかりそげ 草根苅除《ソ》ゲの謂であるが、根は新考説の如く修辭の爲に添加せられたので、イハ(巖)をイハネ、カキ(垣)をカキネといふと同例である。草を刈除いたのは野合の床を設ける爲で、作者たる用性自身の行爲と見てよい。之を人目を避けることの譬【考】又はくさ/”\の障りをよけて逢ふ意【略解】としたのは誤解である。
あはすがへ 逢ハスガウヘの急呼(第二一六頁參照)。アハスは逢フの敬語形の外に逢ヒナスと同義に用ひられることもあり、此は寧ろ後者と了解せられる(要録九二六)。
あらそふいもし アラソフは抗拒の意で、承知の上で會合したものゝ、處女の例《ナラヒ》として事に臨んで羞澁するをいひ、上掲【三三六一】と趣を同じうする。古義以前は【三四五六】の歌に準じ、アラソフを抗辭の意と解して居たが、上句の趣にかなはず、新考が安比〔右△〕蘇布の誤記として相副ひて山を下る意にあらざるかと説いたのも納得しかねることで、誤記の形跡はないのみならず、山を下る云々は蛇足である。
あやにかなしも 既出(第二一三頁)。
【大意】赤見山の草を苅り除いて逢ひなすが上に(尚も)羞澁する妹が愈々可憐《イト》しいよ
 
(238)3480 於保伎美乃《オホキミノ》 美己等可思古美《ミコトカシコミ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》【三四八〇】
 
大君の 勅《ミコト》かしこみ かなし妹が 手枕はなれ 夜立ち來ぬかも
 
おほきみの 大君ノ
みことかしこみ 大君のミコトは勅命の謂で、カシコミは恐悚を意味するのであるが(第一輯五二頁)、此語句は天皇に對する我國民の絶對服從觀念を表現する爲に慣用せられ、本集には其例が多いが、就中防人歌に於て屡々用ひられて居る。當時のアヅマ人は尚ヤマト人に比し、若干習俗を異にして居たやうであるが、誠忠の點に於ては一歩も讓る所なく、大命一下せば水火も尚辭せざる覺悟を有して居たので、事々しいやうであるが、折にふれて此語句を口にしたものと思はれる。此歌も亦公役の爲に郷土を離れんとする人の詠であらう。
かなしいもが 後世ならば愛《カナ》シキ〔右○〕妹ガといふ所であるが、赤キ〔右○〕駒を赤駒ともいふやうに、上代に於てはカナシといふ形容詞原形を他語と連結して複合名詞とすることも可能とせられたので、記の八千矛神の歌にクハシ女《メ》及サカシ女《メ》とあると同例である。
たまくらはなれ 手枕離レ
よだちきぬかも 眞淵説の如く夜立チ來ヌル哉の意と解すべきで、上句の手枕離レも夜といふ語の縁によつ(239)て用ひられたものと思はれる。契沖はヨダチをエタチ(徭役)の轉訛とし、宣長及雅澄以下之に從うて居るが、役の原語はエで、タチは立の義を以て添加せられ、就役を表示する名詞であるから、エダツ、エダタムの如く活用せられた例もなく、キ(來)と連用することは出來ぬ。されば此は未明に出發して來たといふ意であらねばならぬ。
【大意】勅命を畏み、愛妻の手枕を雛れ、夜立して來たことよ
 
3481 安利伎奴乃《アリキヌノ》 佐惠佐惠之豆美《サヱサヱシヅミ》 伊敝能伊母爾《イヘノイモニ》 毛乃乃伊波受伎爾※[氏/一]《モノイハズキニテ》 於毛比具流之母《オモヒグルシモ》【三四八一】
 
あり衣《キヌ》の さゑさゑしづみ 家の妹に もの言はず來にて 思ひ苦しも
 
柿本朝臣人麻呂歌集中出見上巳詮〔二字右△〕也
 
左註の巳詮の二字は疑はしく、巳は必然已の誤記と想はれるが、詮〔右△〕は元暦校本に記〔右△〕とあり、類聚古集以下訖〔右△〕に作り、西本願寺本は説〔右△〕に似た字を充て、朱を以て消して右邊に記〔右△〕と旁書してあるが、新考説の如く孰れも註〔右○〕の誤寫であらう。其は第四卷に柿本朝臣人麻呂の歌としてあげた左記の一首をいふものと思はれるからである。
  珠衣乃 狹監左謂沈 家妹爾 物不語來而 思金津裳
表記法を異にするのみならず、用語にも多少の相違はあるが、別の歌と見ることは出來ぬから、右の如き註記(240)を施したのであらうが、此は人麻呂歌集によつて補うたのではなく、原記録に存したものとせねばならぬ。本卷に人麿歌集曰と註せられた五首中三首は同集から轉載せられたものであるが、この歌と【三四四一】とは人麻呂歌集にも類似の歌があるといふに過ぎぬから、必しも語句の一致を求めることを要せぬのである。以下句を追うて釋明を試みる。
ありきぬの 記の天語歌には三重の枕詞とし、木集第十六卷の竹取翁の歌にも蟻衣之寶之子と用ひられ、上に引用した第四卷の歌には珠衣乃とあるので種々の臆説を生み、眞淵はアラミ玉のタマを省き、ラミをリと約したものとして珠衣の意と牽強し【冠辭考】、宣長は俗語のアリアリといふ意で、物の鮮かなることなりといひ【玉勝間】、守部は字鏡に蛾(ハ)※[虫+豈]也、蟻也、安利比々留とあるによつて、蟻衣即ち蠶衣(繭衣)なりと説き【稜威言別】、雅澄は大町稻城の説を引いてオリキヌ(織衣)の轉訛とし、其他|明衣《アラキヌ》【和歌詞※[言+芻]】、在衣【雅言考】等の説もあるが、私はアラ〔右○〕キヌ(新衣)の轉呼と信ずる。新をアリと訓した例はないが、ミアリカ(御在處)をミアラ〔右○〕カと稱へる所を見ると、その反對《レシブロカル》にア韻がイに轉化したことも有り得る。新衣はゴハゴハして居るから、其|衣《キヌ》ずれの音によつてサヱサヱの枕詞としたので、三重または財《タカラ》とつゞけた理由も明白である。【五〇三】の珠衣をもアリギヌの假字とすれば、珠は※[示+朱]の誤記又は義譯でもあり得るが、或は美稱として用ひられ、舊訓の如くタマギヌと稱へたのかも知れぬ。第十五卷に安里伎奴能アリテ後ニモ云々【三七四一】とあるのは單にアリといふ語を疊んで序としたに過ぎぬ。
さゑさゑしづみ シヅミは靜マリの謂(第三八頁)、サエサエはサワサワと同じく、新衣の擦れる音に出發の(241)サワ〔二字右○〕メキをいひかけたので、本來擬聲語であるから、サヰサヰともサヤサヤともいふのである。上掲の【三四七四】に植竹の本さへどよみとあると趣を同じうする。
いへのいもに 家ノ妹は宿ノ妻といふと同一樣式の表現で、女房といふことである。
ものいはずきにて 乃の字の一つは※[手偏+讒の旁]入とすべきで、元暦校本等に之なきを可とする。上掲人麻呂の歌には物不語來而〔二字右○〕とあるのであるから、來ニテ〔二字右○〕ではなく來テ〔二字右○〕と唱へたのであらう。兩形態の相違は時格上の問題で、來テは單に來ルの存在格であるが(第一〇七頁)、來ニテは來の完了格にテをそへたものであるから、來了而即ち口語の來てしまうて〔四字右○〕に當るのである。此場合にはいづれを用ひても差支はないが、來ニテの方が一層適切のやうである。
おもひぐるしも モは感動詞で、思ヒ苦シといふ意。見グルシ、聞グルシと同樣に思ヒといふ動詞もまた苦シと連用せられたものと思はれる。人麻呂の歌に思ヒカネツモとあるのも、上記の如く思ひに堪へかねたといふことで(第二三〇頁)、ほゞ同義である。此も前の歌と同じく公役に就く爲に家を離れた人の作であらう。後掲【三五二八】にも類似した歌がある。
【大意】(出發時の)騷が靜まり、(さてよく思案すると)宿の妻に物をいはず來てしまうて心苦しいよ
 
(242)3482 可良計呂毛《カラコロモ》 須蘇乃宇知可倍《スソノウチカヘ》 安波禰杼毛《アハネドモ》 家思吉己許呂乎《ケシキココロヲ》 安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》【三四八二】
 
或本歌曰、可良己呂母《カラコロモ》 須素能宇知可比《スソノウチカヒ》 阿波奈敝婆《アハナヘバ》 禰奈敝乃可良爾《ネナヘノカラニ》 許等多可利都母《コトタカリツモ》
 
からころも 裾の打ちかへ 合はねども けしき心を 吾が思はなくに
(或本歌)からころも 裾の打かひ 合はなへば 寢な|へ《フ》のからに ことたかりつも
 
或本歌は初二句が同一であるといふだけで、歌意は全然相違するから、別首として取扱ふことにする。
 
からころも 韓衣の謂で、當時に於ける尋常の衣装と制式を異にした韓國風のものに、此名を負はせたのであらう。上代の被服はソ(衣)即ち上衣と、モ(裳)即ち袴との二部分から成立し、現代の朝鮮婦人の服装に類したものであつたが、彼國に於ては男子は其外に※[ハングル四字]《ツルウマクイ[入力者注、ツルマギとよむ方がよく分かる]》(周衣)と稱へて上下一連の外套を用ひる。カラ衣は恐らくは其をいひ、夙に我國に輸入せられ、若干改良を加へて漸次普及するに至り、カラ(韓)を略してコロモとのみ呼ばれるやうになつたので、今のキモノ(著物)が其である。コロモの原義もまた著ル裳で、普通のモ(裳)が腰部以下に纏著せられるに反し、肩からかけて著たが故に此名を得たのである。されば本初は男子の用にのみ供せられたと見えて、本集の用例によれば「辛衣君に打著せ見まく欲り」【二六八二】、「カラ衣裾に取りつき泣く子らをおきてぞ來ぬや母《オモ》なしにして」【四四〇一】といふが如く、男子の服装をいふに用ひられて居る所を見ると此歌も恐らくは男性の作であらう。
(243)すそのうちかへ 和名抄には裾を古呂毛乃須曾、一云岐沼乃之利と訓し、衣下也と釋して居る。スは恐らくはスヱ(末)の語幹スと同じく、シ(下)から出た語で、ソはサ(方)の轉呼であらう。山麓をヤマのスソといふのも同義によるもので、今時衣服の脚脛に接する部分を、スソといふのは衣のスソ若くは裳スソの略である。ウチカヘはいふまでもなく打交の義で、前幅《マヘハバ》の交會部《カサネ》を意味する。裳または袴にあつては重ね目が合はぬといふことはないが、カラ衣即ち著物《キモノ》は身幅が窄いと合ひかねることがあるから、次句逢ハネドモ(逢ハナヘバ)の比況的序としたのである。
あはねども 逢ハネドモといふ意。裾の合はぬことにいひかけたのである。
けしきこころを ケシはスガ(清)の反對なるケガ(穢)の語根ケの形容詞形で、不淨不純なる状態をいふ。さればケシキ心は相手の女に對する不誠實の意志といふことである。
あがもはなくに 我が思はぬのにといふ意。心ヲ思フといふ用法は後代語には見えぬが、ココロが意志といふ意に用ひられたが故に、モツといふことの代りに思フといふ述語を使うたのであらう。ニといふ助語をそへたのは反接の意を寓する爲で、久しく訪れなかつたので、相手の女が怨を述べたか、若くは絶縁を表明したが故に、自分は更々惡意はないのに殘念なことであるというたものと思はれる。
【大意】韓衣の裾の重ね目が合はぬやうに、(久しく)逢はぬけれども、不純な意志を自分は持たぬのに(殘念なことである)
右の如く此歌は衷情の徹せぬことを恨とする意なるに反し、或本歌は世人の口喧しいことを歎(244)じたものである。即ち
からころも 前出
すそのうちかひ 前の歌にはウチカヘ〔右○〕とあるが、カヘ(交)の原形はカヒで、行キカヒ〔右○〕、羽カヒ〔右○〕の如く用ひられ、其から自動詞カハリ(四段活用)と他動詞カヘ(下二段活用)とが分化したのであるから、ウチカヒの方を舊形態とする。
あはなへば ナヘは既述の如く打消ナフの已然形であるから、アハネバといふに同じく、合フと逢フとをいひかけたのである。
ねな|へ《フ》のからに 此ナヘは上記の連體形で(第二三六頁)、寢ヌガ〔二字右○〕カラニを東語では寢ナヘノ〔三字右○〕カラニというたのである。句末のニは反接表示であるから、カラニはモノカラといふに同じく、同衾もしないのにといふ意である。
ことたかりつも コトタはコト(言)イタ(甚)の謂で、通例コチタと約せられるが、トイ〔右○〕フをトフと發音するやうに、イを省いてコトタシ(形容詞)とすることも可能で、其分詞形コトタクに助動詞アリの完了アリツを連ねたものがコトタカリツである。言甚シは人の口がうるさいといふ程の意であるが、完了時格を以て表示したのは一段落を告げたからで、徒に浮名のみ高くして實現せぬ戀に悩んで居たのが、漸く念を達したからであらう。上述の如く此は男性の歌である。
【大意】韓衣の裾の重ねが合はぬやうに逢はないから寢もせぬものを人の口が喧しかつたよ
 
(245)3483 比流等家波《ヒルトケバ》 等家奈敝比毛乃《トケナヘヒモノ》 和賀西奈爾《ワガセナニ》 阿比與流等可毛《アヒヨルトカモ》 欲流等家也須流〔左△〕《ヨルトケヤスケ》【三四八三】
 
晝とけば 解けな|へ《ソ》紐の 吾《ワ》がせなに あひ寄るとかも 夜とけやす|け《キ》
 
ひるとけば 晝解ケバ
とけな|へ《フ》ひもの ナヘは上記の如く打消の連體法にも用ひられるから、解ケヌ〔右○〕紐ノといふことである。紐は屡々述べたやうに男女の冊の契印とせられたので、此作者は竊に待人の占としたのであらう。
わがせなに 吾|夫《セ》ニといふ意。ナはラの轉呼で、虚辭的接尾語である。
あひよるとかも アヒヨルは相副フといふ意であるが、特に此表現を用ひたのは、次句のヨル(夜)といふ語を導く爲であらう。カモは疑問助語であるから、相倚る前兆歟といふのである。
よるとけやす|け《キ》 句末の流〔右△〕は元暦校本、類聚古集、西本願寺本等に氣〔右○〕とあるを可とする。印本に從ひ解ケヤスルとよむと反語表示となり、假に前句のカモを感動詞と見るにしても、尚相倚ルト〔右○〕とあるに抵觸する。ヨルは夜間の謂であるが、此は一版的の事實を意味するのではなく、コヨヒ(今夜)といふべきを、前句と同語音を疊む爲にヨルとしたのであらう。ヤスケはヤスキの古形で、助語ハを添へ第二句の次に移して會得すべきである。
【大意】晝解けば解けぬ(衣の)紐が今夜解けやすいのは、我良人に今夜相倚ると(いふ兆)か
 
(246)3484 安左乎良乎《アサヲラヲ》 遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》 宇麻受登毛《ウマズトモ》 安須伎西佐米也《アスキセサメヤ》 伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》【三四八四】
 
あさ緒《ヲ》らを 緒笥《ヲケ》にふすさに 績まずとも 明日著せさめや いざせを床に
 
あさをらを アサヲは麻緒の意。ラは兒ラ、野ラのラ〔右○〕と同じく虚辭的接尾語として添付せられたので、麻緒ラといふことである。
をけにふすさに ヲケは緒〔右○〕をうみ入れるケ〔右○〕(笥)即ち容器をいひ(第一輯八七頁)、フスサはフサフサ(房々)の約縮で、累々の意であらう。
うまずとも 績マズトモ
あすきせさめや アスはアサ(朝)から分化した語で、本來明朝の意であるが、――獨逸語のMorgenが朝の義にも明朝の謂にも用ひられると同例である――一般に翌日(明日)の義と了解せられるやうになつたのである。キセサは著セナスといふ意のキセスの活用形態(未然形)で(要録九二六頁)、之に未來助動詞の已然形メを連ねたのは、疑問助語ヤと相待つて反語表示とする爲である。然るに從來之を著セザラメヤ【考】、來セザラメヤ【略解】【古義】の意とし、或はキセスを著ルの敬語形【新考】と説いて居るが、ザラメを約してサメといふことはなく、著ルの敬語形はケスで、之を伸ばしてキセスとすることも有り得ぬ。右の如き牽強を敢てせずとも、明日著セナサメヤ即ち著せようやと解すれば、歌意はよく通ずるのである。
いざせをどこに イザは促進の聲であるが、之を活用せんが爲に敍述助動詞ス(爲)をそへたので、物ス、思(247)ヒス、學問ス等と同例に屬しイザセは其命令法として用ひられたのである。宣長が擧げたイザサセ【略解】は其敬語形で、新考にイザセサセの上のセを省いたものとしたのは、動詞セ(爲)とその助動詞的用法とを混同したものである。助動詞としてのスは時として原義を離れ、單に敍述の用をなすに止まり、此場合の如きもイザ爲《ナ》セといふ意ではなく、副詞イザを動詞の形式を以て用ひたに過ぎぬ。ヲ床のヲは美稱で(第二四頁)、其やうに澤山麻を績まずとも、明日著せてくれるといふ譯でもあるまいから、サア寢床にはひれと女を促し立てたものと了解せられる。
【大意】麻緒を麻笥《ヲケ》に房々とうみ入れずとも、明日著せようや、いざ寢床に(入れ)
 
3485 都流伎多知《ツルギタチ》 身爾素布伊母乎《ミニソフイモヲ》 等里見我禰《トリミカネ》 哭乎曾奈伎都流《ネヲゾナキツル》 手兒爾安良奈久爾《タコニアラナクニ》【三四八五】
 
劔太刀 身にそふ妹を 取みかね 音をぞなきつる たこにあらなくに
 
つるぎたち 劔太刀(第一輯三一頁)は携帶兵器であるから、身爾〔二字右○〕佩副流〔二字右○〕とつゞけた例もあり【二六三五】、身ニ副フの枕詞となつたので、本集第二卷【一九四】【二一七】、第十一卷【二六三七】にも用例がある。第三句のトリ〔二字右○〕も亦之が縁語として用ひられたのであらう。
みにそふいもを 身ニ副フ妹は連そふ女即ち配偶者なる妻の謂である。古義は常に側を離れず云々と説いた(248)が、【二六三七】に鼻ヲゾ嚔《ヒ》ツル劔犬刀身ニ副フ妹ガ思ヒケラシモとあるのを見ても、側に在るといふ意でないことは明白である。今も餘所で噂されると嚔《クサメ》が出るといふに同じく、此歌も離れて居る女房が自分を想ひ出したのであらうと詠じたのである。
とりみかね トリミは勿論取見の意であるが、輕太子の御歌の梓弓立テリ立テリモ後モトリ見〔三字右○〕ル【記】の如くトリを準接頭語として見ルに重きを置いた場合もあり、肩ノ間亂《マヨヒ》ハ誰カトリ見〔三字右○〕ム【一二六五】のやうに、手に取つて見るといふ意から、手入をすることに轉用し、更に一歩を進めて介抱の意にも用ひ、山上憶良の歌にも國ニ在ラバ父トリ見〔三字右○〕マシ家ニ在ラバ母トリ見〔三字右○〕マシ【八八六】、又は家ニ在リテ母ガトリ見〔三字右○〕バ慰ムル心ハアラマシ死ナバ死ヌトモ【八八九】と詠じた例がある。此も右の憶良の歌の如く介抱を意味し、現代語のミトリ〔三字右○〕(看護)に相當するのであるが、カネ(不能)といふ打消が添へてあるから、介抱力に及ばず遂に死亡したことをいふものと了解せられる。即ち上掲【三四七五】と同じく、相聞歌中に列したのは誤で、挽歌と見るべきものである。
ねをぞなきつる 哭泣を意味するネナク(第四〇頁)はネ(音)とナク(鳴)とが分離して、其間は助語の介在を許すから、ネヲ〔右○〕ナクともいひ、更に指定助語ゾを挿入することも可能とせられたので、泣キツルヅといふ意である。
たこにあらなくに 此手兒は既述の或身分を有する女性の稱號なるテコ(第七八頁)とは異り、第四卷【六一九】に手小童之哭耳泣管《タワラハノネノミナキツツ》とあると同じく小兒の意に用ひられたのであるから、之に準じて手はタの假宇とし、(249)タコ〔二字右○〕と稱ふべきである。從來テコと訓み、ハテ(果)の子の上略【考】又は稚兒《チコ》の意【古義】としたが、タ童のタは只の意から出た接頭語で、手〔右○〕に抱かれる童の義ではなく、此手兒に於ても同樣である。アラナクニは有らぬのにといふ意で、小兒でもないのに悲しみに堪へかねて聲を放つて慟哭したといふのである。
【大意】連れそふ妻を介抱かなはずして(失ひ)慟哭したぞ、子供でもないのに
 上述の如く此は正しく挽歌であるが、從來相聞歌とあるに捉はれ、トリ見といふ語に注意を拂はず、漫然生別または別後の悲情を詠じたものと誤解せられて居た。
 
3486 可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》 由豆加奈倍麻伎《ユヅカナベマキ》 母許呂乎乃《モコロヲノ》 許登等思伊波婆《コトトシイハバ》 伊夜可多麻斯爾《イヤカタマシニ》【三四八六】
 
かなし妹を 弓束なべまき もころをの 事としいはゞ 彌かたまし|に《ヌ》
 
かなしいもを カナシ妹は上記の如く可憐の女といふ意である(第二三八頁)。
ゆづかなべまき ユヅカは弓束の意で、和名抄の弓の條に中央曰v※[弓+付]、和名由美都加とあり、俗にニギリ(握)と稱へ、緒又は皮を以て卷くことを例としたと見え、兵庫式にも纏※[弓+付]料緑組〔二字右○〕一條または裁v韋造2※[弓+付]角1とある。之を並べ卷くことに、並ベ求キ即ち相競うて求婚する意をいひかけたのであるが(第一七〇頁參照)、其意味に於てはユツカ(弓束)は短い序と見るべきで(第一七九頁)、此語があるので弓矢にかけてもといふ意氣(250)込が髣髴せられるのである。相射んが爲にモコロ男が各自弓束を卷くこと【考】、弓束並向〔右△〕即ち弓束を並べ的に向〔右△〕つて射競する意【古義】、若くは弓束ニ合〔右△〕ヘ卷キの約【新考】としたのは、歌意を解し得なかつた爲とせねばならぬ。
もころをの モコは庶子の意で(第一輯二四九頁)、ロはラに通ずる接尾語、ヲは男の義であるから、儕輩の男子をいひ、第九卷菟原處女の歌にも如己男とかいてモコロヲを訓ませてある【一八〇九】。即ち戀の競爭相手が同輩であるといふ意である。
こととしいはば 事ト言ハバの謂で、シは強意助語である。
いやかたまし|に《ヌ》 カタは偏《ヒトヘ》ニといふ意であるが、待をカタ〔二字右○〕マチ、就をカタ〔二字右○〕ツキといふやうに、後續語に重きを置いて殆ど虚辭的に接頭せられたので、單に彌益ニといふと大差はない。求《マ》カウといふ意を言外に含ませたので、戀敵が儕輩といふことなら尚一層努力しようといふ意味である。
【大意】可憐な女子を竝び(競うて)求婚《ツママギ》し(て居るが)、相手が儕輩の男といふなら彌益に(努力しよう)
 
3487 安豆左由美《アヅサユミ》 須惠爾多麻末吉《スヱニタママキ》 可久須酒曾《カクススゾ》 宿奈莫那里爾思《イナナナリニシ》 於久乎可奴加奴《オクヲカヌカヌ》【三四八七】
 
あづさ弓 末に玉まき かくすすぞ い寢《ナ》な成りにし おくをかぬかぬ
 
(251)あづさゆみ 梓の木で作つた弓とするのが通説であるが、眞弓とは型式を異にする射器の名であつたと思はれることは前輯(第一二三、二九九頁)に詳論した通りである。
すゑにたままき 末即ち弓端《ユハズ》に玉を纏くのは勿論實用の爲ではなく、神に奉納する料と思はれるが、此は第七卷【一四一五】に「玉梓〔右○〕の妹は珠〔右○〕かも足びきの清き山邊に蒔けば散ぬる」とある珠蒔〔二字右○〕即ち音信の意にいひかけたので(第一輯一二三頁)、同時にイナ(射莫)の意を以て第四句の序としたものと思はれる。後世の觀念からいへば甚むつかしい言ひかけのやうに思はれるが、當時のアヅマ人には弓弭に玉を纏きつけて神に奉納することも、タマ(丸)即ちツブテ(礫)を以て信號とすることも、假令尋常茶飯事ではなかつたとしても尚よく知られて居たから、解き悩むものはなかつたのであらう。宣長が大切に思ふ譬と説いたのは【略解】如何なる論據に基くのか判明せぬ。
かくすすぞ カクは如此の意(第七七頁)。ススは宣長説の如く爲爲《スス》で【略解】、爲《シ》ツツといふに同じく後掲【三五六四】にも用例がある。ゾは次句の末に移して會得すべきである。極めて簡明な表現であるのに、先學が之を牽強して或は隱スといふ意とし【代】、或は懸ク鈴と解讀して弓勢を知らしめる爲に弓末に玉を纏き鈴をつけたるなりと説き【考】、甚しきは須を那と改めて懸ク如《ナス》ゾと解したのは【新考】、前句を正解し得なかつた爲と思はれる。此は上句を承けて音信シツツ即ち便はしながらといふ意なることは勿論である。
いなななりにし 從來宿〔右○〕の字をネと訓み、ぬる事|莫奈成《ナクナナ》リニシ【考】、――元暦校本等に奈莫〔二字右○〕を轉置して莫奈〔二字右△〕とせるによる――無《ナナ》v宿成ニシ【古義】又は宿奈《ネナ》布〔右△〕ナリニシの誤寫【新考】としたが、寢ズを寢ナクナ又は寢ナ(252)ナといふべき理由はなく、寢ナフは連用形でないから、成りニシと續けることは出來ぬ。案ずるに、宿〔右○〕は味宿《ウマイ》【二三六九】【二九六三】、安宿《ヤスイ》【四一七九】と同樣にイの假字で、上のナ(奈)はヌ(寢)の未然形(第二一九頁)、下のナ(莫)は打消ズに通じ、イネズ(不寢)といふべきを、東語ではイナナとも表現したのであらう(即ち寢《イネ》ずなりにしぞといふ意と了解せられる。
おくをかぬかぬ オクをカヌは將來を豫定するといふ意(第一二六頁)。カヌカヌと重ねたのは上記ススと同例で、豫《カネ》ツツといふことである。他日を期しながら寢ずなつたぞといふ意で、約束は出來て居りながら、或事情の爲に會合の機のないことを歎じたものと思はれる。此歌も亦從來正解せられなかつた。
【大意】――上二句は序――かく(音信は交)しつゝ相寢ることはなくなつたぞよ。將來を豫定しながら
 
3488 於布之毛等《オフシモト》 許乃母登夜麻乃《コノモトヤマノ》 麻之波爾毛《マシバニモ》 能良奴伊毛我名《ノラヌイモガナ》 可多爾伊※[氏/一]牟可母《カタニイデムカモ》【三四八八】
 
生ふ楚《シモト》 この本山の ましばにも 告《ノ》らぬ妹が名 兆《カタ》に出でむかも
 
おふしもと 生フ※[木+若]の謂で、木ノ本の修飾的枕詞である。※[木+若]生フ木本山とあるべきを倒置した理由は詳でないが、或はシモト〔二字右○〕木ノモト〔二字右○〕と同音を疊むためであつたかも知れず、雅澄のいふが如く大※[木+若]《オフシモト》の意ではあるま(253)い。シモトはスバエ(楚)と同じく、或る種の樹木に於て根幹から眞直に射出する枝條をいひ、※[木+若]は會意字で、弱木ともかき【雄略紀】、鞭に用ひられるから楚の字をもあてるのである。確説ではないが、スバエは直生《スハエ》の意のやうであるから、シモトも亦ス〔右○〕モト(直本)の轉呼であるかも知れぬ。
このもとやまの 眞淵がモトを木立の謂として此|木《モト》山と譯したのは承服しかねることで、古義は此〔右△〕本山と解讀し、新考は乃〔右○〕を利〔右△〕の誤寫として、生フ※[木+若]|樵《コ》リをコリモト山に言ひかけたものと見、コリモトは栗本(所在不明)の訛としたが、本山または栗本山といふ地の存在を想定し得べしとすれば、コノモト山を實在地と見ても差支はない筈で、志摩國にも木本(粉本)浦といふ舊名が存した(今の北牟婁郡引本町)。此は勿論志摩國の歌ではないが、此作者の郷土にも同名の山があつたので、次句の序としたのであらう。
ましばにも マ(眞)は接頭語で、柴(バ)を數《シバ》にいひかけたのである。雅澄は之波とあるによつて清音ならざる可からずとし、宣長説を參酌して山の終《シハ》に吝《シハ》の義をかけたものと説いたが、本卷には清濁通用の例は極めて多く、印本にもシバ〔右○〕と旁訓して居るのみならず、終の義のシハもシマ〔右○〕ヒと活用せられる所を見ると、數の意のシバ〔右○〕と同じくシマ〔右○〕の音便とすべきで、吝をシハシといふのは古言ではない。シバ(柴)の原義は既述の如く細葉《シハ》で(第二六頁)、山の縁語であるのみならず、之に言ひかけたマシバニは後掲【三四七三】にも麻之波〔右○〕ニモ得ガタキ※[草冠/縵]《カゲ》ヲとあるやうに、シバシバと同義の副詞形である。
のらぬいもがな 宣ラヌ妹ガ名といふ意。宣長及雅澄が女が自分の名を宣ることゝ説いたのは、上句のシハを吝の義と誤解した爲で、此は作者たる男性が當時の習俗を重んじ、相愛の女の名を秘し、之を口にする(254)ことを謹んだといふ意味であらねばならぬ。
かたにいでむかも 兆ニ出ム歟といふ意、モは感動詞である。略解は之を占かたに出むや〔二字右○〕と解したが、反語ならばイデメ〔右△〕カモとあるべきであるから、卜兆に現はれはしまいかと危む意と解すべきである。上掲【三三七四】の武藏歌と同じく、各自の意中の人を知らうとして同輩が集會して、卜占に問ふ光景を題材としたものであるが、武藏歌は男の名が占に出てしまうたことを歎息する女人の詠なるに反し、此は卜兆に臨み露顯を危惧する男性の述懷である。
【大意】――上二句は序−度々は口にせぬ女の名が兆《カタ》に出はしまいか
 
3489 安豆左由美《アヅサユミ》 欲良能夜麻邊能《ヨラノヤマベノ》 之牙可久爾《シゲカクニ》 伊毛呂乎多※[氏/一]天《イモロヲタテテ》 左禰度波良布母《サネドハラフモ》【三四八九】
 
あづさ弓 よらの山邊の しげ|か《ケ》くに 妹ろを立てて さね處《ド》拂ふも
 
あづさゆみ 前出。此はイル(射)の枕詞であるが、イルとヨラとは音が通ずるから次句に言ひかけたのである。倚《ヨル》【考】または寄《ヨル》【古義】の枕詞とするのは縁のないことで、殊に眞淵が其例多しというたのは事實無根である。
よらのやまべの 古義は和名抄に遠江國山香郡|與利《ヨリ》郷とある地を以てヨラに擬し、新考は夜《ヨル》の訛で地名ではないと説いたが、信州小諸に與良の塞《トリデ》の舊跡があり、今も與良町といふ字を存するといふことであるから(255)【地名辭書】、或は其地の丘陵をいふのかも知れぬ。夜間山中の野合の如きは※[女+燿の旁]歌會《カカヒ》等の機會でもなければ思ひも寄らぬことである。
しげ|か《ケ》くに 繁ケ〔右○〕クニといふに同じく、「繁きのに」の謂である。形容詞の活用語尾ケ(キ、ク、ケの舊形)の原語はカ〔右○〕(顯)であるから、東歌には遠カ〔右○〕バ【三三八三】、遠カ〔右○〕ドモ【三四七三】の如く、ケをカと轉呼した例は少くないのである。此は草叢の繁きことを意味する。
いもろをたてて 妹ヲ立テテといふ意。イモロとしたのは兒をコラ〔右○〕といひ、更にコロ〔右○〕とも稱へたのと同例に屬する。
さねどはらふも サは接頭語、寢處《ネド》を拂ふといふ意。女を伴うて與良の山邊に來たが、餘り草叢が茂生して居るので、寢處を作る爲に之を切拂ふといふことを意味し、野合の光景を叙したものである。
【大意】與良の山邊の(草叢が)繁いので、女を立てゝ寢處を(切)拂ふよ
 
3490 安都佐由美《アヅサユミ》 須惠波余里禰牟《スヱハヨリネム》 麻左可許曾《マサカコソ》 比等目乎於保美《ヒトメヲオホミ》 奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》【三四九〇】
 
梓弓 末はよりねむ まさかこそ 人目を多み 汝をはしに置けれ
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
(256)あづさゆみ 前出――此はスヱ(末)の枕詞である。
すゑはよりねむ 末ハ倚リ寢ム
まさかこそ マサカは前輯(第二一三頁)に述べたやうに現實の謂で、こゝでは目前の義と解してもよいが、尚マサキから出たものとするのは誤である。コソは強指定助語で、「現在こそ」といふのである。
ひとめをおほみ 人目を多しとしてといふ意。
なをはしにおけれ オケレは置キアレの約、已然形を用ひたのは反接表示の爲で、現在こそ人の視目を避ける爲に汝を端に置いて居るが、末は必ず倚り寢ようといふのである。眞淵は端ニ置クを屋内の一端に居らしめる意と解して女の歌とし、雅澄は間を隔てゝ居らしむることゝ説いて居るが、戀の秘密を嚴守した當時に於て、男が公然來訪したことがあつたとは思はれず、また既に女の家に出入することを許された男ならば、縱ひ人前で相倚りそふことを憚つたとしても、夜に入れば同衾するのであるから、此やうな述懷を聞くべき筈がない。案ずるに此は疎々しく見せるといふ意味で、男性の歌とすべきである。
【大意】現在こそ人目を憚り汝を端に置いて居るが、末は(必ず)倚りそうて寢よう
 
3491 楊奈疑許曾《ヤナギコソ》 伎禮婆伴要須禮《キレバハエスレ》 余能比等乃《ヨノヒトノ》 古非爾思奈武乎《コヒニシナムヲ》 伊可爾世余等曾《イカニセヨトゾ》【三四九一】
 
柳こそ 切れば生えすれ 世の人の 戀に死なむを いかにせよとぞ
 
(257)やなぎこそ 柳コソ
きればはえすれ 切れば又生えもすれどといふ意。生エスレは上掲【三三九七】の絶エスレと同じく、動詞原形を準名詞として之に敍述助動詞スの已然形スレを連ねたもので、生ユレとは形態を異にするけれども、ほゞ同意である。柳は枝をつめ若くは幹を切ると、其部分から更に多くの※[木+若]を射出するものであるから、對照として用ひられたのである。
よのひとの 世ノ人即ち人間ノといふ意。
こひにしなむを 戀に焦がれて死なんとするのをといふ意である。
いかにせよとぞ 如何ニセヨト(云フ)ゾ、即ち人間の命は柳とは異り、一旦死すれば再び生きることはないのに、戀ひ死なんとするのを、どうしろといふ氣ぞ、勝手に死ぬといふことかと、相手の無情を怨じたのである。新考が曾〔右○〕を香〔右△〕としたのは無用の添刪といはねばならぬ。
【大意】柳こそ切れば生えもするが、人間の戀死なんとするのを如何にせよと(いふ)ぞ
 
3492 乎夜麻田乃《ヲヤマダノ》 伊氣能都追美爾《イケノツツミニ》 左須楊奈疑《サスヤナギ》 奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》 奈等布多里波母《ナトフタリハモ》【三四九二】
 
小山田の 池の堤に さす柳 なりもならずも 汝と二人はも
 
をやまだの 小山田の謂であるが、ヲ(小)はヲ峯、ヲ新田山等のヲと同じく愛稱として用ひられたので(第三(258)九頁)單に山田といふと大差はなく、山間に開墾した水田を意味する。
いけのつつみに イケのツツミは右の山田に灌漑する爲に構築せられた池塘をいふ。ツツミの語義は既述の通りである(第一七四頁)。
さすやなぎ 柳條の射出をもサスといふが(第一輯二九八頁)、此は堤に挿し立てることであらねばならぬ。灌漑水の涸れることなく、新穀を成就〔二字右○〕するやうにと神祇を祈り、賢木として池塘に木の枝を挿すことを意味し、第十五卷【三六〇三】に青柳ノ枝切オロシ齋種《ユタネ》蒔《マ》キ云々とあると同じ趣で、今も其形式のみは殆ど無意識に繼承せられ、苗代田等の水口には木の小技の挿されて居るのを見受けることがある。ナリ〔二字右○〕もとつゞけたのも之に因るものであらねばならぬ。其効があつてといふ意を補うて會得すべきである。
なりもならずも ナリは果穀を意味するのであるが、此は第三卷【四二〇】及第十三卷【三三一九】の杖ツキモ衝カズモと同一表現法で(第一輯二八〇頁)、ナリモ迄は序に過ぎず、ナラズモは戀が成就せずともといふ意である。契沖以下挿木の根がつくことをナルといふと説いて居るが、其は上句の意味の誤解に基く牽強で、ナルに其やうな意義のあるべき理由がない。
なとふたりはも 戀は成らずとも汝と二人は〔右○〕といふので、モは感動詞に過ぎず、下に或る意味が含まれて居るのである。恐らくは其は宿世の縁があるといふことであらう。山中の池の邊で、豫て懸想して居る女に行き逢ひ、此も神の引合はせであらう。假令念が叶はずとも縁がないではないというたので、相手の心を動かす爲の吟詠である。吾等二人の心は變らじといふ意とする舊説が飽き足らぬので、新考は古今集の大(259)歌所の伊勢歌に「をふの浦に片枝さしおほひなる梨のなりもならずも寢〔右○〕て語らはむ」とあるを引いて、此句を波〔右○〕母を禰〔右△〕母と改めたが、其歌は上三句の序を異にし、從つて歌の趣も相違するから、例證とすることは出來ぬ。
【大意】山田の池の堤に挿した柳の技の驗は顯著で、假令事はならずとも、汝と二人は無縁ではないぞよ
 
3493 於曾波夜母《オソハヤモ》 奈乎許曾麻多賣《ナヲコソマタメ》 牟吋都乎能《ムカツヲノ》 四比乃故夜提能《シヒノコヤデノ》 安比波多家波自《アヒハタガハジ》【三四九三】
 
或本歌曰、於曾波也母《オソハヤモ》 伎美乎思麻多武《キミヲシマタム》 牟可都乎能《ムカツヲノ》 思比乃佐要太能《シヒノサエダノ》 登吉波須具登母《トキハスグトモ》
 
おそ早も 汝をこそ待ため 向つ丘《ヲ》の 椎のこ|やで《エダ》の あひはたがはじ
(或本歌)おそ早も 君をし待たむ 向つ丘の 椎のさ枝の 時はすぐとも
 
おそはやも オソシ(遲)、ハヤシ(早)の語幹オソ、ハヤを準名詞と見、之に助語モをそへて副詞としたので、遲クトモ早クトモと譯せられるが、早クトモは言葉の文で遲クトモといふ意に過ぎぬ(第一輯二八〇頁參照)。
なをこそまため(きみをしまたむ) 汝をこそ待たうが〔右○〕といふので、末句の前提である。之に反して或本の歌のは末句過グトモの逆歸結であるから待タムとしたので、ナ(汝)もキミ(君)も情夫をさすのである。
(260)むかつをの 向の丘の(第一九一頁)。
しひのこ|やで《エダ》の(しひのさえだの) シヒは和名抄に椎子の訓とし直追反とあるが、箋注によれば本來錐木の會意字で職追反とあるから、シヒといふ語も字音suiの轉訛とすべきで、今も此名を以て呼ばれる殻斗料植物である。コヤデはコエダ〔二字右○〕(小枝)の訛で、或本の歌にサエダ(細枝)とあると意を同じうし、ノは比況助語で、ノヤウニといふ意である。
あひはたがはじ(ときはすぐとも) 同一物を以て比況としながら、此句の意味が全然相違するのは、第二句の異同に因るものである。多家波自の家〔右○〕は元暦校本其他に我〔右○〕とあるを可とするが、本集には屡々ガ假字に家を用ひて居るから(第九二頁)、必しも誤寫と斷定することは出來ぬ。椎の小枝は互生するが故に、其やうに入れ違ひにならぬやうにしようといふので、初二句の歸結である。之に反して或本歌の時ハ過グトモは上記の如く第二句の前提で、宣長が説いたやうに椎の木は春季を過ぎても芽を出し細枝となるものであるから、時刻は過ぐともといふ意にいひかけたのであらう。きりながら初句のオソハヤモと聊が重複する嫌がある。
【大意】遲くとも汝をこそ待たうが、向の丘の椎の小枝のやうに喰違にならぬやうにしたい――
(或本歌)遲くとも君をば待たう。向の丘の椎の細枝のやうに時は過ぎても
 
3494 兒毛知夜麻《コモチヤマ》 和可加敝流※[氏/一]能《ワカカヘルデノ》 毛美都麻※[氏/一]《モミヅマデ》 宿毛等和波毛布《ネモトワハモフ》 汝波安杼可毛布《ナハアドカモフ》【三四九四】
 
(261)こもちやま 若かへるでの もみづ迄 寢|も《ム》とわは思《モ》ふ 汝《ナ》はあどかもふ
 
こもちやま 駿河國志太郡岡部町大字子特坂附近の山丘なりとする説もあるが、恐らくは上野國群馬郡と利根郡との境にある子持山のことであらう【地名辭書】。命名の所由を詳にせぬけれども、子を持つ女の意を以て連添ふ女房をコモチと稱へたことは、催馬樂聖に「逢ふ路のしのゝをすすき早ひかずコモチ待ちやかぬらん」とあるによつても證せられ、江戸時代にも用ひられた語で、今の俚言のオツカーにあたる。此は所在の山名を借りて懷妊の妻を指稱したものと思はれる。
わかかへるでの 和名抄は辨色立成を引いて※[奚+隹]頭樹を加比留提乃岐と訓し、漢語抄の※[奚+隹]冠木即ち加倍天乃岐と同一木として居る。後撰集哀傷部戒仙法師の歌の序にカヘデのモミヂ云々とあり、今も楓の字をあて、※[木+戚]樹《モミヂ》科の種名に用ひて居るが、カヒルデを原語とし、モミヂの同義語なるべきことは前輯(第一五頁)に詳論した通りで、カヘデは其轉呼である。ワカは幼樹の意を以て冠せられたのであるが、カヘルには孵化の義もあるから、次句モミヅまでと合はせて出産を暗示したものではあるまいか。
もみづまで 此モミヅは連體法であらねばならぬから、モミヂ(紅葉)を四段に活用したものと思はれるが、正則にあらざることは前輯(第一五頁)に論じた通で、東國の方言か然らずば此作者の誤用であらう。いづれにしても紅葉スル迄といふ意なることは勿論である。
ね|も《ム》とわはもふ 寢ムト吾ハ思フの謂で、ムをモ〔右△〕と訛つた例は少くはない。
(262)なはあどかもふ アドは既述の如くナド(何ト)の訛で(第五四頁)、汝は何とか思ふといふ意。此歌が閨中の秘語なることは上句によつて自ら明である。
【大意】子持山(の)若楓の紅葉するまで寢ようと自分は思ふ。汝は何と思ふか
 
3495 伊波保呂乃《イハホロノ》 蘇比能和可麻都《ソヒノワカマツ》 可藝里登也《カギリトヤ》 伎美我伎麻左奴《キミガキマサヌ》 宇良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》【三四九五】
 
いはほろの そひの若松 かぎりとや 君が來まさぬ うらもとなくも
 
いはほろの イハホは嚴密にいへばイハネ(岩根)に對し巖巓を意味するのであるが、垣をカキホ〔右○〕又はカキネ〔右○〕ともいふやうに【七一三】【一九八八】、ホ(秀)は準接尾語として添付せられたので、單にイハといふと大差はなく、ロも亦屡々述べたやうにラに通ずる虚辭である。――上掲【三四一〇】及【三四三五】にイカ〔右○〕ホロのソヒとあるにより、眞淵は伊波〔右○〕は伊何〔右△〕の誤記なりとし、略解及古義は之に從うて居るが、新考説の如く若松の限定語としては伊香保の傍地《ソヒ》は不適當で、少くとも小松原とでもいふべきである。
そひのわかまつ ソヒが傍近の意なることは既述の通りで(第一二五頁)、巖に傍ひたる若松といふ意味を此形式を以て表現したのであらう。以上二句は序で、ワカマツは結句ウラ(末)モト(本)の緑語である。
かぎりとや カギリ(限)とカゲリ(蔭在)とは音が近く、語原も同一であるから、若松が巨巖の陰に立つことを、終限《カギリ》に言ひかけたので、彼の時限りと歟といふ意である。契沖は上句の松を待《マツ》にいひかけ、待ツ限リ(263)とつゞけたものと見たやうであるが(下句と抵觸する。
きみがきまさぬ 君が來たまはぬといふ意。
うらもとなくも ウラ(末)もモト(本)もなくといふに同じい。モ〔右○〕は尋常の助語で、副詞形に於て遠クモ〔右○〕、畏クモ〔右○〕の如く用ひられるのである。他に用例はないが、俚言の根モ葉モナク又は本《モト》モ息《コ》モナクと同じく、皆無の意の副詞として用ひられたのであらう。從來之を心許ナクと釋したのは、ウラをココロ(心)と同義と見た爲であらうが、其は心ノウラ(裏)の義から轉用せられたのであるから、モト(許)と連結することは出來ぬ。――新考が久〔右○〕を之〔右△〕の誤記としたのは、此句が前句の副詞で、格調の爲に倒敍せられたものなることに氣がつかなかつたのであらう。
【大意】――上二句は序――(彼の時)限りといふのか皆目君が來たまはぬことよ
 
3496 多知婆奈乃《タチバナノ》 古婆乃波奈里我《コバノハナリガ》 於毛布奈牟《オモフナム》 己許呂宇都久志《ココロウツクシ》 伊※[氏/一]安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》【三四九六】
 
橘の こばのはなりが 思ふ|な《ラ》む 心うつくし いで吾《アレ》は行《イ》かな
 
たちばなの 地名のやうであるから、眞淵説の如く武藏國橘樹(太知波奈)郡橘樹郷【和】のことであらう。今も郡名村名として殘存して居る。和名抄には常陸國茨城郡にも立花郷をあげ、東鑑にも同地の外に、下總國(264)橘庄(香取郡)の名が見え、他にも有り得べき地名であるから、編者は斷定を憚つて國土未勘としたのであらうが、此は安閑紀にも見える舊地であるから、此が武藏歌であつたと推定することは必しも不穩當ではあるまい。――橘は小葉《コバ》【古義】または濃葉《コバ》【新考】の枕詞で、地名ではないといふ説もあるが、此木は花又は實を賞するもので、葉を詠じた例はなく、コバの序としては他にいくらも適切な言葉が有る筈である。但し新考説の如く上の五首はいづれも柳、椎、楓及松等に寄せたものであるから、本卷の編者は或は此タチバナをも樹名として此列に入れたのかも知れぬ。
こばのはなりが コバは橘樹郷内の一地點名のやうであるから、或は今の橘村大字久末の舊稱であつたかも知れぬ。バとマとは相通で、コがクと轉呼せられたことは有り得べきである。名の義は恐らくは小場で、西隣都筑郡中里村には大場といふ大字があり、高尾郡にも大庭《オホバ》と稱する舊地が存するから、之に對して小場(小庭)といふ地名もあり得た筈である。ハナリは第七卷にヲトメ等が放《ハナリ》ノ髪をユフの山【一二四四】とあるやうに放髪を意味し、年少婦人の装髪樣式であるが、此歌に於てはハナリ髪の少女といふべきを略稱したのである。
おもふ|な《ラ》む ナムは上例のやうにラムの訛で(第四八頁)、思フラムといふ意である。
こころうつくし ウツクシの本義は完美であるが(第一輯一六五頁)、此はウツクシミと同じく愛寵の意に用ひられたので、心が可憐しいといふことである。
いであれはいかな イデはイザの轉呼(第一七六頁)。――新考が※[氏/一]を射の誤記としたのは、イデを乞の意と誤(265)解した爲である。――イカナは行カナムと同じく意嚮表示である。ユとイとは相通音であるが、此は或はイキを原語とするのかも知れぬ。イデ(出)、イ〔右○〕ニ(去)、イ〔右○〕リ(入)の如く用ひられる所を見ると、語幹イは運動の概念を表示する原語と思はれるのである。イザヤ我は行かうよといふ意。
【大意】橘樹の小場の放(髪の少女)が自分を想ふらしく心根がめでたい。イザヤ自分は(逢ひに)行かうよ
 
3497 可波加美能《カハカミノ》 禰自路多可我夜《ネジロタカカヤ》 安也爾阿夜爾《アヤニアヤニ》 左宿左寐※[氏/一]許曾《サネサネテコソ》 己登爾※[氏/一]爾思可《コトニデニシカ》【三四九七】
 
河上の 根白高萱 あやにあやに さねさねてこそ 言に出《デ》にしか
 
かはかみの 萱は水草ではないので、從來カハカミを河の邊《ヘ》の意と解して居るが、ヘに上の字をあてた例はあるとしても、邊をカミと訓することは絶無である。河上は水量も乏しいので、河原に高萱が生ひたとしても不思議ではなく、増水の場合流に洗はれるから、根が白くもなり、サネ(細根)も現出するのである。
ねじろたかかや 根白高萱の謂。從來我〔右○〕の字に即してタカガ〔右○〕ヤと訓して居るが、度々述べたやうに本卷の書例に於ては清濁音の差別は嚴重ではなく、タカにつゞく名詞はタカキタ(高北)、タカシマ(高島)、タカセ(高瀬)、タカツキ(高抔)、タカハシ(高橋)等の如く連濁せぬことを例とするから、――タカド〔右○〕ノ(高殿)の(266)如き異例もあるが――此もタカカ〔右○〕ヤと唱へる方が耳障りがよい。高萱は種名ではなく、丈の高い萱といふ意であらう。以上は次句を隔てゝサネ(細根)にかゝる序である。カとアとは通音であるから、アヤにいひかけたものとする略解説は不當で、疊音の序に音便を許すが如きことは有り得ぬ。
あやにあやに アヤはイヤ(彌)の轉呼で(第一五頁)、助語ニは副詞とする爲に添へたのであるから、彌が上ニといふ意であるが、此處ではハシキヨシ(ハシケヤシ)等と同じく、間投詞的に用ひられたので、之を除いても歌意に大差を生ぜぬのである。さりながら此一句の故を以て無限の情趣が加はつたことは、吟誦によつて會得すべきで、後世の歌人の追隨を許さぬ所である。
さねさねてこそ 高萱の毛根をサネ(細根)ともいひ得るので、之によつてサネ(實)といふ語(第九一頁)を呼び起し、更にサ寢(第三一頁)とつゞけて韻を疊んだのであらう。事實寢てこそといふ意である。
ことにでにしか 言ニ出デニシカドモといふ意で、意外の結果を生じたことを言外に含めたのである。シカは過去助動詞キの已然形で、本集の用例によれば多くはバ又はドと連ねて用ひられ、此等の助語を伴はざるもの【四四四】【四七四】【一七五一】【一八四三】【三五二二】【三八九三】もまたバ若くはドと解することを要し、決定格に用ひられた例はないから、特にこの用途に應ぜんが爲に出現した第二次生のものと思はれる(要録九六五頁)。イデのイを省略したのは完了助動詞ニを挿入する必要があつたからで、口語に直せば口に出してしまうたが〔右○〕といふのである。此は恐らくは女または其近親から、あらぬ浮名を立てたというて非難せられた男の作で、複雜なる感じが巧妙なる修辭によつてよく言ひあらはされて居る。
(267)【大意】――上三句は序及間投詞――眞實寢たればこそ言葉にも出してしまうたのであるが
 
3498 宇奈波良乃《ウナハラノ》 根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》 安麻多阿禮婆《アマタアレバ》 伎美波和須良酒《キミハワスラス》 和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》【三四九八】
 
うなはらの 根やはら小菅 あまたあれば 君は忘らす われ忘るれや
 
うなはらの ウナハラは地名であらうが所在を詳にせぬ。或は上掲武藏歌の宇奈比(第七四頁)と同地をいふのかも知れぬ。攝津國の菟原も本集には菟名日【一八〇一】、菟會【一八〇二】、菟名負、宇奈比【一八〇九】の如く唱へられて居るのである。代匠記以下之を海際の謂とし、新考は原書に河〔右△〕原乃とあつて四音によませたのを、轉寫の際率爾にも河を海と見誤り、之を音符に移したのであらうと説いたが、地名とすれば右の如き牽強はいらぬことである。
ねやはらこすげ ネヤハラを眞淵は寢泥、雅澄は萎|柔《ヤハ》の義としたが、新考説の如く根柔ラ小菅と解すべきで女性に譬へたのである。
あまたあれば 數多アレバ
きみはわすらす ワスレ(忘)は本初四段活に用ひられたから、ワスルの敬語形をワスラスというたのであらう。キミは勿論情人たる男性をさし、根柔小菅のやうな女が澤山あるから君は自分を忘れ給ふといふので(268)ある。
われわするれや 上句に於てワスレを四段活に用ひたのにも拘はらず、此處に下二段活已然形を使用したのは矛盾のやうであるが、當時兩活用が并存した爲で、全く下二段活に移つた後に於てすらも、受動法としては忘ラルといふ四段活形が殘存した程であるから、混用は敢て怪しむに足らぬ。此は反語法で、口語に直せば忘れようやといふことである。新考が四段活ならばワスレヤと云はざるべからずと論じたのは當を得て居るが、之に相應する下二段活形がワスルレヤであることを無視して、それは忘ルレバ〔右○〕ヤの意なりとし、和須禮米〔二字右△〕夜または和須禮夜の誤記と斷じたのは理由のないことである。これは上句が現在格であるから、之と調和させる爲に同一時格を用ひたので、吾《ワレ》ハ〔右○〕ワスレヤとしなかつたのは、ハ〔右○〕といふ強意助語を欲しなかつたからであらう。
【大意】ウナバラの根の柔い小菅のやうな女が數多あるから、お前さまは忘れなさる。私が忘れようや
 
3499 乎可爾與世《ヲカニヨセ》 和我可流加夜能《ワガカルカヤノ》 佐禰加夜能《サネカヤノ》 麻許等奈其夜波《マコトナゴヤハ》 禰呂等敝奈香母《ネロトヘナカモ》【三四九九】
 
岡によせ わが苅る萱の さねかやの 誠なごやは ね|ろ《ヨ》と|へ《イハ》な|か《ク》も
 
をかによせ 岡ニ寄セといふ意。ヨセは他動詞であるが、ヨル〔右○〕波をヨスル〔二字右○〕波とも表現するやうに、反歸動詞(269)的に用ひられる場合には、目的語を略することを例とするから、此も岡に自分を寄せといふのであらう。特にさうせねばならぬ必要はないやうであるが、斜面に身を托して刈ることを便としたか、或は個人的習癖であつたかも知れぬ。孰れにしても身を倚せて寢るといふ聯想を與へんが爲に、特に此表現を用ひたので、新考が與世〔二字右○〕を支※[氏/一]〔二字右△〕の誤としたのは理由のない臆測である。古義はヲカニを以て分節し、吾方に引寄せて刈る意なりと釋したが、假に其やうな句跨りが許されるとしても、岡ニといふ語が餘りに唐突である。
わがかるかやの 吾刈ル萱ノといふ意。カヤの原義はカ(上)ヤ(屋)で、葺屋材料となる禾本に與へた名稱なるが故に、草の字を之に充てることもあるが、クサ(草)とは同義ではない。
さねかやの 眞淵は眞萱《サネカヤ》の謂と斷定したが、サネといふ語の原義上(第一三九頁)、マ(眞)と流用したとは思はれぬから、略解説の如くサは接頭語で根萱を意味し、萱の一種名と見るべきであらう。柔軟なるものなるが故に、次句のナゴヤの比況に用ひられたので、サネ萱のやうにといふ意と解すべきである。
まことなごやは ナゴはニコ(和)と同原で、ナグ(凪)とも活用せられ、ナゴヤカの形に於ては今も形容詞として用ひられるが、其語幹ナゴヤも古は獨立可能とせられたこと、ニコヤ(八千矛神の歌)、タワヤ(倭建命の御歌)と同例である。ナゴヤカニハといふ意であるが、助語ニを脱したのではなく、ハにニハの意を含めたので、他にも例のないことではない。新考は上三句を序と見、サネカヤのサネ〔二字右○〕とつゞかざる可からずとして信〔右△〕奈其夜爾〔右△〕波とあつたのを、サネに充てた信をマコトと訓み誤り、語音が過剰になるから爾〔右○〕を省いたのであらうと説いて居るが、上句が比況であるとすれば、必しも疊韻を必要とせず、マコト(眞事)というて(270)も意はよく通ずるのである。
ね|ろ《ヨ》と|へ《イハ》な|か《ク》も 寢ロとイハナクモ即ち寢ヨといはぬことよといふ意。寢ロは命令法で、寢ヨといふに同じく、セヨをセロとしたのと同例である(第二一六頁)。トイフがトフと約せられると同樣に、ト云ハがトハとなり、更にトヘと訛つたことは有り得べきで(第二〇四頁)、遠クバを遠カ〔右○〕バとした例のある所を見ると(第七七頁)、無カは無クの轉呼と思はれる。新考がナカモをヌ〔右△〕カモの訛としたのは從はれぬが、寢よと言はぬ哉と解しても大差はない。此は女の無情を怨む用の歌であらう。
【大意】岡に(身を)寄せ自分が苅る根萱のやうに和やかに寢よとはまこと言はぬことよ
 
3500 牟良佐伎波《ムラサキハ》 根乎可母乎布流《ネヲカモヲフル》 比等乃兒能《ヒトノコノ》 宇良我奈之家乎《ウラガナシケヲ》 禰乎遠敝奈久爾《ネヲヲヘナクニ》【三五〇〇】
 
紫は 根をかもをふる 人の子の うらがなし|け《キ》を ねををへなくに
 
むらさきは 和名抄染色具中に紫草を無良散岐と訓してあり、今も此名を以て呼ばれる宿根草で、其根は深紫色の草皮部を有し染料として用ひられる。名の義は恐らくは叢咲《ムラサキ》で、梢頭に白色の小い花が群生するが故に此名を負はせ、此草の根を以て染出する色をいふにも轉用せられるやうになつたのであらう。
ねをかもをふる ヲフル(畢)は眞淵説の如く盡すといふ意で、祝辭に稱辭《クダヘコト》竟奉等とあると同一用例である。紫草は根の限り染料に使ひ盡すといふことで、カモは感動詞として句末にあるべきを律調上轉置したので(271)ある。
ひとのこの 人ノ子は他家の女子の謂で、既に情交は存しても尚未だ迎へ取るに至らぬ女を、人ノ子というた例もあるが【三五三三】、此は戀の未だ成就せぬ間がらをさしたものゝやうである。
うらがなし|け《キ》を ウラは心裏の意(第二六三頁參照)、カナシ|ケ〔右○〕はカナシキ〔右○〕の古形であるが(第一三〇頁)、此は準名詞として心中可憐なる少女を〔右○〕といふ意味に用ひられたのである。新考がヲをモノヲの意と譯したのは、次句の動詞ネ(寢)は目的格を支配し得ずと考へた爲であらうが、率寢《ヰネ》の意を以て他動詞的にも用ひられたものゝやうで、後掲【三九七七】にも例のあることである。加之モノヲの謂としては次句と反接表示が重複して語脈が通らなくなる。
ねををへなくに ネヲヲヘは寢ヲヘ〔二字右○〕即ち寢盡すといふ意であるが、第二句と呼應する爲にヲを添へたので、一種の間投詞である【詞玉緒】。ナクニは屡々述べたやうにナキコトニ即ちないのにといふ意で(第九一頁)、反接表示であるから、第二句の上にかへして會得することを要し、自分は懸想した女子と寢遂げぬのに、紫草は根を盡すことよと歎じたのである。古義が相寢することの末通らぬ意とし、新考が心ゆくまで得寢ぬことよと説いたのは、ヲフルを完了の意と解した爲であらうが、歌の趣から察するに、情交成立以前の作とせねばならぬ。
【大意】紫(草)は根を盡すことよ。人の子の可憐《イト》しきを(率て)寢遂げぬことよ
 
(272)3501 安波乎呂能《アハヲロノ》 乎呂田爾於波流《ヲロタニオハル》 多波美豆良《タハミヅラ》 比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》 安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》【三五〇一】
 
安波|丘《ヲ》ろの をろ田にお|は《フ》る たはみづら 引かばぬるぬる 吾《ア》をことな絶え
 
あはをろの アハヲ(ロは接尾語)はアハといふ地の丘《ヲ》の意。國土未勘中の歌であるか、アハは恐らくは安房國安房郡をいふのであらう。常陸國にも安婆島または安伐里といふ舊地があり【風土記】、和名抄には同國那珂郡に阿波郷をあげて居るが(今の東茨城郡|※[土+下]《フクツ》村大字粟〔右○〕)、いづれもヲロのヲロ田といふべき地形ではない。之に類する作が土掲武藏歌及上野歌にも見えるから、同一原歌が三國に於て上句をかへて傳へられたのであらう。
をろたにお|は《フ》る 山に近い田を山田といふやうに(第二五七頁)、丘ロの傍の田をヲロ田と稱へたことは有り得べきで、岡田の意である。オハルは生《オフ》ルの訛で、後掲【三五二六】にもカヨフ〔右○〕をカヨハ〔右△〕とした例がある。
たはみつら 撓ミ葛《ツラ》即ち撓《シナ》ふ蔓草の謂で、ノ(ヤウニ)といふ語をそへて比況と解すべきである。
ひかばぬるぬる 既出(第七〇頁)
あをことなたえ 上掲上野歌【三四一六】にアヲナ絶エソネとあるとほゞ同意で、コトタエ(音信斷絶)を分離的複合動詞として用ひたのである。
【大意】安房丘の岡田に生ひて居る撓み葛のやうに、(自分が)引くなら延ひよつて音信を絶つな
 
(273)3502 和我目豆麻《ワガメヅマ》 比等波左久禮杼《ヒトハサクレド》 安佐我保能《アサガホノ》 等思佐伯己其登《トシサヘコゴト》 和波佐可流我倍《ワハサカルガヘ》【三五〇二】
 
わが目《メ》づま 人はさくれど 朝顔の としさへ|こごと《ココダ》 吾はさかるがへ
 
わがめづま 舊訓マヅマとあり、マナコ(愛子)をマコと稱へた例もあるが【四一六六】【四四一四】、此は芽尖《メツマ》即ち嫩芽にいひかけたものと用心はれるから、古義訓の如くメヅマと唱へることを可とする。メはメデ(賞)の語根で、メ〔右○〕ヅコ【三八八〇】又はメ〔右○〕ヅラコ【繼體紀】の如くに用ひられるから、愛《メ》ヅル妻をメヅマというたものと思はれるが、必しもメヅツマの約ではなく、目について吾思ふ妻の意とする古義説も蛇足である。愛子をマコといひ得べくば、愛妻をマヅマ又はメヅマと稱したことも有り得たとせねばならぬ。
ひとはさくれど 人は避クレドといふ意。人妻なるが故に之を憚つて、他人が避けるのは當然のことであるが、此は芽摘《メツマ》を避くることに言ひかけ、次句のアサガホを導いたものとせねばならぬ。
あさがほの 和名抄には牽牛子を阿佐加保と訓して居るが、其は後世支那から渡來した栽培草花で、古今集物名には字音に從うてケニゴシとよまれて居り、本集に見える左記の用例によるも、牽牛子でないことは明白である。
【一五三七、八】秋の野に咲きたる花を指折りてかき數ふれは七|種《クサ》の花
 芽《ハギ》の花尾花|葛《クズ》花なでしこの花、をみなへし又ふぢばかま朝貌〔二字右○〕の花
【二一〇四】朝杲〔二字右○〕は朝露おひて咲くといへど夕陰にこそ咲きまさりけれ
(274)【二二七四】こいまろび戀は死ぬともいちじろく色には出でじ朝容貌〔三字右○〕の花
【二二七五】言にいでていへばゆゆしみ朝貌〔二字右○〕の穗には咲き出でぬ戀をするかも
右によれば萬葉時代のアサガホは、(一)秋の野の花で、(二)朝から咲くが夕陰には咲きまさり、(三)著くは色に出でぬものとせねばならぬ。秋野花の歌のアサガホは新撰字鏡に阿佐加保〔四字右○〕又云|岡止々支《ヲカトトキ》と訓せられた桔梗――外に加良久波《カラクハ》又|阿知萬佐《アチマサ》又|久須乃木《クスノキ》と訓した桔梗があるが全然別物である――の謂なりとする説もあるが、(二)(三)の條件にあたらず、本草和名の波也比止久佐《ハヤヒトクサ》一名|加末《カマ》即ち今いふヒルガホ(旋花)の方が寧ろ適當して居るから、狩谷※[木+夜]齋は此草を以て之に擬し、其花形の類似により後世輸入せられた牽牛子の名稱に轉用し、更に之と區別する爲に、日晩に至るも萎まざる旋花を晝貌と稱へるやうになつたと説いて居るのである【倭名抄箋注】。さりながら此歌に於ては一年草たる旋花としては次句以下と抵觸する嫌がある。右の外和漢朗詠集には槿と題して朝貌の歌二首をあげて居るから、或時代には牽牛子の外に木槿(蕣)をも桔梗をもアサガホと稱へたものとすべきで、其いづれをいふかを決定するに先ち、名稱の意義を明にする必要がある。案ずるにアサガホはアサとカホとの二語に分折することが可能で、アサには朝〔右○〕の外に似而非〔三字右○〕といふ意味もあるから(第二〇〇頁)、朝咲くカホ花または之に似て非なるものに負ばせた名と思はれる。カホ花は和名抄、本草和名、新撰字鏡等には見えず、其物についても異説區々であるが、本集には次の如く詠まれて居る。
【一六三〇】高圃《タカマト》の野邊の容花〔二字右○〕おもかげに見えつつ妹は忘れかねつも
(275)【二二八八】石走《イハハシ》のままに生ひたる貌花〔二字右○〕の花にしありけり在りつつ見れば
【三五〇五】うちひさつ宮の瀬川の可保婆奈〔四字右○〕の戀ひてかぬらむきそもこよひも
【三五七五】みやじろの岡邊にたてる可保〔二字右○〕がはな莫咲きいでそねこめてしぬばむ
即ち野(岡)邊にもママ(澗)又は河中にも咲き、美人を髣髴するに足る美しい花をいふものゝやうである。此も亦一種の名に限るのではなく、美貌に類するといふ意を以て名を負はせたのかも知れぬが、水中に生ずるといふことは有力な手がかりで、少くとも其一種は水草であらねばならぬ。眞淵がオモダカをいふにやと推測したのは【考】如何なる根據に基くか判明せぬが、カハホネ(萍蓬草)はカホハナ〔三字右○〕と極めて音が近いから、或は河骨類即ち睡蓮料の花卉の總稱であつたのではあるまいか。上記の如くアサガホに擬せられた木槿も、説文には蕣とあり、蕣は和名抄に文字集略云、池蓮華、朝生夕落者也とし、岐波知須〔四字右○〕と訓してある所を見ても、上代人は蓮花類と槿花との相似を認めて居たものと思はれる。箋注は之を蕣〔右○〕即ち旋花との混同とし、キハチスは木槿であるが地蓮華(説文には蔓地連花とある)は旋花のことであると論じて居るが、いづれにしても木槿(蕣)をキハチスと稱へたとすれば、之をカホ花又はアザ(似而非)カホ花というたことも有り得べきで、年サヘココダ離《サカ》ルことの譬喩に用ひたのは此木であらねばならぬ。――箋注が木槿亦漢種無2野生1と論じたのは、同じくキハチスと呼ばれる木蓮即ち木芙蓉と混同したもののやうで、木槿が假に支那原産であるとしても、當時さのみ珍奇ではなかつたと思はれる――花形の類似による命名とすれば桔梗または旋花をアサガホと稱へたとしても敢て怪しむに足らぬが、牽牛子を同名を以て呼ぶやうになつ(276)たのは朝咲くカホ花の謂であらう。之を要するに此句はアサガホ即ち槿花のやうにといふ意で、譬喩として用ひられたのである。
としさへこ|ご《コダ》と 年さへ許多といふ意。眞淵は己其登の其をソと訓み、來ズトをコソトと訛つたものとし、新訓もコソトと解讀して居るが、本卷には其をソの假字に用ひた例がないのみならず、意をなさぬから、――第四卷【五二五】の黒馬之來夜者年〔右○〕爾母|有糠《アラヌカ》の年はタシ(足)の轉トシの假字で、タシグシ(口語ドシドシ)の意なるが故にこゝの例にはならぬ――略解説の如くココダ(許多)の訛として年さへあまねくといふ意と解すべきである。
わはさかる|がへ《カハ》 ガヘはカハの轉訛で、上掲の上野歌【三四二〇】にも其例がある。吾は離るかは即ち自分は離れて居ようやといふ意で、離れて居られぬことの反語的表示である。此は京番若くは防人などに出勤して久しく郷里を離れて居る人の許へ、其妻から人は皆自分を避ける故心安く思ひたまへと言ひ送つたに對する返歌で、人は避けても自分は愛妻をアサガホと同樣に年を亙つて相見ずに居られようやというたのである。言ひ廻しが餘り巧でないので、多くの疑を生じたが、作意は極めて單純である。
【大意】吾が愛妻を人は避けるけれども、朝貌(木槿)のやうに年さへ數多自分は離れて居ようや
 
3503 安齊可我多《アセカガタ》 志保悲乃由多爾《シホヒノユタニ》 於毛敝良婆《オモヘラバ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾※[氏/一]米也母《イロニデメヤモ》【三五〇三】
 
あせか潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出《デ》めやも
 
(277)あせかがた 仙覺本には齊をサと訓してあり、アサカは淺處の意で、伊勢の阿邪※[言+可]【記】を始め、本集第二卷及第十一卷にも淺香乃浦(潟)といふ地名が見えるが、此は東歌であるから、或は常陸の阿是|湖《ミナト》【風土記】をいふのではあるまいか。カタは斥鹵の謂である(第一〇頁)。若し然りとすれば略解訓の如くアセ〔右○〕カと稱ふべきであらう。
しほひのゆたに シホヒノを以て分節し、退潮のやうにといふ意とすべきで、ユタはユタカ(寛裕)、タユタヒ(猶豫)等の語根であるが(第五十二頁參照)、こゝでは緩漫の謂に用ひられたのである。アセカ潟に於ては恐らくは潮流が緩やかであつたのであらう。但しシホヒノまでは序で、ナホザリ(緩怠)に思ふといふことの譬喩である。
おもへらば 思ヒアラバの約で、思うて居るならばといふ意である。
うけらがはなの 既出(第六七頁)
いろにでめやも 色ニ出メヤモ、即ち色に出ようやといふ意。君を思ふ心に緩怠あらば色に出ることなかるべしといふのである。
【大意】アセカ潟の潮干のやうに緩漫に(君を)思うて居るならば、朮《ウケラ》の花の如く色に出ようや
 
3504 波流敝左久《ハルベサク》 布治能宇良葉乃《フヂノウラハノ》 宇良夜須爾《ウラヤスニ》 左奴流夜曾奈伎《サヌルヨゾナキ》 兒呂乎之毛倍婆《コロヲシモヘバ》【三五〇四】
 
(278)春邊咲く 藤のうら葉の うら安に さ寢る夜ぞなき 子ろをし思《モ》へば
 
はるべさく 春邊(ニ)咲ク
ふぢのうらはの 和名抄に爾雅の注を引いて※[草がんむり/儡の旁](ハ)藤也、似葛而大と記し、布知と訓して居るが、記の伊豆志神話には布遲葛〔三字右○〕とあり、本草和名にも黄環に布知加都良といふ訓を與へて居るから、フヂはその略稱であらう。名の所由は或は其花の斑《フチ》色なるが爲ではあるまいか。ウラハは勿論末葉の意で、羽状複葉の突端の小葉をいふのであるが、此歌に於ては次句のウラを導かんが爲の序として用ひられたのである。
うらやすに ウラは上述の如くウララカ(朗々)の意で(第一八一頁)、心裏の義ではない。之に平安の意を以てヤスを添へたウラヤスは大和の異稱としても用ひられたが【神武紀】、此は快適といふほどの意である。
さぬるよぞなき サは接頭語で、寢る夜なきぞといふ意(第三一頁參照)。
ころをしもへば 兒ロは相愛の女性をいひ(第一六頁)、シは強意助語で、彼女をば〔右○〕思へばといふことである。
【大意】――上二句は序――彼女を思へば快く寢る夜はないぞよ
 
3505 宇知比佐都《ウチヒサツ》 美夜能瀬河泊能《ミヤノセガハノ》 可保婆奈能《カホバナノ》 孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》 伎曾母許余比毛《キソモコヨヒモ》【三五〇五】
 
うちひさ|つ《ス》 宮の瀬川の かほ花の 戀ひてか寢《ヌ》らむ きそも今夜《コヨヒ》も
 
うちひさ|つ《ス》 ウツヒ(珍日)サス(射)の訛で(第一輯五三頁)、都は必しも誤記ではあるまい。次句ミヤ(宮)の枕(279)詞である。みやのせがはの 宮ノ瀬川の謂であるが、所在を詳にせぬ。信濃の諏訪湖に注ぐ宮川といふ流があるから、或は之を宮(諏訪神社)の瀬川とも稱へたのであるまいか。
かほばなの 上記のやうにカホ花は睡蓮料植物の花を意味したものゝやうである(第二七四頁)。此花は夜は萎んで水中に没するから、戀ひつゝ寢ることの比況に用ひられたのであらう。
こひてかぬらむ 戀ヒテカ寢ラム
きそもこよひも キソは過去助動詞のキにアサ(朝)のサをそへたキサの轉呼で、コゾといふ形に於ては去年の意にも用ひられるが、此はコヨヒ(今夜)に對し昨夕を意味したものと思はれる。情人の上を思ひやつた歌であるが、宮の瀬川を序に用ひた所を見ると、相手は宮(神社)に奉仕する人であつたのであらう。
【大意】宮の瀬川のカホ花のやうに戀に萎れて寢るであらう。昨夜も今夜も
 
3506 爾比牟路能《ニヒムロノ》 許騰伎爾伊多禮婆《コドキニイタレバ》 波太須酒伎《ハタススキ》 穗爾※[氏/一]之伎美我《ホニデシキミガ》 見延奴己能許呂《ミエヌコノゴロ》【三五〇六】
 
新室の こどきに至れば はたすすき 穂に出《デ》し君が 見えぬこのごろ
 
にひむろの 新室ノ
(280)こどきにいたれば 契沖は蠶時に至ればと釋し、宣長は年々こがひする室を新にたてゝせしなるべしといひ【略】、雅澄は今も山里には其例があるかのやうに補説したが【古義】、「新室の言祷《コトブキ》の時と成しかば」の意とした眞淵説を可とする。但し祷〔右○〕よりも新訓が用ひた壽〔右○〕の字の方が適切で、コトホギの訛と思はれる。ハ行は往昔p又はf子音であつたと固執する人々には、此やうな音韻變化は信ぜられぬかも知れないが、古言にもh音の存したことは嚴然たる事實で、今も然るが如く往々|黙音《サイレント》となり、koto-okiと發音せられ、更に一つのoが脱落してkotokiと轉呼せられたことは有り得る。騰が濁音符に用ひられたものとすれば音便で、ホギも亦原音はホキである。コドキはクドキの形に於て今の盆踊の歌の稱呼として用ひられ、口説の二字をあて、クチトキの約と説かれて居るが【言海】、この踊は本來祭神の行事であつたから、其にうたふ歌をもホギゴト(壽詞)ともコトホギとも稱へたのである。新室の言壽はいふまでもなく新築落成の祝辭であるが、此新室は夫婦關係が公認せられた上、夫を迎へる爲に建設せられたツマヤ(嬬屋)をいふのである。新考も妻を迎へん設なりと説いたけれども、上句の能〔右○〕を加〔右△〕と改め、此句頭の許〔右○〕を其下につゞけ、新室カコ時ニイタレバと訓み、カコはカクの訛で、作るといふ意なりとしたのは甚しい牽強で、其證として引いた武烈紀の八重ノクミ垣|※[加/可]※[加/可]梅騰謀《カカメドモ》は繩をかけようともといふ意で、結ぶといひかへてもよいが、作ルといふことではなく、本集第五卷の貧窮問答歌の蜘ノ巣カキテは今もカケルといひ、蜘蛛の巣作ルといふ意を以て用ひられたのではない。要するに先學は上代民俗について殆ど考慮を拂はなかつたが故に、此單純なる歌を解し得なかつたのである。
(281)はたすすき ハタは布、幡等の意であるから、ススキ(薄)の穗が揃うて幕状をなすことを形容したので、旗のやうな薄といふ意を以てホ(穗)又は穗ニ出ヅの枕詞に用ひたのである。
ほにでしきみが 穗に出るは物の露出することを意味する。屡々述べたやうに上代は自由結婚後出來るだけ長く秘密に保つことを例とし、包み切れぬやうになつて後、始めて父母及族人の同意を求めて公然男の來訪をうけることを許されるのであつた。――其は多くは懷胎後のことのやうである――此も穗に出したものは作者自身で、晴れて夫婦と呼ばれるやうになつた良人がといふ意である。
みえぬこのごろ 尊屬の許を得て新室(嬬屋)を建てゝ貰ひ、其落成祝が行はれる此頃になつて、良人が見えぬといふので、昔も今も男心の變り易く、忍んで逢うた間こそ身も魂も打込んだやうであつたが、程過ぎては早くも秋風を立てたのである。コドキを蠶時の意と誤解した契沖以下の説明は論ずるに足らぬが、眞淵が交情露顯に及んだ男の憚ありとして祝賀に參列せぬことを詠じたものと説いたのも亦、新室建設の目的を察し得なかつた爲で、其だけでは餘りに淺薄で、且此ゴロといふ言葉が無用になる。
【大意】 新室の言壽に至れば、世間晴れての良人が此ごろ見えぬことよ
 
3507 多爾世婆美《タニセバミ》 彌年爾波比多流《ミネニハヒタル》 多麻可豆良《タマカヅラ》 多延武能己許呂《タエムノココロ》 和我母波奈久爾《ワガモハナクニ》【三五〇七】
 
谷窄み 峯にはひたる 玉葛 たえむの心 わが思《モ》はなくに
 
(282)たにせばみ 谷を窄しとしてといふ意。
みねにはひたる 峯ニ延ヒタル
たまかづら タマ(玉)は美稱で、單に葛《カヅラ》といふに同じい。――以上二句は序であるが、甚しく上りつめたといふ意を寓したのであらう。
たえむのこころ 絶エムノ心は絶えようとの心といふ意である。
わがもはなくに 吾が思はぬのにといふ意で、反接表示であるから、意外の結果を生じたことを言外に含めたものと了解すべきである。
【大意】谷を窄しとして峯に延うた玉葛のやうに、絶えようとは自分は心に思はぬのに
 
3508 芝付乃《シバツキノ》 御宇良佐伎奈流《ミウラサキナル》 根都古具佐《ネトコグサ》 安比見受安良婆《アヒミズアラバ》 安禮古非米夜母《アレコヒメヤモ》【三五〇八】
 
しばつきの 御浦崎なる ねと〔右○〕こ草 あひ見ずあらば 吾《アレレ》こひめやも
 
しばつきの 從來地名と推斷せられて居るが、他に所見もなく、類名も求め得られぬから、或は次句ミウラサキの修飾語ではないかと考へて見る必要がある。芝付は本卷の表記法に違反するが、中、下をナカ、シモの假字とした例もあるから(第一四一頁)、此も借字と見てシバツキと訓み、シマツギの音便(バ、マは相通)とし、島續の意と解すべきである。後記の如くミウラサキを相模國三浦の埼の謂とすれば、城ケ島に接續(283)する三崎の地勢とよく合致するのである。
みうらさきなる 國土未勘中に入れられて居るが、和名抄に相模國御浦(美宇良)郡御埼(美佐木)とある地、即ち今の三崎町をいふのであらう。一狹水道を隔てて城ケ島と相對するから、上記の如くシマツギと形容せられたものと思はれる。
ね|と〔右○〕こぐさ 從來ネツ〔右△〕コとよみ草名として居るが、其實物を指摘し得たものはなく、次句との續き合についても説明を缺いて居る。都は通例ツの假字として用ひられるが、本集第四卷【六六三】の安都〔右○〕宿禰年足(元暦校本による)及【七一〇】の安都〔右○〕扉娘子は、阿刀〔二字右○〕宿禰(連)氏の人なること明白であるから、都を漢音によつてトの假字に用ひたこともあり得べきで、此もネト〔右○〕コ即ち寢床草の謂であらう。但し草卉の種名ではなく、野合の褥たるに適すといふ意味の稱呼で、作者はこの草を見て戀人と寢たこと想起し、述懷したものゝやうであるから、此句は呼格を表示するものと了解せられる。
あひみずあらば 逢見ズ在ラバ即ち逢うたことがないならばといふ意で、嚴密にいへば逢見ズ在リシナラバとあるべきであるが、邦語では Indicative mood と Subjunctive mood との別がないから、右の如く表現しても意は通じたので、次句も亦同樣である。
あれこひめやも 戀メヤモは戀しようやといふ意の反語で、自分は戀をしなかつたであらうといふことを意味するのである。
【大意】島續きの三浦崎なる寢床草よ。(君と)逢見たことがないならば自分は戀しようや
 
(284)3509 多久夫須麻《タクブスマ》 之良夜麻可是能《シラヤマカゼノ》 宿奈敝杼母《ネナヘドモ》 古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》 安路許曾要志母《アロコソエシモ》【三五〇九】
 
たく衾 白山風の 寢なへども 子ろが襲著《オソキ》の あ|ろ《ル》こそ吉《エ》しも
 
たくぶすま タクは集中多くは〓の字をあてゝ居り、栲の變體と思はれるが、栲は爾雅に山樗とあり、郭璞は栲似v樗、色小白生2山中1因名云。亦類2漆樹1と註し、又新撰字鏡には栲(ハ)口考反、呉桃久留比也と釋き、別に茱萸に同じといふ栲をあげて居る。山樗アフチ(楝)、呉桃はクルミ(胡桃)で、呉茱萸はカハハジカミ【和】又はカラハジカミ【本草和名】、山茱萸はイタチハジカミ又はカリハノミ【同上】、食茱萸はオホダラ【和】又はオホダラノミ【本草和名】――グミとするは非――であるから、タクと訓むべき理由がない。但し豐後風土記速見郡柚富郷の條下に此郷之中栲樹多生、常取2栲皮1以造2木綿1因曰2柚富郷1とある所を見ると、此書の編纂せられた當時(延長年間ならむ)には既に木綿《ユフ》の材料たる樹木を栲と誤解したものと思はれ、タクはタフに通ずるから、――記の船戸《フナト》神を神代紀一書に來名戸《クナト》之|祖《オホチ》神としたのも其一例で、金澤方言ではクライ(暗)をフ〔右△〕ライといひ、八重山語でも草をフ〔右△〕サと稱へる――タブの木又はタフ樟(學名Uachilus Thumbergu)をタクと訛つたことも有り得る。さりながらタフは本來ポリネシア語のタバ(樹比布)と語原を同じうし、タブサキ(犢鼻褌)の形に於ては古言にも用ひられ、今もタビ(足袋)に其名殘を留め、方言では木質繊維で織つた布をタフと言ひ【山村語彙】、決してタクから出たのではない。或は文字を離れて之を楮を意(285)味する鮮語タルク(※[ハングルでタルク])の轉訛なりとする説もかなり有力であるが、若し然りとせば數多い用例中一つぐらゐは楮の字をあてたものがあつても然るべきで、楮は和名抄に穀木也和名加知とあり、新撰宇鏡にも加地乃木といふ名が與へられて居るのであるから、此場合に限り韓語を用ひた筈がない。案ずるにタクは古事記國讓の章【眞福寺本】及本集第五卷【九〇二】に〓〔右○〕とあるを正字とし、タタク(敲)の原語タクに充てられたものと認むべきで、記の出雲傳説に八千矛神が〓〔右○〕殺されたとあり、播磨風土記讃容郡美加都岐原の條下にも酷〓〔右○〕之とある拷の義によつて用ひられたのであらう。上古は右のタフの木又はマダの木(第二三頁)等の皮を敲き柔げて布、衾に代用し、――之は今も南島民の間に行はれて居ることである――或は其繊維を以て綱(繩)を製したから、此類の物質を表示する爲に、タク(拷)といふ語を冠したことは有り得べきで、色素乏しきが故に白の枕詞に用ひられるやうになつたものと思はれる。
しらやまかぜの シラ山は上掲【三四七八】の白嶺をいふのであらう。異例ではあるが、白山風は「寒さよ」といふ意を含ませると同時に、一句を隔てゝオソキ(襲來)に言ひかけたものと思はれる。
ねなへども ナヘは度々述べたやうに打消ナフの已然形で、寢〔右○〕ネドモといふに同じい。上句とはつゞかぬので、白山風をネ(音)一音にかゝる枕詞とし【古義】、或は宿奈敝を寒牟敬〔三字右△〕の誤記とする説があるが、上句を單なる序または枕詞としては歌の興趣がなくなり、寒牟敬の如きは本卷の書例に反するのみならず、諸寫本のいづれにも證跡の見えぬ臆測に過ぎぬ。されば上記の如く此上に「寒さよ」といふ意を寓したものとすべきで、次句にいふ兒ロ即ち相愛の女子と相寢ねどもといふのである。
(286)ころがおそきの オソはオソヒ(襲)の語幹で、キ(著)と連ねると襲衣の意となるのであるが、恐らくは八千矛神の歌及倭建命の御作中のオズヒと同じく【記】、衣《ソ》の上に襲ね著る被服具の謂で、遠方に旅立するに當り、寒さを厭ひたまへというて女が寄贈した外套《ウハハリ》のことであらう。俗謠にも舟は寒かろ著て行かしやんせ私の著がへの此小袖といふのがある。
あ|ろ《ル》こそえしも アロは【三四一四】以下多くの例にも見えるやうにアル(有)の訛、エシはヨシ(善)の原形態で、モは感動詞である。コソといふ強指定語に對してはエキと結ばざるべからずとし、志〔右○〕を吉〔右△〕の誤記なりというた古義説は大なる誤りで、天智紀の童謠に年魚《アユ》コソハ島邊モエキ〔二字右○〕とあるのは、反接の意を含める爲に故意に已然形ヨケレの古形エキ〔二字右○〕を用ひたので、此とは全然語氣を異にする。屡々述べたやうにコソは必しも已然形と呼應することを條件とせぬのである。此は上掲【三四七八】と同樣に、所要あつて加賀方面に 旅行した東人の歌であらう。
【大意】白山風の寒さよ。獨寢の旅であるが、かの女の(くれた)襲著のあるこそ(まだしも)よいわい
 
美蘇良由久《ミソラユク》 君母爾毛我母奈《クモニモガモナ》 家布由伎※[氏/一]《ケフユキテ》 伊丹爾許等杼比《イモニコトドヒ》 安須可敝里詐武《アスカヘリコム》【三五一〇】
 
み空行く 雲にもがもな 今日行きで 妹に言問ひ 明日かへり來む
 
(287)みそらゆく ミは接頭語で空行くといふ意。
くもにもがもな 雲ニモガは雲でありたいといふ意で(第八四頁、句末のモもナも感動詞である。
けふゆきて 今日行キテ
いもにことどひ 妹に物いひといふ意(第一輯三五八頁)。
あすかへりこむ 明日歸リ來ム――此は遠地にある男の歌と思はれる。
【大意】空行く雲でありたい。(若しさうなら)今日行つて妻と言葉をかはし明日歸つて來よう
 
3511 安乎禰呂爾《アヲネロニ》 多奈婢久君母能《タナビククモノ》 伊佐欲比爾《イザヨヒニ》 物能安〔左▲〕乎曾於毛布《モノヲゾオモフ》 等思乃許能己呂《トシノコノゴロ》【三五一一】
 
青嶺ろに たなびく雲の いざよひに 物をぞ思ふ 年のこのごろ
 
あをねろに 青嶺《アヲネ》ニといふ意。ロは虚辭的接尾語である。
たなびくくもの タは接頭語で、ナビク(靡)は瀰蔓することをいふのであるが、此は棚曳く雲のやうにといふ意を以て比況に用ひたのである。
いざよひに イザヨヒは躊躇逡巡の意であるが、イザヨフと活用せられる所を見ると、イサメ(禁)の語幹イサに名詞語尾ヤをそへたイサヤといふ語が存し、之をイサヨと轉呼して更に活用したのではないかと推定(288)せられる。イザナヒ(誘)の語幹イザから導いたものなりとする説もあるが、促進の義のイザが之と正反對の意に點じたとは考へられぬ。此は雲の去來を以て憂心の晴れやらぬことに言ひかけたのである。
ものをぞおもふ 類聚古集其他の寫本に從ひ、安を衍とし、物ヲゾ思フと解讀すべきである。
としのこのごろ 年ノ此頃の謂で、此年頃といふに同じい。
【大意】青山に棚びく雲のやうに、とつおいつ物を思ふぞ此年ごろ(は)
 
3512 比登禰呂爾《ヒトネロニ》 伊波流毛能可良《イハルモノカラ》 安乎禰呂爾《アヲネロニ》 伊佐欲布久母能《イザヨフクモノ》 余曾里都麻波母《ヨソリツマハモ》【三五一二】
 
人ねろに 言はるものから 青嶺ろに いざよふ雲の よそりつまはも
 
ひとねろに ネは敬稱、ロは虚辭的接尾語であるから、人樣にといふ意で、他に用例はないが、第三句のアヲネロ〔二字右○〕と呼應する爲に、特に此表現を用ひたのであらう。眞淵は之を妹と吾と心一つぞといふ意とし、後の二註も之に從ひ、ヒトネロを一嶺の意に言ひかけたのであると追加したのは無理な説明である。新考は禰呂を彌奈〔二字右△〕と改めたが、諸本いづれにも誤寫の形跡はない。
いはるものから 云ハルモノ故《カラ》の謂で、イハルは新考説の如く連體法として用ひたので、イハルルといふ形が嚴重にイハルと區別せらるゝまでは、彼此通用せられたのである(要録九四三、九六一頁)。モノカラは豫期に反することを表現する準接續詞で(要録一〇〇四頁)、モノノ又はモノヲとしても大差はなく、新考がイ(289)ヒハヤスカラ〔二字右○〕と譯したのは不當である。
あをねろに 前出
いざよふくもの 去來する雲のやうにといふ意。前の歌參照。
よそりつまはも ヨソリは既述の如くヨセアリの約であるが(第一二二頁)、このヨソリは名詞形として用ひられ、ツマ(妻)と結合して一複合名詞を形成したもので、新考のいふやうに余曾里之〔右△〕のシを脱したのではない。此も他に用例のない語であるが、上掲のハナツマと同じく(第五五頁)、東國特有の表現で、寄居の妻即ち入嫁の婦をいふものと思はれる。本卷の情歌中には男が女の許に通ふことを詠じたものが多いが【三三五六】【三三八七】【三四一五】【三四二八】【三四四一】【三四五四】【三四五五】【三四六一】【三四六七】【三五一九】【三五三〇】【三五三一】【三五三八】【三五四九】【三五七一】、此等を盡く夫婦關係以外の情交と見ることは困難であるから、結婚した後に於ても獨立して一家を構へるまでは別居したものとせねばならぬ。新屋は必しも夫たるものの郷里に設けるとは限らず、【三五〇六】の歌の如きは明に女の里に同棲の爲の屋舍が作られた頃に至り、早くも男心に秋風の立ち初めたことを怨じたものであるが、尚【三四七四】【三四八〇】【三四八一】【三五三四】には同棲屋から直に公役の旅に上つた趣が詠まれて居るから、其家は男の閭里に存したものと思はれる。さりながら、迎へ取られて行くといふことは古俗ではないので、當時の婦人は尚之を憚る傾向があり、既に人の口に上つて居るにも拘はらず、青山に去來する雲のやうに躊躇するのをもどかしとした男の述懷である。句末のハは強意助語、モは感動詞で、女房はヨウといふのである。
(290)【大意】人樣に噂されるものゝ、青山に去來する雲のやうに躊躇する入嫁《イリヨメ》はよ
此歌は從來甚しく解きひがめられて居たやうであるが、其は未句を言ヒヨセ〔二字右△〕妹【考】、依ル妻【略】、人ノ〔二字右△〕言ヒヨスル妻【古義】、靡キヨリシ妻【親考】等と解し、上代習俗についての考察を吝んだ結果で、假に一歩を讓つてヨソリツマに右の如き意義が存すとしても、他の語句から推究するに於ては、決して先學が釋いたやうな意味になり得ぬ。初句を一嶺の義とした雅澄以前の説は論外であるが、之を人皆ニの誤傳と見た新考も亦次の如き解釋を下して居るのである。
  ミナガオレト似合ヂヤト〔三字右△〕イヒハヤスカラ〔二字右△〕アレハオレニ靡イタガ〔右△〕今ハドウシタラウ。其後氣ガカハツタノカトント逢ツテクレナイ〔今ハ〜傍線〕
似合ヂヤトは、古義に妹ト吾ト一ツゾとあるを改修したので、一嶺説を脱し得ぬものといふべく、モノカラをカラと同一視したのは上述の如く語法上不當で、ハモには反接の意がないから今ハ以下の意味を寓したものと見ることは出來ぬ。要するに此も他の三註と同じく歌詞を離れた空想であるといはねばならぬ。
 
3513 山布佐禮婆《ユフサレバ》 美夜麻乎左良奴《ミヤマヲサラヌ》 爾努具母能《ニヌグモノ》 安是可多要牟等《アゼカタエムト》 伊比之兒呂婆母《イヒシコロハモ》【三五一三】
 
(291)夕されば み山をさらぬ にぬ《ヌノ》雲の あぜか絶えむと いひし子ろはも
 
ゆふされば ユフサは夕|方《サ》即ちユフベ(夕邊)と同意で、これを活用してユフサリ(ヨサリ)ともいふ(第一輯八頁)。ユフサレは其已然形なるが故に、夕方になればといふ意になるのである。
みやまをさらぬ ミはマに通ずる接頭語であるが、此場合には原義を離れ、單に口調の爲に冠せられたのであるから、山を去らぬといふに同じい。
にぬ《ヌノ》ぐもの ニヌは既述の如くヌノ(ヌノ)の謂で(第一六頁)、布のやうに棚びく雲即ち層雲をニヌ(ヌノ)雲とも稱へたのである。此は比況であるから層雲の如くといふ意と解すべきである。
あぜかたえむと 何故か絶えむとといふ惹(第五三頁)。
いひしころはも 言うた兒(女子)はよといふ意で、兼約に違うたことを遺憾とする述懷であるが、其女性に贈つた歌とも思はれぬから、或は愛人に先立たれた人の独吟であるかも知れぬ。【三四七五】【三四八五】にも挽歌を相聞中に混入した例がある。
【大意】夕になれば山の端を去らぬ布雲のやうに何として絶えようというた彼女は嗚呼
 
3514 多可伎禰爾《タカキネニ》 久毛能都久能須《クモノツクノス》 和禮左倍爾《ワレサヘニ》 伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》 多可禰等毛比※[氏/一]《タカネトモヒテ》【三五一四】
 
高き嶺に 雲のつくのす 我さへに 君につきなな 高嶺と思ひて
 
(292)たかきねに 高キ嶺ニ
くものつくのす ノスは比況助語であるから(第一三一頁)、雲に就くやうにといふ意である。
われさへに サヘはソヘ(副)から分化した助語であるから、吾モ亦といふ意と了解すべきである。
きみにつきなな 既述のナナ(第一二一頁)と異り、此はツキといふ動詞の連用形に添付せられて居るから、君に就キナム〔二字右○〕のムを略し、感動詞ナを連ねたものと見るべきである。ツキナは未然形で、ムなくとも未來をいふものと了解せられるからである。但しツカムとは異り、完了事項が未來に於て起ることを意味するのであるが、口語には之に相當する表現はなく、強ひていへは「就いてしまはう」である。
たかねともひて 高嶺ト思ヒテ
【大意】高い山に雲がつくやうに、自分も亦君につかうよ。(君を)高嶺と思うて
 
3515 阿我於毛乃《アガオモノ》 和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》 久爾波布利《クニハフリ》 禰爾多都久毛乎《ネニタツクモヲ》 見都追之努波西《ミツツシヌバセ》【三五一五】
 
あが面の 忘れむしだは 國|放《ハフ》り 嶺《ネ》に立つ雲を 見つつしぬばせ
 
あがおもの 我面ノ
わすれむしだは 忘レムは新考説の如く忘ラレムといふ意。忘ルはもと四段活で其可能法の原形は忘ラエであつたから、之を約してワスレとし、未來助動詞ムを添へて忘レムというたのである。其は聞カエムを口(293)語では聞ケヨウといふと趣を同じうするもので、下二段活忘レの末來格なる忘レムとは同音異義である。シダは既記の如く時の義であるから(第四二頁)、我面の忘れられる時はといふ意になるのである。
くにはふリ クニの原義は木土《クニ》であるから、地面の意味とも了解せられる。ハフリは放の意で、地上を放れといふことである。從來|溢《アフ》レの轉呼と解かれて居たが、國【代】または平地【新考】に雲が溢れたら山頂は見えなかつた筈である。
ねにたつくもを 峯ニ立ツ雲ヲ
みつつしぬばせ 見ツツ偲バセ即ち見ながら偲びたまへといふ意。これは遠國に滞在する夫に寄せた女の歌で、次の一首は之が返歌と思はれる。
【大意】我が面が忘れられようとする時は地面を放れて峯に立つ雲を見て偲びたまへ
 
3516 對馬能彌波《ツシマノネハ》 之多具毛安良南敷《シタグモアラナフ》 可牟能禰爾《カムノネニ》 多奈婢久君毛乎《タナビククモヲ》 見都追思怒波毛《ミツツシヌバセ》【三五一六】
 
對馬《ツシマ》の嶺《ネ》は 下雲あらなふ 上《カム》の嶺《ネ》に たなびく雲を 見つつしぬば|も《ム》
 
つしまのねは 後句によれば此ツシマの峯《ネ》は下島(上縣郡)の山をいひ、作者の住所も此地に存したものと思はれる。ツシマは韓國往來の津のある島の謂で、神功紀にも和珥津(今の上縣郡豐崎村大字鰐浦)の名が見(294)え、上古は船越を經、淺海灣を過ぎて西海岸に出で、朝鮮南岸の要津に最も近い地點から直路發航し、歸路も亦同じ道をとつたものと思はれるから、ツシマ(津島)といへば下島と了解せられたのであらう。島守の衛戍地が北島に存したことは勿論である。眞淵は波〔右○〕の字を次句につけて讀み、新考は能〔右○〕を衍としたが、此場合には強意助語ハを必要とし、又ツシマネとツシマノ〔右○〕ネとの間には含蓄に相違がある。即ちツシマネといへば或る一峯の固有名とも了解せられるが、ツシマノネは對馬なる山峯といふ意で、複數でもあり得る。作者の意志は恐らくは後者に存したのであらう。
したぐもあらなふ 上記の如く眞淵は前句尾の波を引おろし、具〔右○〕を久〔右△〕の誤記としてハシタクモアラナフと九音に読み、ハシタクは細《クハ》シ痛《イタ》クの略と説いたが、門人の千蔭すらも否認したやうに極端なる牽強で、次句のカムノネを足柄の神の嶺〔三字右△〕と臆測した誤解に因するものであるから論外として、契沖説の如く下雲アラナフの謂とすべきである。アラナフは既述の如く大和語のアラズに相當する(第六五頁)。下島の山峯なるが故に下雲がないといふ理由はないが、是は戀の相手がないといふことを譬喩的に敍したのである、
かむのねに 上ノ峯即ち上島(下縣郡)の山峯にといふ意と思はれる。對馬からいへば作者の郷里は上方《カミカタ》であるから、故郷を憶ふといふ意を寓する爲に、カムノネといふ表現を用ひたのであらう。
たなびくくもを 棚曳ク雲ヲ(第二八七頁)。
みつつしぬば|も《ム》 見ツツ偲バム〔右○〕といふ意で、モはムの訛である。先學の説の如く此は前の歌に對する返歌であるが、出發の際の贈答ではなく、衛戍池滯在中に郷信を得て之に酬いたものとすべきで、羈旅の情を慰(295)めるものがないといふ意を寓したことは上述の通りである。
【大意】對馬(下島)の嶺には下雲がない。上(島)の峯に棚引く雲を見つゝ偲ばう
 
3517 思良久毛能《シラクモノ》 多要爾之伊毛乎《タエニシイモヲ》 阿是西呂等《アゼセロト》 許己呂爾能里※[氏/一]《ココロニノリテ》 許己婆可那之家《ココバカナシケ》【三五一七】
 
白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心にのりて こゝばかなし|け《キ》
 
しらくもの 白雲のやうにといふ比況。
たえにしいもを 絶縁した女をといふ意である。
あぜせろと 上掲【三四六五】にアド〔右○〕セロトカモとあると同意で(第二一六頁)、「何としろとて」といふのであるが、新考説の如くカを脱したのではなく、疑問の意は末句に含まれて居るのである。
こころにのりて 上掲【三四六六】に心ノ緒ロニノリテとあるに同じく、自分の心に乘り移つてといふ意(第二一七頁)。
ここばかなし|け《キ》 ココバは第十五卷【三六八四】にも奈曾許己波〔三字右○〕伊能禰良要奴毛とあり、ココバクの略【考】又は許多の意【古義】と説かれて居るが、ココバクは幾許の義で此場合には當らず、ココダ(許多)をココバと訛つたとも思はれぬから、或はココ(許多)ニハ〔二字右○〕の約であるかも知れぬ。カナシケ〔右○〕は愛《カナ》シキ〔右○〕の古形で(第一三〇頁)、下に疑問助語カを含めて居るのである。
(296)【大意】白雲のやうに離れた女をどうしろとて心に乘り移つて少からず可憐《イト》しいのか
 
3518 伊波能倍爾《イハノヘニ》 伊賀可流久毛能《イカカルクモノ》 可努麻豆久《カヌマヅク》 比等曾於多波布《ヒトゾオタハフ》 伊射禰之賣刀良《イザネシメトラ》【三五一八】
 
磐の上《ヘ》に い懸る雲の かぬまづく 人ぞおたはふ いざねしめと|ら《ヤ》
 
既述の如く此歌の下三句は【三四〇九】と殆ど同一で、偶然の暗合とは思はれぬから、上掲の上野歌の異傳とすべく、伊香保呂が伊波能倍といひかへられた爲、國土未勘中に編入せられたものと思はれる。さりながら之を本末かけあはずといひ【考】、上二句を他の歌なりとする斷定【古義】は早計で、一首の歌としても左記の如くよく意が通ずるのである。
いはのへに 巖の邊《ヘ》にといふ意であらう。ヘはウヘ(上)の上略とも解せられぬことはないが、岩石は大きさに限りがあるもので、其上にのみ雲が懸る筈はないから、突兀たる巨巖を繞つてといふ意味であらう。
いかかるくもの イは發聲の爲の接頭語に過ぎず、カカル雲ノヤウニといふ意で、群衆の神沼《カヌマ》を齋く光景の比況である。
かぬまづく 既出(第一二四頁)
ひとぞおたはふ 【三四〇九】の歌にはヒトト(人々)とあるが、此歌では人ゾと指定したのである。オタハフが沈黙するといふ意なることは既述の通りである。
(297)いざねしめと|ら《ヤ》 既出(第一二四頁)
【大意】巖の邊にかゝる雲のやうに神沼を齋く人が靜まるぞ、いざ寢よといふのか
 
3519 奈我波伴爾《ナガハハニ》 己良例安波由久《コラレアハユク》 安乎久毛能《アヲクモノ》 伊※[氏/一]來和伎母兒《イデコワギモコ》 安必見而由可武《アヒミテユカム》【三五一九】
 
汝が母に こられ吾は行く 青雲の いで來《コ》我妹子 相見て行かむ
 
ながははに 汝が母ニ
こられあはゆく コラレはコリ(懲)の受動詞形で、後世ならばコラサレ(コラスの受動形)といふべきであるが、コリは本初自他兩用であつたので、トリ(取)からトラレ(被取)といふ形態が生まれたやうに、被懲の意を以てコラレというたのであらう。アハユクは自分は歸つて行くといふ意で、忍び込む機會を伺うて其家の周圍を徘徊するのを女の母親に見つけられ、罵倒せられて退却する時の述懷である。
あをくもの 青天の雲といふ意で、出デ來の序として用ひられたのである。
いでこわぎもこ 出デ來《コ》我妹子の謂。古義がイデコを乞來《イデコ》と譯し、上句青雲ノを相見にかゝる枕詞としたのは誤解である。
あひみてゆかむ 相見テ行カム
【大意】汝の母に叱られ、自分は歸つて行く。青空の雲のやうに出て來い、我が愛人よ。顔見て(298)行かう
 
3520 於毛可多能《オモガタノ》 和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》 於抱野呂爾《オホノロニ》 多奈婢久君母乎《タナビククモヲ》 見都追思努波牟《ミツツシヌバム》【三五二〇】
 
面形の 忘れむしだは 大野ろに たなびく雲を 見つつしぬばむ
 
おもがたの 面貌ノといふ意で、次句忘レム(忘ラレム)の主語である。
わすれむしだは 前出(第二九二頁)
おほのろに ロは虚辭で、大野ニといふに同じい。
たなびくくもを 大野のはてに棚びく雲をといふ意。
みつつしぬばむ 見ツツ偲バム
【大意】面貌が忘られようとする時は大野(のはて)にたなびく雲を見て偲ばう
眞淵が之を上掲【三五一五】の重出として削除し、未句不調なりとしたのは、第二句を忘レ給ハバの意と誤解したからで、千蔭が説破したやうに、前の歌は我面を忘れん時は雲を見て偲べと人に對つて要求したものなるに反し、此は人の面貌を忘れんとする時は、我〔右○〕は雲を見て偲ばうといふので、全然別個の歌である。但し之を男性の作なり【古義】【新考】と斷定することは聊か困難である。
 
(299)3521 可良須等布《カラストフ》 於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》 麻左低爾毛《マサテニモ》 伎麻差奴伎美乎《キマサヌキミヲ》 許呂久等曾奈久《コロクトゾナク》【三五二一】
 
烏とふ 大をそ鳥の まさてにも 來まさぬ君を ころくとぞなく
 
からすとふ 烏トイフの急呼。カラスのカラは擬聲で、スは鳥を意味する朝蝉語セ(※[セのハングル])と同語であらう。ポヌ語(パプア〔三字右○〕語系)でも烏をアス〔右○〕といふ。
おほをそどりの ヲソはウソの轉訛で、大嘘鳥ノといふ意。
まさてにも マサテのテはタに通ずる接尾語で、原義を離れた虚辭であるから(第六三頁)、正ニモといふ意とすべきである。
きまさぬきみを 來たまはぬ君をといふ意。キミは作者の相愛の男性をいふのである。
ころくとぞなく コロクは烏の聲を摸し、且子ロ來にいひかけたので、コロは通例女子を呼稱するに用ひられるが(第一六頁)、此は男子の謂とせねばならぬ(第一四七頁參照)。女から直接男を呼ぶに用ひた例がないので、男性の歌と見たものもあるが【新考】、女が男の許に通ふといふやうなことは、此當時には有り得なかつた。
【大意】烏といふ大嘘鳥が實際には來たまはぬ君をコロク(子ら來)と(いうて)鳴くぞ
 
(300)3522 伎曾許曾波《キソコソハ》 兒呂等左宿之香《コロトサネシカ》 久毛能宇倍由《クモノウヘユ》 奈伎由久多豆乃《ナキユクタヅノ》 麻登保久於毛保由《マトホクオモホユ》【三五二二】
 
きそこそは 兒ろとさねしか 雲の上ゆ 鳴き行く鶴《タヅ》の ま遠く思ほゆ
 
きそこそは キソは上述の如く昨夜といふ意に用ひられたのである(第二七九頁)。
ころとさねしか 此コロは女子の謂で(第一六頁)、サは接頭語、ネシカは寢キの已然形であるから、寢たけれども〔二字右○〕といふ意と解せられる。
くものうへゆ 雲ノ上ヲといふ意。此場合のヲ〔右○〕は古言ではヨまたは其音便ユを以て表示せられたのである。
なきゆくたづの タヅはタとツル(鶴)との約濁で、ツルは糊鮮語※[ツルミのハングル]と同語から出たものと思はれる。田鶴とも表記せられ、次の歌にも田面〔二字右○〕ニ居ルとある所を見ると、田に下る鶴の謂とも了解せられるが、或はタはタダ(凡常)の原語で、マナヅル(眞之鶴)に對し、平凡の鶴を意味したのかも知れぬ。鵠をタヅと訓ませたのも【二七三】恐らくは之によるのであらう。此は雲の上を鳴き行く鶴のやうに〔四字右○〕といふ意を以て比況としたのである。
まとほくおもほゆ 間遠く思はれるといふ意(第一七七頁)。
【大意】昨夜は彼女と寢たのであるが、雲の上を鳴き行く鶴の(聲をきく)やうに間遠く思はれる
 
(301)3523 佐可故要※[氏/一]《サカコエテ》 阿倍乃田能毛爾《アベノタノモニ》 爲流多豆乃《ヰルタヅノ》 等毛思吉伎美波《トモシキキミハ》 安須左倍母我毛《アスサヘモガモ》【三五二三】
 
坂こえて 阿倍の田の面に ゐる鶴《タヅ》の ともしき君は 明日さへもがも
 
さかこえて 坂越エテといふ意であるが、次句のアベが駿河國安倍郡をいふものとすれば、此坂は仙覺説の如く郡の西境なる宇津ノ谷峠のことであらう。
あべのたのもに アベは諸國にある地名であるから、推定しかねて國土未勘中に入れたのであらうが、アヅマ人の詠とすれば東國に於て最も名高い駿河國の安倍と認めることは不當であるまい。本集第三卷にも駿河ナル阿倍ノ市道と詠まれ【二八四】、今も靜岡市の疆内に安倍川町がある。恐らくは和名抄の安倍郡川邊郷の地で、古は阿倍ノ市と呼ばれたのであらう。安部川流域の平野の田面が坂を超えると間もなく眼前に展開したものと思はれる。
ゐるたづの 降り居る鶴《タヅ》のやうにといふ意で、以上三句は比況的序である。
ともしききみは トモシは乏少の義から轉じて珍重の意にも用ひられ(第一輯三六頁參照)、當時に於ても鶴が田に降りるのは珍らしいことであつたので、マレヒト(貴賓)といふ意にいひかけたのであらう。キミは勿論男性をさしたので、大事の大事の良人といふ意味である。
あすさへもがも アスサヘは明日も亦といふ意。モガモは願望表示で(第八四頁)、明夕も亦通うて欲しいといふのである。
(302)【大意】坂を超えて(見渡す)阿倍の田の面に降りて居る鶴のやうに、珍らしい君は明日もまた見たいよ
 
3524 麻乎其母能《マヲゴモノ》 布能未知可久※[氏/一]《フノミチカクテ》 安波奈敝波《アハナヘバ》 於吉都麻可母能《オキツマカモノ》 奈氣伎曾安我須流《ナゲキゾアガスル》【三五二四】
 
まを菰の 節《フ》のみぢかくて あはなへば 沖つ眞鴨の なげきぞ吾がする
 
まをごもの 既出(第二一四頁)
ふのみぢかくて 節《フ》ノ短クテといふ意で、間近クにいひかけたのである。短は本集第十五卷に美自〔右○〕可伎と假字書せられ【三七四四】、從來ミジ〔右○〕カを以て正しい綴字と了解せられて居るが、三語音より成る原語は國語には絶無で、少くとも二語分子より形成せられたものと見ねばならす、之をミとシカ又はミシとカとに分割するにしても「短」の義を生ずべき理由がないから、マチカ(間近)の轉呼轉義と推定せられる。マとミとが相通ずる例は極めて多く、チとジとも亦通音で、筑前風土記には資河〔二字右○〕嶋を近〔右○〕嶋の訛とし、本卷にもチをシと訛つた例は少くはない(卷末訛音表參照)。さればマヂカをミジカと稱へたことは有り得べく、偶々東國に原發音が殘つて居たので、契沖説のやうに東の俗語ではあるまい。知の字に拘泥して未を末の誤寫としマヂカクと訓み【考】或は結《フ》ノミ〔二字右△〕近クテと解讀したのは【古義】、上句マヲゴモを薦蓆の謂と見た爲であらう(303)が、此は菰草の節とかゝり、末句ナゲキ(長息)に對して短クというたのである。
あはなへば 逢はねばといふ意(第二三六頁)。
おきつまかもの 沖の眞鴨といふ意の複合名詞形。鴨は沖ツ鳥とも呼ばれるから沖ツを冠したので、此鳥は水から浮び出でゝ長く息を吐く習性を有するが故に比況に用ひたのである。されば必しも沖ツといふ語を必要とせぬが、上句の近クの對照として特に此表現を選んだのであらう。
なげきぞあがする 歎キゾ我ガスル
【大意】眞菰の節の短いやうに間が近くて(しかも)逢はぬが故に、自分は沖の眞鴨のやうな長い息を衝くぞよ
 
3525 水久君野爾《ミククノニ》 可母能波抱能須《カモノハホノス》 兒呂我宇倍爾《コロガウヘニ》 許等於呂波敝而《コトオロハヘテ》 伊麻太宿奈布母《イマダネナフモ》【三五二五】
 
水くく野《ノ》に 鴨のは|ほ《フ》のす 兒ろが上《ウヘ》に 言おろはへて 未だ寢なふも
 
みくくのに ククはクグリ(潜)の語幹であるから、水《ミ》ククはミヅクキと同じく水に浸ることをいひ、卑濕なる野の意を以てミクク野と稱へたので、必しも之を名とする地點の實在を要せぬ。古義は眞淵説によつて武藏國秩父郡水久具利の里――現在の村名及大字には見えぬ――なりとし、野に鴨が居る筈はないから、(304)野はヌ(沼)の借字であると説いたが、沼の意に野の字をかりた例は本集には絶無であるのみならす、水漬野《ミククノ》ならば鴨が徘徊することがないとはいへぬ。
かものは|ほ《フ》のす ノスはナスと同じく比況助語で、ハホはハフ(這)の訛である。水禽なる鴨は地上に於ては動作緩慢で、ノソノソと歩むものであるから、匍フというたので、後句オロハヘの比況である。
ころがうへに コロは女子の謂で(第一六頁)、意中の女性の上にといふことである。宣長がウヘを噂《ウハサ》の意としたのは不當で、妹が許にといふほどの意である。
ことおろはへて 元暦校本及類聚古集等には乎〔右△〕呂とあり、刊本にも於〔右△〕にヲと旁訓してあるが、ヲロの意義の何たるを問はず、此場合には適合せぬから、オロカ(愚)の語根オロと同じく、オホロ(凡)の急呼とすべきで、オボロ(朧)なることをいひ、口語ではウロと轉呼せられ、ウロ覺えなどゝ用ひられるのである。コト(言)ハヘ(延)は寄語の謂であるが、正式に求婚したのではなく、漠然意中を漏したに過ぎぬから、オロハヘというたのであらう。宣長がオロソカ(疎)と譯し【略】、雅澄が大神眞潮の説に從ひ、オロオロ即ち未だ確ならず仄にといふ意としたのは【古義】ほゞ當を得て居るが、聊か句意を解き誤つて居るやうである。オロを驚クと同義とし【考】、或は乎呂とあるに從うて言ヲ延ヘテ(ロを虚辭とす)と解讀したのは【新考】、上句の比況を無視したものといはねばならぬ。
いまだねなふも 未ダ寢ヌヨといふ意。ナフは東國獨特の打消助動詞で(第六五頁)、モは感動詞である。
【大意】水漬《ミクク》野に鴨が匍ふやうに(ノロノロと)、女のもとに意を通じ(たばかり)て、未だ相寢ぬ(305)ことよ
 
3526 奴麻布多都《ヌマフタツ》 可欲波等里我栖《カヨハトリガス》 安我許己呂《アガココロ》 布多由久奈母等《フタユクナモト》 奈與〔左△〕母波里曾禰《ナオモハリソネ》【三五二六】
 
沼二つ かよ|は《フ》鳥がす 吾《ア》が心 ふたゆく|なも《ラム》と なおもはりそね
 
ぬまふたつ 沼二ツ
かよ|は《フ》とりがす カヨハ〔右△〕はカヨフ〔右○〕の訛(第二七六頁參照)、トリ(鳥)は勿論水禽をいひ、ガスはナスの轉呼で、比況表示である。助語ガがノ(原形ナ)と同義に用ひられるやうにnaが鼻音化してngaとなり、g音が強く響いてgaに轉じたのは音韻變化上怪しむに足らぬことで、さればこそ比況助語は上記のやうにノスとも用ひられるのである。舊訓ガセとあるのは此變化を察し得なかつた爲で、之巣《ガス》の意とするのは【考】【古義】牽強である。新考は我〔右○〕を能〔右△〕の誤寫としてノスと訓したが、ガスを不可なりとすべき理由はない。
あがこころ 我心
ふたゆく|なも《ラム》と ナモは前例もあるやうに(第二三一頁)ラムの訛で、二行クラム即ち二方に向ふだらうといふ意である。
なおもはりそね 字によればナヨ〔右△〕モハリソネで、與〔右△〕の字を誤寫と認むべき根據も薄弱であるが、眞淵説の如くナヨを汝ヨの謂とし、ソネだけに禁止の意があると解することは不可能で、莫……ソネといふ形式【第七(306)〇頁】と見るの外はなく、ヨモハリといふ語はあり得ず、感動詞のヨを莫に連ねたものとする説も【略】、語法上同意が出來ぬから、雅澄説の如く與〔右△〕は於〔右○〕の誤記とすべきであらう。オモハリは思ヒアリの約で、ハリをヒの延とするのは【考】誤りである。
【大意】沼二つを通ふ(水)鳥のやうに、我心が二方に向ふと思うてくれるな
 
3527 於吉爾須毛《オキニスモ》 乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》 也左可杼利《ヤサカドリ》 伊伎豆久|久〔左▲〕伊毛乎《イキヅクイモヲ》 於伎※[氏/一]伎努可母《オキテキヌカモ》【三五二七】
 
沖にす|も《ム》 小鴨のもころ やさかどり 息づく妹を おきて來ぬかも
 
おきにす|も《ム》 沖ニ棲ム〔右○〕の訛
をかものもころ モコロのロは虚辭、モコは大山守皇子の歌に吾モコ〔二字右○〕ニ來ム【紀】【記】とあるやうに、トモ(共)の語幹モに「處」を意味するコを連ねたもので、本來モト(許)と同義であるが、「同樣」といふ意に轉用せられたものゝやうであるから(第一輯一九〇頁)、――上掲【三四八六】のモコロヲとは聊か相違する――小鴨のやうにといふ意であらう。
やさかどり ヤサカ(八尺)は息衝《イキヅキ》の形容で、長い息をつくといふ意から、ヤサカのナゲキ(長息)の如くも用ひられるが(第一輯一六八頁)、古義説のやうに八尺許の長き息をつく鳥を略してヤサカ鳥といふことは出來(307)ず、他に鳥の修飾又は限定となるべきヤサカといふ語も見あたらぬから、新考は杼〔右○〕を麻〔右△〕の誤記とした。ヤサカ餘《マ》りとすれば意はよく通ずるけれども、麻若くは末、馬、滿等を杼と見誤つたとも思はれぬから、姑く舊訓を存する。或はヤサカタリ(足)の轉訛で、八尺餘の意かも知れぬ。
いきづくいもを 久久とあるが、其一つは贅字で、類聚古集及西本願寺本等には除かれて居る。息衝ク妹ヲといふ意なることは勿論である。
おきてきぬかも 置キテ來ヌル〔右○〕カモといふべきを來ヌカモとしたのは、上記の如く古語の一樣式である(第二八八頁)――此は明かに旅に出た男の歌である。
【大意】沖に凄む小鴨同樣、八尺裕かな長い息をつく妻を殘して來たよ
 
3528 水都等利乃《ミヅトリノ》 多多武與曾比爾《タタムヨソヒニ》 伊母能良爾《イモノラニ》 毛乃伊波受伎爾※[氏/一]《モノイハズキニテ》 於毛比可禰都毛《オモヒカネツモ》【三五二八】
 
水とりの 立たむよそひに 妹|の《ネ》らに 物いはず來にで 思ひかねつも
 
みづとりの 水鳥のやうにといふ意で、タツ(立)の枕詞である。
たたむよそひに 立タム装ニ即ち出發の支度にといふ意で、取まぎれてといふ意味を含ませたのである。
いも|の《ネ》らに イモノラは妹ネ〔右○〕ラの轉訛で、ラは虚辭、、ネは本來敬稱であるが、こゝでは必しも大なる敬意を(308)表したのではなく、第九卷【一八〇〇】の妹名根〔右○〕と同じく、妻君といふほどの意に用ひたのであらう。――上掲【三四四六】の妹ナロとは全然別語である。
ものいはずきにて 物をいはず來てしまうてといふ意(第二四一頁)。
おもひかねつも 念《オモヒ》に堪へかねたよといふことで(第二三〇頁)、此も慌しく征旅に上つた男性の歌である。
【大意】水鳥のやうに立つ支度に(まぎれ)妻君に物もいはず來てしまうて思ひに堪へかねたよ
 
3529 等夜乃野爾《トヤノノニ》 乎作藝禰良波里《ヲサギネラハリ》 乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》 禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》 波伴爾許呂波要《ハハニコロバエ》【三五二九】
 
とやの野に を《ウ》さぎねらはり をさをさも ねな|へ《フ》兒ゆゑに 母にころばえ
 
とやののに 流布本和名抄の下總國印幡郡鳥矢郷は高山寺本には鳴失とあるが、者し鳥矢を正しとすれば或は其地の野をいふのかも知れぬ。岩代國信夫郡|杉妻《スギノメ》村大字鳥谷野は續古今に「みちのくの信夫の鷹の鳥屋〔二字右○〕ごもりかりにも知らじ思ふこゝろは」と詠まれた歌と關係があるやうであるが、若し舊地名であつたとすれば、此國の歌でもあり得る。眞淵によれば放鷹者の潜伏所を鳥やといひ、轉じて捕獣の爲の小舍の稱にも用ひられるとあるが、假に名の所由は其にあるとしても、此トヤ野は普通の名詞として用ひたのではあるまい。
を《ウ》さぎねらはり ウサギ(菟)・ネラヒ(狙)アリ(在)の約轉、ウをヲと訛つた例は上掲【三五二一】にもある。菟(309)は菟狹《ウサ》、菟道《ウチ》、菟名日の如くウの假字としても用ひられ、今も十二支の卯をウと稱へる所を見ると、原名をウと稱したことは疑がないが、ウサギは其から派生せられたのか、若くは全然別語であるか判明せぬ。試にいへば菟は食用獣なるが故にウシシ(菟宍)又はウシともいひ、牛《ウシ》と區別する爲にウサと轉呼し、更に鹿兒または猪之子等の例に準じ、子の意のギを添へてウサギと稱へたのではあるまいか。和名抄には兎を宇佐木と訓し、天武紀の置始連菟は續紀【卷七】に宇佐伎とあるから、ウサギといふ語も古くから用ひられたものとせねばならぬ。或は三國史記地理志に兎山縣は本高句麗烏斯含〔三字右○〕達縣とあるによつて、ヲサギは古韓語なりと説くものもあるが、含は韓字音※[ハングルでハム]で、ギの音符とはなり得ぬのみならず、烏斯含が菟の意にあらざることは李弘※[禾+直]君によつて詳に考證せられた(國語國文第三卷第十三號)。――以上二句は所在地の縁によつてヲサヲサといふ語を導く爲の序に用ひられたのである。
をさをさも 紀に岐嶷、幹了、軌制または明直の訓に用ひたヲサヲサシの語幹で、ヲサ(長)の疊語であるが、副詞としても堂々または嚴然の意を有し、ヲサヲサ無シ、ヲサヲサ知ラズの如く消極的述語を強める爲に用ひられる。此歌に於ては天下晴れてといふほどの意と了解すべきである。
ねな|へ《フ》こゆゑに ナヘは打消の連體形として用ひられたので(第二三六頁)、寢ぬ(女)子故にといふ意である。
ははにころばえ コロバエはコロビ(嘖讓)の受動形であるが、上記コラレ(第二九七頁)と同じく、コリ(懲)から出た語で、懲らさんとする態度即ち發怒の意に用ひたのである。コロバエといふ連用形を以て結んだのは、歸り行くといふ意味を含める爲であらう。母は勿論女の母親をいふのである。
(310)【大意】――上二句は序――公然と添寢することの出來ぬ女子の故に、(其)母に叱られて歸つて行く
 
3530 左乎思鹿能《サヲシカノ》 布須也久草無良《フスヤクサムラ》 見要受等母《ミエズトモ》 兒呂家可奈門欲《コロガカナトヨ》 由可久之要思毛《ユカクシエシモ》【三五三〇】
 
さを鹿の 伏すや草叢 見えずとも 兒ろがかな門よ 行かくし吉《エ》しも
 
さをしかの サは接頭語でヲシカは牡鹿をいひ、記の神代の卷に眞男鹿とあると同義である。仔獣にあらずとも鹿兒と稱へるやうに、必しも牡鹿なるを要せぬ場合にもサヲシカと用ひることもあるが、此は妻を戀ふ牡鹿といふ意を寓したものとすべきであらう。
ふすやくさむら ヤは間投詞で、男鹿の伏す草叢の謂である。次句見えずともの序であるが、尚草深くしてといふ意を寓したものとすべきである。草はクサの正字であるが、此はサの音符として用ひられたので、上掲【三五二八】の水都《ミヅ》と同一の書例である。
みえずとも 女の姿が見エズトモといふ意。
ころがかなとよ カナトは日之門の謂で、カド(日門)と用じく單に門といふに同じい(第一輯一六〇頁)。ヨは上記の如く後代語のヲにあたり(第三〇〇頁)、あの子の門をといふことである。
ゆかくしえしもユカクは行クコトの謂(第三一頁參照)。シは強意助語、エシモは上述の如く善哉といふ意で(311)ある(第二八六頁)。
【大意】牡鹿の伏す草むらが深うして姿は見えずとも、彼の女の門(のあたり)を行くことはよい(心持である)わい
 
3531 伊母乎許曾《イモヲコソ》 安比美爾許思可《アヒミニコシカ》 麻欲婢吉能《マヨビキノ》 與許夜麻敝呂能《ヨコヤマヘロノ》 思之奈須於母放流《シシナスオモヘル》【三五三一】
 
妹をこそ 逢見に來しか 眉《マヨ》引の 横山|邊《ヘ》ろの 獣《シシ》なすおもへる
 
いもをこそ 妹ヲコソ
あひみにこしか 逢見ニ來シカドモといふ意(第二九九頁)。
まよびきの マヨビキ(眉引)ノは畫眉のやうなといふ意で、横山の形容である。
よこやまへろの 横山の邊のといふ意。ロは虚辭的接尾語である。
ししなすおもへる シシは食用野獣の總稱であるが(第一輯一七四頁)、多くは猪鹿の意に用ひられる。ナスは屡々述べた比況助語で、思ヘルは口語の思うて居るにあたるが、連體形であるから、下に餘韻を殘したものとすべきで、思うて居ることよといふ意であらう。女の顔が見たさに其家の邊を夜中徘徊するのを當人は覺らず、却つて家人が聞つけて「あれは何であらう」「横山邊から猪鹿《シシ》が出て來たのではあるまいか」など(312)いふ聲さへ漏れるのを甚飽き足らず思うたといふ述懷である。新考が於〔右○〕母敝流を麻〔右△〕母禮〔右△〕流の誤寫として猪鹿ヲ監視スル如クイヂワロキ母親ガ我ヲ監視セルヨと釋したのは、歌の情趣を解せざるものである。
【大意】妹をこそ逢見に來たが、(家人等は)横山邊の猪鹿《シシ》でもあるかのやうに思うて居るよ
 
3532 波流能野爾《ハルノノニ》 久佐波牟古麻能《クサハムコマノ》 久知夜麻受《クチヤマズ》 安乎思努布良武《アヲシヌブラム》 伊敝乃兒呂波母《イヘノコロハモ》【三五三二】
 
春の野に 草はむ駒の 口やまず 吾《ア》をしぬぶらむ 家の兒ろはも
 
はるののに 春ノ野ニ――野はヌと訓むも可。
くさはむこまの 草喰ム駒のやうにといふ意味の比況である。
くちやまず 口止マズ即ち絶えず我上を口にしてといふ意。
あをしぬぶらむ 我ヲ偲ブラム
いへのころはも イヘのコロは家の妹と同じく、宿の妻といふ意。ハモは口語ワヨに同じい。
【大意】春の野に草を喰む駒のやうに、絶えず口を動かして我上をいひ偲ぶ宿の妻はよ
 
3533 比登乃兒乃《ヒトノコノ》 可奈思家之太波《カナシケシダハ》 波麻渚杼里《ハマスドリ》 安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》 乎之家口母奈思《ヲシケクモナシ》【三五三三】
 
人の兒の かなし|け《キ》しだは 濱|渚《ス》鳥 足《ア》な|ゆ《ヤ》む駒の 惜しけくもなし
 
(313)ひとのこの 人ノ子は尚未だ入嫁するに至らぬ相愛の女性のことで、他氏族の人なるが故に他人《ヒト》の子と稱したのである(第二八九頁參照)。
かなし|け《キ》しだは カナシケは愛《カナ》シキ〔右○〕(第一三〇頁)、シダは「時」の意(第四二頁)であるが、此は可愛さに堪へぬ時はといふ意を約言したものと解すべきである。
はますどり 濱渚の鳥の如くといふ意。水禽の砂上に印する足跡は亂次なるものであるから、蹌踉蹣跚を千鳥足とさへいふのである。
あな|ゆ《ヤ》むこまの アは足の原語、ナユムはナヤム(惱)の訛で、行きなやむ駒がといふ意である。
をしけくもなし ヲシケは惜シキ〔右○〕の古形、クは「事」の意であるから(第三一頁)、惜しいこともないといふ意である。行なやむ駒の足掻を促せば蹄を被ることは必定であるが、彼女の可憐しさにはかへられず、一刻も阜く行きつく爲に鞭を加へようといふので、女の許に通ふ途上の作と思はれる。
【大意】他氏族の子(なる彼女)の可愛く思はれる際は、濱渚鳥のやうに行なやむ駒が惜しいこともない
 
3534 安可胡麻我《アカコマガ》 可度※[氏/一]乎思都都《カドデヲシツツ》 伊※[氏/一]可天爾《イデカテニ》 世之乎見多※[氏/一]思《セシヲミタテシ》 伊敝能兒良波母《イヘノコラハモ》【三五三四】
 
赤駒が 門出をしつつ 出でかてに せしを見た|て《チ》し 家の兒らはも
 
(314)あかこまが 赤駒に託して作者自身のことをいうたのである。
かどでをしつつ カドデ(門出)といふ語は今では專ら首途(發程)の意と了解せられて居るが、是は如實に門を出ることをいひ、門の邊で幾土か尻込をすることである。略解は之を「馬屋の戸口を出むとすれどもえ出ぬ意にて出がてと言はむ爲の序也」と釋し、考に「馬は門出をいそぐ物にて乘ば即出んとするを引とゞめつゝ我は出難にせしなり」と説いて居るが、それは此歌が馬に假託した述懷であることに氣がつかなかつた爲で、少くともシツツといふ時格表現を無視したものといはねばならぬ。
いでかでに 出デ克テズといふ意(第八五頁)。
せしをみた|て《チ》し ミタテは今も見オクル(目送)と同意に用ひられるが、恐らくは見立チ〔右○〕の轉呼であらう。類聚古集に兒多之〔右○〕思とあるのも必しも誤寫ではなく、チとシとは通音であるから、見タシ〔右○〕シと吟誦せられたのかも知れぬ。現今送別の意に用ひるのは之が轉義で、鑑定または診定の意に用ひられるミタテは別語である。
いへのこらはも 宿の妻はヨといふ意(第三一二頁)。コラはコロの原形である。
【大意】赤駒が門を出でつゝ出澁つたのを見おくつた宿の妻はよ
 
3535 於能我乎遠《オノガヲヲ》 於保爾奈於毛比曾《オホニナオモヒソ》 爾波爾多知《ニハニタチ》 惠麻須我可良爾《ヱマスガカラニ》 古麻爾安布毛能乎《コマニアフモノヲ》【三五三五】
 
(315)おのが男を おほにな思ひそ 庭にたち 吹《ヱ》ますがからに 駒に逢ふものを
 
おのがをを 己ガ男ヲの謂で、オホニ思フの限定的表現である。新考が己ガ尾〔右△〕ヲと釋したのは末句改竄の結果であるから問題にならぬ。
おほになおもひそ オホ(凡)ニはオロソカ(疎)ニといふに同じく、ナ思ヒソは思ふ勿といふ意である(第七〇頁參照)。誰に對する禁制であるかを明示して居らぬが、初句己ガ男ヲとある所を見ると、第三者、恐らく漠然世人に呼びかけたのであらう。考及略解は馬に言ひ聞かせた言葉としたが、其では末句の表現樣式と相應せず、古義が前句を呼格としたのは牽強で、良人に向つて己ガ男ヨといふやうな呼稱を用ひたとは思はれぬ。
にはにたち (男ガ)庭ニ立チといふ意。
ゑますがからに 舊訓エ〔右△〕マスワレ〔二字右△〕カラニとあるのは勿論誤讀で、ヱマスはヱム(咲)の敬語形であるから、咲み給ふが故にといふ意になるのである。
こまにあふものを 駒ニ逢フは馬を見て居るといふ程の意。まだ馴染の淺い男が訪ねて來て、馬から庭に下り立つて莞爾として居るのが面映ゆく羞かしさに、馬を見る風を装うて近いた。然るに其を誤解して男を厭つて店るものと早合點せられては困るから、決して疎に思うてくれるなと云うたので、世なれぬ少女の心もちを詠じたのである。新考は上記の如く初句を己が尾〔右△〕の謂とし、此句の古麻〔右○〕を古呂〔右△〕と改め、馬が尾を(316)振つ〔二字傍点〕たのを見て女が笑うたことが縁となり、其兒ロと懇になつたから、汝の尾をおろそかに思ふなと馬に誨へた男の歌としたが、然らば先づ馬に對して感謝の意を表すべきで、其尾のみを稱讃するのは見當違ひと言ふべく、馬若し心あらばヒヒンと苦笑したであらう。
【大意】己が男を疎かに思うてくれるな。庭に立つて咲みたまふが故に(羞かしさに)馬を見る風をするのを(誤解して)
 
3536 安加胡麻乎《アカコマヲ》 宇知※[氏/一]左乎妣吉《ウチテサヲビキ》 己許呂妣吉《ココロビキ》 伊可奈流勢奈可《イカナルセナカ》 和我埋許武等伊布《ワガリコムトイフ》【三五三六】
 
赤駒を うちてさ緒びき 心引き いかなるせなか わがり來むといふ
 
あかこまを 赤駒ヲ
うちてさをびき 鞭ちて緒(口綱)を引くやうにといふ意で、サ緒のサは接頭語である。此は無理無體に引寄せんとすることの比況に用ひた序である。
こころびき 心惹キ
いかなるせなか セナはセラの訛で、セは女人から男性を呼ぶ稱號、ラは虚辭であるから(第六五頁參照)、どのやうな男かといふことである。
(317)わがりこむといふ 吾|許《ガリ》(第二八頁參照)來ムトイフのかと問ひかけたので、新考説の如く恐らくは媒介者を詰つたのであらう。男の心を難じたのであるといふ説【考】【略】【古義】は上句心ビキを試ミと同意と解したからであるが、見ルと引クとの間に相違のあることを考慮せねばならぬ。
【大意】赤駒を鞭つて口綱を引くやうに(自分の)心を引きつけ(ようとするが)、どんな男が自分の許に(通うて)來ようといふのか
 
3537 久敝胡之爾《クヘゴシニ》 武藝波武古宇馬能《ムギハムコウマノ》 波都波都爾《ハツハツニ》 安比見之兒良之《アヒミシコラシ》 安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》【三五三七】
 
 或本歌曰、宇麻勢胡之《ウマセコシ》 牟伎波武古麻能《ムギハムコマノ》 波都波都爾《ハツハツニ》 仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》 古呂之可奈思母《コロシカナシモ》
 
くへ越しに 麥はむ仔馬《コウマ》の はつはつに あひ見し兒らし あやにかなしも
(或本歌)馬塞《ウマセ》越し 麥はむ駒の はつはつに にひ肌ふれし 兒ろしかなしも
 
或本歌は比況を同じうするだけで歌意は全く異るから、或は別個の歌の偶合であるかも知れぬが、同一語句があるから、便宜上合併して説くことにする。
(318)くへごしに(うませこし) 代匠記にくへは垣なり、くへ垣などともよめり、又こへ垣ともいへりとあるが、クヘ(コヘ)の原義は説明せられて居らぬ。或はキヘの轉呼で、柵邊の義から垣の意に轉用せられたのではあるまいか。豐後風土記にも鹿が擧2己頸1容柵〔右○〕間1即喫2苗子1とあるのである。ウマセは馬セキ(塞)の意で、馬匹の逸走又は侵入を防止する爲に設けたものをいひ、後世マセと略稱して一般に垣をいふに用ひられるやうになつた。
むぎはむこうまの(こまの) 古宇馬の宇〔右○〕を衍とする説もあるが【考】、コマには小獣《コマ》の義もあるから、仔馬を明示する爲に特にコウマと稱へたことも有り得べきである。但し或本歌のコマは駒の謂で、いづれにしても此は麥喰む仔馬のといふ意、辛うじてといふことの比況である。
はつはつに ハツはハツカ(ワヅカ)の語根で、初の義から轉じて僅の意に用ひられたのである。其故にこれを疊合したハツハツは僅々を意味し、こゝでは辛うじてと譯すべきで、口語のカツガツもまたハツハツの訛と思はれる。可、河等が朝鮮ではハ(※[ハのハングル])と發音せられるやうに、ハとカとは相通することがあつたのである。
あひみしこらし(にひはだふれし) 逢見シ兒ラ其《シ》ガといふ意であるが、或本歌にニヒ肌觸レシ兒ロとあるやうに、單に逢見たたけではなく、情交の存したことをいふのである。ニヒハダは略解説の如く新膚の義とも解せられぬことはないが、皮膚の修飾語としてはニヒ(新)は不適當であり、始めて肌を觸れることをニヒハダフレと表現することも聊か無理であるから、或はニギ〔右○〕ハダの轉訛ではあるまいか。本集第二卷にも(319)「たたなづく柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》劔太刀身にそへ寢ねば」【一九四】と用ひた例がある。
あやにかなしも(ころしかなしも) 上句との續合上或本歌はアヤニ(第一五頁)といふ語を省いたので、意に於ては大差はない。アヤニカナシモと用ひた例は上掲【三四〇八】にも見える。
【大意】柵越しに麥喰む仔馬のやうに辛うじて逢見た女子が愈々|可憐《イト》しい――(或本歌)馬塞を越えて麥喰む駒のやうに辛うじて柔膚を觸れた女子がいとしい
 
3538 比呂波之乎《ヒロハシヲ》 宇馬古思我禰氏《ウマコシカネテ》 己許呂能未《ココロノミ》 伊母我理夜里※[氏/一]《イモガリヤリテ》 和波己許爾思天《ワハココニシテ》【三五三八】
 
或本歌發句曰、乎波夜之爾《ヲハヤシニ》 古麻乎波左佐氣《コマヲハササゲ》
 
廣はしを 馬越しかねて(を林に 駒をはささげ) 心のみ 妹がりやりて 我《ワ》は此處にして
 
ひろはしを(をはやしに) ヒロハシ(廣橋)のヒロは橋の幅員の謂ではなく、幅の廣〔右○〕い川にかけた橋即ち長橋のことである。先學之を察せずして廣さ一|尋《ヒロ》の橋若くは古《フル》橋の訛【代】またはヒラ(枚)橋即ち一枚板の橋の意とし【考】、宣長は間尋き飛石を配したる石橋《イハハシ》なりといひ【略】、或は飜《ヒラ》橋即ち反橋と解し【古義】、波之〔二字右○〕は湍呂〔二字右△〕の誤記なりとする説【新考】さへ生まれたのであるが、いづれも牽強付附會の譏を免かれぬ。或本歌のヲハヤシは勿論小林の謂で、皇極紀の童謠【紀】にも用例がある。
うまこしかねて(こまをはささげ) 此時代ことに東國の河川に架設せられた橋梁は、後世のやうに堅牢な構(320)造ではなく、僅に人馬を通ずるに足るものであつたと思はれるが、廣橋即ち長橋に在つては馬さへも通りかねたのであらう。或本歌のハササゲは古義説の如くハサセアゲの約で、ハシリ(走)の語幹に活用語尾セを連ねたものであるから、ハセ(他動詞)又はハシラセ(使動詞)といふに同じく、此處では馳上を意味し、小林に馬を乘入れて進退の自由を失うたことをいふものと思はれる。
こころのみ 心ノミ
いもがりやりて 妹許(第二八頁)遣リテアリ〔三字右○〕の意で、四句切の歌である。テは既述の如く事態を表示する語分子で、國語に於ては助動詞アリを添へることを例とするが(第八八頁)、アリは本來敍述の用をなすに過ぎず、今も此語分子を用ひて居るメラネシア語に於ては之を必要とせぬ。されば我國に於ても本初はアリの有無を問題としなかつたものゝやうで、天武天皇の崩御の際太后(持統天皇)の御製と傳へられる本集第二卷【一六一】の歌に
  北山にたなびく雲の青雲の星さかり行く月もさかりて
とあるのも崩御を月没にたとへ、其夜の星空を詠まれたもので、終句は月もサカリテアリ〔三字右○〕といふ意と拜察せられるのである。テの此用法は此時代から漸く忘却せられ、擬古歌文に於ては專ら完了表示と了解せられるやうになつたので、此歌の如きもヤリテをヤリツ〔右○〕の謂とし【略、宣長説】、或は※[氏/一]〔右○〕を豆〔右△〕または追〔右△〕の誤記としたものもあるが、其は根據のないことであり、雅澄がヤリテを遣而の意として下句につゞかねなならぬといひ、末句に「爲む方なくさても相見まほしや〔九字右△〕」といふ意を補うて解したのは、修辭と格調とを無視した(321)作意の改竄である。之を要するに此句のテと次句のテとは同一語分子ではあるが、全然用法を異にするので、作者は重複と感じなかつたのである。
わはここにして 吾ハ此處ニシテ。古義は之を準述語と見て、「吾身は此《ココ》もとにありて爲む方なくさても相見まほしや」といふ意と説いて居るが、シテといふ語尾に右の如き長い意味が含まれて居るとは考へられぬから、倒敍と見ねばならぬ。
【大意】廣い(川にかけた)橋を馬では越しかねて(小林に駒を馳せ上げて)、心のみ妻の許へやつてある。吾(身)は此處に居て
 
3539 安受乃宇敝爾《アズノウヘニ》 古馬乎都奈伎※[氏/一]《コマヲツナギテ》 安夜抱可等《アヤホカド》 比登麻都〔二字左△〕古呂乎《ヒトヅマコロヲ》 伊吉爾和我須流《イキニワガスル》【三五三九】
 
あずの上に 駒をつなぎて 危ほ《フ》かど 人づま兒ろを 息《イキ》にわがする
 
あずのうへに 字鏡(享和本)に※[土+丹](ハ)崩岸也、久豆禮又阿須〔二字右○〕とあるが語原を詳にせぬ。或はアゼの轉化ではあるまいか。流布本和名抄には畔を阿世と訓し今もアゼと稱へるが、畔の古言はアで、アゼは宣長説の如く畔背の意と思はれるから【記傳八】、岸崩の義に轉用したのであるかも知れぬ。
こまをつなぎて 駒ヲ繋ギテ。――此は次句の比況で、置クヤウニといふ語を補うて解すべきである。
(322)あや|ほ《フ》かど アヤホ〔右△〕はアヤフ〔右○〕(危)の訛で、ウ韻がオ韻に轉じた例はル〔右○〕をロ〔右△〕【三四一四】、ム〔右○〕をモ〔右△〕【三四一八】、ツ〔右○〕をト〔右△〕【三四一九】、ユ〔右○〕をヨ〔右△〕【三四二三】、ウ〔右○〕をヲ〔右△〕【三五二一】とする等珍らしからぬことである。アヤフカドは上掲【三四七三】の遠カドモと同一形態で、危ケレドといふに同じく、危カレド【新考】の意ではない。
ひとづまころを 原文に從へば人マツ〔二字右△〕兒ロヲであるが、其では意をなさぬから、類聚古集に都麻とあるに從ひ、倒置として人妻の意とすべきであらう。西本願寺本以下にも豆麻とあるのである。コロは屡々述べたやうに女子の意で(第一六頁)、人妻なる女性を戀するのは甚危險なことであるから、危カドと前提したのである。
いきにわがする イキ(氣息)はイノチ(生命)と同義に用ひられたので、自分は生命にかけて思ふといふ意をイキに吾ガスルと表現したのであらう。連體形を以て結んだのは下に感動詞を含める爲で、スルヨといふ意である。
【大意】岸崩《アズ》の上に駒を繋いで(置くやうに)危いけれども、人妻たる女性を自分は生命とする
 
3540 左和多里能《サワタリノ》 手兒爾伊由伎安比《テコニイユキアヒ》 安可故麻我《アカコマガ》 安我伎乎波夜美《アガキヲハヤミ》 許等登波受伎奴《コトトハズキヌ》【三五四〇】
 
さわたりの てこにい行きあひ 赤駒が 足掻きをはやみ 言問はず來ぬ
 
(323)さわたりの 考に駿河にも此名ありとあるが、今の町村名及大字には見えぬ。上野國吾妻郡澤田村大字|澤渡《サワタリ》温泉の藥師堂の裏に此歌を刻した碑石があるといふことであるが【名跡志】、勿論後世の建立で、此地を詠じたといふ確證があつたのではあるまい。常陸國東茨城郡常磐村の小字佐渡は建長二年の下文にも見えた舊地で【地名辭書】、其他にも磐城國石城郡に澤渡村といふ名があり、岩代國安達郡小濱町の舊名を四本松庄澤渡郷と稱したといふことであるが、此歌のサワタリは何處をさすか判明せぬ。或は古義説の如くサは接頭語分子で、和名抄に下總國印幡郡日理、陸奥國安達郡日里、同國亘理【和多里】郡日理【和多利】とある地のいづれかをいふのかも知れぬ。右の中亘理郡の日理は最も有名で、今も亘理町として存在する。之を要するにワタリは渡の義で、河海湖沼の渡頭にある地をいひ、溪流の渡をサワタリと號したのであらうが、之に日理の字をあてたのは曰と日との混同で、曰は播磨風土記にも志保和知〔二字右○〕野を邑曰〔右○〕野と表記した例があり、ワチの音符とせられたのである。後人がさかしらに上下に一劃をそへて亘とし、ワタル(亙)に通はして用ひ、地名二字の掟によつて理の字をそへたのであるが、亘《セン》にはワタリといふ意はない。
てこにいゆきあひ テコは既述の如く或る特別の身分の女性の謂で(第七八頁)、美貌の少女に與へられた稱號である。イユキのイは接頭語であるから行キ會ヒだけでもよく、類聚古集には伊の字を除いてあるが、作者は口調上イユキと吟誦したものと思はれる。ユキアヒは連用形であるから、二句を隔てゝ言トハズ來ヌと接續するのであらうが、此は行き合うたがといはねばならぬ場合で、語法上聊か無理がある。
あかこまが 赤駒ガ
(324)あがきをはやみ アガキ(足掻)といふのは馬の足取が地面を掻くやうに見えるからで、早ミは早シト見、即ち早しとしてといふ意であるが、此場合には當らぬから、或は早メ〔右○〕の訛であるかも知れぬ。
こととはずきぬ 言トヒは物イヒと同義(第一輯三五八頁)、切角行き逢うたけれども馬の足掻の早さに言葉も交はさすに來たといふので、之を遺憾とする意を言外に寓して居るのである。
【大意】サワタリ(地名)の手兒に行き會うたが、赤駒が足掻を早めたので物を言はずに來た
 
3541 安受倍可良《アズヘカラ》 古麻乃由胡能須《コマノユコノス》 安也波刀文《アヤハトモ》 比登豆麻古呂乎《ヒトヅマコロヲ》 麻由可西良布母《マユカセラフモ》【三五四一】
 
あず邊から 駒のゆ|こ《ク》のす あや|は《フ》とも 人妻ころを まゆかせらふも
 
此歌は明に上掲【三五三九】と同一趣旨を詠じたもので、眞淵説の如く或本云として掲載せられた一異傳であつたかも知れぬが、語句は必しも同一ではなく、説明を要するものがあるから削除することは出來ぬ。
あずへから ※[土+丹]邊カラといふ意。カラはヨ(ユ)と同じく後代語のヲにあたるのである(第三〇〇頁)。
こまのゆ|こ《ク》のす ユコはユク(行)の訛、ノスはナスと同義(第一三一頁)であるから、駒の行くが如くといふ意である。
あや|は《フ》とも 危シの語幹アヤフは東國ではアヤハ、アヤヒの如く四段に活用せられたことがあつたのであらう。但し助語トモは未然格とはつゞかぬから、ハ〔右△〕はフ〔右○〕の訛とすべきで、上掲【三五〇一】【三五二六】にも例(325)のあることである。されば大和語の危クトモにあたり、危フケレドモ【古義】又は危フカレドモ【新考】の謂ではない。
ひとづまころを 前出
まゆかせらふも マは接頭語で、ユカセラフはユカシアリの約ユカセリの進行格であらう。ユカシは令行(使動詞)であるが、心行カシといふ意を以て形容詞にも轉用せられ、單にユカシ(懷)とも用ひられる。さればユカセラフは懷シガリツツアルといふほどの意で、モは感動詞である。――古義がユカシガラシ〔三字傍点〕メルと釋したのは無理である。
【大意】※[土+涯の旁]《ガケ》くづれの邊を駒が行くやうに危くとも、人妻なる女子を(自分は)ゆかしがつてやまぬことよ
 
3542 佐射禮伊思爾《サザレイシニ》 古馬乎波佐世※[氏/一]《コマヲハサセテ》 己許呂伊多美《ココロイタミ》 安我毛布伊毛我《アガモフイモガ》 伊敝乃安多里可聞《イヘノアタリカモ》【三五四二】
 
さざれ石に 駒を馳させて 心いたみ 吾が思ふ妹が 家のあたりかも
 
さざれいしに サザレイシは礫者の謂(第一〇六頁)。
こまをはさせて ハサセは上記の如くハセ(馳)又はハシラセ(令走)と同義で、礫道《コイシミチ》に愛馬を驅り、蹄を傷ひ(326)はせぬかとハラハラするといふ意を以て次句の序としたのである。こころいたみ 心痛ミ
あがもふいもが 我思フ妹ガ
いへのあたりかも 家ノ邊哉といふ意。カモは疑問にも用ひられるが、意中の女性の住所を知らなかつたとは考へられぬから、女の在所に來り、此こそ妹の家の邊《アタリ》なるよと歎息したのであらう。
【大意】礫石《サザレイシ》(の道)に駒を馳せるやうに心を痛めて自分が想ふ彼女の家の邊よな
 
3543 武路我夜乃《ムロガヤノ》 都留能都追美乃《ツルノツツミノ》 那利奴賀爾《ナリヌガニ》 古呂波伊敝杼母《コロハイヘドモ》 伊末太年那久爾《イマダネナクニ》【三五四三】
 
むろ萱の つるの堤の 成りぬがに 子ろはいへども 未だ寢なくに
 
むろがやの カヤの原義は上屋《カヤ》即ち屋蓋で、轉じて葺料となる禾草の意にも用ひられたのであるが、萱の類の稱呼となり、草の字を充てることもあり、室を葺く草《カヤ》といふ意を以てムロカヤといふ語を生じたのであらう。之はツツミ(被覆)の枕詞として用ひられたのである。
つるのつつみの ツルは契沖説の如く和名抄の甲斐國都留郡都留をいふものと思はれるから、甲斐歌であらねばならぬ。國土未勘としたのは僻地なるが故に編者の念頭に上らなかつた爲で、眞淵が陸奥の地名としたのは臆斷である。ツツミは灌漑用水を貯へる爲に築造した池塘の謂で、河流の堤防ではあるまい。
(327)なりぬがに 成つたかのやうにといふ意(第一九八頁)、堤の竣工を戀の成立にいひかけたのである。
ころはいへども 兒ロ即ち相手の女性はいふけれどもといふ意味である。
いまだねなくに 未だ寢ぬのにといふ意。語脈からいへば未だ寢ぬことよ〔三字右○〕と解したいが、其場合にはネナクモ〔右○〕又はネナフモ〔右○〕とあるべきで、助語ニを感動詞と見ることは出來ぬから、誤傳または誤記にあらずとすれば、下に心モトナシといふ意を含めたものとすべきであらう。いづれにしても成立しさうな口吻を漏しながら、女が肌を許さぬことを詠じた歌と思はれる。
【大意】都留の堤の如くに出來たかのやうに彼女はいふけれども未だ寢ぬのに(氣がもめる)
 
3544 阿須可河泊《アスカガハ》 之多爾其禮留乎《シタニゴレルヲ》 之良受思天《シラズシテ》 勢奈那登布多理《セナナトフタリ》 左宿而久也思母《サネテクヤシモ》【三五四四】
 
あすか河 下にごれるを 知らずして せななと二人 さ寢てくやしも
 
あすかがは アスカのアは接頭語で、スカ(栖處)即ち聚落の意を以て名づけた地名であるから、基地を貫流する河はアスカ川と呼び得べく、必ずしも大和の明日香川には限らず、東國に於ては東京近郊の飛鳥山を始め、羽前國|飽海《アクミ》郡南平田村にも飛鳥といふ大字があるが、此アスカは何處をさすか判明せぬ。眞淵は阿須太〔右△〕の誤記として更科日記に見ゆる武藏と相模との間なるアスダ川かといひ、――所在不明。千蔭は古本により武藏と下總とのあはひと訂正したが、其は隅田《スタ》川のことである――或は六帖に「利根川の底は濁り(328)て上すみて」とあるによつて初句を利根川の誤傳ならんかと説き、雅澄は之を大和の明日香川として東國の女の宮仕のため在京した時の歌なりとし、新考は足利《アシカガ》川即ち今の渡瀬《ワタラセ》川にはあらざるかと推したが、此は序に用ひられたのであるから、孰れでも差支なく、必しも實在地たることを要せぬ。下濁レルといひ次の歌に塞クとある所を見ると、或は淺い泥川の故を以て名を負うたアサカ(淺處)川の轉呼かも知れぬ。ア韻をウと訛つた例は【三四七六】にもある。
したにごれるを 下濁レルヲの謂で、心裏に暗い所があるのをといふことである。
しらずして 知ラズシテ
せな|な《ネ》とふたり セナナは夫汝禰《セナネ》の轉呼で、ネは敬稱である。おまへ樣と二人といふ意。
さねてくやしも サは接頭語、寢テ悔シは相寢て後悔するといふ意で、詠歎の爲にモを添へたのである。クヤシはクイ(悔)の形容詞形であるが、此は自動詞的に用ひられたのである。
【大意】アスカ川のやうに下(心)が濁つて居るのを知らずしておまへ樣と二人寢て悔しいよ
 
3545 安須可河泊《アスカガハ》 世久登之里世波《セクトシリセバ》 安麻多欲母《アマタヨモ》 爲禰※[氏/一]己麻思乎《ヰネテコマシヲ》 世久得四里世波《セクトシリセバ》【三五四五】
 
あすか川 塞くと知りせば あまた夜も ゐ寢《ネ》て來《コ》ましを 塞くと知りせば
 
あすかがは 前出
(329)せくとしりせば 塞クト知リセバの謂で、河水を塞くに逢瀬を距てることをいひかけたのである。知リセバは知ラバといふ意を強く表現したので、古は知ルを知リスルともいうたものと思はれる。
あまたよも 數多夜モといふ意。アマタはマタ(又)に接頭語アを冠して頻囘の意を表示したものゝやうである(第一五頁)。
ゐねてこましを 率寢て來ようものをといふ意で、マシは未來助動詞ムの未然形マに形容語尾シを連ねたもので、普通の未來格よりも更に空想的の表現に用ひられるのである。
せくとしりせば 第二句の反誦は古歌の一樣式で、履中天皇の御製にも丹比野ニ寢ムト知リセバ〔七字右○〕立薦《タツコモ》モ持チテ來マシモノ寢ムト知リセバ〔七字右○〕【紀】【記】とある。格調のみならず語句も類似して居る所を見ると、或は之を模したのかも知れぬ。若し然りとすれば此は前の歌の應酬に擬して好事の人が作爲したものとすべきで、東歌らしい趣のないのも之に因るものであらう。
【大意】アスカ川を塞くやうに自分をせくと知らば、數多の夜も抱寢して來ようものを、塞くと知らば
 
3546 安乎楊木能《アヲヤギノ》 波良路可波刀爾《ハラロカハトニ》 奈乎麻都等《ナヲマツト》 西美度波久末受《セミドハクマズ》 多知度奈良須母《タチドナラスモ》【三五四六】
 
青柳の は|らろ《レル》川とに 汝をまつと せ《シ》み|ど《ヅ》は汲まず 立處《タチド》平《ナ》らすも
 
(330)あをやぎの 青柳ノ。――楊一字でもヤギと訓み得られるのに之をヤの音符に用ひ、キの假字として木をそへたのは上掲の水都〔二字右○〕等利【三九二八】、久草〔二字右○〕無良【三九三〇】と同一書例である。
は|らろ《レル》かはとに ハラロは張レルの轉訛で、レ〔右○〕をラ〔右△〕、ル〔右○〕をロ〔右△〕と訛つた例は本卷には少くはない(訛音表參照)。カハトは川門の謂であらうが、ミト(水門)のことではなく、背門をセトといふに同じく、川に面した門のことであらう。門を出ると青柳の芽を張つた川岸があり、水を汲むといふ口實の下に、其處に立つて男の來るのを待つて居る光景を敍したもので、女性の歌である。
なをまつと 汝ヲ待ツトテ〔右○〕といふ意。汝は相愛の男子をさしたのである。
せ《シ》み|ど《ヅ》はくまず セミドは契沖説の如くシミヅ(清水)の訛なること疑なく、ツは屡々トとせられ、イ韻からエ韻に轉じたことも他に一二の例がある(卷末訛音表參照)。清水をば汲まずしてといふ意。
たちどならすも 立處平ラスといふ意で、モは感動詞である。水汲にかこつけて家を出たが、待つ男が來ぬので、同じ處を行きかへりして土を踏みならすといふのである。崇神紀に那羅山の名號所由として官軍屯聚而〓2〓草木1因以號2其山1とある〓〓は布瀰那羅須《フミナラス》と訓註せられて居る。
【大意】あを柳の芽を張つた門前の川で汝を待つとて、清水は汲まず、立(つて居る)處を踏みならすよ
 
3547 阿知乃須牟《アヂノスム》 須沙能伊利江乃《スサノイリエノ》 許母理沼乃《コモリヌノ》 安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》 美受比佐爾指天《ミズヒサニシテ》【三五四七】
 
(331)あぢの棲む すさの入江の 隱り沼の あないきづかし 見ず久にして
 
あぢのすむ アヂは本集に屡々詠まれて居る水鳥の名で、今もアヂ鴨と稱へる。食用水禽中特に美味なるが故に此名を負はせたので、鯵をアヂと呼ぶのも同じ理由であらう。アヂノ住ムとあるのは實景を以てスサノ入江の修飾としたものと思はれる。
すさのいりえの 本集第十一卷にも味乃住渚沙乃入江之荒磯松〔二字右○〕【二七五一】といふ歌があるが、其所在を詳にせぬ。出雲國飯石郡【風土記】及紀伊國在田郡【神名帳】に此名が見えるが、東人が比等の地に旅して詠じた歌とも想はれぬから、或はス(洲)サキ(崎)の意の普通名詞として用ひられたのかも知れぬ。いづれにしても海濱の地で水鳥の來集する入江が存したのであらう。
こもりぬの 隱り沼《ヌ》の謂で、入江の奥の水草に隱れた水域を意味するのであるが、下延【一八〇九】、從裏《シタヨ》または下從【二四四一】【三〇二三】等の枕詞として用ひられたと同樣に、シヌブ(偲)といふ意を言外に含めたのである。
あないきづかし アナはアア(嗚呼)と同じく歎息の表示。イキヅカシは息ヅクの形客詞的活用で、歎カシといふに同じい。
みずひさにして 相見ざること久しくしてといふ意。これは男の來訪の遠のいたことを詠じた一女性の歌である。
(332)【大意】アヂ鴨の住むスサの入江の隱り沼のやうに、偲びながら相見ざること久しうしてアア歎かはしい
 
3548 奈流世呂爾《ナルセロニ》 木都能余須奈須《コツノヨスナス》 伊等能伎提《イトノキテ》 可奈思家世呂爾《カナシケセロニ》 比等佐敝余須母《ヒトサヘヨスモ》【三五四八】
 
鳴る瀬ろに こつの寄すなす いとのきて かなし|け《キ》せろに 人さへよすも
 
なるせろに セロのセは川瀬の謂で、ロは虚辭であるが、第四句の夫《セ》ロと呼應する爲に特に此形態を用ひたのであらう。ナルサハ(第三一頁)と同樣に水音の高い川瀬をナルセと稱へたので、契沖、雅澄が地名としたのは誤解である。
こつのよすなす コツ(舊訓キツとあるは非)はコツミと同じく木屑を意味する古言。ツは不淨の意の原語で【第九一頁】、ツミの形に於ては罪穢を意味するが、こゝではツ、ツミ共に芥の義に轉用せられたのである。ヨスは他動詞であるが、自身を寄すといふ意を以てヨルに代用せられたので、ナスは「の如く」といふことであるから(第三二頁)、木屑が寄るやうにというて、末句の比況としたのである。――クヅ(屑)といふ語も本來コツミの約濁であるが、眞淵が之に準じてコヅ〔右△〕と訓したのは誤りで、古義にあげた一説に能〔右○〕を彌〔右△〕の誤字としてコツミ〔右△〕ヨスノスとしたのは、コツの原義を明にしなかつた爲といはねばならぬ。
いとのきて 最除《イトノ》キテ即ち取りわけてといふ意。本集第五卷【八九二】、第十二卷【二九〇三】にも用例がある。
(333)かなしきせろに いとしい男にといふ意。
ひとさへよすも 人も亦身を寄せるよといふのである。
【大意】》取わけていとしい殿御に、水音の高い川瀬に木屑のよるやうに、人も亦寄りつくよ
 
3549 多由比我多《タユヒガタ》 志保彌知和多流《シホミチワタル》 伊豆由可母《イヅユカモ》 加奈之伎世呂我《カナシキセロガ》 和賀利可欲波牟《ワガリカヨハム》【三五四九】
 
たゆひ潟 潮みちわたる いづゆかも かなしきせろが 我《ワ》がり通はむ
 
たゆひがた タユヒといふ地の斥鹵《カタ》(第一〇頁)といふ意であるが所在を詳にせぬ。越前の手結の浦を始めとし、若狹、但馬、出雲及上佐にある地名であるが、東國には聞えぬ。或は鎌倉の由比濱をタユヒ〔二字右○〕とも稱へたのかも知れぬ。
しほみちわたる 潮滿チ亙ル
いづゆかも 何方からかといふ意。イツは今では專ら何時の意と了解せられて居るが、イは疑問(又は不定)代名詞原形で、イ〔右○〕カ(如何)、イ〔右○〕ク(幾)とも用ひられるから、之にト(時)を連ねたイトがイツと轉呼せられて何時の意となつたやうに、タ(方)をそへたイタ(何方)がイツと變化したことも有り得る。
かなしきせろが いとしい男がといふ意。
わがりかよはむ 吾|許《ガリ》通ハムといふ意。此はタユヒの濱近く棲む女の許に、例へば稻村崎のやうな縣崖を廻(334)つて磯傳ひに來る男があつたが、滿潮には其通路が杜絶するから夕刻潮のあげて來るのを見て、今宵は通うて來られまいと其女が歎息する趣を詠じたものと思はれる。
【大意】タユヒ潟に潮が滿ちて來る。何方からいとしい殿御が通うて來るだらうか
 
3550 於志※[氏/一]伊奈等《オシテイナト》 伊禰波都可禰杼《イネハツカネド》 奈美乃保能《ナミノホノ》 伊多夫良思毛與《イタブラシモヨ》 伎曾比登里宿而《キソヒトリネテ》【三五五〇】
 
おして否と 稻はつかねど 波の穗の いたぶらしもよ きそ獨り寢て
 
おしていなと 押シテ否ト即ち厭がりながら強ひてといふ意。新考が於吉〔右△〕※[氏/一]伊末〔右△〕等の誤寫とし、等をドと訓して起キ出デテマダと釋したのは後記の如く理由のないことである。
いねはつかねど 此句だけについていへば稻ハ舂カネド即稻舂といふ事をせぬけれどもといふ意とも解せられるので、眞淵は「稻つきなどあらわざすれば身もとどろきてうまいしがたきにたとへて、さるわざはせねど」といふ意味なりとし、雅澄は「人などに強ひ令《オホ》せられて押して舂くにはあらねど」と説き、新考は上記の如く初句を改竄して脈絡を求めて居るのであるが、此は他にも例のある語法で、稻を舂くのではないけれどもと云ふに同じく、厭がりながら強ひてといふことを押シテ否トと表現して之に冠したので、換言すれば厭なのを押して稻舂するのではないがといふ意である。
(335)なみのほの 波ノ秀《ホ》即ち波頂のやうにといふ意で、次句の比況である。
いたぶらしもよ イタブラシはイタブル即ち太ク振ルといふ意の動詞から出た形容詞で、第十一卷にも風ヲ痛ミ甚振《イタブル》浪ノとあり【二七三六】、波頂の動搖をイタブルといふ語を以て形容したことがあつたものと思はれる。さればイタブラシは甚振る樣子であるといふことで、新考説のごとくフラフラするといふ意であらう。考及古義に心動《ムナサワギ》の義とあるのは聊か當らぬやうである。
きそひとりねて キソ(昨夕)獨リ寢テといふ意(第二七九頁)。稻舂は既述の如く婦人の作業であつたから(第二〇八頁)、此も女性の歌で、咋夜遊に來なかつた男を待ちわびて一睡もしなかつたが故に何となくフラフラする。あながち稻舂がいやといふ譯ではないがというたのである。
【大意】強ひて厭がつて稻を舂いて居るのではないが、波の秀のやうにフラフラする。昨夜獨寢したから
 
3551 阿遲可麻能《アヂカマノ》 可多爾左久奈美《カタニサクナミ》 比良湍爾母《ヒラセニモ》 比毛登久毛能可《ヒモトクモノカ》 加奈思家乎於吉※[氏/一]《カナシケヲオキテ》【三九五一】
 
あぢかまの 潟に咲く波 ひらせにも 紐とく物か かなし|け《キ》をおきて
 
あぢかまの 一首隔てゝ次の歌には安治可麻能可家能水奈刀《アヂカマノカケノミナト》とあり、第十一卷にも味鎌之鹽津【二七四七】とあ(336)るから、地名なることは疑がないが其名は殘つて居らぬ。シホツとあるによれば和名抄に近江國淺井郡鹽津郷(今の伊香《イカ》郡鹽津村)とある地の大名または修飾語とも解せられるが、此は東國の地と思はれるから、後記の如く天龍河口の舊稱であらう。アヂカマの語義は恐らくはアヂ鴨の棲む深淵《カマ》の謂で、――カマといふ語は現今方言に殘つて居るのみであるが、古事記に菅の竈〔右○〕由良度美といふ人名もある所を見ると、恐らくは河間《カマ》の意の古言であらう。後句の平湍の對照として用ひられたものゝやうである。
かたにさくなみ カタは上掲のやうに斥鹵の謂にも用ひられるが、カマ(深淵)には干渇《ヒカタ》はあり得ぬから、原義により可航水面の義とすべきであらう(第一〇頁)。浪サクは浪ノ花サクと同じく、波頂の摧けて散亂することをいひ、第六卷【九〇九】及第二十卷【四三三五】にも用例がある。此は作者たる女性自身にたとへたのである。
ひらせにも 平瀬に凡夫《ヒラセ》をいひかけたのである。之を淺はかなる人の譬とし【古義】、或は以上三句を以てヒモトクの序【新考】とするのは誤解といはねばならぬ。
ひもとくものか 花の綻びることをヒモトクといふから、紐解クにいひかけたのである。深淵に咲く波の花が平湍にはひらかぬやうに、凡夫に衣の紐を解くものかといふので、紐とくが同衾を意味することは既述の通りである(第三八頁)。
かなし|け《キ》をおきて カナシケ〔右○〕は愛シキ男〔二字右○〕ヲといふべきを略稱したので、ケがキの古形なることは既に屡々述べた通りである。良人を除いて他の凡夫と寢るものかといふのが一篇の趣意で、恐らくは猜疑を受けた女(337)性の述懷であらう。
【大意】アヂカマの可航水面に咲く波の花は平瀬にはひらかぬ。それと同樣に凡夫に紐を解くものか、愛《イト》しい人を舍いて
 
3552 麻都我宇良爾《マツガウラニ》 佐和惠宇良太知《サワヱウラダチ》 麻比等其等《マヒトゴラ》 於毛抱須奈母呂《オモホスナモロ》 和賀母抱乃須毛《ワガモホノスモ》【三五五二】
 
松がうらに さ|ゑわ《ハエ》うらだち まひとごら〔右○〕 思ほす|なもろ《ラムヨ》 わが思ほ《モフ》のすも
 
まつがうらに 松ガ末《ウラ》ニといふ意。從來松ガ浦〔右△〕の意とし、所在不明の地名と速斷した爲に一首の意を解しかねたのである。
さ|わゑ《ハエ》うらだち サワヱはサハエの訛で、サは接頭語、ハエは本來南〔右○〕の謂であるが、――チャモロ語ではハヤといふ――南風の義にも轉用せられ、方言には今も之を存して居る。沖繩では南風原、南風見といふ地をハエ〔二字右○〕バル、ハエ〔二字右○〕ミと稱へ、佐世保市白南風町をシラハエ〔二字右○〕と呼ぶのも之に因るものである。ハヤチ(疾風)のハヤも同語で(チは風の意の古語)、此國土に材つては南風歌を最も強烈とするが故に此名を負はせ、ハヤ(早)といふ形容語を分派したのであらう。記紀に荒ぶる神達の喧響《オトナヒ》に譬へた狹蠅又は五月蠅は決してハヘ(蠅)の羽音をいふのではなく、南風の意であらねばならぬ【語誌】。されば此語が南方系の海人族によつて(338)夙に東國《アヅマ》に移入せられたことは奇とするに足らず、外來語なるが故に發音が不精碓でサハヘ〔右○〕又はサワヱ〔三字右○〕と訛つたのである。契沖が佐和惠を作波敝の訛としたのは炯眼であるが、尚文字に捉はれてハヘ(ハエ)の本義を解し得なかつたのは遺憾とすべきで、ウラダチをム〔右△〕ラタチ(群立)也と説いたのも蠅の縁語なるが故であらうが、此場合には當らぬやうである。案ずるに此ウラも亦「末」の意で、風が木梢を渡ることをウラ立というたのであらう。以上二句が胸騷ぎの比況なることは後述によつて明で、之を騷占立【考】、驟群立【古義】とするのは條理の通らぬ牽強である。
まひとごら〔右○〕 從來マヒトゴト〔右△〕と訓み、人言の意と説かれて居るが【代】【考】【古義】、次句とつゞかぬので、新考は下の等の次に々の字脱としてマヒトゴトト〔二字右△〕は今一言トといふ意なりと附會した。假に脱字が存し且イマ(今)がマと略稱せられることが有り得たとしても、多くの想像を加へ言葉を補はぬ限り、上句との續合を會得することが出來ぬ。案ずるに等〔右○〕の字は上掲【三四一九】【三四四四】の例に準じラ〔右○〕の假字とすべく、マヒトゴラ〔右○〕はウマ人の子ラの意であらう。ウマヒトは神功紀及仁徳紀の歌並に本集第二卷【九六】にも見え、本來長老を意味し、マヒトと略稱せられて皇別のカバネとしても用ひられ【天武紀】、或はタダビト(凡人)よりも身分の高いものゝ稱號としてマツト又はマウド【神樂】【宇治拾遺】とも轉呼せられたが、此は長者の子を意味し、殿ノ若子《ワクゴ》(第一七三頁)といふに同じい。子ラのラは屡々述べたやうに虚辭的接尾語で眞人の子がといふ意であらう。
おもほす|なもろ《ラムヨ》 オモホスはオモフ(思)の敬語形、ナモはラムの訛(卷末訛言表參照)、ロはヨに通じ(第二一六(339)頁)、思ひ給ふらむよといふのである。
わがも|ほ《フ》のすも モホはモフの訛(第三〇四頁)、ノスはナスと同じく比況助語であるから(第一三一頁)、吾思フ如クモといふ意である。これは女性の歌で、身分ちがひの男を見染め、相手にも十分意があると推し得たので、自分が心ときめきて想ふやうに、眞人子も思ひ給はむよと詠じたので、從來の解釋は全然誤つて居る。
【大意】松の梢に南風が渡るやうに、胸が騷めいて眞人の子も(自分を)想ひ給ふであらうよ。自分が想ふ如く
 
3553 安治可麻能《アヂカマノ》 可家能水奈刀爾《カケノミナトニ》 伊流思保乃《イルシホノ》 許※[氏/一]多受久毛可《コテタズクモカ》 伊里※[氏/一]禰麻久母《イリテネマクモ》【三五五三】
 
あぢかまの かけの水門に 入るしほの こ|て《チ》たずくもか 入りて寢まくも
 
あぢかまの 前出
かけのみなとに カケの語義は詳にし得ぬが、地名なることは疑なく、ミナト(水門)とあるから河口をいふものとすべきで(第一八三頁)、類似の名稱を求めると遠江國の天龍河口に掛〔右○〕塚(磐田郡)といふ町があるから、或は往昔此地をカケの水門と稱へたのかも知れぬ。若し然りとすればアヂカマは天龍川の淵の名とすべきである。
(340)いるしほの 入ル潮即ち差込む潮水のやうにといふ意。以上三句は序である。
こ|て《チ》たずくもか 舊訓コテタス〔右△〕クモカとあるが意をなさぬから、眞淵は受〔右○〕を家〔右△〕の誤記として、コテタケクと訓み、宣長は久〔右○〕を之〔右△〕と改めてコテタズシモはこちたからずしもの意也といひ【略】、其他許※[氏/一]夜〔右△〕受久の誤寫とする説【新考】又は言出ス〔右△〕クモと讀下したものもあるが【新訓】、誤記の形跡は見えぬのみならず、孰れも畸語《カタコト》である。コテタがコチタの訛なることは疑なく、コテタケともいひ得た筈であるが、更に之にクを添へるとコテタキ事といふ意になり、次句と抵觸する。案ずるにズクはナクの言ひ換へで、前卷にもナケリをズ〔右○〕ケリと表現した例のある所を見ると(第一輯二五二頁)、當時ズとナとは彼此流用可能とせられたのであらう。コチタ(コテタ)はコトイタの連約で、言甚と事甚との二義があり、後者は甚大の謂で人爾事痛〔二字右○〕所云物乎【二五三五】の如く用ひられ、前者は人の口がうるさいといふ意を以てコチタケバ小泊瀬山ノ岩城ニモ云々【常陸風土記】と詠じた例がある。此句に於ては水門まで差込む潮の甚大ならざることを人言の煩なくしてといふ意にいひかけたのであらう。
いりてねまくも 入り寢むこともといふ意で、希望助語ガを下に含めたのである。入りは次の歌に於けると同じく、妹が寢所に入るといふことを意味する。
【大意】アヂカマのカケの水門に入る潮の事甚《コチタ》からざるが如く、言甚《コチタ》くなくも(妹が寢床)に入りて寢むことよ
 
(341)3554 伊毛我奴流《イモガヌル》 等許能安多理爾《トコノアタリニ》 伊波具久留《イハグクル》 水都爾母我毛與《ミヅニモガモヨ》 伊里※[氏/一]禰末久母《イリテネマクモ》【三五五四】
 
妹が寢る 床のあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りて寢まくも
 
いもがぬる 妹ガ寢ル
とこのあたりに 床ノ邊ニ
いはぐくる 岩潜ルといふ意。グクルとしたのは略解説の如く多爾具久〔二字右○〕【八〇〇】と同例に屬し、連濁によるもので、クキ(潜)から出た語であるから、クク〔二字右○〕ルであらねばならぬ。
みづにもがもよ 水でありたいといふ意で、ガモは既述の如く願望表示、ヨは感動詞である。
いりてねまくも 前出。――雅澄の説の如く語脈は岩潜ル水ニモガモヨ妹ガ寢ル床ノ邊ニ入リテ寢マクモとあるべきで、水は如何なる窄い間隙をも潜るから、之を羨望したのであるが、作者の頭には妹ガ寢ル床が最初に泛んだから、落想の順次を追うて詠じたのであらう。殊更に置き換へずとも此儘でもよく判る。
【大意】妹が寢る床の邊に、岩潜る水でありたい。入つて寢むことよ
 
3555 麻久良我乃《マクラガノ》 許我能和多利乃《コガノワタリノ》 可良加治乃《カラカヂノ》 於登太可思母奈《オトタカシモナ》 宿莫敝兒由惠爾《ネナヘコユヱニ》【三五五五】
 
まくらがの こがの渡の から梶の 音高しもな 寢な|へ《フ》兒ゆゑに
 
(342)まくらがの 既出(第一九二頁)
こがのあたりの コガはマクラガ如ち武藏國久良岐郡の一地點と思はれるが、夙に其名を逸したので、從來下總(古は下野)の古我を以て之に擬した。さりながら其はクラガといふ地が下總國――雅澄によれば葛飾郡――に存在したといふ臆斷を前提とするもので、此歌の趣によると、海濱の地であらねばならぬから、無批判に肯定することは出來ぬ、コガは下總ばかりではなく他國にもあり得る地名で、山城の久我をもコガと稱へる所を見ると、或は木處《クガ》の意を以て命名せられたのであるかも知れぬ。ワタリは渡航水面を意味し、河川に於て渡船の配置せられて居る地點を呼ぶに用ひられるが、古は穴ノ濟《ワタリ》、柏ノ濟【景行紀】、告《ツゲ》ノ齊【播磨風土記】、海原之遠渡【一〇一六】等の如く海路の謂とも了解せられたのである。
からかぢの カヂが舵即ち正船木の意に用ひられるやうになつたのは後世のことで、和名抄には※[楫+戈](楫)の訓とせられて居り、カイ(櫂)と同じく船を進むるの具なることは前輯(第四三頁)に述べた通りである。カラは唐の義としたものもあるが【考】【略】【新考】、カラカサ(柄笠即ち傘)、カラサヲ(連枷)等の例によれば柄※[楫+戈]の謂とする説【古義】を可とする。如何なる製式であつたか判明せぬが、腕木若くは撞木状の柄を取つけたが故に此名を負はせたのであらう。いづれにしても普通の櫂よりも推進力が強く、且舷を叩く音の高いものであつたとせねばならず、下總の古我の邊で渡瀬川に泛べた船に装著したものとは思はれぬから、私は海濱の光景を取つて序としたものと椎斷するのである。
おとたかしもな モナは感動詞を二つ重ねたもので、音が高いよといふ意。柄※[楫+戈]は上記の如く高い音を立て(343)るものであつたのであらうが、尚マカヂヌキ(第一輯四三頁)、調子を合はせて漕ぎ行く光景が髣髴せられる。此は浮名が高く立つといふことに言ひかけたのである。
ねな|へ《フ》こゆゑに ナヘは打消の連體法ナフの變形であるから、(第二三六頁)、寢ぬ子(女子)故にといふ意になるのである。未だ相寢ぬ女性の故に浮名のみが徒に高いことを不本意としたのである。
【大意】 マクラガ(久良岐)のコガの濟《ワタリ》の柄楫の音が高いやうに浮名の高いことよ。(未だ相)寢ぬ女の子の故に
 
3556 思保夫禰能《シホブネノ》 於可禮婆可奈之《オカレバカナシ》 左宿都禮婆《サネツレバ》 比登其登思氣志《ヒトゴトシゲシ》 那乎杼可母思武《ナヲドカモシム》【三五五六】
 
しほ舟の おかれば悲し さねつれば 人言しげし 汝を|ど《アド》かも|し《セ》む
 
しほぶねの 潮舟ノ(第一九四頁)。後記の如くオキ(沖)の枕詞として用ひられたのであらう。
おかればかなし 下河邊長流はオカレバを置ケレバと同意とし【代】、眞淵は浮力レバ也と説いたが【考】、捨置〔右○〕または徒に置くことゝしては言葉が足らず、浮カレでは意をなさぬ。案ずるには此はオキ(沖)アレ(荒)を連約した潮舟の縁語で、カル〔右○〕レバ即ち逢瀬が疎くなれば悲しいといふ意に言ひかけたのであらう。此語は下二段活であるが、原義は枯で、カラ〔二字右○〕シといふ形態の存する所を見ると(第二〇三頁)、本初は四段に活用せられたもので、東語に其名殘を留めてカルレバをカレバと表現したものと推定せられる。
(344)さねつれば サは接頭語、寢ツレバ即ち相寢たればといふ意。
ひとごとしげし 人言繁シ
なを|ど《アド》かも|し《セ》む 眞淵説の如く汝ヲアド〔二字右○〕カモセ〔右○〕ムの訛であらう。汝ヲアド(何ト)をナヲドと急呼したのは、上掲【三四五一】の吾ハソトモハジ(ソトモ追ハジ)と同例である。
【大意】疎くなれば悲しい。寢たらば人言がうるさい。汝をどうしようか
 
3557 奈夜麻思家《ナヤマシケ》 比登都麻可母與《ヒトヅマカモヨ》 許具布彌能《コグフネノ》 和須禮婆勢奈那《ワスレハセナナ》 伊夜母比麻須爾《イヤモヒマスニ》【三五五七】
 
なやましけ 人妻かもよ こぐ舟の 忘れはせなな いや思《モ》ひますに
 
なやましけ 悩マシキ〔右○〕といふ意の古形。ナヤミの原義は長病《ナヤミ》と思はれるが、ワヅラヒ(患)と同じく、轉じて懊悩の義となつたので、此は氣がもめるといふ程の意である。
ひとづまかもよ 人妻哉といふ意に更に感動詞ヨを添へたのである。
こぐふねの 漕グ舟ノはモヒ(水)マス(益)といふ語の序である。滲水は漕ぐに從うて益るもので、今では之をアカと稱へるが、此語も亦本來水を意味する梵語である。從來此いひかけを察し得ずして、眞淵は次の歌から類推して、女が舟に乘つて他に行くことをいふものと牽強し、宣長はナヤマシキの譬なりといひ、新考にはイヤにかゝるならんと推定してあるが、いづれも理由のないことである。モヒトリ(主水)などの(345)モヒはマ(眞)ヒ(水)の轉呼と思はれるが、これは或はモリ(漏)の語幹モを冠したので、東國に於ては漏水(滲水)を特にモヒと稱へたのかも知れぬ。
わすれはせなな 忘レハセジナ即ち忘れはすまいなアといふ意(第一二一頁)。此は四句切とする爲に次句と倒置したので、其故に上記の序は此句を隔てゝ末句にかゝるのである。ナナを不【略解宣長説】、莫【古義】、ズシテ【新考】と譯することの否なるは此歌によつても明である。
いやもひますに 彌想ヒ益スニといふ意で、漕ぐ舟の漏水が益さることに言ひかけたものなること上述の通りである。新考が句末の爾〔右○〕を毛〔右△〕の誤記としたのはナナをズシテの義と臆斷した爲である。
【大意】氣のもめる人妻であるよ。忘れはすまいなア。自分は彌々想ひが益すのに
 
3558 安波受之※[氏/一]《アハズシテ》 由加婆乎思家牟《ユカバヲシケム》 麻久良我能《マクラガノ》 許賀己具布禰爾《コガコグフネニ》 伎美毛安波奴可毛《キミモアハヌカモ》【三五五八】
 
あはずして 行かば惜しけむ まくらがの こが漕ぐ舟に 君も逢はぬかも
 
あはずして 逢ハズシテ
ゆかばをしけむ 行かば惜しからむといふ意。形容詞の活用語尾は本初ケ一形で、分詞としても用ひられたから、未來格を表示する爲には之に直接ムを連ねたのである。此は作者自身が船出するに當り、相愛の女(346)性と逢はずして行かば口惜しからうといふ意味で、新考説の如く男の歌である。
まくらがの 前出
こがこぐふねに コガ(前出)といふ地を漕ぎ出る船にといふ意。古義が之を許賀の渡を上り下りに榜《コグ》舟の謂としたのは、下總の古我と解した爲であらうが、此當時の川舟または渡舟は決して雅澄のいふが如き密會に都合のよいものではなかつた筈である。
きみもあはぬかも 君も來り逢へかしといふ意で、ヌカモは希望を意味する感動詞ネカモの轉呼である。アフには來會、往會、出會の三義があり(第一輯二四〇頁)、來會の意に於ては對象(間接目的)を必要とせず、宣長が引證したやうに古今集の詞書にも「志賀の山越に女の〔右○〕多く逢へり〔三字右○〕けるに」とあり、君モアフ〔三字右○〕と表現したので、船ニ〔右○〕逢フ若くは舟中ニ於テ君ト〔右○〕逢フといふ意ではない。キミは男女相互の稱呼であるが、此時代に於て女性が良人と別れて單獨舟行するやうなことが有り得たとは思はれぬから、舟出するものは男子であつたとせねばならす、從つて相愛の女性をキミと呼稱したものとすべきである。眞淵が女の歌と解したのはキミといふ語に捉はれた爲のやうである。
【大意】逢はずして行かば口惜しからう。コガを漕ぎ出る船まで君も來て逢へかし
 
3559 於保夫禰乎《オホブネヲ》 倍由毛登毛由毛《ヘユモトモユモ》 可多米提之《カタメテシ》 許曾能左刀妣等《コソノサトビト》 阿良波左米可母《アラハサメカモ》【三五五九】
 
(347)大船を 舳《ヘ》ゆも艫《トモ》ゆも かためてし こその里人 あらはさめかも
 
おほぶねを 大船ヲ
へゆもともゆも 舳よりも艫よりもといふ意。堅固な碇のなかつた時代、大船を繋留する爲には首尾から綱を取つて陸上の樹木などに固縛することを例としたから、――今もさうすることがある――カタメをいはむ爲の序として此兩句を用ひたのである。
かためてし 口固めしたといふ意。
こそのさとびと コソは地名であらうが心當りがないので、眞淵は許賀〔右△〕の誤記とした。若し然りとすれば前の歌に對する應酬とすべきで、里人は相手の男を意味するものと解せられるが、誤寫の形跡はない。新考は許〔右○〕を呼〔右△〕と改めて上の句につけ、此句末に能〔右△〕を補ひ、固メテ〔右△〕シヲ〔右△〕其里人ノ〔右△〕と解讀したが、其場合には固メシヲ〔右△〕というても事足りるのに、態々口調の惡い六音句を用ひたとも思はれぬ。若し誤寫と推定することが許されるならば或は曾許の顛倒で、ソコ〔二字右○〕(其)の里人の謂であるかも知れぬ。確證のないことであるから斷定を憚るが、姑く其意を以て説いて置く。
あらはさめかも 顯はさうやといふ意。
【大意】大船をば舳からも艫からも繋ぎかためるやうに、固く口留した其處の里人が暴露しようや(斯く知れ渡つたのは其方《ソナタ》が口をすべらしたからに違ひない)
 
(348)3560 麻可禰布久《マカネフク》 爾布能麻曾保乃《ニフノマソボノ》 伊呂爾低※[氏/一]《イロニデテ》 伊波奈久能未曾《イハナクノミゾ》 安我古布良久波《アガコフラクハ》【三五六〇】
 
ま金ふく 丹生のまそぼの 色に出《デ》て いはなくのみぞ 吾こふらくは
 
まかねふく 承和大嘗會の歌にマガネ吹ク吉備ノ小山とあり【古今】、播磨風土記に掲げた顯宗仁賢天皇蒙塵の物語に吉備〓とあるのも、キビのマガネと訓ませたものと思はれるが、〓(鐡の古文)はクガネ(黄金)、シロガネ(銀)、アカガネ(銅)に對し、クロガネ(黒金)と呼稱することを例とした【仁徳紀】【和名抄】。案ずるにカネの原義はカ(赫)ニ(土)で、光輝ある土石即ち鑛土を意味するから、其から鞴《フ》き分けられた金屬をマ(眞)カネと稱へて區別したのであらう。されば必しも鐡のみの稱呼ではなく、次句にマソボ(鉛丹)とある所を見ると、此は鉛を意味したものと思はれる。フクは鑛土を溶解する爲に吹革《フイガウ》(鞴)を以て火を吹き、強熱を發生せしめることをいひ、現代語でいへば冶金である。
にふのまそぼの ニは上記の如く土石を意味する原語、フはアハフ〔右○〕(粟田)、マメフ〔右○〕(豆田)【神代紀】、カシノフ〔右○〕(橿林)【應神紀】の如き用例があり、今も麻生〔右○〕、蓬生〔右○〕、埴生〔右○〕の如く用ひられるから、生産地の謂とすべきで、有用土石の産地をニフと稱したのである。丹生の字を充てるのは丹即ち赤土をもニと略稱するからであるが、此は上句との關聯上採鑛所をいふものとすべきである。マソボのソボはソム(染)の轉呼であるが(第一輯二二八頁)、之はソボニ(染土)の略稱として用ひたので、色土就中赭土を意味し、接頭語マを冠するこ(349)とによつて鉛丹(赤鉛)または辰砂(硫化汞)の稱呼とせられたのである。但し上句に金屬《マガネ》吹くとある所を見ると、此は鉛の精錬の際生ずる酸化鉛(赤鉛)をいふものと思はれる。以上二句は色に出ることに譬へた序である。
いろにでて 色ニ出テ
いはなくのみぞ ナクはヌコトの謂であるが(第三一頁)、此は云はぬばかりぞといふ意であらねばならぬから、奈久は或は奈父〔右○〕の誤記であつたかも知れぬ。次句にも戀《コフ》ラク〔二字右○〕とあり、假令ヌ又はザルと同義にナクを用ひることが許されたとしても、やゝ耳ざはりである。
あがこふらくは 我が戀ふることはの謂で、極めて切なりといふ意味が言外に含まれて居るのである。
【大意】眞金吹く丹生のマソボ(鉛丹)のやうに色に出て言はぬばかりぞ、自分の戀ひこがれることは
 
3561 可奈刀田乎《カナトダヲ》 安良我伎麻由美《アラガキマユミ》 比賀刀禮婆《ヒガトレバ》 阿米乎萬刀能須《アメヲマトノス》 伎美乎等麻刀母《キミヲラマトモ》【三五六一】
 
かな門田を あら掻きまゆみ 日が|と《テ》れば 雨をま|と《ツ》のす 君をら待|と《ツ》も
 
かなとだを カナトはカド(門)と同義で(第三一〇頁)、門前の田をカナトダというたのである。
あらがきまゆみ アラガキは粗掻即ち植付準備の爲に土を麁くこなすことをいひ、會津地方では今もアラク(350)レガキと稱へて居るが、マユミについては定説がない。荒木の眞弓の謂なりとする舊説は勿論無稽であるが、近状の學匠の諸説も左に列擧するが如く肯定を躊躇せざるを得ぬ。
 【眞淵】 由美は可幾〔二字右△〕の誤寫。マガキは俗にいふコナカキ也【考】
 【大平】 伊勢方言では土の割れることをマフともヨメ〔二字右○〕ワルルともいふ。ヨメはユミと用言で、マユミともいうたのであらう【略解】
 【新考】 マイミの謂で、荒掻眞掻荒忌〔四右△〕眞忌の中略
 【新訓】 新〔右○〕掻キ間ユ見〔三字右○〕
 眞淵説は改竄に基くものであるから論ずるに足らず、他の三説も次句との續合上妥當でない。案ずるにマは接頭語、ユミはユヒの轉訛で、農事就中挿苗の爲に若干戸が結束して互に助力することをいひ、今も諸國に於て用ひられて居る語である。されば此句は粗掻したるが上に、ユヒを組織してといふ意で、當時東國ではユヒをユビ又はユビに近く發音したのでユミとも訛つたのであらう。
ひが|と《ヲ》れば 日が照ればといふ意。トはテ〔右○〕の訛であらねばならぬ。
あめをま|と《ツ》のす マトはマツ(待)の訛(卷未訛音表參照)で、次句に於ても同樣である。植付の準備を整へても旱天がつゞいては擧行することが出來ず、切に降雨を待つものであるから、これを譬としたので、ノスは屡々述べたやうに比況助語である(第一三一頁)。
きみをらま|と《ツ》も 等の字は眞淵説の如くラの假字である。新考が本卷に其例なしとして良〔右△〕の誤記と見たのは(351)輕率で、上掲【三四一九】【三四四四】【三五五二】の等〔右○〕も亦ラと訓むべきことは既述の通りである。此は旱天に雨を待つやうに君を待つといふ意の女の歌である。ラは虚辭で、之を助語ヲに添へた例は本集【八九七】【四三八五】にも見え、モは感動詞である。
【大意】門田を粗掻しユヒを設けたが、太陽が照りつゞくから只管雨を待つ。其やうに(自分は)君を待つよ
アリソヤニオフルタマモノウチナビキヒトリヤヌラムアヲマチカネテ
安里蘇夜爾《》 於布流多麻母乃《》 宇知奈婢伎《》 比登里夜宿良牟《》 安乎麻知可禰※[氏/一]【三六六二】
 
荒磯《アリソ》やに 生ふる玉藻の 打ちなびき 獨やぬらむ 吾を待ちかねて
 
ありそやに アリソは荒磯の意(第一輯八九頁)。ヤはヤ〔右○〕ツ(谷)の語根で、今も地名としてはクマガヤ〔右○〕(熊谷)、ハムガヤ〔右○〕(榛谷)、シタヤ〔右○〕(下谷)、シブヤ〔右○〕(澁谷)の如く用ひられるから、此も荒磯の砂丘間の窪地を意味するのではあるまいか。海草は多少濕分がなくば隼生育せぬものである。眞淵が夜〔右○〕を麻〔右△〕の誤記としたのは字形が類似して居るから尚有り得べきことであるが、アリソマといふ語なしとして敝〔右△〕【古義】又は美〔右△〕【新考】と改めたのは理由のないことである。雅澄がアリソミ〔右△〕と訓した本集【三一六三】の荒礒囘は本來アリソマ(マは地區の意)で、――舊訓アラソワ〔右△〕とあるは非――音便によつてマをミと訓することは妨がないが、ミならざる可からずとするのは固陋である。伊素末〔右○〕【三五九九】又は伊蘇末〔右○〕【三九六一】と假字書した例もあり、浦箕〔右○〕とし(352)た三例に對し宇良末〔右○〕又は裏末〔右○〕と表記したのは七例を算するのに、古義が之を悉く未〔右△〕と改記したののは專斷といはねばならぬ。若しアリソマとすれば荒磯のある地區といふ意である。
おふるたまもの 生フル玉藻ノといふ意で、タマ(玉)は美稱であるから、これは「玉藻のやうに」といふ比況に過ぎぬ。
うちなびき ウチは準接頭語。ナビキの原義はナ(並)ヒキ(引)であるが、轉じて撓かに倚ることをもいひ、此も體躯を「く」の字なりにするといふ意に用ひられたのである。
ひとりやぬらむ 獨リヤ寢ラム即ち添寢する人がないので膝を抱いて寢るであらうといふ意。
あをまちかねて 我ヲ待チ不克《カネ》テ。――此は故あつて久しく訪ねなかつた女が、自分を待ちわびるさまを想像して詠じた男の歌である。
【大意】荒磯の窪みの玉藻のやうに、くの字なりになつて獨り寢るであらう。(彼女が)自分を待ちかねて
 
3663 比多我多能《ヒタガタノ》 伊蘇乃和可米乃《イソノワカメノ》 多知美多要《タチミダエ》 和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》 伎曾毛己余比母《キソモコヨヒモ》【三六六三】
 
ひた潟の 磯のわかめの 立ち亂|え《レ》 我《ワ》をか待つ|なも《ラム》 きそも今夜も
 
ひたがたの 和名抄に豐後國日高郡を比多と訓し、國造本紀にも比多〔二字右○〕國造とある所を見ると、ヒタカ(日高)(353)を略してヒタとも稱へたものと思はれるから、斷言を憚るけれども此ヒタも古の日高見國即ち後の信太郡【常陸風土記】のことではあるまいか。今の稻敷郡にあたり、風土記によれば南は榎浦の流海、東は信太の流海とあるから、霞浦に濱した地で、從つてカタ(斥鹵)も存した筈である。
いそのわかめの 磯のワカメ(裙帶菜)は潮干には立亂れるから比況としたのである。
たちみだ|え《レ》 ミダエ〔右○〕は亂レ〔右○〕の古形(要録九七八頁)。
わをかまつ|なも《ラム》 ナモはラムの訛(卷末訛音表參照)。吾を待つらむかといふ意である。
きそもこよひも 既出(第二七九頁)
【大意】 ヒタ潟の磯の若布《ワカメ》のやうに立ち亂れて自分を持つであらうか。昨夜も今夜も
 
3564 古須氣呂乃《コスゲロノ》 宇良布久可是能《ウラフクカゼノ》 安騰須酒香《アドススカ》 可奈之家兒呂乎《カナシケコロヲ》 於毛比須吾佐牟《オモヒスゴサム》【三五六四】
 
小菅ろの 浦吹く風の あどすすか かなし|け《キ》兒ろを 思ひ過ごさむ
 
こすげろの ロは虚辭で、眞淵説の如く武藏國の小菅(今の東京市葛飾區南綾瀬町小菅刑務所所在地附近)をいふのであらう。
うらふくかぜの 今の小菅は海からも古利根川からも相當離れて居るが、此處は古來地形の變遷が甚しかつたやうであるから、當時は水濱の地で小菅浦と呼ばれたことも有り得る。浦吹ク風ノは比況で末句にかゝ(354)るのである。
あどすすか アドはナド(何ト)の訛、ススは上記の如く爲爲《スス》即ちシツツと同義であるが(第二五一頁)、こゝでは何としてかといふ意に用ひられたのである。
かなし|け《キ》ころを 愛惜《イト》シイ彼女ヲといふ意(第一三頁參照)。
おもひすごさむ 思ヒ過サムは等閑に思はむとやいふに同じく、スグ(過)は上二段活であるが、其終止形態スグを語幹としてスグリ及スグシといふ語を派生したのである。されば本集にも周具斯【八〇四】須具之【三九六九】【四三一八】とも表記せられて居るのであるが、其外にヒ(乾)からホ〔右○〕シ(干)、落チ〔右○〕からオト〔右○〕シといふ動詞を分派したと同樣に、スゴ〔右○〕シといふ形も存したので東語では之を用ひたものと思はれる。之をスグリの訛とするのは早計で、今もスゴシといふのである。
【大意】小菅の浦を吹く風のやうに何としてか愛惜《イト》しい彼女を等閑に思はうや
 
3565 可能古呂等《カノコロト》 宿受屋奈里奈牟《ネズヤナリナム》 波太須酒伎《ハタススキ》 宇良野乃夜麻爾《ウラヌノヤマニ》 都久可多與留毛《ツクカタヨルモ》【三五六五】
 
彼の子ろと 寢ずやなりなむ はた薄 うら野《ヌ》の山に つ|く《キ》かたよるも
 
かのころと 彼ノ兒(ロ)ト即ち被女とといふ意。
ねずやなりなむ ヤは間投詞で、寢ぬやうになつてしまふだらうといふのである。
(355)はたすすき 既出(第二八一頁)。其歌にホ(穗)ニ出ルことの比況に用ひられたと同樣に、此もウラ(末)の枕詞としたのである。
うらぬのやまに ウラノ〔右○〕と訓んでもよい。裏野の山にといふ意である。
つ|く《キ》かたよるも ツクはツキ(月)の訛(第九七頁)。カタヨル(片寄)は傾く(片向)とほゞ同意で、モは感動詞である。此歌は忍んで女の許に通うた男が、待てども待てども豫て諜し合はせた合圖はなく、裏の山に月が傾くまで夜が更けたから、今夜は到底逢へまいと氣をもむさまを詠じたものと思はれる。
【大意】彼女と寢(ることが出來)ぬやうになるであらう。裏野の山に月が片寄るよ
 
3566 和伎毛古爾《ワギモコニ》 安我古非思奈婆《アガコヒシナバ》 曾和敝可毛《ソワヘカモ》 加米爾於保世牟《カメニオホセム》 己許呂思良受※[氏/一]《ココロシラズテ》【三五六六】
 
我妹子に あが戀ひ死なば そ|わ《ハ》へかも かめにおほせむ 心知らずて
 
わぎもこに 吾妹子ニ
あがこひしなば 我戀ヒ死ナバ
そわへかも 眞淵が曾和敝〔右○〕を曾和惠〔右△〕の誤記とし、上掲【三五五二】に準じ騷ぐことの謂としたのは無理であるが、其例に於て見るが如くハ〔右○〕をワ〔右△〕と訛つたことは有り得べきで、恐らくはソバ(傍)ヘ(邊)の意であらう。ソバといふ語は本集には用例がないが、ソヒ〔二字右○〕の形に於ては古來普く用ひられて居るから、其から分化したソバが、當時既に存したとしても敢て怪しむに足らぬ。墨江中王を弑した近習の名を曾婆〔二字右○〕※[言+可]理といふのも(356)【記】、或はソバ(傍)カリ(斬)の意で、其兇行に因んで後人が負はせたのではあるまいか。――紀には刺〔右○〕領巾とある――和敝〔二字右○〕を故遠〔二字右△〕と改めてソコヲカモと訓したものもあるが【古義】【新考】、此場合そのやうな句を挿入するのは蛇足であるのみならず、和敝と故遠とは草書でかいたとしても類似した宇ではない。此は次句神に負はせむの主語にあたり、側近の人々がといふ意とすべきで、カモは感動詞である。
かめにおほせむ 西本願寺本以下に加未〔右○〕とあるに從へばカミ〔右○〕と訓むべきであるが、加米は必しも誤寫ではなく、音便によつて神をカメ〔右○〕とも稱へたのであらう。カメ(龜)も亦神虫の意を以て名を負はせたものゝやうで【東雅】、備後の龜〔右○〕石郡【天武紀】は和名抄に神石の字をあてゝ加女志と訓し(現今ジンセキと稱へる)、眞淵によれば志摩國神島もカメ〔右○〕シマと稱へたといふとのことであり、今も石見では犬神をイヌガメと稱へる。此は我死因を漫然神に歸するであらうといふ意で、醫術の幼稚であつた上代に於ては、不慮の早死は神の祟によるものとせられることが多かつたのである。
こころしらずて 心知ラズテ即ち自分の心中を察せすしてといふ意。初句のワギモコは家の妹即ち宿の妻の謂ではなく、まだ公認せられるに至らぬ女性、所謂人ノ子(第三一三頁)で、意の如く相見ることが出來ぬ故に、戀しさに堪へかねて生命も絶え絶えになつたが、此秘密を知らぬ傍輩どもは、萬一死んでも神の祟に負はせるであらうといふのである。
【大意】彼女にこがれて死ぬならば、側邊(の人)は神の祟に歸するのであらうよ。(自分の)心をば知らずして
 
(357)防人歌五首
 
此も編者の分類で、原記録に此目が存したのではあるまい。眞淵も指摘したやうに相聞歌中にも、【三五一六】の如く明に防人の作と認められるものがあるのである。
 
3567 於伎※[氏/一]伊可婆《オキテイカバ》 伊毛婆摩可奈之《イモバマカナシ》 母知※[氏/一]由久《モチテユク》 安都佐能由美乃《アヅサノユミノ》 由都可爾母我毛《ユヅカニモガモ》【三五六七】
 
おきて行《イ》かば 妹ばま悲し もちて行く あづさの弓の 弓束にもがも
 
おきていかば 置キテ行カバ(第二六五頁參照)。
いもばまかなし 舊訓イモハ〔右△〕とあり、伸田本には婆〔右○〕を波と改記してあるが、此は妹ヲパの約であるから、字に從うてイモパ〔右○〕と訓み、初句の頭に移して會得すべきである。上掲【三三七六】の或本歌に如何ニシテ戀ヒバカ妹ニ〔二字右○〕武倉野ノ云々とあると同例で、律調上故意に倒置したものゝやうである。マカナシのマは接頭語で、之を省いても大差はなく、妻ヲバ〔二字右○〕郷里に置いて防人に行くは悲しいといふ意なることは疑がない。先學は之を察し得なかつたと見え、いづれもイモハ〔右○〕と訓み、新考の如きは妹ハ悲シといふ筈がないとて、マカナシは愛憐の意なりと説いたが、女房は別れた後始めて可愛くなるものでもあるまい。
(358)もちてゆく 持チテ行ク
あづさのゆみの アヅサ(ノ)弓が本來眞弓《マユミ》とは異る形式の射器を意味することは既述の通りであるが(第二五一頁)、當時の防人が此舊式武器を用ひたとは思はれぬから、單にユミ(弓)といふ意を以て此語を用ひたのであらう。其は前卷にも例のあることである(第一輯二三五頁)。
ゆづかにもがも ユヅカ(弓束)は既述の如く弓のニギリ(※[弓+付])をいひ(第二四九頁)、ガモは願望表示であるから(第八四頁)、弓束であれかしといふ意で、常に掌中に把握して居たいといふのである。
【大意】妻をば置いて行くは悲しい。携へて行くアヅサ弓の弓束であつて欲しい
 
3568 於久禮爲※[氏/一]《オクレヰテ》 古非波久流思母《コヒバクルシモ》 安佐我里能《アサガリノ》 伎美我由美爾母《キミガユミニモ》 奈良麻思物能乎《ナラマシモノヲ》【三五六八】
 
おくれ居て こひば苦しも 朝狩の 君が弓にも ならましものを
 
右二首問答
 
おくれゐて 後レ居テ即ち後に殘つてといふ意。
こひばくるしも 戀ヒバ苦シモの謂で、前の歌の初二句と同樣に戀ふるは苦しいよといふ意であらう。コヒバを假定條件とすればツラケムといはねばならぬ。
あさがりの 朝狩ノといふ意。左註に右二首とあるに從ひ之を前の歌の返歌即ち一聯をなすものとすると、(359)此句は聊か妥當を缺くので、或は單に弓の修飾語とし【略】、或は平常朝狩に使ふといふ意と説かれて居るが【新考】、左注は編者の手になつたものであるから、或は木來全然無闘係の歌であつたのを、著想の類似の故を以て對立させたのかも知れぬ。若し然りとすれば尋常の相聞歌で、必しも防人歌ではあるまい。
きみがゆみにも 君ガ弓ニモ即ち君が朝狩の弓にでもといふ意。
ならましものを ならうものをといふのである(第三二九頁參照)。
【大意】後に殘つて戀ふるは苦しい。君の朝狩の弓にもならうものを
 
3569 佐伎母理爾《サキモリニ》 多知之安佐氣乃《タチシアサケノ》 可奈刀低爾《カナトデニ》 手婆奈禮乎思美《タバナレヲシミ》 奈吉思兒良婆母《ナキシコラハモ》【三五六九】
 
防人に 立ちし朝けの かな門出に 手放れ惜しみ 泣きし兒らはも
 
さきもりに サキモリ(防人)の語義については筑紫の崎々の守りの意とする説もあるが、孝徳紀の舊訓にセキモリとあるやうに、關塞の守備に任ずる人といふ意で、サキモリは其轉呼であらう。セキがサキと變化することは極めて有り得べきで、フサギ(塞)からフセギ(防)といふ語を分派し、紀にはホセギ〔三字右○〕とも訓ませてあるのである。防人の二字をあてたのはフセグ人といふ意であらねばならぬ。
たちしあさけの タチは出發をいひ、アサケはアサ(朝)アケ(曉)即ち早朝の意である。
かなとでに 門出《カドデ》ニといふ意。カナトがカド(門)と同義なることは既述の通りである(第三一〇頁)。
(360)たばなれをしみ 手はタの假字で(舊訓テとあるは非)強意の爲の接頭語に過ぎず、ハナレはワカレ(別)と通ずるから、別が惜しいとてといふ意である。分手の義【新考】とするのは考へ過ぎで、國語では別離を手ヲ分ツとはいはす、其例として擧げた家持の逸鷹の歌【四〇一一】の手放は手カラ放ルといふことで、袂を分つといふ意ではない。
なきしこらはも コラハモの用例は上掲【三五三二】にも見え、泣いたあの子はよといふ意である。
【大意】防人に出發した(其)早朝の門出に別が惜しいとて泣いた彼の女はよ
 
3570 安之能葉爾《アシノハニ》 由布宜利多知※[氏/一]《ユフギリタチテ》 可母我鳴乃《カモガネノ》 左牟伎由布敝思《サムキユフベシ》 奈乎波思奴波牟《ナヲバシヌバム》【三五七〇】
 
葦の葉に 夕霧立ちて 鴨が音の 寒き夕べし 汝《ナ》をばしぬばむ
 
あしのはに 蘆()葉ニ
ゆふぎりたちて 夕霧立チテ
かもがねの、鴨ガ音ノの謂であるが、此カモは必しも今いふ鴨即ち青頸のことではあるまい。カモはガン及カリ(雁)、ケリ(鳧)、カモメ(鴎)等と語原を同じうし、本來水禽の總稱で、擬聲語から出たのである。
さむきゆふべし 寒キは音《ネ》の形容にはならぬが、水鳥の鳴く音は寒さを催すに足るものであるから、寒キ夕とつゞけたので、シは強意の助語である。末句が未來格を以て表示せられて居る所を見ると、目前の光景(361)を敍したのではなく、別離に際し路次の水門《ミナト》などの風物を想像して詠じたものと思はれるが、考及新考が激賞したやうに、折にあひて哀れな描寫であるといはねばならぬ。
なをばしぬばむ 汝ヲバ偲バム
【大意】蘆の葉に夕霧が立つて水鳥の鳴聲も身にしむ寒い夕は汝を偲ぶであらう
 
3571 於能豆麻乎《オノヅマヲ》 比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》 於保保思久《オホホシク》 見都都曾伎奴流《ミツツゾキヌル》 許能美知乃安比太《コノミチノアヒダ》【三五七一】
 
おの妻を 人の里に置き おほほしく 見つゝぞ來ぬる 此道のあひだ
 
おのづまを 己妻ヲ
ひとのさとにおき 人ノ里ニ置キは尚未だ迎へ取るに至らざる妻なるが故で、我ガ女房を人ノ子(第三一三頁)といふと同じ趣である(第二九三頁參照)。作者が筑紫に下るが故に自分の郷里を人の里と表現したものとする古義説は牽強である。
おほほしく 此形容詞の訴幹オホホはオホ(凡)の疊尾語で、オホロの形に於ては朧の義にも用ひられるからこれも清爽ならざる氣分をいふものとせねばならぬ。眞淵はオボツカナクと譯したが、第二卷【一七五】に欝悒をオホホシクと訓ませた所を見ると鬱々の意とすべきである。
(362)みつゝぞきぬる 次句と倒敍したので、道中の風物を見つゝ來たぞよといふ意と思はれる。眞淵が顧ミツツの略としたのは前句の誤解に關するものである。
このみちのあひだ 此ノ道ノ間即ち長い道中をといふ意で、防人の歌とすれば任地についた後の述懷であらぬばならぬ。
【大意】自分の妻を人の里に置き鬱々として此道中の間(風物を)見なから來たぞよ。
 
(363)譬喩歌五首
 
3572 安杼毛敝可《アドモヘカ》 阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》 由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》【三五七二】
 
あど|思へ《モフ》か あじくま山の ゆづる葉の ふふまる時に 風吹かずかも
 
あども|へ《フ》か 從來何ト思ヘバカと解讀して居たが、次句とつゞかぬので、思へには重きを置くべからすとして【考】ナドカの意と解し、之を第四句の次に移して聞くべしといひ【古義】、或は次にサハ言フナとあるべきを略敍したものとする説【新考】もあるけれども、いづれにしても語脈がたどたどしい。案ずるに此は連體法のナフをナヘと表現した【三四七八、八二、八三】【三五二九、五五】と同例に屬し、東國獨特の訛で、アドモフカ即ち何と思ふかと問ひかけたのであらう。
あじくまやまの 此山名は殘存せぬが、名所名寄に常陸國の山なりとあるに基き、同國郡郷考には康永二年の文書に阿地熊平澤云々とあるアチクマを以て之に擬し、筑波郡平澤村(今小田村の大字)附近の山名と考證して居る【地名辭書】。クマは隈の意であらうが、アジ(又はアチ)の語義を詳にせぬ。或はアシ(蘆)の轉訛ではあるまいか。
ゆづるはの 俗説では新葉が生じてのち舊葉が枯落するが故にユヅリ葉と號くといひ、大戟科の一植物が之(364)に擬せられ、交讓木ともかくが、此歌の趣には副はぬやうである。或は他にユヅル葉と稱し、若葉の時でも風が吹けば散り落ちるものがあつたのではあるまいか。既記の如くウ〔右○〕ツリをユ〔右○〕ツリとも轉呼するから(第二六頁)、ウツロフ葉といふ意を以て命名したこともあり得べきである。ユヅリ葉といふものが正月の節供に用ひられるやうになつたのは交讓の爲ではなく、別に理由が存したことは古語大辭典に述べた通りである。――此はユヅル葉のやうにといふ意である。
ふふまるときに フフミ(莟)アル時ニといふ意。フフミはホホミともいひ【四三八七】、ホミ(穗見)の疊頭語で、穗のやうに見えるといふ意から莟の義を生じたのである。
かぜふかずかも カモは反語表示として用ひられたので、風が吹くまいか、否、風が吹くこともあるといふ意。童女に懸想した男の述懷で、アジクマ山のユヅル葉のやうにまだ莟であつても風が吹けば散るまいものでもない。何とさうではないかといふので、相手の少女に與へた歌とも或は無謀な戀を諫めた第三者に抗辯したものとも解せられる。
【大意】何と思ふか。アジクマ山のユヅル葉を莟の時に風が吹き散らすやうに、まだ開かぬ莟の少女にも戀風が吹かぬといへようか
 
3573 安之比奇能《アシビキノ》 夜麻可都良加氣《ヤマカツラカゲ》 麻之波爾母《マシバニモ》 衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》 於吉夜可良佐武《オキヤカラサム》【三五七三】
 
あしびきの 山かつらかげ ましばにも 得がたきかげを おきや枯らさむ
 
(365)あしびきの 枕詞(第一輯一六九頁)
やまかつらかげ カゲは冠りものの意で(第一輯三五頁)、山の葛で作つたものを山カツラカゲ〔二字右○〕と稱へたのである。カツラ(葛)といふ語も木來は鬘の意から出たので、古今集の採物の歌の中にも「卷目《マキモク》の穴磯の山の山人と人も見るかに山カツラせよ」とあるのであるが、此は山地の蔓草で作つたものなることを明示せんが爲に殊更に山カツラカゲと稱へたものと思はれる。此當時には既に實用には供せられず、神職などの古代装束に用ひられるのみであつたから、屡々求め得られぬといふことの比況に用ひたのである。カゲをヒカゲ(蘿)の意とするのは【考】誤解で、ヒカゲのヒを除けばコケ(苔)の意となるのみならず、蘿はさのみ得難いものではない。
ましばにも マは接頭語、シバはシバシバ(屡)の原語で度々といふことである。
えがたきかげを 得難き鬘をといふ意であるが、此は面影などといふカゲ即ち容姿の意にいひかけ、佳人に譬へたのである。
おきやからさむ 舍キ枯サムヤといふ意であるが、カルには疎くなるといふ義があるから(第三四三頁)、絶々にならうやといふ意を寓したのである。
【大意】山|葛《カツラ》の冠りものゝやうに得易からぬ鬘(即ち彼女)を舍き枯さうや
 
(366)3574 乎佐刀奈流《ヲサトナル》 波奈多知波奈乎《ハナタチバナヲ》 比伎余知※[氏/一]《ヒキヨヂテ》 乎良無登須禮杼《ヲラムトスレド》 宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》【三五七四】
 
小里なる 花橘を ひきよぢて 折らむとすれど うら若みこそ
 
をさとなる ヲはヲ嶺(第三九頁)、ヲ筑波(第九五頁)、ヲ新田山(第一六八頁)などの如くも用ひられた美稱で、サト(里)は聚落を意味し(第二一四頁)、ナルはノに通ずる助語であるから(第一七頁)里ノ〔二字右○〕といふに同じく、之を地名とする説は誤りである。
はなたちばなを 花橘ヲ(第一輯六九頁)。
ひきよぢて 引攀ヂテ(第一輯一六頁)。
をらむとすれど 折ラムトスレド
うらもかみこそ ウラはウラクハシ(第一輯一〇頁)の如くも用ひられ、本來歡喜の義であるが、此は殆ど原義を失ひ接頭語的に用ひられたので、末《ウラ》の意とする古義の説には從はれぬ。ワカミは若しとしてといふ意でコソを添へたのは強意の爲であるが、折ることを敢てせぬといふ意を含めたのである。此も花橘を童女に譬へたので、其容色を賞でゝ手折らんとすれど餘り若々しさに折り得ぬといふ意と思はれる。
【大意】里の花橘を引攀ぢて折らうとすれど、うら若しとして(折り得ぬ)
 
3575 美夜自呂乃《ミヤジロノ》 緒可敝爾多※[氏/一]流《ヲカヘニタテル》 可保我波奈《カホガハナ》 莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》 許米※[氏/一]思努波武《コメテシヌバム》【三五七五】
 
(367)みやじろの 岡へに立てる かほが花 莫咲きいでそね こめて偲ばむ
 
みやじろの ミヤは御屋即ち家屋の美稱で、神社、皇宮、王公の邸宅等の稱呼に限られるやうになつたのは寧ろ轉義であるから、此は族長乃至里長邸の謂か、若くは女の本宅を敬うて御屋と稱したのであらう。シリは背後の義で、山背をヤマシロ〔右○〕といふやうにシロ〔右○〕とも轉呼せられ、ウシロ(大背)といふ語をも派生した。されば此句も御屋の背後の意で、之を地名とする説【略解】【古義】は考の未だ至らざるものと云はねばならぬ。時に此表現を用ひたのは婦女の住む小舍(嬬屋《ツマヤ》)は本宅または氏族の共同屋の背後に設けられることを例としたからであらう。
をかへにたてる 類聚古集以下に緒〔右○〕を渚〔右△〕又は須〔右△〕と改記しあるに從うてス〔右△〕ガヘと訓し【拾】【代】、或は更に次の可〔右○〕を乃〔右△〕の誤記として渚ノヘと解讀したものもあるが【新考】、其はミヤジロを地名なりとする誤解に其くもので、上記の如くならば御屋の背後の岡邊の謂であらねばならぬ。水に近い邸宅であつたとすれば背後に洲渚の存したこともあり得るが、スガヘといふ語例はなく、可〔右○〕を乃〔右△〕と改めたのも根據のないことであるから、寧ろ原文を是とすべきである。
かほがはな 既記のカホ花のことで(第二七四頁)、高圓《タカマト》の野邊〔二字右○〕のカホ花【一六三〇】と詠まれた例もあるから、岡邊に此花が生ひたとしても怪しむに足らぬ。助語ガを挿入したのは標準御音數にあはせる爲で、サ百合花を佐由利能〔右○〕波奈【四〇八六】【四一一六】ともいふやうに、之が有無によつて意義に相違を來すことはないの(368)である。此は勿論美女に況へたので、呼格と解すべきである。
なさきいでそね 咲出でゝくれるなといふ意で、莫……ソネは禁止法と希望法とを結びつけた一種の古語法である(第一〇四頁)。此は色に出すなといふ意を寓したのや、決して花の咲くのを厭うたのではない。
こめてしぬばむ コメはコモリ(隱)の原語コミの他動詞形で、口語のカクシに當り、内密に戀ひ偲ばうといふのである。
【大意】御屋の後の岡邊に立つて居る貌花よ。願くは咲き出るな。(人に)かくして偲ばう
 
3576 奈波之呂乃《ナハシロノ》 古奈伎我波奈乎《コナギガハナヲ》 伎奴爾須里《キヌニスリ》 奈流留麻爾末仁《ナルルマニマニ》 安是可加奈思家《アゼカカナシケ》【三五七六】
 
苗代の こなぎが花を 衣にすり なるるまにまに あぜかかなし|け《キ》
 
なはしろの ナハシロ(苗代)は苗とする料《シロ》といふ意で、集約的米作が行はれるやうになつて以來、專ら稻苗《イナハ》代の謂と了解せられ、之を培養する田即ち苗代田をも略してナハシロといふやうになつたが、語義からいへば必しも稻に限らず、他の作物でも苗圃に仕たてたものはいづれも苗代といひ得る筈である。されば稻に對しては特にイナハシロ(イネナハシロの約)と稱へたと見え、岩代國にも之を名とする地(湖)がある。――猪〔右△〕苗代とかくのは借字である上に假名ちがひである――此歌に於ては水葱の苗代をいひ、水葱は食料となるものなるが故に、苗をし立てゝ植付けたものと思はれる。さればこそ上掲【三四一五】にもウヱ〔二字右○〕コナ(369)ギとあるので、内膳式耕種園圃中に營《ヅクル》2水葱1一段とあるのは之が明徴である。雅澄は「稻種の苗代なり、その苗代に水葱は多く生るものなれば」云々と説いたけれども、稻苗の間には決して他の植物の生育を詐すべきものではない。――右の外宣長は「稻の苗を蒔生する田を苗代と云」と解し、シロに苗圃の義ありとして「材の繼苗を生する地」を山〔右○〕代といふと説いたが【記傳三六】、ヤマシロが奈良山の背後の地域の稱呼であつたことは明白であるから、牽強附會といはねばならぬ。
こなぎがはなを コナギは既述の如く水葱の謂で(第一三六頁)、夏秋の交紫色の花を開くものである。
きぬにすり 水葱の花が摺染材料として常用せられたかは疑問であるが、少くとも衣に摺りつけることは可能である。以上三句は比況的序である。
なるるまにまに 衣《キヌ》の縁により褻《ナ》ルといふ語を用ひたので、馴るるに隨ひといふ意である(第一輯一九四頁)。
あぜかかなし|け《キ》 何故か愛《イト》しいことよといふ意。アゼがナド(何ト)の訛、カナシケがカナシキの古形であることは既に屡々述べた通りである。通例は馴るるに從ひ愛憎の情が薄らぐものであるが、事實之に反するから、アゼカといふ疑問語を冠したので、花摺衣とは關係はない。雅澄が悲シキと譯したのは譬喩歌とあるに捉はれ、第四句をも水葱の花に關する敍述と見た爲であらうが、悲しむべき理由は少しも示されて居らぬのであるから、右の如く解することは困難である。
【大意】苗代の小水葱の花を衣に摺りて(著)褻れるやうに馴染むに從ひ、何故か愛憐のまさることよ
 
(370)挽歌一首
 
3577 可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》 伊都知由可米等《イヅチユカメト》 夜麻須氣乃《ヤマスゲノ》 曾我比爾宿思久《ソガヒニネシク》 伊麻之久夜思母《イマシクヤシモ》【三五七七】
 
かなし妹を いづち行かめと 山菅の そがひに寢しく 今し悔しも
 
以前歌詞未v得v勘2知國土山川之名1也
 
此は第七卷に吾背子乎、何處行目跡、辟《サキ》竹之、背向爾宿之久、今思悔装【一四一二】とあると、著想も歌詞も極めてよく似て居るから、或は同じ歌が二樣に傳へられたのかも知れぬ。但しいづれを原歌とも斷定することは出來ず、東人の詠に似ずといふ眞淵説も理由のないことで、上掲の諸歌の中にも大和人の作よりも遙に立まさつたものが少くはないのである。されば七卷の歌とは没交渉に釋明を進めることにする。
 
かなしいもを カナシイモは愛妻といふ意(第二四九頁)、助語ヲを添へたのは第四句のネ(寢)に續くからで、此語は既述の如く他動詞として用ひられることもあつたのである(第二七一頁)。
いづちゆかめと イヅチのチはコチ(此方)、ソチ(其方)の如くも用ひられ、タ(方)から轉生したもので、イヅカタ(何方)と同義である。行カメといふ未然形を用ひたのは、行カメヤと同じく反語的表示なるが故で(371)あらう。
やますげの スゲは前輯(第二八七頁)に説逃したやうに、種名ではないから、山に生ひる此種の禾本はいづれも山スゲと呼び得べきであるが、和名抄及本草和名には麥門冬に此訓を與へて居る。其に從へば俗にリウのヒゲ又はジヤガヒゲと稱する百合科植物で、其葉は亂れ生ひ往々背中合せになるものなるが故に比況に用ひられたのであらう。
そがひにねしく ソガヒは背交即ち背中合せの意(第九〇頁)、ネシクは寢シコトの謂である。
いましくやしも 今は悔しいよといふ意で、シは強意助語である。此やうに早く死に別れようとは思はず、口説の擧句背中合せに寢たことが今となつては悔しいといふのである。
【大意】愛妻をば何方へ行かうやと(高をくゝつて)、背中介せに寢たことが今(となつて)は悔しいよ
この歌の外上掲の【三四七五】【三四八五】【三五一三】の如きも分明な挽歌であるのに、相聞歌中に入れたのは編者の粗漏で、此分類が原記録に存したのではないといふことの一證である。
 
(373)附録第一
 
用字一覽表
 
 本卷に於ては地名の外原則として一音一字を以て表記し、音符又は正訓を用ひて居るのであるが、往々借字を充てた例もあり、用字もまた一定して居らぬから、參考の爲に左記の要領に從ひ五十音別に列擧する。例
 一、右旁に圏點を附したものは正訓又は假字で、其他は皆音符である。
 二、清濁の別は餘り嚴重でないから、本表に於ても之を區別せぬことにした。
 三、括弧内の數字は初見の歌の番號で、千位は皆一樣であるから、――即ち悉く三千代である――之を省略した。
 ア 安【三五〇】阿【三五三】吾〔右○〕【三六二】
 イ 伊【三五一】移【三五三】宿〔右○〕【四八七】
(374) ウ 宇【三四八】
 エ 延【三六〇】叡【三六五】要【三七八】江〔右○〕【四二九】
 オ 於【三四八】
 カ 加【三四八】我【三四八】可【三四九】家【三五八】河【三六六】賀【三六六】何【三六八】香〔右○〕【四〇三】鹿〔右○〕【五三〇】
 キ 伎【三四八】吉【三五一】藝【三五二】疑【三五二】奇【三七五】宜【三八八】岐【三九〇】木〔右○〕【四三三】
 ク 久【三四八】具【三四九】九【四〇六】求【四三〇】君【四四四】口【五三三】
 ケ 氣【三四八】家【三四八】鷄【四三二】牙【四八九】藝塑【四七四】
 コ 許【三四九】兒〔右○〕【三五一】己【三五五】古【三五八】其【三五八】木〔右○〕【三六三】姑【三六四】胡【三六五】故【三七〇】孤【五〇五】來〔右○〕【五一九】吾【五六四】
 サ 佐【三四八】左【三六九〕射【三七六】草【五三〇】
 シ 思【三四九】志【三五〇】之【三五三】自【三五三】盡【三五六】時【三五七】指【四〇七】師【四〇八】斯【四一一】次【四一九】四【四九三】
 ス 渚〔右○〕【三四八】須【三五二】受【三五五】酒【四八七】栖【五二六】
 セ 世【三六三】瀬〔右○〕【三六六】勢【三六九】是【三六九】西【四一一】齊【五〇三】湍〔右○〕【五五一】
 ソ 素【三四八】曾【三六〇】所【三六二】蘇【三八一】
 タ 多【三四八】太【三五三】田〔右○〕【四一八】手〔右○〕【四八五】
(375) チ 知【三五〇】治【三五六】恥【四五八】千〔右○〕【四七〇】道〔右○〕【四七七】
 ツ 都【三四八】豆【三四九】追【三五九】津〔右○〕【三八〇】頭【四三二】
 テ ※[氏/一]【三五三】天【三五三】低【三七六】堤【三八八】手〔右○〕【三九八】代【四一四】而〔右○〕【五一九】
 ト 等【三四八】杼【三四八】登【三五二】刀【三六八】度【三八九】騰【四一一】得【四一五【都【五〇八】門〔右○〕【五三〇】戸〔右○〕【四六〇】
 ナ 奈【三四八】名〔右○〕【三六二】那【三六四】汝〔右○〕【三八二】南【三九〇】莫〔右○〕【五七五】
 ニ 爾【三四八】仁【三七三】
 ヌ 奴【三五〇】努【三五一】野〔右○〕【四〇六】弩【四一四】眠〔右○〕【五〇五】沼〔右○〕【五四七】
 ネ 禰【三四八】尼【三五三】宿〔右○〕【四六一】哭〔右○〕【四八五】根〔右○〕【四九八】年【五四三】鳴〔右○〕【五七〇】
 ノ 能【三四八】乃【三四九】野〔右○〕【四〇五】
 ハ 波【三四八】婆【三五二】播【三五九】泊【三六六】葉〔右○〕【三八二】者〔右○〕【三八二】伴【四九一】
 ヒ 妣【三四八比【三五〇】備【三五七】非【三七六】日〔右○〕【四〇二】婢【四七七】悲【五〇二】必〔五一九】
 フ 布【三四八】夫【三五四】不【三五五】敷【五一六】
 ヘ 倍【三九三】敝【三五八】
 ホ 保【三五〇】抱【四二三】穗〔右○〕【五〇六】
 マ 麻【三四九】萬【三四九末【三四九】馬【三八七】眞〔右○〕【四六一】摩【五六七】
(376) ミ 美【三四八】見〔右○〕【三六二】實〔右○〕【三六四】未【三九〇】彌【四〇〇】水〔右○〕【四二九】御〔右○〕【五〇三】
 ム 牟【三四八】武【三五七】無【五三〇】
 メ 米【三四八】梅【三五九】目〔右○〕【三六七】女〔右○〕【四二七】馬【四五〇】賣【五一八】
 モ 母【三四九】毛【三五四】聞【三八四】物【四一五】文【五四一】
 ヤ 夜【三五〇】也【三五三】楊【三五九】屋〔右○〕【三七八】
 コ 由【三五一】湯〔右○〕【三六八】遊【四二三】
 ヨ 欲【三四八】餘【三五六】與【三五八】余【三六八】代〔右○〕【三九二】夜〔右○〕【五〇四】
 ラ 良【三四九】羅【四〇五】等〔右○〕【四一九】
 リ 里【三四八】利【三五四】理【三五六】
 ル 留【三五一】流【三五一】
 レ 禮【三五〇】
 ロ 呂【三五二一】路【四一二】
 ワ 和【三四九】
 ヰ 爲【三五七】井〔右○〕【三九八】
 エ 惠【三五二】
 ヲ 乎【三四九】緒〔右○〕【三五八】遠【四八四】
(377) ナカ 中〔右・〕【四〇一】
 シモ 下〔右・〕【四一九】
 シバ 芝〔右・〕【五〇八】
 ツキ 付〔右・〕【五〇八】
 
(378)附録第二
 
訛音表
 
 東歌には訛音が極めて多いが、此は國語の音韻變化を攻究する上に於ても極めて必要であるから、左に大和語に於て音便として許容せられて居る以外のものを列擧する。凡例
 一、大體に於て訛音(△印を附す)の五十音順次に從ひ正音を其下にあげるが、相互的《レシブ〓ロカル》のものは一括して掲示する。
 二、子母音共に變化するものには正音に○印を旁記する。
 三、括弧内の數字は歌の番號である。
 オシ(オス)〔四字右△〕】――イソ【三三五九】【三三八五】
 ク〔右△〕――キ【三四五八】【三五六五】
 コ〔右△〕――ク【三四三一】
 シ〔右△〕――チ【三三九五】【三四四五】【三四七四】
(379) シロ〔二字右△〕――スラ【三四六九】
 ス〔右△〕――ソ【三三六三】 ソ〔右△〕――ス【三三六二】
 セ〔右△〕――シ【三五四六】 シ〔右△〕――セ【三五五六】
 ツ〔右△〕――ス【三五〇五】
 デ〔右△〕――ダ【三四九三】
 ト〔右△〕――チ【三四八二】
 ト〔右△〕――ツ【三四一九】【三四七六】【五六一】
 ト〔右△〕――テ【三五六一】
 ナ〔右△〕――ニ【三四六一】
 ナ〔右△〕――ラ〔右○〕【三三六六】【三四七六】【三四九六】
 ニヌ〔二字右△〕――ヌノ【三三五一】
 ヌ〔右△〕ーーナ【三四七六】
 ノ〔右△〕――ナ【三四七六】【三四七八】
 ノ〔右△〕――ネ【三四〇二】【三五二八】
 ハ〔右△〕――フ【三五〇一】【三五二六】【三五四一】
 ヘ〔右△〕――ハ【三三七四】【三四二〇】【三四五六】【三四九九】【三五〇二】
(380) フ〔右△〕――ホ【三四七六】【三四七八】 ホ〔右△〕――フ【三五二五】【三五五二】
 ヘ〔右△〕――フ【三四七八】【三四八二】【三四八三】【三五二九】【三五五五】【三五七二】
 ミ〔右△〕――ヒ【三五六一】
 ム〔右△〕――ウ〔右○〕【三四〇四】【三四一八】
 ム〔右△〕――モ【三三九五】 モ〔右△〕――ム【三四一八】【三四七二】【三四七三】【三四九四】【三五二七】
 ヤ〔右△〕――エ【三四九三】
 ヤ〔右△〕――ラ【三三五九】 ラ〔右△〕――ヤ【三四〇九】【三五一八】
 ヨ〔右△〕――ユ【三四二三】
 ラ〔右△〕ーーレ【三三五一】【三四一九】
 ロ〔右△〕――ラ【三四六九】
 ロ〔右△〕――ル【三四一四】【三四一九】【三四二三】【三四六九】【三五〇九】【三五四六】
 ワ〔右△〕――ハ【三五五二】【三五六六】
 ヲ〔右△〕――ウ〔右○〕【三五二一】【三五二九】
 
(381)語句索引
緒言。本索引は語と句との別なく、一列に五十音順に排列したが、句は朗さず平板名を以て記し、語には片假名を用ひ、漢字を以て所要の註記を加へた。歌句の右旁にゝ《チユ》點を附したのは、仙覺訓の復活で、契沖以下の改訓がさかしらであつたことを表示する。圏點は私の與へた新訓であるが、原字を無視しても改訓せねばならなかつた理由は、各其項下に詳論した。私は決して之を以て動かぬものと主張するのではなく、更に適切なる訓み方が發見せられた曉には、何時でも喜んで之に降參するつもりである。要するに今日までの萬葉研究は、未だ定訓を云々するほどには進んで居らぬといふのが事實で、或人たちのやうに鼻元思案を以て速斷し、若くは鬼面人を脅すことだけは、斯學の爲に謹んでもらひたいと思ふ。
 あ行
あがおもの 二九二
あがきをはやみ 三二四
あがこころ 三〇五
あがこひしなば 三五五
あがこひのみし 一四五
あがこひは 一一二
あがこふらくは 三四九
〔以下省略〕