西海道風土記逸文新考、1935.4.5、巧人社
 
本書ヲ著作スルニ當リテ財團法人啓明會ヨリ研究費ヲ補助セラレキ茲ニ同會ニ對シテ深厚ナル謝意ヲ表ス
 
(1) 西海道風土記逸文新考目次
緒 言…………………………………………………………………一六頁
本 文…………………………………………………………………二五頁
後 記…………………………………………………………………一一頁
索 引…………………………………………………………………三三頁
 
(3) 西海道風土記逸文新考本文目次
 
筑前國  十一節                              頁
 怡土《イト》郡            甲類……………………………………………一
 兒饗野《コフノヌ》(怡土郡)     甲類…………………………………………一三
 資珂島(糟屋郡)           甲類…………………………………………二〇
 身形《ムナカタ》郡          甲類…………………………………………二四
 大三輪神社(夜須郡)         甲類…………………………………………三五
 ※[加/可]襲《カシヒ》宮(糟屋郡) 乙類…………………………………………三八
 芋※[さんずい+眉]《ウミ》野(糟屋郡)乙類………………………………………五〇
 塢※[舟+可]《ヲカ》縣       乙類…………………………………………五四
 藤原宇合               甲乙以外……………………………………六七
 神石(怡土郡)            甲乙以外……………………………………七〇
 うちあげはま(糟屋郡)        不明…………………………………………七四
 
(4)筑後國  四節
 總説                 甲類…………………………………………七七
 三毛郡                甲類…………………………………………八三
 筑紫君磐井墓(上妻郡)        乙類…………………………………………八九
 生葉《イクハ》郡           甲乙以外…………………………………一〇七
 
豐前國  二節
 鹿春《カハル》郷(田河郡)      甲類………………………………………一一四
 鏡山(田河郡)            甲類………………………………………一二六
 
肥前國  二節
 ※[巾+皮]搖岑《ヒレフリノミネ》(松浦郡)乙類………………………………一三二
 杵嶋《キシマ》岳(杵嶋郡)      乙類………………………………………一三四
 
肥後國  四節
 總説                 甲類………………………………………一四〇
 長渚《ナガス》濱(玉名郡)      甲類………………………………………一五一
(5) 閼宗《アソ》岳(阿蘇郡)      乙類………………………………………一六三
 水嶋(球磨郡)            乙類………………………………………一七二
 
日向《ヒムカ》國  五節
 總説                 甲類………………………………………一七八
 智舗《チホ》郷(臼杵郡)       甲類………………………………………一八五
 高日村(宮埼郡)           甲類………………………………………二〇二
 吐乃《ツノ》大明神(兒湯郡)     不明………………………………………二〇六
 韓※[木+患]生《カラクジフ》村   不明………………………………………二一〇
 
大隅國  四節
 串卜《クシラ》郷(姶羅郡)      甲類………………………………………二一四
 必至《ヒシ》里            甲類………………………………………二二五
 耆沙神《キサノカミ》         不明………………………………………二二六
 口がみの酒              不明………………………………………二二八
 
薩摩國  一節
 閼駝《アダ》郡|竹屋《タカヤ》村   不明………………………………………二三三
 
壹岐島  二節
 鯨伏《イサフシ》郷(壹岐郡)     甲類………………………………………二四三
 常世《トコヨ》祠           乙類………………………………………二四九
 
國不明  二節
 寄柏                 乙類………………………………………二五一
 長木綿《ナガユフ》・短木綿《ミジカユフ》乙類……………………………………二五五
      以上三十七節
 
(1)西海道風土記逸文新考
 
      緒言
 
肥前豐後二國の風土記の註釋を作つた後に爾餘の西海道諸國の風土記の逸文を集めて之が註釋をも作る事は當初からの豫定であつた。註釋を作るにはまづ逸文を集めねばならぬ。かく云はば栗田寛博士が大成せられた纂訂古風土記逸文の中から西海道諸國の分を抽出すればよいでは無いかと云ふ人もあるであらう。成程栗田博士の努力は容易ならぬ事で我等後學は少からず其恩惠を蒙る事ではあるが、なほ纂訂古風土記逸文をそのまま底本とする事は出來ぬ
同書に收めたる西海道諸國の分四十四節、余は其中から八節を削り
 ○筑前の胸肩神體、豐前の廣幡八幡大神、豐後の球覃郷・海石榴市・氷室・餅化白鳥、肥前の値嘉島・與止姫神社以上八節である。就中胸肩神體〔四字傍点〕は釋日本紀に先師説云。胸肩神體爲v玉之(2)由見2風土記1とあるのみなる上に其原文はやがて次節の身形《ムナカタ》郡の文であらうから削つたのである。廣幡八幡大神〔六字傍点〕に或書曰とあるは實に風土記であらうか、おぼつかない。少くとも此文は古風土記の文では無い。球覃郷〔三字傍点〕と海石榴市〔四字傍点〕とは全本(實は略本)の豐後風土記に讓つた。氷室〔二字傍点〕はげに或風土記の文であらうが(文體は乙類の閼宗《アソ》岳に似て居る)文中に地名が見えず從つて獨立の一節とは立てがたいから豐後風土記|柚富《ユフ》峯の新考の中に録するに止めた。餅化白鳥〔四字傍点〕も同書田野の新考に引いておいた。値嘉島〔三字傍点〕は全本(實は略本)の肥前風土記に讓つた。與止姫神社〔五字傍点〕は風土記曰とはあるが少くとも古風土記の文では無い。立返つて再廣幡八幡大神〔六字傍点〕に就いて云はんに栗田博士は
 こは件の諸書に引て或曰とはあれど風土記とは見えず。されば本國風土記にはあらじと誰も思ふべきを前後風土記の文體をよく讀たらむ人は必ず風土記の文なる事をさとるべきなり
と云うてをられる。余は上に「此文は少くとも古風土記の文では無い」と云うた。されば余は博士と見解を異にして居るのであるが假に一歩を讓つて或種の風土記(無論甲乙以外の風土記、たとへば藤原宇合〔四字傍点〕と同種のもの)の文としても、かくの如く風土記とも國記(3)曰とも見えぬものまでも採るならば寧日本紀より採るべきものがあるでは無いか。日本紀には其内容から見て風土記から出たに相違無いと思はれる節が少からずある。其一二例を擧ぐるならばまづ神代紀下なる味耜《アヂスキ》高彦根神が天に昇つて天雅《アメワカ》彦の喪を弔うて天稚彦の生きたるかと誤られた處に
 時味耜高彦根神忽然作v色曰。朋友之路、理宜2相弔1。故不v憚2※[さんずい+于]穢1遠自|赴喪《キトブラフヲ》何|爲《スレゾ》誤2我於亡者1。則拔2其|帶《ハケル》劔大葉刈1以斫2仆喪屋1。此則落而爲v山。今在2美濃國藍見川之上1喪山是也。世人惡2以v生誤1v死|此《コレ》其縁也
とある。又神武天皇紀戊午年に
 初|孔舍衙《クサカ》之戰有v人隱2於大樹1而得v免v難。仍指2其樹1曰。恩如v母。時人因號2其地1曰2母木邑1。今云2飫悶廼奇《オモノキ》1訛也(○舊訓に母・母木をオモ・オモノキとよめるは誤なり。ハハ・ハハノキと訓むべし。俗にハハをオモといふよりハハノキをオモノキと訛れりと云へるなり)
とある。此等は恐らくは風土記から採つたのであらうが、風土記より採れりとことわらず又他の史料と編交へたる上に多少文辭も改めたであらうから妄に斷ち來つて逸文と稱すべからざる事勿論である。所詮風土記云又は國記云とあり又その文體が古から(4)ずしては(たとひ風土記曰とあつても與止姫神社のやうでは)古風土記の逸文とは認められぬ
爾餘の三十六節を一々原本(釋日本紀・萬葉集仙覺抄・袖中抄・塵袋・宇佐宮託宣集・防人日記など)に依つて訂正し、之に太宰管内志より取れる神石〔二字傍点〕を加へて三十七節とした。さて纂訂古風土記逸文より取れる三十六節は或は標題を改め
 ○表題はすべて地名として原本の體裁にかへさうと試みたが、その不可能なるは準地名・人名・物名とした。讀者の便利の爲に左に新舊を對照しよう。
  栗田氏纂訂          新纂訂
 兒饗石            兒響野
 大三輪神           大三輪神社
 河※[白+斗]島・資波島   塢※[舟+可]縣
 狹手彦            うちあげはま
 杵島             杵島岳
 爾倍             長渚濱
(5) 閼宗神宮           閼宗岳
 吐濃峯・韜馬峯・頭黒     吐濃峯
 ※[木+患]生村       韓※[木+患]生村
 耆小神            耆沙神
 釀酒             口がみの酒
 竹屋守之女          閼駝郡竹屋村
 鹿角枝            常世祠
 御津柏            奇柏
此他は略舊に同じい。但國號は皆總説と改めた。なほ云はんに塢※[舟+可]《ヲカ》縣の例に依らば磐井墓・※[巾+皮]搖《ヒレフリ》岑・杵島岳・閼宗《アソ》岳・水島も上妻《カミツヤメ》縣・松浦縣・杵島縣・阿蘇縣・球磨《クマ》縣とすべきであるが上妻縣等とせんより磐井墓等とせん方見ダシとしてふさはしいから寧塢※[舟+可]縣を改めて磐井墓等の例に依らうかと思うたが此節は他の五節のやうに内容に主たるものが無く強ひて内容に基づいて表題を設けるならば塢※[舟+可]水門《ヲカノミナト》以下五つの地名を擧げねばならぬから權衡を失する事を知りながら塢※[舟+可]縣としたのである
(6)或は順序を正し
 ○國の順序は民部式に從うた(式では筑豐肥となり和名抄では筑肥豐となつて居る)。さて逸文を甲類・乙類・甲乙以外・不明の四種に分ち同類中では式及抄の郡順に從うた
或は所屬を更へた。
 ○竹屋守之女〔五字傍点〕を栗田氏の纂訂逸文に日向國に屬して居るが薩摩國に屬すべきであるから改めた。又御津柏・長木綿短木綿〔九字傍点〕の二節を栗田氏は筑前國に屬して居られるが筑前國所屬といふ證據は無いから國不明として最後に掲げた
さて新纂訂逸文に何と名づけようかと考へた。最初に頭に浮んだのは太宰府管内風土記逸文・筑紫風土記逸文の二案であつたが甲は長きに過ぎ乙は夙く乙類風土記の總稱として用ひられて居るから、ここに西海道風土記逸文〔八字傍点〕と名づける事とした。但宗像社記に引ける甲類風土記逸文の一節身形郡〔三字傍点〕に西海道風土記曰とあるが此名は外に所見の無い名であるからそれとの抵觸を顧みなかつた
逸文に依つて察するに西海道の風土記には少くとも三種あつたのである。假に之を甲類・乙顆・甲乙以外と稱して各節を分類すれば左の如くである
(7)    甲類 十七節
 筑前國 怡土郡・兒響野・資珂島・身形郡・大三輪神社
 筑後國 總説・三毛郡
 豐前國 鹿春郷・鏡山
 肥後國 總説・長渚濱
 日向國 總説・智鋪郷・高日村
 大隅國 串卜郷・必志里
 壹岐島 鯨伏郷
    乙類 十一節
 筑前國 ※[加/可]襲宮・芋※[さんずい+眉]野・塢※[舟+可]縣
 筑後國 筑紫國造磐井墓
 肥前國 ※[巾+皮]搖岑・杵島岳
 肥後國 閼宗岳・水島
 壹岐島 常世祠
(8) 國不明 寄柏・長木綿短木綿
    甲乙以外 三節
 筑前國 藤原宇合・神石
 筑後國 生葉郡
    不明 六節
 筑前國 うちあげはま
 日向國 吐濃峯・韓※[木+患]生村
 大隅國 耆沙神・口がみの酒
 薩摩國 閼駝郡竹屋村
本種不明の六節は袖中抄所引一節、塵袋所引五節で全部假宇文に書改めたるか又は假字文の中に僅に原文の一句(各七宇)を殘せるもので三種中のいづれに屬すべきか端緒の得られぬものである
甲類〔二字傍点〕は全本豐後風土記・全本肥前風土記と同種のもので其文は往々日本紀に引用せられてゐる(たとへば怡土郡の節)。乙類〔二字傍点〕の特徴は郡を縣といへる事、四隅を乾坤巽艮といへる事(9)(違例は磐井墓の當2東北角1有2一別區1)、註文の多き事、特にいちじるきは漢臭の濃厚なる事である。然も天皇皇后の御名は息長足比賣命(芋※[さんずい+眉]野)といひ雄大迹天皇(磐井墓)といひ檜前天皇(※[巾+皮]搖岑)といへるに第三種〔三字傍点〕には神功皇后(神石)といひ景行天皇(生葉郡)というて居る。是第三種を甲乙以外と稱する所以である。
 ○生葉郡〔三字傍点〕は其文體は甲類に似て居るが景行天皇とあるから甲乙以外に屬して置いた。然し或はもと大足彦天皇とあつたのを公望私記に抄出するに際して心無く景行天皇と改めたのでは無いかといふ疑がある上に乙類の特徴中最著きは漢臭の濃厚成る事であると云うたが試にその若干例を擧げんに※[加/可]襲《カシヒ》宮の節に※[加/可]襲可紫比也と書いて居る。※[加/可]襲と書いて訓註を加へざれはカシヒと訓みがたしと思ふならば他の古典のやうに橿日とも香椎とも書くべきでは無いか。撰者は橿曰・香椎などは俗である、即唐めかぬと思うたのであらう。次に芋※[さんずいお+眉]《ウミ》野の節に謂v産爲2芋※[さんずいお+眉]1者風俗言詞耳というて居る。漢文中に國語を出さんに爾餘と區別せんが爲に俗言と云ひ風俗言詞と云はんはなほ恕せられるが産をウミといふは外蕃ならざる限、知らざる者は無からう。常識を外れたる無用の註と謂ふべきである。次に塢※[舟+可]《ヲカ》縣の節に資波紫摩也と(10)いうて居る。これは資波はシハとよむにあらでシバとよむなる事を知らせん爲の註であるからまだよいが烏葛黒葛也、冬※[黄の下半が畠]※[しんにょう+千]菜也と書きたるは如何。註を要する程ならば直に兩島倶生2黒葛※[しんにょう+千]菜1と書いてよいでは無いか。※[しんにょう+千]菜の事は新考に護らう。黒葛は木防己の事であらうが當時用ひ慣れてゐたと見えて他國の風土記には書いて憚らぬに本書の撰者は黒を鄙びたりと思ひ烏を雅びたりと思うたのであらうか。次に※[巾+皮]搖《ヒレフリ》岑の節に※[巾+皮]搖此曰2比禮符離1と註して居る。※[巾+皮]搖と書いて人が訓み得ざらん事を恐るるならば甲類本のやうに褶振峯など書くべきである。峯をことさらに岑と書けるも例の癖である。次に杵島岳の節に郷閭士女提v酒抱v琴〔二字傍点〕毎歳春秋携v手登望云々とある抱琴の二字は日本紀景行天皇二年に日本武尊の事を叙べて(又四十年に天皇の勅を借りて)力能※[手偏+工]v鼎〔二字傍点〕と云へる類でいとあさましい。次に寄柏の節に寄柏御角柏也と書いて居る。撰者は御角柏の漢名を知らず、然し御角柏と書くのは撰者の心に鄙びて滿足せられぬから此物が樹木に寄生する事を思うて妾に寄柏といふ語を作つたが、なほ心に安んぜざる所があるから寄柏御角柏也と書いたのであらう。然るに木葉を饌具として用ふる時にカシハと稱し之に柏の字を充てるのは我國での事であるから、たとひ漢めかして寄柏と書いても漢土の人は之を見て樹木に寄生(11)する植物で其葉を饌具として用ふるものとは得悟るまい。されば寄柏は邦人にも唐人にも通ぜぬ語である。之を漢めかし得たりとして滿足せる趣なるを思ふと撰者は恐らくは歸化人又は歸化人の近い子孫では無くて漢文學に心醉せる邦人であらう。ともかくも撰者は漢文學に熟達したる人と見えて閼宗《アソ》縣の節の如きは或は清潭百尋鋪2白練1而爲v質、彩浪五色|※[糸+亙]《ハヘテ》2黄金1以分v間といひ或は觸v石興v雲爲2五岳之最首1濫v觴分v水|寔《マコトニ》群川之巨源、大徳巍巍|諒《マコトニ》人間之有一、奇形杳々|伊《コレ》天下之無雙というて正しく彼四六|駢※[人偏+麗]《ヘンレイ》體に倣うて居る。日本紀にも之に似たる例がある。たとへば景行天皇紀四十年に是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚v杖而難v升、巖嶮※[石+登]紆、長峯數千〔二字左△〕、馬頓v轡而不v進とある。全體乙類本の文體は日本紀に似て居る。此事は單に時代の好尚といふばかりで無く殊更に日本紀に摸倣したものと見える。たとへば日本紀にエノキに朴の字を充てて居る。然るに本書の常世祠の節にもエノキを朴樹と書いて居る。又日本紀に沙土此云2須※[田+比]尼《スヒヂ》1、柱此云2美簸旨邏《ミハシラ》1、少男此云2烏等孤《ヲトコ》1といふ類の註が無數に見えて居るが本書にも※[巾+皮]搖此曰2比禮符離1(※[巾+皮]搖岑)とある。然も此式の註は豐後肥前の兩風土記を始として甲類本の逸文には曾て見ざる所である
 ○この此を從來コレラと訓んで居るが海中洲者隼人俗語云2必志《ヒシ》1といふ文と相照すに(12)實はココニと訓むべきで、そのココニは我國ニテハといふ事である。さればこれも日本紀・乙種風土記に共通なる内外巓倒の一端である。但一事不審なるは芋※[さんずい+眉]野の節に息長足比賣命とあつて日本紀の至貴曰v尊自餘曰v命といふ事例に反せる事である。比賣も日本紀には姫又は媛と書いて居る
次に甲乙二種撰述の時代を考へんに甲類本〔三字傍点〕は往々日本紀に引用せられて居る。されば郡の下の里を郷と改められた靈龜元年(一三七五年)より後に、日本紀の出來た養老四年(一三八〇年)より前に豐後肥前の兩風土記と共に成つたのである。次に乙類本〔三字傍点〕は日本紀の影響を受けて居る。又つとめて文辭を漢めかさうとして居るに拘はらず漢風謚を用ひて居らぬ。されば日本紀奏上以後(一三八〇年)漢風謚制定以前に出來たのである。漢風謚制定は何年か分らぬが凡孝謙天皇の御代と思はれる。次に甲乙以外〔四字傍点〕の三節の中で二節には漢風謚が用ひてある。他の一節即藤原字合の節には平安朝時代に入つてからの撰なる明證がある。されば撰述の時代は甲類第一、乙類第二、甲乙以外第三である。右に述べたる如く乙類は第二次の撰ながらなほ奈良朝時代の物であるが何故に甲類が出來た後長年月も經ぬに更に撰述したかと云ふに恐らくは太宰帥などに漢文に心醉せる人があつて養老四年以(13)前に提進した風土記即甲類本のあるを見てその所謂和臭を帶びたるに厭かずして自、筆を執つて又は漢文に巧なる部下に命じて私に改修したか、又は養老四年以前に風土記を撰進した事は聞いて居るが其副本が府底に殘つて居らぬから新に作爲したのであらう。かやうに書いて來ると其帥は大伴旅人、其部下は筑前守山上憶良で無いかと問ふ人もあらうが、そは文人の考ふべき事で學者の言ふべき事で無い。ともかくも旅人が太宰帥たり憶良が筑前守たりし時には太宰府に風土記の副本は無かつたと見える。その證には萬葉集卷五なる彼詠2鎭懷石1歌の左註に
 右事傳言那珂郡伊知郷蓑島人建部牛麻呂是也
とある。逸文に據れば鏡懷石の事はまさしく甲類風土記(疑も無く憶良の赴任より前に成りし)にも見えたるに憶良は風土記を見ずして人の話によつてその事を聞知つたのである。又同集同卷なる大伴旅人の詠2領巾麾《ヒレフリ》巓1歌の序に妾也松浦(佐用嬪面《サヨヒメ》)とある。もし甲類風土記の副本が太宰府の書院に殘つて居たならば旅人はそれに據つて弟日娘子《オトヒヒメコ》と書くべきである(乙類には乙等比賣《オトヒメ》とある)。或は佐用嬪面の四字は分註になつて居るから後人が添加したのであらうと云ふ人があるかも知れねが現に歌にマツラサヨヒメと見え憶良(14)の追和歌にもサヨヒメノコと見えて居る
 ○乙類風土記をもし旅人憶良の撰修とするならば旅人が天平二年の暮春に松浦川及ヒレフリノ嶺に遊んでからの思立とせねばなるまいが同年の十二月には旅人は歸京したから(憶良も翌年の春歸京したと思はれる)右の假定の如くなれば乙類風土記は天平二年に出來たものとせねばならぬ。然し夏から冬まで七八箇月の間に管下の九國三島から材料を徴して之を編纂する事は少しむつかしからう。なほ云はんに旅人憶良が甲類風土記を見なかつたといふ一事を證としてその撰進を天平以後に下さうとする人があるならばそは大早計といふべきである。かかる人に對しては「マアよく研究して見たまへ」と云ふだけでよからう
乙類風土記を總稱して筑紫風土記〔五字傍点〕と云うたやうである。乙類逸文十一節中釋日本紀に出でたるは芋※[さんずい+眉]野・磐井墓・閼宗岳・寄柏の四節、仙覺抄に出でたるは※[加/可]襲宮・塢※[舟+可]縣・※[巾+皮]搖岑・杵島岳・水島・長木綿短木綿の六節、塵袋に出でたるは常世祠の一節であるが、まづ釋日本紀四節中芋※[さんずい+眉]野・閼宗岳・寄柏は筑紫風土記曰として引いて居る。特に卷十一皇后取v石挿v腰の註に筑紫風土記曰として彼芋※[さんずい+眉]野を引き次に筑前國風土記曰として甲類の兒饗野を引いて(15)居る。されば釋紀には明に筑紫風土記と筑前國風土記とを區別して居るのである。但卷十三に引ける磐井墓は上妻縣縣南二里云々とあつて郡並に郡家を縣と云うて居るから明に乙類であるのに筑後國風土記曰と云うて居る。こは筑紫風土記曰と書くべきを誤つたのであらう。次に仙覺抄六節中塢※[舟+可]縣と水島とにはただ風土記云とあり、※[加/可]襲宮には筑前國風土記云とあり、※[巾+皮]搖岑には肥前國風土記云とあり、杵島岳には「肥前國風土記に見えたり」とある。されば仙覺は乙類風土記の總稱を筑紫風土記といふ事を知らなかつたのかと云ふに長木綿短木綿には筑紫風土記に云々と云うて居るから仙覺も風土記の別本に筑紫風土記といふ名のある事は知つて居たが釋紀の著者卜部懷賢ほどに明に甲乙二本を區別しなかつたのであらう。ここに防人日記に宗像社記から抄出せる身形郡の一節にめづらしくも西海道風土記〔六字傍点〕曰とある。余は初には西海道風土記といへるは筑紫風土記の別稱かと思うたが此節には身形縣といはで身形郡といひ又其文體は漢字を借りて書ける國文とも謂ふべく之を二典に比するに日本紀には遠く古事記に近いもので、彼乙類本の撰者の文體とは雲泥の差があるから決して乙類本の中では無い。從つて此節にいへる西海道風土記は筑紫風土記の別稱では無い。全體乙類風土記を總稱して筑紫風土記といひ(16)しに對して甲類風土記の總稱もあつて然るべきであるがさる總稱のあつた事を知らぬ。或は甲類風土記を總稱して西海道風土記と云うたのでは無いか。然も多くは某國風土記と云うたから西海道風土記といふ總稱は亡びてしまうたのではあるまいか。但こは試に云ふのみ。余の新纂訂逸文に西海遺風土記逸文と名づけたるは宗像社記に見えたる名稱を蹈襲したのでは無いといふ事は夙く上に述べておいた
 
(1)西海道風土記逸文新考
            井上通泰著
  筑前図 十一節
   怡土《イト》郡          甲類
筑前國風土記曰。怡土郡、昔者《ムカシ》穴戸(ノ)豐浦《トヨラ》宮(ニ)御宇足仲彦《アメノシタシロシメシシタラシナカツヒコ》天皇將v討2球磨※[口+贈]唹《クマソ》1幸2筑紫1之時怡土縣主等祖|五十跡手《イトデ》聞2天皇幸1拔2取五百枝賢木《イホエノサカキ》1立2于船|舳艫《トモヘ》1上枝挂2八尺瓊《ヤサカニ》1中枝挂2白銅《マスミノ》鏡1下枝挂2十握《トツカノ》釼1參2迎|穴門《アナトノ》引《ヒク》島1獻v之。天皇勅問|阿誰人《タレシノヒトゾ》。五十跡手奏曰。高麗國|意呂《オロ》山(ニ)自v天降|來《コシ》日桙之苗裔五十跡手是也。天皇於v斯譽五十跡手1曰d恪|手〔左△〕《イソシキカモ》(△《恪》謂2伊蘇志1)五十跡手之本土(ナレバ)可uv謂2(2)恪勤國《イソノクニ》1。今謂2怡土郡1訛也(○釋日本紀卷十述義六、仲哀天皇紀伊覩縣主祖五十跡手〔九字傍点〕之註所v引)
 
 新考 延喜民部省式に
 筑前國 上 管、怡土・志摩・早良・那珂・席田・糟屋・宗像・遠賀・鞍手・嘉麻・穗浪・夜須・下座・上座・御笠
とあり、和名抄國名に
 筑前(筑紫乃三知乃久知)
同郡名に
 筑前國(太宰府並國府在2御笠郡1管十五 怡土(以止)志摩・早良(佐|波〔左△〕良)那珂(東西)鹿田(牟志呂多)糟屋(加須也)宗像(牟奈加多)遠賀・鞍手・嘉麻(加萬)穗浪・夜須(東西)下座(下都安佐久良《シモツアサクラ》)上座(准v上)御笠(美加佐)
とあり。東西にては西を先とし南北にては北を前として數へたるなり。其例に違へるは御笠郡のみ。和名抄には那珂と夜須とに東西と註したれは管十五とはあれど當時は十(3)七郡に分れたりしなり。
 ○ホナミは安閑天皇紀二年に置2筑紫穗波屯倉・鎌屯倉1とあり民部式には穗浪とあり和名抄には郡名には穗浪、郷名には穗波とあり。後世は多くは穩浪と書けり。鎌は嘉麻なり
明治二十九年に怡土・志摩二郡を合せて糸島郡とし、那珂・席田・御笠三部を合せて筑紫郡とし、嘉麻穗浪二郡を合せて嘉穗郡とし、夜須・下座・上座三郡を合せて朝倉郡とせしかば今は糸島・早良《サワラ》・筑紫・糟屋・宗像・遠賀《ヲンガ》・鞍手・嘉穗・朝倉の九郡となれり。さて筑後國及西豐前四郡と共に福岡縣の所管となれり○孝元天皇紀に
 兄《イロネ》(○皇長子)大彦命是阿倍臣・膳臣・阿閇臣・狹狹城山君・筑紫國造〔四字傍点〕・越國造・伊賀臣凡七族之始祖也
とあり國造本紀に
 筑志國造 志賀高穴穗朝(○成務天皇)御世阿倍臣同祖大彦命五世孫田道命(ヲ)定2賜國造1
とあり。その筑紫國の區域は今知るべからねど恐らくは筑紫神社あり筑紫村ある御笠郡を中心とせしならむ。本紀に筑志國遠の次に竺志末多國造を擧げたり。その末多は異(4)本に米多とあり。諸書に米多とあるを正しとして肥前國三根那米多郷に充てたるに吉田束伍博士は或は末多とあるが正しくして筑前國下座郡馬田郷に発つべきならむかと疑へり○筑前筑後二國の分れし時代は明ならず。但筑前國の名の始出は文武天皇紀二年三月に筑前國宗形郡とある是なり。之に次いでは正倉院文書に筑前國嶋郡川邊里大寶二年籍とありて筑前國印を捺したり。はやく景行天皇紀十八年七月に到2筑紫後國御木1居2於高田行宮1とあれど、こは同紀十二年九月に豐前園|長峽《ナガヲ》縣とある類にて後を前にめぐらして云へるのみ
怡土は和名抄郡名の訓註に以止とあり。今もイトととなふ。字は又古事記仲哀天皇の段に伊斗と書き日本紀の仲哀天皇紀には伊覩と書き(覩は睹に同じ)同じき神功皇后前紀に伊都と書き筑紫風土記逸文に逸都と書けり。魏書倭人傳なる末慮國の後、奴國の前に東南陸行五百里到2伊都國〔三字傍点〕1。官曰2爾支1副曰2泄謨觚・柄渠觚1。有2千餘戸1。世有v王皆統2屬女王國1。郡使往來常所v駐
また
 自2女王國1以北特置2一大率1檢察。諸國畏2憚之1。常治2伊都國〔三字傍点〕1。於2國中1有d如2刺史1王u。遣v使詣2京都1(5)(○魏都)。帶方郡・諸韓國及郡(○上文に郡使とある郡にて前に越v海定2一郡1とあるもの)使2倭國1皆臨v津捜露、傳2送文書賜遺之物1詣2女王1不v得2差錯1
とあり。されば所謂女王國の關門として夙く開けたりし地にて韓人は勿論の事、魏人も屡來りし地なり。なほ云はむに右の文は景行天皇以前の事を記せるなりと思はる○垂仁天皇紀二年の註に
 對曰。意富加羅《オホカラ》國王之子名|都怒我阿羅斯等《ツヌカアラシト》。亦名曰2于斯岐阿利叱智《ウシキアリチ》干岐1。傳3聞日本國有2聖皇1以歸化之。到2于穴門1時其國有v人名|伊都都比古〔五字傍点〕。謂v臣曰。吾則是國王也。除v吾復無2二王1。故勿v往2他處1。然臣|究《ヨク》見2其爲1v人必知v非v王也。即更還之云々
とあり。この伊都都比古はイトツヒコとよむべきにて五十跡手の祖なるか。さらでも此怡土を領せし人か。到一2于穴門1時其國有v人名伊都都比古とあれば此怡土に由れる名にあらざるか。或はこの穴門は後の長門國にあらで古怡土と志摩とを隔てたりけむ海峡か。もし此怡土に由れる名とせば日本紀並に風土記にイトを仲哀天皇の御世に始まりしイソといふ名の訛とせる説と矛盾すべし○足仲彦《タラシナカツヒコ》天皇は仲哀天皇の御事なり。日本紀の同天皇紀八年に
(6) 又筑紫|伊覩《イト》縣主祖|五十迹手《イトデ》聞2天皇之行1拔2取五百枝賢木1立2于船之舳艫1上枝掛2八尺瓊1中枝掛2白銅鏡1下枝掛2十握釼1參迎于穴門引嶋1而獻v之。「因以奏言。臣敢所3以獻2是物1者天皇如2l八尺瓊之勾1以|曲妙御宇《タヘニアメノシタシロシメセ》。且如2白銅鏡1以分明|看2行《ミソナハセ》山川海原1乃(○及《マタ》の誤字か)提2是十握釼1平《コトムケマセ》2天下1矣。」天皇即美2五十迹手1曰2伊蘇志1。故時人號2五十迹手之本土1曰2伊蘇國1。今謂2伊覩1者訛也
とあり。まづ此文の(中間の祝辭を除きたる)辭句の本逸文と酷似したるに注目すべし〇五十跡手・五十迹手はイトデとよむべし○賢木はサカキの借字なり。サカキは常緑樹の總名なり。冬も榮ゆるが故にサカキといふなり。今楊桐をサカキといふは汎稱が特稱となりて殘れるなり。さて神又は高貴なる人に物を奉るに常緑樹の枝に挂くるは上古の風俗なり。又玉と鏡と釼とは上古人の最重みせし物にて之をたぐへて天皇に奉りし例は景行天皇紀十二年に
 爰有2女人1曰2神夏磯《カムナツシ》媛1。其徒衆甚多。一國之魁帥也。聆《キキ》2天皇之使者至1則拔2磯津枝1挂2八握劔1中枝挂2八咫鏡1下枝挂2八尺瓊1亦素幡|樹《タテ》2于船舳1參向而啓之曰。云々
とあり。彼仲哀天皇紀八年にもイトデの事より前に
(7) 時崗縣主祖熊鰐聞2天皇俥駕1豫拔2取百枝賢木1以立2九尋船之舳1而上枝掛2白銅鏡1申枝掛2十握釼1下枝掛2八尺瓊1參2迎于周芳沙麼《スハノサバ》之浦1而獻2魚鹽地1
とあり。
 ○但最古の例なる神代紀天石窟の章には
 掘2天|香《カグ》山之|五百箇《イホツ》眞坂樹1而上枝懸2八坂瓊之|五百箇御統《イホツミスマル》1中枝懸2八咫鏡1下枝懸2青|和幣《ニギテ》白和幣1相與致2其祈祷1焉
とありて劔は無し。又古事記允恭天皇の段なる輕太子の御歌にも
 こもりくの、はつせのかはの、かみつせに、いくひをうち、しもつせに、まくひをうち、いくひには、かがみをかけ〔六字傍点〕、まくひには、またまをかけ〔六字傍点〕、またまなす、あがもふいも、かがみなす、あがもふいも、ありといはばこそに、いへにもゆかめ、くにをもしぬばめ
とありて劔は無し。但こは對句とする爲に三物中の一を除きたるにてもあるべし。イクヒ・マクヒのクヒは枝附の木の末を切棄てたるなり(萬葉集新考二八三〇頁參照)さればイトデは當時の俗に從ひて玉と鏡と劔とを奉りしにて彼祝辭を寄せて申さむ爲に特に玉鏡劔を擇びしにあらず○舳艫の事いとまぎらはしければ一言を費さむに(8)字書には船尾曰v舳船首曰v艫といへるに我邦の古典には多くは舳をへ即船首とし、艫をトモ即船尾とせり。さらば舳艫とつづけるをばヘトモとよむべきに神武天皇紀戊午年二月の古訓に舳艫をトモヘとよめり。思ふに風雨をァメカゼとよみ日月をツキヒとよむが如く(但天體の日月はヒツキとよむなり)文字には拘はらで我邦にてとなへ慣れたるに從へるならむ(祈年祭祝詞にはフネノヘを舟艫と書けり)○穴門は今の長門國にて引島は下之關海峽の西口に當れる彦島なり。此島の名ヒクシマと唱へしにやヒコシマと呼びしにや曖昧なり。源俊頼の散木集などにヒク島とあるに吾妻鏡元暦二年二月の下に新中納言(知盛)相2具九國官兵1固2門司關1以2彦島〔二字傍点〕1定v營相2待追討使1云々とあればなり。近世の物にてはたとへば享和元年に成りし名古屋の人吉田平七の筑紫紀行に
 東の方に豐前の門司が浦人家百五六十軒計りあるが見ゆ。大裡《ダイリ》・柳ケ浦も一目に見渡さる。西の方にはひく嶋〔三字傍点〕見ゆ。此嶋と伊崎との間を小瀬戸といふ
とあり。又近くは廣瀬旭莊の梅※[土+敦]詩鈔二編卷三に此島に遊びし詩ありて遊2引島〔二字傍点〕1と題せり。今は彦島と書きてヒコシマととなふ。萬葉緯及古風土記逸文考證(○以下略して單に考證といふべし)に日本紀の古訓に據りてヒケシマとよめるは從はれず○阿誰人はタ(9)レシノ人ゾとよみて可ならむ。萬葉集卷十一に誰之能《タレシノ》人モ君ニハマサジとあり○考證に
 高麗國は新羅國の誤りなるべし。意呂《オロ》山はウル山にて蔚山是なるべし
といへり。げに日桙は記・紀・古語拾遺などに新羅國主之子又は新羅王子とあり。蔚山の所在も古の新羅國の境に當れり。日桙が天より降りし事他書には見えねど古、さる傳説ありけむに據りて申ししならむ。天皇を迎へ奉りて深く恭順の意を表しながら其祖先の事を作爲誇張すべきにあらざればなり。姓氏録大和國諸蕃に
 絲井造、三宅連同祖。新羅國人天日槍命之後也
とあるはイトデと關係あらじ○萬葉緯及考證に恪手をイソシとよめるはいとわろし。たとひ謂伊蘇志といふ註ありとも恪手をイソシとよむべけむや。又曰2恪手1五十跡手之本土可謂恪勤國と返讀したるもわろし。可謂恪勤國といふまてが天皇の勅なるをや。此處を日本紀には
 天皇即美2五十迹手1曰2伊蘇志1。故時人號2五十迹手之本土1曰2伊蘇國1
と書けり。之に由りて栗田氏等は恪手を強ひてイソシとよめるなれど元來日本紀の傳(10)と風土記の傳とは相異なるにて日本紀にては天皇がイトデを褒めてイソシとのたまひしかば時人が其本土を指してイソノ國と云ひきとし、風土記にては天皇がイトデのいそしきを褒めて其本土に恪勤國と名づけたまひきとしたるなり。右の如くなればまづ恪手を恪乎の誤としてイソシキカモ(又は古風に從ひてイソシカモ)とよむべし。カモに乎字を充てたる例は古典にいと多かれば擧ぐるを要せじ。次に天皇以下を
 天皇ココニ五十跡手ヲ譽メテ、イソシキカモ。五十跡手ノ本土ナレバ恪勤國卜謂フベシ。トノリタマヒキ
と返讀すべし(又五十跡手ノ本土ナレバの上にソノを添へて心得べし)。再按ずるに恪乎五十跡手之本土可謂恪勤國は天皇がイトデに對してのたひしなれば汝本土などのたまふべく五十跡手之本土とのたまひては第三者に向ひてのたまひし如く聞ゆ。されば敏達天皇紀元年五月に
 由v是天皇與2大臣1倶爲2讃美1曰。勤乎辰爾。懿哉辰爾。汝若不v愛2於學1誰能讀解云々
とあるを例として五十跡手を上に附けて恪乎五十跡手を一句とし之〔右△〕を汝などの誤としてイソシキカモ五十跡手。汝ガ本土ハ恪勤國ト謂フベシ。トノリタマヒキとよまむか(11)○恪勤國は日本紀に伊蘇國とあるに據りてイソノクニとよむべきか又は萬葉緯及考證の如くイソシノクニとよむべきかといふにイソシはイソシ・イソシキとはたらきて其語幹はイソシなればイソシノ國とよむべきに似たれど肥前風土記松浦郡の下に
 皇后曰2甚|希見物《メヅラシキモノ》1(希見謂2梅豆羅志1)。因曰2希見《メヅラ》國1。今訛謂2松浦《マツラ》郡1
とあるを例としてなほイソノ國とよむべし○註の謂の上に恪字を脱したるならむ。右の希見物の註と對照せよ。イソシはここにては忠實と解すべし。彼祝辭をめでたまひてイソシキカモとのたまへるなるべければ日本紀の如くならでは(即風土記の如くにては)通ぜず。常葉木に玉鏡劔を挂けて奉れるのみならば熊鰐の前例もある事なれば特にイソシキカモとはのたまはじ。或はイトデの奉りし玉鏡劔が特にめでたかりしならむとも云ふべけれど、さらば其事を顯さざるべからず。ともかくも風土記の如くにては通ぜす○擧げずともあるべけれどなほ類似の一例として擧げむに續日本紀天平勝寶二年三月の下に
 駿河國守從五位下楢原|造《ミヤツコ》東人等於2部内廬原郡多胡浦濱1獲2東金1獻v之。於v是東人等賜2勤臣《イソシノオミ》姓1
(12)とあり○糸島郡は筑前國の西端に在りて東は早良《サワラ》郡に、南は肥前國に接し北と西とは海に臨めり。怡土と志摩とを合一して糸島郡と稱せしは既述の如く明治二十九年なるが兩郡は共に一地域を成したれば夙くより怡土志摩といひて(肥前國の基肄《キ》・養父《ヤブ》二郡をキヤブといひし如く)一郡の如く認めき。
 ○檜垣嫗集(群書類從卷二七二)に
  いとのこほりにものいひし府官の心かはりてめまうけてそこにのみつきて……このところをいとしまのこほり〔八字傍点〕とぞいふかし
といひて歌にもイトシマとよめり。新しくは筑前國續風土記志摩郡の條(益軒全集第四冊五一三頁)に
 凡怡土志摩は其地相並び隣りて國の西裔にあれば同くつらねて怡土志摩と稱すといへり
もとの志摩郡はもとの怡土郡の北に接したる半島なり。大寶二年の戸籍又推古天皇紀十年二月及續日本紀和銅二年六月の下に見えたる嶋郡是なり(萬葉集卷十五・日本後紀延暦二十三年十一月の下などには志麻郡と書き三代實録貞觀元年二月の下に始めて(13)志摩郡と書けり
 
   兒饗野《コフノヌ》          甲類
筑前國風土記曰。怡土郡兒饗野(在2郡西1)、此野之西有2白石二顆(一顆長一尺二寸、太一尺、重四十一斤、一顆長一尺一寸、太一尺、重|四十〔左△〕《卅》九斤)。曩者《ムカシ》氣長足《オキナガタラシ》姫尊欲v征2伐新羅1到2於此村1御身有v姙忽當2誕生1。登時《スナハチ》取2此二顆石1挿2於御腰1祈曰。朕欲v定2西堺1來2著此野1。所v姙皇子若|此《コレ》神|者《ナラバ》、凱旋之後誕生其可。遂定2西堺1還來即産也。所v謂|譽田《ホムタ》天皇是也。時人號2其石1曰2皇子産石《ミコウミノイシ》1。今訛謂2兒饗石《コフノイシ》1(○釋日本紀卷十一述義七、神功皇后紀皇后取石挿腰〔六字傍点〕之註所v引)
 
 新考 古事記仲哀天皇の段に
 故其政(○征韓の事)未v竟之間其懷姙臨産。即爲v鎭2御腹1取v石以纏2御裳之腰1而渡2筑紫國1其御子者|阿禮坐《アレマシヌ》。故號2其御子生地1謂2宇美1也。亦所v纏2其御裳1之石者在2筑紫國之伊斗村1也。
(14)とあり。又日本紀の神功皇后前紀に
 于《ソノ》時也適當2皇后之開胎1。皇后則取v石挿v腰而祈之曰。事竟還日産2於茲土1。其石今在2于伊都縣道邊1。……十二月戊戌朔辛亥生2譽田天皇於筑紫1。故時人號2其産處1曰2宇瀰1也
とあり。又萬葉集卷五に
 筑前國怡土郡深江村子負原〔三字傍点〕臨v海丘上有2二石1。大者長一 尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、小者長一尺一寸、圍一尺八寸、重十六斤十兩。並皆橢圓、状如2鷄子1。其美好者不v可v勝v論。所謂徑尺璧是也(或云。此二石者肥前國|彼杵《ソノキ》郡平敷之石當v占而取v之)。去2深江驛家1二十許里、近在2路頭1。公私往來莫v不2下v馬跪拜1。古老相傳曰。往者息長足日女命征2討新羅國1之時用2茲兩石1挿2著御袖之中1以爲2鎭懷1(實是御裳中矣)所以《ユヱニ》行人敬2拜此石1。即作v歌曰
 かけまくは、あやにかしこし、たらしひめ、かみのみこと、からくにを、むけたひらげて、みこころを、しづめたまふと、いとらして、いはひたまひし、またまなす、ふたつのいしを、世の人に、しめしたまひて、よろづよに、いひつぐがねと、わたのそこ、おきつふかえの、うながみの、故布乃波良に、みてづから、おかしたまひて、かむながら、かむさびいます、くしみたま、いまのをつつに、たふときろかも
(15) (反歌)
  あめつちのともにひさしくいひつげとこのくしみたまおかしけらしも
 右事傳言那珂郡伊知郷箕島人|建部《タケルベ》牛麻呂是也
とあり。此歌は筑前守山上憶艮の作なり。右諸書の説に相異あり。本註に必要なる事は次次にいふべし○右の鎭懷石歌の左註に據れば憶良は筑前國風土記を見ざりしなり。そは風土記が當時いまだ有らざりしが爲かと云ふに此風土記は日本紀に其資料として採られたれば(たとへば前出の怡土郡の節)憶良の時に夙く成りたりしは明なり。ただ國底に存ぜざりしかば憶良は之を見ざりしにこそ○兒饗野は古事記に伊斗村、日本紀に伊都縣、萬葉集に深江村子負原とあり。伊斗村といへるは怡土郡の事か。和名抄に據れば宗像郡に怡土郷ありて本郡には怡土郷無し。但深江の西なる海岸を今もイトノ濱といへば深江を古くはイトノ村といひしか。さて兒饗野は萬葉集の歌に故布乃波良とよめるに依りてコフノ野と訓むべし。フに饗字を充てたるは饗をアフともよむ故なるべけれど、いかでかかく物遠き字を充てけむ○在郡西は郡家より西方にありとなり。肥前豐後兩風土記の例に依らば下なる資珂島の下にも此種の註ありしなるべきを彼には失(16)せ此には幸に殘れるなり。本部の郡家《グンケ》の在りし處は知られず○太一尺の下に脱字あるか。萬葉集には大者圍一尺八寸六分、小者圍一尺八寸とあり。又兩石の大者の重さ四十一斤なるに小者の重さ四十九斤ならむこと疑はし。四十九斤とあるは恐らくは卅九斤の誤ならむ○登時は六朝時代に行はれし語なり。萬葉集にも卷六(新考一〇七二頁)以下に見えたり。即時といはむが如し。西堺は即新羅なり○若此神者の此いぶかし(萬葉緯にはコレと傍訓せり)。肥後國風土記長渚濱の下なる所獻之魚此爲何魚の此と同格なるか。誕生其可は誕生セムゾヨロシキといふ義なり。譽田天皇は應神天皇の御事なり。皇子産石は必ノを添へてミコウミノイシとよむべし。石が皇子を生みしにあらねばミコウミイシとは訓むべからず○深江は兵部省式に見えたる驛なり。萬葉集にも深江驛家とあり。今深江村大字深江(所謂深江町)あり。又其隣村一貴山村に大字上深江ありて近世まで宿驛なりし深江町の東方に當りて其距離二十町許なり。筑前國續風土記(益軒全集第四冊五〇九頁)に
 今深江の町より五町許西、大道の南の高き所に里民子負原と云傳ふる所有。又萩の原とも云。今より百年以前迄は此兩石猶此地に在しを見たる由云者有て寛永の末迄存(17)ぜしと云。其後盗人取て今はなし。貞享二年其所に八幡の社を創立す。是は「昔皇后の御腰にはさみ給ふ石此邊に在しを盗人取て失ぬ」近年深江の村民六郎と云者其邊に捨て有しを見出せしとて一の石を持來れり。民家に納置しに山鳩一其家に飛入し故諸人彌此石を尊敬す。依之深江の民此社を建て其石を納む。横七寸、高六寸、徑五寸。色は少赤青也。石は唯一也。今案ずるに此石萬葉集・風土記の説に比するに唯ちひさし。久しきを經ても耗べき物ならねばちひさくなるべき理なし。いぶかしく覺侍る。萬葉集に子負原は深江を去事廿里許と云。今里民の子負原と稱する所は深江の驛より五町許西に在。道の側、海に臨める丘なれば萬葉集に載たる所是なるべし。是より西に子負原と云べき所なし。唯路程の遠近同じからざる事いぶかし
といへり。
 ○昔皇后ノより取テ失ヌまでを削りて村民六郎ト云者の次に彼盗人ノ取リシ石といふことを補ひて心得べし
子負原は今コブガハルと唱ふとぞ。右の文に「寛永の末迄存ぜしと云」とあれど下に擧ぐべき筑前風土記逸文に
(18) 今其石在2筑前伊覩縣道邊1後雷霹(シテ)神石爲2三段1
とあれば、たとひ寛永の末まで殘りたりきとも其大さ原《モト》の如くならず其形はた全圓ならざりけむ。又續風土記穂波郡大分八幡宮の條(二七五頁)に
 或書にこの御神體は神功皇后の御腰にはさみたまひし石、怡土郡深江の邑子負原に在しを後に此社の神體とせしといへり。然れども今かの石此御社には無し
といへり。又萬葉集に去深江驛家二十許里とある里は略今の五町なれば二十里は一百町即今の三里許にて深江驛家を今の深江村大字深江とし子負原を今のコブガ原一名萩の原とすれば相叶はざる事績風土記にいへる如し。二十許里は或は二許里の誤か。二といふ僅なる數にも許を添へたる例はたとへば肥前風土記藤津郡鹽田川の條に川源有v淵深二許丈とあり。又今の深江村大字深江即益軒のいへる深江の町は西方海に臨めるが海岸線の變遷を思ふに上古の深江驛家は今少し東方に在りしに似たり。されば深江驛家と子負原との距離は今の深江村大字深江とコブガ原との距離より大なるべきなり。貞享二年に創立せし八幡社即所謂鏡懷石八幡宮は深江岳(一名二城岳又二丈山)の西麓に在りて近く怡土濱に臨めり。境内に江上苓洲の撰文を刻める碑あり。其文にいは(19)く
 筑之西偏郡曰2怡土1怡土之邑驛曰2深江1。驛之西※[白/本]曰2萩之原1。實子負原。有2寶石1焉。名曰2鎭懷1。世神而祭v之云。考2諸《コレラ》國史1神功|足《タラシ》姫氏之征v韓也時姙2應神帝1而瀰月矣。廼祝曰。願振旅凱旋而後分免焉。乃采2兩石1而挿2諸腰帶1。遂如2其言1。歸而措2諸斯原1。往還者莫v不2下v馬跪拜1焉。萬葉集詠v之曰2奇御靈1。奇御靈讀爲2玖志美多末1。拒v今百五六十年其石見在。後失2所在1。至2天和癸亥〔四字傍点〕1驛民拾2得其一1。則有v鳩祥2於其家1。於v是邑民協《アヒ》謀建2小祠1而藏焉。誓不v肯v示v人。……邑之父老恐d神蹤之即c湮鬱u謂v余記v之以勒2之貞石1爾
文化十一年甲戌の建碑なりといふ。苓洲名は源、字は伯華、通稱は源藏、肥後國天草の人にて龜井南溟の高弟、福岡藩校甘棠館の助教なり。甘棠館廢せられし後なほ藩に仕へ文政三年に歿しき。年六十三。墓は福岡市西地行眞宗眞福寺にあり。福岡縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書第六輯に深江子負原附近の地圖・鎭懷石八幡宮並に子負原眺望の寫眞を載せたり
 ○詠鎭懷石歌のクシミタマはクシキ玉といふ事なり。タマは靈にあらず。又ミは御にあらず(萬葉集新考八八三頁參照)
(20) ○此一節は乙類|芋※[さんずい+眉]《ウミ》野並に別類神石と相照すべし
 
   資珂島          甲類
 
筑前國風土記曰。糟屋郡資珂島昔|時〔左△〕《者》氣長足姫尊幸2於新羅1之時御船|夜時《ヨル》來泊2此島1。有d陪從(ノ)名(ヲ)云2大濱|小《ヲ》濱1者u。便《スナハチ》勅2小濱1遣2此島1覓v火。得早來。大濱問云。近有v家耶。小濱答云。此島與2打昇《ウチノボル》濱1近相連接、殆可v謂2同地1因曰2近嶋1。今訛謂2之資珂島1(○釋日本紀卷六述義二、神代紀阿曇連等所祭神〔七字傍点〕之註所v引)
 
 新考 糟屋の名は繼體天皇紀二十二年十二月に
 筑紫君|葛子《クズコ》恐坐v父誅1獻2糟屋屯倉1求v贖1死罪1(○父といへるは筑紫國造磐井なり)
とあるを始出とし郡としては妙心寺鐘の銘に戊戌年四月十三日壬寅收2糟屋評造舂米連廣國鑄鐘1とあるを始出とす。戊戌は文武天皇の二年、評は郡の韓語、評造は郡領なり。萬葉集卷十六なる筑前國志賀白水郎歌十首の左註にも滓屋郡志賀村白水郎荒雄とあり。今の本郡は北は宗像郡に、東は鞍手・嘉穂二郡に、南は筑紫郡に隣り西は海に臨めり○資(21)珂を萬葉緯及考證に資河に作れるはよからず。今は國史大系本に從ひつ。神功皇后前紀に磯鹿《シカ》海人名草とあり。是此地名の初出なり。此地名を古典には資珂・磯鹿の外に四可・之加・之賀・然・思香・牡鹿・志賀(以上萬葉集)志我(景行天皇紀)などさまざまに書けるが(和名抄に志阿と書ける阿は珂などの誤なり)今は志賀に定まれり。但古はシカと唱へしを.今は賀字をガと讀慣れたるに從ひてシガと唱ふる者あり
 ○記傳卷六(三五〇頁)には
  古書どもに多くは清音を用ひたれば加を清むべきなり。今もすみて呼ぶとぞ
とあれど市町村大字讀方名彙には志賀島シガノシマとあり
○本郡の海濱の中央|和白《ワジロ》村大字奈多より起れる一沙觜あり。西南に向ひて海中に挺出すること三里、玄界灘と博多※[さんずい+彎]とを隔てたり。一般に之を海の中道〔四字傍点〕と稱し博多人は之を向濱〔二字傍点〕とも稱す。但筑前國續風土記には之を奈多の白濱〔五字傍点〕と稱し、近古の書に見えたる海の中道を宗像郡津屋崎町大字渡の半島として近世里俗|那多濱〔三字傍点〕を海の中道と云説有。是本證なし。其境地似たるを以妄に附會せし也。用べからず
(22)といへり(益軒全集第四冊三八二頁及四四二頁參照)。又日本地誌提要には志賀の鼻〔四字傍点〕と稱せり。右の沙觜の尖端の西北に接して志賀島あり。周廻二里。神名帳に載せたる志賀|海《ワタツミノ》神社は此島にいまし今官幣小社に列れり。此島は潮干れば所謂海の中道に續き潮滿てば離島となる。その或は續き或は絶ゆる處を道切〔二字傍点〕と稱す
 ○續風土記には志賀島を那珂郡の下に擧げたり(全集第四冊一一七頁)。近古の地図を見るに海の中道の中央より西を那珂郡に屬せり。今は古の如く志賀島かけて糟屋郡に屬したるが近古の郡界を志賀島・和白二村の村界とせる如し
○昔時は肥前豐後の風土記には昔者とのみあり、前節怡土郡の下にも昔者とあり又昔時といひて幸於新羅之時といはむは拙ければ昔時は昔者の誤とすべし。氣長足姫尊(神功皇后)は播磨風土記には命と書けり。日本紀撰進以前には尊命をつかひ分くる事なかりしなり○考證に
 萬葉集に「千早ぶる金の御崎をけふゆけど吾はわすれず志加の皇神」など詠て古へは海を渡る時に殊に祈祷せし由なれば神功皇后こたび絶海を超て外國を征け給ふ御舟出の時なれば此地に幸して殊に海路の幸を請奉りしなるべし
(23)と云へり。夙く景行天皇紀十二年に志我神の名見えたり○陪從はミトモなり。播磨・肥前・豐後の風土記にも見えたり。大濱小濱は兄弟と見ゆ。應神天皇紀三年に阿曇連《アヅミノムラジ》祖大濱宿禰とあると同人なり○得早來は早得來の顛倒か。ハヤクは思ヒシヨリ早クとなり○打昇濱を益軒はウチノボリと訓じて「奈多演なるべし」と註したり。又栗田氏はウチノボルハマと訓じたり。然も同氏は註に「資河島は打昇濱につづきて」云々と云へれば亦地名と認めたるなり。思ふに志賀島すら此時始めて命名せられし趣なれば其接續地にも未名はあるべからず。少くとも打任せてウチノボリノハマと云ひて通ずる程著聞したる名はあらじ。更に按ずるに萬葉集卷八に
 うちのぼる佐保の河原の青柳は今は春べになりにけむかも
といふ歌あり、又催馬樂の歌に大路ニソヒテノボレル青柳ガ云々とあればウチノボルは道々ト上手ヘツヅケルといふことならむ。さらばここは奈多の白濱即所謂海の中道を形容してカノ打昇ル濱といへるにて打昇濱は此處にては地名にあらじ。從ひてウチノボルと訓むべきならむ
 ○袖中抄卷八まつらさよひめ〔七字傍点〕の條に「又筑前國風土記うちあけはま〔六字傍点〕の所にいはく」と(24)いふこと見えたり。之に據りたるにや青柳種麻呂の防人日記には打昇濱をウチアゲノハマとよめり。管内志にも
 ウチアゲと訓べし。名義は浪のいみじく打上る處なるに因れり
といひ(著者伊藤常足は種麻呂の門人なり)日本地理志料にもウチアゲと傍訓せり。ウチアゲと訓めるは固より不可なれどウチノボル濱は後にウチノボリノ濱と轉じて地名とぞなりにけむ
○殆は謂の下、同の上に在るべし○國史大系本にも考證本にも島と嶋とを交へ書けり。恐らくは原本には悉く嶋とぞありけむ○因に云ふ。天明四年に彼漢委奴國王と刻める金印の出土せしは即此島なり
 
   身形《ムナカタ》郡         甲類
 
西海道風土記曰。宗像大神自v天降居2埼門《サキト》山1之時以2青※[草冠/(豕+生)]《アヲニノ》玉1置2奥津《オキツ》宮之|表《シルシニ》1以2八坂瓊《ヤサカニノ》紫玉1置2中津宮|△《之》表1以2八咫鏡1置2邊津《ヘツ》宮|△《之》表1此2以〔二字左△〕《以此》三表1成2神體之(25)形(ト)1而納2△《置》三宮1即※[納を□で囲む]隱之《カクリキ》。因曰2身形郡1。後人改曰2宗像1。其大|海〔左△〕《汝》命子孫今宗像朝臣等是也云々(○青柳種麻呂撰|防人《サキモリ》日記下卷所v引)
 
 斬考 防人日記は沖の宮防人日記と題して明治三十三年に出版せし一冊本あり。又昭和三年に官幣大社宗像神社社務所より發行せし沖津宮と題せる冊子に收めたり。此文は沖津宮所收の方誤脱少ければそれに據れるなり。防人日記下卷に宮人(○邊津宮の)にこひて神寶を見る。社記あり)。その中にといひて右の文を引けるが其續に人皇第七代孝靈天皇四年【仁】……是奉v號2市杵姫命1云々といふ文あり。さて日記に
 云々といへり。此外はさまざまのあやしき事などを記して上古の物ともおもはれず。この社記は後花園天皇文安元年に大宮司氏俊、上代の社記を改めて書きたりといふ
といへり。釋日本紀卷七述義三作2日矛1の註に先師説云。胸肩神體爲v玉之由見2風土記1とあるは此文を指せるならむ。此文は夙く筑前國續風土記・度會延佳の鼇頭舊事紀・古事記傳などに引けり。今比較しやすかるべき爲に煩しかれど後の二書に引けるを擧げむにま(26)づ鼇頭舊事紀に(栗田博士の纂訂古風土記逸文に據る)
 宗像社記曰。西海道風土記曰。宗像大神自v天降居2埼門山1之時以2青※[草冠/(豕+生)]玉1置2奥津宮之表1以2八坂瓊紫玉1置2中津宮之〔右△〕表1以2八咫鏡1置2邊津宮之〔右△〕表1以2此〔二字右△〕三表1成2神體之形1而納22置〔右△〕三宮1即納隱之。因曰2身形郡1(○こは記憶に依るに所謂頭註のままならず。鼇頭には顛倒と脱字とある如し。鼇頭舊事記は我文庫に無し)
とあり。之を防人日記所引と對照するに中津宮・邊津宮の下に各之字あり。こは延佳が加へたるにか知らねど奥津宮之表とある例に依らば中津宮・邊津宮の下にも之字はあるべきなり。又以此三表とあり。日記所引に此以三表とあるは疑なく顛倒なり。又納置三宮とあり。この置字もある方優れり。延佳所引に後人以下の無きは落せるならむ。次に古事記傳卷七(全集本四一二頁)に
 彼國(○筑前國の風土記に宗像大神自v天降居2埼門山1之時以2青※[草冠/(豕+生)]玉1置3奥宮〔二字右△〕之表1以2八尺紫※[草冠/(豕+生)]玉〔五字右△〕1置2中宮〔二字右△〕之表1以2八咫鏡1置2邊宮〔二字右△〕之表1以2此三表1成2神體之形1納2置三宮1即隱之〔二字右△〕。因曰2身形郡1。後人改曰2宗像1
とあり。此と防人日記所引とを比較するに此には奥津宮・中津宮・邊津宮の津字又成神體(27)之形の下の而字無し。又即納隱之の納無し。下に云はむ如く此納字はあるべきならず。恐らくは宣長が衍字として削去りしならむ。又其大汝命以下無し。これも宣長が本文以外として削去りしならむ。なほ下に云ふべし。防人日記並に延佳の引けるに八坂瓊紫玉とあるを紫※[草冠/(豕+生)]玉としたるは從はれず。又八坂を八尺とせり。ヤサカを古典に八坂とも八尺とも書けるは共に借字にて實は彌榮ならむ○西海道風土記といへるめづらし。或は筑紫風土記の別稱又は後稱かとも思ひしかど此文は筑紫風土記|芋※[さんずい+眉]《ウミ》野の條に謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風俗言詞耳と註したる撰者の口氣にあらず。又宗像縣と云はで宗像郡と云へり。されば此一節は仍甲類と認むべし○宗像は古典に又胸形・胸肩・宗形など書けり。いづれも借字にて名義は本文に云へる如く身之形ならむ。なほ後にいふべし○宗像大神は三女神にして海神又護國神として宗像郡の海岸と洋中遠近の二島とに分れ坐す。但古典に見えたる趣往々一女神の如く見ゆる事あり(此處なども然り)。そは播磨風土記新考(三一四頁)に
 元來宗像三女神は三神にして一神、一神にして三神なれば人間の子女の如く確に姉仲妹を別つべからず
(28)といへる如し。古事記に
 故爾《カレ》各天ノ安河ヲ中ニ置キテウケフ時ニ天照大御神マヅ建速《タケハヤ》須佐之男命ノ佩《ハカ》セル十拳《トツカノ》劔ヲ乞度シテ三段ニ打折リテヌナトモユラニ〔七字傍点〕天之眞名井ニ振|滌《ソソ》ギテザガミニカミテ吹|棄《ウ》ツル氣吹《イブキ》ノ狹霧ニ成リマシシ神ノ御名ハ多紀理|毘賣《ビメ》命、マタノ御名ヲ奥《オキ》津島|比賣《ヒメ》命ト謂フ。次ニ市寸《イチキ》島比賣命、マタノ御名ヲ狹依《サヨリ》毘賣命ト謂フ。次ニ多岐都《タギツ》比賣命。……故《カレ》ソノ先ニ生レマシシ神多紀理毘賣命ハ※[匈/月]形ノ奥津宮ニ坐《イマ》ス。次ニ市寸嶋比賣命ハ※[匈/月]形ノ中津宮ニ坐ス。次ニ田寸津《タギツ》比賣命ハ※[匈/月]形ノ邊津宮ニ坐ス。此三柱ノ神ハ※[匈/月]形君等ガモチイツク三前《ミマヘ》ノ大神ナリ
といひ日本紀に一書を引きて
 乃日神ノ生ミマシシ三女神ヲ筑紫州ニ降ラシメ因リテ教ヘテ曰ク。汝三女神宜シク道中《ミチノナカ》ニ降居テ天孫ヲ助ケ奉リテ天孫ニ祭《イツ》カレヨ
といひ又一書を引きて
 即日神ノ生ミマシシ三女神ヲバ葦原ノ中國ノ宇佐嶋ニ降居ラシム。今海北道中ニ在リ。號ケテ道主貴《ミチヌシノムチ》ト曰フ。此《コレ》筑紫ノ水沼《ミヌマ》君等ガ祭ケル神是ナリ
(29)といへり。道中又は海北道中といへるは日本海中の航路にて太古の日韓の交通路なり。字佐島を地名辭書に「字佐島と云ふも此に外ならず」といひて即海北道中の事としたれど使v降2居于葦原中國之宇佐島1矣。今在2海北道中1とあれば宇佐島は別地なり。さて恐らくは前人の云へる如く豐前國宇佐の事ならむ。然らば島にもあらぬ宇佐を宇佐島といへるは如何といふに松下見林・貝原好古(益軒全集第五冊七三五頁八幡宮本紀卷四)などの説に宇佐の神山は寄藻《ヨルモ》川と其支流なる御物《オモノ》川とに圍まれたれば宇佐島と云へるなりと云へり。古事記傳卷十八(全集本一〇六六頁)にも「海中ならねど山川の圍れる故に島といふ」と云へり。しばらく此説に從ふべし○筑前國の東北端に遠賀《ヲンガ》郡あり。宗像郡は其西南に接し東南は鞍手郡に、南は糟屋郡に隣り西は玄海灘に臨めり。官幣大社宗像神社は三座三社にて其邊津宮は田島村大字田島なる山間にあり。古は神湊《カウノミナト》の東、江口の西(○今の神湊町)に在りしを建長年問に海岸より半里許なる今の地に移ししなりといふ。ヘツ宮のヘは沖に對する海岸なり。
 ○續風土記(三五一頁)に「此神社古は神湊の東六町、海の南一町許に在し故に海濱《ヘツ》宮と云」といひ防人日記に「いにしへ邊津宮の有し跡は神湊の東六町ばかり松原の内にあ(30)り」といへるに(此一句は防人日記の單行本にありて沖津宮所收には落ちたり)管内志には「古の社地は上高宮の地なるべし」といへり(管内志筑前四九〇頁又三六九頁及三七二頁)。上高宮は田島の西南の山上にあり
祭神は記紀共にタギツ姫命とせり。然るに今は田心《タゴリ》姫(即タギリ姫)とせりといふ。但「三所ともにいづれも三神を一社に合祭て各其社の主とする所を中座に崇奉る」と續風土記にいへり○神湊の西北凡二里に大島あり。周凡三里半。今大島村と稱せらる。中津宮はここに坐す○大島の西北凡十四里に沖の島あり。周凡一里。大島村に屬せり。奥津宮はここに坐す。祭神は古事記に奥津島をタギリ姫命、中津宮をイチキシマ姫命とし日本紀の第二一書は之に反せり。沖の島は三峯より成れるが其西南なる最高峰即一の岳に今燈臺を設けたり。又東北なる白岳の北面に蒲葵《ビラウ》の生ひたる谷あり。漁人は誤りてシュロ谷と呼ぶとぞ。是恐らくは蒲葵自生の最北限ならむ○埼円山の所在は知られず。防人日記には大島の西北端なる神崎の礒山を之に擬して
 八月二日大島の北のかた御浦といふ所に物す。こは里より十八町あなた岩瀬の西に沖つ島に向ひて奥まりたる入江あり。其江の西にさし出たる岩崎を神崎といふ。磯の(31)岩村に大きなる馬の蹄の址あり。又人の足跡大なる小き數多あり。彫りたるが如し。……爰なん宗像の神のはじめて來著き給ひし所といふ。風土記に埼門山といへるはここの事にや
といへり。思ふにサキトのトは海峽の義なるべければ岬村大字|鐘崎《カネサキ》の上の山即織幡神社のある山ならずや。鐘の岬と地《ヂ》の島との間に海峽あり。萬葉集卷七に
 ちはやぶる金のみさきをすぎぬとも吾はわすれじしかのすめ神
とよめるは即此處なり。續風土記に
 織幡神社ある山は鐘崎の民家を去る事五町ばかり艮の方に在。……三方は海なり。一方は外地につづく
 鐘御崎 織幡神社ある山の出崎を云
といへり。夙く地名辭書に
 崎門山 鐘岬の古名なるべし。其崎門山と云名義より推して其地を判知せん歟
といへり○シルシは證なり。青※[草冠/(豕+生)]玉を益軒はアヲミタマと訓じ宣長はアヲタマと訓じ考證には
(32) 旁訓(○延佳の鼇頭のか)にアヲミタマとあり。青き御玉と云ふ義か。アヲヌタマにて青瓊《アヲヌノ》玉か。又は青瓊《アヲニノ》玉にて八尺瓊之曲玉などにもやあらむ
といへり。※[草冠/(豕+生)]は音ズヰにて説文に※[豕+生](ハ)草木實※[豕+生]々也とあり、又玉篇に※[豕+生]々草木實。今作v蘂とありて正字通に※[豕+生]俗作v※[草冠/(豕+生)]とあり。さればミとも訓まれざるにあらず〔され〜傍点〕。釋日本紀卷二十一秘訓六に天武天皇の夫人大※[草冠/(豕+生)]娘の※[草冠/(豕+生)]にヌと傍訓し註に私記曰師説※[草冠/(豕+生)]或爲v※[豕+生]、※[豕+生]讀v美云々とあり。又国造本紀伊豆國造の下に神功皇后御代物部連祖天老※[草冠/(豕+生)]桙命八世孫若建命定2賜國造1とある※[草冠/(豕+生)]にミと傍訓せり。
 ○此傍訓は延佳の所爲か。延佳が姓氏録なる服部連の遠祖天御桙命と同視して※[草冠/(豕+生)]をミとよむべき一證としたるは非なり
古典には此字をヌ又はタマに充てたり〔古典〜傍点〕。たとへば天壽國曼陀羅銘文(觀古雜帖・法王帝説等に出でたり)に敏達天皇の御名ヌナクラノフトタマシキノ尊のヌナクラを※[草冠/(豕+生)]奈久羅と書けり。又舊事紀地神本紀に天※[草冠/(豕+生)]槍とあり。こは同書陰陽本紀並に日本紀なる天瓊戈また天瓊矛、古事記なる天沼矛と同じかるべく、さて日本紀なるは訓註に瓊玉也。此曰v努とあれば天ノヌボコとよむべし。又三代實録貞觀十三年閏八月廿九日の下に授2隱岐國(33)正六位上※[草冠/(豕+生)]若酢神從五位下1とあるは神名帳なる隠岐國玉若酢命神社なるべければ(別に水若酢命神社といふもあれど)※[草冠/(豕+生)]はタマともよむべきなり。神名帳なる武藏國那珂郡※[瓦+長]※[草冠/(豕+生)]神社も同じき伊豆國那賀郡※[瓦+長]玉命神社とおなじくミカタマとよむべきか。タマの一名ニ、そが下ヘつづく時にヌに轉ずるはなほ神がカムに轉じ身が身入部《ムトベ》・身實《ムザネ》などの時にムに轉ずると何例なり。但※[草冠/(豕+生)]には玉の義なく從ひてタマ又ヌとよむべき所以は知られず。古寫本に往々※[草冠/(豕+生)]の生を玉或は主に作り又豕を麥に作りたれどさる漢字ある事を知らず。古事記傳卷四(全集本一九七頁)には「※[草冠/(豕+生)]は更に玉に由なければ※[王+遂]字などを誤れるか」といへり。日本書紀通證卷三十四大※[草冠/(豕+生)]娘の註に眞誥(梁の陶弘景の著にて道教の書なり)より仰咽金漿、咀嚼玉※[草冠/(豕+生)]といへる文を引けり。原書は未見ねど金漿は金の如き飲料、それに對せる玉※[草冠/(豕+生)]は玉の如き果實といふ事なるを上代の邦人が玉を玉※[草冠/(豕+生)]といふと心得しにあらざるか。さてこの青※[草冠/(豕+生)]玉はいかに訓むべきかといふにしばらく例あるに就きて青瓊玉の借字として訓むべけれど、それにも前人の出せるにアヲタマ・アヲヌタマ・アヲニタマ・アヲヌノタマ・アヲニノタマなどの按あり(右の中にて宣長のアヲタマとよめるは※[草冠/(豕+生)]玉を聯ねてタマとよめるなり)。宜しくアヲニノタマとよむべし○神體之形の(34)カタはカタシロなり。大神が玉と鏡とを御身の形代としたまひしなり〇八坂は借宇にて彌榮の義なるべき事前に云へる如し。又ニは土石に亙れる美稱ならむ。さてそを下へつづくる時にはヌといひし事も前に云へる如し。釋日本紀卷五なる天之瓊矛の註に蓋古者謂v玉或爲v努或爲v貮といへるは從はれず○即納隱之の納は衍宇なり。宜しく削るべし。考證に隱之をイハフとよめるは記傳に倣へるなり。さて記傳にイハフとよめるは上なる納置に副はしむべく枉げてかくよみしなり。隱之は宜しくカクリキ又はカクリタマヒキとよむべし。永く御身を隱したまひしにて古事記に神々に隱身也(ミミヲカクシタマヒキ)と云へると全く相同じきなり○身形はムナカタとよむべし。即身之形なり。ムはミの古言にはあらでミが下へつづく時に轉じてムとなるなり。ノがナに轉ずるはワタナベ(渡邊)カハナベ(川邊)カムナビ(神邊)カナメ(蟹限)ナナコ(魚子)など、常の事なり○其大海命子孫今宗像朝臣等是他の一句記傳所引には見えざれど、これも亦西海道風土記の本文の中ならむ。但後人改曰2宗像1とあるに續かず。恐らくは其中間に後大神爲2大汝命之妻〔九字傍点〕1などいふ文のありしが落ちたるならむ。大海命は疑もなく大汝命の誤なり。古事記に
(35) 故此大國主神、※[匈/月]形ノ奥津宮ニ坐ス神多紀理毘賣命ヲ娶リテ子|阿遲※[金+且]《アヂスキ》高日子根神ヲ次ニ妹高比賣命亦ノ名ハ下光《シタデル》比賣命ヲ生ム
とのみあれど舊事本紀に據れば大國主神即大汝命は又邊津宮に坐す神を娶りて事代主神を生み給ひきといふ。その事代主神はムナカタノ君の祖先なり。ムナカタノ君に朝臣のカバネを賜ひしは天武天皇の十三年十一月なり
 
   大三輪神社          甲類
 
筑前國風土記曰。氣長足姫尊欲v伐2新羅1整2理《トトノヘテ》軍士1發行之間《イデタチシホドニ》道中遁亡。占2求其由1即有2祟神1名曰2大三輪神1。所以《ユヱニ》樹2此神社1遂平2新羅1(○釋日本紀卷十一述義七、神功皇后紀立大三輪社以奉刀矛〔九字傍点〕之註所v引)
 
 斬考 神功皇后前紀九月に
 令2諸國1集2船舶1練2兵甲1時軍卒難v集。皇后曰。必神心焉。則立2大三輪社1以奉2刀矛1矣
とあるに當れり。但傳聊異なり○整理はトトノヘテとよむべし。否トトノヘテに充てた(36)るなり。然るにトトノヘテは萬葉集卷二なるトトノフル皷ノオトハ、同卷三なる網子《アゴ》トトノフルアマノヨビ聲などの註(新考二七二頁及三四八頁)に云へる如く呼集むる事なれば整理の字はかなひ難からむ。但古事記仲哀天皇の段にも
 故|備《ツブサニ》如2教|寛《サトシシ》1整〔右△〕v軍雙v船度幸之時海原之魚不v問2大少1悉負2御船1而渡
と書けり○考證に整理をトトノヒテとよめるは續日本紀第二十九詔に又竊六千乃兵乎發之等等乃比〔右△〕とあるに據れるにもあるべけれど萬葉集卷二に齊流《トトノフル》ツヅミノオトハ、卷三にアゴ調流《トトノフル》、卷十九にモノノフノ八十トモノヲヲナデタマヒ等登能倍《トトノヘ》タマヒ、卷二十にアサナギニカコ等登能倍《トトノヘ》、又ヤソカヌキカコ登登能倍※[氏/一]とありて奈良朝時代にも今の世の如く下二段に即フ・ヘとのみはたらきし事明なればなほトトノヘテと訓むべし。宣長は彼績紀第二十九詔のトトノ比は誤字ならむと云へり〇大三輪神は即オホナムチノ神なり。大和國大三輪にいますが本なる故に大三輪神といへるなり。神名帳に筑前國夜須郡一座【小】於保奈牟智神社とあるがここに云へる大三輪神なり○續風土記卷十夜須郡の部(益軒全集第四冊二一五頁)に
 彌永村にあり。今は大神《オホガ》大明神と稱す。御社は南にむかへり。東の間に天照大神、西の間(37)に春日大明神をも合せ祭り奉る。宮所神さびて境地殊に勝れたり。九月廿三日祭禮あり。其外年中の祭禮たびたび有しとかや。今はかかる儀式も絶はてぬ。然れ共夜須郡の惣社なれば其敷地廣く産子殊に多くして人の尊敬淺からず(○節略)
といへり。今は大三輪神社と稱せられて縣社に列れり。夜須郡は今の朝倉郡の西部なり。
彌永は今の三輪村の大字にて大刀洗飛行場の東北に在り(飛行場は三輪村と筑後國三井郡大刀洗村とに跨れり)○本郡名の起原は神功皇后前紀に
 至2層増岐《ソソキ》野1即擧v兵撃2羽白熊鷲1而滅v之。謂2左右1曰。取2得熊鷲1我心則安。故號2其處1曰v安也
とあり○因にいはむ。萬葉集卷四に
 太宰帥大伴卿贈d大貮|丹比《タヂヒ》縣守卿遷c任民部卿u歌一首 君がためかみしまち酒|安野《ヤスノヌ》にひとりやのまむ友なしにして
といふ歌あり。安野は即夜須の野にて本郡内にありし野なり。續風土記(二〇六頁)に
 東小田・四三島《シサウジマ》・鷹場三村の間|七板《ナナイタ》原といふ廣き平原あり。方一里餘あり。是則安野也。方一里許の間には田畠なし。皆平なる野原なり。四三島の南、山隈野との間に川ありて隔つ。山隈原とはつづかず。別の原也。四三島の川は彌長より出て筑後の方に流る
(38)といへり。東小田・四三島・下高場は今の夜須村の大字なり。夜須村は三輪村の西北に續けり。されば夜須野は太宰府の東南二三里許の地にて太宰府の官人等が好みて遊びし處ならむ
 
   ※[加/可]襲《カシヒ》宮          乙類
 
筑前風土記云。到2筑紫國1例先參2謁于※[加/可]襲宮1。※[加/可]襲ハ可紫比也(○萬葉集仙覺抄卷四去來兒等香椎乃滷爾〔九字傍点〕之註所v引)
 
 新考 こは文短くして甲類とも乙類とも定めがたけれど、しばらく乙類と認む。又右に擧げたるは仙覺全集本(一七一頁)に據れるなるが何處までを風土記の本文とすべきか明ならず。※[加/可]襲ハとあるを見ればこれより仙覺抄の文にて風土記の文は參謁于※[加/可]襲宮までなるに似たれど
 ※[加/可]襲ハ可紫比也。シカレバカシヒ〔三字傍点〕ト點ジタルハ(○歌の香椎を前人のカシヒと訓みたるはといふ意)コトニアタレリ
(39)といへるを見れば可紫比也までが風土記の文にて※[加/可]襲ハのハはもと横に記されたりしが本文に竄入したるものと認むべし。又もし抄の文ならば可紫比と書かで※[加/可]襲ハカシヒ也と書くべきなり○カシヒは古典に※[言+可]之比・橿日・香椎・借飯など書けるが今は香椎と書くに定まれり○※[加/可]襲可紫比也といへる聊曖昧なれど塢※[舟+可]《ヲカ》縣の節に岫門(ハ)久岐等也とある例に依らば※[加/可]襲ハカシヒトヨムナリといふ意ならむ。
 ○此文體の相似は以て本節が乙類に屬する一證とすべし。塢※[舟+可]《ヲカ》縣の節は乙類なり
然らは襲はシヒに借るべきかといふに襲の音はシフなれば此字をシヒに充てむに妨なし。イヒボを揖保と書きサヒガを雜賀と書けると同例なり。但此地名は又カシフとも云ひしが如し。即萬葉集卷十五なる至2筑紫館1遙望2本郷1悽愴作歌の中に
 可之布江にたづなきわたる之可のうらにおきつしらなみたちし來らしも、一云みちし來ぬらし
とあり。かかる事は他にもありやと云ふに波行動詞のヒをウと訛りてイトヒテ・オモヒテなどをイトウテ・オモウテなど云ふは今の例とせむに適切ならざらめど萬葉集巻九に攝津國のウナヒを菟原と書けり。原にはヒの訓無し。然るに萬葉集卷六にアヂフノ宮(40)を味原宮と書き同卷十一にミソノフ・ムロフ・ヲフを三苑原・室原・苧原と書き同卷十二に又ヲフを麻原と書ける例あれば恐らくはウナヒをウナフと訛りし後に菟原の二字を充てたるならむ(萬葉集新考一八六五頁參照)。
 ○菟原を後世ウバラとよめるは字に就きたる訓なり
山城國の向日町も今はムカフマチと訛れり。東京市のムカフジマも昔はムカヒジマと唱へしか。普通名詞にては奈良朝時代のカギロヒ・ウルヒを平安朝時代にはカゲロフ・ウルフと訛り又相撲のスマヒも今はスマフと訛れり。但ムカフマチ・ムカフジマ・スマフは彼波行動詞の音便と同例としてムカウマチ・ムカウジマ・スマウと書くべきにかとも思はる(萬葉集新考一五〇九頁參照)○新撰姓氏録|韓矢田部造《カラヤタベノミヤツコ》の下に筑紫糟冰〔二字傍点〕宮とあり。又和名抄郷名に糟屋郡香椎(加須比)とあり。さればカスヒとも訛りしなり。この須を志の誤字とする説もあれど神名帳にツクブシ〔右△〕マ神社を都久夫須〔右△〕麻神社と書き和名抄備前國磐梨郡の訓註に伊波奈須〔右△〕とあるを思へばなほカシヒをカスヒと訛りしなりとすべし。元來シとスとは相近き音にて今もシをスと發音する地方ある事人の知れる如し。但黒川春村(碩鼠漫筆一八九頁)は右の語例の須はそのままにてシとよむべしと云へり。春村(41)は糟冰宮の例を見落したるにや○※[加/可]襲宮は即今の官幣大社香椎宮にて其鎭座地は福岡縣糟屋郡香椎村にて仲哀天皇の皇居なる橿日宮の址なり。續日本紀以下の國史・延喜式・萬葉集などには之を廟といひ他の古典には或は廟宮といひ或は(國史にも稀には)宮といひ或は社といへり。延喜式(式部上)には又此宮の司を特に廟司といひ三代實録貞觀六年八月十五日の下にも香椎廟司といへり。神名帳には見えず。祭神は仲哀天皇とも神功皇后とも皇后及武内宿禰とも傳へたり。古事記傳卷三十(全集本一七八四頁)に
 ※[言+可]志比宮は和名抄に筑前國糟屋郡香椎(加須比)郷此地なり。
  志を須と云るは後の訛なるべし。凡て椎と書き又書紀にも橿日と書れたり。加志比なることうつなし
 書紀神功卷に橿日浦ともあり。萬葉六に香椎滷の歌あり。香椎廟今も香椎村にあり、
  績紀廿二に天平寶宇三年八月遣2太宰帥船親王於香椎廟1奏d應v伐2新羅1之状u。廿四に同六年十一月遣2參議藤原朝臣巨勢麻呂・散位土師宿禰犬養1奉2幣于香椎廟1以d爲v征2新羅1調c習軍旅u也、續後紀一に天長十年夏四月遣2和氣朝臣眞綱1奉2御劔幣帛於八幡大菩薩宮及香椎廟1告2新即1v位也とあり。抑此廟は仲哀天皇なりとも申し神功皇后なりとも(42)申してさだまらざる由なり。右の續紀の趣に依るに神功皇后なるべし〔八字傍点〕。兵範記(○一名人車記。兵部卿平信範著。平安朝時代末期の書なり)にも香椎大多羅志姫宮とあり。さて此をば神社と申さずして古書に廟とのみあること他に例なきことなり。又神名帳にも載らず。いかさまにも所以あることなるべし。故思ふにまづ漢國の意を以ていはば諸の神社はみな廟とも云べき物なれども然云る例なく凡て皇國に廟と云ることは無きに此をのみ殊に廟と云は神功皇后のことむけ賜ひし後三韓國ひたぶるにまつろひ參來し御代に彼國より此皇后の御靈をいはひまつれる宮にやあらむ。されば皇國のなべての神社の例に非ず異國よりいはひまつれる宮なるが故に其例を分むために廟とはなづけ奉り賜へるにやあらむ。此はこころみに推度りて云のみなり。さて後世の歌に香椎宮とよめるは此廟の御事なり。又宇佐八幡宮縁起に嵯峨天皇の御世神功皇后の託宣に因て弘仁十四年に勅して新に大帯姫宮を造らしむるよし云るは式に豐前國宇佐郡大帶姫廟神社とある社なるべし。宇佐宮三座の一なり。是をしも廟と申は香椎宮に效ひての稱なるべし
といへり。考證に
(43) 此宮に祭る所の神を拾芥抄に承保四年月日香椎燒亡。公卿宜云。件社或稱2神功皇后※[まだれ/苗]1或稱2仲哀天皇※[まだれ/苗]1無2一定1。資綱云。仲哀天皇※[まだれ/苗]也。允亮抄有2所見1歟云々(○承保は白河天皇の御代、又允亮は惟宗氏、一條天皇の御時の學者)とあれど色葉字類抄に香椎大明神其御名大多良知比※[口+羊]、
  ○十卷本伊呂波字類抄に香椎宮(筑前國香栖屋郡御坐香椎大明神其御名大多良知比女ト申)とあるを略して引けるなり。此註は宝町時代の増補と思はる。三卷本には香椎とあるのみ。オホタラチヒメはオホタラシヒメの訛にてオホタラシヒメは神功皇后の御一名なり。播磨風土記などにも見えたり。三代實録貞觀十二年二月十五日奏2宗像大神1告文(大系本三〇八頁)には大帶日姫とあり
 また兵範記に香椎大多羅志姫宮などあるにて皇后なる事明かなるを知るべし〔皇后〜傍点〕。……諸神記・諸社根元記ともに或書曰。※[加/可]襲宮昔者|足仲比古《タラシナカツヒコ》天皇之后息長足比賣命及大臣武内|宿泥《スクネ》命在2此行宮1謀v伐2新羅1。從v爾已來便爲2廟室1。后宮在v東臣廟在v西と云り。之によりて考ふるに皇后新羅を伐給はむとし給へる時大臣武内宿禰とこの香椎の行宮に在て謀ごち給ひし宮室なる故に其を廟室と云ひ東の宮を皇后宮と申し西を大臣の(44)廟と云ひしがさる貴き宮なればこそ太宰府の例として帥以下國に下り來ける時は必ず第一に此宮を拜み仕奉るとなり
といひ又
 到2筑紫國1例先參2謁于※[加/可]襲宮1とは太宰帥以下の禮儀にて庶人の事にはあろべからず。よくせずばまがひぬべし。さるは諸神記・諸社根元記に太宰府例曰。二月帥已下筑紫國郡司已上奉v拜2借飯《カシヒ》廟宮1云々、於v是再拜兩段帥奏曰(帥不v在大少貮見在奏v之)。明神【等】大八島知【志志】倭根子天皇大前【仁】太宰帥(位姓名)等率2司々人【止毛】1恐【美】恐【美母】奏賜【波久止】奏。訖再拜兩段退出。更參2入於大臣殿1再拜兩段退出(十一月同)とあるを云るなり
といへり。諸神記はいまだ原書を見ざれど其内容は諸社根元記と大同小異なりと思はる。根元記には中卷の末に神祇大副兼敦とあれど同卷五條天神の下に天文九年の記事あり。思ふに共に室町時代末期の神道家の作ならむ。
 ○諸神記は天文中卜部兼右の著なりといふ
さて兩書に或書曰※[加/可]襲宮云々といへるに就きて考證に
 さて本文に香椎宮の事を※[加/可]襲宮と書きこの或書にも※[加/可]襲宮と書るを思ふに此或書(45)はもしくは風土記の文なるを風土記とはいはで或書と云るなるべし。さて上に云る太宰府例を此文の次に引るも到筑紫國例とあるにいと縁ありて聞ゆるを思ふべし
といへれどいとおぼつかなし。少くとも古風土記の文にあらず。之に反して太宰府例曰云々とあるは古く又いとたふとき逸文なり。
 ○萬葉集卷六に神龜五年冬十一月太宰官人等奉v拜2香椎※[まだれ/苗]1訖退歸之時馬(ヲ)駐2于香椎浦1各述v懷作歌とありて帥・大貮・豐前守の歌を擧げたるとも相合へり。右の逸文の末に十一月同と註したるは帥以下の奉拜は毎年二月十一月の兩度にて十一月の時も二月の時に同じと云へるなり。然るに栗田氏は十一月日と誤れる本を引かれたり。余は考證を讀みて十一月日とあるを十一月同の誤と認めて同カと註しおきしに其後借覧せし根元記の一本に明に十一月同とあり。余は亦右の本に據りて栗田氏所引の文の誤脱を訂補しつ
香椎廟の祭神を示したるは之を以て最古しとすべし。その帥の祝詞に大八島知シシ倭根子天皇ノ大前ニといへるヤマトネコは天皇の御尊號にて或天皇の御名にあらざる事勿論なるが(古事記傳卷二十一、全集本一二七一頁參照)神功皇后の御事を大八島シロ(46)シシ倭根子天皇とは申し奉るべからず。
 ○攝津風土記の逸文に神功皇后の御事を息長足比賣天皇といひたれど、そは播磨風土記にウヂノワキイラツコを宇治天皇といひオシハノ皇子を市邊天皇といひ常陸風土記にヤマトタケルノ尊を倭武天皇といへる類にて俗間の私稱に從へるのみ(播磨風土記新考二五八頁及四八七頁參照)。此祝詞は太宰帥が其公務として香椎廟に奏せしなれば名分を紊るべき稱謂を用ふまじき事勿論なり
されば此祝詞を作りし時代並に此祝詞の行はれし時代には香椎廟の祭神を仲哀天皇と傳へしなり。とも云ふべけれど新撰姓氏録攝津國皇別韓矢田部造の下に氣長足比賣尊(謚神功)筑紫糟冰宮御宇之時といへるを擧げば右の説は其根據を撼さるべし。續風土記に「殊に四月十七日は崩御有し御忌日なりとて所在の禮奠いと嚴重也」といへり。神功皇后の崩御は日本紀に據れば四月辛酉朔丁丑にて適に十七日なり。然らば香椎※[まだれ/苗]の祭神は神功皇后と定むべきかと云ふに仲哀天皇の崩御は日本紀に九年春二月癸卯朔丁未天皇忽有2痛身1而明日崩とありて二月六日なるが其二月六日には此宮に祭典あり特に太宰帥以下が毎年二月十一月に參拜せしも六日なりといふ。即香椎※[まだれ/苗]宮記(太宰管内(47)志所引)に
 凡當宮年中の祭式は天平寶字四年正月勅有て定給ふ所也。其後年々月々に修理し給ひ七十餘度の祭怠る事なし。……二月六日〔四字傍点〕二斗四升の供を古宮(○古宮大明神は末社の一なり)に獻ず。正忌祭を行ふ(○正忌祭の三字に注目すべし)。此日太宰帥已下國司郡司本宮に詣で再拜兩段して云々。十一月六日の祭も同じ。此日筥崎の海人四十八尾の紅魚《タヒ》と鮫《フカ》の美賀企《ミカキ》四十八連・酒|團※[木+盍]《ダンカフ》四十八器を獻ず。近き浦々よりも同じく魚鱗を獻ず。……九月九日もかくの如し。又志賀白水郎男十人女十人風俗樂を神樂殿にて奏す。十一月六日是に同じ云々
とあり管内志に此文を引けるに續けて
 是等の祭奠も兵亂の後久しく絶たりしを前國主源光之朝臣廢れたるを起し絶たるを繼給ひて神田を寄附し祭禮を再興し給ふより世々の國主相續て潤色を添給ひて二月六日の祭〔六字傍点〕には國主使を遣して幣帛を獻じ給ひ志賀白水郎等海藻介蟲らを獻ず
といひ又上文に引ける三代實録の貞觀十六年太宰府言。香椎廟宮毎年春秋祭日志賀島白水郎男十人女十人奏2風俗樂1云々の註に
(48) 今も二月六日・十一月六日二度の御祭には志賀の海人前の五日に海藻介蟲等をもち來て神前に備ふ。風俗樂のことはたえてつたはらず
といへり。右の如くなれば仲哀天皇も香椎廟と無關係にましまさず。否古は仲哀天皇の橿日宮址に就きて天皇をいつき奉りしに後に神功皇后を併せ祭り又後に天皇は傍になりたまひて皇后が中心となりたまひしならむ〔古は〜傍点〕。明治維新後一たび祭神を皇后と定められしが大正四年に至りて改めて天皇皇后御兩柱と定められしは實に穩當なる處置と謂ふべし○此宮は古は專廟と稱せられ又延喜式の神名帳に見えざる事前(四一頁)に云へる如くなるが、それに就きて宣長の説あれど、げにもと思はれざればなほ思ふに此宮は右の外にも舍人一人を置き守戸一烟を充てらるる(延喜式式部上、民部下)など他の神社と異なる事あり。抑我邦にては古は天皇を神社にいつき奉る事は曾て無かりしに此宮は大陸の風に倣ひて天皇をいつき奉りしなれば其名稱も國風の神社と別ちて特に廟といひしにて元來純粹なる神社にあらざれば神名帳には載せられざりけむかし○武内宿禰をも祭りしは夙く延喜式に見えて疑ふべき事にあらねどそは末社に祭りしにて本社に祭りしにあらず。されば武内は香椎廟の祭神に加ふべきにあらず。かく云(49)ふは延喜式式部上(國史大系本六〇九頁)に
 凡橿曰廟舍人一人・大臣武内宿禰資人一人預2得考之例1
とあればなり。續風土記(全集本四二七頁)に右の文を略して引きてその續に
 然共今は武内大神の社なし。古への末社の記を見るに武内の社を第一の末社とす(○古宮を第一とし武内を第二とせる書もあり)。然ば天正年中炎上(○天正十四年七月島津軍の放火に由りて類燒す)の後再興せざる成べし
といひ管内志に
 武内宿禰社 香椎宮末社記に武内大神社云々とあり。社は廟宮と護國寺との間にあり。小社なり。社領十石、今の領主より附け給へり。社は東南方に向へり。神官武内攝津守仕奉れり(此社天正の亂に燒けたりしを再興せり)
といへり
 ○此稿成りての後に故八代國治君著國史叢説中に収めたる「天皇と神社の祭神」といふ論文を見るに香椎宮の祭神は初仲哀天皇なりし事、此富を古典に特に廟といひし事などに就いて余が上に云へる事は夙くいひ盡されたり。されば余の書けるものを(50)棄てて右の論文を抄録して可なるに似たれど余の稿にも枝葉には棄てかぬるものあり又原文を抄録してそれに愚按を附記せば讀むにいと煩はしかるべき上に或は批評に亙りて郤りてゆゆしかるべければなほ余の書けるものを存じつ。讀者此と彼とを比較し夙く八代君の云はれたる事は同君の創見余の左袒と認められて可なり
○到筑紫國の到を考證にイタルモノとよみたれど、ただイタレバとよむべし。主格は恐らくは略したる前文にありしにて太宰府官人並管内諸國司などならむ。さて到筑前國とあるべき如くなれど、ここは筑紫國と云はざるを得ざるなり。ここの筑紫國は西海道といふ事、例として参謁する者は西海道に赴任したるものにて獨筑前を任地とする者に止まらざればなり。例は例トシテなり。参謁は仙覺全集に参詣とあれど他本は皆参謁に作れり
 
   芋※[さんずい+眉]野《ウミノヌ》          乙類
 
筑紫風土記曰。逸都《イト》縣|子饗《コフノ》原有2石兩顆1。一者※[片を□で囲む]長一尺二寸、周一尺八寸、一(51)者長一尺一寸、周一尺八寸。色白而|便〔左△〕《硬》。圓如2磨成1。俗傳云。息長足比賣命欲v伐2新羅國1閲v軍之際懷姙漸動。時取2兩石1插2著裙腰1遂襲2新羅1凱旋之日至2芋※[さんずい+眉]野1太子誕生。有〔左△〕《仍》2此因縁1曰2芋※[さんずい+眉]野(謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風俗言詞耳)。俗間婦人忽然娠動、裙腰插v石|厭《マジナヒテ》令v延v時蓋由v此乎(○釋日本紀卷十一述義七、神功皇后紀皇后取石插腰〔六字傍点〕之註所v引)
 
 斬考 甲類兒饗野と參照し又その新考にいへる所を見べし○彼に筑前國風土記と云へるに對して此には筑紫風土記といひ、彼の怡土郡に對して此には逸都縣と云ひ、彼の兒饗野に對して此には子饗原といひ、彼の息長足姫尊に對して此には息長足比賣命と書ける、又記事の一部重複し又は相違したるを思へば彼と此と別本なる事明けし○一者片長一尺二寸とある片は衍字と思はる。小者の方には一者長一尺一寸とありて片字無ければなり○考證に便圓をつらねてマロナルコトと訓めり。恐らくは便は硬の誤にて其下を句とすべきならむ。即色白而質硬といふべきを略して色白而硬と云へるなら(52)む。或は硬の上に質を脱したるにてもあるべし○裙腰はモノコシとよむべし。コシモとよめるはわろし○古事記仲哀天皇の段に故號2其御子生地1謂2宇美1也とあり神功皇后前紀に
 十二月戊戌朔辛亥生2譽田天皇於筑紫一1。故時人號2其産處1曰2宇瀰1也
とあり。また應神天皇前紀に
 天皇以d皇后討2新羅1之年歳次庚辰冬十二月u生2於筑紫之蚊田〔二字傍点〕1
とあり。されば蚊田は宇瀰の舊名ならむと云へり。今糟屋郡宇美町の大字に宇美ありて早見川に臨めり。其處に宇美八幡宮あり。應神天皇の生れたまひしは此社の地なりといふ。續風土記(四〇七頁)に
 此里は山中にあれども四方は皆平原にて廣し。都邑を爰にたつともゆたかなるべき所なり。青山四方にめぐりて景色もうるはし。佳境と云つべし。神后のここに御産屋をしめ給ひし事誠に淺からざる神慮なるべし。……社家の説に云傳ふるは敏達天皇の御宇に始て此處に御社を建て祭り奉るよしいへり。……御社は南にむかへり。今祭る所の神五座、中殿には八幡大神を祭り左に神功皇后・寶滿明神、右に住吉大神・太祖(53)權現を祭る。げにも久しき大社なれば境地もとより廣く四邊の林木高くそびえて宮所いとさびたり。……昔は社領數个所にあり神官社僧許多侍しとかや。怡土郡長野莊も此御社の神領なりし故彼所に宇美八幡宮を勸請せり。近世は當社に神領も祭田もなくなり侍りしに天和三年國君光之公(○黒田氏)祭田を寄附し給ふ。社職今も數人あり。社僧の坊を宇美山誕生寺といふ。眞言宗也
といひ管内志(筑前之十、芋※[さんずい+眉]野)に
 芋※[さんずい+眉]野は糟屋郡宇瀰邑にあり。香椎より巽の方二里計にありて則宇美八幡社ある處なり。廣平なる四方に川流れて甚めでたき土地なり
といひ(宇美宮の事は九の卷に載せたり)又天然紀念物調査報告植物之部第二輯(一〇五頁)に
 境内ニ樟ノ大木少カラズ。就中最大ナルモノハ衣掛ノ森トイフ一株ト湯蓋ノ森トイフ一株ナリ
といへり○有此因縁の有は仍などの説か○産をウミといふは本書編纂當時にもいひし事にて無論俗語にもあらず古語にもあらで誰しも知れる事なれば謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風(54)俗言詞耳といふ註文は全く不用なり。さるにかかる注を挿めるは元來漢文にて書けるものなれば其體裁をうるはしくせむ爲なるべけれど其陋其愚寧憫笑すべし。風俗言詞耳といへる風俗は常陸風土記なる風俗諺曰の風俗と同じくてミクニブリといふ事なり○厭令延時はマジナヒテ時ヲノビシムルハとよむべし。前註にノベシムルハとよめるはわろし。自動詞のノブはビ・ブの活にてノベとははたらかず。ノビシムルが即ノブル・ノバスなり○娠動は古語にコナヰといひしに似たり(播磨風土記新考四二二頁及五八八頁參照)。但ここは音讀して可なり。謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者云々と註せし程の撰者なれば其文の悉く訓讀せらるるは期待せざりけむ
 
   塢※[舟+可]《ヲカ》縣          乙類
 
風土記云。塢※[舟+可]縣江〔右△〕東側近有大江口。名曰塢※[舟+可]水門。堪容大舶焉。從彼通島〔右△〕鳥旗澳名曰岫門。鳥旗等(鳥〔四字右△〕多也岫門久妓〔二字右△〕也)。堪容小船焉。海中有兩小島。其一曰河※[白+斗]島。今〔右△〕生支子海出飽魚。其一曰資波島資波島(波〔四字右△〕紫摩也)。兩島倶生(55)烏葛久々〔二字右△〕※[草冠/福の旁]。烏葛黒葛也。冬菖〔右△〕迂米〔右△〕也(○萬葉集仙覺抄卷五水莖之崗水門爾波立渡〔水莖〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 此一節は誤脱いと多し。まづ江は萬葉緯に々とあるに從ふべし。次に通島鳥旗の島は衍字なり。次に鳥旗等の三字は註文に屬すべし。次に註文の鳥は波の誤とすべし。次に久妓の下に等を脱せり。次に今は萬葉緯に嶋とあるに從ふべし。々を今と誤れるなり。次に一の資波島は衍字なり。次に註文の波の上に資を落せり。次に久々は下文及萬葉緯に冬とあるに從ふべし。次に菖は※[草冠/福の旁]の誤とすべし。次に米は萬葉緯に從ひて菜に改むべし。終に烏葛黒葛也以下は註文とすべし。されば原文は
 
   塢※[舟+可]《ヲカ》縣 縣東側近有2大江口1。名曰2塢※[舟+可]水門《ヲカノミナト》1。堪v容2大舶1焉。從v彼《ソコ》通2鳥旗《トハタ》1澳〔右△〕名曰2岫門《クキト》1(鳥旗(ハ)等波多也。岫門(ハ)久妓等也)。堪v容〔右△〕2小船1焉。海中有2兩小島1。其一曰2河※[白+斗]〔右△〕島1。島生2支子1海出2鮑魚1。其一曰2資波《シバ》島1(資波(ハ)紫摩也)。兩島倶生2烏葛冬※[草冠/福の旁]1(鳥葛(ハ)黒葛也。冬※[草冠/福の旁](ハ)迂〔右△〕菜也)
 
(56)かく有りしならむ。否なほ誤と認むべき字あり。下に云ふべし。これと栗田氏の復原せられたるとを比較せむに彼本には塢※[舟+可]縣々東側近の々を之とせり。塢※[舟+可]縣は所謂見ダシなれば之字を以て表文に續けむは可ならず。下に出すべき筑後風土記逸文に上妻縣縣南二里有2筑紫君磐井之墓墳1とあり又肥前風土記逸文に松浦縣々東三十里有2※[巾+皮]搖岑1とあるをも思ふべし(松浦縣々東の々をも彼本には之とせり)。次に彼本には從彼通島鳥旗澳名の島を存じて從v彼通v島と返讀したれどこは彼《ソコ》ヨリ鳥旗ニ通ヘル澳ノ名ヲとよむべきなれば島字は有るべきならず。次に註文の鳥旗等波多也を鳥旗(旗鳥波多也)としたれどこは考證の文辭に據れば(鳥旗鳥波多也)の誤植なるが如し。さて栗田氏は鳥旗はトリハタと訓べしと云はれたれど若トリハタと訓むべくば鳥旗等利波多也と註すべし。鳥を鳥と註するは訓註の例にあらず。其上に萬葉集卷十二に
 ほととぎす飛幡《トハタ》之浦にしく浪のしくしく君を見むよしもがも
とあり、今も戸畑といひ又原文に鳥旗の下に等字あれば(栗田氏は之を削られたれど之を存じ)ただ下の鳥字を波に改めて鳥旗は等波多也とすべし。次に彼本には海出鮑魚の海の下に中字あり。此字仙覺全集本にも萬葉緯にも無きのみならず島生支子に對したる(57)なれば海出鮑魚とあるべく海中とはあるべからず。次に彼本には烏葛黒葛也をも本文とせり。こは上なる鳥旗・岫門・資波の例に倣ひて註文とすべし。又彼本にも萬葉緯にも妓を岐としたり。こはいづれにてもあるべし。妓岐ともに通用音はギなれど妓は巨綺切、岐は巨支切にて元來清音なり。又妓をキに充てたる例は萬葉集卷十八にホトトギスイマモナカヌカキミニ妓可勢牟とあり。キに岐を借りたる例は無數にて擧ぐるに堪へず
此文は郡を縣といへれば乙類なり○塢※[舟+可]はヲカとよむべし。古典に崗とも遠河(續紀天平十二年九月。但異本には遠珂)とも書けり。延喜式・和名抄以來は遠賀に定まれり。今字に引かれてヲンガと唱ふるはあさまし。中古御牧郡とも稱せし事あり○遠賀郡は筑前國の東北端に在りて西南は宗像郡に、南は鞍手郡に、東は豐前國|企救《キク》郡に隣り北は海(響灘)に向へり○縣は郡なり。縣東の縣は郡家なり。地域の郡にあらねばこそ側近と云へるなれ。考證にその側近を相離して縣ノ東側ニ近クとよめるはわろし○大江口は遠賀川の河口なり。遠賀川は一名を蘆屋川といふ。國中第一の大河なり。その流域には炭田多し。塢※[舟+可]水門《ヲカノミナト》は神武天皇紀・萬葉集卷七に崗水門と書き仲哀天皇紀に入2崗浦1到2水門1といへり○縣東側近有大江口といへるを見れば遠賀郡家は今の蘆屋町大字蘆屋附近に在りし(58)なり。但管内志崗水門の條(上卷五四一頁)に
 今の葦屋浦は誠に沙の吹寄せたるにて古き世の地名の例に引出べくもあらずと云説もあり
といひ(同五四七頁崗浦の條の註にも)夙く續風土記(三〇六頁)にも「此港近き世まで三頭《ミツガシラ》の上、猪隈の邊まで入海ふかくして大船滯なく上下せしと云」といへり○本郡の東部に島郷といふ半島あり。中央の大部分を今も島郷村と稱し東部を若松市とし西端の小部分を葦屋町の大字山鹿とせり。此半島昔は離島なりしなり。地圖に就きて半島の地形を熟視するにさながら獣の東に向ひて口を開けるに似たり。其上顎は若松市にして口内は所謂|洞海《クキノウミ》なり。昔は其口の隅より項《ウナジ》に亙りて遠賀川の河口に通ふ細く長き海峽ありしに世と共に埋もれ行きて今は江川といふ溝渠の如きものとなりて縣道の南に沿ひ處々に橋さへ渡したれば土人もそが海峽なる事を知らざるものあり。其西端は山鹿にて東端は今は二島《フタジマ》なれど近古までは蜑住《アマズミ》なりきといふ。即内海蜑住まで※[さんずい+彎]入してここより狹くなりたりきといふ。古語のクキは今のヌケアナなればクキトといふ名は此海峽より起りて今いふクキノ海竝に其東北口なる所謂大渡川に及びしならむ。管内志(上(59)卷五四三頁)に「岫門といふは若松・戸畑兩村の間の湊を云」といへるは從はれず。又、名義は此處より海潮岡湊の方に漏《クキ》出るに依て負せたりと聞ゆ」といへるも非なり○澳を近世オキとよめばそれに目慣れて此字を此處に用ひたるを訝る人無けれど澳は字書に音イク、隈※[涯の旁]也。與v※[こざと+奥]通また音アウ、深也とあれば入江の岸又深きことにて沖の義は無し。我邦の古典にはオキを奥と書けるが奥を一般にオクとよむ事となりし後之と別たむが爲にオキの時には三水を添へて澳と書きしにて漢字の澳の字義を尋ねて沖に充てたるにはあらじ。さらばオキの澳は一種の邦製宇と謂ふべし。さて澳をオキとよむは近世の事にて古典にオキを澳と書ける例なく又次に海中有兩小島といへるはソノ海ノ中ニといふ事なればそれと照應せしむべく豫海字をすゑざるべからず。從ひて澳は海の誤字と認めざるべからず。かくの如くなれば從彼通烏旗海名曰岫門とはソコヨリ鳥旗《トハタ》ニ通フ海ノ名ヲ岫門ト曰フと訓みて遠賀川の河口より戸畑に通ずる海をクキトといふと心得べし。今の遠賀川の河口の上古に比して狹く又淺くなりたるべき事は特に言ふを要せじ○堪容小船の容は通の誤か。岫門は湊にあらざれば上なるヲカノミナトの如く船ヲ容ルルニ堪ヘタリとは云ふべからざればなり○所謂洞海の頸部
(60) 〇遠賀郡誌には之を大渡川といへり。但益軒は今いふ洞海を大渡川と云へり。又地名辭書には管内志の如く此頸部を岫門に充てたり
即若松市と戸畑市との間に中島といふ小島あり。又其西南に葛島といふがあり。前者は戸畑市に、後者は若松市に屬せり。又後者は明治の中年に埋立に由りて原の三倍大となりしなり。河※[白+斗]島・資波島は此二小島なるべし。但いづれがいづれにか知るべからず。葛《カヅラ》島といふ名は本文に倶生烏葛とあるに由ありて聞ゆ○河※[白+斗]は續風土記にカバと傍訓せり。管内志にもカバシマと傍訓して
 加波志萬と訓べし。名義詳ならず。樺櫻など有て負せたる名にはあらぬか
といへり。此傍訓は仙覺抄の一寫本に據れるのみ。同じき全集本の傍訓にはカゴとあり。考證に
 本書にカハシマとよめり。※[白+斗]は字書を考ふるに斛の字なるべし。※[百+斗]與v斛同とありて斛字なれば河※[白+斗]をつづけてカハとも訓がたきにや。よく考ふべし
といへり。晋書列傳卷二十七胡奮傳に奮弟烈屯2於萬※[百+斗]堆1とありて同音義に※[百+斗]與v斛同とあり字書にも斛或作v※[百+斗]とあれば白扁を百扁の誤として河字と聯ねてカゴクとよむべ(61)きか。又は憶・則・俗・賊・得・特・徳・欲などをオ・ソ・ト・ヨなどに借れるを例として全集本の傍訓の如くカコ又はカゴとよむべきか。げにいとよく考ふべき事なり
 ○因にいはむ。續紀天平十一年十二月に蜜三※[白+升]とあり。こも亦斛の俗字なり。斗旁を升旁に作れる例は續紀考證卷五の三十七丁裏に擧げたり
○支子は梔子にてクチナシなり。肥前風土記などにも見えたり。鮑はアハビなり。豐後風土記には蚫と書けり。之を鮑魚と書けるは支子に對して二字とする必要ありし故なるべけれど如v入2鮑魚之肆1久而不v聞2其臭1などの鮑魚にまがひて快からず。孔子家語・史記始皇本紀などの鮑魚はシホヅケノ魚なり○資波ハ紫摩ナリといへる摩はバに充てたりと認むべし。波はマとよむべからざればなり。摩をバに充てたる例は日本紀にシガナケ摩、タレカカケムヨ、アタラスミナハまたウマナラ摩、ヒムカノコマとあり○烏葛ハ黒葛ナリとあるはツヅラなり。播磨風土記(揖保《イヒボ》郡家島以下)にはなべて黒葛とあり○考證に冬※[草冠/福の旁]冬菖を共に冬薑の誤として
 賦役令に山薑一升また和名抄に薑久禮乃波之加美などあるものなるべし
といへり。按ずるに和名抄飲食部に山葵和佐比。漢語抄云山薑とあり。播磨風土記|宍禾《シサハ》郡(62)|雲箇《タルカ》里|波加《ハカ》村の下に其山生2山薑等1とあり齋宮式に山薑二斗(飛騨)などあるもワサビなるべけれど、ワサビは元來山谿に生ずるものなれば恐らくはここにかなひ難からむ。又クレノハジカモ即今いふシヤウガは我邦に野生は無からむ。古事記なる神武天皇の御製歌にカキモトニウヱシ波士加美と見えたるは今の何なるか知られねどシヤウガが外國より渡りし時我邦に固有なるハジカミに似たれば之にクレノハジカミと名づけしにこそ。されば考證の説は從はれず。前に云へる如く※[草冠/福の旁]は原に從ひ菖は※[草冠/福の旁]の誤とすべし。さて冬※[草冠/福の旁]とは何なるか。※[草冠/福の旁]《フク》は夙く毛詩小雅祈父に我行2其野1、言《ココニ》采2其※[草冠/福の旁]1とあれど其物今は知られず。但少くともここに冬※[草冠/福の旁]といへるはクワヰ・オモダカ・ヤマゴバウなどにはあらざるべし。一名を何菜といへればなり。恐らくは十字花科の野生植物ならむ。※[草冠/福の旁]は音フク、但匐即※[草冠/服]とは韻を異にせり。迂菜は一本に※[しんにょう+千]菜とあり。※[しんにょう+千]は遷の俗字なり。迂菜を以て冬※[草冠/福の旁]を曉したるを思へば迂菜は耳遠き名にはあるべからず。國不明の逸文に寄柏|御角柏《ミツノガシハ》也と註したるを思ふべし。或は※[しんにょう+千]菜即遷菜の誤にて所謂冬※[草冠/福の旁]を當時ウツリ菜といひしか○仲哀天皇紀に
 八年春正月己酉朔壬午筑紫ニ幸ス。時ニ崗縣主ノ祖熊鰐、天皇ノ車駕《イデマシ》ヲ閲キ豫、百枝ノ(63)賢木《サカキ》ヲ拔取リテ九尋船ノ舳ニ立テ、サテ上枝ニハ白銅《マスミノ》鏡ヲ掛ケ中枝ニハ十握劔ヲ掛ケ下枝ニハ八尺瓊《ヤサカニ》ヲ掛ケテ周芳《スハ》ノ沙麼《サバ》之捕ニ參迎ヘサテ魚鹽《ナシホ》ノ地《トコロ》ヲ獻ル。因リテ奏言《マヲ》サク。穴門ヨリ向津野大済マデヲ東門トシ名籠屋大済ヲ以テ西門トシ歿利《モツリ》島|阿閇《アヘ》島ヲ限リテ御筥トシ柴島ヲ割キテ御※[扁+瓦]《ミナベ》トシ逆見海ヲ以テ鹽地トセムト。カクテ海路ヲ導シテ山鹿岬ヨリ廻リテ崗浦ニ入り水門ニ到ルニ御船得進マズ。……則船得進ミキ。皇后別船ニテ洞海《クキノウミ》ヨリ入ルニ潮|涸《ヒ》テ得進マズ。時ニ熊鰐更ニ還リテ洞《クキ》ヨリ皇后ヲ迎ヘ奉ルニ御船ノ進マザルヲ見ツ。惶懼シテ忽ニ魚沼烏池ヲ作リテ悉ク魚鳥テ聚ム。皇后|是《コノ》魚烏ノ遊ブテ看テ忿心稍解ク。潮滿ツニ及ビテ崗津《ヲカノツ》ニ泊《ハ》ツ
といへり。因に此文の地理に就きて聊所見を述べむに、まづ諸書に熊鰐を崗縣主の如く心得たるは疎なり。熊鰐は筑紫の一地方の酋長のみ(五十跡手《イトデ》も然り)。此時までは皇化を蒙らざりしなり。其子孫の代に至りて始めて崗縣主に任ぜられしなり。此時にはまだ崗縣は置かれざりしなり。さればこそ崗縣主祖といへるなれ。又さればこそ或地域を畫して天皇に獻ぜしなれ。統治の重かりし中國に於て又は綱紀の立ちし後世に至りて私有の墾田を奉りてミヤケとせし類にあらず○周芳《スハノ》沙麼《サバ》之浦は後の周防國佐波郡の海邊(64)なり○此文の用字に就いて論ずべき事二三あれど本書にはあらぬ日本紀の考證に紙を資すべきにあらねばそはすべて省略せむ。されば痒きを掻くに衣を隔てたらむ感無きにあらざるべし。さて魚鹽地(ナシホノトコロ)は魚鹽御用の地なり。自2穴門1至2向津野大済1爲2東門1以2名籠屋大済1爲2西門1とある後半は自2穴門1至2名籠屋大済1爲2西門1と改めて心得べく、又向津野及名籠屋は穴門の對岸の地と認むべく、又大済は穴門筑紫間の航路の津頭と解すべし。向津野を長門國の一地に擬し名籠屋大済を洞海の口なる戸畑と若松との間の渡とせるは文義を解せざるなり。名籠屋《ナゴヤ》は今の戸畑市の名古屋岬なり。名籠屋大済は實に此岬と長門國豐浦郡との間の航路なり。夙く管内志に
 此地長門國の海濱と相對へり。其間三四里或は六七里に至る。没利島・阿閇島・柴島皆此済にあり
といへり。向津野は今の門司港附近ならむ○限2没利島・阿閇島1爲2御筥1割2柴島1爲2御※[扁+瓦]1以2逆見海1爲2鹽地1とある限・割はしばらく以に改めて心得べし。沒利《モツリ》島は今の六連《ムツレ》群島にて阿閇《アヘ》島は今の藍島なり。或書には之を筑前國糟屋郡の相島と混同せり。良き地圖の無かりし時代の學者の困難は察するに餘れり。其地理説の誤れるは深く咎むべからず。但明治(65)初年の官撰なる日本地誌提要にも相島《アヒノシマ》古名|阿閇《アベ》島或ハ藍島ニ作ルといへるは不審なり。日本書紀通釋に柴島を風土記の資波島とせり。心引かるる説にはあれど彼資波島は洋中の島にあらねば六連島・藍島と權衡を失ひていかがあらむ。藍島の西に白島あり。或は是にやと思ひしに夙く續風土記|白《シラ》島の條(三三二頁)に
 日本紀仲哀紀に柴島を割て御※[扁+瓦]とすと有。柴島は此白島の事ならんか。柴多く生ずるが故に柴島といひしを後にいひ轉じて白島と云けるにや。白と柴と其訓相近ければなり。又若松の入海にある嶋をも資波島と云(風土記に出たり)。然れども是は狹き入海の中に在てあらはれざる所なれば御※[扁+瓦]とするとはいひがたからんか
といひ管内志にも此説を擧げて「柴島は正しく白島の雄鳥の事と聞ゆ」といへり。但管内志に風土記の資波島と日本紀の柴島とを同一視して「柴島は則資波島なり」といひ又河※[百+斗]島を白島の雌島に充てたるは非なり。思ふに阿閇島を藍島と訛りし如く柴島を白島と訛りけむ。又今男白島・女白島と分稱したれど古は併せて柴島とぞ稱しけむ○逆見海を長門國豐浦郡武久(○今の下關市の内)の沖とせる説あれど、これも熊鰐の領分即筑紫の沿岸ならざるべからず。續風土記逆見津の條(三三二頁)に
(66) 岩屋と脇田との間にあり(○今の島郷村の内なり)。潮のかはる所なり。是より潮東西に分るるつじなり。凡福岡より大坂に上る海路に潮のかはるところ所々にあり。海中の地勢高下によれるなるべし。……日本紀に逆見海を鹽地とすとあり。此所の事にや
といひ日本地理志料遠賀郡山鹿の條(卷五十九の二十七丁)に今坂水村葢是と云へり。坂水は即逆見津にて島郷村大字|安屋《アンヤ》の字なり○※[扁+瓦]は音ヘン、土鍋なり。之に對したれば筥も亦食器ならざるべからず。筥には廣狹二義あるが狹義の筥は今のメシビツなり。家ニアレバ笥ニモル飯ヲのケに同じ。されば筥はハコ(又はケ又はイヒケ)とよむべく、クシゲとはよむべからず。さて爲2御筥1爲2御※[扁+瓦]1とは天皇のめで興じたまふべく、ことさらに戯れて云へるなり。これを供御の米を産する處、おなじき魚を漁る地と解せるは頗不常識なり○山鹿岬は山鹿の東北なる岩屋崎一名妙見崎なり。崗水門が遠賀川の河口なる事は上に云へる如し○さて何故に皇后の御船は別路を取りしかと云ふに天皇の御船は大なれば岫門を通はざれど皇后の御船は小ければ風浪の虞なき岫門より導かせ奉りしならむ。然るにその比較的に小き御船も潮干に逢ひて得進まざりしなり○時熊鰐更|還之《カヘリテ》自v洞奉v迎2皇后1とは天皇を崗ノミナトに入れ奉りし後に引返して小舟にてクキドを(67)經て皇后を迎へ奉りしなり。忽作2魚沼鳥池1悉聚2魚鳥1とあれどかねておのが慰に設けたりし魚沼鳥池を見せ奉りしならむ。續風土記洞海の條(三三六頁)に
 潮干て皇后の御舟進まざりし所は海士住(○今の島郷村の大字蜑住)の新村の邊新田の内七反田と云所に鵜巣《ウノス》と云岩の背あり。此所に御船すわりてすすまざりし由昔より云傳へたりと村老語れり。魚沼鳥池を作りし所も此山の下今の新村の邊ならん。此所は昔潮の入口なり。……又手野村の松原の内に池大小二あり。こうづが池と云。是則魚沼鳥池ならんかといふ者あり。然れども此所は洞の海より甚遠く方角ちがへり。且潮の干たる間は久からざる物なればかかる大池は俄に作るべからず。皆牽合せる虚説なれば必信ずべからず。俄なる事なれば唯御船のとまりし洞の梅の入口のほとり海士住のあたりに忽に作れる小池なるべし。いとかりそめの事なれば其跡後代までは殘るべからず
といへり。今にしては知るべからず
 
   藤原|宇合《ウマカヒ》          甲乙以外
 
(68)筑前國風土記云。當2奈良朝庭天平四年歳次壬申1西海道節度使藤原朝臣諱宇合嫌2前議之偏1孝2當時之要1者(○萬葉集仙覺抄巻一總論所v引)
 
 新考 仙覺抄に尾張國風土記の一節と備中國風土記の一節と此一節とを引きて
 以前三箇國風土記之文以2聖武天皇御宇1稱2平城1事更以無2相違1矣
といへり。但こは仙覺の失考にて平城朝・平城宮・奈良宮・奈良朝廷などは元明天皇の御代より光仁天皇の御代までを云へるなり○考證本に奈良朝の下の庭を脱せり。朝廷を我邦の古典には多くは朝庭と書けり。漢籍にも南北史などに往々然書けり〇歳次壬申の歳は歳星即木星なり。又太歳といふ。十二年にして天を一周す。俗に十二年をヒトマハリといふは即歳星の一周なり。壬申は方位なり。歳星が壬申の方位にある年を歳次壬申又は歳在壬申といふなり。さればこそ歳次をホシヤドルとよむなれ。因にいふ。古きものには皆たとへば天平四年歳次壬申又は天平四年壬申と書けり。天平四壬申年とやうに書くは近古以來の習なり○續日本紀天平四年に
 八月丁亥正三位藤原朝臣|房前《フササキ》爲2東海東山二道節度使1、從三位多治比眞人縣守爲2山陰(69)道節度使1、從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1、道|別《ゴトニ》判官四人・主典四人・醫師一人・陰陽師一人
同六年に
 夏四月王子諸道節度使事既訖。於v是令d國司(ノ)主典已上掌c知其事u
とあり。宇合は鎌足の孫、不比等の第三子、房前の弟なり。天平四年には年三十九歳なりき。節度使は唐制に倣ひて置かれしなるが我國にては常置の職にあらず。天平寶字五年十一月にも亦東海道・南海道・西海道の節度使を置きて各所管國の船・兵士・子弟・水手を檢定せしめられし由見えたり。されば今の陸海軍特命※[手偏+僉]閲使に似たるものなり。萬葉集卷六に天平四年壬申藤原宇合卿遣2西海道節度使1之時高橋連蟲麻呂作歌一首并短歌また天皇賜2酒節度使卿等1御歌一首并短歌あり(新考一〇八〇頁以下)また懷風藻(群書類從卷百二十二)に正三位式部卿藤原朝臣宇合六首(年四十四)とありて
 五言奉2西海道節度使1之作 往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1
とあり。享年を寶永刊本に年三十四とせるは誤ならむ。此人の名は國史に又馬養と書きたればウマカヒなるを又宇合と書けるは唐人の名に擬したるにて合の音カフなれば(70)そを轉じてカヒに充て又マを略して宇合と書けるなり○考證に
 嫌前議之偏云々二句は節度使にてありける時の奏状などの語なるべく思はるれど前後に文なければ何事を云るにか詳ならず
といへり。けに然思はる○此文に奈良朝庭とあれば此風土記は平安朝時代に至りて作られしものなり。然るに甲乙兩種の風土記のうち甲本は勿論の事、乙本も亦奈良朝時代に成りしものと思はるれば此逸文は甲乙兩種以外のものと認むべし
 
   神石          甲乙以外
 
筑前風土記に神功《ジングウ》皇后將v入2于三韓1時既臨2産月1。皇后自爲2祭主1祷之曰。事|竟《ヲハリ》還日須v産2于茲土1。于《ソノ》時月神誨曰。以2社神石1可v撫v腹。皇后乃依2神石1撫2腹心1體忽平安也。今其石在2筑前伊覩縣道邊1。後|雷霹《カムドケシテ》神石爲2三段1(○太宰管内志筑前之三子負原〔三字傍点〕之條所v引)
 
 新考 此一節は萬葉緯は勿論、栗田氏の纂訂古風土記逸文にも正宗君の採輯諸國風土(71)記にも見えず。管内志は何より採れるにか、即此逸文の出でたるは如何なる書にか知らまほし。固より甲類にも乙類にも屬せず、それより時後れたるものなれど文體、近古の僞作とはおぼえず○神功皇后とあれば漢風の謚を制定せしより後の著作なり。此皇后に漢風の謚を奉りしは何年にか明に知られねど天平勝寶三年十一月の撰なる懷風藻の序に神后〔二字傍点〕征v坎《キタ》品帝乘v乾《タカミクラ》といふ句見え桓武天皇紀天應元年七月(國史大系本續日本紀六六五頁)の栗原|勝《スクリ》子公の上言中に神功皇后〔四字傍点〕御世と見えたり○皇后自爲2祭主1祷之曰は時は異なれど日本紀に皇后選2吉日1入2齋宮1親爲2神主1とあるに似たり。但彼處には喚《メシテ》2中臣烏賊津使主《イカツノオミ》1爲2審神者《サニハ》1とあり。此處にはさる記事なけれどなほ今もサニハビト即問者を設け皇后御自は畏かれど後世の巫女の如く神ノヨリマシ即傳宣者となり給ひしならむ〇月神は神代紀に
 次月神(一書云月弓尊、月夜見尊、月讀尊)其光彩亞v日可2以配v日而治1。故亦送2之于天1
とあり。此神の託宣したまひし例は顯宗天皇紀に
 三年春二月丁巳朔|阿閇《アヘ》臣|事代《コトシロ》銜v命出使2于|任那《ミマナ》1。於v是《ココニ》月神|著《カカリ》v人謂之曰。我祖|高皇産靈《タカミムスビノ》尊有d預v鎔2造天地1之功u。宜d以2民地1奉u。我月神。若依v請獻、我當2福慶1。事代由v是還v京具奏。奉以2歌荒(72)※[木+巣]田《ウタノアラスタ》1。壹岐縣主先祖押見宿禰侍v祠
とあり。祠とあるは神名帳に見えたる葛野坐《カドノニマス》月讀神社なるが之に就きていぶかしき事あれば因に云はむ。元來月神の託宣は
 我は月神ナリ。我祖タカミムスビノ尊ニ民ト地ト(即神戸神田)ヲ奉レ。若我請ノ如クセバ我ハ幸福ヲ授ケム
といへるなれば其請の如くせむとならばタカミムスビノ尊をこそ祭るべきに月神即ツクヨミノ尊を祭りてタカミムスビノ尊を祭らざるは不審なり。思ふに初にはタカミムスビノ尊を主神とし此神の爲に民地を講ひしツクヨミノ尊を配祀せしが夙くタカミムスビノ尊は隱れてツクヨミノ尊のみ殘りしかば文徳實録以下の國史にも葛野郡月讀社また葛野月讀神といへるならむ。我かく云ふはただ事理を推してのみ云ふにあらず。通釋に引ける松尾社家譜にも
 壹岐島司卜部宿禰|忍見《オシミ》奉2幣於高皇産靈月讀宮〔七字傍点〕1以|主《ツカサドル》神事1
とあり。されば彼神社は實は葛野坐高皇産靈月讀神社と申し奉るべきなり。さて文徳實録齊衡三年に
(73) 三月丙午移2山城國葛野郡月讀社1置2松尾《マツノヲ》之南山1。社近2河濱1爲2水所1v齧。故移v之
とあれば初は山下なる大堰川の岸にありしなり。さて何故に壹岐島より卜部宿禰押見を召して奉祭せしめしかといふに阿閇臣事代に託宣せし月神は元來壹岐國にいまして(神名帳に見えたる壹岐島の月讀神社即是)壹岐の卜部氏の齋きし神なるが故なる事前人の云へる如し。神功皇后に誨へ奉りしもこの壹岐島の月神にこそ○此神石といへるいぶかし。たとひ前に略したる文ありて其中に神石の事見えたりともそは神語中の此の所指とはならざらむ。誨曰の上に云々ノ石ヲ授ケテなどいふ事あるべきなり○腹心の心はムネとよむべし。腹心は胸腹なり○雷霹は落雷なり。靈異記霹靂の訓註に可美止支乃とあり、和名抄流布本に霹靂和名加美渡計、異本に加美度岐とあり、又神功皇后前紀に雷電霹靂(蹴裂其磐)にカムトキシテと傍訓し、天智天皇八年紀に霹靂(於藤原内大臣家)にカムトキセリと傍訓せり。此等を折衷して雷霹はカムドケシテとよむべきか〇三段は三片なり。神代紀に於v是天照大神乃索2取素戔鳴尊十握釼1打折爲2三段1とあり。此文の趣にては神石は二顆にあらで一顆なり○此節は甲類の兒饗野・乙類の芋※[さんずい+眉]野と參照すべく又之に由りて此一節が甲類にも乙類にも屬せざる事を明にすべし
 
(74)   うちあげはま          不明
 
又筑前國風土記うちあげはま〔六字傍点〕の所にいはく。狹手彦連舟にのりて海にとどまりてわたることをえがたし。爰に石濶推て〔二字右△〕いはく。此舟〔二字右△〕のゆかざる事は海神の心なり。其神はなはだ狹手彦連のゐてゆくところの妾古君をしたふ。これをとどめばわたるべし。于時|△△《狹手》彦連、妾とあひなげく。皇命をかかんことをおそれてうつくしびをたちてこものうへにのせてなみにはなちうかぶと云々(○袖中抄第八まつらさよひめ〔七字傍点〕之條所v引)
 
 新考 右は慶安版本に據れるなり。考證本にはうちあげはま〔六字傍点〕をうちあげのはま〔七字傍点〕とし推て〔二字傍点〕を推量して〔四字傍点〕とし此舟〔二字傍点〕を御舟〔二字傍点〕としかかん〔三字傍点〕をかうぶらん〔五字傍点〕とせり。かうぶらん〔五字傍点〕とせるは明にわろし○此文は假名文に作り直したれば甲類とも乙類とも甲乙以外とも知るべか(75)らず〇ウチアゲハマは即甲類の打昇濱ならむ。さらば本來ウチノボル濱とよむべきなり○大伴狹手彦連の事は宜化天皇紀に
 二年冬十月壬辰朔天皇新羅ガ任那ヲ寇《オカ》シシヲ以テ大伴金村大連ニ詔シテ其子磐ト狹手彦トヲ遣シテ任那ヲ助ク。是時磐ハ筑紫ニ留リ其國政ヲ執リテ三韓ニ備ヘ、狹手彦ハ往キテ任那ヲ鎭メマタ百済ヲ救フ
とある外に肥前風土記松浦郡鏡渡及|褶振《ヒレフリ》峰の條また乙類逸文|※[巾+皮]搖岑《ヒレフリノミネ》の條また萬葉集卷五の歌の序に見えたり。參照すべし○石勝を考證にはイハカツとよみて人名とせり。或はイシノスクリにて氏は石(勝はカバネ)か○所謂ウチアゲハマに接したる志賀島に志賀海神社三座いまし又那珂郡(今福岡市内)にも住吉神社三座いませど、ここに海神といへるは指す所あるにあらじ○那古君の出自は知られず。ナゴといふ地名は諸國にあり。萬葉集にも攝津及越中のナゴ見えたり。又當國宗像郡のナゴ山見えたり○彦連の上に狹手を補ふべし。狹手彦といふ名なれば狹手は略すべからず。ウツクシビは恩愛なり○本文の傳説は日本武尊の妃弟橘媛がハシリミヅノ海に入りし事に似たり。特に日本紀に媛の辭に今風起浪|泌《ハヤク》王船欲v没。是必海神心也といふ事見え又古事記には
(76) 海ニ入ラムトスル時ニ菅疊八重・皮疊八重・※[糸+施の旁]《キヌ》疊八重ヲ波上ニ敷キテ其上ニ下坐《オリマ》シキ
とあり。恐らくは同原の傳説ならむ○那古君と彼松浦佐用比賣と別人なる事いふまでも無し。夙く顯昭も「是は又こと妾を相ともなひて海を渡りけりと見えたり」と袖中抄に云へり
 
(77)  筑後國 四節
 
   總説          甲類
 
私記曰。問。此號若有v意哉○答。先儒之説有2四義1。一云。此地形如2木兎《ツク》之體1。故名v之也。木兎(ハ)鳥之名、此《ココニ》云2都久1。二、公望案筑後國風土記云。筑後國者本與2筑前國1合爲2一國1。昔此兩國之間(ノ)山(ニ)有2峻坂1往來之人|所v駕《ノレル》鞍※[革+薦の草冠なし]《シタグラ》被2摩盡1。土人曰2鞍※[革+薦の草冠なし]盡《シタグラツクシ》之坂1。三云〔二字右△〕。昔此堺上有2麁猛《アラブル》神1往來之人半生半死其數極多。因曰2人命|盡神《ツクシノカミ》1。于《ソノ》時筑紫君・肥《ヒノ》君等占v之|今〔左△〕《令》2筑紫君等之祖|甕依《ミカリ》姫爲v祝《ハフリ》祭1v之。自v爾以降行路之人不v被2神〔左△〕《殺》害1。是以曰2筑紫神1。四云〔二字右△〕。爲v葬2其死者1伐2此山木1造2作棺輿1。因v茲山木|欲v盡《ツキムトス》。因曰2筑紫國1。後分2兩國1爲2前後1(○釋日本紀卷五述義一、神代紀筑紫洲〔三字傍点〕之註所v引)
 
 新考 律書殘篇に筑後國郡十、郷七十、里百八十七とあり。又延喜民部式に
 筑後國 上 管御原・生葉・竹野・山本・御井・三瀦・上妻・下妻・山門・三毛
(78)和名抄國名に筑後(筑紫乃三知乃之里)、同郡名に
 筑後國(國府在2御井郡1) 管十 御原(三波艮)生葉(以久波)竹野(多加乃)山本(也萬毛止)御井(三井)三瀦(美無萬)上婁(加牟豆萬)下妻(准v上)山門(夜萬止)三毛(三計)
とあり。其順序は東北端なる生葉を先とし西南端なる三毛を最後とせり。ただ西北端なる御原を最前に擧げたるのみ右の順序にたがへり。もし順序を正さば御原は御井の前に擧ぐべきなり。但山本郡とはつづかずて山本・御原・御井とはついでがたければ、ことさらにまづ初に擧げたるならむ。三瀦は延喜式の一本に三※[さんずい+猪]とせり。※[さんずい+猪]は瀦と同じ。瀦は説文に水所v停也とあればヌマに充つべし。されば三瀦はミヌマと訓むべく和名抄にミムマと訓註したるは訛と知るべし。神代紀に此筑紫水沼〔二字傍点〕君等祭神是也とあり(筑前國身形郡の註に全文を引けり)、景行天皇十八年紀に水沼顯主とあり、雄略天皇紀十年に到2於筑紫1是鵞爲2l水間〔二字傍点〕《・ミヌマ》君犬所1v囓死とあるを證とすべし。上妻下妻をカムツマ・シモツマとよませたるは字に引かれて誤れるなり。景行天皇紀十八年に
 到2八女《ヤメ》縣1則超2前山1以南望2粟岬1詔之曰。其山、峯岫重疊且|美麗之《ウツクシキコト》甚。若神在2其山1乎。時水沼縣主猿大海奏言。有2女神1名曰2八女津媛〔四字傍点〕1。常居2山中1。八女國〔三字傍点〕之名由v此起也(○此一節も風(79)土記に據りて書けるにこそ)
とあり又持統天皇紀四年九月に軍丁筑紫國上|陽※[口+羊]《ヤメ》郡大伴部|博麻《ハカマ》とあるなどに依りて宜しくカミツヤメ・シモツヤメとよむべし。三毛は夙くより三池と書けり。明治二十九年に山本・御井・三原の三郡を合せて三井郡とし、生葉・竹野の二郡を合せて浮羽郡とし、上妻下妻二郡を合せて八女郡とせしかば今は浮羽《ウキハ》・三井《ミヰ》・三瀦《ミヅマ》・八女《ヤメ》・山門《ヤマト》・三池《ミイケ》の六郡となりて福岡縣の所管となれり○筑後國は西は肥前に、北は筑前に、東は豐後に、南は肥後に隣り西南は有明海に臨めり。筑後川、東より西に流れて筑前を界し更に西南に流れて肥前を隔てたり○筑後國の名ははやく景行天皇紀十八年に到2筑紫後國〔四字傍点〕御木1居2於高田行百1とあれど、こは後の稱に依りて記せるのみ。されば續紀に和銅六年八月丁巳以2從五位下道君|首《オビト》1爲2筑後守1とあるを國名の初出とすべけれど文武天皇紀二年三月に筑前國宗形郡とあり正倉院文書大寶二年の戸籍に筑前國嶋郡とあるを思へば此時はやく筑前筑後の分れたりし事を知るべし。然も上に引ける如く持統天皇紀四年八月に筑紫國上陽※[口+羊]郡とあれば二國の分れしは持統天皇四年八月以後文武天皇二年三月以前なり
三云の下に昔此堺上とあるは二云の下に昔此兩國之間山有2峻狹坂1とあるを承け、四云(80)の下に爲v葬2其死者1とあるは三云の下に往來之人半生半死其數極多とあるを承けたるなれば筑後國者と云へるより後分2兩國1爲2前後1と云へるまでは一つづきの文にて全部筑後國風土記の原文なり。誤りて土人曰2鞍※[革+薦の草冠なし]盡之坂1までを風土記の文とし三云以下を私記の本文とすべからず。さて筑前國者より後分2兩國1爲2前後1までを風土記の文とすれば私記の本文に一云・二云といへるに準じて三云・四云とはいふまじきなり。恐らくはもと或云昔此堺上有2麁猛神1云々、又或云爲v葬2其死者1云々などありしを私記の本文に先儒之説有2四義1といひて風土記外の詮を一云とし風土記の第一説を二としたれば或云・又或云を三云・四云とせざるを得ざりしならむ○筑紫に廣狹の二義あり。たとへば古事記に次生2筑紫島1といへるは九州にて廣義なり。其下文に筑紫國謂2白日別1といへるは後世の筑前筑後にて狹義なり。さて本居宣長は狹きを原とせり。恐らくは原は後の筑前國御笠郡の一地方よりぞ起りけむ○筑後國者本與2筑前國1合爲2一國1といひ後分2兩國1爲2前後1といへるは肥前風土記の總説に
 肥前國者本與2肥後國1合爲2一國1……後分2兩國1而爲2前後1
といひ豐後風土記の總説に
(81) 豐後國者本與2豐前國1合爲2一國1……後分2兩國1以2豐後國1爲v名
といへると一揆なり○筑前と筑後とは略筑後川を界としたれば昔此兩國之間山有2峻狹坂1といへるに擬すべき山無し。又萬葉集卷四に
 太宰帥大伴卿上v京之後筑後守|葛井連《フヂヰノムラジ》大成悲嘆作歌 今よりは城《キノ》山道はさぶしけむわが通はむと念ひしものを
とありて筑後の國府(在御井郡)より太宰府に赴くには肥前の東端なる基《キノ》山を越えしなり。されば筑前筑後兩國の間の山とあれど實は筑前肥前兩國の間の山なり。なほ下に云ふべし○※[革+薦の草冠なし]は音セン、多くは右上に草冠を添へて書けり。鞍※[革+薦の草冠なし]の二字を連ねてシタグラと訓むべし。今いふキッツケなり〇三云は前にいへる如く或云と復原して心得べし○麁猛神は考證に從ひてアラブル神とよむべし。日本紀に荒神・暴神・邪神・惡神など見えたるその荒神・暴神を舊訓にアラブル神とよみ邪神をアシキ神とよめるを宣長は古事記に葦原中國者云々於2此國1道速振《チハヤブル》荒振〔二字傍点〕國神等之|多在《オホカル》云々とあるに據りて邪神をも日本紀・古事記なる惡神をもアラブル神とよめり(古事記傳卷七參照)○荒神ありて往來の人の一半を殺しし例は播磨風土記|賀古《カコ》郡|鴨渡《アハハ》里・揖保《イヒボ》郡麻打里及|枚方《ヒラカタ》里・神前《カムザキ》郡埴《ハニ》岡里ま(82)た肥前風土記|基肄《キノ》郡|姫社《ヒメゴソ》郷などにも見えたり。半生半死はたとへは十人の内五人は死にきと云へるなり。夙く播磨風土記新考二三九頁にいへり。さて荒神のいまししは筑前肥前の界なる基《キノ》山なれば筑紫君と肥君と相會して祟の由を占問ひしなり○今筑紫君等之組甕依姫爲v祝祭v之とある今は令の誤なり。肥前風土記姫社郷の下にも
 昔此|門《ト》之西有2荒神1行路之人多被2殺害1半凌半殺。于時卜2求祟由1兆云令〔右△〕3筑前國宗像郡人珂是胡祭2吾社1とあり。今も占之とあれば兆に依りて祝を擇びしにこそ。考證本に祝を祀に誤れり○不被神害の神は殺の誤なり。姫社郷の下にも自v爾已來行路之人不v被2殺〔右△〕害1とありて殆同文なり○筑紫神は神名帳に見えたる御笠郡筑紫神社にて今も基山の北麓なる筑前國筑紫郡筑紫村大字|原田《ハルダ》に坐すなり。祭神は社傳の如くイダケルノ神ならむ。考證及特選神名牒の疑は當らず。荒ぶる神即祟をする神は無頼なる神に限らざればなり○國界の山に荒神ありて祟りしかば其祟の由を占問ふに肥君も與りし事又其神が今の筑紫神社なる事は亦此國界が實は兩筑の界にあらで筑前肥前の界なる事の證とすべし〇四云は前に云へる如く又或云と復原して見べし○棺輿を考證にヒトキとよめり。棺及輿に(83)てヒトキ即ヒツギとそを舁くコシ即手ゴシとなり。音讀して可なり
 
   三毛郡          甲類
 
 公望私記曰。案
 
筑後國風土記云。三毛郡云云。昔者《ムカシ》※[人偏+東]〔左△〕《櫟》木一株生2於郡家南1。其高九百七十丈。朝日之影(ニハ)蔽2肥前國藤津郡多良之峯1暮日之影(ニハ)蔽2肥後國山鹿郡荒爪之山1云云。因曰2御木國1。後人訛曰2三毛1今以爲2郡名1櫟木與2※[人偏+東]木1名稱各異。故記v之(○釋日本紀卷十述義六、景行天皇紀歴木〔二字傍点〕之註所v引)
 
 新考 景行天皇紀に
 十八年秋七月到2筑紫後國御木1居2於高田行宮1。時有2僵樹1長九百七十丈焉。百寮蹈2其樹1而往來。時人歌曰。阿佐志毛能、瀰概能佐烏麼志、魔幣菟耆瀰、伊和※[口+多]羅秀暮、瀰開能佐烏麼志(84)(○アサシモノ、ミケノサヲバシ、マヘツギミ、イワタラスモ、ミケノサヲバシ)。爰天皇問之曰。是何樹|也《ゾ》。有2一老夫1曰。是樹者|歴木《クヌギ》也。甞未v僵之先當2朝日暉1則隱2杵島山1當2夕日暉1△覆2阿蘇山1也。天皇曰。是樹者神木。故是國宜v號2御木國1
とあり。こは古事記仁徳天皇の段なる兎寸《ウキ》河の西の高樹、播磨風土記逸文なる駒手御井の楠、肥前風土記なる佐嘉郡の樟樹、今昔物語卷三十一なる近江國|栗太《クリモト》郡なる柞などと同形式なる大木傳説なり○※[人偏+東]木を考證に棟と書けり。さて
 書紀に歴木とあり。棟木を歴木にあてて書るにや。又歴木とは異なる木か。未だ考へず
といへり。按ずるに櫟の草體を棟の草體に見まがへ更に木扁を人扁に誤れるならむ。文選張衡南都賦の李善註に櫪與v櫟同といひ新撰宇鏡享和本にも櫪櫟同、久奴木とあり。私記に櫟木與2※[人偏+東]木1名稱各異とあれば※[人偏+東]に誤りしは古き事なり○多良之峯は肥前風土記の託羅《タラ》之峯にて今の多良岳なり。藤津郡と三毛郡即今の三池郡とは有明海を隔て多良岳は三池郡の西方に當れり。又山鹿郡は三池郡の東方に當れるが其荒爪山は今知られず○御木國はミキノクニとよむべし。本書の趣にては大木ありしが故に其地を御木國といひしを後人ミキをミケと訛りそのミケ終に郡名となりきとなり。ミキのミは美稱(85)にてなほ路《チ》をミチといひ嶺《ネ》をミネといふがごとし。日本紀の説は頗本書の説と異なり。混同すべからず。即日本紀の趣にては其大木は景行天皇の行幸の時夙く倒れたりしにて又天皇が其大木をめづらしみて其地に御木國と名づけたまひしなり。さてその御木國は時人の歌にミケノサヲバシとよめるに由りてミケノクニとよむべし。ミケノサヲバシのミケを紀に瀰概又瀰開と書けり。概・開は紀に共にケの假字とせり。又同天皇紀十二年なる御木川上の註に木此云v開《ケ》とあり。又釋日本紀卷六述義二なる唯以2二一兒1の註に
 古事記及日本新抄並云。謂d易2子之一木1乎u。古者謂v木爲v介《ケ》
とあり。されば上古には木をケともいひしなり。但木の古言はケぞとは心得べからず。又萬葉集卷二十に
 ま氣《ケ》ばしらほめてつくれるとののごといませははとじおめがはりせず
 まつの氣《ケ》のなみたるみればいはひとのわれをみおくるとたたりしもころ
とあれど、こは訛音多き東人の歌なれば打任せては例鐙とすべからず○便《ツイデ》に彼歌を釋かむに谷川士清は萬葉集卷十なる
 あま小船はつ瀬の山にふる雪のけながくこひし君が音ぞする
(86)といふ歌を引きてアサシモノをミケのケにかかれる枕辭とせり。或はシラナミノ濱マツガエノ・オホブネノ津モリノウラニなどヨスル・ハツルを省きてシラナミノ濱といひオホブネノ津といへる如くアサ霜ノオケルといふべきを略してただアサシモノと云へるかとも思へど天皇が此地にましまししは紀に據れば七月の初旬にて霜の降る頃にあらねばなほアサ霜ノ消《ケ》とかかれる尋常の枕辭とすべし。御木ノサヲ橋のサヲは添辭なり。サとヲとを重添したる例はサヲ鹿・サヲ舟(萬葉集卷十)などあり。マヘツギミは廷臣、イワタラスモのイは添辭、ワタラスは渡ルの他作格にてモはカナに近し〇三毛郡は今の三池郡なるが三池と書くやうになりしは元禄の頃よりか(寛文印知集には三毛、元禄帳並に元禄國圖には三池とあり)。但此地名を負へる三毛氏は夙くより三池と書けり。然もなほ初にはミイケとは唱へずしてミケとぞ唱へけむ。淡路廢帝紀(天平實宇五年三月)並に新撰姓氏録に見えたる御池造《ミイケノミヤツコ》は別ならむ○中島廣足の歴木《クヌギ》辨の序(柳河藩士武藤陳亮撰)に
 ミケノサヲバシてふものはまさしく我藩筑後國三池郡高泉村の地にて今も其土中よりまれまれ出る埋木其質まことに堅實にして木理庭木にたがはず云々
(87)といへり。廣足等は之を彼景行天皇紀に見えたる長九百七十丈の歴木の遺材と認めたるなるが、そは信ずべき限にあらず。夙く樺島氏の久留米志附録三異の中の歴木の下に
 府城(○久留米城)ノ東南ノ諸地、土ヲ鑿ツコト三四尺若クハ六七尺ニシテ往々此物ヲ出ス。状朽腐セルガ如ク而モ性理儼存セリ。其連亙幾里ナルコトヲ知ルベカラズ。民間探リ以テ新樵ニ代フルニ火勢熾盛ニシテ頗炊爨ニ便ナリ。但少シ臭氣アリ。然レドモ復彼石炭ノ氣ノ鼻ヲ徹リ脳ヲ穿チ大ニ惡ムベキノ比ニ非ズ。ソノ堅實ナル處ニ至リテハ火ニ投ジテ之ヲ熱スルニ稍芬芳ヲ帶ビタリ。切リテ之ヲ磨クニ其色黄黒ニシテ光澤鑑スベシ。好事家因リテ文房ノ諸器ヲ製スルニ雅致愛スベシ。傳ヘ言フ是日本紀ニ謂ヘル歴木ノ遺ナリト
といひ次に
 然レドモ退イテ之ヲ思フニ此木ノ説疑フベキ者寡カラズ。何ヲ以テカ之ヲ言フ
といひて疑ふべきもの五を擧げ、終に
 之ヲ要スルニ歴木ハ白歴木、此物ハ自此物ナリ。ソノ混ジテ一トスベカラザルヤ必セリ。マシテ扶桑ノ説ヲヤ
(88)といへり。一篇の文、後出の歴木辨一冊に優れること遠し○歴木辨に高泉を彼高田行宮の高田の訛とせるも受けられず。今三池町の大字に歴木あり。管内志三毛郡の下に
 森氏云。三池郡に今櫟木村あり。彼歴木に由ある處にあらぬか
と云へるは此處を指せるにや。思ふにクノギといふ地名は景行天皇紀の記事に據りて近き世に附けしにて即高泉の改名ならむ。寛文印知集にも元禄圖にも見えず。因に云はむ。彼歴木辨は主として古傳説中の大木、たとへば景行天皇紀の歴木を近世の人が往々扶桑木と稱せるが非なる事を辨じたるものなり○筑後地誌略(※[手偏+交]訂筑後志二六二頁所引)に
 歴木村(高泉)に景行天皇行宮の遺址あり。凡一段許、高※[土+豈]隆起自ら一區をなせり。當村の北相距ること凡十餘町にして一岡阜の地あり。天梁村(大間)と稱す。村中の地名に帝橋と稱するあり。……今土中往々歴木の片を出す。其質竪緻にして紫黒色、陸前名取川の理木に類し古色掬すべし。明治十一年五月渡邊縣令地を鑿ちて得る所の歴木を禁中に奉れり
とあり。日本地理志料に
(89) 景行天皇居2御木高田行宮1。今大間村聖蹟尚存
といへるは即是なり
 
   筑紫君磐井墓          乙類
 
筑後國〔三字右△〕風土記曰。上妻《カミツヤメ》縣、縣南二里有2筑紫君磐井之墓墳1。高七丈、周六△《十》丈。墓田南北各六十丈、東西各四十丈。石人石盾各六十枚、交陳成v行周2匝四面1。當2東北角1有2一別區1。號曰2衙頭1(衙頭致v政所也)。其中有2一石人1假v容立v地。號曰2解部《トキベ》1。前有2一人1※[身+果]形伏v地。號曰2偸人1(生爲〔二字左△〕倫v猪仍擬2決羅〔左△〕《罰》1)側有2石猪四頭1號2贓物1(贓物盗物也)。彼處亦有2石馬三疋・石殿三間・石藏二間1。古老傳云。當2雄大迹《ヲホド》天皇之世1筑紫君磐井豪強暴虐不v優〔左△〕《偃》2皇風1。生平之時預造2此墓1。俄而官軍動發欲v襲之間知2勢不1v勝獨自遁2于豐前國|上膳《カミツミケ》縣1終2于南山峻嶺之|曲《クマ》1。於v是官軍追尋失v蹤。士怒未v泄撃2折石人之手1打2墮石馬之頭1。古老傳云。上妻縣多有2篤(90)疾1蓋由v茲歟(○釋日本紀卷十三述義九、繼體天皇紀筑紫國造磐井〔六字傍点〕」之註所v引)
 
 斬考 上妻縣・上膳縣と云へるを見れば乙類なり。釋日本紀卷十一述義七神功皇后紀皇后取石挿腰の註に
 筑紫〔二字傍点〕風土記曰。逸都縣子饗原有2右兩顆1云々
 筑前國〔三字傍点〕風土記曰。怡土郡兒饗野(在2郡西1)此野之西有2白石二顆1云々
とあり。釋日本紀はかく明に甲乙二類を區別せり。されば此處は筑紫風土記曰といふべきを筑後國風土記曰と云へるは取外したるにや○繼體天皇紀に
 二十一年夏六月壬辰朔甲午、近江|毛野臣《ケヌノオミ》衆六萬ヲ率《ヰ》テ任那《ミマナ》ニ往キテ爲ニ復新羅ニ破ラレタル南ノ加羅・※[口+碌の旁]己呑《ロクコトン》ヲ興建シテ任那ニ合セムト欲リス。是《ココ》ニ筑紫國造〔二字傍点〕磐井陰ニ叛逆ヲ謨《ハカ》リ猶豫年ヲ經、事ノ成リ難カラムヲ恐レテ恒ニ間隙ヲ伺ヘリ。新羅是ヲ知リテ密ニ貸賂ヲ磐井ノ所ニ行《オク》リテ毛野臣ノ軍ヲ防遏セヨト勸ム。是ニ磐井火豐二國ニ掩據シテ修職セシメズ、外ハ海路ヲ邀《サ》ヘテ高麗・百済・任那・新羅等(ノ)國(ノ)年ゴトノ貢職(91)船ヲ誘致シ、内ハ任那ニ遣ス毛野臣ノ軍ヲ遮リ亂語揚言シテ曰ク。今コソ使者《ミツカヒ》タレ、昔ハ吾伴トシテ肩ヲ摩リ臂ヲ觸リ共器同食シキ。安《イカニ》ゾ卒爾ニ使トナリテ余ヲシテ※[人偏+爾]ガ前ニ自伏セシムルヲ得ムヤト。遂ニ戰ヒテ受ケズ驕リテ自矜ル。是ヲモチテ毛野臣乃防遏セラレテ中途ニ掩滯ス。天皇大伴大連金村・物部大連|麁鹿火《アラカヒ》・許勢大臣男人《コセノオホオミヲビト》等ニ詔リタマハク。筑紫ノ磐井反キテ西戎ノ地ヲ掩有セリ。今誰カ將タルベキ者ゾト。大伴大連等|僉《ミナ》曰ク。正直仁勇ニシテ兵事ニ通ゼルハ今麁鹿火ノ右ニ出ヅルモノ無シト。天皇曰ク可《ヨ》シト。秋八月辛卯朔詔リタマハク。咨《アア》大連、惟《コレ》茲《コノ》磐井|率《シタガ》ハズ。汝|徂《ユ》キテ征《ウ》テト。物部麁鹿火大連再拜シテ言サク。……天皇|親《ミミヅカラ》斧鉞ヲ操《ト》リテ大連ニ授ケテ曰ク。長門ヨリ以東ハ朕之ヲ制セム。筑紫ヨリ以西ハ汝之ヲ制セヨ。賞罰ヲ專行シ煩シク頻ニ奏スルコトナカレト
二十二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部麁鹿火|親《ミヅカラ》賊帥磐井ト筑紫御井郡ニ交戰ス。旗皷相望ミ埃塵相接セリ。機ヲ兩陣ノ間ニ決《サダ》メテ萬死ノ地ヲモ避ケズ。遂ニ磐井ヲ斬リ果《ツヒ》ニ疆|※[土+易]《エキ》ヲ定ム。十二月筑紫君〔三字傍点〕葛子《クズコ》父ニ坐《ヨ》リテ誅セラレムコトヲ恐レ糟屋|屯倉《ヤケ》ヲ獻リテ死罪ヲ贖ハムコトヲ求ム
(92)とあり。磐井わかき時都に上りて朝廷に仕へきと見ゆ。古事記同天皇の段には
 此御世ニ竺紫君|石井《イハヰ》天皇ノ命ニ從ハズシテ无禮多シ。故《カレ》物部|荒甲《アラカヒ》之大連(○即麁鹿火なり。荒甲と書けるを見ればアラカヒのヒは濁るべからず)大伴金村之連二人ヲ遣シテ石井ヲ殺《ト》リキ
とのみあり。然も紀と傳すこし異なり。前年の夏叛逆し今年の仲冬に至りて始めて平ぎしを思へば後年の藤原廣嗣の亂とは比すべからざる大事なりしなり○磐井は元來筑紫國造にて後世の大名の如きものなるが漸に勢威を張りて終にうたてくも獨立を謀りしなり。磐井を日本紀には筑紫國造といひ古事記と風土記とには筑紫君といへり。本居宣長は國造に廣狹二義ありて磐井は筑紫君なるを筑紫國造とも云へるは廣義に從へるなりといへか(記傳卷四十四及玉勝間卷六)。宣長は磐井の子葛子を紀にも筑紫君と云へるを一證としたれど寧之を一證として國造を君とも云ひしなりとすべし。當時磐井の外に筑紫國造あるべくもあらず。又肥前肥後の風土記にも火國造の祖|健緒組《タケヲクミ》を肥君等祖健緒組といへり。されば國造に廣狹二義ありとするよりは寧君に別《ワケ》・直《アタヒ》などとたぐへると國造をも云へると廣狹二義ありとすべし。總説の下に見えたる筑紫君が廣義(93)のにや(即|甕依《ミカヨリ》姫は磐井の祖先なりや)又は狹義のなるかはなほ考ふべし○上妻は持統天皇紀に上|陽※[口+羊]《ヤメ》郡とあり。さればカミツヤメとよむべし。上八妻と書きけむその八の字を略したるなり。和名抄にカムツマと訓註したるは字に引かれたる誤訓なり。夙く上(七八頁)に云へり。明治二十九年に下妻郡と合せて八女郡とせられしが其八女郡の東北の大部分を占めたり○磐井の墓と稱せらるるものは本郡の西北端なる下廣川村大字一條の南部にあり。之を磐井の墓とすれば上妻郡家は其北方十町許即今の一條部落附近に在りしなり。少くとも今の中廣川・下廣川兩村の内にぞありけむ。但地名辭書には上妻縣縣南二里有2筑紫君磐井之墓墳1の縣南を縣北の誤かと疑へり○高七丈周六丈とある、高さと周と權衡を失へり。夙く古事記傳卷四十四(二五二六頁)及玉勝間卷六に「六の上に卅などの字の脱たるか」と云へり。恐らくは六の下に十を落したるならむ○墓田は墓域なり。南史毛喜傳に
 母憂去v職。詔封2喜母※[まだれ/臾]氏東昌國太夫人1遣2散騎常侍杜緬1圖2其墓田〔二字傍点〕1上親與v緬按v圖指畫
とあり。さて其墓田の状は日本書紀通證(卷二十二斬磐井の註)に
 今按閲2寛延中圖考1在2一條村南長嶺山中1。石殿今猶全存。石人僅遺2其一1爲2左右髻1。蓋古之(94)俗也
といひ古事記傳卷四十四(二五二七頁)に
 此石井が墓の事或人の考ありて云。上妻郡一條村の十町計南方に長嶺の山中にわづかに石人−殘りてあり。又|其《ソレ》より十間計東方に石屋の形あり。是は風土記に云る石藏ならむか。此石屋奥へ七尺五寸、横三尺五寸、高二尺八寸、棟高一尺三四寸、口廣一尺三寸餘あり。石人は地上より高六尺ありと云り。なほ其圖もありて彼石人の前の方やや離《サカ》りて石人の首の半なる一と石人の下方の莖の如くなる石一と圖に見えたり
といひ、藤貞幹の好古日録(上卷十五丁石人石室の條)に
 筑後國人形ガ原〔四字傍点〕ハ繼體帝御宇筑紫磐井造タル石人アル故ニ後世其名有ト云。……今存ズル石室疑クハ石藏ナラム。石人一躯地ニ立。又馬ナラント云者アリ。頭及足ナシ云々
といひて其全景圖を出し、筑後志(校訂本一九八頁)に
 磐井の古墳 上妻郡一條村に在り。……今按ずるに一條村山林(偲俗人形原と稱す)の中に石人一箇を存ず。又石室一所あり。里老甞ていふ。田中氏(○田中吉政慶長五年賜(95)筑後國)上妻郡福島城を當築せし時(○福島城を修築して二男康政をして此に居らしむ)彼石人石馬石猪を倒して石壘の料とすと。最惜むべし。其形容彫刻絶異にして地上より六尺許、殆介者に類す
といひ、久留米志に
 國造磐井墓 上妻郡一條村長峰ノ下ニ在リ。土ヲ累ネテ丘ヲ爲《ツク》レリ。石戸アリテ西向セリ。身ヲ側《ソバダ》テテ始メテ入ルベシ。戸内四壁及上皆大石ヲ以テ之ヲ造レリ。中高ク左右卑クシテ形屋ノ如シ。廣サ二床ヲ容ルベシ。墓外ニ石人一躯アリ。長六尺餘、面ノ長サ二尺弱、頭曲髪ヲ爲セリ。状勢甲ヲ被レル者ニ似タリ。甲面ニ衣章ノ如キ者數箇ヲ雕リタリ。稍遺朱ヲ見ル。左腰ニ缺アリ。劍ヲ挾ム處ノ如シ。頭ヨリ趾ニ至ルマデ全ク一石ノ所造ナリ。形貌已ニ奇|加以《シカノミナラズ》久シク星霜ヲ經、古雅ナルコト言フベカラズ。蓋古ニ謂ヘル翁仲ノ類ナリ。釋日本紀ニ筑後風土記ヲ引キテ云ハク。……此ニ據レバ磐井ノ墓邊石造ノ物當時甚多クタダ彼一石人ノミナラザリシナリ。田中吉政福島城ヲ修セシ時人ヲシテ此諸石ヲ運バシメ以テ壘壁ノ用トシキ。福島ノ近側其遺石今尚諸處ニ散在セリ(○原漢文)
(96)といひ、管内志(筑後二二九頁)に
 柳園隨筆(○青柳種麿著)に磐井墓の形今見るに大和國にある陵の貌に聊も異なる事なし。其大床の上と思しきは丸く廣大にして夫より一丈許も低くして西南にさし出たるは地道にて左傳に見えたる隧など云物なり。其長さ三十間もあるべし。其尾より上る道あり。其岡を行盡せば正中に石人たてり。其傍に石人の崩れたるを多く積めり。石人の後は即彼丸く高き冢なり。是を傍より登りて見れば東南の隅に井の如く穿ちたる處あり(○發掘の跡か)。下る事一丈許にして西南に向ひて石藏立てり。其貌甚古雅なり。軒には獅子頭の如くなる物を彫めり。口は今の世に櫛形など云物の如し。其西南の地中は大床ある處なるべし。廻に池などもやと思ふにさる物はなし(○湟跡あり)。暇あらむ人は必行て見るべき處なりとあり
といひ、中島廣足の橿のしづ枝(上卷三十五丁に)
 磐井が墓 筑後國上妻郡なる筑紫君磐井が古墳の事は玉勝間の六の卷に風土記を引てくはしくいはれ、石人の事は藤原貞幹が好古日録にいひて圖を出せるにつばらなり。さておのれ先つとしかしこにいたりてただに見つる、いささかたがへる事なき(97)にしもあらねどおほかたはおなじければ今わづらはしくいはず。其石人のかたはらにある石と彼岩がまへの口のさま又其近き所々にある人形の石などの圖をここには出しつ。これもおなじ古墳の物なりしとぞ○此下なるはこと所にありつ。石馬の折たるものならんか○こは岩がまへの口のかたなり。深さは一丈にあまりぬべし。横は七尺ばかりもやあらむ○上妻郡福島町正福寺鐘樓ノ礎ニシタル石、コハ田中康政ノ城跡ヨリ出タルナルヲ後此寺ノ礎ニハナシタリシトゾ。是ハタ古墳ノ石馬ノカケタルモノナルベシ○同郡吉田村大神宮ノ社前ニアル石人ニツ圖ノ如シ。ナホ福島町裏古城跡ニ石人石馬ノ折タル物ト見ユル石イト多シ。福島ノ城ヲ築シ時大カタ其石垣ノ石ニナシタリシトゾ
といひて石人石馬石屋の圖を出せり。又同じ人が天保元年に書きし筑紫日記(全集第一篇一一二頁)に
 一條の宿にいづ。……ここより石神山〔三字傍点〕にものす。福島の方へかよふ道を東南に入ること五丁ばかり、小松山すこし高き所、道の傍の左方にありて杉の五本しげりたるがもとに石神はたてり。抑此石神山といふは實は筑紫君磐井といひける人のおくつき(98)にて石神といへるものは其おくつきのめぐりに立てたりし人形の僅に殘れるなりけり。此磐井の事は鈴屋の翁の玉勝間にくはしく記され藤原貞幹が好古日録にも其事をいひてここの圖をも出せれど聊たがへるやうなれば今見たる所を左にうつしいでぬ。彼風土記にいへる石殿石鞍石馬石犬(○石猪の誤か)の類は近き世福島の城をつくられし頃其石がきの石になさんとて打碎きて運びもて行きしなり。又福島の里なる正福寺といへる寺の石垣にもなりたるがなほ殘りて神代の人形の石なりとて所の者はいひ傳へたり。これらの祟によりて福島の馬ことごとく足の病ある由陰陽師うらへければ里人おぢて石馬の石三ばかり此石人の傍に持來りてありしなりといへり。風土記に上妻縣多有2篤疾1云々といへるを思合すべし。石人の後なる高き所に岩がまへなほ殘れり。山のめぐりには田の跡とおほしき所あり(○所謂墓田に擬せむとにや)。鳥居は此人形を石神といふよりいと近き世に建てたるなるべし。ここは筑後國の眞中のやや高き所なればうべも彼人のおくつきをば造れるなりけり
といひて五圖を出せるその三は橿のしづえに見えず○淡窓小品下巻(淡窓全集中卷五四頁)に
(99) 石人磐井舊物。半隱山田翁得2之僧雲華1建2鏡坂側1、鏡坂景行帝故跡) 百夫輿致此高原、道《イフ》是磐侯故物存、煙樹新隣行幸路、雲華曾|入《イレタリキ》坐禅門、滄桑幾變人無v恙、寵辱多端石不v言非v爲2詩翁能好1v古、千年誰掃舊苔痕
とあり。鏡坂は豐後國日田郡なる三隈川の左岸にありて豐後風土記に見えたり○石人の形状を明にし其分布を詳にせむと思はば
 大正八年發行、柴田常惠氏編纂、筑後石人寫眞集
 大正十四年發行、福岡縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書第一輯(二三頁乃至三八頁)
 同年發行、熊本縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第二冊
 昭和四年發行、森本六爾氏著、石人石馬(日本考古圖録大成の内)の四書を見ざるべからず。以下主として此等の書を取捨して記述せむに石人石馬は凝灰石を以て製したる墳墓の一装飾にして埴輪と齊しく墳墓の表面に樹《タ》てし物なり。
 ○伊藤東涯の※[車+酋]軒小録に夙く人形原ノ偶人モシクハ殉葬ノ土俑ニテモアルベシヤ
と云へり
或は漢土の石人石獣と我邦固有の埴輪土偶との混血兒にあらざるか〔或は〜傍点〕。石人には板彫な(100)ると圓彫なると立像なると坐像なるとあり。石人石馬は所謂磐井の墓に特有なるものにあらず。否筑後國にも特有なるものにあらで石人は肥後國にても(但玉名・菊池・鹿本・飽託四部即同國の西北部に限れり)石馬は伯耆國にても發見せられき。されどなほ最多く存ずるは筑後國なり。筑後國にて最古く發見せられしは上妻郡一條村(今の八女郡下廣川村の大字)字人形原の石人山〔三字傍点〕といふ瓢形墳なり。されば古人は此古墳を磐井の墓に擬したれど近年本村の東南方に當れる長峰村の大字吉田字甚作谷なる岩戸山〔三字傍点〕といふ瓢形墳よりも發見せられしかば近來は岩戸山を目して磐井の墓とする人あり。八女郡川崎村大字山内の童男山より起りて三瀦郡三瀦村大字高三瀦宇塚崎に終れる丘陵を長峰筋〔三字傍点〕といひ其中にて吉田より一條に至る東西一里許の山林を人形原〔三字傍点〕といふ。人形は石人なり。されば右の兩古墳以外にも此山林より石人の發見せられし事もあらむ。現に彼長峰村大字吉田の奈良山よりも出土せし事あり。
 ○三瀦郡西牟田村の青銅寺山(今の宇清道寺か)にも存在せし事あるに似たり。西牟田村は一條村の西に隣れり
否此附近のみならず三池郡二川村大字上楠田宇神樂田の石神山といふ圓墳にも存在(101)せり。右の内一條の石人山には慶長の頃まではあまた存在しけむを當時當國主たりし田中吉政が本郡の福島城を修繕せし時悉取りて其石垣の材料とせしかば石人山には一たび影を絶ちたりしに其後新に石人一躯を發見し貞享元年に保存の法を立てて今の世に傳へたるなり。但今はいたく摩滅毀損せられたるが幸に其原形を保ちし間に摸造せられし物ありて今も豐後國日田町に傳はれり。かの福島城に移ししものは城の廢れしと共に其所在知られずなりしに文久以來その遺址(今の八女公園)の土中と、福島城址より石材を取りて築きし同町正福寺の鐘樓の石垣とよりあまた發見せられき。又岩戸山より始めて石人の出土せしは文化五年なれば藤貞幹・本居宣長などの知らざるは勿論なるが
 ○古事記傳に「一條村の十町許南の方に長嶺の山中に」といへるはなは一條の石人山なり
これも一部分は散亂したれどなほ現地に殘れるものあり。彼日田町にありて廣瀬淡窓の詩を題したるものも亦岩戸山より移ししなりといふ。石人の長は五六尺、往々微に朱彩の痕を示すといふ。從來發見せられしは石人石馬の外右盾石靫と不明の器となり。風(102)土記にいへる石猪石殿石藏はいまだ發見せられず。書紀通證に風土記の石殿に擬し古事記傳・好古日録・柳園隨筆などに石藏に擬したるものは正しく石棺なり。右の如くなれば磐井の基は一條の石人山とも吉田の岩戸山とも定められざるなり。ただやや確實なるは長峰筋就中人形原が筑紫國造累代の墳墓なりけむ事のみなり。因に云はむ。日田に傳博はれる眞正の石人は鏡坂の東なる錢淵橋畔に建て其石牀に彼淡窓の詩を養子青邨の書きたるを刻み(安政丙辰廣瀬建撰・範書とあり)又育邨の銘を刻めり。其銘左の如し
 筑後上妻縣南二里有2石人數十1。慶長中田中氏采以築v城無2復遺者1。天保中米府(○久留米藩)大夫有馬氏好v古、※[行人偏+扁]捜2南山1於2榛莽中1獲v一。後貽2豐前僧大含1(○雲華)。大含携入2京師1。觀者莫v不2奇重1。既而又貽2我縣(○日田)山田元輔1。元輔弟可祐導2余及僧五岳1往觀。長一尺五寸有奇(○下半缺けたれば短きなり)重一百六斤、高顱躯、背負2六箭1、如2武夫急装而生者1(○坐せるにあらず。下半の缺けたるなり)。状貌怪異彫刻粗拙、其爲2古物1無v疑。按2筑後風土記1石人筑紫豪族磐井氏所v造。蓋當2繼體天皇時1。拒v今一千三百餘年矣。完物之存莫v古2於此1。夫古昔稱2豪族1何限。而湮滅無v聞。獨筑人知v有2磐井氏1以2石人存1也。則又莫v珍2於此1。山田氏我縣豪右。兄弟嗜v古書畫陶冶雜然滿v堂。而今後保2千年1者其能幾哉。寔奇2重之1有v以也。可祐造2石牀1(103)請2余銘1v之。銘曰。南山崔々。誰使2爾獨1、淮水湯々、我將2爾浴1、神如v有v餘、形乃不v足、善哉古人、愛2此素朴1。嘉永七年歳次甲寅冬十二月。廣瀬範撰
僧五岳にも
 石人 石偶巉々骨相※[やまいだれ/瞿]、千年留得一頑躯、不v知半夜空原夢、猶到2磐井帳下1無
といふ作あり○交陳成行とは石人と石盾とを一つまぜに建て並べたるにて周匝四面とは埴輪の如く墳墓を圍めるなり。交陳成行を記傳にツラナリテツラヲナシテとよめるは拙し。考證には四字をコモゴモツラナリテとよめり。交陳は音讀して可なり。もし強ひて訓讀せむとならば交陳以下八字をカハルガハルツラネテツラヲナシヨモニメグラセリとよむべし○衙頭は中世のマンドコロ、今いふ役所なり。假容は文選の北山移文に雖v假2容於江皐1乃|纓《カク》2情於好爵1とあり(靈異記上卷第廿七に其雖v假2容於沙門1而繋2心於賊盗1とあるは之に倣へるなり)。考證に「假面などの如く嚴しき容飾あるを云るにや」と云へるはいかが。俗にモツタイブル又はヤウダイブルといふ如き意ならむ○解部は持統天皇紀四年正月に以2解部一百人1拜刑部省1とあり職員令刑部省に大中小の判事と大中小の解部と見えて判事には掌d案2覆鞠状1斷2定刑名1判c諸爭訟uと記し解部には掌v問2窮爭訟1と(104)記したれば解部は今の豫審判事に當るべきか。ともかくも判決の權能は無きなり。但ここの解部はただ法官と心得べし(解部は又職員令治部省に見えたり)○生爲偸猪の生爲心得がたし。記傳には「生字は坐を誤れるか」と云へり。生を坐の誤としてヨリテなど訓まむには爲は削らざるべからず。或は爲生の顛倒として、爲業の義としてナリトシテと訓むべきか。決羅を記傳には決罰の誤とし考證には決罪の誤とせり。しばらく前者に從ふべし。擬はトスとよむべし○疋は匹の俗字なり。匹音ヒツなり。我邦にてヒキといふは通用音にあらで國語なり。思ふにヒキは牽にてもと馬牛にのみいひしが外の生物に及び更に布帛の匹にも及びしにあらざるか〇三間二間は三宇二宇なり。續日本紀寶龜四年の下に正倉十四宇又正倉八間とあり○雄大迹《ヲホド》天皇は繼體天皇の御事なり。不優皇風の優を考證に擾に改めてシタガハズとよめるは非なり。夙く記傳及玉勝間に偃に改めたるに從ひて皇風ニフサズとよむべし。論語に草上2之風1必偃(草、之ニ風ヲクハフレバ必フス)とあるに依りて書けるなり○預は豫に同じ。漢籍にも預をアラカジメに充てたる例あり○豐前國上膳縣は上毛なり。カミツミケと訓むべし。そのミケは景行天皇紀十二年に御木川上(木此云v開《ケ》)とあれば筑後の三毛郡と同じく木に由れる地名ならむ。上毛郡(105)は今|築城《ツキキ・ツイキ》郡と合せて築上《チクジヤウ》郡といふうたてき名をおほせて福岡縣に屬せられ上毛郡と相對せし下毛《シモツミケ》郡は近世字に從ひてシモケと唱へられ今は大分縣に附けられたり○渡邊重春の豐前志に
 鬼神社 求菩提山權現社の末社なり。西田直養翁云。……南山峻嶺之曲は求菩提山を置きては外に有るまじければ鬼神社は磐井の靈を祭れるなるべし。といへり
といへり。求菩提《クボテ》山は日本地誌堤要に
 岩嶽山 舊名求菩提山。上毛郡鳥井畑村(○今の岩屋村の大字)ヨリ壹里、築城郡ニ跨ル
とあり。但求菩提山につづきてなほ犬が岳・經讀岳・雁股山の三峰ありていづれも求菩提山より高ければ「求菩提山を置きては外にあるまじ」とは云ふべからず。たまたま嚶々筆語卷一(二十二丁)に出でたる直養の筑紫君磐井論を見るに
 豐前國上毛郡なる求菩提山縁起に云。人皇二十七代繼體天皇二十二年狗岳〔二字傍点〕有2鬼神1悩2人民1。開基卜仙以2法力1降2伏之1封v甕埋2於嶺上1。爾後祭2其靈1云2鬼神社1とあり。この縁起、古書とは見えず。されど古傳説をそのままに記せりしなる事は疑なし。……此郡にして南山峻嶺ともいふべきは縁起にいでたる狗岳〔二字傍点〕より外になし。此山はいと高大にして(106)彦山にもおとらざればかの御井郡より遁れ來てこの嶮岨をたのみたてこもりしが兼ての暴虐なほやまずして此邊を劫掠し人民をなやましければ卜仙といふ豪強の人くぼての山に住みけるが衆をひきゐてこれを攻め破り遂に殺して甕にをさめ山頭に埋めし也。それを以法力降伏といへるは例の縁起の文なり云々
といへり。いとおぼつかなき説なれど直養は狗が岳を以て南山峻嶺に擬したるにて地理はかなへるを重春が誤りてクボテ山としたるなり。直養は當國小倉の人、重春は當國中津の人なり○本書には終2于南山峻嶺之曲1とありて跡を晦して自殺せし如く見え日本紀には遂斬2磐井1とありて相合はず。されば古事記傳に
 書紀竟宴歌にアラカヒハツクシノイハヰタヒラゲテココロユカズゾオモフベラナルとよめる下句此風土記に追尋失v蹤とあるに叶へり。書紀に遂斬2磐井1とあるには叶はず
と云へり○追尋失蹤の下に終到2上妻縣1といふ文を補ひて心得べし。恐らくは磐井を尋ね求めて其根據地なる筑後國上妻郡に到りしにぞあらむ。此逸文は上なる俄而官軍動發の上にも辭足らず○篤疾は此處にては重病にあらで不具ならむ。允恭天皇前紀に我(107)不天ニシテ久シク篤疾〔二字傍点〕に離《カカ》リ歩行スル能ハズとあり又戸令に殘疾・癈疾・篤疾を區別し惡疾・癲狂・二支癈・兩目盲〔六字傍点〕如v此之類皆爲2篤疾1とあり
 
   生葉《イクハ》郡          甲乙以外
 
 公望私記曰。案
筑後國風土記云。昔|△《者》景行天皇巡v國既畢還v都之時|膳司《カシハデ》在2此村1忘2御酒盞《ミサカヅキ》1云云。天皇勅曰。惜乎朕之酒盞《アガウキハヤ》(俗語云2酒盞1爲2宇枳1)。因曰2宇枳波夜郡1。後人誤號2生葉郡1(○釋日本紀卷十述義六、景行天皇紀的邑〔二字傍点〕之註所v引)
 
 新考 景行天皇紀十八年に
 八月到2的《イクハ》邑1而進食。是日膳夫等遺《ワスル》v盞。故時人號2其忘v盞處1曰2浮羽1。今謂v的《イクハ》者訛也。昔筑紫俗號v盞曰2浮羽1
とあり。又豐後風土記日田郡の下に
(108) 昔者纏向日代宮御宇大|足《タラシ》彦天皇征2伐玖磨※[口+贈]唹1凱旋之時發2筑後國生葉行宮〔四字傍点〕1幸於2此郡1
とあり。又肥前風土記|養父《ヤブ》郡|曰理《ワタリ》郷の下に纏向日代宮御宇天皇巡狩之時就2生葉山〔三字傍点〕1爲2船山1就2高羅山1爲2梶山1造2備船1漕2渡人物1云々とあり○昔の下に者を落したるか。巡國の國は筑紫の國々なり○此一節は景行天皇とあれば漢風謚を奉りし後即奈良朝時代末期以後に撰進せし風土記の逸文なり。されば甲類に非ざる事勿論なり。又生葉縣と云はで生葉郡と云へれば乙類にもあらず(乙類にも亦息長足比賣命・雄大迹《ヲホド》天皇・檜前《ヒノクマ》天皇といひて神功皇后・繼體天皇・宣化天皇といはず)。唯訝しきは公望が之を引くに別類筑後國風土記云とことわらざる事なり○膳司は司字に拘はらでカシハデとよむべし。日本紀には膳夫等と書けり。考證にはカシハデノツカサとよめれどツカサは後世の役又は役所なり。又考證に磐鹿六雁命が白蛤を得て鱠につくりて奉りし功に由りてカシハデノ大伴部を賜はりし事を述べ、さて
 筑紫にもこの六雁命御とも仕奉りて膳臣として事執まかなひしなるべく思はるればなり
といへるは失考なり。天皇が生葉郡に幸したまひしは十八年、六雁命に膳大伴部を附屬(109)せしめ給ひしは五十三年なり○惜乎朕之酒盞はアガウキハヤと訓むべし。ハヤは惜み嘆く意の辭なれば惜乎と書けるよく當れり○俗語云酒盞爲宇枳の俗語を從來多くは筑紫の方言と解せり。たとへば考證に
 宇枳は筑紫の方言にて他國には言ぬ語なるを古事記朝倉宮段三重※[女+采]が歌にアリギヌノミヘノコガササガセルミヅタマ宇枳ニとあるは契沖が云る如く此景行天皇の故事を思ひ出てにもやあらん
といへり。又書紀通釋には
 又筑紫俗とはあれど記の采女が歌にさへ宇岐とよめればただ筑紫のみにはあらでまれには都にてもさる事いひしにてもあるべし。故風土記にただ俗語とのみあるもさる意ありてにや
といへり。前人或はウキと日本紀の浮羽とを混同し日本紀に筑紫俗といへると此處に俗語といへるとを混同せり。ここに俗語といへるは邦語の義なり。即酒盞を邦語にウキといふと云へるにて、かの芋※[さんずい+眉]野の節に謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風俗言詞耳と云へると同じく漢土を中心としたる愚註なり。元來、天皇勅曰安我宇枳波夜と書き、さてもし漢人の見る事(110)もやと思はば猶曰惜乎朕之酒盞と註すべきなり。ウキは方言にあらでサカヅキの古言なるが
 ○サカヅキはた新しき語にあらず。萬葉集卷五にウメノハナタレカウカベシ佐加豆岐ノヘニとあり
日本紀に據ればそを筑紫の方言に浮羽といひしなり。この浮羽はウキハとよむべきか又はウクハとよむべきか。日本紀の古訓にはウクハとあり。なほ云はばウキは方言にあらで汎語なればこそ古事記雄略天皇の段なる伊勢國の三重采女の歌にもミヅタマル宇岐ニとよめるなれ
 ○此長歌は古事記に三重采女の作と傳へたれどミヘノコガ任佐賀世流ミヅタマウキニとよみてササグの他作格を用ひたれば恐らくは采女の歌にあらで傍人の作ならむ
○考證に
 膳司は御盃を忘れたるなるを天皇には殊更に比國の俗言をまねびて朕ガ宇枳ハヤと詔へるが一時の雅興にて人々もとよみて笑ひたりけむ故に郡名にも負せたるも(111)のと見えたり。若|然《サ》なからむにはこれの大八島しろしめす天皇命におはしましながら唯一枚の盞を惜しと詔ふべき理あらむや
といへるはウキを方言と認めて論を進めたるなり。通釋にさてかく盞《ウキ》ハヤと詔ひ出て惜みたまへるは尋常の御物にはあらじ。世に珍き大御酒杯にてぞありけらし
といへるぞ穩なる○谷川土清の書紀通證卷十二に
 高良玉垂命社司鏡山氏曰ク。生葉郡溝尻村(○今の御幸《ミユキ》村大字浮羽の内)ニ以久波嶋アリ。方十間許。田中ニ在リ。(○又)同郡妹川邑(○今の姫治《ヒメハル》村の大字)ニ御座(ノ)石アリ。相傳フ天皇ノ遺蹟ナリト
といへり。又筑後志(校訂本二〇五頁)に
 生葉島 生葉郡西溝尻村に冢あり。方一丈ばかり。塚上老杉一株あり。古老の言にいふ。昔景行天皇巡邦の時膳司酒盞を収〔左△〕し所なりと
 景行天皇行宮址 生葉郡若宮村(○今の千年村の大字)八幡宮の社地にあり。古説にいふ。若宮八幡宮の社地、本社の左右に假山の如き高陽の所あり。是即ち行宮の古蹟なり
(112)といへり。二丘は古墳にて景行天皇に關係あるものに非ず。二丘の中間を行宮址とせるも信じ難し(校訂筑後志四三八頁及日本書紀通釋一六六二頁參照)。樺島石梁の久留米志には
 生葉島 生葉郡西溝尻柑ニ在リ。景行行宮ノ址ナリ。今田畝中ニ就イテ地、方數弓ヲ除キ四面ニ石ヲ甃ミ杉樹ヲ栽ヱテ標トセリ。爲……又本郡新川村ニ栗木野アリ。野ニ大小二石アリ。大ナルヲ御座石ト曰フ。上平ナリ。小ナルヲ建鉾石ト曰フ。上ニ三竅アリ。傳ヘテ言フ。大者ハ景行ノ座セシ所、小者ハソノ鉾ヲ建テシ所ト。栗木野ハ本郡ト上妻郡トノ往來ノ歴ル所ナリ。……上ノ數件ヲ併セテ之ヲ考フルニ當時景行葢七八月ノ間ヲ以テ上妻ヨリ栗木野ヲ經テ生葉ニ到リシ歟。又里人或ハ云フ。景行ノ行宮ハ生葉島ニ非ズ。乃若宮村ノ地是ナリト。議者或ハソノ定メ難キニ苦ム。蓋生葉島ト若宮村ト同ジク一郡中ニ在リ。而モソノ相距ルコト一里ナル能ハズ。則何ゾ必シモ辨ゼム。且今景行ノ時ヲ去ルコト殆二千年ナリ。其行宮ノ趾誰カ得テ之ヲ詳ニセム。問ハズシテ可ナリ(○原漢文)
(113)といへり
 
(114)  豊前國 二節
 
   鹿春郷          甲類
 
    一
 
豐前國風土記曰。田河郡鹿春郷、昔者新羅國神自度到來住2此川原1。便即名曰2鹿春神1(○釋日本紀卷十述義六、垂仁天皇紀比賣語曾社神〔六字傍点〕之註所v引)
 
    二
 
豐前國風土記曰。田河郡鹿春郷(在2郡東北1)此郷之〔右△〕中有v河。年魚在〔右△〕之。其源從2郡東北杉坂山1出、直〔右△〕指2正西1流下〔右△〕、湊2會眞漏河〔右△〕1焉。此河瀬清淨。因號2清河原村1。
今謂2鹿春郷1訛|△《也》。「昔者新羅國神自度〔右△〕到來住2此河原1。便即〔右△〕名曰〔右△〕2鹿春神1。」又郷北有v峯。頂有v沼(周卅〔右△〕六歩許)。黄楊樹生|△《焉》。兼有2龍骨〔四字右△〕1。第二峰有2銅并黄楊龍骨等1。第三峯有2龍骨1(○宇佐宮託宣集所v引)
 
(115)    三
 
豐前國風土記云。田河郡鹿春郷(在2郡東北1)此郷中有v河。年魚有〔右△〕之。其源從2郡東北杉坂山1流〔右△〕出、指2正西1流中〔右△〕、湊2會眞漏川〔右△〕1焉。此河瀬清淨。因號2清河原村1。今謂2鹿春郷1訛也〔右△〕。「昔者新羅國神自渡〔右△〕到來2此河原1。便名〔二字右△〕鹿春神」。又郷北有v峯。頂有v沼周三十〔二字右△〕六歩。黄楊樹生焉〔右△〕。第二峰有2龍骨1。第三峰有2銅并黄楊龍骨等1(○香春神社古縁起、據2太宰管内志豐前田川郡下、杉坂山之條所1v引)
 
 新考 一は二又は三の中の一節なり。二と三とには小異あり。三者を通覧して釋日本紀の著者がいか樣に抄出を行ひしかを窺ひ又一原本より出でたる二本のいかに岐れゆくかを察すべし。今考證本の依據せる第二を底本として第三を以て異同を※[手偏+交]合せむに、まづ此郷の下の之字第三に無し。こはいづれにてもあるべし。肥前風土記|姫社《ヒメゴソ》郷の條には此郷之中有v川とあり。又豐後風土記石井郷・靫編郷の條には郷中有v河・郷中有v川とあり。次に年魚在之の在、第三に有とあり。今の情に從へば有之とある方可なるに似たれど、こ(116)の之〔右△〕は助字に過ぎざれば即在之又は有之にてただアリとよむべくコレアリとよむべきにあらざれば在之とあらむも不可ならず。但肥前の佐嘉郡の條には年魚有之とあり。次に第三には出の上に流字あり。こは無き方まさらむ。次に直指正西流下の直字、第三に無し。直といへば杉坂山より出づるや否や正西を指して流下するやうに聞えて實際に叶はざれば(實際は杉坂山より出でて南流し香春町に至りて始めて西流せるなり)この直は無き方妥なり。但抹殺には躊躇せらる。次に流下を第三に流中とせるは誤れるなり。次に眞漏河を第三に眞漏川と書けり。次に訛の下に第三に從ひて也を補ふべし。次に度を第三に渡とせり。渡は古典に度2江河1など度とも書けり。次に便即を第三に便とせり。いづれにてもスナハチとよむべけれど便即は六朝の文に多く見え我邦にても日本紀・肥前豐後の風土記などに多く用ひたれば底本に從ふべし。次に名曰を第三にただ名とせり。次に卅を第三に三十とせり。又周三十六歩を註文とせずして本文とせり。次に第三には黄楊樹生の下に焉字あり。又|兼《マタ》有2龍骨1の四宇無し。次に底本の第二峰の記事は異本にては第三峰の記事となり、底本の第三峰の記事は異本にては第二峰の記事となれり○考證本は同じく宇佐八幡託宣集に據れるなれど湊を添に、周を濶に誤り黄楊龍骨の下(117)の等を晩せり。因に云はむ。濶はハバなれば古典には必長若干濶若干といへり。歩は六尺なり
豐前國の郡は延喜式和名抄に見えたるは田河《タカハ》・企救《キク》・京都《ミヤコ》・仲津・築城《ツキキ》・上毛《カミツミケ》・下毛《シモツミケ》・宇佐の八なるが律書殘篇にも郡八とあり)明治二十九年に仲津を京都に合せ又築城と上毛とを合せしかば今は田川・企救・京都・築上《チクジャウ》・下毛《シモケ》・宇佐の六郡となれり。さて明治九年以來前四郡(當時は六郡)即所謂西豐前は福岡縣に屬し後二郡即所謂東豐前は大分縣に附けり○景行天皇紀十二年に高羽川上とある高羽は即田河なり(高羽川は今の彦山川ならむ)。又彦山縁起・豐西記などに鷹羽郡とあれば田河はタガハとよまでタカハと唱ふべし。文字は神名帳(田川)の外皆田河と書きたるを元禄以來は專田川と書けり○鹿春郷は今の香春町の附近なり。文字は夙く續日本後紀承和四年十二月の下に香春と書き和名抄郷名にも香春と書けり。萬葉集卷九に
 拔氣|大首《オホビト》任2筑紫1時娶2豐前國娘子|紐兒《ヒモノコ》1作歌 豐國の加波流はわぎへ紐兒にいつがりをれば革流は吾家
とあり。かく古くはカハルと唱へしを今はカワラと唱ふといふ○鹿春郷在2郡東北1とあ(118)れば田河郡家は鹿春の西南に在りしなり○此郷之中有v河といへるは今清瀬川又金邊《キベ》川といふ。杉坂山は今の金邊峠か。金邊峠は採銅所村の奥に在りて企救郡に跨れり。金邊川はやがて此山より發し初は南流し香春町の南に至りて彎曲して西流せり。湊會はツドヒアヘリとよむべし。眞漏川は今の彦山川か。
 ○眞淵の訓如何。マロとはよむべからず。マは訓ロは音なればなり。マモリか
彦山川は遠賀《ヲンガ》川の東源にて彦山より發せり。添田川といひ伊田川といひ赤池川といふは其流の經る處によりて名を異にせるなり○此河といへるは金邊川なり。其瀬清淨なるに由りて今も一名を清瀬川といふなり。因號2清河原村1今謂2鹿春郷1訛也とはカハラがカハルに轉ぜしなりと云へるなり。今九州にてはなべて原を訛りてハルといふ。此處に河原を訛りて鹿春といふと云へるを思へば原をハルと唱ふるは近古に始まりし事にはあらで上代より行はれし事なりけり。今カワラと唱ふるは近世の識者がさかしらに音を正ししなるべし(萬葉集新考一七九三頁參照)○神名帳に
 豐前國田川郡三座(並小) 辛國息長大姫大目命神社・忍骨命神社・豐比※[口+羊]命神社
とあり。忍骨《オシホネ》命と豐比※[口+羊]命とは我邦の神なるべければ此處にいへる新羅國神即鹿春神(119)はやがて辛國息長《カラクニオキナガ》大姫大目命なり。此神を三代實録貞觀七年二月廿七曰の下に辛國息長|比※[口+羊]《ヒメ》神といへり。此神の名、神功皇后の御名息長|足《タラシ》姫尊に似たれば、やがて皇后の御事とせる人あり。又大姫大目命とある妥ならぬここちすれば之を誤字とせる人あり。之に關する古人の説はいと多くて枚擧せむに堪へねば今恰几邊にある二三の書のみより抄出せむにまつ太宰管内志には
 御名の義辛國は新羅國より來ませる神なれば負せたるべし。又思ふに辛國は元より此地に負へる名にてもあらむか。近比の豐鐘善鳴録に釋増慶豐州辛國〔二字傍点〕里人云云とあり。此辛國今は金國と云由なり。兩豐記に金國城主城太郎左衛門と云も見えたり
と云へり。金國は辛園の訛、その辛國は韓國に由れる名にてもあるべし。但そは香春と同地にあらじ。本郡|猪位金《ヰヰガネ》村の大字に金國《カネクニ》ありて同名の山、筑前國嘉穗郡に跨れり。即是なるべし。次に考證には
 かかるさまに(○奸僧の)邪説をものしけるより辛國息長大姫大目命と云は皇國の神にはましまさずして韓國の神など云る説もありけるを以て風土記にも新羅國神など記せるにはあらざるか。神名式にみえたる辛國息長大姫大目命は息長|帶《タラシ》姫命なる(120)べし。辛國は彼三韓を言向《コトムケ》給ひし御勲を稱し大姫は帶姫と云に同じきをもて思ひ辨ふべきなり(大姫を績後紀には火姫に作り大目を大日に作り、式一本には大目を大自とかけり。何れよしとも決《サダ》めがたけれど大姫大日命とあるによらば大姫は衍字にて日の下に女を脱せるか。然らば息長大日女命とよまるるなり。若また自とある本を助けて云はば大姫大刀自の刀を脱せるにて息長大姫大刀自命となるなり)
といひ豐前志には
 風土記の文は鹿春と云ふ地名の出自の據とはすべけれど祭神を新羅神とする徴とは成し難し。かにかくに此の風土記の文は其の義詳ならざれば衍文とこそおぼゆれ(○以上理なし)。然らば神實《カミザネ》は如何ぞと云ふにうつなく息長帶姫命になむ座しましけむ。然るに八幡宮縁起に皇后使3妹豐姫與2礒良1云々とある豐姫の御名正史に見えねど皇后の妹とあれば古事記に見えたる虚空津比賣《ソラツヒメ》命の別名にて此の社の合殿に座す豐比※[口+羊]命と同名同神なるべくこそおぼゆれ。さては一柱は息長帶姫命なる事疑なし。辛國は彼國を言向賜ひし御功勲を稱へ奉れるよりの御名、大姫の大は帶姫の帶と同義の稱辭なり。大目は誤字なるべし。續後紀に大姫大日とあるは日の下に女字有りて(121)大日女なりしを後人の女の字の脱ちしには心附かず狡意《サカシラ》に大姫の二字を更に加入たるにぞあらむ。さるを式には更に誤りて大目となせるもの成るべし。三代實録には息長比※[口+羊]神とさへ有るをや。然るを辛國と云ふより新羅神の渡來しなど云ふ妄説を謬傳して風土記には書きたる物と見えたり
といへり。即栗田氏は大目を大日女又は大刀目の誤とし渡邊氏は大日女の誤とし共に此神を神功皇后の御事とせり。又渡邊氏は合殿に坐す豐姫命が神功皇后の御妹なる事を以て主神が皇后なるべき一證としたれど豐姫を神功皇后の御妹とするは近古以來の俗説なり。豐《ユタ》比※[口+羊]命一名世田姫一名淀姫は元來河神ならむと思はる(肥前風土記新考佐嘉郡參考)。又承和四年十二月の太宰府の解に管豐前國田河郡香春岑神辛國息長大姫大目命・忍骨命・豐比※[口+羊]命總是三社とありて三神は本來三社に(甲は香春岑の第一峰に、乙は第二峰に、丙は第三峰に)坐ししを後に乙丙をも一の岳の南麓なる甲の社に合せ齋きて甲を第一殿に、乙を第二殿に、丙を第三殿に坐さしめしにて
 ○又後に丙を三の岳に還し祭りしかば甲社の第三殿は空になれりといふ
初より三神一社に坐ししにあらず。又豐比賣たとひ神功皇后の御妹なりとも又たとひ(122)初より相殿に坐すともこれを以て主神が皇后なりといふ證とはすべからず。縁故なき神々が奉齋者のませ奉るままに同社に坐す例は無數なるをや。按ずるに辛國息長大姫大目命とあるにはげに誤字ありと見ゆるが清和天皇紀貞觀七年二月の下に辛國息長比※[口+羊]神とあるは略稱なるべければ之に依りて上の大と大目とを衍字とはすべからず。抑此名は偶然に神功皇后の御名に似たるにはあらで、ことさらに皇后の御名に似せたるなるべし。さて皇后の御名は古事記に息長帶比賣命、日本紀に息長足姫尊とありて共にオキナガタラシヒメとよむべきを播磨風土記に大|帶《タラシ》日賣命とあり三代實録貞觀十二年二月十五日の告文に大帶日姫とあればオホタラシヒメ又オホタラシヒヒメとも申し奉りしなり。されば續後紀及神名帳に息長大姫とあるは息長大帶姫の帶を脱したるならむ。
 ○神名帳は續後紀に據れるならむ。帶は脱したるにあらで略したるにかとも思へど景行天皇の御名大足彦・成務天皇の御名稚足彦のタラシを略して大彦・稚彦と申し奉れる例を知らず
又大目は大※[刀/自]を誤れるならむ。
(123) ○目は式の一本に自とありといふ。※[刀/自]は刀自の二合字なり。萬葉集新考三四五三頁以下にくはしく述べたり
さてその大刀自は息長大帶姫に添へたる敬稱なるべきが神功皇后を息長大帶姫大刀自と申し奉れる例は無し。元來大刀自は大后より劣れる敬稱なれば神功皇后には申し奉るべからざるなり。されば辛國息長大帶姫大刀自は皇后の御名の息長大帶姫を取りて其上下に辛國と大刀自とを添へたるにて畢竟朝鮮の神功皇后〔七字傍点〕といふ事にて、歸化せる韓人がその民族の崇敬せる女神にかかる名をおほせて此處に祭りしならむ。歸化せる韓人が田河郡にも住みたりし事は同郡に辛國といふ地名ありしにて想像せらる。さて其女神は釋日本紀などに云へる如くヒメゴソノ神なるべし。ヒメゴソノ神の事は悉しく肥前風土記新考|姫社《ヒメゴソ》郷の註にいへり〇住2此河原1とあるを思へば社地は初河邊にありしに似たり〇郷北有v峯といへるは即鹿春岳なり。此山は南北に相連れる三峰より成り南なるを第一峰とし北なるを第三峰とせり。今の卿社香春神社は一の岳の南麓にあり。續日本後紀承和四年十二月の下に
 太宰府言。管豐前國田河郡香春岑神辛國息長大姫大目命・忍骨命・豐比※[口+羊]命總是三社。元(124)來是石山而土木總無。至2延暦年中1遣唐請益僧最澄躬到2此山1祈云。願縁2神力1平得2渡海1。即於2山下1爲v神造v寺讀經。爾來草木蓊欝神驗如v在。毎v有2水旱疾疫之災1郡司百姓就v之祈祷、必蒙2感應1。年|登《ミノリ》人壽異2於他郡1。望預2官社1以表2崇祠1。許v之
とあり。即神名帳に入れられたる始なり。又元享釋書卷一最澄傳に
 又|是《コノ》澄泛v海時宿2田河郡賀春山下1。夢梵僧來v前袒v衣露v身。左肩似v人右肩如v石。言之曰。我是賀春明神也。和尚慈悲救2吾業道之身1、我當d加2助求法1晝夜守護u。欲v知2我實1海中急難現v光爲v驗。澄明旦|※[目+示]《ミルニ》v山右邊崩巖草木不v生。宛如2夢中半身1。心異焉。又海中風浪果有2光曜1。是以思2神之不1v浪《ミダリ》也。而建2法華院1自創2講席1。乃神宮院也。開講之後其右巖之地漸生2草木1年年滋茂。郷邑嘆異
とあり○頂有沼といへるを管内志杉坂山の條に
 香春の一の岳を云。絶頂より少し北方城跡に少しの沼殘れりと云
といへり○龍骨は前世界に住みし一種の大象(アジア、マンモス)の骨の化石ならむと云ふ。典藥式諸國進年料雜藥太宰府十二種の内に龍骨六十斤とあり○管内志に引きたるは第三〔右△〕峰有銅并黄楊龍骨等とある本なるが同書に「第三峰は三の岳にて山中に古に銅(125)一を掘し穴四十八穴ありと云」といへり。三の岳は香春町の北なる採銅所村にあるなるが此村は古くより銅を産する處にて三代實録仁和元年三月十日の下に
 太政官處分、下2知長門國1送2銅手一人掘穴手一人於豐前國採銅使許1。以2豐前國民未1v習2其術1也
とあり。此豐前國採銅使の名を傳へたるが今の採銅所村なりといふ。又同書元慶二年三月五日の下に
 詔令3太宰府採2豐前|規矩《キク》郡銅1。宛2彼郡徭夫百人1爲2採銅客作兒1。先潔清齋戒申2奏八幡大菩薩宮1
とあり。規矩郡は企救郡にて彼採銅所村は恰其郡界に接せり。客作兒はツグノヒビト即ヤトハレビトなり。流布本には鎔作の二字に作れり○因に云はむ。管内志杉坂山の條に
 豐後人森氏云。田河郡香春岑は香春驛家より見るに樹木は見えず。凡て芝山にして巓に巖多し。昔より紫檀・蘇木等の唐木多く生たりと云。さるを俗説に此唐木は此岑の神彼最澄と共に唐土に渡て取持來給へりと云傳へたれど實は此山の某かかる風流を好みて唐土より取寄せて植たる由なり。其紫檀は今の領主(○小倉藩主小笠原氏)の別(126)業に移植られたるを己も行き見たるに誠にうるはしき物なり。と云りき
といひ豐前志にも「さて方今此の山に唐木の甚多かるを思へば云々」といへれど今此山に紫檀・蘇木(すはう)などのある事を聞かず。大陸植物にして舊日本にても此山(第二峰)のみにあるものは忍冬科のカラスガマズミ Viburunum burejaeticm といふ灌木のみなりといふ。紫檀・蘇木は共に荳科の喬木なれば之と混同せらるべくはあらず○考證に
 地圖を※[手偏+僉]ふるに本郡東北隅に香春郷とみゆ。郷中の河に年魚あり。豐前國志に「本郡の内に鮎がへりの瀧とて河崎村にあり云々」とみゆ。此處にや
といへるは誤れり。鮎がへりは彦山川の文源なる中元寺川の上流川崎村にあり。香春町とは南北懸絶せり。又考證には和漢三才圖會より彦山三所大權現の記事を引きて彦山と香春岳とを混同せるに似たり。彦山は郡の南端にあるをや
 
   鏡山          甲類
 
豐前國風土記云。田河郡鏡山(在2郡東1)、昔者氣長足姫尊在2此山1遙覧2國形1勅祈云。天神地祇爲v我助福。※[乃を□で囲む]使〔左△〕《便》用2御鏡1安2置此處1。其鏡即化爲v石。見《イマモ》在2山中1。因(127)名曰2鏡山1(○萬葉集仙覺抄卷三梓弓引豐國之鏡山〔十字傍点〕之註所v引)
 
 新考 僧由阿の詞林采葉抄に引けるには遙覧國形の下に而宇あり。又乃使を便に作れり。又其鏡の下の即字無し。又見在の見字無し。又因名曰鏡山の下に焉字あり。乃使は宜しく乃を衍字とし使を便の誤字とすべし○鏡山は今の勾金《マガリカネ》村大字鏡山にありて鹿春町の東北に當れり。在郡東とあるは在郡東北の誤ならむ。此處の西南に當る香春郷をだに在郡東北といへるを思ふべし。
 ○但在郡東北とあらざると今いふ鏡山が低き岡にて在此山遙覧國形と云へるに叶はざるに似たるとに就いては若干の疑問を保留す
田河郡家の所在は不明なれど其地名は即田河ならむ。延喜式に田河驛見えたり。太宰府より豐前國府に到る官道に在りて筑前國嘉麻郡(今の嘉穗郡の内)綱別の次驛なり。郡家は恐らくは驛家と同處に、即共に田河にありしならむ。その田河を管内志・地理志料などには香春と同處とし或書には今の金川村大字夏吉としたれど共に香春郷在郡東北とあるに叶はず(夏吉は今の香春町の正西に當れり)。田河は恐らくは今の香春町より西南に當りて高羽川即彦山川に沼ひたりけむ。さて川の名のタカハは地名のタカハよりぞ(128)起りけむ○管内志に
 今も鏡山村鏡山神社あり。社のある處はすこしの山にて云々
といへり。鏡山神社の全景寫眞は福岡縣案内に見え建築物の寫眞は福岡縣名勝人物誌に出でたり○國形は地形なり。勅祈云を考證にウケヒタマハクとよみたれどウケヒは漢語の祝に當るぺければイノリテノリタマハクとよむべきか。但勅祈といふ語は妥ならず。又考證に助福をサキハヒセヨとよみたれどサキハヘ〔右△〕タマヘとよむべきか。但サキハフは萬葉集卷五なる好去好來歌にコトダマノ佐吉播布國トとありて四段活として用ひたる例無きにあらず○乃使は底本に使とありしに一本に依りて其傍に乃と書入れしその乃が後に本行に竄入し又便が使と誤られしならむ○用御鏡の用は取の誤か。御鏡を取りて岩上などに安置したひしは天神地祇に奉りたまふ御心なりけむ。考證には鏡を以て天神地祇を祭れるなりと云へり○貝原好古の八幡宮本紀卷二に
 田河郡に鏡山といへる村あり。其所の上の山に横二間長三間ばかりなる大石あり。其色黒青く奇妙なる石なりとかや。是ぞ則鏡石ならん
といへり。今はさる石見えずと云ふ○萬葉集卷三に
(129) 按作村主《クラツクリノスクリ》益人從2豐前國1上v京時作歌一首 梓弓ひきとよ國のかがみ山見ず久ならばこひしけむかも
とあり。豐前の國府より太宰府に到るに南北二路ありし事はかつて發表せし蘆城驛と題せる論文の中にいひおけるが其南路を取らば多米・田河などを經べく
 ○多米驛址は今もなほ得考へざるが彼論文に田河より直に國府に到りし如く云へるは訂正すべし
その兩驛の間にて鏡山の麓を經しにやあらむ。さらば鏡山は作者の屡見し山にてげに思出となりぬべし。又同じ卷に
  河内王葬2豐前國鏡山1之時|手持《タモチ》女王作歌三首
 おほきみのむつたまあへや豐國のかがみの山を宮とさだむる
 とよ國のかがみの山のいは戸たてこもりにけらし待てど來まさぬ
 いは戸わるたぢからもがも、たよわき、女にしあればすべの知らなく
とあり。河内王の出自《スキジ》は知られず。持統天皇の三年八月に太宰帥に任ぜられ同八年の春任に在りて卒せし人なり。即持統天皇紀に
(130) 三年八月辛巳朔丁丑以2淨廣肆河内王1爲2筑紫太宰帥1授2兵仗1及《マタ》賜v物
 八年夏四月甲寅朔戊午以2淨大肆1贈2筑紫太宰率河内王1并賜2賻物1
とあり。太宰率は即太宰帥なり。帥をソツ又ソチとよむは帥字を率字に更へ唱はなほ舊に從へるなり。帥にはソツの音無し。淨廣肆は王以上に賜ふ位十二階中の最下階、淨大肆は同じき第十一階なり。此王を鏡山に葬りし事情は知られず。或は部内巡行中此附近にて卒せしかば遺骸を太宰府に持歸らずして此處に葬りしか。歌にオホキミノムツタマアヘヤとはあれど太宰府にて卒せしを遺命によりて遺骸を此處に持來りしにはあらじ。貝原益軒の豐國紀行に
 鏡山の西端にはたさ原とて小なる松原あり。其所に古墓の方二間餘、高さ三尺餘ありて方なるが二つあり。二墓の間十間許あり。里人相傳へて河内殿の墓なりと云。二つの内何れともしらず。民家に近し。高所にはあらず。是萬葉集に豐國ノ鏡ノ山ノ岩戸タテと詠ぜる河内王の墓か
といひ豐前志には
 河内王の墓は鏡山村おほき原と云ふ處にありて王の墓表とて甚年歴たる松の有り(131)しが昔年枯れたりとて今も尚朽木殘れり。おほき原はオホキミ原を訛れるにぞあらむ
といへり。或地方誌に鏡山神社の西にある巨大なる前方後圓墳を以て河内王の墓に擬したれど墓制其時代にかなはず○近古以來の書に本文の在2此山1を在2松浦山1とし故曰2鏡山1を故曰2鏡宮1として肥前國松浦郡鏡神社の史料として引用せるものあり。此神社に關係あるものの變造にこそ。もし仙覺が此文を引用せずして彼變造の逸文のみ傳はらば後世の學者は爲に誤らるべきを
 
(132)  肥前國 二節
   
   ※[巾+皮]搖岑《ヒレフリノミネ》          乙類
 
肥前國風土記云。松浦縣々〔右△〕東三十里有2※[巾+皮]搖岑1(※[巾+皮]搖此云〔二字右△〕2比禮符〔右△〕離1)。最頂〔右△〕有v沼。計|可《バカリ》2半町1。俗傳云。昔者|檜前《ヒノクマ》天皇之世遣2大伴|紗手《サデ》比古1鎭2任那《ミマナ》國1。于《ソノ》時奉v命經2過此墟〔右△〕1。於v是篠原村(篠(ハ)資濃《シヌ》也)有2娘子1名曰2乙等比賣《オトヒメ》1。容貌端正、孤《ヒトリ》爲2國色1。紗手比古便〔右△〕娉成v婚。離別之日乙等比賣登〔右△〕2此峯1擧v※[巾+皮]《ヒレ》招。因以爲v名(○萬葉集仙覺抄卷四大伴佐提比古郎子〔八字傍点〕云々之註所v引)
 
 新考 甲類即單行本の鏡渡並|褶振《ヒレフリ》峯と參照すべし○此文全集本(一六一頁)なると、萬葉緯に引けると、考證に引けると小異あり。今は萬葉緯に依れり。さて二本と比較せむにまづ全集本に此云の二字を落せり。又符を府とせり。次に最頂を最頭とせり。次に墟を堤に誤り又便を使に誤れり。次に登を登望とせせり。甲類にも弟日姫子登v此用v褶振招とあれば望字は無きぞよからむ。考證本には松浦縣々東三十里の々を之とせり。松浦縣は所謂(133)見ダシなれば之字を以て本文に續くべからず。塢※[舟+可]縣・磐井墓・閼宗《アソ》岳などと比較すべし。次に符離を布理とし此云・俗傳云の云を曰とせり○肥前風土記新考鏡渡及褶振峰の下に云へると重複すれどなほあらあら註せむに縣は郡家即郡衙なり。三十里は今の凡百五十町なり○※[巾+皮]は肩背を覆ふ物にてカタカケなればヒレに當てなば當つべし。延喜式四時祭式下に※[巾+皮]一條(帛二丈)とあるもヒレに充てたるならむ○ヒレフリノミネは今訛りてヒレフル山といひ又鏡山又松浦山又七面山といふ。虹の松原の南方に孤立せる海拔僅に二百八十米ばかりの息火山なり。頂に平原ありて其中央に鏡池といふ池あり。是噴火口の跡なり○檜前《ヒノクマ》天皇は宣化天皇の御事なり。任那國は日本の領土にて日本府といふ政廳その國にありき。大伴紗手比古は命を奉じて任那國に渡らむとして其準備の爲にしばらく發船地なる松浦縣(今の東松浦郡)に留りしなり○墟は墟里・墟落・墟曲などつづくる墟にて村に同じ。陶淵明の詩に曖々遠人邨、依々墟里煙また時復墟曲中、披《ワケテ》v草共來往といひ又王維の詩に渡頭餘2落日1、墟里上2孤煙1また鷄犬散2墟落1、桑楡|蔭《オホフ》2遠田1といへり。甲類鏡渡には奉v命到來至2於此村〔右△〕1と書けり。その村を今は漢めかして墟と書けるなり○篠原は今の東松浦郡|嚴木《キウラギ》村大字中島にあり。乙等比賣は即甲類の弟日姫子なり。便はス(134)ナハチとよむべし
 
   
   杵嶋岳《キシマガタケ》          乙類
 
杵嶋|郡〔左△〕《縣》縣南二里有2一孤山1。從v坤指v艮三峯相連。是名曰2杵嶋1。坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1(一名軍神。動則兵興|也〔左△〕《矣》)。郷閭士女提v酒抱v琴毎歳春秋携v手登望、樂飲歌舞曲盡而歸。歌詞曰。阿羅禮符縷《アラレフル》、耆資麼加多ト塢《キシマガタケヲ》、嵯峨紫彌占〔左△〕《サガシミト》、區縒刀理我泥底《クサトリアカネテ》、伊母我提※[こざと+烏]刀縷《イモガテヲトル》(是杵嶋曲)(○萬葉集仙覺抄第三霞零吉志美我高嶺乎〔九字傍点〕之註所v引)
 
 新考 これも全集(一一九頁)なるは誤多ければ萬葉緯に引けるに據れり。但肥前國風土記云の六字は編者が私に加へたるなれば除きつ。兵興也を全集本・考證本共に兵興矣とせり。之に從ふべし。歌詞の字にも小異あり。そはいづれにてもあるべけれど第三句の占は誤字ならざるべからず。考證本に之を苫としたれど苫にもトの音は無し。恐らくは台(135)の誤ならむ。台をトに充てたる例はたとへば神代紀寶鏡開始章の第三の一書に中臣連遠祖コゴトムスビを興台産靈と書けり○杵島郡縣南二里の郡は縣を誤れるならむ。杵島郡といはば郡南といふべく縣南と云はむには杵島縣と云はざるべからざればなり。又上に塢※[舟+可]縣々東側近といひ、上妻縣縣南二里といひ、松浦縣々東三十里といひ、下にも閼宗《アソ》縣縣坤二十餘里といへるを思ふべし○杵島岳即杵島山の名は景行天皇紀十八年にも見えたり。即天皇が筑後國御木なる高田行宮にて大木の僵れたるを見たまひし處に
 有2一老夫1曰。是樹者|歴木《クヌギ》也。甞未v僵之先當2朝日暉1則隱2杵島山1云々
とあり。杵島郡は御木即今の三池郡と有明海を隔てて其西西北に當れば地理は叶はざるにあらず。杵島山は杵島藤津二郡の界を成せる山脈に連りて橘・須古二村に跨れり○抱琴は乙類本の撰者の癖として漢めかして書けるなり。かばかり漢土に心醉したる撰者もなほ槍前《ヒノクマ》天皇と書きて宣化天皇と書かざるは漢風謚制定以前に成りし書なるが故なり。曲盡はツブサニツクシテとよむべし○山遊の事は諸國の風土記に見えたり。たとへば播磨風土記|揖保《イヒボ》郡|枚方《ヒラカタ》里佐岡の下(二四七頁)に
(136) 所3以名2佐岡1者難波高津宮天皇之世召2筑紫田部1令v墾2此地1之時常以2五月1集2聚此岡1飲酒宴樂。故曰2佐岡1
とあり。(薩隅日)三國名勝圖會卷四十二なる三月四日曾木瀑布群遊圖・尾張名所圖會卷五なる東山春興圖などを見て其状を察すべし。邊地には此風今も殘れり○歌は
 あられふるきしまがたけをさがしみとくさとりかねていもがてをとる
とよむべし。カネテを我泥底と書ける我はガなれば叶はざるに似たれど此字は往々清音に充てたり。たとへば額に角の生ひたる人即|角額《ツヌヌカ》の義なるツヌカを垂仁天皇紀に都怒我と書き筑前國のシカノ神を景行天皇紀に志我神と書き萬葉集に手兒ノヨビザカコエカネテのカネテを我禰※[氏/一]と書けり。アラレフルは枕辭なり。霰の降るはかしましきもの又キシマはカシマシと音相近ければキシマの枕辭としたるなり。萬葉集にアラレフリカシマノ埼ヲまたアラレフリカシマノ神ヲとあり。アラレフリはアラレフルの古形なり。サガシミトはサガシミに同じ。このトは平安朝時代以後は添へず。さればサガシミトは嶮シサニなり。第三句と第四句との間に草ヲ取ラムト思ヘドといふことを補ひて聞くべし。かかる辭は略すべきにあらねど上古の歌には往々かく片なりなるものあ(137)り。さて古事記仁徳天皇の段に速總別《ハヤブサワケ》王が女鳥《メトリ》女王を率て逃げし途中の歌に
 はしだてのくらはし山をさがしみと岩かきかねて我手とらすも
といふがあり。これも第三句と弟四句との間に岩ヲ掻カムト思ヘドといふ辭を略したるにてワガ手トラスモは女王ガ我手ニ取附ク事ヨといへるなり。又萬葉集卷三に
 あられ零《フル・フリ》きしみがたけをさがしみと草取可奈和妹が手をとる
といふ歌あり。以上三首の歌の間に關係ある事いふまでも無き事なるが其順序は古事記一、風土記二、萬葉集三にて杵島にて歌ひしは速總別王の歌を作り更へたるもの、萬葉集に載せたるは杵島にて歌ひしを傳へてキシマをキシミと訛れるなり。さて速總別王の歌は片なりにはあれど男王まづ登り女王次いで登らむとして男王の御手に取附きたまふ趣にてよく聞えたるを、風土記に草トリカネテ妹ガ手ヲトルとあるは女まづ登り男次いで登らむとして女の手に取附く事となりて理かなひがたし。かくの如く調に任せて理を忘れたるはやがて此歌が創作にあらざる一證とせらるべし(萬葉集新考四七六頁參照)○杵島曲はキシマブリとよむべし。日本紀の夷曲を古事記には夷振と書けり。そのフリは今いふ節なり。此歌が杵島節の親歌なりと云へるなり(古事記傳卷十三夷(138)振之註參照)。常陸風土記|行方《ナメカタ》郡の下に
 斯貴瑞垣宮大八洲所馭天皇之世爲v平2東夷之荒賊1遣2建借間《タケカシマ》命1引2率軍士1行略2凶猾1頓2宿安婆之嶋1遙望2海東之浦1、……即命2徒衆1褥食而渡。於v是有2國栖1名曰2夜尺斯《ヤサカシ》・夜筑斯《ヤツクシ》1。二人自爲2首帥1掘v穴造v堡常所居住、覘2伺官軍1伏衛拒抗。……俄而建借間命大起2權議1……連v船編v※[木+伐]《イカダ》飛2雲葢1張2虹旌1天之鳥琴天之鳥笛隨v波逐v潮杵島唱曲〔四字傍点〕七日七夜遊樂歌※[人偏+舞]。于《ソノ》時賊黨聞2盛音樂1擧房男女悉盡出來傾濱歡咲。建借間命令2騎士閇1v堡自v後襲撃盡囚2種屬1一時焚滅
とあり。杵島唱曲は唱杵島曲の顛倒か。然らずとも唱杵島曲とあらむと同じく心得べし。さてその杵島曲は前に云へる如く杵島節にて其歌詞は恐らくはアラレフルといふ歌には限らざりけむ。七日七夜の間同一の歌詞を反復すべくはあらざれはなり。さて常陸にして肥前の杵島曲を歌ひしに就きて常陸風土記標注に
 建借問命ハ神八井耳命ノ裔ニシテ意富《オホ》臣・肥直《ヒノアタヒ》等ノ同族ナレバ思フニ肥ノ國ヨリ來リケン故ニ杵島曲ヲ唱シナルベシ
といへり。神八井耳命の子孫はげに火君・大分《オホキダ》君・阿蘇君・筑紫三家連など西海道に蔓衍せ(139)るものあり。されどて意富臣を始として諸國に分布せるものもあり。意富臣・肥直等ノ同族ナレバといふ理由を以て肥ノ國ヨリ來リケンとは推斷すべからず。按ずるにタケカシマのタケは男子の美稱なるがカシマはキシマの轉訛にて此人は杵島の人にあらざるか。但國造本紀にも建借馬命とあり。又逸文考證に「もし崇神の御世にはやく杵島曲を唱ひし證ある時は宣長が速總別王の歌を所々かへたるものなりと云る説は立がたかるべし」といへれど古き傳説をさながら録したる物に據りて時代の前後を論ぜむはいと危し。宜しく歌辭の整不整を基としていづれが原なるかを定むべし。さて速總別王の歌は整ひ杵島曲の歌は整はずして摸製の跡著き事前に云へる如し
 
(140)   肥後國 四節
 
   總説          甲類
 
肥後國風土記云。肥後國者本與2肥前國1合爲2一國1。昔崇神天皇之世|益城《マシキ》郡|朝來名《アサクナ》峯有2土蜘蛛1名曰2打※[獣偏+爰]|頸※[獣偏+爰]《ウナサル》1。二人率2徒衆百八十餘人1蔭《カクリヲリ》2於峯項1、常逆2皇命1不v肯《ウベナハズ》2降伏1。天皇勅2肥《ヒノ》君等祖|健緒組《タケヲクミ》1遣《シム》v誅2彼賊衆1。健緒組奉v勅到來皆悉誅夷。便《スナハチ》巡2國裏1兼《マタ》察2消息1。乃到2八代《ヤツシロ》郡白髪山1日晩止宿。其夜虚空有v火自然而燎、稍稍降下著2燒此山1。健緒組見v之大懷2驚怪1。行事既畢參2上朝廷1陳2行状1奏2言云云1。天皇下v詔曰。剪2拂賊徒1頗〔左△〕《頓》無2西眷1。海上之勲誰人比v之。又火從v空下燒v山亦怪。火下之國(ナレバ)可v名2火國1。又景行天皇誅2球磨※[口+贈]《クマソ》唹1兼巡2狩諸國1云云|幸《イデマサムト》2於火國1渡v海之間日没夜暗不v知v所v著。忽有2火光1遙|視2行前《ユクテヲシメス》1。天皇勅2棹人《カヂトリ》1曰。行前火《ユクテノヒヲ》※[日行前火を□で囲む]見直指而往《ミテタダニサシテユケト》。隨v勅|往之《ユキシニ》果得v著v崖《キシ》。即勅曰。水|燎之《モユル》處(141)此號2何界《イヅク》1。所燎之《モユル》火|亦《ハタ》爲2何火《ナニノヒゾ》1。土人奏言此是火國八代郡|火《ヒノ》邑。但未v審2火由1。于《ソノ》時詔2群臣1曰。△《所》燎之火非2俗火1也。△《號》2火國1之由知v所2以然1(○釋日本紀卷十述義六、景行天皇紀火國造〔三字傍点〕之註所v引)
 
 新考 律書殘篇に肥後國郡十三、郷百六、里三百二とあり。郡名は延喜民部式に
 肥後國 大管、玉名・山鹿・菊池・阿蘇・合志・山本・飽田・託麻・益城・宇土・八代・天草・葦北・球磨(〇九條家本に據る。流布本には山鹿を最後に次でたり)
和名抄郡名に
 肥後國 管十四 玉名(多萬伊奈)山鹿(夜萬加)菊池(久々知)阿蘇(阿曾)合志(加波志)山本(夜末毛止)飽田(安岐多)託麻(多久萬)益城(萬志岐、國府)宇土・八代(夜豆志呂)天草(安萬久佐)葦北(阿之木多)球麻(久萬)
とありて(律書殘篇にいへるよりは一郡多し)其順序は西北に始まりて東南に終れり。和名抄に玉名をタマイナとよめるはタマキナの音便なり。なほ下に云ふべし。菊池をククチとよめるは古き稱をさながらに傳へたるなり。キクチを當時訛りてククチと云ひし(142)にあらず。神代紀四神出生章の一書なる菊理媛神を古訓にククリとよみ和名抄上總國市原郡の郷名菊麻の訓註に久々萬とあり。さてククに菊を充てたるは類音を借りたるにあらで菊に古ククといふ音ありしならむ。カハシに合志の字を充てたるは合の音カフをカハに轉じて借りたるにてサハダ・イサハを雜太・伊雜と書けるなどと同例なり。右十四郡中益城は夙く上下二郡に分れ
 ○益城が上下に分れし時代は其地方の人も明にせずといふ(たとへば上益城郡誌にも不明とせり)。寛文印知集は勿論、天保郷帳・明治沿革帳などにも上下に分たず。始めて上下に分てるは明治十年刊行の日本地誌提要なり。思ふに私には夙くより上郡下郡と唱へけめど公に二郡と認めしは明治の初年ならむ
明治二十九年に山鹿・山本を合せて鹿本とし合志を菊池に併せ、飽田・託麻を合せて飽託とせしかば今は玉名《タマナ》・鹿本《カモト》・菊池《キクチ》・阿蘇・飽託《ハウタク》・上|益城《マシキ》・下益城・宇土《ウト》・八代《ヤツシロ》・天草・葦北・球麻《クマ》の十二郡に分れたり○肥後國は北は筑後豐後に、東は豐後日向に、南は日向薩摩に續き西は有明海と八代※[さんずい+彎]即不知火海とに臨めり。其兩※[さんずい+彎]は宇土半島即宇土郡によりて相隔てられたり。別に天草諸島即天草郡ありて東北は宇土郡と一海峽を隔て東は葦北郡と八代※[さんずい+彎]を(143)夾めり○肥後と肥前と相分れし時代は明ならねど推古天皇紀十七年に肥後國葦北津とあるは大化改新以前の事なれば無論追書なるべし。されば持統天皇紀十年四月に肥後國|皮石《カハシ》郡壬生諸石とあるを國名の始出とすべし。之に次いでは續日本紀養老二年に
 夏四月丙辰筑後守正五位下道君|首名《オビトナ》卒。首名少治2律令1曉2習吏職1。和銅末出爲2筑後守1兼治2肥後國1
とあり
本文は肥前風土記の總説と大同にして小異なり。但管内志の如く「文字など聯異なる所もあれど其趣はすこしも異なる事なし」など云ひて已むべきに非ず。細に兩者を比較するに由りて兩者の大同小異なる理由、兩者の先後、此文の成りし時代も推知せらるればなり。まづ肥前風土記の磯城瑞籬《シキノミヅガキ》宮御宇|御間城《ミマキ》天皇と纏向日代《マキムクノヒシロ》宮御宇大|足《タラシ》彦天皇とを此文には崇神天皇・景行天皇と書けり。次に肥前風土記に
 奏言。臣辱被2聖命1遠誅2西戎1、不v霑2刀刃1梟鏡自滅。自v非2威靈1何得v然之。更擧2燎火之状1奏聞
とあるを此文には奏言云々〔二字右△〕とのみ書けり。次に肥前風土記に
 誅2球磨贈唹1而巡2狩筑紫1之時從2葦北火流浦1發v船幸2於火國1度〔左・〕v海之間……  
(144)とあるを此文には
 誅2球磨贈唹1兼巡2狩諸國1云々〔二字右△〕幸2於火國1渡v海之間……と書けり。其他の相異は煩はしければ表を以て示さむに
 
    肥前風土記                 此文
 昔者                   昔
 有土蜘蛛打猴頸※[獣偏+爰]二人帥    有土蜘蛛名曰打※[獣偏+爰]頸※[獣偏+爰]二人率
 一百                   百
 拒捍皇命                 蔭於峯頂常逆皇命
 朝廷勅遣                 天皇勅
 伐之於茲                 遣誅彼賊衆
 悉誅滅之                 到來皆悉誄夷
 兼巡國裏觀察消息             便巡國裏兼察消息
 到於                   乃到
(145) 自然燎                 自然而燎
 就此山燎之                著燒此山
 時健緒組見而驚怪參上朝廷奏言       健緒組見之大懷驚怪行事既畢參上朝廷鎮行状奏言
 勅曰所奏之事未曾所聞           下詔曰剪拂賊徒頓無西眷海上之勲誰人比之又火從容下燒山亦怪
 可謂火國即擧健緒組之勲賜姓名曰火君    可名火國
 健緒組便遣治此國因曰火國後分兩國而爲前後 
 而巡狩筑紫國之時             兼巡狩諸國
 夜冥                   夜暗
 直指火處                 行前火見直指而往
 應勅而往                 隨勅往之
 天皇下詔曰                即勅曰
(146) 何謂邑也               火燎之處此既何界所燎之火亦爲何火
 國人                   土人
 火邑也                  火邑
 但不知火主                但未審火由
 于時天皇                 于時
 今此燎火非是人火             所燎之火非俗火也
 所以號火國知其爾由            火國之由知所以然
 
右の外甲の贈於を乙に贈唹と書き甲の度海を乙に渡海と書けり。右の中には一方の誤脱によりての相異もあるべけれど少くとも始に擧げたる三大相異に據れば此文は肥前風土記の總説を藍本とし之を損益して書けるにて之を書きしは歴代天皇に漢風の謚を奉りしより後の事なり。御歴代に漢風謚を奉りしは何時にか確には知られねど天平勝寶三年十一月の序ある懷風藻に文武天皇とあるを始出とし寶龜六年の大安寺碑文に舒明天皇とあり(但天智天皇を淡海聖帝又淡海天朝馭宇昊天寶開闢天皇といひ齊明天皇を太后といへり)續日本紀天應元年六月なる土師宿禰道長等の奏言に纏向珠城(147)宮御宇垂仁天皇世とあり同年七月なる栗原|勝《スクリ》子公の奏言に神功皇后御世とあるを次見とす。釋日本紀卷九述義五に
 私記曰。師説神武等謚名著淡海御船奉v勅撰也
とあるは確ならねど或は然らむ。但一二の辭典に
 漢風の謚は天平勝寶三年十一月淡海三船勅を奉じて神武以降持統に至るまでの謚號を撰びしより起り云々
といへるは適に人まどはしなり。天平勝寶三年十一月とあるは三船の撰なりといふ彼懷風藻の序の成りし年月なるのみ。所詮神武以下の漢風謚を奉撰せしは奈良朝時代の末にて日本紀の成りしより後ならむ。又恐らくは一時に奉りしにあらざらむ(古事記傳巻十八初版全集本一〇五八頁及日本書紀通釋一〇六六頁參照)。さらば肥後風土記は肥前風土記より遙に後れて成りしものかと問はむにそは輕々しく然りとは答ふべからず。元來肥後風土記はその逸文に依りて察するに他の西海道風土記と同じく甲本と乙本とありしなり。さて天皇の御名の見えたるは甲類なる長渚濱の一節のみなるが、それに景行天皇の御事を大足彦天皇といへり。問題の文即總説は肥前風土記の例と、郡を(縣(148)と云はで)郡といへるとに據れば甲類と思はるるが總説にのみ漢風謚を用ひて各説と一揆ならざる事不審ならずや。思ふに肥後風土記の總説は初より無かりしか又は夙く亡せたりしを後人が肥前風土記の總説を改竄して各説に附加したるにて各説はなほ肥前風土記と同時に成りしならむ
益城《マシキ》郡|朝來名《アサクナ》峰は今の上益城郡福田村大字福|原《ハル》字|幅田寺《フクデンジ》の山なりといふ。朝來名を管内志にはアサキナとよみたれど但馬國朝來郡の例に依りてアサクナとよむべきか。近古嵯峨直方といふ人(高本紫溟の門人、文政二年歿、年七十七)此山の麓に住みて自朝來山人と號しき。今も此山をテウライ山と呼ぶものあり。但此山に鬼の岩屋といふ石窟あるを土蜘蛛の住みし跡とせる人あれどこは無論古墳なるべし○肥《ヒノ》君の肥は氏、君はカバネなり。國造本紀に
 火國造 瑞籬朝大分國造同祖志貴多奈彦命兒遲男江〔三字傍点〕命定2賜國造1
とあり。遲男江命はげに栗田氏の云へる如く建男組命の誤字なるべし(建は健の略字)。消息は國情なり〇八代郡白髪山は今の北種山村にありといへれど確ならず〇著燒の燒字心得がたし。龍燈は陰火にて物を燒くものにあらざればなり。肥前風土記に稍々降下(149)就2此山1燎之《モユ》とあるぞ穩なる。燒は或は燎の誤ならざるかとも思へど下にも燒v山とあれば誤字にあらじ○大懷驚怪の語例は播磨風土記|讃容《サヨ》郡船引山の下に於v是犬猪即懷2怪心1とあり。又法隆寺釋迦佛造像記に時王后王子等及2與諸臣1深懷2愁毒1とあり○行事・行状は使事・使状なり。行事の例は孟子公孫丑下に
 孟子爲v卿2於齊1出弔2於滕1。王使d蓋(ノ)大夫王※[馬+灌の旁]爲c輔行u。王※[馬+灌の旁]朝碁見。反《カヘルマデ》2齊滕之路1未d甞與v之言c行車〔二字傍点〕u也。公孫丑曰。齊卿之位不v爲v小矣。齊滕之路不v爲v近矣。反v之而未d甞言c行事〔二字傍点〕u何也。曰。夫《カレ》既|或《アり》v治v之。予何言哉
とあり○頗は正安古寫本に頓とあるぞ優りたらむ。頓はタチマチとよむべし。西眷は音讀するか又は西ノ方ノカヘリミと訓むべし。畢竟西顧に同じ○海上之勲とある心得がたし。肥國は海を渡りて行く處なれば海上と云へるか。或は蘇武が匈奴に使して北海上にて困苦に堪へし故事に依りて遠境に使して命を果しし事を海上之勲と云へるか。漢書李廣蘇建傳附録蘇武傳に
 乃徙2武北海上〔三字傍点〕無v人處1……武既至2海上〔二字傍点〕1……使d陵(○李陵)至2海上〔二字傍点〕1爲v武置酒設樂u
などあり。北海は今のバイカル湖なり○幸はイデマサムトとよみ視行前はユクテヲシ(150)メシキとよむべし○天皇勅棹人曰行前火日行前火〔四字傍点〕見直指而往とあるは曰行前火を重ね書き更に曰を日に誤れるなり。宜しく日行前火の四字を削るべし。又考證本には行前火見直指而往の見直を落せり。さて此八字はユクテノ火ヲ見テタダニサシテユケとよむべし○隨勅往之は勅ノマニマニユキシニと訓むべし。之は助字なり。崖は岸なり○此號何界はコハイヅクトカイフなど訓むべきか。此〔右△〕は四字とせむが爲に殊更に加へたるのみ。考證本には此處も、上なる大懷驚怪より誰人比之までも共に字を離れて訓下したるが特にタレカナラブモノアラマシとよめるはいとわろし。マシはかかる處に使ふ辭にあらず。但、爲何火をナニノ火ゾとよめるは宜し。この爲は訓まれざればなり。亦はハタと訓むべし〇火邑は和名抄の肥伊郷にて今の氷川の流域なるべし。火由は如何ナル火ゾトモといふ事なり○燎之火の上に正安本に據りて所を補ふべし。俗火は考證の如くヨノツネノ火とよまむも惡からねど元來通常の火といへるにはあらで人間の火といへるなれば、もし訓讀せむとならばヒトノヨノ火とよむべし。肥前風土記には人火と書けり。火國之由の上に號を落せるか。肥前風土記には所以號火國と書けり。その所以は此文の之由に當れり。以下八字の義は火國トイフハ是故ト知リキといへるなり○敷田氏(151)の日本紀標註卷八の十八丁に「和銅の格に火を嫌て肥に改たり」と云へるは元明天皇紀和銅六年五月の詔に畿内七道ノ諸國ノ郡郷ノ名好字ヲ著ケヨとあるを敷衍して云へるか
 
   長渚《ナガス》濱          甲類
 
肥後國風土記曰。玉名郡長渚濱(在2郡西1)昔者大足彦天皇誅2球磨贈唹1還駕之時泊2御船於△《此》濱1云云。又御船左右游魚|多之《オホカリ》。棹人《カヂトリ》吉備國朝勝見以v鉤《チ》釣v之|多有v所v獲《サチサハナリ》。即獻2天皇1。勅曰。所v獻之魚|此爲2何魚《コレナニノイヲゾ》1。朝勝見|奏申《マヲサク》。未v解《シラズ》2其名1止《タダ》似2鱒魚1耳(△△《麻須》)。△△《天皇》歴御覺曰。俗見2多物1即云2爾陪佐爾《ニベサニ》1。今所v獻魚|甚此〔二字左△〕《此甚》多有。可v謂2爾陪魚《ニベノイヲ》1。今謂2爾陪魚1其|縁《ヨシ》也(○釋日本紀卷十六秘訓一、神代紀上|多請《サハニマヲス》之註所v引)
 
 新考 玉名郡は即景行天皇紀十八年に
(152) 六月辛酉朔癸亥自2高來《タク》縣1渡2玉名邑1時殺2其處之土蜘蛛|津頬《ツヅラ》1焉
とある玉杵名邑なり。されば元來タマキナといふ地名なるを地名は二字に書くべしといふ定に依りて杵を略して玉名と書くこととはなりしかど初にはなはタマキナと稱へしをやうやうにタマイナと訛り終に字に引かれてタマナと稱ふる事となれるなり。和名抄に多萬伊奈と註せる事は上に云へる如し。中世の物に往々玉井名と書けるは地名は二字に書くべきなる等を顧みず(但國内にては三字にも一字にも書きし事あり)又タマイナはタマキナの音便なればそのイは井とは書くまじき事を知らざるなり○此郡は南は飽託郡に、東は鹿本郡に、北は筑後の八女・山門・三池の三郡に隣り西南は有明海に臨めり○長渚は萬葉集にコノ渚崎《スノサキ》ニタヅナクベシヤ・ミサゴヰル渚ニヰル船ノ・ウナガミガタノオキツ渚ニなどあり、又和名抄長門國美禰郡の郷名渚鋤に須々木と訓註したればナガスと訓むべし。今も本郡の海岸に長洲町あり。肥前風土記|高來《タク》郡の下に
 昔者纏向日代宮御宇天皇在2肥後玉名郡長渚濱之行宮1覧2此郡山1曰云々
とあり。高來郡は長渚濱より西南に當りて島原※[さんずい+彎]を隔てたれど相遠からず。さればこそ景行天皇は玉名の長渚濱より高來郡を望み給ひしなれ○今玉名村大字玉名あり。郡家(153)は其附近にぞありけむ。今の長洲町は適に其西方に當れり○大足彦天皇は景行天皇の御事なり。日本紀に據れば球磨郡より葦北郡・八代郡などを經て肥前の高來郡に渡り再玉名郡に渡り給ひしなれど肥前風土記に玉名郡長渚濱より海越に高來郡(島原半島)を望み給ひてその絶島なるかを知り給はむ爲に神《ミワノ》大野宿禰を見せに遣り給ひし事の見えたると相合はざるに似たり○濱の上に正安本に據りて此を補ふべし。云云とあるは原文を略したるなり。いとあたらし○多之の之は助字なり。されば二字を聯ねてオホカリなど訓むべし。棹人は總説にも見えたり。かの挾杪と同じくカヂトリとよむべし。考證にカヂヒトと訓めるはわろし○朝勝見はさながら名にや。播磨風土記(新考二九貢)に度子《ワタシモリ》紀伊國人小玉とあるを例として吉備國の下に人を補ふべきかとも思へど又同書(一四六頁)に舍人上野國麻奈※[田+比]古とあれば輕々しくいろひ難し○鉤はツリともチとも訓むべし。夙く肥前風土記松浦郡の下に云へり。多有所獲を考證にエモノサハナリケレバとよめり。うるはしく訓讀せむとならばエモノをサチに改むべし。エモノの古言はサチなればなり○所獻之魚此爲何魚は總説に火燎之處此爲何界といへると同格なり。此は所獻の上にあるべきに似たれど意ありてかく書けるなれば原のままにてコハナニノ(154)イヲゾとよむべし。栗田氏は此を捨ててナニトイフイヲゾとよめり。そも亦可なり○止似鱒魚耳はタダマスニコソニタレトマヲスとよむべくや。栗田氏は止を正に改めてマサシクマスニノレリト白スとよめり。正安本に其下に麻須天皇の四宇あり。宜しく補ひ入るべし。就中麻須は元來註文なりしが本行に竄入したるなり。歴〔右△〕字正安本に無きは落ちたるなり。上に勅曰所獻之魚此爲何魚とありて天皇は夙くみそなはししなれば、ここに至りて事新しく御覺曰とは云ふべからず。前には大凡にみそなはししを朝勝見が未ソノ名ヲシラズタダ鱒魚ニコソ似タレと申すを聞召してこたびは一々よく見給ひしなり。されば歴字は必有るべし。さて歴御覧はアマネクミソナハシテと訓むべし。右に云へる如くなれば原文は
 朝勝見奏申。未解其名。止似鱒魚耳(麻須)。天皇歴御覧曰云々
とありしを流布本には麻須天皇の四字を脱し正安本には歴字を落したるなり○俗ニ多物ヲ見レバ即爾陪佐爾ト云フとある俗を伴信友は筑紫の方言とし考證にはクニビトと訓みたれど、この俗は世と心得、ヨニと訓むべし。たとへば萬葉集卷六に獣名俗曰2牟射位妣1と云へるを思へ。古典に唯一處ならでは見えざればとて方言とは認むべからず。(155)萬葉集のウレムゾ・タケソカニなどを思ふべし。因に云はむ。日本紀に甚にニヘサニと傍訓したる處少からず。但紀の傍訓はいと古きものにあらねば有力なる證據とはすべからず○多物はもしうるはしく訓讀せむとならば字の序に拘はらで物ノサハナルヲと訓むべし。考證にオホキ物とよめるは宜しからず。又考證本に陪を倍とせり。今所獻魚甚此多有の甚此は此甚の巓倒か。上にも所獻之魚此爲何魚とあるを思ふべし○管内志(肥後三四頁)には右の説話を後人の傅會としてニヘを清み訓みて(陪・倍はへともべとも訓むべし)新饗の義とせり。同書の著者はニヘを魚名と認めざる趣なるが可謂爾陪魚といへるを思へばなほ魚名なり。又新饗又は御贄の義とせむよりはニベと濁り訓みて此魚は特に多くニベ即魚膠を産すればニベといふとせむ方穩なるべけれど更に思ふに魚膠をニベといふは元來ニベノニカハの略にて魚の名のニベが原ならむ。ニベノ魚は和名抄に※[魚+免](ハ)邇倍一云久知とあり。箋註に
 久知ニ白黒二種アリ。白キ者は大サ尺ニ滿タズ。之ヲ白久知ト謂ヒ又以之毛知ト謂フ。黒キ者ハ大サ四五尺ニ至ル。之ヲ邇倍ト謂フ
といひ本草綱目啓蒙に
(156) 石首魚、ニベ 小ニシテ二三寸ナルヲいしもちト云。味美ナリ。ソノ長サ七八寸ナルモノハ昧いしもちニ次グ。之ヲぐちト云。ソノ大ナルモノヲにべト云。長三尺バカリ。大和本草ニハ四五尺・六七尺ト云。背ハ紅ト淡黒トノ斑點アリテ腹ハ黄色ナリ。いしもち及ぐちノ淡黄白色ナルニ異ナリ。大小ミナ首ニ二石アリ。潔白堅硬ニシテ瑪瑙ノ如クニシテ透明ナラズ。一説ニいしもちトにべト別ナリ。にべノ小ナルモノハにべいしもち(江戸)しらふ(土州)ト云。にべノ腹中ニ白※[魚+票]アリ。ぐちニモコレアレド小ナリ。白※[魚+票]ヲ製シテ膠トナスヲにべト云。物ヲ粘スルニ甚カタシ
など云へり。茲に腹赤といふ魚あり。日本後記大同元年五月・三代實録天安三年正月の下などに見えたるが延喜大舎人式に
 凡元日……訖|膳部《カシハベ》・水部《モヒトリ》等取2氷樣《ヒノタメシ》・腹赤《ハラカ》御贄1退出
又おなじき宮内式に
 宮内省申【久】……又大宰府進【禮留】腹赤【乃】御贄一隻長若干尺進【樂久乎】申給【登】申
又同じき内膳式に
 年料太宰府……腹赤魚、筑後・肥後兩國所2進出1。其數隨v得。已上別貢(157)右諸國所v貢竝依2前件1。仍收2贄殿1以擬2供御1(但腹赤魚收2司家1)
などいひ和名抄に
 ※[魚+宣](ハ)波良可。式文用2腹赤二字1
といへり。腹赤に就きては伴信友のくはしき考證ありて比古婆衣卷二(全集第四の三一頁以下)に出でたり。文いと長ければ勉めて節略して左に轉載すべし。其説にいはく
 年の始に獻る腹赤の御贄は肥後風土記に云々と見えたる故實によりて聖武天皇の御世その爾倍魚の別名を腹赤と申て〔その〜傍点〕獻りそめたるなり。そは中原師遠朝臣の年中行事正月元日の條の裡書に
 奏2腹赤贄1事、腹赤尺寸九尺九寸載2太宰府解文1。本朝月令曰。昔大足彦天皇云云(○風土記の文の節略なり)事見2月令第一1
と見え、また年中行事抄(○續群書類從卷二五三)正月元日の條に
 宮内省奏2腹赤贄1事、魚長九尺九寸太宰府解文載2寸法1。官曹事類云。腹赤魚筑後・肥後二國所v出(天平十五年正月四日始供)。委見2兩國風土記〔五字傍点〕1
また色葉字類抄に
(158) ※[魚+宣]ハラカ腹赤同(國俗用v之。出2本朝式1。太宰府解文寸法長九尺九寸云云)大足彦天皇云云(○風土記の文の節略)
など見えたるを彼風土記の文に徴して並せ考るに爾倍魚と稱《イ》ふは景行天皇の負せ給へる名、腹赤といふは其魚の別名なる事著く又件の故事によりて聖武天皇の御世天平十五年正月四日に獻らせ始め給ひたる事も知られたり。然るに年中行事秘抄奏2腹赤贄1事の條に
 官曹事類云。供2腹赤魚1事始v自2昔大足彦天皇御代1歟。肥後風土記、於2長渚濱1棹人釣v之。其名曰2鱒魚〔五字傍点〕1麻須
とあるも專上に擧たる書どもに記せると全く同説なるを其名曰鱒魚とあるは決て傳寫の誤なり。……貞治五年の年中行事歌合に右腹赤贄(初春の千世のためしの長濱〔二字右△〕につれる腹赤も我君のため)二條關白良基公の旨趣詞に
 右歌は筑紫國宇土郡長濱〔五字傍点〕にて此魚を釣りて奉りけるを年毎の節會に供すべきよし定おかれたるなり云々。ハラカとは鱒の魚の事なり〔七字傍点〕
とも記されたり。然腹赤を鱒の魚の事とせられたるはもと上に論へる官曹事類の誤(159)寫本の文に據りて誤給へるなり。かくてその腹赤の本名の爾倍魚なる事は上に論へる如く混れ無けれどなほ書どもを併せ考ふるにまづ和名抄に云々、類聚名義抄にも※[魚+宣](音宣ハラカ)、新撰宇鏡にも※[魚+宣](波良加)とみえ撮壤集には※[魚+宣]ハラアカと訓り。爾倍は字鏡に云々、名義抄に云々、和名抄に云々と載せられたり。今彼此を通はし思ふに爾倍を腹赤といふ外に久知・伊之毛知といふも別名なりけり。さて……まめやかなる魚商人どもに就きてよく尋問ふに爾倍といふは大魚にてなべて長さ六七尺ばかりなり。稀々にはなほ大なるもありと聞けり。鱗黄に黒みて光あり。尾に岐なし。※[月+票]、丹色を帶て赤し。腴は白し。頭中に白き石の如きもの二枚あり。此魚の※[月+票]を干堅めたるが魚仁倍といふものなり。さてその爾倍の小なる程を石モチと云へり……と云へり。今按ふに爾倍を腹赤といふは字の如く腹の赤き由なり。さて又彼故事を思ひて肥後の國人に問合せたるに爾倍は彼魚商人の語れると同じさまなれど其大なるは今いと多からず。その小なる程なべては七八寸ばかり一二尺に及べるをグチとも赤グチとも云ふ。夏はことに多し。といへり。鱒魚に似たりやと問ふに「それが小きは打見には聊似たりとも云べし。但し鱒に合せては圓き方にて鯉に似て稍平みたり」といへり。又いふ「小魚(160)にてなべて世に石モチといへるをは白グチと云。形の相似たるによりて腹の赤きと白きをもて呼分つなめり」と云へり。これ腹赤の一名を久知といへるに合へり。……かくて今肥後の長洲の腹赤村わたりにて鯛の一種〔四字傍点〕にて殊に赤きがあるを腹赤なりと呼ていにしへ御贄に奉りしもの是なりといふと國人いへり。……あはれ御贄獻る事の廢て久しく年經る程にかつがつ名のみ傳りて眞の物實を忘れゆきたりける後の世になりて生ざかしき漁翁などの妄にさる強言はしいだしたるにこそ。……かくて官曹事類に腹赤魚、筑後肥後二國所v出、委見2両國風土記1とあるは肥後はさる事ながら筑後より獻る縁は今其風土記の文絶て知べき由なし。……筑後は長渚に近く隣りたればそのわたりの海上にてぞ其魚をば獲たりけむ。故兩國より獻れるを太宰府の解文を具へて朝廷に進る例となりしにて延喜内膳式の年料太宰府の別貢に腹赤魚筑後・肥後兩國所2進出1、其數隨v得と載られたる是なり。……さて又腹赤御贄を平城天皇の御世に停給へる事日本後紀に
 大同元年五月己卯停v獻2諸國雜贄腹赤魚・木蓮子《イタビ》等1。以息2民肩1也
とみえ、差次給へる嵯峨天皇の御世に舊に復し給ひて弘仁の内裏式に其儀を載られ(161)たり云々(○弘仁内裏式は群書類從に收められ又單行の版本も行はれたれど疑はしき書なり)
と云ひて末に冷泉爲恭の寫せる讃岐國産爾倍魚の圖を載せたり。肥後國人中島廣足の橿のしづえ下卷には彼長洲の腹赤浦にて取りし物の圖を出せるが背鰭の状、聊比古婆衣なると異なり。ニベ即ハラカが鱒にあらず又一種の鯛にあらざる事は右にて明なるがなほ中世以來腹赤魚を貢進する地を同國宇土郡長濱と誤れる事を辨ぜざるべからず。まづ貞治五年(南北朝時代)の年中行事歌合(群書類從第八十七)に
 三番右腹赤御贄 はつ春の千代のためしの長濱〔二字傍点〕に釣れるはらかも我君のため
とありて二條良基の書ける其左註に
 右歌は筑紫より腹赤の魚とて奉るなり。昔は節會の御膳などにやがて供しけるにや。腹赤の食やうとてくひさしたるを皆取渡して食けり。いとおもぎらはしき樣にぞ侍ける。景行天皇御代肥後國宇土郡長濱〔五字傍点〕にて此魚を初て奉りけるを年毎の節會に供すべきよし定おかれたるなり
といひ次に塵添※[土+蓋]嚢抄卷七|氷樣《ヒノタメシ》事の下に
(162) 次ニ腹赤魚トテ筑紫ヨリ奉也。昔ハ節會ナンドニヤガテ供シケルニヤ。腹赤ノ食樣トテ食サシタルヲ皆取渡シテ食給ヒケルトナン。景行天皇ノ御時肥後國宇土郡長濱ニテ此魚ヲ釣奉テ年毎ノ節會ニ供スベキ由定メ置ケルナリ
といへり
 ○此文塵袋には無し。※[土+蓋]嚢抄の文ならむ。さらば年中行事歌合に據れるならむ
又一條兼良の江次第抄腹赤奏の註に
 腹赤鮮魚也。……景行天皇御宇於2筑紫宇土郡長濱1釣得獻2天皇1。其後天平十五年正月十四日太宰府進v之。毎年節會可v供之由被v定云々
といひ公事根源に
 又腹赤の贄とて魚を筑紫より奉るなり。昔はやがて節會などに供じたるにや。腹赤の食ひやうとて食ひさしたるを皆取りわたして食ひけり。景行天皇の御宇筑紫の國宇土の郡長濱にて海人是を釣りて奉る。其後聖武天皇の御時天平十五年正月十四日太宰府より是を奉りける。是よりして年毎の節會に供すべき由定め置かれたるなり。腹赤とは鱒と申す魚の事なり
(163)と云へり。いづれも肥後風土記を見ざるにて適に「一人虚を傳ふれば萬人實を傳ふ」とか云へるに當れり。本草綱目啓蒙の如きも江次第抄を據とし腹赤を鱒の一名とせり○今も長洲町の東南に腹赤《ハラアカ》村大字腹赤あり。又長洲・腹赤の海岸を腹赤濱といふは彼貢に依りての名なるべし。又腹赤村大字上|沖洲《オキノス》に景行天皇と妃|御刀《ミハカシ》媛とを祭れる名石神社あり。同郡伊倉町大字伊倉北方に丹倍津といふ地名あるも彼故事と關係あるにや。又同國八代郡宮地村大字古麓に※[魚+票]神社(舊稱※[魚+免]大明神)といひてニベを祭れる祠あり。神と祭りしには事情ある事なれど、その大戸沖にて釣にかかりし時には其名を知るもの無かりし由なれば八代※[さんずい+彎]にはニベは棲まざるにや
 
   閼宗岳《アソノタケ》          乙類
 
筑紫風土記曰。肥後國|閼宗《アソ》縣、縣坤二十餘里有2一禿山1曰2閼宗岳1。頂有2靈沼1石壁爲v垣(計|可《バカリ》2縱五十丈、横百丈、深或二十丈、或十五丈1)。清潭百尋鋪2白緑〔左△〕《練》1而爲v質、彩浪五色|※[糸+亘]《ハヘテ》2黄金1以分v間。天下靈奇出〔左△〕《于》v茲華〔左△〕《萃》矣。時時水滿、從v南溢、流入2于(164)自〔左△〕《白》川1衆眞〔左△〕《魚》醉死。土人號曰2苦水1。其岳之爲v勢也中2△《半》天1而傑峙、包《カネテ》2四縣1而開基。觸v石典〔左△〕《興》v雲爲2五岳之最首1、濫v觴分v水|寔《マコトニ》群川之巨源。大徳巍△《巍》諒《マコトニ》人間之有一、奇形杳杳|伊《コレ》天下之無雙。居在2地心1。故曰2中岳1。所v謂閼宗神宮〔左△〕《岳》是也(釋日本紀卷十述義六、景行天皇紀二神曰阿蘇都彦阿蘇都媛〔二神〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 閼宗縣は即阿蘇郡なり。閼宗の音はアツソウ、そを略してアソに充てたるなり。阿蘇郡は肥後國の東北端にあり。されば北及東は豐後の日田・玖珠・直入三郡に續き東南は日向の西臼杵郡に隣れり。縣即郡家は今縣社國造神社のある古城《コジヤウ》村大字手野の附近か。二十餘里は今の百町許なり○有2一禿山1曰2閼宗岳1といへるは今の阿蘇山一名|中《ナカ》岳一名御山なり。四時煙を吐き又時々火を噴くが故に山頂は草木發生せす。されば赤膚山の一名ありて茲に禿山といへると一致せり。官幣大社阿蘇神社は此山の北麓なる宮地村にあり○靈沼は國史に神霊池といへり。即日本後紀延暦十五年七月の詔に肥後國阿蘇郡山上有v沼其名曰2神靈地1といひ續日本後紀承和七年九月に在2肥後國阿蘇郡1健磐龍《タケイハタツ》命神靈池といひ三代實録貞觀六年十二月に肥後國阿蘇郡正二位勲五等健磐龍命神靈池と(165)いへり(日本紀略天長二年四月の下にも見えたり)。元來此池は噴火口に雨水のたまれるなれば其數は時代によりて異なるべきなり。本文にては唯一處なる趣なれど近古の書には三處とせり。たとへば管内志に引ける阿蘇宮縁起に
 山上之三池則神池也。北池爲2阿蘇大神之御池1、中池爲2比※[口+羊]神之御池1、發星崎池(○又作法施崎池)爲2彦御子明神之御池一1
といへり。今は噴火口五爲ありて其第一火口が北池に、第二火口が中池に、第四火口が發星崎池即南池に當れり。石壁爲v垣の垣は直立せる火口壁なり○舗白緑といふ事心得られず。思ふに白練の誤にてヨナ即火山灰の底にたまれるを白き練に譬へたるならむ。質は基なり、底なり○彩浪五色は五色の波が見ゆるなり。此事は此池の特色と見えて至徳四年阿蘇山衆徒等の註進(地名辭書所引)にも池疊2五色之浪1とあり土俗の語傳へたる歌(管内志所載)にも五色ノ波タツ阿蘇ノ御池ヨリ云々といへり。其状は肥後國志に
 北の御池は白烟池中に渦卷き深さ五十尋ばかり、深溪に小水の流るるが如き音あり。硫黄の撚る音也。白煙向ふへ靡けば水色五色に變り其景况|海黄《カイキ》絹の如し
といへり。カイキ絹の如しといへるは見る間に色の變るを云へるなり○※[糸+亘]はハヘテと(166)よむべし。孝靈天皇紀に妃の名の※[糸+亘]某姉をハヘイロネと訓ぜり。※[糸+亘]某姉は古事記安寧天皇の段に見えたる蠅伊呂泥に當つべければ此訓かなへり。又崇神天皇紀四十八年の繩(ヲ)※[糸+亘]2四方1の※[糸+亘]をハヘテと訓ぜり。書紀通釋卷二十五(一三〇二貢)に「※[糸+亘]の義未思得ず。※[糸+亘]は借字なるべし」といへり。按ずるに※[糸+亘]は※[糸+亙]の俗字なり。字書にも今俗※[糸+亙]皆作v※[糸+亘]非といひ又※[糸+亙]俗※[言+爲]作v※[糸+亘]といへり。されば我國のみならず支那にても※[糸+亘]にまがふるなり。※[糸+亙]は音コウにて糸扁※[立心偏+亙]旁なると同字なり。義は字書に大索也又急張絃也などあり。魏書卷二十七王昶傳に
 昶詣2江陵1兩岸引2竹※[糸+亘]1爲v橋渡v水撃v之
とあり。この※[糸+亘]も實は※[糸+亙]にて大索即ツナなり。さて彩浪五色黄金ヲハヘテ間ヲ分ツとは各色の界が黄金の綱の如く見ゆるを云へるならむ○出茲華矣といふこと心得られず。或は于茲萃矣の誤ならざるか。さらばココニアツマレリと訓むべし○白川・衆眞は白川・衆魚の誤なり。正安本には衆魚とあり○抑中岳の北に楢尾岳あり。其西に一二三八米の山あり。其南に一三二一米の山あり。
 ○阿蘇谷の人は一二三八米山を杵島岳といひ一三二一米山を往生岳といふ。農商務(167)省地形圖。熊本縣誌などは之に從へり。南郷谷の人は之に反して一二三八米山を往生岳といひ一三二一米山を杵島岳といふ。陸地測量部の帝國圖・阿蘇郡誌などは之に從へり。今はしばらく讀者の便を計りて帝國圖の名稱に從はむ
その一三二一米山即杵島岳の南に烏帽子岳一名五面山あり。更にその南に御竈《オカマド》山あり。中岳の東に高岳あり。此山最高し。又その東に猫岳一名七面山あり。其外一千米以下の山岳多し。以上は皆所謂火口丘なり。さて中岳・往生岳・烏帽子商・高岳・猫岳を指して(杵島岳を往生岳又は烏帽子岳に合せて)阿蘇五岳といへる書多かれど居在2地心1故曰2中岳1といへるを思ひ今も御山を中岳といふを思へば五岳には北方なる楢尾岳を加ふべきに似たり。楢尾岳を加ふる代には東偏にありて外輪山に亙れる猫岳を除くべし。元來五岳といふは漢土の五岳に倣へるなるが(御山を中岳といふも彼五岳中の中岳即嵩山に擬したるなり)數多き峯の中より強ひて五を拔かむとするが自然に副はざるなり。さて猫岳を除きたる諸峯の北西南三方に高原即所謂火口原あり。その北部を阿蘇谷といひ南部を南郷谷といふ。南郷谷より發する川を白川一名南郷川といふ。西流せり。阿蘇谷より發する川を黒川といふ。西を周りて南流しすがるの瀧及白絲瀧となりて白川に合せり。周圍(168)の高原は又所謂外輪山によりて圍まれたり。さて黒川と合流せる白川一名阿蘇川は外輪山の西部の一隅を劈きて西流し漸西南に向ひ熊本平野を貫きて有明海に注げり。彼中岳の御池の水は固より硫黄・亞硫酸・硫化水素等の毒物を含みたれば此水溢れて南方に流下りて白川に入れば白川の魚どもは醉ひて死ぬるなり。其毒水を土人はニガ水といふと云へるなり○其岳といへるは中岳なり。勢は状なり。ソノ山ノ状は云々といへるなり○中天而傑峙は包2四縣1而開基の對なれば六字ならざるべからず。恐らくは2一半天1の半を脱したるならむ。傑は異本に※[人偏+麗]とあれど※[人偏+麗]は訓ナラブ又はタグフにて拔群とうらうへなればここに叶はざる事言ふを待たず。思ふに傑の俗字より誤れるなり。さて郭璞の巫咸山賦に伊《コレ》巫咸之名山、崛孤停而傑峙とあり(傑一本に山に從へり)。今は之に據れるなり〇四縣ヲ包ネテ開基セリとある基は麓にて開基は根を張れる事なるが包四縣而といへる心得がたし。まづ縣を閼宗縣の縣と同じく郡の事とせむに中岳は阿蘇郡の中央より稍南方にありて其麓は固より他郡に亙らず。然らば外輪山をこめたる大阿蘇山の事とせむかと云ふに其岳之爲v勢也……爲2五岳之最首1といへる文の主格は正しく中岳なるに其文中の六宇のみ主格を別とすべからず。又然らば四縣を四郷の事とせ(169)むかと云ふにここは言を極めて其山の偉大なる事をたたふべき處なれば其麓ハ四邑ニ跨レリとはいふべからず。よりて思ふに四縣はなほ四郡にて中岳ハソレニ隷屬シタル四圍ノ群山ヲコムレバ其麓四郡ニ跨レリといへるならむ。然らば其四郡の指せる所は如何といふにその四は四方・四周・四圍などの四にてただヨモといふ事ならむ。大阿蘇山の裾野は豐後日向の二國にも亙りてただ四郡に止らざればなり○典雲は興雲の誤ならむ。觸石は公羊《クヤウ》傳僖公三十一年に泰山之雲觸v石而出、扶寸而合とあるに據れるなり。五岳は上にいへる阿蘇五岳なり。さて五岳ノ最首タリとあれど所謂五岳中最高きは高岳なる事上に云へる如し○濫觴は家語《ケゴ》三恕篇に江始出2於岷山1、其源可2以濫1v觴といへるより起れる語なり。サカヅキヲウカブとよむなり。さて濫觴分水といへるは北より黒川を出し南より白川を起せるを云へるなり。ここは中岳の事を云へるなれば阿蘇山彙より發する菊池川・益城川・五箇瀬川・大野川・筑後川などには亙るべからず。巨源といへるは此山を指せるなり。誤解せる書あり○巍の下に更に巍字を加ふべし。巍々は高大なる貌、杳杳は幽遠なる状なり。論語泰伯第八に
 子曰。大哉堯之爲v君也、巍巍乎。唯天爲v大唯堯則v之。蕩蕩乎民無2能名1焉。巍巍乎其有v或v功也。(170)煥乎其有2文章1
とあり。居は位置なり。地心は中央なり。神宮は神岳の誤ならむ。山を直に神宮とは云ふべからざればなり。以上の記事の中に噴煙の状の見えざるはいぶかし
阿蘇の地名は國史にては始めて景行天皇紀十八年に
 六月癸亥自2高來縣1渡2玉杵名邑1。丙子到2阿蘇國1也。其國郊原曠遠不v見2人居1。天皇曰。是國有v人乎。時有2二神1曰2阿蘇都彦・阿蘇都媛1。忽化v人以遊詣曰。吾二人在。何〔右△〕無v人耶。改號2其國1曰2阿蘇1
と見えたり(此一節も亦甲類風土記より採れるならむ)。何はアソと訓むべし。ナゾを太古にはアソと云ひしなり(萬葉集新考二九九三頁參照)。さてこのアソツ彦アソツ媛を前人が國造の祖先の靈としたるはいかが。恐らくは阿蘇の山靈ならむ。又景行天皇の巡幸したまひしは阿蘇谷の方ならむ。南北二部のうち早く開けしは北部なり。阿蘇の地名は又下文に
 秋七月甲午到2筑紫後國御木1居2於高田行宮1。時有2僵樹1長九百七十丈焉。……有2一老夫1曰。是樹者歴木地。甞末v僵之先當2朝日暉1則隱2杵島山1、當2夕日暉1△覆2阿蘇山1也
(171)と見えたり○國造本紀に
 阿蘇國造 瑞籬朝(○崇神天皇)御世火國造同祖神八井耳命孫|速瓶玉《ハヤミカタマ》命定2賜國造1
とあり。神八井耳命は神武天皇の御子綏靖天皇の御兄なり。古事記に神八井耳命者大分君・阿蘇君等之祖也とあり。阿蘇神社の縁起に神八井耳命の子を健磐龍《タケイハタツ》命とし達瓶玉《ハヤミカタマ》命を其子としたれど速瓶玉命は崇神天皇の御代の人なれば神武天皇の曾孫としてはかなはず。恐らくは速瓶玉命は健磐龍命の數世の孫にして國造本紀に神八井耳命孫速瓶玉命とある孫は裔の義ならむ。否健磐龍命は恐らくは阿蘇の山靈にて即阿蘇都彦ならむ○神名帳阿蘇郡に健磐龍命神社・阿蘇比※[口+羊]神社とあり。今中岳の北麓に坐す官幣大社阿蘇神社即是なり。遠瓶玉命は同郡古城村大字手野なる縣社國造神社(俗稱北の宮)に祭れり。國造神社も亦神名帳に載せたり。此命は又所謂阿蘇十二宮の一として阿蘇神社の南殿の南端に祭れり(以前は南殿とは別に其東南に祭りたりきと云ふ)○因に云はむ。國造本紀に火國造・阿蘇國造・葦北國造・天草國造と並べ擧げたるを見れば後の肥後國は上古には少くとも火・阿蘇・葦北・天草の四國に分れたりしなり。肥後國は地理の上にても右の四國と球磨とに分れたり。古の火國は今の八代郡以北より阿蘇國を除きたる地域な(172)り。但後に火國が總稱となりし事勿論なるが夙く敏達天皇紀に火《ヒノ》葦北國造とあり○考證に引ける阿蘇家傳附録に「閼宗縣有一禿山曰閼宗岳とあるは阿蘇山を總云へるにて」又「其岳之爲勢也よりは阿蘇山のすべての形勢を云へるなり」と云ひて閼宗岳・中岳を火口丘の總稱とし又五岳中の他の四岳を四方の外輪山の事とせるは從はれず○此一節は六朝時代に行はれし駢※[人偏+麗]《ヘンレイ》體を學びたるにていと漢臭し。塵添※[土+蓋]嚢抄卷十に引けるかの豐後國速見郡|柚富《ユフ》峰の石室の事を記せりとおぼゆる所謂記の一節と文體相似たり
 
   水嶋          乙類
 
風土記云。球磨△《縣》乾七里海中有v嶋。積|可《バカリ》2七十里1。名曰2水嶋1。嶋出2寒水1。逐v潮《ウシホノマニマニ》高下云々(〇萬葉集仙覺抄卷三葦北之野坂乃浦從〔八字傍点〕之註所v引)
 
 新考 球磨の下に縣の字を落したるならむ。萬葉緯には此字あり。景行天皇紀に
 十八年夏四月壬戊朔甲子到2熊縣1。其處有2熊津彦等兄弟二人1。天皇先使v徴2兄熊《エクマ》1則從v使|詣之《マヰリキ》。因徴2弟熊1而不v來。故遣v兵誅v之。壬申自2海路1泊2於葦北小島〔四字傍点〕1而進食時召2山部|阿弭古《アビコ》之祖(173)小左1令v進2冷水1。適《アタリテ》2是時1島中無v水不v知v所v爲。則|仰之《アフギテ》祈2于天神地祇1。忽寒泉從2崖傍1涌出。乃酌以獻焉。故號2其島1曰2水島〔二字傍点〕1也。其泉|猶今〔二字左△〕《イマモ》在2水島崖1也。五月壬辰朔從2葦北1發v船到2火國1
とある熊縣はやがて球磨縣なり。さて逸文の球磨縣は球磨郡の郡衙なり。球磨郡は肥後國の東南端にありて自一區域を成せり。球磨川といふ大河、郡の東部より發し郡を貫きて西流し葦北郡との界に達して方向を轉じて兩郡の界を北流し八代郡の西南部に入りて西流して八代※[さんずい+彎]に注げり。水島は恰此川の河口附近にあり。なほ下に云ふべし。さて今の球磨郡は西は葦北郡に、北は八代郡に隣りて海には臨まざれど此文に水島の事を球磨縣乾七里海中有嶋といへるを思へば古の球磨郡は八代・葦北二郡の間にて海に臨みたりしならむ。即二郡は今の如く相接せずして球磨郡の乾の端によりて相隔てられしならむ。管内志に「風土記に球磨縣とあるは葦北を誤るなるべし」といへるは輕々しく從はれず〇七里は凡三十五町なれば略今の一里なり。さて球磨縣乾七里海中有嶋といへる疑はし。風土記撰進より一千餘年の後なる文政の始にすら海岸よりの距離だに一里許なりしをや。なほ次に云ふべし○積の字萬葉緯に稍とあり。考證本などは之に從ひたれど積とあるぞまさりたらむ。但積七十里バカリとあるは疑はし。少くとも今はいと(174)ささやかなる島なればなり。恐らくは數字に誤あらむ。或は上の七里と顛倒したるにか○水島の所在は或は八代郡|植柳《ウヤナギ》の西南といひ或は金剛村大字高植といひ或は八代城の西南一里許といへり。指せる所は皆同一なるべし。陸地測量部の二十萬分一帝國圖には見えざれど明治十九年出版の熊本縣管内圖には球磨川の河口の一小島に水島と記入せり。又八代郡誌の口給に全景寫眞を載せたり。いとささやかなる島なり。島中に北島雪山撰文の碑を建てたりといふ。中島廣足の相良日記に
 船にて白島にわたる。……南にさうそう島・水島あり。此水島は書紀にも風土記にもしるされ萬葉集の歌にも見えたるくすしき島にて今もいと清き水わき出めり。ふるくは葦北郡とあるを今は葦北・八代の郡境にありて八代の方につけり。年をへて海もあせぬるにやあらむ。今はしほひには徒よりもものすめり
といひ同じ人の橿のしづえ下卷にも
 さて萬葉なる水島は葦北・八代の郡境の海中にありて今も冷水涌出る小島なり。此あたり近きころ墾田多くなりて今は陸にいとちかく汐干たる時は徒よりも行かるる島となれり
(175)といへり。此附近新田多く金剛村の如きは全部新田なりといふ。廣足は又その不知火考の附圖に此島をあらはして萬葉集所v詠之水島是也と記入せり○萬葉集卷三に
 長田王被v遣2致紫1渡2水島1之時歌二首 聞きしごとまこと貴くくすしくも神さびをるかこれの水島 葦北の野坂の浦ゆ船出して水島にゆかむ浪たつなゆめ
 石川大夫和歌一首 おきつ浪へなみたつともわがせこがみ船のとまりなみたためやも
 又長田王作歌 はや人の薩摩のせとを雲居なす遠くも吾はけふ見つるかも
とあり。長田王は長親王の子、天武天皇の御孫にて天平九年六月に散位正四位下にて卒せし人なり。その朝命を蒙りて西海道に下りし事は國史に見えず。恐らくは薩摩國より肥後國葦北郡に入りしにて同郡野坂浦より乘船し八代※[さんずい+彎]を北上して八代郡に入らむとして其途の便《ツイデ》に名高き水島を訪ひしならむ。ハヤ人ノサツマノセトヲといふ歌は又其途にて南望して作りしなり。サツマノセトは今の黒瀬戸にて八代※[さんずい+彎]の南門なり。この迫門も亦名高き處にて同集卷六なる大伴旅人の歌にも見えたり。さて何故に野坂浦より海路を取りしかと云ふに陸路には今いふ佐敷太郎・赤松太郎の峻坂あればそを避け(176)む爲ならむ。野坂はやがて佐敷太郎峠の古名にて野坂浦は今の佐敷町ならむ。廣足の野坂の浦づとに
 野坂の浦は今其名は殘らねど此浦(○佐敷)也といへり。げにさがしき坂どものあるは由ありて覺ゆ。ここより舟出して水島に渡らんには海の上おほよそ六里にも餘るべし。水島は八代・葦北の郡のさかひなる海の一里ばかり沖の方にあなれば(○海岸よりの距離の事は相良日記に云へるに從ふべし。野坂の浦づとは文政四年の作、相良日記は同十三年の作なり)ただに行見んには日奈久の里より舟出するなんいと近かるを此浦に物する人はかの山路(○佐敷太郎峠及赤松太郎峠)のさがしきに苦みてゆくさも來さも大かた舟にて物するを其舟路のついでには又いとよき見どころなればいにしへ長田王の此浦より舟出し給ひけんさもおもひやらるかし
といへり○逐潮高下は考證に引ける事蹟通考に「潮の盈虚に依て水口高下すJといへり○更に日本紀に就いて云はむに景行天皇は日向国より直に球磨郡に入りたまひしなり。山部阿弭古の山部は職にして又氏なり。アビコはカバネなり。又我孫と書けり。さて長田王の水島に渡りしこそ弔古の爲とも思はば思はれめ。景行天皇が葦北小島即水島に(177)泊てたまひしは御遊覧の爲とは思はれねば故無くてはかなはず。地勢より察するに球磨川の河口は砂土堆積しなどして舟を寄するには水島の方、便よかりしにこそあらめ
 
(178)  日向國 五節
 
   絶説          甲類
 
日向國風土記曰。卷向日代《マキムクノヒシロ》宮御宇大|足《タラシ》彦天皇之世幸2兒湯之郡1遊2於|丹裳《ニモ》之小野1謂2左右1曰。此國地形直向2扶桑1。宜v號2日向《ヒムカ》1也(○釋日本紀卷八述義四、神代紀下|※[木+患]日二上天浮橋〔七字傍点〕之註所v引)
 
 新考 景行天皇紀に
 十二年十一月到2日向國1起2行宮1。以居之。是謂2高屋宮1。……十三年夏五月悉平2襲《ソノ》國1因以居2高屋宮1已六年也。於v是其國有2佳人1曰2御刀《ミハカシ》媛1。則召爲v妃生2豐國別皇子1。是日向國造〔四字傍点〕之始祖也
 十七年春三月戊戌朔己酉幸2子湯縣1遊2于丹裳小野1。時東望之謂2左右1曰。是國也直向2於日出方1。故號2其國1曰2日向1也云々
 十八年春三月天皇將v向v京以巡2狩筑紫國1始到2夷守《ヒナモリ》1。是時於2石瀬《イハセ》河邊1人衆聚集。於v是天皇(179)遙望之詔2左右1曰。其集者何人|也《ゾ》。若賊乎。乃遣2兄《エ》夷守|弟《オト》夷守二人1令v覩。乃弟夷守還來而|諮曰《マヲサク》。諸縣君泉媛依v獻2大御饗1而其族|會之《ツドヘルナリ》。夏四月壬戌朔甲子到2熊縣1云々とあり。幸子湯縣云々の一節は恐らくは風土記の此文に依りて書けるならむ○日向は推古天皇紀二十年なる天皇が大臣蘇我馬子に答へたまひし御歌にウマナラバ、辟武伽《ヒムカ》ノコマとあるに據りてヒムカと訓むべし。今ヒウガといふは訛れるなり○此文の説を信ずれば日向の國號は景行天皇の御代に始まりしにて神代紀の筑紫日向|小戸《ヲドノ》橘之|※[木+意]原《アハギハラ》また日向|襲《ソ》之高千穗峰また神武天皇紀の日向國|吾田《アタ》邑また古事記神武天皇の段の即自2日向1發幸2行筑紫1などは皆追言にて後ニイフ日向ノと心得べきなり。さて上代の日向は今の日向國に止まらで略今の日向・大隅・薩摩三國に亙れる地域の總稱なり。古事記神代の卷に
 次生2筑紫嶋1。此嶋亦身一而有2面四1毎v面有v名。故筑紫國……豐國……肥國……熊曾國……
といへるを見れば筑紫島即九州は或時代には筑紫・豐・肥・熊曾の四に大分せられたりしにて其熊曾國は適《マサ》に日向なり。この熊曾國といふ名は神代に始まりしにあらざるは云(180)ふまでも無けれど日向よりは古き名にて景行天皇の御代までは熊曾國又は襲《ソノ》國といひしを天皇が子湯縣に日向國と名づけたまひしより其名やうやうに廣きに用ひられて終に熊曾國といふ名に代りしならむ○國造本紀に
 日向國造 輕島豐明《カルシマノトヨアキラ》朝(○應神天皇)御世豐國別皇子三世孫老男定2賜國造1(○景行天皇紀に生2豐國別皇子1是日向國造之始祖也とあるに一致せり)
 大隅國造 纏向日代朝御世治平隼人同祖初小仁徳帝代者伏布爲曰佐〔仁徳〜左△〕〔五字傍点〕賜2國造1(○誤あるべし。左に△を附けたる十字を削りて定の字を補ふべきか)
 薩摩國造 纏向日代朝伐2薩摩隼人等1鎭v之。仁徳代|曰佐《ヲサ》改爲v直《アタヒ》(○誤あるべし。鎭之の上に伏布爲2曰佐1の五字を加へ仁徳朝以下を後人の加註と認むべきか)
とあるを見れば大化改新以前の國造國にも日向・大隅・薩摩の名はありし如し。但大隅國造以下の文は輕々しく信ずべからず。或は後人の記入か。さて筑紫・豐・肥の三國を各前後に分ちしは持統天皇の御代より文武天皇の御代の始までの間なれば續日本紀大寶二年四月に筑紫七國とあるは筑前・筑後・豐前・豐後・肥前・肥後・曰向なり。薩摩國が日向國より分れし月日は明ならねど同書同年十月に唱更國司等言とありて今薩摩國也とあれば(181)大寶二年に一國と立てられしなり。次に大隅國は同書に
 和銅六年四月乙未割2日向國|肝杯《キモツキ》・贈《ソ》於・大隅・姶※[衣+羅]《アヒラ》四郡1始置2大隅國1
とありて丹後・美作二國と同時に置かれしなり。因に云はむ。或書に「古史の筑紫日向は西海道の總稱なり」と云へるは誤れり。古史に筑紫日向とあるはツクシノ日向と訓むべきにて筑紫即九州の日向といへるなり○律書殘篇に日向國郡五・郷廿六・里七十一とあり、又延喜式に
 日向國 中 管、臼杵・兒湯・那珂・宮埼・諸縣
とあり、又和名抄に
 日向國 管五 臼杵(宇須岐)兒湯(古由、國府)那珂(中)宮埼(三也佐岐)諾縣(牟良加多)
とあり。諸縣に串良加多と訓註せるは訛に從へるにや。又拾芥抄中卷國郡部に
 日向(中遠)五郡 臼杵《ウスキ》・兒湯《コユ》・那珂《ナカ》・宮崎《ミヤサキ》・諸縣《モロカタ》(近代都於郡)救貳《クニ》加v之六也
とあり○今の日向國は北は豐後に、西北は肥後に、西方の一角は薩摩に、西南は大隅に接し東は日向灘に臨めり。又今は東臼杵・西臼杵・兒湯・宮崎・南那珂・東諸縣・西諸縣・北諸縣の八郡に分れたり。抑此國には國界にも郡界にも變遷多くして片言を以て之を叙述せむ事(182)は不可能なるが明治十六年まではなほ臼杵・兒湯・那珂・宮崎・諸縣の五郡なりしに同年六月に諸縣郡を南北に分ち翌十七年正月に臼杵郡を東西に、那珂郡を南北に、北諸縣郡を東西北に分ち二十九年四月に北那珂郡を宮埼郡に合せ南諸縣郡は大隅國に入りしかば今の如く八郡となりしなり。
 ○これより先明治十六年五月に宮崎縣が鹿兒島縣より分れて再獨立せし時諸縣郡の南部は依然として鹿兒島縣に屬し從ひて宮崎縣の諸縣郡と鹿兒島縣の諸縣郡とを生ぜしかば翌六月に宮崎縣なるを北諸縣郡と稱し鹿兒島縣なるを南諸縣郡と稱する事とせしが同二十九年に鹿兒島縣にて南諸縣郡に大隅國|噌唹《ソオ》郡の東部を合せて噌唹郡と改稱せしかば舊の南諸縣郡は自然に大隅國に入りしなり。なほ大隅國の下に云ふべし
なほ那珂郡に就いて一言せむに那珂郡は元來今の兒湯郡の南部と今の宮崎郡の北部とに亙りてナカといふ郡名も其位置より起りしなるが後に宮崎郡の海岸に沿ひて其南部に及びしかば宮崎郡はいたく縮小せられて北東南の三面を那珂郡に包まるる事となりしなり。然るに上述の如く明治十七年に那珂郡を南北に分ち同二十九年に北那(183)珂郡を宮崎郡に合せしかば之が爲に郡名縁起の地那珂村(今宮崎郡の北部にあり)と懸絶したる郡に那珂の名を殘し又北の對なき南那珂郡を生ぜしなり。南那珂郡は本來宮崎郡の地なれば寧南宮崎郡と稱すべく又北諸縣郡も南の對を失ひたる上に東西諸縣郡の南方にあるなれば北といふ冠は削るべきなり。日薩隅の人文には此外にもなほ整理を要する事あるが如し○丹裳之野の所在は今知られず。管内志に「アカキ裳は萬葉集にアカモといひてニモといへる例なければアカモと訓むべきか」と云へれどアカキ裳の義とせでただニモの借字とすれば丹裳と書きて妨なきにあらずや。其上に少くとも萬葉集に丹をアカとよませたる例無し○扶桑はここにては日ノ出ヅル方といふ意に使へるなり。されば訓讀せむとならば考證の如く日ノイヅルカタとよむべし。元來扶桑とい云語は山海經・淮南子《ヱナンジ》などに見えたるが東海の※[日+場の旁]《ヤウ》谷といふ處に桑の大樹ありて日はこれより出づといひ傳へたるなり。さて扶桑は桑の別種にあらで所謂相生の桑なり。扶はモチアヒといふ事なり
 ○東方朔の著なりといふ海内十洲記に樹兩々同根偶生、更相依倚。是以名爲2扶桑1とあり又後漢書張衡傳の思玄賦の註に其桑相扶而生とあり。其外の諸書にも之に似たる(184)解説あり
○此國ノ地勢直ニ日出ノ方ニ向ヒタレバヒムカ〔三字傍点〕ト名ヅク ベシとのたまへる、今の情にてはヒムカヒといふべきが如く覺ゆれどこはアガヒをアガ(贖物《アガモノ》など)といひサカヒをサカ(海界《ウナサカ》など)といひチカヒをチカ(誓言《チカゴト》)といふ類と同例にて(ヰヒカを井光と書けるも同例とすべくや)ムカはムカヒの語幹なり。さればヒムカはヒムカヒ即日ニムカヒタル處と心得べし。後世の語法にては日ニのニは省くべからざれど上古の語法にてはかかるニは挿まざりしなり。萬葉集に無數の例あり。新考の索引に由りて※[手偏+僉]すべし○因に日本紀の文に見えたる此國の地名に就いても一言せむ。夷守《ヒナモリ》は今の西諸縣郡小林町なり。霧島山の別峯なる夷守岳近く其西南に聳え其麓に夷守神社あり。石瀬《イハセ》川は今も岩瀬川といふ(岩瀬といふ字も小林町の内にあり)。大淀川の支源にて小林町を貫きて南流せり。景行天皇は今の小林町を經、今の國見峠一名|加久藤《カクトウ》越を越えて
 ○加久藤の藤はタワ(峠)の訛なるトヲの擬字にて本名はカクならむ
熊縣即今の肥後國|球磨《クマ》郡に入りたまひしなり。諸縣の縣はやがて子湯縣・熊縣の縣なれば本來の地名は諸ならむ。さらばノを添へてモロノアガタと稱へしかと云ふに其處の(185)酋長を諸君と云はで諸縣君と云へるを思へばなほノを添へずアを略してモロガタと稱へしならむ
 
   智鋪《チホ》郷          甲類
 
    一
 
日向國風土記曰。臼杵郡内知鋪郷、天津彦|△《彦》火瓊瓊杵尊|△△△△△△△△△△△△△△△△△《離天磐座排天八重雲稜威之道々別々而》天降於日向之高千穗二上峯時天暗冥晝夜不別人物失道物色難別。於茲有土蜘蛛名曰大鉗小鉗二人奏言。皇孫尊以|△《尊》御手拔稻千穗爲籾投散四方必得開晴。于時如大鉗等所奏※[手偏+差]千穗稻爲籾投散即天開暗日月照光。因曰高千穗二上峯。後人改號智鋪(○釋日本紀卷八述義四、神代紀※[木+患]日二上天浮橋〔七字傍点〕之註所v引)
 
    二
 
(186)風土記云。天津彦|々火瓊々杵《ヒコホノニニギノ》尊離2天|磐座《イハクラ》1排2天八重蜘蛛1稜威之道々別々而《イツノチワキチワキテ》天2降於日向之高千穗|二上《フタガミ》峰1時、天暗冥晝夜不v別人物失v道物色難v別。於v茲有d土蜘蛛名曰2大鉗《オホガセ》小鉗1二人u奏言。皇孫尊以2尊《ウヅノ》御手1拔2稻千穗1爲v籾投2散四方1△《必》得開晴《エハルケム》。于《ソノ》時如2大鉗等所1v奏|※[手偏+差]《モミテ》2千穗稻1爲v籾投|即散〔二字左△〕《散即》天開晴《ソラハルキ》日月照光。因曰2高千穗二上峰1。後人改號2智鋪1(○萬葉集仙覺抄卷十喩族歌〔三字傍点〕註所v引)
 
 新考 前者には後者に據りて天津彦の下に今一つ彦を加ふべく又天降の前に離天磐座排天八重雲稜威之道別道別而の十七字を補ひ又御手の上に尊の一字を補ふべし。後者には前者に依りて得開晴の上に必を加ふべし。又後者の即散は顛倒なり。前者の如く爲籾投散即天開晴とあるべし〇臼杵郡内知鋪郷の内字妥ならず。同じ註の前文に先師申云……後人改號2智鋪1之由載2風土記1矣と云ひて引けるにも日向國臼杵郡内知鋪郷とあれば衍字にはあらじ。思ふにもと郡内知鋪郷とありけむに抄出に當りて臼杵の二字又は日向國臼杵の五字を添へしが爲に妥ならず見ゆるに至りしならむ。もし今一つ郡字ありせば即臼杵郡郡内知鋪郷とありせば臼杵郡の下にてとぎれて頭の傾けらる(187)る事は無からましを○知鋪郷は即和名抄本郡四郷中の智保郷なり。もとタカチホといひしを地名二字の定に依りて高を略せしかとも思へどさにはあらで和名は初よりチホにて山を高チホといひしならむ。五箇瀬《ゴカセ》川の上流地方にて北は豐後國の大野・直入二郡に、西は肥後國阿蘇郡に隣れり
 ○なほ云はむに郷名のチホまづ起り山名のタカチホ之に次ぎしならむ。智鋪は高千穗を二字としたるなりと云へる人あれどさらば高穗と書きてなほタカチホとよませもすべく又は音を借りて二字に書きもすべし
○天磐座ヲ離《サカ》リ天ノ八重雲ヲ排《オシワ》キテ稜威《イツノ》道別《チワキ》、道別キテといへるは古より語傳へたるままに書留めたるにていと尊く又いとめでたし。但一字一音式にあらねば離と排とば別樣にも訓まる。古事記には
 離2天之|石位《イハクラ》1押2分天之八重多那(此二宇以v音)雲1而伊都能知和岐知和岐弖(伊以下十字以v音)
と書き曰本紀には
 離2天磐座《アマノイハクラ》1(天磐座此云2阿麻能以簸矩羅1)且《マタ》排2分天八重雲1稜威之道別道別而
(188)と書けり。さて日本紀の傍訓に離をオシハナチと訓みたれどオシ ハナチは叶はず。宜しくハナレ又はサカリとよむべし。道々別々而は道別道別而と書きたらむに同じく、チワキチワキテはチワキニ〔右△〕チワキテと云はむに齊し。なべて古はニを挿むこと後よりは少かりき○高千穗二上峯の事は後に云ふべし。二上は二神の借字なり。山を神と認めその二峯あるを二神といひしなり。諸國に二上峯二上山ある皆然り。後世借字に依りてニジヤウと稱ふるものあるはいとあさまし。この二上を平田篤胤の古史傳卷二十七に「フタノボリと唱へけむと所思るなり」と云へるは從はれず○人物は肥前風土記|養》父《ヤブ》郡|曰理《ワタリ》郷の下に人畜難v渡また漕2渡人物1とある人畜及人物と同じく人モケモノモとよむべし。蘇東坡の詩の夜深人物不2相管1など漢籍にも例多し。物色は種々の義につかふ語なるが、ここにては光景と心得べし。肥前風土記松浦郡|賀周《カス》里の下にも云へり○大鉗小鉗の鉗《ケン》に仙覺抄にツバと傍訓したれど鉗にヅバの義は無し。考證にはもしくは餌の訛にてヱかと云へり。しばらく原のままにてオホガセ・ヲガセと訓むべし。漢書高祖紀下なる趙王敖が獄に下されし處に郎中田叔・孟舒等十人自※[髪の友が几]鉗爲2王家奴1從v王就v獄とある註に師古(○唐初の大儒顔師古)曰。鉗以v鐵束v頸也とあり又後漢書光武紀二十二年の制詔中の徒皆(189)弛2解鉗1衣《キセヨ》2絲絮1の註に
 倉頡篇曰。鉗※[金+大]也。前書音義曰。※[金+犬]足鉗也
とあればなり○以尊御手はウヅノ御手モチとよむべし。記傳卷十五に尊をミコトとよめるはわろし。萬葉集卷六なる天皇賜2酒節度使卿等1御歌にスメラワガ宇頭乃御手モチとあり。又祝詞に皇御孫命ノ宇豆ノ幣帛ヲとあり。又古事記神代の卷にミタリノウヅノミコを三貴子と書けり(古事記傳卷七參照)○後世は稻の穗より籾を取るには手又は器にて扱けど古は手を以て穗を揉みて籾を取りけむ事此文にて知らる。
 ○枕草紙くちをしきもの〔七字傍点〕の段に
  かういく所には明順《アキノブ》の朝臣の家あり。そこもやがて見むといひて車よせておりぬ。……(○明順曰)「所につけてはかかる事をなむ見るべき」とて稻といふもの多く取出でてわかき女どものきたなげならぬ、そのあたりの家のげす女などひきゐて來て五六人してこかせ〔三字傍点〕見も知らぬくるべきもの二人してひかせて歌うたはせなどするをめづらしくて笑ふに時鳥の歌よまむなどしたる、忘れぬべし
とあり。當時夙く手して揉む事は廢れて簡單なる器を用ひて稻を扱きしなり。さてそ(190)は婦女特に老婦の業なりしに後に進歩したる器出來しかばそれが爲に老婦は其業の一部を失ひしなり。近世のイナコキにゴケナカセ・ゴケダフシの別名あるはこれが故なり。夙く和漢三才圖繪巻三十五農具類に
 稻扱いなこき・ごけだをし 按ズルニ古者麥稻ノ穗ヲ扱クニ二ツノ小管ヲ以テ繩ヲ通シテ繋ギ之ヲ握リ持チテ穗ヲ挟ミ扱キシナリ。秋收ノ時ニ至レバ近隣ノ賤婦※[女+霜]婆之ニ※[人偏+雇]ハレテ飽クコトヲ得キ。而ルニ近年(○元禄中か)稻扱ヲ製セシガ其形狹キ牀机ノ如クニシテ竹ノ大釘數十ヲ植ヱタル微《ヤヤ》、馬齒把《コマサラヘ》ニ似タリ。穗ヲ搭《ヒキカ》ケテ※[手偏+施の旁]《ヒ》クニ其捷、扱竹ニ十倍セリ。故ニ※[女+霜]婆業ヲ失ヒキ。因リテ後家倒ト名ヅク。又近頃鐵ヲ以テ齒トシ鐵稻扱ト名ヅク
と云へり。地方によりては近世まで扱竹一名|稻管《イナクダ》を用ひし處ありて今もそを藏せる人あり。三才圖會に其圖を載せたり。なほ古事類苑産業部五農具下二八五貢以下を見べし
さてモミの語源は辭書に萌實又は眞實なりと云へれど恐らくは揉實の略或は揉ならむ。夙く箋注倭名抄卷九稻穀類※[米+造]米の註に
(191) 新井氏曰ク。モミ〔二字傍点〕ハ未皮ヲ脱セザルヲ謂フ稱ナリ。未皮ヲ脱セザル穀ハ之ヲ漬シテ萌エシム。則モミ〔二字傍点〕は蓋萌實ノ義ナリト。愚|謂《オモ》フニモミヨネ〔四字傍点〕ハ穗ヲ揉ミテ穀ヲ得ルヲ謂フナリ
といへり。又此逸文に籾の字を用ひたるに注目すべし。モミは漢語にては粟といふ。籾は元來漢字にあらで邦製宇なるが夙く此文に用ひたるを見れば恐らくは天武天皇十一年三月に製せしめられし邦字の内ならむ〇得開晴はエハルケムと訓むべく天開晴はソラハルキと訓むべし。天開晴は記傳・考證の如くソラアカリとも訓むべけれどアカルは自動詞なればそれに得は添ふべからず。即アカリナムなど訓まむとせば得を捨てざるべからず。又得を存じてエとよまばアカリナムなどは訓むべからず○※[手偏+差]はモミテと訓むべし。新撰字鏡に※[手偏+差]|與留《ヨル》又|太毛牟《タモム》とあり。タモムは即手揉なり。日月照光はヒツキテリカガヤキヌと訓むべし。天體の日月はツキヒとは訓むべからず○肥前風土記佐嘉郡の下に大山田女・狹《サ》山田女といふ姉妹の土蜘蛛が大荒田といふ人に荒ぶる神の祟を和むる方法を誨へし事見えて、ここの大鉗・小鉗といふ兄弟の土蜘蛛が天孫に雲霧を晴す方法を誨へ奉りしと相似たり。これを見れば土蜘蛛はさる靈智を具したる民族の如く(192)見ゆれど實はさにあらで土蜘蛛は一種の靈智ある如く我等の祖先の信ぜしなり。異民族に神秘ある如く思ふは古今東西に亙れる迷信なり
天孫降臨の高千穗峯に擬せらるる處昔より二あり。共に曰向國の内ながら一は國の西北偏に在りて豐後肥後の國界に近く一は國の西南界に在りて大隅國に跨れり。甲は本文の智鋪郷即後世の高千穗莊にて略今の西臼杵郡の岩戸・上野・高千穗三村に當れり。其地域は郡の北部、五箇瀬川上流の山地にて北は海拔一七五八米の祖母山一名|嫗岳《ウバガタケ》に遮られ南は海拔一三四二米の諸塚山に限られたり。今の高千穗村は三田井・向山・押方の三大字より成れるが其三田井は郡中第一の大部落なり。此部落に高千穗神社あり。平地に在り。もと十社大明神といひしを明治二十八年十月に今の如く改稱せしなり。又|※[木+患]觸《クシブル》神社あり。もと※[木+患]觸大明神といひき。其山を※[木+患]觸峯といふ。※[草冠/最]爾たる一丘陵なり。同村大字押方宇子谷内に二神神社あり。其山は二上峯といひて一千米許の高山なり。この智鋪郷即和名抄の智保郷の西に隣れるが肥後阿蘇郡知保郷にて五箇瀬川の最上流に在りて今の西臼杵郡の鞍岡村・三箇所村、阿蘇郡の馬見原《マミワラ》町・菅尾《スゲヲ》村・柏《カシハ》村・草部《クサカベ》村などに當れり。所詮チホといふは五箇瀬川の上流沿岸の地域なるが山岳の隔によりて行政上に肥後と日(193)向國とに分たれたるなり。右の甲に對する乙は有名なる霧島山にて東西二峯より成りてよく二上峯といへるに副《カナ》へり。東峰を今矛峰又高千穗峯といふ。高さ一五七四米、西諸縣郡と北諸縣郡と大隅國|姶良《アヒラ》郡(もとの贈於郡)とに跨りて東南に聳えたり。西峯を今|韓國《カラクニ》岳又西霧島山といふ。高さ一七〇〇米、西諸縣郡と姶良郡とに亙りて西北に峙てり。兩峯相去ること凡一里なり。さて前人或は甲を是とし或は乙を眞とし今に至るまで決定せず。其論議に與れる人頗多く其人名書名を擧げむだに容易ならず。今その一例として本居宣長の古事記傳の説を擧げむに同書卷十五(舊版全集本九〇〇頁)に
 かかれば臼杵郡なる高千穗山も諸縣郡なる霧嶋山も共に古書にも見え現に凡《タダ》ならざる處なるを皇孫命の天降坐し御跡は何れならむ定めがたし。其故はまづ書紀の高千穗と※[木+患]日二上とをば異山として高千穗は臼杵部なるを其とし※[木+患]日二上は霧嶋山とする時は二處ともに其御跡なりと云べけれど風土記に臼杵郡なるを高千穗二上峰とあれば二上も臼杵郡なる方と聞えたるを又書紀には襲《ゾ》之高千穗峰とある襲は大隅の地名なれば此は高千穗と云も霧嶋山の方とこそ聞ゆれ。然るに又臼杵郡なる高千穗山(?)をも今時二上山と云てまことに此も中央に二峯ありて然云べき山なり(194)と國人語れり。又二神明神と云もあり、※[木+患]日村(?)※[木+患]觸嶽など云名もありとぞ。然《サ》る名どもは後世につけたるも知がたければ證としがたけれど風土記にしも二上之峯とあり。凡て風土記は正しく其國にして古き傳説を記せる物なるに此臼杵郡なるをのみ記して霧嶋の方をば記さぬを思へば霧嶋に非るが如くなれども古の風土記どもはただ書紀釋と仙覺が萬葉鈔などとに往々引るのみこそ遺りたれ、全きは傳はらざれば其全書には霧嶋山の事も記したりけむを彼書どもには其をば引漏せるも知がたし。霧嶋山の方も正しく峯二有て二上なり。凡て古に二上山と云るは皆峯二ある山なり。又風土記には稻穗の故事も臼杵郡なる方に記せれど是はた今の現《ウヅツ》に霧嶋山にのこれり。又神代の地名多く大隅薩摩にあり。彼此を以て思へば霧嶋山も必神代の御跡と聞え又臼杵郡なるも古書どもに見えて今も正しく高千穗と云てまがひなく信《マコト》に直《タダ》ならざる地と聞ゆればかにかくに何れを其と一方には決《サダ》めがたくなむ
といひ又同書卷十七(一〇二〇頁)高千穗宮の註に
 高千穗山の事、傳十五の末に委く云るが如く其とおぼしき二ありて何方とも決めがたき中に此宮の名の高千穗は必かの霧嶋山なるべき事御陵の在處を以て知べきな(159)り。此御陵の在處の事は下に云を考見べし。若是を日向の臼杵郡なる高千穗としては御陵の在處に叶はざるなり。さて此に依てつらつら思ふに神代の御典《ミフミ》に高千穗峯とあるは二處にて同名にてかの臼杵郡なるも又霧嶋山も共に其山なるべし。其は皇孫命初て天降坐し時先二の内の一方の高千穗峯に下著賜ひてそれより今一方の高千穗に移幸しなるべし。其次序は何か先何か後なりけむ知べきにあらざれども終に笠沙御崎に留賜へりし路次を以て思へば初に先降著賜ひしは臼杵郡なる高千穗山にて其より霧嶋山に遷坐てさて其山を下りて空國《カラクニ》を行去《トホリ》て笠沙《カササ》御崎には到坐しなるべし。かかれば神代の高千穗と云し山は此二處なりけむを此も彼も同名なりしから古より混《マガ》ひて一の山のごと語傳へ來て此記にも書紀にも然記されたるなるべし。さて然二處共に同名をしも負たりしは所以ありたることなるべし
と云へり。抑古典に見えたる資料は皆萬人の眼に觸れたればそれ等の中より新に證を獲む事は殆望なきに似たれどなほ今一たび讀者と共に之を※[手偏+僉]し見むに、まづ問題の山の名の古典に見えたる中にて日本紀の日向襲之高千穗|峯《タケ》と、同第四一書の日向襲之高千穗※[木+患]日二上峯と、同第六一書の日向襲之高千穗添山峯と、山城風土記逸文の日向曾之(196)峯とにはソといふ語見えたり。そのソは即後の大隅國|なれば
 〇このソを廣義のソなりと説ける人あり。げに日薩隅三國を總稱してソと云ひし時代もあれどそのソに代れるが日向といふ名なるに今は日向の襲とあればこのソは狹義のソ即舊|※[口+贈]於《ソノ》郡附近の地域なり。又日向襲之高千穗添山峯とありて添山此云2曾褒里能耶麻1とあるソホリはソハリの轉なり。ハがホに即第一段が第五段に縛ずるは常の事なり。さてソハリは添有にてソヒと云はむに齊し。ヘダタリ・ヨコタハリなどこれも例は擧ぐるに堪へず。そのソヒは萬葉集卷十四なるイカホロノ蘇比ノハリハラ・イハホロノ蘇比ノワカマツのソヒに同じくて高千穗ノソホリノ山ノ峯は高千穗の副峯といふ事なり。このソホリノ山ノ峯を豐後日向に跨れる祖母山の古名なりとせる説は從はれず
右の四の指せるは霧島山なる事明なり。之に反して古事記の竺紫日向之高千穗之久士布流多氣と、日本紀第一一書なる筑紫日向高千穗※[木+患]觸之峯と、同第二一書なる日向※[木+患]日高千穗之峯とは霧島山を指せるにか智鋪の山を指せるにか明ならず。クシビ・クシブルは地名にあらでクシブルは今は絶えたれどアヤシキ事ヲナスといふ義の動詞、クシビ(197)はクシブルより生じたる名詞にてクシビは靈、クシブルタケは靈山といふに過ぎざればなり
 〇第一一書の高千穗※[木+患]觸之峯は觸にフルと傍訓したれば從來クシブルノタケとよみ習ひたれどクシブルといふ動詞の連體格と峯との間に之字を挿むべきにあらず。宜しく古事記に高千穗之久士布流多氣(自v久以下六字以v音)といへる如くあるべきなり。或は※[木+患]觸之峯はクシブリノタケと訓むべきか。又クシビを奇火とせる説あれど從はれず。クシビを奇火と釋かばクシブルを如何にか釋かむ
次に神名を※[手偏+僉]せむに續日本後紀承和四年に
 八月壬辰朔日向國諸縣郡霧島岑神〔四字傍点〕預2官社
とあり同書承和十年に
 九月内戌朔甲辰日向國無位高智保皇神〔五字傍点〕奉v授2從五位下1
とあり又三代實録天安二年に
 冬十月廿二日己酉授2日向國從五位上高智保神〔四字傍点〕從四位上、從五位上霧島神〔三字傍点〕從四位下1
とあり。かく霧島岑神と高智保皇神とを並べ擧げたれば高千穗神は智鋪に坐す神なり。(198)さて霧島神を高千穂峯神といはざるは智鋪に坐す神と紛れざらむ爲なるべし。延喜式神名帳には諸縣郡霧島神社を擧げて臼杵郡高千穂神社を擧げず
次に地名を※[手偏+僉]せむに臼杵郡なる高千穂は風土記逸文に云々とあるのみならず和名抄郷名にも智保とあり。
 ○日向國風土記の全本もし傳はりせば諸縣郡の高千穂の事も見えましをとは誰も思ふべき事にて現に然嘆き云へる人もあれど恐らくは此書に諸縣郡の高千穂の事は見えざりしならむ。若見えなば釋紀※[木+患]日二上天浮橋の註に臼杵諸縣二郡の記事を並べ引くべければなり。されば少くとも風土記撰進時代の國衙にては臼杵郡なるをのみ高千穂二上峯と認めしならむ
諸縣郡なる高千穂は續日本紀延暦七年七月に
 太宰府言。去三月四日戌時當2大隅國※[口+曾]於郡曾乃岑〔三字傍点〕上1火炎大熾、響如2雷動1。及2亥時1火光稍止、唯見2黒烟1。然後雨v沙峯下五六里沙石委積|可《バカリ》2二尺1其色黒焉
といへり。但後の物には專霧島山といひて天孫降臨の事を云へる處の外は高千穗峯とは(ソノ峯とだに)云はず。今東峯を高千穗峯といふは恐らくは近古以來の事ならむ。
(199) ○或人は陸地測量部の地圖に高千穗峰と記入したるが始ならむと云へれども三國名勝圖會に高千穗峯といふ名霧島權現社の縁起に見えたり云へり
そも古に復せしならばこそあらめ、古典に高千穗二上峯といへるは東西兩峯に亙れる名なるをや
古典に見えたる資料は右にて略※[手偏+僉]し盡したれば再地理を察せむに智鋪郷即高千穗莊の中心なる三田井・※[木+患]觸神社・高千穗神社などの坐す三田井には高山無し。※[木+患]觸神社の坐す※[木+患]觸峯も一培※[土+婁]に過ぎず。同村(高千穗村)大字押方に二上山と稱せらるる一高山ありて帝國圖にも二上山と記入したれど古典に見えたる※[木+患]觸峯と二上山とは同一山にて二山にあらず。又そのクシビノ二上ノ峯は高千穗皇神の坐す處と別處なるべからず。されば若所謂二上山を古典にいへる二上峯とせば三田井の※[木+患]觸峯を傅會とし又三田井の高千穗神社を彼山より遷ししものとするか又は十社宮を高千穗皇神社に擬せしを誤とせざるべからず。抑高千穗荘(智鋪郷)霧島山共に土人が世人をして其地の天孫降臨の址なる事を信ぜしめむと力むる餘に修飾傅會したる所少からず。地名のみを見ても高千穗莊の高天原・※[石+殷]馭盧島・※[木+意]原・天岩戸・天安河・天眞名井・天浮橋・天香久山・高山短山など(200)又霧島山の橘小門之※[木+意]原など識者をして顰蹙せしむるもの頗多し。此事特に高千穗莊の方に多きは、世に知られむとする必要の霧島山より多かりし爲にあらずや。余は此土の爲に後世輕率なる研究者によりて玉石倶に焚かれむ事を恐る
高千穗の二上峯に天降りましきと云へるは……
 ○以下初稿五枚許廢棄
さて此處まで記し來りて始めて諸家の攝を通覧するにそが中には往々日向風土記逸文を引きながら高千穗は今の霧島山なりといへるものあり。こは臼杵郡と諸縣郡との別だに知らずして云へるなり。又臼杵郡に高千穗といふ地のあるを知らざりけむと思はるるものあり。古き物にて目に殘りしは唯伊勢貞丈の安齋隨筆に臼杵説を唱へたると橘南谿の西遊記卷五(天之逆鉾の條)及北窓瑣談卷二に霧島説を主張せるとに過ぎず。次に日本書紀通釋を繙くに此書には
 右二處ある中に高千穗峯はこの霧島山の方なり
と斷言せり。同書に引ける六人部是香《ムトベヨシカ》の高千穗峯考には續後記及三代實録に見えたる高智保皇神をも霧島山に坐す神とし、此風土記逸文を延長の撰とし、塵添※[土+蓋]嚢抄に假字(201)に引直して引ける日向風土記を和銅上奏の古風土記とせるなどうべなはれざる事多かれど我筆の疲れたるに讀者の眼もさこそと思遣らるれば論ぜずして止まむ。新しき物にては喜田博士の日向國史に霧島説を否認して
 之を幸にして今日に存ずる文献に徴するに臼杵郡の高千穗を以て之に當てんとする説はすでに奈良朝に存じ(○釋日本紀所引の風土記逸文を指せるなり)霧島山を以て之に當てんとする説は鎌倉時代以前に遡る能はざるを(○塵袋所引の風土記逸文を指せるなり)知るに滿足せんのみ
といひ(上卷六五貢)さて或は「然らば日本紀に襲之高千穗峯などあるは如何」と問はむに對して
 然れどもソの名必ずしも※[口+贈]唹郡のみなりとは限るべからず。ソを名とせる地名各地に多し
と云へり(五二貢)。氏の論は二十頁(第四八頁至第六七頁)に亙る長文にて委しく抄するに堪へず。志ある人は原書に就いて讀むべし。但氏の論文としては傑作にあらざる如し。然らば汝の説は如何と問はれむに日本紀と山城風土記逸文とに明徴あるは霧島山、日向(202)風土記逸文に確認あるは智鋪郷にて一千餘年前より兩説並び行はれしなるを一時の研究に由りて輕々しく一を是とし一を非とすべからず。余は天孫がまづ到りたまひしは五箇瀬川の上流の地ならむと思へり。但今の高千穗村の二上山に就いては深き疑を抱けり。余は或は高千穗峯と襲之高千穗峯とは別にて高千穗は本來前都の名なるを後都に移したまひしにあらざるかと疑へり。右の説を敷衍するには忌諱を冒さざるを得ざるを如何せむ
 
   高日《タカビ》村          甲類
 
案2風土記1日向國宮埼郡高日村、昔者自v天降神以2御釼柄《ミタカミ》1置2於此地1。因曰2釼柄《タカミ》村1。後人改曰2高日《タカビ》村1也云云(○釋日本紀卷六述義二、神代紀上釼柄〔二字傍点〕之註所v引)
 
 新考 釼柄はタカミとよむべし。釋日本紀に先師申云。案2風土記1……神世之昔以2釼之柄1稱2多加比1以v之可v知也(○也一作v歟)といひて釼柄にタカヒと傍訓したるは非なり。もと(203)タカミ村といひしを訛りてタカビ村といひしなり。もとよりタカビなるをただ釼柄を高日と書更へしにあらず。神武天皇紀に
 乃有2金色靈鵄1飛來止2于|皇弓弭《ミユミノハズ》1。其鵄光|曄U《エフイク》、状如2流電1。由v是長髓彦軍卒皆迷眩不2復力戰1。長髓是邑之本號焉。因亦爲2人名1。及3皇軍之得2鵄瑞1也時人仍號2鵄邑1。今云2鳥見《トミ》1是訛也
とありて長髓邑を金鵄の瑞に由りてトビと改めしを後にトミと訛り、播磨風土記|宍禾《シサハ》郡比良美の下に
 大神之|褶《ヒラビ》落2於此村1。故曰2褶村1。今人云2比良美村1
とありてヒラビをヒラミと訛りしとうらうへなる例なり。古事記傳卷五、次集2御刀《ミハカシ》之手上1血の註に
 手上はタカミと訓べし。書紀に劔頭と書て今云|柄《ツカ》なり。又書紀神武卷に撫劔此云2ツルギノ多伽彌トリシバル1とも見え又劔柄と書て多加比と訓る處あり(○即神代紀上瑞珠盟約章に急握劔柄とある劔柄の傍訓を云へるなり。但嘉元本にはタカミと傍訓せり)。そは美を後に比と云成るなり(風土記に日向國宮埼郡云々とある是はもと多加美村と云るを後に多加比と改つと云ことか。將もとより多加比とは云つれど劔頭の義(204)なりしを改て高日とせしと云ことか)
といへり。一説の方即將モトヨリ以下は非なり。夙く萬葉集古義卷九見2菟原處女墓1歌なるヤキダチノ手頭オシネリの註に
 又紀中に劔柄と書てタカヒと訓る處もあり。そはいみじきひがごとなり。そは風土記に日向國宮埼郡云々とあるを本よりタカヒノ村とは云へれども劔柄と書しを改めて高日とせしと云ことぞとひが心得してつひに劔柄をしか訓るものなり。此風土記の意はもとタカミノ村と云るを後人タカビと改めつと云ことにて劔柄をタカヒと云べきよしは更に無し。ミとヒの濁音と通ふままに後人改めて然いへるのみにこそあれ
といへり。さてタカミは古事記に手上と書けるが正字なり。書紀通釋卷五(二一三頁)に「名義ツカミなり。手にてつかむ處なればなり」といへるは從はれず○以2御劔柄1置2於此地1といへる心得がたし(以は特の義にあらで、うるはしき國文のヲに當れり)。抑上代の刀の莖はいと長くて必しも後世の刀のナカゴの如く柄を附くるを要せざれど、なほ把握に便よからむが爲に多くは柄に嵌めしなるべけれど其柄は後世のものの如くたやすく取(206)外さるるものにはあらじ。ここに上代の刀の柄には柄頭《ツカガシラ》と稱すべき装飾ありき。考古學者は之を其形状に從ひて鐶頭・圓頭・方頭・圭頭・頭椎・蕨手の六種に分てり。たとへば萬葉集卷二にコマツルギワザミガ原ノカリ宮ニアモリイマシテとよめるは朝鮮式の刀劔には鐶頭を附けたればワの枕辭に狛劔といへるなり。思ふにここに劔柄《タカミ》といへるはその柄頭《ツカガシラ》にて柄頭は多くは取外さるるものなればソヲ此地ニ置キテといへるならむ。さらば劔頭と(日本紀なる四神出生章第六一書の如く)書かむぞ當りなむ。社甫の後出塞に千金装2馬鞭1、百金装2刀頭〔二字傍点〕1とあり。是やがてツカガシラなり○高日村は太宰管内志に「今その趾さだかならず」といへり。地名辭書には「即今の高鍋なるべし」と云ひたれど高鍋は宮埼郡の内ならで古の那珂郡の内なるべし(今は兒湯郡の内なり)。されば同書に
 釋紀に引ける風土記逸文に宮埼郡高日村と云ふは即和名抄なる那珂郡財部郷に同じと思惟せらるれば那珂郡は和銅の風土記撰述以後に分置せられしを疑ふ
といへり。和名抄那珂郡の郷名於部を財部の誤とし近古の高鍋をその財部の訛とするは塚本明毅明治初年の地理學大家にて日本地誌提要・三正綜覧などの著者なる)の説なるがそのタカラベを高日の轉訛とするはなは考慮を要す(因にいふ。當國には諸縣郡に(206)も財部郷あり)
 
   吐乃《ツノ》大明神          不明
 
日向國古※[まだれ/臾]郡(當ニハは兒湯郡トカク)ニ吐濃《ツノ》峯卜云フ峯アリ。神オハス。吐乃《ツノ》大明神トゾ申スナル。昔神功皇后、新羅ヲウチ給シトキ此神ヲ請ジ給テ御船ニノセ給テ船ノ舳《ヘ》ヲ令v護姶ケルニ新羅ヲウチトリテ皈リ給テ後△韜馬《ウシカ》峯ト申ス所ニオハシテ弓射給ケル時土中ヨリ黒キ物ノ頭サシ出ケルヲ弓ノハズニテ掘出シ給ケレバ男一人女一人ゾ有ケル。其ヲ神人《カンヌシ》トシテ召仕ヒケリ。其子孫今ニ殘レリ。コレヲ頭黒トイフ。始テホリ出サルルトキ頭黒クテサシ出タリケル故ニヤ。子孫ハヒロゴリケルガ疫癘ニ死失セテ二人ニナリタリケリ。其事ヲカノ國ノ記ニ云ヘルハ日日〔二字傍点〕ニ死盡僅殘2男女兩口〔八字傍点〕1トイヘリ。コレハ國(ノ)守、神人ヲカリツカヒテ國役(207)ニシタガハシムル故ニ明神イカリヲナシ給テアシキ病オコリ死ニケル也(〇塵袋卷七)
 
 新考 塵添※[土+蓋]嚢鈔卷一にもさながら出でたり。カノ國ノ記といへるは日向國風土記にて古※[まだれ/臾]郡ニ吐濃峯ト云フ峯アリ以下の全文も亦風土記に據りて書けるならむ。但原文のままとおぼゆるは僅に日日死盡僅殘男女兩口とある十字に過ぎざれば和銅六年の詔に應じたる風土記なりや然らずや知るべからず○古※[まだれ/臾]は景行天皇紀十七年に子湯縣と書き續日本後紀承和四年八月に子湯郡と書けり。されば古くは子湯・古※[まだれ/臾]など書きしを延喜式・和名抄以後は專兒湯と書く事と定まれるなり。註文の常ニハ兒湯郡トカクは恐らくは風土記の原文にあらで塵袋の著者の加へたるものならむ○吐濃峯はツヌノ峯又はツノノ峯とよみ吐乃大明神はツノノ大明神とよむべし。吐の呉音はツなり。兵部式諸國馬牛牧に日向國都濃〔二字傍点〕野馬牧とあり、又和名抄兒湯郡郷名に都野〔二字傍点〕とあり、又神名帳に兒湯郡二座(並小)都農〔二字傍点〕神社・都萬神社とあり。都農神社は今も兒湯郡都農町大字川北字宮野尾にあり。都農町川北は高鍋町の北方四里許又美美津町の南方二里半許にあり(208)て國道に治ひ海にも遠からず。神社は都農川といふ小川の北にあり。其後の山即吐濃峯ならむ。神位・社格は續日本後紀承和四年八月に
 日向國子湯郡都濃神〔三字傍点〕・妻神……並預2官社1
同十年九月に
 日向國無位都濃皇神〔四字傍点〕奉v授2從五位下1
三代實録天安二年十月に
 授2日向國從五位下都農神〔三字傍点〕從四位上1
とあり。當國の一(ノ)宮にて今は國幣小社に列せり。都濃・都農・都野はツノとよむべし。前に云へる如く吐濃・吐乃もツヌ・ツノとよむべきをトヌ・トノとよみてツノをその訛とするは可ならず。祭神は大己貴命なりといふ○新羅ヲウチトリテ皈リ給テ後の次に「此神ヲ彼峯ニイハヒ給ケリサテ後」などいふ文のありしが落ちたるならむ。少くともかかる辭を補ひて聞くべし。ともかくも韜馬峯は吐濃峯に遠からざる處と思はる。管内志に
 重政云。兒湯郡新納山は霧島にならぷ大山なり。此山の南の麓にツノ町あり。則津ノ大明神の地なり。ウジカノ峯は新納山を云なるべし
(209)といひ大日本史國郡志にも
 按韜馬訓2宇志加1。今新納山蓋是
といへるは海拔一四〇五米の尾鈴山を云へるにや。原書に韜馬にウシカと傍訓したれど然よむ所以を知らず。韜は音タウにて武器を包む嚢なり○其ヲ神人トシテ召仕ヒケリとは其ヲ神人トシテ吐乃大明神ニ仕ヘシメケリといふ事ならむ○神が己に仕ふる者を他事に使ひしを怒りて祟りたまひし例は履仲天皇紀に
 五年春三月戊午朔筑紫ニマシマス三神(○宗像大神)宮中ニ見《アラハ》レテ言ク。何ゾ我民ヲ奪ヒシ。吾今汝ニ慚ミセムト。ココニ祷リノミシテ祠ラズ。秋九月乙酉朔壬寅天皇淡路島ニ狩ス。……癸卯風ノ如キ聲アリテ大虚ニ呼ビテ曰ク。劔刀太子王也《ツルギダチヒツギノミコゾ》ト。亦呼ビテ曰ク。鳥|往來《カヨフ》羽田之|汝妹《ナニモ》者|羽狹丹葬立往《ハサニハブリイヌ》ト。亦曰ク。狹名來田蒋津《サナキダノコモツ》之命羽狹丹葬立往|也《ゾ》ト。俄ニシテ使者忽來リテ曰ク。皇妃薨ズト。天皇大ニ驚キテ歸ル。丙午淡路ヨリ至ル。冬十月甲寅朔甲子皇妃ヲ葬ル。既而《カクテ》天皇神ノ祟ヲ治メズシテ皇妃ヲ亡ヒシコトラ悔イテ更ニ其咎ヲ求ム。或者ノ曰ク。車持君筑紫國ニ行キテ悉ニ車持部ヲ※[手偏+交]《カト》リ兼《マタ》充神者《カムベノタミ》ヲ取リキ。必|是《コノ》罪ナラムト。天皇則車持君ヲ喚《メ》シテ推問スルニ事|既《コトゴトク》實ナリ。因リテ之ヲ數《セ》(210)メテ曰ク。爾《ナムヂ》車持君ナリト雖|縱《ホシキママ》ニ天子ノ百姓ヲ※[手偏+僉]※[手偏+交]セシ罪一ナリ。既《ハヤク》神祇ニ分寄セル車持部ヲ兼《マタ》奪取リシ罪二ナリト。……既而《カクテ》詔ヒテ曰ク。自今以後筑紫ノ車持部ヲ掌ルコトヲ得ザレト。乃悉ニ收メテ更ニ分《クマ》リテ三神ニ奉リキ
とあり
 
   韓※[木+患]生《カラクジフ》村          不明
 
日向國ニ韓※[木+患]生村トイフ所アリトカキ|△《ク》。コノ所ニ木※[木+患]子《ムクロジノ》木ノオヒタリケル歟如何
※[木+患]生トカケルハ木※[木+患]《ムクロジ》ノ樹ノオヒタルニハ非ズ。栗ノオヒタル心ナリ。コノ所ニ小栗オホシ。昔|※[加/可]瑳武別《カサムノワケ》ト云ケル人韓國ニワタリテ此栗ヲトリテカヘリテウヱタリ。此故ニ※[木+患]生《クジフ》村トハ云ナリ。風土記云。俗語謂v栗爲2區兒1。然則韓※[木+患]生村ト云ハ蓋云2韓栗林(ト)1歟ト云ヘリ(○塵袋卷二)
 
(211) 新考 塵添※[土+蓋]嚢抄卷九にもさながら出でたり。此文は何郡に屬するものか知るべからす。太宰管内志に此文を日向國臼杵郡の下に引きて
 韓※[木+患]生はカラクジフと訓べし。さて古事記に日向之高千穗之久士布流多氣とある、則此※[木+患]生村なる山を云か
といひ又大隅國※[口+贈]唹郡※[木+患]生峯の下に引きて
 ※[木+患]生峯は則高千穗の事とは聞えたれど韓※[木+患]生村と云は其麓などに在る里なるにや、いまだ詳ならず
と云ひたれど韓※[木+患]生村は高千穗之久士布流多氣又高茅穗※[木+患]生峯(薩摩國|閼墮駝《アダ》郡竹屋村參照)とは恐らくは相與からじ○韓※[木+患]生はカラクジフとよむべし。カラノとはよむべからす。下文に據れば韓※[木+患]生は韓の※[木+患]《クジ》のある處といふ義なるにノを添へてカラノクジフとよめばカラはクジのみにかからでフまでに即クジフ全體にかかるが故なり○木※[木+患]子は正しくは無患子又は無※[木+患]子と書くべし。※[木+患]は漢音クワン呉音ゲン、無※[木+患]は所謂ムクロジノ木なり。ムクロジは元來此木の果實の種子なり。之を無患子と書くその子はやがて種子といふ事なり。木の名は無患なり。此木にて作りたる棒は能く百鬼を打殺すとい(212)ふに由りて其木に無患と名づけたるを後に木扁を添へて無※[木+患]と書く事となりしなりと云ふ○※[加/可]瑳武別はカサムノワケとよむべし。塵添※[土+蓋]嚢抄には瑳を※[こざと+差]と書けり。カサムは地名ならむ。ワケは一種の封侯なり。景行天皇紀に故當2今時1謂2諸國之別1者即其|別王《ワケノミコ》之苗裔焉とあり○俗語より歟までの十九字は風土記の原文にて其中間のト云ハはよみ添なり。原寫本にはト云ヲハとあれどヲは衍字と認めつ。又アリトカキクのクを脱したり○俗語は俚言をも、方言をも、漢語に對して邦語をも云へり。ここの俗語は方言ならむ。肥前風土記(新考一五〇頁)にも俗言v岸爲2比遲波《ヒヂハ》1と云へり○區兒の兒は漢音ジ呉音ニなるが漢字の※[木+患]を充てたるを見ればクニとは訓むべからず。さればクジと訓むべし。然るにクシビ・クシブルを※[木+患]日・※[木+患]觸と書けるは如何。※[木+患]の字もしクジとよむべくば※[木+患]日・※[木+患]觸はクジヒ・クジフルとよむべきか。之に就いて思はるるは古事記に久士布流多氣と書ける事なり。士は漢音シ呉音ジなるが古典には通例呉音に依りてジに充てたり。されば※[木+患]日・※[木+患]觸は從來クシビ・クシブルとよみ習へるに反してクジヒ・クジフルと訓むべきか。さらば智鋪郷の下にクシビは靈、クシブルタケは靈山といふ事と釋したるは訂正すべきかといふに此釋はなほ誤にあらで本來クシビ・クシブルなるを日のかげるをヒガケル(213)といひ夜のくだつをヨグタツといふ如く濁音が上に移りてタジヒ・クジフルとなれるにあらざるか。又或は區兒は區四の誤寫にあらざるか。更に思ふに韓※[木+患]生こそあれ※[木+患]日・※[木+患]觸などは木名と關係あらざれば、もしクシと清みて唱へけむには奇とも串とも櫛とも書くべきをことさらに※[木+患]字を書けるを思へば※[木+患]はなほクジならむか。天孫降臨章第四一書にも天※[木+患]津大來目とあり○クジに※[木+患]を充てたる所以は知られず。此字を往々※[木+患の串の中央に横線が加わる]と書けるは恐らくは衍畫ならむ
 
(214)  大隅國 四節
 
   串卜《クシラ》郷          甲類
 
大隅國風土記ニ大隅〔二字左△〕《姶羅》郡串卜郷、昔者《ムカシ》造v國神|勒〔左△〕《勅》2使者1遣2此村1令v△《看》2消息1。使者|報《カヘリゴトマヲサク》。道有2髪梳《クシ》1。神云。可v謂2髪梳《クシ》村1。因曰2久西〔左△〕良《クシラ》郷1(髪梳者隼人俗語|△《云》2久|西〔左△〕《四》良)。今改曰2串卜郷1(○萬葉集仙覺抄卷三髪梳之小櫛トリモミナクニ〔髪梳〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 日薩隅三國の郡境治革は頗複雜なるが中に大隅のは特にまぎらはし。まづ續日本紀和銅六年に
 夏四月割日向國|肝坏《キモツキ》・贈《ソ》於・大隅・姶※[衣+羅]四郡1始置2大隅國1
とあり。次に同書天平勝寶七歳に
 五月大隅菱苅村浮浪九百三十餘人言v欲v建2郡家1。許v之
とあり。律書殘篇の國名表(延暦遷都以前の作製)に大隅國郡五とあるは右の肝坏・贈於・大(215)隅・姶※[衣+羅]・菱苅を云へるにて菱苅郡は贈於郡のもとの西北部ならむ。次に日本後紀延暦二十三年三月の下に
 大隅國桑原郡蒲生驛與2薩摩國薩摩郡田尻驛1相去遙遠云々
とあれば桑原郡は此時はやく置かれたりしにて、そは又贈於郡の西部(菱苅郡の東に當れる)を割きて置かれしならむ。次に延喜民部式に
 大隅國 中 管、菱苅・桑原・贈於・大隅・姶羅・肝屬・馭謨・熊毛
とあり。次に和名抄に
 大隅國(和銅六年割2日向國四郡1置2大隅國1、天長元年停2多※[衣偏+陸の旁+丸]《タネ》島1隷2大隅國1)管八 菱苅(比志加里)桑原(久波々良、國府)※[口+贈]唹(曾於)大隅・姶羅(阿比良)肝屬(岐毛豆岐)馭謨(五牟)熊毛(久末介)
とあり。類聚三代格卷五及本朝文粋卷四に載せたる天長元年九月三日の太政官奏文にも
 停2多禰島1隷2大隅國1事
 ……須d停v島隷c大隅國u。計2其課口1不v足2一郷1。量2其土地1有v餘2一郡1。能滿《ノマ》合2於|馭謨《ゴム》1益救《ヤク》合2於熊毛1四郡爲v二於v事|得《エム》v便|者《トイヘリ》
(216)と云へり。多※[衣偏+陸の旁+丸]島即多禰島は今の種子《タネガ》島・屋久《ヤク》島・口の永良部《エラブ》島などの總稱なり
 ○※[衣偏+陸の旁+丸]は字書に女介切とあり。諸書に※[衣偏+幸+丸]と書けるは誤なり
當時の西海道は九國三島より成り多禰島は其三島の一にて(他の二島は壹岐・對馬)馭謨・益救・熊毛・能滿の四郡に分れたりしをここに至りて合せて二郡として大隅國に屬し大隅國は之に由りて始めて延喜式及和名抄に見えたる如く管八郡となり又西海道はこれより九國二島となりしなり。
 ○馭謨と益救とは今の屋久島にて熊毛と能滿とは今の種子島なり(今も種子島の大字に野間あり。能滿を永良部島とせる説は從はれず)。彼太政官奏文に能滿合2於馭謨1益救合2於熊毛1とあるは益救合2於馭謨1能滿合2於熊毛1とあるべきを顛倒したるなり。續紀天平五年六月の下に
 多※[衣偏+陸の旁+丸]嶋熊毛郡大領|外《ゲ》從七位下|安志託《アシタ》等十一人賜2多※[衣偏+陸の旁+丸](ノ)後《シリ》國造姓1、益救郡大領外從六位下加里伽等一百三十六人多※[衣偏+陸の旁+丸]|直《アタヒ》、能滿郡少領外從八位上粟麻呂等九百六十九人因v居賜2直姓1
とありて馭謨郡領の事の見えざるは脱したるにや。又は馭謨郡は之より後に益救郡(217)より分れしにや
其後の變遷はしばらく略して直に明治の世に到らむに同二十九年には大隅國は菱苅・桑原・姶良《アヒラ》・※[口+贈]唹《ソオ》・肝屬《キモツキ》・大隅・熊毛・馭謨《ゴム》・大島の九郡を管したりき。その大島郡は奄美《アマミ》大島以下の群島にて明治十二年に集めて一郡として大隅國に屬せしめられしなり。然らば爾餘の八郡は式抄時代のままなりやといふに菱苅郡が近古その西北の一半を薩摩國伊佐郡に奪はれしなど各郡共に其郡境は昔と變れるが此等の事は一々云はずともあるべし。獨黙止すべからざるは姶良郡の事なり。明治二十九年の姶良郡は桑原郡の南に在りて西は薩摩國薩摩郡に、西南は同國鹿兒鴫郡に接したりしが式抄時代の姶羅郡はかかる地方にあらず。古の姶羅郡は後の姶良郡とは懸絶したる半島内に在りき。なほ云はば大隅國を本土と半島と絶島とに分たむに後の姶良郡は本土の西端にあるに反して古の姶羅郡は半島内に在りて肝屬郡の北に接したりき。今肝屬郡内に大姶良《オホアヒラ》村・姶良《エラ》村あるは適に郡名を傳へたるなり。姶良村大字|上名《カンミヤウ》には鵜草葺不合《ウガヤフキアヘズノ》尊の吾平《アヒラ》山上陵あり。
 ○和名抄郷名に大隅郡にアヒラと訓むべき姶臈ありて姶羅郡に姶羅なきは夙く大隅郡が姶羅郡を犯したりしならむ。又大隅郡は明治二十九年までは肝屬郡に隔てら(218)れて南北二郡に分れたりき(建久圖田帳に下大隅郡とあるを思へば當時夙く南北二郡に分れたりしなり)。此事と、延喜式及和名抄に當國の郡名を贈於・大隅・姶羅・肝屬と序でたると、姶良村及大姶良村が今肝屬郡に屬したるとを湊合して思へば古大隅郡は半島の西北部、姶羅郡は其南、肝屬郡は又其南東に位せしが後に大隅郡海岸に沿ひて南方に伸びて姶羅・肝屬兩郡の西部を侵し又後に殘餘の肝屬郡西北に廣ごりて姶羅郡を併呑し有明※[さんずい+彎]より直に鹿兒島※[さんずい+彎]に達せしかば之が爲に大隅郡は中斷せられて連續せざる南北二部(櫻島及其對岸と半島の南端と)に分れしならむ
大日本國郡志・薩隅日地理纂考・日本地理志料などには後の姶良郡を古の姶羅郡の故地とし太宰管内志・郡名異同一覧・大日本地名辭書などは古の姶羅郡と後の姶良郡とを別地とし又古の姶羅郡は肝屬郡に併合せられたりとせり。和名抄の姶臈郷、建久圖田帳の姶良莊、今の姶良村及大姶良村の在るは半島内なる上に式抄に郡名を擧げたるにはすべて整然たる順序ありて當國にては西北を始とし東南を終としたるなるが、それに贈於・大隅・姶羅・肝屬と次でたるを思へば今の姶良郡は古の姶羅郡の故地に非ざる事明なり。さて今の姶良郡は建久圖田帳の帖佐《テフサ》郡なる事下に云はむが如し
(219) 大隅郡が海岸に沿ひて南に伸びて姶羅・肝屬二郡を三面より圍みけむは彼日向國那珂郡の發展と比較すべし
さて姶羅郡は夙く隣郡に(初は大隅郡に、後には肝屬郡に)併呑せられて亡びはてき。然るに中世桑原郡の南部を割きて 一郡を建てし時之を帖佐《テフサ》郡と稱せしを後に始良《シラ》郡と稱し明治の初年に始良を誤として姶良《アヒラ》と改めき。是今の姶良郡の起なり。
 ○帖佐を始良と改めしは新郡が古の姶羅郡の故地にあらざる事を顧慮せずして妄に古郡名を冒さしめしにて然も姶良を始良と誤りてシラと唱へしならむ。之と同例とすべきは薩摩國の伊佐郡なり。これも薩摩郡の北部を割き之に大隅國菱刈郡の西北部を加へて一郡を建てし時妄に夙く亡びし伊作郡の名を繼がしめ然も伊作を伊佐と誤りしならむ。その伊佐郡が薩摩國の東北端に在り伊作郡の故地が半島内に在りて遙に相離れたるは恰所謂始良郡と姶羅郡の故地との關係の如し
明治十一年郡區町村編制の時鹿兒島縣にて郡名の誤字・省宇・誤稱を正して指宿を揖宿に、谷山を谿山に復し、給黎の誤稱キレイをキヒレに、頴娃の誤稱エノをエイに(正しくはエエ否エとすべきなり)復すると共に始良も姶良に復せしなるが當時の人はまだ始良(220)郡と古の姶羅郡と別地なる事を知らざりしなり(地理纂考卷一大隅國總説參照)。
 ○ここに當國の郡名の訓に就いて一言せむ。菱苅・桑原・大隅・熊毛に就いては云ふを要せず。但菱苅を今菱刈と書くは正しきに還れるなり。苅は刈の僞體なり。我國にては刈に草冠を添へて書習ひしなり。かかる例少からず。贈於は元來ソといふ一音の郡名なるを地名は二宇に書くべしといふ定に由りて其韻に當る字を添へて贈於又は※[口+贈]唹と書きてなほソと一音にとなへしを終に字と調とに引かれてソオと唱ふる事となりしにて、なほ薩摩の頴娃郡が初エなりしに.後にエエとなりしが如し。建久圖田帳には曾野郡と書けり。元來ノは助辭なれば顯し書くべきにあらず。和名抄には※[口+贈]唹に曾於、頴娃に江乃と訓註せり。甲は曾、乙は江とすべきなり。さて頴娃郡に江乃と訓註したるは圖田帳に贈於を曾野と書けると好一對なり。次に姶羅は姶の音アフをアヒに轉借したるなり。神代紀には吾平と書けり。羅字は和銅六年紀には衣扁を添へ、天平元年七月紀には女篇を添へたり。次に肝屬の屬は附屬の屬なればツキに借りたるなり。但聊物遠きここちすればにや又は字畫の多ければにや建久圖田帳などには肝付と書けり。終に馭謨のゴムは呉音に據れるなり
(221)さて明治二十九年に郡制を施行せし時菱刈を薩摩の伊佐郡に併せ、桑原と※[口+贈]唹の西部とを姶良に併せ、日向の南諸縣と※[口+贈]唹の東部とを合せて※[口+贈]唹郡とし、大隅郡を肝屬に併せ、馭謨を熊毛に併せしかば爾來大隅國は姶良・※[口+贈]唹・肝屬・熊毛・大島の五郡となれり。從ひて國境も頗往時とかはれり
本文に大隅郡串卜郷とあるはいぶかし。和名抄高山寺本郷名に
 大隅郡  人野、大隅、謂列、姶臈〔二字右△〕、大阿、支刀
 姶羅郡  野裏、串占〔二字右△〕、鹿屋、岐刀
 肝屬郡  桑原、鷹屋、川上、鴈麻
とありて串占郷即串卜郷は姶羅郡に屬せり。
 ○流布本には串占を串伎と誤れり。又日本地理志料には姶羅郡と肝屬郡とを顛倒とせり。こは地理纂考に載せたる高木秀明といふ人の説に據れるなるが、それに從はば串占は肝屬郡に屬すべけれど郡名顛倒説は從ひ難し。顛倒とすれば大隅・肝屬・姶羅となりて同書郡名部の順序にも延喜式の順序にもたがへばなり
本文に大隅郡串卜郷とあるは本來姶羅郡串卜郷とあるべきを原書より此文を抄出せ(222)し時誤りて前郡の名を添附せしにあらざるか。播磨風土記などの古寫本のしどけなきを見て、かかる誤の生ずまじきにもあらざる事を知るべし。串卜は建久圖田帳に串良院とあり。今肝屬郡に屬し東西二村に分れて串良川の下流を夾めり。串良川は同郡の西北部より發し東南に流れて肝屬川と合せり。和名抄郡郷名時代の姶羅・肝屬二郡は恐らくは肝屬川を界とせしならむ。肝屬川の一名を堺川といふは恐らくは串良・高山《カウヤマ》二村の界の謂にあらじ○造國神は即大国主命なり。日本紀寶劔出現章の第六一書に大国主神亦號2國作|大己貴《オホナムチ》命1とあり、播磨風土記|宍禾《シサハ》郡於和村の下に大神國作|訖《ヲヘテ》とあり、出雲風土記|神門《カムト》郡朝山郷の下に所2造《ツクラシシ》天下1大神大穴特命とあり、延喜祝詞式なる出雲國造|神賀《カムホギ》詞に國作|坐志《マシシ》大穴特命また國作之大神とあり。其外の例は擧ぐるに堪へず○勒使者遣此村令消息は勒を勅に改め、令の下に看又は見又は覩又は察を補ふべし。一本に見の字ありといふ。語例は豐後風土記の總説に菟名手即勅2僕者1遣v看2其鳥1とあり。勅はノリテとよむべく天子ならぬ常人の言にも用ひたる例ある事くはしく彼文の註に云へり。更に一例を添へむか。唐書崔義玄傳に
 詰朝奮撃。左右有2以v盾|※[章+おおざと]《サフル》者1。義玄曰。刺史而有v避邪、誰肯死。※[束+攵]〔右△〕去v之(223)とあり。※[束+攵]は勅に同じ。消息は景行天皇紀十二年に先遣2多《オホノ》臣祖武諸木等1令v察2其状1といへるなどの状に齊しくてアルカタチ即アリサマなり。やがて日本紀には同年十二月以下、消息にアルカタチと傍訓せる處あまたあり。肥後風土記の總説にも便巡2國裏1兼察2消息1とあり○使者報道有髪梳神云可謂髪梳村を考證に仙覺抄・萬葉緯以來の誤を繼ぎて
 使者|報道《カヘリゴトマヲ》サク。髪梳《クシラ》神アリト。云ハク。髪梳村ト謂フベシト
とよめり(矢野玄道の古文彙には云を上に附けて髪梳神ト云フ有リとよめり)。髪梳の訓は後に讓らむ。右の如く即古來の訓の如く訓まむに第一髪梳神といふ事心得られず。第二、云の上に造國神などを補はでは辭足らざるにあらずや。右の文は宜しく使者報。道有髪梳。神云。可謂髪梳村と句を切りて
 使者カヘリゴトマヲサク。道ニ髪梳《クシ》アリト。神ノ云ハク。髪梳《クシ》村ト謂フベシト
と訓むべし。報は復命なり。道有髪梳は人ニハ逢ハズ但道ニ櫛墜チタリと云へるなり。神は即造國神にて神云以下は
 造國神ソノ復命ヲ聞キテノタマハク。サラバ其地ニ櫛村ト名ヅクベシ。トノタマヒキ
と云へるなり○さて髪梳はクシとよむべし。仙覺以來クシラとよめるは非なり。神はク(224)シノ村と名づけ給ひしを方言にクシをクシラといふに由りてクシラノ郷と稱する事となりきと云へるなり
 ○仙覺が此文に據りて萬葉集巻三の歌の髪梳乃小櫛をクシラノヲグシとよめるは誤なり。髪梳をクシラとよむべくとも、又石川少郎即太宰少貳石川朝臣君子が隼人の方言に依りきとすともクシラノヲグシとは云ふべからず。クシラはやがて櫛の事なればなり。余は此句をクシゲノヲグシとよみ置けり(萬葉集新考三八六頁參照)
○さて仙覺抄(少くとも全集本)には久西良とあるに萬葉緯並に逸文考證本には久四良とあり。西はサ又はセとよむべくシとはよまれねば、四の誤とするか又は隼人の方言をクサラ又はクセラとするの外は無し。按ずるに仙覺も西がシと訓むべからざる事は知りしなるべければ、もし原文に久西良とあらば髪梳コレヲクシラ〔三字傍点〕ト和スベキハと云ひて此文を引きたる後に久西良が久四良の誤又は訛なる事を辨ぜざるべからず。さる言無きを見れば原文には久四良とありしにて全集本に久西艮とあるは轉寫の際に生ぜし誤にこそ○隼人はハヤヒトとよむべし。ハイトといふは訛なり。さて隼人は異民族の名なり。古の日向即熊襲國に蔓りたりしかば國史に其居地に依りて阿多隼人(後には薩(225)摩隼人)大隅隼人・日向隼人など分ち云へり○髪梳者云々は俗語の下に云を補ひて髪梳ハ隼人ノ俗語ニ久四良トイフとよむべし。次なる必志《ヒシ》里の節にも海中洲者隼人俗語|云〔右△〕2必志1とあり。考證本には云久四良の四字を脱せり。さてクシラといふは海中の洲をヒシといふ如き別系統の語にあらでクシにラを添へたるにて東語に兒をコロといふ類ならむ(萬葉集新考二九六三頁參照)○髪梳者以下原本に分註としたれど今改曰串卜郷の六字は本文に屬すべし。さて今改曰串卜郷とはもと久四良と書きしを彼地名二字の定に從ひて串卜と書く事となれりと云へるなり
 
   必志《ヒシ》里          甲類
 
大隅國風土記云。必志里、昔者此村|々中※[二字を□で囲む]在2海|△《中》之洲1。因曰2必志里1。海中|淵〔左△〕《洲》者隼人俗語云2必志1(○萬葉集仙覺抄卷七コノ床ノヒシトナルマデ〔コノ〜傍点〕之註所v引)
 
 新考 必志はヒシと訓むべし。必志里といへる里は郷の下の里にて靈龜元年以前の村(226)に當れり○必志里は何郡何郷の内にか知られず。菱苅郡の内かと云へる人もあれど同郡は海に臨まず。又此風土記は西海道の他國の甲本風土記と同じく日本紀より前に成りしものなるに菱苅郡の新に置かれしはそれより遙に後なる孝謙天皇の天平勝寶七歳なり。さてこれより前にありし贈於・大隅・姶羅・肝屬の四郡は皆海に臨みたれば必志里は何郡の内とも定められざるなり○下文に海中洲者云々とあるは上文を解説したるなれば上文も海中洲又は海中之洲とあらざるべからず。されば此村々中在海之洲は々中を削り海の下に中を補ひて此村在海中之洲とせざるべからず○考證に「海中の洲は浪のうちよせ來てひしひしと鳴る音を彼方言に然云るなるべし」といへるは從はれず。ヒシは隼人語即異民族語なるべければやまと語を以て説明すべからず
 
   耆沙神《キサノカミ》          不明
 
大隅國ニハ夏ヨリ秋ニ至ルマデシラミノ子多クシテ食ヒ殺サルル者
アリ。コレヲ風土記ニ云ヘルニハ沙〔左△〕《小》虱二字訓2耆|小〔左△〕《沙》神1ト注セリ。風土記ト(227)云ハ田舍ノ事ヲキキテシルス故ニカノ土俗ノコトバニ順ゼリ。コレヲオモヘバ田舍ニハキサシ|ム〔左△〕《ン》トモ云ナルベシ(○塵袋卷四)
 
 新考 塵添※[土+蓋]嚢抄卷八にも出でたり。シラミノ子ヲキササ〔三字傍点〕トイフカ。キサシン〔四字傍点〕トイフカと云ふ問に答へて文選に酒※[虫+幾]をサカキササと訓み和名抄に※[虫+幾](ハ)岐佐々、虱子也と註したればキササといふは無論なれど大隅國風土記に云々とあれば方言にはキサシンともいふなるべしと云へるなるが文拙くて義通じ難し。キサシムは問(恐らくは塵袋の著者の設けたる)の文にキサシンとあり又神の音はシン sin にてシム sim にあらねばムはンの誤寫と認むべし○説文に蝨齧v人蟲也。※[虫+幾]蝨子也とありて和名抄に※[虫+幾](ハ)岐佐々とあり
 ○虱は蝨の俗字なり。但はやく通用しきと見えて彼顔眞卿の于禄字書に見えたるのみならず南楚新聞といふ書に
 李※[虫+賓]司空初名ハ※[虫+亂の旁]。將ニ擧(○官吏登用試驗)ニ赴カムトス。夢ニ名ノ上ニ一畫ヲ添ヘテ蝨字ト成ス(○※[虫+亂の旁]に一畫を添ふれば實は虱字なり)。寤ムルニ及ビテ曰ク。蝨ハ※[虫+賓]ナリト。乃名ヲ改メシニ果シテ科ニ登ル(○即及第)
(228)とあり(淵鑑類函卷四百五十に引けり)。南楚新聞は唐書第五十九卷藝文志小説家類に尉遲《ウツチ》枢南楚新聞三卷(唐末人)とあり
○沙虱二字訓耆小神とあるはいぶかし。まづ沙虱は抱朴子・肘後方などに見えたるが本草にも
 所在皆有v之。雨後人晨昏踐v沙必著v人如2髪1。刺v人|便《スナハチ》入2皮裏1
とあり。和名は知られざるが決してシラミにもシラミノ子にもあらず。
 ○本草綱目啓蒙に沙蝨フスベ(肥前)とあれど其記事を味はふに抱朴子以下の記事と相合はず。近世羽後のケダニに充てたり。羽後のケダニは即越後の恙蟲一名赤蟲なり
次に耆小神はキサシンとは訓まれず。古は語をうつすに音訓を交へ用ふる事殆無かりしのみならず、小をサと訓むは添辭たる時に限ればなり。恐らくはもと小虱二字訓2耆沙神1とありしを轉寫の際に小と沙とを顛倒せしならむ。さてその耆沙神はキサノカミと訓むべし。キサはキササと同じく、神といへるは恐るべき物なればにぞあらむ
 
   口がみの酒          不明
 
(229)酒ヲツクルヲカム〔二字傍点〕トモ云、イカナル心ゾ
大隅國ニハ一家ニ水ト米トヲマウケテ村ニツゲメグラセバ男女一所ニアツマリテ米ヲカミテサカフネニハキイレテチリヂリニカヘリヌ。酒ノ香ノイデクル時又アツマリテ、カミテハキイレシモノドモコレヲノムヲ名ケテクチガミノ酒〔六字傍点〕ト云フト云々風土記ニ見エタリ(○塵袋卷九)
 
 新考 塵添※[土+蓋]嚢抄卷三にも見えたり。マウケテは準備シテなり。サカフネは酒船なり。神代紀寶劔出現章に各置2一口槽1而盛v酒また頭各入2一槽1飲とある槽も和名抄器皿部酒槽の註に槽(ハ)佐加不禰とあるに依りてサカフネとよむべし。播磨風土記|揖保《イヒボ》郡萩原里の下に舟傾乾とあるも酒船なり。古事記にはソノ佐受岐毎ニ酒船〔二字傍点〕ヲ置キテ船毎ニソノ八鹽折ノ酒ヲ盛リテ待テとあり。酒船は酒を入れおく船形の器と思はる。さて船形即藥研形に作れるは酒の澱《オリ》の沈みやすく又|上澄《ウハズミ》の汲取られやすきやうにせるならむ(播磨風土(230)記新考二八七頁參照)○文永十年に卜部兼文が物せし古事記裏書に 日本決釋云。應神天皇之代百済人|須曾己利《スソコリ》(人名、酒工)參來始|習《・ナラハス》2造酒之事1。以往之世未v知2釀酒之道1。但殊有2造酒之法1。上古之代口中嚼v米|吐2納《ハキイル》木櫃1。經v日|酣〔左△〕酸《アマクスシ》(○酣は甜の誤か)。名v之爲v釀《カム》。故今世謂v釀v酒爲v嚼《・カム》是其法也(今南島人所v爲如v此)とあり(古典保存會本に據る。傍訓の右側なるは原本のままにて左側なるは余が加へたるなり)。我國にては古、米を嚼みて酒を造りしに應神天皇の御代に百済人須曾己利といふ者が來朝して始めて新式の造酒法を傳へしなりと云へるなり。古事記應神天皇の段に
 知v釀v酒人名|仁番《ニホ》亦名須須許理〔四字傍点〕等參渡|來也《キキ》。故《カレ》是《コノ》須須許理釀2大御酒1以獻。於v是天皇|宇2羅宜《ウラゲ》是《コノ》所v獻之大御酒(ニ)1而《テ》御歌曰《ウタヒタマヒケラク》。須須許理が、かみしみきに、われゑひにけり、ことなぐし、ゑぐしに、われゑひにけり
とあるには一致し新撰姓氏録右京皇別下|酒部公《サカベノキミ》の下に
 大鷦鷯《オホサザキ》天皇(○仁徳天皇)御代從2韓國參來人|兄《エ》曾々保利〔四字傍点〕・弟《オト》曾々保利〔四字傍点〕二人、天皇勅、有2何才1。白。有2造v酒之才1。令v造2御酒1
(231)とあると相齊しからず。南島は大隅薩摩二國の南方なる群島(琉球をこめたる)を云へるなり。琉球にて口嚼して酒を造る事はたとへば續昆陽漫録米奇の條に見えたり。木櫃といへるは風土記の酒船に當れり。右の文に見えたる如く酒を造る事を後の世までもサケカムといへるは古、米を嚼みて造りしより轉じたるなり。古事記傳卷九に
 字鏡に釀(ハ)造酒也サケカムと註せり。此カムを口にてかみて作る故なりと云はおしあてのひが言なり。カムは和名抄に麹をカムダチとあるはカビダチにて俗に花ノ付クといふ是なり。されば酒もかびだたせて作る意にてカムとは云なり。故《カレ》カモスとも云り
と云へるは從はれず。萬葉集古義卷四(君ガタメカミシ待酒の註)に
 或説にかみて酒を造ると云るは誤なり。……其意ならむには嚼テ造ルといはでは言足らず。嚼とのみにては唯口にてかむのみをいふになるをや
と云へるは僻めり。カミナスといふべきを短くカムといへるなり。やがて萬葉集卷十六にはウマイヒヲ水ニカミナシ〔四字傍点〕ワガ待チシ云々とよめり。今も酒を造る事をカモスといふカモスは元來カミナスの約カマスが(第一段が第五段に轉ずる例に依りて)カモスと(232)なれるなり(新考三三七八頁參照)
 
(233)  薩摩國 一節
 
   閼駝《アダ》郡|竹屋《タカヤ》村          不明
 
ヲサナキチゴノホゾノ緒ヲ竹刀ニ|△《テ》キルハ前蹤ニヨル歟如何
風土記ノ心ニヨラバ皇祖|※[なべぶた/臼/哀の下半]能忍耆《ホノニニギ》命、日向國|贈《ソ》於郡高茅穗|※[木+患]生《クジフ》峯ニアマクダリマシテコレヨリ薩摩國閼駝郡竹屋村ニウツリ給テ土人|竹屋守《タカヤモリ》ガ女ヲメシテ其腹ニ二人ノ男子ヲマウケ給ヒケル時彼所ノ竹ヲカタナニツクリテ臍緒キリ給ヒタリケリ。其竹ハ今モアリト云ヘリ。コノアトヲタヅネテ今モカクスルニヤ(○塵袋卷六)
 
 新考 塵添※[土+蓋]嚢抄卷二にもさながらに出でたり。それに據りて竹刀ニの下にテを補ふべし。栗田氏は風土記ノ心ニヨラバを日向風土記云と改められたれど恐らくは日向風土記の文にあらで薩摩風土記の文ならむ。主として云へる事は薩摩國閼駝郡竹屋村にての事なればなり。日向國贈於部高茅穗※[木+患]生峯とあるも日向風土記の文ならぬ一證と(234)すべし。もし日向風土記の文ならば特に日向國とは云ふまじく又諸縣郡とあるべきなり。高茅穗※[木+患]生峯即霧島山は日向國諸縣郡と大隅國贈於郡とに跨りたればなり○さて日向國贈於郡とあるいといぶかし。大隅國が日向國より分たれしは和銅六年四月にて諸國に風土記を撰進する事を命ぜられしは同年五月なれば此文の出でたる風土記たとひ所謂古風土記なりとも日向國贈於郡と書くべきにあらず。恐らくは日向國の三字は原文には無かりしを塵袋の著者がさかしらに添へたるならむ○ヒコホノニニギノ尊は日本紀の一書に彦を省きてホノニニギノ尊とも申し奉れり。忍は音ニヌ nin なれば轉じてニニに借れるなり○※[木+患]生峯は他にかく書けるを見ず。さてクジフルタケともクジヒノタタとも訓まれねばクジフノタケとよむべし。クジヒをクジフといへるはかの香椎を萬葉集巻十五に可之布といへる類とすべきか(三九頁參照)。或はクジフを本として彼韓※[木+患]生村の如くクジ即栗の生ひたる峯の義とし、クジヒ・クジフルを※[木+患]オヒ・※[木+患]オ
フルの義とせむか。但前にも云へる如く記紀などに※[木+患]生峯と書ける例無けれは撰述時代不明の風土記、然もそを假字書に改めたるものを唯一の證として※[木+患]生説を主張せむは危險ならむ○薩摩國は本、日向大隅と共に一國なりき。そが日向より分れしは大寶二(235)年なり。延喜民部式に據れば中國にて十三郡を管しき(律書殘篇にも薩磨國郡十三とあり)。其郡名は和名抄に據れば
 出水(イヅミ)高城(タカキ)薩摩・甑島(コシキシマ)日置(ヒオキ)伊作(イサク)阿多・河邊(カハノヘ)穎娃(エノ)揖宿(イブスキ)給黎(キヒレ)谿山(タニヤマ)麑島(カゴシマ)
なり。延喜式の流布本には阿多を脱し又麑島を鹿島と誤れり。和名抄の流布本に鹿兒島と書けるも誤れり。地名は二字に書くべき定なれば鹿兒を一字に麑と書きしなり。但麑は磨・※[日/下]などの如き二合字にあらず。本來の漢字なり。さればこそゲイといふ音もあるなれ。高城は後世約してタキととなへき。肥前の郷名高來をタクと唱ふると同例なり。日置は後世訛りてヘキと唱へき。河邊は今川邊と書きカハナベと唱ふ。頴娃にエノと訓註したるは正しからず。本郡は續日本紀に衣評《エノコホリ》と見えて本來エといふ一音の郡名なるを地名二字の定に由りて強ひて頴に娃を添へて二字とせしにてなほ紀を紀伊と書き贈を贈於と苦くが如し。娃は漢音アイ又はア、呉音エなり。さて頴娃郡と書けるはエノコホリとよむべけれど、ただ頴娃とのみ書けるはエとよむべくノを添へてエノとは訓註すべからざるなり。
(236) 〇穎娃にエノと訓註したるは固より正しからぬ事なれど贈於郡を建久圖田帳に曾野郡と書き伶人の氏の多・豐をオホノ・ブンノと唱ふると同例とすべし
揖宿は揖の音イフをイブに借り宿の直音スクをスキに轉借したるなり。
 ○和名抄の訓註に以夫須岐とあれば夙くよりブを濁りてイブスキと唱へしなり(夫は呉音ブにて濁音の借字に使ひ來れり)。そのイブに清音の揖を充てたるは如何。萬葉集にイブカシ・イブカリを言借と書ける類か。或は初イフスキと清みて唱へしを後に濁ることとなりしか
近古以來誤りて指宿と書きたりき。給黎は給の音キフをキヒに轉借したるなり。右の十三郡中伊作郡は夙く阿多郡に併せられ薩摩郡はいつの世よりか薩摩・伊佐二部に分れたりしを明治二十八年に谿山を麑島に併せ、同二十九年に高城・甑島を薩摩に併せ、阿多を日置に併せ、穎娃・給黎を揖宿に併せしかば今は出水《イヅミ》・伊佐・薩摩・日置《ヒオキ》・川邊《カハナベ》・揖宿《イブスキ》・鹿兒島の七郡となれり。否伊佐は明治二十九年に二分して南伊佐即|祁答《ケタフ》院を薩摩郡に併せ、北伊佐即|牛屎《ウシグソ》院と大隅國菱刈郡とを合せて伊佐郡と稱せしなれば今の薩摩國は六郡とも七郡とも謂ふべし。無論府縣制實施と共に行政上の國は亡びしなり。なほ云はば古郡名(237)のうち高城はタキとつづめられ、伊作はイザクと濁られ、阿多はそのままに、谿山は谷山と書かれ(和名抄にも郡名には谿山、郷名には谷山とあり)給黎は喜入と書かれ、頴娃はエエと伸され、甑島は島字を省かれ上下に分たれて幸にいづれも町村名として殘されたり(伊作は町、その他は村)。又揖宿は郡名は正字に復せられたれど村名は指宿と書きてなほ近古以來の誤を存ぜり
彦火瓊瓊杵尊が襲之高千穗峯より吾田長屋笠狹《アタノナガヤノカササ》之碕に到り給ひし事日本紀に見え、同じき第六一書に到2于吾田笠狹之御碕1遂登2長屋之竹島1とあり。ここに云へる閼駝郡竹屋村は同じき第三一書に見えたり。なほ後にいふべし○ニニギノ尊の娶り給ひし美人を記紀にはアタツ姫(又神アタツ姫又豐アタツ姫)一名カアシツ姫(又吾田カアシツ姫又神吾田カアシツ姫)一名コノハナサクヤ姫とし大ヤマツミノ神の子(紀の本書には孫)とせり。ここに土人竹屋守ガムスメとあると合はず。竹屋守は竹屋の酋長にて即大山ツミノ神にや。又ここに其腹ニ二人ノ男子ヲマウケ給ヒケル時云々とあるに古事記、日本紀の本書・同第二・第三・第七の一書には三子とせり。但第六・第八の一書にはここの如く二子とし第五一書には四子とせり○第三一書に
(238) 時以2竹刀《アヲヒエ》1截2其兒臍1其所v棄竹刀終成2竹林《タカハラ》1。故號2彼《ソノ》地1曰2竹屋1
とありてここに云へると相合へり○閼駝はアダとよむべし。閼の音アツ、その尾を棄ててアに借れるにて閼宗《アソ》縣の閼に同じ。古事記に阿多と書き日本紀に吾田と書き延喜式・和名抄に阿多と書けり。今も阿多と書きてアタと清みて唱ふれどここに閼駝と書けるを見れば古は(少くとも或時代には)アダと濁りしならむ。薩隅日地理纂考に日本紀に吾田と書けるに據りて吾田ハ私田ノ意ナリといひ地理志料にも此説に從ひたれど神代に公田私田の別あらむや○古典に後世の薩摩國を吾田國また薩摩國(又作薩麻、又作薛麻、又作薩磨)また隼人國また唱更國といへり。隼人國は隼人の本郷といふ義にてアタとサツマとは地名なり。就中アタは古くサツマは新し。抑薩摩國は地理上南北二部に分つべし。さて北部に薩摩郡ありて南部即半島に阿多郡あり。又北部には川内《センダイ》川(又作千臺川)といふ大河あり、南部には(川内川には比すべからざれど)萬之瀬《マノセ》川といふがありて共に西海に注げり。思ふに阿多は萬之瀬川流域の一邑の名より起り又薩摩は川内川谿谷の一村の稱より出でて終に全國の名となりしならむ。さて阿多の名が先一村より始まりて全國に及び薩摩の稱が次いで一邑より發して阿多に代りて全國を掩ひしは恐らく(239)は阿多・薩摩兩邑の酋長の勢力の消長に由るならむ○阿多は薩摩に壓倒せられし後伊作郡と河邊郡とに挾まれたる一小郡となりしが又後に北方なる伊作郡を加へられて地域稍廣ごりしに明治二十九年に日置郡に併せられて今は同郡の一村に其名を殘せるのみ○纂考に笠狹を今の川邊郡の加世田とし長屋を長永山とし笠狹碕を野間岬とし竹島を野間岳とせり。按ずるに吾田ノ長屋ノ笠狹碕また長屋ノ竹島とありて笠狹碕も竹島も共に長屋の内なるべければ長屋は宜しく今の加世田三村に充つべし。
 ○加世田は今加世田・萬世町(舊稱東加世田)西加世田の三村に分れたり。加世田と西加世田との界に高さ五二〇米の長屋山あり。即纂考に云へる長永山なり
笠狹碕はけに西加世田の西極なる野間ガハナの事なるべし。然らば笠狹は西加世田村かといふに第六一書に長屋之竹島とあれば西加世田村ぞ即竹島ならむ。辭を換へて言はば竹島といへるは野間岳半島の事にて野間岳は其峯ならむ。元來カササは岬の名にて地域の稱にはあらじ。白尾國柱は「長永山は長屋をナガエと訛りそを長永と書きし故に字音にて唱ふる事となりしならむ」と云へり。或は然らむ。されど長屋ノカササノ碕といひ長屋ノタカ島とあるを長永山に充てて叶はむや。長永山即長屋山は長屋にある山(240)なるが故に然稱せしにこそ。又記傳卷十五に「今も薩摩川邊郡に竹嶋と去處ありと云り」といへるは纂考に
 竹島 片浦(○今の西加世田村の大字)ノ港口ヨリ東北十町許ニアリ。周廻五町四十間、高サ六十間、頂上ニ石祠アリ。瓊々杵命ヲ奉祀ス。竹島ノ名ニ因テ後世ノ建立ナルベシ
といへる是なるべし。半島ながら陸つづきに野間岳といふ高山(高五九一米)あるを其麓より海を渡りてさる小島の頂に登りて展望し給はむや○竹屋村は和名抄阿多郡の郷名に鷹屋とある是ならむ。今加世田村大字内山田に竹屋尾《タカヤガヲ》といふ山あり。尾は丘なり。加世田村は今川邊郡に屬し川邊郡と舊阿多郡(今は日置郡の内)とは萬之瀬川を界としたれど風土記及和名抄の成りし頃には竹屋尾附近は阿多郡に屬したりけむ。郡界の變遷はいづくにもある習なるが中に薩摩大隅にては,特に甚しかりき。纂考川邊郡内山田村の下に
 竹屋 今土人神山或竹屋ケ尾又ハ略シテ竹ケ尾トモ云リ。山ノ高三十町ニテ絶頂四畦許平地ナリ。
  ○一畦は五十畝なり。但ここは畝を畦といへるなり
(241) 此所ヲ皇子御降誕ノ跡ト云フ。即|無戸室《ウツムロ》ノ跡ナリ。又此頂上ヨリ西北ノ方百間許下ニ竹林アリテ凡二畦許ナリ。土人神代竹或ハヘラダケ山ト呼ベリ。皇子ノ臍帶ヲ截リシ竹刀ヲ棄タリシニ根ザセルナリト云フ。此山上スベテ樹木ノミナルニ此所ニ一村竹林ナルハイトモ奇クナン(此竹俗ニ菫竹ト號ス。他國ニハ稀ナリトゾ。其形状回リ二寸許ニシテ節ノ間一尺或ハ一尺餘ナリ。笋、茗荷ノ如シ。又當國ニテモ村里ニハ多カレド山中ニハ絶テアル事ナシ)
 皇居遺址 即竹屋ノ西北ノ山下ナリ。廣遠ノ平地ニシテ今陸田ナリ(地名ヲ裳敷野ト云。名義詳ナラズ〔六字傍点〕)。古老傳稱シテ皇居ノ遺址ナリト云フ。……此地ヨリ北五六町川畑村ニ鳥居口ト云フ地名アリテ高屋神社ノ鳥居址ナリトイヘリ。……今同郷宮原村ニ高屋神社アリ。往古此所ヨリ遷座アリトイフ
といへり。裳敷野は帝國圖に舞敷野と記してモシキノと傍訓せり。モモシキ野の略か。追ひて按ずるに和名抄河邊郡二郷の内、川上は郡の東北部に當り稻積は郡の南部に當るべければ郡の西北部なる加世田地方に當つべき郷無し。されば此地方は〔獨竹屋尾附近のみならず)和名抄郡郷時代には阿多郡に屬せしか。さらば日本紀の長屋はやがて和名(242)抄の鷹屋郷か。試に地理志料を※[手偏+僉]するに略同説なり
 
(243)  壹岐島 二節
 
   鯨伏《イサフシ》郷          甲類
 
壹岐國風土記云。鯨伏郷在2郡西1。昔者|鮨〔左△〕《有》v鰐追v鯨。々走來隱伏。故云2鯨伏1。鰐|并〔左△〕《及》鯨並化爲v石。相去一里。俗云v△《鯨》爲2伊佐1(○萬葉集仙覺抄卷二イサナトリ海邊ヲサシテ〔イサ〜傍点〕之註所v引)
 
 斬考 壹岐は古、對馬・多※[衣偏+陸の旁+丸]《タネ》と共に三島と稱せられ多※[衣偏+陸の旁+丸]島が廢せられて大隅國に隷せられし後は對馬と共に二島と稱せられて國には伍せられざりき。されば國造・國司・國分寺に準ずべきものをも原則としては島造・島司・島分寺といひき。國府も島府といひけめど和名抄には國府といへり。
 〇本島那賀村の大字に國分あり。是島分寺のありし地にてその島分を郷土にては(又は後には)國分と云ひしならむ
本文に壹岐國風土記云とあれど原題は壹岐島風土記とぞありけむ○國名はイキともユキとも云ひき。字は伊伎とも、壹伎とも、壹岐とも、伊吉とも、伊支とも、以祇とも、由吉とも、(244)雪とも書けり。名義に就いては古事記傳卷五に
 伊伎島は萬葉十五に由吉能之麻と見え和名抄にも壹岐島(ハ)由岐とあるに因て由伎を古訓と思ふ人あれど書紀繼體卷の歌に以祇とよみ此記にも伊字をかき壹字もユの假字にあらねば本はイキなる事明けし。然れども懷風藻に伊支連と云姓を目録には雪連とかき又かの萬葉に由吉とあるなどを以て思ふに必ユキとも通はし云べき故ある名義と見えたり。故《カレ》思ふに書紀天武卷に齋忌此云2踰既《ユキ》1とある齋忌はイム・イハフ・ユマハル・ユユシ・ユヅ・イヅなどさまざまに云言にてイとユと通へり。かかれば齋忌も古はイキとも云べし。さて此島にして神祭りますとて齋忌のことありけむ故の名にもやあらむ。又はから國へ渡るに先此に舟とめてやすむ故に息《イコヒ》の島か
といへり。又青柳種麻呂の防人日記に
 西南の海を(○筑前國沖の島なる一の岳より)かへりみれば壹岐島いとよく見ゆ。さきの海人が語らく。風本(○即勝本)の西の方一里ばかりに白き岩島あり。周廻二三町ばかりもやあるべき。島の上には木草もなし。海の上に雪の浮みたる如くなる故に雪の島となもいふ。……といへり。是によりてつらつら思ひめぐらすに古きふみの中に壹(245)岐を由岐とよみ又壹岐連てふ姓を雪連と書たるもこれかれ見ゆればもと彼國名の壹岐は雪にしてやがて此島より一國の大名となりしにやあらむ。筑紫の海人どもは常に壹岐をは壹州《イシウ》とのみよびて壹岐又雪などとおしはりていふ時は國の名にはあらで彼小島の事なり。これらも何とかや由縁ありげにきこゆ。こはおのがおしあてのさかしら言なれど試にかきつく
といへり。此説は夙く吉野秀政(天手長男神社祠官、壹岐の神主頭)の壹岐國續風土記に出でたりといふ。種麻呂の言は之と暗合せるなるが、果なき山野ならばこそまづ開きたる地に名をおほせ其名が後に廣き地に及ぶ事あれ、こは限界分明なる島なるを太古に(地理にも人文にも主とある大島をさしおきて)まづさる小島に名をおほせけむ事いとおぼつかなし。其外日本紀纂疏などに見えたる潮沫の色の雪の如くなるより雪島といふと云ふ説も、神代紀藻鹽草のイキは沖なりといふ説も、國名風土記の息の島なりといふ説(即宣長が第二説とせるもの)も共に信じ難し。恐らくは韓國へ渡りゆく道に當れる島なれば行《イキ》の島と名づけたるにて對馬の津島なると同じく海外交通に關係ある名義ならむ。行は古典にユクともイクとも云へり(萬葉集新考三二六−頁參照)○古事記に次生2(246)伊伎島1。亦名謂2天比登都柱1と見え國造本紀に
 伊吉島造 磐余《イハレ》玉穗朝(繼體)伐2石井《イハヰ》從者新羅海邊人1天津水凝後上毛布直造
と見えたり。上毛以下誤脱あるべし。又延喜民部式に
 壹岐島 下 管、壹岐・石田
と見え和名抄國名に壹岐島(由岐)、同郡名に
 壹岐島 管二 壹岐・石田(伊之太、國府)
同郷名に
 壹岐郡 風早・可須。那賀・田河・鯨伏〔二字右△〕。潮|安〔左△〕・伊宅
 石田郡 石田・物部・箆原・沼津
と見えたり。高山寺本に風早を風本とし潮安を潮鹵とせり。但沼津を治津とせるは誤ならむ。又同本に伊宅の次に伊周(驛家)とあり。又同本に物部と箆原との間に時〔右△〕通(驛家)とあり。兵部省式に壹岐嶋驛馬|優〔右△〕通各五疋とあるといづれか正しからむ。伊周驛は兵部省式に見えず。おそらくは優通の前に伊周とありしを落したるならむ。本來優通の一驛のみならばただ五疋と書きて各五疋とは書くまじきが故なり。今の那賀村大字湯岳宇こふ〔二字傍点〕(247)に印鑰宮一名國府宮ありといふ、是島府の址ならむ。其地は今の那賀村の南端なれば古は石田郡にぞ屬したりけむ。石田郡は萬葉集卷十五なる到2壹岐島1雪連宅滿《ユキノムラジヤカマロ》死去之時作歌に伊波多野ニヤドリスルキミ云々とあれば少くとも初にはイハタと唱へしなり○さて石田郡は島の南部を、壹岐郡は島の北部を管したりしを明治二十九年に一島一郡として壹岐郡と稱しき○鯨伏は和名抄壹岐郡の郷名に見え新村名の中にも鯨伏の名を負へるものあり。その鯨伏村は本島の北端なる香椎村の西南に當り本島の中央なる那賀村の西北に當りて西海に臨めり。鯨伏郷在郡西とあるを思へば壹岐郡家は那賀郷にぞありけむ。今の那賀村の大字國分に郡城址あり。又同村に大字中野郷あり。此兩者の内にぞ郡家の遺址はあらむ○鮨鰐といふ事心得がたし。栗田氏は本草に鮫一名※[魚+昔]魚とあり玉篇に鮫※[魚+昔]屬とあれば鮨鰐は※[魚+昔]鰐の誤なるべしと云はれたり。李白の醉後贈2從甥高鎭1詩にも匣中盤劍装2※[魚+昔]魚1とあり。但ここはもと有鰐とありしを誤りたるにあらざるか。鰐が沙魚《サメ》の事なるは云ふを要せず○鰐并鯨並化爲石とある并は與(考證)又は及の誤ならむ。今那賀村大字湯岳射手吉觸に鯨石といふ地名あるは本文の傳説に據れる名にやおぼつかなし(觸は部落の方言なり)。地名辭書に鯨伏郷を「今鯨伏村の中大宇立石の邊(248)に當る」といひ、さて
 按に立石の大字は風土記の化爲石の故事に因るものの如し
といへるもいかが。思ふに鰐及鯨並化爲石相去一里といへるは鯨伏附近の海中の巖ならむ○俗云の下に一本に從ひて鯨字を補ふべし。ここの俗は方言にあらず。俗間といふ事なり。肥後の逸文長渚濱の下に俗見2多物1即云2爾陪佐爾1といひ筑後の逸文生葉郡の下に俗語云2酒盞1爲2宇伎1といへるに齊し。大隅の逸文に髪梳者隼人俗語云2久四良1といひ海中洲者隼人俗語云2必志1といひ日本紀景行天皇十八年に昔筑紫俗號v盞曰2浮羽1といへると同じからず○因に云はむ。當國の特色の一は官社の多き事なり。九國二島中式内社の最多きは對馬の二十九社、それに次いでは當國の二十四社、又それに次いでは筑前の十九社にて爾餘の八國は皆六社以下なり。元來當國は眇然たる一島にしてたとへば對岸なる肥前國松浦郡と比較せむに恰大人と嬰兒との如し。然るに官社のかくの如く多きは主として大陸特に朝鮮との交通の要衝に當りて神祐を祈り又は蒙る機會の多かりし爲ならむ。敷田年治の官故に
 小國には伊豆に九十二座、壹岐に廿四座、對馬に二十九座と有るを大國ながら薩摩に(249)二座、安藝に三座、肥後・肥前・日向に各四座と有り。何故にかかる不同をば定置きけむ。つらつら其由を推量るに持統文武の間律令を撰ばしめ給ひし程など舊社を記し奏すべきの詔の下りけむに當時の國司等の中に古に心なき人は等閑に其二三座を記し奏したりしとみえ又努めて古に心を用ひし官人は祭神をまで書著したる即伊豆・阿波・能登等の神名を見るべし
といひて式内社の數の、國の大小に準ぜざるを專國司の奏上に勤めしと怠りしとに歸したるはいかが。但古語拾遺に
 大寶年中ニ至リテ初メテ記文アレドモ神祇ノ簿(○即神名帳)猶明案ナク望秩(○祭)ノ禮イマダ其式ヲ制メズ。天平年中ニ到リテ神帳ヲ勘造スルニ中臣權ヲ專ニシ意ニ任セテ取捨シ、由アル者ハ(○中臣氏と縁故あるものは)小祀モ皆列セラレ縁故ナキ者は大社モ猶廢セラル。敷奏施行、當時獨歩ニシテ諸社ノ封税總ベテ一門ニ入ル
とあれば當時の神祇伯に多少公平ならざる處置もぞありけむ
 
   常世祠          乙類
 
(250)壹岐島記云。有2常世祠1。△《祠》有2一朴樹1(朴樹|愛乃寄《エノキ》也)。生2鹿角枝1。長|可《バカリ》2五寸1。角端兩道ナリト云ヘリ(○塵袋卷二)
 
 新考 壹岐島記といへるは即壹岐島風土記ならむ。さて短文なれども乙類と認めらる。筑前の逸文に※[加/可]襲可紫比也といひ、同じき塢※[舟+可]《ヲカ》縣に烏葛黒葛也冬※[草冠/福の旁]※[しんにょう+千]菜也といひ、筑前の逸文磐井墓に衙頭致政所也といへるに似、特に國不明の逸文に寄柏御角柏也といへるに似たればなり○常世祠の所在は今知られず。されば壹岐石田二郡のうちいづれの郡の逸文にか知るべからず。有常世祠有一朴樹の上の有を衍字とするか又は有常世祠の下に祠邊などいふ語を補はざるべからず。恐らくはもと有常世祠、祠有一朴樹とありし一の祠を脱したるならむ○朴は説文に木皮也とありて元來木名にあらず。エノキは古も多くは榎と書きき。即榎を新撰字鏡に衣乃木と註し和名抄に衣《エ》と註せり。又萬葉集卷十六にエノミを榎實と書けり。但日本紀にはエ・エノキをすべて朴と書けり。即|朴井《エノヰ》・朴市《エチ》・朴室《エノムロ》・朴本《エノモト》など書き(此等も姓氏録には榎井・榎室・榎本と書けり)崇唆天皇紀にエノキノマタを朴枝間と書けり。正字通に
(251) 按ズルニ説文徐註ニ藥有厚朴トイヘル此ハ厚朴ヲ謂フニ非ズ。蓋今俗所謂榎也
とありといふ(文庫に無し。人の引けるに據る)。但正字通は遙に後れたる世の物(明人の著)なり。日本紀は據る所ありて朴字をエノキに充てたるにこそ。抑乙本風土記はその文體日本紀に似たる所少からで或は日本紀を熟讀せし人の書けるにあらざるかと思はるる事あり。此文に日本紀の如くエノキに朴字を充てたるも亦他日の考證に資すべし○鹿角枝は考證に云へる如く鹿角に似たる枝なり。但同書にカノツノナセルエダとよめるはわろし。宜しくナスと訓むべし。何ノヤウナ・何ノヤウニといふ意のナスは動詞にあらず、從ひてはたらかず。生は考證の如くオヒタリとも又はサシタリとも訓むべし。ミヅエサス・若葉サスなどのサスは生出づる事なり。角端は尖端なり。鹿角に比したる故に角端と云へるなり。兩道は岐なり。フタマタなり
 
(252)  國不明 二節
 
   寄柏相          乙類
 
筑紫風土記曰。寄柏御|津〔左△〕《角》柏也(○釋日本紀卷十二述義八、仁徳天皇紀御綱葉〔三字傍点〕之註所v引)
 
 新考 筑紫風土記とあれば乙類と認むべし。以下二節を考證本に筑前國の部に入れたるは何の故なるか知られず。或は筑紫風土記とあるを兩筑の風土記と誤解し、さて兩筑の内兄とも云ふべき筑前の方に入れたるにやとも思へど筑紫風土記は九國風土記の總稱にて兩筑風土記の謂にあらず。其證には肥後の壓宗岳の一節にも筑紫風土記曰と云へり○御津柏に考證本にミツノガシハと傍訓したれど地名の御津にあらねばノはよみ添ふべからず。此植物は古事記に御綱柏、日本紀に御綱葉と書けり。そを傳(二一四二頁)にも通釋(二一三九頁)にもミツ|ナ〔右△〕ガシハと訓みたれど宜しくミツ|ヌ〔右△〕ガシハと訓むべし。上古は綱をツヌといひしなり。栲綱を栲角・多久頭怒・多久豆怒と書けるを思ふべし。ミツヌと云ひしが故にこそ外のヌに準じて奈良朝時代の末よりミツノに轉ぜしなれ。然(253)るに綱のツヌは後にツナに轉ぜしかば平安朝時代に至りては御綱柏と書くこと無く御角柏(延暦二十三年|解《ゲ》皇太神宮儀式帳)三津野柏(延喜造酒司式)など書けるなり。御津柏とあるにノをよみ添ふべからざるは上に云へる如く又此物をミツガシハと云ひし例なければ御津柏とあるは御角柏の誤寫と認むべし。夫木抄に
 柏 みわそそぐみつの柏のしだり葉のながながし世をいはひ來にけり
とありて其左註に
 此歌伊勢記(○長明作)云。この國にみつのがしは〔六字傍点〕といふものあり。小侍從が歌に「神風やみつのがしはにとふことのしづむにうくはなみだなりけり」とよめり。これにてうらなふ事あるにやと年ごろおぼつかなく思ふ事を此たび人々にたづぬれば得聞及ばぬ由をのみいふ。いかなる事にか。このかしは輔親卿集に「みもすそ河の岸におふる」とよみ侍ればそのわたりにあるかとて尋ぬれば昔やありけん今の世にはしまぐに〔四字傍点〕の内にとくのしま〔五字傍点〕といふ所あり(○土貢島、今の三重縣度會郡鵜倉村大字奈屋浦)。木の上にかづらのやうにて生ひたるを登りてきりおろす時ひらに伏して落ちたるをば取らず。たてざまに落ちたるばかりを取る。その落やうにぞ問ふ事のありとかや云傳へ(254)たる。これは神宮四度の御祭の時必いる物なり。御前の御あそび果てて四の御門のわきにとくらのこ〔五字傍点〕といふおほみわ(〇酒甕)を設く。社の司このみつのがしはを各ひと葉持ちて寄れば其上にこのみわ(○酒)をそそぐ。ことさらこれを腰にさして出づるなり。なが柏〔三字傍点〕ともいふにや。寂蓮法師百首の歌の中に「おもふ事とくの御島のなががしは長くぞたのむひろき惠を」といへり。かやうに聞けどいまだ其姿をば見ず。此日或人の許よりおくれり。かしはのやうにてひろさ三四寸ながさ三尺ばかり、まことに常の木草の葉には似ず云々
とあり。此文に據りて故白井光太郎博士は之をオホタニワタリに擬したり。オホタニワタリ又タニワタリ又タニワタシは水龍骨《ウラボシ》科の植物にて無柄長大なる葉、根莖より叢生して傘状に廣がれり。稚葉は舊葉の圏内に生じて其末、内に彎れり。葉の長さ一尺四五寸、巾は中央の廣き處にて三寸許あり。最よく發育したるものは長さ四尺に餘れりといふ。本州にては志摩・紀伊などの海邊に産す。荳科の植物ナンテンハギの一名をもオホタニワタリ又タニワタリといふ。之と混同すべからず○寄柏といひて木葉の義なるカシハに柏字を充てたるを見れば寄柏は恐らくは漢名にあらじ。然らば如何なる意にて寄柏(255)と書けるかと云ふに撰者はミツノガシハの漢名を知らざりしかば此物が樹石に寄生するに由りて假に寄柏と解せしならむ。さては又何の事とも知られざるに由りて御角柏也と註せしならむ。もし以上の推測に誤無くば又もし寄柏御角柏也と書きし人と謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風俗言詞耳と書きし人と同一人ならば(共に筑紫風土記の逸文なり)其人はいたく漢風に染みて内外彼我を顛倒したる人ならむ
 
   長木綿短木綿《ナガユフミジカユフ》
 
筑紫風土記|△《ニ》長木綿短木綿トイヘルハコレ也(○萬葉集仙覺抄卷二神山之山邊眞蘇木綿短木綿〔神山〜傍点〕之註所v引)          乙類
 
 新考 仙覺抄に
 ヤマベマソユフミジカユフトイヘルハフタツニハアラズ。苧ウ〔二字左△〕《ユフ》トイフニフタツノシナアリ。アサ〔二字傍点〕ヲバナガユフ〔四字傍点〕ト云フ。ナガキガユニ也。マヲ〔二字傍点〕バミジカユフ〔五字傍点〕トイフ
といひて右の文を引けり。風土記の下にニを補ふべし。苧ウの二字はユフの誤か○此逸(256)文は僅に長木綿短木綿の六字を留めたるのみなれど筑紫風土記とあれば乙類と認めらる○ユフは豐後風土記速見郡|柚富《ユフ》郷の註にいへり(肥前風土記松浦郡|値嘉《チカ》郡の註にもいささか)。タク一名カヂノ木一名カミノ木の皮の絲を取りて織りたる布をタヘといひ、絲のままなるをユフといひ、そのユフを産するが故に原樹を又ユフノ木又略してユフとも云ひしなり。長木綿短木綿の別は明ならねど長ユフは今のカヂをいひ短ユフは今のカウゾをいへるか。カヂノ木とカウゾとは同屬の植物ながらカヂノ木は高さ二三丈に達しカウゾは高さ丈餘に過ぎず
 
(1)       西海道風土記逸文新考後記
 
本書を作るについて余が一讀又は一見せし地方誌は左の如くである
 史蹟名勝天然記念物調査報告の缺本の外は皆南天莊第一文庫所藏である。此外にも見たいものが多少あつたが余には圖書館に行くだけの暇が無い。西海道の中で對馬のものと肥前豐後のものとは省いた。前者は逸文の研究に關係が無い爲、後者は肥前風土記新考と豐後風土記新考との後記に擧げたるが故である
    △全國及全道
 日本地誌提要
 郡區町村一覧
 郡名異同一覧
 市町村大字讀方名彙
 日本地理志料
(2) 大日本地名辭書
 太宰管内志
 九州繪圖二種
 二十萬分一帝國圖
    △筑前國
      書名の上に○印を附したるは筑後及西豐前に亙る
 筑前國續風土記
  益軒全集第四冊所収
 沖の宮|防人《サキモリ》日記
  半紙判活版一冊。明治三十三年出版。故青柳種麿著
 沖津宮
  菊判假装一冊。昭和三年宗像神社發行。防人日記を收めたり。前者と對照するに便なり
 筑前志
  菊判一冊。明治三十六年發行。福本誠氏著
(3) 怡土志摩郡地理全志
  菊判假装一冊。大正二年東京糸島會發行
 遠賀郡誌
  菊判一冊。大正六年遠賀郡教育會發行
 若松市誌
  菊判假装一冊。大正十年若松市役所再版發行
○福岡縣史資料
  菊判二冊。昭和七八年宿岡縣發行
〇福岡縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書
  四六二倍判假装七冊。始刊大正十四年。第八以下未見
 筑前國圖
  肉筆著色一葉。東西五尺三寸二分、南北四尺八寸。紙端に應余舊族納屋永建丈之需七十七翁平野暢齋寫また安政三辰三月乞納屋永達丈得之(○別筆)とあり
○福岡縣管内圖
(4)  一葉。大正十四年福岡縣土木課編纂
○福岡縣記念寫眞帖
  菊二倍判横本一冊。明治四十四年福岡縣發行
   右の外七種八冊
    △筑後國
 校訂筑後志
  菊判一冊。明治四十年發行。原書は故杉山正仲・故小川正格合著
 久留米志
  樺島石梁遺文巻一所收
 筑後國圖
  肉筆著色一葉。東西五尺三寸、南北五尺六寸
   右の外二種二冊
    △豊前國
      書名の上に○印を附したるは豊後に亙る(5)
 豊前志
  菊判一冊。明治三十二年發行。故渡邊重春著
 同上
  菊判一冊。昭和六年再版發行
 小倉市誌
  菊判二冊。大正十年小倉市役所發行
 築上郡志上巻
  菊判一冊。明治四十五年福岡縣教育會築上支會發行
 下毛郡誌
  菊判−冊。昭和二年下毛郡教育會發行
 宇佐郡地頭傳記
  菊判假装一冊。明治四十四年發行。尾立維孝氏著
○豊國小志
  菊判一冊。明治四十年大分縣發行
(6)○大分縣名勝地(寫眞帖)
  菊判假装横本一冊。昭和五年大分縣發行
○大分縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判假装十冊。始刊大正十一年。第十一以下未見
   右の外八種八冊
    △肥後國
 肥後國志零本
  半紙判活版五冊。明治十七年出版。故森本一瑞著
 熊本縣誌
  菊判一冊。大正六年發行。角田政治氏著
 菊池郡誌
  菊判一冊。大正八年熊本縣教育會菊池郡支會發行
 阿蘇郡誌
  菊判一冊。大正十五年阿蘇郡支會發行
(7) 阿蘇
  小本洋装一冊。昭和三年發行。中野一路氏著
 上益城郡誌
  菊判一冊。大正十年郡役所發行
 八代郡誌
  菊判一冊。昭和二年八代郡支會發行
 葦北郡誌
  菊判一冊。大正十五年葦北郡支會發行
 球磨郡郷土誌
  菊判假装一冊。大正五年球磨郡支會出版
 熊本縣史蹟名勝天然記念物調査報告
  菊判假装四冊。始刊大正七年。第五以下未見
 熊本縣管内圖
  一葉。明治十九年出版
(8)  右の外十種十冊
    △日向國
日向國史上卷
 菊判一冊。昭和四年十二月發行。喜田貞吉氏著。自第一編至第七編本文八五六頁。此巻は如何なる故にか坊間に現れず
同 古代史
 前者の一部なり。自第一編至第三編本文五九四頁
同 下巻
 昭和五年一月發行。自第八編至第十編
宮崎縣史蹟調査
 菊判假装八冊。始刊大正十一年。第九以下未見
宮崎縣名勝天然紀念物調査報告
 菊判假装一冊。昭和二年發行。第二以下未見
兒湯郡西都原古墳調査報告
(9) 菊判假装−冊。大正四年宮崎縣刊行
宮崎縣寫眞帖
 菊判横本一冊。大正九年宮崎縣發行
  右の外三種三册
   △薩摩國及大隅國
     書名の上に○印を附したるは日向に亙る
○建久圖田帳
  改定史籍集覧第二十七冊所収
〇三國名勝圖會
  美濃紙判六十卷二十冊。天保十四年五代秀堯・橋口兼柄等依藩命撰之。明治三十八年發行
○薩隅日地理纂考
  菊判一冊。昭和四年再版發行。故樺山資雄等依藩命撰之
 鹿兒島縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
(10)  菊判假装三冊。始刊大正十五年。第四以下未見
○鹿兒島縣管内略圖
  一葉。明治十四年出版。本縣統計表の附圖なり
 鹿兒島縣寫眞帖
  四六四倍判横本一冊。明治四十年行啓事務總務部發行
   右の外五種十五冊
    △壹岐國
      書名の上に○を附したるは肥前及對馬に亙る
 壹岐神社誌
  菊判假装一冊。大正十五年發行。後藤正定氏著
 壹岐郷土史
  四六判一冊。大正七年發行。同氏著
 壹岐郡地理自然地理の部
  四六判假装一冊。紙數十六頁。昭和六年發行。桑田隈衛氏著
(11)○長崎縣史蹟名勝天然記念物調査報告
  菊判假装七冊。始刊大正十一年。第八以下未見
 
本書著作の工程は左の如し
 初稿起筆     昭和七年三月二十日
 同 收筆     同  年十一月十二日
 再稿着手     同 九年五月二十九日
 同 完了     同  年八月十二日
此書を著作するに際しても亦多くの人の厚意を蒙った。左に其人々の芳名を掲げるが誤つて漏したものがあるかも知れぬ
 外山且正君・鶴見左吉雄君・蘆田伊人君・上田三郎君・佐々木巳喜吹君・佐々木信一君・土肥衛君・南弘君・米良喜内君・森繁夫君・森銑三君・遠藤二郎君・柴田常惠君・工藤壯平君・笠森傳茂君・岡澤麟太郎君等
    昭和九年八月十二日
 
(索引省略)
 
(34) 井上通泰博士著述 (昭和三年以來公刊之分)
萬葉集新考      菊判八冊       絶版
南天莊歌集      四六判一冊 古今書院 再版
南天莊墨寶      菊判二冊       絶版
南天莊雜筆      菊判一冊       絶版
播磨風土記新考    菊判一冊  大岡山書店
萬葉集雜攷      菊判一冊  明治書院 再版
肥前風土記新考    菊判一冊  巧人社
豐後風土記新考    菊判一冊  巧人社
西海道風土記逸文新考 菊判一冊  巧人社
 
昭和十年四月一日 印刷
昭和十年四月五日 發行
 
西海道風土記逸文新考  【定價金參圓也】
 東京市澁谷匹青葉町一○
著者  井上 通泰
 大阪市東區博勞町二ノ二二
溌行者 松浦 貞一
 東京市下谷區御徒町二ノ七八
印刷者 石野 觀山
 東京市下谷區御徒町二ノ七八
印刷所 福壽堂印刷所
 
大阪市東區博勞町二ノ二二
版元 巧人社
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    2008年4月15日(火)午前10時35分、入力終了