山岳紀行記録、晩秋の高見山
 
 四五年前、さかんに単独行の登山をしていた。体力もないから、大峰、大台を一泊程度で登るのが限度だったし、たいして山の面白さも知らないうちに登山を止めてしまった。その後四年間大学での生活が続いた。ところが最近、今までどんなに山へ登ろうと誘っても拒否していた友人のMが、突然山へ行きたいと言い出した。彼はすぐれた体格を持ち、金もかなり余裕があった。そこでこの夏彼と二泊三日で大峰の奧駈けをやった。九月には降りしきる雨の中何度も道に迷い、藪をこいで明神平から高見大峠へと縦走した。その時時間の都合で登らなかった高見山へ、十一月二十四日、おりから前線通過後で季節風の強い中を二人で登ったのだ。高見と言えば、冬でも登山者の多い、しかも標高一二四九米という平凡な山だ。また私にとっては既登の山でもある。けれど、いやだからこそすばらしい一日であった。
 始発のバスで榛原を出た。空一面に黒い雲が覆っていた。何度も通ったこの道では眠るしかない。日曜だというのに登山口に降りたった登山者は私達以外に、中年の二人連れの男女だけだった。ニッカー、登山靴、リュックいずれも一人前だ。それに比べて私の貧弱なこと。未だに使っているぼろぼろのキャラバン。家ではいているズボン。ウインドヤッケもないので父のジャンパーを借用。まるで様にならぬ。私は手ぶら。Mがリュックを持った。水筒が二つで三リッター入っているが、テントなしだから軽い。最初からジグザグの登りだが、どんどん飛ばす。ところが10分も行かないのに、もうMが息を切らしている。杉谷の家々が見おろせるところで、リュックをおろし、切り株に腰かけてタバコを吸ってる。私もタバコを飲んだ。そこへ先の二人連れが登ってきた。あわてて出発したが、10歩と行かないのにまたMがダウンした。女を先頭にして大股で我々の前を通り過ぎていった。やれやれ情けない奴だ。ここをどこだと思っているのだ。そんなに長く座っていては頂上へ行けやしない。先に歩き出したがいくらたっても姿が見えないので後戻りした。ジャンパーと彼のポケットヤッケを取り換え、私がリュックを持った。古市あたりからは坦々とした道で、きわめて歩きやすい。杉の植林で暗いが、風もなくたいして寒くもない。雲母曲を越したところで立ち止まりMを待った。青白い顔をして登ってきた。聞くとリュックを取り換える前に水をがぶ飲みして、腹が痛く苦しいのだという。何という奴だ。前鬼での勇姿はどこへ行った。ゆっくりと歩いた。やがて小峠だ。九月に明神から縦走した時、Mは雨の中を小峠から登山口まで二時間かかってびっこを引きながらおりた。私は最終のバスに間にあったのに、Mの荷を取りに途中までもどった。おかげでバス停でテントを張るという醜態を演じた。Mは体は大きいが、普段自動車ばかり運転しているから足腰がだめだ。それに今ごろからコタツ、電気ゴタツ、石油ストーブ、バッチを使っていて寒さに弱い。私など一年中それらの世話にならないのに。真冬夜遅くまで勉強するとき石油スト−ブを使うぐらいのものだ。それでも、とにかく一時間で小峠に着いた。大きな松の木があり、前方に国道が見えている。伊勢街道の面影を今に残す。その一角だけが時間の流れを忘れてしまったかのように。旅人の安全を祈った石仏のようなものがある。本居宣長もこんな風景を見たのだろう。現代が嘘のようだ。
 小峠からは植生が一変する。坂もきつく、二十歩ほど行っては立ち止まって息をついだ。葉を落とし尽くした雑木がつづき、それに混じって大きなアシビの木が点在し、まれに松の木もある。冬枯れの中に濃緑のアシビの巨木があるのは、妙な気分だ。大峰や宇陀の山々でアシビは何度も見たがこんなに大きいのははじめてだ。やがて主稜に達するが、そこで突然猛烈な北西の風に見舞われる。尾根に出たためだ。雲の流れがものすごく速い。深い落ち葉を踏んできた今までの道が嘘のようで、黄色くなった笹の葉がなびいている。すでに標高一〇〇〇米台に達している。道は少し下りになり平野への分岐を見送る。しばらく休んでいるとMが姿を現した。小峠以来だ。かなり元気が出たようだ。次々と巨石が迎える。尾根も狭くなり両側の山々を眺めるようになる。時々高見の頂上が見えるが、なお高く遠い。鞍部をガスが吹き抜ける。Mが先頭に立ち頂上だろうかと言った。鳥居がある。頂上だ。ガスで四囲は何も見えない。十二時三分。小峠から一時間だ。寒い。
 我々を追い越していった二人連れが、祠の石垣の風下で弁当を食べている。Mが霧氷だと言った。よく見ると、一面の木々の枝に霧氷が着いている。わかれば何でもないが、はじめは全く気がつかなかった。雪は期待していなかったが、せめて霧氷だけでもと思っていた。さすがに高見だ。我々も風下にすわり、リュックをあけた。汗がなかなか引かないので非常に寒い。Mが頂上でメシを炊くと言ったものだから、さしあたって食うのにいいものがない。横で弁当を食べてるのにこっちはビスケットだ。急いで石を集めコンロに着火し、飯盒に米を洗わずに入れ、水筒の水をほりこむ。これだけのことをMがする。風が当たらぬようポンチョで覆いをする。大峠の方から10人ほど登ってきたので急に賑やかになった。ガスが晴れて視界がきくようになった。皆がやがや言ってる。宇陀側の眺めがすごい。パノラマのようだ。地図を出したり、望遠鏡を覗いたりしているが、聞いてると、ほとんど山の名前も知らないようだ。
 東方まぢかに三峰の巨体、それから楽能堂、そして馬の背のような大洞、その北には小さな尼が岳、それは高見から19キロも離れている。そして、倶留尊、鎧、兜、屏風岩の絶壁、その上に国見、住塚と既登の山々がずらりと展開している。空は一面の黒い雲なのに、これらの山々に日が当たっている。実に鮮やかだ。住塚山から西は少し霞んでよくわからない。三峰山から南方、舟戸、木梶など櫛田川源流の街道筋がよく見える。松阪は幾重にも重なった山の向こうだ。折りから足立巻一氏の『やちまた』を読んでいたのでなつかしい。それにしても台高山脈の伊勢側の山の深いことよ。国見山の西側は雪で白く、また明神岳から東に高く連なる桧塚奧峰の山陵もまだらに白い。これを望遠鏡で見て、大台ヶ原やろか雪が積もってると大声で言う登山者がいたが、こんな近くに大台の見えるはずがない。その奧に、更に東へ高く長く屏風のように連なる尾根がある。迷岳の尾根だろうか。その尾根の向こうはもう見えない。明神岳から西へ目を遣ると、白く霞んだ薊岳が浮かぶが如く見えている。薊にも雪がある。すべては遥か遠くかつ高い。大峰は雲がかかって一峰も見えぬ。最後に登ってきた、明神から縦走して来たという単独行の青年も先に降り、頂上には我々二人だけとなった。急にひっそりと静まり返る。いよいよ青空が広がり、昼下がりの秋の日ざしがまぶしくも、ものうい。火をつけられたドラム缶の中のごみがすさまじく燃えた。
 2時15分、頂上に別れを告げゆっくりと楽しみながら降りた。20メートルと行かないところで、金剛、葛城を見た。そして三輪山が見えた。フィナーレとしては申し分ない。今ごろ、三輪山あたりの奈良盆地からでも高見が見えるのだ。地図のない時代の人々にとって、勢和を見おろす高みは文字どおり高見だったのだ。(1974年11月30日)
 
山行の記録から
1979年度 奈良○○・新潟○○ 交歓登山 参考資料(抜粋)青焼きコピー
2枚目、飯豊山とその周辺の交通の簡単な地図。
3枚目、飯豊連峰概念図、詳しい登山地図
4枚目・5枚目、ルートの解説――飯豊山信仰との関連――(藤島玄著「越後の山旅(上)」より抜粋)、以下各項目は省略。
 
1979年度 奈良○○・新潟○○ 交歓登山 計画書
 代表者 U 新潟市云々
 事務所 学生書房 新潟市云々
 緊急連絡先 同上
 目標の山 飯豊連峰 三国岳〜大日岳〜北俣岳
 目的 越後の春山における行動と生活技術の研究を通じて奈良・新潟両山岳会の交歓を計る。
 方法 山小屋利用および竪穴雪洞による縦走登山
 期日 1979年5月2日〜5日
参加メンバー
 新潟11人(男9女2)
 奈良 9人(男7女2)
行動予定
 5月2日、新潟駅着647 700マイクロバス→1000川入、飯豊鉱泉10:30登山→1600三国岳1700→切合せ小屋 泊
 5月3日、切合せ小屋530→800本山→930御西岳→1100大日岳→1230御西小屋→御手洗池1500 竪穴雪洞 泊
 5月4日、雪洞600→800梅花皮小屋→900北俣岳→1000梅花皮小屋→石転び雪渓→B隊と合流、幕営雪洞泊
 5月5日、幕営地800→長者原部落1030→清流莊→マイクロバス新潟
2枚目
 共同装備、医薬品、個人装備
3枚目
 食料計画 班編制及び担当