佐佐木信綱全集 第一巻 評釋萬葉集 巻一 六興出版部
 
全集題言
                                  
 おもふに吾が國の將來は、文化によりて新たなる生命を得べきなり。予や明治の初年に生れ、一貫して學藝にたづさはること六十年、すでに頽齡に及べりといへども、斯の國のため、斯の道に竭くさまくする念願、今の時に於いていよよ切なるものあり。
 ここに六興出版部の慫慂のままに、舊著及び未發表の原稿に改訂を加へて、この全集を公にせむとす。國文學研究の基礎としてまた歌の道におりたつ人の參考として、稗益するところあらむには、予の喜び何ものか之に如かむ。
 予幼くて先人の家學を受け、夙く東京大學古典科に學び、木村正辭先生の講義に傾聽して萬葉學に志しき。明治の中葉和歌革新の気運興るや、その一員として微力を致し、また王堂チエンバレン先生の提撕を受け、和歌の歴史的研究に努めたりき。偶々、上田、芳賀二教授の推悒によりて東京帝國大學の講師となり、先人の師寛居翁の言を服膺して、分陰を惜しみ、かつ教へかつ學びつつ、講師たりしこと二十有六年、この全集の大半は、おほむねその間に成れりしなり。いま、第一卷の世に出でむとするに臨みて、木村先生、王堂先生、上田芳賀二先輩、並に先人の靈に感謝の忱を獻ぐと云爾。
   昭和二十三年二月十一日      佐佐木信綱
 
(1)序言
 
 萬葉集は、上代のわが日本民族が、固有の文化に加ふるに、外來文化をよく攝取して、その開花を見ることとなつた時代の、國民文藝の一大集成であつて、上代日本國民の精神は、さながら其の中に傳へられてをり、古典としてまことに第一と稱すべきものである。
 從つて、古來その註釋は無數にあるというてよく、全部を註して刊行せられたものに、夙く、拾穗抄、代匠記、古義、近く新考、全釋、總釋かある。床上床を疊ぬるに及ばぬとは思ふものの、この評釋萬葉集は、訓詁をもはらとせず、評釋に重きをおき、初學の人が萬葉の門に入らうとするたづきに、また和歌に志す人の參考とならむことを期した。さるかたに意義があらうと思ふ。
 先人の志を繼いで、日本歌學全書の萬葉集に標註を加へてから、既に半世紀を超えた。同志の士と校本萬葉集の事に從つて、すでに三十有餘年。爾來、新訓、白文、分類萬葉集、萬葉辭典、萬葉集の研究第一、第二を公にし、萬葉年表大成、萬葉手鑑も近く印行せられ、萬葉文獻解題また、やがて世に出ることとなつた。
 明治大正昭和の三昭代に生を享けて、生涯の大部分を萬葉學にささげ得たことを、深く感謝する次第である。
 
(2)萬葉集略解題
 
 世界の文藝史の上より見れば、埃及希臘に古詩があり、漢土にも早く毛詩・楚辭がある。それらよりは、はるかにおくれてはをるが、わが萬葉集は、主として西紀七・八世紀の歌謠によつて成り立つてゐるのである。
 この古い時代に於いて、吾が國民は、その固有の民性を益々發揮すると同時に、大陸及び印度の文化を輸入しつつあつた。萬葉集は、此の當時の國民の聲を、さながらに傳へた至寶である。そこに萬葉集の價値があるのである。しかして萬葉集は、吾が國上代の文藝たるにとどまらず、現代に於いても魅力を持ち、中世期の源氏物語と共に、不滅の生命を有するものである。最も古き歌集にして、最も新しき歌集といふべき萬葉集を、新に讀まうとする人のために、まづ萬葉集を知る豫備として、ここに極めて簡單な解説を記さう。
 萬葉集とはいかなる集ぞ――萬葉集は、長短四千五百首の歌を含み、仁コ天皇時代より淳仁天皇の天平寶字三年正月まで、殊に持統天皇以後の有名無名の人の作を網羅してゐる、最も容積の大きな、しかして和歌史上異色ある歌風を備へ、最も秀歌に富んだ歌集である。一言にしていへば、以上に盡きる。以下なほ少しく説明を加へる。
 萬葉集の名は、マンヨウとよむか、マンニヨウとよむか、また當時は撥音がなかつたといふのでマニエフとよむかについて諸説があるが、先年萬葉集英譯の際、委員の間に於いて檢討した結果、マンヨーシユーと羅馬字が(3)きにしたことであつた。
 萬葉集の撰者は、古くは橘諸兄が勅を奉じて撰んだものといひ、諸兄及び大伴家持といひ、更に家持の私撰といひ、諸説がある。予の考ふるところでは、二十卷全部が一人の手によつて撰ばれたものではなく、古傳説のごとく勅撰と見るべき卷、個人の編纂にかかる卷、家持及び大伴家の誰かによつて編輯されたと考ふべき卷などがあつて、一二、もしくは十一十二、また十七以下二十までのごとく連續した卷、また、五、十三、十四のごとく獨立した卷などの、數種の集の草稿類が、或る所(大伴家であらう)にあつめられ、そのまま一部の書として傳はつたのであると思はれる。併し、草稿のままで傳へられたといふことは、歌集であるだけに、少しも障りが無いのみならず、却つて當時の種々の歌が知られて面白いのである。精撰を經ずに傳はつたのは、寧ろ吾人の喜びともいふべきである。その體裁も、卷によつて或は整ひ、或は整つて居らぬ。
 分類には、雜歌、相聞(後世の戀に當る)、挽歌(後世の哀傷)、譬喩、四季雜歌、四季相聞等の目がある。
 萬葉集は、それに倣つた古今集が二十卷であるによつても、平安時代初期に傳存したものが二十卷であつたことが知られ、しかして卷一二及び卷十七以下は正しい卷序と思はれるが、中間の十四卷は、假に定められた順序がそのまま傳はつたのであらう。
 歌體は、長歌・短歌・旋頭歌の三種で、歌數は、萬葉集古義の計算によれば、長歌二百六十二首、短歌四千百七十三首、旋頭歌六十一首、計四千四百九十六首であり、國歌大觀によれば、總敷四千五百十六首である。その相違は、或本歌、一本歌等を加算するか否かによつて生ずるのである。しかして、長歌及び旋頭歌が斯く多くあるのは、萬葉集の特色の一つである。
 萬葉集といふ題號に就いては、古義の總論にあるごとく、古來、一は萬辭の義とし、一は萬世の義としてゐる。(4)この兩説は、ともに當時流行した淮南子、文選等の漢籍中の文字に出たものとされるが、萬世の方が漢土に多く用ゐられてをるので、二説の中では、古義のごとく萬世説に左袒せられる。併し、現存の雜然たる歌集の名稱としては、萬世に傳へむといふやうに解するは、感じからいふと、やや適切に思はれない點もある。勿論、一二卷を勅撰と假定し、それに名づけた名で、他の卷は附隨せしめたものと考へるか、或は他日精撰せむとして、まづあつめた歌集の資料に題號を定めておいたものと考へれば、うべなはれぬこともない。ここに別に、岡田正之博士の説がある。それは、語義は衆多の木の葉で、多くの歌といふ譬喩に用ゐたもの、詩文を、花、藻、枝、葉などに譬へることがあり、ことに詩を集めて詩林、文を集めて文林といふに同じい。名づけた動磯は、家持が山上憶良の類聚歌林に思ひ合せて、晋の陸雲の祖考頌の「靈根既茂、萬葉垂林」の句などから名づけたのではあるまいか、といふのである。その動機については、家持の撰といふ假定のもとに定められたので、未だ俄に首肯しがたいが、語義については一説とせらるべきである。
 歌の時代は、藤原奈良時代が主で、さらに詳しくは藤原時代(持統・文武天皇――二十三年間)、奈良時代(元明天皇以後淳仁天皇に至る――四十八年間)合計約七十一年間を代表し、集中の歌概ねその間の作で、しかも短い藤原時代の間の作は、長い奈良時代の間の歌に比して數が少からぬやうに思はれる。併し、一々の歌に就いては、持統天皇以前の作もかなりあり、最も古くは、仁コ・允恭・雄略天皇時代の作もある。 萬葉集の作者は、廣く當時の國民一般であつた。その作者は、上は天皇、皇后をはじめ、朝臣・官女・僧侶・市民・農民にまで及んで、當時の貴賤男女を網羅し、社會の全階級に亙つてをる。雄略・天智・天武天皇、光明皇后、高市皇子・舍人親王等の御作、重臣としては、藤原鎌足・藤原房前・橘諸兄、學者としては、圖書頭典藥頭の吉田宜、懷風藻にその作ある刀利宜令、別式を作つた石川年足、私立圖書館の創始者たる石上宅嗣等のやう(5)な、歴史に、文化史に著名な人もある。
 萬葉集の歌を、そのうたはれた題材から見ると、地理的にいへば、北海道を除いて殆ど日本全國にわたつてゐる、大和をはじめ近畿を中心として、東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海、諸道の國々の地名風土がうたはれてゐる。それは、萬葉人がよく旅行をし、また、關東人の作、九州及び北越に於ける作等があるからである。品物でいへば、鳥獣魚介草木の類から、器財服飾に至るまで、あまねく取り扱はれてゐる。これだけでも、萬葉集の歌が當時の人々の日常生活のすべてと交渉してゐたことがわかる。それに、後世の歌に見るやうな歌題といふものが未だなかつたので、その歌はいづれも當時の人々が實際の經驗と交渉して居る。要するに、歌といへば、特殊の人士が、花鳥風月とか、名所とかによつて想を構へたものとなつてしまつた後世の狹い題詠とは、まるで違つてゐる。それだけに、歌として見て、後の歌には見得べからざる興趣が多いのである。
 萬葉集にふくまれてをる文化、思想の方面から見ると、上代の文化は、わが民族本來の文化に加ふるに、夙く朝鮮文化が渡來して、大陸の工藝、美術、文學を傳へ、ついで佛教文化が將來せられ、聖コ太子によつて興隆の域に達し、工藝美術が發達し、さらに續いて隋唐文化が輪入せられ、大化の改新を經て、藤原・奈良時代に至り、燦然たる文化の華を開いたのであるが、當代の文化は、さながら萬葉集に反映してゐる。即ち、奈良の都には、大路に街路樹が植ゑられ、東西の市が開かれ、時刻を知らせるためには、時守の皷も鳴らされたのである。今日と異なり、地方は都市に比して文化程度が著しく低かつたと思はれるが、それでも、關東の防人の作に肖像畫のことが詠まれ、能登の國の民謠に新羅斧がうたひこまれてゐる。思想方面には、儒教思想、佛教思想、道教思想も看取せられ、さらに、漢文學竝に佛教文化も詠まれてゐる。
 上代の歌は、實際に謠はれてをつた。即ち、耳で聽く文學であつて、相手にむかつて謠つて聽かせたのである。(6)それが文字に書きしるされるやうになつて、次第に目で讀む歌に移つた。萬葉集の歌は、各地の民謠をはじめ、實際に謠はれたものも少くないが、大部分は目で讀む歌である。
 萬葉集は、すべて漢字でしるされてゐるが、ことばの音や意味を書き記すのに、萬葉人は、必要以上に漢字の使用を工夫してもゐる。これは、目で讀む文學であるためで、表意的用法でも、なるべく好ましい文字を用ゐ、表音的用法でも、何か關係のありさうな文字を用ゐようともした。中にも、近代の學者が「戯書」と呼んだ一群の表記例は、文字を遊戯的に用ゐ、ある詞を聯想によつて讀みとらせようとするもので、謎字的用法である。しかも其の中には、當時の文化の一面をものがたる資料も發見せられる。例へば、「義之」、「八十一」、「折木四」、「毛人髪」を、テシ、クク、カリ、コチタと讀ますべく用ゐたのは、當時の人が、漢土晉代の名筆王羲之を手師、即ち書家として重んじ、また算術の九九が當時既に實用にせられ、「かり」といふ博奕が行はれ、蝦夷人の髪をこちたしと見たことを示すものである。
 要するに、萬葉集二十卷は、文藝の書としてのみならず、わが上代文化及び上代人の思想を知るためにも、至寶の書である。
 
(7)緒言
 
 萬葉集には難解な歌が少くないので、誤字説を唱へる學者がある。予は木村正辭博士の言を服膺し、誤字説を避け、出來るかぎりは古鈔本の正しい本文に據らんとして、古鈔本の探索に努め、元暦校本をはじめ幾多の傳本を見出したのであるが、この評釋萬葉集に就いても、その方針により、止むを得ざる場合のほか、文字を改めないとことした。全卷必ずしも精撰ではなく、即吟の作もあり、語り傳へられた野人の作もある。從つて、いまだしい歌の交つてをるのも當然と考へられるのであり、すべてを秀歌としようとして文字を改めなどするのは、愼しむべきであらうとおもふ。
 この書は、多年に亙つて執筆したもので、元來詳しい註釋であつたが、このたび刊行するに當つて、三分の一に削減した。例へば、白文を省き、訓詁についての多くを割愛したごときである。また枕詞は、田安宗武が摘要冠辭考に言へるごとく、平明簡易な修飾句であつたと考へるので、特に難解なものは未詳として決定を急がなかつた。
 序言にも述べた通り、書名に評釋と冠したのは、歌の意味を簡明に示し、餘意餘情を主として説いてゐるためであつて、その他の詳細は、既刊の幾多の註釋書に讓ることとしたのである。
 
(8)凡例
 
  標目
 
 註釋の上に、次のごとき標目を附した、
 分類 雜歌・相聞・挽歌等のごとく、歌を類別集輯した區分名稱。
 代號 卷一二に限り、何天皇御代とあるをいふ。
 題  歌の前に詠作動機、作者等を説明したもの。古今集以降では詞書と稱するので、ここに題詞と名づけたが、その略である。
 譯  一首の大意を口譯したもの。
 評  一首に就いての批評を述べたもの。
 語  難解な語句を摘出して解釋したもの。語釋の略である。
 訓  訓に關する諸説を掲げたもの。訓詁の略である。白文とせるは、萬葉集の原文の文字である。本書には原文を割愛したので、讀者は、白文萬葉集などを參照せられたい。
左註 原書に、歌の左に註してあるのを、古よりかく稱してゐるによつた。
 
(9)二 番號
 歌の上に附した番號は、國歌大觀のそれを踏襲した。國歌大觀のままでは、中に誤謬もあり、不完全と思はれる點もあるが、一般に使用してをるからである。
 評・語・訓などの條に、例へば、「一五」、また(三〇〇參照)のごとくせるは、その番號の歌をさすのである。新訓萬葉集などを參照せられたい。
 
三 目録・奧書
 
 もと各卷の前に、本文中の題詞と殆ど一致する目録があり、また通行本には、卷一及び二十に仙覺の奧書、卷三の奧に、旅人・家持・不比等の經歴が記してあるが、之は萬葉集全體の評釋には關係がないので、簡略を旨とした本書では、すべて省略した。必要の場合は、新訓並に白文萬葉集等を參照せられたい。
 
四 古鈔本
 
 古典は、一字の相違が甚しい異説を生ぜしめる場合が少くない。萬葉集は、江戸時代初期に始めて刊行されたのであり、最初木活字の無訓本、ついで附訓本、さらに寛永二十年整版の通行本となつたが、これらに於ける誤りは、古鈔本によつて改めなければならぬ。通行本を訂すべき古鈔本は次のごとくである。
  桂本萬葉集、藍紙本萬葉集、元暦校本萬葉集、金澤本萬葉集、天治本萬葉集、尼崎本萬葉集、嘉暦傳承本萬葉集、西本願寺本萬葉集、紀州本萬葉集、傳冷泉爲頼筆本萬葉集、大矢本萬葉集、類聚古集、古葉略類聚鈔。
 
(10)五 參考書目
 
本書中に、?々引用した參考書の書名と著者名とは次のごとくである。(敬稱略)
 萬葉集註釋(仙覺)    萬葉集略解(橘千蔭)   萬葉集新考(井上通泰)
 萬葉管見抄(下河邊長流) 同玉の小琴(本居宣長)  同  總釋(諸家)
 同 代匠記(契沖)    同  攷證(岸本由豆流) 同  全釋(鴻巣盛廣)
 同 僻案抄(荷田春満)  同  古義(鹿持誰澄)  同  講義(山田孝雄)
 同   考(賀茂眞淵)  同美夫君志(木村正辭)  同  新解(武田祐吉)
 
(11)評釋萬葉集 卷一
 
 卷第一            三
 卷第二            八九
 卷第三            二二一
 
(1)評釋萬葉集 卷一
 
(3)評釋萬葉集 卷第一
 
(5)概説
 
 萬葉集全二十卷は、最初より一部として編纂せられたものではなく、十數部の歌集の集められたものと思はれ、卷一は卷二と共に、一部を成してゐたと考へられる。しかしてその分類は、雜歌、相聞、挽歌の三類より成り、卷一はそのうちの雜歌のみである。
 卷一二の結構、體裁は、他のすべての卷と相違してゐる。即ちこの兩卷は、何某宮御宇天皇代といふ標目を掲げ、時代順に歌を配列してゐる。
 雄略天皇御代      長歌一   ――
 舒明天皇御代      長歌 三  短歌 二
 皇極天皇御代      ――    短歌 一
 齊明天皇御代      長歌 一  短歌 七
 天智天皇御代      長歌 二  短歌 四
 天武天皇御代      長歌 二  短歌 四
 藤原時代(持統・文武) 長歌 七  短歌四六
 奈良時代        ――    短歌 四
 計           長歌一六  短歌六八
(6) 即ち、旋頭歌はなく、長歌短歌合せて八十四首である。集中の最古の歌はないが、本卷はそれについで古い雄略天皇御代の歌より、奈良時代初期の歌までであり、集中最も古い卷の一つである。
 長歌十六首中 反歌を伴はぬものが六首あり、また一首の形式も、短長の二句が交互に續いてゐるが、必ずしも、五音・七音となつて居らず、その結末も、五七七に限らず、種々の形があり、次第に固定する?態を示してゐる。
 内容は、宮廷關係の歌が最も多く、行幸、御幸の際の作、又は皇宮、皇都を詠じた作が、大部分を占めてゐる。
 作者は、雄略天皇、舒明天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、元明天皇、志貴皇子、長皇子、御名部皇女、額田王、柿本人麿、高市黒人、山上憶良、長奧麿、春日老などが注意せられる。しかして人麿の作は、量に於いても質に於いても、遙かに勝れてゐる。ついで女流の額田王が注目せられる。
 長歌は、卷頭の雄略天皇御製(一)、舒明天皇の香具山國見の御製(二)、大和三山古傳説に就いての中大兄御歌(一三−一五)、春秋の優劣を判ぜられた額田王の作(一六)、近江の荒都を過ぎた時の人麿の作(二九−三一)、吉野宮行幸の際の人麿の作(三六−三九)、藤原宮の役民の作(五〇)、藤原宮の御井の歌(五二・五三)のごとき、千古に傳ふべき傑作と稱すべきである。
 短歌の特に勝れたものを擧ぐれば、
  熟田津に船乘せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな    額田王    八
  わたつ海の豐旗雲に入日さし今夜の月夜清明くこそ       中大兄   一五
  三輪山をしかも隱すか雲だにもこころあらなむ隱さふべしや   額田王   一八
  春すぎて夏きたるらし白たへのころもほしたり天のかぐ山    持統天皇  二八
  吾背子はいづく行くらむおきつ藻の名張の山を今日か越ゆらむ  麿妻    四三
  ひむかしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ 人麿   四八
(7)  引馬野ににほふ榛原入り亂り衣にほはせ旅のしるしに     奧麿    五七
  いづくにか船泊すらむあれの崎こぎたみ行きし棚無し小舟    黒人    五八
  いざ子どもはやく日本へ大伴の御津の濱松待ち戀ひぬらむ    憶良    六三
  葦邊ゆくかもの羽がひに霜ふりて寒き夕は大和しおもほゆ    志貴皇子  六四
 等である。
 本卷には、概して拙劣な歌が見えず、古歌を精撰したものとおぼしく、素材、作者と共に、勅撰を思はしめるものがある。
 用字法は、正訓、正音と見るべきがあいが、義訓と稱すべき用法もあり、集中第一の難歌「莫囂圓隣之」(九)にも、その用法があらうかと思はれる。また特殊假名遣の點などから考へるに、原撰、續撰及び更に加筆も存するかと思はれる。
 最後に、頭韻の歌といふべき
  淑き人の良しとよく見て好しといひし芳野よく見よ良き人よく見つ 天武天皇 二七
また特殊な語法を見るべき歌、
  吾妹子を早見はま風倭なる吾まつ椿吹かざるなゆめ        長皇子  七三
などがある。
 
(9)萬葉集 卷第一
 
雜歌《ざふか》
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》 太泊瀬稚武天皇《おほはつせわかたけのすめらみこと》
 
    天皇の御製《ぎよせい》の歌
 
1 籠《こ》もよ み籠《こ》持ち 掘串《ふくし》もよ み掘串《ぶくし》持ち この丘《をか》に 菜摘ます兒 家聞かな 名|告《の》らさね そらみつ、やまとの國は おしなべて 吾《われ》こそ居《を》れ 敷きなべて 吾《われ》こそ座《ま》せ 我こそは 告《の》らめ 家をも名をも
 
〔分類〕 雜歌 「ざふか」又は「ざふのうた」とよむ。眞淵は「くさぐさのうた」とよんだが、他の分類、相聞も挽歌も音讀によるので、これも音讀するがよいと思ふ。卷二にある相聞、挽歌以外の歌をあつめたといふ意である。
〔代號〕 泊瀬朝倉宮 舊址は大和國磯城郡朝倉村黒崎にある。御宇 アメノシタシラシメシシとよむ。太泊瀬稚武天皇は雄略天皇。當時はまだ湊風の謚號を上つてゐなかつたから、和風の御名を以て記したのである。
〔題〕 御製歌 ギヨセイノウタとよむ。オホミウタとよむ説もあるが、挽歌、相聞と同じく、漢土の文字を踏襲したのであるから音讀する。漢土で、皇帝の製作の詩を御製詩といふ。
〔譯〕 籠よ、よい龍を持ち、掘る串よ、よい掘る串を持ち、この丘で菜を摘んでゐなさる少女《をとめ》よ。そなたの家はどこであるか聞きたい、そなたの名をいひなさいな。この大和の國は、總體に自分が治めてをるのである。すべて自分が(10)家としてをるのである。吾こそは告げよう、家をも、名をも。
〔評〕 卷頭第一の此の御製は、まことに悠揚な調子で、簡素で平和な上代の社會の情調が髣髴する。大和ののどやかな平野を背景にして、古への皇室と臣民との間の親しみの深い趣も伺はれる。
 名のらさねまでが第一段、以下が第二段で、二段から成つてゐる。かつ、五・三・七の句でとぢめられたのは、古代の歌格の一つである。
〔語〕 ○籠《こ》もよ こは籠、も、よ、共に感動の助詞。○ふくし 掘り串の意で、竹又は木で作り、菜を掘り採る爲に用ゐるへらのこと。○菜摘ます兒 摘ますは摘むの親しみを表はす敬語法。兒も親しんだお詞。○家聞かな なは、希望的意志をあらはす助詞。家を聞きたい。○名告らさね のらすは告《の》るの親しみの語法。ねは他人に對する希望をあらはす助詞。○そらみつ 日本書紀に饒速日命が天磐船に乘つて、大空から大和の國を見下されたといふ地名傳説による枕詞。○おしなべて 總じて。○敷きなべて あまねく。○ませ ゐるの敬語。天皇みづから敬語を用ゐ給ふ例は、日本書紀の雄略天皇の御製にも見え、集中「九七三」の聖武天皇の御製にも見える。○我こそはのらめ 自分が先づ家も名も告げようぞ。
〔訓〕 ○籠もよ 籠をカタマとよむ代匠記の説もあるが、和名抄に、「和名、古」とあり、「二三」の歌その他にも籠をコの假字に使つてをる。○家聞かな 白文「家吉閑」を、「家告閇」と改め、「家ノラヘ」とよむ説があつたが、諸本に異字なきのみならず、閑は音カンであるが、信濃《しなの》、引佐《いなさ》などの如く、カナとよんでよいのである。○敷きなべて 白文「師吉名倍手」、諸本「吉」を「告」に作つてをり、舊訓は、「師」を上の句につけ、「ワレコソノラシ、ツゲナベテ」と訓んでゐるが、「告」は「吉」の誤とする玉の小琴の説が穩かである。○我こそは告らめ 白文「我許背齒告目」は、元暦校本、類聚古集等による。通行本には「我許」の下に「者」があり、金澤文庫本には、「許」と「者」の間に更に「曾」があるので「我許曾者」を一句とし、「我コソハ」とよみ、次の「背」の下に「止」「登」等を補ひ、(11)「セトハノラメ」とよむ説もあるが、元暦校本等に據るべきである。また「告目」を類聚古集には「告自」とある。それによれば「のらじ」で、自分は名告らないがの意となる。
 
高市崗本宮《たけちのをかもとのみやに》御宇天皇代 息長足日廣額天皇《おきながたらしひひろぬかのすめらみこと》
 
    天皇、香具山《かぐやま》に登りて望國《くにみ》したまひし時、御製の歌
2 大和には 群山《むらやま》あれど とりよろふ 天《あめ》の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原《くにはら》は 煙《けぶり》立ち立つ 海原《うなはら》は ?《かまめ》立ち立つ うまし國ぞ あきつ島 大和の國は
 
〔代號〕 高市崗本宮 舒明天皇の皇居。舊説に據れば大和國高市郡高市村大字岡にあつて、同寺附近といつてをるが、地形その他から同郡飛鳥村字雷の東といふ喜田博士の説が正しいやうである。息長足日廣額天皇は舒明天皇。
〔題〕 香具山 大和國磯城郡池尻村附近にある。大和三山の一で、古來尊崇された名山。望國はクニミとよむ。高處に登り、國土の形?、民の?態などを御覽になること。
〔譯〕 大和には多くの山々があるが、その中でもすべてが整つてよい山である香具山に登つて國見をすると、廣い平野には、ここかしこからかまどの煙が立ち登り、埴安の池の廣い水の面には、?がそこここに舞ひ立つてゐる。本當によい國である、この大和の國は。
〔評〕 簡素な句法であるが、山上からお眺めになつた大和平原が、美しく明るく描き出されてゐる。まづ御立ちになつておいでの香具山を古雅な手法でお述べになり、ついで平原の風景をお歌ひになつてゐるのであるが、この對句は簡潔で、しかも美しく整つてゐて、民の繁榮と國土の秀麗とがよく現はされてゐる。
〔語〕 ○群山 群つた多くの山々。○とりよろふ よく整ひ具つた。○天の香具山 「二五七」に「天降《あも》りつく天の香(12)具山」ともある。伊豫風土記の逸文に見えるやうに、天上から天降《あまくだ》つた山であるといふ傳説があつたため、天のと冠されたのである。○國原 國の廣く平らなところ。○煙立ち立つ 人家の炊煙があちらこちらに立つ。○海原 ここでは埴安の池をさす。埴安の池は香具山の西から南にかけてあつた廣い池であつたが、今は地名に南浦等の名を殘すのみで、その址はない。なほ當時は池や湖をも海といひ、琵琶湖をあふみのうみといふをはじめ、その例がある。○かまめ ?のこと。○うまし國ぞ うましは賞讃する語。よい國である。○あきつ島 大和の古名。もと大和國南葛城郡秋津村附近の地名で、古く皇居の地となつてから、あきつ島大和と續けられるやうになり、遂には日本全土の總名ともなつた。
〔訓〕 ○うまし 白文「怜※[立心偏+可]」で、舊訓「オモシロキ」とある。それでも差支ないが、調からいへば「ウマシ」がすぐれてゐる。
 
    天皇、内野に遊獵《みかり》したまひし時、中皇命《なかつすめらみこと》の、間人連老《はしひとのむらじおゆ》をして獻《たてまつ》らしめたまへる歌
3 やすみしし わが大王《おほきみ》の 朝《あした》には とり撫でたまひ 夕《ゆふべ》には い倚《よ》り立たしし 御執《みと》らしの 梓弓の なが弭《はず》の 音《おと》すなり 朝獵《あさかり》に 今立たすらし 暮獵《ゆふかり》に 今立たすらし 御執《みと》らしの 梓弓の なが弭《はず》の 音《おと》すなり
 
〔題〕 天皇 舒明天皇。内野 大和國宇智郡。いま坂合部村に大野の名があるが、地形上より見て今の五條町を中心とする臺地を廣くさしていふらしい。中皇命は、諸説があるが、喜田博士の説に、中間に一時立たれる天皇の義で、舒明天皇の皇后、後の皇極天皇の御事とする説が穩かである。間人連老は、孝コ紀白雉五年に遣唐使判官と見えてゐる。なほ題意について、中皇命の仰により老が歌を作つて奉つたといふ代匠記の説と、中皇命の御歌であつて、老は(13)使を仰せつけられたに過ぎないといふ僻案抄の説とが對立してゐるが、後説が正しいであらうと思ふ。
〔譯〕 わが天皇が、朝にはお手づからお撫でになり、夕方には傍にお倚り立ちになつた、御持料の梓弓の、長弭の音がする。朝獵に今御出發遊ばすらしい。(夕獵に今御出發遊ばすらしい。)御持料の梓弓の長弭のひびく音がする。
〔評〕 對句を巧みに用ゐ、また語句の省略は緊張感をも失はしめず、簡明な内容と相俟つて、如何にも古風な力強さを失はない長歌である。結句の五五調にも緊張の感が見える。
〔語〕 ○やすみしし 大君の枕詞。八隅を知らすの意とする代匠記の説、安く見そなはし知ろしめすとする考の説、安み知らすの意で、みは接尾辭とする古義の説等がある。○朝には この句、次の夕にはに對照して用ゐたもので、常にといふ程度に解すればよい。○とり撫でたまひ 愛撫し給ひ。○い倚りたたしし いは接頭辭。お倚り立ちになつた。○御執らし 執らしは執るの敬語、とらすを體言化したもの。御持ち遊ばす物の義。○梓弓 梓の木で作つた弓。梓は樺木科の植物で、今、みづめ、一名よぐそみねばり等とよぶと白井博士の説である。古代の梓弓は、正倉院に現存してゐる。○なが弭 諸説があるが、自分は正倉院御物の調査により、古代の弓には弭を特に長く製したものがあり、高橋氏文にあるごとく角をはめたものもあり、鉾の代用ともなし得べきものがあつたといふ説を採りたい。○音すなり 音がする。音は弦音とも、弦が鞆にあたつて鳴る音ともいふが、その振動によつて生ずる長弭の音と解するのが穩かである。○朝獵に 次の夕獵にと對するのであるが、反歌によるに、ここは朝の獵に出で立ち給ふのであつて、夕獵には修辭的用法に過ぎない。○今立たすらし 御狩に今いでますのであらうと推量したのである。
〔訓〕 ○い倚り立たしし 白文「伊縁立之」、イヨリリタテリシ(元暦校本)イヨセタタシシ(考)等の訓も考へられるが、御身近く引寄せ立ておかせ給ふといふよりは、御みづから弓の傍近く立ち寄り愛翫します意として、イヨリタタシシと訓む攷證の説が、御弓を中心にうたつた此の一篇としてふさはしい感がする。○梓弓 通行本には、梓能弓とあるが、元麿校本によつた。○なが弭 白文「奈加弭」、ナカハズと訓み、中弭で、弓をつかふところの名とする(14)説、その他文字を改める説もあるが、管見の訓に從つて、長弭と解するをよいと思ふ。
 
    反歌
4 たまきはる宇智《うち》の大野に馬|竝《な》めて朝|踏《ふ》ますらむその草深野《くさふかの》
 
〔題〕 反歌 ハンカと讀む。長歌の後においた短歌形式の歌、集中の長歌二百六十二首中、反歌のないのは三十七首で、これらは比較的古い歌に多い。その意味は、反覆の義であつて、長歌を漢詩の賦のごときものとみなし、反歌は荀子の反辭の類にならつたものとする美夫君志別記の説がよい。その内容よりみても、荀子の反辭、楚辭の亂等と同樣、長歌に述べた意を要約して繰返すのが主であり、また、長歌にいひ殘したことを述べたり、別の方面より述べたりするものもある。なほ長歌に、旋頭歌を反歌として載せたのが唯一首(三二三三)ある。
〔譯〕 内野の廣い野原に馬を竝べて、朝早くから狩を遊ばし、踏み進みたまふことであらう、あの草の深く茂つた野を。
〔評〕 長歌では、弓を中心に、御出發前の緊張を歌つてあるが、反歌は一轉して、御狩の樣を思ひやり、極めていきいきと鮮かな情景を思ひ出させるやうに歌はれてゐる。結句の「その草深野」も、草深百合、夕浪千鳥に比すべき緊縮した句法である。しかしてこの二五調が、一首をよく据ゑてゆるぎないものとしてゐる點も注意すべきである。
〔語〕 ○たまきはる うちの枕詞であるが、その意義は諸説があるが、はつきりせぬ。○馬なめて なめては竝べて。○朝踏ますらむ 踏ますは踏むの敬語。踏むは草むらなどに隱れてゐる鳥獣を踏みたてる意と代匠記以來多くの註に述べてゐるが、ここではただ、馬を竝べて草を踏み分け、狩しつつ進む意に解される。
 
    讃岐國の安益郡《あやのこほり》に幸《いでま》しし時、軍王《いくさのおほきみ》の山を見て作れる歌
(15)5 霞立つ 長き春日《はるひ》の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛《いた》み ?子鳥《ぬえこどり》 うらなき居れば 玉襷《たまだすき》 懸《か》けのよろしく 遠つ神 わが大王《おほきみ》の 行幸《みゆき》の 山越す風の 獨座る 吾が衣手に 朝夕《あさよひ》に 還《かへ》らひぬれば 丈夫《ますらを》と 思へる吾も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣《や》る たづきを知らに 網《あみ》の浦の 海處女《あまをとめ》らが 燒く鹽の 念《おも》ひぞ燒くる 吾が下《した》ごころ
 
〔題〕 左註にいふ如く、舒明天皇が讃岐に行幸し給うたことは書紀に見えないが、十一年冬十二月伊豫に行幸、翌年四月遷幸とあるから、その時お立寄りになつたものと思はれる。安益《あや》郡は鵜足郡と併せ、いま綾歌郡といふ。古へ國府のあつた地。軍王は傳不詳。
〔譯〕 霞の立ちこめた長い春の日も暮れてしまつたが、日が暮れたか暮れないかの區別も分らぬほど、故郷が戀しくて心痛さに嘆いてをると、我が大君の行幸しゐたまふ山を越して來る風が、かへるといふことは言葉に出していふのも好ましいが、獨でをる自分の袖に朝夕に吹きかへるので、ますらをと思うてゐる自分も、家を遠く離れて旅にあることゆゑ、この物思を晴らすすべも知らず、網の浦の海女の女らの燒いてゐる鹽のやうに、自分の心の中は物思にもえることである。
〔評〕 この歌の題は、山を見て作れる歌となつてゐて、歌の中で山を讃へてをる。旅に於いて越えて來た山を眺め、越えてきた方角を偲び、郷愁が起るのは自然の情である。しかも又この時代の旅を思へば、この郷愁も我々の考へるやうな淡いものではあるまい。この歌は枕詞と序詞が多く、句切がない。「網の浦の」の序詞は、おそらく眼前の景であらう。
〔語〕 ○霞立つ 春の枕詞の場合もあるが、實景を述べである場合も多く、ここもその例。○わづき わき即ち分別(16)の意とする説と、たづき即ち手段とする説とある。前説が穩かに思はれる。○群肝の 心の枕詞。多くの臓腑の意で、むらぎものこころ(多くの意)とつづくとする代匠記の説、群肝の凝りから心にかかるとする宣長の説などがある。○?子鳥 歎きの枕詞。和名抄に「?」、新撰字鏡には「鵺」の字をあててゐる。いま、虎つぐみといひ、鳴く聲が恨み泣くやうであるから、歎きの枕詞としたもの。○うらなき居れば うらは心のうちの意。うらさびしのうらの類、なきは泣くの意。うらなげ、うらなげきとよむ説もある。○玉襷 懸けの枕詞。玉は美稱、襷は今日の襷と同じであるが、祭祀の際などにも用ゐた。○懸けのよろしく 言葉に出していふのもよろしくの意。かけるは心にかけて思ふ意にも用ゐる。この句は句を隔ててかへらひぬればにかけたものと思はれる。○衣手 袖。○還らひぬれば 袖が風に飜る。○丈夫 大丈夫の略。立派な男子。○草枕 旅の枕詞。當時の旅行には草を枕として寢ることもあるからいふ。○思ひやる 物思をはらす。○たづきを知らに たづきは手段、方法の意。手段を知らないで。○網の浦 いま位置不明。○燒く鹽の 網の浦以下この句まで、念ひぞ燒くるの序。「の」は「の如く」の意。○下情 内心、心の裡。
〔訓〕 ○網の浦の 白文「網能浦之」は、元暦校本等による。
 
    反歌
6 山|越《ごし》の風を時じみ寐《ぬ》る夜おちず家なる妹をかけてしのひつ
     右は、日本書紀を?ふるに、讃岐國に幸《いでま》しし事なし。亦、軍王、未だ詳ならず。但、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、記に曰く、天皇十一年己亥冬十二月己巳の朔にして壬午の日、伊豫の温湯《ゆ》の宮に幸しき云々。一書にいふ、是の時に宮の前に二の樹木あり。此の二の樹に斑鳩《いかるが》比米《ひめ》二つの鳥|大《いた》く集まれり。時に勅して多く稻穗を掛けて養ひたまひ、乃ち作れる歌云々といへり。若し疑はくは、此の便より幸《いでま》ししか。
 
(17)【譯】 山を越えて吹いて來る風が、時節はづれに寒く吹くので、夜毎に故郷の家なる妻を思つて偲んでをる。
【評】 長歌の意をまとめて歌つてあるが、「風を時じみ」と、春にもかかはらずまだ肌寒い風であることを示し、また單なる郷愁ではなく、明かに「家なる妹を」と述べてゐる。「寢る夜おちず」の表現もよい。長歌よりも更に簡明に緊縮されてゐて、よい歌である。
〔語〕 ○時じみ 二説あり、不斷の意とする代匠記の説と、その時ならぬ意とする宣長の説とあるが、後説が當つてゐる。○ぬる夜おちず おちずは洩れず。毎夜の意。○妹 男から女を親しみよぶ語。ここは妻をさす。○かけてしのひつ 心にかけて偲んだ。「しのふ」は後の「偲ぶ」である。
〔左註〕 日本書紀と類聚歌林により、行幸の年月を考證したもの。ここの左註は、おそらく編纂當初より存したものであらう。類聚歌林は平安時代末までは存したとおぼしいが、遺憾ながら今傳はらない。この書は、集中ここかしこに引用されてをる。題名によれば、内容によつて分類した集と考へられ、正倉院文書によると、六卷であつたかと思はれる。斑鳩は「マメマハシ」のこと。比米は又「シメ」ともいふ。「三二三九」參照。
 
明日香川原宮《あすかのかはらのみやに》御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》
 
    額田王《ぬかだのおほきみ》の歌 未だ詳ならず
7 金《あき》の野のみ草苅り葺《ふ》き宿れりし兎道《うぢ》の宮處《みやこ》の借廬《かりいほ》し念ほゆ
     右は山上憶良大夫の類聚歌林を?ふるに曰く、一書に、戊申の年、比良宮に幸《いでま》しし大御歌なりと。但、紀に曰く、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇紀の温湯《ゆ》に至りたまひき。三月戊寅の朔、天皇吉野宮に幸して肆宴きこしめしき。庚辰の日、天皇、近江の平の浦に幸しきといへり。
 
〔代號〕 明日香川原宮は、大和國高市郡高市村大字川原にあつて、飛鳥川の上流にあたる。天皇財重日足姫天皇は、(18)皇極天皇。後に重祚あらせられ、齊明天皇と申す。
〔題〕 額田王 天武紀に「天皇初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1」とある。集中注目すべき女流歌人てある。女王を王と書く例は、古事記などにも多い。
〔譯〕 秋の野の尾花を苅つて、屋根に葺いて宿つた、あの宇治の假宮のことが思はれる。
〔評〕 秋の野の草をそのまま苅りとつて、屋根に葺いた假廬は、素朴な美しさを感じさせたことであらう。この歌は、行幸の地の形勝を述べないで、場所、動作を述べて、それをこの假宮に集中してゐる。しかして追懷の主觀は、ただ結句の「かりいほし思ほゆ」のみによつてあらはされてゐる。敍事の中に感情をつつみ、説明し盡くしながら、人の想像にゆだねる餘裕を殘してゐるといへる。かかる手法は後にも多いが、特に、「大御舟泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ」(一一七一)は、その代表と見られる。調べの上からいつても、一句から四句まで殆ど一息に述べてきて、五句は「かりいほしおもほゆ」と九音の字餘りによつてしつかりと結んである。この字餘りが意識してなされてゐることは、強意の助詞「し」のあることを見ても明らかであらう。しかして此の「假いほしおもほゆ」には、思ひおこされる原因があるとの説がある。
〔語〕 ○金の野 白文に「金野」とあるのは、五行を時節にあてると、金は秋にあたるからで、「金風」「金山」等の例もある。○兎道の宮處 兎道は山城の宇治。近江への通路に當る。みやこの「こ」は、かしこ、いづこの「こ」と同じく、所、場所の義。從つて、みやこは宮の所在地の義で、帝都に限らず、行宮の地をも指した例は、「九二九」にもある。○思ほゆ 思はれる。
〔左註〕 類聚歌林と書紀により、行幸の年月を考證したもの。比良宮は近江國。紀に曰く以下は、書紀齊明天皇の條に見える。但、この行幸の時とすれば、紀に三月とあり、歌には秋の野とあつて矛盾する。
 
(19)後崗本宮御宇天皇代《のちのをかもとのみやにあめのしたしろしめすすめらみことのみよ》
 
    額田《ぬかだの》王の歌
8 熟田津《にぎたづ》に船乘《ふなのり》せむと月待てば潮《しほ》もかなひぬ今は榜《こ》ぎ出でな
 
右は、山上の憶良の大夫の類聚歌林を?ふるに曰く、飛鳥岡本《あすかをかもと》宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳の朔にして壬午の日、天皇、大后、伊豫の湯の宮に幸しき。後岡本《のちのをかもとの》宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁西の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就きたまひき。庚戌の日、御船|伊豫《いよ》の熟田津《にきたづ》の石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》てき。天皇、昔日《むかし》より猶|存《のこ》れる物を御覽《みそなは》して、當時忽に感《かま》け愛づる情を起したまひき。所以《かれ》因《よ》りて歌詠を製りて哀しみたまひきといへり。即此の歌は天皇の御製なり。但、額田王の歌は別に四首あり。
 
〔代號〕 後崗本宮は、齊明天皇の皇居。
〔譯〕 熟田津で船に乘らうと月を待つてをると、潮の都合もよくなつてきた。さあ今は漕ぎ出よう。
〔評〕 黒々と見える山、ひたひたとよせる波、幾隻かの大船、さういふ風景が、この僅かな表現の中によく現はれてゐる。しかして、結句「今は榜ぎいでな」は、作者の積極的な意欲を加へ、一首を一層力あるものとしてゐる。作者は女性であるが、如何にも大らかな格調と氣魄をもつた歌である。
〔語〕 ○熟田津 伊豫の道後温泉の附近の船泊りで、三津が濱のことといはれてゐたが、その少し東の和氣、堀江附近とする武智氏の説がある。「に」は、に向つてといふ説があつたが、次句と共に見れば、に於いてと解すべきである。「あごの浦に船乘すらむ處女らが」(四〇)も同じ。○船乘せむと 船出しようと思つて。○潮もかなひぬ 潮が、船出をするに適當となつた。○漕ぎ出でな 漕ぎ出さう。「な」は希望の助詞。「家きかな」(一)參照。
〔左註〕 類聚歌林により異傳を記したもの。飛鳥岡本宮御宇天皇は舒明天皇、大后は後の皇極(齊明)天皇。石湯は(20)今の道後温泉。この左註によれば、齊明天皇の御製であつて、額田王のこの時の歌は別に四首あり、今は傳はつてをらぬこととなる。
 
    紀の温泉に幸しし時、額田王の作れる歌
9 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本
 
〔題〕 紀の温泉は所謂牟婁の湯で、今の西牟婁郡湯の崎温泉のことといふ。書紀によれば、齊明天皇四年冬十月行幸である。
〔訓〕 この歌は集中第一の難解歌で、未だ定説がない。特に三句までは、何か特別の表記法かと見られる。ここに三四の訓を掲げて、譯も評も共に省く。
  夕月の仰ぎて問ひし吾背子がい立たせるがねいつか逢はなむ(元暦校本朱書入)
  夕月し覆ひなせそわが夫子がい立たせりけむ嚴橿がもと(代匠記)
  紀の國の山越えて行け吾が夫子がい立たせりけむ嚴橿がもと(考)
  竈山の霜消えて行けわが夫子がい立たすがね嚴橿がもと(玉勝間)
  三諸の山見つつ行け吾が夫子がいたたしけむ嚴橿がもと(古義)
  眞土山見つつ飽かにとわが夫子がい立しまさば吾はここになも(檜嬬手)
 四五句は「イタタシケムイツカシガモト」と思はれるが、これも上三句が決定しない限り、定訓とは言ひ難い。
 
    中皇命《なかつすめらみこと》の、紀の温泉に往きましし時の御歌
(21)10 君が代も 吾が代も知らむ 磐代の 岡のかや根を いざ結びてな
 
【題】 中皇命「三」に見えたのと同じ方であるか、明かでない。
【譯】 あなたの御齡も、私の齡も知つてゐるこの磐代の岡の草を、さあ行末を祝つて結びませう。
〔評〕 草を結んで、壽命を祝することは古への習俗で、有間皇子の歌(一四)を初め集中に多く見えてゐる。守部は鎭魂祭に緒を結んで壽を祝ふのと同じ意であるといつてをる。一首明朗にして、滯のない調べを持つてをる。
〔語〕 ○君が代も 代は齡。○磐代 紀伊國日高郡で今|南部《みなべ》町に屬する。○草根 「ね」はただ根のある草といふほどの意の接尾辭。○いざ結びてな さあ結びませうよ。
〔訓〕 ○知るや 白文「所知哉」は、古く「シレヤ」とよんでをるが、解釋上適當でないと思はれるので、「シルヤ」の考の訓によつた。「哉」を「武」に改める古義の説、このまま「シラム」とする美夫君志の説がある。
 
11 吾背子《わがせこ》は假廬《かりほ》作らす草なくは小松が下の草を苅らさね
 
〔譯〕 吾が夫君は假の家をお作りになるが、もし屋根に葺く草が足りなければ、小松の下の草をお刈りなさいませ。
〔評〕 一首が、呼びかけの調子になつてゐて、明るい素朴な歌。おそらく小松の下の草を見出でて喜ばれた、その氣持がそのまま出てゐることと思ふ。
〔語〕 ○吾背子 背子は男子を親しんでよぶ語。妹に對してゐる。從つて、多くは夫をさすが、さうでない場合もある。○作らす お作りになる。○小松が下の 「小」は美稱。
〔訓〕 ○草なくは 「草」をカヤと訓む考の説もある。
 
(22)12 吾が欲《ほ》りし野島は見せつ底ふかき阿胡根《あこね》の浦の珠ぞ拾《ひり》はぬ 【或は頭に云ふ、わが欲りし子島は見しを】
    右は山上憶良大夫の類聚歌林を?ふるに曰く、天皇の御製の歌なり云々。
 
〔釋〕 私の見たいと思つてゐた野島は、もう見せていただきました。けれども、底の深い阿胡根の浦の珠は、まだ拾ひませぬ。
〔評〕 この歌も、事實のままを對話のやうな口調で述べてをられるが、しかも、簡素の中に餘情を含んでをる。名所を見て心滿ち足りながら、なほ何か、あこがれや、心殘りを感じるのはいつの代にもあることであるが、旅行不便な上代には、なほその感が深かつたのであらう。特に、大和に住む女性にとつては、清い海邊と美しい貝とは、なほ一層樂しいものであつたに違ひない。
〔語〕 吾が欲りし 私が見たいと思つた。○野島 紀伊國日高郡鹽屋浦の南にある村で、阿胡根の浦はその附近の海岸をいひ、貝が多いところといふ(玉勝間)。○見せつ 自分が人に見せたとも解されるが、君が見せて下さつたと解するのが穩かである。これを海上航行中の歌とし、船の進行上自然と遠くに野島を見せてくれたと解する説もあるが、考へ過ぎた解と思はれる。なほ一本の「見しを」は、解釋はよく通るが、味ひは乏しくなる。
 
    中大兄《なかつおひね》【近江宮御宇天皇】の三山の歌一首
13 香具山《かぐやま》は 畝火《うねび》を愛《を》しと 耳梨《みみなし》と 相爭ひき 神代より 斯《か》くなるらし 古昔《いにしへ》も 然《しか》なれこそ うつせみも 嬬《つま》を 爭ふらしき
 
〔題〕 中大兄《なかつおひね》 天智天皇の御名。ここは、齊明天皇の御代の歌を集めたので、その當時の御呼名になつてゐるのであ(23)る。大兄が敬語であるから、皇子となくてよいのである。三山は、大和の香具山、耳成山、畝傍山をいふ。香具山は既出(二)。耳成山は磯城郡木原村に、畝傍山は高市郡白橿村に在る。後の藤原宮御井歌(五二)にても知られるやうに、三山ともあまり高くはないが、平野に孤立して鼎立の形となつてをるので、特に三山と讃へられたのである。
〔譯〕 香具山は畝火山を愛して、耳梨山と互に爭つた。神代からこの通りなのであらう、昔もさうであつたからこそ、今の世の人も妻爭をするのであらう。
〔評〕 素朴ともいひつべき表現である。明瞭な句切、同じ「らし」を繰返されたところ、結びの五・三・七調、すべて古風であるが、詠歎の情はよく傳へられてゐる。
〔語〕 ○畝火ををしと 古くは、雄男しと解したが、「を愛し」の解の方がよい。○然なれこそ 「なれこそ」は後世のなればこそに同じ。さうであるから。○うつせみ 人間、現世。「二四」參照。○嬬 配偶者の意。○爭ふらしき らしきは、こその結び。「己が妻こそ常めづらしき」(二六五一)などの例がある。
 
    反歌
14 香具山と耳梨山と會《あ》ひし時立ちて見に來《こ》し印南《いなみ》國原
 
〔譯〕 香具山と耳成山と爭つた時、阿菩の大神が、出雲から旅立つて見に來られたこの印南國原よ。
〔評〕 長歌と同樣、いひすてたやうな句法で、特に主語さへ省かれてゐるが、長歌から續いて、長歌には無い印南の傳説を詠まれたのである。又この場合、結句の體言止も、後世のと異なつた趣が出てゐて、よく据つてゐる。
〔語〕 ○あひし時 あふはここでは闘ふの意。書紀なる「いざあはな我は」、「道にあふや尾代の子」の用法に同じい。○立ちて見に來し 立つは旅に出で立つの意。この主語は阿菩《あぼ》大神で、播磨風土記に「神阜《かむをか》、出雲の國の阿菩の大神、(24)大倭《やまと》の國の畝火、香《かぐ》山、耳梨、三つの山相闘へりと聞きて、此に諫めむと欲《おぼ》して上り來し時、此處に到りて、すなはち闘止みぬと聞き、その乘れりし船を覆して坐しき。故《かれ》神阜と名づく」、とある。○印南國原 國原は「二」參照。印南は印南郡。和名抄に「印南郡伊奈美」とある。
 
15 渡津海《わたつみ》の豐旗雲に入日さし今夜《こよひ》の月夜《つくよ》清明《あきらけ》くこそ
     右の一首の歌は、今案ふるに反歌に似ず。但、舊本此の歌を以ちて反歌に載す。故《かれ》、今猶此の次に載す。亦紀に曰く、天豐財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となしましきといへり。
 
〔譯〕 大海の上のうるはしい旗のやうな雲に入日がさしてをるが、今夜の月夜は、清く明るいことであらう。
〔評〕 前の歌につづき、印南の海邊で目前の景を敍したまうたもの、夕日を浴びてかがやかしい大海、たなびいた美しい雲、雄大な景を上三句にまとめてある。
〔語〕 ○渡津海 古くは海の神の意であつたが、海をもいふ。○豐旗雲 「豐」はゆたかに立派な意。旗雲は旗のやうな雲。
〔訓〕 ○入日さし 紀州本による。○あきらけくこそ 白文「清明己曾」スミアカリコソ、キヨクアカリコソ、また澤瀉博士のマサヤカニコソなどの訓があるが、考の訓によつた。
〔左註〕 この歌が、三山の歌の反歌らしくないと疑つたもの。しかし、三首共に播磨での御作とすれば、無理なく解される。
 
近江大津宮《あふみのおほつのみやに》御宇天皇代 天命開別《あめみことひらかすわけの》天皇
 
    天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山の萬花の艶、秋山の千葉の彩を競《あらそ》はしめたまひし時、額田王の、歌(25)以ちて判れし歌
16 冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 開かざりし 花も開けれど 山を茂《しげ》み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木葉《このは》を見ては 黄《もみぢ》をば 取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ歎く そこし恨めし 秋山|吾は
 
〔代號〕 近江大津宮は、今の大津市の北部。天智天皇の皇居。
〔題〕 内大臣藤原朝臣 鎌足。
〔譯〕 春になつてくると、今まで鳴かなかつた鳥も來て鳴き、咲かなかつた花も咲いてゐるが、山の木が茂つてをるので、入つても取らず、草が深いので手にとつても見ない。しかし、秋の山の木の葉を見ては、黄葉したのをつくづく賞美し、まだ青いのは其のままにしておいて、早く色づけよと嘆息する。それは殘念であるが、しかし自分は、秋の山がよいと思ふ。
〔評〕 春秋の優劣をあげつらふのは、古くから漢土に行はれてをり、我が國では、古事記に秋山之|下氷壯夫《したびをとこ》と春山之|霞壯夫《かすみをとこ》といふ二人が戀爭をする話があるが、この神話を萠芽とし、平安時代には、論春秋歌合、拾遺集なる貫之の歌、源氏物語、更級日記などに見えてをる。この歌は、文學作品としての最初のものであるが、後世の多くの例と同樣、秋を讃美してゐる。しかし、その理由は後世のと異なり、手にとつて賞翫できるといふ點を中心としてゐることに注目すべきで、このことは、萬葉集の自然觀の上にも重要である。しかし又一方からいへば、これもやはり趣味上の優劣であつて、農事などの實生活からでないことにも注意され、大陸の文化の急激な流入のあつた近江時代を思はせてゐる。句法よりいへば、初めに鳥と花とを對句として述べてゐるが、次の「山を茂み」以下は、花のみについていつてゐる。
(26)〔語〕 ○冬ごもり 春の枕詞。冬は萬物閉ぢこもり、春になつて再び張り出づる意といふ。○春さり來れば さりは、時間の推移に廣くいふ。夕さればなどと同じく、春になつてくるとの意。○咲けれど 咲いてゐるが。○山を茂み 山が茂つてをるによつて。○黄葉をば もみぢは、集中殆ど黄葉と書き、紅葉、赤葉各一例あるに過ぎない。○取りてぞしのふ しのふは愛でる、賞美する。○おきてぞ嘆く そのままにさしおいて嘆息する。○そこし恨めし 青いのをさしおいて嘆かねばならない、その點が恨めしい。○秋山吾は 自分は秋山をよいと思ふ。
〔訓〕 ○恨めし 白文「恨之」の「恨」を「怜」の誤とし、オモシロシとする玉の小琴の説があるが、古寫本に證がなく、また意味からいつてももとのままがよい。
 
    額田《ぬかだの》王の、近江國に下りし時、作れる歌、井土《ゐのへ》王の 即ち和《こた》ふる歌
17 味酒《うまさけ》 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際《ま》に い隱るまで 道の隈 い積《つも》るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放《みさ》けむ山を 情《こころ》なく 雲の 隱さふべしや
 
〔題〕 井戸王 傳不詳。和歌は唱和の歌の意で答へる歌。ここにいふのは、「綜麻形の」(一九)の歌をさすと考へられるが、かやうな題詞の書き方は異例である。
〔譯〕 三輪の山を、奈良山の間に隱れてしまふまで、道の曲り角が幾つも幾つも重なつて見えなくなるまで、よく見ようと思つてゐるのに、幾度も幾度もふりかへつて眺めようと思ふ山であるのに、その山を、無情にも雲が隱すといふ法があるであらうか。
〔評〕 大和平野の東を限る連山のうち、一際高く整つた山容を見せてゐる三輪山は、西の二上山と共に、大和にあつて最も印象の深い山であある。額田王は、心のうちの深いなやみの焦點をここに集めて述べてをられる。「味酒三輪の(27)山」と呼びかけ、幾度もふりかへりつつ行く綿々の情は、對句を用ゐて巧みに現はされてをる。結句の五・三・七調は「一」「一三」等に見られる古風な調子であるが、この場合、雲に對してなじるやうな語調が強く出てゐる。
〔語〕 ○味酒 三輪の枕詞。古語によい酒をミワといふから、美酒みわとつづくといふ。○三輪の山 大和國磯城郡三輪町の東。○あをによし 奈良の枕詞。語義については古來諸説があるが、「よし」は玉藻よし、まそがよしのよしと同じく、よは呼び掛けの語、しは強めの語。あをには青土で、青土の出る奈良とつづくと解するのが穩かである。○い隱るまで 「い」は語調を添へる接頭辭、隱れるまで。○選の隈 隈は入り曲つたところ。道の隈は道の曲り角。○い積るまでに 數量なるまで、即ち遠く隔たるまで。○つばらにも 委しく、十分に。○見放けむ山を 見放くは遠く眺めること。遠く放れて見ようとする山を。○隱さふべしや 隱してゐてよからうかの義。
 
    反歌
18 三輪山をしかも隱すか雲だにも情《こころ》あらなむ隱さふべしや
     右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、都を近江國に遷しし時、三輪山を御覽《みそなは》せる御歌なり。日本書紀に曰く、六年丙寅春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷しきといへり。
 
〔譯〕 三輪山をそのやうに隱すのか。せめて雲なりとも心があつてほしいものである。かやうに隱してよいものであらうか。
〔評〕 第二句と第四句で切れ、更に結句は獨立した一句となつてをるが、この三段によつて、怨むが如く、訴へるが如き哀韻を繰返して、雲によびかけてをられる。雲だにもといふ句には、人の無情といふやうな心持も暗に含められてをるやうである。長歌の主旨をよく一點に集めて、緊密なな句法を以て述べられ、結局は長歌の結句と同樣の句では(28)あるが、しかも感じからいへば、單なる反覆ではない。反歌としてすぐれたものであり、また二句・四句切の好例といふべきである。長歌と相俟つて、額田王が、集中女流歌人の屈指たる位置を示す作といへよう。
〔註〕 ○しかも隱すか そのやうにも隱すのか。○雲だにも せめて雲なりとも。○情あらなむ 心があつて欲しいものである。
〔訓〕 ○情あらなむ 「情有南武」は、類聚古集と西本願寺本等に異本として注してあるものによる。通行本は「南畝」に作り、このままを「なむ」と訓む古義の説、「なも」であつて、「なむ」の古形とする講義の説などがある。
〔左註〕 類聚歌林によつて異説を述べたもの。これによれば、御覽及び御歌とあるから、天智天皇(講義)又は皇太子大海人皇子の御作(考)と考へられる。
 
19 綜麻形《へそがた》の林の始《さき》のさ野榛《のはり》の衣《きぬ》に著《つ》くなす眼に著《つ》くわが背《せ》
     右の一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。但、舊本此の次に載す。故以ちて猶載す。
 
〔譯〕 綜麻《へそ》形の林の端の野に生えてゐる萩の花が、衣に染みついて離れぬやうに、目について離れぬお方よ。
〔評〕 井戸王を女性とし、額田王を慰めて詠んた歌と解したい。女性らしい愛情を女性らしい譬喩をとつて現はした愛らしい歌で、「著く」の繰返しも快い。第四句までは、五句の目に著くの譬喩ではあるが、自然と眼に著くといふ氣持が出てゐて、新鮮な感じを持つてゐる。
〔語〕 ○綜麻形 異説の多い語であるが、地名であらう。形は縣で、地名に多い語で地方の義。へそは、近江國栗太郡大寶村|綣《へそ》にあてる講義の説に據るべきか。○林の始 林の突端。○さ野榛の はりは野榛といふ名の植物か、或は野の榛か、後説とすれば、榛は今はんの木といふものか、萩か、問題の多い語であるが、野のの萩とみるのがふさはし(29)い。○衣に著くなす なすは如くの意。萩の花の色が衣に染みつき易いやうに。○眼に著く 目に著いて忘られぬ。
〔左註〕 此の歌の作者は女で、夫に贈る歌と思はれるが、それでは題詞にあはず、また内容も三輪山の歌と關係なささうである。それでこの註を記したのであるが、この註も恐らく當初からあつたものであらう。舊本といふのも、萬葉集編纂の一資料となつた歌集と思はれる。前の「一五」の歌にも見え、卷二、卷十三には「古本」とある。
〔訓〕 ○綜麻形 三輪山傳説に、綜麻が三輪殘つたといふところに據るものとし、これをミワヤマと訓む僻案抄の説、ソマヤマ(近江の地名)と訓む墨繩の説は、共に巧妙ではあるが、なほ如何であらうか。
 
    天皇、蒲生《かまふ》野に遊獵《みかり》したまひし時、額田王の作れる歌
20 あかねさす紫野行き標《しめ》野行き野守は見ずや君が袖振る
 
〔題〕 左註によれば、この遊獵は、夏四五月頃行ふといふ、鹿茸《ろくじよう》又は藥草を採る藥狩であらう。蒲生野は、和名抄に加萬不とあり、今、近江國蒲生郡武佐村にその名が殘つてゐる。額田王は、初め大海人皇子に婚《あ》ひ、十市皇女を生み、後、天智天皇に召された。
〔譯〕 紫草の生えてゐるこの御料地を、あちこちとお歩きになつて、私にむけて袖を振つておいでなさいますが、野守が見てをるではありませぬか。
〔評〕 紫野即ち標野であるが、かく繰返して歌はれたところに、皇子があちこちと歩いてをられる樣が自然描寫されてをり、また、四五句の倒置も訴へる語調をよく現はしてをる。嬉しくもあり、又うち困《こう》じてもをられる樣子が眼にうつるやうで、一首に波うつ感情がよく感じられる。
〔語〕 ○茜さす 日、晝、紫などの枕詞。茜は草の名で、その根を染料とする。その色は紫を帶びた赤色である。○(30)紫野 紫草の生えてゐる野。紫草は山野に生ふる植物で、根を染料として用ゐる。○標野 しめは占めで、御料として占有されてをる意。地名ではなく御料の野の義。○野守は見ずや 野守は野の番人の意であるが、守護の者をさすとも、然らずとも、種々推測の説があるが、いづれも正確な根據があるわけではない。又この語調は、野守が見てゐるではありませぬかとやうに解するのが自然であるが、然らずとする註もある。○君が袖振る 袖を振るは、招く又は慕ふ、相圖をするなどの動作である。
 
    皇太子の答へませる御歌 明日香宮《あすかのみや》御宇天皇
21 紫草《むらさき》のにほへる妹を憎《にく》くあらば人嬬《ひとづま》ゆゑに吾《われ》戀《こ》ひめやも
     紀に曰く、天皇の七年丁卯夏五方五日、蒲生野に縱獵したまひき。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉く皆從ひきといへり。
 
〔題〕 皇太子 大海人皇子、即ち後の天武天皇。
〔譯〕 袖を振つたのを、にくみとがめるやうに、いはれるが、紫草のやうに美しいそなたが憎いならば、今はよそ人のおもひびとであるそなたに對して、自分はかやうに慕ふであらうか。なつかしい故である。
〔評〕 制約を越えて思ふといふ複雜な氣持を力強く述べてをられる。女の美しさを花に譬へるのは少くないが、この歌では、答歌として前の歌をうけてゐると同時に、美しく譬へられてゐる。
〔語〕 ○紫草のにほへる妹を この紫草を單に紫色と解する説もあるが、紫草の花の咲き匂ふ如くつややかに美しい妹をと解すべきであらう。○憎くあらば 憎く思ふならば。○ゆゑに なるによりて、或は、に對しての意。「我が故にいたくなわびそ」(三一一六)、「ひとづま故にわれ戀ひぬべし」(一九九九)參照。○吾戀ひめやも 吾は戀しく(31)思はうか。思ひはしない。
 
【左註】 五月五日は端午の節。この日の狩は鳥獣の狩ではなく、藥狩で、鹿の袋角、即ち鹿茸をはじめ藥草などを採つたものであつて、書紀にも多く見えてをる。大皇弟は後の天武天皇。
 
明日香清御原宮《あすかのきよみはらのみやの》天皇代 天渟中原瀛眞人《あめのぬなはらおきのまひとの》天皇
    十市皇女《とをちのひめみこ》、伊勢の神宮に參赴《まゐむ》きたまひし時、波多《はた》の横山の巖《いはほ》を見て吹※[草がんむり/欠]刀自《ふぶきのとじ》の作れる歌
22 河の上のゆつ磐郡《いはむら》に草|生《む》さず常にもがもな常處女《とこをとめ》にて
    吹※[草がんむり/欠]刀自は、未だ詳ならず。但、紀に曰く、天皇の四年乙亥春二月乙亥の朔にして丁亥の日、十市皇女、阿閉皇女、伊勢の神宮に參赴きたまひきといへり。
 
〔代號〕 明日香淨御原宮は、從來、今の高市郡上居の地といはれてゐたが、土地狹く地形も適當でなく、且その名は淨御より出たのではなく、近くの下居に對する名であるとして、今の飛鳥村雷と飛鳥との中間に定めた喜多博士の説に從ふべく、今ここの飛鳥小學校附近に石葺の多くが發見されてをる。天皇は天武天皇。
〔題〕 十市皇女 天武天皇の皇女、御母は額田王。後、弘文天皇の妃となられ、葛野《かどの》王を生まれた。波太は、伊勢國一志郡八太と思はれる。この地は大和より伊賀の名張を經て伊勢に至る道に當る。吹※[草がんむり/欠]刀自は傳不詳。刀自は家の主婦をいふが、女の敬稱にも用ゐる。
〔譯〕 河のほとりの神々しい石群に草が生えず、いつまでも瑞々しいやうに、永遠に若いをとめとしてありたいものである。
〔評〕 苔や草の生えた石は、見るからに古い氣がするが、河のほとりの水に洗はれて常に肌の滑かな岩は、清淨に美(32)しい。この歌は、刀自が、自分の爲におもひを述べたのではなく、十市皇女が物思に苦しんでをられるので、御齡の長久を祈つたものであらう。皇女が、夫君と父君との中に立つてまことに苦しい御境遇にあらせられたのをお慰めしたものと思はれる。巖石が永遠を思はせることは、古くより人々の感じたことで、「皆人の壽《いのち》も我もみ吉野の瀧《たぎ》の床磐の常ならぬかも」(九二二)、「春草は後は散り易しいはほなす常磐にいませ貴き吾君」(九八八)等がある。
〔語〕 ○河の上《へ》の 河のほとりの。○ゆつ岩むら 五百箇《いほつ》岩群で、多くの岩のあつまりの義とする説と、齋つ岩むらで、ゆは潔齋の義とする説とがあり後の説による。○草むさず むすは生える。○常にもがもな 常にあつてほしいものである。○常處女にて 常はとこしへ、永久不變の意。處女は必ずしも未婚の女でなくとも、妙齡の少女をいふ。
〔左註〕 阿閉皇女は後の元明天皇で、天武天皇の皇女。「三五」參照。
 
   麻續王《をみのおほきみ》の伊勢國|伊良虞《いらご》の島に流さえし時、人の哀傷して作れる歌
23 打麻《うつそ》を麻續王《をみのおほきみ》白水郎《あま》なれや伊良虞《いらご》が島の珠藻《たまも》苅ります
 
〔題〕 麻續《をみ》王 傳不詳。伊良虞島 三河國渥美郡伊良胡岬。太古には島であつたのが、後になつて渥美半島に連つた。伊良胡岬は志摩國神島から僅か一里餘のところに在り、昔は伊勢國、又は志摩國に屬してゐた。
〔譯〕 麻續王は海士なのであらうか。さうではないのに、伊良虞の島の玉藻を苅つておいでになる。
〔評〕 表面にはさりげなくいぶかるやうに云つてをるのみであるが、その裏には、深い同情が含まれてをる。一句の四音、二句の聲調は、しみじみとした趣を添へてゐる。
〔語〕 ○打麻を 麻を打ち和げたのを績《う》むの意でつづく麻續の枕詞。これは完麻《うつそ》で打和げないでそのまま紡績できる麻の意とする古義の説は穩かでない。「を」は感動の助詞。「打麻やし麻續の子ら」(三七九一)參照。○白水郎なれ(33)や 白水郎は、和名抄に「和名、阿萬」とあり、漁師、又は氏族の海部《あまべ》をもいふ。なれやは、後世のなればにや。漁夫なのであらうか。
〔訓〕 ○人 此の上の「時」は、「流さえし時」と上につけて訓み、この人をある人の意に解するのが通説であるが、更に「時」の一字の脱したものとして、時人とする説(考)がある。○苅ります 白文「苅麻須」これをカリヲスと訓む説もある。「麻」を助詞の「を」の僻字に用ゐた例もありはする。
 
    麻續王、聞きて感傷して和《こた》ふる歌
24 うつせみの命を惜しみ浪にぬれいらごの島の玉藻苅り食《は》む
     右は、日本紀を案ふるに曰く、天皇の四年乙亥夏四月戊戌の朔にして乙卯の日、三位麻續王罪ありて因幡に流さえ、一子伊豆島に流さえ、一子|血鹿《ちか》島に流さえきといへり。是《ここ》に伊勢國の伊良虞島に配《なが》さゆといへるは、若し疑はくは、後の人、歌の辭に縁りて誤り記せるか。
 
〔譯〕 この世の命が惜しさに、浪にぬれて、伊良虞の島の玉藻を苅つて食べることである、
〔評〕 此の歌にも、表面には悲しみの語は見えないが、沈痛の氣がみなぎつてをる。此の世の命惜しさにと、自ら嘲るやうにいつてをられるのも哀ふかく、浪にぬれの一語もよく辛酸をあらはしてゐる。實際に海人のやうな業をされたのではあるまいが、海邊の人々に交つて寂しき日々を送られる樣はよく偲ばれる。
〔語〕 ○うつせみ 現世、人間。古事記に見えるうつし臣《おみ》から轉じたもの。うつそみ、うつせみ、共に同じで、その「み」は身でない(大野晋氏の説)。○はむ 食すること。
〔左註〕 日本書紀により編者の考を記したもの。書紀には因幡とあるが、常陸風土記には行方郡板來村の條に、天武天皇の御代麻續王の配せられたところとあり、或は配流の場所が改められたものか、また、從來ただ貴人の配流の地(34)と傳へられてゐた地を後人が麻積王のこととしたものでもあらうか。さういふ例も少くない。血鹿島は今の五島。
 
    天皇の御製の歌
25 み吉野の 耳我《みみが》の嶺《みね》に 時なくぞ 雪は落《ふ》りける 間なくぞ雨は零《ふ》りける その雪の 時なきが如《ごと》 その雨の 間《ま》なきが如《ごと》 隈もおちず 思ひつつぞ來《く》る その山道を
 
〔題〕 天皇 天武天皇。
〔譯〕 吉野の耳我の嶺には、いつと定まつた時もなく、雪は降つてゐる、絶間なく雨は降つてゐる。その雪の時を定めず降るやうに、その雨の止む時もなく降るやうに、山道の曲り角毎に、物思ひをしながら來ることである。その山道を。
〔評〕 曲り曲つて嶮しい山道の情景を、やがて譬喩とし給うたのであるが、素朴な古風な表現で、對句も巧みに用ゐられ、單調な山道を物思ひしつつ登ります趣がよく伺はれる。その心を惱まされたのは何であらうか。これを御即位前、皇太子の位を辭して吉野に入られた時の歌であるとする代匠記、考等の説に據れば、この點は如何にもふさはしい思がするのであるが、さうすれば、前出の三山の歌が、天智天皇の皇太子の御時の御歌であるので、皇極天皇の項に掲げてあると同様、これも天智天皇の項にあるべきである。しかしこの點に関しては、これらを飛鳥宮に於いて、天皇が即位前の吉野行幸の体験を回想遊ばされての作とする論がある。(高木氏の「吉野の鮎」參照)。しかし、さう斷定すべき資料はない。おそらく編纂當時にも、年時不明の爲、ここに置いたのであらう。また一方、相聞の物思と解する説もあるが、これは巻十三に、「み吉野の御金の嶽に」の類歌があり、その結句に「吾はぞ戀ふる妹が正香に」(三二九三)とあるのによるわけである。しかしそれは作者を記さず、又この歌の次に異傳が記されてゐるのを見れ(35)ば、或はこの歌は大歌の謠物として流布してゐた爲、種々の形が生れたものとも思はれる。從つて巻十三と違つた考方をして差支ないと思ふ。なほ形の似よつた歌としては、巻十三に「三二六〇」の長歌がある。
〔語〕 ○耳我の嶺 今いづれの山か不明。金峯山とする精考(菊池氏)の説がある。○時なくぞ 何時と定つた時なく。○隈もおちず 隈は道の曲り角。「一七」參照。おちずは残さず。すべての曲り角毎に。○その山道を 「を」は上に反つて山道を來ると解するのが普通であるが、感動の助詞と解する説もある。
〔訓〕 ○耳我の嶺 前記巻十三の類歌に「御金高爾」とあるので、これもミカネノタケと訓む古義の説もあるが、それと同様に解する要はない。
 
    或本の歌
26 み芳野の 耳我《みみが》の山に 時じくぞ 雪は落《ふ》るとふ 間《ま》なくぞ 雨は落《ふ》るとふ その雪の 時じきが如《ごと》 その雨の 間《ま》なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ來る その山道を
     右は、句々相換れり。此に因りて重ねて載す。 
 
〔題〕 或本といふのは、萬葉集編纂の資料の一となつた歌集で、これは傳承の間に異同の生じたものと思はれる。
 
    天皇、吉野宮に幸しし時の御製の歌
27 淑人《よきひと》のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ
     紀に曰く、八年己卯五月庚申の朔にして甲申の日、吉野宮に幸しきといへり。
 
〔題〕 吉野宮は、中莊村宮瀧の地とする説がよい。近年、石葺、礎石なども発掘されてをる。(北島氏「萬葉集大和地(36)誌」參照)。この地は、應神天皇以來度々行幸があり、集中にも多く見えてをる。
〔譯〕 古のよい人が、よいところであるとて、よく見て、成る程よいといつた吉野をよく見よ。古のよい人がよく見たところである。
〔評〕 集中、吉野の景を讃めた歌は少くないが、これはかはつた調の歌で、御即位後の行幸の明るい氣特がよくうつされてゐる。又、「來むといふを來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ來じといふものを」(五二七)と共に、頭韻の最も著しい例であるが、單に技巧のみに終るところを、適宜な字餘りと、四句と五句との抑へ方とで、御風格を偲ぶに餘りある秀歌である。
〔語〕 ○淑人 君子などと同じく、誰といふことはなく、古人を尊んだ語。「古の賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも」(一七二五)の例もある。
〔訓〕 ○よき人よく見つ 白文「良人四來三」を、古義はヨキヒトヨクミと訓み、又ヨキヒトヨクミヨと改める玉の小琴の説もあるが、命令の形としては、上のヨキヒトと別人をさすこととなり、穩かでない。略解に引いた荷田御風の説による。
 
藤原宮《ふぢはらのみやに》御宇天皇代 【高天原廣野姫《たかまのはらひろのひめの》天皇
 
    天皇の御製の歌
28 春過ぎて夏來たるらし白妙《しろたへ》の衣《ころも》ほしたり天《あめ》の香具山
 
〔代號〕 藤原宮は、持統文武二代の皇居。今の鴨公村大字高殿の地で、近く朝堂院や廻廓等が發掘された。しかし、藤原宮は前後二つあつて、この高殿のは前のもので、後移轉して西北約六町の同村醍醐の東長谷田の地に宮を定めら(37)れらたのであると説く喜田博士の説も出てゐる(「藤原京」)。
〔題〕 天皇 持統天皇。天智天皇の皇女、天武天皇の皇后。
〔譯〕 いつの間にか春が過ぎて、夏が來たさうな。皇居から見える青々とした香具山に、白い衣が干してあることよ。
〔評〕 季節の推移を歌つた歌は古來少くないが、これは、卷八卷頭の志貴皇子の歌(一四一八)と共に、最も秀れた御作である。上二句は推量で、下三句は現實の情景である。「大和の青香具山」といはれた瑞々しい色の香具山を背景に、くつきりと白い衣のほしてあるのが見える清々しさ。それに初夏の明るい光が照つてゐたのであらう。簡勁直截な表現に、鮮明な印象を與へられる。二句と四句とで切り、五句を體言でしつかりと抑へられた聲調、實に美しく整つてをる。なほ新古今集や百人一首には、「春過ぎて夏來にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」とあるが、「ほすてふ」は乾してゐるといふの意であつて、直接に香具山を御覽でない趣となり、甚しく御歌を傷つけたものである。
〔語〕 ○きたるらし 「らし」は根據をもつて推量する意味の助動詞。來たらしい。來たさうな。○白妙の 妙は栲の借字、栲は楮などの植物の繊維で織つた布をいふ。ここでは枕詞ではない。
 
    近江の荒れたる都を過《す》ぎし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
29 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山の 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御代ゆ【或は云ふ、宮よ】 生《あ》れましし 神のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを【或は云ふ、めしける】 天《そら》にみつ 倭を置きて あをによし 奈良山を越え【或は云ふ、そらみつ大和を置きあをによし平山越えて】 いかさまに おもほしめせか【或は云ふ、おもほしけめか】 天離《あまざか》る ひなにはあれど 石走《いはばし》る 淡海《あふみ》の國の ささなみの 大津の宮に 天《あめ》の下 知らしめしけむ 天皇《すめろぎ》の 神の尊《みこと》の 大宮は 此處《ここ》と聞けども 大殿は 此處《ここ》と言《い》へども 春草の 茂く生ひたる、 霞立つ (38)春日の霧《き》れる【或は云ふ、霞立つ春日か霧れる、夏草か繁くなりぬる】 百磯城《ももしき》の 大宮處《おほみやどころ》 見れば悲しも【或は云ふ、見ればさぶしも】
 
〔題〕 近江の荒れたる都 前掲の天智天皇の皇居、近江大津宮。帝都として榮えたのは四年餘で、その後兵火にかかり、天武天皇の御代には荒廢してゐたものと思はれる。柿本人麿は、萬葉集による外、傳記不明であるが、持統天皇文武天皇の頃、宮廷に仕へ、身分はあまり高くなかつたと考へられる。
〔譯〕 畝傍山の橿原の宮で天下をお治めあそばされた神武天皇の御代よりこの方、代々の天皇は、皆次々に此の大和に於いて天下をお治めになつたのに、どういふ御考があらせられたのか、大和をあとにお置きになつて、奈良山を越え、田舍ではあるが、近江の國の大津の宮で天下をお治めになつた、天智天皇の宮殿は此處と聞いてゐるが、御殿はここと聞いてゐるが、春草が茂く生え、霞がたちこめて、春の日はぼうつとかすんでゐる。この皇居の址を見ると、心悲しいことである。
〔評〕 舊都を歌ひ、廢墟に感慨を逃べた詩文は古今少くない。その中にあつて、この長歌は不朽の傑作の一であり、また人麿の作としても代表的なものである。天智天皇は、飛鳥の舊勢力を脱れられる爲であらせられたか、東北の經營をおぼし立たせられた故であるか、反對をおして、近江滋賀の地に新都を奠め、大陸の文化を攝取して燦然たる文化を建設し給うたのであるが、一朝兵火にかかつて、未だ十數年を經ぬこの時、既に荒廢に歸し、世の移り變りと共に、世人の感慨も深かつたものであらう。
 人麿はこのことを敍するにあたつて、遠く神武天皇の御代より説き起し、「いかさまに思ほしめせか」と、僅かに主觀を語るのみで、枕詞や對句を多く用ゐ、遷都に至る長い歴史を莊重に敍べ、眼前なる荒都の寫生といふべきは、僅かに末尾の四句に止まる。かかる手法は人麿の常の手法であり、彼が個人的感情を歌ふ詩人ではなく、國民的感情を敍べる詩人であるといはれる一の原因でもある。末尾の「春草の」以下は、短いながら深い嘆聲と相和して、すぐ(39)れた寫生である。句法の上では、全體が、切れようとしてしかも綿々とつづく長い息づかひと、「いかさまにおもほしめせか」と中間に挿入したいひ方が注意される。
〔語〕 ○玉襷 畝傍にかかる枕詞。たすきをうなじ(項)にかけることをうなぐといふから、うねにかかる枕詞としたといふ説がよい。○日知の御代ゆ 日知は天つ日嗣しろしめす意(考)、ここは神武天皇を申上げる。ゆは、よりに同じ。○あれましし あるは出現するの意。お生れになつた。○神のことごと 現神《あきつかみ》におはします天皇の御代々々。○樛の木の 樛は樅に似た針葉樹で、普通に栂の字をあて、とがといふ。ここは音調が似てゐるので、つぎつぎの枕詞とした。○いやつぎつぎに いやはいよいよ。○天にみつ 大和の枕詞。そらみつ 「一」參照。○青によし 「一七」參照。○いかさまに どのやうに。○おもほしめせか おもほすは思ふの敬語。「めせか」は、「めせばか」の古格。めすからかの意。○天離る ひなの枕詞。大空遠く隔り離るの意。○ひなにはあれど ひなは都以外の地方。東國をあづまといふに對し、都の西又は北の國をさすことが多い(古義)。邊鄙な地であるが。○石走る 石の上を勢よく走る「溢水《あふみ》」の義で、近江にかかる枕詞(古義)。○淡海の國 あふみはあはうみ即ち淡水の湖《うみ》の意で、琵琶湖のこと。淡海の國は近つ淡海の國、即ち近江國をさす。○ささなみ 琵琶湖西南岸地方を廣くさした名稱。枕詞ではない。樂をササと訓ませるのは神樂聲の略で、神樂のはやし詞から出たものであらう。萬葉時代には、「ささ」と清《す》んでよんだのを後に「さざ」とよむやうになつた。○しらしめしけむ しらすは、しるの敬語、しるは領ずる、治めるの意。○すめろきの神の尊 すめろきは前代の天皇を申上げるが、後現在の天皇をも申上げるやうになつた。○霞立つ 霞の立つてゐる。枕詞ともみられる。○春日の霧れる 霧るはぼうつとしてゐるの意。○百磯城の 百石城、即ち多くの石で築いた一かまへの意で、宮の枕詞。○大宮處 皇居の地域。○見ればさぶしも さぶしはさびしに同じ。心樂しまぬの意。
〔訓〕 ○知らしめす 白文「所知食」を、シロシメスと訓む説も多いが、集中假名書の例はすべてシラシメスとある(40)ので、それによる。○石走る 白文「石走」を、考はイハバシノとよみ、石橋即ち川の中に所々置いた石の間の意で、間《あひ》にかけ、淡海の枕詞としたものといふが、從へない。○霞立つ 「カスミタチ」と訓む攷證の説もある。
 
    反歌
30 ささなみの志賀の辛崎《からさき》幸《さき》くあれど大宮人の船待ちかねつ
 
〔譯〕 かつて此の大津が、近江朝廷の都として榮えた頃、大宮人が常に船を寄せて遊んだ辛崎は、昔のままであるが、もはや、大宮人の船は、とこしへに待ち得べくもない。
〔評〕 長歌と異つた方面より歌つてゐるのであるが、さながら名鐘の餘韻をきくやうである。自燃の風物に比して人事の怱忙を歌ふことは古來多いが、「ささなみの志賀の辛崎」と靜かに歌ひ出して、「大宮人の舟待ちかねつ」と息を大きくとめた此のしらべは、まことに得難いものである。
〔語〕 ○志賀の辛崎 滋賀は今の滋賀郡、琵琶湖の西南岸地方。辛崎は唐崎の松のある岬。○幸くあれど さきくは、書紀に、無恙、平安などの字を訓んでゐるやうに、無事で變らずの意。○待ちかねつ 待つてもその甲斐がない。
 
31 ささなみの志賀の【一に云ふ、比良の】大曲《おほわだ》淀むとも昔の人に亦も逢はめやも【一に云ふ、あはむともへや】
 
〔譯〕 志賀の入江は昔のやうに今も淀んでゐるが、たとへ其のやうに淀んでゐても、昔の宮人達に又あへようか。
〔評〕 前の反歌と同樣、自然物を人に擬して自らの感慨を歌つたのであるが、靜かに淀んだ大わだは、この靜かに悠久な天地を思はせるやうである。五句の字餘りで大きく止めたところも見逃せない。
〔語〕 ○大曲 わだは灣入したところ、入江。わたつみのわたと同じく廣い水面とする拾穗抄の説は、歌意にふさは(41)しくない。○淀むとも ともは假定條件を表はすに用ゐ、事實に反する假説に多く用ゐるが、事實の存する時も用ゐる。ここもそれで、淀んでをるが、さうして淀んでをつてもの意。「八田の一本菅は一人をりとも」(仁コ紀)「山川を中に隔りて遠くとも心を近く思はせ吾妹」(三七六四)(佐伯氏萬葉語研究參照)。○昔の人 大津宮の大宮人などをいふ。○あはめやも あはうか、あひはしない。
 
    高市古人《たけちのふるひと》近江の舊き堵を感傷して作れる歌 或書に云ふ、高市連黒人なりと
32 古《ふ》りにし人にわれあれやささなみの故《ふる》き京《みやこ》を見れば悲しき
 
〔題〕 高市古人 傳不詳。或書に云ふ黒人は、集中十數首の作が見えるが、古人を誤とすべき確證はない。
〔譯〕 自分は果して時勢をくれの人なのであらうか。大津の舊都の跡を見ると、心悲しいことである。
〔評〕 人麿は個人的感情をうたはず、國民的感情を代表すると前に逃べたが、この歌と對比すれば一層明らかであらう。この歌では、自分は當世の人と違ふのではないかと、自分の感傷を反省してゐるのである。舊都の荒廢した情景よりも、先づ自省を中心として歌つてをる。しらべは古調を殘してをるが、其のしらべは既に細く、内容も新しさを加へてをるといへる。
〔語〕 ○古《ふ》りにし人 時勢におくれた人(新解)。○我あれや あれやは、あればやの古格で、あるからかの意。
〔訓〕 ○古りにし人に 白文「古人爾」を代匠記を初め「イニシヘノヒトニ」と訓み、大津宮の時の人をさすといふ註も少くない。集中の用例としては雙方ともあつて、何れとも決し難いが、調べからはフリニシがよいやうである。
 
33 ささなみの國つ御神のうらさびて荒れたる京《みやこ》見れば悲しも
 
(42)〔譯〕 この樂浪地方を支配したまふ神の心が寂しくおなりになつて、このやうに荒れた都を見ると、悲しいことである。
〔評〕 その土地を支配せられる神が樂しまなくなられた結果、その土地が荒廢するといふ觀念は、恐らく古代人の信仰であらう。新考は神の廣前のさびしく見えるのであるといつてをるが、さうでなく、荒都を見て、その土地の神の心を推察したものと考へた方がよい。人麿とは違つた意味で、荒都の寫生をせず、その理由を述べてをる點に注目せられる。
〔語〕 ○國つ御神 ここはその地を支配せられる神。天つ神に對する地祇ではない。新考は大山咋神、即ち日吉《ひえ》神社の祭神をさすといつてゐる。○うらさびて うらは心、さぶは寂しく樂しまぬ樣。これを心すさび、荒びてと解する註も考以下多いが、他の例より推して從へない。
 
    紀伊國に幸しし時、川島皇子《かはしまのみこ》の御作歌《つくりませるうた》 【或者云、山上臣憶良の作なりと】
34 白波の濱松が枝《え》の手向草《たむけぐさ》幾代までにか年の經ぬらむ【一に云ふ、年は經にけむ】
     日本紀に曰く、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇、紀伊國に幸しきといへり。
 
〔題〕 川島皇子 天智天皇の第二皇子。なほこの歌は卷九(一七一六)にも見え、其處には山上憶良作、或は云ふ川島皇子の作と傳へてゐる。
〔釋〕 白波のうち寄せる海濱の松の枝にかかつてゐる手向の幣《ぬさ》は、一體今までに幾代の長い年月を經過してゐるのであらうか。
〔評〕 自分も今此處に來て、旅といふ氣持をしみじみ思ふにつけても、この手向ぐさの主は見知らぬ人ではあるが、(43)何かしら其の人の上に心のかかることであると、松に寄せて古へを思ひ、自らを思ふ、感傷のひびきのない平明な作ではあるが、よく味へばしみじみとした情趣を持つてゐる歌である。
〔語〕 ○白浪の濱松 露霜の秋の如く、中間の用言を略した言ひ方で、白浪のうち寄する濱松の意。○手向草 草は借字で、種、料の意で、手向としてささげるものの義。昔、旅にあつて、手向のものを神に奉り、行路の平安を祈る習はしがあつた。○年の經ぬらむ らむは現在推量であり、一本のけむは過去推量である。一方は現在の眼前のものを主とし、一方は過去を主としてゐる相違がある。
〔左註〕 日本書紀によつて行幸の年月を記したもの。なほ、朱鳥は天武天皇の年號で、今の書紀には一年で終つてゐる。
 
    勢《せ》の山を越え給ひし時、阿閉皇女《あべのひめみこ》の御作歌《つくりませるうた》
35 これやこの大和にしては我が戀ふる紀路《きぢ》にありとふ名に負《お》ふ勢の山
 
〔題〕 勢の山 紀の川の北岸、紀伊國伊都郡笠田村にあり、往古の大和より紀伊に通ふ路にあたつてゐる。阿閉皇女は天智天皇の第四皇女で、草壁皇太子(日雙皇子)の妃、文武天皇の御母、後、即位して元明天皇と申上げる。
〔譯〕 これがまあ、あの大和にあつて、自分の戀ひ慕うてをる背の君の背といふ名をもち、あの紀路にあるとて名高い背の山であるか。
〔評〕 前記持統天皇四年の行幸の際の御作と思はれるが、その前年に御夫君草壁皇子は薨じ給うたのである。それを思へば、今から見ては言葉の遊戯とも考へられさうなこの勢の山のせといふ音から夫の君を思ひ出すといふことも、切實な感情から自然に流れてきたものと思はれる。また第四句は、主題から遊離してゐて、一見不自然な言ひ方が、(44)よく味へば不思議なまとまり方をしてをる。
〔語〕 ○これやこの これがあの背の山であるのか、の意。○大和にしては、大和にあつてはの意。○我が戀ふる 第四句をへだてて第五句の背につづく。○紀路にありとふ 路《ぢ》はその土地に向ふ路をさす場合と、その地にある街道をさす場合とあるが、ここは前者で紀伊に至る道の意。とふは、ちふともいふ。後世のてふに同じ。○名に負ふ背の山 名に負ふは名として持つてゐるの意。背は男子の稱。多く夫をさす。ここは背といふ名をもつてゐる勢の山の意。
 
    吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
36 やすみしし 吾|大王《おほきみ》の 聞《きこ》し食《め》す 天《あめ》の下に 國はしも 多《さは》にあれども 山川の 清き河内《かふち》と 御心《みこころ》を 吉野の國の 花|散《ち》らふ 秋津の野邊に 宮柱 太敷《ふとし》きませば 百磯城《ももしき》の 大宮人は 船《ふね》竝《な》めて 朝川渡り 舟競《ふなぎほ》ひ 夕川わたる この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水|激《たぎ》つ 瀧の宮處《みやこ》は 見れど飽かぬかも
 
〔譯〕 吾が大君の統治あらせられる天の下に、國は多くあるが、山や川の清い河内として、吉野の國の秋津の野邊に、宮柱をしつかりと建てて宮居を御造りになると、大宮人たちは、或は船をならべて朝川を渡り、或は舟を競うて夕川を渡るが、この川のやうに絶えることなく、この山のやうにいよいよ壯大に御座あそばされる此の激流のほとりの宮處は、いつまで見ても飽かぬことである。
〔評〕 この長歌は二段に分れ、前半は離宮選定より現在の繁榮を敍し、第二段は離宮の風物を用ゐて祝の詞を述べ、最後に作者の讃嘆の二句に終つてゐる。この長歌も次の長歌同樣、宮室に對する祝ひ詞とほめ詞で終始してをり、單純な戯景歌でない。
(45)〔語〕 ○やすみしし 「三」參照。○聞し食す 統治し給ふ。○さはにあれども 多くあるが。○山川 山と川の義でカハは清音。山に在る川の場合は連濁でヤマガハとよむ。○河内と 河内は河が行きめぐり、河に包まれたやうになつた土地。とは、としての意。○御心を 枕詞。御心よ善しの義といふ説と、御心をよすとの意でかかるとの二説がある。○吉野の國 この國は一區域をなしてゐる地方といふ意であるが、古律疏に、大倭の次に芳野國とある。(百代草參照)○花散らふ ふは繼續の意をあらはす辭。この花を櫻の花といふ全譯の説は如何と思はれる。廣く春の花をさすのであらう。○秋津の野邊 吉野離宮の推定地である宮瀧附近に、秋戸の名が殘つてゐて、ここにあてる説が多い。他に、明つの意で吉野川の溪谷が急に開けて明るくなつたところをさし、宮瀧の地をいふとの説もある(萬葉集大和地誌)。○宮柱太敷きませば 宮柱を太く立派にお作りなさるの意。太しきは太知りともいひ、太は壯大にしつかりと、しきは或る地域を占據する意。祝詞、古事記等に用例が多い。「下つ磐ねに宮柱太しきたて」(大祓詞)。○船竝めて 船をならべて。○朝川渡り 朝に川を渡り、次の夕川渡ると對してゐる。「未だ渡らぬ朝川渡る」(一一六)參照。○いや高知らす いやはいよいよ。山のやうに高く壯大に御占め遊ばされるの意。○水激つ 水の迸り流れる。○瀧の宮處は たきは奔湍、激流の意で、「たぎつ」「たぎる」と同じ語根をもつ。古くは垂直の瀧のみをささない。
〔訓〕 ○作れる歌 白文「作歌」は、通行本に歌の字がない。古葉略類衆鈔等によつて補ふ。○いや高知らす水激つ 白文「彌高思良珠水激」の上の四字、通行本等の仙覺本系は「彌高良之」とあるので、ここまでを一句とし、「イヤタカカラシ」と訓み、「珠水激」を「イハバシル」(考)と訓む註が多いが、元暦校本、類聚古集等の「彌高思良」に從ひ、「珠」を上の句につけてイヤタカシラスと訓むのが、意味からも、傳本研究上よりも穩かと思はれる。「珠」をスと訓む例は「波太須珠寸」(一六三七)に見える。また「水激」は「ミヅハシル」とも訓める(新解)。
 
    反歌
(46)37 見れど飽かぬ吉野の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまた還り見む
 
〔譯〕 いくら見ても飽くことのないこの吉野の川の石の常に滑らかであるやうに、永久に變ることなく、又ここに來て見たいものである。
〔評〕 長歌の終りの句をとつて冒頭とし、長歌と同樣、莊重喘正と評すべき歌である。この句法は、この種の反歌の典型となり、後の奈良時代の歌人に與へた影響が大きく、次の如き例が見られる。「み吉野の秋津の川の萬世に絶ゆることなくまた通り見む」笠金村(九一一)。「もののふの八十氏人も吉野河絶ゆることなく仕へつつ見む」大伴家持(四一〇〇)。
〔語〕 ○常滑の この語は異説が多い。なめは竝で、頂平な石の列つてゐるものをいひ、神を祭る壇の用をする(新考及び同書所引柳田氏説)とも、水底の石などについてをる苔の類(古義)、石の常に滑らかなことをいふ(略解)などある。今最後の説に從ふ。「こもりくの豐泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ」(二五一一)參照。以上三句は次句をひきだす序。
 
38 やすみしし 吾|大王《おほきみ》 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 芳野川 たぎつ河内《かふち》に 高殿を 高しりまして 登り立ち 國見をせせば 疊《たたな》はる 青垣山 山祇《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつき》と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉《もみぢ》かざせり【一に云ふ、もみぢばかざし、】 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川の神も 大御食《おほみけ》に 仕へ奉《まつ》ると 上《かみ》つ瀬に 鵜川を立て 下《しも》つ瀬に 小網《さで》さし渡す 山川も 依《よ》りて奉《まつ》れる 神の御代かも
 
〔譯〕 吾が大君は神としての御行ひをあそばされるとて、吉野川の激流のほとりに高殿を高くを構へになり、そこに(47)登り立ち國見をあそばされると、幾重にも重なつて青い垣のやうにとり圍んでをる山は、山の神の奉る貢物として、春は花をかざしのやうに持つてをり、秋になると黄葉《もみぢ》をかざしてゐる。この宮に添うて流れてゐる川の神も、御食膳に奉仕申し上げようと、川の上の瀬には鵜飼を行ひ、下の瀬には小網《さで》をさし渡して魚を捕つてゐる。かやうに山の神も川の神も歸服しまつり、奉仕申し上げる神の御代であるよ。
〔評〕 この長歌の構成は、冒頭に天皇が離宮を定められ、そこに國見なせさせられる趣を述べ、次の前半には、山の神が仕へまつる趣を、後半には川の神が仕へまつる趣を敍し、結尾として盛コの畏さを嘆美してゐるのである。しかして次の前半と後半は對句をなし、更にその中がまた對句をなしてゐる。かく整齊した形式をとつてゐる反面、季節が明確ではないが、前の長歌同樣、それは作者の意圖しなかつたことであつて、最も力を注いでゐるのは、聖コの讃嘆なのである。
〔語〕 ○神ながら 神にましますままに。○神さびせすと さびは、少女さび、翁さびの如く、そのものらしき振舞をするの意。せすは、すの敬語。とはとての意。○高殿を高知りまして 高大な殿を高々とお作りになつて。○せせば したまへばの意。○たたなはる 疊まり重なるの意。ここは山の重疊してゐる樣をいふ。たたなづくに同じ。○青垣山 青々とした山が垣のやうになつたのをいふ。「たたなづく青垣山こもれる大和しうるはし」(古事記)この句の下に「は」を補つて解するとよい。○やまつみ 山の神。みは神の意。○まつる御調《みつき》と まつるは奉る。御調は公に用ゐられる品物を下からささげるをいふ。とは、としての意。○春べは 春の頃はの意。○かざし持ち かざしは髪の飾として頭に挿すもの。○逝き副ふ 宮殿に沿ひ流れる。○大御食 御食饌。○鵜川を立て 鵜川は鵜を使つて魚を捕ること、立つは御狩にたたすのたつと同じで、鵜飼を行ふの意。勿論事實は川の神が鵜飼をさせるわけではないが、かく云ふことによつて自然物も奉仕することをいつてゐるのである。○小網《さで》さしわたす さでは小網、さすはかける、わたすは連ね竝べる。○山川も、山の神も川の神も。○依りてまつれる 寄り從つて奉仕する。
(48)〔訓〕 ○疊はる 白文「疊有」で、舊訓「タタナハル」は他に用例がないので、クタナヅクの誤とし、「有」を「著」(僻案抄)「付」(記傳)等に改める註があるが、類聚名義抄に「委」をタタナハルと訓み「委」は積の意であるから、舊訓のままでよい(講義)。○逝副川 通行本は、「遊副川」とあり、これに從つてユフ川と訓み、川の名としてゐる註が少くないが、元暦校本の「逝」に從ひ、訓は古葉略類聚鈔のユキソフカハノに據るべきである。なほこれをユキソヘルと五音に訓む説もあるが、四音の方が古調でよい。○まつれる 白文に奉流とあるによる。
 
    反歌
39 山川よりて奉《まつ》れる神ながらたぎつ河内《かふち》に船出《ふなで》するかも
      右は、日本紀に曰く、三年己丑正月、天皇吉野宮に幸しき。八月吉野宮に幸しき。四年庚寅二月、吉野宮に幸しき。五月、吉野宮に幸しき。五年辛卯正月、吉野宮に幸しき。四月、吉野宮に幸しき、といへれば、未だ何《いづれ》の月|從駕《おほみとも》にして作れる歌なるかを詳に知らず。
 
〔譯〕 吾が大君は、山も川も歸服して仕へまつる神であらせられるままに、水の激しく流れる河内に船出あそばされることであるよ。
〔評〕 長歌の複雜な内容を上二句にまとめ、下三句を以て御船出を歌つてをる。長歌を壓縮要約しつつ、新しい内容をも發展させる手腕を見るべきである。
〔語〕 ○神ながら この句は第五句につづく。
 
    伊勢國に幸しし時、京に留りて柿本朝臣人麻呂の作れる歌
40 嗚呼見《あみ》の浦に船乘《ふなのり》すらむをとめ等《ら》が珠裳《たまも》の裾に潮滿つらむか
 
(49)〔譯〕あみの浦で船出をしようとしてゐるであらうあのをとめらの裳の裾に、潮が滿ちて來てぬらすことであらうか。
〔評〕 若く華やかな女官の群が、山地の大和に住んでゐては見られない海を喜んで、賑はしく遊ぶ樣が鮮かに寫し出され、なだらかな調べを持つ、明るく美しい歌でなる。
〔語〕 ○嗚呼見の浦 不明。訓詁の條參照。○船乘 船出。「八」參照。○珠裳 珠は美稱、裳は女子の袴。
〔訓〕 ○白文 「嗚呼見乃浦」の「嗚」は類聚古集等に據る。通行本「鳴」は誤。なほ「三六一〇」には「安胡《あご》乃宇良」とあり。また書紀のこの時の行幸の記事にも阿胡の行宮とあり、志摩國英虞郡で、今の國府の地に當ると思はれるに對し、「あみの浦」といふ名は見當らぬので、これを「嗚呼兒乃浦」と改める説が僻案抄以來有力である。しかし「三六一〇」の左註に「柿本人麻呂歌曰、安美能宇良」とあり、この左注を全釋の如く後人の註とすべき根據もなく、當時かかる傳へのあつたことは疑へないので、原字面による。
 
41 釼著《くしろつ》く手節《たふし》の埼《さき》に今日もかも大宮人の玉藻苅るらむ
 
〔譯〕 答志の埼で、今日このごろはまあ、大宮人は、美しい藻を苅つてゐるであらうか。
〔評〕 釼著くは恐らく作者の創意した枕詞であらう。そして女官達は釼を腕につけてゐるものと思はれる。藻を刈るのは戯れてあらうが、前の歌と思ひあはせると、潮にぬれて色鮮かな裳(卷十六の歌によれば赤裳)、白い腕、みづみづしい藻と、まことに美しい繪のやうである。
〔語〕 ○釼著く くしろは釧と書くが正しく、臂や腕に纒く飾で、金屬、玉、石などで作る。これは手につけるものであるから、くしろ著くは手にかかる枕詞(品田太吉氏)。○手節の埼 今の志摩國|答志《たふし》郡答志島の岬。
〔訓〕 ○釼著 類聚古集等に據る。通行本の「劔著」は誤。
 
(50)42 潮騷《しほさゐ》に伊良虞《いらご》の島|邊《べ》榜《こ》ぐ船に妹乘るらむか荒き島|回《み》を
 
〔譯〕 潮の立ち騷ぐ時に、伊良虞の島のほとりをこぐ船に、あの人も乘つてゐるであらうか、あの浪の荒い島のあたりを。
〔評〕 作者はこの歌に始めて妹といふ語を用ゐて、供奉の女官の中に特に指す人のあることを明かにしてゐる。遠く人を思ふ情が滿ちてをり、特に五句にその感が深い。三首續けて誦して興味のまさるのを覺える。
〔誤〕 ○潮騷に 潮の滿ちて來る時、海水のざわざわ立ち騷ぐをいふ。さゐはさわぎに同じ。「珠衣のさゐさゐしづみ」(五〇三)參照。には、に際しての意。○妹乘るらむか この妹は廣く從駕の官女をさすといふ説もあるが、やはり特にさす人があるのであらう。○島回 島のめぐり。
〔訓〕 ○島回を 白文「島回乎」で、古くシマワヲと訓んでゐるが、「之麻未《シマミ》」「浦箕《ウラミ》」の例もあり、シマミ(檜嬬手)とよむがよいであらう。
 
    當麻眞人《たぎまのまひと》麻呂の妻の作れる歌
43 吾背子はいづく行くらむ奧《おき》つ藻の名張《なばり》の山を今日か越ゆらむ
 
〔題〕麻呂 傳不詳。これと同じ歌が卷四にも載つてをり(五一一)、それには當麻麿大夫とあつて、後世の五位以上の人と思はれる。眞人は姓《かばね》である。
〔譯〕 我が夫は、今頃何處を通つてをられるであらう。あの名張の山を今日あたり越えてゐられることであらうか。
〔評〕 まづ「いづく行くらむ」と考へるやうにいひ、やがて指を折つて日數をかぞへて、「名張の山を今日か越ゆらむ」と推量してゐるのである。らむを二句と結句とに重ねて調べを美しくととのへてゐるが、一首に旅の人を思ふし(51)みじみとした情趣がみられ、親しむべき歌といふ感を與へる。なほこの結句を用ゐた歌は卷九と卷十二とに各一首見え、又他にも類似の句は少くない。
〔語〕 ○奧つ藻の 奧ふかいところの藻の外より見えぬ意から、隱《なばり》にかけた枕詞。なばりは隱れるの意の古語。○名張の山 伊賀國名張郡名張町附近の山。大和より伊勢へ通ずる道に當る。
 
    石上大臣《いそのかみのおほまへつぎみ》の、從駕《おほみとも》にして作れる歌
44 吾妹子《わぎもこ》をいざみの山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも
     右は、日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰春三月丙寅の朔にして戊辰の日、淨廣肆廣瀬王等を以ちて留守の官と爲しき。是に中納言|三輪朝臣高市麻呂《みわのあそみたけちまろ》、其の冠位を脱ぎて朝にフ上《ささ》げ、重ねて諫めて曰さく、農作の前、車駕未だ動かすべからずと申しき。辛未の日、天皇、諫に從ひたまはずして遂に伊勢に幸しき。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡の行宮《かりみや》に御《おはしま》しきといへり。
 
〔題〕 石上大臣 石上朝臣麻呂。大寶元年三月大納言となり、右大臣、左大臣を經、養老元年薨じ、從一位を贈られた。從つてこの時はなほ中納言ほどであつたと思はれるが、後の官に從つて書いたものであらう。
〔譯〕 いざみの山が高いからであらうか、大和の國は見えない。或は國が遠いから見えないのであらうか。
〔評〕 初句「吾妹子を」は「いざみ」の枕詞ではあるが、一方からいへば「吾が妻をさあ見たいと思ふが」といふ氣持を含んでゐるのである。この歌、第三句で切れ、第四句で一度文を終り、更に結句で再び、かもを繰り返して疑つてゐる。しかも四句「見えぬ」は、どこか餘情を殘してをり、單純な四句切れとは異なる。休止の多い、しかも音樂的な佳調を持つて、淡い旅愁ともいふべき感情をたたへてゐる。卷十一に「玉藻刈る井提《ゐで》のしがらみ薄みかも戀の淀める吾がこころかも」(二七二一)があり、調べの上では似てゐるが、この歌のやうな單純の中にたたへた情趣は見ら(52)れない。
〔語〕 ○吾妹子《わぎもこ》を 吾が妻をいざ見ようの意で、次の句の枕詞としたもの。○いざみの山 伊勢國飯南郡波瀬村の西、大和との國境にある高見山をさすといはれる。○高みかも 高いからであらうかの意。○大和の見えぬ ぬは上のかもに對する第二終止。大和が見えない。○國遠みかも 國が遠いから大和が見えないのであらうかと再び繰返したもの。
〔左註〕 書紀により行幸を檢したもの。淨廣肆は天武天皇の時制定せられた諸王以上の位階十二の最下位に當る。五月乙丑云々とあるのは注者の誤で、車駕は三月乙酉(二十日)還幸、五月庚午(六日)藤原宮に於いて、阿胡行宮におはした時、贄を奉つた者に賞を賜うた由が紀に見えるのを、誤解したのである。
 
    輕皇子《かるのみこ》の安騎《あき》野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
45 やすみしし 吾|大王《おほきみ》 高照す 日の皇子《みこ》 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 太敷《ふとし》かす 京《みやこ》を置きて 隱口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山は 眞木《まき》立つ 荒山《あらやま》道を 石《いは》が根《ね》の ?枝《しもと》おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり來れば み雪降る 阿騎《あき》の大野に 旗薄《はたすすき》 しのをおし靡《な》べ 草枕 放宿《たびやど》りせす 古《いにしへ》念ひて
 
〔題〕 輕皇子 文武天皇を申上げる。日雙知皇子即ち、草壁皇太子の御子、御母は元明天皇。皇太子とならせられたのは持統天皇十一年のことで、この歌はそれ以前の作と思はれる。安騎野は、大和國宇陀郡松山町附近の宇陀川流域の平地をいひ、式内阿紀神社がある。
〔譯〕 わが皇子輕皇子は、神としての御行ひを遊ばされるとて、立派な都をあとにして、あの泊瀬の山は木々の生ひ(53)茂つた荒山道であるのに、石根や木々の枝を押し伏せて、渡鳥のやうに朝早くお越えになり、夕方になると、雪の降る阿騎の大野に、薄や篠を押し伏せて、旅の宿りを遊ばされる、古のことをお思ひになつて。
〔評〕 人麿は此の長歌に於いても、輕皇子が宇陀野においでになるまでの途中を主として描寫してゐる。勿論作者も供奉したのであるが、自身のことはいはず、輕皇子の御行動を述べてゐるだけである。「み雪ふる」「旗薄篠を押しなべ」等、短かい句ではあるが印象深い。最後の「古思ひて」の一句は、僅かに一句であるが、亡き御父君草壁皇子が御在世中遊獵したまうた野を慕うて來られたといふ目的を明かにし、深い感慨をもらしてゐるのであつて、一篇に緊張味と嚴肅な氣分とを與へてゐる。
〔語〕 ○やすみしし吾が大君 「三」參照。かく皇子に申上げることは「一九九」等にも例がある。○高照す 天高く照る意で、日の枕詞。○日の皇子 天照大神の御裔の意。○太敷かす しつかりとお造りになつた。「太しくたて」(三六)參照。○都を置きて 都をあとにして。○隱口の 泊瀬の枕詞。山に圍れてゐる隱《こも》り國の意。往昔この泊瀬は墓所であつたので、隱《こも》り城《き》の終《はつ》の意でつづける(久老)とか、木盛處《こもりく》、即ち木の繁茂してゐるところの意(古義)等の説は牽強に過ぎる。○泊瀬の山 はつせは今の初瀬町を中心に、、附近の朝倉村などを含む、やや廣い地域をいふ。○眞木たつ 立派な樹木の生えてゐる。○荒山道を この句は上の「泊瀬の山は」をうける。從つて「を」は、であるものをと解するがよい。荒山は人跡の稀な荒山の道の意。○岩が根 岩の根本。岩の大部分土に埋つて動かぬもの。○?枝 木の若い細い枝。和名抄に、「木細枝也」とある。○坂鳥の 朝越えの枕詞。渡鳥が朝早く山を飛び越え渡る如くの意。○朝越えまして 朝早く山をお越えになつて。○玉かぎる かぎるは、きらきら照り輝くの意。夕日の照り輝く意から夕の枕詞としたもの。「玉かぎるはろかに見えて」(靈異記)等、はろか、ほのかにもかかる。○夕さりくれば 「春さりくれば」(一六)參照。○み雪降る 枕詞ではなく、事實雪の降る季節であつたと思はれる。○旗薄 薄が旗のやうに靡く樣をとつていつたもの。下にやを補ふ。これを次句の修飾句として、旗薄のしなひ、或は旗薄の(54)幹《しの》等と解する説は誤。○しのをおし靡べ 小竹をおし伏せて。○古思ひて 古は御父草壁皇子がこの地に狩をせさせられた時をさす。
〔訓〕 ○?枝 白文「楚樹」は諸本「禁樹」とあるが、「楚樹」の誤とし、シモトと訓む考の説に從ふ。○玉かぎる 白文「玉限」は、タマキハル(舊訓)、カギロヒノ(考)等の訓は穩かでない。古義の説による。詳しくは、美夫君志別記參照。
 
    短歌
46 阿騎《あき》の野に宿る旅人うち靡き寐《い》も宿《ぬ》らめやも古《いにしへ》念《おも》ふに
 
〔評〕 阿騎の野に宿りをする旅人たちは、手足を伸ばしてゆつくりと眠れようか、古の事を思ふと。
〔評〕 長歌で途上を主として詠じたのに對し、これは野の宿りを述べ、又おほらかに旅人といつて、皇子を始め供奉の人々をさしてゐるが、その中に勿論人麿自身も加はつてゐる。長歌より一歩を進め、また長歌では「古思ひて」とだけいつたのを、ここでは更に重くにほはせてゐるが、なほ餘韻を多く殘してゐる。
〔語〕 ○うち靡き 手足を伸して安々と寢る樣。○寢《い》も宿らめやも いは寢るの名詞。ぬは動詞、寢る。從つて重ねて「いをぬ」といつても同じく寢るの意。寢ようとしても寢られようか。「いのねらえぬに」(三六七八)參照。
 
47 眞草《まくさ》苅る荒《あら》野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見とぞ來《こ》し
 
〔譯〕 草を苅り取るやうな荒野ではあるが、この地は、なくなられた皇子の形見の地と思つて來たことである。
〔評〕前の反歌をうけて、古《いにしへ》思ふにの意を更に詳述し、始めて明かにしたのである。しかし、單にそれを説明するだ(55)けではなく、第一句は簡潔ではあるが、情景をよく示し、また三句「もみぢ葉の」も、よくこの歌の情趣と調和してゐる。
〔語〕 ○眞草苅る荒野 草を苅るやうな淋しい野。○黄葉の 「過ぎ」の枕詞。黄葉の早く散つてしまふやうにの意。「黄葉の過ぎて去《い》にきと」(二〇七)參照。○過ぎにし君 命すぎにし君の略。亡くなつた君、即ち草壁皇子をさす。○形見とぞ來し 嘗てこの地に來られた皇子の記念と思つてここに來た。
〔訓〕 ○黄葉 諸本「黄」の字がないが、脱漏と見る他はあるまい(代匠記)。
 
48 東《ひむかし》の野にかぎろひおの立つ見えてかへりみすれば月|西渡《かたぶ》きぬ
 
〔譯〕 東の野には、曉の光の立つのが見えて、振り返ると、月は西の方に沈まうとしてゐる。
〔評〕 この歌は人麿の傑作と稱へられる歌で、荒涼たる野の曉の大きい情景をよく寫してをる。後世の蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句に比べて、色彩のないだけに、單純でしかも雄大な趣がある。一首として味つても秀歌といふべきであるが、反歌として、ひきつづいて味ふと、長歌の「み雪ふる」や「旗薄しのをおし靡べ」から情景を思ひ浮べ、更に「古思ふに」の感慨を奧に感じながら、懷舊の情と冬の寒さとに、淺い一夜の眠からさめて、借廬の外にいでたつ人々の樣を思へば、「かへり見すれば月|西渡《かたぶ》きぬ」の句も一層生きてきて、作者の詠歎までもよく感じられるやうに思ふ。二句の「野に、かぎろひの」の句割れも、この場合はかへつて歌柄を大きくしてゐる。
〔語〕 ○かぎろひ 光り輝く意の動詞のかぎるに、「ふ」が接した「かぎろふ」の體言化したもので、本來光り輝くものの意であるが、後には單に陽炎即ち遊絲をさすこととなつた。ここのかぎろひは、何をさすか諸説あつて、朝日又は朝日の光(檜嬬手)、水蒸氣のちらちらするもの、即ち今いふかげろふ(新考、新解)、更に民家などの光(燈)などともいつてゐるが、まだ朝日は昇つてゐないが、朝靄などに既に明るく夜明の光がさしそめたのをいふもの、即ち(56)曙の光と考へられる。○かへり見すれば ふりかへつて見ると。
〔訓〕 ○東の… 白文「東野炎立所見而」で、舊訓「アヅマノノケブリノタテルトコロミテ」とあるのを、代匠記にヒムカシノかといひ、考に至つて現在の訓に改め、以後の諸註皆これに從つてゐる。
 
49 日竝《ひなみし》の皇子《みこ》の尊《みこと》の馬|竝《な》めて御獵《みかり》立たしし時は來向《きむか》ふ
 
〔譯〕 嘗て日竝の皇子の尊が馬をならべて御獵を遊ばされた時と、ちやうど同じ時が今きた。
〔評〕 この歌に至つて、日竝皇子の御名が始めて出て、又嘗てこの野に狩をせられた旨も知られる。また時間の推移からも前の歌につづいてゐる。一首おほらかに無雜作に歌つてゐるやうではあるが、よく据わつて、重々しく、最後の作といふことを失はない。なほこの一聯の作は、それぞれ關聯して味つて一層趣深く、かつ四首の反歌が單に歌ひ殘したことを歌ふといふに止まらず、形こそ短かけれ、長歌に劣らぬ重さを備へて、次々と新な境地に發展してゆくことは、他の反歌には見られない點である。しかして此の四首は、漢詩の絶句の起承轉結の趣がある。
〔語〕 ○日竝の皇子の尊 草壁皇子のこと。御父は天武天皇、御母は持統天皇。天武天皇の時皇太子となられ、持統天皇の三年に薨ぜられた。○馬竝めて 「四」參照。○御獵立たしし 御獵を遊ばされた。○時は來向ふ 同じ時となつたの意。この時は季節の意でなく、一日の中のある時の意。
〔訓〕 〇日竝 白文「日雙斯」は代匠記及び僻案抄の訓に據る。その他、「ヒナミシ」「ヒナメシ」と「ノ」を省き、又、古義「ヒナミノ」(斯を能に改む)等がある。
 
    藤原宮《ふぢはらのみや》の役《えだち》の民の作れる歌
50 やすみしし 吾が大王《おほきみ》、高照らす 日の皇子《みこ》子 あらたへの 藤原が上《うへ》に 食《をす》國《くに》を 見《め》し給は(57)むと 都宮《おほみや》は 高知らさむと 神《かむ》ながら 念ほすなべに 天地も 寄りてあれこそ 磐走《いはばし》る 淡海《あふみ》の國の 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の 眞木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を もののふの 八十氏川《やそうぢがは》に 玉藻なす 浮べ流せれ 其《そ》を取ると さわく御《み》民も 家忘れ 身もたな知らに 鴨自物《かもじもの》 水に浮き居て 吾が作る 日の御門《みかど》に 知らぬ國 寄り巨勢道《こせぢ》ゆ 我が國は 常世《とこよ》にならむ 圖《ふみ》負《お》へる 神《くす》しき龜も 新代《あらたよ》と 泉の河に 持ち越せる 眞木《まき》の嬬手《つまで》を 百足《ももた》らず 筏《いかだ》に作り 泝《のぼ》すらむ 勤《いそ》はく見れば 神《かむ》ながらならし
     右は、日本紀に曰く、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原宮地《ふぢはらのみやどころ》に幸しき。八年甲午春正月、藤原宮に幸しき。冬十二月庚戌の朔にして乙卯の日、藤原宮に遷居《うつ》りたまひきといへり。
 
〔題〕 藤原宮 持統天皇の皇居。この新都造營は四箇年を費した。「二八」參照。役の民はエニタテルタミとも訓み、國民の義務として、租、調の他に公役に從ふことを役といふ。從つてこの歌は、藤原宮の造營に奉仕した民の作つた歌といふのであるが、實は當時の歌人が役の民の心になつて作つたのであらうと推量する學者も多く、宣長は人麿の作であらうといひ、守部は人麿の作と斷定してゐるが、固より確證はない。
〔譯〕 わが大君は、藤原のほとりに天下をお治めにならうと、宮殿を立派にお造りにならうと、神にましますままに、お思ひになると共に、天地の神も奉仕申し上げて、近江の國の田上山の立派な檜の用材を宇治川に玉藻のやうに浮べて流すと、その材木の流れてきたのを取らうとして、騷いで働く人民は、自分の家を忘れ、自分の身のことなどはまるで考へずに、鴨のやうに水の中に入つて働いて(自分らの作る皇居の御門に、知らぬ國も寄りくるといふ巨勢の路から、我が國は永久に榮えるであらう、そのしるしと、脊に模樣のある靈妙な龜も、新たな代であるというて出たと(58)いふが)、泉川まで持ち搬んで來た檜の材木を筏に作つてのぼすのであらう。かやうに臣民たちが勤めはげむのを見ると、これは全く天皇が神のままにてましますからであらうと思はれる。
〔評〕 藤原宮の規模については、書紀の記述にも察せられるし、現存してゐる古寺院の遺構からも推察せられるが、この長歌は、その用材の運搬の經過について精彩な描寫を行つてをる。前半は、天地の神が奉仕して「用材を田上山から、宇治木津兩川の合流點まで運ぶといふのである。河流に從つて木材を運ぶことは、當時既に行はれてゐたことであらうが、それを人麿の吉野從駕の作と同樣に、自然が天皇に對しまつり歸服した結果と見るのである。また後半に於いては、人民が家も身も忘れ、奉仕にいそしむ有樣を描寫してゐる。又この長歌には、中間に長い序を含んでをる。巨勢《こせ》に、知らぬ國もよりこすとかけ、巨勢路から靈妙な龜も出づと、泉川にいひかけたもの。この序は、上からつづけてよむと意味をとり誤るが、新時代の讃美を、序の形によつて鮮かに述べてゐるのである。
〔語〕 ○やすみしし 「三」參照。○高照らす日の皇子 「四五」參照。ここでは持統天皇。○あらたへの 藤の枕詞。あらたへは藤の繊維で織り上げた布で布目が麁《あら》いのでかくいふ。○藤原が上 うへは邊の意。「妻戀に鹿鳴かむ山ぞ高野原のうへ」(八四)。○をす國 統治し給ふ國。○めし給はむと 御覽遊ばされようと。○思ほすなべに なべは、につけての意。○天地も ここは天地の神の意。○よりてあれこそ よりては「山川もよりて仕ふる」(三八)參照。歸服して奉仕するからこそ。○衣手の 田上山の枕詞。衣手は袖の意。衣手の手と續くものと思はれる。○田上山 近江國栗太郡にあり、西端は勢田川に臨んでゐる。正倉院文書に「田上山作所」とあり、古昔ここに製材所などのあつたものと思はれる。○眞木さく 眞木即ち檜の類の立派な木を拆くの意。檜の枕詞。○嬬手 手は料の意で、角|?《つま》即ち稜角ある用材の義(考)。○もののふの八十 宇治にかかる序詞。もののふはて元來朝廷に奉仕するものの總稱、ここもその百官の數多い意で、八十氏とつづけたもの。○氏川 宇治川と同じで、琵琶湖より流れ出て、上流を勢田川、下流を淀川、その中間を宇治川といふ。○玉藻なす なすはの如くの意、材木の川に流れる樣を譬へたもの。(59)○浮べ流せれ 上の「よりてあれこそ」の結をなし、ここで一段落となり、ここまでは天地の神が材木を浮べ流すことを述べたもの。○そを取ると その材木を取らうとしで。○さわく 現代ぐと濁音であるが、奈良時代の文獻によつて改める。○身もたな知らに、たなは直《たゞ》の義(僻案抄)、全くの意(新講)などいはれてをる。○鴨じもの 鴨のやうに。○水に浮きゐて 流れ下る材木を取りとめるため、水中に働く役民の樣子。この句は下の「泉の河に」につづく。○吾が作る 役民自らをいふ。この句以下「新代と」までは泉の河の序詞。○知らぬ國 異國。○よりこせぢゆ 歸服し寄りくるを、巨勢の地名にかけたもの。巨勢は南葛城郡。ゆはよりに同じ。なほこの句を、木材運搬の經路を示すものと考へ、田上山より宇治川へ、次に陸あげして泉河に持ち運び、そこから難波の海を經て、紀の川を泝《のぼ》せ、巨勢を經て藤原に陸路を運んだといふ説は誤解である。○常世 不老不死の仙境。○圖《ふみ》負へる神《くす》しき龜 圖は河圖の類で吉祥模樣、支那洛書の故事に、禹が水を治めた時、洛水からふみを負うた龜が出たとあり、それは祥瑞であつて、日本でも靈龜、神龜の年號は、このやうな龜の祥瑞によつて改元されたのである。此の時も巨勢から神龜が出たのを採り用ゐたものか、或は祝言として假り設けていつたもの。○新代と あらたなる代、舊態を改めた代として。以上は泉河の序で、御代を祝ふ意をこめてゐる。○泉の河 今の木津川。伊賀より笠置山麓の木津、瓶原《みかのはら》を經て、八幡近くで淀川に合流する。ここは宇治川を流した材木を、合流點附近で取り集め、木津川を泝らせるのである。○百足らず 百に足らぬ意で、五十《いそ》、八十《やそ》の枕詞。○泝すらむ 木津川尻からさかのぼらせ、木津邊で陸上げするのであらう。○いそはく いそしんでをることの意。○神ながらならし 神にましますからであらう。
 
    明日香宮《あすかのみや》より藤原宮《ふぢはらのみや》に遷居《うつ》りましし後、志貴皇子《しきのみこ》の御作歌《つくりませるうた》
51 采女《うねめ》の袖吹きかへす明日香《あすか》風|京《みやこ》を遠みいたづらに吹く
 
〔題〕 明日香宮 前記明日香淨御原宮をいふ。志貴皇子は天智天皇の第七皇子、持統天皇の御弟、光仁天皇の御父。
(60)〔譯〕嘗ては釆女《うねめ》の美しい袖を飜したこの飛鳥を吹く風も、今は空しく吹いてゐることである。
〔評〕 舊都に古を偲ぶ歌は少くないが、これはまた特異な作風である。今はさびれた飛鳥の地を吹く風、どこか明るいが、それでゐて空虚な感じが漂ふやうである。初句の字足らずをうけて、三句體言でやや休止する感がある。そこに中心をなす飛鳥風に對する感動が表れてゐるといつてよい。「吹き反す」の一句も、過去をいふとすれば言葉足らぬ思ひがするが、一方からいへばこの方が反つてよく回想の氣持を表はすのである。
〔語〕 ○采女 もと支那漢代の官女の職名であるが、我が國では、うねめの字に宛ててをる。うねめは後宮女官の職名で、地方官の子女より選ばれ、宮中で側近に侍し、主として御膳の事に當る。「凡采女者貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1」(仁コ紀)とある。○袖吹き反す この句を、今も都ならば官女の袖を吹き飜すべきとも解せられるが、昔官女の袖を吹き飜したと過去の意に解するのがよい。○明日香風 明日香の地を吹く風。伊香保風、佐保風の類。○いたづらに 空しく、その甲斐もなく。
〔訓〕 ○采女の 白文「?女乃」で、舊訓のタヲヤメノといふ訓も廣く行はれてゐるが、采女と同義で、ウネメと訓むのが最もよい。
 
    藤原宮の御井《みゐ》の歌
52 やすみしし わご大王《おほきみ》 高照らす 日の皇子《みこ》 荒たへの 藤井が原に 大御門《おほみかど》 始め給ひて 埴安《はにやす》の 堤の上に 在り立たし 見《め》し給へば 大和の 青香具山《あをかぐやま》は 日の經《たて》の 大御門《おほみかど》に 春山と 繁《し》みさび立てり 畝火《うねび》の この瑞山《みづやま》は 日の緯《よこ》の 大御門に瑞山《みづやま》と 山さびいます 耳|無《なし》の 青すが山は 背面《そとモ》)の 大御門に 宜《よろ》しなべ 神《かむ》さび立てり 名ぐはし 吉野の山は (61)影面《かげとも》の 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高しるや 天《あめ》の御蔭《みかげ》 天《あめ》知るや 日の御影《みかげ》の 水こそは 常にはあらめ 御井《みゐ》の清水《しみづ》
 
〔題〕 藤原宮の御井 今所在はわからぬが、おそらく此の御井を中心に、藤原宮が造營されたものと思はれる。
〔譯〕 わが大君なる日の御子は、この藤井が原に宮殿を創めてお造り遊ばされて、埴安の池の堤の上に折々お立ちになつて四方を御覧になると、大和の青々と茂つた香具山は、東の御門のところにいかにも春の山らしく木々が生ひ繁つてゐる。この瑞々しい畝傍山は、酉の御門のところに如何にも山らしく立つてゐる。青々と菅の生ひ茂つてゐる耳無山は、北の御門のところに如何にも相應はしく神々しく立つてゐる。名もめでたい吉野山は、南の御門から遙か空の彼方に遠く見える。此の立派な宮殿の水こそは、永久に存續するであらう、この御井の清水は。
〔評〕この長歌は、題詞に見る如く御井の歌であるが、實は御井を中心として、藤原の宮を讃美した賀詞であり、壽詞《よごと》である。人麿の歌などに見られるやうに、まづ天皇の御行動を述べ、次いで宮殿の四方の山々を讃へて、新都が、ただ形勝の地といふだけでなく、地相といつた方面からも優れてゐることを敍し、最後に、御井の清水を讃へてゐるのであるが、これは御井の水に寄せて、宮殿の永遠を祈るものといふべきである。かくこの歌も、言靈の信仰の立場から解すべきである。複雜雄大な構想を、祝詞《のりと》などに見るやうな整齊した手法で述べてゐて、まことに堂々たる作といふべきである。
〔語〕 ○わご大王 わが大王に同じ。わがの「が」が、おほ君の「お」に同化されて「ご」となつたもの。○あらたへの 「五〇」參照。○藤井が原 藤原に同じ。藤原といふのも、ここに藤井と名づける井があつたから、藤井が原といつたのを略したものと思はれる。○大御門 宮殿の御門をみかどといひ、轉じて宮殿をもいふ。ここは宮殿の意。○埴安の池 「二」參照。○在り立たし ありはそのことの引きつづき行はれる意を示す接頭辭「あり通はむ」(三二(62)三六)「ありまて」(六六七)參照。折々お立ちになりて。○見《め》し給へば 御覧遊ばされると。○青香具山 青は木々の青々と繁る様。○日の經《たて》 ここは東方の意。支那では經は南北、緯は東西をいひ(周禮)、成務紀には東西を日の縱、南北を日の横、山陽を影面《かげとも》、山陰を背面《そとも》といふとあつて、いづれもこことは違ふが、高橋氏文に「日竪日横陰面背面の諸國人」とあり、ここと一致してゐる。○春山と 春山として。○繁《し》みさび立てり しみは繁つてゐること。さびは神さび(三八)のさびに同じ。○瑞山 瑞々しく木々の若葉の美しい山。○日の緯《よこ》 西をさす。○山さびいます さびは「しみさび」「神さび」のさび。山らしく神々しくいらつしやる。山を神と崇めてゐる。○青すが山 青々と菅などの生ひ茂つてゐる山。○背面《そとも》 背《そ》つ面《おも》の義。日の當らぬ面、即ち山の北側、轉じて北。○宜しなべ よろしきやうに。よろしは物の足り備つてゐること。「なべ」は様々の形が兼ね備つてゐるの意。「念ほすなべに」(五〇)參照。○神さび立てり 神々しく立つてゐる。○名ぐはし くはしは精妙の義。名の立派な。○吉野の山 今いふ吉野山は、實はこの藤原からは見えない。従つて當時吉野の山といはれてゐたのは、吉野川の西岸の山。即ち龍門山を中心とする連山であるとの説(北島葭江氏)もあるが、ここはおほらかに吉野の山といつたのではあるまいか。○影面 かげは光の意で、光の當る面、即ち山の南面をかげつおも、かげともといひ、轉じて南方の意に用ゐる。○雲居にぞ遠くありける 雲の立ち聯なる遠方にある。○高知るや 天の枕詞。高く治めてゐるの意。○天の御蔭 日の御蔭と對して用ゐてゐるが、この二句とも古來異説の多い語であるが、古義の一説に從ひ、皇宮の義と見るのがよいと思はれる。本來は屋根のことをいひ、天の日をさけて蔭を作る義であつたのが、轉じて、宮殿全部をさすやうになつたのである(講義)。その他、天の影、日の蔭のうつる水(代匠記)、天のお蔭日のお蔭によつて成り出た水(考)などともいはれてゐる。「皇御孫命乃瑞能御舍乎仕奉?天御蔭日御蔭登隱坐?四方國乎安國登平又知食故爾《スメミマノミコトノミヅノミアラカヲツカヘマツリテアメノミカゲヒノミカゲトカクリマシテヨモノクニヲヤスクニトタヒラケクシロシメスガユヱニ》」(祈年祭祝詞)參照。○天知るや 日の枕詞。
〔訓〕 春山と 白文「春山跡」の「跡」は、諸本「路」とあるが、古葉略類聚鈔及び僻案抄の説による。○耳無の (63)白文「耳無之」は、諸本「耳高之」とあるが、前後よりみるに、耳成山をさすと見る他はなく、或は異名か形容の語とも推察はされるが、それも不自然であるから、暫く古義の説に従ひ、誤字としておく。なほ考は「爲」の誤といふ。○常にあらめ 白文「常爾有米」トコシヘナラメ(考)、ツネニアルラメ(元暦校本、攷證)等の訓があるが、燈の訓ツネニアラメが字面にも近く、古格でよい。○御井の清水 ミヰノマシミヅの訓が考以下多く行はれてゐるが、マシミヅは古い例がなく、マをつけず六音のままが却つてよい。
 
    短歌
53 藤原の大宮づかへあれつくや處女《をとめ》がともはほ乏《とも》しきろかも
       右の歌は、作者いまだ詳ならず。
 
〔譯〕 このよい藤原の宮の大宮づかへに、生れ附いてお仕へする處女たちは、羨しいことであるよ。
〔評〕 反歌では、一轉して處女を中心として述べてゐる。長歌の風景に對して、この華やかな少女、前者の客觀的なのに對し、後者の主觀的な作者の感慨、對照して、まことにすぐれてゐる。しかも、あれつくやの一句に、自ら長歌に照應する宮殿の長久をことほいでゐるのである。なほ、この處女は采女で、采女は水司、膳司に仕へるものであるから、御井歌の反歌として唐突ではない。
〔語〕 ○大宮づかへ 朝廷にお仕へすること。○あれつくや 生れ附いたの意。やは、直ちに下へ續く。「さを鹿の伏すや叢」(三五三〇)參照。○處女がとも ともはともがら、をとめは采女をいひ、采女たちはの意。○ともしきろかも ともしはうらやましの意。ろは音調を添へるための接尾辭。
〔訓〕 ○あれつくや 白文「阿禮衝哉」で、考「アレツゲヤ」は命令形で希ひ求める意とするも、已然形であれつげ(64)ばやの意とするも、前後調はず、美夫君志「アレツガム」は「哉」をムと訓むのであるが、「我が代も知れや」(一〇)の場合と同樣、未だ證に乏しいやうである。多くは、つぐとよんで、生れ繼いでくるの意とする。古義「アレツクヤ」の訓はよいが、これを「顯齋《あれいつ》く」と解するのはいかがであらう。○ともしきろかも 白文「乏吉呂賀聞」の「乏」は諸本「之」に作るが、玉の小琴所引、田中道麿説に從つて改める。
 
    大寶元年辛丑秋九月、太上天皇、紀伊國に幸しし時の歌
54 巨勢山《こせやま》の列々《つらつら》椿つら/\に見つつ思ふな巨勢《こせ》の春野を
     右の一首は坂門人足《さかとのひとたり》。
 
〔題〕 卷一・二の體裁は、この前まで、即ち持統天皇の御代までは「某宮御宇天皇代」と記し、大寶以後は、後に、寧樂宮としてはあるが、別に御代毎に標目を立ててゐない。大寶は文武天皇の御代の年號で、太上天皇は持統天皇を申し上げる。
〔譯〕 巨勢山の椿の樹は列をなして生えてゐるが、この椿をつくづく見ながら、それが美しく咲く巨勢の春野を、しみじみと思ふことである。
〔評〕 題詞にある通り、秋九月の御幸であるから、椿の木は艶やかな葉をならべてゐるだけであるが、作者は、そこから春の景色を想像したのであつて、想像が歌の主題となつてゐるところが、この歌の特徴といへよう。二句三句のつらつらは、謠ひ物のやうな調べを持ち、明るい印象を與へてゐる。
〔語〕 ○巨勢山 大和國高市郡古瀬村の西。「五〇」參照。○列々椿 多く列をなしてゐる椿といふ説が、袖中抄以來多く行はれてゐるが、椿の葉の艶々と美しいのをいふとする間宮永好の説もある。なほ、ここまで二句を純然たる(65)序として、椿と下の春野と關係なしといふ註疏の説は從ひ難い。○つらつらに つくづくと。○見つつ思ふな なは語調を調へる助詞。春の美しさを思ひやるの意。
〔左註〕 坂門人足 傳不詳。
 
55 麻裳《あさも》よし紀人《きひと》羨《とも》しも亦打山《まつちやま》行き來《く》と見らむ紀人《きひと》ともしも
     右の一首は調首淡海《つきのおびとあふみ》
 
〔譯〕 紀の國の人は羨しい。この亦打《まつち》山を、行く時にも、來る時にも見るであらう紀の國の人は羨しいことよ。
〔評〕 二句と五句に同じ語を繰返したのは、輕妙で心よい。又、初句を枕詞としたことも、「ぬば玉の甲斐の黒駒鞍著せば命死なまし甲斐の黒駒」(雄略紀)を思はせ、古風な、謠物らしさを感じさせる。しかし又一方からいふと、眞土山に對する感情は、後世の歌人の歌枕に對する執著を思はせ、必ずしも古風とはいひ難い。
〔語〕 麻裳よし 紀の枕詞。よしは、あをによしのよしと同じく、よは呼びかけ、しは強めの助詞。麻裳を著るの意から紀にかけるといふのが通説であるが、特殊假名遣からは疑がある。○紀人乏しも 紀伊國の人は羨しい。ともしは「五三」參照。○亦打山 大和國宇智郡坂合部村上野邊と、紀伊國伊都郡隅田村眞土との間の峠で、紀州街道の要所にあたる。○行き來と見らむ 行くとては見、來るとては見るであらう。
〔左註〕 調首淡海《つきのおびとあふみ》 書紀及び續紀にその名が見えるが、續紀に調連とあるのは後に連の姓《かばね》を賜つたのであらう。和銅二年に從五位下、養老七年に正五位上となつてゐる。
 
    或本の歌
56 河の上《へ》の列々《つら/\》椿つら/\に見れども飽かず巨勢の春野《はるの》は
(66)     右の一首は春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》。
 
〔譯〕 河のほとりに列んで生えてゐる椿を、つくづくと見ても飽かぬことである、巨勢の春野の景色は。
〔評〕 前の歌と類似してゐるので、特にここに編者が掲げたものと思はれる。その先後については、同時代の人のことでもあり、定め難い。しかし歌の内容から見れば、これは春の歌であり、また前の歌が想像であるのに對し、これは通常の寫實で、全然別のものである。
〔語〕 ○河の上《へ》の 河のほとりの。
〔左註〕 春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》は、始め僧であつたが、大寶元年三月勅により還俗し、和銅七年從五位下となる。懷風藻には、「從五位下常陸介春日藏首老年五十二」とある。
〔訓〕 ○河の上の 白文「河上乃」は「カハカミノ」(古義)の訓も多く行はれてゐるが、ほとりの意にはふさはしくない。
 
    二年壬寅、太上天皇、參河國《みかはのくに》に幸しし時の歌
57 引馬野《ひくまの》ににほふ榛原《はりはら》入り亂《みだ》り衣《ころも》にほはせ旅のしるしに
     右の一首は長忌寸奧麻呂《ながのいみきおきまろ》。
 
〔題〕 太上天皇 前に同じく持統天皇。
〔譯〕 引馬野に咲きにほうてゐるこの萩の原に入り亂れて、衣を染められよ、旅のしるしに。
〔評〕 この歌を、旅ゆく人を送つた作(新解)と見るべきか、或は囑目の作か疑があるが、恐らく後者に解してよいであらう。淡々とした表現の中に、清楚な感じがこもり、ほのかな旅情が浮き出てゐる。旅のしるしとして花摺りを(67)して衣を染めたことは、「細|領巾《ひれ》の鷺坂山の白|躑躅《つつじ》吾に染《にほ》はね妹に示さむ」(一六九四)の例もある。
〔語〕 ○引馬野 從來遠江國今の濱松市附近の三方原の一部といはれてゐたが、三河國御幸の時であるから、三河國寶飯郡御津村引馬神社附近といふ説(久松博士萬葉集考説)もある。○榛原 榛は、萩か、はんの木か、兩説あるが、この歌には萩がふさはしい。「一九」參照。○入り亂り 萩原に分け入つて、あちこち歩き廻るの意。○衣にほはせ 萩の花を衣に摺つて色をつけるの意。ここは命令形。○旅のしるしに 旅のかたみに。この御幸が、績紀によれば、十月十日御出發、十一月二十五日お歸りであるのから推して、萩の花が咲いてゐたかどうか疑があり、そこに送別の歌といふ説も生れるのである。
〔左註〕 長忌寸奧麻呂《ながのいみきおきまろ》 傳不詳。
 
58 何所《いづく》にか船泊《ふなはて》すらむ安禮《あれ》の崎|榜《こ》ぎたみ行きし棚無《たなな》し小舟《をふね》
     右の一首は、高市連《たけちのむらじ》黒人。
 
〔譯〕 今頃は何處に船泊りしてゐることであらうか。先ほど安禮の崎を漕ぎ廻つて行つたあの船棚もない小舟は。
〔評〕 表面はどこまでも客觀的に棚無し小舟を寫生し、その行方を思ひやつてゐるだけであるが、作者自身の旅にあつての、頼りない寂しい氣持がその背後にあるのである。二句で止め、更に五句を體言止にした調も、よく緊まつてゐる。なほこの歌は、舟が去つてすぐ歌つたのではなく、ある時間をおいて夕べ近く歌つたものと思はれる、それは「こぎたみゆきし」と過去の助動詞を用ゐ、「船泊すら心」と、現在の推量を示す助動詞らむと對してゐるところから察せられるのである。
〔語} ○船泊すらむ 泊つてゐるであらうか。○安禮の崎 從來濱名湖の海に連るところ、遠江國敷智郡新居かとい(68)はれてゐたが、前記引馬野か御津村の南にあたる安禮崎とする説(考説)がある。○榜ぎたみ行きし 漕ぎ廻つて行つた。○棚無し小舟 たなは和名抄に「竅A大船旁板也」とあり、新撰字鏡、類聚名義抄は「舷」の字をあててゐる。舟の左右のそばに縁のやうに打ちつけた板。これのない小さい舟が棚無し小舟である。
〔左註〕 高市連黒人 傳不詳。歌は卷三にも見え、注目すべき歌人である。
 
    譽謝《よさの》女王の作れる歌
59 流らふるつま吹く風の寒き夜《よ》に吾が背の君はひとりか寢《ぬ》らむ
 
〔題〕 與謝女王 續紀慶雲三年六月に、「從四位下與謝女王卒」と見えるだけで、經歴などは不詳。この歌は京に在つて從駕の夫を偲んだものと思はれる。
〔譯〕 何時までも吹きつづけ、着物の裾を飜してゐる風のこんなに寒い夜にも、吾が夫は獨で寢て居られることであらうか。
〔評〕 一二句やや疑はしい點があるが、率直な表現となだらかな調べを持つてゐる。旅中の夫を思ふ歌である。風の寒い夜は殊にさびしく、思ひは自ら旅中の夫にむかふのである。
〔語〕 ○流らふる 流らふは流るに所謂延言のふのついたもの。「天の時雨の流らふ見れば」(八二)の例がある。ここは風がひきつづき吹く意。○つま 衣のつま。○ひとりか寢らむ ひとり寢てゐられるであらうか。
〔訓〕 つま吹く風 白文「妻吹風」で、初句にひかれて、「妻」を「雪」に改める説(略解所引久老説)もあるが、諸本異同なく、從ひ難い。
 
    長皇子《ながのみこ》の御歌
(69)60 暮《よひ》に逢ひて朝《あした》面《おも》無《な》み名張《なばり》にか日《け》ながき妹が廬《いほり》せりけむ
 
〔題〕 長皇子 天武天皇第四皇子で、靈龜元年六月薨ず。此の歌は、都に在つて從駕の婦人を思うて詠まれたものと察せられる。
〔譯〕 あの名張のほとりに、もう長い間合はないでゐる愛人は、假の宿りをしてゐたことであららか。
〔評〕 この序は、「一五三六」にも「暮に逢ひて朝面無み隱《なばり》野の萩は散りにき黄葉はや續げ」とある。その作者縁達の傳が不明のため、歌の先後はわからぬが、卷八の方がその配列より推して時代が下るものと思はれる。それは別としても、この歌の方が歌自身の内容と何か關聯を思はせ、ふさはしい序といつた趣がある。
〔語〕 ○暮に逢ひて朝面無み 女が男に會つたその翌朝、恥かしくて顔を隱す意で、隱《なばり》の序としたもの(考)。○名張 「四三」參照。○日《け》長き妹 けは日の意。月日久しくあはぬ妹。「君が行《ゆき》けながくなりぬ」(八五)參照。○廬せりけむ 旅宿りをしてゐたのであらうかの意。
 
    舍人娘子《とねりのをとめ》、從駕《おほみとも》にて作れる歌
61 丈夫《ますらを》の得物矢《さつや》手挿《たばさ》み立ち向ひ射る的形《まとかた》は見るに清《さや》けし
 
〔題〕 これも同じ行幸の時、舍人娘子の詠んだもの。舍人は氏であらう。娘子は又いらつめとも訓んでゐる。
〔譯〕 大丈夫《ますらを》が矢を手に挿み射る的といふ名を持つ的形の浦は、見るとまことに氣持のよいところである。
〔評〕 この歌のやうに長い序は後世にはないことで、本集には「吾妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を苅りて藏めむ倉無の濱」(一七一〇)の如き四句にわたるものもある。從つて、かかる序を全然無用の物、或は調だけの必要からと解することはできない。序から起る氣持と、主題の持つ感じの一致、或はその兩者の轉換から起る面白さをも味ふ必要が(70)あり、この歌は前者の例、卷九の右の例は後者の例といひ得る。なほ仙覺抄には伊勢風土記を引いて、似v的故以爲v名。今已跡絶成2江湖1也。天皇行2幸濱邊1歌曰「マスラヲノサツヤタバサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》」天皇に傍註して景行天皇也といつてゐる。この風土記の文は用字上奈良時代のものとは認め難いが、三句以下この歌の異傳と見るべく、この歌が相當傳誦を經てゐることが想像される。
〔語〕 ○得物矢《さつや》 幸矢《さちや》の轉で、さちは漁獵の獲物をいふ。「山のさつ雄」(二六七)「さつ矢ぬき」(四三七四)などある。○手挿《たばさ》み 手指に挿み持ち。○立ち向ひ射る的形 初句より射るまでは、まとにかかる序。弓矢を持つて立ち向ひ射る的の意でつづく。的形は神名帳に伊勢國多氣郡麻刀方神社とあり、今同郡東黒部村の地といはれてゐる。○清けし すがすがしい。集中風景をほめていふに多く用ゐてゐる。
 
    三野|連《むらじ》【名闕く】入唐の時、春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》の作れる歌
62 在嶺《ありね》よし對馬《つしま》の渡《わたり》海《わた》なかに幣《ぬさ》取り向けて早《はや》還《かへ》り來《こ》ね
 
〔題〕 三野連 大和國平群郡萩原村から明治五年發掘された墓碑銘(續古京遺文所收)及び、西本願寺本等の註の文によつて、名は岡麿といひ、大寶元年唐に使し、後從五位下、主殿寮頭となり、神龜五年十月年六十七で卒したことが知られる。この「名闕く」とあるのは、後人の註であるといはれてゐる。春日老は「五六」參照。
〔譯〕 荒い嶺の多い、あの對馬の海峽を渡る海上で、幣を神に奉つて早くお歸りなさい。
〔評〕 當時の唐へ渡る航海は、甚だ危險なもので、遂に歸國しなかつた人も少くない。從つて、信仰によつて航路が守られるといふことから、ひたすら神に祈つたのである。海中に神を祭り、ぬさをささげたことは、後の土佐日記にもある。眞情のこもつた作である。
〔語〕 ○在嶺よし よしは青丹よし、麻裳よしと同樣であらう。ありねについては異説多く、誤字説も多いが、けは(71)しいあらい嶺の意(代匠記)とみるのが、比較的穩かである。なほ、ありは高くあらはれたのをいふとする品田氏の説もある。○對馬の渡 渡は海にせよ、川にせよ、往來に渡るべきところ。對馬海峽をさす。○幣取り向けて 幣は神に捧げて手向とするもの。取り向けは手向けるの意。陸路にても、海路にても、ぬさをたむけて行路の平安を祈つたのである。○早歸り來ね 「ね」は「名告らさね」(一)參照。
〔訓〕 ○在嶺よし 白文「在嶺良」で、誤字とする説が多い。アリネラノと訓み、らは接尾辭で、荒い島根と解する説もある。
 
    山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》の、大唐《もろこし》に在りし時、本郷《もとつくに》を憶ひて作れる歌
63 いざ子どもはやく日本《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の濱松待ち戀ひぬらむ
 
〔題〕 憶良は、大寶元年、前出の三野連と同時に、少録として渡唐した。「八九七」の自序によれば、天平五年に七十四とあるから、齊明天皇五年に生れたこととなる。歿年は不詳であるが、天平五年以後間もないことと思はれる。
〔譯〕 さあお前達よ、早く日本へ歸らう。大伴の御津の濱松は、さぞかし待ち焦れてゐることであらう。
〔評〕 一二句の短くよびかける調子は、黒人の歌にも「いざ子ども大和へ早く」(二八〇)とあるが、この歌にふさはしい緊張味を示してゐる。御津の濱松は、當時の歸朝者にとつてはまことに嬉しい懷しいものであつたのであらう。恐らく今日の歸朝者が、甲坂上から見る、富士にも比べられるものであつたに違ひない。しかしてかやうに御津の濱松をいつて、家人の待つことをいはぬのも巧みである。なほ萬葉集には、遣唐使、遣新羅使に關する歌は多いが、海外に在つて作つたものとしては、これが唯一の作である。
〔語〕 ○いざ子ども いざは人を誘ひ促す意。こどもは、部下や年少者を親しみよぶ語。○はやく日本《やまと》へ やまとは(72)日本全國をさす。この句の下に、「歸らむ」を補つて解する。○大伴 難波の邊一帶をいふ地名で、大伴氏の領地などであつたのによるのであらう。「大伴の高師の濱」(六六)ともある。枕詞ではない。○御津の濱松 御津は難波の湊。今、大阪市に三津寺町といふ名が殘つてゐる。
〔訓〕 ○はやく日本へ 白文「早日本邊」略解には「ハヤモヤマトヘ」、古義には「ハヤヤマトベニ」とある。
 
    慶雲三年丙午、難波宮に幸しし時、志貴《しき》皇子の御作歌《つくりませるうた》
64 葦邊《あしべ》ゆく鴫の羽交《はがひ》に霜|零《ふ》りて寒き夕《ゆふべ》は大和し思ほゆ
 
〔題〕 この行幸は文武天皇で、續紀によれば秋九月より十月にわたる。難波宮は仁コ天皇の高津宮以後度々離宮など設けられたやうであり、また孝コ天皇長柄豐崎宮をさすのかとも思はれるが、確證はない。志貴皇子は「五一」參照。
〔譯〕 葦の生えたあたりを飛びゆく鴨の羽交《はがひ》に霜が降つて寒い夕方は、大和のことが思はれる。
〔評〕 旅にあつて味ふ寒い夕べ、秋も晩い周圍の葦原の荒涼たる風景、これらを「葦邊ゆく鴨の羽交に霜ふりて」とこまかくのべて、たくみに一點に集中してゐる。飛び行く鴨の羽に霜のおくといふことはないので、鴨の羽掻の音を聞いて鴨の羽に霜がおいたと推量してよんだのであらうと、菊池氏の萬葉集精考にはある。
〔語〕 ○羽交《はがひ》 左右の羽の重なるところ。ただ翼といふほどに輕く用ゐることも多い。○大和し思ほゆ しは強めの助詞。思ほゆは、ここは自然さうなるの意をあらはす。大和のことが思ひ出される。
 
    長皇子の御歌
65 霰《あられ》うつ安良禮《あられ》松原|住吉《すみのえ》の弟日娘《おとひをとめ》と見れど飽かぬかも
 
(73)〔題〕 この歌も、前の行幸の時の歌、長皇子は「六〇」參照。
〔評〕 あられ松原は、住吉の弟日娘と共に見てゐて、飽かないところである。
〔評〕 初句は枕詞ではあるが、實景を活用したもの(古義)といはれてをり、快いひびきを持ち、二句の體言止と相待つて効果がある。輕い、明るい調べの歌である。
〔語〕 ○霰うつ うつは降るの意。「ささ葉に打つや霰のたしたしに」(記)ともある。この句は同音を繰返してあられ松原にかかる枕詞。○あられ松原 神功紀に「阿邏々摩菟麼邏」とあり、和名抄攝津國西成郡に「安良郷」とある。松があらあら生えてゐるところに由來した地名といはれ、今の住吉安立町あたりといふ。○住吉 古くは「すみのえ」といひ、「すみよし」とよぶのは平安時代に始まる。○弟日娘と見れど飽かぬかも 弟日娘は遊行女婦であらうといはれてゐる。「弟日娘と自分と一緒に」の意(代匠記等)「松原と弟日娘とは何れも」の意(略解)との二説ある。
 
    太上天皇、難波宮に幸しし時の歌
66 大伴の高師の濱の松が根を枕《ま》きてし寢《ぬ》れど家し偲《しの》はゆ
     右の一首は置始東人《おきそめのあづまびと》。
 
〔題〕 太上天皇 持統天皇。大寶二年の崩御であるから、この前の歌の慶雲三年以前に作られた歌である。
〔譯〕 大伴の高師の濱に生えてゐる松の根を枕として寢ても、故郷の家のことがなつかしく思はれる。
〔評〕 松が根を枕として寢たといふのは、海邊に旅寢した趣であらう。これを風雅と喜んで好んでさうしたのではなからうが、大和の人にとつては、珍しい體驗でもあつたのであらう。しかし、夜更けて見るとやはり家郷がなつかしいといふ趣である。
(74)〔語〕 ○大伴 「六三」の難波附近から廣く和泉の方をも含めた總名と思はれる。○高師の濱 和泉國大鳥郡高石、今の濱寺附近の海濱。○枕きてし寢れど 枕として寢たが。○家し偲はゆ 家のことが自然と思ひ出される。「大和し思ほゆ」(六四)參照。
〔左註〕 置始東人は卷二にも見えるが、傳不詳。
〔訓〕 ○枕きてし寢れど 白文「枕宿杼」で、古來諸訓があるが、考の訓が穩かと思はれる。他に「マクラニヌレド」、「マキテサヌレド」、「マクラキヌレド」等の諸説がある。
 
67 旅にして物戀《ものこほ》しぎの鳴くことも聞えざりせば戀ひて死なまし
     右の一首は高安大島。
 
〔譯〕 旅にあつてなんとなく戀しくて耐へられぬが、あの鴫の鳴く聲までも聞えなかつたら、もう戀死することであらう。
〔評〕 二句「物戀しき」と「鴫」とかけたいひ方は、あまりに新しい技巧のやうに思はれ、疑の起るところであるが、このままで解すれば、あの鴫も自分と同じやうに妻などを慕うて鳴くのであらう。それを思へばせめても心が慰められるといふ趣で、鴫の音によつて、却つて物思の勝るといふのが常であるが、この氣持も亦うなづかれる。
〔語〕 ○物戀しぎの 戀しきのしきに、鴫(しぎ)を言ひかけたもの。なほ、ここの之伎の伎は普通には清音の假名である。○聞えざりせば もし聞えなかつたならば。○戀ひて死なまし 戀しさのあまり死ぬであらう。
〔左註〕 高安大島 傳不詳。前の東人と共に卑官の人と思はれる。
〔訓〕 ○しぎの 白文「之伎乃」の「乃」を「爾」の誤(古義)とすれば解しよいが、その證はない。元暦校本等は「伎乃」のない本も多く、西本願寺本の註にも古くない本の多かつたことを記してゐる。その他にも諸本に異同が多い。
 
(75)68 大伴の美津《みつ》の濱なる忘貝《わすれがひ》家なる妹を忘れて念《おも》へや
     右の一首は身入部王《むとべのおほきみ》。
 
〔譯〕 大伴の御津の濱にある忘貝、私はその名のやうに、家にゐる妻のことを忘れようか。
〔評〕 忘貝が海邊に多かつたので、單に序として設けたものである。卷十一に「紀の國の飽等の濱の忘貝我は忘れじ年は經ぬとも」(二七九五)とあり、一種の類想となつてゐる。しかし言葉といふものに對して、古人は我々と違つた感じを持つてゐたのであつて、これを唯の戯れと見るのは當らない。
〔語〕 ○大伴の美津の濱 「六三」參照。○忘貝 身なし貝のことであるとも、片貝、即ち一扇のない貝であるとも説かれてゐるが、貝の名らしく、蛤に似て小さい扁平な貝といふ。「あまをとめかづき取るとふ忘貝世にも忘れじ妹がすがたは」(三〇八四)參照。○忘れて思へや 思ひ忘れようか、忘れはしない。
〔左註〕 身入部王は續紀に見える六人部王と同じであらうか。六人部王は天平元年に卒せられた。
 
69 草枕旅行く君と知らませば岸の埴生《はにふ》ににほはさましを
     右の一首は、清江娘子《すみのえのをとめ》、長皇子《ながのみこ》に進《たてまつ》れり。【姓氏未だ詳ならず。】
 
〔譯〕 あなたが旅だつてお歸りなさる方と知つてゐましたならば、この住吉の岸の埴《はに》で御召物を染めたでありませうものを。
〔評〕 お親しみ申し上げてゐて、ついお別れすべきことを忘れてゐた。君の旅のみしるしにも、また私の記念にも、お召物を染めましたものをといふ氣持であらう。住吉の岸の埴生は當時有名であつたらしく、卷六(九三二)等にも見えてゐる。二三句に、女らしいをさない情がこもつてゐる。
(76)〔語〕 ○草枕 「五」參照。○旅行く君と 旅立ち遊ばされるお方と。○知らませば 知つてゐましたならば。○岸 岸は住吉の岸。「住吉の岸の埴生」(九三二)參照。○埴生 埴のある土地の意。埴は和名抄に「釋名云、土黄而細密曰v埴」とあり、黄色の粘土をいふ。古く染料として用ゐた。○にほはさましを 色美しく染めたであらうに、しなくて殘念であつたの意。
 
    太上天皇、吉野宮に幸しし時、高市連黒人の作れる歌
70 大和には鳴きてか來らむ呼子鳥《よぶこどり》象《きさ》の中山呼びぞ越ゆなる
 
〔題〕 太上天皇 同じく持統天皇。御幸の年月は不詳。
〔譯〕 大和には鳴いてゆくのであらうか。呼子鳥はいま象の中山を鳴きながら越えてゆくのであるが。
〔評〕 呼子鳥の聲に郷愁をそそられて歌つたのであらう。情をこの鳥に託して、あらはにいはぬところにうるほひを感ずる。
〔語〕 ○大和には 吉野も大和國の中ではあるが、地勢上も別であるし、また藤原の邊から相當の距離もあつて、別地區と考へたらしく、吉野國(三六)ともいつてゐる。從つてここの大和は、藤原京を中心とする平野地方と考へてよい。○鳴きてか來らむ 鳴いて行くであらうかの意を、くるといつたのは、大和を中心に考へていつたいひ方。○呼子鳥 今の何鳥をいふか明かでないが、かつこう鳥をいふらしい(代匠記、考)。○象の中山 吉野郡國樔村の喜佐谷にある山。離宮の地なる宮瀧の近くである。
 
    大行天皇、難波宮に幸しし時の歌
71 大和戀ひ寐《い》の寢《ね》らえぬに情《こころ》なくこの渚埼廻《すさきみ》に鶴《たづ》鳴くべしや
(77)    右の一首は忍坂部乙麻呂《おさかべのおとまろ》。
 
〔題〕 大行天皇 天皇崩御後未だ御謚號をささげぬ時の稱であるが、當時は先帝の意に用ゐてゐる。文武天皇。
〔譯〕 大和を思うて寢られないのに、何の思ひやりもなく、渚の岬あたりで鶴が鳴いてよいものであらうか。
〔評〕 鶴の鳴く聲に、旅愁をひとしほ誘はれる趣である。調べも各句毎に息をつくやうで、なめらかとはいへないが、結句の強さにふさはしく、却つて成功してゐる。しかし「情なく、鶴なくべしや」は額田王の「情なく雲の隱さふべしや」(一七)に似てゐるが、いくらか劣つてゐる。
〔語〕 ○寐の寢らえぬに 寢ようとしても寢られぬのに。「いもぬらめやも」(四六)參照。○情なく 思ひやりの心もなく。「一七」參照。○この渚埼廻に 渚の出鼻で、みは、島みのみに同じ。
〔左註〕 忍坂部乙麻呂 傳不詳。
〔訓〕 ○この渚埼廻に 白文「渚埼未爾」は、元暦校本、類聚古集等による。仙覺本系の本は多く「未」がないので、「コノスノサキニ」又は「コレノスサキニ」とよんでゐる。
 
72 玉藻苅る奧方《オキヘ》は榜《こ》がじ敷妙《しきたへ》の枕の邊《あたり》忘れかねつも
    右の一首は、式部卿藤原|宇合《うまかひ》。
 
〔譯〕 美しい海藻を苅つてゐる沖の方へは舟を榜いで行くまい。その美しい海藻を見ると、枕のあたりに黒髪を靡かしてゐる妻の面影を思ひ出し、忘れかねることである。
〔評〕 三句以下、表現に無理があるのか、訓を改めるべきか、とにかく解し難く、十分味ふことができかねる。
〔語〕 ○奧方 沖の方、へを助詞と解する説(考)もある。○敷妙の 敷き布《たへ》の義で、枕、床、袖などの枕詞。布《たへ》は(78)「二八」參照。○枕の邊 妻の寢た枕の邊の意で、玉藻の靡く樣から黒髪を靡かせて寢る妻の枕の邊を聯想したものと思はれるが、明かでない。
〔左註〕 藤原|宇合《うまかひ》は、不比等の三男。
〔訓〕 ○枕の邊 白文「枕之邊」は、通行本等の細井本系の諸本を除き、元暦本以下すべて「邊」の下に「人」字があり、それにより、「枕の邊《へ》の人」と訓み、これを妻と解する説(武田博士總釋)もあるが、諸本の系統からみて、通行本を改めるのはよいが、この訓には、なほおちつかぬ點があるやうである。
 
    長皇于の御歌
73 吾妹子を早み濱風倭なる吾《われ》松椿吹かざるなゆめ
 
〔譯〕 私の妻を早く見たいと思ふが、この早く吹く濱風よ、大和にゐて、私を待つてゐる椿を必ず吹いてくれ。
〔評〕 結句「吹かざるなゆめ」は調子もいひ樣も珍しい。「はやみ濱風」「吾松椿」は「暮に逢ひて朝面なみ」(六〇)や「霰うつあられ松原」(六五)が思ひ出されて、この皇子の作風が技巧的であることを示してゐる。
〔語〕 ○吾妹子を早み濱風 「早み濱」を地名とする説(奧儀抄、考)に從へば解しよいが、難波附近にさういふ地名はない。早みは朱《あか》み鳥、速み早瀬などと同樣、早きの意で、ここは妻を早く見たいの意に、早く吹く濱風とかけたもの。○吾松椿 松は待つの意。ただ下に椿とあるのに對して、同じ植物の松の字を用ゐ、椿は妻に譬へたもの、或は妻の家に、松と椿の木、或は椿の木があつて、それをさすとも解されるが、それではやや不自然ないひ方となる。○吹かざるなゆめ 吹かずあるな、必ず吹けの意。ゆめは必ず。
 
    大行天皇、吉野宮に幸しし時の歌
(79)74 み吉野の山の下風《あらし》の寒けくにはたや今夜《こよひ》も我が燭|宿《ね》む
    右の一首は、或は云ふ、天皇の御製の歌なりと。
 
〔題〕 大行天皇 文武天皇。
〔譯〕 吉野山の嵐が寒く吹くのに、また今夜も獨で寢ることであらうか。
〔評〕 平明な歌であるが、しかもたるみのない句法である。「霰ふりいたも風吹き寒き夜や旗野に今夜吾がひとりねむ」(二三三八)はこの歌に似てゐるが、上の句が小きざみで、この歌のやうな暢達の趣がなく、しみじみとした趣に缺けてゐる。
〔語〕 ○寒けくに このくは、動詞の未然形について、いはく、思はくとなるものと同じく、形容詞の未然形の古形について、ことの意をあらはす。「心に持ちて安けくもなし」(三七二三)、「わが念ふ人の言の繁けく」(三〇七八)參照。ここでは寒いことであるのに、寒いのにの意。○はたや はたは、またの意であるが、致し方もないことであるといふ感動の意を含んでゐる。
〔訓〕 ○山のあらしの 白文「山下風」で、僻案抄の訓による。「下風」をあらしと訓む例は「二三五〇」「二六七九」等にもある。
 
75 宇治間山《うぢまやま》朝風寒し旅にして衣《ころも》借《か》すべき妹もあらなくに
    右の一首は長屋王《ながやのおほきみ》。
 
〔譯〕 宇治間山の朝風は寒い。私は旅にゐることとて、衣を貸してくれる妻もゐないのに。
〔評〕 一句に助詞を用ゐず、二句を朝風寒しといひ切つたところに、萬葉風の氣韻が感ぜられる。よく整つてたるみ(80)のない手法である。男女互に衣を貸すことは、集中他にも例があるが、妹を思ふ情をかく具體的に示したことは興味がある。
〔語〕 ○宇治間山 今この名は殘つてゐないが、飛鳥より吉野に至る途中の山と思はれ、吉野郡龍門村千股の地といはれてゐる(大和志)。○旅にして 旅中であるから。○衣借すべき 氣にかけて著る物を借してくれる筈の。○妹もあらなくに 妻もゐないことであるのに。
〔左註〕 長屋王は、天武天皇の御孫、高市皇子の御子。
 
    和銅元年戊申、天皇の御製の歌
76 大夫《ますらを》の鞆《とも》の音《おと》すなりもののふの大臣《おほまへつぎみ》楯《たて》立《た》つらしも
 
〔題〕 和銅元年 元明天皇即位の翌年。天皇は元明天皇。考はこの前に「寧樂宮」の三字を補ひ、古義は「寧樂宮御宇天皇代」と標目を補つてゐるが、確證はない。天皇が寧樂に都を移し給うたのは、和銅三年のことである。「八四」の題詞參照。
〔譯〕 勇士たちの鞆の音が聞える。將軍が、楯をならべ、兵を練つてゐるらしい。
〔評〕 この御製は、眞淵の説のやうに、翌二年三月蝦夷征討の事があつたのであるから、そのため前年より調練を始めさせられた趣である。天皇は前年六月、御子なる文武天皇崩御の後、七月即位あらせられたのであるが、女性にましましながら、國家の大事として御心を惱ませられての御製と拜される。「鞆の音」「楯立つ」等、具體的な寫實的な表現を持つてをる。莊重な御製である。
〔語〕 ○大夫《ますらを》 「五」參照。○鞆 革で作り、?は巴(鞆繪)の紋から想像されるやうに、略々圓形をなし、左手の(81)肘に着ける。實物は今正倉院の御物中にも存してゐる。○もののふの 朝廷に仕へた官人の總稱。「五〇」參照。○大臣《おほまへつぎみ》 大前つ君で、天皇の御側近く奉仕する者の稱。文官ならば大臣であるが、ここは武官で、大將の意。○楯立つらしも 楯は矢を禦ぐ具。楯立つは、陣容を整へる樣で、調練してゐるをいふ。
 
    御名部皇女《みなべのひめみこ》の和《こた》へ奉《まつ》れる御歌
77 吾が大王《おほきみ》ものな念ほし皇神《すめがみ》の嗣《つ》ぎて賜《たま》へる吾《われ》無《な》けなくに
 
〔題〕 御名部皇女 天智天皇の皇女。元明天皇の同母の御姉。
〔譯〕 吾が大君よ、物思ひをあそばしますな。皇祖神が、天皇のおさし副《そへ》としてこの世に下し賜つた私がないことではございませぬから。
〔評〕 四句やや疑の存するのは遺憾であるが、御製に答へまつるにふさはしい莊重な調べを持つてゐる。御製と同じく、二句切であるが、五句のとめ方はこの方がやや柔かで餘韻を殘してゐる。肉親の御姉としていたはり勵まされると同時に、妹君ではあるが、「思ほし」又「つぎて」とつつましき御いひざまに注意すべきである。
〔語〕 ○ものな念ほし 禁止の助詞の「な」が上に來ると、平安時代以後は、下に必ず助詞「そ」を伴ふこととなつたが、奈良時代には、「雲なたなびき」(一五六九)の如く、ない場合も多い。○皇神 皇祖神の意。○嗣ぎて賜へる 異説の多い句で、從來は、これを一句にかけて解する説(僻案抄)が行はれてゐたが、それでは句法に無理がある。「君につぎて蒼生に賜へる」(新考)「副次としてこの世に生命を賜はれる」(講義)等の説があるが、大意は、天皇を補佐すべく、皇祖神の下し賜つたの意と思はれる。○吾無けなくに 私がないわけではありませぬから。
 
    和銅三年庚戌春二月、藤原宮より寧樂《ならの》宮に遷りましし時、御輿を長屋原《ながやのはら》に停《とど》めて古郷《ふるさと》を廻《かへ》りみて御作歌《つくりませるうた》
(82)    一書に云ふ、太上天皇の御製なりと
 
78 飛ぶ鳥の明日香《あすか》の里を置きて去《い》なば君が邊《あたり》は見えずかもあらむ【一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ】
 
〔題〕寧樂の宮 平城宮で、今の奈良市の西、藥師寺附近より南は郡山に至る平地で、いま大極殿の址も殘つてゐる。長屋原は、和名抄に山邊郡長屋とあり、今の朝和村長原の邊(大和志)。古郷はもとの京、藤原京をさす。太上天皇は持統天皇で、題詞は飛鳥より藤原に遷り給うた時の御製を誤り傳へたものとする説(玉の小琴)もあるが、元正天皇頃に書かれた註で、元明天皇の御事をいふ(美夫君志)ともいはれる。
〔譯〕 この飛鳥の里をさし置いて寧樂に行つたならば、君のをられるあたりは、見えなくなるであらうか。
〔評〕 元明天皇の御製とすれば、夫君草壁皇子の御墓所眞弓の岡を偲んで歌ひ給うたとも解せられるが、ただ古くよりの都の地、懷しい故舊も多い地に住まれる人にあてた御歌といふ程度にも解される。少しも巧みのない表現の中に、表面にはあらはれぬ主觀がしみじみと味はれる。
〔語〕 ○飛ぶ鳥の あすかの枕詞。飛鳥の?《いすか》(考)、飛鳥の足輕(古義)、飛ぶ鳥の幽(詞草小苑)等の諸説がある。なほ、あすかを飛鳥と書くのは、この枕詞から來たもの。○置きて去なば 捨てておいて去つたならば。
〔訓〕 廻り望みて 白文「廻望」は元暦校本等による。仙覺本に「?望」とあるによれば、はるかに望む意となる。
 
    或本、藤原京《ふちはらのみやこ》より寧樂宮《ならのみや》に遷《うつ》りましし時の歌
79 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》かしこみ 柔《にき》びにし 家を釋《す》て 隱國《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の川に 船浮けて 吾が行く河の 川隈《かはくま》の 八十隈《やそくま》おちず 萬段《よろづたび》 かへりみしつつ 玉桙《たまほこ》の 道行きくらし 青丹よし 奈良の京師《みやこ》の 佐保川に い去《ゆ》き至りて 我が宿《ね》たる 衣《ころも》の上ゆ 朝月夜《あさづくよ》 清《さやか》に見れば》 栲《たへ》の穗に (83)夜《よる》の霜降り 磐床《いはどこ》と 川の水《みづ》凝《こ》り 冷《さむ》き夜《よ》を 息《いこ》ふことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 來《き》まさむ君と 吾も通はむ
 
〔題〕 或本云々とあるのは、現存萬葉集の系統の本になかつたのを、他の一本によつて補つたといふ意味で、相當古く加へられたものと思はれ、美夫君志には、梨壺の五人が古點を加へた時、校合して書き加へたものかとある。
〔譯〕 大君の仰を謹み承つて、久しく住み慣れた家を捨てて、泊瀬の川に船を浮べて、私の行く川の多くの曲り角毎に、幾度も幾度もふりかへつて見ながら行くうちに、日は暮れて、奈良の都の世保川に行きついて、寢た衣の上から、曉方の月の清く照るのを見ると、眞白に霜が降り、磐床のやうに川の水が氷つて寒い夜も、休むことをく通ひながら作つた此家に、千代までも變ることなく、君はお出になることと思ひますが、私も通つてまゐりませう。
〔評〕 藤原京に住んでゐた工匠の一人で、さる貴人の命をうけ、奈良に通うて新邸の造營にいそしみ、その落成にあたつて、これまでの苦心を述べ、新邸に對し壽ぎ言を述べたものと思はれる。歌作に馴れぬ故か、句法の整はぬところがあり、長歌に多い對句なども全く見えない。しかし一方素朴でしかも丁寧な描寫は、他に見られない生彩を帶びてゐる。なほこの歌では、泊瀬川、佐保川に舟を浮べる由が見えてゐるが、現在は共に川幅二三間の小流に過ぎない。
〔語〕 ○柔びにし にきぶは睦まじく親しむの意。すさぶの對。○隱國の 泊瀬の枕詞。「四五」參照。○泊瀬《はつせ》の川 大和川の上流で、初瀬附近を流れ、三輪山の麓をめぐつて佐保川に合流するまでの名。○川隈 川の曲つたところ。「一七」參照。○八十隈おちず 八十は多數の義。おちずはもらさず、悉くの意。「ぬる夜おちず」(六)參照。○かへりみしつつ 振りかへり見ながら。○玉桙の 道の枕詞。玉桙の身とかゝる(考)とも、玉桙には幡をつける爲の乳《ち》があるから、道《ち》にかけた(國號考)ともいふ。○道行き暮らし 道はここでは船路の意。船路を行くうちに日が暮れた。○青丹よし 「一七」參照。○佐保川 春日の裏山に源を發し、今の奈良市の北を西に流れ、更に南へ向つて(84)平城京の址を横ぎつて泊瀬川と北吐田村附近で合流する。○いゆき至りて 行きついて。「い」は「い隱るまで」(一七)參照。○衣の上ゆ 被つて寢てゐる衣の上から。夜、船の中に寢てゐる趣と思はれる。下の見ゆればにかかる。○朝月夜 曉方まで月のある夜。後世ならば月といふべきところを月夜といつた例は少くないが、さればといつて夜を添へたのみと考へるのは誤で、ここも月の夜と解してよい。○清に見れば 月が明るく照つてゐるので。○栲《たへ》の穗に たへは織物の名。「二八」參照。穗は高く秀であらはれるものをいふ。從つてここの「たへの穗」は白い色の鮮かに目につく栲の意。霜の白いのを譬へたもの。○磐床と 岩の床をなしてゐるもののやうに。○川の水凝り 川の水が冰り固まつて。○來まさむ君と 「と」は、と思ひての意。或は、と共にとも解し得る。
〔訓〕 ○天皇の 考「スメロキノ」と訓んでゐるが、正しくはすめろきは遠祖の天皇を申し、おほきみは當代の天皇より皇子諸王までを申上げる(槻落葉)。○家乎釋 通行本等多くの本は「擇」とあり、「釋」「擇」通用するといふ説もあるが、冷泉本によつて改める。訓はオキとしてもよい。○川の水凝り 白文「川之水凝」は、類聚古集、古葉略類聚鈔による。通行本は「氷凝」とあり、「カハノヒコリテ」の訓がある。○來まさむ君と 白文「來坐牟公與」は、諸本「來座多公與」とあり、舊訓は「キマセオホキミト」とある。この説によつて、「キマセオホキミト」ともよまれるが、なほ穩かでないので、今、萬葉集燈の説によつて改めた。他に考は「來」は「與」の誤として上句につけ、「多」を「牟」と改め、「イマサムキミト」と訓んでゐる。なほ今後研究を要するところである。
 
    反歌
80 青丹よし寧樂《なら》の家には萬代に吾も通はむ忘ると念《おも》ふな
    右の歌は、作主未だ詳ならず。
 
(85)〔譯〕 寧樂の家には萬代まで私も通つて參りませう。忘れると思つて下さいますな。
〔評〕 長歌の終の部分を反復したのであるが、その部分がやや輕いのを補ふやうに思はれる。一首獨立して見ると、素朴で技巧のないいひ方であるが、結句よく据わつて眞情を感ずる。
 
    和銅五年壬子夏四月、長田王《ながたのおほきみ》を伊勢の齋宮《いつきのみや》に遣しし時、山邊《やまのべ》の御井《みゐ》にして作れる歌
81 山邊《やまのべ》の御井《みゐ》を見がてり神風《かむかぜ》の伊勢|處女《をとめ》ども相見つるかも
 
〔題〕長田王 續紀天平九年六月に、「散位正四位下長田王卒」とある方と思はれる。長親王の御子ともいふが、確證はない。齋宮は天皇の御手代として伊勢神宮に奉仕せられる内親王、又はそのおはします宮をいふ。ここは後者で、今多氣郡齋宮村に址が殘つてゐる。山邊の御井は、雲津川に近い忘れ井(全釋)とも一志郡新家村(講義)ともいはれるが、古くいひ傳へたやうに、河曲郡山邊村(玉勝間)がよい。
〔譯〕 山邊の御井を見ようと來たところが、思はず伊勢の國の處女達に逢つたことである。
〔評〕 この伊勢處女を、齋宮の宮女であらうと攷證などはいつてをるが、この歌は山里の泉のほとりに風俗も變つた地方の美しい少女に逢つたといふに過ぎないのであつて、特別な交渉はなくとも、旅先で逢つた美しい少女が土地の印象と結びついて忘れられぬといふのは、今日もあることである。山邊村のでは、齋宮とは遠いといふ説もあるが、國府も遠からず、近く後に國分寺となつた大寺もあつたので、何かの用でより道をせられたものと考へてよい。
〔語) ○見がてり 今の見がてら、見るついでにの意。○神風の 伊勢の枕詞。風の息の意で、伊勢のいにかけたといふ説もあるが、つよい風の吹くとも解される。○相見つるかも 出逢つたことよ。
 
82 うらさぶる情《こころ》さまねしひさかたの天《あめ》の時雨《しぐれ》の流らふ見れば
 
(86)〔譯〕 何となく物淋しく沈んだ氣持で、心がふさぐことである。大空から絶えず時雨の降つて來るのを見ると。
〔評〕 蕭條たる冬の旅路に、時雨さへ降りつづくといふのであつて、單に季節とか、冬の自然に對する淋しさとかいふ以上に、やはり生活に基づくところがあるのであらう。緊迫した感じの一二句でつよく止め、三句以下は、のを重ねて、流れるやうに歌つてゐる調べは、後世の歌に見られない格調の高さがある。
〔語〕 ○うらさぶる 心のさぶしく、樂しまぬ樣。「うらさびて」(三三)參照。○心さまねし さは接頭辭。まねしは多し繁しなどの意。「見ぬ日さまねみ戀ひしけむかも」(三九九五)ともある。ここは心が一ぱいであるの意。○ひさかたの 天、日、月等の枕詞。日さす方、等の説があるが、匏《ひさ》形で、天を仰げば、匏の形のやうに見えるのでいふとの説が、最も穩かのやうである。○天の時雨《しぐれ》 天より降る時雨。時雨は秋より冬にかけて曇り勝ちの空にさつと折々降る小雨。○ながらふ見れば 絶えず時雨の降りつづくのを見るとの意。動詞の「流る」の連續?態をあらはす。「五九」參照。
〔訓〕 ○情さまねし 白文「情佐麻禰之」は、諸本「佐麻彌之」とあるが、これでは通じない。「彌」「禰」似てゐるので、代匠記の説に從つて改めた。
 
83 海《わた》の底|奧《おき》つ白浪立田山|何時《いつ》か越えなむ妹があたり見む
    右の二首は、今|案《かむか》ふるに、御井にして作れるに似ず。若し疑はくは、當時誦めりし古歌か。
 
〔譯〕 海の遙か向ふの沖に白浪が立つてゐるが、立つといへば、あの立田山を果して何時越えることであらうか。妻の住むあたりを見ようと思ふのに。
〔評〕 立田山は難波から大和に入る通路に當り、「人|皆《もね》のうらぶれ居《を》るに立田山御馬近づかば忘らしなむか」(八七七)ともあるやうに、奈良に歸るといへば先づ心に浮ぶ山である。三句まで殆ど體言のみで重ねて來て、四句「いつか越(87)えなむ」と述べただけでは物足らず、更に「妹があたり見む」と重ねて強く述べてゐる。しらべも三句までの短い調子をうけ、四句五句は、なむ、見むと重ねただけではなく、いつか、いもと頭韻をもならべてゐる。特殊な調べである。なほこの歌は、左註に見えるやうに、立田山といふ點のみでも伊勢の御井の歌らしくない。一二句の序から考へると、船で難波に向つた人の途中の作とも思はれる。さうすれば序はよく生きてくるやうである。なほ古今集の「風吹けば沖つ白波立田山夜半にや君がひとり越ゆらむ」はこの歌より出たものであらうが、調子はかなり違つてゐる。
〔語〕 ○海の底 底は今の海底のみではなく、ずつと遠く極まるところの意で沖をもいひ、ここは沖をひき出すための枕詞。○奧つ白波 沖の白波。ここまで立つにかける立田山の序。○立田山 大和國生駒郡の西端三郷村立野附近の山。河内との國境で、大和川に沿ひ、奈良の京以後は、難波に至る交通の要路に當る。
 
寧樂宮
 
    長皇子、志貴皇子と佐紀宮《さきのみや》にて倶に宴《うたけ》せる歌
84 秋さらば今も見る如《ごと》妻ごひに鹿《か》鳴《な》かむ山ぞ高野原の上
    右の一首は長皇子。
 
〔代號〕 諸説のいふやうに、寧樂遷都は和銅三年三月であるから、前の和銅五年の歌「八一」の前に在るべきである。
〔題〕 志貴皇子(「六四」參照)と長皇子(「六五」參照)は從兄弟。佐紀は、今、奈良市の西に佐紀町があり、式内佐紀神社があるが、古へは平城京大内裏の北一帶の山地をさしたものらしく、集中多く見えてゐる。佐紀宮はこの地に營まれた宮で、恐らく長皇子の邸宅であらう。
〔譯〕 秋になると、毎年、丁度今見るやうに、妻を戀うて鹿の鳴く山でありますよ、この高野原のあたりは。
(88)〔評〕 語釋以下の項に述べるやうに、この歌は難解な語はないが、諸説ある歌である。しかし口譯のやうに殆ど詞句の通りに素直に解すればよいのであつて、また歌としても、輕い氣持で作られた即興の歌と思はれる。萬葉集の歌を種々の見地から分けることができるが、かやうな宴席の歌は、内容格調から見ても一類をなすものである。
〔語〕 ○秋さらば 秋になつたらば。「一六」參照。○今も見るごと 第一句と四句の鳴かむと、むを用ゐたところとをあはせ考へると、今は秋でないらしいのに對し、この句は今鹿が鳴いてゐるらしく見えるから、その點を問題として、「鹿將鳴」の「將」を衍として、鹿鳴く山ぞとしたり(新考)、宴席に鹿の鳴いてゐる樣をこしらへた洲濱か、又はさうしたところを書いた障子、屏風などがあつて、それをさして今も見るごとといつたと解する説(講義)や、この句の下に「相飲まむ」とか「相見む」とかの語を補ふ(萬葉語研究、佐伯氏)とか、この句は「山ぞ、高野原の上にのみかけて解する」(秀歌、齋藤博士)とか、今も鳴いてゐるが、秋になると一層鳴くであらうの意(高木市之助氏)等の諸説があるが、今も鳴いてゐる、かやうに毎年秋になれば鳴く山であると、素直に解してよいと思ふ。「今も見る如くに行末の事もかはらじ」と考にいつてゐるのも、その意味で、それに志貴皇子を常に迎へようとの意を含めたと解してよい。○高野原のうへ 高野原は孝謙天皇の御陵を佐貴郷高野山陵と續紀にあるから、佐紀の野一帶或はその西部をいふのであらう。
〔訓〕 ○秋さらば 白文「秋去者」は古寫本の訓、代匠記は「アキサレバ」とし、僻案抄は「サラバ」とし、二訓あるのは、次の句以下の解によつて別れるのであるが、後説によるのがよい。
 
萬葉集 卷第一 終
 
(89)萬葉集 卷第二
 
(91)概説
 
 卷二は、卷一と共に、一部を成せるものであり、雜歌を除いた相聞及び挽歌の二類である、しかして卷三以下と異り、歌がすべて時代順に配列せられてゐる。歌數は次のごとくである。
                 相聞    挽歌
 仁コ天皇御代     …    短歌 五  … …
 齊明天皇御代     …    …     … 短歌 六
 天智天皇御代     …    短歌一二  長歌 三  短歌 六
 天武天皇御代     …    短歌 二  長歌 二  短歌 五
 藤原時代(持統・文武)長歌 三 短歌 三三 長歌一〇  短歌五五
 奈良時代       … …        長歌 一  短歌 六
 計          長歌 三 短歌五二  長歌一六  短歌七八
 即ちこの卷にも旋頭歌はなく、長歌短歌合せて、相聞歌五十三首(うち長歌一首短歌二首は異傳の歌)、挽歌九十四首(うち長歌一首短歌三首は異傳の歌)、都合百四十九首(うち異傳歌七首)である。
 集中最古の歌は、この卷の卷頭の仁コ天皇皇后の御歌であるが、そは、後人の作が記紀に見える皇后の物語と結びついて、その御歌として傳誦せられたものとも考へられるので、確實なものとしては、挽歌の初に出てゐる齊明天皇(92)御代の有馬皇子の歌が、此の卷での最古の作である。萬葉集全體としては、奈良時代の作がその多きを占めるのであるが、本卷は藤原時代以前の作が大部分を占め、卷一と共に、古い歌の卷の一つである。
 長歌十九首中、反歌の伴はぬものは、天智、天武兩天皇の御代の作五首であり、それらが何れも女流の作であることは、反歌成立上にも注意すべきである。
 内容は、卷一と同じく、皇室關係の作が最も多い。相聞には、天皇、皇子、皇女、王などの贈答歌が多く、挽歌には、崩御、薨去に關する作が、大部分を占めてゐる。
 作者は、天智天皇、天武天皇、持統天皇、倭姫王、有馬皇子、日竝皇子、高市皇子、舍人皇子、長皇子、弓削皇子、穗積皇子、大伯皇女、但馬皇女、鏡女王、額田王、藤原鎌足、柿本(ノ)人麿、長奧麿、山上憶良、大伴安麿、大伴田主、石川郎女、久米禅師、三方沙彌などで、卷一と同じく人麿の作が最も多く、ついで大伯皇女、弓削皇子、額田王等が多い。
 長歌として見るべきは、天智天皇の山科御陵より退散する時の額田王の歌(一五五)、天武天皇崩御の時の太后の御歌(一五九)の他は、殆どすべて人麿の作である。石見國より妻に別れて來た時の作(一三一−一三三)、日竝皇子尊の殯宮の時の作(一六七−一六九)、明日香皇女の木※[瓦+缶]殯宮の時の作(一九六−一九八)、妻の死を悲しんだ歌(二〇七−二一二)、吉備津采女の死んだ時の作(二一七−二一九)、狹岑島の死人を詠じた作(二二〇−二二二)等、何れも傑作であり、就中、高市皇子尊の殯宮の時の作(一九九――二〇一)は集中第一の長篇であり雄篇である。また、笠金村歌集所出の志貴親王薨去の際の挽歌(二三〇――二三二)も注目すべきである。
 短歌のうち、特に勝れたものをここに抄出しておく。
  ささの葉はみ山もさやに亂げども吾は妹おもふ別れ來ぬれば  人麿  一三三
  勿念ひと君はいへども逢はむ時いつと知りてか吾が戀ひざらむ  依羅娘子  一四〇
(93)  天の原ふりさけ見れば大王の御壽は長く天足らしたり    太后  一四七
  ひむかしの瀧の御門にさもらへど昨日も今日も召すこともなし  舍人  一八四
  朝日てる島の御門におぼほしく人音もせねばまうらがなしも   同   一八九
  かも山の岩ねしまける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ   人麿  二二三
 本卷も亦卷一と同じく、概して拙劣な歌のないのは、素材などと共に、精選のほどを思はしめる。
 眞率な相聞歌及び悲痛な哀傷歌の間に、石川女郎と大伴田主との贈答のごとき、いささか眞率を缺くと思はれるものもあり、「黄泉」を謎のごとく詠じた歌
  山振の立ちよそひたる山清水くみに行かめど道の知らなく    高市皇子  一五八
もある。
 
(94)萬葉集 卷第二
 
相聞《さうもに》
 
難波高津宮御宇天皇代《なにはのたかつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》 大鷦鷯天皇《おほさざきのすめらみこと》
 
    磐姫《いはのひめ》皇后、天皇を思ほして御作歌《つくりませるうた》四首
85 君が行《ゆき》日長《けなが》くなりぬ山|尋《たづ》ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
     右の一首の歌は、山上憶良の臣の類聚歌林に載す。
 
〔分類〕相聞 文選、漢書、聖コ太子御撰の勝鬘經義疏等に出典のある語で、本集には、卷十一に古今相聞往來歌とある如く、語義は、消息を通じ問ひ交す意である。萬葉集の分類としては、雜歌挽歌に對して、贈答或は特に相手を念頭において作つた歌が收められてゐる。從つて戀愛の歌が大部分を占めてゐるが、父子、兄弟等の間の贈答の歌も幾分か加はつてゐて、この語を直ちに平安時代以後の戀歌の意に解するのはよくない。
 考「アヒギコエ」古義「シタシミウタ」等の訓があるが、雜歌、挽歌同樣、音讀して「サウモニ」と訓むのがよい、
〔代號〕 難波|高津宮《たかつのみや》は、今の大阪城附近とも、東|高津《かうづ》北之町ともいはれてゐる。天皇は仁コ天皇。
〔題〕 磐姫皇后 葛城襲津彦の女。仁コ天皇の皇后として、履仲・反正・允恭の三天皇の母君であらせられる。
〔譯〕 君のいでましは日數長くなりました。山を尋ねてお迎へに參りませうか。それとも唯じつと待つてをりませう(95)か。
〔評〕 この御歌は、集中年代を記したもののうちで最も古いものであるが、磐姫皇后の御歌は記紀にも數首記されてをり、熱情に富んだ方として傳へられてゐる。しかし、以下四首の連作は、御作として傳稱したものといふべきである。この御歌、行かうか行くまいかとためらひの切なる思がよく出てをる。
〔語〕 ○君が行《ゆき》 ここは行幸、いでまし。○け長くなりぬ 月日久しく長くなつた。「けながき」(六〇)參照。○山尋ね 山路を尋ねて。○迎へか行かむ 迎へに行かうか。○待ちにか待たむ ひたすら待つてゐようか。同じ動詞を、「に」でつづけて、待ちに待つ、ゆきにゆくなどといふのは、その動詞の意味を強めるのである。
〔訓〕 ○山尋ね 白文「山多都禰」は、「九〇」の歌に「山多豆乃」とあるにより、「禰」を「能」に改め(童蒙抄)、このまま「ヤマタヅノ」と訓む説(美夫君志)もあるが、誤字説は固より、「禰」をノと訓むのも他に例もなく、從ひ難い。歌としては「九〇」の方がまさつてをるが、ここはこのままに解する方がよい。
 
86 斯《か》くばかり戀ひつつあらずは高山の磐根《いはね》し枕《ま》きて死なましものを
 
〔譯〕 こんなに戀ひつづけてばかりゐないで、いつそ高い山の磐根を枕として死にませうものを。
〔評〕 前のためらふ氣特が一轉して、かやうな苦しい思をするよりも、寧ろ苦しい死に方をした方が望ましいと、切迫した感情を述べてをられるのである。率直ないひ方のうちに、強い感情が表はれてゐる。
〔語〕 ○戀ひつつあらずは 從來、あらむよりは(宣長)と譯されてきたが、橋本博土は、あらずして、あらずと解すべきで、「は」があつてもなくても、あらずの他の語に對する關係は相違しないと述べられた。「は」自身に特別な意はないにしても、前後の關係よりその下に「寧ろ」などいふ詞をつけ加へて解した方が明かになる場合が多い。○(96)磐根しまきて 石が根(四五)參照。まきては、枕にして。なほこの句は葬られる樣をいふとの説(考)があるが、單に旅中に歩み倒れてといふ意に解してよい。
 
87 在りつつも君をば待たむうち靡く吾が黒髪に霜の置くまでに
 
〔譯〕 かうしてじつとしてゐながら、君をお待ちしよう。夜がふけて長く靡いてゐる私の黒髪に霜が降るまでも、内に入らずに。
〔評〕 再び一轉して、苦しさを耐へつつ外に立つて、君を待たうといふのである。この歌も二句切であるが、五句がいひさした形となつてゐるため、「八五」などとは異なり、餘韻を殘してゐる。これに似た歌としては、「待ちかねて内へは入らじ白細布の吾が衣手に露は置きぬとも」(二六八八)、「君待つと庭にしをれば打靡く吾が黒髪に霜ぞ置きにける」(三〇四四)があり、共におそらく此の歌の影響があると思はれるが、前の歌は一二句も弱いし、五句、「とも」と假定としてゐるところに差異があり、後の歌も、この御歌の悲しくしかも強い決意に對して、自分を客觀視するといつた餘裕感があつて、共に、簡素な強さの點で及ばない。
〔語〕 ○ありつつも 在り在りても、かうしてじつとしてゐて。○打靡く 女の髪の長々と垂れてゐる形容。○霜のおくまでに 夜が更けて霜がおくまでの意(略解)。これを白髪となる譬とした(考)のはよくない。
 
88 秋の田の穗の上《へ》に霧《き》らふ朝霞いづへの方に我が戀ひやまむ
 
〔譯〕 秋の田の稻穗の上に立ちこめてゐる朝霞は、何處へ流れ去るともなく消えて行くが、私のこの思は、どちらの(97)方へ消えて行くことであらうか。
〔評〕 最後の一首は、高揚した感情が一旦靜まつて反省されると共に、しみじみとした哀愁をたたへて歌はれてゐる。調べも三句で輕く休止が入るが、なだらかにつづいてその氣持にふさはしい。特に三句までの序詞は、單に譬喩といふ以上に、朝のもやがおぼほしく立ちこめて、ためらふやうに流れる姿は、非常に鮮かに思ひ浮べられ、御氣持の象徴ともいふべき美しさを持つてゐる。一首として見ても、また四首の最後において考へても秀れてゐる。
〔語〕 ○穗の上に霧らふ 穗は稻穗。霧らふは霧や霞のぼんやりたちこめる意の動詞。「きる」に、作用の繼續をあらはす「ふ」のついたもの。○朝霞 古くは春の霞と秋の霧と明かに區別してゐない。しかしここまでは譬喩である。○いづへの方に どちらの方向に。
 
    或本の歌に曰く、
 
89 居明《ゐあか》して君をば待たむぬばたまの吾が黒髪に霜は降るとも
     右の一首は古歌集の中に出づ
 
〔題〕 前の「ありつつも」の歌(八七)の異傳であるが、右の四首は同一群の歌であるから、それをすべて記してから、その異傳たるこの歌を附記したのである。
〔譯〕 このまま夜を明して、君をお待ちしませう。たとひ、私の黒髪に霜がおりようとも。
〔評〕 第一句がかたいし、又、「て」と一旦休止する句法は、「八七」のありつつものやうにおほよそに云つた情趣に乏しい。又「うちなびく」に對しては、三句の「ぬば玉の」の枕詞は精彩に乏しい。初句でなく、三句であるから特にその感が強い。結句の「とも」と「までに」との差は前に述べた通りで、この場合としては、「とも」と輕くいひすゑるよりも、「までに」と重く強いいひ方がよい。總じてこの歌は、輕く又無雜作すぎて、「八七」の強さと氣品と(98)が缺けてゐる。
〔語〕 ○居明して このまま夜を起き明して。○ぬば玉の 黒、夜等の枕詞。卷三に野干玉とある。野干は射干(からすあふぎ)で、葉が檜扇を廣げたやうな形をしてゐる、鳶尾《いちはつ》科の植物である。實が黒いので、黒の譬喩から枕詞となつたもの。
〔左註〕 古歌集は、他に、卷七、卷九、卷十等に見え、萬葉集以前に存在した歌集の一をさすものと思はれる。
 
    古事記に曰く、輕太子、輕の太郎女《おほいらつめ》に?《たは》けぬ。故《かれ》其の太子は伊豫の湯に流さえき。此の時、衣通《そとほりの》王、戀慕《れもひ》に堪へずして追ひ往きし時の歌に曰く、
90 君が行《ゆき》日《け》長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
     此に山|多豆《たづ》と云へるは、是今の造木《みやつこぎ》といふ者なり。     右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず。歌の主亦異なり。因《かれ》日本紀を檢《かんが》ふるに曰く、難波の高津宮に御宇|大鷦鷯《おほさざき》天皇の二十二年春正月、天皇、皇后に語りまして、八田《やたの》皇女を納《い》れて妃となさむとしたまひき。時に皇后|聽《うなづ》きまさず。爰《ここ》に、天皇歌もて皇后に乞ひたまひき云々。三十年秋九月乙卯の朔にして乙丑の日、皇后、紀伊國に遊行《いでま》して熊野岬に到り、其處の御綱葉《みつながしは》を取りて還りましき。是に天皇、皇后の在《いま》さざるを伺ひて、八田皇女を娶《め》して宮中に納れたまひき。時に皇后、難波の濟《わたり》に到りて、天皇、八田皇女を合《め》しつと聞かして、大《いた》く恨みましき云々。亦曰く遠飛鳥《とほつあすか》宮に御宇|雄朝嬬稚子宿禰《をあさづまわくごのすくねの》天皇の二十三年春正月甲午の朔にして庚子の日、木梨輕《きなしのかるの》皇子を太子と爲したまひき。容姿|佳麗《うるはし》くして見る者|自《おのづか》ら感《め》づ。同母妹輕太娘皇女、亦|艶妙《かほよ》かりき云々。遂に竊に通《たは》けぬ。乃《すなは》ち悒懷《おもひ》少しく息《や》みき。二十四年夏六月、御羮の汁凝りて氷と作《な》れり。天皇、之を異《あやし》みたまひ其の所由《ゆゑ》を卜はしめたまふに、卜者曰(99)さく、内の亂あり。蓋し親々相?《したしきどちあひたは》くるかと云々。仍《すなはち》太娘皇女を伊與に移しましきといへり。今案ふるに、二代二時此の歌を見ず。
 
〔題〕 「八五」の類歌が、古事記には作者を異にして載つてゐるので考證したもの。古事記下卷允恭天皇の條を引いてゐるが、原文のままではなく摘要したものである。輕太子は、允恭天皇の皇太子、輕太郎女は、允恭天皇の皇女、衣通王は輕太郎女の別名。
〔譯〕 君のいでましは日數長くなりました。お迎へに參りませうよ。もうかうしてじつと待つてはゐますまい。
〔評〕 註にいふやうに「八五」の異傳であつて、古事記には、衣通王即ち輕太娘皇女の御歌と傳へられてゐるのである。輕皇子と輕皇女との事は、古事記にこの他數首の歌を中心として傳へられ、いづれも眞情のこもつた歌であるが、これと「八五」と比べると、兩者の傳へられた年代によるならば、この方が後になつてゐるに拘はらず、古格體である。「待ちにか待たむ」と「待つには待たじ」とは、前者のややあきらめに近い氣持に對し、後者はもつと切迫した感情であり、また四句の「を」の使ひ方も古風である。「八五」は焦躁のうちにあきらめと女性らしい優しさを思はせ、これはあらはな強い情熱を率直に述べてゐる。この二首のやうな異傳は、古事記と書紀との間にも多く見うけられ、恐らく謠ひ物として傳誦されてきた歌が、傳誦の間に小異を生じ、一方は仁コ天皇と磐姫皇后との歌を中心とする物語の中に、一方は輕皇子と輕皇女との物語に結びつけられたものではないかと推測される。
〔語〕 ○山たづの 迎への枕詞。山たづは註に「今造木也」とあるが、造木はミヤツコギと訓み、和名抄その他によれば、接骨木(にはとこ)のことである。この木は枝葉とも對ひあつて出るから迎への枕詞としたのである(古義所引加納諸平説)。宣長が、山釿《たづな》で、釿《てをの》は刃をこちらへ向けて用ゐるから迎へにかけたといふ(記傳)のは牽強である。○迎へを行かむ 迎へに行きませう。「を」は強意の間投助詞。○待つには待たじ 「じ」は打消の決意を表はす助動詞。待つてゐるにも待ちきれまいの意。
(100)〔左註〕 本卷の資料となつた傳へと類聚歌林の傳へとは一致してゐるが(「八五」參照)、それと古事記の傳へとは一致してゐないため、書紀の仁コ天皇の條と允恭天皇の條を引いて檢し、そのどちらにも此の歌が見えないから、この疑を解決する由のないことを述べたもの。大鷦鷯天皇は仁コ天皇、皇后は磐姫皇后。八田皇女は雄略天皇の御子で仁コ天皇の異母妹に當られる。御綱柏は延喜式に三津野柏とあり、古昔神酒を受けて飲むに用ゐた木の葉で、當時も豐宴《とよのあかり》などに用ゐたもの。雄朝嬬稚子宿禰天皇は允恭天皇。二代は仁コ允恭天皇の御代、二時は磐姫皇后の恨み給うた事と、輕皇子輕皇女に關する事とをいふ。
 
近江大津宮《あふみのおほつのみや》御宇天皇代 天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇
 
    天皇、鏡王の女に賜へる御歌一首
91 妹が家も繼《つ》ぎて見ましを倭なる大島の嶺《ね》に家もあらましを 【一に云ふ、妹があたり繼ぎても見むに、一に云ふ、家居らましを】
 
〔代號〕 天皇は天智天皇。「一六」參照。
〔題〕 鏡王の女 額田王(七)の御姉で、天武天皇十二年七月薨。鎌足の嫡室となつた方。なほこの歌は、鎌足の薨後、即ち天智天皇即位二年十月以後、天皇の崩御即ち四年十二月までの間に、大津宮にまします天皇から大和なる鏡王女に贈り給うたとするのと、女王が鎌足に嫁し給はぬ前の歌とするのと二説あるが、標記に從ひ、前説による。
〔譯〕 そなたの家をいつも續いて見たいものである。大和の大島の嶺にそなたの家があればよいものを。
〔評〕 二句までと三句以下とは同じ氣持をいひ方を換へて仰せられたもので、調べの上でも「ましを」を反復してをられるのが、おほどかなうちに深い御心が思はれる。
〔語〕 ○つぎて見ましを つぎては、ひきつづき、ましは假設して推量する意の助動詞で、もし出來るならば、つづ(101)いて見たいものであるの意。○大島の嶺 鏡王女は、額田王と共に平群郡額田郷に住まはれたらしく、この額田郷は臺地をなしてゐるから、それをいふとか、その附近の神南備山をいふなどの説があるが、明かでない。○家もあらましを そなたの家がもしあればよいであらうにの意。これを御自らの家と解する説もある。
 
    鏡王の女、御歌に和《こた》へ奉《まつ》れる一首
92 秋山の樹《こ》の下がくり逝《ゆ》く水の吾こそ益さめ御念《みおもひ》よりは
 
〔題〕 和は、答へる、唱和する、の意。
〔譯〕 秋の山の木の下を、人目にたたず流れてゆく水のやうに、私のお慕ひ申上げる心は、もつともつと多うございませう。あなた樣の御思よりは。
〔評〕 三句までは、序といつて差支ないが、唯秋の水の水かさの増すといふだけでなく、人目には立ちませぬが、といつた意味をも含めてゐて、こまやかな情緒を巧みに述べてゐる。又五句「御念よりは」と倒置の句で、いひさした形になつてゐるところに、女らしいつつましい氣持さへ感じられて味はひが深い。
〔語〕 ○樹の下がくり 「隱る」は古く四段活用。○逝く水の 「の」は、の如く。
〔訓〕 ○題詞の下に通行本等は「鏡王女又曰額田姫王也」とあるが、後人の註の混入したもの。金澤本によつて除く。
 
    内大臣藤原卿、鏡王の女を娉《つまど》ひし時、鏡王の女、内大臣に贈れる歌一首
93 玉匣《たまくしげ》覆《おほ》ふを安《やす》みあけて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも
 
〔題〕 内大臣藤原卿 藤原鎌足。娉ふは婚を求めるの意。
〔譯〕 夜が明けてから歸つて行かれたならば、あなたは男であるから、御名の立つのもさほどおかまひにならないで(102)せうが、私の名の立つのは惜しいことです。
〔評〕 古今六帖にこの歌を、「吾が名はあれど君が名惜しも」として載せ、又代匠記などもこの歌の四五句の君と吾とが轉倒してゐるといつたのは、あなたの方はどうでも、こちらの名が惜しいといふいひ方を女性らしくないと認めたからであるが、その點に平安時代の歌と萬葉集の歌との差異があり、この方が却つて眞情を率直に述べてゐるのである。又これを當時の女性の地位と併せ考へることもできようが、一方からいへば、鏡王女と鎌足との間柄が、まだ正式に嫁し給はぬ時のことではあるが、相當親しかつたと想像することができる。なほ一二句の序は女性の身近なものを材とした巧みなものであるが、もしこれがないと考へると、歌があまり露《あらは》にすぎてしまふことを思へば、萬葉集の序詞の意義を考へる一資料となるであらう。
〔語〕 ○玉匣《たまくしげ》覆《おほ》ふを安み 匣《くしげ》は櫛笥で、櫛などをいれる箱。あくにかける序詞。○明けて行かば 夜があけてからお行きになつたならば。
 
    内大臣藤原卿、鏡王の女に報へ贈れる歌一首
94 玉くしげ將見圓山《みむろのやま》の狹名葛《さなかづら》さ寐《ね》ずは遂にありかつましじ 【或本の歌に曰く、玉くしげ三室戸山の】
 
〔譯〕 おもふ思をとげないでは、自分は到底此のままあることができないであらう。
〔評〕 この歌は前の歌より更に率直で、且あらはである。これが當時の政治の局に當つてゐた鎌足の作であることを思へば、更に驚くべきである。次の歌と併せ考へて、萬葉集初期の作風が、如何に眞情の率直なる表現を重んじたか、後世の風雅の考では到底律することのできぬのを感ずるのである。上三句の序はこれも前の歌同樣のことがいへるが、同じ「玉くしげ」で始めてゐるのは、和へる歌の一手法である。
〔語〕 ○玉匣 ここは箱のみの意で身にかかる枕詞。○將見圓山《みむろのやま》 神を祀る神聖な山の義であるが、唯みむろ山とい(103)へば多く三輪山をさし、ここもそれである。○狹名葛 さね葛、美男かづらともいふ。蔓草の類で長卵形の艶々した葉をもつ。この句まで三句、「さな」「さね」同音反覆により、さねにかかる序詞。○さ寢ずは 寢ないでは。さは接頭辭。○ありかつましじ かつは能ふ、堪ふの意。ましじは否定推量の助動詞、後世のまじに同じ。なほありを、單にゐると解するか、生きてゐると解するかは、疑の起るところであるが、生きてゐることができないであらうと解するよりも、單に、あり得ないと解しておく。
〔訓〕 ○將見圓山 舊訓「ミムマトヤマ」。童蒙抄の訓による。將見はミム、圓をロと訓むのは「マロ」の上略(冠辭考)。舊訓を復活して、「見む圓山《まとやま》」として、玉匣見むを序とし、まと山は或は高圓山かといふ説があるが、調べと、二句のかかり方に難點がある。○ありかつましじ 白文「有勝益自」の「自」を通行本等は「目」に作り、これによる從來の諸註は「アリガテマシモ」と訓み、がては難の意としてゐたが、橋本博士の説により、元暦校本等の「自」によつて「アリカツマシジ」と訓むのがよい。
 
    内大臣藤原卿、采女安見兒《うねめやすみこ》を娶《え》し時作れる歌一首
95 吾はもや安見兒得たり皆人の得《え》かてに爲《す》とふ安見兒得たり
 
〔題〕 采女「五一」參照。
〔譯〕 自分は安見兒を得ることができた。人々が皆得ることのできないといふ安見兒を得ることができた。
〔評〕 この安見兒は美しい女でもあつたであらうが、采女であつたため、特に娶り難い事情があつたのであらう。恐らくは勅許などを特にいただいたのであらう。この歌はまことに單純直截、眞情の流露といふ點で代表的な歌である。二句と五句とを繰り返し、一句に、「もや」と感動の助詞を反復したところに、嬉しさに躍りあがるやうな氣持をよく表はしてゐる。即興的な明快な歌として注意すべく、讀者の心に感動を與へる歌といへる。
(104)〔語〕 ○我はもや 私はまあ。も、や、共に感動の助詞。○皆人の 人皆のに同じ。○得かてにすとふ 手に入れることができないといふ。
 
    久米《くめの》禅師、石川郎女《いしかはのいらつめ》を娉《つまど》ひし時の歌五首
96 み薦《こも》苅る信濃の眞弓吾が引かばうま人《び》さびて否《いな》と言はむかも 禅師
 
〔題〕 久米禅師 傳不詳。禅師は僧の意ではなく、俗名とおもはれる。當時かういふ名をつけた例はある。石川郎女は他に大津皇子と贈答の歌(一〇八)、大伴田主と贈答の歌(一二六)(これは女郎とある)等所々にその名が見えるが、同人かどうか不明である。
〔譯〕 信濃の國の弓を引くやうに、私があなたの心をひいて見たならば、あなたは貴人らしく「否」といはれるであらうか。
〔評〕 輕い戯の氣持さへ見られる贈答の歌で序に特徴の認められることと、輕いとはいひながらもいふべきことはやはりはつきりいつてゐる點は、後代とは變つてゐる。
〔語〕 ○み薦《こも》刈る 信濃の枕詞。「みすずかる」とよむ説もある。○信濃の眞弓 續紀、延喜式などにこの國から弓を貢いだことが多く見えてゐる。ここまでは、ひかばの序。○吾が引かば ひくは心をひくで、なびくかどうか誘つてみるの意。○貴人《うまびと》さびて うまびとは貴人、さびは神さび、翁さびのさびに同じ。
 
97 み薦苅る信濃の眞弓引かずして弦《を》著《は》くるわざを知ると言はなくに 郎女
 
〔譯〕 信濃の弓を引きもしないで、弦を張る方法を知つてゐるとは誰もいひませぬ。あなたも私の心を引いてもみないで、私の心がわかるとはいへないでせうに。
(105)〔評〕 前の歌の序としたところをそのままとつて、これは一首全體を譬喩に用ゐてゐる。輕い調子の歌ではあるが、才氣に滿ちた巧みな表現である。
〔語〕 ○弦著くるわざ 弓に弦を張る方法。わざは、しかた、はくは、つける。「みちのくの安太多良眞弓‥‥弦《つら》著《は》かめやも」(三四三七)參照。
〔訓〕 ○弦著くる 白文「弦作留」は、通行本「強作留」に作り、シヒザルと訓んでゐるが意が通じない。仙覺本を除く古寫本金澤本などには「作」が「佐」とあるので、それにより、「強」をオソと訓んで馬鹿なの意、佐留はサルで、そんなしわざと解する説(全譯)もあるが、「強」をオソと訓むことと、「おそ、さるわざを」と切つては歌の調もよくない。從つて誤字とする説ではあるが、考の「弦作留」により、なほ後考をまつ他はない。
 
98 梓弓引かばまにまによらめども後の心を知りかてぬかも 郎女
 
〔譯〕 梓弓を引くやうにあなたが引かれたなら、私は引かれるままに身を寄せもしませうが、さきざきのあなたの御心がわからないことです。
〔評〕 將來の心を知りたいとは、女らしいともいへるであらうが、一應承諾をしつつ、なほ將來の約束を求めるのは一種の媚態ともいへよう。比較約技巧の少い句法である。
〔語〕 ○梓弓 ここはひくの枕詞。○引かばまにまに ひいたならばひくままになつて。○よらめども よるは靡き從ふの意。○後の心 行末までの心。○知りかてぬかも かては能ふの意、ぬは打消助動詞。
 
99 梓弓|連弦《つらを》とり著《は》け引く人は後《のち》の心を知る人ぞ引く 禅師
 
(106)〔譯〕 梓弓に弓弦を着けて引くやうに、人の心を引き誘ふ人は、行末までの心を知つてゐる人だから引くのです。
〔評〕 「九八」に答へた歌で、將來を約束したのであるが、一二句はむしろ「九七」の語を用ゐて序としてゐる。かやうなととろに贈答の技巧があるのであつて、贈答の歌は、かういふ一種の技巧を要求するものと思はれる。末句「人ぞひく」は重複のやうであるが、かく重ねて意を強めたのである。
〔語〕 ○連弦《つらを》 つらは連でつづくの意。また蔓の意で、弦をさし、つらをと重ねて弓弦をいふともいふ。一二句ひくの序。
 
100 東人《あづまびと》の荷前《のざき》の箱の荷の緒《を》にも妹は心に乘りにけるかも 禅師
 
〔譯〕 東國人が貢物の箱の荷の緒をしつかりと鞍につけるやうに、あなたが自分の心にしつかりと乘つて離れられないことである。
〔評〕 同じく答歌ではあるが、これはよほど獨り思ふといふ感じがする。かうして改めて「九九」の歌を強めたものと思はれる。三句までの譬喩は奇拔で、或は荷前を奉る季節などでもあつたのか。東人とあるのを見ると、田舍人の、都に目なれない有樣は、よほど印象に殘つてゐたものと思はれる。苦しい切ない思を述べたといふ感よりも、やはり、輕妙な歌といふ氣のするのは、この序から來るのである。
〔語〕 ○東人 東國地方の人。田舍人といふ意を含むやうである。○荷前 貢物として毎年朝廷に奉獻するその年の初物である調、即ち絹、木綿など。○荷の緒にも 荷の緒の如くに。しつかりと縛りつけるの意で譬へたもの。○妹は心に乘りにけるかも 妹のことが心に乘つて離れぬ。忘れる暇なく心から離れぬの意。
〔訓〕 ○妹は心に 白文「妹情爾」で、もとイモガとよんでゐたのを佐伯氏の説に從つた(萬葉語研究)。
 
(107)    大伴宿禰、巨勢郎女を娉《つまど》ひし時の歌一首
101 玉|葛《かづら》實《み》ならぬ樹にはちはやぶる神ぞ著《つ》くとふならぬ樹ごとに
 
〔題〕 大伴宿禰 氏姓だけで名はないが、家持の祖父安麿をさすのであらう。金澤本、元暦校本の註に、「大伴宿禰諱曰安麻呂也、難波朝右大臣大紫大伴長コ卿之第六子。平城朝任大納言兼大將軍薨也」とある。考に大伴御行かといふは從へない。巨勢郎女は次の歌の題詞の下に、同じく、古寫本に「即近江朝大納言巨勢人卿之女也」と註してゐる、後安麿の妻となつたことは下の「一二六」の古寫本の左註によつて知られる。
〔譯〕 實のならない樹には、神が憑りつくといふことです。實のならない樹はどの樹にも。
〔評〕 實のならぬ樹には神が憑くというて、同じく男を持たぬ女は神が憑いていよいよ夫を得難くなるといつたもの。戯れて對手を脅かし、自分に從ふことを誘つたのであるが、奇拔ないひ方である。これを切實な情を缺くと難ずる説もあるが、贈答の歌といふものが本來かういふ性質を帶びてゐるのであつて、單純に後世の抒情歌と同一に論ずることはできないと思はれる。五句更に「ならぬ樹ごとに」と繰返して強めてゐる點はこの語調にふさはしく巧みである。
〔語〕 ○玉葛 かづらは蔓になる植物の總稱。かづらは實の多くなるものであるから、みにかけた枕詞で、ならぬにかけたのではない。○實ならぬ樹 果實のならぬ樹。夫を持たぬ女を譬へいふ。○ちはやぶる いちはやぶるの略。いちは稜威《いつ》、嚴《いつ》などと同じ語源の語。もとは強く勇猛なの意で、神の枕詞となつたのであるが、後にはその意味はなくなつた。○神ぞつくとふ つくはとり憑く、のりうつる。「とふ」は、といふに同じ。
 
    巨勢郎女、報へ贈れる歌一首
102 玉かづら花のみ咲きてならざるは誰《た》が戀ならめ吾《あ》は戀ひ念《も》ふを
 
(108)〔譯〕 花ばかり咲いて實のならぬやうに、うはべの言葉ばかり立派で、眞實のないのは一體誰の戀なのでせうか。私は、こんなに心から戀ひ慕うてをりますのに。
〔評〕 初句も同じであり、又「實ならぬ樹」に對して「花のみ咲きてならざるは」と答へたのは贈答歌の技巧である。しかして「實ならぬ」と、此の「ならざる」とは一方が結婚せぬの意に對して、これは眞實のないの意で、譬喩内容の違ふのは誤解のやうにも見えるが、事實は、贈答の歌では前の歌の言葉をうけるのであつて、必ずしも譬喩の内容までうける要はない。むしろ言葉は同じで内容をかへるところに技巧が存したものと見られる。さうしてかやうに技巧を用ゐ、戯れてゐるうちに、眞情を述べて對手の心をひくところに贈答の歌の意義があるものと思はれ、その意味でこれは巧みな歌と評してよい。
〔語〕 ○玉かづら この歌から見れば、前の歌の場合も實ならぬにかけた方がよいやうにも見えるが、さういふ植物は明かでない。これは評に述べたやうに、前の歌とはかへて、寧ろ花咲くの枕詞とみるべきである。○花のみ咲きて成らざるは なるは實のなるの意。口先ばかりで眞實の心のないのは。○戀ひ念ふを 戀ひ思つてゐるのにの意。
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇
 
    天皇、藤原夫人に賜へる御歌一首
103 わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降《ふ》らまくは後
 
〔代號〕 明日香清御原宮は「二二」參照。天武天皇の御代。
〔題〕 天皇 天武天皇。藤原夫人は鎌足の娘五百重娘で、大原大刀自ともよばれた。夫人《ぶにん》は皇妃の意。
〔譯〕 自分のゐるこの里には大雪が降つた。そなたのゐる大原の古くさびれた里に降るのは、まだ後のことであらう。
(109)〔評〕 夫人が父君のさとの方に歸つてをられた留守中の大雪なので都にをれば此の大雪が見られるものを、きのどくなことよ、と、わざと戯れての御歌である。飛鳥清御原宮址を、現在の飛鳥小學校の地とすれば、大原は東南約十町餘しか離れてゐない。それをかやうに宣ふのは戯れてのことではあるが、その諧謔が少しも輕薄の趣なく、幼げとも申すべき中によく緊張した調べである。調べからいへば二句ではつきりと切り、三句以下少しの澱みもなくつづいて、「降らまくは後」と體言でしつかりと止めてゐる。そして二句三句の大、四、五句の古り、降らと頭韻を重ねてあるのが、この内容にふさはしい調べを齎してゐて、少しもうるさくない。
〔語〕 ○わが里 天皇の坐ます里、即ち飛鳥。○大原 大和國高市郡飛鳥村小原。○古りにし里 昔榮えた土地。宣長は、天皇が皇太子の御時通ひ給うた里と解してゐるが、次の例もあつて誤と思はれる。「大原の古りにし里に妹をおきて」(二五八七)參照。○降らまくは後 降らむことは後であらう。
 
    藤原夫人、和《こた》へ奉れる歌一首
104 わが岡の?神《おかみ》に言ひて降らしめし雪の摧《くだけ》し其處《そこ》に散りけむ
 
〔譯〕 大雪がふつたとのお詞はをかしうございます。それは、私のをりますところの岡の龍神に言つて降らせました雪のかけらが、都の方に散つたのでございませう。こちらは、もつと大雪でございます。
〔評〕 大原は飛鳥に比してはやや小高い丘陵地であるから、それを利用して御戯れの歌に報へたもの。私が命じたといひ、大雪と仰せられたに對して、くだけといつてゐる點に機智がある。御製のしらべとくらべて、おほらかさに缺けてをるが、好一對と稱すべき諧謔歌の唱和である。
〔語〕 ○?神 神代紀に高?《たかおかみ》、闇?《くらおかみ》とあり、雨空を掌る龍神。○摧し 碎片が、かけらが、の意。しは強めの詞。
 
(110)藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代
 
    大津《おほつの》皇子竊に伊勢神宮に下りて上《のぼ》り來ましし時、大伯皇女《おほくのひめみこ》の御作歌《つくりませるうた》二首
105 わが背子を大和へ遣《や》るとさ夜《よ》更《ふ》けて曉《あかとき》露に吾が立ち霑《ぬ》れし
 
〔代號〕 「二八」參照。天皇は持統天皇。
〔訓〕 通行本には「天皇代」とのみあつて上の六字が缺けてゐるが、元暦校本により補ふ。
〔題〕 大津皇子 天武天皇の第三皇子、御母は持統天皇の御姉太田皇女。持統紀に「辨有2才學1尤愛2文筆1、詩賦之興自2大津1始也」とあつて、懷風藻にその御作が見える。天武天皇十二年以後政務を聽いてをられたが、崩御の後不軌を謀つて死を賜つた。御年二十四。大伯皇女は、大來とも書き、大津皇子の同母の御姉。伊勢の齋宮であらせられたが、罷めて京師に還られ、大寶元年御年四十二で薨ぜられた。
〔譯〕 私の弟を大和へ歸してやるとて、見送りに外に立つてゐて、いつしか夜は更け、曉の露に濡れたことである。
〔評〕 題詞にいふ大津皇子の伊勢へ下られた時は明かでなく、又その理由も明瞭ではないが、恐らく諸家の説く通り、前記の不軌の事に關聯するのであらう。さう解すれば、これは忍んでの旅でもあり、また再會を期し難い旅でもある。後の歌にも知られるのであるが、大伯皇女がただ一人の同胞を思はれる別離の情、いかにもあはれである。人を待つて露にぬれたといふ歌は他にも少くない。しかしこれは、それらよりももつと切實である。表面には嘆きの心は少しも出てゐない。それでゐて、末句の「立ちぬれし」と連體形でとめられたところにさへ、その嘆きは、ほそぼそと續いてゐるのである。
〔語〕 ○わが背子 せこは男子を親しみ呼ぶ稱。「一一」參照。ここは御弟大津皇子をさす。○大和へ遣ると 大和(111)へ歸しやるとて。○曉露 明け方の露。あかときは、あかつき。
 
106 二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
 
〔譯〕 二人で行つてさへ行き過ぎ難い秋の山路を、どのやうにして君はひとりで越えてゆかれることであらうか。
〔評〕 前の歌につづいて、別れて後の感慨である。「二人行けど」といつて、「行くとも」と假定でないのは、もつと、いきいきと感じられる。行き過ぎ難きを、秋山の面白さに引きつけられてといふ説は誤りであらう。淋しさのためであつて、そして、その淋しさは、物思にふけつて越えられる皇子には、特に深いに違ないのである。
〔語〕 ○いかにか いかやうにしてか、どうして。
〔訓〕 ○いかにか 白文「如何」で、拾穗抄、考は「イカデカ」と訓んでゐるが、集中「イカニカ」の例は「八八八」などに見えるが、「イカデカ」の語は當時なかつたやうである。○越ゆらむ 白文「越武」で、「コユラム」(舊訓)、「コエナム」(考)の二訓あり、前者のらむは現在の推量で、越えてゐるであらうかの意となり、後者のなむは、これから越えてゆく樣を思ひやる意となる。今、前者に從ふ。
 
    大津皇子、石川郎女に贈れる御歌一首
107 あしひきの山の雫に妹待つと吾《われ》立ち沾《ぬ》れぬ山の雫に
 
〔題〕 石川郎女 前にも見えたが、同一人かどうか明かでない。
〔譯〕 そなたの來るのを待つとて、自分は立つてゐて、山の雫に沾れてしまつた、この山の雫に。
〔評〕 山の雫の語に、この背景となるべき山、おそらく秋山を思ふべきである。二句と五句との繰返しは「五五」に(112)もあつたが、記紀にも多い古風な技法である。平明な歌といふべきである。
〔語〕 ○あしひきの 山の枕詞。用例は極めて多いが意義は明かでない。あへぎあへぎ足をひいて登る意で足曳(代匠記)青茂木《あをしみき》(考)茂檜木《いかしひき》(古義)、「裾を長くひいてゐる地域の義で足引城《あしひきき》(宣長)等の説がある。特殊假名遣によると、「き」は乙類のキで、もとは、甲類のキである「引」ではなかつたと思はれるが、一方「足引」と書いた例もあつて、當時もとの意味が既に失はれて、裾を引いた山の姿を連想する枕詞ともなつてゐたのであらう。
 
    石川郎女、和《こた》へ奉れる歌一首
108 吾《あ》を待つと君が沾《ぬ》れけむあしひきの山の雫にならましものを
 
〔譯〕 私をお待ちくださいますとて、かなたがお沾れになつたその山の雫になりたかつたことでございます。
〔評〕 即座に容へた歌といふ趣があり、よく皇子の歌に即してゐる。それだけに技巧が表面に立つてゐて、眞情に乏しい憾みがある。
〔語〕 ○ならましものを ましは假設して推量する意。「死なましものを」(八六)參照。
 
    大津皇子、竊に石川郎女に婚《あ》ひましし時、津守連通《つもりのむらじとほる》、其の事を占《うら》へ露《あら》はししかば、皇子の御作歌《つくりませるうた》一首
109 大船の津守の占《うら》に告《の》らむとは正《まさ》しに知りて我が二人|宿《ね》し
 
〔題〕 津守連通 津守が氏、通が名である。續紀に養老五年正月に學業に優れ師範となるに堪へる者として賞せられたうちに、陰陽從五位下津守連通の名が見え、同七年正月に從五位上を授けられた。當時の卜占の大家であつたのであらう。
(113)〔譯〕 津守の占に告げあらはされようとは、正しく知つてゐて、自分は共寢したのである。
〔評〕 皇子としても、初からあらはれると知つてをられたのではあるまい。あらはれて後、度胸を裾ゑてといふ感が「まさしに知りて」といふ語調にもうかがはれ、書紀や懷風藻に傳へた皇子の性格が伺はれる思ひがする。
〔語〕 ○大船の 津は今、大津、唐津などの地名に見えるやうに、船泊り、港の意であるから、大船の泊る津と津の枕詞として用ゐたもの。○のらむとは のるは祝詞などののるで、告げるの意。○まさしに まさしは形容詞の語幹で、それに、にを添へて副詞的に用ゐたもの。正しくの意。
 
    日竝皇子尊《ひなめしのみこのみこと》、石川女郎に贈り給へる御歌一首 【女郎、字を大名兒といへり。】
110 大名兒《おほなこ》彼方《をちかた》野邊に苅る草の束《つか》の間《あひだ》も吾《われ》忘れめや
 
〔題〕 日竝皇子尊 天武天皇の皇子、草壁皇子。「四五」參照。
〔譯〕 大名兒よ、束の間も私はそなたのことを忘れようか。
〔評〕 この序は、「くれなゐの淺葉の野らに苅る草の束《つか》の間《あひだ》も吾を忘らすな」(二七六三)ともあつて、既に民謠などにあつたものとも思はれる。第一句、「大名兒」と四字の句で呼びかけて歌はれたのが珍しく、中間に序詞をおいて、「束の間も吾忘れめや」と單純率直にいひ下し、二五音で止めた調べも大らかに古風でよい。
〔語〕 ○彼方野邊に苅る草の 束《つか》にかかる序。草を束ねる意でかかる。をち方はあちらの方の意。○束の間 束は指四本揃へて握つた時の長さ。ここは一握の長さ、即ち僅かの間の意。
〔訓〕 ○大名兒 金澤本等の古寫本の訓は「オホナコカ」とあり、仙覺は「オホナコヲ」と改め、以後これに從ふ説が多いが、代匠記一説に「オホナコ」と「ヲ」を訓みそへぬのがよい。
 
(114)    吉野宮に幸しし時、弓削皇子《ゆげのみこ》、額田《ぬかだ》王に贈り與へませる歌一首
111 古《いにしへ》に戀ふる鳥かも弓弦葉《ゆづるは》の御井《みゐ》の上より鳴きわたり行く
 
〔題〕 持統天皇の御幸であるが、年月は明かでない。弓削皇子は天武天皇第六皇子、文武天皇三年七月薨ぜられた、
〔譯〕 古《いにしへ》を戀ひしく思ふ鳥なのであらうか、弓弦葉の御井の上を通つて鳴きながら飛んでゆく。
〔評〕 吉野は皇子の御父天武天皇のゆかり深くあらせられる土地である。また額田王も「二一」などによつて察せられるやうに天皇の親しみ給うたお方である。それらの複雜な關係を裏に、ただ「古に戀ふる鳥かも」と述べ、表面は霍公鳥を中心として實景を寫してゐるに過ぎない。そこに却つて作者の深い感慨が籠つてゐるやうである。
〔語〕 ○古に戀ふる鳥かも 鳥は何の鳥とも分らないが、次の歌によれば霍公鳥である。霍公鳥が古を思つて鳴くといふことは、漢土に古より言ひ傳へられてゐる。その思想が我が國に傳はつたものであらう。○弓弦葉《ゆづるは》今ゆづり葉といひ、新年の飾に用ゐる。○御井の上より ゆづるはの御井は、一は池田莊六田村、一は川上莊大瀧村に在つて、其のいづれかと大和志には云つてゐるが、もつと吉野宮に近い御井で、そこにゆづり葉が多く生えてゐたからの名であらう。
 
    額田王、和《こた》へ奉れる歌一首
112 古《いにしへ》に戀ふらむ鳥は霍公鳥《ほととぎす》けだしや鳴きし吾が念《も》へる如《ごと》
 
〔譯〕 古を戀ひ慕つてゐるといふ鳥は霍公鳥で、恐らく私が古を思ふやうに、古を慕つて鳴いたのでせう。
〔評〕 これも短い形の中に、複雜な内容を壓縮してゐるのであつて、言葉もよほどつまつた感がしながら、しかも落ち着いた味ひを持つてゐる。五句の止め方も注意してよい。なほこの歌は、額田王のよほど晩年の作であらう。
(115)〔語〕 ○古に戀ふらむ鳥は あなたのいはれる古を戀ふらしい鳥は。○霍公鳥 霍公(郭公)と杜鵑《ほととぎす》とは同一でないが、集中では混用してゐる。戀ふらむ鳥は霍公鳥で、その霍公鳥はの意。○けだしや 思ふにおほかたの意。
 
    吉野より蘿《こけ》生《む》せる松が柯《え》を折り取りて遣しし時、額田王の奉《たてまつ》り入るる歌一首
113 み吉野の玉松が枝《え》は愛《は》しきかも君が御言《みこと》を持ちて通はく
 
〔題〕 蘿 さるをがせで、深山の樹枝に糸のやうに垂れ下つて生えてゐる植物。柯は枝の意。遣はされた方は恐らく前の弓削皇子であらう。
〔譯〕 吉野の松の枝は、愛らしいものであるよ。あなたの御言葉を持つて通ふことである。
〔評〕 音信を持つて來た松の枝を愛でて、あらはならず感謝の意を寓したもの。素直でしかも優しいうたひざまである。三句、はしきかもと、はつきりいひきつたところもよい。
〔語〕 ○玉松 玉は美稱。○愛しきかも 愛らしいことよ。「はしき吾背子」(四一八九)參照。○持ちて通はく 持つて通ふことよ。松の枝に御文が結びつけてあつたものと思はれる。
 
    但馬皇女《たぢまのひめみこ》、高市皇子《たけちのみこ》の宮に在《いま》しし時、穗積皇子《ほづみのみこ》を思《しの》ひて御作歌《つくりませるうた》一首
114 秋の田の穗向《ほむき》のよれる片縁《かたより》に君によりなな言痛《こちた》かりとも
 
〔題〕 但馬皇女 天武天皇の皇女、御母は藤原鎌足の女氷上娘、和銅六年六月薨ぜらる。高市皇子は同じく天武天皇の皇子で、御母は胸形君コ善の女尼子娘、持統天皇四年太政大臣となられ、岡十年薨ぜられたが、書紀の薨去の項に、後皇子尊とあるから、草壁皇子の薨後皇太子に立たせ給うたらしい。薨去の御年四十三(扶桑略記)。穗積皇子は天武(116)天皇の皇子、御母は蘇我赤兄の女、靈龜元年一品に敍せられ、同七月薨じ給うた。
〔譯〕 秋の田の稻穗はただ一方に靡くが、丁度そのやうに私はただあなたにのみおすがりしたいものである。たとへ人は喧しく噂しようとも。
〔評〕 この序は、「秋の田の穗向の依れる片よりに吾は物念ふつれなきものを」(二二四七)ともあり、その前後は知れないが、新鮮な譬喩である。この序が、主題に直接關係のない季節と景物をあらはして主題の背景を作り、一首のおもしろさを増してゐるのは、他にも例は多いが、序の用法として注意してよい。五句の「こちたかりとも」といつてゐるところに、世間の噂を顧慮しながら、しかも、それを越えて君によるといふ女性らしいひたむきな愛情を示してゐる。
〔語〕 ○穗向のよれる 稻穗が一方だけに靡きよる意で、以上二句片よりにかかる序。○片縁に ただ一方に偏してひたすらよるの意。あなたたけに。○君によりなな 上のなは、確言する助動詞、下のなは、希望意志をあらはす助詞。あなたにより從はうと思ふの意。○言痛かりとも 人が口喧しく言ひ騷ぐとも。
 
    穗積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣したまひし時、但馬皇女の御作歌《つくりませるうた》一首
115 おくれゐて戀ひつつあらずは追ひ及《し》かむ道の隈廻《くまみ》に標《しめゆ》結へ吾が背《せ》
 
〔題〕 近江の志賀の山寺 近江國滋賀都南滋賀村にあつた崇福寺のことで、天智天皇の建立の寺である。今、大津市の西郊にその遺址が存する。
〔譯〕 後に殘つて戀ひ慕つてばかりゐないで、いつそのこと、後からあなたに追ひつきませう。道の曲り角に目じるしを結んでおいて下さいませ、あなたよ。
(117)〔評〕 激しい感情をよく示してゐる。一首全體が起伏の多いしらべであるが、特に五句が、「標結へ」と「吾が背」とに分れてゐるところに、一層追ひたてられるやうな切迫した感情をあらはしてゐる。
〔語〕 ○戀ひつつあらずは 戀ひしてゐないで、むしろの意。「八六」參照。○追ひ及かむ、追ひつかう。及《し》くは及ぶ。○隈廻《くまみ》「くま」(二五)參照。○標結へ 標《しめ》は、ここはしるし、道しるべ。「奧つ城はしるくしめたて」(四〇九六)參照。
 
    但馬皇女、高市皇子の宮に在《いま》しし時、竊に穗積皇子に接《あ》ひましし事既に形《あらは》れて御作歌《つくりませるうた》一首
 
116 人言《ひとごと》を繁《しげ》み言痛《こちた》み己《おの》が世にいまだ渡らぬ朝川渡る
 
〔譯〕 世間の噂が多くうるさいので、自分の生涯にまだ一度も經驗したことのない朝の川を渡ることである。
〔評〕 自らの境遇を嘆いてをられるのであるが、珍しい素材である。まして皇女が皇子に逢ふために渡られたとすれば、女が男に通ふといふことになり、當時としては珍しい例であるが、恐らく實際の事と思はれ、なほ切實な感がする。「繁み言痛み」と重ね、更に「いまだ渡らぬ朝川渡る」と重ねた調べも切實である。詠歎の句を加へず、「渡る」と言ひ捨てたところも、三句の「己が世に」の具體的な嘆きと相待つて深い嘆聲が思はれる。
〔語〕 ○人言を 世間の人の取沙汰、噂。○繁み言痛《こちた》み 繁く仰山なので。○朝川渡る この句、川を渡るを男女の中の成るに譬へた(代匠記)とか、今日まで知らぬ世のうき瀬を渡つて潔身し給ふよし(檜嬬手)などといふのは、考へ過ぎで、朝早く川を渡り、馴れぬわびしさを嘆かれたとする考の説がよい。
 
    舍人皇子《とねりのみこ》の御歌一首
117 丈夫《ますらを》や片戀せむと嘆けども醜《しこ》の丈夫《ますらを》なほ戀ひにけり
 
(118)〔題〕 舍人皇子 天武天皇の皇子、淳仁天皇の御父。御母は新田部皇女。元正天皇の御時、勅を奉じて日本書紀を編修、養老四年知太政官事、天平七年十一月薨ぜられ、太政大臣を贈られた。
〔譯〕 立派な男子たるものが、片戀などをどうしてしようかと嘆くけれども、このつまらない男は、やはり戀ひ慕ふことである。
〔評〕 立派な大丈夫がと自ら反省しつつ、なほ片戀するを自ら嘲つた歌。當時のますらをといふ考をうかがふこともできる。
〔語〕 ○丈夫《ますらを》や ますらをは大丈夫。○片戀せむと 片戀をしようか、すべきではないとの意。○醜の丈夫 醜は惡《にく》むべき、つまらないの意。「醜の醜草」(三〇六二)參照。ここは自ら嘲つていふ語。
〔訓〕 ○醜 白文「鬼」で、古點及び代匠記の訓オニノはよくない。醜の省畫か、古事記(上卷)の黄泉醜女《よもつしこめ》から來たものか、何れにせよ、シコノがよい(記傳)。
 
    舍人娘子、和へ奉れる歌一首
118 歎きつつ丈夫《ますらをのこ》の戀ふれこそ吾が髪結《もとゆひ》の漬《ひ》ぢて濕《ぬ》れけれ
 
〔題〕 舍人娘子 「六一」參照。
〔譯〕 お嘆きなされながら立派な男子が私を戀ひ慕はれるからこそ、こんなに私のもとゆひがしめつてぬれました。
〔評) 贈られた歌の内容を上二句に繰返し、三句以下に自らの思を述べたのである。もとゆひの濕れたのは人に戀ひせられたしるし(考)とみるがよい。さういふ言ひ傳へがあつたのであらう。さうみれば、當時の人にとつては今日の我々の考へるよりも、もつと切實に皇子の思を身にしみて感じたものと思はれる。
〔語〕 ○戀ふれこそ こふればこその古格。「五〇」參照。○わが髪結の もとゆひは、髪を結ぶ紐。○漬ぢてぬれ(119)けれ ひづは濡れうるほふの意。
 
    弓削皇子《ゆげのみこ》、紀皇女《きのひめみこ》を思ひませる御歌四首
119 芳野河行く瀬の早みしましくも不通《よど》むことなく在《あ》りこせぬかも
 
〔題〕 弓削皇子 「一一一」參照。紀皇女は天武天皇の皇女、穗積皇子の同母妹。
〔評〕 芳野河の流れてゆく瀬が早いので、しばらくもよどむことのないやうに、少しも滯らず逢ひつづけたいものである。
〔評〕 譬喩も巧みであるが、何よりも調べが暢達流麗、少しも滯らず明るい趣がよい。表現もすなほな歌である。
〔語〕 ○しましくも 暫くも。○よどむことなく 水の淀まぬやうに絶えずの意。「三一」參照。○在りこせぬかも あつてくれないかなあ、あつて欲しいものであるが。「月かさね吾が思ふ妹にあへる夜は今し七夜を續ぎこせぬかも」(二〇五七)參照。
〔訓〕 ○行く瀬の早み 白文「逝瀬之早見」形容詞の語幹にみを添へた形は、上に必ず助詞をが來て「――を――み」となるから、ここも「之」は「乎」の誤(檜嬬手)とする説もあるが、諸本異同なく、これは特別の例と見てよい。
 
120 吾妹子《わぎもこ》に戀ひつつあらずは秋萩の咲きてちりぬる花ならましを
 
〔譯〕 あなたに戀ひつづけてばかりゐないで、いつそのこと、咲いてはかなく散つてしまふ秋萩の花でありたいものであるよ。
〔評〕 この歌の類型は集中に少くないが、特に「長き夜を君に戀ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを」(二(120)二八二)の歌はこの歌と何か關係がありさうである。しかしこの歌の方が、譬喩が現實の寫生らしく生彩を帶びてゐて、巧みでもあり、また單純でよい。意味は、戀の苦しみよりは死んだ方がよいといふのであるが、調べはなめらかであるし、譬喩から來る感じも、つきつめたといふよりは美しい靜かな嘆きといふ感がする。
〔語〕 ○戀ひつつあらずは 「八六」參照。○咲きて散りぬる 咲いてすぐ散つてしまふ。○花ならましを 花でありたいものである。その花のやうに死んでしまひたいの意。
〔訓〕 ○花ならましを 白文「花爾有猿尾」を、ハナニアラマシヲと字餘りに訓む註も多い。
 
121 夕さらば潮《しほ》滿ち來《き》なむ住吉《すみのえ》の淺香《あさか》の浦に玉藻苅りてな
 
〔譯〕 夕方になれば、潮が滿ちて來るであらう、今のうちに住吉の淺香の浦で美しい藻を苅りませう。
〔評〕 玉藻を苅らうといふのは、小野老の歌に「時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻苅りてな」(九五八)とあり、卷九(一一五七)にも類歌があつて、この歌も題詞を除いて考へると、これらの歌と同樣遊覽の作のやうに考へられるが、ここは人の妨げぬ中に早く相逢はうといふ意の暗喩と思はれる。平明ななだらかな調べの歌。
〔語〕 ○夕さらば 夕方になつたならば。○淺香の浦 攝津志に淺香丘は住吉郡船堂村(今の泉北郡五箇莊村)にあるといつてゐる。淺香の浦もその附近の海岸、即ち今の堺市の北、今の大和川下流の地にあたるものと思はれる。○玉藻苅りてな 藻を苅りたいものである。
 
122 大船《おほふね》の泊《は》つる泊《とまり》のたゆたひに物《もの》念《も》ひ痩《や》せぬ人の兒ゆゑに
 
(121)〔譯〕 大船が港に碇泊する時、ゆらゆらと動いて定まらないやうに、自分の心も、おちつかず物思ひに痩せたことである。あの子のために。
〔評〕 心が動搖して定まらぬ意に、波や船を譬へるのは、「海原の路に乘れれや吾が戀ひをらむ大船のゆたにあるらむ人の兒故に」(二三六七)をはじめ集中に少くないが、美しい譬である。四五句のいひ方も簡明でよい。又一首全體の調べも快くなだらかである。
〔語〕 ○はつる泊の はつは碇泊する。「ふなはて」(五八)參照。とまりは、碇泊する場所、港。以上二句船が動搖して定まらぬ意から「たゆたひ」にかけた序。○たゆたひに 動搖しておちつかぬ樣。○人の兒ゆゑに 人の兒は人妻と説く説もあるが、さうでない例(四〇九四)もあつて、ここも娘さんといふくらゐの愛稱と思はれる。故には、ためにの意。「二一」參照。
 
    三方沙彌《みかたのさみ》、園臣生羽《そののおみいくは》の女に娶《あ》ひて、未だ幾時《いくだ》も經ず、病に臥して作れる歌三首
123 たけばぬれたかねば長き妹が髪この頃見ぬに掻入《かき》れつらむか 三方沙彌
 
〔題〕 三方は氏。沙彌は、上の久米禅師の如く、俗人の名であるといふ説(考)がよい。傳不詳。國臣生羽の園は氏、臣は姓で生羽が名である。當時の習慣として、夫が妻の家へ通つたので、三方沙彌が病臥して生羽の女のもとへ行くことのできぬ意である。
〔譯〕 束ね上げれば短かすぎてぬるぬるとぬけさがり、束ねなければ長すぎた、女のあの髪は、此の頃しばらく見ないうちに、もう掻きいれてゐることであらうか。
〔評〕 「たけばぬれたかねば長き」は、まだ若々しい女の姿がよく出てゐる。それがもう髪を結ぶやうになつたであ(122)らうと想像したのであるが、逢へぬ焦躁や、何となく感ぜられるねたましさなどを思はせ、美しい情緒豐かな歌である。一二句のたたみかける調べも美しい。
〔語〕 ○たけばぬれ たくは束ねあげる意で、四段活用の動詞。「振分の髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ」(二五四〇)參照。ぬれは、すべりぬけ、ほどけ下るの意。當時は女は十四五歳まで髪をたれてゐるのであるが、成長して長くなるとこれを束ねる習慣であつた。これは束ねるにしてはまだ短すぎる趣。○たかねば長き 垂髪のままでは長すぎる。○この頃見ぬに 此の頃見ない間に。○掻入れつらむか 亂れた髪を櫛で掻き入れ整へたであらうか。
〔訓〕 ○掻入れつらむか 白文「掻入津良武香」で、元暦校本は「かきいれつらむか」と訓を附し、舊訓は「ミダリツラムカ」とあり、諸註も「入」を「上」に改め、「カキアゲ」と訓む説(略解所引宣長説)、同じく「上」に改めて「カカゲ」とする説(古義)や、、このまま「タガネ」と訓む説(檜嬬手)、「掻」「騷」通用とし、舊訓を復活して「ミダリ」と訓む説(美夫君志)等相當異説が多いが、代匠記「カキレツラムカ」が無理のない穩かな訓と思はれる。
 
124 人はみな今は長しとたけと言《い》へど君が見し髪亂れたりとも 娘子
 
〔譯〕 人々は皆、今はもう長いといひ、束ねよといひますが、あなたの御覽になつた髪は、たとへ亂れてをりましても、そのままにしてをります。
〔評〕 一句を「人は皆」と輕く止め、二句と三句に同じ「と」を繰り返し、五句を「亂れたりとも」といひさした形となつてゐるのは、熟練した作家の歌風ではないであらうが、かへつて女の口ぶりらしく深い情の籠つた、幼いうちに複雜な事柄を美しく述べてゐる。有名な筒井筒の歌の返しの「くらべこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき」(伊勢物語)に比してもこの歌のいひすぎてゐないたどたどしさが却つてよい。「朝寢髪吾はけづらじうるはし(123)き君が手枕觸りてしものを」(二五七八)も可憐ではあるが、この歌よりももつと官能的である。
〔語〕 ○今は長しと 今はもう結び上げるほど長くなつたとの意。○たけといへど 束ね上げよといふが。○亂れたりとも お目にかかつた時の姿は變へたくないから亂れてゐてもこの儘にしてゐるとの意。
〔訓〕 ○人は皆 白文「人者皆」は元暦校本、紀州本による。他の諸本は「人皆者」とある。通行本の儘に「人皆はでも意味は通るが、調べからいつて元暦校本がよい。
 
125 橘の蔭ふむ路《みち》の八衢《やちまた》にものをぞ思ふ妹に逢はずて 三方沙彌
 
〔譯〕 橘の蔭を踏む道の四つ辻のところが、四方に別れてゐるやうに、自分もあれこれと物思をすることである、そなたにあはないで。
〔評〕 これは前の歌と違つて獨自的な内容であるが、序が印象的で美しい。次田氏が「明るい日に照らされて、十字街路の竝木の橘が、濃い影を地上に投げてゐて、その樹の蔭には、諸方の部落から集まつて行きつもどりつして市場は非常に賑はつてゐる。そんな光景が今病床にゐる作者の頭に浮んでゐるのである」(新講)といつてをられるのはさもあらうかと思はれる。五句「妹に逢はずて」とつけ加へた形になつてゐるのも、この場合よく成功してゐる。「橘の本に道履み八衢にものをぞ思ふ人に知らえず」(一〇二七)とあるのは、この歌を摸したものか、流麗さの點で劣る。
〔語〕 ○橘の蔭ふむ路の 當時都大路や市場などの路に果樹を植ゑ、往還の人を息はせたり、果實をとらせたりした(類聚三代格)。これも、その街路樹の蔭をふんで人々の行く路の意。○八衢に やは數多い意。ちまたは道股で岐《わか》れ道。道が四方に分れてゐる如く、さまざまに物思ひ亂れる意で下句の序としたもの。
 
(124)    石川女郎、大伴宿禰|田主《たぬし》に贈れる歌一首
126 遊士《みやびを》と吾は聞けるを屋戸《やど》かさず吾を還《かへ》せり鈍《おそ》の風流士《みやびを》
     大伴田主、字を仲郎と曰へり。容姿《かたち》佳艶《うるはし》くして、風流《みやび》秀絶《すぐれ》たり。見る人聞く者|歎息《なげ》かずといふことなし。時に石川女郎といふものあり。自ら雙栖《ふたりずみ》の感《おもひ》を成し、恒に獨守《ひとりね》の難きを悲しむ。意《こころ》に書を寄せむと欲《おも》ひて、未だ良信《よきたより》に逢はず。爰に方便《たばかり》をなして、賤しき嫗に似せて、己《おのれ》堝子を提《ひさ》げて、寢《ねや》の側に到り、哽音《むせ》び?足して戸を叩きて諮《はか》りて曰ひけらく、東隣の貧しき女、火を取らむとして來れりと。是に仲郎、暗き裏に冒隱《やつ》せる形を知らず、慮《おもひ》の外に拘接《まじはり》の計に堪へず、念《おもひ》の任《まま》に火を取り、跡に就き歸り去らしめき。明けて後、女郎既に自の媒の愧づべきを恥ぢ、復《また》心の契の果さざるを恨みき。因《かれ》斯の歌を作りて、贈り謔戯《たはむ》れき。
 
【題】 石川女郎 傳不詳。「九六」「一〇七」等の石川郎女と同人かどうかも分らない。大伴田主は元暦校本などの註により、大伴安麿(「一〇一」參照)の第二子、母は巨勢郎女(「一〇二」の作者)であることが知られる。旅人の弟に當るわけである。
〔譯〕 あなたは風流なお方と私は聞いてをりましたのに、私を泊めないで還されました。愚かな風流人ですね。
〔評〕 左註に見えるやうな特殊な場合の歌でもあり、また、戯れの歌でもあるから、その意味で解すれば、五句の強ていひきつた句法も、奇智に富んだ巧みな句法といへるであらう。
〔語〕 ○遊士《みやびを》 左註に風流秀絶とある意で、みやびやかな男。○やどかさず 宿を借さずして、私を泊らせないでの意。○鈍《おそ》の風流士 おそは遲鈍の意。浦島子の歌に「常世邊に住むべきものを劔太刀|己《し》が心から鈍やこの君」(一七四一)とある。
〔左註〕 ○仲郎 伯仲叔の仲で、二男の意。○雙栖の感を成し 同棲したい思がするの意。○獨守の難きを悲しむ(125) 獨身を守ることの難しいのを悲しむ。○良信 良い媒。信は使者。○堝子 なべ。○哽音 むせぶ聲。ここは老女の眞似をしたもの。○?足 足をかがめて歩くこと、老婆のたどたどしい歩きぶり。○冐隱せる形を知らず 姿を隱したのをさとらず。○拘接の計 とどめて交るといふ謀。○跡に就き歸り去らしめき 女郎がもと來た道を歸らせた。田主が女郎の跡に從つて送り出した意ではない。○明けて後 夜が明けて後。○自の媒 煤がなく自ら嫁するの意。○心契 心に豫期したこと。○謔戯 たはぶれたの意。
 大意を述べると「大伴田主は字を仲郎といひ、姿美しく風流を心得てゐたので誰も皆賞めぬことはなかつた。石川郎女といふ女があつて、田主に添ひたくて、常に獨居を嘆いてゐた。手紙を送りたいと思つたが良い傳手もない。そこで一計を案じて賤しい老女に姿を變へ、鍋を下げて田主の寢所に行き、聲や歩きぶりを老女に似せて戸を叩き、つくりごとをして、東隣の老女が火を貰ひに來たといつた。田主は暗くて變装してゐたことが分らず、引きとめるといふやうな意外な計などは氣がつかず、女郎に火を取らせ、もと來た道を歸らせた。翌朝女郎は媒なしに田主のもとを訪れた行爲を恥ぢ、又思ひ定めた目的を達しなかつたのを恨んでこの歌を作り、贈つて戯れた」といふのである。
 
    大伴宿禰田主、報《こた》へ贈れる歌一首
127 遊士《みやびを》に吾はありけり屋戸《やど》借さず還《かへ》しし吾ぞ風流士《みやびを》にはある
 
〔譯〕 私は風流人であつたわけです。宿をかさないで還した私こそ、ほんたうの風流人なのであります。
〔評〕 贈られた歌を、言葉、語の配置、調子までそつくりそのまま摸してやり返したのであつて、賢明といへばいへるが、それだけ變化に乏しく、また内容からいつても、女郎の歌ほど機智がなく、あまりすぐれた歌とはいへない。
 
(126)    同じき石川女郎、更《また》大伴田主中郎に贈れる歌一首
128 吾が聞きし耳によく似る葦《あし》の若末《うれ》の足《あし》痛《いた》む吾が背勤めたぶべし
     右は、中郎の足疾に依りて、此の歌を贈りて問訊《とぶら》へるなり。
 
〔譯〕 私の聞いた話の通りであります。足の痛んでゐるお方よ。どうぞお大切にして下さい。
〔評〕 これも戯れた趣があるが、輕妙で機智に富んでゐる。二句で切るかどうかは疑があるが、やはり二句・四句切とするのがよい。前の「一二六」と同じく五句を獨立せしめ、これを命令の形としてゐる調べは、かかる内容に比して格調の高いものといふべく、三句の枕詞も變つてゐておもしろい。
〔語〕 ○吾が聞きし耳によく似る 私の聞いた通りである。耳はきいたことの意。「言にいへば耳にたやすし」(二五八一)參照。○葦のうれの うれは末端、植物の生長して行く枝先をいふ。この句は同音を繰返して足にかけた枕詞。○足痛む吾が背 足を病んでゐられる方よ。背は男子を親しんでよぶ稱。○つとめたぶべし 自愛なさいませ。たぶは給ふの意。
〔訓〕 ○足痛む 「足痛」を蹇足の義とみてアシナヘ、又、アシヒクと訓んで、足疾になやむ義とする説なども棄て難いが、アシイタムが最も自然と思はれる。
 
    大津皇子の宮の侍《まかだち》石川女郎、大伴宿彌|宿奈麻呂《すくなまろ》に贈れる歌一首
129 古《ふ》りにし嫗《おみな》にしてや斯くばかり戀に沈まむ手童《たわらは》の如 【一に云ふ、戀をだに忍びかねてむ手童の如】
 
〔題〕 侍《まかだち》 侍女の意。特にかくことわつたのは、前出石川女郎と別人であることを示す意とも考へられる。元暦校本(127)等には「女郎字曰山田郎女也」とある。大伴宿禰宿奈麿も、元暦校本の注に「大納言兼太將軍卿之第三子也」とあつて、安麿の第三子であることが知られる。續紀によれば、和銅元年五月從五位下、安藝周防の按察使に歴任、神龜元年從四位下になつた。歿年不詳。
〔譯〕 年をとつたおばあさまである私が、かやうにも戀に沈まねばならぬのであらうか。子供のやうに。
〔評〕 事實、嫗といふほどの年ではなからうが、自ら嘲つて云つたのであらう。「古りにし」といつてゐるのも、その趣である。さびしさと哀感が感ぜられる一方、やはりその機智が見える。調べも二句で輕く休止し、四句で切つて、五句「手童の如」と、體言止に近い趣を見せて、しみじみとしてゐるが、しかも弱くない。かかる點からいへば、前の「一二六」「一二八」に近く、或は同人かとも思はれる。
〔語〕 ○古りにし ここは年老いたの意。「三二」參照。○嫗《おみな》にしてや おみなは老女。老女であつての意。○手童の如 手童は母の手を離れない程の幼兒。ここは幼兒が母などを慕つて何も聞かず泣き沈むやうに、戀に堪へず泣く意がこもつてゐる。
〔訓〕 ○嫗 オウナ、オミナ、オムナの諸訓があるが、いま攷證の説による。
 
    長皇子、皇弟《いろとのみこ》に與へませる御歌一首
130 丹生《にふ》の河瀬は渡らずてゆくゆくと戀痛《こひた》し吾が弟《せ》乞《いで》通《かよ》ひ來《こ》ね
 
〔題〕 長皇子 「六〇」參照。皇弟は、長皇子の同母弟弓削皇子をさすといはれるが、なほ明かではない。
〔譯〕 丹生の河の瀬を渡らないで、いろいろに思ひ惱んでをる。吾が弟よ、こちらへ通つて來て下さい。
〔評〕 一二句やや佶屈といふべき調べであるが、四五句は古調を存し、弱々しくなくてよい。作歌動機その他に不明(128)な點があつて、十分味はふことのできぬのは惜しい。
〔語〕 ○丹生の河 吉野川の支流、今丹生川上神社のある邊。○ゆくゆくと ゆくらゆくらなどといふに同じ。思ふことのさまざまに亂れ、ためらふ意(代匠記)。これと全く反對に、源氏物語に「ゆくゆくと宮にもうれへ聞え給ふ」とある例等をひいて滯りなくするすると物する意と解し、五句にかける説(古義)もあるが、この用例はなほ考究すべきである。○戀痛《こひた》し 戀しくて心の痛む意(代匠記)。ここで終止。○いで通ひ來ね さあ來て下さい。
〔訓〕 ○戀痛 舊訓「コヒイタム]考「コヒタム」略解「コヒタキ」と何れも連體修飾に訓んでゐるが、この場合、コヒタシと終止形とするのがよい。○乞 コチと訓む説もある。
 
    柿本朝臣人麻呂、石見國《いはみのくに》より妻に別れて上り來し時の歌二首并に短歌
131 石見《いはみ》の海 角《つぬ》の浦囘《うらみ》を 浦無しと 人こそ見らめ 滷《かた》無しと【一に云ふ、礒無しと】 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 滷《かた》は【一に云ふ、礒は】無くとも 鯨魚取《いさなと》り 海邊《うみべ》をさして 和多豆《わたづ》の 荒磯《ありそ》の上に か青なる 玉藻|奧《おき》つ藻 朝羽振《あさはふ》る 風こそ寄《よ》せめ 夕羽振る 浪こそ來|縁《よ》せ 浪の共《むた》 彼《か》縁《よ》り此《かく》依《よ》り たま藻なす 依《よ》り宿《ね》し妹を【一に云ふ、はしきよし妹がたもとを】 露霜《つゆじも》の 置きてし來《く》れば 此の道の 八十隈毎《やそくまごと》に 萬段《よろづたび》 顧《かへりみ》みすれど いや遠《とほ》に 里は放《さか》りぬ いや高に 山も越え來《き》ぬ 夏草の 念ひ萎《しな》えて 偲《しの》ぶらむ 妹が門《かど》見む 靡け此の山
 
〔題〕 人麿が石見國から妻に別れて上京する時の作の意。後に人麿は石見國で死んだ由が見え、恐らく掾《じよう》、目《さくわん》などのあまり地位の高くない地方官として石見國に在任中、朝集使などで上京した時であらう。
(129)〔譯〕 石見の海の角の海岸あたりには、よい景色の海岸がないと人は見ることであらう。よい景色の干潟がないと人は見ることであらう。しかし、たとへよい海岸がなくとも、たとへよい干潟はなくとも、自分には懷しい妻のゐる土地である。そこを行くと、海邊をさして、渡津の荒磯の上に生えてゐる眞青な美しい藻や沖の藻を、朝強く吹く風が寄せて來、また夕方強くうち上げる波がよせて來る。その浪と共にあちらへ寄り、こちらへ寄りして漂つてゐる美しい藻のやうに、なよなよと寄り添うていねた妻を、殘しておいて來たので、この道の數多い曲り角毎に、幾度も幾度も振り返つて見るが、いよいよ遠く妻の里は隠たり、いよいよ高く山も越えて來た。夏草が烈しい日光に萎れるやうに、悲しみに沈んで戀ひ慕つてゐるであらうその妻の家の門を見よう。靡き伏せ、この山よ。
〔評〕 人麿の嚴肅莊重な歌は既に卷一に多かつたが、これは人麿の他の一面である敍情歌、戀歌の代表作である。はじめの十句は、よい海岸はなくとも、よい干潟はなくとも、妻があるからと、盡きせぬ情緒を、繰返しを多くして、靜かに歌ひ出してゐる。ついで海邊に見る藻を美しく描き、それを手がかりとして妻へ聯想してゆく。この「いさなとり海邊をさして」以下の序は甚だ美しく、單に妻の?態を譬へるだけではなく、情緒氣分までも描いてゐる。同じことが、下の夏草の思ひ萎えてにも感ぜられる。次に、道は次第に山にかかるのであらうが、調べも短く句切れてきて、感情は高潮して來、最後に投げ出すやうな「靡けこの山」で終る。最後の一句は、卷十三に「於吉蘇山美濃の山靡けと人は踏めども」(三二四二)とあるが、聲調は全く異なり、氣魄に滿ち滿ちてゐる。道の進むに從ひ、一句一句積み重ねてここに至るところに、この強さが生れるのである。
〔語〕 ○角の浦囘 角は和名抄に津農とあり、今の島根縣那賀部都濃津附近で、當時の國府今の下府上府より約二里隔つてゐる。○浦無しと よい浦がないと(代匠記)。○人こそ見らめ 見らめは見るらめの古格。○潟無しと 潟は干潟となるやうな遠淺の海岸。なほ日本海岸に多い八郎潟、邑知潟、象潟などの潟で、一種の鹹湖をいふといふ説(講義)も注意すべきである。よい潟がないと。○よしゑやし よしゑは獨立して用ゐた例(二五三七)もあり、又(130)「我はくるしゑ」(天智紀)ともあり、ゑは感動の助詞。やしは「あなにやし」「はしきやし」のやしに同じ。たとへ――であつてもの意。○いさなとり 海の枕詞。いさなは勇魚《いさな》の意で鯨のこと。○海邊をさして 古義に下の「風こそ依せめ」「浪こそ來縁せ」につづけるといふ説がよい。○和多豆 地名、今の那賀郡江津町渡津の地で、江川《がうのがは》の河口の東岸、角の東に當る。○荒磯の上に 荒い磯の上に、下に生ふるを補つて解する。○か青なる かは接頭辭。○朝羽振る 羽振るは鳥の羽ばたきすることで、風の吹くのを譬へていふ。○風こそ依せめ 風が藻を海邊に向つて寄せるであらう。○浪こそ來縁せ 浪が藻をよせて來る。○浪の共《ムタ》 浪と共に。○彼より此より 「か」「かく」は、「かにかくに」「かにもかくにも」の「か」「かく」に同じ。あちらによりこちらにより。○依り宿し妹を 寄り添うていねたを。「いさなとり」以下この句の上まで十三句はよ「依りねし妹」の修飾句である。○はしきよし 愛すべき。よしは感動を強める助詞。やしに同じ。○露霜の 露や霜の如く。置くにかかる枕詞。露霜は、露のこと(宜長)、露の如き霜(新解)ともいふ。○置きてし來れば 殘し置いて來たので。○八十隈毎に 多くの曲り角ごとに。○萬段 幾度も。「七九」參照。○里は放《さか》りぬ 里は妻のゐる里をいふ。放るは離れる、遠ざかるの意。○夏草の 萎えにかかる枕詞。夏の草が日に當つて萎れるの意。○思ひ萎えて 思ひ萎れて、物思ひに元氣もなくなつて。○偲ふらむ 私を懷しく思つてゐるであらう。連體格で、妹にかかる。○妹が門見む 妻の家の門を見ようと思ふ、見たいの意。○靡け此の山 前に横たはつて、妻の家のあたりをさへぎつて見せぬこの山よ、平らに靡き臥せよ。
〔訓〕 ○和多豆 古點ワタツミを仙覺がニギタヅと改めたのは下の或本の歌の「柔田津」にひかれたのであらうが、「八」の熟田津は固より別地であり、又この邊にかかる地名はない。これは玉の小琴にワタヅと字足らずに訓んだのがよい。○風こそ依せめ(風社依米)浪こそ來よせ(浪社來縁) 舊訓は「カゼコソヨラメ」「ナミコソキヨレ」と自動詞に訓み、これに從ふ説も多いが、前後の意から考へて「ヨセメ」「キヨセ」と他動詞とすべきである。
 
(131)    反歌
132 石見のや高角《たかつの》山の木《こ》の際《ま》より我が振る袖を妹見つらむか
 
〔譯〕 石見の高角山の木の間から、自分が妻戀しさに振つてゐる袖を、妻は見たことであらうか。
〔評〕 長歌で高揚した感情は、再びおちついて、妻は果して見たであらうかと、事實は見えないと思ひつつも、なほ期待しつつ、疑つてゐるのであつて、心は反省を交へて、靜かに搖いでゐる。單純なやうでゐて、深い愛情をよく示した歌である。
〔語〕 ○石見のや 「や」は調子をととのへる爲の助詞。○高角山 角の義で、高は、高い山の意で添へたものと思はれ、また高角山ともいうたとも考へられる。○木の際より この句を五句「妹見つらむか」にかける説もあるが、直接下につづけ、木の間から我が振る袖をといふのが自然である。
 
133 小竹《ささ》の葉はみ山もさやに亂《さや》げども吾は妹思ふ別れ來ぬれば
 
〔譯〕 笹の葉はひと山がさやぐばかり音をたててゐるが、私はただ妻のことを思ふ。別れて來たのであるから。
〔評〕 清く澄みきつた山の間の氣分と、その空氣にひたることができず、ただ一筋に妻を思ふ作者の姿をよく示してゐる。四句まで一すぢにいひ下し、最後に別れ來ぬればと説明するやうに附加した口調も味ふべきである。またサ行音を多く繰返してゐるのも、一種清澄な氣分を與へてゐて面白い。又これを長歌からつづけて見て來ると、この反歌に至つて、始めて、自然がやや獨立して描かれてゐるといふのは、作者の心の落着きを示すものではあるまいか。心は次第に靜まつて來た。しかも妻を思ふ氣持は、心の底から湧いて來るといふ感じである。
〔語〕 ○さやに 山全體がさやさやと鳴りさやぐほどにの意。○亂《さや》げども 音を立ててそよいでゐるが。
(132)〔訓〕 ○亂げども 白文「亂友」で、仙覺の新點は「ミダレドモ」、考は「サワゲドモ」と訓んでゐるが、檜嬬手の「サヤゲドモ」が、字面からも調べからもすぐれてゐるやうに思ふ。
 
    或本の反歌
134 石見なる高角山《たかつのやま》の木《こ》の間ゆも吾が袖振るを妹見けむかも
 
〔譯〕 石見にあるあの高角山の木の間から私の袖を振るのを、妻は見たことであつたであらうか。
〔評〕 前の歌に比してやや調子が硬い。「石見なる」も重いし、五句「妹見けむかも」も稜《かど》を感ずる。意味は同じでも、調べは前の歌ほど流麗でない。
〔語〕 ○木の間ゆも 「ゆ」は、よりの意。
 
135 つのさはふ 石見の海の 言《こと》さへく 韓《から》の埼なる いくりにぞ 深海松《ふかみる》生《お》ふる 荒磯《ありそ》にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寐《ね》し兒を 深|海松《みる》の 深めて思《も》へど さ寐《ね》し夜《よ》は 幾《いく》だもあらず 延《は》ふ蔓《つた》の 別れし來《く》れば 肝向《きもむか》ふ 心を痛み 思ひつつ かへりみすれど 大舟の 渡《わたり》の山の 黄葉《もみぢば》の 散りの亂れに 妹が袖 さやにも見えず 嬬隱《つまごも》る 屋上《やがみ》の【一に云ふ、室上山】 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隱《かく》ろひ來《く》れば 天《あま》づたふ 入日さしぬれ 丈夫《ますらを》と おもへる吾も 敷細《しきたへ》の 衣《ころも》の袖は 通りて沾《ぬ》れぬ
 
〔譯〕 石見の海の韓の埼の海中にある石に、深|海松《みる》が生えてをり、荒磯には玉藻が生えてゐる。その玉藻のやうに長長と寄り添ひいねた妻を、その深海松といふ名のやらに深く思ふが、共にいねた夜は幾らもなくて、別れて來たので、(133)心を痛め思ひ惱んで、ふりかへつて見るが、渡の山の紅葉が散り亂れるので、妻の振る袖ははつきりとも見えず、あの屋上の山の雲間を通つて空を渡る月の惜しいやうに惜しく思ふけれども、妻の家も隱れて見えなくなり、夕日がさして來たので、立派な男子と思つてゐる自分も、そぞろ悲しく、衣の袖は通つて濡れるほど泣いたことである。
〔評〕 この長歌も前のと同樣、海の玉藻から妻を描いてゆくのであるが、導入部ともいふべき部分はよほど少い。しかして前の長歌では、作者の動きと共に次第に情緒感動の高まる手法であつた。これはそれに比して動きは少いが、感情は一點に集中して、自然も比較的細かく述べられ、一首全體にただよふ哀感にしつとりとした情趣がある。枕詞や序の多いのもこれを助けてゐる。
〔語〕 ○つのさはふ 石《いは》の枕詞「いはれ」にかけた例も卷三に見える。その語義については或は「つのさ」は「つなの延音で、「はふ」は蔓のはふ意(考)、或はつたの多くはふ意(槻落葉)、或は角《つの》は物のかど、さはふは動詞さふの連續?態を表はす語で邪魔になるの意、即ち角角が邪魔になる意で石につづく(新解)等諸説あつて一致しないが、「つの」はつたの意とし、「さ」は接頭辭、即ち、つたのはひまつはる石の意といふ説(講義)が比較的穩かである。しかしこれもつのをつたとする點、なほ證に乏しい憾がある。○言さへく さへくは強い意で語調に稜角のあるをいふとの新説(新解)も出てゐるが、さへづると同じくしやべり方の騷々しい意で、外國人の言葉の意味が通ぜず、ただ喧しく聞える所から韓の枕詞となつたのであらう。○韓の埼 石見風土記逸文に「可良島秀2海中1因v之可良崎(ト)云(フ)度(リ)半里」とある地で、渡津の東方十里許りの邇摩郡宅野村の海上にある辛島の出鼻をいふ(新講)。○いくり 應神紀に「ゆらのとのと中のいくりに」とあるを釋日本紀に註して「句離謂v石也 異助語也」とある。用例より推せば、海の石をいふらしい。○深みる 海草の名。長さ五六寸で紐のやうな形をし枝を食用に供する。○荒磯 講義に現磯で、上のいくりに對したものとあるが、ここだけ現磯と解するのは如何であらう。通説の荒磯《あらいそ》で、差支へない。○玉藻なす なすは、の如くの意。ここまで「靡き寢し」にかかる序。○靡き寢し 長々と寄り添ひいねたの意。「うち靡き(134)いもぬらめやも」(四六)參照。○深海松の 前の「深海松生ふる」をうけて、下の「深めて」の枕詞に用ゐたもの。同音の反覆による。○深めて思へど 心をこめて思ふけれども。○幾だもあらず いくらもなく。「さ寢し夜のいくだもあらねば」(八〇四)參照。○延ふ蔓《つた》の 別るの枕詞。蔓のあちこちにはひ別れる意でつづく。○肝向ふ 心の枕詞。内臓の多く集り凝々《こりこり》する意でつづく(宣長)といふよりも、内臓が向ひあつて蟠つてゐるのを肝向ふといひ、心の働きは肝から起ると思つたから心の枕詞としたとする(新講)のが穩かな説である。「村肝の」(五)參照。○思ひつつ この上に「妹を」補ふとよい。○大舟の 渡りにつづく枕詞。○渡の山 渡津の近傍の山であらうが、明らかでない。又或はこれは地名でなく目の前に立つてゐる山と解する説もある。○嬬隱る 妻のゐる家の意で、屋にかかる枕詞。○屋上山 一に云ふ室上山と同じく、今那賀郡松川村大字八神の地の山(全釋)とも、今高仙山といひ同郡淺利村より十數町の山(日本地誌提要)ともいはれる。しかし室上山と屋上山と同じ山をさすかどうか明かでない。○渡らふ月の 渡らふは、渡るに繼續を表はす「ふ」のついたもの。「の」は如くの意。雲間より以下は、次句惜しけどもの序。○惜しけども 惜しいけれど。○天傳ふ 日の枕詞。○入日さしぬれ 入日がさして來たので。○敷妙の 衣の枕詞。「七二」參照。○通りてぬれぬ 涙の爲に着物の袖が裏まで通つて濡れたの意。
〔訓〕 ○さねし夜は 白文「作宿夜者」で、舊訓「サヌルヨハ」に從ふ注もあるが、「さねし夜のいくだもあらねば」(八〇四)と假名書の例があるので、古義の訓に從ふ。○幾だもあらず 白文「幾毛不有」で、玉の小琴に、イクラモアラズとあり、イクラ、イクダ共に用例があつてどちらとも決せられないが、ここは考の訓イクダがよいやうである。○散りの亂れに 白文「散之亂爾」で、舊訓チリノマガヒニも、「もみぢ葉の散りのまがひ」(三七〇〇)と假名書の例があるが、「亂」はマガフと訓むよりも、ミダレの方が穩かである。
 
    反歌二首
136 青駒《あをごま》の足掻《あがき》速《はや》み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける 【一に云ふ、あたりは隱り來にける】
 
(135)〔譯〕 青駒の歩みが早いので、遙か遠くに妻の家のあたりを通り過ぎて來てしまつた。
〔評〕 表面には少しも悲しみの情を逃べず、「過ぎて來にける」といひ捨てたところに特徴があつて、一首の感じが、大きく莊重である。「雲居にぞ」で、調べのとぎれるやうであるが、「にぞ」とおさへた心もちであらう。一二句は巧みである。
〔語〕 ○青駒 青毛の馬。白馬の節會をあをうまの節會というてゐるが、これももと青馬であつたのが、後、白馬に改められ、よび名のみ舊のままに殘つたらしいから、これを證として、ここを白馬と見るのは當らない。○足掻 足を動かし駈けること。○雲居 遙かに遠いこと。「五二」參照。
 
137 秋山に落つる黄葉《もみぢば》須臾《しましく》はな散り亂れそ妹があたり見む 【一に云ふ、散りな亂れそ】
 
〔譯〕 秋山に散る黄葉よ。暫くは散り亂れるな、妻の家のあたりを見よう。
〔評〕 長歌の「黄葉の散りの亂りに」云々を一首に纒めたものであるが、「な散り亂れそ」の口調は、「靡け此の山」に似た感がある。しかし「靡け此の山」の感動の直截な表現に比し、これは風雅ともいふべき感を伴ひ、強さは劣り、美しさは増してゐる。しかし一方、四句で切つて、五句に複雜な内容を盛りこんで強くとめた調べは、決して弱々しいものではない。
〔語〕 ○な散り亂れそ 散り亂れてはならない。
〔訓〕 ○な散り亂れそ 白文「勿散亂曾」で、舊訓「ナチリミダレソ」考「ナチリミダリソ」とある。亂るは四段活用の場合は他動詞、下二段の場合は、自動詞と考へられるので、舊訓による。
 
    或本の歌一首并に短歌
 
(136)138 石見《いはみ》の海 角《つの》の浦囘《うらみ》を 浦無しと 人こそ見らめ 潟無しと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 勇魚《いさな》取り 海邊《うみべ》を指して 柔田津《にきたづ》の 荒磯《ありそ》の上に か青なる 玉藻|奧《おき》つ藻 明け來《く》れば 浪こそ來寄《きよ》せ 夕されば 風こそ來寄《きよ》せ 浪の共《むた》 彼《か》寄り此《かく》寄る 玉藻なす 靡き吾が寢《ね》し 敷細《しきたへ》の 妹が袂を 露霜の 置きてし來《く》れば この道の 八十隈《やそくま》ごとに 萬度《よろづたび》 かへりみすれど いや遠《とほ》に 里|放《さか》り來《き》ぬ いや高に 山も越え來《き》ぬ 愛《は》しきやし 吾が嬬《つま》の兒《こ》が 夏草の 思ひ萎《しな》えて 嘆くらむ 角《つの》の里見む 靡けこの山
 
〔譯〕 石見の海の角の海岸あたりには、よい景色の海岸がないと人は見ることであらう。よい景色の干潟がないと人は見ることであらう。しかし、たとへよい海岸はなくとも、たとへよい干潟はなくとも、自分には懷しい妻のゐる土地である。海邊をさして、柔田津の荒磯の上に、眞青な玉藻や沖の藻を、夜が明けて來ると浪が寄せて來るし、夕方になると風が寄せて來るが、その浪と共にあちらによつたりこちらに寄つたりする美しい藻のやうに、長々と寄り添うていねた妻を殘しておいて來たので、この道の數多い曲り角毎に、幾度も幾度も振り返つて見るが、いよいよ遠く里は離れて來た。いよいよ高く山も越えて來た。いとしい我が妻が、夏草が烈しい日光に萎れるやうに、悲しみに沈んで嘆いてゐるであらう角の里を見よう。靡け、この山よ。
〔評〕 前出の「一三一」の異傳であり、それと比べると、解り易くなつてゐるやうであるが、歌としては劣る。例へば「明け來れば」「夕されば」は「朝羽ふる」「夕羽ふる」に比して解りよいし、「一三一」で「玉藻なす寄り寢し妹を」とあつたのを「玉藻なす靡き吾がねし敷妙の妹が袂を」としたのは、詳しくはなつたが、簡潔な前者に劣り、「愛しきやし」云々の挿入も同樣である。特に「里は放りぬ」と「里放り來ぬ」との聲調の差、「妹が門見む」と「角の(137)里見む」との感情の集中の差は、歌に志す者にとつてよく注意すべきところである。
〔語〕 ○柔田津 「一三一」に述べた如く、今石見に見當らぬ地名で、不明とする他はない。或は和多豆を夙く誤り訓んだものであららか。○明け來れば 夜が明けて來ると。○夕されば 夕方になると。○敷妙の 「一三五」參照。○愛しきやし 愛らしい、いとほしいの意。「やし」は「よしゑやし」の「やし」に同じ。○吾が嬬の兒 兒は愛稱。
〔訓〕 ○角の浦 諸本「津乃浦」とあつて、或は「一三一」をかく誤り傳へたものかとも見られるが、この歌では終に「角の里」とあり、やはり同地をいふらしいから、脱字説に從ふ。
 
    反歌
139 石見《いはみ》の海|打歌《うつた》の山の木《こ》の際《ま》より吾が振る袖を妹見つらむか
    右は、歌の體同じといへども句々相替れり。此《ここ》に重ねて載す。
 
〔譯〕 石見の海邊の打歌の山の木の間から私の振る袖を、妻は見てゐるであらうか。
〔評〕 前出「一三二」の異傳であるが、初句「海」というて、二句「山」といふこともいかがである。誤傳であらう。
〔語〕 ○打歌の山 地名と思はれるが、よく分らぬ。次項參照。
〔訓〕 ○打歌の山 考は「打歌」をタカと訓み、下に角か津乃の脱といひ、古義は「竹綱《タカツヌ》山」の誤といつてゐるが、諸本異同なく、確證がない。暫く舊訓に從ふ。
 
   姉本朝臣人麻呂の妻|依羅娘子《よさみのをとめ》、人麻呂と相別るる歌一首
 
140 勿念《なおも》ひと君は言《い》へども逢はむ時いつと知りてか吾が戀ひざらむ
 
〔題〕 依羅は氏。依羅娘子は傳不詳。ここの歌の配列から見れば、石見國に殘して來た妻らしいが、下の「二二四」(138)に依つて、大和に住んでゐた妻といふ説もある。
〔譯〕 私に物思ひをせずともよいとあなおはおつしやいますが、いつ今度逢へると承知して戀ひ慕はずにをることができるのでせう。
〔評〕 思つたままを素直に詠んでをり、四五句など、やや不十分ないひ方とも見られるが、それだけに眞情が流露してをり、女性らしいあはれさも感ぜられる。
〔語〕 ○な念ひ 思ふな。上代では禁止の助詞の「な」は、必ずしも下に「そ」を伴はない。「ものな思ほし」(七七)參照。○いつと知りてか吾が戀ひざらむ いつのことと分つてをれば、戀ひずにもをられよう。しかし、一體いつなのでせう、わからないではありませんか、の意。
 
 挽歌《ばにか》
 
  後崗本宮《のちのをかもとのみや》御宇天皇代 天豐財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》天皇
 
    有間皇子《ありまのみこ》、自ら傷みて松が枝を結べる歌二首
141 磐代《いはしろ》の濱松が枝《え》を引き結び眞幸《まさき》くあらば亦かへり見む
 
〔分類〕 挽歌は、晉書、崔豹古今注等に出典があり、柩を挽く時の歌といふのが原義で、轉じて死喪に關する歌を廣くいふ。勅撰集の部立では哀傷に相當するが、哀傷の部には、直接死喪に關係がなく、單に無常感を歌つた歌などをも含めてをろ、もとより全く、一致するものではない。
〔代號〕 齊明天皇の御代。「八」參照。
〔題〕 有間皇子 孝コ天皇の皇子。齊明天皇の時、蘇我赤兄に謀られて、紀伊行幸の御留守中不軌を企てられたが、(139)事あらはれて紀伊の牟婁の行宮に送られ、藤白(今の海草郡内海村)で死を賜うた。御年十九。齊明天皇四年十一月のことである。結松は「一〇」參照。これは皇子が牟婁(西牟婁郡湯崎)に送られる途中のことであらう。
〔譯〕 磐代の濱に生えてゐる松の枝を結んでおき、もし無事であつたならば、又歸つてきて見ることであらう。
〔評〕 質朴で何の飾りもない言ひ方に、却つて切々たる哀感を感じさせる。三句でちよつと休止し、四句に又輕く抑揚を附してゐる調べにも、深い歎息を聞くやうに思はれる。また、結び松は、上古の信仰を物語つてゐるのであるが、磐代といふ地名から、堅く變らぬ石といふ聯想も動いたのであらうか。
〔語〕 ○磐代 紀伊國日高郡。「一〇」參照。○引き結び 松の枝を結び無事を祈つたもの。「一〇」參照。○眞幸くあらば 無事であつたならば。「ま」は接頭辭。「さきく」は「三〇」參照。○亦かへり見む 立ち歸つて再び見るであらう。
 
142 家にあれば笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を草枕旅にしあれば椎《しひ》の葉に盛《も》る
 
〔譯〕 家にをれば食器に盛つて食べるはずの飯を、かうした旅中のことであるから、椎の葉に盛ることである。
〔評〕 「旅にしあれば」とあるが、固より當時の旅、特に貴人の旅がすべてかうであつたわけではない。かかる特殊な時であつたからなのであらう。しかし、それについては何事も述べず、ただ單純に椎の葉に盛るといふに過ぎない。詠歎的な語は助詞だにもない。しかも哀感は身に染みて感ぜられる。味はへば味はふほど切實な作である。
〔語〕 ○笥 食物を盛る器。○草枕 旅にかかる枕詞。「五」參照。○椎の葉に盛る 今の椎ではあまり小さいので、楢をさすともいはれるが、椎の小枝を折り敷いて盛つたのであらう。
 
    長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》、結松を見て、哀咽《かなし》める歌二首
(140)143 磐代《いはしろ》の崖《きし》の松が枝《え》結びけむ人はかへりて復《また》見けむかも
 
〔題〕 長忌寸意青麻呂は、「五七」の奧麻呂と同人であらう。奧麿は有馬皇子より約五十年後の文武天皇の朝の人であるが、皇子の結ばれたといふ松を見て、往時を偲んで作つた歌であるから、便宜上、皇子の歌につづけて配列したものと思はれる。
〔譯〕 磐代の崖に生えてゐる松の枝を結んだといふ方は、歸つて來て再び見られたことであつたらうか。
〔評〕 皇子が松を結んで祈られた甲斐はあつたかどうかと歌では疑つてゐるのであるが、奧麿はもとより皇子の最期については知つてゐたのである。それをかく「見けむかも」といつたところに哀愁がある。「けむ」を重ねてゐるのもよい。皇子の御作に比べては、動機、環境、すべて比較にならぬし、作品の價値も比較にならないが、これも惡い歌ではない。
〔語〕 ○崖 崖《がけ》になつたところ。○結びけむ 結んだであらう。
〔訓〕 ○崖 金澤本。元暦校本等による。通行本「岸」に作る。訓は同じくキシでよい。
 
144 磐代の野中に立てる結《むす》び松|情《こころ》も解けず古《いにしへ》念ほゆ 未だ詳ならず
 
〔譯〕 磐代の野中に立つてゐる結び松、その結び松を見る我が心も晴れないで、昔の事が思ひ出される。
〔評〕 結び松をうけて、「心も解けず」と縁語のやうにいつたのは巧みであるが、それが却つて一首の味はひを失はせ、前の歌の素直なのに及ばない。卷十六に、意吉麿が諸種の物を詠じた歌が「三八二四」以下數首ある。この作者はかういふ著しい一面があつたのであらう。
〔語〕 ○情も解けず 結び松の結ばれたままになつてゐるのをうけて、解けずといつたもの。心の結ぼほれて晴々し(141)ないこと。○古念ほゆ 有馬皇子の古のことが偲ばれる。○未だ詳ならず 題詞によればこれも意吉麿の歌であるが、それを疑つたのであらうか。梨壺の五人の註などであららか。
 
    山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》の追ひて和ふる歌一首
145 鳥翔《つばさ》なすあり通《がよ》ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
     右の件の歌等は、柩を挽《ひ》く時の所作ならずと雖も、歌の意に准擬《なぞ》へて、故《かれ》、挽歌の類に載す。
 
〔題〕 憶良 既に述べたが、意吉麿と略々同時代であつて、憶良が僅かに遲れるやうである。この追和したのは有馬皇子の歌に對してとも見られるが、恐らく意吉麿の第一首に和したのであらう。
〔譯〕 鳥のやうに空を飛んで皇子の靈は引きつづき通ひつつ見てゐられるのであらうが、それを人は知らないでも、松は知つてゐるであろう。
〔評〕 古代日本人の靈魂感は、下の「一四八」にも見られるが、この歌でも恐らくさういふ信仰に根ざしてゐるのであらう。我等には非情の松であつても、當時の人にとつては唯非情のものとはいへないに違ひない。齋藤茂吉博士の言のやうに、憶良の歌には流動する趣がなく、ごつごつと切れるのが多いが、これもそれで、三段に切れたそれぞれの主語たるべきものが、それぞれにちがつてをり、この場合かへつて一種の風格を示してゐる、といつてよい。
〔語〕 ○鳥翔《つばさ》なす 翔は鳥の飛ぶ義。鳥のやうに皇子の靈が飛んでの意と思はれる。なほ訓詁の條參照。○あり通ひつつ 「あり」は動詞の上について繼續を表はす語。常に通ひつつ。○見らめども 見てゐるであらうが。「五五」參照。○人こそ知らね 人は知らないが。
〔左註〕 右の五首をさして、右の件の歌等といつたものと思はれるが、これらの歌は柩を挽く時の歌ではないが、歌の意味から推して挽歌の類に加へたといふ意と解される。即ち、挽歌は死葬に關する歌を主とすることが知られる。
(142)〔訓〕 ○鳥翔なす 白文「鳥翔成」は、考の訓によつたが、鳥翔をツバサと訓むことにも疑があり、略解の如く「鳥翅」と改めて見ても、ツバサナスを直ちに鳥の飛ぶ如くの意に用ゐてよいかどうか疑がある。といつて、舊訓トリハナス、攷證カケルナスも穩かでない。講義アマガケルも原字面に即してゐないやうに思はれる。かくて訓は、なほ後考を俟たねばならぬが、暫く通説の如く考に從つておく。
 
    大寶元年辛丑、紀伊國に幸しし時、結松を見る歌一首 【柿本朝臣人麻呂の歌集の中に出づ】
146 後《のち》見むと君が結べる磐代《いはしろ》の子松《こまつ》が末《うれ》を又見けむかも
 
〔題〕 大寶 文武天皇の御代。人麿歌集に在るといふのみで、必ずしも人麿の作とは斷じがたいが、或は人麿の作かと思はれる。人麿歌集については後に述べる。
〔譯〕 後に再び見ようと祈つて結ばれた磐代の子松の枝先を、皇子は再び見られたことであらうか。
〔評〕 前の意吉麿の歌の唱へ誤りと斷じて、考がこの歌を削つたのは臆斷に過ぎるが、比較すると興味がある。先づ第一句に「後見むと」とかなり重い内容の語を述べ、松に對しては子松が末と細かく描いてゐる點が目だつが、これはやはり意吉麿の素直なのが優つてゐる。なほこれらの歌を通して、書紀の記述にもうかがはれるところであるが、皇子に對する同情もあつて、その歌が長く傳誦せられ、また結び松が一の名所となつてゐたやうに思はれる。
〔語〕 ○子松 この松を有間皇子の結ばれた松とすれば、皇子の薨後四十三年を經てゐるから、子松は小さい松ではなく、「こ」は美稱であるといふ説(間宮永好犬鷄隨筆)がよい。
 
  近江大津宮《あふみのおほつのみや》御宇天皇代  天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇
    天皇、聖躬《おほみみ》不豫《やくさ》みたまひし時、太后《おほきさき》の奉りたまへる御歌一首
(143)147 天《あま》の原|振《ふ》り放《さ》け見れば大王《おほきみ》の御壽《みいのち》は長く天足《あまた》らしたり
 
〔代號〕 天皇は天智天皇。「一六」參照。
〔題〕 聖躬は天皇の大御身。不豫は安からざるをいふ。御病氣のこと。太后は皇后の意。古人大兄皇子の御女、倭姫王を申上げる。
〔譯〕 大空を遠くふり仰いで見ると、大空は廣々として悠久の姿を示してゐるが、大君の御壽《みいのち》もかやうに永遠に滿ち足りていらせられます。
〔評〕 御病のことにはあらはに觸れられず、卒然として讀めばただの壽歌のやうに見えるほど、ひたすら御壽の萬歳を述べてある。しかし、繰返し讀めば讀むほど、「天足らしたり」と強い信念を持つて斷定せずにはゐられない切實の御心を生き生きと感ずる。強い感動を中にたたへつつ、崇重な格調は、皇后の御歌にふさはしい。所謂專門歌人ではない御方の作で、しかも萬葉集を代表すべき佳作である。
〔語〕 ○天の原 廣く大きい空の義。○振り放け見れば 遠くふり仰いで望むと。さくは「一三一」參照。○御壽は長く天足らしたり 守部は室壽詞に「み空を見ればかくしもがも」とあり、また新嘗祭の歌に「天にはも五百つ繩延ふ」(四二七四)とあるを證として、宮殿の屋上に千尋繩を張り渡して、長く結び垂れてゐるその繩のやうに御壽も長久にましますと解してゐる(檜嬬手)。しかしそれは室壽や宮殿内に行はせもれる新嘗祭の際であるからであつて、ここでは實際に天を仰いで御代の長久を歌はせられたものと思はれる。即ち、天は恰も大君の御壽の限りないのを示してゐる如くで、御壽の長久は疑ふべくもないとの意。かくしてこそ、御歌の崇高にして切實なる趣をうかがふことができるのである。なほ、「天足らしたり」は、天に充滿してゐるといふのが、字義に即した解である。
 
    一書に曰く、近江天皇聖躬|不豫《やくさ》みたまひ、御病|急《おも》くましましし時、太后の奉れる御歌一首
(144)148 青旗《あをはた》の木旗《こはた》の上を通《かよ》ふとは目には見ゆれど直《ただ》に逢はぬかも
 
〔譯〕 木幡の上を天皇の御魂が通ひ給ふと目には見えるのであるが、直接にお逢ひすることはできないことである。
〔評〕 この御歌は、單純にして莊重である。しかも強い感動を拜することができ、前の歌に劣らぬ御作と申したい。御魂を御眼前にありありと御覽になるといふことは、一方からいへば古代人の靈魂感を物語つてゐるのであるが、皇后の天皇に對する御氣持をもよく示してゐるのである。四五句は「み熊野の浦の濱木綿百重なす心は思へど直にあはぬかも」(四九六)などに似た例はあるが、この場合四句の三四調をうけて、三五と字餘りに強くとどめられた語調は、上三句の平淡なのをうけて、いかにも切實な氣持を示してゐる。
〔語〕 ○青旗の 枕詞。青い木々の茂つてゐる意と、同音はたの繰返しによつて木幡の枕詞とした。「青旗の葛城山」(五〇九)「青幡の忍坂山」(三三三一)參照。○木旗 地名。山城國に在り、御陵の在る山科とも近く、「山科の木幡の山」(二四二五)といつた例もある。なほ上の青旗を文字通り青い旗、又は白い旗とし、木旗を小さい旗、(考は小《ヲ》旗と字を改めよんでゐる)或は旗の布幅、旗布(新解)等と解し、大葬の時の幢幡の類或は庭上の旗とする説もある。しかし、小に改めるのは固より、このまま小の意に解するのは特殊假名遣上、從ひ難く、また旗布と解するのは、その根據がなほはつきりしない。歌の趣よりは棄て難い氣もするが、やはり無理があるやうであるから、暫く代匠記の説に從つておく。○通ふとは 天皇の御魂が通ひ給ふとはの意。○ただに 直接に。
 
    天皇|崩《かむあが》りましし時、倭太后の御作歌《つくりませるうた》一首
149 人はよし思ひ止《や》むとも玉蘰《たまかづら》影《かげ》に見えつつ忘らえぬかも
 
〔譯〕 他の人々はたとへお慕ひ申すことを止めようとも、私には大君が面影に見え給うて忘れられぬことである。
(145)〔評〕 一二句、他の人々はと仰せられてゐるのも、他人を咎めてをられるのではない。また忘らえぬは、忘れようとしても忘れられないのであつて、忘れまいではなく、共に靜かに虔しく自己を見つめられる趣である。前の御歌に比してやや弱さが目立つが、奧深く潜んで一層しみじみとした感情が出てゐる。「影に見えつつ」も印象的である。なほこの御歌には、既に他に對する自我の意識が生じてをり、歌風變遷の上から注意される。
〔語〕 ○人はよし 他人はたとへ。○思ひ止むとも 追慕することを止めようとも。○玉蘰 影にかかる枕詞。玉かづらは髪の飾で、懸の意でつづく(考)。○影に見えつつ 面影となつて見える。○忘らえぬかも 忘れることができぬことである。
 
    天皇崩《かむあが》りましし時、婦人《をみなめ》の作れる歌一首 【姓氏未だ詳ならず】
150 うつせみし 神に堪《た》へねば 離《さか》り居《ゐ》て 朝嘆く君 放れ居て 吾が戀ふる君 玉ならば 手に卷き持ちて 衣《きぬ》ならば 脱《ぬ》く時もなく 吾が戀ひむ 君ぞ昨夜《きそのよ》 夢《いめ》に見えつる
 
〔題〕 天皇 同じく天智天皇。婦人は何人か不明である。、
〔譯〕 人間は、神に從ひ奉ることができないので、離れてゐて、毎朝私がお嘆き申上げてゐる君、放れてゐて、私がお慕ひ申上げてゐる君、もし玉であるならば、手に卷きつけて持ち、もし着物であるならば、脱ぐ時もなく私が戀しく思ふであらう、その君が、昨夜夢にお見えになりました。
〔評〕 素朴な、寧ろ稚拙ともいふべき表現であるが、そのうちに女性らしい眞心があふれてゐる。玉ならば、衣ならばと譬へたのも、女性の身近な物をとつて愛着の氣持をよく示してゐる。對句を重ねてきて、最後にやや唐突に、「君ぞきその夜夢に見えつる」と結んだのも、作者の力が足らず表現し盡くされなかつたからであらうが、感情の流露はよく味はふことができる。
(146)〔語〕 ○神に堪へねば 神となり給うた君に從ひ奉ることができないので。○玉ならば もし君が玉でいらせられるならば。○手に卷き持ちて 手に卷きつけて飾として持つて。
 
    天皇の大殯《おほあらき》の時の歌二首
151 斯《か》からむと豫《か》ねて知りせば大御船|泊《は》てし泊《とまり》に標繩《しめ》結《ゆ》はましを 額田王
 
〔題〕 大殯の大は尊稱。殯は崩御の後、未だ葬りまつらず別殿に安置しまつる間をいふ。アラキは新城の意。
〔譯〕 こんなことにならうと豫てから知つてゐましたならば、天皇の大御船の泊つた船つき場に、標を結ひましたでありませうに。
〔評〕 意外な崩御を嘆いてゐなのであるが、それにつけても、ああすればよかつたと詮ない悔を述べたもの。標結ふといふことは、現代人の理智をもつて考へるより、もつと現實的な實感を以て歌はれたものと思はれる。一二句「か」の頭韻を竝べてゐる。
〔語〕 ○斯からむと かやうに崩御あそばされようと。○豫ねて知りせば 豫め知つてゐなならば。○標結はましを 標繩を張り渡してお留め申したであらうに。
〔訓〕 ○斯からむと 「と」は、諸本「乃」とあり、訓は、トとしてゐる。「乃」はトとは訓めず、又ノでは解し難いので、諸註誤字としてゐる。しかし「刀」(代匠記)では特殊假名遣の例に相違する(刀に甲乙兩用の例も皆無とはいへぬが)。童蒙抄により「登」の誤とすべきか。なほ、「道の知らなく」の如く、知るの獨特の用法とも考へられる。○豫ねて知りせば 白文「豫知勢婆」の「豫」を金澤本、類聚古集等は「懷」に作るによつてオモヒシリセバと訓む註(全譯)もあり、大野晋氏は、一二句をカカラムノココロシリセバと訓む説をたてられたが、なほ不熟である。しかし西本願寺本以下仙覺本はすべて「豫」とあり、一首の趣よりも舊説のままがよからう。
 
(147)152 やすみししわご大王《おほきみ》の大御船《おほみふね》待ちか戀ふらむ志賀の辛埼 舍人吉年
 
〔譯〕 我が大君の大御船を待ちこがれてをりませう、あの志賀の辛崎は。
〔評〕 志賀の辛崎に寄せて自らの嘆きを述べたのであるが、人麿の「ささなみの志賀の辛崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ」(三〇)などはこの影響をうけたのであらうか。歌としては感動に乏しい憾みがある。
〔語〕 ○やすみししわご大君 「五二」參照。○舍人吉年 舍人は氏、吉年は名であらう。傳不詳。「四九二」にも見える。
 
    太后の御歌一首
153 鯨魚取《いさなと》り 淡海《あふみ》の海を 沖|放《さ》けて 榜《こ》ぎ來《く》る船 邊附《へつ》きて 榜《こ》ぎ來《く》る船 沖つ櫂《かい》 甚《いた》くな撥《は》ねそ 邊《へ》つ櫂《かい》 甚《いた》くな撥《は》ねそ 若草の 夫《つま》の 念《おも》ふ鳥立つ
 
〔題〕 太后は、前に記した倭姫皇后。
〔譯〕 淡海の湖を遠く沖に離れて漕いで來る船よ、近く岸邊に寄つて漕いで來る船よ、沖を漕ぐ櫂をひどくはねるな、岸を漕ぐ櫂をひどくはねるな。我が夫の君の愛で給うた鳥が飛び立つから。
〔評〕 事につけ折にふれて盡きぬ思を述べ給うたもの。水鳥を憐まれる御心は先帝に寄せられる思慕の情より發する。簡明にして印象は鮮かに、「いさなとり淡海の海」から始まり、沖に岸に漕ぐ船、その船の櫓、最後に水鳥と推移する趣は自然で美しい。前の御歌と同じく哀傷の情をあらはに述べられず、しかもその御情の愈々深いのを感ずる。中間の對句も、ただ形式を整へた技巧といふべきではなく、寧ろ古風な謠ひ物に近い感があり、最後に簡潔に結ばれたのは殊によい。この五・三・七調は長歌の古格の一である。
(148)〔語〕 ○いさな取り 海また湖の枕詞。「一三一」參照。○淡海の海 琵琶湖。○沖さけて さくは離れる。遠く沖の方に離れて。○邊附きて 岸邊傳ひに、岸に沿うて。○沖つ櫂 沖の船の櫂。櫂は和名抄に「釋名云在v旁撥v水曰v櫂」とあり、水を掻き船を進める具。○いたくな撥ねそ ひどく水を撥ねるな。○若草の 妻の枕詞。柔かく美しく愛すべきものであるから妻に譬へたもの。○つま 古くは夫婦ともにつまといつた。「一三」參照。ここは天皇を指す。○念ふ鳥立つ 念ふは愛する、心にかけるの意。御在世中、心にかけ給うた鳥で、今も御魂の思うてをられる如く感じられる鳥をいとほしんで、かく仰せられたのである。
 
    石川夫人の歌一首
154 神樂浪《ささなみ》の大山守《おほやまもり》は誰《た》が爲か山に標《しめ》結《ゆ》ふ君もあらなくに
 
〔題〕 石川夫人 蘇我山田石川麻呂の女。夫人は「一〇三」參照。
〔譯〕 ささなみの御料地の山寺は、誰の爲に標を結ふのであらうか、天皇も在しまさぬのに。
〔評〕 これも見るもの聞くものにつけて歎かれる趣で、理窟からいへば當然のことでも、氣持からいへば誰が爲にといふ氣持によく同感でき、自然な歌である。四句切も古雅な趣でよい。
〔語〕 ○ささなみ 志賀附近の總名。「三〇」參照。○大山守 大は敬稱。山守は、濫りに伐木したり、また御料の山に濫りに人の入らぬやう番をしてゐる役。應神紀に諸國に山守部を置かれた由が見える。○標結ふ ここは濫りに人を入らせぬ爲である。○君もあらなくに 君もいらせられぬのに。
 
    山科《やましな》の御陵《みささぎ》より退《まか》り散《あら》けし時、額田玉の作れる歌一首
155 八隅知《やすみし》し 我《わ》ご大王《おほきみ》の 恐《かしこ》きや 御陵《みはか》奉仕《つか》ふる 山科《やましな》の 鏡の山に 夜《よる》はも 夜《よ》の盡《ことごと》 晝(149)はも 日の盡《ことごと》 哭《ね》のみを 泣きつつ在りてや 百磯城《ももしき》の 大宮人は 去《ゆ》き別れなむ
 
〔題〕 山科の御陵 天智天皇の御陵。今、京都市東山區御陵町にある。これは古、天皇の親しい皇族方や大臣その他側近に奉仕した人々が、一定の期間御陵に晝夜分番交代して仕へ、その人々が退散する時の歌である。その期間を考は一年といつてゐる。
〔譯〕 わが大君の、畏れ多い御陵に仕へまつる山科の鏡山に、夜は夜もすがら晝は日ねもす聲をあげて泣き悲しんでばかりゐたが、今や遂に大宮人は別れ去つてしまふことであらうか。
〔評〕 空しき御陵に奉仕する日數もいつか過ぎて、散り散りに分れてゆく悲しみを述べたのであるが、短い語句の中によく哀しみの情をたたへてゐる。一體に短く切れる句調である。他にも數箇所用例はあるが「夜はも」「晝はも」の對句につづいて、更に「ねのみを」と四音句を用ゐ、調を蒼古なものとすると共に、切々たる情を示してゐる。作者は寧ろ才氣にみちた歌風を稱せられてゐるが、この歌ではその趣はない。「四八八」等に知られるやうに、作者は天智天皇に特にゆかり深い方であつたことを思へば、この歌も一層しみじみと味はへるであらう。
〔語〕 ○恐きや 申すも恐れ多い。連體格で御陵につづく。○御陵《みはか》つかふる 御陵に奉仕する。○鏡の山 鏡の山は諸所に在るが、これは御陵の在る所の山。○夜はも夜の盡 夜は夜もすがら、終夜。○哭のみを泣きつつ ねを泣くは、聲をたててなく。○百磯城 大宮の枕詞。「二九」參照。
 
  明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇謚曰2天武天皇1。
 
十市皇女《とをちのひめみこ》薨りましし時、高市《たけちの》皇子尊の御作歌《つくりませるうた》三首
156 三諸《みむろ》の神の神杉《かむすぎ》巳具耳矣自得見監乍共|寐《い》ねぬ夜《よ》ぞ多き
 
(150)〔代號〕 天武天皇の御代。「二二」參照。
〔題〕 十市皇女 天武天皇の皇女。「二二」參照。高市皇子は皇女の異母弟。「一一四」參照。ここに尊の字を添へたのは、草壁皇子の薨後皇太子に立たせられたからである。
〔評〕 この歌、三四句定訓といふべきものがない。從つて口譯、評共に省く。
〔語〕 ○三諸の神の神杉 三諸は三輪山。この山に杉の多かつたことは諸處に見える。
〔訓〕 ○巳具耳矣自得見監乍共 諸本の異同は大差ないが、誤字説は多い。左に重なものを擧げると、
 舊訓「イタニヲシトミケムツツトモ」
 代匠記「イクニ惜ト、ミケムツツムタ」
 考「已免乃美耳將見管本無《イメノミニミエツツモトナ》」
 古義「加是耳荷有得之監乍《カクノミニアリトシミツツ》」(「共」は「宿」の誤で次句につけ、「宿不寢《イネズ》」と訓む)
 美夫君志「已目耳矣自《イメニヲシ》、將見監爲共《ミムトスレドモ》」
 新考「已賣耳多耳將見念共《イメニダニミムトオモヘドモ》」
 難語難訓攷「已具耳矣自得見監乍共《イメノミニミエツツトモニ》」
等あつて、未だ定訓はない。
 
157 神《かむ》山の山邊眞麻木綿《やまべまそゆふ》短木綿《みじかゆふ》かくのみ故《ゆゑ》に長くと思ひき
 
〔譯〕 神のまします山のほとりにある麻木綿は短い木綿であるが、そのやうに短命な皇女でおはしたものを、長くいらせられることと思つてゐた。
〔評〕 一句は前の歌にも三諸の山とあるから、やはり三輪山をいふのであらうが、何か皇女にゆかりがあるのであら(151)うか。三句まではこの地の短木綿をとり出して、皇女の短命にましましたことを寓してゐるのであるが、助詞は、のだけで他は體言を重ね、木綿の語を繰返し、流麗な聲調でつづけて來て、四五句に至つて調べは一轉して、投げだすやうに悲嘆の情を述べてをられる。特色ある歌である。
〔語〕 ○神山 神のいらせられる山。○山邊眞麻木綿 山邊にある眞麻木綿。そは麻。木綿は主として楮の樹皮の繊維を晒して作る紐のやうなものであるが、ここは麻で作つたもの。榊にかけて神事に用ゐる。○短木綿 短い木綿で、皇女の御命の短いのによそへたもの(考)。○かくのみ故に かやうなわけであつたのに。○長くと思ひき 長くの下は省略されてゐて、長く生きてをられるとの意。かくは長く生きてゐて欲しいの意とも解されるが、上のつづきから見て前説がよい。
〔訓〕 ○神山 舊訓「ミワヤマ」とあり、これに從ふ註も多いが、ここは「カミヤマ」と代匠記の訓に從うて、「カムヤマ」とよみ、三輪山をさすものとする。○故 からとよむ説もあるが、ゆゑの方がよい。
 
158 山振《やまぶき》の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
 
〔譯〕 山吹の花が美しく咲き装ほうてゐる山の清水を汲みに行きたいが、道を知らないことである。
〔評〕 聲調は、三句以下は前の歌に似てやや餘韻を殘してゐる。解釋の上に於いて上三句を、守部が「黄泉」(死者の行く國)の字を黄なる泉として、黄を山吹にて表はし、泉を山清水といひ、酌むとは、泉の縁語でいつただけで、黄泉まで尋ね行きたいが道が分らないといふ意といつてゐるのは、恐らく從ふべきであらうが、單に概念的に黄泉をかくよまれたのではなく、契沖のいふやうに、山吹の匂へる妹などともいはれる山吹が、御墓のある山の清水に影を映してゐる清らかな淋しい姿を思ひ浮べるべきで、そしてこれは同時に薄命な一生を終へさせられ、薨去に對しても後世種々臆測されてゐる皇女の、可憐貞淑な姿を象徴してゐるといふべきであらう。さう解してこそ、この歌の深く(152)切實な餘情を汲みとることができると思はれる。
〔語〕 ○立ちよそひたる よそふは飾りたてる。ここは美しく咲いてゐるの意。○汲みに行かめど 汲みに行きたいが。○道の知らなく 道を知らないことである。道がわからない。
 
    天皇|崩《かむあが》りましし時、太后の御作歌《つくりませるうた》一首
159 やすみしし 我が大王《おほきみ》の 暮《ゆふ》されば 見《め》し賜ふらし 明け來《く》れば 問ひ賜ふらし 神岳《かみをか》の 山の黄葉《もみぢ》を 今日もかも 間ひ給はまし 明日《あす》もかも 見《め》し賜はまし その山を 振|放《さ》け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明けくれば うらさび暮《くら》し 荒妙《あらたへ》の 衣《ころも》の袖は 乾《ふ》る時もなし
 
〔題〕 天皇 天武天皇。太后は天皇の皇后、即ち後の持統天皇。
〔譯〕 我が大君が、夕方になれば見ておいでなさるであららう、朝になれば尋ねておいでなさるであらう、あの神岳の山の黄葉を、もし御在世ならば、今日もお尋ねなさるであらう、明日も御覽なさるであらう、その山を今一人遠く見ながら、夕方になればひどく悲しみ、朝になれば心さびしく暮し、荒妙の喪服の袖は涙に乾く時もない。
〔評〕 「暮されば召し賜ふらし」は種々の解があるが、「らし」から考へると、山田博士の説の如く、靈魂不滅の信念から、大御魂が今も神山の紅葉を見給ふことをありありとお感じになつたと見るべきであらう。さういふ神秘的な考から、もし御在世ならば、自分と共に見給ふであらうと、現世に在まさぬ怨に轉じ、更に、深い追慕の情に沈まれる御自身の姿へと移つてゆく。かく移つてゆくのであるが、その動きはまことに自然である。また、皇居に近い神山の紅葉を契機として追憶の情を述べてをられるのも、自然である。主題の展開の仕方、作者自身の姿の描寫なども感じが深い。しかして對句を繰返してをられるのも、調べの單純なうちに、綿々として盡きずといふ趣があり、眞情の流(153)露した御歌である。
〔語〕 ○めし給ふらし めしは「五〇」參照。天皇の大御靈が今も天駈りつつ御覽遊ばされるであらうと解するのがよい。この句は「神岳の山の紅葉」につづく連體格である。○神岳 飛鳥の雷岳。「神岳」とも「みもろの神なび山」(三二四)ともいひ、飛鳥淨御原宮に近く、飛鳥村雷に在る。○今日もかも 今日もまあ。○問ひ給はまし 若し御在世ならばお尋ねになるであらう。これも「その山」につづく。○あやに 實に、本當に。○うらさび 心樂しまず。「三三」參照。○荒妙の衣 粗々しい布で作つた着物、即ち喪服。○乾る時もなし 涙で乾く時もない。
 
    一書に曰く、天皇崩りましし時、太上天皇の御製の歌二首
160 燃ゆる火も取りて裹《つつ》みて袋には入ると言はずやも知るといはなくも
 
〔題〕 或書に載せてある歌を參考の爲に加へたもので、天皇は天武天皇、太上天皇は持統天皇。文武天皇の御代に記した書き方をそのまま轉載したのであらう。
〔譯〕 燃えてゐる火でさへも取つてつつんで、袋に入れるといふではないか。それであるのに、崩御をとどめ奉る術を、誰も知るとはいはないことである。
〔評〕 訓義上異説が多いが、眞淵のいふやうに幻術の類を考へて、崩御をとどめまつる術のないことを歎いての御歌であらう。或は、靈の御行方を知るといはないとも解される。まことに特異な素材である。四、五句の間に省略が多く、四句に、「入るといはずやも」と反語的に強く述べ、五句に「言はなくも」と沈んだ語調となつてゐることは對比して、味はひが深い。
〔語〕 ○燃ゆる火も 以下は當時、役の小角など火を袋に裹みなどする不思議な術をする者があつたのをいふ(考)。
〔訓〕 ○四五句、白文「入登不言八面知曰男雲」で、「登」は古葉略類聚鈔による。他の諸本は「澄」に作る。「知(154)曰」は諸本「智」とあり、このままでは解せられないので、代匠記、檜嬬手、新考は「面」以下を一句とし、上をイルトイハズヤとし、五句は代匠記「面智《オモシル》ナクモ」檜嬬手「南知日《アハムヒ》ナクモ」新考「面知因《アフヨシ》ナクモ」とし、考は「面」を四句につけ、「知曰《シルトイハ》ナクモ」と改めてゐる。暫く考により、後考を俟つこととしたい。
 
161 北山につらなる雲の青雲の星|離《さか》りゆき月も離《さか》りて
 
〔譯〕 北山に連なつてゐる青空の、星も移り、月も移つてゆく。
〔評〕 この歌も異説の多い歌であるが、右のやうに解いた。明け暮れ眺め給ふ北山、それも恐らく御陵の方角であらうが、そこに見られる星、月の移つたことを御覽になつての詠歎で、これをただ萬物の轉變したといふ概念的ないひ方と見るべきではなく、見るもの聞くものにつけて、御在世の時を懷しまれる御心持とし、大らかで美しい自然描寫で、「月も離りて」といひさしてをられる、深い歎きを味はひたいと思ふ。
〔語〕 ○北山 山の名ではない。北方の山の意。○青雲 白雲の義といふ説もあるが、「青雲のたなびく日すらこさめそぼ降る」(三八八三)などの用例から見て、青天、青空の義とする説に從ふ。
〔訓〕 ○北山 白文「向南山」で、檜嬬手は「向南北」の誤とし、「アマノガハ」と訓み、人が死ねば魂は星となるといふのを信じて、銀河の中の或星が、月の經つにつれて次第に動いて行くと解してゐるのは珍しい解ではあるが、從ひかねる。
 
    天皇崩りましし後、八年九月九日|奉爲《おほみため》にせし御齋會《おほみをがみ》の夜、夢《いめ》の裏《うち》に習ひ賜へる御歌一首
162 明日香《あすか》の 清御原《きよみはら》の宮に 天《あめ》の下 知らしめしし やすみしし 吾|大王《おほきみ》 高照す 日の皇子《みこ》 いかさまに 念《おも》ほしめせか 神風《かむかぜ》の 伊勢の國は 奧《おき》つ藻も 靡《な》みたる波に 鹽氣《しほけ》のみ 香《かを》れ(155)る國に 味凝《うまこり》 あやにともしき 高照す 日の皇子
 
〔題〕 天武天皇崩御の後八年は持統天皇七年に當り、此の年の九月九日即ち天皇の御忌日に御齋會が行はれたのであつて、このことは紀にも見えてゐる。(但、紀は十日になつてゐる)夢の裏に習ひ賜ふとは、夢の中に覺え給ふの意と思はれる。
〔譯〕 明日香の清御原の宮に天下を治め給うた我が大君、日の皇子はどうお思ひになつたのか、伊勢の國の沖の藻も靡いてゐる波に、潮氣が一面に立ち霞んでゐる國に、まことに慕はしい日の皇子。
〔評〕 夢裏に習ひ賜へる歌であるからであらうか、「いかさまに念ほしめせか」の結びはなく、また、「伊勢の國は」から「日の皇子」への續きも不明で、中間にも、或は終にも脱漏かと見られる點がある。強ひて解すれば考のいふやうに、吉野より伊勢の國に入らせられた時、海濱に立ち給うた御姿を讃へたものと解せられる。いづれにしても句々莊重、端正な古調を存してをる。
〔語〕 ○明日香の清御原の宮 天武天皇の皇居。「二二」參照。○やすみしし 「五〇」參照。○いかさまに念ほしめせか、「二九」參照。○神風の 伊勢の枕詞。「八一」參照。○奧つ藻 「一三一」參照。○靡みたる波に 靡いてゐる波に。○香れる國 香るは香氣のたつとも解されるが、潮の香の立ち霞む意とみるのがよい。古くは香るを霞霧などの立ちこめる意にも用ゐてゐる。○味凝 あやの枕詞。うまく織りの略で、巧みに織つた綾とかかる。○あやにともしき あやは「一五九」參照。ともしきは、愛すべき、慕はしき。
〔訓〕 ○靡みたる波に 白文「靡足波爾」の「靡足」を「靡留《ナビケル》」(檜嬬手)、「廣合《ナビカフ》」(古義)等誤字とする説には從へない。また「足」をシの假字として、ナビキシナミニと訓む舊訓に從ふ註も多いが、代匠記ナミタルが穩かであらう。
 
  藤原宮御字天皇代 高天原廣野姫《たかまのはらひろのひめ》天皇
 
(156)    大津皇子薨りましし後、大來皇女《おほくのひめみこ》伊勢の齋宮《いつきのみや》より京に上《のぼ》りましし時、御作歌《つくりませるうた》二首
163 神風《かむかぜ》の伊勢の國にもあらましを奈何《いか》にか來《き》けむ君もあらなくに
 
〔代號〕 持統天皇の御代。「二八」參照。
〔題〕 大津皇子「一〇五」參照。
〔譯〕 こんなことならば、伊勢の國にそのまま居ればよかつたのに。どうしてこの京師に來たのであらうか。君もゐないことであるのに。
〔評) 大和は都である。まして皇女にとつては家郷である。それであるのに、「伊勢の國にもあらましを」と歎ぜられた心は、強く我々の胸をうつ。皇女は皇子の薨後歸京せられたのである。「一〇五」「一〇六」に見られる弟思ひの皇女の悲歎は如何ばかりであつたであらう。三句まで一息に述べて「あらましを」と嘆じ、次に「奈何にか來けむ」と反省の氣特を、最後に「君もあらなくに」と理由を説明してをられるが、それも單なる説明でなく、愬へるやうに、字餘りの句によつて結んであるのも、甚だ自然でをる。
〔語〕 ○あらましを もしかうと知つてゐたならば、伊勢の國にゐたであらうに。○奈何にか來けむ 何しに來たのであらうか。
 
164 見まく欲《ほ》り吾がする君もあらなくに奈何《いか》にか來けむ馬疲るるに
 
〔譯〕 私がお目にかかりたいと思ふ君もおいでにならないのに、何しに來たのであらうか。馬が疲れるばかりであるのに。
〔評〕 この歌では、前の歌の驚きと歎きは、やや形をかへて、投げだすやうなひびきを持つてゐる。はじめに、「見(157)まく欲り吾がする君も」と一息にいつてしまひ、終に、馬が疲れるだけであるのにとはき出すやうに附加してをられる。怒りを交へた愚痴といつた感である。「君も在らなくに」の語は前の歌の繰返しであるが、やはり他とかへることのできぬ語である。なほ五句「ツカラシニ」と訓めば、疲れさせる爲であるのにと解されるが、それはあまりに作爲的で、率直な歎きとうけとれぬやうに思ふ。
〔語〕 ○見まく欲り吾がする 自分の見ようと欲する。
 
    大津皇子の屍《みかばね》を葛城《かつらぎ》の二上山に移《うつ》し葬《はふ》りし時、大來皇女哀しみ傷みて御作歌《つくりませるうた》二首
165 うつそみの人なる吾や明日よりは二上山《ふたかみやま》を弟世《いろせ》と吾が見む
 
〔題〕 葛城は、今の葛城山から金剛山、二上山あたりを廣くさしたのである。二上山は今北葛城郡で、河内との境、大和の西に聳えてゐる。皇子の御墓は今この雄岳の頂にある。移し葬るは、殯宮より墓所に屍を移し葬る意。
〔譯〕 この現世の人である私はまあ、明日からは二上山を兄弟と眺めることであらう。
〔評〕 「うつそみの人なる吾や」の嘆き聲は、前の歌に比して深く沈んだ歎きである。「吾や」と、下に「吾が見む」と重ねたのは、考へれば異樣であるが、「吾が見む」と、強くいはねばならぬ氣持なのであらう。二上山は名のごとく、雄岳、雌岳の二つの峯に分れ、大和平野からは、東の三輪山と共に、何處からも望まれる美しい山である。それだけに一層諦めようとしても諦めきれぬ思ひなのであらう。
〔語〕 ○うつそみ うつしをみの略で、現世の義、と大野晋氏の新説である。この世の意。○人なる吾や 「や」は感動の意。○兄弟《いろせ》 同母の兄弟。ここは弟。
〔訓〕 ○弟世 代匠記「オトセ」考「イモセ」等何れもよくない。古事記素盞嗚命の御言葉に、「吾者天照大神之伊呂勢者也」とあり、又「其伊呂勢五瀬命」とあるから、いろせがよい。
 
(158)166 磯の上《うへ》に生《お》ふる馬醉木《あしび》を手折《たを》らめど見すべき君が在りと言はなくに
     右の一首は、今案ふるに、葬を移す歌に似ず。蓋し疑はくは、伊勢の神宮より京に還りし時、路上に花を見て、感傷《かな》しみ哀咽《いた》みて此の歌を作りませるか。
 
〔譯〕 岩の上に生えてゐる馬醉木を折らうと思ふが、お目にかけたいと思ふ君が、この世においでになると誰も言はないことである。
〔評〕 左註に、作歌の動機を疑つてゐるが、二上山に移葬して後、山の馬醉木の花を見て詠まれたものと思はれる。折に觸れ事に接してほとばしる悲しみは、愈々切なるものが感ぜられる。「在りといはなくに」の調べにも、深く長い吐息が思はれる。大伯皇女の作は、技巧といふべきものはないが、すべておのづから流れる眞情が深い。
〔語〕 ○磯の上に 磯は岩の群つてゐるところ、上はほとりの意。○馬醉木《あしび》 あせび、あせみともいひ、常緑の灌木で、春の初、壺?の白或は淡紅色の花が房のやうに列つて咲く。葉に毒があつて、獣が食べない。奈良の春日大社の境内には特に多いが、大津皇子の墓邊にもあつたのである。○在りといはなくに いふは世人がいふの意。この世にいますとは誰もいはぬことよ。
〔左註〕 この歌は移葬の歌らしくないので、或は伊勢より京に還る途上の作かと疑つたのである。
 
   日竝皇子尊《ひなみしのみこのみこと》の殯宮《あらきのみや》の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
 
167 天地《あめつち》の 初《はじめ》の時 久堅の 天《あま》の河原《かはら》に 八百萬《やほよろづ》 千萬神《ちよろづかみ》の 神集《かむつど》ひ 集《つど》ひ坐《いま》して 神分《かむあか》ち 分《あか》ちし時に 天照《あまて》らす 日下駄尊《ひるめのみこと》【一に云ふ、さしのぼる日女の命】 天《あめ》をば 知らしめすと 葦原の 水穗《みづほ》の國を 天地の 依《よ》り相《あ》ひの極《きはみ》 知らしめす 神の命《みこと》と 天雲《あまぐも》の 八重かき別きて【一に云ふ、天雲の八重雲別きて】 神下《かむくだ》し (159)坐《いま》せ奉《まつ》りし 高照らす 日の皇子《みこ》は 飛鳥《あすか》の 淨《きよ》みの宮《みや》に 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》きまして 天皇《すめろき》の 敷きます國と 天《あま》の原 岩戸を開き 神上《かむあが》り 上《あが》り坐《いま》しぬ【一に云ふ、神登りいましにしかば】 わが大王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》の 天《あめ》の下 知らしめしせば 春花《はるはな》の 貴《たふと》からむと 望月《もちづき》の 滿《たた》はしけむと 天《あめ》の下【一に云ふ、食す國】 四方の人の 大船《おほふね》の 思ひ憑《たの》みて 天《あま》つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁《つれ》もなき 眞弓《まゆみ》の岡《をか》に 宮柱 太敷《ふとし》きまし 御殿《みあらか》を 高知りまして 朝ごとに 御言《みこと》問《と》はさず 日月《ひつき》の 數多《まね》くなりぬれ そこ故に 皇子《みこ》の宮人 行方《ゆくへ》知らずも【一に云ふ、さす竹の皇子の宮人ゆくへ知らにす】
 
〔題〕 曰竝皇子尊 草壁皇太子。「四九」參照。持統天皇三年四月御年二十八で薨ぜられた。
〔譯〕 天地の初めの時、天の河原に八百萬千萬の神々がお集りになつて、統治あそばす世界をお分ちになつた時に、天照大神は天をお治めになるとて、葦原の瑞穗の國を、天地の依り合つてゐる限り、永遠に治められる神として、幾重にも重なつてゐる天雲をかき分けて、この國土にお下しあそばされた皇孫の御裔たる日の皇子天武天皇は、飛鳥の淨みの宮にて御統治からせられ、その後、天の原の岩戸を開いてお上り遊ばされた。しかし、わが皇子の尊が天下をお治め遊ばしたならば、春の花のやうに貴くましますであらう、望月のやうに滿ち榮え給ふであらうと、天下四方の人々は頼みに思つて、旱天に雨を仰いで待つやうにお待ち申してをつたのに、どうお考へになつたのか、今まで何の縁故もない眞弓の岡に宮柱をしつかりとお建てになり、御殿を立派にお構へになつて、毎朝おかけ下さつた御言葉もお下しにならず、月日が長く經つた。その爲にお仕へ申してゐた宮人たちは、どうしてよいか、途方にくれてゐることである。
〔評〕 前半の「日の皇子」の解に異説があり、それに從つて多少明かでない點はあるが、もしこれを草壁の皇子のこ(160)ととしては、「飛鳥の淨みの宮に云々」は勿論、後半の殯宮を作るあたりの記述と對して、同じ皇子の薨去を前後二樣に述べてゐることとなり、穩かでないから、前述のやうな解に從つて考へたい。さうして見ると、この歌は前半はここに直接關係のない天地開闢の大昔、八百萬の神々の會議と、天照大神が天上を支配あそばされたこと、次いで天孫降臨より、天武天皇の崩御といふ、悠久の時代から説き起して主題に入るといふ構成と考へられる。しかして、その言辭は莊重雄大である。さて次に、皇子の薨去を述ぶるに對しては、遠く凡慮の及ばぬ事としてゐる。又この段では、數おほい枕詞が悉く生き生きと精彩を放ち、調べのみではなく、内容に豐かさとうるほひとを與へてゐることを注意したい。なほ一首を通して、特に前半に於いては祝詞古事記などに類した言ひ方の多いことが認められる。例へば、大祓詞などの文章と比べ見る時、人麿の思想と手法が、遠く日本民族古來の宗教的口誦的なものにあることを知ることができるであらう。
〔語〕 ○天の河原 古事記に天の安の河原とあるのと同じ。○八百萬千萬神の 多くの神々が。○神|集《つど》ひ 神の動作であるから、上に神を冠したもので、集ひは集りの意。○神分ち分ちし時に 分《あか》つは分け配るの意。統治すべきところを、それぞれ分配せられた時。○ひるめの尊 天照大御神。○天をば知らしめすと 御自ら天をお治めなさるとて。○葦原の水穗の國 葦原の茂り、稻穗のよく熟る豐饒な國の意。○天地の依り相ひの極《きはみ》 天地開闢の時、分離した天地が再びより合ふ末の時、即ち天地の終の時までの意。○天雲の八重掻き別きて 幾重にも重なつた天雲をかきわけて。○神下し 天照大神が皇孫を此の國に下し給うたこと。○日の皇子 上からのつづきでは瓊瓊杵尊をさしまつることとなるが、省略があるのであつて、その御子孫たる日の皇子と解すべく、又ここでは特に天武天皇を申す。なほこれを日竝皇子の事とする説(代匠記)もあるが、次句の解その他から眞淵の説がよいと思はれる。○飛鳥の淨の宮 飛鳥淨御原の宮、天武天皇の皇居。「二二」參照。○すめろきの敷き坐す國と 天の原をも統治したまふ國とお考へになつて天に上りますとの意。天武天皇の崩御をかく申上げたもの。○吾が大王皇子の命 ここは日竝皇子の命。命(161)は尊稱。父の命母の命などに同じ。○知らしめしせば お治めになつたならば。○春花の 春の花の榮え美しいが如く。「の」は、の如くの意。これを意味のない枕詞と解しては、歌の趣が缺けてしまふ。○望月の 滿月のやうに、滿ち足りてゐる譬。「の」は、の如くの意。○滿はしけむと 滿ち足りて缺けるところがないであらうと。○大船の 大船は航海するに心安く頼りとなるの意。○天つ水 仰ぎて待つにかかる枕詞。天つ水は雨。旱天に雨を仰ぎ待つの意。○つれもなき 何の縁故もない。○眞弓の岡 皇子の墓は、高市郡越智岡村大字森にある。○御あらか 「五〇」參照。○朝ごとに 毎日の意。伺候する人は早朝に參つて仰言を承つたので朝毎といふのである。○御言問はさず 何も仰せられず。○まねくなりぬれ 日數を重ねたので。まねくは數おほいの意。「八二」參照。○そこ故に それ故に。○皇子の宮人 皇子の宮に奉仕する人々。○行方知らずも どうしてよいか分らないことよ。
〔訓〕 ○初の時 白文「初時」は金澤本等による。通行本等の仙覺本には下に「之」があり、これにより「ハジメノトキシ」(舊訓、玉の小琴)、「ハジメノトキノ」(考)の二訓がある。○由縁もなき 白文「由縁母無」で、舊訓「ユヱモナキ」はよくない。考「ヨシモナキ」でもよいが、玉の小琴の訓による。
 
    反歌二首
168 ひさかたの天《あめ》見るごとく仰ぎ見し皇子《みこ》の御門《みかど》の荒れまく惜しも
 
〔譯〕 天を仰ぎ見るやうに仰ぎ見てゐたこの皇子の宮の荒れてゆくのは、惜しいことである。
〔評〕 長歌では、次第に流動し發展してゆく手法をとつたに對して、短歌では視點を集中し、具體的な素材を基としてゐることは、既に多くの長歌で認められてゐたところである。又この調べの大らかでたるみのない點も長歌にふさはしい。かやうに宮殿の荒れることを惜しんだ作の多いのは、上代人は死の穢を忌み、死者を出した住居は直ちに住み捨てて荒れるにまかせたからであるといふが、それをこの時代にまで及ぼしてよいかどうかは疑はしい。
(162)〔語〕 ○皇子の御門 皇子の宮居。日竝皇子の宮は、今の高市郡高市村島の庄の地に在り、島宮といふ。なほ眞淵はこの御門を宮の御門と解し、人麿はその門を守る舍人の一人であつたといつてゐる。
 
169 あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜《よ》渡る月の隱《かく》らく惜しも      或本に、件の歌を以ちて、後の皇子の尊の殯宮《あらきのみや》の時の歌の反とせり。
 
〔譯〕 日にも譬へ申すべき天皇は今も輝いていらせられるが、夜空をわたる月とも申すべき皇子のおかくれあそばされたのが、惜しいことである。
〔評〕 これは、沈んだ深い調べで、恰も溜息をきく感があり、また内容も象徴的にいふのみで、あらはには何も述べてゐない。眞淵はこの一二句を持統天皇に譬へ奉つたとするのに反對して、「日はてらせれどてふは、月の隱るるをなげくを強むる言のみなり」といつてゐるのは注意すべきである。
〔語〕 ○あかねさす 日の枕詞。「二〇」參照。○ぬば玉の 夜、黒の枕詞。「八九」參照。○夜渡る月 夜空を渡る月。日を天皇、月を皇太子に譬へた。
〔左註〕 後の皇子の尊は高市皇子(「一九九」參照)。歌の反は、琴歌譜に茲都歌の歌返とあり、反歌、歌返ともに同じ意味で、歌の反は國語風のいひ方と思はれる(講義)。
 
    或本の歌の一首
170 島の宮|勾《まがり》の池の放ち鳥人目に戀ひて池に潜《かづ》かず
 
〔題〕 或本に、この歌も人麿の日竝皇子尊の挽歌とあつたといふ意であらう。考のやうに次の二十三首のうちの異傳とするのは證が乏しい。
(163)〔譯〕 島の宮の勾の池の放し飼の鳥は、人を懐しがつて池に潜らない。
〔評〕 眼前の實景を採つて來て、自分の歎きをよく傳へてゐる。しかも、そこに少しも作爲が感ぜられない。ここには鳥だけを述べてゐるが、池も、宮も、そして宮人も、寂しいのに違ひない。それらをすべて中に藏して、唯鳥だけを寫生してゐるところに、優れた集中化がある。
〔語〕 ○島の宮 前の歌に述べた日竝皇子の宮殿。島は、池の島をいふが、轉じて林泉、山水の意に用ゐる。集中、山齋の字をあててゐるところもある。島の宮は、恐らく、そこの地に飛鳥川の水をひいて林泉を作つてあつた爲、島の宮と云うたのであらう。この名殘が今小學校の邊の地名池田に殘つてゐる(辰巳利文氏)。○勾の池 島の宮の池で、その形などから名づけたものと思はれる。○放ち鳥 薨去の時に放生した鳥とする説(古義)もあるが、一首から見て水鳥らしく、元來放し飼の鳥と思はれる。○人目に戀ひて 人に見られることを懷しがつて、人氣少く物淋しいことをいふ。
 
    皇子の尊の宮の舍人等、慟み傷みて作れる歌二十三首
171 高光る我が日の皇子《みこ》の萬代に國知らさまし島の宮はも
 
〔題〕 皇子の尊 日並皇子尊。東宮の舍人は職員令に大舍人六百人とあるが、それは大よそをいつたのであらうが、とにかく多數の舍人の中の人々の詠んだ歌である。
〔譯〕 我が日竝の皇子がここにましまして、萬代までも天下をお治めなさる筈であつたこの島の宮はまあ。
〔評〕 以下二十三首、あふれる悲哀の情を單純率直に述べて、多くの人々の注意をひいてをり、中には、人麿の作とする説も生れてゐる。この歌、單純にして素朴なよさをよく傳へてゐる、。終の「島の宮はも」といひさした形は、弟橘媛の「さねさしさがむの小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(古事記)を始め、集中にも多いいひ方であ(164)るが、この場合、まことによく餘韻を殘してゐる。
〔語〕 ○高光る 日の枕詞。天高く照らす意で、高照らすと同じ。○國知らさまし 國を治めたまふ筈であつたが、事實はさうでなかつたの意。連體格で下へつづく。○島の宮はも 島の宮はまあ。下に何か續くべきを、感極まつていひさしたままとなつたもの。
 
172 島の宮上の池なる放《はな》ち鳥荒《あら》びな行きそ君|坐《ま》さずとも
 
〔譯〕 島の宮の上の池にゐる放し飼の鳥よ。放れて遠ざかつて行くな、たとへ君はおいでにならなくとも。
〔評〕 前の人麿の作の類想であるが、これは感動をよほど表面に出してをり、それだけに深い沈んだ趣に乏しく、素直な一方、平板に流れ、描寫も劣つてゐる。
〔語〕 ○上の池 池の名か、或は二つ池があつてその上の池といふほどの意であらうか。○荒びな行きそ あらぶはここは疎くなること。「あらぶる妹に戀ひつつぞをる」(二八二二)參照。
 
173 高光る吾が日の皇子《みこ》の坐《いま》しせば島の御門《みかど》は荒れざらましを
 
〔譯〕 わが日竝皇子が御いであそばされたならば、島の御門はかやうに荒れないであらうものを。
〔評〕 荒れてゆく宮殿を見るにつけて、今更のやうに皇子の薨去を嘆くのである。皇子がいましたならば、島の宮は荒れなかつたものをといふのは、技巧も何もない、むしろ幼稚ともいふべきいひ方であるが、それだけに、率直な飾らない心情を感じさせる。
〔語〕 ○坐しせば もしおいでなさつたとしたならば。○島の御門は 御門は、宮の意。
 
(165)174 外《よそ》に見し檀《まゆみ》の岡も君|坐《ま》せば常《とこ》つ御門《みかど》と侍宿《とのゐ》するかも
 
〔譯〕 何のゆかりもない處と眺めてゐた檀の岡も、今では君がおいであそばすので、永久に變らぬ宮居として侍宿することである。
〔評〕 これも自分の境遇をそのまま寫生して深い感慨を述べてゐるのであるが、作爲や誇張した感動がなく、ただ素直に寫生してゐるところに、二十三首に共通したよさがある。
〔語〕 ○よそに見し 皇子の生前には自分に關係ないものと見てゐた。○檀の岡 前の長歌參照。○常つ御門と 永遠の宮居として。御墓所を申上げる。〇侍宿するかも とのゐは殿居。出勤の意であるが、轉じて、主として夜間宿直することをいふ。
 
175 夢《いめ》にだに見ざりしものを鬱悒《おぼほし》く宮|出《で》もするか佐日《さひ》の隈囘《くまみ》を
 
〔譯〕 こんな所を出仕の道にしようとは、今まで夢にさへ見なかつたものを、今では晴れぬ思で出仕をすることである、この檜の隈の道を。
〔評〕 前の歌の御墓を守る舍人の感慨に對して、これは御墓に仕へるために行く道すがら、檜の隈あたりで詠んだもので、調べも、前の歌の一すぢに靜的なのに比して、これは抑揚があり變化がある。二句で切り、四句で「宮出もするか」と調べを張つて、五句には又沈んだ調べで、「佐日の隈囘を」といひさしてゐる。
〔語〕 ○いめにだに ゆめを古くいめといつた。○見ざりしものを 見なかつたのに、意外にも。○おぼほしく 心の晴れぬ樣。○宮出もするか 宮出は宮に出ること。出仕、出勤。〇佐日の隈囘を さは接頭辭、日の隈は地名。今の高市郡坂合村大字檜前を中心とする附近一帶。島の庄の西南、檀の東で、その通路に當る。
 
(166)176 天地と共に終《を》へむと念《おも》ひつつ仕《つか》へまつりし情《こころ》違《たが》ひぬ
 
〔譯〕 天地の終るまで永遠にお仕へ申さうと念ひつつお仕へ申上げてゐた豫想が、すつかり違つてしまつた。
〔評〕 表面には悲嘆の情を述べず、最後の句で「違ひぬ」と落膽の情をあらはしてゐるだけである。しかして、調べも一息にいひ下し、少しのたるみもない。單純の中に強さがあり、まことに大丈夫の歎きといふべきである。「天地と共に久しく住まはむと念ひてありし家の庭はも」(五七八)と似てゐるが、動機も違ひ、あらはれた感動の強さも、全く異なる。
〔語〕 ○天地と共に終へむと 天地と一緒に終る意で、天地のあらん限り奉仕しようとての意。○情違ひぬ 豫期が外れた。
 
177 朝日照る佐太《さだ》の岡邊に群れゐつつ吾が哭《な》く涙|息《や》む時もなし
 
〔譯〕 朝日の明るく照つてゐる佐太の岡邊に群り集まつてゐて、我等の哭く涙は息む時もない。
〔評〕 朝日は明るく照つてゐるもとに、多くの人の歎いてゐる樣は、周圍の朗らかさと對比して、いよいよ空虚な深いさびしさが感ぜられる。また、個人の嘆きではなく、集團のままに歌つてゐるのも珍しい。四五句は、無雜作ないひ方であるが、この場合はよくきいてゐる。
〔語〕 ○朝日照る これを東宮が鎭まり給ふ故に添へたなどと解するのは誤で、日當りのよい岡に、明るく華やかに朝日の照つてゐるといふ美景である。○佐太の岡邊 佐太はいま佐太村があり、佐太の岡は檀の岡につづき、その間はつきりした境界と認められるものはない。また皇子の御墓は、眞弓岡陵といはれるが、寧ろ佐太の岡に近いところに在る。○我が突く涙 わがはここは複數で、白文には「吾等」とある。
 
(167)178 御立《みたち》せし島を見る時|行潦《にはたづみ》流るる涙とめぞかねつる
 
〔譯〕 皇子のお立ち遊ばされた庭園を見る時、流れる涙はとどめることもできない。
〔評〕 折にふれて思ひ出でての歌であるが、これは「涙を表面に出してゐるだけ、一面素朴といつた感がある。なほこの二十三首には、枕詞が比較的少いが、ここはそれを三句に用ゐてゐる。又、五句に「鶴」の字をツルの假名に用ゐてゐるが、鶴を假名に用ゐた例はこの外にも集中に少くない。しかも、歌には、たづとのみいつて、つると詠んでゐる例はない。かくてこの當時、既に歌語と通常語の別があつたといはれてゐる。
〔語〕 ○御立せし お立ちになつた。○島 契沖は勾の池の中島をいふといつてゐるが、それを含めて廣く林泉と解するのがよからう。○にはたづみ 雨の降つた時など、急にたまり流れる水。庭立水(檜嬬手)俄立水(考)などの轉といはれる。ここは流るるの枕詞。
〔訓〕 ○御立せし 白文「御立爲之」で、考のミタタシシは、みは動詞にはつかぬから從へない。講義ミタタシノの訓もよいが、今舊訓に從ふ。
 
179 橘の島の宮には飽かねかも佐田の岡邊に侍宿《とのゐ》しに行く
 
〔譯〕 橘の島の宮には飽き足らないからか、佐太の岡邊にとのゐしに行くことである。
〔評〕 三句「あかねかも」は、やや傍觀的ないひ方であるが、稚いいひ方といふべく、また五句は率直に事實を述べてゐるのみで、悲しさを表面に述べず、傍觀的にいつてゐるのが却つてあはれである。
〔語〕 ○橘 今、高市村大字橘の名があるが、當時は島の庄の西、橘寺附近を廣くいつたものと思はれる。○飽かねかも 飽かないからであらうかの意。なほこれを、飽かないのにと解する説もあるが、證に乏しいやうである。
 
(168)180 御立《みたち》せし島をも家と住む鳥も荒《あら》びな行きそ年替るまで
 
〔譯〕 皇子のお立ちあそばされた庭園を棲處として住む鳥も、疎くなつて行つてはいけない、年の替るまでも。
〔評〕 前の「一七二」の類想であるが、やはり人麿に比してみると、これは三句までにたるみがあつて、力量の差が見られる。ただ、五句を、「我等も翌年まで一年間奉仕するが、鳥よ、そなたも」と解すれば多少別の感があり、舍人らしさも感ぜられるが、それにしては表現が不十分と思ふ。なほ二十三首中、この他、類想が多く素材も限られてゐることは見逃されないところである。
〔訓〕 ○島をも家と 林泉を棲處として。○荒びな行きそ 「一七二」參照。○年替るまで 翌年になるまでも。皇太子の薨去は四月であつた。
 
181 御立《みたち》せし島の荒磯《ありそ》を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
 
〔譯〕 皇子のお立ち遊ばされたお庭の池の岸の岩の多いあたりを今見ると、御生前中には生えてゐなかつた草が生えてをることであるよ。
〔評〕 草を中心に荒廢の悲しみを歌ったのは「三七八」「一〇四八」にも見えるが、舍人の職を思へば、それらと又違つた感がある。生ひを繰返して「生ひにけるかも」と止めたのは古風の觀があり、浮薄な氣分のない、手堅いいひ方である。取りまぎれて日を過しつつ、ふと見る草に發した深い詠歎がよく出てをり、この中のすぐれた作である。
〔語〕 ○島の荒磯 荒磯は「一三一」參照。今は海のみに用ゐてゐるが、古くは池、川などにも、岩の多い、けはしい氣分のところを稱したらしい。○生ひにけるかも 「ける」はここでは詠歎の意。
 
(169)182 鳥塒《とぐら》立て飼ひし鴈《かり》の兒巣立ちなば檀《まゆみ》の岡に飛び歸り來《こ》ね
 
〔譯〕 鳥小屋を立てて飼つた雁の子よ、巣立つたならば、檀の岡に飛び歸つて來てくれよ。
〔評〕 作者の意を迎へて解すれば、皇子にお目にかけようと飼つた鳥がまだ巣立たぬうちに皇子のなくなり給うたといふのであらうか。特に目立つところはないが、飼育にあたつてゐた舍人の作として味はへば感が深い。
〔語〕 ○鳥塒立て とぐらは鳥座、鳥の居場所の義。○巣立ちなば 十分育つて獨で飛ぶやうになつたならば。○飛び歸りこね 歸りは本來あるべき所に來る意で、ここは皇子の檀が岡の墓所を中心として、ここに飛び來るをいふ。
〔訓〕 ○雁の兒 白文「鴈乃兒」の「鴈」は歌意にふさはしくないので「鷹」の誤かといふ説(代匠記一説)があり、又「〓」の誤として同じくタカと訓む註(攷證)もあるが、暫く原字面のままにしておく。
 
183 吾が御門《みかど》千代|常《とこ》とはに榮えむと念《おも》ひてありし吾し悲しも
 
〔譯〕 我が皇子の宮は、永久に變らず榮えようと念つてゐた自分は、悲しいことであるよ。
〔評〕 「一七六」と似てゐるが、この方は「吾し悲しも」といつてゐるだけに、餘韻に乏しく平板である。しかも一方飾りのない率直な點はよく認められる。
〔語〕 ○千代常磐に 千代は長い年月。「とこ」も「とは」も共に常に變らず永遠にの意。いつまでも變らずに。○吾し悲しも 自分は悲しむべき身であつたことであるよ。
 
184 東《ひむかし》のたぎの御門《みかど》に伺候《さもら》へど昨日も今日も召すこともなし
 
〔譯〕 東の瀧の流のある方の御門に奉仕してゐるが、以前は皇子さまがよくを召になつたが、今は、昨日もまた今日(170)もお召がない。
〔評〕 お庭を流れる瀧つせの音は、平素と變らない。御在世中は、お庭におりたたせ給ふとて、毎日お召があつたので、今にもを召がありさうな氣がする。さういふ時のしみじみとした悲しみである。簡潔ないひ方と、一息に述べたしらべとは、よく哀切の情を傳へてゐる。四句「昨日も今日も」はよい。すぐれた作である。
〔語〕 ○瀧の御門 たぎは奔湍の意で今の瀧とは少し違ふ。瀧の御門は飛鳥川或は細川からひいた水が島の宮の勾の池に至る途中、奔流をなしてゐるところに近い御門と思はれる。これを平安時代の泉殿のやうな御殿といふのは如何であらうか。○伺候へど 伺候してゐるが。○召すこともなし.「こと」は言(代匠記)、事(古義)二様に解されるが、後説がよい。「はしきやし榮えし君の坐しせば昨日も今日も吾を召さましを」(四五四)參照。
 
185 水傳ふ磯の浦囘《うらみ》の石躑躅《いはつつじ》もく開《さ》く道を又見なむかも
 
〔譯〕 池水が岸の岩間を傳ひ流れてゆくほとりの、石躑躅の茂く咲いてゐる道を、再び見ることであらうか。再び見ることが出來ぬとおもふと歎かれる。
〔評〕 皇子の薨去は夏四月十三日とあるから、つつじの盛の時である。これはこの一群の中で珍しく精彩のある自然の描寫である。流れる水、磯、さかりのつつじ、すべて美しいが、それにつけても、やがてこの宮を退出する身の名殘惜しさを、しみじみとした調べをもつて歌つてゐる。
〔語〕 ○水傳ふ 水が岩間を傳ひ流れる意(古義)。磯が水に沿うてゐるから(代匠記)と解しては傳ふの語にふさはしくない。又枕詞とする説(考)は一首の趣から見て従へない。○磯の浦囘 磯は上の荒磯と同じ。浦囘はここでは池の入りこんだあたり。○石躑躅 和名抄に「羊躑躅、和名以波都々之、又之呂都々之」と見えてゐる。○もく咲く道 茂く盛んに咲いてゐる道。もくは茂くの意。
 
(171)186 一日《ひとひ》には千遍《ちたび》參入《まゐ》りし東の大き御門《みかど》を入りかてぬかも
 
〔譯〕 一日の中に千度も出入した東の大きな御門を、今は入るに堪へないことである。
〔評〕 一日には千たびと誇張したいひ方も、すなほに聞きなされる。しかして、常に見なれてゐた御門を改めて仰ぐ氣特が、大き御門の語によく出てゐる。四句まで門を述べてきて、第五句一句で自分の動作感情を述べた止め方も、よくきいてゐる。
〔語〕 ○入りかてぬかも 入るに堪へないことである。とても入つては行けぬ氣がする。
〔訓〕 ○大き御門 白文「大寸御門」で、舊訓「タギノミカド」とあり、これに從ふ説も多い。(美夫君志、新考等。但、古義は「大」を「太」に、攷證は「寸」の下に「乃、之」等を補つてゐる)。しかし大をタとよむ例は少いし、また「の」の文字もない。歌意より見るも、考の「オホキミカド」の訓に從ふべきである。
 
187 所由《つれ》もなき佐太《さだ》の岡邊に反《かへ》り居ば島の御階《みはし》に誰《たれ》か住まはむ
 
〔譯〕 今まで何の縁故もなかつた佐太の岡のほとりに移つてゐたならば、島の宮の御階には誰がとどまつてゐることであらう。
〔評〕 島の宮から佐太の岡の御墓に交代して行く舍人の、御墓のほとりの幕舍に移る時の感慨である。初句の如きは人麿の長歌に學んだものであらうか、ここでは不十分ないひ方ともいへるが、御階と焦點を定めて述べた愛著は、よく表はれてゐる。
〔語〕 ○つれもなき 今まで何の縁故もなかつた。つれは「一六七」參照。○反り居ば 交代分番して宿直する舍人が、本居たる御墓邊の宿所に移りかへつてゐたならばの意。○島の御階 島はここは庭園で、庭園に下りる階段を島(172)の御はしといひ、舍人はそこに奉仕してゐたものと思はれる。御はしを御橋とし、勾の池の中島に渡る橋と解する説(新考)もあるが、次句とあはせ考へて、契沖の説に從ふ。○住まはむ 住まふは、住むに繼續の意のふの添うたもの。
 
188 旦覆《あさぐもり》日の入りぬれば御立《みたち》せし島に下《お》りゐて嘆きつるかも
 
〔譯〕 朝から空が曇つて、日の光も隱れてしまつたので、皇子の嘗てお立ちあそばされた庭園に下りて、嘆いたことであるよ。
〔評〕 空は曇つて心も晴れず、物淋しいままに庭におりゐて、皇子の御生前を偲び嘆く意と解されるが、語釋に述べるやうに、日の入るを日暮と見れば、一句との間に少し時間が長すぎるやうである。しかし晝の間は物に紛れることもあるが、夕べとなつてはと解されもする。また日の入るに、皇子の薨去を譬へてゐるといふ考の説も、表面には見えないが、その趣もあると思はれる。
〔語〕 ○旦曇り日の入りぬれば 朝のうちから曇つて、日が雲に入ると解する説(攷證)によつた。評にのべたやうに、日のくれと解する説もある。
〔訓〕 ○旦覆 通行本「且」は誤。金澤本等により改む。訓はアサグモリ(舊訓)とタナグモリ(美夫君志)の二説がある。後説は閑をカナと訓むと同じく、撥音で終る場合に母音を添へたのである。たなぐもりは一面に曇る意で、これも棄て難い説である。
 
189 あさ日照る島の御門《みかど》におぼほしく人音《ひとおと》もせねばまうらがなしも
 
〔譯〕 朝日の明るく照る島の宮に、鬱陶しく、人のゐるけはひもしないので、心悲しいことであるよ。
〔評〕 一句は「一七七」よりも一層よくきいてゐる。明るい大きな宮は、明るいだけに、大きいだけに一屋森閑とし(173)て、空虚なさびしさがしみじみと感ぜられるのである。暗く寂しい夜が明けてなほ痛ましいさびしさがみなぎつてゐる趣である。四五句重々しく、この場合にふさはしい。
〔語〕 ○島の御門 ここのみかどは宮殿の意。○おぼほしく 心の鬱々として晴々せぬ貌。○人音もせねば 人の物音もしないので、但、強い理由とせず輕く解する方が良い。○まうら悲しも 心がなしいことであるよ。うらは心の意。
 
190 眞木柱《まきばしら》太《ふと》き心は有りしかどこの吾が心しづめかねつも
 
〔譯〕 自分は、眞木柱のやうに太くしつかりした心があつたのであるが、今はこの自分の心を鎭めかねてゐることである。
〔評〕 自らの心を眞木柱太きと譬へて誇る趣も見えてゐるのであるが、その大丈夫と自任してゐる自分も、悲しみに亂れるといふところに、この感動がある、四句「このわが心」と強調し、調べもここで高く昂つてゐるあたり、内容にふさはしいますらをぶりといふことができる。眞木柱も、宮の柱をそのまま序としたものであらう。
〔語〕 ○眞木柱 太きの枕詞。まきは立派な木。「五〇」參照。○太き心 雄々しくしつかりした心。○有りしかど 前には持つてゐたが。○鎭めかねつも しづむは鎭靜する、平靜にするの意。哀しみにくれて激動する心をおさへかねてゐることの意。
 
191 毛衣《けころも》を春冬|片設《かたま》けて幸《いでま》しし宇陀《うだ》の大野は思ほえむかも
 
〔譯〕 春が近づき冬が近づくと、皇子が猟にお出ましになつた宇陀の大野の事が思ひ出されるであらう。
〔評〕 今後は狩獵の季節が來る度に、皇子に從つて度々いつた宇陀の大野を思ひ出すことであらうと、將來に於ける(174)追想を現在にあつて豫想する歌で、やや複雜な心理を「思ほえむかも」の句で簡潔に表はしてゐる。集中?々見える「後戀ひむかも」と同樣の表現である。「四五」以下の人麿の歌に、輕皇子が御父君草壁皇子を偲んで宇陀の大野の一部たる安騎野に宿り給うた趣が見えるのを思ひあはせて一層感が深い。
〔語〕 ○毛衣を 春の枕詞。毛衣は毛皮の衣の義で、衣類を張る意から春にかけたのであるが、御獵の縁によつて特にこの枕詞を用ゐたもの。なほ「け」は平常の義で、平常著なれた汚れた着物を解く意でトキにかけるといふ説(新解)もある。○春冬片設けて 春冬は狩獵の季節。かたまけては集中「春かたまけて」「夕かたまけて」等用例は多いが、待ち設ける意(攷證)と近づく意(新考)との二説が過る。後説に從ふ。○宇陀の大野 大和國宇陀郡の大野。安騎野(「四五」參照)と同處と思はれる。○思ほえむかも 自然に思ひ出されるであらうか。
〔訓〕 ○春冬片設けて 白文「春冬片設而」で、このまま訓めば代匠記の如く「ハルフユカタマケテ」と九音となり、珍しい例でもあり、また意義の點でも何か落着かぬ感があるので、新考は「冬」を衍とし、考は「片」を「取」に改め「ハルフユトリマケテ」とし、新解は春冬は狩獵に適した時であるからとてトキと訓んでゐる。誤字衍字説は諸本異同もなく從ひ得ない。又トキと訓む説も多少無理がある。暫く代匠記に從ひ、意味の上では、冬を主とし、春は添へていつたものと解しておく。
 
192 朝日照る佐太の岡べに鳴く鳥の夜鳴《よなき》かはらふこの年ころを
 
〔譯〕 朝日の照る佐太の岡のほとりにゐる鳥の、夜の鳴聲が變つて聞える、この年ごろは。
〔評〕 墓所に侍宿してゐて聞く鳥の鳴き聲まで、以前と變つて聞えるといふのである。一句の朝日照ると夜鳴きとの關係を、常には朝日のもとに鳴く鳥は夜は聲を變へて鳴くのであるといふ説もあるが、それでは夜鳴かはらふの解がおちつかず、かはるを以前と變る義と解しては朝日照るは前の「一八九」などと違つて全くきいてこない。素材はよ(175)いが、表現におちつかぬ點があるやうである。
〔語〕 ○夜鳴かはらふ これを舍人の泣く聲に譬へたものと解する説と、實際鳥の鳴くものと解する兩説があり、考などは舍人が泣きながら侍宿を交代する者とし、後説では、鳥の鳴き聲が惡かつたのは凶事のある前兆であつたのかと思ひ嘆く意とする説(代匠記、美夫君志)、評の項に述べたやうに朝と夜と鳥が聲を變へて鳴くと解する説(新解)、文字通りただ以前と違つて悲しく聞えると解する祝(新講)の三説あるが、最後の説が五句とあはせ考へて最も自然である。考の解はあまりに誇張してゐると思はれる。○この年ころを 年頃といふのは、年の易るまで御墓に仕へてゐたからではあらうが、この頃ぐらゐに輕く解してよい。
 
193 奴《やたこ》らが夜《よる》晝《ひる》といはず行く路《みち》を吾はことごと宮道《みやぢ》にぞする
     右は日本紀に曰く、三年已丑夏四月癸未の朔にして乙未の日、薨りましきといへり。
 
〔譯〕 奴等が、夜といはず晝といはず通ふ道を、我々すべての者が宮仕へに行く道としてゐる。
〔評〕 美しい島の宮に出仕したものを、今は御墓造營の爲に奴婢の往來する道を御墓邊に赴くといふ意であらうか。變つた素材である。たどたどしいいひ方ではあるが、その感慨はよく味はふことができる。
〔語〕 ○奴ら 奴等の意であらう。奴は當時最下級の民で、國家や寺院又は個人に屬し、賣買讓與されてもゐた。○ことごと 全く、さながらの意。これを道にかける説と、我にかける説とあるが、我を複數に使つた例は多いので、後説がよい。○宮道にぞする 宮仕に行く道とするの意。ここは御墓に參ることをいふ。
〔訓〕 ○奴ら 白文「八多籠良」で、代匠記はヤタコラ(舊訓)で「た」と「つ」と通ずるから、奴等か、或はハタゴラと訓み、はたごは馬を飼ふ籠の意であるのが轉じて馬を追ふ男をもさすのであらうかといふ。また私考は同じくハタコラで畠子等と解してをり、誤字説も二三出てゐるが、代匠記の奴等の説が最も自然と思はれる。○ことごと (176)白文「皆悉」で舊訓「サナガラ」評釋「ミナガラ」考の訓による。
 
    柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女忍坂部皇子《はつせべのひめみこおさかべのみこ》に獻れる歌一首并に短歌
194 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の河の 上《かみ》つ瀬に 生《お》ふる玉藻は 下《しも》つ瀬に 流れ觸《ふ》らふ 玉藻なす か依《よ》りかく依り 靡かひし 嬬《つま》の命《みこと》の たたなづく 柔膚《やははだ》すらを 劔刀《つるぎたち》 身に副へ寐《ね》ねば ぬばたまの 夜床《よどこ》も荒《あ》るらむ【一に云ふ、かれなむ】 そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと念《も》ひて【一に云ふ、君もあふやと】 玉垂《たまだれ》の をちの大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣《ころも》は沾《ぬ》れて 草枕 旅宿《たびね》かもする 逢はぬ君ゆゑ
 
〔題〕 泊瀬部 長谷部ともかく。天武天皇の皇女、天平十三年三月薨ぜられた。忍坂部皇子は忍壁とも刑部ともかき、天武天皇第九皇子で、泊瀬部皇女の同母の兄にまします。文武天皇四年六月には、この皇子を長として藤原不比等以下十七名に勅して律令を撰定せしめられる趣が見え、大寶二年五月薨ぜられた。なほこの題詞のままでは泊瀬部皇女と忍坂部皇子とはらちからの皇子皇女に獻じた趣となり、この御二方とどういふ關係の方の挽歌か不明なので、左註を正しいとして、その意味に題詞を改める説が多いが、編纂當初からかくあつたことは左註の存してゐることによつて明かでもあり、妄りに改めることはできない。しかし、内容によれば、夫をなくし給うた方をおいたみしたものと思はれるから、左註のやうに、夫君河島皇子に死別せられた泊瀬部皇女をおいとしく思つて詠んだのであるが、人麿は、御はらからの忍坂部皇子の方に知遇を蒙つてゐたので、皇子に獻げたものと解したい。
〔譯〕 明日香河の上流に生えてゐる玉藻は、下流に流れて靡いてゐる。その玉藻のやうに、あちらへよりこちらへ寄りして靡きより添つてをられた夫君の柔かな膚さへ、今は身に添へておやすみになることがないので、夜のお床は、(177)さぞひどくおなりになつたことでありませう。それゆゑに、お心をお慰めかねになつて、もしも亡き夫君にお逢ひになることもあらうかと、越智の大野の朝露に美しい裳を濡らし、夕霧に衣を濡らして、旅寢をなさいますことかまあ、お逢ひになることのできない夫君であるのに。さてもおいとしいことである。
〔評〕 前段まづ人麿の得意といふべき玉藻を以ていひ起し、後段具體的な美しい描寫でしづかに結んである。しかして通説では二段落であつて、前半は夫君を失ひ給うた皇女の境遇を想像して述べたもので、後半は皇女が、もしや亡き夫君に逢ひ給ふこともあるかと越智野にいでます趣を述べたものとしてゐる。前の解はそれによつたのであるが、さう解すると、「靡かひしつまの命」云々の表現や、柔膚の語を男の方と解しなければならぬ無理がある。全譯に、「夜床も荒るらむ」までを、なくなられた夫君の有樣を想像したと解してある。それも一の考であるが、それでは「そこ故に」とうけた句に無理があるかとも思はれる。
〔語〕 ○飛ぶ鳥の 明日香の枕詞。「七八」參照。○明日香の川 南淵山に發する稻淵川が多武峯から流れ出る細川を合せ、島、橘、飛鳥を經て廣瀬郡川合村で大和川に合するまでをいふ。今は大河とはいへぬが古へは今より水量も多かつたと思はれる。○上つ瀬 上流の瀬。「三八」參照。○流れ觸らふ 觸らふは觸るに繼續の意の「ふ」のついたもの、上流の玉藻が流のままに靡いて下流の瀬に觸れてゐる意。○かよりかくより あちらに寄り、こちらに寄り。「一三一」參照。○靡かひし なびかふのふは觸らふの「ふ」に同じ。柔かに寄り添うて寢た。○嬬の命 つまは男女ともにいふが、通説では夫の意。全譯では妻と解く。○たたなづく 青垣山の枕詞として用ゐた例が二三あるので、柔膚の枕詞といふ説もあるが、ここでは疊りつくの意で、身を折り屈めてゐる姿をあらはすもの(新解)。○柔膚すらを やはらかい肌すらもの意。○劔刀 刀劔は身から離さぬ意で身に添ふの枕詞。○ぬばたまの 夜の枕詞。○夜床も荒るらむ 夜床は夜寢る床。夫君の亡くなられた妻君の夜床は荒涼としてゐるのであらうと想像する意。○げだしくも もしや。○逢ふやと思ひて なき夫君に逢はれるかと思つて。○玉垂の 玉垂の緒の意でをちにかかる枕詞。(178)玉垂は玉を飾とした簾であらう。○をちの大野 大和國高市郡越智岡村に越智、北越智の名がある。ここに夫君の墓所があつたものと思はれる。○ひづち 濡れて。ぬかるみを行き、泥に汚れることをいふとの説(講義)もあるが、語法上穩かでない。○旅宿かもする 考は舒明紀の卷を引いて新喪に墓屋を作り、人に守らせ、主人も折々行つて或はそこに住みもしたのであるといつてゐる。ここはそれを夫君を求めての旅寢といつたのである。
〔訓〕 ○流れ觸らふ 白文「流觸經」で、舊訓ナガレフレフル(講義同説)、考ナガレフラヘリ、玉の小琴ナガレフラバヘ等の訓があるが、經は集中殆どフの假字として用ゐてをり、フラフと訓む古義の一説が最も穩かである。○柔膚 舊訓による。古義ニギハダ、攷證ニコハダとある。
 
    反歌一首
195 敷妙《しきたへ》の袖|交《か》へし君|玉垂《たまだれ》のをち野過ぎ去《ゆ》く亦も逢はあやも 【一に云ふ、をち野に過ぎぬ】
     右は或本に曰く、河島皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部皇女に獻れる歌なりと。日本紀に曰く、朱鳥五年辛卯秋九月己巳の朔にして丁丑の日、淨大參皇子川島薨りましきといへり。
 
〔譯〕 袖を交して親しんだ君は、あの越智野を御通過なさる。また再びお逢ひできようか。
〔評〕 二句で輕く切れ、四句で切れ、五句も又獨立してゐる句であるが、しかも離れ離れにならず、一息に歌ひ切つたといふ感がある。過ぐといふ語は單に葬列が行くといふのではなく、皇子の魂が過ぎゆくと考へられたのである。その點は長歌で、「けだしくも君も逢ふや」と歌つてゐるところにもよく現はれてゐるのである。又、過ぎ去く、といふ感動の語を交へない簡潔な止め方も、この場合吐息をつくごとき思がしてよい。
〔語〕 ○敷妙の 枕詞。「七二」參照。○袖交へし君 袖を交し臥した君。○をち野過ぎ去く 越智野を通つて岡のほとりに葬られ給ふの意。○亦も逢はめやも 再び逢はうか、逢ふことはない。
〔左註〕 河島皇子は天智天皇の御子。持統天皇五年九月薨ぜられた。この左註によれば、泊瀬部皇女は河島皇子の妃(179)にましますものと思はれ、長歌の内容ともよく合ふが、題詞との關係については既に述べたごとくである。
〔訓〕 ○をち野過ぎ去く 白文「越野過去」で、考はこれを「ヲチノニスギヌ」と訓んでゐるが、これでは「一云」は字面の相異を註しただけとなり、異例といはねばならぬ。スギユクと代匠記一訓によれば、そこを過ぎ何處かに行くことになるから惡いといはれるが、越智野といふのも相當の廣さが考へられ、また墓所は野の果の丘陵となつたところにあるのが常であるから、越智野を通り過ぎて行くといふ表現も惡くないばかりでなく、スギヌと訓んで死去の事と解するよりも、現實の描寫となつて却つてすぐれて感ぜられる。
 
    明日香皇女の木〓《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
196 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の 上《かみ》つ瀬に 石橋《いはばし》渡し 【一に云ふ、石浪】下《しも》つ瀬に 打橋《うちはし》渡す 石橋に 【一に云ふ、石浪に】 生《お》ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生《お》ふる 打橋に 生《お》ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生《は》ゆる 何しかも 吾が王《おほきみ》の 立たせば 玉藻のもころ 臥《こや》せば 川藻の如く 靡かひし 宜《よろ》しき君が 朝宮を 忘れ賜ふや 夕宮を 背《そむ》きたまふや うつそみと 念ひし時に 春べは 花折り挿頭《かざ》し 秋立てば 黄葉《もみぢば》挿頭《かざ》し 敷妙《しきたへ》の 袖|携《たづさ》はり 鏡なす 見れども飽かに 三五月《もちづき》の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 幸《いでま》して 遊び賜ひし 御食向《みけむか》ふ 木〓《きのへ》の宮を 常宮《とこみや》と 定め賜ひて あぢさはふ 目辭《めごと》も絶えぬ 然れかも 【一に云ふ、そこをしも、】あやに悲しみ ぬえ鳥《どり》の 片戀|嬬《づま》 【一に云ふ、しつつ、】朝鳥の 【一に云ふ、朝霧の、】往來《かよ》はす君が 夏草の 念ひ萎《しな》えて 夕星《ゆふづつ》の 彼往《かゆ》き此去《かくゆ》き 大船の たゆたふ見れば 慰むる 情《こころ》もあらず 其《そこ》故に 方便《すべ》知らましや 音《おと》のみも 名のみも絶えず(180) 天地の いや遠長く しのひ往かむ 御《み》名に懸《か》かせる 明日香河《あすかがは》 萬代までに 愛《は》しきやし 吾が王《おほきみ》の 形見か此《ここ》を
 
〔題〕 明日香皇女 天智天皇のの皇女で、文武天皇四年四月薨ぜられた。木〓《きのへ》はまた城上とも書き、和名抄の城戸郷で、今北葛城郡馬見村をいひ、そこの六道山附近を城上岡にあてるのが通説である。
〔譯〕 飛鳥川の上の瀬には石橋を渡し、下の瀬には打橋を渡してゐる。石橋に生えて靡いてゐる美しい藻も、絶えると又新しいのが生える。打橋に生え撓んでゐる美しい藻も、枯れると又生える。それであるのに、どうしてわが皇女は、お立ちになれば玉藻のやうに、おやすみになれば川藻のやうに、靡き添はれた夫の君の朝宮をお忘れなさつたのであらうか。夕宮をお背きなさつたのであらうか。まだこの世にいらせられた時、春の時分には花を折つておかざしになり、秋になれば黄葉をおかざしになり、袖を連ねて、鏡のやうにいつまでも見飽かないで、滿月のやうにいよいよめでいつくしみお思ひになった夫の君と、時々おでましになつて遊び給うた城上の宮を、永遠の宮殿とお定めになつて、皇女を見まつることも絶え、物を申上げることも絶えてしまつた。それであるので、甚しくお悲しみになつて片戀をしてをられる夫の君、さうして皇女の御墓にを通ひになる君は、夏の日に照らされた草のやうに思ひ萎れて、あちらこちらへさまよつてをられるのを見ると、お慰め申上げようもない。それであるから、どうしたらばよいか、方法もわからない。せめて皇女のお噂だけでも、御名前だけでも絶えず天地と共にいよいよ長くお偲び申上げて行かう。皇女の御名前につけていらせられる此の明日香川は、萬代までもわが愛すべき皇女の御形見となるであらう。この飛鳥川は。
〔評〕 初めに飛鳥川の玉藻を敍して、玉藻の生ひかはるのに比べて人の命のはかなさを暗示しつつ、その玉藻に譬へて皇女の風姿を述べて主題に入り、末尾は夫の君を慰める術のないことから、せめて皇女の御名に縁ある明日香川を(181)形見としようと、首尾相應した形をなしてゐる。また對句のみ見ても、「上つ瀬に石橋渡し、下つ瀬に打橋渡す」の二句の對句が、「石橋に生ひ靡ける」「打橋に生ひををれる」と、各四句の對句となつて展開し、更に間をおいて、「玉藻のもころ」「川藻のごとく」の對句となつて展開してゆく。又その間にはさまれた「何しかも」の語が、七句をへだててゐながら、「朝宮を忘れ給ふや」「夕宮を背き給ふや」と對句をなしてゐる。歌調は屈曲し、語句は錯綜してゐるやうに見えて、よく味はふと美しい建築を見るやうな整然たる構成を持つてゐるのである。
〔語〕 ○石橋 川の中に石を竝べて、それを踏んで渡るやうにしたもの。○石浪 石竝の義で、石橋に同じ。○打橋 とりはづしの出來るやうにした板の橋。打かけた橋の義であらう。玉の小琴の、遷し橋の説はいかがとおもふ。○生ひををれる ををるは撓む意。「春べには花咲きををり」(九二三)參照。ここは、藻が波にゆれて撓むやうになるのをいふ。○何しかも どうして。なぜにまあ。下の「忘れ給ふや」「背き給ふや」につづく。○吾が王の 皇女をさす。○立たせば お立ちになると。○玉藻のもころ もころは如くの意。○臥《こや》せば 横におなりになると。○靡かひし 靡くやうに寄り添はれた。○宜しき君 足り備つてゐる夫の君。○朝宮を忘れ給ふや 朝宮は次の夕宮と對して、朝夕お仕へし給ふことをいふ。○うつそみと思ひし時 現世の人と思つた時の意で、皇女の御在世中。思ひしは輕く解するがよい。○春べは 春の頃は。○敷妙の 枕詞。「七二」參照。○袖携はり 袖を連ね、連れ立つて。○鏡なす 鏡のやうに。「見れども飽かに」につづく。○飽かに 飽きないで。○望月の 「の」は、の如くの意。○いやめづらしみ念ほしし いよいよ愛すべく思はれた。○君と時々 君は御夫君。○御食向ふ 御食物として供へる酒《き》の意で城上《きのへ》の枕詞。○城上の宮を常宮と定め賜ひて 常宮は永遠の御殿、城上の岡の上に御墓所をお定めなさつて。薨去になつた皇女御自身御墓所をお定めになつたやうにいふのである。○あぢさはふ 枕詞。あぢは味鴨、さはは多くの意で、味鴨が多く群つて經行く意で、むれの約「め」にかかる(冠辭考)。○目辭も絶えぬ 目に見ることも、言葉を交すことも絶えた。○然れかも それだからであらうか。○あやにかなしみ あやにはまことに、本當に。○ぬえ鳥の 枕(182)詞。ぬえ鳥は虎つぐみ。集中、うらなく、のどよふの枕詞に用ゐてゐるが、ぬえ鳥は片戀しつつなくものと考へ、ここは片戀の枕詞とした。○片戀嬬 夫の君が獨り戀しく思召されるのをさす。○朝鳥の 通はすの枕詞。朝、鳥が塒を立つて往き來する意でつづく。○通はす君 御墓所に通ひ給ふ夫の君。○夏草の 草が夏の強い日光に萎れるやうにの意。「夏草の思ひ萎えて偲ふらむ妹が門見む」(一三一)參照。○夕づつ 金星。宵の明星として暮の西天に出たり、あけの明星として朝の東天に出たりするので「かゆきかくゆき」の枕詞となつた。○彼往き此去き あちらに行き、こちらに行き。○大船の ゆらゆら搖れ動く意で、たゆたふの枕詞。○たゆたふ見れば たゆたふはためらふ、心の動いて定まらぬ樣。上の「然れかも」はここまでかかる。ためらつてをられる夫の君の御樣子を見ると。○慰むる心もあらず 心をお慰め申上げるすべもない。○術知らましや どうしてよいか方法も知られない。○音のみも せめて皇女の御噂なりとも。音は噂の意。○天地のいや遠長く 天地と同じくいよいよ永遠に。○御名に懸かせる 御名にお懸けになつてをられる。○はしきやし はしきは愛しき、やしは感動の助詞。○吾が王 皇女をさす。○形見か此を 「か」「を」共に感動の意。ここは飛鳥川をさす。形見であることよ、この飛鳥川はの意。
〔訓〕 ○玉藻のもころ 白文「玉藻之母許呂」で、通行本等は「母」を「如」に作るので、舊訓は「タマモノゴトク」で一句とし、次句を「コロブセバ」と訓んでゐるが、金澤本「母」によりモコロまで一句とするのがよい。通行本のままで「モコロ」と訓む註(新考、講義)もある。○あぢさはふ 白文「味澤相」で舊訓による。古義はウマサハフで、味のよい粟生の義といつてゐる。集中五例すべて味澤相とあつて決し難いが、舊訓のままとし眞淵の解に從ふ。○慰むる 白文「遣悶流」で、舊訓「オモヒヤル」に從ふ説も多く、これも心を晴らす意であるが、傍の人が夫の君を慰め申上げる意として「ナグサムル」(略解所引宣長説)と訓むのがよい。○爲便知れや 白文「爲便知之也」で、玉の小琴、檜嬬手は、誤字ありとして「セムスベシラニ」又は「セムスベヲナミ」と訓むが、諸本異同はない。このままで訓むべきであるが、「スベモシラジヤ」(代匠記)はよくない。考の「スベシラマシヤ」による。
 
(183)    短歌二首
197 明日香川しがらみ渡し塞《せ》かませば流るる水も長閑《のど》にかあらまし【一に云ふ、水のよどにかあらまし】
 
〔譯〕 飛鳥川に柵をかけ渡して水を堰きとめたならば、流れる水ものどかに流れることであらうか。
〔評〕 長歌で飛鳥川を述べたのをうけて、反歌では此の川のみを表面に述べ、皇女の御命をなほおとどめ申すべき方法があつたならばと、詮ないうらみを裏にこめたのである。一句に「明日香川」と提示し、以下一すぢに調べをつづけてゐる。なほ攷證には古今集(哀傷)の壬生忠岑「瀬をせけば淵となりてもよどみけりわかれをとむるしがらみぞなき」をこの歌に比して、それを「よわくちひさきわざにこそ」と評してゐるが、理智を主とする古今集の歌風と、これとの對比はまことに興深い。
〔語〕 ○しがらみ 水中の杭に竹や木の枝をかけて水をせきとめるもの。○塞かませば 若し塞きとめたならば。假設。○のどにかあらまし のどはのどか、靜かにゆつたりとの意。
 
198 明日香川|明日《あす》だに【一に云ふ、さへ】見むと念《おも》へやも【一に云ふ、念かも】吾が王《おほきみ》の御名忘れせぬ【一に云ふ、御名忘らえぬ】
 
〔譯〕 せめで明日だけでも見ようと思ふからであらうか、吾が皇女のお名前を忘れないことである。
〔評〕 親しい人の死後、何をするにつけても、彼の人を誘ひ、共に見、共に語ることができればと思ふ。その氣持の起るのは、遠い將來は知らず、明日だけなりともお目にかかれると思ふ氣持が潜んでゐるからかと疑ふ意と思はれる。かやうに自分の氣持に對して反省を加へ、想像してゐるといふのは珍ししいが、忘れまいと意志を持つて考へるのでなく、自然と忘れられないといふ氣持はよく出てゐる。第一句は長歌や前の反歌で中心とした飛鳥川を枕詞として、前の歌を表現の上からも受けたものであるが、「あす」の繰返しは、「見む」「御名」の頭音繰返しと相俟つて、調べを(184)流麗にしてゐる。
 
〔語〕 ○明日香川 同音あすを繰返して枕詞とした。○明日だに せめて明日だけなりとも。「明日さへ」は明日も。○念へやも これを反語とし、皇女を明日さへ又見まつらうと思ひませうか、思ひませぬ(代匠記)と解する註が多いが念へばや即ち思ふからであらうかと解するのがよい。○御名忘れせぬ 御名を忘れない。上のやの結。
 
    高市皇子尊の城上《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
199 掛《か》けまくも 忌《ゆゆ》しきかも 【一に云ふ、ゆゆしけれども】 言はまくも あやに畏《かしこ》き 明日香《あすか》の 眞神《まがみ》の原に 久堅の 天《あま》つ御門《みかど》を 畏くも 定め賜ひて 神《かむ》さぶと 磐隱《いはがく》り坐《ま》す 八隅知《やすみし》し 吾が大王《おほきみ》の 聞《きこ》しめす 背面《そとも》の國の 眞木《まき》立つ 不破《ふは》山越えて 狛劍《こまつるぎ》 和射見《わざみ》が原の 行宮《かりみや》に 天降《あも》り坐《いま》して 天《あめ》の下 治め給ひ 【一に云ふ、拂ひ賜ひて】 食《をす》國を 定め賜ふと 鳥が鳴く 吾妻《あづま》の國の 御軍《みいくさ》を 喚《め》し賜ひて ちはやぶる 人を和《やは》せと 奉仕《まつろ》はぬ 國を治めと 【一に云ふ、拂へと】 皇子《みこ》ながら 任《ま》け賜へば 大御身《おほみみ》に 太刀《たち》取り帶《お》ばし 大御手《おほみて》に 弓取り持《も》たし 御軍士《みいくさ》を 率《あとも》ひ賜ひ 齊《ととの》ふる 鼓《つづみ》の音は 雷《いかづち》の 聲と聞くまで 吹き響《とよ》むる 小角《くだ》の音《おと》も 【一に云ふ、笛の音は】 敵《あた》見たる 虎か吼《ほ》ゆると 諸人《もろひと》の おびゆる迄《まで》に 【一に云ふ、聞き惑ふまで】 捧《ささ》げたる 幡《はた》の靡《なびき》は 冬ごもり 春さり來《く》れば 野|毎《ごと》に 著《つ》きてある火の 【一に云ふ、冬ごもり春野燒く火の】 風の共《むた》 靡くが如く 取り持《も》てる 弓弭《ゆはず》の驟《さわき》 み雪ふる 冬の林に 【一に云ふ、ゆふの林】 飄《つむじ》かも い卷渡ると 念ふまで 聞《きき》の恐《かしこ》く 【一に云ふ、諸人の見惑ふまでに】 引き放つ 箭の繁《しげ》けく 大雪の 亂《みだ》れて來たれ 【一に云ふ、霰なすそちより來れば】 奉仕《まつろ》はず 立ち向ひしも 露霜の 消《け》なば消《け》ぬべく 去《ゆ》く(185)鳥の 競《あらそ》ふ間《はし》に 【一に云ふ、朝霜の消なば消ぬとふにうつせみと爭ふはしに】 渡會《わたらひ》の 齋《いつき》の宮《みや》ゆ 神《かむ》風に い吹き惑《まど》はし 天雲を 日の目も見せず 常闇《とこやみ》に 覆《おほ》ひ給ひて 定めてし 瑞穗《みづほ》の國を 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》き坐《ま》して やすみしし 吾が大王《おほきみ》の 天《あめ》の下 申《まを》し賜へば 萬代に 然《しか》しもあらむと 【一に云ふ、かくもあらむと】 木綿花《ゆふはな》の 榮ゆる時に 吾が大王《おほきみ》 皇子《みこ》の御門《みかど》を 【一に云ふ、さす竹の皇子の御門を】 神《かむ》宮に 装《よそ》ひ奉《まつ》りて つかはしし 御門《みかど》の人も 白妙の 麻衣|著《き》 埴安《はにやす》の 御門《みかど》の原に 茜《あかね》さす 日の盡《ことごと》 鹿《しし》じもの い匍《は》ひ伏《ふ》しつつ ぬばたまの 暮《ゆふべ》に至《いた》れば 大殿を 振り放《さ》け見つつ 鶉なす い匍《は》ひもとほり 侍《さもら》へど 侍《さもら》ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆《なげき》も いまだ過ぎぬに 憶《おもひ》も いまだ盡《つ》きねば 言《こと》さへく 百濟《くだら》の原ゆ 神葬《かむはふ》り 葬《はふ》りいまして 麻裳《あさも》よし 城上《きのへ》の宮を 常《とこ》宮と 定めまつりて 神《かむ》ながら 鎭《しづま》りましぬ 然れども 吾が大王《おほきみ》の 萬代と 思ほしめして 作らしし 香來山《かぐやま》の宮 萬代に 過ぎむと念へや 天《あめ》の如《ごと》 振り放《さ》け見つつ 玉襷《たまだすき》 懸けて偲《しの》はむ 恐《かしこ》かれども
 
〔題〕 高市皇子尊 「一一四」參照。草壁皇子の薨後皇太子となられたが、持統天皇十年七月薨ぜられた。皇子の御墓は、前の明日香皇女の御墓と同じく、馬見村の中の三吉字大垣内の三立山といふところといはれる。
〔譯〕 言葉に出していふのも憚りあることであり、申し上げるのも恐れ多いことであるが、明日香の眞神の原に宮殿をお定めになつて、今は神さまとして磐屋の中にお隱れになつてゐるわが大王、即ち天武天皇が、お治めになつてをられる北方の國の見事な不の茂つてゐる不破山を越え、和?《わざみ》が原の行宮に行幸遊ばされて、天下を統治し給ひ、御領土を安定させようと、東國の軍勢をお召になつて、亂暴な人を平定せよ、服從しない國を治めよと、皇子にまします(186)がままに、高市皇子に任命あそばされたので、皇子は御身に太刀を帶び、御手に弓をお持ちになり、軍勢を率ゐられ、勢揃をする爲の太鼓の音は雷の音と聞えるほど、吹き響かせる小角《くだ》の音も敵に出會つた虎が吼えるかと衆人が恐れるほどに、捧げ持つてゐる赤旗の靡く樣は、春になると野毎に燃えついてゐる野火が風の吹くと共に靡くやうに、手に持つてゐる弓弭の騷ぐ音は、雪の降る冬の林につむじ風が卷き渡るかと思ふほど恐ろしく聞え、引き放す箭の盛んなことは恰も大雪が亂れて來るやうであるので、服從せず立ち向つて來た敵も、死ぬなら死ねと身を捨てて競ふ時に、度會《わたらひ》の伊勢神宮から吹起つた風の吹くままに、空の雲を日の目も見えぬほどに覆はれて、平定なされたこの瑞穗の國を、天武天皇が御統治あそばされ、わが高市皇子が天下の政を奏上せられるので、萬代までもかやうにあらうと思ふほど、榮えていらせられた時、わが高市皇子の御殿を神の宮として御装ひ申し、お召使ひなされた宮仕の人々も白い麻の衣を著、埴安の御殿の原に、終日獣のやうに匍ひ伏しつつ、夕べになると御殿を仰ぎ見て鶉のやうに匍ひ廻つてお仕へ申してゐるが、お仕へ申上げることができないので、春の鳥のやうに呻吟してゐると、嘆きもまだ盡きず、思ひもまだ盡きないのに、百濟の原を通つて御葬儀を遊ばされ、城上の宮を永遠の御殿とを定め申上げ、神さまとしてそこにお鎭まりなされた。しかしながらわが皇子が、萬代までもと御考へなされてお作りになつた香具山の宮は、萬代を經ても滅び失せようとは思はれぬ。せめて此の御殿を、天を仰ぐやうに遠く仰ぎ見ながら、皇子の御事を心にかけてお慕ひ申上げよう、恐れ多いことではあるが。
〔評〕全篇百四十九句より成り、集中最大の長篇であるが、ただに長篇であるのみでなく、構想表現共に雄大で、長詩の發達しなかつた我が國に、稀な雄篇である。全篇二段に分れ、「とこやみにおほひ給ひて、さだめてし瑞穗の國」までが第一段、ついで「神ながらしづまりましぬ」までが第二段、以下十三句が第三段である。第一段は全篇の趣旨からいへば序にあたるもので、高市皇子の壬申の亂の功績をたたへ、第二段は世人の期待に反して皇子の薨去あそばされたことを述べ、第三段は一轉して舍人等の永久に變らぬ哀悼の情を述べてゐる。しかしてこのうち、第三段は最(187)も短く、第一段が半ば以上を占めてゐるのであるが、これは人麿の特徴ともいふべく、又、この部分の敍事詩的な雄大な句法と描寫、特に、太鼓の音、小角の音、旗の靡きの精彩に富む譬喩を用ゐた描寫は、後半の悲しい趣、特に最後の自然で率直な哀悼の情と相對して、全篇の感情をいよいよ深く且複雜にしてゐる。なほ又句法からいへば、第二段の終、「神ながら鎭まりましぬ」まで文法的にいふ一文であるが、かかる息の長いことも、人麿の特質としていはれてゐるところである。
〔語〕 ○かけまくも 言葉にかけむことも。ここは言葉に出していふこともの意。○ゆゆしきかも ゆゆしは忌み憚るべきこと、恐れ多いこと。○いはまくも いふことも。○あやに畏き 本當に畏れ多い。あやにはまことに、甚だの意。○明日香の眞神の原 法興寺一名飛鳥寺即ち今飛鳥大佛のある安居院を中心とした高市村飛鳥をいふ。「大口の眞神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに」(一六三六)ともある。○久堅の 天の枕詞。「八二」參照。○天つ御門をかしこくも定め賜ひて 御門は宮殿の意。この句を眞淵以來御陵墓を定め給ひての意で、崩御の御事をいふと解してゐたのであるが、天武天皇の御陵は檜隈大内陵で、今の高市村野口に在り、距離からも地形からも眞神の原の中とは認め難いので、これは皇居を定め給うたものとし、天武天皇の皇居明日香淨御原の宮の位置を舊説の上居《じやうご》を改めて飛鳥寺北方の地と推定したのが喜田博士の説である(「二二」參照)。これは從ふべきであらう。從つて次句との間に「やがて」等を補つて解する。○神さぶと 神としての振舞をあそばされるとて。「三八」參照。○磐隱ります 陵墓の中に隱れ給ふをいふ。當時の陵墓の石棺、石室を築く趣と考へあはすとよい。連體格で大王につづく。○吾が王 天武天皇を申上げる。○聞しめす お治めになつてをられる。しろしめすに同じ。○背面の國 北方の國。「五二」參照。ここは美濃の國をいふ。○眞木立つ 立派な木の茂つてゐる。○不破山 美濃の國不破郡。今の伊増峠(今須)といふ。○狛劍 高麗風の劍の柄頭に環があるので、わにかけた枕詞。○和射見が原 美濃の地名で、關が原の地(膽大小心録)とも野上(略解)ともいはれる。○かり宮 かり宮は行宮。なほ書紀によれば、天皇は野上の行(188)宮にいましたのであるが、そこから附近の和?に度々行幸のあつたことをかく略して詠んだのである(考)。○天降り坐して 美濃國は田舍であるからかくいつたのであらう。○をす國を 御領土。「五〇」參照。○鳥が鳴く あづまの枕詞。?が夜の明ける時に鳴くから鷄がなく明《あか》とつづけ「あ」にかけたもの(冠辭考)、鷄が鳴いてゐる、起きよ、吾が夫《つま》の意(古義)、鷄が鳴いて東方から夜が明けるからいふ(新解)等の諸説がある。○ちはやぶる 神の枕詞に用ゐるが、ここは枕詞ではなく、荒く凶暴なの意。○やはせ 平和にせよ。○まつろはぬ 服從せぬ。順ひまつらぬ。○國を治めと 治めは命令形。下二段動詞の命令形に「よ」を用ゐないのは古格の一。○皇子ながら 皇子にまします故に。ながらは神ながらのながらと同じ。○任《ま》け賜へば 任くは任命する、委任するの意。○大御身 大も御も敬意の接頭辭。ここは高市皇子をさす。○取り帶ばし おばすは身につけるの敬語。○あともひ 誘ひいざなふ、率ゐる。○齊ふる 通説では、呼び集める義であるが、整ふの意とする説(講義)がよく、軍隊の進退を整理するの意。○小角 和名抄征戰具に「大角波良乃布江、小角久太乃布江」とあり、牛角などで作つたものであらう。○あた見たる 敵に出會つた。○虎か吼ゆる かは、疑問の助詞。○幡の靡は 幡は軍防令の義解に「幡者旌旗總名也」とある。その幡の風に靡いてゐる樣は。なほこの時のことを古事記の序に「※[糸+鋒の旁]旗耀v兵凶徒瓦解」とあり、考は赤旗であつたので、次句のやうに野火に譬へたといつてゐる。○冬ごもり 「一六」參照。○風のむた 野火が風の吹くと共に靡くをいふ。「浪のむたか寄りかく寄り」(一三一)參照。○取り持たる 手に持つてゐる。○弓弭のさわき 弭は弓の末。しかし弭は輕く添へたので、弓を射るときの弦音をいふ。○つむじ 旋風、辻風。○い卷き渡る いは接頭辭。語調を整へたもの。○聞のかしこく 聞くことが恐しい。○箭の繁けく 箭の繁きことは。○大雪の のは、の如くの意。○亂れて來れ 亂れて來たので。○まつろはず立ち向ひしも 以下對手方についていふ。○露霜のけなばけぬべく 露や霜が日にあたつて消えるやうに命を拾てるに譬へたもの。死ぬなら死ねと命を捨てて。○去く烏の 群つて飛ぶ鳥が先を爭ふやうに。あらそふの枕詞。○はしに 端の意から轉じて、際にの意。○わたらひ 伊勢の國度會郡、神宮鎭(189)座の地。○齊の宮ゆ 齋き祀れる宮、皇太神宮をいふ。ゆはよりの意。○神風 神の吹かせる風。○い吹き惑はし いは接頭辭。吹いて混亂させ。但、このことは書紀には見えない。○天雲を日の目も見せず常闇に覆ひ賜ひて 天雲は空の雲。日の目は日の面。常闇には長く闇夜のやうにの意。雲で太陽の面も見せぬほど眞暗に覆ひ給うての意。或は當時日蝕に際したのであるとの説がある。○定めてし 平定せられた。○神ながら太敷き坐して 神にましますままに壯大にお構へになつて支配せられた。天武天皇を申す。○吾が王 高市皇子をさす(古事記傳)。○天の下申し賜へば 天下の大政に關して奏上し、勅命をうけて政を行ふの意で、高市皇子が太政大臣となられたことをいふ。○萬代に然しもあらむと 永遠にかやうにあらうと。○ゆふ花の 榮えるの枕詞。木綿花は木綿で造つた花。木綿は楮《かうぞ》の繊維をさらしたもの、たへはこれを織つたもの。○榮ゆる時に 皇子の榮えたまふ時と解する説と、御代の榮え、即ち世の中の榮える時との二説がある。○神宮に装ひまつりて 神の宮として装つて。よそふは、ととのへ飾る意。皇子の薨去を申す。○つかはしし お召使ひなされた。○白妙の麻衣著 白い麻の衣を著て。清淨な装束の義。○埴安の御門の原 埴安は香具山の麓、藤原宮の東に當る。ここに皇子の宮殿があつたのであらう。○茜さす 「二〇」參照。○ししじもの ししはその肉を食用とする獣の總稱。ゐのしし、かのししなどいふやうに、鹿、猪などをさす。じものは、「時じもの」(五〇)參照。鹿などの如く。○い匍ひ伏しつつ いは接頭辭。匍ひ伏しながら。○ぬばたまの 夕べの枕詞。「八九」參照。○鶉なす 鶉の如く。○い匍ひもとほり 匍ひ廻つて。○さもらへど 宮に伺候してゐるが。「一八四」參照。○春鳥の、さまよふの枕詞。春の鳥はあちこち囀りわたるよりいふ。○さまよひぬれば さまよふは呻吟する、嘆聲を發する意。○いまだ盡きねば この「ば」は條件をあらはすのではなく、輕く添へたもので、盡きないのにの意。○言さへく 百濟の枕詞。「言さへく韓の埼」(一三五)參照。○百濟の原ゆ 百濟の原は大和國北葛城郡百濟村百濟で、香具山附近より城上に至る通路に當る。ゆは、を通つての意。○葬りいまして 朝廷で皇子を葬りまして。○麻裳よし 「き」の枕詞。「五五」參照。○常宮と定め給ひて 「一九六」參照。○萬代に過ぎむと(190)念へや やは反語。すぐは「思ひすぐ」、「命すぐ」の例のやうに、失せる意(考)。永遠になくならうとは思はない。○玉襷 懸けの枕詞。「五」參照。○懸けて偲はむ 心にかけて偲ばう。○恐かれども 恐れ多いことではあるが。
〔訓〕 ○響むる 舊訓「ナセル」とあり、鳴らせるの意に解してゐるが、字面に遠い訓であるから、トヨムルと改めた。○齊宮 正しくは「齋」とあるべきであるが、古くは通用したものと思はれる。なほ訓は、イハヒノミヤ(考、古義)に從ふ註も多いが、舊訓イツキノミヤでよい。○暮に至れば 白文「暮爾至者」で、舊訓ユフベニナレバでも意味に變りはないが、字面のやうに、イタレバと訓むのがよい。○春鳥 舊訓「ウグヒス」とあるが、字面より見て從へない。考による。○定めまつりて 諸本に、「高之奉而」とあるので、紀州本「タカクマツリテ」、攷證「タカシリテタテ」、講義「タカクシマツリテ」等の訓があるが、何れもなほおちつかないので、暫く玉の小琴の説に從ひ、「定奉而」の誤字とする。
 
    短歌二首
200 久堅の天《あめ》知らしぬる君故に日月《ひつき》も知らず戀ひ渡るかも
 
〔譯〕 皇子が天をお治めなさることとなつた爲に、月日の經つのも知らず、ひたすらにお慕ひ申し續けてゐる。
〔評〕 天と日月との縁語を用ゐ、語をあやなしたものである。
〔語〕 ○天知らしぬる 天上をお治めになるの意で、薨じ給うたこと。○君故に 君の故に、君であるので。「二八九三」參照。○日月も知らに 月日のたつのも知らず。○戀ひ渡るかも 戀ひつづけることであるよ。
〔訓〕 ○知らず 白文「不知」で、シラニとも訓み得るが、佐伯氏(萬葉語研究)による。
 
201 はにやすの池の堤の隱沼《こもりぬ》の行方《ゆくへ》を知らに舍人《とねり》は惑《まど》ふ
(191)〔譯〕 埴安の池の堤に取圍まれた池の水は、流れ行く先も分らぬが、ちやうど其のやうに、これから先の行くべき方向も分らないで、舍人たちは途方にくれてゐる。
〔評〕 埴安の池のほとりの實景を取り、隱沼の水の流れゆく先の知られぬ樣を以て、身の行末も定まらず、施すべきすべをも知らぬ舍人等の心中に比したのは、適切な序といふべきである。重々しく運んだ序の調子と、哀切な下句の主想とは、ぴつたりと呼吸を合せて沈痛な響を漂はせてゐる。
〔語〕 ○隱沼の 隱沼は、堤に圍まれて水の流れ出ぬ沼。初句以下ここまで「行方を知らに」の序。○行方を知らに 將來の方針もわからず、途方にくれて。
 
    或書の反歌一首
202 哭澤《なきさは》の神社《もり》に神酒《みわ》すゑ?《こ》ひ祈《の》めどわが王《おほきみ》は高日知らしぬ
     右の一首、類聚歌林に曰く、檜隈《ひのくまの》女王泣澤神社を怨むる歌なり。日本紀を案ふるに曰く、十年丙申秋七月辛丑の朔にして庚戌の日、後の皇子尊薨りましきといへり。
 
〔譯〕 哭澤の社にお神酒を供へて、平癒をお祈りもたけれども、其の甲斐もなく、わが皇子さまは天へ上つておしまひになりました。
〔評〕 香具山の宮に近い哭澤神社に神酒の甕を捧げ、嚴かな儀式を以て平癒をお祈りしたにも拘はらず、何の効果もなかつた悲しさが、怨むが如く、訴ふるが如く、やるせない哀切の調をなしてゐる。崩御や薨去を、天を治めに上り給ふと見るのは、當時一般の信仰であつて、集中他にも多く詠まれてゐるが、この歌の「高日知らしぬ」には、高朗の響がある。それ故に上の句の嚴かな重みと對照して、穩かな語法を以て結ぶに堪へぬやうな強い感情の激動が認められ、そこに悲痛な怨みの情を託したものと思はれるのである。但、題詞によると、或書では、前の「二〇一」の歌(192)の代りにこの歌が反歌として掲げてあるといふのであるが、更に左註によれば、類聚歌林では、これは人麿作の反歌ではなくて、檜隈女王が、泣澤神社を怨んで詠まれた歌であるとしてゐる。内容かち考へて、恐らく類聚歌林の傳が正しいであらう。
〔語〕 ○哭澤の神社 伊那那岐命が、伊那那美命を悼み泣かれた涙から出た泣澤女の神を祀る。香久山村木之本にある。香具山の西麓。神社を「もり」といつた例は多い。木の多いところに神がいます故であらう。○神酒すゑ 神酒を供へて。○?ひ祈めど 神の助を乞ひ祈つたけれども。○高日知らしぬ 天を支配し給ふの意で、薨去せられた事。
〔左註〕 檜隈女王 傳不詳。天平九年從四位下の叔せられた檜前王と同じ方か。高市皇子の妃であらう。○後皇子尊 皇子尊と申す草壁皇子に對して、高市皇子を申す。十年丙申 通行本はこの上に「持統天皇」の四字があるが、この卷の例と違ひ、後人の記入と思はれる。今、金澤本に從つて除く。
 
    但馬皇女薨り給ひし後、穗積皇子、冬の日雪の落るに、御墓を遙望《みさ》け、悲傷流涕《かなしみな》きて御作歌一首
203 零《ふ》る雪はあはにな降りそ吉隱《よなばり》の猪養《ゐかひ》の岡の寒からまくに
 
〔題〕 但馬皇女 穗積皇子 いづれも天武天皇の御子で、異母兄妹、皇女は和銅元年六月薨ぜられた。
〔譯〕 降る雪はあまり深く降つてくれるな。向うに見える、いとしい皇女の靜かに眠つて居られる吉隱の猪養の岡の墓が、寒いであらうに。
〔評〕 墓を亡き人の形見として愛慕し尊重するのは、古今を通じて變らぬ日本人の感情であるが、上代人には特にそれが深かつた。この歌は純情の赴くところ、既に對手の生死を忘れ、死者もなほ己と同じ感覺を有するごとく思ひこんでゐるのである。素朴といふより、これは理智を越えた人間の生きた感情である。生地の人間性である。愛人の墓が雪に包まれてゆくのを見ては、今日の人にもなほこの感があらう。ただその相違は、かく率直に歌ふか否かである。
(193)〔語〕 ○あはにな降りそ 「あは」は集中難語の一である。誤字ありとする考の説や地名と見る攷證の説は從ひ難く、淡雪とする拾穗抄の説も適當でない。宣長・春海その他の人が近江・美濃・飛騨邊の方言によつて深い雪の義としたのに姑く從ふべきか。○吉隱の猪養の岡 吉隱は大和磯城郡で、今初瀬町の東一里足らずの地。猪養の岡は大和志に吉隱村上方にありといふ。皇女の墓のあつた處と思はれるが、今は地名も殘らず、墓のあとも定かでない。○寒からまくに 寒くあらうにの意。
〔馴〕 ○寒からまくに 白文「塞爲卷爾」。金澤本と檜嬬手の説により「寒有卷爾」とする。
 
    弓削《ゆげ》皇子|薨《みまか》り給ひし時、置始東人《おきそめのあづまびと》の歌一首并に短歌
204 やすみしし わが王《おほきみ》 高光る 日の皇子《みこ》 ひさかたの 天《あま》つ宮に 神《かむ》ながら 神と坐《いま》せば 其《そこ》をしも あやにかしこみ 晝はも 日の盡《ことごと》 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 臥《ふ》し居《ゐ》嘆けど 飽《あ》き足《た》らぬかも
 
〔題〕 弓削皇子 天武天皇の第六皇子。文武天皇三年七月薨。「一一一」參照。置始東人 傳不詳。「六六」參照。因にこの歌は「一九六」(文武天皇四年)や「二〇三」(和銅元年)」より前に置くべきで、この邊稍々順序が錯れてゐる。
〔譯〕 わが皇子樣、日の御子なる弓削皇子は、神さまであらせられるままに、天上の宮に永久においであそばすので、あとに殘された私共は、その事を畏れ多く思ひ、晝は一日中、夜は夜どほし、臥したり居たりして、歎き悲しむけれども、いくら歎いても歎き足りないことである。
〔評〕 内容も表現も一とほり整つた歌ではあるが、情熱に乏しく、平弱の作である。
〔語〕 ○高光る日の皇子 高く空に輝く日の神の子孫の義で、多く天皇をさしまつるが、皇子についても申す。ここは弓削皇子。○そこをしも その事を。「一九六」の「一に云ふ」にもある句。○飽き足らぬかも 悲痛の心持を十(194)分に晴らすことが出來ぬことよ。
 
    反歌一首
205 王《おほきみ》は神にしませば天雲《あまぐも》の五百重《いほへ》が下《した》に隱《かく》れたまひぬ
 
〔譯〕 皇子さまは、神でいらせられるから、高い大空の、雲の五百重も重つてゐるうちにお隱れになつた。
〔評〕 皇子の薨去を悼みまつるにふさはしい格調である。しかし創意はない。一二句は「四二六〇」「四二六一」「二三五」にもある。
〔語〕 ○五百重が下に 五百重は無數に數多く重なること。下はうちの意。○隱れ 「かくり」と訓む説もある。
 
    又短歌一首
206 ささなみの志賀さざれ波しくしくに常にと君が念《おも》ほせりける
 
〔譯〕 志賀の湖のさざら浪が頻りに立つて常に變らぬやうに、いつまでも變ることなく此の世に坐ますものと、皇子樣がお思ひになつていらつしやつたのに。
〔評〕 亡き弓削皇子と如何なる縁故があつて「ささなみの志賀」といふ地名を序に用ゐたものか、さだかでない。しかし、「ささなみ」に對して「さざれ波」と云ひ、「志賀」に對して「しくしく」と云ふあたり、音調の諧和があつて勝れた技巧の跡を示してゐる。嘗てこの皇子が、吉野に遊び給うた時、「瀧の上の三船の山にゐる雲の常にあらむとわが思はなくに」(二四二)と、人間の無常を觀じて、常住の雲を羨まれたことがあるが、今この作者は、その御歌の心を偲んでこの作を成したのかも知れない。
〔語〕 ○志賀さざれ波 志賀の湖、即ち琵琶湖の面に立つ漣。以上「しくしくに」にかかる序。○しくしくに 動詞(195)「頻く」を二つ重ねて副詞的に用ゐたもので、頻りに、繁くなどの意。○常にと いつまでも變らず此の世にゐるものと。○念ほせりける お思ひなされてゐたの意で、然るにこんな悲しいことになつてしまつたといふ餘意を含んでゐる。
 
    柿本朝臣人麻呂、妻の死《みまか》りし後、泣血哀慟《なきかなし》みて作れる歌二首并に短歌
207 天飛《あまと》ぶや 輕《かる》の路《みち》は 吾妹子《わぎもこ》が 里にしあれば ねもころに 見まく欲《ほ》しけど 止《や》まず行かば 人目を多み 數多《まね》く行かば 人知りぬべみ 狹根葛《さねかづら》 後《のち》も逢はむと 大船の 思ひ憑《たの》みて 玉かぎる 岩垣《いはがき》淵の 隱《こも》りのみ 戀ひつつあるに 渡る日の 暮れ去《ぬ》るが如 照る月の 雲|隱《がく》る如《ごと》 奧《おき》つ藻の 靡きし妹は 黄葉《もみぢば》の 過ぎて去《い》にきと 玉|梓《づさ》の 使の言へば 梓弓 聲《おと》に聞きて【一に云ふ、聲のみ聞きて】 言はむ術《すべ》 爲《せ》むすべ知らに 聲《おと》のみを 聞きてあり得ねば 吾が戀ふる 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も 慰むる 情《こころ》もありやと 吾妹子《わぎもこ》が 止《や》まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば 玉襷《たまだすき》 畝火の山に 喧《な》く鳥の 音《こゑ》も聞《きこ》えず 玉|桙《ほこ》の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名|喚《よ》びて 袖ぞ振りつる【或本、名のみを聞きてあり得ねばといへる句あり】
 
〔題〕 柿本朝臣人麿が、その妻の死んだ後、泣き悲しんで詠んだ歌であるが、この次に、また妻の死を悲しむ歌があり、その妻は公然の妻で、子もあり、これは忍び通つた妻である。然るにこれを同一人であるとする講義の説が出たが、うべなひ難い。
〔譯〕 輕の道はわが妻の住む里であるから、親しい氣持でいつも行つて見たいけれども、絶えず通つたならば人目に(196)つかうし、幾度も重ねて行つたならば、人が知らうと思ふので、さう一時にせかずとも、後々までいつも逢ひ見ようと、行末を頼みにして、岩に圍まれた淵のやうに、ただ一人で心の中にこめて思ひつづけてゐたのに、空を渡る日の没してしまつたやうに、照る月の雲に隱れるやうに、沖の藻の靡き寄るやうであつた妻は、あへなく此の世を去つてしまつたと使が傳へて來たので、自分はそのしらせを聞いて、いふべき言葉もなく、なすべき手段もわからず、それにしても、只その報知を聞いたのみでじつとしてはゐられないので、わが戀ひ焦れる心の千分の一でも自ら慰む氣特にもならうかと思つて、妻がいつも出て見てゐた輕の市に行つて立つて聞くと、畝火の山に鳥の鳴く聲も聞えぬがごとく、妻の聲も聞えないし、また、道を通る人も一人として妻に似たものも通らないので、やるせなさに、妻の名を喚びながら、袖を振つたことである。
〔評〕 ひそかに通つてゐた隱し妻が、俄かに死去したといふ意外な報に接して、茫然爲す所もなき驚きと、言ふべき言葉もない悲しみとを抒べた歌である。人目を憚つて、しばしば逢ふことが出來なかつた仲であるから、それだけに又愛情のこまやかさは一段であつたらうと推し量られる。冒頭にこまごまと縷述してゐるところは、その纏綿の情を盡して遺憾がない。悲報に接しても、人目を忍ぶ仲であつてみれば、駈けつけて行くことも許されない。その本意なさと焦繰とでは、到底家にじつとしてはゐられない。そこで少しは慰むこともあらうかと外に出て見た。妻が常々よく輕の市に行つてゐたことを思つて、足はおのづからその方に向く。語りあふ婦人たちの聲や行き交ふ人々の姿にも、彼は妻の幻影を趁ひ求めてゐた。しかしそれは空しい努力に過ぎない。つひに惱みをこらへかねて、狂氣のごとく、妻の名を呼んで袖を打振つたのだ。涙なくては讀むに堪へぬ歌で、後なる石見國から妻に別れて上る歌と竝べ稱せらるべき傑作である。
〔語〕 ○天飛ぶや 天を飛ぶ雁の意から發音の類似で地名の「輕」にかけた枕詞。○輕の路 輕は高市那白樫村の東部、大輕・和田・石川・五條野邊の總稱で、輕の路は、輕の地の中の街道であらう。○ねもころに 丁寧に、懇切に、(197)十分になどの意。○見まく欲しけど 見むことが望ましいけれど、即ち見たいけれどの意。○止まず行かば 絶えず行つたならば。○人目を多み 人目が多いので、即ち、人に見られるのが困るので。○まねく行かば あまり度々行つたならば。○人知りぬべみ 人が知つてしまふであらうから。○狹根葛 蔓が方々に這ひ別れ會ふ意で、「後逢ふ」の枕詞。○玉かぎる 「四五」參照。「磐」につづけた理由は明かでないが、淵が青く透き徹つて見えるからといふ玉蜻蛉考の説、玉は淵から出るものであるから玉の輝く淵の意といふ玉蜻蛉考補正の説がある。○磐垣淵の 磐に圍まれた淵のこと。「隱り」にかかる。○隱りのみ 心の中にこめてばかり、表面に少しも出さず。○黄葉の 「過ぎて」にかけた枕詞。「四七」參照。○過ぎて去にきと 死んで了つたと。「四七」參照。○玉梓の 「使」の枕詞。理由は、昔の使の者が梓の木に玉をつけたのを、使の印として持つてゐたのであらうといふ玉の小琴の説、梓の枝に手紙をつけてやつたのかも知れぬといふ新講の説、その他諸説あるが明かでない。○梓弓 引けば音のする意で「聲《おと》」につづけた枕詞。○おとに聞きて 使の者の言葉に聞いて。○言はむ術爲むすべ知らに どうしてよいか分らず。○吾が戀ふる千重の一重も 自分の戀しく思ふ心の千分の一なりとも。○慰むる情もありやと 心を慰めることもあらうかと。○止まず出で見し 妻が始終出て見た。○輕の市に 市は人々が集つて來て交易する處。輕の市は後世、枕草子などにも見えて有名である。○喧く鳥の 「玉襷」以下ここまで「音《こゑ》」にかかる序。○玉桙の 「道」の枕詞。「七九」參照。○一人だに似てし行かねば たたの一人も亡き妻に似たものが通らないので。
 
    短歌二首
208 秋山の黄葉《もみぢ》を茂み迷《まど》ひぬる妹を求めむ山|道《ぢ》知らずも【一に云ふ、路知らずして】
 
〔譯〕 秋山の紅葉が茂つてゐるので、そこに迷ひこんだ妻を採し出さうにも、道がさつぱり分らないことよ。
〔評〕 愛する妻の死を露骨に云ふことは、この際の作者の到底堪へ得るところではない。それを避けて、優美に詩化(198)したところ、心情まことに可憐である。これは決して浮華な技巧ではない。妻を葬つた秋の山を黄葉が深く取り圍んでゐるのを見ると、黄葉の中に妻が迷ひこんでゐるやうな感が、ふと浮んだのであらう。迷つてゐるのならば捜し求めることも出來ように、それは遂にはかない空想に過ぎない。一瞬の氣の迷ひから現實に醒め返つた時の詠嘆を結句に聞くやうである。「秋山の黄葉あはれとうらぶれて入りにし妹は待てど來まさず」(一四〇九)は著想が甚だよく似てゐる。
〔語〕 ○黄葉を茂み 黄葉が茂つてゐるので。○迷ひぬる 死んで山に葬られたのを、かく譬へたもの。○山道知らずも 山の道がわからないことであるよ。
 
209 黄葉《もみぢば》の落《ち》り去《ぬ》るなべに玉|梓《づさ》の使を見れば逢ひし日|念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 黄葉の散るにつれて、妻の死を知らせて來た使を見ると、嘗て初めて妻に逢つた日のことが思ひ出される。
〔評〕 人目を忍んで初めて相逢うた嬉しい日、その日もかやうに黄葉の散る日であつた。今悲報を手にして、なつかしくも悲しくも瞼に浮び來るのは、其の日の幻である。同じく散る黄葉であるが、あの日とこの日と何といふ甚しい相違であらう。一見平板なやうに見えて、却つて眞情惻々の作である。
〔語〕 ○散りぬるなべに 散り行くと共に。○使を見れば 妻の訃報を齎らして來た使を見れば。○逢ひし日 これまで時々逢つてゐた日の意ではなく、逢ひ初めた日。
 
210 うつせみと 念《おも》ひし時に【一に云ふ、うつそみと思ひし】  取持《とりも》ちて 吾が二人《ふたり》見し ?出《はしりで》の 堤に立てる 槻《つき》の木の こちごちの枝《え》の 春の葉の 茂きが如く 念《おも》へりし 妹にはあれど 憑めりし 兒らにはあれど 世中を 背《そむ》きし得ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野に 白妙の 天領巾隱《あまひれはく》り 鳥じも(199)の 朝立ちいまして 入日なす 隱《かく》りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若き兒《こ》の 乞《こ》ひ泣く毎《ごと》に 取り與ふ 物し無ければ 男《をとこ》じもの 腋《わき》ばさみ持ち 吾妹子と 二人吾が宿《ね》し 枕づく 嬬屋《つまや》の内に 晝はも うらさび暮《くら》し 夜《よる》はも 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 戀ふれども 逢ふ因《よし》を無み 大鳥の 羽易《はがひ》の山に 吾が戀ふる 妹はいますと 人の言へば 石根《いはね》さくみて なづみ來《こ》し 吉《よ》けくもぞなき うつせみと 念ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば
 
〔譯〕 わが妻が生きてゐた時、共に手折つたりなどして、二人で見た家のそばの堤に立つてゐる槻の木の、あちらこちらの枝に春の木の葉が茂つてゐるやうに、繁く思ひつづけてゐた妻であり、永い生涯の侶と憑みにしてゐた妻なのであるが、生れた者は死ぬといふ世の中の道理に背くことが出來ず、あの陽炎のちらつく荒野に、白い領巾に隱れつつ鳥のごとく朝立ちをして、入日のやうに影を隱してしまつたので、あとには妻の形見として殘しておいた幼兒が、物を欲しがつて泣くたびごとに、與へるものも無いので、自分は男ながらも子供を腋の下にかかへて、今まで妻と二人で寢た寢室の内に、晝は淋しく暮し、夜はうめき明しして、いくら嘆いてもするすべも知らず、いくら戀ひ焦れても逢ふ手段も無さに、たまたまあの羽易の山に自分の戀ひ慕ふ妻は居ると人がいふので、岩角を踏みつつ苦しみ來て見たが、何のまあ詮もないこと、この世の人であつた妻の姿が、ちらりとさへも見えないのを思へば。
〔評〕 前後二首の長歌、いづれも亡妻を悼む悲痛きはまりなき作であるが、上のは忍び妻であり、これは子までなした仲であるので、從來、兩者を別人と解して來たのであるに、これを同一の妻と見て連作的に二首を以て悲傷の情を抒べたもの、隨つて二首特に内容の重複を避けたものとの新説が出た(講義)。忍び妻に子があつても不思議ではなく、同人と見ても扞挌する點は無いやうであるが、さう輕々に斷じ難い。
(200) 生前妻と共に門のほとりの槻の木を眺めた思ひ出をたどり、その槻の木の春の葉の繁きを喩へにして妻への思慕を抒べ、その愛妻の葬式を見送ることを寫してゐる。さて葬式を送つて後の空虚の感に加へて、男手に形見の幼兒をかかへた術なさ。途方に暮れてゐる樣が寫實的で、眞に迫つて眼前に浮ぶ。他の作に見るやうな詩的な高揚はないかはりに、沈痛悲愴の氣に充ち滿ちてゐて、涙にしめた切實さがある。なほ注意すべきは、羽易の山に妻がゐると人が云ふので、尋ねて行つたといふことである。これによつて、死者の行く處について上代人が抱いてゐた信仰の一端が窺はれる。即ち、當時の人々はなほ、死後の世界を現實的に考へてゐて、死者の行く處をこの地上の何處かに想像してゐたのではないかと思はれるのである。
〔語〕 ○うつせみと 現世の人と。「一九六」及び「二一三」參照。○取り持ちて 槻の枝を手折り持つての意と見た代匠記の説がよい。妻の手を携へての意と見る説は非。○吾が二人見し 自分が妻と二人で見た意。下の「槻の木」につづく。○?出の 横に突き出してゐる形をいふとの新解の説は從ひ難い。門近の義である。○槻の木 棒の一種。○こちごちの枝の あちこちの枝の。「こちごち」は「此方」を重ねた語。○春の葉の茂きが如く 若葉の茂く多いやうに思ひ繁く。○憑めりし 心に深く頼みとしてゐた。○兒らにはあれど 「兒」は親しみいふ語。「ら」は親愛の意を示す接尾辭。○世の中を ここは世間のことわり、即ち無常の義。○かぎろひの 「四八」參照。○白妙の 白き布。○天領布隱り 領巾は婦人の肩や頸に掛ける細長い布。天領巾は諸説あつて、代匠記は雲を譬へていふとし、宣長は、葬儀の旗、古義は柩の周圍に立てる歩障、攷證及び講義には天女の天衣をさしていふとしてゐるが、最後の説が穩かである。○鳥じもの 鳥のやうにの義で、「朝立つ」の枕詞とした。「じもの」(五〇)參照。「坂鳥の朝越えまして」(四五)ともある。○朝立ちいまして 妻の葬られたのを朝自分で出立つたやうに云つた。○入日なす 入日のやうに、隱るの譬喩。○若き兒の あかご。みどり子に同じ。「若き子の匍ひたもとほり」(四五八)。○取り與ふ物し無ければ 幼兒に與へる物が何もないので。「物」を人の義に取るは非、玩物の義である。○男じもの 「鳥じもの」(201)「犬じもの」等の如く、「じもの」は「のやうに」の意であるが、「男じもの」の場合は稍々異なり「男として」「男であるものが」の意。「男じもの負ひみ抱きみ」(四八一)、「男じものや戀ひつつ居らむ」(二五八〇)參照。○腋ばさみ持ち 抱へいだき。○枕づく、夫婦は房に枕を竝べつけてぬるが故に、「つまや」の枕詞にしたといふ冠辭考の説が普通に用ゐられてゐるが、枕に著く妻の意で「妻」の枕詞とするといふ新解の説もある。○嬬屋 夫婦の寢室の義。端の屋の義とするは從ひ難い。○うらさび暮し 終日心さびしく暮す。○息づき明かし 嘆息して夜をあかす。○大鳥の 大鳥の羽がひの意で、「羽易の山」にかけた枕詞。○羽易の山 「春日なる羽買の山ゆ」(一八二七)ともあつて、春日山の山續きらしいが、今は舊名を存しないので確かに分らぬ。嫩草山の古稱かともいはれる。○さくみて 諸説あるが、さくさくと踏み碎くの意と思はれる。○なづみ來し なづむは、歩き惱む。類聚名義抄に「泥」「阻」等の字をさう訓んでゐる。○吉けくもぞなき 來たけれども、よくもない。倒装法で、下の「見えぬ思へば」を承ける句。○玉かぎる 「四五」參照。ここは「ほのか」の枕詞。
〔訓〕 ○男じもの 諸本「鳥穗自物」とあり、舊訓、トリホジモノは意義を成さないので、攷證はトボシモノと改め、ともしく珍しい物で大切な義とした。然るに考は、「鳥穗」を「烏コ」の誤としてヲトコジモノと訓んだ。「とぼし物」も有り得る語かも知れないが、他に用例が無い。考にも改字の弱點はあるが、それは攷證のと五十歩百歩であり、且この歌の別傳(二一三)に明かに「男自物」とある以上、これを旁證として考の説に從ふべきである。
 
    短歌二首
211 去年《こぞ》見てし秋の月《つく》夜は照らせれど相見し妹はいや年さかる
 
〔譯〕 去年見た秋の月は今年も同じ樣に照らしてゐるが、あの時一緒に眺めた妻は、年月のたつにつれていよいよ遠ざかつてゆくことよ。
(202)〔評〕 在りし日に妻と共に眺めた月、今はその妻の形見とも思はれる月に向つて、新たな涙をそそられたのである。情感、詞句、格調、共に自然にして、眞情を盡した作である。
〔語〕 ○秋の月夜は 「月夜」ここでは月の意で、「夜」は輕く添へた語。○照らせれど 照らしてゐるけれども。○いや年さかる 死んでからますます年月が隔たつて行く。
 
212 衾道《ふすまぢ》を引手《ひきて》の山に妹を置きて山路を行けば生《い》けりともなし
 
〔譯〕 引手の山にわが妻の亡き骸を殘して置いて、その山路を過ぎ行くと、自分は生きてゐるやうな心地もしない。
〔評〕 悲哀にうち萎れて山路を歸りゆく人の悄然たる姿をしのばせる。自己の心裏を顧みて、その主觀を省察してゐるのは觀念的な態度ではあるが、「生けりともなし」といふ心理描寫が極めて適切であり、直截であるために、考へる餘地のない直觀的な歌になつてゐる。この句を以て一首を結ぶ手法は、後の奈良時代の歌人の間に?々踏襲された。
〔語〕 ○衾道を 地名とする説と枕詞とする説とある。前者は延喜式に衾田墓と見えるのを證としてゐるが、根據が十分でない。また、衾に手がかりとして著けた絲紐の類があつて、それを引く意で「引手」の枕詞としたといふ説も、當時の衾の樣子が明かでない爲に俄に信じ難いが、枕詞ではあるやうに思はれる。○引手の山 大和志に山邊郡朝和村の龍王山であるといつてゐるが、前の長歌の春日なる羽易山の近くか、又は同じ山である筈なのに、龍王山は遠く隔たり過ぎてゐて疑はしい。○山路を行けば 葬送の歸途とする説もあるが、長歌の反歌として見ると、全釋に墓參の際かとあるのが妥當と思はれる。○生けりともなし 生きてゐるやうな氣もしない。
 
    或本の歌に曰く
213 うつそみと 念《おも》ひし時に 携《たづさ》へて 吾が二人見し 出立《いでたち》の 百枝《ももえ》槻《つき》の木 こちごちに 枝《えだ》させ(203)る如 春の葉の 茂きが如 念《おも》へりし 妹にはあれど 恃《たの》めりし 妹にはあれど 世の中を 背《そむ》きし得ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野に 白妙《しろたへ》の 天領巾隱《あまひれがく》り 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隱《かく》りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 緑兒《みどりご》の 乞《こ》ひ哭《な》く毎《ごと》に 取り委《まか》する 物しなければ 男じもの 腋挿《わきばさ》み持ち 吾妹子と 二人吾が宿《ね》し 枕づく 嬬屋《つまや》の内に 晝は うらさび暮《くら》し 夜《よる》は 息衝《いきづ》き明かし 嘆けども せむ術《すべ》知らに 戀ふれども 逢ふ縁《よし》を無み 大鳥の 羽易《はがひ》の山に 汝《な》が戀ふる 妹は坐《いま》すと 人の云へば 石根《いはね》さくみて なづみ來《こ》し 好《よ》けくもぞ無き うつそみと 念《おも》ひし殊が 灰《はひ》にて坐せば
 
〔評〕 これは上の「二一〇」の異傳であるが、その相違は僅かである。結句の「灰にて坐せば」は、火葬に付されて灰になつたことを云つたのであらう。あまりに寫實に過ぎて、詩的想像の美を破壞した感がある。また、調子の上から見て、据りも惡い。やはり「玉かぎるほのかにだにも見えぬ思へば」の麗藻を採りたいと思ふ。
〔語〕 ○携へて 前の歌の「取り持ちて」とは違ひ、これは明かに夫妻一緒にである。○出で立ちの 前の歌の「はしり出の」と同じ。○取り委する 兒にもてあそばせる意であらう。「委す」は下二段活用であるから、字あまりにはなるが、まかするとよんだ。○灰にて坐せば 火葬にして灰となつてゐるからの意。當時火葬の習俗のあつたことは續紀や墓誌に明かである。
 
    短歌三首
 
214 去年《こぞ》見てし秋の月夜《つくよ》は渡れども相見し妹はいや年さかる
 
(204)〔評〕 上の「二一一」の歌と第三句が異なるのみである。しかしこの歌の「渡れども」よりは、「二一一」の「照らせれど」の方が素直であり、且印象も明瞭でよい。
 
215 衾路《ふすまぢ》を引出《ひきで》の山に妹を置きて山路|念《おも》ふに生けりともなし
 
〔評〕 これも「二一二」の異傳で、「引手」と「引出」、「行けば」と「念ふに」との相違に過ぎない。「山路念ふに」は、妻の墓のある山の樣子を思ひやつてみるに、といふ意にも解されようが、物思ひながら山路を行くのにと見るのが穩當であらう。しかし「山路を行けば」の方が明瞭で、印象も深い。「生けりともなし」については「二二七」參照。
 
216 家に來て吾屋を見れば玉床《たまどこ》の外に向きけり妹が木《こ》枕
 
〔譯〕 墓から家に歸つて來て、さてわが家の内を見渡すと、妻の木枕が床の外の方に向いてゐることよ。
〔評〕 人を葬つて歸つて來た時の空虚な感は、何人も經驗があらう。なつかしい妻のゐた室に歸つて來て見ると、常に見た優しい姿は覓めるべくもないのみか、形見の枕は取亂されてゐるのである。ありのままに、主觀を交へず率直に詠み捨てながら、寫實の眞は永遠に新しく讀者の涙を誘ふであらう。四句まで一氣に淀みなくいひ下し、さて五句でしつかり抑へた句法、力強く極めて効果的である。
〔語〕 ○家に來て 墓から歸つて來ての意。○玉床の 玉は美稱。靈床とする説は當らない。○外に向きけり もとの位置と違つてゐる。○木枕 木製の枕。
 
    吉備津釆女《きびつのうねめ》の死りし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
 
217 秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 念《おも》ひ居《を》れか 栲繩《たくなは》の 長き(205)命を 露こそは 朝《あした》に置きて 夕《ゆふべ》は 消ゆと言《い》へ 霧こそは 夕《ゆふべ》に立ちて 朝《あした》は 失《う》すと言《い》へ 梓弓 音聞く吾も 髣髴《ほの》見し 事|悔《くや》しきを 敷妙の 手枕《たまくら》纒きて 劔刀《つるぎたち》 身に副へ寐《ね》けむ 若草の その夫《つま》の子は 不怜《さぶ》しみか 念ひて寐《ぬ》らむ 悔《くや》しみか 念《おも》ひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露の如也《ごと》 夕霧の如也《ごと》
 
〔題〕 吉備津采女 釆女はその生國又は郡の名を負ふ例であつて、吉備津采女は備中國津窪郡(もと津郡)から出た采女であらう。宣長は反歌に據つて「志我津采女」の誤としてゐるが、獨斷に過ぎよう。
〔譯〕 秋の山の紅葉のにほふやうに美しい女、弱竹のしなふやうな姿の女は、どのやうに思つてゐてか、まだ若く行先長い命であるのに、露こそは朝に置いて夕方には消えるといひ、霧こそは夕方に立つて、朝には消え失せるといふが、その朝露や夕霧の如くはかなくあの若々しい命が絶えたといふ、その噂を聞く自分でさへも、嘗てちらりと見かけたに過ぎないながら悔しく思ふのに、まして、柔かな腕を枕として、身に副へていねたであらう夫は、どんなにか寂しく思つて寢ることであらう。どんなにか悔しく思つて戀ひ慕ふことであらう。まだ死ぬやうな時でもないのに、早く死んだこの女は、朝露や夕霧のやうに脆いことではある。
〔評〕 秋山の紅葉のかがやくごとき美しい顔ばせ、なよ竹の撓み靡くやうになよびかな姿、麗人吉備津采女が髣髴として限前に見えるやうである。春秋に富む身をもつて逝いたこの麗人のはかなさは、朝露夕霧のごとくにも思はれる。嘗てちらりと見ただけの自分でさへ、かくも悲しいのに、ましてその夫なる、人の心は如何であらうと、同情をしたところ、甘い感傷でなく、いかにも人間味に富んだ眞實の深さがある。かつ、辭樣や句法の上にも、人麿の他の作とは一風かはつた特異の姿を示してゐる。中にも、朝露夕霧の譬喩が頗る適切であり、結末に再びこれを點出して照應させたのは一層効果的であるが、殊に「朝露のごと、夕霧のごと」と半ば言ひさした如くにして切つた語法には、(206)餘韻嫋々の趣があり、綿々の愁情を搖曳させて盡きぬ概がある。
〔語〕 ○秋山のしたへる妹 秋山の紅葉の匂ふがごとく美しい女。「したふ」は四段括用の動詞で、木の葉の紅葉するをいふ。古事記の「秋山のしたひ男」の「したひ」も即ちこれで、秋山の木々の色の美しいやうな美男の意。○なよ竹のとをよる子ら 「なよ竹」はなよなよとした若竹で、「とをよる」はたわみ靡くの意。なよ竹のたわみ靡く如く、姿のなよやかなたをやめ。采女をさす。○栲繩の 栲で作つた繩。「長き」の枕詞。○長き命 行末長きの意。この下に一二句脱落したといふのも、又、下の「時ならず過ぎにし」に係けたといふのも無理で、やはり「を」を詠歎の助詞と見て「なるものを」と解すべきである。○失すといへ 次の句との間に「しかれども」を補つて解するがよい。その露や霧のやうにはかなく采女の死んだことを言外に含めてゐる。○梓弓 「音」の枕詞。「二〇七」參照。○音聞く吾も 噂に聞く我も。○ほの見し ほのかに見た、十分には見なかつたの意。○こと悔しきを 「を」は詠歎の助詞。○敷妙の ここは「枕」の枕詞。「七二」參照。○劔刀 「身にそへ」の枕詞。「一九四」「四七八」參照。○若草の 「夫」の枕詞。「一五三」參照。○その夫の子は 「子」は親しみ添へたもの。采女の夫をさす。采女は夫がある筈はないから、これは現職の采女ではないと思はれる。○不怜しみか念ひて寐らむ さびしく思うて寢てるであらう。○時ならず過ぎにし子らが 死すべき年齡でもなく死んだ子。「四四一」「四四三」等を引き、自殺であらうと見る説も多いが、明證はない。
 
    短歌二首
 
218 樂浪《ささなみ》の志我津《しがつ》の子らが【一に云ふ、志我の津の子が】 罷道《まかりぢ》の川瀬の道を見ればさぶしも
 
〔譯〕 志我津の女がこの世を去り、奧津城さして歸つて行つた通路なる此の川瀬の道を見れば、寂しいことである。
〔評〕 拔巧的な枕詞を用ゐたり、「罷道の川瀬の道」と、道を重ね用ゐたりして、格調を整へてゐる。しかし又「罷(207)道」は退去の路、ここは即ちつひの住家なる墓所への退路で、葬式の行列の通つた事實をいひ、「川瀬の道」は、川瀬に沿うた實景を表はしたのである。それ故、單に道を見て悲しいといふやうに詠んでも、情景がおのづから思ひあはされ、簡潔でおほらかな辭樣にこまやかな影をもつた萬葉の特色が見える。
〔語〕 ○樂浪の志我津の子ら 代匠記は「津」を引き出す爲に「ささ浪の志我」と置いたといふが、夫が志賀津に住んでゐたか、若しくは夫を持つてから志賀津にゐたかであらう、との説(講義)が妥當であらう。○罷道 墓穴に入るのを永遠の住所へ退去すると考へ、葬送の道を譬へたもの。
 
219 天數《そらかぞ》ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔《くや》しき
 
〔譯〕 大津の采女と出逢つた日に、その美しい姿をいい加減に見てゐたものだから、今になつて悔しいことである。
〔評〕 麗人の死を惜しんで、生前にもつとよく見ておけばよかつたものを、と後悔して惆悵の思を抒べたのである。格調は古典的であるが情は清新である。人間の共通の感情に觸れてゐる故であらう。偉大な詩人は最も人間的である。
〔語〕 ○天數ふ 漠然と凡そに數へる意で「大津」にかける枕詞とも、或は天空の星を數へて「多い」意で「おほ」に係けるともいふ。○大津の子が逢ひし日 「逢ふ」は男女交合の意や、或る機會、場合等に意識的に會ふ意の時は、自分を主として、「吾妹子に逢ふ由をなみ」(二六九五)「榮ゆる時に逢へらく思へば」(九九六)等のごとくいひ、豫期せず他人と邂逅する意の時は、先方を主として「大津の子が逢ひし日に」、「依網の原に人も逢はぬかも」(一二八七)等のごとく、對手が自分に逢ふといふのが、古い語法である。○おほに見しかば 好い加減に見てゐたので。「おほ」は、おろそかに、不十分にの意。
 
    讃岐の狹岑《さみね》の島に石の中に死《みまか》れる人を視て、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
 
(208)220 玉藻よし 讃岐の國は 國柄《くにから》か見れども飽かぬ 神柄《かむから》か ここだ貴《たふと》き 天地《あめつち》 日月とともに 滿《た》りゆかむ 神の御面《みおも》と 繼《つ》ぎ來《きた》る 中の水門《みなと》ゆ 船浮けて  吾が榜《こ》ぎ來《く》れば 時つ風 雲居に吹くに 奧《おき》見れば 跡位浪《とゐなみ》立ち 邊《へ》見れば 白波さわく 鯨魚取《いさなと》り 海を恐《かしこ》み 行く船の 楫《かぢ》引き折りて 彼此《をちこち》の 島は多けど 名ぐはし 狹岑《さみね》の島の 荒磯面《ありそも》に 廬《いほ》りて見れば 浪の音《と》の 繁き渡邊を 敷妙《しきたへ》の 枕にして 荒床《あらどこ》に こやせる君が 家知らば 行さても告げむ 妻知らば 來《き》も問はましを 玉|桙《ほこ》の 道だに知らず 欝悒《おぼほ》しく 待ちか戀ふらむ 愛《は》しき妻らは
 
〔題〕 狹岑島 今は沙彌島といふ。仲多度郡で、鹽飽諸島の一、宇多津町の北にあり、長十町横三町餘の小島。「さみね」の「ね」は峯の義で、反歌に「さみの山」とある。
〔譯〕 讃岐の國は、國がらのよい故か、見ても見ても飽かず、又うしはき給ふ神さまゆゑか、大層貴いことである。讃岐は、天地日月と共に永久に滿ち榮えて行くであらう神の御顔の國として、神代の昔から續いて來たが、この讃岐の國なる中の湊から、舟を浮べて漕いで來ると、潮時の風が雲ゐに高く吹くので、沖を見ると、繁き浪が立ち、岸邊を見ると、白浪が騷いでゐる。この海を恐れつつ、船の艪を強く引きしをつて漕ぎ進み、さてあちらこちらに島々は多いが、名高い狹岑の島の荒磯に舟をつけ、旅の假屋を作つて其の邊を見ると、浪の音の頻りにする濱邊を枕にして、荒々しい床に、死んでゐる旅人がある。この人の家を知つてゐるならば、行つて告げてもやらうものを、この人の妻がかうと知つたならば、來て介抱もするであらうものを。尋ねて來る道も知らないで、おぼつかなく思ひながら、ひたすら夫の歸りを待ち戀うてゐるであらう、可愛い妻は。
(209)〔評〕 讃岐の國の風光を稱へつつ中の港から漕いでゆくうち、滿潮時の風が吹くにつれて、浪が立ち騷いで海が荒れ初めた。そこで船を早めて狹岑島に漕ぎつけ、廬を結んで旅寢の用意をした時、濱邊に旅人の屍體を發見したのである。そこまでの敍述は、誇張もなく的確であつて敍事詩的な精彩がある。それ以下は死人にそそぐ同情である。旅の苦しさや自然の荒々しさにつけ、それに對して温く想ひ起されるのは、家庭生活であり、特にその中心たる妻のことである。「家知らば行きても告げむ」に人情詩人たる人麿の面目と、對人的な温情が認められる。又この悲惨な屍に、終始禮節を以て愛惜の情を捧げてゐるのも、人麿の人間愛を語るものである。旅行の困難な當時には、この種の死人も多かつたであらうし、それを見た旅人は、自分もまたいつさういふ連命に陷らぬとも限らぬといふ感愴に悚然たるものがあり、よそごとならぬ同情が起つたであらうことは想像に難くない。卷九の田邊福麿の歌集中の作には、「足柄の坂を過ぎて、死人を見て作れる歌一首」(一八〇〇)があり、卷十三には「備後國神島の濱にて、調使首、屍を見て作れる歌一首并に短歌」(三三三九)がある。
〔語〕 ○玉藻よし 「讃岐」の枕詞。海岸の玉藻を讃めたもので、「よし」は「あをによし」の「よし」に同じ。○國柄か 國のよき故か。「から」は「神柄」の「から」に同じく、故の意。○神柄か 神は土地そのものをさしてゐる。これは古代人の思想で、例證も少くない。○ここだ 「こゝば」「こゝだく」等に同じく、甚しく數おほくの意。○天地日月とともに滿り行かむ 天地日月とともに永久に滿ち足らひ榮えて行くであらう。○神の御面と 古事記に「次生2伊豫之二名島1、此島者身一而有2面四1」云々とあるのによつて、讃岐國を讃へたもの。○繼ぎ來る 神代よりいひつぎ來れるの意とする考の説、人麿の西國に來る行路の次第を來るつぎつぎといふとした童蒙抄の説、中は始の次に來る意で、「中」の枕詞と見る代匠記及び全釋の説等、區々であるが、神代から今日まで承け繼いで來たと解するのが穩かであらう。○中の水門 今の丸龜附近の中津であらう。今は仲多度郡であるが、昔は那珂郡といつた。沙彌島の西南に當る。○時つ風 時刻を定めて吹く風。「時つ風吹くべくなりぬ香椎潟」(九五八)。○跡位浪 「跡座浪の立ち(210)さふ道を」(三三三五)ともあるが、「とゐなみ」と訓み、意味不詳とする外あるまい。○鯨魚取り 「海」の枕詞。「一三一」參照。○楫引き折りて 楫は櫓や櫂の總稱。引き折りは引き撓めて。○名ぐはし 「五二」參照。よき名のある、名高きの意。○荒磯面に 荒磯の上に。「面」は川づら、海づらなどの「つら」に同じ。○荒床に 死人の伏してゐる所を床と見なして、荒々しい床といつたとする攷證の説がよい。○こやせる君が 荒床に臥してをられる死者が。○欝悒しく 氣がかりに。不安に。「一八九」參照。○愛しき妻らは いとしいその妻は。この句は「玉桙の」の上にあるべきを、調を重くする爲に、倒置法を用ゐたのである。
〔訓〕 ○跡位浪 舊訓アトヰナミ。考にシキナミと訓んで「重波」の意とし、諸註多く從つてゐるが、さう訓む理由が無い。○散勤 舊訓トヨミは不可。童蒙抄シラナミサワギ。今、考の訓に從ふ。サワクは、清音とすべきであるとする古音清濁考や、武田博士の説による。
 
    反歌二首
221 妻もあらば採《つ》みてたげまし佐美《さみ》の山野の上《へ》の宇波疑《うはぎ》過ぎにけらずや
 
〔譯〕 妻が居たならば、摘んで食べたことであらう、この佐美の山の野邊の嫁菜は、いたづらにさかりが過ぎてしまつたではないか。
〔評〕 狹岑島は今の沙彌島といふ孤島であるから、この屍は航海の難に遭つて漂着したものであらう。しかし作者は、餓死と想定してうたつたのである。餓人の臥してゐる近くの山には、嫁菜が盛を過ぎて伸びてゐた。嫁菜と云へば、都會人たる人麿には、野遊にそれを摘む女たちが聯想に上つて來るので、直に死せる旅人の妻に想到した。さうして嫁菜がかやうに伸びてゐるのは、それを摘む妻がゐなかつた故であらう。妻がゐたならば、それを煮て食べさせたので、餓死はしなかつたであらう、と推量したのである。屍といふ痛ましい物から、餓死といふ悲惨な現象を想像し、(211)嫁菜からは可憐に優しい妻の振舞を思ひ出し、この二つを結びあはせて、幼くしかも巧妙に趣向をめぐらしたのである。趣向をめぐらしたとは云へ、屍と嫁菜との對照がいたく詩人の空想を動かした樣も思はれ、少しも自然さを失つた技巧に墮してはゐない。
〔語〕 ○採みてたげまし 摘んで食べたであらう。宇波疑につづく連體格。「たげ」は「髪たぐ」などと同語で死屍を取り上げる意とした宣長説は誤で、それは四段、これは下二段で活用が違つてゐる。飲み食ひする意。皇極紀の童謠に「岩の上に猿米燒く、米だにもたげて通らせ」また上宮法王帝説に「たげてましもの富の井の水」、その他例が多くある。○宇波疑 今いふ嫁菜。○過ぎにけらずや 摘んで食ふべき時が空しく過ぎて了つたではないか。
 
222 奧《おき》つ波|來《き》よる荒磯《ありそ》を敷妙の枕と纒《ま》きて寢《な》せる君かも
 
〔譯〕 沖の浪の寄せるこのさびしい荒磯を枕として、永久に寢てをられる君よ、まことに痛ましいことである。
〔評〕 長歌の中の「波の音の繁き濱邊を、敷妙の枕にして、荒床にこやせる君が」といふ中心點を拔き取つて短歌としたもの。禮節をもつてこの横死者を弔ふ作者の心持が感じられ、温い同情の中に、肅然として讀者の襟を正さしめる響がある。
〔語〕 ○寢せる 動詞「寢《ぬ》」の敬語「なす」の已然形に完了の助動詞「り」の漣體形が接したもの。寢てゐられる。
 
    柿本朝臣人麻呂、石見國に在りて臨死《みまか》らむとせし時、自ら傷みて作れる歌一首
223 鴨山の磐根し纒《ま》ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ
 
〔題〕 石見國に在りて臨死らむとせし時 これは人麿の死んだ處を示すものとして特に注意せられる。又ここに「死」とあるによつて、人麿が六位以下であつたことが推定される。
(212)〔譯〕 この鴨山の岩根を枕にして死にかけてゐる自分を、さうとは知らないで、妻がひたすらに待ち焦れてゐることであらう。
〔評〕 「鴨山の磐根し纒ける」を、死して埋葬せられることを豫想したものとする説もあるが、語句のままに取れば、旅行中、俄に病を發したものと見なくてはならぬ。この方が情景相待つて、あはれが深い。たださへ苦しい旅であるのに、一人病に臥して死を豫感し、再起不能を覺つたのであるから、家なる妻への思ひも痛切なものがあつたであらう。しかも、かかる事とは知る由もなく、ひたぶるに我が歸りを待つてゐるであらう妻の心中を思うて、文字通り死よりもつらい悲痛に悶えてゐる。最後まで人を愛しいつくしんだ人麿の姿が躍動してゐる。
〔語〕 ○鴨山 古來異説が多く、高角山と同じ處といふ説や、那賀郡神村といふ説が比較的有力であるが、最近、齋藤博士は、江の川の近くの邑智郡粕淵村の津目山で、邑智郡龜村が鴨に當るとの新説を發表された。○磐根し纒ける ここに葬るの意ではなく、假庵を作つて寢てゐる意と見るが妥當であらう。「八六」參照。○知らにと 知らないで。「に」は打消の助動詞「ず」の連用の古形、「と」は終止形を受けるのが普通であるが、「そこも安加爾等」(三九九一)、「うかがはく斯良爾登」(古事記)などの如き例がある。なほ「二三九」參照。
 
    柿本朝臣人麻呂|死《みまか》りし時、妻|依羅《よさみの》娘子か作れる歌二首
224 今日《けふ》今日《けふ》と吾が待つ君は石川の貝に【一に云ふ、谷に】 交《まじ》りて在りといはずやも
 
〔題〕 依羅娘子 「一四〇」參照。恐らく夫の留守宅にゐたので、鴨山から遠く隔たつてゐたのであらう。
〔譯〕 今日か今日かと私の待ち焦れてゐる夫君は、あの石川の貝にまじつて葬られていらつしやると言ふではないか。
〔評〕 夫の終焉の地を痛ましく思ひやつたのである。「貝に交りて」といふ句は、幼くはあるが、故巧を以ては企及し難い句である。石川といふ地名から想像して、感覺に映ずるままを直觀的にいつたので、いひ馴らされた觀念に囚(213)はれぬ新しさがあり、一に「谷」とある常識的なるよりも遙にすぐれてゐる。
〔語〕 ○石川の 川の名らしい。齋藤博士の説では、江の川のことで、石川は石の多い川の義、普通名詞的な命名法であるといふ。○貝に交りて 貝と一緒になつて葬られてゐる。また「峽」の借字で、峽谷に入りこんでの意とする説もある。
 
225 直《たた》の逢《あひ》は逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
 
〔譯〕 現實に逢ふことはもう出來ますまい。せめては夫の葬られてゐる石川に雲よ立ち渡つてくれ。それを眺めつつなつかしい夫の面影を偲ばう。
〔評〕 その考が現實的であり、形あるものに即いて思をめぐらすを常とした上代人にとつては、形見といふものが今日よりも更に切實な意義を持つてゐたであらう。よすがとする形が無いといふことは、堪へ難い悲しみであり、寂しみであつた。そのことを念頭に置いて見なくては、この歌を始め、齊明紀の御製「伊麻紀なる乎武例が上に雲だにも著くし立たば何か歎かむ」や、集中の「雲だにも著くし發たば意遣り見つつもあらむ直に逢ふまでに」(二四五二)「我が面の忘れむ時《しだ》は國はふり峰《ね》に立つ雲を見つつ偲はせ」(三五一五)などの眞情を酌むことは出來ないであらう。○直の逢は 直接に、即ち現實に逢ふことは。○逢ひかつましじ 逢ふことは出來まい。「ありかつましじ」(九四)參照。○雲立ち渡れ 命令法で、下に「さうすればせめて」を補つて解する。
 
    丹比眞人《たぢひのまひと》【名闕く】柿本朝臣人麻呂の意《こころ》に擬《なぞ》へて報《こた》ふる歌一首
226 荒浪に寄りくる玉を枕に置き吾《われ》ここにありと誰《たれ》か告げげむ
 
〔題〕 丹比眞人 「一六〇九」「一七二六」にも同じやうに見える。丹比は氏、眞人は姓。集中名の明かな丹比氏の人(214)は、乙麻呂・笠麻呂・國人・鷹主など數人見えるが、その中の誰かであるか、また別人かは固より明かでない。擬意は、人麿の心を推量し擬へる意。報歌は、依羅娘子の歌に報へる意。
〔譯〕 荒い波に打たれて寄つて來る玉を枕邊に置いて、自分がここに臥してゐるといふことを、誰が妻に告げてくれたのであらうか。
〔評〕 「石川の貝に交りて」とあることから、人麿の最後の地を想像して、「荒浪に寄りくる玉を枕に置き」と詠んだのである。人麿の心になつて作つた歌であるから、もとより實感はない。しかし、大詩人の屍の枕のあたりに浪に打ち上げられ美しい貝があるといふ想像は、捨て難い趣を持つてゐる。
〔語〕 ○寄りくる玉を 浪に打寄せられて來る玉を。玉はここは美しい貝や石をさす。○告げけむ 誰が妻の許へ告げ知らせたのであらうか。
 
    或本の歌に曰く
227 天離《あまざか》る夷《ひな》の荒野に君を置きて念《おも》ひつつあれば生《い》けりともなし
     右の一首の歌、作者いまだ詳ならず。但、古本この歌を以《も》ちてこの次に載す。
 
〔譯〕 田舍の荒涼たる野原に、君を一人置いて、遠く離れて君のことを思ひ續けてゐると、生きてゐる心地もしない。
〔評〕 これは上に出た人麿が亡妻を悼んで詠んだ歌、「衾路を引出の山に妹を置きて山路念ふに生けりともなし」(二一五)の模倣である上に、「天離る夷の荒野」が一般的な辭樣であるから、一向特色のない歌になつてゐる。
〔語〕 ○天離る 「二九」參照。○君を置きて 君を葬り置いて。○生けりともなし 「二一二」參照。但この歌と「二一五」「二五二五」とでは、「と」の用字上「いけると〔傍点〕もなし(とごころ、こころど等のとに同じ)」と訓み且解すべきかも知らぬ。
 
(215)   寧樂宮《ならのみや》
    和銅四年歳次辛亥、河邊《かはべ》の宮人《みやびと》、姫島の松原に、孃子《をとめ》の屍を見て悲嘆《かなし》みて作れる歌二首
228 妹が名は千代に流れむ姫島の子松《こまつ》が末《うれ》に蘿《こけ》生《む》すまでに
 
〔代號〕 寧樂宮 卷一に同じ標目がある。ここには元明天皇の和銅三年三月、平城遷都以後の歌を載せてゐる。
〔題〕 河邊宮人 傳不詳。「四三四」にも同じ名が見える。 姫島松原 仙覺抄に攝津風土記を引いて説明してゐる。姫島の名は、日本紀、續紀に見えるが、古事記傳には西成郡で、今の大阪市の西北方の稗島といふ所とし、日本書紀通釋には、本生郡猪飼野村の西北の姫島と注してゐる。
〔譯〕 屍となつて、ここに横たはつてゐる孃子はいとしくはあるが、佳人としてのその名は、千年の後までも傳はるであらう。この姫島の小松が大きくなつて梢に苔が生えるほど遙かな後の世までも。
〔評〕 名を後世に語り傳へられることを名譽とした時代の思想があらはれてゐる。「千代に流れむ」では、漠然としてゐるので、更に松原の小松をとつて、的確に時の觀念を現はさうとしたのである。作者が孃子の名を明記しておいたならば、その名は萬葉と共に不朽であつたであらうに。
〔語〕 ○千代に流れむ 千代までも長く傳はるであらう。○蘿生すまでに 「蘿」の字が書いてあるので、普通の苔でなく、サルヲガゼのことと見た註疏の説がよい。
 
229 難波潟《なにはがた》潮干《しほひ》なありそね沈みにし妹が光儀《すがた》を見まく苦しも
 
〔譯〕 この難波潟には、潮の干るといふことが無くてほしいものである。潮が干ると、底に沈んだ孃子の姿を見るのが、いたはしく苦しいから。
(216)〔評〕 題詞には「孃子の屍を見て」とあるが、實は作者はそれを見ないで、寧ろ入水の娘子の屍が潮干の潟に現はれるのを怖れてゐるのである。「沈みにし」を屍が底に沈んだものと見て、潮干によつて再び現はれることを怖れたとする説もあるが、それはあまりに言葉に囚はれたもので、「沈みにし」は入水の事實を云つたと見るべきである。
〔語〕 ○潮干なありそね 潮の干ることはあるなよ。○見まく苦しも その姿を見ることがいたはしくつらいことよ。
 
    靈龜元年歳次乙卯秋九月、志貴親王《しきのみこ》の薨《みまか》り給ひし時、作れる歌一首并に短歌
230 梓弓 手に取り持ちて 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手挿《たばさ》み 立ち何ふ 高圓《たかまと》山に 春野燒く 野火と見るまで 燎《も》ゆる火を いかにと問へば 玉|桙《ほこ》の 道|來《く》る入の 泣く涙 ※[雨/泳]?《ひさめ》に降り 白妙の 衣《ころも》濕《ひづ》ちて 立ち留《とま》り 吾に語らく 何しかも もとな言へる 聞けば 哭《ね》のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇《すめろき》の 神の御子《みこ》の 御駕《いでまし》の 手火《たび》の光りぞ 幾許《ここだ》照りたる
 
〔題〕 志貴親王 「五一」參照。但、志貴親王は、續紀によれば靈龜二年八月薨じ給うたとあり、この記述と一年違ふので種々の説がある。誤字とする考の説は別として、一は代匠記の説で、これは、卷一に見えた方とは別の方で、天武天皇の皇子、磯城皇子であるとする。(この方の薨去年月は史に見えない)他の一は攷證の説で、皇子の薨去は實は元年であるが、この年の九月は元正天皇の御即位の事があつた爲、忌み憚つて、薨奏を翌二年八月に延ばしたから、その日を續紀に記したとするのである。事實さうした處置があつたかどうかは疑問であるが、とにかく卷一に見える天智天皇の御子の志貴皇子であることは確であらう。この方の御陵は高圓山の東にあるからである。
〔譯〕 高圓山に、春の野を燒く野火であらうと見るほど、澤山燃えてゐる火を、「あれはどうした火であるか」と問ひ聞くと、道を歩いて來た人は、泣き悲しむ涙が雨のやうに落ちて、着物がぐつしより濡れながら、立ち留つて自分(217)に話していふには、「どうしてお前はよしなくもそんな事をたづねるのか。それを聞くと、聲を上げて泣かれ、話をすれば胸が痛んで來る。あれこそは、天皇の御子樣の御葬列の人々の手に持つ松明の光が、あのやうに澤山に照つてゐるのである」。
〔評〕 挽歌に珍しい形式である。高圓の野に炎々と燃える松明の光を背景として、その火について、問答的に皇子御斂葬の悲しみを述べてゐる。ことに一人の男があつて、時ならぬに春野燒く野火かと見える事を怪しんで、道行く人に尋ねると、その人は涙ながらに答へる。まづ問ふ人の迂闊さを詰るやうに云ふ、「何しかももとな言へる」の調子が躍動してゐる。又問ふ人が長い序詞などを用ゐて悠々と詠んでゐるのは、何も事情を知らぬ體で、心のゆとりを示してゐるのに反し、答へる者は切迫した口調で、小刻みに刻み立ててゐるのも、おのづから兩者の氣分を反映してゐるやうである。かやうな對照によつて、一層悲哀の心持が全篇に掩ひ廣がつてゐる。松明の燃える野を背景に、情景兼ね備はつて、印象の鮮かな劇的構圖を持つた作である。
〔語〕 ○得物矢手挿み立ち向ふ 冒頭以下ここまでの六句は「高圓山」の序で、立向ひ矢を射る的の意にいひかけたのである。「ますらをのさつ矢手挿み立ち向ひ射る的方は見るに清けし」(六一)に似てゐる。○高圓山 奈良市の東で、春日山の南方に續いてゐる山。○番野燒く 「野ごとにつきてある火の」(一九九)參照。○※[雨/泳]?に降り 大雨のやうに涙が流れて、「ひさめ」は大雨の義。○何しかも 何でまあ。○もとな言へる 山田博士の母等奈考に、「もと」は名詞で、根元又は根據の義、「な」は、「無し」の語幹で「もとな」は「理由なく」が原義。轉じて、わけもなく、よしなく、みだりに、などの意に用ゐられてある。ここは、よしなくの意。○御駕の ここでは、御葬送をいふ。○手火 御葬列にある人々の持つ炬火。○許多照りたる 澤山照つてゐる。「ここだ」は「二二〇」參照。「何しかも」以下この句まで、道行く人の答の言葉である。
〔訓〕 ○※[雨/泳]? 金澤本、類聚古集、西本願寺本等に、文字の異同がある。訓を、舊訓のコサメに從ふ學者もある。○(218)落 流布本に落者とあり、フレバと訓んでゐるが、類聚古集等に「者」なき准により、フリとよむ。
 
    短歌二首
231 高|圓《まと》の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに
 
〔譯〕 高圓の野邊の秋萩は、空しく咲いては散つてゐることであらう。もう御覽遊ばす皇子樣もいらつしやらないで。
〔評〕 高圓の野は萩や花を以て聞えてゐた。この野に親王の宮殿があつたのであらう。愛で賞し給ふ親王の既にましまさぬを嘆いた作者の歎息、一見平凡に似て、深く人を動かす眞情流露の作である。
〔語〕 ○咲きか散るらむ 咲いては散ることであらうか。
 
232 三笠山野邊行く道は許多《こきだく》も繁《しじ》に荒れたるか久《ひさ》にあらなくに
     右の歌は笠朝臣金村の歌集に出づ。
 
〔譯〕 三笠山の裾野を通る道は、大變に草が繁く荒れたことであるよ。皇子さまがお隱れ遊ばしてから久しいことでもないのに。
〔評〕 薨去の後久しい時日も經たないのに、故親王の宮殿に通ふ道の荒れたのを嘆いたことで、おのづから宮殿の荒廢も察せられよう。ありのままを素朴に述べながら、却つて惆悵の趣が深いのは、眞實の尊さである。
〔語〕 ○三笠山 「み」は尊敬の意の接頭語で蓋《きぬがさ》の形をした山の意。春日大社の背後の山で、今の嫩草山ではない。○許多も 「こゝだ」(二二〇)に同じ。大變に、非常に。○繁に荒れたるか 草が繁りて荒廢したことかなの意。
〔左註〕 笠朝臣金村歌集 金村が自分の歌を主として集めたもの。多く年月の注がある。金村は後にも出るが、傳未詳、奈良時代初期の人。
 
(219)    或本の歌に曰く
233 高圓の野邊の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ
 
〔譯〕 高圓の野邊の秋萩の花よ、どうか散らないでゐてくれ。お亡くなり遊ばした皇子さまのを形見として眺めつつお偲び申し上げようから。
〔評〕 愛する人を偲ぶよすがとして、その人の愛する草花を庭に植ゑるのは、萬葉人の常であつた。まして、亡き人の愛でた萩の花をそのまま形見として思慕する心は、切實なものであつたであらう。「見つつ偲はむ」は、成句的な表現法にはなつてゐるが、人を偲ぶよすがとして眼に見る物を必要とした上代人の特性を語つてゐる。それは人間の通有性ではあらうけれども、上代人には特に深いものがあつたのである。なほ亡き人の形見として花を愛でる歌には、家持の「秋さらば見つつしのへと妹が植ゑし屋前の石竹《なでしこ》咲きにけるかも」(四六四)などもある。
 
234 三笠山野邊ゆ行く道|許多《こきだく》も荒れにけるかも久にあらなくに
 
〔評〕 上の「二三二」の歌の異傳である。「荒れにけるかも」は、「繁《しじ》に荒れたるか」よりも流暢ではあるが、類型的な表現になつてゐる。「二三二」の方が、的確に表現しようとしてゐるだけに、力がこもつてゐる。
 
萬葉集卷第二終
 
(221)萬葉集 卷第三
 
(223)概説
 
 卷三は、次の卷四と共に一部を成せるものであり、相聞を除いた雜歌・譬喩歌・挽歌の三類である。卷三四より成れる一部は、もと卷一二より成れる一部を摸したものかと思はれるが、その分類には新たに譬喩歌が設けられてゐる。内容はすべて相聞歌であるによれば、相聞歌のうち、譬喩的技巧の著しいもののみを區別したと見るべきであらう。なほこの分類が、卷七と一致してゐることは、その間に何等かの關係を思はしめるものがある。
 この卷の歌數は、次のごとくである。
 難 歌  長歌  一四  短歌 一四四(うち異傳歌、長一、短四)
 譬喩歌  ‥‥      短歌  二五
 挽 歌  長歌 九    短歌  六〇
 計    長歌 二三   短歌 二二九(うち異傳歌、、長一、短四)
 即ち、長歌短歌合せて二百五十二首、異傳歌を除いて二百四十二首となる。この卷にも旋頭歌は見えないが、第五句の異傳を第六句とし、佛足石體歌と推定せられてゐる歌が二三首ある。なほ、卷十五に掲げてある遣新羅使人の船中で誦した歌は、この卷の三の歌が多い。
 雜歌は、詠作半時の知られる範圍は、大寶二年持統天皇行幸の際の歌より、天平五年大伴坂上郎女の祭神の歌までであり、譬喩歌も詠作年時は不明であるが、紀皇女の一首を除けば、大體天平初年頃からで、最後は家持が坂上大孃に贈つたもの、天平十年前後のことであらう。挽歌は古く推古天皇御代の聖コ太子の作といふのが掲げられてゐるが、(224)それは日本紀所載の太子の長歌を後人がちぢめ歌つたものと思はれる。從つて藤原時代の大津皇子の辭世の作より、天平十六年高橋朝臣が、妻の死を悲傷した歌までであり、天平十七年以降の歌は、この卷には全くない。卷一二に比すれば、時代の下つたものが多いが、萬葉集全體としては中ほどというてよいであらう。
 作者の名のあるは七十餘人、その他に人麿歌集、蟲麿歌集、金村歌集より採録したものが、各一首あり、作者不詳の歌は十首以下である。大津皇子、弓削皇子、志貴皇子、春日王、長田王、長屋王等の名は見えるが、卷一二に比して皇族の作が少なく、山部赤人、大伴旅人、同家持、その他大伴家關係の人々の名が多くなつてゐる。歌數の多い作者としては、人麿(長二、短二〇)、黒人(短一二)、旅人(長一、短二八)、家持(長三、短一八)等であり、女流は大伴坂上郎女(長二、短四)が多く、他はそれ以下である。
 長歌としては、長皇子が獵路地に出遊せられた時の人麿の作(二三九−二四一)、赤人の不盡山の歌(三一七、三一八)、高橋蟲麿と考へられる不盡山の歌(三一九−三二一)、神岳に登つた時の赤人の作(三二四、三二五)、大伴坂上郎女の祭神の歌(三七九、三八〇)、丹比國人の筑波岳の歌(三八二、三八三)、若宮年魚麿の誦した?旅の歌(三八八、三八九)、石田王の卒した時の丹生王の作(四二〇−四二二)、眞間娘子の墓を過ぎた時の赤人の作(四三一−四三三)、丈部龍麿の自經をあはれんだ大伴三中の作(四四三−四四五)、新羅の尼理願の死を悲嘆した坂上郎女の作(四六〇、四六一)、安積皇子の薨ぜられた時の家持の作(四七五−四七七)等が注意せられる。
 短歌のうち、特に勝れたものを抄出する。
  瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに 弓削皇子 二四二
  玉藻苅る敏馬を過ぎて夏草の野島の埼に船近づきぬ    人麿   二五〇
  淡路の野島の埼の濱風に妹が結びし紐吹きかへす     同上   二五一
  天ざかるひなの長道ゆこひ來れば明石の門より大和島見ゆ 同上   二五五
(225)  もののふの八十うぢ河のあじろ木にいさよふ波の行方知らずも 同上 二六四
  苦しくもふりくる雨か神の埼狹野のわたりに家もあらなくに 奧麿  二六五
  淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ  人麿   二六六
  櫻田に鶴鳴きわたるあゆち潟潮干にけらし鶴鳴きわたる  黒人   二七一
  此處にして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり 石上卿 二八七
  吾が命しまさきくあらば又も見む志賀の大津に寄する白波 穗積老  二八八
  廬原の清見の埼の三保の浦のゆたけき見つつもの思ひもなし 益人  二九六
  大王の遠の朝廷と在り通ふ島門を見れば神代し念ほゆ   人麿   三〇四
  かく故に見じといふものを樂浪の舊き都を見せつつもとな 黒人   三〇五
  さざれ波磯こせぢなるのとせ河音のさやけさたぎつ瀬ごとに 少足  三一四
  富士の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかり棚引くものを 蟲麿  三二一
  あをによしならの都は咲く花の薫ふがごとく今さかりなり 小野老  三二八
  憶良らは今はまからむ子なくらむ其の彼の母も吾を待つらむぞ 憶良 三三七
  驗なき物を思はずは一つきの濁れる酒を飲むべく有らし  旅人   三三八
  いはむすべせむすべ知らに極まりて貴きものは酒にし有らし 同上  三四二
  丈夫の弓ずゑ振起し射つる矢を後見む人は語りつぐがね  金村   三六四
  吉野なる夏實の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして   湯原王  三七五
  陸奧の眞野のかや原遠けども面影にして見ゆとふものを  笠女郎  三九六
  妹として二人作りし吾が山齋は本高く繁くなりにけるかも 旅人   四五二 
(226) 用字法は、卷一二とほぼ同じであるが、家持の歌には、一音一字式の假名書もあり、彼の後年の表記法の萌芽も見える。また義訓のうちに、「テシ」の假名に「義之」を用ゐてをり、書道に於ける王羲之尊重のほどが伺はれ、「シシ」の假名に「十六」としてゐるのを見れば、當時掛算の九九が行はれてゐたことも知られる。かくのごとく、義訓には當時の文化を反映してゐるのが尊い。
 
(227)萬葉集 卷第三
 
  雜歌《ざふか》
 
    天皇、雷岳《いかづちのをか》に御遊《いでま》しし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首
235 皇《おほきみ》は神にしませば天雲《あまぐも》の雷《いかづち》の上《うへ》に廬《いほ》らせるかも
     右は或本に云ふ、忍壁皇子に獻れるなりと。その歌に曰く
    王《おほきみ》は神にしませば雲|隱《がく》る雷山《いかづちやま》に宮敷きいます
 
〔題〕 天皇雷岳に御遊しし時 天皇は持統天皇。雷岳は「一五九」に神岳と見えた山である。飛鳥村雷にあり、飛鳥の神奈備の三諸山ともいふ。雷の丘の名の起源については、雄略紀に傳説が見えてゐる。
〔譯〕 大君は神でいらせられるから、大空の雲に鳴りはためく雷を名に負うた此の山の上に、假の御いほりを立てていらせられますことよ。
〔評〕 内容と調子と一致して、尊崇の眞情を、壯大にうたつた歌。雷といふ地名をたくまずしてたくみに用ゐてある。或本の歌は、三句の「雲隱る」が弱く、四・五句も平板になつてをり、また末尾の「います」が響が弱いために、著しく全體の調子を低くしてゐる。
〔語〕 ○雷の上 雷岳の上を、天上の雷の上のやうにいひなしたもの。
〔訓〕 ○廬らせるかも 白文「廬爲流鴨」、イホリセルカモと多くは訓んでをる。また,「流」を「須」の誤として、(228)イホリセスカモと訓む説もあるが、原字面のままで、イホラセルカモと訓む大野晋氏の説によつた。
〔左註〕 右或本に云ふ 或本には、右の歌は人麿が忍壁皇子に獻じたと傳へるとの意。忍壁皇子は「一九四」參照、
 
    天皇、志斐嫗《しひのおみな》に腸へる御歌一首
236 不聽《いな》といへど強ふる志斐のが強語《しひがたり》このごろ聞かずて朕《われ》戀ひにけり
 
〔題〕 天皇志斐嫗に賜へる御歌 天皇は同じく持統天皇、志斐嫗は不詳であるが、御側に仕へてをつたであらう。志斐は氏。「嫗」は「一二九」參照。
〔譯〕 聞きたくないといつても、強ひていつも話す志斐の嫗の無理強ひ話も、この頃聽かないのでこひしく思はれる。
〔評〕 二句三句に同音を疊んだところ、頗る輕快で、この諧謔味に富んだ内容にふさはしい。君臣の間の親しみもゆかしく、天皇の闊達明朗な御氣性も拜察せられて、ほゝゑましい。
〔語〕 ○志斐の 「の」は「しなざかる越の君のと斯くしこそ」(四〇七一)、「夫《せな》のが袖もさやに振らしつ」(三四〇二)などとも見え、常に人を表はす語の下にあるから、親愛の情をあらはす助詞、又は呼び掛けの助詞であらう。○強語 無理じひの話。○朕戀ひにけり その強語が戀しくなつたよ。
 
    志斐嫗の和《こた》へ奉れる歌一首 嫗の名、未だ詳ならず
237 いなといへど語れ語れと詔《の》らせこそ志斐いは奏《まを》せ強話《しひがたり》と言《の》る
 
〔譯〕 いいえお話し申しあげますまいと申しますのを、強ひて語れ語れと仰せられますからこそ、お話申すのでございますのに、それを強語《しひがたり》と仰せられますのは、心得られませぬ。
(229)〔評〕 これも機智に富んだ歌であるが、御戯れ言を畏み、かつはうち怨ずるやうに、また申譯をするやうに、しかも堅苦しくならない程度に、お親しみ申上げる心持で言上する調子が現はれてゐる。
〔語〕 ○詔らせこそ 詔らせばこそ。「然なれこそ」(一三)と同じ格。○志斐いは奏せ 「い」は主格を示す助詞。「紀の關守いとどめなむかも」(五四五)「けなの若子《わくご》い笛吹きのぼる」(繼體紀)その他、宣命などに用例がある。
 
    長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》、詔《みことのり》に應《こた》ふる歌一首
238 大宮の内まで聞ゆ網引《あびき》すと網子《あご》ととのふる海人《あま》の呼び聲《ごゑ》
     右一首
 
〔題〕 長忌寸意吉麻呂 傳不詳。「五七」參照。この行幸は「六六」の持統天皇の行幸か、又は「七一」の文武天皇の行幸か、いづれかであらう。
〔譯〕 この御殿の内までも聞えてまゐります、網を引くとて、網引の人數を揃へる漁師の呼聲が。
〔評〕 大和平原に住み馴れた大宮人の眼に、漁夫のなりはひの樣が珍しかつたのである。聞き馴れぬ漁夫のだみ聲にうち興ずるさまが躍如として出てゐる。大宮の内まで聞えて來ることで、明るく簡素な上代の離宮の樣も想像される。同じ難波宮での作に、「潮干れば葦邊に騷く白鶴《あしたづ》の妻呼ぶ聲は宮もとどろに」(一〇六四)とあるのも、その環境がよく描かれてゐる。
〔語〕 ○大宮の 難波長柄豐崎宮のこと。もと孝コ天皇の皇居で、以後も歴代の行幸が多かつた。○網子ととのふる 網引男たちを呼び集める意。「ととのふ」は整齊の意で人數を揃へ部署を定める等をいふ。「ととのふる鼓の音は」(一九九)參照。
 
(230)    長皇子、獵路《かりぢ》池に遊びましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
239 やすみしし 吾|大王《おほきみ》 高光る わが日の皇子《みこ》の 馬|竝《な》めて み獵《かり》立《た》たせる 弱薦《わかこも》を 獵路《かりぢ》の小野に 猪鹿《しし》こそは い匐《は》ひ拜《をろ》がめ 鶉《うづら》こそ い匐《は》ひもとほれ 猪鹿《しし》じもの い匐《は》ひ拜《をろ》がみ 鶉なす い匐《は》ひもとほり かしこみと 仕へ奉《まつ》りて ひさかたの 天《あめ》見るごとく 眞十鏡《まそかがみ》 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わが大王《おほきみ》かも
 
〔題〕 長皇子 天武天皇の皇子。「六〇」參照。獵路池今の大和國磯城郡多武峯村太字鹿路のことといはれてゐる。「遠つ人獵路の池に」(三〇八九)參照。
〔譯〕 安らかに天下をお治めになるべきわが皇子樣が、馬を竝べて、人々と共に獵をを催しになるこの獵路の野に、猪や鹿の類は這ひ拜んでをり、鶉は這ひまはつてゐる。自分等もその猪や鹿や鶉のやうに、御前に謹しみ畏んでお仕へ申し、大空を見るやうに、お見上げ申してゐるが、恰も新しく萌え出た春の草のやうに、見れば見る程いよいよお立派でお慕ひ申さずにはゐられぬわが皇子樣でいらせられることよ。
〔評〕 畏み仕へまつる樣を鹿や鶉に喩へて、人麿は高市皇子尊の殯宮の時の歌にも、「鹿じものい匍ひ伏しつつ――鶉なすい匐ひもとほり」(一九九)と述べてゐる。ここは、御獵の時の樣であるから、自分の額づく樣をかやうな鳥獣に譬へたのである。
〔語〕 ○やすみしし吾大王 ここは長皇子のこと。天皇をさし奉るのが普通であるが、皇子に用ゐた例もある。「二〇四」參照。○高光るわが日の皇子 上の「吾大王」と同格で長皇子のこと。「五〇」參照。○馬竝めて 大勢で馬に乘つて。「四九」參照。○み獵立たせる 御遊獵にお出かけなされた。○弱薦を 若い菰を苅る意で、「獵路」に(231)かかる枕詞。○い匐ひ拜がめ 「い」は接頭辭、這ひ拜むの意。○い匐ひもとほれ 這ひまはつてゐる意。「一九九」參照。○かしこみと 「と」は「二二三」の「しらにと」の「と」と同じく、副詞的修飾語を作る助詞で、「畏つて」の意。○眞十鏡 「見」にかかる枕詞。○春草の 枕詞。春の野に萠え出る草はみづみづしく愛づべきものであるから「めづらし」に係けた。○いやめづらしき 愈々益々めづらしい。「めづらし」は愛でるに値するの意。
〔訓〕 ○十六社者 「十六」は掛算の九九が當時から行はれてゐたことを示すもので、四四十六の意の戯書。
 
    反歌一首
240 ひさかたの天《あめ》行く月を網に刺しわが大王《おほきみ》は蓋《きぬがさ》にせり
 
〔譯〕 大空を渡り行く月を網で捕つて、わが皇子樣は、それを蓋《きぬがさ》にしておいで遊ばすよ。
〔評〕 御獵のお催しのうちに日が暮れて、さし昇る夕月の光の下に、皇子の英姿はいよいよ颯爽と御見あげ申される。夕月を蓋に見立てた譬喩が雄大にしてまた瑰麗。機智もあれば、空想的の美しさもある。
〔語〕 ○網に刺し 諸説あるが、月を網で捕へての意とした代匠記の説が妥當であらう。○蓋 貴人の外出の際さしかける天蓋のやうなもの、身分官位によつて樣式が異なる。新撰字鏡に「傘、蓋也。支奴加佐」とある。
 
    或本の反歌一首
241 皇《おほきみ》は神にしませば眞木の立つ荒山中に海をなすかも
 
〔譯〕 皇子樣は神樣でいらつしやるから、檜木の生えてゐる荒々しい山の中に、海のやうな大きな池をお作りになつたことである。
(232)〔評〕 遊獵の途上、山中の獵路の池を見て、天工に對する驚異を、皇子の威光に結びつけ、この池は、偉大なる皇子の力によつて生じたものと見なしたのである。自然から受けた驚異の情を、皇子への讃嘆に移し及ぼした構想は面白いが、著しい誇張の感が意識され、前の歌のやうな幻想的の美がなく、感覺的に讀者を頷かせる力に乏しい。
〔語〕 ○眞木の立つ 美しい檜の繁茂してゐる。○海をなすかも 別に題詞があつたのが脱ちたもので、勅命によつて此の池が掘られ、竣工の後、行幸の際、扈從の人の詠んだ歌と見る略解の説は想像に過ぎる。また皇子の御供をして行つた作者が、恐らく此の御代に掘らせ給うたであらうこの獵路の池を見、宏大な聖コを稱へまつつたものとする古義の説も稍々不自然で、結局、古からの池を、皇子の御威勢によつてこの山中に出來たと云つたのであらう。
 
    弓削皇子《ゆげのみこ》、吉野に遊びましし時の御歌一首
242 瀧《たぎ》の上の三船《みふね》の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに
 
〔題〕 弓削皇子 天武天皇の皇子。「一一一」參照。
〔譯〕 吉野川の上流の三船山に向つて、この優れた景色の愛でられるにつけても、自分はあの三船の山にかかつてゐる雲のやうに、永久の生あるものとは思はないことである。
〔評〕 山には大抵常に雲がかかつてゐる。三船山もさうであつたであらう。崇高な自然に對する時、しみじみと人間の卑小が思はれ、自然の悠久の前に人命の短さが痛感されるのは、世の常である。古來多くの人に愛でられた吉野は、殊にこの感を誘ふことが深かつたであらう。山水の美は變らぬが、この勝景を眺めた古人は去つて跡もなく、皇子の父君天武天皇もまた既にましまさぬのである。「古に戀ふる鳥かも弓弦葉の御井の上より鳴きわたり行く」(一一一)と詠ぜられた多感の皇子の胸には、古人や父帝などの過ぎ去つた世々の事が去來するにつけて、いま瀧のほとりに立つ我が身が、しみじみと顧みられたのであらう。笠金村の作にも、「皆人の壽も吾もみ吉野の瀧の床磐の常ならぬか(233)も」(九二二)とある。
〔語〕 ○瀧の上の 吉野川の激流のあたりにあるの意。今の宮瀧の邊一帶を「たぎ」と呼んだらしい。○三船の山 宮瀧の對岸樋口の後に聳えてゐる山で、今も御舟山といふ。○居る雲の 山にかかつてゐる雲の常にある如くの意。○思はなくに 思はない。
 
    春日王《かすがのおほきみ》の和《こた》へ奉れる歌一首
243 王《おほきみ》は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
 
〔題〕 春日王 志貴親王の子の春日王とは別人で、天武天皇三年に卒せられた春日王であらうと新釋にある。
〔譯〕 皇子樣は、千年も御健在でいらつしやいませう。あの白雲も、御船山の上に絶える日はございますまい。
〔評〕 平明な即座の賀頌である。白雲の如くとは云はずに、まづ「王は千歳にまさむ」と云ひ切つたところに力強さがあり、「白雲も絶ゆる日あらめや」と不即不離的にすらりと云つたところに常套を脱した機智があり、新味が感じられる。弓削皇子の薨じ給うた時の、置始東人の歌、「ささなみの志賀さざれ波しくしくに常にと君が念ほせりける」(二〇六)は、或はこれらの歌に基くものであらう。
 
    或本の歌一首
244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思《も》はなくに
     右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 吉野の三船山の上にいつも立つてゐる雲のやうに、いつまでもこの世に生きてをられようとは、自分は思はないことであるよ。
(234)〔評〕 「二四二」の異傳。調子がなめらかになると共に、類型化されてゐる。人麿歌集に出てゐるが、人麿の作とは考へられない。
 
    長田王《ながたのおほきみ》、筑紫《つくし》に遣さえて、水島に渡りし時の歌二首
245 聞きし如《ごと》まこと貴く奇《くす》しくも神《かむ》さび居《を》るかこれの水島
 
〔題〕 長田王 「八一」參照。筑紫に遣はされたのは何の爲か不明。水島熊本縣八代郡植柳村に屬する小島で、今は海岸から殆ど陸續きといつてよいほど近い。景行紀に、天皇が、此の島にお泊りになつた時、冷水を望まれ、扈從の人々が天神地祇に祈つたところ、忽ち冷泉が湧き出たので水島と名づけたと記してゐる。
〔譯〕 かねて聞いてゐたとほりに、來て見ると、まことに貴く珍しくも神々しい姿をしてゐる、この水島は。
〔評〕 第四句を強く質實な句で言ひ切つたのは、聞傳へに聞いてゐた水島を眼前に眺めた時の感情の高揚をさながらに傳へるものである。しかし第四句で張り切つた調子は、多くは第五句で沈むのであるが、この歌は第五句もその語調をもつてゐて、第四句からの緊張をそのまゝに受けついでゐる。靈妙の風光に對する感激が、この強い呼びかけをなさしめたのであらう。
〔語〕 ○奇しくも 靈妙にも。○神さび居るか 神々しいさまで横たはつてゐることよ。
 
246 葦北《あしきた》の野坂の浦ゆ船出《ふなで》して水島に行かむ波立つなゆめ
 
〔譯〕 肥後の葦北郡の野坂の浦から船出をして、水島に行かうとしてをる。浪よ立つてくれるな。
〔評〕 第四句までを克明に詠んで事實を敍べてゐるのは、ただ行動の説明のみではない。航路の平安を祈る第五句に關聯して、舟行の不安を語る氣持も感じられるし、一方にまた目新しい土地から受ける物めづらしい印象などが絡み(235)あつて、おのづから斯樣に地名を明記して、自身の行動を語る表現法を採らせたものと思はれる。集中、他にもこの類がある。「高島の阿渡の湊を?ぎ過ぎて鹽津菅涌今か?ぐらむ」(一七三四)
〔語〕 ○葦北 肥後國の南部、薩摩に隣接する郡。○野坂の浦 田浦村又は佐敷附近かといふ。○ゆめ 決して。
 
    石川大夫、和《こた》ふる歌一首 名闕く
247 奧《おき》つ浪|邊《へ》波立つともわが兄子《せこ》が御船《みふね》の泊《とまり》浪立ためやも
     右は、今案ふるに、從四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲年中大貳に任けらえき。又正五位下石川朝臣吉美侯、神龜年中少貳に任けらえき。兩人誰かこの歌を作れることを知らず。
 
〔題〕 石川大夫 傳不詳。左註參照。
〔譯〕 沖の浪、岸の浪がよし立ちませうとも、あなた樣の御船の泊る湊に、どうして波が立ちませうか。
〔評〕 一首の輕快な調子が、航路の平安を祈る賀頌にかなつてゐる。古代人は言靈の助といふ信仰をもつてゐたので、今日から見れば理窟に合はぬことをも、言ほぎとして歌ひ、言靈の威力の發動を對手の人の上に期待したのである。
〔語〕 ○わが兄子が 「せこ」は普通女から夫や愛人などを親しんで呼ぶ語であるが、男子相互の間にも用ゐられたことは「一三〇」「三九九六」等でも知られる。○御船の泊 王の御乘船の碇泊する港。
〔左註〕 右今案ふるに云々 この左註は石川大夫についての考證で、この作者は石川宮麿、石川吉美侯の内何れかであらうが不明といふのである。然るにこの外にも、「五四九」に見える石川足人朝臣であるとする略解の説があり、いづれもそれぞれ後の學者に支持せられてゐるが、慶雲以前宮麿がまだ少貳であつた頃の作とする新釋の説が比較的妥當であらう。
 
(236)    又、長田王の作れる歌一首
248 隼人《はやひと》の薩摩の迫門《せと》を雲居なす遠くも吾は今日見つるかも
 
〔譯〕 隼人の國の薩摩の海峽を、はるかな彼方の空に、自分は今日はじめて眺めたことである。
〔評〕 薩摩の迫門は、今は黒瀬戸といひ、古來の名勝である。豫て音に聞いてゐた名勝を煙波漂渺の間に遠く望んだ趣が、第三・四句によく現はれてゐる。さうして、結句には、久しく抱いてゐたあこがれを晴らし得た感激と滿足とが窺はれる。慰められた旅情が、おほらかな語句と、のびやかな調とによつて讀者の共感を誘ふのである。
〔語〕 ○隼人の薩摩 隼人は國名である。和銅年間には、薩靡はまだ隼人の國の中の一地名に過ぎなかつた旨、古事記傳に詳しい。薩摩の迫門は和名抄に「出水《いづみ》郡勢度郷」とあつて、長嶋と下出水村との間の海峽、今は黒瀬戸といつてゐる。
 
    柿本朝臣人麻呂の?旅の歌八首
249 三洋《みつ》の埼浪をかしこみ隱江の舟公宣奴島爾
 
〔題〕 ?旅の歌八首、ここに八首を一括して載せてゐるが、これは同時の作ではなく、往路の作、歸路の作混淆してゐる。恐らく官用を以て瀬戸内海を往復したのであらう。
〔譯〕 三津の崎の波が激しいので、入りこんだ江の舟(以下不明)。
〔評〕 この歌は第四・五句が難解で未だ定訓を得るに至らない。しかして今日までの試訓も攷證の外は何れも多少の改字によつてゐる。考は「舟令魚敏馬崎爾」の誤寫とし、フネハヨセナムミヌメノサキニと訓み、玉の小琴は「舟八(237)毛何時寄奴島爾」の誤として訓はフネハモイツカヨセムヌジマニ、古義は「舟寄金津奴島埼爾」で、訓、フネヨセカネツヌジマノサキニ、攷證は「宣」は「乘」の借字として「フネコグキミガノルカヌジマニ」と訓み、「奴島に乘る」は奴島の方への義であると解してゐる。また全釋は訓は攷證に同じいが、ノルを乘り出す義に取つてゐる。他に生田耕一氏の詳しい論考もあるが、なほ研究すべきである。
 
250 玉藻苅る敏馬《みぬめ》を過ぎて夏草の野島の埼に船近づきぬ【一本に云ふ、處女を過ぎて夏草の野島が埼にいほりす我は】
 
〔譯〕 美しい藻を苅る敏馬の浦を過ぎて、海路平安に、淡路の北端なる野島の岬に船が近づいた。
〔評〕 單純明快。「玉藻苅る」といふ修飾句と「夏草の」といふ枕詞とが、移つて行く風景に、鮮麗な印象を與へてゐる。事實に即して少しも主觀をまじへず、しかも結句の裏に、船路の旅の平安に、刻々として陸地に近づく喜を子供のやうに喜んでゐる作者の胸の鼓動を聞く感がある。
〔語〕 ○玉藻苅る 枕詞と見るよりは單に海邊の地名などに慣用される修飾句と見た方がよい。「玉藻苅る辛荷の島」(九四三)ともある。○敏馬 神戸の東、今の西灘村。○夏草の 夏草の萎ゆを約めて「野」にかけた枕詞といふ冠辭考の説が廣く行はれてゐるが、實景と見た方がよい。○野島の埼 淡路島の北部野島村。○處女 これは一本に傳へた地名であるが、確實な所在は知られない。代匠記の説に、芦屋處女の墓のある由緒によつて芦屋浦をいふとあるのも推測に過ぎない。○いほりす我は この異傳の方では、既に上陸して假廬を結んでゐる趣であり、そこにも無論旅めづらしさの一種の感興はあるが、なほ本歌の方の愉悦溢るる新鮮さに及ばない。○この一本の歌は、卷十五に、「玉藻かる乎等女を過ぎて夏草の野島が埼に廬す我は」(三六〇六)と出てゐる。
 
251 淡路の野島の埼の濱風に妹が結びし紐吹きかへす
 
(238)〔譯〕 淡路なる野島の崎の濱風に吹かれて心さびしく立つてゐると、その風が、家を出る時、妻が結んでくれた紐を吹きかへすことである。
〔評〕 淡路島の北端なる野島の崎に船を繋いで、濱に下り立ち、そぞろに旅愁を覺えてゐた。吹き來る濱風を滿身に浴びてゐると、着物の紐が飜る。當時の風習に從つて、出立の際、妻が結んだ紐である。家にゐる妻はひたぶるに夫の旅の平安を祈りつつ待つてゐるであらう。濱風に吹かれ立つ多感な詩人の姿と共に、吹きかへされる紐から繰りひろげられた樣々の情趣が想像せられる。
〔語〕 ○濱風に 五句「吹きかへす」に對しては主格助詞「の」或は主格助詞の如く用ゐられる「は」などの如き助詞を用ゐるべきであるが、古義が「濱風に吹かれてもの心ぼそきだにあるを、その濱風が妹が、結べる紐を吹翻すといへる深き情をもたせたるにあらずや」といつてゐるやうに、作者の感情や歌の情趣の上から、かく破格的な語法になつたのであらう。○妹が結びし 旅だちにあたつて女が男の衣の紐を結ぶ風習のあつたことは集中多く見えてゐる。
 
252 あらたへの藤江の浦に鱸《すずき》釣る白水郎《あま》とか見らむ旅行く吾を【一本に云ふ、白栲の藤江の浦にいざりする】
 
〔譯) 藤江の浦で鱸を釣る海人であると人は見るであらうか、自分は、旅に來て、この浦の景色を眺めてゐるのに。
〔評〕 旅の苦しさの中にも、自分のやつれた姿を顧みた輕い氣分がなごやかに浮んでゐる。「鱸釣る」と、海人の生活を的確にあらはしてゐるのも面白い。この歌はいたく當時の旅人の共感を呼んだものと見えて、「網引する海人とや見らむ飽浦の清き荒磯を見に來し吾を」(一一八七)、「濱清み磯に吾が居れば見む者は白水郎《あま》とか見らむ釣もせなくに」(一二〇四)、「潮早み磯囘に居れば漁りする海人とや見らむ旅行く我を」(一二三四)など多くの類歌を生んでゐる。
〔語〕 ○あらたへの 枕詞。「五〇」參照。この枕詞、一本に「白栲の」とあるのは、「藤」に對するものとしては不適當である。○藤江の浦 和名抄「明石郡葛江布知」とある。今の明石の西。○鱸釣る 鱸は巨口細鱗にして味が(239)甚だよい。一本の「いざりする」よりも、この本文の方がよい。
 
253 稻日《いなび》野も行き過ぎかてに思へれば心|戀《こほ》しき可古《かこ》の島見ゆ【一に云ふ、湊見ゆ】
 
〔譯〕 稻日野もその眺めの面白さに、行き過ぎがたく思つてゐると、ゆくてには、可古の島が見えてきた。
〔評〕 當時の航海の恐しく且苦しかつたことは勿論であるが、それでも佳景美觀が應接に暇もなく、次から次へと展開される海岸の船旅は、旅人の愁思を慰めることが大きかつたであらう。同じ航路の移り變る風光を想像させる歌に、「印南野は往き過ぎぬらし天つたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」(一一七八)がある。
〔語〕 ○稻日野 明石と加古川との中間にある平野。「印南國原」に同じ。○行き過ぎかてに 通り過ぎてしまひきれずにの意。「九五」參照。○思へれば 思つてゐると。○心戀しき 心になつかしく思ふ。○可古の島 今この邊に島はない。新考は可古川の三角洲、今の高砂であらうといひ、攷證は、海上から見て島のやうに見えるから島といつたので、本當の島ではなく、「倭島見ゆ」(二五五)に同じ例と見てゐる。なほ考ふべきである。
 
254 ともしびの明石大門《あかしおほと》に入らむ日や榜《こ》ぎ別れなむ家のあたり見ず
 
〔譯〕 わが船が、明石大門(播磨の明石海峽)に入らむ時、その時には、やがて故郷の方も見えずなつて、遠く漕ぎ別れることであらうか。
〔評〕 遠く彼方に見える明石海峽の波の間に漕ぎ入らうとするに當つて、いによいよこれで故郷の山とも相別れるといふ、名?し難い心持に情意の緊張と感激とを覺えた樣がうなづかれる。第三句の高揚を承けて、結句に強い語法を置いたのも、明石海峽を凝視してゐる趣があつて、一首に壯觀を與へてゐる。
〔語〕 ○ともしびの ともしびの明しの意で、「明石」にかけた枕詞。○明石大門 明石海峽。門は陸地が兩方から(240)出てゐて、人家の門戸のやうになつた所とした新解の説がよい。○榜ぎ別れなむ 榜ぎ進んで遂に故郷の山々の姿と別れるであらう。これは筑紫へ下向する時の歌である。
 
255 天《あま》ざかる夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ戀ひ來《く》れば明石の門《と》より大和島見ゆ【一本に云ふ、家門のあたり見ゆ】
 
〔譯〕 田舍の長い海路をはるばると、都を戀しく思ひながら歸つて來れば、明石の大門から、なつかしい大和の國の方が見える。
〔評〕 長いいわびしい船の旅をつづけた後に、明石海峽の彼方に、遙に大和の山を見たのである。葛城や生駒などの山山であらう。上三句の悠々たる調子は、海上に長く蕩漾する感じをおのづからにして表はし、それに對して下二句は、心の躍り立つやうな感激を端的に訴へて、讀者をも共に狂喜せしめる趣がある。
〔語〕 ○天ざかる 「ひな」の枕詞。○ひなの長道ゆ 京へ上る道をいふ。「ゆ」は「より」の古形で、ここは「を通つて」の意。「こゆなき渡れ」(四〇三五)も同じ例である。○大和島 海上から島の如く見える意で、かく大まかにいつたもの。
 
256 飼飯《けひ》の海のには好《よ》くあらし苅薦《かりこも》の亂れ出づ見ゆ海人《あま》の釣船《つりふね》
     一本に云ふ
   武庫《むこ》の海のにはよくあらし漁《いざり》する海人《あま》の釣船浪の上ゆ見ゆ
 
〔譯〕 飼飯の海の海面は靜に凪いでゐるらしい。漁夫たちの釣舟が入り亂れつつ沖の方へ漕ぎ出て行くのが見える。
〔評〕 凪ぎ渡つた海上に先を争つて漕ぎ出して行く漁船の活躍が、如實に寫し出された敍景歌、まことにすがすがしい氣分の漲る明るい歌である。「苅薦の」といふ枕詞は、「亂れ」を修飾して頗る効果的であり、二句と四句とで切れ(241)た典型的な五七調も極めて簡勁であり、更に結句も千鈞の重さがある。しかして又、下二句の調子には、さながら幾十の扁舟が波に搖れつつ律動する趣が看取されて、快適な印象を與へる。
 一本の歌は、海上の靜的情景を寫したもので、漁船の爭つて海に乘り出す活光景ではないのみならず、敍法の上にも類型的、概念的な所があつて、本文の歌には遙かに及ばない。
〔語〕 ○飼飯の海 淡路國三原郡松帆村大字笥飯野。越前の氣比海と見るは當らない。○には好くあらし 「には」は海の平らかな面。海上が穩かであるらしい。○苅薦の 「亂れ」にかかる枕詞。苅つた蒋《まこも》の編まぬのは亂れ易い爲であると冠辭考にはある。○亂れ出づ見ゆ 「見ゆ」は古くは「船出せり見ゆ」(一〇〇三)、「島がくる見ゆ」(三五九七)等の如く、動詞助動詞の終止形を承けてゐる。これは斷止された一つの文を承ける一種の語法で、後世の如く準體言として連體形を承けるのと異なる。○武庫の海のにはよくあらし この初二句、通行本には「武庫乃海舶爾波有之」とあり、ムコノウミノフネニハナラシと訓んでゐるが意通ぜず、諸家の説も種々あるが、今は紀州本の文字を參照して、上記の如く校定する。かうすると「三六〇九」にも一致するので、これは斷定してよい。
 
    鴨君足人《かものきみたるひと》、香具山の歌一首并に短歌
257 天降《あも》りつく 天《あめ》の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池浪立ちて 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂《しじ》に 奧邊《おきべ》には 鴨|妻《つま》喚《よ》ばひ邊《へ》つ方《へ》に あぢむらさわき 百磯城《ももしき》の 大宮人の 退《まか》り出《で》て 遊ぶ船には 楫《かぢ》棹《さを》も 無くてさぶしも 漕ぐ人無しに
 
〔題〕 鴨君足人 傳不詳。續紀天平寶字三年に諸姓「君」の字をつけたものを「公」の字に換へるとあるから、これはそれ以前の記述であらう。
 
(242)〔譯〕天の香具山は、今や霞立つ春になつたので、池は松風に吹かれて漣が立ち、櫻の花は木蔭にしげく咲き乱れ、池の眞中あたりでは鴨が妻を言呼んで鳴き、岸の方では味鳧《あぢむら》の群が騒いでをり、嘗ては大宮人たちが御所から退出し、ここに來て乗り遊んだのであつたが、今やその船には櫂も棹もなく、まことに寂しい有様である。漕いで遊ぶ人もゐないで。
〔評〕高市皇子が「萬代と思ほし召して作らしし香具山の宮」(一九九)は、皇子薨去の後は奉仕する人もなく、麗かな春光に空しく懐古の悲涙を濺がしめたのである。天の香具山に霞が立てば、駘蕩たる春風は、汀の松の梢を拂つて埴安の池の面にさざ波を立てる。木深い茂みには櫻花が咲き乱れ、鴨や味鳧が彼方此方に群れ遊んでゐる。渚には船も横たはつてゐる。しかし嘗て船遊に楽しみ興じた大宮人の姿も今は見られず、船には艪も棹もないといふ、さびれ果てた光景である。熈々たる春光の中に、空しく乗り捨てられた船を寫して、ありし日の盛観を回想し、哀愁と寂寥とを餘韻長く揺曳させてゐる。
〔語〕○天降りつく 伊豫風土記(逸文)に、伊豫郡の天山と大和の天香久山とは、もと一つであつたのが二つに分れて天から地上に落ちたのであると見え、「天降りつく」といふ枕詞はこの傳説に據るのである。○池浪立ちて この池は埴安の池であらう。○木の闇茂に 木蔭も茂く。「木のくれ」は木の茂つて暗くなつた蔭。○あぢむら あぢ鴨の群。「あぢ」は鴨に似て小さく、常に数百羽も群をなしてゐる。○遊ぶ船には 遊びし船にはの意。音数の掣肘を受ける歌では、過去の事を敍するに現在法を代用することが?々ある。○楫棹も 「かぢ」は、ここは艪のこと。「二〇八八」參照。
 
    反歌二首
258 人|榜《こ》がず在《あ》らくも著《しる》し潜《かづき》する鴛鴦《をし》と?《たかべ》と船の上《へ》に住む
 
(243)〔譯〕 誰も漕ぐ人もなく、空しく打捨てられてゐることがよくわかる。いつも水中にゐる鴛鴦と?とが、舟の上に住んでゐる。
〔評〕 春の池水に船は浮いてゐるが、遊ぷ人もないので、見れば艪も棹もない。麗《うらら》かな春光の中にもどことなく荒廢の影が漂つてゐるのが否めない。艪も棹も無いどころか、水にかつく鴛鴦や?がおのれの棲家のやうに、船にとまつて眠つてゐるではないか。「野水無2人渡1、孤舟盡日横」は、ただ閑寂の趣であるが、これは落寞の感が深い。
〔語〕 ○在らくも著し 在ることがよくわかる。「在らく」は「見らく少く戀ふらくの多き」(一三九四)「かもかもすらく」(一五七六)などと同例。○潜する 水に潜るのが習性であるの意。「かづく」は水に潜るをいふ。鴛鴦と?との双方にかかる。○? 和名抄に「貌似v鴨而脊上有v文。漢語抄云、多加閇」とある。今小鴨といふ。
 
259 何時《いつ》の間《ま》も神《かむ》さびけるか香具山の鉾椙《ほこすぎ》が本《もと》に薛《こけ》生《む》すまでに
 
〔譯〕 いつの間にまあ、このやうに神々しい様子になつたのであらうか。香具山の鉾杉の根もとに苔が生えるまでに。
〔評〕 皇子の御在世中は若木であつた鉾椙が、今は高く伸びて、幹には蘿が纏ひつき、寂びた趣を見せてゐる。「何時の間にまあ」といふ嘆聲の發せられるのも自然であらう。何人も感ずるやうな詠嘆であるだけに、一見平凡のやうであるが、詞句聲調共に整ひ、重厚な品位ある歌である。世阿彌は闌曲の姿の喩としてこの歌を引いてゐる。
〔語〕 ○鉾椙が本に 鉾椙は鉾のやうな形をした杉。杉は枝葉の部分が三角形をなし、全體として鉾に似て見えるのでかくいふ。別に鉾杉といふ一種があるのではない。○薛生すまでに この薛は「二二八」に見えると同様、蘿即ちサルヲガセであらう。
 
    或本の歌に云ふ
(244)260 天降《あも》りつく 神の香具山 うち靡く 春さりくれば 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂み 松風に 池波さわき 邊《へ》へには あぢむらとよみ 奧邊《おきへ》には 鴨|婁《つま》喚《よ》ばふ 百磯城《ももしき》の 大宮人の 退《まか》り出でて 榜《こ》ぎける船は 棹揖《さをかぢ》も 無くてさぶしも 榜《こ》がむと思へど
     右は今案ふるに「都を寧樂に遷しし後、舊りにしを怜《かなし》みて、この歌を作れるか。
 
〔譯〕 埴安の池邊の春は、今や正に駘蕩爛漫である。池上の遊を欲するならば、池には船も浮んでゐる。かつて大宮人の乗り遊んだ船である。今、自分もこの船に乘つて昔を偲ばうとして氣がつくと、楫も棹もない。それも當然である、船は、水鳥の棲家となつてゐるのであるから。
〔評〕 前の長歌と反歌と併せ讀んで、以上の心理の動きをおのづから辿ることが出來るが、この歌は更に、「榜がむと思へど」の結句によつて、一層作者の姿を明瞭ならしめてゐる。
〔語〕 ○神の香具山 「神の」は神聖なの意。○うち靡く 「春」の枕詞。冠辭考に、春は草木の若くなよやかに靡くからだとある。
 
    柿本朝臣人麻呂、新田部《にひたぺ》皇子に獻《たてまつ》れる歌一首并に短歌
261 やすみしし 吾|大王《おほきみ》 高|耀《ひか》る 日の皇子《みこ》 敷きいます 大殿《おほとの》の上に ひさかたの 天傳《あまづた》ひ來る 雪じもの 往《ゆ》きかよひつつ いや常世《とこよ》まで
 
〔題〕 新田部皇子 天武天皇の第七皇子、天平七年九月薨去。
〔譯〕 尊い皇子様、あなた様のいらづしやる御殿の上に、大空を傳うて今降つて來る雪――その「ゆき」といふ言葉(245)の如く、私はこの御殿にゆき通うて、永久に御仕へ申さうと存じてをります。
〔評〕 新田部皇子の宮殿に伺候した時、恰も雪が美しく降つてゐたので、それを詠み入れて皇子を賀しまつり、自己の至情を述べたもので、人麿の作には珍しい短篇ではあるが、やはり人麿らしい重厚さがあり、自分が常世まで仕へ奉らうといふことを簡勁に述べて、言外に皇子の八千代までましまさんことを意味した婉曲な敍法は、さすがに巧妙な技法である。
〔語〕 ○敷きいます ここは宮殿を構へていらつしやるの意。「宮敷きいます」(二三五の或本)參照。○天傳ひ來る 空を傳うて降つて來る。○雪じもの 雪その物の如くの意。「鴫じもの」(五〇)參照。初句以下これまでの三句は折からの實景を敍して且「往き」の序とした。○いや常世まで 愈々年久しくいつまでも仕へ奉らうとの意。
 
    反歌一首
262 矢釣山《やつりやま》木立《こだち》も見えず落《ふ》り亂る雪に驪《こま》うつ朝《あした》樂《たの》しも
 
〔譯〕矢釣山の木立も見えない程、盛んに降り乱れる雪の中を、黒い馬に鞭うつて參上する今朝は、まことに樂しいことである。
〔評〕 反歌では、時を溯つて、伺候の途中のことを述べてゐる。雪の好景に心勇んで駒を馳せる様が躍如としてゐるが、そのうちには、皇子を見まつる喜を云ひこめてゐるのである。かやうに、反歌によつて變化を與へ、趣深くいひなしたのは人麿の才華である。
〔語〕 ○矢釣山 大和國高市郡飛鳥村八釣、顯宗天皇の皇居、飛鳥八釣宮があつた處。○驪うつ 黒馬を鞭うち駈けさせる。
〔訓〕 ○驪 類聚古集に「驪」、神田本には「驢」となつてゐる。考は「※[足+麗]」の誤としてゐる。〇落り亂る雪に驪(246)うつ 舊訓チリマガフユキモハダラニとあるが解し難いので種々の説があり、誤字説による考の訓チリマガフユキニキホヒテに賛する説が多い。今ここには「落亂」はフリミダルと改め、「驪」は新撰字鏡に、「駿馬也。純黒也」とあり、廣韻に黒馬と駿馬との二義が見をるからコマと訓み、ウツを補ひ「雪」に續けてユキニコマウツとした。かやうな添訓は、他にも例がある。なほ、類聚古集の「驟」に從へば、類聚名義抄に、此の字をウクツクと訓んでゐるから、ユキニウクツクと訓んでもよい。「驟」もウクツクも馬の早く走る意である。又「驟」によりユキニサワケル又はユキノサワケルとも訓み得る。なほ「驪」はウサギウマであるから、類聚古集にユキノウサギマと訓んでゐるが、意を成さない。この字に從つて、ユキハダラナルと訓み得ることを生田耕一氏は説いてゐる。○朝樂しも 舊訓マイデクラクモと訓み、參朝して來ることよの義に解し、考はマヰリクラクモと改めた。これを支持する説も少くないが、今、類聚古集・代匠記一説等に據り、アシタタノシモとする。なほこの歌に就いては、生田氏に詳しい論考がある。
 
    近江國より上り來りし時、刑部垂麻呂《おさかべのたりまろ》の作れる歌一首
263 馬ないたく打ちてな行きそ日竝《けなら》べて見ても我が行く志賀《しが》にあらなくに
 
〔題〕 刑部垂麻呂 傳不詳。
〔譯〕 馬にひどく鞭うつて、急いで行くなよ。この志賀の佳景は、幾日も日數を重ねて、ゆつくり見て行くことの出來る旅でもないのであるから。
〔評〕 日數を重ねて見て行く旅ならば、好風景も少しは急ぎ足で見過してもよからうが、さう急いでは、折角の美景がすぐ眼界から去つてしまふではないか。もつとゆつくり眺めながら行かうと、同行者などに呼びかけたのであらう。言葉にあまる思を簡勁の句に疊みこんで、一種素朴の趣を釀した萬葉調の匂がなつかしまれる。
〔語〕 ○馬ないたく打ちてな行きそ 馬にさう鞭うつて急いで行くな。禁止の「な」が重複して用ゐられてゐる集中(247)唯一の例であるが、誤とは斷じられない。○日竝べて 日を重ねて。
 
    柿本朝臣人麻呂、近江國より上り來りし時、宇治河の邊《ほとり》に至りて作れる歌一首
264 もののふの八十氏《やそうぢ》河の網代木《あじろぎ》にいさよふ波の行方《ゆくへ》知らずも
 
〔題〕 近江國より上り來りし時 人麿は或は國衙の下僚として近江に在任したことがあつたのであらうか。しかし恐らくは、官用の出張又は遊覽の旅行をしたのでもあらう。この題詞によつて彼の出自を近江とする説は早計である。
〔譯〕 宇治川の網代木のもとに、暫しの程たゆたうてゐる波が、流れ去るとすると、忽ち行方も知れぬことである。
〔評〕 宇治川の瀬の網代木に觸れた波は、暫くたゆたひながら、見る間に跡もなく次々と消えてゆく。それを見つめてゐる作者の心は、この波の行方を追ふかの如く、現象をこえて、その奧深く沈んでゆく。それを佛教的無常觀といはぬまでも、或は、舊都の荒廢を眺めた歸途、このいさよふ波に現世の轉變を詠嘆したものとも推察される。暗示に富み、深い陰影を持つ作である。
〔語〕 ○もののふの八十 宇治川の序。「五〇」參照。○網代木 網代は氷魚《ひを》を捕る爲、水中に杭を打ち竝べ、それに竹を編んだ簀を附けたもの。その杭が網代木である。○いさよふ波 「いさよふ」はためらふ、躊躇するの義。波が杭にせかれて流れ難く、暫く淀み漂ふ樣。○行方知らずも 行方のわからぬことよ。「一六七」「二〇一」等の「行方知らず」を併せ見ると、この歌のこの句には、深い感情を注がうとしてしかも目標をつきとめかねるおぼつかなさの氣分が感ぜられる。「一一五一」と同樣「波の」までを序と解することも出來よう。
 
    長忌寸|奧麻呂《おきまろ》の歌一首
265 苦しくも零《ふ》り來《く》る雨か神《みわ》の埼|狹野《さの》のわたりに家もあらなくに
 
(248)〔題〕 長忌寸奧麻呂 「二三八」參照。
〔譯〕 この神《みわ》の埼の狹野の渡の邊には、宿るべき家もないのに、苦しくも雨が降つて來たことである。
〔評〕 宿るべき家もないのに雨さへ降つて來た。一見極めて平板露骨なやうであつて、率直な感情が沈欝な調の中に盛られ、當時の旅行の苦しさが如實に語られてゐる。「しなが鳥猪名野を來れば有間山夕霧たちぬ宿は無くして」(一一四〇)と共に、旅行の困難であつた時代相を後世に傳へるものである。藤原定家の「駒とめて袖うち拂ふ蔭もなし佐野のわたりの雪のゆふぐれ」(新古今集)は、この歌を本歌としたもので、巧緻鮮麗ではあるが實感が件はず、いかにも机上の作であり、時代の相違を明かに示してゐる。
〔語〕 ○苦しくも 困つたことにまあ。作者の氣持の説明。○神の埼狹野のわたり 紀伊國新宮市に三輪崎町、佐野町があり、佐野町の南に河が流れてゐる。「わたり」はそこの渡し場である。神の崎は、ミワガサキ又はカミノサキとよむ説もある。
 
    柿本朝臣人麻呂の歌一首
266 淡海《あふみ》の海《み》夕波千鳥汝が鳴けば心も萎《しの》にいにしへ思ほゆ
 
〔譯〕 近江の湖の夕暮の浪に亂れ飛ぶ千鳥よ、お前が鳴くのを聞いてゐると、心もしなへるばかり、昔のことが思はれる。どうか鳴かないでくれよ。
〔評〕 懷古の情に沈んで悄然と立つた作者の胸に、湖水の夕浪の上を亂れ飛ぶ千鳥の聲は、深い哀調を傳へたのである。作者の脳裏には、大津の宮の盛觀が髣髴として浮んでゐるが、しかも眼前に展開してゐるのは、蒼茫と暮れゆく萬頃の波あるのみ。愁懷遂に忍びかねて、群れ飛ぶ千鳥に呼びかけざるを得なかつたのであらう。「夕浪千鳥」は作者の造語で、「豐旗雲」「草深百合」「明日香風」などと共に、萬葉的修辭法である。
(249)〔語〕 ○夕浪千鳥 夕暮の浪の上に群れ飛ぶ千鳥。○心も萎に 心もしをれて。○いにしへ思ほゆ 昔の事が偲ばれる。昔の事とは、ここは大津の宮の盛時をさす。
 
    志貴皇子の御歌一首
267 ?鼠《むささび》は木末《こぬれ》求むとあしひきの山の獵夫《さつを》にあひにけるかも
 
〔題〕 志貴皇子 天智天皇の皇子。「五一」參照。
〔譯〕 ?鼠は梢に高くのぼらうとして、却つて、山の獵師にみつけられて、捕へられたことよ。
〔評〕 當時、皇族でよしなき大望を抱いて身を滅すことの多かつたのを諷刺したのであらうか。併し徒に高きを望んで身をあやまることを云つたものとしても面白く、又ありのままに解しても奇趣がある。「釆女の袖吹きかへす」(五一)、「葦邊ゆく鴨の羽交に」(六四)、「石ばしる垂水の上の」(一四一八)など、少數ではあるが、集中に珠玉の名品を遺された志貴皇子の詩才と、特異の面目とが窺はれる作である。
〔語〕 ○?鼠 和名抄に「?如猿而肉翼、似2蝙蝠1觸從v高而下」と見える。深山に住む小獣で、木から木へ飛び移る。○木末求むと とまるに都合のよい梢を求めるとて。若い枝末を餌として求める意とする説はよくない。「木末に住まふ?鼠」(一三六七)とある。○山の獵夫 「さつを」は獵夫。「さつ」は幸《さち》即ち獵の獲物をいふ。「さつ矢」(六一)參照。
 
    長屋王の故郷の歌一首
268 吾背子が古家《ふるいへ》の里の明日香《あすか》には千鳥鳴くなり島待ちかねて
     右、今案ふるに、明日香より藤原宮に遷りましし後、此の歌を作れるか。
 
(250)〔題〕 長屋王 高市皇子の御子で、官、左大臣に至つたが、讒によつて死を賜はつた。「七五」參照。
〔譯〕 あなたの舊宅もまだ殘つてゐる此の飛鳥の里では、千鳥が頻りに鳴いて居りますよ。庭園の島の修理を待ちかねて。
〔評〕 都が藤原に遷ると共に、移り住まれた皇族の舊邸は、故郷なる飛鳥の里に殘されてゐたので、それを指して古家といつたのである。長屋王は、故郷を訪れて、甘南備河に鳴く千鳥の聲を聞かれるにつけ、千鳥が、島の荒れたのを歎いてなくかの如くに感ぜられたのであらう。
〔語〕 ○吾背子 こゝは男女關係でなく、男同子相親しんで、呼んだ語。○古家の里 もと住んだ家のある處の義。○島待ちかねて 解しにくい句であるが、島、即ち林泉の荒れたのを歎き、修理を待ちかねての意であらうか。
〔訓〕 ○島待ちかねて 諸本皆同じであるが、「島」は聊か解しにくいので、考には、「君」の誤として居り、それに從ふ學者も多い。
 
    阿部《あべ》女郎の屋部《やべ》坂の歌一首
269 人見ずは我が袖もちて隱さむを燒けつつかあらむ著《き》ずて來にけり
 
〔題〕 阿部女郎 傳不詳。屋部坂 宣長は三代實録三十八に見える大和國高市郡夜部村の坂とし、大日本地名辭書は、磯城郡多村大字矢部を當ててゐるが、明かでない。
〔譯〕 人が見てゐないならば、わたしの袖で隱してやらうものを。此の屋部坂の山は燒けてゐる爲であらうか、今まで着物なしで居ることよ。
〔評〕 屋部坂が禿山で裸なのを、自分の袖で隱してやりたいと云つたのは、如何にも婦人らしい優しさのこもつた戯れである。但し四五句は聊か難解であるが、姑く上の如く解しておく。
(251)〔語〕 ○燒けつつかあらむ 屋部坂が赤肌の山であることをいつたものと思はれる。○著ずて來にけり 山が禿山のままで今日まで來た。
 
    高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の?旅の歌八首
270 旅にして物|戀《こほ》しきに山下の赤《あけ》のそほ船《ぶね》沖に榜《こ》ぐ見ゆ
 
〔題〕 高市連黒人 持統、文武頃の人。傳不詳。「三二」參照。
〔譯〕 身は旅に在つて都戀しい氣持でゐるのに、折から朱塗の船が、沖の方を漕ぐのが見える。都へのぼる船であらうか。
〔評〕 「赤のそほ船」は朱塗の官船であるといはれてゐる。ひいて、官船が沖を都の方へ榜いでゆくのを見て、いよいよ郷愁を唆られたのであると解く説もある。自然の推量で異議を挿むべき所はあるまい。しかし、この歌を味ふには、そんな想像を必要としないやうである。物皆旅愁の種ならぬはないのに、蒼波と鮮かな對照をなして朱塗の船が沖を行く。作者の旅愁は、この鮮麗な對象によつて、一段と深められたので、その趣を直觀的に詠んだのであらう。ひいては樣々の思も浮んだであらう。その官船に乘つて都に歸る地方官の身の上を想像し、それを羨んだかも知れない。かやうな餘情を含みつつ、印象の極めて明瞭な歌である。
〔語〕 ○物戀しきに 「もの」は特に何と指定する事なく漠然といふ意で、何につけても、何となくの意。○山下の 地名とする仙覺説、山の下を漕ぐ意とする契沖説、枕詞で「赤」にかかるといふ宣長説等種々ある。宣長は「秋山のしたび壯士」(古事記)、「秋山のしたびが下に」(二二三九)を引き、紅葉の赤いのを「したび」といふから「山下び赤」と續けたのであるといふが、なほ決し難い。「二一七」參照。○赤のそほ船 赤く塗つた船。「そほ」は赤色の土。赤く塗るのは官船であるといふ。「三八六八」參照。
 
(252)271 櫻田へ鶴《たづ》鳴きわたる年魚市《あゆち》潟|潮《しほ》干《ひ》にけらし鶴《たづ》鳴きわたる
 
〔譯〕 櫻の里の田の方へ、鶴が鳴きつつ飛んでゆく。年魚市《あゆち》潟は潮が干たらしい。求食《あさり》をする爲であらう、あれ、あのやうに鶴が鳴きつつ飛んでゆく。
〔評〕 年魚市潟に近い櫻の田の方へ鶴が鳴きつつ飛んでゆくのを見て、潮干を想像したのである。氣韻清高にして、印象鮮明、結句の繰り返しも、鶴の群がり飛んで行く實景を眼前に躍動させて、極めて効果的である。
〔語〕 ○櫻田 和名抄に「尾張國愛智郡作良郷」とある作良の地にある田である。今熱田の東南方。○年魚市潟 和名抄に「愛智阿伊知」とある處。今の熱田新田で、現在は陸地となつてゐるが、往古は潟であつた。作良の西に當る。なほ、年魚市潟から東の方作良の鶴が行くと見る説、鶴の鳴いて飛びゆくのによつて年魚市潟の潮干を想像したとする説、作良の方へ行く鶴を見て、あれは年魚市潟をさして行くのであらうと推量したとする説、以上三樣の解釋がある。第二説に據るべきであらう。
 
272 四極山《しはつやま》うち越え見れば笠縫の島|榜《こ》ぎかくる棚無し小舟
 
〔譯〕 四極山を越えて海を眺めると、笠縫の島に漕ぎ隱れてゆく船棚のない小さな舟が見える。
〔評〕 四極山からの海上展望を、ありのままに寫してゐるが、その裏には、旅愁が仄かに沁み出てゐる。島陰に榜ぎ隱れてゆくあの小舟にはどんな人が乘つてゐるのか、どこからどこへ行く人か、自ら旅ゆく身であるだけに、しみじみとした同情も湧く。同じ作者の「何處にか船泊すらむあれの埼榜ぎたみゆきし棚無し小舟」(五八)もやはり共通する心持があり、旅に於いて深められる人間的好意なども掬み取られて、作者の人柄が想見されるやうである。尚この歌は、古今集の大歌所歌の中に、「しはつ山ぶり」として、「しはつ山うち出でて見れば笠ゆひの島漕ぎ隱る棚なし小(253)舟」  稍形を變へて出てゐる。
〔語〕 ○四極山 勝地吐懷篇には和名抄に「參河國幡豆郡磯泊【之波止】」とある地であらうといひ、古事記傳は攝津國住吉の近く磯齒津といふ地としてゐるが、遽かに決し難い。○笠縫の島 攝津説に從へば、今の大阪市東成區深江で古昔は島であつたといひ、參河説では今の吉田村、宮崎村附近の沖の島といふ。○棚無し小舟 舟棚のない小舟。
 
273 磯の埼|榜《こ》ぎ囘《た》み行けば近江の海|八十《やそ》の湊に鵠《たづ》多《さは》に鳴く 未だ詳ならず
 
〔譯〕 湖中の岬を漕ぎめぐつて行くと、近江の海の數多ある湊々に、鶴が打ち群れて鳴いてをる。
〔評〕 鶴の聲に送り迎へられながら、湖上をこぎめぐつてゆく樣が、悠揚暢達の歌調に爽快に表はれてゐる。萬頃一碧の琵琶湖上に翼をひろげて悠然と群れ飛ぶ白鶴の風趣は、今日から想像しただけでも快適無比で、上代日本の惠まれた風光を思ひ、萬葉歌人の清福が羨まれる。
〔語〕 ○磯の埼 湖中に突き出た岬で、地名ではない。○榜ぎ囘み行けば 漕ぎめぐつて行けば。「五八」參照。○八十の湊に 八十は數多い意。多くの湊の鶴の聲を一度に聞き集めることは出來ないからとて、八十を地名とし近江國坂田郡八坂村に當て、磯の埼を磯埼村に當てた檜嬬手の説は誤で、行く湊ごとに鶴が鳴いてゐるの意である。
〔脚註〕 ○未だ詳ならず この細註は類聚古集など、仙覺系以外の本には無い。何が未詳なのか解し難く、恐らく衍文であらう。或は「八十湊」を地名と考へ、所在未詳の意で註したのであらうか。
 
274 吾が船は比良の湊に榜《こ》ぎ泊《は》てむ沖へな放《さか》りさ夜ふけにけり
 
〔譯〕 吾々の船は、今夜は比良の湊に碇泊しよう。船頭よ、沖の方へこぎ離れて行くな。夜もすつかりふけてしまつたよ。
(254)〔評〕 湖上の船の旅に、夜は更けた。今夜は比良の湊に泊てようではないかと、なほも沖邊へこぎ進まうとする船頭に命じたのである。舟人を唯一のたよりとする波の上の旅、しかも夜の旅である。恐らく月はあつたであらうが、月の風情を味ふ程の心の餘裕は生ずべくもない。心細さと一脈の不安とが全首にしみわたつてゐる。「吾が舟は明石の海に榜ぎ泊てむ沖へな放りさ夜深けにけり」(一二二九)は、これを歌ひ換へたのであらう。
〔語〕 ○比良の湊 近江國滋賀郡比良、琵琶湖の西岸に當る。○沖へな放り 沖の方へ離れるな。
 
275 何處《いづく》にか吾は宿らむ高島の勝《かち》野の原にこの日暮れなば
 
〔譯〕 一體どこに自分は泊ることであらうか。この高島の勝野の原で日が暮れてしまつたならば。
〔評〕 荒涼たる廣野原のただ中で、どこまで行つたらばこの野は盡きるのか、幾里歩いたらば人家があるのか、樣子を問はうにも人一人通らない。疲れた足を強ひても早めつつ、覺えず洩らした嗟嘆の聲である。結句に、傾く日影を仰ぎ見た作者の姿が髣髴として浮んで來る。大伴坂上郎女の、「ゆふ疊手向の山を今日超えていづれの野邊に廬せむ吾等」(一〇一七)は、これに似て、共に當時の旅の不安を語つてゐる。
〔語〕 ○高島の勝野 近江國高島郡大溝村。「高島の三尾の勝野の渚《なぎさ》し思ほゆ」(一一七一)とも見える。
 
276 妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
     一本に云ふ
    三河の二見の道ゆ別れなば吾背も吾もひとりかも行かむ
 
〔譯〕 妻も自分も、一心同體であるせゐかして、三河の二見の道から別れかねたことである。
〔評〕 黒人が三河の國司の任を終へて都に歸らうとする際、その地で馴染んだ婦人が二見の道まで送つて來たのであ(255)らう。いよいよ別れて、一人にならうとする時の別離感であるが、妙に迫つて來る力に乏しい。「妹も我も一つなれかも」は、甚だ強い語のやうでありながら、觀念的なところがある。「別れかねつる」とは言つても、身を切られるやうな悲痛さは感じられない。一・二・三の數字を詠み込んだところなども、明かに遊戯的であり、作者はこの場に臨んでかかる技巧を弄する程の心の餘裕をもつてゐたのは、何を意味するのであらう。一心同體と口頭では強くいつてゐるものの、實はそれほど眞劍な仲ではなく、いはば作者にとつては「旅のなぐさ」程度の對手ではなかつたか。勿論別れるものへの感情はあるが、痛切な響とはなり得ない所以である。
 一本の歌は、「三河の國のこの二見の道から互に別れ去つたら、いとしいあなたも私も一人ぼつちになつて行くことでせう」の意で、恐らく愛人の唱和であらう。當然のことを率直にいつたまでであるが、この方は眞實の響がこもつてゐる。かうした間柄に於いて、女はやはり眞劍であることが通例であり、當然でもある。この女性もその例に洩れない。「ひとりかも行かむ」とあきらめの嗟歎を洩しつつ、もと來た道を寂しく引返して行く優しい人の姿には、黒人も流石に新たな愛着を感じたことであらう。
〔語〕 ○一つなれかも 一體であればかもの意。○二見の道 今の國府の地で、東海道と姫街道と分岐する點と思はれる。
 
277 疾《と》く來ても見てましものを山城の高の槻群《つきむら》散りにけるかも
 
〔譯〕 早く來て見ればよかつたものを。早く來なかつたので、山城の國、多賀の里の槻の木林の黄葉は、もう散つてしまつてゐるわい。
〔評〕 平明單純であるが、餘韻極めて豐かな作である。槻木の黄葉の散り過ぎたのを惜しむ心の痛切さから、その黄葉の美觀がおのづから想察される。精錬の末に得たやうな淡々たる滋味、甚だ愛すべきである。
(256)〔語〕 ○見てましものを 見るべきであつたものを、見なくて殘念である。○高の槻村 「高」は和名抄に「綴喜郡多賀郷」とある地で、綴喜郡多賀村井手町附近をいふ。「つきむら」は槻群の意。
(訓〕 ○高の槻村 舊訓タカツキムラノを、槻落葉はクカツキノムラと改めた。高槻は地名とし、攝津の高槻とか、高い槻の群で山城は國名でなく、もつと狹い相樂郡地方とか、又タカキツキムラハと訓んで、木立の多い槻群とする等の説があつたのを、生田氏がタカノツキムラと訓んで、タカを綴喜郡多賀郷に當てたのは卓見で、今は定説と見られるに至つた。
 
    石川少郎の歌一首
278 志可《しか》の海人《あま》は藻《め》苅り潮燒き暇なみ髪梳《かみすき》の小櫛《をぐし》取りも見なくに
右は、今案ふるに、石川朝臣君子、號を少郎子といへり
 
〔第〕 石川少郎 左註によれば石川朝臣君子の事である。神龜三年從四位となつてゐる。石河大夫(一七七六)とあるもこの人であらうといふ。少郎は太郎仲郎に對して末男をいふ。
〔譯〕 志可の海人は、海藻を苅つたり潮を燒いたりして暇が無いので、髪を梳く櫛を手にとつても見ないことである。
〔評〕 若い都會人がたまたま漁村に來て、濱の女を始めて身近く觀察した時の感じが、さながらに表現されてゐる。生活の爲に男子にも勝るやうな勞働をしてゐる海女の身なりは、容儀風采をつくろふことに腐心する都會人士の眼には、甚だ異樣に映じたのである。「暇なみ」の語には、作者の直觀が生きてゐて、その感覺の素朴さの中に、荒濱の處女に對する同情といふやうな暖い氣持もうかがはれてゐる。
〔語〕 ○志可 和名抄に「筑前國糟屋郡志珂」とある。
〔馴〕 ○髪梳の 舊訓ツケノは非。拾穗抄クシゲノはクシケヅルの意で、櫛笥の戯訓と見たので從ふ人も多い。道麿(257)はユスルと訓んでゐる。字面に即してカミスキノでよからう。
 
    高市連黒人の歌二首
279 吾妹子に猪名野は見せつ名次《なすぎ》山|角《つの》の松原いつか示さむ
 
〔譯〕 わが妻に、猪名野の景色は見せてやつた。名次山や角の松原はいつ見せてやらう。早く見せてやりたいものである。
(評〕 妻を連れての旅である。猪名野の景色は既に見せた。妻は大變喜んだ。早く名次山や角の松原の好い景色も見せてやりたいものであるが、さて道がはかどらぬ。一面、女の足弱に困りつつも優しく扶けいたはり、その喜ぶ顔を見て自分も滿足する、といふやうな、如何にも優しい夫らしい氣持が滲み出てゐる。句法は中皇命の、「吾が欲りし野島は見せつ底ふかき阿胡根の浦の珠ぞ給はぬ」(一二)の似たものがあるが、境地はおのづから別である。
〔語〕 ○猪名野 和名抄に「攝津河邊郡爲奈」とある。猪名川の兩岸の平野。○名次山 神名帳に「攝津國武庫郡名次神社」と見え、今の西宮市の北方。○角の松原 和名抄に「武庫那津門郷、訓津止」とある地であらうと思はれる。津門は西宮市今津町津門。
 
280 いざ兒《こ》ども大和へ早く白菅《しらすげ》の眞野の榛原《はりはら》手折《たを》りて行かむ
 
〔譯〕 さあ人々よ、大和の國へ早く歸らう。此の白菅の眞野の萩原の美しい萩の花を手折つて、持つて行かう。
〔評〕 大和への歸途、攝津の眞野の萩原の美しさに心も躍つて、同行の部下たちに呼びかけたのである。大和まではなほ遠いので、無論家苞に萩の花を手折つたとは思はれないが、花の美觀に心を奪はれた作者の空想と、長い旅路もいよいよ歸りとなつた喜ばしさとが、おのづからこの表現となつたのである。「いざ兒ども大和へ早く」は誠に力強(258)い表現で、遣唐使に隨つて渡唐した山上憶良も用ゐてゐる。
〔語〕 ○いざ兒ども さあ人々よの意で、一行中の若者たちをさす。○白菅の 白菅の生えてゐる意であらうか。次の歌にも、「一三五四」にも枕詞約に用ゐられてゐる。○眞野 攝津國武庫郡。今は神戸市に編入され眞野町といふ。○榛原 萩原。「五七」參照。
 
    黒人の妻の答ふる歌一首
281 白菅の眞野の榛《はり》原|往《ゆ》くさ來《く》さ君こそ見らめ眞野の榛原
 
〔譯〕 此の美しい白管の眞野の萩原を、旅の往きにも歸りにも、あなたは御覽になりませうが、私はさうは參りませんので、ゆつくりと見ておきませう、この美しい眞野の萩原をば。
〔評〕 萩原の美しさに飽かず眺め入り、旅に自由な男の身を羨みつつ、促す夫をやさしく怨じた情趣が眼前に浮んで來る。旅行の機會の乏しかつた上代婦人にとつては、さもあるべきである。歌詞の輕快さは、歸途の喜ばしさが自ら反映したものであらう。
〔語〕 ○往くさ來さ 往きにも歸りにも。○君こそ見らめ あなたこそ?々御覽になりませうがと言ひさした貌で、私はさうではありませんからとの餘意を含んでゐる。
 
    春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》の歌一首
282 つのさはふ磐余《いはれ》も過ぎず泊瀬山《はつせやま》いつかも越えむ夜《よ》は更《ふ》けにつつ
 
〔題〕 春日藏首老 僧辨基の還俗した後の名。「五六」參照。
〔譯〕 ○まだ磐余の里も過ぎない、あの初瀬山はいつ頃越えることになるであらう。このやうに夜は更けてしまつた(259)のに。
〔評〕 藤原の都を立ち出で、磐余を經て泊瀬山を越え、東の方へ旅をするものと思はれる。ふけゆく夜道を心苛られしつつ辿りゆく作者の姿がさながらに寫されて、その胸の鼓動も聞えるやうに感じられる。旅行の困難であつた當時に於いて、かうした夜道をかけて行つたのは、止むを得ぬ事情があつたことと思はれる。
〔語〕 ○つのさはふ 「磐余」の枕詞。「一三五」參照。○磐余 大和國磯城郡、今香具山の東方安倍村に磐余川がある。○泊瀬山 磯城郡初瀬町字初瀬にある山で、有名な長谷寺觀音はその中腹にある。
 
    高市連黒人の歌一首
283 住吉《すみのえ》の得名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ出づる船人
 
〔譯〕 住吉の榎津に立つて見渡すと、遙かに武庫の港から、船人が漕ぎ出すのが見える。
〔評〕 船の歌人とも云ふべく、船を對象として名歌を殘した黒人は、ここでも、住吉の得名津に立つて、遙かに武庫の湊の方面から榜ぎ出して來る船を眺めてゐるのである。恐らく漁船であらうが、特に「船人」としたところに、その艪を漕ぐ逞ましい姿などがはつきりと眼に映じ、興味を惹いたものであらうか。併し、一歩も敍景から踏み出してゐないので、平明な風致以外には、何等の餘情も感じられないのが聊か飽かぬ心地である。
〔語〕 ○住吉の得名津 今の墨江村安立町のあたりであらう。○武庫の泊 西宮市の東北にあたる地といふ説と、今の兵庫といふ説と兩樣ある。
 
    春日藏首老の歌一首
284 燒津邊《やきつべ》に吾が行きしかば駿河なる阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に逢ひし兒《こ》らはも
 
(260)〔譯〕 燒津のあたりに自分が行つた時、駿河の阿部の市へ行く道で、ふと逢つた少女、あの子は美しい子であつたが。
〔評〕 旅で美しい人を見るほど旅情の深くなることはない。しかしてその地の印象と相伴つて、美人の面影は忘れ難く脳裏に殘るであらう。阿部の市の雜沓の中でふと見た少女は、作者に長く思ひ出の種となり、駿河路の旅を樂しく囘想させたことであらう。餘韻ゆたかな作である。
〔語〕 ○燒津 記紀に見える日本武尊が賊を燒き亡されたといふ地で、今の靜岡市の西、燒津港。○行きしかば 行つた時に。○阿倍の市道 阿倍は今の靜岡市。道は市に行く道。
 
    丹比眞人《たぢひのまひと》笠麻呂、紀伊の國に往きて勢《せ》の山を超《こ》えし時作れる歌一首
285 栲領巾《たくひれ》の懸けまく欲《ほ》しさ妹が名を此の勢の山に懸けばいかにあらむ【一に云ふ、代へばいかにらむ】
 
〔題〕 丹比眞人笠麻呂 傳不詳。「五〇九」にも見える。勢の山 紀伊國伊都郡笠田町。「三五」參照。
〔譯〕 常に自分が言葉にかけて呼びたく思ふ「妹」といふ名を、この勢の山に負はせて、妹山といつて見たらばどうであらうか。
〔評〕 旅の苦しさの重なるにつれて、家なる妹を思ふ心はいよいよ切である。そのなつかしい「妹」といふ名は、咒文の如くにも常に口にしてゐたい。いま勢の山を見るにつけて、そんな名の山よりも「妹山」があればよい、いつそのこと、この山を妹の山と呼んで見たらば如何であらう。少しは妹を慕ふ心も慰むであらうか、といふのである。友を顧みて戯れた即興の中にも、おのづから纒綿の情緒が漂つてゐる。口に出していふのを忍んでゐたが、「勢の山」の名について、つい忍びかねたといふ氣持が窺はれて面白い。
〔語〕 ○栲領巾の 肩頸へ掛ける意で「かけ」の枕詞。領巾は「二一三」參照。○懸けまく欲しき 言葉にかけていひたい。○妹が名を此の勢の山に懸けばいかにあらむ 「妹」といふ名をこの勢の山につけたならどんなものであら(261)う、さぞよからうにの意。
 
    春日藏首老、即ち和《こた》ふる歌一首
286 宜《よろ》しなべ吾背の君が負《お》ひ來《き》にし此の勢の山を妹とは喚《よ》ばじ
 
〔譯〕 まことにふさはしくも、あなたが今まで負はせられて來た「背」といふ名、それと同じ名前のこの勢の山を、私は今更「妹山」などとは呼び變へますまい。
〔評〕 機智に富んだ輕快な應酬である。故意に異議を唱へたのは波瀾を起して氣分を轉換させ、かうした場合に却つて面白く效果的であり、そこに親しい友情の隔意なさも窺はれるのである。一・二・三句、ふさはしくも今まであなたが「背」といふ名を負ひ持つて來たとは、換言すれば、あなたは背と呼ばれるに相應した、その名にそむかぬ良き夫であつたとの意で、かういふ諧謔もお互に遠妻を思ふさびしい氣持を慰め合つてゐるやうな趣が見える。
〔語〕 ○宜しなべ 丁度よく。ふさはしく。○吾背の君 丹比眞人をさす。
 
    志賀に幸しし時、石上《いそのかみの》卿の作れる歌一首 名闕けり
287 此處《ここ》にして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり
 
〔題〕 志賀に幸しし時 記述が簡略で、いつ何天皇の行幸とも的確には分らない。石上卿 「四四」に見えた石上麿とする説もあるが、古義にその子の乙麿と見てゐるのがよいと思ふ。乙麿は天平勝寶二年九月中納言中務卿で薨じた。
〔譯〕 ここに來て遙かに思へば、故郷の方は、どの邊にあたるのであらう。かへりみれば、白雲のたなびく幾山々を越えて來たことである。
〔評〕 顧れば、故郷は白雲縹緲の彼方にある。單純な内容を平明清秀な語句に盛り、悠揚迫らぬ格調に託してゐるが、(262)愁緒は却つて長く、讀者の同情を惹くものがある。萬葉の歌の氣格を示した作といつてよい。
〔語〕 ○此處にして 此處にあつて。○家やもいづく わが故郷の家はまあどのあたりであらうか。
 
    穗積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》の歌一首
288 吾が命し眞幸《まさき》くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪
     右は、今案ふるに、行幸年月を審にせず。
 
〔題〕 穗積朝臣老 正五位下式部大輔となつたが、養老六年乘輿を指斥した罪によつて佐渡に配流、天平十六年大赦にあつて歸り、後大藏大輔となつた。天平勝寶元年逝去(南京遺芳)。
〔譯〕 自分の命が、幸につつがなくあつたならば、再び來て、この志賀の大津にうち寄せる白波の景色を又も眺めよう。
〔評〕 近江路の旅にあつて湖畔の風光を愛づる心は飽かないのに、作者は既に老境にあつたので、この述懷をなしたのであらうか。左註は、行幸從駕の作と見てゐる。しかし續紀に養老六年正月佐渡島へ流されたことが見え、「樂浪の志賀の韓埼幸くあらばまた還り見む」(三二四〇)の長歌及びその反歌、「天地を歎き乞ひ?み幸くあらばまた還り見み志賀の韓埼」(三二四一)があつて、その左註に、「右は二首。但この短歌は、或書に云ふ、穗積朝臣老佐渡に配さえし時作れる歌なり」と見えるので、この歌をも配流の途中のものとする見解もある。内容から見ればその方が適切であはれも深いと思はれる。
 
    間人宿禰大浦《はしびとのすくねおほうら》の初月《みかづき》の歌二首
289 天《あま》の原ふりさけ見れば白眞弓《しらまゆみ》張りて懸けたり夜路《よみち》は吉《よ》けむ
 
(263)〔題〕 間人宿禰大浦 傳不詳。「一七六三」にも名が見える。
〔譯〕 大空を遙かに仰ぎ見ると、三日月が白木の弓を張つて懸けたやうである。今夜の夜道は面白いであらう。
〔評〕 冒頭から大きく高い調子であり、次々と緊張した句を疊みかけ、聊かも格調を弛めない。凛然として天心に照る初月を「白眞弓張りて懸けたり」と云ひ放つたのは、奇警にしてまた實に適切である。結句には、勇躍して身も輕く夜道に出で立たうとする趣が見える。清楚にして雄勁、歌そのものが白眞弓を張つたやうである。
〔語〕 ○白眞弓 漆を塗らない白木のままの弓。ここは「張る」の枕詞とも見られるが、月の形容と見る方が内容に生彩を與へてよい。
 
290 倉橋の山を高みか夜《よ》ごもりに出で來る月の光乏しき
 
〔譯〕 あの倉橋山が高いからであらうか、夜がふけて出て來る月の光が、微かでおぼつかないことではあるよ。
〔評〕 夜遲く出て來る片破月の微かで物たりない趣を、倉橋山の高さに遮られた爲であると見たのは、幼稚な考へ方で、いかにも上代人らしい素朴さがある。格調も緊密に張つてゐて心地がよい。但、夜ごもりに出る月は三日月ではないことは明かで、初月の歌二首と題する中に入つてゐるのは不審である。その撞着を除く爲に、「夜隱」を地名に訓まうとした故人の努力もさるとながら、それはやはり穩當でない。題詞の誤か、或はこの歌が過つて此處に置かれたものであらう。沙彌女王の作とされてゐる「倉橋の山を高みか夜隱りに出で來る月の片待ち難き」(一七六三)とこの歌とは、もと同一歌で、いづれかが異傳であらう。
〔語〕 ○倉橋の山 大和國磯城郡の南部宇陀郡との界で多武峯の東に連り、今は音羽山といふ。古事記にも見える。○高みか 高いからであらうか。○夜ごもりに 夜遲くなつて。○光乏しき 「乏し」といふ形容詞は、羨しい、珍しい又は可愛らしい、少い、と大體三樣の意に本集では用ゐられてゐるが、ここは第三の場合である。
 
(264)    小田事《をだのつかふ》の勢の山の歌一首
291 眞木の葉の撓《しな》ふ勢の山しのばずて吾が越えゆけば木《こ》の葉知りけむ
 
〔題〕 小田事 傳不詳。集中他に所見がない。
〔譯〕 この、檜木の葉がなよなよとしなだれてゐる勢の山、自分が戀しさを面にあらはして越えて行くので、その自分の心は木の葉が知つたことであらうか。
〔評〕 家なる妻を思ひつつ勢の山を越えて行くと、木の葉も自分の心を知るかの如く、うも萎れてゐる、といふのである。自己の心を外界の現象にまで移して見るところが、上代人らしい素朴な考へ方であつて、表現も幾分たどたどしい點はあるが、眞實味は溢れてゐる。第五句の似てゐる「天雲の棚引く山の隱りたる吾が下ごころ木の葉知るらむ」(一三〇四)は、構想も相似たところがあるが、著しく技巧的である。
〔語〕 ○眞木 檜。○撓ふ 萎えうなだれる。或は色戀の「したふ」(二一七參照)と關係があらうか。また、「しなふ」を「しのぶ」の序に用ゐたには「二七五二」の例がある。○しのばずて 心の中にのみ思はずして。感情を抑へぬ意。この「しのぶ」は堪へ忍ぶの意ではない。なほ「賞《しの》ばずて」と訓んで異なる解をとる説もある。
 
    角麻呂《つののまろ》の歌四首
292 ひさかたの天《あめ》の探女《さぐめ》が石船《いはふね》の泊《は》てし高津は淺《あ》せにけるかも
 
〔題〕 角麿 傳不詳。「角」は「録」に通用する「?」の誤で、なほこの下に「兄」を脱したものとし、?兄麻呂《ろくのえまろ》、即ち續紀大寶元年・養老三年等に見える録兄麻呂のことといふ略解の説に賛する人もあるが、臆斷に過ぎる。
〔譯〕 神代の昔、天の探女が乘つて來た石船の泊つたといふ高津は、世と共に變りはてて、淺くなつたことである。
(265)〔評〕 難波の高津は、天稚彦が天降つた時、これに從ふ天の探女が磐舟に乘つて來て、此處に泊てた故に高津と號したと、攝津風土記に見える。これは歌そのものとしては寧ろ平板で、佳作とはいひ難いが、上代説話を詠みこんだ歌として注意すべきものであり、また謠曲の「岩船」はこれに依つて構想されたことを思ふと、文學史的の價値の上から見逃されないものである。
〔語〕 ○天の探女 記紀にも見え、攝津風土記(逸文)に、難波高津は天稚彦に從つて下つた天の探女が、磐舟に乘つてここに至る。天の磐船の泊る故を以て高津と名づけたと傳へてゐる。○石船 天から降つた時の船。「石」は堅固の義。○高津 難波高津宮のあつた處。今の大阪城附近。○淺せにけるかも 淺くなつてしまつたことよ。
 
293 鹽干《しほひ》の三津の海女《あま》のくぐつ持ち玉藻苅るらむいざ行きて見む
 
〔譯〕 潮が于て來た三津では、海女が、藁で編んだくぐつを持つて、玉藻を苅つてゐるであらう。さあ行つて見よう。
〔評〕 海濱に旅行をした都會人の眼には、海女の活躍はめづらしく興味を惹くものであつたであらう。くぐつといふ器物なども珍奇なものと感じたであらう。折からの引潮にかねて噂に聞いてゐた海女たちの作業が始つてゐるであらうから、さあ行つて見ようと急ぎ出かける樣がよく想像される。但、上二句が四音と六音とになつてゐるのは聊か舌足らずの感があり、これによつて急ぎ馳せ出ようとする心苛られを語つてゐるのに取るのは考へ過ぎであらう。「淡路の野島の埼の」(二五一)の必然的な字足らずと違ふことを味讀しなければならぬ。そこで二句を舊訓にミツノアマメノとしてゐるが、「あまめ」といふ語の存在は疑はしいので、やはり「アマ」と訓む外はない。要するに脱字が無いとすれば、作者の技倆の至らぬものとせねばならぬ。
〔語〕 ○くぐつ 袖中抄に、藁を以て袋のやうに編み、それに藻などを入れるものといつてゐる、檜嬬手には、久草といふ草を組み綴つたものとある。和名抄には傀儡(人形のこと)をクグツと訓んでゐるが、安藤正次氏の説では、(266)これは朝鮮語から出たので、人形遣が渡來し、柳器を編んだので、その袋をクグツと呼ぶやうになつたといふ。
 
294 風を疾《いた》み奧《おき》つ白波高からし海人《あま》の釣船濱に歸りぬ
 
〔譯〕 風が烈しいので、沖の白浪が高く立つてゐるらしい。海人の釣船が次々と濱に歸つて來た。
〔評〕 人麿が瀬戸内海の舟行で詠じた、「飼飯の海のには好くあらし苅薦の亂れ出づ見ゆ海人の釣船」(二五六)とは逆の眺めである。内容に何等の奇もないが、調子は頗る張つて居り、下句の寫實が生きてゐる。但上句は類型的の評を免れない。「わたつみの沖つ白浪立ち來らし海人少女ども島隱る見ゆ」(三五九七)とあるのは、相似てゐるが、全體が弛緩してゐる。また大伴家持の、「あゆの風いたく吹くらし余呉の海人の釣する小舟漕ぎ隱る見ゆ」(四〇一七)も似た光景である。しかしこれは簡勁の趣はないが、實景に即してゐるだけに別なこまやかな味がある。
〔語〕 ○風をいたみ 風が甚しいので。○高からし 高くあるらしい。
 
295 住吉《すみのえ》の岸の松原遠つ神わが王《おほきみ》の幸行處《いでましどころ》
 
〔譯〕 この住吉の岸の松原は、景色のよい處である。大君の行幸もあつた處である。
〔評〕 住吉の松原の風景は明媚である。されば天皇の行幸があり、賞覽の榮を蒙つたのも當然であると作者は感じた。この感じは、言葉の上には表現せられてゐないが、飛躍的な一首の句調の中におのづからそれが讀まれるのである。
〔語〕 ○住吉の岸の松原 岸は住吉の地名とも思はれる。○遠つ神 「王」の枕詞。「五」參照。
 
    田口益人《たぐちのますひとの》大夫、上野國司に任けらえし時、駿河|淨見崎《きよみのさき》に至りて作れる歌二首
296 廬《いほ》原の清見の埼の三保の浦の寛《ゆた》けき見つつもの思《も》ひもなし
 
(267)〔題〕 田口益人大夫 續記に和銅元年三月從五位上で、上野守となつた由が見える。後、靈龜元年正五位上となつた。
〔譯〕 廬原の清見の崎の三保の浦の、ゆたかな景色を眺めつつ、心ものびのびとして、旅の憂ひもなく、物を思ふこととてもない。
〔評〕 國司として赴任の途中、今の興津あたりの海濱に杖をとどめて、東海道第一の稱ある三保の浦の風光を望んだのである。遠く都を去つて關東の僻地に赴くといふ苦痛はあつても、國司の長官として赴任するのであるから、失意憂愁の旅ではない。況んやこの佳景に遭遇するをや。「もの思ひもなし」と元氣よく言ひ放つた心理がいかにもと首肯せられるのである。
〔語〕 ○廬原 富士川の西に當る地。○清見の埼 今の興津町清見寺の磯崎。○三保の浦 今の清水港に屬する三保。○ゆたけき 曠濶な眺望を形容したもの。
 
297 晝見れど飽かぬ田兒《たご》の浦|大王《おほきみ》の命《みこと》かしこみ夜《よる》見つるかも
 
〔譯〕 晝間見ても見飽きない風光明媚な田兒の浦を、自分は、勅命をかしこんで任地へ赴く道を急ぎつつ、夜見て過ぎたことよ。
〔評〕 任國に赴くのであるから、世の常とは違つた旅をすることである、といふ感慨を敍べたのであり、君命の前には聊かの私情もない心境が、大きく映じ出されてゐるのである。夕方着いて夜立ちに立つ時の作かとも考へられる。
 
    辨基の歌一首
298 亦打《まつち》山夕越え行きて廬前《いほさき》の角太河原《すみだかはら》にひとりかも宿《ね》む
     右は、或は云ふ、辨基は、春日藏首老の法師名なりと。
 
(268)〔題〕 辨基 左註によれば、春日藏首老の出家當時の名である。老は「五六」參照。
〔譯〕 眞土山を夕方さびしく越えて行つて、今夜は廬前の角太河原で、唯一人寢ることであらうかなあ。
〔評〕 作者は藤原の都を出て、紀州に行かうとするのである。國境の亦打山を越えてゐるうちに、既に日は暮れかけた。この山を越えても、宿るべき人家もない角太河原である。「眞土山往き來と見らむ紀人ともしも」(五五)と歌はれた程の勝景ではあるが、今夜の假宿を思へば、眺望どころの沙汰ではない。わびしい氣分に沈みつつ、一人足早に歩みゆく後影が見えるやうである。
〔語〕 ○亦打山 大和から紀伊へ越える國境の山。○廬前の角太河原 角田川は紀の川の一部であり、その河原の意、又角田が原で、今の伊都郡隅田村で、イホサキは大字芋生の名に殘つてゐるといふ説もある。○ひとりかも宿む ただ一人で寢ることであらうか。
 
    大納言大伴卿の歌一首 未だ詳ならず
299 奧山の菅《すが》の葉|凌《しの》ぎ零《ふ》る雪の消《け》なば惜しけむ雨な降《ふ》りそね
 
〔題〕 大納言大伴卿 諸註大伴旅人のこととしてゐるが、旅人が大納言になつたのは天平二年で、このあたりの作者はすべて和銅頃の人であるから、旅人の父、安麿の事であらうといふ全釋の説が妥當である。
〔譯〕 奧山の菅の葉を押し靡かせて降り積つたこの美しい雪が、消えてしまつたらば惜しからうに、雨よ、降らないでくれ。
〔評〕 奧山は深山といふほどではなく、端山のあなたの山とし、そこに美しく降つた雪を望んで、菅の葉の雪に覆はれたことを想像したものとする解釋もあるが、聊か無理な感がある。何かの事情で、作者が山中に滯在してゐた場合の作とも、山を越えながらの作ともいへる。作者の位置が稍々不明といふ嫌はあるが、しかし一讀爽かな、感覺的に(269)美しい作である。「奧山の眞木の葉凌ぎ零る雪の零りは益すとも地に落ちめやも」(一〇一〇)は橘奈良麿の作であるが、風趣は全く異つてゐる。眞木の葉の雪は如何にも深さうに思はれるが、この山菅の葉の雪は程よい深さに感ぜられ、結句への連なりが凱切である。「高山の菅の葉凌ぎ零る雪の消ぬとか言はも戀の繁けく」(一六五五)は三國人足の歌で、彼は大伴安麿と同時代の人であるから、兩者の間に關係があるかも知れない。
〔語〕 ○菅の葉凌ぎ 菅の葉を押し靡かせて。菅は山菅であらう。○消なば惜しけむ 消えてしまつたならば惜しいであらう。
〔訓〕 ○そね 白文「行年」とあり。舊訓はコソであるが、さう訓むべき理由なく、又「去年《こぞ》」の義といふ攷證の説も從ひ難いのみならず、「な−こそ」の形は奈良時代には全くない。「行」を「所」の誤といふ説もあるが、行年の例は他にもあるので、姑くこの儘でソネと訓んでおく。
 
    長屋王《ながやのおほきみ》馬を寧樂山《ならやま》に駐《とど》めて作れる歌二首
300 佐保過ぎて寧樂《なら》のたむけに置く幣《ぬさ》は妹を目|離《カ》れず相見しめとぞ
 
〔題〕 長屋王 「七五」參照。寧樂山 奈良市の北方で、この山を界として山城となる。
〔譯〕 佐保路を過ぎて、この奈良山の峠の神に幣を供へて祈るのは、無事にこの旅を終へ、早く家に歸つて、絶えず妻の顔を見ることが出來るやうにして下さいとの念願なのである。
〔評〕 奈良の山を越えて遠く旅に出る。出發に際し忽ち脳裡を襲ふものは旅路の困苦と身邊の不自由とであり、從つて又思ふところは優しい妻の上である。發足の瞬間に既に歸路の平安まで祈り、早く妻の笑顔に接したいと願ふのは、作者の情緒の纏綿たるは勿論であるが、一面また當時の旅の難澁と民俗信仰とをありのままに語るものに外ならない。
〔語〕 ○佐保 今の奈良市の北方から西の地、平城京からは佐保を通つて寧樂山にかかつたのである。○寧繁のたむ(270)けに 「たむけ」は旅人が行路の安全を祈つて道路の神を祭ること、轉じて祭る場所をいふ。「たうげ」(峠)は即ち「たむけ」の轉であるといはれる。「み越路のたむけに立ちて妹が名告りつ」(三七三〇)ともある。○幣 神を祭る爲に捧げ供へるもの。○目離れず 目を離れることなく、常に。
 
301 磐《いは》が根の凝《こご》しき山を越えかねて哭《ね》には泣くとも色に出でめやも
 
〔譯〕 岩石のごつごつと重なつた山を越すに越しかねて、たとへ聲をあげて泣かうとも、妻戀しさのゆゑとは顔色にも出さうか。
〔評〕 ゆくさきどんな險阻を越えねばならぬか、そのやうな時に、妻を思ひ出して泣いてしまふことがあるかも知らぬ。聲に出して泣いても顔色には表はさぬと云ふのは、矛盾のやうに聞えるが、これは實は家妻の戀しさゆゑであつても、さうは人に覺られまいと云ふのである。同行の人の前に男子の面目を保たうとする心持であらう。
〔語〕 ○凝しき 岩の凝り固つて險しい。○哭にはなくとも たとへ聲を出して泣かうともの意であるが、ここは熟語となつて原義を失ひ、たゞ泣く意であるといふ新解の説もある。○色に出でめやも 顔色に出して知られまい。
 
    中納言安倍廣庭卿の歌一首
302 兒《こ》らが家道《いへぢ》やや間遠《まどほ》さをぬばたまの夜《よ》渡る月に競《きほ》ひあへむかも
 
〔題〕 安倍廣處卿 右大臣|御主人《みうし》の子で從三位中納言となり、天平四年二月薨じた。懷風藻に詩が二篇見える。
〔譯〕 わが妻の家へ行く道はかなり遠いので、空ゆく月と競爭しきれるであらうか。どうか月の入らぬうちに行き着きたいものである。
〔評〕 月の隱れぬうちにと、歩みを速めて夜道を急ぐ作者の姿が、何らの技巧もなく、しかも如實に點出されてゐる。(271)調子も極めて自然にして輕妙であるのは、作者の快活な氣質と、その練達せる手腕とを示すものである。月に競ふといふのも、夜道の不安や、早く相見たさの焦慮のみではなく、無邪氣な明るい氣持をほのめかしてゐるやうに感じられる。
〔語〕 ○兒らが家道 妻の家へ行く道。○やや間遠きを まだかなり距離があるが。○夜渡る月 夜空を渡る月。○競ひあへむかも 月が山へ入るのと、自分が妻の家に到着するのと、先を爭ふ事ができるであらうか。
 
    柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作れる歌二首
303 名ぐはしき稻見《いなみ》の海の奧《おき》つ浪千重に隱《かく》りぬ大和島根は
 
〔題〕 柿本朝臣人麻呂筑紫國に下りし時 人麿が筑紫へ下つたのは恐らく公用と思はれるが、その任務や時期等は明かでない。
〔譯〕 その名もよい播磨の印南の海をゆくと、折から高い波が幾重にも立つて、懷かしい故郷の大和の方の山も、浪に隱れてしまつた。
〔評〕 三句までのおほらかな調に、悠々とうねり打つ浪に乘つて進みゆく氣分をあらはし、四句に至つて、高まる感慨に大和の方を顧みた心の動きを如實に傳へてゐる。抑揚の妙はさながら海波浩蕩の?を思はせ、船の上に立つて、小手をかざしてゐる姿をさへ想像させるほどである。船上に立つてはるばると煙波の中に遠ざかりゆく故郷の山々をふりかへる氣分は、今日に於いても猶よく味ははれるが、まして自然が今日よりもずつと大きく感じられた時にあつては、殊に作者の如き多感な敍情詩人の心緒を高潮せしめたことは當然である。そこからこの莊重の格調が生れたのも蓋し偶然ではあるまい。
〔語〕 ○名ぐはしき 名の麗しい。○稻見の海 印南の海。播磨國加古川附近の海。○千重に隱りぬ 沖の波が幾重(272)にも立ち重なつた彼方に隱れた。
 
304 大王《おほきみ》の遠《とほ》の朝廷《みかど》と在《あ》り通《がよ》ふ島門《しまと》を見れば神代《かみよ》し念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 遠方にある官廳として、筑紫へと常に人々が往來する途中の、海路に散在する島々を見ると、國土の産まれた神話が思ひ浮べられる。
〔評〕 我が國の誇といふべき瀬戸内海の風光は、見る者に造化の妙を想はしめる。特に人麿には、太古の國士創造を想起せずにゐられなかつたほど、その詩情を刺戟されたのは、さもあるべきことであらう。しかもこの航路は「大王の遠の朝廷」たる太宰府に通ふ道である。一二三句にこの事を敍したのは、一首を單なる敍景歌たらしめず、莊重たらしめたものである。
〔語〕 ○遠の朝廷 地方の政廳の義で、ここは太宰府をさす。○在り通ふ 前々からひき續き通つてゐる。○島門 島と島との間の狹い水路。○神代し念ほゆ この島々の作られた神代の昔が思はれる。
 
    高市連黒人の近江の舊都の歌一首
305 斯《か》く故《ゆゑ》に見じと云ふものを樂浪《ささなみ》の舊《ふる》き都を見せつつもとな
     右の謌、或本に曰はく、小辨の作なりといへり。いまだこの小辨といふ者を審にせず。
 
〔題〕 高市連黒人 「二七〇」參照。黒人が大津宮の廢墟を訪うての作である。
〔譯〕 これだから見まいと云つたものを、此の近江の舊都の蹟を見せてくれて、物思を私にさせることよ。
〔評〕 荒廢の跡の傷ましさ、見れば悲痛な心の苦しみに堪へかねて、寧ろ見ねばよかつたいといふ氣持である。あまりに同情の深刻なため、却つて自己をいたはるもののやうに、靜かに避けてゐようとするのは、近代的に繊細でやや(273)複雜な心理である。内に無限の悲愁を湛へつつ穩かに生きる教養ある人の面影を浮べ、黒人の性情を推察せしめる作である。
〔語〕 ○かく故に このやうに悲しい思をするやうになるので。○見せつつもとな 「もとな」は由なく、徒らになどの意。
 
    伊勢國に幸しし時、安貴王《あきのおほきみ》の作れる歌一首
306 伊勢の海の奧《おき》つ白浪花にもが包みて妹が家づとにせむ
 
〔題〕 安貴王 春日王(二四三參照の子、市原王(九八八參照)の父。この行幸は、續紀に見える天平十二年十月の伊勢行幸の時か、或は養老二年の美濃行幸の時かといはれてゐる。
〔譯〕 伊勢の海の沖に立つ眞白い浪の美しさ。あれが花であればよいが。さうすれば包んで持つていつて、家に待つ妻への土産にしようものを。
〔評〕 旅行の困難であつた時代、大和平原に住み馴れた大宮人には、青海原の沖つ白浪は珍しい眺めであつた。殊に婦人は旅行の機會が一層稀であつたので、たまたまこの佳景を滿喫して、愛する妻にも家苞にしたいといふ、この願はまことに自然にして可憐である。「難波潟潮干の餘波つばらに見む家なる妹が待ち問はむ爲」(九七六)、「玉津島よく見ていませあをによし平城なる人の待ち問はばいかに」(一二一五)、「玉津島見れども飽かずいかにして裹み持ち行かむ見ぬ人の爲」(一二二二)など、いづれも同じ感情に發してゐるが、この歌は調子が優れ、白浪が青い海に花と咲いた有樣も浮んで、殊に調は清爽、情は温藉である。
〔語〕 ○花にもが 花であつて欲しい。○家づと 家への土産。「つと」はつつみものの義。
 
    博通法師、紀伊國に往き、三穗《みほ》の石屋《いはや》を見て作れる歌三首
(274)307 はた薄《すすき》久米の若子《わくこ》が坐《いま》しける【一に云ふ、けむ】三穗の石屋《いはや》は見れど飽かぬかも【一に云ふ、あれにけるかも】
 
〔題〕 博通法師 傳不詳。三穗の石室 紀伊國日高郡日御崎の東方に當る。
〔譯〕 むかし久米の稚子が住んでをられた、この三穗の石室は、見ても見ても飽き足らぬことである。
〔評〕 久米の若子については、傳説が定かでないのが遺憾である。古傳説のからむ珍しい石室を愛づる情はよく現はれてゐる。なほ傳説の石室を歌つた作には、生石村主眞人の歌一首がある。「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代經ぬらむ」(三五五)
〔語〕 ○はた薄 句を隔てて、御穗即ち三穗にかかると見る宣長説がよからう。○久米の若子 顯宗紀に見える弘計王のことを、來目稚子とも申したからこの方であらうともいひ、また古代の久米部の稚子ともいふが、明らかでない。
 
308 常磐《ときは》なす石屋は今も有りけれど住みける人ぞ常なかりける
 
〔譯〕 永久に變らない此の三穗の石室は、昔ながらに殘つてゐるが、この石室に住んでをつた久米の若子は、無常な人の世の習はしをのがれ得なかつた。
〔評〕 日常語のやうに平淡な歌で、その調子も極めて素朴である。無常觀は法師にふさはしい。
〔語〕 ○常磐なす いつまでも變らぬ。
 
309 石室戸《いはやと》に立てる松の樹|汝《な》を見れば昔の人を相見るごとし
 
〔譯〕 石室の入口に立つてゐる松の樹よ、今お前を見ると、久米の若子に逢ふやうな心地がする。
〔評〕 昔のことを知つてゐるであらう松の木を、石室の主の形見として愛でてゐるのは、深い追慕の情があらはれて(275)ゐる。「汝を見れば」と松に語りかけたところに、親愛の情が溢れてをり、「相見るごとし」ととぢめた調子が、簡勁にしてすぐれてゐる。
〔語〕 ○石室戸に 石室の門口。○昔の人 久米若子をさす。
 
    門部王《かどべのおほきみ》、東《ひむかし》の市の樹を詠《なが》めて作れる歌一首
310 ひむかしの市の植木の木垂《こだ》るまで逢はず久しみうべ戀ひにけり
 
〔題〕 門部王 類聚古集に「後賜姓大原眞人氏也」と註がある。天平十七年四月大藏卿從四位上で卒した。東の市は、平城京にそれぞれ東市西市を設けられたそれで、今の辰市村字杏にあつたらしい。
〔譯〕 東の市場に植ゑた木がのびて、枝や葉の垂れるまで、逢はぬことが久しいので、戀しく思ふのももつともであると、我ながら思はれることよ。
〔評〕 市場の街路樹の生ひ伸びたのを見て、逢はずに經過した時日の長いのに驚いたのである。取材が珍しく、四五句の率直さもよい。街路樹の下で相見たといふやうな思出が絡んでゐるのであらう。
〔語〕 ○木垂るまで 木が生ひ茂つて枝の垂れさがるまで。時の經過の久しいのをいふ。○うべ戀ひにけり 戀しいのももつともである。
 
    ?作村主益人《クラツクリノマスヒト》、豐前國より京に上りし時、作れる歌一首
311 梓弓|引豐國《ひきとよくに》の鏡山見ず久ならば戀しけむかも
 
〔題〕 ?作村主益人 ?作が氏、村主は姓。傳不詳。「一〇〇四」の作は、左註に「内匠寮大屬?作益人」云々とある。
〔譯〕 豐前の國の山容美しいこの鏡山は、久しく見ずにゐたらば、定めて戀しく思はれることであらうなあ。
(276)〔評〕 別れ去つて將來におこるであらう心持を豫想して、ほのかな哀感を漂はせてゐる。豐前國の鏡山の佳景を敍したものであらう。但、この卷の挽歌「四一七」の題詞に、「河内王を豐前國鏡山に葬りし時」云々とあるによつて、或は作者は河内王に仕へた人で、御墓に對する思慕の情かとも推察されるが、併し無論それは推測に過ぎない。
〔語〕 ○梓弓 引豐國にかかる序。引き響《とよ》もすの意で懸けたのであらう。○豐國 豐前豐後の總稱。○鏡山 豐前國田川郡勾金村鏡山。「四一七」にも見える。○見ず久ならば 見ないで久しく經過したならば。
 
    式部卿藤原|宇合《うまかひ》卿、難波堵《なにはのみやこ》を改め造らしめらえし時、作れる歌一首
312 昔こそ難波田舍《なにはゐなか》と言はれけめ今は京《みやこ》引《ひ》き都びにけり
 
〔題〕 式部卿藤原宇合卿 宇合は不比等の第三子で、靈龜二年八月遣唐副使となり渡唐、後に常陸守となる。天平四年西海道節度使に任じ、天平九年八月薨じた。難波宮改造の事は、聖武天皇神龜三年より天平四年三月までで、宇合を知造難波宮事と爲す由が續紀に見える。
〔譯〕 昔こそ難波の田舍といはれたであらうが、今は都を此處に引いて來て、いかにも都らしく立派になつたことよ。
〔評〕 難波は、遠く仁コ天皇の舊都で、孝コ天皇も都せられ、文武・元明の兩朝には行幸もあつた。しかし其の後荒れてゐた地に、聖武天皇の新宮が造營されるのを祝し、知造難波宮事に任ぜられ、自分が監督した工事に對する得意の下心もあつての作であらう。この時は神龜三年十月であつた。その前年の十月には、笠金村が行幸に供奉して長歌と反歌二首を詠んだが、その一首に云ふ。「荒野らに里はあれども大王の敷きます時は京師となりぬ」(九二九)。
〔語〕 ○京引き 他に用例はないが、都を引き來る意であらう。○都びにけり 都らしくなつた。
 
    土理《とりの》宣令の歌一首
(277)313 み吉野の瀧の白波知らねども語りし繼げばいにしへ念《おも》ほゆ
 
〔題〕 土理宣令 卷八(一四七〇)に「刀理宣令」と見える。續紀によつて養老五年正月東宮に侍せしめられたことと、懷風藻によつて、伊豫掾となり、年五十九で歿した事が知られる。
〔譯〕 この吉野の昔のことは知らないけれども、昔からいろいろに語り傳へてゐるので、それを聞くと、古のことが思ひ出されてなつかしいことである。
〔評〕 吉野は山水の美と共に誇るべき歴史を負うてゐるので、その勝景を稱へつつ古をしのぶことは、多くの歌人によつてなされた。この作は、吉野川の激瑞に碎くる白浪の景を序に用ゐて、一氣にすらりと詠み下したところが巧みである。
〔語〕 ○瀧の白浪 「しら」の同音を以て「知らねども」にかけた序。たきは吉野川の激流。
 
    波多朝臣少足《はたのあそみをたり》の歌一首
314 さざれ波磯|巨勢道《こせぢ》なる能登湍《のとせ》河|音《おと》のさやけさたぎつ瀬ごとに
 
〔題〕 波多朝臣少足 傳不詳。續紀には波太朝臣廣足、足人、百足など見える。これらは同族であらうといはれる。
〔譯〕 こまかい浪が石の上をこす、巨勢路の此の能登瀬河は、何とまあ水の音のさはやかなことか、たぎち流れる瀬ごと瀬ごとに。
〔評〕 さ行の音を重ねて、たぎち流れる清流の勢を聞くやうな快い調である。この歌と、「巨勢なる能登瀬の河の後も逢はむ妹には吾は今ならずとも」(三〇一八)とを合せて、實朝は、「白浪の磯巨勢路なる能登瀬河後も相見む水尾し絶えずは」と詠んでゐる。
(278)〔語〕 ○さざれ浪磯巨勢道 さざれ浪が磯即ち石の上を越す意で、磯まで巨勢道の序詞。巨勢道は「五〇」參照。○能登湍川 高市郡にあり、今重坂川といひ、巨勢山から流れ出で吉野口驛附近を流れ、曾我川となる。
 
    暮春の月、芳野離宮に幸しし時、中納言大伴卿、勅を奉《うけたまは》りて作れる歌一首并に短歌【いまだ奏上を經ざる歌なり】
315 み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴《たふと》くあらし 川からし 清《さや》けくあらし 天地と 長く久しく 萬代に 變らずあらむ いでましの宮
 
〔題〕 暮春の月 續紀に見える聖武天皇神龜元年三月の行幸であらう。大伴卿は安麿の子旅人で、家持の父である。養老二年中納言に、同四年征隼人持節大將軍となり、天平三年大納言從二位で薨じた。懷風藻に年六十七とある
〔譯〕 この吉野宮は、山がすぐれてゐるので貴くみられる。川がうるはしいので清らかである。天地と共に長く久しく、萬代までも變らず榮えるであらう、この離宮は。
〔評〕 簡潔清楚にまとめられて、要を得た形式であるが、この前年即ち養老七年に笠金村が行幸從駕の作「み吉野の蜻蛉の宮は神からか貴かるらむ」(九〇七)以下の句に學んだ跡があるやうである。
〔語〕 ○山からし 「國からか」(九〇七)參照。○天地と長く久しく 天地と共に永遠に。
 
    反歌
316 昔見し象《きさ》の小河《をがは》を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも
 
〔譯〕 昔見た象の小河を今また來て見ると、ますます氣持よく美しい景色であるよ。
〔評〕 單純でおほやうな表現の中に、捨てがたい味がある。「いよよさやけくなりにけるかも」は、作者の主觀に映じたものであるが、淡々たる辭句の中に、如何に彼がこの勝景を愛してゐたかが思はれる。後年、太宰帥になつても、(279)「わが命も常にあらぬか昔見し象の小河を行きて見むため」(三三二)の作があり、兩者竝べ誦すれば、その愛執のほどが察せられる。
〔語〕 ○象の小河 宮瀧の對岸で、いま喜佐谷村あたりを流れる小川である。
 
    山部宿禰《やまべのすくね》赤人、不盡山を望める歌一首并に短歌
317 天地の 分《わか》れし時ゆ 神さ《かむ》さびて 高く貴き 駿河なる 布士《ふじ》の高嶺を 天《あま》の原 ふり放《さ》け見れば 渡る日の 影も隱ろひ 照る月の、光も見えず 白雲も い行き憚り 時じくぞ 雪は降りける 語り繼《つ》ぎ 言ひ繼《つ》ぎ行かむ 不盡《ふじ》の高嶺は
 
〔題〕 山部赤人 傳は纔かに本集の記載を綜合して推測し得るのみで、確實には知り難い。年代の明らかな歌は、神龜元年から天平八年に渉り、聖武天皇の行事に供奉した時の作が多い。續紀にも見えぬので、官位は高くなかつたと思はれる。
〔譯〕 天地開闢の太古から、神々しくて、高く貴い此の駿河の富士の高嶺を、大空高くふり仰ぎ見ると、み空ゆく日の光も山に隱れ、照る月の光も峯に遮られて見えない。白雲も通過しかねて中腹に停まり、頂上には四時かはらず雪が降つてゐる。いつの代までも長く、人々は語りつぎ言ひ傳へて行くことであらう、此の神々しく尊い富士山のことをば。
〔評〕 赤人の特色なる簡素の手法によつて、極度に精練された作であり、赤人の代表作の一といつてよい。そのけだかく奧深い姿に、天地開闢の當初からの生命を觀じたのは、自然詩人としてさもあるべきことである。「渡る日の」以下八句の中に、この山の雄大を云ひ盡して餘す所がない。簡潔であつて遒勁、しかも清潤の趣を失はない。富士を詠じた作中の絶唱の一である。
(280)〔語〕 ○天地の分れし時ゆ 混沌としてゐたものが分れて、天と地とになつた神代から。○天の原 大空。○影も隱ろひ 日光も山に隱れて。○い行き憚り 「い」は接頭辭。山を畏み憚り行きかねて停滯するの意。○時じく 時をもわかたず、常に。○語り繼ぎ言ひ繼ぎ行かむ 後世まで語り傳へ音ひ繼ぎ行かう。
 
    反歌
318 田兒《たご》の浦ゆうち出でて見れば眞白にぞ不盡の高嶺に雪は零《ふ》りける
 
〔譯〕 田兒の浦を通つて來て、山陰をふと出ると、青空にそびえ立つ不盡の高嶺に、眞白に雪が降り積つてをる。
〔評〕 青空に眞白く秀麗の線を描いたあの靈峯の姿をふり仰いだ感じが、平明にしかも崇高にあらはれてゐる。特に長歌の補足として意義が深い。即ちまづ、これによつて作者の富士を眺めた位置が分り、更に、長歌の雄偉な古典的格調に對して、清純な寫實味を添加してゐる。また逆に、この反歌は、崇高な長歌の背景によつて、重みを加へられてゐるのである。
〔語〕 ○田兒の浦ゆ この「ゆ」については輕く「に」に通ふとする槻落葉の説、「見れば」にかけるとする考の説とがある。田兒の浦より沖に出てとする古義の説はわるい。「ゆ」は經由する處を示すので「を通つて」の意とする新講の説がよい。田兒の浦の山陰になつた海岸を傳ひ來て、ふと眼界の開けた時に仰いだ意に解くべきである。
 
    不盡山を詠める歌一首并に短歌
319 なまよみの 甲斐の國 打ち寄する 駿河の國と こちごちの 國のみ中ゆ 出で立てる 不盡《ふじ》の高嶺は 天雲《あまぐも》も い行き憚り 飛ぶ鳥も 翔《と》びも上《のぼ》らず 燎《も》ゆる火を 雪もて消《け》ち 降る雪を 火もて消《け》ちつつ 言ひもえず 名づけも知らに 靈《くす》しくも 坐《いま》す神かも 石花海《せのうみ》と(281) 名づけてあるも をの山の 包める海ぞ 不盡《ふじ》河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの國の 鎭《しづめ》とも 坐《いま》す神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高峯《たかね》は 見れど飽かぬかも
 
〔譯〕 甲斐の國と駿河の國との眞中に立つてゐる富士の高嶺は、天の雲も行き憚つて山腹にたなびき、空飛ぶ鳥もこれほど高く飛び上ることが出來ぬ。山の頂に燃えてゐる火をば空から降る雪を以て消し、空から降る雪を山の頂に燃えてゐる火で消し、四時雪をいただき、四時つねに火を吹く、靈妙不可思議な神山である。石花湖《せのうみ》と名ある湖水も、その山に圍まれてゐる湖水である。富士川というて人の渡る大河も、この山の水がたぎち落ちるものなのである。日本の國の鎭護としています神であらうか、國の寶として出來上つた山であらうか。駿河なる富士の高嶺は、まことに見ても見ても飽かぬことである。
〔評〕 格調雄偉、構想秀絶。赤人の作と相竝んで、或は赤人の作以上に、古今の傑作と評すべき長歌である。富士山は、空行く雲も行き憚り、空飛ぶ鳥も飛びのぼらうとせぬ山である。山頂は火を吐いてゐるが、燎える火を降り來る雪で消し、降り來る雪を噴き出す火で消すといふやうに、火と雪と絶えず相戰つてゐる。――四時雪を帶び、常住火を噴きつつある樣をかくも的確にかくも精妙に、また象徴的に描いて、「言ひもかね名づけも知ら」ぬ靈《くす》しさを、鮮かに表現し得た筆力の靈活は、驚嘆に値する。雲も鳥も、ただ高いゆゑのみではなく、この靈山の偉力にうたれて逡巡するといふ趣旨がおのづから語られてゐるのではないか。ついで、此の山の大きさが、具體的に敍せられてゐる。即ち、廣い石花海(今の西湖はこの名殘である)も此の山に抱かれてをり、富士川もこの山からたぎち落ちる水に過ぎぬ、といふので、上代人の自然に對する驚異の情が如實に語られてゐる。かくて此の山を日本の鎭護たる神と稱へ、國の寶とも尊んだのは、高まる感激のおのづからな結果である。作者の高潮した息づかひを感ずると共に、日本人が(282)この山に對して持つ尊崇と誇とを代表して述べてゐるものと認められる。
〔語〕 ○なまよみの 甲斐の枕詞。語源不詳。○打ち寄する 駿河の枕詞。諸説あるが同音を繰返したのであらう。○こちごちの あちらこちらの。○國のみ中ゆ 國の中間から聳え立つの意。○燎ゆる火を 富士山は當時なほ噴火してゐた。○名づけも知らに 名?することも知らぬほどに。○くすしくもいます神かも 山を尊んで直ちに神としたのは古代人の信仰を示してゐる。○石花海 今の精進湖・西湖で貞觀七年の噴火まで一つになつてゐたといふ(三代實録)。○日の本の やまとの枕詞。我が國を日本といふのは、孝コ天皇の御代に始まる。此處も同じ意で日の出づる本の意。
〔訓〕 ○言ひもえず 白文「言不得」を「イヒカネテ」「イヒモカネ」等とよむ説もあるが、略解の訓に從ふ。
 
    反歌
320  不盡《ふじ》の嶺《ね》に零《ふ》り置ける雪は六月《みなづき》の十五日《もち》に消《け》ぬればその夜《よ》降りけり
 
〔譯〕 富士の嶺に降り積つてゐる雪は、暑さの絶頂たる六月十五日にはさすがに消えるが、併し消えたかと思ふと、すぐ又その夜に降り積るのである。
〔評〕 さすがに暑さの眞盛には消えるが、その夜また降るといふのは、常住雪を戴く高山の神秘感を最も巧みに描いたもので、素朴な語調の中に、靈活の氣が漲つてゐる。
〔語〕 ○六月の十五日 舊暦六月滿月の日で、一年中で最も暑い日。
 
321 不盡の嶺《ね》を高みかしこみ天雲もい行きはばかり棚引くものを           右の一首、高橋連蟲麻呂の歌の中に出づ。類を以てここに載す。
 
(283)〔譯〕 富士の嶺が高く、かしこいので、空ゆく雲も行き過ぎることを憚り、その邊にたなびいてゐることよ。
〔評〕 富士の嶺のあまりに高く、靈妙不可思議なゆゑに、徂徠する雲も行き憚つて中腹にたなびいてゐると云ふので、前の二つの長歌にもあるが、靈峯の威力を描いて遺憾がない。いかにも、上代人の信仰がさながらに表現されてゐる。
〔語〕 ○棚引くものを 「ものを」は「一〇八」參照。
〔左註〕 右の一首、高橋連蟲麻呂の歌の中に出づ 右の一首とあるが、その作風から考へて、長歌及び反歌二首すべて蟲麿の作とおもはれる。澤瀉博士の説に、「九〇六」の右一首とあるのが、反歌を隔てて長歌を指してゐるから、それに倣つてこの右の一首も長歌一首を意味し、反歌はその中に含めたものと解すべきであるといふ説がよい。
 
    山部宿禰赤人、伊豫の温泉《ゆ》に至りて作れる歌一首并に短歌
322 皇神祖《すめろき》の 神の命《みこと》の 敷きます 國のことごと 湯はしも 多《さは》にあれども 島山の 宜しき國と 凝《こご》しき 伊豫の高嶺の 伊佐庭《いさには》の 岡に立たして 歌思ひ 辭《こと》思はしし み湯の上《うへ》の 樹群《こむら》を見れば 臣《おみ》の木も 生《お》ひ繼ぎにけり 鳴く鳥の 聲も變らず 遠き代に 神《かむ》さびゆかむ 行幸處《いでましどころ》
 
〔題〕 伊豫の温泉 道後温泉。「八九」左註參照。和名抄に温泉を「由」と訓んでゐる。
〔譯〕 御歴代の天子のお治めになつていらつしやるこの日本の國の至るところに、温泉は多くあるけれども、その中にも、島山の姿の美しい國であるといふので、昔聖コ太子が、嶮しい伊豫の高嶺の麓なる伊佐庭の岡にお立ちになつて、歌をお思ひになり文辭をお考へになつたといふこの温泉の、その湯場附近の樹群を見ると、齊明天皇行幸の折のお話にある樅の木も生ひ繼いで茂つてゐるし、また鳴く鳥の聲も昔に變らない。かくて遠い後の代までも神々しくつ(284)づいて行くであらう、この行幸のあつた所は。
〔評〕 伊豫の道後の温泉は上代から有名で、伊豫風土記によると、古くは景行天皇・仲哀天皇、下つては聖コ太子、ついで舒明天皇・齊明天皇の行幸があつた。赤人は此處に來て、眼前の景に纒綿する古の餘薫を懷しんだのであるが、特に聖コ太子と舒明天皇との故事を詠み入れてゐる。即ち、聖コ太子が温泉の碑文を撰ばれたことを、「伊佐庭の岡に立たして、歌思ひ辭思はしし」と云つたのである。歌をお詠みになつたことは記録に見えぬが、かく想像したのであらう。舒明天皇の行幸の際には、宮の前の椹と臣の木に斑鳩と此米とが鳴いてゐなので、稻穗を懸けて養はしめ給ひ、歌をお詠みになつたことが、「六」の左註及び仙覺抄所引の伊豫風土記に見える。ここにはそれ以來有名な臣の木をとり入れ、今も鳴く斑鳩と此米とを「鳴く鳥の聲も變らず」といつたのである。情景兼ね備はり、簡素古朴の味掬すべき作である。
〔語〕 ○島山の宜しき國 伊豫をほめた譜。島山は四國を總べ云へりと古義はいふ。○伊豫の高嶺 石槌山をさすといひ、或は三方森山ともいふ。○伊佐庭の岡 伊豫風土記逸文(仙覺抄所引)に見え、今、道後公園となつてゐる湯月城址と、湯月八幡のある丘とが、往古は連續してゐて伊佐庭の岡と稱せられたらしいと全釋はいつてゐる。○歌思ひ辭思はしし 伊豫風土記に見える聖コ太子が温湯の碑を建てるため碑文を案じ給うたことをいふのであらう。釋日本記に湯の由來と共に碑文を載せてゐる。○臣の木も生ひ繼ぎにけり 臣の木は樅のこと、仙覺抄所引の風土記に、舒明天皇行幸の時、臣の木に鵤と此米が集まり、稻穗を繋けてそれを養ひ給うた由が見える。生ひ繼ぎは、その時の臣の木は枯れたが、別の木が後を繼いで生えてゐるの意。○鳴く鳥の聲も變らず 上の風土記の鵤と此米を思つていふのであらう。○行幸處 嘗て行幸のあつた處。
 
    反歌
(285)323 百磯城《ももしき》の大宮人の飽田津《にきたづ》に船乘《ふなのり》しけむ年の知らなく
 
〔譯〕 大宮人たちが、嘗てこの飽田津で船乘をしたといふのは、いつの事であつたか、はつきりとわからぬやうになつてしまつたことである。
〔評〕 行幸のお供をした大宮人たちが、此處で船に乘つた遠い昔を偲んだのである。長歌は温泉について懷古の情を述べてゐるが、反歌では轉じて、行幸の御船の出入した飽田津を詠んでゐる。額田王の「熟田津に船乘りせむと」(八)の歌を思ひ浮べてゐたことは勿論であらう。しかし、齊明天皇の行幸の時をのみ懷古したと限定すべきではなく、幾度かの行幸のすべてに及んでゐるのであらう。往事渺茫すべて夢に似たりの感が深い。
〔語〕 ○飽田津 伊豫國道後附近で、當時の要津。「八」參照。
 
    神岳《かみをか》に登りて、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
324 三諸《みむろ》の 神名備《かむなび》山に 五百枝《いほえ》さし 繁《しじ》に生ひたる 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく 在《あ》りつつも 止《や》まず通はむ 明日香《あすか》の 舊《ふる》き京師《みやこ》は 山高み 河とほしろし 春の日は 山し見が欲《ほ》し 秋の夜は 河し清《さや》けし 朝雲に 鶴《たづ》は亂れ 夕霧に 蝦《かはづ》はさわく 見る毎《ごと》に 哭《ね》のみし泣かゆ いにしへ思へば
 
〔題〕 神岳 「一五九」參照。
〔評〕 我がのぼつてをるこの神名備山に、多くの枝々をつけた栂《つが》の木が生ひ緊つでゐるが、その栂の名のとほり、つきつぎに絶えることなく、これからも通うて來て見たく思ふ明日香の舊都は、ここから眺めると、山々は高くそびえ、(286)飛鳥川の流は、雄大の觀がある。春の日の、山の美しさ。秋の夜には、河の瀬の音のさやけさ。朝の雲に、鶴は亂れ飛び、夕霧のこめる流の岸には、河鹿が鳴く。來て見るごとに、古へが思はれて、聲に出してうち泣かれる。
〔評〕 宮殿は既に壞廢し、山河のみ依然として美しい明日香淨御原の舊都に立つて、懷古の涙を濺いだのである。東から南にかけて、倉橋・多武・細川・南淵・高取などの山々が蜿蜒として連り、眼下の平野を縫うて飛鳥川が逶?として流れる。明媚和暢の風趣に、朝雲に舞ふ鶴の姿、夕霧にうたふ河鹿の音を配して、浮彫のごとく立體的に、また律動的に表現されてゐる。これを人麿の近江舊都の懷古の作にくらべると、彼は情を主として景はおぎなひに取り入れられてゐるに過ぎぬが、此は景を寫して情は内に沈潜してゐる。赤人の敍景詩人としての面目を明かに語るといふべき作である。
〔語〕 ○三諸の神名備山 ここは雷岳をさす。○樛の木の 「二九」と同じく、ここまでは「つぎつぎ」にかかる序詞。○玉葛 「絶ゆることなく」にかかる枕詞。○在りつつも 變りなくかうしてゐて。○河とほしろし 「とほしろし」は遠く鮮かであるの意とした舊説は誤で、橋本博士の研究により、この「しろし」は白または顯著の意のいちじろしとは特殊假名遣の上から區別さるべきもので、日本紀私記、石山寺藏西域記の訓點などに見える偉大、雄大の意であることが明かにされた。○見が欲し 見たい。○蝦 今の河鹿。○いにしへ思へば 飛鳥に都のあつて榮えた當時の事を思ひあはすれば。
 
    反歌
325 明日香《あすか》河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき戀にあらなくに
 
〔譯〕 ○明日香河の川淀のあたりをいつも去らないで立つてゐる霧のやうに、舊都を戀しくおもふ自分の心は、消え去る折があらうとは思へない。
(287)〔評〕 巧な序をもつて、明日香の舊都に對する思慕の深いことを語つたのである。類歌には左の如き例がある。「石上布留の山なる杉群の思ひ過ぐべき戀にあらなくに」(四二二)、「朝にけに色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに」(六六八)。
〔語〕 ○川淀さらず立つ霧の 川の淀んだ處を去らずいつも立つてゐる霧のやうにの意で、「過ぐ」にかけた序詞。○思ひ過ぐべき 思ひが消え失せる、忘れるの意。○戀にあらなくに 「戀」は飛鳥の舊都を戀しく思ふ心。
 
    門部王《かどべのおほきみ》、難波に在りて、漁父《あま》の燭光《いさりび》を見て作れる歌一首
326 見渡せば明石の浦にともす火の秀《ほ》にぞ出でぬる妹に戀ふらく
 
〔題〕 門部王 「三一〇」參照。
〔譯〕 見渡すと、明石の浦でともす漁火が點々と見えるが、丁度そのやうに、外に顯れてしまつたことであるよ、窃かに妻を戀ふる私の心は。
〔評〕 難波の濱に旅寢して、遙かに暗い沖合にあたつて、波のまにまに浮沈する漁火の光を眺めつつ、妹戀しさに堪へかねてゐるのであらう。難波から明石の浦は見えぬ筈であるが、これはその方角を大凡に指したものと思はれる。戀情の人目にたつやうに顯はれるのを、暗い沖にともす燭光を以て譬へたのは、如何にも適切で、實景と實情と序との間に、聊かの隙もない。家持も越中の任地で、「鮪衝くと海人の燭せる漁火のほにか出ださむ吾が下念を」(四二一八)と詠んでゐるのは、偶合か或は模倣であらう。
〔語〕 ○ともす火の 以上は序詞で、火を秀にかけたもの。○秀にぞ出でぬる 秀に出るは、表面にあらはれる。めだつやうになるの意。○妹に戀ふらく 妹を戀しく思ふこと。
 
    或|娘子《をとめ》等、裹《つつ》める乾鰒を贈りて戯れに通觀僧の咒願《かじり》を請ひし時、通親の作れる歌一首
(288)327 海若《わたつみ》の奧《おき》に持ち行きて放つともうれむぞこれが生還《よみがへ》りなむ
 
〔題〕 通觀 傳不詳。咒願 僧の行ふまじなひ。
〔譯〕 よしや大海の沖合に持つて行つて放つたところで、どうしてこの乾鰒が生きかへることがあらうぞ。
〔評〕 一種をかしみのある歌で、「うれむぞ」といふ漢文を直譯したやうな語法も珍しいが、「これが」といふ無造作な調子も面白く、洒脱淡白な坊さんを想像させる。乾鰒を贈つた娘子と通觀との氣持について、娘らが誘惑しようとしたのを、通觀があつさり受け流してしまつたものとの想像説は、ややうがち過ぎたやうに思はれる。
〔語〕 ○うれむぞ いかにぞの意。「奈良山の子松が末のうれむぞは」(二四八七)とも見える。「豈」(三四五)「けだし」(四〇二)などと共に、當時の新用語ともいふべきものである。
 
    太宰少貳小野|老《おゆ》朝臣の歌一首
328 あをによし寧樂《なら》の京師《みやこ》は咲く花の薫《にほ》ふがごとく今さかりなり
 
〔題〕 小野老 續紀によると、天平三年正五位下、五年に正五位上に至る。その頃少貳となつたらしく、後大貳に陞り、九年六月從四位下で卒した。少貳は太宰府の役人で、帥、大貳に次ぐ。定員二名。
〔譯〕 奈良の都は、花の美しく咲くがごとく、今繁榮のさかりである。
〔評〕 感興の湧くところ、歌おのづから成つた概がある。技巧を弄した節も見えず、何ら凝滯の跡もなく、朗々としてうたひあげたその才華は爛漫として、まことに咲く花のにほふが如き一首である。これは天平文化の春を呼吸した詩人にして始めて歌ひ得たものであらう。平城京といふ大きな對象を短歌のなかに詠み盡して遺憾がない。作者の才藻もさることながら、天平文化絢爛の盛時が今日からも偲ばれる。
(289)〔語〕 ○薫ふが如く ここは色彩光澤の美のみでなく、芳香もこめていつてゐるかと思はれる。「五七」參照。
 
    防人司佑《さきもりのつかさのすけ》大伴四綱の歌二首
329 やすみしし吾|王《おほきみ》の敷きませる國の中には京師《みやこ》し念《おも》ほゆ
 
〔題〕 防人司佑大伴四綱 防人司は太宰府に屬し、防人に關する事を掌る。佑は防人司正を助ける次官。四綱は傳不詳。
〔譯〕 わが大君の御統治あそばされてをる國の中では、何處よりも奈良の都がなつかしく思はれることよ。
〔評〕 大君のしろしめす國は何處も同じとは思ふものの、やはり奈良の都が慕はれると歌つたのは、都鄙文化の懸隔の甚しかつた當時としては尤な事で、殊に都に生れた身の山河幾百里を距たる邊土に來てゐては、郷愁の遣瀬なさも無理ではない。
〔語〕 ○國の中には 國の中に於いては。
 
330 藤浪の花は盛になりにけり平城《なら》の京《みやこ》を思ほすや君
 
〔譯〕 藤の花は今盛になりました。奈良の都を思ひ出していらつしやいますか、あなたは。
〔評〕 今年もまた、藤の花が盛りになつた。婉麗典雅さながら貴族文化の象徴とも思はれるやうな花である。邊地にも色は變らず咲く藤の花に、都うまれの役人たちは、この花のふさはしい天平文化の都、五月の風に紫の浪うつ平城京が頻りに思はれたのである。
〔語〕 ○藤浪の花 藤の花が房長く垂れてゆらゆら動くのを浪といつたのであらう。集中多く藤浪とあり、題詞以外では「藤の花」とあるのは、歌には一首(三九五二)のみである。
 
(290)    帥大伴卿の歌五首
331 吾盛また變若《をち》めやもほとほとに寧樂《なら》の京《みやこ》を見ずかなりなむ
 
〔題〕 帥大伴卿 旅人のことで、太宰帥になつたのは續紀に見えないが、神龜三四年頃で六十二、三歳と推測される。帥は太宰府の長官。
〔譯〕 自分の若い盛が、またかへつて來ようか。かうして年をとつて筑紫の邊土にゐては、大抵は、奈良の都を見ないで死んでしまふことになるであらう。
〔評〕 旅人が太宰帥に任ぜられた年は、萬葉集にも續紀にも記されてゐない。彼が大納言に任ぜられて歸京したのは天平二年の冬であり、翌三年七月に六十七歳をもつて薨じたのであるから、太宰帥時代に既に六十を越え老境にあつたのである。老後の邊土生活の數年を經て歸京するや、わづかに半年で薨じたのであるから、かつがつに奈良の都を、見たと云ふべきで、その時の滿足は推察される。併しこれは、本人としては望外の事であつたであらう。この事實を念頭において味ふとき、典雅な詞調のなかに潜む悲痛の情を酌むことが出來るであらう。
〔語〕 ○また變若めやも 「をつ」は初めにかへる、若がへるの意、集中多く「變若」の字を宛ててゐる。「やも」は反語。○ほとほと 殆んど、大抵。
 
332 わが命も常にあらぬか昔見し象《きさ》の小河《をがは》を行きて見むため
 
〔譯〕 自分の命も、いつまでも變らずあつてくれぬものかなあ。昔見たあの吉野の象の小川を、もう一度行つて見ようために。
〔評〕 旅人は筑紫にあつて、再三芳野の勝境を慕ふ歌を詠んだが、歸京後おそらくその地に遊ぶ暇もなくて逝去した(291)であらう。穗積老の、「吾が命しまさきくあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(二八八)と共に、萬葉人の自然愛と交通の不自由な時代相とを語つてあはれである。また、自己の生命をも短しと見て、自然觀照のために長壽を欲した素朴な現世思想が窺はれて、時代の空氣を強く感じることが出來る。
〔語〕 ○常にあらぬか 「ぬ」は打消の助動詞、「か」は疑問の助詞。「ないものかなあ」といふ意から、「あつて欲しいものである」といふやうに、願望の意がおのづから生じて來るのである。○象の小川 「三一六」參照。
 
333 淺茅原《あさぢはら》つぱらつばらにもの思へば故《ふ》りにし郷《さと》し思ほゆるかも
 
〔譯〕 つくづくと物を思つてゐると、嘗て住んでゐた里のことが戀しく思ひ浮べられることよ。
〔評〕 旅人の歌の特色のよく現はれた作である。古典的な格調をもつて、單純に正面から詠みあげながら、調子が安らかで、こまかな味があり、讀者にしみじみとした感動を與へる。彼の「冬の日雪を見て京を憶ふ歌、沫雪のほどろほどろに零り重けば平城の京師し念ほゆるかも」(一六三九)も、これに似てゐる。
〔語〕 ○淺茅原 茅は和名抄に「智」とある。疎らに生えた茅原。音の類似から「つばら」にかけた枕詞。○つばらつばらに つくづくと。○故りにし郷 ここは自分のもと住んでゐた里。
 
334 萱草《わすれぐさ》わが紐に付く香具山の故《ふ》りにし里を忘れぬがため
 
〔譯〕 私は、忘草をかうして著物の下紐につける。香具山のほとりなる故郷のことがどうしても忘れられないから、それが忘れられるやうに。
〔評〕 物思を忘れるためにとて、忘貝や忘草を身につけることは上代に行はれた習俗で、やはり言靈信仰の一現象に外ならず、本集中にも?々詠まれてゐる。但これは、?康の養生論に「萱草忘v憂」とあるから、由來するところは(292)大陸にあるのであらう。同じ意味で忘草を詠んだ例には左の如きものがある。「萱草吾が下紐につけたれど醜の醜草言にしありけり」(七二七)、「わすれ草吾が紐につく時と無く思ひわたれば生けりともなし」(三〇六〇)、「わすれ草垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ戀ひにけり」(三〇六二)。
〔語〕 ○萱草 和名抄に「兼名苑云、萱草。一名忘憂」とあつて、今もクワンザウと云ふ。山野に自生する百合科の植物、夏時黄赤色の美しい花を開く。○忘れぬがため 忘れぬ故にの意で、だからどうかして忘れようと忘草を紐につけるのであると玉の小琴はいふ。
 
335 吾が行《ゆき》は久にはあらじ夢《いめ》の囘淵《わだ》瀬にはならずて淵にあらなも
 
〔譯〕 私のこの旅行は久しいことではあるまい。吉野川の夢のわだは、私の歸るまで、瀬にはならずに淵のままであつてもらひたいものである。
〔評〕 結句の訓が決定的のものでないために、一首の意に動搖を來たすけれども、作者の純粹な自然愛の流露した歌であることは感じられる。單純にして一氣に押通してゐる句調も、やはり旅人の作の特徴とすべきであらう。
〔語〕 ○吾が行は久にはあらじ 私の旅行は長くはあるまいの意であるが、この「行」が九州滯在をさすか或は九州での小旅行をさすか不明である。○夢の囘淵 吉野川の淵の名であるが、大和志には新住村といひ、象の小川の注ぐあたりと全釋はいひ、丹生川上神社の東と總釋はいふが、未詳。○淵にあらなも 淵であつてほしい。
〔訓〕 ○淵にあらなも 白文「淵有毛」で、舊訓「フチトアリトモ」童蒙抄「フチニテアルモ」略解「フチニアルカモ」攷證「フチニテアルカモ」代匠記「フチニアレヤモ」槻落葉「フチニテアレモ」古義は誤字説によつて「フチニアリコソ」新訓では「フチニシアラモ」と訓んだが、今、總釋に從つた。
 
    沙彌滿誓《さみまむぜい》、緜《わた》を詠める歌一首
(293)336 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖けく見ゆ
 
〔題〕 沙彌滿誓 汐彌は「一二三」參照。滿誓は俗名笠朝臣麻呂といひ、養老五年右大辨從四位で出家、七年勅して筑紫觀世音寺を造らしめられた。
〔譯〕 筑紫の綿といふものは、また身につけて着ては見ないけれども、見ただけでもいかにも暖かさうに見える。
〔評〕 綿はもと印度の産で、大陸を經てわが國にも傳へられたのである。當時太宰府に輸入せられ、そこから宮中に獻納せられたもので、未だ一般の人の使用にはなつてゐなかつた。綿のふわふわとした感じをありのままに詠んだもので、始めて綿を見た時の氣持がよく現はれてゐる。
〔語〕 ○しらぬひ 筑紫の枕詞。古事記に筑紫國を白日別といふとあるのから出たものとする説と、景行紀に、筑紫八代縣で、天皇が海上に主知らぬ火を御覽になつたから、其の國を火國と名づけたとあるに據る二説があるが、特殊假名遣で甲類の「ひ」を用ゐてあるから後説は非とすべきである。○筑紫の綿 當時太宰府から毎年綿を多く獻上したことは、續紀、延喜式に見える。
 
    山上憶良臣《やまのへのおくらのおみ》、宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首
337 憶良らは今は罷《まか》らむ子|哭《な》くらむ其《そ》の彼の母も吾《わ》を待つらむぞ
 
〔譯〕 私はもうお暇いたしませう。今頃は家で子供が泣いて居ませう、またその子のあの母も私を待つてをりませうから。
〔評〕 その率直さに、平民的な歌人であつたわが憶良の面目の活躍してゐるのを覺える。酒宴は興のすさびに、亂にも及ばうとしてゐた際であつたかも知れない。眞淵が、「かく戯れ歌ひて、その席を立ちけんさま思ひやらる」と評(294)したのは至言である。また賑かな宴席の中でも、子供の泣聲を忘れなかつたことに、作者の生活態度も思はれる。
〔語〕 ○その彼の母も その子供の母で、即ち自分の妻であるが、かく間接的にいつたところに諧謔味があり、かつ幾分羞恥感の含まれてゐるらしくおもはれるのも面白い。
〔訓〕 ○その彼の母も 白文「其彼母毛」古葉略類聚鈔に「彼」が「子」とあり、古義などが從つてゐる。
 
    太宰帥大伴卿、酒を讃《ほ》むる歌十三首
338 驗《しるし》なき物を思《も》はずは一杯《ひとつき》の濁れる酒を飲むべく有るらし
 
〔譯〕 かひのない物思をするよりは、寧ろ一杯の濁酒を飲んで、我を忘れるのがよい。
〔評〕 驗なき物思といふところに、時代の影がさしてゐる。名門の出身で教養のある文化人たる旅人の、社會的竝に個人的な苦澁を窺はしめる。併し一面には又、この讃酒歌一聯は、知識としての老莊的思想からかうした超脱的口吻を學んでみた、といふやうな見方もできるであらう。
〔語〕 ○驗なき かひのない。○物思はずは 物思せずして寧ろ。「八六」參照。○一坏の 坏は飲食物を盛る器。酒坏に一ぱいの。○濁れる酒 清酒に對していふ。○飲むべく有るらし 飲んだ方がよささうである。
 
339 酒の名を聖《ひじり》と負《おほ》せし古《いにしへ》の大き聖の言のよろしさ
 
〔譯〕 かくまでによいとおもふ酒の名を、聖人と呼んだ古の大聖人の言葉のよろしさよ。
〔評〕 昔魏の人徐?は尚書郎に任ぜられたが、當時禁酒令があつたのを破つて沈醉し、部下が役所の事を問うたのに、「俺は聖人にあてられた」と答へた。太祖これを開いて大に怒つたが、將軍鮮于輔が進んで、「平日醉客仲間で清酒を聖人、濁酒を賢人といひ習はしてゐるので、?は性温厚であるが、たまたま醉語したに過ぎぬ」旨を辯護したといふ(295)話が魏志に見える。この歌はこの故事に據つたもの。作者旅人も相當な左黨で、?の亞流であつたところから、頗る共鳴を感じたものと思はれる。その腹底から出た哄笑を思はせる明朗な歌である。
〔語〕 ○酒の名を聖と負せし 魏志に「太祖禁v酒。而人竊飲。故難v言v酒。以2白酒1爲2賢者1。以2清酒1爲2聖人1」とあるのや、徐?の事に據る。○大き聖 酒を聖人となづけた魏人をさす。勿論徐?ではなく、更にそれ以前の人である。
 
340 いにしへの七《なな》の賢《さか》しき人どもも欲《ほ》りせしものは酒にし有るらし
 
〔譯〕 古の竹林の七賢人も、恬淡無欲ながらに、なほ欲したものは、酒であつたさうな。
〔評〕 聖賢を尊ぶ儒者らの堅苦しさに對する輕い諷刺が感じられる。また旅人自身は、神仙思想、老莊思想を喜んだので、やはり七賢らの超脱的風格を尊ぶところがあつたであらう。
〔語〕 ○七の賢しき人等 晉の時竹林に入つて清談を事とした所謂竹林の七賢人、即ち、?康、阮籍、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎の七人を指す。
 
341 賢《さか》しみと物いふよりは酒飲みて醉哭《ゑひなき》するしまさりたるらし
 
〔譯〕 賢人ぶつて物識りがほに物をいはむよりは、寧ろ酒を飲んで醉泣をするのが、まさつてをるらしい。
〔評〕 ここに至ると諷刺の意はあらはである、自ら高しとして論議などするより、寧ろ醉人の痴態を取るといふのは、旅人の、僞善者に對する反感と共に、素朴なもの、庶民的なものへの愛を知ることが出來よう。また醉泣は可笑しくは見えるが、人生の寂しみや苦しみを意識してゐる。悟つたやうな顔をして偉さうに物を言つてゐる人間には、却つてこの境地が分らないのである。分らないから威張つて居られるのである。そこで、表面は可笑しく見える醉泣より(296)も、却つて賢人ぶりの似而非態度が滑稽であるといふこことになる。諷刺の鋭さがここにある。
〔語〕 ○賢しみと 賢人ぶつて。
 
342 言はむすべ爲《せ》むすべ知らず極《きはま》りて貴きものは酒にし有るらし
 
〔譯〕 言語に絶し、行爲に絶して貴いものは酒であらう。
〔評〕 酒に對するひたぶるな愛好の情をあらはして、率直明快。殆ど旁らに人無きがごとくである。
〔語〕 ○言はむすべ爲むすべ知らず 言語に絶し、行爲に絶し。
〔訓〕 ○知らず 白文「不知」を從來多くの學者シラニと訓んでゐたが、シラニは下の述語に對して理由を示す場合であり、單に?態をあらはす時はシラズであるとする佐伯氏の説がよいと思はれる。「五〇」參照。
 
343 なかなかに人とあらずは酒《さか》壺になりにてしかも酒に染《し》みなむ
 
〔譯〕 なまじひに人間ではをらずに、むしろ酒壺になりたい。さうすれば、いつも酒にしみてをるであらう。
〔評〕 呉の鄭泉が死に臨んで、自分を陶物師の家の近くに埋めよ、化して土になり、酒壺に造られなば、心願を得べし、と云つた故事に據るのである。この故事は、?玉集や呉志に見えてゐるが、これらに依つても旅人の讀書範圍が大凡察せられるし、從つて蒙つた影響も考へられよう。
〔語〕 ○なかなかに なまなかに。○なりにてしかも なりたいものであるの意。「か」は疑問から轉じて希望をあらはす助詞。從來古義以外は「が」と濁音に訓み、「もが」の「が」と同一に見てゐたが、清音によみ別語であるとしたのは武田博士の説である。しかし、起原は同じ「か」と思はれる。
 
(297)344 あな醜《みにく》賢《さか》しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
 
〔譯〕 ああ醜い。かしこぶらうとして酒を飲まぬ人をよく見たらば、小賢しい猿にでも似てをることだらうか。
〔評〕 僞善者に對する痛烈な嘲罵である。恐らくこれは作者の周圍のかうした種類の人物がゐたので、その男を頭からこきおろしてゐるのであらう。
〔語〕 ○あな 驚いて發する聲。あゝ。○賢しらをすと 賢人ぶらうとて。
 
345 價《あたひ》無き寶といふとも一杯《ひとつき》の濁れる酒に豈まさめやも
 
〔譯〕 價の知れないほど貴い寶珠でも、一杯の濁酒にどうして勝らうか。
〔評〕 佛典の中の成語を借り用ゐたところ、この方面にも作者の知識的教養があつたことが示されて居り、さうして濁酒一杯を無價の寶珠にも代へて悔いないとするところに、現世的でかつ超脱的な作者の風?が見られる。
〔語〕 ○價無き寶 法華經五百弟子授記品に出た「無價寶珠」の語を借り來つたもので、評價できぬほど貴い寶。
 
346 夜《よる》光《ひか》る玉といふとも酒飲みて情《こころ》を遣《や》るにあに若《し》かめやも
 
〔譯〕 たとひ夜光の玉といへども、酒を飲んで心を晴らすのに、どうして及ぼうか。
〔評〕 前の歌と同趣で、旅人の漢學の知識を見るに足り、當時の文化人たる面影があらはれてゐる。
〔語〕 ○夜光る玉 述異記、史記、戰國策等に見え、暗夜によく光を放つといふ無上の寶珠。○情を遣る 欝懷を晴らす。
 
(298)347 世のなかの遊びの道にさぶしくは醉哭《ゑひなき》するに有りぬべからし
 
〔譯〕 世間の遊びの道に交りつつも、なほ心のさびしい時には、酒に醉うて泣くのが一番よい。
〔評〕 「世のなかの遊びの道にさぶしくは」、といふ句に、人性の寂寥や苦澁に觸れたところがある。寂寞孤苦を紛らすには、酒を飲んで欝懷を遣るがよい。
〔語〕 ○さぶしくは 樂しくなければ。○有りぬべからし 有りぬべくあるらしの約。○さぶしくは、原字面「冷者」校異本に「異作恰」とあるが、現存の本にはない。宣長は「怜」の誤として「タヌシキハ」と訓むべしといひ、古義は「洽」の誤で「アマネキハ」としてゐる。
〔訓〕 ○さぶしくは 白文「冷者」代匠記「ヲカシキハ」童蒙抄「スサメルハ」考「サブシクハ」。近く生田耕一氏は「スズシキハ」とよみ、すがすがしく淡白なりの意とした。今は考の説に從つておく。
 
348 今の代にし樂しくあらば來《こ》む生《よ》には蟲に鳥にも吾はなりなむ
 
〔譯〕 現世さへ樂しくあれば、來世などは、どうでもよい。蟲になりと鳥になりと、自分はならう。
〔評〕 佛教で説く輪廻説などをてんで問題にもせず、一笑に附してゐる徹底的な現世思想である。これは決して頽廢的や自棄的なものではなく、現實的な逞しさで、寧ろ痛快にさへ思はれる。
〔語〕 ○今の代にし 現世では。○來む世には 佛説にいふ來世。○蟲に鳥にも 蟲にでも鳥にでも。畜生道に生れる事をいふものと思はれる。
 
349 生者《いけるもの》遂にも死ぬるものにあればいまある間《ほど》は樂しくをあらな
 
(299)〔譯〕 生ある者はつひに死するものであるから、現在この世にをる間は、樂しく暮らさう。
〔評〕 これは特に佛教に對する反抗や嘲罵ではなくて、當時一般の人に共通した現世思想を高唱したものである。佛教隆盛の奈良時代にあつて、當時の新思潮たる無常觀によつて現實を見直し、今まで意識しなかつた事實に驚異を感じた趣の歌は多い。しかしなほ健康で溌剌とした感覺をもつて現世を愛してゐた當時の人々は、無常のゆゑに愈々現世に愛着を感じてゐたやうである。命の限り現實を肯定してゐた觀がある。「生死の二つの海を厭はしみ潮干の山をしのひつるかも」(三八四九)。河原寺の佛堂の裡の倭琴の面にあつたといふ右の歌のやうな、世間の無常を厭うて常住の彼岸を思慕する思想は、部分的に、又は教養ある人々の知識には持つてゐたとしても、まだ一般には侵潤してゐなかつたのである。この種の現世思想は旅人の異母妹坂上郎女の作に、「斯くしつつ遊び飲みこそ草木すら春は生ひつつ秋は散りゆく」(九九五)とある。
〔語〕 ○樂しくをあらな 樂しくありたいものであるよ。
〔訓〕 ○生者 舊訓「イケルヒト」略解「ウマルレバ」。○いまある間は 白文「今在間者」諸註通行本の字面「今生在間者」に從つてをり、拾穗抄等は舊訓「コノヨナルマハ」を採り、檜嬬手などは「イマイケルマハ」と訓んでゐる。
 
350 黙然《もだ》居《を》りて賢《さか》しらするは酒飲みて醉泣《ゑひなき》するになほ若《し》かずけり
 
〔譯〕 黙つてすましこんでゐて賢人ぶるのは、酒を飲んで醉泣するのに、やはり及ばないことである。
〔評〕 前の「賢しみと物いふよりは」に似て、結句の調子が強い。偉さうに物を云つたり、とりすまして黙つてゐる僞善者ぶりがよほど面憎かつたものと見える。
 以上の十三首は、讃酒歌とはあるが、その中には、儒佛思想などに對する反抗的の意識も窺はれる。恐らく、當時横行してゐた僞善者どもに強い反感を持つてゐたのであらう。單に醉人醉餘の座興とは思はれない。又これを以て、(300)旅人を極端な享樂的、頽廢的傾向の詩人であつたと解するのも當らない。この十三首は、要するに素朴大膽な現實謳歌であり、それに幾分知識的な老莊かぶれも認められるのである。或は老後妻を喪つた悲痛寂寥と、身は邊陲に朽ち果てようとする不滿の爲に、欝懷を散じようとして酒に沈湎したであらう當時の自嘲的醉語であるとの見方もある。
〔語〕 ○黙然居りて 黙つてゐて。○若かずけり 及ばぬわい。
 
    沙彌滿誓の歌一首
351 世間《よのなか》を何に譬へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきごとし
 
〔譯〕 世の中の無常なことは、何に譬へむやうもない。しひていはば、恰も朝の港を漕ぎ出で去つた船の、跡が忽ち波の上になごりもとどめずなつてしまふやうなものである。
〔評〕 素朴で現世的な上代人が、佛教の齎した新思想なる無常觀に接して、從來明かな意識にのぼつてゐなかつたことを認めた時の驚きは如何であつたであらう。この歌は無常觀によつて始めて人生を見直したといふやうな新鮮さがある。この歌を拾遺集に、「世の中を何に譬へむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟のあとの白波」としたのは、時代の風調に引直したものであるが、技巧によつて原歌の眞實味を著しく弱めてゐる。
〔語〕 ○朝びらき 舟が朝早く港を出ること。
〔訓〕 ○跡なきごとし 白文「跡無如」で槻落葉の訓「アトナキゴトシ」が殆ど定訓となつてゐるが、舊訓「アトナキガゴト」に從ふ説(全譯・講義)もある。
 
    若湯座王《わかゆゑのおほきみ》の歌一首
352 葦邊《あしべ》には鶴《たづ》が音《ね》鳴きて湖風《みなとかぜ》寒く吹くらむ津乎《つを》の埼はも
 
(301)〔題〕 若湯座王 傳不詳。
〔譯〕 葦の茂つてゐるあたりには鶴が鳴いて、港口の風が寒く吹いてゐることであらう、あの津乎の崎はまあ。
〔評〕 聲調緊密にして風趣凄凛、一誦肌寒い感がある。嘗て見た情景を囘想して詠んだものであるが、作歌の動機は誰か親しい人が今その地に遊んでゐるのを思ひやつたといふやうなことかも知れない。家持の、「港風寒く吹くらし奈呉の江に妻喚び交し鶴さはに鳴く」(四〇一八)は越中國での寫實ながら、或はこの歌を粉本としたものであらうか。
〔語〕 ○湖風 湊を吹く風。本集では「湖」を湊、港の意に用ゐたところ多く、誤字とはいひ難い。○津乎の埼 今所在不明。代匠記は、和名抄に近江國淺井郡都宇郷とある地かといつてゐる。大日本地名辭書には都宇郷は今の朝日村とある。
 
    釋《しやく》通觀の歌一首
353 み吉野の高|城《き》の山に白雲は行きはばかりてたなびけり見ゆ
〔題〕 釋通觀 「三二七」參照。
〔譯〕 吉野の高城の山に、白雲が行き過ぎかねて、棚引いてゐるのが見える。
〔評〕 赤人及びその次の不盡山の歌の句に學んだものであらうか。白雲が行き憚るといふので、單にその山の高さをあらはすのみでなく、山靈の威力といふやうな古代人の信仰をも暗示してをり、そこから一首の上に崇高莊重な感じを搖曳させてゐる。
〔語〕 ○高城の山 今は城山又は鉢伏山といひ、海拔七〇二米、頂上は展望大に開けてゐると吉野郡誌にある。
 
    日置少老《へきのをおゆ》の歌一首
(302)354 繩の浦に鹽燒くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く
 
〔題〕 日置少老 傳不詳。
〔譯〕 繩の浦で鹽を燒く煙が、夕方になると、立ち去りかねて山の方に棚引いてゐる。
〔評〕 鹽燒く煙が夕凪のために、走り去らずに磯山のあたりに立ち連つてゐる。靜かな漁村の夕暮のわびしさである。作者はそこを旅行してゐて、わびしい心で歩みを運んでゆく姿も見えるやうである。
〔語〕 ○繩の浦 古義は和名抄の土佐國安藝郡那半をあて、風俗歌に「なはのつぶら江」とあるのと同所かともいふ。全釋は「なはのつぶら江」ならば、難波の浦であるといつてゐるが、詳かでない。
 
    生石村主眞人《おふしのすぐりまひと》の歌一首
355 大汝《おほなむち》少彦名《すくなひこな》のいましけむ志都《しつ》の石室《いはや》は幾代經ぬらむ
 
〔題〕 生石村主眞人 生石は氏。續紀に、天平勝寶二年正月外從五位下に昇進した由見えるが、傳不詳。
〔評〕 神代の昔、大穴牟遲神(大國主命)と少彦名神とがおいでになつた此の志都の石室は、幾代を經たことであらう。
〔評〕 大穴牟遲、少名毘古那の二神が、協力して國土經營に當られたことは書紀に見える。志都の石室は石見國にあるが、そこに二神がをられたといふ口碑が傳つてゐたのであらう。この歌は、懷古の作で極めて常套的のものに過ぎない。
〔語〕 ○大汝少彦名 大汝は大國主命で、古事記に大穴牟遲神とあり、少彦名は同じく記に、少名毘古那神と見える。○志都の石室 石見國濱田より二十里餘東、邑知郡岩屋村の深山に、しづの岩屋といふ高さ三十五六間の大きな石室(303)があり、そこが古蹟であつたと村人が云ひ傳へてゐると玉勝間にある。あまりに中央から遠い邊陬ではあるが、併しこの作者が石見の國府の官人であつたとすれば、肯定してもよいわけである。播磨國印南郡生石村の石寶殿とする檜嬬手の説もある。
 
    上古麻呂《かみのふるまろ》の歌一首
356 今日もかも明日香の河の夕さらず蝦《かはづ》なく瀬の清《さや》けかるらむ 【或本の歌 發句にいふ、明日香川今もかもとな】
 
〔題〕 上古麻呂 傳不詳。
〔譯〕 夕方になるといつも河鹿がおもしろく鳴いてゐるあの明日香川の河瀬は、今日もさやかな響を立てて流れてゐるであらうかなあ。
〔評〕 恐らく遷都と共に奈良に移り住んだ作者が、故郷なる明日香川の清い瀬を思ひ懷かしんで詠んだものであらう。同じく明日香の故郷をしのんだ歌に、「清き瀬に千鳥妻喚び山の際に霞立つらむ甘南備の里」(一一二五)とある。
〔語〕 ○今日もかも この句は意味の上からは第五句に續くが、修辭約には第二句へかけ、今日、明日とあやなした技巧である。○夕さらず 夕を殘さずの義。毎夕。○蝦 河鹿。「三二四」參照。○明日香川今もかもとな これは初句二句の異傳である。「もとな」は、いはれなくの意で、ここは「鳴く」にかかるものと思はれるが、それにしても一首として筋の通らない歌になる。
 
    山部宿禰赤人の歌六首
357 繩の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奧《おき》つ島|榜《こ》ぎ囘《た》む舟は釣《つり》爲《せ》すらしも
 
〔譯〕 繩の浦から斜の方向に見える沖の島を榜ぎ廻つてゐる舟は、釣をしてゐるらしい。
(304)〔評〕 眺めたままを平明に寫してゐるが、結句が想像になつてゐるので、純客觀的な敍景歌ではない。沖の島を漕ぎめだつてゐる小舟に、生活の營みを思ひやつてゐるところ、ほのかな愛情が感じられる。平明清純の底に一脈の温かみを合んでゐるのが、この作者の特徴である。高市黒人の船の歌の寂しみと一對の對照をなしてゐる。
〔語〕 ○繩の浦 「三五四」と同じ場所であらう。○背向に見ゆる 背向は後方であるが、全釋にそがひを背面又は後方としては解し難いことがあるから、「斜、又は横向といふやうな意で正面にないことをいふらしい」といつてゐるのがよからう。
 
358 武庫《むこ》の浦を榜《こ》ぎ囘《た》む小舟《をぶね》粟島を背向《そがひ》に見つつともしき小舟
 
〔評〕 武庫の浦を榜ぎ廻つてゐる小舟は、粟島をはすかひに眺めながら榜ぎ廻つてゐるが、實に羨しい舟である。
〔評〕 武庫の浦傳ひに、粟島の美しい景色を眺めつつ行く小舟を羨んだのである。繰り返しに心の躍るやうな快さがある。上を純客觀的に、下に主觀をこめてゐるのも、巧みな手法である。
〔語〕 ○武庫の浦 攝津の武庫川から和田岬に至る間の浦をいふ。○粟島 阿波國(代匠記、考)屋島附近の小島(仙覺抄)とするは遠すぎるから、大日本地名辭典の一説繪島(淡路の岩屋村)か。とにかく淡路島の屬島の一であらう。「粟の小島」(一七一一)も同所か。○ともしき小舟 わが舟と反對に都へ上るが羨しいとする説(槻落葉)と、美しい景色を自由に見てゐる小舟の舟人が羨しい(檜嬬手)とする兩説があるが、「榜ぎ囘む」とある點から見て、後説が穩やかと思はれる。
 
359 阿倍の島鵜の住む石《いそ》に寄する浪|間《ま》なくこのころ大和し念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 今この阿倍の島の、鵜の住んでゐる磯には、絶間もなく浪が寄せてくるが、そのやうに間なくこの頃は大和が(305)戀しく思はれる。
〔評〕 打ち寄せる波の絶間ないことを序にして、戀情の頻りに起るのを詠んだ歌は多い。この作は、序に取り用ゐた實景が精緻に寫されてゐる爲に、印象が明確で、多くの類歌を拔いてゐる。「このころ」と云つたのも、旅に日を經た事實を側面から語つてゐて、この作者らしい緻密な表現である。
〔語〕 ○阿倍の島 所在不明。攝津ともいふ。大日本地名辭書は後世の阿部野の海岸で、今の天王寺町としてゐる。○間なく 絶間なく。三句までは實景を捉へてこの句の序としたもの。
 
360 潮《しほ》干《ひ》なば玉藻苅り藏《をさ》め家の妹が濱づと乞はば何を示さむ
 
〔譯〕 潮が于たならば、美しい玉藻を苅つて貯へてお置きなさい。家の妻が濱の土産を乞うたならば何をやらうか。
〔評〕 家に待つてゐる妻へ土産にやる爲に、潮干になつたらば玉藻を苅つて置くやうにと、同行の者に注意を促したのである。旅に出る機會の乏しかつた當時の婦人が、玉藻や貝類など海の土産を珍しがつた樣も思はれる。素朴な歌である。
〔語〕 ○苅り藏め 「をさめ」はここは命令形。○家の妹 家に殘して來た妻。○濱づと 濱邊の土産。
〔訓〕 ○苅り藏め 白文「苅藏」、舊訓「カリツメ」、童蒙抄「カリテン」、古義「カリコメ」等の訓があるが、「苅將藏倉無之濱」(一七一〇)や「櫃に?さし藏而師」(三八一六)等に據り「ヲサメ」の訓に從ふ。
 
361 秋風の寒き朝けを佐農《さの》の岡越ゆらむ君に衣《きぬ》貸《か》さましを
 
〔譯〕 秋風の寒い早朝なるに、今頃佐農の岡を越えていらつしやるであらうあの方に、著物を貸しであげたいものであるよ。
(306)〔評〕 赤人の歌六首と題した中に入つてゐるが、家なる妻が旅先の夫を思ひやつた優しい歌としか解せられない。或は女性の爲に代作したものででもあらうか。長屋王の「宇治間山朝風さむし旅にして衣借すべき妹もあらなくに」(七五)も類似の境地である。
〔語〕 ○朝け 朝の明け方。○佐農の岡 「二六五」に見える狹野の渡とおなじ場所とされてゐるが、「農」は乙類「野」は甲類であるから、別地であらう。所在不明。
 
362 雎鳩《みさご》ゐる磯囘《いそみ》に生ふる名乘藻《なのりそ》の名は告《の》らしてよ親は知るとも
 
〔譯〕 雎鳩のゐる海邊に、なのりそといふ藻が生えてゐるが、よしや親は知つて咎めても、惡くは取りはからはぬから、そなたの名を名乘つて、わたしに心を許してほしい。
〔評〕 眼にとまつた濱邊の娘子に輕い愛著を感じ、磯のめぐりの實景をそのまま序として、即興的に詠んだものであらう。實際娘子に呼びかけたかどうかは問ふ所ではない。娘子が名を男に告げるといふのは、男に心を許すことである。それ故に、たとへ親が知つても我を憑んで名を名乘れと云ふのである。行きずりの美しい娘にこんな戯れを云ふやうな輕い氣分も、旅の興趣である。
〔語〕 ○雎鳩 水邊に住む鳥、背は褐色で腹は白い。巧に魚を捕へて食とする。○磯囘 磯のほとり。○名乘藻の 神馬藻、馬尾藻などと書く。ほんだはら。以上「名は告る」の序。○名は告らしてよ 名をなのりなさい。名を告るのは心を許す意である。「一」參照。
〔訓〕 ○名は告らしてよ 白文「名者告志弖余」「弖」の字、類聚古集には無く、紀州本に「百一」とある外、諸本「五」とあるが、何れも意味がとりにくいから、代匠記の説に從つて誤字とする。
 
    或本の歌に曰く
(307)363 雎鳩《みさご》ゐる荒磯《ありそ》に生《お》ふる名乘藻《なのりそ》の名のりは告《の》らせ親は知るとも
 
〔譯〕 雎鳩のゐる荒磯に名乘藻といふ藻がはえてゐるが、よしや親は知つて咎めても、惡くは取りはからはぬから、私に名のりをして心を許してほしい。
〔評〕 「名乘藻の名のりは」と重ねて、前の歌よりも技巧的になつてゐるが、前の方が自然である。
 
    笠朝臣金村、鹽津山にて作れる歌二首
364 丈夫《ますらを》の弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し射つる矢を後《のち》見む人は語り繼ぐがね
 
〔題〕 金村 傳不詳。集中三十首の作品を殘し、年代の明記あるものは靈龜二年から天平五年に至る。件品から見ると武人であつたらしい。鹽津山 和名抄に「近江國淺井郡鹽津」と見え、今、伊香郡に屬する。全釋に、今、鹽津越と稱し、越前へ越える道がある、それが即ち鹽津山である、といふ。
〔譯〕 大丈夫なるこの自分が、弓を振り立てて射た矢を、後に見る人々は、自分の弓勢の強さを、話の種として語り傳へてほしいものである。
〔評〕 強弓を引いた丈夫にふさはしい語調である。後世に語り傳へられる名を殘すといふのは、功名を重んじた當時の思想である。併し、特殊な功績をいふのではなく、立木に射込んだ一本の矢を指してゐるのが單純明快で、甚だ無造作である。自己の弓勢を誇つて、意氣昂つたその風貌が目に見える。
〔語〕 ○弓上振り起し 弓ずゑは弓の上端。「振り起し」は勢よく立てるの意。○語り繼ぐがね 「語り繼ぐ」は言ひ傳へる。「がね」は願望の助詞。
 
(308)365 鹽津山うち越え行けば我が乘れる馬ぞつまづく家戀ふらしも
 
〔譯〕 鹽津山を越えて行くと、私の乘つてゐる馬がつまづいた。今頃、家人が自分を戀しく思つてゐるらしい。
〔評〕 乘馬が躓くのは、家人が自分を戀ひ慕つてゐる兆であるといふので、卷七にも、「妹が門出入の河の瀬をはやみ吾が馬つまづく家思ふらしも」(一一九一)、「白妙に紅にほふ信土の山川に吾が馬なづむ家戀ふらしも」(一一九二)などある。上代人は、人間の心は感應しあふものとみる觀念が強かつたので、旅なる人よ早く歸れと念ずる家人の思がおのづから通じた結果、馬も進みかねて躓くといふ信仰が生じたのであらう。
〔語〕 ○家戀ふらしも 家は家人の義。馬が家を戀ふる意で、即ち馬の心を推量したものとする説もあるが、よくない。「春雨に吾立ち沾ると家思ふらむか」(一六九六)「誰が夫か國忘れたる家待たまくに」(四二六)などの「家」も同樣「家人」の義と思はれる。
 
    角鹿津《つのがのつ》にして船に乘る時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
366 越《こし》の海の 角鹿《つのが》の濱ゆ 大船に 眞梶《まかぢ》貫《ぬ》きおろし いさなとり 海路《うみぢ》に出でて 喘《あへ》ぎつつ 我が榜《こ》ぎ行けば 丈夫《ますらを》の 手結《たゆひ》が浦に 海未通女《あまをとめ》 鹽燒くけぶり 草枕 旅にしあれば 獨して 見る驗《しるし》無み 海神《わたつみ》の 手にまかしたる 珠襷《たまだすき》 懸けて偲《しの》ひつ 大和島根を
 
〔題〕 角鹿 越前國敦賀。記に「都奴賀」とあり。垂仁紀には地名の起源を説明して、額に角のある人が船に乘つて來て泊つたからといふ。和名抄には「敦賀【都留賀】」とある。
〔譯〕 越の海の敦賀の濱から、大船に左右の櫂を卸し立て、海に乘り出し、喘ぎ喘ぎ榜いで行くと、手結の浦で濱の(309)娘子の鹽を燒く煙が立つてゐる。けれども旅中のことであるので、唯自分一人でこの景色を見ることのつまらなさに、つくづくと心にかけて、故郷の大和にゐる妻を偲んだことである。
〔評〕 郷愁を太く深い線で彫りこむやうに詠んでゐる。調子にも用語にも、軍王の歌(五)を思はせるものがある。心細い海上の旅でも、明媚な眺望は面白い。併し結局それも旅中唯一人で見ては物足りない。そこでその風情を家人にも見せたいといふ念願がおのづから湧き、引いて大和への郷愁をおこすといふ心理の動きが巧みに現はされてゐる。
〔語〕 ○眞梶貫きおろし 左右に櫂を取りつけ下して。○丈夫の 枕詞。ますらをの手に著ける手纒《たゆひ》の義でかけた(冠辭考)。○手結が浦 今の東浦村といふ。敦賀灣の東岸で金崎の北十餘町の地。○珠襷 「海神の」以下これまで三句は、次の「懸け」にかかる序。併し、上からのつづきは珠だけにかかり、海神の手に纒きたまふ珠とつづく。○大和島根 ここは狹義で、大和の國の意。
 
    反歌
367 越《こし》の海の手結《たゆひ》の浦を旅にして見ればともしみ大和|思《しの》ひつ
 
〔譯〕 越の海の手結の浦を旅にあつて眺めると、景色の珍しさに、故郷の大和を思ひ出したことである。
〔評〕 風景の珍しさに、自分一人眺めるのは惜しく、殆ど海を見たことのない大和の家人にも見せたくて、そぞろに郷愁を覺えたのである。長歌の心を要約して反復した歌である。
〔語〕 ○ともしみ ここはめづらしく面白いのでの意。「九二〇」參照。
 
    石上大夫の歌一首
368 大船に眞梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き大王の命《みこと》かしこみ磯廻《いそみ》するかも
(310)     右は、今案ふるに、石上朝臣乙麻呂越前の國守に任《ま》けらえき。盖この大夫か。
 
〔題〕 石上大夫 石上乙麿であらう。乙麿は「二八七」參照。左註によれば越前國守に任ぜられたやうであるが、續紀には見えない。略解は、天平十一年土佐へ配流された時の歌であらうといひ、槻落葉は、天平十六年西海道節度使となつた時のであらうといつてゐる。
〔譯〕 大船の兩舷に櫂を澤山おろし立てて、大君の仰が畏いので、磯邊をめぐつて漕ぎ行くことである。
〔評〕 實?をありのままに敍べたものであるが、「大王の命かしこみ」によつて、苦痛や困難や恐怖や、あらゆる私情をおし殺し、苦澁な旅にあつても心を張らうとしてゐる樣が窺はれる。單純朴直な作である。
〔語〕 ○繁貫き 繁く澤山に艫を押し立て。○磯廻 この語は普通磯のほとりといふ意の名詞として用ゐられるが、ここは磯傳ひに船を漕ぐこと。
 
    和《こた》ふる歌一首
369 もののふの臣《おみ》の壯士《をとこ》は大王《おほきみ》の任《まけ》のまにまに聞くと云ふものぞ
     右の作者、いまだ審ならず。但、笠朝臣金村の歌の中に出づ。
 
〔譯〕 武人である男子は、大君のまにまに、任務をお受けして進むものであると言はれてゐる。
〔評〕 和へ歌としてふさはしく體を得てゐるのみならず、獨立した歌としても優れた作である。有無を言はさぬといふやうな無造作なところがあつて、直截簡明、豪快な響がある。
〔語〕 ○任のまにまに 任命に從つて。
 
    安倍廣庭卿の歌一首
(311)370 雨|零《ふ》らずとの曇《ぐも》る夜のうるほへど戀ひつつ居《を》りき君待ちがてり
 
〔題〕 安倍廣庭卿 「三〇二」參照。
〔譯〕 雨が降らずに、どんよりと一面に曇つてゐる夜、しつとりと夜氣にしめるけれども、外に立つてお慕ひ申してをりました、あなたの訪れを待ちながら。
〔評〕 戀人のおとづれを待つとあるので、婦人の歌らしく思はれるが、廣庭の歌とすれば、來る約束のあつた戀人を待つてゐたのであらう。戸外に立つてゐると着物がじめじめするやうな濕氣のある夜の感じがよく出てをる。
〔語〕 ○との曇る夜の 「との曇る」は「棚曇る」に同じく、雨雲のたなびき曇ること。此の語は單に曇つてゐるだけには云はず、雨の零る空の模樣を云つてゐるのであるから、第一句と打合はないといふ説もあるが、降りさうな空模樣でも差支ないと思はれる。「夜の」は衣がしつとりと潤ふといふ意に解すべきである。○うるほへど しつとり濕つてゐるけれども。○君待ちがてり 待ちながら。
〔訓〕 ○うるほへど 白文「潤濕跡」は、、舊訓「ヌレヒデド」、講義「ヌレヒヅト」。
 
    出雲守門部王、京《みやこ》を思ふ歌一首
371 飫宇《おう》の海の河原の千鳥|汝《な》が鳴けば吾が佐保河の念《おも》ほゆらくに
 
〔題〕 門部王 「三一〇」參照。出雲守になつたことは續紀には見えない。
〔譯〕 この出雲の飫宇の海に注ぐ川の河原の千鳥よ、お前の鳴くのを聞くと、あの千鳥がよく鳴く故郷の佐保河のことが思ひだされる。
〔評〕 「佐保河の清き河原に鳴く千鳥蝦と二つ忘れかねつも」(一一二三)とあるやうに、奈良の郊外なる佐保河は、(312)千鳥の名所であつた。今、門部王は、出雲の飫宇の海濱で千鳥の聲を聞き、佐保河を思うて郷愁頻りに催したのである。人麿の名歌「淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば」(二六六)を思はせる句法であるが、結尾の柔かな詠歎に綿々の餘情がこもつてをり、千鳥への呼びかけも適切である。
〔語〕 ○飫宇の海 出雲國意宇郡、今の八束郡で、海は中海であらう。○河原 意宇川、今の熊野川の河口の河原であらう。○佐保河 今の奈良市では、女子高等師範學校の裏手を流れてゐる。○念ほゆらくに 思はれることよ。
 
    山部宿禰赤人、春日野に登りて作れる歌一首并に短歌
372 春日《はるひ》を 春日《かすが》の山の 高座《たかくら》の 三笠の山に 朝さらず 雲居たな引き 容鳥《かほどり》の 間《ま》なく數《しば》鳴く 雲居なす 心いさよひ 其の鳥の 片戀のみに 晝はも 日のことごと 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 立ちて居て 思ひぞ吾がする 逢はぬ兒ゆゑに
 
〔譯〕 春日山のうちの三笠山に、朝ごとに雲がたなびき、容烏が絶間なく頻りに鳴いてゐるが、その雲の漂ふやうに私の心はそはそはとし、その鳥の鳴くやうに片思に泣いてばかりゐて、晝は日ねもす、夜は夜もすがら、立つたり坐つたりして、物思をすることである。逢つてもくれないあの子ゆゑに。
〔評〕 三笠の山にたなびく雲と絶間なく鳴く容鳥とを寫し、その雲と鳥とに託して片戀の切なる情を敍べてをる。この形式は斬新なものではなく、また敍情も敢へて深刻と評する程ではないが、景と情と相和し、綿々たる哀韻を搖曳させてゐるところが、流石に赤人の技倆である。
〔語〕 ○春日を 春日の枕詞。春の日の霞む意で「カス」にかかる。○高座の 「み笠」の枕詞。高御座に蓋《きぬがさ》をかける故である(代匠記)。○朝さらず 毎朝。○容鳥の 集中?々見えるが、如何なる鳥か明かでない。○間なく數鳴く 絶えず鳴く。○雲居なす 心いさよひの比喩。○心いさよひ 心が動搖して定まらぬ意。「二〇九二」參照。○(313)其の鳥の 容鳥のしば鳴くを片戀するの比喩とした。○逢はぬ兒ゆゑに つれなくて私に逢つてくれぬあの子ゆゑに。
 
    反謌
373 高?《たかくら》の三笠の山に鳴く鳥の止《や》めば繼がるる戀もするかも
 
〔譯〕 三笠山に鳴く鳥の、鳴きやむかと思ふとすぐ鳴きつぐやうに、私も休まつたかと思ふとすぐ又思ひ出して切ない戀をすることである。
〔評〕 鳥の音を伴奏にして泣いてゐるともいふべき感がある。聲調流麗、技巧も極めて洗煉されてゐるが、併しその爲に實感が乏しくなつた嫌があり、要するに、かういふ歌は赤人の繩張内のものではないといふ感が深い。
〔語〕 ○鳴く鳥の 初句以下これまで「止めば繼がるる」の序。○止めば繼がるる 休むかと思へば又すぐに始らずにはゐられなくなるの意。
〔訓〕 ○戀も 白文「戀哭」で新訓では「コヒナキ」と訓んだ。考は哭を喪に改めてモと訓んでゐる。
 
    石上|乙麻呂《おとまろ》朝臣の歌一首
374 雨|零《ふ》らば蓋《き》むと念《おも》へる笠の山人にな著《き》しめ霑《ぬ》れはひづとも
 
〔譯〕 雨が降つたならば、自分がかぶらうと思つてゐるのであるから、笠の山よ、他の人にはかぶせるな、たとひ、びしよ濡れにならうとも。
〔評〕 婦人を笠の山に譬へ、自分が領じた女に他人が逢つてはならぬ、と云つたのであらう。この種の譬喩は多く行はれてゐるが、表現の奇拔な點に一種の機智的な面白味がある。然し歌として勿論本格的なものではない。
〔語〕 ○笠の山 三笠の山であらう。○人にな著しめ 人に被らせるな。○零れはひづとも 「零れひづ」の間に助(314)詞「は」の入つたもの。
 
    湯原王《ゆはらのおほきみ》、芳野にて作れる歌一首
375 吉野なる夏實《なつみ》の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして
 
〔題〕 湯原王 志貴親王の第二子。集中、短歌十九首が見えるが、何れも洗煉された藝術味饒かな作である。
〔譯〕 吉野の夏實川の川淀に、鴨が鳴いてゐる、あの山陰で。
〔評〕 吉野川の所謂たぎつ河内よりも數町上の方、夏實のあたりは流がゆるやかで川隈に淀をなしてゐる。その靜かな山陰の淀で、二三羽の鴨が水に波紋を描きつつ浮んでゐる。忽ち一聲鳴いた。その聲が深山の積翠を動搖する。景象の焦點を捉へて表現も簡淨清楚、まことに氣韻生動の妙がある。吉野の歴史的懷古を離れ、勝景のおほよそな詠嘆をやめ、生きた自然に眼を注いで、確實に對象を?んだのは、敍景詩人として非凡な手腕である。
〔語〕 ○夏實の河 吉野川の部分的名稱で、宮瀧の上流十町餘にある菜摘の地の邊を流れる時の稱。この邊は川幅が廣く淵となつてゐる。
 
    湯原王、宴席の歌二首
376 蜻蛉羽《あきつは》の袖振る妹を珠《たま》くしげ奧に念《おも》ふを見たまへ吾君《わぎみ》
 
〔譯〕 蜻蛉の羽のやうな羅の袖を飜しつつ舞うてゐる少女を、私は心の中に深く思つてゐるのであるが、御覽下さいよ、あなたも。
〔評〕 賓客歡待の爲に、愛する女を宴席に侍らせ、輕羅の袖を飜へし舞はせつつ、傍を顧みて得意の微笑を洩らしたのである。恐らく遊行女婦であつたであらう。輕快甘美の作である。
(315)〔語〕 ○蜻蛉羽の 蜻蛉の羽のやうな。美しい羅の形容。○珠くしげ 櫛笥の底を奧といふ意で、奧の枕詞。○奧に念ふを 心の底から深く思ふを。○吾君 賓客をさす。
 
377 青山の嶺の白雲朝に日《け》に常に見れどもめづらし吾君《わぎみ》
 
〔譯〕 青山の嶺にかかつてゐる白雲が、朝も晝もいつ見ても見飽きないやうに、始終逢つてゐても、あなたはめづらしく思はれることである。
〔評〕 青山に懸つた白雲の爽かな眺めを譬へに、いつまでも相對してゐたいと、客人を愛でたのである。「常に見れどもめづらし」の辭樣も、上の爽かな風致に相應してゐる。情趣も歌調も清新にして瀟洒である。
〔語〕 ○青山の嶺の白雲 青山は木々の繁つた山。白雲までを序と見る略解の説もある。
 
    山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池を詠める歌一首
378 昔者《いにしへ》の舊き堤は年深み池の渚《なぎさ》に水草《みくさ》生《お》ひにけり
 
〔題〕 故太政大臣 藤原不比等。不比等は鎌足の第二子、養老四年八月六十二歳を以て薨じ、十月太政大臣を追贈された。
〔譯〕 昔からあるこの古い堤は、主人がをられず年が經たので、池の渚に水草が生ひ茂つたことよ。
〔評〕 作者は大臣家に折にふれて出入してゐたのであらう。從つてこの山池も出來た頃からよく知つてゐた。それが久しい年時を經ると共に、渚には水草おひ茂り、閑雅な寂びが出て來た。と同時に、自分のこの邸へ出入することも久しい感慨も動いてゐる。聊かも主觀を交へてをらぬが、手堅い寫實の裡に十分その感銘がこもつてゐるのは、やはりこの作者の特徴といふべきである。
(316)〔語〕 ○水草 水に生える草。
〔訓〕 ○昔者の 白文「昔者之」の「者」を、童蒙抄は「見」、玉の小琴(道麿説)は「省」、略解は「看」の誤として「ムカシミシ」と訓んでゐるが、元のままでよい。
 
    大伴坂上郎女《おほとものさかのへのいらつめ》、神を祭る歌一首并に短歌
379 ひさかたの 天《あま》の原ゆ 生《あ》れ來《きた》る 神の命《みこと》 奧山の 榊の枝に 白紙《しらが》つけ 木綿《ゆふ》とりつけて 齋瓮《いはひべ》を 忌《いは》ひ穿《ほ》り居ゑ 竹玉《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り 猪鹿《しし》じもの 膝折り伏せ 手弱女《たわやめ》の 押日《おすひ》取り懸け かくだにも 吾は祈《こ》ひない 君に逢はじかも
 
〔題〕 大伴坂上郎女 安麿の女。母は石川内命婦(六六七參照)。旅人の妹、家持の叔母に當り、「五二八」の左註によれば、穗積皇子に嫁したが、皇子薨去の後は、藤原麿の妻となつた。坂上郎女といふのは、坂上里にゐたからである。其の後また大伴宿奈麿に嫁し、田村大孃・坂上大孃の二女を生んだ(七五九左註)。その坂上大孃は後に家持の妻となつた。かやうに家持と關係が深いので、歌數は女流作家中第一であり、技倆の點でも額田王と竝んで萬葉集の代表作家の中に入り得るのである。祭神 大伴氏の神は、その祖先神と云はれてゐる天忍日命を中心にしてゐるのであらう。
〔譯〕 天の原にお生れになり天降られた神に、奧山の榊の枝に、白紙を結びつけ、木綿を取りつけて、地面を清めて齋瓮を掘り揖ゑ、竹玉を澤山緒に貫いて懸け垂らし、鹿や猪のやうに膝を折り伏せ、若い女の著るおすひを被つて、私は、このやうにもお祈り致しませう。これでも思ふお方に逢はれないであらうか。
〔評〕 上代の祭神の形式の知られる歌である。家庭で行つたのも、此のやうに嚴かであつたことが知られ、風俗史上、文化史上の價値がある。神を祭つて戀愛の成就を祈るこの形式の長歌は、卷十三に三首(三二八四・三二八六・三二(317)八八)載つてゐる。これはそれらを典據としたものであらうが、祭の儀式の樣がそれよりも詳しくなつてゐる。
〔語〕 ○天の原ゆ生れ來る 天の原に生れ、そこから天降られた。天忍日命は天孫降臨の時お供をして來られた神である。「生れ」は出現するの意。○榊の枝に 新撰字鏡は杜、槻、榊、龍眼、何れも、「さかき」とよんでゐる。今は一種の木に限定されてゐるが、古くは榮木の義で、常盤木の總稱である(考)。○白紙つけ 白髪に似てゐる意で、木綿の枕詞とする冠辭考の説、白い苧で木綿につけるものとする檜嬬手の説、麻楮などの樹皮の繊維を白く洒して細く裂いたもので、白髪のやうな感じを與へるものとする新解の説、ただ白きをいふ語とする槻落葉の説、白紙のことで、木々に白紙を切り懸けて著けたのであらうとする本居大平の説等の諸説があるが、今最後の説に從つておく。○木綿とりつけて 木綿は「一五七」參照。○齋瓮 祭祀に用ゐる清淨なる瓮。瓮は酒などを容れる器。○忌ひ穿り居ゑ 不淨を齋み淨めて土を穿り齋瓮を据ゑて。○竹玉 竹を管に切つて絲に貫いたものであらう。宣長は玉を緒に貫き小竹につけたのを、後に玉の代りに竹を管のやうに切つて緒に通したのであらうといひ、新講は、管玉又は白玉(管玉の短かいもの)であらうといつてゐる。○押日取り懸け 「おすひ」は埴輪によるに、裁縫しない廣幅の布で、右肩から左腋下を經て再び右肩の方へ連ね、筒袖の上へ著る女子の祭服であらうと、尾崎元春氏(萬葉集講座)は述べてゐる。諸註は多く襲覆の約で被衣の如く頭から被つて衣の上を掩ひ襴まで垂れるといふ記傳の説に從つてゐる。○吾は祈ひなむ 諸注多く「なむ」は「のむ」の轉で、?る意としてゐるが、助動詞と見るべきであらう。○君は逢はじかも 思ふ人に逢へないであらうか。
 
    反歌
380 木綿疊《ゆふだたみ》手に取り持ちて斯《か》くだにも吾は祈《こ》ひなむ君に相はじかも
     右の歌は、天平五年冬十一月を以ちて、大伴の氏の神を供へ祭りし時、聊此の歌を作りき。故、神を祭る歌といへり。
 
(318)〔譯〕 木綿を疊んだのを手にとり持つて、このやうに私はお祈りすることでございます。これでも思ふお方にお逢ひすることができないであらうか。
〔評〕 長歌の要旨をとつて反復したもの。「天地の神を?りて吾が戀ふる公い必ず逢はざらめやも」(三二八七)といふに似たところがある。
〔語〕 ○木綿疊 神に捧げる爲に折り疊んだ木綿。
 
    筑紫《つくし》の娘子《をとめ》、行旅《たびびと》に贈れる歌一首 【娘子、字を兒島といへり】
381 家思ふとこころ進むな風守《かぜまも》り好《よ》くしていませ荒し其の路《みち》
 
〔題〕 筑紫の娘子 「九六六」の左註に見えるのと同人であらう。それは筑紫の遊行女婦である。その歌と同時のものとすれば、天平二年の作である。
〔譯〕 お家のことを思ふとて、お心焦つて無理をなされますな。よく風の見きはめをつけてお出でなさいませ。浪の荒い海路でございますから。
〔評〕 筑紫の任を終へて京へ歸る官人に向つて、家路をあせつて航海に無理をせぬやうにとは女性らしいこまかな心づかひである。さうして又一面には、輕い嫉妬の氣持で、親しくした人をちよつと揶揄するやうにもとれて、複雜な氣分が感じられる。
〔語〕 ○こころ進むな 心がはやるな。○風守り 風をよく伺ひ見定めること。○好くしていませ 上に續けて、風守りをよくしての意。
 
    筑波岳《つくはのたけ》に登りて、丹比《たぢひ》眞人國人の作れる歌一首并に短歌
(319)382 鷄《とり》が鳴く 東《あづま》の國に 高山は 多《さは》にあれども 二神《ふたかみ》の 貴《たふと》き山の 竝《な》み立ちの 見が欲《ほ》し山と 神代より 人の言ひつぎ 國見する 筑波の山を 冬ごもり 時じき時と 見ずて行かば まして戀ひしみ 雪|消《げ》する 山道すらを なづみぞ吾が來《こ》し
 
〔題〕 丹比國人 天平八年に從五位下、同十年に民部少輔となつた由が續紀に見える。
〔譯〕 東國地方に高い山は澤山にあるが、中でも男女二神のまします貴い山で、竝び立つた姿が美しく、常に眺めてゐたい名山と、神代の昔から人々が言ひ傳へ、そこに登つて國見をする此の筑波の山を、今は冬であつて、登山の時でないからというて、見ないで歸つたならば、全く知らなかつた時よりも一層戀しく思はれるであらうから、雪どげのひどい山道であるのに、難儀をしながら自分は登つて來たことである。
〔評〕 筑波は、神代から語り傳へられてゐる東國の名山である。あの平野の中に美しくそそり立つてゐる姿は、遠く都から來た人にとつては相當な魅力であつたに違ない。時未だ登山の季ではないが、通過するにしのびず、雪消の道を難澁しつゝ登つたといふのである。冬いまだ去りやらぬ早春の頃であつたであらう。萬葉人の自然に對する愛を語る作であり、格調は淡雅平明である。
〔語〕 ○鷄が鳴ぐ あづまの枕詞。○多にあれども 澤山あるが。○二神の 筑波山は頂上が二つに別れ、古くから男神女神と呼ばれてゐた。○竝み立ち 竝んで立つてゐるの意。○見が欲し山 見てゐたい山。○冬ごもり 集中多くは「春」の枕詞となつてゐるが、これは「春」に續かぬ唯一の例なので、後に述べる如く脱字説が多いが、冬の終方の義とする佐伯氏の説に從ふべきかと思はれる。○山道すらを 雪どけのみならず、ひどい山道であるものを。○なづみぞ吾が來し 難儀しつゝやつて來た。
〔訓〕 ○二神の 白文「朋神之」は、諸本「明神之」とあるが、童蒙抄及び考の説によつて改めた。○冬ごもり こ(320)の下に代匠記精撰本は「春去來跡白雪乃」(ハルサリクレドシラユキノ)の脱、槻落葉は「春爾波雖有零雪能」(ハルニハアレドフルユキノ)の脱とし、諸註多く後者に從つてゐる。○吾が來し 白文「吾來竝二」の「竝」は、紀州本による、他の諸本「前」となつてゐる。
 
    反歌
383 筑波|嶺《ね》を外《よそ》のみ見つつ有りかねて雪|消《げ》の道をなづみ來《け》るかも
 
〔譯〕 この美しい筑波山をよそ目にのみ見ては居られないで、雪どけの道を、苦勞しながら登つて來たことであるよ。
〔評〕 長歌一篇の大旨を要約して、この短歌にまとめたのである。
 
    山部宿禰赤人の歌一首
384 吾が屋戸《やど》に韓藍《からあゐ》蒔き生《おほ》し枯れぬれど懲《こ》りずて亦も蒔かむとぞ思ふ
 
〔譯〕 自分の家に鷄冠花の種を蒔いて育て、枯れてしまつたけれども、それに懲りずにまた蒔かうと思ふ。
〔評〕 女を戀ひ慕つて思がかなはなかつたけれども、なほ斷念しないで戀をしようといふ意であらうか。譬喩が婉曲で、上品にあつさりとしてゐるのは、この作者の好尚である。また色々の花の種を庭に蒔いてゐたであらうことも想像される。
〔語〕 ○韓藍 本草和名に、鷄冠草を「可良阿爲」とあるし、集中の例からも呉藍、鴨頭草とする説は誤で、鶏頭花に相違ない。女に譬へたのであらう。韓藍に就いては正倉院文書の中にも「□家之韓藍花今見者難寫成鴨」の一首がある。冒頭不明のところは恐らく「妹」で、即ち「妹が家の韓藍の花今見れば寫し難くも成りにけるかも」であらう。
 
    仙《やまびと》の柘枝《つみのえ》の歌三首
(321)385 霰|零《ふ》り吉志美《きしみ》が嶽《たけ》を嶮《さか》しみと草取りかなわ妹が手を取る
     右の一首は或は云ふ、吉野人味稻の柘枝仙媛に與へし歌なりと。但、柘枝傳を見るに、この歌あることなし、
 
〔題〕 仙の柘枝の歌三首左註に見える柘枝傳といふのは今傳はらないが、恐らく漢文で書いてあつたと推察される。内容は今この三首と、懷風藻の詩と、續日本後紀に見える興福寺の僧の長歌とによつて大體察せられる。それによると、神婚説話ともいふべく、吉野の人|味稻《うましね》(美稻・熊志禰とも見える)が吉野川で鮎を取つてゐると、梁《やな》に柘の枝がかかつた。あまり美しいので家に持つて歸ると、美女と化した。味稻はこの仙女と契つたが、後、女は常世の國に飛去つたといふ、悲劇の傳説である。
〔譯〕 吉志美が嶽があまりけはしいので、草に取りつきかねて、愛人の手を取つたことである。
〔評〕 平素まだ遠慮のあつた戀人同士が嶮しい山を登るのをきつかけに手を取りあつた、といふ趣が見える。草の根を取りそこねて、思はずも女の手を取つた。女も幾分はにかみながら、その手につかまつた。かうして相扶けて山を登つたのである。素朴にしてしかも新味のある歌である。いつの時代にも若い男女の間にかうした事は多いであらう。この歌は、古くから廣く流布してゐた歌舞の曲たる杵島曲《きしまぶり》から出たものであらうと思はれる。肥前風土記に、杵島《きしま》郡に杵島といふ山がある。郷閭の士女は春秋の頃、酒や琴をもつてこの山に登り、遊飲歌舞した。その時歌つた歌詞が、「霰零る杵島が嶽を險しみと草取りかねて妹が手を取る」で、即ち杵島曲である、といふことが出てゐる。また常陸風土記には、行方《なめかた》郡の條に、崇神天皇の朝、建借間命《たけかしまのみこと》が七日七夜杵鳥曲を唱つて遊樂歌舞したと見えてをり、諸方に廣く行はれた曲であつたことがわかる。古事記に速總別王が女鳥王と倉椅山に登られた時、「梯立の倉椅山を嶮しみと岩掻きかねて我が手とらすむ」と歌はれたとある。この三者の先後は俄に知り難いが、互に聯繋あることは確であらう。
(322)〔語〕 ○霰零り 枕詞。霰がふつてきしきしと音のする意でかけたとも、かしましい意で鹿島にかけたのが、似てゐるので杵島にも轉用したともいふ。○吉志美が嶽 和名抄に見える肥前國杵島郡杵島の轉とする説があるが、吉野にある山かとも思はれる。○草とりかなわ 玉の小琴に「かな」は「不得」の意で「わ」は下に添へた語とあるが、十分ではなく、久老は「可禰手」の誤としてゐるが、猶考究を要する。
 
386 この夕《ゆふべ》柘《つみ》のさ枝の流れ來《こ》ば梁《やな》は打たずて取らずかもあらむ
     右の一首
 
〔譯〕 今夕、若し柘の枝が流れて來たならば私は梁はかけないでゐて、取らずにしまふであらうか。
〔評〕 柘枝傳説の起原は大陸にあるのであらうが、我が國で變形して奈良時代に流行した神仙譚の一つとなつたものと思はれる。この歌は、自分は、柘の枝が流れて來ても、梁などかけないで、取ることを止めようと、半ば惜しさうに云つたので、それは結局の哀別離苦を思ふからで、暮れてゆく河の面を眺めて、今にも仙女が柘の枝に化して流れて來るやうな空想に耽つてゐるところ、時代色が明かに看取される。
〔語〕 ○柘 桑のこと。○梁はうたずて 梁は書紀にも和名抄にも「やな」と訓んでゐる。魚を取る施設で、杭を打つて水流を塞き止め、水の集り落ちる處に梁簀といふ竹床を作り、魚をそこで受けとめる。それを仕掛けるのを「うつ」といふは杭を打つてするからである。○取らずかもあらむ 味稻は柘の枝をとつて仙女と悲別したから、自分は取らずにおかうかと躊躇する意。
 
387 古《いにしへ》に梁打つ人の無かりせば此間《ここ》もあらまし柘《つみ》の枝はも
     右の一首は、若宮年魚麻呂の作なり。
 
(323)〔評〕 昔、梁を掛けたといふ人、吉野の味稻がなかつたならば、今もなほここに流れてくるであらう、あの柘の枝よ。
〔評〕 前の歌では、現實は夢想に化して、今にも柘の枝が流れて來るかと思はれたのであるが、現實はつひに神仙の世界ではなかつた。柘の枝が流れて來ないのは、昔、味稻が梁を打つて取つたからで、彼がゐなかつたらば、今も柘の枝、美しい仙女はゐたであらうものをと、幼兒のやうに殘念がつたのである。その底には、奇蹟のない現實の世に對する嗟嘆が潜んでゐる。神仙を夢想した上代人の精神生活の一端が窺はれる歌である。
〔語〕 ○此間もあらまし 現にここに殘つてゐるでもあらうにの意。○柘の枝はも 柘の枝はまあ。餘韻を殘した言ひ方。
〔訓〕 ○此間 攷證には、「イマ」と訓んでゐる。
〔左註〕 若宮年魚麻呂 傳不詳。「一四三〇」にもこの人の傳誦した歌といふのが見える。宴席に侍して興を助けた、聲のよい歌うたひであつたらうと新解はいふ。
 
    ?旅の歌一首井に短歌
388 海若《わたつみ》は 靈《くす》しきものか 淡路島 中に立て置きて 白浪を 伊豫《いよ》に囘《めぐ》らし 座待月《ゐまちづき》 明石《あかし》の門《と》ゆは 夕されば 汐を滿たしめ 明けされば 潮《しほ》を干《ひ》しむ 潮騷《しはさゐ》の 浪を恐《かしこ》み 淡路島 磯隱《いそがく》りゐて 何時《いつ》しかも この夜《よ》の明けむと 待つからに 寢《い》の宿《ね》かてねば 瀧の上《うへ》の 淺野の雉《きぎし》 明けぬとし 立ち響《とよ》むらし いざ兒等《こども》 敢《あ》へて榜《こ》ぎ出《で》む にはも靜けし
 
〔譯〕 海洋を支配する神は、靈しく奇しきものである。淡路島を海中に立てておいて、白浪を四國の海岸にめぐらし、(324)その海の入口をなしてゐる明石の門からは、夕方になれば汐を滿たし、明方になれば潮を干しめる。我らの乘つてをる船は、その潮の騷ぎに荒れ立つ浪の恐ろしさに、淡路島の磯かげに隱れてゐて、早く此の夜が明けてくれればよいと待つてゐるうちに、眠りもかねてゐると、磯に流れてくる瀧川の上の淺野といふところの雉が、もう夜が明けたとて、鳴き立つやうである。さあ、夜も明けた。船人どもよ、思ひ切つて漕ぎ出さうではないか、幸に海上も靜かであるから。
〔評〕 明石海峽のあたりの波濤を恐れ、淡路島の磯隱れに一夜を明したのである。まづ瀬戸内海の地勢を説きつつ、その雄大さと海洋の威力とに驚異の目を見はつてゐる。明日の航路の懸念で碇泊の一夜は安眠もし難かつたが、明方にとよもす雉の聲は、おのづから心を勇み立たせる。この清亮の響が一夜の憂愁を吹き拂つて、「さあ、船出だ」と高らかに叫ばせるのである。上代人の素朴單純さは、海洋を恐れても嫌惡する氣持はない。その威力に順應しつつこれに親しみ、少しも畏縮せぬ快活さが滿ち溢れてゐる。
〔語〕 ○海若 ここでは海神とも海洋とも解されるが、前者がよい。○靈しきものか 「三一九」參照。○伊豫 四國の總名。古事記にも「伊豫之二名島」と見える。○座待月 十八日の月。月の明るい意から明石の枕詞とする。代匠記に歌を詠んだ日が十八夜だつたのであらうといひ、攷證は、奈良時代に十八夜を「ゐまち」と呼んだ事實を疑ひ、座は居に同じく寢ずに夜を居明し月を待つ意で、夜を明すを明石に懸けたもの、必しも十八夜に限らないといつてゐる。○潮騷 潮流の騷ぐこと。○いつしかも いつになつたら。○待つからに 待つ故に。○寢のねかてねば 寢られないのに。「四六」參照。○瀧の上の淺野 淡路國津名郡淺野村。この村の上方十丁餘の處に、淺野瀧、一名紅葉瀧といふのがあるといつて、諸註これに從つてゐる。淺野は、地名でなくて奧行のない野、瀧は激流といふ新解の説も棄てがたい。○明けぬとし 「し」は強意の助詞。夜が明けたとて。○敢へて 押し切つての意。○には 海面。「二五六」參照。
(325)〔訓〕 ○くすしきものか 白文「靈寸物香」舊訓は「アヤシキモノカ」槻落葉による。○伊豫にめぐらし 槻落葉、「イヨニモトホシ」○待つからに 白文「待從爾」考は「マツママニ」と訓む。細井本一本に「待從爾」とあるによつて、槻落葉に「サブラフニ」と訓んでをるのはよくない。○立ちとよむらし 白文「立動良之」舊訓は「タチサワグラシ」。槻落葉による。○あへてこぎいでむ 白文「安倍而榜出牟」考「アヘテコギデム」。
 
    反歌
389 島|傳《づた》ひ敏馬《みぬめ》の埼を榜《こ》ぎ廻《た》めば大和|戀《こほ》しく鶴《たづ》多《さは》に鳴く
     右の歌は、若宮年魚麻呂、之を誦めり。但、未だ作者を審にせず。
 
〔譯〕 淡路島を傳つて來て、敏馬の崎を漕ぎ廻つてゆくと、うちむれて鳴く鶴の聲が頻りにして、故郷の大和を思ふ情が切である。
〔評〕 長歌は、淡路島の西岸から船を出さうとするところまでを敍してあつたが、この反歌はそれに次ぎ、明石海峽を過ぎて敏馬の崎を漕いでゐる。そして長歌には無かつた郷愁を述べてゐる。長歌に言ひ殘した意を補つて、反歌の役割を果して居り、獨立の歌としても立派な作といへる。
〔語〕 ○敏馬の崎 「二五〇」參照。○榜ぎためば 漕ぎめぐれば。
 
   譬喩歌《ひゆか》
 
(326)    紀皇女《きのひめみこ》の御歌一首
390 輕《かる》の池の浦廻《うらみ》行きめぐる鴨すらに玉藻のうへに獨り宿《ね》なくに
 
〔分類〕 譬喩歌 譬喩の意は本集に於いては、普通いふよりは狹義に、やや特殊な意に用ゐられてゐる。即ち本意を表面にあらはさず、物に託して述べた歌で、しかも題材は戀愛に限つてゐる。恐らく詩經の「比」に擬したものと思はれる。
〔題〕 紀皇女 天武天真の皇女、穗積皇子の妹。「一一九」參照。
〔譯〕 輕の池の入りこんだ處を泳ぎまはつてゐる鴨でさへも、玉藻の上にただ獨は寢ないのになあ。
〔評〕 池をゆきめぐる鴨にたとへて、うちつけな感情ではあるが、それが優美に上品に表現されてゐる。はなやかな、たをやかな語調の中に、熾烈な情趣が藏されてゐて、強く讀者に訴へるものがあり、しかも、歌品はあくまで高貴である。
〔語〕 ○輕の池 應神紀に「十一年冬十月作2輕池1」と見える。輕は「二〇七」參照。
〔訓〕 ○浦廻 白文「?廻」は西本願寺本による。通行本「納回」とあり、細井本一本は「細廻」とある。攷證に「納」も「?」も内の意で、内は裏の意であるから「うら」と訓みうるとあるが、「?」は廣韻に「水相入貌又曲」とあるから、これによれば問題はない。
 
    造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓の歌一首
391 鳥總《とぶさ》立て足柄山に船木《ふなぎ》伐《き》り樹に伐り行きつあたら船材《ふなぎ》を
 
(327)〔題〕 沙彌滿誓 「三三六」參照。
〔譯〕 足柄山に、船木を伐りに、樹を伐りに人が行つたことである。惜しい船木であるのになあ。
〔評〕 相模の足柄山は、古くから船材をもつて聞えてゐた。この歌は足柄山に船木を伐りに行くことに、人が女を領ずる意を寓したものであらう。結句の嘆聲の中に、その女が豫て自分が思を懸けてゐた女であつたことを語つてゐるやうに解せられる。第三・四句のあたりが佶屈で、解釋を困難ならしめてゐる。
〔語〕 ○鳥總立て 諸説あるが「とぶさ」は、字鏡集に「朶」は枝、梢の義で、木を伐つた後梢をその伐り跡に立てて、神を祀る習慣があつたといふ萬葉集傳説歌考の説がよからう。足輕にかからないで、「船木伐る」にかかることは、「鳥總立て船木伐るといふ能登の島山」(四〇二六)でも知られる。○足柄山 相模風土記に、この山の杉で船を作ると、特に船脚が輕かつたから、足輕山と名づけたといふ。○樹に伐り行きつ 樹は「フナギ」といふべきを略したとする宣長説がよい。
 
    太宰大監大伴宿禰|百代《ももよ》の梅の歌一首
392 ぬばたまのその夜の梅をた忘れて折らず來にけり思ひしものを
 
〔題〕 太宰大監大伴宿禰百代 太宰大監は太宰府の判官で、定員二名。百代は續紀に、天平十年兵部少輔となり、同十九年正月正五位下となつた由が見える。
〔譯〕 あの夜見たうつくしい梅の枝を、ふと忘れて、折らずに歸つて來てしまつたわい、心の中に深く思つてゐたのになあ。
〔評〕 もちろん女を梅に比して詠んだものである。風流人らしい素材をとりあげて、婉曲に歌つてゐる。調子も圓滑(328)であり、悠揚たるところがうかがはれる。宴席などで見た女の艶姿に、心を動かされたものの、醉の紛れにふと忘れてしまつたのを、あとになつてから惜しく思つたといふやうな場合ででもあらう。ともかく眞實一路の戀心ではない。
 
    滿誓沙彌の月の歌一首
393 見えずとも誰《たれ》戀ひざらめ山の末《は》にいさよふ月を外《よそ》に見てしか
 
〔譯〕 たとへ見えないからといつて、誰が月を戀しく思はぬであらうか。山の端にためらつてゐる月を、よそながらでも自分は見たいものである。
〔評〕 思ふ女を、山の端にいさよふ月に擬してゐる。よそながらでもその姿を見たいといふのは、容易に會ひ難い事情であらう。辭句はやや晦澁であるが、情は後世の俗謠にでもありさうである。
〔語〕 ○見てしか 見たいものである。「一六二二」參照。
 
    余明軍の歌一首
394 標《しめ》結《ゆ》ひて我が定めてし住吉《すみのえ》の濱の小松は後も吾が松
 
〔題〕 余明軍 傳不詳。旅人の資人であつた。「四五八」左註參照。
〔譯〕 しめ繩を張り廻らして、自分のものと定めてしまつたあの住吉の濱の小松は、これから後、いつまでも自分の松であるぞ。
〔評〕 娘子を濱の小松に譬へたのが可憐である。恐らく住吉にゐた遊行女婦であらうが、何時までも自分のものであると斷じたのは旅のなぐさであらう。格調も少し變つてゐて、明るくほほゑましい歌である。
〔語〕 ○標結ひて 己の領有した標識として、繩を張り廻らすこと。
(329)〔訓〕 ○余明軍 「四五八」「五七九」と共に、仙覺本には「金明軍」とあり、それ以外の傳本には、この歌では紀州本、細井本一本は「余」とある。「余」をよしとする槻落葉の説に從ふ。
 
    笠女郎《かさのいらつめ》大伴宿禰家持に贈れる歌三首
395 託馬《つくま》野に生《お》ふる紫草《むらさき》衣《きぬ》に染《し》め未《いま》だ著ずして色に出でにけり
 
〔題〕 笠女郎 傳不詳。集中に短歌二十九首あり、皆大伴家持に贈つたもの。激情的な女性で歌風熱烈、集中屈指の女流歌人である。大伴宿禰家持 父は旅人、母は大伴郎女。大伴氏系圖の享年六十八とあるによれば、養老二年の誕生で、父旅人の死んだ天平五年は十四歳に當る。以後、天平十年の頃初めて内舍人となり、十七年正六位から從五位下になつたのが續紀に見える始で、次に宮内少輔を經、天平十八年六月から天平勝寶三年七月まで越中守であつた。三年には少納言として奈良へ歸り、天平勝寶六年四月兵部少輔、次に兵部大輔、右中辨を經て、天平寶字二年六月因幡守となつた。萬葉集には翌三年正月の作で終つてゐるが、寶字六年中務大輔となつた。八年に惠美押勝の反に加擔したかの疑で左遷せられ、薩摩、相模、上總、伊勢の國守を歴任し、寶龜十一年に至り、漸く參議兼右中辨となつて歸京し、以後東宮大夫從三位となつたが、桓武天皇の延暦元年、氷上川繼の事に坐し官を奪はれた。やがて東宮大夫に復し、陸奧按察使鎭守府將軍を兼ね、二年中納言、三年持節征東將軍となり、四年八月薨じた。死後未だ葬られず、二十餘日にして、一族大伴繼人、竹良等が式部卿種繼を射殺したので、家持も事に關係するものとして官位名籍を除かれ、子なる永主は流罪となつた。後延暦二十五年に至つて漸く疑が晴れ、官位を復せられた。集中五百首近い長歌短歌を殘してゐるが、萬葉集編纂の上にも家持は最も?縁深い一人であることは疑が無い。
〔譯〕 託馬野に生えてをる紫草をとつて、著物を染めて、まだ著ないうちに、人に見つけられた。そのやうに、約束をしてまだ逢はぬうちに、あらはれてしまつた。
(330)〔評〕 窃かに約したのみで、まだ實際に會ふこともなかつた間に、そぶりに出て他人に見つかつたといふ意を遇したものである。當時、紫草、鴨跖草、茜、その他、草からとつた染料で着物を染めてゐたので、その風習から、戀愛の譬喩に多く用ゐられてゐる。この歌は巧妙適切であるが、結句が慣用的なものである爲に、全體まで稍々平凡化された憾がある。
〔語〕 ○託馬野 近江國坂田郡入江村。今は「筑摩」と書き字名に殘つてゐる。○衣に染め 衣に染みこませる義で、衣を染めること。○色に出でにけり 顔色に出た、表面に顯はれたの意。
 
396 陸奧《みちのく》の眞野の草原《かやはら》遠けども面影《おもかげ》にして見ゆとふものを
 
〔譯〕 奧州の眞野の草原は隨分遠いけれども、目の前にちらついても見えるといひますのに。
〔評〕 名所として聞えた遠方の地を借りて譬喩に用ゐたのである。さりげなく詠みあげた中に、寂しく遣る瀬ない思がこもつて、情緒綿々、餘韻嫋々の趣がある。家持に對して久しい間報いられぬ戀を抱いてゐた笠女郎の苦衷と詩才とを窺はせる作である。
〔語〕 ○眞野の草原 和名抄に「陸奧國|行方《なめかた》町眞野」と見え、今の福島縣相馬郡鹿島町、眞野村附近で、原町の北に當る。初二句は「遠けども」の序と見る説もある、が、よくない。○草原 「かや」は萱のみでなく、屋根を葺く料の草の總稱。
 
397 奧山の磐本管《いはもとすげ》を根深めて結びしこころ忘れかねつも
 
〔譯〕 奧山の磐のもとにある菅が、根深く生えてゐるやうに、深く貴方とお約束した、あの時の心は、忘れかねることでございますよ。
(331)〔評〕 繊細な詞句、幽婉な調子に、ひたぶるに思ひ入つた樣子がありありと感じられる。
〔語〕 ○磐本管を 磐の根もとに生えてゐる菅。初句以下ここまで「根深めて」の序。この序は「奧山の石本菅の根深くも思ほゆるかも吾念ふ妻は」(二七六一)に似てゐるので、この「菅を」もやはり「菅の」の誤としてゐるが、菅を、その根を深めて、と解すればもとのままでよい。
 
    藤原朝臣|八束《やつか》の梅の歌二首
398 妹が家に咲きたる梅の何時《いつ》も何時《いつ》もなりなむ時に事は定めむ
 
〔題〕 藤原朝臣八東 房前の第三子。續紀には天平十二年從五位下を授くとあるのが始で、衛士督、治部卿、參議兼式部大輔を經、天平寶字二年中務卿の時、眞楯と名を賜り、四年從三位動二等で薨じた。年五十二と見える。
〔譯〕 あなたの家に咲いてゐる梅が、何時かは實になるであらうが、いつなりとも實になる時に、事は取りきめませうよ。
〔評〕 梅の實になる時を、女の心の本當にきまる時に譬へてゐる。即ちあなたの本心のきまり次第で、夫婦の契をしようとの意を寓したもの。悠揚迫らぬとも云ふべき氣長な戀で、作者の面目と共に、「一瀬には千遍障らひ逝く水の後にも逢はむ今ならずとも」(六九九)、「鴨川の後瀬靜けく後も逢はむ妹には我は今ならずとも」(二四三一)などといふ萬葉人の一面を語つてゐる。
〔語〕 ○何時も何時も ここでは、いつなりとも、隨時にの意。○なりなむ時に 實のなるであらう時に。女の承諾する時にの意。○事は定めむ 夫婦の契を定めようの意。
 
399 妹が家に開《さ》きたる花の梅の花實にしなりなば左《か》も右《かく》もせむ
 
(332)〔詳〕 あなたの家に咲いてゐる花、即ちあの梅の花が實になつたならば、どうにでもしよう。
〔評〕 寓意は前の歌と全く同じであるが、「實にしなりなば」といふあたり、期して待つやうな氣特がはつきり感じられる。「左も右もせむ」は、「事は定めむ」よりも婉曲な語法である。
〔語〕 ○左も右もせむ とにもかくにもしよう。契を定めようの意。
 
    大伴宿禰|駿河麻呂《するがまろ》の梅の歌一首
400 梅の花咲きで散りぬと人は云へど吾が標《しめ》結《ゆ》ひし枝ならめやも
 
〔題〕 大伴宿禰駿河麻呂 「六四九」の左註によれば、高市大卿、即ち大伴御行の孫である。天平十五年從五位下を授けられ、累進して陸奧按察使となり、寶龜四年九月陸奧鎭守府將軍、六年參議、七年九月正四位上勲三等で卒し、從三位を追贈された。
〔譯〕 梅の花は咲いて散つたと人々は云ふが、その散つたのは、自分が標繩を張つておいた枝であらうか、決してさうではあるまい。
〔評〕 あなたが心變りしたとの噂であるが、まさか、との意を寓したもの。さりげなく詠んではゐるが、實は眞僞を探らうとして愛人に贈つたのであらう。確信と不安と交錯した氣分を悠然たる調子に包んでゐるのが面白い。家持が紀女郎に贈つた歌に、「瞿麥は咲きて散りぬと人はいへど吾が標めし野の花にあらめやも」(一五一〇)とある。二者の前後を明かにし難い。
〔語〕 ○咲きて散りぬと 心變りがしたといふ譬喩に用ゐてゐる。
 
    大伴坂上郎女、親族《うから》と宴《うたげ》せし日|吟《うた》へる歌一首
(333)401 山守《やまもり》のありける知らにその山に標《しめ》結《ゆ》ひ立てて結《ゆひ》の辱《はぢ》しつ
 
〔題〕 大伴坂上郎女 大伴旅人の妹。「三七九」參照。
〔譯〕 山の番人がすでにゐるのを知らずに、その山をわが山にしようとして、標を結ひ立てて、恥をかいたことである。ほかに戀人があるのも知らずに、貴方を娘の婿ときめこんで、私はとんだ恥をかきました。
〔評〕 坂上郎女には娘が二人ゐて、姉の大孃は家持の妻となり、妹の二孃は駿河麿に嫁した。この歌は娘の婿と定めておいた駿河麿が他の女に心を移した噂を聞いて、親族多數相寄つた宴席で皮肉になじつたのであらう。機智に富んだ譬喩で、さりげない言葉の中に鋭い鋒鋩を藏してゐるところ、作者の才藻が窺はれる。
〔語〕 ○山守 山の番人。ここでは駿河麿を山に、その通つた女を山守に譬へた。○ありける知らに ゐたのを知らずして。○標結ひ立てて 領有のしるしとして杭を立て、繩を張つての意。娘の婿として駿河麿を選定したことに譬へたもの。
 
    大伴宿禰駿河麻呂、即ち和ふる歌一首
402 山主《やまぬし》は蓋《けだ》しありとも吾妹子が結《ゆ》ひけむ標《しめ》を人解かめやも
 
〔譯〕 たとひ山の番人はゐたとしても、あなたが結んでおいた標を、誰がまあ解きませうか。たとひ他に女がゐたにしても、貴方が私を婿に選んで下さつたことを、誰が邪魔しませう。
〔評〕 眞正面から不意に來た鋭鋒をかはしかねて、完全に一本とられた貌である。親族列座の中で、婚約の娘の母にかう手きびしくきめつけられては、引く手數多の風流才人も甚だ冴えない答辯で、恐縮してゐる姿が面白い。
〔語〕 ○山主 山守と同じ。○蓋しありとも 萬一あるにしてもの意。「蓋しや鳴きし」(一一二)參照。○吾妹子が (334)坂上郎女を親しんでいふ。ここは妻の意ではない。
 
    大伴宿禰家持、同じき坂上家《さかのうへのいへ》の大孃《おほいらつめ》に贈れる歌一首
403 朝に日《け》に見まく欲《ほ》りするその玉を如何にしてかも手ゆ離《か》れざらむ
 
〔題〕 坂上家の大孃 父は大伴宿奈麿、母は大伴坂上郎女である。田村大孃の異母妹に當る。「大孃」とは、年長の娘の意。
〔譯〕 毎朝毎日、自分が見たいと思うてゐるその玉を、どうしたらまあ、手から離さずにゐられるであらうか。いつもいつも見たく思うてゐるあなたを、どうしたらば、自分は手許に引寄せて置くことが出來るであらうか。
〔評〕 意中の人を玉になぞらへた歌は、集中にも多く見える。表現の上に特異な點は認められないが、平明率直な、僞りのないところが、多感な若き日の家持らしい面影を示してゐる。
〔語〕 ○朝に日に 毎朝毎日。この語は「いや日けに」(四七五)「日にけに」(一六三二)などと似て居り、從來は共に「日」の意に考へられてゐたが、遠藤嘉基氏の説に、この「朝爾食爾」の「食」は乙類の假名、かの「彌日異」の「異」は甲類の假名であるから、兩者意義の相違することが知られる。即ち「日にけに」の方は、日のたつたにつれて愈々その樣子の進行してゆく意であるといふ。○見まく欲りするその玉を 見たいと思うてゐるその玉をの意。玉は大孃を譬へてゐる。○如何にしてかも どうしてまあの意。
 
    娘子《をとめ》、佐伯《さへき》宿禰赤麻呂の贈れるに報《こた》ふる歌一首
404 ちはやぶる神の社し無かりせば春日《かすが》の野邊に粟蒔かましを
 
〔題〕 娘子とは誰か明かでない。或は遊行女婦の類でもあらうか。「六二七」にも同樣の題詞があるが、同人か否か(335)わからない。槻落葉に、この歌の前に赤麿が娘子に贈つた歌があつたのが脱ちたのであらうといふが、この題詞から見れば、後に脱したとは考へられない。
〔譯〕 神のお社が若し無かつたならば、私は春日の野邊に粟を蒔きませうものを。若しもあなたに、れつきとしたお方が附いていらつしやらないのならば、私は進んでお逢ひしませうに。
〔評〕 貴方には立派なお方があつて、私風情が近づけるものですか、といふので、中々巧みな駈引である。別に女が控へてゐることを、嚴かに鎭座する神社に譬へたのも辛辣な皮肉で面白い。粟は「逢ふ」といふ語の聯想から用ゐたので、「足柄の箱根の山に粟蒔きて實とはなれるを逢はなくも恠し」(三三六四)も同じ技巧である。
〔語〕 ○ちはやぶる 「神」の枕詞。「一〇一」參照。○春日の野邊 奈良の春日山の麓の廣野。○粟蒔かましを 粟を蒔かうものを、蒔けなくて殘念ですの意。進んでも逢ひたいのですが、そんな譯にいかないのが殘念であるの意。
 
    佐伯宿禰赤麻呂、また贈れる歌一首
405 春日野に粟蒔けりせば鹿待《ししま》ちに繼ぎて行かましを社し留《とど》むる
 
〔譯〕 春日野にもし粟が蒔いてあるならば、粟を荒しに出て來る鹿の番をしに、自分は毎晩でも續けて行きませうに、神のお社があるから粟は蒔いてなく、結局お社が自分の行くのを阻止するわけですよ。御身が進んで逢はうといふのならば、自分は毎晩でも行きませうに、あなたの方にこそ立派なお方があるので、あなたは自分に逢はうなどとは考へられない。即ちあなたの愛人が自分の足を喰ひ止めるのですよ。
〔評〕 この歌は頗る難解で古來樣々の解釋があるが、その第一の難點は、結句の「社し留むる」の譬喩を如何にとるかである。娘子の歌では「社」は赤麿に別に愛する女のあるのを指摘して相手のいたい所を突いたのであるが、この歌では「社」といふ先方の言葉をそのまま借り用ゐ、實は熨斗をつけて返上した貌で、その社といふのは、自分には(336)一向覺えがないが、却つてあなたの可愛い人の事でせうと、逆襲したものと解すべきであらう。さう見ると戀愛駈引として甚だ氣の利いたものと、面白く解されるのである。
〔語〕 ○鹿待ちに 粟を食ひ荒しに來る鹿を待ち受けて防ぐ爲にの意。○繼ぎて行かましを 絶えず引き續き行かうものを。○社し留むる 攷證に「社ある故に粟を蒔き給はぬなれば、社のわれを、とどむるに異ならず」とある。しかしてこの「社」は娘子に愛人があるものとして、それに擬したと見るべきである。
〔馴〕 ○留むる 白文「留焉」は、通行本に「留鳥」とあるが、攷證の説に從ひ、紀州本・類聚古集等の古寫本に據る。なほ誤字説も多く、玉の小琴は「鳥」を「戸母」の誤、槻落葉は「留鳥」は「怨焉」の誤、古義は「有侶」の誤としてゐる。○社し留むる 白文「社師留焉」で、仙覺抄にはヤシロハシルヲ、考にはヤシロシシルヲ、玉の小琴、及び古義は、誤字説によつて、ヤシロシアリトモ、槻落葉にはヤシロシウラメシなど訓んでゐるが、攷證の説が最も妥當である。
 
    娘子、復《また》報ふる歌一首
406 吾が祭る神にはあらず丈夫《ますらを》に著《つ》きたる神ぞよく祀《まつ》るべき
 
〔譯〕 その社といふのは、私が祀つてゐる神樣ではありませぬ。あなたに憑りついた神樣をこそ、大切に祭らなければなりません。愛人などと仰しやるけれども、私にそんな人があるものですか、それはあなたの身から離れないお人のことでございます。精々大事にして御機嫌をお取りなさいませ。
〔評〕 男の攻撃を巧みにそらして、揶揄しつつ一矢を酬いた機智縱横の娘子ではある。「ますらをに著きたる神」などの語も、辛辣にしてまことに巧妙である。しかもその巧妙輕快が野卑浮薄にまで墮せず、相應の品位を保つてゐるところがよい。
(337)〔語〕 ○丈夫に著きたる神ぞ 大丈夫たるあなたに憑り著いた神、即ち貴方のお身から離れぬ神樣ですの意。「丈夫」は赤麿をさす。
〔訓〕 ○著きたる 白文「認有」で、舊訓トメタルに從ふ人も多いが意味の上から不適。考のツナゲルは集中「認」の字の唯一の用例「所射鹿《いゆしし》を認《つな》ぐ河邊の」(三八七四)に據つたのであるが、これも當らない。ツキタルは古義の訓。「認」は物を識す意で、物を識すを「かきつく」といふからとの理由であるが、古義自身いふやうに十分な論據ではないので、なほ後考を俟たねばならぬ。
 
    大伴宿禰駿河麻呂、同じき坂上家の二孃《おといらつめ》を娉《つまど》ふ歌一首
407 春霞|春日《かすが》の里の殖子水葱《うゑこなぎ》苗なりといひし枝《え》はさしにけむ
 
〔題〕 坂上家の二孃、坂上郎女の生んだ次女で、坂上大孃の妹であらう。後にこの人は、駿河麿の妻となつたと思はれる。或は田村大孃に對すれば異母妹であるので、ここでは坂上大孃のことを坂上家之二孃といつたとする説もあるが、それは諾け難い。
〔譯〕 春日の里に植ゑてある小水葱は、まだ若い苗だといつてゐたが、今ではもう枝をさしたことでせう。あなたがまだ子供であると仰しやつた二孃は、今ではもう成長して、立派な娘さんにおなりでせう。
〔評〕 いふまでもなく坂上二孃の成長を待ちかねて、母なる坂上郎女に結婚を促したのである。みづみづしく新鮮で、長い葉柄をすくすくと伸してゆく水葱に譬へられた娘子の、可憐な面影が浮んで來る。感覺的に美しい作である。
〔語〕 ○春霞 春霞がかすむの意で類音「春日」にかかる枕詞。○春日の里 平城京の東、即ち今の奈良市の春日公園一帶の地。○殖子水葱 殖竹、殖槻なども集中にあり、記傳の説では、これらはいづれも殊更に植ゑたのでなく、自生の意とあるが、「市の植木」(三一〇)の例もあつて、必ずしもさうはいへない。「なぎ」は水田や小川に自生する(338)草で、食用となる。「水葱の羮《あつもの》」(三八二九)とも見える。○枝はさしにけむ 枝は生じたであらう。成長してよい處女になつたであらうの意。
 
    大伴宿禰家持、同じき坂上家の大嬢《おほいらつめ》に贈れる歌一首
408 石竹《なでしこ》のその花にもが朝旦《あさなさな》手に取り持ちて戀ひぬ日|無《な》けむ
 
〔譯〕 あなたが石竹のあの美しい花であればよいになあ。さうしたらば、毎朝手に取つて、いつくしまぬ日は無いであらうに。
〔評〕 この歌は譬喩歌とはいひ難いやうにも考へられるが、愛人を石竹花に譬へてゐるので、廣義の譬喩歌には入るであらう。自分が何々であればよいとか、戀人が何々であつてほしいとかいふ構想は集中珍しくないので、若き日の家持はそれらの型を學んだのであらう。但、戀人を優婉な瞿麥に擬したのは作者のはたらきで、明朗可憐な大孃の風姿が眼前に浮ぶやうである。
〔語〕 ○その花にもが その美しい花であつてほしいなあ。○戀ひぬ日無けむ 愛撫しない日は無いであらう。「戀ひ」は、ここは普通に用ゐられる戀ひ慕ふ、あこがれるといふやうな意では解けない。代匠記初稿本の説の如く、愛する心と見なければならぬ。
 
    大伴宿禰駿河麻呂の歌一首
409 一日《ひとひ》には千重《ちへ》浪|頻《しき》に思へども何《な》ぞその玉の手に卷きがたき
 
〔譯〕 一日の中には、千重に立つ浪のやうに繁く私は思つてゐるけれども、どうしてあの玉が手に卷き装ふことが出來ないのであらうか。終日間斷なく思ひつづけてゐるけれども、どうしてあのいとしい人を自分のものにすることが(339)出來ないのであらうか。
〔評〕 得難い戀人を海底の玉に比した歌は集中に多い。これも海神の玉を想像して、上に「千重浪」と置いたのであらう。「千重」を「一日」に對照せしめたのは技巧であるが、全體としては類型的の謗を免れない。
〔語〕 ○千重浪頻に 千重に立つ浪の如く頻りに。○その玉の 「玉」は戀人なる坂上家の二孃。
 
    大伴坂上郎女の橘の歌一首
410 橘を屋前《には》に植ゑ生《おほ》し立ちて居て後に悔ゆとも驗《しるし》あらめやも
 
〔譯〕 橘を庭に植ゑ育てて、立つたり、坐つたりして氣を揉み、後に悔いても、何の効果がありませうか。あなたを娘の婿としてから、豫期に反したとて、後で悔いても何になりませう。だから輕々しくは承諾は出來ませぬ。
〔評〕 婚期になつた娘を持つ母親の心づかひが首肯される。さてこの歌の對象は、家持か、駿河麿か判然しないが、愛する娘を二人持ち、しかもその二人の婿がいづれも風流の才人であつたことを思へば、娘を託するまでの坂上郎女が、母としての苦勞の程は察せられる。この種の歌は、集中にも珍しいが、初二句の譬喩は稍々明瞭を缺いてゐる。
〔語〕 ○橘を屋前に植ゑ生し 代匠記は「橘を殖て生したるやうに、我娘をもよく生したてたれど」と解し、攷證は「我が娘なれば謙退してわが娘の如くふつつかなるものを君のもとによび取り給ひなば」の意とし、全釋は「家持を婿とする事を橘を宿に植ゑるのになぞらへたもの」といひ、諸説區々であるが、全釋の説がよいと思はれる。「屋前」は「やど」と訓む説もあり、集中の例を考へるに、何れでも良いと思はれるが、和名抄「庭」の條に「屋前也」とあるにより、「には」と訓むこととする。○立ちて居て 立つたり坐つたりして。落ちつかぬ貌。○後に悔ゆとも 譬喩としての意は、あなたが萬一心變りでもした際に、此方で後悔してもの意であるが、表面の意は、橘を庭に植ゑることが何故後悔の原因になるのか、十分意味が徹しない憾がある。
(340)〔訓〕 ○植ゑ生ほし 白文「殖生」。「ウヱオホセ」と命令的に訓む玉の小琴に左袒する人も多いが、舊訓に據る。
 
    和ふる歌一首
411 吾妹子が屋前《には》の橘いと近く植ゑてし故《ゆゑ》に成らずは止《や》まじ
 
〔題〕 右の坂上郎女の歌に答へた歌 作者は家持・駿河麿兩説あつて、いづれとも斷定し難い。
〔譯〕 あなたの庭の橘は、自分の家に極めて近く植ゑてありますので、實がならないでは自分は納得出來ませぬ。あなたの御宅のお孃さんは、自分は大變親しく思つて居りますので、どうしても結婚しようと思ひます。
〔評〕 自分が譬へられた橘を、そのまま取つて戀人に擬したのである。「いと近く植ゑてし」は譬へられたところは明白であるが、表面の意は少しく曖昧である。一體この贈答は、二者とも同樣に釋然としない點があるが、由來贈答歌は、その當事者間に於いては事情がすべて分つてゐるので、打てば響くで、言葉は假令不完全でも、意は直に通ずる性質のものである。從つて第三者にとつては難解なものになることが多い。この歌もその例であらう。
〔語〕 ○吾妹子が 坂上郎女を親しんでいふ。○成らずは止まじ 實がならないでは承知出來ないの意で、結婚せずには置かぬとの強い決心を譬へてゐる。
 
    市原《いちはらの》王の歌一首
412 頂《いなだき》に著統《きす》める玉は二つ無しこなたかなたも君がまにまに
 
〔題〕 市原王 「九八八」によれば安貴王の子である。續紀に、天平十五年五月從五位下を授けられ、後、攝津職の太夫を經、天平寶字七年四月造東大寺長官となられた由が見える。
〔譯〕 頭に飾り装ふ玉の緒の中には、大きい玉は二つとは無い、唯一つです。ちやうどその如く、自分の心も唯一つ(341)で、こちらにでもあちらにでも、あなたのお心任せです。
〔評〕 上句だけが譬喩であつて、一首が完全な譬喩歌とはいひ難い。その上句は、頭を飾り統べる玉の貴いのに愛人をなぞらへたとも解されさうであるが、やはり愛人に對する心持の一筋なことに比したと見るのが自然であらう。
〔語〕 ○いなだき いただきに同じ。○著統める玉 「伎須賣流」は、諸説がある。代匠記は「頂に令v著なり」といひ、考は「伎は久々里の約にて絞なり、須賣流は統るなり。かくて神代紀に御統《みすまる》の玉と云ふに同じく、頭に飾る數々の玉の緒をくくり統ぶる所に一大玉あり、それを無二と云り」といひ、槻落葉には「令v著《きすめる》也。古へ玉は左右の髻《みづら》につけて飾とせり、神代紀に見えたり、令v著とは付をいへり」とあり、略解にはまづ考の説を擧げ、次に宣長説として、「伎は笠をきるなどのきるに同じ、頭におくをいふ。すめるは統にて、二つなしとは玉の數をいふにはあらず、統べたる玉のたぐひなきよし也」とあり、後人多く宣長説に從つてゐる。しかしいづれにも無理がある。新考は播磨風土記を引いて、キスムは藏《をさ》むるの意としてゐるが、猶疑問の餘地がある。佛像の額の玉をいうたとの説もある。ここには姑く宣長と考との説を折衷して解して置き、後考を俟つ。○二つ無し 二心のないのに譬へた。○こなたかなたも こつちにでも、あつちにでも、何れにでも、どうにでもの意。
〔訓〕 ○こなたかなたも 白文「此方彼方毛」。玉の小琴に「カニモカクニモ」との説があるがよくない。
 
    大網公人主《おほあみのきみひとぬし》、宴《うたげ》に吟《うた》へる歌一首
413 須磨の海人《あま》の鹽燒衣《しほやきぎぬ》の藤服《ふぢごろも》ま遠《どほ》にしあれば未《いま》だ著穢《きな》れず
 
〔題〕 大網公人主 大網公の姓は姓氏録にも續紀にも見えるが、人主の傳は未詳。「吟へる歌」とあるから、自作でないのかも知れない。
〔評〕 須磨の海人が鹽を燒く時に著る藤衣は、布目が疎《あら》いので、まだしつくりと著馴れない、あのかはゆい女とは、(342)私は逢ふ機會が少いのでまだ十分に馴染まないのが殘念である。
〔評〕 當時の漁民の著物の織目の荒いのをとつて譬喩としてゐるが、これは、「須磨の海人の鹽燒衣の馴れなばか一日も君を忘れて念はむ」(九四七)、「志賀の白水郎の鹽燒衣穢れぬれど戀とふものは忘れかねつも」(二六二二)、「大王の鹽燒く海人の藤衣穢るとはすれどいやめづらしも」(二九七一)などの類型があるので、恐らく民謠風のものであつたらう。「吟へる歌」の題詞もその間の消息を語るものと取られる。なほ古今集に、「須磨の海人の鹽燒ごろもをさを荒みま遠にあれや君が來まさぬ」(戀四)とある。一・二・四句の殆ど同じいのは、この歌を粉本としたと思はれる。
〔語〕 ○須磨 今の神戸市の西部。○鹽燒衣 鹽を燒く人の著る粗末な着物。○藤衣 藤又は葛《くず》で織つたもので、賤者の衣。○ま遠にしあれば 織目が疎であるからの意で、戀人に逢ふことの間遠き意に譬へてゐる。○未だ著穢れず まだしつくり身體に馴れない意に、戀人との間がしんみり打解けない意を譬へた。
〔訓〕 ○大網公 通行本「大綱公」とあるが、今、紀州本、西本願寺本等の古寫本に從ふ。
 
    大伴宿禰家持の歌一首
414 あしひさの岩根|凝《こご》しみ管《すが》の根を引かば難《かた》みと標《しめ》のみぞ結《ゆ》ふ
 
〔譯〕 山の岩石が嶮しいので、そこに生えてゐる菅の根を引かうとしても引き難いので、自分の所有のしるしに標繩だけを結んでおくのである。故障が多くて、樣々に努力してみても、思ふ女を得ることはむつかしいので、今は心にわがものと思ひ定めて置くだけで辛抱してゐることである。
〔評〕 自然と密接な、上代人らしい巧みな譬喩であるが、思ふ女を手に入れることを標結ふに譬へるのは類型が多く、一首としても趣意と迫力とに乏しい歌である。
〔語〕 ○あしひきの 「山」の枕詞であるが、ここは直ちに山の意に用ゐてゐる。○岩根凝しみ 岩が堅く嶮しいの(343)で、「三〇一」參照。○引かば難みと 引いて見ても拔き難いので。努力しても戀人を手に入れ難いのに譬へていふ。
〔訓〕 ○ゆふ 白文「結焉」。通行本に「結鳥」とあるは誤である。類聚古集の古本による。
 
   挽歌《ばにか》
 
    上宮の聖コ皇子、竹原井《たかはらゐ》に出遊《いでま》しし時、龍田山《たつたやま》の死人を見て悲傷《かなし》みて御作《つくりませる》歌《うた》一首
415 家にあらば妹が手|纒《ま》かむ草枕旅に臥《こや》せるこの旅人《たびと》あはれ
 
〔題〕 上宮の聖コ皇子 厩戸豐聰耳皇子と申し、用明天皇の第二皇子。上宮と云ふのは父天皇が宮の南の上殿に居らしめ給うた爲であると紀に見える。推古天皇の皇太子となられたが遂に即位に及ばず、二十九年二月、四十九を以て斑鳩宮に薨ぜられた。竹原井は今の大阪府布施市高井田で、續紀に竹原井離宮と見える所である。なほ、この題詞の「上宮」を通行本に「上官」にせるは誤。今、類聚古集等によつて訂す。
〔譯〕 わが家にゐたならば、愛する妻の手を枕にするであらうに、旅に出て病の爲にかうして寢てゐるこの旅人は、氣の毒なことである。
〔評〕 推古紀二十一年の條に、聖コ太子が片岡山に於いて飢人を御覽になつての作に「しなてる片岡山に 飯《いひ》に飢《ゑ》て 臥《こや》せるその旅人《たびと》あはれ 親無しになれなりけめや さす竹の君はや無き 飯に飢て臥せるその旅人あはれ」とある。この萬葉の歌は恐らくその異傳であらう。博大な愛の心が一首に溢れて居り、讃岐狹岑島に石中の死人を視て柿本人麿が作つた歌(二二〇)を聯想させるものがある。悲惨な死人に對するこの禮節、旅と暖い家庭とを對照して考へる(344)ところが、すでに此の「しなてる片岡山」の歌の上に、清く直き上代人の心を色濃く現はしてゐる。
〔語〕 ○妹が手纒かむ 妻の手を枕として寢るであらうに。○草枕 「旅」の枕詞であるが、ここでは實際的修飾語のごとき氣特を多分に含んでゐる。○旅に臥せる 旅中の路傍に寢てゐなさるの意で、死んでゐることを婉曲にいつたもの。「こやす」は臥すの古語「こゆ」の敬語。○この旅人あはれ この旅人はまあ、氣の毒なことよ。「あはれ」は歎息の詞。
〔訓〕 ○家にあらば 白文「家有者」舊訓イヘナラバ。今、類聚古集の訓に從ふ。○こやせる 白文「臥有」舊訓フシタル。今、代匠記初稿本書入に從ふ。○このたびとあはれ 白文「此旅人※[立心偏+可]怜」寛永本コノタビトアシは誤。今、紀州本・西本願寺本等の訓による。但、この字面は、卷の一の「二」にもあり、そこではウマシと訓んでゐる。
 
    大津皇子《おほつのみこ》の被死《つみなは》えましし時、磐余《いはれ》の池の般《つつみ》にて涕を流しまして御作歌《つくりませるうた》一首
416 百傳ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲|隱《がく》りなむ
     右は藤原宮の朱鳥元年冬十月。
 
〔題〕 大津皇子 天武天皇の第三皇子にして、大伯皇女の同母の御弟。「一〇五」參照。朱鳥元年十月に謀反のこと露はれて、死を賜つたことが持統紀にみえてをる。年二十四とある。磐余池は履中天皇二年十一月に造られた由、紀に見えるが、大和國磯城郡安倍村大字池之内、また香久山村大字池尻等の地名が殘つてゐる邊かといはれる。「般」は堤の意。但、目録には「陂」とあるので、その誤寫とする説もあるが、代匠記説の如く、史記孝武紀集解に漢書音義を引いて「般水涯堆也」とあり、堤の義があるので、強ひて「陂」に改める要もなく、このままでよい。
〔評〕 この磐余の池に遊んで鳴いてゐる鴨は、もう今日一日だけが見納めで、自分は、いよいよ死んでゆくことであらうか。
(345)〔評〕 今日を限りの命をもつて、磐余の池に無心に遊ぶ鴨を御覽になつたのである。風光明媚な磐余の池に、悠揚として鴨の遊ぶ景色は、明るくて平和な眺めである。この眺めは明日もつづくであらう。然るに自身はこれに背いて今この世を去らねばならぬ。樂しげに鴨の遊んでゐるこの現實の世界と、明日は行くべき未知の暗い世界との對立をまざまざと意識せられた趣が察せられ、「今日のみ見てや」の一句に無量の思がこもつてゐる。しかも哀しんで傷らず、悠然自若たる態度は、その風?を遺憾なく發揮してゐる。懷風藻にはこの皇子の辭世として、「金鴉臨2西舍1、鼓聲催2短命1、泉路無2賓主1、此夕離v家向」といふ詩が掲げてある。
〔語〕 ○百傳ふ 枕詞。五十、六十、七十、と百に數へ傳ふる五十の意で「いはれ」の「い」に懸けたとする冠辭考の説がよい。○今日のみ見てや 今日だけ見て、即ち今日一日見るのが見納めでの意。○雲隱りなむ 死んでゆくことであらうかなあ。雲がくるは死ぬことを譬へる。死者の靈は昇天するといふ上代思想から出發した語。
〔訓〕 ○百傳ふ 白文「百傳」。「つのさはふ磐余」といふ句が、日本書紀にも、また萬葉にも多くあるので、「角障經」の誤といふ宣長の説があるが、よくない。○雲がくりなむ 白文「雲隱去牟」、舊訓「クモガクレナム」とあるが、「隱る」は古くは四段活用であつたから、槻落葉の訓に從ふこととする。
 
    河内王《かふちのおほきみ》を豐前國|鏡山《かがみやま》に葬《はふ》りし時、手持女王《たもちのおほきみ》の作れる歌三首
417 王《おほきみ》の親魄《むつたま》合《あ》へや豐國《とよくに》の鏡の山を宮と定むる
 
〔題〕 河内王 同名異人で書紀に四人あるが、これは持統天皇三年に太宰師になられた方と思はれる。八年四月の條に、淨大肆を太宰師河内王に贈られ、并に賻物を賜ふ由が見えるので、その頃薨去せられた方であらう。年齡等は詳かでない。鏡山は豐前國田川郡勾金村にある。「三一一」參照。手持女王は傳不詳。河内王との關係も明かでないが、或は妃であつたかといはれる。
(346)〔譯〕 王の御心にかなつたからであらうか、この豐前の國の鏡の山を、永遠の御殿とお定めになつたことである。
〔評〕 太宰帥として筑紫で薨ぜられたと推定される河内王を、豐前の鏡の山に斂めたのを、自らそこに宮をお定めになつたやうに云ひなしたもので、高市皇子尊の城上《きのへ》の殯宮の時、人麿が詠んだ歌(一九九)の中に、「麻袋よし城上の宮を常宮と定め奉りて」とあると同樣である。「王の親魄合へや」は、お心にかなつたからか、といふ裏に、何の御縁があつて此處に葬られる御身となられたか、といふやうな悲痛な詠歎が潜んでゐて、あはれである。
〔語〕 ○親魄合へや 御意にかなつた爲か。「むつ魂」は睦じく親しい魂の意で、王の魂を親愛の情を以ていつたのであらう。「魂合ふ」は氣に入る、心に叶ふの意。「靈合はば相寢むものを」(三〇〇〇)參照。
 
418 豐國の鏡の山の石戸《いはと》立て隱《こも》りにけらし待てど來《き》まさぬ
 
〔譯〕 豐前國の鏡の山の岩屋の戸を締切つて、わが王は籠つておしまひになつたらしい。いくら待つてゐても出ていらせられない。
〔評〕 天の岩屋戸の神話からの聯想も實感としつくり融和して、間然するところがない。終句は他にも用ゐられてゐるが、婦人らしく幼く素直に聞えるばかりでなく、愛する人の死んだ當座、今にも歸つて來るやうな氣がして、待つとしもなく待つてゐる心の消息をよく語るものである。
〔語〕 ○石戸立て 古墳の横穴式石槨は、奧の方に石棺を安定する所、即ち玄室があり、玄室から外部へ通ずる道、即ち羨道も皆石で疊んであり、羨道の入口、即ち羨門は必ず石を以て塞いだのである。この句はそれを天の岩戸に擬していつたのであらう。
〔訓〕 ○隱りにけらし 白文「隱爾計良思」で、舊訓カクレニケラシよりも、略解の改訓カクリニケラシがよいが、今は槻落葉の訓コモリニケラシに從ふ。
 
(347)419 石戸《いはと》破《わ》る手力《たぢから》もがも手弱《たよわ》き女《をみな》にしあれば術《すべ》の知らなく
 
〔譯〕 王のお籠りになつた鏡山の岩屋の戸を、打破るだけの力が欲しいことである。私はか弱い女の身であるから、どうしてよいか爲すべき方法も知らない。
〔評〕 これも前の歌につづいて手力男神の神話を思はせる。それに關聯せしめて「手弱き女にしあれば」の嘆聲もよく利いてゐる。しかし神話から離れて眺めても、死といふ現象を素朴に幼く考へ、幽明兩界の境とも見なされる墳墓の、堅くて無情な石の戸の前に、女の力なさを嘆く可憐な姿がはつきりと描き出されてゐる。以上三首はいづれも死を象徴的に見て、しかも連作の形をなしてゐる。
〔語〕 ○手力もがも 腕の力が欲しいことであるの意。
 
    石田王《いはたのおほきみ》の卒りし時、丹生王《にふのおほきみ》の作れる歌一首并に短歌
420 なゆ竹の とをよる皇子《みこ》 さ丹《に》づらふ 吾が大王《おほきみ》は 隱國《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山に 神《かむ》さびに 齋《いつ》き坐《いま》すと 玉|梓《づさ》の 人ぞ言ひつる 妖言《およづれ》か 吾が聞きつる 枉言《まがごと》か 我が聞きつる 天地に 悔《くや》しき事の 世間《よのなか》の 悔《くや》しき事は 天雲《あまぐも》の そくへの極《きはみ》 天地の 至れるまでに 杖|策《つ》きも 衝《つ》かずも行きて 夕占《ゆふけ》問《と》ひ 石占《いしうら》以《も》ちて 吾が屋戸《やど》に 御室《みむろ》を立てて 枕邊に 齋瓮《いはひべ》を居《す》ゑ 竹玉《たかだま》を 間《ま》なく貫き垂《た》り 木綿襷《ゆふたすき》 肘《かひな》に懸けて 天《あめ》なる 左佐羅《ささら》の小野の 七符菅《ななふすげ》 手に取り持ちて ひさかたの 天の川原に 出で立ちて 禊《みそ》きてましを 高山の 巖《いはほ》の上に 坐《いま》せつるかも
 
(348)〔題〕 石田主 傳不詳。丹生王も詳でない。或は「五五三」「一六一〇」の作者丹生女王と同じ方かとも思はれる。
〔譯〕 しなやかな若竹のやうにお姿の若々しく優しい皇子樣、お顔の色のあかく美しいわが石田王は、あの泊瀬の山に、今では神として祭られていらせられると、使の人が來ていつた。人まどはしの僞り言を私は聞いたのであらうか、好い加減な言葉を私は聞いたのであらうか。この天地の間で一番殘念なこと、この世の中で一番殘念なことは、かねてかうと知つてゐたならば、天雲の遠く隔つた果、天地の延び廣がつた果までも、杖をついても又つかないでも、歩いて行つて、夕方、街に立つて辻占をし、或は石占をして、私の家に神座を設け、枕邊には齋瓮《いはひべ》を据ゑて、竹玉を隙間もなく絲に貫き垂らし、白い木綿の襷を肘にかけて、天上にあるといふ左佐羅の小野の七符菅を手に持つて、天の川原に出て行き、禊をしつつ身を清めて、御無事を祈るのであつたのに。今は既に高い山の巖の上に居らせ申すやうな悲しいことになつてしまつたことであるよ。
〔評〕 作者は石田王とどういふ關係であつたか、同じ皇族として近親の間柄であつたものか、又は戀愛關係がおありになつたのかも知れない。ともかく親しい人の思ひがけない訃報に接して、間違ではないかと我が耳を疑ふことは誰も經驗する所である。かねて聊かの豫感でもあつたら、占ひをし神をも祭つて、無事長久を祈るのであつたものをと、後悔するのも古今渝らぬ人情である。痛歎慟哭の聲紙面に溢れてゐるが、普通の挽歌と聊か異なる點があり、占卜や祈?の樣式が具體的に詳細に描かれてゐるのは、文化史上の資料として注意すべきである。
〔語〕 ○なゆ竹のとをよる皇子 若い女竹がたをたをと撓《しな》ひ寄るやうな容姿の優しく美しい皇子の意で、石田王をさす。「なゆ竹の」は枕詞でなく、「とをよる」の主語で、「なゆ竹のとをよる」が修飾語となつてゐるのである。○さ丹づらふ 「さ」は接頭辭。顔の血色よく美しい形容。○隱國の泊瀬の山に 「隱國の」は枕詞。「七九」參照。○神さびに 死して葬られてゐるのを婉曲にいふ。○玉梓の 「使」の枕詞であるのをここは直ちに使者の義に用ゐた。○妖言 天武紀に「「妖言《およづれごと》」とある。人を惑はすやうな僞言。○枉言 邪曲な言葉。○天地に悔しき事の 天地間でこ(349)の上もなく悔しい事。なほこの句の前に、使の言の信じ難いといふ意の言葉が省略せられてゐる。○天雲のそくへの極 空なる雲の遠く隔つてゐる窮極。「そくへ」は「退《そ》く方《へ》」で遠く隔つてゐる所。○天地の至れるまでに 天地の辿つて行ける果までも。○杖策きも衝かずも行きて 嶮しい處は杖をついても、平坦な處は衝かないでも、ともかくも行つての意。遠路を艱苦しつつ行くを表す慣用的な句。「杖衝きも衝かずも吾は行かめども」(三三一九)參照。○夕占問ひ 夕方辻に出て往來の人の語る事を聞き卜ふ占法。「とふ」は問うて判斷するの意。○石占 伴信友の正卜考に、道祖神に祈り、その社内の石の輕重により判斷する占法であるといふ。○御室 神を祀るところ。○齋瓮を居ゑ 齋瓮祭祀用の神酒を入れる器。「三七九」參照。○竹玉 「三七九」參照。○木綿襷 木綿で作つた襷。木綿は楮の皮の繊維を晒したもの。「一五七」參照。○天なる左佐羅の小野の 天上にあるといふ左佐羅といふ野の。「天なるや神樂良《ささら》の小野に茅草《ちがや》苅り」(三八八七)參照。○七符菅 略解所引宣長説では、袖中抄の「みちのくのとふの菅薦七ふには」の歌の句によつて七節と解したが、それは莚に編んだものに就いていふのであり、山野に自生してゐる菅の節とは考へられない。その他諸説あるが、後考を俟たねばならぬ。或は斑點ある菅の義かとも思はれる。○禊きてましを 禊をして王の息災を祈るべきであつたのに、殘念なことをしたとの意。「みそく」は水邊に出て身を祓ひ潔めること。○高山の巖の上に 高山は初瀬山をさす。○坐せつるかも 王をそんな荒涼たる處に居らせ申すやうなことにしてしまつたのが殘念であるとの意。
〔訓〕 ○枉言 玉の小琴は誤字説によつてタハコトと訓み、攷證はこのままでさう訓んでゐるが、舊訓のままでよい。
 
    反歌
421 逆言《さかごと》の枉言《まがごと》とかも高山の巖の上に君が臥《こや》せる
 
〔譯〕 事實でない僞言であらうか、高い山の巖の上に、王樣が臥していらせられるといふのは。
(350)〔評〕 長歌の中の句を取つて綴り合せ、その訃報の俄かに信じられぬ心持を反覆したのであるが、「枉語《まがごと》か逆言《さかしまごと》かこもりくの泊瀬の山に廬《いほり》すといふ」(一四〇八)の類歌がある。
〔語〕 ○逆言の枉言とかも 事實に反する詞であり、邪まな詞であらうと思はれるの意。○君が臥せる 王が寢ていらつしやるの意で、葬られてゐるのを婉曲にいふ。
〔訓〕 ○逆言 玉の小琴はオヨヅレと訓み、これに從ふ學者も多いが、姑く舊訓によつて置く。卷七にも、「枉言香逆言哉」(一四〇八)等あり、これら枉言・逆言・狂言等の字面と、「およづれ」「たはごと」「さかごと」「さかしまごと」の語との關係は猶考究の餘地がある。
 
422 石上《いそのかみ》布留《ふる》の山なる杉|群《むら》の思ひ過ぐべき君にあらなくに
 
〔譯〕 石上の布留の山に生えてゐる杉林の「すぎ」といふやうに、私の思ふ心が過ぎ去つて、やがて忘れることが出來るやうな間柄の王樣ではありませぬ。
〔評〕 布留の山は泊瀬の山つづきで、ここの杉は神木として有名であつたので、序として用ゐたのである。内容は概念的で、形式としても、「神南備の三諸の山に齋《いは》ふ杉おもひ過ぎめや蘿《こけ》むすまでに」(三三二八)の類歌がある。
〔語〕 ○石上布留の山 石上は和名抄に「大和國山邊郡石上郷」と見え、今の丹波市町であり、布留の名も現に殘つて居り、石上神宮がある。○杉群の 以上三句は下の「過ぐ」に懸けた序。○思ひ過ぐべき 思慕の心が過ぎ去り、程なく忘れてしふやうなの意。
 
    同じき石田王の卒りし時、山前王《やまくまのおほきみ》の哀しみ傷みて作れる歌一首
423 つのさはふ 磐余《いはれ》の道を 朝|離《さ》らず 行きけむ人の 念ひつつ 通《かよ》ひけまくは 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》(351)く五月《さつき》には 菖蒲《あやめぐさ》 花橘を 玉に貫《ぬ》き【一に云ふ、貫き交へ】 蘰《かづら》にせむと 九月《ながつき》の 時雨《しぐれ》の時は 黄葉《もみぢば》を 折り挿頭《かざ》さむと 延《は》ふ葛《くず》の いや遠《とほ》永く【一に云ふ、葛の根のいや遠長に】 萬世に 絶えじと念《おも》ひて【一に云ふ、大船の思ひたのみて】 通ひけむ 君をば明日《あす》ゆ【一に云ふ、君を明日ゆか】 外《よそ》にかも見む
     右の一首は、或は云ふ、柿本朝臣人麻呂の作なりと。
 
〔題〕 山前王 天武天皇の皇子なる忍壁皇子の子。養老七年十二月卒した。懷風藻にも從四位下刑部卿山前王としてその作が一首見える。この歌、左註に或は人麿の作とも云ふとあるが、考にいへる如く人麿の作風とは遠く隔つたものである。
〔譯〕 あの磐余の道を毎朝々々通つて行かれたであらう石田王が、お心のうちに思ひながら通はれたであらうと思はれることは、杜鵑の鳴く五月には、菖蒲や花橘を玉のやうに絲に貫いて頭を飾る蘰《かづら》にしようと、また九月の時雨の降る時期には、黄葉の枝を手折つて髪に挿さうと、更に又そんな風にして愈々遠く永く、萬世までも二人の仲は絶えないと、お思ひになつて、通はれたであらうに、その王を、明日からは、別の世界のお方として見ることであらうか。
〔評〕 同一死者に對する同じ挽歌でも、丹生王の作とこの歌とでは非常な差がある。即ち彼は悲痛を直敍して惻々として人を動かすのに、此は哀傷は一通りにして、寧ろ主人公の生前の優美な趣味を敍して、その風?を描くといふ行き方で、花鳥を刺繍にして、華麗に纒めあげてゐる。この二つの態度は無論死者と作者との關係の如何に基くのである。「霍公鳥鳴く五月には菖蒲《あやめぐさ》花橘を玉に貫き蘰にせむと」は、菖蒲や橘を、五月の藥玉にしたり、蘰に作つたりした當時の風習を示して、極めて爽やかな感がある。
〔語〕 ○つのさはふ 「磐余」の枕詞。「一三五」參照。○磐余の道を 「二八二」參照。○朝離らず 一朝も洩らさず、毎朝々々。○通ひけまくは 「通ひけむことは」の意。王が愛人の許へ通はれたことをいふ。○菖蒲花橘を玉(352)に貫き あやめと橘の花とを玉のやうに絲で貫いての意。「四一〇一」「四一八〇」等參照。○蘰にせむと 蘰は上代男女の髪の飾として纒うたもので、多く蔓草を用ゐたが、かうした美しい花をも用ゐた。○九月の時雨の時 時雨は晩秋から初冬にかけて降る驟雨性の雨。後世は十月とし、集中にも十月のものとしても詠んでゐるが、九月に詠んだものも少くない。○延ふ葛の 「遠永く」にかけた枕詞。蔓の長く這ふ意。一本の「葛の根の」も同樣。○大船の 「思ひたのみて」にかけた枕詞。大船に乘つたやうに安心しての意。「一六七」參照。○外にかも見む 別の世界の人として見ることであらうかの意。
 
    或本の反歌二首
424 隱口《こもりく》の泊瀬《はつせ》をとめが手に纒《ま》ける玉は亂れてありといはずやも
 
〔譯〕 初瀬の少女が、大切に手に纒いてゐた玉は、今はその緒が切れてばらばらに亂れてゐるといふではないか。
〔評〕 娘子の手に纒き持つ玉の亂れに喩へて、王の薨去を悼んだのは、非凡な構想である。古典的な氣品を帶びて、高い格調の中に、こまやかな哀韻の旋律がある。
〔語〕 ○泊瀬をとめ 王が愛人として通はれた女性。○手に纒ける玉は亂れて 女が大事にして手に纒いてゐた玉は、緒が切れてばらばらになつての意で、即ち女が愛人として大切にかしづいてゐた王は遂にお亡くなりなされての意。
 
425 河風の寒き長谷《はつせ》を歎きつつ君が歩《ある》くに似る人も逢《あ》へや
     右の二首は、或は云ふ、紀皇女薨りましし後、山前王、石田王に代りて之を作れりと。
 
〔譯〕 河風の寒く吹く初瀬の地を、後朝の別れを惜しんで歎きつつ王がお歩きになつた、その姿に似た人でもせめて出逢つてほしいものである。
(353)〔評〕 この歌は從來解釋區々にして定説がない。「歎きつつ君が歩くに」を、王の卒去を悲しみ歎き、初瀬處女が歩いてゐると解する説がある。併し女をさして君と呼ぶ例は集中少くないにしても、ここの「君」を初瀬處女と見ることは妥當とは考へられず、やはり石田王と見るべきであり、從つて「歎きつつ」も石田王の動作でなければならない。結句も從來せめて王に似た人にでも逢へかしと願望の意に解するのが多いが、さる用例なしとして語法上から反對する説もある。ともかく後考を俟つべき歌である。
〔語〕 ○歎きつつ 石田王が初瀬處女との朝々の別れを歎きつつの意と解すべきである。但、左註によれば紀皇女を失はれた石田王の御歌とも解される。○君が歩くに 王が歩くその姿にの意。君を處女と解するのは妥當でない。○似る人も逢へや せめて王に似た人でも出逢へよの意。なほ「逢へ」は已然形で「や」は反語をあらはすと見る説もある。左註によれば、紀皇女に似た人と解することが出來る。
〔左註〕 左註は右二首に對する異傳で、紀皇女の薨ぜられた後、山前王が石田王に代つて作られたといふのであるが、いづれが眞か、今日から判然しない。紀皇女は天武天皇の皇女。「一一九」參照。
 
    柿本朝臣人麻呂、香具山に屍を見、悲しみ慟みて作れる歌一首
426 草枕旅の宿《やどり》に誰《た》が夫《つま》か國忘れたる家待たまくに
 
〔譯〕 この旅のやどりに、どこの誰の夫であらうか、自分の郷國をも忘れて、かうして横たはつてゐる。家の人が、歸りを待つてゐるであらうに。
〔評〕 當時都に近い香具山あたりにすらも、死人が横たはつてゐたのである。下層階級の行路病者であつたらうか、彼も家庭を持つ人として作者は篤く弔つてゐる。この歌は情熱歌人人麿の對人的の愛と禮とを語ると共に、上代人が不便な旅に對して、暖い家庭生活を如何になつかしんだかを示すもの。一種沈痛の響の籠つた作である。
(354)〔語〕 ○誰が夫か國忘れたつ 故郷の事を忘れて此處にこんなに横たはつてゐるのは、何處の誰の夫なのかとの意。○家待たまくに 家人が待つてゐるであらうに。「家戀ふらしも」(三六五)參照。
 
    田口廣麻呂《たぐちのひろまろ》の死りし時、刑部垂麻呂《おさかべのたりまろ》の作れる歌一首
427 百足《ももた》らず八十隅坂《やそすみさか》に手向《たむけ》せば過ぎにし人に蓋《けだ》し逢はむかも
 
〔題〕 田口廣麻呂、刑部垂麻呂 共に傳は明かでない。垂麿の作は「二六三」にも見えた。
〔譯〕 多くの坂道の曲り角毎に手向をしたならば、亡くなつた人に或は逢はれもしようかなあ。
〔評〕 自分の旅行の安全や、愛する者の平安を祈り、又は相見ようとする願望の爲に、峠の神に手向をする歌は多いが、この歌は、道の神への手向によつて、死者に逢ふことが出來ようかと一縷の望を繋いでゐるのが珍しく、上代人の信仰の一面が知られる。
〔語〕 ○百足らず 枕詞。百に足らぬ八十の意で「八十」に懸ける。○八十隅坂 坂道にある澤山の曲り角。「君が家に吾れ住坂の」(五〇四)とある住坂かと思はれるが、それでは「八十」との懸りが明白でない。「隅」は「隈」と同義で、スミといふ時もあつたのであらう。○蓋し逢はむかも 多分逢ふことも出來ようかなあの意。
〔訓〕 ○八十隈坂 廣雅釋邱に「隅隈也」とあるに據り、この字面のままヤソクマサカとよむ攷證の説も棄て難いが、今は多くの古寫本を尊重してこのままにして置く。
 
    土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山に火葬せし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首
428 隱口《こもりく》の泊瀬《はつせ》の山の山の際《ま》にいさよふ雲は妹にかもあらむ
 
〔題〕 土形娘子 傳不詳。
(355)〔譯〕 初瀬の山の山際に漂つてゐる雲は、煙と化してしまつた、土形娘子であらうか。
〔評〕 たなびく雲に火葬の煙を思ひ、それを直ちに「妹にかもあらむ」と疑つたのである。死者は煙と化して立上るが、忽ちにして消えてしまふ。その行方を追ふやうに眼をあげると、初瀬の山のあたりに雲が見える、あれがあの女ではないかといふので、死者の容姿を飽かず懷しんで追ひ求める心持が現はれてゐる。同情の深さと共に、のびやかな古典的格調に人麿の面目が發揮せられてゐる。「隱口の泊瀬の山に霞立ち棚引く雲は妹にかもあらむ」(一四〇七)、「つのさはふいはれの山に白妙に懸れる雲は吾おほきみかも」(三三二五)等は、これを粉本としたものであらう。
 
    溺れ死りし出雲娘子《いづものをとめ》を吉野に火葬せし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌二首
429 山の際《ま》ゆ出雲《いづも》の兒等《こら》は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く
 
〔題〕 出雲娘子 傳不詳。
〔譯〕 出雲の娘子は霧であるのであらうか、吉野の山の嶺に棚引いてゐるよ。
〔評〕 霧のやうに立ち迷ふ火葬の煙を、眺めたままに詠んだのである。「霧なれや」と直截素朴で、おほどかに云ひ捨てた中に、温やかな愛情が酌み取られる。「山の際ゆ」の枕詞も、よく情景に調和してゐる。
〔語〕 ○山の際ゆ 山間から出る雲の意で、「出雲」にかけた枕詞。○出雲の兒等 出雲娘子をさす。「等」は、ここは複數の意ではなく、親愛の意を表す接尾辭。○霧なれや 霧なればにやの意。
 
430 八雲刺《やくもさす出雲の子等が黒髪は吉野の川の奧《おき》になづさふ
 
〔譯〕 出雲の娘子の黒髪は、吉野川の沖あひに亂れ漂つてゐる。
〔評〕 出雲娘子が溺死した時の樣をいふのである。水の清い吉野川の流のただ中に、浸つた黒髪の搖れ靡くのが見え(356)るやうで、感覺的な美しさの中に、痛々しい哀感が湧いてくる。
〔語〕 ○八雲刺す 古事記「八雲立つ出雲八重垣」とも、「夜都米佐須伊豆毛多祁流」ともあり、共に「出雲」の枕詞。「さす」は立つと同義であらう。○なづさふ 水に浸り、漂ひ浮ぶ意。語源は明かでなく、意義も種々あるが、常に水に關係があり、或は水中を難澁しつつ行くやうな意にも用ゐられる。
 
    勝鹿《かつしか》の眞間娘子《ままのをとめ》の墓を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
431 古《いにしへ》に 在《あ》りけむ人の 倭文機《しづはた》の 帶|解《と》き交《か》へて 廬屋《ふせや》立て 妻問《つまどひ》しけむ 葛飾《かつしか》の 眞間《まま》の手兒名《てこな》が 奧津城《おくつき》を 此處《ここ》とは聞けど 眞木《まき》の葉や 茂《しげ》りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言《こと》のみも 名のみも吾《われ》は 忘らえなくに
 
〔題〕 勝鹿の眞間 下總國葛飾郡。今の千葉縣市川市眞間で、國府臺の下に當る。眞間娘子は「一八〇七」及び「三三八四」「三三八五」にも歌はれてゐる傳説上の美人である。
〔譯〕 昔この邊に住んでゐたであらう男が、倭文機の帶を互に解きかはして一緒にやすむ爲の新しい伏屋を建てて、求婚したといはれる葛飾の眞間の手兒名の墓は、此處であるとは聞くけれども、あたりの眞木の葉があまりに茂つてゐる爲か、松の古木が幾代も經てゐるやうに年代が遠く久しくたつたせゐか、確かな所在も分らない。その可憐な話だけでも、又その娘子の名だけでも、私はいつまでも忘れられないのに。
〔評〕 簡素な手法に、そこはかとなき哀感が沁みとほつてゐる。「奧津城を此處とは聞けど」以下の構想は、人麿の近江の荒都の歌(二九)の「大宮は此處と聞けども」以下に學んだものである。しかし、平明にして淡々たる修辭の中によく背景を浮ばせてゐるのは、やはり、敍景歌人の名に背かない。赤人が東國の旅中、ここに立ち寄つて、娘子(357)の墓を弔つたのは、當時この傳説が廣く都人の間にまで知れ渡つてゐたことを示すものであらう。
〔語〕 ○古に在りけむ人の 昔そこに住んでゐたといふ人が。眞間の手兒名をさすといふは誤。○倭文機の 縞のある布で、「倭文」はわが國固有の織物即ち「倭《やまと》の文《あや》」の義で、舶來の織物に對していふ。○帶解き交へて 帶を互に解き交して寢る意。卷九の手兒名傳説を歌つた作によると、娘子はいづれの男にも靡かずに水に投じて死んだとあるから、それとは事實が矛盾するので、古い帶を新しい倭文機の帶に更へて、装を更めての意とする説や、誤字説なども出てゐるが、これは事實を直敍したものでなく、帶解き交して臥すの意で、次の「ふせ屋」の序と解した講義の説が穩かであらう。○廬屋立て 上代は妻を迎へる時は、貴賤に拘らず新に家を建てる風俗があつた。○妻問しけむ 「つまどひ」は結婚と求婚との二義がある。ここは後者の意。○葛飾の眞間の手兒名が 「手兒名」は「てこ」に接尾辭「な」の接したもので、「てこ」は父母のもとにある女の稱とか、貴兒《あてご》の義とか、末のむすめのこととかいはれてゐるが、「ねをぞ泣きつる手兒にあらなくに」(三四八五)とあるごとく、幼婦若しくは少女の意を表はす東語の普通名詞と思はれ、それに東國特有の親しみを表はす接尾辭「な」を添へて、眞間の美少女をかく呼んだのが、遂に固有名詞の如くなつたのであらう。○奧津城を此處とは聞けど 娘子の墓を此處であるとは聞くけれど。○松が根や遠く久しき 松の根が張り延びて老樹となり、年代が遠く久しく隔つたためかの意。この下に、それゆゑ娘子の墓の所在も知るに由がないとの意を補つて解すべきである。○言のみも名のみも吾は忘らえなくに 「のみ」は「四五五 」の「かくのみしありけるものを」の「のみ」と同じ意の語。その話だけでも、又その優しい娘子の名だけでも忘れることが出來ないのにとの意。卷十三「暫しも吾は忘らえぬかも」(三二五六)參照。
 
    反歌
432 吾《われ》も見つ人にも告げむ葛飾の眞間の手兒名が奧津城處《おくつきどころ》
 
(358)〔譯〕 私も來て親しく見た。これから人にも語り告げようと思ふ。この葛飾の眞間の手兒名の墓のことをば。
〔評〕 見聞を永く語り傳へようといふのは、上代人一般の思想であるが、この歌には、久しくあこがれてゐた娘子の遺蹟を見て、心の滿ち足りた落ちつきがあらはれてゐる。それは悠然たる調によつても察せられよう。
 
433 葛飾の眞間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ
 
〔譯〕 葛飾の眞間の入江に靡いてゐる美しい藻を見てゐると、昔ここで此の美しい藻を苅つたと思はれる手兒名の姿が思ひ出されることである。
〔評〕 葛飾の眞間は、古は海に近く、眞間の入江が深く入りこんでゐたのである。娘子の墓のほとりの懷古から轉じた赤人は、入江に靡いてゐる玉藻を見て、傳説の美人が當時これを苅つたであらうと想像を馳せたのである。たださへ美人の容姿を聯想させる玉藻から、この空想を描いたのは、傳説の娘子の身分を考へても、極めて自然でまた美しい。
〔語〕 ○うち靡く 下の「玉藻」にかかる修飾語で、水中に靡いてゐる意である。これをウチナビキと訓み、手兒名がこの入江に投身して死んだのを、玉藻を苅りに行くやうにいひなしたとする代匠記精撰本の一説以下、考・略解・攷證等の説は首肯し難い。
 
    和銅四年辛亥、河邊の宮人、媛島の松原に美人の屍を見て哀しみ慟みて作れる歌四首
434 風速《かざはや》の美保《みほ》の浦廻《うらみ》の白躑躅《シラツツジ》見れども不怜《さぶ》し亡《な》き人思へば【或は云ふ、見れば悲しも無き人思ふに】
 
〔題〕 この題詞は「二二八」の題詞と僅かに字句に異があり、かつ數が二首と四首と相違するのみで、他は殆ど同じである。ここのは誤つて載せたらしく、歌にも題詞の趣が全く見えない。河邊宮人は「二二八」參照。
(359)〔譯〕 風速の美保の海岸に美しく咲いてゐる白い躑躅を見ても、心が沈んで少しも愉快なことは無い、亡くなつた人のことを思ふと。(或は云ふ、見ると悲しいことであるよ、亡き人のことを思ふと。)
〔評〕 清醇さながら白躑躅の、花を見るやうな歌で、おのづから大來皇女の馬醉木の歌が聯想される。「磯の上に生ふる馬醉木を手折らめど見すべき君が在りといはなくに」(一六六)
〔語〕 ○風速の美保の浦廻の 三保浦は前に見えた紀伊國日高郡の三穗石室(三〇七)と同じ地であらう。「風速の」と冠することは、この三保の浦の邊は、南支那海から來る低氣壓の進路にも當り、又西風を常に受ける爲、地名ともなつたのであらう。○亡き人思へば 「亡き人」は、次の歌によれば、速い昔の傳説の人、久米若子をさす。
〔訓〕 ○風速の 白文「加麻?夜能」で、「麻」の訓アサを略してサの假名に用ゐ、ガザハヤノと訓んだとも見られるが、「麻」をサの假字に用ゐた例は他にないので、略解一説に「座」の誤といひ、これに從ふ人もある。なほ考究の餘地がある。
 
435 みつみつし久米の若子《わくこ》がい觸《ふ》りけむ磯の草根の枯れまく惜しも
 
〔譯〕 遠い昔、久米の若子が手を觸れたであらうと思はれるこの磯の草の根が、枯れるのは惜しいことであるよ。
〔評〕 久米の若子は、博通法師の「はた薄久米の若子がいましける三穗の石屋は見れど飽かぬかも」(三〇七)にある傳説の主人公であらう。感覺的に清新の氣を帶びた美しい作で、作者の竝々ならぬ愛着を語つてゐるが、若子の説話の不明なのは惜しい。
〔語〕 ○みつみつし 冠辭考に「みづ」は瑞垣瑞穗の「みづ」で若く健やかなる事をいふとあるが、「瑞」の假名書の例がすべて濁音であるのに、「みつみつし」はすべて清音假名を用ゐてあるので、この説は從ひ難い。記傳には、「滿々し」即ち目のくるくると大きい意で久米の枕詞。久米はもとくるくるした目、即ちくる目の約としてゐるが、(360)これも聊か牽強に過ぎる。「久米」は「くむ」(組)等と同類語で、氏の名、即ち天津久米命、大久米命等によつて代表される部族、「みつみつし」は才コ勢威あるの義でこれに、續けるといふ、古義等の説が穩當であらう。○久米の若子 「三〇七」參照。○い觸りけむ 觸れたであらうと思はれるの意。「い」は接頭辭。
〔訓〕 ○伊觸家武 舊訓イフレケム。今、古義の訓に從ふ。
 
436 人言《ひとごと》の繁きこの頃玉ならば手に卷き持ちて戀ひずあらましを
 
〔譯〕 人の噂のやかましいこの頃、若しあの女か玉であつたらば、私の手にしつかり卷きつけて持つてゐて、こんなに戀しがらずにゐようものを。
〔評〕 これは相聞の歌で、此處へは誤つて入つたものと思はれる。人を戀すれば、心の動きが色に顯はれ、噂も繁くなる。噂に堰かれると尚更戀しくなる。我が身にしつかり著けて持つてゐたらば、安心してかうまで氣を揉まずとも濟むであらうといふ心持から、愛する女を手に卷き持つ玉になぞらへたのは、當然であり適切でもある。しかし「玉ならば手に纒き持ちて」(一五〇)、「玉ならば手にも纒かむを」(七二九)など、既に多くの類想があつて新しくはない。
〔語〕 ○戀ひずあらましを 戀ひ焦れないで心を安らかにもつて居らうものをとの意で、しかし、女は玉でないから手に卷くことも出來ず、從つて戀ひ焦れずにゐることも出來ないのは、困つたことであるとの餘意を含んでゐる。
 
437 妹も吾も清《きよみ》の河《かは》の河|岸《ぎし》の妹が悔ゆべき心は持たじ
     右は案ふるに、年紀并に所處及び娘子の屍の作歌と人名、已に上に見えたり。但、歌辭相違ひ、是非別ち難し。因りて以ちて累ねて茲次に載す。
 
〔譯〕 そなたも自分も心が清いが、丁度それにも似たきよみの河の河岸は時に崩ゆることがあつても、そなたが自分(361)と一緒になつたことを後で悔ゆるやうな、そんな不實な心は持たないつもりである。
〔評〕 これも挽歌でなく相聞である。河岸の崩《く》ゆることに「悔ゆ」を懸け用ゐた序の用法は巧みであるが、東歌の中に「鎌倉の見越の埼の石崩《いはくえ》の君が悔ゆべき心は持たじ」(三三六五)の類歌がある。生活の上から自然に近い農人の著想が原型をなし、それが傳播して少しづつ變形してゆくのであらう。
〔語〕 ○妹も吾も清の河の 「妹も吾も」は心が清きの意で「清み」に懸るが、枕詞といふよりは懸詞に近い用法である。清の河の所在は明かでない。淨御原附近の飛鳥川を呼ぶといふ説もある。○河岸の 初句以下ここまで序。河岸の崩《く》ゆる意を「悔ゆ」に懸けた。
〔左註〕 左註は、年時場所及び娘子の屍體を見て河邊宮人が弔歌を作つたことは、既に上に見えたが、歌の辭句が異つて、何れが眞か判別し難いので、重ねて茲に載せたといふのである。上に見えたといふのは即ち「二二九」の題詞をさす。
 
    神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿、故人を思ひ戀ふる歌三首
438 愛《うつく》しき人の纏《ま》きてし敷妙の吾が手《た》枕を纏《ま》く人あらあや
     右の一首は、別れ去りて數旬を經て作れる歌なり。
 
〔題〕 大伴卿 旅人。故人は旅人と共に遙々と都から太宰府に下つて來て、間もなく病死した妻大伴郎女。「一四七二」の左註參照。
〔譯〕 嘗てはいとほしいわが妻が枕として寢た私のこの手枕を、この後また枕にして寢る人があらうか。
〔評〕 聊かも調子を張らぬ平語を以て、妻亡きあとの孤獨の悲しみを詠じ、しかも亡妻に對する純眞な愛が脈々として流れてゐる。この老齡を以てかかる歌を詠み得た萬葉人の眞率さは、まことに尊いといはねばならぬ。
(362)〔語〕 ○愛しき いとほしい、可憐な。○敷妙の 「家」「枕」などにかかる枕詞であるが、ここでは「手枕」に懸けてある。○纏く人あらめや 枕として寢る人があらうか。
 
439 還《かへ》るべく時は成りけり京師《みやこ》にて誰が袂をか吾が枕かむ
 
〔譯〕 いよいよ懷かしい都に還るやうに、待ちに待つた時期は到來した。しかし都に歸つて、一體誰の袂を私は枕にして寢ようか。
〔評〕 共に手を携へて歸る妻があるか、又は都で自分を待つてゐる妻があるならば、歸京の日の近づいたことは、如何に喜ばしいことであらう。しかも今は伴ふべき人も、待つてくれる人もない。かうなつては歸京の喜もまことに張合のない喜である。雲に飛ぶ仙藥を服するよりも寧ろ都に歸りたいといつた彼の心は蓋し感慨無量であつたであらう。
〔語〕 ○誰が袂をか吾が枕かむ 誰の袖を枕にして寢ようか。妻は既に死に、誰も袖を枕に借す人もゐないの意。
〔訓〕 ○還るべく 白文「應還」で、舊訓カヘルベキを採る人も多いが、代匠記初稿本の訓に從ふ。○時は成りけり 白文「時者成來」で、舊訓トキニハナリヌ、代匠記初稿本はトキハナリキヌ、又はナリケリで、精撰本は後者に決してゐる。その他童蒙抄トキニハナリケリ、考トキニハナリク等の諸訓がある。誤字説による訓は問題外として、代匠記精撰本の訓が妥當と思はれる。
 
440 京師《みやこ》なる荒れたる家に獨り宿《ね》ば旅に益《まさ》りて苦しかるべし
     右の二首は、京に向ふ時に臨近《ちかづ》きて作れる歌なり。
 
〔譯〕 都に歸つて、妻もゐない荒涼なる家に、唯一で寢たならば、旅にもまして苦しいことであらう。
〔評〕 前の歌で歸京後の孤獨の悲しみも豫思してゐるが、更にこの作では、旅にゐるよりも苦しいであらうと想像し(363)たのである。任地に年を經た間にも、都の家は留守居もゐることであるから、勿論荒廢してゐる筈は無いが、それでも主人不在の間には多少は荒涼たる樣子も加はつてゐるであらら。さうして昔に變る庭園の一木一草にも亡き妻の面影が思ひ浮べられるであらう。かかる苦しい思ひ出の種の無いだけでも、寧ろ任地にゐる方が心の衝撃が少いだらうとさへ思はれる。「旅に益《まさ》りて苦しかるべし」の語は、よくその消息を語つて、人間性の眞實に觸れてゐる。千年後の、しかもかかる經驗をもたぬ人にでも同感出來るのは、時代を超越した人間心理の眞に根ざしてゐる故である。
(左註〕 右の二首は、旅人が歸京する時に近づいて作つた歌といふのである。題詞に神龜五年戊辰太宰帥大伴卿故人を思び戀ふる歌三首とあるが、旅人の上京はその翌々年天平二年の冬であるから、後の二首はその頃のものと見るべきである。
 
    神龜六年己巳、左大臣長屋王に死を賜ひし後、倉橋部《くらはしべ》女王の作れる歌一首
441 大君《おほきみ》の命《みこと》恐《かしこ》み大殯《おほあらき》の時にはあらねど雲がくります
 
〔題〕 長屋王 高市皇子の子。讒により、神龜六年二月死を賜ふ。倉橋部女王は傳不詳。
〔譯〕 仰せ言が畏多いので、王はまだ薨去なさるべき時ではないけれども、遂に自らお亡くなり遊ばされた。
〔評〕 御命令にはこれ從ふといふ敬虔の心持を表面に立て、私の悲哀の情を上に些かも現はしてゐない。それだけに悲痛は内に籠つて、抑へきれぬ嘆きがあはれに察せられる。
〔語〕 ○大殯の時にはあらねど まだ殯殿を作つて祭る時期ではないが、即ちまだ薨去される時ではないがの意。大殯は「一五一」に既に見えた。しかし孝コ天皇大化二年に 「凡王以下至2庶民1不v得v營v殯」といふ制が出てゐるから、殯殿は作らなくなつたが、やはり葬送の時を「大あらき」といつたのであらう。「あらき」は新城の義。○雲隱ります 自殺して薨去されたことを婉曲にいふ。
 
(364)    膳部王《かしはでべのおほきみ》を悲しみ傷める歌一首
442 世問《よのなか》は空《むな》しきものとあらむとぞこの照る月は滿闕《みちかけ》しける
     右の一首は、作者未だ詳ならず。
 
〔題〕 膳部王 續紀に膳夫王と見える。長屋王の子で、神龜六年、父王と共に自盡せられた。「九五四」の作者膳王と同じ方であらう。
〔譯〕 この世の中は無常なものであらうといふので、その道理を示して、この照る月は、滿ちたり、缺けたりすることである。
(評〕 佛教的無常觀をもつて死を悲しんだのである。「隱口の泊瀬の山に照る月はみちかけしけり人の常無き」(一二七〇)とあるのもよく似てをり、當時の人心に佛教思想が浸潤してゐた痕跡を認めることが出來る。しかし、情意の底まで佛教の厭世思想に蝕まれた後世の歌に較べると、遙かに明るくて客觀的である。
〔語〕 ○空しきものとあらむとぞ 無常なものであらうとの意味で、その道理を示す爲にの意。
 
   天平元年己巳、攝津國班田史生|丈部龍麻呂《ハセツカベノタツマロ》が自ら經《わな》ぎ死《みまか》りし時、判官大伴宿禰|三中《みなか》の作れる歌一首并に短歌
443 天雲《あまぐも》の 向伏《むかふ》す國の 丈夫《ますらを》と 云はれし人は 皇祖《すめろき》の 神の御門《みかど》に、外重《とのへ》に 立ち候《さもら》ひ 内重《うちのへ》に 仕へ奉《まつ》り 玉かづら いや遠長《とほなが》く祖《おや》の名も 繼ぎゆくもりと 母父《おもちち》に 妻に子等《こども》に 語らひて 立ちにし日より 垂乳根《たらちね》の、母の命《みこと》は 齋瓮《いはひべ》を 前に坐《す》ゑ置きて 一手には 木線《ゆふ》取り持ち 一手には 和細布《にきたへ》奉《まつ》り 平《たひら》けく ま幸《さき》く坐《ま》せと 天地の 神祇《かみ》に乞《こ》ひ?《の》み 如何《いか》な(365)らむ 歳月日《としつきひ》にか 茵花《つつじばな》 香《にほ》へる君が 牛留鳥《くろとり》の なづさひ來《こ》むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王《おほきみ》の 命《みこと》 恐《かしこ》み 押光《おして》る 難波の國に あらたまの 年|經《ふ》るまでに 白妙の 衣手《ころもで》干《ほ》さず 朝夕《あさよひ》に 在りつる君は いかさまに 念《おも》ひ坐《ま》せか 現身《うつせみ》の 惜しきこの世を 露霜《つゆじも》の 置きて往《い》にけむ 時ならずして
 
〔題〕 班田 口分田その他の賜田を班ち授けること。班田史生はその事務を掌る書記であつて、卑官である、なほ班田の事は京及び五畿内は班田使が、爾餘の地方は國司が掌る。丈部龍麿の傳は不詳。自殺の原因も考へる由がない。丈部は安房長狹郡の地名で、防人の中にも見えるので、龍麿もその地方出身の人かと思はれる。大伴三中は天平八年遣新羅使副使となり、以後兵部少輔等を經て、十九年刑部大判事となつてゐる。この作歌當時は班田使の判官であつたのである。
〔譯〕 空なる雲が逮く地に向つて垂れ伏してゐる東國の、勝れた男子といはれた龍麿は、朝廷に於いて、或は外門の警衛に立つてお仕へ申し、或は禁中の服務に奉仕して、いよいよ遠く長く祖先の名をも受け繼いで行くのであると父母にも妻子にも話をして郷里を出立つたその日から、家ではその母が、齋瓮を前に据ゑ置いて、片手には木綿《ゆふ》を持ち、片手には和細布《にきたへ》を捧げて、わが子が平安に無事にあるやうにと、天地の神々に祈り、いつの年のいつの月日に、紅顔のわが子が海路を戻つて來るであらうかと、立つたり坐つたりして待つてゐたであらう、その待たれた龍麿は、大君の御命令をかしこみ、難波の地に年が經《た》つまでも班田の事務に忙殺されて、濡れた衣の袖を乾かす暇もなく朝夕を暮してゐたが、その龍麿はどう考へたのであらうか、惜しいこの世をあとにして、あの世へ行つてしまつたのである。まだ死ぬやうな時でもないのに。
〔評〕 引しまつた格調とねんごろな禮節をもつて、部下の不慮の死を弔つたもので、あたら丈夫を失つたといふ愛惜(366)の情が、上官らしい悠揚たる態度の中にあらはれてゐる。尚、句法に就いてみるに、もののふと云はれし人は・垂乳根の母の命は・茵花香へる君が・立ちて居て待ちけむ人は・朝夕に在りつる君はと、多くの主格が切れ目のない長い文脈の中に竝んでゐる爲に、一見至つて晦澁であるが、しかし仔細に味はへば、條理は整然として明快である。「茵花香へる君が」を龍麿の妻と見て、「立ちて居て待ちけむ」までにかけて見れば、美しい妻が龍麿の歸りを、「如何ならむ歳月日にか、牛留鳥のなづさひ來むと、立ちて居て待つ」こととなり、即ち、母は神に祈り、妻は月日を數へて待つてゐた趣があらはれて、母一人の動作や心持を描いたものとするよりも、情味はずつと増して來るのであるが、しかしこの辭樣をさう解するのは、無理といふべきであらう。
〔語〕 ○天雲の向伏す國 遠く空の雲が地に接してゐるやうに見える國。遠國。龍麿は東國の人であつたらしいから、これも東國をさすといふ代匠記の説に從ふべきであらう。○皇祖の神の御門 天皇のまします宮廷。「すめろき」は略解に「前つ御代々々をかねてかくいへる也」とある如く、皇祖より今上までをさす語であるが、轉じては天皇をも申す。ここもその意。「御門」はここは皇居の意。○外重に 皇居の外郭に。外側の御門に。○内重に 閤門の中に。即ち宮中のこと。○玉かづら 「遠長」にかけた枕詞。○垂乳根の 母の枕詞。古義の説に「たらち」は「たらし」に同じく賛辭で、「ね」は尊稱、母はまことに親しく尊い故に、「たらしねの母」といふとある。○齋瓮 祭祀用の酒を入れる器。「三七九」參照。○和細布まつり 和栲を供へ。和栲は「荒栲」(五〇)に對する語。○茵花 枕詞。躑躅の花のやうに紅く美しくにほふ意で紅顔を喩へていふ。これは龍麿の妻と見るのが譬喩の上からは面白いが、文脈から見れば無理で、龍麿のこととせねばならぬ。○牛留鳥の 「なづさひ」にかかる枕詞。「くろとり」は黒鴨。○なずさひ來むと 苦勞をしつつ歸つて來るであらうと。「四三〇」參照。○立ちて居て 立つたり坐つたりして。落ちつかぬ貌。○押光る 「難波」の枕詞であるが、意義は不明。冠辭考には、襲ひ立てる浪急《なみはや》の義とし、古義には押し竝めて光《て》る浪の華の義としたが、「直超《たゞごえ》のこの徑にして押照るや難波の海と名づけけらしも」(九七七)などを參酌(367)して、田安宗武が「難波はうちひらきたる所なれば、日のおしてらす謂也」(摘要冠辭考)といつたのが當れるに近いかも知れぬ。○あらたまの 「年」とも「月」ともつづく枕詞。明《あら》玉の貴《たか》しで、「たかし」の約「とし」(年)に續くといふ冠辭考の説は牽強で、新新間《あたらあたらま》の移り行く年と解する宣長の説も從ひ難い。荒玉は砥にかけて磨ぐ意とする通説が、特殊假名遣上疑問はあるが、寧ろ穩かであらう。○衣手干さず 旅の空で雨路に霑れた袖も吏務に忙殺されて干す暇のないのをいつたのであらう。○念ひ坐せか 思はれた故か。○露霜の 枕詞。「置く」にかかる。○時ならずして まだ死ぬべき時でもないのに。即ち自殺した事をいふ。
〔訓〕 ○母父 舊訓ハハチチ、攷證はこの儘でチチハハと訓んだが、「意毛知知我多米」(四四〇二)を參考して略解の訓に從ふ。○牛留鳥 舊訓ヒクアミノは「牛」を「引く」」、「留鳥」を「網」とした戯訓である。又上の「之」と合して「之牛」を「牽」の誤として「ヒク」と訓む説もあるが、今は字音辨證の説に從ふ。誤字説も相當有力である。
 
    反歌
444 昨日こそ君は在りしか思はぬに濱松の上に雲と棚引く
 
〔譯〕 つい昨日まで、君は此の世にゐたのである。しかるに意外にも、今日は烟となつて、濱松の上に雲のやうに棚引いてゐる。
〔評〕 これは上に出た人麿の、「山の際ゆ出雲の兒等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く」(四二九)を學んだものと思はれるが、模倣の域を脱して、渾然たる作を成してゐる。難波の濱で火葬したので、「濱松の上に」と云つたのであらう。意外のことに驚いて呆然とした樣がよく現はれてゐる。
〔語〕 ○濱松の上に 白文「濱松之於」で、通行本をはじめ仙覺本には、「之於」の間に「上」の字がある。玉の小琴に道麿の説を擧げて「上に」の意ならば、「於」の位置が轉倒してゐるといつて改訓を試みたが、類聚古集・古葉(368)略類聚鈔・紀州本などの仙覺本系以外の本に從つて「上」を除くがよい。
 
445 いつしかと待つらむ妹に玉|梓《づさ》の言《こと》だに告げず往《い》にし君かも
 
〔譯〕 いつかいつか、と歸りを待つてゐると思はれる妻に、使をやつて一言の消息さへも告げることなく、はかなく死んで行つた君であるよ。
〔評〕 故郷に待つ愛妻に、一片の音信もなくして死んだ人の心を作者は量りかねたのである。その心を訝りつつ憐むやうに詠嘆し、その若き妻へ滿腔の同情をそそいだのである。長歌反歌を通じて作者の温い心が饒かに流れてゐる。
〔語〕 ○いつしかと いつになつたらば夫が歸られることかと。○玉梓の 「使」の枕詞であるが、「四二〇」の場合に同じく、使の意に用ゐた。
 
    天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿、京に向ひて上道《みちたち》せし時、作れる歌五首
446 吾妹子が見し鞆《とも》の浦の室の木は常世《とこよ》にあれど見し人ぞ亡《な》き
 
〔題〕 大伴卿 旅人、大納言に陞任して、天平二年冬歸京する途上、亡妻を憶つての作。
〔譯〕 筑紫にうち連れて下つた時、わが妻の賞めた鞆の補の室の木は、常に變らずにあるけれども、それを見た妻は、もはや此の世にゐない。
〔評〕 備後の鞆の浦は、古代外賓接待の海驛として榮え、今日も瀬戸内海の景色を賞する海外觀光客が、稱讃して措かぬ勝景である。また此處の室の木は當時有名で、遣新羅使人の歌にも二首(三六〇〇・三六〇一)詠まれてゐる。この作者は、嘗て筑紫に下る途中、妻と共に心樂しくこの名木を眺めたのであつたが、數年後の今日は獨り寂寞の思を抱いて見つつ過ぎゆくのである。自然の悠久に對して人間の命のはかなさをしみじみと思はずには居られなかつた(369)のである。天眞流露の詠嘆であつて、「見し」が上下に重つてゐるのも、却つて素朴自然といふ趣がある。
〔語〕 ○鞆の捕 備後國沼隈郡鞆。○室の木 新撰字鏡に「?」をムロノキと訓んでゐるから、白文の「天木香樹」をさう訓むべきことは明かである。和名抄に「?、一名河柳【牟呂乃岐】」と見えるので御柳《ぎよりう》とする説もあるが、これは大陸原産の觀賞植物で、小野蘭山の説によると、享保の末年頃渡來したことになるので諾け難い。最近は「杜松《ねず》」とする玉勝間所引田中道麿説が有力である。これは各地でヒムロ・ヒモロ杉・ハヒムロ・ネズムロなどいひ、松杉科の常緑喬木で、形は杉や柏子《びやくし》に似て、今も瀬戸内海沿岸には自生し、鞆浦なる仙醉島には多く見受ける由、新村出博士の天木香樹新考(萬葉學論纂所收)に見えてゐる。○常世にあれど 永久に變らないけれど。
 
447 鞆の浦の磯の室の木見む毎《ごと》に相見し妹は忘らえめやも
 
〔譯〕 鞆の浦の海岸にある室の木を見る度毎に、嘗て一緒に眺めた亡き者のことが、私は忘れられようか。
〔評〕 單純な感懷を極めて素直に表現してゐるに過ぎないが、眞實の聲の尊さはよく人を動かす力がある。結句の反語も良く哀韻を曳き、しかもよく安定してゐる。
〔語〕 ○見む毎に 將來なほ幾度か見る機會があるかも知れぬことを豫想していふ。○相見し妹 ここは嘗て西下の途中に共に見た妻の義。
 
448 磯の上《うへ》に根蔓《ねば》ふ室の木見し人を何在《いづら》と問はば語り告げむか
     右の三首は鞆浦を過ぎし日作れる歌なり。
 
〔譯〕 磯の上に根を張つでゐる室の木は、私と共に嘗てお前を見た私の妻について、今何處にどうしてゐるかと問うたならば、或は教へてくれるであらうか。
(370)〔評〕 嘗て妻と共に見た室の木の懷かしさに、今は亡き妻の行方をこの木が知つてゐようかと、尋ねてみたくなつたのである。幼い趣向ではあるが、その心理は首肯される。但、室の木が亡妻のことを私に尋ねたならば、私は妻の死んだことを語つてやらうか、との意に解する説もある。即ち、西下の時二人で見たものを、歸途は一人であるから、室の木がいぶかるといふ風に解するのである。文法上かかる解釋も可能であるし、條理も備つてゐるが、理に墮ちて情趣の乏しい感がする。作者は亡き妻と共に見た室の木を懷かしむあまりに、妻と室の木との關係を、極めて親密なものと見てゐるのである。即ち亡妻の所在を、自分よりは室の木の方が知つてゐるといふ風に考へてゐるのである。不條理なやうであるが、作者の感情の中では、室の木と妻とは切り離せないものとなつてゐるのであるから、心理的には聊かの無理もない。
〔語〕 ○見し人を 室の木を嘗て見た人、即ち我が妻について。○何在と問はば 妻は何處にゐるかと私が室の木に問うたならば。○語り告げむか 室の木が私に告げ知らせてくれるであらうか。
〔訓〕 ○何在と 舊訓イカナリトは不可。西本願寺本のイヅコトは棄て難いが、今、考の説に從ふ。
 
449 妹と來《こ》し敏馬《みぬめ》の埼を還《かへ》るさに獨して見れば涕《なみだ》ぐましも
 
〔譯〕 西下の時に妻と一緒に通つて來たこの敏馬の埼を、歸り道に一人で眺めると、おのづから涙が湧いて來ることであるよ。
〔評〕 ありのままの感情を單純に詠じたもので、實感の力が、時代の隔たりを感ぜしめず、現代人の胸にも強く響いて來る。兩眼に涙を湛へつつ岬の風光を眺めてゐる老貴人の姿が、髣髴として見えるやうである。
〔語〕 ○敏馬の埼 攝津國武庫郡の沿岸。「二五〇」參照。○還るさに 歸る途中で。「さ」は「往くさ來《く》さ」(二八一)の「さ」に同じ。今「往きしな」「歸りしな」といふ「しな」は、古語「しだ」(時の意)の轉靴であらうが、「さ」も(371)それと關係があると思はれる。
 
450 往《ゆく》さには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐればこころ悲しも【一に云ふ、見もさかず來ぬ】
     右の二首は、敏馬の埼を過ぎし日作れる歌なり。
 
〔譯〕 太宰府への往きがけには、妻と二人で見たこの敏馬の埼を、今歸り途に唯一人で通つてゆくと、まことに悲しいことであるよ。(一に云ふ、あまりに悲しいので見やりもしないで過ぎて來た。)
〔評〕 「二人吾が見し」といふ萬葉的語彙に特色が見られるが、前の歌と殆ど同趣で、しかも結句の「こころ悲しも」は稍々平明に過ぎる。「一に云ふ」の方が、心理的にも藝術的にも遙かに優れてゐる。殊に、これを前の歌の「涕ぐましも」に竝べて見ると、思ひ出の深い敏馬の埼を眺めると涙が溢れて來る故に、見るに堪へずして、眼を掩はうとする樣が想像せられ、まことに悲痛である。
〔語〕 ○見もさかず來ぬ 見|放《さ》けもせずして空しく過ぎて來たの意。これは結句の異傳である。佛足跡體の六句とも見られるといふ人もあるが、佛足跡體としては、第五句から第六句へのつづきが少しくいかがしい。
 
    故郷の家に還り入りて、即ち作れる歌三首
451 人もなき空《むな》しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
 
〔題〕 大伴旅人が太宰府から歸り、故郷の家、即ち奈良の佐保にあつた自邸に入つて後、詠んだ歌三首である。
〔譯〕 妻もゐない此のがらんとした家は、旅先の假住居にもまして、佗しく苦しいことである。
〔評〕 長い邊土の僑居にもやつと別れを告げて、久々になつかしい我が家に歸り著いても、そこはもう、妻と共に老後の安息をなすべき暖い家庭ではなかつたのである。「京師なる荒れたる家に獨り宿ば旅に益りて苦しかるべし」(四(372)四〇)といふ筑紫を立つ時の理想は、果して眞實であつた。否、長途の旅のあとの疲勞、緊張の後の落膽なども加はつて、豫想以上の寂寞空虚であつたのである。哀音滿幅、卒讀に堪へぬ。
〔語〕 ○人もなき 人は妻を指す。○空しき家 空虚な、がらんとした家の意。
 
452 妹として二人作りし吾が山齋《しま》は木高《こだか》く繁くなりにけるかも
 
〔譯〕 かつて妻と二人で作つた我が庭園は、筑紫に行つて長く見なかつた間に、木が高く繁くなつたことである。これを見るにつけても、昔のことが思はれ、亡き妻がしのばれる。
〔評〕 見たままを單純率直に表現して聊も主觀を交へてゐないに拘らず、言外に無量の感愴を含んで居り、思出多い庭園に一人さびしく眺め入る作者の姿が眼前に浮んで來る。初二句の間に、夫婦愛の美しく濃やかであつたこともおのづから想像され、作者の人柄がなつかしまれると共に、萬葉歌の素朴の美と眞實の尊さとをしみじみと思はせる。
〔語〕 ○妹として二人作りし 嘗て妻と二人で相談し設計して作つた。○吾山齋は しまは、築山のこと。池を掘り中島を置いたのである。「一七八」參照。
〔訓〕 ○山齋 舊訓ヤマ、考ソノ、略解ヤドはいづれも不可。「四五一一」の題詞に「屬2目山齋1作歌三首」とあり、歌に「鴛鴦の住む君が許乃之麻《このしま》今日見れば」とあるによつてシマと訓む古義の説に從ふ。
 
453 吾妹子が植ゑし梅の樹見る毎《ごと》にこころ咽《む》せつつ涕《なみだ》し流る
 
〔譯〕 妻が植ゑた庭の梅の木を見る度ごとに、今は亡きその面影が思ひ出され、悲しみに心は咽びつつ涙が流れることである。
〔評〕 四五句の一見稚拙なほどに感ぜられる無技巧な表現にも、却つて深い眞率の情が酌まれる。これらの歌の描き(373)出した情景は、任地で女子を失つて京に歸つた紀貫之の心境を思はせ、土佐日記の文章を聯想させる。しかも貫之の歌、「見し人を松の千歳に見ましかば遠く悲しき別せましや」を、この歌に對比すれば、感情を率直に逃べた作と、理に訴へた作との相違が明かになり、時代の差が痛感せられるのである。
〔語〕 ○こころ咽せつつ 心が悲しみに咽びつつ、即ち、心中の悲歎の爲に嗚咽歔欷しての意。「こころのみ咽せつつあるに」(五四六)參照。
 
    天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿の薨りし時の歌六首
454 はしきやし榮えし君の坐《いま》しせば昨日も今日も吾《わ》を召さましを
 
〔題〕 旅人の太宰府出發は、天平二年十二月であつた。久々になつかしい都に歸つて、春を迎へはしたものの、家は、人もなき空しい家であつた。孤獨の寂しさに堪へなかつた彼は、歸京後僅か半歳餘にして、妻の後を追うたのであつた。以下六首の歌は、側近の人々の作である。
〔譯〕 なつかしい、あの生前お榮えなされた君が、此の世にいらせられたならば、昨日も今日も私をお召しになるであらうに。
〔評〕 多年の恩顧に浴してゐた家人の、慈愛深い主人を失つた悲歎がよく現はされてゐる。内容は單純で、初二句は寧ろ稚拙であるが、至誠、人を打つものがある。日竝皇子の薨去を悲しんだ舍人等の作、「高光るわが日の皇子のいましせば島の御門は荒れざらましを」(一七三)「ひむかしの瀧の御門にさもらへど昨日も今日も召すこともなし」(一八四)などに暗示を得たかと思はれるが、模擬の境を脱してゐるのは、作者自身の眞實のゆゑである。
〔語〕 ○はしきやし 「愛《は》しき」は連體形で、下の「榮えし」君の修飾。慕はしく懷しいの意。「一三八」參照。○榮えし君 繁榮なされた君。旅人をさす。
 
(374)455 斯《か》くのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも
 
〔譯〕 こんなにも、はかなくなつておしまひなさるお命であつたのにまあ。もう萩の花は咲いてゐるかなどとお尋ねなされたわが君はまあ。
〔評〕 重い病の床にあつて、萩の花は如何にと尋ねたこの老貴人の教養と風雅とは、ゆかしさの限りである。主なき庭に今萩の花は美しく咲いてゐるが、高雅な温容の主人は、もう見ることが出來ないのである。作者は、在りし日の主人の姿を幻に描き、今更ながら新たな感慨を催して、涙に咽んでゐるのである。嗚咽の聲も聞えるばかりしみじみとした歌である。なほこの歌を、旅人の薨去の前の作、「さしすみの栗栖の小野の萩が花散らむ時にし行きて手向けむ」(九七〇)に思ひ合せてみると、感愴は更に深い。
〔語〕 ○斯くのみにありけるものを このやうにはかなくおなりになる命であつたのに。「のみ」は強意の語。
〔訓〕 ○斯くのみに 白文「如是耳」で舊訓カクシノミ。また「如是耳志《かくのみし》戀ひし渡れば」(一七六九)の例があり、聲調の上からはそれもよいと思はれるが、「如是耳爾有りける物を」(三八〇四)の例によつて、やはり類聚古集・古葉類聚鈔等にカクノミニとあるに從ふべきであらう。
 
456 君に戀ひいたもすべ無み蘆鶴《あしたづ》の哭《ね》のみし泣かゆ朝|夕《よひ》にして
 
〔譯〕亡き君をお慕ひ申して、まことにせむ方もないので、蘆邊の鶴のやうに、自分は聲をあげて泣いてばかりゐることである、朝も晩も。
〔評〕 これは内容も表現も極めて類型的で、成句を拾つて補綴したに過ぎず、前後の歌と同一人の作とも思はれない感がある。技法の未熟幼稚が然らしめたのではなく、畢竟感動の燃燒が足りないのである。「君に戀ひいたもすべな(375)み奈良山の小松が下に立ち歎くかも」(五九三)「かしこきや天のみかどをかけつればねのみし泣かゆ朝夕にして」(四四八〇)など、類歌が多い。
〔語〕 ○いたもすべ無み 非常に悲しくてどうしやうも無いので。「いなも」は「いたくも」の意。○蘆鶴の 蘆の中にゐる鶴の意で、ここは譬喩的な枕詞。○泣かゆ 泣かれる、即ち泣かずにゐられないの意。
 
457 遠長く仕へむものと念《おも》へりし君し坐《ま》さねば心神《こころど》もなし
 
〔譯〕 ○遠く長く、いつまでもお仕へ申さうと思ひこんでゐた御主人が、今はもう此の世にいらせられないので、自分は心の張りもなくなつてしまつた。
〔評〕 暢達な詞句聲調に作者の眞心は一とほり表現されてゐるが、甚だ平弱である。「天地と共に終へむと念ひつつ仕へまつりし心違ひぬ」(一七六)に見るやうな力強さも無く、盛り上つて來る悲しみも感ぜられない。
〔語〕 ○心神もなし 「心ど」は普通に「利心」と同じと解されてゐるが、槻落葉別記には、心どころで心臓の義としてゐる。しかし「心ど」の「ど」は甲類の假名で「ところ」の「と」は乙類の假名であるから、「利心」説を採るべきであらう。但、「と」の假名は比較的早く混亂してゐるから、なほ考究の餘地がある。要するに「心神もなし」は、魂の拔けたやうな元氣のない?態をいふ。
 
458 若き子の匍匐徘徊《はひたもとほ》り朝|夕《よひ》に哭《ね》のみぞ吾が泣く君無しにして
     右の五首は、資人余明軍が、犬馬の慕《したひ》に勝《た》へず、心の中に感緒を申《の》べて作れる歌なり。
 
〔譯〕 幼い子のやうに這ひまはり身悶えして、朝に晩に聲を出して自分は泣いてばかりゐる、御主人がもうこの世においででないので。
(376)〔評〕 譬喩の無造作にして率直なこと、辭樣の佶屈にして無技巧なこと、如何にも萬葉的色調の濃い作で、朴直な中に實感が漲つてゐる。
〔語〕 ○若き子の 幼子のやうに。枕詞ではなく、全體の譬喩である。○徘徊り あちこち往來徘徊して、「た」は接頭辭。
〔訓〕 ○若き子の 白文「若子乃」で、舊訓ミドリゴノとあり、これに從う學者も多いが、今、類聚古集・古葉略類聚鈔・紀州本等によつた。
〔左註〕 以上の五首は、資人余明軍が旅人を慕うて詠んだの意。
 
459 見れど飽かず坐《いま》しし君が黄葉《もみぢば》の移りい去《ゆ》けば悲しくもあるか
     右の一首は、内禮正縣犬養宿禰人上《ないらいのかみあがたいぬかひのすくねひとかみ》に勅して、卿の病を?護《み》しむ。而も醫藥|驗《しるし》無く、逝く水留らず。斯《これ》に因りて、悲しみ慟みて即ち此の歌を作れり。
 
〔譯〕 いつ見ても見飽かないほど立派でいらせられた君が、黄葉の散りゆくやうに亡くなられたので、まことに悲しいことである。
〔評〕 この歌も、端的率直に悲しみを表現したところに力がある。「黄葉の移りい去けば」の譬喩的修辭も淡泊自然で、些かの嫌味をも感ぜしめない。大した作といふ程ではないが、線の太いところが、やはり萬葉の香氣を湛へてゐるといふべきであらう。
〔語〕 ○黄葉の 枕詞。「黄葉の過ぎて去にきと」(二〇七)とあるのも類似の用法である。○移りい去けば 亡くなられたのでといふ意を、黄葉の散るに託していふ。「い」は接頭辭。
〔訓〕 ○移りい去けば 白文「移伊去者」で舊訓による。類聚古集・細井本一本等ウツリイヌレバとあるに從ふ學者(377)もある。いづれでも大差はない。
〔左註〕 内禮正 内禮司の長官。職員令に「内禮司、正一人、掌2宮内禮儀1、禁2察非違1」とある。縣犬養宿禰人上 傳不詳。縣犬養氏のことは天武天皇紀に宿禰姓を賜つた由が見える。
 
    七年乙亥、大伴坂上郎女、尼理願《あまりぐわぬ》の死去《みまか》れるを悲しみ嘆きて作れる歌一首并に短歌
460 たくづのの 新羅《しらぎ》の國ゆ 人言《ひとごと》を よしと聞かして 門ひ放《さ》くる 親族兄弟《うからはらから》 無き國に 渡り來まして 大皇《おほきみ》の 敷《し》き坐《ま》す國に うち日さす京《みやこ》しみみに 里家は 多《さは》にあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山邊に 哭《な》く兒《こ》なす 慕ひ來まして 敷妙の 宅《いへ》をも造り あらたまの 年の緒長く 住《す》まひつつ 坐《いま》ししものを 生者《いけるもの》 死ぬとふことに 免れぬ ものにしあれば 憑《たの》めりし 人の盡《ことごと》 草枕 旅なるほどに 佐保河を 朝川わたり 春日野を 背向《そがひ》に見つつ あしひきの 山邊を指して 晩闇《ゆふやみ》と 隱《かく》りましぬれ 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに 徘徊《たもとほ》り ただ獨して 白妙の 衣手|干《ほ》さず 嘆きつつ 吾が泣く涙 有間山 雲居棚引き 雨に零《ふ》りきや
 
〔題〕 坂上郎女 大伴旅人の妹。「三七九」參照。理願尼のことは「四六一」の左註參照。
〔譯〕 理願尼は、新羅の國から、人の話で日本をよい國とお聞きになつて、親しく物言ひかはす親族兄弟もない此の異國へ渡り來られて、我が大君のお治め遊ばす國の中でも、日の光うるはしくかがやく奈良の都は、繁華で人家も稠密してゐるから、もとより住まるべき家は數多あるのに、如何に考へられたのであらうか、縁故もないこの佐保の山(378)邊に、幼兒の親を慕ふがごとく尋ね來られて、邸内に別に住宅をも造り、既に長い年月の間住まつてゐられたものを、生者必滅といふ世の習とて、時も時、頼みにしてゐた人々の悉くが旅に出て、家にゐない間に病を得て空しい身となられ、佐保川の流を朝早く渡り、春日の野邊を後ろにして、山邊の墓地へ隱れられた。私は、言ふべきやうも知らず爲すべきやうも知らずに、立つたり居たりして、衣の袖の乾く間もなく歎いたことでありますが、この涙は、母君のいらつしやる有間の山に雲と棚引いて、雨と降つたでありませうか。
〔評〕 新羅から佛教布教のために日本へ渡つて來て、大伴家に寄寓してゐた理願尼が、一家の人々が有馬温泉に旅行してゐる不在中に死んだ。たまたま家に殘つてゐた坂上郎女が、葬儀萬端のことを果し、その悲しみを綴つて旅なる母のもとに書き贈つたのがこの歌である。大伴家は當時の上流家庭であつた。明治時代には日本に來た基督敦の女傳導師で、上流家庭に寄寓してゐたのが少くなかつたことを考へ合せてみると、この歌の背景は、文化的の價値と共に、今日の我々に極めて近いものがある。まづ此の異國の老尼のさびしい境遇に同情を寄せ、次いで特に郊外なる佐保の山邊にある大伴家に身を寄せてゐたことを、感慨深く思ひかへしたのである。この孤獨の老尼が頼みとしてゐた大伴家の人々が旅にゐる間に身まかつたのを、作者は一層あはれに感じたが、最後に、邸内に獨り取り殘されてゐる自分の悲しみを敍しつつ、旅にあつて何も知らずにゐる母に訴へたのである。集中女性の長歌は少く、又あつても短篇であるのに、これは、内容眞率、措辭整然とした大作で、才藻竝びなき女歌人の面目躍如たる作である。
〔語〕 ○たくづのの 新羅の枕詞。栲綱《たくづな》の義で、栲で作つた綱は白いので同音の新羅にかける。○人言をよしと聞かして 人言にて、日本をよい國とお聞きになつての意。左註に「遠く王コに感けて、聖朝に歸化へり」とあるのを參照すべきである。○問ひさくる 相語らうて心を晴らす意と解した代匠記や槻落葉の説がよい。「放く」は「見放くる」の「放く」で物言ひ遣る意とした古義の説は從ひ難い。○親族兄弟 紀に「族」哀び「同族」をウカラと訓んでゐる。ハラカラは同胞の義。○うち日さす 「宮」又は「都」にかかる枕詞。宮殿の高く作られて内に日のさす義とする仙(379)覺抄や代匠記の説、麗《うつく》しき日のさす宮の義とする冠辭考の説、障ぎる物なく現《うつ》し日のさす義といふ古義の説などある。冠辭考の説が比較的穩當と思はれるが猶考究すべきである。○京しみみに 「しみみに」は「しみしみに」の約であらうと云はれ、繁く充滿しての意の副詞。ここは、都一杯にといふほどの意。「枝も繁みに花咲きにけり」(二一二四)參照。○つれもなき 縁故もない。「一六七」參照。○佐保の山邊に 佐保は平城京の東の郊外の地。「三〇〇」參照。ここに、大伴氏の邸宅があつた。○哭く兒なす 泣く兒が母を嘉ふやうに。○敷妙の ここは「家」にかかる。「衣」「夜床」から轉じで、「枕」にも、また常に寢起きする家の意で、「家」にもかける。○年の緒長く 長い年月。○憑めりし人の盡 頼りにしてゐた人々、即ち作者の母なる石川命婦以下、家内の人たちを含めていふ。左註參照。○朝川わたり、河を朝渡り。「三六」參照。○背向に見つつ 後方又は斜横に振返つて見るの意。「三五七」參照。○晩闇と隱りましぬれ 「晩闇」は夕闇の暗くて物の見えぬやうにの意で、下の「隱り」を修飾してゐる。「佐保河を」からここまでは、葬送の事を述べたもの。○有間山 攝津國有馬郡有馬温泉の南に連なる山をいふ。○雲居棚引き ここの「雲居」はただ雲の意。「吾家《わぎへ》の方よ雲居立ち來も」(古事記)の場合と同樣である。
〔訓〕 ○免れぬ 白文「不免」で、槻落葉は、憶良の令v反2惑情1歌(八〇〇)が、代匠記精撰本に擧げた或本によると「遁路得奴兄弟親族《のがろえぬはらからうから》」とあるのを證としてここもノガロエヌと訓んでゐるが、この或本といふは今傳はらず、用字についても後世の加筆かの疑があるので、證とし難い。○晩闇 玉の小琴にクラヤミと改訓してゐるが、確かな用語例が見當らないので、舊訓に從ふが穩かである。
 
    反歌
461 留《とど》め得ぬ壽《いのち》にしあれば敷妙の家ゆは出でて雲隱《くもがく》りにき
     右、新羅の國の尼、名を理願と曰へり。遠く王コ《みうつくしび》に感《かま》けて聖朝《みかど》に歸化《まつろ》へり。時に大納言大將大伴卿の家に寄住《す》み、(380)既に數紀を※[しんにょう+至]《へ》たり。惟に天平七年乙亥を以ちて、忽に運病《いたづき》に沈み、既《はや》く泉界《よみのくに》に趣く。是に大家石川命婦、餌藥の事に依りて有間の温泉に往きて、此の喪に會《あ》はず。但、郎女獨留りて屍柩《ひつき》を葬り送ること既に訖りぬ。仍りて此の歌を作りて温泉に贈入《おく》れりき。
 
〔評〕 引留めることの出來ない人間の壽命のことであるから、理願尼は、家から出て、雲に隱れるやうに身を隱してしまはれた。
〔評〕 しみじみとした調子に哀音が漲つてゐる。「留め得ぬ壽にしあれば」は、長歌中の「生ける者死ぬとふことに、免れぬものにしあれば」と共に、佛教的無常觀の色調が濃く、理願尼の生前の感化が想見される。
〔語〕 ○家ゆは出でて 住んでゐた家から出て。「は」は強意の助詞。○雲隱りにき 死んでしまはれた。「四一六」參照。
〔左註〕 ○※[しんにょう+至] 「逕」に通じ、經るの意。○數紀 數年。紀は歳の義。○運病 天運免れ難き病の義か。○大家 タイコと訓む。大姐に同じく婦人の尊稱。○石川命婦 安麿の妻で、坂上郎女の母。命婦は令義解職員の條に、「婦人帶2五位以上1曰2内命婦1也。五位以上妻曰2外命婦1也」とある。石川命婦は内命婦であつた。
 
    十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持、亡《す》ぎにし妾を悲しみ傷みて作れる歌一首
462 今よりは秋風寒く吹きなむをいかにか獨長き夜を宿《ね》む
 
〔題〕 十一年は天平十一年で、家持の歿年を六十八歳とする大伴氏系圖を信ずれば、この時は二十二歳になる譯である。亡ぎにし妾とは召使つてゐた妻女であらうと、古義は註してゐる。
〔譯〕 これからは日増しに秋風が寒く吹くであらうに、どのやうにして、たつた一人で、長い夜を寢て過ごさうか。
(381)〔評〕 情熱の燃え盡きるやうに夏が去つて、そよそよと秋風の立ち初める頃は、たださへ寂しいものである。まして青春多感の家持にとつて、愛人を失つたあとの秋風は、如何に堪へ難く身に沁みたことであらう。「今よりは秋風寒く吹きなむを」と、秋立つけはひに、早くも長き夜の獨寢の悲しみを豫想したのも、あはれである。
〔語〕 ○吹きなむを 吹くであらうに。○いかにか どんな風にして。「いかにか君が獨り越ゆらむ」(一〇六)參照。
 
    弟大伴宿禰書持、即ち和ふる歌一首
463 長き夜《よ》を獨や宿《ね》むと君がいへば過ぎにし人のおもほゆらくに
 
〔題〕 大伴書持 集中にも短歌十二首を録されてゐるが、その傳は詳かでない。家持が越中の國司在任中、天平十八年秋「長逝れる弟を哀しみ傷める歌」が卷十七に見える。
〔譯〕 これから長い夜を唯一人で寢ることかと、兄上がお嘆きになるので、亡くなつた人のことが思ひ出されることであります。
〔評〕 兄の亡き愛人の面影を偲びつつ、その悲歎に同情したのである。一見すると日常口頭語のやうな調子であるが、心の底から湧いた眞情がしみじみと滲み出てゐる。
〔語〕 ○獨や宿むと 自分一人で寢ることかと。○おもほゆらくに 思はれることであるよの意。
 
    又家持、砌《みぎり》の上の瞿麥《なでしこ》の花を見て作れる歌一首
464 秋さらば見つつ思《しの》へと妹が植ゑし屋前《には》の石竹《なでしこ》咲きにけるかも
 
〔題〕 砌は、軒下の石疊をいふ。上は、ほとりの意。
〔譯〕 秋になつたらば、見て賞美して下さいといつて、植ゑて置いた庭の瞿麥の花が美しく咲き出したことよ。
(382)〔評〕 亡き人の植ゑておいた瞿麥の花が咲いたのを見て、悲しみは又新に蘇つて來るのである。他にも「戀しけば形見にせむと吾が屋戸《やど》に植ゑし藤浪いま咲きにけり」(一四七一)「戀しくは形見にせよと吾背子が植ゑし秋萩花咲きにけり」(二一一九)など歌はれてゐる。この歌もそれらに似てゐるが、植ゑた主が既にこの世に亡いので、あはれは一層深い。
〔語〕 ○見つつ思へと 花が咲いたらば、見て賞翫したまへとての意。妹が、これを見つつ我を偲べとて植ゑた、の意に見る説もあるが、ここは、「しのふ」を、心深く愛し思ふ、賞翫する意に取る方がよい。「黄葉をば取りてぞしのふ」(一六)と同じ用法である。
 
    移朔《つきうつ》りて後、秋風に悲しみ嘆きて家持の作れる歌一首
465 うつせみの代は常なしと知るものを秋風寒み思《しの》ひつるかも
 
〔題〕 移朔は、朔日が來て月のかはること。ここは七月になつた意。秋風のそよ吹くにつけて、亡き人を偲んだあはれな歌。
〔譯〕 この世の中は無常なもので、人の死はあやしむに足らぬと知つてはゐるものの、やはり秋風の寒さに、亡き人をつくづく戀しく思ふことである。
〔評〕 あきらめてはゐても、物に觸れ、時に感じて浮ぶ思である。歌中の無常觀も、牢乎として拔くべからざる作者の信念として取扱はれてゐるのではなく、かうした悲傷の際、多感な人の誰しもが抱く感懷で、それが繊細な歌調によく融和して居り、まことに秋風の身にしむやうな思がある。
〔語〕 ○うつせみの うつしおみの略で、「人」「代」「命」等の枕詞として用ゐられてゐる。人間の意。「代」にかかつて、現世の意を表す。○思ひつるかも なつかしく思ひ出すことであるの意。
 
(383)    又家持の作れる歌一首并に短歌
466 吾が屋前《には》に 花ぞ咲きたる 其《そ》を見れど 情《こころ》も行かず 愛《は》しきやし 妹が在りせば み鴨なす 二人《ふたり》雙《なら》び居《ゐ》 手折《たを》りても 見せましものを うつせみの 借《か》れる身なれば 露霜《つゆじも》の 消《け》ぬるが如く あしひきの 山道《やまぢ》を指《さ》して 入日なす 隱《かく》りにしかば 其《そこ》思《も》ふに 胸こそ痛め 言《い》ひもかね 名づけも知らに 跡もなき 世間《よのなか》にあれば 爲《せ》むすべも無し
 
〔譯〕 自分の庭に美しい花が咲いてゐる。それを見ても自分は心が慰まない。あゝあの可憐な愛人がゐたらば、鴨のやうに二人竝んでゐて、この花を手折つて見せもしようものを。人間の肉體は假の身であるから、露や霜の消えてしまふやうに、山の方をさして入日の隱れるやうに隱れてしまつたので、それを思ふと悲しさに胸が痛くなる。まことに何ともいふべき言葉もなく、名?しようも知らないくらゐ、跡形もなくはかないこの世の中のことであるから、どうにも仕樣のないことである。
〔評〕 修辭にも句法にも獨自性は乏しいが、繊細な調の中に哀感の滲み渡つた眞率の作である。「吾が屋前《には》に花ぞ咲きたる」と、直截に打出して言ひ切つたのは、力があり、印象清新である、「手折りても見せましものを」のあたり、情緒の纒綿たるものがある。後半が無常觀のあきらめに終つてゐるのは、人麿の挽歌の抒情の香の高い結末などに比して甚だ慊らぬ點で、ここにも時代の影響を思はせるものがある。
〔語〕 ○花ぞ咲きたる 前の歌によれば瞿麥の花であらう。○情も行かず 氣が晴れぬ、心が慰まぬの意。○愛しきやし 愛すべき。「四五四」にもある。○み鴨なす 鴨の如くの意。鴨は水上に浮ぶ時、必ず雌雄一緒にゐるから「二人雙び居」の枕詞とした。「み鴨」は眞鴨に同じと攷證にいつてゐる。○うつせみの 人間の意。前の歌と同じくこ(384)こも枕詞ではない。○露霜の 「消ぬる」の主語であり、ここでは枕詞ではない。○入日なす 入日の如く。「隱り」の枕詞。○名づけも知らに 名?し形容する方法も分らないほど。○跡もなき 死んで跡形もないの意。
 
    反歌
467 時はしもいつもあらむをこころ哀《いた》くい去《ゆ》く吾妹《わぎも》か若き子を置きて
 
〔譯〕 時はいつと限つたこともなく、いつでもあらうに、自分のいとしい女は、悲しくも死んでいつてしまつた、幼い子をあとにのこして置いて。
〔評〕 長歌の中では言及しなかつた幼兒のことを補つたのである。殘された幼兒を當惑らしく恨んで云つたのは、却つて裏に亡き人への愛著を深く籠めた手法で、あはれが深い。若くして逝いた愛人に對して、「時はしもいつもあらむを」の嘆聲は極めて切で、眞率、人を打つ叫である。
〔語〕 ○時はしもいつもあらむを さう急がずとも死ぬ時期は他にいつでもあらうに。○こころ哀く 心悲しくも。○いにし吾妹か 死んでしまつた吾が愛人であるよ。
〔訓〕 ○若き子 白文「若子」で、舊訓ミドリゴ。今、類聚古集・紀州本・細井本等による。
 
468 出でて行く道知らませばあらかじめ妹を留めむ關も置かましを
 
〔譯〕 出て行く道を前もつて知つてゐたならば、いとしい妻を引留める爲の關所でも置いたであらうに。
〔評〕 悲歎に心を打ちひしがれた際には、理性を越えた幼い考へ方に還つて繰言をいふのが人情の自然である。それをその儘に打出すのは挽歌の一手法で、これは決して技巧ではない。天眞流露なのである。「斯からむと豫ねて知りせば大御船泊てしとまりにしめ結はましを」(一五一)などに學んだものであらう。
(385)〔語〕 ○關も置かましを 關所でも設ける筈であつたのに、それもせずに殘念であるの意。
 
469 妹が見し屋前《には》に花咲き時は經《へ》ぬ吾が泣く涙いまだ干なくに
 
〔譯〕 いとしい愛人の眺めたこの庭に瞿麥の花も咲き、死後もう時が經過した。自分の泣く涙はまだ乾かないのに。
〔評〕 悲嘆のあまり月日の經つのを意識せずにゐたのが、庭に咲き出た秋の花に始めて時の經過を痛感した樣が察せられて、あはれが深い。山上憶良の、「妹が見しあふちの花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」(七九八)と似た心境で、恐らくその影響を受けた作であらう。
 
    悲緒《おもひ》未だ息まず、更《また》作れる歌五首
470 斯《か》くのみにありけるものを妹も吾も千歳の如く憑《たの》みたりける
 
〔譯〕 これ程はかない縁であつたのに、女も自分も千年も共に樂しく暮らせるもののやうに、安心しきつてゐたことである。
〔評〕 ここに竝んだ一聯の作の中でも、殊に眞率で、感情の切實な歌である。何の奇もない普通の感懷であるが、時處を超越した人間の眞實に根ざしてゐるところに、胸を打つものがある。語尾を連體止にして餘韻を含めたのも、あはれが深い。
〔語〕 ○憑みたりける あてにして安心してゐたことであるよの意。連體形で言ひさして餘情をもたせる語法。下に「ことよ」「悲しさよ」などを補つて解するがよい。白文「憑有來」であるが、「二九六四」を參考して訓む。
 
471 家|離《さか》り坐《いま》す吾妹を停みかね山|隱《がく》りつれ情神《こころど》もなし
 
(386)〔譯〕 わが家を離れていつた自分のかはゆい女を引留めることも出來ず、女は山深く隱れてしまつたので、自分は心の張りも拔けてしまつた。
〔評〕 平明な家持の作風に、珍しく、佶屈な感じのある作である。他の歌と部分的には語句の類似もあるが、やはり、痛切な實感を抒べたものだけに、一貫した眞情がある。
〔語〕 ○家離り坐す 家を離れてゆかれた。即ち墓所に送られてゆく意。この句は憶良の日本挽歌(七九四)の結句を用ゐたものであらう。○山隱りつれ 山に姿を隱してしまつたので。「つれ」はここは「つれば」の意。○情神もなし 心の張合もなくなつたの意。「四五七」參照。集中「生けりともなし」と相似た問題の成句で「吾が心神《こころど》の生けるともなき」(二五二五)といふ例もある。
 
472 世間《よのなか》し常《つね》斯《か》くのみとかつ知れど痛き情《こころ》は忍《しの》びかねつも
 
〔譯〕 この世の中は常に斯くはかないものであると、一方では知つてゐるけれども、やはり悲しい心は堪へかねることであるよ。
〔評〕 世間の無常はかねて覺悟をしてゐても、いよいよ自分がそれに直面してみると、痛恨なほ忍び難いといふのは、最も平凡にして最も眞實である。その眞實を平凡のまま素直に打出したところに、此の歌の力がある。
〔語〕 常斯くのみと いつもこのやうに果敢ないものと。○かつ知れど 一面に於いては承知してゐるけれども。○痛き情は 痛烈に悲しい感情は。「痛き」は「いたく悲しき」の意。
 
473 佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出《で》泣かぬ日は無し
 
〔譯〕 佐保山に棚引いてゐる霞を見る度ごとに、自分は火葬の煙を聯想し、いとしいあの女を思ひ出して、泣かない(387)日はない。
〔評〕 雲や霧から火葬の煙を思ひ、亡き人を思慕するといふ着想は集中に多く、この卷にも上に人麿の土形娘子や出雲娘子を弔ふ歌(四二八・四二九)があつた。この歌にもそれらの影響が認められる。しかし影響はただ影響であつて、この歌は單なる口眞似に終つてはゐない。悲痛な眞實に裏付けられてゐるので、作者のものになりきつて居り、多感の青年歌人家持の姿を髣髴させてゐる。悠揚たるその聲調も、内容に相應してをる。
〔語〕 ○棚引く霞 霞はここでは秋であるから霧のことと思はれる。「秋の田の穗の上に霧らふ朝霞」(八八)ともあるやうに、上代は霞と霧とを區別しなかつた。
 
474 昔こそ外《よそ》にも見しか吾妹子が奧津城《おくつき》と思《も》へば愛《は》しき佐保山
 
〔譯〕 以前は心にとめずよそよそしく見たことであるが、今や吾が愛する人を葬つた墓のある所と思へば、なつかしい佐保の山よ。
〔評〕 自然の純情で、所謂天眞流露の語を文字どほりに現はしてゐる。聊かも作爲のない、天成の歌の妙味を酌むべきである。
〔語〕 昔こそ 今まではの意。○よそにも見しか 無關心に看過して來たとの意。○奧津城 墓。○はしき佐保山 かはゆい佐保山。
 
    十六年甲申春二月、安積皇子《あさかのみこ》の薨りし時、内舍人大伴宿禰家持の作れる歌六首
475 かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 吾《わ》が王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》 萬代に 食《を》したまはまし 大日本《おほやまと》 久邇《くに》の京《みやこ》は うち靡く 春さりぬれば 山邊には 花咲き撓《をを》り 河(388)瀬には 年魚子《あゆこ》さ走《ばし》り いや日《ひ》異《け》に 榮ゆる時に 逆言《さかごと》の 枉言《まがこ》とかも 白妙に 舍人|装《よそ》ひて 和豆香山《わづかやま》 御《み》輿立たして ひさかたの 天《あめ》知らしぬれ 展轉《こいまろ》び 沾《ひづ》ち泣けども せむすべも無し
 
〔題〕 安積皇子 聖武天皇の皇子。續紀によれば天平十六年閏正月、十七歳で薨ぜられた。二月とあるは左註に見える作歌の月日を以て記したのであらう。内舍人は職員令に、「中務省、内舍人九十人、掌d帶刀宿衛、供2奉雜使1、若駕行、分c衛前後u」とある。卷六の天平十二年十月の歌にも、内舍人大伴宿禰家持とある。
〔譯〕 言葉にかけて申すもまことに勿體なく、口に出して申すことも、憚多いことである。自分のお仕へ申上げる皇子樣が、萬世かけてお治め遊ばされる筈であつたこの大やまとの久邇の京は、春になつたので、山のあたりには、花が一ぱいに咲きたわみ、川の瀬には鮎の子が勢よく走り、日が經つにつれてますます榮えてゆく折から、人惑はしの僞り言といはうか、白い装束に舍人《とねり》たちが装うてお供をし、和豆箇山に御輿をお留めになつて、天上へ昇つておしまひになつた。そこで、自分たち舍人は、轉げまはり、涙に濡れて泣いてゐるけれども、何とも仕樣のないことである。
〔評〕 一通り整つた作ではあるが、用語に獨自性のないことが先づ目に着く。冒頭の「かけまくもあやにかしこし、言はまくもゆゆしきかも」は、高市皇子の殯宮の時の人麿の作(一九九)の冒頭の句から、「逆言の枉言とかも」は、石田王の卒した時丹生王の作つた歌の反歌(四二一)から、終りの「展轉び沾ち泣けどもせむすべもなし」は、高市皇子を悼んだと思はれる作者未詳の長歌(三三二六)の終句「展轉びひづち哭けども飽き足らぬかも」から、借り用ゐたものと思はれる。ただ、久邇の京の山水の美、鹿背山や狛山が竝び、泉河と布當《ふたぎ》》河の落ち合ふ風光を、「山邊には花咲き撓り、河瀬には年魚子さ走り」と簡潔清麗に敍したのは、美しくて要を得てゐる。
〔語〕 ○をしたまはまし お治めになる筈であつた。連體形で下の久邇の京に續く。「萬代に國知らさまし島の宮は(389)も」(一七一)と同じ用法である。○大やまと 日本の總稱。○久邇の京 今の山城國相樂郡|瓶原《みかのはら》村。聖武天皇天平十二年十二月に工を起され、十三年正月行幸せられ、十一月|大養コ恭仁宮《おほやまとくにのみや》と名づけられたが、次いで十六年二月再び都を難波に遷された。○うち靡く 「春」の枕詞。「二六〇」參照。○花咲き撓り 枝も撓むほど澤山花の咲きこぼれての意。○いや日けに 日がたつにつれてますますの意。「四七八」參照。○逆言の枉言とかも 「四二一」參照。○和豆香山 和豆香は瓶原の東で、今は東和束、西和束及び中和束の三村がある。○御輿 ここでは靈柩を載せた御輿。○天知らしぬれ 天界を支配なさる意で、薨去を喩へていふ。「ぬれ」は「ぬれば」の意。
 
    反歌
476 吾《わ》が王《おほきみ》天《あめ》知らさむと思はねば凡《おほ》にぞ見ける和豆香杣山《わづかそまやま》
 
〔譯〕 わが皇子樣が薨去あらせられて、其處にお鎭まりなさらうとは思ひも寄らなかつたので、今まで自分は、無關心に見てゐたことであつた、この和豆香の杣山を。
〔評〕 今まで深く心に留めても見なかつた和豆香山が、皇子をお葬りしてから、急に懷かしく、慕はしくなつたといふので、日本人の胸には永遠に新しい情操であらう。この歌は「昔こそよそにも見しか」(四七四)と同工異曲といつてよい。
〔語〕 ○天知らさむと 「天知らす」とは長歌の終にもあつたが、魂が昇天して天上を統治し給ふ意で、もとより譬喩的表現であるが、ここの用法は薨去せられて山に葬られたことを申してゐる。○おほにぞ見ける 今までおほよそに見過して來たの意。○杣山 材木を伐り出す山。
 
477 あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬる如き吾《わ》が王《おほきみ》かも
(390)     右の三首は、二月三日に作れる歌なり。
 
〔譯〕 全山照り映えて咲き匂うてゐた櫻の花が、忽ちにして散り失せてしまつたやうに、皇子樣は若く美しい御身でお亡くなりになつた。
〔評〕 若くて薨去された皇子を愛惜するにふさはしい明麗な譬喩である。これによつて皇子の風姿も偲ばれ、いまさぬ後の寂寞も痛ましく察せられる。「山さへ光り咲く花の」のあとに、直ちに「散りぬる」とつづけたのは、おのづから轉變を寫すにかなひ、上の華麗に對して、一段と寂寥の感を深める効果がある。時は春二月、やがて櫻花の季節なので、自然の景物を取り來つたらしい譬喩は、一層恰當といふべきである。
〔語〕 ○山さへ光り 「さへ」は、更に同じく。事物や?態の添へ加はる意で、今の「までも」に當るが、ここは全山とか、山一面とかいふ意の強調表現と見るべきである。
 
478 かけまくも あやにかしこし 吾が王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》 武士《もののふ》の 八十伴《やそとも》の男《を》を 召し集《つど》へ 率《あとも》ひ賜ひ 朝獵に 鹿猪《しし》踐《ふ》み起し 暮《ゆふ》獵に 鶉雉《とり》履《ふ》み立《た》て 大御馬《おほみま》の 口|抑《お》し駐《とど》め 御《み》心を 見《め》し明らめし 活道山《いくぢやま》 木立《こだち》の繁《しげ》に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は 斯《か》くのみならし 丈夫《ますらを》の 心振り起し、劍刀《つるぎたち》 腰に取り佩《は》き 梓弓 靱《ゆぎ》取《と》り負《お》ひて 天地と いや遠長《とほなが》に 萬代に 斯くしもがもと 憑《たの》めりし 皇子《みこ》の御門《みかど》の 五月蠅《さばへ》なす 騷く舍人《とねり》は 白《しろ》たへに 服《ころも》取《と》り著《き》て 常なりし 咲《ゑま》ひ振舞《ふるまひ》 いや日《ひ》異《け》に 變《かは》らふ見れば 悲しきろかも
 
〔譯〕 言葉にかけて申すのもまことに勿體ないことである。わが安積皇子が、多くの家來たちを召し集めお引連れになつて、朝夕の狩獵に、或は土を履んで鹿や猪を追ひ驚かし、或は草叢を踏んで鶉や雉を飛び立たせなどされ、また(391)御乘馬の口を抑へとどめ、四方の景色をながめて御心をお晴しになつたあの活道山の、そこの木立の繁みに、花が美しく咲いてゐたが、その花もやがて色が褪せて散つてしまつた。世の中はすべてこのやうに無常なものであるらしい。自分が大丈夫のををしい心を振ひ起して、劍太刀を腰に帶び、梓弓を手に執り、靱を背負つて、天地のあらん限り、いよいよ遠く長く、萬代までもかやうにして奉仕したいものと、お頼みしてゐた皇子樣であつたが、その御所に泣き騷いでゐる大勢の舍人たちは、今は白い素服を着て、平常見せてゐた笑顔や樂しげな動作も、日増しに變つて憂欝らしくなつてゆくのを見ると、まことに悲しいことではある。
〔評〕 個々の修辭や技法を調べてみると、前人の踏襲や模倣もあるが、特異なのは、作者が眞心を傾け盡くしてこの皇子に奉仕してゐたといふ趣である。聖武天皇の皇子として、將來は天位を嗣ぎ給ふ寄せ重き安積皇子の薨去は、大伴一族のことを念願しつつ奉仕してゐた若き家持に、忽焉として前途の希望を失はしめたことと推察せられる。「大丈夫の心振り起し」以下の數句は、一門の棟梁として若き家持の自覺と面目とを語つてゐる。
〔語〕 ○もののふの八十伴の男を 「もののふ」は物部、即ち宮廷を衛る武人。「二六四」參照。伴の男は部屬を統ぶる長のこと。物部は氏族が澤山あるので八十伴の男といふ。部屬の長を召し集めることは、おのづからその部下をも集めることになる。○率ひ賜ひ 引率なされての意。「一九九」參照。○鹿猪踐み起し 土石を履んで鹿や猪などを追ひ驚かすの意。○鶉雉履み立て 草むらなどを踏んで色々と鳥を追ひ出すの意。○御心を見し明らめし 景色を見て御心を晴らし給うたの意。「あきらむ」は明らかにする。○活道山 山城國相樂郡。大日本地名辭書に「西和束村大字白栖に安積親王の御墓あり、活道岡はこの所なるべし」とある。○木立の繁に 木立の繁みに。「繁」名詞。「櫻花木の晩《くれ》茂《しげ》に」(二五七)參照。○靱取り負ひて 靱は矢を盛る器。後世のうつぼ、箙。○五月蠅なす 「騷く」の枕詞。「さばへ」は五月頃の蠅の義。○常なりしゑまひ振舞 平常の笑顔や、快活な擧動。○悲しきろかも 「ろ」は間投の助詞。「羨《とも》しきろかも」(五三)參照。
 
(392)    反歌
479 愛《は》しきかも皇子《みこ》の命《みこと》の在《あ》り通《がよ》ひ見《め》しし活道《いくぢ》の路《みち》は荒れにけり
 
〔譯〕 なつかしい皇子樣が、平常通ひつつ御覽になつた活道山の路は、今は通交もなくなつたので、すつかり荒れ果ててしまつたことである。
〔評〕 長歌の前半を受けて、皇子が御狩に出で立たれることも無くなつたので、道すがら風光を愛でられた活道山の道が荒廢したといふのである。「路は荒れにけり」の字餘りの句が千鈞の力あり、あはれが深い。趣は稍々異なるが、志貴皇子の薨去の時の、「三笠山野邊行く道はこきだくも繁り荒れたるか久にあらなくに」(二三二)も思ひ合される。
〔語〕 ○愛しきかも 皇子をたたへる感嘆の言葉で、句は切れてゐるが、意は「愛しき皇子の命」と續いてゐる。○在り通ひ 以前から、或は平常から通ひ馴れてゐるといふ意で、「在り」は繼續の意を表はす接頭辭。「在り通ひつつ見らめども」(一四五)「斯くしつつ在り慰めて」(二八二六)等參照。
 
480 大伴の名に負《お》ふ靱《ゆき》帶《お》びて萬代に憑《たの》みし心|何處《いづく》か寄せむ
右の三首は、三月二十四日に作れる歌なり。
 
〔譯〕 大伴氏の名にふさはしい靱を帶びて、萬代までもお仕へ申さうと頼みきつてゐたこの自分らの心を、一體何處へ持つて行つたらばよいのであらうか。
〔評〕 これは長歌の後半の主旨を攝要して大きく反復したのである。天孫降臨以來の名家の譽と誇とを賭けて、將來永く仕へ奉らうと期待してゐた君に逝かれたあとの落膽が、痛ましく表現せられてゐる。當時藤原氏などの新興勢力に壓せられ、家運日に非となりゆくこの名族の長として、一意挽回を策してゐたであらう家持の心境を察すると、まことに悲壯の響がある。
(393)〔語〕 ○大伴の名に負ふ 大伴氏は代々朝廷の警護として靱を帶びて奉仕するといはれて來た。その名に背かぬとの意。○靱帶びて 當時家持は内舍人で、太刀を佩き靱を負うて仕へる職であつたからかく云ふ。神代紀一書に、大伴連の遠祖天忍日命が、天の盤靱を負うて天孫の前に立つ、といふことが見え、景行紀に、日本武尊が甲斐國酒折宮にまして、靱部を以て大伴連の遠祖武日に賜ふともある。即ち、天孫降臨の時以來、長く皇室の護衛に當つてゐたのであるから、靱を帶ぶることは、實に大伴の名にかなふ所以である。
 
    死《みまか》れる妻を悲しみ傷みて高橋朝臣の作れる歌一首并に短歌
481 白妙の 袖さし交《か》へて 靡き寢し わが黒髪の ま白髪《しらが》に 成らむ極《きはみ》 新世《あらたよ》に 共に在らむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言《こと》は果《はた》さず 思へりし 心は遂《と》げず 白妙の 袂を別れ にきびにし 家ゆも出てて 緑兒の 泣くをも置きて 朝霧の 髣髴《おほ》になりつつ 山城の 相樂山《さがらかやま》の、山の際《ま》を 往《ゆ》き過《す》ぎぬれば 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに 吾妹子と さ宿《ね》し妻屋に 朝《あした》には 出で立ち偲《しの》ひ 夕《ゆふべ》には 入り居嘆かひ 腋挾《わきはさ》む 兒のり泣く毎《ごと》に 男じもの 負《お》ひみ抱《むだ》きみ 朝トリの 音《ね》のみ哭《な》きつつ 戀ふれども 效《しるし》を無みと 言問《ことと》はぬ ものにはあれど 吾妹子が 入りにし山を 所縁《よすが》とぞ念《おも》ふ
 
〔題〕 「四八三」左註參照。
〔譯〕 袖をさしかはして妻と寄り添ひいねた自分のこの黒髪が、すつかり白髪になるまでも、新しいこの大御代に共に居ようと、また夫婦の契は絶えることはあるまいと、妻と約束した言葉は果さず、思ひこんでゐた豫想は遂げないで、妻は獨り袂を別ち、これまで睦まじく住み馴れた家からも出て、幼兒が泣き慕ふのも後に殘して、影は次第にか(394)すかになりながら、山城の相樂山の山の間を通つて行つてしまつたので、自分は何と言つていいのか、どうしていいのかも分らず、今まで妻と共にをつた閨に、朝は外に出で立つて亡き面影を偲び、夕方は内に入つて嘆きつづけ、抱へてゐる幼兒が泣く度毎に、男ながら背負つたり抱いたりして、聲に出して泣き慕ふけれど、何の甲斐もないので、物も言はぬ非情のものではあるが、わがいとしい妻のはひつて行つた相樂山を、妻のゆかりと思つて一人で懷しがつてゐるのである。
〔評〕 遠く久しく行末を契つた妻に先立たれ、殘された緑兒を抱いて途方に暮れつつ、せめて遙かに墓所の山を望んで心を慰めてゐる、といふ趣が、綿々の詞句の間に哀音を含んで寫し出されてゐる。語句に人麿が妻の死を悲しんだ作(二一〇)を思はせるものがあるが、格調の相違は時代の差を感ぜしめる。人麿の渾厚遵勁の氣格は失せて、著しく柔軟の趣を帶びてゐる。
〔語〕 ○袖さし交へて 互に袖をさしかはして。「敷妙の袖かへし君」(一九五)參照。○新世に 希望に滿ちた新しい御代に。「新代と泉の河に」(五〇)參照。○玉の緒の ここは「絶ゆ」の枕詞。○絶えじい妹 「い」は強意の助詞。○にきびにし 睦まじく馴染んだ。「七九」參照。○朝霧の ほのかな意で「おほ」にかかる枕詞。○髣髴になりつつ ぼんやりと影がかすかになつての意。「朝霧のおほに相見し」(五九九)ともある。○相樂山 山代國相樂郡。全釋には奈良市の北、歌姫越附近といつてゐる。○妻屋 端屋《つまや》の義で、母屋の端にある閨をいふ。「二一〇」參照。○男じもの 男たるものとして。「二一三」參照。類語に「猪鹿《しし》じもの」(一九九)「鴨じもの」(五〇)などあり、「じもの」は「のやうな物」の意であるが、「男じもの」の場合は聊か意義を異にする。「抱き」は「むだき」とも「うだき」ともよむが、「三四〇四」に「武太伎」とあるによつた。○朝鳥の 「音泣く」に懸けた枕詞。○よすが 心を寄せ身を寄せる處の義で、由縁、たよりの意となるが、ここは形見といふ程の意。
〔訓〕 ○ならむ極み 白文「成極」、舊訓ナリキハマリテは不可。今、略解の訓に從ふ。○おほになりつつ 白文(395)「髣髴爲乍」、舊訓ホノメカシツツ。今、玉の小琴の訓に從ふ。○なげかひ 白文「嘆會」、紀州本及び槻落葉の説による。諸本「會」を「舍」に作るは誤。○はさむ 白文「挾」、通行本「狹」に作るは誤。紀州本・大矢本等によつて訂す。○泣毎 「毎」は諸本「母」とあるが考の説によつて改める。
 
    反歌
482 うつせみの世の事なれば外《よそ》に見し山をや今は所縁《よすが》と思はむ
 
〔譯〕 死といふことは、この現世の定めであつて仕方がないから、自分はこれまで心もとめてゐなかつたあの相樂山でも、せめて今は亡き妻のゆかりの山と思つて眺めよう。
〔評〕 佛敦的無常觀によつて悲歎しつつも、結局あきらめに住してゐるところに、時代の姿が認められる。前の「四七四」も同趣である。大來皇女が愛弟大津皇子を偲ばれた歌、「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山をいろせと吾が見む」(一六五)、と結果に於いて似てゐるが、その心境には大きな相違を見るのである。
〔語〕 ○うつせみの 枕詞と見る説と、修飾語と見る説とがある。○世の事なれば 世間の常態で仕方がないので。
〔訓〕 ○よすがと 白文「因香跡」通行本「跡」を「爾」としたのは誤。今、類聚古集、紀州本等によつて訂す。
 
483 朝鳥の音《ね》のみし泣かむ吾妹子に今また更に逢ふよしを無み
     右の三首は、七月廿日、高橋朝臣の作れる歌なり。名字未だ審ならず、但、奉膳の男子と云へり。
 
〔譯〕 これから自分は聲に立てて泣いてばかりゐることであらう。亡き妻に今ではもう再び逢ふ手がかりが無いので。
〔評〕 長歌の中の句を取つて、悲嘆を反復してゐる。下句を「今また更に」と強調したのが趣向であらう。
〔左註〕 奉膳 官名で、職員令に「内膳司。奉膳二人、掌d惣2知御膳1、進v食先嘗事u」とある。續紀には天平寶字(396)三年に高橋朝臣子老、六年に高橋朝臣老麿がいづれも内膳奉膳となつた由が見える。なほ集中には有名な高橋蟲麿の外、高橋安麿(一〇二七)、高橋朝臣國足(三九二六)が見える。
 
 萬葉集 卷第三 終
 
評釋萬葉集 卷一
昭和二十三年十一月十五日印刷
昭和二十三年十一月二十日發行
佐佐木信綱全集第壹卷(第一回配本)
           定價四百五拾圓
著 者   佐 佐 木 信綱
發行者   矢 崎 義 治
    東京都中央區日本橋蠣殻町一ノ一二
印刷者   小  坂  孟
    東京都新宿區市谷加賀町一ノ二
印刷所   大日本印刷株式會社
發行所   株式會社六興出版部
    東京都中央區日本橋蠣殻町一ノ一二
    電話茅場町_(六六)二一六一−四番
    會員番號A一一八〇〇四番
                〔2016年7月17日(日)午前11時49分、校正終了〕
 
(3)萬葉集 卷第四
 
(5)概説
 
 卷四は、卷三と共に一部をなせるものとおぼしく、この卷は相聞歌のみである。その編纂方法は卷三と同じく、配列もほぼ年代順になつてゐる。
 歌は、長歌七首、旋頭歌一首、短歌三百一首合せて三百九首。うち、卷一と同じき歌一首、卷八と同じき歌二首、卷十四に異傳歌のあるもの一首である。
 年代の最も古いのは、難波天皇の妹の皇兄に奉つた歌、次は舒明天皇の御製であり、ついで藤原時代の歌は比較的少く、奈良遷都以後の作が多く、最も新しいのは、久邇京時代、即ち天平十五六年頃までである。從つて卷三とほぼ同時代の作と考へられる。
 作者不詳の歌は、四首にすぎない。主なる作者は、舒明天皇、額田王、鏡王女、吹※[草がんむり/欠]刀自、田部櫟子、柿本人麿、人麿妻、安倍女郎、三方沙彌、丹比笠麿、志貴皇子、中臣東人、大伴安麿、藤原麻呂、大伴坂上郎女、聖武天皇、海上女王、大伴宿奈麿、安貴王、門部王、高田女王、笠金村、大伴旅人、大伴百代、大伴四綱、沙彌滿誓、余明軍、大伴坂上大孃、笠女郎、大伴家持、湯原王、大伴駿河麿、市原王、厚兒王、春日王、大伴田村大孃、藤原久須麿等である。
 奈良時代以前の作は約三十首、奈良時代初期の作約七十首、天平時代の作約二百首である。人麿の作も七首あるが、卷一二に見るほどではなく、殆ど大伴家關係のものであり、それは旅人九州下向以前のもの、旅人太宰帥在任中のも(6)の、及び家持關係のものと三分せられ、殊に家持關係のものは甚だ多く、家持の作六十餘首、家持に宛てたもの五十餘首である。家持をめぐる女性としては、大伴坂上大孃、笠女郎、紀女郎、山口女王、中臣女郎、大神女郎、河内百枝娘子、粟田娘子などが見える。ついで父旅人、叔母坂上郎女等が注意せられる。坂上郎女(三十餘首)笠女郎(二十四首)を始め、女流の作百四十餘首許りで、集中の三分一以上に及んでゐるのも注目すべきである。
 長歌としては、舒明天皇の御製(四八五)丹比笠麿の筑紫へ下つた時の作(五〇九)安貴王の八上采女を慕うた歌(五三四)笠金村が娘子に代つて詠じた作(五四三)金村が娘子を得て詠んだ歌(五四六)大伴坂上郎女の怨恨の歌(六一九)等が注意される。
 短歌として勝れてゐるものを、ここに抄出しておく。
  山の端《は》に味鳧群《あぢむら》騷ぎ行くなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば  岡本天皇 四八六
  君待つと吾が戀ひ居ればわが屋戸の簾うごかし秋の風吹く            額田王 四八八
  神風の伊勢の濱荻折り伏せて旅ねやすらむ荒き濱邊に              碁檀越妻 五〇〇
  今更に何をか念はむうち靡きこころは君によりにしものを            安倍女郎 五〇五
  吾背子は物な念ほし事しあらば火にも水にもわれ無けなくに           同 五〇六
  來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ來じといふものを     大伴郎女 五二七
  この世には人盲《ひとごと》繁し來む生《よ》にも逢はむ吾背子今ならずとも   高田女王 五四一
  周防なる磐國山を越えむ日は手向よくせよ荒しその道              山口若麿 五六七
  月夜よし河音さやけしいざここに行くもゆかぬも遊びてゆかむ          大伴四綱 五七一
  ここに在りて筑紫やいづく白雲の棚引く山の方にしあるらし           大伴旅人 五七四
  草加江の入江にあさる蘆たづのあなたづたづし友無しにして           同 五七五
(7)  八百日行く濱のまなごも吾が戀にあにまさらじかおきつ島守        笠女郎 五九六
  伊勢の海の磯もとどろに寄する浪かしこき人に戀ひわたるかも          同 六〇〇
  おもふにし死するものにあらませば千たびぞ吾は死にかへらまし         同 六〇三
  相念はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づく如し              同 六〇八
  目には見て手には取らえぬ月の内のかつらの如き妹をいかにせむ         湯原王 六三二
  ひさかたの天の露霜置きにけり宅なる人も待ち戀ひぬらむ            坂上郎女 六五一
  玉主に妹はさづけてかつがつも枕と吾はいざ二人ねむ              同 六五二
  ただに逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向ふ吾が戀やまめ          中臣女郎 六七八
  一瀬には千たび障らひゆく水の後にも逢はむ今ならずとも            大伴像見 六九九
  ぬばたまの其夜の月夜今日までに吾は忘れず間なくし念へば           百枝娘子 七〇二
  夕闇は路たづたづし月待ちて行かせ吾背子その間にも見む            大宅女 七〇九
  鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮べる心吾が念はなくに            大女娘子 七一一
  うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて吾が獨ねむ            大伴家持 七三三
  春日山霞たなびきこころぐく照れる月夜に獨かも寢む              坂上大嬢 七三五
  夢の逢は苦しかりけりおどろきてかき探れども手にも解れねば          大伴家持 七四一
 この卷の歌は、卷十一、十二、十三等にある歌と類似のものが多い。就中、家持の作に多い。また眞摯な戀愛歌の多い中に、廣河女王の歌に見るごとき作もあり、笠金村のごとき他に代つての作もあり、粟田女娘子が土※[土+完]の中にかいた歌もある。
 用字法は、卷三と同じで、テシに「義之」を用ゐ、ククに「八十一」をあてた義訓がある。
 
(9)萬葉集 卷第四
 
  相聞《さうもに》
 
    難波天皇《なにはのすめらみこと》の妹《いろと》、大和に在《いま》す皇兄《いろせ》に奉り上ぐる御歌一首
484 一日《ひとひ》こそ人も待ちよき長き日《け》を斯《か》くし待たえば在りかつましじ
 
〔題〕 難波天皇 仁コ天皇。妹 書紀に見える應神天皇の九皇女の中、姉君なる荒田皇女以外のいづれかの方であらう。皇兄 仁コ天皇の皇兄ではなく、皇妹から申上げるゆゑに、天皇を指しまつるのである。なほ、難波天皇は、難波長柄宮にいました孝コ天皇と考へられぬこともないが、今は通説に從つて置く。
〔譯〕 一日ぐらゐならば、人を待つのも待ちやすい。しかし長い日數をこんなに待ち遠しがつてをるのでは、とても堪へきれますまい。
〔評〕 平明率直で、何の粉飾もないが、眞實そのものである點に、人を動かす力がある。女性らしいつつましさもよく、二句切れで引締つてをるのも、古趣がある。
〔語〕 ○人も待ちよき 人をも待ち易いの意。「こそ」の係に對して「よき」と形容詞の連體形を以て結んだのは古格である。○長きけを 「け」は日に同じ。○在りかつましじ 在り續け得まい、堪へきれまいの意。「ましじ」は「まじ」の古語。「九四」參照。
〔訓〕 ○かくし待たえば 白文「如此所待者」で、玉の小琴に「所」は「耳」の誤としカクノミマテバとした外、諸(10)説があるが、諸本文字の異同が無い。待ち遠しい氣持でゐなければならないとだとすると、と解して、カクシマタエバと訓んだ。
 
    岡本天皇《をかもとのすめらみこと》の御製一首并に短歌
485 神代より 生《あ》れ繼ぎ來《く》れば 人|多《さは》に 國には滿ちて 味鳧群《あぢむら》の 去來《ゆきき》は行けど 吾が戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜《よる》は 夜《よ》の明くる極《きはみ》 おもひつつ 寢《い》も宿《ね》かてにと 明《あか》しつらくも 長きこの夜を
 
〔題〕 岡本天皇 左註にあるやうに舒明天皇とも齊明天皇とも解される。齊明天皇は、後岡本宮御宇天皇と申し上げるのが普通で、單に岡本天皇とあれば舒明天皇と見るのが穩かである。しかしこの御製は、女性の御作らしく思はれるので、齊明天皇の御製と見る説もある。岡本天皇とは他に「一五二」や、「一六六五」にも見え、後者には紀伊行幸の由が見えるのに、書紀には舒明天皇紀伊行幸の記載が無いから、それも齊明天皇の御事であらうとし、併せてこの岡本天皇を齊明天皇と見る一傍證とする説もある。大まかな古人は、岡本天皇を兩天皇に用ゐたであらうとも見得るし、書紀の記載の脱漏とも考へられるので、舒明天皇の御製とする。しかし、上に掲げたやうに、難波天皇を孝コ天皇とすれば、齊明天皇の御製となるのである。
〔譯〕 遠い神代の昔から次々に生れ續いて來たので、人はこの國土に滿ちて、あぢかもの群のやうに群がつて、往つたり來たりしてゐるけれども、その人々は、自分の戀しく思ふそなたではないから、晝は日の暮れるまで、夜になれば夜の明けるまで、自分はそなたを思ひ續けて、安眠も出來ずに明してしまつたことである、長いこの夜をば。
〔評〕 この歌を女性の作らしいとする説が、古來多い。「吾が戀ふる君にしあらねば」のごとき口吻が、女性らしく(11)感ぜられはするが、併し、「君」の語は、本集では男女いづれにも用ゐてゐるし、積極的に男性の作でないと斷ずる證は無いといはねばならぬ。「三二四八」と内容語句の類似した所があり、作者に就いてはなほ考究の餘地があるが、姑く所傳の儘にしておく。戀に惱む悶々の心境が、簡明な辭句の間によく描かれてゐる。
〔語〕 ○生れ繼ぎ來れば 次から次へと生れて來るので。○味鳧群の 「騷く」にかかる枕詞の場合が多いが、ここは全くの枕詞ではなく、味鳧《あぢかも》の群の如くの意。味鳧は「二五七」參照。○いもねかてにと 眠ることも出來ないで。「い」は名詞で睡眠。
〔訓〕 ○寢も宿かてにと 白文「寢宿難爾登」の「登」を衍とする童蒙抄、「死弖」の誤とする考、「管」の誤と見た略解、「乃三」の誤といふ古義など諸説あるが、人麿の「知らにと妹が待ちつつあらむ」(二二三)も同じ語法で、誤ではない。
 
    反歌
486 山の端《は》に味鳧群《あぢむら》騷き行くなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば
 
〔譯〕 山の端に味鳧の一群が騷がしく飛んでゆくやうに、人も大勢通つて行くが、自分は寂しい。君が來たのでないから。
〔評〕 長歌の要旨を摘んで、短歌に纒めたものである。「味鳧群騷き行く」は、實景と見る説と、單なる譬喩と解する説とある。この辭樣からすれば、譬喩と見られる。思ふに、長歌に味鳧群を使用したのも、折からそれが群れ飛んでゐたからのことで、實景がおのづから序となり譬喩となつてゐるものとするのが至當である。
〔語〕 ○山の端 山のはし。山と空との境をなす線などをいふ。○吾はさぶしゑ 自分はさびしいことである。「ゑ」は感動の助詞「よしゑやし」(一三一)の「ゑ」に同じ。
 
(12)487 淡海路《あふみぢ》の鳥籠《とこ》の山なる不知哉川《いさやがは》日《け》のころごろは戀ひつつもあらむ
     右は今案ふに、高市岡本宮、後の岡本宮、二代二帝、各異れり。但、岡本天皇といへる、未だ其の指すところを審にせず。
 
〔譯〕 近江の國の鳥籠《とこ》の山を流れてゐるいさや川の「いさ」(さあ、どうであらうか)といふやうに、さあ、どうであらうか、此の頃は自分を戀しく思つてをるであらうか。
〔評〕 序を承ける重要な敍述語が省略されてゐるので、序と主想との續き方がわかりにくい。これは、四句の上に「いさや」と副詞を置くべきを、序中の「いさや川」で兩方を兼ねさせたので、寧ろ優れた技巧といふべきである。但、この序は「犬上の鳥籠の山なる不知也河|不知《いさ》とを聞こせ我が名のらすな」(二七一〇)の類歌もある。
〔語〕 ○淡海路の 何路といふには、其處に行く道と、他所からその土地を指すとの二義がある。ここは後者で、輕く、近江の國のといふほどの意。○鳥籠の山 「二七一〇」の歌にあるやうに、犬上郡で、今の彦根市の東北、正法寺山のことといふ。○不知哉川 全釋に、今の大堀川で、靈仙の芹谷から發し、彦根に至つて湖水に注ぐとある。副詞の「いさ」は「さあ、どうであらうか」の意で、ここは同音のゆゑに、河の名をそれに懸けて下に續けたのである。○けのころごろは この日頃はの意。「ころごろ」は「ころ」を重ねて意を強めたのである。
 
    額田王《ぬかだのおほきみ》、近江天皇《あふみのすめらみこと》を思《しの》ひまつりて作れる歌一首
488 君待つと吾が戀ひをればわが屋戸《やど》の簾うごかし秋の風吹く
〔題〕 近江天皇 天智天皇の御事。額田王は「七」參照。
〔譯〕 御いでを待つとて、戀しい思ひにくれてをると、時も時、わが宿の簾を動かして、秋の風が吹くことよ。
(13)〔評〕 何の故巧をも用ゐず、素直な感情をそのままに抒べ、屬目の景をそのままに敍したのであるが、情と景とが渾然と融和して、たをやかに微妙な風趣を釀し出してゐる。爽やかな秋の微風に簾がゆれて、人を待つ佳人の清楚な眉に、瞬間、ほのかな翳がさしたことであらう。しかし、その翳は失望の翳ではなく、ただ一瞬の落膽であり、心は愛の滿足に樂しく落ちついてゐるのである。「わが戀ひ居ればわが屋戸の」と「わが」を重ねたのが萬葉調であつて、古今六帖に「君まつと戀ひつつふれば吾が宿のすすきうごきて秋風ぞ吹く」と改めたのは、時代の相違を明かに示してゐる。なほ此の歌は、獨白的抒情歌であることは、次の鏡王女の唱和によつても知られる。天皇に奉つたものとして解する説もあるがいかがであらうか。
〔語〕 ○君待つと 君を待つとての意。君はここでは君臣關係でなく、女から男を呼ぶ語と見るべきである。○屋戸 家の戸口。また、家居をもいふ。
 
    鏡王《かがみのおほきみ》の女の作れる歌一首
489 風をだに戀ふるは羨《とも》し風をだに來《こ》むとし待たば何か嘆かむ
 
〔題〕 鏡王の女 鏡王の女で、額田王の姉。「九一」參照。
〔譯〕 そよ吹く風にすら、戀しいお方のお出かと胸ときめかすあなたは羨ましい。せめて風でも來てくれるたらうとあてにして待つて居られる身ならば、私は何で歎きませう。
〔評〕 鏡王の女も、額田王と同じく、天智天皇の愛を受けて居られたことは「九一」「九二」、によつて知られる。しかし、今は寵が衰へてさびしい諦めの境涯にあるので、いそいそと心樂しく天皇をお待ちする歌を詠んだ妹を羨み、わが身の上を顧みて嗟嘆の溜息を洩されたのである。怨恨とか、嫉妬、反感とかいふ氣特は無く、さびしい自分の境遇をつつましく守つてをるやさしい人柄が偲ばれる。
(14)〔語〕 ○風をだに戀ふるはともし あなたは君のお出かと、そよ吹く風にだまされたといはれるが、せめてその風だけでも待ち戀ふることが出來るのは羨しいの意。○風をだに來むとし待たば せめて君のお出かと私をだましてくれる風なりとも、吹いて來るのを心待ちにすることの出來る私ならば、の意。君のお出を期待することは出來なくなつたので、從つて風にだまされることすらあり得ないのである。○何か嘆かむ 何を嘆きませう。
 
    吹※[草がんむり/欠]刀自《ふぶきのとじ》の歌二首
490 眞野の浦の淀の繼橋《つぎはし》情《こころ》ゆも思へや妹が夢《いめ》にし見ゆる
 
〔題〕 吹※[草がんむり/欠]刀自 天武天皇の頃の人で、十市皇女に仕へた女性であるが、傳は詳かでない。「二二」參照。
〔譯〕 眞野の浦の淀の繼橋が續いてゐるやうに、ずつと續けて心の底から思ひ慕つてゐるから、そなたの姿が夢に見えたのであらうか。
〔評〕 内容表現共に一通りの作であるが、序詞を受ける語の省略されてゐる手法は、上の「四八七」の歌と同樣である。なほ作者は女性であるのに、この歌は男子の作のやうに見える。しかし同性間に於いて、背子とも妹とも呼んでゐる例があるから、親しい同性の人のことを詠んだと見るべきであらう。但、これは男から贈られた歌で、次のが刀自の返歌とする見方もある。
〔語〕 ○眞野の涌 「白菅の眞野の榛原」(二八〇)と同所であらうか。それならば、今の神戸市の西部、眞野町の海岸。○淀の繼橋 攝津志に、矢田部郡の東尻池村にある苅藻橋をさしたものであらうとあるが、明かでない。繼橋は、考は、中間に島又は洲などがあつて、その兩側に橋をかけたものといひ、代匠記は、橋材を立てて置いて水が普通の時は架け渡し、水量が増すと板を取り除くやうにしたものといつてゐるが、なほ考究の餘地がある。「足の音せず行かむ駒もが葛飾の眞間の繼橋やまず通はむ」(三三八七)とも見える。初句以下ここまでは、繼ぎて思ふの意を含め(15)た序詞的用法である。○こころゆも 心の底から、衷心から。○思へや妹が 戀しく思へばにや、その妹が、の意。この「妹」とあるに就いて、代匠記は、刀自の作ならば「君」とあるべきで、これは別人の作であらうとして居る。
 
491 河《かは》の上《へ》のいつ藻の花の何時《いつ》も何時《いつ》も來《き》ませ我が背子時じけめやも
 
〔譯〕 河のほとりにいつ藻の花がさいてゐるが、その花の名のやうに、いつもいつもお出で下さいませ。私のいとしく思ふあなたさま。來ていけないといふ時がありませうか。
〔評〕 この歌は「一九三一」と全く同じである。序詞の技巧が極めて流麗であるが、しかしそれも「大原のこの市柴のいつしかと」(五一三)「道のべの五柴原のいつもいつも」(二七七〇)などの類型がある。要するに、普遍的の性質をもつた民謠風の歌であつたらうと思はれる。
〔語〕 ○河のへの 河のほとりの。「二二」參照。○いつ藻の花の 「いつも」は、五百箇藻の意で、繁つた藻のことと代匠記はいつてゐる。同音を反覆して「いつもいつも」にかけた序。○時じけめやも 定つた時などといふものがあらうか、いつでも構ひはしませぬとの意。「時じ」は「六」參照。
 
    田部忌寸櫟子《たのべのいみきいちひこ》の太宰に任《まけ》らえし時の歌四首
492 衣手《ころもで》に取りとどこほりなく兒にもまされる吾を置きていかにせむ 舍人吉年
 
〔題〕 田部忌寸櫟子 傳不詳。
〔譯〕 母の袂に取りすがつて泣く幼兒のそれにもまして、別れを悲しんでゐるこの私を、あとに殘しておいて、あなたはどうなさらうといふのでありますか。
〔評〕 譬喩が、いかにも萬葉らしい素朴さ可憐さで、上に出た余明軍の「若き子のはひたもとほり」(四五八)より(16)も更にいきいきしてゐる。四五句の緊張した調子も、堪へがたく苦しい戀々の情を吐露して、哀痛を極めてゐる。
〔語〕 ○取りとどこほり 取りすがつて離れぬの意。
〔脚註〕 舍人吉年 傳は詳かでないが「一五二」に天智天皇崩御の時、すぐれた挽歌を詠んでゐる。この歌から考へると女性で、ひくい女官であつて、後に櫟子の妻となつたのであらうか。
 
493 置きて行かば妹戀ひむかもしきたへの黒髪しきて長きこの夜を 田部忌寸櫟子
 
〔譯〕 あとに殘して行つたならば、そなたは自分を戀しがることであらう。美しい黒髪を敷いて、長いこの夜を眠りやらないで。
〔評〕 黒髪を長く靡かせて寢る若い女の姿は、如何にも魅惑的であり、それを一人家郷に遺して置いて遠く邊地に向ふ作者の心は、なやましいものであつたらう。場合は稍々ことなるが「ぬばたまの妹が黒髪今夜もか吾無き床に靡けてぬらむ」(二五六四)「ぬばたまの黒髪敷きて長き夜を手枕の上に妹待つらむか」(二六三一)も、取材の同じ點に於いて、官能のにほひの高い點に於いて、相似てゐる。
〔語〕 ○しきたへの 「袖」「衣」「床」「家」などにつづく枕詞で「黒髪」に續けた例は他に無い。冠辭考に「こは、末の意皆夜床のやうなればすべてに冠らせて、敷たへの語を置きたるものにて、家とつづけたる類なり」とあるが、語を隔てて「しき」に懸けたかと見る説に從ふべきであらう。○黒髪しきて 床の上に黒髪を敷き靡かせて。
 
494 吾妹子《わぎもこ》を相知らしめし人をこそ戀のまされば恨めしみ念《おも》へ
 
〔譯〕 いとしいそなたを、最初引合せてくれた人をば、戀の苦惱がこんなに増して來ると、自分は却つて恨めしくさへ思ふことである。
(17)〔評〕 最愛の妻と別れるに當り、戀々の情に堪へかねた懊惱のあまり、今まで感謝を捧げてゐた仲介の人をすら、寧ろ恨めしく思ふといふのである。「昔は物を思はざりけり」で、いつそ相知らなければ、此の苦しみはないものをといふ、條理を超越した人間の愚痴であり、近代人にも相通ずる微妙な心理の動きが認められる。この歌は標記は無いが、櫟子の作で、吉年に與へたものである。
〔語〕 ○相知らしめし人をこそ 二人を互に相知らせた人、即ち媒となつてくれた人を。○戀のまされば 戀しさが募つて來ると。○恨めしみ念へ 恨めしく思ふことである。「念へ」は「こそ」に對する第三終止。
 
495 朝日影にほへる山に照る月の厭《あ》かざる君を山|越《ごし》に置きて
 
〔譯〕 朝日の光の美しくさす山の上に、なほ殘つてゐる有明の月の、いくら見ても飽かないやうに、いつ見ても飽かないそなたを、山越しに置いて來て、戀しいことである。
〔評〕 この歌も櫟子の作で「山越に置きて」といふ句から思ふに、大和を出發して生駒山あたりを越えた頃の作ではなからうか。なほこの句は、出發の際吉年が「吾を置きていかにせむ」と詠んだのを思ひ出してであらうか。即ち前二首は別れに當つての歌、後二首は、太宰府への途上で詠じたものであらう。「四九二」の前の題詞及び「四九四」「四九五」に作者名のないことからも、三首を櫟子の作とみるべきである。
〔語〕 ○朝日影にほへる山に照る月の 朝日の光が輝しくさし初めた山に照る有明の月の、殘り惜くも見厭かない意で「厭かざる」にかけた序。
 
    柿本朝臣人麻呂の歌四首
496 み熊野の浦の濱木綿《はまゆふ》百重《ももへ》なす心は念《も》へど直《ただ》に逢はぬかも
 
(18)〔譯〕 熊野の浦にはえてゐる濱木綿の葉が、幾重にも重なつてゐるやうに、幾重にも心では思つてゐるが、まだ直接に逢へないでゐることであるよ。
〔評〕 紀州は南國であるから、海岸に濱木綿がはえる。これが歌聖人麿の詩情に觸れたのである。集中の詩材に斬新の生面を拓いたもので、調は重厚、まことに歌品芳醇とも稱すべきである。しかも、集中これを踏襲する者もなく、この植物を詠みこんだ歌も他にないのは、大和人には、日常眼に觸れることが無く、また紀州に旅行をしても、海岸隨所に見られなかつたゆゑではなからうか。
〔語〕 ○み熊野 紀伊國牟婁郡の熊野。「み」は「み吉野」の「み」に同じ。○濱木綿 一名を濱おもとといひ、暖國の海岸に自生する石蒜科の常緑草本、高さ五尺に及ぶものがある。葉は淡緑色、廣く光澤があつて、形|萬年青《おもと》の如く、幾枚も重なつて叢生し、花は夏日白く傘?をなして開く。その葉が重なつてゐるので「百重」の序としたもの。
 
497 古《いにしへ》にありけむ人も吾が如《ごと》か妹に戀ひつついねかてずけむ
 
〔譯〕 昔の人たちも、今のこの自分のやうに、思ふ人に戀ひこがれながら、眠りかねたことであらうか。
〔評〕 過去に典故を求めようとするのは上代人の常であるが、人麿は殊に尚古主義者であつた。自分の心に似た者、自分と同樣の經驗をした者を古人の中に見出だすことは、何人にとつても愉快に違ひないが、彼には尚更のことであつたであらう。一方では、戀に惱むのは丈夫の誇を傷つけるものとして卑しむ傾向もあつたので、妹に戀ひつついねかねた例を古人に求めようと、眠られぬままに、自問自答をしつつ右のやうな肯定に達して、始めて苦惱の裡にも自ら慰めたのであらう。
〔語〕 ○古にありけむ人も 昔の人も。○吾が加か 「か」は疑間の助詞で、最後において見るとよい。○いねかてずけむ 眠り得なかつたであらうか、多分さうであつたであらうの意。
(19)〔訓〕 ○いねかてずけむ 白文「宿不勝家牟」で、舊訓イネガテニケム。代匠記イネガテズケム。佐伯氏イネカネテケムなど諸説ある。今は代匠記に從ひ、ガテをカテと訓み改めた。
 
498 今のみのわざにはあらず古《いにしへ》の人ぞまさりてねにさへ泣きし
 
〔譯〕 戀ゆゑに歎くのは、今だけのことではない。昔の人の方が、却つて今の人より以上に嘆き悲み、聲をあげてまでも泣いたのである。
〔評〕 わが心の弱さゆゑに、戀の苦惱に堪へかねて眠られないのか、古人はよくもこれを堪へたものであると思つてみた。しかし、今の自分ばかりが弱いのではない。むしろ古人の方が今の人にもまして戀に泣いたとも思はれる。悲しみの裡にも滿足を味つてゐる弱い人間性が、まざまざと見られる。しかし、此の歌を、次に述べるやうに、女の返歌とすると、前の歌の「古にありけむ人も」に對しての句とおもはれる。
〔語〕 ○今のみのわざにはあらず 今はじまつたことではない。「わざ」は行爲、しわざ。
 
499 百事《ももへ》にも來及《きし》かぬかもとおもへかも君が使の見れど飽かざらむ
 
〔譯〕 何度でも何度でも、追ひかけ追ひかけ來てほしいと思つてゐるせゐで、あなたのお使が、幾らみえてもあきたりないのであらう。
〔評〕 「君」は多く女から男にいふが、反對の用例も往々あるので、それを唯一の論據とすることは出來ないが、一首の氣分からいつても、この歌は女性の作らしい。新解に、この四首は贈答で、前二首が人麿、後二首は女の答の歌とも見得るとあるのは、從ふべき説と思はれる。さう解すると、「百重にも」の句は、「百重なす」の句をうけたのである。
(20)〔語〕 ○百重にも 幾度も幾度も。○來しかぬかもと 次々と追ひかけて來てくれないものかなあ、來てほしいと。「追ひしかむ」(一一五)の「しく」と同じで、及び至るの意。「ぬかも」は「一一九」參照。○念へかも 思へばかもに同じで、思つてゐるからであらうかまあの意。
〔訓〕 ○來及かぬかもと 白文「來及毳常」で、舊訓キオヨベカモトは不可。代匠記の訓キシケカモトは字面に忠で從ふ學者も多い。その説では「及け」は四段活用の命令形とするのであるが、集中に命令形に「かも」の續いた例はなく、もしこれを已然形と見れば「來及けばかも」の意となつて通じ難いので、今、古義の訓に從ふ。「ぬ」に相當する字面が無いのに、これを添へて訓むことは穩かでないやうであるが「人相鴨」《ひともあはぬかも》(一二八七)「妹相鴨《いもはあはぬかも》」(一八九四)「又鳴鴨《またなかぬかも》」(一九五三)その他用例があり、特にそれは人麿集所出の歌に多いといふ事實から見ても、キシカヌカモトと訓むべく思はれる。
 
    碁檀越《ごのだにをち》の伊勢國に往きし時、留《とどま》れる妻の作れる歌一首
500 神《かむ》風の伊勢の濱荻《はまをぎ》折り伏せて旅|宿《ね》やすらむ荒き濱邊に
 
〔題〕 碁檀越 傳は明かでないが、碁は姓、檀越は名であらう。古義には圍碁の技を善くしたからの稱かとある。
〔譯〕 伊勢の海邊の荻を折り伏せて、さびしい濱べに、わが夫は旅寢をなさるのであらうか。
〔評〕 純眞率直な詞句格調に、遠い夫の旅寢を思ふ妻の至情が流露してゐる。「濱荻折り伏せて」と、具體的に夫の動作を想像して描いたのが、一首を印象的ならしめ、實感を濃厚ならしめるに大きな効果をもたらしてゐる。集中傑作の一である。
〔語〕 ○神風の 「伊勢」の枕詞。「八一」參照。○濱荻 濱邊に生えてゐる荻。荻は禾本科の多年生草本、薄に似て葉が廣く、薄よりも花穗が大きく、芒がない。
 
(21)    柿本朝臣人麻呂の歌三首
501 未通女《をとめら》等が袖|振山《ふるやま》の端籬《みづがき》の久しき時ゆ思ひき吾は
 
〔譯〕 をとめらが袖を振るといふ振山の瑞籬の如く、久しい以前から、あなたを思つてゐたことであつた、自分は。
〔評〕 「をとめらが袖」は、振山の振を云ふためにおいた序で「振山の瑞籬の」は、久しきにかけた序。第一の序では、作者が思うてをる相手の姿を、それとなくほのめかしてをり、後の序では、心のさまを象徴的に云ひ現はしてゐる。苔のむした古い瑞籬には、その思の久しさのみならず、奧深く思ひ入つたさまや、清い心で慕うてをることなどを感じさせるのである。つつしみ深い氣分のする戀の歌である。卷十一には「をとめらを袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ念《おも》ひけり吾は」(二四一五)と出てゐる。
〔語〕 ○をとめらが袖振山の瑞籬の 「久しき」にかかる序で「をとめらが袖」は、振るにかけた序中の序である。「ふる山」は「四二二」に見えてをる。布留にある石上神宮は、神武天皇の太刀を祀つた古い神社であるから、その瑞垣の時久しい意で序としたもの。瑞垣は神社の周圍の玉垣。
 
502 夏野行く牡鹿《をじか》の角《つの》の束《つか》の間《ま》も妹が心を忘れて念《おも》へや
 
〔譯〕 夏の野をゆく牡鹿の角のやうに、短い間でも、そなたの心を忘れようか。忘れはしない。
〔評〕 新たにかはつた鹿の角は短いので、序としたのである。この新らしい角、いはゆる袋角のはえた雄鹿が、草の青い夏野を行く樣は、愛らしく爽かで、みづみづしい感を涌かせる。常に新らしく胸をうるほし、飽かず懷かしまれる思ひに通ふところがあつて、印象の鮮かな美しい歌である。
〔語〕 ○夏野行く牡鹿の角の 束の間に續く序詞。鹿の角は初夏に落ちて生え代るものであつて、夏の鹿はまだ角が(22)伸びず短いからである。○束の間 短い時間。
 
503 珠衣《たまぎぬ》のさゐさゐしづみ家の妹にもの言はず來て思ひかねつも
 
〔譯〕 珠衣がさやさやと衣ずれの音をたてるやうに、騷ぐのを押ししづめて、家の妻に別れの言葉も云はずに出て來て、今となつて思ひに堪へかねることである。
〔評〕 別れに當つて、妻が泣き悲しんでをる。作者は悲しみを忍んで、叱りつつそれをしづめて出立してきた。思ひかへしてみると、しみじみと別れの言葉も述べずに來た。優しい言葉をかけてやつてくればよかつたものをと、心苦しく悔まれるのである。男子の眞情のあらはれた作である。東歌に「あり衣《ぎぬ》のさゑさゑしづみ家の妹に物いはず來にて思ひ苦《ぐる》しも」(三四八一)と出てゐて、その左註に「柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ」とある。
〔語〕 ○珠衣の 珠は美稱、衣摺の音のさやさやといふ意で「さゐさゐ」にかけた枕詞。「衣の清潔《さやさや》」の意といふのは、從ひ難い。○さゐさゐしづみ 騷ぐ妻を押ししづめて「さゐさゐ」は、さわさわ、さやさやなどと同じく、騷ぐ音をいふ。○思ひかねつも 思に堪へかねることよの意。
〔訓〕 ○珠衣乃 前述の如く卷十四に殆ど同一の歌があり、それには「ありぎぬの」とあるので、考のごとくこれもさう訓むといふ説があるが、やはり異傳と見るべきで「ありぎぬの」と訓むのは無理である(玉勝間)。
 
    柿木朝臣人麻呂の妻の歌一首
504 君が家に吾《わ》が住坂《すみさか》の家道《いへぢ》をも吾は忘れじ命死なずは
 
〔譯〕 あなたの家に私がいつて住むといふ名の住坂のあなたの家へ行く道を、私は忘れますまい。私が死にませぬかぎりは。
(23)〔評〕 序の用ゐ方は「めづらしき人を吾家《わぎへ》に住吉《すみのえ》の」(一一四六)に似てゐるが、ここでは、下へのつらなりが適切である。男子が女の家に通ふことを云うたとして この題詞に人麿の妻の歌とあるのを疑ふ説もある。
〔語〕 ○君が家に吾が住坂の 「君が家に吾」は住坂の序。住坂は大和國宇陀郡の墨坂であらう。今の榛原町の西に當る。○命死なずは 生きてゐる限りは。
 
    安倍《あべの》女郎の歌二首
505 今更に何をか念《おも》はむうち靡きこころは君に縁《よ》りにしものを
 
〔題〕 安倍女郎 「二六九」の阿倍女郎と同人であらう。傳不詳。
〔譯〕 今になつて何を案じませうぞ。私の心は、もうすつかりあなたに靡き寄つてしまつてゐるのですもの。
〔評〕 愛人を信じきつてゐる女性の眞心である。純な、ひたぶるな心が、張りのある調をなしてをる。卷十二に「今更に何しか思はむ梓弓引きみゆるべみよりにしものを」(二九八九)とあるが、形の單直さにおいて、この歌が原型であらうと思はれる。
〔語〕 ○うち靡き 句を隔てて「よりにし」にかかる。○よりにしものを 任せ切つてをりますものを。
 
506 吾が背子は物な念《おも》ほし事しあらば火にも水にも吾《われ》無けなくに
 
〔譯〕 わが夫君は、心配をなさいますな。もしも事がありましたならば、たとひ火に入り水に入ることがあらうとも、私がないではありませぬ、をりますものを。
〔評〕 夫の身の上に何か事があつたらば、火にも水にも共に入らう、と慰めたのである。集中に、夫を思ふ愛情のこもつた作は多いが、その熱情の高さ強さにかけて、これにまさる歌はない。詞や調子は、御名部皇女の歌「吾が大王(24)ものな念ほし皇神の嗣ぎて賜へる吾《われ》無《な》けなくに」(七七)を思はせるものがある。
〔語〕 ○火にも水にも たとひ火に入り水に入ることがあらうとも。○吾無けなくに 「七七」參照。
 
    駿河?女《するがのうねめ》の歌一首
507 敷妙《しきたへ》の枕ゆくくる涙にぞ浮宿《うきね》をしける戀の繁きに
 
〔題〕 駿河?女 傳不詳。「一四二〇」にも見える。
〔譯〕 枕から漏れ落ちる涙で、身も浮いて、浮寢をしたことでございます。戀心のはげしさの爲に。
〔評〕 珍しい誇張の歌である。浮宿といふ語は、船に乘つてをる時か、水鳥にたとへて用ゐた例はあるが、かく技巧的に云うたのは、集中この歌のみである。涙で身が浮くといふ思ひつきは、面白いとは云へよう。けれども、實感が伴はぬから、そのあとに續いてそらぞらしいといふ感じが起つてくる。しかし、後世の「涙河枕ながるる浮寢には夢もさだかに見えずぞありける」(古今集卷十一)「かがり火にあらぬ我身のなぞもかく涙の川に浮きて燃ゆらむ」(同上)「涙川身も浮きぬべき寢覺かなはかなき夢のなごりばかりに」(新古今集卷十五)などの歌にくらべては、さすがに萬葉歌の技巧の單直なことが首肯されるであらう。
〔語〕 ○敷妙の 枕詞。○枕ゆくくる 枕から洩れる。「妹がぬる床のあたりに岩くくる水にもがもよ入りて寢まくも」(三五五四)の「岩くくる」は、略解の説のやうに清音で古く讀まれたと考へられるから、即ち、この歌の場合と同じ用例である。
 
    三方沙彌《みかたのさみ》の歌一首
508 衣手の別《わ》く今夜《こよひ》より妹も吾もいたく戀ひむな逢ふよしを無み
 
(25)〔題〕 三方沙彌 「一二三」參照。
〔譯〕 袂を分つて別れる今夜からは、妻も自分もいたく戀ひ慕ふことであらう。逢ふよすががないので。
〔評〕 靜かな平易の詠みぶりの中に、哀感がにじんでをる。
〔語〕 ○衣手のわく 衣手は枕詞ではない。袂を分つ、別れるの意。長歌に「白妙の袂を別れにきびにし家ゆも出でて」(四八一)とある。「袂別」といふ熟語は後漢書などに見えてゐるので、漢學からの移入か。○いたく戀ひむな 甚しく戀ひ慕ふであらうよ。
〔訓〕 ○わく今夜より 白文「別今夜從」を、舊訓にさう訓んでゐるに從うた。代匠記精撰本の訓にワカルコヨヒユとある。別るは下二段活用であるから、連體形はワカルルといふべきであるが、多くの註は、卷十八の「流水沫能」と同樣、ワカルに從つてゐる。
 
    丹比眞人笠麻呂《たぢひのまひとかさまろ》、筑紫國に下りし時、作れる歌一首并に短歌
509 臣女《たわやめ》の 匣《くしげ》に乘れる 鏡なす 見津《みつ》の濱邊に さ丹《に》づらふ 紐解き離《さ》けず 吾妹子に 戀ひつつをれば 明闇《あけぐれ》の 朝霧|隱《がく》り 鳴く鶴《たづ》の ねのみしなかゆ 吾が戀ふる 千重の一重も 慰もる 情《こころ》もありやと 家のあたり 吾が立ち見れば 青旗の 葛城山に 棚引ける 白雲|隱《がく》る 天《あま》ざかる 夷《ひな》の國邊に 直向《ただむか》ふ 淡路を過ぎ 粟島を 背向《そがひ》に見つつ 朝なぎに 水手《かこ》の聲よび 夕なぎに 楫《かぢ》の音《と》しつつ 浪の上《へ》を い行きさぐくみ 磐《いは》の間《ま》を い往《ゆ》き廻《もとほ》り 稻日都麻《いなびづま》 浦|囘《み》を過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯《ありそ》の上に うち靡き 繁《しじ》に生ひたる 莫告藻《なのりそ》が 何《な》どかも妹に 告《の》らず來にけむ
 
(26)〔題〕 丹比眞人笠麻呂 「二八五」參照。傳不詳。
〔譯〕 女の櫛箱の上に乘つてをる鏡を見るといふ名の、その御津の濱邊に、赤い紐も解かずに丸寢をして、家において來たわが妻を戀ひ慕うてをると、自分は、夜明け方のうす暗い時の朝霧に隱れて鳴く鶴のやうに、聲をあげて泣かれる。かやうに戀しく思ふ心の千分の一でも慰むやうな思もあらうかと、立ち出でて家の方をながめると、青い旗のやうに青々した葛城山に棚引いてゐる白雲に障れて見えない。いよいよ、はるかな九州地方へ向はうとして、正面に見えてみる淡路を過ぎ、粟島を後に見ながら、朝凪に水夫がかけごゑをあはせ、夕凪に櫂の音をさせて、浪の上を行きなやみ、磐の間を行き廻り 稻日都麻《いなびづま》の海岸をとほり過ぎて、鳥のやうに難儀しながら行くと、家の島が見えて來たが、その島の荒磯のあたりにうち靡いて生ひ繁つてゐる莫告藻《なのりそ》を見ては、なぜに自分は、妻によく別をも告げないで來たことかと惜しく思はれる。
〔評〕 前半には、長途の旅を前にして三津の濱邊に泊り、故郷の方なる葛城山をかへりみつつ涙を落したことを敍し、後半にはいよいよ出帆して、淡路島、粟島をはじめ、島々の間を經めぐり行き、播磨の稻日都麻の浦を經て、家の島に至るまでの航路が描かれてをる。用語に新奇なところはないが、移つてゆく景色の實感が、今日の我々の心にも蘇つて來るのを覺える。稻日都麻に到り妻のことを思ひ、家の島を眺めて家のことに思を馳せて結びとしたのは、類型的ではあるが巧みなまとめ方であり、心理的にみて自然でもある。天平八年六月の遣新羅使人の一行中の作「物に屬《つ》きて思を發《おこ》す歌」(三六二七)などのとも相通ふものを持つてゐるやうに思はれる。
〔語〕 ○匣に乘れろ鏡なす 櫛笥の上の鏡をみるごとくの意で、以上「みつの濱」の「みつ(見つ)」を起す序。○見津の濱 難波なる三津の濱。○さにづらふ 「四二〇」參照。但ここは紐にかかる。○明闇の 夜の明け方のまだ暗い頃。「ぐれ」と濁つて読む。○朝霧がくり 朝霧に隱れて。○鳴く鶴の 鳴く鶴のやうに。○青旗の 枕詞。古義は綾織《あやはた》の義で、綾羅で華縵を作つたのであらうとし、全釋も青い布の縵の意であらうといひ、また「青幡の忍坂(27)山」(三三三一)とあるから、山の青々とした譬で、青布のごときの意かといふ説もある。後説が穩かであらう。○葛城山 「一六五」參照。今の金剛山を中心にした山。○白雲がくる 白雲に隱れたと、ここで切れるのである。○天ざかる 「二九」參照。○ただ向ふ 難波の三津、即ち大阪灣から見て正面に對してゐるの意。淡路島の實景。○粟島 「三五八」參照。○い行きさぐくみ 「い」は接頭辭。「さぐくむ」は「さくむ」(二一〇)に同じ。蹈み分けること。○いゆきもとほり 行き廻ること。(一九九)參照。○稻日都麻 播磨國加古川の河口にあつた小島で、今の高砂であるといふ。播磨風土記に、景行天皇と印南別孃との求婚傳説から、この地名の起原を傳へてゐる。○家の島 播磨國の島で、昔は揖保郡に、今は飾磨郡に屬し、室津港の沖に家島群島をなしてゐる。○なのりそ 「三六二」參照。「家の島」以下ここまでは、一句隔てて「のらず」にかかる序。
〔訓〕 ○たわやめの 白文「臣女」とあるので、種々の訓や誤字説もある。○白雲隱る 白文「白雲隱」で、白雲がくりと訓んでゐるが、「隱る」とよむ方がよい。○天ざかる 白文「天佐我留」で「我」を清音の假名に使つたのは珍しい例で「家」「柯」等の誤といふ説もある。元暦本等に「左佐我留」とあるが、それでは、よみがたい。猶考ふべきである。
 
    反歌
510 白妙の袖解き更《か》へて還《かへ》り來《こ》む月日を數《よ》みて往《ゆ》きて來《こ》ましを
 
〔譯〕 白い衣の袖を解き交してゆつくりと語らひ、豫め歸つて來る月日を數へて行つて來ればよかつたものを。
〔評〕 共に袖をかはして、筑紫から還つて來る月日を數へなどして、妻を語り慰めてやればよかつたものを、などと、出立の前夜のことを思ひかへして、悔んでゐるのである。句法に澁つたあとの見えるのは、數々の思に迫られて、あまりに多くのことを云ひ籠めようとした故であらう。
(28)〔語〕 ○袖解き更へて 代匠記は、袖さしかへてと云ふ意歟といひ、宣長(略解所引)は「袖をときはなして、男女互に形見として行くなり」といつてゐるが、共寢した事をいふのであらう。
 
    伊勢國に幸しし時、當麻麻呂《たぎまのまろ》大夫の妻の作れる歌一首
511 吾が背子は何處《いづく》行くらむ奧《おき》つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
 
〔譯〕 わが夫君は、何處を旅してをられることであらうか。沖の藻の隱れるといふ名張のさびしい山を、今日あたり越えてをられることであらうか。
〔評〕 大和から伊勢路へ越える人を思ふ情、三句四句の音感とともに、あはれである。但、この歌は、「四三」と全く同じ歌である。
〔語〕 ○なばり 隱れるの古語。
 
    草孃の歌一首
512 秋の田の穗田の刈《かり》ばかか寄《よ》り合はばそこもか人の吾《わ》を言《こと》なさむ
 
〔題〕 草孃 簡略に書いた女の名(代匠記)草香孃の誤か(略解)畷※[田+井]録に娼婦のことを草娘とあるのに同じい(古義)田舍娘のこと(新考、全釋)等の諸説があるが、最後の説が穩かであらう。
〔譯〕 秋の田の、穗に出た稻田のかりばかのやうに、あなたと私とがより合うたならば、それで、人が私をとやかく云ひたてることであらう。
〔評〕 刈り取るべき同じ區域内のみのつた稻が、うなだれて寄りあふ樣を、序にとつたもので、その思ひつきも云ひ(29)振も、野趣を帶びてゐる。如何にも田舍むすめらしい歌である。
〔語〕 ○穗田の刈ばか 「穗田」は穗の出た稻田。「かりばか」は、代匠記に「ば」は「場」で「か」は「ありか」などの「か」に同じく所の意、刈計の略で、稻の刈程になつたもの(考)、稻を刈りなどするのに、先づそこを幾つかに分け、それを一はか二はかといつて、その一はかの中で男女相交つて刈りなどする意で、かよりあふの序としたもの(玉の小琴所引道麿説)等の説がある。稻を刈る時には、苗を植ゑる時と同樣に、略五株ぐらゐの幅を自分々々の持前として竝んで刈るのであり、各一人の擔當の部分は寄せ合され、一括せられ、束とせられるのであり、一人の擔當の部分の稻の縁り合ふ意と考へられる。○吾を言なさむ 私を言ひはやすであらう。
 
    志貴皇子《しきみこ》の御歌一首
513 大原のこの市柴のいつしかと吾が念《おも》ふ妹に今夜《こよひ》逢へるかも
 
〔題〕 志貴皇子 「五一」參照。
〔譯〕 大原のこの市柴のいつ逢へるかと、自分が戀しく思つてゐたに、今夜逢うたことであるよ。
〔評〕 志貴皇子が、大原の里に在つて詠まれたのであらう。山邊の茂つた柴をとつて、いつしかと云ひかけたのである。久しく戀してゐた愛人に今夜逢うたと、事實をありのままに敍べながら、語尾に喜ばしさが躍つてをる點は、同じ皇子の作「石ばしる垂水の上のさ蕨の萠え出づる春になりにけるかも」(一四一八)とよく似てゐる。
〔語〕 ○大原の 「一〇三」參照。○市柴の 「いち」は「いつ」と同じで「このいつ柴に」(一六四三)「河のへのいつ藻の花の」(一九三一)「道の邊のいつ柴原の」(二七七〇)等の「いつ」に同じく、繁つた柴の意。柴は芝草の意とみる説もあるが、木の柴であらう。類似した音を繰返して序としたもの。
 
(30)    阿倍女郎の歌一首
514 吾が背子が著《け》せる衣《ころも》の針目落ちず入りにけらしも我が情《こころ》さへ
 
〔題〕 阿倍女郎 「二六九」參照。
〔譯〕 あなたの着ていらつしやる着物の縫ひ目の一つ一つにさへも、私の心までが入つてしまつたやうでありますよ。
〔評〕 心をこめて愛人の衣を縫つた女の、實感から發した純情の歌と思はれる。自分の心が男の身に添つてゐるといふ氣持よりも、自分の心はその衣にさへ滲透しきつて、今自ら守るのは、心なき空虚の肉體のみであるといふ詠歎の方が深い。
〔語〕 ○けせる 「着る」の敬語「着《け》す」に、完了助動詞「り」のついたもの。○針目おちず 針目ごとに「寢る夜おちず」(六)參照。
〔訓〕 ○入りにけらしも 白文「入爾家良之」で、この下に「毛」「奈」「那」などの脱字とする説が多い。
 
    中臣朝臣東人《なかとみのあそみあづまひと》、阿倍女郎に贈れる歌一首
515 獨|宿《ね》て絶えにし紐をゆゆしみと爲《せ》むすべ知らにねのみしぞ泣く
 
〔題〕 中臣朝臣東人 續紀和銅四年に、正七位から從五位下に進み、天平四年に兵部大輔、五年に從四位下となつてゐる。
〔譯〕 獨寢てゐて、着物の紐の切れたのがいまいましく、どうしたらよいか分らず、ただ聲をだして泣くのみである。
〔評〕 たださへもの憂い獨寢に、着物の紐が切れたのである。男の手にはもてあましたことであらう。しかし、ただそれだけでは、いかに慣用語とはいへ、結句へのつらなりが穩かでない。あらゆる身邊の事物に關して、前兆豫見の(31)俗新考が根強く行はれてゐた當時であるから、着物の紐がひとりでに切れたことに、忌々しい不吉なものを感じたのであらう。特に紐を結ぶ習俗と戀愛とは深い關係のあつたことは、集中よく見ることである。「一七八九」「四四〇四」「四四〇五」等は、この歌の理解に役立つと思ふ。
〔語〕 ○絶えにし紐 絶えてしまつた紐。○ゆゆし いまいましい、縁起がわるいの意。
 
    阿倍女郎の答ふる歌一首
516 吾が持《も》たる三相《みつあひ》に搓《よ》れる絲もちて附けてましもの今ぞ悔《くや》しき
 
〔譯〕 私が持つてをります三つ合によつた丈夫な絲で、あなたの紐をしつかりと附けておけばよかつたものを。今となつて、殘念なことであります。
〔評〕 女らしい眞情が、すなほに表現されてをるとも考へられるが、また、おくられた歌に對して、よいやうにいひなしたものとも考へられる。
〔語〕 ○三相によれる絲 三筋の絲をよりあはせた丈夫な絲。○附けてましもの 附けたであらうものを。さうしておけばよかつたの意が含まれてゐる。
 
    大納言兼大將軍大伴卿の歌一首
517 神樹《かむき》にも手は觸るとふをうつたへに人妻といへば觸れぬものかも
 
〔題〕 大伴卿 安麿のこと。「一〇一」參照。
〔譯〕 神木にさへも手は觸れるものであるといふに、人妻といへば絶對に觸れてはならぬものであることか、まあ。
〔評〕 許されぬ戀に對する惱みが、武人らしい太い線で一息に詠まれてをる。標《しめ》をめぐらした神聖な木を比較にとつ(32)たのは、越えがたい束縛を嘆じてをる樣がみえる。「むらさきのにほへる妹をにくくあらば人づまゆゑに吾《われ》戀ひめやも」(二一)などにくらべて、單純ながら反省があるのは、人柄のためであらうか、時代のためであらうか。
〔語〕 ○神樹 神木。何の木でも、神の領ずる木の義で、神杉といふ類である。○うつたへに 偏へに。
 
    石川郎女の歌一首
518 春日野の山邊の道を恐《おそり》なく通ひし君が見えぬ頃かも
 
〔題〕 歌一首 金澤本、元暦校本等の古寫本には、この下に「即佐保大伴大家也」と脚註がある。佐保大伴は佐保に住んでをる大伴の意で、大伴旅人のこと、大家は姑をいふ。即ち安麿の妻といふことである。
〔譯〕 春日野の山のほとりの道を、恐れもせず通うておいでになつたあなたが、この頃はお見えにならぬことでございますよ。
〔評〕 寂しい山道を恐れなく通うて來たといふ一二三句に、女性の世界から眺めた男性觀がうかがはれる。愛人が遠くなつた頃、今更のやうにその頼もしさが思ひかへされて、戀しさの新しくなつたことであらう。卷十二に形式の似た歌がある。「水莖の岡のくず葉を吹きかへし面知《おもし》る兒等が見えぬ頃かも」(三〇六八)。
〔語〕 ○恐りなく 「恐《おそ》り」は「恐る」(四段活用)の名詞となつたもの。
 
    大伴女郎の歌一首
519 兩障《あまざはり》常する君はひさかたの昨夜《きそのよ》の雨に懲《こ》りにけむかも
 
〔題〕 大伴女郎 元暦校本、西本願寺本等の古寫本には脚註があつて「今城王之母也。今城王後賜大原眞人氏也。」と見えるが、旅人の妻の大伴郎女と同人かどうかはわからない。
(33)〔譯〕 雨ざはりを常になさるあなたは、昨夜の雨にお懲りになつてしまつたでありませうか。
〔評〕 愛人の來なかつた翌朝、詠んで贈つたのであらう。さりげなく云うた中に、鋭い皮肉があつて、機智をうかがはしめる。
〔語〕 ○雨ざはり 雨に障られて家を出ないこと。
〔訓〕 ○雨ざはり 次の歌に「雨づつみ」とあるから、これもさう訓むといふ管見や古義の説もあるが、字面から無理である。
 
    後の人の追ひて同《なぞら》ふる歌一首
520 ひさかたの雨も降らぬか雨《あま》づつみ君に副《たぐ》ひてこの日暮らさむ
 
〔題〕 後の人の追ひて同ふる歌 後の人が大伴女郎の心になぞらへ作つた歌。
〔譯〕 雨が降ればよい。あなたは雨がきらひで外出をなさらないから、あなたと一緒に双んで、今日の一日を暮しませうに。
〔評〕 雨をきらつて外出をせぬ愛人とならんで、一日を暮さむために、雨の降るを願つたので、輕妙な思ひつきである。
〔語〕 ○雨づつみ 「雨ざはり」に同じ。○君にたぐひて 君と竝んで。二人ゐて。
 
    藤原|宇合《うまかひ》大夫、任を遷さえて京に上りし時、常陸娘子《ひたちのをとめ》の贈れる歌一首
521 庭に立つ麻手刈り干《ほ》し布|曝《さら》す東女《あづまをみな》を忘れたまふな
 
〔題〕 藤原宇合 「三一二」參照。續紀養老三年七月に「始置2按察使1令3常陸國守正五位上藤原宇合管2安房上總下(34)總三國1」とあるから、この任の終つた時、即ち養老六七年頃の事であらう。
〔譯〕 庭に生えてゐる麻を刈つて干したり、布をさらしたりして働いてをりますこの東國の女を、都へお歸りになりましても、どうかお忘れ下さいますな。
〔評〕 常陸國の守であつた宇合卿の知遇を受けた娘子であるから、實際に麻を刈り布を曝すやうな農家の女ではなく、別れの宴席に侍した遊行女婦などであらうとも思はれる。
〔語〕 ○庭に立つ 庭に麻が植ゑてあるのであらう。「庭に立つあさで小衾」(三四五四)ともあり、農家の實景である。麻手は麻に同じい。
〔訓〕 ○麻手 元暦校本等による。○布曝す 白文「布暴」の「暴」は元暦校本によつた。類聚古集「曝」とし、他の諸本は「慕」となつてゐる。通行本「慕」によつてシキシヌブの訓が行はれてゐるが、意が通じ難い。
 
    京職藤原大夫、大伴郎女に贈れる歌三首
522 をとめ等《ら》が珠匣《たまくしげ》なる玉櫛の神《くす》はしけむも妹に逢はずあれば
 
〔題〕 京職藤原大夫 麿のこと。京職大夫は京職の長官で、京職は左京職と右京職とに分れ、左右の京の戸籍、貢擧、訴訟等を掌る。麿は不比等の第四子。後、兵部卿參議となり、天平九年七月薨じた。大伴郎女 左註によつて坂上郎女と知られる。
〔譯〕 をとめらの珠匣の中に大切にしてをる玉櫛のやうに、奇《くす》しく珍らしくおもはれることであらう、長く妻に逢はずにをるので。
〔評〕 久しく逢はぬから、たまたま逢うたらば、めづらしく思ふであらうと、女が大切にする櫛によそへていうたのである。
(35)〔語〕 ○玉櫛 よい櫛、大事にする櫛の義。
〔訓〕 ○くすはしけむも 白文「神家武毛」舊訓メヅラシケムモ、代匠記初稿本カミサビケンモ、古義タマシヒケムモなどある。代匠記の訓によれば、古くなつた、年をとつたであらうの義となる。
 
523 よくわたる人は年にもありとふを何時《いつ》の間《あひだ》ぞも吾が戀ひにける
 
〔譯〕 よく忍ぶ人は、一年にもわたつて我慢するといふに、別れたのは何時のことであらうか、自分はもう戀しく思うてをることである。
〔評〕 一年間も妻に別れたまま堪へ忍ぶといふ人にくらべて、別れたのは此の間のことであつたのに、すでに戀に堪へられなくなつた自己を省みたのである。卷十三の古歌「年わたるまでにも人はありといふを何時の間《あひだ》ぞも吾《あれ》戀ひにける」(三二六四)は、何か關聯するところがあるやうに思はれる。一二三句は、古歌の方が平易である。
〔語〕 ○よくわたる 妹に逢はずして、よく年月を經渡り堪へ忍ぶの意。
〔訓〕 ○何時の間ぞも 白文「何時間曾毛」で代匠記精撰本のイツノホドゾモでもよいが、拾穗抄の訓の方が穩かである。
 
524 蒸被《むしぶすま》なごやが下《した》に臥《ふ》せれども妹とし宿《ね》ねば肌し寒しも
 
〔譯〕 むしぶすまの柔かな下に臥してはゐるが、妻と寢ぬので、肌が寒いことであるよ。
〔評〕 古事記の歌にただ一つのみ用ゐられてをる「むしぶすまなごやが下に」を拾ひあげたのが、作者の趣向であらう。教養のある官人もかやうにうちつけに云うてゐるが、卷二十の防人の作にこの例が二首ある。「旅衣八重著重ねていぬれどもなほはだ寒し妹にしあらねば」(四三五一)「ささが葉のさやぐ霜夜に七重|著《か》る衣《ころも》に益せる子ろが膚《はだ》は(36)も」(四四三一)。
〔語〕 ○蒸衾 暖なる由の名(記傳)蟲衾即ち絹の衾(稜威言別)カラムシのムシで苧麻の衾(全釋)の諸説がある。今は記傳の説をとる。○なごやが下に 「なごや」は「にこや」に同じ。柔かな下にの意。
 
    大伴郎女の和《こた》ふる歌四首
525 佐保河の小石《さざれ》踐《ふ》み渡りぬばたまの黒馬《くろま》の來《く》る夜《よ》は年にもあらぬか
 
〔譯〕 佐保河の小石を踏み渡つて、あなたのお乘りになる黒馬が、私の所へ來る夜が、一年に一度でもあればよいに。
〔評〕 愛人の通うて來ることが遠ざかつたのを嘆いて「年にもありとふを」を受けて「年にもあらぬか」と和へたのである。卷十三の古歌に連絡がありさうである。「川の瀬の石ふみ渡りぬばたまの黒馬《くろま》の來る夜は常にあらぬかも」(三三一三)。
〔語〕 ○年にもあらぬか せめて年に一度でもあつて欲しいの意。年中いつもあれかしと願ふ意(古義)ではない。
〔訓〕 ○小石 コイシとよむ説もある。○黒馬の來る夜は 白文「黒馬之來夜者」で、舊訓コマノクルヨハであつて「黒」の音を略してコに用ゐたといふ説もあるが、字面通りクロゴマノクルヨ(代匠記初稿本)とするのが、枕詞からの續き工合からいつても正しいと思はれる。しかしてそれをクロマとよむがよい。古義には、クロゴマノクヨハと訓んでゐるが「來」の活用から見てよくない。
 
526 千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪|止《や》む時も無し吾が戀ふらくは
 
〔譯〕 千鳥の鳴く佐保の河瀬のさざれ浪のやうに、止む時もありませぬ、私が戀しく思ふ心は。
〔評〕 汀にうち寄せるさざ波の音を聞くやうな、小刻みですつきりとした快調がある。相似た表現の歌が多く、殊に(37)卷十三の歌「あごの海の荒磯の上のさざれ浪吾が戀ふらくはやむ時もなし」(三二四四)に似てゐるが、調子に細味な快さを與へたのは巧である。
〔語〕 ○千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪 以上三句「止む時も無し」にかかる序。
 
527 來《こ》むといふも來《こ》ぬ時あるを來《こ》じといふを來《こ》むとは待たじ來《こ》じといふものを
 
〔譯〕 あなたは、私の方へ來ようとおつしやつてもいらつしやらない時があるのですから、今夜は來まいとおつしやるのを、それでも、いらつしやらうかとはお待ちしますまい。來まいとおつしやるのですから。
〔評〕 珍らしい表現法に、理と趣とが兼ね備はつて、この才女の非凡な伎倆を示すものである。極めて抜巧的ではあるが、それが目障りにならず、人情を描寫して剰すところがない。結句の繰り返しによつて、なほあきらめ切れずに愛人を待つ氣のおこる自分の心へ、條理をつくして、噛んで含めるやうに云ひきかせてをるやうな趣が巧に出てをる。
なほこの歌と同じ技巧の歌に「二七」「一〇一八」「二六四〇」等が名高い。
 
528 千鳥鳴く佐保の河門《かはと》の瀬を廣み打《うち》橋渡す汝《な》が來《く》とおもへば
     右の郎女は、佐保大納言卿の女なり。初め一品穗積皇子に嫁《ゆ》き、寵《うつく》しまゆること儔《たぐひ》なかりき。皇子薨りし後、藤原麻呂大夫、この郎女を娉《つまど》へり。郎女は坂上の里に家《す》めり。仍りて族氏《やから》號《なづ》けて坂上郎女と曰へり。
 
〔譯〕 千鳥の鳴く佐保河の渡り場は瀬が廣いから、橋を渡しておきます。あなたがおいでになりさうな氣がするので。
〔評〕 實際に假の板橋をかけたかどうかは問ふところではない。愛らしい氣分のする歌である。
〔語〕 ○河門 渡るところで、兩岸の迫つてゐるところ。○打橋 かけはづしの出來る板の假橋。○汝が來 汝は、女が男を呼ぶとしては珍しい例である。黒馬を指すのかも知れぬ。「が」の下は「來る」とあつてよい所である。
(38)〔左註〕 佐保大納言卿は大伴安麻呂、穗積皇子は天武天皇の皇子、「一一四」參照。坂上里、今の奈良坂附近であらう。
 
    また、大伴坂上郎女の歌一首
529 佐保河の岸のつかさの柴な刈りそね在りつつも春し來らば立ち隱るがね
 
〔譯〕 佐保河の岸の小高い所の柴をお刈りなさいますな。かうして置いて、春が來たならば、あなたと共に隱れ逢ふために。
〔評〕 愛人と柴のかげに隱れて忍び逢ふとは、教養のある上流の婦人としては、大膽な云ひ樣であるが、田園の娘子らしく面白く詠みなしたのであらうとも考へられる一方、又これが實生活の姿であつたとも思はれぬことはない。要するに「水邊の柴を刈るな」といふ處に、かうした戀愛の歌の定型的表現があつたのであらう。意味は別であるが、句法は卷十一なる古歌集中の歌に似通つてゐる。「崗《をか》ざきのたみたる道を人な通ひそ在りつつも君が來まさむ避道《よきみち》にせむ」(二三六三)詩材に形式に、作者の多方面の才華を語るものである。
〔語〕 ○岸のつかさ 岸の高いところ。「つかさ」はすべて高いところをいふ。「倭のこの高市に小|高《だか》る市のつかさに」(古事記下卷)ともある。○柴な刈りそね 柴を刈つて下さるなよの意。○在りつつも そのままにして置いて。「八七」參照。○がね 料にの意、希望の意を表する。
 
    天皇、海上女王《うなかみのおほきみ》に賜へる御歌一首
530 赤駒の越ゆる馬柵《うませ》の標《しめ》結湯《ゆ》ひし妹が情《こころ》は疑ひも無し
     右は、今案ふるに、此の歌は擬古の作なり。但、時の當れるを以ちて、便《すなはち》この歌を賜へるか。
 
(39)〔題〕 天皇 元暦校本などの註の如く聖武天皇。海上女王 續紀によると、養老七年正月從四位下、神龜元年二月從三位を授けられた。次の歌の占寫本の註によると志貴皇子の御女。
〔譯〕 赤駒が越えるので作つた馬柵《うませ》のやうに、自分のものと標を結うておいた女の心は、疑ひもない。
〔評〕 かたく約した女の心變りのないことを、馬が越えて逃げぬやうにしつらへた馬柵にたとへたのは、農人の思ひつきらしい野趣を帶びてをる。農人が、ひとり得意げにつぶやいてをるのを聞くやうなをかしみもある。左註にあるやうに、天皇が古歌をとつて贈り給うたのであらう。
〔語〕 ○赤駒の越ゆる馬柵の 以上「標結ひし」の序。馬柵は馬が外へ出ぬやうに作つた柵。○標緒ひし 既にわがものと、深い約束の出來たものの意。
〔訓〕 ○一首 この第詞の下に桂本、元暦校本などは「寧樂宮即位天皇也」と小字で記してゐる。○馬柵 舊訓ウマオリノ、考マヲリノであるが、玉の小琴に從つた。卷十四「うませ越しに」(三五三七、或本歌)とある。
〔左註〕 擬古の作とは、詞調を古歌に模して作ることであるが、その時に適當するやうに古歌を修正して贈られたの意であらう。
 
    海上女王の和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
531 梓弓|爪引《つまび》く夜音《よと》の遠音《とほと》にも君が御幸《みゆき》を聞《き》かくしよしも
 
〔譯〕 梓弓を引く夜の音のやうに、遠くからの音づれでも、御幸を承りますのは、まことにうれしうございます。
〔評〕 鳴弦の音を遠くで聞くのを序としたのである。遠音にかけ用ゐたのであるが、その響を聞いて晴々とした氣分になるといふ感も浮んでゐて、結句への心理的なつらなりも感ぜられる。如何にものびやかに樂しさうな調である。
〔語〕 ○梓弓爪引く夜音の 隨身が夜の陣でたてる弦打の音が遠くまで聞える意で「遠音」にかける序とした。「梓(40)弓爪引く夜音の遠音にも聞けば悲しみ」(四二一四)參照。○遠音にも 遠方からの音聲にも。○君が御幸を 天皇が他所にお出ましになる物音を同じ宮中ながら遠くで聞かれるのであらう。○聞かくしよしも 聞くことが好ましいことである。
〔訓〕 ○一首 この下に桂本以下古寫本には小字で「志貴皇子之女也」と註してゐる。○御幸 考は「御事」の誤としてゐるが、諸本すべて「御幸」に作つてゐるから、このままで解すべきである。
 
    大伴|宿奈麻呂《すくなまろ》宿禰の歌二首
532 うち日さす宮に行く兒をまがなしみ留《と》むれば苦し遣《や》ればすべなし
 
〔題〕 大伴宿奈麻呂 「一二九」參照。續紀養老三年七月に「始置2按察使1令3備後國守正五位下大伴宿奈麻呂宿禰管2安藝周防二國1」とある。その頃任國から采女のやうな宮仕の女を出した時の歌であらうといはれてゐる。
〔譯〕 宮中に宮づかへに行く女の可愛いさに、ゆくなと引きとめるのは心苦しいが、しかしまた、出して遣るのはせんすべなくつらいことである。
〔評〕 作者が國守として在任中、部下の郡司などの娘が宮仕に行くのを、惜しんで詠んだもの。輕快な詞調ですつきりと云ひ流したところに、長官らしい態度があらはれてをる。
〔語〕 ○うち日さす 枕詞。「四六〇」參照。○まがなしみ 可愛いさに。○遣ればすべなし 「やる」は、原文に「聽去」とあり、行くを聽すの意。「すべなし」はせむすべがないの意。
〔訓〕 ○二首 この下に桂本以下古寫本は多く小字で「佐保大納言卿之第三子也」と註がある。○留むれば苦し云々 白文「留者若聽去者爲便無」で、舊訓トムレバクルシヤレバスベナシによつた。紀州本などにはトムルハ、古義にはヤルハとしてゐる。なほ古義トドムハと訓んでゐる。
 
(41)533 難波潟潮干の浪凝《なごり》飽くまでに人の見る兒を吾し乏《とも》しも
 
〔譯〕 難波潟の潮の干たあとのやうに、飽くまでに人が見る兒を、自分は見ることが出來ないで、哀しく思ふことである。
〔評〕 その美しい兒を飽くまでに見ることの出來る官人等を、羨しく思うたのである。一二三句に技巧はあるが、娘子への熱意がひそんでをる。序は、難波潟の潮干の景色の面白さを飽くまで見たい、と云ひかけたのである。老麿の作にも「難波潟潮干の餘波《なごり》つばら見む家なる妹が待ち問はむ爲」(九七六)とある。
〔語〕 ○難波渇潮干の浪凝 なごりは浪のひいたあとの水たまり(代匠記)飽くまでの序。干潟に遊ぶのは飽かず面白いから飽くまでにかかる。○人の見る兒を 人は都人等を指す。○乏し 羨しと同義。「五三」參照。
 
    安貴王《あきのおほきみ》の歌一首并に短歌
534 遠嬬《とほづま》の 此間《ここ》に在らねば 玉|桙《ほこ》の 道をた遠《どほ》み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安からぬものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言問《ことと》ひ 吾がために 妹も事無く 妹がため 吾も事無く 今も見る如《ごと》 副《たぐ》ひてもがも
 
〔題〕 安貴王 「三〇六」參照。
〔譯〕 遠方にをる妻は、此處に居らず、そこへ行く道は遠いので、思ふ心は安からず、歎く思は安まらないものである。自分は、大空を行くあの雲であればよいが、空を高く飛ぶ鳥であればよい。さうしたらば、明日にも行つて妻と話し、自分の爲に妻も無事に、また妻の爲に自分も無事で、今見るやうに二人竝び副うてをりたいものである。
〔評〕 端正に整うた格調である。格の正しい對句によつて、抑へられた情熱が、語句のあはひに喘ぎ出てをるやうで(42)ある。左註のやうな境遇にあつては、飛行自在の雲や鳥を望んだのも、十分に同情して鑑賞することが出來る。終の三句が各七音になつてゐるのは、強調の手法であらう。
〔語〕 ○遠嬬 遠く離れてゐる妻。「吾が遠妻の言ぞ通はぬ」(一五二一)。○道をた遠み 道が遠いので。○思ふそら 思ふ心地。○安けなくに 安からなくに。○たぐひてもがも 一緒に竝んでゐたいものであるの意。「たぐふ」(五二〇)參照。
〔訓〕 ○安けなくに 白文「安莫國」で舊訓ヤスカラナクニ。代匠記初稿本の書入、ヤスケクナクニとあつて、これも惡くはないが、假名書の例に「奈氣久蘇良夜須家奈久爾」(三九六九)がある。○今も見る如 白文「今裳見如」で、舊訓イマモミルゴトク、略解イマモミシゴトと訓み、宣長の「京にあつて見た如く今も」といふ説を擧げてゐる。全釋は、ここに七言の句三つ續いてゐるから、脱落があるのかといつてゐる。
 
    反歌
535 敷妙の手枕《たまくら》まかず間《あひだ》置て年ぞ經にける逢はなく念へば
     右は、安貴王、因幡の八上采女を娶りて、係念《おもひ》極めて甚しく、愛情《うるはしみ》尤も盛なり。時に勅して不敬の罪に斷り、本郷《もとつくに》郷に退去《しぞ》かしむ。是《ここ》に王の意、悼怛《いた》みて聊か此の歌を作れり。
 
〔譯〕 自分は妻の手枕をもしないで、その間に長く月日がたち、年がかはつてしまつた。妻にあはなくなつたほどを考へて見ると。
〔評〕 妻に逢はぬ程を考へてみれば、一年になると云ふのである。長歌が、雜音を漉《こ》しとつたやうに整うてゐるに反して、これはややごたごたとした印象を與へる。持つてまはつた云ひ樣をした故であらう。
(43)〔語〕 ○間置きて 時を隔てて。○逢はなく念へば 逢はぬことを考へてみるとの意。
〔左註〕 因幡の八上采女 傳不詳。因幡國八上郡から出た采女であらう。本郷は因幡國、悼怛はいたみ悲しむ意。宮中の采女は、鎌足が安見兒を娶つた時のやうな特殊な場合(九五)以外は、すべて嚴重な禁斷の女性であつた。
 
    門部王《かどべのおほきみ》の戀の歌一首
536 飫宇《おう》の海の潮干の潟の片念《かたおもひ》に思ひや行かむ道の長|道《て》を
     右は、門部王、出雲守に任けらえし時、部内の娘子を娶れり。未だ幾時《いくばく》ならずして、既に往來を絶ちき。月を累ねし後、更《また》愛《うつく》しむ心を起し、仍りて此の歌を作りて娘子に贈り致しき。
 
〔題〕 門部王 出雲守であつた。「三七一」參照。
〔譯〕 飫宇の海の潮の干た潟――片おもひに思ひながら通うて行くことであらうか、この長い道をば。
〔評〕 同じ作者の歌が「飫宇の海の河原の千鳥|汝《な》が鳴けば吾が佐保河のおもほゆらくに」(三七一)とある。國府に近い海をとりいれ、相手の愛情が得られぬのをかこつさまに言ひなしたのである。
〔語〕 ○飫宇の海の 「三七一」參照。○潮干の潟の 以上二句同音反覆により 「片おもひ」の序。○道の長|道《て》を 「君がゆく道の奈我?をくりたたね燒き亡さむ天の火もがも」(三七二四)ともある。「長道」(二五五)に同じ。
 
    高田女王の今城王《いまきのおほきみ》に贈れる歌六首
537 言《こと》清《きよ》く甚《いた》もな言ひそ一日だに君いし無くは忍《しの》び敢《あ》へぬもの
 
〔題〕 高田女王 「一四四四」にも見え、そこに「高安之女也」と註がある。高安は、天平十一年に姓を賜はつて大(44)原眞人高安といつた高安王のことであらう。今城王 傳不詳。「一六〇四」の大原眞人今城と同人かとも思はれるが、時代が後れすぎるやうである。
〔譯〕 さつぱりとそんなにきつくお言ひなさいますな。一日でもあなたがなくては、堪へ得られませぬものを。
〔評〕 もうこれきり逢はぬなどと冷淡にお言ひなさるな、といふ意が、簡潔に上二句に巧みに云ひ含められてをる。
〔語〕 ○言清く さあらぬ體に言ひなす意(古義)。さつぱりと平氣らしくいふ意(全釋)ともいつてゐる。○甚もないひそ ひどく言ふなの意。○君いし無くは 「い」は「志斐い」(二三七)の「い」と同じ。
〔訓〕 ○忍び敢へぬもの 通行本以下諸本「痛寸取物」とあり、桂本には「物」が「勿」とある。考は「取」の下に「所」の脱としてゐる。今は古義の「偲不敢物」といふ訂正説に從つたが、上代では忍と忍とは實は通用しない。古點はイタキトリモノ、舊訓はイタキキズゾモ、代匠記精撰本イタキトルモノ等、いづれも適當でない。
 
538 他辭《ひとごと》を繁み言痛《こちた》み逢はざりき心ある如《ごと》な思ひ吾が背子
 
〔譯〕 人の噂が繁く、ひどうございますので、お目にかかりませんでした。別な心があるやうにお思ひなさいますな、あなた。
〔評〕 前の歌とは違つて、はきはきとした句調である。第三句で確然とした切りかたが、殊に明快なひびきを持つてをる。
〔語〕 ○人言を繁み言痛み 「一一六」參照。
〔訓〕 ○吾が背子 白文「吾背子」は、桂本・紀州本による。元暦校本は「子」を「乎」に作り、その他の本には「子」がない。
 
(45)539 吾が背子し遂《と》げむといはば人言《ひとごと》は繁くありとも出でて逢はましを
 
〔譯〕 あなたが是非に逢はうとさへお言ひになつたならば、人のうはさがどんなにやかましくても、出てお逢ひしましたものを。
〔評〕 愛人の熱情を求めてをる可憐な聲である。
〔語〕 ○遂げむといはば 二人の中の戀を成就しようといふならば、の意。○逢はましを 「まし」は事實に反する假設推量。
 
540 吾が背子に復《また》は逢はじかと思へばか今朝の別のすべなかりつる
 
〔譯〕 あなたに、またと再び逢へまいと思ひました故か、今朝のお別は、致し方もなく悲しうございました。
〔評〕 きぬぎぬの悲しみを自らいぶかるやうに、心の動きのあとをたどつて、深い悲しみの依るところを極めようとする云ひ樣である。それによつて、再び逢ふことも望み難いやうな忍ぶ戀の仲を語つてをる。
 
541 現世《このよ》には人言《ひとごと》繁し來《こ》む生《よ》にも逢はむ吾が背子今ならずとも
 
〔譯〕 現在の世では、人の口がうるさうございますから、來世に行つて、心のどかに逢ひませう、今は思ふにまかせませずとも。
〔評〕 高田女王も今城王も、その傳が詳かでないが、複雜な事情のもとに忍び逢ふ仲であつたことは、前の四首にあらはれてをる。殊にこの作で、相會の希望を來世につなぐに至つては、なみなみならぬ境遇であつたことを語つてをる。又、かやうに戀愛の成就を來世に望むのは、集中ただこの一首あるのみで、萬葉人の未來觀を考へる上に、貴い(46)資料である。
〔語〕 ○來む生 「三四八」參照。
 
542 常|止《や》まず通ひし君が使|來《こ》ず今は逢はじとたゆたひぬらし
 
〔譯〕 常に止まず通うてゐたあなたのお使が來ないのによりますと、あなたはもう逢ふまいと、お心が動搖して居られるさうな。
〔評〕 使の來るのが遠ざかつたにつけて、愛人の心變りが思はれて不安になつたのである。人言を恐れて、氣の弱い戀をつづけてゐた間では、自然の疑ひであらう。以上の六首は、同時の作ではないと思はれる。
〔語〕 ○たゆたひぬらし 心が動搖して、躊躇してゐるらしい。
〔訓〕 ○常止まず 白文「常不止」で、舊訓トコトハニ。玉の小琴による。
 
    神龜元年甲子冬十月紀伊國に幸しし時、從駕《みとも》の人に贈らむ爲に、娘子に誂《あとら》へらえて作れる歌一首并に短歌
    笠朝臣金村
543 天皇《おほきみ》の 行幸《みゆき》のまにま 物部《もののふ》の 八十伴《やそとも》の雄と 出で行きし 愛《うつく》し夫《づま》は 天翔《あまと》ぶや 輕《かる》の路《みち》ゆ 玉|襷《だすき》 畝火を見つつ 麻裳《あさも》よし 紀路《きぢ》に入り立ち 眞土山《まつちやま》 越ゆらむ君は 黄葉《もみぢば》の 散り飛ぶ見つつ 親《むつましみ 吾はおもはず 草枕 旅を宜《よろ》しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには 且は知れども しかすがに 黙然《もだ》得《え》あらねば 吾が背子が 行《ゆき》のまにまに 追《お》はむとは 千遍《ちたび》おもへど 手弱女《たわやめ》の 吾が身にしあれば 道守《みちもり》の 問はむ答を 言ひ遣《や》らむ 術《すべ》を知らに(47)と 立ちて躓《つまづ》く
 
〔譯〕 天皇の行幸のお供をして、朝廷へ仕へまつる八十伴の雄として出て行つたわが愛する夫《つま》は、輕《かる》の道から、畝傍《うねび》山を見ながら通り過ぎて、紀の國へ入りたち、眞土山を越えておいでになると思はれるあなたは、紅葉の風に散り飛ぶ面白い景色を眺めて居て、私のことは戀しくも思はないで、旅をまことに結構であると思つていらつしやるであらうと、うすうすは、一方では知つてをるけれども、それでもどうしても黙つて居られないから、吾が夫の行かれたままに、その後を追つて行かうと幾度も思ふけれども、かよわい女の身であるから、途中で道の番人が詰問する時の答を如何に言うてやればよいか、その術も知らないので、しかたがなく爪先立に立ち上つてつまづくことであるよ。
〔評〕 切りもなくつらねたかぼそい思の絲に、哀調が織りあげられて、可憐な歌になつてをる。後半に、吾《わ》をばおもはず・思ひつつ・千遍《ちたび》おもへど、君はあらむと・黙然《もだ》得《え》あらねば・吾身にしあれば、且は知れども・術を知らにと、といふ三樣の動詞を繰り返した語句を、うち混ぜて用ゐてをる。娘子らしくたどたどしい趣を出すための技巧であらう。終りの道守に答へる術を知らぬといふのも、幼い者らしい云ひ樣である。終の句の「立ちてつまづく」は、卷十三にも「馬じもの立ちてつまづく」(三二七六)とある。
〔語〕 ○物部の八十件の雄と 「四七八」參照。○天飛ぶや 「二〇七」參照。枕詞。○輕の道ゆ 輕の街道を通つて。○麻裳よし 「五五」參照。○あそそには うすうすに、ほのかに、の意といふ。古義には「舊説に、物を推し心得たる詞なりと云へり」とある。○且は知れども 一方では知つてゐるけれども。○しかすがに さすがに。○道守 道の番人。山守、野守の類。○立ちてつまづく 行き惱む意。考「そばたちて望む樣」といふのは從ひ難い。
〔訓〕 ○天皇 舊訓スメロギ。古義による。○むつましみ 舊訓ムツマシモ。玉の小琴による。シタシクモとよむ説もある。
 
(48)    反歌
544 後《おく》れ居て戀ひつつあらずは紀の國の妹背の山にあらましものを
 
〔譯〕 後に殘つてをつて、こんなに戀しく思つてばかりゐないで、むしろあの紀の國の妹背の山であつたらばよかつたらうに。さうすれば、いつまでも絶えず竝んでをられるであらうに。
〔評〕 羨しくも妹と背の山が竝んでゐるのを思つたもの、適切な思ひつきである。
〔語〕 ○戀ひつつあらずは 「八六」參照。○妹背の山 背の山「三五」參照。妹山は川を隔てて澁田村にあるといふ。
 
545 吾が背子が跡ふみ求め追ひ行かば紀の關守い留《とど》めなむかも
〔譯〕 私が夫の足跡をたづねて追つて行つたならば、紀の國の關の番人がとめてしまふことであらうか、まあ。
〔評〕 長歌の終りの趣向に似て、旅に馴れぬ娘子がひとり思ひわづらふやうに、おぼつかなげにいひなしたのである。
〔語〕 ○紀の關守い 紀の關は紀伊國海草郡山口村大字湯屋谷で、和泉より紀伊に越える道に當るといふ。「い」は主格の助詞。「二三七」參照。
〔訓〕 ○留めなむかも 白文「將留鴨」で、舊訓トドメムカモ。桂本・元暦校本などはトドメラムカモとある。玉の小琴の訓による。
 
    二年乙丑春三月、三香原離宮《みかのはらのとつみや》に幸しし時、娘子《をとめ》を得て作れる歌一首并に短歌    笠朝臣金村
546 三香《みか》の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行合《ゆきあひ》に 天雲《あまぐも》の 外《よそ》のみ見つつ 言問《ことと》はむ 縁《よし》の無け(49)れば 情《こころ》のみ 咽《む》せつつあるに 天地の 神祇《かみ》こと寄《よ》せて 敷妙の 衣手《ころもで》易《か》へて 自妻《おのづま》と 憑《たの》める今夜《こよひ》 秋の夜の 百夜《ももよ》の長さ ありこせぬかも
 
〔題〕 三香原離宮 山城國相樂郡、後に恭仁京となつた地。娘子 遊行女婦であらう、と一般に説かれてゐる。
〔譯〕 三香原の旅の宿に於いても、道の途中で出會つた時でも、空にある雲のやうに、そなたをよそにばかり見ながら、物いひかけるたよりもないので、心にばかり思つて、むせてゐるところに、天地の神々がこと依させられて、かうして衣の袖を交して、自分の妻とたのんでゐる嬉しい今夜は、秋の夜を百夜もつづけたほど長くあつてくれないかなあ。
〔評〕 行幸に從駕した旅で、娘子を得たといふのである。物々しい語句をつかつて、誇張して云うてゐるのも、却つて面白く思はれる。
〔語〕 ○道の行合に 途中で行き會つた時に。○天雲の よそにかかる枕詞。「かくのみし相思はざらば天雲の外《よそ》にぞ君はあるべくありける」(三二五九)。○よしの無ければ たよりがないから。○神祇こと依せて ことよせては事|依《よさ》しと同意で、神のよせ給ひてと云ふ意(略解宣長説)お任せになつて。○自妻と 「と」は「として」の意。○ありこせぬかも 「一一九」參照。
 
    反歌
547 天雲《あまぐも》の外《よそ》に見しより吾妹子に心も身さへ縁《よ》りにしものを
 
〔譯〕 天にある雲のやうによそのものとして見た時から、自分はそなたに、心も身も共に、寄つてしまうたことであつたよ。
(50)〔評〕 遠くよそに見て以來、身も心もうちこんで慕うてをつたに、今夜逢うたのが嬉しいと、言外に喜びをただよはせてをる。手法は類型的のものであるが、のびのびと詠みあげた調子に、なめらかな快さがある。獨創的なところや新奇な趣向はなく、既に出來あがつた型に從つて樂々と詠みあげながら、練れて明るい味を持つてゐるのが、この作者の特長である。
〔語〕 ○心も身さへ 心さへもの意。
 
548 今夜《こよひ》の早く明けなばすべを無み秋の百夜《ももよ》を願ひつるかも
 
〔譯〕 たのしい今夜が早く明けてしまつては仕樣がないので、秋の長夜の百夜もつづくほど長くと願つたことであるよ。
〔評〕 明るい感覺がほほゑまれる。よどみのない調子になめらかな潤澤の感があつて、飽かぬ樂しみを迫ひ求めても、あせつたところや追つたところがない。時代の先後は明かではないが、次の如く似た作がある。「月かさね吾が思《も》ふ妹に逢へる夜は今し七夜《ななよ》を續《つ》ぎこせぬかも」(二〇五七)「日暮れなば人知りぬべみ今日の日の千歳の如く在りこせぬかも」(二三八七)。
〔語〕 ○秋の百夜を 秋の長夜の百夜の長さの意。
〔訓〕 ○今夜の 白文「今夜之」で、仙覺のコノヨラノ、元暦校本のコヨヒノヤなどと五音に訓まうとしてゐるが、古點どほり、コヨヒノでよい。
 
    五年戊辰、太宰少貳石川|足人《たりひと》朝臣の任を遷さえLを、筑前國蘆城驛家に餞せる歌三首
549 天地の神も助けよ草枕旅ゆく君が家に至るまで
 
(51)〔題〕 太宰少貳 「三二八」參照。石川足人 續紀に和銅四年四月正六位下から從五位下に進み、神龜元年二月從五位上になつた事が見えるが、少貳になつたことは見えぬ。脱したのであらう。蘆城驛 筑前國筑紫郡で、今御笠村大字阿志岐があり太宰府の東南に當る。
〔譯〕 天地の神々も、君が無事に到着せられるまで、その安全を助け給はらむことを。
〔評〕 旅の苦しく不安な時代である。簡潔で率直な詞調に、木地の清きがあり、丈夫の友情がなつかしまれる。
 
550 大船のおもひ憑《たの》みし君が去《い》なば吾は戀ひむな直《ただ》に逢ふまでに
 
〔譯〕 大船のやうにたよりに思つてゐたあなたが、行つておしまひになつたならば、自分は戀しく思ふことでありませう、直接にお目にかかるまでは。
〔評〕 たよりにしてゐた上官に離れる悲しみである。手法は型にはまつてゐて「朝霞かがふる山を越えて去《い》なば吾は戀ひむな逢はむ日までに」(三一八八)「雲居なる海山越えていゆきなば吾は戀ひむな後は逢ひぬとも」(三一九〇)などの類歌がある。結句も集中の成句の一である。
〔語〕 ○大船の 「一六七」參照。○吾は戀ひむな 「な」は語調を詞へる終助詞。「見つつ思ふな」(五四)の「な」に同じ。
 
551 大和路《やまとぢ》の島の浦|廻《み》に寄する浪|間《あひだ》も無けむ吾が戀ひまくは
     右の三首は、作者末だ詳ならず。
 
〔譯〕 大和をさして行く路に見える島の、浦のめぐりに打ち寄せる浪のやうに、絶間もないことであらう、自分があなたを戀ひ慕ふことは。
(52)〔評〕 類型的な着想ではあるが、眼前の景を序にとつたものではなくて、大和への歸途に浪寄するあの島の浦を見たならば、その浪のやうに絶間もなく戀ひ慕うてゐる自分を思ひ出してほしい、と願ふ意と思はれる。
〔語〕 ○大和路の 大和へ行く道の。○島の浦廻 「島」を古くから和名抄の志摩郡志摩郷にあてる説が多いが、普通名詞と見るのがよい。
〔訓〕 ○寄する浪 白文「縁浪」で、童蒙抄のヨルナミノは不適當。舊訓のままが良い。
 
    大伴宿禰|三依《みより》の歌一首
552 吾が君はわけをば死ねと念《おも》へかも逢ふ夜逢はぬ夜|二走《ふたはし》るらむ
 
〔題〕 大伴宿禰三依 續紀に、大伴御依とある人と同じであらうか。さすれば、天平二十年從五位下を授けられ、勝寶六年主税頭となり、以後、三河守、民部少輔等を經、寶龜五年從四位下で卒した。
〔譯〕 そなたは、自分をば死ねと思つていらつしやるから、逢ふ夜と逢はぬ夜と、兩方あるのでせうか。
〔評〕 逢うたり逢はなかつたりするのは、まるで自分をなぶり殺しにするやうなものである。いつそ、はつきりと、どちらか一方にきめてくれればよいに、といふ氣持を現はしたもの。表現の特異さが目に立つ歌であるが、それにしても、五句のあたりに解き難いもののあるのは否めない。
〔語〕 ○わけ 自分より下の者に對して對稱として用ゐ、また自分を卑下していふ時自稱として用ゐる。ここは後者の場合であるが、集中の用法は、やや諧謔味をもつてゐるのに氣づく。「一四六〇」に「戯奴(反云和氣)」とあるのを見ても、本來さうした意味があつたものと思はれる。○念へかも 念へばかもの意。○二走るらむ 二つながら、兩方、行はれるのであらうの意。後出の「世やも二行く」(七三三)、及び東歌の「二行くなもと」(三五二六)參照。
〔訓〕 ○二走るらむ 白文「二走良武」で、桂本、元暦校本などはヨマゼナルラム、仙覺抄フタユクナラム、考、略(53)解フタユキヌラム、古義フタツユタラム等の諸訓説があり、前掲の「七三三」「三五二六」の二例に從へばフタユク説が有力であるが、それと同じ意味で、字を改めずにこのままフタハシルラムと訓んでおく。
 
    丹生女王《にふのおほきみ》、太宰帥大伴卿に贈れる歌二首
553 天雲の遠隔《そくへ》の極《きはみ》遠ども情《こころ》し行けば戀ふるものかも
 
〔題〕 丹生女王 續紀に「天平十一年正月丙午從四位下丹生女王授從四位上」とあり、天平勝寶二年八月には正四位上を授けられた。太宰帥大伴卿 旅人。「一六一〇」にも女王から旅人に贈られた歌がある。
〔譯〕 あなたのいらつしやる太宰府は、天雲の遠く隔つてゐる果で、遠くありますが、私の心がとどいて見れば、やはりあなたの方でも私を戀しく思うて下さることになるのですね。
〔評〕 丹生女王は、卷八の歌(一六一〇)によつて見ても、旅人卿と親しい間柄であつたことがわかる。次の歌によつて見ると、女王は太宰府の旅人からはるばる酒を贈られたのである。その感謝の情を、磯智に富んだ諧謔に交へて詠うた歌と思はれる。然もなほ魂の交流を信じてゐた萬葉人の精神生活が基礎となつてゐることを忘れてはならない。
〔語〕 ○天雲の遠隔《そくへ》の極 天雪の遠くへだたつてゐる彼方の果。卷三の「四二〇」と同じ。○遠けども 遠いけれども。○こころし行けば 自分の戀しく思ふ心が通つて行つて見ると。ばは、一定の條件に一定の反應がある事をいふのである。確定であるところを注意すべきである。○戀ふるものかも あなたの方でも戀しく思ふものかなあの意。
〔訓〕 ○情し行けば 白文「情志行者」で、舊訓のやうにユケバとよむべく、攷證のやうにココロシユカバと假定にしてはならぬ。
 
554 古《ふ》りにし人の食《を》さする吉備の酒病めばすべなし貫簀《ぬきす》賜《たば》らむ
 
(54)〔譯〕 昔なじみのお方が、私に贈つてお飲ませなさる吉備の酒は、醉うて苦しんで困ります。貫簀《ぬきす》も賜はりたうございます。
〔評〕 貫簀は、醉ひ過ぎて嘔吐する時の用意に欲しいといふのであつて、女の人の歌としては奇拔でもあり大膽であるが、ともかくも面白い作である。かうした實生活の面が、新鮮な鑛石のやうに輝いてゐることが、萬葉集の價値を重からしめてをることを思ふべきである。
〔語〕 ○古りにし人の 年老いた人とも、昔馴染の人とも解せられるが、後の解によつた。○食さする 飲ましめる。○吉備の酒 吉備の國の酒か、黍で作つた酒か、兩説ある。全釋は、太宰府からの進物としては後者がよいといつてゐるが、都への便に吉備産のよい酒を託したとも考へられる。○貫簀 太く則つた竹を編み、洗盤の上へかけて水の散るのを避け、また手など洗ふ時には膝の上にかけて水のかからぬやうにする一種の簀。ここは酒に醉うて嘔吐する時、汚物が膝や衣服にかからぬやうに使ふ貫簀の意。
〔訓〕 ○古りにし 白文「古」で、舊訓イニシヘノ。古義による。○人の食さする 白文「人乃令食」で、舊訓ヒトノノマセル、古義ヒトノタバセル。
 
    太宰帥大伴卿、大貳|丹比縣守《たぢひのあがたもり》卿の任を民部卿に遷さえしに贈れる歌一首
555 君がため釀《か》みし待酒《まちざけ》やすの野に獨や飲まむ友無しにして
 
〔題〕 丹比縣守卿 左大臣正二位島の子。續紀によると、慶雲二年十二月に「從六位上多治比眞人縣守授2從五位下1」とあり、造宮卿、遣唐押使から大貳、參議などを歴任し、天平九年六月中納言正三位で薨じた。大貳をやめたのは天平元年である。
〔譯〕 君を待ち受けてさしあげようと思つて釀した酒を、やすの野で唯ひとりで飲むのであらうか、友もなくして。
(55)〔評〕 部下を愛する風流濶達の長官であつて、然も酒を好んだ詩人旅人の面目が躍如とした作である。丹比縣守の遣唐押使として渡唐した經驗は、支那文學を愛好する旅人とよい話相手になつたことであらう。「君がため釀《か》みし待酒」もただの儀禮だけの語とは思はれず、やすの野に語るべき友を失つて寂しく杯を擧げる、老境の邊域生活が思ひやられることである。
〔語〕 ○かみし待酒 「かむ」は釀造するの意。古昔、米を嚼んで作つたからと思はれる。待酒は他から來る人の爲に、豫め待ち設けて準備しておく酒。○やすの野 筑前國夜須郡の野で、今は朝倉郡に屬してをる。
 
    賀茂女王、大伴宿禰三依に贈れる歌一首
556 筑紫船《つくしぶね》いまだも來《こ》ねばあらかじめ荒《あら》ぶる君を見るが悲しさ
 
〔題〕 賀茂女王 桂本、元暦校本等の古寫本の註及び「一六一三」の註によると、左大臣長屋王の女といふ。
〔譯〕 あなたの乘つて往かれる筑紫船がまだ來もしないのに、はやくも私を疎んじようとなさるあなたを、見るのがつらうございます。
〔評〕 今からこんな樣子では、いよいよ別れて筑紫へ下つてから後のことが思ひやられる、といふ意である。難波あたりまで見送つて、便船を待つ間の情景が、あはれに眼に浮ぶのを覺える。
〔語〕 ○筑紫船 筑紫の船。三依の筑紫へ乘つて行く船をさす。古義のやうに、筑紫から乘つて來る船とみては「あらかじめ」の句の續きが不自然になる。○いまだも來ねば まだ來ないのに。○荒ぶる君を 心が荒《すさ》んで疎遠になるあなたを。心と心との調和が缺けて、互に離反してゆくことを荒ぶといふのである。
〔訓〕 ○一首 題詞の下に桂本以下古寫本は小字で「故左大臣長屋王女也」とある。○いまだも來ねば 白文「未毛不來者」で、舊訓マダモコザレバ。童蒙抄による。
 
(56)    土師《はにし》宿禰|水道《みみち》、筑紫より京に上る海路にて作れる歌二首
557 大船を榜《こ》ぎの進みに磐《いは》に觸《ふ》り覆《かへ》らば覆《かへ》れ妹に依りては
 
〔題〕 水道 傳不詳。流布本には水通とある。
〔譯〕 大船をこぎ進む勢で、たとへ磐にふれて覆るならば覆つてもよい、愛する人のためならば。
〔評〕 筑紫の任を果てて都への航海に就いた人の、矢のやうな歸心をうたつたものである。次の歌から推すと、風浪にさまたげられてゐるらしい。よしや覆らば覆れ、船を進めに進めて早く妻のゐる大和へ行きつかうと息まいた作である。
〔語〕 ○榜ぎの進みに 榜ぎ進んで行つて、「すすみ」は勢に乘じて事をする意。○妹によりては 妹の爲ならばの意。「より」は「爲に」の意。「わが上には故はなけども兒らによりてぞ」(三四二一)。
 
558 ちはやぶる神の社に我が掛けし幣《ぬさ》は賜《たば》らむ妹に逢はなくに
 
〔譯〕 神の社に自分があげた幣は、返していただきませう、戀しい人に逢はないのだもの。
〔評〕 航路の平安と速かならんことを祈つて幣を捧げたのに、海は荒れて船は進まず、いよいよつのる妻への焦慮を、遂に神の責任にしてしまつた歌である。萬葉人の作としては極めて珍しい内容である。しかし當時の思想として、ヌサもマヒも同じものであり、マヒの場合は必ず何か實利的な交換條件のついてゐたことを思へば、かうした考へ方もさう唐突なものではない。卷十七に「玉ほこの道の神たち幣《まひ》はせむ我がおもふ君をなつかしみせよ」(四〇〇九)とある。
〔語〕 ○幣は賜らむ 供へた幣を返し賜はらむ、の意。
 
(57)    太宰大監大伴宿禰|百代《ももよ》の戀の歌四首
559 事も無く生《お》ひ來《こ》しものを老次《おいなみ》にかかる戀にも吾は遇へるかも
 
〔題〕 百代 「三九二」參照。太宰大藍は太宰少貳の次の官。
〔譯〕 これまで何事もなくおだやかに生きながらへて來たものを、このやうな老年になつてから、かういふ苦しい戀にあつたことよ、まあ。
〔評〕 年に似あはぬ戀の惱みに、あたら心の平和を掻き亂されて、己が老を自覺する頃の人の、寂しい自嘲を詠み出でたものである。何處となく理性のもつ分別臭さが見えるのも面白い。
〔語〕 ○事も無く 何の事もなく、おだやかにの意。○老次に 老の頃の意。「なみ」は、年なみ、月なみの「なみ」と同じであらう。
〔訓〕 ○生ひ來しものを 白文「生來之物乎」で、舊訓アリコシモノヲ、代匠記アレコシモノヲ、全釋イキコシモノヲ、とあるが、文字のままにオヒコシモノヲと訓んだ。
 
560 戀ひ死なむ後は何せむ生ける日の爲こそ妹を見まく欲《ほ》りすれ
〔譯〕 戀ひ死に死んでしまうた後は、何にしようぞ。ただこの現在生きてゐる今の日の爲にこそ、戀人を見たいと思ふのである。
〔評〕 萬葉人のひたぶるな現世思想を代表した歌であると共に、日本民族の現實肯定的な性情を、よくあらはした作である。永遠の生命を來世に求める佛教的な生活態度と、熾烈な現世の「いのち」を謳歌する生き方とは、常に相竝行してゐる。「二五九二」には殆どこれと同一の歌が出てをり、なほ拾遺集、古今六帖等、或は源氏、濱松、狹衣等(58)の物語、中世の歌論書等にしばしば引用されてをるのも、故なきことではない。
〔語〕 ○戀ひ死なむ 戀ひこがれて死ぬであらうの意。「死なむ」は連體格で「後」へかかる。
〔訓〕 ○後は何せむ 白文「後者何爲牟」の「後」の字、桂本、元暦校本等には「時」に作る。然し訓はノチとなつてをる。
 
561 念《おも》はぬを思ふといはば大野なる三笠の社《もり》の神し知らさむ
 
〔譯〕 心から眞に思つてもをらぬのを、僞つて思ふといふならば、かの大野にまします三笠の社の神が知ろしめすことであらう。
〔評〕 己の戀の眞實を神かけて誓うた歌である。卷十二には「おもはぬを想ふといはば眞鳥住む卯名手のもりの神し知らさむ」(三一〇〇)とあり、古今六帖卷五には、結句が「神思ひ知れ」となつて出てをる。
〔語〕 ○大野なる三笠のもりの 和名抄に「筑前國御笠郡大野村」とあつて、今の筑紫郡大野村。三笠の社は神功紀に見え、今の雜餉隈の東北にあたるといふ。
 
562 暇無く人の眉根《まよね》をいたづらに掻《か》かしめつつも逢はぬ妹かも
 
〔譯〕 暇も無いほどしきりに、自分の眉根をむなしく掻かせながらも、逢うてくれぬことであるよ。
〔評〕 眉がかゆいのは思ふ人に逢ふ前兆である、といふ世俗の信仰に基づいたもので、その反對の結果に愚痴をこぼした歌である。卷十二に「いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめにつつ逢はぬ人かも」(二九〇三)とあるによつたものか。
〔語〕 ○暇なく 四句にかかる、暇のないほどしきりに、の意。○人の眉根を 眉が痒いのは人に思はれてゐる兆で(59)あるといふ俗信があつたので、諸註はこの歌もそのやうに解してゐるが、松村武雄氏は、この歌では更に積極的に自ら進んで眉を掻き、それによつて戀人に逢ふ機縁を作らうとする一種の呪術とみるべきであると説いてをられる(萬葉集講座)。「月たちてただ三日月の眉根《まよね》掻きけながく戀ひし君に逢へるかも」(九九三)「眉根掻き嚔《はな》ひ紐解け待てりやもいつかも見むと戀ひ來し吾を」(二八〇八)等がある。○眉根 舊訓マユネ。古義による。
 
    大伴坂上郎女の歌二首
563 黒髪に白《しろ》髪交り老ゆるまで斯《か》かる戀にはいまだ逢はなくに
 
〔譯〕 黒髪に白髪が交るほどの年になるまで、かやうな戀にはまだ逢うたことがありませんでした。
〔評〕 作者は、白髪になるやうな年齡ではなかつたのである。前の大伴百代の「老次にかかる戀にも吾は遇へるかも」(五五九}に和へたものとみる説が有力である。郎女は兄旅人と共に太宰府にゐたことがあるから、百代との戀愛を想像することも無理ではない。
 
564 山|菅《すげ》の實《み》成《な》らぬことを吾に寄せ言はれし君は誰とか宿《ぬ》らむ
 
〔譯〕 本當でもないことを、私にかけて人々に云ひたてられたあなたは、その實、誰と寢てゐるでせうか。
〔評〕 自分と關係があるやうに人に噂を立てられておいて、實際はよその人と逢うてをる男に、怨じ顔の皮肉を云うたのである。
〔語〕 ○山菅の 枕詞。「實」にかかる。「石の上布留のわさ田の穗には出でず」(一七六八)などと同じ類のかかり方である。山菅は麥門冬《やぶらん》とも云ひ、蘭に似て黒い實が生ずる。
 
(60)    賀茂女王の歌一首
565 大伴のみつとは言はじあかねさし照れる月《つく》夜に直《ただ》に逢へりとも
 
〔譯〕 あなたにお目にかかつたとは申しますまい、照り渡つてをる月夜に、直接に逢うたとも云ひますまい。
〔評〕 前出の「筑紫船いまだも來《こ》ねば」(五五六)の作者であるから、大伴三依を三津の濱に送つた時ではないかといふ推測も出來るが、想像にとどまる。美しい月光のもとの相會が、その胸に忘れがたい思ひ出を殘したことであらう。
〔語〕 ○大伴の 「六三」參照。ここは枕詞で、「御津」を「見つ」にかけた。○あかねさし 「照る」にかかる枕詞。○直に逢へりとも 「とも」は「逢うたともいふまい」の意。
 
    太宰大監大伴宿禰百代等、驛使《はゆまづかひ》に贈れる歌二首
566 草枕旅行く君を愛《うつく》しみ副《たぐ》ひてぞ來《こ》し志可《しか》の濱邊を
     右の一首は、大監大伴宿禰百代。
 
〔題〕 驛使 驛馬で急行する使者。「四一一〇」參照。
〔譯〕 旅立ち行かれるあなたのなつかしさに、共に竝んで來たことである、志可の濱邊をば。
〔評〕 別れ難くて、驛使なる大伴稻公と胡麿を見送つて、博多灣の沿岸千代の松原を、轡をならべて來た百代が、いよいよ袂をわかつ時に詠み出でたものであらう。よどみのない調、豐かな温情、離別の歌にふさはしい。
〔語〕 ○うつくしみ なつかしく思ふので。○志可の濱邊 筑前の博多灣の東岸をいふ。「二七八」參照。○たぐひてぞ來し 共々に來たことである、一緒に來たのである。
(61)〔訓〕 ○うつくしみ 白文「愛見」で、代匠記精撰本はナツカシミ、オモハシミ又はウルハシミの三訓をかかげ、考はメヅラシミとあるが、舊訓のままでよい。
 
567 周防《すはう》なる磐國山を越えむ日は手向《たむけ》よくせよ荒し其の道
     右の一首は少典山口忌寸若麻呂。
     以前《さき》に天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽に瘡を脚に生じ、枕席に疾み苦めり。此に因りて驛を馳せて上奏し、望《ねが》はくは、庶弟|稻公《いなぎみ》、姪|胡麻呂《こまろ》を請ひて遺言を語らまく欲ると奏せれば、右兵庫勘大伴宿禰稻公、治部少丞大伴宿禰胡麻呂の兩人に勅して、驛を給ひて發遣《つかは》し、卿の病を看《み》しめたまふ。而して教旬を※[しんにょう+至]て、幸に平復することを得たり。時に稻公等、病の既に癒《い》えたるを以ちて、府を發《た》ちて京に上る。是に大監《だいげん》大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂及び卿の男家持等、驛使を相送りて、共に夷守《ひなもり》の驛家に到り、聊飲みて別を悲しみ、乃ち此の歌を作れり。
 
〔譯〕 周防の磐國の山を越えられる日には、神に手向をよくなさるがよい。けはしい、その道のことであるから。
〔評〕 周防の岩國のほとり、難路として聞えた山であつたであらう。旅行く友に、行路の平安を祈つて神を祭るやう心づけた歌で、やさしい友情が籠つてをる。春日老が遣唐使を送つた歌「在嶺《ありね》よし對島《つしま》の渡《わたり》海《わた》なかに幣取り向けて早《はや》還《かへ》り來ね」(六二)なども思ひ合はされる。
〔語〕 ○周防なる磐國山 周防國にある岩國の山。○手向よくせよ 神に十分幣をささげて守護をおねがひになるがよい、の意。
〔左註〕 ○少典山口忌寸若麻呂 典は佐官に相當する太宰府の屬官で監の下にあつて、大典少典とある。若麻呂は傳不詳。○稻公 續紀によると、天平十三年十二月從五位下で因幡守となり、後、兵部大輔、上總守を經、天平寶字二年には「大和國守從四位下大伴宿禰稻公等」云々と見える。おそらく旅人よりもよほど年少であつたと思はれる。○(62)胡麻呂 續紀によると、天平十七年正月正六位上から從五位下となり、後、左少辨を經て勝寶二年九月、遺唐副使となつた。この時に餞された歌が「四二六二」に見える。六年には歸つて來て、正四位下左大辨となり、後、陸奧鎭守將軍などを兼ねたが、天平寶字元年七月橘奈良麿の反に坐し、獄中に死んだ。旅人の姪とのみあるが、稻公の子であると思はれる。○家持 ここに家持の名の出てゐるのは注意すべきである。時に十三歳ほどであつたらう。○夷守 所在は明かでないが、今の福岡市の東北多々羅あたりであらうと思はれる。
〔訓〕 ○周防 「すはう」は、或は「すは、」か。○荒し其の道 白文「荒其道」で、仙覺本の訓はアラキソノミチであるが、桂本などの古寫本の訓がよい。
 
    太宰帥大伴卿、大納言に任《ま》けらえて京に入らむとせし時に臨み、府の官人等、卿を筑前國の蘆城の驛家に餞せる歌四首
568 み埼廻《さきみ》の荒磯《ありそ》に寄する五百重浪《いほへなみ》立ちても居ても我が念《も》へる君
     右の一首は、筑前掾|門部連右足《かどべのむらじいそたり》。
 
〔題〕 大納言に任けらえて云々 「三八九〇」參照。蘆城の驛 「五四九」參照。
〔譯〕 岬のめぐりの荒磯に打ち寄する五百重浪のたつやうに、立つても坐つても、自分がなつかしく思うてをります君であることよ。
〔評〕 序の用ゐ方も類型的である。「秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ念ふ」(二二九四)「春やなぎ葛城山にたつ雲の立ちてもゐても妹をしぞ念ふ」(二四五三)などは、皆同じ構想である。
〔語〕 ○み崎廻 岬のめぐり。○五百重浪 幾重にもつづいて立つ浪。「立つ」にかかる序。
(63)〔左註〕 筑前掾門部連右足 傳不詳。
 
569 韓《から》人の衣《ころも》染《し》むとふ紫の情《こころ》に染《し》みて念《おも》ほゆるかも
 
〔譯〕 韓の人が衣を染めるといふ紫色のやうに、心に染みて、別れが悲しく思はれることである。
〔評〕 何事に於いても先進的に見えた異國の風習をとつて、鮮かな光彩をそへた歌である。併し、紫草で衣を染めたことは集中にも多く見受けるところで、必ずしも特異な外國風俗であつたとは思はれない。
〔語〕 ○紫の 紫は柴草からとつた染料。「染みて」にかかる序。
〔訓〕 ○韓人の 白文「辛人之」の「辛」の字、考は「淑」の誤、略解所引宣長説は「宇万」の誤、古義「宮」の誤など、それぞれ誤字説を出してをるが、このままでよい。
 
570 大和へ君が立つ日の近づけば野に立つ鹿も響《とよ》みてぞ鳴く
     右の二首は、大典|麻田連陽春《あさだのむらじやす》。
 
〔譯〕 大和へあなたの御出發になる日が近づいたので、野に立つ鹿さへも、別れを悲しんで、聲をひびかせてなくことである。
〔評〕 自然の景象も思ひなしによつて變るのであり、野に鳴く鹿の聲も、惜別の情には、かく響いたのであり、最も自然な表現ではあるが、それだけに新鮮味の少いのが殘念である。
〔左註〕 大典麻田連陽春 大典は「五六七」の左註に於ける少典の項參照。麻田連陽春は續紀に、「神龜元年五月辛未正八位上答本陽春賜2姓麻田連1」と見え、天平十一年從五位下となつた。懷風藻に「外從五位下石見守麻田連陽春一首(年五十六)」と載つてゐる。
 
(64)571 月夜《つくよ》よし河音《かはと》清《さや》けしいざここに行くも去《ゆ》かぬも遊びて歸《ゆ》かむ
     右の一首は、防人佑大伴四綱。
 
〔譯〕 月は清く河の流に映じ、水聲もさはやかである。いざここで、行かれる方も、殘る吾らも樂しく飲遊してお別れしようではないか。
〔評〕 明月の下、蘆城川の清流の音も冴えてゐたことであらう。歌詞高潔、男らしい訣別の情がこころよい。
〔語〕 ○行くも去かぬも 京へ行かれる大伴卿、筑紫に留まる吾等も、の意。
〔訓〕 ○河音清けし 白文「河音清之」で、舊訓はカハヲトキヨシ、略解カハノトキヨシと訓んでゐるが、童蒙抄によつた。
〔左註〕 防人大伴因綱 「三二九」參照。
 
    太宰帥大伴卿の京に上りし後、沙彌滿誓の卿に贈れる歌二首
572 まそ鏡見飽かぬ君に後《おく》れてや旦夕《あしたゆふべ》にさびつつ居らむ
 
〔題〕 沙彌滿誓 滿誓は造觀世音寺別當として筑紫にゐた。「三三六」參照。
〔譯〕 いつ見ても見飽かぬあなたに殘されて、朝に晩に、さびしく思ひつつ暮すことであらうか。
〔評〕 作者は「世のなかを何に譬へむ」(三五一)などに詩才を示してをる風流の僧で、造筑紫觀世音寺別當として太宰府にゐた。天平二年正月旅人の催した梅花の宴にも列して、「青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし」(八二一)と詠んでをる。彼が旅人に別れて後のさびしさは、察するにあまりがあらう。しみじみと、哀愁をさそふやうな調である。
(65)〔語〕 ○ます鏡 「二三九」參照。「見」にかかる枕詞。○おくれてや 五句の終につけて解する。○さびつつ 心さびしく思ひつつ。
 
573 ぬばたまの黒髪|變《かは》り白髪《しらけ》ても痛《いた》き戀には遇《あ》ふ時ありけり
 
〔譯〕 黒い髪が白く變るほど年をとつても、苦しい戀に遇ふことがあるものであるよ。
〔評〕 大伴坂上郎女の「黒髪に白髪交り老ゆるまで斯かる戀にはいまだ逢はなくに」(五六三)に似てをる。年をとつても苦しい戀をすることがある、と云ふので、この老いた僧侶に、どのやうな珍しいことが持ちあがつたのかと、人の耳目をそばだてしめる。然して、實は、旅人に別れて戀しいといふことを云うてゐるのである。輕い可笑みのうちに、讀者を成る程とうなづかせるところがあつて、巧まぬ効果を持つてをる。また、僧に髪のあるやうに云うたのは、諧謔の一種であらうかとする説もある。
〔語〕 ○黒髪變りしらけても 黒髪が白髪に變るやうな老年になつても。
 
    大納言大伴卿の和《こた》ふる歌二首
574 此間《ここ》に在りて筑紫や何處《いづく》白雲の棚引く山の方にしあるらし
 
〔譯〕 あなたのをられる懷しい筑紫はどこであらうか。彼方の空の、白雲のたなびいてをる山の方であるらしい。
〔評〕 眼をあげると彼方の空に白雲が浮んでゐたのである。はるばると人を思ふにふさはしい悠揚の歌調で、讀む者に遠くへの係戀を感ぜしめる。石上卿の作(二八七)と同じ構想である。
〔訓〕 ○何處 舊訓イヅコ。考による。
 
(66)575 草加江《くさかえ》の入江に求食《あさ》る蘆鶴《あしたづ》のあなたつたづし友無しにして
 
〔譯〕 草加江の入江に鶴が餌を求めてゐるが、丁度その名のやうに、ああ、たづたづしく心の晴れぬことである、友がをらぬので。
〔評〕 あくまで明るい詞調の中に、はるかな友を思ふ哀感がにじんでをる。小さな技巧を弄せずに、まともに大きく詠みあげながら、なめらかさを靜かに帶びてゐるのが、この作者の特長である。序の用法は、次のやうな類型がある。「天雲に翼うちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君坐さねば」(二四九〇)「鶴が鳴き芦邊をさして飛び渡るあなたづたづし獨さぬれば」(三六二六)。
〔語〕 ○草加江 河内中河内郡にその址がある。當時は沼澤池であつて、神武天皇が浪速から船行して草香の蓼津に至り給うたと古事記に見える。なほ八雲御抄は筑前とし、貝原益軒の名寄は筑前國早良都鳥飼村の東の入江をいふと記し、他にも九州説がある。○蘆鶴の 「たづたづし」にかかる序。○あなたづたづし 「たづたづし」はたどたどしに同じく、心のおちつかぬこと(代匠記)。
 
    太宰帥大伴卿の京に上りし後、筑後守|葛井連大成、《ふぢゐのむらじおほなり》悲しみ嘆きて作れる歌一首
576 今よりは城《き》の山道は不樂《さぶ》しけむ吾が通はむと念ひしものを
 
〔題〕 葛井連大成 神龜五年五月正六位上から外從五位下となつた由、續紀に見える。
〔譯〕 これからは、城の山道をとほるのも心の躍らぬことであらう。お目にかかるのを樂しみに、自分が太宰府へ通はうと思つてゐたものを。
〔評〕 筑後から太宰府への途中、城の山をとほる時、よき長官に逢ふことが、その心にいさみを與へてゐたことであ(67)らう。その人の去つたあと山落膽した樣が、よく現はれてをる。また、部下に慕はれてゐた旅人の人となりも思はれることである。
〔語〕 ○城の山 筑前國筑紫郡と肥前國基肆郡との境にある山で、今の原田の西方に當り、肥前筑後の國府から太宰府へ行く路に當る。○さぶしけむ 心たのしまぬことであらう、面白くないであらう、の意。
〔訓〕 ○さぶしけむ 白文「不樂牟」で、舊訓サビシケム。玉の小琴による。
 
    大納言大伴卿、新しき袍《うへのきぬ》を攝津大夫高安王に贈れる歌一首
577 吾が衣《ころも》人にな着せを網引《あひき》する難波壯士《なにはをとこ》の手には觸るとも
 
〔題〕 袍 和名抄に「和名、宇倍乃岐沼、一云、朝服、着v襴之袷衣也」と見える。今、正倉院に黒紫※[糸+施の旁]の袍が保存されてゐる。攝津大夫 攝津職の長官。高安王 和銅六年正月初めて從五位下を授けられ、後、伊豫守、衛門督などを經、天平十一年四月大原眞人の姓を賜り、十四年十二月正四位下で卒した。
〔譯〕 自分が贈る衣を他人にはお着せなさるな。たとへお氣に召さずして、網を引く難波男の手にお與へなさらうとも。
〔評〕 難解の歌で、從來種々の異論がある。文字を改めるのは確實な文獻がないかぎり、獨斷と云はざるを得ぬ。文字を改めずにみる時は、前述の如くに解く外はない。難波の海士に與へるとすれば「人にな着せそ」と矛盾するやうであるが、袍はそのままでは漁夫の著物とはならぬのであるから「手には觸るとも」と云うたのである。略解所引宣長説に「手爾者雖不觸」のあやまりとして「手にふれずとも」と訓み、三四句は高安王にたはぶれて云つたものと解いてをる。なほ考ふべきであらう。
〔語〕 ○難波壯士 難波にゐる海人。古義は題詞の高安王と大伴卿と位地をたがへたのであつて、この難波壯士は高(68)安王が謙遜されたものと説いてゐるが、從ひがたい。○手には觸るとも たとひ手にふれるやうなことがあつても。
 
    大伴宿禰三依の別を悲しめる歌一首
578 天地と共に久しく住まはむと念《おも》ひてありし家の庭はも
 
〔題〕 大伴宿禰三依 「五五二」參照。
〔譯〕 天地のあらん限り久しく住まはうと思つてゐたこの家の庭は、まあ。今別れるのがまことに惜しいことである。
〔評〕 三依は、天平二年正月の梅花の宴には、豐後守として列席して歌を詠んでをる。これは任を終へて歸京しようとするに當つての作と思はれる。旅とは云へ、わが家として親しんだ庭には、名殘が惜しまれたことであらう。大げさな一二三句の云ひ樣にも、自分のものとして安住してゐた趣がうかがはれる。
 
    余明軍《よのみやうぐに》、大伴宿禰家持に與ふる歌二首
579 見まつりていまだ時だに更《かは》らねば年月の如《ごと》思ほゆる君
 
〔題〕 余明軍 「三九四」「四五四−四五八」參照。「四五八」の左註、及びこの歌に於ける元暦校本等の書入によつて、旅人の資人であつたと知られる。
〔譯〕 あなたにお目にかかりましてからまだ時も經ちませぬのに、年月がすぎたやうに思はれることであります。
〔評〕 大納言旅人卿の資人で、その薨去に際しては犬馬の慕心に勝へず、五首の挽歌(四五四−四五八)を詠んだ余明軍である。主人の嫡男に對する心もちも、さこそと思はれる。これは旅人の生存中か、薨後の事か明かではない。薨去の後とみれば、父なきあとの幼君への忠誠と愛護との念の切なるもののあつたことが察せられよう。
〔語〕 ○いまだ時だに 時は四時の時といふ説もあるが、年月に對し短い時間をいふとみるのがよい。○かはらねば (69)變らないのに。
〔訓〕 ○余明軍 桂本をはじめ古鈔本には「余」とあたが、仙覺系統本は「金」となつてゐる。「三九四」參照。なほ古寫本はすべて題詞の下に、小字で「明軍者大納言卿之資人也」とある。
 
580 あしひきの山に生ひたる菅《すが》の根のねもころ見まくほしき君かも
 
〔譯〕 山に生ひ延びた菅の根の――ねんごろに、しみじみとあなたを見たく思ふことであります。
〔評〕 よく用ゐられる序をとつて、安らかに詠んだもので、淡雅な歌である。相似た序を持つ歌には「奧山の磐蔭に生ふる菅の根のねもころ吾も相念はざれや」(七九一)「あしひきの山菅の根のねもころに吾はぞ戀ふる君が光儀《すがた》に」(三〇五一)等、多くの類例がある。
〔語〕 ○菅の根の 以上は序。「ね」の音を繰り返して「ねもころ」につづく。○ねもころ 「二〇七」參照。
 
    大伴|坂上家《さかのへのいへ》の大娘《おほいらつめ》、大伴宿禰家持に報へ贈れる歌四首
581 生《い》きてあらば見まくも知らに何しかも死なむよ妹と夢《いめ》に見えつる
 
〔題〕 大伴坂上家の大娘 「四〇三」參照。
〔譯〕 生きてゐれば、逢ふことがあるかも知れぬのに、どうしてまあ、あなたは「死なうよ妻」と、夢にお見えになつたのでせう。
〔評〕 この世では逢ふ望がないので、いつそ死なうと愛人が云ふのを夢に見た。上代人は、心靈が通ふといふ風に考へて、自分が愛人の夢を見るのは、愛人の意志によつて、夢に通うて來るとしてゐたのである。それ故に、生きてをれば相逢ふ機もあらうから、死なうなどと云はずに、氣長く待たうではありませんか、と詠んだのである。
(70)〔語〕 ○見まくも知らに 會ふことがあるかも知れないのに、といふ代匠記の説に從ふ。古義は三四句をおきかへて解せよとし、今のままでは相見るよしも知らないと説いてゐる。
〔訓〕 ○題詞について、考はこれを次の「五八二」の歌に移し、ここに「大伴宿禰家持贈大伴坂上家之大娘歌」の脱とし、古義はこの前に家持から坂上大娘に贈つた歌の脱したものとしてゐる。
 
582 丈夫《ますらを》も斯《か》く戀ひけるを手弱女《たわやめ》の戀ふる情《こころ》に比《たぐ》へらめやも
 
〔譯〕 男子もさやうに戀うてをられるが、しかし、女の戀ふる心には、比べものになりませうか。
〔評〕 戀に生きようとする女性の、誇らかな心を歌ひあげてをる。
〔語〕 ○斯く戀ひけるを このやうに戀をしてゐられるが、それでも、の意。
〔訓〕 ○比へらめやも 白文「比有目八方」で、舊訓ナラベラメカモ。略解による。
 
583 鴨頭草《つきくさ》の變《うつろ》ひやすく思へかも我が念《も》ふ人の言《こと》も告げ來《こ》ぬ
 
〔譯〕 露草の花染の色のやうに、變り易い心で思つていらつしやるからであらうか、私の思ふ方はおたよりも下さらぬ。
〔評〕 露草を染料とした染色の變り易いことから、うつろふ譬にした歌が集中所々に見受けられる。この歌は、結句を云ひすゑたあたりに、凛とした響がある。
〔語〕 ○つき草の 露草ともいひ、路傍などに生える小さい草で、藍色の花をつける。古くは染料に用ゐた。色の變り易い意で、次句の譬とした。○言も告げ來ぬ 何の消息もない。
 
(71)584 春日《かすが》山朝立つ雲の居ぬ日無く見まくのほしき君にもあるかも
 
〔譯〕 春日山に朝雲の立つてゐない日の無いやうに、毎日あなたにお目にかかつてゐたく思ふことであります。
〔評〕 朝ごとに眺めやる景をとらへて序としたもので、印象のはつきりした、とどこほりのない歌である。
〔語〕 ○春日山朝立つ雲の居ぬ日なく 「二四二」參照。居ぬ日なきが如く、毎日ゐるやうに、の意。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
585 出でて《い》去なむ時しはあらむを故《ことさら》に妻戀《つまごひ》しつつ立ちて去《い》ぬべしや
 
〔譯〕 旅に出て行かれる時は、まだありませうものを、それを何も、わたくしにおあひになつてまもなく、わざわざお出かけなさることはないではありませんか。
〔評〕 郎女との戀のむすばれて間もなく、男の出立するにつけて、強くひきとめた云ひぶりである。はげしい氣象がうかがはれる。
〔語〕 ○立ちて去ぬべしや 出立すべきでせうか。反語。
 
    大伴宿禰|稻公《いなきみ》、田村大孃《たむらのおほいらつめ》に贈れる歌一首
586 相見ずは戀ひざらましを妹を見てもとな斯《か》くのみ戀ふは如何《いか》にせむ
     右の一首は、姉坂上郎女の作なり。
 
〔題〕 大伴宿禰稻公 「五六七」參照。田村大孃 大伴宿奈麻呂の女。「七五九」の左註參照。
〔譯〕 いつそお目にかからなかつたなら、こんなに戀ふることもなかつたであらうに、なまじひにあなたに逢うて、(72)由なくもこんなに戀しがつてのみゐたならば、どう致しませうか。
〔評〕 まづ「相見ずは戀ひざらましを」と、戀をせぬ前の平和な心をなつかしみ、現在のままならぬ戀の苦しみから「如何にせむ」と將來を思ひ煩ふやうに云うてをる。内容の割に複雜な構想ではないが、趣の深い云ひ樣である。
〔語〕 ○もとな わけもなく、由なく、の意。
〔訓〕 ○題詞の下に、古寫本のすべては「大伴宿奈麻呂卿之女也」とある。○右一首 考は「首」は「云」の誤といひ、攷證のやうに、左註を全く誤とする説もある。歌に「妹を見て」、とあるによつても、左註は誤である。
 
    笠《かさの》女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首
587 吾が形見《かたみ》見つつ偲《しの》はせあらたまの年の緒長く吾も思《しの》はむ
 
〔題〕 笠女郎 「三九五」參照。
〔譯〕 私が差上げますこの形見を、御覽になつて私をおしのび下さいませ。いつまでも年月長く私もあなたをお慕ひ申しませう。
〔評〕 形見となる品を贈つて、それに詠み添へたものである。家持に久しい戀を抱いてゐたこの作者を思ひやれば、「年の緒長く」の語にもあはれが深い。
〔語〕 ○見つつしのはせ 見ながら私を思ひ出して下さいの意。○あらたまの年の緒長く 幾年も幾年も長く。大伴坂上郎女の長歌「四六〇」參照。
〔訓〕 ○吾もしのはむ 舊訓「吾毛將思」で、舊訓ワレモオモハン。童蒙抄による。
 
588 白《しら》鳥の飛羽《とば》山松の待ちつつぞ吾が戀ひわたるこの月頃を
(73)〔譯〕 飛羽山に松が生えてゐるが、その名のやうに、私は待ちつつ、あなたを戀ひつづけてをります、この幾月もの間を。
〔評〕 趣旨は單純であるが、序が清く麗しく、調が緊張した歌である。
〔語〕 ○白鳥の 白鳥の飛ぶ意で飛羽山にかけた枕詞。○飛羽山松の 飛羽山は所在不明。契沖の勝地吐懷篇には、龍田の神南備山かとし、他の諸註は大和であらうといつてゐるのみ。「待」につづく序詞。
 
589 衣手を打ち多武《たむ》の里にある吾を知らにぞ人は待てど來《こ》ずける
 
〔譯〕 私が多武の里にをりますのを、知らないで、あなたは、いくら待つてゐてもおいでになりませんでした。
〔評〕 家持の逢ひに來ぬのを怨んだ歌。「知らにぞ」は、相手の無情なのを皮肉に云うたものであらうか。作者は人目を憚つて、多武の里に隱れ住んでゐたやうに思はれる。
〔語〕 ○衣手を打ち多武の里 衣をうちたわめるの意で、多武にかけた序。「をとめらが袖ふる山」(五〇一)等と同類。多武の里は今の多武峰附近と思はれる。○待てど來ずける 來ざりけるの意。
〔訓〕 ○打ち多武の里 白文「打廻乃里」で、舊訓ウチワノサト、玉の小琴は「打」は「折」の誤として、ヲリタムサトと訓む。攷證には、ウチマノサトとある。打廻《うちみ》の里とよむといふ説もある。「廻」を四段活用動詞タムと訓む例は「三八九」「四一八八」等が數へられ「明日香河逝回岳之」(一五五七) のやうな例もあり、實際の地名の上からも考慮して、ウチタムノサトニの新訓を得たのである。
 
590 あらたまの年の經《へ》ぬれば今しはと勤《ゆめ》よ吾が背子吾が名|告《の》らすな
 
〔譯〕 年がたつたから、今こそは大丈夫と心をゆるして、決してあなた、私の名を人におもらし下さいますな。
(74)〔評〕 世を憚つて戀をする女性の不安が、惱ましくあはれに詠まれてをる。複雜な戀に年を經たことも察せられよう。
〔語〕 ○今しはと 今こそはとての意。○ゆめよ吾が背子 吾が背子よゆめゆめ告《の》らすな、の意。
 
591 吾が念《おもひ》を人に知らせや玉|匣《くしげ》開き明けつと夢《いめ》にし見ゆる
 
〔譯〕 私の思ひをあなたが人に打あけたからでせうか、私は、玉匣を開き明けたといふ夢を見ました。
〔評〕 「吾が名のらすな」と云うたのにつづいて、なほも不安な心をのべたのである。玉匣を明ける夢を見たのを、自己の戀があらはれたしるしではなからうかと疑うてゐるので、かやうな俗諺があつたとも推察されてゐる。しかし、作者の獨自の夢占とみられぬこともない。
〔語〕 ○人に知らせや 知らせばにやで、知らせたからか、の意。
〔訓〕 ○人に知らせや 白文「人爾令知哉」で、舊訓ヒトニシラスヤ、新考ヒトニシラスレヤ。玉の小琴による。○夢にし見ゆる 白文「夢西所見」で、考ユメニシミエヌ、玉の小琴イメニシミエキ、略解イメニシミエツ等あるが、舊訓ミユルが却つて穩かである。
 
592 闇の夜に鳴くなる鶴《たづ》の外《よそ》のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
 
〔譯〕 闇の夜に鳴く鶴のやうに、よそにばかり、あなたのことを聞きつつすごすことでありませうか、逢ふことはなくして。
〔評〕 闇の夜に鳴く鶴が、聲のみよそに聞えて、その姿の見えぬのを譬喩にとつたのである。
〔語〕 ○鳴くなる鶴の 姿は見えず聲だけ聞える意で、直接に逢へない譬とした。
〔訓〕 ○外のみに 白文「外耳」で、舊訓ヨソニノミ。略解による。
 
(75)593 計に戀ひ甚《いた》も術《すべ》なみ平山《ならやま》の小松が下《もと》に立ち嘆くかも
 
〔譯〕 あなたを戀うて、まことにしかたがないので、奈良山の小松の下に立つて嘆くことでありますよ、まあ。
〔評〕 卷十一に、「奈良山の小松が未の何《うれむ》ぞは」(二四八七)とある奈良山の小松の間に、戀に堪へずして、さまよひ入つたのであらう。家持の住む佐保のあたりを、あこがれの眼をもつて眺めやつたのでもあらうか。
〔語〕 ○いたも術なみ 「四五六」參照。○平山 「二九」參照。
 
594 吾が屋戸《やど》の夕陰草《ゆふかげくさ》の白露の消《け》ぬがにもとな念《おも》ほゆるかも
 
〔譯〕 私の家の夕方の薄明るい光の中に見えてをる草におく白露のやうに、私も消えいるほど、由なくもあなたのことが思はれることであります。
〔評〕 夕暮の庭の草の上に置いた露の、今にも消えるかとあやぶまれる、おぼつかない風情は、さながらに我が身に思ひなされたのである。夕陰の霧おもげな草に、戀に惱む佳人の婉容も浮んでくる。似た着想の歌に「秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は念ほゆるかも」(一五六四)がある。
〔語〕 ○夕かげ草 夕方の物かげに見えてをる草、夕方の薄明るい光の中に見える草の意。○けぬがに 消えるばかりに。「一九九」參照。
 
595 吾が命の全《また》けむかぎり忘れめやいや日にけには念《おも》ひ益すとも
 
〔譯〕 私の命のあるかぎり、忘れませうか、日ましにいよいよ思ひのますことはありましても。
〔評〕 平明のうちに強い意力のこもつた歌で、四五句は、卷十二の歌と同樣である。「逢はずして戀ひわたるとも忘(76)れめやいや日に日には思ひ益すとも」(二八八二)。
〔語〕 ○全けむ 全くあらむ。「全し」は堅固の意。○いやけにけには 「四七五」參照。
 
596 八百日《やほか》行く濱の沙《まなご》も吾が戀にあに益《まさ》らじか奧《おき》つ島守
 
〔譯〕 多くの日數を經てゆくやうな長い濱にある、限りもない眞砂の數も、私の思ひの數にはおそらくまさりはすまいね。さうではないか、沖の島守よ。
〔評〕 「八百日行く濱のまなご」に自らの思ひを比較したのも珍しいが「おきつ島守」と云ひかけたのも面白い。廣い濱邊を、砂を數へるやうにうなだれて行く作者が、ふと眼をあげると、沖の島かげが、語るごとく黙するごとく、自分を見つめてをる。思はず、その島に向つてつぶやいた嘆息であらう。或は、さうした空想をゑがいたのであらう。いづれにしてもあはれ深い、すぐれた歌である。
〔語〕 ○八百日行く濱の沙 數の多い譬喩。「八百日」は日數の多いの意。○あに益らじか 「あに」は、ここでは、おそらくの意。
 
597 うつせみの人目を繁み石走《いはば》り間近《まぢか》さ君に戀ひわたるかも
 
〔譯〕 人目が多いので、間近くにいらつしやるあなたに逢はずに、戀ひ暮らすことでありますよ、まあ。
〔評〕 よくととのつて、平明のうちに意を盡くした歌であるが、型にはまつた憾がある。
〔語〕 ○うつせみの 「人」につづく枕詞。○石走り 「間近き」にかかる枕詞。石走る、とよむ説もある。
 
598 戀にもぞ人は死《しに》する水無瀬《みなせ》川下ゆ吾《われ》痩《や》す月に日にけに
 
(77)〔譯〕 戀のためにこそ、まことに人は死ぬるものであります。人に知られぬうちに、私は痩せて行きます、月ごとに、日ごとに。
〔評〕 上に、戀のためには人は死ぬるものであると云ひ、下に、自分が痩せてきたと云うたのは、暗に自分も死期が近くなつたといふおびやかしの意を合めてをる。優しくあはれに戀人を脅迫して、その情をゆり動かさうとするやうな感があつて、その手法が竝々ではない。第五句は殊にすぐれてゐる。
〔語〕 ○水無瀬川 川の名ではない(玉勝間)。水が表面に出ないで沙の下を流れるの意で「下ゆ」にかかる枕詞。○月に日にけに 月ましに日ましにの意。
 
599 朝霧の鬱《おほ》に相見し人ゆゑに命死ぬべく戀ひわたるかも
 
〔譯〕 朝霧のやうに、おぼろげにお目にかかつたお方であるのに、私は死ぬばかりにはげしく戀ひつづけることであるよ。
〔評〕 逢ひ初めた頃の歌であらう。うちに熱情のひそんだ、あはれのいひざまである。この歌に似て、自然の風致に乏しく、しかも技巧が勝つてをる歌に「夕月夜あかときやみのおぼほしく見し人ゆゑに戀ひわたるかも」(三〇〇三)がある。
〔語〕 ○朝霧の 「おほ」につづく枕詞。○おほに相見し 「二一九」參照。
 
600 伊勢の梅の磯もとどろに寄する浪|恐《かしこ》き人に戀ひわたるかも
 
〔譯〕 伊勢の海の、海邊の石がとどろくほどに寄せる浪のおそろしいやうに、おそれ多い身分のお方に、私は戀ひわたることであるよ。
 
(78)〔評〕 珍しく、巧みな讐喩である。大きくてのびやかながら、こまかな味のにじんだ歌である。源實朝は此の歌の句を用ゐて「大海の磯もとどろによする波われて碎けてさけてちるかも」(金槐集)と詠んだ。
〔語〕 ○磯もとどろに 磯も轟きひびくまでに。「とどろ」は、大きな音の擬聲語。○寄する浪 以上、かしこきの序。○かしこき人に 身分の高い人に。家持の家柄がよいので云つたのである。
 
601 情《こころ》ゆも吾《あ》は念《も》はざりき山河も隔たらなくに斯《か》く戀ひむとは
 
〔譯〕 心から私は思ひませんでした。山も河も隔つてをらぬ近くなのに、お逢ひすることも出來ないでこんなにあなたを戀ひ慕ひませうとは。
〔評〕 「斯く戀ひむとは」と云ふことによつて、近くにゐて逢ふことの出來ぬのは意外である、といふ意をあらはしてゐる。
〔語〕 ○情ゆも 「四九〇」參照。○山河も 山も河もの意。
 
602 夕さればもの念《も》ひ益《まさ》る見し人の言《こと》問ふすがた面影にして
 
〔譯〕 夕方になると、いよいよ物思がまさつてくることである。お逢ひした方の話をされた樣子が、目の前にちらついて來るので。
〔評〕 夕方に忍び逢うたので「夕さればもの念ひまさる」のである。「言問ふすがた」に、戀のささやきも思ひかへされたであすう。あはれ深い歌である。
〔語〕 ○言問ふすがた 物をいふ姿。○面影にして 面影に見えて。「三九六」「一七九四」「三一三七」等參照。
〔訓〕 ○言問ふすがた 白文「言問爲形」で、舊訓コトトヒシサマ。考コトトハスサマとあるが、代匠記初稿本によ(79)る。
 
603 おもふにし死《しに》するものにあらませば千遍《ちたび》ぞ吾は死にかへらまし
 
〔譯〕 人を戀ひ思ふ苦しさのために、もし死ぬものであるならば、私は千遍も死ぬことを繰り返すでありませう。
〔評〕 人を思うてそれで死ぬものならば、唯一度死ぬくらゐのことではない、千遍も死ぬであらうと、其の戀の世の常ならぬ強さを語つてゐるのである。可憐な理窟のなかに、着想の奇もあり、情熱のはげしさも見える。
〔語〕 ○おもふにし おもふ爲にの意。○死にかへらまし 幾度も幾度も繰返して死ぬであらう。
〔訓〕 ○おもふにし 白文「念西」で、(舊訓オモヒニシ。玉の小琴による。
 
604 劔太刀身に取り副ふと夢《いめ》に見つ何のさとしぞも君に逢はむ爲
 
〔譯〕 太刀を私の身にとり副へると夢に見ました。これは何の前兆であらうか。あの方にお逢ひするといふ前兆でありませう。
〔評〕 第三句までに夢の内容を説明し、第四句で問ひ、結句で自ら答へてをる。おもしろい構想である。戀人が平素身につけてをる物を、我が身に取りそへたのを、戀人にあふしるしであると解したのは、感覺的に自然なものがある。それを自らに云ひ聞かせて慰めてをる趣もうかがはれる。
〔語〕 ○劔太刀 「一九四」參照。但、ここは枕詞ではない。○さとしぞも 「さとし」は、前兆、豫兆。
〔訓〕 ○何のさとしぞも 白文「何如之怪曾毛」で、舊訓による。「怪」を考はサガ、攷證はシルシとす。
 
605 天地の神し理《ことわり》なくはこそ吾が念《も》ふ君に逢はず死《しに》せめ
 
(80)〔譯〕 これほど眞心をこめてあなたを思ふものを、天地の神々の感應がないものならば、わが思ふ君に逢へないこともあらう。神の感應といふことがある以上逢はずに死ぬることにもならう。
〔評〕 この戀にしてかなはずば、神の正しいおさばきも疑はれる、といふのである。神を恐れ畏む萬葉人としては、大膽な歌である。中臣宅守の歌に「天地の神なきものにあらばこそ吾《あ》が思《も》ふ妹に逢はず死《しに》せめ」(三七四〇)とある。二首ともに、古歌を粉本としたものであらうか。
〔語〕 ○ことわりなくはこそ 道理をわきまへなさらぬものならばの意。
〔訓〕 ○神し理 白文「神理」で、舊訓カミモコトワリ。玉の小琴による。カミノコトワリともよまれる。
 
606 吾《われ》も念《おも》ふ人もな忘れおほなわに浦吹く風の止《や》む時なかれ
 
〔譯〕 私も思ひます。あなたもお忘れくださいますな。あの浦吹く風の止む時もないやうに、思ひ止む時なく思うてゐて下さいませ。
〔評〕 趣旨には何らの奇もないが、才氣のある表現によつて、曲《きよく》を加へた歌になつてをる。
〔語〕 ○人もな忘れ 人は家持をさす。忘れるなの意。○おほなわに 解し難い語であつて、種々の説が出てゐる。「ねんごろなる心なり」(管見)大繩で地名(代匠記)などの説があるが、代匠記の説は假名遣が異なるから從ひ難い。全釋は攷證に從つて「オホナワノ浦」と地名的に取り扱ひ、總釋は管見の副詞説によつて五句にかかるものとしてゐる。暫く後者による。
〔訓〕 ○おほなわに 白文「多奈和丹」で、玉の小琴はあさにけに、「旦爾氣爾」の誤、古義は古今六帖に「君もおもへ我も忘れじありそ海の浦吹く風の止む時もなく」とあるから、これも「有曾海乃」の誤かとし、攷證は「丹」を「乃」に改めてゐる。
 
(81)607 皆人を寢よとの鐘は打ちぬれど君をし念《も》へば寢《い》ねかてぬかも
 
〔譯〕 「人々よ寢よ」と告げる時の鐘はうつたけれども、私はあなたのことを思ふので、寢ようとしても寢られないことである。
〔評〕 「皆人を寢よとの鐘」は、天武紀にいふ人定《ヰノトキ》の鐘である。新奇な取材であり、類のない言ひざまである。前人未踏の材料をとつて、ありふれた「寢《い》ねかてぬ」惱みに新粧をあたへ、しかも、可憐の趣を合ませた詩才は賞すべきである。
〔語〕 ○寢よとの鐘 寢よと告げる鐘、天武紀十三年冬十月の記事に「壬辰・逮2于人定1。大地震。」とあり、「人定」を「ヰノトキ」と訓んでゐる。亥の時は今の午後十時で、人の眠り定まる時であるから意によつて訓んだ(代匠記)。廷喜式によれば亥時は鐘を四つ打つ。
〔訓〕 ○打ちぬれど 白文「打禮杼」。古葉略類聚鈔「打」の下に「奈」があり、これによる説もある。舊訓ウツナレド。略解ウチツレド。
 
608 相念《あひおも》はぬ人を思ふは大寺の餓鬼《がき》の後《しりへ》に額《ぬか》づく如し
 
〔譯〕 佛を拜んでこそ利益はあるが、餓鬼のうしろに禮拜したとて、何の益もない。思つてくれぬ人を慕ふのは、それと同じである。
〔評〕 寺に置かれてあつた貪慾邪惡の象徴なる餓鬼を取つて、諷刺と自嘲とに異彩を放つてをる。餓鬼に額づくさへ笑ふべき愚行であるのに「餓鬼のしりへ」と云うたところに、感情の迫つた皮肉がある。この歌は、第一に極めて奇拔な比喩を用ゐてゐるところから人目につき易く、後世種々の歌書にも引用されてゐて、近世の「浮世風呂」の中に(82)さへ使はれてゐる。第二には餓鬼の音讀で、檀越(三八四七)波羅門(三八五六)等とともに珍しい例をなしてゐる。
〔語〕 ○大寺の餓鬼のしりへに 大きい寺には惡報を示す爲に、後戸の方に餓鬼をおいたのであらう。餓鬼は、佛教で、餓鬼道に墮ちた亡者で、絶えず飢渇に苦しみつつも飲食することのできぬものである。從つて餓鬼に詣でるも何の利益もないわけである。それを、しかもうしろから拜むといつて益なき譬とした。卷十六には「寺寺の女餓鬼申さく大神の男餓鬼賜りて其の子うまはむ」(三八四〇)とある。
〔訓〕 ○額づく如し 白文「額衝如」で、舊訓ヌカヅクガコト。古義による。
 
609 情《こころ》ゆも我《あ》は念《も》はざりき又更に吾が故郷に還り來《こ》むとは
 
〔譯〕 心から私は思ひませんでした。また再び私の故郷に歸つて來ようなどとは。
〔評〕 前に「石走《いははし》り間近き君に」(五九七)とあつたやうに、家持の近くに住んでゐたのが、女郎の故郷の舊地に歸つて來たのである。何故に歸つたかは不明であるが、戀をとげずして去つた怨情がうかがはれる。
〔語〕 ○情ゆも我は念はざりき 「六〇一」參照。○故郷に ここは今いふ故郷の意。
〔訓〕 ○一・二句の訓法すべて「六〇一」に從ふ。
 
610 近くあれば見ねどもあるをいや遠く君が坐《いま》さばありかつましじ
     右の二首は、相別れて後來《また》贈《おく》れるなり。
 
〔譯〕 近くにをりますれば、お目にかからなくても堪へられますが、こんなに、いよいよ速くあなたがおいでになつては、私は堪へられますまい。
〔評〕 近くにゐても逢はれぬことは悲しかつた。しかし、かく遠く離れた後の思ひにくらべては物の數でもなかつた。(83)愛人の近くにゐるといふことのみでも、慰む心があらうものを、といふのである。
〔語〕 ○見ねどもあるを 見ないでもゐられるものを。○ありかつましじ あり得まいの意。「九四」「七二三」參照。
〔左註〕 なほ以上で、家持に對し、切々たる思慕の情をささげた笠女郎の二十四首は終つてゐる。最後の左註によつて、一度に贈つたものでないことがわかるのである。次の家持の返歌は、最後にある二首に對する返歌であらう。
 
    大件宿禰家持の和ふる歌二首
611 今更に妹に逢はめやと念《おも》へかも幾許《ここだ》がわが胸おぼほしからむ
 
〔譯〕 今となつてはあなたに逢はれまいと思ふからであらうか、自分の胸はまことにふさいで晴れないのである。
〔評〕 悒欝な胸の思ひの原因を求めて、心理を描寫したのである。高田女王の「吾が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別のすべなかりつる」(五四〇)と似た手法である。
〔語〕 ○幾許 多く、ひどくの意。
 
612 なかなかに黙《もだ》もあらましを何すとか相見そめけむ遂《と》げずあらくに
 
〔譯〕 むしろ戀をせずに黙《だま》つてゐればよかつたものを、何とて逢ひ初めたのであらう。戀をとげることも出來ぬのに。
〔評〕 時代の差を越えて相通ずる悲しい戀の告白である。卷十二には「なかなかに黙然《もだ》もあらましをあづきなく相見そめても吾は戀ふるか」(二八九九)とあり、中臣宅守も「かくばかり戀ひむとかねて知らませば妹をば見ずぞあるべくありける」(三七三九)と詠んでゐる。これらを誇張したのは「何せむに命|繼《つ》ぎけむ吾妹子に戀ひざる前《さき》に死なましたのを」(二三七七)であらう。
〔語〕 ○遂げずあらくに とげないでゐるのに。
(84)〔訓〕 ○遂げずあらくに 白文「不遂爾」 通行本には「爾」が「等」とあるが金澤本等によつて改めた。訓はトゲラエナクニともよめる。
 
    山口女王、大伴宿禰家持に贈れる歌五首
613 物思ふと人に見えじとなまじひに常に念へり在りぞかねつる
 
〔題〕 山口女王 傳不詳。
〔詳〕 物思ひをしてゐると、他人には見られまいと、なまじひに常に心がけてをります。これでは命がつづきさうにもありませぬ。
〔評〕 戀に惱んでをることを人には知られまいと、強ひてよそうてゐるのが、命にもさはるほど辛い、といふのである。抑へた戀の苦しみである。心理を着實に寫して、調子が澁くて、敍情詩的に聲を張つたところのないのが、悲痛である。さすがに女王の悲戀と思はれる。
〔語〕 ○なまじひに なまなかに、できぬ事を無理にするの意。○在りぞかねつる 生きてあり難いの意。
〔訓〕 ○常に念へり 白文「常念弊利」で、略解のツネニオモヘドに從ふ説も多い。しかし「利」はトの假字にも用ゐるが、甲類の假名であつて、助詞ドは乙類の假名である。從つてリと訓む舊訓がよい。
 
614 相念《あひおも》はぬ人をやもとな白たへの袖|漬《ひ》づまでに哭《ね》のみし泣くも
 
〔譯〕 私を思つても下さらぬ方を思つて、わけもなく、袖が涙にぬれひたるほど、聲をあげて泣くことであるよ。
〔評〕 すなほに片思の悲しみをのべて、あはれな作である。
〔語〕 〇人をやもとな 「もとな」は、理由なく、わけもなく等の意の副詞。「二三〇」參照。
(85)〔訓〕 ○哭のみし泣くも 白文「哭耳四泣裳」で、舊訓による。代匠記精撰本にはネノミシナカモとある。
 
615 吾が背子は相念《あひも》はずともしきたへの君が枕は夢《いめ》に見えこそ
 
〔譯〕 私の思ふ方は、たとへ私を思うて下さらぬとしても、せめてあなたの枕だけは、私の夢に見えてほしいもの。
〔評〕 萬葉人は、愛人の思ひが通じて、自己の夢に現はれるものと考へてゐたのである。それ故に、ここでは、愛人が私を思ひ、私の夢に現はれることがないとしても、せめては愛人の枕なりとも夢に見たい、と願つてゐるのである。その情まことに哀切である。
〔語〕 ○しきたへの 枕の枕詞。○見えこそ 「こそ」は願望の助詞。
 
616 劔太刀名の惜しけくも吾は無し君に逢はずて年の經《へ》ぬれば
 
〔譯〕 名を立てられることなど私は惜しくも思ひませぬ。あなたにお目にかからずに年がたちましたので。
〔評〕 報いられぬ戀に、むなしく年を送つた。この苦しみには堪へられぬ。今は女のつつましさも捨てた。名も思はぬ。何としても逢ひたい、といふ烈しい情熱が、第一句劔太刀の枕詞と照應して、緊張した力強い一首となつてゐる。卷十二の二首は、形式的にも似通つたものがある。「み空行く名の惜しけくも吾はなし逢はぬ日|數多《まね》く年の經ぬれば」(二八七九)「劔太刀名の惜しけくも吾はなし此の頃の間の戀の繁きに」(二九八四)。
〔語〕 ○劍太刀 枕詞。つづき方は、刃を「な」といつたからとも、なぐ意からとも、劔には、何の劍と名のある故にともいふ。
 
617 蘆邊より滿ち來《く》る潮のいや益《まし》に念《おも》へか君が忘れかねつる
 
(86)〔譯〕 蘆邊の方から滿ちて來る潮のやうに、いやましに戀しく思ふ故でありませうか。あなたを忘れることが出來ませぬ。
〔評〕 上の序が、ひたひたとこみあげてくる戀心に通うて、うるほひのある佳調をなしてをる。卷十二には「湖囘《みなとみ》に滿ち來《く》る潮のいや益《ま》しに戀はまされど忘らえぬかも」(三一五九)とある。
〔語〕 ○蘆邊より滿ち來る潮の 「いや益」にかかる序。「より」は「を通つて」の意。○念へか 念へばかの意。○君が忘れかねつる 君を忘れることができぬの意。
 
    大神《おほみわ》女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
618 さ夜中に友よぶ千鳥もの念《も》ふとわびをる時に鳴きつつもとな
〔題〕 大神女郎 傳不詳。「一五〇五」にも見える。
〔譯〕 夜中に友をよぶ千鳥が、物思ひをしてわびしくひとり居る時に、よしなくも鳴いてをることよ。
〔評〕 折も折、友よぶ千鳥がいたづらに鳴いて、よしなき戀をつのらせる、といふのである。卷十には「もだもあらむ時も鳴かなむひぐらしの物もふ時に鳴きつつもとな」(一九六四)とある。
〔語〕 ○鳴きつつもとな 「もとな鳴きつつ」に同じ。「二三〇」參照。
 
    大伴坂上郎女、怨恨の歌一首并に短歌
619 おし照る 難波の菅《すげ》の ねもころに 君が聞《きか》して 年深く 長くし云へば まそ鏡 磨《と》ぎし情《こころ》を 許してし 其の日の極《きはみ》 浪の共《むた》 靡く玉藻の かにかくに 意《こころ》は持たず 大船の たの(87)める時に ちはやぶる 神や離《さ》くらむ うつせみの 人か禁《さ》ふらむ 通はしし 君も來まさず 玉づさの 使も見えず 成りぬれば いたもすべなみ ぬばたまの 夜《よる》はすがらに 赤らびく 日も暮るるまで 嘆けども しるしを無み 念へども たづきを知らに 手弱女《たわやめ》と 言はくも著《しる》く 手童《たわらは》の 哭《ね》のみ泣きつつ 徘徊《たもとほ》り 君が使を 待ちやかねてむ
 
〔譯〕 ねんごろにあなたが仰せられて、年久しく長くかはるまいと言はれるままに、眞澄の鏡のやうに磨《と》ぎすましてゐた心を許して以來、その日から、浪のまにまに靡く玉藻のやうに、あれこれと動き靡くやうな心は持たず、大船のやうにかなたを頼み切つてゐた時に、神さまが二人の間をお難しになつたのであらうか、それとも此の世の人が邪魔してをるのであらうか、今まで通つておいでになつたあなたもおいでにならなくなり、手紙を持つたお使も來なくなつてしまつたので、なんともしやうが無さに、夜は夜すがら、晝も亦日の暮れるまで、嘆いてはをるが、その甲斐もない。思ひつづけてゐるけれど、如何にする手段《てだて》もわからないので、まことに手弱女といふ、その言葉通りに、まるで幼い子供のやうに、泣きつつうろうろしてひたすらお使を、お待ちしてをりますが、その効果もないことでありませう。
〔評〕 全篇、哀調を以て貫かれてをる。いかにも手弱女らしい、あえかに見える風情である。ただ表現の上に「玉づさの使も見えずなりぬればいたもすべなみ」と、五七五七の調がくだけ、格調を弛めてをるので、題詞にある怨恨の情も、やや切實味を缺いてゐる。
〔語〕 ○おし照る 枕詞。「四四三」參照。○難波の菅の 「ねもころ」の「ね」にかかる序。○年深く長くし云へば 年久しく長く變るまいといへば。○まそ鏡 枕詞、「まそ」は眞すみの義。鏡は研ぎ磨くのであるから、次句にかけた。○磨ぎしこころを 磨きすましたやうな清い眞心。○其の日の極 その日を限りとして、その日以來の意。○浪(88)のむた 浪と共に「一三八」參照。○靡く玉藻の 「かにかくに」にかかる序。心のあちらこちらいろいろとなびくの意。○神やさくらむ 神が二人の間を離さうとなさるのであらうか。○人か禁ふらむ 人が妨げるのであらうか。「さふ」は、集中で、障、塞の字を當ててゐる。○夜はすがらに 終夜。○赤らひく 日の枕詞。赤く延く意とも、赤く光るの約ともいふ。○手弱女と言はくも著く 手弱女といふことももつともで。○手童の 「一二九」參照。○待ちやかねてむ 「待ちかぬ」は、待つても甲斐のないこと。
〔訓〕 ○聞かして 白文「聞四手」の「手」は金澤本による。通行本はじめ他の諸本「乎」とあるは適當でない。舊訓キキシヲは字を改めてゐるから問題でない。玉の小琴は「乎」は「手」の誤としたが、訓はキコシテとした。○かにかくに 白文「云云」で、舊訓トニカクニ。代匠記精撰本による。○通はしし 白文「通爲」で、舊訓カヨヒセシ。考カヨハセシ。略解カヨハセル。玉の小琴に依る。
 
    反歌
620 はじめより長くいひつつ恃《たの》めずは斯《か》かる思ひに逢はましものか
 
〔譯〕 最初から長く變るまいなどといつて、頼りに思はせてくださらなかつたならば、こんなつらい思ひにあふことがありませうか。
〔評〕 長歌では、愛人の切なる求婚を許して以來の樣を述べ、通はなくなつた愛人をひたすら待つことで結ばれてをる。怨恨の意は直接に現はれてをらぬ。反歌では、長歌に述べたところをそのままに受けて、かやうな苦しみの原因は、愛人の巧言にあると、いきどほろしく云うてをる。「逢はましものか」の語氣は、まことに激しい。
〔語〕 ○恃めずは 恃ましめずはの意。「恃め」は下二段に活用し、使役の意を含む。○逢はましものか 逢ふであらうか、逢ひはしなかつたはずである。
(89)〔訓〕 ○恃めずは 白文「不令恃者」の「令」は金澤本、紀州本による。通行本等に「念」とあるを、攷證は認めてゐるが、誤である。
 
    西海道節度使判官佐伯宿禰|東人《あづまひと》の妻、夫《せ》の君に贈れる歌一首
621 間無《あひだな》く戀ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢《いめ》にし見ゆる
 
〔題〕 佐伯東人 續紀に「天平四年八月丁酉西海道節度使判官佐伯宿禰東人授2外從五位下1」とある。
〔譯〕 あなたが絶えず戀しく思つていらつしやるからであらうか、旅においでのあなたが、私の夢に見えましたことよ。
〔評〕 人を夢に見るのは、その人に戀せられてをるからである、といふのに依つたもので、この類の歌は集中に多い。
〔語〕 ○戀ふれにかあらむ この主語について夫が戀ふるのか(考)妻が戀しく思ふのか(古義)兩説がある。萬葉集には、相手が思ふから相手の夢を見るといふ歌(七二四、三一一一等)も、自分が思ふから夢にも見えるといふ歌(三七三八、三九二九等)も、いづれも例がある。しかし前者の方の例が多く、後者は比較的新しい歌に多いので、ここは前者としておく。
 
    佐伯宿禰東人の和《こた》ふる歌一首
622 草枕旅に久しくなりぬれば汝《な》をこそ念《おも》へ莫《な》戀ひそ吾味《わぎも》
 
〔譯〕 旅に出て久しくなつたので、そなた一人を思うてをる。安心して、あまり戀ひ慕ひなさるな、わが妻よ。
〔評〕 上四句は、妻の歌への和《こたへ》で、旅における自分の情を語つたのである。結句で一轉して、妻に注意を與へてをる。お前を思ひつつ無事であるから、あまり自分を戀して心配をするなといふのである。質實な句法に、男らしい愛情が(90)こもつて、しつかりした歌になつてをる。
〔語〕 ○汝をこそ ほかならぬお前を。汝は妻をさす。○な戀ひそ吾妹 あまり戀しく思ふな、の意。
 
    池邊王《いけべのおほきみ》の宴《うたげ》に誦《うた》へる歌一首
623 松の葉に月は移《ゆつ》りぬ黄葉《もみぢば》の過ぎぬや君が逢はぬ夜多き
 
〔題〕 池邊王 續紀によれば、天平九年内匠頭となつた。葛野王の子で、淡海三船の父といふ。宴に誦へる歌とは、宴會の席上で詠誦した歌の意である。「三八八」「三八九」の如く、左註によつて、その歌が口承により傳誦せられたことを物語るものであるが、さうした場合、宴席などが特に機會の多かつたことは首肯出來る。かくて、古歌や民謠風の歌が、この集の中に採り入れられてゐるのである。卷十五の最初にある天平八年の遣新羅使等が、所に當つて詠誦した古歌は、大體柿本人麿の作であることは興味がある。その他宴席で誦吟されたことの記録ある歌は「四一三」「三八一六−三八二〇」等が數へられる。文學的創作態度の新しい發生とともに、歌謠的詠誦歌の記録も、またこの集を成す、輕視出來ない要素である。
〔譯〕 庭の松の葉に月がかかるやうに移つてきました。今夜もむなしく過ぎました。あなたが私の所へお見えにならぬ夜が多くなりました。
〔評〕 愛人を待つ女の心を敍べた歌を、宴會の席で誦したのである。松の葉に傾く月影を眺めて、愛人の待てど來ぬを歎いたあはれな情景である。「もみぢ葉の過ぎぬや」で切つてみると、意味が明快になる。
〔語〕 ○月はゆつりぬ ゆつるは移るに同じ、月が傾いたの意。○もみぢ葉の 枕詞。○過ぎぬや君が逢はぬ夜多き 今夜もむなしく過ぎた、君に逢はぬ日が多いよの意。「君に逢はぬ夜のあまた過ぎぬるよ」の意(略解)ではあるまい。
(91)〔訓〕 過ぎぬや 白文「過哉」で、スギメヤ、スギシヤ、スギキヤなどの諸説がある。○逢はぬ夜多き 白文「不相夜多焉」で、紀州本にアハヌヨオホシとあり、他の諸本はアハヌヨオホクと訓んでゐる。攷證の訓に從ふ。
 
    天皇、酒人女王《さかひとのおほきみ》を思《しの》びませる御製の歌一首
624 道に逢ひて咲《ゑ》まししからに零《ふ》る雪の消《け》なば消《け》ぬがに戀《こ》ふとふ吾殊《わぎも》
 
〔題〕 天皇 聖武天皇。酒人女王 續紀に寶龜元年三品を授けられた酒人内親王といふ方が見えるが、光仁天皇の皇女で時代が下りすぎるやうである。元暦校本等の古寫本の註の如く、穗積皇子の孫であらうと思はれる。
〔譯〕 道で行き逢うて、そなたがにつこりとゑまれた、ただそれだけで、命も消えるなら消えよとばかりに戀ひ慕ふ、と人のいふあなた。自分も逢つて見たく思ふ。
〔評〕 一笑人を惱殺するといふ、美人の噂が高い女王を、自らも見たいとおほせられたのである。詞調輕妙、なごやかで優雅な御たはむれの氣がただようてをる。
〔語〕 ○ゑまししからに 笑み給ひしそれだけの故に。○零る雪の 「消」にかかる枕詞。「二九九」「一六五五」等、實景的な枕詞として取り扱つてゐる。○けなばけぬがに 「がに」(五九四)參照。消え失せるならば消え失せて了ふばかりにの意。○戀ふとふ吾妹 世の人々が戀ふといふ吾妹、の意。
〔訓〕 ○戀ふといふ吾味 白文「戀云吾妹」の「云」を「念」の誤とする玉の小琴の説に從ふ註もあいが、諸本異同がないので、文字のままに解した。
 
    高安王、裹《つつ》める鮒を娘子《をとめ》に贈れる歌一首
625 奧方《おきへ》行き邊《へ》に行き今や妹がため吾が漁《すなど》れる藻臥束鮒《もふしつかぶな》
 
(92)〔題〕 高安王 「五七七」參照。元暦校本等の古寫本には、小字で「高安王者後賜2姓大原眞人氏1」とある。
〔譯〕 これは、水の深い方へ行つたり、岸の方へ行つたりして、たつた今そなたのために自分がとつた、藻の中にかくれてゐる小さい鮒である。
〔評〕 萬葉人は、人に物を贈る時、それを得た辛苦をありのままに敍べて、それが眞情のこもつた贈物であることを語るのを常としてをる。その點、近代の風習とは趣を異にする。それは、萬葉人の明朗な心を語るものであらう。この歌は、殊に童心のあらはれた作で、彼方此方に走り、藻の中に隱れてゐた小鮒をとつた樣が、さながらに寫されてをる。藻臥束鮒の熟語もおもしろい。
〔語〕 ○奧方行き 奧の方、即ち遠い方に行き。「方」は助詞ではない。○藻臥束鮒 藻の中に住む一|束《つか》ほどの鮒、束は一握の長さ、即ち約二寸。藻臥を地名とする説(記傳所引田中道麿説)もあるが從ひがたい。
 
    八代女王、天皇に獻《たてまつ》れる歌一首
626 君に因《よ》り言《こと》の繁きを古郷の明日香の河に禊《みそぎ》しに行く
     一の尾に云ふ、龍田超え三津の濱邊に禊しにゆく
 
〔題〕 八代女王 續紀によると、天平九年二月初めて正五位下を授けられたが、天平寶字二年十二月に「毀2從四位下矢代女王位記1以d被v幸2先帝1而改uv心也」とある。
〔譯〕 あなたさまの爲に、人の口がやかましうございますので、古郷の明日香の河に、身に積つた人言の汚れを清めに參ります。
〔評〕 世の人のあらぬ噂を受けて身が汚れたと感じ、禊をして祓ひ清めようといふのは、特異な面白い心理である。(93)集中に珍しい歌である。この女王は、續紀によれば、先帝(元正天皇)に幸せられたとあるので、かく人言を厭うたのもうなづかれよう。
〔語〕 ○君により 君が爲に。○言の繁きを 「を」は「を以て」の意と説くが、間投助詞の「を」で「を」自身にその意はなく、ただ文全體の調子からさう解されるものと思はれる。○古郷の ここは舊都の意。○みそぎしに行く 「みそぎ」は、川又は海に浴して不淨を潔めること。
〔左註〕 三句以下の異傳では、場所が龍田山を越えて難波の三津の濱へ行くことになつて居る。
 
    娘子、佐伯宿禰赤麻呂に報へ贈れる歌一首
627 吾が袂|纒《ま》かむと念《も》はむ丈夫《ますらを》は變水《をちみづ》求め白髪《しらが》生《お》ひにたり
 
〔題〕 娘子云々 「四〇四」參照。
〔詳〕 あなたは、私の袂を枕になさらうとお思ひになりますならば、若變りの水を求めて來て下さい。私は、もう白髪が生えました。
〔評〕 輕い諧謔の氣分が見える。變水の語に、當時の神仙思想の流行があらはれてをる。
〔語〕 ○丈夫は 次句を「戀水《なみだ》に沈み」とする説では、これを第二句の上において解するといつてみるが、不自然と思はれる。二句まではやはりこの句を修飾するものと思はれる。○變水求め 「をち」は「三三一」參照。「をち水」は、飲めば若返る水。「求め」は「求めよ」の意。
〔訓〕 ○題詞について 略解はこの前に赤麿の贈歌脱かともし、古義はこの前に「初花の」(六三〇)の歌を移し、それに對して答へた歌としてゐるが、卷三の娘子の歌も同樣の形式であつて、兩説共に從ひ難い。○變水 元暦校本及び大矢本(但、變を消して右に「戀」とあるも同筆らしい)による。他の諸本「戀水」となつてゐる。卷十三の長(94)歌に「月よみの持たる變若水《をちみづ》い取り來て君に奉《まつ》りて變若得しむもの」(三二四五)とある。變水は月讀が持つてゐると考へられたものか。○求 意によつて改めた。諸本「定」に作る。諸注「戀水定」によつてナミダニシヅミと訓んでゐる。
 
    佐伯宿禰赤麻呂の和《こた》ふる歌一首
628 白髪《しらが》生《お》ふる事は念《おも》はず變水《をちみづ》は彼《か》にも此《かく》にも求めて行かむ
 
〔譯〕 そなたに白髪の生えてゐても、そんなことはなんとも思ひはしない。しかし、若返りの水は、とにもかくにも求めて行きませう。
〔評〕 機智のあるこたへである。四五句が殊に輕く巧みに出來てをる。
〔語〕 ○かにもかくにも 兎も角も、かにかくに。次の歌及び「三八三六」參照。
〔訓〕 ○變水 意によつて改めた。諸本「戀水」とある。○事は念はず 白文「事者不念」。温故堂本による。舊訓にはコハオモハジと訓んでゐる。
 
    大伴四綱、宴席《うたげ》の歌一首
629 何すとか使の來《き》つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ
〔題〕 大伴四綱 「五七一」參照。
〔譯〕 何の爲に使が來たのであらうか。使ではなく、あなたのおいでを、とにもかくにも待ちかねてをります。
〔評〕 宴會に來る約束をしてゐた友人が、來られなくなつた旨を、使を以て云ひおこせた際、使などに用はない。自分は本人を待つてゐるのに、といふので、使者の告げる意に耳をも借さぬところがある。ひたすらに待つ心が、巧に(95)あらはれたおもしろい作である。
〔語〕 ○君をこそ 使ではなく君をこその意。
〔訓〕 ○何すとか 白文「奈何鹿」で、舊訓ナニシニカ。考による。○かにもかくにも 白文「左右裳」で、舊訓トニモカクニモ。代匠記精撰本による。
 
    佐伯宿禰赤麻呂の歌一首
630 初花の散るべきものを人言《ひとごと》の繁きによりてよどむ頃かも
 
〔譯〕 折角咲いた初花が散るであらうに、人言が繁くやかましいので、今はためらうてをるのである。
〔評〕 初花を若い女子にたとへ、それが他人のものにならうとしてゐるのに、人の噂を恐れて求婚もできずにをる樣を云うたことは明かである。おほどかな云ひざまの中に、あせりの氣分が認められよう。
〔語〕 ○初花の散るべきものを 若い女が他の男の妻となる事を譬へたものであらう。人生の盛も程なくすぎるものをといふ説(代匠記)も、女の家に花の木があつて今は散るだらうと思ふがの意とする説(略解)も、共に從ひ難い。○よどむ 躊躇するの意。
〔訓〕 ○よどむ頃かも 白文「止息比者鴨」で、舊訓トマルコロカモ。玉の小琴による。
 
    湯原王、娘子に贈れる歌二首
631 表邊《うはへ》なきものかも人は然《しか》ばかり遠き家路を還《かへ》すおもへば
 
〔題〕 湯原王 「三七五」參照。
〔譯〕 表面だけの情さへもないものであることよまあ、あなたは。これほど遠い所からわざわざたづねて來た自分を、(96)むなしく歸すことを考へてみると。
〔評〕 逢はずして歸る夜の嗟嘆である。しかし、迫らぬ悠容に、この王の氣品が豐かに香つてをる。大伴家持はこの歌に傚つて「表邊なき妹にもあるかも斯《か》くばかり人の情《こころ》を盡《つく》す念へば」(六九二)と詠んでゐる。
〔語〕 ○表邊なき うはべの情すらない意(代匠記)であらうと思はれる。あいそなきの意で、中昔の物語のあへなきはこの語の轉といふ説(略解所引宣長説)は如何であらうか。
 
632 目には見て手には取らえぬ月の内の楓《かつら》の如き妹をいかにせむ
 
〔譯〕 目には見ることができるが、手には取ることの出來ないあの月の中にあるといはれる桂のやうなあなたを、どうしたらばよいであらうか。
〔評〕 すつきりと、かなはぬ係戀《あこがれ》を巧みにのべた歌である。更に空想的な美しさもあつて、戀人を、この世のものならず、けだかく思ひなした趣もうかがはれよう。月中の桂といふ中國の傳説を用ゐた歌は卷十にもある。「もみぢする時になるらし月人のかつらの枝の色づく見れば」(二二〇二)。
〔語〕 ○月の内の楓 和名抄に「兼名苑云、月中有河、河上有桂、高五百丈」とある。大陸の傳説である。「月人の楓の枝も色づく見れば」(二二〇二)ともある。楓は和名抄に「楓、乎加豆良、桂、女加豆良」とあつて、山地に自生する落葉喬木。
 
    娘子の報へ贈れる歌二首
633 ここだくも思ひけめかも敷たへの枕|片《かた》去り夢《いめ》に見え來し
 
〔譯〕 どんなにか大層、あなたが私を思つて下さつたことでせう。枕を片方へ寄せて寢た私の夢に、あなたが見えて(97)來たのであります、
〔評〕 枕片去りは、端の方へひとり寢た樣を云うてをる。この歌も、切に戀ひ慕ふと、相手の夢に見えるといふ當時の風習に基いたもので、集中にその例が多い。
〔語〕 ○ここだく 大層、甚しくの意。○敷たへの 枕詞。○枕片去り 宣長は、夫の他にある時は床を片よせてねるので、此の歌も湯原王にあはないで寢る故に、枕を片避り片わきによりて寢る夜に夢に見えたといふ(略解所引)。新考は枕が自然片よつたとしてゐる。後者の方がよいと思はれる。
〔訓〕 ○ここだくも 白文「幾許」舊訓イクソバク、代匠記精撰本イカバカリ。
 
634 家にして見れど飽かぬを草枕旅にも妻《つま》とあるが羨《とも》しさ
 
〔譯〕 家でお目にかかつてゐて、いくら見ても飽かないあなたさまであるのに、あなたの御旅行に、妻として一緒においでの方がうらやましうございます。
〔評〕 家にあつてお目にかかつてさへ見飽かず思ふ君に、妻として旅に件なはれたその女の方が羨しいと羨み妬んだのである。
〔語〕 ○旅にも妻とあるがともしさ 娘子が夫即ち湯原王と旅にあつたのがうれしいといふ説があるがさうではなく、王が他の女と共に旅に出られたのを羨み妬んだものと思はれる。
〔訓〕 ○つまと 白文「妻與」とある。「夫と」と解する説もあるが、次の返歌によると、妻と、と解する方がよい。
 
    湯原王、また贈れる歌二首
635 草枕旅には嬬《つま》は率《ゐ》たれども匣《くしげ》のうちの珠《たま》をこそ念《おも》へ
 
(98)〔譯〕 旅には妻をつれては來たが、しかし、匣の中の玉のやうなそなたのことを思つてをることである。
〔評〕 他の女を連れて旅したのを詰つた歌に對して、旅に連れて出た女よりも、そなたのことをもつともつと匣のうちの珠ほどに大切に思つてゐると言ひわけしたのであるが、苦しい言ひ譯にすぎない。
〔語〕 ○匣の中の珠 秘藏してをる寶のやうにと、娘子をさしたのである。
〔訓〕 ○珠社所念 舊訓タマトコソオモヘと訓んであるのを改めた。
 
636 吾が衣《ころも》形見《かたみ》に奉《まつ》る敷妙の枕を離《か》れず纒《ま》きてさ宿《ね》ませ
 
〔譯〕 私の着物を形見に差上げます。枕から離さずに、まとうておやすみなさい。
〔評〕 下着は男女の區別が無かつたので、互に贈りあつてゐた時代の樣を語る作である。
〔語〕 ○枕を離れず 枕から離さずの意。
〔訓〕○枕を離れず 白文「枕不離」で、舊訓マクラカラサズによる説もある。代匠記精撰本にはマクラヲカサズとある。
 
    娘子、復《また》報へ贈れる歌一首
637 吾が背子が形見の衣|嬬問《つまどひ》にわが身は離《か》れじ言問《ことと》はずとも
 
〔譯〕 あなたの形見の着物は、あなたと共寢をすると思つて、私の身から離しますまい。物は言はないけれども。
〔評〕 形見として着物を贈る風習からみると、感覺上、極めて自然におこる感情であらう。愛人から着物をもらつた娘子は、誰もこの氣持になつたらうと思はれる。
〔語〕 ○嬬問に 夫婦のかたらひをする事。嬬問のつもりで、の意。○言問はずとも 形見の衣は物は言はないけれ(99)どもの意。「一二一一」參照。
 
    湯原王、亦贈れる歌一首
638 ただ一夜隔てしからにあらたまの月か經《へ》ぬると心はまどふ
 
〔譯〕 ただ一夜へだてたそれだけのことで、一月も逢はずに過ぎたかと、心はまどうてをる。
〔評〕 人間の共通の感情に根ざしてゐる故に、古くして新しい歌といふべきであらう。
〔語〕 ○隔てしからに 逢はなかつただけでの意。○あらたまの 月にかかる枕詞。「四四三」參照。○月か經ぬると 一月も經つたかと。
〔訓〕 ○心はまどふ 白文「心遮」で、舊訓オモホユルカモとあるのは訓む理由がわからない。誤字といふ説もあるが、さうとは思はれぬ。考ココロサヘギルも十分ではない。「繼ぎてし聞けば心|遮焉《まどひぬ》」(二九六一)とあるに依るべきであらう。
 
    娘子、復《また》報へ贈れる歌一首
639 吾が背子が斯く戀ふれこそぬばたまの夢《いめ》に見えつつ寐《い》ねらえずけれ
 
〔譯〕 あなたがこれ程に戀しく思つて下さるので、夢にあなたが見えて、寢られぬのであります。
〔評〕 夫にかくも思はれるのは嬉しいが、それゆゑに夢を見つつ眠られぬのが惱ましい、と云うてをるのである。句法は、舍人娘子の作「歎きつつ丈夫《ますらをのこ》の戀ふれこそ吾が髪結《もとゆひ》の漬《ひ》ぢて濕《ぬ》れけれ」(一一八)に似てをる。
〔語〕 ○寢ねらえずけれ いねらえざりけれの意。連用形「ず」に「けり」がつづくのは古格の一。
 
(100)    湯原王、亦贈れる歌一首
640 愛《は》しけやしま近《ぢか》さ里を雲居にや戀ひつつ居《を》らむ月も經なくに
 
〔譯〕 なつかしいそなたのをる近い里を、空の遠くに隔つてゐるやうに、戀ひつつ居ることであらうか。逢つてからまだ一月もたたぬのに。
〔評〕 何らの奇もなく平明に詠みながら、練れた圓みと滑らかさを帶びてをる。精錬のかかつた手なみである。
〔語〕 ○愛しけやし  「はしきよし」(一三一)「はしきやし」(一三八)に同じ。「愛しき」意で、ここは里にかかる。妻の住む里であるから愛しく思ふのである。○まぢかき里を この「を」を間投詞と見て「なるものを」と解するがよからう。○雲居にや 遠い空にあるやうに。○月も經なくに 逢つてからまだ一月もたたぬのに。
 
    娘子、復《また》報へ贈れる歌一首
641 絶《た》つといはば侘《わび》しみせむと燒太刀やきたち》のへつかふことは幸《さき》くや吾君《わぎみ》
 
〔譯〕 仲を絶つというたならば、私がわびしく思ふであらうとて、附かず離れずにあしらつていらつしやるのは、それでよいのでありますか、あなたよ。
〔評〕 鋭い才氣をやさしみに包んで、恨めしげに云うてをる。刺すやうなするどさ、甘えかかるやうなたをやかさ、その二つが巧みにまじりあつて、才色のそなはつた娘子の風姿を思はせるものがある。
〔語〕 ○わびしみせむと わびしく思はむとての意。動詞「爲」「思ふ」につづく場合の「――み」といふ形は準體言であつて、用言の連用形と思はれる普通の場合とは異る。○燒太刀の 枕詞、刀は鞘を隔てて身に著け佩く意で「隔」又は經にかかるとも、人の體の側に著く意で「邊著かふ」につづくともいふ。後者が穩かである。○へつかふことは (101)物の側につく意で絶えもせず逢ひもせぬ事といふ略解所引の宣長説がよい。○さきくや 幸とするかの意から、それでよいかの意に用ゐたものと解される。
〔訓〕 ○たつといはば 白文「絶常云者」で古訓、タユトイヘバ、考タユトイハバ。○さきくやわぎみ 白文「幸也吾君」で古訓ヨシヤワガキミ。略解所引宣長説には「幸也」の誤とし「カラシヤ」と訓んでをる。
 
    湯原王の歌一首
642 吾妹子に戀ひて亂《みだ》れり蟠車《くるべき》に懸《か》けて縁《よ》せむと吾が戀ひそめし
 
〔譯〕 あの女に戀をして心が亂れてしまつた。蟠車《くるべき》にかけて絲を練るやうに、女を引き寄せようとて、自分は戀ひ始めたのであつたのに。
〔評〕 絲繰機械にかけて女を手繰り寄せようとしたがうまくゆかず、絲がもつれるやうに心が亂れた、と云ふのである。單純な内容であるが、思ひ亂れるといふことから、絲を聯想し、ついで蟠車に思ひ及んで、かく趣向をおもしろく凝らしたのであらう。才氣のある作とともに、民謠風な素質を含んでゐる。
〔語〕 ○蟠車 和名抄蠶絲具部に「辨色立成反轉【久流閉枳】漢語鈔説同。」とあつて「かせわ」とも「まひば」とも呼ばれた絲を繰る機械。くるくる囘轉するところから來た名か。○懸けて縁せむと 戀の情を絲にたとへ、思ひ亂れたならばくるべきにかけても妹の方へよせようとの説(略解)自分の心が絲のやうに亂れたならばくるべきにかけて繰り集めようと覺悟してとする説(新考)共に無理である。女の心を機械にかけて引きよせようとしたとみる(全釋)のがよい。
〔訓〕 ○縣けて縁せむと 白文「懸而縁與」で、舊訓カケテシヨシト。略解による。
 
(102)    紀女郎《きのいらつめ》の怨恨の歌三首
643 世間《よのなか》の女《をみな》にしあらば吾が渡る痛背《あなせ》の河を渡りかねめや
 
〔題〕 紀女郎 古寫本の註によると安貴王の妻とあるから、前に出た「五三五」の安貴王と八上采女との事件を怨んだものかも知れない、と全釋は言うてをる。
〔譯〕 私がもし世間普通の女であるならば、私が渡るあなせ河を渡りかねようか。渡りかねずに、さつさと對岸へ行くのであらうに。
〔評〕 行きなやむ戀の惱は、わが身の腑甲斐なくたらはぬゆゑであらうか。世間なみにきびきびふるまふ婦人の身がうらやましい、といふやうな感情が象徴的によく描かれてゐる。但、夫の後を慕うて實際にあなせの河を渡り惱みつつ詠んたものとみる説もある。
〔語〕 ○痛背の河 痛足川(一〇八七)の別名であらう(代匠記精撰本)。痛足川は大和國磯械郡纒向村大字穴師を流れる河で、卷向山から出て三輪山の北を通り初瀬川に入る。○渡りかねめや 渡りかねようか、平氣で渡らうものを、の意。
 
644 今は吾《あ》は佗《わ》びぞしにける氣《いき》の緒《を》に念《おも》ひし君を縱《ゆる》さく思《も》へば
 
〔譯〕 今こそ私はほんとに困つてしまひました。命をかけて思つてゐたあなたを、手ばなすことかと思ひますと。
〔評〕 自己のものであるとかたく信じてゐたのに、放さねばならぬ。しかも、放してしまつたのではない。これから放さうとするのである。その際の複雜な感情を「侘《わ》びぞしにける」がよく表現してゐる。
〔語〕 ○今は吾は 「今は」といふのは、今までは兩方のどちらかにと思ひまどつて決斷に迷つてゐたのを、一方に(103)決まつた事をいふ(古義)。「六八四」參照。○侘びぞしにける 困つてしまつた。○いきの緒に思ひし君を 「いきのを」は命の義で、玉の緒に同じ。命にかけて戀ひ思うてゐた君を。○縱さく思へば 「ゆるす」はゆるべはなつ意(略解)。
 
645 白妙の袖別るべき日を近み心に咽《むせ》び哭《ね》のみし泣かゆ
〔譯〕 あなたと袖を分たなければならぬ日が近づいたので、心に咽んで、聲をあげて泣かれるばかりであります。
〔評〕 「袖別るべき」は「白妙の袖の別を難《かた》みして」(三二一五)ともある。「心に咽《むせ》び哭《ね》のみし泣かゆ」は、内に抑へむとして塞《せ》きあへず、つひに越えに洩れたといふ、ひたむきな心の聲である。成句のやうに見えながら、輕々しくは見すごし難い表現である。
〔語〕 ○袖別るべき 袂を別つべき、即ち別離すべきの意。○心に咽び 心の中で咽び泣き悲しむの意。
 
    大伴宿禰駿河麻呂の歌一首
646 丈夫《ますらを》の思ひわびつつ度遍《たびまね》く嘆く嘆《なげき》を負はぬものかも
 
〔題〕 駿河麻呂 「四〇〇」參照。
〔譯〕 丈夫たる自分が思ひわづらひつつ、幾度となく嘆くこの嘆きに對して、あなたは責任を負はずに居られるものでありますか。
〔評〕 男子を嘆かせるのが、許し難い罪にあたる、とでもいふやうな響を帶びてをる。ここにも、男子の名譽を尊重する氣特がうかがはれる。
〔語〕 ○度遍く 「まねく」は「一六七」參照。○嘆く嘆を負はぬものかも 「負ふ」は「受ける」「背負ふ」で、身(104)に負擔を感じないのか、の意(新解)。嘆によつて恨を負ふといふ説はよくない。
〔訓〕 ○度遍く 白文「遍多」で、舊訓アマタタビ。攷證の説による。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
647 心には忘るる日無くおもへども人の言こそ繁き君にあれ
 
〔譯〕 心の中では忘れる日も無く思つてをりますが、世間の人の噂が多いあなたでありますので、お目にかかることも出來ませぬ。
〔評〕 戀愛の歌のやうであるが、むしろ皮肉に云うたのではないか。逢ひたく思ふが、とかく人の噂の多いあなたの事であるから、人目に立つのがはばかられると、駿河麿の情事の多いのにあてつけたのであらう。
〔語〕 ○人の言こそ繁き君にあれ 人の噂の多い君であるから逢へぬの意。
〔訓〕 ○繁き君にあれ 白文「繁君爾阿禮」で、新解はシゲクキミニアレと訓んでゐる。
 
    大伴宿禰駿河麻呂の歌一首
648 相見ずて日《け》長く成りぬ此頃は如何《いか》に好去《さき》くやいぶかし吾味《わぎも》
 
〔譯〕 お目にかからないで久しくなりました。此の頃は御機嫌は如何です、氣にかかります、そなたよ。
〔評〕 次の歌の左註によれば肉身の間の相聞である。下の句の輕快な詞調に、親しみの情がただようてをる。
〔語〕 ○日長くなりぬ 「八五」參照。○如何にさきくや 「さきく」は「三〇」參照。變りがないかの意。○いぶかし吾味 「いぶかし」はおぼつかない、氣にかかるの意。「三一〇六」參照。
 
(105)    大伴坂上郎女の歌一首
649 夏葛の絶えぬ使のよどめれば事しもある如《ごと》おもひつるかも     右は、坂上郎女は、佐保大納言卿の女なり。駿河麻呂は此の高市大卿の孫なり。兩卿兄弟の家、女孫姑姪の族なれば、是を以ちて、歌を題し送り答へ、起居を相問へり。
 
〔譯〕 いつも絶えたことのなかつたあなたからのお使が暫くとどこほつてゐるので、今おたよりをいただくにつけて、何か變つた事でも起つたかのやうに思ひましたことよ。
〔評〕 駿河麿が前の歡を使に託して贈つた。それまで久しく文の便がとだえてゐたのであるから、今使が來たのを、何か變事の知らせではないかと思つた、といふのである。心の動きが巧みに寫されてゐる。
〔語〕 ○夏葛の 葛の蔓の長く絶えない意の枕詞。○よどめれば 「六三〇」參照。
〔訓〕 ○よどめれば 白文「不通有者」で、舊訓カヨハネバ。略解による。
〔左註〕 佐保大納言は大伴安麿。高市大卿は安麿の兄御行であらう。
 
    大伴宿禰三依、離《わか》れて復《また》相《あ》へるを歡《よろこ》べる歌一首
650 吾妹子は常世《とこよ》の國に住みけらし昔見しより變若《をち》ましにけり
 
〔題〕 大伴宿禰三依 「五五二」參照。
〔譯〕 あなたは、仙境に住んでゐられたらしい。久しく別れてゐて、今お目にかかると、昔見たよりも、若返つてをられる。
〔評〕 再會の際、昔見たままで變つてをらぬとは、よく今日でも云ひ交す辭である。ここでは更に、昔見たよりも若(106)返つてゐると云ふのである。ただの追從のみではなく、再會の喜ばしさと珍らしさとが、この感をおこしたのであらう。また、常世の國や變若水などの神仙思想が、當時の都會人の感情生活を培うてゐたことを思ふべきである。
〔語〕 ○常世の國 遠く隔たつた國の意にも用ゐるが、ここは不老不死の國、蓬莱山などの意。○變若ましにけり 「をち」は「六二七」參照。若返りなさいましたの意。
 
    大伴坂上郎女の歌二首
651 ひさかたの天《あめ》の露霜《つゆじも》置きにけり宅《いへ》なる人も待ち戀ひぬらむ
 
〔譯〕 大空からおりるつめたい露が置いたことである。奈良の都に殘してきた人も、待ち戀うてをることであらう。
〔評〕 坂上郎女が、太宰府なる兄大伴旅人のもとにをつて、大和なる娘を思つたものと考へられる。娘に對する母親としての愛情の、こまやかに表現された作である。露霜のおく秋の朝のやうに簡淨な手法に、そこはかとなくただよふ哀調は作者の旅愁であらう。身を燒くやうな愛戀情痴の相聞歌を讀み來つてここに到ると、まことに眼のさめるやうな、つつましい爽快感を覺える。
〔語〕 ○天の露霜 天から降る露。露霜は「一三一」參照。○宅なる人も 家にゐる人、即ち二人の娘をさすのであらう。
 
652 玉|主《ぬし》に珠は授けてかつがつも枕と吾はいざ二人|宿《ね》む
 
〔譯〕 手難しがたい珠のやうに愛する娘は、珠の持主(婚約せる夫)に渡したので、まづまづこれからは、自分は枕と二人で寢よう。傍に娘がをらぬので。
〔評〕 玉主は女婿を指し、珠は娘を意味する。娘なる坂上二孃を嫁がせた際であらう。昨日まではわが傍にあつた娘(107)を、とつがせやつた母親の胸のうらさびしさ、おちゐ心の喜ばしさの中に、不安も生じるおもひを詠んだもの、人情の機微に觸れた作である。娘をとつがせた經驗のある親にして、はじめてこの歌の眞味は了解することが出來ると思はれる。なほ此の歌は、前の歌とつづけてあるが、つづいた作ではない。
〔語〕 ○かつがつも まづまづ、まあまあ、の意。これを上にかけて「かつがつも授け」とする説もあるが、下につづけた方がよい。
〔訓〕 ○玉主 通行本はクマモリと訓んでゐる。古葉略類聚鈔の訓による。
 
    大伴宿禰駿河麻呂の歌三首
653 情《こころ》には忘れぬものをたまたまも見ぬ日さ數多《まね》く月ぞ經にける
 
〔譯〕 心の中ではそなたを忘れぬのに、たまさかにも逢はぬ日が多くて、一月も經つたことであるよ。
〔評〕 詞調ともに精錬し盡されて、戀の歌としては、良い意味にも惡い意味にも、すつかり枯れてゐる。四五句は成句の型を踏みつつなほ新しいにほひをたたへて、純化された表現である。
〔語〕 ○たまたまも 稀に、時たま、の意。
〔訓〕 ○たまたまも 舊訓に從つた。攷證タマサカニ。○見ぬ日さまねく 白文「不見日數多」で、舊訓ミヌヒカズオホク。古義によつた。
 
654 相見ては月も經なくに戀ふといはばをそろと吾を思ほさむかも
 
〔譯〕 逢つてから、まだ一月もたたぬのに、戀しいと云うたならば、そそつかしいと、あなたは自分のことをお思ひになるであらうか。
(108)〔評〕 をそろといふ語は、東歌に「からすとふ大輕率鳥《おほをそり》の」(三五二一)とある以外には、卷八に後出の一首があるのみである。都會人の用ゐぬ語を取りいれて、自己を云ひくたすやうにみせつつ、意匠を加へたのである。
〔語〕 ○をそろ 仙覺抄以來嘘言の義と解されてゐるが、正しくは輕率、はやまる等の義とすべきである(新解)。「吹く花もをそろはうとし」(一五四八)參照。
 
655 思はぬを思ふといはば天地の神も知らさむ邑禮左變
 
〔譯〕 本當に自分が思ひもせぬのに思ふと僞るならば、天地の神さまが御承知であらう。自分はこんなに思うてゐるのである。‥‥
〔評〕 第五句の訓は確定せぬが、四句までの意は明瞭である。女としての力強い聲である。
〔訓〕 ○邑禮左變 未だ定訓がない。童蒙抄「巴禮左禮《とまれかくまれ》」考「哥飼名齋《うたかふなゆめ》」古義「言借名齋《いぶかるなゆめ》」等の誤字説がある。
 
    大伴坂上郎女の歌六首
656 吾のみぞ君には戀ふる吾が背子が戀ふといふことは言《こと》の慰《なぐさ》ぞ
 
〔譯〕 私ばかりがあなたを戀してをります。あなたが私を戀ふといふことは、言葉のなぐさめに過ぎませぬ。
〔評〕 戀の苦しみのあまり、片戀であることを強調したのである。理づめに押して、はつきりと「言のなぐさぞ」と斷定してをるのも、却つて心の苦しみを痛ましく感ぜしめる。
〔語〕 ○言のなぐさぞ 口慰み(代匠記)氣休め(略解)の二説がある。前説がよい。「黙あらじとことのなぐさにいふことを」(一二五八)參照。
 
(109)657 思はじと言ひてしものを唐棣花色《はねずいろ》の變《うつろ》ひやすき吾が心かも
 
〔譯〕 あなたのことなど、もう決して思ひますまいと云ひましたのに、やはり戀しく思はれます。移りやすい私の心でありますことよ。
〔評〕 愛情の變り易いことを云ふ「うつろひやすき」を逆に用ゐてをるのである。あきらめるといふ事を強く主張して、そこに重點をおき、しかも、通常の用法を逆にした「うつろひやすき」の一句によつて、上の句の意をくつがへしてをる。上の句が強いだけに、この一句がよく利いてをり、それが常の用法の逆であるだけに、著しく冴えてみえる。奇才を認むべきである。
〔語〕 ○唐棣花色の 枕詞。「はねず」は「一四八五」「二七八六」等に見え、暮春に赤い花を開く庭ざくら(仙覺)庭梅(代匠記)木蓮花(新考)などの説がある。
 
658 念へども驗《しるし》もなしと知るものをいかに幾許《ここだく》吾が戀ひわたる
 
〔譯〕 いくら思うても甲斐もないとは知つてゐるのに、どうしてこんなに頻りに私は戀ひつづけることであらうか。
〔評〕 ただ、率直にして、極めてわかりやすい歌である。何よりも詞調が流麗で、しかも、その中に張があつて、潜める情熱の喘《あへ》ぎを傳へてをる。
〔訓〕 ○しるしもなしと 白文「知僧裳無跡」の「僧」は考に「倍」の誤、略解「信」の誤といつてゐるが、根據に乏しい。舊訓による。「僧」を「し」の假字に使つた例は「落僧惧毛《ちらくしをしも》」(二〇九四)がある。○いかにここだく 白文「奈何幾許」で、舊訓ナゾカクバカリ、代匠記初稿本ナニゾココバク、古義イカデココダク等の訓がある。
 
(110)659 あらかじめ人|言《ごと》繁し斯くしあらばしゑや吾が背子奧も如何にあらめ
 
〔譯〕 深くなじんだ仲でもないのに、今からもう人言が多くあります。こんなことではあなた、行末もどうでありませう。
〔評〕 人言を恐れ、行末を思ひわづらふ婦人の情である。困惑の心もちを強くいひあらはした「しゑや吾が背子」の舌ざはりに、眉をひそめてゐるやうな趣がほのかに感ぜられる。
〔語〕 ○しゑや 感嘆詞。「しゑやあたらし」(二一二〇)「しゑや出で來ね」(二五一九)參照。○奧も如何にあらめ 行末は如何であらう、氣づかはしいの意。
 
660 汝《な》をと吾《あ》を人ぞ離《さ》くなるいで吾が君人の中言《なかごと》聞きたつなゆめ
 
〔譯〕 あなたと私との間《なか》を人が離《さ》かうとします。さあ、あなた、人の中傷を決して聞かうとなさいますな。
〔評〕 歌詞急迫。はやく此の事を愛人の耳にいれておかねば、といふやうに、息せき訴へる趣がみえる。
〔語〕 汝をと吾を 汝と吾とをの意。「青柳梅との花を」(八二一)參照。○人の中言 他人の中傷の言葉。○聞きたつ 聞き立てる、聞かうとするの意。「有超勿湯目《ありこすなゆめ》」(二七一二)ありこせぬかも(一一九)などあるので、白文「有起」は「有超」もしくは「有越」の誤とする説もあるが、原字のままでよい。「なゆめ」は決してさうするな、即ち、決してお聞きなさいますなの意となる。
 
661 戀ひ戀ひて逢へる時だに愛《うつく》しき言《こと》盡《つく》してよ長くと念《も》はば
 
〔譯〕 長い間戀しく思うて、やうやくのことで、かうして逢つてをる時だけでも、せめてやさしい言葉を十分にかけ(111)て下さいませ。二人のなかが長いやうにと思うてくださるならば。
〔評〕 たまさかの逢ひに、あらむかぎりの喜びを受けた。稀に得た二人だけの世界を出來るたけ樂しみたい、といふ意欲がみえる。
〔語〕 ○長くと思はば 行末長く逢はうとお思ひになるならば、の意。
 
    市原王の歌一首
662 阿胡《あご》の山|五百重《いほへ》隱《かく》せる佐堤《さで》の埼|小網《さで》延《は》へし子が夢《いめ》にし見ゆる
 
〔題〕 市原王 「四一二」參照。
〔譯〕 阿胡の山が幾重にも重なつて、隱したやうになつてをる佐堤の埼で、小網を張つて漁をしてゐた女が、夢に見えることである。
〔評〕 志摩の國の英處《あご》の浦に旅をした時、美しい海女を見たのであらう。旅の情景と相待つて忘れがたい印象を受けたのである。夢に見えるといふのは、遠い山の彼方のことを云ふ上の句と相待つて、遙かなる思ひ出をたどる趣を浮べてをる。
〔語〕 ○阿胡の山 志摩の國 「あごの浦」(三六一〇)參照。○佐堤の埼 志摩の國であらうがよくわからない。鳥羽灣の坂手島(地名辭書)伊勢朝明郡の志?神社の地(略解所引宣長説)は共に地理にあはない。○小網延へし 小網を張つて漁をすること「小網さし渡す」(三八)參照。
 
    安都《あと》宿禰|年足《としたり》の歌一首
663 佐保渡り吾家《わぎへ》の上に鳴く鳥の聲なつかしき愛《は》しき妻の兒
 
(112)〔題)安都宿禰年足 代匠記、續紀養老三年に宿禰の姓を賜うた阿刀連人足の子で、寶龜二年十一月正六位上から外從五位下となつた阿刀宿禰眞足の父かといつてゐるが、安都、阿刀は恐らく別の氏であらう。
〔譯〕 佐保を渡つて自分の家のあたりに鳴く鳥の聲のやうに、私の妻はなつかしく愛らしいことである。
〔評〕 作者は佐保のあたりに住んでゐたのであらう。愛らしく澄んだ小鳥の聲にもくらぶべき妻である。その聲を聞くだに心がなごんだことであらう。詞調清亮の歌。
〔語〕 ○佐保渡り 佐保川を渡り。○吾家の上に 上はほとりの意。以上實景をもつて「聲なつかしき」の序とした。○はしき妻の兒 「はしき」はかはいい、「妻の兒」は妻を親しんでよんだもの。「二一七」「二〇八九」參照。
〔訓〕 ○愛しき妻の兒 白文「愛妻之兒」で、舊訓オモヒヅマノコ。代匠記精撰本による。
 
    大伴宿禰|像見《かたみ》の歌一首
664 石上《いそのかみ》ふるとも雨に障らめや妹に逢はむと言《い》ひてしものを
 
〔題〕 大伴宿禰像見 續紀に天平寶字八年十月正六位上から從五位下となり、景雲二年三月左大舍人助に、寶龜三年正月從五位上になつてゐる。
〔譯〕 よしや雨が降るとも、雨に妨げられようか。あの人に逢はうと約束しておいたのであるから。
〔評〕 素朴敦厚な萬葉人の木地のままの純眞の聲である。「ふるとも」と假定をしてをるあたり、今にも降り出しさうな空を仰いで、ひとり言を云ひつつ出かけた樣を思はせるものがある。この歌は何故か平安人士の趣好にかなつたものらしく、拾遺集卷十二、古今六帖一、蜻蛉日記、落窪物語卷一等に引用されてゐる。
〔語〕 ○石上 大和國石上の布留の地名に「降る」をかけて枕詞としたもの。「一九二七」參照。
〔訓〕 ○障らめや 白文「將關哉」で、舊訓による。代匠記セカレメヤ、古義ツツマメヤ。
 
    安倍朝臣蟲麻呂の歌一首
665 向ひ坐《ゐ》て見れども飽かぬ吾妹子に立ち離《わか》れ行かむたづき知らずも
 
〔題〕 安倍朝臣蟲麻呂 續紀によると天平九年九月正七位上から外從五位下に昇り、同年十二月皇后宮亮となり、中務少輔、播磨守などを經、天平勝寶四年三月中務大輔從四位下で卒した。
〔譯〕 向ひあつてゐて、いくら見ても見飽かぬそなたに、別れてゆくすべを知らぬことであるよ。
〔評〕 左註にあるやうに、戯れに戀の歌らしく誇張したものである。しかし、對談の興が盡きず座を立つしほがない、といふ氣分もうかがはれる。
 
    大伴坂上郎女の歌二首
666 相見ぬは幾《いくば》く久もあらなくに幾許《ここだく》吾《われ》は戀ひつつもあるか
 
〔譯〕 お目にかかりませぬのは、どれだけ久しいといふほどでもないのに、たいそう私は戀しく思つてをることでありますよ。
〔評〕 詞調が柔軟で、艶を合んだ云ひざまである。形や氣分の上で「二五八三」に通ふものがある。
〔語〕 ○相見ぬは 相逢はぬことはの意。
〔訓〕 ○幾く久も 白文「幾久毛」で、舊訓イクヒサシサモ。略解による。
 
667 戀ひ戀ひて逢ひたるものを月しあれば夜《よ》は隱《こも》るらむ須臾《しまし》は在り待て
     右は、大伴坂上郎女の母石川内命婦と、安倍朝臣|蟲滿《むしまろ》の母|安曇《あづみ》外命婦と、同居の姉妹、同氣の親なり。此に縁りて(114)郎女と蟲滿と、相見ること疎からず、相談らふこと既に密《こまやか》なり。聊か戯の歌を作りて以ちて問答を爲せり。
〔譯〕 長い間戀しく思つて、やつとのことで逢ひましたものを、まだ月が出て居りますから、夜がふけて、明けるまでにはまだ間がありませう。暫くは斯《か》うしてを待ちなさいませ。
〔評〕 愛情のこまやかな仲であるかの如く戯れてをる。思ひきつて大膽な云ひざまで、その自由な態度と縱横の才氣とを語るものである。
〔語〕 ○月しあれば 月は空の月。○夜はこもるらむ 夜のあけるのに間のあるの意。「夜ごもり」(二九〇)參照。
〔左註〕 石川内命婦 「五一八」參照。内命婦は婦人で五位以上を帶するもの、外命婦は五位以上の人の妻。
 
    厚見王《あつみのおほきみ》の歌一首
668 朝に日《け》に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに
 
〔題〕 厚見王 續紀に、天平勝寶九年四月無位厚見王に從五位下を授くと見え、七年十一月には「遣2少納言厚見王1奉2幣帛于伊勢大神宮1」とあるから、既に少納言であつたらしい。天平寶字元年從五位上となる。
〔譯〕 朝ごとに日ごとに色づく山にかかつてゐる白雲の往き過ぎるやうに、忘れてしまふことが出來るやうなあなたではない。自分はあなたのことがどうしても忘れられぬ。
〔評〕 構想は典型的のものである。序の黄葉と白雲との對照が鮮麗で、詩情の深いものがある。雲に「過ぐ」を感じたのは「六九三」などにも見られる。
〔語〕 ○色づく山の白雲の 紅葉せる山にかかつてゐる白雲の意。以上三句は過ぐにかかる序。○思ひ過ぐべき 思(115)ひが失せる、思はなくなるの意。
 
    春日王の歌一首
669 あしひきの山橘の色に出でよ語らひ繼《つ》ぎて逢ふこともあらむ
〔題〕 春日王 元暦校本等の古寫本には、小字で志貴皇子の御子とあり、續紀に養老七年正月無位から從四位下となり、累進して、天平十五年五月正四位となられた方で「二四三」の春日王とは別人と思はれる。
〔譯〕 山橘の實のやうに、いつそのこと色にあらはして下さい。さうすればお互に語りあひ續けて、逢ふことも出來ませう。忍んでゐては却つて逢はれさうにもありません。
〔評〕 逢ひ難い戀の苦しみに堪へかねて、むしろ大膽にならうと云ひ送つたのである。大膽にあらはに振舞へば、語り合ふ機會も出來よう、といふのであらうか。――作者にも確乎たる成算はないらしい。「逢ふこともあらむ」と望みをかけてゐるだけである。集中に珍しい歌であるが、その心理は同感されるものがある。
〔語〕 ○山橘 今いふ藪柑子、常緑の小灌木で、果實は赤く美しいから「色に出づ」の序とした。○語らひ繼ぎて 永く語らひ合つての意。
〔訓〕 ○元暦校本には、題詞の下に小字「志貴皇子之子、母多紀皇女也」とある。○色に出でよ 白文「色丹出與」は元暦校本、類聚古集、紀州本による。仙覺本を初め通行本には「與」が「而」となつてゐる。舊訓「與」を「而」としてゐるからイロニイデテ。
 
    湯原王の歌一首
670 月讀《つくよみ》の光に來ませあしひきの山|來隔《キヘナ》りて遠からなくに
 
(116)〔譯〕 今夜は月の光でいらつしやい、そなたのところと此處とは、途中に山があつて隔てて遠いわけではない、ほんの近い所であるから。
〔評〕 悠容迫らぬ調子で、ゆつたりとして、しかも詞をあやなし、なつかしみを含んだ云ひざまである。四五句は、山があるわけではなく、遠いのでないから、の意を、たくみにいひなしたもの。
〔語〕 ○月讀の 古事記に月讀命、書紀一書に月夜見命、月讀尊とあるが、ここは月のこと。○山きへなりて 「き」は「來」で、山が來て、隔てるとと擬人法に用ゐたのであつて、二句の「來ませ」とおのづから照應してをるのである。
〔訓〕 ○山きへなりて 白文「山寸隔而」の「寸」は元暦校本などにょる。仙覺本を初め通行本には「乎」となつてをり、舊訓ヤマヲヘダテテとあるが、ヘナリは 「七六五」「三九五七」「三九七八」等にあり、キヘナリは「三九六九」「三九八一」にもある。此の湯原王の歌の句を摸して家持が用ゐてをるのである。
 
    和《こた》ふる歌一首
671 月讀の光は清く照らせれど惑《まど》ふ情《こころ》に念《おも》ひ堪《あ》へなくに
 
〔譯〕 月の光は清く照らしてをつて、うかがふのはなんでもないのですけれど、いろいろまどうてをります心には、おたづねしませうか、どうしませうか、何も思ふこともできないのであります。
〔評〕 前の歌では、恰も友人に對する誘ひかけのやうにも思はれるのであるが、このこたへの歌によつて、男女の戀であることがわかる。必ずしも行くことを拒絶したのではなく、戀の煩悶を訴へたのみであらう。
〔訓〕 ○まどふこころは念ひあへなくに 白文「惑情不堪念」で五句は「問ひたまふかも念不堪國《おもひあへなくに》」(九六二)「になひあへむかも」(四〇八三)のごとき用法で、思ふことが出來ないので、の意。古くは「惑へるこころ堪《た》へずおもほ(117)ゆ」と訓んである。
 
    安倍朝臣蟲麻呂の歌一首
672 倭文手纒《しづたまき》數《かず》にもあらぬ壽《いのち》もち如何《いか》に幾許《ここだく》吾が戀ひわたる
 
〔譯〕 人數にも入らぬやうな卑しい身をもちながら、どうして此のやうに甚しく自分が戀ひつづけることであらうか。
〔評〕 自己の戀を極度に卑下して、理性的な反省の氣持があるやうではあるが「いかにここだく」と我みづからいうたところに熱情がこもつてゐる。なほ、この四五句は、坂上郎女の歌(六五八)にもある。
〔語〕 ○倭文手纒 枕詞。「しづ」は上代の織物で、粗末な織物、それで「數にもあらぬ」につづけたのである。「たまき」は手に纒くものの義。
〔訓〕 ○いかにここだく 白文「奈何幾許」舊訓ナゾカクバカリ。奈何をナニカとよむ説もある。
 
    大伴坂上郎女の歌二首
673 まそ鏡|磨《と》ぎし心を縱《ゆる》しては後にいふとも驗《しるし》あらめやも
 
〔譯〕 眞すみの鏡のやうに磨ぎ澄ました清い心をゆるめて、人に身を委ねてしまつたならば、後になつて何と云うても、詮《かひ》がありませうか。
〔評〕 昔も今も、すべての女子が云はうとするところを、代つて述べたといふ感がある。作者はさきの怨恨の歌(六一九)の中に「まそ鏡|麿《と》ぎし情《こころ》を許してし其の日の極み」と云うてゐるのをみると、自己の切に鰺つた經驗から歌つたのでもあららか。
〔語〕 ○まそ鏡 ますみの鏡。○とぎし心を 「一六一九」參照。
 
(118)674 眞玉つく彼此《をちこち》かねて言《こと》はいへど逢ひて後こそ悔にはありと言《い》へ
 
〔譯〕 今も後もいつまでたつても永く變らぬと口にはお云ひになりますが、逢うた後には、捨てられて悔いるものであると云ひます。
〔評〕 それとなき云ひざまをして、言葉の巧みな男子の實意を疑つてをる。上の句は「眞玉つく遠近かねて結びつる」(二九七三)を學んだものである。珍しい表現法をとつて、自己の作に歌ひこなす手腕に、才女の面目が躍如としてをる。
〔語〕 ○眞玉つく 「を」にかかる枕詞。玉をつける緒の意。○彼此かねて 現在より未來にわたつての意。○言はいへど 言葉にはいふけれども。口には立派に云ふけれども。
 
    中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌五首
675 をみなへしさき澤《さは》に生ふる花勝見《はながつみ》かつても知らぬ戀もするかも
 
〔題〕 中臣女郎 傳不詳。
〔譯〕 さき澤に生えてをる花勝見といふ名のやうに、かつて知らなかつた苦しい戀をすることであるよ。
〔評〕 澁滯のない歌詞で、序の技巧が面白いために、後世に有名である。古今集卷十四に「みちのくの淺香の沼の花がつみかつ見る人に戀ひやわたらむ」とある。
〔語〕 ○をみなへし 「咲き」にかけた枕詞。○さき澤 奈良市の西なる「左紀」(八四)の地方にある澤であらう、との説が多いが、原文「咲澤」で、咲に佐紀をあてるのは、特殊假名遣上、疑ひがある。○花かつみ 古來種々の説があるが、最近は野生の花菖蒲の一種で日光で赤沼あやめといふものといふ説(白井光太郎氏)に定まつたやうであ(119)る。「かつて」にかかる序で、同音を反覆したもの。○かつても知らぬ 「かつて」は、すべて、全くの意。
 
676 海《わた》の底|奧《おき》を深めて吾が念《も》へる君には逢はむ年は經ぬとも
 
〔譯〕 深く心から私が思つてるあなたに、いつかは必ず逢ひませう。たとひ年は經つても。
〔評〕 この序の用例は「海《わた》の底沖を深めて生ふる藻の最《もと》も今こそ戀はすべなき」(二七八一)「斯《か》くのみにありけるものを猪名川《ゐながは》の奧《おき》を深めて吾が念《も》へりける」(三八〇四)等とある。熱情を穩かに上品に云ひこめた歌である。
〔語〕 ○わたの底奧を深めて 「奧を」までが「深めて」の序。心を深くしての意。
 
677 春日山朝ゐる雲のおぼほしく知らぬ人にも戀ふるものかも
 
〔譯〕 春日山に朝居る雲のやうにおぼつかなくも、はつきり逢つたことのない方を、私は戀しく思ふことであります。
〔評〕 この序は、坂上大孃の「春日山朝立つ雲の居ぬ日無く」(五八四)大伴像見の「春日《かすが》野に朝ゐる雲のしくしくに」(六九八)などと用ゐられてゐるが、ここは、おぼつかなく不安な心の?態をいふに、極めて適切である。
〔語〕 春日山朝居る雲の おぼほしくにかかる序。「香久山に雲ゐたなびきおぼほしく」(二四四九)。○おぼほしく 「一七五」參照。
 
678 直《ただ》に逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向ふ吾が戀|止《や》まめ
 
〔譯〕 ぢかにお逢ひしたならば、その時こそ、命にかけた私の戀ごころも止むことでありませう。
〔評〕 他の四首が優美で可憐なのと違つて、これには燃えたつ情熱がある。卷十二に「外目《よそめ》にも君が光儀《すがた》を見てばこそ壽に向ふわが戀止まめ」(二八八三、一に云ふ)とある。
(120)〔語〕 ○見てばのみこそ 見たならばこそ、の意。「のみ」をそへていひつよめてゐる。○たまきはる 「四」參照。ここは命にかかる枕詞。○命に向ふ 命に匹敵する、命をかけた、の意。
 
679 不欲《いな》といはば強《し》ひめや吾が背|菅《すが》の根の思ひ亂れて戀ひつつもあらむ
 
〔譯〕 あなたが、いやとお云ひならば、私は無理を申しませうか、あなた。ただ私は、心が亂れて戀ひ慕うてばかりをることでありませう。
〔評〕 如何にもうちわな手弱女ぶりである。しかも、この可憐な、惱める優美な姿が、男子を動かして、その心をひくものである。かすかな戀の技巧が看取される。
〔語〕 ○菅の根の 「亂れ」にかかる枕詞。菅の根は彼方此方に根を張る故である。
〔訓〕 ○強ひめや 白文「將強哉」で、舊訓シヒムヤ。代匠記精撰本による。
 
    太仲宿禰家持、交遊と別るる歌三首
680 蓋《けだ》しくも人の中言《なかごと》聞かせかも幾許《ここだく》待てど君が來《き》まさぬ
 
〔譯〕 恐らくは、あなたは、人の中傷する言葉でもお聞きになられたからでせうか、ずゐぶん待つたが、あなたはおいでにならぬことよ。
〔評〕 疎くなつた友を、暗い氣分で待つてゐると、種々の疑惑がつぎつぎに浮んで來たのであらう。都會人らしい心づかひである。感情の繊細な貴公子の面影がしのばれる。
〔語〕 ○げだしくも 「も」は感動の助詞「けだし」に同じ。○人の中言 「六六〇」參照。
〔訓〕 ○聞かせかも 白文「聞可毛」で、舊訓キケルカモ。古義に從ひ、敬語の意味に訓む。
 
(121)681 なかなかに絶つとしいはば斯くばかり氣《いき》の緒にして吾が戀ひめやも
 
〔譯〕 かへつて絶交するとはつきり云つてもくれたならば、こんなに命にかけて私はあなたを戀ひませうか。
〔評〕 女性的な、あまりに女性的な感情である。平安時代の柔弱な貴公子達の型が、家持に既にあらはれてをることが思はれる。或は題詞とは無関係に、女のために代つて作つたのか、さらに一種の戯作かとさへ考へられる。
〔語〕 ○気の緒にして 命にかけての意。「気の緒」(六四四)參照。
〔訓〕 ○絶つとしいはば 白文「絶年云者」で、元暦校本などタエヌトシイハバ、京大本タエントシイハバ、通行本タエネトシイハバ、略解補正タエトシイハバ等の訓がある。補正の説を更に他動詞にしてタツと訓む。
 
682 念《おも》ふらむ人にあらなくにねもころに情《こころ》盡《つく》して戀ふる吾かも
 
〔譯〕 自分を思うてくれる人でもないのに、自分は、ねんごろに眞心を盡して戀ふることであるよ。
〔評〕 これも女性的な歌である。卷十二の「相思はずあるものをかも菅《すが》の根のねもころごろに吾が思へるらむ」(三〇五四)に似て、潤色がなく、順直ではあるが、男らしさはない。
〔訓〕 ○念ふらむ 白文「將念」で、舊訓オモヒナム。古義の訓に從つた。
 
    大伴坂上郎女の歌七
683 謂ふ言《こと》の恐《かしこ》き國ぞ紅《くれなゐ》の色にな出でそ念《おも》ひ死ぬとも
 
〔譯〕 人の口の恐ろしい國でありますよ。顔色にお出しなさいますな、たとひ思ひ死《じに》なさるとも。
〔評〕 てきぱきした句調に、人言に對する烈しい憎惡と反感があらはれてをる。人言を恐れるのみではなくて、黙し(122)てこれに報いようといふやうな、消極的な抵抗の氣がまへさへ感じられる。「謂ふ言のかしこき國ぞ」とは、今日にもなほ通ずるところであつて、他人の情事をあげつらふことの好きな人情一般の弱點を、期せずして突いたことになつてをる。
〔語〕 ○謂ふ言のかしこき國ぞ 人の噂の恐ろしい國であるぞ。○紅の いま紅花といふ、薊に似た花で色が鮮に美しいから「色に出」にかげる枕詞とした。
 
684 今は吾《あ》は死なむよ吾が背|生《い》けりとも吾《われ》に縁《よ》るべしと言ふといはなくに
 
〔譯〕 今はもう私は死にませうよ、あなた。たとへ生きてゐたとても、あなたが私に心をゆるされるといふのではないのですから。
〔評〕 惱み亂れて、はかなげに情熱をかきたてつつ、おぼつかなく云うた感がある。四五句は、「(君が)吾《われ》に縁《よ》るべしと言ふと(世の人が)いはなくに」の意とする全釋の説は從はれない。もつてまはつた言ひざまが、たどたどしい風情を湛へてをる。「あは」「わがせ」「われに」といふ風に、一人稱二人稱の代名詞を多く用ゐるのは、上代の歌の特色で、古今集以後には見られない。また全體の型としては、旋頭歌「うつくしと吾が念《も》ふ妹は早も死ねやも生《いけ》りとも吾《われ》に依《よ》るべしと人の言はなくに」(二三五五)と通ずるものがある。なほ上の句法は「今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念ひわたれば安けくもなし」(二八六九)「今は吾《あ》は死なむよ我が背戀すれば一夜一日も安けくもなし」(二九三六)「よしゑやし死なむよ吾妹《わぎも》生《い》けりとも斯《か》くのみこそ吾が戀ひ渡りなめ」(三二九八)などある。
〔語〕 ○言ふといはなくに 宣長(略解所引)には、いふは添へた語で「よるべしといはぬに」の意(略解所引宣長説)。
 
(123)685 人言《ひとごと》を繁みや君が二鞘《ふたさや》の家を隔てて戀ひつつ座《を》らむ
 
〔譯〕 人のうはさが多いから、あなたが家をへだてて私を戀しく思つておいでになるであらう。
〔評〕 家を隔てた比喩に、二鞘の刀を枕詞に用ゐたのが面白い。集中他には見あたらぬもので、即興的な創案であらう。
〔語〕 ○二鞘の 「家を隔て」にかかる枕詞。二鞘の刀は一つの鞘に刀二振を納めておくもので、一刀一刀の間に隔てがある意でかけた。
〔訓〕 ○君が 白文「君之」は元暦校本による。通行本初め多くの本は「君乎」とある。○戀ひつつをらむ 白文「戀乍將座」で、コヒツツマサムとよむ説もある。
 
686 此の頃に千歳や往《ゆ》きも過ぎぬると吾や然《しか》念《も》ふ見まく欲《ほ》れかも
 
〔譯〕 此の頃の間に、千年も經つたかと、私はさう思ひます。あなたにお目にかかりたいと思つてあるからでありませう。
〔評〕 しばらく逢はぬうちに千年も經たかと思はれるのは、戀をする人に共通の情である。「相見ては千歳や去《い》ぬる否をかも我《われ》や然《しか》念《も》ふ君待ちかてに」(二五三九)と似通ふものがある。
〔語〕 ○吾や然念ふ 「や」は感動の意。○見まく欲れかも 見まく欲ればかもの意。
〔訓〕 ○比者 舊訓による。紀州本等にはコノゴロハとある。
 
687 愛し《うつく》と吾が念《も》ふこころ速《はや》河の塞《せ》けど塞《せ》けどもなほや崩《く》えなむ
 
(124)〔譯〕 あなたをいとしいと私が思ふ心は、急流のやうなもので、いくらせきとめてもせきとめても、なほ崩れてしまふのでありませう。
〔評〕 譬喩が巧妙で、歌詞もさながら急湍のほどばしりを見る感がある。
〔語〕 ○塞けど塞けども せいても、せいても。
〔訓〕 ○せけどせけども 白文「雖塞々友」セクトセクトモ、セキトセクトモ、セキハセクトモ諸説がある。○くえなむ 白文「將崩」 舊訓クヅレム。略解一説クエナム。クヅルの假名書の例はなく、クエも東歌に一だけであるが、用例のある方に從つておく。
 
688 青山を横切る雲の著《いちじ》ろく吾《われ》と咲《ゑ》まして人に知らゆな
 
〔譯〕 青々とした山を横ぎる白い雲のはつきりとしてゐるやうに、人目につくのもかまはず、御自分からにつこりなさつて、二人の中を他人に知られなさいますな。
〔評〕 青山と白雲の對照が鮮かで、いちじろくの譬喩が適切である。序歌に内容を離れた清新さがみなぎつてゐる。卷十一に「蘆垣の中の似兒草にこよかに我とゑまして人に知らゆな」(二七六二)がある。
〔語〕 ○青山を横切る雲の 實景を序的譬喩としたもの。○いちじろく しるく、はつきりと。
 
689 海山《うみやま》も隔たらなくに何しかも目言《めごと》をだにも幾許《ここだ》乏《とも》しき
 
〔譯〕 海や山が隔たつてゐるのでもないのに、どうしてまあ、お目にかかることや言葉をかはすことさへも、こんなに稀なのであらうか。
〔評〕 近くにゐて逢ひ難いのを嘆いたのである。才氣のある詠みぶりが、歌調に輕いはずみを與へてをる。
(125)〔語〕 ○隔たらなくに 隔たつてゐるわけではないのに。○目言をだにも 「目辭」(一九六)參照。
 
    大伴宿禰三依、別を悲しめる歌一首
690 照らす日を闇に見なして哭《な》く涙|衣《ころも》ぬらしつ干《ほ》す人無しに
 
〔窺〕 大伴宿禰三依 「五五二」參照。
〔譯〕 照らす日の光が眞暗に見えるほどに、泣いた涙が、着物をぬらしたことである。干してくれる人もないのに。
〔評〕 思ひきつた誇張が面白い。悲しみの誇張もここに至れば、むしろ痛快である。「干《ほ》す人無しに」と云ひ添へたので、女と別れたことがわかる。また、身のまはりの世話をしてくれる女のをらぬ旅の不自由さを、豫想してをるところも見える。
 
    大伴宿禰家持、娘子に贈れる歌二首
691 百磯城《ももしき》の大宮人は多かれど情《こころ》に乘りて念《おも》ほゆる妹
 
〔譯〕 大宮につかへてゐる女は多いが、そなたの姿だけが私の心にとまつて戀しく思はれることである。
〔評〕 多くの宮女の中に、風姿のすぐれた娘女が心にとまつて、離れがたくなつたのである。婦人の作「うち日さす宮|道《ぢ》を人は滿ち行けど吾が念ふ公《きみ》はただ一人のみ」(二三八二)とあるに似てゐる。
〔語〕 ○大宮人 宮中に仕へる人、ここは宮女をさす。○こころに乘りて 心を離れぬの意。
 
692 表邊《うはへ》なき妹にもあるかも斯《か》くばかり人の情《こころ》を盡《つく》す念へば
 
〔譯〕 あいそのないそなたであることよ。これほどまでに自分の心を盡して、戀しがらせると思ふと。
(126)〔評〕 湯原王の「表邊《うはへ》なきものかも人は然《しか》ばかり遠き家路を還《かへ》すおもへば」(六三一)に摸したことが明かである。「表邊なき」の語は、湯原王の歌の方が適切である。
〔語〕 ○表邊なき 「六三一」參照。
 
    大伴宿禰|千室《ちむろ》の歌一首 未だ詳ならず
693 斯くのみに戀ひやわたらむ秋津《あきつ》野に棚引く雲の過ぐとは無しに
 
〔譯〕 このやうに戀ひつづけてのみ日を送ることであらうか。秋津の野に棚引く雲の過ぎゆくやうに、思ひすぎて忘れ去ることもなくて。
〔評〕 なごやかな氣品を持ち、のびのびとした詞調である。吉野にあつて、秋津野の雲をながめて詠んだのであらうか。
〔語〕 ○秋津野 「三六」に見えた吉野の秋津野である。○棚引く雲の 「過ぐ」にかかる序。「六六八」參照。○過ぐとは無しに 思が過ぎ去るといふ事なく、の意。
 
    廣河女王《ひろかはのおほきみ》の歌二首
694 戀草を力車に七車つみて戀ふらく吾が心から
 
〔題〕 廣河女王 元暦校本、紀州本等の註に、「穗積皇子之孫女、上道王之女也」とある。續紀によれば、天平寶字七年正月無位から從五位下となられた方と思はれる。
〔譯〕 私の戀の思ひは、草でたとへたならば、荷車七臺に積むほどであるが、それは誰のせゐでもなく、私の心からでありますよ。
(127)〔評〕 快いはずみのある調に、戀の重荷を巧みにのせてをる。「吾が心から」の自嘲も、すつきりと云うてのけた洒脱の趣がある。奇拔な譬喩なので、狹衣物語卷四には「七草つむともつきじ思ふにも言ふにもあまるわが戀草は」とあり、その他、古今六帖、新勅撰集にも見え、中世の諸歌書、謠曲等に引用されてゐる。
〔語〕 ○戀草を 戀のしげきに譬へたもの。○力車 大車(代匠記)とも、人の力でひく車(考)ともいふ、荷車のことであらう。○七車 七は必ずしも數字の七ではなく數多いの意。○吾が心から 吾が心づからの意。
 
695 戀は今はあらじと吾は思へるを何處《いづく》の戀ぞつかみかかれる
 
〔譯〕 戀はもう私のどこにもありはすまいと思つてゐたのに、どこに隱れてをつた戀が、私につかみかかつて來たのであらうか。
〔評〕 戀を擬人化したのである。戀を自ら制して心の平靜を求めようとする意識が強いにつけて、なほ湧いてくる戀の情を、自己の心とはかかはりのない外部からの襲來とみるのは、極めて自然である。心理上おもしろい觀察といはねばならぬ。穗積親王が宴飲の日好んで誦したといはれる次の歌を見れば、一般に、かかる擬人法が行はれてゐたことが知られる。「家にありし櫃《ひつ》に?《ざう》刺《さ》しをさめてし戀の奴のつかみかかりて」(三八一六)。
〔語〕 ○戀は今はあらじと 戀を擬人化したもの。
 
    石川朝臣廣成の歌一首
696 家人に戀ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の歴《へ》ぬれば
 
〔題〕 石川朝臣廣成 續紀に依ると、天平寶字二年八月、從六位上から從五位下を授けられ、四年二月高圓朝臣の姓を賜はり、同年文部少輔になつた。その後高圓朝臣廣世と見えるのも同人で、改名したものと思はれる。攝津亮、播(128)磨守等を歴任し、寶龜元年十月正五位下を授けられた。
〔評〕 家なる人を思ひ忘れられようか。かじかの鳴く泉の里で年が經つたのであるから。
〔評〕 山城の泉川のほとりで詠んだものである。天平十二年の冬、奈良から恭仁へ遷都があつたので、作者は此處に移り住み、年を越えて、奈良に殘してある家人を思うて詠んだのであらう。奈良の都に住みなれた作者に、かじかの鳴く泉川のほとりの生活が如何に寂しかつたか、察せられよう。しかも、當時作者はまだ若年であつたと推定される。
〔語〕 ○かはづ鳴く 枕詞と見るはよくない。實景である。かはづは河鹿《かじか》のこと。○泉の里 山城國相樂郡泉河のほとりで、今の加茂附近。恭仁京の一部。
 
    大伴宿禰|像見《かたみ》の歌三首
697 吾が聞《きき》に繋《か》けてな言ひそ刈薦《かりこも》の亂れて念《おも》ふ君が正香《ただか》ぞ
 
〔題〕 大伴像見 「六六四」參照。
〔譯〕 自分に聞えるやうに、口に出してお言ひなさるな。心も亂れて戀ひ思ふそなたの身の上であるものを。
〔評〕 聞けばいよいよ心が亂れるばかりであるから、愛人の消息は聞きたくない、と云ふのである。愛人の動靜を知らうとするのは、戀をする人の常情であるが、一方ではまた、それによつて思が増し、心の平靜がかき亂されるのを恐れる氣持もある。いつの世にも相通ずる人間の心理の動きである。
〔語〕 ○吾が聞に 私に聞えるやうに「聞」は名詞。○かけてな言ひそ 口にかけていふな。○君が正香ぞ 「ただか」は「君また妹を直にさし當てゝ言へる言にて、君、妹とのみいふも同じ事に聞ゆるなり」(玉勝間)とあり、他人の消息や動靜などをいふ。
〔訓〕 ○繋けてな言ひそ 白文「繋莫言」で、舊訓によつた。カケナイヒソネとよむ説もある。
 
(129)698 春日野に朝ゐる雲のしくしくに吾《あ》は戀ひまさる月に日にけに
 
〔譯〕 春日野に朝ゐる雲の繁きが如く、しきりに自分は戀ひまさることである、月ごとに日ごとに。
〔評〕 一二三句は「かすが山朝|居《ゐ》る雲のおぼほしく」(六七七)とあるに似てをり、結句は集中の成句である。
〔語〕 ○春日野に朝ゐる雲の 「しくしくに」の序。○しくしくに 繁くの意。「二〇六」參照。○月に日にけに 「五九八」「二五九六」參照。
 
699 一瀬《ひとせ》には千遍《ちたび》障《さは》らひ逝《ゆ》く水の後《のち》にも逢はむ今にあらずとも
 
〔譯〕一つの瀬を越すに、千度も岩に妨げられて分れて流れ行く水のやうに、いくら間を隔てられても、後には逢ひませう、今ではなくとも。
〔評〕 「鴨川の後瀬靜けく後も逢はむ妹には我は今ならずとも」(二四三一)「巨勢なる能登瀬の河の後も逢はむ妹には吾は今ならずとも」(三〇一八)と同樣の構想である。しかし、序に用ゐた譬喩は、はるかに巧妙で生きてをる。如何にも戀に障りの多いのを云ふにかなひ、分れて流れ行く水がつひには相合するたとへも適切である。悠々たる萬葉人の心の一面を語るもの。崇コ天皇の御製「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(詞花集)は、これに趣向が似て、急迫の相違がある。
〔訓〕 ○後にも逢はむ 白文「後毛將相」で、通行本ノチモアハナム、考ノチニモアハナ、略解ノチモアヒテン等の諸説があるが、類聚古集などの古點に從つておく。
 
    大伴宿禰家持、娘子の門《かど》に到りて作れる歌一首
700 斯くしてやなほや退《まか》らむ近からぬ道の間《あひだ》をなづみ參來《まゐき》て
(130)〔譯〕 かうしてあなたに逢ふことが出來ずに、このままでなほ歸ることであらうか。近くもない道の間を行き惱んで訪ねて來たのに。
〔評〕 多くの婦人から慕はれた美貌の貴公子家持を、かくまで惱ました娘子は誰であつたか。歌の内容が實際的なのは、題詞のとほり、女の家の門で詠誦したものであらう。
〔語〕 ○なほやまからむ 「なほ」は「それでもやはり」の意。「思ふことを黙止りて徒らに打過ぐることをいふ」とみる説(古義)は、よくないと恩ふ。
 
    河内百枝娘子《かふちのももえをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
701 はつはつに人を相見ていかならむいづれの日にか又|外《よそ》に見む
 
〔題〕 河内百枝娘子 家持をめぐる女性の一人であるが、傳不詳。或は、河内國出身の遊行女婦の類であらうと見る説もある。
〔譯〕 ちらとばかりお逢ひして別れましたが、この後どういふ何時の日に、又よそながらでもお目にかかれることでせうか。
〔評〕 わづかに相見たことが、永く思ひの種として殘り、その飽きならぬ心もちが、愈々切に戀情をかきたてることになつたのである。「いかならむいづれの日にか」の強調、「又よそに見む」のつつましい切望、いづれも可憐な聲ならぬはない。
〔語〕 ○はつはつに 僅かに、ほんの少しの意。○いかならむ 次の句の「日」にかかる修飾語。○又よそに見む 再びよそながらでも見ることが出來ようかの意。
 
(131)702 ぬばたまの其の夜の月夜《つくよ》今日までに吾は忘れず間《ま》なくし念《も》へば
 
〔譯〕 初めてお逢ひしましたあの晩の月を、今日まで私はまだ忘れずにゐます。あれ以來絶えずあなたを思ひつづけてをりますので。
〔評〕 忘れ得ぬ人のまぼろしを、小さな胸に描き續けてゐる少女の眞情である。如何にも純眞な心持をうひうひしく表現したもので、何の粉飾もない率直さがよい。燃えるやうな情熱は感じられないが、つつましさの中にそこはかとなく人の心を惹くところがあるのは、作者の人がらの反映であらう。
〔語〕 ○其の夜の月夜 初めて逢つた夜の月の光景。「月夜」はここは單に月をいふ。「今宵の月夜」(一五)參照。○間なくし念へば 絶間なく君を思ひ慕つてゐるゆゑに、の意。
 
    巫部麻蘇娘子《かむなぎべのまそをとめ》の歌二首
703 吾が背子を相見しその日今日までに吾が衣手は乾《ふ》る時も無し
〔題〕 巫部麻蘇娘子 傳不詳。「巫部」は氏であらう。カムコベとも訓まれる。
〔譯〕 いとしいあなたとお逢ひしたその日から今日まで、戀しさに泣いてばかりゐますので、私の着物の袖は乾く時もないことである。
〔評〕 戀する人の套語で、内容にも表現にも新味が無い。二句「相見しその日」として「より」を省略したのなども適切な語法とはいひ難い。平庸の作である。
〔語〕 ○相見しその日 この下に「より」を補つて解すべきである。○乾る時も無し 「乾る」は書紀の訓註、及び特殊假名遣の研究から、古くは上二段活用であつたことを、橋本博士は説かれた。これによつて、連體形はフルと訓む(132)べきであらう。
 
704 栲繩《たくなは》の永き命を欲《ほ》しけくは絶えずて人を見まく欲《ほ》れこそ
 
〔譯〕 いつまでも長い命が欲しいと私が思ふのは、いつまでも絶えることなく戀しい人のお姿を見たく思つてゐるからのことである。
〔評〕 戀しい人に逢へない程なら、生きてゐても仕方がないといふ思ひ餘つた心もちはあはれであるが、さうした率直な表現法を採らないで、長生をしたいのは戀人にいつまでも逢ひたいためであるといつたのは、冷靜な判斷の加はつた語法で、それだけ理に落ちたものである。思切つた強い言葉のやうでありながら、燃え上る熱は感じられない。
〔語〕 ○たく繩の 「永き」にかけた枕詞。「二一七」參照。○ほしけくは ほしきことはの意。○見まくほれこそ 「見まくほればこそ」に同じく、見たく思ふからのことである、の意。助詞のバを添へずしてコソ・ヤ・カモ等に續けるのは、古格である。「古へも然なれこそ」(一三)「天地も依りてあれこそ」(五〇)等參照。
〔訓〕 ○欲しけくは 白文「欲苦波」で、新校ホリシクハによれば、願うて居つたことは、の意になる。
 
    大伴宿禰家持、童女《をとめ》に贈れる歌一首
705 葉根蘰《はねかづら》今|爲《す》る妹を夢《いめ》に見て情《こころ》のうちに戀ひわたるかも
 
〔題〕 童女 この童女は如何なる女ともわきがたい。
〔譯〕 葉根かづらを近頃つけ初めたそなたの姿を夢に見て、自分は心のうちに戀ひつづけてゐることである。
〔評〕 相手が葉根かづらをする年頃になつた童女であつたので、かく云ひ贈つたのである。「葉根かづら今する妹をうら若みいざいざ川の音のさやけさ」(一一一二)「はねかづら今する妹がうら若みゑみみいかりみつけし紐解く」(二(133)六二七)などあるのを見ると、それをつけた年頃の娘の姿が、いかに若い男性の感覺に映じてゐたかが察せられよう。
〔語〕 ○葉根かづら 婦人の髪飾で、年ごろに達した少女が著けたものと思はれるが、其の材料や形は詳かでない。花かづら、結び目をはねたかづら、羽根かづらなどの説がある。○今する妹を 今つけ初めるやうになった妹を。
 
    童女の來報《こた》ふる歌一首
706 葉根かづら今|爲《す》る妹は無かりしをいづれの妹ぞ幾許《ここだ》戀ひたる
 
〔譯〕 葉根かづらを今したばかりの少女は此處にはゐませんが、あなたは何處の女をまあ、それ程ひどく戀しがつていらつしやるのですか。
〔評〕 家持の甘い私語に對して、この女は警戒するやうにいつたのである。「葉根かづら今する妹」などと可憐な言葉を寄せて來たが、恐らく暫く前からそれを用ゐてゐたので、お言葉にあふやうな少女は此處にはゐませんよと、輕くいひなしたのであらう。四五句も辛辣な皮肉である。
〔語〕 ○今する妹は無かりしを この頃つけるやうになつた女はゐませんのにの意で、私は既に早くからつけて居りますので、あなたの仰しやる人とは違ひませうといつたのである。○いづれの妹ぞ どこの女の人をの意で、それは私のことではありますまい、としらばくれた語。
 
    粟田女《あはため》娘子、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
707 思ひ遣《や》るすべの知らねば片※[土+完]《かたもひ》の底にぞ吾は戀ひなりにける 土※[土+完]《つちもひ》の中に注せり
 
〔題〕 粟田女娘子 家持をめぐる女性の一人であるが、傳不詳。通行本等には「女」の字がないが、今、元暦校本等の古寫本に從つて補ふ。
(134)〔譯〕 思を晴らす方法がわかりませんので、片|※[土+完]《もひ》の底ではないが、片思ひのどん底まで私は戀ひ慕つてまゐつたことであります。
〔評〕 みづからの苦惱を訴へて男のあはれみを乞はうとしたのである。元暦校本によれば、この歌の下に細字で「注士※[土+完]之中」とあり、京大本にはその「士」が「云」となつてゐるが、いづれも意が通じないので、今は「士」を「土」の誤と見る武田博士説に從ふ。さうすると、この歌は作者が土※[土+完]の中に書いて贈つたといふことになるのである。今の樂燒のやうなしかたで書いたものか、とにかく珍しく變つてゐる。
〔語〕 ○片※[土+完]の ここは事實片※[土+完]を用ゐたのであるが、辭様としては「底」の枕詞であり、又「片思」に懸け用ゐてゐる。「※[土+完]」は「※[土+宛]」に通じ用ゐて、椀の類をいひ、片※[土+完]は蓋のない※[土+完]である。和名抄に「説文云※[怨の心が皿]小盃也。字亦作v椀。辨色立成云末里、俗毛比」とある。元來「もひ」は水の古語で、轉じてそれの容器をいふことになつた。○底にぞ どんぞこまで、行きづまりまで、の意。
〔訓〕 ○土※[土+完]の中に云々 白文「注土※[土+完]之中」で、この五字は通行本には無い。今、元暦校本によつて補ひ、且「士」を「土」に改めたことは上記の如くである。
 
708 またも逢はむ因《よし》もあらぬか白たへの我が衣手に齋《いは》ひとどめむ
 
〔譯〕 またお目にかかる手段もないものでせうか。お逢ひ出來たらば、私の着物の袖に禁厭《まじなひ》をして、あなたを離れないやうにしつかり留めておきませう。
〔評〕 衣の袖に咒術を施して、戀しい人を引附けて置くといふのは珍しい著想である。當時かういふ民間信仰があつたものとおもはれる。
〔語〕 ○因もあらぬか 手段も無いものか、あれかしの意。「よし」は方法、手段。○いはひとどめむ 神に祈り、(135)呪術によつて男を離れぬやうに留めて置かう、の意。
 
    豐前國の娘子|大宅女《おほやけめ》の歌一首
709 夕闇は路《みち》たづたづし月待ちて行かせ吾が背子その間《ま》にも見む
 
〔題〕 大宅女 傳不詳。「九八四」にも見える。遊行女婦であらうとの説もあるが、確證はない。
〔譯〕 夕闇の道は、ゆくてもたどたどしくおぼつかないゆゑ、月の出るのを待つてお行きなさいませ。しばし其の間にも、お話をしたうございます。
〔評〕 愛人の歸りゆく暗い路を案ずるこまかな心づかひと、暫しでも長く引留めて置きたい切なる願ひと、まことにやさしい女性心理である。近世の良寛は恐らくこの歌を粉本としたのであらう。「月よみの光をまちて歸りませ山路は栗のいがの多きに」と詠んだ。娘子の愛戀と隱遁者の友情と、相比べて更に興趣の深いものがある。
〔語〕 ○たづたづし たどたどしに同じ。さぐり足でゆく趣。○その間にも見む 月の出るのを待つてゐる僅かの間にも、なつかしいお顔を見ようとの意。
〔訓〕 ○行かせ吾が背子 白文「行吾背子」で、舊訓ユカムワガセコは不可。元暦校本にはイマセワガセコとあるが、今は、代匠記の訓に從ふ。
 
    安都扉娘子《あとのとびらをとめ》の歌一首
710 み空行く月の光にただ一目あひ見し人の夢《いめ》にし見ゆる
 
〔題〕 安都扉娘子 「安都」は氏「扉」は名であらう。略解に「安都扉」をアヅミと訓んで氏としたのは從ひ難い。傳不詳。
(136)〔譯〕 大空をゆく月の光に、ほんのただ一目お逢ひしたあのお方が、私の夢によく見えることである。ほんになつかしいお方ではある。
〔評〕 いかにも若い娘子らしいあこがれ心である。ほのかな詩趣を湛へた表現の優婉さ、情景が髣髴として想像される。「花ぐはし葦垣|越《ご》しにただ一目相見し兒ゆゑ千遍ちたび》嘆きつ」(二五六五)は、男女地を換へてゐるが、稍々似てゐる。
〔語〕 ○夢にし見ゆる 私の夢にょくお見えになる、の意。或る夜見えたといふのではなく、折々見えるとの意で、そこに思慕の深さが言外に表はれてゐる。
 
    丹波大女娘子《たにはのおほめをとめ》の歌三首
711 鴨鳥《かもとり》の遊ぶこの池に木《こ》の葉落ちて浮べる心吾が念《も》はなくに
 
〔題〕 丹波大女娘子 傳不詳。「女」は通行本等に無いが、今、元暦校本・紀州本等に從つて補ふ。
〔譯〕 鴨の遊んでゐる此の池に木の葉が散つて浮いてゐますが、丁度そのやうな浮いた心もちは、私は決していだいて居りませぬ。
〔評〕 作者は、鴨の遊ぶ池畔に立つて、人を思つてゐたのであらう。折から木の葉が舞ひ落ちて、池水に浮んだ。しかも、輕々と浮動する。この實景が直ちに心緒を惹き出す序となつたと思はれる。所謂有心の序である。
〔語〕 ○鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて 「浮べる」の序。○浮べる心 浮き浮きして定まらない心。
 
712 味酒《うまさけ》を三輪《みわ》の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉|手《て》觸《ふ》りし罪か君に遇ひがたき
 
〔譯〕 三輪の社の神職たちが大事にお祭してゐる神杉に、私は知らぬ間に手を觸れた罰でせうか、いとしいあなたにお目にかかれませぬ。
(137)〔評〕 三輪神社の神主たちが、しめを結ひ立てて嚴かに祀つてある神杉である。この娘子が實際それに手を觸れるやうな振舞をした筈もなからう。恐らく作者は、それを見る度にいかめしさを感じ、決して手を觸れてはならぬと自分を警めてゐたのではないか。今かなはぬ戀に苦しむにつけ、何の應報かと考へ、神杉のことを思ひ出して、固く自ら警めてゐたものを、若しや自分はいつの間に手を觸れてゐて、今その神罰ではないかといぶかり思ふのであらう。畏み憚るべき神杉の印象と、片戀の苦惱と、この二つが混じて、素朴な娘子の自ら覺えぬ罪を責めてみるところ、頗る異常な構想である。
〔語〕 ○うま酒を 「三輪」の枕詞。「一七」參照。○三輪の祝 「祝」は神社の祭祀を掌る神職。○忌ふ杉 神木として人に觸れしめぬやうにしめ繩などをめぐらして齋きまつる杉。
 
713 垣穗《かきほ》なす人言《ひとごと》聞きて吾が背子が情《こころ》たゆたひ逢はぬこの頃
 
〔譯〕 垣根のやうに二人の間を隔てようとする人の言葉を聞いて、あなたは心に躊躇なさつて此の頃は逢つて下さらぬことである。
〔評〕 愛人のくることが此の頃になつて遠のいた。どうしたわけであらうかと、とつおいつ考へて見る。結局は、誰かの告げ口や中傷を聞いてのことであらうと、恨を述べたもので、極めて普通の女性心理である。表現は説明に流れて平板であり、全體に生ぬるい域を脱しない。
〔語〕 ○垣穗なす人言 垣で隔てるやうに、兩人の間を離間しようとする人の言葉。「垣穗なす」はいひ隔てる意とした、代匠記説がよく、繁きことの意と見る略解所引宣長説は賛し難い。垣穗は本來は垣根に對する語であるが、穗も根も輕く、いづれもただ垣の意に用ゐられる。○情たゆたひ 心が躊躇して、決心が鈍つての意。
 
(138)    大伴宿禰家持、娘子に贈れる歌七首
714 情《こころ》には思ひわたれど縁《よし》を無《な》み外《よそ》のみにして嘆《なげき》ぞ吾がする
 
〔題〕 娘子 如何なる人とも知られない。上の「六九一」「七〇〇」等に見える娘子と同人か否かも明かでない。
〔譯〕 心のうちでは思ひつづけてゐるが、逢ふ手段が無いので、遠くから嘆いてばかり自分はゐることである。
〔評〕 内容に奇なく、表現も極めて平板低調でたたごとに過ぎない。總じてこの一聯七首、片戀の苦惱を敍してはゐるが、人に迫る熟も力も乏しい。
〔語〕 ○思ひわたれど 戀ひ續けてゐるけれども。○よしを無み 逢ふ方法がないのでの意。
 
715 千烏鳴く佐保の河門《かはと》の清き瀬を馬うち渡し何時《いつ》か通はむ
 
〔譯〕 あの千鳥の鳴く佐保川の渡り場の清らかな瀬を、馬を渡して、いつになつたらばそなたのもとへ通つて行けるであらうか。
〔評〕 戀の成就を希ひ、その成つた曉の樂しさを想像してゐるところ、一見美しい情景で、よく整つてゐる。七首中の佳作である。
〔語〕 ○河門 河の渡り場。○馬うち渡し 馬に乘つて渡つての意。
 
716 夜晝《よるひる》といふ別《わき》知らに吾が戀ふるこころは蓋《けだ》し夢《いめ》に見えきや
 
〔譯〕 夜晝といふ區別も知らないで、自分が戀ひ焦れてゐる心は、多分そなたの夢に現はれたことであらうと思ふが、果して見えたか、どうであらう。
(139)〔評〕 人を思へばその心が通うて、先方の夢に現はれるといふ當時の俗言に基づいたものである。「慥なる使を無みとこころをぞ使に遣りし夢に見えきや」(二八七四)とあるのも同樣である。要するに類型的で平板を免かれない。
〔語〕 ○夜晝といふわき知らに 晝夜の區別も知らずにの意。○夢に見えきや 自分の姿がそなたの夢に見えましたか。
 
717 つれも無くあるらむ人を片思《かたもひ》に吾は念へばわびしくもあるか
 
〔譯〕 冷淡で何の思ひやりも無いらしい人を、片思ひに自分は思つてゐるので、情ないことではある。
〔評〕 平板なたたごと歌に過ぎない。一人の女性にそれほど烈しい片戀をしてゐるならば、もつと灼熱した言葉がおのづからもれなければならぬと思はれる。或は、空想的習作であらうか。
〔語〕 ○つれもなくあるらむ人 平氣で同情心もないらしい人。相手の娘子をさす。「らむ」を用ゐたのは猶「つれなき人」と斷定しかねた一脈の未練を示したものである。○わびしくもあるか 情なくつらいことであるよとの意。
〔訓〕 ○片思 白文「獨念」通行本・活字附訓木に「獨」を「狩」に作るは誤。元暦校本等によつて訂す。○わびしくも 白文「惑毛」舊訓マドヒモ。今、代匠記の訓に從ふ。
 
718 思はぬに妹が笑《ゑま》ひを夢《いめ》に見て心のうちに燃えつつぞ居《を》る
 
〔譯〕 思ひもかけず、そなたの笑顔を夢に見て、自分は心のうちに思の火を燃やし續けてゐることである。
〔評〕 四五句は頗る熱烈な句ではあるが、なほ力の足りない感じがする。
〔語〕 ○思はぬに 思ひがけなく。○燃えつつぞ居る 情熱の火が燃えに然えてゐる、即ち戀ひ焦れ續けてゐるの意。
 
(140)719 丈夫《ますらを》と念へる吾を斯くばかり羸《みつ》れに羸《みつ》れ片思《かたもひ》を爲《せ》む
 
〔譯〕 堂々たる一箇の男子と思つてゐる自分であるのに、こんなに身も窶れに窶れてしまふほど、片思をすることか。
〔評〕 作者の父旅人卿が太宰府を去る時、遊行女婦兒島に別るる歌に「ますらをとおもへる吾や水莖の水城の上に涕のごはむ」(九六八)とあるが、家持はこれに負ふところあること明白である。また、片戀などに惱むを卑しみ、それを抑制しようとする氣魄は甚だ男性的であるが、舍人親王の「ますらをや片戀せむと歎けども醜のますらを猶戀ひにけり」(一一七)の影響のあることは見逃せない。更に辭句の上からは「ますらをと思へる吾を斯くばかり戀せしむるは苛《から》くはありけり」(二五八四)に三句まで全く同じで、家持は直接にはこれを摸したものと解せられるが、作として遠くこれ等に及ばないのは、眞劍さの不足と考へられる。元來家持は多作家なので、自身は模倣する考はなかつたかしれねが、他の人の作に似た歌が多數にある。
〔語〕 ○念へる吾を 思つてゐる我なるものを。○羸れに羸れ やつれにやつれて。「みつれ」は疲れやつれること。○片思を爲む 片戀などをしようか、そんなことをすべきではないのであるがとの歎息の意。
 
720 村肝《むらぎも》の情《こころ》摧《くだ》けて斯《か》くばかり吾が戀ふらくを知らずかあるらむ
 
〔譯〕 心の張りも無くなつて、これほどまで自分が戀ひ慕つてゐることを、そなたは知らずにゐるのであらうか。
〔評〕 七首の連作概ね低調にして振はなかつたが、この最後の一首に至つて、聊か格調が張つて來たのを覺える。しかしそれでも猶四五句に獨創性の乏しいのが殘念である。
〔語〕 ○村肝の 「心」の枕詞。「五」參照。○こころくだけて 意地も張も無くなつて。○知らずかあるらむ 知らずにゐるであらうか、多分さうであらうなあ、との意。
 
(141)    天皇に獻《たてまつ》れる歌一首 【大伴坂上郎女、佐保の宅に在りて作れり】
721 あしひきの山にし居《を》れば風流《みやび》なみ吾が爲《す》る事《わざ》を咎《とが》めたまふな
 
〔題〕 天皇に獻れる歌 聖武天皇に奉つた歌である。通行本には作者の名を逸してゐるが、今、元暦校本・西本願寺本・紀州本等によつて「大伴坂上郎女」云々の細註を補ふ。但、考は、この卷を家持の家集と見た爲、名の無いのは家持の作とし、略解は、坂上郎女が宮中へ親しく參つた事實はどこにも見えないから、これは母なる石川内命婦のことであらうといつてゐる。しかし、いづれも古寫本の記載を否定するほどの根據はないので、やはり坂上郎女の作とすべきである。
〔譯〕 山里に住んで居りますと、風流もありませんので、私の致しますかうした鄙びた仕方を、どうかお咎め下さいますな。
〔評〕 これは山里に産した季節の物の何かを天皇に獻上するにつけて添へささげた歌であらう。極めて自然な感情を何の作爲粉飾もなく、素直に敍べたところに、直率な誠意が讀まれ、また上代君臣の間の親しみも想像される。
〔語〕 ○山にしをれば 山里に住んでをりますので、佐保山の自らの宅を謙稱したのである。○風流なみ 風流優雅の趣がありませんので。○吾がするわざを 私の致しますこんな殺風景なことを、の意。田園の蔬菜とか果物などを獻上したのでもあらう。
 
    大伴宿禰家持の歌一首
722 斯くばかり戀ひつつあらずは石木《いはき》にもならましものを物思はずして
 
〔譯〕 こんなにまで戀ひこがれてゐないで、いつそのこと自分は、石や木にでもなつてしまはうものを、何の物思も(142)せずに。
〔評〕 構想は類型的であり、辭句も古人のを踏襲したのが著しく目立つ。即ち「かくばかり戀ひつつあらずは高山の磐根し枕《ま》きて死なましものを」(八六)「かくばかり戀ひつつあらずは朝にけに妹がふむらむ地ならましを」(二六九三)等が原據であること明かである。ただ、物思はぬものの譬喩に石木をもつて來たのは、聊か作者のはたらきといつてよいが、併し「物思はずして」の結句は説明に落ちてゐる。
〔語〕 ○戀ひつつあらずは 戀ひ焦れてゐないで、寧ろの意。「八六」參照。
 
    大伴坂上郎女、跡見庄《とみのたどころ》より、宅《いへ》に留まれる女子《むすめ》の大孃に贈賜《おく》れる歌一首并に短歌
723 常世《とこよ》にと 吾が行かなくに 小金門《をかなど》に もの悲しらに 念へりし 吾が兒の刀自《とじ》を ぬばたまの 夜晝《よるひる》といはず 念ふにし 吾が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへぬれぬ 斯くばかり もとなし戀《こ》ひば 古郷に この月頃も 在りかつましじ
 
〔題〕 跡見庄 今の櫻井町の東、大和國機城郡城島村|外山《とみ》の地であらうといふ。此處に大伴氏の別邸があつたことは、「一五四九」「一五六〇」等の歌にも見える。この歌は、作者がその別莊に滯在中、本宅に留守してゐる娘の坂上大孃を思つて詠んだもの。
〔譯〕 遠い遠い常世の國へと私が行くわけでもないのに、家を出る時、門のあたりに悲しさうに悄然と思ひ沈んでゐた私の可愛い娘、そなたの事を、夜といはず晝といはず思つてゐるので、私の身は痩せてしまひました。歎くために着物の袖までぬれてしまひました。これほどまでよしなくも戀ひこがれるならば、この跡見の古里に、私はこの一月ほども滯留しては居られさうにありません。
(143)〔評〕 しみじみと哀音の溢れた歌である。暫しの別れにも、悲しげに母を見送つて立つ優しい大孃の姿が見えるやうであるし、その娘の姿を思つては身も痩せるといふのは、如何にも濃やかな母子の純情である。戀愛の歌に熱情を迸らせたこの作者は、母としてもよい母であつたと想像される。女性の長歌は集中に多くはないが、就中この歌は、遣唐使の下僚としてゆく吾が子に贈つた無名の母の歌(一七九〇)と共に、母性愛を詠じた雙璧である。
〔語〕 ○常世にと 常世は一は遠隔不知の國即ち異國、二は仙郷、三は黄泉と三義あり、ここは代匠記その他黄泉と解する説も多いが、異國と見た略解説がよい。○吾が行かなくに 私が行くのではないのに。○小金門に 「を」は接頭辭で意味はない。「かなど」は金具を多く打つた門の義かといふ。相當立派な門と見るべきであらう。代匠記に「門をかどといふは、金戸《かなど》といふの略語とぞ聞えたる」とあるが、なほ考究の餘地がある。○もの悲しらに 悲しさうに。○吾が兒の刀自 「刀自」は婦人をよぶ稱。○もとなし戀ひば わけもなく無暗に戀しがるならばの意。「もとな」は「二三〇」參照。「し」は強意の助詞。○古郷に この跡見庄に。○在りかつましじ 滯留して居り得まいの意。「かつ」は「敢ふ」と同義で下二段活用。「ましじ」は「まじ」の古形。
〔訓〕 ○常世 白文「常呼」で、舊訓トコヨ。元暦校本・紀州本等の訓はトコヲとある。「呼」をヨの假名に用ゐた例は他に見えないので、考は「與」の誤と見てゐる。トコヲは、字面に忠實な訓ではあるが、意が通じ難い。新解はツネヲと訓み、ヲを詠歎の助詞として一應釋してゐるが、今姑く舊訓に從つておく。
 
    反歌
724 朝髪の思ひ亂りて斯くばかりなねが戀ふれぞ夢《いめ》に見えける     右の歌は、大孃の進れる歌に報へ賜へり。
 
〔譯〕 朝髪の亂れるやうに思ひ亂れて、それほどまでにそなたが戀ひ慕つてゐるからこそ、私の夢に見えたのである。
(144)〔評〕 「朝髪の」といふ枕詞は、作者の創案か否か、極めて適切に用ゐられてゐるのみならず、如何にも女性らしいたをやかな風趣を湛へて生きてゐる。
〔語〕 ○朝髪の 「亂り」にかけた枕詞。朝の寢くたれ髪の亂れた意。○なねが戀ふれぞ そなたが私を戀ひ慕つてゐるゆゑに。「なね」は汝姉の義で女を親しみ呼ぶ稱。略解所引宣長説に「戀ふれぞなねが」の意としたのは無理な解で、これは相手が自分を思ふこと深ければ、その人を夢に見るといふ當時の俗信に基くもの。「六二一」その他集中に例が多い。
〔左註〕 右の歌は云々 上の長歌及び反歌は、大孃から詠んで送つて來た歌に對する坂上郎女の返歌であるとの意。
 
    天皇に戯れる歌二首 【大伴坂上郎女、春日里に在りて作れり】
725 鳩鳥《にほどり》の潜《かづ》く池水こころあらば君に吾が戀ふる情《こころ》示さね
 
〔題〕 天皇に獻れる歌 天皇は聖武天皇をさし奉る。下の「大伴坂上郎女云々」の細註は通行本及び活字附訓本には無いが、元暦校本以下の古寫本には皆ある。これに據れば、この二首は坂上郎女の作で、天皇を思慕しまつる歌となるが、事情からいつても辭樣から見ても、聊かうべなひ難いふしがある。姑くこの儘に疑を存して置く。
〔譯〕 鳩鳥が潜つてゐるこの池水よ。心があるならば、君を思ふ私の心の深さを、君にお知らせしてくれよ。
〔評〕 鳩鳥に向つて我が希望を誂へるならば聞えてゐるが、池水を擬人したことは、普通でない考へ方であり、殊に我が思ふ心を彼の人に示してくれと誂へたのは、的確に解し難い。
〔語〕 ○鳩鳥 今カイツブリといふ。體長三寸内外、河川湖沼にゐてよく水に潜り、小魚を捕へて食する水禽。○こころあらば 思ひやりがあるならば。○こころ示さね 私の心もちを君に示してほしいとの意。
 
(145)726 外《よそ》に居て戀ひつつあらずは君が家の池に住むとふ鴨にあらましを
 
〔譯〕 よそにゐてこんなに戀ひ焦れてばかりゐないで、いつそあなたのお屋敷の池に住んでゐるといふ鴨でありたうございますものを。
〔評〕 この種の構想も、集中極めて類型の多いもので、上の「七二二」や「吾妹子に戀ひつつあらずは秋萩の咲きてちりぬる花ならましを」(一二〇)「おくれゐて戀ひつつあらずは紀の國の妹背の山にあらましものを」(五四四)など、その他にも少くない。それはとにかく、非常に近づき狎れたやうな口吻は、天皇を慕ひまつるやうな心もちとは受取りにくく、殊に「君が家」の語は最も不適當な感がある。要するに、この兩首は、作歌事情も作者も猶考究を要すべきである。
〔語〕 ○よそに居て 君の御もとを離れてゐて。○戀ひつつあらずは 「七二二」參照。○鴨にあらましを 鴨でありたいのに、さうでないのが殘念であるの意。
 
    大伴宿禰家持、坂上家の大孃に贈れる歌二首 【數年を離り絶えて後に會ひて相聞往來せり】
727 萱草《わすれぐさ》吾が下紐に着《つ》けたれど醜《しこ》の醜《しこ》草|言《こと》にしありけり
 
〔題〕 家持が坂上大孃に與へた歌であるが、細註によると、互に數年の間打絶えてゐた後に、また相會うて親しく往來したといふのである。近親の間柄でありながら、何が故にそれほど長く疎遠に過ぎてゐたかは、考へる由がない。
〔譯〕 御身のことを忘れようとして、萱草を自分の下紐に着けたけれども、このやくざな草よ、何の効能もなく、ただ名前ばかりであるよ。
〔評〕 思に堪へずして強ひて物を忘れようが爲に、忘貝を拾つたり、忘草を見たりするのは上代の風習であり、これ(146)も畢竟言靈信仰に基づく思想に外ならない。この歌は「わすれ草垣も繁森《しみみ》に植ゑたれど醜の醜草なほ戀ひにけり」(三〇六二)「すみのえに行くとふ道に昨日見し戀忘貝言にしありけり」(一一四九)等に據つたものと思はれるが、類想はなほ集中に少くない。萱草を紐につけることも、既に旅人の歌に「わすれ草わが紐に著く香具山の古りにし里を忘れぬがため」(三三四)とある。家持にはこれらの影響もあるに違ひない。
〔語〕 ○萱草 クワンザウ。「三三四」參照。○我が下紐に 下紐は下裳または下袴などの、すべて表に見えぬ紐をいふ。○醜の醜草 萱草を罵つていふ。「醜の丈夫」(一一七)「醜ほととぎす」(一五〇七)など用例が多い。○言にしありけり 「忘れ」といふ言葉だけであつて、實際何の効果もなかつた、との意。
 
728 人も無き國もあらぬか吾妹子と携《たづさ》ひ行きて副《たぐ》ひて居《を》らむ
 
〔譯〕 人のゐない靜かな國が無いものかなあ。御身とうち連れて行つて、二人で暮してゐように。
〔評〕 愛する人とたた二人だけの世界を空想するのは、古今を通じ東西に亙つて、戀する青春男女の心理に潜む共通感情である。時代の差異も感じられないほど、感覺的に新しく、初二句の調子の緊張してゐる點も成功といつてよい。
〔語〕 ○國もあらぬか さういふ國も無いものか、どうかあつて欲しいものであるの意。○携ひ行きて 連れ立つて行つて。○たぐひて居らむ 共に連れ添うて居らうの意。「五二〇」參照。
 
    大伴坂上大孃、大伴宿禰家持に贈れる歌三首
729 玉ならば手にも卷かむをうつせみの世の人なれば手に卷きがたし
 
〔題〕 大孃から家持に贈つた歌で、即ち上の返歌である。
〔譯〕 あなたが玉であつたならば、いつも手に卷いて持つてゐたいのに、人であるから、手に卷くことの出來ぬのが(147)つらい。
〔評〕 装身具として玉を愛した上代人が、愛人を玉に譬へたのは、極めて自然である。それ故に、集中の歌に此の種の構想が一つの型をなしてゐるのも偶然ではない。さてこの歌、内容は他奇無いけれども、「玉ならば」に「世の人なれば」、「手にも卷かむを」に「手に卷きがたし」と、整然と對照させた句法の緊密さは、一首を極めて迫力あるものにしてゐる。久しぶりに相會した心の躍動が、おのづからこの力を漲らしたのであらう。
〔語〕 ○玉ならば 愛する君が、もし玉であつたらばの意。○手にも卷かむを 緒に貫いて手玉にして卷きつけようものをの意。○うつせみの 世の枕詞。
 
730 逢はむ夜《よ》はいつもあらむを何すとか彼《そ》の夕《よひ》逢ひて言《こと》し繁しも
 
〔譯〕 お逢ひする夜は、他にいつでもあつたでせうものを、何でまあ、あの晩にお逢ひして、かうもうるさく噂されることになつたのでせうか。
〔評〕 「彼《そ》の夕《よひ》」が、何か特に逢ふのにわるい折であつたのであらうか。しかしそれは、寧ろ作者自身の氣持ではなかつたか。遂には顯れるものであるのに、恰もわるい時に逢つたが爲といふやうに思はれたのであらう。戀する人の心理が、ある程度まで眞實に描かれてゐる。
〔語〕 ○いつもあらむを あの夜に限つたこともなく、他にいつでもあつたらうにの意。○言し繁しも 人の口が何やかやとうるさいことであるよ。
〔訓〕 ○言し繁しも 白文「事之繁裳」で、舊訓コトノシゲキモ。考はコトノシゲシモとあるが、改めた。
 
731 吾が名はも千名《ちな》の五百名《いほな》に立ちぬとも君が名立たば惜しみこそ泣け
 
(148)〔譯〕 私の名は、どのやうにはげしく立つても厭ひはいたしませぬが、大事なあなたの御名が噂に立つたらば、私は惜しくて、泣くことでありませうよ。
〔評〕 榮は君に、辱は我に、といふ優しい心もちは、熱情の中に、犯し難い氣節を帶びて居り、名を重んじた武人の家の思想も察すべく、眞實もあり、道義もあり、人情もある。但「玉くしげ覆ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(九三)はこの反對であるが、これはこれで又僞らぬ自然の情を率直に敍べたもので、そこに作者の境遇年齡の相違などが知られるのである。
〔語〕 千名の五百名に立ちぬとも 五百回も千回も、浮名が立たうとも。○惜しみこそ泣け 口惜しく思つて泣きますよ、の意。「立たば」の假定條件に對しては「泣かめ」と未來にいふのが普通であるが、それでは語調が弱いので、確定的の事實として斯く斷言した語法が、却つて効果的である。
 
    又、大伴宿禰家持の和ふる歌三首
732 今しばし名の惜しけくも吾は無し妹によりては千遍《ちたび》立つとも
 
〔譯〕 今となつてはもう、名が惜しいことも自分はない。御身の爲ならば、たとひ千遍浮名が立たうとも。
〔評〕 眞實・人情・道コの兼ね備はつた右の大孃の歌に答へたものである。竝べ誦すると、大孃の歌に押され氣味で、聊か藝の無い嫌はあるが、實感の尊さは猶棄て難いものがある。
〔語〕 ○今しはし 今ではもう。○惜しけくも 惜しきことも。○妹によりては 妹の爲ならばの意。
 
733 うつせみの世やも二行《ふたゆ》く何すとか妹に逢はずて吾が獨|宿《ね》む
 
〔譯〕 この人間の世が二度と廻つて來るものであらうか、それであるのに、どうしていとしい御身に逢はないで、自(149)分が獨り寢られようか。
〔評〕 初二句は觀念的であるが、また、次に述べるやうな類句はあるが、すぐれてゐる。しかして、三句以下に、情熱の高潮が見られる。現世を深く觀ずるにつけて、戀の遂げ難く、青春の過ぎ易いのが歎かれたのであらら。「うつせみの世やも二行く」は「世のなかはまこと二代は行かざらし過ぎにし妹に逢はなく念へば」(一四一〇)から得來つた句と思はれる。
〔語〕 ○世やも二行く 同じ人生が二度廻つて來ようか、反語。
 
734 吾が念《おもひ》斯くてあらずは玉にもが眞《まこと》も妹が手に纏《ま》かれむを
 
〔譯〕 自分の思は、いつまでもかうして惱んでばかりゐないで、いつそ自分は玉であつたらばよい。さうしたらば、本當に御身の手に卷かれようものを。
〔評〕 前の「玉ならば手にも卷かむを」といふ大孃の歌に答へたものであるが、着想・形式ともに類型的であり、かつ唱和の作として何等局面打開が行はれてゐないのは、はたらきがないといふべきである。
〔語〕 ○かくてあらずは 斯くの如く惱んでばかりゐないでの意。「かくばかり戀ひつつあらずは」(八六)參照。○玉にもが 自分は玉であればよいの意。
 
    同じき坂上大孃、家持に贈れる歌一首
735 春日山霞たなびき情《こころ》ぐく照れる月夜《つくよ》に獨かも寢む
 
〔譯〕 春日山に霞がたなびいて居り、なんだかおぼつかない感じで月は照つてゐますが、こんな夜、私は唯一人でさびしく寢ることでせうか。
(150)〔評〕 薄々と霞の立ちこめた朧月夜は、うら若い作者に身のたゆいやうな惱ましさと、遣る瀬ないあこがれとを覺えさせたのである。かかる夜の寢苦しさが、若い官能に愬へるやうに描かれてゐる。「獨かも寢む」の結句をもつ作は集中に少くないが、かくもまざまざと感覺的に同情を誘ふやうな、的確動かすべからざる用法は稀である。
〔語〕 ○情ぐく 形容詞「こころぐし」の連用形。「こころぐし」は萬葉以外には見えぬ語で、まだ十分解明されてゐないが、古來諸説あり、代匠記は心ぐるしの意とし、考は、霞から心くもりと云ひかけたもので、下の久は久毛留の約としてゐる。古義所引中山嚴水説に、めでなつかしむ意としたのは當らない。森本氏が、この語の用例は悉く戀の歌であることを指摘し、戀のため心が切なくて苦しい意と解したのが穩當のやうである。(萬葉集新見參照)。
 
    又家持、坂上大孃に和《こた》ふる歌一首
736 月夜《つくよ》には門に出で立ち夕占《ゆふけ》問ひ足卜《あうら》をぞせし行かまくを欲《ほ》り
 
〔譯〕 そなたのところへ行きたく思ひ、その首尾をうらなふために、月夜に、門に立ち出て、夕方の辻占をしたり、足卜をしたりしたことである。
〔評〕 萬葉人の精神生活を知る上に興味のある歌で、夕占や足卜などの原始的俗信が上流階級の間にも行はれてゐたことを知る例證となるものである。但、歌としては、大孃の作の實感の溢れたのに比し、單なる申譯的の平板な敍述に過ぎない。
〔語〕 ○月夜には 上の大孃の歌を承けて、御身の獨寢をすることかといはれたその月夜にはの意。○夕占問ひ 夕方辻に立つて往來の人の言葉などで吉凶を判斷する占なひ。○足卜 アシウラとも訓めるが、アウラでよい。伴信友の正卜考に、「俗に童子などのする趣にて、まづ踏止まるべき標を定めおきて、さて吉凶の辭をもて歩く足に合せつつ踏みわたり、標の處にて踏止りたる足に當る辭をもつて吉凶を定むるわざにもやあらむ」とあつて一般に支持され(151)てゐるが、武田博士の説に、豫め一定の間を心に定め、その間を歩行して、歩行數の奇數か偶數かによつて吉凶を判ずることとあるのも捨て難い。神代紀に「告2其弟1曰、吾永爲2汝俳優者1、乃擧v足踏行學2其溺苦?1、初潮漬v足時、則爲2足占1」とあるのは、足卜を行ふ時の?に似てゐたの意であらうから、以て足卜の行歩?態を察することが出來る。○行かまくを欲り そなたのもとに行かんことを欲しての意。
 
    同じき大孃、家持に贈れる歌二首
737 かにかくに人はいふとも若狹道《わかさぢ》の後瀬《のちせ》の山の後も會《あ》はむ君
 
〔譯〕 とやかくと世間の人は噂をしませうとも、若狹路の後瀬山の後になつてでも、きつと逢ひませう、あなた。
〔評〕 後瀬山は、ここに始めて用ゐられた山の名である。歌の内容とは別に交渉がなく、所謂無心の序であり、また恐らく作者とは縁故のない土地で、ただ名を聞くままに興味を感じて詠み入れたものと思はれる。「鴨川の後瀬靜けく後も逢はむ」(二四三一)などの影響が認められるやうである。流麗な聲調の中に、女らしい心もちもよく出てゐる。
〔語〕 ○かにかくに とやかくと。何だかだといろいろに。○若狹道の後瀬の山の 同音を繰返して「後」にかけた序。後瀬山は、若狹國遠敷郡小濱町の南方の小山。今は城山といふ。
〔訓〕 ○後もあはむ 白文「後毛將會」の「會」を諸本「念」に作るが意不通。代匠記には「合」、考には「會」の誤としてゐる。
 
738 世間《よのなか》し苦しさものにありけらく戀に堪《あ》へずて死ぬべき念《も》へば
 
〔譯〕 世の中といふものは、ほんとに苦しいものであります。かうして、戀の苦しさに堪へきれないで、死にさうな(152)のを考へますれば。
〔評〕 世間を知らぬ上流のをとめも、ままならぬ戀の惱みによつて、始めて現世の苦しみを味つたのである。何の奇もない内容ではあるが、概念でなく、作者の切實な體驗を敍してゐるだけに、力がこもつてゐる。
〔語〕 ○ありけらく あつたことよの意。ここで句を切つて歎息を漏らしてゐる。
〔訓〕 ○世間し 白文「世間之」で、舊訓ヨノナカノに從へば、戀といふものは世の中の一番苦しいものであるとの意となり、少し變つて來る、今、攷證の訓に從ふ。
 
    又、家持、坂上大孃に和《こた》ふる歌二首
739 後瀬山後も逢はむと念《おも》へこそ死ぬべきものを今日までも生《い》けれ
 
〔譯〕 後瀬山といふ名のやうに、後に逢はうと思へばこそ、自分は逢はれぬ苦患に死んでしまふ筈なのを、今日までも生きてゐるのであるよ。
〔評〕 支障おほい現在の苦惱も、後に逢へる希望があればこそ、わづかに堪へて命を保つてゐるといふのである。誇張はあるが、若い人の熱烈な戀としては、これが寧ろ自然であらう。率直な荒削りな表現に力が漲つてゐる。「戀ひ戀ひて後も逢はむと慰もる心しなくは生《い》きてあらめやも」(二九〇四)「後つひに妹に逢はむと朝露の命は生《い》けり戀は繁けど」(三〇四〇)などと一脈相通ずるところが認められる。
〔語〕 ○念へこそ 念へばこその意。○今日までも生けれ 今日まで生きながらへてゐることであるの意。
 
740 言《こと》のみを後も逢はむと懃《ねもころ》に吾を憑《たの》めて逢はざらむかも
 
〔譯〕 口さきだけで後に逢ひませうと、ねんごろに私をあてにさせて置いて、結局あなたは、逢つてくれないのでは(153)ありますまいか。
〔評〕 戀する人の誰もが持つ、相手の眞實如何に對する危惧不安を、ありのままに吐露してゐる。表現は寧ろ無器用であるが、思ひ餘つた眞情があはれである。
〔語〕 ○言のみを 口でばかり。○吾を憑めて 自分をたのみに思はせての意。○逢はざらむかも 御身は自分に逢はないのでせうかまあ。
 
    更《また》、大伴宿禰家持、坂上大孃に贈れる歌十五首
741 夢《いめ》の逢《あひ》は苦しかりけり覺《おどろ》きてかき探れども手にも觸れねば
 
〔題〕 更大伴宿禰家持云々 家持が、更に坂上大孃に贈つた歌であるが、この十五首を皆一時に贈つたのではなからう。しかして遊仙窟によつた歌が少くないのは、先行の作もありはするが、當時家持がかの書を讀んでゐたためであらうか。
〔譯〕 夢の中で會ふといふことは、實につらいものである。目がさめて手捜りにさがしてみても、いとしい御身は手にも觸れないので。
〔評〕 代匠記にいふ通り、この歌は遊仙窟に「少時坐睡《シバラクマドロメルニ》則夢(ニ)見(ル)2十娘(ヲ)1、驚覺《オドロキサメテ》撹《カキサグルニ》v之忽(ニシテ)然空(シウス)v手(ヲ)。」とあるを飜案したことは疑がない。しかし恐らく家持の作よりも、早いと思はれる「愛《うつく》しと念ふ吾妹を夢《いめ》に見て起きて探るに無きがさぶしさ」(二九一四)があるので、家持は遊仙窟の本文と右の歌と兩者から着想を得たものと思はれる。但、出來ばえは、右の歌の説明的なのに比して、家持のが一歩まさつてゐる。
〔語〕 ○夢の逢 夢の中で逢ふこと。○苦しかりけり つらい事であつた。○おどろきて ふと目を覺まして。
 
(154)742 一重《ひとへ》のみ妹が結ばむ帶をすら三重結ぶべく吾が身は成りぬ
 
〔譯〕 たた一重だけ御身が結んでくれる帶でさへ、此の頃は戀ゆゑに痩せて、三重もまはして結ぶ程に、自分の身はなつてしまうたことよ。
〔評〕 戀の苦しさに身の痩せ細つたことを、誇張ではあるが最も具體的に描いて、しかも著しく感覺的である。但、「みづ垣の久しき時ゆ戀すれば吾が帶ゆるぶ朝よひごとに」(三二六二)「二つなき戀をしすれば常の帶を三重結ぶべく我が身はなりぬ」(三二七三)の先行作があり、殊に後者とは四五句が全く同じなのは、家持のために遺憾である。また、足柄の坂を過ぎて死人を見て作れる歌(一八〇〇)の一節にも「妹なねが作り著《き》せけむ、しろたへの紐をも解かず、一重ゆふ帶を三重ゆひ」とあつて、この種の表現は、既に一の型を成してゐたものかとも考へられる。無論これも契沖が指摘したやうに遊仙窟の「日々衣|寛《ユルビ》、朝々帶援(ブ)」や、文選の古詩「相去(ルコト)日(ニ)已(ニ)遠(ク)、衣滞日(ニ)已緩(ブ)」などに基づくことはいふまでもない。
〔語〕 ○一重のみ妹が結ばむ いつも一重にのみ妹が結んでくれるの意。○三重結ぶべく 戀に痩せたので三重にも結ぶ程にの意。
 
743 吾が戀は千引《ちびき》の石《いは》を七《なな》ばかり頸《くび》に繋《か》けむも神の諸伏《もろふし》
 
〔譯〕 そなたに對する自分の戀は、千人がかりで引くやうな大岩を、七つばかりも首に懸けたほど苦しくつらいが、そなたは神樣の共寢をなさる神聖なる處女で、近づくことも出來ないのが殘念です。
〔評〕 千人力の岩を七つも首に懸けたほどの苦しさと云つた譬喩は、上の「戀草を力車に七車積みて戀ふらく」(六九四)に劣らぬ奇警な作意であるが、誇張に過ぎて實感味が稀薄になつた嫌は免れない。「神の諸伏《もろふし》」は疑問である(155)が「玉葛|實《み》ならぬ樹にはちはやふる神ぞ著くとふ成らぬ樹ごとに」(一〇一)とあるやうに、神が領じてゐ給ふの意であらう。あまり技巧を凝らし過ぎて晦澁に陷つたものである。
〔語〕 ○千引の石 千人がかりで辛うじて曳くやうな大きい石。書紀の泉津平坂《よもつひらさか》の條に「千人所引磐石《ちびきいは》」とあり、古事記にも千引岩と見える。○頸に懸けむも 首に懸けたやうであらうの意。○神の諸伏 難解の語で古義は誤字説を唱へてゐるが、略解に「神の依りまして共寢し給ふをいふか」とあり、なほ考究すべきであるが、今姑くこの説に從つて置く。
 
744 暮《ゆふ》さらば屋戸《やど》開《あ》け設《ま》けて吾《われ》待《ま》たむ夢《いめ》に相見に來《こ》むといふ人を
 
〔詳〕 夕方になつたならば、家の戸をあげて用意して、自分は待つてゐませう。夢の中で逢ひに來ようといふ御身を。
〔評〕 これも遊仙窟の飜案である。即ち「今宵莫(レ)v閉(スコト)v戸(ヲ)夢裏向(ハン)2渠《キミガ》邊(ニ)1」とあり、その構想をその儘用ゐて「人の見て言咎めせぬ夢《いめ》に吾|今夜《こよひ》至らむ屋戸さすな勤《ゆめ》」(二九一二)とある。今の家持の作、恰もその答のやうな歌で、技巧的には優れてゐるが、作爲の跡が目に立つ。
〔語〕 ○屋戸 文字の通り、屋の戸の意。宿ではない。○あけ設けて あけて用意をして。「まく」は「設く」と同語。
 
745 朝|夕《よひ》に見む時さへや吾妹子が見れど見ぬ如《ごと》なほ戀しけむ
 
〔譯〕 朝晩絶えず逢つてゐる時でさへも、そなたの事が、相見てゐながらまるで姿を見ないかのごとく、やはり戀しいことであらう。ましてこんなに逢はずにゐては戀しいのは無理もない。
〔評〕 僞らぬ質感を率直端的に敍したもので、一應同感される。しかし敍法は巧妙とはいひ難い。要するに平庸の作(156)である。
〔語〕 ○見れど見ぬごと 逢つてゐながら恰も逢はないかの如く。
〔訓〕 ○見れど 白文「雖見」で、舊訓による。略解にはミトモとある。
 
746 生《い》ける世に吾《あ》はいまだ見ず言《こと》絶えて斯く※[立心偏+可]怜《おもしろ》く縫へる嚢《ふくろ》は
 
〔譯〕 この世に於いて自分はまだ嘗て見たことがない。いひやうもなく、こんなにおもしろく上手に縫つてあるふくろは。
〔評〕 何を入れる爲の袋であつたか、坂上大孃から手製の袋を贈られたのに對する喜びを敍べたのであらう。めづらしい内容であり、一二句はすぐれてゐるが、全體が説明的で、歌としては好處が認められない。
〔語〕 ○言絶えて 言語に絶して。口にはいへぬほど。○縫へる嚢は この袋は、雜物を收めて腰に下げる用のものと新解に註してゐる。
 
747 吾妹子が形見《かたみ》の衣《ころも》下に著て直《ただ》に逢ふまでは吾《われ》脱《ぬ》がめやも
 
〔譯〕 可愛いそなたが形見として贈つてくれた着物を、肌身につけて著て、今度ぢかに逢ふまでは、自分は何で脱がうぞ。
〔評〕 別れの時や一時相見ぬ間の面影を偲ぶよすがとして衣を贈つたり、又は互に取り換へて著たりすることは、上代の風習で、その證歌は集中に多い。又この歌の類想も「夜も寢ず安くもあらずしろたへの衣は脱がじ直に逢ふまで」(二八四六)「二人して結びし紐を一人して吾は解き見ずただに逢ふまでは」(二九一九) などある。一通りの作で迫力は乏しい。
(157)〔語〕 ○形見の衣 逢ふまでの記念として贈つてくれた衣。形見はその人の形を偲ぶ料で必ずしも死者の場合に限らない。○我脱がめやも 自分は何で脱がうか。反語。
 
748 戀死なむ其《それ》も同《おや》じぞ何せむに人目|他言《ひとごと》辭痛《こちた》み吾が爲《せ》む
 
〔譯〕 世間を憚つて逢はずに戀|死《じに》するのも、逢つて人に言ひ騷がれるのも、結局苦しいことは同じである。それならば何の爲に世間體や人の噂をうるさがつて、今さら遠慮などを自分がしようか。
〔評〕 忍ぶ戀路の苦患にはもう堪へられない。今は浮名も物かは、笑はば笑へ、覺悟はきまつたとの激情が、奔流のやうに溢れ出てゐる。初二句の簡勁な表現が、頗る印象的で、下の決心を引出すに極めて効果的である。
〔語〕 ○戀死なむ其も同じぞ 戀しさに焦れ死ぬ事も、人に噂されて苦惱するのも、結局苦痛は同じであるの意。○何せむに 何の爲に、何しにの意で、結句にかかる副詞。○こちたみ吾がせむ 遠慮などしようか、もうそんな事には一切頓着しないとの意。
 
749 夢《いめ》にだに見えばこそあらめ斯くばかり見えずしあるは戀ひて死ねとか
 
〔譯〕 せめて夢にでもそなたが見えたならば、心の慰むこともあらう。これほど夢にも見えないのは、戀ひこがれて死ねといふのであるか。
〔評〕 人の姿が自分の夢に現はれるのは、その人がこちらを思つてゐるからであると考へたのは、當時の俗信であつた。しかし、そんな古代信仰などを別にして、白紙で味つてみても、この歌は理窟なしに情に訴へるおもしろみがある。今日に於いても戀に惱む青春の男女は、愛人の姿を夢にすら見ぬ時の物たりなさを、恰も相手の罪ででもあるかの如く恨み思ふこともあるであらう。
(158)〔語〕 ○見えばこそあらめ 見えたならば心も慰むであらう。○見えずしあるは そなたの姿が夢に見えないでゐるのは。
 
750 思ひ絶え佗《わ》びにしものをなかなかに何か苦しく相見|始《そ》めけむ
 
〔譯〕 自分はすつかり思ひあきらめて、わびしく過してゐたのに、なまじひに何で再びそなたに逢ひ始めて、こんな苦しい思をすることであらう。
〔評〕 上の「七二七」の歌の題詞の下に「數年を離り絶えて、後に會ひて相聞往來せり」とあるのを考へ合せると、作者の心もちがよくわかる。何の奇もないが、質實にして飾らぬ點に眞情が汲まれる。
〔語〕 ○思ひ絶え そなたの事を斷念して。○わびにしものを 心わびしく過してゐたのに。○なかなかに なまじひに。なまなか。○何か苦しく相見そめけむ 何故に相見始めてかく苦しい思をすることであらうの意。
 
751 相見ては幾日《いくか》も經ぬを幾許《ここだく》も狂ひに狂ひ念ほゆるかも
 
〔譯〕 逢つてからまだ幾日もたたないのに、こんなにひどくまあ、狂ひに狂つてそなたが戀しく思はれることであるよ。
〔評〕 これも戀に懊惱してゐる人の眞情で、同情に値する。ただ表現が露骨に過ぎて含蓄に乏しく、從つて歌品が高くない。
〔語〕 ○ここだくも 甚しく。大層。○狂ひに狂ひ 氣も狂はんばかりにの意。
〔訓〕 ○幾許も 白文「幾許久毛」で、舊訓ココバクモを攷證はココダクモに改めた。集中、假名書の例は「許己婆久毛《二こばくも》」(三九九一)「許己太久母《ここだくも》」(四〇一九)共にあり、その他「許己波《ここば》」(三四三一)「許己婆《ここば》」(三五一七)「許己(159)太久爾《ここだくに》」(四〇三六)などあつて、ここは舊訓、改訓何れでもよいと思はれるが、今、攷證に據つておく。
 
752 斯くばかり面影のみに念ほえば如何《いか》にかもせむ人目繁くて
〔譯〕 こんなにそなたの姿が眼前にちらついて、戀しくばかり思はれたならば、自分はこの先、何としたものであらう。人目は繁くて、逢ふことも出來ないのに。
〔評〕 面影にのみ見えて現實には逢ふ由もない焦躁感が、ひしひしと讀者の胸に迫るほど切實に表現されてゐる。半ばいひさして言葉を切つた結句も餘情ゆたかで甚だよい。
〔語〕 ○面影のみに念ほえば 面影にのみ見えてそなたが戀しく思はれるならばの意。面影に見えるとは、姿が眼前にちらついて見えるをいふ。「三九六」參照。○人目繁くて 考はこの句を初句の上に置いて解すべしといひ、これに賛する説も多いが、このままの順序で語を補つて解すべきであらう。
 
753 相見ては須臾《しましく》戀は和《な》ぎむかと思へどいよよ戀ひまさりけり
 
〔譯〕 そなたと逢ひ見たならば、當分の間戀しさの心は鎭まらうかと思つたのに、逢つてみると、いよいよ戀しさが増したことである。
〔評〕 これも戀する人の眞情に相違ないが、共通の情感であるだけに類想が少くない。「なかなかに見ざりしよりは相見ては戀しき心まして念ほゆ」(二三九二)、「相見ては戀慰むと人は言へど見て後にぞも戀ひまさりける」(二五六七)などあり、後拾遺集の「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」も同想である。但、この家持の作も前掲の兩首も、聊か平語に近い嫌がある。
〔語〕 ○相見ては そなたと相見たならばの意。「相見てば」とよむ説もある。○しましく 暫く。○和ぎむかと 鎭(160)まるであらうかと。
 
754 夜《よ》のほどろ吾が出でて來《く》れば吾妹子が念へりしくし面影に見ゆ
 
〔譯〕 夜の明け方にそなたの家を出て來ると、いとしいそなたが悲しげに思ひ沈んでゐた姿が、目の前にちらついて見えたことである。
〔評〕 新奇な構想ではないが、こまやかな情緒が極めて自然に表現されて居り、特に古朴な辭様聲調が全體に落ちつきを與へてゐる。
〔語〕 ○夜のほどろ 「ほどろ」は、代匠記に「程」に助詞の「ろ」を添へたものと説いて以來從ふ學者が多いが、略解所引宣長説に「曉がた薄く明くる時をいふ。まだほの暗きうちなり」とあるのが、語原はとにかくとして、實際的には當つてゐると思はれる。「二三一八」の歌に「庭もはだらにみ雪ふりたり」とあつて、別傳に「庭もほどろに雪ぞふりたる」とあるを見れば「はだら」と「ほどろ」と同源の語らしく思はれるが、さすれば「程ろ」とする語原説は首肯し難い。なほ後考を俟たねばならぬ。○念へりしくし 悲しく思つてゐたのがの意。「しく」は、「背向《そがひ》に寢しく今し悔しも」(一四一二)の「寢しく」と同じ語法。上の「し」は過去の助動詞、下の「し」は強意の助詞。
 
755 夜のほどろ出でつつ來《く》らく遍《たび》多數《まね》くなれば吾が胸|截《た》ち燒《や》く如し
 
〔譯〕 夜の明け方にそなたに別れて出て來ることが度重なると、自分の胸は苦しくて、まるで刃で截ち切られ、火で燒かれるやうである。
〔評〕 これも契沖の指摘したやうに、遊仙窟に「未2曾(テ)飲(マ)1v炭(ヲ)、腹熱(リテ)如(ク)v燒(クガ)、不(ルニ)v憶v呑(ムト)v刃(ヲ)、腸穿(チテ)似(タリ)v割(クニ)。」とあるに據つたことは明かである。三句以下の句法が佶倔粗宕ではあるが、一脈の新味は汲まれる。
(161)〔語〕 ○出でつつ來らく 大孃に別れて出で來る事がの意。○たびまねく 回數が多くの意。
〔訓〕 ○截ち燒く如し 白文「截燒如」で、舊訓「キリヤクガゴト」。今、古義の訓を採る。
 
    大伴|田村家《たむらのいへ》の大嬢《おほいらつめ》、坂上大孃に贈れる歌四首
756 外《よそ》に居て戀ふるは苦し吾妹子を繼《つ》ぎて相見む事計《ことはかり》せよ
〔題〕 田村家の大孃 「七五九」の歌の次の左註にあるごとく、大伴宿奈麻呂の女で、父と共に田村の里にゐたのである。「五八六」參照。
〔譯〕 別々に住んでゐて、戀しく思つてをるのは苦しいものです。私は、あなたと絶えず逢ひたいと思ひます。どうかあなたも、その工夫をして下さいませ。
〔評〕 田村大孃が互に相離れて暮してゐる異母妹を思ふ歌は、卷八にもあつて、いづれも濃かな眞情が溢れてゐる。今この一首は、婦人の作としては珍しくはつきりして、情よりも寧ろ理の勝つた口吻であるが、或は「常斯くし戀ふれば苦し暫《しまし》くも心やすめむ事計《ことはかり》せよ」(二九〇八)などを學んだものであらうか。この一聯の贈答には輕い遊戯的氣特が動いてあるやうに感じられる。
〔語〕 ○吾妹子を 坂上大孃をさす。○繼ぎて相見む 引き續き絶えず相見ようの意。○事計せよ 計畫を立てて下さい、工夫して下さいの意。
 
757 遠くあらば佗《わ》びてもあらむを里近く在りと聞きつつ見ぬが術《すべ》なさ
 
〔譯〕 そなたが遠くにゐられるのならば、寂しく思ひつつ諦めてもゐませうが、里近くに住んでゐられると聞きながら、逢へないのが何とも仕様のないほどつらいことであります。
(162)〔評〕 深窓に籠つてゐる婦人の生活が思ひやられる。但、情は甚だ眞率であるが、表現はあまりに曲がなくて、平語に近いといふべきである。
〔語〕 ○わびてもあらむを わびしく思ひつつあきらめても居りませうが。○里近く 二人の住んでゐる田村の里と坂上の里とが近いのをいふ。
 
758 白雲の棚引く山の高々《たかだか》に吾が念《も》ふ妹を見むよしもがも
 
〔譯〕 白雲の棚引く山ではないが、高々に待ち望んで逢ひたく私が思つてゐるあなたを、見るてだてが欲しいものであります。
〔評〕 「高々に」といふ成句を用ゐて、古雅に詠みなしてゐる。「高山に?《たかべ》さ渡り高々に我が待つ君を待ち出でむかも」(二八〇四)などの影響が、或はあらうかと思はれる。構想は類型的であるが、序は一首に清爽の感を與へ、歌品を高めてゐる。
〔語〕 ○白雲の棚引く山の 「高々」にかけた序。○高々に 代匠記に「遠き人を高く望みて待つ心也」とあるのがよい。考の説に「たまたまの意也」とあるのは從ひ難い。略解所引宣長説に「すべてこの言は仰ぎ望む意よりいふ言なり。あふぎこひのみなどの、あふぎの意にて、乞ひ願ふ意あり。常に物を願ふことを望むといふも、高きを望むより出でたり」とあり、また古義所引宮地春樹説に「居長高に延あがる義にて、遠く望む意なるべし」とあるのは、共に代匠記説の敷衍である。集中の用例は「二八〇四」を始め「高々に妹が待つらむ」(二九九七)「高々に君待つ夜らは」(三二二〇)その他多くは「待つ」の副詞に用ゐられたのが多いから、ここも待ち望む意と思はれる。
 
759 如何《いか》ならむ時にか妹を葎生《むぐらふ》の穢《きた》なき屋戸《やど》に入り坐《いま》せなむ
(163)    右、田村大孃と坂上大孃とは、并にこれ、右大辨大伴|宿奈麻呂《すくなまろ》卿の女なり。卿、田村の里に居れば、號《な》を田村大孃と曰へり。但、妹坂上大孃は、母、坂上の里に居り、仍りて坂上大孃と曰へり。時に、姉妹諮問し、歌を以ちて贈答せり。
 
〔譯〕 いつの曰にかあなたを、この葎の茂つたきたならしい私の家に、お入れ申すことが出來ませうか。
〔評〕 別れ住んでゐる妹を、早く自分の家に迎へて、一緒に暮したいといふ親愛の情が、平明な言葉の中に温く流れてゐる。いかにも女性らしいこまやかな心持で、作者の人柄が想像される。
〔語〕 ○葎生の 葎の生えた處の意で、ここは自邸を卑下していふ。葎は今カナムグラといひ、一年生草本で、葉は楓に似て莖に細い刺がある。○入り坐せなむ 入つてお坐らせするであらうかの意。
〔訓〕 ○きたなき 白文「醜」、舊訓ケカシキ、略解イヤシキ。今、考の訓による。
〔左註〕 田村里は石井庄司氏の研究によると、佐保川の支流で法華寺の東から流れてゐる菰川が、暗峠道と交叉する邊に、田村川といふ地區が現存するので、これは恐らく菰川の古稱であらう。佐保の里から流れるから佐保川といひ、田村の里から來るのを田村川と呼ぶのが自然であるとすれば、その田村の里は今の法華寺附近と見るべく、それから推して坂上の里は奈良坂のあたりと考へられるといふのである。(「文學」一卷六號參照)。
 
    大伴坂上郎女、竹田《たけだ》の庄《たどころ》より女子《むすめ》の大孃に贈れる歌二首
760 うち渡す竹田の原に鳴く鶴《たづ》の間無く時無し吾が戀ふらくは
 
〔題〕 竹田庄 今の磯城郡耳成村大字東竹田の地。ここに大伴家の別莊があつた。女子の大孃は即ち坂上大孃で、坂上の邸にゐたのである。「贈」は元暦校本等による。通行本には「贈賜」とある。
(164)〔譯〕 一目に見渡されるこの竹田の原に鳴く鶴の聲のやうに、止む間もなく、定まつた時もありません、私がそなたを戀しく思ふことは。
〔評〕 序は眼前の實景を以てした所謂有心の序であるが、四・五の句は類型踏襲であつて「戀衣|著《き》奈良の山に鳴く鳥の間無く時無し吾が戀ふらくは」(三〇八八)「衣手のま若の浦の眞砂路の間なく時なし吾が戀ふらくは」(三一六八)などを粉本としたこと明白である。しかし、作者特有の深い母性愛は、十分看取することが出來る。
〔語〕 ○うち渡す うち見渡すことが出來るの意。○鳴く鶴の 初句以下これまで「間なく時無し」にかけた序。○吾が戀ふらくは わが戀ふることは。
 
761 早河の瀬に居《ゐ》る鳥の縁《よし》を無《な》み念ひてありし吾が兒はもあはれ
 
〔譯〕 急流の瀬にゐる鳥の、よるべも無いやうに、何とも仕樣がないので、別れを惜しんで物思に沈んでゐた私のいとしい娘よ。ほんに、かはいさうである。
〔評〕 同じ作者が跡見圧から同じ娘に贈つた歌が「七二三」にもあつた。その中に「を金門にもの悲しらに思へりし吾が兒の刀自」と見えたが、今の歌も同樣に、暫しの別れをも惜しんで嘆いた娘の姿を追想したのである。この母子の愛情のこまやかさが、誠に美しく想見される。序中の譬喩も適切である。
〔語〕 ○早河の瀬にゐる鳥の 「縁を無み」にかけた序。流れの早い河の瀬にゐる鳥は、草木などのたよりとすべき物が無い意で續けたとする代匠記の説がよい。○縁を無み たよりとすべき物が無いので。○念ひてありし 暫しの別れを悲しみ物思ひに沈んでわた。○吾が兒はもあはれ わが娘はまあ、かはいさうなことよ。かく結句を「あはれ」の感動詞で收めたのは古調で、日本武尊の歌に「やつめさす出雲梟帥が佩ける太刀つづらさは纒きさみなしにあはれ」(古事記)とあるが、本集には聖コ太子の「旅にこやせるこの旅人あはれ」(四一五)の一例があるのみである。
 
(165)    紀女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌二首 【女郎、名を小鹿と云へり】
762 神《かむ》さぶと不欲《いな》にはあらずやや多くや斯くして後に不樂《さぶ》しけむかも
 
〔題〕 紀女郎 安貴王の妻であつたが、家持と交渉のあつた女性。「六四三」參照。
〔譯〕 私が年寄つたからといつて、あなたに逢ふのがいやなのではありませぬ。大抵は、さうしてお逢ひした後で、あなたが心がはりなされて、寂しい結果になりませうから。
〔評〕 將來を懸念して多分の反省と警戒とを加へてゐるところ、如何にも年増女の戀らしい。相手の熱情のほどを捜りつつ、豫てその心變りに釘をさして置かうとする冷靜な技巧が見える。石川賀係女郎の歌「神さぶと不許《いな》にはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも」(一六一二)と相似てゐるが、兩者その先後は明かにし難い。
〔語〕 ○神さぶと 年老いたからとて。○いなにはあらず 君に逢ふことを厭ふのではない。○やや多くや 集中他に用例の無い語であるが「多く」は、大方は、大抵は等の意であらう。
〔訓〕 ○やや多くや 白文「八也多八」で、舊訓ヤヤオホハとあるが意不通。管見の訓ヤヤオホヤが今多く行はれてゐるが、ここには代匠記初稿本書入の訓を採る。西本願寺本には右に別筆で「八也八多《はたやはた》古本」とあり、略解所引宣長説には「八多也八多《はたやはた》」の誤としてゐる。
 
763 玉の緒を沫緒に搓《よ》りて結べれば在りて後にも逢はざらめやも
〔譯〕 玉を貫き通す緒を、沫緒によつて結ぶが、そのやうに私の心もあなたに對してしつかり結んでゐますから、今はかうして暮してゐても、後にはどうして逢はぬことがありませうか。
〔評〕 沫緒によるの意が明瞭でないので、從つて譬喩もはつきりしないのは遺憾であるが、要するに玉の緒を結ぶや(166)うに固く相手に心を結びつけてゐる意であらう。年増女の戀の執拗さを示してゐるやうである。伊勢物語には「玉の緒をあわ緒によりて結べれば絶えての後も逢はむとぞ思ふ」と改めて載せてゐる。
〔語〕 ○沫緒に搓りて 略解に、結び方のやうに見てゐるのは如何であらう。黒川春村の碩鼠漫筆に、沫緒は所謂今の打紐のやうに中を虚《うつろ》に搓合せたものであらうといひ、新考には玉の緒を壽命とし、上句を「我は長命する筈なればと戯れ云へるなり」としてゐるが、猶考ふべきである。
 
    大伴宿禰家持の和ふる歌一首
764 百年に老舌《おいじた》出でてよよむとも吾は厭はじ戀は益すとも
〔譯〕 あなたが百歳にもなつて、舌の締りがなくなり言葉もはつきりしなくならうとも、自分は決して厭ひはしますまい。戀しさの増すことはあらうとも。
〔評〕 紀女郎が實際にそんな老女であつたとは思はれないが、聊かの年長を羞ぢて「神さぶと」などと言つたのであらう。家持のこの答歌は、それを眞直に受けて、舌もまはらぬお婆さんになつても自分は厭はないといつたのは、無論眞實ではなくて揶揄であらう。さりとは家持も人がわるい。老を厭ふこと甚しい女性心理に、かくも醜怪な老年の姿を想像させられては、嬉しい筈はあるまい。
〔語〕 ○百年に 百歳になつて。○老舌出でて 老人の齒が落ち口の締りがなくなつて、舌がだらりとなつたやうな樣。○よよむとも 呂律がまはらなくなつてもの意。「よよむ」は、言語の不明瞭なことをいふ。○戀は益すとも そなたに對する戀の心は増すことはあらうとも、の意。
 
    久邇京《くにのみやこ》に在りて寧樂《なら》の宅《いへ》に留《とど》まれる坂上大孃を思ひて、大伴宿禰家持の作れる歌一首
(167)765 一隔山《ひとへやま》隔《へな》れるものを月夜《つくよ》よみ門に出で立ち妹か待つらむ
 
〔題〕 久邇京に云々 家持が恭仁の新京にゐて、奈良にゐる坂上大孃を思慕した歌。
〔譯〕 山一つ隔たつてゐるのに、今夜は月がよいので、或は自分が訪れて來はせぬかと、門前に出て、いとしいそなたが待つてゐるであらうか。
〔評〕 久邇の新京と奈良の舊都と別れ住んでゐた若い家持と大孃との互の思慕は、綿々たるものであつた。大孃から家持に寄せた歌が、上に「春日山霞たなびき情ぐく照れる月夜に獨かも寢む」(七三五)ともあつて、しみじみとした眞情が溢れてゐる。それは心ぐく照る朧月夜の惱ましい感傷であつたが、この家持の作は恐らく清光水の如き初秋の月明の情懷であらう。山が隔たつてゐて來ぬとは知りながらも、嘗て親しく通うてゐた頃、月明の夜には門に出て待つた習慣から、今もこんな月夜には愛人が來さうな氣がするのは自然の情であり、それを又さうであらうと想像するのも戀する人の心持である。作者の心と共に、優しい大孃の姿もあはれに同感される。
〔語〕 ○一隔山 山名ではない。重疊たる連山に對して一重に構たはる山の義で、平城と久邇との間にある山即ち奈良山・佐保山などの一帶に續いた山をさす。○隔れるものを 隔たつてゐるのに。「へなる」は「隔たる」に同じ。
 
    藤原郎女、これを聞きて即|和《こた》ふる歌一首
766 路《みち》遠み來《こ》じとは知れるものからに然《しか》ぞ待つらむ君が目を欲《ほ》り
 
〔題〕 藤原郎女云々 藤原郎女が上の家持の歌を聞いて同情して唱和した作である。藤原郎女は久邇宮の女官であらう。古義に藤原麻呂の女で母は坂上郎女であらうといつてゐるのは、單なる臆測に過ぎず、遽かに從ひ難い。
〔譯〕 道が遠いので來はなさるまいと、あなたのいとしいお方は知つてゐながらも、猶さうして門に出て待つて居ら(168)れることでせう。あなたにお目にかかりたく思つて。
〔評〕 家持の歌に描かれた坂上大孃に對して、女らしい同情をあらはした作である。内容表現共に寧ろ平庸に近いが、温い眞情の流露してゐるのが認められる。
〔語〕 ○ものからに ものではあるが。○然ぞ待つらむ 上の家持の歌に「門に出で立ち」とあるを承けて、そのやうにして大孃が待つて居られませうといつたのである。○君が目を欲り 君に逢ひたさに。
 
    大伴宿禰家持、更《また》大孃に贈れる歌二首
767 都路を遠みや妹がこの頃は祈誓《うけ》ひて宿《ぬ》れど夢に見えこぬ
 
〔譯〕 この久邇の都までの道が遠い爲であらうか、そなたの姿が、此の頃は、神に祈つて寢るけれども、一向自分の夢に見えて來ない。
〔評〕 夢を現實と同じやうに考へて、詠んだものである。祈誓《うけひ》の歌は集中に數首あるが、今この歌は「相思はず君はあるらしぬばたまの夢《いめ》にも見えず誓約《うけ》ひて寢れど」(二五八九)の影響があるやうである。右の作は戀人の姿が夢に見えないのを、戀人が冷淡な爲かと疑つたのであるが、家持の心にはその不安はないのである。道が遠い爲かと想像したのは、即ち相思の情の緊密なことを側面から語るものに外ならない。
〔語〕 ○都路 ここは奈良から久邇の京に到る道。○うけひてぬれど 戀人が夢に見えるやうに神に祈誓して寢ても。
 
768 今しらす久邇《くに》の京《みやこ》に妹に逢はず久しくなりぬ行さてはや見な
 
〔譯〕 新たに天子さまのお治めになるこの久邇の京に自分は住んでゐて、いとしいそなたに逢はず久しくなつた。奈良へ行つて早くそなたの顔を見たいものである。
(169)〔評〕 久邇の京への遷都は、政治的の意味で可なり強引に決行されたやうである。されば愈々その移轉に當つては、續紀の天平十三年閏三月の詔などを見てもわかる通り、官人達は殆ど妻子を連れる暇もなく、多くは單身倉皇として新京に赴いたことが察せられる。隨つて新京から奈良なる家族や愛人のもとへ通ふといふことも、容易くは出來ない事情にあつたことが想像されるので、家持の焦慮も大いに同情されるのである。上の石川廣成の「家人に戀ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の歴ぬれば」(六九六)なども思ひ合される。
〔語〕 ○今しらす 新にこの地に於いて世をしろしめす。○行きてはや見な 奈良へ行つて早く大孃の顔を見よう、の意。
 
    大伴宿禰家持、紀女郎に報へ贈れる歌一首
769 ひさかたの雨の降る日をただひとり山邊に居れば欝《いぶ》せかりけり
 
〔題〕 大伴宿禰家持云々 紀女郎から贈られた歌に對して、家持が恭仁の京から答へてやつた歌である。紀女郎の歌はここに載せてない。
〔譯〕 雨の降る日に、ただ獨で山邊の家にゐると、欝々として氣がめいつてしまふことであるよ。
〔評〕 類型に囚はれず極めて平々淡々に歌つてあるが、現實の眞を率直に敍してゐるところに生氣がある、春か秋か季節は明かに示されてないが、まだ造營のはかどらぬ寂寥たる新都の山近くにゐて、しとしとと降る雨を、ただ獨り柱に凭つて、眺めてゐる若い貴公子の姿が眼に見えて來る。
〔語〕 ○ひさかたの 「天」からここは同音の「雨」にかけた枕詞。○山邊にをれば 恭仁の新都に住んで山近い家に籠つてゐると。○いぶせかりけり 氣がくさくさして欝陶しいことであるわい。
 
(170)    大伴宿禰家持、久邇京より坂上大孃に贈れる歌五首
770 人眼《ひとめ》多み逢はなくのみぞ情《こころ》さへ妹を忘れて吾が念《も》はなくに
 
〔譯〕 人眼が多い爲に逢はないでゐるだけのことである。自分は、心の中まで、そなたを忘れては居りませんよ。
〔評〕 山一重を隔てて、恭仁と奈良とに離れ住んでゐてほ、ままならぬ逢瀬が歎かれたのも無理はない。しかし家持と大孃との間は、人目を忍ばねばならぬといふ仲ではなかつた筈であるのに、この歌のやうな口吻を洩したのは、恐らく感情を誇張して、戀愛の道に於ける常套表現を用ゐたものであらう。それだけに何處か空疎な響がある。
〔語〕 ○逢はなくのみぞ 逢はずにゐるばかりである。○妹を忘れて吾が念はなくに 妹を吾が忘れては思はぬに、即ちそなたを自分は忘れはせぬものをとの意。「家なる妹を忘れて思へや」(六八)參照。
 
771 僞も似つきてぞする顯《うつ》しくもまこと吾妹子吾に戀ひめや
 
〔譯〕 虚言をつくのも本當らしくつくものですよ。實際に本心からそなたが自分をどうして愛してなどゐませうか。
〔評〕 作者は坂上大孃の愛を本心から疑つてゐるのではなく、輕い戯れ心で揶揄してゐるやうに思はれる。恐らく「僞りも似つきてぞする何時《いつ》よりか見ぬ人戀ふに人の死せし」(二五七二)の模倣で、特に作者はこの初二句の表現の新奇なところに興を惹かれて、ちよつと借用してみたのであらう。勿論、模造品は原作に及ばない。
〔語〕 ○僞も似つきてぞする 僞をいふにしても、成程と思へるやうな似つかはしい事をいふものですよ。○うつしくも 現實に、本心から。○吾に戀ひめや 自分を愛してなどゐませうか。反語。
 
772 夢《いめ》にだに見えむと吾はほどけども會はずし思《も》へば諾《うべ》見えざらむ
 
(171)〔譯〕 せめて夢にでもそなたが見えるやうにと、自分は紐を解いて寢るけれども、そなたに會はないでただ思つてゐるだけなので、夢に見えないのも尤なことでせう。
〔評〕 やや難解な歌で古來諸説がある。初二句は、自分が相手の夢に見えようとする意にも取れる。しかし先方の歌に答へた作ではないから、相手を我が夢に見ようとの意に解する方が穩かであらう。やはり揶揄的、遊戯的の心もちで、たいした作ではない。
〔語〕 ○ほどけども 諸説あつて解しにくいが、童蒙抄に「紐とけども也。ひもを約して、ほなり。これは夜の衣をかへして着るなど云ふまじなひごとありて、昔は思ふ人に見えられむとには、こなたのきぬの下紐など解きぬれば、先の夢に見らるる事ありときこえたり」とある。今姑くこの説に從ふ。○會はずし思へば 妹に會ひもせずに、思つてゐるのたからの意。○うべ見えざらむ 見えざらむもうべなり、即ち見えないのも尤であらうの意。
〔訓〕 ○見えざらむ 白文「不所見有武」は桂本・元暦校本等による。通行本等ほ「有」の字がないが、訓は變らない。
 
773 言《こと》問《と》はぬ木すら紫陽花《あぢさゐ》諸弟等《もろとら》が練《ねり》の村戸《むらと》に詐《あざむ》かえけり
 
〔譯〕 物を言はぬ非情の木ですら、紫陽花のやうな移り氣なものがある。私は諸弟等の巧みな村戸に、だまされてしまつたことである。
〔評〕 古來集中に於いて最も解し難い歌の一とされてゐる。古傳説か、或は當時の諺などに據つて詠んだものかともいはれるが、恐らく誤字があるのであらう。後考を俟つべきである。
〔語〕 ○言問はぬ木すら紫陽花 紫陽花はさまざまに花の色が變るから、物を言はぬ非情の木にさへ、紫陽花のやうに變り易いものがあるとの意であらう。○諸弟等が 多くの兄弟がの意か。「諸弟」は或は人名かとも思はれる。○(172)練の村戸に 新考に「ネリはオモネリのネリにあらざるか」といひ、全釋には上手の意かと見てゐるが、いづれに解しても意義釋然たらず、或は地名ではないかとも見られる。「村戸」は全釋に「村人《むらと》」かといふが、これも疑はしい。
〔訓〕 ○諸弟 通行本及び元暦校本には「弟」を「第」に作り、桂本・古葉略類聚鈔・紀州本等には「弟」とあり、西本願寺本・温故堂本・大矢本等は「茅」に作る。何れが正しいとも定め難いが、今姑く桂本等に從つておく。
 
774 百千遍《ももちたび》戀ふといふとも諸弟等《もろとら》が練《ねり》の言葉は吾は信《たの》まじ
 
〔譯〕 百遍、千遍、私を愛してゐると云つても、諸弟等のうまい口先のやうな、そなたの言葉は自分は信じませんよ。
〔評〕 これは前の歌よりも幾分筋が通つてゐるやうであるが、なほ十分な解は得られない。
〔語〕 ○百千遍 千でなく百つ度であるとの説がある。
 
    大伴宿禰家持、紀女郎に贈れる歌一首
775 鶉鳴く故《ふ》りにし郷《さと》ゆ念へども何ぞも妹に逢ふ縁《よし》も無き
 
〔譯〕 舊都の奈良にゐた時から、自分はずつと思ひつづけてゐるけれども、どうしてまあ、あなたに逢ふ手だてが無いのであらうか。
〔評〕 久邇の新京に移り住んで環境の變化を味ふにつけ、奈良の都にゐた頃が遠い昔のやうに思はれた。さうしてままならぬ戀の久しさが、我ながらいぶかしく追想されたのである。素朴な表現に取得はあるが、一通りの作である。
〔語〕 ○鶉鳴く 「故りにし」にかけた枕詞。鶉は荒れた草深い處にゐる故である。ここは實景と見ないがよい。○故りにし里ゆ 奈良にゐた時分からの意。「故りにし郷」はもと都のあつた地の意で、ここは寧樂をさす。○何ぞもどうしてまあ。
 
(173)    紀女郎、家持に報へ贈れる歌一首
776 言《こと》出《で》しは誰《た》が言《こと》にあるか小《を》山田の苗代《なはしろ》水の中淀にして
 
〔譯〕 最初いひ出して心を打ち明けたのは、一體誰の言葉なのですか。山田の苗代水の中途で淀むやうに、あなたは御自分でいひ出しながら、中途で澁つておしまひになつて――。
〔評〕 小山田の苗代水を持ち來つた序は、清新で甚だよい。結句はやさしく餘韻を含めていひさしながら、かなり辛辣な詰問になつてゐるのは、才氣に富んだ歌である。
〔語〕 ○ことでしは誰が言なるか 言葉に出して最初に意中を告げたのは、誰の言葉ですか。思ひそめた由を先づいつたのはあなたではありませんかの意。○小山田の苗代水の 「中淀」を導く序。山田の苗代に入れた水が中途で靜かに淀むの意。○中淀にして 中途で淀むやうに、中頃になつて逢ひ澁つての意。
 
    大伴宿禰家持、更《また》紀女郎に贈れる歌五首
777 吾妹子が屋戸《やど》の籬《まがき》を見に行かば蓋《けだ》し門より返しなむかも
 
〔譯〕 あなたの家の籬を自分が見に行つたらば、多分、あなたは門から自分を追ひ返してしまひなさるでせうね。
〔評〕 紀女郎に對する家持の戀は、その作全體を通じて觀察すると、眞情實意の籠つたものとは考へ難く、寧ろ平安時代あたりに多く見る遊戯的戀愛といふ感が深い。この歌も、女の眞劍な語氣の詰問を、照れ隱しに他を言ひつつはぐらかしたやうな趣である。
 
778 うつたへに籬の姿見まく欲《ほ》り行かむといへや君を見にこそ
 
(174)〔譯〕 ただ、籬を見ようとのみ思つて行かうと言ひませうか、實はあなたを見に行くのです。
〔評〕 前の歌と兩々相聯ねて見ると、一層駈引の樣子が認められる。「君を見にこそ」などと深く相手を思つてゐるやうな句を竝べてゐながら、實は疾くに感情の清算されてしまつた戀人を輕く揶揄してゐるところ、才人の面目が躍如としてゐる。
〔語〕 ○うつたへに 一途に。ひたすらに。○籬の姿 垣根のあたりの花木の風情。○行かむといへや 行かうといひませうか。反語。○君を見にこそ あなたを見にこそ行くのですよの意。
 
779 板蓋《いたぶき》の黒木の屋根は山近し明日《あすのひ》取りて持ち參り來む
 
〔譯〕 板葺の黒木の屋根をお造りになるならば、山が近いから、明日取つていつてお手つだひしませう。
〔評〕 家持は當時新京恭仁にゐたが、紀女郎も或は新京に移り住むことになつて、家作りをするといつた事情であつたかも知れない。輕い諧謔の歌である。
〔語〕 ○枚蓋の 當時板蓋の家の多かつたことは、續紀神龜元年十一月の太政官奏言に見える。○黒木の屋根 粗末な簡素な屋根。「黒木」は、皮を剥がないままの材木。この二句は省略法で、板蓋の屋根の黒木の屋根は、作るのに面倒はないとの意であらう。○山近し 自分の家は山が近いから。○明日取りて 明日にでもその黒木を採つての意。
 
780 黒樹《くろき》取り艸も刈りつつ仕《つか》へめど勤《いそ》しき汝《わけ》と譽《ほ》めむともあらじ 【一に云ふ、仕ふとも】
 
〔譯〕 黒木を伐つたり、草も刈つたりして、お手傳は致しませうけれども、勤勉な奴であると、あなたはお褒めになることもありますまい。
〔評〕 お手傳はしたいが、お褒めに預かれさうにもないから、まづ見合せて置かうといふので、これも輕い諧謔であ(175)る。かういふ輕い揶揄的な言辭を連ねてゐる點から察しても、少くとも現在の作者の心もちは、紀女郎に執してみるものとは受取れない。
〔語〕 ○仕へめど 奉仕致しませうけれども。○勤しきわけと 忠實勤勉なお前よと。「いそしき」は勤勉なの意。「わけ」は「五五二」參照。○仕ふとも 第三句の異傳で、假令仕へたとしても、の意。かく假定の語法にしては語氣が弱くなつてよくない。
〔訓〕 ○わけ 白文「和氣」諸本「知氣」とあるが意が通じないので、姑く「和」の誤とする考の説に從ふ。
 
781 ぬばたまの昨夜《きそ》は還《かへ》しつ今夜《こよひ》さへ吾を還すな路《みち》の長|道《て》を
 
〔譯〕 昨夜は逢つてもくれないで自分を歸してしまはれた。今夜もまた自分に無駄足さして歸すでせうか。遠い道であるのに。
〔評〕 この歌は前のと趣が違つて、至極眞面目なやうに見える。恐らくこの一首は、家持が紀女郎に熱意をもつてゐた以前の作であるのを、便宜上ここに纏めて收載したのであらう。しんみりとして相當に熱も力もある佳作である。
〔語〕 ○昨夜は還しつ 昨夜は折角行つたのに逢つてもくれずにあなたは歸してしまはれた。○今夜さへ 又々今晩までも。○路の長手を 長い道のり、遠い道であるのに、の意。
〔訓〕 ○昨夜は還しつ 白文「昨夜者令還」で、舊訓ユフベハカヘルは非。代匠記の訓キソハカヘセリは多く行はれて居り、わるくないが、今、古義の訓に從ふ。キソノヨハカヘスとも訓める。
 
    紀女郎、物を裹みて友に贈れる歌一首 【女郎、名を小鹿といへり】
782 風高く邊《へ》は吹けども妹がため袖さへぬれて刈れる玉藻ぞ
 
(176)〔譯〕 風がひどく岸邊には吹いたけれども、あなたの爲に、私は袖までもぬらしてこの玉藻を刈つたのであります。
〔評〕 海の珍しい都人、殊に旅行の機會などの乏しかつた婦人が、たまたま遠く來て海邊の風物に接した際の心もちは思ひやられる。それが都なる友の爲に、辛苦して玉藻を採つた心づくしもなるほどと思はれる。一般に古人が人に物を贈る時に、それを得た己の辛苦を云ひ添へたのは、飾らぬ眞情の表現で、後世の辭令とおのづから異なる所である。但、歌は類型的で凡庸と評する外はない。
〔語〕 ○風高く 風が激しく。○妹がため 「妹」は女を親しんでいふ。男性間で親しい友を「背子」といふと同樣、同性間でも「妹」といつた。
 
    大伴宿禰家持、娘子に贈れる歌三首
783 前年《まへのとし》の先つ年より今年まで戀ふれど何《な》ぞも妹に逢ひがたき
 
〔題〕 娘子 この娘子は名も身分も明かでない。上の「六九一」「七一四」等の娘子と同人かとも思はれるが、猶不明といふ外はない。
〔譯〕 幾年も前の前の年から、今年までずつと戀ひ慕つてゐるけれども、どうしてまあ、いとしいそなたに逢ふことが出來ないのであらうか。
〔評〕 言外に深く娘子の無情を恨んでゐるが、低調にして熱と力が乏しいので、殆ど平語に陷つてゐる。或は架空戀愛ではないかとも考へられる。
〔語〕 ○前年の先の年より 一昨年の前の年よりで、一昨々年からと見ることも出來ようが「前年」が即ち「先つ年」で、この「の」は同格を示すものと見る方がよからう。「川隈の八十隈」(七九)「眞玉手の玉手」(八〇四)など例が多い。
(177)〔訓〕 ○前年の先つ年より 白文「前年之先年從」で、舊訓ヲトトシノサキツトシヨりとあるがよくない。
 
784 現には更《また》も得《え》言はじ夢《いめ》にだに妹が袂を纒《ま》き宿《ぬ》とし見ば
 
〔譯〕 賢際に逢はうなどとは、重ねていふことは出來ますまい。せめて夢にでも、戀しいあなたの袂を枕にして寢ると見ることが出來たらば。
〔評〕 これは餘程切ない心情を愬へてゐるかの如く見えるが、やはり概念的で、どこか空疎な響がある。
〔語〕 ○現にはまたも得言はじ 現實には逢はうなどとは二度と言へないであらう。この初二句は倒装法で、結句の下に置き換へて解すべきである。○纏きぬとし見ば 枕にして寢たと夢に見たならば、それをせめてもの心やりとしての意。
〔訓〕 ○更も得言はじ 白文「更毛不得言」で、舊訓サラニモイハズ。略解はサラニモエイハズ。「得」を衍とした代匠記説は從ひ難い。
 
785 吾が屋戸《やど》の草の上《へ》白く置く露の壽《いのち》も惜しからず妹に逢はずあれば
 
〔譯〕 自分の家の草の上に白く置いてゐる露のやうな、はかない自分の命も、今はもう惜しくない。戀しいそなたに逢はないのであるから。
〔評〕 序は、眼前の實景を寫して用ゐたのであらう。第四句の字餘りは力が籠つてゐて、この三首中では一頭地を拔いた作である。中臣宅守の歌「吾妹子に戀ふるに吾《あれ》はたまきはる短き命も惜しけくもなし」(三七四四)と内容は相通じてゐるが、敍法の上におのづから別様の趣があるや。
〔語〕 ○置く露の 置く露の如きはかなきの意。初句以下これまで、次の「いのち」の序となつてゐるが、所謂有心(178)の序である。
〔訓〕 ○壽 略解所引宣長説には「身」の誤かといつてゐるが、從ひ難い。
 
    大伴宿禰家持、藤原朝臣|久須麻呂《くすまろ》に報へ贈れる歌三首
786 春の雨はいや頻《しき》降《ふ》るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
 
〔題〕 藤原久須麻呂 惠美押勝の子。續紀によれば、天平寶字二年八月正六位下から從六位下となり、以後美濃守、大和守を經て、七年四月從四位下參議左京尹で丹波守を兼ね、八年九月父押勝の叛に坐して射殺された。この歌は天平十二三年頃で、久須麻呂の若年の頃と思はれる。
〔譯〕 春の雨はいよいよ繁く降るのに、梅の花はまだ咲かない。木が至つて若いせゐであらうか。
〔評〕 これは勿論譬喩歌で、自分の戀心は愈々堪へ難くなつて來たのに、相手は一向それを受入れてくれないのがもどかしい、年がまだ若い爲なのか知らん、との意を寓したのである。但、梅花に擬したこの戀の相手に就いては古來諸説あり、第一、久須麻呂の家にゐる童女と見る説は、代匠記精撰本・古義・全釋等。第二、久須麻呂の妹とする説は略解。第三、美少年久須麻呂に對する同性愛と見る説は代匠記一説・童蒙抄。第四、第一説と反對に家持の女に久須麻呂が思を寄せたとするのは攷證で、新解もこれに賛してゐる。以下の數首と關聯して考へると、種々の疑點が生じて來るが、まづ第一説に從ふのが穩かであらう。
〔語〕 ○いや頻降るに いよいよ頻りに降るのに。戀心が烈しく堪へ難い意に喩へたもの。○いまだ咲かなく まだ咲かぬことよ。まだ戀を解しないの意。○いと若みかも ひどく若い爲であらうか。
 
787 夢《いめ》の如《ごと》おもほゆるかも愛《は》しきやし君が使の數多《まね》く通へば
 
(179)〔譯〕 夢のやうに思はれることであるよ。なつかしいそなたの使が、かうして幾度も通つて來ると。
〔評〕 久須麻呂から童女のことに關しての返事の使は勿論のこと「まねく通へば」とあるのを見ると、その他にも何くれと音信が?々あつたのであらう。されば自分の思に對しても、心窃かに吉報が期待されて、かくは夢のごとく胸をときめかした様が思はれる。
〔語〕 ○君が使 久須麻呂からの使をいふ。○數《ま》ねく通へば 度々通うて來ますのでの意。倒装法で、初二句は結句の下にまはして解するがよい。
 
788 うら若み花咲きがたき梅を植ゑて人の言《こと》繁み念ひぞ吾が爲る
 
〔譯〕 まだ若いので中々花の咲きさうにもない梅を庭に植ゑて、それで人から何やかやうるさく言はれるので、自分は心苦しく思ふことである。
〔評〕 まだ年若い爲に、自分の戀を理解し受入れてくれさうにもない少女を心にしつかり捉へてゐて、いつの間にか、うるさく人の噂にのぼつて苦しい思をしてゐるのに譬へたのである。一二三句を譬喩とし、四五句は直に實情を述べたもので、この形式は、集中に珍しくない。
〔語〕 ○うら若み まだ若いので。○梅を植ゑて 少女を心に思ひつめてゐる意に譬へた。○念ひぞ吾が爲る 物思ひを自分がすることよの意。
 
    また家持、藤原朝臣久須麻呂に贈れる歌二首
789 情《こころ》ぐく念ほゆるかも春霞たなびく時に言《こと》の通へば
 
〔譯〕 心が切なく惱ましく思はれることであるよ。春霞のぼんやりと棚引いてゐるこんな時に、あなたからの便りが(180)あつたので。
〔評〕 をりから春霞の立ちこめた情景にかけて、心の晴れぬ惱ましさを寫し出したのである。音信があれば心は晴れさうなものであるのに、却つて心ぐく思はれるといふのは何故であらうか。思ふにそれは、音信の内容によるものであらう。即ち、嚮に夢のごとく心ときめいて待ち受けた使も、はかばかしい返事をもたらさなかつたのであらう。
〔語〕 ○情ぐく 心が切なく惱ましく感ずるの意。「七三五」參照。○言の通へば あなたからの便りがあると。この結句の下に初二句を置き換へて解するがよい。
〔訓〕 ○情ぐく 白文「情八十一」で、ココログクと訓む。八十一は掛算の「九九、八十一」を應用した戯書で、他にも例があるが、當時の文化史の一面を語るかきざまである。
 
790 春風の聲《おと》にし出《で》なば在りさりて今ならずとも君がまにまに
 
〔譯〕 言葉に出してあなたが承諾してくださるならば、當分このままでゐて、今直ぐでなくても、あなたの心任せで、自分は何時までも待ちませう。
〔評〕 前の歌に於ける不安焦慮はここではもう落ちついて、未來の希望さへあるならば、今はじつと辛抱して時節を待たうといふ心境になつてゐる。詞句格調共に圓滑巧妙であるが、三四句は「ゆふ疊《だたみ》田上山のさなかづら在り去りてしも今ならずとも」(三〇七〇)の影響を受けたのであらう。
〔語〕 ○春風の 「聲《おと》」にかけた枕詞。○おとにし出なば 言葉に出したならば。口に出して承知してくれられたらば。○在りさりて このままで時日を經過して。○今ならずとも 今直ぐに逢はなくても。○君がまにまに あなたの心次第で、自分は何時までも待ちませうの意。
 
(181)    藤原朝臣久須麻呂の來り報ふる歌二首
791 奧山の磐蔭《いはかげ》に生《お》ふる菅《すが》の根のねもころ吾も相念《あひも》はずあれや
 
〔題〕 以下二首は、久須麻呂から家持へ答へて來た歌である。
〔譯〕 心から自分もあなたを思はないことがありませうか。あなたと同じやうに自分の方でも思つて居りますよ。
〔評〕 家持の懇情に對する挨拶の歌である。詞句はよく整つてゐるが、類型的であり、要するに一通りの辭令に留まる。「菅の根のねもころ」と續けた序の技巧も、集中枚擧に遑がないほどである。
〔語〕 ○奧山の磐蔭に生ふる菅の根の 以上「ね」の同音反復によつて「ねもころ」にかけた序。「足曳の山に生ひたる菅の根の」(五八〇)「高山の巖に生ふる管の根の」(四四五四)など多い。○相念はずあれや 相思はざらむやに同じ。
 
792 春雨を待つとにしあらし吾が屋戸《やど》の若木の梅もいまだ含《ふふ》めり
 
〔譯〕 春雨の降るのを待つてゐるといふ有樣のやうであるよ、私の家の若木の梅も、まだ蕾のままでゐる。
〔評〕 家持が「春の雨はいや頻《しき》降るに」と云つたのに答へて、自分の家の童女はまだ幼くて、春雨を待つて梅の蕾が綻びるやうに、只管時の到つて成長するのを待つてゐる?態であるとの意を寓したものである。家持の歌では、春雨のいや頻降るのを、己の戀情の頻りに催すに譬へたが、ここは春雨を待つて若木の成長する意に取り成してゐる。やはり辭令の域を脱しない作である。
〔語〕 ○待つとにしあらし 待つといふ?態であるらしいの意。「あらし」はあるらしの約。○いまだ含めり まだ蕾んだままである。童女のまだ春に目ざめないのに譬へた。「ふふむ」は「ふくむ」の古語。
 
 
(183)萬葉集 卷第五
 
(185)概説
 
 卷五は、卷首に雜歌とあるが、それは萬葉集を二十卷にまとめた時に加へたものであらう。内容を檢するに、挽歌、相聞歌とすべきものもあり、部類などはせず、ほぼ年代順にしるしつけた覺書のごとき卷と思はれる。歌教は、長歌十首、短歌百四首(うち四首又は五首は、佛足石體歌と推定せられる。)その他に、漢詩二首、漢文一篇、序十二篇、書牘四通を含んでをり、集中最も異色ある卷である。なほ歌を壘別すれば、次の如くになる。
      長歌    短歌    計
 雜歌   七首   七七首  八四首
 相聞        一二首  一二首
 挽歌   三首   一五首  一八首
 計   一〇首  一〇四首 一一四首
 その詠作年代は、年時不明のものもあるが、神龜五年乃至天平五年までの六年間で(神龜二年作の短歌が一首あるが、それは天平五年作の中に作者自身が加へたやうである)太宰府にゐた大伴旅人及び筑前の國府にゐた山上憶良が中心になつてゐる。前半は旅人の作及び旅人に宛てたものが主であり、後半は憶良の作及び憶良が入手したとおぼしき歌であり、二部の歌集から成るものと想定することも出來る。しかし、編輯態度から見てもともと一部として成つたものと考へられる。
(186) しからば、この卷五は誰の撰んだ集であらうか。古人の説を見るに、契沖は「憶良の記しおかれたるに、家持の終の一首を加へて註せられしと見えたり」といひ、眞淵、千蔭は「憶良の家集」とし、雅澄は「憶良の家に自ら集めおかれたるものなるべし、後の家持卿のいささか筆を加へられしとおぼしき處もあり」とし、憶良が自記の家集といふのがほぼ定説になつてゐた。然るに、木村博士は「此の卷、帥卿に名をいはぬは家持の家集なり。その中憶良の集を多く書入たり」とし、芳賀博士は「旅人卿の手もとで種々の歌を書き込んでおいた一卷」とせられた。その後、或は旅人側近者説などが出てゐる。
 第一、旅人説は、旅人薨後の憶良等の歌が存することによつて否定せられるであらう。萬葉集が一部に撰定せられた際、補入したものとも解されるが、さすれば、卷十五の成立の如く、二部の原歌集を認むべきで、從つて卷互の根幹の編輯が旅人によつたとはいへないであらう。
 第二、旅人側近者説は、積極的な根據が存するのではなく、旅人説、憶良説のいづれをも否定するところにその根據があるので、一種の折衷説である。憶良の歌に「謹上」の如き註記があり、又「沈痾自哀文」の題下に「山上憶良作」などあるによつて、憶良説を否定するが、前者は、人に贈つたままを手もとにも記し留めたと見るべく、後者は後人の註記したものとも考へられる。また無署名の歌の多くが旅人の作であることを、側近者集録説の理由とする説もあるが、それは、旅人と親しかつた憶良が集録したともいへる。然るに宮島弘氏は、さきに井上傳士の推測にかかる麻田陽春を集録者に擬して、梅花歌にある「員外」は陽春の位を唐風に記したもの、宜の「和松浦仙媛歌」は、「奉和」となつてゐないから、旅人に和へたのでなく、陽春に贈つたものであらうとし、「員外」「思故郷歌」をはじめ、作者名の記してないものをすべて陽春の作とした。しかしその説は、積極的論據を加へるものではない。
 第三、家持説は、旅人の篋中にあつた贈答及び憶良の作を家持が按配したものとするのであり、諸説に難點のあるところから、家持を集録者に推定したのである。また一字一音式の記載法になつてゐるのを、家持集録の一論據にし(187)てゐる説もあるが、大野保氏の論によると、卷の中で作者によつて用字の傾向に差が認められ、しかして家持を中心とする一字一音式の諸卷の用字とも異つてゐるから、原作者の用字が保存されてゐるものと見られる。また、森本治吉氏の家持説も、その論據とする所が十分といひがたい。
 第四、最後に憶良説は、憶良が自他の歌を書き集めた覺書で、旅人在世中憶良が旅人に贈つた歌の草稿に、旅人の作、旅人と房前や宜等との贈答など、聞くがまにまに集録し、更に旅人薨後の自作をも書き載せたのであらうとするのである。好去好來歌の「良宅對面獻三日」の句は、憶良が自家集に記した體であり、殊に老身重病經年辛苦及思兒等歌の終に「去神龜二年作之。但以類故更載於茲」とあるのは、集に對して記した自註と見るべきである。また全體として憶良の作が多いといふことも考へるべきであらう。前半旅人集録、後半憶良集録といふことも一應考へられはするが、全卷にわたり、憶良が集録したものとして自分はこの第四説をとる。なほ古日を戀ふる歌は、萬葉集の一部としてこの卷を加へた際に、最後に載せたものとおもはれる。
 この卷の特色は、漢詩、漢文竝に序、書牘など、漢學の影響が殊に著しいが、また歌それ自身について見ても、旅人の神仙詩的の作及び憶良の社會詩的の作が特に注意せられる。即ち、旅人の作には、遊仙窟を摸して空想的構想をめぐらした梧桐日本琴の歌(八一〇・八一一)や、松浦河に遊ぶ歌(八五三−八六三)などがあり、憶良の作には、に類例のない貧窮問答の作等があつて、憶良の名を萬葉に不朽ならしめてゐる。また、梅花の宴の歌の一群も注意せられる。
 長歌として見るべきは、憶良の日本挽歌(七九四)感へる情を反さしむる歌(八〇〇・八〇一)子等を思ふ歌(八〇二)世間の住り難きを哀しめる歌(八〇四)大伴熊凝の死を悲しめる歌(八八六)貧窮問答の歌(八九二)好去好來の歌(八九四)老身重病の歌(八九七)古日を戀ふる歌(九〇四)などである。
 短歌としてすぐれた作を擧げる。
 
(188)大野山霧立ちわたる我が嘆くおきその風に霧立ちわたる    山上憶良 七九九
ひさかたの天道は遠しなほなほに家に歸りて業を爲まさに      同  八〇一
銀も金も玉も何せむにまされる寶子にしかめやも          同  八〇三
わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ來るかも       大伴旅人 八二二
梅の花夢に語らく風流《みやび》たる花と吾《あれ》思ふ酒に浮べこそ 同 八五二
よのなかを憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば  山上憶良 八九三
大伴の御津の松原かき掃きて吾立ち待たむ早歸りませ        同  八九五
術も無く苦しくあれば出で走りいななと思へど兒等に障りぬ     同  八九九
富人の家の子どもの著る身無み腐し棄つらむ絹綿らはも       同  九〇〇
あらたへの布衣をだに著せかてに斯くや歎かむせむすべを無み    同  九〇一
しつ手纏數にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも    同  九〇三
稚ければ道行き知らじまひは爲むしたへの使負ひて通らせ      同  九〇五
布施置きて吾は乞ひ禮むあざむかず直に率行きて天路知らしめ    同  九〇六
 
(189)萬菓集 卷第五
 
  雜歌
 
    太宰帥大伴卿、凶問に報《こた》ふる歌一首
 禍故|重疊《かさな》り、凶間|累《しきり》に集る。永く崩心の悲しみを懷き、獨り斷腸の泣《なみだ》を流す。但《ただ》兩君の大きなる助に依りて、傾命纔に繼げる耳《のみ》。筆、言を盡さざるは、古今の歎く所なり。
793 世の中は空《むな》しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
     神龜五年六月二十三日
 
〔題〕 太宰帥大伴卿云々 大伴旅人卿が、或人から妻の死を弔問されたのに對して答へた歌である。旅人の妻大伴郎女の死は神龜五年初夏の頃で「一四七二」の左註に、その時都から弔問のため、式部大輔石上朝臣堅魚が勅使として差遣はされた由が見える。しかしこの歌は、その勅使に答へた歌か否かは明かでない。禍故重疊り 災禍が次々と重なつて。禍故は妻の死をさすこと勿論であるが、重疊とあるのを以て察すれば、その他にも自分の病氣か何かあつたのであらう。凶問累に集る 弔慰の訪問が頻々とあるの意。永く崩心の悲しみを懷き いつまでも心も崩れるばかりの悲しみを胸にもつて。獨り斷腸の泣を流す 一人で腸もちぎれるばかりの思で泣いてゐる。但兩君の大きなる助に依りて 只御兩所の御親切な御慰問のお蔭で。兩君とは誰をさすか明かでない。傾命纔に繼げる耳 老いぼれ死にかけてゐる命がやつと繋がつてゐるに過ぎない。筆言を盡さざるは 拙い筆では言葉を十分に書き盡すことの出來ない(190)のは。易の繋辭に「書不v盡v志言不v盡v意」とあるに據つてゐる。古今の歎く所なり 古人も今の我々と同樣に歎息したことである。
 
〔譯〕 人生は空しくはかないものであると、我が身に體驗して本當にわかつた時、愈々益々悲しいことでありますよ。
〔評〕 無常觀は、自然現象を眺めても生じ得る。しかし、その程度ならばまだ觀念であり、せいぜい藝術的情緒である。愛する人々との死別を味つて、はじめてそれが痛切な悲歎となつて來る。これは、心理的に極めて當然の感慨である。かく心理を解剖してゐるところ、この歌は多分に反省的であつて、そこに作者の文化人らしい風※[三に縱棒]も窺はれるが、この種の心理はさほど複雜なものではなくて、寧ろ素朴である。又その表現も、甚だ單純直截である。特に「いよよますます悲しかりけり」といふ二句は、極めて平凡に見えて、しかもこれ以上の眞率な悲しみの表現法があらうとも思はれない。
〔語〕 ○むなしきものと 無常なもの、はかないものと。○知る時し 自身に體驗して本當に悟つた時。
〔左註〕 神龜五年六月二十三日 これは旅人がこの歌を詠んで兩君に送つた日である。妻の死は四月以前とおもはれる。「一四七二」「一四七三」の贈答は太宰府から妻の死が都に傳へられ、都から使が來、その弔問使を送つてから後であり、その間に一ケ月以上經過してゐるであらうから、しか推測される。
 
  蓋し聞く、四生の起滅は、夢の皆空しきに方《たくら》べ、三界の漂流は、環の息まざるに喩ふ。所以《かれ》維摩大士は、方丈に在りて、染疾《いたづき》の患を懷くことあり、釋迦能仁は雙林に坐して、泥※[さんずい+亘]《ないをに》の苦を免るること無しと。故知りぬ、二聖の至極なるも、力負の尋ね至るを拂ふこと能はず。三千世界、誰か能く黒闇の捜り來るを逃れむ。二つの鼠競ひ走りて、目を度る鳥、旦に飛び、四つの蛇爭ひ侵して、隙を過ぐる駒、夕に走る。嗟乎《あはれ》痛しき哉《かも》。紅顔三從と長く逝き、素質四コと永く滅ぶ。何ぞ圖らむ、偕老、要期に違ひ、獨飛、半路に生きむとは。蘭室の屏風徒に張りて、斷腸の哀《かなしみ》彌痛く、枕頭の明鏡空しく懸り、染※[竹/均]の涙逾落つ。泉門一たび掩ひて再び見るに由無(191)し。嗚呼哀しき哉《かも》。
 
〔譯〕 私はかう聞いてゐる。生物の生死は、夢が皆とり留めもなくはかないと同じやうなもの、淨土往生が出來ず、三界を流轉してゐることは、恰も環に端がなくて、どこに終があるかわからぬやうなものである。それ故に、いかなる人も生死を超越することが出來ず、かの維摩大士さへも、その庵室に於いて、病を煩つたのであり、釋迦牟尼佛さへも沙羅雙樹林の下に座して、死の苦しみから免れることは出來なかつたのだといふことである。して見ると、至極の二聖人でさへも、死生の變化の襲ひ來るのを斥けることは出來ないのであるから、三千世界の中で、誰が、近づいて來る死から遁れることが出來ようぞ。晝夜は交替しつつ迅速に過ぎ去つて行き、人生は飛ぶ烏が眼前を横切るやうに須臾であり、人の身體を成してゐる四大要素は、恰も四匹の蛇が互に侵し合ふが如く、相克侵害し合つて居り、光陰は馳せ過ぎる白馬が壁の隙間からちらと見えるやうに、早く移り去つて行く。ああ悲しいことである。妻の美しい姿は、その身に具へた三從の義と共に永久に去つてしまひ、眞白な肌は、その身につけた四コと共に永遠に滅びてしまつた。思うて見たことがあつたらうか、夫婦として偕に老いようと誓つた約束も空しく、やもめぐらしの運命が、こんなに中途に起らうとは。妻とともに住んだ室には、屏風のみが空しく張られて居り、それを見ると斷腸の思ひがする。枕もとには、亡き妻の遺愛の鏡のみが空しく懸つて居り、それを見ると涙がいよいよ繁く流れるばかりである。黄泉國の門が一旦閉まれば、再び逢ふことは出來ない。嗚呼悲しいことである。
〔語〕 ○四生の起滅は夢の皆空しきに方べ 生物の生死は夢が皆取り留めもなくはかないのと同じやうなものであるの意。四生とは佛教ですべての生物の生れ方を、胎生、卵生、濕生、化生の四種としてゐるのをいひ、ここは生きとし生けるものの生命の意。起滅は出生と死滅。○三界の漂流は環の息まざるに喩ふ 淨土往生が出來ずに三界を流轉してゐるのは、恰も環の端無きが如く循環して終止する所がないとの意。三界とは欲典、色界、無色界の謂で、極樂淨土の悟の世界に對して凡夫の生死來往する迷の世界である。○維摩大士 維摩は毘摩羅詰または維摩詰といひ、淨(192)名と譯す。釋尊と同時の長者で、在家の信者であつた。大士は菩薩の稱である。○方丈 一丈四方の室の義。維摩が方丈の室に病臥してゐるところへ釋尊は見舞の使として文殊を遣はされた。文殊には十大弟子を始め三萬二千の菩薩達も隨從したが、維摩は神通力を以てこれをその狹い室に請じ入れ、深奧な教義の問答をしたといふことが維摩經に説かれてゐる。○染疾《いたづき》の患を懷くことあり 病にかかるといふ心配をもつてゐる。○釋迦能仁 能仁は梵語「釋迦」の漢譯。ここは原名と漢譯を併せ擧げたのである。○雙林 沙羅雙樹林。釋迦入滅の地で、拘尸那城外、跋提河畔にある。沙羅の木が東西南北の四方に二株づつはえてゐたが、釋迦入滅と共に東西の二双は合して一樹となり、南北の二双も一樹となつて釋迦の寶床を覆ひ、やがて皆枯れて白鶴の如くなつたといふ。○泥※[さんずい+亘]の苦を免るること無し 死といふ苦痛を遁れることは出來ない。泥※[さんずい+亘]は涅槃に同じ梵語、寂滅と譯す。ここは死の意。○二聖の至極も 道の最高境地に至つた釋迦・維摩の二聖でさへも。○力負の尋ね至るを拂ふこと能はず 死生の變化の襲ひ來るのを斥けることは出來ない。力負は莊子の太宗師篇に「藏2舟於壑1、藏2山於澤1、謂2之固1矣、然而夜半有v力者負v之而定、昧者不v知也」とあたに據る。○三千世界 三千大千世界の略。須彌山を中心に、日・月・四大洲・六欲天・梵天等をそなへた一團を一世界といひ、それを千集めて小千世界、小千世界を千集めて中千世界、中千世界を千集めて大千世界といひ、また三千大千世界といふ。從つて廣漠たる世界一切をいふ。○誰か能く黒闇の捜り來るを逃れむ 死の迫つて來るのを誰が遁れることが出來よう。反語。黒暗は佛經に見える天部の神名で、災厄を司る神。ここは死の意に用ゐた。○二つの鼠競ひ走りて 晝夜が交替しつつ迅速に過ぎ去つて。二つの鼠は黒白二鼠で、晝と夜とに譬へた。賓頭盧説法經などに見える。○日を度る鳥旦に飛び 目の前を横ぎつて飛ぶ鳥の速かなやうに、人の命は須臾であつての意。文選の張景陽の雜詩に「人生2瀛海内1、忽如2鳥過1v目」とあるによる。○四つの蛇爭ひ侵して 最勝王經によると、人間の身體は地水火風の四要素から成るが、それも因果の理法を免れ得ず、四要素互に相克侵害しあひ、その?恰も四匹の蛇を一つの函に入れたやうなものであるといふ。即ち念々刻々に生命を燃燒してゆく樣を身内の四毒蛇(193)が互に侵し合ふに譬へたものか。○隙を過る駒夕に走る 白馬の馳せ過ぎるのが壁の隙間からちらりと見えるやうに、光陰は早く移り去つてゆくとの意。莊子の知北遊篇に「人生2天地之間1、若2白駒之過1v隙」とある。○紅顔三從と長く逝き 妻の美しい姿もその身に具へた三從の義と共に永久に去つて。紅顔はここは少年の意でなく、婉容の義。三從とは、禮記に「婦人有2三從之義1無2專用之道1。故未v嫁從v父、既嫁從v夫、夫死從v子。」とあるをいふ。○素質四コと永く滅ぶ 眞白な肌もその身につけた四コと一緒に永遠に滅びてしまふ。素質は白い肌。四コとは婦コ、婦容、婦言、婦功の謂で、禮記に見える語。○偕老要期に違ひ 夫婦が偕《とも》に老いようとの約束も空しくかけちがつて。要も期も契るの義。○獨飛半路に生きむとは 妻を失つて獨居するといふ運命がこんなに中途に起らうとは。獨飛とは漢の李陵が親友蘇武に匈奴の地で別れた時の詩に「雙鳧倶北飛、一鳧獨南翔。」とあるに據つたもの、相親しんだ人の別離にいふ。○蘭室の屏風徒に張り 妻は逝いてその室の屏風のみ空しく張りめぐらされて居りの意。蘭室は芳香ゆかしき部屋の義で、婦人の閨閤。○枕頭の明鏡空しく懸り 妻が還愛の鏡臺が枕もとには空しく殘つてゐての意。○染※[竹/均]の涙逾落つ 妻を悼み悲しむ涙が愈々繁く流れる。※[竹/均]は竹のこと、博物志に、帝舜が蒼梧の野に崩じた時、その妃の蛾皇・女英の姉妹が慕うて洞庭に至り、悲しみ泣いた涙が竹を染めたとある故事に基づく。○泉門一度掩へば 黄泉の門を一度閉ぢてしまふと、即ち死して一度地下に入つたらばの意。
 
   愛河の波浪は已に先滅び、苦海の煩惱も赤結ぼるることなし。從來この穢土《ゑど》を厭離《ゑむり》す。本願もて生をかの淨刹に託《よ》せむ。
 
〔譯〕 既にわが妻は死んでしまひ、夫婦の愛情を交すすべも絶え、現世に於ける愛慾煩惱は、再び生ずることもなくなつてしまつた。自分は固よりこの穢れ果てた人間世界を厭うて、早くこの境より離れたいと思つてゐたのである。彌陀の處大な本願にすがつて、かの極樂淨土に生れたいものである。
〔語〕 ○愛河の波浪 愛は人の溺れ易いものであるから河に譬へ、その經緯を擬して波浪といつた。○苦海の煩惱(194) 人生は苦界といひ、その苦の深大なのを譬へて、苦海といふ。煩惱は愛慾の煩惱をさす。○穢士を厭離す 穢土はヱドと讀む、娑婆世界のことで、穢士を厭離し淨士を欣求するのが淨土教の本旨である。○本願 一切衆生を救はうとする阿彌陀佛の誓願で、無量壽經に四十八本願が説いてある。○淨刹 淨土。穢士に對していふ。
 
    日本挽歌一首、
794 大王《お授きみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と しらぬひ 筑紫《つくし》の國に 泣く子なす 慕ひ來まして 息だにも 未だ休《やす》めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間《あひだ》に うち靡き 臥《こや》しぬれ 言はむ術《すべ》 爲《せ》む術《すべ》知らに 石木《いはき》をも 問《と》ひ放《さ》け知らず 家ならば 形《かたち》はあらむを 恨めしき 妹の命《みこと》の 吾《あれ》をばも 如何《いか》にせよとか 鳰鳥の 二人竝び居 語らひし 心|背《そむ》きて 家|離《さか》り坐《いま》す
 
〔題〕 日本挽歌 特に「日本」と冠したのは、前に漢文序と詩とを置いたからである。さて此の歌は、憶良自身の妻の死を哭したと見るのと、旅人の妻の死を悼んだものと取るのと、從來兩説ある。その兩方の主張を綜合整理して見れば、憶良の妻と見る方では、旅人の妻の死は、上述したごとく「一四七二」から察すると、神龜五年四月の頃と思はれるのに、憶良のこの作は最後に「神龜五年七月二十一日筑前國守山上憶良上」と明記してあつて、太宰府より遠からぬ地に在つた憶良が、それほど時日を置いて弔歌を贈つたとは考へにくいこと。この歌の辭様や敍法は、他人の妻を弔つたものとは考へ難く「吾をばもいかにせよとか」のごとく一人稱を用ゐてゐること。「四四九」「四五〇」等によれば、旅人は太宰府赴任の際、妻を同行したことが明かであるのに、この歌では「しらぬひ筑紫の國に、泣く子なす慕ひ來まして」と、妻が後日跡を慕つて下向した趣であること等を指摘してゐるが、これに對して旅人の妻と見る側では、憶良の作が時日を經てゐるのは、元來これは弔問の歌といふのではなく、同情の結果旅人の心になつての(195)作であるから、怪しむに足りないとし、一人稱を用ゐたのもその爲である。「泣く子なす慕ひ來まして」は、必ずしも時間的に後に來たといふ意でなく筑紫への同伴を熱望した意にも解し得るのである。しかのみならず、更に思へば「慕ひ來まして」「妹の命」「家離り坐す」など敬語が用ゐてあること。奧に「筑前國守山上憶良上」とあつて、自分の妻の死を悼んた歌としては受取り難いこと。また旅人の妻の死は四五月頃と推測されるが、この歌の反歌に「妹が見し楝の花」とあつて、楝は四五月の花であるから丁度符合するし、七月二十一日は凶事のあつた當時でなく、歌を上つた日といふことが一層明瞭であること。憶良の妻が客死したことは、他に全く證が無いこと等の理由を強調してゐる。しかしこれ等の理由も反對側からすればやはり説明のつくことで、即ち敬語については、人麿が自分の妻の死を歎いた歌の中にも「鳥じもの朝立ちいまして」(二一〇)とあり、家持が妾を失つた時の作にも「家離り坐す吾妹を」(四七一)とあつて、これらは敬語といふよりは寧ろ親愛語として用ゐたもので、必しも目上の人に對すると限つてはゐない。「憶良上」とした書式も、自作を長官旅人卿に示す爲には當然であつて、現に本卷には、貧窮問答歌その他にも「謹上」の文字が用ゐてあり、必しも弔問歌の故とはいへない。憶良の妻の死について證とすべきものは何も無いが、やはり旅人の妻に稍々おくれて歿したと見る外はあるまい。これは一寸異常な事のやうであるが、しかも實際には世間に有り得ないことでは決してない。殊に反歌五首を虚心に味へば、その口吻は悉く作者自身の切實悲痛な感懷で、何としても代作的のものとは考へられないやうである。なほ參考の爲に女人の死を弔つた他の挽歌を考察すると、人麿が明日香皇女の殯宮の時の作(一九六)吉備津采女の死を悲しむ歌(二一七)等、いづれも作者は第三者としての哀傷を述べてをり、この憶良の歌のごとく、作者が假に死者の夫となつて悲歎するといふやうな態度は見當らない。同じ人麿が泊瀬部皇女に献じた歌(一九四)のごとき、皇女に代つてその夫の皇子の薨去を悲しんだ代作の例も無いではないが、そんな場合は、被代作者があまり歌に堪能でない人のやうに思はれるのである。今の場合のごとき、歌人として卓越した手腕を有する旅人に獻ずるに、憶良がさうした態度を執つたであらうとは、聊か首肯(196)し難いことといはねばならぬ。更に、卷八に「式部大輔石上堅魚朝臣歌一首、ほととぎす來鳴きとよもす卯の花の共にや來しと問はましものを」(一四七二)とあり、その左註に「右神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉、于時勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣太宰府弔喪賜物也、其事既畢、驛使及府諸卿太夫等共登記夷城、而望遊之日乃作此歌」とあるによれば、勅使たちが太宰府郊外の散策に出たのは、歌の素材から見て五月頃である。旅人の妻の死が都へ報ぜられ、ついで弔問使が任命され、旅の仕度をして下向し、その使命が果されるまでには、一二ケ月を要したと思はれるから、旅人の妻は四月以前に歿したと見るべきではなからうか。(普通には唯この歌によつて五月頃と推定してゐたが、改むべきであらう。)然るに憶良の歌には「妹が見しあふちの花」とあり、五月以後の歿と考へられ、別人とすべきであり、從つてこれは憶良自身の妻の死を悼んだ歌と見るべきであらう。
〔譯〕 天子さまの遠方の御役所太宰府の所在地といふので、この筑紫の國に、泣く子が母を慕ふやうに、後を慕つて來られて、ほつと息つく暇さへまた無く、年月もまだ經たないのに、心に思ひもかけなかつたうちに、わが妻は草の靡くやうに病の床にうち臥して遂に亡くなつてしまつた。それで、自分はもう言ひ様も仕樣もわからなくて、葬送途上の岩や木に向つてでも此の悲しみを愬へたいくらゐであるが、物言ひかはす方法も知らない。せめて家に留めて置いたらば、形骸はそのままにあらうが、さうもならない。わが妻は恨めしくも、自分をこの後どうせよといふつもりで、今まで二人仲よく相竝び睦まじく語り合つてゐた心持に背いて、この家を離れてあの世へ行つてしまはれるのか。ほんとに悲しいことである。
〔評〕 同じく愛妻の死を嘆いた歌ではあるが、人麿の作の奔流のごとき熱と力、あの迫力から生れた高古の格調に比べてみると、著しい差のあることが感ぜられる。しかし愛情の深かつた作者だけに、やはりしみじみとした眞情は溢れてゐる。比較的先人の詞句を多く襲用してゐるのが全體に力を弱めた主因で、なほ或は多少の脱落がありはせぬかと疑はれるくらゐ、文脈の通りにくい所もある。
(197)〔語〕 ○遠の朝廷 遠方にある天子の政廳の義で、地方の官廳のことであるが、ここは太宰府を指す。但、異説もある。○しらぬひ 「筑紫」にかかる枕詞。「三三六」參照。○泣く子なす 泣く子のごとくで、泣く子がその母を慕ふがごとく。○息だにも未だ休めず 息つく暇さへも無く到着して幾何も經たぬことをいふ。○年月もいまたあらねば 年月も未だ幾何もあらぬに。この「ねば」は「ぬに」の意。○心ゆも 心にまあ。「ゆ」は「より」に同じ。ここは「心に」といふに近い。○うち靡き 横になり。「臥す」の修飾語。○臥しぬれ 病床に臥して遂に死去したので。「こやす」は「こやる」の敬語で倒れ伏す意であるが、集中の用例を見ると、いづれも單に臥してゐるのみでなく、死の意味まで籠めてゐる。「ぬれ」は「ぬれば」の意。○石木をも 葬送途上の石や木をさす。「を」は「に向つて」の意を表はすといふ説がよい。○問ひ放け知らず 物言ひかけて心を晴らす方法も知らず。「とひさく」は、言どひて思ひをはらしやる意といふ宣長説に從ふ。尚この語例は「四六〇」にも見えた。○家ならば形はあらむを 家に留めて置いたらば、屍骸だけでも殘つてをらうものを、さうもならずにとの意。○妹のみことの みことは普通尊稱であるが、ここは寧ろ親愛の意と見てよい。○鳰鳥の 枕詞。鳰鳥は雌雄竝んで水に浮んでゐるので「二人竝び居」にかけた。「み鴨なす二人雙び居」(四六六)ともある。○家離り坐す 家を離れて行つておしまひなさる。
 
    反歌
795 家に行きて如何《いか》にか吾《あ》がせむ枕づく嬬屋《つまや》不樂《さぶ》しく思ほゆべしも
 
〔譯〕 葬送を終へ家に歸つて行つて、私はどうしたらよいのであらうか。妻と二人ゐたあの部屋も、がらんとして寂しく思はれることであらうよ。
〔評〕 野邊の送りが濟んで、家路を辿る心持が、げにもと察せられ、殊に第二句にその放心の様が窺はれる。悲歎の中にも、斂葬が終るまでは緊張してゐたのであるが、緊張の後の銷沈した心で、妻亡き家に歸つた時を豫想した第(198)四・五句、まことに至當の嘆コエと聞える。人麿の「家に來て吾が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕」(二一六)と竝べ誦すると、一層あはれが深い。
〔語〕 ○いかにか吾がせむ どんなにまあ自分はしたものであらうか。○枕づく 枕詞。冠辭考に、枕を竝べつけて寢る意で「嬬屋」にかかるとある。○嬬屋 古代の習俗で、夫婦生活を營む爲に獨立に建てた家。轉じて、妻と二人ゐる室。ここはいづれとも定め難い。人麿の作にも「枕付く嬬屋の内に」(二一〇)とある。○思ほゆべしも 思はれることであらうよ。
 
796 愛《は》しきよし斯くのみからに慕ひ來《こ》し妹が心の術《すぺ》もすべなさ
〔譯〕 いとしいことであるよ、こんな事になる外はなかつた果敢ない命であつたのに、はるばると自分を慕つて筑紫三界までも來た可愛い妻の心が、何ともふびんで仕方のないことである。
〔評〕 咲く花の匂ふがごとき都から、遙かなる西陲の邊土まで自分を慕つて來て、幾ばくもなく逝いた妻の心を思ひやれば「斯くのみからに」の感慨も、まことに斷腸の聲でなければならない。結句も、言葉にあまる愛情と悲嘆とをこめて、餘韻が長い。
〔語〕 ○愛しきよし 可愛らしきの意。「愛しきやし」と同じ。「一三一」參照。○斯くのみからに 斯くなるより外はない運命であつたのに。「斯くのみゆゑに」(一五七)參照。○術もすべなさ かはいさうでたまらないとの意。「すべなし」を強めていふ。
 
797 悔《くや》しかも斯く知らませばあをによし國内《くぬち》ことごと見せましものを
 
〔譯〕 まことに殘念なことであるよ。かうなると知つてゐたならば、奈良の土地の内も隅々まで皆見せてやるのであ(199)つたのに。
〔評〕 素朴な純情である。感情の眞に發してゐるので、永遠に新しく人の胸をうつ作である。交通不便な時代の婦人の境遇を考へると、殊にこの嗟嘆の切實さが痛感される。代匠記に「女は簾中にのみある故に、萬に物見を好めども、障り多くして出で難きものなれば、實に聞ゆる悔なり」とあるのは適評である。なほこの歌は完全な初句切れとなつて居り、萬葉には珍しい句法である。
〔語〕 ○悔しかも 口惜しいことであるよ。「かも」がかく形容詞の終止形を承けるのは古格である。○斯く知らませば こんなに早く死ぬものと豫て知つてゐたなら。○あをによし 普通は「奈良」の枕詞であるが、ここは用法が變つてゐるので疑念が生ずる。槻落葉は「あなにやし」と同義で「國内」につづくといひ、代匠記は「足引」を山の意に用ゐるごとく、奈良の枕詞を以て直に奈良の意としたと見てゐる。代匠記説を採るべきであらう。○國内ことごと 奈良の地域内を殘らず。「國」は吉野の國、初瀬の國などあるのと同じ用法。これを筑紫の國と見る説は諾ひ難い。「あをによし」の用例からは勿論、思考の自然性から見ても、來て直に死んだ人に對して、筑紫の國内をすつかり見せてやるのであつたのにといふのは、如何かと思はれる。筑紫説を唱へる人は、作者が筑紫に在りながら奈良の事をいふのに疑惑を抱いてのことであらうが、在京當時の追憶として何の不自然もないことである。
 
798 妹が見し楝《あふち》の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干《ひ》なくに
 
〔譯〕 妻が生前眺めたあふちの花は、もうやがて散つてしまふであらう。その花よりもあへなく過ぎ去つた妻を思つて泣く私の涙が、まだ乾きもしないのに。
〔評〕 今は亡き妻の形見とも思はれるあふちの花であるが、それすら、盡きぬ悲しみの作者を獨り殘してもう散つてしまひさうになつてゐる。僅かに殘る妻の形見まで、眼の前から消え去らうとしてゐる心細さは推量に餘りがある。(200)愛妾を失つた時の家持の作 「妹が見し屋前に花咲き時は經ぬ吾が泣く涙いまだ干なくに」(四六九)はこの模倣なること明白であるが、原作の哀切に及ばぬことも遠い。
〔語〕○妹が見し 妻が太宰府の家で見たのである。○楝 和名抄に「玉篇云楝【音練、本草云、阿布智。】」とあり、今俗にセンダンといふ。無論香木の栴檀とは別である。五六月頃淡紫色の小花を開き、葉は羽?複葉、果實は小橢圓形で晩秋の頃黄熟するが食用にはならない。落葉喬木で九州地方に殊に多い。○いまだ干なくに まだ乾かないのに。餘情を含めていひさした語法である。
 
799 大野山《おほのやま》霧立ちわたる我が嘆く息嘯《おきそ》の風に霧立ちわたる
     神龜五年七月二十一日、筑前國守山憶良上。
 
〔譯〕 大野山に霧が一面に立ち渡つてゐる。自分が亡き妻を悼み歎いて吐く溜息の風で、あのやうに霧が濠々と立ち渡つてゐる。
〔評〕 憶良の短歌としては珍しく調子の高い作である。神話の中の人物を思はせるやうな、素朴で豪宕な趣があり、完全な五七調で、結句を反復した格調も雄健高古である。歎きの息吹が霧となつて立ち渡るといふ類想は、遣新羅使人の妻の歌「君が行く海邊の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ」(三五八〇)その他にもあるが、憶良の作に比して、さすがにそれは情趣の繊細な手弱女ぶりである。
〔語〕 ○大野山 筑前國御笠郡(今の筑紫郡)。「五六一」參照。國府より一里もない程の近い山であるから、筑前守たる憶良は日夕親しみ見てゐたであらう。○息嘯の凰 略解所引宣長説に「おきそは息嘯《オキウソ》也、神代紀に嘯之時|迅風《ハヤチ》忽起と有り」といつてゐるのがよい。息を大きく吐き出すによつて起る風。息が霧となるといふ思想は、記紀に「吹き棄《う》つる息吹《いぶき》の狹霧」などあるに淵源するのであらう。
(201)〔左註〕 神龜五年七月二十一日 これは憶良が右の漢文・漢詩・長歌・反歌を取纏めて長官旅人卿に獻じた日付である。作歌の日時ではない。
 
    惑《まど》へる情《こころ》を反さしむる歌一首并に序
  或は入あり。父母を敬ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履よりも輕みす。自ら倍俗|先生《sにしやう》と稱《なの》る。意氣青雲の上に揚ると雖も、身體は猶《なほ》塵俗の中に在り。未だ修業得道の聖たるに驗あらず。蓋し是、山澤に亡命する民ならむ。所以《かれ》三綱を指示し、更《また》五教を開き、之に遺《おく》るに歌を以ちてして、其の惑を反さしむ。歌に曰く
 
〔題〕 惑へる情を反さしむる歌 神仙思想にかぶれて、人道に悖つた考に惑溺してゐる者を諷諫して、本然の性に反らせようとした歌である。
〔譯〕 或人があつて、父母を尊敬することは知つてゐるが、父母に事へ孝養を盡すことを怠り、自分の妻子を顧みず、脱ぎ棄てた破れ沓よりも輕んじた。しかして自ら倍俗先生と稱してゐる。氣ぐらゐだけは非常に高く、天上を自在に逍遙するつもりであるが、肉體はやはりこの俗塵の世を離れることが出來ずにゐる。修業を積んで道に至つた聖といふには、まだその驗があらはれない。まづ世務を厭ひ、安きを求めて、山澤に遁げ隱れた民といふべきであらう。そこで自分は、その人の爲に三綱の道を説き示し、更に五常の教を諭し、歌を詠み遣して、その惑つてゐる情をひるがへさせる。その歌は次の如くである。
〔語〕 ○或は人あり ここに或人がの意。○父母を敬ふことを知れども 宣長は「不」が脱ちたかと疑つて、父母を敬ふことを知らずであらうとしてゐるが、このままでもわかる。○侍養を忘れ 父母に事へ孝養を盡すことを怠り。○脱履よりも輕みす 脱ぎ棄てた破れ沓よりも輕んずる。○倍俗先生 諸本「倍」は「畏」とあるが、畏俗では義を(202)成さないので、代匠記に「異」の誤かとして以來多く從つてゐるが、紀州本には「倍」とあり、武田博士はこれにより「倍は背く義で、倍俗は世俗に違背する義」として居られる。「先生」は學人の通稱。ここは自稱してゐるのである。○意氣青雲の上に揚ると雖も 氣ぐらゐだけは天上を自在に逍遙するつもりであるが。○修行得道の聖たるに驗あらず 修業を積んで道に至つた聖といふ驗を現はしてはゐない。○山澤に亡命する民なり 世務を厭ひ安きを求めて山や澤に遁げ隱れる民といふべきである。○三綱を指示して 三綱即ち君臣、父子、夫婦の道を説き示し。○五教を開き 五常の教を諭して。五常は、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝であるべきこと(書經)又は仁、義、禮、智、信(漢書)をいふ。
 
800 父母を 見れば尊し 妻子《めこ》見れば めぐし愛《うつく》し 世の中は 斯くぞ道理《ことわり》 黐鳥《もちどり》の 拘泥《かからは》しもよ 行方《ゆくへ》知らねば 穿沓《うけぐつ》を 脱《ぬ》ぎ棄《つ》る如く 踏《ふ》み脱《ぬ》ぎて 行くちふ人は 石木《いはき》より 成りでし人か 汝《な》が名|告《の》らさね 天《あめ》へ行かば 汝《な》がまにまに 地《つち》ならば 大王《おほきみ》います この照らす 日月の下《した》は 天雲《あまぐも》の 向伏《むかふ》す極《きはみ》 谷蟆《たにぐく》の さ渡る極《きはみ》 聞《きこ》し食《を》す 國のまほらぞ 彼《か》に此《かく》に 欲《ほ》しきまにまに 然《しか》にはあらじか
 
〔譯〕 父や母を見ると尊い。妻や子を見ると、いとしく、かはゆい。世の中といふものは、かうあるのが當然である。黐にかかつた小鳥のやうに、いろいろと拘束されがちなものである。それらの係累を遁れて行きやうもないのであるから。それであるのに、穴のあいた沓を脱ぎ棄てるやうに、父母や妻子を棄て、自分の好き勝手な方に行くといふ人は、木石からでも生れて來た人であらうか。一體そなたは何といふ男であるぞ、名をいつて御覽。天上へ行けたらばそなたの自由であるが、地上にゐる限り、この國土には天皇がいらつしやるのである。この明かに日月の照らす下の(203)地上では、大空の雲の低くおりてゐる極地まで、蟾蜍《ひきがへる》の這ひ歩く山や谷の隅々まで、皆天皇の統治あそばす國土の、まことに結構な處であるぞ。ああだのかうだの、したい三昧にと思つても、さうはなるまい。
〔評〕 時代の興隆期に當つて、各方面に花々しい外國文化の吸收の行はれる時には、極端に新思想にかぶれるといふ弊害が生ずるのも餘儀ない次第である。この序にあるやうに、自ら倍俗先生と稱したり、山澤に亡命したりする者の少くなかつたところを見ると、現實の生活や社會の束縛から脱して自由を得ようとする消極的な人間の情意が、當時新輸入の老莊の説や神仙道家の法にいたく動かされて、遂にこれに惑溺する徒の續出した様が察せられる。その心得違を、作者は飽くまで現實に足を踏みしめ、わが國民思想に基づいて、噛んで含めるやうに説き聞かせてゐる。「三綱を指示して、更に五教を開き、」とはあるが堅苦しい理論責めでなく「世の中は斯くぞ道理《ことわり》」と、人間自然の愛情から先づ呼び醒してゐるところが、わが國民思想である。句法から觀察すると「行方知らねば」「汝が名告らさね」「然にはあらじか」によつて、一篇が三段に分れ、それらはいづれも、七音の下に置かれた七音の句であることも珍しい。さて第二段の終で「汝が名のらさね」と叱りつけて相手を呼び出し、第三段の冒頭では「天に行かば汝がまにまに」と一應は相手の言動をも受け容れておいて、然る後に「地ならば大王います」と徐ろにしかも儼乎として現實の大道を説くあたり、相手に取つては陳述辯疏の餘地もない老巧な論陣である。さうして最後に「然にはあらじか」と止めを刺したところ、さすがの倍俗先生も頭を下げずにはゐられまい。かくの如く歌そのものがすぐれてをるが、それのみならず上述のごとく三段に切れた句法は歌體の上からいつても重んずべき作である。
〔語〕 ○めぐし愛し いとほしく可愛い。「めぐし」は、可愛いの意であることは、多くの用例からうなづかれる。「め」は目と關係があるらしく「ぐし」は前にあつた「心ぐし」の「ぐし」と同じであらうか。○斯くぞことわり 「斯くあるぞ道理なる」の意で、かうあるのが當然であるの意。○黐鳥の 黐にかかつた鳥の如くの意で「かからはし」にかけた枕詞。○拘泥しもよ 「かからはし」は「懸る」の再活用「かからふ」より形容詞となつたもので、(204)拘束せらるべくある、とかく引懸りがちであるの意。○行方知らねば この係累から遁れて行くべき先も分らないのでの意。○穿沓 破れ沓。「うく」は下二段活用動詞で、穴のあく意。○脱ぎ棄る如く 脱ぎ棄てるやうに。「つる」は「すつる」の古語「うつる」の上略。○行くちふ人は 行くといふやうな非人情な人は。○成りでし人か 生れ出た人か。○汝が名告らさね そなたの名を告げなさい。○天へ行かば 仙術を習得して天上へ行つたならば。○汝がまにまに それはそなたの隨意である。○土ならば 地上にあつては。○天雲の向伏す極 大空の雲が、地に向つて伏し降りてゐるやうに見える遠い地平線の果まで。「四四三」參照。○谷蟆のさ渡る極 ひきがへるの這ひ歩く隅々まで。谷蟆は蟾蜍《ひきがへる》。○まほら 「いぶかりし國のまほらを」(一七五三)ともあり、倭武命の御歌「夜麻登波久爾能麻本呂婆《ヤマトハクニノマホロバ》」(古事記)、書紀には「摩保邏摩《マホラマ》」となつてゐる。「ま」は「眞」の意で接頭辭「ほ」は「秀」ですぐれた國の意であり「ら」は接尾辭とするのが通説である。古義の眞含等《マホラ》その他異説もあるが、今は通説による。○彼に此に ああだのかうだのと。とやかくと。○欲しきまにまに そなたのしたい放題に。○しかにはあらじか この句のみを單獨に見ると、何とさうではあるまいか、と相手に念を押したやうにとれ「然」は上來述べて來た作者の主張を取纒めて指したものと考へられる。從つて「欲しきまにまに」の下に省略を認めるのである。しかし、その省略を認め難いとし、最後の二句は直接續かなければならぬので「然」は上の「彼に此に欲しきまにまに」を指すものとして、さうはなるまいよ、そんなわけにはいくまいと解する説もある。
〔訓〕 ○めぐし愛し この下に拾穗抄本には「遁路得奴兄弟親族遁路得奴老見幼見朋友乃言問交之《ノガロエヌハラカラウカラノガロエヌオイミイトケミトモガキノコトトヒカハシ》」の六句があり、代匠記はこれ可なるかといつてゐるが、この歌の表記法が大部分假名書であるのに、この六句だけが義訓になつてゐる點がいぶかしく、また現存古寫本に一も無い點からも疑はしく、全く後人のさかしらと考へる外はない。
 
    反歌
(205)801 ひさかたの天道《あまぢ》は遠しなほなほに家に歸りて業《なり》を爲《し》まさに
 
〔譯〕 そなたは天へ昇るつもりであらうが、天へ昇るべき道は遠くて、たやすくゆかれるものではない。すなほに家に歸つて、自分の業をお勵みなさい。
〔評〕 宿昔青雲志、蹉※[足+它]白髪年、である。「意氣青雲の上に揚ると雖も」白鶴の背に駕して天空をかける超凡の業を得ることは難い。むしろ中正の道を踏んで、塵俗の平凡卑近のなかに人間としての幸福を求むべきである。思想は轉轉し風俗は革つた今日に於いてもなほ、理想にあこがれて、足の地を踏まぬ青年をいましめるに適する歌である。
〔語〕 ○天路 天へ行く路。○なほなほに 「直々に」で素直に。○なりを爲まさに 「なり」は仕事家業の意。「に」は「ね」と同じく未然形につく願望の助詞。
〔訓〕 ○爲まさに 白文「斯麻左爾」で、考は「爾」を「禰」とし、新釋にも、古葉略類聚鈔に「禰」とあるによるべきかといつてゐるが、獨立した校異でもあり、訓はすべてニとあるから、このまま解すべきと思はれる。
 
    子等を思ふ歌一首并に序
  釋迦如來、金口《こむく》に正に説《と》きたまはく、等しく衆生を思ふこと、羅※[目+候]羅《らごら》の如しといへり。又説きたまはく、愛は子に過ぎたるは無しといへり。至極の大聖すら尚子を愛《うつく》しむ心あり。況《ま》して世間《よのなか》の蒼生《あをひとぐさ》、誰か子を愛《うつく》しまざらむ。
802 瓜食《は》めば 子等《こども》思ほゆ 栗|食《は》めば 況《ま》してしのはゆ 何處《いづく》より 來《きた》りしものぞ 眼交《まなかひ》に もとな懸《かか》りて 安寢《やすい》しなさぬ
 
(206)〔譯〕 釋迦如來が、その尊いお口で正《まさ》しく説かれた教にいふ、衆生を一樣に思ふことは、吾が子|羅〓羅《らごら》を思ふごとくである、と。また説かれていふ、愛は子に過ぐるものは無い、と。此の上もない大聖人さへ、なほかやうに子を愛する心がある。まして、世間の人間として、誰が子を愛せぬ者があらうぞ。
 旅にあつて瓜を食べると、京にのこして來た子供にたべさせてやりたいと、子供のことが思はれる。栗を食べると、別して、わが子は栗がすきであるからたべさせてやりたいと思ひ出される。一體子どもといふものは、どういふ前世からの因縁で、この世に吾が子として生れて來たのであらうか、眼の前にその姿がわけもなくちらついて見えて、夜も安く寢させてくれぬことである。
〔評〕 平凡な日常生活に素材をとつて、簡素な句法のなかに、親心の眞を不朽にしてをる。佛教の宿世觀もうまくこなれて、愛情の深さを反省するにかなつたものとなつてをる。筑紫に在つて、京に殘して來た子を思つての作であらう。
〔語〕 ○金口 釋迦は黄金色身であるといふので、その口を金口といつたのである。○羅〓羅 釋迦の子、最勝王經に「普觀2衆生1愛無2偏黨1如2羅怙羅1。愛無v過v子、誰不v愛v子乎」とあるによる。○蒼生 世間一般の人の意。○瓜 眞桑瓜。○況してしのはゆ 「況して」は更に一層「しのはゆ」は思ひ起されるの意。○何處より來りしものぞ 如何なる宿世の因縁で吾子と生れ來たのかの意とする説。子は遠く離れてゐるのに何處から來たものかと疑ふとみる説もあるが、全篇に流れるものからして、前説に從ふべきである。○まなかひ 眼の前。目さき。○もとな 「二三〇」參照。○安寢しなさぬ 安寢は安らかに寢ること「なす」は「爲す」の意とも見られようが「寢は眠《な》さずとも」(二五五六)「吾をまつと寢《な》すらむ妹を」(三九七八)等の例が「寢《ね》」に敬語の助動詞「す」をそへたと同様に「寢《ぬ》」に使役の助動詞「す」をそへたとものと思はれる。子どもが安らかに寢させない意。この句を、子どもが寢ないとして、子の活動的な有樣をいふとする説もあるが、栗と瓜とは季節も異なるから、この歌全體が抽象的に述べられたも(207)のであつて、ある場合の描寫と見るべきでなく、從つて通説に從ふべきである。
 
    反歌
803 銀《しろがね》も金《くがね》も玉も何せむにまされる寶子に如《し》かめやも
 
〔譯〕 銀も金も珠玉も、どれも貴い寶ではあるが、そんなものは何にならうぞ。いかにすぐれた寶でも、子に及ぶものがあらうか。
〔評〕 後世ながく國民的共鳴と稱讃とをあつめてをる有名な歌である。國民性に根ざした共通の情を代辯した觀がある。家庭の父としての憶良の姿は、この作と共に不朽である。
〔語〕 ○金 クガネともコガネ(和名抄)ともよみうる。共に黄金《きがね》の轉訛。ここでは集中に「久我禰《くがね》」(四〇九四)とあるに從ふ。○何せむに 何にせむとて、何にならうぞの意。○まされる寶 上の「銀も金も玉も」を指すものとみて、これらのすぐれてゐる寶も、の意。但、新講には、新考・全釋等の説により、次のごとく述べてゐる。「天平感寶元年二月に陸奧國から始めて金を産したので、間もなく天平勝寶と改元されたのであるが、それは天平寶字二年八月の勅に「天感2至心信1、終出2勝寶之金1」とあるに據つて明かであるごとく、黄金を勝寶とした爲である。從つて此處の「まされる寶」は「勝寶」の意であつて、上に出た銀・金・玉等を指したのである。」と述べてゐる。しかし、此の歌に於いては「まされる寶」が「勝寶」なる黄金のみをうけたとは考へられず、また思想として、それが銀・金・玉の三種に限定して考ふべきものではない。即ち「まされる寶」は、銀・金・玉を始めとして(聯想の端緒として)あらゆる世にすぐれた珍寶貴寶の類を漠然と指し、以て父性愛の絶對を云うたものである。同じ作者の男子古日を戀ふる歌に「世の人の貴み願ふ七種の寶も我は何せむに」云々(九〇四)とあるのも同樣である。
 
(208)    世間《よのなか》の住《とどま》り難きを哀《かな》しめる歌一首并に序
  集《つど》ひ易く排《はら》ひ難きは、八大の辛苦、遂げ難く盡し易きは、百年の賞樂、古人の歎きし所、今亦之に及けり。所以《かれ》因りて一章の歌を作りて、以ちて二毛の歎を撥《はら》ふ。其歌に曰く、
804 世間《よのなか》の 術《すべ》なきものは 年月は 流るる如し 取りつづき 追ひ來《く》るものは 百種《ももくさ》に 責《せ》め依り來《きた》る 娘子等《をとめら》が 娘子《をとめ》さびすと 唐玉《からたま》を 手本《たもと》に纏《ま》かし【或は此の句、白妙の袖ふりかはし紅の赤裳裾引きといへるあり】 同輩兒《よちこ》らと 手携《たづさ》はりて 遊びけむ 時の盛を 留《とど》みかね 過《すぐ》し遣《や》りつれ 蜷《みな》の腸《わた》 か黒《ぐろ》き髪に 何時《いつ》の間《ま》か 霜の降りけむ 紅の【一に云ふ、丹の穂なす】 面《おもて》の上に 何處《いづく》ゆか 皺《しわ》掻《か》き垂《た》りし【一に云ふ、常なりし笑まひ眉引咲く花の移ろひにけり、世の中はかくのみならし】 丈夫《ますらを》の 壯士《をとこ》さびすと 劔大刀《つるぎたち》 腰に取り佩《は》き 獵弓《さつゆみ》を 手にぎり持ちて 赤駒に 倭文《しつ》鞍打置き 匍《は》ひ乘《の》りて 遊び歩《ある》きし 世間《よのなか》や 常にありける 娘子等《をとめら》が さなす板戸を 押し開き い辿《たど》りよりて 眞玉手の 玉手さし交《か》へ さ寢《ね》し夜《よ》の 幾許《いくだ》もあらねば 手束杖《たづかづゑ》 腰に束《たが》ねて 彼《か》行けば 人に厭はえ 此《かく》行けば 人に惡《にく》まえ およしをば 斯《か》くのみならし たまきはる 命惜しけど せむ術も無し
 
〔譯〕 集まり易くして排《はら》ひ除け難いものは八大辛苦であり、遂げることはむつかしくて盡き易いものは百年の賞樂《たのしみ》である。これは古人の歎じた所であるが、今も亦同様に歎ぜられることである。それで、その事に因つて一章の歌を作り、それに依つて、老境に入り黒い髪に白髪の生じる歎を晴らさうと思ふ。その歌は次のごとくである。
 この世の中で何ともしやうのないものは、何かといふと、年月であつて、その年月はまるで流れる水のやうに過ぎ(209)て再び歸つては來ない。ひきつづいて後から後から追うて來る苦しみは、種々と數多く責め寄せて來るのである。若い女たちが、若い女らしい振舞をしようとして、美しい唐玉を手くびに纒きつけ、同じ年頃の娘たちと、手をつなぎ合うて、遊んでゐた若い盛の過ぎてゆくのをとどめることが出來ず、むなしく過してしまつたから、眞黒な髪に、いつの間に霜が降つたのであらうか、白くなつてゐる。紅の顔の上に、どこから來て皺が垂れたのであらう。若い益良男が男らしい振舞をしようとして、劍太刀を腰に佩き、狩獵用の弓を手に執り持つて、赤色の馬に倭文《しつ》の布を張つた立派な鞍を置いて、這ひあがるやうに乘つて遊び歩いた若い時代が、いつまでも變らずにあつたであらうか。若い女たちが眠つてゐる板戸を押しひらいて、たどり寄つて、玉のやうな美しい手をさしかはして寢た夜が、幾らもないのに、忽ちに年老い、杖を腰に副へ持つて、あちらへ行けば人に嫌はれ、こちらへ來れば人に憎まれる。およそ人の世といふものは、こんなものであるらしい。年老いて命は惜しいけれども、何とも仕樣がない。
〔評〕 全篇を、佛教の無常觀からくる悲觀的色調を以て貫いてをる。我が世の春に誇る男女の姿を寫しつつ、たちまち醜い老年を示して、讀者を暗澹たる氣持に誘ふのである。いつの世の佳人才子も、これを讀んでは、生のさびしみに胸を刺されて、ため息をつかないではゐられまい。憶良は、同時代に生きて、同じく大陸文學の影響を受けた旅人卿が、明るい氣分を持つてゐたのとは正反對である。古歌の成句をも巧みに取りいれて、青春の男女の行樂をゑがいたあたりにも、心を浮きたたせる感激がなくて、質實で、むしろ澁い調子である。終りの句には、現實を直視して逃避しない作者が、世間無常を觀じてもらした、絶望的な吐息がきかれる。讀む者も、救ひのない、暗いあきらめのなかに引きこまれてゆく。
〔語〕 ○住《とどま》る 常住の住で留まるの意。○排ひ難きは 押し除け難いのは。○八大の辛苦 生・老・病・死・愛別離・怨憎會・求不得・五陰盛の八苦のことで、釋家いふ所の人間一生の間に被らねばならぬ八大の辛苦をいうたものである。○百年の賞樂 長く心を慰さめる樂しみ。○今亦これに及けり 今亦この歎きに出會つた。○二毛の歎 (210)「二毛」は左傳、僖公二十二年に「宋公曰君子不v重v傷不v會2二毛1」(杜預の注に「二毛、頭白有2二色1」)とあり、或は禮記の檀弓下篇に見え、その注に「鬢髪斑白」とあり、潘岳の秋興賦序には「晉十有四年、餘春秋三十有二、始見2二毛1」とある。この歌は神龜五年の作で、下の天平五年の作と思はれる沈痾自哀文に年七十有四とあるのによつて逆算すると、六十九歳の時に當る。從つて代匠記に「左傳によりて老を嘆く心を歌に作て撥ふ也、但、歌にも秋興賦の面影あれば年の老壯をいはず感ずる所あつて作るを、潘岳によつて二毛といへる歟」といつてゐる。○世間《よのなか》の術なきものは 世の中でいかにも仕樣のないものは。以下「せめ依り來る」までの全體の主語となつてゐる。○年月は流るる如し 新考に「スベナキモノハ年月ハとは、スベナキモノハ年月ニテ、ソノ年月ハとなり」とあるのがよい。これは「四時如2逝水1」(孟郊詩)或は「逝川與2流光1、飄急不v待v時」(李白詩)とあるごとき大陸思想の影響によるものと思はれるので、その意も單に流るるごとく早いといふばかりでなく、流水のごとく逝いては二度とかへらぬといふ思想が濃い。○取りつづき、引きつづきの意。○追ひ來るものは 追つて來るものは。「生ひ」ではない。この下に「苦しみにして」等の語を補つて解する。○百種に 種々の形で。序中の八大辛苦などをさす。○をとめさびすと 娘子らしい振舞をするとて。「さび」は「三八」參照。○唐玉 大睦から來た珠玉。硬玉の類であらうといふ。○手本に纒かし 「たもと」は、手の下で手頸をさすといふ説(全釋)もあるが、手本で「手先」に對して手の奧の方の意で、實際には肱のあたりをさしたものとみる説(總釋)がよい。なほ本朝月令に、五節舞の起源を説き、天武天皇のとき神女のうたつた歡として「をとめども、をとめさびすも唐玉を手本に纒きてをとめさびすも」とある。(琴歌譜にもある)この歌の先後については、疑ひもあるが、さうした古謠が既にあつて、それを憶良が採り用ゐたとも解釋することが出來る。○よち兒らと 仙覺抄、宣長説等の、同年輩の子といふ説に從ふ。最近年少者の意であるといふ説が出でゐる(境田四郎氏の京大國文學會紀念論文集)。○手携はりて 手を取り合つて。○時の盛 盛りの時、青春時代。○とどみかね 留めかね。「とどむ」は古く四段に活用した。ここはその連用形であるといふ説もあるが、(211)なほ上二段に活用したものと見るべきである。(胆、集中には既に下二段に用ゐた例が多い。)○過ぐし遣りつれ 過しやりつればの意。○蜷の腸 「黒」にかかる枕詞。みなは、新撰字鏡「蜷」の訓に「彌奈」、和名抄「河貝子、殻上黒小狹長、似2人身1者、和名美奈、俗用2蜷字1非也」とあり、淺い河に多く住む長さ一寸餘の貝で、その腸の黒い爲に「黒」の枕詞とした。○一云、丹の頬なす 「舟の秀如す」で、顔の赤色が鮮かに美しいの意。○何處ゆか皺掻き垂りし 何處からこの皺は垂れ下つて來たのであらうか。尤も異訓(童蒙抄等)もあつて、白文「斯和何伎多利斯」の「何」は濁音假名であるから、「雛が來たりし」と訓み「何處からか皺がやつて來てしまつた」の意と見る説がある。○一云、常なりし笑まひ眉引 ゑまひは「四七八」參照。眉引は眉を描いて化粧すること。○獵弓を 狩獵に用ゐる弓。「さつ矢」(六一)參照。○倭文鞍打置き 倭文布で纒うた美しい鞍。倭文は「四三一」參照。下鞍といふ説(管見)は從ひ難い。○匍ひ乘りて 鞍の上に這ひ乘つて。○さなす板戸を 「さなす」は、代匠記に閉す意、宣長(記傳、略解)は「さ」は接頭辭「なす」は鳴らす意で、鳴らすとは戸を閉ざす事とし、古義は閇令v鳴《さしならす》とした他、最近の注に殆ど「さ」は接頭辭「なす」は鳴らす意としてゐる。しかし石坂正藏氏(上代國文二卷一號)の「さ」を接頭辭「なす」は動詞「ぬ」寢の未然形で「す」は敬語助動詞、寢ていらつしやると解する説に從ふべきかと思ふ。古事記上卷の歌謠「をとめのなすや板戸を」の「なす」も記傳の言ふやうに「鳴す」の意でなく、同樣「寢《な》す」の意と見るべきである。○いたどりよりて 「い」は接頭辭、やつと近づいて。○ま玉手の玉手さし交へ 「ま」は接頭辭。「玉」は美稱。「玉手」を繰り返したのは語調をととのへる爲で、手をさしかはしの意。これと同じ句は、「一五二〇」にあり、古事記にも「ま玉手玉手さし纒《ま》き」とあるから、當時の一種の慣用句であつたのであらう。○いくだもあらねば いくらもないのに。○手束杖 手にとり持つ杖即ち普通の杖。「つか」は「十束劍」「八束ひげ」等と同じ用法。○腰にたがねて 「たがぬ」は「束ぬ」に同じといふ(代匠記)。ここは腰にしつかりつけて歩む意と思はれる。○か行けば 「か」は「かよりかくより」(一三一)の「か」に同じ。下の「かく行けば」の「かく」に對する。○およし(212)をば 凡《およ》そはの意とする説(管見)に一般に從つてをるが、なほきはやかでない。大野晋氏は、老《お》よし男《を》で、老よしは形容詞、戀し、戀ほし、喜ひ、喜ぼし、老い、老よし、であるとの新説を出された。○たまきはる 「四」參照。命の枕詞。
 
    反歌
805 常磐《ときは》なす斯《か》くしもがもと思へども世の事なれば留《とど》みかねつも
    神龜五年七月二十一日、嘉摩の郡にて撰定す。筑前國守山上憶良。
〔譯〕 永久に變らぬ岩のやうに、いつまでも斯うして若く盛でありたいと思ふけれども、若い者が年とることは、人間の世の習はしであるから、年とるのをとどめることは出來ないことであるよ。
〔評〕 長歌の終句を反復したもので、暗い絶望的の歎息である。暗澹たる、あきらめの淵に人をひきずりこむやうな調子である。この「世の事なれば」は、亡妻を哀傷する家持の歌(四六六)や、亡妻を悲しむ高橋朝臣の歌(四八二)などに、踏襲されてをる。
〔語〕 ○常磐なす 永遠に變らない岩石のやうに。○かくしもがもと このやうに若く盛でゐたいとの意。「がも」は願望の助詞。○世の事なれば 變化して行く世の習であるから。○嘉摩郡 筑前國、今の嘉穗郡に屬する。撰定は作るの意。
〔左註〕 神龜五年七月二十一日、嘉摩部で作つた。
 
      ○
   伏して來書を辱くし、具に芳旨を承りぬ。忽に漢を隔つる戀を成し、復《また》梁を抱く意を傷ましむ。唯|羨《ねが》はくは、(213)去留|恙《つつみ》無く、遂に雲を披くを待たまくのみ。
    歌詞兩首【太宰帥大伴卿】
806 龍《たつ》の馬《ま》も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて來《こ》む爲
 
〔題〕 これを、代匠記などは、大伴旅人から奈良の舊知へ送つた書?の返事の詞としてゐるが、旅人から京人への反簡と見るべきである。古義が「八〇八」の前に移したのも勿論よくない。
〔譯〕 都からの御?を賜はり、伏して辱う存じます。つぶさに御?の趣を拜し、七夕が天の川を隔てて戀ふるやうに、遠く地を隔てた都のあなたを戀しく思ひ、また舊情を忘れず、深くお慕ひ申して心を苦しめて居ります。都にいらつしやるあなたも、旅さきに居ります自分も、共に無事で、いつかはお目にかかれるやうになりたいと、唯それが願であります。
    歌二首霜【太宰帥大伴卿】
 昔あつたといふ龍の馬を、今も手にいれたいものである。奈良の都に行つて、なつかしいあなたにも逢つて歸つてくる爲に。
〔評〕 書簡と共に大陸文學の造詣を示してをるが、かかる空想は、交通の開けぬ時代における人間の眞率の願ひとして、同情せざるを得ぬ。實に龍馬が天地を馳せてをる今日の交通機關の發達を、旅人が知るならば、おのれの空想も妄誕ではなかつたことを喜ぶであらう。夫木抄に「山高み石ふむ道のはるけさに龍の馬をも今えてしがな」とあるは、これを典故としたものである。
〔語〕 ○伏して來書を辱くし 都からの手紙に對して感謝した詞。○芳旨 お手紙の趣の意。○漢を隔つる戀 牽牛、織女の銀漢《あまのかは》を隔てて戀ふるやうな戀。即ち、遠く地を隔てて都のあなたを戀しく思ふの意。○梁を抱く意 莊子盗跖(214)篇に見える。尾生といふ男が女と梁《はし》(梁は車馬通じ得る大橋)の下で會ふ約東をして待つてゐたが、女は來ない。そのうちに水がさして來たが、そこを去らず遂に橋柱を抱いて死んだといふ故事により、舊情を忘れず信義を重んずるといふほどの意に用ゐてをる。○唯羨はくは 「羨」は欲し望む意。○去留恙なく 「去」は旅に出た者、即ち旅人。「留」は都に留まつてゐるもの、即ち、この手紙を受けとる人。恙なしは無事であるの意。但、集中ではツツガとよまず、ツツミとよむ。「八九四」に「都都美無久」とある。○雲を披く 人に會ふことを尊んでいふ。徐幹の中論に「文王過2姜公(太公望)於渭陽1灼然如3披v雲見2白日1」と見える。なほ此の語、懷風藻にも見える。○龍の馬 諸註、漢語「龍馬」の直譯訓とし、周禮を引いて良大の馬とするは不可。龍の馬とは、上帝の御して天空を馳驅するといふ「天馬」の謂《いひ》で、漢書の禮樂志に「武帝天馬歌、天馬徠今龍之媒」とあるにより、天馬のことを龍媒ともいうたのである。(後には龍媒をもすぐれた馬の意に用ゐる。)さて右の典故により「龍の馬」の一語を造り、(訓讀と見る必要はない。)その内容としては「穆天子傳」等に禿八駿の傳説等を思ひよそへたものである。ここはその意。○今も得てしか 「てしか」(三九三)參照。「今も」は今直ちにもの意であると思はれる。全釋は昔あつた龍馬を現代に於ても手に入れたいと説いてゐる。
 
807 現《うつつ》には逢ふよしも無しぬばたまの夜《よる》の夢《いめ》にを繼《つ》ぎて見えこそ
 
〔譯〕 かく遠く離れてゐては、現實では逢ふ術もない。せめて夜の夢にでも絶えず見えて下さい。
〔評〕 多く歌はれてをる趣向であつて、殊に次の三首に類似してをる。「現には直《ただ》に逢はなく夢《いめ》にだに逢ふと見えこそ我が戀ふらくに」(二八五〇)「うつつには逢ふよしもなし夢にだに間無く見え君戀に死ぬべし」(二五四四)「現には言絶えになり夢にだに續《つ》ぎて見えこそ直《ただ》に逢ふまでに」(二九五九)しかし、句法の順直、構想の單調素朴さにおいて、旅人の作が原型をなしてをるやうに思はれる。それとも、洗錬を經て、形式が純化されたものであらうか。第(215)三・四・五句は「うつせみの人目繁くはぬばたまの夜の夢にを續ぎて見えこそ」(三一〇八)と同樣である。
〔語〕 ○現には 現實ではの意。「七八四」參照。○夜の夢にを 夜の夢になりとも。○繼ぎて見えこそ 絶えず見えて欲しい。
 
    答ふる歌二首
808 龍《たつ》の馬《ま》を吾《あれ》は求めむあをによし奈良の都に來《こ》む人の爲《た》に
 
〔題〕 旅人の返信に對して、更に都の人が答へた歌である。
〔譯〕 龍の馬を自分はさがし求めませう、奈良の都においでなさるといふあなたの爲に。
〔評〕 贈られた歌をそのままに受けて返したもの。「吾は求めむ」にも、眞劍なものは感じられぬ。
〔語〕 ○來む人のたに 「たに」は「ために」の意。續紀宣命「種々の法の中には、佛の大御言し國家《みかど》まもるがたにはすぐれたりと聞《きこ》しめして」(第十三詔)とある「たに」も同じ。佛足石歌の「人の身はえがたくあれば法のたのよすがとなれり」云々の「たの」も「ための」であり(以上宣長説)「‥‥のたにくすりし求む」の「たに」も、同じく「爲に」の意と説かれてゐる(新考)。但、契沖は「たに」は「ために」の略語と説いたが、これは新考のいへるごとく、「ために」と同意の別語と認めたい。
〔訓〕 ○來む人のたに 白文「許牟比等乃多仁」「仁」は紀州本のみ「米」に作る、これによる註(考・略解)もある。
 
809 直《ただ》に逢はず在《あ》らくも多く敷妙の枕|離《さ》らずて夢《いめ》にし見えむ
 
〔譯〕 直接にあなたに逢はずにゐることも長くなりますので、あなたのおほせのとほりに、自分は毎晩、あなたの枕(216)をはなれずにねて、あなたの夢に見えるやうにしませう。
〔評〕 夜の夢に繼いで見えよと云ひ贈られたに対して、枕を離れずして夢に見えよう、と答へたのである。これも、そのままに受けて返したのであるが、これには温情がこもつてをる。第一・二句は「人こがず在らくもしるし」(二五八)に似て、萬葉的古拙さをおびた句法である。
〔語〕 ○ただに 直接に。○敷妙の 枕にかかる枕詞。「七二」參照。
 
       ○
    大伴淡等謹みて?す
 梧桐の日本琴一面 【對馬の結石山の孫枝なり】
此の琴夢に娘子に化《な》りて曰く、余《われ》、根を遙島の崇き巒に託《よ》せ、〓《から》を九陽の休《よ》き光に〓《さら》す。長く煙霞を帶びて山川の阿《くま》に逍遙し、遠く風波を望みて、鴈と木との間に出入す。唯、百年の後、空しく溝壑に朽ちなむことを恐れしに、偶々《たまたま》良き匠に遭ひて、削《かざ》りて小琴に爲《つく》らゆ。質の麁《あら》く音の少きを顧みず、恒《つね》に君子《うまびと》の左琴とあらむことを希ふといへり。即、歌ひて曰く
810 如何《いか》にあらむ日の時にかも聲知らむ人の膝《ひざ》の上《へ》我《わ》が枕《まくら》かむ
 
〔題〕 天平元年十月七日に、大伴淡等(旅人)が、中衛高明閣下(藤原房前)に進上するに添へた歌二首である。趣意を神仙譚になぞらへ、夢中の問答の體になつてゐて、これは琴の化した娘子の歌になつてをる。
〔譯〕 大伴淡等謹んで申します。
 梧桐の日本琴一面 【對馬の結石山の孫枝である】
(217) この琴が夢に娘子になつて云うたことには、自分は遙かな島の高い山(對馬の結石山)に根をおろし、幹を太陽の美しい光にさらしてゐました。久しく霞に包まれて山川の間に氣ままに自適し、遠く風波を望んで、用材になるとならないと、どつちつかずの生活をしてをりましたが、唯、誰にも用ゐられないで、百年の後に空しく溪間に朽ちはてることを恐れてゐました。ここに思ひかけずも良き工匠に逢うて、ふつつかながら小琴に造られました。音色が惡く音量の少いのを顧みないで、君子に愛されて、常にお側《そば》の手馴の琴とならうと願つてをりますと。而してうたつた歌は次のごとくである。
 如何なる日の、いづれの時にか、琴の音のよしあしをよく聞き分ける人の膝の上に、私は枕をすることでありませうか。どうか、音をよく聞き分ける人の膝の上で、彈いてもらひたいものであります。
〔評〕 大陸文學の教養のもとに現實を眺めてをる。神仙譚的の氣分をもつて、現實を夢想化したのである。外國文學に通じた當時の文化人の精神生活を思はしめる。形式は「如何《いか》ならむ日の時にかも吾妹子が裳引《もびき》の容儀《すがた》朝にけに見む」(二八九七)に似てをる。
〔語〕 ○大伴淡等謹みて?す 「淡等」はタビトと訓む。旅人を唐風に書いたもの、旅人が藤原房前に琴を贈つた時添へた手紙。古義がこれを「八〇七」の次に移してゐるのは臆斷である。○梧桐 和名抄に「陶隱居本草注云桐有四種青桐梧桐崗桐椅桐(和名皆木里)梧桐者色白有v子者今按(俗訛呼爲2青桐1是也)」とあり、齋民要術に「梧桐山石間生者、爲2樂器1則鳴」と見える。○日本琴 和琴のこと、和名抄に「躰似v筝而短小有2六絃1俗用2倭琴二字1夜萬止古止」、延喜式に「和琴一面長六尺二寸」とある。○結石山 結石はユヒシ(或はイシ)とも、ユフシとも訓める。姑く前者に從つておく。今はユヒイシといふ。對馬上縣郡。北島の北部にある。○孫枝 幹から側に生えた枝。ひこばえ。文選に見える※[禾+(尤/山)]康の琴賦に「乃〓2孫枝1准2量所1v任至人※[手偏+慮]v思制爲2雅琴1」によつたものと思はれる。○根を遙島の崇き巒に託せ 遙島は遙かなる島の意で對馬をさし、崇は高いの意で、高山の意、ここは結石山。上記の琴賦(218)に「惟椅桐之所v生兮、託2峻嶽之崇岡1」云々とあるによつたのであらう。○〓《ほら》を九陽の休き光に〓《さら》す 「〓」は幹。九陽は日或は日光。九をそへるのは陽の數であるからである。休き光はよい光、或は美しい光。〓は日に暴《さら》すこと。これも琴賦に「吸2日月之休光1欝紛々以獨茂兮、飛2英〓於昊蒼1夕納2景千虞淵1兮、且〓2幹於九陽1」とある。○山川の阿 阿は隈《くま》に同じ。山川の隅々の意であるが、ここは山川の間といふほどの意。○逍遥 さまよふこと。○鴈と木との間に出入す 莊子の弟子が、役に立たない木(即ち不材)が伐り取られず自らの天命を終へることができ、鳴くことのできる雁(即ち役に立つもの。材)は生き、鳴けない雁は殺して烹られたといふ話を莊子から聞き、その翌日莊子に「昨日の山中で見ました木は不材なるを以てその天年を終ることを得、その後でお話になりました雁は不材を以て死にました。先生は、どちらを眞理としてお從ひになりますか」と問うたに對し、莊子は答へて「自分は材と不材との二つの眞實の間にある眞理に從はうと思ふ」といつたといふ莊子山木篇に見える故事によつたもので、用ゐられると用ゐられぬとの間にゐたの意。○溝壑 壑は谷。谷間の意。○良匠 良い工人。○質麁く 音色が惡く。○君子の左琴 左琴は古列女傳に「君子左v琴右v書樂在2其中1」とあるによる。君子の座右の琴の意。○聲知らむ 音のよしあしを知る。列子に見える伯牙と鍾子期の知音の故事に據ると契沖は云つてをるが、直接の影響とは考へられない。但、伯牙彈琴と稱する圖柄が彷製鏡背にも用ゐられてゐて、この故事が當時の人に親しかつたことは、認められる。○まくらかむ まくらくは枕するの意。琴を膝の上に載せて彈くことを、琴の娘子から枕するといつたもの。
〔訓〕 ○敢 諸本「散」とあり、古義には「散の字ならむといふ説あり。さもあるべし」とあるが「※[昔+立刀]」の誤とする説による。
 
    僕詩詠に報へて曰はく
811 言《こと》問《と》はぬ樹にはありともうるはしき君が手慣《たなれ》の琴にしあるべし
(219)     琴の娘子答へて曰く、敬ひてコ音を奉《うけたまは》りぬ、幸甚幸甚といへり。片時にして覺《おどろ》き、夢の言に感《かま》け、慨然として黙止《もだ》をることを得ず。故《かれ》、公使《おほやけつかひ》に附けて、聊以ちて進御《たてまつ》るのみ。謹みて?す。不具。
    天平元年十月七日 使に附けて進上《たてまつ》る。
 謹みて中衛高明閣下に通ず 謹空
 
〔題〕 僕詩詠に報へて曰はく 僕は旅人、詩詠は前の娘子の歌(實は旅人の作)をさす。
〔譯〕 あなたは物を言はぬ木ではあるが、必ずや、立派なお方の愛用の琴となるであらう。
 琴の娘子が答へて申しますには、喜きお言葉をいただいてまことに幸甚《しあはせ》でございます、と。つかの間に自分は眼がさめました。そこで、夢の娘子の言葉に感じ、そのまま黙つてゐることができませず、そこで公使に託して、進上するのであります。謹んで申しあげます。
 天平元年十月七日 使に附けて進上いたします。
 謹んで中衛高明閣下に差出します。謹空。
〔評〕 夢の娘子の歌に對する答へとして、構想をたてたものである。房前卿に琴を贈る意を、おもしろく述べたのである。
〔語〕 ○言問はぬ ものを言はぬ。○君が手慣の あなたが使ひなじむ。君は房前をさす。○コ音 善言の義、毛詩に見える。即ち、結構なお詞の意で「言問はぬ」の歌をさす。○幸甚幸甚 ここまで娘子の語。○感《かま》け 感じ。○慨然 深く感じる貌。○公使 公の使。○中衛 中衛府で、宮闕守護のことを掌る。神龜五年八月始めて置かれた。此の時房前が長官であつたものと思はれる。公卿補任に、房前が天平二年十月一日任中衛大將とあるのは、これによつて訂すべきであらう。○高明 相手のコを稱へた語。○閣下 尊稱。○謹空 謹んで餘白をのこす意。書牘の終りに(220)空白を殘すのは、先方に敬意を表するのである。房前は、懷風藻に「贈正一位左大臣藤原朝臣總前三首年五十七」と見え、不比等の第二子である。大寶三年正月正六位下で東海道を巡省せしめられてより、養老元年十月に參議、天平元年九月に中務卿、四年八月には東海東山二道節度使となり、九年四月正三位で薨じたが、同年十月に正一位左大臣を、天平寶字四年には太政大臣を追贈された。武智麻呂を南卿といふに對し、房前を北卿と稱してゐる。
 
    ○
 跪きて芳音を承り、嘉懽|交《こもごも》深し。乃ち知りぬ、龍門の恩、復《マタ》蓬身の上に厚きことを。戀望殊念、常の心に百倍せり。謹みて白雲の什に和《こた》へて、以ちて、野鄙の歌を奏《マを》す。房前謹みて?す。
812 言問《ことと》はヌ木にもありとも我《わ》我が背子《せこ》が手慣《たなれ》の御琴《みこと》地《つち》に置かめやも
     十一月八日 還る使の大監に附す。
 謹みて尊門の記室に通ず。
 
〔譯〕 跪いて御?を拜誦し、まことにうれしく、喜ばしくあります。そこで拙生は、かの龍門の風流の選に入れられるごとき貴下の御恩惠が、不肖の上にも厚いことをしみじみ思ひました。それにつけても、貴下を遙かに戀ひ慕ふ心が、平生に百倍しました。茲に謹んで貴下の調高い白雲のごとき御作にお和《こた》へして、拙生の下手な鄙《ひな》びた歌を申し上げます。房前謹言。
 物を言はぬ木でも、これはあなたの御愛用の琴であるから、土に置くやうなことを致しませうか。膝において大切に愛用いたしませう。
〔評〕 謝意はあふれてゐるが、現實的になつてしまつた。旅人が構想した折角の神仙趣向は、すつかりこはされてをるというてよい。
(221)〔語〕 ○芳言 他人の手紙に對する敬稱。旅人の手紙をさす。○嘉懽 「嘉」も「懽」も共に喜ばしいの意。○龍門の恩 龍門は諸註すべて後漢書の李膺傳の故事、即ち李膺の門に入ることの難きを龍門山に登るに比したことによつてゐるとするが、この場合ふさはしくない。ここは南史に見える龍門の遊の故事に據つたものである。南史、陸※[人偏+垂]傳に曰ふ「任肪爲2中丞1、簪裾輻輳、預2其讌1者、殷藝、到漑、劉苞、劉孺、劉顯、劉孝綽及※[人偏+垂]而巳、號2龍門之遊1、雖2貴公子孫1不v得v預也」と。即ちここはかかる風流の選に入れられたとをコとしたのである。殊に兩者の身分上から云つても李膺の故事はふさはしくない。○蓬身 蓬のごとく卑しい身。○戀望の殊念 旅人を戀ひ慕ふ強い思。「殊」は、とりわけ甚しいの意。○白雲の什 什は作の意。旅人の作品をほめたもの。攷證は、穆天子傳に「天子觴2西王母于瑤池之上1、西王母爲2天子1謠曰、白雲在v天山陵自出」云々とあるによるといふが(懷風藻にも「豈獨瑤池上、方唱白雲篇」の句がある)、ここは、旅人の作の高尚なるを白雲に譬へたのであらう。○我が背子 旅人を親しんで呼んだもの。○地におかめやも 「地におく」は下に置く、粗末に扱ふの意。○還る使 用を濟ませて、都から太宰府へ還る使。○大監 ここは大監大伴百代をさす。○尊門 旅人の家を尊んでいふ。○記室 書記生の意。今も用ゐる侍史・侍曹に同じ。相手を尊んで直接に差出さぬ意。
 
    ○
 筑前の國|怡士《いと》の郡深江の村|子負《こふ》の原、海に臨める丘の上に二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、圍《かくみ》一尺八寸六分、重さ十八斤五兩、小きは長さ一尺一寸、圍一尺八寸、重さ十六斤十兩、并に皆楕圓にして、?《かたち》鷄子《とりのこ》の如し。其の美好《うるは》しきこと論《あげつら》ふに勝《た》ふ可からず。所謂《いはゆる》徑尺の璧是なり。【或は云ふ、此の二つの石は肥前の國彼杵の郡平敷の石、占に當りて之を取れりと。】深江の驛家《うまや》を去ること二十許里、近く路の頭《ほとり》に在り。公私の往來に、馬より下りて跪拜《をろが》まずといふこと莫し。古老相傳へて曰く、往昔《いにしへ》息長足日女命《おきながたらしひめのみこと》、新羅の國を征討《ことむ》けましし時、茲の兩つの石を用《も》ちて、御袖の中に挿《さしはさ》(222)み著けて、以ちて鎭懷《しづめ》と爲したまひき。
813 懸《か》けまくは あやに畏《かしこ》し 帶比賣《たらしひめ》 神の命《みこと》 韓《から》國を 向《む》け平《たひら》げて 御心《みこころ》を 鎭め給ふと い取らして 齋《いは》ひ給ひし 眞珠なす 二つの石を 世の人に 示し給ひて 萬代に 言ひ繼《つ》ぐがねと 海《わた》の底 奧《おき》つ深江《ふかえ》の 海上《うなかみ》の 子負《こふ》の原に み手づから 置かし給ひて 神隨《かむながら》 神《かむ》さび坐《いま》す 奇魂《くしみたま》 今の現《をつつ》に 尊きろかも
 
〔譯〕 筑前の國|怡土《いと》の郡深江の村|子負《こふ》の原の、海に臨んだ丘の上に二つの石がある。大きい方は長さが一尺二寸六分、、周圍が一尺八寸六分、重さが十八斤五兩ある。小さい方は長さが一尺一寸、周圍が一尺八寸、重さが十六斤十兩ある。二つとも楕圓形で、その有樣は鷄卵のやうである。其の美しいことは言葉でいひ表はすことが出來ない。唐土で謂ふ徑尺璧とはこのことである。(或説では、此の兩石は、肥前の國彼杵の郡平敷にあつた石で、卜占に中《あた》つたので、運んで來たのであるといふ。)この石は、深江の驛家を距る二十里ばかりの所で、道路の近傍に在るので、公私の往來の人々は、馬から下りて跪いて拜せぬ者はない。古老が相傳へて言ふには、往昔、神功皇后が新羅の國をお討ちなされた時、この二つの石を御衣の袖の中にお入れになつて、心を落ちつけようとなさつたものである。(まことは、その石を御裳の中に入れられたのである。)それで道行く人々が、この石を敬ひ拜するのであるとのことである。乃ち歌を作つていふ。
 言葉にかけて申上げるのも、まことに恐多い。息長帶姫の神さまが、三韓の國を歸服平定しようとして、御心をお鎭めなさるために、お取り上げになつてお祀りになつた、玉のやうな此の二つの石を、世の人にお示しになり、後の世永く言ひ傳へてゆくやうにと、深江の村の海の邊なる子負の原に、御手づからお置き遊ばされて、神でいらせられ(223)るままに神として在る靈妙な魂の此の石を、いま現在目の前に見て、まことに尊いことである。
〔評〕 自然に對する驚異と崇敬とから、奇異なる形のものにいはれを結びつけ、或は傳説を附會することは、民間にあつてはよく行はれるところである。かたち鷄子のごとき、美好《うるはし》き石をめぐつて、かかる傳説の生じたことも無理はない。この傳説は、筑前風土記や筑紫風土記、その他記紀にも見えてをる。
 此の歌の作者は、從來目録等により憶良の作とされてをつたが、最近、全釋、新釋等の説により憶良に替つて、旅人が作者に擬せられ、この説が有力となつてゐる。しかしこれは、武田博士もいはれた通り、傳へ聞いて詠んだ歌で、作者の實見を待つを要せぬのであるし、別に旅人の作とすべき理由もない。積極的に憶良の作とすることは出來ぬが、まづ、旅人は卷三に儀禮的な一首を作つたほかは、長歌を殘してゐない。また用字上からいつても、最近大野保氏が論ぜられたごとく、原作者の用字が殆どそのまま傳へられたものとすれば、旅人のよりも憶良の用字に近いといふ事實がある。更に詮索すれば、もし梅花三十二首、遊松浦河、竝に宜の作が、きりはなすことの出來ぬ一聯の贈答であると見ると、詠鎭懷石はそれと甚だ近い關係にある。憶良の七月十一日の「八六八」以下三首を説明する爲に、現在の順序にあることが、憶良の作として最もふさはしい。もし旅人の作であるならば、宜へは梅花と松浦との風流のみが示され、憶良へは松浦と鎭懷石とが示された筈である。さうすれば、鎭懷石は、宜の返書の後、憶良の七月十一日の前にあつて然るべきであると考へられるのである。即ち、古來の説のごとく憶良の作と見るべきであらう。
〔語〕 ○怡土《いと》の郡深江の村|子負《こふ》の原 怡土郡は今の糸島郡に屬す。深江村は今も深江村といひ、肥前の國境に近い海岸の驛で、子負の原は、今、子負原八幡が祀つてある地といふ。○十八斤五兩 十六兩が一斤(百六十匁)にあたる。○鷄子 鷄卵。○徑尺璧 徑一尺もある大きな寶玉。淮南子に「聖人不v貴2尺之璧1而貴2寸之陰1」などと貴いものの比喩に用ゐられてゐる。○肥前の國彼杵の郡平敷 彼杵郡は今長崎縣に屬する。平敷は浦上村平野宿といふ説(記傳)もあるが明かでない。○占に當りて之を取る 占ひをして見ると、平敷の石がよいといふので、そこから運んで(224)きたの意。○深江の驛家を去ること二十許里 二十許里は現存の遺跡と相違し、全釋には、左註に此の話を語つたといふ牛麿の言ひ誤りか作者の聞き誤りかであつたのであらうといつてゐる。○息長足日女命 神功皇后。○御袖に挿みつけて 古事記仲衷天皇の條には「故其政未v竟之間、其懷姙臨v産、即爲v鎭2御腹1取v石以、纒2御裳之腰1而、渡2筑紫國1、其御子者阿禮坐(中略)亦所v纒2其御裳1之石者在2筑紫國之伊斗村1也。」とあり、その他、書紀、筑紫風土記、筑前風土記も腰に挿みと傳へてゐる。○鎭懷 御心をしづめ落ちつけ給ふ意。○懸けまくはあやに畏し 「四七五」參照。これを次の「たらしひめ」にかかり、終止形を連體ニ用ゐたものとする説(總釋)もあるが、普通の説のやうにここで切つて解するがよい。○帶比賣 息長足姫の略、神功皇后、○向け平げて 「むけ」は背いてをる者を此方へ向かせる義で、服從させるの意。○い取らして お取りになつて。○御心を鎭め給ふ 三韓を平定して御心を安らかにしたまふの意。御産の心、又は御産の氣配を鎭めるために石を取つてつけられた、と解するのはこの歌の意とはちがふ。元來、萬葉所傳の鎭懷石傳説が、此の傳説の原形を傳へた、從つて古いもので、他書の所傳にはいづれも地名起原説話の口吻が見え、且つ兒饗原といひ、子負原といふ地名が「こうむ」に通ふので、此を姙産のことと關聯せしめるに與つたものに、肥前風土記神埼郡船帆郷の靈石説話がある。傳説所載の多寡といふことは、必しもその所傳の古く正しいといふことを決定しないのである。○いはひ給ひし 祀り祈り給うた。○海の底奧つ深江 「海の底奧つ」は深江の「深」にかかる序。○奇魂 鎭懷石をさす、靈妙な働のある意でいふ。○をつつ うつゝに同じ、現在。○たふときろかも 尊いことであるよ。「ろ」は「五三」參照。なほ「かも」は原文可※[人偏+舞]であるが、今「かも」とよんでおく。
 
814 天地の共に久しく言《い》ひ繼げと此の奇魂《くしみたま》敷《し》かしけらしも
     右の事傳へ言へるは、那珂《なか》の郡の伊知《いち》の郷《さと》蓑島《みのしま》の人建部牛麻呂なり。
 
(225)〔譯〕 天地の久しきと共に絶ゆることなく永久に、言ひ傳へ語り繼ぐやうにと思召して、神功皇后はこの靈妙な魂の石をお置きになつたのであらう。
 この石の話を傳へて語つたのは、那珂郡伊知郷蓑島の人で、名は建部牛麻呂といふ人である。
〔評〕 古の形見を尊び、傳へを重んじた上代人の思想を知ることができる。言ひ繼ぐといふことに誇をかけて、神功皇后の思召を推測しまつつたのである。堂々たる格調である。この下に、領巾麾《ひれふり》の嶺の歌に追加した旅人卿の歌のなかに「萬代に語り繼げとしこの嶽《たけ》に領巾《ひれ》振りけらし松浦左用比賣」(八七三)とある。
〔語〕 ○天地の 「の」は「共」につづく。「共」は、古くは「友」と同じく「同類」「等類」の意の名詞であつた。後世は「共に」が「相竝んで」「一緒に」の意の副詞となり、意は「と共に」といふ。○言ひ繼げと 「繼げ」は命令形。「と」は、といつて、といふので、の意。○しかしけらしも 「しく」は置くの意。○那珂郡 那珂川の流域で今の福岡市南方地帶(筑紫都)に當る。○伊知郷蓑島 和名抄に見える海部郷(今の福岡市住吉)のことと大日本地名辭書にある。今、福岡市の南部を蓑島と呼んでゐる。
 
    梅花の歌三十二首并に序
  天平二年正月十三日、帥の老《おきな》の宅《いへ》に萃《あつま》るは、宴會を申《の》ぶるなり。時に初春令月、氣|淑《よ》く風|和《なご》み、梅は鏡の前の粉を披き、蘭は珮の後の香を薫らす。加以《しかのみならず》、曙の嶺に雲移り、松、羅《うすもの》を掛けて蓋《きぬがさ》を傾け、夕の岫《くき》に霧結び、鳥、穀《となみ》に封《こ》めらえて林に迷ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故《もと》つ鴈歸る。ここに天を蓋《きぬがさ》にし、地を座《しきゐ》にし、膝を促《ちかづ》け觴を飛ばす。言を一室の裏《うち》に忘れ、衿《えり》を煙霞の外に開き、淡然として、自《みづか》ら放《ほしきまま》に、快然として自ら足る。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情を※[手偏+慮]《の》べむ。詩に落梅の篇を紀《しる》せり。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を賦《うた》ひて、聊《いささか》、短詠を成すべし。
(226)815 正月《むつき》立ち春の來《きた》らば斯《か》くしこそ梅を折りつつ樂《たの》しき竟《を》へめ 大貳紀卿
 
〔題〕 天平二年正月十三日に、太宰帥旅人の宅に開いた宴會に列席した主人旅人竝に官人の、梅花の歌三十二首である。此の序文の作者には疑問がある。先づ「帥老之宅」の「帥老」を尊稱と見る時は「帥老」は旅人のことを憶良もしくはその宴席に列せる人から云うたことになり、從つて、序の作者は旅人ではないことになる(黒川博士等)。また、帥老を自稱と見る時は、旅人の作となる(武田博士等)。しかし「天平二年正月十三日」と云ひ、重ねて「于時初春令月」と云ひ、以下の敍景文も、宴主の筆としては著しく客觀的である。思ふにこの序文は、強ひて作者の名を表はさず、合作の趣にとりなしたもので、從つて作者の名は審にし難いと云うたがよいであらう。
〔譯〕 天平二年正月十三日、帥の老《おきな》の宅に集つて宴會を開いた。時は初春のよい月で、氣候はよく風はなごやかに、梅はあたかも鏡の前の美女の白粉のごとく麗しく咲き、蘭はまるで佩香(にほひぶくろ)の後《うしろ》にゐるやうな薫香を發してをる。そればかりではなく、曙の嶺は雲を往き交はせ、松の枝は雲のうすものをかけ、きぬがさの枝を傾けたやうであり、夕方の山の洞には霧が立ちこめ、鳥は鳥網のごとき霧にさへぎられて、塒を求め得ず林の中に迷うてをる。庭には新に生れでた蝶が舞ひ、空には去年來た雁が歸つてゆく。この庭に、天を蓋《きぬがさ》にとりなし、地を坐席として宴樂し、互に膝を近づけて盃を取りかはす。興に乘じてはいふべき言葉をも忘れ、而して互に胸襟をひらき、外景を眺めてうちとけ、心しづかにとらはれるところなく、快くして自ら滿ち足りてをる。若し文章によらなかつたならば、何を以つて情をのべよう。毛詩には「落梅」の篇を載せてゐる。古へ今といへど、何の相違があらうか。我々も宜しく園の梅をうたうて、短歌に裁《つく》るべきである。
 正月になつて、春が來たならば、この後も毎年、かういふやうに、梅を折りかざして、樂しいことの限を盡しませう。
(227)〔評〕 その日の梅花の宴の如何に樂しかつたかは「斯くしこそ」の一句に、簡明に云ひ籠められてゐる。「梅を折りつつ」春を送らうとするのは、まさに「淡然として自らほしいままに、快然として自ら足る」心境であらう。「樂しき竟へめ」はもとより、全體にさりげなく詠みながら、古淡雅馴のにほひのする歌である。
〔語〕 ○宴會を申ぶ 宴會を開く。申ぶは舒ぶの意。○令月 よき月。○氣淑く 「淑く」は善の意で特に春の氣にいふ語。○鏡の前の粉 代匠記に武帝の女、壽陽公主の額に梅花がおち、拂つても去らなかつた、それから「梅花粧」といふものが起つたといふ宋書(初學記か)の故事を援《ひ》き、これによつたものであるといふが、いかがであらう。鏡臺の前の白粉のやうにの意でもあらうか。○珮の後の香を薫らす 珮の字は佩に同じく玉を飾つた帶の義。楚辭離騷の「※[糸+刃]2(諸註紐に作るは非)秋蘭1以爲v佩」によるといふ。併し、ここの字面では、その影響を考へなくとも解せられる。即ち珮即ち佩は佩香のことで「にほひぶくろ」の意と見れば明かである。○松羅を掛けて蓋を傾け 松につぶりごげのかかつた樣子が蓋を傾けたやうであるの意。羅は蘿に通じたものと思はれる(攷證)。また羅はうすもので、松に雲が掛つた形容、蓋は松の梢にたとへたといふ説(新考)もある。姑く後説に從ふ。○夕の岫 曉の雲の對句。岫は山の穴あるもの。山の洞。○鳥穀に封めらえ となみは鳥を捕る網、霧を譬へたもの。○膝を促《ちかづ》け觴《さかづき》を飛ばす 膝を進め近づけ、盃をかはす。○言を一室の裏に忘れ 言ふことを忘れるほど興ずること、王羲之の蘭亭記に「悟2言一室之内1」とあるのによつたのであらう。○衿を煙霞の外に開き 煙霞に對して、胸襟を開く意であらう。うちとけて遊ぶ意。○淡然 あつさりとの意。○放に ほしいままに。自由に。○快然として自ら足る 蘭亭記に、「暫得v己快然自足」。○翰苑 翰は筆。苑は多いの意。多くの文筆の謂。○詩に落梅の篇を紀せり 詩經(國風)に、※[手偏+票]有梅の篇あるをいふ。(※[手偏+票]は落ちる意。梅の實の落ちるのをいうたのである。)○むつき立ち 「むつき」は正月、「立ち」は始まる、起るの意。○樂しき竟へめ 「樂しき」は樂しき事の意。「竟へめ」は「竟ふ」に助動詞「む」の已然形のついたもの。「新《あらた》しき年の始にかくしこを千年をかねて樂しき竟へめ」(琴歌譜)○大貳紀卿 太宰大貳紀氏(228)の意で、名はわからない。但、大貳は四位の官であるのに、公卿の敬稱である「卿」を用ゐたのは、當日の主賓として敬意を拂つて流用したものかといはれてゐる。
 
816 梅の花今咲ける如《ごと》散り過ぎず我《わ》が家《へ》の苑にありこせぬかも 少貳小野大夫
 
〔譯〕 梅の花が、今美しく咲いてゐるやうに、いつまでも散つてしまはずに、この家の園にあつてくれぬかなあ。
〔評〕 梅花の散るを惜しむ情が、大きくのびのびと、しかも古格を以て表現せられ、まことに春日の遲々たるがごときうたひぶりである。卷十にも、似た構想の作がある。「吾妹子にあふちの花は散り過ぎず今咲ける如《ごと》ありこせぬかも」(一九七三)。
〔語〕 ○我が家 作者自身の家のことではない。我が今をる旅人の家のこと。○ありこせぬかも あつて欲しいことである。「一一九」參照。○少貳小野大夫 小野老のこと。「三二八」參照。
 
817 梅の花咲きたる苑の青柳は蘰《かづら》にすべく成りにけらずや 少貳粟田大夫
 
〔譯〕 梅の花が咲いてゐる此の園の青柳は、蘰にするによいやうになつたではありませんか。
〔評〕 梅花の白いに配するに、青柳の緑、古人は色彩の調合をよく心得てゐたものである。早春の新粧、まさに、風情は成つた。いざ友よ、折りとつて、蘰にしよう、と心いさむ樣子がみえる。
〔語〕 ○蘰にすべく 柳を蘰にした例は「一八四六」「一八五二」等、多い。○粟田大夫 續紀に、天平四年造藥師大夫、十年六月に武藏守從四位下で卒したとある粟田朝臣人上と同人であらうといはれてゐる。
 
818 春されば先《ま》づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 筑前守山上大夫
 
(229)〔譯〕 春になると、先づ一番始めに咲くこの家の梅の花を、ただ自分ひとりで眺めつつ春の日を暮らさうか。皆と共に樂しまう。
〔評〕 調子がのびやかで、うららかな春日の氣分にふさはしい。梅の花を愛し、うち群れて宴樂することを好む當時の文化人の面目躍如としてをる。
〔語〕 ○先づ咲く 他の花よりさきに、第一番に咲く。漢土では古くから梅のことを「花魁」といふのも同一の思想である。○ひとり見つつや ひとり見つつ暮さむやの意。○山上大夫 憶良。
 
819 世の中は戀繁しゑや斯《か》くしあらば梅の花にも成らましものを 豐後守大伴大夫
 
〔譯〕 世の中は、物思ひが繁くうるさいものであるよ。かうして苦しい思ひをしてゐるくらゐならば、むしろ梅の花にならうものを。
〔評〕 男女間の交渉のみならず、人事の繁忙をはなれて、このよき花と相合したいといふ願ひが認められよう。幸福な忘我恍惚の境地において自然と融合せんとすることは、今日の我等もまた同感し得るところである。梅花を愛すること深き萬葉人が、人間の心をはなれて、梅花の清きに化したいといふ望も當然のことであらう。
〔語〕 ○戀繁しゑや 「ゑ」「や」は共に感動の助詞。「戀しげし」で切つて「ゑや」を「よしや」の意とする説(代匠記一説、考)は誤。○斯くしあらば かやうに戀しげくあるならば。○豐後守大伴大夫 代匠記に大伴三依(「五五二」の題詞參照)としてゐるが、續紀に見える大伴御依は天平二十年に正六位上から從五位下になつたのであるから、この天平二年に五位に相當する豐後守にあつたとは思はれぬといふ説(攷證、古義等)がある。しかし三依が太宰府にあつた事はほぼ明かである(五五六參照)から、これは三依とすべきであらう。さうすると、御依と三依と同人とする説は成立しないと全釋には云つてゐる。なほ考ふべき所である。
 
(230)820 梅の花いま盛なり思ふどち挿頭《かざし》に爲《し》てな今さかりなり 筑後守|葛井《ふぢゐ》大夫
 
〔譯〕 梅の花は、今が盛である。心の合うた友だちと、挿頭の花にしよう。今がさかりである。
〔評〕 梅花はまさに滿開である。いざ折り挿頭して樂しまう、といふのである。梅花をかざして宴樂することは、風流これにまさるものはないであらう。いかにも春光融々たるにふさはしい格調である。
〔語〕 ○思ふどち 氣のあつた親しい人たちどうし。「思ふ人どち」(一五五八)と同意。○かざし 「かざす」(三八)の名詞となつたもの。頭髪の飾。○してな 「な」は願望の助詞。○葛井大夫 「五七六」參照。
 
821 青柳《あをやなぎ》梅との花を折りかざし飲《の》みての後は散り沢ともよし 笠沙彌
 
〔譯〕 青柳と梅の花とを折つて挿頭にして、皆樣と酒を飲んで遊んだ後は、梅の花は散つてしまつてもかまはない。
〔評〕 挿頭は、配合うるはしき、新緑の青柳と早春第一の花とである。つどふは風流の友。酒はある。かくして、飲みての後に思ひ殘すことがあらうか。宴の興の移ろふ寂しみを思はぬところが素朴で、豪放な云ひ捨て樣で頗る萬葉的である。大伴坂上郎女はこれを學んだのであらう。「さかづきに梅の花うかべおもふどち飲みて後には散りぬともよし」(一六五六)と詠んでをる。
〔語〕 ○青柳梅との花を 「青柳と梅との花を」の意を略したもの。但、これをこのままみると青柳の花と梅の花との意になるが、青柳の花を歌つた例はなく、花は梅だけに結びつくもので、この言ひ方は特殊感情を尊重した作者の故意の文法破棄と解される。(吉澤博士、萬葉集講座言語研究篇)○笠沙彌 沙彌滿誓のこと。「三九一」參照。沙彌を俗人の名とする(略解等)は誤。
 
(231)822 わが苑に梅の花散るひさかたの天《あめ》より雪の流れ來《く》るかも 主人
 
〔譯〕 自分の家の園に、梅の花が散つてゐる。否、あれは梅の花ではなくて、天から雪が流れるやうに斜に降つて來るのであらうか。
〔評〕 梅花の散るを雪と見まがうたといふ趣向は、この三十二首の中にも、他に二首あつて、集中に珍しくない。たとへば「春の野に霧立ち渡り降る雪と人の見るまで梅の花散る」(八三九)「妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも」(八四四)「深雪かはだれにふると見るまでに流らへ散るは何の花ぞも」(一四二〇)などある。
しかし、それらはいづれも、落花を降雪に見まちがへたといふ説明になつてゐて、歌詞の修飾にもかかはらず、動きに乏しい。それに反して、この歌は、寫實的に動きをとらへてをる。また、第一、二句で、ありのままに梅の花が散ると云ひ切つてゐながら、第三句から新たに云ひおこして降雪かと疑つたあたり、ふと、雪ではないかと見あやまつた趣があつて、おもしろく感じられる。なほ、降るのを流れるといふ例も珍しくはないが、春風に舞ひおちてくる樣が見えて、風情なしとは云へぬ。
〔語〕 ○流れ來るかも 「か」は疑問「も」は詠歎の助詞。「流れ來る」は降つて來ること。「天《あめ》の時雨の流らふ見れば」(八二)參照。○主人 恐らくは旅人の自記であつて、以上笠沙彌までは「卿」又は「大夫」とよばれるやや高位の部下で、主賓ともいふべく、これを始めに書き、かつ姓のみで名を記さない。以下は大監以下の下級の官吏である。
 
823 梅の花|散《ち》らくは何處《いづく》しかすがに此の城《き》の山に雪は降りつつ 大監《だいげむ》伴氏|百代《ももよ》
 
〔譯〕 梅の花が散ると云はれるが、梅の花の散るのは何處であらうか。しかし、まだ春は淺くて、この城の山に雪が(232)降つてをる。
〔評〕 百代が城の山を通つた時の景を、この宴席で詠んだのであらう。卷十には「うち靡く春さり來ればしかすがに天雲《あまぐも》霧《きら》ひ雪は零《ふ》りつつ」(一八三二)とある。
〔語〕 ○散らくは何處 「く」は用言を體言化するもの。散つてゐるのは何處かの意。○しかすがに しかしながら、それでもなほ。○此の城の山の 城の山は「五七六」參照。城の山と作者の位置について、古義の、今現に城の山にあるがごとくに見たのはよくない。しかし、新考に云ふ目前に梅花の散るを見ながらわざと身を城の山道において讀んだといふ説と、總釋の旅人の歌をうけて雪(上句)と梅(下句)とを配し、今目の前に見える城の山をもちだし、現在雪が降つてゐずとも言葉のあやとして「雪は降りつつ」としたものであるといふ二説があつて、いづれとも決定し難い。○大監件氏百代 大伴百代。「三九二」參照。件氏とは大伴を唐風に略したのである。
 
824 梅の花散らまく惜しみ吾が苑の竹の林に鶯鳴くも 少監阿氏|奧島《おきしま》
 
〔譯〕 梢の花の散らうとするのが惜しさに、自分の苑の竹の林で、鶯が鳴くことであるよ。
〔評〕 長閑な氣分の歌で、平凡に見えながら調子に弛みのないところ、まろらかにこなれた暢達の手竝を思はせる。
〔語〕 ○少監阿氏奧島 少監は大監に次ぎ、職掌は大監に同じ。阿氏は、阿曇もしくは阿部、阿刀などの略であらう。奧島は傳不詳。
 
825 梅の花咲きたる苑の青柳を蘰《かづら》にしつつ遊び暮らさな 少監土氏|百村《ももむら》
 
〔譯〕 梅の花が咲いてゐる園の青柳を、蘰にして、梅の花を眺めつつ、遊び暮したいものである。
〔評〕 梅花の園に、うつりよく緑の絲をのばしてをる青柳を蘰にして、梅を愛で樂しまう。梅の鑑賞に一段の興を添へようといふのである。のびやかに、淡雅な歌調である。
〔語〕 ○暮らさな 「な」は願望の助詞。○少監土氏百村 續紀養老五年正月の條に、詔して退朝の後東宮に侍せしめられた人の中に、憶良と竝んで正七位上土師宿禰百村とある人であらう。
 
826 うち靡く春の柳と吾が宿の梅の花とを如何《いか》にか分《わ》かむ 大典史氏大原
 
〔譯〕 麗はしい春の柳と、家の梅の花との優劣を、何と判斷したものであらう。
〔評〕 梅と柳との優劣を定め難いといふ裏には、その配合を好む心を含んでゐるのである。卷十にある「白露と秋の萩とは戀ひ亂り別《わ》くこと難き吾が情《こころ》かも」(二一七一)に似たところがあらう。
〔語〕 ○うち靡く 「はる」にかかる枕詞。「四七五」參照。○如何にか分かむ その優劣をいかに區別しようか。どちらも面白くて優劣はわからないの意。○大典は、職員令に、「太宰府、大典二人、掌d受v事上抄勘2署文案1檢2出稽失1讀c申公文u。少典二人、掌同2大典1」とある。史氏は史部氏の略であらう。大原は傳不詳。
 
827 春されば木末隱《こぬれがく》りて鶯ぞ鳴きていぬなる梅が下枝《しづえ》に 少典山氏若麻呂
 
〔譯〕 春になつたので、梢の茂みにかくれて、梅の香を慕うて鶯が木傳ひ來て、梅の下枝で鳴いては飛び去つてゆくらしい。
〔評〕 梅の香を求めて、園の木々の梢の茂みがくれに、鶯が何處からともなく慕ひより、やがて梅の下枝に姿をあらはして、鳴いて去つてゆく、といふのであらう。やや言葉の足らぬ感がある。
〔語〕 ○木末隱りて 梢の蔭にかくれて。木末《こぬれ》は「木《こ》の末《うれ》」。○いぬなる 「いぬ」を眞淵、雅澄が寢るの意としたのは誤で、梅の下枝にゐた鶯が他の梢へ隱れて往ぬの意とする宣長の説(略解所引)がよい。○少典 前の歌の大典參(234)照。○山氏若麻呂 山口忌寸若麻呂と思はれる。「五六七」參照、
 
828 人毎《ひとごと》に折り挿頭《かざ》しつつ遊べどもいや珍しき梅の花かも 大判事舟氏麻呂
 
〔譯〕 人毎に皆が折り挿頭して遊んでゐるが、飽くことがなくて、いよいよ珍しい梅の花であることよ。
〔評〕 宴に集うた人毎に折りかざしてゐて、もはや珍しくもなくなるべきはずであるのに、見れば見るほど新しく心をひかれる花である。梅花の清楚な氣品のなつかしみを言ひ得て、人をうなづかしめるものがある。
〔語〕 ○大判事 職員令に「太宰府、大判事一人掌d案2覆犯?1斷2定刑名1判c諸爭訟u」とある。○舟氏麻呂は傳不詳。舟氏は船氏か船子氏かといはれる。但「舟」を「丹」に作る本も多い。それならば丹比氏である。
 
829 梅の花咲きて散りなば櫻花繼ぎて咲くべくなりにてあらずや 藥師張氏一|福子《サキコ》
 
〔譯〕 梅の花が咲いて、やがて散つてしまふと、すぐに櫻の花がつづいて咲くことになつてゐるではないか。
〔評〕 「鶯のこづたふ梅のうつろへば櫻の花の時片まけぬ」(一八五四)と同樣の意味である。彼の調子が緊張して、勁捷明快であるに比べて、これは軟柔に歌ひこなしてをる。「咲くべくなりにてあらずや」といふ、持つてまはつた句法にも、古風な雅趣と、こまかな光澤とが浮んでゐるのである。
〔語〕 ○繼ぎて 引きつづいて。○なりにてあらずや 「なりにたらずや」に同じ。○藥師 職員令、太宰府の神護景雲に「醫師二人掌v診2候病1」とあるもの。張氏は尾張氏かともいはれてゐるが、續紀天平寶字八年に張禄滿といふ人があり、これと同氏であらうともいふ(全釋)。また藥師福子は女性ではあるまい。
 
830 萬世に年は來經《きふ》とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし 筑前介佐氏子|首《びと》
 
(235)〔譯〕 萬世までも、年が來ては、たつていつても、梅の花は絶えることがなく、咲きつづけるであらう。
〔評〕 梅花の愛が、かやうな壽歌となつたのである。古今集に、業平は菊を詠んで「植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや」と詠んでゐる。
〔語〕 ○年は來ふとも 「ふ」は經過するの意。年が來てはまた過ぎ去つてもの意。○佐氏 佐伯氏か、子首の傳不詳。なほ子首の訓は、代匠記のコカウベはよくない、攷證による。
 
831 春なれば宜《うべ》も咲きたる梅の花君を思ふと夜眠《よい》も寢《ね》なくに 壹岐守板氏安麻呂
 
〔譯〕 春なので、さても道理、時を知つて咲いた梅の花よ、そなたがいつ咲くかとて、自分は夜も寢なかつたのに。
〔評〕 梅の花を待ち得た喜びを、文人らしい輕妙さで詠歎したのである。梅の花に君と呼びかけたのもおもしろく、すつきりと洗錬された手法である。
〔語〕 ○春なれば 春であるから。○うべも咲きたる 「うべ」(三一〇)參照。咲くべき時と期してゐた時に果然咲いた、それに對する輕い感動が「うべ」にこめられてをる。○君を思ふと 梅を擬人化して君といつたもの。君を思ふとて。○よいも寢なくに 夜眠ることもしないのに。ここでは、梅の咲くのが待たれて、ねられなかつたの意、と解する。○壹岐守板氏安麻呂 續紀天平七年九月に從六位下|板茂《いたもち》連安麻呂とある人であらう。壹岐は下國であるから、從六位を以つて國守に任じたのである。
 
832 梅の花折りてかざせる諸人《もろひと》は今日の間《あひだ》は樂《たの》しくあるべし 神司《かむづかさ》荒氏|稻布《いなふ》
 
〔譯〕 梅の花を折つてかざしてをる皆の人達は、今日一日の間は樂しいことであらう。
〔評〕 一切の俗事の煩しさを忘れ、梅花をかざして宴樂する官人の樣が浮んでくる。
(236)〔語〕 ○神司荒氏稻布 神司は、職員令に「太宰府、主神《かむづかさ》一人掌2諸祠事1」とあるもの。荒氏は荒城氏、荒田氏などの略であらう。稻布は傳不詳。
 
833 毎年《としのは》に春の來《きた》らば斯くしこそ梅を挿頭《かざ》して樂《たの》しく飲《の》まめ 大令史《だいりやうし》野氏|宿奈麻呂《すくなまろ》
 
〔譯〕 毎年、春が來たならば、かうして、梅の花をかざして樂しく酒を飲まう。
〔評〕 大貳紀卿の「正月《むつき》立ち春の來《きた》らば斯くしこそ梅を折りつつ樂《たの》しき竟へめ」(八一五) に似た趣向である。偶然の類似であらう。「樂しく飲まめ」が頗る率直で面白い。
〔語〕 ○年のはに 「四一六八」に「毎年をトシノハといふ」と註がある。○大令史 職員令に「大令史一人、掌v抄2寫判文1、少令史一人、掌同2大令史1」とある。野氏は大野、小野、三野などの氏姓の人であらう。○宿奈麻呂 傳不詳。
 
834 梅の花いま盛なり百鳥の聲の戀《こほ》しき春|來《きた》るらし 少令史田氏|肥人《うまびと》
 
〔譯〕 梅の花がいま盛である。これからはいよいよいろいろの烏の聲のなつかしい春が來たやうである。
〔評〕 春のおとづれの樂しい豫感に、胸も躍る心地がする。梅花の盛によつて、春の熟する兆を知るのである。平凡に似た歌ひぶりながら、おのづから心の明るくなる華やかさをもつてをる。
〔語〕 ○百鳥 種々の多くの鳥。○聲のこほしき 「こほしき」は「こひしき」の古い形。「君が目のこほしきからに泊《は》ててゐてかくや戀ひむも君が目を欲《ほ》り」(齊明紀)ともある。○少令史田氏肥人 少令史は、前の歌「大令史」參照。田氏は田口、田邊氏などか。肥人の訓は今は代匠記のウマビトに從つておく。「二四九六」に見えるのは、人名ではない。
 
(237)835 春さらば逢はむと思《も》ひし梅の花今日の遊《あそび》にあひ見つるかも 藥師《くすし》高氏義通
 
〔譯〕 春になつたならば、逢はうと思つてゐた梅の花を、今日のこの宴遊で出會つたことである。
〔評〕 かねて逢ひたく思つてゐた人に、宴會の席で相會した、といふやうな言ひ振りになつてゐるのがおもしろい。さりげなく用ゐた器用な技巧に、捨てがたい曲がある。
〔語〕 ○逢はむ 「逢ふ」は梅を人に擬していつたもの。○藥師高氏義通 藥師は醫師。「八二九」參照。高氏は高といふ氏か、高橋氏などか明かでない。この人の傳も不詳。
 
836 梅の花|手折《たを》り挿頭《かざ》して遊べども飽き足《た》らぬ日は今日にしありけり 陰陽師《おむやうじ》磯氏|法麻呂《のりまろ》
 
〔譯〕 梅の花を手折りかざしていくら遊んでも遊んでも飽き足らぬ日といふのは、今日のことであつた。
〔評〕 歡樂いまだ盡きずして春の一日の暮れむとするを惜しむ情緒である。おそらく、宴のなかばにも、樂しみのあとにしのび寄るかすかな寂しみをみとめたことであらう。しかし、素朴快活な萬葉人である。それを深く見つめて詠歎するまでには至つてをらぬ。歌調あくまで平明、悲愁の影のさす餘韻すらない。
〔語〕 ○飽き足らぬ 十分だといふ氣がしない。○陰陽師磯氏法麻呂 傳不詳。陰陽師は、職員令、太宰府の條に、「陰陽師一人、掌2占筮相1v地」とある。磯氏は磯部氏であらう。
 
837 春の野に鳴くや鶯なつけむと我が家《へ》の苑に梅が花咲く ※[竹/弄]師志氏大道
 
〔譯〕 春の野に鳴く鶯を、誘ひ寄せて手なづけようとて、自分の家の園に梅の花が咲いた。
〔評〕 鶯を誘はんとして梅が咲いたやうに言ひなしたのである。のどかな詞調に、見るべき風致もある。
(238)〔語〕 ○鳴くや鶯 「や」は音調を調へる爲の助詞。「さを鹿の伏すやくさむら見えずとも」(三五三〇)。○なつけむと 手なづけるの意。○※[竹/弄]師 カゾヘシとよむ。職員令、太宰府の條に「※[竹/弄]師一人、掌勘2計物數1」とある。※[竹/弄]は算に同じく、計數具《そろばん》の意。志は志賀、志斐、志貴などの氏姓の人であらう。大道の傳不詳。
 
838 梅の花散り亂《まが》ひたる岡|傍《び》には鶯鳴くも春|片設《かたま》けて 大隅目榎氏鉢麻呂
 
〔譯〕 梅の花が散り亂れてをる岡のほとりでは、鶯が鳴くことである。春を待ち受けて、樂しさうに。
〔評〕 春を待ちつけた鶯は、時を得がほに鳴きかはしてをる。梅はしきりに散りみだれてをる。うららかな春の景色が眼前に浮んで來る。
〔語〕 ○散りまがひたる 「まがふ」は亂れるの意。「乎布の埼花散りまがひ」(三九九三)。韓じて、入り交り見分けのつかぬ意にも用ゐる。○岡|傍《び》には 「岡|邊《べ》には」に同じ。○春片設けて 「一九一」參照。○大隅目榎氏鉢麻呂 目《さくわん》は職名で、太宰府における主典と同じ事を掌る役であるが、大隅は中國で定員一名、かつ太宰府の主典より下級である。榎氏は榎本、榎井氏などか、鉢麻呂の傳は不詳。
 
839 春の野に霧立ち渡り降る雪と人の見るまで梅の花散る 筑前目田氏眞人
 
〔譯〕 春の野に霞が立ち渡つて、雪が降るかと人の思ふほど、梅の花が散ることである。
〔評〕 梅花を降雪にまがへたといふ珍しくない趣向であるが、歌調が大きくのびやかで、眼界がうち開けたやうに思はれる。春の霞を霧と云うた例は、卷十に「春山の霧にまどへるうぐひすも」(一八九二)とある。
〔語〕 ○春の野に 此句次句にかかるとも句を隔てて花散るにかかるとも兩樣に解される。しかし前者が穩かであらう。○霧たち渡り ここの霧は霞の意。當時は未だ霧・霞に定つた季節的な慣用がなかつたためか。「たち渡る」は(239)長く廣くたなびくの意。○筑前目田氏眞人 田氏は「八三四」にも見える。この人の傳も不詳。
 
840 春柳|蘰《かづら》に折りし梅の花誰か浮べし酒盃《さかづき》の上に 壹岐目村氏|彼方《をちかた》
 
〔譯〕 蘰にするために折つた梅の花を、誰が浮べたのであらうか、酒盃の中に。なんといふ風流なことであらう。
〔評〕 遊仙窟の五嫂の詩句「落花時泛酒、歌鳥或鳴琴」などから思ひついたものであらう。舞ひ落つる花びらを酒盃に受けて、梅花の香を飲むとは、まさに風流である。大伴坂上郎女は、これに學んで「さかづきに梅の花うかべおもふどち飲みて後には散りぬともよし」(一六五六)と詠んだ。
〔語〕 ○春柳 春の柳はかづらにするの意で、「かづら」の枕詞としたもの。○かづらに折りし かづらにしようとて折つたの意。○壹岐目村氏彼方 傳不詳。村氏は村上、村田などか。
 
841 鶯の聲《おと》聞くなべに梅の花|吾家《わぎへ》の苑に咲きて散る見ゆ 對馬目高氏|老《おゆ》
 
〔譯〕 鵜の鳴く聲が聞える時しも、梅の花が我が家の園に咲いて散るさまが見える。
〔評〕 鶯と梅の花との關係を密接なものと見る既成の型に從つたもの。「咲きて散る」も「咲きて散りぬる花ならましを」(一二〇)などと用ゐられ、集中の成句である。しかし、ここでは、時間の觀念を曖昧にしてをるうらみがある。
〔語〕 ○おと聞くなべに 「おと」は聲の意。「なべに」は「五〇」參照。○咲きて散る 「咲きて」は輕く添へたもの「四〇〇」參照。○對馬目高氏老 傳不詳。者《おゆ》は名である。
 
842 我が宿の梅の下枝《しづえ》に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ 薩摩目高氏|海人《あま》
 
(240)〔譯〕 わが家の、美しく咲いた梅の下枝で遊びながら、鶯が鳴いてゐることである。花の散らうとするのが惜しさに。
〔評〕 「梅の花散らまく惜しみ吾が苑の竹の林に鶯鳴くも」(八二四)に似て、鶯と梅の花との關係を、殊に親密なものと見せてをる。
〔語〕 ○しづえ 下枝の意。これに對して上枝を「ほつえ」といふ。「‥‥香ぐはし花橘は、上枝《ほつえ》は鳥居枯らし、下枝《しづえ》は人取り枯らし」云々(應神記)とある。○散らまく惜しみ 「み」は「時じみ」(六)の「み」に同じ。○薩摩目高氏海人 傳不詳。
 
843 梅の花折り挿頭《かざ》しつつ諸人《もろびと》の遊ぶを見れば都しぞ思《も》ふ 土師《はにし》氏|御通《みみち》
 
〔譯〕 このやうに、梅の花を折りかざして、多くの人々の遊ぶのを見ると、大宮人の行樂の樣子に似てゐるので、都をなつかしく思ふことである。
〔評〕 太宰府の官人が梅花を折りかざす姿の、大宮人の風尚があるのを見て、都を思ひ出したのである。「ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここにつどへる」(一八八三)を見れば、その趣はうなづかれよう。まさに唐詩の「遲日苑林悲昔遊 今春花鳥作邊愁」の感慨である。
〔語〕 ○土師氏御通 土師宿禰水道(五五七)と同じ人であらうか。以下官のない人は氏を省略せず書いてゐる。
 
844 妹が家《へ》に雪かも降ると見るまでに許多《ここだ》も亂《まが》ふ梅の花かも 小野氏國堅
 
〔譯〕 愛人の家に雪が降るのではないかと思はれるほどに、澤山に散り亂れてゐる梅の花であることよ。
〔評〕 梅花の散るを降雪と見あやまつたといふ平凡な取材である。しかし、圓熟の佳調があつて、危げなく伸びた手法である。
(241)〔語〕 ○ここだもまがふ 「ここだ」は多くの意。「まがふ」は「八三八」參照。○小野氏國堅 傳は不詳。正倉院文書に名が見える。
 
845 鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子が爲 筑前掾門氏|石足《いそたり》
 
〔譯〕 鶯が待ちかねてゐて、やつと咲いた梅の花よ、散らずにゐてほしいものである、わが愛する女の爲に。
〔評〕 平明に思ふところを述べて、洗練のかかつた句法である。
〔語〕 ○待ちかてにせし 「かてに」は「九五」參照。待ち切れずにゐたの意。○散らすありこそ 「こそ」は願望の意を表はす。○筑前掾門氏石足 「五六八」に筑前掾門部連石足と見える。
 
846 霞立つ長き春日を挿頭《かざ》せれどいや懷《なつ》かしさ梅の花かも 小野氏|淡理《たもり》
 
〔譯〕 霞の立つ長い春の日に、終日かざしてゐるが、それでもいよいよ懷かしい梅の花であるよ。
〔評〕 「人毎に折りかざしつつ遊べどもいや珍しき梅の花かも」(八二八)に、構想・歌調ともに酷似してをる。彼は人數の多いのを云ひ、これは時間の長いのを云ふ。梅花の氣品の人を飽かしめぬことを云ひ得て、質實平易かつ的確である。
〔語〕 ○かざせれど 挿してゐるがの意。○小野氏淡理 淡理は、田守を唐風に署したものであること、旅人を淡等と記すがごとくであらう。田守は後、天平寶字二年に遣渤海大使に任ぜられたことが、卷二十にも見えてゐる。
 
    員外故郷を思へる歌兩首
847 我が盛いたく降《くだ》ちぬ雲に飛ぶ藥はむともまた編若《をち》めやも
 
(242)〔題〕 員外故郷を思へる歌兩首とある。員外は、梅花の歌三十二首の數に入らぬの意で、その宴席上の作である。作者は恐らくは旅人であらう。
〔譯〕 自分の盛の年も過ぎて、すつかり老い衰へてしまつた。よしや空をかけることの出來る仙藥を飲んでも、再びもとの若さに返ることが出來ようか。
〔評〕 雲に飛ぶ藥といひ、變若《をつ》といひ、いづれも神仙思想であつて、當時の海外の新思潮の、現世超脱的傾向に嗜好を持つてゐた彼の感情生活がうかがはれる。しかし、これは夢に耽るものの聲ではなくて、夢を自覺したものの嗟嘆である。足は現實をふまへた人間の切實の聲である。大陸文學に現はれた神仙説話は、無限の自由を受用せむとする人間の空想の所産である。自然法則をすら自在に變形する魔力を得むとして、よしなき努力を重ねた道家の一味らは、空想と現實とを混同したに過ぎぬ。これらの説話は移入せられて、我が國に幾許かの神仙傳説をのこし、奈良時代にあつて、いたくその思想を信じた人々の多かつたことは、憶良の「惑《まど》へる情《こころ》を反さしむる歌」に、その片鱗をうかがはしめる。旅人も、儒佛思想よりはむしろこれに興味をひかれてゐたのであらう。しかし彼は、それが要するに人間の夢であり、係戀《あこがれ》にすぎぬといふことを知つてゐた。彼にとつて、神仙思想は、惱み多き現實生活にしばしの安息をあたへる夢であり、趣味であつたらしく思はれる。もとより雲に飛ぶ藥のあることを信じてはをらず、變若《をち》かへることの可能を信じてもをらぬことは明かである。それゆゑに、現實の拘束をなげく人間の聲があはれに聞かれる。
〔語〕 ○わが盛 自分の盛年。働き盛りの年。○いたくくだちぬ 「くだつ」は降《くだ》るの意。○雲に飛ぶ藥はむとも 雲の中を飛ぶことの出來る藥を飲むとも。雲に乘つての意ではあるまい。かやうな靈藥については、列仙傳に、高帝の孫なる淮南王の劉安は、方技(醫術)を好んで、八公といふものから空中飛翔の靈藥の處方を授かつた。ある時、八公の勸めにより二人で上天した。ところが、殘して置いた藥の鼎を、鷄と犬とが舐めて、これまた共に昇天し、鷄は雲の中に鳴き、犬は天上に吠えたとあり、靈異記にも仙草を食し天に飛んだ女のことが見え、また懷風藻の藤原史(243)の「吉野に遊ぶ」の詩にも此の思想が見える。當時さういふことが或る範圍で信ぜられてゐたことと思はれる。しかし旅人は必ずしもそれを信じてゐたかどうかはわからない。恐らくは信じてわなかつたであらう。○またをちめやも 「をつ」は若がへること。「三三一」參照。
 
848 雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしき吾《あ》が身また變若《をち》ぬべし
 
〔譯〕 雲の上を飛ぶことの出來る仙藥を飲むよりは、この筑紫から故郷に掃つて戀しい都を見たならば、仙人でもない凡夫の自分の身も、再び若返ることが出來るやうに思はれる。それにつけても戀しいのは都である。
〔評〕 梅花の宴樂のなかにも、しのびよる老の身の哀愁をおぼえ、ひいては懷郷の情がみちわたつたことであらう。前者とならべてその心理の動きがまざまざと看取される。また卷三の歌とならべ誦するならば、いよいよ切にその心中が察せられて、あはれである。それは「吾が盛また變若《をち》めやもほとほとに寧樂《なら》の京《みやこ》を見ずかなりなむ」(三三一)である。
〔語〕 ○藥はむよは 藥を食むよりは。○いやしき吾が身 「いやしき」を「彌重」の意とし、五句にかける説(古義)もあるが、ここは賤しきの意で、新考に「仙人に對していへるにて、凡夫といふばかりの意なり」とあるが良い。○またをちぬべし また若返るであらう。
 
    後に追ひて和ふる梅の歌四首
849 殘りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消《け》ぬとも
 
〔題〕 後日に追和して詠んだ梅の歌 これも旅人の作で、宴の日の後、唱和したもの。
〔譯〕 消え殘つた雪にまじつて咲いてをる梅の花よ、早く散つてくれるな。たとひ雪は消えてしまつても。
(244)〔評〕 雪中の梅を賞して淡清の作。位、追和の歌であるから、眼前の景ではない。
 
850 雪の色を奪ひて咲ける梅の花いま盛なり見む人もがも
 
〔譯〕 殘雪のなかに、雪の色を奪うて雪よりも白く咲いてをる梅の花が、いま盛である。ともに眺める人があればよいが。
〔評〕 「雪の色を奪ひて咲ける梅の花」は、當時としては、新趣向であつたらしい。また作者もこれに誇をかけてゐたであらう。
〔語〕 ○雪の色を奪ひて 雪の白い色を負かして。漢文の敍法から得た句であらう。○見む人もがも 「もがも」(四一九)參照。
 
851 我が宿に盛に吹けるうめの花散るべくなりぬ見む人もがも
 
〔譯〕 我が家に盛に咲いてをる梅の花が、散りさうになつてきた。散り過ぎぬうちに早く來て、共に見る人があればよいが。
〔評〕 同じ作者の「吾が岳《をか》の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも」(一五四二)と同型である。
 
852 梅の花|夢《いめ》に語らく風流《みやび》たる花と吾《あれ》思《も》ふ酒に浮《うか》べこそ 【一に云ふ、いたづらにあれをちらすな酒にうかべこそ】
〔譯〕 梅の花が、夢にあらはれていふには「私は風流な花であると思ひます。ですから、たた私を見るのみでなく、どうか盃の上に浮べて、飲んでいただきたい」と。
〔評〕 花のほとりに酒を汲んで、散りかかる花びらを盃に浮べる風流は、他にも歌はれてをる。夢にかこつけたのは(245)彼の神仙趣味である。「いたづらにあれを散らすな酒にうかべこそ」は、理におちた感がある。むしろ「風流《みやび》たる花とあれ思《も》ふ」が神仙らしい。おほどかな云ひ樣に、一種の神韻が感じられるゆゑである。
〔訓〕 ○みやびたる 「みやび」(一二六)參照。○酒に浮べこそ 自分を盃の中に浮べてほしいの意。「こそ」は願望の助詞。
 
    松浦河に遊べる序
  余|以《すで》に暫く松浦の縣に往きて逍遥し、聊《いささか》玉島の潭《うら》に臨みて遊覽せしに、忽に魚を釣る女子等に値《あ》ひき。花の容雙び無く、光《て》れる儀《すがた》匹ひ無し。柳の葉を眉の中に開き、桃の花を頬の上に發《ひら》く。意氣雲を凌ぎ、風流世に絶《すぐ》れたり。僕問ひて曰く、誰《た》が郷《くに》、誰が家の兒等ぞ、若し疑はくは神仙といふ者かと。娘等皆|咲《ゑ》みて答へて曰く、兒等は漁夫《あま》の舍《いへ》の兒、草庵の微《いや》しき者、郷も無く家も無し。何《なに》ぞ稱《なの》り云ふに足らむ。唯、性水に便とし、復《また》心山を樂しむ。或は洛浦に臨みて、徒に王魚を羨み、乍《また》巫峽に臥して、以ちて空しく烟霞を望む。今|以《すで》に邂逅《わくらば》に貴客《うまびと》に相遇ひ、感應に勝へずして、輙《》すなはち款曲を陳ぶ。而今而後《いまよりのち》豈偕老にあらざる可しやと。下官對へて曰く、唯唯《をを》、敬《つつし》みて芳命を奉《うけたまは》らむと。時に日、山の西に落ち、驪馬將に去《い》なむとす。遂に懷抱《おもひ》を申《の》べ、因《かれ》詠歌《うた》を贈りて曰く、
853 漁《あさり》する海人《あま》の兒等《こども》と人はいへど見るに知らえぬ良人《うまびと》の子と
 
〔題〕 序に見る如く、松浦河に遊覽した時の作で、神功皇后の傳説で有名な、玉島河の潭を舞臺として、大陸の神仙譚に擬して一篇の物語を構想したのである。この一首は、物語の中で旅人が娘子に贈つたといふ歌である。作者については古來憶良の作とする説も多いが、代匠記を初め、最近の新解・新釋などの、旅人の作とする説がよいと思ふ。
(246)〔譯〕 ある時、自分は暫く松浦の縣に往つて逍遙し、すこしく、玉島の浦あたりを遊覽したところ、忽ちに魚を釣る女子等に會つた。その女子等は、花のごとき容貌、双《なら》ぶものもなく、かがやくばかりの姿、匹《たぐひ》がないほどである。眉は柳の葉をうつくしく描いた如く、頬は桃の花の開いたやうである。又その意氣の高さは雲をも凌ぎ、風流な容子は此の世の中でも殊に勝れたものと思はれた。自分は問うて、「何處の何といふ家の娘さんか、恐らくは神仙といふものでせうか」といふと、娘等は皆ほほ笑んで答へるには、「私達は漁夫の家の兒で、粗末な家に住む身分の低い者であります。郷もなく家もありません。名を告げるほどの者ではありません。唯、性來水に馴れ親しみ、また山をも好み樂しんでゐます。またある時はかの洛浦に臨んで大きい魚の游《およ》ぐ有樣を徒らに羨んだり、またかの巫峽に臥してむなしく烟霞を望んだりしてゐます。今、思ひがけなく身分の貴い客人にお會ひして、感動にたへません。それで、私どもの懇な心の中を陳べました。今より後は私どもと老を偕《とも》にするものといふべきではありませんか」と。自分は答へて言つた。「はいはい、敬んで仰せを承りませう」と。時に日は山の西に落ち、自分の乘つてゐる黒馬がそこを去らうとするので、遂に自分の心にいだく思を申《の》べて、歌を作つて贈つた。その歌は次のごとくである。
 魚を漁る漁師の子であると、あなたはいはれるけれども、見るからにわかります、身分のある人の子であるといふことが。
〔評〕 神仙譚になぞらへて構想した物語であるが、神功皇后の傳説の地であるために、舞臺としては適當である。神功皇后紀に「是以其國女人毎v當2四月上旬1以v鈎投2河中1捕2年魚1於v今不v絶」とあるので、これに著想を得たのではないか、と思はれる。あるいは年魚《あゆ》を釣る漁夫の娘子らは實際にゐたかも知れない。しかしてそれを仙媛に見たてたのでもあらうか。ともかくも、夢をもつて現實に對してゐた旅人の感情生活を思ふに足る。
〔語〕 ○松浦河 下にいふ玉島の潭。今は玉島川と呼ぶ。○松浦の縣 和名抄に「肥前國松浦郡萬豆浦」とあり、今は東・西・南・北の四郡に別れ、長崎縣と佐賀縣とに分屬してゐる。○玉島の潭 大日本地名辭書に「浮嶽山の南に(247)發し、西流濱崎驛に至り海に入る。長四里」とあつて、太宰府管内志・九州萬葉手記(三松莊一氏)などには、昔と今の流域の異なる由を言つてゐる。今、濱崎村の上流十數町の地に玉島村あり、神功皇后を祀つた玉島神社がある。(全釋)○魚を釣る女子等に値ひき 日本書紀神功皇后の卷に「九年夏四月、壬寅朔甲辰、北の方、火の前の國松浦の縣に到りて、玉島の里の小河の側に進食《みをし》し給ひき。ここに皇后、針を勾げて鈎とし、粒《いひぼ》を取りて餌とし、裳の糸を抽《ぬ》き取りて緡《つりのを》とし、河中の石の上に登りまして、釣を投げて祈《の》み給ひけらく「朕《われ》、西の方|財《たから》の國を求《ま》かまく欲《おも》へり。若し事を成すあらば河の魚、鈎を飲め」と。因りて竿を擧げ給ひしに、すなはち細鱗魚《あゆ》を獲給ひき。時に皇后『希見《めづら》しきものなり』と宣《の》り給ひき。故、時の人其處を號《なづ》けて梅豆羅《めつら》の國といふ。今松浦と謂ふは訛《よこなま》れるなり。是を以ちて其の國の女人《をみな》、四月《うづき》の上旬《はじめ》にいたる毎に、鈎を河中に投げて年魚《あゆ》を捕ること今に絶えず。唯|男夫《をのこ》は釣るといへども魚を獲ること能はず」とある。肥前風土記松浦郡の條にもほぼ同一の記述が見え、古事記中卷にも簡單ながら同じ記事がある。○花容雙びなく 花のやうに美しい顔は雙ぶものなく。○光れる儀匹無し 光り輝く姿は匹敵するものがない。「光儀」を「すがた」と訓ませる例は集中に十餘見える。○柳の葉を眉の中に開き、桃の花を頬の上に發《ひら》く 眉は柳のやうな形をし、頬は桃の花の如き色をしてゐるの意。○意氣雲を凌ぎ風流世に絶れたり 心の氣高く、みやびやかなのは世に比ぶものがないの意。○性水に便とし、復心山を樂しむ 「水に便とし」はよく水に馴れることで、游泳などの巧なる意。隋書に、「督2便v水者1引取2其筏1」とある。この句は論語(雍也篇)に「子曰、知者樂v水、仁者樂v山」云々とあるを背景にしてをる。○或は洛浦に臨みて 文選にある曹植の洛神賦に見える洛川の神女の物語の洛川を玉島川に擬したのである。○徒に王魚を羨み 淮南子「臨v淵而羨v魚、不v如2退耐織1v網」によるといふ。(代匠記)必ずしもこれによつたのではなからう。王魚は巨魚の誤かと云ふ説もあるが「周禮」の天官獻人の條にも「春獻2王鮪1」とありて、その註に「王鮪魚名、鮪之大者」と見え、また「蟒、蛇最大者、故曰2王蛇1」と「爾雅」の釋魚に見えるから、このままで大魚の意に解せられる。○また巫峽に臥して空しく烟霞を望む 巫峽は巫山(四川(248)省)の峽谷の意。文選宋玉の高唐賦に見える巫山の仙女に思ひよそへたもの。○邂逅《わくらば》 思ひがけなく、偶然に。○感應に勝へず 深き感動に堪へ得ず。○款曲 後漢書(光武紀)にも見える語で、うちとけてねんごろなる心の意。○偕老 夫婦の長く變らぬ契をいふ。偕は共にの意。○下官 官を有する者の謙稱。○驪馬 驪は黒い馬。文選、應休※[王+連]與2滿公※[王+炎]1書に「徒恨、宴樂始酣白日傾v夕、驪駒就v駕意不2宣展1」によるといふ。○懷抱 心に思ふこと。○知らえぬ 「え」は受身の助動詞「ゆ」の連用形、ここは自然と知れるの意。
 
    答ふる詩《うた》に曰く
854 玉島のこの川|上《かみ》に家はあれど君を耻《やさ》しみ顯《あらは》さずありき
 
〔題〕 少女が、答へ詠んだ歌といふのであるが、事實はこの答も旅人の作である。
〔譯〕 この玉島川の川上に、私の家はありますけれど、あなたに恥かしいので、明かには云はずにゐたのであります。
〔評〕 序の中に「――郷も無く家も無し。何ぞ稱《なの》り云ふに足らむ。」と娘子に云はしめたのに對して、それは恥かしさに隱してゐたのであると、歌はしめたのである。なほ、この物語の中では、彼は娘子を神仙と見ようとしてゐるのに、神仙なる娘子は、神仙らしさをほのめかしながらも、漁夫の子であると卑下してをるやうに作つてある。字あまりの結句の云ひぶりが如何にも娘子らしく、嬌羞をおびてゐる。
〔語〕 ○川上に 川の上流とみる説と川のほとりといふ説とあるが、前者が穩かである。○君をやさしみ、君が恥かしさにの意。
 
    蓬客等、更《また》贈れる歌三首
855 松浦河《まつらがは》河の瀬光り年魚《あゆ》釣ると立たせる妹が裳の裾ぬれぬ
(249)〔題〕 蓬客は、代匠記に轉蓬の旅客と云ふ意とし、文選安仁西征賦の「飄萍浮而蓬轉」(注張銑曰、言意如2浮萍轉蓬無1v所2止託1也)を引いてゐる。これによると蓬の風に飄る如く、所を定めないことの意で、旅客を云つたこととなる。しかし既に代匠記にも注意してゐるやうに、上の房前の書の「蓬身」(八一二)家持の歌の序の「蓬體」(三九六九)の蓬とすれば娘子の貴客に對して卑しい客人といふ謙退の稱と思はれる。また別に「蓬壺」「蓬丘」などと用ゐる「蓬莱」の意を以て、神仙趣味を表はしたものかとも思はれる。しかし、要するに旅人自身のことである。ここで一言注意しておきたいのは、ここにいふ蓬客ならびに娘子の員數である。序文に「余」「僕」「下官」(自稱)「貴客」(二人稱)と記し、贈答歌詞に「蓬客等」(但、類聚古集のみ「等」なし)とあり、また歌に「君」と記されてゐる男性、序文に「女子等」「兒等」「娘等」(二・三人稱)「兒等」(自稱)と記し、題詞に「娘等」(但、類聚古集のみ「娘子」とす)とあり、歌の中に「兒等《こども》」「子等《こら》」「妹」(二ケ所)「妹等」(但、後人作)の女性。以上の如くして、此等の歌を解するに頗るまぎらはしい。これは次の如く解するとよい。全體の歌が必ずしも實景に即して書かれてをらず、その構想も一應成竹を得てなされたものでなく、佳景を見て漢文學趣味を興發され、興に隨うて綴つたもので、序文と和歌に、漢文學趣味と國文學思想とが混雜してをるため、かかる撞着が生じたのである。即ち、彼の描いた眞實は、一人と一人の世界であつたのであらう。女性は序では確に數人に描いた。併し歌には一人に描いたのであらう。即ち「子ら」「妹ら」の「ら」は單數の場合にも用ゐる。また「兒等」は「海人の兒等」とあるから、普通名詞と見ることが出來る。併し序では「娘等皆咲」とあるから明かに複數で、作者は此の兩者の矛盾を曖昧にしてをるが、序は複數の女子と見、歌は單數――即ち選ばれた一人の女性とし、この間に、説明不足があると見ればよいとおもふ。
〔譯〕 松浦河の河の瀬がそなたの姿のうつくしいために光つて、鮎を釣るとて岸に立つてをるそなたの裳の裾が、水に濡れたことである。
〔評〕 清らかな松浦川の瀬は、娘子の姿をうつして光るばかりである。娘子は赤裳の裾の水にぬれるのも忘れて釣を(250)垂れてをる。まさに一幅の畫である。傳説に名高い玉島川を背景として、實際にこのやうな光景を眺めたならば、旅人がそれを素材として、この神仙物語を創作したのも當然であらうとうなづかれる。なほ、娘子の裳の裾のぬれることが、如何に感覺的に美しく眺められたかは、卷七の旋頭歌「住吉《すみのえ》の出見《いでみ》の濱の柴な苅りそね未通女等《をとめら》が赤裳の裾のぬれゆかむ見む」(一二七四)によつても知られる。また、卷十五の「風のむた寄せ來る浪にいさりするあまをとめらが裳の裾ぬれぬ」(三六六一)は、この作に似てをる。
〔語〕 ○河の瀬光り 仙女の美しさを映じ、水も光つて見えるの意。○年魚釣ると 點を釣るとて。
 
856 松浦《まつら》なる玉島河に年魚《あゆ》釣ると立たせる子等が家路《ぢ》知らずも
 
〔譯〕 松浦の玉島川で、鮎を釣るとて立つてをられる娘子の、家に行く路の知られないのが殘念である。
〔評〕 釣をする娘子を美しいと見るのみではなく、進んで娘子に關心を深めてゆく心理的經過があらはれてをる。
 
857 遠つ人松浦《まつら》の河に若年魚《わかゆ》釣る妹が袂を我《われ》こそ纒《ま》かめ
 
〔譯〕 遠い人を待つといふ――此の松浦の河で、若鮎を釣つてゐるあなたの袂を、自分こそ枕にするであらう。
〔評〕 更に進んで強い愛情を現はした歌。三首は、鮎を釣る娘を見て、それに深く愛着するに至る心理的經過を示すやうに出來てをる。
〔語〕 ○遠つ人 枕詞。遠方の人の義。遠い人を待つ意で「まつ」にかかる。○わかゆ 若い鮎。若鮎は春の鮎。○妹が袂を我こそ纒かめ 私こそそなたと共寢しよう。
 
    娘子《をとめ》、更《また》報《こた》ふる歌三首
(251)858 若年魚《わかゆ》釣る松浦《まつら》の河の河浪の竝《なみ》にし思《も》はば我《われ》戀ひめやも
 
〔譯〕 若鮎を釣つてをります此の松浦河の河浪の――なみなみにあなたを思ひますならば、私はこのやうに戀ひませうか。深く思ふからであります。
〔評〕 序の巧みな歌である。古今集の「み吉野の大河の邊の藤浪のなみにしもはばわが戀ひめやも」は、これに學んだものである。
〔語〕 ○若鮎釣る松浦の河の河浪の 實景をとつて序としたもの。同音を繰返す事によつて第四句「なみ」にかける。○なみにし なみなみで、「竝に」の意。普通に、一とほりに。
 
859 春されば我家《わぎへ》の里の河門《かはと》には年魚兒《あゆこ》さ走《ばし》る君待ちかてに
 
〔譯〕 春になると、自分の家の里なる玉島河の河の渡り瀬には、かはいい鮎が走つてをります。あなたのおいでを待ちかねまして。
〔評〕 娘自身の待つ心を、鮎が待ちかねて走るやうに云ひなしたのがおもしろい。また、柔軟で溌剌とした年魚の走る樣子が、おのづから人を待つ娘子の風姿や擧動を思はせて、その點すこぶる象徴的な手法であると云へる。表面の句法は「吾背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり君待ちかねて」(二六八)に似てをる。
〔語〕 ○河門 「五二八」參照。○年魚兒さ走る 「四七五」參照。
 
860 松浦河七瀬の淀は澱《よど》むともわれはよどまず君をし待たむ
 
〔譯〕 松浦河の數多の瀬の水の淀みは、よどんで流れないにしても、私はよどまずに絶えずあなたのお出でをお待ち(252)いたしませう。
〔評〕 春の流水のやうに、暢達の詞調である。
〔語〕 ○七瀬の淀は 「七瀬」は多くの瀬。「七瀬の淀」は瀬を流れ越した水が淀みをなして湛へてゐるもので、それが多くの瀬毎にあるのをさす。○われはよどまず 「よどむ」は停滯するの意。ここでは、懈《たゆ》むといふほどの意。即ち「よどまず」は、やすまず、たえず、等にあたる。
 
    後の人の追ひて和ふる歌三首 師の老《おきな》
861 松浦河《まつらがは》河の瀬早み紅《くれなゐ》の裳のすそ沾《ぬ》れて年魚《あゆ》か釣るらむ
 
〔題〕 前の序、及び唱和の歌に對し、彼の世の人が追和した形であるが、これも旅人の作爲であつて、内容上松浦河を見てゐない人が作つたやうに見えるのも、旅人が興のままに自らを後人に擬して作つたとみるべきである。なほ後人は後れたる人として、一行におくれた人と解する説もある。
〔譯〕 松浦河の河の瀬の流が早いので、紅の裳のすそをぬらして、娘子らは點を釣つてをるであらうか。
〔評〕 娘子の釣をする樣を感覺的に空想して、それを見たいといふ心を餘韻にふくめるやうに詠んだもの。
〔訓〕 ○帥の老 通行本にはこの前に「都」の一字がある。これは歌の末句都流良武とあるべき都の※[手偏+讒の旁]入で、類聚古集以下古寫本によつて訂される。
 
862 人皆の見らむ松浦《まつら》の玉島を見ずてや我《われ》は戀ひつつ居《を》らむ
 
〔譯〕 皆の人が見てゐるであらう松浦の玉島の佳い景色を、行つて見ないで、自分はむなしく戀ひ慕つて家に居ることであらうか、
(253)〔評〕 松浦河遊覽旅行の一行にもれた人が詠んだと思はせるやうに作つたもの。
〔語〕 ○見らむ松浦《まつら》の 見てをるであらうその松浦の。
 
863 松浦河《まつらがは》玉島の浦に若年魚《わかゆ》釣る妹等《いもら》を見らむ人の羨《とも》しさ
 
〔譯〕 松浦河の玉島の浦で若點を釣る女たちを見てをるであらう人の、羨しいことよ。
〔評〕 鮎を釣る女たちを想像しつつ、それを見る人を羨んだもので、遊覽旅行の機會にもれた人の作らしく詠みなしたものである。
〔語〕 ○玉嶋の浦 川に浦といつたのは、序にある洛浦(洛川のこと)に倣つたもの。○妹等を 魚を釣る少女をさす。○羨しき 「ともし」はうらやましの意。「五三」參照。
 
   宜|啓《まを》す。伏して四月六日の賜書を奉《うけたまは》りぬ。跪きて封凾を開き、拜みて芳藻を讀むに、心神《こころ》開き朗に、泰初が月を懷《うだ》くに似、鄙しき懷|除《のぞこ》り※[衣+去]《さ》らえて、樂廣が天を披くが若《ごと》し。邊城に?旅《たび》し、古舊を懷《おも》ひて志を傷ましめ、年矢停らず、平生を憶ひて涙を落す若《ごと》きに至りては、但達人は排に安みし、君子は悶無し。伏して冀はくは朝に※[擢の旁]《きぎし》を懷《なつ》けし化を宜《の》べ、暮《ゆふべ》に龜を放ちし術を存し、張趙を百代に架し、松喬を千齡に追はむことを。兼ねて垂示を奉《うけたまは》るに、梅花の芳席に、群英藻を※[手偏+離の左]《の》べ、松浦の玉潭に、仙媛贈答せるは、杏壇各言の作に類《たぐ》ひ、衝皐税駕の篇に疑《なぞ》ふ。耽讀吟諷し、感謝歡怡す。宜、主を戀《しの》ふ誠、誠に犬馬に逾《こ》え、コを仰ぐ心、心に葵※[草がんむり/霍]に同じ。而も碧海地を分ち、白雲天を隔て、徒に傾延を積む。何ぞも勞緒を慰めむ。孟秋節に膺《あた》る。伏して願はくは、萬祐日に新ならむことを。今|相撲《すまひ》の部領使《ことりつかひ》に因りて、謹みて片紙を付く。宜、謹みて啓《まを》す。不次。
 
    諸人の梅花の歌に和へ奉る一首
 
(254)864 後《おく》れ居て長戀せずは御園生《みそのふ》の梅の花にもならましものを
 
〔題〕 旅人が都にゐる吉田宜のもとに梅花宴の歌や松浦河に遊ぶ歌などを贈つたのに對する吉田宜よりの返簡である。宜はもと惠俊と稱する僧であつたが、才藝を認められ、文武天皇四年八月、勅によつて還俗し、姓を吉、名を宜と賜はり、醫術を以て仕へた。神龜元年に姓吉田連を賜はり、天平五年圖書頭、十年典藥頭と成つた。懷風藻に、正五位下圖書頭吉田連宜二首(年七十)と見える。
〔譯〕 宜が申し上げます。四月六日附の御?を頂きました。跪いて封凾を開き、すぐれた御文を拜讀致しますに、自分の心は朗かになり、恰も泰初が、日月の懷に入るを覺えたやうな氣がして、今までの鄙しい自分の思ひが除き去られ、恰も樂廣が、雲霧を披いて青天を仰ぐ氣がしたのと同樣であります。あなたが都を去り邊境の太宰肝にいらつしやるので、都にいらつしやつた當時のことを懷しく思つて、心を傷めて居り、年月の速に過ぎ去るにつけては、あなたが都にいらつしやつた平生を思ひ、悲しく存ずることでありますが、さういふことは、但、達人は、物事の推移にも驚かず、我身も共に安んじて推移するし、君子は憂ふることがないといふわけで、申すに足ることでもありません。何卒、朝には雉をなつけたといふ魯恭のごときコ化を施され、夕には龜を買ひ放つたといふ孔愉のごとき仁術を示されまして、百代の後に出て、昔の名臣、張安世や趙充にも勝り、千歳の後に於いて、古の赤松子や王子喬の跡を追はれますやうに、御願ひします。一緒に御示しをいただきましたのは、梅花の宴席で、多くのすぐれた人々が歌を作られ、また松浦川では仙女と歌を贈答といふことでありますが、前者は、孔門の弟子が杏壇で各々志を述べた高趣にたとへられ、後者は、曹植が洛川の神女に遇つた洛神賦になぞらへられます。それらの歌を熟讀吟誦しまして、有難く喜ばしく存じます。自分があなたをお慕ひ申す誠心は、まことに犬馬がその主人を慕ふ情よりも勝つて居り、あなたのコを仰いで居る自分の心は、ひまはりが太陽に向ふごとくであります。しかもあなたと自分とは、居る所が遠く海(255)を隔て、白雲のたなびく空を遠く隔てて居り、あなたはお歸りにもならぬのに、徒らに首を傾け頸を長くして、長らくお待ち申して居ります。どうして心勞を慰めることが出來ませうか。唯今初秋の節に當つて居ります。どうか今後、御幸福が日に月に新たなるやうにお祈りいたします。今、相撲の部領使に託して、謹んで手紙を差上げます。宜、謹んで申します。
 あなたに別れて後に殘つてゐて、長く戀してゐないで、むしろあなたの御園の梅の花にでもなつたらよからうものを。
〔評〕 集中に多い形式であつて、型にはまつた作ではあるが、「御園生の梅の花」と云うたのが適切なものになつてをる。
〔語〕 ○四月六日の賜書 四月六日附の自分に頂いた書簡。○封函 手紙を入れ封じた箱。○芳藻 すぐれた文章。○心神開き朗に 心が明るく朗かになつて。○泰初が月を懷くに似 世説に「時人目2夏侯太初1朗朗如2日月之入1v懷」とある。泰初(泰太同義字)は魏の夏侯玄の字で、引用の文は、太初の性格が朗朗としてゐたのをいふ。ここの句はこの故事によつたもので、泰初が懷に入れた日月を自分が懷くかのやうにとて、心の明朗になつたことをいふ。○鄙しき懷除り〓《さ》らえて 鄙《いや》しい思が除き去られて。○樂廣が天を披くが若し 樂廣のかの雲霧を披くといはれた天を自分で披く思ひがするとて、心に障礙のなくなつたことをいふ。晋書に衛※[王+驩の旁]が樂廣を見て「雲霧を披きて青天を覩《み》るがごとし」と云つたとあるによる。○邊城に?旅し 邊城は邊境地方を守る城、ここは太宰府をさす。○古舊を懷ひ 古舊は故舊に通じ、昔馴染。しかし、單に昔日のことの意に解しても差支へない。○年矢停らず 年矢は年の過ぎ行く事の早いのを矢に譬へた。光陰矢の如しなどと同じ想。○平生を憶ひて涙を落す 旅人の都にゐた平生を憶つての意。邊城に?旅し以下は或は旅人が宜に送つた文の中の愚痴に關するもので、次の達人以下伏して冀はくはの數句までは、それに對するなぐさめともいふべきものと考へることも出來る。しかし通釋には、すべて宜の心情として(256)扱つた。○達人は排に安みし 達人は知能通達の人。排に安みすは、莊子大宗師篇に「安v排而去、化乃入2於寥天弌1」とあり、註に「排者推移之謂也、安2於推移1而與v化倶去」と見える。物の移り變りにも驚かず騷がず安んじて自分も共に推移するの意。○朝に※[擢の旁]を懷けし化を宣べ 故事による。それは、後漢の魯恭の善政がよく行き屆き、田舍の一童子までが、雛を養はうとする雉は決して殺さなかつたといふ一事を見ても、その善政の全體が知れたといふ。※[擢の旁]《きぎし》は雉の意。即ちここは旅人についていふ。(即ち統治者のコが一禽獣にまで及ぶがごとき)風化をお布き下さつての意。○暮に龜を放ちし術を存し 晉の孔愉が難に遭つてゐる龜を買うて放したその冥感によつて、後、侯に封ぜられ、その印紐に鑄た龜が、かつて放してやつた時の姿さながらに左顧して、幾ら改鑄しても直らなかつたので、自分の榮達が、龜の報恩によることを悟つたといふ故事(蒙求等に出づ)による。術はかかる仁愛を行ふ方法、即ち仁術の意。○張趙を百代に架し 張は、張安世、趙は趙充で、共に前漢の名臣。架は駕に通はし用ゐたものとせられてをる。凌駕する、勝るの意。百代の後に於いて張趙に劣らないの意。○松喬を千齡に追はむ 「松」は赤松子で神農の時の雨師。「喬」は王子喬で周靈王の太子。共に列仙傳に見える仙人。千歳の後までもこれらの人の跡を追ひ慕ふ意といふ説もあるが、それより千年の後に二子の蹤を追ふ意といふ説がよい。○兼ねて垂示を奉る 四月六日の書に別に梅花歌と松浦河の歌とが添へて贈つてあつたことをさす。○梅花の芳席 前記の梅花の宴。○群英藻を※[手偏+離の左]べ 多くの英《すぐ》れた才人が歌を作り。藻は文藻の意で文章詩歌。※[手偏+離の左]は舒に同じ。○杏壇各言の作に類ひ 杏壇は莊子漁父篇に「孔子遊2乎緇帷之森1休坐2乎杏壇之上1、弟子讀v書、孔子絃歌鼓v琴」とあるにより、學問所、講堂の意にも用ゐられる。各言は論語に「子曰、盍3各言2爾志1」「子曰亦各言2其志1也已矣」等に「各言」とあるを以て孔門弟子を指したものらしい。ここの句の言は、梅花宴の諸歌詠出のことは、孔門の弟子が杏壇で各々志を言うた高趣にも類するの意。○衡皐税駕の篇に疑ふ 文選の洛神賦に「爾廼|税《オロス》2駕乎〓皐1秣《カフ》2〓乎芝田1」とある句より直ちに洛神賦のことを衡皐祝駕之篇と云つたのである。衡は〓と通義、〓皐は〓といふ香草の生えてをる澤の意。ここの意は曹植が洛川の(257)神女に遇つたことを綴つた洛神賦に、松浦河に遊ぶの歌をなぞらへると云つて、旅人の歌を稱へたのである。疑は擬に通じるものと思はれる。しかしこのままで、洛神賦かとも疑はれるほどよくできてゐるとする説(新解・總釋)もある。○宜主を戀ふ誠、誠に犬馬に逾え 曹植の求v通2親親1表に「犬馬之誠不v能v動v人」等あり、犬や馬が主を慕ふ情を、犬馬の誠、犬馬の心などといふ。ここは、あなたを慕ふ誠は犬馬がその主を慕ふ情にまさるの意。○コを仰ぐ心、心に蔡〓に同じ あなたのコを仰ぎ慕ふ心は葵〓《ひまはり》が太陽に向つて傾くのに同じの意。同じ表に「若2葵〓之傾1v葉、太陽雖v不2爲v之廻1v光終向v之者誠也、臣竊自比2葵〓1」とあるによる。○徒に傾延を積む 傾延は傾首延領の意かといはれる。首を傾け頸を長くして待つの意。しかし、別に思ふに、これは上の「心に葵〓に同じ」をうけて、葵〓が、陽光に向つてその花を徒に傾け延ばしてゐるといふのであらう。宋書、彭城王傳に「敢抱2葵心傾陽之心1」とある。○勞緒 旅人の心勞をさす。○孟秋節に膺《あた》る 孟は初の意。節は節句の意か。○萬祐 多くの幸福。○相撲《すまひ》の部領使《ことりづかひ》 毎年七月に、天皇が相撲を御覽になる、其の日を相撲の節といふ。その設に、諸國から相撲人を集めるため、近衛府から語國に官人を派遣する。その官人をいふ。○不次 順序が整つてゐないの意で、書牘の終にしるす禮語。
〔語〕 ○後れゐて 後に殘つてゐて、即ち、梅花の宴に出席せずにゐて。○長戀せずは 長戀は長く何時までも戀ふるの意。「ずは」は「八六」參照。長戀せずしての意。「長戀しつつ寢ねかてぬかも」(三一九三)。○御園生 旅人の庭園をさす。
〔訓〕 ○感謝 諸本「戚謝」とあるが、代匠記により改めた。
 
    松浦の仙媛の歌に和《こた》ふる一首
865 君を待つ松浦《まつら》の浦の仙媛等《をとめら》は常世《とこよ》の國の天少女《あまをとめ》かも
 
(258)〔譯〕 あなたのおいでを待つてゐる松浦の浦の仙媛たちは、常世の國即ち蓬莱の天女でもありませうか。
〔評〕 旅人の神仙趣味にうまく調子をあはせ、かかる仙媛に戀せられる旅人の幸運を羨むやうに云ひなしたのである。
〔語〕 ○常世の國 ここは蓬莱のこと。「六五〇」參照。○天少女かも 「あまをとめ」は代匠記に天處女、海人處女の二説をあげ、後説に據つてゐるが、前説がよいと思はれる。
 
    君を思ふこと未だ盡きず、重ねて題せる二首
866 遙遙《はろばろ》に思ほゆるかも白雲の千重に隔《へだ》てる筑紫《つくし》の國は
 
〔譯〕 はろばろに遠い所と思はれることであるよ。白雲が幾重にも重なるほど遠く隔たつてゐる筑紫の國は。
〔評〕 當時の奈良と太宰府とでは、如何に遙々《はろばろ》に思はれたことであらう。友情は千重の白雲を越えて通うたのである。後に、京師に歸つた旅人も、筑紫に殘る滿誓にあてて「此間《ここ》に在りて筑紫や何處《いづく》白雲の棚引く山の方にしあるらし」(五七四)と詠んだ。
〔語〕 ○はろばろ はるばるに同じ。○千重に隔てる 大和との間に白雲が幾重にも重なつて介在してゐる、それほど遠く隔たつた。「隔てる」は、隔たれるに同じ。
 
867 君が行《ゆき》け長くなりぬ奈良路なる山齋《しま》の木立《こだち》も神《かむ》さびにけり
     天平二年七月十日。
 
〔譯〕 あなたが筑紫へ行かれてから、日數が長くたちました。奈良にあるあなたのお邸の山齋《しま》の木立も、古くなつたことであります。
〔評〕 二句は、古歌の用語をとつてゐるが、四五句は、事實をありのままに述べて、清新にしてあはれな感緒をたた(259)へてをる。遠く筑紫にゐて、この音信に接した旅人の思ひは如何であつたであらう。想像は千重の白雲を飛び越えて、亡き妻と二人で作つた山齋に遊んだことであらう。後に奈良に歸着して詠んだ、「妹として二人作りし吾が山齋《しま》は木高《こだか》く繁くなりにけるかも」(四五二)も思ひ合される。
〔語〕 ○君が行け長くなりぬ 「八五」參照。○奈良路 奈良にある路の意であるが、ここは奈良の土地の意に解する方がよい。○山齋《しま》の 「しま」は古くは地名説(代匠記)が有力であつたが、最近は殆ど山齋(四五二)とみる事に一致してゐる。○神さびにけり ここでは古びたの意。
 
  憶良誠惶頓首謹みて啓す。憶良聞く、方岳諸侯、都督刺史、并に典法に依りて、部下を巡行して、其の風俗を察《み》ると。意の内に端多く、口の外に出し難し。謹みて三首の鄙しき歌を以ちて、五藏の欝結《むすぼほり》を寫さむとす。其の歌に曰く、
868 松浦縣《まつらがた》佐用姫《さよひめ》の子が領巾《ひれ》振《ふ》りし山の名のみや聞きつつ居らむ
 
〔題〕 序と見るべき書簡の前文によると、方岳諸侯、都督刺史が、規定によつてその管轄地を巡察したとある。方岳諸侯、都督刺史で、太宰帥旅人をはじめ大貳少貳等をさしてゐるのであらう。即ち、旅人等が松浦縣を巡遊したことを云うたものと思はれる。契沖も説いた如く、憶良は、筑前一國の國守で、他國まで巡遊することができなかつたのであらう。よつて、その旅行を羨望して、結ぼれた思ひをのべた三首の歌を、旅人卿に呈したのである。終に「天平二年七月十一日 筑前の國の司山上憶良謹みて上る」とある。
〔譯〕 憶良、誠惶頓首、謹んで申し上げます。自分は聞いて居ります。太宰府及び國司の諸官は、共にそれぞれ法典の規定に從つて、その管内を巡行し、その風俗を察するといふことであります。つきましても心中に思ふことが多く、口に出しては言ひ盡せません。謹んで三首の鄙しい歌を作り、心中の欝積を寫さうと思ひます。その歌は次のごとく(260)であります。
 松浦縣《まつらがた》の佐用姫が、夫の大伴佐提比古が任那に行くのを見送つて領巾《ひれ》を振つたといふ山を、行つて見ることは出來ないで、名を聞いてだけゐなければならないのであらうか。
〔評〕 松浦佐用姫の傳説は、憶良の詩情をいたく衝いたのである。親しくその山に登つて往時を偲びたいのは、詩人として當然の情であらう。そのあこがれの果しがたく、領巾麾嶺と名を聞くのみで空しく思ふ心が第四・五句に盡されてあます所がない。率直に欝結をのべたもの。「山の名のみや聞きつつ居らむ」は、前の「ひとり見つつや春日暮らさむ」と同樣の句法である。しかし、これは、前のやうな反語的のものではない。見に行かうとする意欲はなくて、その語尾に、恨めしげな嘆聲をこめてをるやうである。類聚古集に、「山の名のみも君いまさずして」となつてをるのはよくない。
〔語〕 ○方岳諸侯 尚書周官に「六年王乃時巡考2制度于四岳1、諸侯各朝2于方岳1大明2黜陟1」とあるによる。方岳は四方の岳の意で、東岳は岱山、南岳は衡山、西岳は華山、北岳は恒山をさし、天子が巡狩する時、諸侯は夫々その地方にある右の岳の下に集まるから、方岳諸侯といふ。ここは諸國の國守等を云つたのである。○都督刺史 都督は太宰府をさし、刺史はその下役人をいふ、といふが、官職の唐名としては、太宰大貳に都督、國守に刺史をあてるが後世の常である。○并に典法に從ひ 方岳諸侯、都督刺史が各々規定に從つて。○意の内に端多く 心の中に思ふことが多く。○口の外に出し難し 口に出しては言ひ盡しがたい。○鄙しき歌 謙遜していふ。○五藏の欝結を寫さむとす 心中の欝横を寫さうとする。五藏は肺・心・脾・肝・腎の五臓のこと。○松浦縣 「がた」を潟とみる説もあるが縣とするのがよい(古義)。○佐用姫の子が 佐用姫のことは、次の「八七一」の序に詳しい。「子」は親しみいふ語。○領巾ふりし山 領巾は「二一〇」參照。領巾振《ひれふり》山をさす。鏡山ともいひ、肥前の東松浦郡鏡村にあり、虹の松原に近く、頂は廣く平になつてゐて、唐津灣に臨み、甚だ眺望がよい。
 
(261)869 足姫《たらしひめ》神の命《みこと》の魚《な》釣《つ》らすと御立《みた》たしせりし石を誰《たれ》見き 【一に云ふ、あゆつると
 
〔題〕 旅人にささげた三首のひとつ。松浦の地方にのこる傳説は、前の領巾麾《ひれふり》の嶺と、松浦河玉島における神功皇后の年魚《あゆ》を釣られたこととである。この事は、古事記・神功皇后紀・肥前風土記にある。旅人は松浦河に遊んで、玉島の潭で鮎を釣る女子を、仙媛になぞらへて贈答の歌をつくつてをる。古い傳説のある地に遊ぶことのできなかつた憶良に、この感慨のあるのも當然であらう。
〔譯〕 息長足姫といふ神樣が、魚をお釣り遊ばすとて、お立ちなされた玉島川の石を、誰が見たのであつたか。
〔評〕 松浦の地にからんでは、松浦佐用媛の傳説とともに、息長足姫命の御事蹟は忘れることのできぬものである。從つてこの地方を巡行する人を羨む感情は、詩人としては至當のことで、そのあこがれは激しいものがあつたらう。「石を誰見き」の結句に、あなたは御覽になつたであらうが、自分は見ることが出來ぬといふ、羨みの心が籠められてをる。なほこの石は、七尺ばかりの紫色のもので、後世に傳はり、元和六年五月の洪水に一度砂底に埋められたが、後に掘出され、今は玉島神社前の路傍に安置されてゐる。
〔語〕 ○足姫 息長足姫即ち神功皇后。○魚釣らすと 魚をお釣りになるとて。神功皇后が此川で鮎を釣り給うたことは書紀等に見える。○御立たしせりし 御立ちなされた。
 
870 百日《ももか》しも行かぬ松浦路《まつらぢ》今日行きて明日は來《き》なむを何か障《さや》れる
     天平二年七月十一日 筑前の國の司山上憶良謹みて上る。
 
〔譯〕 百日もかかるといふほどの行程でもない松浦路は、今日行つて明日は歸つて來られように、何が行くことを妨げるのであらうか。
(262)〔評〕 松浦郡に近い筑前の國にありながら、巡歴の行に加はり得なかつた障りを恨む心の切なるものがあらはれてをる。政務などと云ふ現實の拘束があつた詩人憶良の詩情の嘆きは切であた。言葉を簡潔につらねて、しかも婉曲の調をおびてゐるのに、表現のうまみがある。
 
  大伴《おほとも》の佐提比古《さでひこ》の郎子《いらつこ》、特に朝命を被《かがふ》り、使を藩國に奉《うけたまは》りぬ。艤棹《ふなよそひ》して言《ここ》に歸《ゆ》き、稍蒼波に赴く。妾《をみなめ》松浦【佐用ひめ】此の別るることの易きを嗟き、彼の會ふことの難きを歎く。即、高山の嶺に登りて、遙に離れ去く船を望み、悵然として肝を斷ち、黯然として魂を銷《け》す。遂に領巾《ひれ》を脱《ぬ》ぎて之を麾《ふ》る。傍の者涕を流さざるは寞《な》かりき。因《かれ》此の山を號《なづ》けて領巾麾《ひれふり》の嶺と曰へり。乃、歌を作りて曰く、
871 遠つ人松浦佐用比賣《まつらさよひめ》夫戀《つまごひ》に領巾《ひれ》振りしより負へる山の名
 
〔譯〕 大伴の佐提比古が、特に朝命を被つて藩國に使することとなつた。それで船よそひをして出掛け、大海に乘出して行かうとする。愛人なる松浦佐用比賣は、今の別れ易いことを歎き、再會のむつかしいことを歎いた。即ち、高い山の嶺に登つて、遙かに離れ去りゆく船を見送つて、心もくらくなり、肝が斷え魂も銷《き》えるほど悲しんだ。遂に領巾を脱《と》つてそれを振つた。因つて此の山を名づけて領巾振の嶺といふのである。それで次のごとく歌を作つた。
 遠くの人を待つといふ松浦佐用比賣が、任那へ行く夫を戀ひ慕うて、山の上に登つて領巾を振つたことから、名づけられた山の名である、領巾振といふ名は。
〔評〕 傳説をそのままに地名の起原を説明した歌であるが、詞調明媚。漢文の序と相待つて、讀者にあはれにもまた華やかな幻を描かしめる。日本書紀・風土記にも録されてをり、上代の國家的大事件を背景としての悲戀なる傳説自體の性質にも依るであらうが、後世に與へた感銘は、萬葉のこの作が主として負ふべきものであらう。
〔語〕 ○大伴の佐提比古の郎子 宣化天皇紀に、「二年十月壬辰朔、天皇新羅の任那に寇《あたな》ふを以ちて、大伴金村大連(263)に詔して其の子磐と狹手彦とを遣して、以ちて任那を助けしむ。是の時、磐、筑紫に留まり、其の國の政を執りて以ちて三韓に備ふ。狹手彦往きて任那を鎭め、加《また》、百濟を救ふ。」とあり、欽明天皇紀二十三年の條には、「八月、天皇、大將軍大伴連狹手彦を遣はして、兵數萬を領《ひき》ゐて、高麗を伐たしむ。狹手彦乃ち、百濟の計《たばかり》を用ゐて高麗を打ち破りつ。其王、墻を踰えて逃ぐ。狹手彦、遂に勝に乘りて以ちて宮に入り、盡く珍寶貨賂《たからもの》・七織《ななへおりもの》の帳《とばり》・鐵屋《くろがねのや》を得て還來《まゐけ》り。」とある。○藩國 王室の藩屏となる國の意で、ここでは、任那をさす。繼體天皇紀六年の條に、「氣長足姫尊、大臣武内宿禰と、國毎に、初めて官家《みやけ》を置きて、海表の蕃屏と爲て、其の來《ありく》ること尚《ひさ》し、抑《は》た由《ゆゑ》有り」とある。○艤棹《ふなよそひ》して 出帆の準備をして。○松浦佐用姫 肥前風土記(仙覺抄所引)に、「松浦縣の東三十里、※[巾+皮]搖岑有り。※[巾+皮]搖は此を比禮布里《ひれふり》と曰ふ、最頂《いただき》に沼有り、計るに半町ばかりなり。俗に傳へ云く、昔者《むかし》檜前《ひのくまの》天皇の世《みよ》、大伴紗手彦を遣して任那を鎭めしむ。時に命《おほみこと》を奉りて此堤をよぎる。ここに篠原村に娘子あり、名を乙等比賣と曰ふ。容貌端正にして、孤《ひと》り國色と爲れり。紗手彦便ち娉《つまどひ》して婚を成す。離別の日、乙等比賣、此の岑に登り望《み》て※[巾+皮]《ひれ》を擧《ふ》りて招く、因りて名と爲せり」とある。檜前天皇は宣化天皇。○悵然 悲しみ傷む貌。○黯然 上に同じ。○遠つ人 枕詞。「八五七」參照。○夫戀《つまごひ》に 夫を慕うて。
〔訓〕 ○黯然 諸本「黙然」とあるが、古葉略類聚抄、竝に代匠記の説によつて改める。
 
    後の人の追ひて和ふる
872 山の名と言《い》ひ繼げとかも佐用比賣《さよひめ》がこの山の上《へ》に領巾《ひれ》を振りけむ
 
〔題〕 後の人の追和に擬して詠んだ歌。
〔譯〕 佐用比賣が、この山の上で領巾を振つたのは、山の名として言ひ傳へよといふのであつたらうか。
〔評〕 後世に語り傳へられることに誇りをかけてゐた萬葉人の思想で、傳説の主人公の心中を推測したのである。(264)これはまた、一面から見れば、いみじくも今日まで語り傳へられてきたものである、といふ讃嘆の聲とも感じられよう。古き傳へに對する作者の感動がよく示されてをる。
〔語〕 ○言ひ繼げとかも 語り傳へよとてか。
 
    最《いと》後の人の追ひて和ふる
873 萬代に語り繼げとしこの嶽《たけ》に領巾振りけらし松浦佐用比賣
〔題〕 「最後《いとのち》の人の追和」として詠んだ作。
〔譯〕 萬代の後までも語り傳へよとて、あの松浦佐用比賣は、この山で領巾を振つたやうである。
〔評〕 前の歌と同樣に、名を重んじて、語り傳へることに誇りをかけてゐた思想によつてゑがいたものである。唐津灣の蒼波をのぞんで風光秀絶の山頂に領巾を振る美女の幻影が、おそらく作者の脳裡にくつきりとゑがかれてゐたのでもあらうか。
〔語〕 ○語り繼げとし とは、とての意。
 
    最最《いといと》後の人の追ひて和ふる二首
874 海原の沖行く船を歸れとか領巾《ひれ》振らしけむ松浦佐用比賣
 
〔譯〕 海原の沖を行く夫の船を歸れとて、領巾を振つたことであらうか、松浦佐用姫は。
〔評〕 あはれの深い詠みぶりである。領巾麾嶺にのぼり、虹の松原を足下に見おろし、唐津灣をみわたしつつ此の歌を誦すれば、おのづから興趣の新たなるものがあらう。旅人がかくも重ねて、後人の作になぞらへて追和の歌を詠んだのは、この傳説から受けた感動の深さを示してゐるのであるが、この作は殊に同情があらはれて、あはれに詠まれ(265)てゐる。虹の松原から南にそびえる領巾振山にのぼり、唐津灣を望んでこの歌を思へば、興趣の切なるものがある。
〔語〕 ○歸れとか 歸れとてか。○振らしけむ お振りなすつたことであらうか。
 
875 行く船を振り留《とど》みかね如何《いか》ばかり戀《こほ》しくありけむ松浦佐用比賣
 
〔譯〕 領巾を振つても、行く船をとどめることができないで、どんなに戀しかつたことであらうか、松浦佐用姫は。
〔評〕 前の歌よりも更に進んで、主觀的に深い同情をかたむけた作である。「いかばかりこほしくありけむ」とは、詩的の韻律を缺いた平俗の語であるが、眞率自然の表現であつて、これによつて同情がうちつけにあらはれてをる。これ以上の感動の表現があらうとは思はれず、作者の感慨の極まつたといふ趣がある。
〔語〕 ○振り留みかね 領巾を振つて船を留める事ができないで。「留み」は上二段活用の連用形。
 
    書殿《ふみどの》にて餞酒《うまのはなむけ》せし日の倭歌四首
876 天《あま》飛ぶや鳥にもがもや京《みやこ》まで送り申《まを》して飛び歸るもの
 
〔題〕 書殿で、都に歸る旅人の爲に餞別の宴の催された時に詠んだ憶良の歌。
〔譯〕 自分が空を飛ぶ鳥であればよいがなあ。さうすればあなたを、奈良の都までお送り申しておいて、また飛び歸りますのに。
〔評〕 旅人の「龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて來《こ》む爲」(八〇六)に似た趣向である。しかし、ことさらに長官たる旅人の趣味にかなはせようとしたのではないであらう。交通の不便な時代のこの種の空想は、人間自然の願望のあらはれとして、同情すべきものがある。詞調は素朴で、その中に可憐な味がある。殊更に稚拙の效果を狙つたものとも思はれるが、技巧は裏にかくれて、幼い心の人が眞心をこめて歌つたと思はれるばかり、自然順(266)直である。
〔語〕 ○書殿 筑前守館にあつたとする代匠記の説、憶良の私宅にある書院とする略解の説、旅人の家の讀書室とする新解の説、太宰府の都督府内にあつて圖書寮のやうなものとする全釋の説などがあるが、最後の説が穩かであらう。なほ「書殿の」とよみ、尊稱として旅人をさしたものとする攷證の説もある。○餞酒 餞別の宴の意。○倭歌 漢詩に對して日本固有の歌の意で、集中唯一の例である。○天飛ぶや 飛ぶは連體形で烏につづく。「や」は感動の助詞。
 
877 人|皆《もね》のうらぶれ居《を》るに立田山|御馬《みま》近づかば忘らしなむか
 
〔譯〕 あなたにお別れして、皆の人が悲しんでをるのに、あなたのお馬が立田山に近づいたならば、都に近づいたのをよろこんで、こちらに殘つてをる人のことはお忘れになるでせうか。
〔評〕 上官に呈する餞別の歌には珍しい、形式や儀禮を脱して、自然の情のあらはれたものである。おのづから、その交友の親しさもうかがはれる。外國文學の素養はあり、闊達な酒の詩人である此の好き長官を失うて、任地にとどまる人間憶良のわびしさもうなづかれる。太宰府に殘る人にとつては、立田山は、なつかしい思ひの種である。都に歸る人の馬が、立田山に近づくといふことを想像しても、胸のをどるを覺えたであらう。それゆゑに、太宰府に殘る人々を「忘らしなむか」の怨じがほの想像が、極めて自然であつて、簡潔にして無量の妙味がある。
〔語〕 ○人もねの 「もね」は「皆」の九州地方に於ける方言であらう(攷證)。然し今日は全く使用されてゐないやうである。○うらぶれ居るに 心わびしく樂しまぬ意。「うらわぶれ」の約といはれてゐる。○立田山 「八三」參照。○御馬近づかば 旅人の乘馬が近づいたならば。○忘らしなむか 「忘る」は古く四段と下二段と兩方に用ゐられ、前者の場合は「忘る」を能動的人爲的行爲とみての場合で、後者は自然的な必然的な心理現象としての「忘る」の場合に用ゐた。そしてその區別は萬葉集でも既に東國方言にしか殘つてゐないが「わすらす」「わすらゆ」の場合のみ(267)はその痕跡として中央の言葉にも四段活用を用ゐた(方言、有坂秀世博士)。
〔訓〕 ○人もねの 白文「比等母禰能」で、略解所引宣長説には「母禰」は「彌那」の誤としてゐる。
 
878 言《い》ひつつも後こそ知らめとのしくも不樂《さぶ》しけめやも君|坐《いま》さずして
 
〔譯〕 あなたとお別れするのが悲しいなどと口で云ひつつも、お目にかかつてゐる今は、まださほどではありませぬが、いよいよお別れして後にこそ思ひ知るでせう。ひと通りの寂しさではありますまいことを。あなたがおいでにならぬ後は。
〔評〕 複雜な思ひを簡勁にたたみこんでゐるので、句法が澁く佶屈で、しかも古拙である。しかし、古今にわたつて共通する人間の心理に觸れてゐて、古色蒼然たる形式のなかみは、今日もなほ新しく感ぜられる。
〔語〕 ○言ひつつも お別れした後はさぞ寂しからうと今いひながらもの意。又「こひしきなどいひつつも」と補つてもよい。○とのしくも 代匠記一説の「殿しく」は解し難い。管見に云ふ「ともしく」で、契沖は之をうけて「すくなくさびしからむや、多くさびしからむなり」(代匠記一説)とする意と思はれる。九州地方の方言かも知れない(攷證)。
 
879 萬代に坐《いま》し給ひて天《あめ》の下まをし給はね朝廷《みかど》去らずて
 
〔譯〕 萬世までもおいでなされて、大臣として天下の政治を奏上して下さい、朝廷を離れずして。
〔評〕 別れの悲しみをのべた後、容をあらためて祝辭を呈した觀がある。都に歸り給ふ上からは、健勝にいまして、朝廷のために盡すところあれ、といふ丈夫の聲である。この作者特有のしづかな語句の中に、凛乎たる氣がこもつてをる。
(268)〔語〕 ○天の下まをし給はね 天下の政治を執り給へ、の意「吾が大王の天の下申し賜へば」(一九九)參照。○朝廷さらずて 朝廷を離れないで。
 
    敢へて私の懷《おもひ》を布《の》ぶる歌三首
880 天《あま》ざかる鄙に五年住まひつつ京《みやこ》の風俗《てぶり》忘らえにけり
 
〔譯〕 都から遠くへだたる田舍である此の九州に、五年間も住んでゐて、優雅な奈良の都の風俗が、いつの間にか、すつかり忘られてしまつたことである。
〔評〕 自然順直の表現の中に、才人憶良の情懷があはれに感ぜられる。永い間田舍ずまひをした人に、これに似た感慨のあるのは、今も昔も變らぬところであるが、當時、帝都と地方との文化の懸隔が甚しく、奈良の帝都は、國民憧憬の的であつたといふことを考へあはせて、この歌を讀むと、その心が痛切に感じられる。しづかな句法の中に、沈痛の氣がみちてをる。頽齡に及び、なほ僻陬にあつて、任期の何時はてるとも知られぬ不遇をなげく、人間憶良の聲があはれである。國守の交代の期の不正確であつたことを語つてをるやうである。
〔語〕 ○天ざかる 「二九」參照。○鄙に五年住まひつつ 「鄙」はここでは筑前をさす。當時(慶雲三年二月以後天平寶字二年まで)は、國司の任期は四年であつた(その前後の時代は六年)が遠隔の地では必ずしもその通りに行はれなかつたらしい。「住ひ」は「住む」に繼續をあらはす「ふ」のついたもの。○てぶり 手ぶりで、風俗の意。○忘らえにけり 忘れられて了つた。
〔訓〕 ○敢へて 白文「敢」は類聚古集に「※[甘+攵]」とあり、細井本とその系統の通行本は「聊」となつてゐるが、西本願寺本等の仙覺本及び紀州本はすべて「敢」とある。これが意味の上からも敵當である。代匠記は「聊」の方をよしとし、古義は「敢」をよしとしてゐる。
 
(269)881 斯くのみや息づき居《を》らむあらたまの來經往《きへゆ》く年の限知らずて
 
〔譯〕 このやうに、都を戀うて吐息をついてばかりをることであらうか。過ぎ去つて行く年を、何時までここで送るか、その限りも知らないで。
〔語〕 ○かくのみや 「のみ」は「かく」を強める意の副詞。「や」は疑問の助詞。○息づき居らむ 息づくは溜息をつくこと。○あらたまの 「四六〇」參照。ここも「年」にかかるので、「來經」にかかるのではないかと思はれる。
 
882 吾《あ》が主《ぬし》の御《み》たま賜ひて春さらば奈良の京《みやこ》に召上《めさ》げ給はね
     天平二年十二月六日 筑前の國の司山上憶良謹みて上る。
 
〔譯〕 どうかあなたのお力を頂きまして、春になつたならば、奈良の京に自分をお召し上げ下さいませ。
〔評〕 現實の世の束縛の中からにじみでた、老憶良の眞率の聲である。門閥の背景のなかつた彼が、上官の愛顧にすがらうとするのも、あはれの極みである。しかし、大伴君熊凝を悼んだ歌の序によつて知られるやうに、おそらく一縷の望みをかけてゐたであらう翌年の春にも京に召上げられることなく、なほ筑前に在任してゐたのである。
〔語〕 ○吾が主の 旅人をさす。○御たま賜ひて お蔭によつて。「御たま」は靈魂の意、轉じて御恩、御加護などの意となる。書紀に恩頼、神靈をミタマノフユと訓んでゐるのも同じ。○めさげ給はね 召上げ給はねの意。
 
    三島王、後に迫ひて和ふる松浦佐用姫の歌一首
883 音《おと》に聞き目には未《いま》だ見ず佐用比賣《さよひめ》が領巾《ひれ》振りきとふ君|松浦《まつら》山
 
〔題〕 三島王が、後になつて、松浦佐用姫の歌に迫和して作つた歌である。三島王は、續紀に「養老七年正月丙子、(270)無位三島王授2從四位下1」「寶龜二年七月乙未、故從四位下三島王之女河邊王葛王配2伊豆國1至v是皆復2屬籍1」と見える。
〔譯〕 話にだけ聞いて、目にはまだ見たことがない。佐用姫が夫を慕うて領巾《ひれ》を振つたといふ松浦の山を。
〔評〕 一二句は、卷七に「音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野河|六田《むつだ》の淀を今日見つるかも」(一一〇五)とある、それに學んだものか。格調の整うた作である。
〔語〕 ○領巾振りきとふ 「とふ」は「といふ」の約。○君松浦山 君を待つに松をかけた。「君」は歌の上に意味はないが、この場合ふさはしい語である。
 
    大伴君熊凝《おほとものきみくまごり》の歌二首 【大典麻田陽春の作なり】
884 國遠き道の長|路《て》を欝《おぼほ》しく今日や過ぎなむ言問《ことど》ひもなく
 
〔題〕 麻田|陽春《やす》が熊凝の心になつて代作したもの。熊凝の傳は「八八六」の序參照。陽春は「五七〇」參照。
〔譯〕 自分の國から遠い道の長い途上で、心も暗く今日自分は死んで行くのであらうか。親に物を云ふこともなく。
〔評〕 故郷を離れ、親を離れ、旅に病む少年が死を見つめた胸中を、推察したもので、死といふ未知の暗い世界へ行かうとするに當つての不安があらはれてをる。第四句で張り、結句で沈む抑揚は、萬葉歌のよさを思はしめる。
〔語〕 ○道のながてを 「五三六」參照。○おぼほしく 「一八九」參照。○今日や過ぎなむ 今日死んで行くのであらうか。「過ぐ」は死ぬの意。
〔訓〕 ○今日や 白文「計布夜」で、細井本及びその系統の通行本では、「計」を「許」に作り、諸註「戀ふや」とするは、誤りである。
 
(271)885 朝霧の消易《けやす》き我が身|他國《ひとくに》に過ぎかてぬかも親の目を欲《ほ》り
 
〔譯〕 朝霧のやうに消え易い我が身で、無常なものではあるが、この故郷を遠く離れた他國では、死なれぬことであるよ、親に一目逢ひたくて。
〔評〕 佛教思想を巧みにとりいれて、よくこなれた歌である。三四句は殊にあはれが深い。
〔語〕 ○朝霧の 消易きにかかる枕詞。○けやすき我が身 死に易き我が命。○他國に 故郷以外の土地の意。此の娑婆に對し黄泉をいへるなるべしといふ代匠記初稿本の説は、採り難い。○過ぎかてぬかも 死に得ないことであるよ。「過ぐ」は死ぬの意。○親の目を欲り 「七六六」參照。
〔訓〕 ○朝霧 西本願寺本等の仙覺本及び通行本は「朝露」とあり、類聚古集以下の仙覺以外の傳本では「朝霧」とある、今後者に依つた。しかし、「消易き」に續くのは露が多く、霧の例はないから「朝露」がよいとする説(全釋、總釋)もある。
 
    敬みて熊凝の爲に其の志を述ぶる歌に和ふる六首并に序 筑前の國の守山上憶良
  大伴君熊凝は、肥後の國|益城《ましき》の郡の人なり。年十八歳にして、天平三年六月十七日を以ちて、相撲使某の國の司官位姓名の從人《ともびと》と爲り、京都《みやこ》に參《まゐ》向へり。天なるかも、幸あらず、路に在りて疾を獲、即ち、安藝の國佐伯の郡高庭の驛家にて身故《みまか》りぬ。臨終《みまか》らむとせし時、長歎息《いきづ》きて曰く、傳へ聞く、假合の身は滅び易く、泡沫の命は駐《とど》み難し。所以《かれ》千聖已に去り、百賢も留らずと、況して凡愚の微《いや》しき者、何《なに》ぞも能く逃れ避らむ。但《ただ》我が老いたる親、并に菴室に在《いま》す。我を待ちて日を過しまさば、自ら心を傷むる恨あらむ。我を望みて時に違はば、必ず明を喪ふ泣《なみだ》を致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一の身死に向ふ途を患へず、唯二親の世に在す苦を悲しむ。今日|長《とこしなへ》に別れなば、何《いづれ》の世にか覲《み》ることを得むと。乃ち歌六首を作りて死《みまか》りぬ。其の歌(272)に曰く、
886 うち日さす 宮へ上《のぼ》ると たらちしや 母が手|離《はな》れ 常知らぬ 國の奧處《おくか》を 百重《ももへ》山 越えて過ぎ行き 何時《いつ》しかも 京師《みやこ》を見むと 思ひつつ 語らひ居《を》れど 己《おの》が身し いたはしければ 玉桙の 道の隈囘《くまみ》に 草|手折《たを》り 柴取り敷きて とけじもの うち臥伏《こいふ》して 思ひつつ 歎き臥《ふ》せらく 國に在らば 父とり看まし 家に在らば 母とり看まし 世間《よのなか》は 斯くのみならし 犬じもの 道に臥《ふ》してや 命《いのち》過《す》ぎなむ 【一に云ふ、わが世過ぎなむ】
 
〔譯〕 大伴君熊凝は肥後國益城郡の人である。年十八歳の、天平三年六月十七日に、相撲使某の國司の從者となつて都に向つて出發した。然るに、天命であつたのであらう、不幸にして旅中に病に罹つて、安藝國佐伯郡の高庭の驛家でみまかつた。臨終の時、長歎息して言ふには、聞くところによれば、地水火風の四大が假に集まつて出來た人身は滅失し易く、水の泡の如くはかない生命は永く駐めることはむづかしいといふことである。であるから、多くの聖人も皆世を去つてゆき、數多の勝れた賢者でさへも世に留まつてをらない。況んや凡愚卑賤の自分ごときが、どうしてその死を逃れることが出來よう。自分の死は覺悟してゐる。しかしただただ心にかかるのは、自分の年老いた兩親が、二人揃つて、家にをられるが、自分の歸りを待つてゐて、それがあまり遲くなつたならば、心を傷め心配されるであらう。自分の歸りをはるかに待ち望んでをられて、自分がその時に歸れなかつたならば、必ず眼を泣きつぶすほどお泣きになるであらう。それだけが心殘りである。ああ哀しいことよ、わが父上、ああ痛ましいことよ、わが母上。自分の身が死の途に向ふことは悲しまぬが、唯々生きて苦しまれる兩親のことが悲しい。今日長く別れたならば、いづれの世にか再び兩親にまみえることが出來ようか。かう言つて、そこで歌六首を作つて、死んでしまつた。その歌は(273)次のごとくである。
 うつくしい日のさす都へのぼらうと、母の手もとを離れ、平常は知らなかつた土地の遠いところを、百重に重なつた山を越え通つて行つて、いつか早く都を見ることであらうと、同行の人々と語り合うて思ひ慰めてゐたが、病を得て自分の身が惱ましく苦しいので、道の曲り角に、草を折り、柴を採つて敷いて、ぐつたりと其の上に臥して、臥しながら種々と思ひ嘆くことには、國に居たならば、父が看とりをしてくださるであらうに、家に居たならば、母が看とりをしてくださるであらうに。世の中は、かやうにも思ふやうにならないものなのであらう。自分はかうして、犬のやうに道のほとりに臥したまま、遂に命を終ることであらうか。悲しいことである。
〔評〕 あはれなる死者に同情して、その心になりかはつて歌を詠んだり、名の知れぬ路傍の行き倒れの屍に涙をそそぎ、家に彼を待つ妻を想像したりするのは、萬葉歌には?々ある。それらは、上代における人間相互の好意、從つて風俗の敦厚さを語るものである。それと共に、人間の生命を尊重することの如何に深かつたかを示すものでもある。ここに憶良は、十八歳の少年熊凝の客死をあはれみ、その苦衷を察して、こまかな敍述をつくしてをる。社會詩人としての彼には、適切な素材である。もとより事件は單調であり、少年の心も單純であるゆゑに、描寫もまた單調であることはやむを得ない。しかし、句と句とのつらね方の、飛躍のなさすぎる克明さや、抑揚のない云ひ樣などは、冗長の感をおこさせる。洗練のかかつた靜かな句法は、認むべきではあるが。
〔語〕 ○益城の郡 和名抄「肥後國益城(萬志岐)」とあり、肥後の國の中央部で、いま上・下益城郡に分れてゐる。○相撲使 相撲部領使「八六四」の序參照。○某の國の司官位姓名 國名及び國司の官位姓名が、明かでなかつた爲にかく記した。○高庭驛 大日本地名辭書に濃唹驛の事であらうとし「今、地御前村と大野村の間に中山といふ峠あり、その邊に高畠《たかばたけ》と字する地は高庭《たかば》の遺跡とす。或は生《おふ》の中山と號す」とある。嚴島の對岸に當る。○假合の身 佛語で、四大即ち地水火風の假に合してできた身體の意。○菴室 粗末な家。○我を望みて時に違はば 戰國策に「王(274)孫賈之母、謂v賈曰、汝朝出晩來、則吾倚v門而望v汝。」とあり「倚門の望」などいふ。ここは、父母が門に倚つて望み待つてゐるが、私が歸るべき時にはづれたならば、即ち死歿したならばの意をこめてをる。○必ず明を喪ふ泣《なみだ》を致さむ 禮記檀弓上に「子夏喪2其子1而喪2其明1」とあるのによる。目がつぶれるほど悲しみ泣くであらうの意。○覲る 此の見るは、參覲などに用ゐ、長上にまみえるの意。○うち日さす 枕詞「四六〇」參照。○たらちしや 「や」は間投助詞。「たらちし」の意は明らかでないが「たらちね」(四四三)に同じ事は疑ない。○母が手離れ 俗にいふ、親の手をはなれる、親の懷をはなれるの意(代匠記)。○國の奧處 國の果。國は土地の意。「か」は場所の意。○百重山 幾重にも重なつた山。○いたはしければ 「いたはし」は煩ひ病む意。原義は勤め骨折るをいひ、宣命には「勞《いた》はし」などと見える。○玉桙の 枕詞。「七九」參照。○道の隈囘に 「一一五」參照。○とけじもの 「うち臥伏して」の枕詞である。「解霜の」(仙覺抄)とすると、計《け》の假名が疑はしい。計《け》を許《こ》の誤とし、床じものと解する説(代匠記)もあるが、暫く、不詳として原文に從ふ。○うち臥伏して 伏しての意。「こい」も伏すの意。○父とり見まし 「とりみる」は看護するの意。(橋本進吉博士、日本文學論纂)。○世間は斯くのみならし 世間はかやうに無常なものであらう。○犬じもの 大のやうに。○わが世 世は齡の意。
〔訓〕 ○肥後國 通行本の「肥前國」とあるは誤。細井本系の本の外は、紀州本はじめ、いづれも「後」に作る。○假合 西本願寺本、温故堂本、京大本による。通行本はじめ他の諸本「假令」とあるは誤。○二の親 「親」は紀州本などによる。細井本「記」通行本「説」は共に誤。○とけじもの 白文「等計自母能」で、代匠記の「計」は「許」の誤かとする説に從ふ註も多い。○一に云ふ、わが世過ぎなむ 次の歌の第五句の下にあつたのが、ここへ誤つて來たのであらう。
 
887 たらちしの母が目見ずて欝《おぼほ》しく何方《いづち》向《む》さてか吾《あ》が別るらむ
 
(275)〔譯〕 今は再び母親の目を見ることもなくて、くらい心で、おぼつかなくも、どちらに向つて、自分は此の世を別れて行くのであらうか。
〔評〕 死といふ知らぬ世界へ往かうとする際の不安が、その沈んだ調子の中にあらはされてをる。心の暗くなるやうな歌である。前の長歌の最後にある異傳の一句はこの歌にあつたもので、本來これは佛足石體の歌であつたのであらう。以下四首も同じ。
〔語〕 ○たらちしの 枕詞。○吾が別るらむ 「別る」を古義など冥途へ別れると解してゐるが、總釋は母に別れて行く意としてゐる。前説がよい。
 
888 常知らぬ道の長路《ながて》をくれくれと如何《いか》にか行かむ糧米《かりて》は無しに 【一に云ふ、乾飯は無しに】
 
〔譯〕 ふだんに通つたことのない冥途へゆく道の長い道中を、心もくらく悲しみうつ辿つて行かうとするが、どのやうに行つたならばいいであらうか、食糧もなくして。
〔評〕 知らぬ世界にむかつての不安を、古代人の死に對する素朴な觀念に基づいて詠じてをる。「糧米《かりて》は無しに」といふのも、幽冥と現實との區別をつけないで考へる古代人の心である。なほ第五句の異傳に「乾飯《かれひ》はなしに」とあるは、第六句であり、佛足石體の歌であつたと見るべきであらう。
〔語〕 ○常知らぬ道の長路を 冥途へ行く道のこと。○くれくれと 「遙なるに云ふ詞」(代匠記)「齊明紀の歌に于之盧母倶例尼《ウシロモクレニ》とあるくれ也。くれは闇き意にておぼつかなきさま也。今俗言にもうしろぐらきなど云ふ」(略解所引宣長説)の二説がある。後の説がよい。○かりてはなしに 「かりて」は糧米の意。字鏡集に「※[米+辰]」をカリテと訓んでゐる。
 
(276)889 家に在りて母がとり見《み》ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも 【一に云ふ、後は死ぬとも】
 
〔譯〕 家に居て、母が看護してくださるのならば、慰められる心はあるであらうものを。どうせ死ぬものならば死ぬとしても。
〔評〕 長歌の中の「家に在らば母とり看まし」をひきのばしたもの。暖い家庭と對照させるところに、當時の旅の苦しみが察せられて、あはれである。第五句の異傳は前の歌と同じである。
〔語〕 ○母がとり見ば 前の長歌の「とりみまし」參照。
 
890 出でて行きし日を數へつつ今日今日と吾《あ》を待たすらむ父母らはも 【一に云ふ、母が悲しさ】
 
〔譯〕 自分が家を出て來た日から日を數へて、もう何日になるというては、今日は歸る、今日は歸ると、毎日待つて居られるであらう父母はまあ。
〔評〕 序詞にある「但《ただ》我が老いたる親、并に菴室に在り。我を待つこと日を過さば、自ら心を傷むる恨あらむ。」にあたる情懷である。死ぬる我が身よりも、父母の心をあはれむ歌になつてをる。「今日今日と」の句法は、柿本人麿の死をいたむ妻|依羅娘子《よさみのいらつめ》の歌「今日今日と吾が待つ君は石川の貝にまじりて在りといはずやも」(二二四)や、調使首《つきのおびと》が屍を見て作つた歌の反歌「?潭《うらふち》に偃《こや》せる公《きみ》を今日今日と來むと待つらむ妻し悲しも」(三三四二)などにも用ゐられてをる。
〔語〕 ○今日今日と 「と」は「と思つて」の意。○父母らはも 「ら」は「妹ら」「子ら」の「ら」に同じく音調を調へる助詞。○一に云ふの 「母が悲しさ」は「父母らはも」というて、更に、「母が」というた、あはれ深い句。
 
(277)891 一世《ひとよ》には二遍在《ふたたび》見えぬ父母を置きてや長く軒が別れなむ l痛詐あ
 
〔譯〕 この一生のうちに、もう二度と逢ふことのできない父母を後に殘しておいて、自分は永久に別れてゆくことであらうか。
〔評〕 序詞の中の「今日とこしなへに別れなば、いづれの世にか覲ることを得む」といふ句の心になつてをる。幼い云ひぶりがあはれまれる。
〔語〕 ○一世には 一生には。「ひとよ」の「よ」は代、生涯の意。上に「今死ねば」などの意を補つて解す。○置きてや 「おく」はおいておく、顧みずにおくの意。
 
    貧窮問答の歌一首并に短歌
892 風|雜《まじ》り 雨降る夜《よ》の 雨|雜《まじ》り 雪降る夜《よ》は 術《すべ》もなく 寒くしあれば 堅鹽《かたしほ》を 取《とり》つづしろひ 糟湯酒《かすゆざけ》 うち啜る《すす》ろひて 咳《しは》ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて 吾《あれ》を除《お》きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾《あさぶすま》 引き被《かがふ》り 布肩衣《ぬのかたぎぬ》 有りのことごと 服襲《きそ》へども 寒き夜すらを 我《あれ》よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子《めこ》子どもは 乞ひて泣くらむ 此の時は 如何《いか》にしつつか 汝《な》が世は渡る
天地は 廣しといへど 吾《あ》が爲は 狹《さ》くやなりぬる 日月は 明《あか》しといへど 吾《あ》が爲は 照りや給はぬ 人皆か 吾《あれ》のみや然る 邂逅《わくらば》に 人とはあるを 人|竝《なみ》に 吾《あれ》も作《な》れるを 綿も無き 布肩衣《ぬのかたぎぬ》の 海松《みる》の如 わわけさがれる 襤褸《かかふ》のみ 肩に打ち懸け 伏廬《ふせいほ》の 曲廬《まげいほ》の内に 直《ひた》土(278)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子《めこ》どもは 足《あと》の方に 圍《かく》み居《ゐ》て 憂へ吟《さまよ》ひ 竈《かまど》には 火氣《けぶり》ふき立てず 甑《こしき》には 蜘蛛《くも》の巣|掻《か》きて 飯《いひ》炊《かし》く 事も忘れて 奴延鳥《ぬえどり》の 坤吟《のどよ》ひ居るに いとのきて 短き物を 端《はし》截《き》ると 云へるが如く 楚《しもと》取る 里長《さとをさ》が聲は 寢屋處《ねやど》まで 來《き》立ち呼《よ》ばひぬ 斯くばかり 術《すべ》無きものか 世間《よのなか》の道
 
〔題〕 有名な貧窮問答の歌で、一貧窮者が問ひ、更にそれ以上の貧窮者が答へるといふ、二段の問答から成り立つてをる。當時の社會相の一面を詠じたもので、社會詩人としての憶良の面目を不朽に傳へる傑作である。
〔譯〕 風にまじつて雨の降る夜、しかもその雨にまじつて雪のふる夜は、何ともしやうのないほどに寒いので、黒い堅い鹽を取りかいて甜め、酒糟を湯でとかしたものを啜つて、しきりに咳いて、鼻をびしびしと鳴らしながら、あるかなきかの鬚を掻き撫でて、自分を除いて外にはえらい人はあるまいと、自慢はしてみるが、何といつても寒いので、麻の夜具を引き被つて、布の袖なしをありたけ着重ねるけれども、それでも猶寒さの堪へ難い夜であるのに、自分よりも一層貧しい人の父や母は、腹がへつて寒いことであらう、またその妻や子供らは、食物や着物をほしがつて泣くことであらう。さういふ時は、どのやうにして、そなたは此の世をわたつてゆくのであるか。
 天地は廣いものと人はいふけれども、自分の爲には、狹くなつたのであらうか。世の中が狹いもののやうに思はれる。日の光や月の光は明るいと人はいふけれども、自分の爲には照らして下さらないのであらうか。世の中は眞暗なやうに思はれる。世間の人が誰も皆かうなのであらうか。偶々《たまたま》よいまはり合せで、うけ難い人の生をうけ、人なみに自分も生れて來たのに、綿も入つてゐない布の袖なしの、しかも海松《みる》のやうに破れほつれさがつてゐる襤褸ばかりを肩にかけて、低い庵の曲つた廬の中に、地面に直接《ぢか》に藁を解いて敷き、父や母は自分の枕のところに、妻や子どもは(279)自分の足のところに、自分をとり圍んで居て、歎き泣いてをり、竈には物を煮たきする煙を立てることもなく、飯を蒸す蒸籠の中には蜘蛛が巣を張つてゐて、飯を炊ぐことをも忘れたやうになつて、ぬえ鳥のやうに細々とした力のない聲を出してうめいて居ると「特別に短いものを更にその端を切る」といふ諺のやうに、笞を持つて納税を催促してあるく村長の聲は、寢屋の入口まで來て呼びたててゐる。ああこんなにも、しやうもなく苦しいものであらうか、世わたりの道といふものは。
〔評〕 第一段の人物の風貌が、今もなほ眼前にみるやうに生き生きと寫しだされてをる。そこには、憶良の作には珍しい諧謔的なをかしみがただようてをる。しかし、この自嘲的なをかしみは「我よりも貧しき人」を思ひやるに至つて消えて、そのあとには熱情の人憶良の生地があらはれてをる。即ち、彼は、唐土ぶりの清貧に誇るといふ態度を幾分は有しつつも、自然の感情は、その超然の隱者ぶりをくづして、貧窮者に對する熱い涙となつたのである。ここに憶良の面目がある。從つて、第二段になると、ことごとく、暗欝悲痛の聲であつて、當時の生活難が今日に勝るとも劣らなかつたことが思はれる。殊に「天地は廣しといへど」云々「日月は明しといへど」云々のごときは、古今にわたつて通ずる、世の逆境者の心の叫びをあらはし得て切實である。具體的に克明な貧者の生活の敍述につづいて、おのづから當時の社會制度を語る里長の苛酷の聲をひびかせ、遂に「斯くばかりすべ無きものか世間《よのなか》の道」と、人世行路難に絶望的の嘆聲を放たしめて、讀者の心を暗澹たらしめる。憶良の社會詩人としての不朽の面目を示すもので、我が國文學史上の至寶とも云ふべく、外國文學に對しても誇り得るところであらう。
〔語〕 ○風雜り雨降る夜の 雨の降るのが中心でそれに風の加はつてゐる夜の意。この「の」は同格竝置の「の」といはれるもの。○堅鹽 和名抄に「今案俗呼2黒鹽1爲2堅鹽1、日本紀私記曰、堅鹽|岐多之《キタシ》是也、」とある。精製しない固型のままの鹽で、普通の白い鹽より下等なもの。○とりつづしろひ 「つづしる」は類聚名義抄、色葉字類抄にも見える古語で、少しづつ食ふ意。○糟揚酒 酒糟を湯に煮たもの。○咳ぶかひ 「しはぶく」は咳するの意。○鼻び(280)しびしに 「鼻|嚔《び》し鼻嚔し」の略で、嚔することとする説(略解)があるがさうではなく、鼻をすする音、或は鼻のつまつたのを鳴らす音と思はれる。○しかとあらぬ 確とあらぬ。碌に生えてゐない。○誇ろへど 誇つてゐるが。○麻衾 麻で作つた夜具。○引き被り ひつかぶり。○布肩衣 「布」は和名抄によると、麻又は紵で作つた粗末な織物で「肩衣」は今の「袖無し」のやうな上衣。○ありのことごと あるたけ全部。○きそへども 着襲《おそ》へども(略解)の義。重ねて着ても。○こひて泣くらむ 衣服や着物を求めて泣くであらう。○汝が世は渡る 「汝」は「われより貧しき人」をさしていふ。以上が問で、形式も五七七と一段落をなしてみる。○さくやなりぬる 「さく」は狹《せま》しの意の形容詞。○わくらばに たまたまに たまさかに。○吾もなれるを 自分も人と生れたものを。これは契沖が引いたやうに「人離2惡道1得v爲v人難」などいふ佛教思想によるものである。「作《つく》るを」と訓み、耕作する義に解する説もある。○海松 「一三五」參照。○わわけ 破れそそけて。○襤褸《かかふ》 新撰字鏡に「※[巾+祭]、先列反、殘帛也、也不禮、加々不」とある。ぼろ。○伏廬の曲廬 伏廬は地に伏したやうな賤しい小屋。「四三一」。曲廬は柱などの曲り傾いた小屋。「の」は前の「雨降る夜の」の「の」に同じ。○直《ひた》土に 地面直接に。○足《あと》の方に 「あと」は脚の方。「枕よりあとより戀のせめ來れば」と古今集の歌にある。○さまよひ 「一九九」參照。○甑 今の蒸籠のやうに飯を蒸し炊ぐ器で、圓筒形の土器或は木器で、下に穴がある。昔は米を蒸して食べたのである。○奴延鳥の 枕詞。「一九六」參照。○のどよひ 「のどよふ」は、「喉喚ぶ」の義として、喉聲にて鳴くごとき聲の意とされ、殆ど異説もなかつたが、橋本進吉博士が、平安時代初期の書寫に係る金剛般若經集驗記に「細々聲」を「)トヨフコヱ」と註してあるのによつて、細々とした力なき聲を發すの意と解かれた(日本文學論纂)のに從ふべきものと思はれる。○いとのきて ひどく極めての意。○短き物を端截ると云へるが如く 短い物の端をきつて更に短くするの意で、次の「沈v痾自哀文」にも見えるから當時の諺と思はれる。○しもと 笞。刑具の一。○里長 戸令に「凡戸以2五十戸1爲v里、毎v里置2長一人1、掌d?2校戸口1課2殖農桑1禁2察非違1催c駈賦役u」とその職掌を規定してゐる。○寢屋處《ねやど》 寢所。
(281)〔訓〕 ○咳ぶかひ 白文「之波夫可比」の「波」が諸本「可」となつてゐるが、考の説に從ひ改めた。○乞ひて 白文「乞々」であるが、「こひこひ」では調がよくないので、代匠記の「乞弖」の誤とする説に從ふ。新解には、乞を吃の通義としてヨヨトとよんでゐる。○飢ゑ寒からむ 白文「飢寒良牟」龜井孝氏案にウヱコイタラム。○あれも作れるを 白文「安禮母作乎」で、舊訓アレモツクルヲで代匠記、古義はこれにより、田などを作る意としてゐるが、略解のナレルヲがよいと思はれる。
 
893 世間《よのなか》を憂《う》しと耻《やさ》しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
     山上憶良頓首謹みて上る。
 
〔譯〕 このやうに貧しく暮してをる自分は、世の中をつらいとも、恥かしいとも思ふが、飛び立つてゆくことも出來ない、自分の身は鳥ではないから。
〔評〕 人間の身をもつて、鳥の翅の自由を思ふに至つては、現實生活の苦澁をつぶさに味はつた人の聲として、哀切の極みである。現實生活の束縛から離脱せむことを夢みて、しかもその夢の破れたあとに、ひしひしと身に食ひ入るものは、現實といふ如何ともし難い鐵則であらう。
〔語〕 ○やさし 恥かし。「八五四」參照。○飛び立ちかねつ 飛び立つてこの世を去ることもできない。
 
    好去好來の歌一首、反歌二首
894 神代より 言《い》ひ傳《つ》て來《く》らく、虚《そら》みつ 倭の國は 皇神《すめがみ》の 嚴《いつく》しき國 言靈《ことだま》の 幸《さき》はふ國と 語り繼ぎ 言ひ毛がひけり 今の世の 人も悉 目の前に 見たり知りたり 人|多《さは》に 滿ちてはあれども 高光る 日の朝廷《みかど》 神《かむ》ながら 愛《めで》の盛に 天《あめ》の下《した》 奏《まを》し給ひし 家の子と 選《えら》び(282)給ひて 勅旨《おほみこと》【反していふ、大命】戴《いなだ》き持ちて 唐《もろこし》の 遠さ境に 遣はされ 罷《まか》り坐《いま》せ 海原《うなはら》の 邊にも奧《おき》にも 神留《かむづま》り 領《うしは》き坐《いま》す 諸《もろもろ》の 大御神|等《たち》 船舳《ふなのへ》に【反していふ、ふなのへに】 導き申《まを》し 天地の 大御神|等《たち》 倭の 大國靈《おほくにたま》 ひさかたの 天《あま》の御虚《みそら》ゆ 天翔《あまがけ》り 見渡したまひ 事|了《をは》り 還らむ日には またさらに 大御神|等《たち》 船舳《ふなのへ》に 御手《みて》打ち懸けて 墨繩を 延《は》へたるごとく あちかをし 値嘉《ちか》の岬《さき》より 大伴の 御津《みつ》の濱|傍《び》に 直泊《ただはて》に み船は泊《は》てむ 恙無《つつみな》く 幸《さき》くいまして はや歸りませ
 
〔題〕 好去好來は、幸《さき》く去《ゆ》きて幸《さき》く來る、即ち、無事に行つて無事に歸らるるやうにの意。訓讀してもよいのであるが、音讀すべきであらう。この歌は左註によつて、天平五年三月多治比眞人廣成が遣唐使として出立する際、憶良が贈つた歌であることが知られる。續紀に「天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上多治比眞人廣成等拜朝。閏三月癸巳、遣唐大使多治比眞人廣成辭見、授2節刀1。夏四月己亥、遣唐四船自2難波1進發。」と見え、同七年に歸朝した。
〔譯〕 神代から言ひ傳へて來たことには、吾が日本の國は、皇神の御威勢の嚴めしい國であり、言葉にやどる精靈の力が幸福を與へる國であると、古くから語り繼ぎ、言ひ繼いで來た。その事は、ただ言ひ傳ふるのみならず、今の世の人も悉く、眼前に見もし、知つてもをる。それ故に自分は、御出發に際して、よい言葉を以て祝福いたします。いま此の日本の國に人物は多く滿ちてはゐるが、天つ日のごとき天皇が、神慮のままに、愛し思し召されることが盛んであつて、天下の政治を執奏した家の子であるとて、お選びになり、遣唐大使の大命を奉じて、大陸の遠い國土に遣はされて御出發になると、廣い海の岸にも沖にも、神として留まり領じておいでになる諸の大御神たちは、船の舳先に立つてお導きになり、天神地祇、殊には大和の大國魂の神は、天つ空から天翔り、海原を見渡し給うて船を守護せ(283)られる。安らかに唐土に着き、使命を果して歸り來られる日には、又更に大御神たちが、船の舳先に御手を掛けられて、墨繩を引張つたやうに一直線に、五島列島の智可の嶋の崎から大伴の御津の濱邊に眞直《まつすぐ》に船は湊入する事であらう。どうか何事もなく、幸福にいらつしやつて早くお歸りなさいませ。この幸くいまして早歸りませの言葉に、言靈がこもることと信じます。
〔評〕 海路の難の多かつた當時の大航海である。遣唐使の一行は、生命を賭しての悲壯な船出であつた。國土の神々に、加護を祈願したのも當然である。しかも、言語に精靈がやどつてをるといふ信仰を持つ時代である。この門出の祝福も至當である。しかし、あたかも神靈を透視するやうな想像力をもつて、神靈の擁護を現實の事實としていきいきと描いたこと「今の世の人も悉《ことごと》、目の前に見たり知りたり」といふ斷定などは、彼自身の經驗からくる同情もあづかつてをるであらう。――文武天皇の大寶元年、遣唐使粟田眞人の屬官として渡唐した憶良は、その後三十三年を經て、遣唐大使多治比廣成にこの歌を贈つたのである。壯年の日をかへりみて、感慨の深いものがあつたであらう。
〔語〕 ○言傳てけらく 言傳へて來た事には。○虚みつ 「一」參照。○嚴《いつく》しき國 神威のいかめしい國の意。○言靈の幸はふ國 言靈は言葉の靈魂の義で、古代人は言語に精靈があり、その作用によつて禍福が齎されると信じた。「幸はふ」は幸あらしめるの意で、ここは言葉の靈によつて萬事を幸福にするよい國の意。○高光る 「日」にかかる枕詞。「一七一」參照。○日の朝廷 天皇の御事。「日の」は「朝廷《みかど》」を稱へる爲にそへた修飾語。「みかど」は御門の義より、ここは天皇のことを申す。○愛《めで》の盛に 甚だ愛し給ひ或は御愛遇になることが盛なので。この句は三句を隔てて「選び給ひて」に懸る。○天下奏し給ひ 天下の政を執奏したまひ。廣成は續紀に「天平十一年夏四月戊辰、中納言從三位多治比眞人廣成薨。左大臣正二位島之第五子也」とある。○家の子と選び給ひて 家の子弟であるからとてお選びなされて。○勅旨 天皇のおほせごと。小字で「反に云ふ――」とある「反」は本來字音を示すに用ゐる「反切」の意であるが、記紀萬葉其他の上代文献に於いては廣く訓法の意に流用してをる。ここもその意で、勅旨を(284)オホミコトと訓むべしの意である。○罷り坐せ 罷りいませばの意。○神留り 「づまり」は鎭まりの意。「高天原爾神留坐皇睦神漏伎命《かむづまりますすめむつかむろぎのみこと》云々」(祈年祭祝詞)。○うしはきいます 「うしはく」は、ある場所を領有するの意。「主佩く」の義といふ(略解所引宣長説)。此語と「しらす」の區別について「古代國語の研究」附録(安藤正次氏)及び「神話と民族性」(松村武雄氏)に詳しい説がある。○船舳に 船首に於いて。下の註は訓法を示すもの。○倭の大國靈 大和國山邊郡|大和《おほやまと》に鎭座する大和神社の祭神大國御魂の神で、大和國の國御靈神。大國靈(即ち國御魂神)は國土の神靈を指す(新講)。此の上に「殊には」といふやうな語を補つて解する。○天の御空ゆ 「ゆ」は「より」の古語で、ここでは「を通つて」の義。○事了り 使命を果して、以下歸路の敍述。○墨繩を延へたる如く 「墨繩」は大工が直線をひく道具。「延ふ」は引き延ばす意、眞直ぐに船の進む事の譬喩。○あちかをし 「をし」は「あをによし」「あなにやし」などの「よし」「やし」と同じく詠歎の助詞であらう。「あちか」は語義不明。「ちか」の枕詞であらう。○値嘉の岬 今の五島の岬と思はれる。この島は當時の外國渡航の船溜りで、ここに留まつて薪水を補ひ、天候を見定めてから渡航し、歸途にもこの岬を目標にして海峽を渡つたらしい。○大伴の三津の濱邊に 「六三」參照。○直泊に 他に寄らず眞直に來てそこへ由る、直航の意。○つつみなく 恙《つつが》なくに同じ。「つつみ」は疾病禍などをいふ。
〔訓〕 ○言ひ傳て來らく 白文「云傳久良久」 上の「久」は紀州木による。細井本、通行本の「介」はよくない。○戴き 白文「戴」 諸本「載」とあるが、代匠記によつて改めた。但、「載」は古くは「戴」に通じたから、このままでも「いなだく」と訓み得る。○唐の 攷證には「からくにの」と訓んでゐる。○岬 諸本皆「岫」とあり、代匠記の一説によつて改めた。或は岫のまま解すべきか。
 
    反歌
895 大伴の御津《みつ》の松原かき掃《は》きて吾《われ》立ち待たむ早歸りませ
 
(285)〔譯〕 大伴の三津の松原を綺麗に掃き淨めて、自分はその濱に立つてお待ちいたしませう。早くお歸りなさいませ。
〔評〕 造唐使の送別にふさはしい雄健の調子で、措辭も精練せられてをる。松原を掃き淨めるといふのは、ただ人を迎へるために、塵芥の掃除をするといふだけではなく、けがれを忌み、淨きを尊ぶ古代人の心もちが含まれてゐるのである。
 
896 難波津に御《み》船|泊《は》てぬと聞《きこ》え來《こ》ば紐解き放《さ》けて立《たち》走りせむ
     天平五年三月一日【良の宅に對面して獻ることは三日なり。】山上憶良
     謹みて大唐大使卿の記室に上《たてまつる》る。
 
〔譯〕 難波の港に貴下の御船が着いたと聞きましたならば、自分は上衣の紐を結ぶ間も待たず、解き放つたまま、走つてお迎へにまゐりませう。
〔評〕 前者よりも感情的に心が高まつてをる。それだけに、雄健高雅の格調は崩れてゐるが、再會の日を想像にゑがいた感動の前には、送別の辭としての禮節をかなぐりすてた感がある。前者は、萬感を禮節に包み、御船の泊てる大伴の御津の松原を掃き清めて待たうと云ひ、これは、幼兒のやうに喜びをうちつけに、上衣の紐も結びあへず、泊《は》つる泊《とまり》に走り出ようといふ。それぞれ面白い。かく祝された廣成一行は、歸路難風の故に種子島についたが、やがて無事に歸京した。しかるに憶良は、その時既に歿してゐたらしく、「難波津に御《み》船|泊《は》てぬ」と聞くこともなかつたのは哀れである。
〔語〕 ○紐とき放けて 活動に便する爲に解いて奔走すること(新考)上衣の紐を解き緩かにして走る意(總釋)その他諸説があるが、紐を結ぶ間も待たず解けたままで急ぎ迎へる意(略解)でよいと思ふ。
 
(286)    痾に沈みて自《みづから》哀む交  山上憶良の作なり。
  竊に以《おもひみ》るに、朝夕に山野に佃し食ふ者すら、猶災害無くして世を度《わた》ることを得、【謂ふこころは、常に弓箭を執り六齋を避けず、値ふ所の禽獣、大小、孕めると孕まざるとを論はず、并に皆殺し食ひ此を以ちて業とする者をいふ。】畫夜河海に釣漁する者すら、尚慶福ありて經俗を全くす。【謂ふこころは、漁夫潜女各勤むる所あり、男は手に竹竿を把りて能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帶びて深潭の底に潜き採る者をいふ。】況はむや我胎生より今日に至るまで自ら修善の志あり、曾て作惡の心なし。【謂ふこころは、諸惡莫作、諸善奉行の教を聞くをいふ。】所以《かれ》三寶を禮拜して、日として勤めざる無く、【毎日誦經し、懺悔を發露するなり。】百神を敬重して、夜として闕くこと有る鮮《な》し。【謂ふこころは、天地の諸神等を敬拝するをいふ。】嗟乎《あはれ》※[女+鬼]《はづか》しき哉《かも》、我何の罪を犯して、此の重き疾に遭へる。【謂ふこころは、未だ過去造る所の罪か、若くは是現前犯す所の過かを知らず。罪過を犯す無くは何ぞ此病を獲むや。】初め痾に沈みて已來《このかた》、年月稍多し。【謂ふこころは、十余年を經るをいふ。】この時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[兀+王]羸、但《ただ》に年老いたるのみにあらず、復《また》斯の病を加ふ。諺に曰く、痛き瘡に鹽を灌《そそ》き、短き材《き》を端を截るとは此の謂なり。四支動かず、百節皆|疼《いた》み、身體|太《はなはだ》重く、猶ほ鈞石を負へるが如し。【二十四銖を一兩と爲し、十六兩を一斤となし、三十斤を一鈞となし、四鈞を一石となす、合せて一百二十斤なり。】布に懸りて立たまく欲《ほり》すれば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚りて且《しまらく》歩まむとすれば、足|跛《な》へたる驢に比《たぐ》ふ。吾《われ》、身已に俗に穿ち、心も亦塵に累はさゆるを以ちて、禍の伏す所、祟の隱るる所を知らまく欲ひ、龜卜の門、巫祝の室、往きて問はずといふこと無し。若しくは實、若しくは妄、其の教ふるところに隨ひ、弊帛を奉り、祈?せずといふこと無し。然れども彌苦を増す有り、曾て減差《い》ゆる無し。吾聞く、前の代に、多に良き醫有り、蒼生の病患を救療《いや》しき。楡※[木+付]、扁鵲、華他、秦の和緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等の若《ごと》きに至りては、皆|是《これ》世に在りし良き醫、除き癒《いや》さずといふこと無しといへり。【扁鵲、姓は、秦、字は越人、勃海の郡の人なり。胸を割き心を採りて易へて置き、投るに神藥を以ちてすれば、即寤めて平なるが如し。華他、字は元化、沛國の※[言+焦]の人なり。若し病の結積して沈重内に在るあらむには、腸を刳りて病を取り、縫ひて復膏を摩る、四五日にして差ゆ。】件の醫を追ひ望むとも、敢へて及《し》く所にあらじ。若し聖醫神藥に逢はば、仰ぎ願はくは五藏を割き刳り、百病を抄探し、膏肓の※[こざと+奧]處に尋ね達《いた》り、【肓は※[隔の旁]なり、心の下を膏と爲す。攻むるに可からず、達するに及ばず、藥も至らざるなり。】二竪の逃れ匿るるを顯さまく欲す。【謂ふこころは、晉の景公疾あり、秦の醫緩視て還りしをいふ。鬼に殺さゆといふべし。】命根既に盡きて、其の天年を終るすら、尚《なほ》(287)哀しとなす。【聖人賢者一切含靈、誰か此の道を免れむや。】何《いか》に況むや生録未だ半ならずして、鬼の爲に枉殺せらえ、顔色壯年にして病の爲に横困《たしな》めらゆるものをや。世に在る大患、孰れか此より甚しからむ。【志恠記に云ふ、廣平の前の大守北海の徐玄方が女、年十八歳にして死す。其の靈憑馬子に謂ひて曰く、我が生録を案ふるに、當に壽八十餘歳なるべし。今妖鬼に枉殺せらえて、已に四年を經たり。此に憑馬子に遇ひて、乃更に活くる事を得たりといへる、是なり。内教に云ふ、瞻浮州の人は壽百二十歳なりと。謹みて案ふるに此の數必しも此を過ぐることを得ずといふに非ず。故壽延經に云ふ、比丘あり。名を難達と曰ふ、命終る時に臨みて、佛に詣でて壽を請ひ、則、十八年を延べたり。但善く爲むる者は天地相畢ふ。其の壽夭は業報の招く所にして其の修短に隨ひて半と爲るなり。未だ斯の※[竹/弄]に盈たずして、※[しんにょう+端の旁]に死去る。故未だ半ならずと曰ふなり。任徴君日く、病は口より入る。故、君子は其の飲食を節むと。斯に由りて之を言へば、人の疾病に遇へるは、必しも妖鬼ならず。夫、醫方諸家の廣説、飲食を禁忌の厚訓、知り易く行ひ難き鈍情、三の者、目に盈ち耳に滿つこと、由來久し。抱朴子曰く、人但其の當に死かるべき日を知らず、故、憂へざるのみ。若し誠に羽※[隔の旁+羽]して期を延ぶるを得べきことを知らば、必將に之を爲むと。此を以ちて觀れば、乃知りぬ、我が病は蓋斯飲食の招く所にして、自ら治むること能はざるものか。】帛公略説に曰く、伏して思ひ自ら勵ますに斯の長生を以ちてす。生は貪るべく、死は畏るべし。天地の大コを生と曰ふ。故、死れる人は生ける鼠に及《し》かず。王侯たりと雖も一日氣を絶たば、金を積むこと山の如くなりとも、誰か富めりと爲さむや。威勢海の如くなりとも、誰か貴しと爲さむや。遊仙窟に曰く、九泉の下の人は、一錢にだに直せずと。孔子の曰く、之を天に受けて、變易すべからざる者は形なり。之を命に受けて、益を請ふべからざる者は壽なりと。【鬼谷先生の相人書に見えたり。】故、生の極めて貴く、命の至りて重きことを知る。言はまく欲して言窮まる。何を以ちてか之を言はむ。慮らまく欲して慮絶ゆ。何に由りてか之を慮らむ。惟以《おもひみ》れば人賢愚と無く、世古今と無く、威悉《ことごと》に嗟歎す。歳月競ひ流れて、畫夜も息まず。【曾子の曰く、往きて反らざる者は年なりと。宣尼川に臨める歎も亦是なり。】老疾相催して、朝夕侵し動く。一代の歡樂未だ席の前に盡きざるに、【魏文時賢を惜める詩に曰く、未だ西苑の夜を盡さず劇に北※[亡+おおざと]の塵と作ると。】千年の愁吉更に座の後に繼ぐ。【古詩に云ふ、人生百に滿たず、何ぞ千年の憂を懷かむと。】夫の群生品類の若きは、皆盡くること有る身を以ちて、并に窮り無き命を求めずといふこと莫し。所以《かれ》道人方士自ら丹經を負ひて名山に入り、而して藥を合す者、性を養ひ神を怡《よろこ》ばしめて、以ちて長生を求む。抱朴子に曰く、神農云ふ、百病愈えず安《いか》にぞ長生を得むと。帛公又曰く、生は好む物なり、死は惡む物なり、若し不幸にして長生を得ずは、猶生涯病患無きを以ちて、福大きなりと爲さむかと。今吾病に惱まさえ、臥坐することを得ず。向東向西《かにかく》に爲す所を知ること莫し。(288)福無きことの至りて甚しき、※[手偏+總の旁]べて我に集る。人願へば天從ふと。如し實あらば、仰ぎ願はくは頓に此の病を除き、頼に平《つね》の如くなるを得む。鼠を以ちて喩と爲す、豈|愧《は》ぢざらめや。【已に上に見ゆ。】
 
〔題〕 この卷の順序からいつて、天平五年の「山上臣憶良沈痾之時歌」(九七八)と同じ時の文と思はれる。「文」のみであつて、歌の題詞ではない。
〔譯〕 竊かに考へて見るに、毎日山野で禽獣を獵り食してゐる者も、やはり災禍を蒙ることなく、無事に生涯を終へることが出來る。(その意味は、毎日弓矢を持ち、殺生を禁ずべき六歳日をも避けず、目に觸れた禽獣は、大なるも小なるも、又孕んでゐるものも、孕んでゐないものも區別をせず、何れも皆殺して食ひ、これを職業としてゐる者をいふ。) 又日夜河や海で釣する者も、やはり慶福があり、無事に生涯を終るのである。(それは、漁夫や潜女には、それぞれ勤める職がある、即ち男の漁夫は、手に竹竿を持つて波浪の上に出て釣り、女の潜女《あま》は、腰に鑿《のみ》や籠をつけて深い潭の底に潜つて、貝などを採るのをいふ。)まして自分は、生れてから今日に至るまで、善を修めようとする志があり、未だ曾て惡をしようと考へたことは無い。(それは、佛教でいふ「諸惡莫作、諸善奉行」の教を遵奉することをいふ。)その故に佛法僧を禮拜し、一日として勤めない日は無く、(毎日經典を誦し、誤つて罪を犯すことがあれば懺悔するのである。)諸神を崇敬し、一夜として缺く夜はない。(それは、天地の諸神等を散拜することをいふ。)ああ※[女+鬼]《はづか》しいことである。自分は何の罪を犯して、此の重い疾にかかつたのであらうか。(といふ意味は、過去に犯した罪なのであらうか。もしくは現世で犯した罪であらうか。罪過を犯さないで、どうしてこんな病にかからうかといふのである。)最初病氣にかかつて以來、歳月も、どうやら重なつた。(それは、十餘年經過したことをいふ。)唯今年齡七十四で、鬢髪もなかば白くなり、筋力も弱り、但《ただ》、老年になつたといふばかりではなく、その上この病にさへかかつた。諺に、痛い瘡に鹽をふりかけ、また短い材を更にその瑞を截り取るといふのは、此の意味である。手足が(289)動かず、關節が皆いたみ、身體が甚だ重く、鈞石を負つてゐる如くである。(二十四銖を一兩となし、十六兩を一斤となし、三十斤を一鈞となし、四鈞を一石となす。即ち一石は百二十斤である。)布によつて立たうとすれば、翼の折れた鳥の如くであり、杖にすがつて歩まうとすれば、跛足《ちんば》の驢馬の如くである。自分の身が已に俗世にけがされ、心も亦俗塵にわづらはされてゐるので、禍の伏在してゐる所、即ち祟《たた》りの隱れてゐる所を知らうと思ひ、龜甲を燒いて卜ふ卜者の門、又は神がかりにより神意によつて卜ふ巫祝のもとなど、如何なる所へも訪れて凡そ訪れないといふところは無い。或は眞實かも知れず、或は虚妄かも知れぬが、とにかくその教へられるに隨つて、あらゆる神に幣帛を奉り、祈?した。けれどもいよいよ苦しくなるばかりで、少しも癒えない。昔から多くの良き醫者があり、諸人の病患を治療したと自分は聞いてゐる。即ち楡※[木+付]、扁鵲、華他、秦の和緩、葛稚川、陶隱居、張仲景などのごとき人々は、皆昔の世にあつた良き醫者であり、如何なる病でも、除き癒さないといふ病はないといつてゐる。(扁鵲は、姓は秦、字は越人とて、渤海郡の人である。胸を割き心臓を採り出し、入れ易へて置いて、靈藥を加へると、即ちその病人は寤《さ》めて平常の通りであつた。華他は、字は元化、沛國の※[言+焦]の人である。若し病が結積して、沈重が内臓にあるやうな病氣をする者があれば、腸を刳つて病原を取り除き、終つて膏藥を摩る。すると四五日で癒えた。)上述のごとき良き醫者を追ひ望んでも、とても追ひつくことは出來ない。もし聖醫、及び靈藥に接したならば、我が五臓を切りひらき、あらゆる病原を探り、膏肓の間のごとき奧深い處まで尋ね到り、(肓は横隔膜である。心の下を膏といふ。治めても手をつけようとしても到底駄目、投藥もとどかないのである。)病原の逃げかくれてゐるのをあらはさうと思ふ。(それは、晉の景公が疾にかかつた時、秦の醫緩が疹《み》て歸つた話である。景公は遂に鬼に殺されたわけである。)生命の力が既に盡きて、其の壽命を終るのでさへ、やはり悲しむべきである。(聖人賢者等、生きとし生けるもの、誰かこの死を負れることが出來ようか。)まして天壽未だ半にも達せず、鬼の爲に虐げ殺され、顔色未だ壯年であつて、病の爲に故なく苦しめられることは、言ふまでもなく悲しいことである。この世間にある苦しみとしてこれより(290)甚しいものが何があらうか。(志恠記に云ふ、廣平の前の太守、北海の徐玄方の女が、十八歳で死んだ。その靈が馮馬子に謂つて曰く、我が天壽を考へるに、恐らく八十餘歳であらう。今妖鬼に枉殺せられて、既に四年を經過した。ここに馮馬子に遇つて、乃ち更に蘇生することが出來たといつたといふのがその例である。經典に云ふ、瞻浮州の人は、壽命が百二十歳であると。謹んで思ふに、此の百二十といふ數は、必しもそれを過ぎることが出來ないといふのではない。故に壽延經に次のごとく述べてゐる。難達といふ僧があつた。壽命の終る時に臨んで、佛に詣でて壽命をお願ひし、則ち十八年を延べたと。ただ、よく治める者だけが、天地と共に終へる。即ち天地のあらん限り生きる。その長壽するか、夭折するかは、業の報によるのである。それが長いか短いかにしたがつて半の壽命ともなるのである。未だその年數に達せずして、※[しんにょう+端の旁]に死ぬ。故に未だ半ならずといふのである。任徴君曰く、病は口より入る。故に君子はその飲食を節すると。この理によつて壽命のことをいへば、人が病にかかるのは、必しも妖鬼の業ではない。それ醫者諸氏の廣説、及び飲食を禁忌するとの厚訓、知り易くして行ひ難い鈍情、この三のことは、絶えず耳目に觸れてゐること、すでに年久しいことである。抱朴子曰く、人は死すべき日を知らない。その爲に憂へないのである。若し本當に仙人になつてその死期を延べることが出來るといふことを知つたならば、必ずその法を治めるであらうと。この理を以て見ると、自分の病は恐らく今までの飲食のしからしめる所であつて、自ら治すことの出來ないものであらうかと思はれる。)帛公略説に曰く、この長生といふことを以て、伏して思ひ自らを勵ます。生はいつまでも出來る限り生きるべく、死は畏るべきである。天地の與へる大コを生といふ。故に死んだ人は生きた鼠に及ばない。たとへ王侯であつても、一たび絶命したならば、黄金を山の如く積んだとて、誰がこれを富人といふであらうか。たとひ海のごとき威勢であつても、誰がこれを貴い人といふであらうか。遊仙窟に曰く、黄泉の人は、一錢にさへも値しないと。孔子の曰く、天より受けて、變更することの出來ないものは形である。命として受けて、益すことの出來ないものは、壽命であると。(鬼谷先生の相人書に見えてゐる。)故に、生が極めて貴いものであり、命が至つて重いもの(291)であることがわかる。説明しようとしても述べるべき詞がない。何を以て之を説明しようか。考へようとしても遂に考へ盡くすことが出來なくなる。何によつて之を考へよう。惟ふに、人は賢となく愚となく、世は古となく今となく、皆悉くそれを歎じてゐる。歳月は早く經過して、晝夜息む時がない。(曾子は、過ぎ去つて再び歸らぬものは年であるといつた。孔子が川に臨んだ時の歎も亦この類である。)老と病とが互に催促しあつて、朝夕我が身を侵してゐる。我が一生の歡樂は未だ目前に終らないのに(魏の文帝が、時賢を惜んだ詩に、未だ秋の園の樂しい夜をも終へないのに、急に死んで北※[亡+おおざと]の塵となるとある。)千年の愁苦は更に我が身の後につづいてゐる。(古詩に云ふ、人の一生は百年にも足らない、何故に千年も長い憂を思ふのかと。)かの生ある者萬物のごときは、皆命の終る時のある身體で、何れも無窮の壽命を求めようとしないものはない。それ故に、道人、方士等は、自ら丹藥の處方を持つて名山に入り、また藥を調合する者は、性を養ひ、精神を安樂にして、そして長生しようとする。抱朴子に曰く、神農云ふ、諸病が癒えなければ、どうして長生することが出來ようかと。帛公又曰く、生は愛好すべきものであり、死は惡《にく》むべきものである。もし不幸にして長生することの出來ない者は、猶一生涯の間、病にかからぬことを、大なる幸福とすべきであらうと。今自分は病に惱まされて、臥坐することも出來ない。とにかく、どうしてよいか、爲す所を知らない有樣である。最も甚しい不幸が、すべて我が身に集つてゐる。人が願へば、天は與へる、といふことがもし眞實であるならば、願はくは速かにこの病を除き、どうか平常のやうになりたいものである。鼠に喩へられることを、どうして愧ぢないでゐられようか。(このことは上に見えた。)
〔語〕 ○竊に以るに 自分だけの考として考へてみるのに。○佃食 「佃」は易緊辭に「作2結繩1而爲2罔※[罠の民が古]1以佃以漁」禽獣を獵り食すること。○六齋 雜令に「凡月六齋日、公私皆斷2殺生1」、義解に「謂六齋、八日十四日十五日二十三日二十九日三十日」とある。釋教より來る。○孕める 腹に子を持つてをる禽獣。○經俗 世を渡ること。生涯。○潜女 海中に潜り魚介海藻の類を採取するを業とする女。海女《あま》。○鑿籠 のみとかご。「のみ」は海底の岩に(292)附著した貝類を取る爲のもの。○修善の志 みづから諸惡を斷絶し、諸善の修行を志す精進心。○諸惡莫作、諸善奉行 諸の惡を爲すことなく、諸の善をなすの意。増一阿含經等の「諸惡莫作、諸善奉行、自淨其意、是諸佛教」とある。○三寶 佛、法、僧をいふ。○百神 多くの天神地祇。○※[兀+王]羸 弱々しくて瘠せてゐること。○痛き瘡に鹽を灌ぎ 次の歌に「いとのきて痛き瘡には、鹹鹽を灌くちふが如く」とある。當時の諺であらう。○短き材を瑞を截ると これも前の貧窮問答の歌に見えた。○四支 四肢、手足。○百節 體中の多くの關節。○鈞石 何鈞とあるやうな重い石。鈎は三十斤。○布に懸りて立たまく欲す 天井の梁などから吊した布につかまつて立たうとする。以下は氣力のないさまをいふ。○足跛へたる驢 ちんばの驢馬。鈍い動物で、しかもびつこ、即ち行歩の自由でないのに喩ふ。○俗を穿ち 世俗に身を勞し疲らす意か。○龜卜の門 龜卜は龜の甲を燒き、その割れ目によつて卜ふ占。その占ひ師の家。○巫祝の室 はふりべ、即ち神懸りにより神意を傳へる者の家。○楡※[木+付] 黄帝の時の醫者。○秦の和緩 醫和と醫緩。共に秦時の名醫。○葛椎川 東晉の人、名は洪、字は稚川。下に見える抱朴子の著者。○陶隱居 梁時代の人、陶弘景のこと。字は通州、華陽陶隱居と號した。○張仲景 後漢の張機。仲景は字。南陽人。○除愈 病を除き癒す意。○膏肓の※[こざと+奧]處に尋ね達り 膏は胸の下の微脂。肓は胸の※[隔の旁](横隔膜)の下の薄膜。針藥の到り難いところ。左氏成公傳に「晉景公疾病、求2醫于秦1、秦伯使2醫緩爲1v之、未v至公夢、疾爲2二豎子1曰、彼良醫也、懼傷v我、焉逃之、其一曰、居2青肓上、膏之下1若v我何。醫至、曰、疾不v可v爲也、在2肓之上、膏之下1、攻v之不v可、達v之不v及、藥不v至焉、不v可v爲也、公曰、良醫也、厚爲2之禮1而歸v之。」とある。下の話も二豎云々もこれによる。○命根 生命力の元。○天年 天より與へられた壽。天壽。○一切含靈 靈あるもの一切。即ち生きとし生けるものの意。○生録 天壽。生禄の義であらう。○枉殺 虐げ殺すこと。○志恠記 漢土の古書。現存せず。○内教 外教(儒教等)に對する佛教のこと。ここは何かの經典をさす。○瞻浮州 閻浮提また南瞻浮州ともいひ、須彌山の南方にある大洲で、人間の住む世界。○天地と相異ふ 天地の存する限り失命せぬ、即ち永久に死なぬの意。○爲む ヲサムと(293)訓む。○脩短 長短に同じ。○任徴君 梁の任※[日+方]、字は元昇(略解)。○三の者 飲食聲色(攷證)ともいふが、ここは上記の「醫方諸家の廣説」「飲食禁忌の厚訓」「……知り易く行ひ難きの鈍情」をさしたものと思はれる。「目に盈ち、耳に滿つ」は、常に耳目にしてをり、よく知つてゐるの意。○抱朴子 「葛稚川」の條參照。○羽※[隔の旁+羽] ※[隔の旁+羽]は羽根の莖。ここは空中を飛行する仙人。○帛公略説 古書の名であらう。今傳はらない。○一日氣を絶たば 一朝失命すれば。○遊仙窟 漢土の小説、張文成の作。古く渡來し、この影響が集中にも所々に見えてをる。○命に受けて 天命に享くの意。○鬼谷先生 漢土戰國時代の説客、蘇秦のことと諸註に説くは誤。鬼谷先生は姓は王、名は※[言+羽]といひ、河南の鬼谷に居たので鬼谷先生と號した。六國時代の縱横家で、蘇秦はこの人について學んだのである。相人書は今傳承詳かでない。○宣尼 孔子のこと。○川に臨める歎 論語に「子在2川上1曰、逝者如v斯夫、不v合2晝夜1」とあるをいふ。○魏文 魏の文帝。○西苑の夜を盡さず 「西」は秋の意。秋の園の夜の宴の歡を盡さず。○北※[亡+おおざと] 洛陽の北にある山。漢以來、王侯公卿が多くここに葬られた。轉じて廣く墓地の義に用ゐる。後れて唐の劉廷之の詩にも「百年同謝西山日、千秋萬古北※[亡+おおざと]塵」とある。○群生 多くの人々。○丹經 丹は不老不死の仙藥、即ち丹藥の義で「丹經」はその方書の意であらう。此の道で宗とするは葛洪であり、その抱朴子(外篇)にその處方を記してをるから、抱朴子等を指したものと思はれる。○神を怡ばす 精神を慰めよろこばす。○生は好き物 左傳にも見える。○鼠を以て喩となす 毛詩の國風に「相v鼠有v皮、人而無v儀、人而無v儀、不v死何爲」と見え、孔子は此の詩句を引いて、人身の生死は一に禮の得失にかかるといつてゐる(「禮運」に見える。)から、この句と關係あるやうにも見えるが、ここは尚自註のごとく、上に「故に死れる人は生ける鼠に及かず。」云々とある、それを指したものである。
〔訓〕 ○心も亦 紀州本などによる、細井本、活字兩本、通行本のみ「亦」を「思」に作る。○幣帛 諸本「弊帛」に作るが、代匠記の説によつて改めた。○楡※[木+付] 細井本、温故堂本などによる。通行本、紀州本は「※[木+付]」を「樹」とする。○元化 通行本「無他」とある。「元」は細井本、西本願寺本等により、「化」は紀州本、細井本などによる。(294)紀州本、温故堂本は「元」を「无」としてゐるから、これから「無」に誤つたものと思はれる。○沈重 通行本及び諸仙覺本にはこの下「者」があるが、紀州本、細井本により除く。○志恠記に云ふ 以下「能はざるものか」まで西本願寺本、紀州本などの古寫本すべて小字二行に前行の下から續け書いてゐる。○任徴君 「徴」は通行本「〓」とあり、細井本による。○樂 通行本のみ「樂」とし、また通行本及び諸仙覺本は、この下に「之」があるが、紀州本、細井本により「之」を除き「藥」と改む。○帛公 通行本「公」を「出」とす。紀州本、西本願寺などの古寫本すべて「公」とあるによる。なほ紀州本はこの下に「父」の字がある。
 
    俗道の假に合ふは、即離れ、去り易くして留り難きを悲しみ嘆ける詩一首并に序
    竊に以《おもひみ》るに、釋慈の示教、【謂ふこころは、釋氏慈氏をいふ。】先に三歸【謂ふこころは、佛法僧に歸依するをいふ。】五戒を開きて、法界を化し、【謂ふこころは、一に殺生せず、二に偸盗せず、三に邪婬せず、四に妄語せず、五に飲酒せざるをいふ。】周孔の垂訓、前に三綱【謂ふこころは、君臣、父子、夫婦をいふ。】五教を張り、以ちて邦國を濟ふ。【謂ふこころは、父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝なるをいふ。】故に知る、引導は二なりと雖も、悟を得るは惟一なり。但世恆の質無し、所以《かれ》陵谷更變し、人定れる期無し、所以《かれ》壽と夭と同じからざるを以ちて、撃目の間、百齡已に盡き、申臂の頃、千代亦空し。旦には席上の主と作れども、夕には泉下の客と爲る。白馬走り來るとも、黄泉には何にか及かむ。隴上の青き松は、空しく信の劔を懸け、野中の白き楊は、但悲しき風に吹かゆ。是に知る、世俗本隱遁の室無く、原野唯長夜の臺有ることを。先聖已に去り、後賢留らず。如《も》し贖ひて免るべきこと有らば、古人誰か價の金無からむ。未だ獨り存《ながら》へて、遂に世の終を見る者あるを聞かず。所以《かれ》維摩大士は、玉體を方丈に疾ましめ、釋迦能仁は金容を雙樹に掩へり。内教に曰く、黒闇の後に來るを欲《ほり》せずは、コ天の先に至るに入ること莫かれといへり。【コ天は生なり、黒闇は死なり。】故《かれ》知る、生るれば必ず死あることを。死若し欲《ほり》せずは生れざるに如《し》かず。況むや縱《も》し始終の恒の數を覺るとも、何ぞ存亡の大期《だいご》を慮らむ。
(295)  俗道の變化は猶撃目のごとく、人事の經紀は申臂のごとし。空しく浮雲と大虚を行き、心力共に盡きて寄る所なし。
 
〔題〕 現世の物は、假に合うたかと思へば忽ち離れて、去り易くして留り難いのを悲嘆する詩一首竝に序である。
〔譯〕 竊に考へて見るに、釋慈の教(釋慈とは釋氏及び慈氏をいふ。)先に三歸(その意味は、佛法僧に歸依するをいふ。)五戒(その意味は、一に殺生せず、二に偸盗せず、三に邪婬せず、四に妄語せず、五に飲酒せざるをいふ。)を開いて、法界を教化し、また周公及び孔子の遺訓は、前に三綱(その意味は君臣、父子、夫婦をいふ。)及び五教(その意味は、父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝なるをいふ。)を立て、そして國家を教化した。それによつて導く方法は二種であつても、悟を得るは唯一であるといふことが知られる。但、惟ふに、現世には永久不變のものはなく、故に陵《をか》も谷と變じ、谷も陵と變ずる。人の命も定まつてをらず、故に長壽の人もあり夭折の者もあり、すべて同樣ではない。目たたきするほどの間に、長い百歳の齡もはや終り、臂を伸すほどの僅かの間に、長い千代も亦空しく過ぎてしまふ。朝には席上の主となつてゐても、早くも夕べには死んで黄泉の客となる。白馬(陽光)が走り追つても、どうして黄泉まで到り達することが出來ようか。※[こざと+龍]の上の青い松の木は、空しく信の劔を懸けて居り、野中の白き楊は、徒らに悲しい風に吹かれてゐる。これによつて、この現世にはもとより、逃げ隱れてしまふ場所が無く、原野には唯いつまでも續く長い夜の臺即ち墓のあるといふことが知られる。今までの聖人たちもすべて去つてしまひ、今後の賢者も亦この世に永久に生きながらへることはない。もし何か贖物を出して死を免れることが出來るとすれば、死んで行つた古人で、誰が贖ふべき金を持たなかつたであらうか。未だ曾て、唯の一人だにながらへて、最後にこの世の終りを見る者があらうとは聞かない。故に維摩大士は、その御體を方丈で病《や》ましめ、釋迦如來は、その金色の御姿を雙樹のうちにかくされた。佛經典に曰く、もし後に黒闇が迫つて來ることを望まないならば、先づコ天の至つた時に入れてはならぬと。(コ天は生であり、黒闇は死である。)それ故に、生れれば必ず死ぬ時があるもの、死をもし(296)欲しないならば、始から生れない方がよいといふことになる。まして、たとへ生あれば死ありといふ運命を覺つたとしても、生死の大切な時機が何時來るか、わかつたものではないのである。
 世間の變化は瞬く間に起るものである。人間の一生は短く、恰も臂を伸す程の時間である。むなしく浮雲と共に虚空を行き、心も身も共に疲れはてて、結局最後に安住する所がないのである。
〔語〕 ○俗道 世間、浮世の意で、浮世即ち現世に於ける人間の身體をさしてをる。○假に合ふ 熊凝の序にも見えた。一切のものは、衆多の因縁が假に和合して形づくられてゐる。○釋慈 「釋」は釋迦「慈」は慈氏即ち彌勒菩薩。○五戒 註にあるごとく、佛の五つの戒め。○周孔 「周」は周公「孔」は孔子。○引導二なりと雖も 衆生を引き導く方法は二通りであつても。○恒の質 恒久なるもの。永久不變のもの。○陵谷更變す 岡が谷となり谷が岡となるの意で、世の移り變りの甚しいの意。毛詩小雅に「高岸爲v谷、深谷爲v陵。」とあり。昨日の淵は今日は瀬となる趣である。○撃目の間 またたきの間、瞬間。○申臂の頃 申は伸に通ず。臂を伸す間、即ち僅かの時間。○白馬 「白駒の隙を過るといふより出で日月の過ぐるを云」(略解)とあるが、白馬は陽光の意か。○隴上の青き松云々 史記に見える。季札が徐君の生前欲しがつた劔を、その墓の樹にかけて心に誓つたことを果した故事による。隴は墓、信の劔は信孚を守つて贈つた劔。○野中の白き楊 文選の古詩に「古墓犂爲v田、松柏摧爲v薪、白楊多2悲風1、蕭々愁2殺人1」とあり、白楊ほ「はこやなぎ」で墓地に植ゑるもの。○長夜の臺 墓所。○古人誰か云々 いくら償の金を支拂つても長壽を得てをつた事であらう。○維摩大士云々 「七九四」の前文參照。○釋迦能仁云々 これも「七九四」の前文に見える。○金容 釋迦は黄金色身であつたといふのでかく云ふ。○内教 佛教の經典の意で、ここでは涅槃經聖行品をさす。或時功コ天(吉祥天女)が來て福コを生ぜしめようとしたに、次に黒闇天女が現れて、損亡を加へようとした。黒闇を逐ふに二女相伴つて去つたとある。○始終の恒の數 生あれば死あるさだめ。○存亡の大期 大切な臨終の時期。(297)○俗道の變化 以下七言絶句。○人事の經紀 人間の萬事にすぢみちをたててする生活、轉じて人の生活(總釋)。○浮雲と大虚を行き 浮雲と共に、定めなく大空を浮びゆき。○心力共に盡きて寄る所なし 心身共に疲勞困憊して、人生の適歸に迷ふこと。
〔訓〕 ○如かず 白文「不如」は、温故堂本及び西本願寺本などの傍書による。通行本「不知」とあり。
 
    老いたる身、病を重ね、年を經て辛苦《たしな》み、及《また》兒等を思へる歌七首 【長一首短六首】
897 たまきはる 現《うち》の限は【謂ふこころは、瞻浮州人壽一百二十年なるをいふ。】 平らけく 安くもあらむを 事も無く喪も無くあらむを 世間《よのなか》の 厭《う》けく辛《つら》けく いとのきて 痛き瘡《きず》には 鹹鹽《からしほ》を 灌《そそ》くちふが如く ますますも 重き馬荷《うまに》に 表荷《うはに》打つと 云ふことの如《ごと》 老《お》いにてある 我が身の上に 病をと 加へてあれば 晝はも 歎かひ暮らし 夜《よる》はも 息衝《いきづ》きあかし 年長く 病みし渡れば 月|累《かさ》ね 憂へ吟《さまよ》ひ ことことは 死ななと思へど 五月蠅《さばへ》なす 騷く兒|等《ども》を 棄《う》つてては 死《しに》は知らず 見つつあれば 心は燃《も》えぬ 彼《か》に此《かく》に 思ひわづらひ 哭《ね》のみし泣かゆ
 
〔題〕 老いたる身に病を重ね年を經て苦しみ、また子等の上を思ふ歌
〔譯〕 人間の壽《いのち》は百二十歳といふことであるが、此の命のある限りは、平穩で安らかにありたいと思ふのに、何事もなく凶事もなく暮したいと思ふのに、世間の重く辛いことは「非常に痛い瘡に辛い鹽を注いでいよいよ苦しくさせる」といふ諺のやうに、或は又「たださへひどく重い馬の荷物に、更にまた上荷《うはに》をつける」といふ諺のとほりに、老いはてた自分の身體の上に、病氣をさへ加へたので、晝は晝で嘆いて一日を暮し、夜は夜で吐息をつきながら夜を明して、長い年月の間、病氣をしつづけてゐるので、幾月も憂へうめき、同じことならば、いつそ死んでしまはうかと(298)思ふけれども、夏の蠅のやうに傍に騷いでゐる子どもをうち捨てては、死んでも死にきれない。さうかといつて、子どもを見てゐると、心は燃えるやうな氣がする。あれやこれやと思ひ煩うて、聲をあげて泣かれるばかりである。
〔評〕 老後の病氣を嘆き、その苦惱のあまりにむしろ死を願ひながら、目の前に遊び戯れてをる子に思ひ到つて、おのづから泣かれる、といふ實感が、痛ましく讀者の胸にせまる。憶良の特色たる、救ひのない現實の苦惱にひたと直面して、いささかも聲勢をはげますことなく、ありのままに寫すといふ手法は、この晩年の悲境をのべるにあたつて、沈痛暗欝、人をして卒讀に堪へざらしめる。「棄《う》つてては死《しに》は知らず、見つつあれば心は燃《も》えぬ」は、たた對照的に作られたものではなく、實感から生み出された語句で、哀痛の氣をうちに孕んでをる。
〔語〕 ○たまきはる 枕詞。「うち」につづく。「四」參照。○うちの限は 「うち」は「うつつ」に同じく現在現實の意。生きてゐる限はの意。○瞻浮州の人の壽 これは「現の限」の註であるが、作者自身記したものであらう。意味は「沈痾自哀文」參照。○喪もなくあらむを 「喪」は凶事災禍。「旅にても喪なく早來と」(三七一七)。○厭けく辛けく 憂きこと辛いこと。○いとのきて 「八九二」參照。○痛き瘡には 以下「沈痾自哀文」に「諺曰、痛瘡灌v鹽」とあるに同じ。○ますますも重き馬荷に表荷打つ ますますも一層、其上にの意。表荷打つは、上に荷を附け添へる意。これも當時の諺と思はれる。○老いにてある 年老つてゐる。○病をと 病を共にの意(新解)。又「と」を補格修飾格を示す「と」とみてもよからう。○憂へ吟ひ 「八九二」參照。○ことことは 諸説あつて明かでない。異事はで、異事とは子を思ふ外の事、辛苦の餘りにあらゆる他事をすてて死なうと思ふがの意(代匠記)古今集(離別)にある「かきくらしことはふらなむ春雨に濡衣着せて君を留めむ」とある「ことは」に同じく「かくの如くならば」の意(新考)事毎はで、何事につけても(新解)悉はで、全く死にたいの意(總釋一説)等の諸説がある。然るに橋本進吉博士は「こと」を「同じ」の意とする説を發表された(國語と國文學)。それによれば、「同じことならば」、となる。○死ななと思へど 下の「な」は願望の助詞。○五月蠅なす「四七八」參照。○棄《う》つてては 打ち棄《う》(299)ててはの約といふ。「うつ」は棄つの古語。○哭のみし泣かゆ 「二三〇」參照。
〔訓〕 ○喪も無くあらむを 白文「裳無母阿良牟遠」細井本には「裳母無阿良牟遠」とある。○病をと 白文「病遠等」代匠記にヤマヒヲラと訓み、これに從ふ説も多いが「古乎等都麻乎等」(四三八五)と共に「等」はトとよむべきである。「ラ」は「いもら」「きぬわたら」の如く體言にはつくが、助詞の下につかないものと思はれる。なほ似た例は「汝乎與吾乎人ぞ離《さ》くなる」(六六〇)がある。
 
    反歌
898 慰むる心はなしに雲|隱《がく》り鳴き往《ゆ》く鳥の哭《ね》のみし泣かゆ
 
〔譯〕 自分で慰められるやうな心もちは少しもおこらず、ただ雲に隱れて鳴いてゆく鳥の、鳴く聲だけが聞えるやうに、聲を出してひたすら泣かれることである。
〔評〕 長歌の結句をくりかへして強調したもので、定型的な形式ではあるが、その譬喩は適切である。
〔語〕 ○慰むる心はなしに 自ら慰めになるやうな心もなくての意。○雲隱り鳴き往く鳥の 「ねのみし泣かゆ」にかかる序。
 
899 術《すべ》も無く苦しくあれば出で走り去《い》ななと思《も》へど兒|等《ら》に障《さや》りぬ
 
〔譯〕 この世の中が、どうしても仕樣のないほど苦しいので、いつそ家を出て、どこかへ走つて行つてしまはうと思ふけれども、子どもにひかされてさうも出來ぬ。
〔評〕 長歌の終の部分に述べたことを、反歌にしたもので、短い歌だけに感動も一層強くなつてをる。憶良に特有の、調子を高く張りあげない、おだやかで質素な云ひぶりの中に、救ひのない現實の苦しみが、ありのままに寫されてゐ(300)て、うちにこもつた悲痛が、人を壓する。
〔語〕 ○術も無く どうする方法もないほど。○出で走り 家から駈け出し。○去なな 下の「な」は願望の助詞。○兒らに障りぬ 「障る」は妨げられるの意。
 
900 富人《とみびと》の家の子|等《ども》の著《き》る身《み》なみ腐《くた》し棄つらむ絹綿らはも
 
〔譯〕 富んだ人の家の子供が、さうさうは着る身體がないものだから、着おほせないで、腐らして棄ててゐることであらう絹や綿は、まあ。
〔評〕 富者の無益の浪費を思ひ、貧民の境遇に同情を寄せてをる。文學の上に社會意識を強調する現代に、祀會詩人としての憶良の名譽を新しく認識させる歌の一つ。「著る身なみ」と云ふ表現は、巧まぬ妙想であつて、なほ今日も新しく、自然の諷意がある。
〔語〕 ○着る身なみ 着物は多くても、それを着る身體は唯一つで、着る事のできないによつて。○腐し捨つらむ 腐らし捨てるであらう。○絹綿らはも 「ら」は音調の爲に添へたもの。
 
901 麁妙《あらたへ》の布衣《ぬのぎぬ》をだに著せかてに斯くや歎かむ爲《せ》むすべを無み
 
〔譯〕 粗末な布の着物をさへも子供達に著せかねて、このやうに自分は歎いてゐることであらうか。何とも仕樣がないので。
〔評〕 その詠嘆は、貧者の心に代つてのべたものとも見ることが出來る。しかし、貧者の心を理解することの深さ、その歎聲の眞率さは、傍觀的敍述とは思はれないほどである。社會の貧富の懸隔、その爲に生ずる人生の悲惨事などに眼を向けて、それを文字にする術を知らなかつた彼等貧者に代つて、その欝懷を抒べた詩人を、我等が既に千二百(301)年前の古典の中に持つことは、外國文學に對しても大いに誇り得るところである。
〔語〕 ○あらたへの たへは楮の木の繊維で作つた織物、轉じて布帛の總稱。粗製のものを荒たへといひ、細密な柔いものを和《にき》たへと稱した。「荒たへの藤原が上」(五〇)などと枕詞にも用ゐられるが、ここは普通の名詞。○著せかてに 著せかねての意。「かて」は爲し得るといふ意の動詞「かつ」の未然形。「に」は打消の助動詞「ず」の連用形。
 
902 水沫《みなわ》なす脆《もろ》き命も栲繩《たくなは》の千尋《ちひろ》にもがと願ひ暮しつ
 
〔譯〕 水の沫のやうにもろく消え易い人間の命であるが、子供らの爲には、栲の繩が千尋もあるやうに、長かれと願ひ暮すことである。
〔評〕 老いてかつ病に苦しみつつも、絶ちがたい、子等への執着、まことに同情に堪へない。寧ろ死して辛苦を忘れたかつたであらうとも思はれる。一讀、人間憶良の苦衷がまざまざと偲ばれるが、作品としては平庸の評を免れない。歌の面には子等のことはないが、この連作の中にあつては子等の爲にと解すべきは勿論である。
〔語〕 ○水沫なす 水の沫のやうにの意で、はかない譬。○たく繩の 栲で作つた繩の長い意で「千尋」にかけた枕詞。○千尋にもがと 尋は長さの單位で、兩手を廣げた長さ、約六尺。ここはただ長い形容で、時間的に長く生きてゐたい意に轉用した。「もが」は願望をあらはす助詞。
〔訓〕 ○脆き命 白文「微命」で、舊訓モロキイノチに從ふ。「微」は「八五三」の序にも「一四二八」の左註にもあつてイヤシと訓まれるので、ここも代匠記はイヤシキイノチと訓んでゐるが、上の「水沫なす」に對して相應しくない。
 
903 倭文手纒《しづたまき》數にも在らぬ身には在れど千年にもがと思ほゆるかも 【去る神龜二年之を作りき。但、類を以ちて故更に茲に載す。】
(302)     天平五年六月丙申の朔にして三日戊戍の日作れり。
 
〔譯〕 物の數でもない、ほんのつまらぬ此の身ではあるけれども、子供の爲には、千年も生きてゐたいと思はれることであるよ。
〔評〕 前者と同樣の心持で、表現も相似てゐる。作者の心境は同情されるが、しかし作品としては、概念露出に陷つた平板な歌といふ評を免れないであらう。
〔語〕 ○倭文手纒 「しづ」は上代の織物で、栲、麻等を、青、赤などに染めて交織にしたもの、絹などに對して粗末な品。「たまき」は手に纒くもの。枕詞として「數にもあらぬ」につづける。或は倭文を織る料は苧環で、數の多きものゆゑ「數」につづくといふ考の説「倭文」は借字、賤手纒のことで「數にもあらぬ」につづくといふ古義の説、その他なほ諸説がある。「倭文たまき數にもあらぬいのちもち」(六七二)「倭文たまきいやしき吾が故」(一八〇九)などとある。○數にも在らぬ 物の數でもない、取るに足らぬの意。○去る神龜二年云々 この歌は去る神龜二年に作つたものであるが、同じ類の歌であるからここに載せるとの意で、作者の註記である。
 
    男子《をのこ》名は古日に戀ふる歌三首 【長一首短二首】
904 世の人の 貴み願ふ 七種《ななくさ》の 寶も 我は 何《なに》爲《せ》むに 我が間《なか》の 生れ出でたる 白玉の 吾が子古日は 明《あか》星の 明くる朝《あした》は 敷妙の 床《とこ》の邊《べ》去らず 立てれども 居《を》れども 共に戯《たはぶ》れ 夕星《ゆふづつ》の 夕《ゆふべ》になれば いざ寢よと 手を携《たづさ》はり 父母も うへは勿《な》離《さか》り 三枝《さきくさ》の 中にを寢《ね》むと 愛《うつく》しく 其《し》が語らへば 何時《いつ》しかも 人と成《な》り出でて 惡《あ》しけくも 善《よ》けくも見むと 大船の 思《たの》ひ憑むに 思はぬに 横風《よこしまかぜ》の にふふかに 覆《おほ》ひ來《きた》れば 爲《せ》む術《すべ》の 爲方《たどき》を知(303)らに 白栲の 手襁《たすき》を掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天神《あまつかみ》 仰ぎ乞ひ?《の》み 地祇《くにつかみ》 伏して額《ぬか》づき かからずも かかりも 神の まにまにと 立ちあざり 我乞ひ?《の》めど 須臾《しましく》も 快《よ》けくは無しに 漸漸《やややや》に 容貌《かたち》つくほり 朝朝《あさなあさな》 言ふこと止《や》み たまきはる 命絶えぬれ 立ちをどり 足|摩《す》り叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持《も》たる 吾《あ》が兒飛ばしつ 世間《よのなか》の道
 
〔題〕 古日と名づけた男の子が死んだのを思慕して詠んだ歌、長短合せて三首との意である。
〔譯〕 世間の人が貴んで欲しがる七種の寶も、自分は何にしようぞ。我等夫婦の中に生れ出た、白玉のやうな大切な我が子の古日は、明けゆく朝は、床のあたりを去らず、立つても坐つても一緒に戯れ、夕方になると、さあお休みなさいと自分と手を取り合つて、お父さんもお母さんも側を離れてはいけない、わたしは眞中に寢るんだと、可愛らしくあの子が云ふので、いつかまあ早く成人して、どんな人になるやら、善くも惡くも、とにかく將來を見ようと心の中であてにしてゐたのに、思ひもかけず暴風がひどく吹き覆うて來るやうに、急病が襲つて來たので、施す策の手段も分らず、白い襷を掛け、眞澄の鏡を手に持つて、天上の神樣に仰いで祈願し、國土の神樣に伏して禮拜し、全快するもしないも、神樣の思召次第であるからとて、狂氣のごとく立ち騷ぎ、お祈りしたけれども、暫くも快《よ》い樣子はなくて、次第次第に容貌がやつれていつて、毎朝毎朝話してゐた言葉も話さなくなり、たうとう命が絶えてしまつたので、自分は飛び上り足摺りをして叫び、伏しつ仰ぎつして、胸を叩いて嘆き、かうして遂に掌中の玉として持つてゐた吾が子を、何處かへ飛ばすやうになくしてしまつた。ああ、これが人間の世の習なのである。
〔評〕 七種の珍寶にも換へ難い幼子を、朝夕に愛育しつつ、行末を樂しんでゐる間に、突如としてその子は病に冒された。誠を傾け盡し、あらゆる天神地祇を祈つた效もなく、衰弱は日々に増していつて遂に空しくなつたのである。このやうな複雜な徑路が、憶良の作風の特色たる、切れ目のない長い句法で敍してある。愛兒の死を歎くあたりの敍(304)述は、強く激しいが、誇張でなく、狂亂のあまりの絶叫と思はれる。子供の可憐な言動を寫した部分は、如何にも生き生きとその面影が躍動してゐる。終の方「胸打ち嘆き」から次の句への聯絡は、文法的には正確でないが、悲嘆のために言葉を盡さなかつたものであらうか。「手に持たる吾が兒飛ばしつ」の句は實に悲痛な力づよい句で、人麿の「妹が門みむ靡け此の山」の句と双璧ともいへる。胸の内に欝結する無量の感慨を、堰き上げる涙と共に、一氣に吐露した感があり、簡勁にして非凡である。
〔語〕 ○七種の寶 佛説で七種の珍寶をいふ。但、經典によつて多少異なり、阿爾陀經では、金、銀、瑠璃、玻璃、※[石+車]※[石+渠]、瑪瑙、眞珠とし、無量壽經では、金、銀、瑠璃、頗梨、珊瑚、※[石+車]※[石+渠]、金剛を數へ、その他、法華經、恒水經、大論等それぞれ二三の異同がある。○何せむに 何にしようぞ。「八〇三」參照。○我が間の 我等夫婦の間の。但、この「の」は聊か用法に疑問があるが、下の「吾が子」に續けて見るべしといふ古義の説に從ふべきであらう。誤脱説には從ひ難い。○白玉の 白玉の如き。○明星の 「明くる」にかけた枕詞。明星はあけの明星、即ち金星のこと。和名抄に「兼名苑云、歳星一名明星、此間云(阿加保之)」とある。明星が明け方に輝くといふ實際的の意と「あか」「あけ」の類音反復とによる枕詞である。○敷妙の ここは「床」にかけた枕詞。「七二」參照。○立てれども居れども 立つてゐても坐つてゐても。○夕星の 「夕」の枕詞。和名抄に「兼名苑云、太白星、一名長庚、暮見2於西方1爲2長庚1、此間云、由不豆豆」とあり、俗にいふ宵の明星である。「一九六」參照。枕詞としては「明星」の場合と同じく、意味と音調と共に働いてゐる。○手を携はり 互に手を引き合つての意。○側はな離り 側をば離れるな。「春されば植槻が上の遠つ人松の下道ゆ」(三三二四)とある「上」も同じ。「な離り」は、離る勿れに同じく「な」は禁止を表はす助詞。「な離りそ」ともいふが「そ」は必ずしも要しない。○三枝の 「中」の枕詞。さきくさは一莖から三枝に分れ出るといふが、實物に就いては異論が多い。古くは檜といひ、福草、山百合、沈丁花、三椏、蒼朮などの説もあるが、古事記傳の山百合説が比較的有力である。和名抄に「文字集略云、※[草がんむり/場の旁]、音娘。草枝々相値、葉々相(305)當也。和名、佐木久佐。日本紀私記云、福草。」とあり、神祇令の義解に「三枝祭(謂2率川社祭1也、以2三枝花1飾2酒※[缶+尊]1祭、故曰2三枝1也)。」と見える。○中にを寢むと 眞中に寢ようと。「を」は音調をととのへる爲の詠歎の助詞。○其が語らへば その子がいふので。「し」は三人稱の代名詞。○惡しけくも善けくも見むと 惡しかれ善かれ成長するのを見たいと。○大船の 「思ひたのむ」にかけた枕詞。大船に乘れば安心して居られるからである。「一六七」參照。○よこしま風 横さまに吹く風の義で、虐風・暴風をいふ。○にふふかに 他に用例なく語義明かでないが、要するに暴風の吹く形容、突然に又は烈しく等の意味らしい。「吾が兄子はにふぶに笑みて」(三八一七)の「にふぶに」と同語とは思はれないやうである。○たどきを知らに 方法がわからないでの意。「たどき」は「たづき」(五)に同じ。○白栲の 「襷」の枕詞。但、栲で作つたといふ實際的の意も兼ねてゐると見るがよい。○まそ鏡 眞澄の鏡、即ち清く研ぎ澄ました鏡。「二三九」參照。鏡を神事に用ゐることは「祝部等が齋ふ御室のまそ鏡」(二九八一)などの例でもわかるし、記紀にも見える。○天神 高天原の神々。○仰ぎ乞ひ?み 天を仰いで祈願し。「四四三」參照。○地祇 國土にます神。○かからずもかかりも 「かかる」は神の御意にかかる意とする代匠記の説もあるが、如此有らずも如此有りもの意とする童蒙抄や攷證の説が穩當である。即ち病が快くならないのも快くなるのもの意。○神のまにまにと 神樣の御意次第であると思つて。神慮次第であるが故に一層神意を和らげまつるべく努力する要があるのである。○立ちあざり 「あざる」は立ち騷ぐの意。土佐日記に「上中下醉ひ過ぎていとあやしく汐海のほとりにてあざれあへり」とあるのも、活用は異なるが同語である。○漸漸に 次第次第に、段々と。○よけくは無しに 快くなるといふことは無くて。○かたちつくほり 容貌が變化し憔悴しての意と思はれるが「つくほる」といふ語は他に所見がない。代匠記には文字の顛倒で「くつほり」かと疑つてゐる。それならば源氏物語紅葉賀の卷に「くづほれてながめ臥し給へるに」とある同語かと思はれ、意義も適合するやうであるが、猶考ふべきである。○たまきはる 「命」にかかる枕詞。「四」參照。○命絶えぬれ 命絶えぬればの意。○足すり叫び 足を地に摺りつけて泣き(306)叫び。俗にいふぢだんだを踏んで殘念がる樣。○吾が子飛ばしつ 吾が子を失つたの意。「飛ばす」は「よこしま風」に照應させたともいへよう。○世間の道 これが人間の世の常の習である、致し方もないことながら悲しいの意。
〔訓〕 ○我が間の 白文「和我中能」で、新考は「能」は「爾」の誤とし、童蒙抄・考などは、一句脱ちたものと見てゐるが、いづれも從ひ難い。○居れども共に戯れ 白文「居禮杼毛登母爾戯禮」で、考は「爾」までを七音句とし、その下に「比留波母牟都禮」の七字脱と見て、ヲレドモトモニ、ヒルハモ、ムツレタハブレと訓み、古義は同じく、「爾」の下に「可伎奈※[泥/土]弖言問」の七字を補つて、ヲレドモトモニ、カキナデテ、コトトヒタハレと訓んでゐるが、共に甚しい武斷である。○うへは 白文「表者」で、考は「遠者」の誤でトホクハとしたが、無用の改竄である。○横風 舊訓ヨコカゼノ。今、代匠記の訓に從ふ。○にふふかに 通行本は「爾母布敷可爾布敷可爾」とあつて解し難い。紀州本には「母」が無く、西本願寺本、大矢本等に下の「布敷可爾」の四字が古本に無い由の註記があるので、今それらを削つて上の五字を殘し、ニフフカニと訓んだ。五音の一句と推定されるからである。誤字説の中では、略解所引宣長説「爾波可爾母」の誤寫で、ニハカニモとしたのが比較的穩かである。○かかりも神のまにまにと 白文「可賀利毛神乃末爾麻爾等」で、考はカカリモカミノ、マニマニトと七五の二句に訓んで、この下に七音の一句脱かと見て居り、古義は「毛」の下に「吉惠天地乃」の五字を補ひ、「爾」を衍として、カカリモヨシヱ、アメツチノ、カミノマニマトと訓んだ。調は整備するやうに見えるが、一も證本がなく、獨斷を免れない。前の「寶も」「共に」と同じく「神の」といふ一句にする。○我乞ひ?めど 白文「我乞能米登」で、諸本多く「我」の下に「例」がありワレコヒノメドと訓んでゐるが、今、紀州本及び無訓本に從つて削り、ワガコヒノメドに改めた。
 
    反歌
905 稚《わか》ければ道行き知らじ幣《まひ》は爲《せ》む黄泉《したへ》の使負ひて通《とほ》らせ
 
(307)〔譯〕 あの子はまだ頑是ないから、冥途への道の勝手を知るまい。お禮はしようから、冥土の使よ、どうか背負つて行つて下さい。
〔評〕 死後の靈魂のことが、現實の世界の事實のやうに想像されて描かれてゐる。この幼い空想も、愛兒を失つた悲しみの爲に、痴愚に返つた親心として、何の不自然さもなく、あはれに同情されるのは、眞實そのものの力に外ならぬ。「幣は爲む」の句は、他にも詠まれてゐるが、ここほど切實に用ゐられたところは無い。但、長歌の方では天神地祇に祈願し、その形式も純日本的であつたのが、この反歌では、全く佛教思想になつてゐるのは、聊か奇異の感もある。蓋し作者は、日本的信仰を失はずにゐたけれども、一面また佛教的信仰も、作者の心に漸く浸潤してゐたことが察せられる。
〔語〕 ○道行き知らじ 冥途への旅の案内がわかるまい。○幣はせむ 謝禮の贈物はしよう。「まひ」は贈物、又は神への捧げ物。○したへの使 死者を迎へに來る冥官の使。「したへ」は地下の義で、黄泉。死後の世界は地下にあるといふ思想による。○通らせ 行つて下さい。
 
906 布施《ふせ》置きて吾は乞ひ?《の》む欺《あざむ》かず直《ただ》に率去《ゐゆ》きて天路《あまぢ》知らしめ
     右の一首は、作者未だ詳ならず。但、裁歌の體、山上の操に似たるを以ちて此の次に載す。
 
〔譯〕 お布施をあげて自分は佛樣にお祈りします。どうかあの子を欺くことなく、眞直に連れて行つて、天上への道を知らせてやつて下さいませ。
〔評〕 前の歌では「黄泉の使」とあるが、これには「天路《あまぢ》」といつてゐる。死者昇天の思想も我が國固有のもので、古代人は黄泉と天路と、二つの死後の世界觀を同時に持つてゐたことが知られる。但「布施」といふ佛教語を用ゐてゐることから見ると、この「天路」は、我が國固有の靈魂昇天思想とは別個な、佛教でいふ六道中の天上界を意味す(308)るのかとも考へられる。いづれにしても、信仰以外にまた當時の知識人の面目を窺はしめるが、しかし歌としてはこの作は、感情の純一に流露した前の歌に及び難い。
〔語〕 ○布施 ほどこし。己が財を他人に、分ち與へること。また佛や僧に獻げる物をいふ。○欺かず だまさないで。○直に率行きて 眞直ぐに連れて行つて。○天路知らしめ 天上への道を教へて下さい。「天路」は古義にもいふ如く、佛教の天道であらう。佛説では衆生の生死輪廻する世界について六道を説き、修羅・人間・天上を三善道とし、地獄・餓鬼・畜生を三惡道といふ。天上界は、人間以上の勝妙の果報を受ける所である。
〔左註〕 この一首は作者が明かでないが、作歌の風體が山上憶良の詠作に似てゐるからここに載せるとの意。但「一首」とは最後の一首のみを指すと普通見られてゐるが、新考や澤瀉博士の説に、「長歌一首」の意と解し、反歌二首を附屬せしめていつたと論じてゐる説がよい。
 
萬葉集卷第五 終
 
(309)  萬葉集 卷第六
 
(311)概説
 
 卷六は、すべて雜歌で、長歌二十七首、短歌百三十二首、旋頭歌一首、都合百六十首で、いづれも詠作年代順に配され、時に類を以て挿入配置せられてゐる。
 その内容は、?旅、皇都、宴席などに關するものが多い。題詞に、はじめに年號をあげ、その年に屬する歌を月日を追つて順次に記してをり、詠作年次不詳の作は少い。その時代は、養老七年五月に始まり、天平十六年正月に至つてゐる。なほ、久邇宮の荒廢を詠じた作を、天平十八年九月以後と推定する説もあるが、明かでない。
 作者の主なるものは、聖武天皇、市原王、湯原王、赤人、金村、蟲麿、諸兄、石上乙麿、田邊福麿、大伴坂上郎女、家持などであり、大伴氏及び大伴氏と親密な人々の作が特に多い。家持と親交のあつた福麿の歌集からは二十一首も採録してゐる。
 長歌の中ですぐれた作には、養老七年吉野行幸の時の金村の作(九〇七)紀伊行幸の際の赤人の作(九一七)神龜二年吉野行幸の時の金村の作(九二〇)同じく赤人の作(九二六)幸荷島を過ぎた時の赤人の作(九四二)授刀寮に散禁せしめられた時の作(九四八)宇合卿が西海道節度使に遣された時の蟲麿の作(九七一)酒を節度使に賜うた時の聖武天皇の御製(九七三)寧樂の故郷を悲んだ作(一〇四七)久邇の新宮を讃へた歌(一〇五〇)三香原の荒墟を悲んだ作(一〇五九)等がある。また石上乙麿の土佐に配された時の三首(一〇一九−一〇二二)は時人の作で、他と類を異にする。(「一〇二〇」は國歌大觀に過つて二首に數へてある。)
(312) 旋頭歌は、元興寺の僧の有名な作である(一〇一八)。
 短歌のうちですぐれた作を擧げる。
  山高み白木綿花に落ちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも   笠金村  九〇九
  泊瀬女の造る木綿花み芳野の瀧の水沫にさきにけらずや    同    九一二
  若の浦に潮滿ち來れば潟を無み葦邊をさして鶴鳴き渡る    山部赤人 九一九
  み芳野の象山のまのこぬれにはここだも騷く鳥の聲かも    同    九二四
  ぬばたまの夜のふけゆけば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く 同    九二五
  あしひきの山にも野にも御獵人さつ矢手挾み散動きたり見ゆ  同    九二七
  荒野らに里はあれども大君の敷き坐す時は京師となりぬ    笠金村  九二九
  島隱り吾がこぎ來ればともしかも大倭へ上る眞熊野の船    山部赤人 九四四
  ますらをと念へる吾や水莖の水城の上になみだ拭はむ     大伴旅人 九六八
  千萬の軍なりとも言擧せず取りて來ぬべき男とぞ念ふ     高橋蟲麿 九七二
  ますらをの行くとふ道ぞおほろかに念ひて行くな丈夫の伴   聖武天皇 九七四
  をのこやも空しかるべき萬代に語り續ぐべき名は立てずして  山上憶良 九七八
  斯くしつつ遊び飲みこそ草木すら春は生ひつつ秋は散りゆく  坂上郎女 九九五
  御民われ生ける驗あり天地の榮ゆる時にあへらく念へば    海犬養岡麿 九九六
  眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけてこぐ舟泊知らずも    船王   九九八
  こらがあらば二人聞かむを沖つ洲に鳴くなる鶴の曉の聲    守部王  一〇〇〇
  丈夫は御獵に立たし未通女らは赤裳裾引く清き濱邊を     山部赤人 一〇〇一
(313)  橘は實さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹  聖武天皇 一〇〇九
  一つ松幾代かへぬる吹く風の聲のすめるは年深みかも     市原王  一〇四二
  世のなかを常無きものと今ぞ知る平城の京師の移ろふ見れば  作者未詳 一〇四五
  立ちかはり古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり    田邊福麿 一〇四八
  ふたぎ山山竝見れば百代にもかはるましじき大宮どころ    同    一〇五五
  をとめ等が績苧《うみを》繋《か》くとふ鹿脊《かせ》の山時し往ければ京師となりぬ                              同    一〇五六
  かせの山樹立を茂み朝去らず來鳴きとよもす鶯の聲      同    一〇五七
  潮干れば葦邊に騷くあし鶴の妻呼ぶ聲は宮もとどろに     同    一〇六四
  濱清み浦うつくしみ神代より千船のはつる大和田の濱     同    一〇六七
 用字は音訓兩樣で、最も普通であるが「二二《シ》」(九〇七)「重二《シ》」(九四六「十六《シシ》」(九二六)「折木四《カリ》」(九四八)などのごとき義訓、戯書が少からず見える。就中、古代の遊戯に關する用字法は、古代文化を見る上にも注意せられる。
 
(314)萬葉集 卷第六
 
  雜歌
 
    養老七年癸亥夏五月、芳野の離宮《とつみや》に幸《いでま》しし時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
 
907 瀧《たぎ》の上の 三舟《みふね》の山に 瑞枝《みづえ》さし 繁《しじ》に生《お》ひたる 栂《とが》の樹の いや繼ぎ繼ぎに 萬代に 斯《か》くし知《し》らさむ み芳野の 蜻蛉《あきづ》の宮は 神《かむ》からか 貴《たふと》かるらむ 國からか 見が欲《ほ》しからむ 山川を 清《きよ》み清《さや》けみ うべし神代ゆ 定めけらしも
 
〔題〕 續紀養老七年の條に「五月癸酉行2幸吉野宮1。丁丑車駕還v宮。」とある。天皇は元正天皇。笠金村は、奈良時代初期の人。傳不詳。「二三二」參照。
〔譯〕 吉野川の激流のほとりの三舟山に、瑞々しい枝を出して、繁く生えてゐる栂の木のやうに、いよいよ次々に續いて、萬代までもかやうに天皇のお治めなさるであらうこの吉野の蜻蛉野の離宮は、此の土地の神樣の御本性の優れてゐるゆゑに、かやうに貴く思はれるのであらうか。國の本質が立派なゆゑに、かやうに見たく思はれるのであらうか。山も川も清く美しいので、なるほどそれで、神代以來、ここに離宮をお定めになつたらしいことよ。
〔評〕 意は頗る平明にして、調も甚だ清麓、よく整つた頌歌である。古くから芳野が負ひ持つ傳統の誇と、山容水態兼ね備はつたその風光の美とを、簡明に讃へて餘すところが無い。稍型に嵌つた嫌もあるが、それは或る程度までこの種の歌に免れ難い約束でもあり、且つ既に人麿が椽大の筆によつて描き盡した後でもあるから、餘儀ない所といふ(315)べきであらう。
〔語〕 ○瀧の上の 激流のほとりの。「たぎ」は激流奔湍のことで、ここは吉野川のそれである。「うへ」はほとりの意。○三船の山 宮瀧の對岸で、菜摘の東南方の山。「二四二」參照。○瑞枝さし みづみづしい新緑の枝が縱横に伸びて。○繁に生ひたる 繁く生ひ茂つた。○栂の木の 「樛《つが》の木の」(二九)に同じく、「とが」「つが」の類音によつて、「繼ぎ」にかける枕詞。但、ここは初句以下これまで眼前の實景を描いて「いや繼ぎ繼體ぎに」の序としてゐる。トガ一名ツガ、温帶の山地に自生する松杉科の常緑喬木。○かくし知らさむ かやうに統治し給ふであらうの意。連體形。○蜻蛉の宮 秋津野にあつた離宮。「三六」參照。○神からか貴かるらむ 神柄の貴い爲にかく貴いのであらうか。「二二〇」參照。○國からか見が欲しからむ 吉野の國柄がよいので斯くも度々來て見たいのであらうか。○山川を 山と川とを。○うべし なるほど、道理で「うべ」は肯定する意の副詞。○神代ゆ 遠い昔より。
〔訓〕 ○清み清けみ 白文「清清」で、舊訓サヤケクスメリは不可。元暦校本・細井本・紀州本等のイサギヨクも非。今、攷證及び新考のキヨミサヤケミに從ふ。考は「峻清」の誤としてタカクサヤケミ、略解は同じ誤字説によつてタカミサヤケミと訓み、古義は「淳清」の誤と見てアツミサヤケミと訓み、又この下に「大宮等」「常宮等」などの句を脱したかといつてゐるが、すべて從ひ難い。
 
    反歌二首
908 毎年《としのは》に斯くも見てしかみ吉野の清き河内《かふち》の激《たぎ》つ白波
 
〔題〕 反歌二首 通行本等仙覺系の本には「二首」の字を脱してゐるが、本卷の記載例により、元暦校本等に從つてこれを補ふ。
〔譯〕 毎年毎年かうして來て見たいものであるよ。吉野の清らかな川筋のめぐつてゐる處に、泡だち流れるこの美し(316)い白波を。
〔評〕 常に大和平原に住み馴れて、穩かな山川の風情のみ見てゐた都會人の眼には、たまたま接した芳野の高峻な地形や、水流の奔騰する樣などが、物珍しく映じたのであらう。平明の裡に爽かな感じがよく出てゐる。
〔語〕 ○毎年に 來る年ごとに。「八三三」參照。○斯くも見てしか 見たいものである。○河内 流の行き廻つた地點。「三六」參照。谷あひの流域とも説かれる。兩岸のせまつた水路かとも思はれる。
 
909 山高み白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ瀧《たぎ》の河内《かふち》は見れど飽かぬかも
 
〔譯〕 まはりの山が高くて、眞白な木綿の造花のやうに、白く泡立ちつつ流れ落ちるこの川の流域の景色は、見ても見ても見飽きないことであるよ。
〔評〕 奇巖怪石に激して飛沫をあげつつ流れる水の姿を、白木綿花に譬へたのは、如何にも美しくて眼も覺めるばかり印象鮮明である。しかしこの技巧は「泊瀬川白木綿花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に來し吾を」(一一〇七)「山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の河門見れど飽かぬかも」(一七三六)「相坂をうち出て見れば淡海の海白木綿花に浪立ち渡る」(三二三八)など、集中に少からず見られるもので、殊に「一七三六」の歌とは、瀧の河内と夏身の河門と、場所の相違だけで、全く同歌といつて差支ない。いづれが先蹤であるかは審かにしがたいが、一は他の踏襲であることは明かである。
〔語〕 ○山高み 兩岸の山々が高くて。ここの「み」は、山が高いのでといふ原因を表はす普通の語法とは稍異なつて(即ち水の落ちたぎつのは山の高いのが原因ではない)。「山高み川とほしろし」の場合と似てゐる。○白木綿花に 白木綿で作つた花のやうに。「に」は「の如く」の意。「泣く涙ひさめに降れば」(二三〇)と同例。「白木綿花」は穀《かぢ》、即ち楮の繊維を晒した白緒を以てこしらへた造花。
 
(317)    或本の反歌に曰く
910 神からか見が欲《ほ》しからむみ吉野の瀧《たぎ》の河内《かふち》は見れど飽かぬかも
 
〔譯〕 この山川の神が貴いゆゑに、かやうにも見たいのであらうか。泡立ち流れる吉野河の入りめぐつてゐるあたりの景色は、見ても見ても見飽かないことである。
〔評〕 これは長歌の中の句を繰返して初二句に用ゐ、それに常套的な結句を据ゑたまでのもので、前の反歌よりは著しく劣つてゐる。
 
911 み吉野の秋津の川の萬世に絶ゆること無くまた還《かへ》り見む
 
〔譯〕 吉野の秋津の川の絶えぬやうに、萬世までも絶えること無く、また立返つて自分は幾度でもこの美しい風景を眺めませう。
〔評〕 流暢に一通り纒まつてはゐるが、内容にも表現にも何等新味を見出しがたい。いふまでもなく人麿の「見れど飽かぬ吉野の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまた還り見む」(三七)の型を踏んだものであるが、渾然たる莊重味に於いて、到底その藩籬を窺ふことも出來ないのは、餘儀ない次第である。
〔語〕 ○秋津の川 吉野川の一部で、秋津野の附近を流れるをりの特稱。○萬世に 初句以下これまで「絶ゆることなく」にかけた序であるが、實質的内容でもある。
 
912 泊瀬女《はつせめ》の造る木綿《ゆふ》花み吉野の瀧《たぎ》の水沫《みなわ》に開《さ》きにけらずや
 
〔譯〕 泊瀬の女たちの造るあの木綿《ゆふ》の造花が、この吉野川の激流の泡となつて、咲いてゐるではないか。何とまあ、(318)すばらしい眺めであらう。
〔評〕 同じ譬喩にしても、泡立つ流が白木綿花のやうであるといふのではなく、白木綿花が奔湍の白泡となつて咲いたではないか、と叫んでゐるところに、作者の強い驚異感が端的に現はされてゐて、まことに新鮮でおもしろい。自然現象を造花に比したのも都會人らしいが、實際にそれを造る泊瀬女を點出したところに、人事に對する作者の興味が語られてゐる。齒切れのよい五七の聲調も快適である。
〔語〕 ○泊瀬女の造る木綿花 當時泊瀬地方の女たちが、木綿花を作つたことがこれによつて知られる。○瀧のみなわに 激流の泡となつての意。この「に」は結果を示す助詞で、上の「白木綿花に落ちたぎつ」(九〇九)の「に」と同じ。
 
    車持朝臣|千年《ちとせ》の作れる歌一首并に短歌
913 味凝《うまこり》 あやに羨《とも》しく 鳴神《なるかみ》の 音のみ聞きし み芳野の 眞木立つ山ゆ 見|降《おろ》せば 川の瀬毎に 明け來《く》れば 朝霧立ち 夕されば 蝦《かはづ》鳴くなべ 紐解かぬ 旅にしあれば 吾《あ》のみして 清き川原を 見らくし惜しも
 
〔題〕 車持千年 傳不詳。車特朝臣の姓は續紀にも見え、竹取物語にも車持皇子《くらもちのみこ》といふのが見える。ここもクラモチと訓むのであらう。
〔譯〕 まことに羨ましく、かねて噂にばかり聞いてゐた吉野山の、この槍の木の茂り立つてゐる山に來て、此處から見おろすと、吉野川の川瀬ごとに、夜が明けて來ると朝霧が立ち、夕方になると河鹿《かじか》が鳴くにつれて、自分はゆつくり着物の紐を解いて寢ることもない旅のことであるから、自分一人だけで、この明媚な川原の景色を見るのが、まこ(319)とに惜しいことである。
〔評〕 聞きしにまさる勝景を實地に見るにつけて、家なる妻にも一目見せてやりたいと思ふのは、平凡ながら僞らぬ眞情である。薄暮河鹿の聲を聞くと共に、旅情はいよいよ切になつて、丸寢の床のわびしさに思ひ至るのも自然である。内容にも表現にも特異な點はないが、眞率にして平明な作である。
〔語〕 ○味凝 「あやに」の枕詞。美織の綾の義か。一説に「こり」は韓語で綾の意ともいふ。「一六二」參照。○鳴神の 雷のこと。「音」につづく枕詞。○眞木たつ山ゆ 眞木の生えてゐる山から。眞木は美稱で、主として檜の木をいふ。「五〇」參照。○蝦鳴くなべ 河鹿が鳴くにつれて。○紐解かぬ 夜の着物の紐を解かぬ意で、丸寢するをいふ。
〔訓〕 ○吾のみして 白文「吾耳爲而」とあるが、「四一七八」の「吾耳聞婆不怜毛」と思ひ合せて、「ひとりして」とよむべきかも知れぬ。○奈拜 通行本を始め仙覺本は「奈辨詳」に作つてゐるが誤である。今、元暦校本・金澤本等の古寫本による。古葉略類聚鈔には「拜」を「利」に作る。○惜蒙 細井本・通行本など「惜」を「情」に作るは誤。今、元暦校本・金澤本等によつて訂す。
 
    反歌一首
914 瀧《たぎ》の上の三船の山は畏《かしこ》けど思ひ忘るる時も日も無し
 
〔譯〕 吉野川の激湍のほとりの三船山は、神々しく恐しいけれども、こんな景色を見ながらでも、自分は家郷の妻を忘れる時も日もない。
〔評〕 深山の靈氣に寧ろ畏怖を抱きつつも、なほ一方に郷愁を忘れかねるのである。清澄森嚴な山の氣に威壓せられて、他の感情が起る餘地は無ささうであるのにといぶかりつつ、如何ともし難い執拗な係戀の情をもてあました作者(320)の歎聲である。やや言葉不足で、上句と下句との聯絡が緊密でないが、次に載せる或本の反歌に照し見ても、右のごとく補ひ解すべきである。
〔語〕 ○瀧の上の 吉野川の激流の傍なる。○思ひ忘るる 妻のこと、家郷のことを忘れる。
〔訓〕 ○畏けど 白文「雖畏」で、略解所引宣長説に「畏」は「見」の誤としてミツレドモと訓んでゐるが、根據乏しく從ひがたい。
 
    或本の反歌に曰く
915 千鳥鳴くみ吉野川の川音《かはと》なす止《や》む時無しに思ほゆる君
 
〔譯〕 千鳥の鳴く吉野川の川音が止む時もないやうに、止む時なしに君が戀しく思はれることである。
〔評〕 眼前の實景を直ちに取つて序とした所謂有心の序で、かうした場合、古人が常に試みた技法である。例へば「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪やむ時も無し吾が戀ふらくは」(五二六)「阿胡の海の荒磯の上のさざれ浪吾が戀ふらぐはやむ時もなし」(三二四四)のごとき、これらいづれも同型の作で、佐保河の歌は大伴坂上郎女の作であるが、この吉野川と阿胡の海との二首を折衷したといふ觀がある。
〔語〕 ○川音なす 川音の如くの意。○思ほゆる君 君のことが思はれるの意。君はここでは女をさす。
〔訓〕 ○川音なす 白文「川音」。通行本を始め諸本多く「音成」とあり、オトナシミと訓んでゐるのは誤。細井本に「川音成」とあるにより、カハトナスと訓んだ。
 
916 あかねさす日竝べなくに吾が戀は吉野の河の霧に立ちつつ
     右は、年月審ならず。但、歌の類を以ちて此の次に載す。或本に云ふ、養老七年五月、芳野の離宮に幸しし時作れ(321)りと。
 
〔譯〕 旅の日數はまたいくらも重ねてゐないのに、家なる妻に對する戀心はため息に洩れて、あの通り吉野川の霧となつて立ち昇つてゐることである。
〔評〕 吉野河の川霧を眺めて、わが戀があらはれたと歎いた、即ち、歎きの息が霧となつたと見て驚いたのである。もと古事記の宇氣比の神話にある氣吹《いぶき》の狹霧《さぎり》の思想に發したものであらうが、霧を歎きの息の凝つたものと詠じた歌は集中に少くない。
〔語〕 ○あかねさす 枕詞で「日」にかかる。「二〇」參照。○日竝べなくに 日數を重ねないのに。幾日もたたないのに。○霧に立ちつつ 霧となつて立ちあらはれつつ。「に」は「となつて」の意。「九一二」參照。
〔左註〕 右の車持朝臣千年の歌の作られた年月は分らないが、同じ種類の作であるから、笠金村の歌の次に載せる。或本には、金村のと同じく、養老七年五月、元正天皇吉野行幸の折の作であるともいつてゐる。
 
    神龜元年甲子冬十月五日、紀伊國に幸しし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
917 やすみしし わご大王《おほきみ》の 常宮《とこみや》と 仕《つか》へまつれる 那賀野《さひがの》ゆ 背向《そがひ》に見ゆる 奧《おき》つ島 清き渚《なぎさ》に 風吹けば 白浪騷き 潮|干《ふ》れば 玉藻苅りつつ 神代より 然ぞ尊き 玉津島山
 
〔題〕 續紀に「神龜元年冬十月辛卯、天皇幸2紀伊國1。癸巳行至2紀伊國那賀郡玉垣勾頓宮1。甲午至2海部郡玉津島頓宮1、留十有餘日、戊戌造2離宮於岡東1云々。又詔曰、登v山望v海此間最好、不v勞2遠行1、足2以遊覽1、故改2弱濱名1爲2明光浦1。」とある、この時の作である。「五四三」に見える笠金村の長歌も同時の作である。
〔譯〕 我が天子さまの永久に變らぬめでたい離宮として、私ども臣下の者が奉仕してゐる其の宮の所在地の雜賀野か(322)ら、斜に見える沖の島の美しい波うち際に、風が吹くと白波が立ち騷ぎ、潮が干ると海人たちが玉藻を刈り刈りして、遠い神代の昔から今に至るまで、かやうに神々しく尊いのである、この玉津島山は。
〔評〕 雜賀野の離宮から玉津島を望んで、その風光を讃へたもので、簡素な構想と、清淡の筆致とで、雄渾壯大の氣には缺けてゐるが、赤人らしい特色を示してゐる。
〔語〕 ○常宮と 永久に變らぬ離宮として。○雜賀野 今も紀伊國海草郡雜賀村にその名が殘つてゐる。和歌浦の西方。○背向に見ゆる 斜に後方に見える。「三五七」參照。○奧つ島 沖にある島の意で固有名詞ではない。玉津島をさす。○玉津島 今の玉津島神社の後の奠供《てんぐ》山がそれであるといふ。今は島ではないが、當時は海中にあつたことが知られる。
 
    反歌
918 奧《おき》つ島|荒磯《ありそ》の玉藻潮干滿ちて隱ろひゆかば思ほえむかも
 
〔譯〕 あの沖の島の磯邊に生えてゐる美しい玉藻が、潮が滿ちて次第に隱れていつたらば、定めて自分はその景色が戀しく思ひ出されることであらう。
〔評〕 潮がさしてくると、海邊の光景は忽にして一變する。干潮時のおもしろさは夢のごとくに消えて、白波の躍るに委ねられる。玉藻のなびく磯邊の飽かぬ景色を、今眼前に見ながら、早くも滿潮の時を豫想して、それを愛惜してゐるのはおもしろい心理である。後世ではあまり注意されてゐないが、集中には大伴家持も「あしひきの木の間立ち潜《く》く霍公鳥斯く聞きそめて後戀ひむかも」(一四九五)と詠んでゐるのは、同一の心理である。
〔語〕 ○思ほえむかも その邊一帶の景色が戀ひしく思はれるであらうよ。
〔訓〕 ○潮干滿ちて隱ろひ去かば 白文「溯干滿※[人偏+弖]隱去者」で、諸本多く「※[人偏+弖]」を「伊」に作り、舊訓シホミテイ(323)カクレユカバとあるが、さすれば「干」を閑却してゐる。今、元暦校本・金澤本。紀州本等の文字に從ひ、訓は金澤本に小修正を加へて、シホヒミチテカクロヒユカバとした。「干」を衍とする童蒙抄の説、「天」の誤で、且「滿」と上下顛倒したとする古義の説は、共に採らない。
 
919 若の浦に潮滿ち來れば潟を無み葦邊《あしべ》をさして鶴《たづ》鳴き渡る
     右は、年月記さず。但、玉津島に從駕《おほみとも》すといへり。因《かれ》、今行幸の年月を檢へ注して以ちて載す。
 
〔譯〕 若の浦に潮が滿ちて來ると、今までの干潟が無くなるので、葦の茂つてゐるあたりをさして、澤山の鶴が鳴きながら飛んでゆくよ。
〔評〕 ひたひたと寄る上げ潮に、群鶴の翼の律動を見、また、蒼天に響く清唳を聞くやうである。更に岸邊にそよぐ葦の葉の色と、雪白の鶴の翼と、美麗な色の對照が鮮かに感ぜられる。精緻な親祭が最も巧みに單純化されて居り、古來、敍景の神髄を得た傑作と讃へられてゐるのも偶然ではない。赤人が代表作の一首である。
〔語〕 ○若の浦 古く弱濱《わかのはま》と呼んでゐたが、聖武天皇が神龜元年の行幸の際、風光の美しい意で明光《あか》の浦と改め給うたことは、右の長歌の題詞解説の所で續紀の記事を引用した通りである。今の和歌の浦のこと。○潟を無み 干潟が無いのでの意。後にこれを誤解して、和歌の浦に片男波といふ名所が出來たのは滑稽である。
〔左註〕 右の赤人の歌は製作年月が書いてなく、單に玉津島從駕の際とだけ書いてある。そこで記録によつて調べた上、神龜元年十月の作と決して、ここに載せるとの意。
 
    神龜二年乙丑夏五月、芳野の離宮に幸《いでま》しし時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
920 あしひきの み山も清《さや》に 落ちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の 淨《きよ》きを見れば 上邊《かみべ》には (324)千鳥|數鳴《しばな》き 下邊《しもべ》には 蝦《かはづ》妻呼ぶ 百磯城《ももしき》の 大宮人も 彼此《をちこち》に 繁《しじ》にしあれば 見る毎《ごと》に あやに羨《とも》しみ 玉葛《たまかづら》 絶ゆること無く 萬代に 斯くしもがもと 天地の 神をぞ  躊《いの》る 恐《かしこ》かれども
 
〔題〕 聖武天皇の行幸であるが、この事は續紀に見えない。記載漏れであらう。
〔譯〕 山までさわさわと響き渡りつつ岩に激して流れる吉野川の、川瀬の清らかな景色を見ると、川上の方では千鳥が頻りに鳴いてゐるし、川下の方では河鹿《かじか》が妻を呼んでゐる。離宮に奉仕する官人達も、あちこちに澤山往來してをるので、この景色を見るたびごとに、あやしいまでに自分はゆかしく思つて、いつまでも絶えることなく、千萬年の後までもかうして離宮がお榮えになるやうにと、天地の神々をお祈りするのである。我々風情がまことに畏れ多いことではあるが。
〔評〕 吉野の山川の秀麗に、大宮人の優雅な姿を配して、行幸の壯觀を讃へ、離宮の繁榮を祝つてゐる。これも既に人麿の「吉野宮に幸しし時」の作(三六)に詠まれてゐるところではあるが、人麿の莊重深沈なるに対して、清淡平明なのが金村の特色であらう。末尾「恐かれども」の一句、作者の敬虔の至情が溢れ、全篇を結收し得て力がある。
〔語〕 ○み山もきやに 山もさわさわと鳴り響くばかりに。「み」は美稱。「さや」はさわめき鳴る擬音。○上邊には 上流の方では。○蝦妻呼ぶ 河鹿が鳴いてゐるのを妻を呼ぶと見立てていふ。○百磯城の 「大宮」の枕詞。「二九」參照。○彼此に あちらこちらに。○繁にしあれば 繁く往來してゐるので。○玉葛 枕詞。葛の長い意から「絶ゆることなく」、にかける。○かくしもがもと かやうにして變らずあれかしと。
〔訓〕 ○あやに哀しみ 白文「文丹乏」通行本「丹」を「舟」とするは誤。今、元暦校本・金澤本等によつて訂す。
 
    反歌二首
(325)921 萬代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ
 
〔譯〕 萬代の末まで通《かよ》つて來て眺めたところで、見飽くことがあらうか。吉野川の奔流の行きめぐつてゐるあたりにあるこの離宮の景色は。
〔評〕 構想は類型的で何等の新味もないが、四五句を悠揚と大きく言ひ据ゑたところ、頗る重厚の趣があつて、搖ぎのない感じを與へる。
〔語〕 ○見とも飽かめや 見ても見飽かうか、反語。「見とも」は、後世の見るともに同じ。
 
922 皆人の壽《いのち》も吾《われ》もみ吉野の瀧《たき》の床磐《とこは》の常ならぬかも
 
〔譯〕 人々の壽命も自分自身も、この吉野川の激流のあたりに横たはる磐石のやうに、永久に變らずあつてくれないものかなあ。
〔評〕 激湍の中に蟠つて微動だもせぬ大盤石を見、自然の偉大と悠久とを感じて詠歎の聲を發したのである。しみじみと人間の卑小が顧みられたのも當然であらう。「皆人のいのちも」といふところ、金村の對人的な温情ともいふべきものが看取される。
〔語〕 ○瀧の床磐の 激湍のところの床磐のごとくの意。「床磐」は川床をなす磐の義で、それは永久不動のものであるから、次の「常」を修飾する。○常ならぬかも 「ぬかも」或は「ぬか」は願望を表はす。
〔訓〕 ○皆人 元暦校本・類聚古集による。通行本等「人皆」とあり、双方とも集中用例はあるが、今書寫の古い方に從ふ。
 
    山部宿禰赤人の作れる歌二首并に短歌
(326)923 やすみしし わご大王《おほきみ》の 高知らす 芳野の宮は 疊《たたな》づく 青墻隱《あをがきごも》り 河次《かはなみ》の 清き河内《かふち》ぞ 春べは 花咲き撓《をを》り 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益益《ますます》に この河の 絶ゆること無く 百磯城《ももしき》の 大宮人は 常に通はむ
 
〔譯〕 我が天子さまが御殿を造らせられて天下をお治め遊ばされるこの吉野の離宮は、重疊たる青垣のやうな山々に抱かれ、それに沿うた河の流の清らかな、うねうねと廻つた地點である。そして春さきには枝も撓むほど花が咲き亂れ、秋になると霧が一面に立ち渡る。その山のいよいよますます高く榮え、此の川のいつまでも絶えることなく流れるやうに、大宮に奉仕する官人たちは、いつまでも絶えず通つてお仕へすることであらう。
〔評〕 例の筆法を以て簡潔に景を描き事を敍し、齊整の一篇を成してゐるが、これも吉野離宮に於ける人麿の歌(三六・三八等)に學んで、粉本から殆ど出て居らず、雄渾莊重の趣に乏しいのは、聊かあきたらぬ點である。
〔語〕 ○やすみしし 安らかに天下を御統治あそばされるの意。「五二」參照。○高知らす 高大な宮殿に於いて御統治あそばす。「五〇」參照。○たたなづく 疊まり著く。山の重疊せるさまの形容。「三八」參照。○青がきごもり 青がき山に籠つて、即ち、青々とした山が垣のやうに連つてゐる中に圍まれてゐるの意。○河次 河筋をいふ。幾條も竝んで流れてゐるのではない。「山竝」に對する語で、山竝は山の續き工合をいふ。「山竝の宜しき國と川次の立合ふ郷と」(一〇五〇)參照。○花咲きををり 枝もたわむほど花が咲き滿ちて。「四七五」參照。○その山のいや益々に その山々がいよいよ高く榮えるやうに。○この河の絶ゆることなく この吉野川の流が絶えないやうに。
 
    反歌二首
924 み吉野の象《きさ》山の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《ここだ》も騷く鳥の聲かも
 
(327)〔譯〕 吉野の象山の山あひの樹々の梢には、澤山の小鳥が鳴き騷いでゐることであるよ。
〔評〕 長歌に於いて類型的、粉本模寫的であつた赤人は、反歌となるや、目ざましい活躍をしてその特色を發揮した。今、吉野の奧は深い山の氣が漲つて、眞晝の靜寂の中にある。その靜寂を破るものは、小鳥の騷ぐ聲のみである。しかしその騷ぎも、大きな靜寂の湖の一波紋のごときに過ぎない。それを包んで擴がるものの深いほど、鳥の聲は澄み、その聲の騷ぎによつて、靜寂は愈々深まるのである。歌調も亦靜かに深く、さながら作者の息づかひを感ぜしめる。
〔語〕 ○象山のまの 象山は、吉野離宮地の前方に聳える山で、「象の中山」(七〇)に同じ。○幾許《ここだ》も騷く 澤山にまあ鳴き騷いでゐる。
 
925 ぬばたまの夜《よ》の深《ふ》けぬれば久木《ひさぎ》生《お》ふる清き河原に千鳥|數《しば》鳴く
 
〔譯〕 夜がすつかり更けてしまふと、楸の生えてゐるすがすがしい川原では、千鳥がしばしば鳴いてゐることである。
〔評〕 晝間見た時の、楸の生えた清らかな河原の印象が、深夜の千鳥の聲を開くに及んで、脳裡に再現したのであらう。幽境の夜は靜かで、吉野川の瀬の音はさやかである。折しも一きは冴えた千鳥の聲が聞えて來るのである。まことに俗塵を離れた清澄の詩境で、格調も極度まで洗練されてゐる。自然詩人たる眞價を發揮した傑作と評してよい。
〔語〕 ○ぬばたまの 「夜」にかかる枕詞。「一九四」參照。○久木 キササゲ説、クヌギ説等もあつたが、アカメガシハの古名とする説が今は有力である。山野に自生する落葉喬木。和名抄に「楸」の字を宛て、正倉院文書によると、經紙の染料としてその葉を採集したことが知られる。
〔訓〕 ○深けぬれば 白文「深去者」で、舊訓フケユケバも廣く行はれてゐるが、時間の進行?態よりも、靜止?態に考へたいので、今改訓した。
 
(328)926  やすみしし わご大王《おほきみ》は み芳野の 蜻蛉《あきづ》の小野《をの》の 野の上《へ》には 跡見《とみ》居《す》ゑ置きて み山には 射目《いめ》立て渡し 朝獵に 鹿猪《しし》履《ふ》み起し 夕狩に 鳥|?《ふ》み立て 馬|竝《な》めて 御獵《みかり》ぞ立《た》たす 春の茂野《しげの》に
 
〔譯〕 我が天子さまは、此の吉野の蜻蛉野に於いて、野のあたりには鳥獣の足跡を捜す者どもを部署につけてお置きになり、山には鳥獣を射る人々を配備してお置きになり、朝の狩には鹿や猪を追ひ出し、夕方の狩には鳥を驅り立たせなどあそばされ、馬を並べて、御獵にお出になることであるよ、春草の茂つたこの野邊に於いて。
〔評〕 離宮附近の蜻蛉野に於ける御狩のさまを敍して、簡潔によくまとまつてゐるのは、例の赤人得意の手法である。しかし、かうした大舞臺に於ける多人數の活動を寫すに、これくらゐの句數を以てしては、最初から無理なことは明かである。從つて、描いたところは一通りの外觀だけで、動きに乏しく、暢びやかさが無い。赤人の長歌の缺點がこれである。
〔語〕 ○蜻蛉野の小野 吉野離宮附近の原野。「秋津の野邊」(三六)參照。○跡見居ゑ置きて 狩獵の時、鳥獣の通つた跡を見てその居所を捜し求める人を跡見といふ。その人々を配置しての意。○射目 弓を射る者ども。「射目人」(一六九九)ともいふ。○立て渡し 彼方此方に多く立て竝べて。○しし履み起し 鹿や猪を追ひ立てて。「四七八」參照。○馬竝めて 多人數で馬を竝べ走らせて「四九」參照。
 
    反歌一首
927 あしひきの山にも野にも御獵人《みかりびと》得物矢《さつや》手挾《たばさ》み散動《さわ》きたり見ゆ
     右は、先後を審にせず。但、便を以ちての故に此の次に載す。
(329)〔譯〕 山にも野にも、天子さまの御狩に奉仕する人々が、獲物を射とめる矢を手挾んで、あちらこちらに馳せちがひ走り廻つてゐるのが見えることである。
〔評〕 長歌に缺けてゐた動きは、この反歌によつて遺憾なくとりかへされ、御獵人の活躍の光景を、さながら繪卷物のやうに眼前に展開してゐる。敍景歌の神髓といふべく、おのづから融々たる君臣和樂の?をも描き、聖代禮讃の意にかなつてゐる。
〔語〕 ○得物矢 獲物を射る矢のこと。「六一」參照。○散動きたり見ゆ 入り亂れて馳驅奔走してゐるのが見えるの意。「見ゆ」は奈良時代以前には用言の終止形を承けたのである。
〔訓〕 ○散動きたり 白文「散動而有」舊訓ミダレタル、代匠記精撰本トヨミタル、攷證サワギタル、古義サワギタリ等の諸訓がある。「白浪散動」(二二〇)の訓をシラナミトヨムとよめば、代匠記の訓にも理由はある。しかし、下の「海人船散動」(九三八)と同じく、サワキとよむがよい。
〔左註〕 右二篇の長短歌はいづれが先か後かよくわからぬが、同人の作であるから、便宜上ここに載せるの意。
 
    冬十月、難波宮に幸しし時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
おしてふさとおもやす
928 押照《》る 難波の國は 葦垣の 古《》りにし郷《》と 人皆の 念《》ひ息《》みて つれも無く ありし間《あひだ》に 續麻《うみを》なす 長柄《ながら》の宮に 眞木柱 太《ふと》高敷きて 食《おす》國を 治めたまへば 沖つ鳥 味經《あぢふ》の原に もののふの 八十伴《やそとも》の雄は 廬《いほり》して 都なしたり 旅にはあれども
 
〔題〕 聖武天皇の行幸で、續紀に「神龜二年冬十月庚申、天皇幸2難波宮1」とある。
〔譯〕 難波の國は古く荒れ果ててしまつた里であるといつて、人々が皆忘れてしまつて無關心でゐた間に、我が天子(330)さまが、長柄の宮に立派な柱を太く高くお構へになつて、ここで天下をお治めあそばすので、味經の原に多くの供奉の官人達が假屋を造つて住み、忽ち此處が立派な都となつたのである。奈良の京を離れた旅の地ではあるけれども。
〔評〕 既に久しく荒廢に歸して顧みられなかつた難波の宮に、めづらしくも行幸があつたのである。供奉の官人等は、味經の野に假廬を造つて旅寢をするので、今までの荒野に忽ち都を現出した。その驚異の情が、輝く皇威を讃美する心に移つてゆくのである。調の明るく暢びやかなのは、この作者の特色である。
〔語〕 ○押し照る 「難波」の枕詞。「四四三」參照。○葦垣の 「古りにし郷」にかけた枕詞。「蘆は難波の名物なる上に、蘆垣は古めきたる物なればかくはつづけたり」と代匠記初稿本にいつてゐる。○思ひ息みて 忘れて思ひ出しもせずに。○つれも無く 平氣で、無關心で。「一六七」參照。○うみ麻なす 績《う》んだ麻《を》の長きが如くの意で、「長柄」にかけた枕詞。「績麻なす長門の浦に」(三二四三)ともある。○長柄の宮 孝コ紀に「大化元年冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷2都難波長柄豐碕1。」とあり、白雉二年十二月に「遷2居新宮1號曰2難波長柄豐崎宮1。」と見えるが、高津宮の舊址に近い今の大阪城附近とするものと、大阪市北部にある豐崎本庄の地とするものと兩説がある。殊に後者には「長柄」の地名も遺存してゐるので妥當性が多いと思はれる。「六四」參照。○眞木柱 檜の柱。以下は都を遷される意ではなく、孝コ天皇の故宮を改造して度々行幸したまふの意。○太高敷きて 太く高く立派に構へ給うて。○沖つ鳥 「味」にかかる枕詞。「味」は味鳧。○味經の原 孝コ紀に「白雉元年正月辛丑朔、車駕幸2味經宮1、觀2賀正禮1(味經此云2阿膩賦1)」云々とあり、同二年十二月の條にも見え、和名抄に「攝津國東生郡味原」とある。今の大阪市鶴橋の北部附近といはれる。○物部の八十伴の雄 文武百官をいひ、また多くの部屬の長をいふ。「五〇」參照。
〔訓〕 ○都なしたり 白文「都成有」で、舊訓ミヤコトナセリは不可。今、代匠記初稿本書入及び略解の訓に從ふ。考にはミヤコトナレりとある。
 
(331)    反歌二首
929 荒野らに里はあれども大王《おほきみ》の敷きます時は京師《みやこ》となりぬ
 
〔譯〕 この里は荒涼たる野原であつたけれども、かやうに天子さまが御座所をお定めになると、忽ちにして立派な都となつたことである。
〔評〕 長歌の主旨を要約して反復したもの。「大王の敷きます時は」の句に、皇威禮讃の至情がよく現はれてゐる。
〔語〕 ○荒野らに里はあれども この里は荒れ果てた野ではあるが。
 
930 海未通女《あまをとめ》棚無《たなな》し小舟《をぶね》こぎ出《づ》らし旅のやどりに楫の音《と》聞ゆ
 
〔譯〕 今、海人の少女達が、船棚もない小舟を漕ぎ出してゆくらしい。旅の宿りの枕もとに艫の音が聞えて來る。
〔評〕 作者は假廬の寢覺にかすかな艫の音を聞き、それから想像を擴げたのである。即ち、朝凪の海に、海人の少女たちが小舟を漕ぎ出す樣を幻想に描きつつ、獨り旅愁を慰め樂しんでゐるのである。人事に興味を持つ金村の、明るい性格が現はれてゐる。
〔語〕 ○棚無し小舟 船棚もない小さな舟。○楫の音聞ゆ この楫は櫓のこと。
 
    車持朝臣千年の作れる歌一首并に短歌
931 鯨魚取《いさなと》り 濱邊を清み うち靡き 生《お》ふる玉藻に 朝なぎに 千重浪寄り 夕なぎに 五百重浪寄る 邊《へ》つ浪の いや重重《しくしく》に 月にけに 日日《ひび》に見れども 今のみに 飽き足らめやも 白浪の い開《さ》き回《めぐ》れる 住吉《すみのえ》の濱
 
(332)〔題〕 車持千年 「九一三」參照。
〔譯〕 濱邊の景色が美しく、波のまにまに靡きながら生えてゐる玉藻に、朝凪時には、幾重にも波が寄つて來るし、夕凪時にも幾重にも浪が寄つて來るが、その岸邊の浪のいやが上にうちしきるやうに、ますます繁く、幾月も、毎日毎日この景色を眺めても見飽くまい。まして今見るだけで、どうして滿足出來よう。白波が花の咲いたやうに立ちめぐつてゐるこの住吉の濱の景色は。
〔評〕 類型的な語彙の連續であつて、住吉の濱の特色は殆ど描き出されてゐない。人麿が石見から妻に別れて上京する時の歌(一三一)に影響された跡が著しいが「月にけに日日に見るとも、今のみに飽き足らめやも」など、細部に意を用ゐた點も見える。
〔語〕 ○いさな取り 「海」の枕詞。「一三一」參照。○いや重重に いよいよ頻りに。○月にけに 月が立てば立つほどの意。「け」は特にの意。「吾は戀ひまさる月に日にけに」(六九八)參照。○今のみに 今ぐらゐのところで。○飽き足らめやも どうして滿足されよう、反語。○いさき回れる 花の咲いたやうに立ちめぐつてゐる。
〔訓〕 ○日日に見れども 白文「日日雖見」代匠記精撰本ヒビニミルトモ。但、ミルトモの確な例はない。
 
    反歌一首
632 白浪の千重に來寄する住吉《すみのえ》の岸の埴生《はにふ》ににほひて行かな
 
〔譯〕 白浪の幾重にも寄せて來る此の住の江の海岸の黄土で、自分は旅の記念に着物を染めて行かうよ。
〔評〕 住吉の海岸の黄土《はにふ》は當時普く知られたもので、都人の旅情を唆るに十分であつたと思はれる。安倍豐繼の「馬の歩《あゆみ》おさへ駐めよ住吉の岸の黄土ににほひて行かむ」(一〇〇二)も類想の作であり、他にも此の黄土を詠んだ歌は少くない。
(333)〔語〕 ○岸の埴生 「岸」は海岸の或る地點であらう。全釋に地名とするは如何であらう。「埴生」は黄土のあらはれてゐる土地。○にほひて行かな にほはして、即ち色美しく染めて行かうよ。「六九」參照。
 
    山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
933 天地の 遠さが如 日月の 長きが如 押し照る 難波の宮に わご大王《おほきみ》 國知らすらし 御饌《みけ》つ國 日の御|調《つき》と 淡路の 野島《のじま》の海人《あま》の 海《わた》の底 奧《おき》つ海中石《いくり》に 鰒珠《あはびたま》 多《さは》に潜《かづ》き出《で》 船|竝《な》めて 仕へまつるし 貴し見れば
 
〔譯〕 恰もこの天地が永遠に變らないやうに、この日月が長久に照臨するやうに、この難波の宮で、我が天子さまは國をお治めになるやうである。その天子さまの御食膳の物の御用達を承る國の日毎の貢物として、淡路の野島の海人たちが、沖の暗礁についてゐる鰒の眞珠を澤山、波を潜つて採つて來、幾艘も舟を竝べて奉仕して來るのは、見てゐると、御威光の程もしみじみ感ぜられて尊いことである。
〔評〕 聖武天皇の難波の宮御滯在中、淡路島の漁夫たちが供御の料を奉る爲に立ち働いてゐる樣を寫したのであるが、簡潔にして生彩があり、海邊の離宮の宏濶な景觀をよく髣髴せしめ、かつ天皇の御威勢の盛大さを讃美してまことに明朗の響がある。殊に「海の底おきつ海中石に、鰒珠さはに潜き出」のごときは、いかにも赤人らしい堅實さを帶びた、精緻な描寫である。
〔語〕 ○押し照る 「難波」の枕詞。「四四三」參照。○御饌つ國 大御饌即ち天皇の供御の料を貢進する國。淡路から天皇の御食料の魚介を奉つたのである。○日の御調と 日毎に奉る貢物として。延喜内膳式に「凡諸國貢2進御厨御贄1結番者和泉國(子己)紀伊國(丑午酉)淡路國(寅未戌)近江國(卯)若狹國(辰申亥)毎v當2件日1依v次貢(334)進預計2行程1莫v致2闕怠1」とある。○野島 淡路の西北部海岸にある。「二五一」參照。○海の底 「奧」の枕詞。「八三」參照。○沖ついくりに 「いくり」は海中の石。「一三五」參照。○鰒珠 あはび貝のことといふ略解の説は不可。鰒貝から出る珠、即ち眞珠。○多に潜き出 海中に潜つて澤山取り出して。
 
    反歌一首
934 朝なぎに楫《かぢ》の音《と》聞ゆ御饌《みけ》つ國|野島《のじま》の海人《あま》の船にしあるらし
 
〔譯〕 朝凪の海に艪の音が聞える。あれは天子さまの御食膳の物の御用を勤める國、淡路の野島の漁民たちの舟であるらしい。
〔評〕 格調齊整、印象明快、まさに赤人の境地である。長歌の方は眼前に展開された實況を敍してゐるが、この反歌では、朝の寢ざめに聞えて來る艪の音によつて、賑かな海上の?況を想像してゐるのである。即ち視覺にょる現實と聽覺を通しての幻影とを巧みに抱合させたところに、作者の狙ひがあるのである。
〔語〕 ○船にしあるらし 船であるらしい。
 
    三年丙寅秋九月十五日、播磨國|印南《いなみ》郡に幸しし時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
935 名寸隅《なきずみ》の 船瀬《ふなせ》ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻苅りつつ 夕なぎに 藻鹽燒きつつ 海未通女《あまをとめ》 ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ 丈夫《ますらを》の 情《こころ》は無しに 手弱女《たわやめ》の 思ひたわみて 徘徊《たもとほ》り 吾はぞ戀ふる 船楫《ふなかぢ》を無《な》み
 
〔題〕 續紀に「神龜二年九月壬寅(中略)以2從四位下門部王(中略)等十八人1爲2造頓宮司1爲v將v幸2播磨國伊南(335)野1也、冬十月辛酉行幸、癸亥行還、至2難波宮1」と見える。時日は多少差があるが、この行幸に疑ない。紀州本・温故堂本等による。通行本は「郡」を「野」に作る。
〔譯〕 此の名寸隅の船瀬から見える淡路島の松帆の浦には、朝凪に美しい藻を刈り、夕凪に藻鹽を燒いて海人の少女たちがゐると噂に聞いてゐるけれども、海原を隔てて見に行く便宜もないので、自分は男らしい強い心もなく、まるでかよわい女のやうに思ひ屈して、其處らをさまよひながら、その佳景にあこがれてゐることである、船も艪櫂もないので。
〔評〕 行幸に供奉してゐる身であるから、音に名高い松帆の浦の勝景を遙かに望みながらも、勝手に海を渡つて見に行く譯にはいかない。これはその憧憬と焦慮とを稍誇張して詠じたものであるが、行幸從駕の作としては典型を脱した珍しい歌で、金村の人間性をよく現はしてゐる。
〔語〕 ○名寸隅の船瀬 代匠記は、本朝文粹第二に見える播磨國魚住泊をそれかといひ、大日本地名辭書も同説で、「魚住、明石郡の舊泊所にして、上古は韓泊と輪田との間に此の船瀬あり、西海の水驛とす。初め名寸隅といへるを、又|魚住《ナズミ》に作り、何の世よりか其の文字によりウヲズミと呼ぶこととなる。今の魚住村の東なる江井嶋を船瀬の築島趾とす」といつてゐる。魚住は明石と加古川との中間の海岸で、播磨灘を隔てて淡路島を望む位置にある。船瀬は貞觀九年の官符に「則知、海路之有2船瀬1、猶3睦道之有2逆旅1」とあるによつて察せられるやうに、風波を避ける爲の碇泊所であつて、古義には「船居《フナスヱ》の意にや」とある。○松帆の浦 淡路の北端松尾崎の附近で、播磨に對してゐる。○手弱女の 手弱女の如く。○思ひたわみて 心が挫けて。○徘徊 さまよひ廻つて。「四五八」參照。○船楫を無み 船も楫も無いので。
 
    反歌二首
(336)936 玉藻苅る海未通女《あまをとめ》ども見に行かむ船楫《ふねかぢ》もがも浪高くとも
 
〔譯〕 美しい藻を苅る松帆の浦の海人少女たちを見に行く爲、船や櫓櫂があればよいがなあ、浪は高くても。
〔評〕 海人の少女たちの荒波の中での活躍は、都會人の眼にはいかにも珍しかつたのであらう。船や櫓櫂があつたにしても、行幸供奉の身として、勿論自由な行動がとれる筈はないのであるが、かく云ひなして興じたところに風情がある。
〔語〕 ○見に行かむ 見に行く爲の。「行かむ」は終止形と見て三句切れとした註書も多いが連體形とするがよい。○船楫もがも 船や艪がほしいなあ。「四一九」參照。
 
937 往《ゆ》きめぐり見とも飽かめや名寸隅《なきずみ》の船瀬《ふなせ》の濱にしきる白浪
 
〔譯〕 幾度も幾度も行き還りして眺めても、見飽くことがあらうか。名寸隅の船瀬の濱に、頻りに打ち寄せるこの美しい白浪は。
〔評〕 松帆の浦への憧憬から轉じて、現に自分のゐる名寸隅の船瀬の濱を見直し、これ亦都では見られぬ快適な好景であるのに滿足し讃歎したのである。但、内容表現共に特異な點は無く「若狹なる三方の海の濱清みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(一一七七)などと同じ範疇に屬する一通りの作である。
〔語〕 ○見とも飽かめや 見ても見飽かうか、反語。○しきる白浪 頻りに打寄せる白浪。
〔訓〕 ○しきる 白文「四寸流」で、類聚古集に「よする」と訓んでゐるが、集中「四」をヨと訓む例なく「寸」をスと訓んだ例も極めて少いので、今、舊訓に從ふ。
 
    山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
(337)938 やすみしし 吾が大王《おほきみ》の 神《かむ》ながら 高知らします 印南野《いなみの》の 大海《おほみ》の原の 荒妙の 藤井の浦に 鮪《しび》釣ると 海人船《あまぶね》散動《さわ》き 鹽燒くと 人ぞ多《さは》にある 浦をよみ、諸《うべ》も釣《つり》はす 濱をよみ 諸《うべ》も鹽燒く 在り通《がよ》ひ みますも著《しる》し 清き白《しら》濱
 
〔譯〕 我が天子さまが、神でいらせられるがままに、高く御殿をお構へになつていらつしやる印南野の一部、邑美《おほみ》の原なる藤井の浦に、鮪を釣るとて、漁船が騷いでをり、鹽を燒くとて人が澤山あつまつてゐる。この浦はよい浦なので、釣をするのも尤もなことである。この濱はよい濱なので、鹽を燒くのも尤もなことである。さうして天子さまが遠い昔から今日のやうにして引續き行幸あそばされ、この景色を御覽になるのも、その理由がはつきりとわかる、この風光明媚な白濱は。
〔評〕 麗はしい風光と、豐かな海産とを兼ね備へた濱を讃へて、この地への行幸をことほいだのである。簡潔で的確な筆致は、よく海邊の賑ひを明るく躍動させてゐる。藤井の浦の描寫は、人麿の「あらたへの藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅ゆく吾を」(二五二)「飼飯の海のにはよくあらし苅こもの亂れ出づ見ゆ海人の釣船」(二五六)などから學んだものであらうが、具體的に精緻な寫生が頗る效果を齎してゐる。
〔語〕 ○高知らします 行宮を高く構へていらつしやる。○大海の原 和名抄に「明石郡邑美郷、訓於布見」とある地であらう。高山寺本の附註には、邑美を於保美としてゐる。「大海」と同じの譯である。印南野の一部であらう。日本紀略にも「神龜三年冬十月辛亥、行2幸播磨國印南野1、甲寅至2印南野|邑美《オフミ》頓宮1」と見える。○荒妙の 「藤」にかかる枕詞。「五〇」參照。○藤井の浦 「荒妙の藤江の浦」(二五二)と同地で、誤字か或は轉訛かと考へられる。○鮪釣ると 「鮪」は今のマグロの大きなもので、和名抄に「鮪、一名黄頬魚(和名之比)」とあり、古事記の歌謠にも「鮪《しび》衝《つ》く海人よ」と見える。○在り通ひ 通ひ通ひして。「一四五」參照。○見ますもしるし 御覽になるのもそ(338)の理由がよくわかる。「二五八」參照。
〔訓〕 ○さわき 白文「散動」で、舊訓トヨミ、童蒙抄別訓及び新考はミダレとあり、「九二七」と同じく、サワキとよむのがよい。考及び童蒙抄の一訓はサワギとある。
 
    反歌三首
939 沖つ浪|邊《へ》つ浪安み漁《いざり》すと藤江の浦に船ぞ動《さわ》ける
 
〔譯〕 沖の波も岸の波も、今日は安らかなので、漁りをするとて、藤江の浦では、船が入り亂れて騷いでゐる。
〔評〕 この歌も前掲、人麿の「けひの海のにはよくあらし」の影響が多分にあることは、一見して看取される。人麿の作がゆつたりと大きく律動する趣のあるのに反し、赤人のこの歌は、印象鮮明にして小きざみな旋律をもつてゐる。
〔語〕 ○船ぞさわける 漁船が賑かに騷いでゐる。
〔訓〕 ○安み 白文「安美」で、舊訓シヅケミに從ふ註も多いが、波にシヅケミといふ例が多いからとの理由だけでは決し難い。今、元暦校本・類聚古集・古葉略類聚鈔等の古訓を參酌してヤスミと改めた。
 
940 印南野《いなみの》の淺茅《あさぢ》おしなべさ宿《ぬ》る夜《よ》のけ長くあれば家《しの》し偲はゆ
 
〔譯〕 印南野のまばらに生えた茅《ちがや》を押し靡かせて寢る夜が、日數重ねてもう隨分長くなるので、家のことが戀しく思ひ續けられることである。
〔評〕 これは筆を一轉して、自分の旅愁を敍したのである。行幸從駕の旅であり、殊にこの時この野には豫め頓宮まで設けられてゐたので、草枕のわびしさではなかつたし、また、名だたる景勝の地であつたけれども、日數漸く積つて、隙多い板戸を洩る夜ふけの風が目ざめがちな枕を吹けば、思ひはおのづから家なる妻のもとに馳せるのも無理は(339)あるまい。「け長くあれば」の一句に、抑へに抑へてゐた感情を遂に漏らしたといふ趣があつて、いかにもつつましく、赤人の敍情歌らしい、こまやかな風味に富んだ作である。
〔語〕 ○け長くあれば 日數が長くなつたので。「八五」參照。
 
941 明石潟汐干の道を明日よりは下咲《したゑ》ましけむ家近づけば
 
〔譯〕 明石渇の潮の引いた濱邊の道を、明日からは、心のうちにほほ笑ましく思ひつつ、自分は行くことであらう。一歩一歩家に近づくのであるから。
〔評〕 明日からは愈々還幸の御日程と決した。印南野の淺茅を押し靡けて旅寢をしてゐた從駕の人々の、その夜の喜は察せられる。躍る心を押し鎭めて眠らうとはするが、多感な詩人の想像は、早くも還幸の行列に從つて、明石潟の海邊を辿りゆく自己を描いてゐるのである。「明日よりは下ゑましけむ」は?し得て的確巧妙である。
〔語〕 ○潮干の道を 潮の干た道を通つて。○下ゑましけむ 行幸從駕の旅ゆゑ表面は愼んでゐるが、内心では嬉しいであらうの意。「下」は心の裡の意。「ゑましし」は形容詞「ゑましけむ」は、ゑましからむに同じ。
 
    辛荷《からにの》島を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
942 あぢさはふ 妹が目かれて 敷妙の 枕も纒《ま》かず 櫻皮《かには》纒き 作れる舟に 眞楫《まかぢ》貫《ぬ》き 吾が榜《こ》ぎ來《く》れば 淡路の 野島も過ぎ 印南都麻《いなみつま》 辛荷《からに》の島の 島の際《ま》ゆ 吾宅《わぎへ》を見れば 青山の 其處《そこ》とも見えず 白雲も 千重《ちへ》になり來《き》ぬ 漕《こ》ぎ回《た》むる 浦のことごと 往き隱る 島の埼埼 隈《くま》も置《お》かず 憶《おも》ひぞ吾が來《く》る 旅の日《け》長み
 
(340)〔題〕 辛荷島 播磨國揖保郡に屬し、室津の沖合にあり、地辛荷・中辛荷・沖辛荷の三小島から成る。播磨風土記には、韓人の船が難破してその荷が漂着したので此の名があるといふが、例の地名傳説に過ぎないであらう。
〔譯〕 妻のもとを離れて、枕をして寢もせず、樺の皮を卷いて丈夫に作つた舟に、左右の艪を貫き通して海上を漕いで來ると、淡路の野島も過ぎ、印南都麻や辛荷の島の間から、故郷の吾が家の方を見ると、唯青い山が遠く連なつてゐるばかりで、その中の何處らあたりともわからず、白雲も幾重となく重なり隔たつて來た。漕ぎめぐつてゆく浦といふ浦のことごとく、漕ぎ行くにつれてその蔭に隱れる島の岬といふ岬のことごとく、船路の曲り角ごとに一つも洩らさず、自分は家のことを思ひ續けて來たのである。旅の日數が隨分長くなつたので。
〔評〕 恐らくこれは官用を帶びての旅であらう。淡路の海峽を過ぎ、播磨灘を漕いで西航しつつ、室津の沖合なる辛荷島のあたりでの作である。島々の間から故郷大和の山々を望んで家のあたりを想像するところ、愈々募りゆく長途の旅愁の心細さを語つて惆悵の思あらしめる。但、「漕ぎたむる浦のことごと」以下の語句は、古くから用ゐ馴らされたもので、獨創に乏しい。なほ注意すべきは、「かには纒き作れる舟に」といふ具體的な寫實で、古代の造船法を見る貴重な一資料であらう。
〔語〕 ○あぢさはふ 「め」にかかる枕詞。ここは「妹が目」の「目」にかけた。「一九六」參照。○妹が目かれて 妻の目を離れて。妻と離れて。○敷妙の 枕詞。「七二」參照。○櫻皮纒き 和名抄に「樺(迦爾波、今、櫻皮有之)木名、皮可2以爲1v炬者也」とあつて白樺のことである。落葉喬木で樹皮は白く剥脱しやすい。この樹皮で船の縁などを卷き、丈夫にしたものであらう。○眞楫貫き 兩舷の艪を澤山に仕立てて。「三六六」參照。○印南都麻 今の加古川の河口、高砂のことであらうといふ。丹比笠麿の歌にある「稻日都麻」(五〇九)に同じ。○青山の其處とも見えず 青山が横はつてゐるのみで、その中の何處に吾が家があるともわからないで。○漕ぎ回むる 漕ぎ回つて行く。○隈も置かず 曲り角一つも竄さず。「隈も落ちず」(二五)に同じ。○旅のけ長み 旅にある日教が積つたので。
(341)〔訓〕 ○妹が目離れて 白文「妹目不數見而」で、舊訓イモガメシバミズテは不可。考は「數」を衍としてイモガメミズテと訓み、これに從ふ説もあるが、義訓と見て、イモガメカレテと訓む攷證及び略解所引宣長説がよい。
 
    反歌三首
943 玉藻苅る辛荷《からに》の島に島|回《み》する鵜にしもあれや家念《も》はざらむ
 
〔譯〕 海人たちが玉藻を刈つてゐる辛荷の島で、島めぐりをするあの鵜であるからとして、家のことを思はずにゐることが自分には出來ようか。
〔評〕 自分の郷愁などには全く没交渉に、悠々島をめぐりつつ餌をあさつてゐる鵜を眺めて、暫くでもああいふ無心になりたいと念願した作者の心もちは、真ことに同情される。構想としては別に珍しくはないが、羨望の對象に鵜を拉し來つたのが奇警である。
〔語〕 ○島回 島めぐり。○鵜にしもあれや 鵜であるから。別の説に「あれ」は命令形。鵜であれよ、即ち鵜でありたい、さすればの意。「似る人も逢へや」(四二五)「雲にしもあれや」(一三六八)等と同じ語法。○家思はずあらむ 自分は家を思はずにゐられようか。別の説に、家人が自分を思はないのであらう。「一六九六」參照。
 
944 島|隱《がく》り吾がこぎ來《く》れば羨《とも》しかも大和へ上《のぼ》る眞熊野《まくまの》の船
 
〔譯〕 島蔭を傳ひながら船を漕いで來ると、ほんに羨ましいことであるよ、大和をさして熊野の船が上つてゆく。
〔評〕 熊野船は樣式に特殊なものがあつて、遠方からでも、識別できたのであらう。今作者は都を離れて遠く去るのに、反對に都へ上る熊野船が見える。誰でも羨望の感なきを得ないであらう。「ともしかも」といふ吐き出すやうな主觀語が、ここでは實によく利いて、上下の楔をなしてゐる。
(342)〔語〕 ○ともしかも 羨しきかもに同じく「かも」は形容詞には終止形にも接する。○眞熊野の船 「ま」は美稱の接頭辭。神代紀下にも「故以2熊野諸手船1(亦名天鳩船)載2使者稻背脛1。」と見え、熊野はその地理上、古くから造船が盛で、特殊な造船法があつたものと思はれる。
 
945 風吹けば浪か立たむと伺候《さもらひ》に都太《つだ》の細江に浦|隱《がく》り居《を》り
 
〔譯〕 風が吹くので浪が立ちはせぬかと樣子を窺ふ爲に、自分の船は都太の細江に、港入りをして潜んでゐることである。
〔評〕 自然の威力の前に、人は特に無力な時代であつた。風によつて浪を察し、浦に隱れて天候を窺つてゐるのである。自然の懷にあつて、これに順應しようとする虔ましい古代人の態度が、恰も赤人によつて代表されてゐるやうである。
〔語〕 ○伺候に 樣子を伺ふ爲に。○都太の細江 兵庫縣飾磨郡にあつて、今は津田、細江二村に分れ、その中間を流れる飾磨川の海に注ぐ所の入江のあたりをいふ。姫路市の西南に當る。○浦隱り居り 浦に隱れてゐるの意。
〔訓〕 ○浦隱り居り 白文「浦隱居」は、元暦校本等の古寫本による。細井本・通行本に「居」を「往」に作るは穩かでない。○伺候に 舊訓マツホドニは非。代匠記精撰本はサモラフニとあるが、今、古義に從ふ。
 
    敏馬《みぬめ》浦を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
946 御食向《みけむか》ふ 淡路の島に 直《ただ》向ふ 敏馬《みぬめ》の浦の 沖べには 深海松《》探《ふかゝると》り 浦|回《み》には 名告藻《なのりそ》苅る 深海松の 見まく欲《ほ》しけど 名告藻《なのりそ》の 己が名惜しみ 間使《まづかひ》も 遣《や》らずて吾は 生《い》けりとも無し
 
(343)〔題〕 敏馬涌 今の神戸市の東に接する海濱。「二五〇」參照。〔譯〕 淡路島に眞向ひになつてゐる敏馬の浦の、沖の方では深海松を採り、岸では名告藻を苅つてゐる。その深海松の「みる」といふやうに、いとしいあの女を見たいけれども、しかし名告藻の「な」ではないが自分の名の立つのが惜しいので、互の間を通ふ使も遣らないでゐて、自分はまるで生きてゐる心地もしない。
〔評〕 これも程よく整つてゐるといふのみで、内容にも表現にも赤人の獨創として尊重すべきものは殆ど無い。殊に石見から妻に別れて上京する際の人麿の歌(一三五)を摸した語句が目につくし、また作者不詳の「――朝なぎに來寄る探海松、夕なぎに來寄るまた梅松、深梅松の深めし吾を、また梅松のまた往き反り――」(三三〇一)にも類似點がある。とにかく、これ等は赤人の爲に名譽の作品とはいへないであらう。
〔語〕 ○御食向ふ 「淡路」の枕詞。御饌に向ふ粟の意であらう。「一九六」參照。○深海松 深い處に生える海松。海松は海藻。「一三五」參照。○名告藻 ホンダハラの古名。「三六二」參照。○深海松の 上の「深海松採り」を受けたもので「み」音を繰返して下の「見まく」を起した。初句以下これまで、實景を應用した序詞的修飾句である。○名告藻の これも上の序詞中の「名告藻苅る」を受けて「己が名」を起した。「な告りそ」に通ひ、名告る勿れの意が寓されてゐる。○間使 彼方と此方と兩者の間を往復する使。○生けりともなし 生きてゐるとも無い。生きてゐるといふ心地もしない。「二一二」參照。
 
    反歌一首
947 須磨の海人《あま》の鹽燒衣《しほやきぎぬ》の馴れなばか一日も君を忘れて念《おも》はむ
     右は、作歌の年月未だ詳ならず。但、類を以ちての故に此の次に載す。
 
(344)〔譯〕 須磨の海人の鹽燒く時の着物が褻れ萎れる、それではないが、自分も常に馴れ親しんでゐたら、せめて一日でもそなたの事を忘れもされようか。
〔評〕 須磨の海人の生活を採つて序に用ゐたのは、たまたまその地方を通過した實感からであらう。鹽燒衣を「馴れる」にいひかけた技巧も珍しくないが、ここは反語法を用ゐたのが清新であも。
〔語〕 ○須磨の海人の鹽燒衣の 「馴れ」にかけた序。鹽燒衣は海人が鹽を燒く時に着る衣で、着古して垢づき萎えてゐる意でつづく。○馴れなばか そなたに馴れてしまつたならば。○忘れて念はむ 忘れようか。反語。
 
    四年丁卯春正月、諸王諸臣子等に勅して、授刀寮に散禁せしめし時作れる歌一首并に短歌
948 眞葛はふ 春日《かすが》の山は うち靡く 春さりゆくと 山|峽《かひ》に 霞棚引き 高圓に 鶯鳴きぬ もののふの 八十《やそ》件の雄は 雁がねの 來繼《きつ》ぐ此の頃し 斯《か》く繼ぎて 常にありせば 友|竝《な》めて 遊ばむものを 馬|竝《な》めて 往かまし里を 待ちかてに 吾がせし春を かけまくも あやに恐《かしこ》く 言はまくも ゆゆしからむと あらかじめ かねて知りせば 千鳥鳴く その佐保川に 石《いは》に生《お》ふる 菅《すが》の根取りて しのふ草 解除《はら》へてましを 往く水に 禊《みそ》ぎてましを 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 百礒城《ももしき》の 大宮人の 玉桙《たまほこ》の 道にも出でず 戀ふる此の頃
 
〔題〕 授刀寮 授刀舍人寮の略。續紀によると、慶雲四年七月始めて置かれたが、天平勝寶八年七月、授刀舍人の選賜録名籍は悉く中衛府に屬し、人數は四百を限とする由の勅があり、天平寶字三年十二月授刀衛を置き、從四位上の官たる督以下の官員を定められ、更に天平神護元年二月授刀衛を近衛府と改稱し、正三位の官たる大將以下を置かれた。授刀舍人は禁中を警衛する舍人である。散禁 禁足のことで、令によれば杖罪以下の輕い罪である。
(345)〔譯〕 葛の這ひ廣がつてゐる春日山は、今や春になつてゆくといふので、山の峽には霞がたなびき、高圓野では鶯が鳴いてゐる。朝廷に仕へまつる百官たちは、雁の次々と飛んで來る好い時候の此の頃が、こんなに續いて常にあるとしたら、同僚と連れ立つて遊びに出かけようものを、馬を竝べて行かうものを。ともかく待ちに待つて待ちかねて自分たちがゐたこの春であるのに、心に思ふのも恐れ多い、口に申すのも勿體ない、かうした御咎めを受けようなどと、前以て知つてゐたならば、あの千鳥の啼いてゐる佐保川で、石に生えた菅の根を取つて、春の野にあこがれる心の種を祓ひ清めてしまふ筈であつたのに、流れる水に禊をして穢を流してしまふ筈であつたのに、それを怠つたので、今はかうして處罰を受け、勅命の畏れ多さに、我等宮廷奉仕の人々が、只管謹愼しつつ道路にも出ないで、むなしく外の春景色を戀しがつてゐる今日此頃ではある。
〔評〕 まことに珍しい内容で、勅撰集などでは勿論思ひもよらぬことであるが、歌境の自由な本集でも、特異な歌の一つである。「百敷の大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる」(一八八三)といふやうな無事太平の世で、若い大宮人たちがいい氣になつて野外に嬉戯した樣も思はれる。それが正月といふ季節はづれに、卒然として荒れ出した氣まぐれな雷公の爲に、忽ち不始末が暴露して、散禁といふ痛いお灸を据ゑられて恐縮したのも、いかにも太平の御代らしい長閑な事件である。以來これを頂門の一針として、放縱な彼等も自肅を加へたことであらう。しかし斯く蟄居謹愼中にも、なほ戸外の春光に思を馳せて、頻りに遊意を動かしてゐるのは、若い大宮人らしい無邪氣さである。
〔語〕 ○眞葛はふ 葛の匐ひ廣がつてゐるの意。枕詞ではない。○うち靡く 「春」の枕詞。「二六〇」參照。○春さりゆくと 春になつて行くとて。「さり」は、時間的推移を示す。「一六」參照。○もののふの八十件の雄 朝廷に仕へまつる百官たちをいふ。「五四三」參照。○來繼ぐ此の頃し 相繼いでやつて來る此の頃。○斯く繼ぎて かうして引き繼ぎ長く。○友竝めて 友とつれだつて。上の「八十伴の雄」からこの句に續く。○馬竝めて 駿馬でうち連れて。○待ちかてに吾がせし春を 待ちきれなく自分が思つた春であるのに。○ゆゆしからむと こんな大變な恐(346)しい處罰を受けることにならうなどと。○菅の根取りて 祓をする爲に菅の根を取つて。或は根のままに引拔いてとも解せられる。古く菅の葉を割いて祓に供したことは大祓の祝詞に見える。○しのふ草 草の名、これも祓に用ゐたのであらうが、詳かでない。古義の説のごとく、春野を慕《しの》ぶ思ひ種《ぐさ》の意もあらう。ここは語句稍々整はず、明確に解しがたい憾がある。和名抄・類聚名義抄等には、垣衣をシノブグサと訓んでゐるが、ここはそれではない。○解除《はら》へてましを 祓ひ清めてしまふべきであつたのに。○禊ぎてましを 穢を祓ひ滌いでしまふべきであつたのに。
〔訓〕 ○山峽に 白文「山匕丹」は元暦校本の字面を採り、訓はヤマカヒニとする。通行本その他「山上丹」に作り、ヤマノヘニ、或はヤマノウヘニと訓んでゐる。○雁がね 白文「折木四哭」で、「切木四」(二一三一)を古來カリと訓んでゐるのに着眼して、代匠記精撰本にカリガネと訓むべしといつたのは慧眼驚くべきである。しかし契沖もその理由はなほわからなかつたのを、喜多村節信の折木四考によつて所謂戯書なることが明かにされ、更に美夫君志によつて詳細が補説された。今その説を要約すると、和名抄に「樗蒲、一名九采。内典云2樗蒲1。賀利宇智。又陸詞曰v※[木+梟]。音軒、和名加利。※[木+梟]子。樗采名也」とあり、折木四はこの樗蒲といふ遊戯のことである。それは木片を薄く削つて兩邊を尖らせ、杏仁のやうな形に作り、半面は白、半面は黒く塗つて、白い二枚に雉を書き、黒の二枚に犢を描き、これを投げてその采色によつて勝負を爭ふ。但、漢土では五木といつて采が五個であるけれども、わが國では四個であるから折木四の文字を宛てたので、從つてこれをカリの音に用ゐて雁の意としたといふのである。因に、樗蒲を加利といふのは梵語であらうといふ。○來繼ぐ此の頃し 白文「來繼比日石」で、諸本すべて「比日」を「皆」に作り、舊訓キツギミナシとあるが意不通。考がこれを「比日」の誤としたのはよいが、訓をキツギナラビシとしたのは不可。「日」までをキツギコノコロとした略解の訓を參酌し「石」は上略してシの假字に用ゐた例もあるから、キツグコノコロシと訓むべきであらう。○かく繼ぎて 白文「此續」で、舊訓ココニツギは不可。略解は上の「石」を「如」の誤と見て「如此續」をカクツギテと訓んでゐるのが、誤字説によらずに「此續」二字をさう訓むがよい。
 
(347)    反歌一首
949 梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びしことを宮もとどろに
     右は、神龜四年正月、數王子及び詔臣子等、春日野に集ひて、打毬の樂を作しき。其の日忽に天|陰《ひし》け雨ふり雷なり電しき。此の時宮の中に侍從と侍衛と無し。勅して刑罰に行ひ、皆授刀寮に散禁て、妄に道路に出づることを得ざらしめき。時に悒憤《うれへいきどを》りて即斯の歌を作れり。作者末だ詳ならず。
 
〔譯〕 梅や柳のおもしろい盛の過ぎるのが惜しさに、佐保の内に出て遊んだたけのことであるのに、御所中鳴り響くほど、評判し騷いでゐることである。
〔評〕 「梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びし」といふのは、融々たる春光の中に樂しく遊ぶ貴公子達の姿を如實に活寫して居り「蹈v花同惜少年春」の句も思ひよそへられる。「宮もとどろに」の放膽な結句は、幾分の不滿に多少の自己辯解的の心もちも含んでゐるところ、いかにも青年らしい口吻である。
〔語〕 ○過ぐらく惜しみ 盛の過ぎるのが惜しいので。「過ぐらく」は過ぎることの義。○佐保の内に 左註に春日野に集ひてとあるのを以て見ると、佐保は春日野の一部とされてゐたのであらうか。○宮もとどろに 宮中ひびき渡る程いひ騷ぐの意。○打毬 和名抄に打毬は「内典或謂2之拍毬1、師説曰2萬利宇知1」とあり、又別に「蹴鞠、此間云2末利古由1」ともあるので、兩者は別であるかと思はれるが、皇極紀には、法興寺の槻樹の下に催された打毬の遊で、毬につれて中大兄の御沓の脱け落ちたのを中臣鎌足が拾つて捧げた記事があり、その打毬をクヱマリと訓んでゐるから、或は同じやうにも思はれる。猶考ふべきである。因に云ふ、毬打(ぎっちょう)は鎌倉時代にはじまる遊びであるが、正倉院御物の氈に毬を杖で打つものの圖樣がある。
 
    五年戊辰、難波宮に幸しし時作れる歌四首
(348)950 大王《おほきみ》の界《さか》ひ賜ふと山守《やまもり》居《す》ゑ守《も》るとふ山に入らずは止《や》まじ
 
〔題〕 この行幸のことは、續紀に漏れてゐる。
〔譯〕 天子さまが境界をお定めなさらうとて、山番を置いてお守りになるといふ神聖なあの山に、自分は入らずにはをくまい。(親がきびしく監視してゐるあの女に、何とでもして逢はずには置くまい。)
〔評〕 譬喩歌であることは一見して明かであるが、あまりに大げさで且つ畏多い感もある。行幸從駕中であるから、かうした語が自然に浮んだものであらうか。以下の四首は、内容から判ずると、前二首は行幸從駕の作として、平素宮廷では男女の別が嚴格であるが、行幸さきなどでは比較的ゆるやかなところから、今こそといふ心もちを譬へたものとも見られ、次の歌もやはり宮女たちを思つたものと見られるが、後の二首はさうは見られない。しばらく疑を存して置く。
〔語〕 ○界ひ賜ふと 山の境界を立てさせ給ふとて。○山守居ゑ 山の番人を置いて。○入らずは止まじ 立ち入らずには置くまい。
 
951 見渡せば近きものから石隱《いはがく》り耀《かが》よふ珠を取らずは止まじ
 
〔譯〕 見渡すとすぐ近いけれども、行きにくいあの岩蔭に隱れて輝いてゐる珠を、私は何とかして取らないではをくまい。(近くに見てゐながら、容易に接近し難いあの美しい女を、何としてでも自分のものにせずにはおくまい。)
〔評〕 磯岩蔭にある鰒などは、眼前に見えながら容易に取り難いものである。いろいろな困難な事情に遮られて、手に入れがたい女を常に眺めてゐる焦慮を譬喩したもの。
〔語〕 ○近きものから 近きものながら「七六六」參照。○石隱り 石の蔭に隱れて。しかし、磯岩蔭でなく、石中にある玉とも見られる。○耀よふ珠 光り輝く珠、美しい女に譬へてゐる。
 
(349)952 韓衣《からころも》著《き》奈良の里の山齋松《しままつ》に玉をし付けむ好《よ》き人もがも
 
〔譯〕 奈良の里なる自分の家の庭園の松に、美しい玉を結びつけてくれる立派な人があればよいになあ。(奈良の里にゐるあの美しい女を愛してくれる立派な人があればよいなあ。)
〔評〕 譬喩歌であることは察せられるが、何事に比したか明かにしがたい。奈良の里なる佳人は、自分の娘などででもあらうか。さうして、從駕の折の作とすれば「好き人」を一行中の貴公子に物色してゐるとも解せられようか。猶考ふべきである。
〔語〕 ○韓衣著奈良の里 「著」までは韓衣を著ならす意で「奈良」にかけた序。○山齋松 「しま」は庭園をいふ。「八六七」參照。○好き人もがも 美女の好配偶を求める意であらう。「好き人」は「淑人のよしとよく見て」(二七)の淑人に同じ。
 
953 さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ
     右は、笠朝臣金村の歌の中に出づ。或は云ふ、車持朝臣千年之を作れりと。
 
〔譯〕 牡鹿が妻を慕つて鳴いてゐるある山を越えて、自分が遠く旅に出る日、その日でも、やはり御身は逢はうとはしないことであらうか。
〔評〕 常に見たく思ひながらしかも容易に逢へない戀人を殘して、遠く旅立つてゆく男の詠んだものであることは疑がない。行幸從駕の歌としては不似合の感があるが、この記載に誤がないとすれば、出發時の作であらう。初二句は物悲しい季節感を表はすと同時に、妻を呼ぶ鹿に作者の心境をも暗示してゐるやうに思はれる。
〔語〕 ○さを鹿の 牡鹿の。○越え行かむ 「行かむ」は連體形。○はた逢はざらむ やはり逢つてくれないであら(350)う。「はた」は「七四」參照。「あふ」は「二七六〇」參照。
〔左註〕 この歌は笠朝臣金村歌集に出てゐるが、或る説では車持朝臣千年の作といふ。車持千年は「九一三」參照。
 
    膳王《かしはでのおほきみ》の歌一首
954 朝《あした》には海|邊《べ》に漁《あさり》し夕されば大和へ越ゆる鴈《かり》し羨《とも》しも
     右は、歌を作れる年審ならず。但、歌の類を以ちて便に此の次に戴す。
 
〔題〕 膳王 膳部王(四四二)と同人であらうか。さすれば高市皇子の孫で、長屋王の子。
〔譯〕 朝は海邊で餌を捜し、夕方になると大和の方へ山を越えて飛んで行くあの鴈が羨しいことである。
〔評〕 旅中の詠である。交通の不便であつた上代に於て、旅にある都人が、大和をさして越えゆく鴈の列を見送つて、深い羨望の情に驅られたであらうことは、蓋し今の我等の想像に餘るものであつたに違ひない。率直に實感の流露してゐる、たけ高い歌である。
〔語〕 ○海邊に漁し 海岸で餌をさがして。○鴈し羨しも あの鴈が羨しいととであるよ。
〔左註〕 何時の作か詳かでないが、同じ種類の歌であるから、茲に載せるとの意。
 
    太宰少貳石川朝臣足人の歌一首
955 さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君
 
〔題〕 神龜五年轉任上京する頃詠んで旅人に贈つたものであらう。「足人」は、「五四九」の題詞參照。
〔譯〕 大宮人たちが家として住んでゐるあの奈良の佐保の山を、お思ひ出しになりますか。如何です、あなたさまは。
〔評〕 宮廷奉仕の貴族たちが多く住んでゐた奈良の南郊なる佐保の里には、大伴氏の邸宅もあつたので、長官の郷愁(351)がいかがであらうと察したのである。大伴四綱の「藤浪の花は盛になりにけり平城《なら》の京《みやこ》を思ほすや君」(三三〇)も思ひ合されて、淡々たる中に眞情の掬すべきものがある。
〔語〕 ○さす竹の 枕詞。「大宮」「皇子」「葉ごもり」「舍人をとこ」等にかかる。「大宮」に續く理由は、ささ竹の生ふる意で「大」と「生ふ」と音の通じる爲といふ代匠記の説。立つ竹のくみの義から類音の「君」につづくのが原形であり、「くみ」は籠《こも》りの意で、竹の葉の繁茂してゐること、「大宮」へは君のいます宮の意でつづけるといふ冠辭考の説。晉の王之猷が竹をさして「此君」といつたのから「君」にかけ、韓じて「大宮」にもかけるといふ福井久藏博士説。冠辭考の説を參酌して、さす竹は、立つ竹の繁茂してゐる?態をいひ、その盛なのによそへたものとする全釋の説。いづれも未だ定説としがたく、猶考ふべきである。○家と住む 其處を家として住んでゐる、即ち、其處に邸宅を構へてゐるの意。
 
    帥大伴卿の和ふる歌一首
956 やすみししわが大王《おほきみ》の食《をす》國は大和も此處《ここ》も同《おや》じとぞ念《おも》ふ
 
〔題〕 帥は大伴旅人卿のことで、これは足人の歌に和へたもの、採録の順序から見ると神龜五年の作である。
〔譯〕 わが天皇のお治めになる國は、郷國の大和にしても此の筑紫にしても、同じやうに結構な處であると自分は思つてをる。
〔評〕 國家の官吏としての忠誠の情、太宰府の長官としての氣格を示した堂々たる作である。數年に亙る邊地生活の佗しさに、特に老いて愛妻を喪つた彼が、しばしば京師を慕ひつつ深い歎息を洩し、さうした趣の歌を多く詠じてゐることは事實であるが、それは私の情で、亦僞らぬ人間の聲に外ならない。しかし今の場合は公人としての立場で、朝廷の御信任を辱うしてゐる太宰帥としての面目を以て應答したのである。
(352)〔語〕 ○やすみしし 「わが大王」の修飾句。「三」參照。○食す國は 統治あそばされるこの國は。
 
    冬十一月、太宰の官人等、香椎《かしひ》の廟《みやしろ》を拜《をろが》み奉《まつ》り訖《を》へて退《まか》り歸りし時、馬を香椎の浦に駐《とど》めて、各《おのもおのも》懷《おもひ》を述べて作れる歌
    帥大伴卿の歌一首
957 いざ兒等《こども》香椎《かしひ》の潟に白たへの袖さへぬれて朝菜つみてむ
 
〔題〕 神龜五年冬十一月、太宰府の官人等が香椎の廟に參拜しての歸途、馬を香椎浦に駐めて遊び、各々が感懷を述べた中で、これは旅人卿の歌である。香椎の廟 仲哀天皇の新羅親征の際の行宮、橿日宮の址で、今香椎宮といひ、仲哀天皇・神功皇后を奉祀する。福岡市の東北約二里。和名抄に「筑前國糟屋郡香椎、加須比」とある地。
〔譯〕 さあ皆の者、この香椎潟に降り立つて、着物の袖まで濡らして、朝餉の海藻を摘まうよ。
〔評〕 自然に親しむことの深かつた上代人の素朴な生活ぶりを思はせる佳作である。かつ、やさしく從者たちに呼びかけたのも、温情に富んだ長官らしい風格が偲ばれてゆかしい。但これは、潮干の潟に靡く海藻の樣子に興趣を覺えて、それを採りたいといふ希望を斯くおもしろく詠みなしたもので、事實海中におり立つたのではあるまい。
〔語〕 ○いざ兒ども さあ若い者どもよの意で、部下を親しんで呼んだ語。「六三」參照。○香椎の渇 香椎の浦の干潟。香椎の浦は遠淺になつてをり、今日も海苔を取つてゐる。○白妙の 白い栲の織物で、從者の衣服と見る説もあるが、冬十一月であるから、やはり「衣」の枕詞としたい。○袖さへぬれて 裾のみならず袖までも濡らして。○朝菜 朝食の副食物。ここでは海藻の類。「な」は野菜ばかりでなく、一般に副食物をいひ、魚も「な」である。
 
    大貳小野老朝臣の歌一首
(353)958 時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻苅りてな
 
〔題〕 老は天平の初に太宰少貳で旅人卿の下にあり、後大貳に進み、天平九年卒した。「三二八」參照。
〔譯〕 今ちやうど潮時の風が吹き出しさうになつた。この香椎潟の海岸で、潮の滿ちて來ないうちに、玉藻を苅り取らうよ。
〔評〕 長官旅人卿の清興に和して、次官小野老が應酬したのである。唱和の作としては、内容が聊か原歌に即し過ぎた嫌もないではないが、さうした故巧的見地を離れて見れば、流麗清淡にして明るく、五七の聲調が特にめでたい。「時つ風吹かまく知らに阿胡の海の朝げの潮に玉藻苅りてな」(一一五七)の類歌もあるが、その先後は知り難く、老の作が印象鮮明で一段勝れてゐる。
〔語〕 ○時つ風 潮の滿ちて來る時に吹く風。「二二〇」參招。○苅りてな 刈らうよの意。「な」は希望の助詞。「一〇」參照。
〔訓〕 ○浦 白文「?」で舊訓キハは理由がない。童蒙抄はハマ、考は元暦校本等の古寫本に「納」の如くあるのによつてクマと訓んでゐる。今、略解の訓に從ふ。
 
    豐前守|宇努首男人《うののおびとをひと》の歌一首
959 往《ゆ》き還《かへ》り常に我が見し香椎潟明日ゆ後には見む縁《よし》も無し
 
〔題〕 豐前守宇努首男人 政事要略二十二に「舊紀に云ふ」として、養老四年大隅日向兩國の隼人が亂を發した時、勅して豐前守字努首男人を將軍となし、之を伐たしめて大勝した由が見える。姓氏録によれば宇努首は百濟國君|彌奈曾富意彌《みなそほおみ》の後とある。
(354)〔譯〕 任國豐前から太宰府への往復に、いつも自分が眺めた香椎潟の景色を、明日から後は、再び見るすべもない。
〔評〕 作者は豐前守の任が解けて、都に歸らうとする際であつたらう。前の政事要略の記事に照すと、養老四年から神龜五年まで約九年、國守の任期としては長過ぎるが、何か特別事情があつたものと思はれる。馴れ親しんだ香椎潟に駒を駐め、その風光を胸に燒きつけて置かうと、見入つた様子も憶はれる。懷かしい人に別れるやうに、顧みがちに進んだことであらう。
〔語〕 ○往き還り 往くにも還るにも。香椎潟は太宰府から任國豐前への通路にある。○明日ゆ後には 明日以後は。九州を去つてしまふので、斯くいつたのであらう。
 
    帥大伴卿、遙に芳野の離宮を思《しの》ひて作れる歌一首
960 隼《はや》人の湍門《せと》の磐《いはほ》も年魚《あゆ》走《はし》る芳野の瀧になほ及《し》かずけり
 
〔題〕 太宰帥大伴旅人卿が、遙かに芳野離宮を偲んで作つた歌。薩摩地方を巡視した時の作であらう。
〔譯〕 隼人の國なる薩摩の瀬戸に峙ち横はる巌石の景色もおもしろいが、ああ點の走つてゐる芳野の早瀬には、やはり及ばないことである。
〔評〕 隼人の薩摩の瀬戸は、今日鹿兒島本線の車窓から見ても絶景であるが、古く長田王の歌にも「隼人の薩摩の迫門を雲居なす遠くも吾は今日見つるかも」(二四八)とある。作者は今この勝景を見るにつけ、かねて夢寐にも忘れ難い郷國大和の、あの吉野の清流が忽ち脳裏に閃いて來たのである。「なほ及かずけり」の結句は、何の巧む所もなく、淡々と下した語であるが、却つて作者の深い邊愁がこもつて、讀者の同情を惹く力がある。
〔語〕 ○隼人の湍門 「隼人の薩摩のせと」(二四八)に同じ。「薩摩」を略したのである。この湍門は、薩摩と長島との間の黒瀬戸であらうといふ。○なほしかずけり やはり匹敵し難いことである。
 
(355)    帥大伴卿、次田温泉《すぎたのゆ》に宿りて、鶴の喧《な》くを聞きて作れる歌一首
961 湯の原に鳴く蘆鶴《あしたづ》は吾が如く妹に戀ふれや時わかず鳴く
 
〔題〕 次田温泉は、和名抄に「筑前國御笠郡次田」とある。古今集などに見える筑紫の湯も同處であらう。今の筑紫郡二日市驛に近い武藏温泉のこと。太宰府から西南的一里半。
〔譯〕 湯の原で鳴くあの鶴は、自分と同じやうに妻を戀ひ慕ふからか、いつといふ時の區別もなく、絶えず鳴いてゐることである。
〔評〕 眞率平明の裡に、惻々として人に迫るものがある。その先後は詳かでないけれども「朝ゐでに來鳴く貌鳥汝だにも君に戀ふれや時をへず鳴く」(一八二三)は或はこの粉本となつてゐるかも知れない。しかし旅人の作は掲載の順序から見て神龜五年の冬と推定され、この年の春夏の交に彼は妻を失つたのであるから「妹に戀ふれや」も、套語でなく頗る切實に響いて、その心事まことに同情すべきものがある。作者の妹、坂上郎女が竹田の庄から娘の大孃に贈つた歌「うち渡す竹田の原に鳴くたづの間無く時無し吾が戀ふらくは」(七六〇)も情趣の似た點はあるが、實感は遠く及ばない。
〔語〕 ○湯の原 温泉のあたりの原の意、當時地名となつてゐたのであらう。○蘆鶴 鶴のこと。鶴は蘆の生えてをるあたりにゐることが多いからいふ。○妹に戀ふれや 妹を戀ふればにやの意。戀ふは古く助詞「に」を承けた。
 
    天平二年庚午、勅して擢駿馬使大伴|道足《ちたり》宿禰を遣しし時の歌一首
962 奧山の磐《いは》に蘿《こけ》むし恐《かしこ》くも問ひたまふかも思ひ敢《あ》へなくに
     右は、勅使大伴道足宿禰を、帥の家に饗しき。此の日會集《つど》へる衆諸、驛使《はゆまづかひ》葛井連《ふぢゐのむらじ》廣を相誘ひ、歌詞を作るべしと言(356)ひき。登時《そのとき》廣成聲に應へて、即ち此の歌を吟《うた》ひき。
 
〔題〕 擢駿馬使 騎馬を拔擢する爲の勅使で、臨時に諸國に遣はされたもの。大伴道足 續紀に慶雲元年從六位下から從五位下に進み、和銅元年讃岐守、六年彈正尹、養老四年民部大輔、天平元年右大辨、三年八月參議、同十一月南海道鎭撫使となつた。公卿補任によれば、天平十三年歿。父は馬來田、子に參議從三位伯麻呂がある。この歌の當時は正四位下右大辨で、大伴氏一門中、旅人に次ぐ高官であつた。
〔譯〕 奧山の岩石に苔が一ぱい恐しげに見えるそのやうに、恐れ多くも歌はどうであるかと御たづねになりました。自分は、早急のことで思ひ浮べることも出來ませんのに。
〔評〕 この作者葛井連廣成は漢學の造詣深く、懷風藻にも詩二首を載せてゐるのみならず、近時はその撰者に擬する説もあるくらゐである。歌は卷六にも二首出てをる。この歌は「奧山のいはにこけ生しかしこけど思ふこころをいかにかもせむ」(一三三四)を改作した即興であらう。機智は見るべきであるが、歌の正道ではなく、かつ歌の出來ぬ申譯であるから、あまり手柄にはならない。
〔訓〕 ○奧山の磐に蘿むし 「恐く」の序。深い奧山の岩に生えた蘚苔類や地衣類の植物は、薄氣味わるく恐しげであるからいふ。○思へあへなくに 私は急に思ひつくことも出來ませぬのに。
〔左註〕 この歌は勅使大伴道足を長官邸で歡迎した際、會衆一同が驛使葛井廣成に促して歌を作らせた、その時廣成が言下に吟じたとの意。驛使 令集解に「驛使謂d送2文書1使u也」とあり、驛馬を驅つて文書を通達する急使をいふ。葛井連廣成 績紀によれば、もと白猪史《しらゐのふびと》廣成と稱し、養老三年閏七月大外記從六位下で遣新羅使となり、四年葛井連の姓を賜はり、天平三年外從五位下、同十五年三月、新羅使來朝に際し筑前に遣はされ、同六月備後守となつたが、同二十年八月、常時散位從五位上であつた廣成の家に聖武天皇が行幸せられ、一夜を過し給うたことがある。天平勝(357)寶元年、中務少輔に昇進。懷風藻には、正五位下中務少輔葛井連廣成とある。この歌の當時は六位であるが、驛使の任はあまり卑いから、何か太宰府に特に用があつて派遣されたものかと考へられる。
 
    冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を發ち、道に上りて、筑前國|宗形《むなかたの》郡|名兒《なこ》山を超えし時作れる歌一首
963 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなひこな》の 神こそは 名づけ始《そ》めけめ 名のみを 名兒《なご》山と負《お》ひて 吾が戀の 千重の一重も 慰めなくに
 
〔題〕 豫て兄の任地に來てゐた坂上郎女が、天平二年十二月に太宰府を發して上京する旅人卿に先行して、十一月旅程に就いた。その途上の作である。名兒山 筑前風土記によれば、宗像都田島村の西で、昔は、勝浦潟から名兒山を越え、田島より垂水越えをして内浦を通り、芦屋へ行くのが京への大道であつた。
〔譯〕 この山は昔、大己貴神と少彦名神とがお造りになつて、最初に名をおつけになつたのであらう。それだのに、名兒山であるから、この山を見れば心がなごむかと思ふと、名前だげ名兒山と附いてゐるくせに、私が戀しがる心の、千分の一も慰めてはくれないことである。
〔評〕 長歌としては小品であり、且この頃の作として反歌の無いのも珍しい。内容は例の忘草や忘貝に對して、名實相伴はぬのをいぶかり責めた歌と同じで、特にこの歌は「なぐさ山言にしありけり吾が戀ふる千重の一重も慰めなくに」(一二一三)から直接影響を受けたものと思はれる。途中で、兄旅人や、故郷の家に待つ娘たちの上に思を馳せての作であらう。
〔語〕 ○大汝少彦名の神 大己貴神即ち大國主神と少彦名神。「三五五」參照。○名のみを名兒山と負ひて 名前だけ名兒山などと附いてゐて。心の和《な》ぐを名兒に聯想したもの。○千重の一重も 千分の一でも。「二〇七」參照。
 
(358)    同じき坂上郎女、京に向ふ海路にて、海の貝を見て作れる歌一首
964 吾が背子に戀ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ戀忘貝《こひわすれがひ》
 
〔譯〕 我が兄上を戀ひ續けてゐると、心が苦しくてたまらない。少し暇があつたらば、この濱で拾つて行きたいものである、あの物思を忘れさせるといふ忘貝を。
〔評〕 これも、前の長歌と同じ思想に基づくものであり、直接には「暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るとふ戀忘貝」(一一四七)を摸したことが明かである。
〔語〕 ○吾が背子 兄旅人をさすのであらう。○戀忘貝 戀しい心を忘れさせる忘貝の意。志貝は貝の名。「六八」參照。
 
    冬十二月、太宰帥大伴卿の京に上りし時、娘子《をとめ》の作れる歌二首
965 凡《おほ》ならば左《か》も右《か》も爲《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しの》びてあるかも
 
〔題〕 娘子は、左註によれば遊行女婦、名は兒島といつた。
〔譯〕 あなた樣が竝々の御身分ならば、私は、ああもし、かうも致しませうものを、貴いお方ゆゑ、恐れ多いと思つて、振りたい袖を我慢してゐることであります。
〔評〕 威勢竝びなき太宰府の長官の歸京をいふのであるから、名殘を惜しむ人々の見送りは定めて盛大なものであつたであらう。その多數の見送りの官民等のかげに隱れ、身の卑賤を顧みつつ離別の至情をあらはすことさへ憚り愼んで、唯滿眼涙ぐんでゐるうら若い女性の姿が、讀者の前に可憐に浮んで來る。まことに眞情流露の佳作である。
〔語〕 ○凡ならば 竝々の身分の人ならば。おほは通常、平凡の意。○かもかもせむを かうもああも、いかやうに(359)もしようものを。○忍びてあるかも じつと堪へ忍んでゐることであるよ。
 
966 大和|道《ぢ》は雲|隱《がく》りたり然れども我が振る袖を無禮《なめ》しと思《おも》ふな
     右は、太宰帥大伴卿、大納言に兼任して、京に向ひて道に上りき。此の日馬を水城《みづき》に駐《とど》みて、府の家を顧み望みき。
     時に卿を送る府吏の中に、遊行女婦《うかれめ》あり。其の字《な》を兒島《こじま》と曰へり。是に娘子、此の別れ易きを傷《いた》み、被の會ひ難きを嘆き、流を拭ひ、自ら袖を振る歌を吟《うた》ひき。
 
〔譯〕 あなた樣のお歸りになる大和の方は、遙かに雲の中に隱れてをります。けれども、お姿が見えなくなるまで、お慕ひ申して、私が振りますこの袖を、どうか、身分も顧みぬ無禮なしぐさとお思ひ下さいますな。
〔評〕 多年恩顧を蒙つた大官との別離の悲しみに堪へかねて、遂に無意識の裡に狂ほしく袖を振つたのである。ここに至るまでの、身分を反省しつつ自己を抑制してゐた作者の心の苦衷は、まことに可憐にして同情に値する。その振舞が氣高いまでに悲壯なばかりでなく、眞率にして力あるこの表現も實に見あげたものである。
〔語〕 ○大和道 大和へ行く道。○然れども 大和道は遙かに雲に隱れてゐるので、君のお姿はやがて見えなくなるでせうが、それでもの意。○なめしと思ふな 身の程も思はぬ失禮な振舞であるとお咎め下さいますな。
〔左註〕 右二首の歌は、天平二年十二月、旅人卿が大納言に兼任されて京に歸ることになり、馬を水城の上に駐めて、太宰府の官邸を顧望し、今更名殘を惜んだ時、見送りの府吏の中に兒島といふ遊行女婦《うかれめ》がまじつてゐて、別離を嘆き、涙を拭ひつつ詠んだといふのである。水城 天智紀に「三年於2對島、壹岐島、筑紫國等1、置2防與1v烽1、又於2筑紫1築2大堤1貯v水、名曰2水城1」とある。太宰府防禦の爲に作られたもので、今、鹿兒島本線水城驛に近く、大きな築堤の殘址が見られ、かつ近年その排水設備も發見された。遊行女婦 和名抄に「遊女、楊子漢語抄云、遊行女兒、和名宇加禮女、又云阿曾比」とある。後世の白拍子のごときものであつたらう。この遊女兒島の傳は不詳。
 
(360)    大納言大伴卿の和《こた》ふる歌二首
967 大和|道《ぢ》の吉備《きび》の兒島を過ぎて行かば筑紫《つくし》の兒島おもほえむかも
 
〔題〕 旅人卿が、右の兒島の歌に和へたものである。
〔譯〕 大和へ行く道に196ある吉備の國の兒島を通り過ぎて行つたならば、筑紫の兒島よ、自分は定めて、そなたのことが思ひ出されることであらうよ。
〔評〕 女子の熱烈なるに反して、甚だ冷靜な態度である。現實を直敍したのでなく、將來を豫想した作で、聯想の上から見て自然の趣もあるが、悲哀の情は見られない。今、兒島の名からして、嘗て下向の際に見た吉備の兒島の勝景が脳裏に浮んだので、かうした作が生れたのであらう。顧みて他を言つてゐると見るのは誤で、そこに老人らしい心の餘裕が見られるのである。
〔語〕 ○吉備の兒島 岡山縣の兒島で、昔は島であつたが、今は半島となつてゐる。○おもほえむかも 思ひ出されるであらうよ。
 
968 丈夫《ますらを》とおもへる吾や水莖《みづくき》の水城《みづき》の上に涕《なみだ》拭《のご》はむ
 
〔譯〕 堂々たる一個の男子と自ら信じてゐるこの自分が、水城の堤の上に立つて、そなたとの別れが惜しさに、かうして涙を拭ふことであらうか。我ながら不覺の至ではある。
〔評〕 陸龜蒙の詩句「丈夫非v無v涙、不v灑2離別間1」を思はせる。作者はさすがに武將の棟梁であり、情にゐて情に溺れぬ詩人であつたことを、この歌が雄辯に物語つてゐる。萬葉歌風の典型たる益良雄ぶりの格調中でも、代表的の一首といふべく、啻に雄健といふのみならず、中におのづから圓滑の感があるのは、この作者の性格から滲み出た(361)特徴であらう。
〔語〕 ○丈夫とおもへる吾や 立派な男子であると自ら信じてゐるこの自分がまあ。萬葉人の強い矜持を表はした語で、集中多く用ゐられてゐる。○水莖の 枕詞。同音を反復して「水城」にかけた。「水莖のをかの水門に」(一二三一)その他「岡」にかける例が多い。宣長は、玉勝間に、みづみづしき莖のみづ木と重ねて「水城」に懸けたのであり「水莖の岡」とあるのも地名でなく、みづみづしい莖の稚《わか》い意から、類音の「岡」につづけると論じてゐる。○涕拭はむ 涙を拭ふことであらうか、即ち、別れを惜しんで涙ぐむことか、我ながら男らしくもないことであるとの意。
 
    三年辛未、大納言大伴卿、寧樂《なら》の家に在りて故郷を思へる歌二首
969 須臾《しましく》も行きて見てしか神名火《かむなび》の淵は淺《あ》せにて瀬にかなるらむ
 
〔題〕 天平三年、旅人卿が奈良の家に歸つて、故郷なる飛鳥神南備の里を思慕して詠んだ歌。
〔譯〕 暇があつたらば、暫くでも行つて見たいものである。久しく見ないうちに、わが故郷なる飛鳥の神南備川の淵は、水が涸れてしまつて、淺瀬にでもなつてゐるであらうか。
〔評〕 作者はまだ太宰府にゐた時も「わすれぐさ我が紐に付く香具山のふりにし里を忘れぬがため」(三三四)と常に思慕してゐた故郷である。今や念願かなつて奈良の都には歸り著いたが、まだ飛鳥の地を踏まないので、この感緒の切なのも道理であると肯かれる。なほ留意すべきは、この作者の文法的特色である。即ち、この「淵は淺せにて」その他「忘れぬがため」(三三四)「淵にしあらも」(三三五)など、特異な語法で、從つてその訓に異論もあるが、好んでかういふ語を驅使したものと見るべきである。しかもこの特色が、いづれかといへば、やや單調な彼の歌に、こまかな味を加へてゐるとも考へられるのである。
〔語〕 ○須臾も 暫くも。○行きて見てしか 行つて見たいものである。○神名火 大伴氏の故郷たる飛鳥の神南備、(362)即ち雷岳の附近の地。次の句にいふ淵は、飛鳥の神南備山の下を流れる飛鳥川の淵をいふ。龍田の神南備とする説は首肯し難い。○あせにて 水が淺くなつて。○瀬にかなるらむ 瀬になつてゐるであらうか。
 
970 指進《さしずみ》の來栖《くるす》の小野《をの》の萩が花|散《ち》らむ時にし行きて手向《たむ》けむ
 
〔譯〕 わが故郷なる栗栖の野の萩の花を、やがて散る時分になつて、自分は出かけて神に手向けることであらう。
〔評〕 歌調流麗にして、ほのかな哀調を湛へてゐる。幾年ぶりかに懷かしい都に歸りはしたものの、かく故郷の神南備川や栗栖の小野を慕ひながら、しかも恐らく訪問の望を果し得ないで、この年、天平三年七月に薨じた作者のことを思ふと、その心緒まことにあはれである。資人余明軍の挽歌「斯くのみしありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも」(四五五)と竝べ誦すれば、哀韻一層深きを覺えるのである。
〔語〕 ○指進の 冠辭考に「さしずみ」は大工の持つ墨汁《すみつぼ》のことで、墨繩を繰りて墨絲を出すものであるから、その類音なる栗栖といふ大和の地名にかけたといふ。猶考ふべきである。○栗栖の小野 和名抄に「大和國忍海部栗栖」とある地か。それならば今の南葛城郡柳原の栗栖野で、飛鳥からは數里を隔ててゐる。全釋は前の歌と比べて、あまり隔たり過ぎてゐるから、或は飛鳥附近にも同名の地があつたかと疑つてゐるが、併し故郷から數里の地域にある萩の名所を偲ぶといふことは、不自然とは思はれない。新考は神南備を龍田とし、栗栖も平群郡内としてゐるが疑はしい。○行きて手向けむ 行つて故郷の神に手向けることになるであらうの意。大納言の職務多忙の爲に、思ふに任せず、萩も散りかかる頃にやつと行くことにならう、といふのである。
 
    四年壬申、藤原|宇合《うまかひ》卿を西海道節度使に遣しし時、高橋連蟲麻呂の作れる歌一首并に短歌
971 白雲の 龍田《たつた》の山の 露霜に 色づく時に うち超えて 放行く君は 五百重山 い行きさ(363)くみ 賊《あた》守る 筑紫に至り 山の極《そき》 野の極《そき》見よと 件《とも》の部《べ》を 班《あか》ち遣し 山彦の 應《こた》へむ極《きはみ》 谷蟇《たにぐく》の さ渡る極《きはみ》 國|?《がた》を 見《め》し給ひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の はやく來まさね 龍田道《たつたじ》の 丘邊《おかべ》の路《みち》に 丹躑躅《につつじ》の 薫《にほ》はむ時の 櫻花 咲きなむ時に 山たづの 迎《むか》へ參出《まゐで》む 君が來《き》まさば
 
〔題〕 藤原宇合は不比等の第三子。官は易進して正三位兼太宰帥に至り、天平九年八月薨去、年四十四。「七二」參照。西海道節度使のことは、續紀天平四年八月丁亥の條に「從三位藤原朝臣宇合爲2西海遺節度使1」と見え、懷風藻にも、正三位式部卿藤原朝臣宇合として、奉2西海道節度使1之作と題し「往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1」の五言一首を載せてゐる。節度使は地方に派遣されて、その地方の兵士や水手官船等を檢定する職である。高橋蟲麿は傳不詳。宇合が常陸守在任當時もその配下に居り、特別の深い關係があつたらしい。「三二一」參照。
〔譯〕 龍田山の木々が露や霜の爲に美しく紅葉する時分に、その山路を越えて遠方へお出になるあなた樣は、幾重にも重なる山の岩や木を踏破して、外敵を守る筑紫に御到着になり、そこで、山のはて野のはてまでも防備が行き屆いてゐるかどうか見て來いと、部下の兵を分けて遣はし、かくて山彦が答をかへす限り、國のほてまでも、蝦蟇が這ひまはる限り、地のはてまでも、遍く國情を御視察なされて、任をお果しになつて、春になつたらば、空飛ぶ鳥のやうに早くお歸りなさいませ。自分は、この龍田山のあたりの岡邊の道に、赤い躑躅の咲き匂ふ季節の、一方にはまた櫻の花が咲き亂れる時分に、きつとお出迎へに參りませう。あなた樣が御無事でお歸りになりまするならば。
〔評〕 かうした場合の壯行の歌として、まことに體を得た堂々たる作である。まづ宇合卿が節度使となつて派遣された時期が、卿のこれから越えて行く龍田山の敍景によつて、簡潔に表はされてゐる。筑紫に到着してからのその活躍?況は、極めて具體的に、しかも簡勁に想像を以て描かれ、頗る精彩がある。次いでその任を果して早く歸還せられ(364)むことを祈り、その喜びの日には、自分も必ず歡迎に出ようと約して一篇を結んでゐる。さうして冒頭の龍田道を再び取り上げて、おのづから心も浮き立つやうな春景色の中に、再會の喜を豫想したのは、極めて華やかにして又適切である。的確な構想、端正な格調、秀麗の措辭、相俟つてめでたく、反歌と共に、高橋蟲麿の名の明記された唯一の作であり、彼の歌風を察する上に、根本資料となるべきものである。
〔語〕 ○白雲の 白雲の立つ義で「龍田」にかかる枕詞。○龍田の山 大和、河内の國境の山。往古は大和から河内へ出るに、この山の南麓の路を通つた。下に「龍田道」とあるは其の道である。「八三」參照。○露霜に ここは露や霜にと解してよいやうである。「一三一」參照。○い行きさくみ 踏みしだき押し進んで。「い」は接頭辭。「さくみ」は岩石などを踏み碎き勇敢に行く意であらう。「二一〇」參照。○賊守る 外敵の來襲を守る意の修飾語。枕詞と見るべきではない。「しらぬひ筑紫の國は賊守るおさへの城《き》ぞと」(四三三一)ともある。○山のそき 「そき」は「退《そ》く」の準體言で、遠い方、果、極の意。○伴の部 「伴の緒」即ち部屬の長に對する語で、部下の者たちをさす。ここでは節度使に從ふ兵士の意。○班ち遣し 手分けして遣はし。「あかつ」は「わかつ」に同じ。○山彦の答へむ極 山彦の返答する限の義で、どんな所までも、即ち國の極までもの意。山彦は「こだま」。山中で物をいふと反響するのを、樹木に靈があつて返答すると考へた古代信仰から出た語。○谷蟇のさ渡る極 蟇の這ひまはる田舍の末まで、即ち地の果までの意。「八〇〇」參照。○國? 國の形?の義で、その國の?況事情など。○見し給ひて 御覽になつて。「五二」參照。○冬ごもり 「春」にかかる枕詞。「一六」參照。○飛ぶ鳥の 飛ぶ鳥のごとく。○早く來まさね 早くお歸りなされませ。「一」參照。○龍田路 龍田山へ向ふ道でなく、龍田山中の道。「何々路」といふには、其處へ行く道と其處に存在する道と、兩方の場合がある。○丹躑躅のにほはむ時の 赤い躑躅の花が咲き匂ふ季節でそして又、といふ意。下の「の」は同格をあらはす助詞。即ちこの句と次の「櫻花咲きなむ時」とが同格である。○山たづの 「迎へ」の枕詞。やまたづは今のニハトコの木で、葉が對生するので「向ひ」の意を以て續けるといふ。(365)「九〇」參照。
 
    反歌一首
972 千萬《ちよろづ》の軍なりとも言擧《ことあげ》せず取りて來《き》ぬべき男《をのこ》とぞ念ふ
     右は、補任の文を?ふるに、八月十七日、東山山陰西海の節度使に任ず。
 
〔譯〕 たとひ敵は千萬の大軍でも、あなた様は、彼是おつしやることもなく、忽ち討ち平げていらつしやるに相違ない丈夫であると、自分は思つてをります。
〔評〕 豪快な大丈夫の面影を描くに、雄渾の表現を以てした、眞に萬葉ぶりを代表する一首である。宇合が果してそれほどの大丈夫であつたかどうかに就いては議論もある。即ち懷風藻に載せた前記の詩を見ると、如何にも兵事を厭ふ柔弱男子のやうにも解せられるので、彼を懦夫と呼び蟲麿のこの歌を甚しい阿諛言としてゐる説もあるが、それも少しく早計ではあるまいか。遣唐副使、諸國の國守、按察使、持節大將軍、畿内副總督、數度の節度使等に歴任して、正三位太宰帥まで至るには、單に名家の子といふ看板たけでは無ささうに思はれる。漢詩は多く紋切型で、漢土思想のままの受賣であることも珍しくないことを一考する必要もあると思ふ。
〔評〕 ○千萬の 數の多いこと。○いくさなりとも 大軍であつても。「いくさ」は戰争でなく、軍兵の意。○言擧せず 言葉に出して事々しくいふことなくの義で、文句なしに、無造作にの意。「蜻蚤島日本の國はかむからと言擧せぬ國、然れども吾は言擧す」(三二五〇)などある。○取りて來ぬべき 討ち平げて來るに相違ない。「取るは殺すの意。
〔左註〕 「補任」とは、續紀の補任の條をさしたもので、別にさういふ書があつたのではあるまい。續紀には「天平四年八月丁亥」とあるが、それが即ち十七日に當り、兩者一致してゐる。但し、この左註では「東山」の上に「東海」(366)の二字を脱したのであらう。
 
    天皇、酒を節度使の卿等に賜へる御歌一首并に短歌
973 食《を》す國の 遠《とほ》の朝廷《みかど》に 汝等《いましら》し 斯く罷《まか》りなば 平けく 吾は遊ばむ 手抱《たむだ》きて 我は御在《いま》さむ 天皇《すめら》朕《わ》が うづの御手《みて》以《も》ち 掻撫《かきな》でぞ 勞《ね》ぎたまふ うち撫でぞ 勞《ね》ぎたまふ 還《かへ》り來《こ》む日 相|飲《の》まむ酒ぞ この豐|御酒《みき》は
 
〔題〕 天皇 聖武天皇。天平四年八月、正三位藤原房前を東海東山二道に、從三位多治比眞人縣守を山陰道に、從三位藤原宇合を西海道に、それぞれ節度使として派遣せられた時のことである。
〔譯〕 朕が支配するこの日本圃の、地方の役所役所に、節度使としてそなた達が出張して行つたらば、平穩に朕は遊んで居よう。手を拱いて安心して朕は居らう。天子たる朕がこの貴い御手を以て、そなた達をかき撫でてねぎらひ遣はすぞ。うち撫でてねぎらひ遊ばすぞ。さうしてやがてそなた達が任を果して無事歸還するであらうその日に、また共に今日のやうにして飲まうと思ふ酒である、このよい酒は。
〔評〕 節度使として發向する重臣たちに對する全幅的の御信頼と、温かな御慈愛とが、威嚴のある、しかも悠揚たる格調の中に、豐かに滿ち溢れて居り、まことにすぐれた御製である。節度使諸卿の感激の程もさこそと察せられる。天平勝寶四年、入唐使藤原清河等に賜うた孝謙天皇の御製(四二六四・四二六五)と共に、まさに帝王の御風格と申すべきである。
〔語〕 ○食す國の遠の朝廷 御支配あそばされる遠國にある政廳。「三〇四」參照。○手抱きて 手を拱いて、腕組をして。即ち太平無事の意。書經武成の「垂拱而天下治」に對する蔡注に「垂v衣拱v手而天下自治」とあるに據る(367)ものかといはれる。○我は御在さむ 天皇御自身にかく敬語を用ゐられるのは、祖宗の御位を繼がせられた御身であるから、公的地位にある御自身を客觀したまふ時、おのづからかやうな言葉が發せられるわけである。○天皇《すめら》朕《わ》が 天皇たる我が。○うづの御手以ち 「うづ」は「珍」の字を宛て、高く貴い意である。○勞《ね》ぎたまふ ねぎらひ慰めて遣はすの意。「ねぐ」はねぎらひいたはる意の動詞。○相飲まむ酒ぞ 再び今日のやうにして飲むべき此の酒であるぞの意。○豐御酒 「豐」は美稱の接頭辭。
〔訓〕 ○手抱きて 白文「手抱而」で、舊訓タニギリテは不可。元暦校本タイダキテもよくない。今、代匠記の訓タムダキテに從ふ。古義はテウダキテと訓んでゐるが、ムダクとウダクとの新古に就き、春日政治博士は古經卷の訓點を調査して、ムダクが古形であると推定された。「萬葉學論纂」參照。
 
    反歌一首
974 丈夫《ますらを》の行くとふ道ぞ凡《おほ》ろかに念《おも》ひて行くな丈夫の伴《とも》
     右の御歌は、或は云ふ、太上天皇の御製なりと。
 
〔譯〕 この節度使の役目は、立派な大丈夫の選ばれて赴くといふ光榮ある道であるぞ。尋常一樣のことと思つて行くな、立派な大丈夫たちよ。
〔評〕 節度使の任の重大なことを御指示さそばされ、その任に當る諸卿を激勵鼓舞し給うたのである。語々雄勁にして格調峻拔、嚴肅の氣に身の引締まる感がある。眞に懦夫をして起たしむる底の益良雄ぶりと申すべきである。
〔語〕 ○行くとふ道ぞ 行くといふ名譽ある道であるぞ。「道」は勿論道路ではなく、任務といふほどの意で、漢文にいふ「此行」などの「行」に當る。○をほろかに 等閑に、好い加減に。○丈夫の伴 汝等大丈夫等よ、とお呼びかけになり激勵あそばされた語。
(368)〔左註〕 右の長歌竝に反歌は、或は太上天皇即ち元正天皇の御製であるとの説もあるとの意。しかし、この御風調の雄渾豪邁な點は、女帝の御作でなく、聖武天皇の御製と信ずる。
 
    中納言安倍廣庭卿の歌一首
975 斯くしつつ在《あ》らくを好《よ》みぞたまきはる短き命を長く欲《ほ》りする
 
〔題〕 中納言安部廣庭は、右大臣|御主人《みうし》の子。天平四年二月薨去、年七十四。「三〇二」參照。
〔譯〕 こんなにして暮してゐるのが自分は幸福であると思ふので、この短い命をもつと長いやうにと希望するわけである。
〔評〕 現在の幸福に滿ち足りて、猶この境涯の更に長く續けかしと願つたのであるが、何事か特に喜ばしい事件に遭遇しての感懷であらう。或は唯平和な日々を樂しんでゐる知足自適の喜のやうでもある。のびのびとした穩和な一首の風調から察すれば、さうした悠々たる平和の心境と見る方が當つてゐるかとも思はれる。
〔語〕 ○斯くしつつ かやうな風にしながら。○在らくを好みぞ 生活してゐることを幸福に感ずるので。○たまきはる 「命」にかかる枕詞。「四」參照。
 
    五年癸酉、草香山を超えし時、神社忌寸老麻呂《かみこそいみきおゆまろ》の作れる歌二首
976 難波潟《なにはがた》潮干の餘波《なごり》委曲《つばら》に見む家なる妹が待ち問はむ爲
 
〔題〕 草香山は、河内國の日下山。生駒山の西に當り、奈良から闇峠を越えて難波へ出る通路にある。神社忌寸老麿の傳は不詳。神社は氏で、紀に「神社福草《カミコソノサキクサ》」續紀に「神社忌寸河内」等の名が見える。
〔譯〕 難波潟の潮の干た跡のおもしろい景色を、十分に眺めて行かう。家にゐる妻が自分の歸宅を待つて、旅の樣子(369)を問ふであらうから、その時の爲に。
〔評〕 奈良人にとつて海邊の景色がめづらしかつたことは當然であるが、難波は近い處だけに奈良人が足跡を印したことも比較的多かつた筈で、隨つて、他よりも難波の海を詠じた歌が多く見えるのは偶然ではなく、この歌もその一つである。しかし特に優れたといふ程の作ではない。「玉津島よく見ていませあをによし平城なる人の待ち問はばいかに」(一二一五)と聊か似た點もあるが、それはその地の人のお國自慢であり、これは勝景に對する旅人の讃美である。
〔語〕 ○潮干の餘波《なごり》 引潮の跡に殘つた貝や石や梅松などの樣子をいふ。○つばらに見む よく見ようの意。○待ち問はむ爲 妻が自分の歸りを待ち受けて問ふであらう時の答の爲に。
〔訓〕 ○つばらに見む 白文「委曲見」で、舊訓マクハシミは不可。略解ヨクミテナ、古義ヨクミテムなどある。文字の通りにクハシクミとも訓める。
 
977 直超《ただこえ》のこの徑《みち》にしておし照るや難波の海と名づけけらしも
 
〔譯〕 眞直に草香山を越えてゆくこの道で眺めやれば、難波の海が照り輝いて見えるが、なるほど昔からいつてゐる「おし照る難波の海」とは、此の道で名づけたらしい。
〔評〕 昔から「おし照る難波」と稱せられてゐて、難波といへば、直ちに「おし照る」といふ語句が浮んで來る。作者は今、草香山の頂から、遙かに陽光に輝く難波の海を眺めて「おし照る」といふ枕詞の適切なことを痛感したのである。第三句に用ゐた「おし照るや」が、二重に働いてゐるやうで、輝く海を眼前に展開させ、頗る生彩がある。
〔語〕 ○直超 曲りくねらずに眞直に超えること。雄略記にも「日下の直越の道」と見える。○おし照るや 「難波」の枕詞。枕詞として慣用されてゐるところから、この歌はその語義を解かうと試みたもので、おしなべて照る、一體(370)に輝く意と解したのである。「四四三」參照。猶この歌は、句の順序を三四一二五と換へて見れば分り易い。
 
    山上臣憶良、痾に沈みし時の歌一首
978 士《をのこ》やも空《むな》しかるべき萬代に語り績《つ》ぐべき名は立てずして
     右の一首は、山上憶良臣痾に沈みし時、藤原朝臣八束、河邊朝臣東人をして疾む所の?《さま》を問はしめき。是に憶良臣、報《こたへ》の語已に畢り、須《しまらく》ありて涕を拭ひ、悲しみを嘆きて、此の歌を口吟《くちずさ》めり。
 
〔題〕 山上憶良が、病氣重態の時に詠んだ歌である。憶良の「痾に沈みて自ら哀ぶ文」(八九六の次)は、天平五年の歌の間に收録されてゐるし、この歌も天平五年の歌の次に出てゐるので、その文とこの歌と全く同時の作といふことがわかる。恐らくこの歌は、憶良の絶命詞となつたものであらう。
〔譯〕 大丈夫たる者が、無爲にこの一生涯を終へてよからうか。千萬年の後までも語り傳へられるやうな名をば立てないで。
〔評〕 由來名譽を重んずるのは、わが國古來の國民性の一特質である。萬葉集中には、男子の自尊心、大丈夫としての矜持が隨處に閃めいてゐるのを認めるが、この歌のごときは、その最たるものである。後に家持はこれに追和して「勇士の名を振ふを慕へる歌」(四一六四)を作つてゐるが、その反歌「ますらをは名をし立つべし後の代に聞き繼ぐ人も語りつぐがね」(四一六五)は、全く同工異曲である。しかしこの家持の追和は、悲痛な環境から迸り出た原作の氣魄に遠く及ばない。しかして作者憶良は、名を立て得なかつたどころか、その名は萬葉集と共に萬葉に不朽である。亦以て瞑すべきであらう。
〔語〕 ○をのこやも 立派な男子たるものがまあ。○名は立てずして 名をば立てないで。
〔訓〕 ○立てずして 白文「不立之而」で舊訓タタズシテも誤ではないが、古葉略類聚鈔・紀州本等のタテズシテが(371)よい。
〔左註〕 この歌は山上憶良が重病で寢てゐた時、藤原八束が、河邊東人を使として見舞はせたのに、憶良は謝辭を述べた後、暫くして涙を拭ひつつこれを口ずさんだといふのである。藤原八束は、房前の第三子。天平神護二年正月大納言、同三月薨。「三九八」參照。河邊東人は、神護景雲元年從五位下、寶龜元年石見守となつたことが續紀に見える。「一四四〇」參照。
 
    大伴坂上郎女、姪《をひ》家持が佐保より西の宅《いへ》に還るに與ふる歌一首
979 吾が背子が著《け》る衣《きぬ》薄《うす》し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで
 
〔題〕 家持 坂上郎女の兄旅人卿の子である。姪 漢土でも甥姪の總稱に用ゐられる。西の宅 大伴家は旅人の父安麿が佐保大納言と呼ばれ、また一族の人々のこの地に關する歌が多いことからも、その本邸が佐保にあつたことが知られる。西の宅は佐保から西方にあつた別邸ででもあらうか、詳かでない。
〔譯〕 あなたの着て居られる衣は薄い。どうか、佐保の途中の風はひどく吹いてくれるな、あなたが家に歸り着くまでの間は。
〔評〕 年少の甥に對する叔母としての愛情といふのみでなく、やがては娘に配する筈の可愛い婿がねに對してのこまやかな心やりが、やさしく表現されてゐる。柔かな言葉づかひながら、二句切れの五七調で引締めた句法も頗るめでたい。
〔語〕 ○吾が背子 背子は男を親しみいふ語で、ここは甥なる家持をさす。○著る衣薄し 着てゐる衣が薄くて寒さうである。「ける」は著有るの約。○佐保風 佐保の地を吹く風。「明日香風」(五一)「伊香保風」(三四二二)の類。
 
(372)     安倍朝臣蟲麻呂の月の歌一首
980 雨隱《あまごも》り三笠の山を高みかも月の出で來《こ》ぬ夜は更《くだ》ちつつ
 
〔題〕 安倍蟲麻呂は、皇后宮亮、申務少輔、播麿守等を歴任して、天平勝寶四年、中務大輔で卒した。「六六五」參照。
〔譯〕 三笠の山が高いからであらうか、月がなかなか出て來ない。夜は段々とふけてゆくのに。
〔評〕 月の出の遲いのを待ちこがれる心もちはよくわかり、歌として着想もおもしろいのであるが、既に類型的になつて居り、間人大浦の「倉橋の山を高みか夜ごもりに出て來る月の光乏しき」(二九〇)。更にこれと結句のみを異にした沙彌女王の「倉橋の山を高みか夜ごもりに出で來る月の片待ち難き」(一七六三)などがあつて、いづれが先蹤か斷定はむつかしい。なほ、次の大伴坂上郎女の歌にも似たところがある。
〔語〕 ○雨隱り 「三笠」の枕詞。雨が降ると笠にこもる意で、つづく。○高みかも 高いゆゑであらうか。○夜はくだちつつ 夜は次第にふけてゆくのに。「くだつ」は夜のふけること。又「わが盛いたくくだちぬ」(八四七)のごとく、年齡の傾くにもいふ。
 
    大伴坂上郎女の月の歌三首
981 ※[獣偏+葛]《かり》高の高圓山を高みかも出で來《く》る月の遲く光《て》るらむ
 
〔譯〕 ※[獣偏+葛]高の高圓山が高いので、出て來る月がこんなに遲くなつて照るのであらうか。
〔評〕 前掲、間人大浦の作や、安部蟲麿の歌などと殆ど同想同型で、獨創味に乏しい。但、これを月の出を待ちわびてゐる歌と解して「待遠い月である」との餘意を補足してゐるのは、甚しい誤である。「らむ」は現在推量の助動詞(373)で、照つてゐる事實に對して、何故かく遲いのか、山を高みかと、その理由を推量してゐるのである。
〔語〕 ○※[獣偏+葛]高 地名。代匠記は「石上布留」に於ける「石上」のごとく、※[獣偏+葛]高は高圓山一帶の總名と見てゐるが、一説に、今の奈良市の東南、鹿野苑あたりの古名かともいふ。
 
982 ぬばたまの夜霧の立ちて欝《おぼほ》しく照れる月夜《つくよ》の見れば悲しさ
 
〔譯〕 夜の霧が立ち渡つて、あたり一面ぼんやりと照つてゐる月が、じつと見てゐると物悲しいことである。
〔評〕 薄霧の立ちこめた月夜の景のおぼつかなさと、そこはかとない愁緒とを、ありのままに描いてゐる。何の技巧もなく單純な歌であるが、温雅な作者の息吹が感じられるやうである。坂上大孃の「春日山霞たなびきこころぐく照れる月夜に獨かも寢む」(七三五)は、恭仁京にゐた夫家持に贈つた一首であるが、或はこの母の詠に學ぶところがあつたと思はれる。
〔語〕 ○おぼほしく ぼんやりと。「一七五」參照。○照れる月夜の 照つてゐる月が。「夜」は輕く添へたもの。この句は「見れば」を隔てて「悲しさ」につづく。
 
983 山の端のささらえ壯子《をとこ》天《あま》の原|門《と》渡る光見らくしよしも
     右の一首の歌は、或は云ふ、月の別《また》の名をささらえをとこと曰へり。此の辭に縁りて此の歌を作れりと。
 
〔譯〕 山の際に出たささやかな美男のお月樣が、大空をとほつて行くその光を眺めてゐるのは、まことによいものである。
〔評〕 極めて單純な歌であるが、當時月をささらえ壯子《をとこ》の別名で呼ぶことがあつたので、可憐なその語を採り用ゐて擬人した表現法が、新味があり、めづらしくておもしろい。なほこの優雅な異稱が、この歌によつて今日まで傳はつ(374)たことは、學問的に感謝すべきであらう。
〔語〕 ○ささらえ壯子 月の異名。「ささら」は細小なる義で、それより、愛すべき意をふくむ。月を男性とすることは「月人壯子」(二〇一〇)などの例もある。「え壯子」は古事記の二神國生みの條に、女神の唱へ給うた「あなにやし愛をとこを」の語と同じで、愛すべき男の意である。○門渡る光 「門《と》」は元來門戸、或は水上では流の出入する箇所をいふ語で「淡路島|門《と》渡る船の」(三八九四)とあるごとく、船の通路の意に用ゐる。ここは大空を海に擬して、月即ちささらえ壯子が船を漕いで渡るやうに見立てたのである。○見らくしよしも 見るのが好ましいことであるの意。
〔左註〕 この歌は或は、月の異名を「ささらえ壯士」といふので、作者がその語に感興を催して詠んだともいはれてゐる。
 
    豐前國の娘子《をとめ》の月の歌一首 【娘子、字を大宅と曰へり。姓氏未だ詳ならず。】。
984 雲隱《くもがく》り行方《ゆくへ》を無みと吾が戀ふる月をや君が見まく欲《ほ》りする
 
〔題〕 豐前國娘子は、題詞の下の細註によると、「七〇九」に、豐前國娘子大宅女とあつたのと同人であるが、その傳は知られない。
〔譯〕 雲に隱れて、何處へ行つたか行方がわからないので、私が戀ひ慕つてゐる月を、あなたも見たく思つていらつしやいますか。
〔評〕 失はれた戀を思ひつつ獨り月にあこがれてゐる女のためいきであらう。代匠記に、源信明の歌「戀しさは同じ心にあらずとも今宵の月を君見ざらめや」(拾遺集)に似た心であらうとあるのは、大凡その通りであると思はれるが、それだけに、可なり持つて廻つた表現で、よほど後世風に傾いた歌である。
(375)〔語〕 ○雲隱り 雲に隱れて。○行方を無みと 行方がわからなくなつてしまつたからとて。
 
    湯原王の月の歌二首
985 天《あめ》に坐《ま》す月讀壯子《つくよみをとこ》幣《まひ》は爲《せ》む今夜《こよひ》の長さ五百夜《いほよ》繼《つ》ぎこそ
 
〔題〕 湯原王 天智天皇の孫で、志貴皇子の子。「三七五」參照。
〔譯〕 天にいらつしやるお月樣よ、お禮の捧げ物は致さう。どうか今夜の長さを、幾百晩も續けてもらひたい。
〔評〕 特に優れたといふほどの内容ではないが、洗錬された故巧、高雅な氣品は、さすがに湯原王の作とうなづかれる。「幣はせむ」は憶良の「わかければ道行き知らじ幣は爲む黄泉の使負ひて通らせ」(九〇五)その他、高橋蟲麻呂歌集中の長歌(一七五五)にもあつて、王の獨創の句ではないが、四五句の辭様は極めて具體的で、切實な願望をよく表現して居り、當夜の情興がそぞろに偲ばれる。
〔語〕 ○月讀壯子 月の異名。月神のことを、記紀に月讀命、月弓尊、月夜見尊などあるによる。○幣は爲む 謝禮の捧げ物はしよう。「九〇五」參照。○五百夜繼ぎこそ 五百夜の長さにも續いて欲しいの意。かく動詞の連用形を承ける「こそ」は願望を表はす助詞で「君が枕は夢に見えこそ」(六一五)「夜の夢にを繼ぎて見えこそ」(八〇七)など集中に多い。
〔訓〕○長さ 白文「長者」で、この訓ナガサのサは「者」の字音とする代匠記の説は不可。「焉」「矣」「也」など漢文の助字を用ゐたところが往々ある類であるとした攷證の説が正しい。
 
986 愛《は》しきやし遠からぬ里の君|來《こ》むと大|能備《のび》にかも月の照りたる
 
〔譯〕 なつかしい近所の里に居られるあなたが、今夜お出にならうとて、こんなに大能備にまあ月が照つてゐるので(376)せうか。
〔評〕 大能備といふ語の意味が明かでない爲、一首の意が徹しないのは遺憾である。しかし、美しい月明を友の來訪のしるしと眺めて、心樂しみつつ待つ悠然とした氣分が現はれて、やはり湯原王らしい風格を失はない歌である。
〔語〕 ○はしきやし 愛すべき、又は懷かしいの意。「や」「し」共に詠歎の間投助詞。○大能備に 袖中抄に江都督の説として「大のび」はゆたかに、しづかなりの意とあるが根據が明かでない。略解は大野方の意と見てゐるが、上代の特殊假名遣の點からすると、野の意味には能の字は用ゐないのが正字である。但し「信濃なる須我の安良能に」(三三五二)「夏の能《の》のさ百合ひき植ゑて」(四一一三)等、例がないわけではないが、これらは、東歌か、もしくは、後世用字に手を加へられたとおぼしい卷十八の例であつて、證となしがたい。
〔訓〕 ○遠からぬ里 白文「不還里」で、舊訓マヂカキサト。今、文字に即して改訓する。
 
    藤原八束朝臣の月の歌一首
987 待ちかてに吾がする月は妹が著る三笠の山に隱《こも》りてありけり
 
〔題〕 藤原八束 「九七八」の左註解説參照。
〔譯〕 待ちきれないで、じれつたく自分が思つてゐる月は、まだあの三笠山の木の間に籠つてゐることである。
〔評〕 内容はまことに平庸であるが、齊整な五七の句法と結句の悠揚たる氣分とは、やはり後世の作の企及し難いところがある。「妹が着る」の枕詞も、この歌になごやかな感觸とゆたかな背景とを添へてゐる。
〔語〕 ○待ちかてに 待ちきれずしての意。堪ふ。敢ふ・得と同じ意の下二段活用動詞なる「かつ」の未然形である。「に」は打消の助動詞の連用形。○妹が著る 枕詞。「三笠」につづく。
 
(377)    市原王、宴《うたげ》に父の安貴王《あきのおほきみ》を?《ほ》く歌一首
988 春草は後《のち》は散り易《やす》し巌《いはほ》なす常磐《ときは》に坐《いま》せ貴き吾《わが》君《きみ》
 
〔題〕 市原王 志貴皇子の曾孫に當られる。「四一二」參照。安貴王 志貴皇子の孫で、春日王の子。「三〇六」參照。?く 長壽を祈る。
〔譯〕 春の草は美しく榮えはしても、後は散り易いものであります。あの巌石のやうに、いつまでも變らず堅固でおいでなさいませ。尊い自分の父君よ。
〔評〕 孝順の至情が、脈々として温く豐かに一首の上に流れて居り、また一面には、質實剛健を愛する萬葉人の氣質もよく現はれてゐる。第二句と第四句とで切れ、結句を「貴き吾君」と言ひ据ゑた格調の力強さも、巌のやうに堅くて重々しい感があり、慶賀の歌として、いかにも體を得たものである。
〔語〕 ○後は散り易し 一時は花咲き榮えても後には脆く散つてしまふの意。○巌なす 巌のやうに。
〔訓〕 ○春草 代匠記に「草」は「花」の誤かと疑つてゐるが、この儘でわかる。○巌なす 白文「巌成」通行本「巌」を「嚴」に作るが、今、西本願寺本、温古堂本等によつて改めた。但、類聚古集・古葉略類聚鈔・紀州本等の訓がイツクシクとあるので、新解はこの訓を尊重し、隨つて「嚴」を正しいとし、且「成」を「來」の誤としてゐる。
 
    湯原王の打酒の歌一首
989 燒刀《やきたち》の稜《かど》うち放ち丈夫《ますらを》の?《ほ》く豐|御酒《みき》に吾《われ》醉ひにけり
 
〔題〕 打酒 難解の語で、種々の説があり、略解所引宣長説では、「祈酒」の誤でサカホガヒであらうと云ひ、古義所引中山嚴水説では、「折酒」の誤で、古事記に「八鹽折之酒」とあるごとく「折」は酒を釀すことであらうと云つ(378)てゐる。しかしこれは一種の呪禁で、壽詞を唱へつつ酒に斬りつけ、劔光を以てこれを清める式と考へられる、とある新解の説に從ふべきであらう。
〔譯〕 燒き鍛へて打つた刀の切尖を鋭く振りおろし、立派な若者が邪氣を攘つて清めたこの結構な酒に、自分はすつかり好い氣特に醉つてしまつたことである。
〔評〕 格調雄健、まさに萬葉歌風の正統といふべきものである。作者湯原王は、優雅高朗な風格が、その作歌の上からも察せられるが、一面に又かうした相當な酒客らしい豪快なところもあつたのである。益良雄が燒太刀の稜うち放つて祝ひ壽いだからには、邪氣も惡魔も打ち拂はれたに相違なく、酒宴の際にこんな行事の伴つたことを教へてくれるこの歌は、風俗史的見地からも頗る興味がある。
〔語〕 ○燒刀 よく燒き鍛へた太刀。○稜うち放ち 鋭く打振つて酒に切りつける意。「かど」は稜角、即ち切尖《きつきき》をいふ。
 
    紀朝臣|鹿人《かひと》、跡見《とみ》の茂岡《しげをか》の松の樹を見る歌一首
990 茂岡《しげをか》に神《かむ》さび立ちて榮えたる千代まつの樹の歳の知らなく
 
〔題〕 紀朝臣鹿人 續紀によれば、天平九年正六位上から外從五位下となり、同十二月主殿頭、十二年外從五位上に、十二年大炊頭となつてゐる。跡見 今の磯城部北倭村、富雄村の地。後にも「典鑄正紀朝臣鹿人至2衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄1作歌」(一五四九)と見える。茂岡はこの地の丘陵であらうが、今詳でない。
〔譯〕 この茂岡に神々しく古びて生ひ立ち、榮えてゐる千代を待つとも見える松の樹は、既にどのくらゐの年月を經たことかわからない程である。
〔評〕 茂岡の松は、特に附近の目標ともなる程の見事な老松であつたであらう。巨木老樹に對する一種崇高な感じは(379)現代の吾々でも持つものであるが、樹靈信仰に基づく古代人の敬虔な感情は、更に深いものがあつたのである。この歌はさういふ見地から見るべきものであつて、ただの敍景歌としては、平凡の一語に盡きるであらう。
〔語〕 ○千代まつの樹 千代を待つ松の樹の意。「われ松椿」(七三)「君松浦山」(八八三)の類である。○年の知らなく 既に幾何の年數を經過したかわからないことよの意。
 
    同じ鹿人、泊瀬《はつせ》河の邊《ほとり》に至りて作れる歌一首
991 石走《いはばし》り激《たぎ》ち流るる泊瀬川絶ゆることなくまたも來て見む
 
〔譯〕 石の上を走つて、泡立ち流れる泊瀬川の水が、いつも絶えないやうに、自分も、絶えることなく、この勝景をまた來て見よう。
〔評〕 初瀬川の奔流のすがすがしさに、暫し目を樂しませつつ再遊を思つてゐるのであるが、極めてありふれた感情であり、字句も吉野離宮に於ける人麿の「見れど飽かぬ吉野の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまた還り見む」(三七)以來、しばしば踏襲された型以外に出てゐない。結句を「またも來て見む」と殊更に朴直にしたのは、聊か新機軸を出さうと試みたのであらうか。しかしさしたる効果を收めてゐるとも思はれない。
〔語〕 ○石走り 岩石の上を走つての意。○泊瀬川 初句以下これまで実景を敍し、かつ「絶ゆることなく」の序としてゐる。
〔訓〕 ○石走り 白文「石走」で、舊訓イハバシル、代匠記もこれに從ひ枕詞と解してゐるが不可。今、古義の訓を採る。
 
    大伴坂上郎女、元興寺《ぐわにごうじ》の里を詠める歌一首
(380)992 古郷《ふるさと》の飛鳥《あすか》はあれどあをによし平城《なら》の明日香《あすか》を見らくし好《し》しも
 
〔題〕 元興寺 これは新元興寺をさす。今、奈良市芝新屋町にその遺跡がある。
〔譯〕 舊都飛鳥の飛鳥寺は勿論結構であるが、奈良の都の飛鳥寺は、見ると一層立派であるよ。
〔評〕 佛法興隆の本源であつた飛鳥寺の壯麗は凡そ想像されるし、それが大伴氏の郷里であつただけに、作者坂上郎女は一層の感銘を以てこれを仰いだであらう。然るに、新京に移建された新元興寺は、左京五條七坊に方六町の廣大な地域を占めて、七堂伽藍の輪奐實に人目を眩せしめる絢爛の姿を現出したのである。殊に、完成後この天平五年までには僅々十餘年の日子を經たのみであるから、淨土の莊嚴を思はせるその美觀は、なほ新都の人々の驚異を呼ぶに十分であつたに相違なく、作者もこの方に大きな讃歎の聲を上げずにはゐられなかつたのである。但この歌、作品としては平板な説明以上に出てゐないが、史的立場から、これ亦一資料として價値が認められる。
〔語〕 ○古郷の飛鳥はあれど 舊都の飛鳥寺は立派であるけれどもの意。この飛鳥寺は今は僅かに飛鳥大佛に名殘を留めるに過ぎないが、初め蘇我馬子の建立で、佛法興隆の意を以て法興寺と名づけ、後、元興寺といひ、又地名に因んで、飛鳥寺とも稱した。東門に飛鳥寺、西門に法興寺、南門に元興寺、北門に法滿寺の額を掲げて法燈輝き、聖武天皇も?々行幸あらせられた。○平城の明日香 奈良の新元興寺をいふ。奈良遷都と共に、諸寺も多く新京に移つたが、この寺は佛法最初の靈場として舊都に殘つてゐたのが、養老二年に遂に移されて新元興寺と稱し、飛鳥の舊地にも一宇を建てて本元興寺といつたのである。
 
    同じき坂上郎女の初月《みかづき》の歌一首
993 月立ちてただ三日月の眉根《まよね》掻《か》きけ長く戀ひし君に逢へるかも
 
(381)〔題〕 初月は新月、三日月のこと。
〔譯〕 三日月のやうな眉の根を掻き掻きして、私はだまされ續けて、長い間思ひこがれてゐたあなたに、やつとまあ逢へたことです。
〔評〕「初月の歌」とあるが、實は初月に寄せた戀の歌で、眉のかゆいのは思ふ人に逢ふ前兆であるとした當時の俗言に基づいたのである。即ち、眉がかゆいので心嬉しく掻き續けてゐたにかかはらず、待つ人は一向姿を見せない。私はだまされたと密かに恨んでゐた途端、思ひがけなく逢へた喜で、日頃の怨も忽ち雲散霧消したといふ趣である。情癡の歌として氣品も餘裕もあつてよい。
〔語〕 ○月立ちて 月が改まつて。朔を「ついたち」といふのも月立の音便である。○ただ三日月の 初句以下、月が改まつてからただ三日目に見える三日月のやうなの意で、「眉根」にかけた譬喩的序。更に「月立ちてただ」の七音は、「三日月」にかけた序となつてゐる。眉を月に譬へることは、漢土でも文選以下非常に多く、本集中にも少くない。○眉根掻き 眉の根もとを掻いて。「五六二」參照。
 
    大伴宿禰家持の初月《みかづき》の歌一首
994 振仰《ふりさ》けて若月《みかづき》見れば一目見し人の眉引《まよびき》おもほゆるかも
 
〔題〕 この歌は天平五年の條下に載せてあるので、延暦四年に六十八歳で歿したことから逆算すれば、家持十六歳の作である。
〔譯〕 空を遠く仰いで、三日月の影を眺めると、たゞ一目見たあの女の美しい眉の恰好が思ひ出されることである。
〔評〕 これは家持の作中、年代の明かな最初の歌で、この時弱冠十六歳とすれば、その作家枝倆は驚くべき夙成といはねばならぬ。恐らく初戀の人の眉引を思ひ出したのであらうが、その點から考へても、後年、多角的な戀愛生活を(382)展開した家持の面目が、この時既に見られるやうである。如何にも若々しい感覺と、みづみづしい調とで、彼が生涯の作中に於いても、佳作の部に屬するといつてよい。
〔語〕 ○振さけて 遙に仰いで。○眉引 仲哀天皇紀に「譬如2美女之※[目+碌の旁]1有2向津國1。」とあつて「※[目+碌の旁]、此云2麻用弭枳1。」と註してゐる。眉墨を長く畫き引いた恰好をいふ。
 
    大伴坂上郎女、親族《うから》と宴せる歌一首
995 斯くしつつ遊び飲《の》みこそ草木すら春は生ひつつ秋は散りゆく
〔譯〕 かうして遊んだり飲んだりして樂しみませうよ。草木でさへ、春は生ひ榮え、秋は散つてゆくのですもの。(人間でも、生きてゐる間に十分樂しまなければ、つまりません。)
〔評〕 作者は、前にも親族と宴飲した日の歌(四〇一)を載せてゐるし、又「酒杯に梅の花浮べおもふどち飲みての後は散りぬともよし」(一六五六)とも詠んでゐるので、さすがは讃酒歌を作つた旅人の妹だけあると緻笑される。當時の佛教の隆昌は、人々に欣求淨土の心を植ゑつけたではあらうが、その無常觀はまた厭離穢士の徹底した思想に沈湎せしめるまでには至つてゐない。日本固有の樂親思想は、現世の無常を教へられると共に、いよいよその倏忽の世に愛着して、出來るだけこれを樂しまうと欲したのである。これ等の作品は、當時の思想を如實に語るものとして興味が深い。
〔語〕 ○遊び飲みこそ 遊び且つ飲んで下さいの意。かく動詞の連用形を承ける「こそ」は願望の助詞。○春は生ひつつ 春は草木でさへも生ひ茂り榮えて。
 
    六年甲戌、海《あまの》犬養宿禰岡麿、詔に應ふる歌一首
(383)996 御民《みたみ》吾《われ》生《い》ける驗《しるし》あり天地の榮ゆる時に遇《あ》へらく念《おも》へば
 
〔題〕 天平六年、海犬養岡麿が聖武天皇の詔に應じて詠んで奉つた歌。海犬養宿禰岡麿の傳は詳でないが、續紀にも見えないので、高位の人とは思はれない。海犬養氏は天武紀に、十三年十二月海犬養連に姓宿禰を賜ふと見えてゐる。
〔譯〕 陛下の臣民の一人たる自分は、しみじみと生き甲斐を感じて居ります。この天地の榮える聖代に生れあはせたことを思ひますれば。
〔評〕 國民的感激を、雄渾の格調に託して歌ひ上げた、絶唱である。咲く花の匂ふがごとく文化燦然と輝いた天平の御代を禮讃する詞として、眞に、恰當これに過ぐるは無いと思はれる。その盛時に遭遇した作者の歎喜は、抑へようとして抑へられず、畏き詔に應じて、忽ち江河の堤を決するが如き勢を以て流れ出た叫が、この傑作となつたのである。
〔語〕 ○御民吾 陛下の臣民たる自分。「御」は所謂領者敬語で、領有者たる天皇を敬する意。「吾」といふ主體を敬するのではない。○生ける驗あり 生きてゐる効《かひ》がある。○遇へらく念へば 生れあはせてゐることを考へると。
 
    春三月、難波宮に幸《いでま》しし時の歌六首
997 住吉《すみのえ》の粉濱《こはま》の四時華《とこなつ》開《さ》くも見ず隱《こも》りにのみや戀ひわたりなむ
     右の一首、作者末だ詳ならず。
 
〔題〕 これは聖武天皇の行幸で、續紀に「天平六年春三月辛未行2幸難波宮1、戊寅事駕發v自2難波1宿2竹原井頓宮1、庚辰車駕還v宮」とある。〔譯〕 この住吉の粉濱の常夏の花が咲くのも見ずに籠つてゐるやうに、自分は心のうちに籠め隱して戀ひつづけるこ(384)とであらうか。いつそ打明けてしまひたい。
〔評〕 行幸に從駕して住吉に滯在してゐる間に、佳人を見そめ、密かに思ひ煩つてゐるのであらうか。序の用法は類型的であるが、常夏の花を採り用ゐたのが珍しい。恐らく住吉の地のとこなつは名高かつたのであらう。しかしまだ三月であるから、「開《さ》くも見ず」といつたものと思はれる。
〔語〕 ○粉濱 住吉の地名。今は大阪市住吉區内にある。○四時華 初句以下ここまでは、「開《さ》く」の序。とこなつは瞿麥のこと。○開くも見ず 咲くのも見ないで籠つてゐるの意で、戀しい思を色に出して相手に知らしめることもなく、即ち戀をうちあけることもせずしての意に譬へた。○隱りにのみや 心中に秘めてばかりゐての意。
〔訓〕 ○四時華 諸本「華」を「美」に作つてあるので、シジミと訓み、蜆の意として、三句を「あけも見ず」とよみ、三句までを序と解し、それに從ふ人も從來多いが、今、元暦校本の文字により、訓も元暦校本及び細井本のトコナツを採る。八雲御抄第三にも「萬六、とこなつは四時華とかけり。」とあり、夫木抄に「住のえのこすのとこなつ咲くも見ず隱れてのみや戀ひわたりなむ」とあるのも、古訓によつたとおもはれるからである。「とこなつ」の假字がきの例は集中に見えないが、八雲御抄や夫木抄は或る程度信用してよからうし、集中にも、「隱りのみ戀ふれば苦し瞿麥の花に咲き出よ朝なさな見む」(一九九二)とあつて、同じ此の花の咲くのを、戀愛の顯れるに喩へたことは明かであり、かつ瞿麥をトコナツと訓まなかつたとも斷じ難いと思ふ。その他家持の「石竹のその花にもが朝旦手にとり持ちて戀ひぬ日無けむ」(四〇八)なども參考とするに足りよう。○開くも見ず 白文「開藻不見」で、舊訓アケモミズ。今、元暦校本、類聚古集等の訓による。
 
998 眉の如《ごと》雲居に見ゆる阿波の山かけてこぐ舟|泊《とまり》知らずも
     右の一首は、船王の作なり。
 
(385)〔譯〕 眉のやうな形で、遙か空の彼方に見える阿波の國の山を目がけて漕いでゆくあの舟は、今夜の泊り場所は何處であるか、心細い有樣であるよ。
〔評〕 烟波縹渺の彼方に遠く薄れて見える山、それを目ざすやうに漕ぎ操つて行く小さな舟、その舟の行方を見送りつつ立つ旅人の思、淡々たる描寫の中に一脈の旅愁がほのかに搖曳して、時も處も違ふけれども、高市黒人の「いづくにか船はてすらむ安禮の崎こぎたみ行きし棚無し小舟」(五八)と共通した氣分がある。但「眉の如」といふ一片想像の美は、この歌に浪漫的な匂を添へ、全髄にそこはかとなき明るさを加へてゐる。氣品の高い歌である。
〔語〕 ○眉の如 遠山を美人の眉に比することは代匠記に引いた如く、玉京記に「卓文君眉色不v加v黛如v望2遠山1、時人效v之號2遠山眉1」とあり、その他の詩文にも見えるが、ここは必しもそれらの影響とのみはいへない。東歌にも「眉曳の横山邊ろ」(三五三一)とある。○雲居 雲のゐるところの空、即ち遙か天空の彼方。○かけてこぐ舟 目がけて漕いでゆく舟。
〔左註〕 船王 舍人親王の子で、神龜四年正月始めて從四位下となり、天平十五年從四位上、十八年彈正尹、天平賓字元年正四位下、同二年從三位に昇られた。同三年六月親王宣下を蒙り三品、四年信部卿、六年正月二品に進み、同八年十月藤原仲麻呂の反に坐して諸王に下され、隱岐に流された方である。
 
999 血沼回《ちぬみ》より雨ぞ零《ふ》り來《く》る四極《しはつ》の白水郎《あま》網手綱《あみたづな》乾《ほ》せり沾《ぬ》れ敢《あ》へむかも
     右の一首は、住吉の濱に遊覽《いでま》して、宮に還りましし時、道の上《ほとり》にて、守部王、詔に應へて作れる歌なり。
 
〔譯〕 血沼回の方から雨が降つて來る。四極の浦の漁夫は、網や綱を乾してゐるが、濡れてしまふであらうが、差支ないであらうか。
〔評〕 海の方から俄雨が來るのに、濱には網手綱が乾したままになつてゐる。それを氣遣つて詠んだので、海邊に於(386)ける都會人の印象であり、旅中のスケツチである。この種の寫實歌は、集中にも珍しいところで、一新生面を拓いたものといへるであらう。
〔語〕 ○血沼回 「血沼」は千沼、茅渟、陳奴などとも書く。今の和泉國泉北郡地方を中心に、和泉から攝津に亙る海岸。神武天皇東征の時、皇兄五瀬命が賊軍の爲に負傷せられ、この海に到つて御手の血を洗はれたので血沼の海と名づけたといふ地名起原傳説が古事記に載つてゐる。「み」は浦回、島回等の「み」で、あたり、めぐりの意。○四極の白水郎 「四極」は今の大阪東成區と中河内郡に亙る邊、喜連附近の丘陵地。「二七二」參照。「白水郎」の字面に就いては「二三」參照。○網手綱 網を曳く時の綱をいふ。○ぬれあへむかも ぬれても堪へられようかなあ、ぬれても大丈夫かとの意。「あふ」は堪へる、やりきれるの意。但ここは、網の耐水力をいふのではなく、漁夫の心もちである。
〔訓〕 ○網手綱 舊訓アミテナハ。略解は「網」を「綱」の誤字と見てツナデナハ、攷證は「綱」を「繩」の誤として舊訓の通りに訓み、その他誤字説や異訓區々であるが、文字通りアミタヅナとする代匠記の訓が最も穩かである。
〔左註〕 守部王は、皇胤紹運録によれば舍人親王の子。續紀に天平十二年正月無位より從四位下、同十一月從四位上を授けられたことが見える。
 
1000 兒らしあらば二人聞かむを沖つ渚《す》に鳴くなる鶴《たづ》の曉《あかとき》の聲
     右の一首は、守部王の作なり。
 
〔譯〕 妻が一緒に來てゐたならば、あの沖の洲のあたりで鳴いてゐる夜明方の鶴の聲を、二人で共に聞かうものを。
〔評〕 たださへものあはれな旅の宿りの曉、妻を呼ぶらしい鶴の聲に、結びもあへぬ夢を破られて、獨寢の憂愁をいやが上にも感じたのである。哀調しみじみと人の胸を刺すものがある。
(387)〔語〕 ○兒らしあらば 愛する妻が一緒にゐたならば。「兒ら」は若い女性をさす愛稱。「兒らが家路やや間遠し」(三〇二)「兒らが名に懸けの宜しき」(一八一八)など多く見えるが皆同意で、集中唯一例だけ、憶良の作(八九九)に子供の意に用ゐてをる。○沖つ渚に鳴くなる鶴 沖の洲で鳴いてゐるのだと思はれる鶴。
ますらをみかりをとめらあかもすそびはまび
1001 丈夫《》は御※[獣偏+葛]《》に立たし未通女等《》は赤裳《》裾引《》く晴き濱邊《》を
     右の一首は山部宿禰赤人の作なり。
 
〔譯〕 男子たちは、天皇の御狩のお供に立ち出でられ、若い女官たちは、赤い裳の裾を引いて、逍遙してをる。清い濱邊を。
〔評〕 赤人らしい、客觀に徹した作で、淡々と寫しながら、清らかな濱邊の情趣をただよはせてをるのは、さすがと思はれる。雄々しい侍臣と、あてやかな女官達とが鮮かな對照をなし、裾引いて歩む赤裳と濱の白砂とが、繪畫的な色彩の照應を示してをる。「清き」の一語も、非常に精彩を放つてをる。
〔語〕 ○御※[獣偏+葛]に立たし 「立たし」は「立つ」の敬語。
 
1002 馬の歩《あゆみ》おさへ駐《とど》めよ住吉《すみのえ》の岸の黄土《はにふ》ににほひて行かむ
     右の一首は、安倍朝臣|豐繼《とよつぐ》の作なり。
 
〔譯〕 馬の歩みをおさへ止めよ。旅の記念に、住吉の岸の黄土で着物を染めて行かう。
〔評〕 前出の車持千年の「白浪の千重に來寄する住吉の岸の埴生ににほひて行かな」(九三二)と、四五句が同樣である。一二句は、馬の轡をとる從者に呼びかけたものであらうが、旅の形見を愛する氣分を浮きたたせてをる。
〔語〕 ○岸の黄土に 「六九」參照。
(388)〔左註〕 豐繼 續紀に、天平九年二月外從五位下より從五位下となつた記事が見えるのみである。
 
    筑後守外從五位下|葛井連大成《ふぢゐのむらじおほなり》、遙に海人《あま》の釣船を見て作れる歌一首
1003 海《あま》をとめ玉求むらし沖つ浪|恐《かしこ》き海に船出《ふなで》せり見ゆ
 
〔題〕 葛井連大成 「五七六」參照。
〔譯〕 海人の少女が眞珠を求めに行くやうである。沖の浪がおそろしく立つてゐる海に、船出をしてゐるのが見える。
〔評〕 海人の少女の活躍は、都會人の眼には、今も昔も珍しい。殊に、都の女子が靜的で優雅であつた當時には、なほ更のことであつたらう。「沖つ浪かしこき海」はよく都會人の感じをあらはしてゐて、荒浪に舟を漕ぎ出す女への感歎の聲とも聞かれる。
〔語〕 ○玉求むらし 玉はここは鰒玉、即ち眞珠をさしてゐるものと思はれる。「らし」は一の根據をもつてする推量。○かしこき 恐ろしき。○船出せり見ゆ 「見ゆ」が終止形をうけることは「九二七」などにも見えた。
 
    ?作村主益人《くらつくりのすぐりますひと》の歌一首
1004 思ほえず來《き》ましし君を佐保川の河蝦《かはづ》聞かせず還《かへ》しつるかも
     右は、内匠大屬?作村主益人、聊飲饌を設けて、以ちて、長官佐爲王を饗せしに、未だ日|斜《くだ》つに及ばず、王既に遷歸りき。特に益人、厭かずして歸るを怜惜《をし》みて、仍りて此の歌を作れり。
 
〔題〕 ?作村主益人の傳は、左註に見えること以外は不明である。
〔譯〕 思ひもかけずお出で下さつたあなたであるのに、佐保川の河鹿の聲を聞かせずに、お歸ししてしまつたことで(389)あるよ。
〔評〕 「佐保河の清き河原に鳴く千鳥|蝦《かはづ》と二つ忘れかねつも」(一一二三)とあるやうに、佐保河の河鹿は有名であつたのであらう。佐保河のほとりに邸宅があつて、その河鹿の聲を自慢にしてゐる主人の姿が目に浮ぶ。
〔語〕 ○思ほえず 思ひがけなく。○來ましし君を 「を」は感動の助詞。「なるものを」の意。○河蝦 河鹿。「三二四」參照。
〔左註〕 内匠寮は、和名抄に「宇知乃多久美乃豆加佐」と訓んでゐる。神龜五年八月始めて置かれ、中務省に屬し、巧匠技巧のことを掌り、公事の舗設をも兼ね行ひ、頭一人・助一人・大允一人・小允二人・大屬一人・少屬一人等の官があつた。長官とあるのは内匠頭であらうが、佐爲王が内匠頭になられたことは續紀には見えない。大屬は佐官で、位は從八位上の役、佐爲王は、葛城王即ち橘諸兄の弟で、兄王とともに橘姓を賜つたことは、後出「一〇〇九」に見える。續紀によると、和銅七年正月無位より從五位下となり、以後累進して天平九年八月中宮大夫四位下で卒せられた。
 
    八年丙子夏六月、芳野の離宮に幸しし時、山部宿禰赤人、詔に應へて作れる歌一首并に短歌
1005 やすみしし 我が大王《おほきみ》の 見《め》し給ふ 芳野の宮は 山高み 雲ぞ棚引く 河はやみ 瀬の音《と》ぞ清き 神《かむ》さびて 見れば貴く 宜しなべ 見れば清《さや》けし この山の 盡《つ》きばのみこそ この河の 絶えばのみこそ 百磯城《ももしき》の 大宮所 止《や》む時もあらめ
 
〔譯) 安らかに天の下をみそなはす我が天皇が、御覽になるこの吉野の離宮は、山が高いので雲が棚引いてをり、河が速いので瀬の音がすがすがしい。山は神々しい姿をしてをり、見るとまことに尊く、川はこの地によく適してをり、(390)見ると清くさはやかである。もしもこの山の盡きる時があつたならば、もしもこの河の流の絶える時があつたならば、その時には、この離宮の宮殿のなくなることもあるであらう。
〔評〕 吉野の山河の悠久を以て、離宮を祝福し、御代の萬歳を祈つたのであつて、この種の典型をなすものである。平凡ではあるが、整然たる對句を持つ澄淡の手法は、精錬そのものといふ感がある。すでに多く詠まれて來た吉野であり、語句は約束のある頌歌であるから、内容の一般的なのは、止むを得まい。赤人の作に年代を記したのは、この天平八年六月をもつて最後とする。
〔語〕 ○めし給ふ 「めす」は「見る」に敬語助動詞「す」の添つたもの。「九七一」參照。○神さびて見れば貴く 山に就いていふ。○宜しなべ見れば清けし 河に就いていふ。「よろしなべ」(五二)參照。「さやけし」は、すがすがしいの意。
〔左註〕 續紀に「天平八年六月乙亥幸2于芳野1、七月庚寅車馬遷v宮。」とある。
 
    反歌一首
1006 神代より芳野の宮に在り通《がよ》ひ高知らせるは山河をよみ
 
〔譯〕 神の御代から、代々の天皇が、この吉野の離宮に絶えずお通ひになつて、此のところに高く宮づくりをあそばされたのは、山や川の景色のよさによるのである。
〔評〕 日常の談話のやうに平淡な歌である。儀禮の歌としてはこれで十分であつたらう。
〔語〕 ○神代より 「九〇七」の「神代ゆ定めけらしも」の「神代」と同じ意。○在り通ひ 「一四五」參照。○高知らせるは 宮殿を高くお構へになつたのは。
 
(391)    市原王|獨子《ひとりご》を悲しめる歌一首
1007 言問《ことと》はぬ木すら妹と兄《せ》ありとふをただ獨子《ひとろご》にあるが苦しさ
 
〔題〕 市原王は「四一二」參照。古くは王の子が一人なのを歎かれた歌とみてゐたが、最近は王の兄弟のない事を歎ぜられたものと見る新考の説が有力である。續紀によれば、市原王と能登内親王の間に二人の御子があり、能登内親王は、薨去の時から逆算して天平五年の誕生で、この時(天平八年)は僅かに四歳であられ、市原王も天平十五年に始めて無位から從五位下に敍せられたのであるから、この時は未だ弱年であつたと推察される。内親王を迎へられる以前に御子があつたとしても、自分がただ一人より子を持たぬと歎かれるにしては、あまり若年に過ぎるといふのがその理由である。從ふべきであると思ふ。
〔譯〕 物を云はぬ木でも、兄弟姉妹があるといふに、人間である自分が、兄弟姉妹もない、ただ獨子であるのが悲しいことである。
〔評〕 素朴な自然觀照が先づおもしろい。木の根もとから幾本も竝び出た蘖《ひこばえ》などを、兄弟姉妹と見たのは、上代人の幼いやさしい心である。尚、この歌は從來、市原王が獨子を持たれたと見る説が多かつたが、前述のやうに御自身に兄弟姉妹のないさびしみを歌はれたと見るが妥當である。
〔語〕 ○言問はぬ 「八一一」參照。○木すら妹と兄《せ》 妹と兄《せ》は、ここでは兄弟姉妹の意。夫婦の意ではない。木に兄弟姉妹ありといふのは、木のもとから、二またにも三またにも生ひ分れる意か、又は實などのおちて次々に生ふるものをいふかと見る代匠記の説、木に蘖《ひこばえ》あるのが、一本のみならず幾本ともなく生立つのを云ふのであらうとする古義の説がある。最後の説が比較的穩かである。
 
    忌部首《いみべのおびと》黒麻呂、友の※[?の余の下半が示]《おそ》く來るを恨むる歌一首
(392)1008 山の端《は》にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜は更《くだ》ちつつ
 
〔題〕 忌部首黒麿は、續紀によると、寶字二年八月正六位上より外從五位下に、三年十二月連の姓を賜ひ、六年正月内史局助となつた。「※[貝+余の八の下が示]」は「遲」に同じ。
〔譯〕 山の端にいさよふ月が今出るかと待つやうに、自分が待つてをる君が來られずに、夜は次第にふけて行く。
〔評〕 山の端にのぼつて來た月の實景を、序にとりあげたのである。月夜に友と會談するを樂しみに、二つながら待つ心もひそんでゐたのであらう。卷七に「山の末にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞくたちける」(一〇七一)とあり、この兩者の關聯については何ともいふことが出來ぬが、古今六帖・後撰集・綺語抄・袖中抄等に引かれてをる。
〔語〕 ○いさよふ月の 「いさよふ」は「二六四」「四二八」參照。「の」は主格助詞で「月がもう出るかと待つ如く」の意と見るべきである。○我が待つ君が この「が」は次の「夜」にかかるのでなく「來らず」などの略されてゐると見て、その主格を示す「が」とすべきである。
〔訓〕 ○我が待つ君が 白文「我待君之」で、或は漢語風に考へて、ワガキミマテルとよむべきか。
 
    冬十一月、左大辨葛城王等に、姓橘氏《たちばなのうぢ》を賜へる時の御製の歌一首
1009 橘は實《み》さへ花さへその葉さへ枝《え》に霜降れどいや常葉《とこは》の樹
     右は、冬十二月九日、從三位葛城王、從四位上佐爲王等、皇族の高名を辭して外家の橘姓を賜ふこと已に訖りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后宮にありき。以ちて肆宴を爲し、即橘を賀《ほ》く歌を作り給ひ、并に御酒を宿禰等に賜ひき。或は云ふ、此の歌一首は太上天皇の御歌なり。但天皇皇后の御歌各一首ありといへり。その歌|遺落《ウ》せて未だ探り求むることを得ず。今案内を檢ふるに、八年十一月九日、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表を上り、十(393)七日を以ちて、表の乞に依りて、橘宿禰を賜ひきといへり。
 
〔題〕 左大辨は、撤員令によると、中務・式部・治部・民部を管し、右大辨(七五九)と同樣に「掌d受2付庶事1、糺2判官内1、署2文案1、勾2稽失1、知2諸司宿直、諸國朝集1、」と見えてゐる。葛城王は、敏達天皇の玄孫、美努王の子で、續紀によれば、和銅三年正月初めて從五位下を授けられ、以後累進して、天平元年九月左大辨、三年八月參議、八年十一月橘宿禰を賜ひ、九年九月大納言、十年正月右大臣、十五年五月左大臣、十八年四月兼太宰帥、天平勝寶元年正一位、二年正月朝臣の姓を賜ひ、八年二月致仕し、天平寶字元年四月薨じた。即ち橘諸兄のことで、古く萬葉集の撰者に擬せられてゐる。なほ文中姓橘氏とあるのは、當時既に「かばね」に當る「姓」の字を「氏」の意に用ゐた證と思はれる。因に云ふ、橘の姓は王の母なる三千代がかつて賜はつたもの。三千代は美努王に嫁して、葛城王と佐爲王とを生み、美努王の薨後、藤原不比等の後妻となつて、光明皇后をお生みした夫人である。
〔譯〕 橘は、その實も、その花も、その葉も衰へることなく、その枝に霜がふつても、とこしへに彌榮えるめでたい樹である。
〔許〕 「さへ」の重用と、名詞で止めたこととが、一首の音樂的快感を増すことと、雄大な格調を一層確かにすることに、有效になつてゐる。帝王の御製として、まことにふさはしい。
〔語〕 ○實さへ花さへ 「さへ」は「副」で、までも、の意。この下に、賞すべきである、すぐれてゐる、などの意を省く。○いや常葉の樹 「いや」は一層、いよいよ、の意。常葉は常緑の意。
〔左註〕 十一月九日は、續紀に十一月丙戊(丙子の朔で十一日に當る)とあつて、二日の差があるが、傳の相違と思はれる。佐爲王は「一〇〇四」の左註に見えた。外家とは、前述のとほり、葛城王及び佐爲王の母、縣犬養宿禰東人の女、三千代のこと。太上天皇は元正天皇、皇后は光明皇后。肆は延ぶる意。案内は明かでないが、朝廷の記録で、(394)公布せられる文書の文案を記したものであらう。
 
    橘宿禰奈良麻呂、詔に應ふる歌一首
1010 奧山の眞木《まき》の葉|凌《しの》ぎ零《ふ》る雪の零りは益すとも地《つち》に落ちめやも
 
〔題〕 橘宿禰奈良麿 諸兄の長男、續紀によれば、天平十二年五月無位より從五位下を授けられ、以後、十三年七月大學頭、十八年三月攝津大夫、天平勝寶元年閏五月侍從、七月參議、四年十一月但馬因幡按察使、六年正月正四位下、天平寶字元年六月左大辨と累進したが、同月奈良麿が首謀となり、道組王等と共に藤原仲麿の專權を排し除かうとした企が露はれた。奈良麿の受けた刑罰については何の記載もないが、恐らく誅せられたものか。なほ續日本後記に、承和十年八月大納言從三位橘朝臣奈良麿に更に太政大臣正一位を追贈せられた由が見える。これは奈良麿が仁明天皇の外曾祖父にあたる故である。
〔譯〕 奧山の眞木の葉を押し伏せて寄る雪のやうに、年はつもつても、橘は土に落ちませうか。落ちはしませぬ。
〔評〕 諸兄卿の長男橘奈良麿が、一同に代つて、詔に應じ、御製に奉答したのであらう。格調高雅、氣格堂々たる作で、俊才の面影をうかがはしめるものがある。序は「奧山の菅の葉凌ぎ零る雪の消なげ惜しけむ雨なふりそね」(二九九・大納言大伴卿)「高山の菅の葉凌ぎ零る雪の消ぬとか言はも戀の繁けく」(一六五五・三國眞人人足)などと、類型の多い形である。しかし「菅の葉凌ぎ」がかぼそくて消え易い風情を浮べてゐるに反し、眞木の大木の葉を凌いで、大雪がふりしきる樣に云ひなしたのが、新しい趣を持つてをる。
〔語〕 ○奧山の眞木の葉凌ぎふる雪の 以上「ふり」の序「しのぎ」は押しふせて、押し靡かせての意。○ふりは益すとも 「ふり」は上からは降るの意でうけ、下へは、古くなりまさるともの意に續く。○地に落ちめやも 橘の常盤なることを一門の零落しないことに譬へたもの。
 
(395)    冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所《うたまひどころ》諸王臣子等、葛井連《ふぢゐのむらじ》廣成の家に集ひて宴せる歌二首
  比來《このころ》古※[人偏+舞]盛に興りて、古歳漸く晩れぬ。理宜しく共に古情を盡して、同じく此の歌を唱ふべし。故此の趣に擬へて、輙《すなはち》古曲二節を獻る。風流意氣の士、儻《もし》此の集《つどひ》の中に在らば、爭ひて念を發し、心々に古體に和へよ。
1011 わが屋戸《やど》の梅咲きたりと告げやらば來《こ》とふに似たり散りぬともよし
 
〔題〕 歌※[人偏+舞]所 和名抄に「宇多末比乃豆加左」とある。雅樂寮のこと。治部省に屬し、文武雅典正※[人偏+舞]及び雅樂男女の樂人、音聲人の名帳、典課を試練する事を掌る。大寶元年に設置され、天平三年雅樂生員を、唐樂生三十九人、百濟樂生二十六人等に改定せられた。諸王臣子等 諸王臣の子の意で、舞生をいふ。古※[人偏+舞] 古風の舞樂。古歳 新しき年に對し、古くなつた年の義で、今年をさす。題詞に十二月十二日とあることを思ふべきである。理宜しく 道理上からいへば。風流意氣の士 みやびの心深く意氣に感ずるの士。後出「一〇一六」左註參照。此の集 比の集宴、廣成の宴をさす。爭ひて念を發す 率先して意見を述べる。心々に古體に和へよ 各自の心々に古風な歌に和し唱へ。この題詞、古※[人偏+舞]、古歳、古情等、ことさらに古を重ねてゐる。
〔譯〕 自分の家の梅の花が咲いてゐると友に告げてやつたならば、見に來よといふと同じやうなものである。かう云うてやりさへすれば、花は散つてしまつてもかまはぬ。
〔評〕 まだ告げてはをらぬ。告げやらぬうちは安心がならぬが、告げてやれば、もう梅の花はどうなつてもかまはぬ。咲いたとさへ云うてやれば友はすぐに來るのであるから、といふのである。友が花を見に來ると確く信じて、結句を大まかに云ひ放つてゐるのがおもしろい。梅を愛する文人仲間の心理を穿つたところがある。古今集卷十四に「月夜よし夜よしと人に告げやらば來てふに似たり待たずしもあらず」とある。萬葉歌の結句の直截なのにくらべると、疑ひを含んだ細心な云ひざまになつてゐて、待つ人の心づかひが精緻にあらはれてをる。そこに、時代の相違が明かに(396)見うけられる。
〔語〕 ○來とふに似たり まるで來よといふやうである。○散りぬともよし もう散つてしまつてもよい、告げてやれば必ず友が來るであらう、といふ意を補つて解する。
〔訓〕 ○此の歌 「此」元暦校本の赭の校合に「古」とあり、これによる説もある(全釋)。
 
1012 春さらばををりにををり※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の鳴く吾が山齋《しま》ぞ止《や》まず通はせ
 
〔譯〕 春が來れば、枝も撓みにたわんで花が咲き滿ち、鶯がその枝に來て鳴くといふのが自分の庭であります。今から絶えず遊びにおいで下さい。
〔評〕 今は風情もないが、春を樂しみに、今から來るやうにと誘うたので、古雅な歌調である。
〔語〕 ○ををりにををり 「花咲きををり」(四七五)參照。枝が撓むまで花の咲くこと。○吾が山齋ぞ 「四五二」參照。○止まず通はせ 止むことなく常にお通ひなさい。
 
    九年丁丑春正月、橘少卿并に諸大夫等、彈正尹門部王の家に集ひて宴せる歌二首
1013 あらかじめ君|來《き》まさむと知らませば門に屋戸《やど》にも球《たま》敷《し》かましを
     右の一首は、主人門部王。 【後、姓大原眞人氏を賜へり。】
 
〔題〕 橘少卿 橘宿禰佐爲、即ち佐爲王。諸兄の弟の故に少卿と言つたものと思はれる。彈正尹は彈正臺の長官。彈正臺は、風俗を肅正し内外の非違を糺察するところ。門部王 「三一〇」參照。但、續紀には彈正尹になつたことは見えない。
〔譯〕 前以てあなたがおいでなさると知つてゐましたならば、門にも家にも珠を敷きならべませうものを。
(397)〔評〕 卷十一に「思ふ人來むと知りせば八重むぐらおほへる庭に珠敷かましを」(二八二四)とある。誇張は明かであつても、貴人に對して款待の足らぬ悔みをおほよそに云ふに適した、上品で機智のある表現である。それ故に、この後、左大臣時代の橘諸兄卿も次の如く詠んでゐる。「堀江には玉敷かましを天皇を御船漕がむとかねて知りせば」(四〇五六)「むぐらはふいやしき屋戸も大皇のまさむと知らば玉敷かましを」(四二七〇)。
〔語〕 ○知らませば 事實と反對することの假設。○門に屋戸にも 門にも屋戸にも、「蟲に鳥にも吾はなりなむ」(三四八)參照。
 
1014 前日《をとつひ》も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲《ほ》しき君かも
     右の一首は、橘宿禰|文成《あやなり》。 【即ち少卿の子なり。】
 
〔譯〕 一昨日も、昨日も今日もお目にかかりましたが、明日もまたお會ひしたく思ふなつかしいあなたであることよ。
〔評〕 なごやかで、すらすらとした歌詞の中に、輕い諧謔味をさへ盛つた作である。宴會和樂の情も偲ばれておもしろい。
〔左註〕 橘宿禰文成 註によれば佐爲王の子である。名は童蒙抄の訓のやうにアヤナリとすべきもの。なほ續記に「天平勝寶三年正月辛亥賜2丈成王甘南備眞人姓1」とあるは同名異人と思はれる。
 
    榎井王《えのゐのおほきみ》、後に追ひて和ふる歌一首
1015 玉敷きて待たましよりは不意《たけそか》に來たる今夜《こよひ》し樂《たの》しく念《おも》ほゆ
 
〔題〕 榎井王は、續紀によれば、寶字六年正月無位より從四位下となり、六月卒せられた。元暦校本などの註によれば、志貴皇子の御子とあり、無位より從四位下に敍せられた事實を見ると、信ずべきものと思はれる(代匠記)。
(398)〔譯〕 あなたが玉を敷いて待つてをられるよりも、不意に自分らが遊びに來た今宵の方が、はるかに樂しく思ほれます。
〔評〕 橘少卿等の心になつて、門部王の歌に答へるやうに詠んだものである。かかる機智のあるこたへの歌を、その宴席の人が思ひつかなかつたのは惜しいことである。
〔語〕 ○待たましまりは 門部王の歌の「またましものを」を受けて、それよりはかへつて、といふ氣持を出した。待つてゐられるよりは、の意。○たけそかに 他に所見がない語で明かでない。「たけ」は「たけき」で「そか」は「おろそか」「おごそか」の「そか」などのごとく添へたる語(代匠記)「たけ」は待ち望む意味の「たかたか」(七五八)に同じ「そか」は「おろそか」の意(略解)「たけ」は「彌舟たけ」(一二六六) の「たけ」の如く凌礫の意で、おしかけて凌ぎ來る意(信濃漫録)「たまさか」に同じ(攷證)不意にの意(古義)等の諸説があるが、前後の關係からいへば、最後の二説が穩かである。
 
    春二月、諸大夫等、左少辨|巨勢宿奈麿《こせのすくなまろ》朝臣の家に集ひて宴せる歌一首
1016 海原の遠き渡《わたり》を遊士《みやびを》の遊ぶを見むとなづさひぞ來《こ》し
     右の一首は、白き紙に書きて屋《いへ》の壁に懸け著けたり。題して云ふ、蓬莱の仙媛が化れる所の嚢蘰《かづら》、風流秀才の士の爲にす。斯《こ》は凡客の望み見る所ならざらむか。といへり。
 
〔題〕 巨勢宿奈麿は、續紀によれば、神龜五年五月正六位下より外從五位下に、天平二年二月少納言、三月從五位下、五年三月從五位上とあり、以後記事が見えない。
〔譯〕 私は、海原の遠い船路を越えて、風流な人々の遊ぶさまを見ようと思ひ、苦しみに耐へつつ渡つて來たのであります。
(399)〔評〕 この歌は、左註により、仙女が作つたものに擬してをることが分明になる。蓬莱の國から、はるばる航海して來たの意が、一首全體の背景をなしてをるのであらう。神仙思想が盛に行はれてゐた時代を語るにふさはしく、蓬莱・仙女などが、當時の文人の想像生活を豐かにしてゐたことが察せられる。
〔語〕 ○わたり 航路の意。○遊士 「一二六」參照。○なづさひぞ來し 「五〇九」參照。ここでは、苦しんで來た、の意。○嚢蘰 解し難い語であつて、誤字説もあるが、西本願寺本などの仙覺本に「所嚢蘰《ノムスブカツラ》」と訓があるから、これによつて「かづら」と訓んでおく。○風流秀才の士 前出「風流意氣の士」(一〇一一)參照。○凡客 世俗平凡なる人の意。代匠記初稿本書入の訓にタダウドとある。しかよまばタダビトである。
〔訓〕 ○化れる所の 白文「所化」は元暦校本、類聚古集による。通行本及び他覺本系統に「化」がなく、古葉略類聚鈔、細井本は「作」とある。○嚢蘰 代匠記に「嚢」は貴の誤。略解所引春海説は「作」のあるを可とし「嚢」は「焉」の誤「焉」は「謾」の誤とする。
〔左註〕 右の一首は、白い紙に書いて家の壁にかけてあつた。その歌の上に題してあつた詞に曰く「蓬莱の仙女が化したところの此の蘰は、風流秀才の士の爲にとしたのである。これは普通平凡の輩には見えないであらう。」
 
    夏四月、大伴坂上郎女の賀茂神社を拜み奉りし時、便に相坂《あふさか》山を超え、近江の海を望み見て、晩頭還り來て作れる歌一首
1017 木綿疊《ゆふだたみ》手向《たむけ》の山を今日|超《こ》えていづれの野邊に廬《いほり》せむ吾等《われ》
 
〔題〕 賀茂神社は、延喜式神名帳に、「山城國愛宕部賀茂別雷神社、賀茂御祖神社二座」とある。今の京都市なる上賀茂・下賀茂兩神社。相坂山は、音羽・比叡山の間にあつて近江と山城の境。大化二年の詔に、畿内の北の境を近江|狹々波《ささなみ》合坂山とする由が見える。今は近江滋賀郡に屬してをる。
(400)〔譯〕 手向山を今日超えて、何處の野に廬をつくつて今夜は旅寢をしよう、私は。
〔評〕 旅に行き暮れた心細さが、かすかな哀音をおびた詞の中に、女性らしく現はれてをる。これより先(天平八年六月)遣新羅使中の一人が詠んだ作に似た歌がある。「大伴の御津に船乘りこぎ出てはいづれの島にいほりせむ我」(三五九三)。
〔語〕 ○木綿疊 「三八〇」參照。ここは枕詞。木綿を疊んで幣とし神に手向ける意で「手向山」につづく。○手向山 ここは相坂山の峠をいふ。古昔、山坂の峠を通過する時には、その地を領ずる荒ぶる神に手向をする信仰があつたので、この地名は諸處に存してをる。「三〇〇」參照。
〔訓〕 ○吾等 元暦校本などに「吾等」とあるに對し、西本願寺本、通行本などは「子等」とある。前者の方が、穩かに思はれる。
 
    十年戊寅、元興寺の僧の自ら嘆ける歌一首
1018 白珠《しらたま》は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾し知れらば知らずともよし
     右の一首は、或は云ふ、元興寺の僧、獨覺めて智多けれども、未だ顯れ聞ゆるところあらず。衆諸、狎れ侮りき。此に因りて、僧此の歌を作りて、自ら才を嘆けりと。
 
〔題〕 元興寺「九九二」參照。
〔譯〕 白珠は、人には知られない。知られなくてもかまはぬ。よしや人が知らなくとも、自分でそのほんたうの價値を知つてゐさへすれば、他人は知らないでもよい。
〔評〕 左註によると、この歌は、元興寺のある僧が、才能學識に秀でながら世に顯はれず、諸人の侮りかろしめるところとなつてゐた。僧はこの歌を作り、孤高の悲哀を述べたものである。一種老莊思想の影響を思はせるところはあ(401)るが、虚無なる自嘲に墮してはゐない。白珠と自ら誇る一面には「し」音の頭韻に樂しむおもしろさがある。元興寺は荒廢して、今はただ塔の礎石を殘すのみであるが、この一首は永久に人の心に殘つて、無量の感慨を呼びをこさしめることであらう。
〔語〕 ○白珠 鰒白玉、即ち眞珠をさすものと思はれる。自らの才能を譬へてゐる。○知らえず 知られず。○知らずともよし 人が知らなくてもよい。○吾し知れらば 知つてゐるならば。
〔左註〕 狎れ侮りき あなどるの意。「狎」は諸本に「押」とあり、狎に通ずるといふ説(攷證)と、押は狎の誤とする説(代匠記精撰本)とがある。
 
    石上乙麿卿、土佐國に配せらえし時の歌三首并に短歌
1019 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の尊《みこと》は 手弱女《たわやめ》の 惑《まどひ》に縁《よ》りて 馬じもの 繩取り附け 鹿猪《しし》じもの 弓矢|圍《かく》みて 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 天離《あまざか》る 夷邊《ひなべ》に退《まか》る 古衣《ふるごろも》 又打《まつち》の山ゆ 還《かへ》り來ぬかも
 
〔題〕 石上乙麿 「三七四」參照。續紀に「天平十一年三月庚申、石上朝臣坐v?2久米連若賣1、配2流土佐國1、若賣配2下總國1焉。」とあるが、萬葉集では天平十年の歌の中にあるのは如何であらうか。なほ乙麿は、十三年九月大赦に會つたらしく、十五年には從四位上となつてゐる。
〔譯〕 石上の布留の殿樣は、女の迷ひによつてよくない事があつたので、馬のやうに繩をつけられ、まるで獣のやうに弓矢を持つた武士にとり圍まれつつ、天子さまの仰言が恐多いによつて、都からは遠い田舍へとまかり流されなさる。何とぞして、あの待乳山の邊から、歸つておいでにならないかなあ。
〔評〕 この歌は、その表現が幼く露骨な點から見て、乙麿に同情した當時の庶民階級の人が作つたものと思はれる。(402)乙麿が必ずしも繩つきの姿で配流されたとは思へないが、この事件が非常に世人の耳目を衝動したので、かうした通俗の民謠が流行したのであらう。
〔語〕 ○石上布留の尊 代匠記は、由緒深い石上布留の社と重代の石上氏とを言ひよせたものとし、新考は、もともと石上氏とは石上布留氏の異稱であるとしてゐるが、これは當時口慣れてゐた「石上布留」の語感から「石上乙麿の尊」といふべきところを「石上布留の尊」とあやを用ゐたのであるとする總釋の説に從ふべきである。「尊」は單に敬稱で樣《さま》といふほどの意で、正倉院文書に例が多い。○手弱女の惑によりて 手弱女はたをやかな女、題詞の註に説いた久米連若賣のこと。續紀によれば、天平十二年六月若賣は大赦によつて京に召されたが、乙麿はこの時は赦されず、翌年歸京した。久米若賣は寶龜十一年六月散位從四位下で卒した人で、藤原宇合の妻、百川の母である。宇合が當時權勢の人であつた爲、かかる嚴罰に會つたのであらう。○馬じもの 「じもの」は「鴨じもの」(五〇)參照。馬の如くに、の意。ここは枕詞といふよりも次の句の形容とみるべきもの。○繩取り付け 馬に繩をつけるやうに、罪人を繩で縛る意。○弓矢|圍《かく》みて 弓矢で圍《かこ》んで、武装して警りかため、の意。○夷邊に退る 「まかる」は退くの意。都から田舍へ、宮中から外へなどの時に用ゐる。○古衣 枕詞。古い衣を洗ひ張り、砧などで打つ意で、又打山に續く。○歸り來ぬかも 歸つて來ないかなあ。「常ならぬかも」(九二二)參照。
 
1020・1021 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み さし竝《なら》ぶ 國に出でますや 吾が背の君を 懸《か》けまくも ゆゆし恐《かしこ》し 住吉《すみのえ》の 現人神《あらひとがみ》 船《ふな》の舳《へ》に 領《うしは》き賜ひ 附《つ》き給はむ 島の埼埼《さきざき》 依《よ》り賜はむ 磯の埼埼 荒き波 風に遇《あ》はせず 草づつみ 疾《やまひ》あらせず 急《すむや》けく 還し賜はね 本の國邊に
 
〔譯〕 大君の仰言のかしこさに、海を隔ててこの紀伊の國と竝んでをる土佐の國に流されてゆかれる乙麿さまよ、詞にかけていふのも憚り多く恐れ多いことではあるが、住吉の神は、現はに姿を示し給ふ神であらせられ、船の舳に御(403)鎭まりあそばされ、この船がお着きになる島の岬々、お寄りになる磯の崎々で、荒い波風にお遇はせ申すことなく、病にもおかかりなさらず、速かにお歸りなさいませ、この本國へ。
〔評〕 これも、前の歌と同じく時の人の同情して詠んだ歌であるが、前の歌からみると、遙かに想像的になつてゐて、教養のある作者の手になることを思はしめる。しかし、天平五年入唐使に贈れる歌(四二四五)の「吾がせの君を」以下に辭句が殆ど同一であつて、内容から考へても、海の守護神住吉の神に對する祝詞のやうな性格がうかがはれ、實際に謠はれたことと思はれる。
 なほ此の長歌は、古人が誤まつて、初めの「おほきみのみことかしこみさしならぶ國にいでますや吾背の君を」といふところまでを一首の短歌とし、前の「一〇一九」の反歌と誤り見なした。その誤を國歌大觀が襲ひ用ゐて「一〇二〇」と「一〇二一」の二つの番號を附した。誤はよくないが、國歌大觀が索引として廣く行はれてをるので、そのまま一首の長歌の上に二つの番號をつけておくのである。
〔語〕 ○さし竝ぶ 「さし」は「さしのぼる」の「さし」に同じで、唯、竝び存するといふ程の意。紀伊から土佐へ行く途中と思はれるから「さしならぶ國」は、紀伊と竝ぶ土佐の意であると思はれる。阿波國などで詠まれたもので、紀伊としては向ふといふべく、竝ぶにはふさはしくないとする説(攷證)は從ひ難い。「一七三八」參照。○國に出でますや吾が背の君を 「や」は調子をととのへるための助詞。「を」は「還し賜はね本の國邊に」へつづく。○懸けまくもゆゆし恐し 「一九九」參照。○住吉の現人神 住吉の神は古事記上卷に「其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱神者墨江之三前大神也」とあり、日本書紀神功皇后の卷にも、航海を守護し給ふことが詳しく見える。現人神は、あらはに人となつて現はれ出で給ふ神の意で、和名抄に「安良比止加美」とある。攝津風土記に「昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出巡2行天下1」云々とある。○うしはき賜ひ 「うしはき」(八九四)參照。○草づつみ この枕詞は他の集にも用例が全く見あたらない。「つつみ」は愼みの意であらうが、草の意は明らかでない。誤字説も(404)あるが、未た首肯し難い。○疾あらせず 疾あらしめず。
〔訓〕 ○さし竝ぶ 白文「刺竝」は元暦校本、紀州本などによる。通行本及び仙覺本系にはこの下「之」がある。舊訓は「之」のあるのによつてサシナミシ、他の多くは、代匠記精撰本のサシナミノに依つてゐた。元暦校本・細井本等のサシナラベに基いて、サシナラブの新訓を得た。○草づつみ 白文「草管見」で「草」を「莫」の誤とする玉勝間・攷證の説に從ふ説も多い。○本の國べに 白文「本國部爾」で、舊訓のまま。モトツと訓む略解等はよくない。集中に「毛等能國家」(四二四五)ともある。
 
1022 父公《ちちぎみ》に 吾は愛子《まなご》ぞ 妣刀自《ははとじ》に 吾は愛兒《まなご》ぞ 參上《まゐのぼ》る 八十氏人《やそうぢびと》の 手向《たむけ》する 恐《かしこ》の坂に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 吾はぞ退《まか》る 遠き土佐|道《ぢ》を
 
〔譯〕 父君にとつて自分は可愛いい兒であつた。母君にとつても自分はかはいい兒であつた。さういふ自分であるのに、都へ參り上る多くの官人たちが、無事を祝ひ幣を手向けて通る恐《かしこ》の坂に、自分は、幣を奉つて都を離れて行くのである、ああ、遠い土佐路なるものを。
〔評〕 この歌と次の反歌とは、乙麿の作つたものか、或は乙麿の心もちになりかはつて詠んだものであらうか、いづれにしても切々の情があふれてをる。父母の愛兒であつた身は、家の名をも揚げ興すべきであるものを、かやうな忌はしい罪に觸れてしまつた、といふ悲痛な慨歎が、簡潔な詞句にこめられてをる。同じく幣を手向ける恐の坂に於いて、「まゐのぼる」八十氏人と「まかる」自分とを對照したところが、まことにあはれである。來るもの、去く者、峠の神は、黙して語らない。
〔語〕 ○まな子 愛兒の意。○妣刀自に 刀自は家事を司る婦人の意。「吹※[草がんむり/欠]刀自」(二二)參照。○參上る 地方から都へ參上する。○恐の坂 天武紀に見える懼坂は、大和から河内への道で、土佐道のとは異なる。紀伊のうちの地(405)名であらう。うしはく神の神威の恐ろしい坂の意で、一般的な地名である。○遠き土佐路を 「を」は間投助詞の「を」で「なるものを」の意(古義)。
〔訓〕 ○手向する 白文「手向爲」は、元暦校本、細井本による。通行本その他、この下に「等」のある本が多い。○退る 諸本「追」とあるが通じ難く、上句の「參上る」に對せしめて暫く「退」の誤字とする考の説に從ふ。
 
    反歌一首
1023 大埼の神の小濱《をばま》は狹《せば》けども百船人《ももふなびと》も過《す》ぐといはなくに
 
〔譯〕 大崎の神の小濱は、狹い所ではあるけれども、その景色のよさに、多くの舟人も、むなしく通り過ぎはしないといふものを。
〔評〕 風光さへも心のままに愛で賞することが出來ず、あわただしく過ぎて行く流罪の身の悲哀が、古雅な詞調と相映じてあはれが深い。
〔語〕 ○大埼の神の小濱 大埼は紀伊國海草郡で、和歌浦の南にあたる。神の小濱とは、その附近に伊太岐曾の神の社があつて、その神の領ぜられる濱の意。神のまもります濱、神のいます濱、の義である。○過ぐといはなくに 通り過ぎるとはいはない事であるのに、停まり賞する處なるに、の意。下に、然るに自分は留まらず、土佐の國に行く、の意を含めてゐる。
 
    秋八月二十日、右大臣橘家に宴せる歌四首
1024 長門《ながと》なる沖つ借島《かりしま》奧まへて吾が念《も》ふ君は千歳にもがも
     右の一首は、長門守|巨曾部《こそべ》對馬朝臣。
 
(406)〔題〕 右大臣橘家は諸兄の家で、諸兄は天平十年正月十三日右大臣となり、同十五年五月五日左大臣に轉じた。
〔譯〕 長門なる沖の借島のそれではないが、心の奧深く自分がなつかしく思うてをるあなたは、千歳も長いきをなさいますやうに。
〔評〕 自己の任地なる長門の地名を序に用ゐたもので「淡海の海おきつ島山おくまへて我が念ふ妹が言の繁けく」(二七二八)など、類型といふべき表現法である。
〔語〕 ○長門なる沖つ借島 同音の反覆により、「奧」にかける序。借島は、長府の沖とも、江崎の沖とも、鶴江台附近とも、見島のことともいふ。所在は明かでない。○奧まへて 心の奧に深く。
〔左註〕 巨曾部對馬 續紀に「天平四年八月丁酉、山陰道節度使判官巨曾部津島授2從五位下1」とあるのみで、その他は詳でない。
 
1025 奧まへて吾を思へる吾が背子は千年|五百歳《いはとせ》在りこせぬかも
     右の一首は、右大臣の和《こた》ふる歌なり。
 
〔譯〕 心の奧深く自分を思つてをられるあなたは、五百年も千年も生き榮えてもらひたいなあ。
〔評〕 贈られた歌の言葉をとつて、巧みに相手を祝つて返したもの。
〔語〕 ○吾が背子 巨曾部對馬をさす。男から男をさしてもいふ。○ありこせぬかも あつてもらひたいの意。「一一九」參照。
 
1026 百磯城《ももしき》の大宮人は今日もかも暇を無みと里に出でざらむ
     右の一首は、右大臣傳へ云ふ。故豐島采女《もとのてしまのうねめ》の歌なりと。
 
(407)〔譯〕 大宮人は今日もまあ、暇がないからとて、御所の外に出ないのでせうか、
〔評〕 今日お忙しくて、宴會においでがないのであらう、の意。親しい人の宴會に來なかつたのを惜しんだのである。「今日もかも」に詠嘆があらはれてをる。
〔語〕 ○百磯城の 枕詞。「二九」參照。○暇を無みと 暇がないからとて。○里に出でざらむ 里は、宮中以外を指す。
〔訓〕 ○出でざらむ 白文「不出將有」の「出」は類聚古集、古葉略類聚鈔による。通行本等には「去」に作る。
〔左註〕 豐島采女は傳不詳。和名抄に見える「攝津國豐島(天之萬)」或は「武藏國豐島(止志未)」のいづれかから出た采女である。なほこの左註の意味について、豐島采女がこの宴席上で誦したものとする説と、采女の死後或は宴後、諸兄が家持に傳へたものといふ説(代匠記・古義)とがあるが、宴席で諸兄が豐島の采女の作として客に傳へたものとみる説(新考)に從ふべきものと思はれる。
 
1027 橘の本《もと》に道|履《ふ》み八衢《やちまた》にものをぞ思ふ人に知らえず
     右の一首は、右大辨高橋安麻呂卿語りて云ふ、故の豐島采女の作なりと。但、或本に云ふ、三方沙彌、妻苑臣に戀ひて作れる歌なりと。然らば則、豐島采女、當時當所此の歌を口吟《くちずさ》めるか。
 
〔譯〕 橘の木の下の道をふんで八衢に行き迷ふやうに、いろいろと物思ひをいたします、人には知られないで。
〔評〕 私は橘家の宴會に出まして、人知れず思ひをこがしてをりますの意を通はせたもの。三方沙彌の「橘の蔭ふむ路《みち》の八衢《やちまた》にものをぞ思ふ妹に逢はずて」(一二五)との關係は左註にもあるやうに切り離しがたいものがある。この宴會の席上に采女のひそかに思つてゐる人があるかのやうに、おもしろげに詠みなしたのである。街路樹の橘を、ここでは橘家の意に通はしたので、采女の機智は稱すべきであらう。
(408)〔語〕 ○橘の本に道履み八衢に 前掲「橘の蔭ふむ路の八衢に」(一二五)參照。○人に知らえず 人に知られず。
〔左註〕 高橋安麿、續紀によれば、養老二年正月正六位上より從五位下となり、以後宮内少輔、宮内大輔、持節副將軍を經て、天平二年閏正月正五位下勲五等となり、天平四年九月右中辨、九年九月正五位上、十年正月從四位下、十二月太宰大貳となつた由が見える。ここには右大辨とあるが、右に示したやうに右中辨の筈なのに、萬葉集の誤傳か、或ひは續紀の脱落か、いづれとも定めかねる。
 
    十一年己卯、天皇|高圓野《たかまとのの》に遊※[獣偏+葛]しましし時、小き獣堵里の中に泄れ走りき。是《ここ》に適《たまたま》勇士に値ひて生きながら獲《え》らえぬ。即ち此の獣を以ちて御在所に獻上《たてまつ》るに副へたる歌一首 【獣の名、俗にむささびと曰ふ。】
1028 ますらをの高圓山《たかまとやま》に迫《せ》めたれば里に下《お》りける?鼠《むささび》ぞこれ
     右の一首は、大伴坂上郎女 之を作れり。但、末だ奏を經ずして小き獣死し斃れぬ。此《これ》に因りて歌を獻ることは之を停めき。
 
〔題〕 天皇 聖武天皇。堵里 堵は都に通じ用ゐる。泄れ走り 洩れて逃げる。むささび 「二六七」參照。
〔譯〕 男子たちが高圓山で攻め立てましたので、里に下り來て捕へられた?鼠でございます、これが。
〔評〕 詞調輕快。卷二十卷頭に、元正天皇御製に「あしひきの山行きしかば山人の朕《われ》にえしめし山づとぞこれ」(四二九三)とあるのは、型がよく似てをる。
〔語〕 ○ますらをの 「の」は主格助詞。○迫めたれば 攻め立てたので。
〔訓〕 ○堵里 「堵」は元暦校本、大矢本など「都」に作る。意は同じ。
 
    十二年庚辰冬十月、太宰少貳藤原朝臣|廣嗣《ひろつぐ》、反を謀り軍を發《おこ》せるによりて、伊勢國に幸《いでま》しし時、河口の(409)行宮《かりみや》にて内舍人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌一首
1029 河口の野邊に廬《いほ》りて夜の歴《ふ》れば妹が袂しおもほゆるかも
 
〔題〕 藤原廣嗣は宇合の長子で式家の嫡子、績紀によれば、十年四月從五位下で養コ守となり、同十二月太宰少貳に左遷せられた。當時藤原氏は南家の豐成は參議從四位で獨り公卿であつたが、その他は未だ勢力がなく、朝廷では僧玄※[日+方]、及び吉備眞備が寵をうけ頓に勢力があつた。十二年八月廣嗣は上表して、眞備・玄※[日+方]を除かんとして容れられず、九月遂に兵を起した。朝廷では直ちに兵を遣はして討たしめられ、廣嗣は十一月一日遂に松浦郡に斬られた。此の間、聖武天皇は伊勢行幸の事を仰せ出され、十月廿九日御發駕、此の日山邊郡竹谿村堀越頓宮に到着され、三十日伊賀國名張郡に、翌十一月一日伊賀國安保頓宮に、二日に伊勢國壹志郡河口頓宮に到られ、ここで十日間御滯在あらせられた。その間に廣嗣捕獲の報が到つた。十二日ここを發して、以後鈴鹿郡赤坂頓宮、朝明郡・桑名郡を巡行あそばされ、美濃國當伎郡・不破郡を經て、近江の國に到り、十二月十五日に到つて恭仁宮に行幸せられた。なほ内舍人大伴宿禰家持と記されたのはこの時が始めで、家持はこの時二十三歳であつた。
〔譯〕 河口の野に假廬をつくり、ここに幾夜も經たので、枕にした妻の袂が思はれることである。
〔評〕 前出赤人の「印南野の淺茅おしなべさぬる夜のけ長くあれば家し偲はゆ」(九四〇)に似て、感情があらはになつてゐるのは、作者の若さを語つてをる。續紀によると、此處に十日も駐輦あらせられたので「夜の歴れば」の句が實感として讀む人の心に迫るのである。妹は坂上大孃を指すのであらう。
〔語〕 ○河口 上記の河口行宮の地で、關があつたから關宮とよばれた。岫田關ともいはれる所、催馬樂の「河口」で「河口の關の荒垣や」云々とうたはれてをる。○夜の歴れば 幾晩もたつたので。
 
    天皇の御製の歌一首
 
(410)1030 妹に戀ひ吾《あが》の松原見わたせば潮干の潟に鶴《たづ》鳴き渡る
     右の一首は、今案ふるに、吾の松原は三重郡にあり。河口の行宮を相去ること遠し。若し疑はくは朝明《あさけ》の行宮におはしましし時、製《つく》りましし御歌にて、傳ふる者、之を誤れる歟。
 
〔譯〕 吾の松原から見渡せば、折しも潮の干た潟で、鶴が鳴いて飛んでをる。
〔評〕 平明にしてしかも堂々たる格調があり、帝王の風韻をそなへた御作であるが、集中には類型の多い歌である。天平二年冬十一月の三野石守の作に「我が夫子を我が松原よ見渡せば海人《あま》をとめども玉藻刈る見ゆ」(三八九〇)がある。
〔語〕 ○妹に戀ひ 枕詞。妹に戀ひ吾がゐるの意。或は字を隔て「待つ」にかかるものとも思はれる。前掲「三八九〇」の場合は後者である。○吾の松原 今明かでない。誤字説もあるが、左註に從つて三重郡の地名と見るべきである。全釋は左註三重郡は誤で、今の津市附近の安濃松原かといつて居り、古義は大安寺伽藍縁起資財帳に「伊勢國三重郡赤松原」とあるのを當ててゐる。
〔訓〕 ○吾の松原 白文「吾乃松原」で、略解所引の宣長説は「乃」を「自」の誤とする。舊訓ワガノマツバラ、考アゴノマツバラと訓み、志摩國英虞郡の松原とする。前掲の宣長説や古義は誤字とし、アガマツバラユ、アガマツバラヨとし、「吾が背子をあが松原よ見渡せば」(三八九〇)の如く、何處にもあれ、ただ松原よりの意で、地名にあらずといつてゐる。童蒙抄によつた。
〔左註〕 三重郡 今の四日市附近、朝明郡は四日市の北方朝明川の兩岸の地で、明治以後三重郡に併合された。
 
    丹比屋主眞人《たぢひのいへぬしのまひと》の歌一首
1031 後《おぐ》れにし人を思《しの》はく拘泥《しで》の埼|木綿《ゆふ》取り垂《し》でてさきくとぞ念ふ
(411)     右は、案ふるに、此の歌は此の行の作にあらざるか。然いふ所以は、大夫に勅して、河口の行宮より京に還らしめ、從駕《おほみとも》せしむることなし。何ぞ思泥《しで》の埼を詠《なが》めて歌を作ることあらむや。
 
〔題〕 丹比屋主眞人は、續紀によれば、神龜元年二月正六位上より從五位下に、天平十七年正月從五位上に、十八年九月備前守、二十年二月正五位下、天平勝寶元年閏五月左大舍人頭に任ぜられた。なほこの頃官位の同じ程度の人に多治比眞人家主といふのがあり、この行幸の際、赤坂頓宮で從駕の人に敍位があつたのに、その中に屋主の名は見えず、家主の名が見えるので、古くは、家主と屋主とは同人(代匠記)屋主は家主の誤(古義)などの説があるが、やはり別人である。
〔譯〕 後に殘して來た人を戀しく偲んでをることである。それゆゑ、四泥の埼で木綿をとり垂らして神を祭りつつ、妻の無事を祈らうと思ふ。
〔評〕 簡捷達意に云ひ放つたところに、男性らしい眞心が籠つてをる。家なる妻の無事を祈る心は、旅なる我が身のつつがないことを願ふ心であらう。
〔語〕 ○後れにし人をしのはく おくれにし人は都に殘つてゐる妻のこと。しのはくは、偲んでゐることよ、の意。ここで句切と思はれる。○四泥の埼 延喜式神名帳に伊勢國朝明郡志?神社とある。今の四日市の北、羽律の濱。○木綿取り垂でて 「しで」は古事記に「於2下枝1取2垂白丹寸手青丹寸手1」とある註に「訓v垂云2志殿1。」とある。木綿を取りかけて垂らすの意。○さきくとぞ念ふ 妻の無事を祈る意。
〔訓〕 ○さきく 白文「好往」の「好」は通行本及び仙覺本はすべて「將」に作り 古葉略類聚鈔を除く仙覺以外の傳本は、元暦校本はじめ「好」となつてゐる。又「往」は諸本いづれも「住」となつてをり「スマム」とよんでゐるが、意が通じ難いので「將待」の誤か(代匠記)或は「將往」(ユカン)の誤か(童蒙抄)等といはれてゐる。「好(412)住」としても訓めぬ事はないが、暫く古義の「好往」に從ふ。○此の行 元暦校本、類聚古集などによる。通行本及び仙覺系諸本はこの下に「宮」の字がある。
〔左註〕 事駕は河口行宮から、壹志、赤坂を經て朝明に至つたのであるが、河口行宮から京へ歸つた屋主が朝明郡の四泥の埼を詠ずる筈がないといふので、屋主が京に歸された事は續紀には見えないが、この左註を否定すべきほどの根據もなく、信じてよいと思はれる。
 
    狹殘《さざ》の行宮にて大伴宿禰家持の作れる歌二首
1032 天皇《おほきみ》の行幸《いでまし》の隨《まに》吾妹子が手枕《たまくら》纒《ま》かず月ぞ歴《へ》にける
 
〔題〕 狹殘行宮の所在不詳。代匠記は續紀に「從2河口1發到2壹志郡1宿。」とあるのを「壹志郡狹殘行宮」の脱とし、荒木田久老はサザムと訓み、神名帳の多氣郡佐々夫江神社の地としてゐる。前者は推測に止まるし、後者は「殘」の訓に疑問がある。猶考ふべきである。
〔譯〕 天皇の行幸のまにまにお供をし、自分の妻の手枕をせずに、月がたつたことである。
〔評〕 都に近い内亂といふ大事件に際し、新婚の妻を殘して、行幸の駕に從つた家持は、旅寢の夜を重ね、つひに月を歴たのである。ありのままの詠嘆もあはれに人の心をうつ。
〔語〕 ○天皇の行幸の隨 「五四三」參照。
〔訓〕 ○天皇 元暦校本など「すべらぎ」通行本はスメロギ、略解の一訓・古義による。○隨 略解による。元暦校本などのマニマも棄て難い。通行本ママニ。
 
1033 御饌《みけ》つ國|志摩《しま》の海人《あま》ならし眞熊野《まくまの》の小船《をぶね》に乘りて沖邊こぐ見ゆ
(413)〔譯〕 大君の供御を奉る國として知られた志摩の海人であらう。熊野型の小船に乘つて、沖のあたりを漕いでゐるのが見える。
〔評〕 赤人の「朝なぎに楫の音聞ゆ御饌つ國野島の海人の船にしあるらし」(九三四)と構想の上に似通つたものがある。唯、赤人の作には、明石海峽のあたりの内海にふさはしい朝凪の靜けさがあるが、家持のこの歌には遠州灘から熊野灘へかけての外洋に出漁する壯快なさまが眼に浮ぶ。
〔語〕 ○御饌つ國 枕詞とするよりも、文字通り天皇の供御を奉獻する光榮の國、と解した方がよい。前出「九三四」參照。○眞熊野の小船 熊野風の船。小船といつても必ずしも極めて小さい舟の意ではない。「九四四」參照。
〔訓〕 ○眞熊野之 通行本ミクマノノ。元暦校本等マクマノノ。
 
    美濃國|多藝《たぎ》の行宮《かりみや》にて大伴宿禰|東人《あづまひと》の作れる歌一首
1034 古《いにしへ》ゆ人の言ひくる老人の變若《をつ》とふ水ぞ名に負《お》ふ瀧の瀬
 
〔題〕 多藝の行宮は、現在所在不明。「一〇二九」の題詞の説明にある當伎郡に御駐輦あらせられた時のこと。
〔譯〕 昔から人が言ひ傳へて來てゐる、老人もこの水をのめば、若返るといふめでたい水であるぞ。此の地の多藝といふ名にふさはしい、この瀧つ瀬よ。
〔評〕 良質の水を求めて愛飲する風は古來から存してゐたので、記紀にある枯野舟の傳説などがそれを物語つてをるが、神仙思想の影響をうけてから「變若の泉」といふやうな方面に發展して來たもので、集中聖水を求める歌が所々に見うけられる。ここでは特に、元正天皇の養老改元の詔勅に見えた當耆郡多度山の美泉をさしてゐるので、その中にはこの水がいかに變若に効果があつたかを詳しく述べてをられる。これが後世、古今著聞集や十訓抄に採録された養老孝子譚の源流となつたのであらう。
(414)〔語〕 ○變若とふ水 長歌に「月よみの持たる變若水」(三二四五)とある。「をち」については「三三一」「六五〇」「八四七」等參照。○名に負ふ瀧つ瀬 多藝の地名にふさはしい瀧つ瀬の意。「三五」參照。
〔訓〕 ○古ゆ 白文「從古」で、舊訓ムカシヨリ、考による。○變若とふ水 白文「變若水」舊訓ワカユテフミヅ、攷證による。
 
    大伴宿禰家持の作れる歌一首
1035 田跡河《たどかは》の瀧《たき》を清みかいにしへゆ宮仕《みやづか》へけむ多藝《たぎ》の野の上《へ》に
 
〔譯〕 多度河の瀧の流が清いによつて、古昔からここに宮居を造營して、お仕へ申したのであらう、この多藝の野の邊に。
〔評〕 類型の多い、とり立てていふべきこともない歌である。
〔語〕 ○田跡河 今の養老川、又は白石川のこと。
〔郡〕 ○古ゆ 白文「從古」前の歌の場合と同樣、ムカシヨりの舊訓を、代匠記精撰本によつて改めた。
 
    不破《ふは》の行宮にて、大伴宿禰家持の作れる歌一首
1036 關無くは還《かへ》りにだにもうち行きて妹が手枕|纒《ま》きて宿《ね》ましを
 
〔譯〕 この關がないならば、すぐ引き返してなりとも故郷に歸つて、妻の手を枕として寢ようものを。
〔評〕 不破の關に隔てられて思ふやうに行けぬ、と嘆いてをるのは、同時にはるばると遠く離れたことを言外に漂はせてをる。作者は、後年天平十九年越中においても「近からばかへりにだにも、うち行きて妹が手枕、指し交へて寢(415)ても來ましを」(三九七八)と詠んでをる。
〔語〕 ○關無くは 不破の關をさす。此處は鈴鹿、愛發とともに近畿へ入る三關門とされてゐる。○還りにだにもうち行きて すぐさま取つてかへしてなりとも行つて。
 
    十五年癸未秋八月十六日、内舍人大伴宿禰家持、久邇京を讃《ほ》めて作れる歌一首
1037 今つくる久邇《くに》の王都《みやこ》は山河のさやけき見ればうべ知らすらし
 
〔譯〕 今度、新しくお造りになる久邇の都は、山や河のかく清く麗しいことを見ると、此處に京をお構へなさるのも尤もなことであるよ。
〔評〕 自然の美をたたへて、王城の地を祝福した歌は、集中所々に見うけられる。なほ同じ作者が「今造る久邇の京に秋の夜の長きに獨ぬるが苦しさ」(一六三一)とも詠んでゐる。
〔語〕 ○今つくる この度新しく造營される。
〔訓〕 ○さやけき見れば 白文「清見者」で、舊訓キヨクミユレバ。古義による。
 
    高丘河内連の歌二首
1038 ふるさとは遠くもあらず一重山越ゆるがからに念《おも》ひぞ吾が爲《せ》し
 
〔題〕 高丘河内連は、續紀和銅五年七月の條に、播磨國大目從八位上樂浪河内とある人で、神龜元年五月高丘連を賜ふとあり、その後、右京亮、造離宮司、伯耆守に歴任した。天平勝寶六年正月には正五位下になつてをる。
〔譯〕 舊都の奈良は、ここから遠いといふのでもない。しかし、一重の山を越えて行かねばならぬところゆゑ、戀しい思ひを自分がしたことである。
(416)〔評〕 久邇の新京から舊都の奈良までは遠くはないとは云ふものの、一重の山をへだててゐて、たやすく行かれぬので、妻に別れて戀しい思ひをしたのである。平明清淡のうちに、一重山を、怨嗟した情がよくあらはれてをる。恭仁と奈良との間に横たはる佐保・相樂・那羅の低い山脈は、一重山と呼ばれるのにふさはしい。
〔語〕 ○ふるさと 新京久邇に對して、舊都奈良をさす。○一重山 「七六五」參照。○越ゆるがからに 越えて行かねばならぬから。
 
1039 吾が背子と二人し居《を》れば山高み里には月は照らずともよし
 
〔譯〕 吾が友とかうして二人でをるから、これだけでまことに樂しく、山が高いので、この里には月が照らないでもかまひはせぬ。
〔評〕 作者の家が山の近くにあつたのであらうか。月のまだ上らぬ宵に、久邇の新都で、なつかしい友と會ふことの出來た喜びを詠ひ上げたものと思はれる。結句の言ひ放した姿に、萬葉らしい豁達さを帶びてをる。
〔語〕 ○吾が背子と ここでは男から男をさす。○里には この里は山かげの久邇の都をいふのであらう。
 
    安積親王《あさかのみこ》、左少辨藤原八束朝臣の家に宴せし日、内舍人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌一首
1040 ひさかたり雨は零《ふ》り重《し》け念《おも》ふ子の宿に今夜《こよひ》は明《あか》して行かむ
 
〔題〕 安積親王 聖武天皇の皇子。「四七五」參照。藤原八束 「三九八」參照。
〔譯〕 雨はますますはげしく降れ。この戀しく思ふ人の家に、今夜は夜を明かして行かうほどに。
〔評〕 主人に對して、わざと戀人に對するやうに戯れ云つたもので、機智のある即興歌。家持の作には特にこの手法が多い。宴合のはてることを惜しみ、折から降り出した雨にかこつけて、夜どほし痛飲しよう、といふのである。戀(417)しい人と別れがたい爲に、雨のふることを願ふといふ着想が、後世の民謠めいてゐるのも面白い。
〔語〕 ○零り重け 降り頻れ、しきりに降れよ、の意。○念ふ子 戀しく思ふ人、愛する女、の意。藤原八束を戯れ呼んだもの。
〔訓〕 ○雨は零り重け 白文「雨者零敷」で、舊訓アメハフリシク。古義の命令形に訓んだのに從ふべきである。
 
    十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、安倍蟲麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首 作者審ならず
1041 吾が屋戸《やど》の君《きみ》松《まつ》の樹に零《ふ》る雪の行きには去《ゆ》かじ待ちにし待たむ
 
〔題〕 安倍蟲麿 「六六五」參照。
〔譯〕 吾が屋戸の、君を待つといふ名の松の樹に零る雪ではないが、こちらからは行きますまい。あなたのおいでを待ちに待ちませう。
〔評〕 眼前の實景なる松と雪とに因んで、巧みに語を弄んだものである。宴席の作として、即興詩のおもしろさを賞美されたものであらう。
〔語〕 ○君松の樹 君を「待つ」と「松」とを掛けた。「一七九五」參照。○ふる雪の ユキの音を次の「行き」にかけて言ふ。○行きには去かじ待ちにし待たむ 行かじ、待たむ、を強めて言ふ。「迎へか行かむ待ちにか待たむ」(八五)參照。
 
    同じき月十一日、活道岡《いくぢのをか》に登り、一株の松の下に集ひて飲《うたげ》せる歌二首
1042 一つ松幾代か歴《へ》ぬる吹く風の聲の清《す》めるは年深みかも
     右の一首は、市原王の作なり。
 
(418)〔題〕 活道岡 恭仁京の東方。「四七八」參照。
〔譯〕 この岡の上の一本松は、幾代を經たことであらうか。梢を吹く風の音が澄んで聞えるのは、恐らくは久しい年を經てをるがためであらう。
〔評〕 單純であるが佳い歌である。風の音がさやかであるから、年久しく經たのであらうといふので、理窟を越えた觀察がまことに面白く上代人らしい。後世ならば風の音も何となく古雅に聞えるといふのを、さう云はぬところが、この歌の妙趣である。落ちついた調子のなかに、松籟のこもるのを覺える。この歌玉葉集に收められてをる。
〔語〕 ○一つ松 一本松。古事記倭建命の御歌の中に「比登都麻都」とある。
 
1043 たまきはる壽《いのち》は知らず松が枝《え》を結ぶこころは長くとぞ念《も》ふ
     右の一首は、大伴宿禰家持の作なり。
 
〔譯〕 自分の命はいつまでかは知らぬ。しかし、この岡の松の枝を結ぶ心は、松の壽命のやうに、自分の命が長いやうにと思つてのことである。
〔評〕 さながら、松の枝を結ぶ風習の意味を説明したやうな、平凡な歌ではあるが、萬葉人の現實肯定の生き方を示してゐる。即ち、松の齡にあやからうとし、結んだ枝に我が身の無事を祈りこめて置くのである。卷二に、有間皇子が自ら傷みて松が枝を結べる歌(一四一)があるが、よくこの事情を示してをる。
〔語〕 ○たまきはる 此處では「いのち」にかかる枕詞。疑問の多い語である。
 
    寧樂京《ならのみやこ》の荒れたる墟を傷み惜しみて作れる歌三首 作者審ならず
1044 くれなゐに深く染《し》みにし情《こころ》かも寧良《なら》の京師《みやこ》に年の歴《へ》ぬべき
 
(419)〔譯〕 くれなゐのやうに、色濃く染みこんだ心である故か、荒れた奈良の舊都に、立ち去りがたく久しく住んで、年を經ることであらう。
〔評〕 奈良の都への、あまりなる愛着の深さに、自己の心をいぶかしんでをるのである。「くれなゐに深く染みにし」は必ずしも獨創的ではないが、猶ほのかな殘光をもつ舊都への、やるせない感傷を述べるにふさはしい。全釋のいふやうに、結句の「べき」がやや意味の明瞭を妨げてゐることは否めない。
〔語〕 ○くれなゐに 「染みにし」にかかる即興的な枕詞。
〔訓〕 ○しみにし 白文「染西」で、舊訓ソミニシ。攷證による。
 
1045 世間《よのなか》を常無きものと今ぞ知る平城《なら》の京師《みやこ》の移ろふ見れば
 
〔譯〕 世の中を無常なものであると、今はつきりと知つたことである。あのやうに榮えてゐた奈良の都が、かくまで變つて荒れ果てたのを見ると。
〔評〕 「あをによし寧樂の京師は咲く花のにほふがごとく今さかりなり」(三二八)「立ち易り古きみやことなりぬれば道の芝草長く生ひにけり」(一〇四八)この二つの現實を見比べねばならなかつた當時の奈良人士の胸中は、いかばかりあはれに寂しいものであつたか。既に佛教思想によつて流布し、知識層の者によつて云はれてゐた世間無常の考へ方が、實感として、ひしひしと迫つたことであらう。平易な詞調の中に、上代人らしい、おほどかな悲哀を持つた歌である。
 
1046 石綱《いはづな》のまた變若《をち》かへりあをによし奈良の都をまた見なむかも
 
〔譯〕 もう一度若がへつて、今は荒れはててゐるが、昔のやうに華麗な奈良の都を、また見ることが出來ようかなあ。
(420)〔評〕 自らの若がへりを望む心は、また荒都の復舊を希求する老人の情である。繰り言といはばいふべきであるが、索寞たる廢都の情景が讀む者の心をうつ。
〔語〕 ○石綱の 枕詞。石葛《イハツナ》のやうにの意。石葛は石に這ふ蔦葛の類。(「三〇六七」參照)。葛の類は這ひ延びて枝がわかれわかれになつても、又もとにかへるから「をちかへる」にかかる。○また變若かへり 「一〇三四」參照。
 
    寧樂の故郷を悲しみて作れる歌一首并に短歌
1047 やすみしし 吾が大王《おほきみ》の 高敷かす 大和の國は 皇祖《すめろき》の 神の御代より 敷きませる 國にしあれば 生《あ》れまさむ 御《み》子のつぎつぎ 天の下 知《し》らしまさむと 八百萬《やほよろづ》 千年を兼ねて 定めけむ 平城《なら》の京師《みやこ》は かぎろひの 春にしなれば 春日《かすが》山 三笠の野邊に 櫻花|木《こ》の晩隱《くれがく》り 貌鳥《かほどり》は 間《ま》なく數《しば》鳴く 露霜の 秋さり來《く》れば 射駒|山《やま》 飛火《とぶひ》が※[山/鬼]《をか》に 萩の枝《え》を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響《とよ》む 山見れば 山も見が欲《ほ》し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十件《やそとも》の緒の うち延《は》へて 里竝《さとな》みしけば 天地の 依《よ》り會ひの限《かぎり》 萬代に 榮え行かむと 思ひいりし 大宮すらを 恃《たの》めりし 奈良の京《みやこ》を 新世《あらたよ》の 事にしあれば 皇《おほきみ》の 引《ひき》のまにまに 春花の うつろひ易《かは》り 群《むら》鳥の 朝立ちゆけば さす竹の 大宮人の 踏みならし 通ひし道は 馬も行かず 人も往《ゆ》かねば 荒れにけるかも
 
〔譯〕 安らかにみそなはす我が大君が、尊く治めさせたまふ此の大和の國は、御先祖の神武天皇の御代以來、都として敷き臨みたまふ國であるから、お生れあそばされる皇子が、次々に皇位を御繼承になつて、この地にあつて天下を(421)お治めになるやうにと、幾百萬年の後までも、豫め定めさせ給うたと思はれる此の奈良の都は、陽炎のもえる春になると、春日山の三笠の野邊に、櫻花は木のかげに隱れて咲き匂ひ、貌鳥は絶え間なく?々鳴く。露霜がおく秋になると、生駒山の飛火が岡に、萩の枝をおしふせ散らして、牡鹿は妻を喚んで騷いでをる。山を見れば山もたえず見たく思はれ、里を見れば里もまことに住み心地がよい。もろもろの大宮人の長《をさ》たちが、うち續いて住宅を建て竝べてをるから、悠久な天と地がよりあひを保つてゐる限は、萬代までも榮えゆくであらうと、深く思ひ込んでをつた大宮であるものを、頼みにしてゐた奈良の都であるものを、新しくかはつてゆく大御代のことであるから、天皇のお指圖のまにまに、あたかも春の花のやうにうつりかはり、鳥の群が朝立つてゆくやうに、新しい都に移つて行つたので、今まで大宮人が踏みならし通つてゐた道は、馬も通はず、人も通らないやうになつたので、こんなにも荒れてしまつたことであるよ。
〔評〕 奈良の都の由來を語り、その歴史と環境との美を讃へ、それが荒廢に歸した?態を述べて、構想精緻、措辭整然と稱すべき作である。全體の構想はいづれかと云へば、敍情詩でも、敍景詩でもなく、敍事詩的である。從つて、故郷の荒廢の悲哀を讀者の情に直截に許へる迫力に乏しく、理路のととのひ過ぎた寂しさがある。
〔語〕 ○高敷かす 高く敷き治め給ふ。○皇祖 ここでは神武天皇を指し奉る。○かぎろひの 陽炎の燃ゆるの意で春へかかる。必ずしも枕詞と限定することは出來ない。○木の晩隱り 櫻花が木の闇く繁つたかげに咲く、の意。○貌鳥 呼子鳥のことともいはれて居るが、明かでない。「一八九八」などによれば、特に春といふ季節感のつよい鳥であらう。○飛火が※[山/鬼] 飛火は烽火のこと。續紀によると、和銅五年に生駒山中の一丘陵に高見烽が設置されたことが出てをり、この高見烽が飛火が※[山/鬼]である。從つて、「生駒山飛火が※[山/鬼]」は、同じ地名を重ねた言ひ方で、單に生駒山といふことである。○しがらみ散らし 「しがらむ」は「明日香川しがらみ渡し」とある※[竹/册]の動詞で、からみつく、まとひつく、の意。即ち鹿が萩の枝をまとひつかせて、萩の花を散らせること。古今集に「秋萩をしがらみふせて鳴(422)く鹿の目には見えずて音のさやけさ」ともある。○もののふの八十伴の緒 廣く、朝廷奉仕の官人の諸族の長、の意。○うち延へて里竝みしけば うち連ねて家をなし竝べてゐるから。○天地の依り會ひの限 天地のあらむかぎり。○新世 今上天皇の御代を讃美していふ。ここでは、舊都奈良から移りかはるといふ氣特が、特に「新世の事にしあれば」の一句にこめられてをる。○引のまにまに 天皇のひきゐさせ給ふままに。○春花の 「うつろふ」にかかる枕詞。○群鳥の 群鳥が塒を朝立ちして行く意から、「朝立つ」にかかる枕詞。○さす竹の 「大宮人」の枕詞。○踏みならし 「ならす」は道の高低を均すこと。交通の頻繁なのをいふ。
〔訓〕 ○飛火が嵬に 白文「飛火賀嵬丹」で、通行本「塊」の字によりトブヒガクレニと訓む。考による。○里竝みしけば 白文「里竝敷者」の「里」は通行本その他すべて「思」とあり、舊訓オモヒナミシケハ。童蒙抄による。
 
    反歌二首
1048 立ち易《かは》り古き京となりぬれば道の芝草長く生《お》ひにけり
 
〔譯〕 以前とはかはつて、あの華麗を極めた奈良の都も舊い都となつてしまつたから、道の芝草が、丈長く延びたことであるよ。
〔評〕 日竝皇子尊の舍人等の歌の「御立せし島の荒磯を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも」(一八一)などと同じく、草をもつて寂寥と荒廢との感を漂はせてをる。草ほど生ひ易いものはなく、草が生ひ延びてゐることほど、荒凉とした、物の哀愁をそそることはない。この歌は、長歌の終りの部分「さす竹の大宮人の、踏みならし通ひし道は、馬も行かず人も往かねば、荒れにけるかも」と、相補ふ關係にあるのは面白い。
〔語〕 ○立ち易り かはること。「立ち」は接頭辭。攷證の説によれば、交替するといふ意味が濃い。「一七九四」參照。○道の芝草 路傍の雜草。
 
(423)1049 馴着《なづ》きにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし益《まさ》る
 
〔譯〕 馴れ親しんでをつた奈良の都が荒れてゆくので、家の外に出で立ち、あたりの樣子を見る度ごとに、嘆きがまさることである。
〔評〕 質實で的確な表現である。「嘆きし益る」と云うたところ、見る毎に荒廢の深まつて行く樣を思はせる。
〔語〕 ○馴着きにし 馴れ着きにしの略。住み馴れ親しむこと。なつくこと。
 
    久邇の新京を讃《ほ》むる歌二首并に短歌
1050 現つ神 わが皇《おほきみ》の 天の下 八島の中に 國はしも 多くあれども 里はしも 多《さは》にあれども 山竝《やまなみ》の 宜しき國と 川|次《なみ》の 立ち合ふ郷《さと》と 山城の 鹿背山《かせやま》の際《ま》に 宮柱 太敷《ふとし》き奉《まつ》り 高知らす 布當《ふたぎ》の宮は 河近み 瀬の音《と》ぞ清き 山近み 鳥が音《ね》響《とよ》む 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響《とよ》め 春されば 岡邊も繁《しじ》に 巖には 花|開《さ》きををり あな※[立心偏+可]怜《おもしろ》 布當《ふたぎ》の原 いと貴と 大宮どころ 諾《うべ》しこそ 吾が大王《おほきみ》は 君の隨《まに》 聞《きか》したまひて
 さす竹の 大宮|此處《ここ》と 定めけらしも
 
〔譯〕 現つ神にあらせられる我が大君の、御治めあそばす天の下の大八洲國の中に、國も里も澤山にあるが、その中でも、山の竝び具合のよい國であり、川の流がしつくりと落ちあふよい里であるからとて、この山城の鹿背山の間に、宮柱を堅固にお据ゑになつて、天の下をお治めになる此の布當の宮は、川が近いによつて瀬の音が清く聞え、山が近(424)いによつて、鳥の聲が響いて聞える。秋になると、山もとどろくほどに、牡鹿は妻を呼んで聲をひびかせ、春になると、岡のあたり一面にしげく、巖の上には花が枝も撓むほどに咲き滿ちてゐる。ああ、おもしろい布當の原であるよ、まことに貴い宮殿の地であるよ。我が大君は、神ながら思しめすままに、よい處とお聞きなされて、大宮を此處とお定めになつたやうであるが、まことにふさはしいことである。
〔評〕 久邇の新京の山河の美に、四季の景物を配して讃へたもの。詞句格調ともにかうした祝服歌の定型を踏んでをつて、さしたる新味のないかはりに、また危げや冗漫さのない一種の洗煉された美しさを湛へてをる。「あな※[立心偏+可]怜布當の原、いと貴と大宮どころ」の對句が「諾しこそわが大王は」にかかる邊の技巧はまことによい。
〔語〕 ○現つ神 現世にその姿をあらはしておはします神。○八島 「八」は數多い意であるが、古事記には淡路、四國、隠岐、九州、伊岐、津島、佐渡、本州の八を數へてゐる。大八洲の國即ち日本國の意。○山竝 山の竝んでゐる樣子、山々のつづき具合。○川次の 河川の流れてゐる姿。「九二三」參照。○立合ふ郷 合流する地點の里。恭仁京は、泉川と布當川の合流點に近い。○鹿背山 泉川の南方、奈良山の北方に聳える也。○布當の宮 恭仁京のある地名が布當であり、恭仁京をさす。○鳥が音響む 鳥の聲がひびきわたる。○花咲きををり 「四七五」參照。○君のまに 大君の御心のままに。○さすたけの 「大宮」にかかる枕詞。「九五五」參照。
〔訓〕 ○あなおもしろ 白文「痛※[立心偏+可]怜」で、舊訓イトアハレ、考アナニヤシ、略解アナアハレ、攷證アナタヌシなどの訓がある。今は古義による。○いとたふと 白文「甚貴」で、元暦校本イヤタカニ、通行本イトタカキ、略解アナタフト等の訓がある。「甚」を舊訓通りイトと訓んだ古義の説に從ふ。
 
    反歌二首
1051 三日《みか》の原|布當《ふたぎ》の野邊を清みこそ大宮どころ定のけらしも 【一に云ふ、こことしめさす】
 
(425)〔譯〕 三日の原の布當の野邊が清く美しいによつて、皇居の地を此處とお定めになつたさうな。
〔評〕 長歌の意を總括したもの。形式は、金村の芳野離宮の長歌の終句や、家持の多藝の行宮・久邇京の作などに似てをる。
〔語〕 ○三日の原 續紀には「甕原」とあり、現在は瓶原村の地名が存してゐる。木津川一名泉川沿岸で、恭仁京のあつた一帶の土地、古今集卷九に「都いでて今日みかの原泉がは川風さむし衣かせ山」とある。○こことしめさす 「しめ」は標。自分の領地として占有する意を示し表すこと。杭のやうなものを刺し立てて印としたから、「しめさす」といふのである。
〔訓〕 ○一に云ふ、こことしめさす 通行本、細井本にはないが、元暦校本はじめ他の古寫本にはすべて存するから脱したものと思はれる。但、第五句の異傳である。
 
1052 山高く川の瀬清し百世まで神《かむ》しみ行かむ大宮どころ
 
〔譯〕 山が高く、川の瀬が清い。百代の後までも、益々神々しく榮えます皇居の地である。
〔評〕 笠金村の「萬代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ」(九二一)に似たところがあり、類型の多い祝福歌であるが、一二句には大きく直截なものがある。
〔語〕 ○神しみ行かむ 「神しみ」は「神さび」に同じとする代匠記の説に從ふ。他に用例が見えない。
〔訓〕 ○山高く 白文「山高來」諸本「弓高來」とあるが、意味が通じない。考の説によつて改める。○神しみ往かむ 白文「神之味將往」で、舊訓カミノミユカムはよくない。攷證・古義による。新解のクスシミも一説である。
 
1053 吾が皇《おほきみ》 神の命《みこと》の 高知らす 布當《ふたぎ》の宮は 百樹《ももき》成す 山は木高《こだか》し 落ちたぎつ 瀬の音《と》(426)も清し ※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の 來鳴く春べは 巖には 山|下《した》光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧《あまぎら》ふ 時雨を疾《いた》み さ丹《に》づらふ 黄葉《もみぢ》散りつつ 八千年に あれ繼がしつつ 天の下 知《し》らしめさむと 百代にも 易《かは》るべからぬ 大宮處
 
〔譯〕 我が大君、現人神にまします天皇が尊くお治めあそばす此の布當の宮は、多くの樹木が生えて山は木が高く繁つてをり、流れ落ちて激する瀬の音も清い。鶯の來て鳴く春の頃は、「巖の上には山も光り輝くばかりに錦のやうに花が咲きたわみ、牡鹿が鳴いて妻を呼ぶ秋の頃は、空が霧りあうて時雨がはげしく降るから、赤く色づいた紅葉が散る。かうして八千年までも次々と生れ繼ぎ給うて、天の下をお治めになるべく、百代の後までも、變ることのあるまじき皇居の地であることよ、此處は。
〔評〕 山河の秀麗、四季の風致を、極めて定型的に述べて帝都を讃へた構想は、前の作と全く同趣である。しかし、彼よりも簡潔、端正であつて、「百代にも易るべからぬ大宮處」と斷定したあたりに、嚴粛の氣をおびてをる。
〔語〕 ○百樹成す 多くの樹の如く、の意と思はれるが、それでは下への續きがよくない。後述するやうに別の訓も出てゐるが、それも從ひ難いから、暫くこのままにしておく。○山下光り 「下光る」は「下照る」ともいつて、赤く照り輝く意。「あしひきの山下光るもみぢ葉の」(三七〇〇)。○さ丹づらふ 色の赤く照り映えること。「四二〇」參照。○あれつがしつつ 生れ繼ぎ生れ繼ぎなされて。
〔訓〕 ○百樹成 舊訓モモキナスに暫く從つて置く。略解所引の宣長説には「成」は「盛」の誤としてモモキモルと訓み、古義もこの説を採つてをる。
 
    反歌五曽
(427)1054 泉川ゆく瀬の水の絶えばこそ大宮どころ遷ろひ往《ゆ》かめ
〔譯〕 泉川の流れ行く瀬の水が絶えたならばこそ、この皇居の地も變り行くことがあらう。
〔評〕 この川の絶えないやうに、皇居も永久に變らないであらう、の意で、泉川の流れの悠久にかけて帝都の繁榮を壽いだのであるが、反語的な構想に力が籠つてをる。相似たものに、河に寄せた戀の歌がある。「泊瀬川流る水沫の絶えばこそ吾が念ふ心遂げじと思はめ」(一三八二)。
〔語〕 ○泉川 「五〇」參照。今の木津川。
 
1055 布當《ふたぎ》山山|竝《なみ》みれば百代にも易《かは》るべからぬ大宮處
 
〔譯〕 布當山の山の竝びのうるはしいのを見ると、百代までも、變ることは決してあるまいと思はれる皇居の地である。
〔評〕 下三句は、あたかも唱ひ返したやうに、長歌の終の三句をそのまま取つてゐる。布當山の山竝の美によつて、帝都の長久を相した、きまつた型ではあるが、祝壽の歌としてのやすらかな面白さがある。
〔訓〕 ○不可易 通行本カハルベカラズ。類聚古集、西本願寺本等、及び考による。但、カハルマシジキと訓んでもよい。
 
1056 をとめ等《ら》が績苧《うみを》繋《か》くとふ鹿背《かせ》の山時し往《ゆ》ければ京師《みやこ》となりぬ
 
〔譯〕 少女たちが績《う》んだ麻糸をかける※[木+峠の旁]《かせ》といふ名の鹿背の山は、時が經過したので、立派な都となつたことである。
〔評〕 今まで田舍であつた鹿背山のほとりに、忽ち帝都が出現した驚きが、素朴によくあらはれてをる。時勢の變遷(428)につれて思ひまうけぬ新しい現象の生ずることを認めた趣は、先の「寧樂の故郷を悲しみて作れる歌」(一〇四七)の中にも「新た世の事にしあれば」と見えてゐるが、この作の「時し往ければ」には、殊にそれを痛感した樣が著しい。類歌として「四二九〇」などがあげられる。
〔語〕 ○をとめらが績苧かくとふ をとめらが績んだ麻糸をかける※[木+峠の旁]《かせ》の意で、鹿背の山にかけた序。「※[木+峠の旁]」は又カセヒとも云つたが(新撰字鏡)續日本後紀(天長十年)「山城國相樂郡※[木+峠の旁]山」とあるから、カセともいつた事が知られる。○時しゆければ 時が經過して行くから、時節が到來したから、の意。
 
1057 鹿背《かせ》の山|樹立《こだち》をしげみ朝去らず來鳴きとよもす※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の聲
 
〔譯〕 鹿背山の木立の繁さに、毎朝毎朝、來ては鳴きさわぐ鶯の聲が聞えることよ。
〔評〕 長歌に「※[(貝+貝)/鳥]の來鳴く春べは」とある情景を、ぬきだして詠んだものである。格別の新しみはないが、よく練れた手法に、のどかな情趣が浮んでをる。
〔語〕 ○朝去らず 毎朝缺かさず。「三七二」參照。
 
 
1058 狛山に鳴くほととぎす泉河|渡《わたり》を遠みここに通はず  【一に云ふ、渡り遠みや通はずあるらむ】
 
〔譯〕 狛山に鳴く霍公鳥は、泉川の渡り場が遠いによつて、此處まで通つて來ない。
〔評〕 轉じて夏の景である。泉川をへだてて、北岸なる狛山に鳴く霍公鳥を愛でなつかしみ、なぜもつと近くで啼いてくれぬかと怨んだ氣持である。清流をわたつて遙に響いてくる霍公鳥の聲に飽かぬ思ひが「渡を遠みここに通はず」と、明確に理由をあげて斷定した裏にかくれてをる。「一に云ふ」では、婉曲に云ひなされてゐるが、直截な素朴さに乏しい。
(429)〔語〕 ○狛山 泉川の北岸、恭仁京の西に當る。和名抄に「山城國相樂部大狛小狛」とある。
 
    春の日、三香原《みかのはら》の荒れたる墟を悲しみ傷みて作れる歌一首并に短歌
1059 三香《みか》の原 久邇《くに》の京師《みやこ》は 山高み 河の瀬清み 住みよしと 人は云へども 在りよしと 吾は念《おも》へど 古《ふ》りにし 里にしあれば 國見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり はしけやし 斯くありけるか 御室《みもろ》つく 鹿背《かせ》山の際《ま》に 咲く花の 色めづらしく 百鳥の 聲なつかしく 在《あ》りが欲《ほ》し 住みよき里の 荒るらく惜しも
 
〔題〕 三香原なる久邇の京は、天平十二年十二月橘諸兄が經營し始め、翌十三年正月ここに朝賀を行はせられたが、十六年正月には既に遷都の議があり、二月には高御座を難波に遷された。その短い期間の都の荒廢を傷んだもの。
〔譯〕 甕の原なる久邇の都は、山が高いにより、また川の瀬が清いによつて、住みよい處であると人も言ひ、また居りよい處であると自分も思ふが、今はさびれた舊い都となつたから、土地を見ても人も通らず、里を見ても家も荒れ果ててゐる。ああいとしくも、かくは荒れてしまつたことか。神座を齋きまつる鹿背山の山の間に、咲く花の色もめづらしく、多くの鳥の聲も懷かしくて、永く居たく住みよい此の里の、荒れてゆくのは惜しいことであるよ、まあ。
〔評〕 前述のとほり、天平十二年十二月、橘諸兄が新都經營のことに當り、翌年正月、天皇がこの宮に朝賀を受け給うてから三年餘で、久邇より難波に遷都があつた。この遷都は、一般には喜ばれぬところで、續紀の天平十六年閏正月の條には、百官を朝堂に集めて、恭仁雖波二京のいづれを都と定むべきかを問ひ給うたとある。然して、卑官の多くは、恭仁京を採り、市人もそれを望んでゐたのであるから、この遷都は民意にはそはなかつたのである。この歌には、その旨が明かに現はれてゐて、他の舊都の荒廢を傷んだ作とは、趣を異にしてをる。「住みよしと人は云へども、(430)在りよしと吾は念へど」「在りが欲し住みよき里の、荒るらく惜しも」など、この地の住みよさを強調して、やうやく體勢をなして來た新都に執着してをるところ、他には見られぬ特色である。
〔語〕 ○古りにし里 都を遷して舊都となつた意である。○はしけやし この下に句が脱したとみる略解の説もあるが「はしけやし」が慣用によつて、本來の形容詞として名詞の上に冠する用法を「愛しき事よ」の意の詠嘆句として用ゐられたものと思はれる。「はしきやし然る戀にもありしかも」(三一四〇)ともある。○みもろつく 「みもろ」は神座の義、「つく」は「齋く」の略とみる説に從ふ。「著く」とみる説もある。○色めづらしく 「めづらし」は、愛すべしの意。○在りが欲し 在らむ事の欲し、在りたいの意。
〔訓〕 ○住みよしと 白文「住吉迹」の「住」は類聚古集による。通行本「在」。元暦校本は缺けてゐるが、他の諸本はいづれも「在」とある。
 
    反歌二首
1060 三香《みか》の原|久邇《くに》の京《みやこ》は荒れにけり大宮人の遷ろひぬれば
 
〔譯〕 三香の原なる久邇の都は、荒廢したことである。大宮人が遷つて行つてしまつたので。
〔評〕 大宮人の來住によつて榮えた久邇の地は、遷都と共に、昔の寂寥に歸つた。しかも、一度は繁榮を見たあとであるから、その荒廢は、昔の寂寥にもまして痛ましかつたのであらう。「大宮人の遷ろひぬれば」とあるのが、廢都に取り殘された一般庶民の嘆聲を聞く思がする。
〔訓〕 ○反歌二首 元暦校本による。通行本「三首」は誤。
 
1061 咲く花の色はかはらず百磯城《ももしき》の大宮人ぞ立ちかはりぬる
 
(431)〔譯〕 奮い都にさく花の色は變らない。けれども、朝廷にお仕へする人は、新しい都に全く移りかはつてしまつたことである。
〔評〕 今年また色もかはらずに美しく花が咲いたので、廢都の哀愁はさらに強く痛感されたのであつた。單純な型ではあるが、あはれ深い歌である。
〔語〕 ○立ちかはりぬる 他に移り住み、此處にはゐなくなつたの意。
 
    難波宮《なにほのみや》にて作れる歌一首并に短歌
1062 やすみしし 吾が大王《おほきみ》の 在り通《がよ》ふ 難波の宮は 鯨魚《いさな》取り 海|片附《かたつ》きて 玉拾ふ 濱邊を近み 朝羽振《あさはふ》る 浪の音《と》さわき 夕なぎに 櫂《かぢ》の聲《おと》聞ゆ あかときの 寐覺に開けば 海若《わたつみ》の 潮干の共《むた》 浦|渚《す》には 千鳥妻呼び 葭邊《あしべ》には 鶴《たづ》が音《ね》響《とよ》む 視る人の 語《かたり》にすれば 聞く人の 見まく欲《ほ》りする 御食向《みけむか》ふ 味原《あぢふ》の宮は 見れど飽かぬかも
 
〔題〕 難波宮は、續紀に「天平十六年二月庚申以2難波宮1定爲2皇都1」と見える。「九二八」參照。
〔譯〕 安らけく天の下を治め給ふわが大君が、度々行幸あらせられる難波の宮は、海に近く片寄り、玉のやうな美しい貝や石を拾ふ濱邊が近いによつて、朝鳥が羽を振ふやうに波の音が騷がしく聞え、夕凪には、櫓をこぐ音が聞えてくる。明方の寢覺に聞くと、海の潮干につれて、浦の洲には千鳥が妻を呼び、葦の生えてゐる邊には、鶴の聲がひびく。此のよい景色を見る人が語りぐさにするから、それを聞く人は見たくのぞむ、此の味原の宮は、いくら見ても飽くことのないところであるよ。
〔評〕 これも定型を踏んだ新都祝福の歌で、この時の行幸から、難波京が帝都と定まつた。海に近い都は、大宮人に(432)とつていかに珍しかつたことであらう。離宮であつた時代に、行幸の供奉をして詠んだ歌を見なれた眼には、特に斬新な描寫もない。しかし「いさな取り海片附きて玉拾ふ濱邊を近み」や「あかときの寢覺に聞けば」など、この都の異色ある風致をつたへようとしたあとが認められよう。
〔語〕 ○海片附きて 「片附き」は、片より就いて海に近いの意。○朝羽振る 風の海水をうつて吹いて來る音が、鳥の羽をうち振るやうにきこえる喩。「一三一」參照。○浦|渚《す》 浦のなぎさ。○御食向ふ 御食の味から「味原」にかかる。「一九六」參照。
〔訓〕 ○櫂 白文「櫂合」とあり、舊訓カガヒとあるが適當でなく、「合」は衍字などとする説(考)もあるが、漕ぎあふ意で「合」を添へたものとみてカヂと訓む(攷證)。○海若 諸本「海石」とあるにより、「いくり」と訓む説があるが、略解の一説によつて改めた。○浦渚 白文「納渚」の「納」は「?」の誤かとして、ウラスと訓む略解の説に從ふ。「三九〇」參照。
 
    反歌二首
1063 在りがよふ難波の宮は海近み漁童女等《あまをとめら》が乘れる船見ゆ
 
〔譯〕 大君が度々通うておいでになる難波の宮は、海の近いによつて、海士の少女らの乘つてをる舟が見えることである。
〔評〕 大宮の内から海が見え、海士の少女らが乘つてをる舟が見える。海のない都に住み馴れた大和朝廷の大宮人にとつては、極めて珍しい光景であつたであらう。
 
1064 潮|干《ふ》れば葦邊に騷く白鶴《あしたづ》の妻呼ぶ聲は宮もとどろに
 
(433)〔譯〕 潮が干ると、葦のしげつてゐる邊に騷いで鳴く鶴の、己が妻を呼ぶ聲は、御所の中までもとどろくほどに聞える。
〔評〕 高鳴く鶴の聲を聞きつつ大宮仕へをすることが、何か開放的な心のはずみを人々に與へたことであらう。まことに爽かな歌で、趣は別であるが、卷三の「大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び聲」(二三八)も思ひあはされる。
〔訓〕 ○白鶴 考シラツルノ、攷證シラタヅノ。舊訓による。しかし「白」にアシの意があるのではなく、白鶴で、アシタヅの意をあらはした義訓であるとする總釋の説に從ふ。
 
    敏馬《みぬめ》の浦を過ぎし時作れる歌一首并に短歌
1065 八千|桙《ほこ》の 神の御世より 百船の 泊《は》つる泊《とまり》と 八島國 百船人の 定めてし 敏馬《みぬめ》の浦は 朝風に 浦波さわき 夕浪に 玉藻は來寄《きよ》る 白沙《しらまなご》 情き濱邊は 往き還り 見れども 飽かず 諾《うべ》しこそ 見る人ごとに 語り繼《つ》ぎ 偲《しの》ひけらしき 百世|歴《へ》て しのはえゆかむ 清き白《しら》濱
 
〔譯〕 遠い昔の大國主神の御代から、多くの船の泊る港として日本國の多くの船人等が定めた此の敏馬の浦は、朝風に浦の浪が立ち騷ぎ、夕浪に美しい藻が打寄せてくる。白い砂の清い濱邊は、行つたり還つたりして、眺めても眺めても見飽くことがない。なるほど、この景色を見る人毎に語り繼ぎ、賞美するのも尤もである。今後百代までも永く人々に賞美されてゆくであらう、この清い白砂の濱は。
〔評〕 簡素清純、よく洗煉された句法である。敏馬浦が、船舶の往來する要津である旨は明かにされてゐるが、その(434)風光の特色は浮き出てをらぬ。
〔語〕 ○八千桙の神 大己貴神即ち大國主神の別名。遠い神代の昔から、といふ意と共に、大國主神に對する厚い信仰が偲ばれる。○八島國 大八洲國の意。「一〇五〇」參照。○偲ひけらしき 「こそ」に對して、連體形で結んだ。古格の一、「一三」參照。
 
    反歌二首
1066 まそかがみ敏馬《みぬめ》の浦は百船の過ぎて往くべき濱ならなくに
 
〔譯〕 きれいに澄んだ鏡を見るといふ名の敏馬の浦は、多くの船が、立ちよらずに通り過ぎてしまふことの出來る濱ではないのに。
〔評〕 皆船をとどめてながめる、實に景色のよい濱である、の意。長歌の「百船の泊つる泊と、八島國百船人の、定めてし敏馬の浦は」とあるのを拔き出して、その佳景を稱へたのである。表現は、前出の「大埼の神の小濱は狹けども百船人も過ぐといはなくに」(一〇二三)に似たところがある。
〔語〕 ○まそかがみ 「み」にかかる枕詞。「まそ鏡見飽かぬ君」(五七二)參照。
 
1067 濱清み浦うるはしみ神代より千船のとまる大和田《おほわだ》の濱
     右の二十一首は、田邊福麿の歌集の中に出づ。
 
〔譯〕 濱が清く、浦が美しいによつて、神代の昔から、多くの船が皆泊る大和田の濱であるよ、此處は。
〔評〕 敏馬浦につづいた大和田の濱の、船舶の輻輳、海岸線の佳景を讃美したのである。「神代より」と云うたのは、この地の負ひ持つ傳統を愛でたもので、古來より有名なのを、誇大に表現したのである。
(435)〔語〕 ○大和田の濱 攝津國兵庫の濱。今、和田岬の名を殘してゐる。
〔訓〕 ○浦うるはしみ 白文「浦愛見」舊訓ウラナツカシミ。略解にょる。○千船のとまる 白文「千船湊」代匠記精撰本チフネノツドフ、考チフネノハツル等の訓があるが、舊訓のままでよい。
 
萬葉集卷第六 終
 
 
(3)  萬葉集 卷第七
 
(5)概説
 
 卷七は、雜歌、譬喩歌、挽歌の三つに分たれ、歌數は次のごとくである。
       短歌 旋頭歌   計
 雜 歌 二〇三首 二五首 二二八首
 譬喩歌 一〇七首  一首 一〇八首
 挽 歌  一四首 ――   一四首
 計   三二四首 二六首 三五〇首
 即ち、長歌は一首もなく、短歌三百二十四首、旋頭歌二十六首で、中には異傳歌もある。
 雜歌は歌體によつて短歌と旋頭歌に二分し(但、旋頭歌一首が短歌の中に混在してゐる)短歌は更に、題材、詠作動機、その他によつて、天、月、雲、雨、山、岳、河、露、花、葉、蘿、草、鳥、井、倭琴の詠物十五種、芳野作、山背作、攝津作、?旅作のごとき旅の歌、問答、臨時、就所發思、寄物發思、行路等に類別せられ、左註に人麿歌集、古歌集、古集などが註記してある。譬喩歌も歌體により、短歌と旋頭歌に二分し(旋頭歌は一首のみ)短歌は人麿歌集所出歌とその他に別ち、それぞれの中を寄物題材によつて、衣、絲、和琴、弓、玉、山、木、草、花、稻、鳥、獣、雲、雷、雨、月、赤土、神、河、埋木、海、浦沙、藻、船の二十四種に分ち、順序してゐるが、殆どすべて戀歌である。挽歌は十二首の次に或本歌として異傳歌が一首あり、最後に?旅歌が一首ある。脱漏歌をここに掲げたのかも知(6)れぬが、雜歌の中にも相聞歌とすべきがあり、精確な分類とは考へられない。なほこの分類の方法が卷三と同じであることは、この卷の成立に就いてある暗示を與へる。
 歌の作者は不明であるが、雜歌の中に、例外的に藤原卿作といふ七首があり、高市黒人の作の異傳(一一七二等)もある。年代も明記してないが、大寶元年紀伊行幸の際の作かと思はれる歌(一二一八)高市黒人の歌の異傳と思はれるもの(一二二九)などのごとく、ほぼ年代の推定せられるものもあり、また人麿歌集、古歌集、古集等の所載歌もあり、年代はやや長きに渉つてをり、奈良時代初期までの歌のやうである。
 雜歌のうち「一一九四」乃至「一二〇七」の十四首が、流布本に「一二二二」の次にあるのは位置を誤つたのである。橋本博士の研究によるに、大矢本に「一一九四」乃至「一二〇七」の十四首及び「一二〇八」乃至「一二二二」の十五首は、それぞれ一紙に書寫せられてをり、その二紙が前後して綴られ、それを轉寫した寛永本その他の諸本は、いづれも十四首と十五首とが位置を誤つたのであり、元暦校本、西本願寺本、その他の古寫本によつて、その誤は明かである。なほ譬喩歌の部は、人麿歌集所出歌とその他と二分してあるのが、目録では一括して記してゐる。この目録のごとき順序が原型かと推測する説もあるが、後の卷十一及び十二も同樣であり、本文のままが原型であらう。
 旋頭歌のうち、注意すべき作は、
  百しきの大宮人の踏みしあと所沖つ浪來よらざりせば失せざらましを    古歌集  一二六七
  君がため手力つかれ織れるころもぞ春さらばいかにかいかに摺りてはよけむ 人麿集  一二八一
  春日すら田に立ち疲る君は哀しも若草のつま無き君が田に立ち疲る     同    一二八五
  みなとの葦の末葉を誰か手折りし吾が背子が振る手を見むと我ぞ手折りし  同    一二八八
 次に短歌のうち、秀歌と目すべきを抄出する。
  天の海に雲の波立ち月の船星の林にこぎ隱る見ゆ             人麿集  一〇六八
(7)  ますらをの弓末振り起しかり高の野邊さへ清く照る月夜かも      作者未詳 一〇七〇
  水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜のふけゆけば        同    一〇八二
  靫縣くる伴の雄ひろき大伴に國榮えむと月は照るらし           同    一〇八六
  あしひきの山河の瀬のなるなべに弓月が嶽に雲立ち渡る          人麿集  一〇八八
  いにしへの事は知らぬをわれ見ても久しくなりぬ天の香具山        作者未詳 一〇九六
  み芳野の青根が峰のこけむしろ誰か織りけむ經緯無しに          同    一一二〇
  琴取ればなげきさきだつけだしくも琴の下樋に妻やこもれる        同    一一二九
  宇治河を船渡せをとよばへども聞えざるらし楫の音もせず         同    一一三八
  しなが鳥猪名野を來れば有間山夕霧立ちぬやどは無くして         同    一一四〇
  家離り旅にし在れば秋風の寒きゆふべに雁鳴きわたる           同    一一六一
  今日もかも沖つ玉藻は白浪の八重折の上に亂れてあらむ          同    一一六八
  ささ浪の連庫山に雲居れば雨ぞふるちふ歸りこ吾が背           同    一一七〇
  海人小船帆かも張れると見るまでに鞆の涌回に浪立てり見ゆ        同    一一八二
  をとめ等が織る機の上を眞櫛もちかかげたく島波の間ゆ見ゆ        同    一二三三
  波高しいかに楫取水鳥のうき寢やすべきなほやこぐべき          同    一二三五
  靜けくも岸には波は寄りけるかこれの屋通し聞きつつ居れば        同    一二三七
  西の市にただ獨出でて眼竝べず買ひにし絹し商じこりかも         古歌集  一二六四
  今年行く新島守が麻ごろも肩のまよひは誰か取り見む           同    一二六五
  まきむくの山邊とよみて行く水の水泡のごとし世の人吾は        人麿集   一二六九
(8)  風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しかるべし君がまにまに     同    一三〇九
  わたの底しづく白玉風吹きて海は荒るとも取らずは止まじ         作者未詳 一三一七
  冬ごもり春の大野を燒く人は燒き足らねかも吾がこころやく        同    一三三六
  つき草に衣は摺らむ朝露にぬれての後はうつろひぬとも          同    一三五一
  雲藝に近く光りて鳴る神の見ればかしこし見ねば悲しも          同    一三六九
  さきはひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が聲を聞く         同    一四一一
 なほ、問答として次の二首がある。
  佐保河に鳴くなる千鳥なにしかも川原をしのひいや河のぼる             一二五一
  人こそはおほにも言はめ我がここだしのふ川原をしめゆふなゆめ           一二五二
 この答歌は、千鳥が應へてゐる擬人法の作である。
 最後にこの卷の用字法は、格別の特色はなく、音訓兩樣混用せられてゐる。借訓としては「夏樫《なつかし》」(一一九五)「五百人※[金+施の旁]染《いほりかなしみ》(一二三八)「湯谷絶谷《ゆたにたゆたに》」(一三五二)などがあり、戯書としては「大王《てし》」(一三三一)「義之《てし》」(一三二四)「味試《なむ》」(一三二三)などがある。
 
(9)萬葉集 卷第七
 
  雜歌《ざふか》
 
    天《あめ》を詠める
1068 天《あめ》の海に雲の波立ち月の船星の林にこぎ隱る見ゆ
     右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 天の海に、雲の浪が湧き立つて、三日月の舟が、星の林の中に、漕ぎ隱れてゆくのが見える。
〔評〕 天を仰いで幼い想像をほしいままにした萬葉人の、童心が愛せられる作である。しかも、新奇な神仙思想を持つた文學のにほひがあることは否めない。卷十には「天の海に月の船浮け桂梶かけてこぐ見ゆ月人をとこ」(二二二三)とあるが、此の歌より劣つてゐる。
〔語〕 ○天の海 青空を海に譬へたもの。○月の船 三日月の形が舟に似てゐるからであつて、懷風藻なる文武天皇御製に「月舟移2霧渚1、楓※[楫+戈]泛2霞濱1。」とある。○星の林 星の數おほく群がつてゐるのを譬へなしたのである。
 
    月を詠める
1069 常はかつて思はぬものをこの月の過ぎかくれまく惜しき夕《よひ》かも
 
〔譯〕 いつもは、かつて一度も惜しいと思うたことはなかつたに、この月の過ぎ隱れるのが惜しい今宵であることよ。
(10)〔評〕 なつかしい友と語る夜でもない。樂しい宴席の宵でもない。ただひとり月を眺めてゐて、不思議なまでの愛着をおぼえたのである。常にかはらぬ同じ月であるものを、今宵の月の飽かぬ思ひは何故であらうか――時におこる人間共通の感情が、おほどかにうたひあげられてをる。
〔語〕 ○常はかつて 「かつて」は「六七五」參照。すべて、全く、の意。○思はぬものを 惜しく思はぬのにの意。
 
1070 ますらをの弓末《ゆずゑ》振《ふ》り起し借高《かりたか》の野邊さへ清く照る月夜《つくよ》かも
 
〔譯〕 丈夫が弓のさきを振り起てて狩をするといふ、雄々しい名を負うた狩高の野邊にまでも、清く照つてをる月夜であることよ。
〔評〕 廣い野邊いつぱいに、光が照り滿ちてゐるやうに感じられる。一二の句は、集中類型はあるが、張りつめた弓弦のやうに雄渾な序を、そのままに受けた「さへ」の語調が、極めて効果的に用ゐられてをる。
〔語〕 ○ますらをの弓末振り起し 「三六四」參照。勇士が弓の尖端を振り立てて獵をする意で、借高につづく。○借高 狩高は大和添上郡、今の鹿野苑のあたりを指すといふ。「九八一」參照。○野邊さへ 「さへ」は 「までも」。自分のをるところだけでなく、遠くの方なる野邊までも、の意。
 
1071 山の末《は》にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居《を》るに夜ぞくだちける
 
〔譯〕 山の端でためらうてゐる月を、今に出るかと待つてをるうちに、月は出ずに夜がふけたことである。
〔評〕 素朴な表現の中に、民謠的な調子がある。後にも「一〇八四」のやうな類似の歌が出てをる。
〔語〕 ○いさまふ月を いさよふは、ためらふ、躊躇する意。出さうにして出ぬ月。後世いふ「いさよひ」即ち十六夜の月に限つていふのではない。
 
(11)1072 明日《あす》の夕《よひ》照《て》らむ月夜《つくよ》は片よりに今夜《こよひ》に寄りて夜長《よなが》からなむ
 
〔譯〕 明日の晩照るはずの月は、片寄りに、今夜に一しよに照つて、今夜は夜が長くあつてくれればよいがなあ。
〔評〕 明日照る分までも今夜一しよに照つて、このよい月を長く見たいものである、の意で、子供のやうな考へ方であるが、たくまぬ自然の面白みがある。湯原王の「天にます月讀をとこ幣《まひ》はせむ今夜の長さ五百夜繼ぎこそ」(九八五)は、教養のある人が技巧を凝らした面白みであつて、感覺的に穿つたところがない。
〔語〕 ○片よりに今夜に寄りて 今夜の方に片寄りに寄つて、明日の分まで長く照つてほしい、の意。○夜長からなむ 夜長くあらなむ、の意。「情有南畝《こころあらなむ》」(一八)參照。
 
1073 玉垂《たまだれ》の小簾《をす》の間《ま》通《とほ》しひとり居て見る驗《しるし》なき暮月夜《ゆふづくよ》かも
 
〔譯〕 たつた一人でゐて、簾を通して見るけれども、あなたと一緒でないから、見るかひのない夕月夜であることよ。
〔評〕 いかにもすつきりと洗錬された詞調である。雜音をすつかり漉し去つたやうな清らかさとも云ひたい。
〔語〕 ○玉垂の 卷二に「玉垂のをちの大野」(一九四)とある。ここも「小」即ち緒にかけるといふ説が有力であるが「簾」にかけると見る説(新解)もある。○見る驗なき 思ふ君と共ならずして獨り居て見ては、見る甲斐なしの意。
 
1074 春日《かすが》山おして照らせるこの月は妹が庭にも清《さや》けかりけり
 
〔譯〕 春日山を、おしなべて照らしてをる此の月は、わが愛する人の家の庭にも、清く照つてをることである。
〔評〕 月が春日山に照つてゐるのを眺めながら、愛する女の家に來てみると、ここにも月がさやかに輝いてゐた。心もおのづから開けて、樂しく朗かな歌となつてをる。
(12)〔語〕 ○おして照らせる 「おして」は、おしなべて、の意。
 
1075 海原《うなはら》の道遠みかも月讀《つくよみ》の明《あかり》すくなき夜はくだちつつ
 
〔譯〕 廣々とした海原の道が遠いために、光が此處までとどかない故であらうか、月の明るさのすくないのは。かうして段々と夜が更けて行きながら。
〔評〕 海邊に立つて、さやかにさしのぼる月を待ち望みながら、海上はるかに薄くさした光に、待ちかねてゐる氣持である。その原因をさぐつて、空の模樣を云はずに、渺茫たる海原の道に歸し、結局は一轉して、作者のあせり心地をあらはしてをる。面白い思ひつきではあるが 「倉橋の山を高みか夜ごもりに出で來る月の光ともしき」(二九〇)
「雨隱り三笠の山を高みかも月の出で來ぬ夜はくだちつつ」(九八〇)等、類型の多い構想である。
〔語〕 ○路遠みかも 「路」は月の渡つて來る道。○月讀の 月。「六七〇」參照。
 
1076 ももしきの大宮人の退《まか》り出《で》てあそぶ今夜《こよひ》の月のさやけさ
 
〔譯〕 大宮人が御所から追出して遊んでゐる今夜の、月の清く明かなことよ。
〔評〕 觀月の宴に列した大宮人の一人が詠んだもので、單調に説明しつくした歌ではあるが、印象は鮮明である。
〔語〕 ○ももしきの 多くの石を以て堅固に築いた城の意から、皇居のおごそかな事をいひ、大宮につづく。「二九」參照。○まかり出て 退出して。
 
1077 ぬばたまの夜渡る月をとどめむに西の山邊に關もあらぬかも
 
〔譯〕 夜空を通つて、沈んで行く月をとどめるために、西の山のあたりに、關でもないものか、まあ。
(13)〔評〕 幼くて單直な空想である。
〔語〕 ○ぬばたまの 枕詞。「九二五」參照。○夜渡る月 夜空を渡る月。○西の山邊 月の隱れる西の山邊。○關もあらぬかも 關は關所。關がないであらうか、あつてほしい、の意。
 
1078 この月の此間《ここ》に來《きた》れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ
 
〔譯〕 この月が此處まで來たのだから、今こそ自分が來るであらうと、妻が門に立ち出て待つてゐるであらうか。
〔評〕 障ることがあつて、逢ひに行けなかつたのであらう。移り行く月影に悶々する樣があはれである。
〔語〕 ○今とかも 「か」は疑問の助詞。五句の終につけて解するとよい。今こそ思ふ人が來る頃と思つて、の意。
 
1079 まそ鏡照るべき月を白たへの雲か隱せる天つ霧かも
 
〔譯〕 眞澄の鏡のやうに清く照るはずの月であるものを、こんなにぼんやりとしてゐるのは、白雲が隱してゐるのか、それとも空の霧が覆うてゐるのであらうか。
〔評〕 朦朧とした薄月夜のさまが、さながらに寫されてをる。「……であらうか、或はまた……であらうか」といふ型は集中に、例が少くない。
〔語〕 ○まそ鏡 枕詞。眞澄鏡の義。「照る」にかかる。
 
1080 ひさかたの天《あま》照る月は神代にか出でかへるらむ年は經につつ
 
〔譯〕 空に照る月は、生れた神代の古へに立ちかへつて、また出直して來るのであらうか、年は經ちながら、光が變らぬところをみると。
(14)〔評〕 月の永遠の若さに對して、上代人らしい疑惑をはさんで、想像をめぐらしたのである。技巧を以ては云ひ得ぬやうな、素朴自然の面白みがある。なほ、月の常若《とこわか》にあこがれる心は、不老長壽の藥水もまた、月の持つものと想像するやうになつて「月よみの持たる變若水」(三二四五)の句も見えてをる。
〔語〕 ○神代にか出でかへるらむ 古義が、幾萬年を經て神代の如き世に立ちかへつても、この月は變らず同じ光に照らすであらう、と月を羨むものとして説くのは從ひ難い。やはり、月の生れた神代に立ちもどつて出るやうに、變らず美しい、意とみる略解等の方がよい。
 
1081 ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ吾が居《を》る袖に露ぞ置きにける
 
〔譯〕 夜空を通る月が面白いので、自分が眺めてをる袖に、いつしか露が置いたことである。
〔評〕 月を愛づるあまりに、戸外に立つて夜をふかしたのである。素朴明朗、月を感傷の種とする後世の歌には見られぬ境地である。
 
1082 水底の玉さへ清《さや》に見つべくも照る月夜《つくよ》かも夜のふけゆけば
 
〔譯〕 水の底にある綺麗な玉までも、はつきりと見えさうに思はれるほどに、清く照つてゐる月であるよ。段々と夜がふけてゆくと、いよいよ光が澄みまさるので。
〔評〕 深夜の月は冴えまさつて、水底にまで照り徹つてゐる。清い水邊、玉のやうな水底の石、深夜の月光を寫して、調も靜かに澄んでをる。
〔訓〕 ○ふけゆけば 白文「深去者」。フケヌレバともよめる。
 
(15)1083 霜ぐもり爲《す》とにかあらむひさかたの夜わたる月の見えなく念《も》へば
 
〔譯〕 霜が降らうとして曇るといふのであらうか、夜空を渡る月の見えないのを思つてみれば。
〔評〕 「霜ぐもり」といふ語は、集中に類例がない。月が冴えるはずの寒夜に、空が薄く曇つてゐるのを、霜も空からふるものと考へてゐた當時として、かかる語を作つたのであらう。
 
1084 山の末《は》にいさよふ月を何時《いつ》とかも吾が待ち居《を》らむ夜はふけにつつ
 
〔譯〕 山の瑞でためらうてをる月を、いつになつたら出るであらうと、自分が待つてをることか。段々と夜はふけて行くのに。
〔評〕 前出の「山のはにいさよふ月を出でむかと待ちつつをるに夜ぞくだちける」(一〇七一)に似て、反語的な語氣に不滿の意がこもつてをる。忌部黒麿の、友のおそく來るを恨むる歌「山の瑞にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜はくだちつつ」(一〇〇八)は、この二つの作を一緒にしたやうな感がある。
 
1085 妹があたり吾が袖振らむ木《こ》の間より出で來《く》る月に雲な棚引き
 
〔譯〕 妻のゐる方に向つて自分は袖を振らうと思ふ。それ故に、木の間から出て來る月に、雲よ、たなびくな。
〔評〕 別に臨んで、自分の振る袖を、月光でよく見えるやうにと念じた歌。人麿の「石見のや高角山の木の際より我が振る袖を妹見つらむか」(一三二)などの情景を思はせる。しかし、夜であるだけに、また別の趣もある。
〔語〕 ○妹があたり 妹が家のあたりに向つて。○雲なたなびき 「な」は禁止の助詞。雲に命令する意。「たなびき」の「た」は添へた詞。横になびく意。
 
(16)1086 靱《ゆき》懸《か》くる伴の雄ひろき大伴に國榮えむと月は照るらし
 
【・、鵡J,】〔譯〕 靱を背負うて朝廷に奉仕する勇士を多く出し、家門の廣い大伴氏のあることによつて、いよいよ吾が皇國は榮えるであらうといふことをあらはして、今宵の月は皎々と照り渡つてをるのであらう。
〔評〕 月明の夜、大伴家一門の盛んな酒宴が行はれたをりの歌であらう。天孫降臨以來、近衛の軍團の長として榮え、家訓として「海行かば水づく屍」云々の言立を歌ひつたへた大伴家である。一族を率ゐ、明月に對して氣を吐いた樣が思ひやられる。宴たけなはにして月いよいよ冴え、あたかも皇國の隆昌と一族の武運とを、壽ぎ祝ふかのやうに見えたといふ、格調雄健、意氣揚々たる作である。
〔語〕 ○靱かくる 「靱」は、矢を盛つて背に負ふ器。後世の箙の類。「四七八」參照。「かくる」は負ふこと。武装せるの意。○伴の雄 「八十件の男」(四七八)參照。祓詞「手襁かくる伴の男、靱負ふ伴の男、劔佩く件の男、伴の男の八十伴の男を始めて」。○ひろき 大伴氏の家門廣く、その一族の多い意。○大伴 難波の御津のことで地名とする説(冠辭考續貂)衛府の陣とする説(考)大伴氏の家とする説(全釋)などがある。未だいづれとも定めがたい。しばらく一族と解しておく。
 
    雲を詠める
 
1087 痛足河《あなしがは》河波立ちぬ卷目《まきもく》の齋槻《ゆつき》が嶽《たけ》に雲居《くもゐ》立てるらし
 
〔譯〕 痛足河には、河浪が立つてをる。この樣子では、卷目の齋槻が嶽には、雨雲が湧き起つてゐるらしい。
〔評〕 山雨まさに來らむとして、一陣の疾風を吹きおろした河水は波立ちさかまく。雨雲の影を求めて、彼方に高く聳えた弓月が嶽を仰ぐ、その瞬間の景を寫して、力のこもつた作である。
〔語〕 ○痛足河 大和國磯城郡纒向村にある。○卷目の齋槻が嶽 卷目は三輪山の東に續く山で、齋槻が嶽はその中(17)の高峯。なほ卷目は集中多く卷向とあり、古事記にも「麻岐牟久能比志呂能美夜」とあるから、卷向が正しく、卷目は轉じたものと思はれる。
〔訓〕 ○雲居立てるらし 白文「雲居立有良志」略解は細井本、無訓本に「有」の字のないのをよしとし、考は「居」「有」共に衍としてゐる。なほこの他に誤字説もあるが、元暦校本以下古寫本多く「有」の字があるから「有」のある本に從ふべきである。
 
1088 あしひきの山河《やまがは》の瀬の響《な》るなべに弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に雲立ち渡る
     右二首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 山川の浪がさわだち、瀬の音が高くなつたかと思ふと、あの弓月が岳には、雲が一面に立ち渡つたことである。
〔評〕 山雨來らむとする前の情景が、強い迫力を以て表現されてをる。しかして、その力強さは、一首の高い調の流れに存するのである。あたかも新古今集なる能因の「山里の春の夕ぐれ來て見れば入あひの鐘に花ぞちりける」のやさしさが、句々の上のみに存するのではなくて、一首ののどかな調の中にあるのと同じい。しかしてこの兩者の歌風の相違は、とりもなほさず二つの時代精神の相違である。
〔語〕 ○山河の瀬の 山中の河の瀬の。「ヤマガハ」と訓む。○なるなべに 「なべ」は「と共に」の意。
 
1089 大海に島もあらなくに海原《うなはら》のたゆたふ浪に立てる白雲
     右一首、伊勢の從駕《おほみとも》にて作れるなり。
 
〔譯〕 見渡す限りの大晦には、島らしいものも見えないのに、沖遠くただよつてをる浪の上に、白雲が立つてゐる。
〔評〕 大海原には、孤島の影もなく、見渡す五百重浪千重浪の天に接するあたりには、一群の白雲が湧き立つてゐる。(18)この、頼りなさに對照された、くつきりとした豪快な印象を、「立てる白雲」と大きく結んで少しもたるみがない。
 
    雨を詠める
1090 吾妹子が赤裳の裾の染《し》み濕《ひ》ぢむ今日の※[雨/脉]※[雨/沐]《ひさめ》に吾さへぬれな
 
〔譯〕 自分の愛する妻の赤い裳の裾が、にじみぬれるであらう今日のこの大雨に、自分もまた濡れたいものである。
〔評〕 にはかに降り出でた大雨であつたであらう。赤裳の裾をひいてゆく愛人の、雨に惱む姿が、痛ましくもあはれに想像されたのである。眞率で、しかもやさしみのあふれた作。繊細な平安時代の人にも喜ばれたものと見えて、和歌童蒙抄や古今六帖にも出てをる。
〔語〕 ○染みひぢむ 雨ににじみ濡れる。「む」は、ここは、連體形とみておく。
〔訓〕 ○しみひぢむ 白文「將染※[泥/土]」、舊訓ソメヒヂム、考ヒヅチナム、古義ヒヅツラム等いづれも從ひ難い。代匠記精撰本による。
 
1091 徹《とほ》るべく雨はな零《ふ》りそ吾妹子が形見のころも吾《われ》下《した》に著《き》たり
 
〔譯〕 下まで濡れ通るほどに、雨よ強く降つてくれるな。吾が思ふ人の形見の衣を、自分は下に着てゐるのである。
〔評〕 下に着た愛人の形見を、いつくしみいたはる情が、平明で質實な詞調にあらはれて、素朴ではあるが、柔らかみに富んだ歌になつてゐる。
〔語〕 ○形見 後世のやうに死者のものにかぎるのではなく、生きてゐる人々の、記念としてやりとりしたものを指してゐるのである。
〔訓〕 ○着たり 白文「著有」古義がケリと訓んだのもよいが、動詞ケリの例は僅かに一例に止まり、音調上からも、(19)舊訓がよいと思はれる。
 
    山を詠める
1092 鳴《な》る神の音のみ聞きし卷向《まきむく》の檜原の山を今日見つるかも
 
〔譯〕 音にばかり聞いてゐた卷向の檜原の山を、今日はじめて見たことよ、まあ。
〔評〕 いかにも上代人らしい、驚歎と感激とがあらはれてをる。「今日見つるかも」の結句は、多く用ゐ慣れたものであるが、ここは上の一二句によく調和してをる。
〔語〕 ○鳴る神の 枕詞。音にかかる。○音のみ聞きし 音にのみ聞いてゐた「九一三」參照。○卷向の檜原の山 檜原の山は檜の林のある山の意で、轉じて地名となつたもの。下に見える三輪の檜原と同地で、三輪山の西北にあり、三輪領と卷向領の境にあたる一丘陵である(大和萬葉地理研究)。
 
1093 三諸《みもろ》のその山竝《やまなみ》に子等が手を卷向《まきむく》山は繼《つぎ》のよろしも
 
〔譯〕 三諸の三輪山の、その山つづきに、妻の手を卷くといふ名の卷向山は、つらなり方がまことによいことである。
〔評〕 三輪山の東方に連なつて卷向山が一段高く竝んでをる。その山脈の美を、古朴な詞調で讃へたのである。卷向山について聯想した枕詞も、單直な古趣をおびてゐて、面白い。
〔語〕 ○三諸の 「一五六」參照。三輪山をさす。○その山竝に その山續きに。○子等が手を 枕詞。妻の手を枕として寢る意で「卷く」につづける。「一二六八」參照。○繼ぎのよろしも 山の續き方がよろしいことよ。
 
1094 我が衣《ころも》色服《いろぎぬ》に染《し》めむ味酒《うまざけ》を三室《みむろ》の山は黄葉《もみち》せりけり
(20)     右の三首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 あの下かげを通つて、自分の衣を美しい色に染めよう。三室山の木々は、あのやうに美しく黄葉してゐるのであるから。
〔評〕 當時の習慣からみては、まことに自然な感じと云はねばならぬ。もとより、黄葉によつて實際に着物を染めたのではないが、かやうな空想を生じた心には、萬葉時代の染色工業の姿が影を映じてゐるのである。「あの黄葉の色に染めよう」とのみ解するのは從ひ難い。卷十に「吾背子が白たへ衣往き觸らば染《にほ》ひぬべくももみづ山かも」(二一九二)ともある。
〔語〕 ○色服に染めむ 色のついた服に染めよう。○味酒を 「美酒の實毛侶之」とつづき、「毛侶之」は實甘美《みあまし》と同意の古語とする説(古義)もあるが、牽強と思はれる。「甘酒三輪乃山」(一七)「甘酒呼三輪之祝」(七一二)とつづくから、三輪山の一名三室山にもつづく、とみる代匠記の説が穩かである。
〔訓〕 ○我が衣色服に染めむ 白文「我衣色服染」代匠記精撰本・略解所引宣長説は「我衣服色染」の誤としてゐる。舊のままにする。訓は種々の説があるが、誤字説は勿論、他の訓も字面から離れすぎると思はれる。「服」をキヌと訓んだ例は少ないが、コロモ、ハタなどの例があり、差支へないと思ふ。○味酒 味酒のとよむ説もある。
 
1095 御室《みもろ》齋《つ》く三輪山見れば隱口《こもりく》の始瀬《はつせ》の檜原おもほゆるかも
 
〔譯〕 神の御社を齋きまつる三輪山を見ると、同じやうに茂つた初瀬の檜原山が思はれることである。
〔評〕 三輪山の密林の神さびた姿から、これに劣らぬ初瀬の檜原を思ひやつたのである。上代人の森を崇拜する感情が見られる。
〔語〕 ○御室齋く 社を齋き祭る。「一〇五九」參照。○隱口の 枕詞。「四五」參照。
 
(21)1096 いにしへの事は知らぬを我《われ》見ても久しくなりぬ天《あめ》の香具山
 
〔譯〕 遠い昔のことは知らないが、自分が見てからでも、隨分年月が久しく經つたことであるよ、この香具山は。
〔評〕 釋日本紀所引の伊豫國風土記、及び「二五七」によると、香具山は天から降下して來たと傳へられてゐたことが知られる。三山妻爭ひの物語は極めて名高い。かやうに太古よりの傳説に富んでをる天の香具山の悠久の生命を思ひ、見れば見るほど心をひかれる神々しさを讃嘆したのである。なほ、この山を見なれてすごした年月を思ふにつけ、自己の老いたこともかへりみられたことであらう。しかも、何らの感傷の影もない明朗な歌となつてをる。古今集なる「我見ても久しくなりぬ住の江の岸のひめ松いく代へぬらむ」はこの歌によつたのである。
〔語〕 ○いにしへの事 前掲の諸傳説等につつまれた、神秘な香具山をさす。
 
1097 吾背子を乞《こち》巨勢《こせ》山と人は云へど君も來まさず山の名にあらし
 
〔譯〕 私の思ふお方をこちらへ來なさいと呼ぶ名の巨勢山と人は云ふが、あなたは少しもお出でなさらない。これでは、巨勢などいつても唯の山の名に過ぎぬらしい。
〔評〕 輕妙な歌である。かやうにその名と實との伴はぬことを嘆いた趣向は、後出の「すみのえに行くとふ道に昨日見し戀忘貝言にしありけり」(一一四九)など、いろいろの例があるが、この場合は特によくきいてをる。
〔語〕 ○乞巨勢山 「こち」は此方の意。「こせ」は「來よ」の敬語。それを「巨勢山」にかけたもの。「巨勢山」は大和高市郡の丘陵、「五四」參照。○山の名ならし 山の名ばかりであるやうである。
〔訓〕 ○乞巨勢山 古義はイデコセヤマと改めたが、舊訓の通りがよい。
 
(22)1098 紀道《きぢ》にこそ妹山《いもやま》ありと云へ櫛上《くしげ》の二上《ふたがみ》山も妹こそありけれ
 
〔譯〕 紀伊の國にこそ、妹山といふ山があるといふ。しかし、あの二上山にも妹山があり、夫婦竝んでゐて羨ましい。
〔評〕 紀伊路にこそ、音にきく妹背山の妹山があるといふが、この大和の二上山にも女嶽がをなはつてをることであるの意で、妻を失つて悲嘆にくれてゐるやうな人の作であらう。幼いが素朴な美しさを失つてゐない。
〔語〕 ○紀路  「三五」參照。○妹山 紀伊國伊都郡の妹背山。「五四四」參照。○櫛上《くしげ》の 枕詞。櫛笥には蓋があるから二上山に續く。「玉くしげ二上山」(三九八五)ともある。○二上山 「一六五」參照。頂が二つに分れて男嶽女嶽といつてゐる。ここに「妹」といふはこの女嶽をさす。
〔訓〕 ○櫛上 元暦校本等すべて通行本のままであつて、誤字とすべきではない。代匠記精撰本の訓による。
 
    岳《をか》を詠める
1099 片岡のこの向《むか》つ峯《を》に椎《しひ蒔《ま》かば今年の夏の陰《かげ》に比《そ》へむか
 
〔譯〕 片岡の、この向うの峯に椎を蒔いたならば、今年の夏の日陰になるやうに、なぞらへられるであらうか。
〔評〕 その年に蒔いた椎の實が、夏の陰をつくるほど生ひ伸びるはずはない。理窟にならぬことを空想してゐるやうであるが、そこに、童《わらぺ》めいた面白みがあり、民謠のにほひもするのである。
〔語〕 ○片岡 本來は岡の傍の意の普通名詞であるが、ここは地名で大和國北葛城郡の東部、南は下田、北は王寺に至る一帯の地の總稱である。○向つ峯 向ひの峯。○陰に比へむか 陰となるほどになぞらへられるであらうか、の意。なほ代匠記精撰本に「此歌は喩ふる所ありてよめる歌。向峯は遠く、今年の陰に椎蒔くは遲し。楚河を轍魚のために決らむ事を期するやうなる故有てよめる歟。」とある。
(23)〔訓〕 ○陰にそへむか 白文「陰爾將比疑」。「比」を、略解は「成」古義は「化」の誤としてゐるが、根據がない。古くナミムカと訓んでゐるが、比は陰に擬する意と認められるから、「一六四二」の「たなぎらひ雪もふらぬか梅の花さかぬが代にそへてだに見む」を證として、ソヘムカと訓むこととする。
 
    河を詠める
1100 卷向《まきむく》の痛足《あなし》の川ゆ往《ゆ》く水の絶ゆること無くまた反《かへ》り見む
 
〔譯〕 この卷向の痛足川を流れてゆく水の絶えぬやうに、絶えることなく、また來て見よう。
〔評〕 人麿の、「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む」(三七)以來、後の奈良時代の歌人に踏襲された形式である。
〔語〕 ○川ゆ この「ゆ」は動作の經由地を示すもので「を通つて」。○往く水の 「の」は「の如く」。以上譬喩。
 
1101 ぬばたまの夜《よる》さり來《く》ればまきむくの川音《かはと》高しも嵐かも疾《と》き
     右の二首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 夜になつて來ると、卷向川の瀬の音が高いことである。山の嵐が烈しくなつたのであらうかなあ。
〔評〕 夜に入つてますます高まつて來た河瀬の音に、作者はじつと耳を傾けて坐つてゐる。さうして卷向山からおろして來る嵐の烈しさに想到したのである。作者の位置は山ふところであつて、あまり風當りの無い處といふことがおのづから想像される。渾厚な五七の古調で描線が頗る太いが「夜さり來れば」の一句に、晝間からの時間的推移を巧に表はしたところなど、甚だ綿密周到である。
〔語〕 ○夜さり來れば 夜が來ると。○嵐かも疾き 山からおろす嵐が烈しいのであらうか。
 
(24)1102 大王《おほきみ》の三笠の山の帶にせる細谷川の音の清《さや》けさ
 
〔譯〕 三笠山が帶にして山裾を引き廻らしてゐる細い谷川の音の、何とまあさやかなことであらう。
〔評〕 前の歌とは全く趣を異にして、極度に洗煉された美しい旋律の中に、練絹の光澤を見るやうな爽やかさがあり、さながら耳もとに、細谷川の清流の響を奏で出すかと疑はれる。古今集大歌所の歌に「眞金ふく吉備の中山帶にせる細谷川の音のさやけさ」とあるのは、仁明天皇の大嘗會の時の備中國の歌として、今の歌を改作したものであるが、聲調におのづから別樣の趣を生じて、これ亦めでたい作である。
〔語〕 ○大王の 大君の御笠の意で「三笠山」にかけた枕詞。○帶にせる 帶として腰に引きめぐらしたの意で、山裾を川の曲折して流れてゐる形容。「三諸の神の帶にせる明日香の河の」(三二二七)など類似の表現がある。○細谷川 能登川をさすのであらう。固有名詞ではない。
 
1103 今しくは見めやと念《も》ひしみ芳野の大川淀を今日見つるかも
 
〔譯〕 今となつてはもう、とても見ることは出來まいと思つてゐたこの芳野の大きな川淀の景色を、幸にも今日見ることが出來たなあ。
〔評〕 思ひ諦めてゐた吉野川の美しい風光を、ゆくりなくも再び眺め得たといふ喜である。斷念してゐた事情が何であつたか明かでないが、恐らく西行の「また越ゆべしと思ひきや」と同じく、老年のゆゑであつたであらう。歌は單純な一通りの作に過ぎない。
〔語〕 ○今しくは 今はの意。體言の今を形容詞類似に活用したもの。「一一三三」に「常しくに」の例もある。代匠記は、イマシキハとよんでゐる。それの用例としては、續紀の宣命に、「今之紀乃間方《いましきのまは》」とある。
 
(25)1104 馬竝めてみ芳野川を見まく欲《ほ》りうち越え來《き》てぞ瀧に遊びつる
 
〔譯〕 芳野川を見たく思つて、友と馬を竝べ、山坂を越えて來て、この壯快な激流のほとりに遊んでゐることである。
〔評〕 友と轡を竝べて山川の勝に遊ぶ、これまことに人生得難い清福の一といはねばならぬ。この歌、この大きな喜を敍したのであるが、遺憾ながら作品としては平板である。せめて格調に今少し變化抑揚を見せたらばと思はれる。
〔語〕 ○馬竝めて この句は二三句を隔て第四句に冠して解すべきである。○うち越え來てぞ 多くの山坂を越えて來て。○瀧 激しい早瀬。今の宮瀧の激湍。
 
1105 音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野河|六田《むつだ》の淀を今日見つるかも
 
〔譯〕 豫て評判にばかり聞いてゐて、目ではまだ見たことのなかつた吉野川の六田の淀を、今日始めて見た事である。
〔評〕 久しくあこがれてゐた勝景に、始めて接した滿悦感を眞正面から吐露したもので、作者の氣持はよく分るが、あまりに平庸な説明で、曲がない。
〔語〕 ○六田の淀 上市の下流で、吉野川が廣い淀をなしてゐる處。今、ムタと稱へる。
 
1106 蝦《かはづ》鳴く清き川原を今日見ては何時《いつ》か越え來て見つつ偲《しの》はむ
 
〔譯〕 河鹿の鳴く風光明媚なこの川原を今日見て後は、いつまた山を越えて來て、この景色を見つつ賞美することが出來ようかなあ。
〔評〕 蝦鳴く清き川原は、六田の淀のあたりであつたであらうか。「河蝦鳴く六田の河の川楊の」(一七二三)とも見えてゐる。狹い大和の國にありながら、再遊の困難を歎いてゐるのは、無論交通が不便で旅行の困難な時代を語るも(26)のであるが、しかしこの作者はそればかりでなく、やはり、我が老を顧みてゐるのではあるまいか。以上吉野川に遊ぶ四首は歌風から察して同一人であらうと思はれる。
〔語〕 ○見つつ偲はむ この「偲ふ」は愛で賞するの意。
 
1107 泊瀬《はつせ》川|白木綿花《しらゆふはな》に落ちたぎつ瀬を清《さや》けみと見に來《こ》し吾《われ》を
 
〔譯〕 眞白な木綿花を見るやうに、美しく流れ落ちて泡立つこの泊瀬川の河瀬の景色を、爽快であると思つて見に來た自分なのである。
〔評〕 譬喩の適切と聲調の快美と相俟つて、實景を眼前に生動させてゐる。激流奔湍の美觀を白木綿花に譬へた歌は少くないが、殊に「山高み白木綿花に落ちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも」(九〇九)「泊淑女の造る木綿花み吉野の瀧の水沫《みなわ》にさきにけらずや」(九一二)「山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門《かはと》見れど飽かぬかも」(一七三六)など吉野川に多く歌はれてゐる。又上の歌によつて木綿花は多く泊瀬で作られたことが知られるので、泊瀬川の瀬の流をそれに譬へたのも、極めて自然である。かたがたこの歌が類想中の先蹤ではないかと思はれる。
〔語〕 ○泊瀬川 「七九」參照。○白木綿花に 木綿花は木綿で作つた花。「九〇九」參照。
 
1108 泊瀬川ながるる水脈《みを》の瀬を早み井提《ゐで》越《こ》す波の音の清《きよ》けく
 
〔譯〕 泊瀬川の流れる水脈の水勢が非常に早いので、堰を越してゆく浪の音が、實に爽快に聞えることである。
〔評〕 實景をさながらに讀者の前に彷彿させ、その淙々の響まで耳底にあるが如き感を起させる。句法に斷續抑揚を多からしめた點が極めて効果的であり、純敍景歌として、成功したものといつてよい。
〔語〕 ○みを 川中の水筋で深くなつた處。○井提 流を堰き止めた處。ゐせきともいふ。
 
(27)1109 さ檜《ひ》の隈《くま》檜《ひ》の隈川《くまがは》の瀬を早み君が手取らば縁《よ》らむ言《こと》かも
 
〔譯〕 檜隈川の瀬の流が早いので、あなたの手を取つて助けて上げたら、それによつてとんだ噂が立ちませうかなあ。
〔評〕 知りあひの一婦人を偶然の行きずりにいたはり助けるやうな、さりげない口吻であり、それによつて浮名が立たうかなどといつてゐる處は、さも無關係の仲のやうに聞えるが、勿論それは擬装に過ぎないことは明白であつて、相思ふ間なればこそ、噂の立つのを恐れもするのである。戀する人の微妙な心理の動きが巧に描かれてゐる。
〔語〕 ○さ檜の隈 枕詞。檜の隈は大和高市郡阪合村檜前附近。○檜隈川 源を高取山に發し、檜隈を過ぎて久米川となる。○君が手取らば 女の方から渡り惱んで男の手を取り助けを借りる意に解する人が多いが、さうではなく、男が女をいたはると見る方が自然である。「君」は女から男にいふ場合が多いが、男から女をもいふ。○縁らむ言かも それによつて人の評判が生れるであらうよ、の意。
〔訓〕 ○縁らむ言かも 白文「將縁言毳」で、考コトヨセムカモ、略解ヨセイハンカモ等の訓がある。
 
1110 齋種《ゆだね》蒔く新墾《あらき》の小田を求めむと足結《あ抄ひ》出で沾《ぬ》れぬこの川の瀬に
 
〔譯〕 齋み淨めた稻の種を蒔くため新墾の田を捜さうとして、足結をして出かけて、裾を濡らした、この川の瀬で。
〔評〕 この頃は土地を自分で開墾すれば、私有地とすることが出來たので、この作者は河畔の地を物色して歩いたと見える。さうして足結を濡らした辛苦を歌つたのであるが、或は女を覓めて百方苦勞することに譬へたとする説がよいとも思はれる。歌として勝れたものではないが、一首の歌に社會經濟史の事實が反映してゐる點、興味がある。
〔語〕 ○足結 當時武装する時、又は旅行勞働などのため輕装する時、太い袴を膝の下で結び固めた、その紐をいふ。これに鈴を著けたことは「宮人の足結《あゆひ》の小鈴」と古事記の歌によつて知られる。
 
(28)1111 いにしへも斯く聞きつつや偲《しの》ひけむこの古河の清き瀬の音《と》を
 
〔譯〕 昔の人々も、今の自分と同じやうに、此處に來て聞いては、賞美したことであらう、この布留川のすがすがしい瀬の音を。
〔評〕 石上の布留川は、集中にも「との曇り雨ふる河」(三〇一二)「石上袖布皆川」(三〇一三)など多く詠まれて、ゆかしがられた處である。作者は初めて此處に來て、豫て音に聞いてゐた清き瀬の響に心耳を洗つたにつけても、古人も同じ心にこれを聞いたであらうと、想像を馳せたのである。歌は極めて單調であるが、自然で素直なのがよい。
〔語〕 ○古河 石上の布留川であらう。山邊郡の溪間に源を發し、丹波市町附近を過ぎて初瀬川に合流する。
 
1112 葉根蘰《はねかづら》いま爲《す》る妹をうら若みいざ率川《いざかは》の音の清《さや》けさ
 
〔譯〕 葉根蘰を近頃つけ初めたあの子が若々しいので「いざ」と誘ひかけたくなる、その「いざ」と同じ名の率川の音が、ほんとに氣持よいことであるよ。
〔評〕 一首中の大部分を序で占めてゐる。これと同じ構成の作は「ますらをがさつ矢手ばさみ立向ひ射る的方は見るにさやけし」(六一)「をとめ等が織る機の上を眞櫛もちかかげ栲島波の間ゆ見ゆ」(一二三三)など猶他にもあるが、右の二首はその序が内容と有機約關係を保ち、殆ど象徴の域にまで進んで、序そのもので一首が生かされてゐるので、全く萬葉獨特の手法である。これに比して今の歌は「宵に逢ひてあした面なみ名張野の萩は散りにき黄葉はや續げ」(一五三六)と同じく、序そのものは無論面白いのであるが、その使用法が單に同音語の聯想を利用したに止まり、率川とその妹との間に不可分の關係がなく、聊か遊戯的に墮してゐるのが慊らぬふしである。
〔語〕 ○葉根かづら 年頃になつた女の髪の飾として著けた鬘の一種。○いまする妹 新に著け初めた妹。漸く年頃(29)になつたことを示す。○いざ率川の 初句より「いざ」まではいざいざと男が女を誘ふ意で「率川」を導き出す爲の序。率川は春日山から出て、奈良市を横斷して、佐保河に入る。
 
1113 この小川《をがは》霧結ぼほり流らふやまこと井《ゐ》の上に言擧《ことあけ》せねども
 
〔譯〕 この小川に霧が濛々と湧いて流れて行くことである。實際に私は、この井のほとりで息を吐いて言擧《ことあげ》をしたわけでもないけれど。
〔評〕 わかりにくい歌であるが、代匠記や略解などにいふが如く、神話に基づくものであらう。高天原で、天照大神と素盞嗚尊とが、天の安川を中にして、神誓《うけひ》をなされた時、氣吹の狹霧から神々が生れ給うたことが古事記や書紀に見え、本集にも山上憶良の歌に「息嘯《おきそ》の風に霧立ちわたる」(七九九)とあるやうに、霧は盛に論議をするその息吹や或は長い溜息から湧くものとの信仰があつて、ここもそれに據り、敢へて言擧はしないけれども、こんなに霧が立つたと、稚い怪訝と驚異とに神秘感をこめて詠じたものであらうか。猶考ふべきである。
〔訓〕 ○「流らふや」 白文「流至八」舊訓「至」で句を切り「流」が「瀧」とあるので、「瀧至」をタギチユクとあり、略解は「流至」をナガレユクとしてゐる。今、「八」を以て句切り、「至」は意を採つてナガラフヤと訓む。○まこと井 白文「信井」、從來上の「八」をこの句に屬せしめハシリヰ又はハシヰよ訓んだ。
 
1114 吾が紐を妹が手もちて結八《ゆふや》川また還《かへ》り見む萬代までに
 
〔譯〕 自分の旅衣の紐を妻の手で結うてくれたが、それを思ひ出させるこの結八川である。名もなつかしく、景色もいいので、これからもまた來て眺めよう。いつまでも/\後の世までも。
〔評〕 四五句は類想が多いが、この序は次の歌の枕詞と共に面白い。旅に出る時夫婦互に衣の紐を結び合ふのは當時(30)一般の習俗であつたこと、集中幾多の歌の證するところで、さればこの作者も實際旅衣の紐を妻に結んで貰つて來たのである。それが結八川の「ゆふ」から思ひ出されたので、上の「いざ率川」と違ひ、序が内容に深く喰ひ入つてゐるので面白い。
 
1115 妹が紐|結八川内《ゆふやかふち》をいにしへの皆人見きとここを誰知る
 
〔譯〕 妻の着物の紐を自分が結んでやつた、それを思ひ出させるこの結八川の流の深く入り込んでゐるあたりの佳景を、昔の人が皆見に來たといふが、今自分の見てをる此處を誰が知つてゐようぞ。
〔評〕 勝景の地に遊んで、山水の秀麗を賞でると共に、過去に溯つて、その地に嘗て遊んだ古人を偲ぶ趣は、萬葉人の歌に尠からずある。この歌もそれ等と揆を一にするものと思はれるが、四五句に誤字があるかとも思はれる。
〔語〕 ○皆人見きと 「皆」は誇張で、多くの人々が此處に來て見たといふ。○ここを誰知る ここは此處で、ここを誰が知らうぞ、古人も知らなかつたであらうの意と思はれる。
〔訓〕 ○ここを誰知る 白文「此乎誰知」で、古くコレヲタレシル、又コヲタレカシルともよんでゐる。
 
    露を詠める
1116 ぬばたまの吾が黒髪に降りなづむ天《あめ》の露霜取れば消《け》につつ
 
〔譯〕 戸外に立つてゐる私の黒髪に降りたまる水霜が、手に取らうとすると、消え消えして、又降りたまる事である。
〔評〕 戀人を待つ女の作であることは一見して明かである。可憐な情趣がほのかに漂ひ、聲調の流麗といふ、この種の歌に於ける必須條件もよく滿たされてゐる。「夜占問ふ吾が袖に置く白露を君に見せむと取れば消につつ」(二六八六)の趣と思ひ合される。
(31)〔語〕 ○天の露霜 露霜を天空から降つて來るものと考へていふ。「露霜」は單に露のことであるといふ説があるが、通説では霜になりかけたやうな露、即ち水霜であるといふ。
 
    花を詠める
1117 島廻《しなみ》すと磯に見し花風吹きて波は寄るとも取らずは止《や》まじ
 
〔譯〕 島めぐりをするとて、船の中から磯の上に見たあの美しい花を、たとひ風が吹いて、波がうち寄せようとも、自分はあれを折り取らずにはをくまい。
〔評〕 その儘でも受取れる歌であるが、しかし偶々見た美しい女を我が物にしたいといふ譬喩であらう。下にも「玉に寄す」として「海の底沈く白玉風吹きて海は荒るとも取らずは止まじ」(一三一七)とあり、此種の構想は集中多い。
 
    葉を詠める
1118 いにしへにありけむ人も吾が如《ごと》か三輪の檜原に挿頭《かぎし》折りけむ
 
〔譯〕 昔の人も、今自分がしてゐるやうに、この三輪の檜の林で、挿頭にしようとして小枝を折つたことであらう。
〔評〕 有名な三輪の檜原で、檜の枝を折つて挿頭しつつ、翠色滴る美觀を賞し、且往古を偲んだのである。但、この表現の形式は、人麿の「古にありけむ人も吾が如か妹に戀ひつつ宿ねかてずけむ」(四九七)に學んだ事は明白である。
〔語〕 ○かざし折りげむ 挿頭として檜の小枝を折つたであらうの意。「かざし」は冠又は髪に飾として挿した花や造花をいふ。「八二〇」參照。
 
1119 往く川の過ぎゆく人の手折《たを》らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は
(32)     右の二首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 此處を通り過ぎてゆく人が、挿頭に折つてもてはやすといふことも、近頃しなくなつたので、今は寂しげに、しよんぼりと立つてゐることである、この三輪の檜林は。
〔評〕 古人は皆情趣を解して、此處を通ると小枝を挿頭に折つたが、近來の人はさういふ風流心も無くなつたので、檜原が寂しがつて悄然と葉を垂れてゐる、と見たのである。前の歌と連作で、かく解すると、前の「いにしへにありけむ人」の挿頭を折つたことが愈々ゆかしく追想され、又その古人と同じく今これを折る自分をいとほしむ心も一層しみじみ顧みられるのである。
〔語〕 ○往く川の 「過ぎゆく」にかけた枕詞。○過ぎゆく人 此處を通過する人。スギニシとよんで、古人、或は死んだあの人などと解する説もある。
 
    蘿《こけ》を詠める
1120 み芳野の青根が峰の蘿《こけ》むしろ誰《たれ》か織りけむ經緯《たてぬき》無しに
 
〔譯〕 芳野の青根が峰の、この美しい苔むしろは、一體誰が織つたのであらう、經絲も緯絲も無くて。
〔評〕 青くしつとりと天鵞絨のやうに生ひ廣がつた苔を、蓆に譬へたのは實感であらう。天工の妙に對する驚異の情が、悠容迫らぬ詞句聲調の間に、明るく暢やかに現はれてゐる。また、場所が吉野なので、その奧には當時の神仙思想も潜んでゐる。深山の靜寂境、柔らかな線の光澤美しい蘿蓆に坐して、新しい知識であり幻想である神仙の夢に醉うた萬葉人の姿が浮んで來る。
〔語〕 ○青根が峰 吉野山の東南方、金峰山の北方にある。○經緯なしに 縱糸も横糸もなしに。不思議な織物で神(33)仙の製作かと疑はれるの意。
 
    草を詠める
1121 殊等所《いもらがり》我が通ひ路の細竹《しの》すすき我し通はば靡け細竹原《しのはら》
 
〔譯〕 いとしい女のもとへ自分が通つて行く路に茂つてゐる篠や薄よ、自分が通つてゆく時には、どうか、早く通れるやうに伏し靡いてくれ、篠薄の原よ。
〔評〕 輕快で明るく爽かな民謠調である。「我し通はば」には、他人なら靡くなといふやうな氣特もあらう。
〔語〕 ○細竹すすき 細竹と薄との二者であらう。或はしなふ薄即ち穗の出ない細竹のやうな薄とする説、細竹をやがて薄とする説もある。○靡け細竹原 人麿の「殊が門見む靡け比の山」(一三一)を學んだものと思はれる。
 
    鳥を詠める
1122 山の際《ま》に渡る秋沙《あきさ》のゆきて居《ゐ》むその河の瀬に浪立つなゆめ
 
〔譯〕 山際に飛んでゆくあきさが、やがており立つであらう其の河の瀬に、浪よ立つな、決して。
〔評〕 遠來の小動物に對する作者の愛憐の心が、一首の上に饒かに漲つてゐる。遙かなる山の端を飛んで行く秋沙の群を眺めては、やがてそれが降りて翅を休め、或は食を求める河邊を想像して、その安息地の穩かであるやうにと同情した心は、いかにも上代人らしい純眞さ素朴さである。
〔語〕 ○秋沙 俗にアイサ又はアヒガモ。遊禽類で、鴨に似て稍小さい。冬季日本へ渡來する。○ゆきて居む 飛んで行つて、そこに留まるであらう。
 
(34)1123 佐保河の清き河原に鳴く千鳥|蝦《かはづ》と二つ忘れかねつも
 
〔譯〕 佐保河のあの氣持のいい河原で鳴く千鳥の聲と、河鹿の聲と二つは、自分はどうも忘れられないなあ。
〔評〕 今は河幅が狹くなり水量が減じて、綺麗でない佐保河であるが、當時は千鳥も浮び、河鹿も棲む清流であつた。作者は奈良の都の人で、今は異郷に移り住んでゐるが、時に遭ひ折に觸れて、故郷の風物がなつかしく記憶に蘇つて來るのである。平明自然の佳作。
 
1124 佐保河に小驟《さばし》る千鳥|夜更《よくだ》ちて汝《な》が聲聞けば宿《い》ねかてなくに
 
〔譯〕 佐保河に走つてをる千鳥よ、夜がふけてお前達の鳴く聲を聞くと、自分は悲しくなつて眠ることが出來ない。
〔評〕 深夜の千鳥の聲に夢を破られ、その哀調に悲緒を催して眼を成し難い苦しさを、千鳥に呼びかけるやうに訴へたのである。人麿の「淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのに古へおもほゆ」(二六六)と時も處も事情も違ふが、心理にも敍法にも一脈相通ふものがある。
〔訓〕 ○さばしる千鳥 白文「小驟千鳥」舊訓アソブチドリノ、古義サヲドルチドリなどあるが、驟はハシルとよむ方がよいと考へてサバシルと訓んだ。
 
    故郷を思《しの》ふ
1125 清き瀬に千鳥妻|喚《よ》び山の際《ま》に霞立つらむ甘南備《かむなび》の里
 
〔題〕 故郷を思ふ 奈良の新都に移り住んだ人が、飛鳥の故京を追懷して詠んだ歌。「故郷」は、ここでは舊都の意。
〔譯〕 すがすがしい河瀬に千鳥が妻を呼んで鳴き、山際には長閑に霞が立つてゐるであらう、あの甘南備の里よ。
(35)〔評〕 飛鳥河の清流、甘南備山の翠色、賑かな新都に移り住めば、それら故京の風物も顧みる人が次第に少くなつてゆくのが惜しまれて、一層思慕の心の切なるものあるは自然である。閑寂清麓の景致を描くに簡素明朗な措辭を用ゐ、一片の感情語を著けずして、しかも愁情を長く曳いてゐるのは心にくい技法である。
〔語〕 ○清き瀬 飛鳥川を指す。○甘南備の里 ここは飛鳥の里をさす。「九六九」參照。
 
1126 年月もいまだ經なくに明日香河《あすかがは》瀬瀬ゆ渡りし石走《いはばしり》なし
 
〔譯〕 奈良へ遷都以來年月はまだ幾らも經たないのに、故京の明日香河は、あちこちの瀬で人も渡り自分も渡つた飛石の橋も無くなつたことである。
〔評〕 これは實地に舊都を訪うての作である。唯さへ淵瀬常ならぬ明日香河には、嘗ては人々が渡り、無論自分も常に渡つてゐた思ひ出の飛石の橋が、今は殆ど影もない。僅かの間に失はれた形見に、故郷であり舊都である飛鳥の里の荒廢が、たまらない悲哀となつて作者に迫つたのである。石橋の片鱗を示して全體を察せしめた手法は、まことに要を得てゐる。
〔語〕 ○年月もいまだ經なくに 奈良へ都が遷つて以來年月の淺いのをいふ。○瀬瀬ゆ渡りし あちこちの瀬で人の渡つた。この「ゆ」は動作の經由する場處を示すもの。「夷の長道ゆ戀ひ來れば」(二五五)の場合に同じ。……を通つての意。○石走 淺瀬を渡る爲に置いた飛石のこと。石から石へ渡り走るの意。
〔訓〕 ○渡りし 白文「渡之」舊訓ワタシシ、代匠記精撰本の訓に從ふ。○石走なし 白文「石走無」諸本皆モを訓み添へて、イハバシモナシとしてゐるが、文字通りイハバシリナシと訓むべきであらう。
 
    井を詠める
(36)1127 落ちたぎつ走井《はしりゐ》の水の清くあれば廢《す》てては吾は去《ゆ》きかてぬかも
 
〔題〕 飲料水の噴出して溜る所をいふ。今いふ井戸は掘井であり、この歌は走井、次のが掘井の歌である。
〔譯〕 傾斜から落ちて泡だち流れる泉の水が清らかなので、見捨てては、自分は行ききれないことであるよ。
〔評〕 今日の我々からすれば、あまりに單調なやうに見えるが、ただ飲料としてのみでなく、清い水は土代人の心には、汚れを清めることは勿論、老を引き戻す靈力さへもあるとして、一般に神秘的な崇敬嘆美の情を抱かせたので、その邊の事情を含んで讀めば、もつと奧行のある歌と了解される。西行の「道の邊に清水ながるる柳陰しばしとてこそ立止りつれ」(新古今)は傑作に相違なく、今の歌と一見似てゐるやうであるが、しかし西行のは今日の我々の考へてゐると等しい水といふことが分るであらう。
〔語〕 ○落ちたぎつ 傾斜の處を流れ落ちて沸騰するやうに泡たつ意。○走井 迸り流れる井。
〔訓〕 ○すてては 白文「廢者」、「度」による諸本のワタラバ、ワタリハは不可。新考にはオキテハとあるが、元暦校本の赭の書入、及び古葉略類聚鈔の訓に從ふ。
 
1128 馬醉木《あしび》なす榮えし君が穿《ほ》りし井の石井《いはゐ》の水は飲めど飽かぬかも
 
〔譯〕 馬醉木の花の榮えるやうに榮えてをられた君がお穿りになつた、岩で周圍を疊んただの井戸の水は、いくら飲んでも飽きないことであるよ。
〔評〕 當時の庶民は、多くは天然の泉を飲料に用ゐてゐた。人工の掘井もあるにはあつたが、費用がかかるので、貴人の外は容易に造れなかつたやうである。かやうな社會事情を考へてこの歌を讀むと、興味は一段と深い。富貴を極めた人を憶うてその水を讃め、なほこの岩井に遺る餘コを讃へたのであらう。二句「榮えし」の語感と文法意識とか(37)ら、嘗て榮えて今は荒れた邸宅跡の岩井とするのは、穿鑿に過ぎよう。
〔語〕 ○馬醉木なす 馬醉木の如く。馬醉木の花の枝一ぱいに咲いた樣を以て、榮華の?を形容したもの。枕詞ではない。○石井 井筒を石で作つた井戸。
 
    倭琴《やまとごと》を詠める
1129 琴取ればなげき先立《さきだ》つけだしくも琴の下樋《したひ》に嬬《つま》や匿《こも》れる
 
〔題〕 倭琴 我が國固有の琴で六絃のもの。「八一〇」參照。「倭」は通行本「和」とあるが、今、元暦校本等に從ふ。
〔譯〕 琴を手にすると、彈かないうちから、嘆きの心が先に立つ。もしかすると琴の胴の中に、妻が隱れてゐるのでもあらうか。
〔評〕 妻を失つた人の作であらう。從つて琴はその遺愛の品とすると、更に情趣も深くなる。周圍の物、一として在りし日の記憶を呼び起さぬものは無いが、琴は特に亡き人の手馴の物であつたので、自分も手を觸れて見ようといふ氣持は自然である。が、音を發するよりも先に哀愁がこみ上げて來る。それを琴の中に妻が潜んでゐるかと疑つたのは、悲歎のあまり、稚きに還つた情痴である。ひたぶるな其の眞實、後世の模し難いところである。
〔語〕 ○げだしくも もしも、或は。「一九四」參照。○琴の下樋 琴の胴のこと。表板と裏板との間の中空な部分。
 
    芳野にて作れる
1130 神《かむ》さぶる磐根《いはね》こごしきみ芳野の水分《みくまり》山を見ればかなしも
 
〔譯〕 神々しい岩石のごつごつと峙つてゐる芳野の水分山を眺めると、莊嚴ですばらしく感ぜられることである。
〔評〕 水分山は青根が峯の前方にあつて、古くから水分の神が祀られてあつた。作者は今この山に詣でて山氣の森嚴(38)に打たれ、そぞろに神靈の崇高なるを覺えたので、その名?し難い感銘を表はすに「かなしも」の語を用ゐた。大まかに直敍した意圖はよいが「見ればかなしも」の調子は聊か輕く流れ過ぎて、上から徐々に加はつて來た重力を受け止めるには少し弱い感を克れない。
〔語〕 ○磐根こごしき 岩石のごつごつと突出してゐるの意。○水分山 青根が峯の前方、上の千本の上方にあり、祈年祭の祝詞にも見える水分神《みくまりのかみ》を祀つた山。水分神は農事の神であるが、中世以來ミコモリと訛つた結果、御子守即ち子育て、又は子授けの神とされるに至つた。○かなしも ここは深い感動を表はしたもの。
 
1131 皆人の戀ふるみ吉野今日見れば諸《うべ》も戀ひけり山川清み
 
〔譯〕 人々がみな戀ひ慕ふ吉野を、今日來て見ると、成程慕ふのも尤もである、山も川も風光明媚で。
〔評〕 名を開くこと久しかつた吉野の勝景に、初めて接して擧げた驚異の叫びである。しかしその景觀の美を正面から描くことをせず、只他の讃美者を肯定するといふ間接敍法であるがゆゑに迫眞性が無く、かつ表現上の工夫にしても、結句に倒装法を用ゐた位のもので、辭樣も平庸である。
〔語〕 ○うべも戀ひけり 戀ひ慕ふのも道理であるの意。○山川清み 山も川も景色が清らかなので。
 
1132 夢《いめ》の回淵《わだ》言《こと》にしありけり現《うつつ》にも見てけるものを念《おも》ひし念《も》へば
 
〔譯〕 夢の回淵《わだ》は、其名の如く夢にのみ見ることが出來て現實には見られない所と思つてゐたら、「夢」とは名ばかりであつた。現に自分はこのやうに見てをるのであるもの。見たいと熱心に思つてゐれば、やはり見られるのである。
〔評〕 忘草や忘貝に對し、名ばかりで實のないのを罵つて「言にしありけり」と喝破した例は「七二七」「一一四九」など集中に多いが、これは夢の回淵の佳景が夢でなく現實に見られるのを喜んだもので「言にしありけり」の逆用が(39)面白い。しかしこれも、夢の回淵の「夢」に「現《うつつ》」を對せしめて想を構へたもので、著しく技巧的であり、直接的な風景描寫でなく、言語の遊戯に傾いてゐる。しかし聲調の朴實な點で、後世のこの種の作に比して採るべき所がある。
〔語〕 ○夢の回淵 吉野川の一部、離宮前の附近で水の靜かな處。○言にしありけり 言葉のみさうであつて實際と違ふの意。○念ひし念へば 思ひに思へば。
〔訓〕 ○見てけるものを 白文「見所來物乎」。ミテコシモノヲとよむ説もある。
 
1133 皇祖《すめろき》の神の宮人|冬薯蕷《ところづら》いや常《とこ》しくに吾《われ》かへり見む
 
〔譯〕 昔の御代御代の天皇に奉仕した宮人達に引きつづいて、いよいよ常に自分はお仕へ申して、この吉野の宮に立ち還つて見たいものである。
〔評〕 吉野離宮の讃歌は、人麿以來宮廷奉仕の官人達によつて數多たび繰返されたが、遂に人麿の「絶ゆることなくまた還り見む」以外に新生面を開くことが出來なかつた。この歌も同樣の歎を免れ得ないのみならず、聊か表現不足の感さへあつて、助け解さなければ十分に意を盡さぬやうに見える。
〔語〕 ○皇祖の神の宮人 皇祖の神々に奉仕した宮人たち。皇祖の神々は、御歴代の天皇を申上げる。○冬薯蕷 「ところ」は「野老」とも書き、薯蕷に似て葉が幅廣く互生して居る。ここは同音を繰返して「とこしく」につづけた枕詞。○いや常しくに いよいよ常に。常《とこ》しくは、「今しく」(一一〇三)參照。
 
1134 芳野川|石常磐《いはとかしは》と常磐《ときは》なす吾は通はむよろづ代までに
 
〔譯〕 芳野川のすぐれた景色を、岸の岩石の常磐である如くに、永久更らず自分は通うて來て賞美したいものである、萬年の後までも。
(40)〔評〕 吉野川の勝景讃美であつて、それに作者自身の壽命祝福もこめた歌であるが、構想は類型以外に一歩も出ないもので、感銘を與へることもない。特に第二句の晦澁が一層讀者の共鳴を困難ならしめる。
〔語〕 ○石常磐と この句は古來異説が多い。代匠記は「いはと」は岩ある河門「かしは」は石のことといひ、略解所引宣長説は石常磐《いはとこしは》で、堅磐を「かたしは」といふのと同例であり、岩を「しは」といふは、稻を「しね」といふに同じといつてゐる。また、石迹柏の字面の通り、植物の柏と解く説もある。「と」は、と共にの意。
 
    山背にて作れる
1135 宇治河は淀瀬無からし網代人《あじろぴと》舟|呼《よ》ばふ聲をちこち聞《きこ》ゆ
 
〔題〕 山背 山城國である。名の義は奈良の京から見て、山のうしろの意。後に山城と文字を改めたのである。
〔譯〕 宇治河は、かちわたりの出來るやうな、水の靜かに淀んだ瀬が無いらしい。網代の番をする人の、舟を呼ぶ聲があちらこちらに聞える。
〔評〕 寫實の作で、恐らく大和から旅して來た人の歌であらう。飛鳥川あたりの所謂「打橋」や「石橋《いはばし》」を見馴れて、それが川の常態のやうに思つてゐた人の、始めて幅廣く水量ゆたかな大河を見て物めづらしく感じた心持がよく出てゐる。秀作といふ程ではないが、情景は生きてゐる。
〔語〕 ○淀瀬無からし 徒渉の出來る淺瀬が無いらしい。「淀瀬」は水の穩かに流れる淺瀬で徒渉の出來ろ處。淀も瀬も無く一面に深いとも見られるが、なほ「淀瀬には浮橋わたし」(三九〇七)などの場合と同樣に見るべきであらう。
○網代人 網代の番をする人。網代守。宇治川の網代は氷魚を捕る爲のもので、古く有名であつた。
 
1136 宇治河におふる菅藻《すがも》を河早み取らず來にけり裹《つと》に爲《せ》ましを
 
(41)〔譯〕 宇治河に生えてゐる菅藻を、河の流が早いので、取らずに來てしまつたことである。家への土産にする筈であつたのに。
〔評〕 菅藻は、當時宇治川の名物として聞えてゐたのであらう。折角の處の名産を買ひそこねて後悔することは、今日の我々の旅行などにも?々經驗することである。平明流暢で心持は或程度あらはれてゐるが、しかしそれだけのもので、たいした歌といふのではない。
〔語〕 ○菅藻 仙覺抄に「菅に似たる河藻なり。人のくふ物といへり」とあるが、今明かでない。○河早み 流が早いので。○つとにせましを 家への土産にすればよかつたのに、それが出來ないで殘念である。
 
1137 宇治人の譬《たとへ》の網代《あじろ》吾《われ》ならば今は依《よ》らまし木屑《こづみ》來《こ》ずとも
 
〔譯〕 宇治の里人が物の譬によく網代をするが、若しもその網代が自分であつたなら、今こそあのいとしい人が寄つて來さうなものであるのになあ、木の切屑は來なくとも。
〔評〕 網代に流れ寄る木屑や塵芥の多いのを見て、女の靡き寄るといふことを思つたのであらうが、稍難解な歌で、誤字があるやうであるから、訓、譯、評共に決定的のことは言へない。
〔語〕 ○譬の網代 古義の説のやうに、宇治人が何かにつけて物の譬に名物の網代を用ゐることを言つたのであらう。○今は依らまし 今こそもう女が自分の方へ靡き寄つて來さうなものであるのに、寄つて來ないのが殘念である。○木屑こずとも 木屑は來ないでも。女を譬へていふ。「こづみ」は用例が多く、木の切屑、塵芥などのこと。
〔訓〕 ○吾ならば 白文「吾在者」略解所引宣長説に「吾」は「君」の誤かとしてゐるが、この儘でわかる。○今はよらまし 白文「今齒生良増」諸本「生良」を「王良」に作るが訓み難い。古葉略類聚鈔等の頭書に「生即」とあるので、今「生良」の誤と見「生」は「今生」(三四九)を、コノヨと訓む説もあるので、姑く「世」に通ずるものと見(42)て、考と同じくヨラマシと訓んで置く。○こずとも 白文「不來友」を考には不成友の誤としてナラズトモとよんでゐるがよくない。
 
1138 宇治河を船渡せをと喚《よ》ばへども聞えざるらし楫《かぢ》の音《と》もせず
 
〔譯〕 宇治川の岸に立つて、船を渡してくれよと、大きな聲で呼ばはるけれども、河が廣いので、渡守に聞えないらしい、まるで艪の音もしない。
〔評〕 日の暮方などに、宇治川の岸邊にたどりついた旅人の詠であらう。對岸の渡船は無論さだかに見えない。一聲呼んで見ては、騷がしい水聲の中に對岸の返事を豫期しつつ、じつと耳をすましてゐる。その心細くやるせない旅人を包んた深い夕闇も感じられるやうである。「渡守船わたせをと呼ぶ聲の至らねばかも楫のとのせぬ」(二〇七二)といふ七夕の歌は同想であるが、此の歌の痛切な質感の溢れてゐることには及ばない。
〔語〕 ○船渡せをと 船を渡せよと言つて。無論船で自分を渡してくれよの意。「を」は詠歎の助詞。
 
1139 ちはや人《びと》宇治川浪を清みかも旅行く人の立ちかてにする
 
〔譯〕 宇治川の川浪が綺麗で爽快なせゐか、旅行く人が誰も皆、そのあたりを立ち去りかねることである。
〔評〕 作者は旅人の一人で、宇治川の清流とあたりの佳景とに心ひかれて、思はず時を過した。氣がつくと自分のみではない、他の旅人たちもやはり同樣であるといふやうな場合で、これ亦、今も昔も變らぬ行旅の一斷面圖である。河畔の勝景も、間接的ながら描き出されてゐる。
〔語〕 ○ちはや人 枕詞。いちはや人、勇猛なる人の義「氏」に續く。「ちはやぶる宇治の渡」(三二三六)ともある。
 
    攝津にて作れる
(43)1140 しなが鳥|猪名野《ゐなの》を來《く》れば有間山夕霧立ちぬ宿は無くして 【一本に云ふ、猪名の浦廻をこぎ來れば】
 
〔譯〕 猪名野を通つて一人歩いて來ると、前方に見える有間山にしらじらと夕霧が立つて來た。あたりを見ても、今夜寢るべき宿も無いのに。
〔評〕 前後に人影さへも稀な夕暮時、薄ら寒い秋風に吹かれつつ曠野を辿りゆく旅人の悄然たる孤影が、さながらに目前に浮んで來る。一見淡々として景を敍したのみの如く見えながら、しかも内に無限の感愴を藏してゐる。典型的五七調の簡淨な句法も圓熟を示して居り、?旅歌中の佳作である。但、一本の傳によれば、舟行の作となつてゐるが、それでは結句が相應せず拙い。
〔語〕 ○しなが鳥 枕詞。鳰のことであらう。「猪名」につづくのは、鳰は多く居竝ぶ習性があるので、「居並む」の類音を以て係けるといはれる。○猪名野 猪名川を中心とした平野で、豐能・川邊二郡に渉る。今の伊丹附近。○有間山 有馬温泉附近の山。○一本に云ふ この傳によれば、この歌が猪名の沿岸地方に傳唱されてゐる間に、聊か形を變へたことが察せられる。
 
1141 武庫《むこ》河の水脈《みを》を早みか赤駒の足掻《あが》く激《たぎち》にぬれにけるかも
 
〔譯〕 武庫河の水脈の流が早い爲にか、乘つてゐる赤駒の足掻《あがき》で水が撥ね上り、着物が濡れてしまつたことである。
〔評〕 これも旅人の詠であらう。しかしこの歌からは遣瀬ない旅愁とか、行路の難苦とかいふわびしい心持は感じられない。大伴家持の「鵜坂河渡る瀬おほみこの吾が馬の足掻の水に衣濡れにけり」(四〇二二)「立山の雪し來《く》らしも延槻の河の渡瀬鐙|浸《つ》かすも」(四〇二四)などのやうに、寧ろ壯快な光景が眼前に展開される。但、この歌、格調の雄勁はあるが、優れたといふ程の作ではない。
(44)〔語〕 ○武庫川 源を丹波及び有馬郡地方に發し、西宮市と尼崎市との中間で海に入る川。
 
1142 命《いのち》を幸《さき》くよけむと石流《いはそそ》く垂水《たるみ》の水を掬《むす》びて飲みつ
 
〔譯〕 わが命を、幸福の何時までも續くやうにと願つて、名高い垂水の水を自分は掬んで飲んだことである。
〔評〕 靈水尊崇思想の現はれであり、しかも感覺的に新しく、印象の爽快な歌である。玉と湧く清冽な水を掬べば、上代人ならずとも、今日の我等でも齡も延びるやうな感がおこるのは事實である。集中の歌にも、古傳説にも、幾多靈水に關するものの存する所以であらう。
〔語〕 ○幸くよけむと 無事で。「よけむ」は好からむに同じ。○石そそく 枕詞。石の上をそそぎ流れる意で「瀧」「垂水」等につづく。○垂水 瀑布の意から轉じて、それの存在する處の地名ともなつた。ここは、今の大阪府豐能郡西能勢村字垂水を指す。姓氏録に、孝元天皇の御世、天下旱魃し、河井も涸れた時、阿利眞公が樋を作つて水を宮中に通じ、天皇の供御に進めた功によつて「垂水」の姓を賜ひ、垂水神社を掌つた旨が見える。
〔訓〕 ○命をさきくよけむと 白文「命幸久吉」略解所引宣長説に「命」を四音の一句とし「吉」を「在」に改めて、イノチヲサキクアラムトと訓んだのは卓見であるが、誤字説は賛し難い。「吉」をその儘ヨケムトと訓むがよい。○いはそそく 白文「石流」考にはイハハシルと訓んでをる。
 
1143 さ夜ふけて堀江こぐなる松浦船《まつらぶね》楫《かぢ》の音高し水脈《みを》早みかも
 
〔譯〕 夜がふけて、難波の堀江をこぐ松浦船の艪の音が高く聞える。水勢が早くて、漕ぎ方の烈しい爲であらうか。
〔評〕 目ざめがちな旅寢の枕に響いて來る艪の音に、堀江の水脈の早さを想像したのである。深い旅愁を漂はしたものではなく、極めて淡々たる情懷であるが、簡素にして格調が高い。但、この歌では視覺は全く働かしてゐないので(45)あるが、松浦船といふ斷定はどうして出來たのか。或は特に艪の音が高いといふやうな特徴でもあつたのであらうか。
〔語〕 ○堀江こぐなる この堀江は所謂難波堀江で、仁コ紀十一年の條にある。淀川の下流、今の天滿川であらう。○松浦船 肥前國松浦から來た船で、その構造に特徴があつたのであらう。又、他で造られてもその型の船を一般に松浦船と呼んだかとも考へられる。「眞熊野の船」(九四四)「伊豆手舟」(四三三六)の類であらう。○みを早みかも 水脈の流が早くて、力漕を要するからであらうかの意。
 
1144 悔《くや》しくも滿ちぬる潮か住吉《すみのえ》の崖の浦回《うらみ》ゆ行かましものを
 
〔譯〕 殘念にもまあ滿ちてしまつた潮ではある。自分は住吉の海岸の涌傳ひに、景色を眺めながら行くのであつたに。
〔評〕 豫定計畫であつた住吉海岸の風光鑑賞も、折からの滿潮で十分出來ないといふのは、通りすがりの旅人としていかに本意ない事であらう。その心持もよく表はれてゐるが、更にその歎聲の中に、住吉の勝れた風光をおのづから想祭させるのは老手である。
〔語〕 ○岸の浦回ゆ 岸を通つて。「ゆ」は「二五五」參照。
 
1145 妹がため貝を拾《ひり》ふと血沼《ちぬ》の海にぬれにし袖は乾《ほ》せど干《かわ》かず
 
〔譯〕 いとしい妻の爲に、土産の貝を拾はうとして、血沼の海で濡らした自分の著物の袖は、乾してもまだ乾かない。乾かしてくれる妻は、側にゐないのである。
〔評〕 上代人が贈物や家土産の爲に辛苦を拂つたことは、しばしば歌にあらはれて居り、これも亦その一例であるが、單にそれだけでなく「乾せど干かず」の一語に、妻との久しい別離の懊惱が盛られて、歌の奧行を深めてゐる。血沼の海は、攝津ではないが、住吉の濱つづきであるから、攝津の作中に收めたのであらうか。
(46)〔語〕 ○血沼の海 紀に「河内國泉郡茅渟海」とあるが、靈龜二年三月に和泉國が分立されて同國に屬することになつた。「千沼回より雨ぞふり來る」(九九九)參照。○乾せど干かず 干しても容易に乾かないし、それにつけても乾かしてくれる妻のゐないのが寂しいの意。「凉」をホスの意に用ゐたのは、曝涼の凉の意であらう。
 
1146 めづらしき人を吾家《わぎへ》に住吉《すみのえ》の岸の黄土《はにふ》を見むよしもがも
 
〔譯〕 可愛い女を我が家に迎へて住むといふ樂しいことが聯想されるあの住吉の岸邊の、有名な黄土《はにふ》を見るたよりがあればよいがなあ。
〔評〕 住吉の岸の埴生は當時有名で、すぐ下にも見え、「六九」「九三二」「一〇〇二」などにも歌はれてゐる程で、この附近まで來た旅人が、一見してゆきたいと思ふのも自然であらう。この歌は只それだけの歌ではあるが、序は面白い。しかしそれも人麿の妻の「君が家に吾が住坂の家道をも吾は忘れじ命死なずは」(五〇四)の先蹤がある。
〔語〕 ○人を吾家に 共に住む意で「住吉」につづげた序。○岸の黄土 粘土の層である。「六九」等參照。
 
1147 暇あらば拾《ひり》ひに行かむ住吉《すみのえ》の岸に寄るとふ戀忘貝《こひわすれがひ》
 
〔譯〕 暇があつたらば、自分も拾ひに行かう。住吉の海岸に打寄せられるといふ戀を忘れる忘貝を。さうすれば故郷の妻を戀しがる惱みも忘れられようから。
〔評〕 戀忘貝はこの卷の中でも、下に「一一四九」「一一九七」の二首があり、他の卷にも見えるが、坂上郎女の「吾背子に戀ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ戀忘貝」(九六四)は男女地を換へたのみで、これと同工である。巧は巧であるけれども、所詮は樣に依つて描いた葫蘆で、實感の迫つて來るものが稀薄なるを免れない。
〔語〕 ○戀忘貝 忘貝はこれを拾つて身に著けて居れば、何でも憂を忘れると信ぜられた。ここは、戀といふ苦惱(47)を忘れたい目的で、戀忘貝とつづけた技巧。「九六四」參照。
 
1148 駒|竝《な》めて今日吾が見つる住吉《すみのえ》の岸の黄土《はにふ》をよろづ世に見む
 
〔譯〕 友と馬を竝べてやつて來て、今日自分が見たこの住吉海岸の埴生は、成程めづらしいし、あたりの景色もすばらしい。自分はいつまでも長生して、この後も度々來て見よう。
〔評〕 勝景に遇つて心樂しみ、後日また立ち返つて?々眺め賞したいといふ希望を述べた歌は集中に數が多い。これは古今變らぬ人情の自然ではあるが、作品としては類型が多くて、後出のものは陳套の感なきを得ない。
〔語〕 ○駒竝めて 打連れ馬に乘つて。○岸の黄土を 代表的に黄土をあげたもので、住吉の勝景全部を含めてゐる。
 
1149 すみのえに行くとふ道に昨日見し戀忘貝《こひわすれがひ》言《こと》にしありけり
 
〔譯〕 住吉の方へ行くといふ道で、昨日見たあの戀を忘れるといふ忘貝は、名前だけのものであつたなあ。家郷の妻の事は少しも忘れられないではないか。
〔評〕 「言にしありけり」の歎聲は、上に「夢の回淵《わだ》」(一一三二)の歌にもあり、その他にも少くない。この歌もこの一語に、家なる妻に寄せる思慕の點は十分同情されるが、構想も詞句も類型以外に出てゐない。
〔語〕 ○行くとふ道に 行くといふ道の途中で。○言にしありけり 言葉だけで有名無實のものであつた。
 
1150 すみのえの岸に家もが沖に邊《へ》に寄する白浪見つつ思《しの》はむ
 
〔譯〕 住吉の海岸に、自分の家かあつたらばよい。さうしたらば、沖に立つ浪や岸邊に寄せる浪を眺めつつ、いつも賞美しように。
(48)〔評〕 住吉の濱の廣々とした景色を眺めた旅人が、此處に家居して心ゆくまでこの勝景を滿喫したいといふ希望である。蓋し四面皆山の靜的風光に馴れた泰良の都人が、たまたま白波浩蕩の動的景觀に對した刹那の感懷、さもあるべしと首肯される。
〔語〕 ○沖に邊に寄する白浪 沖に立つ白浪と邊に寄する白浪の意を、音數の制限によつてかく省略した。○しのはむ 賞美しようものをの意。
 
1151 大伴の三津《みつ》の濱邊をうち曝《さら》し寄り來《く》る浪の行方《ゆくへ》知らずも
 
〔譯〕 大伴の三津の濱邊を洗ひ流して、沖から打寄せて來る浪が、引き去つてゆくと、行方も分らなくなつてしまふことであるよまあ。
〔評〕 四五の句によつて、人麿の「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行方知らずも」(二六四)を聯想させるが、しかし氣分は全く別である。人麿のは、しみじみと無常觀的の感愴をこめた溜息であるに反し、この歌は眼前の景の寫生であつて、深い陰影を持つたものでなく、どこまでも壯快な敍景歌である。二三句あたりの的確な觀照と奇※[山+肖]な辭樣とには、頗る清新味があつてよい。
〔語〕 ○大伴の三津の濱邊 「大伴」は難波から南方一帶の海岸地方の總名「三津」は即ち難波の津。「六三」參照。○うちさらし 海濱の白砂を波で洗ひさらして。
 
1152 楫《かぢ》の音ぞほのかに爲なる海未通女《あまをとめ》沖つ藻苅りに舟出《ふなで》すらしも 【一に云ふ、夕されば楫の音すなり】
 
〔譯〕 艪の音がかすかにしてゐる。海人の少女達が、今ちやうど沖の藻を刈る爲に舟出をするらしい。
〔評〕 平明暢達の歌である。時間の明示はないが、旅宿の早旦、寢覺の枕にうつらうつら聞く艪聲と想像すれば、最(49)も情景が生きると思ふ。家持の「朝床に聞けば遙けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ船人」(四一五〇)と相通ふ趣がある。別傳では初二句、夕暮の舟出になつてゐるが、沖つ藻刈としてはふさはしくない。
〔語〕 ○一に云ふ 別ないひ傳へ。○夕されば 夕方になると。
 
1153 すみのえの名兒《なご》の濱邊に馬たてて玉|拾《ひり》ひしく常忘らえず
 
〔譯〕 住吉の名兒の濱のあたりで、馬を停めて玉を拾つたことが、非常に愉快であつたので、いつも忘れられない。
〔評〕 嘗て住吉の濱に遊覽した都人の追憶であるが、一通りの作である。「馬たてて」「玉拾ひしく」など、言葉は一寸珍らしくて、そこまでの調子は可なり張つてゐるが、結句がいまだしい。
〔語〕 ○玉拾ひしく 玉を拾つたこと。玉は美しい石や貝殻などであらう。「しく」は「七五四」參照。
 
1154 雨は零《ふ》る假廬《かりほ》は作るいつの間《ま》に阿胡《あご》の潮干に玉は拾はむ
 
〔譯〕 雨は降るし、旅の假屋は造らねばならぬし、いつの間にまあ、阿胡の濱の引潮時に出て、玉を拾つて遊ばう。あやにくな天氣であるよ。
〔評〕 美しい小石や貝殻などは、濱苞として家妻への土産にも持ち歸りたいものであり、或は家を出る時妻と約束さへもして來たかも知れない。さうでなくても、清き渚に遊んでそれを翫ぶことは、日頃海を見ない奈良の都人にとつては、どのくらゐ心ゆくわざであつたのであらう。それが雨に妨げられたとあつては、たまさか此の勝地に來た旅人として、遺憾であつたことが想像される。初二句の語調が面白い。
〔語〕 ○阿胡の潮干に 阿胡の浦の引潮時に。阿胡は「四〇」に見える志摩國の英虞《あご》ではない。前及び次の歌に見える「名兒」の附近であらうか。下に見える「阿胡の海」(一一五七)も同處であらう。
 
(50)1155 名兒《なご》の海の朝けの餘波《なごり》今日もかも磯の浦回《うらみ》に亂れてあらむ
 
〔譯〕 名兒の海の明方の引潮で殘された海藻などが、今日もやはりあの磯の入込んだあたりに亂れてゐるであらうか。
〔評〕 作者は、海邊の逍遙に海藻などを拾ひ弄んだ物めづらしさが強く印象されてゐるのである。「名兒の海の」と場所を明白にことわつたのは、今は名兒の海邊にゐない趣で、其處を去つた後の追憶といふやうに考へられる。しかしまた、數日の滯在中、今朝もふと眼をさまして前日の磯邊の樣子を思ひ出し、起きたらば又行つて見ようといふ、再びその樂しみを味ひ得る希望を持つたもののやうにも取れるが、「今日もかも」(四一・一一六八・一八六七)「今もかも」(一四五八)等の例から、前解に從ふべきである。
〔語〕 ○朝けのなごり 明け方の引潮の跡にの意。「なごり」はここは海水の引去つたあとの溜り水をいふ。そこに海藻類の取殘されてゐる意で、海藻のことは言葉には表はされてゐないが、結句「亂れてあらむ」にそれが暗示されてゐる。○今日もかも 今日もやはり……であらうかなあ。
 
1156 すみのえの遠里小野《とほさとをの》の眞榛《まはり》以《も》ち摺《す》れる衣《ころも》の盛過ぎ去《ゆ》く
 
〔譯〕 住吉の遠里小野に遊んだ記念として、其處の萩の花で模樣を摺つた自分の旅衣が、今はもう美しさが過ぎてしまつたことである。
〔評〕 名所を過ぎてその土地の花で花摺衣を作るといふことは、難澁であつた昔の旅に於いての一面の風流事として羨望される所である。その美しい旅の記念が、日數經るままに次第に見すぼらしく色褪せてゆくのは、旅人自身としては如何にも惜しく寂しい氣持であり、それにつけても「紅粉樓中應v計v日」の感を深くして、しみじみと家路を思ふ心が湧いたことであらう。
(51)〔語〕 ○遠里小野 住吉の南に當る平地で、中世瓜生野とも呼んだが、後は遠里小野《をりをの》といふ。○眞榛 「はり」は榛の木説と萩説とあるが、ここは萩の花と見るが穩當である。
 
1157 時つ風吹かまく知らず阿胡《あご》の海の朝明《あさけ》の潮に玉藻苅りてな
 
〔譯〕 潮時の風が今に吹き出さうも知れない。阿胡の海の朝明け方の引潮に、出かけて行つて玉藻を刈らうよ。
〔評〕 「玉藻苅りてな」は海濱の逍遙を興じてかく誇張したので、實際の行動ではない。しかしそれだけに、海濱情調に心を牽かれることが強かつたのを語つてゐる。「時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻苅りてな」(九五八)は、恐らくこれを模したものと思はれる。
〔語〕 ○時つ風 滿潮に伴つて吹く風。「二二〇」參照。○吹かまく知らず 吹いて來ようも計りがたい。古義などのやうに「吹かむと云ふ心がかりもなしに」興味の爲に恐怖も忘れて、と解するのは非。○朝けの潮に 早朝の引潮に。時つ風が今にも吹かうといふのであるから、この「潮」は引潮である。
 
1158 すみのえの沖つ白浪風吹けば來《き》寄する濱を見れば淨《きよ》しも
 
〔譯〕 住吉の沖邊の白浪が、風が吹くと濱に打寄せて來る、その濱の景色を見ると、實にすがすがしいことであるよ。
〔評〕 見たままの景色を率直に描いたのであるが、あまりに無造作に過ぎて平板である。修辭も「風ふけば」「見れば」と條件法の重複は、洗練を缺く謗を免れない。
〔語〕 ○沖つ白浪 この句は三句を隔てて「來寄する」にかかる。
 
1159 すみの江の岸の松が根うち曝《さら》し寄り來《く》る浪の音の清らに
 
(52)〔譯〕 住吉の海岸の松の根もとを洗ひさらして、うち寄せて來る浪の音が、まことに爽快なことであるよ。
〔評〕 初句から一氣に詠み下した句法が、聊かも弛緩せず、明るくのびのびとしてゐる。前出の「大伴の三津の濱邊をうちさらし寄り來る浪の行方知らずも」(一一五一)と詞句の上のみでなく、境地にも似通ふものがあつて、しかも亦、兩者おのづから別樣の味がある。「岸の松が根うちさらし」も的確な描寫で面白い。
〔語〕 ○うちさらし 根に近く波が打寄せて洗ひさらすやうな樣に見えるのをいふ。○音の清らに 波の音が耳にすがすがしく響くの意。下に「聞ゆ」などの語を省略して餘韻をもたせたものと解する。
〔訓〕 ○清らに 白文「清羅」考は「羅」を「霜」の誤とし、略解は一本「霜」とあるによるべしといつて居るが、現存の諸本は悉く「羅」とある。舊訓サヤケサは、前出「一一一二」のほか類句も多いが、「羅」をサと訓む據が知れない。
 
1160 難波潟《なにはがた》潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴《たヅ》渡る見ゆ
 
〔譯〕 難波潟の引潮の渚に立つて見渡すと、遙かに淡路島をさして、鶴の飛んでゆくのが見える。
〔評〕 青い空に悠然と白い翼を張つて、靜かな海の上を飛ぶ鶴の姿は、想像したのみでも胸のすく思ひがする。この歌、寛潤雄大の景を措いて實地を髣髴させるが、惜しむべし、第三句「見渡せば」が贅語に近く、著しく格調を弛緩させてゐる。赤人の「わかの浦に潮みち來れば潟を無み葦べをさして鶴なき渡る」(九一九)などと比較してみると、作者の力量がよく分る。
 
    ?旅にて作れる
1161 家|離《さか》り旅にし在れば秋風の寒き暮《ゆふべ》に鴈《かり》鳴きわたる
 
(53)〔譯〕 家を離れて遠く旅にゐると、秋風の肌寒いこの夕暮時に、雁が鳴きながら渡つて行く。
〔評〕 内容に何の奇もなく、ただ事實を客觀的に詠みあげたのみであるが、しめやかな調子の中にやるせない旅愁が滲みわたつてゐるのを覺える。
〔語〕 ○雁なきわたる 雁といへば、蘇武の故事を想ひ、家郷への便を聯想するのは既にこの頃常識となつてゐたので、家郷からの便、又は家郷への音信といふことを底にもつてをるともみられる。
 
1162 圓方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》波立てや妻呼び立てて邊《へ》に近づくも
 
〔譯〕 圓方の湊の洲にゐる鳥が、浪があらく立つて來たためであらうか、妻を呼んで鳴きながら岸邊にちかづいて來るよ。
〔評〕 妻を呼びながら岸に近づくといふのは、單に聲によつて察してゐるのでなく、同時に實地を目撃してゐるのである。初二句もやはり目睹してゐることを示す語氣である。然らば、浪の立つのも同時に見えなければならぬ。「浪立てや」の句を、離れ洲の鳥がけたたましく鳴いて岸邊に近づいて來るので、浪の高くなつたことを想像したと解する説はよくない。これは浪が立つて來たそれを憂へてであらうか、と洲鳥の岸に寄る心理を推量したもので、かく解してこそ、鳥に對する温い愛情も一層深さを増すのである。さうして、やさしい洲鳥に斯く温情を寄せたところに、作者自身も亦、家郷の愛妻に對する思慕の心がしみじみと動いてゐることが、おのづから感じられるのである。
〔語〕 ○圓方 伊勢國多氣郡にある。「六一」參照。○湊の渚鳥 河口の洲にゐる水鳥。○浪立てや 浪立てばにや、即ち浪が荒く立つ爲であらうか、の意。
〔訓〕 ○浪立てや 白文「浪立也」通行本「浪立巴《なみたてば》」とあるが、元暦校本等の古寫本「也」とあるに從ひ、訓は略解による。
 
(54)1163 年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし知多《ちた》の浦に朝こぐ舟も沖に寄る見ゆ
 
〔譯〕 年魚市潟は潮が引いたらしい。この知多の浦で、朝早く漕いでゐる舟も、沖の方に寄つて行くのが見える。
〔評〕 知多の浦傳ひに歩いてゐた旅人が、沖行く舟を眺めての作で、遠淺を以て知られた年魚市潟の引潮を想像したのである。内容は格別のこともないが、五七の律格の齊整が一首の歌品を高めてゐる。
〔語〕 ○年魚市潟 名古屋市熱田南方の海岸をいふ。
 
1164 潮|干《ふ》れば共に潟《かた》に出で鳴く鶴《たづ》の聲遠ざかる磯廻《いそみ》すらしも
 
〔譯〕 潮が引くと、一齊にうち連れつつ干潟に出て鳴く鶴の鳴聲が、次第に遠ざかつて行く。磯めぐりをして餌をさがすらしい。
〔評〕 遠ざかりゆく鶴の姿と聲とによつて、海岸をめぐつて餌をあさり行く樣を想像したのである。萬葉人らしいおほらかな單純さの中に、鶴の悠揚たる姿態や動作が髣髴として浮んで來るやうである。
〔語〕 ○共に潟に出で 皆一齊に干潟に出て。○鳴く鶴の聲遠ざかる 鳴く鶴の鳴聲が遠ざかつてゆく。○磯廻すらしも 磯めぐりをして餌をあさるのであるらしい。
 
1165 夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮滿てば沖浪高み己妻《おのづま》喚《よ》ばふ
 
〔譯〕 夕凪に餌をあさつてゐる鶴が、潮が滿ちて來ると、沖の浪が次第に高くなるので、氣遣はしげに自分の妻を呼んで鳴いてゐることである。
〔評〕 夕凪の波のさし潮が靜かに寄せて來る頃、沖邊の浪はおのづから膨れ上つて來る。渚に餌をあさつてゐた鶴の(55)群は、鳴き騷ぎつつ引上準備を始めたといふ光景で、脈々として快く流れる韻律の中に、景は生々として躍動してゐる。「沖浪高み己妻喚ばふ」は上の「圓方の湊の渚烏」(一一六二)に似て鶴に對する作者の温情の發露であり、また萬事を身に引當てて考へる遊子の感傷でもある。渚鳥の歌よりも立ち勝つてゐるのは、背景の措寫がすぐれてゐるのと、落ちついた韻律が完全に内容と呼吸が合つてゐる爲である。
 
1166 古《いにしへ》にありけむ人の覓《もと》めつつ衣《きぬ》に摺りけむ眞野《まの》の榛《はり》原
 
〔譯〕 昔の人達が、此處に來ては「萩の花を折取つて旅衣に模樣を摺り出したといふ眞野の萩原なのである、ここは。
〔評〕 名所に來て古人を偲び、古人の跡に倣はうとする懷古趣味で、この卷の始にあつた「いにしへにありけむ人も吾が如か三輪の檜原に挿頭折りけむ」(一一一八)などと同工異曲である。
〔語〕 ○古にありけむ人 古人。「一一一八」參照。○眞野の榛原 今の神戸市の西部、眞野町の邊。
 
1167 求食《あさり》すと磯に吾が見し莫告藻《なのりそ》を誰しの島の白水郎《あま》か刈るらむ、
 
〔譯〕 獲物をさがすとて、磯で自分が折角見つけて置いたあの美しい莫告藻《なのりそ》を、島の何といふ海人が刈り取ることであらうか。
〔評〕 自分が見かけたあの女は、誰の妻になるであらうか、との寓意をもつた譬喩歌であるが、旅の行きずりの淡い哀愁で、譬喩は適切とは思はれないが、海邊の旅であつたから、かかる例を採つたのであらう。
〔語〕 ○莫告藻 ホンダワラの古名。集中に用例が多い。ここは女に譬へてゐる。○誰しの島の白水郎 「誰しの」は「白水郎」にかかる修飾語。白水郎は海士。「二三」參照。
〔訓〕 ○誰しの島の 白文「誰島之」、舊訓イヅレノシマノとあるが、集中「誰」は皆タ又はタレであり、イヅレと(56)訓んだ例はない。「誰之能人毛《たれしのひとも》」(二六二八の一書)の例に倣つてタレシノシマノと訓むがよい。
 
1168 今日もかも沖つ玉藻は白浪の八重折《やへをり》の上に亂れてあらむ
 
〔譯〕 今日もやはり、沖の美しい藻は、白浪の幾重にも折りかへる上に、亂れ漂つてゐるであらうかなあ。
〔評〕 旅の佳景の追憶で、今一度その愉快を味はひたいといふ希望をこめてゐるのである。上の「名兒の海の朝げのなごり今日もかも磯の浦回に亂れてあらむ」(一一五五)に似て、沖と邊との相違がある。浪にもまれて搖れ亂れる玉藻のさまに興をひかれたのは、海のめづらしい都人であらう。「白浪の八重折の上」といふ語も緊密で面白い。
〔語〕 ○今日もかも 嘗て見た景色を思ひ出す趣で、結局「亂れてあらむ」の下にめぐらして解すべきである。○八重折の上に 幾重にも折れ重なつてゐる上に。「折」は波の起伏してゐる樣。
〔訓〕 ○八重折の上に 白文「八重折之於丹」、舊訓による。「四三六〇」の「八重をるが上に」に倣ひ、ここも同樣に訓む代匠記説が多く支持されてゐるが、體言にした舊訓の方がよい。
 
1169 近江の海湊は八十《やそ》をいづくにか君が船|泊《は》て草結びけむ
 
〔譯〕 近江の湖には湊が澤山にあるのを、何處の湊に君の船が着いて、草を結んで、旅路の平安を祈られたことであらうか。
〔評〕 近江の湖畔を旅する夫を想ひ、家なる妻が思ひを寄せた作である。しかしさう解せず、湖水を渡らうとした旅人が、嘗てこのあたりに旅した知人の事を追憶して、その碇泊し上陸した地點を追懷した作と解する説もある。
〔語〕 ○湊は八十を 湖畔に船着場は澤山にあるのを。○君が船泊て 君の船が著いてそこから上陸して。○草結びけむ 路傍の草を結んで旅路の平安を祈られたことであらうか。草結びは願を叶へる爲の一種の呪術で、「一〇」「三(57)〇五六」等に例が見える。結び松も同じ意味で、その例は「一四三」「一四四」「一四六」等がある。
〔訓〕 ○湊は八十を 白文「湖者八十」通行本は「八千」とあるが、類聚古集等に「八十」とあるのがよい。「者」を略解に「有」の誤としてゐるが從ひ難い。この儘でアリを訓み添へてミナトハヤソアリともよめる。
 
1170 ささなみの連庫山《なみくらやま》に雲|居《ゐ》れば雨ぞ零《ふ》るちふ歸り來《こ》吾が背
 
〔譯〕 ささなみの連庫山に雲がかかつたら、雨が降ると申します。どうか降らないうちに早く歸つていらつしやい、夫よ。
〔評〕 湖水を渡つて篠波地方へいつてゐる夫の上を、家なる妻が思ひやつて詠んだものと思はれる。連庫山が今の何山か明かでないのは遺憾であるが、作者は東の湖岸にゐて湖上遙かに連庫山を見てゐるのである。この山に雲がかかればやがて雨になる、と俚俗に云ひ慣はされてゐる、その雲が今あらはれたので、妻は、もしや今頃夫が歸路の舟に乘る頃ではないかと想像して、小さな胸を痛め、思はずかうつぶやいたのである。勿論夫のもとへいひ送つたのでもなく、果して夫が歸路に就いてゐるかも分らないのであるが、心中にかく獨語しつつ祈つてゐるところ、纒綿の情致まことに美はしい限である。調子といひ情味といひ、或はこの地方に傳誦された民謠であつたかも知れない。
〔語〕 ○ささなみの連庫山 「ささなみ」は滋賀附近の總名。「二九」參照。「連庫山」は集中他に見えないが、拾遺集卷十の神樂歌に「高島や三尾の中山杣立てて作り重ねよ千世のなみくら」とある。代匠記はこの歌と、次に高島の歌の二首あることによつて、高島郡に在りと推察し、全釋は高島に隣接せる比良山と見て、「なみくら」は竝座又は竝谷の義としてゐる。
 
1171 大御舟|泊《は》ててさもらふ高島の三尾《みを》の勝野《かちの》の渚《なぎさ》し思ほゆ
 
(58)〔譯〕 御召船が碇泊して、日和待をしてゐる高島郡の、三尾の勝野一帶の渚の景色が、どんなに美しからうと、遙かに思ひやられることである。
〔評〕 近江の高島地方行幸のあつた際、留守の官人が遙かに思ひやつて詠んだのであらう。類型的で新味に乏しい嫌はあるが、莊重な律格がよく内容に即應して、高古の感がある。但、この行幸は史上に參照すべき記載がなく、いつの御代の事か明かに知られない。
〔語〕 ○はててさもらふ 碇泊して日和待をする。「さもらふ」は「風吹けば浪か立たむとさもらひに」(九四五)の如く、船についていふ時は、航海によい日和を伺ふの意。○高島の三尾の勝野 高島郡の三尾地方の勝野。「高島の勝野の原に」(二七五)參照。三尾は近江國高島郡大溝村附近の總名。
 
1172 いづくにか舟乘《ふなのり》しけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出《で》來《く》る船
 
〔譯〕 何所で舟に乘つて漕ぎ出したことであらうか、高島の香取の浦から漕ぎ出て來るあの船は。
〔評〕 作者は湖岸に立つて、遙かに香取の浦の岬の突端に姿を現はした一葉の舟に見入つてゐるのである。高市黒人の「何所にか船泊《ふなはて》すらむ安禮の崎こぎ回《た》み行きし棚無し小舟」(五八)とは反對に、舟の旅を何處から始めたのであらうと想像したのである。船中の旅人に同情を寄せたもので、作者も同じく旅に憂苦を重ねた身であることが察せられ、旅人が旅人を思ふあはれ深い歌である。
〔訓〕 ○己藝出來船 舊訓による。古義コギデコシフネ。
 
1173 斐太人《ひだびと》の眞木《まき》流すとふ丹生《にふ》の河|言《こと》はかよへど船ぞ通はぬ
 
〔譯〕 飛騨の樵夫たちが檜の木を伐り出して流すといふ丹生河は、兩岸から言葉はかはすことも出來るが、流が早く(59)て、舟が通はない。
〔評〕 これは譬喩歌である。自分は戀人と音信はしあつてゐるが、邪魔があつて逢ふことが出來ないといふ焦躁感を訴へたものであるが、多分に民謠的な調子を帶びてゐるやうである。
〔語〕 ○斐太人 飛騨の國人は木工大工の職に長じ、都に上つて、その業をなす者が多かつたので、轉じて木工、大工などを廣く飛騨人と稱した。しかしここは飛騨のきこりたちの意。○眞木 檜・杉などの建築用材。「眞木さく檜の嬬手」(五〇)參照。○丹生の河 「一三〇」その他集中に多くあつて、吉野川の上流をいひ、ここもそれと見る人が多いが、飛騨の乘鞍岳の麓なる大丹生池に發して丹生川村を流れる小八賀川を古く丹生川と稱したので、初句に「飛驛人の」とあるから、同國のその川と見る方が自然である。○言はかよへど 兩岸から互に言葉を交す事は出來るが。女と音信だけは出來ることに譬へた。○船ぞ通はぬ 急流なので船が往復しない。女と逢ふことの出來ぬのに譬へた。
 
1174 霰|零《ふ》り鹿島《かしま》の崎を浪高み過ぎてや行かむ戀しきものを
 
〔譯〕 間近に見えるあの鹿島の崎を、浪が高いので、自分は立ち寄らずに空しく通り過ぎて行くことか。懷かしく思つてゐるのに。
〔評〕 噂に聞いてあこがれてゐた名勝の近くまで、初めて來ながら、風浪の爲に空しく通過せねばならなかつた殘念さは、同情に値する。但、作品としては平板である。
〔語〕 ○霰ふり 霰の降る音がかしましい意で「鹿島」にかけた枕詞。○鹿島の崎 常陸の鹿島であらう。鹿島の崎は鹿島郡の南端。
 
1175 足柄《あしがら》の筥根《はこね》飛び越え行く鶴《たづ》のともしき見れば大和し念《おも》ほゆ
 
(60)〔譯〕 足柄の箱根山を越えて行く鶴の、都の方角へ向ふ羨しさを見ると、自分は故郷の大和が思ひ出されてならぬことである。
〔評〕 恐らく官命などを帶びて遠く都を離れ、東國へ旅した人の作であらう。膳王の「朝には海邊に漁し夕されば大和へ越ゆる雁し羨《とも》Lも」(九五四)のやうに、畿内の旅に於いてすら都は戀しいものを、まして當時の箱根を越える時の感愴は如何であつたらう、と想像される。内容に相應して詞句格調頗る洗煉されてゐる。
〔語〕 ○足柄 相模國にあり、足柄上・足柄下の二郡に分れ、筥根は足柄下郡に屬してゐる。○ともしき見れば 羨しいその樣子を見れば。國の方、即ち都の方向をさしてゆくのが羨しいのである。
 
1176 夏麻引《なつそひ》く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲に鳥はすだけど君は音《おと》もせず
 
〔譯〕 海上潟の沖の方の洲で、水鳥はあつまつて騷いでゐるけれども、旅に出られたいとしいお方は、それつきり何のおたよりも無い。どうなされたことであらうか。
〔評〕 夫を旅に出してさびしく孤閨を守つてゐる女の溜息が、あはれに聞かれる。夜深く獨り目ざめて寒げな水鳥の聲に耳を傾けつつ、杳として消息なき夫の上を、とつおいつ思ひ續けて輾轉反側する姿も見えるやうである。すぐれた作であるが、多分に民謠風の句がある。
〔語〕 ○夏麻引く 枕詞。麻は六月頃根引をするから、夏麻引く畝《うね》の意で、類音の「海」にかかるといふ考の説に從ふ。○海上潟 東歌の上總國の歌に「なつそひく海上潟」(三三四八)とあるので、上總國海上郡(今の市原郡)の海とする説が多い。但、古事記に上菟上《かみつうながみ》國造・下菟上《しもつうながみ》國造とあり、上菟上は上總に、下菟上は下總に屬し、今も下總に海上郡があるので、全釋は下總の方とし、利根川の下流、今の銚子に近い海上村の附近であらうと考證してゐる。○鳥はすだけど 鳥はあつまつて騷いでゐるが。「すだく」は多數あつまる意であるが、鳥や秋の蟲があつまるといふのは、(61)自然、聲を聞いてのことが多いので、餘意として鳴く意を含み、後世は鳴く意にも轉用されるに至つた。
 
1177 若狹なる三方の海の濱清みい往《ゆ》き還らひ見れど飽かぬかも
 
〔譯〕 若狹にある三方の湖の濱の景色が明媚であるので、往つたり來たりして眺めるけれども、少しも見飽きないことであるよ。
〔評〕 集中往々見る佳景讃美の歌の一つの型である。格調のおほらかさはあるが、對象なる風景の個性は描かれてゐないので、物足りない。
〔語〕 ○三方の海 若狹國三方郡三方驛の西北にある淡水湖。三方湖。
 
1178 印南野《いなみの》は往き過ぎぬらし天《あま》づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ 【一に云ふ、餝磨江はこぎ過ぎぬらし】
 
〔譯〕 我々の船は、印南野の沖合はもう通り過ぎたらしい。日笠の浦に、波の白く立つてぬるのが遙かに見える。
〔評〕 加古川と明石川との間に、廣く展開してゐる印南野の沖を、作者は東の方、都に向つて航行してゐるのである。日笠の浦の位置は今明かでないが、假に明石川の河口のあたりとすれば、遠くその浦に立つ白波を見て、印南野の漸く盡きたことを知つたのである。印南野は赤人その他の歌によつて有名であり、作者も恐らく嘗て陸行で通過したことがあつたのであらう。そこで追憶の情一層切なるものがあつて、この一首を成したと思はれる。一に云ふの「餝磨江」よりも、印南野の方が先人の名作の背景を有するだけに、歌としても感興が深い。
〔語〕 ○天つたふ 「日」につづく枕詞。○日笠の浦 大日本地名辭書には、今の明石市の西部を流れる明石川の河口の邊かといふ。○波立てり見ゆ 「見ゆ」は下の「一一八二」にも見えるやうに、終止形を承けたもの。○餝磨江 播磨國飾磨町で、飾磨川の河口にある。
 
(62)1179  家にして吾は戀ひむな印南野《いなみの》の淺茅《あさぢ》が上に照りし月夜《つくよ》を
 
〔譯〕 家に歸つてから、定めて自分は思ひ出して懷かしがることであらうよ。あの印南野のまばらな茅の上に照つた美しい月の光を。
〔評〕 印南野の淺茅の上に野宿をした月夜の風情が、旅を續けてゐる間にも忘れられず、家に歸つてからさぞ懷かしまれるであらうと想像したのである。旅中絶えず移り變る好風景の應接の間にすら忘れかねた印南野の月は、如何に清く美しいものであつたであらう。爽涼の氣が全幅に漲つてをる。
〔語〕 ○照りし月夜を 「月夜」の「夜」は輕く添へた語で、月のこと。
 
1180 荒磯《ありそ》越す波をかしこみ淡路島見ずや過ぎなむ幾許《ここだ》近きを
 
〔譯〕 荒磯を越す波の恐しさに、舟をつけることも出來ず、折角の淡路島をよく見ないで空しく通り過ぎることであらうか。距離は近いのに。
〔評〕 風浪に妨げられて、目前にある勝地を見ることの出來ぬ口惜しさをかこつたもので、古代の舟行の不便が思ひやられる。前出「霰ふり鹿島の崎を浪高み過ぎてや行かむ戀しきものを」(一一七四)と同工異曲であるが、歌詞が抑揚の變化に富んでゐる。淡路島は當時海上交通の重要據點であつたばかりでなく、狩獵地としても上代から人が多く渡つたものと考へられる。紀にはその記載が多い。
〔語〕 ○幾許近きを 甚だ近いものを。「ここだ」は多數の意であるが、ここのやうに程度にもいふ。
 
1181 朝霞やまず棚引く龍田《たつた》山|船出《ふなで》せむ日は吾《われ》戀ひむかも
(63)〔譯〕 朝霞の絶えず棚引いてゐるあの能田山を、難波の浦から船出するであらう日には、自分は定めて戀しく思ふことであらうなあ。
〔評〕 任地に下るにつけ、また京に上るにつけ、龍田山は大和の形見として、官人達の思慕の的であつた。作者は旅立の日も近づくにつけて、見馴れたこの山を眺めつつ、難波を船出する日の感慨を豫想して詠んだのである。淡々たる敍述の間に、龍田山の姿態もはつきり描き出されて居り、しみじみとした哀愁が搖曳してゐる。
 
1182 海人《あま》小船帆かも張れると見るまでに鞆の浦|回《み》に波立てり見ゆ
 
〔譯〕 海人の小舟が白帆でも張つてゐるのであらうかと見えるまでに、鞆の浦の入り込んだ岸邊に、浪が白く高く立つてゐるのが見える。
〔評〕 河や湖に白浪の立つのを、白木綿花に見立てた歌は集中に多いが、白帆に見まがふといふのは珍らしく、今日なほ新鮮味を感ずる表現である。萬葉集中、船の帆を詠んだ唯一の作であることも注意すべきである。
〔語〕 ○鞆の浦回 備後の鞆の津の入江。「四四六」參照。
 
1183 まさきくてまた還り見むますらをの手に卷き持《も》たる鞆の浦|回《み》を
 
〔譯〕 無事に行つて、また立歸つて來て自分は眺めたいものである。益良雄の手に卷いて持つてゐる鞆といふ名の鞆の浦のよい景色を。
〔評〕 「ますらをの手に卷き持たる」といふ面白さが、全體の構想の單調さを救つて頗る効果を收めてゐる。瀬戸内海第一といはれる名勝に對してこの感慨のあるのは、蓋し至當であらう。それと同時に、初二句の語氣は集中?々見受けるやうに、自己の旅路の平安を豫期する歌ともなつてゐることはいふまでもない。
(64)〔語〕 ○まききくて さはりなく行つて。○丈夫の手に卷き持たる 益良雄が手に鞆を卷きつけて持つてゐる意で、「鞆の浦回」につづけた序詞。鞆は、弓を射る時、左の肘に結びつけ弦の觸れるを防ぎ、音を立てて敵に武威を示す具。「七六」參照。
〔訓〕 ○好去而 略解説、古義等による。ヨクユキテ、サキクユキテの訓もある。
 
1184 鳥じもの海に浮きゐて沖つ浪さわくを聞けばあまた悲しも
 
〔譯〕 まるで鳥そつくりの樣子で、自分はかうして海の上に浮んでゐながら、沖の浪の立ち騷ぐのを聞いてゐると、まことに悲しい思がすることである。
〔評〕 遙かな海上を渡りゆく船中に浮寢する身の心もとなさ、「鳥じもの」の譬喩が如何にも適切に生かされて居り、沖の浪の騷ぎが耳朶を打つ感がある。寂寥感が歌調に滲み渡つて、しかも萬葉的な氣格は、この歌を、ただ弱々しい佗しさだけに終らせてゐない。
〔語〕 ○鳥じもの 鳥のやうに。鳥そのままの恰好で。「鴨じもの」(五〇)參照。作者の實感であつて、ここは枕詞と見るのはよくない。○あまた悲しも ひどく悲しいことである。
 
1185 朝なぎに眞楫《まかぢ》こぎ出《で》て見つつ來《こ》し三津の松原浪|越《ご》しに見ゆ
 
〔譯〕 朝凪に、左右の櫓拍子揃へて漕ぎ出し、難波の三津の松原を眺めながら來たが、その松原が、今は遠く美しく浪越しに見えてゐる。
〔評〕 時間と位置との推移がぴつたり呼吸を合せて巧に描かれてゐる。明麗清爽な敍景歌である。遠くも乘り出して來たことよと、不安の念も混じてゐるやうに見るのは、歌全體の調子や氣分を解せぬものである。この歌にはさうし(65)た暗い影は少しもさしてゐない。舟行のめづらしさに、暫く旅愁も不安も忘れて、眼前の景を樂しんでゐる境地である。
〔語〕 ○眞楫こぎ出で 兩舷の艪を揃へて漕ぎ出して。○三津の松原 難波の津の松原。
 
1186 漁《あさり》する海未通女等《あまをとめら》が袖とほりぬれにし衣《ころも》干《ほ》せど乾《かわ》かず
 
〔譯〕 磯邊ですなどりをしてゐる若い海人の女たちの袖が、下までとほつてびしよ濡れになつた着物は、干しても容易に乾かない。
〔評〕 「干せど乾かず」は定型的の表現であるが、一首に、旅中に見た物めづらしい海女の生業に對する暖い同情が感じられる。
〔語〕 ○あさりする 釣や網曳ではなく、磯邊で貝や海草の類を採つてゐたのであらう。
 
1187 網引《あびき》する海子《あま》とや見らむ飽《あく》の浦の清き荒磯《ありそ》を見に來《こ》し吾を
     右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 網を引く漁師とでも人は見るであらうか、飽の浦の明媚な荒磯の景色を見に來た自分であるのに。
〔評〕 海邊をゆく旅人の自分を、人は海士と見るであらうかとの構想は、集中の套語となつてゐる。人麿の?旅歌「あらたへの藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行く吾を」(二五二)がその先蹤をなすものであらう。左註によれば、この歌も人麿歌集所出とあるが、人麿自身が類型の作をよむことはあるまい。とにかく優れた表現も、頻出しては感銘が薄くなる。
〔語〕 ○飽の浦 略解に「紀の國の飽等《あくら》の濱」(二七九五)とあるのと同所としてゐる。それならば、紀伊國海士郡賀田の浦の南方。全釋には、備前國兒島郡に飽浦といふ地があるから、其處かといつてゐる。
 
(66)1188 山越えて遠津の濱の石躑躅《いはつつじ》わが來むまでに含《ふふ》みてあり待て
 
〔譯〕 噂に聞いてゐる遠津の濱の岩間の躑躅よ、自分はやがてその地に行くであらうその時まで、蕾のままで待つてゐてくれ。
〔評〕 遠津の濱の躑躅は、その附近で名高いものであつたであらう。丁度その花期に來合せ、やがてその地をも訪ふ筈の旅人が、花盛の過ぎようことを恐れて詠じたものと思はれる。既にこの地に來た人が、花の美を惜しむ餘りに再遊を約して、かく無理な注文をしたとする解もあるが、第四句の語法では、又再びといふ意には取れまい。下出の「足代《あて》過ぎて絲鹿《いとか》の山の櫻花散らずあらなむ還り來むまで」(一二一二)と同工であるが、それは「還り來むまで」であるから、身は現境にあること勿論である。比較して兩者の差異を味ふべきである。
〔語〕 ○山越えて 代匠記精撰本は、「遠津」に係けた枕詞か、或は四句に續くかと兩説を擧げてゐる。山を越えて遠いといふ意の枕詞と見るべきである。○遠津の濱 所在不明。「霰ふり遠津大浦」(二七二九)とあつて、次に紀の國の歌があるので、多くはこれも同國と推定して、大日本地名辭書は、紀伊國海草郡|コ勒津《ところつ》として、中之島村を之に宛ててゐるが確かでない。右の歌の直前には「淡海の海」の歌があるので、或は遠津大浦もその湖畔で、且それは遠い大浦の義かも知れないのである。○石躑躅 岩間に生えた躑躅の意。特にイハツツジと稱する石南科の越橘《こけもも》屬の植物をさすのではない。○わが來むまでに 自分が行くであらうそれまでに。「來む」は先方の土地を標準にしたもので、行かむの意。「大和には鳴きてか來らむ」(七〇)參描。○ふふみてあり待て 蕾のままで待つてゐよ。「ふふむ」はふくむの古語。「あり待て」の「あり」は「在り通ふ」(一四五)「在り慰めて」(二八二六)などの場合に同じく、現?を存續する意。
〔訓〕 ○わが來むまでに 白文「迄吾來」、舊訓ワガキタルマデ。元暦校本ワガクルマデニ。今、古義のカヘリコム(67)マデを參考として、未來に訓んだ。
 
1189 大海に嵐な吹きそしなが鳥《どり》猪名《ゐな》の湊に舟|泊《は》つるまで
 
〔譯〕 この大海の眞中で、どうか嵐よ吹いてくれるな。猪名の湊に自分達の船が入つて碇泊するまでは。
〔評〕 西國から東上する時の作である。碇泊豫定地の猪名の湊もあと一息となつて、折から空模樣が惡くなつたのであらう。航海の平安を祈る緊張した心理が質素に表現されて、讀者の共感を惹く。
〔語〕 ○しなが鳥 「猪名」の枕詞。「一一四〇」參照。○猪名の湊 猪名川の河口で、今は地勢が變つたが、兵庫縣で、伊丹の南、神崎の北あたりであらうといふ。
 
1190 舟|泊《は》てて〓〓《カシ》振《ふ》り立てて廬《いほり》せむ名子江の濱邊過ぎかてぬかも
 
〔譯〕 舟を着けて繋留の杭を打ち立て、假小屋を造つて今夜は其處に宿らう。名子江の濱のあたりの景色は、とても素通りは出來ないことであるよ。
〔評〕 船中から名子江の濱の勝景を望んでの作である。寶際其處に碇泊したか、それとも空想的の希望か、それは敢へて問ふ所ではないが、恐らく後者であつたであらう。さうすると「〓〓振り立てて」といひ「廬せむ」といふ如何にも強い現實的語句を用ゐた手段が見事に効を奏したもので、さも實際に碇泊したやうな錯覺を起さしめる所に、この歌の成功を認むべきであらう。
〔語〕 ○〓〓振り立てて 「〓〓」は船を繋ぐ杭で、豫て船に用意して置き、碇泊地に必要に應じて立てる。「三六三二」その他用例がある。○名子江の濱邊 所在不明。「奈呉江の菅のねもころに」(四一一六)とあるは越中射水郡であるが、今の歌は、前後すべて近畿地方の作であるから越中とは思はれない。「一一五三」「一一五五」等に見えた(68)名兒の海で、攝津住吉附近であらう。
 
1191 妹が門|出入《いでいり》の河の瀬をはやみ吾が馬つまづく家|思《も》ふらしも
 
〔譯〕 いとしい女の門を出入りすることが聯想されるこの入の河の瀬が早いので、自分の乘つてゐる馬が折々つまづく。さては故郷の家人らが、旅なる自分のことを思つてゐるらしい。
〔評〕 乘馬がつまづくのは、家人が自分を戀ふる兆であるとする俗信があつたらしく、次の歌や、笠金村の作「鹽津山うち越え行けば我が乘れる馬ぞつまづく家戀ふらしも」(三六五)などによつても知られる。この歌は、序の用法が「家思ふらしも」といふ内容に對して極めて適切に利いて居り、有機的に働いてゐて面白い。
〔語〕 ○妹が門 門を出で入りする意から「入の河」へ係けた序。○入の河 所在不明。山城國乙訓都大原野村灰方の東、上羽に入野神社があり、「劔太刀鞘ゆ納野《いりの》に」(一二七二)「さを鹿の入野の薄」(二二七七)等は同所と考へられてゐるが、其處を流れる河が「入の河」かとの説もある。
 
1192 白たへににほふ信士《まつち》の山|川《がは》に吾が馬なづむ家戀ふらしも
 
〔譯〕 白くほのかな光澤をもつた眞土、それと同じ名の信土山の山川で、自分の乘つてゐる馬が渡りしぶる。さては家人が自分を戀しがつてゐるらしい。
〔評〕 前の歌と全く同巧同趣であるが、序の用法に各特色がある。前のは内容を象徴した抒情的のものであり、これは眼に訴へた敍景的のものである。從つて前者には深みがあり、後者には旅愁の中にも一脈の明るさがある。
〔語〕 ○白たへににほふ 白く光澤をもつた眞土の意で、「信土山」にかけた序詞。「にほふ」は色の美しく照り映えるを云ふ。○信土の山川 眞土山を流れる川。眞土山は大和紀伊の國境にある。「五五」參照。川は眞土山の峠の降り(69)口を流れ、今、落合川と呼ばれ、この川が國境となつてゐるので、橋を兩國橋と名づけてゐる。
 
1193 背の山に直《ただ》に向へる妹の山|言《こと》聽《ゆる》せやも打橋《うちはし》渡す
 
〔譯〕 背の山に眞正面から向つてゐる妹の山は、背の山からのいひこんできた言葉を許したのであらうか、その間の川に打橋を渡してゐる。
〔評〕 妹山と背山と仲よく竝んでゐるのを見た旅人は、戀しい家妻の上に想到して、羨望しながらこの作を成したのであらう。相對する兩山の間の流に橋を渡して聯絡づけたのを、人間の婚儀に比し、女山が男山の申込を容れて通ひ路を作つたと見たのは、奇警にしてしかも稚氣愛すべき想像であり、素朴にして眞率な上代人の面影が窺はれ「思無v邪」の概がある。
〔語〕 ○背の山 紀伊國伊都郡笠田町にある。「三五」參照。○ただに向へる まともに向つてゐる。○妹の山 紀の川を隔てて背の山に對する山で、同郡見好村に屬する。玉勝間には詳細に論じて、妹山といふのは、背の山といふ名に對しての詞のあやのみで、實在しない。この歌もただその邊の山を假に名づけたものに過ぎない、といつてゐるが「紀の國の妹背の山にあらましものを」(五四四)「紀路にこそ妹山ありといへ」(一〇九八)其他なほ集中に妹山の歌があるのを見れば、この説は從ひがたい。○言ゆるせやも 「言ゆるせばにや」といふに同じく、男の求婚の言葉を承諾したからか、の意。○打橋 架けはづしの出來る板橋のこと。「一九六」參照。打橋は紀の川のやうな廣い河には架けられないとの説もあるが、中洲との間の狹い所に架けたものとも見られよう。
 
1194 紀の國の雜賀《さひか》の浦に出で見れば海人《あま》の燈火《ともしび》波の間ゆ見ゆ
 
〔譯〕 紀伊の國の雜賀の浦に出て見ると、遙の沖合に、漁船の燈火が、波の間からちらちらと見える。
(70)〔評〕 火の光といふものは、一般に人間の情意を樣々に動かす力を持つてゐる。「見渡せば明石の浦にともす火のほにぞ出でぬる妹に戀ふらく」(三二六)のやうに、暗い沖合遠く明滅する漁火が、或は人の心を遠くに誘ひ、或はそこはかとなき思慕の情を掻き立てることは、誰も經驗するところである。やや無造作過ぎる表現であるが、一脈捨て難い情趣がある。
〔語〕 ○雜賀の浦 和歌の浦の西方海岸。「九一七」參服。○浪の間ゆ見ゆ 浪の上下するにつれて隱見する。○この歌以下「粟島に」(一二〇七)までの十四首を、元暦校本・西本願寺本・細井本等は「玉津島」(一二二二)の次に置いてゐる。それが原形で、通行本は錯簡と考へられる。
 
1195 麻|衣《ごろも》著《け》ればなつかし紀の國の妹背の山に麻蒔く吾妹
     右の七首は、藤原卿の作れるなり。未だ年月を審にせず。
 
〔譯〕 自分は麻の著物を着てゐるので、何かしら縁があるやうに思はれて親しい感じがする。紀伊の國の妹山、背山のあたりで、麻の種を蒔いてゐるかはいい娘よ。
〔評〕 紀の國の妹山、背山の麓を通つた作者は、山の名から直に家なる妹を聯想したのであらう。さうして、あたりに麻の種を蒔いてゐる可憐な少女の姿を見て、何とない親しみを覺えたのである。更に顧みれば、自分の旅衣も麻製で、可憐な少女らの努力によつて出來たのかと思へば、一層の親しさを感じて、ふと呼びかけて見たいやうな心持になつたのであらう。情味饒かな明るい作である。
〔語〕 ○麻衣著ればなつかし 自分も麻衣を着てゐるので、その縁で懷しいの意。今麻衣を着ると、あの麻を蒔いてゐた女が懷しく思ひ出されるの意とする古義説はいかがであらう。○妹背の山に 妹山と背山とのあたりで。○麻蒔く吾妹 今作者の前で麻の種を蒔いてゐる少女。古義説の如く「麻蒔きし吾妹」を斯く現在法で敍することはあり得(71)るけれども、ここは猶眼前の事と見る方が趣が勝るやうである。「吾妹」は親しんで呼びかけた語。
〔訓〕 ○ければ 白文「著者」舊訓キレバも誤ではないが、「この我が家流《ける》」(三六六七)とあるに據つて訓んだ。
〔左註〕 藤原卿 代匠記にいふ如く、鎌足ならば内大臣藤原卿と書く筈であるし、單に藤原卿では南卿か北卿か、決し難い。しかし南卿武智麻呂は他に一首の歌も集中に見えぬところから察すると、恐らく歌に不堪であつたのであらう。故にこれは北卿房前であらう。なほ上述のごとく、藤原卿の歌は、黒牛の海以下玉津崎までの五首と、紀の國のとこの歌との七首である。
 
1196 裹《つと》もがと乞はば取らせむ貝拾ふ吾をぬらすな沖つ白浪
 
〔譯〕 家に待つ人が土産を欲しいと乞うならば、與へようと思ふその貝を拾つてゐる自分を、どうかぬらしてくれるな。沖から寄せて來る白浪よ。
〔評〕 海の珍しい都にあつて、自分の歸りを待ちわびてゐるであらう妻の爲に、美しい貝を拾ふといふのは、綿々の温情掬すべきである。「我をぬらすな」は、乾かしてくれる人もない旅衣のわびしさを思ふので、それにつけても家郷への思慕は一入加はつたことであらう。古今集二十の歌「こよろぎの磯立ちならし磯菜つむめざし濡らすな沖に居れ波」は同工異曲の歌である。
 
1197 手に取るがからに忘ると磯人《あま》のいひし戀忘貝《こひわすれがひ》言《こと》にしありけり
 
〔譯〕 手に取りあげると、ただそれだけで忘れると海人が自分に語つた、戀を忘れるといふ忘貝は、何とまあ、名だけのものであつたわい。
〔評〕 忘貝や忘草が物思を忘れさせるといふ當時の俗信は、要するに言靈信仰に根ざしたものである。戀の苦惱から(72)脱しようとして忘草を衣につけ、忘貝を拾ふ歌は集中に多く、上にも「すみのえに行くとふ道に昨日見し戀忘貝言にしありけり」(一一四九)があつた。しかし、皮肉にも皆その無効を歎き罵つてゐるのが面白い。この歌は得々と宣傳した海人の口吻を寫してゐる點が特に興味がある。
〔語〕 ○手に取るがからに忘ると 唯手に取つてみるといふそれだけのことで物思を忘れると。「からに」は、それだけの原因ですぐにの意。「玉箒手にとるからに」(四四九三)ともある。○言にしありけり 言葉だけで何の効も無かつた。「一一四九」參照。
 
1198 あさりすと磯に住む鶴《たづ》曉《あ》けゆけば濱風寒み自妻《おのづま》喚《よ》ぶも
 
〔譯〕 餌をあさるとて磯邊に棲んでゐる鶴が、夜が明けて行くと、濱風が寒いので、自分の妻を呼んで頻りに鳴いてゐることであるよ。
〔評〕 旅宿の曉の寒さに獨り目ぎめて戸を排し、遙かなる鶴唳に耳を傾けてゐるのであらう。上の「夕なぎにあさりする鶴潮滿てば沖浪高み己妻喚ばふ」(一一六五)と同工である。この歌にも、底に作者自身の妻への思慕が流れてゐることはいふまでもない。しかし「沖浪高み」が目に映じた外的の景象であるに比べて「濱風塞み」は作者の身にも直接迫る實感であるがゆゑに、一首全體に主觀的色調が深く、旅寢の曉の妻戀しさが、そのまま磯邊の鶴に移されたかと思はれるばかりである。
 
1199 藻苅舟沖こぎ來《く》らし妹が島|形見《かたみ》の浦に鶴《たづ》翔《かけ》る見ゆ
 
〔譯〕 海草を採る舟が、沖の方から漕いで來るらしい。妹が島の形見の浦に、鶴の飛ぶのが見える。
〔評〕 俄かに群鶴の飛揚するによつて、藻刈舟の近づくのを想像したもので、舟は島蔭になつて、作者の位置からは(73)見えないのである。碧空高く晴れて、靜波萬頃、中に動きつつある鶴の姿は清爽限りもない。洗煉された筆致によつて簡淨に描破された一幅の繪である。
〔語〕 ○藻苅舟 海草類を苅り採る舟。○妹が島形見の浦 所在不明。この句法からすると兩者從屬關係で、妹が島の形見の浦と見るべく、妹が島と形見の浦との竝立關係とは考へられないやうである。大日本地名辭書には、形見の浦は、加太町の沖なる友が島と陸地との間の瀬戸、をいふやうに記してゐる。
 
1200 吾が舟は沖ゆな離《さか》り迎へ舟片待ちがてり浦ゆ榜《こ》ぎ會《あ》はむ
 
〔譯〕 自分の乘つてゐるこの舟は、沖の方へ離れて行つてくれるな。やがて來る筈の迎へ舟を、ひたすら待ちかたがた、浦から漕いで行つて出會はう。
〔評〕 沖の浪の荒きを恐れる船客の心が、おのづから斯く船頭に呼びかけさせたのであらう。迎へ舟は、集中唯一の用例であるが、どんな場合のものか、旅客の船を迎へて港に導く舟といふやうな文化的設備とも考へられない。旅中に於ける磯傳ひの遊覽などと想像すれば、全體が明瞭になるやうである。
〔語〕 ○迎へ舟 港の遊女が舟に乘つて旅客を迎へて、招じ入れたものかとする全釋の説は穿ち過ぎであらう。遊覽に出た舟を迎へに行くものと解したい。○片待ちがてり 待ち受けかたがた。「片待ち」は、片寄り待つ、ひたすら待つの意。「がてり」は、がてらに同じ。「三七〇」參照。
 
1201 大海の水底とよみ立つ浪の寄らむと思《も》へる磯の清《さや》けさ
 
〔譯〕 大海の底まで鳴り響かして立つ浪が寄らうとしてゐるやうに、自分の舟の寄らうとしてゐる磯の景色は、何とまあ美しいことであちう。
(74)〔評〕 大海の底からとよもし響いて立ち來る波の景觀は、豪宕雄大である。しかもその浪の寄らうとしてゐる海邊の實景が清麗明媚なのである。下に類歌「大海の磯もとゆすり立つ波の寄らむと思へる濱の淨けく」(一二三九)がある。
〔語〕 ○大海の水底とよみ立つ浪の 以上は眼前の實景を序のやうにしたので、水底まで鳴り響かせ立つ浪が、心あつて寄らうとしてゐる磯、と一種の擬人的な技巧に用ゐたのである。
 
1202 荒磯《ありそ》ゆもまして思へや玉の浦離れ小島《をじま》の夢《いめ》にし見ゆる
 
〔譯〕 荒磯もよい眺であるが、その荒磯よりも更にましてよいと思ふからであらうか、玉の浦の離れ小島の景色が、夢にまで見えることであるよ。
〔評〕 佳景を夢に見たことによつて、殆ど意識してゐなかつた愛着を自ら覺つたのである。心理的經過から見ては面白いが、併し歌としては聊か理路に走つた作である。
〔語〕 ○荒磯ゆも 荒磯の景色もよいがそれよりも。「ゆ」は比較の意を表はす。○玉の浦 前後が紀伊國で作られた歌であるから、これも紀伊國で「玉の浦に衣片敷き」(一六九二)と同じであらう。玉の浦は玉勝間卷九に、那智山の下、粉白浦から十町餘の西南にあり、離小島とは玉の浦の南の海中にちりぢりにある岩であらうといふ。
 
1203 磯の上に爪木《つまぎ》折り焚《た》き汝《な》がためと吾が潜《かづ》き來《こ》し沖つ白玉
 
〔譯〕 磯のほとりで、細い薪を折つて焚き、身體を※[火+爰]めながら、そなたの爲と思つて骨折つて自分が水中に潜りつつ取つて來たこの沖の白玉であるよ。
〔評〕 旅から歸つた人が、濱邊で得た土産の眞珠を、妻に與へる、自分で海人の業をして苦勞して求めたやうに云ひなしたもので、かく自身の勞苦を言ひ添へるのは贈物に眞心をこめる意の古風である。初二句に作業?態のあはれさ(75)が、よく描かれてゐる。
〔語〕 ○爪木 爪で折つた木の意で、薪の細いもの。○沖つ白玉 鰒玉、即ち眞珠。
 
1204 濱清み磯に吾が居《を》れば見む者《ひと》は白水郎《あま》とか見らむ釣《つり》もせなくに
 
〔譯〕 濱の景色が美しいので、自分が磯邊に眺め入つてをると、自分を見る人は、海人とでも思つてゐるのであらうか、釣もしてゐないのに。
〔評〕 海濱の勝景に眺め入つて暫く旅愁を忘れてゐる自分の姿が、海人と見誤られはせぬかと云ふので、人麿の「あらたへの藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅ゆく吾を」(二五二)その他類歌が多い。たどたどしい歌詞に、稚拙ではあるが、素朴な味がある。
〔語〕 ○濱清み 濱が清くうつくしいので。○白水郎 海人。漁夫。「二五二」參照。
〔訓〕 ○見むひとは 白文「見者」考は「見」の下に「人」脱かといつてゐるが、この儘でも訓める。
 
1205 沖つ楫《かぢ》漸漸《やややや》澁《し》ぶを見まく欲《ほ》り吾がする里の隱らく惜しも
 
〔譯〕 沖を漕ぐ自分の船の櫂が疲れて次第に澁つて來たが、いつまでも見てゐたいと思ふあの里が、隱れるのは惜しいことである。
〔評〕 暫く旅愁を忘れて海上の佳景を眺めてゐる作者の姿が、三句以下によく描かれてゐるけれども、第二句に聊か疑點が存するので、全體として明解を得難いのは遺憾である。
〔語〕 ○沖つ楫 沖を漕ぐ船の艪。船の左側の艪といふ説もあるがさうではない。「かぢ」は舵、櫂、艪すべてを含めていふ。「一五三」參照。○漸漸しぶを 此の句は異説が多いが、「しぶ」は澁るで、櫓を押し草臥れてしぶつて來た(76)が、の意とする説(代匠記精撰本)に從ふ。
 
1206 沖つ波|邊《へ》つ藻|纒《ま》き持ち寄り來《く》とも君にまされる玉寄らめやも 【一に云ふ、沖つ波邊波しくしく寄り來とも】
 
〔譯〕 沖の波が、岸邊の藻を卷き持つて打寄せて來ようとも、その藻の中にそなたにまさる玉が包まれて寄つて來ることがあらうか。(一に云ふ――沖邊の浪、岸邊の波が次々としげく打寄せて來ようとも)
〔評〕 憶良は、わが子を、「白銀も黄金も玉も何せむに」といつて濃やかな父の愛を示したが、これは愛人を寶玉以上のものとして心に秘め持つてゐる。これも戀する人の眞情である。但、この歌初二句を實景としても、必ずしも?旅の歌とはいひ難く、寧ろ玉に寄する戀の歌である。「一に云ふ」の異傳は、本文の寫實的なのに比し、著しく概念的で平凡である。
〔語〕 ○邊つ藻まき持ち 海岸に生えてゐる藻を浪の力で引きこぎ持つて來て。
〔訓〕 ○玉よらめやも 白文「玉將縁八方」舊訓タマヨラムヤモ。古義タマヨセメヤモ、代匠記精撰本の訓に從つた。
 
1207 粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石《あかし》の門《と》浪いまだ騷けり
 
〔譯〕 船を漕いで粟島に渡らうと思ふけれども、明石海峽の浪がまだ立ち騷いでゐる。
〔評〕 率直な萬葉ぶりの歌で、人麿あたりの面影がある。何の修飾もなく一氣に歌ひ下してゐるが、景は眼前に生動し、作者の旅情もしみじみと一首の上に漂つてゐる。
〔語〕 ○粟島 淡路島の北端、岩屋岬の一部かといふ。「三五八」參照。○明石の門浪 明石海峽に立つてゐる浪。「門」は海峽。「明石大門」などともいふ。
 
(77)1208 妹に戀ひ吾が越え行けば背の山の妹に戀ひずてあるが羨《とも》しさ
 
〔譯〕 家に殘して來た妻を戀しく思ひながら、自分が山を越えて行くと、背の山が、妹山と相竝んでゐて、妻を戀しがるやうでなくてゐるのが羨しいことである。
〔評〕 大和から紀州へ行く旅人が、旅愁漸くきざさうとする頃、目に映ずるのが、妹山に向ひあつた背の山である。妻を離れて來た自分を顧み、妹背の山が物思もなく幸福にゐる樣を羨んだところ、如何にも上代人らしい純眞な心もちで、なつかしい作である。
〔語〕 ○我が越え行けば 大和から紀伊へ、眞土山を越えて行くのであらう。○背の山 紀の川の北岸にある。「三五」參照。○妹に戀ひずて 妻を戀しがることもなく、即ち妹山と相竝び、平和に滿足してゐるさまであるのをいふ。○あるがともしさ 「ともし」は羨しの意。○上の「一一九四」で述べて置いた通り、通行本はこの歌の前に「紀の國の」(一一九四)より「粟島に」(一二〇七)までの十四首がある。この錯簡は、元暦校本・西本願寺本などには見られない。
 
1209 人ならば母の最愛子《まなご》ぞあさもよし紀の川の邊の妹と背の山
 
〔譯〕 もしこれが人間であるとしたらば、母の愛する二人の子であるぞ。紀の川のほとりの妹山と背山とは。
〔評〕 妹山と背山とを夫婦と見て妻戀の心を寄せるのが普通であるのに、この歌では、仲よく相竝んでゐる二つの山を、兄と妹とに見立てたのである。ほほゑましい即興詩といふべく、作者は恐らく未婚者で、慈しみ深い母と優しい兄妹とを家に持つてゐるのであらう。
〔語〕 ○まな子 愛する子。○あさもよし 「紀」にかかる枕詞。「五五」參照。
 
(78)1210 吾妹子に吾が戀ひ行けば羨《とも》しくも竝《なら》び居《を》るかも妹と背の山
 
〔譯〕 かはゆい妻を戀しがりつつ自分が旅をしてゐると、羨しくもまあ、竝んでゐることである。妹山と背山とが。
〔評〕 上の「一二〇八」と同工異曲である。愛する妻を殘して家郷を遠ざかりゆく旅人の眞情がよくあらはれてゐる。
〔語〕 ○ともしくも 作者自身は妻と別れて一人でゐるのに、山は妹背相竝んでゐるので、羨ましいのである。
 
1211 妹があたり今ぞ吾が行く目のみだに吾に見えこそ言《こと》問《と》はずとも
 
〔譯〕 いとしい女のゐるあたりを、今こそ自分が通つて行くのである。せめてよそながら顔だけでも私に見せてくれ。たとへ言葉はかはさないにしても。
〔評〕 この歌は略解にもいふやうに、單獨に見れば戀の歌であつて、紛れて此處に入つたとも考へられる。しかし、作者が妹山のあたりを過ぎた時、妹山を愛人になぞらへてこの諧謔をなしたと見られぬこともなく、さうとすれば、結句が更に生きて來て面白いと思ふ。
〔語〕 ○目のみだに せめては妹が目たけでも。「目」は顔、姿などの意。
 
1212 足代《あて》過ぎて絲鹿《いとか》の山の櫻花散らずあらなむ還り來むまで
 
〔譯〕 足代を通り過ぎて絲鹿山に來ると、今や櫻の花は眞盛である。散らずにあつてほしいものである。自分が歸つて來るまでは。
〔評〕 山の櫻の美しさに恍惚となつて、散るを惜しむ心、單純にして眞實である。上の「山越えて遠津の濱の石躑躅わが來むまでに含みてあり待て」(一一八八)もこれと同趣であるが、櫻の方が更に切實なやうである。
(79)〔語〕 ○足代 紀伊國有田郡のうちにあつた郷名と思はれる。○絲鹿の山 有田川の南岸、糸我村の南にある山。
 
1213 名草山|言《こと》にしありけり吾が戀の千重《ちへ》の一重《ひとへ》も慰めなくに
 
〔譯〕 名草山は、心を慰めてくれる山かと思つたらば、名ばかりであつたわい。家郷を戀しがる思の千分の一さへも慰めてはくれない。
〔評〕 類想の多い歌で、大伴坂上邸女の「――名のみを名兒山と負ひて、吾が戀の千重の一重も、慰めなくに」(九六三)と相連關すもものが認められる。
〔語〕 ○名草山 紀伊國和歌の浦に面した紀三井寺のうしろの山。
 
1214 安太《あだ》へ行く小爲手《をすて》の山の眞木の葉も久しく見ねば蘿《こけ》生《む》しにけり
 
〔譯〕 安太へ行く道の、小爲手の山の檜の葉も、久しく見ないでゐるうちに蘿が生えたことである。
〔評〕 かつて小爲手の山を通つたことのある人が、久しく見なかつた後に再び越えて行くと、檜は老い、蘿が生えてゐた。ありのままを詠んだものであるが、時の流れに對する萬葉人のおほどかな歎聲を聽くことが出來る。
〔語〕 ○安太 和名抄に紀伊國有田郡英多郷とある地で、今の宮原村・田殿村に當るといふ。○小爲手の山 略解は牟婁部に緒捨山ありとしてゐるが茲には當らない。玉勝間の推定した在田郡保田庄推手村は、今の安諦村押手の地で、比較的確實性があるやうであるが、安太との關係について疑問がある。○蘿 さるをがせ、別名さがりごげのこと。「一一三」參照。
 
1215 玉津島よく見て行《い》ませあをによし平城《なら》なる人の待ち問はばいかに
 
(80)〔譯〕 この玉津島の景色をよく見てお出でをさいませ。奈良の人達がお歸りを待つてゐて、どんな樣子であつたかと尋ねたらば、どうお答へなさいますか。
〔評〕 玉津島の土地の人が都の客に歌ひかけたやうな作で、民謠らしい調である。遊行女婦などが謠つたものであらうか、明朗にして甚だ快適である。
〔語〕 ○玉津島 和歌の浦にあつた島で、今は陸地になつてゐる。「九一七」參照。
 
1216 潮|滿《み》たばいかにせむとか方便海《わたつみ》の神が手《て》わたる海未通女《あまをとめ》ども
 
〔譯〕 今にも潮が滿ちて來たならば、どうしようといふつもりでまあ、あんなに遠い、海の神樣の手のひらの上と思はれるやうなところを通つてゐるのであらう、あの海人の少女達は。
〔評〕 遠い干潟で海藻などを採つてゐる海女を見た作者が、潮が寄せて來たらば、急に逃げて來ることも出來ないであらうに、どうするのであらう、と危んだのである。潮は一時に寄せて來るものと思つた都會人の、海に馴れぬ感じが面白い。
〔語〕 ○神が手わたる 「海神の掌中に入りてたやすく取られぬべき意なり、潮干の間に遠く出て藻など拾ふを危く思ひやるなり」(代匠記精撰本)とあるに從ふ。その他異説が多い。
〔訓〕 ○方便海 この字面は集中唯一の珍しいものでワタツミと訓む理由は詳かでないが、代匠記精撰本に「もし諸大龍王等は諸佛菩薩の善權方便なるも多ければ、其の意にて書けるにや」とある。○神が手 白文「神我手」古義は「手」を「戸」の誤としカミノトと訓んでゐるが、この字面のままでさう訓む説(管見・代匠記一説)もある。しかしてその解釋は、すべて何でも甚だ恐しいものを神といふので、ここは海上の波荒く恐しい處をさすとする説(古義)と、地名と見る説(代匠記)とある。併し「手」をトと訓むのは無理で、このままでは神の掌と解する外はない。
 
(81)1217 玉津島見るが善《よ》けくも吾は無し京《みやこ》に行きて戀ひまく思《も》へば
 
〔譯〕 玉津島を見たからの好結果などは自分には無い。都に歸つてから、さぞ戀しがることであらうと思ふので。
〔評〕 勝景に接した喜が大きいだけに、また後に來る愛着の苦しさを豫想して、逆説的に強く詠歎を發したもので、後の業平が「世の中に絶えて櫻のなかりせば春の心はのどげからまし」と歎息したのと同じく、複雜な心理を、幼い發想で述べてゐるのが面白い。
〔訓〕 ○見るが善けくも 白文「見之善雲」。舊訓にはミテシヨケクモとある。「よけくも」は「二一〇」參照。
 
1218 黒牛《くろうし》の海くれなゐ匂ふ百磯城《ももしき》の大宮人しあさりすらしも
 
〔譯〕 黒牛の海が紅く映えてゐる。美しく着飾つた女官たちが、海邊に出て魚介の類を捕つてゐるらしい。
〔評〕 行幸に從駕した女官たちが、めづらしがつて海邊で遊んでゐる。その赤裳が麗しく眼に映じた、その樣をありのままに詠じて、艶麗繪の如く、印象甚だ鮮明である。大寶元年、紀伊の行幸に從駕した人の作にも「黒牛潟潮干の浦をくれなゐの玉裳裾びき行くは誰が妻」(一六七二)とあるが、これは同時の行幸か否かは詳かでない。
〔語〕 ○黒牛の海 紀伊國海草郡黒江町の海。○くれなゐ匂ふ 大宮人、特に若い女官たちの美しい衣の色が映えてゐるの意。「にほふ」は美しく映えること。○百磯城の 「大宮」の枕詞。「二九」參照。
 
1219 者の浦に白浪立ちて沖つ風寒き暮《ゆふべ》は大和し念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 和歌の浦に白浪が立つて、沖の方から吹いてくる風の寒い夕方は、故郷の大和が戀しく思はれることである。
〔評〕 白浪、沖つ風など、用語は一見平凡のやうであるが、深い旅情の溢れた作である。志貴皇子の「葦邊ゆく鴨の(82)羽交に霜零りて寒き夕は大和し思ほゆ」(六四)も思ひ合される。
 
1220 妹がため玉を拾ふと紀の國も由良のみ埼にこの日暮らしつ
 
〔譯〕 家に待つてゐる妻の爲に、土産の玉を拾はうとして、紀伊の國の由良の岬で、今日の日を暮したことである。
〔評〕 旅人が、思ひ一たび家郷に及ぶ時、まづ何よりも妻への土産を考へるのは、古今變らぬ人情である。この歌、率直にして眞實であるが、あまりに平板無造作な點は、少しくあきたらぬ感がある。
〔語〕 ○玉を拾ふと 玉は美しい小石や貝殻などをいふ。○由良のみ埼 紀伊國日高郡由良港の岬。
 
1221 吾が舟の楫《かぢ》はな引きそ大和より戀ひ來《こ》し心いまだ飽かなくに
 
〔譯〕 自分の乘つてゐるこの舟の楫を引いて、舟を進めてくれるな。大和から此の海邊の景色を戀ひ慕つて來た自分の心が、まだ十分に滿足しないのであるから。
〔評〕 紀州の海岸づたひに舟行する人の作である。折角明媚な風光を聞き慕つて來たのに、ずんずん通り過ぎては勿體ないといふ愛着の心が率直にあらはれてゐる。急行列車の車窓に見る風景に對して、今日の我等も同樣の感を禁じ得ぬことは?々である。
〔語〕 ○楫はな引きそ 楫を引き動かすなの意で、船人に命ずる語である。舟を漕ぐ樣が、艪櫂を引き撓めるやうであるから「楫を引く」と云ふので「梶引き折りて」(二二〇)「楫引き上り」(四三六〇)などの用例もある。
 
1222 玉津島見れども飽かずいかにして裹《つつ》み持ち行かむ見ぬ人の爲
 
〔譯〕 玉津島はいくら見ても見飽きない。どんなにしてこの島を包んで持つて行かう、何とかして持つて行きたいも(83)のである。まだ見ない人の爲に。
〔評〕 天眞愛すべき作である。安貴王の「伊勢の海の沖つ白浪花にもが包みて妹が家づとにせむ」(三〇六)に似てゐるが、詞句、格調共に更に幼いものがある。なほ元暦校本・西本願寺本等の古寫本では、この歌から「紀の國の」(一一九四)に續くので、即ち「黒牛の海」以下ここまでの五首及びこれに續く「木の國の」「麻衣」都合七首が、上に掲げた藤原卿の作となるわけである。この錯簡は、大矢本の此の卷の十三丁と十四丁との綴ぢ違へを、流布本の原本に十四丁十三丁の順に書き續けた爲の誤であることを、橋本進吉博士が發見された。
〔語〕 ○いかにしてつつみ持ち行かむ どうかして持つて歸りたいとの希望をこめてゐる。
 
1223 海《わた》の底沖漕ぐ舟を邊《へ》に寄せむ風も吹かぬか波立てずして
 
〔譯〕 海岸の景色のよいのを見たいから、沖を漕いでゐる此の我々の舟を、岸の方へ吹き寄せる風が吹いてくれないかなあ、波は立てないで。
〔評〕 遠い沖邊を航行しながら、海岸の佳景に心ひかれて、その方へ近づきたいと念じてゐるのである。しかし、波が立つては困るといふのは、無理な注文であるが、かうした幼い發想の中に、海に對する恐怖と、沖を漕ぐ不安や寂しみがおのづから滲み出てゐるやうである。
〔語〕 ○海の底 「沖」にかけた枕詞。○邊に寄せむ 岸邊に吹き寄せるであらう。連體形。○吹かぬか 吹いてくれればよいがの意。「三三二」參照。
 
1224 大葉山霞かがふりさ夜|深《ふ》けて吾が船|泊《は》てむ泊《とまり》知らずも
 
〔譯〕 大葉山には霞がかかり、夜は既にふけてしまつたのに、自分の船のとまる港はどのあたりなのか分らず、まこ(84)とに心細いことではある。
〔評〕 目標として仰ぐ山は霞に蔽はれた。泊はなほ遠くして、夜ふけの海上に漂ふ旅人の不安と寂寥とが、身に沁みるやうである。なほ、「一七三二」の歌はこの歌の異傳である。
〔語〕 ○大葉山 和歌の浦東方の大旗山かといふ。
〔訓〕 ○霞かがふり 白文「霞蒙」舊訓カスミタナビキとあるが、今字面に從つて訓むことにしな。「一七三二」の歌では二句「霞棚引」とあるので、それによればここも舊訓の方がよいかとも思はれるが、この相違によつてこそ別の歌として兩處に載せられたとも見るべきである。
 
1225 さ夜|深《ふ》けて夜中《よなか》の潟におほほしく呼びし舟人《ふなびと》泊《は》てにけむかも
 
〔譯〕 夜がふけて、夜中の潟の方にあたつて、何やら氣にかかる聲で呼んでゐた舟人達は、今頃はもう無事に港について、船がかりをしたであらうか。
〔評〕 作者は、わびしい海邊の伏家に旅寢の夢を結びかねてゐるのであらう。暗い夜半の航路に迷ひつつ何か叫んでゐる舟人の聲に不安を感じてゐたが、いつしか其の聲もやんでしまつたので、ほつとした。ああ今頃はもう港に辿りついたであらうと想像して、何となく心の安らぎを覺えたのである。作者自身の旅愁と、同じく旅にある人へ注がれる同情との融けあつた複雜な感情が、陰影濃く一首の中に搖曳して、すぐれた作となつてゐる。
〔語〕 ○夜中の潟に 代匠記精撰本には「夜中にて名所にはあらず」とし、古義は「旅なれば三更《よなか》をさして照る月の高島山に隱らく惜しも」(一六九一)によつて近江高島郡の地名としてゐるが、字面のとほり夜半と解すべきであらう。
〔訓〕 ○夜中の潟に 白文「夜中乃方爾」宣長(略解所引)は「夜」を「度」の誤とし、古事記の「由良の門の門中のいくり」の「門」と同じく、船の出入の口としてゐるが、うがち過ぎた説である。
 
(85)1226 神《みわ》の埼|荒磯《ありそ》も見えず浪立ちぬ何處《いづく》ゆ行かむ避道《よきぢ》は無しに
 
〔譯〕 神の埼は、荒磯も見えないほど波が高く立つて來た。これは一體何處を通つて行つたものであらう。わき道はないといふ   ?態で。
〔評〕 岩に碎けて雪と散り、潮煙に磯も見えぬ凄絶の光景が、二三句に鮮かに描き出されてゐる。併し、一路これに向つて進んで行かねばならぬ船中の人々にとつては、豪壯雄偉の景觀どころではない。その困惑と不安の感が、四五句の緊迫した調子の中に強く表はれてゐる。
〔語〕 ○神の埼 「神の埼狹野の渡に」(二六五)とあつたのと同處であらう。○何處ゆ行かむ この「ゆ」は「夷の長路ゆ戀ひ來れば」(二五五)などの場合に同じく經過する場所を示す。○避き道 本道の不通を避けて行くわき路。
〔訓〕 ○神の崎 白文「神前」舊訓による。古義はカミノサキと訓んでゐる。
 
1227 磯に立ち沖邊を見れば海藻苅舟《めかりぶね》海人《あま》こぎ出《づ》らし鴨|翔《かけ》る見ゆ
 
〔譯〕 磯に立つて沖の方を見ると、海藻を刈る舟を、海人が漕ぎ出すらしい。鴨の飛び立つのが見える。
〔評〕 靜かな海邊の風景、恰も繪の如く、上の「藻苅舟沖こぎ來らし妹が島形見の浦に鶴翔る兒ゆ」(一一九九)に比して、彼は入舟、此は出舟、彼は鶴、此は鴨の相違はあるが、共に似た境地である。併し巧拙を論ずれば、彼の齊整緊密なるに對し、此は句法粗笨の憾がある。
〔語〕 ○海藻苅舟 若海布その他の海草を採る舟。○海人榜ぎ出らし 「らし」は推最の助動詞であるが、ここは極めて輕い用法で、不明な事を推量するのでなく、現に舟の出るのを見てゐるのである。
 
(86)1228 風《かざ》早の三穗の浦|廻《み》をこぐ舟の船人|動《とよ》む浪立つらしも
 
〔譯〕 風早の三穗の浦の岸づたひに漕いでゐる舟の船人等が騷いでをる。次第に浪が高く立つて來るらしい。
〔評〕 作者は旅の宿りにゐて、海上で騷ぐ船人の聲を聞きながら、浪の荒れる樣子を想像してゐるのである。勿論、浪の響も聞えてゐるであらうが、人の騷ぎによつて、海上の荒れてゐる樣子が痛感せられたのである。東歌の中にある「葛飾の眞間の涌回を榜ぐ船の船人騷く浪立つらしも」(三三四九)はこれと酷似してゐるが、同一歌が廣く傳播しうたはれて、地名だけ改められたものであらう。
〔語〕 ○風早の三穗の浦回 紀伊國日高郡三尾。「四三四」參照。
〔訓〕 ○船人とよむ 白文「船人動」舊訓フナヒトサワクとあり、眞間の浦回の歌に比すれば、それがよいやうでもあるが、集中「動」はトヨムと訓む方が妥當な場合が多い。
 
1229 吾が舟は明石の湖《みなと》に榜《こ》ぎ泊《は》てむ沖へな放《さか》りさ夜ふけにけり
 
〔譯〕 我々の舟は、今夜は、明石川の川口の湊で碇泊しようと思ふ。船頭よ、沖の方へ遠く漕ぎ離れてゆくな。夜もすつかりふけてしまつたのである。
〔評〕 高市黒人の歌「吾が船は比良の湊にこぎ泊てむ沖へなさかりさ夜ふけにけり」(二七四)と、殆ど同一の歌である。前の歌と同じく、民謠風に歌はれて地名のみがうたひかへられたのである。
 
1230 ちほやぶる金《かね》の岬《みさき》を過ぎぬとも吾《われ》は忘れじ志珂の皇神《すめがみ》
 
〔譯〕 波が荒くて恐しい金の岬を通り過ぎてしまつても、自分は忘れまい、志珂の神樣をば。
(87)〔評〕 海の神なる志珂の神を祈りつつ航海を續けよう、と云ふので、心中深く神の冥助を冀つてゐるのである。志珂島を漕ぎ出て東航しようとする旅人が、玄海に面した波の荒い金の岬にさしかからうとする際に詠んだもの、眞實敬虔な氣持が一首に漲つてゐる。
〔語〕 ○ちはやぶる ここは枕詞ではなく、勢のすさまじい意で、波荒く航海の難いことをいふ。○金の岬 筑前國宗像郡。續紀に、神謹景雲元年八月、宗形郡の大領と其の妻が、金崎の船瀬を築いた賞に位を授けられたことが見える。○志珂の皇神 筑前國糟屋郡志賀島にあり、今志賀海神社といふ。すめ神はここでは神の意。
 
1231 天霧《あまぎら》ひ日方《ひかた》吹くらし水莖《みづくき》の岡の水門《みなと》に波立ちわたる
 
〔譯〕 空が一面にかき曇つて、西南の風が愈々強く吹くらしい。岡の港には波が高く立ちつづいてゐる。
〔評〕 潮煙で沖合は打ち霧らひ、西南の強い風に、港には白波が高く立ち狂つてゐる。この單純にして豪壯な景を寫して、句々躍動してゐる。萬葉敍景歌の正格を傳へるものと稱してよい。
〔語〕 ○天ぎらひ 空が一面に曇ること。「天ぎらふ時雨を疾み」(一〇五三)參照。○日方吹くらし 「日方」は西南の風をいふ。○水莖の 枕詞。宣長は、みづみづしき莖の稚《わか》の意から類音の岡にかかるといふ(玉勝間)。「九六八」參照。○岡の水門 筑前國|遠賀《をんが》郡、遠賀川の河口にあり、今の芦屋に當る。筑前風土記に「鳴※[舟+可]輌《なか》縣の東側近く大江口あり、名を鳴※[舟+可]の水門と云ふ、大船を容るるに堪へたり」とあるが、今は淺くなつてゐる。
 
1232 大海の波はかしこし然れども神を齋禮《いの》りて船出《ふなで》せばいかに
 
〔譯〕 大海の浪は荒れてまことに恐ろしい。しかし、神樣をお祭り申して、船出をしたらばどんなものであらう。
〔評〕 古代人の神に對する單純にして全幅的な信頼と共に、そのおほどかな性情を物がたる作である。無造作な語句(88)の中に、率直な強い力がこもつてゐる。
〔語〕 ○神をいのりて 海の神樣に海路の平安を祈願しての意。○船出せばいかに 出帆したらばどうであらうと、船頭などに呼びかけた語、さうしたらば大丈夫ではなからうかとの信念がこもつてゐる。
 
1233 未通女等《をとめら》が織る機《はた》の上《へ》を眞櫛《まくし》もちかかげ栲島《たくしま》波の間《ま》ゆ見ゆ
 
〔譯〕 少女たちが織つてゐる機の上を、絲が亂れぬやうに櫛を以て掻き上げてたく(束ねる)といふ名の、あの栲島が波の間から見えることである。
〔評〕 内容は極めて單純であるが、序の特異さに於いて集中屈指の作である。語の連接が頗る自然であるのみならず、少女等の機を織る運動が、波の間に島影の隱見する景色におのづから通ふところがあつて、面白いのである。
〔語〕 ○かかげたく島 初句以下「かかげ」まで序。「たく」は髪などを掻き上げ束ねる意の動詞で、ここは機の絲の亂れぬやうに、櫛で掻き上げ揃へる意から、同音の「たく島」に掛けた。「たけばぬれたかねば長き妹が髪」(一二三)參照。たく島は和名抄に「出雲國島根郡多久」とある地とするのが通説である。肥前國北松浦郡平戸島に屬する度《たく》島とする説(大日本地名辭書)は、諾け難い。
 
1234 潮早み磯|回《み》に居《を》ればあさりする海人《あま》とや見らむ旅行く我を
 
〔譯〕 潮が早いので、漕ぎ出ることが出來ず、磯のあたりにおると、人は漁をしてゐる海人とでも見るであらうか。旅をしてゐるこの自分であるのに。
〔評〕 極めて類想の多い歌で、この卷でも上に「一二〇四」があり、そこでも一言したごとく、人麿の「あらたへの藤江の浦に」(二五二)の作をはじめ、他にも數首ある。人麿の作などが先蹤で、著想が面白いところから、次々と模(89)倣されたものであらう。
〔訓〕 ○あさりする 白文「入潮爲」元暦校本等にあるカヅキスルの訓もわるくはないが、通行本による。
 
1235 波高しいかに輯取《かぢとゆ》水鳥の淨宿《うきれ》やすべきなほや榜《こ》ぐべき
 
〔譯〕 浪が高い。何と船頭よ、此處に船をとめて、水鳥が浮寢をするやうに此のまま波の上に寢たものか、それとも、もつと漕いで次の港へ行つたものか、どうしたものであらう。
〔評〕 一、二、四、五と句を切り、たか、いか、かぢとり、みづとり、うきねや、なほや、すべき、こぐべき、と對偶的に類音を排列した點に、頗る特色を示した作である。しかも技巧と眞情とが巧みに調和してゐるところ、佳作と稱するに足る。それでゐて、黒人の「吾が船は比良の湊に榜ぎはてむ沖へなさかりさ夜ふけにけり」(二七四)ほどに沈痛なものがない。作者の人柄が輕妙を好んだのであらう。
〔語〕 ○水鳥の 水鳥は水上に浮んで寢る意で「淨寢」にかかる枕詞。又「の」を「の如く」の意として、單に譬喩と見てもよい。
 
1236 夢《いめ》のみに繼《つ》ぎて見えつつ小竹《しの》島の磯越す波のしくしく念ほゆ
 
〔譯〕 夢にばかり家郷のことが絶えず見えて、この小竹島の磯越す波の頻るやうに、頻に戀しく思はれることである。
〔評〕 小竹島の磯越す波を序にとつて、頻に起る郷愁を述べたのである。藤原宇合の「曉の夢に見えつつ梶島の磯越す浪の頻きてし念ほゆ」(一七二九)と同工異曲であるが、初二句は今の歌の方が序を生かす上に於いてまさつてゐる。
〔語〕 ○小竹島 尾張國知多郡知多半島の東端に篠島といふのがある。或はこれか。○磯越す波 以上二句「しくしく」にかかる序。
 
(90)1237 靜けくも岸には波は寄りけるかこれの屋《や》通《とほ》し聞きつつ居《を》れば
 
〔譯〕 靜かにもまあ、岸には波が寄せてゐることである。この家の中をとほして、じつと聞いてゐると。
〔評〕 海添の宿にゐて、靜かに岸邊に寄つて來る波の音を聞いてゐる。實際に旅をした者でなくては詠めぬ歌であつて、この靜かな感動は、いかにもふさはしい確實な描寫によつて讀者に傳へられてゐる。氣韻の高い、清澄な作。
〔語〕 ○寄りけるか 寄せてゐるのか、まあ。○これの屋通し この家の中を通して。屋内にゐてひたひたと寄せる波の音に耳を傾けてゐる樣である。
〔訓〕 ○これの屋通し 白文「此屋通」舊訓コノヤトホシニは拙い。考はコノイヘトホシとしたが「屋」を「イヘ」と訓む例は集中にない。「許禮能水島」(二四五)の例に倣つて、コレノヤトホシと訓むがよい。
 
1238 高島の阿戸《あと》白波は動《とよ》めども吾は家思ふ廬《いほり》悲しみ
 
〔譯〕 高島の阿渡《あど》川の白波は音高く立ち騷いでゐるけれども、自分は沈み込んで家郷のことを戀しく思ひつづけてゐる。この旅の假廬がわびしく悲しいので。
〔評〕 人麿が石見の國から妻に別れて上京する時の有名な、長歌の反歌「小竹の葉はみ山もさやに亂げども吾は妹おもふ別れ來ぬれば」(一三三)に似た心境である。なほ「高島の阿渡河波は騷けども吾は家思ふ宿悲しみ」(一六九〇)は、全く同一歌の異傳である。
〔語〕 ○高島の 近江國高島郡。「二七五」參照。○阿戸 今「阿曇」と書き、安曇川が流れてゐる。○廬悲しみ 旅寢の假廬がわびしく悲しい爲に。
〔訓〕 ○あと白波 白文「阿戸白波」下記「一六九〇」の歌には第二句「阿渡河波」とあるので、ここも「白」は(91)「河」の誤とする説(考)があり、通行本を初め本文は訓のみカハとした本も多いが、その程度を根據として字を改めるのは、武斷に過ぎる。「あと」の次に「の」を入れる説もあるが、萬葉にはこの種の造語が多い。
 
1239 大海の磯もとゆすり立つ波の寄らむと思《も》へる濱の淨《きよ》けく
 
〔譯〕 大海の磯の岩根をもゆり動かして立つ波が、岸に寄せるやうに、私が船を寄せようと思つてゐる濱の景色の、實に明媚なことではある。
〔評〕 同じこの卷で、上に「大海の水底とよみ立つ浪の寄らむと思へる磯のさやけさ」(一二〇一)の類歌があつたが、いづれにしても佳作とはいひ難い。「一二〇一」の場合と同株に、三句「立つ波の」までは序のやうになつてゐる。
 
1240 珠《たま》くしげ見諸戸山《みもろとやま》を行きしかば面白くしていにしへ念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 自分は見諸戸山を越えて行つたところが、山の景色が面白くて、この山に聯關した昔のことがいろいろと思ひ出された。
〔評〕 あの豐麗園滿な三輪山の好景に接して心足らひ、これに絡まる傳説を想ひ起して、古を懷かしんだのである。單純な内容、素朴な調、相俟つて古雅な味が饒かである。
〔語〕 ○珠くしげ 「見諸戸山」にかけた枕詞。櫛笥の身といふ類音からとするが、特殊假名遣上では疑がある。○見諸戸山 三輪山のことであらうといはれる。○行きしかば 行つたところが。行つたからの意ではない。
 
1241 ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露にぬれにけるかも
 
〔譯〕 黒髪山を朝早く越えて、山の木々の雫にぬれたことである。
 
(92)〔評〕 露にぬれつつ、朝の山路をたどるわびしさが、素朴の手法の中に脈々と波打つてゐる。格調齊整にして迫力があり、萬葉の歌の本格なものである。
〔語〕 ○ぬば玉の 黒、夢、夜、夕、等にかかる枕詞。○黒髪山 代匠記は下野日光山のこととし、大日本地名辭書には備中としてゐる。辰巳利文氏は、奈良の北、佐保山の一部にあるといふ。
 
1242 あしひさの山行き暮らし宿借らば妹立ち待ちて宿借さむかも
 
〔譯〕 山の中を歩いて日を暮らし、宿を借らうとしたらば、やさしい女が門に立つて待つてゐて、自分に宿を借してくれるであらうかなあ。
〔評〕 旅行者、殊にこの時代の旅人にとつて、最大關心事はその夜の宿舍のことでなければならない。あいなだのみであろうとも、好ましく樂しい條件を空想に描いて、其の夜の宿りを思ふことは人情の自然であらう。さうした心もちがこの歌にはよく出てゐる。
〔語〕 ○妹立ち待ちて この「妹」を廣く女を親しんでいふ語とする説(代匠記)遊行女婦の類とする説(略解・全釋)また家に殘した妻とし、ひよつと吾が妻が出て來て宿を借すであらうかと疑つたとする説(新解)もある。
 
1243 見渡せば近き里|廻《み》をたもとほり今ぞ吾が來《く》る禮巾《ひれ》振りし野に
 
〔譯〕 見渡すと我が家がすぐ近くに見える里のあたりを、道がないので迂廻して、今やつと歸つて來た。旅に出る時別れを惜んで妻が領巾を振つた思ひ出の深いこの野まで。
〔評〕 結句がやや唐突の感があつて少しく難解であるが、よく考へるとわかる。長い旅から久々の歸宅で、一時も早く着きたいと思ふ我が家は、もう見えてゐるのであるが、道が迂廻してをるので、やつと、妻が領巾を振つた野まで(93)來たと、懷かしんだ作。複雜な心理である。
〔語〕 ○里廻を 里のあたりなるを。○たもとほり 「た」は接頭辭「もとほり」は歩き廻ることで、ここは迂回の意。○禮巾振りし野に 嘗て旅行の首途に妹が領巾を振つて別を惜しんだ野に、今やつて來たとの意。
 
1244 未通女等《をとめら》がはなりの髪を木綿《ゆふ》の山雲なかがふり家のあたり見む
 
〔譯〕 少女達が切り下げ髪をやがて長じて結ふ、それと同じ名の、木綿の山には、雲よかぶさつてくれるな。遠く離れて來たわが家のあたりを、もつと見たいから。
〔評〕 遠ざかりゆく山の彼方には故郷がある。故郷の目じるしとして見ながら行きたい山に、雲のかからぬことを願つたので、あはれ深い歌である。序も面白く、作者をめぐる故郷の生活が偲ばれるやうな氣がする。
〔語〕 ○未通女等がはなりの髪を 以上「結ふ」を「木綿」にかけた序。「はなり」は「放髪」の字を宛てる通り、童女が十五六歳頃に髪上げするまで、束ねずに切り下げたまま伸ばしてゐるをいふ。「うなゐはなりは髪あげつらむか」「三八二二」參腰。○木綿の山 豐後國速見郡由布山。別府温泉の後方に峙つ鶴見岳の背後なる死火山である。
〔訓〕 ○雲なかがふり 白文「雲莫蒙」クモナタナビキの古訓もあるが、猶文字に即して訓みたい。「一二二四」參照。
 
1245 志珂《しか》の白水郎《あま》の釣船の綱|堪《あ》へなくに情《こころ》に念《も》ひて出でて來にけり
 
〔譯〕 志珂の海人の釣船の綱は強くてよく堪へるが、自分は堪へきれないやうに心に悲しく思つて、別れて出て來たことである。
〔評〕 序が特異である。恐らく志珂島近くの海濱にさしかかつた旅人が、海人の手繰つてゐる釣船の綱のいかにも丈夫さうなのを見て、それと對照して自らの心弱さを思ひつつ嘆を發したものであらう。
(94)〔語〕 ○志珂の白水郎の釣船の綱 序詞であるが、綱の強くて堪へるといふ意から「堪へ」だけに懸けたものと見るべく「堪へなく」まで懸けたとは見られない。「布留の早田の穗には出でず」(一七六八)などと同例である。志珂は筑前國糟屋郡志賀島。
 
1246 志珂《しか》の白水郎《あま》の鹽燒く煙風をいたみ立ちはのぼらず山に棚引く
     右の件の歌は、古集の中に出づ。
 
〔譯〕 志珂の海人の鹽を燒く煙が、風が吹くので、空に眞直には立ち昇らずに、山の方へ棚引いてゐる。
〔評〕 海濱の風景が極度に單純化されてゐながら、いかにも立體的に生き生きと描かれてゐる。萬葉敍景歌の一つの典型ともいふべき格をなして、今も讀む人の心をうつ。日置少老の「繩の浦に鹽燒くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」(三五四)は、これとよく似てゐる。
〔語〕 ○風をいたみ 風がいたく吹くので。併しこれを、風がひどいと解するのは機械的な直譯流で當らない。これは無風?態に比していつたので、事實としては稍風がある程度と見るべきである。風がひどければ煙は山に棚引くどころか、直に吹き亂されて空に散つてしまふ筈である。
〔左註〕 「右の件の歌は古集の中に出づ」とある註記は、何首と斷つてないので、最後の一首を指すのか、或は藤原卿の作の次からをいふのか明かでない。
 
1247 大穴牟遲少御神《おほなむちすくなみかみ》の作らしし妹背の山は見らくしよしも
 
〔譯〕 大國主命と少彦名命とがお作りなされたこの妹背の二つの山は、いくら見ても見飽きない、よい眺めであるよ。
〔評〕 形の麗しい妹背の二山について、國土經營の二神を想ひ起したので、風景の賞美と共に神コ讃歎の心もちもあ(95)る。上代人らしい、おほらかな歌である。
〔語〕 ○大穴牟遲少御神 「三五五」「九六三」參照。出雲風土記に「天の下造らしし大神大穴持と須久奈比古命」と見える。○妹背の山 妹山と背山とをいふ。紀の川のほとりに相對する山。「三五」「一二〇八」以下三首等參照。
〔訓〕 ○山 舊訓ヤマヲを支持する人もあるが、古義の訓ヤマハの方が調子が張つてよい。
 
1248 吾妹子を見つつ偲《しの》はむ沖つ藻の花咲きたらば我に告げこそ
 
〔譯〕 自分は藻の花を見ていとしい妻を懷かしく思ひやらうと思ふ。であるから、沖の藻の花が咲いてゐたらば、どうか自分に知らせてくれよ。
〔評〕 なよなよとか寄りかく寄る玉藻をやさしい妻に譬へた例は、集中處々に見られる。家に殘して來た妻に思を馳せ、可憐な藻の花にせめて妻のなよやかな姿を聯想して慰まうといふのである。萬葉人らしい幼なさの作。
〔語〕 ○吾妹子を 「を」見つつと續かず、偲ふにつづくのである。この「を」を「と」と訓んで、妻に思ひよそへて、妻と思つての意に解する説(代匠記)と、妻と共にの意に見る説(古義)とある。○沖つ藻 全釋は「沖へ往き邊にゆき今や妹が爲吾が漁どれる藻臥束鮒」(六二五)を證とし、ここは、海の沖邊の藻ではなく、川か池かの場合と見てゐる。○我に告げこそ 告げてほしい。
 
1249 君がため浮沼《うきぬ》の池の菱《ひし》採《と》ると我が染《し》めし袖ねれにけるかも
 
〔譯〕 あなたの爲に、浮沼の池の菱の實を採らうとして、私の染めた着物の袖がぬれてしまつたことです。
〔評〕 菱の實を採つて男のもとへ贈るのであるが、「我が染めし袖」に田舍娘子らしい素朴さがあり、その袖を大切にいたはる心もちも見えて可憐である。
(96)〔語〕 ○浮沼の池 大日本地名辭書には、石見國三瓶山の半腹にありとしてゐる。
 
1250 妹がため菅《すが》の實《み》採《と》りに行く吾《われ》を山路にまどひこの日暮らしつ
     右の四首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 愛する女の爲に、菅の實を採りに行く自分であるのに、山路に迷うて、今日の一日を暮らしてしまつた。
〔評〕 堂々たる丈夫が、愛人に贈る爲に、山菅の實を採りに山に分け入つて、一日を過してしまつたといふ稚態には、悠々たる萬葉人の風※[三に縱棒]が見えて面白い。前の「妹がため玉を拾ふと紀の國の由良のみ崎にこの日暮らしつ」(一二二〇)に似て、更に悠長な趣である。
〔語〕 ○菅の實 代匠記に「下に山路とあれば山菅なり」とある。麥門冬、即ちヤブランのことで、美しい瑠璃色の玉のやうな實がなる。弄び物としたのであらう。
〔左註〕 右の四首は柿本人麿の歌集に出てゐるといふが、吾妹子以下の三首は、人麿自身の作ではあるまい。
 
    問答
1251 佐保河に鳴くなる千鳥何しかも川原《かはら》を思《しの》ひいや河のぼる
 
〔題〕 「問答」とは、問ひかけの歌と、それに應酬した歌と、二首を以て一組としたもので、この分類は他の卷にもあり、歌數も多いが、ここのは數が少く、内容も他の卷のとは著しく違つてゐる。
〔譯〕 佐保河に鳴いてゐる千鳥よ。何故にお前は、川原をなつかしがつて、ますます河を溯つて行くのであるか。
〔評〕 佐保河を溯りつつ鳴いて行く千鳥は無心であらうが、それを、河原をなつかしがつてのことと想像して、かく問ひかけたところ、上代人の單純無邪氣な風格である。
(97)〔語〕 ○何しかも 何でまあ。この句は結句に呼應する。○川原をしのひ この「しのふ」は、なつかしく賞美するの意。○いや河のぼる いよいよますます川を溯つてゆく。
 
1252 人こそは凡《おほ》にも言《い》はめ我がここだ偲《しの》ふ川原を標《しめ》結《ゆ》ふなゆめ
     右の二首は、鳥を詠めり。
 
〔譯〕 人は、ほんの、通り一遍に、この川原をよいとも云ふであらう。しかし、私が大變に慕つてゐるこの川原を、あなたは決して標を結つて獨占なさいますな。私が自由に遊ぶにまかせて下さい。
〔評〕 あのかはいらしい千鳥が、尤もらしく佐保河の通行の自由を要求してゐるのが、まことに面白い。或は千鳥に託して他人の行動の自由を拘束すべきではないといふことを諷刺してゐるのかも知れない。前の歌では人が問ひかけ、これは千鳥の答へるといふ童話風な味はひが、甚だ興味がある。
〔語〕 ○おほにも言はめ 佐保の川原をただ一通り褒めもしようが。「おほ」はおほよそ、なほざり等の意。○しめゆふなゆめ しるしを立てて獨占し、私を自由に立入らせないといふやうな事はして下さるな、決して、の意。「標を結ふ」は、自己の占有を示す爲に標識を立てること。
 
1253 ささなみの志賀津《しがつ》の白水郎《あま》は吾《われ》無しに潜《かづき》は莫《な》爲《せ》そ浪立たずとも
 
〔譯〕 ささなみの志賀津の海人は、自分が見てゐない時には、水に潜つて漁をするな。浪が立たず穩かであつても。
〔評〕 甚しく自分勝手な注文であるが、水中に於ける海人の活躍を珍らしがる都會人の心が強く反映してゐて面白い。
〔語〕 ○ささなみの志賀津 近江の大津。「三〇」「二一八」參照。○潜はなせそ 「かづき」は、水中にくぐつて魚介海草を採ること。「な‥‥そ」は禁止。
 
(98)1254 大船に揖《かぢ》しもあらなむ君無しにかづさせめやも波立たずとも
     右の二首は、白水郎《あま》を詠めり。
 
〔譯〕 大船に楫があればよいなあ。さうしたらば、あなたが御覽にならぬ時は、遠く漕ぎ出して行つて、沖の漁をしませう。あなたが見ていらつしやらないなら、何の水に潜りませうぞ、たとひ波は立たなくても。
〔評〕 同一作者が、海人の心になつて詠んだものであらう。前の歌の注文を素直に受入れて、さやうに致しませうといふのであるが、初二句が言葉不足の爲に、孤立に陷つて、意味の徹しかねる憾がある。
〔語〕 ○大船に楫しもあらなむ 大船に楫があればよいとの意であるが、次の句との關係が明かでない。代匠記に「君が乘り出て遊覽すべければいさりして見せまつらむ」の意とあり、略解・古義は、自ら沖に出て潜きする意としてゐるが、いづれも從ひ難い。潜きするには沖に出るのは不適であるから、君のゐない時は磯邊での潜きはやめて、沖の漁をしようとの意とする全釋の解がよい。
 
    時に臨める
1255 鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》ぞ染《し》むる君がため綵色衣《しみいろごろも》摺《す》らむと念《も》ひて
 
〔題〕 「時に臨める」は、時につけて、即興的に詠んだ歌の意。
〔譯〕 つき草で私自身の着物もおのづから染まりました。あなたの爲に、美しい色の着物を摺らうと思つて、つき草の花を摘みに行きましたので。
〔評〕 可憐な女性の面影が彷彿として浮んで來る歌である。そのやさしい勞苦を思ひやりつつ、微笑を以て男は讀んだことであらう。
(99)〔語〕 ○つき草 露草ともいふ。○衣ぞ染むる 自分の衣も染まつたの意。染まつたといふ自動的の事柄を、染めたと他動的に言ひ換へたのである。○綵色衣 美しい色の衣。
〔訓〕 ○綵色衣 古葉略類聚鈔等にイロドリゴロをとよんでゐるが、日本書紀に綵をシミ又はシミノキヌと訓してゐるから、シミイロゴロモと訓むこととした。
 
1256 春がすみ井の上《へ》ゆ直《ただ》に道はあれど君に逢はむとたもとほり來《く》も
 
〔譯〕 井の上から、眞直にわが家へ歸る道はあるけれども、自分はそなたに逢はうと思つて、わざわざ廻り道をして來たのであるよ。
〔評〕 「君」は女かち男をさす場合が多いが、反對の場合もあるので、ここは男が戀しい女の家のほとりに、廻り道をして逢ひに來たといふのであらう。戀する人の常情ではあるが、素朴な表現が面白い。
〔語〕 ○春霞 枕詞。春霞のゐるといふ意で同音の「井」に續けた。○井の上 地名で、大和國磯城郡田原本町の東、東井上の地とする説がよい。○たもとほり 迂回して。「一二四三」參照。
 
1257 道の邊の草深百合《くさふかゆり》の花|咲《ゑみ》に咲《ゑ》まししからに妻といふべしや
 
〔譯〕 道端の草深い中にまじつてゐる百合が可憐にゑみ咲いてゐるやうに、あなたが自分を見て美しくほほゑまれたただその故に、あなたは自分の妻といつてもよいのたらうか。
〔評〕 平生ひそかに心を懸けてゐた女が、ふとした横會に優しい笑顔を見せた。男は間髪を容れず、女に逡巡の隙を與へまいとして詠みかけたのである。男の情熱も思はれ、機智も面白い。また巧妙な譬喩は女の容貌風姿をさながらに想像させる。
(100)〔語〕 ○道の邊の この句は百合だけにかけたものである。女にまで懸けて路傍に行き逢つたとする全釋の解は當らない。○草深百合の 草の茂みの中に咲いた百合、「の」は「の如く」の意。以上は序とするよりも、純然たる譬喩と見るべきである。○花ゑみに 花のゑめるが如くに美しく華やかに笑ふの意。○妻といふべしや 「や」を反語として、うはべに笑つたのみでは、我に心を許したとし、妻といはれようか、いはれはせぬの意とするのは、代匠記や、古義の説である。それを機械的で面白くないとして、新解の如く感動の助詞と見る説もある。
〔訓〕 ○妻といふべしや 白文「妻常可云也」代匠記精撰本に「也」は漢文の助語と同じで、「ツマトカイハム」と和すべきかと一案を擧げ、全釋は和歌童蒙抄に「ツマトイフベシ」とあるからそれが古訓で「也」は「黄葉早續也《もみぢはやつげ》」(一五三六)の如く書き添へた文字としてゐる。しかし、元暦校本その他の古寫本すべて通行本に同じであり、ここは「や」を加へて八音に訓んだ方が、感動の助詞としても力があつてよい。
 
1258 黙然《もだ》あらじとことの慰《なぐさ》にいふ言《こと》を聞き知れらくはからくはありけり
 
〔譯〕 黙つてもゐられまいとて、人が慰めの爲に言つてくれる氣休めの言葉を、氣休めと知つてゐるのは、本當につらいものである。
〔評〕 苦しい時には言葉でだけでも慰めて貰ひたいのではあるが、他人のいふお座なりを聞いて慰められる人は幸福である。それが、氣休めの空世辭に過ぎないことを知つてゐる寂しさ苦しさは、堪へ難いものであらう。寧ろ鋭敏な近代的感覺ともいふべき心理を詠んだもので、非常に特異な歌である。
〔語〕 ○黙然あらじと 黙つてゐるわけにもいくまいとて。○ことの慰さ 言葉での慰藉の義で、氣休めの世辭。○聞き知れらくは はつきりさうと聞いて了解してゐることは。「知れらく」は、「知れること」の意。
〔訓〕 ○からく 白文「少可」。アシクとよむ説もあるが、「苛」の誤とする説によることとした。
 
(101)1259 佐伯山《さへきやま》卯の花持ちしかなしきが手をし取りては花は散るとも
 
〔譯〕 佐伯山で行き逢つたあの卯の花を持つてゐたかはゆい娘、あんなかはゆい娘の手を私が執つて一緒に歩くことが出來たらば、花なんか散つても構はぬ。
〔評〕 行きずりた逢つて別れた後、なほ眼底に殘る美しい少女の幻影を追うてゐるのである。卯の花を折り持つてゐたといふので、少女の容姿も何となく卯の花で象徴される楚々たるものであつたやうに感じられる。非常に印象明瞭な歌で、格調句法の緊密齊整なのも大によい。「持ちし」を「持てる」の意に取つて娘子を眼前に見てゐるやうに解する説はとらない。
〔語〕 ○佐伯山 代匠記初稿本に安藝佐伯郡の山かとあるが決し難い。略解に「伯」は「附」の誤でサツキヤマかといひ、大日本地名辭書には、攝津豐能郡池田町の上方にある五月山を佐伯山の訛としてこれに宛ててゐる。○卯の花持ちし 卯の花を手折つて持つてゐた。「し」は過去の助動詞であり、從つて今眼前に卯の花を持つてゐる娘がをるのではない。○かなしき かはゆい女の意で、準體言である。東歌にも「そのかなしきを外《と》に立てめやも」(三三八六)とある。
〔訓〕 ○手をし 白文「手鴛」「手」は諸本すべて「子」とあるが、意義通じないので、代匠記に「手」の誤としたのに從ふ。
 
1260 時ならず斑《まだら》ごろもの著|欲《ほ》しきか島の榛原《はりはら》時にあらねども
 
〔譯〕 時はづれの斑の摺衣が着たいものであるよ。島の萩原はまだ花も咲かず、摺衣を作る時期ではないけれども。
〔評〕 まだ花の時節には間のある頃、島の萩原を通り過ぎつつ、花盛の美觀を想像し、花摺衣の出來ないのを慊らず(102)思つたのである。まだ幼い女を戀ふる譬喩歌と見る説もあるが、考へ過ぎであらう。このまま單純に解した方が却つて面白い。
〔語〕 ○斑衣 萩の花で斑に摺つて染めた衣。○着欲しきか 着たいものであるよ。○島の榛原 島は大和國高市郡島の庄。「島の宮」(一七〇)參照。「はり」はここは萩で、ハンノキとするは當らない。○時にあらねども まだ花の季節ではないけれども。
〔訓〕 ○島の榛原 白文「島針原」元暦校本等による。通行本に「衣服針原」とあるは誤で、和歌童蒙抄・袖中抄、共にシマノハリハラとしてこの歌を引いてゐる。
 
1261 山守《やまもり》の里へ通ひし山道ぞ茂くなりける忘れけらしも
 
〔譯〕 山の番人が里の女のもとへかよつてゐた山道は、今は荒れ果てて草木が茂くなつてしまつた。山番は女のことを忘れたらしい。
〔評〕 通ふことの絶えた男を山守に譬へて、女がその心變りを恨んだのである。しかしおほどかな調子で「忘れけらしも」といつたのは、つつましい女性の姿が聯想される。或は第三者の作と見る説もある。
 
1262 あしひきの山つばき咲く八岑《やつを》越え鹿《しし》待つ君が齋《いは》ひ嬬《づま》かも
 
〔譯〕 山椿の咲いてゐる多くの峯を越えて行つて、獵人が鹿の出るのを愼重に待つてゐる、ちやうどそのやうに、大事に大事にしてゐるあなたの奧方ですね。
〔評〕 序詞が特殊な美しい風景を展開してゐて面白く、次の譬喩もユーモアがあつてほほゑましい。後生大事に妻の機嫌をとつてゐる男を、その友人などが揶揄したのであらう。調子もしつかりしてゐて甚だよい。
(103)〔語〕 ○八つ岑越え 「八つ岑」は代匠記に山の尾根の多い意としてゐるが、單に多くの山と見てよい。初句以下實地に即した序、但、二句切で、椿を齋ひ嬬に擬したとする解もあり得る。○鹿待つ君 妻を大切にする男を、愼重な構へで鹿を待つてゐる獵夫に譬へた。○齋ひ嬬 大切にいつきかしづく妻。類語として「齋ひ兒」(一八〇七)がある。
 
1263 曉《あかとき》と夜烏《よがらす》鳴けどこの山上《をか》の木末《こぬれ》の上はいまだ靜けし
 
〔譯〕 もう夜明方であると知らせて、夜烏が啼いてゐるけれども、この丘の樹々の梢の上は、まだそよともせず靜かである。
〔評〕 略解に「男の別れむとする時、女の詠めるなるべし」とあり、古義も大體同解であるが、恐らくさうではあるまい。曉早く發足する旅人などの作であらう。清澄な大氣の浮動を感じ、身心引き緊るやうな歌で、内容に相應して格調も清高である。
〔訓〕 ○この山上の 白文「此山上之」西本願寺本・細井本・代匠記等にコノミネノとしたのも捨て難いが、なほ舊訓のままでよからう。
 
1264 西の市にただ獨出でて眼竝《めなら》べず買ひにし絹し商《あき》じこりかも
 
〔譯〕 西の市にただ一人自分が出かけて行つて、あれこれとよく見比べもせずに買つて來たこの絹は、買ひそこなひであつた。(自分一人で見立てて妻にした女は、とんだ見そこなひで、取り返しのつかぬ事をしてしまつた。)
〔評〕 絹を買ひ損じたことを、よくない妻を娶つたことの譬喩にとつたのは、如何にも奇拔であつて、しかも的確である。また、當時の市の有樣を知る資料としても面白い。
〔語〕 ○西の市 奈良の西の京にあつて、今の郡山町九條の田市と稱する邊にあつたといふ。「東の市」(三一〇)參(104)照。○眼竝べず 見較べないでの意。○商じこり 他に用例の無い語で「しこり」の意が明瞭でない。「しみこる」で執する意、見くらべもせず、初に目についたのに執し買ふ意(略解)の説もあるが、しそこなふ意(古義)といふ説が穩かである。
 
1265 今年行く新嶋守《にひしまもり》が麻|衣《ごろも》肩の※[糸+比]《まよひ》は誰《たれ》か取り見む
 
〔譯〕 今年徴されて行く、新しい防人の麻の衣が、日數たつて肩のあたりがよれよれになつて破れかかつたならば、誰がまあ世話して繕つてやるであらうか。
〔評〕 幾山河を越え、はるばると筑紫を指して新しく徴されて行く若者を、いとほしみ思ひやつた歌である。「肩の※[糸+比]《まよひ》」に心をかけるあたり、女性らしい眞情がこもつてゐてあはれである。この女性は妻でなくておそらく母であらう。
〔語〕 ○新嶋守 防人《さきもり》は「崎守」の義で、太宰府に屬し、九州北岸・壹岐・對馬等の防備に當るもので、東國の壯丁を徴發してこれに當て、その任期は三年であつた。ここは白文「嶋守」とあつて、古訓に從ひシマモリとよむが、意は防人である。○肩のの※[糸+比] 「まよひ」は布帛の絲の切れて破れかかること。
 
1266 大船を荒海《あるみ》にこぎ出で彌船《やふね》たけ吾が見し兒等《こら》が目見《まみ》は著《しる》しも
 
〔譯〕 大船を荒海に漕ぎ出して、骨を折つて漕ぎに漕いで行くやうに、あの時、苦しい思をしてやつと逢つた女の、眼もとがはつきりと眼前に浮んで、忘れかねることである。
〔評〕 内容は單純であるが、譬喩的の序が極めて警拔であり、格調も雄健で氣魄の籠つた歌である。
〔語〕 ○彌船たけ 「たけ」は漕ぐの意。土佐日記に「ゆくりなく風吹きて、たけどもたけどもしりへしぞきにしぞきて」云々とある。彌は「たけ」にかかり、辛苦して幾度も幾度も船を漕ぐ意で、種々心を盡してやつと女に逢つた(105)ことに譬へたもの。○吾が見し兒等 曾て自分が逢つた女。○まみは著しも 女の眼つきがはつきりと思ひ出される。
 
    所に就きて思を發《おこ》せる 旋頭歌
1267 百磯城《ももしき》の大宮人の踏みし跡どころ沖つ波來寄らざりせば失《う》せざらましを
     右の十七首は、古歌集に出づ。
 
〔譯〕 大宮人が常に歩いてゐた昔の都の遺跡は、沖の浪が打ち寄せて來なかつたならば、なくならずにあつたであらうになあ。浪が寄せて來たので、跡かたも無くなつてしまつた。
〔評〕 近江の大津の宮の荒廢を、婉曲に敍したのである。勿論波に洗はれて地勢が變動してしまつたといふのではないが、湖畔の都であるから、感じの上からそんな風に云つたもの。縹緲たる餘韻を湛へた作である。
〔語〕 ○百磯城の 「大宮」の枕詞。○踏みし跡どころ 踏みならした、即ち常に歩いてゐた跡。
 
1268 兒等が手を卷向《まきむく》山は常にあれど過ぎにし人に行き纒《ま》かめやも
 
〔譯〕 いとしい女の手を纒くといふ語から聯想される卷向山は、いつ見ても變らず常にあるが、死んだあの女に再び行き逢うて、その手を卷くことが出來ようか、出來はしない。
〔評〕 常に變らぬ山容に較べて、人生の無常を歎じたのである。しかし、概念的ではなく、妻を失つた男が、日夕眺めてゐる卷向山を見て「兒等が手を卷く」といふ語を聯想しつつ、この嘆聲を發した、その心理の動きが察せられ、同情される。
〔語〕 ○兒らが手を 「卷向山」にかかる枕詞。「一〇九三」參照。「兒ら」の「ら」は複數ではない。○過ぎにし人に 亡くなつた自分の愛人に。○行き纒かめやも おとづれて行つて纒くことが出來ようか、反語。纒くは枕するの(106)義。「求ぐ」で求婚の意とする説(略解)はよくない。
 
1269 卷向《まきむく》の山邊とよみて行く水の水泡《みなわ》のごとし世の人|吾《われ》は
     右の二首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 この卷向の山のあたりを鳴り響かして、流れて行く水の上に浮ぶ泡のやうなものであるよ、此のはかない世の人である吾々の命は。
〔評〕 これは佛教的無常觀とも見られるが、多感な詩人は、水流の去つて還らぬのを見ては、おのづからかうした感慨も湧くであらう。右の二首は人麿歌集所出とあるが、歌風から見ても、居住地との關係から考へても、これは人麿の作であらうといはれてゐる。
〔語〕 ○水泡のごとし 水に浮ぶ泡沫のやうにはかないの意。「みなわ」は「みのあわ」の約。○世の人吾は 現世に生存してゐる我等は。
 
    物に寄せて思を發《おこ》せる
1270 隱口《こもりく》の泊瀬の山に照る月は盈昃《みちかけ》してを人の常無き
     右の一首は、古歌集に出づ。
 
〔譯〕 泊瀬の山に照る月は、滿ちたり缺けたりすることである。その如くに人間の命も無常なものである。
〔評〕 適切な譬喩を取つて無常觀を客觀的に詠じてゐる。四句まで一氣に詠み下した句法も緊密でよい。膳部王を悲しみ傷める歌「世の中はむなしきものとあらむとぞこの照る月は滿闕しける」(四四二)はこれに似たところがある。
〔語〕 ○隱口の 泊瀬の枕詞。「四五」參照。○盈昃してを 盈は月の滿ちること、昃は日の西に傾く意の字であるが、(107)ここは月の缺ける意に通用したもの。「を」は感動の助詞。そのやうにしての氣分がある。
 
    行路
1271 遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早くいたらむ歩め黒駒
     右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔題〕 行路 古義ミチユキブリノウタと訓んでゐるが、「カウロ」と音讀してよい。集中唯一といふべき題である。旅路の詠の意。
〔譯〕 遠く離れてゐて、空のあなたに見える妻の家に、早く行きたいものである。さあ歩め、わが黒駒よ。
〔評〕 長途の旅から家路をさして歸る男の心いられを敍したものと解する説もあるが、さう取らなくても、遙々と妹がりに通ふ男の歌と見てもよい。ともかくも、單純に生き生きと心もちが表現されてゐる。但、東歌の中に「間遠くの雲居見ゆる妹が家にいつか到らむ歩め吾が駒」(三四四一)と殆ど同じ歌が出て居る。それは此の「遠くありて」の歌が東國に傳誦されて、一句がうたひかへられたのである。
 
    旋頭歌
1272 劔太刀《つるぎたち》鞘《さや》ゆ納野《いりの》に葛《くず》引く吾味《わぎも》眞袖もち著せてむとかも夏草苅るも
 
〔譯〕 納野《いりの》の原で、葛の蔓を引いて取つてゐる自分の妻よ。自分の着物に織つて着せようとしてか、兩袖を以て、夏の葛を苅つてゐるよ。
〔評〕 夫の着物を織る爲に、夏の野で葛蔓を引いてゐる妻を見て、夫が感謝の氣持を表はしたのである。醇朴な田舍の生活と風俗とが、ありのままに寫し出されてゐる。「眞袖もち」に、かよわい力を兩手にこめて葛を引く妻の、辛(108)勞の姿がさながらに思ひ浮べられる。
〔語〕 ○劔たち鞘ゆ納野に 「鞘ゆ」までは「納野」につづく序詞。納野は、代匠記は和名抄に丹後國竹野郡納野とある地かと推定し、略解は神名帳に山城國乙訓郡入野神社とある地としてゐる。○葛引く 葛の蔓を以て衣服を織る爲である。○眞袖もち 眞袖は兩袖。この句は結句につづく。蔓を引張る動作には兩袖の運動が著しく目立つからである。○着せてむとかも 我に着せようとしてか、の意。○夏草苅るも 夏葛引くもを詞をかへていつたものと思ふ。文字をかへる説は採らない。
〔訓〕 ○劔たち鞘ゆ 白文「劔從鞘」。劔一字をツルギタチとよませた。紀州本に劍後とあるので、タチノシリサヤニとよむ説がある。
 
1273 住吉《すみのえ》の波豆麻《はづま》の君が馬乘衣《うまのりごろも》さひづらふ漢女《あやめ》を坐《す》ゑて縫へる衣《ころも》ぞ
 
〔譯〕 住の江の波豆麻の君が着てゐるあの立派な馬乘衣。あれは漢織《あやはとり》の女を呼びよせて縫はせた着物なのである。
〔評〕 住吉の波豆麻の君は、多分その地方の豪族であつたらう。豪華なる馬乘衣を着て、肥馬に跨つて練り歩いてゐたのである。その馬乘衣の由來を、消息通が誇らかに語つて聞かせるといふ趣で、民謠的色調の濃い、異色のある歌。
〔語〕 ○波豆麻 住吉の地名かと思はれる。誤字説もあるが從ひ難い。○さひづらふ 「さひづるや辛碓につき」(三八八六)ともあり「さひづる」の再活用と思はれる。言葉が囀るやうな漢女とつづくのであつて「言さへく韓」と同じである。○漢女 雄略紀に、漢織《あやはとり》、呉織《くれはとり》、衣縫《きぬぬひ》の兄媛・弟媛を呉國から獻じた由が見える。ここは、その子孫をいふのであらう。
〔訓〕 ○波豆麻 代匠記にはナミヅマと訓んでゐる。○すゑて 白文「庭而」マセテとよむ説もある。
 
(109)1274  住吉《すみのえ》の出見《いでみ》の濱の柴な苅りそね未通女等《をとめら》が赤裳の裾のぬれてゆかむ見む
 
〔譯〕 草刈男らよ、住の江の出見の濱の柴は苅らずにおいてくれ。少女達が赤い裳の裾を波に濡らして、濱邊を歩いて行くのをあの柴の蔭から見ようと思ふので。
〔評〕 里の少女達は、波に戯れながら、明るい嬌聲をたてて、清い渚を歩いて行く。赤い裳の裾は、波に襲はれて濡れる。里の若者らは柴の中に隱れて、それを覗くのを、樂みにしてゐたのであらうに、柴を刈られては、その樂みが無くなつてしまふ。素朴な農村の情景がありのままに寫し出されてゐて面白い。
〔語〕 ○出見濱 住吉森の西に當る海岸。○柴な苅りそね 柴の中に身を潜めて少女を覗き見る爲である。
〔訓〕 ○ゆかむ見む 白文「將往見」ユクミムともよめる。
 
1275 住吉《すみのえ》の小田《をだ》を苅らす子|奴《やつこ》かも無き奴《やつこ》あれど妹が御《み》爲に私田《わたくしだ》苅《か》る
 
〔譯〕 住吉の田をお刈りなさる人は、下男がゐないのですか。いや、下男はゐるけれども、愛する妻の爲と思つて、自分で骨折つて私田を刈つてゐるのです。
〔評〕 一首で問答の形をなしてゐるが、自問自答である。この形は旋頭歌の成立過程を語るものである。奴と呼ばれる賤民があつたこと、新たに開墾した田は、私田と稱して私有を許されてゐたことなどの社會的事情が窺はれ、文化史的に見ても興味のある作である。
〔語〕 ○小田を苅らす子 「小」は接頭辭で特別の意は無い。「苅らす」は「苅る」の敬語。○奴かも無き 奴は奴婢階級の賤民で、當時稻束を以て賣買せられ、勞働に從事したもの。以上三句は問の形をなし、下の三句はこれに對する答となつてゐる。○私田 公田に對し個人私有の田の意。
(110)〔訓〕 ○やつこ 白文「賤」代匠記にヤツコと訓んだのがよい。
 
1276 池の邊《べ》の小槻《をつき》が下《モと》の細竹《しの》な苅りそね其《そ》をだに君が形見に見つつ偲《しの》はむ
 
〔譯〕 池のほとりの槻の木の下にある細付は苅らずにおいてくれよ。せめてそれだけでも、あノお方の形見として眺めながら思ひ出さう。
〔評〕 嘗て池のほとりの小槻の下で、愛人と相語らつたことがあり、今は別れて再び逢ふよすがも無くなつたのである。純情な田舍娘の風?があはれに浮ぶ。
〔語〕 ○小槻 「小」は接頭辭で、小さいの意ではない。槻は樺の一種、「二一〇」參照。○そをだに せめてその細竹なりとも。
 
1277 天《あめ》なる姫菅原《ひめすがはら》の草な苅りそね蜷《みな》の腸《わた》か黒き髪に芥《あくた》し著《つ》くも
 
〔譯〕 姫菅原の草をそんなに精を出して苅るな。あんまりはたらくと、眞黒な美しい髪に芥がつくよ。
〔評〕 せつせと勵んで草を苅つてゐる愛人を男が見て、その美しい黒髪に塵芥のつくのを惜しみいたはつたのである。或は若い夫婦で野に働いてゐたのが、甲斐々々しい妻の姿にふと夫が愛着を感じたといふ風にも受取られる。眞率にして、野趣掬すべき歌である。
〔語〕 ○天なる 枕詞。「日」と同音で「姫」に冠した。○姫菅原 地名と思はれるが所在未詳。新考に、美濃國可兒郡久々利の近傍の姫といふ地か、とある。○蜷の腸 「か黒き」にかかる枕詞。「八〇四」參照。○か黒き 眞黒な。
 
1278 夏影《なつかげ》の房《ねや》の下《した》に衣《きぬ》裁《た》つ吾妹《わぎも》裏《うら》設《ま》けて吾がため裁たばやや大《おほ》に裁て
 
(111)〔譯〕 夏の木立の蔭が涼しく掩うてゐる部屋の前で、着物を裁つてゐる妻よ。裏も用意して自分の爲に着物を裁つなら、少し大き目に裁つてくれ。
〔評〕 わが爲に裁縫をしてゐる妻に向つて、親しい氣特で夫が呼びかけたのである。「裏まけて」とあるのを見れば、これは夏衣ではなく、初秋の準備であらう。ゆつたりと大ぶりに裁てといふのが、如何にも悠揚とした趣で面白い。平和な家庭生活のほほゑましい情景が展開されてをり、詞句聲調共に清純な感じの作である。
〔語〕 ○夏影の房の下に 茂つた木蔭が深く覆うて涼しい部屋の前で。「ねや」は妻の部屋をいふ。○裏設けて 裏を用意して。○やや大に裁て 少しゆつくりと、大きい加減に裁て。
 
1279 梓弓|引津《ひきつ》の邊《べ》なる莫告藻《なのりそ》の花|採《つ》むまでに逢はざらめやも莫告藻《なのりそ》の花
 
〔譯〕 引津の邊に咲いてゐるなのりその花、その花を摘み取る頃までに、戀しいあなたに逢はぬことがありませうか。必ず逢ふつもりですが、それまでは、私の名をうつかり口にして人に感付かれることのないやうにして下さいませ。
〔評〕 「莫名藻の花」を繰り返し、それを「な告りそ」の意にかけたので、類想忍は集中に多いが、旋頭歌であるだけに聲調に特色があつて面白い。「梓弓引津邊にある莫告藻の花咲くまでに逢はぬ君かも」(一九三〇)はこれを短歌に改作したかの如く見える。
〔語〕 ○引津 引津は筑前糸島郡の西方の海岸。○莫告藻の花 今いふホンダハラのこと、「三六二」參照。
 
1280 うち日さす宮路《みやぢ》を行くに吾が裳は破《や》れぬ玉の緒の念《おも》ひ委《しな》えて家に在らましを
 
〔譯〕 宮へ行く道を、もしや戀しい人に逢ひもしようかと思つて歩いた爲に、私の裳は摺り切れ、破れてしまつた。かうしても逢へないくらゐなら、いつそ思ひしをれて、じつと家にゐればよかつたものを。
(112)〔評〕 大宮人に想を懸けて、いかにもしてそのみやび姿を見ようと焦慮してゐるのであらう。上の句に都少女の可憐な艶姿が目に見えるし、下の句に遣瀬ない歎きの息づかひが聞える。
〔語〕 ○うち日さす 「宮」にかかる枕詞。「四六〇」參照。○玉の緒の 枕詞「思ひ」にかけたものであらう。
〔訓〕 ○念ひ委えて 白文「念委」、委の字に種々の訓があるが、萎に通ずるものとみて考の訓によつた。
 
1281 君がため手力《たぢから》疲れ織れる衣《ころも》ぞ春さらばいかにかいかに摺《す》りては好《よ》けむ
 
〔譯〕 あなたにお着せ申す爲に、疲れて手の力も無くなるほど骨を折つて織つたこの衣なのです。春になつたら、この衣をばどんな具合にまあ摺つて染めたらば宜しいでせう。
〔評〕 愛する人の爲に春着を織つて、その染色や模樣に案じ煩つてゐるのである。女らしいこまかな心遣ひがよく現はれて居り、また愛する人ゆゑに身心を勞する快い滿足感もよく出てゐる。
〔語〕 ○いかにかいかに 色や模樣をどんな具合にして。
〔訓〕 ○いかにかいかに 白文「何何」略解所引の宣長説に「何色」の誤とし、これに從ふ人も多いが、諸本悉くかうなつてゐるので、舊訓に從ひイカニヤをイカニカと改めた。
 
1282 橋立《はしだて》の倉椅《くらはし》山に立てる白雲見まく欲《ほ》り我がするなべに立てる白雲
 
〔譯〕 倉橋山に立つてゐるあの白雲よ。見たいと思うてゐる折にちやうど立つ白雲よ。その雲のやうに目には見ても手にとることの出來ぬ人よ。
〔評〕 代匠記に「立てる白雲とは、うるはしきものから、目にのみ見て手にも取られぬを、女のさすがに目には見えて逢ふべくもなきによそへたるにや」とある。これを單に敍景歌として見ると、單純明快で印象も鮮明であるが、他(113)の歌がすべて敍情の歌であるから、代匠記の説に從つて説いた。
〔語〕 ○橋立の 「倉」につづく枕詞。古の倉は床が高く、昇り降りに梯を要した事は正倉院の構造を見てもわかる。「はしだて」ははしごを立てて昇るの意。○倉椅山 大和磯城部、今は音羽山といふ。
 
1283 橋立の倉椅《くらはし》川の石走《いばばしり》はも壯子時《をざかり》に我が渡りてし石走《いはばしり》はも
 
〔譯〕 倉橋川の淺瀬に置き竝べたあの飛石の橋はまあ。若盛りの頃、自分がよく渡つたあの飛石の橋はまあ。
〔評〕 久しく故郷を離れてゐた人が、年老いて歸つて來て、若い頃通ひ馴れた倉椅川の飛石が、今はその影も無いのを歎いたのであらう。「年月もいまだ經なくに明日香河瀬瀬ゆ渡りし石走なし」(一一二六)と同樣の趣である。舊觀の依然たるに感慨を催したとする解もあるが、「はも」の響きは、石橋を眼前に見てゐないやうである。
〔語〕 ○倉椅川 多武峯から發し、北流して倉橋村を過ぎ、忍坂川と合して寺川となる川(大和萬葉地理)。○石走 浅瀬に石を竝べて飛石の如くにしたもの。「一一二六」參照。
 
1284 橋立の倉椅川の河のしづ菅《すげ》我が苅りて笠にも編《あ》まず川の石著菅《しづすげ》
 
〔譯〕 倉椅川の水中のしづ菅よ。それを自分が苅つたばかりで、編んで笠にも作らずにしまつた惜しい水中の石著《しづ》菅なのである。ちやうどそのやうに、自分が約束をしたのみで、妻にしなかつたあの女、まことに惜しい女であるよ。
〔評〕 地方色の豐かな譬喩歌である。素朴な野趣が面白い。この里のあたりで唄はれた民謠であらう。
〔語〕 ○河の靜菅 しづ菅は菅の一種であらうが「菅の小きをいふか」(略解)「石著菅なり」(古義)など諸説あつて、明かでない。○吾が苅りて 自分が苅つたばかりで。女と約束をした譬と思はれる。
 
(114)1285 春日すら田に立ち疲る君は哀《かな》しも若草の※[女+麗]《つま》無き君が田に立ち疲る
 
〔譯〕 この麗かに樂しい春の日でさへ、手助けをする人が無いので、一人で田に立ち働いて疲れるあなたはおいたはしい。妻のないあなたが、一人で田に立ち働いて、すつかり疲れていらつしやるよ。
〔評〕 のどかな春の日もよそに、黙々として田の仕事をしてゐる獨身者を見て、若い女が歌ひかけた作である。表面眞面目な同情のやうであるが、實は輕く揶揄一番してゐるやうである。野趣に滿ちて甚だ愉快である。
〔語〕 ○春日すら 麗かにして樂しい春の日すら。長い春の日すらとする略解の説は從ひ難い。催馬樂「此殿西」にも、詫ひ返しの部分に「春日すら」が多く用ゐられてゐる。一つの感情を盛つた成句である。○若草の「妻」の枕詞。
 
1286 山城の久世《くせ》の社の草な手折《たを》りそ己《わ》が時と立ち榮ゆとも草な手折《たを》りそ
 
〔譯〕 山城の久世の社のあたりに生えてゐる草を折つてはいけない。おれの時とばかりに、得意顔に榮えてゐても、それは神樣のものであるから、あの草を手折つてはいけない。
〔評〕 久世の社の草を人妻に喩へ、如何に自ら勢があらうとも、主のある女に近づいてはならぬ、と誡めたのである。
〔語〕 ○久世の社 山城國久世郡久津川村大字久世にある神社。○わが時と立ち榮ゆとも 草が、時を得顔に繁茂してゐようとも。
〔訓〕 ○わが時と 白文「己時」オノガトキ、オノガトキトともよめる。
 
1287 青角髪《あをみづら》依網《よさみ》の原に人も逢はぬかも石走《いはばし》る淡海縣《あふみあがた》の物がたりせむ
 
〔譯〕 依網の原で誰か知つた人にでも逢はないものかなあ。さうしたらば自分は、近江の國の話をしよう。
(115)〔評〕 近江の國に旅をして來た人が、歸國の道すがらもう故郷に程近い依網の原にさしかかつた頃、此處まで來れば誰か顔見知りの人にも行き逢ひさうなもの、さうしたら、近江の旅の土産話でもしようものをと期待してゐるのに、一向誰にも逢はないといふ淡い失望を歌つたものらしく思はれる。人間の心理にひそむ共通な感情であるが、事情がちよつと變つて居る。表現は流麗である。
〔語〕 ○青みづら 枕詞とする説が多いが、枕詞と見ない説には、碧海面依網で三河國碧海郡の海面にある依網の意(古義)青み蔓の生えてゐる原の意(新解)などと解するのである。○依網の原 崇神紀なる依網池のある地方であらう。○人も逢はぬかも 逢はないものかなあ、どうか逢ひたいものである、の意。○石走り 「近江」の枕詞。「二九」參照。○淡海縣 縣は縣主の支配する地で、田舍の意ともなるので、ここは近江地方の意と解せられる。
〔訓〕 ○人も逢はぬかも 白文「人相鴨」舊訓ヒトニアヘルカモとあるが、今、略解の宣長説による。
 
1288 水門《みなと》の葦の末葉《うらは》を誰《たれ》か手折《たを》りし吾が背子が振る手を見むと我ぞ手折《たを》りし
 
〔譯〕 河口のあたりに生えてゐる葦の末葉を、誰が手折つたのであるか。それは私の夫が、旅の首途に名殘を惜しんで振る手を見ようと思つて、その妨げにならぬやうに、私が手折つたのである。
〔評〕 これも問答體になつてゐる。旅に出る夫を慕つて姿の見える限はと見送つてゐる妻の眞情が、やさしく滿ち溢れてゐるが、その半面當時の旅の如何に困難であつて、無事の歸宅が容易でなかつた事も想像されてあはれである。民謠風の色彩が濃い。
〔語〕 ○水門 河口をいふ。○吾が背子が振る手を見むと 旅に出で立つ夫が、別れを惜しんで振る手を、いつまでも見ようとて。
〔訓〕 ○振る手を見むと 白文「振手見」略解は「手」の上に「衣」の字を脱したのでソデとしてゐるが、この儘で(116)もわかる。
 
1289 垣越ゆる犬呼び越《こ》して鳥獵《とがり》する君青山のしげき山邊に馬|息《やす》め君
 
〔譯〕 犬を呼んで來させて、鳥獵にお出かけになるあなた。青々と木の茂つてゐる山のあたりへおいでになりましたら、そこらで馬をお休めなさいませよ、あなた。
〔評〕 元氣にまかせて無理をせぬやう、茂つた青葉の蔭ではよく馬を休め、英氣を養つておいでなさいと、夫に向つて女らしく優しく心をつけたのであらう。犬を連れて出かけたといふやうな、今日と同じ狩獵の方法がわかるのも、興味が深い。
〔語〕 ○垣越ゆる 主文に關係がないので宣長(略解所引)は枕詞としてゐる。即ち犬によく見る動作をいつてそれに冠したといふのである。○犬呼び越して 犬を呼び來らしめて(宣長)。○馬息め君 馬を休ませよ君。
〔訓〕 ○馬息め君 白文「馬安君」舊訓ウマヤスメヨキミとあるが、今、略解に從ふ。動詞の命令形には四段ならずとも、必ずしも「よ」を添へることを要しない。
 
1290 海《わた》の底沖つ玉藻の名告藻《なのりそ》の花妹と吾と此處《ここ》に何《いか》にありと莫告藻《なのりそ》の花
 
〔譯〕 沖に生える玉藻の名告藻《なのりそ》の花よ。いとしい女と自分とが此處にどのやうにしてゐるかを、お前の名のとほりに人に告げてくれるな、名告藻の花よ。
〔評〕 上句は、結句を「莫告藻の花」と結ばう爲に云ひ出した序詞的の用法であるが、名のりその花を人に擬らへて呼びかけたのである。海岸地方に行はれた民謠であつたであらう。類想は他にも少くない。
〔語〕 ○海の底 「沖」の枕詞。「八三」參照。○此處に何《いか》にありと 此處でどうしてゐると。
(117)〔訓〕 ○此處にいかにありと 白文「此何有跡」何の字は「一二二二」等の例によりイカと訓むべきである。
 
1291 この岡に草苅る小子《わらは》然《しか》な苅りそね在りつつも君が來まさむ御馬草《みまくさ》にせむ
 
〔譯〕 この岡で草を苅つてゐる子供等よ。そんなにむやみに苅らないでおいてくれ。そのままにして置いて、あのお方が馬に乘つていらつしやる時、お馬の秣にしようほどに。
〔評〕 これも民謠風の氣分の濃厚な歌である。女性のこまかな心づかひが表はれて、可憐な純情が酌まれる。大伴坂上郎女の旋頭歌「佐保河の岸のつかさの柴な刈りそね在りつつも春し來らば立ち隱るがね」(五二九)は形式をこれに學んだものと思はれる。
〔語〕 ○然な苅りそね そんなにひどく苅るなよ。○在りつつも そのままに置いて。「八七」參照。
〔訓〕 ○わらは 白文「小子」京大本の書入にヲノコとあり、古義にコドモとあるが、舊訓によるべきである。
 
1292 江林に宿る猪鹿《しし》やも求むるによき白たへの袖|纒《ま》き上げて猪鹿《しし》待つ我が背
 
〔譯〕 江林にひそんでゐる猪や鹿は、獲るにたやすいものであらうか。甲斐々々しく白い袖をまくり上げて、猪や鹿の出て來るのを待つてゐる私のいとしい夫よ。
〔評〕 狩獵にばかりいそしむ夫に對する淡い不服を述べたやうな歌であると全釋は見てゐる。二三句のあたり成程そんな感じがせぬでもないが、稍考へ過ぎのやうにも思はれる。夫の甲斐々々しい姿に頼もしさを感じた讃美的な歌とも取れると思ふ。
〔語〕 ○江林 地名説(代匠記)もあるが、字面の通り、入江に近い林の意とも思はれる。○度猪 鹿や猪などの野獣をいふ。「四七八」參照。
 
(118)1293 霰|降《ふ》り遠江《とほつあふみ》の吾跡川楊《あとかはやなぎ》苅れどもまたも生ふとふ余跡《あと》川場
 
〔譯〕 遠江の吾跡川の岸の川楊よ。いくら苅つても、すぐまた生えるといふ吾跡川の岸の楊よ。ちやうどそのやうに、いくら思ひ切つても後《あと》から後《あと》からと戀しくなる自分の心は、仕方のないことであるよ。
〔評〕 構想格調ともに單純ではあるが、ただ川楊を詠じたのではなく、寓意のあることは明かであり、哀切な戀情が淡々たる詞句の間に滲み出て、頗る趣の深い作である。民謠であらう。
〔語〕 ○霰降り 音《と》とかかる枕詞。○遠江の吾跡川 近江高島郡の阿渡川、今の安曇川と解する説が多いが「一二三八」「一六九〇」等の阿渡では、用字上疑がある。遠江の地名でいま所在の知られぬ處と解するがよい。
 
1294 朝づく日向ひの山に月立てり見ゆ遠妻を持ちたる人し見つつ偲《しの》はむ
     右の二十三首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 向うの山に月の出てゐるのが見える。遠く離れて思ひ妻をもつてゐる人が、この月を見ながら、妻のことを思ひ出すであらうよ。
〔評〕 向うの山に澄み昇つてゐる月を眺めて、遠く妻と離れてゐる人の心を察したもの。但、月を主題とした歌でありながら、形式的の枕詞とはいへ「朝づく日」と用ゐたのは、少くとも現代人の考からは適切とはいひ難い。
〔語〕 ○朝づく日 朝日に同じ。枕詞で、人の向ひ拜する意から「向」にかかる。○遠妻 遠く相離れてゐる妻。
〔左註〕 以上二十三首の旋頭歌は、左註によれば人麿歌集中に出るとあるが、人麿自身の作でなく、多くは民謠風の作と考へられる。
 
(119)1295 春日《かすが》なる三笠の山に月の船出づ遊士《みやびを》の飲《の》む酒杯《さかづき》に影に見えつつ
 
〔譯〕 春日にある三笠の山に、月の船が出て來た。風雅な男たちが酒宴をしてゐるその盃の中に影を映じながら。
〔評〕 玉杯に月の影を浮べつつ酒を酌みかはして樂しんだ當時の文人雅客の風流ぶりが思はれる。辭句聲調共に明朗濶達にして些の凝滯なく、一座の愉快な空氣がありありと反映してゐる。
〔語〕 ○月の船 「月の船星の林に漕ぎ隱る見ゆ」(一〇六八)に同じく、月を船に見立てたもの。○遊士 文雅風流の人々。「一二七」參照。○影に見えつつ 影として盃の中に見えつつの義で、即ち坏中の酒に月影が映るをいふ。
 
    譬喩歌《ひゆか》
 
〔題〕 譬喩はたとへであるが、萬葉集では狹義に用ゐ、修辭上の隱喩法に相當するものが多い。その内容は、すべて戀歌である。物を引いて感想を寓するが、序として物を引くに過ぎぬのもある。
 
    衣に寄す
1296 今つくる斑衣《まだらごろも》は目につきて吾に念ほゆいまだ著《き》ねども
 
〔譯〕 今新しく作つたばかりの斑色の摺衣は、目先にちらついてゐるやうに自分には思はれる。まだ手をとほして着ないけれども。(ちらと見たばかりの女の美しい姿が、また親しくはならないが、眼前にちらついて戀しくてならぬ。)
〔評〕 女を斑色の摺衣になぞらへた譬喩歌である。衣の美しさも、女の容姿の麗はしさも共に反映してあつて、讀者(120)の目に鮮かにうつる。巧妙な歌である。
〔語〕 ○今つくる 新しく作つた。「今つくる久邇の都は」(一〇三七)參照。○斑衣 「一二六〇」參照。これは美しい女に譬へたもの。○目につきて 目の前にあるが如く。
〔訓〕 ○めにつきて 白文「面就」契沖の訓によつた。宣長はオモヅキテと訓んだ。面を眼に借りるのは特殊假名遣上いかがとも思はれるが、オモヅキテもいかがである。「目につく我が背」(一九)參照。
 
1297 くれなゐに衣《ころも》染《し》めまく欲《ほ》しけども著《しる》くにほはばや人の知るべき
 
〔譯〕 紅花で着物を染めようと思ふけれども、あまりに色が鮮かであつたらば、すぐ人の目につくであらうか。(いとしい女に逢はうと思ふが、はでな態度に出ると、すぐに人が感づくであらう。)
〔評〕 紅染の衣に譬へられた、さうして目に立ち易い女といふので、そのあでやかな風姿も偲ばれる。巧妙な作である。
〔語〕 ○紅に 紅を以ての意で、紅色にの意ではない。「くれなゐ」は紅花のこと、「六八三」參照。○著くにほはばや 鮮かに色を匂はせたならば。「にほはぼ」は「匂はさば」と他動的にいふべきを、自動的に言ひ換へた語法。
〔訓〕 ○にほはばや 白文「丹穗哉」ニホヘヤ、ニホハバカともよめる。
 
1298 かにかくに人はいふとも織り次《つ》がむ我が織物《はたもの》の白麻衣《しろあさごろも》
 
〔譯〕 とやかくと人はいうても、私は構はずに織り續けてゆかう。私の織物のこの白い麻衣をば。(人が何と噂しようとも、私はこの戀を思ひ切る氣は無い。)
〔評〕 この譬喩は恐らく作者の生活に即したものであらう。これは庶民階級の女の作で、亂れる心に堪へて機を織りつづけながら、ややもすれば弱くならうとする心を、我と勵まして詠んだ、といふやうな趣がよく表現されてゐる。
(121)〔語〕 ○かにかくに とやかくと、何だかだと樣々に。○織り次がむ 織り續けてゆかうの意。○はた物 機にかけて織る織物。
〔訓〕 ○かにかくに 白文「干各」通行本に「千名」とあるが「各」は古葉略類聚鈔・紀州本などにより「干」は古義の説に據つて改める。元暦校本などの訓トニカクニとあるのから見ても「千」は「干」の誤であることは察せられる。因にいふ。此の歌を拾遺集卷八に「ちゝわくに人はいふとも織りて着むわがはた物に白き麻ぎぬ」として載せてゐ、その句を取つて、源實朝が金槐集に、「大君の勅をかしこみちゝわくに心はわくとも人にいはめやも」と詠んだ。然るにその「ちゝわくに」を後人が「ちゝはゝに」と誤讀し、更に漢字を宛て、「父母に」と書いた爲に、原作とは變つた意味になつてしまつた。書寫の轉訛から意外の結果が生れるといふ一例として擧げておく。
 
    玉に寄す
1299 あぢ群《むら》のとを寄る海に船|浮《う》けて白玉《しらたま》採《と》ると人に知らゆな
 
〔譯〕 味鳧の群が、たわんだやうな列をなして飛びおりて來る海に、船を浮べて、自分が白玉を採つてゐるといふことを人に知られるなよ。(人目が多いから氣をつけて、自分ら二人がかうして逢つてゐることを、人にさとられないやうにせよ。)
〔評〕 「あぢ群のとを寄る海」が、世間の噂が繁く、人目の多いことを、それとなく語つてゐるやうで面白い。
〔語〕 ○あぢ群 味鳧の群。「二五七」參照。○とを寄る たわみ寄る意。あぢむらの群れ飛ぶ列が彎曲して見えるといふので、いかにも鋭い感覺である。「四二〇」參照。○白珠 眞珠。女に譬へたのである。
 
1300 遠近《をちこち》の磯の中《なか》なる白玉を人に知らえず見むよしもがも
 
(122)〔譯〕 あちこちの海岸の石の中にある白玉を、人に氣づかれないやうにして、見るすべがあればよいがなあ。(多くの人の中に一緒にまじつてゐるあの美しい女に、人にけどられないやうに逢ふ方法はないものかなあ。)
〔評〕 人妻に戀をする歌であらうと全釋はいつてゐるが、宮廷などに多くの朋輩と共にゐる女性と見る方が自然のやうに思はれる。人の中にまじりながら、その美しい容姿の眼につくのを「磯の中なる白玉」と譬へたのは巧妙である。
〔語〕 ○をちこちの 代匠記に彼方此方の意で、「遠近」といふ字面に拘はつて強く見てはならぬとある。○磯の中なる 岩石の間に介在する。
 
1301 海神《わたつみ》の手に纒《ま》き持《も》たる玉ゆゑに磯の浦|廻《み》に潜《かづき》するかも
 
〔譯〕 海の神樣が手に卷いて持つて居られる玉であるのに、それを得ようとして、自分は骨を折つて、磯の浦のほとりで、水を潜ることであるよ。(監視の嚴重な女であるのに、自分はそれに戀をして、恐しさも忘れつつ苦勞を重ねることであるよ。)
〔評〕 近づき難い恐しさを、海神の威嚴に譬へたのは巧妙である。また女の主人が、その女を傍ら放さずに愛してゐる樣も、二三句の間に想像されて面白い。或は嚴しく親の守つてゐる娘とも解せられる。
〔語〕 ○手にまき持たる 手玉として卷きつけ持つてゐるの意。「海神の手に卷かしたる珠襷」(三六六)參照。○玉ゆゑに 玉なるものを。玉は美しい女に譬へてゐる。
 
1302 海神《わたつみ》の持《も》たる白玉見まく欲《ほ》り千遍《ちたび》ぞ告《の》りし潜《かづき》する海人《あま》
 
〔譯〕 海の神樣の持つて居られる白玉を見たく思つて、見せて戴きたいと千度もお願ひ申したことであつた、水を潜る海人は。(人の守つてゐる女に逢ひたさに、自分は千度もこちらの心を言ひ送つたことであつた。)
(123)〔評〕 これも前の歌と同じく、人妻に戀する趣とも、又は親の嚴しく守つてゐる女に言ひ寄つたものとも、いづれにも解せられるが、次の歌の趣から判ずると、後者とする方がよいやうに思はれる。下の「底清み石著《しづ》ける玉を見まく欲り千遍ぞ告りし潜する白水郎」(一三一八)と類似の想であり、殊に三句以下、字句全く同じである。
〔語〕 ○潜する海人 海人にの意に解するは誤。作者自身を海人に譬へたのである。
 
1303 潜《かづき》する海人《あま》は告《の》るとも海神《わたつみ》の心し得ねば見ゆといはなくに
 
〔譯〕 水を潜る海人は白玉に云ひ寄るにしても、白玉は海の神樣の心が分らぬ中は、見られるものではない。(あなたの熱心なお言葉は承つても、嚴しく守つてゐる親達の心が分らないので、逢はうと申されないのです。)
〔評〕 前の歌を承けて、女が答へた趣に詠んであるが、同じ作者の自問自答で、以上の三首は連作と考へられる。
〔語〕 ○海人はのるとも 海人は白玉即ち女に言葉をかけても。倉田一郎氏は、海人の唱へ詞をする民俗といふ。○心し得ねば 思はくが推測出來ないうちは。○見ゆといはなくに 見られよう、とは言はれてゐないの意。
 
    木に寄す
1304 天雲《あまぐも》の棚引く山の隱《こも》りたる吾が下ごころ木《こ》の葉知るらむ
 
〔譯〕 雲のたなびく山が雲の中にこもつてをるやうに、こめてをる自分の下心を、山の木の葉は知つてゐるであらう。このやうに籠めてゐる自分のひそかな思は、そなたはよく知つてゐるであらう。
〔評〕 「木の葉知るらむ」といふいひざまはいかにも幼いが、木に寄せて自分の思を述べるといふ立場から、此のやうにいひなしたのであらう。
〔語〕 ○木の葉知るらむ 「木の葉」は相手の女に譬へていうたもの。「二九一」參照。
(124)〔訓〕 ○吾が下ごころ 白文「吾下心」諸本皆「吾忘」とあるが、意味が通じ難いので、種々の誤字説が提出されてゐるが、略解所引の宣長説に「志」は「下心」の誤寫としなのが當つてゐると思ふ。
 
1305 見れど飽かぬ人國《ひとくに》山の木の葉をし己《わ》が心から懷かしみ念《おも》ふ
 
〔譯〕 いくら見ても見飽かぬ人國山の木の葉を、吾が心から、自分は懷かしく思つてゐる。(見れば見るほど美しい人妻を、我とわが心で、自分は懷かしく思つて惱んでゐることである。)
〔評〕 美しい人妻を常に見てゐる人が、一人ひそかに心を惱ましてゐるのである。「わが心から」といふところに反省の心もちはありながらも、猶如何ともし難い苦しさが切實にあらはされてゐる。
〔語〕 ○人國山 下に「人國山の秋津野の」(一三四五)とあるので、秋津野と同じく吉野にあると代匠記には推定してゐる。ともかく固有の山の名と思はれるが、それに他國の山の意を懸け、以て人の妻に譬へたのである。
〔訓〕 ○わが心から 白文「己心」。オノガココロニともよめる。
 
    花に寄す
1306 この山の黄葉《もみち》が下《した》の花を我《われ》はつはつに見て更に戀ふるも
 
〔譯〕 この山の黄葉の下に咲いてゐる花を、自分は僅かにちらと見て、いつそう心を惹かれることである。(美しい少女をちらりと垣間見たので、自分の心は尚更戀しさがまさることである。)
〔評〕 三句以下の譬喩は極めて明瞭である。併し初二句は何に擬したものか、少女の家庭か、又はその服装などをいふのか。或はさう深く考へないで、單に女の艶容を強調したものと見るべきであらうか。序と見る説には賛し難い。
〔語〕 ○はつはつに ほんの少しばかりの意。「七〇一」「二四一一」等參照。
 
(125)    川に寄す
1307 この川ゆ船は行くべくありといへど渡り瀬ごとに守《も》る人あるを
 
〔譯〕 この川を、舟で通へるといふことであるが、渡し場ごとに見張りする人がゐるよ。(あの女は、自分に心を許してゐるけれども、親や兄弟が大勢監視してゐるのは、困つたものであるよ。)
〔評〕 女が心を許して、こちらの意に十分靡く可能性のある趣を、舟を通ずるに譬へたのは、奇警で面白く、親兄弟の嚴重な監督を渡守に比したのも極めて自然である。結句の表現も簡にしてよい。
〔語〕 ○この川ゆ 「ゆ」は「を通つて」の意。「夷の長道ゆ戀ひ來れば」(二五五)參照。○渡り瀬ごとに どの渡場にも皆。○守る人あるを 見張番がゐて、怪しいものを通さぬやうにしてゐるのは困つたものであるの意。女の親兄弟などを譬へていふ。
 
    海に寄す
1308 大船の候《さもら》ふ水門《みなと》事しあらば何方《いづへ》ゆ君が吾《わ》を率《ゐ》凌《しの》がむ
 
〔譯〕 大船が船がかりをしてゐる湊で、何か事が起つたら(かうして二人が密かに逢つてゐて、若しも知れたら)何處へあなたは私を連れて遁げて下さるでせうか。
〔評〕 大船が靜かに泊つてゐる湊に異變が起るといふのは、相思の仲の秘密があばかれ、騷動がもちあがる、といふやうな氣分を暗示してをり、氣味の惡い空氣をはらんだ譬喩で、珍らしい着想である。併し上半のみが譬喩で、四五句は直敍法になつてゐるところ、巧妙な譬喩歌とは評し難いであらう。
〔語〕 ○大船の候ふ水門 大船の碇泊してゐる湊。○吾を率凌がむ 私を連れて凌ぎ避けてくださるであらうか。
(126)〔訓〕 ○大船 元暦校本による。諸本「大海」とあるも、解し難い。船では「寄海」の題に副はぬといふ全釋の説もあるが「一三一〇」の歌でも知られるやうに「寄海」とあつても必ずしも「海」の語を要するわけではない。
 
1309 風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しかるべし君がまにまに
 
〔譯〕 たとひ風が吹いて海は荒れても、船出を明日まで待つと云つたらば待ち通いでせう。(よしどんなことが起らうとも、躊躇してゐては堪へられません。)あなたのお心のままにおまかせします。
〔評〕 初二句は、何か故障の起りさうなことの譬喩として面白いが、三句以下は直敍法になつて居る。しかし切迫した感情がよく出てゐる。
 
1310 雲隱《くもがく》る小島《をじま》の神のかしこけば目こそ隔つれ心隔てめや
     右の十五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 雲に隱れた遠くの小島の神樣の畏れ多いやうに、見張りをしてゐる人が恐ろしいので、互に相隔つてゐて顔を見ることは出來ないけれども、心は何で隔てようか。いつも御身のことを思つてゐる。
〔評〕 荒海の沖の小島に鎭座する神は、航路の平安を護つて下さる神として、素朴な上代人は、非常な畏敬を感じてゐたことが想像される。隨つて近づき難く憚るべきものと思つてゐた。愛する女の背後に光つてゐる親や兄弟達の眼の恐ろしさをこれに譬へたのは、後世人の神に對する考からいへば、少しくどうかとも思はれるが、單純な上代人は異樣とも不都合とも感じなかつたのである。
〔語〕 ○雲隱る小島の神の 以上を序と見る説もあるが、女の父兄に比した暗喩である。○かしこけば 恐しいから。
〔訓〕 ○をしま 白文「小島」。こしまともよめる。○心隔てめや 白文「心間哉」ココロヘダテヤともよめる。
 
(127)    衣に寄す
1311 橡《つるばみ》の衣《きぬ》は人皆こと無しといひし時より着|欲《ほ》しく念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 橡染の着物を着る低い身分の人達は、寧ろ氣樂で、思ふ事も無い、と人が云ふのを聞いた時から、自分もいつそ橡の着物が着たくなつた。(こんな物思ひに惱むよりは、寧ろ賤者になつて、のんきでゐたいものである。)
〔評〕 當時賤者の用ゐた橡の衣を歌つたのは、文化史的の觀點から興味がある。橡の衣服を着て働いてゐる人には、生活苦といふ重壓はあつても、無智なるが故に精神的憂悶は無かつたわけで、その點を作者は羨んだのである。感情生活を至上のものとした上流階級の人の考へ方が明かに認められる。但、この歌は衣に取材したといふのみで、完全な譬喩歌の體を成してゐない。
〔語〕 ○橡の衣 橡は今いふドングリで、それで黒く染めた衣は、賤者の服である。○事なしと 煩悶憂患が無く、のんきであると。○いひし時より 人がいつた時から、即ち自分が聞いた時から。
〔訓〕 ○衣は人皆 白文「衣人皆」舊訓は「衣人者」の字面でキヌキルヒトハと訓んでゐる。
 
1312 おほろかに吾し念《おも》はば下《した》に著て穢《な》れにし衣《きぬ》を取りて著めやも
 
〔譯〕 竝大抵に自分が思つてゐるのならば、これまで下着にして、萎え古びた着物を、何の今更とりあげて、上に著ようか。(竝々に自分が愛してゐるのならば、古い馴染であるのを、今ことさらに妻に敍するものか、深く思つてゐるからなのである。)
〔評〕 長い間ひそかLに愛してゐた女を、正式の妻にしようとする時、男が自分の誠意を敍べたものである。
〔語〕 ○おほろかに なほざりに、好い加減に。○下に著てなれにし衣 長い間下着にして、くたくたになつた衣。(128)長い間、隱し妻としてゐた女を譬へていふ。○取りて著めやも 今更何のまあ上着として取りあげて着ようぞの意で、改めて正妻に迎へはせぬとの譬喩。
 
1313 くれなゐの深染《こぞめ》の衣《ころも》下に著て上に取り著ば言《こと》なさむかも
 
〔譯〕 紅で濃く染めた着物を、これまで下に着てゐて、今あらためて上に著たらば、定めて人がとやかくと噂することであらうよ。(今まで密かに通うてゐた女を、表向きに妻にしたら、さぞうるさい評判が立つであらうよ。)
〔評〕 これまで秘めてゐた女を、紅の色濃く染めた衣に譬へたのは、いかにも艶冶にして、女の風※[三に縱棒]が生き生きと浮んで來る。巧妙と評してよい。周圍の取沙汰を想像し、得意の中に幾分の危惧を交へてゐる作者の感情も如實に表現されてゐる。
〔語〕 ○くれなゐの深染の衣 若く美しい女に譬へてゐる。○言なさむかも 言は言葉。人がうるさくいひはやすであらうよ。
 
1314 橡《つるばき》の解濯衣《ときあらひぎぬ》のあやしくも殊に著欲《きほ》しきこの夕《ゆふべ》かも
 
〔譯〕 橡染の仕立直しの着物が、どうしたものか、今夜は特に着て見たいことであるよ。
〔評〕 上の「橡の衣は人皆こと無しと」(一三一一)の歌に根據を置いて、寧ろ物思ひの無い賤者になりたいと願つたのであらうか。嘗て意を通じて中絶えた身分のひくい女などを、ふと思ひ出して、急に戀しさが蘇つて來たといふやうな譬喩とも取れる。
〔語〕 ○解濯衣 解いて洗濯した衣、仕立直しの衣。○あやしくも 何といふ理由も分らず、不思議にも。○著欲しき 着ることの欲しい、即ち着てみたい。
 
(129)1315 橘の島にし居《を》れば河遠み曝《さら》さず縫《ぬ》ひし吾が下衣《したごろも》
 
〔譯〕 橘の島に住んでゐると、河が遠いので、自分のこの下着は、布を曝さずに縫つたのであつた。(自分は女をふと見そめたのみで、遠方であるから十分に見定めもしないで、すぐ妻にしてしまつたことである。)
〔評〕 表面の意は極めて明瞭であるが「曝さず縫ひし」をどんな意味に譬へてゐるかが明確にし難い。恐らく、何かの機會におほよそに女を見て、深くも調べずに妻と定めてしまつたことを、輕率として悔いてゐるのであらうか。
〔語〕 ○橘の島 「橘」は大和國高市郡大字橘で橘寺のある地。「島」は同じく高市村島の莊。但、下に「河遠み」とあるのに、實際は島の庄は飛鳥川に近いから、何等か誤があるかも知れないが、「島」とある詞のあやから「河遠み」と云つたのであらうか。○曝さず縫ひし吾が下衣 當時は布を衣に縫ふには、曝して縫ふのが普通であつたと思はれる。なほこの句の譬喩に就いては異説が多く、代匠記精撰本等は内密にして顯さぬ譬とし、古義は人遠く離れた地にゐた爲、仲媒を立てて妻としなかつた譬とし、全釋は女を見て深く究める事なく妻とした譬といつてゐる。姑く全釋の説に從つておく。
 
    絲に寄す
1316 河内女《かふちめ》の手染《てぞめ》の絲を絡《く》り反《かへ》し片絲にあれど絶えむと念《おも》へや
 
〔譯〕 河内の女が作る手染の絲を繰り返し繰り返しして、それは縒り合せぬ片絲ではあるが、案外強くて切れさうには思はれない。(私の戀は焦れに焦れて、それははかない片思ではあるが、思を遂げるまでは斷念しようとは思はないことである。)
〔評〕 綿々たる女性の戀情があはれである。絲に關した語が皆巧妙な譬喩となつて、そのまま心理の動きを表はすに(130)適つてゐるのも面白い。
〔語〕 ○河内女 河内の國の女。當時河内國で絲を多く産したものと思はれる。○手染の絲 自分で染めた絲。○片絲 縒り合せない絲で、所謂「ひとこ」の絲。片戀に譬へてゐる。但、仙覺は、深く思つてはゐるが、逢ふことのない譬といつてゐる。
 
    玉に寄す
1317 海《わた》の底しづく白玉風吹きて海は荒るとも取らずは止《や》まじ
 
〔譯〕 海の底に沈んでゐる白玉を、たとひ風がひどく吹いて海が荒れても、自分は取らずにはおくまい。(美しいあの女を、どんな甚しい故障や困難が起らうとも、自分のものとせずにはおくまい。)
〔評〕 萬難を排しても思ふ女を獲ようとする決意をのべて、詞句、格調共に勁健である。譬喩そのものは類想があり、敢へて清新とはいへないが、熱と力とに滿ちた丈夫振りといふべきである。「一三〇九」の歌と、三四句が同じい。
〔語〕 ○しづく白玉 深窓にゐる麗人に喩へてゐる。○海は荒るとも 親兄弟の反對、世間の批評などに譬へていふ。
 
1318 底清みしづける玉を見まく欲《ほ》り千遍《ちたび》ぞ告《の》りし潜《かづき》する白水郎《あま》
 
〔譯〕 海の水が清くて底まで見えるので、沈んでゐる玉を見たいと思つて、幾度も幾度も繰返して海の神樣にさう言つたことであつた、水を潜る海人は。(女が不同意でもなささうなので、度々親達に申し込んだことであつた。戀に苦勞してゐるこの自分は。)
〔評〕 「海神の持たる白玉見まく欲り千遍ぞ告りし潜する海人」(一三〇二)の類歌である。海神の持つてゐる白玉といへば、見ることの困難なことを現はし、從つて「千遍ぞ告りし潜する海人」が頗る生きて來るのであるが、今の歌(131)では「底清みしづける玉」とあつて、見ることも取ることも容易なやうに思はれる點、如何かと思ふ。相手の女の氣持に難色の無い意と取れば分るが、それにしても適切な譬喩とはいひ難い。「千遍ぞ告りし」は、やはり「海神に對して」であり、親達に申込んだ意である。
〔語〕 ○潜するあま 戀の爲に苦勞してゐる自分を譬へていふ。
 
1319 大海の水底《みなそこ》照らし石著《しづ》く玉|齋《いは》ひて採《と》らむ風な吹きそね
 
〔譯〕 大海の底を照らす程の光を放つて沈んでゐる玉を、自分は神に祈つて採らうと思ふ。風よ吹いてくれるな。(美しいあの女を、自分は妻にしようと思ふ。どうか邪魔が入らないでくれ。)
〔評〕 譬喩がそれぞれに適切な意味を表現してゐる。即ち、水底照らし石著く玉は、女の美しさをあらはし「大海」といひ「齋ひて採らむ」といつたのは、得ることの困難と、それに伴ふ危險とを思はしめるのである。
〔語〕 ○齋ひて 大切に思ひ物忌をして。神に祈ることを親達の機嫌を取るに譬へたとも見られよう。
〔訓〕 ○吹行年 略解所引の宣長説「所年《そね》」の誤と見たのに從ふ人が多い。舊訓は「行年」を去年の意としてコソとあるが無理である。この用字例は集中に「二九九」「一三六三」「一九七〇」「三二七八」及びここと五箇所あつて、悉く誤寫とすることは躊躇されるが、しばらく疑を存しておく。
 
1320 水底《みなそこ》に石著《しづ》く白玉誰ゆゑに心つくして吾が念《も》はなくに
 
〔譯〕 澄みわたつた水の底に沈んでゐる白玉よ、誰の爲に苦勞して自分はこれ程までに思つてゐるのでもないのである。(こんなに戀ひ焦れて思ふのも、そなた一人の爲なのである。)
〔評〕 愛する女に與へた歌であらう。譬喩としては愛人を白玉に比したのみで部分的に止まつてゐるが、切實で眞情(132)も籠り、敍述も迂餘纒綿の趣致がある。
〔語〕 ○水底に石著く白玉 美しい愛人に擬したことは勿論であるが、譬喩はそれだけで終り、以下は直敍法となつてゐる。○誰ゆゑに そなた以外の誰の爲に。○吾が念はなくに 上の「誰ゆゑに」に續いて、そなた以外の誰の爲にこれ程まで思ふのでもない、唯そなた一人の爲であるの意。「一三七五」參照。
 
1321 世の中は常かくのみか結びてし白玉の緒の絶ゆらく思へば
 
〔譯〕 世の中といふものは、常に皆このやうなものなのかなあ。しつかり結んでおいた白玉の緒が切れたことを思ふと。(あれ程しつかり約束しておいた戀人との仲が絶えてしまつたことを思ふと、頼み難い人情ではある。)
〔評〕 わが戀の破局から、世間の人情のはかなきに思ひ及んだのである。恨みつつ、かつ諦めようとする心もちが、靜かな語氣の中にさびしく漂つてゐる。
〔語〕 ○かくのみか 通常悉くこんなものなのか。○結びてし白玉の緒の 男女の約束に譬へたもので、解けぬやうに、しつかり誓つて結んだ筈の仲の意。○絶ゆらく思へば 切れたことを思ひあはせると。二人の仲に破綻の生じたことを思へばの意に譬へた。
〔訓〕 ○結びてし 白文「結大王」王羲之は有名な書家即ち手師であり、子の王献之と共に二王と呼ばれ、父を大王と稱したので、本集では「義之」又は「大王」と書いて、テシの表記に用ゐた。一種の戯訓である。「一三二四」參照。
 
1322 伊勢の海の白水郎《あま》の島津が鰒玉《あはびたま》取て後もか戀の繁けむ
 
〔譯〕 伊勢の海の海人の島津といふ者が、鰒の玉を取つたといふが、取りあげて後には、その玉の美しさに、それを愛でいつくしむ心が一層増すことであらうか。(自分は思ふ女を自分のものにしようとしてゐるが、手に入れて後は、(133)いよいよ戀しい思が増すことであらうか。)
〔評〕 逢うて後に戀心のいや増すことを想像した歌である。譬喩を伊勢の海の白水郎の島津に取つたのは、當時傳説として語られた話でもあつたのであらう。趣の深さうな取材であるが、今詳かにし難い。
〔語〕 ○白水郎の島津 考は白水郎を地名とし、島津を島の津としてゐるが、代匠記及び古義にある如く、島津を海人の名とし、島津といふ海人が珍しい眞珠を採つたといふ傳説があつたものと解するのが自然であらう。○鰒玉 鰒の中の玉、眞珠。○取りて後もか 取つた後も亦の意。
 
1323 海《わた》の底おきつ白玉|縁《よし》を無《な》み常かくのみや戀ひわたりなむ
 
〔譯〕 遠い沖に秘められた白玉が、取るべき方法も無いやうに、戀しい女は近づき難い處にゐて、容易に逢ふ方法も無いので、自分は常にこん風にまあ、空しく戀ひ續けてばかりゐることであらうか。
〔評〕 これも深窓にあるか、身分が違ふか、とにかく手の屆きにくい女を戀して悶々する意で、譬喩も類型的である。
〔語〕 ○海の底 「沖」の枕詞。前出「一二九〇」參照。○縁を無み 採るべき方法がないので。女に逢ふべき手段が無いのに譬へた。○戀ひわたりなむ 戀ひ續けることであらうか。
 
1324 葦《あし》の根のねもころ念ひて結びてし玉の緒といはば人解かあやも
 
〔譯〕 この玉の緒は、誠心こめて結んでおいた玉の緒であるといつたらば、どうして人がそれを解かう、誰も解き得はしまい。自分たち二人も、眞心こめて約束した深い仲であるといつたらば、誰が仲を裂かうぞ。
〔評〕 二人の戀の行末に一脈の不安を感じて、女の決心がややもすれば搖がうとするのを、勵まし慰めてゐる男の言葉とも取れる。併し又、既に外的事情によつて破局に至つた關係を惜しんで、これを相手の決意が十分でなかつたか(134)らであると恨んだ口吻と考へられぬでもない。ともかく男の歌であらう。
〔語〕 ○葦の根の 「ねもころ」に續く枕詞。「菅の根のねもころ我も」(七九一)等と同じく、同音「ね」の反復による修辭。○ねもころ念ひて 熱心に、一所懸命に思ひこんで。
〔訓〕 ○結びてし 白文「結義之」「一三二一」參照。
 
1325 白玉を手には纒《ま》かずに箱のみに置けりし人ぞ玉|詠《なげ》かする
 
〔譯〕 美しい白玉を手に卷いて愛用もせず、いつも箱の中にばかりしまひこんで置いた人が、遂には玉を悲しませることになるのである。(美しい女を、進んで我がものとしようともせず、親達の監視にのみ任せて置くやうな氣弱い人が、折角靡かうとしてゐる女を、歎かせ失望させる愚かな結果になるのである。)
〔評〕 戀愛に對し弱氣で逡巡してゐては、女をもどかしがらせ、結局は背き去られるのが常であらう。この歌はさうした男を嘲つたものか。自嘲とも取れば取れるが、恐らくさうではあるまい。或は世評を憚つて躊躇してゐる男に逢ふことを促した女の歌かとも考へられる。但、結句に異訓があるので、上の解も確定的なものとは云へない。
〔語〕 ○手には纒かずに 手玉として纒かないで。女を妻として手に入れないに譬へた。○箱のみに置けりし人 箱の中にばかり入れて置いた人。女を大切には思つてゐたが、積極的に行動しないで躊躇してゐる譬と思はれる。○玉なげかする 玉を嘆かしめるの意で、此方に意のある女を落膽させる譬と取れる。
〔訓〕 ○玉詠かする 白文「玉令詠流」「詠」は元暦校本、類聚古集、細井本等に據る。通行本は「泳」とあるが解し難い。「泳」により、クマオボレスルとよんでゐるが、語を成さない。
 
1326 照左豆《てりさつ》が手に纒《ま》き古《ふる》す玉もがもその緒は替《か》へて吾が玉にせむ
 
(135)〔譯〕 照左豆が手に卷いて、古くから持つてゐる玉でもまああればよいがなあ。さうしたらその古い緒は取り替へて、自分の玉にしよう。(あの人の以前から連れ添うてゐる妻が、別れて此處へ來ればよいがなあ。さうしたら縁を結び直して、自分の妻としように。)
〔評〕 初句に疑問があるので、明解が得られない。夫に棄てられて家に歸つてゐた女が、やがて他に再嫁したのに、それを知らないで或男が自分の妻にしたいと望み、その父母に請ひ贈つたといふ「しら珠は緒絶しにきと聞きし故にその緒また貫き吾が玉にせむ」(三八一四)といふ歌がある。今の歌も大體これに比して解すべきであらうか。
〔語〕 ○照左豆 難解の語であた。考には、玉の輝くをてるといひ、きつは幸人の意、轉じて賣る人をさつと言ふ、從つて玉商人の意と解した。恐らく何か傳説を伴ふ人の名であらう。○手に纒き古す 久しい前から手に纒いてゐるの意で、長く連れ添ふ女に譬へたのであらう。○その緒は替へて 玉の緒を附け換へて。縁組をし直しての譬。
 
1327 秋風は繼《つ》ぎてな吹きそ海《わた》の底おきなる玉を手に纒《ま》くまでに
 
〔譯〕 秋風はどうかつづいて吹くな、沖にある玉を首尾よく取つて、自分が手に卷きつけるまでは。(願はくは次々と故障が起らないでくれ、あの得難い女を何とかして我が手にをさめるまでは。)
〔評〕 譬喩は極めて明瞭でよく徹してゐる。しかし女を海中の玉に比してゐるのは、類型的表現で、新鮮味に缺けた感がある。
〔語〕 ○秋風は 秋は特に激しい風が多いので、種々の障礙に擬した。○海の底 「沖」の枕詞。「一三二三」參照。
 
    日本琴《やまとこと》に寄す
1328 膝に伏す玉の小琴《をごと》の事なくははなはだ幾許《ここだ》吾戀ひめやも
 
(136)〔題〕 日本琴 所謂|和琴《わごん》で、日本固有の琴の發達したもの、六絃である。「八一〇」の題詞參照。
 
〔譯〕 膝の上にのせて彈く玉の小琴、その「こと」といふ言葉のやうに、何事も無いならば、こんなにひどく、なんで自分があの女を戀ひ慕はうか。故障が多いから、これほど焦慮してゐるのである。
〔評〕 「日本琴に寄す」とあるが、琴はただ序に用ゐてゐるのみで、完全な譬喩歌にはなつてゐない。しかし小琴の事、はなはだ、幾許、と層々韻を重ねて敍し來つたところに音調上の面白さがあり、第五句の勁健な語法が巧に一首を結收して頗る効果を擧げてゐる。
〔語〕 ○膝に伏す玉の小琴の 「事」につづく序。同音「こと」を反覆したもの。「伏す」は、ここでは載せる意。○事なくは 障礙が無ければ。○はなはだ幾許 同義語を反覆強調したもの。
 
    弓に寄す
1329 陸奧《みちのく》の安太多良眞弓《あだたらまゆみ》弦《つら》著《は》けて引かばか人の吾《わ》を言《こと》なさむ
 
〔譯〕 陸奧の安太多良で作つた弓に、弦をかけて引くが、ちやうどそのやうに自分があの女を引き寄せたらば、人が自分のことを、とやかくと言ひ騷ぐであらうか。
〔評〕 これも三句までは序で、純粋な譬喩歌とはいひ難いが、取材の特異な點で面白い。東歌の中に「みちのくの安太多良眞弓|彈《はじ》き置きて撥《せ》らしめきなば弦著かめかも」(三四三七)また古今集卷二十に「みちのくの安達の眞弓わが引かば末さへ寄りこ忍び忍びに」とあるのも同じ系統の歌であらう。
〔語〕 ○安太多良眞弓 安太多良は今の福島縣安達郡二本松附近。「あだたらの峰に臥す鹿猪《しし》の」(三四二八)とも見える。安太多良眞弓はそこで作る。○弦著けて 弓に弦を張つて、「九九」參照。○吾を言なさむ 自分をとかく噂するであらう。「一三一三」參照。
 
(137)1330 南淵《みなぶち》の細川山に立つ檀《まゆみ》弓束《ゆづか》纒《ま》くまで人に知らえじ
 
〔譯〕 南淵の細川山に生えてゐる檀の木を伐つて弓に造り、弓束に握革などを卷いて立派に仕上げるまでは、人に知られないやうにしておかう。(あのかはゆい女を手に入れて、すつかり自分のものにしてしまふまでは、人に感づかれないやうにしよう。)
〔評〕 南淵附近に住んでゐた男の作であらう。これによつて細川山の檀でよく弓を作つてゐたことが想像されるし、この男もさうした職業の人であつたかとも思はれる。さう見るとこの譬喩は一層切實味を帶んで生きて來る。とにかく清新にして且適切な譬喩である。
〔語〕 ○南淵の細川山 南淵は大和國高市郡にあり今稻淵といふ。細川山は島庄の東方にある。○立つ檀 生えてゐる檀の木。檀は衛矛《にしきぎ》科に屬し、上古弓材として多く用ゐられた。皮は紙の原料とする。○弓束纒くまで 弓束は弓の「にぎり」の部分で、ここに革を卷く。弓束を卷けば弓は完成するので、女を全く自分のものとするに譬へた。
 
    山に寄す
1331 磐疊《いはだたみ》かしこき山と知りつつも吾は戀ふるか同等《なみ》ならなくに
 
〔譯〕 重疊した岩石から成る恐しい山のやうな、身分高く近づき難い人とは知りながらも、自分は戀ひ慕つてゐることである。比較にもならない身分でありながら。
〔評〕 身分の高い相手に擬したこの譬喩は、近寄り難い氣持を表はしたものとしては、或は適切といへようが、あまりにいかつ過ぎて、戀愛的情趣にはそぐはぬ感がないでもない。結句は説明に陷つてをる。
〔語〕 ○磐疊 重疊した岩石。○かしこき山 恐しい山。嚴めしく近寄りにくい身分のたかい人に譬へた。○なみな(138)らなくに 同等の地位でもないのに。
 
1332 磐が根の凝《こご》しき山に入り初《そ》めて山なつかしみ出でかてぬかも
 
〔譯〕 岩石のごつごつと嶮しく重なつてゐる山に立入りかけて苦しくあるが、一方では又、山の景色が美しく懷かしいので、出るに出かねてゐることである。(身分の高い人に戀をして、威壓を感じながらも、その人の優しさ懷かしさゆゑに、自分は思ひ切ることが出來ないのである。)
〔評〕 これも、身分のよい相手に戀する人の複雜な心境を歌つたものである。譬喩は平明で、四五句には優婉な情緒も流れてゐる。
〔語〕 ○磐が根の凝しき山 貴い人に對する畏怖の感を喩へてゐる。○出でかてぬかも 山から出でかねるの意。この戀を斷念しかねるに譬へた。
 
1333 佐保山を凡《おほ》に見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ
 
〔譯〕 これまで自分は佐保山を氣にもとめずに見てゐたけれども、今よく見ると、まことに美しい懷かしい山ではある。風よ、吹いて山の木立を吹き荒らすな。(今まで自分は、あの女をただ一通りに見てゐたが、今見ると、なつかしい女である。どうか自分の戀を誰も邪魔しないでくれよ。)
〔評〕 さほどに思はなかつた女を、何かの機會に急に見直して、その美點を發見したといふ微妙な心理が、譬喩を以て無造作に詠みなされてゐる。但、結句は譬喩の方はよく分るが、表の意からは聊か難解唐突の感があつて、後世から見れば表現不足との非難も挿み得るが、そこに古人らしい簡素な味があるともいへよう。
〔語〕 ○佐保山 奈良市法蓮町の北方の丘陵。ここでは女に譬へてゐる。○おほに見しかど 一通りに見てゐたが。(139)作者は日常佐保山を見てゐた近くの里人であらう。○風吹くなゆめ 風よ決して吹くな。花や紅葉にさはらぬやうにと、風に誂へたのであらうが、言葉がいひ足りない。
 
1334 奧山の石《いは》に蘿《こけ》生《む》し恐《かしこ》けど思ふ情《こころ》をいかにかもせむ
 
〔譯〕 奧山の巖に蘿が一ぱい生えて物々しく恐しげに見えるやうに、あの人は身分が高くて畏れ多いけれども、慕はしく思ふこの自分の心を、何とまあしたものであらうか。
〔評〕 目上の人を戀ふる歌で、思ひあまつた眞率の聲があはれである。葛井廣成の「奧山の磐に蘿むし恐くも問ひたまふかも思ひ敢へなくに」(九六二)と、一二三句が似てゐる。蘿むした岩には、一種神秘な感じを上代人はいだいたことが、これらの歌から想像される。
〔語〕 ○奧山の石に蘿むし 譬喩歌の中に收めてあるので高貴の人に對する畏怖の念に擬したと見られるが、表現形式からいへば、寧ろ「かしこけど」に續く序と見るべきである。
 
1335 思ひあまり甚《いた》もすべ無み玉襷《たまだすき》畝火《うねび》の山に吾《われ》標《しめ》結《ゆ》ひつ
 
〔譯〕 自分は思ひあぐんで全く何とも仕方が無さに、たうとう畝火の山に、自分のものとして標を結つてしまつたことである。(戀しくて仕方が無いので、自分は前後の分別も忘れて、身分の高い女をわがものとしたことである。)
〔評〕 これは男の作で、身分の高い女を思うて、思を遂げた滿足と同時に、己がおほけなさを反省しての一脈の危惧もある。複雜した心境が四五句の譬喩の中によく窺はれる。
〔語〕 ○畝火の山 神聖なる山として貴人になぞらへたもの。○吾標結ひつ 女をわが手に入れたことの譬喩。標は「一一五」參照。
 
(140)    草に零す
1336 冬ごもり春の大野を燒《や》く人は燒き足らねかも吾が情《こころ》熾《や》く
 
〔譯〕 春の廣い野原の草を燒いてゐる人は、草だけでは燒き足りないからなのか、この自分の心までも燒いて焦れさすことである。
〔評〕 あかあかと燃え移つてゆく春の廣野の野火の炎に眺め入りつつ、人戀しさに我が胸の火も燃えさかつてゐるうら若い人の姿が目に浮ぶ。わが胸の焦るる苦しさを、無關心な野火燒く人におほせたところ、奇警にしてしかも自然を失はない。民謠風ではあるが、眞に愛すべき高調である。
〔語〕 ○冬ごもり 「春」の枕詞。「一六」參照。○燒き足らねかも 燒き足らねばかもの意。
 
1337 葛城《かづらき》の高間《たかま》の草野《かやの》早|領《し》りて標《しめ》指《さ》さましを今ぞ悔しき
 
〔譯〕 葛城の高間の草原を早く自分のものにして、標を立てて置くべきであつたのに、人に取られてしまつて、今になつて悔しいことである。(あの女を早くわがものにして置くべきであつたに、逡巡して他人に取られてしまつて、今更殘念なことではある。)
〔評〕 己が氣弱さから逡巡してゐる間に、他人に奪はれてしまつたのである。譬喩は平明、格調も流麗であるが、結句は説明に墮し、切實の味に乏しい憾がある。
〔語〕 ○葛城の高間の草野 葛城の高間は葛城山の中腹の高原で、今葛城村大字高間といふ地。草をカヤと訓むのは屋根の葺料にする萱の意であり、それを産する野がカヤノである。「みちのくの眞野の草原」(三九六)參照。○標指さましを 標を立てて置けばよかつたのに、さうしなかつたの意。「指す」は立てること。
 
(141)1338 吾が屋前《には》に生《お》ふる土針《つちはり》心ゆも想《おも》はぬ人の衣《きぬ》に摺《す》らゆな
 
〔譯〕 自分の家の庭に生えてゐる土針よ、お前を心から思ひもせぬ人の着物を染める爲には、決して用ゐられるな。(自分のかはゆい女よ、お前を心から愛してもゐない人などに靡くなよ。お前を心から愛してゐるのは自分より外には無い筈であるに。)
〔評〕 土針を詠んたのは、集中この一首のみである。これで土針が染色の料に用ゐられたことが分つて、文化史的に面白い。歌としては、この譬喩はよく消化されてゐるとはいひ難いが、擬人法など用ゐた稚拙さの中に、素朴な眞實味があつてよい。
〔語〕 ○土針 今ツクバネサウといふ。百合科の多年生草本で莖の高さ四五寸。初夏の頃莖頂に一箇の四辨花を開く。色は淡黄緑色で各地の山野に自生する。
 
1339 鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》色どり摺らめども變《うつろ》ふ色といふが苦しさ
 
〔譯〕 鴫頭草の花で私の着物を美しく摺つて染めようと思ふのであるが、鴨頭草で染めたのはさめ易い色であるといふのが、つらいことです。(私はあなたのお心に從ひたいとは思ふのですが、變り易いお氣性であると聞いてゐるので困ります。)
〔評〕 男の戀を受け容れようとしつつ、行末を思つて躊躇してゐる女の歌である。優婉な詞句、流麗な格調の間に素直な女らしい純情が見える。
〔語〕 ○鴨頭草 今いふ螢草のこと。「五八三」參照。
 
(142)1340 紫の絲をぞ吾が搓《よ》るあしひきの山橘を貫《ぬ》かむと念《おも》ひて
 
〔譯〕 紫の絲を自分がかうしてよつてゐるのである、山橘の實を玉などのやうに此の美しい絲に貫き通さうと思つて。(あの美しい女を自分のものにしようとして、いろいろ苦しみ惱んでゐることである。)
〔評〕 この譬喩は巧妙である。色麗しい藪柑子と、紫の絲との配合が美しいばかりでなく、佳人に戀して樣々に思ひ惱むといふ花やかな苦勞を、紫の色絲を搓ることに比したのは、實に象徴的である。
〔語〕 ○山橘 藪柑子のこと。「六六九」參照。○ぬかむと念ひて 女を自分のものにすることに譬へた。
 
1341 眞珠《またま》つく越《をち》の菅原《すがはら》吾《わが》苅らず人の苅らまく惜しき菅原
 
〔譯〕 あの越の菅原は、自分は苅らずに、他人が苅ることになつては、まことに惜しい菅原である。(あの美しい女を自分は我がものにしないけれども、人に取られるのは如何にも惜しいことである、あの女は。)
〔評〕 譬喩は清新であり、聲調も流麗、殊に二句と結句との繰り返しがよく利いてゐる爲、全體が強く引締つてゐる。
〔語〕 ○眞珠つく 「越」の枕詞。玉をつける緒の意で「ヲ」の一音につづく。○越の菅原 「越」は「玉だれの越野《をちの》」(一九五)とある大和國高市郡の野か、「息長《おきなが》の越《をち》の小菅」(三三二三)とある近江國坂田郡の地か、明かでない。
 
1342 山高み夕日隱りぬ淺茅《あさぢ》原|後《のち》見むために標《しめ》結《ゆ》はましを
 
〔譯〕 山が高いので、夕日が隱れてあたりの景色も見えなくなつてしまつた。あの淺茅の生えた原の景色を、また後に來て見る爲に、標を張つて置けばよかつなのに殘念なことをした。(親達の守りが嚴しいので、そのままあの女との縁は切れてしまつた。あとで親しい仲になる爲に、しかと約束をして置けばよかつたものを、惜しいことをした。)
(143)〔評〕 女を淺茅原になぞらへ、飽かずして別れた心殘りを、夕日が隱れてしまつたことに思ひ寄せて惜しんだのである。譬喩としては類型のない珍らしい表現であるが、情緒的にはあまりぴたりと來ぬ憾がある。
〔語〕 ○淺茅原 茅のまばらに生えた原。「三三三」參照。ここは女に譬へてゐる。○後見むために あとで再び來て眺める爲に。後に心とけて親しい仲にならうが爲にの譬。○標結はましを 占有したしるしに繩を張つておけばよかつたものを、さうはせずに殘念であるの意。「標指さましを」(一三三七)參照。
 
1343 言痛《こちた》くは左《か》も右《か》もせむを石代《いはしろ》の野邊の下草吾し苅りては 【一に云ふ、くれなゐのうつし心や妹にあはざらむ】
 
〔譯〕 人が何とかいつたらば、その時は何とでもしようよ、石代の野邊の林の下草を自分が苅り取つてしまひさへすればよいのだ。(世間の噂がうるさくなつたら、その時はその時。あのかはゆい女を手に入れてしまひさへすれば。)
 一に云ふ。人がとやかく云つたら、その時は何とでも方法があらうに、正氣ではまあ自分は、女に逢はないでゐなければならないのであらうか。
〔評〕 本文の歌は完全な譬喩歌で、筋もよく通り、調子も整つてゐる。一に云ふの方は、異傳といふよりも、全く別の歌であつて、これは枕詞に用ゐた「くれなゐ」が纔に草の名であるのみで、殆ど題意に外れてゐる。この點から見てもこの一首は、別の歌として他に移すべきものと思はれる。
〔語〕 ○言痛くは 人の噂がやかましくなつたら。「一一四」參照。○左も右もせむを ともかくもしよう。何とかしよう。「を」は、ここは詠歎のみで反戻の意はない。但、一に云ふの歌では反戻である。○石代の 「磐代の岡」(一〇)と同處と思はれる。紀州日高郡。○吾し苅りては 自分さへ苅つてしまへば、もう此方のものである、あとはどうともなれの意。強い假定條件の語のみを示して終結を省略した形である。○くれなゐの 「うつし心」の枕詞。花の汁を紙に染めておいて染料にするを「寫し」といひ、鴨頭草が普通に用ゐられたが、この歌の如く紅花や、又「一三六二」(144)に見えるやうに鷄頭花も用ゐられた。○うつし心や妹にあはざらむ 自分は女に正氣では逢はずにゐることであらうか。夢でしか逢へぬといふのか。人目を恐れて逢はぬ女を恨む心持である。又、逡巡して逢はなかつたのは正氣であつたとも思はれないと、その時の自分の心弱さを、あとで悔しがつてゐるとする解もあらう。
 
1344 眞鳥《まとり》住む卯名手《うなて》の神社《もり》の菅《すが》の根を衣《きぬ》にかき著《つ》け著《き》せむ子もがも
 
〔譯〕 鷲の住む卯名手神社の森の菅の根をとつて、着物に摺り染めつけて、着せてくれる女はゐないものかなあ。
〔評〕 「眞鳥住む卯名手の神社」は、何となく恐ろしい感を起させるが、何故に特にこの地に限定したのかは明かでない。神聖な靈地として恐れられた故に、得難い戀を暗示するものでもあらうか。着せてくれるのをただ親切として待つのか、菅の根で染めるのが何か意味があるのか、民俗がありさうで不明である。
〔語〕 ○眞鳥住む 眞鳥は袖中抄には鵜の別名とあるが、仙覺抄に鷲とあるのがよい。枕詞ではない。○卯名手 今、大和國高市郡金橋村に屬してゐる。出雲國造神賀詞に「事代主命 能御魂 乎宇奈提 爾坐」云々と見えてゐる。○菅の根を 菅の根を果して染料としたか否か疑はしいので「實」の誤ではないかといふ説もある。
 
1345 常ならぬ人國山の秋津野《あきつの》の杜若《かきつばた》をし夢《いめ》に見しかも
 
〔譯〕 人國山の麓のあたり、秋津野に美しく咲いてゐる杜若を自分は夢に見たことである。(あの懷かしい人妻のにほやかな姿を、自分は夢に見たことである。)
〔評〕 秋津野のあたりに住む人妻をひそかに戀してゐる歌であらうか。單純な表現で的確な事情はわからないが、何となく優婉で、匂やかな若い女性の姿が想見される。
〔語〕 ○常ならぬ 枕詞。人は無常なものであるから「常ならぬ人」と續く。○人國山の秋津野 秋津野は吉野にあ(145)る。「三六」參照。人國山もその附近であらうが、今は同名の山は無い。大日本地名辭書に、紀伊西牟婁郡田邊町の北に上秋津下秋津あり、その西、萬呂村に人國山ありともいふが、それはこの歌による後人の作爲かも知れず、遽かに信じ難い。
 
1346 をみなへし生《お》ふる澤邊の眞田葛《まくず》原|何時《いつ》かも絡《く》りて我が衣《きぬ》に著む
 
〔譯〕女郎花の生えてゐる澤のほとりの眞葛原の、その葛をいつまあ手繰り集めて、自分が着物にして着ることであらうか。(あの優しい女を、いつ妻にすることが出來るやら、早くさうしたいものである。)
〔評〕 葛布の材料たる葛を女に譬へてゐるのは、如何にも田園の匂が強い。恐らく作者の生活に即した表現であらう。
〔語〕 ○眞田葛原 葛を女に譬ふ。○くりて 手繰り寄せ、採り集めて。葛の繊維は葛布の材料として用ゐられた。
〔訓〕 ○をみなへし生ふる澤邊の 白文「姫押生澤邊之」古義は「をみなへし味澤に生ふる花がつみ」(六七五)「をみなへし咲野に生ふる白躑躅」(一九〇五)などに據つてヲミナヘシサキサハノベノと改訓した。これによれば、ヲミナヘシは枕詞で、サキサハは地名であらうが、そのサキを大和添上郡即ち奈良に近い佐紀とすることは、「六七五」等の場合と同樣、にはかには決しがたい。
 
1347 君に似る草と見しより我が標《し》めし野山の淺茅人な苅りそね
 
〔譯〕 あのお方に似た草であると思つて以來、私が懷かしく思つて標をしておいた野山の淺茅である、この淺茅を、人よ刈らないでくれ。
〔評〕 淺茅は別に美しいものでもなければ、特に風情があるといふやうにも思はれないのに、君に似るといつたのはどんな點であらうか。秋になつて色づいたのを女の紅顔に見なしたといふ代匠記・略解・古義等の説も、自然らしく(146)ない。家持が妻に誂へられて作つた「妹に似る草と見しより吾が標めし野邊の山吹誰か手折りし」(四一九七)は明かにこの歌の模倣であるが、山吹ならば妹に似るが極めて自然に感じられるのである。
〔語〕 ○野山の淺茅 代匠記精撰本には、野山は野中の山の意と解してゐるが、月を「月夜」といふに同じく、「山」は添へた語、と解してよい。
 
1348 三島江の玉江の薦《こも》を標《し》めしより己《おの》がとぞ念《おも》ふいまだ苅らねど
 
〔譯〕 三島江の美しい入江に生えてゐる薦を、標をして以來、確かに自分の物であると思つてゐる。まだ苅りはしないけれども。(美しいあの女と約束をしてからは、間違なく自分のものと信じてゐる、まだ結婚はしないけれども。)
〔評〕 譬喩がよく生かされて居る。悠揚たる調子も上品であり、四五句の倒置で一首を引締めてゐるのもよい。
〔語〕 ○三島江の玉江 三島江は攝津三島郡、今の三箇牧村。玉江は入江の美稱。「三島江の入江の薦を」(二七六六)ともある。
 
1349 斯《か》くしてやなほや老いなむみ雪ふる大荒木野《おほあらきの》の小竹《しの》にあらなくに
 
〔譯〕 かうしてやはりまあ、私はあのお方に顧みられもせず、空しく年をとつてしまふことであらうか。雪降り積る大荒木野に生えて苅り取る人もなく枯れて行く篠ではないが。
〔評〕 年久しく片戀に歎いてゐる女の歌と思はれる。且欺きつつ半ばはあきらめたやうな心持もほの見え、切々としてあはれである。「かくしてや猶や守らむ大荒木の浮田の社の標ならなくに」(二八三九)とあるのは、いづれかが原歌であらう。また古今集卷十七の「大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず苅る人もなし」も、これに據つたものと思はれる。
(147)〔語〕 ○み雪ふる 實景であつて、枕詞ではない。○大荒木野 大和國宇智郡宇智村大字今井。五條の東に當る。
 
1350 淡海《あふみ》のや矢橋《やばせ》の小竹《しの》を矢著《やは》かずて信《まこと》ありえめや戀《こほ》しきものを
 
〔譯〕 近江の國の矢橋の篠を矢に作らないで、ほんに自分がどうしてゐられようか。(あの美しい矢橋の少女を、妻にせずにはどうして居れらよう、心から戀しいものを)。
〔評〕 矢橋の小竹は矢を矧ぐに特によかつたものと思はれる。小竹を女に譬へ、これを得ようとする熱情を述べたもの。結句は直敍となつて暗喩を破つてゐる。かやうな例は集中に珍らしくない。
〔語〕 ○矢橋 琵琶湖畔、勢田の北方一里の地にある。○矢著かずて 矢に作らないで。○まことありえめや ほんにゐられようか。
 
1351 鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》は摺《す》らむ朝露にぬれての後は變《うつろ》ひぬとも
 
〔譯〕 美しいつき草の花で、私の着物は摺つて染めよう。朝露にぬれた後は、たとひ色があせて變らうとも、それは仕方がないわ。(あの立派なお方に私は是非添ひたい。一緒になつた上は、よしや多少の浮氣はなさらうとも。)
〔評〕 前出の「つき草に衣色どり摺らめどもうつろふ色といふが苦しさ」(一三三九)は、將來の不安に對する用心深い女性の本能があらはれて、極めて自然であるが、この歌は一途な戀の情熱に、もはや一切のものを踏み越えて、ひたぶるに進まうといふ、これまた女性心理の一面である。しかしそれが譬喩歌であるだけに、灼けるやうな烈しさでなく、餘程上品になつてゐる。
〔語〕 ○うつろひぬとも 男の心が少しくらゐ變らうともの意に喩へた。
 
(148)1352 吾が情《こころ》ゆたにたゆたに浮蓴《うきぬなは》邊《へ》にも奧《おき》にも依りかつましじ
 
〔譯〕 私の心はふわりふわりと浮動して、浮いた蓴菜《ぬなは》が岸にも沖にも寄ることが出來ないやうに、思ひ定められさうにもないことである。
〔評〕 戀に惱む心の動搖を、水中に漂ふ蓴菜に譬へたのは適切であつて、作者が田園の人たることを思はせる。歌調のたをやかにして甘美な點から見ると、恐らく女性の作であらう。
〔語〕 ○ゆたにたゆたに ゆれただよふ樣子で。「ゆた」は寛かで、ゆるやかに長閑な意。「たゆた」はたゆたふの語幹で、所定めず漂ふの意と説かれる。○浮蓴 浮いてゐる蓴菜。ジュンサイは睡蓮科蓴屬の多年生水草、沼池などに生え、若い莖葉は柔かで、食料となる。○依りかつましじ 依ることが出來ないであらう。
〔訓〕 ○ましじ 白文「益士」舊訓マシヲ。橋本博士の説によつて、マシジが學界の定訓となつた。
 
    稻に寄す
1353 石上《いそのかみ》布留《ふる》の早田《わさだ》を秀《ひ》でずとも繩《なは》だに延《は》へよ守《も》りつつ居《を》らむ
 
〔譯〕 石上の布留にある早稻の田を、まだ穗は出なくても、標繩だけでも張つてお置きなさい。人に荒されないやうに。私はしつかり番をしてゐませうから。(まだ少し若い娘ではあるが、約束だけして置いて下さい。さうしたら私は、人に取られぬやうによく警戒して居りませう。)
〔評〕 まだ若過ぎる娘を持つ母親が、その娘に思ひをかけてゐる男に贈つた歌であらう。全體が素朴で、その譬喩も農人らしく面白い。恐らく民謠として傳誦されたもので、「あしひきの山田作る子秀でずとも繩だに延べよ守ると知るがね」(二二一九)を、石上地方でかく直して歌つたのであらうと思はれる。
(149)〔語〕 ○石上布留の早田を 「石上布留」は大和國山邊郡、今の丹波市町の内。「四二二」參照。「早田」は早稻を植ゑた田、結婚にはまだ若過ぎる娘に譬へた。この句は五句につづく。○秀でずとも まだ穗は出なくても。まだ婚する時期には至らずともの譬。○繩だに延へよ 我が領有のしるしとして標繩だけでも張つて置くやうにの意で、約束だけでも固めておくがよいとの譬。
 
    木に寄す
1354 白菅《しらすげ》の眞野《まの》の榛《はり》原心ゆも念《おも》はぬ吾《われ》し衣に摺《す》りつ
 
〔譯〕 白菅の生えてゐる眞野の萩原を、心から思つてもゐなかつた自分が、ふとしたはずみで、その萩の花を手折つて着物に摺つてしまつたことである。(さして心に留めてゐたわけでもない自分が、ふとした縁で遂に妻にしてしまつたことである。)
〔評〕 思ひもかけぬ女と契を結ぶことのあるのは、古今共に變りはない。この歌もさうしたことのあつた男が、自らを驚き怪しんだもので、心もちが素直に表はれてゐる。
〔語〕 ○眞野の榛原 攝津國武庫郡、今は神戸市の中に入る。榛は萩の借字である。「二八〇」參照。しかしてここの原は、月の意に月夜、菅の意に菅の根といへるが如く、接尾辭的である。○心ゆも 心の底から。○衣に摺りつ 女を妻にしたことに譬へいふ。
〔訓〕 ○吾 「吾」は元暦校本等に據る。通行本「君」とあり、袖中抄にも「白菅の眞間の榛原心にもおほはぬ君が衣にぞする」とあるので「君」に作る古本もあつたのであらうが、今は採らない。
 
1355 眞木柱《まきばしら》つくる杣人《そまびと》いささめに假廬《かりほ》の爲と造りけめやも
 
(150)〔譯〕 檜の柱をつくる杣人は、それを唯かりそめに、ほんの假小屋を建てる爲と思つて造つたであらうか。いや、さうではない、立派な家を建てる爲である。(自分が、そなたに向つていふ言葉は、かりそめに好い加減のお座なりを言つてゐるのであらうか。いや、さうではない、行末かけて變らぬ堅い心を語つてゐるのである。)
〔評〕 わが戀の眞實を眞木柱に比した譬喩は、聊か難解の憾無しとしないが、奇警であり、三句以下もよい。
〔語〕 ○眞木柱 檜の柱。○いささめに 卒爾に、かりそめに。○造りけめやも 造つたであらうか。反語。
 
1356 向つ峯《を》に立てる桃の樹《き》成らめやと人ぞ耳言《ささめ》きし汝《な》が情《こころ》ゆめ
 
〔譯〕 向ひの峰に立つてゐる桃の樹に實はなるが、あの二人の戀は成らうか、成りはしまいと、他人がひそかにかげ口をきいてゐた。お前は、心をしつかり締めてゐなければいけない。
〔評〕 一般には、三句をナラムヤトと訓んで、男と女との關係が既に出來てゐるのを知らぬ他の男が、その女に戀をして、自分の戀の成否を男に問ひ試みたので、問はれた男は、女に戒心せよといつたものと解してゐる。さうした複雜な經緯を推察できぬこともないが、あまりに持つて廻つた解釋である。反語に訓めば比較的らくに筋が通り、二人の仲に水を差すやうなかげ口のあることを耳にして警戒したものとして、穩かに解せられる。
〔語〕 ○向つ峯に立てる桃の木 譬喩歌の中に入れてはあるが、これは普通の譬喩とはいひ難く、序とする古義の説がよい。桃の果實の生《な》るのを戀の「成る」に懸けたのである。○人ぞささめきし 他人がこそこそと噂してゐた。○汝がこころゆめ そなたの心をしつかりもて、油斷するなの意。
 
1357 足乳根《たらちね》の母のその業《なり》の桑すらに願へば衣《きぬ》に著るといふものを
 
〔譯〕 母がその手業として蠶を飼つてゐる桑でさへも、そのつもりで努めれば、着物にして着ることが出來るといふ(151)のに。(得難いあの女でも、熱心に手を盡して見たらば、妻にすることが出來ないこともあるまい。)
〔評〕 作者は、養蠶にいそしんでゐる母と共にゐる若者であらう。田園生活に即した歌である。蠶を養ふ桑がやがて着物になるといふのは、如何にも幼い朴直な上代人らしい考で、作者は奇蹟的に見てゐるのである。さうして、かやうな不思議が行はれるのに、自分の戀が叶はぬといふことがあらうかと、強い信念を以て叫んだのである。張り切つた情熱的な歌調にも、どことなく實直な若さが漂つてゐる。
〔語〕 ○たらちねの 「母」の枕詞。「四四三」參照。○母のそのなりの 母がその仕事としてゐる。業はここは職業といふほどの強い意ではない。○桑すらに 桑でさへも。桑の葉で蠶を飼ふから、桑が衣になると見て訝つたものと思はれる。○願へば 我が心に願つて努力すれば。○衣に 衣になつて。この「に」は動作作用の結果、一つの物が或物に作り上げられる意。「吾戀は吉野の河の霧に立ちつつ」(九一六) なども同樣である。
 
1358 愛《は》しきやし吾家《わぎへ》の毛桃《けもも》本《もと》しげみ花のみ咲きてならざらめやも
 
〔譯〕 懷かしい我が家にある毛桃の木は、幹が茂つて、美しい花が咲いてゐるが、花ばかり咲いて、實のならぬといふことがあらうか。(かはゆい自分の意中の人は、ただ約束ばかりで終るといふことがあらうか、必ず二人の戀は成就させずにはおかない。)
〔評〕 美しく明朗な譬喩が、甚だ適切である。四五句の強い語調には確信がこもつて、頗る男性的氣魄がある。
〔語〕 ○はしきやし 代匠記精撰本は桃をほめる詞とみてゐるが、古事記、倭建命の國偲歌にも「はしきやし吾家の方よ雲居立ち來も」とあつて「吾家」に續けたとする説がよい。「六四〇」參照。○毛桃 桃の一種、外果皮に毛茸が多く、かつ大きい。○本しげみ 幹が繁茂して。以上序と見る説が多いが、全體が毛桃を中心としてゐるから序とはいへない。完全な譬喩歌と見るべきである。
 
(152)1359 向つ岡《を》の若楓《わかかつら》の木|下枝《しづえ》取り花待つい間《ま》に嘆きつるかも
 
〔譯〕 向ひの岡の若い楓の木の下枝を、自分は手に取り持つて、花の咲くのを待つ間に、待ちかねて嘆いたことである。(自分はまだ年若い女を戀ひ慕つて、その成長して妻に迎へる日を待つのが待ち遠いので、歎き暮してゐることである。)
〔評〕 まだ幼い少女を若楓に比したのは、極めて適切な譬喩である。その少女を愛撫するさま、成長を待ち焦れる覺束なさの心もち、いづれも上品にあらはされてゐる。
〔語〕 ○若楓の木 楓は後世はカヘデと訓んでゐるが、古くはカツラであり、和名抄には楓を乎加豆良《をかつら》、桂を女加豆良《めかつら》としてゐる。「六三二」參照。○花待つい間に 「い」は調子を整へる爲の接頭辭。「亂れぬい間に」(一八五一)參照。
 
    花に寄す
1360 氣《いき》の緒に念《おも》へる吾を山萵苣《やまぢさ》の花にか君が移ろひぬらむ
 
〔譯〕 命にかけて戀ひ慕つてゐる私であるのに、山萵苣の花のやうに、あなたのお心が移つてしまつたのでありませうか。
〔評〕 山萵苣は集中ここ以外には「二四六九」に一箇處だけ用ゐられてゐる。敢へて山萵苣に限らず、移ろひ易い花ならば何でもよいわけであるが、恐らくこれは實際に即したもので、兩人の目に觸れる處に美しく花をつけたこの木があつたのであらう。それだけ一首に眞實味が感じられるのである。女の作であらう。
〔語〕 ○山萵苣 蔬菜のチシャではない。エゴの木ともいひ、山林に自生する高さ一丈内外の小喬木で、葉は卵形にして尖り、初夏の頃、總?花序の白花を開く。移ろひ易い花である。○花にか君が 「に」は「のやうに」の意。
(153)1361 住吉《すみのえ》の淺澤|小野《をの》の杜若《かきつばた》衣《きぬ》に摺り著《つ》け著《き》む日知らずも
 
〔譯〕 任の江の淺澤小野の杜若の花を、著物に摺りつけ、美しく染めて嫡る日はいつの事やら、自分にはその日がわからないことである。(あの美しい女を自分の妻にして、結婚するのはいつのことか分らない。待ち遠いことである。)
〔評〕 平明にして素直な譬喩である。杜若から聯想される女性は、豐艶にしてしかも野卑ではない。住吉附近にゐた男の作であらう。聲調も優婉にして流麗である。
〔語〕 ○淺澤小野 住吉の地名。住吉社の南に當る一條の窪地で、東南依羅池に連ると大日本地名辭書に見える。○杜若 この美しい花を若い女に譬へた例は「一三四五」にもあつた。
 
1362 秋さらば移《うつ》しもせむと吾が蒔きし韓藍《からあゐ》の花を誰か採《つ》みけむ
 
〔譯〕 秋になつたらば、移し花にでもしようと思つて、自分が蒔いておいた鷄頭の花を、誰が摘んだのであらうか。(やがて大きくなつたら自分の妻にしようと、豫て思を懸けてゐた女を、誰が妻にしてしまつたのであらう。けしからぬことである。)
〔評〕 これも譬喩が極めて明瞭かつ適切である。「誰か摘みけむ」といつたのは、女を取り去つた男が誰だか分らないのではあるまい。ただ痛惜と失望との心持を強くいつたものである。因に云ふ、正倉院文書の中に、「妹が家の韓藍の花今見れば寫し難くも成にけるかも」(妹の字は缺けてゐて推讀したもの)といふ一首の歌がある。それは、萬葉時代の歌で紙に書いたのが傳はつた唯一のものであるが、その歌と、この「一三六二」の歌には似通ふところがある。
〔語〕 ○移しもせむと 移し花にもしようと思つて。「うつし」は花の汁を紙に染めて置いて染料とするもので、それに用ゐる花が移し花である。ここは妻とすることに譬へた。「一三四三」の一云の部分參照。○韓藍の花 鷄頭のこと。(154)「三八四」參照。
〔訓〕 ○移しも 白文「影毛」舊訓カゲニモとある。宣長(略解所引)は「影」は「移」の誤としてウツシモと訓んだが、「影」の義訓としてウツシとよむことが出來ようかと思はれる。
 
1363 春日野《かすがの》に咲きたる萩は片枝《かたえだ》はいまだ含《ふふ》めり言《こと》な絶えそね
 
〔譯〕 春日野に咲いた萩の花は、片枝はまだ蕾んでゐる。ちやうどそのやうに、自分の愛する娘はまた若くて女になりきらないが、音信だけは絶やさぬやうにしてくれ。やがては一緒にならうから。
〔評〕 靜かな秋風にうねり搖れる若い萩は、まだ片なりの少女の容姿を思はせて、いかにもふさはしい譬喩である。結句は直敍で、譬喩になつてゐないが、女の親が男に向つて誂へる言葉とも取れるし、男自身が女に言ひ聞かせてゐるとも解せられる。後者と見るのが自然であらう。殊に略解の如く、次の二首と共に連作とすれば勿論さうである。
 
1364 見まく欲《ほ》り戀ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて成らずかもあらむ
 
〔譯〕 自分が見たく思つて、待ち焦れてゐた秋萩は、花ばかり咲いて、實にならないのではあるまいか。(自分が我が物にしたいと思つて、その成長を樂しみに待つてゐた少女は、美しい姿を見せるたけで、結局は自分の妻にならないのではあるまいかなあ。)
〔評〕 幼少の時からひそかに目をつけてゐた少女の、次第に美しく成人して來た頃、男は、一面には自分の念願の遂げられる日が近づくのに喜を感じつつ、また一面には女が他方へそれはせぬかといふ危惧の思を抑へ得ないのである。その複雜な心理が巧に描かれてゐる。
〔語〕 ○花のみ咲きて 女の容姿麗しく成人したのに譬へた。○成らずかもあらむ 或は實にならずに終りはせぬか(155)の意で、夫婦になれないのではあるまいかとの譬。
 
1365 吾妹子が屋前《には》の秋萩花よりは實になりてこそ戀ひ益《まさ》りけれ
 
〔譯〕 自分のかはゆい女の家の庭に咲いゐる秋萩は、花の時よりは實になつてから一層戀しさが増したことである。(自分の愛する女は、よそ目に眺めてゐた時よりも、逢つて後に、猶更戀しさがまして來たことであるよ。)
〔評〕 戀が成就した後、更にしみじみと愛着の加はることをいつたもので、譬喩は聊か類型であるが、醇朴な萬葉人の眞實を語るものである。略解は以上三首を同一作者の連作と見てゐる。必ずしもさう斷定は出來ぬが、鑑賞の上からは面白い見方と思はれる。
 
    鳥に寄す
1366 明日香川《あすかがは》七瀬《ななせ》の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ
 
〔譯〕 飛鳥川の處々の瀬の淀みに浮んでゐる鳥も、心に思ふところがあるからこそ、波を立てずに靜かにしてゐるのであらう。(そなたも氣をつけて靜かにしてをつて、人に噂を立てられないやうになさい。)
〔評〕 二人の中を世間の人にさとられて、うるさく言ひ騷がれないやうに用心をしてをれ、と女に注意したものと解せられる。表面には鳥のことのみをいひ、譬喩になつてゐないが、おのづから餘意として作者の本意が婉曲に表はされてゐるのが、却つてよく情を盡してゐる。
〔語〕 ○七瀬の淀 「七」は數の多い意。「八六〇」參照。○心あれこそ 心あればこそ。鳥も人目を避けようと思ふ心がある故にかの意。「一三」參照。
 
(156)    獣に寄す
1367 三國山|木未《こぬれ》に住まふ?鼠《むささび》の鳥待つが如《ごと》吾《われ》待ち痩《や》せむ
 
〔譯〕 三國山の樹の梢に住んでゐる?鼠が、鳥を捕へようと待ち構へて、飢ゑ細つてゐるやうに、自分は戀人を待ち焦れて、身も痩せ細りさうである。
〔評〕 戀人を待つ苦しさは一刻千秋で、眞に身を削られる思である。それを、?鼠が獲物にありつくまでの間に、飢ゑて痩せるであらうと想像して譬へたのは、實に奇警である。格調も緊張して男性的であり、殊に結句は熱と力とに滿ちて千鈞の重みがある。
〔語〕 ○三國山 書紀・續紀等に見える越前坂井郡三國港の附近にある山かといふ説もあるが、詳かでない。○?鼠の ?鼠は栗鼠に似て稍大きく、昼は樹の空洞などに棲み、夜出でて樹上に登り、肉翅によつて巧に飛行して宿鳥を捕へて食ふ。「二六七」參照。
 
    雲に寄す
1368 石倉《いはくら》の小野《をの》ゆ秋津《あきつ》に立ち渡る雲にしもあれや時をし待たむ
 
〔譯〕 石倉の小野から、秋津の方へ雲が立ち渡つてゐる、ああ自分もあの雲であればよい。さうしたらば、雲が時を待つてあんなに立ち渡るやうに、自分も時を待つて、この石倉から、戀しい人のゐるあの秋津へ行かれようものを。
〔評〕 四句までは極めてなだらかに意が通じるが、結句との接續に聊か言葉の足りない憾があるので、的確な解が困難である。石倉の小野に住む男が、秋津にゐる女を戀して逢ふことの儘ならぬを歎き、去來自在な雲を羨んだものと解してよいやうに思はれる。赤人の作「玉藻苅る辛荷の島に島|回《み》する鵜にしもあれや家念はざらむ」(九四三)と表現(157)形式は似てゐるが、赤人のは結句と上との關係が明瞭である。〔語〕 ○石倉の小野 吉野の宮瀧と北楢井との中間なる長崎の後の松山を、今もイハクラと呼ぶから、その麓一帶の地であらうと(辰巳利文氏説)。大和志料には、吉野水分神社の南西、吉野町岩倉とあるが、秋津からは遠きに過ぎると思はれる。「一三四五」に述べたやうに、秋津を紀伊田邊町附近とし、岩倉山は今も下秋津村寶滿寺の山號として殘つてゐる、といふ大日本地名辭書の説もあるが、疑はしい。○雲にしもあれや時をし待たむ 雲は立つべき時に立つ、自分も雲であるならば、それでこそ時を待つことが出來よう。待つてゐたら秋津の方へ行く時を得るにちがひない。しかし雲でないから、そのやうな機會を待ちつけることは出來ない、といふのであらう。
 
    雷に寄す
1369 天雲《あまぐも》に近く光りて鳴る神の見ればかしこし見ねば悲しも
 
〔譯〕 大空の雲に近く光つて鳴り渡る雷のやうに、私は、あのお方を見れば畏れ多いし、さうかといつて、見ないでゐると、ほんとに悲しいことである。
〔評〕 身分の貴い人に對する位置の低い女の戀である。一二三句は序になつてゐるが、單なる機械的の序ではなく、やはり譬喩をなして居り、しかもそれが極めて適切に用ゐられてゐる。格調も力がある。
〔語〕 ○天雲に近く光りて鳴る神の 「かしこし」に續く序。○見ればかしこし お姿を見ると畏多くて近づき難い心もちがする。
 
    雨に寄す
1370 甚《はなはだ》も零らぬ雨ゆゑ行潦《にはたずみ》いたくな行きそ人の知るべく
 
(158)〔譯〕 あまりたいしても降らない雨のために、庭のたまり水よ、さうひどく流れて行くな。人の見とがめするほどに。(そんなに久しく逢はずにゐるわけでもないのに、涙よ、さうひどく流れるな。二人の仲を人が感づくであらうに。)
〔評〕 忍ぶ戀の歌とはわかるが、明解は困難である。行潦は代匠記の説に從つて涙と解するにしても、初二句の眞意も捕捉し難いし、結句も人が何事を知るべきか、わかりかねる。思ふに四句までが譬喩で、結句は上にも多くあつたやうに直敍になつてゐるのであらう。さう見れば上記の解が成り立つと思ふ。即ち、儘ならぬ逢瀬が悲しくて、ややもすれば涙が流れるにつけ、自制の氣持で涙を擬人化し、そんなに流れるなと言ひ諭してゐるのであらう。
〔語〕 ○ふらぬ雨ゆゑ 降らぬ雨、そんな雨が降つたからとて。譬へた意味はそんなに永く逢はずにゐるのでもないのにの意か。○行潦 庭にたまる雨水をいふ。「一七八」參照。○人の知るべく 戀をしてゐると他人が氣づくやうに。
 
1371 ひさかたの雨には著ぬを恠《あや》しくも吾が衣手は干《ふ》る時なきか
 
〔譯〕 雨の降る時には着ないのに、不思議にも、自分の着物の袖は乾く時も無いことであるよ。
〔評〕 「寄雨」とあるが、雨を主題とした譬喩には成つてゐない。涙といふ語を用ゐずして、おのづから言外にそれを匂はせてゐる。しかし、後世の歌のやうに、空疎な誇張を弄して感傷に溺れてゐない處が、調子を明るくしてゐる所以である。
〔語〕 ○雨には著ぬを 雨の降る日には着もしないのに。○干る時なきか 乾く時も無いことよ。
 
    月に寄す
1372 み空ゆく月讀壯士《つくよみをとこ》夕去らず目には見れども寄る縁《よし》も無し
 
〔譯〕 大空を渡りゆく月は、夕方にならぬうちから目には見えるけれども、近寄るべき手段もない。(大路を通るあの(159)立派なお方を、いつも目には見てゐるけれども、卑しい私の身では近寄るすべもない。)
〔評〕 若い貴公子のみやびやかな姿を常に見つつ、あこがれてゐる女性の歌であらう。湯原王の「目には見て手には取らえぬ月の内の楓の如き妹をいかにせむ」(六三二)と男女位置を異にしてはゐるが、似た着想である。平明にして優雅な作。
〔語〕 ○み空ゆく 空を渡る。○月讀壯士 月の異名。「九八五」參照。
 
1373 春日山山高からし石《いは》の上の菅の根見むに月待ちがたし
 
〔譯〕 春日山は山が高いのであらう。岩の上に生えてゐる菅を見る爲に月の出を待つてゐるけれども、中々遲くて待ちきれないことである。(親達の監視が嚴重なのであるらしい、自分は戀しい女に逢はうと思つて機會を窺つてゐるが、もう殆ど待ちきれない。)
〔評〕 菅を女に擬し、故障が多くて逢瀬の難いことを、山が高くて月の出の遲いのに比したもので、ともかくも理窟は通つてゐるが、直觀の美しさが無く、くだくだしい感があつて、適切な譬喩とはいへない。
〔語〕 ○菅の根 「根」は輕く添へた接尾辭的のもの。略解に「根は要なけれど、たゞ言ひなれたるによりていへるのみにて、菅根とて菅の事なるべくおぼゆ」とある。○月待ちがたし 月を待つに待ちかねるの意。
 
1374 闇の夜《よ》は苦しきものを何時《いつ》しかと吾が待つ月も早も照らぬか
 
〔譯〕 闇の夜は鬱陶しくて苦しいものであるのに、いつ出ることかと自分が持ちに待つてゐる月は、早くまあ照つてくれないのかなあ。(戀しい人に逢はずにゐるのはつらいものであるに、いつは逢へるかと、待ち焦れてゐるあのお方が、早くお姿を見せて下さらないかなあ。)
(160)〔評〕 闇夜を照らす月の光を待ち望むやうに、心の闇を晴らしてくれる戀人との逢瀬を、ひたぶるに樂しみ待つ心持で、恐らく女の作であらう。譬喩は的確で、調もなだらかである。
〔語〕 ○苦しきものを 心が憂鬱で苦しいの意。○吾が待つ月も 考は「も」を誤字としてゐる。「も」が重なるのは必ずしもよくはないが、共に下の「ぬか」の希望に照應するための、感動の意を含めた助詞で、誤とすべきではない。○早も照らぬか 早くまあ照らぬものか、照つて欲しいの意。
 
1375 朝霜の消《け》やすき命誰がために千歳もがもと吾が念《も》はなくに
     右の一首は譬喩歌の類にあらず。但、闇夜《やみのよ》の歌の人、所心の故に并《また》この歌を作りき。因りてこの歌をこの次に載す。
 
〔譯〕 朝霜のやうに消え易い命を、誰の爲に、千年も生きてゐたいと私は思ふのでもありません、全くあなたお一人の爲に思ふばかりです。
〔評〕 前の歌と同一作者の歌であることが、左註によつて知られる。情緒纒綿のところ、女性の作たるを思はしめる。上に出た「水底にしづく白玉誰ゆゑに心つくして吾が念はなくに」(一三二〇)などと共に、「誰がために‥‥なくに」といふ同型の歌である。
〔語〕 ○朝霜の 朝霜の如く。或は枕詞とも見られる。
〔左註〕 この左註の意は、右の「朝霜の」の一首は、譬喩歌の分類には入らぬが「闇の夜は」の歌の作者が、思ふ所あつて此の歌を詠んだので、この次に竝べて載せた、といふのである。
 
    赤土《はに》に寄す
1376 大和の宇陀《うだ》の眞赤土《まはに》のさ丹著《につ》かば其《そこ》もか人の吾《わ》を言《こと》なさむ
 
(161)〔譯〕 大和の宇陀の赤土が、美しく丹《に》の色を染め附けるやうに、私があなたの癖に似ついたら、その點で二人の仲を感づいて、人がとやかくと言ひ囃すことでせう。
〔評〕 赤土の色に染むることを以て、女が愛する男に日常の動作などの似て來ることに譬へたのは奇故である。さうした不用意の事から、秘密を人にかぎつけられるといふのも珍らしくないことで、面白い構想の歌である。
〔語〕 ○宇陀 宇陀郡宇太村。○眞赤土 赤土は染料に用ゐる粘土。○さ丹著かば 「さ」は接頭辭。布帛に丹の色が染り附いたならばの意。○其もか人の吾を言なさむ その點に於ても人が怪しんで何やかやと私の事をいひ立てるであらう。「五一二」參照。
 
    神に寄す
1377 木綿《ゆふ》懸《か》けて祭る御室《みもろ》の神《かむ》さびて齋《いは》ふにはあらず人目多みこそ
 
〔譯〕 木綿を懸けて祭る御社の樣子が神々しいやうに勿體らしく自分を祭り上げて、お高くとまつてあなたに逢はないのではありません、人目が多いからなのです。
〔評〕 この歌は從來四句を「忌むにはあらず」と訓み「神さびて」を年老いての意に取る解釋が普通に行はれて來たが、首肯されない所があるので、大體全釋の説に從ふこととした。とにかく不明瞭な點があり、佳作とは評し難い。
〔語〕 ○木綿 梶の木の繊維を白く晒して麻の如くしたもの。榊の枝などに懸けて神前に供へる。「四四三」參照。○祭る御室の 「御室」は神を祀るところ。神社。「一〇九五」參照。初句以下ここまで「神さびて」にかかる序。○齋ふにはあらず 自分を崇嚴らしく祭り上げ、勿體ぶつて、その爲に君に逢ふことを避けるのではないの意。
 
1378 木綿《ゆふ》懸《か》けて齋《いは》ふこの神社《もり》も超えぬべく念《おも》ほゆるかも戀の繁きに
 
(162)〔譯〕 木綿を懸けて祭るこの尊い神社でさへも、踏み超えてその尊嚴を犯してしまひかねない程、私は一途に思ひつめてゐることであるよ、戀する心が烈しいので。
〔評〕 神に對する畏敬の念の篤かつた上代人が、神社の神聖を犯してまで踏み入らうといふ前後の分別を絶した譬喩に、思ひ切つた熱情の烈しさが見える。「ちはやぶる神の齋垣も越えぬべし今は吾が名の惜しけくも無し」(二六六三)は全く同想であるが、表現はずつと平明になつてゐる。
〔語〕 ○齋ふこの神社も お祀りするこの神聖な社でさへも。○超えぬべく 神垣を超えて尊嚴を犯してしまひさうに。無理な事を敢へてしてまでもといふ趣に譬へた。
 
    河に寄す
1379 絶えず逝《ゆ》く明日香の川のゆかずあらば故しもあるごと人の見まくに
 
〔譯〕 絶えず流れてゆく飛鳥川、その「ゆく」といふ語の如く、常にかよつて行く女の所へ、自分がもし行かずにゐたらば、何か特別なわけでもあるやうに、あの女が思ふであらうに、困つたことであるよ。
〔評〕 何か外的事情に妨げられて、女のもとに行けないのを、心變りかと女が心配しはせぬかと、男自身に氣を揉んでゐる趣で、これも戀する人の僞らぬ心理である。この歌古今集十四には「たえず行く飛鳥の川のよどみなば心あるとや人の思はむ」と出て居り、その歌詞の輕重に時代の相違が明かに認められる。
〔語〕 ○絶えず逝く明日香の川の 日夜絶えず流れゆく飛鳥川。以上は序、第三句の「ゆか」にかけたので、打消の語までは懸らない。「石上布留のわさ田の穗には出でず」(一七六八) の類である。全體を譬喩と見る説もあるが、それでは飛鳥川を逝かずあらばと假設想像することが、あまりにも不自然となるので、從ひ難い。○故しもあるごと 何か特別な理由でもあるやうに、即ち心變りでもしたかのやうに。○人の見まくに 女が思ふであらうに、どうした(163)らよからう、困つたものであるの意。
〔訓〕 ○ゆかずあらば 白文「不逝有者」舊訓にはヨドメラバとある。
 
1380 明日香川瀬瀬に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
 
〔譯〕 飛鳥川の瀬ごとに美しい藻は生えてゐるけれども、瀬と瀬との間には柵《しがらみ》があるので、互に靡きあふことが出來ない。(自分たちは機會さへあつたらば逢ひたいと思つてゐるが、間に邪魔や故障が多いので、互に逢へないのが實につらいことである。)
〔評〕 この表面に描かれたところは、恐らく作者の實際に見た光景であつたらう。それに胸中悶々の情を託したのであつて、優婉な適切な譬喩、流麗な格調、共に相俟つてあはれ深い歌である。
〔語〕 ○玉藻 美しい藻で、「玉」は美稱。○しがらみあれば 柵は河中に杭を打ち、横に竹木をからみつけて水流をせきとめるもの。「一九七」參照。戀を妨げるものに譬へた。○靡きあはなくに 互に靡いて寄り合はないことよ。
 
1381 廣瀬川袖つくばかり淺きをや心深めて吾が念へらむ
 
〔譯〕 廣瀬川は、徒渉りすると着物の袖が水に漬かるほど淺いが、それにも似た淺い心の人をまあ、心をこめて自分は思つてゐることであらうか。我ながら不思議であるよ。
〔評〕 河の徒渉を以て序としたのは新奇であるが、作者がこの附近の人であることを語るものであらう。「袖つくばかり」を「淺き」にかけたのは、聊か適切を缺くかとも思はれるが、とにかく、着物のままで徒渉の出來るといふ實地經驗が基礎になつてゐるので、表現しようとする意圖は了解出來る。
〔語〕 ○廣瀬川 大和川の部分的名稱で、大和國北葛城郡河合村なる廣瀬神社の背後を流れてゐる。○袖つくばかり(164) 徒渉する際に袖が水に漬かる程。そのくらゐで徒渉される淺い河の意から「淺き」にかけた序。○心深めて 心を深くして、眞實こめて。○吾が念へらむ 思つてゐるであらう。思つてゐなければならないか、わからぬことである。
 
1382 泊瀬《はつせ》川流る水沫《みなわ》の絶えばこそ吾が念《も》ふ心|遂《と》げじと思はめ
 
〔譯〕 泊瀬川の流れる水の泡が若し絶える時があつならば、その時こそ自分の戀も遂げずに止まうといふ氣にもならう。(併し、泊瀬川の水泡が絶える筈もないから、自分の戀も決して斷念することは出來ないのである。)
〔評〕 到底あり得べからざる事を假設想像して、万一それが實現したらば自分も云々しようといふのは、表現法としては敢へて珍らしくないが、極めて強い意力が籠つてゐる。久邇の新京を讃へた歌「泉川ゆく瀬の水の絶えばこそ大宮どころ遷ろひ往かめ」(一〇五四)と内容は違ふが全く同一構造である。
〔語〕 ○流る水沫の 「流る」は普通下二段活用で、ここは「流るる」と訓むべくも思はれるが、他に「射水河流る水沫の」(四一〇六)「落ちたぎち流る辟田《さきた》の」(四一五六)等の例もあつて、古く四段活用式の連體用法もあつたのである。○吾が念《も》ふ心遂げじと思はめ 自分が戀しく思ふ執心をも斷念しようと思はうの意。
 
1383 嘆《なげ》きせば人知りぬべみ山川の激《たぎ》つ情《こころ》を塞《せ》かへたるかも
 
〔譯〕 聲に出して歎息したらば人が氣づくであらうから、山川の泡立ち流れるやうな、戀しさに湧き立つ心をじつと自分は塞きとめてゐることである。
〔評〕 極めて線の太い措寫である。所謂益良雄ぶりの歎であつて、同じ歎でも後世風の弱々しいものではない。「言に出でて云はばゆゆしみ山川の激《たぎ》つ心は塞きあへにたり」(二四三二)は同工異曲であるが、今の歌の方が遒勁にしてまさつてゐる。
(165)〔語〕 ○歎きせば 歎息をしたらば。歎きは「長息」の約といふ。海女が潜水を終へて強く息を吹くことを、今でも「いそなげき」といふ地方がある。○塞かへたるかも じつと塞き止めてゐることであるよ。「塞かへたる」は「塞きあへてある」、「あふ」は強ひて努める、又は堪へるの意。
 
1384 水隱《みこも》りに息衝《いきづ》きあまり早川の瀬には立つとも人に言はめやも
 
〔譯〕 水中に潜つて息苦しさに耐へかねたり、急流の瀬に立つたりするやうな苦しい場合に、たとひ出會はうとも、二人の仲のことを何の他人に洩らさう、自分は決して洩らしはしない。
〔評〕 譬喩歌としては完全といへないが、熱と力とで人を牽きつける歌である。表現は意餘つて詞足らぬ感がある。
〔語〕 ○水隱りに 水に潜り隱れて。それが譬喩的には「眞薦苅る大野川原の水隱りに」(二七〇三)の如く人知れずの意にも用ゐられる。○息づきあまり いくら息をついてもつき足りぬ義で、呼吸せはしく喘ぐ意。○瀬には立つとも 急流の瀬に立つやうな苦しい目に、たとひ遭遇しようとも。
 
    埋木に寄す
1385 眞※[金+施の旁]《まがな》持ち弓削《ゆげ》の河原の埋木《うもれぎ》の顯《あらば》るましじき事にあらなくに
 
〔譯〕 弓削の河原の埋木のやうに、いつまでも人に知られずにゐればよいが、二人の仲は結局は顯れずに濟むべきことではないのになあ。
〔評〕 埋木を詠み入れた集中唯一の作で、めづらしい取材である。秘めたる戀の露顯に對する危惧は、戀する人の常情で、集中にも多く見える。
〔語〕 ○眞※[金+施の旁]持ち 「かな」は今の「やりかんな」で正倉院御物中にも見える。臺木のある鉋は當時まだ無かつた。(166)「まがなもち」は※[金+施の旁]で弓を削る意で「弓削」にかかる枕詞。○弓削の河原の 河内國八尾町の附近で、今、長瀬川といふ。○埋木の 埋木は太古の樹木が、長く水中や土中に埋没して炭化しかけたもの。隱れて見えないので、初句以下ここまで「顯るましじき」の序。○顯るましじき 「ましじき」は「ましじ」(九四)の連體形。
〔訓〕 ○顯るましじき 白文「不可顯」舊訓アラハルマジキで、それに從ふ説も多いが、助動詞「まじ」は古い用例では、殆どすべて「ましじ」の形で現はれてゐるから、ここもマシジキの方がふさはしい。
 
    海に寄す
1386 大船に眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き漕ぎ出《で》にし沖は深けむ潮は干《ひ》ぬとも
 
〔譯〕 大船に兩舷の艪を澤山に貫いて、漕ぎ出して行つたその沖の方は、定めて深いことであらう、たとひ潮は干てしまつても。(やつとの思で自分が心中をうち明けてしまつた上は、あなたを思ふ心は愈々深くなるであらう。たとひあなたの心は淺くならうとも。)
〔評〕 とつおいつの思案の末、辛うじて戀を打ち明け得た後の安堵と、將來に對する固い決意とが表明されてゐる。譬喩は幾分解しにくいが、その代り類型を脱した生新の感はある。
〔語〕 ○眞楫繁貫き 船の兩舷の艪を澤山揃へて。「三六九」參照。○漕ぎ出にし 船は天氣模樣をよく觀測して、海上平穩の時漕ぎ出すものであるから、種々考慮の結果、戀の思を云ひ出すのに喩へたのである。○沖は深けむ 岸に比べて沖は探からう。○潮は干ぬとも 代匠記精撰本には、世はうつりかはるともの意とあるが、君の心は淺くならうともの譬喩と見るべきであらう。
 
1387 伏超《ふしこえ》ゆ行かましものを守らひにうちぬらさえぬ浪|數《よ》まずして
 
(167)〔譯〕 伏超の方から行けばよかつたものを、海岸の近道を行かうと、浪の隙間を窺つてゐて、浪に濡らされてしまつた。浪を數へそこなつたので。(自分はあの女の所へ通ふのに、番人のゐない方から行けばよかつたのに、うつかり行つて番人に咎められた。注意が行き屆かなかつたので。)
〔評〕 詞句格調共に素朴にして古風であるが、初句の意義が明確に?めないのが遺憾であり、寓意もあまり明白とはいひ難い。併し、人の守る女のもとに通はうとした男が、隙をねらひそこねて失敗したことに譬へたものと思はれる。さすれば頗る奇拔な着想で、滑稽味に富んだともいふべき作である。
〔語〕 ○伏超ゆ 略解には、土佐國安藝郡の海邊の山道に伏超といふ地があると云つてゐるが、明確でない。歌意によると、比較的安全な遠まはりの山道か。若しくは這つて越えるやうな山路の意か。「ゆ」はここでは、其處を通つての意。○守らひに 通るべき隙を注視してゐるの意。○浪よまずして 浪の寄せ返すのを數へずして。即ち波と波との間隔を測らずして。
 
1388 石《いは》灑《そそ》く岸の浦|廻《み》に寄する浪|邊《へ》に來寄《きよ》らばか言《こと》の繁けむ
 
〔譯〕 岩にうちそそいで岸の浦廻に寄せる浪のやうに、自分も戀人のあたりにあまり?々近寄つたなら、世間の人の口がうるさいであらうなあ。
〔評〕 着想は平常であり、修辭も初二句あたりの如き、巧妙とはいひ難い。ただ全體に素朴味は漂つてゐる。
〔語〕 ○石そそく 波が岩に打ち寄せ、そそぎかかる意で、「岸」に懸けた枕詞風の修辭である。○岸の浦廻に寄する浪 初句以下ここまで第四句にかかる序と見るべきである。○邊に來寄らばか 戀人の傍に近く寄つて行つたならば。「來」はここでは對者を中心にした古い語法。
 
(168)1389 磯の浦に來寄る白浪|反《かへ》りつつ過ぎかてなくは誰にたゆたへ
 
〔譯〕 磯の浦に寄り來る白浪が、幾度も立返り立返りして過ぎ去りかねてゐるのは、そもそも誰ゆゑにたゆたふのであらうか。自分が行きつ戻りつ立去りかねるのも、ただそなたに逢はうが爲なのである。
〔評〕 第五句に疑問があるので、明解が得られない。舊來の諸註の如く「誰」を通行本に從つて「雉」とし「岸」の借宇と見るならば、全體を完全な譬喩歌として解することも出來さうであるが「雉」は古くキギシでキシとよまない。「誰」に從へば、初二句を序と見るべき構造となり、眞の譬喩歌とは考へ難いやうである。且「たゆたへ」の語法上の解釋もむつかしい。とにかくこの歌は後考を俟たねばならぬ。
〔語〕 ○反りつつ 立返り立返りして。○過ぎかてなくは 過ぎかねることは。○誰にたゆたへ「たゆたふ」は定まらずただよひ動く。在來の註は「たゆたへ」を命令と見てゐるが、上代特殊假名遣からは已然形と見ねばならぬ。さすれば「誰に」誰ゆゑに、「たゆたへばか」誰にかかづらはつてゐるからといふのか、の意、又は「誰戀ひざらめ」(三九三)の類で、誰に對して躊躇するか、誰の爲でもない、ただそなた一人の爲である、の意と解することになる。
 
1390 淡海《あふみ》の海浪かしこみと風守り年はや經《へ》なむ漕《こ》ぐとはなしに
 
〔譯〕 近江の湖で、浪が恐ろしいといつて風の凪ぐのを待ちつつ、空しく年を過すことであらうか。舟を漕ぎ出すこともなしに。(人目が恐ろしいといふので、いつまでも躊躇してゐて、むなしく年を送ることか、戀しい人に逢ふといふこともなくて。)
〔評〕 寓意は明かで、譬喩としての筋もよく通つてゐる。しかし表現故巧からいへば、句法がたどたどしく、素朴といふよりは寧ろ整はない方で、歌品が劣つてゐる。
(169)〔語〕 ○浪かしこみと 浪が恐ろしいとて。人目を恐れ憚る意に譬へた。○風守り 風の樣子に注意し、靜まる隙を窺ふの意。「三八一」參照。○こぐとはなしに 漕ぎ出すといふことは無くて。戀人に逢ふこともなくの意に譬へた。
 
1391 朝なぎに來《き》寄る白浪見まく欲《ほ》り吾はすれども風こそ寄《よ》せね
 
〔譯〕 この美しい朝凪の海に、寄せ來る白浪を見たいと、自分は思ふのであるが、風が浪を吹き寄せてくれない。(戀しい人の姿を見たいと自分は思つてゐるけれども、監視がきびしくてあの人を來させない。)
〔評〕 男女いづれの作とも決しかねるが、朝凪の海の白浪からは若い美しい女性が聯想されるやうである。さうすると風は親や兄弟などで、女の自由な行動を拘束してゐる人と考へられる。
〔語〕 ○朝なぎに 朝の靜かな海上の。○風こそ寄せね 風が浪を吹き寄せぬの意で、妨げる人があつて戀人を此方へ來させぬに譬へた。
 
    浦の沙に寄す
1392 むらさきの名高《なだか》の浦のまなご路《ぢ》に袖のみ觸《ふ》れて寐《ね》ずかなりなむ
 
〔譯〕 名高の浦の美しい眞砂の道に、自分はちよつと休んで着物の袖を觸れたばかりで、一夜も宿らずに行つてしまふことであらうかなあ。(自分は評判の高い、あの美しい女に僅に言葉をかはしたのみであることかなあ。)
〔評〕 一二三句の優雅明麗な感じと、一首の格調の流暢な響とで、四五句の官能的な香を緩和して居り、殆ど嫌味を感じさせない。
〔語〕 ○むらさきの 紫は名高いよい色との意で、「名高」にかけた枕詞。玉勝間には、名高の里の中に「むらさき川」といふ小川がある由であるから、昔此の邊を村崎といひ、其處の名高の浦といつたものか、とある。○名高の浦 紀(170)伊國海草郡の海岸。今、藤白・日高等とともに海南市に入る。○まなごぢ 眞砂の道。愛娘《まなご》にかけてゐることは、いふまでもない。○袖のみ觸れて 暫く休息して袖を觸れたたけの意であらう。僅かに女に親しんだのに譬へた。
 
1393 豐國《とよくに》の企救《きく》の濱邊のまなごぢの眞直《まなほ》にしあらば何か嘆かむ
 
〔譯〕 豐國の企救の濱邊の眞砂の道が眞直なやうに、あのお方の心が、眞直に言葉どほりであるならば、何の私が嘆きませう。
〔評〕 「まなご」に愛娘を匂はせ、同音を反覆して「眞直」にかけた序の用法が極めて巧妙である。また眞直につづけたのは同音の故巧ばかりでなく、砂濱の道を眞直に觀たその質感も潜在してゐるであらう。
〔語〕 ○豐國の企敦の濱邊 豐國は豐前・豐後の汎稱。企救の濱は豐前國企救郡の濱、今の小倉市の東につづく海岸で、大字長濱のあたり。○まなごぢの 初句以下ここまで序。形式的にマナの同音を繰返して續け、なほ内容的に道の眞直なのを眞直にかけたと考へられる。○眞直にしあらば 君の心が眞直で僞のないものならばの意。
 
    藻に零す
1394 潮《しほ》滿《み》てば入りぬる磯の草なれや見らくすくなく戀ふらくの多き
 
〔譯〕 自分の思ふ人は、汐が滿ちて來ると、水中に没してしまふあの磯の藻草のやうなものであるからであらうか、目に見ることは少くて、戀ひ焦れてばかりゐることである。
〔評〕 譬喩も頗る適切であるが、修辭が特に巧妙で、聲調の上にも適度に同音を反覆して音樂的諧和を保つてゐる。この歌、歌經標式には「汐滿てば入りぬる磯の草ならし見る目少く戀ふる夜多み」と出て居る。どこか民謠風の味があつて面白いので、源氏物語その他物語類にも引用されてゐる。
(171)〔語〕 ○入りぬる磯の草なれや 汐の中に隱れ入つてしまふところの、磯邊の藻である故か。「入りぬる」は「磯」を修飾するのでなく「磯の草」を修飾するのである。○見らくすくなく 見る横會は少くて。○戀ふらくの多き 戀ひ慕つてゐることが多い。
 
1395 奧《おき》つ浪寄する荒磯《ありそ》の名告藻《なのりそ》は心のうちに疾《やまひ》となれり
 
〔譯〕 沖の浪が寄せて來る荒磯に生えてゐる名告藻《なのりそ》、その名は「言ふな」といふ言葉であるが、そのやうに、そなたのことを口に出すまいと思ふことが、自分の心の中で病の種になつてゐる。
〔評〕 名告藻に取材した歌は極めて多く、聊か類型的の感があるが、これは四五句のいひざまがかはつてをるので、多少の特異性が認められる。
〔語〕 ○名告藻 海藻の一種。ホンダハラのこと。「な告りそ」即ち言ふなに懸け用ゐた故巧的用法が、集中に多い。ここは、愛人の名を人に知らせることをつつしむ心持である。
〔訓〕 ○やまひとなれり 白文「疾跡成有」。舊訓トクトナリケリとよんでゐる。
 
1396 むらさきの名高《なだか》の浦の名告藻《なのりそ》の磯に靡かむ時待つ吾を
 
〔譯〕 名高の浦に生えてゐる名告藻が、磯に靡き寄つて來る時を待つてゐる自分なのである。(美しい、噂の高いあの女が自然に靡いて來る時を、自分は待つてゐるのである。)
〔評〕 これは能動的な熱烈な戀情でなく、女の方から靡いて來るのを氣長に待たうといふ消極的な戀で、珍らしい歌である。調は一氣に詠み下して頗る暢達である。
〔語〕 ○むらさきの名高の浦の 「一三九二」參照。○名告藻 ここはわが名を告るの意に取つて、男に靡き寄る女に(172)喩へた。蓋し女が男に對してわが名を告げるのは、その男に許すことを意味したからである。○時待つ吾を 「を」は詠嘆の助詞。
 
1397 荒磯《ありそ》越す浪は恐《かしこ》し然《しか》すがに海の玉藻の憎くはあらずて
 
〔譯〕 荒磯を越えて打ち寄せる浪はまことに恐ろしい。しかしながら、その海に生えてゐる美しい藻は、憎くはないが。(嚴しく守つてゐる親達は恐ろしい。しかし、その家にゐるあの女はかはゆくて仕方がない。)
〔評〕 譬喩歌ではあるが、如何にも單刀直入、まことに正直でねちねちしないところがよい。
〔語〕 ○荒磯越す浪は恐し 女を嚴重に監督してある人に譬へてゐる。親や兄弟などであらう。○海の玉藻の その家の娘に譬へた。
 
    船に寄す
1398 ささなみの志賀津の浦の船乘《ふなの》りに乘りにし心常忘らえず
 
〔譯〕 さきなみの志賀津の浦で船に乘るが、その「乘る」といふ語のやうに、自分の心に乘つて來た女のことが、自分はいつも忘れられないことである。
〔評〕 内容は極めて單調にして平庸であるが、序は大きく爽快である。恐らく湖上舟遊の經驗を持つ人の作であらう。
〔語〕 ○ささなみの志賀津 今の大津市附近。「ささなみの志賀の辛崎」(三〇)參照。○船乘りに 船に乘るやうに。初句以下ここまで「乘り」といふ爲の序。○乘りにし心 「情に乘りて」(六九一)その他の如く、女が此方の念頭に乘りかかつてしまつたことをいふ。但、それらとは序に差があり、これは此方が乘るとも見られる。
〔訓〕 ○ささなみ 白文「神樂聲浪」神樂を謠ふ時ササと囃すので「神樂聲」の文字を宛てた所謂戯書の一であるが、(173)集中「神樂聲浪」と書いた例はこれ一つで、多く「神樂浪」「樂浪」など書かれてゐるのはこの省略である。
 
1399 百傳《ももづた》ふ八十《やそ》の島|廻《み》をこぐ船に乘りにし情《こころ》忘れかねつも
 
〔譯〕 數多の島々のあたりを漕いで行く船に乘る、その「乘る」といふ言葉のやうに、自分の心に乘つて念頭を支配してゐる女のことが、どうも忘れかねることである。
〔評〕 前の歌と同想同趣である。作品としての價値からいつても、殆ど甲乙はないといつてよい。
〔語〕 ○百傳ふ 枕詞。百に數へ傳ふる意で「八十」につづく。「四一六」參照。○八十の島廻をこぐ船に 多くの島々のあたりを漕ぎ渡る船に乘る意で、「乘り」につづく序。○乘りにし情 前の歌に同じ。
 
1400 島づたふ足早《あしはや》の小舟風守り年はや經なむ逢ふとはなしに
 
〔譯〕 島から島へと傳ひつつ漕いで行く船足の速い小舟が、風の凪ぐ隙を窺つてゐるやうに、折をうかがつてゐて、むなしく年を過すことであらうか。思ふ人に逢ふといふこともなくて。
〔評〕 「淡海の海浪かしこみと風守り年はや經なむこぐとはなしに」(一三九〇)と全く同想で表現法も酷似してゐるが、彼が完全な譬喩歌であるに對し、此は結句が直敍法を採つてゐるので、三句までが序のやうな形になつてゐる。いづれにしても佳作とはいへない。
〔語〕 ○島傳ふ 島から島へと傳ひつつ漕ぐの意。○足速の小舟 船足、即ち速力の早い小舟。○風守り 「一三九〇」參照。ここは戀人に逢ふ機會を窺つてゐる譬。
 
1401 みなぎらふ沖つ小島《こじま》に風を疾《いた》み船寄せかねつ心は念《おも》へど
 
(174)〔譯〕 波のしぶきに煙りわたる沖の小島に、風が烈しいので、自分は船を寄せかねたことである。心では行きたく思つてゐるけれども。(いとしく思ふ女のあたりに、きびしく守つてゐる人がゐるので近づくことが出來ないのである。こんなに戀ひ焦れてゐるけれども。)
〔評〕 四句まで一氣に詠み下した調が頗る雄健で、沖つ小島をややもすれば隱さうとする疾風怒濤の樣が眼に見える。譬喩もよく徹してゐる。
〔語〕 ○みなぎらふ 「水霧らふ」で、水煙が立つて視界を霞ませてゐるさま。齊明紀にも、「飛鳥川みなぎらひつつゆく水の間もなくも思ほゆるかも」と見える。○船寄せかねつ 思ふ人に近づき難いのに譬へた。
 
1402 こと放《さ》けば沖ゆ放《さ》けなむ湊より邊附《へつ》かふ時に放《さ》くべきものか
 
〔譯〕 どうせ遠ざけようといふなら、いつそ沖から遠ざけてほしい。港に入つてから、間もなく岸に着かうとする時に、遠ざけるといふことがあらうか。(二人の間を割かうといふなら、最初から離しておくがよい。やがて逢はうとする時になつて、割くといふのはあまりに無理なことである。)
〔評〕 一本調子の表現で、極めて樸直である。「船」といふ語は用ゐてないが、おのづから船に寄する歌になつて居り、寓意もよく通じてゐる。痛切な實感から生れたものであることがわかる。
〔語〕 ○こと放けば 同じ事遠ざけようとならばの意。「こと」は代匠記は「殊に」と解し略解は「殊さらに」の意としてゐるが從ひ難い。古今集には「ことならば咲かずやはあらぬ櫻花見る我さへにしづ心なし」を始め「ことならば」の用例が三首見え、顯註密勘に「かくの如くならば」と註してゐる。「殊は借字にて如《ごと》なり」とした古義の説もこれに基づいたものであるが、猶疑はしい。「ことふらば袖さへぬれて」(二三一七)「ことめでは早くはめでず」(允恭紀)などの「こと」も同樣である。なほ「こと」については橋本博士の研究がある。「八九七」參照。○沖ゆ放けなむ(175)沖にゐる時から遠ざけて欲しいの意。○邊附かふ時に 岸邊に近づく時分になつての意。
 
    旋頭歌
1403 御幣帛《みぬさ》取り神の祝《はふり》が鎭齋《いは》ふ杉原|薪《たきぎ》伐《き》り殆《ほとほと》しくに手斧《てをの》取らえぬ
 
〔譯〕 幣を取つて神官たちが齋ひ祭つてゐる杉原に、自分は入り込んで薪を伐り、見つけられて、殆ど手斧を取り上げられてしまふところであつた。(親たちの大切に守つてゐる女をわが物にしようとして、氣づかれて、もう少しでひどい目に逢ふところであつた。やれやれあぶなかつた。)
〔評〕 譬喩がまことに奇拔で、かつ野趣に富んでゐる。併しこれは、作者の體驗とは必ずしもいへぬ。時々見る事件を、この場合適切として採用したと見るべきであらう。ともかく戀の冒險に失敗した若い男の自嘲的苦笑が躍如として見える。更にこれを、續紀の慶雲三年の詔に「若有d百姓採2紫草1者u、仍奪2其器1令2大辛苦1」とあるのと對比して見れば、この譬喩をなした社會的事情も明瞭になつて興味が深い。
〔語〕 ○御ぬさ取り 幣を手に取つて。○神の祝 神官。「七一二」參照。○いはふ杉原 神木として齋き祭る杉林の杉。親達が大切に守つてゐる娘に譬へた。○薪伐り 杉林で薪を伐り。禁を破つて神木を盗伐することを、親の守つてゐる女に忍び逢ふことに譬へた。○殆しくに 殆どに同じ。「ほとほと」といふ副詞を「ほとほとし」と形容詞にして更にそれを副詞にしたもの。○手斧取らえぬ 手斧を取られた。但上の副詞によつて、取り上げられようとしたまでで、本當に取られたのではない。女の親に咎められようとした譬。前掲續紀の引用文參照。手斧は小形の斧をいふ。
 
    挽歌《ばにか》
 
(176)1404 鏡なす吾が見し君を阿婆《あば》の野の花橘の珠に拾ひつ
 
〔譯〕 鏡のやうに常に親しく自分が見てゐなあなたであるのに、阿婆野で火葬にして、そこの野にある花橘の實を摘み取るやうに、お骨を拾つたことである。
〔評〕 悲哀をあらはに云はぬ象徴的手法と、清楚な表現と、相俟つて、佳調を成し、人の心を搏つものがある。愛人の遺骨を拾ふことを、當時の人の好んだ花橘の珠を取るになぞらへたのは、その野に橘があり、また折からその季節であつたことを語るもので、頗る自然にして効果的であり、高い氣韻の中に、あはれが深く感じられる。
〔語〕 ○阿婆の野 代匠記精撰本に、延喜式に大和國添上郡率川阿波神社とあるから、春日野のつづきであつたらうとある。○花橘の珠に拾ひつ 橘の實を大切にして拾ふやうに、火葬にした骨を拾つたの意。
〔訓〕 ○挽歌 この次の行に通行本等は「雜挽」とあつて、代匠記精撰本に「いづれの人の爲に、誰よめるともなきを云なるべし」といつてゐるが、元暦校本、紀州本等に無いのが正しいと思はれる。
 
1405 秋津野を人の懸《か》くれば麻|蒔《ま》きし君が思ほえて嘆《なげき》は止まず
 
〔譯〕 秋津野のことを人が口にかけて話すと、嘗てその野で、麻の種を蒔いてゐた可燐なあの女の姿が思ひ出されて、私の悲嘆はやまない。
〔評〕 自然に感情の流露した作で、結句「嘆は止まず」も、眞率に人を打つ。但、これを一説の如く火葬に附した灰を撒きちらすと解すべきものとしたら、三句は表現不足で拙劣と評する外はない。
〔語〕 ○秋津野 吉野の秋津野。「三六」參照。此處に火葬場があつたらしいことは次の歌でも想像される。○麻蒔きし 原文にある「朝」は「麻」の借字で、秋津野の畑に出て麻を蒔いてゐたの意と解すべきであらう。或は火葬にし(177)た灰を朝なつて蒔きちらす意とする説もある。さういふ事實もあつたことは「一四一五」の歌でも知られるが、「あさまきし」といふ語をそんなに複雜に解することは、少くとも語法として自然でない。麻を蒔いたと取れば極めてなだらかで、女の姿も鮮明に浮び、情緒も深い。
 
1406 秋津野に朝ゐる雲の失《う》せゆけば昨日も今日も亡《な》き人念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 秋津野に、朝な朝な浮んでみる雲は亡き人の火葬の煙とも見えて懷かしいが、はかなくそれが消えて行くと、形見と見るべきものも無いので、昨日も今日も亡き人のことが頻りに思はれることである。
〔評〕 火葬の煙は、わが眼に映ずる亡き人の最後の形見として、懷かしいものではあるが、それも、すぐ消えてゆく果敢ないもの、そのあきたらなさから、更に煙の末が雲となつたやうに見て、思慕の情を寄せるのが上代人の心であつた。「ただの逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつしのはむ」(二二五)「昨日こそ君はありしか思はぬに濱松の上に雲と棚引く」(四四四)などによつてもよく分る。かうした上代人にとつて、形見と見るべき料の無くなつたことは、如何に寂しく、空虚な感を與へたか、想像することが出來る。
〔語〕 ○朝ゐる雲 毎朝浮んでゐる雲の意で、その雲は火葬の煙が凝つてなつたやうに感じてゐるのである。
 
1407 隱口《こもりく》の泊瀬《はつせ》の山に霞立ち棚引く雲は妹にかもあらむ
 
〔譯〕 初瀬の山に霞が立ち、雲が棚引いてゐるが、あの雲は、わがいとしい妻を火葬にした煙であらうかなあ。
〔評〕 棚引く雲から火葬の煙を聯想し、亡き人を偲ぶ心持は全く前の歌と同趣で、また人麿が土形娘子を悼んで詠んだ「隱口の泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ」(四二八)によく似てゐるが、第三句「霞立ち」は、假令實景であつたにしても、この歌としては無用で、一首の印象を混亂させる嫌がある。
(178)〔語〕 ○隱口の 「初瀬」の枕詞。「四五」參照。○妹にかもあらむ 火葬の煙が凝つて成つた雲で、その火葬は他の人のではない、わが妻のであらうの意。
 
1408 枉語《まがごと》か逆言《さかしまごと》かこもりくの泊瀬の山に廬《いほり》すといふ
 
〔譯〕 出たらめの言葉であらうか、それとも反對の言葉であらうか、自分の思ふ人は、初瀬山に廬をつくつて住んでゐるといふが。
〔評〕 人と死に別れて暫しが程は、眞實とは思はれぬのが人情である。理性では知つてゐても、感情はそれを諾ひかねるのである。「逆言の枉言とかも高山の巖の上に君が臥《こや》せる」(四二一)と同工異曲である。
〔語〕 ○枉語 正しからぬ言。「四二〇」參照。○逆言 事實と反對の言。○こもりくの 「初瀬」の枕詞。「四五」參照。○廬すといふ 廬を作つて妻が住んでゐると人がいふ、しかしそれは僞であらうの意。死んで葬られてゐることを、婉曲に廬すといつた。
〔訓〕 ○逆言 略解オヨヅレゴトと訓んだのは「逆言之枉言等可聞」(四二一)を「於餘豆禮能多婆許登等可毛」(三九五七)に據つてオヨヅレノマガゴトトカモと訓み、ここにもそれを應用したもので、この訓に從ふ學者も多い。しかし、字面に即した舊訓を強ひて改める要もあるまいと思ふ。
 
1409 秋山の黄葉《もみち》あはれみうらぶれて入りにし妹は待てど來まさず
 
〔譯〕 秋の山の黄葉の風情があはれであるといつて、さびしいやつれた姿で、山深く入つて行つた自分の妻は、待つても待つても歸つて來ない。
〔評〕 人麿が妻の死を哭して詠んだ長歌の反歌「秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道知らずも」(二〇八)に似(179)た構想で、恐らくその影響を受けたものと思はれるが、表現に新しい工夫があるので、單なる模倣歌の域を脱し、別樣の趣があつてよい。
〔語〕 ○黄葉あはれみ 紅葉が面白いとて。「あはれ」は、しみじみと心に感ずるの意。○うらぶれて 悄然としてやつれた姿で。作者は妻が死んだ當時の相貌を心に描いて、かういつたのである。これを作者自身の、妻を待つ心持として、第四句の下に置いて考へよといつた古義や全釋の説は牽強である。
 
1410 世間《よのなか》はまこと二代《ふたよ》は行《ゆ》かざらし過ぎにし妹に逢はなく念へば
 
〔譯〕 この世の中は、ほんとに二度はめぐつて來ないものらしい。死んだ妻に再び逢はないことを思ふと。
〔評〕 死んだ妻にもう二度と逢はれぬといふことで、一度經て來た世の中が再びめぐつて來ないと痛切に意識したのである。もとより當然の理を、しかも「行かざらし」と大凡にいつて歎いてゐるあたり、その幼げな點に一入悲哀の色が漂つてゐる。
〔語〕 ○まこと二代は行かざらし 成程二度とは廻つて來ないものらしい。「行く」は經過するの意。「ざらし」は「ざるらし」の約。
 
1411 福《さきはひ》のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が音《こゑ》を聞く
 
〔譯〕 どれほど幸福な人がまあ、黒い髪の白い髪に變るまで、一緒にゐて、妻のやさしい聲音を聞くことが出來るのであらう。
〔評〕 夫婦の縁に惠まれた、所謂共白髪の人の身の上を、羨むやうに詠嘆してゐる。その聲が切なるだけ、裏面に、作者自身の愛妻を失つた悲運を喞つ心が強く表れてゐて、痛ましいものがある。眞情流露、秀作といふべきである。
(180)〔語〕 ○福のいかなる人か どんなに幸福な人がまあ。○妹がこゑを聞く 妻の聲を聞きつつ一緒に暮すことが出來るのか。その優しい聲音に、いとしい妻のすべてを代表せしめた表現は、自然の妙ともいふべきである。
 
1412 吾が背子を何處《いづく》行かめとさき竹の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔しも
 
〔譯〕 私のいとしい夫を、何處へいらつしやるものか、と高をくくつて、腹立ちまぎれに、背中あはせに寢たことが、今になつて悔しいことではある。
〔評〕 夫に死別した妻の作で、ありし夜の夫婦間の小さな不和が綿々として盡くることなき終生の悔恨となつたのである。大膽過ぎるほどな率直さの中に、眞實が溢れて、少しも官能的の嫌味などを感じさせない。調子の上にも一分の弛緩もない、優れた作である。「愛し妹を何處行かめと山菅の背向に宿しく今し悔しも」(三五七七)は男女位置を換へた類歌であるが、恐らく模倣であらう。女性の作とする方が實情にもかなひ、遙かにあはれが深い。
〔語〕 ○さき竹の 枕詞。「背向」につづく理由については諸説ある。割竹は數多重ねても舊の如く相合ふものなく、一本の外側と他の内側と相擁する如く、背中合せに寢たのに喩へたものとする福井博士の説に從ふべきかと思ふ。
 
1413 庭つ鳥|鷄《かけ》の垂尾《たりを》の亂尾《みだれを》の長き心も念《おも》ほえぬかも
 
〔譯〕 自分はいとしい人との死別の悲しみに打ちひしがれて、鷄の垂れた尾のその亂れた尾の如く、長くゆつたりとした心も持てなくなつてしまつたことである。
〔評〕 この歌の序の技巧は「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き永夜を」(二八〇二或本の歌)に似てゐる。愛する人を失つた落膽のあはれさが、この長い序中に象徴されて色濃く漂つてゐる。技巧と眞情と歌調とがよく融和した歌といへよう。
(181)〔語〕 ○庭つ鳥 鷄の枕詞。庭にゐる鳥の意。○鷄 「かけ」といふ名稱は鳴聲によるもので、神樂歌に「庭つ鳥かけろと鳴きぬなり」とある。○亂れ尾の 以上三句、「長き」にかかる序。
 
1414 薦《こも》枕|相纒《あひま》きし兒もあらばこそ夜の深《ふ》くらくも吾が惜しみせめ
 
〔譯〕 嘗て薦枕を共にして寢た、いとしいあの女、それが今もゐるのならば、夜のあけることも、自分は惜しみもしよう。しかしあの女が亡くなつた今は、夜が更けようと何の惜しいこともない。
〔評〕 愛妻を失つて孤獨の寂寥に浸つてゐる男の聲が、痛ましく響く。いひ捨てたやうな語調の中に、あきらめと自棄との交錯した心持がこもつて、却つてあはれである。
〔語〕 ○薦枕 薦を束ねて造つた枕。○相まきし兒 共に枕して寢た女。○吾が惜しみせめ 自分が惜しむことを敢へてしようかの意で、上の假設條件「あらばこそ」と聯關して反語的餘意を生じ、それでない以上は惜しみはせぬの意となるのである。
 
1415 玉|梓《づさ》の妹は珠かもあしひきの清き山邊に蒔《ま》けば散りぬる
 
〔譯〕 いとしい自分の妻は、玉なのであらうか。火葬にした骨を、この景色のよい山邊に撒くと、緒の切れた玉のやうに、亂れ散つてしまつた。
〔評〕 この歌は挽歌として現代の我等の感情には、しつくり來にくい。それは今日とあまりに事情が違ふからである。近親骨肉の屍を荼毘に附し、山野に撒き捨てたといふ習俗は、今日からは頗る奇異にして信じ難いやうである。併し上代は事實それが行はれたこと、下記の記録によつでも證せられるし、この歌はそれを裏書するものとして、文化史的見地から注意される。
(182)〔語〕 ○玉梓の 「妹」の枕詞。「使」に冠するのが常であるが、代匠記には、玉は美稱で、梓は弓をさし、弓は男が秘藏して手に取るものであるから、妹につづけたものかとある。なほ研究を要する。○蒔けば散りぬる 火葬した骨を碎いて撒いたら、散つてしまつた。火葬に附した骨を山野に撒き散らすことに就いては、略解に、宣長の詳しい考證が引いてある。續後紀卷九「承和七年五月辛巳、後太上天皇(淳和)顧命2皇太子1曰云々。予聞人歿精魂歸v天。而存2冢墓1、鬼物憑v焉、終乃爲v祟、長貽2後累1。今宜3碎v骨爲v粉散2之山中1。於v是中納言藤原朝臣吉野奏言、昔宇治稚彦皇子者我朝之賢明也。此皇子遺教自使v散v骨。後世效v之是親王之事而非2帝王之迹1云々」とある。但、宇治稚彦皇子の時はまだ火葬の習俗は無かつなので、その點は誤であるが、しかし骨を山野に撒き散らす風習のあつたことは、これによつて確實である。
 
    或本の歌に曰く
1416 玉|梓《づさ》の妹は花かもあしひきのこの山かげに蒔けば失せぬる
 
〔譯〕 自分のいとしい妻は花であるのかまあ。火葬にした骨を、この山蔭に撒き散らすと、花の散るやうに失せてしまつたことである。
〔評〕 前の歌の別傳、ただ玉と花との相違のみであるが、前の歌に、玉といひ、清き山邊とある方がよい。現代人の感情には親しみ難いことは、前と變りはない。
 
    ?旅の歌
1417 名兒《なご》の海を朝こぎ來《く》れば海中《わたなか》に水手《かこ》ぞ呼ぶなるあはれその水手《かこ》
 
〔題〕 「一一六一」から「一二五〇」までの?旅作に入るべきを脱したので、ここに書き加へたのである。
(183)〔譯〕 靜かな名兒の海を朝こいで來ると、海上で船頭が大きな聲で叫んでゐる。ああ、その船頭よ。
〔評〕 名兒の海の勝景を背に、爽やかな朝の海上で、舟人が、何か聲高に呼びかはしてゐる。その聞きなれぬ、所謂蜑の囀りに、旅の感興を覺えたのである。表現の型は「かき霧らし雨の零る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥」(一七五六)によく似てゐる。
〔語〕 ○名兒の海 攝津住吉附近。今の大阪あたりの海の一部らしい。「一一五三」參照。○水手 水夫。船頭。○あはれその水手 船頭等の何か言つてゐる聲が、海上に響いて聞えるのが物珍らしく感ぜられたので、おのづから發した詠歎である。
〔訓〕 ○かこぞよぶなる 白文「水手曾喚成」。通行本には、「鹿子曾鳴成」とある、「鳴」を考は「呼」の誤、略解は「喚」の語とした。いま略解によつた。海中に鹿の子の鳴くとしては、おだやかでないからである。
 
萬葉集卷第七 終
 
 
(185)  萬葉集 卷第八
 
(187)概説
 
 卷八は、萬葉集の基準分類たる雜歌・相聞を、更に四季によつて類別し、八部としたものである。この分類法は、卷十にも見られるが、集中に於ける最も新しい分類法と考へられ、後の新撰萬葉集等を經て、古今集以下の勅撰集の部立にも影響を與へた。
 歌數は、表示すれば次のごとくである。
      短歌  長歌  旋頭歌   計
春 雜歌  二八   二       三〇
  相聞  一六   一       一七
夏 雜歌  三三           三三
  相聞  一二   一       一三
秋 雜歌  九一   一    三  九五
  相聞  二八   一    一  三〇
冬 雜歌  一九           一九
  相聞   九            九
計    二三六   六    四 二四六
(188) 即ち短歌二百三十六首、長歌六首、旋頭歌四首、都合二百四十六首である。秋相聞の中の二首は、卷四に見えるものであるが、傳稱作者が相違してゐる。
 作者は殆どすべて知られて居り、各部の排列はほぼ詠作順となつてゐる。最も古いのは、舒明天皇御製と記されたものであり、ついで鏡王女・額田王・大津皇子・藤原夫人等の作があるが、いづれもその數が少く、奈良時代の作が大部分である。聖武天皇(五首)湯原王(五首)赤人(六首)金村(五首)等の作もあるが、最も多いのは家持(五十一首)及びそれと關係の深い坂上郎女(二十首)憶良(十四首)さては、旅人(五首)田村大孃(五首)その他の女性の作である。從つて、この卷の編集者は、家持でなからうかと推測される。
 年代明記のうちで最も新しいのは、天平十五年八月の家持の三首(一五九七−一五九九)及び同年八月十六日の家持の二首(一六〇二・一六〇三)であり、その後家持は、十八年六月越中守として任國に赴いたので、この卷は、その間に整理せられたものでなからうかと考へられる。なほ卷四と深い關係があるのをおもふと、或は、卷四、卷六も同じ頃の編集でなからうか。
 次に、四季の景物を抄すれば、主なるものは次の如くであり、平安時代と比較して興味が少くない。
       植物     動物    其他
春 梅、櫻、青柳、山振、合歡木、馬醉木、春菜、菫、茅花、蕨、瞿麥
  鶯、喚子鳥、雉、鴨、鵺
  霞、雪、月
夏 橘、卯花、石竹、菖蒲、百合、瞿麥、唐棣木、藤
  霍公鳥、晩蝉
  月
秋 萩、黄葉、尾花、淺茅、瞿麥、女郎花、葛花、藤袴、朝顔、藤、貌花、鷄冠木
  鹿、雁、鶉、蟋蟀
  天漢、牽牛、織女、時雨、秋風、露、秋雨、月
冬 梅、尾花、芝
 
  雪
(189) 時代の風潮によるのであらうが、この卷には、萬葉集の末期的色調が次第に現はれ、迫力の乏しくなつた歌が次第に見られるやうになつた。ことに、集宴歌にその傾向が看取せられる。また、夏六月の萩・黄葉の作を秋相聞に、冬十月の作を紅葉であるために秋雜歌に入れるといふやうに、四季の景物をも次第に觀念的に取扱ふやうになつてゐる。
 長歌では、「一四二九」の一首がすぐれてゐる。
 短歌の秀逸、及び異色ある歌を抄すれば、次の如くである。
  石そそく垂水の上のさ蕨のもえ出づる春になりにけるかも     志貴皇子    一四一八
  春の野に菫採みにと來し吾ぞ野をなつかしみ一夜ねにける    山部赤人    一四二四
  かはづ鳴く甘南備河にかげ見えて今か咲くらむ山振の花      厚見王    一四三五
  水鳥の鴨の羽の色の春山のおぼつかなくもおもほゆるかも     笠女郎    一四五一
  この花の一|瓣《よ》のうちに百種の言ぞこもれるおほろかにすな 藤原廣嗣   一四五六
  わけが爲吾手もすまに春の野に拔ける茅花ぞ食して肥えませ    紀女郎    一四六〇
  夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ戀は苦しぎものぞ     大伴坂上郎女  一五〇〇
  今朝の朝け鴈が音聞きつ春日山もみぢにけらし吾が心いたし    穗積皇子    一五一三
  風雲《かぜくも》は二つの岸に通へども吾が遠嬬の言ぞかよはぬ  山上憶良    一五二一
  礫《たぶて》にも投げ越しつべき天の河隔てればかもあまた術無き 同        一五二二
  夕月夜心も萎《しの》に白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも    湯原王     一五五二
  酒づきに梅の花浮べ思ふどち飲みての後は散りぬともよし     大伴坂上郎女  一六五六
  久方の月夜を清み梅の花心開けて吾が念へる君          紀少鹿女郎   一六六一
なほ、題目として注意すべきものに、「一五九四」の維摩講の佛前唱歌、「一六五七」の左註の飲酒の禁制などがある。(190)また特殊な形式としては、憶良が秋の野の花を詠じた歌二首(一五三七・一五三八)は、短歌と旋頭歌とで秋の七種の花を詠じてをり、また、尼が上句を作り、家持が下句をつづけた合作の短歌(一六三五)は、連歌の起原とも考へられる。
 用字法は、卷三・四・六等とほぼ同樣であり、「冬風《あらし》」のごとき義訓、「鷄鵡鴨《けむかも》」(一四三一)のごとく鳥の名を列記したもの、また、「左右《まで》」(一四二〇)「喚鷄《つつ》」(一五七九)「八十一《くく》」(一四九五)のごとき戯書もある。
 
(191)萬葉集 卷第八
 
  春雜歌《はるのざふか》
 
    志貴皇子《しきのみこ》の懽《よろこび》の御歌一首
1418 石灑《いはそそ》く垂水《たるみ》の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも
 
〔題〕 志皆皇子 天智天皇の皇子「五一」參照。懽の御歌とあるが、何事のお喜であつたかはわきがたい。
〔譯〕 岩の上をそそぎ落ちる瀧のほとりの蕨が、みづみづしく萌え出て來るよい春に、もうすつかりなつてしまつたことである。
〔評〕 志皆皇子は少數ながら珠玉のやうな名歌を集中に留めてをられる。この歌は、春まだ淺き頃、瀧のほとりに遊ばれた皇子が、折から御心の中に何か包むに餘るよろこびを抱いて居られた際で、柔かに萠え出た蕨に目がとまつて、その可憐な景物を中心とし、春のおとづれといふ大自然の喜に融合した自らの嬉しい心境を歌ひあげられたのである。代匠記初稿本に「此御歌、いかなる吉事にあはせたまへる時に詠ませ給ふとは知らねども、さ蕨のねにこもりてかがまりをれるが、もえ出づる春になるは、まことに時にあへるなり。天智天皇の皇子ながら、御位につかせ給はざりしかども、時に重うせられ給ひて、事にあたり給ふこともなくて、御子白壁王、思ひかけぬ高御座にのぼらせ給ひて、光仁天皇と申し奉り、此皇子も田原天皇の御おくりなを得給ひ、御子孫今にあひ繼ぎて御位をつがせ給ふは、此御歌にもとゐせるなり。今承るも、よろこばしき御歌なり。」と述べてゐるのは、肯綮にあたる觀察である。
(192)〔語〕 ○石そそく 枕詞。石の上を水がそそぎ流れる意で、枕詞ではあるが、一面實景をも寫してゐる。○垂水 垂れる水即ち瀧或は滴り落ちる水とする説(甲)と播磨の明石に近い垂水の地とする説(乙)とある。自分は甲の説によつて説いたが、乙の説によつて、皇子が垂水の地に遊ばれた折の作とも、垂水邊に封戸を給はつた折の喜の歌と解する人もある。○さ蕨 蕨のこと。「さ」は接頭辭。
〔訓〕 ○いはそそく 白文「石灑」。仙覺本には「石激」とあつてイハソソゲと訓んでゐるのを、考にイハバシルと改訓した。「石走る垂水」(三〇二五)といふ用例もあるが、字面は類聚古集の「石灑」により、訓は古きによつた。
 
    鏡王女《かがみのおはきみ》の歌一首》
1419 神奈備《かむなび》の伊波瀬《いはせ》の社《もり》の喚子鳥《よぶこどり》いたくな鳴きそ吾が戀|益《まさ》る
 
〔題〕 鏡王女 額田王の姉君で、天智天皇の寵を受け、後に鎌足の嫡室となつた。「九一」參照。
〔譯〕 神奈備の伊波瀬の森の呼子鳥よ、そんなにひどく鳴いてくれるな。お前の聲を聞いてゐると、私の人戀しさの心がつのるばかりであるから。
〔評〕 恰も人を呼ぶやうな、寂しい呼子鳥の聲に、作者は、やるせない人戀しさの思を唆られたのである。珍らしい著想ではないが、しんみりと落ちついた中に、哀愁を湛へてゐるところ、この女王の作の特長で、歌品が高い。
〔語〕 ○神奈備 神の杜をいふのであるが、後に固有名詞化した語。「三二四」にいふ神名備山は、飛鳥の神奈備即ち雷岳であるが、ここは龍田の神奈備即ち今の龍田町の地をいふ。○伊波瀬の社 今の龍田川の東岸、俗に鹽田の森であるといふ。○喚子鳥 疑問の鳥の名。普通はカツコウドリといひ、近來アヲバヅクとする説がある。「七〇」參照。
 
    駿河采女《するがのうねめ》の歌一首
(193)1420 沫雪かはだれに零《ふ》ると見るまでに流らへ散るは何《なに》の花ぞも
 
〔題〕 駿河采女 傳不詳、駿河國から召された采女であらう。「五〇七」の作者も同一人かと思はれる。
〔譯〕 沫のやうな雪がまだら雪となつて降るのではないかと思ふくらゐに、流れるやうに散つて來るのは、何の花であらうかなあ。
〔評〕 梅の花が雪のやうに散るのを見て、何の花かと疑ふやうに敍したところに、無邪氣な趣向が見られる。しかし素朴感とか切實味とかいふものは乏しい。
〔語〕 ○沫雪か 沫のやうな雪。消え易いやはらかい雪。集中冬の雪にもいつてゐる。「か」は疑問の助詞。○はだれ 諸説があるが、代匠記の「斑」とする説がおだやかである。○流らへ散るは 流れるやうに斜になつて散るのは。
 
    尾張連《をはりのむらじ》の歌二首 名闕く
1421 春山のさきのををりに春菜《わかな》つむ妹が白紐《しらひも》見らくしよしも
 
〔題〕 尾張連 傳不詳。「名闕く」とあるは、後人の註と思はれる。
〔譯〕 春の山の櫻が枝もしなふほど咲き滿ちてゐる時に、若菜を摘んでゐる少女たちの上着の白い紐は、見る目もめでたくよいことである。
〔評〕 櫻の咲き滿ちた山と、それに續く裾野、そこに群れ遊びつつ菜を摘む娘子たち、すべて繪のやうな光景である。娘子の着物の白紐が、春草の緑の中に鮮かに目についたのが、作者の感興を牽いたので、この清楚な佳調を成した。
〔語〕 ○さきのををりに 枝も撓むほど花が咲いてゐる時に。○春菜つむ 春菜は、せり・なづな、その他食用の野生植物をいふ。○見らくし 見ることがの意。
(194)〔訓〕 ○さきのををりに 白文「開乃乎爲里爾」諸本「乎爲黒爾」とあつて、解し難いので種々の誤字説を生じた。考の「乎烏里爾」の誤とする説が最も穩かであるが「爲」にヲの音のあることは字音辨證の説く所で、現に「花咲乎爲里」(四七五)ともあるから「爲」を「烏」の誤とするには及ばない。なほ宣長は字を改めてサキノタヲリニと訓み「開」は「崎」の借字、タヲリは山のたわみたる所と解してゐる。○春菜 字面の通りに訓んでもよい。
 
1422 うち靡く春來るらし山の際《ま》の遠き木末《こぬれ》の咲き行く見れば
 
〔譯〕 ああ、いよいよ春が來たらしい。山際の遠い梢が、次々に花の咲いて行くのを見ると。
〔評〕 遠い山々の梢が、日毎に花をつけて行くのを見ると、全く遠くの方から、春が一歩一歩近づいて來るといふ感じである。春とは名のみで、まだうそ寒い大和平原にゐる人々にとつては、特にこの感じが深く、從つて春來るといふ喜が大きかつたに相違ない。巧まざる詞句の中によく氣特が表はれてゐる。但「うち靡く春さり來らし山の際の遠き木末の咲き行く見れば」(一八六五)は、これと同一歌たるは明かであるが、その先後は分きがたい。
〔語〕 ○うち靡く 「春」につづく枕詞。「二六〇」參照。○遠き木末 遠く見える樹々の梢で、特に明示してないが、櫻をさすことは明かである。
 
    中納言|阿倍廣庭《あべのひろには》卿の歌一首
1423 去年《こぞ》の春い掘《こ》じて植ゑし吾が屋外《やど》の若樹の梅は花咲きにけり
 
〔題〕 阿部廣庭 右大臣阿部御主人の子。「三〇二」參照。
〔譯〕 去年の春、根ごと掘つて來て植ゑた自分の家の若い梅の木は、今年はみごと花が咲いた。嬉しいことである。
〔評〕 樹木を植ゑるのはいひ知れぬ樂しみである。殊にそれが美しい花の咲く樹であれば猶更である。移植したのが(195)根づいたのみでも嬉しいのに、春來つてはじめて花咲いた時の喜は、蓋し想像に餘りがある。その包みきれぬ悦が、素朴平淡な表現の中に溢れてゐる。
 
〔語〕 ○い掘じて植ゑし 「い」は接頭辭。「こじ」は根ごと掘り取るの意。古事記に「五百津眞賢木を根許士爾許士而《ねこじにこじて》」とある。
 
    山部宿禰赤人の歌四首
1424 春の野に董|採《つ》みにと來《こ》し吾ぞ野をなつかしみ一夜|宿《ね》にける
 
〔譯〕 春の野に菫を摘まうと思つて來た自分は、この野邊の風情がなつかしいので、家へ歸るのも忘れて、一夜泊つてしまつたことである。
〔評〕 敍景歌人赤人の自然愛の深さを語る作である。温い自然の懷に抱かれ、彼我の觀念を越えて人と自然とが融合一致した境地である。ここに至つて始めて、讀者をして作者の心境に同感せしめ、共に美しき自然愛に向はしめることが出來るのである。
〔語〕 ○董採みにと この菫を、香川景樹は紫雲英《れんげ》のことであらうといつてゐるのはよくはない。略解に、菫は衣を摺る料であらうとあるのもよくない。
 
1425 あしひきの山櫻花|日竝《ひなら》べて斯《か》く咲きたらばいと戀ひめやも
 
〔譯〕 山の櫻の花が、幾日も變ることなく、このまま咲きつづけてゐるといふならば、何で自分がこんなに甚しく戀ひ慕はうか。
〔評〕 幾時代を通じて變らぬ我が日本民族の櫻に對する愛着を、既に赤人が代表して歌つてくれたのである。この花(196)に對する我々の心持は、この歌に盡きてゐるといつてもよい。
〔語〕 ○山櫻花 山の櫻の花。○日竝べて 日を重ねて。「二六三」參照。○いと戀ひめやも こんなにひどく戀ひ慕はうか、反語。
 
1426 吾《わが》背子《せこ》に見せむと念《おも》ひし梅の花それとも見えず雪の零《ふ》れれば
 
〔譯〕 親しい貴君に見せようと思つた梅の花が、はつきり見分けられなくなつた。こんなに雪が降り積つてゐるので。
〔評〕 奇趣を捕へたといふわけではないが、印象は清新であり、情味もゆたかである。梅見に招いた友の前で詠んだものであらう。古今集の「梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば」は、此の歌の改作ではないかと思はれる。
〔語〕 ○吾兄子に 「せこ」は、必ずしも女から男に向つていふ夫とか愛人とかに限るものでなく、ここは親しい男の友人を指してゐる。
 
1427 明日《あす》よりは春菜《はるな》採《つ》まむと標《し》めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
 
〔譯〕 明日からは若菜を摘まうと思つて、折角自分が標をして置いた野原に、昨日も今日も雪は盛んに降りつづいてゐるよ。
〔評〕 樂しみにしてゐた若菜摘みも、雪に妨げられて、淡い失望を感じながら、しかし一方に又、その雪の美觀を樂しんでもゐる心持が看取される。流石に自然愛に徹したといはれる赤人の作である。例の簡素で物柔かな、巧を弄せぬ所に高い歌品が備はつてゐる。
〔語〕 ○標めし野に しるしをして置いた野邊に。「一三四七」參照。
 
(197)    草香山の歌一首
1428 押照《おして》る 難波を過ぎて うち靡く 草香の山を 夕暮に 吾が越え來《く》れば 山も狹《せ》に 咲ける馬醉木《あしび》の 惡《あ》しからぬ 君を何時《いつ》しか 往《ゆ》きてはや見む
     右の一首は、作者|微《いや》しきに依りて名字を顯《あらは》さず。
 
〔題〕 草香山 大和と河内との國境にある生駒山の一部。「九七六」參照。
〔譯〕 難波を通り過ぎて、草香山を夕暮に自分が越えて來ると、山も狹いほど、山一面に馬醉木の花が吹いてゐるが、その「あしび」といふ名のやうに惡しくない、懷かしいあの人を、いつになつたらまあ、行つて見ることか、早く行つて見たいものである。
〔評〕 難波から草香山を越えて大和に歸る男が、夕かげに咲き亂れた馬醉木の花を眺めつつ、いとしい女の姿を思ひ浮べて、一刻も早く逢ひ見たいとの焦燥感に驅られながら、歩みを早めてゐる樣が、すなほに寫されてゐる。短章ながらよく纒まつた情趣深い作である。
〔語〕 ○押照る 「難波」の枕詞。「四四三」參照。○うち靡く 「うち」は接頭辭。柔かに靡く意から「草」にかけた實質的の枕詞。○さける馬醉木の あしびは今アセビといふ。躑躅科の常緑灌木。「一六六」參照。以上眼前の景物を取つて、同音の「あしからぬ」を導く序としてゐる。○惡しからぬ 惡しくはない、憎くないの意から更に積極的に善い、かはゆいの意に進展させて用ゐてをる。
〔訓〕 ○惡しからぬ 白文「不悪」舊訓ニクカラヌは不可。アシビノアシカラヌと續けたのである。「惡」の字は「惡有名國《にくからなくに》」(二五六二)「神毛惡爲《かみもにくます》」(二六五九)、また「悪木山《あしきやま》」(三一五五)「惡氷木之《あしひきの》」(二七〇四)等の如く、集中には、兩樣に訓んでゐる。
 
(198)    櫻の花の歌一首并に短歌
1429 をとめ等《ら》が 挿頭《かぎし》のために 遊士《みやびを》が 蘰《かづら》のためと 敷《し》き坐《ま》せる 國のはたてに 咲きにける 櫻の花の 匂ひはもあなに
 
〔譯〕 少女達の髪の飾にする爲に、また風流才子の蘰にする爲といふわけで、大君の統治し給うてゐる此の國の果に至るまで、咲き出た櫻の花の色あひはまあ、ほんたうに美しいことではある。
〔評〕 爛漫と咲き亂れた櫻花を、佳人才子の頭髪を飾る爲に存在するものとしたのは、道破し得て妙である。更にその櫻が日本の國の果の果まで咲き續いてゐるといつたのは、大らかにして的確な表現である。櫻を詠じた長歌の作中に於いて、有數の佳作といふべきであらう。
〔語〕 ○しきませる 代匠記はここに「八隅知之吾大君乃」の二句の脱漏ありとしてゐるが、簡淨といふ點から見れば、寧ろ無い方がよからう。○國のはたてに この日本國の果まで。「はたて」は窮極の意。○匂ひはもあなに 「にほひ」は芳香でなく、色合、光澤をいふ。「あな」は「ああ」と感歎する意。古事記にも「阿那邇夜志《あなにやし》」とある。
 
    反歌
1430 去年《こぞ》の春逢へりし君に戀ひにてし櫻の花は迎へけらしも
    右の二首は、若宮年魚麻呂《わかみやのあゆまろ》之を誦《うた》へり。
 
〔譯〕 去年の春お目にかかつたあなたを、それ以來戀ひ慕つてゐたこの櫻の花は、今年また美しく咲いてゐるが、定めて戀しいあなたをお迎へしたのでありませう。
〔評〕 櫻の花を擬人化して、君を慕つてゐるとし、また今年の春咲いたのを、戀しい君を迎へたと見立てて、趣向を(199)めぐらしたのである。技巧の作ではあるが、詞句の大まかさによつて嫌味が救はれ、澹泊な味となつたのがよい。
〔語〕 ○戀ひにてし 「戀しく思うて、それで」とも「戀しく思つてゐた櫻の花」とも解せられる。今後者に從ふ。○迎へけらしも 花は無心に咲いてゐるのを擬人化して、花がその人を迎へたのであらう、といつたのである。
〔左註〕 若宮年魚麻呂 傳不詳。「三八七−三八九」參照。
 
    山部宿禰赤人の歌一首
1431 百濟《くだら》野の萩の古技《ふるえ》に春待つと居《を》りし鶯鳴きにけむかも
 
〔譯〕 百濟野の萩の古い枝に、春を待つとてとまつてゐたあの鶯は、もはや鳴き出したであらうか、どうであらう。
〔評〕 嘗て百濟野を過ぎた時、ふと目にとまつた鶯の寒げな姿を、春を迎へた今日この頃、しみじみと思ひ出してゐるのである。赤人らしい自然に對する愛情が、ゆたかに盛られてゐて、讀者の心にやさしい共感を起させる。
〔語〕 ○百濟野 大和國北葛城郡百濟村附近、曾我川と葛城川の中間の野。
〔訓〕 ○鳴きにけむかも 白文「鳴爾鷄鵡鴨」主題の鶯から聯想して、鷄、鵡、鴨、と鳥の名を多く用ゐて表記したのは一種の戯書である。
 
    大伴坂上郎女の柳の歌二首
1432 吾が背子が見らむ佐保|道《ぢ》の青|柳《やぎ》を手《た》折りてだにも見しめてもがも
 
〔譯〕 都で、あなたが御覽になつていらつしやるであらう奈良の佐保の道のあの青柳を、私もせめて手折つた枝をでも、見させてほしいものである。
〔評〕 邊土をあとにして都の春に歸つていつた人か。春の都にある人の羨ましさ、それにつけても懷かしく目先に浮(200)ぶものは、佐保の道の青柳である。故郷の春色にそむいてゐる身の、せめてはその青柳の手折つた枝なりともと望む、多感の才女の心はあはれである。郎女が兄旅人のもとに、太宰府にをつた時の作とおもはれる。
〔語〕 ○吾が背子 夫をさすのではない。○見らむ 見てゐるであらう。「らむ」は終止形接續の助動詞であるから、「見るらむ」とするのが普通であるが、かく「見らむ」とするのは古格の特例で、古今集にも用例がある。○佐保道 佐保の里の道。佐保は奈良の西郊で、大伴氏の邸宅があつた。
〔訓〕 ○見しめてもがも 白文「見綵欲得」「綵」を「縁」の誤字として、ミムヨシモガモと訓む説に多くよつてゐるが「綵」にシミの訓があるので、シメの訓に借りたものと見た。「一二五五」參照。
 
1433 うち上《のぼ》る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも
 
〔譯〕 流に沿うて上つて行く佐保の河原の青柳は、もう今は、すつかり春景色になつてしまつたことである。
〔評〕 奈良郊外の春色に憧れつつ、西陲太宰府から遠く想像を馳せてゐるのである。想像であるから結句は「なりにけむかも」と普通にはいふ所であるが、確定的の事實であることと、故郷の春色に對する特に強い愛着とが、かうした現實を目撃してゐるやうな表現形式を執らせたものと思はれる。
〔語〕 ○うち上る 代匠記精撰本に「川原に添ひて上るなり」とある説がやすらかである。
 
    大伴宿禰三林の梅の歌一首
1434 霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日《かすが》の里に梅の花見つ
 
〔題〕 大伴三林 傳不詳。略解は「三依」の誤かといつてゐるが、さういふ本は無い。
〔譯〕 春なほ淺く、霜や雪もまだ無くなりはせぬのに、思ひもかけず、春日の里で梅の花を見た。珍しいことである。
(201)〔評〕 春とはまだ名のみの頃、春日の里の行きずりに、ふと籬外一枝の梅花を見かけたといふ、極めて單純な事柄に過ぎないが、その時の作者の驚と喜とが、自然に率直に表現されてゐる。
〔語〕 ○未だ過ぎねば 未だ過ぎずにゐるうちに。「ねば」は普通「鳥にしあらねば」(ないから)「見ねば悲しも」(ずにゐると)の如く用ゐられるが、この例の如く前後が相應せず「ないのに」とも譯し得るものもある。
 
    厚見王《あつみのおほきみ》の歌一首
1435 蝦《かはづ》鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山振《やまぶき》の花
 
〔題〕 厚見王 天平勝寶元年無位から從五位下を授けられ、後、少納言となり、從五位上に陞つた。「六六八」參照。
〔譯〕 清い聲でかじかの鳴いてゐるあの甘南備川に、美しく影を映して、ちやうど今頃は咲き亂れてゐることであらうか、山吹の花が。
〔評〕 純敍景の歌で、清麗繪の如き趣がある。格調は赤人あたりよりも更に平明となつて、中古風に一歩を近づけてゐるが、しかも平弱無力には陷つてゐない。印象鮮明にして集中の數ある敍景歌中でも、秀逸といふべきである。拾遺集、貫之の「逢坂の關の清水にかげ見えて今や曳くらむ望月の駒」はこの歌を本歌にしたものである。
〔語〕 ○甘奈備河 大和飛鳥の神岳の山裾を流れる川。
 
    大伴宿禰|村上《むらかみ》の梅の歌二首
1436 含《ふふ》めりと言ひし梅が枝今朝ふりし沫雪にあひて咲きぬらむかも
 
〔題〕 大伴村上 寶龜三年四月從五位上で阿波守となつた。
〔譯〕 まだ蕾んでゐると人が云つたあそこの梅の枝は、今降つた沫雪に逢つて、美しく咲いてゐるであらうか。行つ(202)て見たいものである。
〔評〕 人の家の梅で、恐らく知人の間に知れ渡つてをり、開花の節にはわざわざ見に行つたり招かれたりするやうな、評判の老樹であらう。梅の蕾が沫雪にあつて綻びるといふ想像は、理論を超えて、實際には寧ろ反對かも知れないが、梅花と雪との配合を美しいと見る氣持から來た上代人の素朴な感覺として頷ける。但、表現は拙く餘韻に乏しい。
〔訓〕 ○咲きぬらむかも 或はサキニケムカモとも訓まれる。
 
1437 霞立つ春日《かすが》の里の梅の花山の下風《あらし》に散りこすなゆめ
 
〔譯〕 春日の里に咲いてゐる梅の花よ、春日山から吹く嵐で、散つてくれるな、決して。
〔評〕 上の歌と同じ樹を詠じた連作である。この一首のみを取り離して見れば、あまりに平明で寧ろ凡常に近い感もあるが、前の歌に關聯させて見ると、名木を賞惜するやうな心持が出てゐて好感がもてる。嵐は今吹いてゐるのでなく、花を惜しむ心から生じた危惧のゆゑに假想したのである。
〔語〕 ○霞立つ 枕詞。カスの同音を反覆して「春日」に懸けた。○散りこすなゆめ 「こす」は希望の意を表はす。「よどむことなくありこせぬかも」(一一九)「戀する道に逢ひこすなゆめ」(二三七五)など、集中に用例が多い。
〔訓〕 ○山のあらし 白文「山下風」舊訓ヤマシタカゼ、童蒙抄の訓に從ふ。「七四」參照。
 
    大伴宿禰駿河麻呂の歌一首
1438 霞立つ春日の里の梅の花はなに問はむと吾が念《も》はなくに
 
〔題〕 大伴宿禰駿河麻呂 大伴道足の子と大日本史にある。「四〇〇」參照。
〔譯〕 春日の里に美しく咲いてゐる梅の花を、あだな心で見に行かうと自分は思つてゐない。眞實こめてあの花を愛(203)してゐるのである。〔評〕 これも春日の里の梅を詠んだのであるが、前の歌と同じ梅かとも思はれる。或は春日野あたりとも考へられるが、四五句の口吻を見ると、野梅に對する語でなく、その樹の主に對する辭令的の意味も含まれてゐるやうに受取れる。それだけに歌としては純粹さを失つて、却つて「はな」に詠みなしたといふ感を免れない。
〔語〕 ○霞立つ春日の里の梅の花 以上三句を「はなに」に懸けて序とし、女を梅に譬へたと見る略解説と、單に梅の花を見に來た意とする古義説とがある。前説を支持する學者もあるが、後説に左袒したい。○はなに問はむと 浮氣な心で訪ねようと。「はな」は「白髪つく木綿は花物」(二九九六)の「はな」と同じく、外面のみで眞實のない意。
 
    中臣朝臣|武良自《むらじ》の歌一首
1439 時は今は春になりぬとみ雪ふる遠山の邊《べ》に霞棚引く
 
〔題〕 中臣武良自 傳不詳。
〔譯〕 季節は今やもうすつかり春になつたといふわけで、あの雪の降り積つてゐる遠山のあたりに、うすうすと霞が棚引いてゐる。
〔評〕 雪を戴く遠山にも、ほのかな霞が靡きそめて、冬の去りゆくことがまるで夜の明けてゆくやうに嬉しく思はれる。四邊に漂ふ春光は、欝結した情意をのびやかに解放してくれるであらう。情景和暢、一二句の巧まぬ句調の大らかさにも、溢れ來るやうな歡喜が感じられる。
〔語〕 ○み雪ふる 今現に降りつつあるのでなく、雪の降り積つてゐるの意。
 
    河邊朝臣|東人《あづまひと》の歌一首
(204)1440 春雨のしくしくふるに高|圓《まと》の山の櫻はいかにかあるらむ
 
〔題〕 河邊東人 續紀によれば、寶龜元年十月石見守となつた人で、藤原八束の使として、山上憶良を垂死の病床に見舞つた由が「九七八」の左註に見える。
〔譯〕 暖い春雨がしきりに降つてゐるが、あの高圓山の櫻は、どんなであらう。これで蕾が綻びることであらう。
〔評〕 この歌、古義のやうに、高圓山の櫻が咲き初めたであらうかの意とも見られ、或は略解のやうに、既に咲いてゐた花が散りはせぬかと憂へてゐる意にも取れる。略解説に從へば、少くとも一度は眺めた花を惜しんでゐるのであるが、古義説では、まだ見ぬ花を待ち焦れる氣持である。結句の語氣から察すれば、待ち焦れる氣特と解する方が一層切實に響くやうである。また、前後數首の配列からも、花をまつ歌と考へられる。
 
    大伴宿禰家持の鶯の歌一首
1441 うち霧《きら》し雪はふりつつしかすがに吾家《わぎへ》の苑《その》にうぐひす鳴くも
 
〔譯〕 まだ時々は空がかき曇つて、雪は降り降りするけれども、しかし何といつても春であるから、自分の家の園では、もう鶯が鳴いてゐる。
〔評〕 早春の一情景、ありのままを極めて素直に描寫して、作爲故巧の跡なく、しかも生氣に滿ちてをり、春來る喜が一首に流れてゐる。但これを、今霏々として雪の降つてゐる中に、鶯が鳴いてゐる趣と解するのはよくない。「風交り雪はふりつつしかすがに霞たなびき春さりにけり」(一八三六)と同樣で、「ふりつつ」は目前に降りつつではなく、この日頃ややともすれば降りつつの意である。
 
(205)    大藏少輔|丹比屋主眞人《たぢひのやぬしのまひと》の歌一首
1442 難波邊《なにはべ》に人の行ければ後《おく》れ居て春菜《わかな》採《つ》む兒を見るが悲しさ
 
〔題〕 丹比屋主 績紀によれば、累進して、天平勝寶元年には左大舍人頭となつた。大藏少輔任官のことは續紀には見えないが、この人と見てよい。「一〇三一」參照。
〔譯〕 難波の方に夫が旅立つて行つてゐるので、あとに殘つて、寂しさを慰めでもするつもりか、若菜を摘んでゐる若い女の寂しげな姿を見るのが、自分はいとしいことである。
〔評〕 この婦人は、新婚の夢まだ覺めやらぬのに、夫が旅に出たのでもあらうか。それに對する作者の同情は極めて温かく流れてゐる。夫が難波へ行つたといふやうな詳しい事情を知つてみる點などから考へると、菜をつむ少女は、作者の娘などであらう。
 
    丹比眞人乙麻呂《たぢひのまひとおとまろ》の歌一首 【屋主眞人の第二の子なり】
1443 霞立つ野の上《へ》の方に行きしかばうぐひす鳴きつ春になるらし
 
〔題〕 丹比乙麻呂 上の屋主の次男で、續紀に、天平神護元年正月、正六位上より從五位下に昇進したことが見える。
〔譯〕 霞の立つてゐる野邊の方に自分が行つたところが、そのあたりで鶯が鳴いた。ああ愈々春になるらしい。
〔評〕 ありのままの敍述で、稍あつけないやうな感もするが、單純で大まかな所に、暢び暢びとした氣分が漂つて、春の訪れを感じてゐる趣が窺はれる。
〔語〕 ○行きしかば 行つたところが。普通は、「行つたので」といふ既定の順態條件になるが、ここは聊か異なる用法である。
(206)〔訓〕 ○屋主眞人の第二子なり この註は通行本には無いが、西本願寺本以下の古寫本によつて補ふ。目録にも載せてゐるから、あるのが正しい。
 
    高田女王の歌一首 高安の女なり
1444 山振《やまぶき》の咲きたる野邊《のべ》のつぼ董この春の雨に盛なりけり
 
〔題〕 高田女王 註に高安とあるは、高安王即ち大原眞人高安のことであらう。「五三七」參照。
〔譯〕 山吹の花の咲いてゐる野邊の菫が、このしめやかな春雨に濡れつつ咲いて、今盛である、可憐な風情であるよ。
〔評〕 春雨のしめやかに降る野邊に、山吹の花を背景にして、可憐な姿のつぼ菫が咲いてゐる。美しい景趣であるが、表現としてば、山吹と菫とが渾然と統一されて居らず、中心がおのづから二つに分裂してゐるのは惜しい。
〔語〕 ○つぼ菫 菫の一種で、花は青紫色を帶んだ白色で、葉も少さく心臓形をなしてゐる。平安時代では襲《かさね》の色目に菫(表紫、裏薄紫)と壺菫(表紫、裏薄青)と區別してゐるから、奈良時代でも菫と壺菫とは別種の花であつたらうと、全釋に云つてある。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1445 風|交《まじ》り雪は零《ふ》るとも實《み》にならぬ吾家《わぎへ》の梅を花に散らすな
 
〔譯〕 たとひ風を伴つて雪は降るにしても、まだ實にもならない私の家のこの大事な梅を、花のうちにむなしく散らしてくれるな。
〔評〕 寫實の歌として一通り意は通じるので、さう見るべきであるといふ説もある。しかしこの作者の作歌手腕を思ふ時、こんなぎごちない、興味索然たる詠出をしようとは考へられない。特に一二句及び三句は含む所ある語句なる(207)ことが直感される。略解は「未だ逢ひも見ぬ男の上を言ひさわぐ事なかれといふ譬歌か」といひ、古義は「初二句は、世間の人はさまざまに言ひたて騷ぐとも、と云ふ意をたとへたり。實にならぬは、未だ實《まこと》に夫婦となりえぬをいふ。花に散らすなは、唯|風《ほのか》に言ひかはしたるのみにて止むことなかれの意なるべし」といつてゐる。古義の説が妥當であらう。もし略解や古義に云ふやうな内容ならば、春相聞に入るべきではあるまいか、といふ全釋の説は、本集の分類を絶對正確なものと信じての立論といふべく、諾け難い。一二句、憶良の貧窮問答歌の體であるのはいふまでもない。
〔語〕 ○花に散らすな あだに空しく散らすなの意で、つまり花のまま散らすなといふに同じ。
 
    大伴宿禰家持の春※[矢+鳥]《きぎし》の歌一首
1446 春の野に求食《あさ》る※[矢+鳥]《きぎし》の妻戀《つまこひ》に己《おの》があたりを人に知れつつ
 
〔譯〕 春の野に餌を捜し求める雉が、妻を戀ひ慕つて鳴く爲に、自分の居場所をそのたびそのたびに人に知らせてしまふことである。
〔評〕 妻戀のあまりに我が居る所を知られて、或は獵人の手にかかることもあらうと、同情したのである。これを略解や古義のやうに、譬喩歌と見るのは考へ過ぎで、折から作者自身も妻戀の思に惱んでゐた所から、自然に洩れた同情の聲であらう。「むささびは木ぬれ求むとあしひきの山の獵夫にあひにけるかも」(二六七)は事柄は似て、心持を異にする。「山邊にはさつをのねらひ畏けど牡鹿鳴くなり妻の眼を欲り」(二一四九)の心持がこれに通ふであらう。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1447 尋常《上のつね》に聞くは苦しき喚子鳥《よぶこどり》聲なつかしき時にはなりぬ
     右の一首は、天平四年三月一日佐保の宅の作なり。
(208)〔譯〕 平常の時に聞くのは聞き苦しい喚子鳥の、その鳴く聲も何となくなつかしい春になつたことである。
〔評〕 喚子鳥は諸説區々にして疑問の鳥であるが、この歌はその習性を語る面白い觀察である。これで見ると、喚子鳥は四時常に鳴き、春になると聲がよくなるもののやうである。この歌、詞句格調共に素朴自然にして、何處となく哀韻を含み、棄て難い趣がある。
 
  春相聞《はるのさうもに》
 
    大伴宿禰家持、坂上家の大孃《おほいらつめ》に贈れる歌一首
1448 吾が屋外《やど》に蒔きし瞿麥《なでしこ》いつしかも花に咲きなむ比《なそ》へつつ見む
 
〔題〕 坂上家の大孃 大伴宿奈麿の女で、母は大伴坂上郎女。坂上の二孃の姉で、田村の大孃の妹に當る。後に家持の妻となつた。「五八一」參照。
〔譯〕 自分の家の庭に蒔いた瞿麥は、いつまあ花となつて咲くことであらう。吹いたらば、懷かしいそなたになぞらへて、心を慰めつつ見ようとおもふ。
〔評〕 優しい情緒の歌であるが、相聞歌として情熱的迫力が乏しい。同じ作者の歌に「うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花に比《なそ》へて見れど飽かぬかも」(四四五一)ともあつて、瞿麥に擬せられた大孃の楚々たる容姿が、目に浮ぶやうである。但、瞿麥は夏又は秋の花として集中に歌はれてゐるのに、ここに春相聞の中に入つてゐるのは、春の頃、種を蒔いた時に贈つたのであらう。
(209)〔語〕 ○花に咲きなむ 花となつて咲き出すことであらうか。「に」は結果を示す助詞。「一六〇一」參照。
 
    大伴田村の家の大孃、妹坂上大孃に與ふる歌一首
1449 茅花《つばな》拔《ぬ》く淺茅が原のつぼ菫《すみれ》いま盛なり吾が戀ふらくは
 
〔題〕 田村の家の大孃 大伴宿奈麿の女で、大和國添上郡、法華寺に近い田村の里邸にゐた。坂上大孃の異母姉である。「七五九」の左註參照。
〔譯〕 茅花を拔く淺茅が原の壺菫が今盛であるが、丁度そのやうに、今が盛である、私がそなたを戀ひ慕ふことは。
〔評〕 春の野に茅花を拔くのは、今も田舍の子供達のする遊である。作者も嘗て菫の咲く淺茅が原に、姉妹手を携へて遊び、茅花を拔いて樂しんだことがあつたのであらう。さうして、今又その季節に際會して、頻りに妹の上が思はれたので、樂しかつた嘗ての遊を思ひ起して、それを序にしたのであらう。如何にも優しい愛情の流露した、人柄の思ひやられる作である。
〔語〕 ○つぼ菫 「一四四四」參照。初句以下これまで、その時の風物をとつて、「今盛なり」の序とした。
 
    大伴宿禰坂上郎女の歌一首
1450 情《こころ》ぐきものにぞありける春霞たなびく時に戀の繁きは
 
〔譯〕 心が苦しく切なく、ほんにまあ、惱ましいものではある。春霞のたなびいてゐる時に、人戀ひしさの心が頻りなのは。
〔評〕 霞たなびく春の日の重たい空氣の中に、何とはなしに湧いて來る惱ましさ、物はかなさの感傷は、所謂春愁である。萬葉人も末期近くなると、かうした線の細みが、著しくあらはれて來た。家持の「情ぐくおもほゆるかも春霞(210)たなびく時に言の通へば」(七八九)などもその例である。況んやこの歌は、春愁に加ふるに綿々の戀情を以てしてゐるので、憂欝の氣分は愈々切である。
〔語〕 ○情ぐき 心の切なく惱ましいことをいふ。形容詞「こころぐし」の連體形。「七三五」參照。
〔訓〕 ○大伴宿禰坂上郎女の歌 この書き方は異例で、集中この人に宿禰姓を書いた所は他に無い。それで考は「宿禰」の下「家持贈」の三字脱で、即ち大伴宿禰家持が坂上郎女に贈つた歌と解してゐる。證本は無いが從ふべき説であらう。但、さうすると普通の戀愛でなく、叔母に對する家持の思慕といふことになる。
 
    笠女郎《かさのいらつめ》、大伴家持に贈れる歌一首
1451 水鳥の鴨の羽《は》の色の春山のおほつかなくも念《おも》ほゆるかも
 
〔題〕 笠女郎 傳不詳。家持をめぐる女性の一人、集中に短歌二十九首あり、悉く家持に贈るもので、秀歌が多い。
〔譯〕 鴨の羽の色をした春の山が、青く煙つてはつきりしないやうに、私はあなたを思ふにつけて、どうなることかしらんと、たよりなく思はれることであります。
〔評〕 序が甚だ巧妙で、美しい實感をよく把握してゐる。芽ぶき初める頃の木々に掩はれた春の山の、やや紫がかつた青さを、水鳥の鴨の羽の色に比したところ、まことに清新な感覺であり、男の心を測りかねつつ猶戀々の情に惱む苦しさ、おぼつかなさも髣髴と浮んで來る。象徴的表現として成功したものといつてよい。家持の歌に「水鳥の鴨の羽の色の青馬を」(四四九四)とあるのは、内容は全く別であるが、まさしくこの歌の句を借り用ゐたものである。
〔語〕 ○水鳥の 鴨の枕詞。○鴨の羽の色の 春山の色のほのかに青みを帶びた形容。○春山の 初句以下これまで序。春の山に霞が棚引いてぼんやりしてゐるのを、心のおぼつかなさに譬へたもの。
〔訓〕 ○鴨の羽の色の 白文「鴨乃羽色乃」。ハイロノと多くはよんでゐるが、ハノイロノの方が調べがよい。
 
(211)    紀女郎《きのいらつめ》の歌一首 【名を小鹿と曰へり】1452 闇夜《やみ》ならば宜《うべ》も來《き》まさじ梅の花咲ける月夜《つくよ》に出でまさじとや
 
〔題〕 紀女郎 家持をめぐる女性の一人。「六四三」參照。
〔譯〕 闇夜ならば、お出でにならないといふのも成程御尤でございませう。ですが、梅の花の咲き匂つてゐるこんな美しい月夜であるのに、お出でなさらないと仰しやるのでございますか。
〔評〕 何とかかとか口實を設けて、中々おとづれて來ない戀人に一矢を酬いたのである。攻手はよく筋道が立つてゐて甚だ綺麗であり、才華の煥發を思はせるが、來ぬ人を待ちわびて展轉反側するといふやうな情熱はこの歌から感じられない。つんと拗ねた歌である。
〔訓〕 ○やみならば 白文「闇夜有者」「闇夜」の二字をヤミと訓むのは「曉闇夜乃《あかときやみの》」(二六六四)の例がある。
 
    天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣|金村《かなむら》の入唐使に贈れる歌一首并に短歌
1453 玉襷《だすき》 懸けぬ時無く 氣《いき》の緒に 吾が念《も》ふ君は うつせみの 命かしこみ 夕されば 鶴《たづ》が妻|喚《よ》ぶ 難波潟《なにはがた》 三津《みつ》の埼より 大船に 眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 白浪の 高き荒海《あるみ》を 島傳ひ い別れ行かば 留《とど》まれる 吾は幣《ぬさ》引き 齋《いは》ひつつ 君をばやらむ はや還りませ
 
〔題〕 續紀に「天平四年八月以2從四位下多治比眞人廣成1爲2遣唐大使1從五位下中臣朝臣名代爲2副使1」と見えてゐる。この歌は、金村が、大使か副使か又は隨員中の誰かに贈つたのである。金村の傳は「二三二」參照。なほ憶良の好去好來歌(八九四)も、この時の大使に贈つたものである。
(212)〔譯〕 心にかけぬ時もなく、命にかけて自分の思つてゐるあなたは、此の世の勅命がおそれおほいので、夕方になると鶴が妻を呼んで鳴いてゐる難波の津の崎から、大きな船に兩舷の艪を仕立てて、白浪の高い荒海を、島から島へと漕ぎ傳つて別れて行かれることでせうが、さうしたらば、後に殘つてゐる自分は、幣を手に取り持ち、神樣を祭りつつ、あなたをお送り致しませう。どうか御無事で早くお歸りなさい。
〔評〕 内容は極めて常識的で、辭句手法にも特異な點はない。しかし、遙々と危險な八重の潮路を凌いで、唐土に渡らうとする友の上を思ふ至情が、簡明な詞句の間に、よく表現されて居り、そこにこの作者の風格が認められる。相聞は戀愛に限らず、一般往來存問の意であり、且この歌は、閏三月の所作である所から、編者が春相聞の部に入れたのである。
〔語〕 ○玉襷 「縣く」に冠する枕詞。「五」參照。○氣の緒に吾が念ふ君は 命にかけて自分の思ひ慕つてゐる君は。「一三六〇」參照。
〔訓〕 ○うつせみの 代匠記精撰本には「虚蝉の世の人なれば大王のみこと畏み」(一七八五・一七八七)を證として、この下に「世人有者大王之《よのひとなればおほきみの》」の二句を脱したものとし、略解や古義なども此の説に從つてゐる。○幣引き 考は「引」を「取」の誤としてゐる。○やらむ 白文「將往」。代匠記は「將待」の誤、マタンとしてゐる。
 
    反歌
1454 波の上《うへ》ゆ見ゆる兒島《こじま》の雲|隱《がく》りあな氣衛《いきづ》かし相別れなば
 
〔譯〕 波の上から見えてゐる小さな島が、次第に遠ざかり、雲に隱れてしまふやうに、あなたのお船が別れて見えなくなつたらば、自分は嘆息せられることであらう。
〔評〕 惜別の心持は可なり強く表はれて居り、人の心を牽く所がある。それは、第四句の現在法を採つた切迫した語(213)調の効果と思はれる。併し、結句に至つてそれが未來の想像であることが明確にされるので、少しく敍法の上に無理が生じたことは爭はれない。
〔語〕 ○兒島 代匠記は固有名詞として備前の兒島と見、古義は普通名詞で小さな島の意としてゐるが、古義に從ふべきである。初二句、實景を想像して、次句「雲隱り」の序とした。○あな氣衝かし ほんにまあ、歎息せずにゐられぬことであらう。ここの「息づかし」は、息づかしからむの意。「三五四七」參照。
 
1455 たまきはる命に向ひ戀ひむゆは君がみ船の楫柄《かぢから》にもが
 
〔譯〕 命をかけて、このやうに戀ひ焦れて居らうよりは、いつそのこと、あなたの乘つてゆかれる船の舵の柄にでもなつてお側にゐたいものである。
〔評〕 痛切な惜別の情が、緊密な語句格調の中に盛られてゐる。何か持物になつてなりとも、思ふ人と一緒にゐたいといふ構想は、必しも珍しくはないが、船の楫柄になりたいとは、類例を絶した奇警な着想である。東歌に「家にして戀ひつつあらずは汝が佩ける刀になりても齋《いは》ひてしかも」(四三四七)とある。また、立場は正反對であるが「置きて行かば妹はまがなし持ちて行く梓の弓の弓束にもがも」(三五六七)「父母も花にもがもや草枕旅はゆくともささごて行かむ」(四三二五)なども、それぞれに面白味がある。
〔語〕 ○たまきはる 「命」にかかる枕詞。「四」參照。○命に向ひ 思慕の心が激しく、命に相抗するやうな氣持になつて。命に代へるほど。「たまきはる命に向ふ吾が戀止まめ」(六七八)參照。
 
    藤原朝臣|廣嗣《ひろつぐ》、櫻の花を娘子《をとめ》に贈れる歌一首
1456 この花の一瓣《ひとよ》のうちに百種《ももくさ》の言《こと》ぞ隱《こも》れるおほろかにすな
 
(214)〔題〕 藤原廣嗣 宇合の長子。「一〇二九」參照。
〔譯〕 今あなたにあげるこの櫻の花の一瓣のうちにも、自分の云ひたい澤山の言葉が籠つてゐるのである。粗末にしないで下さい。
〔評〕 いふにもまさる無量の思を、一枝の櫻花に託して思ふ人に贈つたもので、若き日の美しい感傷である。よく洗練された、才氣に富んだ辭樣で、而も浮薄に陷らず、優しい眞情の流露した作である。
〔語〕 ○一瓣のうちに 花瓣一片の中にも。○おほろかにすな 粗略に取扱つてくれるな、大切にせよの意。「おほろか」は「九七四」參照。
 
    娘子の和《こた》ふる歌一首
1457 この花の一|瓣《よ》のうちは百種《ももくさ》にお言《こと》持ちかねて折《を》らえけらずや
 
〔譯〕 戴きましたこの花の一瓣の中には、成程、澤山の御言葉がこもつてゐますので、その重みが持ちきれないで、遂にこのやうに、折られてしまつたのではございませんか。
〔譯〕 相手の言葉をそのまま取つて、當意即妙に答へたところ、幾分揶揄的の氣分があり、中々すぐれた機智で、才氣溌剌たる明朗型の娘子と想像される。かうした男女間の贈答歌に於いて、男の態度の眞劍なのに比して、女の答が皮肉や揶揄を以てはぐらかし、眞面目に受けぬ例が多いのは、容易に男に許さぬ警戒心理の現はれである。
〔語〕 ○一瓣のうちは 一瓣の中には。○言持ちかねて その言葉があまり重くて持ちこたへきれないで。
 
    厚見王、久米《くめの》女郎に贈れる歌一首
1458 屋戸《やど》にある櫻の花は今もかも松風|疾《いた》み地《つち》に落《ち》るらむ
(215)〔題〕 厚見王 前掲「一四三五」參照。久米女郎の傳は不明。古義は久米連若賣かと疑つてゐる。
〔譯〕 あなたの家にあるあの美しい櫻の花は、今頃はきつと、松風がはげしい爲に、地上に散つてゐることでせうね。
〔評〕 颯々の松籟に雪と散り亂れる花を想像したのである。平明淡雅の詞句聲調に、大らかな氣分を盛つてゐる。
〔語〕 ○屋戸にある 君の宿にあるの意。○今もかも 今まさにまあ。結句と呼應して「今も落るらむかも」即ち、今まさに散つてゐることだらうか、散つてゐるただうとなる。
 
    久米女郎の報へ贈れる歌一首
1459 世間《よのなか》も常にしあらねば屋戸《やど》にある櫻の花の散れる頃かも
 
〔譯〕 世の中といふものも、ほんに無常なものでございますから、仰しやる通り、今は私の家にある櫻の花が盛に散つてゐる時でございますよ。
〔評〕 これは櫻と無常觀とを結びつけた集中唯一の歌である。しかし、散り易い花に對して深く人生の無常を觀じ、流涕するといふやうな後世の感傷的な歌とは趣を異にして、淡々たるものであも。これを深い寓意のあるやうに取つた古義の解は考へ過ぎで、當つてゐない。
〔訓〕 ○散れる 白文「不所」この字面をチレルと訓むのは訝しいが、代匠記初稿本に「もとの所にあらぬは、花にてはちるなれば、義もて書けるなり」とあり、古義もこれに從つてゐる。代匠記精撰本にはウツル、考にはウツロフとしてゐるが、「ちるらむ」に對して「ちれる」の方がよい。
 
    紀女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
1460 戯奴《わけ》【變してわけと云ふ】がため吾手もすまに春の野に拔《ぬ》ける茅花《つばな》ぞ食《を》して肥えませ
 
(216)〔題〕 紀女郎 「一四五二」にも出てゐる。
〔譯〕 これはお前の爲に、私が手も休めずに、春の野で拔いて來た茅花なのです。これを召上つて、お肥りなさい。
〔評〕 戯れの歌である。かういふ戯を言ひかはす程の仲は、どの程度であつたか、容易に想像される。茅花を食すると肥えるといふのは當時の俗信であつたと思はれる。「石麻呂にわれ物申す夏痩に良しといふ物ぞ鰻漁り食せ」(三八五三)といつて、吉田石麻呂を笑つた家持自身、この歌で見ると、さほど肥えてもゐなかつたことが分つて面白い。
〔語〕 ○戯奴 ここは二人稱であるが「五五二」「七八〇」等には一人稱に用ゐてある。本來は卑しみ罵る意の二人稱代名詞であつたのを、謙讓の意で一人稱に轉用したものかと思はれる。意味は奴の意。作者が家持に對して眞面目にこんな語を使用すべきではないが、戯に用ゐたので、特に「戯」の字を添へたのであらう。○變してわけと云ふ 筆者又は編者の註で、「變」は「反」に通じて用ゐた。漢字にいふ反切の意味とは異なるが、訓方を示すといふ意味で、便宜用ゐたのである。「八九四」には「反」とある。○吾手もすまに わが手もたゆくなる位に。「すま」は休めず、暇なく、また、略解所引宣長説には、數《しば》にの意としてゐる。
 
1461 晝は咲き夜《よる》は戀《こ》ひ宿《ぬ》る合歡木《ねぶ》の花君のみ見めや戯奴《わけ》さへに見よ
     右は、合歡の花卉に茅花を折り攀ぢて贈れるなり。
 
〔譯〕 晝は咲いて居り、夜になると戀ひ慕ひつつ眠るこの合歡木の花、こんな優しい花を、なんの主人の私だけ見てゐようか、お前に一枝やるからお前も見るがよい。
〔評〕 合歡の花はほのかな薄紅で、頗る可憐な感じの花である。作者はこの優しい花を一人で見てゐるのが惜しくて、一枝を家持に贈つたものと見える。それに添へる歌として、やはり前のと同じ戯作を試みたので、たたそれだけのものではあるが、氣のきいてゐる所が取得である。
(217)〔語〕 ○晝は咲き夜は戀ひ宿る 晝は美しく花が咲いて居り、夜は葉が閉ぢることを譬喩的にいつたもの。第三句にかけて見ると、夜戀ひ眠るのも花であるやうに取れるが、ここは漠然たる表現であつて、さう嚴密に考へなくてもよからう。○合歡木 荳科の落葉喬木。葉は二回羽?複葉で、多數の小葉から成り、夜になるとこの小葉が閉ぢる。盛夏の候、薄紅の花が刷毛のやうな形をして群がり咲く。○君のみ見めや 何で俺だけ見ようかの意で反語。「君」は戯奴の主人、即ち作者自身をいふ。○戯奴さへに見よ お前までも共に見よの意。
〔左註〕 右二首は合歡木の花と茅花とを贈るに添へた歌との意。「攀」は引く又は折るの意で集中に用例が多い。さて茅花は春のもの、合歡木の花は、盛夏のものであるのに、兩者を一緒に贈るといふことは不思議である。そこで考には「一時の歌ならねど、同じ人と同じ意をよみかばせるなれば思ひ出る序にかくかかれしならむ」と説明してゐるが、併し歌詞から考へて、どうも別時のものとは思はれない。略解には「茅花は三月、合歡の花は六月の頃咲くなれば、時異なり。是は藥に服せむ爲に拔きてたくはへ置たるを贈れるなるべし」とある。茅花が藥用に供されたことは本朝食鑑にも見えるので、或は略解の説の如くであるかも知れぬ。
 
    大伴家持、贈り和ふる歌二首
1462 吾が君に戯奴《わけ》は戀ふらし給《たば》りたる茅花《つばな》を喫《は》めどいや痩《や》せに痩《や》す
 
〔譯〕 あなた樣に、この奴めは戀してゐるやうでございます。頂戴しました茅花をたべましても、ますます痩せてまゐります。
〔評〕 贈られた歌に對して恰當な、まことに氣のきいた應酬である。互に五分の隙もない唱和といふべきであらう。二句切れで典型的な五七調を成してゐるのも齒切れがよい。
〔語〕 ○戯奴 ここは自分のこと。先方の語を直に採り用ゐたのである。
 
(218)1463 吾妹子が形見の合歡木《ねぶ》は花のみに咲きて蓋《けだ》しく實に成らじかも
 
〔譯〕 あなたが、形見として自分に下さつたこの合歡の木は、花ばかり咲いて、多分實にならずに終るのではありますまいか。
〔評〕 あなたは口先ばかり如何にも親密らしくて、結局相愛の仲にならずにしまふのではないか、との意を寓したもので、この答歌はいつの間にか居ずまひを直し、眞顔になつた觀がある。尤も全釋にいふやうに、折つた枝であるから花のみ咲いて實にならぬのは當然であるから、それをわざと空とぼけて、かくいひなしたものとすれば、やはり諧謔の歌になる。しかし要するに「愛しきやし吾家の毛桃本しげみ花のみ咲きてならざらめやも」(一三五八)「見まく欲り戀ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて成らずかもあらむ」(一三六四)などある通り、類型的構想で、興味は少いといへる。
〔語〕 ○形見 記念となるもの。必ずしも別れの印と限つたことはない。○實にならじかも 戀が成就せずに終りはしないかの意を寓してゐる。
 
    大伴家持、坂上大孃に贈れる歌一首
1464 春霞たなびく山の隔つれば妹に逢はずて月ぞ經にける
     右は、久邇京より寧樂の宅に贈れり。
 
〔譯〕 春霞のたなびいた山が、久邇の京と奈良との間を隔ててゐるので、戀しいそなたに逢ふことが出來ないで、月が經つてしまつたことである。
〔評〕 結婚後まだ幾何もなかつたであらう作者は、一人で久邇の新都に住み、奈良に殘してゐる愛妻を戀ひ暮してゐ(219)たのである。「一隔山|隔《へな》れるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ」(七六五)などと同じ頃の述懷と思はれるが、何れも眞率にして飾らず、情を盡してゐる。
〔語〕 ○隔つれば 久邇と奈良との間に介在してゐるからの意。○月ぞ經にける 月がかはるまで經過してしまつた。
〔左註〕 久邇の京から家持が奈良の宅にゐる妻の大孃に贈つたとの意で、久邇へ京が移つたのは天平十三年である。
 
   夏雜歌《なつのざふか》
 
    藤原夫人の歌一首 【明日香清御原宮御宇天皇の夫人なり。字を大原の大刀自といへり。すなはち新田部皇子の母なり。】
1465 霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ汝《な》が聲を五月《さつき》の玉にあへ貫《ぬ》くまでに
 
〔題〕 藤原夫人 「一〇三」の藤原夫人と同じ。天武天皇の夫人で、鎌足の第二女。大原の大刀自ともいはれたのは、大原の地に住まれた爲であらう。
〔譯〕 杜宇よ、まだ繁くは鳴くな。お前の聲を、五月につるす藥玉を作る爲に、珠とまぜて絲に貫きとほすまでは。
〔評〕 早くも四月に鳴き出した杜宇の聲を愛惜する心もちと、五月の藥玉をかける頃への憧れとが、優美な感想を釀し、清新な調となつてゐる。杜宇の聲を玉と見做して絲に貫くといふ空想は、集中他にも詠まれてゐるが、藤原時代の作なるこの歌が、その源泉をなすものであると見られよう。
〔語〕 ○五月の玉 五月の節句に飾る藥玉のこと。漢土では續命縷・長名縷などといひ、麝香・沈香・丁子などの香藥を錦の袋に入れ、絲や造花で飾り、五色の長い絲、及び菖蒲・蓬等を添へる。邪氣惡疫を除く呪で、大陸風俗の輸(220)入である。○あへ貫くまでに 交へ貫く時までは。賞嘆の情を空想的にいつたのである。
 
    志貴皇子《しきのみこ》の御歌一首
1466 神名火《かむなび》の磐瀬《いはせ》の杜《もり》のほととぎす毛無《ならし》の岳《をか》に何時《いつ》か來鳴かむ
 
〔題〕 志貴皇子 天智天皇の第七皇子。この卷の劈頭にも見える。
〔譯〕 神名火の磐瀬の森の杜宇は、この毛無の岡には、何時來て鳴くことであらう。早く來ればよいがなあ。
〔評〕 平明清楚な格調はこの皇子の特長で、頗る高い氣品を持して居られる。杜宇の聲を愛好し、これを待ちわびる心持が、如何にも素直にあらはれてゐる。
〔語〕 ○神名火の磐瀬の森 「一四一九」參照。○毛無の岳 種々の説があつて明かでないが、生駒郡龍田町の南、といふ大日本地名辭書の説と、三郷村大字立野字阪上から東北數町とする大和萬葉地理研究の説とがある。
〔訓〕 ○毛無の岳 「毛無」をナラシと讀むのは、代匠記が「左傳曰、食2土之毛1誰非2君臣1、【毛草也。】史記鄭世家云、錫2不毛之地1、【何休云、※[土+堯]埆不v生2五穀1曰2不毛1】」の例をひいて、人の踏みならして草のない意と説いてゐる。
 
    弓削皇子《ゆげのみこ》の御歌一首
1467 霍公鳥《ほととぎす》無かる國にも行きてしかその鳴く聲を聞けば苦しも
 
〔題〕 弓削皇子 天武天皇の皇子。「一一一」參照。
〔譯〕 社宇のすんでゐない國に行きたいものである。その鳴く聲を聞くと、自分は胸が苦しくて仕方がない。
〔評〕 杜宇の聲は、この當時にあつては、一般に興あるものとして愛好されたのであるが、この歌はさうでない。何かその聲から聯想されて、愁緒を催されるやうな事件があられたものと思はれる。
 
(221)    小治田廣瀬王《をはりだのひろせのおほきみ》の霍公鳥の歌一首
1468 ほととぎす聲聞く小野《をの》の秋風に萩咲きぬれや聲の乏《とも》しき
 
〔題〕 小治田廣瀬王 小治田は推古天皇の小墾田宮のあつた地で、今の高市部高市村あたりをいふ。此處に廣瀬王が住んで居られたのであらう。紀及び續紀によれば、天武天皇の十年、帝紀及び上古の諸事を記定せしめ給うた時、王はその事に與り、十三年、遷都の候補地視察を命ぜられ、持統天皇六年の伊勢行幸に際しては留守官となり、養老六年正月卒せられた。
〔譯〕 杜宇の鳴く聲がよく聞かれる野邊に、秋風が吹き萩の花が咲いた故であらうか、めつきり聲が稀になつた。
〔評〕 杜宇に秋風や萩の花を配したのは、奇異の感がある。尤も處によつては、非常に早い萩と最も遲い杜宇とは同時に存在し得ることもあるのであらう。しかしそれはそれとして、この歌は、それらの素材の扱ひ方に不用意の點あるを免れない。
 
    沙彌《さみ》の霍公鳥の歌一首
1469 あしひきの山ほととぎす汝《な》が鳴けば家なる妹し常に思《しの》はゆ
 
〔題〕 沙彌 沙彌とのみでは誰と知る由もない。集中には三方沙彌(一二三)滿誓沙彌(三三六)沙彌女王(一七六三)などの名が見えるが、代匠記は「三方」の二字が落ちたものと推定してゐる。
〔譯〕 山の杜宇よ。お前が鳴くと、自分は故郷の家にゐる妻のことが、いつも偲ばれることである。
〔評〕 内容は單純、表現は平明であり、しかも眞率な點がよい。但、人麿の「淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのに古へおもほゆ」(二六六)や、その粉本から生れたと思はれる門部王の「飫宇の海の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保(222)川の思ほゆらくに」(三七一)の影響があることは明瞭であるが、歌品遠く及ばないのは已むを得ないことである。
〔訓〕 ○しのはゆ 白文「所思」。多くはオモホユと訓まれてゐる。
 
    刀理宣令《とりののぶよし》の歌一首
1470 もののふの石瀬《いはせ》の杜《もり》のほととぎす今も鳴かぬか山のと陰《かげ》に
 
〔題〕 刀埋宣令 養老頃の人で東宮侍講となつた人。懷風藻にも見える。「三一三」參照。
〔譯〕 石瀬の森に棲んでゐる杜宇よ。たつた今、さあ鳴いてくれないか、この山の陰で。
〔評〕 石瀬の森は當時社宇の名所であつたと思はれ「一四六六」にもあつた。この歌は、この名所の杜宇の聲を待ちわびてゐる心もちが、素直に出てゐるといふのみである。
〔語〕 ○もののふの 枕詞。「石瀬」に懸ける理由に就いては、代匠記に「もののふの屯聚《いはむ》といふ心にいひかけたるなり。いはむは軍を張る心なり」とあるl。○今も鳴かぬか たつた今、すぐに鳴いてくれないか(希望)。○山のと陰に 「とかげ」は、代匠記初稿本は常に日のあたらぬ影とし、宣長は、たを陰、即ち山のたわんだ所の陰と解してゐる。
〔訓〕 ○今も鳴かぬか 白文「今毛鳴奴香」諸本「香」の字が無いのを、代匠記初稿本に補つた。もとのままでイマシモナキヌと訓む説もある。
 
    山部宿禰赤人の歌一首
1471 戀しけば形見にせむと吾が屋戸《やど》に植ゑし藤浪いま咲きにけり
 
〔譯〕 あの女の戀しい時には、形見にして眺めようと思つて自分の家に植ゑた藤の花が、今や美しく咲いて、懷かしい人の姿も偲ばれる。
(223)〔評〕 紫のゆかりの色美しく、なよやかにしなひ渡る藤浪の花によそへられた愛人の艶容が、髣髴として浮んで來る。淡々とした表現は、一見平凡のやうに見えて曲折があり、柔か味がある。尚「戀しくは形見にせよと吾が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり」(二一一九)は、男女位置を異にし、藤が萩になつてゐるが、赤人の作を歌ひかへたのであらう。
〔語〕 ○戀しけば 戀しからば。「戀しけば袖も振らむを」(三三七六)參照。○植ゑし藤浪 嘗て植ゑておいた藤の花。藤浪は花房の靡く棟を形容していふ。「三三〇」參照。
 
    式部大輔|石上堅魚《いそのかみのかつを》朝臣の歌一首
1472 ほととぎす來《き》鳴き饗《とよ》もす卯の花の共にや來《こ》しと問はましものを
     右は、神龜五年戌辰、太宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝《みまか》りぬ。時に、勅使式部大輔石上朝臣堅魚を太宰府に遣して、喪を弔ひ并せて物を賜ひき。其の事既に畢りて、驛便及び府の諸卿大夫等、共に記夷の城《き》に登りて、望遊《なが》めし日|乃《すなはち》この歌を作りき。
 
〔題〕 石上堅魚 續紀によるに、神龜五年には從五位上であつた。
〔譯〕 杜宇が來て頻りに高音を響かしてゐる。お前は仲よしの卯の花と一緒に來たのかと問うて見ようものを、その卯の花は一向あたりに見えない。さてはお前は獨ぼつちなのか、かはいさうだなあ。
〔評〕 この歌は頗る難解で、從來まだ首肯されるやうな解釋を見ない。左註によれば、作者は旅人卿の妻の死を弔問する勅使として都から下り、所用を果し、歸らうとして一日記夷城に官人達と遊んだのである。事情からしても「問はましものを」といふ句からいつても、殊に次の答歌と對比してみても、單なる敍景とは考へられない。代匠記には「杜宇は卯の花にしたしき鳥なれば、亡き人の魂と共にや來しと云はむ爲に、來鳴きとよもす卯の花とは云へり‥‥郭公は冥途より來る鳥と云ひ習はしてその意を後の歌に多くよめり。」云々といつてゐるが、十分でない。宣長の誤字(224)説もいかがである。よつて思ふに、杜宇と卯の花、もしくは橘は、恰も梅に鶯といふごとく、常に相伴なふべきもののやうに思はれてゐる。然るに今東は鳴くが、附近に卯の花が見えない。それで卯の花と共に來たかと問ひたいのに、お前は卯の花と同伴でなく獨ぼつちで來たのか、氣の毒なとの意で、暗に旅人卿の孤獨に擬して同情を寄せたものと見れば、意は通ずるのみならず、答歌も始めて生きて來ると思はれる。尚この歌で卯の花と云つてゐるのに、橘を以て答へてゐるのも、今眼前に卯の花の無いことを證するもので、却つて官邸に橘があつたのであらう。假にさう解しておく。
〔左註〕 記夷城 「五七六」の城山《きのやま》と同じで、筑前と肥前の境にある。
 
    太宰帥大伴卿の和ふる歌一首
1473 桶の花散る里のほととぎす片戀しつつ鳴く日しぞ多き
 
〔譯〕 橘の花が頻りに散るこの里の杜宇は、相手の花がなくなるので、獨で戀しがりながら鳴く日が多いことである。
〔評〕 橘は社宇をのこして散つてゆく。社宇は己がよすがを失ひ、片戀にこがれて日毎鳴きつづげてゐる。それは老年に及んでこの邊地に愛妻を亡ひ、一人で追慕の涙をそそいでゐる作者自身の姿ではないか。折からの風物に寄せて賓客の歌に唱和した作者は、表面さりげなく、すらりと詠みなしてゐるが、内に無量の感愴をこめて居り、辭句の奧に哀韻の切々たるものが聞き取られるのである。
〔語〕 ○橘の花散る里の杜宇 愛妻を亡くした自分を暗示してゐる。この用例は、集中に「一九七八・四〇九二」にも見えてみる。○片戀しつつ 杜宇が獨り空しく橘を戀しがつての意に、作者自ら亡妻を思慕する意を含めてゐる。
 
    大伴坂上郎女、筑紫の大城山《おほきのやま》を思《しの》ふ歌一首
(225)1474 今もかも大城《おほき》の山にほととぎす鳴き響《とよ》むらむ吾無けれども
 
〔題〕 大城山 大野山と同じで、太宰府の背後の山。「七九九」參照。坂上郎女は天平二年冬十一月に太宰府を發して歸京の送に就いたので、この歌は恐らく三年夏の作であらう。
〔譯〕 今頃あたりはまあ、あの大城の山で、杜宇が鳴いて高音を響かしてゐることであらうか、多分鳴いてゐるであらうなあ。あの聲を聞いた自分が、もう其處にはゐるのではないけれども。
〔評〕 坂上郎女は、兄旅人の任地太宰府に數年を過した。多感なこの才女は、その地の風物に折々の感興を動かしたであらうが、戀しい都に歸つた後も、事につけ折に觸れて、さすがに住み馴れた邊境の事が懷かしく思ひ出された。今、久々に見る都の初夏の風景に、思ひを大城の山の杜宇の聲に馳せて、おのづからにして成つたのがこの歌であつたらう。作爲の跡なく、風韻ゆたかな作である。結句が説明的であり、蛇足のやうであると評した人もあるが、さうでない。この一句あつてこそ、感慨が更に油然と湧いて來るのである。
〔語〕 ○今もかも 四句と聯關して「今鳴きとよむらむかも」となるのである。
 
    大伴坂上郎女の霍公鳥の歌一首
1475 何しかも許多《ここだく》戀ふるほととぎす鳴く聲聞けば戀こそ益《まさ》れ
 
〔譯〕 何でまあ、私はこんなに甚しく社宇を戀ひ慕ふのであらう。杜宇の鳴く聲を聞けば、人戀しさの心が増すばかりであるのに。
〔評〕 吾とわが心を疑ふほどの強い愛着を杜宇に持つてゐたのである。これほどの氣持は、現代人にはちよつと了解出來ないと思はれるが、時代的好尚といふことを深く考へる必要があらう。四五句の調子はよい。一二三句、杜宇が(226)戀ひ鳴くのを作者が何故と詰つた趣に解する人があるのは、甚しい誤である。
〔語〕 ○ここだく 多數の意から轉じて甚しくの意になつたもの。「六八〇」參照。○戀こそまされ 自分が人を戀ふる心が愈々増して來るのに。
 
    小治田朝臣廣耳《をはりだのあそみひろみみ》の歌一首
1476 獨居てもの念《も》ふ夕《よひ》にほととぎす此間《こ》ゆ鳴き渡る心しあるらし
 
〔題〕 小治田廣耳 この人の名は續紀に見えないが、小治田廣千が、天平五年に外從五位下となつてゐる。耳と千と草體が似てゐるから、誤寫かと代匠記にある。
〔譯〕 自分が一人でゐて、物思ひをしてゐる夕方に、杜宇が此處を通つて鳴いて行く。さては杜宇も心があつて、自分を慰めてくれるらしい。
〔評〕 杜宇の聲をめづらしいと聞いたにつけて、物思ふ吾に同情してくれたのかと想像したのは、聊か理に墮ちてゐるきらひがある。
 
    大伴家持の霍公鳥の歌一首
1477 卯《う》の花もいまだ咲かねばほととぎす佐保の山邊に來鳴き饗《とよ》もす
 
〔譯〕 今年は卯の花もまだ咲かないのに、もう杜宇が佐保山のあたりへ來て、高音を鳴き響かしてゐるが、めづらしい初音であるよ。
〔評〕 一見平凡なやうであるが、率直平淡な表現の中に、巧まざる眞實がこもり、季節の風物に對する敏感さがよく現はれてゐる。
(227)〔語〕 ○未だ咲かねば まだ咲かずにゐる中に。「ねば」は「一四三四」參照。
 
    大伴家持の橘の歌一首
1478 吾が屋前《には》の花橘の何時《いつ》しかも珠に貫《ぬ》くべくその實成りなむ
 
〔譯〕 自分の家の庭の花橘は、いつになつたらまあ、玉として絲に通すほどに、その實がなるであらう。待ち遠しいことである。
〔評〕 花橘を玉に貫くといふ歌は集中甚だ多く、上の「一四六五」もさうであつた。自然に親しみの深かつた上代人は、實生活の中に遊戯を見出すすべを知つてゐたのである。天智紀の童謠にも「橘はおのが枝々なれれども玉に貫く時おやじ緒に貫く」とあるので、極めて古い風習であることが知られる。
 
    大伴家持の晩蝉《ひぐらし》の歌一首
1479 隱《こも》りのみ居《を》れば欝悒《いぶせ》み慰《なぐさ》むと出で立ち聞けば來鳴く晩蝉《ひぐらし》
 
〔譯〕 家に引籠つてばかりゐては氣がふさぐので、心を慰めようと外に出て聞くと、もう蜩が來て鳴いてゐるわい。
〔評〕 家持らしい線の細さで、當時の感傷的な貴公子の姿が目に浮ぶ。但、句法は十分洗練を經ず、雜音的である。
〔語〕 ○慰むと 心を慰めるとて。これを自動詞として、心が慰むこともあらうかと思つての意に解する説は、語法には叶はない。○晩蝉 今いふカナカナ蝉のこと。
 
    大伴|書持《ふみもち》の歌二首
1480 我が屋戸《やど》に月|押照《おして》れりほととぎす心あらば今夜《こよひ》來《き》鳴き響《とよ》もせ
 
(228)〔題〕 大伴書持 家持の弟。「四六三」參照。
〔譯〕 自分の家に、月の光が一ぱい照り渡つてゐる。杜宇よ、情《こころ》があるならば今晩、ここへ來て聲高く鳴いてくれ。
〔評〕 次の歌と二首の連作で、取り立てていふ程の歌でもないが、初夏月明の夜、たまたまおとづれ來た友へのもてなしにもと、社宇の一聲を待つた心もちは酌み取れる。
〔語〕 ○月押照れり 月が一面におしなべて照らしてゐる意で、隈なく照つてゐること。「一〇七四」參照。
〔訓〕 ○心あらば今夜 白文「心有今夜」古くはココロアレ。仙覺はココロアルとし、代匠記精撰本に「月も照りて夜に情有れば、かかる時に」と注してゐる。今は考の訓に從つた。
 
1481 我が屋前《には》の花橘にほととぎす今こそ鳴かめ友に遇《あ》へる時
 
〔譯〕 自分の家の庭の花橘に來て、杜宇よ、今こそ鳴いてくれ。ちやうど親しい友も來合せてゐる時であるから。
〔評〕 前の歌と竝べ誦して情景は一層はつきりする。めづらしい友を待ち得た喜も言外によく表はれてゐる。ただ線の細いところは、おのづから作者の人となりを反映したものであらう。
〔語〕 ○今こそ鳴かめ こんな時こそ鳴くべきであらう、だから鳴いてくれよといふ意。今まさに鳴くであらうと解するのは誤。
 
    大伴清繩の歌一首
1482 皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴くほととぎす吾《われ》忘れめや
 
〔題〕 大伴清繩 類聚古集に「清綱」とあり、古義は大伴清繼(四二六三)と同人で、書寫の誤かと疑つてゐる。
〔譯〕 皆の人が待つてゐたこの卯の花がたとひ散つてしまつても、聲おもしろく鳴く杜宇を、自分は忘れようか。決(229)して忘れはせぬ。
〔評〕 杜宇と卯の花とは好配偶で、卯の花が散れば社宇の聲も稀になる。それで人々は卯の花が散ると自然杜宇のことも忘れるのであるが、自分はあの愛すべき杜宇は忘れられないといふ心もちであらう。第三句を假定條件にチリヌトモと訓んだけれども、確定條件にチリヌレドとも訓めるので、從つて解釋が決定し難い。
 
    庵君諸立《いほりのきみもろたち》の歌一首
1483 吾が背子が屋戸《やど》のたちばな花を吉《よ》み鳴く霍公鳥《ほととぎす》見にぞ吾が來《こ》し
 
〔題〕 庵君諸立 傳不詳。作は集中この一首のみである。
〔譯〕 あなたのお宅の橘の花が美しいので、杜宇が來て鳴くことと思ひ、それを見に自分は參りました。
〔評〕 内容は極めて凡常であり、表現も甚だ幼稚である。特に修飾語が徒らに長々しいきらひがある。
〔語〕 ○吾が背子が 必ずしも女から夫や戀人をいふに限らない。親密な男同士にもいふ。ここは友人であらう。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1484 霍公鳥いたくな鳴きそ獨居て寐《い》の宿《ね》らえぬに聞けば苦しも
 
〔譯〕 杜宇よ、そんなにひどく鳴いてくれるな。一人でゐて眠れないのに、お前の鳴く聲を聞くと苦しいことである。
〔評〕 杜宇の聲は、元來爽かな、耳に快いものとして喜ばれたのに、時代がくだるに從つて、斷腸の哀韻があるやうに詠みなされたのは、大陸文學の影響ではあるまいか。この歌、前出の小治田廣耳の歌「一四七六」とは反對の感想であるが、人に依り時に隨つて、感ずる所はさまざまであらう。
 
(230)    大伴家持の唐棣花《はねずのはな》の歌一首
1485 夏まけて咲きたる唐棣花《はねず》ひさかたの雨うちふらばうつろひなむか
 
〔譯〕 夏近くなつて咲いたはねずの花は、雨が降つたらば、色がうつり褪せてしまふであらうか。惜しいことである。
〔評〕 はねずの花はうつろひ易いだけに、非常に美しい花である。隨つて愛情の心もちは一層深いのである。極めて淡々と歌つてゐながら、自然の風物に深い關心を持つ風流貴公子の面目を鮮かに髣髴させてゐる。
〔語〕 ○夏まけて 夏に近づいて。○唐棣花 庭櫻説、李花説、木蓮説、庭梅説など諸説ある。「六五七」參照。
 
    大伴家持の霍公鳥の晩《おそ》く喧《な》くを恨むる歌二首
1486 吾が屋前《には》の花橘をほととぎす來喧《きな》かず地《つち》に散らしめむとか
 
〔譯〕 自分の家の庭に折角咲いたこの花橘を、杜宇はいつまでも來て鳴かないで、むなしく士に散らせてしまはうといふのか。早く來て鳴けばよいのに。
〔評〕 花橘を待つに心を苛ち、次いで又、時鳥の遲いのに心を惱ますのは、既に文人趣味の現はれ初めた時代の、この作者のやうな階級の人々には當然なことであつたらう。しかして家持は、特にこの鳥に執心して、越中の國守時代にも、杜宇の晩く鳴くのを恨んだ歌を詠じてゐる。
 
1487 ほととぎす念《おも》はずありき木《こ》の暗《くれ》の斯《か》くなるまでに奈何《なに》か來喧《きな》かぬ
 
〔譯〕 杜宇よ、實に自分は意外であつた。木の蔭が暗く茂つてこんなになるまで、なぜ來て鳴かないのか。
〔評〕 杜宇を待ちかねる心いられが、無意識の間に詰問の形となつて現はれたのである。初二句の辭樣には異色があ(231)り、力が漲つてゐる。
〔語〕 ○思はずありき まるで意外だつた、こんなに遲く來ようとは思はなかつたの意。古義には、杜宇がこちらの思ふやうに自分を思つてくれないと解して居るのは、首肯し難い。
 
    大伴家持の霍公鳥を懽《よろこ》べる歌一首
1488 何處《いづく》には鳴きもしにけむほととぎす吾家《わぎへ》の里に今日のみぞ鳴く
 
〔譯〕 何虚かよそではもう鳴いたかも知れないが、自分の住んでゐるこの里では、社宇が今日はじめて鳴いた。
〔評〕 今年はじめて霍公鳥の聲を聞いなといふ喜を歌つたものであるが、初二句あたりの構想が、理智的に陷り、感動が著しく稀薄になつてゐる。
 
    大伴家持の橘の花を惜しむ歌一首
1489 吾が屋前《には》の花橘は散り過ぎて珠に貫《ぬ》くべく實《み》になりにけり
 
〔譯〕 自分の庭の橘の花は、もう散つてしまつて、珠に貫けるやうに、その實がなつたことである。
〔評〕 前出「吾が屋前の花橘のいつしかも珠に貫くべくその實成りなむ」(一四七八)を承けて出來たやうな歌である。花の頃には實を待ち望み、實を結ぶ時期に到れば更にまた花を思ふなど、絶えず自然の風物に心を牽かれた奈良文化人の詠歎である。
 
    大伴家持の霍公鳥の歌一首
1490 ほととぎす待てど來喧《きな》かず菖蒲草《あやめぐさ》玉に貫《ぬ》く日をいまだ遠みか
 
(232)〔譯〕 社宇が、鳴くか鳴くかと待つてゐるけれども、まだ來て鳴かない。菖蒲を藥玉に貫いてこしらへる五月五日が、まだ遠いからであらうか。
〔評〕 菖蒲を添へて藥玉を作る五月の節句に、更に風情を加へるのは杜宇の聲である。當時の人々が五月の節句を待ちわび、杜宇の聲に憧れた氣持は、今日の我々の想像以上であつたに相違ない。しかしこの歌は、構想は類型的であり、措辭も形式的で生氣に乏しい憾がある。
〔語〕 ○玉にぬく日 玉に貫くは、藥玉に作る。新考に、菖蒲の根を小さく切つて絲に貫くのであらうと云つてゐる。
 
    大伴家持の、雨の日霍公鳥の喧《な》くを聞ける歌一首
1491 卯の花の過ぎば惜しみかほととぎす雨間《あまま》も措《お》かず此間《こ》ゆ喧《な》き渡る
 
〔譯〕 卯の花が散つてしまつては惜しいゆゑか、社宇は雨の降る間も休まずに、此のあたりを通つて鳴いてゆくことである。
〔評〕 雨中に鳴く杜宇を、卯の花の散るのを惜しんで鳴くのかと想像したのであるが、常識的で、詩趣が乏しい。
〔語〕 ○雨間 雨の晴間と、雨の降つてゐる間との兩義あるが、ここは後者。
 
    橘の歌一首 遊行女婦《うかれめ》
1492 君が家の花橘はなりにけり花なる時に逢はましものを
 
〔題〕 遊行女婦 遊女のこと。「九六六」參照。但、これは誰とも知る由がない。或る遊女の詠じた歌である。
〔譯〕 あなたのお宅の花橘は、もう實になつてしまひましたね。花の咲いてゐる時におたづねしてお逢ひすればよかつたのに、惜しいことをしました。
(233)〔評〕 平板にしてただごとに近く、少しも感銘が表はれてゐない。古今集の「かはづなく井手の山吹散りにけり花の盛に逢はましものを」は、字句は僅かの相違で、恐らくこの歌に據つたものと思はれるが「逢ふ」を人に逢ふの意でなく、單純に花の盛に逢ふの意に變へた點に働があり、數段優れた歌になつてゐる。
〔語〕 ○花なる時に まだ花のうちに。○逢はましものを 君を音づれて花をも見、君にもお逢ひしたかつたものを。
 
    大伴村上の橘の歌一首
1493 吾が屋前《には》の花橘をほととぎす來鳴き勤《とよ》めて本《もと》に散らしつ
 
〔題〕 大伴村上 「一四三六」參照。
〔譯〕 自分の家の庭の花橘を、杜宇が來て、高音を鳴き響かして、木の下に散らしてしまつたことである。
〔評〕 あまりに平板で、何の詩趣も餘韻も無く、單なる説明に終つてゐる。
 
    大伴家持の霍公鳥の歌二首
1494 夏山の木未《こぬれ》の繁《しじ》にほととぎす鳴き響《とよ》むなる聲の遙《はる》けさ
 
〔譯〕 夏山の木々の梢が繁つて、杜宇の高音を鳴き響かせる聲が、遙かに聞えることである。
〔評〕 杜宇が梢の繁みに隱れて、何處からともなく聲のみ洩れて來るといふ風情が巧に描かれてゐる。新鮮な初夏の若葉が眼前にそよぎ、杜宇の遠音が耳底にあるやうである。風趣が單純によく統一され、歌調が清適である。
 
1495 あしひきの木《こ》の間《ま》立ち潜《く》く霍公鳥|斯《か》く聞きそめて後戀ひむかも
 
〔譯〕 山の木の間を潜つて鳴く杜宇の聲を、かやうに聞きそめたからには、後になつて定めてまた自分は戀しがるこ(234)とであらうかなあ。
〔評〕 開き初めた刹那に、はや後の戀しさを豫想するといふのは、甚しい愛着といはねばならぬ。上代人としては複雜な心理描寫であるが「後戀ひむかも」は集中の成句であり、從つてこの歌も單なる概念に過ぎず、實感に乏しいものである。
〔語〕 ○あしひきの 「山」の枕詞から直に山そのものの意に轉用してゐる。「あしひきの岩根こごしみ」(四一四)の例もある。
〔訓〕 ○立ち潜く 白文「立八十一」。「八十一」をククと訓ませたのは、掛算の九九から出た戯書で「七八九」「三二四二」にも例がある。
 
    大伴家持の石竹《なでしこ》の花の歌一首
1496 吾が屋前《には》のなでしこの花盛なり手《た》折りて一目見せむ兒もがも
 
〔譯〕 自分の家の庭のなでしこの花が今さかりである。この美しい花を折つて、一目見せるやうな、かはゆい女がゐればよいがなあ。
〔評〕 内容は概念的であり、表現も類型を脱してゐない。集中、「一七五二」「一八五一」にも、類句がある。
 
    筑波山に登らざりしを惜しむ歌一首
1497 筑波根《つくはね》に吾が行けりせばほととぎす山彦|響《とよ》め鳴かましやそれ
     右の一首は、高橋連蟲麻呂の歌の中に出づ。
 
〔譯〕 あの人は筑波山へ登つて杜宇が繁く鳴くのを聞いたといふ。自分は今度はいかなかつたが、もし登つたならば、(235)聲をこだまに響かせるほどに鳴いたことでもあらうか。それ(杜宇)が。
〔評〕 略解所引の宣長の説に「鳴かましやは、鳴きはせじといふ意なり。この歌は筑波嶺に行きし人の、社宇のしげく鳴たる事を語りたるを聞きて詠めるにて、吾が行きたらむには、しか繁くは鳴くまじきに、恨めしき杜宇かなと詠めるなり」とある。なぜ自分が行つても繁くは鳴くまいと考へたのかといふに、作者は嘗て筑波に登つたことがあつて、その時は時鳥が鳴くかと樂しんでゐたに、鳴かなかつた。それで今度、自分は何かの事情で行けなかつたが、もし行つても前回と同じく社宇は鳴くまいと思つてゐたに、豈はからんや、登つて來た人の話によると、よく鳴いたといふので、恨めしくもあり、惜しくも思はれたといふのであらう。但、これは「ましや」を反語の意と解する爲に事情を複雜に想像したものであるが、あなたなればこそ鳴いたのであらうとまで解するのはよくない。
〔語〕 ○山彦 反響、こだま。○鳴かましやそれ 鳴きもしたことであらうか、それが。「ましや」は集中「一九六」に「知らましや」と訓むほか例がない。後世では反語に用ゐるのが常であるが、ここは單なる疑問と解し得よう。
 
  夏相聞《なつのさうもに》
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1498 暇無み來《こ》ざりし君にほととぎす吾《われ》斯《か》く戀ふと行きて告げこそ
 
〔譯〕 暇が無いのでお出にならなかつたあのかたに、社宇よ、私がこれほど戀ひ慕つてゐると、行つて知らせておくれ。
〔評〕 人を待つてゐた夜などに、鳴き渡る社宇の聲を聞いたのであらう。情はあはれであるが、しかし杜宇に對する(236)擬人法が、概念的でわざとらしい感がして、佳作とは評しにくい。
    大伴|四繩《よつな》の宴《うたげ》に吟《うた》へる歌一首
1499 こと繁み君は來まさずほととぎす汝《なれ》だに來鳴け朝戸開かむ
 
〔題〕 大伴四|繩《つな》 「三二九」の作者と同人であらう。
〔譯〕 人の言葉がうるさいので、あの方はおいでがなかつた。杜宇よ、せめてお前でも來て鳴いてくれ。あのお方を送り出すやうなつもりで、朝戸を開かう。
〔評〕 音づれぬ男に對して人言の繁きゆゑと同情したのみならず、杜宇の聲を聞く爲に開く朝戸を、君を送り出す朝戸のつもりにならうといふのは、どこまでも優しくつつましい女性心理である。この歌は、宴席で大伴四繩が吟誦したので、自作でなく、なまめいた民謠風のものであらう。
〔語〕 ○こと繁み 從來の諸註すべて事わざ繁く暇が無いの意に解してゐたが、新釋に「君によりことの繁きを」(六二六)、その他「七三〇」「一五一五」などを引き、人言繁しの意とあるのがよい。○朝戸開かむ 朝の戸をあけよう。杜宇の聲を聞く爲にあけるのであるが、男を送り出す爲にあけるかの如くに思ひなさうとの意である。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1500 夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ戀は苦しきものぞ
 
〔譯〕 夏の野の草のしげみに咲いてゐる姫百合の花が人に知られないでゐるやうに、思ふ人に知られずにゐる片戀は、ほんに苦しいものではある。
〔評〕 やさしく美しい譬喩である。夏草の繁みの中に隱れ咲く姫百合は、人に知られぬ片戀の象徴としてまことに適(237)切であり、詞句聲調の幽婉に、しかも眞實の心が籠つてゐるところ、如何にも優しい女性の作である。
〔語〕 ○姫百合の 初句以下ここまで序であるが、形式的の序でなく、明確に譬喩を兼ねたものである。
〔訓〕 ○ものぞ 白文「物曾」。細井本系統の本だけは「物乎」として、モノヲと訓んでゐた。
 
    小治田朝臣廣耳の歌一首
1501 ほととぎす鳴く峯《を》の上の卯の花の厭《う》きことあれや君が來まさぬ
 
〔題〕 小治田廣耳 「一四七六」參照。
〔譯〕 杜宇の鳴くあの峯の上の卯の花ではないが、憂いこと、いやなと思ふことが自分に對してあるのか、一向こられぬことである。
〔評〕 この歌、女性の作ならば男の情熱の冷却を怨んだものと取れようが、男子の歌であるから、恐らく交友間の事と思はれる。序詞に技巧を用ゐてゐるが、それも内容に有機的の交渉をもたず、唯同音を利用しただけの機智に過ぎず、恐らく「鶯の通ふ垣根の卯の花のうき事あれや君が來まさぬ」(一九八八)を借り用ゐて、場合にふさはしく、改竄を加へたのみであらう。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1502 五月《さつき》の花橘を君がため珠に貫《つらぬ》く散らまく惜しみ
 
〔譯〕 五月の花橘を、私はあなたの爲に絲に貫いて藥玉に作りました。やがて散るのが惜しうございますので。
〔評〕 女性らしい可憐な作であり、かつ花橘を珠に貫くといふことは、頗る情趣ある事として當時の人にゆかしがられたことではあらうが、作品としてはあまりに類歌が多過ぎる。それも何か一ふし特異な點があればよいが、この歌(238)にはそれも見られない。
 
    紀朝臣|豐河《とよかは》の歌一首
1503 吾妹子が家の垣内《かきつ》の小《さ》百合|花《ばな》後《ゆり》と云へるは不欲《いな》とふに似る
 
〔題〕 紀豐河 續紀天平十一年五月の條に「正六位上紀朝臣豐河」云々とある。
〔譯〕 あなたの家の垣の内に咲いてゐる百合の花ではないが、ゆり(後)に逢はう、とあなたがいはれたのは、どうやら、いやであるといふ謎のやうにおもはれる。
〔評〕 百合を枕詞や序詞として「後《のち》」に係けた技巧は集中に數首あるが、その先後は容易に決し難い。この歌では、女の可憐な容姿が、おのづから楚々たる百合の花の風情に通ふものがあつたのであらう。とにかく緊密な序であり、四五句も端的に急所を突いた心憎い表現である。
〔語〕 ○ゆりと云へるは いづれ機會をこしらへて後に會はうなどといふのは。「ゆり」は後の意の古語。
〔訓〕 ○不欲《いな》 類聚古集以下諸本に「不歌」とあるが「不欲」の誤字と推定して改めた。
 
    高安の歌一首
1504 暇無み五月《さつき》をすらに吾妹子が花橘を見ずか過ぎなむ
 
〔題〕 高安 卷一に高安大島(六七)と見えるが、それは時代が古過ぎるやうである。前後の歌の作者から推して、高安王(六二五)のことで「王」が脱ちたかと見る説が有力である。
〔譯〕 近頃暇が無いので、折角の趣の深い五月にさへ、いとしい女の家の花橘を行つて見もせず、空しく過ぎてしまふことかなあ。
(239)〔評〕 前の坂上郎女の作(一四九八)は、一見してこれの答歌のやうに見えて、興味があるが、無論別々の作であらう。素朴ではあるが、少し曲が無さ過ぎるともいへる。「吾妹子が」の「が」にしても、無論領格であるけれども、調子によつては主格のやうに取れるのも、要するに作者の技量の不熟を語るものであらう。
〔語〕 ○吾妹子が 愛する女の家にある。愛する女がの意ではない。
 
    大神《おほみわの》女郎、大伴家持に贈れる歌一首
1505 ほととぎす鳴きし登時《すなはち》君が家に行けと追ひしは至りけむかも
 
〔題〕 大神郎女 「六一八」にも家持に贈つた歌が見える。家持をめぐる女性の一人であるが、傳不詳。
〔譯〕 杜宇の鳴いた途端すぐに、あなたのお宅に行けと云つて、私が追ひやりましたのは、參りましたでせうか。如何でございます。
〔評〕 奇拔な内容、輕妙な詞句、變化に富んだ格調、三者相俟つて面白い作を成してゐる。家持が杜宇の熱愛者であつたことは、彼自身の作によつてわかつた。されば作者がそれを知らぬ筈はないので、ここに於いて、杜宇を追ひやつた事情も頷かれ、戯謔のやうに見える作者の行爲も、實は愛人に對する極めて深い眞情から發したものであつたことを知るのである。
〔語〕 ○行けと追ひしは それは、杜宇を待ち焦れてゐる家持に聞かせようが爲めである。
〔訓〕 ○すなはち、白文「登時」。ソノトキともよめる。
 
    大伴|田村大嬢《たむらのおほいらつめ》、妹坂上大孃に與ふる歌一首
1506 故郷の奈良思《ならし》の岳《をか》のほととぎす言《こと》告《つ》げ遣《や》りし如何《いか》に告げきや
 
(240)〔題〕 田村大孃 宿奈麻呂の女で、田村の里に住んだ。「七五六」參照。坂上大孃はその異母妹で、母は坂上郎女。「五八一」參照。
〔譯〕 故郷の奈良思の岡で鳴いてゐた杜宇に、私は傳言をしてやりましたが、それは、どうでしたらう、あなたの方へ行つて告げましたか。
〔評〕 消息をしたのに返事がなかつたので、更に追ひかけて詠み送つたのであらう。當事者間に於いては何でもない事ながら、今では兩人の住んでゐた田村の里も坂上の里も明確に知られず、「故郷」も、作者のか、相手のか疑問であるので、一首の解釋上にもさだかでない。しかしこれは作者の故ではなくて、永い年所の爲で仕方がない。優しい姉妹間の温情は十分酌まれて、ゆかしい作である。
〔語〕 ○奈良思の岳 「一四六六」參照。○如何に告げきや どうですか、告げましたか。「いかに」は問掛けことば。「一二三五」參照。どんな風に告げたでせうかの意、とする説は、從ひ難い。
 
    大伴家持、桶の花を攀《よ》ぢて坂上大孃に贈れる歌一首并に短歌
1507  いかといかと あ《すベ》る吾が屋前《には》に 百枝《ももえ》刺《さ》し 生《お》》ふる橘 玉に貫《ぬ》く 五月《さつき》を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝にけに 出で見るごとに 氣《いき》の緒に 吾が念《も》ふ妹に まそ鏡 清き月夜《つくよ》に ただ一目 見せむまでにほ 散りこすな 努《ゆめ》といひつつ 幾許《ここだく》も 吾が守《も》るものを 慨《うれた》きや 醜霍公鳥《しこほととぎす》 曉《あかとき》の うら悲しきに 迫へど追へど なほも來鳴きて 徒《いたづら》に 地《つち》に散らせば 術《すべ》を無み 攀《よ》ぢて手折《たを》りつ 見ませ吾妹子
 
〔譯〕 どうだらう、どうだらうと花の咲くのを待つてゐる自分の家の庭に、澤山の枝をさし出して生えてゐる橘は、(241)緒に通して藥玉に作る五月が漸く近づいたので、こぼれ落ちるばかりに花が咲いたことである。毎朝毎日出て見る度に、命をかけて自分が思つてゐる御身に、美しい月の晩、ただ一目でも見せるまでは、散るなよ決して、と言ひつつ深く注意して自分が番をしてゐるのに、心外千萬なことである、あのわるい霍公鳥め、明方の物悲しい時分に、追つても追つても、やつぱりやつて來て鳴いて、むだに花を地に散らすので、仕方がなさに、枝を引き寄せて手折つたのです。御覽なさい、綺麗でせう、いとしい御身よ。
〔評〕 坂上大孃と新婚間もなくか、新婚間近くかとも想像され、若々しく濃やかな情合が全體に纒綿してをり、それが生きて流動してゐるのは、僞らざる實感の迸出ゆゑである。「慨きや醜霍公鳥」の激語はまことに奇警にして珍らしい。殊に平素この鳥の熱愛者たる家持としては意外の感があるが、しかしそれは、折角の愛妻への心盡しを邪魔立てしようとするのに對して、一瞬怨を爆發させた放言に過ぎない。また平生愛する鳥をかく痛罵するといふその事が、一面大孃への愛の、より深いことを反映したものに外ならない。
〔語〕 ○いかといかとある吾が屋前に 如何に如何にと思ひてある、即ちどうであらうか、どうであらうかと思ひつつ、花の咲くのを待つてゐる我が家の庭に。○百枝刺し 澤山の枝がさしかはして。○あえぬがに こぼれ落ちてしまふばかりに。「あゆ」は落ちる意の動詞。今も九州に使はれてゐる。「二二七二」參照。「がに」は「五九四」參照。
○朝にけに 毎朝毎日。「三七七」參照。○息の緒に 命がけで。「一三六〇」參照。○まそ鏡 「清き」にかけた枕詞。「二三九」參照。○散りこすな 散つてくれるな。○努といひつつ 「ゆめ」は愼んで、決しての意で、強く禁止命令する副詞。「七三」參照。○幾許も 非常に。多數の意から轉じて程度の甚しきにもいふ。○慨きや 「うれたし」は恨めし、歎かはしの意。「や」は間投の助詞。「うれたき醜ほととぎす」とつづく。「一九五一」參照。○醜ほととぎす 杜宇め。「醜」は罵る意。「醜の丈夫」(一一七)「醜の醜草」(七二七)などある。○うら悲しきに 心悲しい折に。うら悲しい曉に。
 
(242)    反歌
1508 十五夜降《もちくだ》つ清き月夜《つくよ》に吾妹子に見せむと念《も》ひし屋前《には》の橘
 
〔譯〕 十五夜過ぎの澄み渡つた月夜に、いとしい御身に見せようと思つてゐた庭の橘であるよ、これは。
〔評〕 十六七夜頃の美しい月明に、大孃が來訪する約束でもあつて、共に樂しく花を眺めようと期待してゐたのかとも想像される。おほまかに長歌全篇の趣を概括したものであるが、結句の體言止は餘韻に乏しく、十分な効果を奏してゐない憾がある。
〔語〕 ○十五夜降つ 望月の夜過ぎて。「くだつ」は降ること、時のふけることから、時期の過ぎる意ともなる。
 
1509 妹が見て後も鳴かなむほととぎす花橘を地《つち》に散らしつ
 
〔譯〕 いとしい御身がせめて一目見てから後にでも鳴いてくれればよい。それであるのにあの杜宇が、あまり早く來て、折角の橘の花を地に散らしてしまつた。
〔評〕 家持は「一四八六」で、杜宇の來鳴くこと遲きを恨んでゐるが、今はそのあまりに早過ぎたことを喞つてゐる。よろづに心緒を惱ます多感な詩人の面影が察せられるが、萬葉もここに至れば、專ら花鳥風月のあはれに心を碎いた平安朝の流風に一歩を踏み入れた感がある。
 
    大伴家持、紀女郎に贈れる歌一首
1510 瞿麥《なでしこ》は咲きて散りぬと人は言へど吾が標《し》めし野の花にあらめやも
 
〔題〕 紀女郎 紀鹿人の女で名は小鹿。「一四五二」及び「六四三」等參照。
(243)〔譯〕 瞿麥の花は咲いて既に散つてしまつたと人がいつてゐるが、それはまさか、自分の物として標をして置いた、あの野の花ではありますまい。
〔評〕 譬喩歌で、瞿麥を紀女郎に比し、人がこれこれというてゐるけれども、まさかそれが自分の信ずる御身ではありますまいね、と念を押したのである。一方がこんなことをいふ時になると、戀愛はもう大詰である。女の返歌が無いのも恐らくその爲であつて、この集の記載漏れではあるまい。但、この歌、大伴駿河麿の「梅の花咲きて散りぬと人はいへど吾が標結ひし枝ならめやも」(四〇〇)と酷似してゐるのは、いづれかが借り用ゐて梅と瞿麥とを臨機に易へたのであつて、家持は模倣性に富んでゐるから、恐らくは此の歌が後なのであらう。
〔語〕 ○吾が標めし 自分の所有としてしるしを立てて置いた。自分の愛人として信じきつてゐたの意に譬へた。
 
   秋雜歌《あきのざふか》
 
    岡本天皇《をかもとのすめらみこと》の御製の歌一首
1511 夕されば小倉《をぐら》の山に鳴く鹿は今夜《こよひ》は鳴かず寐宿《いね》にけらしも
 
〔題〕 岡本天皇 飛鳥岡本宮に御代知ろしめした舒明天皇の御事。
〔譯〕 夕方になると、いつも小倉の山で鳴く鹿は、今夜は鳴く聲がしない。寢てしまつたのであらう。
〔評〕 夜毎に小倉の山から聞えて來る鹿の哀音に、じつと耳を傾けていらせられたさまが、言外に知られる。今夜はその聲が聞えないのにふとお氣づき遊ばされた、温い愛情に滿ちた御製で、卷九の卷頭に、字句の小異があつて雄略(244)天皇の御製として載せてあるが、格調風體から察して、舒明天皇とするが穩やかである。
〔語〕 ○小倉の山 「白雲の龍田の山の瀧の上の小鞍の嶺に」(一七四七)とあるが、それとは別である。諸説があるが、大和萬葉地理辭典には、磯城郡城島村の忍坂山とある。
〔訓〕 ○なく鹿は 白文「鳴鹿者」は類聚古集等による。通行本に「者」を「之」とあるのはよくない。
 
    大津皇子の御歌一首
1512 經《たて》もなく緯《ぬき》も定めずをとめ等《ら》が織れる黄葉《もみち》に霜な零《ふ》りそね
 
〔題〕 大津皇子 天武天皇の第三皇子。「一〇五」參照。
〔譯〕 縱絲もなく、横絲も定めないで、天つ少女達の織りなした精巧美麗な紅葉に、霜よどうか降つてくれるな。
〔評〕 この皇子の作は集中四首あり「百傳ふ磐余の池に」(四一六)は傑作であり「足引の山の雫に」(一〇七)「大船の津守が占に」(一〇九)も秀逸であるが、それらに比すれば、この歌は漢詩模倣の跡歴然たるだけに、技故巧が目立つ。しかし「及v長有2才學1尤愛2文筆1」と書紀にあり、かつ懷風藻なる「天紙風筆畫2雲鶴1、山機霜杼織2葉錦1。」に照し見て、その英俊の閃きは察することが出來る。
〔語〕 ○經もなく緯も定めず。天女の靈妙な機にかけて織られたものと譬へていふ。○織れる黄葉に 代匠記にいふ如く「織れる黄葉の錦」としなければ完全な辭樣ではないが、音數の制約があるので、それは深く問ふを要しない。
 
    穗積皇子の御歌二首
1513 今朝《けさ》の朝け雁《かり》が音《ね》聞きつ春日《かすが》山もみちにけらし吾が情《こころ》痛《いた》し
 
〔題〕 穗積皇子 天武天皇の第五皇子。「一一四」參照。
(245)〔譯〕 今朝の明け方に、初めて雁の聲を聞いた。してみると、もう春日山は紅葉したことであらう。自分の心がいたむやうに思はれる。
〔評〕 二句、四句、結句で「聞きつ」「けらし」「痛し」と、三箇所切れであり、初句と三句とは名詞であるから、五句悉く切れてゐるやうな特異の句法であり、變化に富み、殊に初句と結句との字餘りによつて一層遒勁の度を加へた調子を成してゐる。但、内容は、萬葉人が多くは秋を明朗清澄な季節として樂しんでゐたに反し、この作者が極めて感傷的に悲哀の情を抒べてゐるのは異數といふべきであるが、しかも同じ悲哀の中にも後世のやうな繊弱さがないのは、あくまで萬葉の本質を保持するもので、それがおのづから此の格調を成したのであらう。
 
1514 秋萩は咲くべくあるらし吾が屋戸《やど》の淺茅《あさぢ》が花の散りぬる見れば
 
〔譯〕 萩の花はもう咲く時期になつたさうな。自分の家のまばらな茅の花が、散つてしまつたのを見ると。
〔評〕 夏の間まだほほけて殘つてゐた茅花も、今はもう散つてしまつた。愈々夏も終つてゐる。やがて秋萩も咲き出すであらう。庭に佇んで、ささやかな淺茅のすがれ穗にも目を留めて、季節の推移を敏く意識せられたのは、如何にも詩人らしい風格である。
〔語〕 ○淺茅の花 まばらに生えた茅の穗。茅の穗は即ち茅花《つばな》で、春抽んで、すがれて久しく殘るものである。
 
    但馬皇女《たぢまのひめみこ》の御歌一首 【一書に云ふ、子部王の作なり】
1515 ことしげき里に住まずは今朝鳴きし雁に副《たぐ》ひて行かましものを 【一に云ふ、國にあらずは】
 
〔題〕 但馬皇女 天武天皇の皇女。穗積皇子と異母の兄妹である。「一一四」參照。○子部王 古義は「三八二一」の作者兒部女王と同じ方かと疑つてゐる。
(246)〔譯〕 こんなうるさい里に住んでゐないで、いつそ今朝鳴いたあの雁に連れ立つて、何處かへ行つてしまはうものを。
〔評〕 うるさい人の世から遁れて、何處へでもあくがれ出でようとの心持は、思ひあまつた結果でなければならない。やはり、穗積皇子との間に噂が立つた折、しみじみとあぢきない思に堪へかねての作と察せられる。哀韻長く引いて消えも入りたいやうな、如何にも内容に相應した表現である。別傳に「國にあらずは」とあるのも、意味には變りがなく、聲調の上から見ても殆ど甲乙を定め難い。
 
    山部王秋葉を惜しむ歌一首
1516 秋山にもみつ木《こ》の葉のうつりなば更にや秋を見まく欲《ほ》りせむ
 
〔題〕 山部王 同名の方があるが、時代が合はない。詳でない。
〔譯〕 秋の山に紅葉してゐる木の葉が散つてしまつたらば、猶更のこと、秋の景色が見たくなるであらうから、散らないうちに十分眺めておかう。
〔評〕 紅葉の美觀を質しながら、早くもその散り失せた後の寂寞を豫想してゐるのであるが、四五の句は巧妙とは評し難く、寧ろ幼い表現である。
 
    長屋王の歌一首
1517 味酒《うまさけ》三輪の祝《はふり》が山照らす秋の黄葉《もみち》の散らまく惜しも
 
〔題〕 長屋王 高市皇子の御子。「七五」參照。
〔譯〕 三輪の神主が齋き祀る山を、照らすばかりに匂ひ映えてゐる美しい秋の紅葉、それが散るのは實に惜しいものであるよ。
(247)〔評〕 紅葉が山を照らすといふ表現は頗る印象的で、美しくかつ巧であるが、結句は類型的で稍安易といへよう。
〔語〕 ○味酒 「三輪」にかかる枕詞。「一七」參照。○三輪の祝の山照らす 三輪神社の神官達の奉仕する山、即ち三輪山を照すばかり美しく映えてゐるの意。「味酒を三輪の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉」(七一二)ともある。
〔訓〕 ○三輪の祝 類聚古集には「祝」を「社」に作つてゐる。○祝が ハフリノともよめる。
 
    山上臣憶良の七夕の歌十二首
1518 天漢《あまのがは》相向き立ちて吾が戀ひし君|來《き》ますなり紐《ひも》解き設《ま》けな 【一に云ふ、河に向ひて】
     右は、養老八年七月七日、令に應ふ。
 
〔題〕 七夕 七月七日の夜、牽牛・織女の二星が年に一度の交會をするといふ傳説から、この二星を祭ることが始まつたので、染織裁縫等の女巧を祈ることが附會され、乞巧奠とも呼ばれた。七夕の歌は本集に多く、特に卷十には、九十八首の多數が一處に纒まつてゐる。なほ七夕の始源に關しては、古義に詳しい説明がある。
〔譯〕 天の河を中にして相向つて立ち、一年の間私の戀ひ焦れてゐた彦星の君が、今夜こそ逢ひに來て下さるのである。衣の紐を解いてお待ちしよう。
〔評〕 織女星の心になつて詠んだものであるが、構想の上に特にすぐれたところも見えない。結句は可なり官能的であるが、これも類型的な套語である。なほ「天漢川門に立ちて吾が戀ひし君來ますなり紐解き待たむ」(二〇四八)との間にも交渉がありさうである。
〔語〕 ○天漢 「漢」はもと漢水と稱する漢土の河の名であるが、轉じて天の川の意に用ゐる。倭名抄に「天河、天漢、銀漢、阿萬乃加八」とある。小恒星の無數の集團と、科學的に説明することを知らなかつた上代人にとつて、夜空を横切る銀河の盛觀は神秘な美を感ぜしめたものであらう。○一に云ふ、河に向ひて 第二句の異傳であるが、本文の(248)方が勝れてゐる。
〔左註〕 令に應《こた》ふ 東宮の令旨に應ずるの意。憶良は養老五年正月から、勅によつて、退朝後、東宮に侍せしめられたが、八年には東宮が即位になつたから、八は、五・六・七のうちのいづれかの誤であらう。
 
1519 ひさかたの天漢瀬《あまのかはせ》に船|泛《う》けて今夜《こよひ》か君が我許《わがり》來《き》まさむ
     右は、神龜元年七月七日の夜、左大臣の家にて作れり。
 
〔譯〕 天の河の川瀬に船をうかべて、今宵こそ彦星の君が私のもとへ逢ひにいらつしやるであらう。
〔評〕 これも織女星の心であるが、調の流麗といふのみに、とりどころのある歌。
〔左註〕 左大臣 神龜元年右大臣から左大臣となられた長屋王をいふ。長屋王は「七五」參照。
 
1520 牽牛《ひこほし》は 織女《たなばたつめ》と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 河に向き立ち 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青浪に 望《のぞみ》は絶えぬ 白雲に 涙は盡《つ》きぬ 斯くのみや 氣衝《いきづ》き居《を》らむ 斯くのみや 戀ひつつあらむ さ丹塗《にぬり》の 小船《をぶね》もがも 玉纒《たままき》の 眞かいもがも【一に云ふ、小棹もがも】 朝なぎに い掻《か》き渡り 夕汐に【一に云ふ、夕べにも】 い榜《こ》ぎ渡り ひさかたの 天《あま》の河原に 天《あま》飛ぶや 領巾《ひれ》片敷き 眞玉手の 玉手さし交《か》へ あまた宿《い》も 寐《ね》てしかも【一に云ふ、いもさねてしか】 秋にあらずとも【一に云ふ、秋待たずとも】
 
〔譯〕 牽牛星は織女星と、天地開闢の時から、。天の河を隔てて向ひ合つて立ち、互に思ふ心は安らかでないのに、嘆く心も安らかでないのに、行く手を遮る青浪の爲に相逢ふ望は絶えてしまつた。また間に棚引く白雲で互の姿も見え(249)ないので、嘆く涙も盡きてしまつた。しかしこんなに溜息ばかりついてゐられようか。こんなに戀しがつてばかりゐられようか。何とかして赤く塗つた小舟が欲しいものである。玉を纒いた櫂が欲しいものである。潮凪の時分に水を掻いて渡り、夕汐の滿ちる頃に漕いで渡つて、天の河原で、空を飛び翔る折の領巾を下に敷き、美しい手をさしかはして、幾晩でも寢たいものである。秋ではなくても。
〔評〕 憶良の歌としては勿論のこと、他の長歌に比しても珍らしいほど多くの對句が用ゐられてゐる。即ち「思ふそら」以下「い榜ぎ渡り」までの二十句が悉く對偶を成してゐるのは大陸趣味で、四六駢儷文の影響と見られるが、殊に「青浪に望は絶えぬ、白雲に涙は盡きぬ」は、漢詩文から得た簡勁の句で一首を引締めてゐる。この一篇の趣向の重點は「秋にあらずとも」といふに在つて「天の河打橋渡せ妹が家道止まず通はむ時待たずとも」(二〇五六)と同工異曲で面白いが、その構成に於いては、卷十三の「三二九九」の歌に似通うてをるのはいかがであらう。
〔語〕 ○いなうしろ 枕詞であるが他に所見なく意義不明。本集「二六四三」のイナムシロと同語か或は「う」は「む」の誤かといふ説が多い。○青波に望は絶えぬ 漫々たる蒼波に遮られて相逢ふ望も絶えてしまつたの意。略解や古義説のやうに、浪に遮られて望み見ることも出來ぬ意とも取れるが、次の句と對せしめるには「望」は眺望でなく希望と見るのが至當であらう。○白雲に涙は盡きぬ 白雲に隔てられて互の姿も見られない歎で、涙も遂に涸れてしまつたとの意。○さ丹塗の小船 赤く塗つた美しい船の意で、次の玉纒の眞櫂と對せしめた文學的表現である。○玉纒の眞かい 玉で飾つた兩舷の櫂の意で「眞」は完全、即ちここは左右兩舷の義。○天飛ぶや 枕詞と見る説もあるが、それを用ゐて天を飛ぶ意に解するが穩かであらう。○領巾片敷き 領巾を半分づつ敷いて。「領巾」は上代の服装で女が肩からかけた細い布。「片敷く」は、我が片袖を下に敷いて獨寢をする意であるが、ここは少し用法を異にしてゐる。
 
    反歌
(250)1521 風《かぜ》雲《くも》は二つの岸に通へども吾が遠嬬《とほづま》の【一に云ふ、はしづまの】言《こと》ぞ通はぬ
 
〔譯〕 風と雲とは、この天の川の兩岸を往つたり來たりするけれども、遠くにゐる自分の嬬の言葉は、一向に傳へてくれないなあ。
〔評〕 彦星の心に代つて詠んだものである。風雲を使とすることは漢土の詩文にも見え、大伴池主が家持に贈つた書簡にも「今勒2風雲1發2遣徴使1」(四一二八)とある。大陸の傳説を主題としてゐるので、漢詩趣味の簡勁な表現に傚つたもの、長歌にくらべて、此の反歌はまさつてをる。
〔語〕 ○遠嬬 遠くにゐる妻、ここは織女をさす。○はしづま 可愛い妻。
 
1522 礫《たぶて》にも投《な》げ越しつべき天漢《あまのがは》隔てればかもあまた術《すべ》無き
     右は、天平元年七月七日の夜、憶良、天河を仰ぎ觀て作れり。【一に云ふ、帥の家にて作れり。】
 
〔譯〕 礫を投げても越すことの出來さうな天の川ではあるが、それが間を隔ててゐるからかまあ、このやうに甚しく、何とも仕樣のない程、嘆き焦れてゐなければならない。
〔評〕 これも彦星の心である。天の川を目して「礫にも投げ越しつべき」といつたのは、實に奇拔で、これは下界から作者の見た感じを、直に彦星に言はしめたのである。しかも長歌では渺茫たる大海のやうに廣い河としてゐるので、甚しい矛盾のやうであるが、所詮は空想の作であるから、そんなことは深く論ずるにも及ぶまい。
〔語〕 ○礫にも 小石でも。「たぶて」は「つぶて」。略解に手棄なるべしとあるが、礫タビイシと同源であらう。
〔左註〕 天平元年 この時は憶良は筑前守として筑紫にゐたので、「帥の家にて作れり」とある一傳は信ずべきであらう。帥は勿論大伴旅人のことである。
 
(251)1523 秋風の吹きにし日よりいつしかと吾が待ち戀ひし君ぞ來ませる
 
〔譯〕 秋風の吹き始めた日から、何時逢へることかと、私が待ちわび戀しがつてゐたお方が、いよいよお見えになつたことである。
〔評〕 織女の心である。平明にして素直な表現に好感がもてるが、實感が乏しいのは餘儀ない結果である。
 
1524 天漢《あまのがは》いと河波は立たねども伺候《さもら》ひ難し近きこの瀕を
 
〔譯〕 天の川は、ひどく川浪は立たないけれども、勝手に渡ることを許されてゐないので、じつとして時を待つてゐるのに待ちきれない思がする。程近いこの川瀬であるのに。
〔評〕 この歌は二星いづれの心とも取れるが「さもらふ」を、渡る時を伺ふの意とすれば、なほ彦星と考へられる。
〔語〕 ○いと河浪は立たねども 河浪はいと立たぬどもの意。○伺候ひ難し 渡るべき機會を伺ひ待つてゐても待つに堪へかねるの意。古義に、牽牛のもとに侍從し難い意とせるは誤。「さもらふ」は、侍從する意の外に、目を離さず窺ひゐる義で、時期を待ち、或は天候を待つなどの意にいふ。「大御舟泊ててさもらふ」(一一七一)「大船のさもらふ水門」(一三〇八)等參照。
 
1525 袖振らば見もかはしつべく近けども渡るすべ無し秋にしあらねば
 
〔譯〕 袖を振つたらば、互に顔を見かはすことも出來さうに近いけれども、この天の川を渡る手段がないのである、今は秋でないから。
〔評〕 これも兩星共通の心とも見られるが、「渡るすべ無し」といふ語から見れば、なほ彦星の心と見るべきであらう。(252)結句の字餘りは力が籠つてゐてよいが、第二句の字餘りは佶屈な調で、面白くない。一字一音の表記法で、他に訓みやうも無く、誤字衍字があらうとも考へられない。
 
1526 玉かぎる髣髴《ほのか》に見えて別れなばもとなや戀ひむ逢ふ時までは
     右は、天平二年七月八日の夜、帥の家の集會
 
〔譯〕 ほんのちよつと一夜お逢ひしただけで、君にお別れしてしまつたらば、わけもなく私は戀ひ焦れ續けることであらう、またお逢ひする時までの間は。
〔評〕 全體的になよやかで優婉な感じからいつて、織女の方と見るべき歌である。ただ一夜の逢瀬を「玉かきる髣髴に見えて」と形容したのは、適切で面白い。「朝影に吾が身はなりぬ玉耀るほのかに見えて去にし子故に」(二三九四)とあつて、憶良は或はこれを借り用ゐたかも知れないが、よく生かして用ゐてゐる。
〔語〕 ○玉かぎる 枕詞。珠玉のほのぼのと光り輝く意で「ほのか」に續けた。「四五」參照。○もとなや戀ひむ わけもなく、むやみに戀しがることであらうか。「二三〇」參照。
〔左註〕 天平二年七月八日夜 この夜太宰帥大伴旅人卿の邸に人々參集して歌を詠んだのであらう。
 
1527 牽牛《ひこほし》の嬬《つま》迎へ船《ぶね》榜《こ》ぎ出《づ》らし天の河原に霧の立てるは
 
〔譯〕 彦星の妻を迎へにゆく船が今漕ぎ出るらしい。天の河原に霧が立つてゐるのは。
〔評〕 薄々と夕霧の立つた天の川を仰いでの想像である。霧の立つのを船の櫓櫂のしぶきと見る情趣は「天漢八十瀬霧り合ふ彦星の時待つ船は今し榜ぐらし」(二〇五三)などともある。なほ七夕の歌は、作家の空想のまにまに種々にうたひ得られるので、彦星の妻迎へといふ變つた想像も生れたのであらう。
 
(253)1528 霞立つ天《あま》の河原に君待つといゆきかへるに裳の裾ぬれぬ
 
〔譯〕 霧の薄々と立つてゐる天の河原で、彦星の君のお出を待つとて、往つたり來たりしてゐるうちに、私の裳の裾がしつとり濡れてしまつたことである。
〔評〕 織女の心である。戀人の音づれを待つ人間の若い女性の動作を、そのまま織女の上に移して、その焦躁感を描いてゐる。平明にして優麗な調が取得であらう。
〔語〕 ○霞立つ この霞は霧のこと。古くは霞も霧も判然とした區別をしてゐない。「秋の田の穗の上に霧らふ朝霞」(八八)「春の野に霧立ち渡り」(八三九) などその證である。
 
1529 天《あま》の河|浮津《うきつ》の浪音《なみと》騷くなり吾が待つ君し舟出すらしも
 
〔譯〕 天の河で浮津の浪の音の頻りに騷立つのが聞える。私の待ち焦れてゐる彦星の君が、今、舟出をなさるらしい。
〔評〕 これも織女の心である。彦星を待つ夜の織女に同情して、その喜を想像した歌は、卷十に少からず載つてゐるが「天の河白浪高し吾が戀ふる君が舟出は今せすらしも」(二〇六一)は殊によく似てゐる。しかし内容は等しくても、憶良の作は調の流麗を以て一歩まさつてゐる。
〔語〕 ○浮津 「津」は港、船着場。「浮」は天上の事であるから、附け加へた語と思はれる。
 
    太宰の諸卿大夫并に官人等、筑前國|蘆城驛家《あしきのうまや》に宴《うたげ》せる歌二首
1530 をみなへし秋萩まじる蘆城《あしき》野は今日をはじめて萬代に見む
 
〔題〕 太宰の諸卿大夫并に官人等 太宰府の長官以下卑官達までをいふ。卿は上達部、大夫は五位、官人はそれ以下(254)の官吏。梅花宴の歌(八一五)に「大貳紀卿」と見えるから、ここも帥旅人卿と大貳とを卿とし、大夫は少貳や管下の國守をいひ、官人は以下の下僚をさすと見てよい。○蘆城驛家 太宰府の東南約一里、今、筑紫郡御笠村大字阿志岐といふ。「五四九」參照。
〔譯〕 女郎花が咲き、萩の花もまじつてゐるこの美しい蘆城野には、今日より初めて、萬年の後までも變ることなく來て眺めたいものである。
〔評〕 千草咲き亂れた野邊に出て、官人達の清遊してゐる樣が、髣髴として浮ぶ。恐らくこの作者は都から下つて來て程もなく、初めてこの蘆城野の秋草を見たのであらう。一二句の具體的描寫は清新で頗るよい。しかし「萬代に見む」は、美景に接して既に前人も?々漏した套語で、聊か安易な感がある。
〔語〕 ○蘆城野 蘆城驛の附近に展開した野で、そこに蘆城川が流れてゐる。
 
1531 珠匣《たまくしげ》蘆城の河を今日見ては萬代までに忘らえめやも
     右の二首は、作者いまだ詳ならず。
 
〔譯〕 こんな風光にすぐれた蘆城河を今日眺めたからには、萬代までも忘れられようか。恐らく自分はいつまでも忘れることは出來まいなあ。
〔評〕 これも前の歌と似た趣である。四五句は類型的たるを免れない。
〔語〕 ○珠匣蘆城 冠辭考には、櫛笥をあける意から「あく」にかかり、轉じて「あし」にかけたとしてゐる。
 
    笠朝臣金村、伊香山《いかごやま》にて作れる歌二首
1532 草枕旅行く人も行き觸らばにほひぬべくも咲ける萩かも
 
(255)〔題〕笠金柑 「一四五三」參照。伊香山 近江國伊香郡にあり、和名抄にも、伊香部伊香郷と見える。今の古保利村附近。余呉湖の南に當る。
〔譯〕 旅ゆく人達も、通りすがりに袖を觸れたらば、着物が美しく染つてしまひさうに咲き亂れてゐる、實にうつくしい萩であるよ。
〔評〕 山路を掩うて美しく咲き亂れ、秋風に靜かにうねつてゐる秋萩の風情は、旅人の足を暫し引留め、憂さも疲れも忘れさせるに十分であらう。字句は「吾が背子が白たへ衣往き觸らば染《にほ》ひぬべくももみづ山かも」(二一九二)に似てゐるが、境地は別で、清麗素純、まことに印象鮮明な歌である。
 
1533 伊香《いかご》山野邊に咲きたる萩見れば君が家なる尾花し念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 今この伊香山の麓の野邊に咲いてゐる萩の花を見ると、あなたの御宅にある尾花も、既に穗に出たことであらうと、懷かしく思ひやられることである。
〔評〕 萩と尾花と、秋を代表する二つの景物の間の聯想も極めて自然であり、淡々たる中に郷愁もほのかに湛へられてゐる。まことにその萩の如く尾花の如く、楚々たる風情の歌である。
〔語〕 ○君が家なる 「君」は誰をさすか、故郷の妻と見る代匠記の説、故郷の友とする略解の説などあるが、妻とするのは當らないであらう。或は旅行に同伴した友であらうか。
 
    石川朝臣|老夫《おきな》の歌一首
1534 女郎花《をみなへし》秋の萩折れ玉|桙《ほこ》の道行裹《みちゆきづと》と乞はむ兒の爲め
 
〔題〕 石川老夫 傳は詳でない。
(256)〔譯〕 女郎花と萩の花とを折つて行くがいい。旅の土産をと乞ふであらう君の愛人の爲に。
〔評〕 旅の歸途、家路を急ぐ同行の人達に呼びかけた即興歌である。輕快にして明朗、歡喜の心持が全幅に漲り溢れてゐるのは、一行の人々皆なつかしい我が家の一歩手前にあることを思はせる。
〔訓〕 ○秋の萩折れ 白文「秋芽子折禮」舊訓アキハギタヲレ。類聚古集等の訓を採る。アキハギヲヲレともよめる。
 
    藤原|宇合《うまかひ》卿の歌一首
1535 我が背子を何時《いつ》ぞ今かと待つなべに面《おも》やは見えむ秋の風吹く
 
〔題〕 藤原宇合 不比等の第三子。天平九年薨ず。「七二」參照。
〔譯〕 なつかしいわが背を、今か今かと待つてゐるにつれて、漸く日數も過ぎて、もう顔が見えるであらうか、秋風が吹き出して來た。
〔評〕 題詞に明記は無いが、七夕の歌で、彦星を待つ織女の心を詠んだのであらう、とする説が多い。しかし、吾背子は男性同志の間にも用ゐるから、秋にならば歸るというて旅に出た親友などを待つ心もちの歌ともとれる。
〔語〕 ○何時ぞ今かと 何時であらう、今は來るか、今は來るかと。○待つなべに 待つにつれて、次第に日數も積つての意。「なべに」は、につれて、と同時になどの意。「一〇八八」參照。○面やは見えむ 顔が最早見えるであらうか、多分見える頃であらう。
 
    縁達師《えにたちし》の歌一首
1536 暮《よひ》に逢ひて朝《あした》面《おも》無《な》み隱野《なばりの》の萩は散りにき黄葉《もみち》はや續《つ》げ
 
〔題〕 縁達師 代匠記に「縁達」は僧の名で「師」は法師の師であらうとある。
(257)〔譯〕 昨夜男に逢ひ、翌朝恥かしがつて面を隱すといふ名の名張(なばりは隱るの古音)の野邊の萩は既に散つてしまつた。紅葉よ、どうか早く跡を繼いで美しく色づいてくれ。
〔評〕 序詞が極めて官能的でめづらしいと思はれるが、長皇子の作に「よひに逢ひて朝南無み名張にかけながき妹が廬せりけむ」(六〇)と、全く同じ句がある。縁達師の傳が明かでないから、この二首の先後も分りかねるが、かかる特殊な語句に偶然の暗合といふことは、先づ考へられない。何れかが一方を踏襲したのであらうが、或は更に先行の作か民謠があつて、兩者ともそれに據つたといふ想像も不可能ではない。序詞の使用法から見れば、この歌では單にナバリの同音を利用したのみで、一首の内容とは交渉がないだけに、序その物の面白さはあるが、上乘とはいへない。
 
    山上臣憶良、秋の野の花を詠める二首
1537 秋の野に咲きたる花を指《および》折《を》りかき數ふれば七種《ななくさ》の花 其の一
 
〔譯) 秋の野に美しく咲いてゐる花を、指折り數へて見ると、ちやうど七種類の花がある。
〔評〕 敍情詩人憶良が自然に眼を注いで、季節の景物を詩材とした珍しい作である。但し、この歌は一つの纒まつた景趣を描いたものではなく、秋の野を飾る花のいろいろを數へ上げて、めでなつかしんだのであり、それも實は次の歌と合せて完全な作を構成するので、頗るかはつた體裁のもの他に類例を見ないのである。この一首のみを見て凡作と一蹴し去るのは酷で、無論秀逸とは考へられないが、少くともかはつた試をした作者の意圖は酌むべきであらう。
〔語〕 ○および 和名抄に「指、和名由比、俗云於與比」とある。「お」は「小」ではない。
 
1538 萩が花|尾花《をばな》葛花《くずばな》なでしこの花|女郎花《をみなへし》また藤袴|朝貌《あさがほ》の花 其の二
 
〔譯〕 その七種類の花は、萩の花、尾花、葛の花、撫子の花、女郎花、それに藤袴と朝顔の花とである。
(258)〔評〕 指を折つて數へ上げた七種の花の名を、旋頭歌の形に列擧してある。これだけで一首の歌といへるかどうか疑問であるが、しかもその配列の語調はよく整つてゐて、この順序は換へにくい。ともかく前の歌と互に相助け合ふべき作であるが、今日に至るまで、趣味的に秋の七草として翫ばれるその品目を定め、文藝、繪畫、染織等の上にまで資料を提供したのは、憶良自身の豫期しなかつた功績として面白いことである。
〔語〕 ○尾花 薄の穗。形が動物の尾に似てゐるのでいふ。○葛花 蠶豆に似た赤紫色の花である。○藤袴 山野に自生する多年生草本で、莖の高さ三四尺、葉は對生し芳香あり、花は莖の頂に群がり咲き、淡い紅紫色の小さい筒?の花である。○朝貌の花 本集の朝顔は諸説あつて決し難い。まづ牽牛子即ち今の朝顔に同じとする説、これは、「朝顔は朝露おひて咲くといへど夕陰にこそ咲きまきりけれ」(二一〇四)の歌と照合すると疑はしい。次に今の木槿とする説、他の六種が草本であるのに、これだけを木本とすることはうなづき難い。旋花即ち今の晝顔とする説、これは上記の歌の朝露おひて咲き夕陰に咲きまさるといふ趣にあはない。最後に今の桔梗とする説、これは最も有力で、新撰字鏡に「桔梗、加良久波、又云、阿佐加保」とあり、秋の野に咲く花として數へ上げるには當然逸せられない。ただ文字が木偏であり、同書にも木の部に收めてある點に聊か疑問は殘るが、しかし最も穩當に近いと思はれる。
 
    天皇の御製の歌二首
1539 秋の田の穂田《ほだ》を雁《かり》が音《ね》闇《くら》けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも
 
〔題〕 天皇の御製の歌 前後の歌の配列から考へて、聖武天皇と拜察される。當代の天皇にまします故にかく記したので、この書式は、本卷の成立年代を定めるに重要な據點となるのである。
〔譯〕 秋の田の、その穗に出た稻田を刈るといふことも聯想される雁の聲が、まだ暗いのに、夜明け方にまあ鳴いて渡ることである。
(259)〔評〕 類聚古集に、この歌の前に「山上憶良」とあるので、この一首は憶良の作であらうとする説があるも、歌風を以て察するに、憶良とは趣を異にし、次の「今朝の朝明」の歌と同手に成るものと見られる。
〔語〕 ○くらけくに 暗いうちなのに「寒けくに」(七四)と同趣。○夜のほどろ 夜明け方のまだ暗い時。
〔訓〕 ○秋の田の 白文「秋田乃」。秋日乃とある本もある。○くらけくに 白文「闇」クラヤミニとも訓める。
 
1540 今朝の朝|明《け》雁が音《ね》寒く聞きしなべ野邊の淺茅《あさぢ》ぞ色づきにける
 
〔譯〕 今朝の明方に、雁の聲を寒々と聞いたが、それと同時に野邊を見ると、まばらな茅が色づいてゐることである。
〔評〕 朝寒の空に鳴き渡る雁の聲に、漸く深みゆく秋を感じ給ひ、遠く野邊を御覽になると、淺茅もほのかに赤らんでゐる。爽涼まことに身の引き緊るやうな情景であり、内容に相應して語句のおほらかなところ、聲調の雄渾な點、帝王の風格と申上げるべきである。
〔語〕 ○今朝の朝け 今朝の夜明け方。○聞きしなべ 聞いたのにつれて。聞いたのと共に。
 
    太宰帥大伴卿の歌二首
1541 吾が岳《をか》にさを鹿來鳴く先芽《さきはぎ》の花嬬《はなづま》問《と》ひに來《き》鳴くさを鹿
 
〔題〕 大伴卿 大伴旅人のことである。
〔譯〕 自分の住んでゐる岡邊に、男鹿が來て鳴く。早咲きの萩の花を妻として音づれて來て鳴くあのやさしい男鹿よ。
〔評〕 鹿に萩を配した歌は集中少くないので、この歌も題材の上からは清新とはいひ難い。しかし典型的な五七調としてよく齊整して居り、第二句「さを鹿來鳴く」を更に結句に反覆し、しかも「來鳴くさを鹿」と顛倒して變化を見せた點など、句法の上から見て面白い。「花嬬」の造語も新奇にして興がある。
(260)〔語〕 ○花嬬 萩の花の咲く頃、鹿が來て馴れるので、萩を鹿の妻と見做していつたとする略解の説に從ふがよい。
〔訓〕 ○さきはぎ 白文「先芽」。ハツハギともよめる。
 
1542 吾が岳《をか》の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
 
〔譯〕 自分の住んでゐる岡邊の萩の花が、風が強いので散りさうになつた。早く來て見る人があればよいのに。
〔評〕 美しい萩の花が空しく散り過ぎるのを惜しむ心もちは十分同感出來る。但、歌としてはあまりに平庸であるのみならず、太宰府に於ける梅花宴の歌に、後日旅人自ら追和した「我が宿に盛に咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも」(八五一)と似通うてをるのも、旅人の爲に惜しむべきである。
 
    三原《みはら》王の歌一首
1543 秋の露は移《うつし》にありけり水鳥の青葉の山の色づく見れば
 
〔題〕 三原王 舍人親王の御子で、右大臣清原夏野の祖父。天平勝寶四年、中務卿で薨ぜられた。
〔譯〕 秋の露は、ちやうど染め紙のやうなものである。その爲に青葉の山が美しく色づいて來るのを見ると。
〔評〕 秋の野山が色づくのを、露や霜のゆゑと見たのは上代人の常套であるが、その露を、「うつしにありけり」といつたところに、實感があつて面白い。又「水鳥の」といふ枕詞が、この場合は棟械的な枕詞でなしに、適切な修飾語としてよくきいて居り、清新な感じを與へてゐる。
〔語〕 ○移にありけり 「うつし」は移し紙の義、草木の花の色を紙に移し染めて乾かし置き、これを以て布帛の類を染めたもの。「一三六二」參照。○水鳥の 鴨や鴛鴦などの青羽の意で「青葉」につづけた枕詞。
 
(261)    湯原王の七夕の歌二首
1544 牽牛《ひこほし》の念《おも》ひ坐《ま》すらむ情《こころ》ゆも見る吾《われ》苦し夜の更《ふ》けゆけば
 
〔題〕 湯原王 志貴皇子の子。「三七五」參照。
〔譯〕 彦星が別を悲しみ、思ひ惱んで居られるであらうその心もちよりも、空を仰いで見てゐる自分の方が心苦しく思はれることである。七夕の夜がだんだん更けて行くので。
〔評〕 集中の七夕の歌は、殆ど皆作者自身が傳説中の人として、或は彦星となり、或は織女となつて、その悲喜愛慕さまざまの心を述べてゐるに反し、この歌は在來の傳説を傳説としてその儘に受入れ、二星の心をゆかしがりつつ、自分は飽くまで第三者の位置に立つて深い同情を寄せてゐるのが、きはめて自然である。
 
1545 織女《たなばた》の袖つぐ三更《よひ》の五更《あかとき》は河瀬の鶴《たづ》は鳴かずともよし
 
〔譯〕 織女が彦星と袖をつらねてうちふす夜の明け方は、天の川の河瀬にゐる鶴よ、お前は、夜明を告げて鳴かなくてもよい。
〔評〕 曉の鶴唳に二星の見はてぬ夢が破られるであらうと同情した作者は、鶴に向つてこの稚い詞をいひかけたのである。この作者の特色たる優婉の情緒と清雅な格調とは、ここにも十分に示されてゐる。
〔語〕 ○袖つぐ三更 袖を連ねて共寢をする七日の夜の意。「袖つぐ」は他に所見のない語であるが、男女の袖を相竝べ連ねる義であらう。○鳴かずともよし 鳴かないでもよい、即ち鳴いて曉を知らせるには及ばぬの意。その底には、「鳴かずもあらなむ」の心もちがある。
 
(262)    市原王の七夕の歌一首
1546 味|許《がり》と吾が行く道の河しあれば附目|緘《しめ》結《ゆ》ふと夜ぞ更降《くだち》ける
 
〔題〕 市原王 志貴皇子の孫なる安貴王の子。「四一二」參照。
〔譯〕 いとしい妻の許へと、自分がかよつてゆく道に、天の河があるので、恰好な淺瀬を選んで標を立てようとしてゐる間に、もう夜が更けてしまつたことである。
〔評〕 この歌、第四句が難解で、定訓も見出されない?態にある。ここには姑く生田耕一氏の訓によつて解を施して置く。彦星の心になつて詠んだものであらう。
〔訓〕 ○附目緘給跡 種々の誤字説もあるが、生田氏は「附目」は目に附く、目にとまる意で「著く」と解すべく「緘」は「標《しめ》」に同じと見られるから、從つてシルクシメユフトと訓み、恰好な淺瀬を選んで標識を立てるの意に解くべきかといつた。原文を尊重しての解としては、今のところ最も妥當に近い説であらう。
 
    藤原朝臣|八束《やつか》の歌一首
1547 さを鹿の萩に貫《ぬ》き置ける露の白珠《しらたま》あふさわに誰の人かも手に纒かむちふ
 
〔題〕 藤原八束 北家の祖房前の第三子。「三九八」參照。これは旋頭歌である。
〔譯〕 男鹿が萩の枚に貫きとほして置いた美しい露の白珠を、非分にも、どんな人なのかまあ、取つて自分の手に纒きつけようといふのは。
〔評〕 男鹿の花妻といはれる萩の、たわわなその枝に玉を綴つて輝いてゐる白露を、やさしい男鹿がその花妻の爲に貫いたものと見做したのは、美しくも奇警な想像である。さうして、更にその一枝を手折らうとする人を目して、白(263)玉を奪ふ亂暴者とし、これを叱責してゐるのも奇想といふべきである。素朴な萬葉歌人の愛すべき童謠といふやうな感がある。
〔語〕 ○萩に貫き置ける 男鹿が萩の枝にさし貫いておいた。○あふさわに 難解の語で異説が多い。代匠記は、非分の物を押して領せむとする意とし、考は、淡騷であはつけく騷ぎ欲るよと嘲ふ意と見、宣長は、後世の物語などに、おほざふといふ語のあるのは、あふさわの訛つたものといひ、伴信友は、無造作にと解してゐる。卷十一の旋頭歌に「山城の來背《くぜ》の若子が欲しといふ余《わ》を相狹丸《あふさわに》吾を欲しといふ山城の來背」(二三六二)ともある。なほ研究の餘地があるが、姑く代匠記説に從ふ。○誰の人かも 何といふ男なのかまあ。叱責詰問の語調である。
 
    大伴坂上郎女の晩き萩の歌一首
1548 咲く花も輕率《をそろ》はうとし晩《おくて》なる長き心になほ如かずけり
 
〔譯〕 咲く花もあわてて輕率に咲いて散るのはいやなものである。このおそ咲きの萩のやうな氣長なゆつたりしたのには、やはり及ばないことであるよ。
〔評〕 早咲きの花はまだ珍らしいといふ點で人に賞せられるが、遲きはもう稀であるといふ事で猶顧みられる。しかし兩者を比較したらば、早咲きをめでるのが普通であらう。然るに今作者は、早きを抑へ遲きを揚げてゐるのは、恐らく何等かの理由があつたのであらう。さうしてそれは花の事のみでなく、何か寓意があつたのではないか。といふのは「咲く花も」の「も」及び「長き心」とあるのがさういふ感じを與へるのである。もしさうでなく、單に萩の事のみを敍したものとすれば、つまらぬ作といふ外はない。
〔語〕 ○をそろはうとし 輕々しく咲きあわただしく散るのは面白くない。「をそろ」は輕率の意。「六五四」參照。○おくて 奧手の義で、花の遲く咲き又實を結ぶこと遲きもの。晩稻をオクテといふも同じ。○長き心 氣長な心。
 
(264)    典鑄正紀朝臣|鹿人《かびと》、衛門大尉大伴宿禰|稻公《いなきみ》の跡見《とみの》庄に至りて作れる一首
1549 射目《いめ》立てて跡見《とみ》の岳邊《をかべ》の瞿麥《なでしこ》の花|總《ふさ》手折《たを》り吾は持ち去《い》なむ寧樂人《ならびと》の爲
 
〔題〕 典鑄正《いもののかみ》 典鑄司《いものつかさ》の長官。衛門大尉 衛門府の大尉。大伴稻公 旅人の庶弟。「五六七」の左註參照。跡見庄 大和國櫻井町の東方であらうといふ。これは旋頭歌である。
〔譯〕 跡見の岡のあたりに美しく咲いてゐる瞿麥の花を、ふさふさと澤山手折つて、自分は持つて歸らうよ、奈良に待つてゐる人の爲に。
〔評〕 撫子も萬葉人に頗る愛せられた花である。家持その他の人の歌にも?々見えてゐるが、稻公の別墅にも多く植ゑてあつたと見える。作者は其處に遊び、その美觀を喜んだのであらう。持ち歸つて贈らうといふ奈良人は或る特定の人で、妻か愛人などであらう。平明單純であるが、情緒のこもつた作である。
〔語〕 ○射目立てて 枕詞。いめは、射部で、狩獵の時鳥獣を射る人の部《むれ》をいふといふ説が行はれてゐるが、大野晋氏は、射目で、狩獵の設備のことであるといふ。「跡見」に係けるのは、獣の足跡を見させる意からつづいたのであらう。○ふさ手折り ふさふさと多く折つての意。「ふさ手折りける女郎花かも」(三九四三)とも見える。
 
    湯原王の鳴鹿《しか》の歌一首
1550 秋萩の散りの亂《みだれ》に呼び立てて鳴くなる鹿の聲の遙けさ
 
〔譯〕 秋萩の花が散り亂れるにつれて、それを惜しむのか、叫び立てて鳴いてゐる鹿の聲が、遙に聞えることである。
〔評〕 題材はありふれたもので何の奇もないが、語句が洗練され、格調が高雅な點、この作者の特長をあらはしたもので、風趣が眼前に浮ぶやうである。家持の「夏山の木末の繁にほととぎす鳴き響むなる聲の遙けさ」(一四九四)は、(265)或はこの歌の影響があるかとも考へられる。
〔語〕 ○呼び立てて 花の散るのを惜しんで呼び立てる意であらう。妻を呼び立てての意に見る説もある。
〔訓〕 ○ちりのみだれに 白文「落乃亂爾」舊訓チリノマガヒニ。
 
    市原王の歌一首
1551 時待ちてふりし時雨の雨やみぬ明けむ朝《あした》か山のもみちむ
 
〔譯〕 時節を待ちつけて降つた時雨がやんだことである。明日の朝になつたらば、山が紅葉するであらうか。
〔評〕 蕭條と降りそそぐ時雨の音のやんだのを、更けゆく夜半に靜かに聞き入りながら、明くる朝の滿山の紅葉を期待してゐるのである。單純であるが、印象頗る鮮かな歌。
〔訓〕 ○雨やみぬ 白文「雨令零收」。諸説があるが、令零收を義を以てヤミヌと訓んだ(定本萬葉集參照)。○明けむ朝か山のもみぢむ 白文「開朝香山之將黄變」「開」は類聚古集等によつて補ひ、アケムと訓む。將黄變は「二二〇〇」にも同じ字面があつて、ヤマノモミヂムと訓む。
 
    湯原王の蟋蟀の歌一首
1552 夕月夜《ゆふづくよ》心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも
 
〔題〕 蟋蟀 古來コホロギともキリギリスとも訓んで居り、本集にも七首の短歌があつて「蟋蟀」又は「蟋」の字を用ゐ、假名がきは一例もなく、舊訓は皆キリギリスとなつてゐるが、それでは調を成さぬので、すべてコホロギと改むべきである。こほろぎは、今日のコホロギ、マツムシ、スズムシ、キリギリス等の秋の蟲の總稱。
〔譯〕 夕月の光の中に、自分の心もしをしをと萎れるばかりに、露のしとどに置いてゐる此の庭では、靜かに蟋蟀が(266)鳴いてゐる。
〔評〕 情緒こまやかにして玲瓏たる歌調、風韻ゆたかな作である。作者の感じた秋のあはれが、千年の時の隔たりを超えて、今日の讀者の胸臆にもそつくりそのまま流れて沁みこむ思がする。
〔語〕 ○心もしのに 心もなえなえとしをれるばかりに。「二六六」參照。この句は「こほろぎ鳴くも」にかかるともとれるが、直に「白露のおく」へかかると見る方がよい。
 
    衛門大尉大伴宿禰稻公の歌一首
1553 時雨の雨|間《ま》無くしふれば三笠山|木未《こぬれ》あまねく色づさにけり
 
〔題〕 衛門大尉大伴宿禰稻公 「一五四九」の題詞參照。
〔譯〕 時雨の雨が此の頃絶間なく降つたので、三笠山の木々の梢が、殘る隈なく色づいたことである。
〔評〕 眞實には相違ないが、あまりに無造作に過ぎてゐるので、平庸と評する外はない。かつ「時雨の雨間無くし零れば眞木の葉もあらそひかねて色づきにけり」(二一九六)と酷似してゐることも作者の爲に惜しむべきである。しかし古人はこんな即興作にはあまり苦心を費さず、また恰當な他人の歌を借り、僅に引直して間に合はせるといふやうなことを、別に窮屈に考へないで、氣易くしたものと思はれる。
 
    大伴家持の和ふる歌一首
1554 皇《おほきみ》の三笠の山の黄葉《もみちば》は今日の時雨に散りか過ぎなむ
 
〔譯〕 その三笠山の美しい紅葉は、今日降る時雨で、散つてしまふことであらうか。實にをしいことである。
〔評〕 これも何の技巧もなく平庸に近い歌であるが「催v花雨即落v花雨」といふが如く、木の葉を染めた連日の雨を(267)歌つて來たのに對して、やがて今日の雨はそれを散らすであらうと愛惜したのは、聊か働きが見られぬでもない。
〔語〕 ○皇の 枕詞。天皇のかざし給ふ御蓋の意。「大王の三笠の山の帶にせる」(一一〇二)ともある。
〔訓〕 ○もみぢ 白文「黄葉」類聚古集以下この上に「秋」の字を添へた本も多いが、それは意を以て添へたので、訓には變りはない。
 
    安貴《あき》王の歌一首
1555 秋立ちて幾日《いくか》もあらねばこの寢《ね》ぬる朝けの風は袂寒しも
 
〔題〕 安貴王 志貴皇子の孫、春日王の子。「三〇六」參照。
〔譯〕 秋になつてからまだ幾日もたたないのに、寢て起きた此のあけ方の風は、袂に冷え冷えと感ずることであるよ。
〔評〕 季節の推移に對する尖鋭な詩人の感覺が、極めて單純化された一首の中に爽涼と描き上げられてゐる。浙瀝たる秋風は漢土の詩人にもよく歌はれて居り、後世ながら、兼好が、「風のみこそ人に心はつくめれ」といつたのも至言である。今この歌と、古今集なる藤原敏行の「秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」と比較して見ると、萬葉と古今との差がはつきりと感ぜられる。
〔語〕 ○幾日もあらねば 幾日も立たないと思つてゐると、の意。○この寢ぬる 朝の枕詞。古くは子の寢ぬると解してゐたが、此の寢ぬる朝で、寢て起きた朝とつづくのである。
 
    忌部首《いみべのおびと》黒麻呂の歌一首
1556 秋田苅る假廬《かりほ》もいまだ壞《こぼ》たねば雁が音《ね》寒し霜も置きぬがに
 
〔題〕 忌部黒麻呂 天平寶字二年八月外從五位下に進んだ。「一〇〇八」參照。
(268)〔譯〕 秋の田を苅る爲に作つた假小屋も、まだそのまま壞さず置いてあるのに、雁の鳴く聲が寒々と聞える。もう霜も置きさうなほどに。
〔評〕 これも、季節の變化の速かなのに驚いた歌である。率直な語句、簡勁な表現に取るべきところがあり、二三句の具體描寫も實感を強め、印象を鮮明ならしめる効果を擧げてゐる。
〔語〕 ○壞たねば こはさないでゐるうちに。「ねば」の用法は、前の歌に同じ。○がに ばかりに、ほどにの意。
 
    故郷の豐浦《とよら》寺の尼の私房に宴《うたげ》せる歌三首
1557 明日香河《あすかがは》行《ゆ》き廻《み》る岳《をか》の秋萩は今日|零《ふ》る雨に散りか過ぎなむ
     右の一首は、丹比眞人國人《たぢひのまひとくにひと》
 
〔題〕 故郷 もと都のあつた地、ここは推古天皇の飛鳥豐浦宮の舊阯。○豐浦寺 高市郡飛鳥村豐浦にあり、飛鳥川の西にあたる。蘇我稻目が、欽明天皇の御代に初めて渡來した佛像を向原の邸宅に置き、そこを寺として向原寺と號した。豐浦寺はその向原寺の舊地に造られたもので、日本最初の尼寺である。
〔譯〕 明日香河がその裾べを流れめぐつてゐるあの雷の岡の萩は、今日降るこの雨で散つてしまふことであらうか。
〔評〕 豐浦寺から程近い明日香河の對岸、雷岡の萩を思ひやつたのである。流麗な調に情趣がこもつて居る。
〔訓〕 ○行きみる岡 白文「逝廻岳」廻を古くタムと訓んでゐたが、有坂博士の説によつてミルと訓んだ。
〔左註〕 丹比國人 天平十年民部少輔、以後攝津大夫、遠江守に歴任し、事に坐して伊豆に流された。
 
1558 鶉鳴く古《ふ》りにし郷《さと》の秋萩を思ふ人|共《どち》相見つるかも
 
〔譯〕 さびれはてたこの舊都の秋萩の花を、心のあつた同士で、共に樂しく眺めたことであるよ。
(269)〔評〕 親しい人々で宴飲する席上の詠としては、ふさはしい情緒の溢れた作である。但、その宴飲が、尼の私房に於いて、俗人がまじつてであると考へると、奇異に思はれもして、當時の僧尼の墮落を語るものといふ説もあるが、かくあからさまに掲げてあるのを見ると、親しいどちのつどひであつたとなしてよいであらう。
〔語〕 ○鶉鳴く 「古」にかけた枕詞。鶉は草深く荒れた處に棲むによる。或は枕詞でなく實景を敍したと見る説もあるが「鶉鳴く古しと人は思へれど」(三九二〇)また「七七五」「二七九九」などにより、枕詞と見るが妥當である。
 
1559 秋萩は盛すぐるをいたづらに挿頭《かざし》に挿《さ》さず還《かへ》りなむとや
     右の二首は、沙彌尼等《さみにども》。
 
〔譯〕 この萩の花は、もう盛が過ぎようとしてゐるのに、折つて頭に挿しもせず、空しく還らうと仰しやるのですか。
〔評〕 來訪の客を引きとめようとする慇懃な氣持は、よく出てゐる。四五句の構想がおもしろい。内容は異なるが、格調から見ると、紀女郎の「闇夜ならばうべも來まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや」(一四五二)に似たところがある。
〔左註〕 沙彌尼 小戒を受けて出家したが、まだ具足戒を受けて比丘尼とならぬ女子をいふ。沙彌と尼との兩者と見るはよくない。
 
    大伴坂上郎女、跡見田庄《とみのたどころ》にて作れる歌二首
1560 妹が目を始見《はつみ》の埼の秋萩はこの月頃は散りこすなゆめ
 
〔題〕 跡見田庄 「一五四九」の題詞に見える跡見庄と同所。大伴氏の領地であつた。
〔譯〕 始見の埼の美しい秋萩の花は、この月のうちくらゐは、散つてくれるなよ、決して。
(270)〔評〕 考や古義が、作者は跡見にゐながら他所の萩を詠む筈がないとして「始見」を「跡見」に改めたのは拘泥であり、略解が、作者は佐保の坂上にゐて跡見庄の萩を思ひやりつつ詠んだのを、後人がさかしらに跡見庄での作と書いたものと推測したのは、考察の不備である。作者は跡見の別墅に在つて、其處から程遠からぬ始見崎の萩の美觀を、何かにまぎれてまだ見に行けないのを遺憾とし、氣を揉みつつこの作を成したと見るべきであらう。歌としては一通りの作である。
〔語〕 ○妹が目を 初めて妹が姿を見る意で 「始見」にかけた枕詞。○始見の崎 所在明かでないが、跡見の附近であらう。
〔訓〕 ○はつみ 白文「始見」。始は始瀬《はつせ》(四二〇)「始雁《はつかp》」(一六一四)「始音《はつこゑ》」(二二七六)など訓む例が多い。
 
1561 吉名張《よなばり》の猪養《ゐかひ》の山に伏す鹿の嬬《つま》呼ぶ聲を聞くがともしさ
 
〔譯〕 吉名張の猪養の山に寢てゐる鹿が、いとしい妻を呼んで鳴く聲を聞くのが、めづらしく面白いことである。
〔評〕 跡見から、數里を隔ててゐる吉名張の猪養の山に鳴く鹿の聲を聞くといふのは、心得がたい。恐らく嘗てその附近に遊んだ折のことを思ひ出して、跡見の田庄で作つたものと解すべきであらう。
〔語〕 ○吉各張 初瀬町大字吉隱の地。猪養の山は吉隱の中であらうが、今不明。「二〇三」參照。
 
    巫部麻蘇娘子《かむなぎべのまそのをとめ》の雁の歌一首
1562 誰《たれ》聞きつ此間《こ》ゆ鳴き渡る雁が音《ね》の嬬呼ぶ聲のともしくもありき
 
〔題〕 ○巫部麻蘇娘子 「七〇三」「七〇四」その他集中に四首の作を傳へてゐるが、傳不詳。恐らく家持をめぐる女性の一人と思はれる。
(371)〔譯〕 誰があれを聞いたでせう。此處をとほつて鳴いてゆく雁の妻を呼ぶ聲が、まことにめづらしいことでした。
〔評〕 「誰聞きつ」といひ「嬬呼ぶ聲」といひ、空ゆく雁を遙かに眺めやる娘子の心の中には、そこはかとなき人戀しさが動いてゐるやうである。歌はこれも、他の卷に見えるこの人の三首と同じく、寧ろ稚拙と評すべきである。
〔語〕 ○誰聞きつ 誰が聞いたでせうか、あなたもお聞きなさいましたかの意。
〔訓〕 ○ともしくもありき 白文「乏蜘在寸」通行本「之知左寸」とあり「寸」を類聚古集等に「守」に作る外、異同はないが、いづれにしても解し難いので、種々の誤字説を出してゐるが、略解所引宣長説に「乏蜘在可」の誤でトモシクモアルカとあるのが、妥當に近い。しかし「寸」は「可」に改める要はなく、その儘とし「不相有寸《あはざりき》」(五三八)「不念有寸《おもはずありき》」(一四八七)等を參酌して、アリキと訓むべきである。定本萬葉集の別記には「在乎」の誤とし、アルヲとよむ説が提出してある。
 
    大伴家持の和ふる歌一首
1563 聞きつやと妹が問はせる雁が音《ね》はまことも遠く雲隱るなり
 
〔譯〕 聞いたかと、あなたが自分に尋ねられた雁の聲は、ほんとに珍らしいことだけれども、隨分遠い雲の中を隱れて飛んでゆくやうだ。
〔評〕 この一對の歌を、卷十にある作者不詳の問答の歌「卯の花の咲き散る岳ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや」(一九七六)「聞きつやと君が問はせる霍公鳥しののに沾れて此ゆ鳴き渡る」(一九七七)に比較して見ると、著しい類似を認めざるを得ない。但、麻蘇娘子の歌は、或は「卯の花の」とは無關係で「こゆ鳴き渡る」は偶々その答の方の結句と暗合したのかとも考へられるが、家持の和へ歌は、確かに換骨奪胎と見られる。
 
(272)    日置長枝娘子《へきのながえをとめ》の歌一首
1564 秋づけば尾花が上に置く露の消《け》ぬべくも吾《あ》は念《おも》ほゆるかも
 
〔題〕 日置長枝娘子 傳不詳。日置は地名として、諸國にあり、ヒオキ、ヘキ兩樣に訓んでゐる。應神記なる「弊伎君」と關係があらうかと思はれる。
〔譯〕 秋になると、尾花の上に置く露が、はかなく消えさうなやうに、私の身は、戀しさゆゑに消えてしまひさうに思はれることです。
〔評〕 綿々として盡きぬ戀しさに胸を痛める娘子の面影が、ほのかに浮んで來る。しかし「吾が屋戸の夕陰草の白露の消ぬがにもとな念ほゆるかも」(五九四)「秋の田の穗の上に置ける白露の消ぬべく吾はおもほゆるかも」(二二四六)の如き類歌もあり、或はこれ等の影響を受けてゐるかも知れないが、それはそれ、これはこれ、痛切なる實感に根ざすものだけに生きて居り、序詞も恐らく眼前の實景を捉へたらしい眞實味があり、かつ優婉にして流れるやうなその旋律に、いふべからざる魅力がこもつてゐる。
〔語〕 ○尾花が上に置く露の 初句以下ここまで「消ぬべく」にかけた序詞。「の」は、の如くの意。
 
    大伴家持の和ふる歌一首
1565 吾が屋戸《やど》の一むら萩を念《おも》ふ兒に見せずほとほと散らしつるかも
 
〔譯〕 自分の家の庭の一むら茂つた萩の花を、いとしいそなたに見せないで、もうすこしで散らしてしまふところであつた。そなたが今日來てくれたので、見せることが出來てよかつた。
〔評〕 折角の美しい萩をからうじて見せることが出來たと、さりげなくいつて、實は思ふ女を待ち得た喜びが、言外(273)に躍動してゐる。若い愛人の艶容も、萩の花によつて象徴されてゐる感がある。「一むら萩」の造語も清新である。
〔語〕 ○ほとほと 今少しのことで。「散らし」にかかる副詞で、もう少しで散らすのであつたが、よかつた。
 
    大伴家持の秋の歌四首
1566 ひさかたの雨間《あまま》もおかず雲|隱《がく》り鳴きぞ行くなる早田《わさだ》雁がね
 
〔譯〕 雨の降つてゐる間もやすまないで、雲に隱れて雁が鳴いて行くことである。
〔評〕 この卷に同じ作者が雨中の杜宇を詠んだ歌「卯の花の過ぎば惜しみかほととぎす雨間もおかずこゆ鳴き渡る」(一四九一)とあつたのに似てゐるが、簡素にして格調の整つてゐる點で、この雁の歌の方がまさつてゐる。
〔語〕 ○早田雁がね 早稻田を苅り取る意から、同音の「雁」にいひ掛けたもの。
 
1567 雲|隱《がく》り鳴くなる雁の去《ゆ》きて居《ゐ》む秋田の穗立《ほだち》繁くし念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 雲に隱れて遙かに鳴いてゆくあの雁が、やがておりて休むであらう田の、稻穗の立竝びの繁きが如く、自分は戀人のことが繁く思はれることである。
〔評〕 恐らく現に雁の聲を耳にしつつ、秋の田の面を想像してそれを序に用ゐたのであらうが、主想の單純なのに比して、あまりに序が長過ぎ、實感味を稀薄ならしめ、故巧一點張りの感を起さしめる。同じ長い序でも「をとめ等が織る機の上を眞櫛もちかかげたく島浪の間ゆ見ゆ」(一二三三)などのやうな内容を象徴してゐる巧妙さがあればよいのであるが、この歌の序には、さうした内容と不可分の交渉はないのである。
 
1568 雨隱《あまごも》り情《こころ》欝悒《いぶせ》み出で見れば春日の山は色づきにけり
 
(274)〔譯〕 雨の爲に籠つてゐて氣分が鬱陶しいので、外に出て見ると春日山はいつの間にか、すつかり紅葉してしまつた。
〔評〕 簡素にして大まかな表現に、雨後の爽かな秋色が印象鮮明に描かれてゐる。但「長月の時雨の雨にぬれとほり春日の山は色づきにけり」(二一八〇)「物念ふとこもらひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり」(二一九九)等、酷似の作がある。
 
1569 雨晴れて清く照りたるこの月夜《つくよ》又更《よくだち》にして雲な棚引き
     右の四首は、天平八年丙子秋九月の作なり。
 
〔譯〕 雨がすつかり晴れて、綺麗に照り渡つた月夜である。夜がふけて雲よ棚引くな。
〔評〕 細節に拘はらず、一氣に歌ひ上げたもので、家持の作としてはめづらしく線の太い歌である。水のごとき冷光に對して、心境も澄みわたつてゐる作者の姿が浮んで來るやうである。
〔訓〕 ○よくだち 白文「又更」。古くマタサラニシテと訓んでゐた。「また更に」の例は「六〇九」「八九四」「四三四九」に見えるが「また更にして」といふ用例はない。「又」を「上」の夜のをどり字と見て、ヨクダチニシテと訓んだ(定本萬葉集別記參照)。
 
    藤原朝臣八束の歌二首
1570 此間《ここ》に在《あ》りて春日や何處《いづく》雨障《あまざはり》出でて行かねば戀ひつつぞ居《を》る
 
〔題〕 藤原八束 房前の第三子。「三九八」參照。
〔譯〕 此處にゐながら、春日山は一體何處であらうか、この日頃雨に降りこめられて、外に出て行かないので、春日山のことを思ひつづけてばかりゐることである。
(275)〔評〕 奈良の都人が「此間に在りて春日や何處」といつたのは、聊か誇張の度を過してゐるやうでもある。しかし美しく紅葉に飾られた春日山は、秋の奈良では人々の行樂地として第一候補に考へられる所である。それが打續く雨に出遊の足を停められ、數日の間その懷かしい山容を見ないとあつては、その方角さへも忘れたやうな氣持になつて、この歎聲を發したのも十分同情に値する。但、初二句は「ここにして家やも何處」(二八七)「ここに在りて筑紫や何處」(五七四)等の影響があると思はれる。
〔語〕 ○兩障 雨に妨げられて家に籠つてゐること。「雨障常する君は」(五一九)參照。
 
1571 春日野に時雨ふる見ゆ明日よりは黄葉《もみち》挿頭《かざ》さむ高圓《たかまと》の山
 
〔譯〕 春日野に時雨の降るのが見える。明日からは、多分紅葉を挿頭にして美しい姿を見せてくれるであらう、あの高圓の山は。
〔評〕 春日野に白くそそぐ時雨を遠く眺めながら、そこから打續きに見える高圓山の紅葉を待ち望んでゐるのである。内容に特異なものはないが、情趣甚だゆたかであり、殊に簡淨な語句、緊密な格調がこの歌の歌品を高めてゐる。「黄葉挿頭さむ」は、人麿の「秋立てば黄葉かざせり」(三八)を學んだものであらう。
〔語〕 ○黄葉挿さむ 紅葉を頭にかざすであらうの意で、山の紅葉するのを擬人的にいふ。
 
    大伴家持の白露の歌一首
1572 吾が屋戸《やど》の草花《をばな》が上の白露を消《け》たずて玉に貫《ぬ》くものにもが
 
〔譯〕 自分の家にある尾花の上に宿つてゐる白露を、消えないやうにして、この儘、玉として貫くことの出來るものであればよいがなあ。
(276)〔評〕 萩や尾花に置くやさしい白露の風情は、萬葉歌人達の深く愛したところで、この歌もそれの詠歎である。口譯萬葉集には、これは「一五六五」と位置が入れ代つたもので、即ちその前の日置長枝娘子の「秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は念ほゆるかも」に對する返歌とある。さう見た方が贈答兩首の呼吸もしつくり合ひはするが、今のところ證本が見出せないので、賛同に躊躇する。
 
    大伴利上の歌一首
1573 秋の雨にぬれつつ居《を》れば賤《いや》しけど吾妹《わぎも》が屋戸《やど》し念《おも》ほゆるかも
 
〔題〕 大伴利上 傳不詳。前出「一四三六」の大伴宿禰村上の誤かと代匠記はいつてゐる。
〔譯〕 秋雨にぬれながらかうして歩いてゐると、むさくるしいけれども、あのかはいい女の留守してゐる家(即ち我が家)が思ひ出されることであるよ。
〔評〕 これは旅中の作と見る説が多いが、必ずしもさう見ずとも、秋雨の中を歩きつつ、しみじみともらした感懷と見ても差支ないと思はれる。いとしい妹への思が温かにかよつて、雅馴な調を成してゐる。
〔語〕 ○賤しけど むさくるしいけれどの意。代匠記は、自分の妹の宿であるから卑下してかくいつたと解してゐるが、ここは誰か相手に向つての言葉ではないから、卑下の必要はない。我が家のことを自ら率直にいつたのであらう。○吾妹が屋戸 我がいとしい妻のゐる家、即ち我が家の意。特に優しい妻を意識してゐたので、かういふ表現を用ゐたのであらう。
 
    右大臣橘家にて宴せる歌七首
1574 雲の上に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむと徘徊《たもとほ》り來《き》つ
 
(277)〔題〕 右大臣橘家 橘諸兄の家。諸兄は天平十年正月右大臣となり、同十五年五月まで六年間その任に在つた。この邸宅は、歌の趣から察すると、山里らしく思はれるから、恐らく別莊であらう。
〔譯〕 雲の上に鳴く雁のやうに、隨分遠くはありますけれども、あなた樣にお目にかからうと思つて、道をまはつて參りました。
〔評〕 尊者に對する辭令の歌として一通りの作であるが「春がすみ井の上ゆ直に道はあれど君に逢はむとたもとほり來も」(一二五六)と同巧で、或はその影響があるかも知れない。序詞は恰も當李の景物で、折から雁が鳴いて過ぎたのかとも考へられる。とにかくその點に多少作者の働が認められるわけである。
〔語〕 ○雲の上に鳴くなる雁の 次の句「遠けども」にかけた序詞。雲の上高く鳴いてゆく雁の遠いやうに橘家が遠いの意。○徘徊り來つ めぐり辿りして來た。「もとほる」は、徘徊する、めぐるの意。
 
1575 雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ萩の下葉は黄變《もみぢ》せるかも
     右二首
 
〔譯〕 雲の上で鳴いた雁の聲が寒げに聞えたが、それにつれて、萩の下葉は色が黄ばんだことである。
〔評〕 雁の聲の頻りに聞える頃、草木の葉が色づくので、この兩者を密接な關聯あるものとして詠んだ歌は多い。中にも、語句の著しく似通つたものに「今朝の朝け雁が音寒く聞きしなべ野邊の淺茅ぞ色づきにける」(一五四〇)「雁が音を聞きつるなべに高松の野の上《へ》の草ぞ色づきにける」(二一九一)、「雁がねの聲聞くなべに明日よりは春日の山はもみぢそめなむ」(二一九五)がある。
〔訓〕 ○もみぢせる 白文「黄變可毛」古くウツロハンカモと訓んでゐたが、黄變はすべてモミヅと訓んでをるので、代匠記の訓を少し改めてかく訓んだ。
(278)〔左註〕 右二首 この下に作者の名を記すべきを脱したものと思はれる。作者は家持なるがゆゑに、書かずに置いたのであらうと、考はいつてゐる。
 
1576 この岳《をか》に小牡鹿《をじか》履《ふ》み起《た》て窺狙《うかねら》ひ左《か》も右《か》もすらく君ゆゑにこそ
     右の一首は、長門守|巨曾倍《こそべ》朝臣津島。
 
〔譯〕 この岡で、隱れてゐる牡鹿を追ひ立て、獵師がじつと窺ひ狙つて苦心するやうに、あれこれと心をつくすことよ、それはあなた樣ゆゑにであります。
〔評〕 右大臣の爲に、誠意を傾けて奔走し、犬馬の勞を取つてゐることを述べたものであらう。素朴な口吻であり、序詞の題材も極めて珍らしいが、表現はまだ圓熟の域に至らず、十分に意をつくしてゐるとはいひ難い。
〔語〕 ○履み起て 森林草澤などに臥し隱れてゐる鳥獣を驚かし、追ひ立てて。「四七八」參照。○窺狙ひ 窺ひ狙つて。「うか」は代匠記に、推古紀や天武紀にあるウカミと同語としてゐる。初句以下ここまで「かもかも」にかけた序。鹿を追ひ立て、樣子を窺つて射る爲に種々苦心する意を以て續ける。○かもかもすらく あれやこれやと種々すること。「九六五」參照。
〔左註〕 巨曾倍津島 續紀天平四年八月の條に見えてゐる。「一〇二四」參照。
 
1577 秋の野の草花《をばな》が末《うれ》をおしなべて來《こ》しくもしるく逢へる君かも
 
〔譯〕 秋の野に生ひ茂つてゐる尾花の末を押し靡かせて、遠く參りましたのも、その甲斐があつて、あなた樣にお目にかかれたことであります。
〔評〕 遠路を來て、右大臣家の宴席に列り得たことを光榮とする心持が、一通りあらはれてゐる。初句から三句まで(279)の敍述には、實感が滿ちてゐる。
〔語〕 ○おしなべて おし靡かせ、踏み分けて。「四五」參照。○來しくもしるく 來たのも甲斐があつて。「來しく」は、來しことの義で「玉拾ひしく」(一一五三)「背向に寢しく」(一四一二)などと同趣の語。
 
1578 今朝鳴きて行きし雁が音《ね》寒みかもこの野の淺茅《あさぢ》色づきにける
     右の二首は、阿倍朝臣蟲麻呂。
 
〔譯〕 今朝鳴いて行つた雁の聲が寒さうに聞えた。その爲なのか、この野邊の淺茅が色づいたことである。
〔評〕 雁聲と黄葉と兩者の間に因果關係があるかのやうにいひなした構想で、單純な稚態愛すべきものではあるが、「一五七五」その他、類歌が多くて、陳套の感を免れない。
〔左註〕 安部蟲麻呂 續紀によれば、天平十年閏七月即ちこの宴の前月、中務少輔となつてゐる。「六六五」參照。
 
1579 朝戸|開《あ》けてもの思《も》ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな
 
〔譯〕 朝の戸をあげて、庭を眺めながら物思をしてをる時に、白露の一ぱい宿つてゐる秋萩の花が目の前に見えて、よしなくも更に秋のあはれを感じさせることである。
〔評〕 右大臣家遊宴の席上の作としては、似合はしからぬ歌であるから、全釋には「橘家に宿つた朝の感じを歌つたものか」と想像してゐる。とにかく、織細な感傷で高雅な歌品を具へてゐる。内容から見ると、作者は一見青春の人らしくも感ぜられるが、續紀によると、靈龜二年に正七位下とあるから、當時二十歳としても、この宴の折は四十二歳になつてゐる筈である。「若人らしい感傷」といふ全釋の評は如何であらう。
〔語〕 ○見えつつもとな 萩の花が見えつつ、よしなくも猶更愁緒をそそることであるの意。「もとな」は、根據なく(280)の義で、よしなく、わけもなく、みだりに等の意。
 
1580 さを鹿の來立ち鳴く野の秋萩は露霜|負《お》ひて散りにしものを
     右の二首は、文忌寸馬養《ふみのいみきうまかひ》。
     天平十年戊寅秋八月二十日。
 
〔譯〕 男鹿が來て佇みながら鳴く野邊の萩の花は、露霜を負うて、散つてしまつたことであるよ。
〔評〕 別業の附近の風景を詠じたものであらう。鹿と萩との配合は常套であるが、實景であり、かつ、聲調の流麗を以て凡作の域を脱し得てゐる。
〔語〕 ○露霜 霜になりかけた露、即ち水霜のこととするのが通説であるが、玉勝間には、ただ露のこととある。
〔左註〕 文馬養 續紀天平寶字元年六月には鑄錢長官となつた。全釋は、フミノイミキと訓むべき旨委しく考證してゐる。天平十年戊寅秋八月二十日 この日の遊宴のことは、卷六にも四首(一〇二四乃至一〇二七)の歌があり、その中に、上の巨曾部津島の作も別のが一首入つてゐる。
 
    橘朝臣奈良麻呂の結集せる宴の歌十一首
1581 手《た》折らずて散りなば惜しと我が思《も》ひし秋の黄葉《もみち》をかざしつるかも
 
〔題〕 橘奈良麻呂 諸兄卿の長子。「一〇一〇」參照。通行本の朝臣は「宿禰」の誤であるが、ここは天平勝寶二年以後にかいたものとおぼしいので、底本のままにしておく。定本萬葉集參照。
〔譯〕 折らないうちに散つてしまつたらば惜しいものと、自分が思つてゐた秋の紅葉を、今日はかうして挿頭にして人々と樂しむことが出來た。愉快なことである。
(281)〔評〕 美しい紅葉の枝を、一人で手折るならばいつでも眺められる筈であるが、手折らないうちに散つたらば惜しいと考へてゐたのは、心あひの人々と共に手折りたかつたのである。それが今日は望みどほりの樂しい機會を得たので、作者は非常に愉快を感じたのである。敢へて奇巧を弄せず、平明自然な表現の中に、心もちがよく出てゐる。
 
1582 めづらしき人に見せむと黄葉《もみちば》を手《た》折りぞ我が來《こ》し雨の零《ふ》らくに
     右の二首は、橘朝臣奈良麻呂。
 
〔譯〕 親しい皆さんにお目にかけようと思つて、この紅葉を手折つて自分が來たのです。雨が降つてゐるのに。
〔評〕 賓客たちを歡迎する心の躍動が、單なる辭令のみでなく、質實にあらはされてゐる。殊に四五句の具體的敍述が、この場合著しく効果を擧げてゐる。
〔訓〕 ○めづらしき 白文「希將見」諸本「布將見」に作りシキテミムと訓んでゐるが、解し難い。略解所引宣長説では、「一九六二」「二五七五」などの例により、「布」を「希」の誤としてゐる。今これに從ふ。
 
1583 黄葉《もみちば》を散らす時雨にぬれて來て君が黄葉《もみち》をかざしつるかも
     右の一首は、久米女王。
 
〔譯〕 黄葉を散らす時雨に私も濡れて來て、そのお蔭であなたの手折つて下さつた紅葉を挿頭にして樂しく遊ぶことが出來ました。
〔評〕 時雨を冒して紅葉を折つて來たのであると、主人がその辛苦を述べたので、それに答へて、そのあなたの辛苦の紅葉を、私も雨に濡れて竝々ならぬ辛勞をして來た爲に挿頭にする光榮を得た、と挨拶したのである。機智もあり、親しみの情もよく現はれてゐる。この遊宴の日は雨であつたと思はれる。
(282)〔語〕 ○君が黄葉を 君が手折つて來られた黄葉を。君が園の紅葉と見た略解の説は、前後の歌に相應しない。
〔左註〕 久米女王 續紀天平十七年正月の條に、從五位下を授けられた由が見える。
 
1584 めづらしと吾が思《も》ふ君は秋山の初黄葉《はつもみちば》に似てこそありけれ
     右の一首は、長忌寸《ながのいみき》の娘。
 
〔譯〕 お立派であると私がお思ひ申して居りますあなた樣は、秋の山の初紅葉に似ていらつしやることであります。
〔評〕 賓客を「めづらしき人」(親愛なる人)といつた主人の言葉に對して、「めづらしく吾が思ふ君」と主人に敬愛の意を表したのである。さうしてその見飽かぬ趣を「秋山の初紅葉」のやうであると具體的に形容したのが、時にとつての巧な挨拶でもあり、また新鮮な表現でもある。
〔語〕 ○めづらしと吾が思ふ君 お立派である、お親しいと私の思ふ君の意で、主人公奈良麿をさす。
〔訓〕 ○めづらしと 白文「希將見跡」ここも諸本「希」を「布」に作ること「一五八二」と同じ。今、宣長説によつて改める。
〔左註〕 長忌寸の娘 集中、長忌寸奧麿の名は「五七」その他十數箇所に見えるが、その娘かどうか、明かでない。なほ「娘子」の字面は澤山あるが「娘」とのみあるはここだけである。ヲトメでなくムスメであらう。
 
1585 奈良山の峯の黄葉《もみちば》取れば散る時雨の雨し間無く零《ふ》るらし
     右の一首は、内舍人|縣犬養《あがたのいぬかひ》宿禰吉男《よしを》。
 
〔譯〕 奈良山の峯の紅葉は、手に取るとはらはらと散つてしまふ。時雨の雨が絶間なく降るらしい。それでこんなに散るやうになつたのであらう。
(283)〔評〕 平明にしてしかも情趣深く、三句切れではあるが、歌品も低くない。
〔左註〕 縣犬養宿禰吉男 續紀に、天平寶字年間に見えてゐる。犬養宿禰は諸兄の母即ち橘夫人三千代の實家であるから、吉男は奈良麿と親族である。
 
1586 黄葉《もみちば》を散らまく惜しみ手《た》折り來て今夜《こよひ》かざしつ何か念《おも》はむ
     右の一首は、縣犬養宿禰|持男《もちを》。
 
〔譯〕 紅葉の散ることが惜しいので、枝を折つて來たが、今晩この宴會でかざしたので、もう何の心殘りもない。
〔評〕 思ふ人々と共に紅葉をかざして樂しく遊んだ上は、もうどうなつても未練は無いといふ、さつぱりした心境である。言外に滿ち足りた當夜の宴の愉悦をも反映してゐる。
〔左註〕 縣犬養宿禰持男 集中他に所見がないが、代匠記はその名から推測して、上の吉男の弟かと見てゐる。
 
1587 あしひきの山の黄葉《もみちば》今夜《こよひ》もか浮び去《ゆ》くらむ山川の瀬に
     右の一首は、大伴宿禰|書持《ふみもち》。
 
〔譯〕 山の紅葉は、今夜あたりは散つて、山川の早瀬に浮んで流れてゆくことであらうか。
〔評〕 山の黄葉は今夜の雨に散つて、山川の瀬に浮び流れることであらうと想像したのである。優雅な情趣に滿ちた歌で、調子も平易に陷つてゐない。
〔左註〕 大伴書持 家持の弟。「一四八〇」參照。
 
1588 奈良山をにほはす黄葉《もみち》手《た》折り來て今夜《こよひ》かざしつ散らば散るとも
(284)     右の一首は、三手代人名《みてしろのひとな》。
 
〔譯〕 奈良山を美しく染めてゐる紅葉を手折つて來て、今夜挿頭にして遊んだ。この上はもう、散るなら散つてもかまはない。
〔評〕 前の縣犬養持男の歌と同趣であるが、初二句、持男の作の説明的なのに比して、この歌は印象鮮明な具體的描寫がすぐれて居り、結句の力強い語法もよい。
〔左註〕 三手代人名 傳不詳。續紀天平二十年七月の條に、御手代連麻呂の女のことが見えてゐるが、その一族であらうか。
 
1589 露霜にあへる黄葉《もみち》を手《た》折り來て妹とかざしつ後は散るとも
     右の一首は、秦許遍麻呂《はたのこへまろ》。
 
〔譯〕 露霜に遭つて色づいた紅葉を手折つて來て、いとしい女と一緒にかざした。この上はもう散つてもかまはない。
〔評〕 前の犬養持男や三手代人名の歌と殆ど同趣であるが「妹とかざしつ」はこの宴席での作としては、稍不似合のやうでもある。しかし賓客中には現に婦人もまじつてゐたので、わざと興じてこんなことを言つたものと思はれる。
〔訓〕 ○妹とかざしつ 白文「妹挿頭都」イモニカザシツ、イモガカザシツとよむ説もある。
〔左註〕 秦許遍麻呂 傳不詳。
 
1590 十月《かむなづき》時雨に逢へる黄葉《もみちば》の吹かば散りなむ風のまにまに
     右の一首は、大伴宿禰|池主《いけぬし》。
 
(285)〔譯〕 十月の時雨に逢つてもろくなつてゐる紅葉は、風が吹いたならば、風の吹くにつれて散つてしまふであらう。
〔評〕 代匠記は、この歌を樂しい遊宴の席に不似合な作として一種の説を立ててゐるが、それは年代の上からいつても誤である。この歌はただ紅葉の散るのを惜しんだ、單純な意に過ぎない。これを宴席にふさはぬ作と見ることは、かういふ場合は祝福的表現をなすものといふ型に嵌つた後世風の考に基づくもので、率直な上代人の意に介しないことであつたと思ふ。
〔左註〕 大伴池主 續紀に、天平寶字元年橘奈良麿が叛を謀つた時、その事に坐した人の中に、池主の名も見えてゐる。集中長短二十九首の歌を殘し、詩文もあつて、多くは卷十七、卷十八に載つてゐる。
 
1591 黄葉《もみちば》の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜《こよひ》は明けずもあらぬか
     右の一首は、内舍人大伴宿禰家持。
     以前は冬十月十七日に、右大臣橘卿の舊宅に集ひて宴飲せるなり。
 
〔譯〕 美しいこの紅葉の散り過ぎるのが惜しいので、心の合つた同士が集つて遊び樂しむ今宵は、いつまでも夜が明けずにゐてくれないかなあ。
〔評〕 燭を秉つて夜遊んだ當年の貴公子の面影が、髣髴として浮んで來る。一首の構想は「春の野に心のべむと思ふどち來りし今日はくれずもあらぬか」(一八八二)に酷似し、恐らくこれを模したと思はれる。家持はこの時まだ青春二十一歳、作歌生活の上に於いても若かつたのである。
〔左註〕 内舍人 ウドネリと訓む。中務省に屬し、帶劔、侍衛、供奉の職。又は東宮職、また主殿寮の下級の職。以前 以上に同じ、即ち右の十一首の歌をさす。冬十月十七日 前後の歌の配列から天平十年の冬と推定される。舊宅 全釋に「この舊宅は、前に右大臣橘家宴歌七首(一五七四)とある新築の橘家に對したもので(恐らく相樂の邸であ(286)らう。諸兄はここに住んで井手の左大臣といはれたのである。) 諸兄が新邸に引移つたあと、その長子奈良麿が、そこに知己を集めて宴を催したのである。」といつてゐる。從ふべき説であらう。
 
    大伴坂上郎女、竹田庄にて作れる歌二首
1592 黙《もだ》あらず五百代小田《いほしろをだ》を苅り亂《みだ》り田廬《たぶせ》に居《を》れば京師《みやこ》し念《おも》ほゆ
 
〔題〕 竹田庄 磯城郡耳成村にあり、今は平野村の西竹田に對して東竹田といふ。「七六〇」參照。
〔譯〕 ここへ來ると、じつとしてをれないで、廣い五百代《いほしろ》もある稻田を刈り亂して、田の中の伏廬にゐると、都のことが懷かしく思はれる。
〔評〕 田園の別莊にゐて、農人達の仕業を見つつ、自分もそれに携はつてゐるやうに打興じて詠んだものであらう。或は所領内の人々が收穫にいそしむ折から、作者も四邊の秋の情緒を味ひに、且は又見まはりなどの爲に、實際田廬に出向いたこともあらうと思はれる。
〔語〕 ○苅り亂り 稻を苅つてまだ亂雜な?態にしてゐる意。○田廬 見張りなどの爲に設けた田の中の假小屋。「三八一七」參照。
〔訓〕 ○もだあらず 白文「黙不有」。原文には「然不有」とあり、契沖がシカトアラヌと訓んだが、それに從へば、然とあらぬ廬の意で、五百代《いほしろ》につづけた枕詞と全釋にいうたやうに解するのが妥當と思はれる。しかし「しかとあらぬ」では、よし「いほ」の枕詞としても、「八九二」の用例から考へて、五百代小田といふ感じにふさはしくない。止むを得ぬので、宣長の「黙」の誤字説に從つて解し、復案を待つこととする。
 
1593 隱口《こもりく》の泊瀬《はつせ》の山は色づきぬ時雨の雨はふりにけらしも
(287)     右は、天平十一年己卯秋九月の作なり。
 
〔譯〕 泊瀬の山は美しくいろづいた。山にはもう時雨が降つたらしい。
〔評〕 竹田庄から泊瀬山を望み、木の葉がすつかりり色づいたのを見て、山の時雨を想像したのである。紅葉と時雨と必然の因果關係があるものと見る思想に發したもので、同工の作は集中に多く、特にいふ程のこともない。
〔語〕 ○隱口の 「泊瀬」の枕詞。「四五」參照。
 
    佛前の唱歌一首
1594 時雨の雨|間《ま》無くな零《ふ》りそ紅《くれなゐ》ににほへる山の散らまく惜しも
     右は、冬十月、皇后宮《きさきのみや》の維摩講《ゆゐまかう》に、終日《ひねもす》大唐《もろこし》高麗《こま》等の種種の音樂を供養し、爾乃《すなはち》此の歌詞《うた》を唱《うた》ひき。彈琴《ことひき》は市原王、忍坂《おさか》王【後姓を賜へる大原眞人赤麻呂なり。】歌子《うたびと》は田口朝臣|家守《やかもり》、河邊朝臣|東人《あづまひと》、置始連|長谷《はつせ》等十數人なり。
 
〔題〕 佛前の唱歌 法會に奏する音樂に合せて合唱した歌で、作者不明。
〔譯〕 時雨の雨よ、絶間なく降るな。折角くれなゐに染まつた山の木の葉の散るのが惜しいから。
〔評〕 この歌は眼前の光景をそのままに取り入れて誰かが新作したものか、或は古歌を採用したものか。さして古いものとも思はれないが、平明流暢な旋律で、謠物として適切であらう。短歌が謠物として佛前に諷詠され、しかもそれが十數人の合唱であつたといふことは、後世の和讃の發生などを考へる上に、頗る興味がある。また佛前の唱歌といひながら、内容に何等宗教的臭味のないことなども、古代佛教音樂考察の上に、資料を提供するものであらう。
〔左註〕 冬十月 前の歌と同じく天平十一年であらう。○皇后 光明皇后。○維摩講 維摩經を講ずる法會。齊明天皇三年、藤原鎌足が山階寺に修したものが最初で、その後慣例となり、毎年十月十日に始め、鎌足の忌日十六日に講(288)じ了へることになつてゐた。續紀天平寶字元年閏八月の條に詳しく見える。○彈琴 法會で琴を彈く人。○市原王 安貴王の御子。「四一二」參照。○忍坂王 續紀天平寶字五年正月の條に見えてゐるが、後に姓を賜うたことは載せてない。○歌子《うたびと》 音樂の時に歌を謠ふ人。○田口家守 傳不詳。○河邊東人 山上憶良の重病の時、藤原八束の使者として見舞に行つたことがある。「九七八」參照。○置始長谷 傳不詳。家持の別莊の宴飲に歌一首(四三〇二)を作つてゐる。
 
    大伴宿禰|像見《かたみ》の歌一首
1595 秋萩の枝もとををに降《お》く露の消《け》なげ消《け》ぬとも色に出でめやも
 
〔題〕 大伴像見 傳不詳。天平寶字八年從五位下、後に從五位上に陞つた。「六六四」參照。
〔譯〕 秋萩の枝も撓むほどにおいた露が、すぐ消えるやうに、自分の命はたとひ消えるなら消えても、胸の思を顔色に出さうか。
〔評〕 秘めたる戀のため息を獨ひそかにもらしたもので、序は恐らく眼前の景物を取り入れたのであらう。四五の句に強い感情をこめてゐるが、全體が類型的である爲に、作者の思ふほど沈痛な響をなしてゐない。
 
    大伴宿禰家持、娘子《をとめ》の門に到りて作れる歌一首
1596 妹が家の門田を見むとうち出《で》來《こ》し情《こころ》もしるく照る月夜《つくよ》かも
 
〔題〕 娘子 誰とも分らない。家持の愛人であらう。
〔譯〕 いとしい女の家の門前あたりの田を見ようと思つて、出て來た甲斐があつて、美しく照つてゐる月夜であるよ。
〔評〕 門田を見ようといふのは、勿論妹が姿を一目見たいとの假託であるが、うちつけに訪ねては行けない間柄なの(289)で、せめてはよそながらその住むあたりの樣子でも見て歸らうといふ、戀する若人のつつましい心もちである。それで一種安心したやうな、又何か物足らぬやうな氣特を抱いて、美しい月明の中を低徊してゐる作者の姿が目に浮ぶやうである。柔かな詞句聲調の中に、よく心もちが流露してゐる。
 
    大伴宿禰家持の秋の歌三首
1597 秋の野に吹ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露おけり
 
〔譯〕 秋の野に美しく咲いてゐる秋萩が、秋風に搖れ靡いてゐる上に、秋の露が宿つてゐる。
〔評〕 萬葉もこの頃になると、既に歌を技術的なものとして考へるやうにもなつてゐたので、特に作歌に熱心であつた家持がかうした試みをしたことは、寧ろ當然として首肯される。この歌、内容は極めて單純にしてありふれたものであるが、洗練された技巧によつて、大いに美化されてゐる。しかもこの種の故巧の弊たる嫌味に墮してゐないのは、ありのままの實景を素直に描寫して居り、内容的には敢へて作爲を加へてゐないからである。
 
1598 さを鹿の朝立つ野邊の秋萩に玉と見るまでおける白露
 
〔譯〕 男鹿が朝來て佇んでゐる野邊の秋萩の上に、玉かと思ふほど白露が美しく置いてゐることである。
〔評〕 素材の配合がもうすつかり固定して、見方も表現も觀念的になり、後世の題詠と何ほどの差もなくなつたことを感ずる。ただ綺麗にまとめたといふのみで、評は陳套の一語に盡きよう。
〔語〕 ○朝立つ野邊の 牡鹿が朝きて佇んでゐる野邊の。「朝立つ」を朝出かけると解し、且「アサダツ」と訓むべしといふ新考の説は強ひてゐる。
 
(290)1599 さを鹿の胸別《むなわけ》にかも秋萩の散り過ぎにける盛かも去《い》ぬる
     右は、天平十五年癸未秋八月、物色を見て作れり。
 
〔譯〕 牡鹿が胸で押し分けて通つた爲、こんなに萩が散つたのであらうか。それとも盛が過ぎ去つたのであらうか。
〔評〕 これも鹿と萩との配合であるが、萩の花の散つたのを、男鹿が押し分けて行つた爲かとしたのは美しい想像であり、しかも、一首に現實味を賦與してゐる。盛が過ぎた爲かといつなのは、全體に複雜性を與へたものであるが、しかし著しく感興を殺ぐ。歌としては無くもがなである。「胸別」は作者得意の語であつたか「丈夫の呼び立てしかばさを鹿の胸分け行かむ秋野萩原」(四三二〇)とも詠んでゐる。但、これは家持の造語ではなく「胸別の廣き吾妹」(一七三八)とあるが、しかしそれは胸幅の意であり、胸で分けゆく意に用ゐたのは或は彼の創意であらう。
〔左註〕 物色を見て作れり 景色を見て作つた歌。
 
    内舍人石川朝臣|廣成《ひろなり》の歌二首
1600 妻戀に鹿《か》鳴く山邊の秋萩は露霜寒み盛すぎ行く
 
〔題〕 内舍人 「一五九一」參照。石川廣成 天平寶字三年從五位下になつた。「六九六」參照。
〔譯〕 妻を戀しがつて鹿が鳴く山のあたりの萩の花は、露霜が次第に冷たく置くので、盛が過ぎて行くことである。
〔評〕 これも既に幾多歌ひふるされた境地で、感覺表現ともに新味がなく、平庸な題詠風に終始してゐるに過ぎない。
〔語〕 ○露霜 ここは露や霜の義。「九七一」參照。
 
1601 めづらしさ君が家なるはな薄《すすき》穗に出づる秋の過ぐらく惜しも
 
(291)〔譯〕 親しくおもふ君の御家の花薄の、穗に出て美しい秋が、次第に過ぎてゆくのは、まことに惜しいことである。
〔評〕 薄の穗は尾花とも花薄とも呼ばれて、秋の花として萬葉人から愛されたが、殊に「人皆は萩を秋といふよし吾は尾花がうれを秋とはいはむ」(二一一〇)といふやうな熱愛家さへあつた。今のもそれに近いが、殊にそれが親しい人の家の薄であるから、一層の懷かしさを感じ、次第にうら枯れてゆく秋の名殘を惜しんだのである。
 
    大伴宿禰家持の鹿鳴の歌二首
1602 山彦の相|響《とよ》むまで妻戀に鹿《か》鳴く山邊に獨のみして
 
〔譯〕 山彦がこたへて高く響き渡るぐらゐ、妻を慕うて山に鹿が鳴く、その山のほとりに、自分はいとしい妻と離れてただ一人で居ることであるよ。
〔評〕 久邇の新京、鹿背山のほとりに一人ゐて、鹿の聲に悲緒を動かされた若き家持の感傷である。結句を「獨のみして」と云ひさしたところ、餘情はあるが力が弱くなつてゐて、中世の歌風の兆と見るべきである。
 
1603 この頃の朝けに聞けばあしひきの山呼び響《とよ》めさを鹿鳴くも
     右の二首は、天平十五年癸未八月十六日の作なり。
 
〔譯〕 いつもこの頃の朝あけ方に聞いてゐると、山ぢゆうを反響させて、牡鹿が妻を戀うて鳴くことである。
〔評〕 單純な情景であるが、高古の調に、秋の朝の爽涼の情趣が生動してゐる。但「この頃の秋の朝明に霧隱り妻呼ぶ鹿の聲のさやけさ」(二一四一)と關係があらうかと思はれる。
 
    大原眞人|今城《いまき》、寧樂《なら》の故郷《ふるさと》を傷み惜しむ歌一首
(292)1604 秋されば春日の山の黄葉《もみち》見る寧樂《なら》の京師《みやこ》の荒るらく惜しも
 
〔題〕 大原今城 卷二十にも歌が見える。
〔譯〕 秋になると、いつも春日山の黄葉を眺めて遊び樂しむ奈良の都が、今は舊都となつて、次第に荒れてゆくのがまことに惜しいことである。
〔評〕 久邇の京へ遷都の後、咲く花の匂ふが如く、榮えた奈良の都も荒れさびれて行つたので、久しく住み馴れた都人たちの寂しさ悲しさは想像に難くない。この歌はその悲痛の心を抒べたものであるが、二三句のあたり表現窮屈にして、深い悲哀の情は表はれてゐない。
 
    大伴宿禰家持の歌一首
1605 高圓《たかまと》の野邊の秋萩この頃の曉《あかとき》露に咲きにけむかも
 
〔譯〕 高圓の野邊の秋萩は、この頃の明方の露にぬれて、美しく咲いたことであらう。
〔評〕 家持は遷都と共に久邇の京に移り住んでゐたので、高圓の野の萩をしのびつつ、綿々の情をのべたのである。露に誘はれて黄葉が色づいたり、秋萩が咲き散つたりするといふ趣は集中に多いのであるが、この歌は、眞實に裏附けられてゐる點に人を牽く力がある。
 
  秋相聞《あきのさうもに》
 
(293)    額田王、近江《あふみの》天皇を思《しの》ひまつりて作れる歌一首
1606 君待つと吾が戀ひをれば我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く
 
〔譯〕 君のお出をお待ちして、私が戀ひこがれてをりますと、私の家の簾を動かして、秋の風が吹いてをります。
〔評〕 此の歌、次の歌と共に卷四に出てをる(四八八)。用字に多少の差異ある外は全く同じであるが、重出の理由について考究すべき點がある。
 
    鏡王女の作れる歌一首
1607 風をだに戀ふるはともし風をだに來《こ》むとし待たば何か嘆かむ
 
〔譯〕 風だけでも待ち戀うてゐるあなたは、羨しいことです。せめて風なりとも、來るだらうとあてにして待つことが出來ならば、何を歎きませう。しかし私には待つべきものは何一つ無いのであります。
〔評〕 これも「四八九」と同じ歌である。
 
    弓削皇子の御歌一首
1608 秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし戀ひつつあらずは
 
〔題〕 弓削皇子 天武天皇の第六皇子。「一一一」參照。
〔譯〕 秋萩の上に置いてゐる白露のはかなく消えるやうに、いつそのことこの身は消えてしまひたいものである。かうして人を戀ひつつ苦しんでゐないで。
〔評〕 これは「二二五四」と全く同じ歌であつて、恐らく皇子が時に臨み古歌を誦せられたものであらう。その他、(294)「二二五六」「二二五八」にも類歌がある。要するに同一歌で「露」の修飾語がその時に應じて適當に歌ひ換へられたものであらう。
 
    丹比眞人の歌一首 名闕けり
1609 宇陀《うだ》の野の秋萩|凌《しの》ぎ鳴く鹿も妻に戀ふらく我《われ》には益《ま》さじ
 
〔題〕 丹比眞人 「二二六」參照。
〔譯〕 宇陀の野の秋萩をおし靡かせつつ鳴いてゐる鹿も、妻に戀ひ焦れてゐることは、自分よりまさつてはゐまい。
〔評〕 作者は、或は旅行の途上、宇陀野に來て、折から妻を呼びつつ鳴く鹿の聲の悲しいのを聞き、切なる歎きを洩らしたのであらう。何の奇もないが「我にはまさじ」の句に實感の漲つてゐるところがよい。
〔語〕 ○宇陀の野 大和宇陀郡榛原町附近。「一九一」參照。○秋萩凌ぎ 秋萩を押し伏せ靡かせて。「奧山の菅の葉凌ぎ零る雪の」(二九九)參照。○妻に戀ふらく 妻に戀ふることは。
 
    丹生《にふ》女王、太宰帥大伴卿に贈れる歌一首
1610 高圓《たかまと》の秋野の上の瞿麥《なでしこ》の花うらわかみ人のかざしし瞿麥の花
 
〔題〕 丹生女王 卷四にも大宰帥大伴旅人に贈つた歌二首がある。「五五三」參照。
〔譯〕 高圓の秋の野原に咲いてゐた瞿麥の花、若々しく美しかつたので、人が愛で手折つてかざしにした瞿麥の花、その花も今は盛が過ぎて、顧みる人もない、あはれな瞿麥の花である。
〔評〕 作者自身を瞿麥の花に擬し、往時の樂しさを回想して、現在の寂寥を昔の愛人に訴へたのである。若かりし日への甘い追懷の詠嘆が、女王らしい大やうな氣韻のうちに、淡い哀愁を帶びて歌はれてゐる。「なでしこの花」をくり(295)かへした旋頭歌の形式も、この内容にふさはしい。
〔語〕 ○人のかざしし この「人」は相手の旅人をさして、嘗て自分を愛してくれたの意を譬へてゐる。
 
    笠縫女王の歌一首【六人部王の女、母を田形皇女と曰ふ】
1611 あしひさの山下|響《とよ》め鳴く鹿の言《こと》ともしかも吾《わ》が情夫《こころづま》
 
〔題〕 笠縫女王 題詞の下の註にある以外、傳は明かでない。六人部王は「身人部王」(六八)と同じ方であり、田形皇女は天武天皇の皇女。
〔譯〕 山の下に聲を響かせて鳴く鹿の音の懷かしいやうに、ほんにお言葉のゆかしいことである。私が心に思ひ定めてゐるなつかしい夫は。
〔評〕 一二三句の序が情趣に富んでをり、調子も流麗にして、凝滯の跡が無く、四五句の据りも力があつてよい。
 
    石川|賀係《かけ》女郎の歌一首
1612 神《かむ》さぶと不許《いな》にはあらず秋草の結びし紐を解くほ悲しも
 
〔題〕 石川賀係女郎 傳不詳。
〔譯〕 私が年をとつたからといつて、あなたの仰しやることをいやといふのではありませぬ。しつかり結んで、もう人には許すまいと心に誓つてゐた紐を、今更解くのが悲しいのです。
〔評〕 既に樣々の男の心を見盡くして來た年輩の女が、新しい男からの要求に對して、拒否はしないながらも愼重に警戒して、男に十分の責任を持たせようとしてゐる趣である。紀女郎の「七六二」の歌と一二句同じいのは、いづれかが模倣したものであらうが、かの歌よりも理智的・反省的であつて、中年女性の心理がよく描かれてゐる。
(296)〔語〕 ○秋草の 秋草のごとく結ぼほれた紐をとつづくとする説(代匠記)もあるが、草結びといふことがあるから、結ぶにかかる枕詞とする古義の説の方がよい。しかして、單なる枕詞のみでなく、神秘的な心もちがこめられてゐる。○解くは悲しも 再び男に會ふまいとかたく結んだ紐を、今更解くのは悲しいの意。他に契つた人があるからと見るのはよくない。
 
    賀茂女王の歌一首 【長屋王の女、母を阿倍朝臣と曰ふ】
1613 秋の野を朝行く鹿の跡もなく念《おも》ひし君に逢へる今夜《こよひ》か
     右の歌は、或は云ふ、椋橋部女王、或は云ふ、笠縫女王の作なりと。
 
〔題〕 賀茂女王 「五五六」に大伴三依に贈つた歌がある。倉橋部女王「四四一」笠縫女王「一六一一」參照。
〔譯〕 秋の野を朝行く鹿の足跡はあるが、跡かたもなく全く御縁が絶えたと思つてゐたあなたに、ゆくりなくもお目にかかつた今夜は、何といふ嬉しいことでありませう。
〔評〕 二句の序が優婉にして、その用ゐ方甚だ巧妙である。高潮した歡喜の心もちが躍動して居り、しかも餘情綿々として盡きない。
〔語〕 ○秋の野を朝行く鹿の 秋の朝、野原の草を踏み分けて行く鹿の足跡の意で 「跡」にかけた序。「なく」まではかからない。○逢へる今夜か 「か」は感動の助詞。
 
    遠江守櫻井王、天皇に奉れる歌一首
1614 九月《ながつき》のその初雁の使にも念《おも》ふ心は聞え來《こ》ぬかも
 
〔題〕 櫻井王 皇胤紹運録によると、天武天皇の曾孫、長皇子の孫、河内王の子である。遠江守補任のことは續紀に(297)は無いが、ここの記載は信ずべきであらう。天皇は聖武天皇。
〔譯〕 九月になると鳴き連れて來るその初雁を使としてでも、せめて自分をお思ひ下さる陛下の御心をお告げ下されたならばと存じて居りますのに、思召のほどは一向に聞えてまゐりませぬ。さびしいことでございます。
〔評〕 「雁の使」は、前漢の蘇武の故事であることはいふまでもない。萬葉に於ける大陸文學の影響の著しい一例で、「一七〇八」にも「雁の使」とある。但この歌、天皇に奉る作としては鄭重を缺くやうに思はれ、殊に第四句「思ふ心は」の如きはいかがと思はれるが、一には表現故法の拙い爲もあらうし、二には天皇と特にお親しい間がら、假にいへば御乳母の子であるといふやうな親しい關係があつたのではなからうか。
〔語〕 ○その初雁の 初雁は、晩秋九月になつて初めて來鳴く雁。前漢の昭帝の時、蘇武が匈奴に使した時、匈奴は之を捕へて幽囚し、蘇武は死んだと漢に傳へて十九年間歸さなかつた。蘇武は雁を捕へその足に消息を結びつけて放つたところ、適々それが帝の御苑の上を過ぎて射落されたので、始めて事情が判明し、因つて救出されることを得たといふ。雁の使とは此の故事による。○念ふ心 天皇のお念ひ下さる御心。
〔訓〕 ○念ふ心は 白文「念心者」略解補正にオボスココロハと敬語に訓んだのは適切のやうであるが、當時歌語に、オボスといふ語の存在がいぶかしいので、舊訓に從つておく。
 
    天皇の賜へる報和《みこたへ》の御歌一首
1615 大《おほ》の浦のその長濱に寄する浪|寛《ゆた》けく君を念《おも》ふこの頃 【大の浦は、遠江の國の海濱の名なり】
 
〔題〕 聖武天皇が、前記櫻井王の歌に對して賜うた御返歌である。
〔譯〕 そなたの任國である遠江なる大の浦のその長い濱邊に寄せる浪のゆつたりと寄せるやうに、心ゆつたりとそなたのことを此の頃も思うてゐる。暫く便をきかぬからとて、さう思ひ迫るものではない。
(298)〔評〕 帝王の御製にふさはしい悠揚な趣がある。殊に櫻井王の任國の地名をお詠み入れになつたのが、一首の上に頗る効果を増してゐる。
〔語〕 ○大の涌 全釋に、今の見附町の南方|於保《おほ》村に、砂丘を以て海と境した一大湖が昔あつて、それを大の浦と稱したと説いてゐる。○長濱 長い濱の意で、地名ではない。○ゆたけく 一時に思ふのではなく、ゆるゆると思ふといふ代匠記の解がよい。それによつて上述のごとく説いた。
 
    笠女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
1616 朝ごとに吾が見る屋戸《やど》の瞿麥《なでしこ》の花にも君はありこせぬかも
 
〔題〕 笠女郎 集中屈指の女歌人であるが、傳不詳。本集所載の短歌二十九首、悉く家持に贈つたものである。
〔譯〕 朝ごとに私が見る家の庭の瞿麥の花であなたがあつて下さらぬかなあ。さうしたらば朝ごとにお顔を見ることが出來て嬉しいであらうに。
〔評〕 熱烈灼くがごとき戀ではなく、極めて靜かなつつましやかな思慕の情を抒べたもの、しかも可憐な眞實の溢れた作である。
〔語〕 ○ありこせぬかも あつてくれぬものかなあ、あつて欲しいの意。「一一九」「五四六」參照。
 
    山口女王、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
1617 秋萩に置きたる露の風吹きて落つる涙は留《とど》みかねつも
 
〔題〕 山口女王 傳不詳。「六一三」にも見える。
〔譯〕 秋萩の上に置いた露が、風に吹かれて落ちるやうに、あなたを思つて落ちる私の涙は、留めかねることです。
(299)〔評〕 秋風にこぼれ落ちる萩の露が、さながらに涙の玉を思はしめる。序の用ゐ方が極めて自然であり、詞句格調ともに流麗優婉、作者の人柄を示してゐるやうである。
 
    湯原王、娘子《をとめ》に贈れる歌一首
1618 玉に貫《ぬ》き消《け》たず賜《たば》らむ秋萩の未《うれ》わわら葉に置ける白露
 
〔題〕 湯原王 志貴親王の子。「六三一」の題詞にも「湯原王、娘子に贈れる歌」と見える。
〔譯〕 玉として絲に貫いて、そのまま消さないでもらひたいものです。秋萩の枝さきのわわけ亂れた葉に宿つてゐる美しい白露をば。
〔評〕 萩の葉末に宿る露の風情を愛でて、詞句優麗、如何にもこの作者らしい歌品の高さ、すがすがしさを示してゐる。家持の「吾が屋戸の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが」(一五七二)も、或はこれに胚胎してゐるかと思はれる。
〔語〕 ○わわら葉 「みるの如わわけさがれる」(八九二)の「わわけ」と同語で、亂れてそそけた葉の意であらう。
 
    大伴家持、姑《をば》坂上郎女の竹田庄に至りて作れる歌一首
1619 玉|桙《ほこ》の道は遠けどはしきやし妹をあひ見に出でてぞ吾が來《こ》し
 
〔題〕 姑 叔母の意。坂上郎女は家持の父旅人の妹で、その娘坂上大孃は、後に家持の妻となつた。竹田庄は「一五九二」參照。
〔譯〕 道は遠いけれども、なつかしく思ふあなたに逢ふ爲に、自分は此處まで來たのです。
〔評〕 この歌は、叔母その人に詠みかけたものか、その娘坂上大孃に宛てたものか、兩説がある。古義は「妹は直ち
 
 
 
 
(302)    坂上大娘、秋の稻の蘰を大伴宿禰家持に贈れる歌一首
1624 吾が業《なり》なる早田《わさだ》の穗立《ほだち》造りたる蘰《かづら》ぞ見つつ偲《しの》はせ吾が背
 
〔題〕 坂上大娘 家持の妻。但、この時既に結婚してゐたか否かは明かでない。秋の稻の蘰は稻の穗で作つた蘰。髪飾としたものと思はれる。
〔詳〕 かういふ片田舍にをりますこととて、私が生業《なりはひ》として耕作してをる早稻の田に、出た稻の穗でこしらへた蘰でございます。これを御覽になつて私をお思ひ出して下さいませ、吾が背よ。
〔評〕 作者は母なる坂上郎女と共に竹田庄にゐたのであるが、或は結婚後何かの事情で暫く家持と別居してゐたのであるかも知れない。自ら田作る田舍少女のやうに詠みなしたのは、處にふさはしい戯れである。
〔語〕 ○業 なりはひ。生業。「八〇一」參照。○早田の穗立 早稻の田に出た稻穗。
〔訓〕 ○業なる 白文「業有」類聚古集等による。通行本に「蒔有《まける》」とあるは、次の歌によつて誤なる事が知られる。
 
    大伴宿禰家持の報《こた》へ贈れる歌一首
1625 吾妹子が業《なり》と造《つく》れる秋の田の早穗《わさほ》の蘰《かづら》見れど飽かぬかも
 
〔譯〕 かはいい我が妻のなりはひとして造つた秋の田の、早稻の穗でこしらへたこの蘰は、いくら見ても見飽かないことであるよ。
〔評〕 先方の言葉をそのままに受けて、返事しただけの歌である。
 
    又、身に著けたる衣を脱ぎて、家持に贈れるに報《こた》ふる歌一首
(303)1626 秋風の寒きこの頃|下《した》に著《き》む妹が形見とかつも偲《しの》はむ
     右の三吉は、天平十l年己卯秋九月往來せり。
 
〔譯〕 秋風の薄ら寒いこの頃、おくつてくれられた着物を肌につけて下に着ませう。また一つには、御身の形見としていつも思ひ出しませう。
〔評〕 坂上大孃が自分の身につけてゐた衣を脱いで贈つたのに對しての、家持の答歌で、かうした親密さから見れば、既に結婚した後であらうかとも考へられる。親しい氣持はよく表はれてゐる。しかし、三句と結句とで切つた句法が、稍融合を缺き「かつも」の「も」もおちつきがよくない。
 
    大伴宿禰家持、時じき藤の花并に萩の黄葉《もみち》の二物《ふたくさ》を攀ぢて坂上大孃に贈れる歌二首
1627 吾が屋前《には》の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹が咲容《ゑまひ》を
 
〔題〕 攀づは引き撓めて折るの意。「一四六一」の左註參照。時じき藤の花は、時ならず咲いた、時節はづれの藤の花の意。
〔譯〕 自分の家の庭に時はづれに咲いてゐる藤の花が珍らしいので、一枝折つてあげますが、今すぐにも見たいことである、愛らしいあなたの笑顔を。
〔評〕 美しい歌で、若い二人の甘美な戀情がさながらに想像される。前出田村大孃が坂上大孃に與へた歌「一六二三」に著しく似てゐるが、おのづから通うたものであらう。
〔語〕 ○めづらしく 上は時ならぬ藤の珍らしい意、下は愛《めづ》らしく思ふ妹が姿の意を兼ねてゐる。
 
(304)1628 吾が屋前《には》の萩の下葉は秋風もいまだ吹かぬば斯《か》くぞ黄變《もみ》てる
     右の二首は、天平十二年庚辰夏六月往來せり。
 
〔譯〕 自分の庭の萩の下葉は、秋風もまだ吹かないと思つてゐると、もうこんなに美しく黄葉して赤く照るやうです。
〔評〕 晩夏六月に早くもほのかな黄色を呈しそめた萩の葉を珍らしがつて、これを愛妻に贈つたのである。單純平明であるが、優しい心もちは表はれてゐる。
〔訓〕 ○もみてる 白文「毛美照」動詞「もみつ」を四段活用としてその已然形に完了の「り」と解することも出來る。
 
    大伴宿禰家持、坂上大孃に贈れる歌一首并に短歌
1629 ねもころに 物をおもへば 言はむ術《すべ》 爲《せ》む術《すべ》も無し 妹と吾 手|携《たづさ》はりて 朝《あした》には 庭に出で立ち 夕《ゆふべ》には 床《とこ》うち拂ひ 白妙の 袖さし交《か》へて さ寢《ね》し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそは 峯向《をむか》ひに 嬬問《つまどひ》すと云《い》へ うつせみの 人なる我や 何すとか 一日《ひとひ》一夜《ひとよ》も 離《さか》り居て 嘆き戀ふらむ 此《ここ》念《も》へば 胸こそ痛め 其《そこ》故《ゆゑ》に 情《こころ》なぐやと 高|圓《まと》の 山にも野にも うち行きて 遊び往《ある》けど 花のみ 匂ひてあれば 見るごとに まして思《しの》はゆ いかにして 忘れむものぞ 戀とふものを
 
〔譯〕 つくづくと物を思ふと、何といはうやうもなく、どうしやうもない。妻の御身と自分とが手を取りあつて、朝は庭に出て逍遥し、夕方は床の塵を掃つて、白い袖をさしかはしつつ寢た夜が、いつも變らずあつたであらうか。そ(305)のやうな樂しい時は長くつづかなかつた。山鳥は峯を隔てて向うの山にゐる嬬を慕つてゆくと云ふのに、人間である自分が、どうして一日でも一夜でも御身と離れて、戀ひ嘆いて居ることであらうか。それを思へば自分は胸が痛む。それ故に、幾らかでも心が落つき安まるかと、高圓の山にも野にも行つて、逍遥してみるが、花ばかりが咲き匂うてをり、その花を見るごとに、御身のことが、いよいよ思はれる。どうしたらば忘れ得るものであらうか、この苦しい戀といふものを。
〔評〕 家持の長歌は、線が細く、かやうにして、長歌が衰頽の一路をたどり、平安時代に入つたのである。「さ寢し夜や常にありける」のあたりの句法は、憶良の「世間の住《とどま》り難きを哀しめる歌」(八〇四)の中の「世間や常にありける」に似てをり「其故に情なぐやと」以下は、人麿の妻の死を歎く歌(二〇七)の中の「吾戀ふる千重の一重も慰むる情もありやと」以下に學んだと思はれる。しかし「花のみ匂ひてあれば、見るごとにましてしのはゆ」に表はれた聯想の心理描寫は、ほそぼそとあはれで、美しい結びをなしてゐる。
〔語〕 ○山鳥こそは 山鳥は晝は雌雄一處にあり、夜は峯を隔てて宿ると言ひ傳へられてゐる。「あしひきの山鳥の尾の一峯越え」(二六九四)もこの口碑に據つたものである。○花のみ匂ひてあれば 戀しき御身の姿は見えず、空しく花だけが咲き匂つてゐるので。
 
    反歌
1630 高|圓《まと》の野邊の容花《かはぼな》おもかげに見えつつ妹は忘れかねつも
 
〔譯〕 高圓の野邊に咲いてゐる容花を見ると、髣髴とその美しい顔が眼の前に浮んで來て、御身のことが忘れかねることである。
〔評〕 高圓の野の容花の清楚なさまと「かほ」といふ名とから、自然に愛する人の美しい顔が面影に立ち添うたので(306)あらう。何の技巧をも弄せず素直に敍し去つてゐるところに、却つて眞率な實感が流れてゐる。
〔語〕 ○容花 種々の説があるが、晝顔といふのが通説である。
 
    大伴宿禰家持、安倍《あべ》女郎に贈れる歌一首
1631 今造る久邇《くに》の京《みやこ》に秋の夜の長きに獨|宿《ぬ》るが苦しさ
 
〔題〕 安倍女郎 傳不詳。「二六九」「五〇五」等の作者も同名であるが、時代的に見て別人であらう。
〔譯〕 新しく造營される此の久邇の京に、秋の夜の長いのに、自分は一人で寢るのが、實に苦しいことである。
〔評〕 未だ整備に至らぬ新京の秋に、ただ一入住む多感な貴公子の感慨である。同じ作者が同じ處から紀女郎に答へ贈つた「ひさかたの雨の降る日を唯獨山邊に居ればいぶせかりけり」(七六九)も同じ獨居の感傷を訴へたものである。
 
    大伴宿禰家持、久邇京より寧樂《なら》の宅《いへ》に留まれる坂上大娘に贈れる歌一首
1632 あしひきの山邊に居《を》りて秋風の日にけに吹けば妹をしぞ念《おも》ふ
 
〔譯〕 山のほとりに居つて、一人で寂しいのに、この頃は秋風が日ましに吹くので、離れてゐる御身の上を頻りに思つてゐる。
〔評〕 新婚後あまり間もなかつたであらう作者が、愛妻と別居して、一人寂しく新都久邇の京の背後なる鹿背山の秋風の音を聞いてゐるのである。その感傷が素直にあらはれてゐる。
 
    或|者《ひと》、尼に贈れる歌二首
1633 手もすまに植ゑし萩にや却《かへ》りては見れども飽かず情《こころ》盡《つく》さむ
 
(307)〔題〕 或者 誰ともわからず、尼も不明。
〔譯〕 花を樂しまうと、手もたゆくなるほど一所懸命に植ゑたこの萩につけて、花が咲いてみると、見飽きることがなく、散りはせぬかとばかり、却つて心をつくし氣をもむことであらうか。
〔評〕 略解は、次の歌と共に、或者が、他人の娘を育てたのが、尼になつた後、その尼を思ふといふやうな寓意があらうというてゐる。恐らくはそんなことであらう。
〔語〕 ○手もすまに 「一四六〇」參照。○植ゑし萩にや 「や」は結句の「心盡さむ」に呼應し、植ゑた萩の爲に心を盡くし苦勞することであらうかの意。「萩にやあらむ」の意ではない。
 
1634 衣手に水澁《みしぶ》つくまで植ゑし田を引板《ひきた》吾が延《は》へ守れる苦し
 
〔譯〕 着物の袖に水澁がつくほどに苦勞して植ゑた田を、鳥や獣などに荒らされまいとして、引板を自分が引張つて、番をしてゐるのは苦しいものである。
〔評〕 折角自分が苦心して育てあげたものを、他人に取られはせぬかと心配なので、絶えず番をしてゐるのは苦しいものであるとの寓意が、前の歌よりも一層明かによまれる。一二三句、また四五句、農人の辛苦をそのまま取つて譬へたので、即ち早苗を幼女として、養育の苦心から、捻りの秋なる年頃の女になつての心がかりを、なぞらへ詠んだのである。
〔語〕 ○水澁 水の上に、鐡の錆のやうなものが浮いて見える水の澁。○引板吾延へ 引板を自分が引張つて。引板は「ひた」ともいふ。鳴子のこと。引鳴らして鳥獣を驚かす具。
 
    尼、頭句を作り、并《また》大伴宿禰家持、尼に誂《あとら》へらえて末句を續《つ》ぎて和ふる歌一首
(308)1635 佐保河の水を塞《せ》き上《あ》げて植ゑし田を 尼の作 苅る早飯《わさいひ》は獨なるべし 家持續ぐ
 
〔題〕 上記の歌二首を贈られた尼が、答の歌をするのに、家持に頼んで四五の句をつけてもらつて答としたとの意。
「頭句」は、第一句或は第一二句をさす用例も集中にあるが、ここは上三句を稱し、「末句」は四五句をさしてゐる。
〔譯〕 佐保河の水を塞きとめて、田に上げて植ゑた田の稔つたのを、苅り取つて、その早稻の初穗の飯を食べる人は、だれか獨であらう。
〔評〕 初三句を作りかけた尼が、うまくあとが續かなかつたので、家持に四五句をつけて貰つたのであらう。家持は、尼が如何に答へようとしたかといふことには頓着せず、はぐらかして揶揄するやうな歌に纒めてしまつたと想像される。それで表現に無理があり、難解な歌となつた。しかし、意識的と否とに拘はらず、一二三句と四五句と三十一字の連歌の濫觴といはれるやうになつたのである。
〔語〕 ○苅る早飯は 早稻を苅つて炊いた飯はの意で、甚だしい省略の語法である。○獨なるべし 一般には、「なる」を指定の助動詞と見て、獨で食べるのであらうと意を補つて解してゐる。「なる」を「業」として、收穫すること、又「なる」を「嘗む」の誤とする古義の説もある。
 
  冬雜歌《ふゆのざふか》
 
    舍人娘子の雪の歌一首
1636 大口の眞神《まがみ》の原にふる雪は甚《いた》くな零《ふ》りそ家もあらなくに
 
(309)〔題〕 舍人娘子 傳不詳。「一一八」にも見える。
〔譯〕 眞神の原に降る雪は、そんなにひどく降つてくれるな。宿を借るやうな家もないのに。
〔評〕 名を開くさへ恐しい眞神の原を、大雪の日に通る人の苦しさは如何ばかりであらうと、思ひやつての作と解せられる。或は、通ひ來る愛人の上を思つてではあるまいかとも想像される。「苦しくもふり來る雨か神の埼狹野の渡りに家もあらなくに」(二六五)に似た内容で、しかも想像の作ながら、荒涼たる雪の野の凄まじさがよく表はれてゐる。
〔語〕 ○大口の眞神 「大口の」は大きい口をもつの意で、眞神即ち狼にかかる枕詞。○眞神の原 飛鳥地方から檜隈あたりへかけての平地。「一九九」參照。
 
    太上天皇の御製の歌一首
1637 はだ薄尾花|逆葺《さかふ》き黒木|用《も》ち造れる室《いへ》は萬代までに
 
〔題〕 太上天皇 元正天皇を申上げる。天武天皇の御孫で、草壁皇子の皇女。靈龜元年受禅、神龜元年位を聖武天皇に讓り給ひ、天平二十年寶算六十九にして崩御あらせられた。
〔譯〕 はだ薄、即ち尾花を逆さまにして屋根を葺き、皮つきのままの木を柱として造つたこの家は、素朴風雅でおもしろい。萬代の後までも續き榮えるであらう。
〔評〕 古風で簡素そのものともいふべき建築をおほめになつたのである。長屋王が、天皇・上皇をお迎へ申上げる爲に、佐保の邸内に、尾花を苅り葺き黒木を以て御休息の殿をしつらへたもの、と想像した古義の説が穩當と思はれる。
 
    天皇の御製の歌一首
1638 あをによし奈良の山なる黒木|用《も》ち造れる室《いへ》は坐《を》れど飽かぬかも
(310)     右は聞かくは、左大臣長屋王の佐保の宅に御在して肆宴きこしめせる御製なりといへり。
 
〔題〕 天皇 聖武天皇。
〔譯〕 奈良山から伐り出した皮附きのままの材木で造つたこの室は、かうしていつまで坐つて居ても、風雅で飽きないことである。
〔評〕 明るい大らかな御製である。古風な便殿がいたく御心にかなつたことと葬祭される。
〔語〕 ○をれど 白文「雖居座」。マセドとよむ説もある。
 
    太宰帥大伴卿、冬の日に雪を見て京《みやこ》を憶ふ歌一首
1639 沫雪のほどろほどろに零《ふ》り重《し》けば平城《なら》の京師《みやこ》し念《おも》ほゆるかも
 
〔譯〕 沫のやうな雪が、まだらにはらはらと降りしきると、奈良の都が戀しく思ひ出されることである。
〔評〕 作者の任地太宰府は暖地とて、雪は降つても大量ではないので、沫雪の霏々として亂れるのを見つつ、白玉に埋められた奈良の帝都の美觀を想起し、懷郷の情を催したのである。單純ではあるが平板ではない。明快ではあるが輕佻ではない。澁みと重みとの中に、簡朴な圓熟境があり、よく旅人の特長を語つてゐる。
 
    太宰帥大伴卿の梅の歌一首
1640 吾が岳《をか》に盛に咲ける梅の花殘れる雪をまがへつるかも
 
〔譯〕 自分の住んでゐるこの岡に盛りに咲いてゐる梅の花は、消え殘つた白雪かと見まちがへたことである。
〔評〕 やや説明的であり、今日から見ると平凡に感じられるが、當時外來植物としてまだ珍らしかつた梅のちるのを(311)喜び見ての作であらう。この見方を逆にしたのは下なる「一六四五」の歌である。
 
    角《つの》朝臣廣辨の雪の梅の歌一首
1641 沫雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣《や》らばよそへてむかも
 
〔題〕 角廣辨 傳不詳。作品はこの一首のみである。
〔譯〕 沫雪に降られて咲いたこの梅の花を、あなたの所へあげたならば、あなたと自分と深い關係でもあるやうに、人々がそれに託して必ず云ひ立てることでせうね。
〔評〕 一二三句の構想は雪に誘ひ出されて梅の咲くと見たのであるが「一四三六」と共通の見方である。四五の句は、敍述が十分とはいひ難い。
〔語〕 ○よそへてむかも 「よそふ」は擬する、託するで、ここは關係あるやうに人がいひ立てて噂するの意。
 
    安倍朝臣|奧道《おきみち》の雪の歌一首
1642 たな霧《ぎら》ひ雪も零《ふ》らぬか梅の花咲かぬが代《かひ》に擬《そ》へてだに見む
 
〔題〕 安部奧道 續紀によれば、天平寶字六年に正六位上から從五位下を授けられた。
〔譯〕 空が一面に曇つて、雪が降ればよい。梅の花がまだ咲かぬかはりに、せめてその雪を梅になぞらへてでも眺めようから。
〔評〕 梅の花の代りに雪を眺めようといふのは、あまりに作爲らしい感じがする。
 
    若櫻部《わかさくらべ》朝臣|君足《きみたり》の雪の歌一首
(312)1643 天霧《あまぎら》し雪も零《ふ》らぬかいちじろくこのいつ柴に零《ふ》らまくを見む
 
〔題〕 若櫻部君足 傳不詳。
〔譯〕 空がかき曇つて雪が降ればいい。さうしたらば、眞白に目立つて、この茂つた柴の上に降り積るのを見よう。
〔評〕 「いちじろく」「いつしば」と、同音を重ねて格調に技巧を凝してゐるのは「このいち柴のいつしかと」(五一三)「いちしの花のいちじろく」(二四八〇)等、類型が存する。
〔語〕 ○いつ柴 いつは「いつ薄」「いつ橿」と同じく繁きことを表はす接頭語。或は繁き芝草とする説もあるが雪のふる頃にふさはしくない。
 
    三野《みの》連石守の梅の歌一首
1644 引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも
 
〔題〕 三野石守 傳不詳。天平二年冬、太宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられて歸京する時に詠んだ歌が「三八九〇」にあるので、旅人の從者であつたことが知られる。
〔譯〕 枝を引き寄せたわめて折つたらば、空しく地上にこぼれ散るであらうから、梅の花をしごいて袖に入れた。花の色で袖が染まるならば染まつてもよい。
〔評〕 梅花を鑑賞するに、袖にこき入れるとは、少しく亂暴なやうであるが、花が既に盛を過ぎてゐた爲であらう。「しまばしむとも」とあるは、紅梅であらうか。ともかくも珍らしい表現である。家持の長歌に「‥‥藤浪の 花なつかしみ 引き攀ぢて 袖にこきれつ 染まば染むとも」(四一九二)は、これを摸したものであらう。
 
(313)    巨勢朝臣|宿奈麻呂《すくなまろ》の雪の歌一首
1645 吾が屋前《には》の冬木の上にふる雪を梅の花かとうち見つるかも
 
〔題〕 巨勢宿奈麻呂 神龜・天平頃の人。「一〇一六」參照。
〔譯〕 自分の庭の各枯の木々の上に降り積つてゐる雪を、ふと、梅の花かと見たことであつた。
〔評〕 各枯の木に積つた雪を、梅の花かと見あやまつたといふので「一六四〇」の歌の逆である。當時としては氣のきいた譬喩であつたらうが、誇張に過ぎた後世風の技巧に近い。
 
    小治田《をはりだ》朝臣|東麻呂《あづままろ》の雪の歌一首
1646 ぬばたまの今夜《こよひ》の雪にいざぬれな明《あ》けむ朝《あした》に消《け》なば惜しけむ
 
〔題〕 小治田東麻呂 傳不詳
〔譯〕 今夜降るこの雪に、さあ皆でぬれて遊ばうよ。あすの朝まで待つてゐて、消えてしまつたら惜しいであらうに。
〔評〕 翌朝になれば消えるだらうから、今降る雪に濡れて遊ばうといふ上代人の無邪氣さは子供の心そのままで、まことにほほ笑ましい。しかも夜である。自然の風物に、幼兒のやうな素朴な感興をもち得た當時の人々が懷かしまれる。
 
    忌部首《いみべのおぴと》黒麻呂の雪の歌一首
1647 梅の花枝にか散ると見るまでに風に亂れて雪ぞ降りくる
 
〔題〕 忌部黒麻呂 天平寶字頃の人。「一〇〇八」參照。
〔譯〕 梅の花が、枝の上で散り亂れてゐるのかと思ふほど、吹く風に亂れて雪が降つてくることである。
(314)〔評〕 單純にして平明。譬喩が甚しい誇張でなく自然に感じられ、かつ景趣が生動してゐる。
 
    紀少鹿《きのをしか》女郎の梅の歌一首
1648 十二月《しはす》には沫雪ふると知らねかも梅の花咲く含《ふふ》めらずして
 
〔題〕 紀少鹿女郎 鹿人大夫の女で、安貴王の妻となつた。「六四三」參照。
〔譯〕 十二月には沫雪が降るものであるのに、さうと知らないからであらうか、梅の花がいち早く咲いてゐる。もつとゆつくり蕾んでもゐないで。
〔評〕 雪の中に咲いてゐる梅の花を、いたはしげに眺めて、これを憐んだのである。童心のやうな純情が窺はれる。
 
    大伴宿禰家持の雪の梅の歌一首
1649 今日|零《ふ》りし雪に競《きほ》ひて我が屋前《には》の冬木の梅は花咲きにけり
 
〔譯〕 今日降つた雪に競爭して、自分の庭の冬木の梅は花が咲いたことである。
〔評〕 雁の聲や時雨によつて樹々が黄葉し、白露に誘はれて萩の花が咲くといふ風に、季節の景物を取り合せて、密接な關係のあるものと見る思想が處く行はれてゐた。雪と梅との配合をめでた奈良時代の歌人に、この趣向のあるのも當然であらう。上の角廣辨の雪の梅の歌にも「沫雪の降らえて咲ける梅の花」(一六四一)とあつた。
 
    西池《にしのいけ》の邊《ほとり》に御在《いま》して肆宴《とよのあかり》きこしめせる歌一首
1650 池の邊《べ》の松の末葉《うらば》にふる雪は五百重ふりしけ明日さへも見む
     右の一首は、作者いまだ詳ならず。但、豎子阿倍朝臣蟲麻呂之を傳へ誦《よ》めり。
 
(315)〔題〕 肆宴 字義は宴をつらねること。とよのあかりの豐は美稱、あかりは御酒《みき》にて顔の照り赤らぶ義といふ。西池は、續紀に「天平十年秋七月癸酉、天皇御2大藏省1、覽2相撲1、晩頭御2西池宮1云云」とあると同所であらう。
〔譯〕 池のほとりの松の梢の葉に降る雪は、この上幾重にも降り積つてくれ。明日も亦この好い景色を見ようから。
〔評〕 格調典雅で、印象頗る鮮明。松の緑と白雪の色彩との配合の麗しさを飽かず愛づる作者の姿が見えるやうに思はれる。
〔左註〕 豎子 チヒサワラハとよむ。未だ元服しない少年の宮中に仕へる者。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1651 沫雪のこの頃|續《つ》ぎて斯《か》く降れば梅の初花散りか過ぎなむ
 
〔譯〕 沫雪が、この頃續いてこんなに降つては、梅の初花も散り過ぎてしまひはせぬか。氣がかりなことである。
〔評〕 梅の初花を愛して、降り續く雪に氣を揉んでゐる。平庸ではあるが、女性らしい優しさが認められる。
 
    他田《をさだ》廣津娘子の梅の歌一首
1652 梅の花折りも折らずも見つれども今夜《こよひ》の花になほ如《し》かずけり
 
〔題〕 他田廣津娘子 傳不詳。
〔譯〕 梅の花を、私は折つて目近く見たこともあるし、又折らずにながめたこともあり、まことに美しいと思ひましたが、今夜見るこの梅の花には、今までのはやはり及びませんでした。
〔評〕 ある家の宴席に招かれての作であらう。主人の歡待に對する情が、宴席の梅花の讃美となつて現はれたので、(316)賞感の作といふよりは辭令の歌である。
 
    縣犬養《あがたのいぬかひの》娘子、梅に依せて思を發《おこ》せる歌一首
1653 今の如《ごと》心を常におもへらばまづ咲く花の地《つち》に落ちめやも
 
〔題〕 縣犬養娘子 傳不詳。
〔詳〕 今と同じやうに、あなたが私を思つて下さるお心をいつまでも持つてゐて下されたらば、いち早く咲いた梅の花の地上に落ち散るやうに、すぐ捨てられるやうなことはございますまい。どうぞいつも變らぬお心でゐて下さいませ。
〔評〕 新たに男にあつた女の歌であらう。喜びと共に、一脈の不安を感じたのである。戀愛に拘束の少かつた古代に於いては、特に女性にとつて、この感は深かつたであらう。但、この歌、心餘つて言葉の足らぬ憾がないでもない。
〔語〕 ○心を常におもへらば 常に心に思へらばの意。「心を思ふ」は、「淺き心をわが思はなくに」(三八〇七)ともあつて、當時の語法である。○まづ咲く花の まづ咲く花は梅をさす。「の」は「の如く」の意。
 
    大伴坂上郎女の雪の歌一首
1654 松蔭の淺茅が上の白雪を消《け》たずて置かむことはかも無き
 
〔譯〕 松の木蔭のまばらに生えた茅の上に降り積つてゐる白雪を、いつ迄も消さずに置く事は出來ないものか、まあ。
〔評〕 淺茅を埋め隱すほどの深い雪ではなく、薄々と降つた雪のめづらしさに、いつまでも消さずに置きたいと冀つたのである。庭の一隅などの屬目で、平淡素朴な歌である。
〔語〕 ○ことはかも無き 「こと」は事で、方法、手段。「かも」は疑問の助詞。
 
(317)  冬相聞《ふゆのさうもに》
 
    三國眞人人足《みくにのまひとひとたり》の歌一首
1655 高山の菅《すが》の葉凌ぎふる雪の消《け》ぬといふべしも戀の繁けく
 
〔題〕 三國人足 續紀によれば、慶雲二年十二月從六位より從五位下に進んだ。
〔譯〕 高山の菅の葉をおし伏せて降る雪が、終には消えるやうに、自分の命も消えてしまふといはねばならぬであらう。戀ひ焦れる心が甚しくて、何とも仕方がないことである。
〔評〕 烈しい戀情に惱む遣瀬なさゆゑの、戀人に對する脅かしであり、また哀願である。但、この序は「二九九」や「一〇一〇」等にも見える類型であるたけに著しく實感を稀薄ならしめる憾がある。古今集に「奧山の菅の根しのぎふる雪のけぬとかいはむ戀のしげきに」とあるのは、此の歌を歌ひかへたものであらう。
〔訓〕 ○けぬといふべしも 白文「消跡可曰毛」代匠記初稿本に、ケヌトカイハモと訓んで以來諸註皆それによつてゐるが、ムをモとするのは普通でないから訓み改めた。
 
    大伴坂上郎女の歌一首
1656 酒杯《さかづき》に梅の花|浮《うか》べ念《おも》ふどち飲みての後は散りぬともよし
 
〔譯〕 盃の中に梅の花を浮べて、親しい同士が樂しく酒を飲み、歡を盡した後は、もう花は散つてしまつても構はない。
(318)〔評〕 讃酒歌の作者旅人の妹たる面目が躍如としてゐて面白い。これは近親の人々少數で梅見の宴を催した折の感懷であらう。「青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし」(八二一)「春柳蘰に折りし梅の花誰か浮べし盃の上に」(八四〇)の二首を一首に纒めたやうな歌である。
 
    和《こた》ふる歌一首
1657 官《つかさ》にも許し給へり今夜《こよひ》のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
     右は、酒は、官禁制していはく、京中の閭里、集宴することを得ざれ。但《ただ》親親一二飲樂するは聽許すといへり。これに縁りて、和ふる人、此の發句を作れり。
 
〔譯〕 官でも、親しい少數の人でのむのならば、酒宴をすることをお許しになつてゐる。であるから、今夜だけ飲む酒であるか、さうではないのである。いづれまた、樂しく飲みつつ眺めようから、梅の花よ、散つてくれるな、決して。
〔評〕 「こよひのみ飲まむ酒かも」の反語がよく利いて、結句が生きてゐる。坂上郎女の歌に對しては矛盾した答のやうであるが、郎女も梅の散ることを望んでゐるわけではないので、その眞意を酌んで作者がかう言つたのは、機智の働きといつてよい。左註にあるやうに、都の中で多勢集つて酒を飲むことは禁ぜられてゐたが、近親の者少數の集宴ならば、官もこれを咎めなかつたといふ。果してこれがどのくらゐ實行されたものか詳かでないが、ともかく風俗史的資料としても興味ある歌である。
〔左註〕 京中の閭里 都の町々。發句 ここは初二句を指してゐる。
 
    藤皇后、天皇に奉れる御歌一首
(319)1658 吾が背子と二人見ませば幾許《いくばく》かこの零《ふ》る雪の懽《うれ》しからまし
 
〔題〕 藤皇后 光明皇后。皇后は藤原不比等の女で、母は縣犬養橘宿禰三千代。聖武天皇が皇太子の時に妃となられ、天平元年立后、天平寶字四年六月崩ぜられた。御年六十。この御歌は聖武天皇に奉つたもの。
〔譯〕 夫の君と二人で一緒に眺めるのでしたならば、どんなにかまあ、この降り積る雪景色が嬉しいことでございませうに、一人で見て物たりなく存じてをります。
〔評〕 純情さながらの御作。お里方などにおいでになつてゐた折の御歌であらう。一人見るのは殘念であるとの餘意が含められてゐる。
 
    他田《をさだ》廣津娘子の歌一首
1659 眞木《まき》の上に零《ふ》り置ける雪のしくしくも念《おも》ほゆるかもさ夜《よ》訪《と》へ吾が背
 
〔題〕 他田廣津娘子 前出「一六五二」參照。
〔譯〕 眞木の葉の上に降る雪は、あとからあとからと頻りに降り積るが、丁度そのやうに、頻りに戀しく思はれます。どうか今夜お出で下さいませ、あなた。
〔評〕 序は類型的で珍らしくないし、内容も特異な點は無いが、四句で強くすぱりと切つて、五句を更に強く呼びかけた句法に特色があり、全體に簡勁な趣を感じさせる。
 
    大伴宿禰駿河麻呂の歌一首
1660 梅の花散らす冬風《あらし》の音のみに聞きし吾殊《わぎも》を見らくしよしも
 
(320)〔題〕 大伴駿河麻呂 大伴御行の孫。坂上郎女の甥に當り、その次女大伴坂上乙孃を娶つた。「四〇〇」參照。
〔譯〕 梅の花を散らす嵐の音ではないが、音(評判)にばかり聞いて戀しく思つてゐたそなたを、今かうして目の前に見るのほほんたうに嬉しいことである。
〔評〕 序が甚だ奇矯に過ぎる。單に「音」といはんが爲としては、あまりに激し過ぎて、一首の調和を破る憾がある。
 
    紀少鹿《きのをしか》女郎の歌一首
1661 ひさかたの月夜《つくよ》を清み梅の花心開けて吾が念《おも》へる君
 
〔題〕 紀少鹿女郎 前出「一六四八」參照。
〔譯〕 月が清らかなので、梅の花も心が開けるやうに美しく咲いてゐますが、それと同じ樣に、私も心がひらけるやうな思ひであります。此のさわやかな清い心をもつて、今しも私は、あなたのことをお思ひしてをります。
〔評〕 清く照る月夜に、梅の花が美しく咲き匂うてゐる。今夜こそ、いとしいお方も來られるであらうと思ふにつけて、その梅の花までが、さながらに吾が喜を反映して嬉しげに咲いてゐるやうに思はれるのである。三句までを四句にかかる序と見る説もあるが、月光と梅花も、共に實景と見るがよい。
 
    大伴田村大娘、妹坂上大娘に興ふる歌一首
1662 沫雪の消《け》ぬべきものを今までにながらへぬるは妹に遇《あ》はむとぞ
 
〔譯〕 沫雪の消えるやうに、私も消えてしまふ筈でしたものを、今までに生きながらへてゐるのは、あなたに逢はう爲なのですよ。
〔評〕 この姉妹の親密さ、殊に、妹を思ふ田村大娘の眞心を語る歌の中の一首である。やや誇張の感もないではないが、(321)三四五句がすぐれてをる。
〔語〕 ○沫雪の 「消ぬ」にかかる枕詞とも見られるが、枕詞風に用ゐた譬喩と見るべきであらう。
〔訓〕 ○ながらへぬるは 白文「流經者」で、ナガラヘ經《フ》ルハと古く訓んでゐるが、流經を集中ナガラヘ又はナガラフルとよんでゐるので、訓み改めた。
 
    大伴宿禰家持の歌一首
1663 沫雪の庭に零《ふ》りしき寒き夜を手《た》枕|纒《ま》かず一人かも宿《ね》む
 
〔譯〕 沫雪が庭に零りしきつて寒い夜に、妻の手枕もせずに、自分は唯一人で寢ることか、まあ。
〔評〕 やや平板に近い感もないではないが、素直によみなしてある。
 
萬葉集卷第八 終
 
(323)  萬葉集 卷第九
 
(325)概説
 
 卷九は、卷一・二と同じく、雜歌・相聞・挽歌に分類せられ、古い撰集の體裁をなしてゐる。しかし「泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌」「崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌」のごとき題詞、又は「高市」「山上」「春日」「春日藏」などのごとく姓のみを記したとおぼしきもの「元仁」「島足」「碁師」「絹」などのごとく名のみを記したとおぼしきものがあり、また、諸歌集との關係などから見るに、精撰せられずに終つたものらしく思はれる。
 歌教は、總計百四十八首で、次のごとくである。
       短歌  長歌  旋頭歌   計
 雜歌   八九首  一二首  一首 一〇二首
 相聞   二四首   五首  ――  二九首
 挽歌   一二首   五首  ――  一七首
  計  一二五首  二二首  一首 一四八首
 歌は、ほぼ年代順に排列せられてゐる。雜歌が最も古く、雄略天皇御製(卷八には、舒明天皇御製となつてゐる)より、奈良時代初期までの歌があり、ついで相聞は、藤原宮時代より聖武天皇の天平五年に至り、挽歌は「宇治若郎子宮所歌」(柿本人麻呂歌集所出)より、天平十五六年頃までの作がある。
 この卷は、他の諸卷と趣を異にし、私歌集を切り入れて編纂したやうになつてゐる。即ち、柿本人麻呂歌集・高橋(326)蟲麻呂歌集・田邊福麻呂歌集・笠金村歌集・古歌集などの名が見え、その他にも不明の原本から採録したと思はれるものがある。しかして「一六八五」と「一六九五」と「一七〇八」の泉河作歌「一六八七」と「一六九四」と「一七〇七」の鷺坂作歌「一六八八」と「一六九六」の名木河作歌が、いささかの間を置いて別に記されてゐることも、原本の差違を證據だててゐる。
 この卷の特色として注意すべきは、?旅の歌と共に、傳説歌の多いことである。傳説歌をあつめたものとしては、他に卷十六があるが、それには傳説を題詞に述べ、歌は短歌が多いに、この卷の傳説歌は、各地に旅して、それぞれの地で聞いた傳説を長歌に詠んだものであり、それらの傳説歌は、いづれも高橋蟲麻呂歌集及び田邊福麻呂歌集のものである。しかして次に掲ぐるごとく、浦島子の歌をはじめ、傳説の長歌に秀逸が多い。
 短歌としてすぐれた歌には、
  妹がためわれ玉拾ふ沖邊なる王寄せ持ちこ沖つ白浪 作者未詳 一六六五
  朝霧にぬれにし衣ほさずしてひとりや君が山路越ゆらむ 同 一六六六
  紀の國の昔弓雄の響失用ち鹿獲り靡けし坂の上にぞある 同 一六七八
  巨椋の入江とよむなり射目人の伏見が田井に鴈渡るらし 同 一六九九
  さ夜中と夜はふけぬらし鴈が音の聞ゆる空に月渡る見ゆ 同 一七〇一
  落ちたぎち流るる水の磐に觸りよどめる淀に月の影見ゆ 同 一七一四
  おくれ居て吾はや戀ひむ春霞たなびく山を君が越えいなば 同 一七七一
  君なくは何ぞ身よそはむくしげなる黄楊の小梳も取らむとも念はず 播磨娘子 一七七七
  旅人のやどりせむ野に霜ふらば吾が子羽ぐくめ天の鶴群 遣唐使隨員母 一七九一
 長歌として、すぐれた作には、末珠名を詠める歌(一七三八)水江浦島子を詠める歌(一七四〇)大伴卿の筑波山(327)に登りし時の歌(一七重二)※[女+燿の旁]歌會をせし日の歌(一七五九)遣唐使隨員の母の歌(一七九〇)葦屋處女の墓を過ぎし時の歌(一八〇一)勝鹿眞間娘子を詠める歌(一八〇七)菟原處女の墓を見る歌(一八〇九)などがある。
 なほ題材としては「一六八二」の仙人の形を詠んだ歌、「一七七三」の神依板の歌は珍らしく、「一七四二」の長歌は、河内の大橋が丹塗の橋であつたことを語つてゐる。
 用字法には著しい特色は見られないが「金風《あきかぜ》郎」(一七〇〇)「所射十六《いゆしし》」(一八〇四)などの義訓の他に、戯書として「色二山上復有山者《いろにいでば》」(一七八七)のごときものがある。また「一七八一」の歌には數字が六字假り用ゐてある。
 
(329)  雜歌《ざふか》
 
    泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬稚武天皇《はつせあさくらのみやにああのしたしらしめししおほはつせわかたけのすめらみこと》の御製の歌一首
1664 暮《ゆふ》されば小椋《をぐら》の山に臥《ふ》す鹿の今夜《こよひ》は鳴かず寐《い》ねにけらしも
     右は、或本に云ふ、岡本天皇の御製といへり。正指を審にせず。因りて以ちて累ね載す。
 
〔題〕 大泊瀬稚武天皇 雄略天皇「一」參照。
〔譯〕 夕方になると、いつも小椋の山で寢る鹿が、今夜は鳴かない。妻に逢つて寢たらしい。
〔評〕 「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずいねにけらしも」(一五一一)は、舒明天皇の御製として上に出てゐる。いづれが正しいかは、左註にも審でないと言つてゐる通りであるが、歌風、歌詞等から見て、舒明天皇とする傳が眞實に近いと思はれる。
 
    岡本宮御宇天皇の紀伊國に幸《いでま》しし時の歌二首
1665 味がため吾《われ》玉|拾《ひり》ふ沖邊なる玉|寄《よ》せ持ち來《こ》沖つ白浪
 
〔題〕 日本紀には舒明天皇の紀伊行幸の事が見えない。紀の記録の脱漏かとも思はれるが、或は代匠記の説くやうに、後岡本宮とあつた「後」の字を落したのではないかとも考へられる。後岡本宮天皇、即ち齊明天皇の紀伊行幸の事は(330)「九」「一四六」に見える。
〔譯〕 家に待つてゐる妻への土産にする爲、自分は美しい玉を拾ふのである。沖にある美しい玉を、濱邊に打ち寄せて持つて來てくれ、沖の白浪よ。
〔評〕 山岳に圍繞されてをる大和平原に住み慣れた都會人にとつては、海は珍らしかつたので、海邊の土産を家なる妻に持ち歸らうといふ歌が、集中に頗る多い。この歌も、從駕の人のさうした心もちを詠んだものであるが、格調輕快で、恰も白波の花と咲くを見、うち寄せる波の響を聞く感がある。
〔語〕 ○吾玉拾ふ 「玉」は海底の美しい石であらう。鰒白玉ではない。
 
1666 朝霧にぬれにし衣|干《ほ》さずしてひとりや君が山路越ゆらむ
     右の二首は、作者末だ詳ならず。
 
〔譯〕 朝霧にぬれた著物を干しもしないで、一人で、わがいとしい夫は、山道を越えていらつしやることであらうか。おいたはしく思はれる。
〔評〕 都に殘つてゐる妻が、旅なる夫を思ひやつたもので、如何にも女らしい、眞情の滿ちた優しい歌である。「吾が背子はいづく行くらむ奧つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ」(四二)等と共に、深い感情のこもつた、上代の女人らしい作である。
〔語〕 ○ひとりや君が 只一人で行幸のお供をしてゐるといふのでは無論ない。この「ひとり」は、妻をも伴はないのでの意。
 
    大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、紀伊國に幸《いでま》しし時の歌十三首
(331)1667 味がため我《われ》玉求む沖邊なる白玉寄せ來《こ》沖つ白浪
     右の一首は、上に見ゆること既に畢りぬ。但、歌の辭|小《すこ》しく換り、年代相違へり。因りて以ちて累ね載す。
 
〔題〕 太上天皇 持統天皇。大行天皇 文武天皇。「五四」「七一」參照。尚この行幸は「五四」に「大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌」とあり、續紀には「大寶元年九月丁亥天皇幸2紀伊國1、冬十月丁未車駕至2武漏温泉1、戊午車駕自2紀伊1至。」とある。即ち九月十月の二ケ月に亙る御巡幸であつたと想像される。
〔譯〕 家なる妻へ土産にする爲に、自分は玉を捜してゐるのである。沖の方にある白玉を、濱邊に打寄せてくれ、沖の白浪よ。
〔評〕 左註にあるごとく、前の「一六六五」と殆ど同じ歌である。
 
1668 白埼《しらさき》は幸《さき》く在り待て大船に眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》きまた反《かへ》り見む
 
〔譯〕 白崎は、このままいつまでも變らず、自分を待つてゐてくれ。大船に左右の楫を澤山つけて、再び此處に來て見ようから。
〔評〕 石灰石から成つてゐる眞白な岬が青い波に映じてをる美觀に旅情を慰められ、親しい氣持を感じた結果、呼びかけるやうにして、再遊を約したのである。又それと同時に、無意識の中にも、無事に再びここへ來られるやうにと、祈る心も籠つてゐるのであらう。
〔語〕 ○白崎 紀伊國日高郡白崎村の海岸で、紀伊水道に面し、西に突出した岬である。石灰岩から成り、白色をしてゐるので名づけられた。○幸く在り待て 「志賀の辛崎幸くあれど」(三〇)などと同じく「崎」と「幸」と同音を反覆した語調美も、全體の上に効果的である。○眞楫繁貫き 兩舷の艪を澤山揃へて。「三六八」參照。
 
(332)1669 三名部《みなべ》の浦潮な滿ちそね鹿島《かしま》なる釣する海人《あま》を見て歸り來《こ》む
 
〔譯〕 三名部の浦に、潮よ、滿ちないでゐてくれ。自分はここから鹿島へ渡つて、釣をしてゐる海人を見て歸つて來ようと思ふ。
〔評〕 大和の都會人にとつては、海人の釣する樣が珍らしくて興を惹いたのである。率直平明、よく意を盡してゐる。
〔語〕 ○三名部の浦 和名抄に紀伊國日高郡南部とあり、南部川の川口に位して、岩代の南に當る。○鹿島 南部浦の沖八町餘の海中にある形の美しい小島。
 
1670 朝びらき榜《こ》ぎ出で我は湯羅《ゆら》の埼釣する海人《あま》を見て歸り來《こ》む
 
〔譯〕 早朝の船出に沖へ榜ぎ出し、自分は湯羅の岬で釣をしてゐる海人の樣子を見て歸つて來ようと思ふ。
〔評〕 前の歌と同じく、日常山をのみ見馴れた都人が、廣々とした海上を眺めて胸も開け、特に海人が釣をする樣を珍らしがつたもので、四五句全く同型である。
〔語〕 ○朝びらき 早朝船出をすること。「三五一」參照。○湯羅の埼 日高郡由良港の西方に突出した岬。「一二二〇」參照。
 
1671 湯羅の埼潮干にけらし白神《しらかみ》の磯の浦|回《み》を敢《あ》へて榜《こ》ぎ動《とよ》む
 
〔譯〕 湯羅の埼では今や潮が干たらしい。白神の磯の海岸傳ひを、多くの舟が、押し切り競うて漕ぎ騷いでゆく。
〔評〕 由良の崎を目がけて漕いで行く活氣に滿ちた漁船の群を、白神の磯に立つて眺めてゐるのである。五句の屈曲した語調はおもしろい。紀伊と淡路の中間の海には、今も猶かうした明るい光景を見るのである。
(333)〔語〕 ○白神の磯 有田都栖原の栖原山を一名白上山といひ、その山裾の海に入つて灣をなす處であるといふが、それでは由良の崎との距離が遠きに過ぎるので、一説には、前に出た白埼のことともいふ。○敢へて榜ぎ動む 「敢へて」は、押し切つて、張り切つての意。古義に「喘ぎて」の意とするは當らない。
 
1672 黒牛潟潮干の浦をくれなゐの玉裳裾びき行くは誰《た》が妻
 
〔譯〕 黒牛潟の潮の干た海岸傳ひを、赤い美しい裳の裾を曳いて行くが、あれは誰の妻なのか、美しい姿であるよ。
〔評〕 「黒牛の海くれなゐ匂ふ百磯城の大宮人しあさりすらしも」(一二一八)と同じく、行幸從駕の人が、女官達の美しい容姿を見て詠んだものであらう。土地の人の妻ならむとの説もあるが、「玉裳裾引き」といふ語句から判ずれば、都人と見るのが自然であらう。結句は、深く問ひ質す意ではなく「誰かしら」といふ程の心である。
〔語〕 ○黒牛潟 今の海草郡黒江町。○玉裳裾びき 美しい裳の裾を曳きながらの意。「玉」はほめてそへた詞。若い女官達のさまと想像される。
 
1673 風莫《かざなし》の濱の白波いたづらに此處《ここ》に寄り來《く》る見る人無しに 【一に云ふ、ここに寄り來も】
     右の一首は、山上臣憶良の類聚歌林に曰く、長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》、詔に應へてこの歌を作れりと。
 
〔譯〕 風莫の濱の白浪が、むなしく此處の濱邊に寄せてくるよ。誰も見る人も無いのに。
〔評〕 荒涼たる濱邊に寄せる白浪の樣に眺め入りつつ、漠然とした言ひ知れぬ哀情に浸つてゐる旅人の姿が目に浮び、感愴おのづから讀む者の心に迫るものがある。一に云ふは、四句の異傳である。
〔語〕 ○風莫の濱 紀路歌枕抄には、西牟婁郡瀬戸鉛山村綱不知をいひ、良灣にて風の凪ぎたる入江なれば、風莫濱ともいふとあるが、猶考究を要する。
(334)〔左註〕 山上憶良の編した類聚歌林には、この歌一首は、長忌寸意吉麿が詔に應じて作つたといふのである。意吉麿は「五七」參照。
 
1674 我が背子が使|來《こ》むかと出立《いでたち》のこの松原を今日か過ぎなむ
 
〔譯〕 夫からの使が來もしようかと思つて妻が門に出で立つて待つといふ此の出立の松原を、今日自分は通り過ぎて行つてしまふのであらうかなあ。
〔評〕 出立の松原をあとにして、都に還らうとする時の作と思はれる。旅情を慰めてくれる明媚な風光と別れる名殘惜しさがよく現はれてゐる。序の詞から見れば女性の歌のやうでもあるが、これは單なる技巧としての序で、作者の實際に即した句ではないと見るべきである。
〔語〕 ○出立の 略解は「出立のは走出のといふ類也」といひ、古義は「海濱などにおのづから出立たる如く見ゆるを云ふ」と解してゐるが、地名と見るが自然であらう。全釋には、西牟婁郡田邊町の海岸の松原で、古くはかの附近を出立莊といつたとある。イデタチシと訓んで地名とせぬ説もある。
 
1675 藤白《ふぢしろ》のみ坂を越ゆと白たへの我が衣手はぬれにけるかも
 
〔譯〕 藤白の坂を越えようとして、此處で横死をなされた有間皇子の御事を追懷し、自分の着物の袖は、涙に濡れたことである。
〔評〕 「磐代の濱松が枝を引き結び眞幸くあらばまた還り見む」(一四一)といふ歌を留めて失せ給うた有間皇子の最期をしのんで、哀傷の涙を濺いだものである。袖の濡れるのは、故郷を離れてをる悲しみと、皇子への同情と、二樣の心もちからであると、代匠記は説いてゐるが、やや考へ過ぎであらう。有間皇子の事のみと取るべきである。
(335)〔語〕 ○藤白 海草郡内海町の大字で、藤白王子といふ社がある。なほ「一四一」參照。
 
1676 背の山に黄葉《もみぢ》常敷《とこし》く神岳《かみをか》の山の黄葉《もみぢ》は今日か散るらむ
 
〔譯〕 この背の山では、黄葉が絶えず散り頻つてゐる。故郷の神南備山の黄葉は、今日あたり、このやうに散つてゐることであらうか。
〔評〕 旅中にあつて、今頻りに背の山の黄葉が散り亂れてゐるのを見て、故郷なる藤原の都に近い神南備山の黄葉を思ひやつたのである。平淡な裡にほのかな旅情を湛へた歌である。都人士にとつて、黄葉といへばまづ飛鳥の神南備山が腦裏に浮んだのであらう。
〔語〕 ○背の山 紀の川の沿岸にある。「三五」參照。○黄葉常敷く 絶えず頻りにもみぢが散つてゐる。とこは、とこしへ、敷くは頻るの意。○神岳 飛鳥の神南備山、即ち雷岡をいふ。「一五九」參照。
 
1677 大和には聞えゆかぬか大我野《おほがの》の竹葉《たかは》苅り敷き廬《いほり》せりとは
 
〔譯〕 大和なる家人のもとへは、聞え行かぬであらうか。大我野の竹の葉を苅り敷いて、自分が廬をつくつてわびしい旅寢をしてゐるといふことは。
〔評〕 遠く離れた旅寢のさまが大和まできこえゆくとは、勿論作者も思つてはゐないが、此處にかうしてゐることを家人はまるで知らぬであらうといふ遣瀬ない望郷の念を、言外に含ませたもので、都では想像も出來ぬやうな旅の苦難を嘆じたのである。一・二句に聲調を張つてはゐるが、寧ろ裡に沈痛の氣が流れた歌である。竹の葉を苅り敷いて假廬を作り、寢苦しい一夜を明かす旅人の姿が思ひ浮べられる。
〔語〕 ○大和には 大和にゐる妻のもとへは。○大我野 伊都郡橋本町大字|東家《とうけ》、市脇の附近。紀伊國名所圖會に(336)「相賀莊二十六箇村の内、市脇・東家・寺脇三箇村の田地の字に相賀臺といふ曠野あり、これ古の大我野なるべし」と記してゐる。
〔訓〕 ○聞えゆかぬか 白文「聞往歟」古くキコエモユクカと訓んでゐるが、この歌は人麿歌集から出た歌と認められるので、その用例に從つた。
 
1678 紀《き》の國の昔弓雄の響矢《なりや》用《も》ち鹿《か》獲《と》り靡けし坂の上《へ》にぞある
 
〔譯〕 紀伊の國の昔の名高い弓取が、鳴り鏑矢をもつて鹿を獲りひしいだ坂の上であるよ、此處は。
〔評〕 紀の國の或る山坂の上で、大きな鹿を射留めたといふ英雄傳説が語り傳へられてゐたのでもあらう。たまたま作者は越えて行くその坂の上に立ち、昔男の武勇を追想して、自分も腕の鳴るのを覺えたのであらう。さうして傍の若者などに語り聞かせたともおぼしき趣である。格調雄渾にして、よく内容に相應した、所謂ますらをぶりの歌である。
〔語〕 ○昔弓雄の 昔ゐた弓の上手な男といふ程の意。○響矢 和名抄に漢書音義を引いて「鳴鏑、如2今之鳴箭1也」とある。鏃の上に蕪の如き形をして、中が空洞で穴あり、それから風が入つて鳴るやうな仕掛になつてゐる矢。○獲り靡けし 靡かすやうに射取つた。
〔訓〕 ○弓雄 このままサチヲと訓む童蒙抄の説、或は「弓」を「幸」に改めてサツヲと訓む古義の説もあるが、舊訓のままでよい。○響矢 藍紙本などの古本にナルヤとし、舊訓はカブラとあるが、略解の訓によつた。
 
1679 紀《き》の國に止《や》まず通はむ都麻《つま》の社《もり》妻依《よ》し來《こ》せね妻と言ひながら 【一に云ふ、つま賜ふにもつまといひながら妻】
     右の一首は、或は云ふ、坂上忌寸|人長《ひとをさ》の作なりと。
 
〔譯〕 自分は紀伊の國へこれからも絶えず通ふことでせう。都麻の社の神樣よ、自分に妻を寄せて來て下さいませ、(337)妻と、いふ名をもつていらつしやるからには。
〔評〕 旅に於ける妻戀しさが、都麻の社の名によつて、一層誘發されたのである。併し、戀々の情に堪へないといふやうな切迫した感情でなく、また嚴肅に神に祈るといふのでもなく、言語を弄んだ遊戯的な作である。
〔語〕 ○妻の社 和名抄に名草郡津麻郷とあり、神名帳にも名草郡都麻比賣神社とある。今、海草郡西山東村に都麻神社がある。但この地は地形上、杜といふに適せずとして、伊都郡橋本町字妻の地をそれと推定する説(萬葉地理研究紀伊篇)もある。○一に云ふ、妻賜ふにも 第四句の別傳であるが、解し難い。「爾」は「南」の誤とし、ツマタマハナモとして、妻を賜への意と略解にある。このままタマハニモと訓んで略解のやうに解する考もある。
〔左註〕 作者についての異傳を示したのであるが、坂上人長は傳不詳。
 
    後《おく》れたる人の歌二首
1680 麻裳《あさも》よし紀《き》へ行く君が信士山《まつちやま》越ゆらむ今日ぞ雨な零《ふ》りそね
 
〔題〕 後れたる人 ここは行幸の御供に加はらなかつた人の意で、恐らく從駕の人の妻の作と思はれる。
〔譯〕 紀伊の國へ行く君が、今日は信土山をお越えになる筈である。雨よ、どうか降らないでくれ。
〔評〕 率直な詞句、平明な調子の中に、女性らしい眞情が優しく流れてゐる。前出の「一六六六」の歌と竝べ唱してよい作である。
〔語〕 ○麻裳よし 麻の衣を着るの意で、同音の「紀」にかける枕詞。「五五」參照。○信土山 大和から紀州へ越える國境の山、眞土山・亦打山とも書く。「五五」その他集中に多く詠まれてゐる。
 
1681 後《おく》れ居て吾が戀ひ居《を》れば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ
 
(338)〔譯〕 獨り家に殘つてゐて、私がいとしい夫を思ひ焦れてゐると、夫は、白雲の棚引く山を、今日あたり越えていらつしやることであらうか。
〔評〕 旅なる夫の日々の行動を想像し、その勞苦を思ひやるのは留守居の妻の眞情である。この歌、その眞情は酌まれるが、語句が類型多く、新鮮味に乏しいのは遺憾である。
〔語〕 ○こひをれば 原因や條件を示すのでなく、をると、丁度今頃はの意。
 
    忍壁皇子《おさかべのみこ》に獻《たてまつ》れる歌一首 【仙人の形を詠める】
1682 とこしへに夏冬行けや裘《かはごろも》扇放たぬ山に住む人
 
〔題〕 忍壁皇子 天武天皇の第九皇子。「二三五」の左註參照。皇子の邸の屏風にあつた繪などを見て、それに寄せて皇子をことほいだものであらうと、代匠記にある。仙人《やまびと》の形《かた》は、仙人の繪。
〔譯〕 仙境に於いては、永久に夏と冬とが一緒に往來してゐる爲であらうか、この仙人の姿を見ると、冬の毛皮の衣を着て、夏の團扇を身から放たず持つてゐることである。
〔評〕 仙人の畫像に奇趣を感じて、ありのままを直寫したのであらう。それに寄せて皇子を祝福したと見る契沖説は、尤のやうであるが、如何なる意味での祝福か解し難い。或は單にこれだけの意味であるかも知れない。ともあれ、當時の人々の神仙思想に興味を持つてゐた一斑を語るもののやうである。
〔語〕 ○夏冬行けや 夏冬行けばにやの意。但、夏と冬と交互に經過して行くとも、或は、同時に推移する意とも取れる。後者と解すべきであらう。○山に住む人 仙人をいふ。
 
    舍人皇子に獻れる歌二首
(339)1683 妹が手を取りて引き攀《よ》ぢうち手折《たを》り吾がかざすべき花咲けるかも
 
〔題〕 舍人皇子 天武天皇の皇子で、日本書紀を編纂された。「一一七」參照。
〔譯〕 愛する女の手を執るやうに、取つて引き寄せ、手折つて、自分が頭に挿さうと思ふ美しい花が咲いたことである。
〔評〕 極めて單純な内容ではあるが、何とはなしに面白く珍らしげに詠んだ表現に機智があり、吹く花を弄ぶ喜ばしさに、心の躍つてゐる樣子も窺はれる。
〔語〕 ○妹が手を 「取る」にかかる枕詞。○取りて引き攀ぢ 「攀づ」は引張り曲げ寄せる意で、登攀の義ではない。「一四六一」の左註參照。○わが挿すべき 略解所引の宣長説に「吾」は「君」の誤で、さうでないと皇子に獻ずる意味がないとある。一理ある説であるが、併し單純に考へてこのままでもわかる。
 
1684 春山は散り過ぐれども三輪山はいまだ含めり君待ちがてに
 
〔譯〕 春の山々は大抵もう花が散り過ぎてゆくけれども、この三輪山は、まだ蕾んでをります、あなたのお出を待ちかねてゐる樣子で。
〔評〕 春漸く深くして、他の山々の花は大方は散りつつあるのに、三輪山の花のみまだ半開の風情なので、皇子の御出遊をお誘ひ申すやうに報告したのである。素朴にして大らかな表現がよい。三輪氏の人が、我が身の沈めるを歎き、皇子に訴へてその吹擧を願つた寓意と解した代匠記の説は穿鑿に過ぎよう。
 
    泉河の邊《ほとり》にて間人《はしひと》宿禰の作れる歌二首
1685 河の瀬の激《たぎ》ちを見れば玉もかも散り亂れたる川の常かも
 
(340)〔題〕 泉河は、山城國の南部を流れ淀川に注ぐ。木津川の古稱。「五〇」參照。間人宿禰は傳不詳。「二八九」の作者、間人宿禰大浦と同人かといはれる。
〔譯〕 この河の瀬が奔騰してゐるのを見ると、玉でも、散り亂れてゐるのか。それともかうした美觀は、この川の常の有樣であるのか。
〔評〕 泉河の急瑞の玉と碎け散るを見て、旅情を慰められた作者の驚喜が詞句の間に躍つてゐる。「吾妹子をいざみの山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも」(四四)に格調が似てをる。結句聊か整はない感もあるが、素朴でわるくない。
〔語〕 ○川の常かも この川の常の?態なのかまあ。
 
1686 彦星の挿頭《かざし》の玉の嬬戀《つまごひ》に亂れにけらしこの河の瀬に
 
〔譯〕 彦星の挿頭の玉が、嬬戀しさのあまりの身悶えによつて、亂れ散らばつたらしい、この泉川の河の瀬に。
〔評〕 前の歌と連作になつて居り、前の玉をここで明瞭に描いた、まことに美しい空想である。但、挿頭の玉は寧ろ織女に適するやうにも思はれるので、新考は「タナバタの誤にあらざるか」といつてゐるが、天上の男たる彦星であるから、玉の挿頭は不似合ではあるまい。それに激流の壯麗さが、おのづから男性的な彦星を思はしめたのであらう。
 
    驚坂にて作れる歌一首
1687 白鳥《しらとり》の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も深《ふ》け行くを
 
〔題〕 鷺坂 山城國久世郡久世にある。丘陵に過ぎないが、一帶が山地なので、歌では大まかに鷺坂山といつた。
〔譯〕 この鷺坂山の松の木蔭に、今夜は宿つて行かうよ。夜も次第に深けてゆくのであるから。
〔評〕 山路に行き暮れて里はまだ遠い。さびしいけれども山中の松の木蔭に一睡して疲勞を休めようといふのである。(341)感情をあらはには敍べずして、却つて、行旅の寂しさ心細さが全幅に滲み渡つてをる。
〔語〕 ○白鳥の 枕詞。白い鳥の鷺の意。○夜もふけ行くを 「を」は感動の助詞。
 
    名木河《なぎがは》にて作れる歌二首
1688 ※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す人もあれやも沾衣《ぬれぎぬ》を家には遣《や》らな旅のしるしに
 
〔題〕 名木川 和名抄に、久世郡那紀郷とあり、今の小倉村伊勢田の邊で、名木川は今富野莊村より小倉村に至る約六十町の一渠で、古の栗隈溝であらうと大日本地名辭書は推定してゐる。但、名木河にての歌二首とあるが、次の「一六八九」は全く別の歌であるから、恐らくこれは一首の誤であらう。
〔譯〕 炙つて乾かしてくれる人でもあらうか、そんな人は身邊にゐないので、この濡れた着物を家に送つてやらう、旅のしるしとして。
〔評〕 たださへわびしい旅で、身邊の世話をしてくれる者も無いのに、雨に濡れた着物の處置にほとほと困じたのであらう。かやうな時に、妻のあり難さ、家庭生活のよさなどが痛切に感じられる。無論實際に濡衣を家郷へ送るのではないが、さうもしたい心持をそのままに表現したところに、歌のあはれがある。
 
1689 荒磯邊《ありそべ》に著《つ》きて榜《こ》がさね杏人《からびと》の濱を過ぐれば戀《こほ》しくありなり
 
〔譯〕 荒磯のほとりに沿うて舟を漕ぎなさいませ。杏人の濱を通り過ぎる時には、戀しからうことゆゑに。
〔評〕 作者は海岸に立つて旅に上る人を見送つてゐるのであらうか。三句五句甚だ解しがたい。
〔語〕 ○杏人の濱 地名であらうが不明。○ありなり 上代「なり」は終止形を受けるのが例で、常のは何らか音について想像を表はすが、此は趣が異なる。戀しくなるさうだ、と傳聞の意に解すべきか、猶考究を要する。
 
(342)    高島にて作れる歌二首
1690 高島の阿渡《あと》河波は騷《さわ》けども吾《われ》は家|思《も》ふ宿《やどり》悲しみ
 
〔題〕 高島 近江國高島郡。琵琶湖の西岸で、「一二三八」その他集中にも多く見える。
〔譯〕 高島の阿渡河の河波は騷いでゐるが、それとは關はりもなく、自分はひたすら家郷のことを思ひつづけてゐる、旅の宿のわびしさ、悲しさの爲に。
〔評〕 「高島の阿渡白波は動めども吾は家思ふ廬悲しみ」(一二三八)の歌の異傳である。なほ、全體の構想は、人麿の、「小竹の葉は深山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ來ぬれば」(一三三)に似てゐる。
〔語〕 ○阿渡河 今の高島郡にある安曇川。「一二九三」參照。
 
1691 旅なれば三更《よなか》を指して照る月の高島山に隱らく惜しも
 
〔譯〕 自分は旅にゐて夜道を歩いてゐるので、夜中へかけて美しく照る月の、やがて高島山に隱れるのがまことに惜しいことである。
〔評〕 この歌は、初二句の間に言葉が不足してゐると思はれるので、意味の會通を缺くのは遺憾である。恐らく夜道をかけて歩きつつの作であらう。
〔語〕 ○三更をさして 夜半に向つて、夜中へかけての意。三更を地名とするの古義の説は賛し難い。○高島山 今この名の山はない。恐らく高島郡の山の意で、特定の山ではあるまい。
 
    紀伊國にて作れる歌二首
(343)1692 吾が戀ふる妹は逢はさず玉の浦に衣片敷き一人かも寐む
 
〔譯〕 自分が戀しく思つてゐる女は逢つてはくれず、自分は玉の浦で、着物の袖を片敷いて一人で寢ることかなあ。
〔評〕 行旅の間に於いて、見そめた女に思ひがかなはず、一人わびしい旅寢をした時の感懷かと思はれる。この四五句は、新古今集の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷き獨かも寢む」に踏襲されてゐる。
〔語〕 ○逢はさず 逢はずの敬語法であるが、ここは敬語といふよりも、親愛の心持を示す表現と見るべきである。○玉の浦 玉勝間に、那智山下なる粉白浦から約十町の西南、とあるが未詳。「一二〇二」參照。
 
1693 玉匣《たまくしげ》明けまく惜しきあたら夜《よ》を袖《ころもで》離《か》れて一人かも寐む
 
〔譯〕 妻とゐたらば、明けるのが惜しい夜であるのに、今は旅にあつて、妻の袖と別れて一人で寢ることかまあ。
〔評〕 旅寢のわびしさに、つくづくと家妻を思ふ歌である。内容は極めて單純であるが、枕詞ながら「玉くしげ」とうつくしくうたひ出だし「ころもでかれて」と、表現も洗練され、かつ眞情があらはれてゐる。
〔語〕 ○玉匣 枕詞。玉匣を開くの意で「明け」につづく。○あたら あつたら、惜しむべきの意。「惜しさ、あたら」と同意の語を重ねたもの。
 
    鷺坂にて作れる歌一首
1694 細領巾《ほそひれ》の鷺坂山の白《しら》躑躅吾に染《にほ》はね妹に示さむ
 
〔譯〕 鷺坂山の白い躑躅の花よ、自分の旅衣に染みついてくれ。家に歸つてから妻に見せようと思ふ。
〔評〕 鷺坂山の名によつて、鷺の頭の細い白い羽毛から細領巾を聯想し、清楚な白躑躅の花には、更に若く美しい妻(344)が偲ばれたことであらう。但、白躑躅を衣に染ませるといふのは、實際問題としてどんなものであらうか。
〔語〕 ○細領巾の 細い領巾のやうな毛を頭につけてゐる鷺の意で「鷺」にかけた枕詞。○吾に染はね わが衣に染みつけよの意。「にほふ」は色の染まること。
 
    泉河にて作れる歌一首
1695 妹が門《かど》入《い》り泉河《いづみがは》の常滑《とこなめ》にみ雪殘れりいまだ冬かも
 
〔譯〕 泉川のほとりに來て見ると、河床の磐の滑らかな處に雪が殘つてゐる。ここはまだ冬なのであらうか。
〔評〕 全釋では、代匠記や古義に從つて、泉川の磐のあたりに、たぎつ流が白波を立ててゐるのを、直ちに「み雪殘れり」と云ひ切つた譬喩と取つて、優れた表現と讃してゐるが、この解は首肯しかねる。實景の直寫であつて、旅人がこの山間に來て、殘雪を珍らしがつた趣である。
〔語〕 ○妹が門入り泉河 「入り」までは序。泉川のイヅを「出」にいひ懸けた技巧である。「妹が門出入りの河」(一一九一)も類似の序である。泉川は今の木津川。○常滑 川の岩石の常に潤ひ滑らかなのをいふ。「三七」參照。
 
    名木河にて作れる歌三首
1696 衣手の名木の河邊を春雨に吾《われ》立ち沾《ぬ》ると家|念《おも》ふらむか
 
〔譯〕 名木の河のほとりの春雨に、自分が濡れてゐると、家人たちは思つてゐるであらうかなあ。
〔評〕 旅中、雨の行程に惱みつつ、家郷の方でも同じ春雨が降つてゐるに違ひないと考へて、さて家人も旅なる自分が雨に濡れつつ名木河の邊を歩いてゐる樣を、思ひやつてくれてゐるかも知れぬと想像して、獨り自ら慰めたのである。結句を、家ではさう思つてゐるであらうか、こんな難儀をしてゐるとはよもや知るまい、といふやうに反語に解(345)する古義や全釋の解は、誤である。次の二首を見れば、作者は春雨を家人の使と見てゐるのであるから、この場合、家郷と旅先と双方に降つてゐると作者が考へてゐて、上述の如き家人の心のうちを作者が想像したのも偶然ではないのである。
〔語〕 ○衣手の この句を第四句につづけて解すべしとする古義の説はよくない。枕詞であると思はれるが、懸り方は明かでない。泣く時袖を掩ふ意同音のナキに懸けたとする説(代匠記)、「長き」の約とする説(冠辭考)などあるが首肯し難い。○名木の河邊を 「を」は、をゆきつつ、においてなどの意に用ゐたのであらう。○家思ふらむか 家人が思つてゐるであらうか。「らむか」の例は多數あるが、疑問の意に強者の差こそあれ、皆肯定的の疑問に用ゐられて居り、反語に用ゐられてゐない。
 
1697 家人《いへびと》の使なるらし春雨の避《よ》くれど吾をぬらす念《おも》へば
 
〔譯〕 この春雨は、家にゐる妻からの使であるらしい。いくら避けても自分をぬらすことを思ふと。
〔評〕 春雨が執念く纒ひついて、自分から離れないといふやうに考へたのであるが、それをいやな奴とは思はずに、懷かしい家妻からの使であると取つたのは奇警である。畢竟旅中に於ける妻戀のやるせなさが、この奇想を誘發したものであらうが、その優しさの中に作者の人柄が見られるやうである。
 
1698 ※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す人もあれやも家人の春雨すらを間使《まづかひ》にする
 
〔譯〕 あぶつて乾かしてくれる人さへもあることか、そんな人もない旅の自分に、家なる妻が春雨なんぞを使によこして、尚更自分の着物をぬらすことである。
〔評〕 これも前の歌と同じく奇警な構想である。初二句は「一六八八」の歌と全く同じである。同人の作か、同行者(346)がわざと同じ句を用ゐたとも思はれる。春雨までを使によこして、我が旅衣をぬらすといへば、家人を恨むが如くも聞えるが、さうではなく、あぶり乾かしてくれる妻が一緒にゐないことを強調して、戀々の情を託したのである。
〔語〕 ○間使 彼方と此方との間をゆきかふ使。「九四六」參照。
 
    宇治河にて作れる歌二首
1699 巨椋《おほくら》の入江|響《とよ》むなり射目人《いめびと》の伏見が田井に鴈《かり》渡るらし
 
〔譯〕 巨椋の入江の水に反響して聲が聞える。して見ると、伏見の田の上に、いま雁の群が渡つて行くやうである。
〔評〕 漫々と湛へた入江に、雁の聲が響く。姿は見えないが、靜まりかへつた秋空の彼方から來るその聲は、身の引緊まるやうな感がする。氣韻生動して、格調雄勁な作である。但これを、雁の初聲と解する説は、情趣の上からしてよくない。
〔語〕 ○巨椋の入江 今の巨椋池。この池は豐臣時代に堤防を築き、宇治川と分離するまでほ、宇治川の入江となつてゐて、面積も現今よりは廣かつたと想像される。○射目人の 枕詞。射目人は、射目に伏して獲物を待つ人。射目は大野晋氏の説による。「一五四九」參照。○伏見が田井 伏見は今の伏見町。田井は田居と書くが正しい。秋田の傍に作る借廬とする略解の説は誤で、今俗にいふたんぼである。「井」は雲井などと同樣に輕く添へた辭。
 
1700 秋風の山吹の瀬の響《とよ》むなべ天雲翔《あまぐもがけ》る鴈を相《み》るかも
 
〔譯〕 山吹の瀬が鳴り響くにつれて、空ゆく雲の上を飛び翔つて鳴き渡る雁の列が見えることである。
〔評〕 淙々として絶えない瀬の音、折から雲井の空高く渡りゆく雁の聲、兩者調和して蕭颯清亮の感が深い。結句聊か説明に流れた嫌もあるが、全體として爽やかに高い格調である。
(347)〔語〕 ○秋風の 秋風が山を吹くの意で「山吹」にかけた枕詞。○山吹の瀬 宇治川の一部で、宇治橋の下のあたりといふが、今不明。○響むなべ 鳴り響くと同時に。
〔訓〕 ○秋風の 白文「金風」「金」をアキと訓むは、五行に配すれば秋は金に當るからで、「二〇一三」にも見える。○鴈をみるかも 白文「鴈相鴨」童蒙抄の訓による。舊訓カリニアヘルカモ。宣長は相を亘の誤として、カリワタルカモと訓んでゐる。
 
    弓削皇子に獻《たてまつ》れる歌三首
1701 さ夜中と夜は《ふ》深けぬらし雁が音《ね》の聞ゆる空に月渡る見ゆ
 
〔譯〕 もう夜中と思はれるくらゐ、夜はふけたやうである。雁の聲の聞える空に、月の移つて行くのが見える。
〔評〕 月の冴えてゐる深夜の空から落ちてくる鴈の聲を今も聞くやうで、何らの巧もなくして、清高なる秋の氣韻を強く感ぜしめる。「雁渡る見ゆ」とは云はず、雁の聲を背景としての月の動きを捉へたのは頗る音樂的であり、夜がふけた趣をいふに効果的である。卷十の「此の夜らはさ夜ふけぬらし雁が音の聞ゆる空ゆ月立ち渡る」(二二二四)は異傳であらうが、いたく劣つてゐる。なほ此の歌以下三首、何か寓意あるものと契沖は解し、古義もそれに從つてゐるが、歌だけから見れば、その點は不明といふの外なく、鑑賞上からは寧ろさう見ない方がよい。
〔語〕 ○ふけぬらし 「らし」は根據ある想像の助動詞。即ち、月の天心に來た事實を根據として、さては夜中頃と、夜はふけたらしいと推量するのである。
 
1702 妹があたり茂き雁がね夕霧に來鳴きて過ぎぬ羨《とも》しきまでに
 
〔譯〕 妻の住んでゐる里の方に當つて、聲しげく鳴いてゐる雁が、この夕霧の中を鳴きつつ來て遙かに去つてゆく。(348)妻の方から來るとは、自分にとつて羨ましいと思ふほどに。
〔評〕 遙かに旅雁の一行を見送りつつ、その哀音を聞いてゐる。鳥は勿論有情ではないが、人は竟見に無心ではあり得ない。況んやそれが偶然ながら戀しい妻の住む方向から渡つて來たと思へば、愁緒は一層動くのである。素朴な古人の感傷が、おほらかな表現の中によく描かれてゐる。
〔語〕 ○妹があたり 妻の住む里のあたりの意であるが、次句との聯絡的解釋には多少因難がある。妹があたりへ、と解するのは無理で、妹があたりに於いて繁き雁が音、と解すべきであらう。
 
1703 雲|隱《がく》り鴈鳴く時は秋山の黄葉《もみち》片待つ時は過ぎねど
 
〔譯〕 雲の中を遙かに雁が鳴いてゆく季節になると、秋山の美しい黄葉を、ひたすらに自分は待つことである。まだ黄葉の時期が過ぎたのではないけれども。
〔評〕 雁の鳴く音を聞くと、その聲によつて黄葉するといはれる秋山の黄葉を思ひ、未だその時期が過ぎ去つたのではないのに、早くも心せかれて、ひたすらに待たれるといふので、季節に對する敏感さが現はれてゐる。
〔語〕 ○片待つ 片寄りて待つ、ひとへに待つの意。「一二〇〇」參照。
〔訓〕 ○過ぎねど 白文「雖過」で「不」の字は無いが、略解所引宣長説に從ひ、暫く「不」を補つて解する。
 
    舍人皇子に獻れる歌二首
1704 うちたをり多武《たむ》の山霧しげみかも細川の瀬に波の騷ける
 
〔題〕 舍人皇子 「一一七」參照。
〔譯〕 多武の山に立ち籠めた霧が深いからか、細川の水が増して、川瀬には波が騷いでゐる。
(349)〔評〕 細川の水量が増して、淺瀬には白波が騷いでゐる。多武の山には朝霧がさわだち流れてゐる。この二つの眺めを密接に結びつけて歌つたもの。細川は飛鳥川に對してこそ細川であるが、今よりもずつと大きかつたに相違なく、多武峯一帶の樹木も一層茂つてゐたであらうことを考へると、この一首に描かれた景觀は、雄偉な姿で我等の眼前に展開されて來る。
〔語〕 ○うちたをり 枕詞。手折ればたわむ意で「多武の山」につづく。○多武の山 「五八九」參照。○細川の瀬 細川は多武山の西南、細川山の南を流れ、南淵川と合流して飛鳥川となる。
 
1705 冬ごもり春べを戀ひて植ゑし木の實になる時を片待つ吾ぞ
 
〔譯〕 春が來たらば花を咲かせようと、それを樂しみに植ゑた木が、その花も咲き散つて、今はまた實になる時節を、ひたすらに待ちこがれる私でありますよ。
〔評〕 寓意の歌で、自分の身にも春が來て美しく花咲き、やがて實を結ぶのを待つ意で、舍人皇子のお力にすがり、御恩顧を願つたものであらう。
〔語〕 ○植ゑし木の この句の下に「花に咲き」を補つて解すべきである。
 
    舍人皇子の御歌一首
1706 ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手の高屋《たかや》の上に棚引くまでに
 
〔譯〕 まあ夜霧がおびただしく立つてゐることである。高屋の岡のあたりに棚引くほどに。
〔評〕 高屋の邊に夜霧がたなびいてゐる。ただそれだけの單純な敍景であるが、格調がおほらかで、内容の單純性にしつくり適合して居り、一首中に二つも使用された枕詞も、冗漫な感じを與へぬほど、縹渺として風韻高い作である。
(350)〔語〕 ○衣手の 枕詞。衣手の手《た》とつづく。「五〇」參照。○高屋の上 神名式に見える大和國城上郡高屋の地であらうと契沖は云つてゐるが、それは今の磯城郡櫻井町大字谷にある。他にも説がある。
 
    鷺坂にて作れる歌一首
1707 山城の久世《くぜ》の鷺坂神代《》より春は張《は》りつつ秋は散りけり
 
〔題〕 鷺坂 「一六八七」參照。
〔譯〕 山城の久世の鷺坂は、神代の昔から今に變ることなく、春は美しく木の芽が萌え、秋は黄葉して散り亂れることである。
〔評〕 久世の鷺坂の、太古から變らぬ春秋の眺めを述べて、その山の悠久なる生命を讃へ、且つ太古のままに運行する自然の法則に、今更のごとく驚嘆してゐるのである。萬人が慣れきつて驚くことのないものに、新しく考へ及んだところ、頗る觀念的、冥想的のにほひがある。しかし、それが抽象的ではなく、鷺坂の樹木に就いて具體的に敍述してゐる點が萬葉人らしい。珍らしい歌であつて、この四五句を大伴坂上郎女が採り用ゐたのではないかと思はれる歌が「九九五」にある。「斯くしつつ遊び飲みこそ草木すら春は生ひつつ秋はちりゆく」。
〔語〕 ○張りつつ 芽を張る意で、草木の芽の萠え出ること。
 
    泉河の邊《ほとり》にて作れる歌一首
1708 春草を馬咋《うまくひ》山ゆ越え來《く》なる雁の使は宿《やどり》過ぐなり
 
〔譯〕 咋山の方から鳴きつつ越えて來るらしい雁を、故郷からの使かと思つてゐたのに、この自分の旅の宿を素通りして行くやうであるよ。
(351)〔評〕 旅の宿の膚寒き夕べ、獨りさびしく故郷を思ふ都人は、大和の方から飛んで來る雁の列も懷かしく、古き異國の傳説にまで空想を馳せつつ、ひたぶるに家人の音信にこがれてゐるのである。旅情あはれな歌である。
〔語〕 ○春草を馬咋山ゆ 「春草を馬」は咋山にかかる序。「さざれ波磯巨勢路」「わが背子をこち巨勢山」の類である。咋山は神名帳に山城國綴喜郡咋山神社とあり、今の綴喜郡草内村飯岡。木津川の西方に見える。○雁の使 「一六一四」參照。
 
    弓削皇子に獻れる歌一首
1709 御食向《みけむか》ふ南淵《みなぶち》山の巖には落《ふ》りしはだれか消《け》殘りてある
     右は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づる所。
 
〔譯〕 南淵山の巖の上には、冬降つたはだら雪が、まだ消え殘つてゐるのであらうか。
〔評〕 巖の上のほの白いものを積雪かと疑つてゐるのであるが、略解は、早く咲いた白い花と見、古義には、浪のしぶきと解してゐる。いづれにしてもその點は曖昧である。一首の姿には氣韻のすぐれた所があるが、完作といひ難い。
〔語〕 ○御食向ふ 枕詞。御饌に供へる肉《み》の意で南淵の「み」につづく。○南淵山 大和國高市郡の南部、高市村大字稻淵附近。○はだれ まだらに降つた雪。「一四二〇」參照。
〔訓〕 ○けのこりてある 白文「削遺有」で「削」を「消」の誤とする考の説に從ふのが多い。全釋に弓削をユゲと訓むからといふ説に從ふこととする。
 
1710 吾妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を苅りて藏《をさ》めむ倉無《くらなし》の濱
 
〔譯〕 自分のかはゆい妻が赤い裳を泥にぬれひたして植ゑた田を、苅つて倉に收めるが、――それと同じ名の倉無の濱であるよ、ここは。
(352)〔評〕 倉無の濱といふ珍らしい名に興味を感じて、序詞に趣向を凝らした歌。農人の生活からとつた面白い譬喩ではあるが、素朴な農人の作ではなく、專門歌人の技巧的な作と思はれる。但、左註の人麿作かといふのは首肯されない。
〔語〕 ○倉無の濱 類字名所抄に豐前、和爾雅に豐前中津龍王濱としてゐる。
 
1711 百傳《ももづた》ふ八十《やそ》の島|廻《み》をこぎ來れど粟の小島し見れど飽かぬかも
     右の二宮、或は云ふ、柿本朝臣人麻呂の作なりと。
 
〔譯〕 數多の島のまはりを漕ぎめぐつて面白い景色も見て來たが、とりわけ、この粟の小島は見ても見ても見飽きないことである。
〔評〕 瀬戸内海の風景の美は、今日、世界の公園と稱せられるが、本集中に多く歌はれてゐる。この歌は多くの島々の中でも、とりわけて粟の小島の風趣を讃へたもの。四五句、粟島の美を簡潔な語で強調してゐるが、同時にその半面には、他の島々の勝景をも髣髴たらしめ、優れた表現力を示してゐる。
〔語〕 ○百傳ふ八十の島廻 「一三九九」參照。百傳ふは枕詞。○粟の小島 「三五八」にある。粟島であらうか。
〔訓〕 ○粟の小島し 白文「粟小島志」で「志」は紀州本等による。通行本等「者」に作る本も多く、誤とはいへないが、一首の趣は「志」の方が優れてゐる。
 
    筑波山に登りて月を詠める一首
1712 天の原雲なき夕《よひ》にぬばたまの宵《よ》渡る月の入らまく惜しも
 
〔譯〕 大空には一片の藝もなく晴れ渡つた夜、この夜空を移りゆく月の程なく山の端に入らうとするのは、まことに惜しいことである。
(353)〔評〕 筑波山上の明月を讃へた歌、内容は極めて單純であるが、格調悠揚として迫らず、高朗爽快にして「月白風清如2此良夜1何」の趣である。
 
    芳野の離宮に幸《いでま》しし時の歌二首
1713 瀧の上の三船の山ゆ秋津|邊《べ》に來《き》鳴きわたるは誰喚子鳥《たれよぶこどり》
 
〔譯〕 吉野川の激流附近の三船の山から、この秋津野のあたりに飛んで來つつ鳴いてゐるのは、誰を喚ばうとてあのやうに鳴く喚子鳥なのであらうか。
〔評〕 喚子鳥といふ名に興味を持つて「誰喚子烏」と懸言葉を用ゐたところ、技巧であるが、素朴で自然な感を與へる。
〔語〕 ○瀧の上の三船の山 「二四二」參照。瀧は宮瀧の激瑞をさす。「上」はほとりの意。○秋津邊 秋津野(三六參照)のほとり。
 
1714 落ち激《たぎ》ち流るる水の磐《いは》に觸り淀める淀に月の影見ゆ
     右の三首は、作者いまだ詳ならず。
 
〔譯〕 たきつ瀬をなして流れてきた溪流が、岩に觸れて碎ける。かとおもふと、靜かに淀んでゐるところがあつて、そこに月の影が映《うつ》つてゐる。
〔評〕 激流は磐に觸れて碎け、しぶきを上げてゐる。しかも、その直ぐ下の磐かげは景趣全く一變して、深い碧潭を湛へてゐる。豪宕率直な一二三句の表現と、悠揚たる四句の語調とによつて、動と靜との對照を巧に描き分け、更に結句の清澄な氣分を以てこれを統一してゐる。自然のままに寫して、しかもけだかい風韻を帶びてゐるところ、まさに萬葉敍景の至境といふべきである。
 
(354)    槐本《ゑにすのもと》の歌一首
1715 樂浪《ささなみ》の比良《ひら》山風の海吹けば釣する海人《あな》の袂《そで》かへる見ゆ
 
〔題〕 槐本 槐は和名抄に惠爾須と訓んでゐる。槐本は柿本といふやうな姓であらうが、他に所見が無く、傳は不明。
〔譯〕 ささ浪の比良の山風が湖上に吹きおろすと、釣をしてゐる海人の着物の袖が飜へるのが見える。
〔評〕 縹渺とした廣い湖上、釣をする海人の袖といふ微小なものに眼をとめて、湖をわたる風といふやうな大きなものの姿を捉へてゐる。目もさわやかな敍景である。
〔語〕 ○ささ波の 志賀、大津あたりから比良あたりへかけての總稱的地名。「二九」參照。○比良山 近江國高島郡。琵琶湖の西北岸に聳える山。
 
    山上《やまのうへ》の歌一首
1716 白波の濱松の木の手向草《たむけぐさ》幾代までにか年は經ぬらむ
     右の一首は、或は云ふ、河島皇子の作りませる歌。
〔題〕山上 山上憶良のこと。卷一には「紀伊國に幸しし時、川島皇子の御作歌【或はいふ、山上臣憶良の作なりと】」(三四)とある。
〔譯〕 白波の打ち寄せて來るこの濱邊の松の木に懸つてゐる手向草は、もう幾代といふほどの久しい年月を經たことであらう。
〔評〕 卷一なる「白浪の濱松が枝の手向草幾代までにか年の經ぬらむ」(三四)の異傳である。
〔訓〕 ○濱松の木の 「木」を「本」の誤とする説(考・略解)「枝」の誤かとの説(古義)があるが、必ずしも卷一の歌と同じであるべきではなく、異傳としてこのまま意は通じるから、誤字説を唱へる理由は無い。
 
(355)    春日の歌一首
1717 三川《みつかは》の淵瀬もおちず小網《さで》刺《さ》すに衣手|濕《ぬ》れぬ干《ほ》す兒は無しに
 
〔題〕 春日 春日藏首老のことであらう。老の傳は「五六」參照。
〔譯〕 三川の淵でも瀬でも皆ことごとく小網を入れて魚を捕るので、自分の着物の袖はすつかり濡れてしまつた。乾かしてくれる優しい人も無くて。
〔評〕 小網を持つて川の淵瀬をあさり歩いたのは、旅のなぐさであらう、。いつしか袖がぬれてしまつた。興が盡きてみれば、袖のぬれたのはわびしいことである。乾かしてくれる親切な人も傍になく、しみじみと旅の不自由を思ふにつけて、家庭の妻の仕事に感謝の心がわき、遙かなる妻を思ふ心が切になつたのである。
〔語〕 ○三川 固有名詞と思はれる。代匠記精撰本に「三川は比叡の山の東坂本にありとかや」とあるが、今明かでない。○小網さすに 「三八」參照。
 
    高市《たけち》の歌一首
1718 率《あとも》ひてこぎ行く船は高島の阿波《あと》の港に泊《は》てにけむかも
 
〔題〕 高市 高市連黒人のことであらうか。黒人の傳は「五八」參照。
〔譯〕 幾艘も賑かに漕ぎ連れて行つた船は、今頃は高島の阿渡川の河口に無事に碇泊したであらうかなあ。
〔評〕 航海術の幼稚であつた當時、船路の旅の危險をしみじみと體驗した人は、漫々たる蒼波の上に木の葉の如き扁舟を眺めた時、一抹の危惧を感じ、その平安を祈る心を禁じ得なかつたであらうことは想像される。特に旅において切實になる人なつかしさ、萬葉人特有の人間的温情が、高市黒人らしい色調を帶びて一首の上に搖曳してゐる。
(356)〔語〕 ○率ひて 相率ゐて。「一九九」參照。○高島の阿渡の港 今の舟木港である。「一六九〇」參照。
 
    春日藏の歌一首
1719 照る月を雲な隱しそ嶋かげに吾が船泊てむ泊《とまり》知らずも
     右の一首は、或本に云ふ、小辨の作なりと。或は姓氏を記し、名字を記すことなく、或は名號を※[人偏+稱の旁]《い》ひて、姓氏を※[人偏+稱の旁]はず。然れども古記に依りて、便ち次を以ちて戴す。凡そかくの如き類、下皆これに効《なら》へ。
 
〔題〕 春日藏 これも春日藏首老であらうと思はれる。
〔譯〕 照る月を、雲よ隱してくれるな。あの島陰に我々の船をとめようと思ふのに、船がかりの場所がよく分らないから。
〔評〕 「大葉山霞かがふりさ夜深けて吾が船泊てむ泊知らずも」(一二二四)に似て、夜の航海のわびしさ、心細さを語つたあはれな作である。しかしこの歌は、さういふ中にも、さやかな月光を樂しむ氣持も動いてゐて「大葉山」の歌よりも明るい感じがあり、別種の面白味が含まれてゐる。
〔左註〕 小辨は「三〇五」の左註に「右の謌、或本に曰く、小辨の作なりと。」云々とあるのと同人と思はれる。
 
    元仁の歌三首
1720 馬|竝《な》めてうち群《む》れ越え來《き》今見つる芳野の川をいつ反《かへ》り見む
 
〔題〕 元仁 傳不詳。他に所見が無い。
〔譯〕 馬を竝べて友と連れだちつつ、山坂を越えて來て、今日始めて見たこの芳野川の勝景を、いつの日に又來て見ることが出來るであらうかなあ。
(357)〔評〕 當時遊覽の勝地として讃へられた芳野の山水に對する都會人の愛着を敍したもの。「馬竝めてみ芳野川を見まく欲りうち越え來てぞ瀧に遊びつる」(一一〇四)を思はせるものがあるが、それに比してこの歌では「いつ反り見む」といふ結句の中に、再遊の可能を危むやうな無常觀的感傷も含まれてゐるやうで、複雜性がある。作者は、或は法師ではないかといふことが、歌からもその名からも推測される。
 
1721 苦しくも晩《く》れぬる日かも吉野川清き河原を見れど飽かなくに
 
〔譯〕 困つたことにまあ、日は暮れてしまつたことであるよ。この吉野川の美しい河原の景色を、いくら見ても見飽きないのに。
〔評〕 暮れはてた河原に、なほ去りやらず佇んで、見飽かぬ勝景に名殘を惜しむ氣持はよく想像されるが、歌はやや概念的であも。
 
1722 吉野川河浪高み瀧《たき》のうらを見ずかなりなむ戀《こほ》しけまくに
 
〔譯〕 吉野川は浪が高いので、瀧のほとりを見ずにしまふことであらうか。あとで戀しく思ひ出されるであらうに。
〔評〕 水量が増し激流の迸る時に來合せて、思ひのままに遊覽のかなはぬ恨みを述べたのである。
〔語〕 ○瀧のうら 瀧は所謂「吉野川のたぎつ河内」で、宮瀧の邊の奔湍である。「うら」はほとり、又は入り曲つた所の意であらう。「松浦河玉島のうらに」(八六三)ともある。
 
    絹の歌一首
1723 河蝦《かはづ》鳴く六田《むつだ》の河の川楊《かはやぎ》のねもころ見れど飽かぬ河かも
 
(358)〔題〕 絹 女の名であらう。傳不詳。
〔譯〕 河鹿の鳴いてゐる六田の河の岸に生えた川楊のその根のまつはる如く、ねんごろにつくづく見ても、飽くことのないこの河であることよ。
〔評〕 三句までは序であるが、これは單なる概念的のものでなく、眼前の風物を捉へた敍景であるところに生彩がある。
〔語〕 ○河蝦鳴く六田の河の川楊の 以上川楊の根の意で「ね」につづく序詞。勿論實景を直に序としたものである。六田は「一一〇五」參照。○ねもころ 丁寧に、熱心に。「二〇七」參照。
〔訓〕 ○あかぬ河かも 白文「不飽河鴨」で「河」は仙覺本は「君」に作り、類聚古集等は「河」としてゐる。前後の歌に對しても「河」がよいと思はれる。
 
    島足《しまたり》の歌一首
1724 見まく欲《ほ》り來《こ》しくもしるく吉野川音の清《さや》けさ見るにともしく
 
「題〕 島足 傳不詳。
〔譯〕 見たく思つて來た甲斐はあつて、案の如く吉野川の川音は爽快なことである。見る目もめづらしく心地がよい。
〔評〕 吉野川の激流の爽快な響きにまづ胸のすくを覺え、ついで、その周圍の勝景に眼を移して鑑賞するのである。視覺と聽覺との感銘が二つに分裂することなく、一首中によく統合されてゐる。
〔語〕 ○來しくもしるく 「來しく」は、來しことの意。「玉拾ひしく」(一一五三)參照。○ともしく 懷かしく、めづらしくの意。
 
    麻呂の歌一首
(359)1725 古《いにしへ》の賢《さか》しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも
     右は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔題〕 麻呂 傳不詳。
〔譯〕 古への立派な人達が來て遊び賞したといふこの吉野川の川原の景色は、いくら見ても見飽きないことである。
〔評〕 名勝に來て、古人を思ふのである。自然の景に加ふるに、その歴史と傳統の輝きに於いて、吉野は大和名勝中の名勝である。作者はかの「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ」(二七)の古歌をも思ひ浮べてゐたことであらう。併し歌は概念的で、一向生動した趣が無い。
 
    丹比眞人の歌一首
1726 難波潟潮干に出でて玉藻苅る海未通女《あまをとめ》ども汝《な》が名|告《の》らさね
 
〔題〕 丹比眞人 丹比眞人は、集中、屋主・國人・鷹主・乙麿・笠麿などが見える。誰ともいひがたい。
〔譯〕 難波潟の潮の干潟に出て、藻を苅つてゐる海士の少女達よ、お前の名を自分に名のつて聞かせてくれよ。
〔評〕 玉藻を苅る可憐な濱邊の少女らに親しみを感じて、戯れに歌ひかけたのも、旅中のすさびである。暫し郷愁を忘れた輕い心もちがにじんでゐる。
 
    和《こた》ふる歌一首
1727 漁《あさり》する人とを見ませ草枕旅行く人に妾《われ》はも告《の》らじ
 
〔題〕 和歌 海人少女の和へた歌。名は勿論わからない。
(360)〔譯〕 漁をしてゐる者とだけ見て下さいませ。旅の行きずりのお方に、私の名はまあ申しますまい。
〔評〕 前の歌にこたへた作で、鮮かな手竝である。丹比眞人の苦笑が思ひやられる。海人少女とはあるが、或は海邊にゐた美女を戯れに斯く呼んだので、遊行女婦の類ではなかつたかとも思はれる。
〔訓〕 ○われはも告らじ 白文「妾者不敷」の「妾」は隆祐筆本等によつた。「敷」は略解の説によつて「教」の誤とし、ノラジとよみ、妾者《われは》の下にモを訓み添へたのである。男のナガナノラサネに和へたのであるから、ナハといはずともよいであらう。新訓萬葉集には「妾」の下に「名」の字の省かれたものとみてワガナハノラジと訓んだ。全釋は「妾」を通行本に「妻」とあるにより「教」は略解の説により、ツマトハノラジと訓んでゐる。
 
    石川卿の歌一首
1728 慰めて今夜《こよひ》は寐《ね》なむ明日よりは戀ひかも行かむ此間《こ》ゆ別れなば
 
〔題〕 石川卿 式部卿石川朝臣年足(四二七四)かといはれる。
〔譯〕 ともかくも今夜は、心を慰めて樂しく寢よう。明日からは戀しく思ひつつも行くことであらうか、此處を別れて出立して行つたならば。
〔評〕 旅の宿りに可憐な人と日を過ぐして、愈々翌朝の別離を豫想した一夜の哀歡、まことにあはれである。
 
    宇合卿の歌三首
1729 曉《あかとき》の夢《いめ》に見えつつ梶島の石《いそ》越す浪の頻《し》きてし念《おも》ほゆ
 
〔題〕 宇合卿 藤原宇合である。「七二」參照。
〔譯〕 やつと眠つた夜明け方の夢に家人のことが見え、枕もとには梶島の磯の岩を越す浪が頻りに打寄せてゐるやう(361)に、頻りに思はれてならぬ。
〔評〕 郷愁と浪の音とに眠を成し難く、曉に至つてまどろんだ夢に、又も家人のことが見えた。かくて愁緒は、愈々長いのである。
〔語〕 ○梶島の石越す浪の 實景を捉へて、「頻きて」の序としたもの。梶島は所在不明。西海道節度使として筑紫に下る折の作かとも「夢のみに繼ぎて見えつつ小竹島の磯越す波のしくしく念ほゆ」(一二三六)の異傳ともいはれる。
 
1730 山科《やましな》の石田《いはた》の小野の柞《ははそ》原見つつや君が山路越ゆらむ
 
〔譯〕 山科の石田の野の柞原のうつくしいながめを眺めながら、今頃山道を越えていらつしやるであらうか。
〔評〕 宇合卿の作ではない。これも次のも、宴席などで卿が歌つたのであらうか。これは、旅行く夫を愛人が遙かに思ひやつた女性の歌、淡々たる表現の中に、情味が深く滲んでゐる。同型の歌に「朝霧にぬれにし衣ほさずして一人や君が山路越ゆらむ」(一六六六)「草かげの荒藺の埼の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」(三一九二)「玉かつま島熊山の夕暮に一人か君が山路越ゆらむ」(三一九三)などがある。
〔語〕 ○山科 山城國宇治郡山科。今は京都市東山區の内。○石田の小野 今、醍醐村に屬し、イシダと呼ぶ。小野は固有名詞ではない。○柞 小楢ともいひ、落葉喬木、黄葉の美を貫するので、ここもその意味であらう。
 
1731 山科の石田の社《もり》に布麻越《たむけ》せばけだし吾妹《わざも》に直《ただ》に逢はむかも
 
〔譯〕 山科の石田の森の神樣に幣を奉つて祈つたならば、いとしい人に直に逢ふことが出來るであらうか。
〔評〕 山科の石田の社は、卷十二に「山城の石田の社に心鈍く手向したれや妹に逢ひ難き」(二八五六)とあり、卷十三の長歌に「山科の石田の森のすめ神にぬき取り向けて吾は越え往く相坂山を」(三二三六)ともあるやうに、相思の(362)仲の思をかなへて下さる神として有名であつたらしい。今、家郷なるいとしい人を戀ひ續けつつ旅行く作者が、再會の日の早かれと額づく心を詠んだものである。
〔訓〕 ○たむけせば 白文「布麻越者」越について誤字説が多い。
 
    碁師《ごし》の歌二首
1732 大葉《おほば》山霞たなびきさ夜ふけて吾が船|泊《は》てむ泊《とまり》知らずも
 
〔題〕 碁師 卷四に碁檀越(五〇〇)とあるが、それとこれとは別人であらう。碁の專門家の意か。
〔譯〕 大葉山に霞がたなびき、夜はふけてしまつて、船をつけるべき港がよく分らぬことであるよ。
〔評〕 「大葉山霞かがふりさ夜深けて吾が船泊てむ泊知らずも」(一二二四)の異傳である。
〔語〕 ○大葉山 「一二二四」參照。
 
1733 思《しの》払つつ來《く》れど來《き》かねて水尾《みを》が埼|眞長《まなが》の浦をまた還《かへ》り見つ
 
〔譯〕 よい眺めであつたと心をひかれながら過ぎて來たが、つひに通り過ぎかねて、水尾が崎なる眞長の浦の景色を、また漕ぎ還つて見たことである。
〔評〕 湖上の勝景に、行き過ぎかねて、再び船を漕ぎ返したといふのである。まことにのんびりした旅であるが、かくまでに自然の風光を愛した上代人の心境がなつかしく思はれる。
〔語〕 ○水尾が崎 近江國滋賀郡と高島部との境にあたり、湖中に長く突出してゐる。眞長の浦はその北側にあたる。
 
    小辨の歌一首
(363)1734 高島の阿渡《あと》の湖《みなと》をこぎ過ぎて鹽津《しほつ》菅浦《すがうら》今かこぐらむ
 
〔題〕 小辨 「三〇五」參照。
〔譯〕 旅なる人は、高島の阿渡のみなとを漕ぎ過ぎて、鹽津や菅浦あたりを、今頃は漕いでゐることであらうか。
〔評〕 琵琶湖上の旅なる人を家にあつて思ひやつた歌。鹽津・菅浦の好風景を眺めつつ行く人に、淡い羨望を感じてゐるやうにも受け取れる。平淡な作。
〔語〕 ○高島の阿渡の湖 「一七一八」參照。○鹽津菅浦 鹽津は今の伊香都鹽津村・永原村の邊で、この邊では湖水は甚しく灣入してゐる。鹽津山(三六四)參照。菅浦は鹽津の湖中に突出してゐる葛籠崎の西側にあり、竹生島に對してゐる。
 
    伊保麻呂《いほまろ》の歌一首
1735 吾が疊三重の河原の磯のうらに斯《か》くしもがもと鳴く河蝦《かはづ》かも
 
〔譯〕 三重の河原の石のあるほとりで、かうしていつまでも居たいものであるといひがほに、處を得て河鹿が鳴いてゐる。
〔評〕 三重の河原のよい景色。それを我が物顔に鳴く河鹿。作者は目と耳とを心ゆくまで樂しませつつ、願はくはいつまでもかうして此の好風景の中にゐたいと思つたのであるが、その自己の主觀を、そのまま、河鹿の聲、河鹿の心に移して詠んだところに、一脈のユーモアがあつて面白い。
〔語〕 ○吾が疊 枕詞。幾重にも重ねる意で「三重」にかけた。○三重の河原 伊勢國三重郡。三重の河は今、内部川といひ、四日市の南方で伊勢灣に注ぐ。○磯のうら 磯は石のある處で、川にもいふ。うらは石のあるまはりの意。
 
(364)    式部大倭の芳野にて作れる歌一首
1736 山高み白木綿花《しらゆふはな》に落ち激《たざ》つ夏身《なつみ》の川門《かはと》見れど飽かぬかも
 
〔題〕 式部は官、大倭は氏であらうが、明かでない。
〔譯〕 山が高いので、さながら白木綿花のやうに落ちたぎち流れる夏身の河の瀬は眞に壯觀で、いくら見ても飽きないことである。
〔評〕 笠金村の「山高み白木綿花に落ちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも」(九〇九)に比して「瀧の河内」と「夏身の河門」との差異があるのみ。式部大倭が句をかへて歌つたのであらう。
〔語〕 ○白木綿花 「九〇九」參照。○夏身の河門 夏身は吉野川の上流の地。「三七五」參照。河門は河の渡るべきところ。
 
    兵部|川原《かはら》の歌一首
1737 大|瀧《たき》を過ぎて夏箕《なつみ》に傍《そ》ひてゐて清き川瀬を見るが清《さや》けさ
 
〔題〕 兵部は官、川原は明かでない。
〔譯〕 大瀧を過ぎて來て、夏実川の岸に沿うてゐて、清い河の瀬を見ると、すがすがしいことである。
〔評〕 ありのままの率直さであるが、素朴古拙の句調の裡に眞實と正確とがあり、譬へば訥辯の雄辯とでもいつたやうな趣がある。
〔語〕 ○大瀧 吉野川の宮瀧の急流をいふ。
 
(365)    上總《かみつふさ》の末の珠名《たまな》の娘子《をとめ》を詠める一首并に短歌
1738 しなが鳥 安房に繼ぎたる 梓弓 周淮《すゑ》の珠名《たまな》は 胸別《むなわけ》の 廣き吾妹《わぎも》 腰細の ※[虫+果]〓娘子《すがるをとめの》の その姿《かほ》の 端正《きらきら》しきに 花の如《ごと》 咲《ゑ》みて立てれば 玉|桙《ほこ》の 道行く人は 己《おの》が行く 道は行かずて 召《よ》ばなくに 門《かど》に至りぬ さし竝ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻《おのづま》離《か》れて 乞《こ》はなくに 鎰《かぎ》さへ奉《まつ》る 人皆の 斯《か》く迷《まど》へれば 容《かほ》艶《にほ》ひ 縁《よ》りてぞ妹は 戯《たは》れてありける
 
〔題〕 末は、和名抄に「上總國周淮郡季」とある處で、周淮郡は、今の君津郡、珠名は娘子の名。
〔譯〕 安房に續いてゐる周淮といふところの珠名といふ女は、胸が廣く腰が細く、姿の美しい女であり、花のやうに笑《ゑみ》をたたへて立つてゐると、道を通る人は、自分の行くべき道を行かないで、この女の方へ來て、呼びもしないのにその女の家の門に寄つて來る。又、軒を竝べてゐる隣の男は、前以て自分の妻を追ひ出して、その女が欲しいと云ひもしないのに、大事な鍵までもこの女にやつてしまふ。世間の人々が皆、このやうにこの女に迷うて大騷ぎをするので、うつくしい容貌で、男に寄り添うて、ふざけてゐたことである。
〔評〕 昔美人の聞えの高かつた末の珠名を詠んだ歌で、常時傳説として語り傳へられてゐたのを、この地方をおとづれた高橋蟲麿が聞いて詠んだのであらう。「胸別の廣き吾妹」「腰細のすがるをとめ」など、美人の形容が面白く、また隣の男が、豫て妻と別れ、大切な鍵まで與へ、この美人と結婚しようとするのは、竹取物語中の大伴御行の話が思ひ合されて、興味が深い。しかして「よりてぞ妹はたはれてありける」と、かぐや姫などとは似つかぬ俗世間的な女性としてしまつた所も面白い。文學約價値の高い作品である。
〔語〕 ○しなが鳥 枕詞。息長《しなが》鳥の意で、人の長嘆息するを嗚呼《ああ》といふに譬へて「あ」の一語につづけるのであらう(366)(冠辭考)。○安房に繼ぎたる 周淮郡は安房國に隣接してゐる。○あづさ弓 弓の先端をすゑといふので、地名の末にかけた。○胸別の廣き吾妹 胸の幅の廣い女。女の胸の廣いのをよいとしたことは、出雲風土記の國引の段にも「童女《をとめ》の胸※[金+且]《むなすき》」と出てゐる。○すがる娘子 すがるは似我蜂で、かそり、さそりともいひ、腰が極めて細い。○あらかじめ 事前から計畫して。語源はわからない。○己妻かれて 自分の妻を離縁して。○たはれて 戯れふざけて、浮かれて。
〔訓〕 ○きらきらしきに 白文「端正爾」で、諸訓がある。靈異記によつて、訓んだ。○あらかじめ 白文「預」で「頓」の誤とし、タチマチニと訓む説もあるが、西本願寺本などに「預」とあるによる。○容艶 舊訓カホヨキニ。略解所引宣長説はウチシナヒ。
 
    反歌
1739 金門《かなど》にし人の來《き》立てば夜中にも身はたな知らず出でぞ逢ひける
 
〔譯〕 門のところにさへ人が來れば、たとへ夜中でも、自分の身もすつかり忘れはて、出ていつて、その男に逢つたことである。
〔評〕 長歌の最後に「たはれてありける」と述べたのを更に説明したもので、珠名の情痴の樣子を具象的に面白く表現してゐる。
〔語〕 ○金門 門のこと「七二三」參照。○たな知らず 全く忘れて。「五〇」參照。
 
    水江浦島子《みづのえのうらしまのこ》を詠める一首并に短歌
1740 春の日の 霞める時に 住吉《すみのえ》の 岸に出で居《ゐ》て 釣船の とをらふ見れば 古《いにしへ》の 事ぞ念《おも》(367)ほゆる 水江《みづのえ》の 浦島兒《うらしまのこ》が 堅魚《かつを》釣り 鯛釣り矜《ほこ》り 七日まで 家にも來《こ》ずて 海界《うなさか》を 過ぎて榜《こ》ぎ行くに 海若《わたつみ》の 神の女《をとめ》に 邂《たまさか》に い榜《こ》ぎ向ひ あひとぶらひ こと成りしかば かき結《むす》び 常世《とこよ》に至り 海若《わたつみ》の 神の宮の 内《うち》の重《へ》の 妙《たへ》なる殿に 携《たづさ》はり 二人入り居て 老《おい》もせず 死《しに》もせずして 永き世に 在りけるものを 世のなかの 愚人《おろかびと》の 吾妹子《わぎもこ》に 告《の》りて語らく 須臾《しましく》は 家に歸りて 父母に 事も告《の》らひ 明日の如《ごと》 吾《われ》は來《き》なむと 言ひければ 妹がいへらく 常世邊《とこよべ》に また歸り來て 今のごと 逢はむとならば この篋《くしげ》 開くな努《ゆめ》と 許多《そこらく》に 堅《かた》めし言を 住吉《すみのえ》に 還《かへ》り來《きた》りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 恠《あや》しと そこに念《おも》はく 家ゆ出でて 三|歳《とせ》の間《ほど》に 垣も無く 家|滅《う》せめやと この筥《はこ》を 開きて見てば 舊《もと》の如《ごと》 家はあらむと 玉|篋《くしげ》少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世方《とこよべ》に 棚引きぬれば 立ち走り 叫《さけ》び袖振り 反側《こいまろ》び 足ずりしつつ たちまちに 情《こころ》消失《けう》せぬ 若かりし 膚《はだ》も皺《しわ》みぬ 黒かりし 髪も白《しら》けぬ ゆなゆなは 氣《いき》さへ絶えて 後つひに 壽《いのち》死《し》にける 水江《みづのえ》の 浦島子《うらしまのこ》が 家地《いへどころ》見ゆ
 
〔題〕 有名な浦島傳説を詠じたものである。
〔譯〕 春の日ざしの霞んでゐる時に、澄の江の海岸に立つて、釣船が波にたわたわと搖られてゐるのを見ると、昔の物語が思ひ出される。水の江の浦島といふ男が、鰹や鯛を釣りに行き、獲物が多いので得意になり、七日間も家に歸つて來ないで、海の果を漕いで行くうちに、海神の少女にゆくりなくも行きあひ、互に語り合うて約束が成り立つた(368)ので、常世の國に行き、海神の宮の奧の善美を盡した御殿の中に、手を携へて二人で入つてゐて、年もとらず死ぬといふこともなく、永久に住んで居られたのに、世にも愚かな浦島の子が、いとしい妻に向つていふことには、「ほんの暫くの間、家に歸つて父母に事の次第を告げ、明日にでも自分は歸つて來よう」といふと、妻がいふのに「この常世の國にまた歸つて來て、今のやうに共々に暮さうとならば、此の筥を決して開きなさるな」と、くれぐれも堅く約束したことであるのに、さて澄の江に歸つて來て、自分の家を探したが家も分らず、村を探したが村も見つからず、これは不思議なことであると不審に思ひ、そこで思ふには、家を出て僅かに三年の間に、このやうに垣根も無く家も無くなるといふことがあらうか、この筥を開いて見たならば、もとのやうに家もあるであらうと思ひ、筥を少し開けると、白雲が箱の中から立ち上り、常世の國のあたりに棚引いたので、驚いて走りまはり、大聲をあげて叫び、袖を振り、ころげまはり、足ずりをして歎き、忽ちに正氣がなくなつてしまつた。今まで若々しかつた皮膚も皺がより、黒かつた髪も白髪とかはつてしまひ、後には次第々々に息も絶え遂に死んでしまつた。――と言ひ傳へられる浦島の住んでゐた家の地が見える。
〔評〕 堂々九十三句、集中稀に見る長篇の敍事詩である。全三段より成り、最初から「古の事ぞ念ほゆる」までの八句が序段で、霞立つ長閑な春の日、神秘的傳説を想ふ境地を敍し「水の江の浦島子が」より「いのち死にける」までの八十二句が本段で、幾節かより成り、有名な浦島傳説を述べ、最後の三句が結びとして、序段に照應し、秩序整然となつてゐる。浦島傳説は、雄略紀、丹後風土記、續日本後紀、扶桑略記、浦島子傳、續浦島子傳、本朝神仙傳など諸書に見え、いづれも多少相違はあるが、中で最もすぐれてゐるやうに感ぜられる。諸書と對比するに、神婚説話であることと、禁咒の玉手箱だけはあるが、トーテムの龜も出ず、從つて報恩譚もなく、常世國たる龍宮へは行つたが、その龍宮の描寫もなく、不死の靈藥も持出してをらず、遂に浦島を現世人としてしまつてゐる。諸傳説中、最も原始形態を示すものと解すべきであらう。
(369)〔語〕 ○すみのえ 浦島傳説は各地に存したと考へることは出來るが、攝津にあつたと考へるべき根據はない。丹後國竹野郡網野町附近の澄江浦と見るがよからう。○とをらふ 他に見えない語であるが、撓む、とををなどと同源の語で、船が波に動搖する樣をいふのであらう。○海界 海の境界、海のはて。○海苦 海の神。○神のをとめ 神女の意。○たまさかに 偶然に。○いこぎ向ひ いは接頭辭。漕いでゐるうちに廻り逢ひ。○相とぶらひ 互に話し合ひ。○こと成りしかば 約束が成立したので。○かき結び 相伴なつて。○常世 不老不死の仙境。○内の重 中央の圍みの中、幾重もの垣の内。○愚人 浦島子を指す。○篋 櫛笥、即ち櫛を入れる器、轉じて箱の意に廣く用ゐる。○許多に 澤山に、幾重にも。○かためし言を 約束したことであるのに。○家滅せめや 家が無くならうか、反語。○常世方に 仙境の方に向つて。○反側び 「四七五」參照。○足ずり 地團駄をふんで殘念がる貌。○情消失せぬ 失神?態になる。○ゆなゆな 後々はの意であらう。他に用例はない。
〔訓〕 ○神之女 舊訓による。カミノヲミナの訓もある。○愚人 舊訓シレタルヒト、略解ウルケキヒト、古義カタクナヒト。集中唯一例の「オロカ」(四〇四九)はオロソカの意であるが、字鏡などによるに、古くからこの詞もあつたであらう。○ゆなゆなは 白文「由奈由奈波」で、古義は「由李由李波」の誤としてゐるが、諸本に異同がない。
 
    反歌
1741 常世邊《とこよべ》に住むべきものを劔刀《つるぎたち》己《な》が心から鈍《おそ》やこの君
 
〔譯〕 常世の國に永久に住むことが出來る筈であつたのに、自分の考からそれが出來なくなつてしまつた、愚鈍なことであつたよ、浦島子は。
〔評〕 長歌の中に、作者の感情を「世の中の愚人」と一言ほのめかしたのを、敷衍し説明したのである。
〔語〕 ○劔刀 なにつづく枕詞。「六一六」參照。○己が心から 汝の心故にの意。
 
(370)    河内《かふち》の大橋を獨|去《ゆ》く娘子《をとめ》を見る歌一首并に短歌
1742 級照《しなて》る 片足羽河《かたしはがは》の さ丹塗《にぬり》り 大橋の上ゆ くれなゐの 赤裳|裾引《すそび》き 山|藍《あゐ》用ち 摺れる衣《きぬ》著て ただ獨 い渡らす兒《こ》は 若草の 夫《つま》かあるらむ 橿《かし》の實《み》の 獨か寐《ぬ》らむ 問はまくの 欲《ほ》しさ我妹《わぎも》が 家の知らなく
 
〔題〕 河内の大橋 河内國片足羽河に架けてある橋。
〔譯〕 片足羽河の丹塗の大橋の上を、赤い裳裾を引き、山藍染の着物を着て、唯ひとりで渡つて行く少女は、既に夫があるであらうか、それともまだ一人身であらうか。たづねたく思ふが、その少女の家を知らないことである。
〔評〕 赤裳の裾を引いて青摺の着物を着た美人が、唯ひとり朱塗の橋を通つてゐる光景は、まことに繪畫的であり、傳説中の美人が現實世界に拔け出て來たやうに感ぜられる。
〔語〕 ○級照る 片にかかる枕詞。意義不詳。○片足羽河 大和川の別名とも、その支流の石川ともいふ。○さ丹塗り 「さ」は接頭辭。「一五二〇」參照。○上ゆ 「ゆ」は通過する地點を示す助詞。○山藍 多年生草本で、山間の陰地に自生し、葉は對生で長柄がある。古へは此の葉の汁を用ゐて着物を染めた。○い渡らす兒 「い」は接頭辭。○若草の 枕詞。「一五三」參照。○橿の實の 枕詞。實が一つづつ入つてゐるから、ひとりにつづける。
 
    反歌
1743 大橋の頭《つめ》に家あらばうらがなしく獨ゆく兒に宿|貸《か》さましを
 
〔譯〕 大橋の橋詰に家があるならば、心のうちが悲しさうに唯ひとりで行く少女に、宿を貸さうものを。
(371)〔評〕 橋上を唯ひとり行く美人が、何となく物悲しさうに見えるのに同情して、いたはつてやらうといふのであり、浪漫的傾向が見られる。
 
    武藏の小埼沼《をざきのぬま》の鴨を見て作れる歌一首
1744 埼玉《さきたま》の小埼《をざき》の沼に鴨ぞ翼《はね》きる己《おの》が尾に零《ふ》り置ける霜を掃《はら》ふとにあらし
 
〔題〕 小埼は和名抄に「武藏埼玉郡佐伊太末」とある處で、熊谷市の東方、羽生町の西方一帶の地に埼玉の沼があり、古へ小埼の沼と稱した。
〔譯〕 埼玉の小埼の沼で鴨がしきりに羽ばたきをしてゐる。自分の尾に降り積つた霜を拂はうとしてであらう。
〔評〕 旋頭歌である。枕草子に「鴨は羽の霜うち拂ふらむと思ふにをかし」とある如く、古へより、鴨はその羽におく霜を羽ばたきして拂ふものと考へられてゐた。「葦邊ゆく鴨の羽がひに霜零りて寒きゆふべは大和し思ほゆ」(六四)も同じ趣であらう。
〔語〕 ○翼きる 強く羽ばたきする。
 
    那賀《なか》郡の曝井《さらしゐ》の歌一首
1745 三栗《みつぐり》の那賀に向へる曝井《さらしゐ》の絶えず通はむ彼所《そこ》に妻もが
 
〔題〕 曝井は、常陸風土記に「泉出2坂中1。水多流尤清。謂2之曝井1。縁v泉所v居村落婦女夏月會集浣v布曝乾」とある。今、東茨城郡に屬し、水戸市の西北に當り、今も清泉があるといふ。
〔譯〕 那賀の方へ向つて流れてゐるこの曝井の水の絶えぬ樣に、いつまでも絶えず通うて來よう。そこにいとしい妻がゐてほしいことである。
(372)〔評〕 周圍の村落と婦女が夏に集まつて布を浣ふといふ名高い清泉を詠じたものである。
〔語〕 ○三栗の 枕詞。粟のいがの中に實が三つあるにより、中、即ち那賀にかける。
〔訓〕 ○向へる 白文「向有」で、略解はムキタル、と訓んでゐる。
 
    手綱濱の歌一首
1746 遠妻《とほづま》し多珂《たか》にありせば知らずとも手綱の濱の尋ね來なまし
 
〔題〕 手綱濱 常陸國多賀郡、今、松岡村の字に手綱がある。
〔譯〕 遠く故郷に殘して來た妻が、せめてこの多珂の里附近にでもゐたならば、道はよく知らないでも、この手綱の濱といふ名の如く、尋ねて來ようものを。
〔評〕 手綱の濱は「尋ね」にかかる序詞として用ゐられてゐるが、手綱の濱に來て、その名に興味をいだいて詠じたのである。
〔語〕 ○遠妻 遠く故郷に殘して來た妻をさす。○多珂 和名抄に「多珂郡多珂里」とある。今の松原村に當る。
 
    春三月、諸卿大夫等、難波に下りし時の歌二首并に短哥
1747 白雲の 龍田《たつた》の山の 瀧《たき》の上の 小鞍《をぐら》の嶺に 咲きををる 櫻の花は 山高み 風し止《や》まねば 春雨の 繼《つ》ぎてし零《ふ》れば 秀《ほ》つ枝《え》は 散り過ぎにけり 下技《しづえ》に 殘れる花は 須臾《しましく》は 散りな亂《みだ》れそ 草枕 旅行く君が 還《かへ》り來《こ》むまで
 
〔題〕 春三月は何年とも分らないが、作者を高橋蟲麿として考へれば、藤原宇合の部下であつたらしいので、宇合が神龜三年十月知造難波宮事となつた年のことであらうか。
(373)〔譯〕 立田山の瀧の上の小倉の嶺に咲き滿ちてゐる櫻の花は、山が高いために風が絶えず吹き、春雨が幾日もつづいて降るので、上枝の花は散り過ぎてしまつた。しかし幸に建つてゐる下枝の花は、旅立つて行かれる君が、還つて來られる日まで、暫くの間散らないでゐてほしいものである。
〔評〕 「旅ゆく君が還り來むまで」とあるによれば、諸卿大夫等の旅立つのを作者が見送るやうにも考へられるが、反歌も同じ作者の歌とすれば、作者自身もその一行の中にゐたのであるが、下僚たる自分を表面に現はさないのであらう。
〔語〕 ○白雲の 枕詞、立つにつづく。○小鞍の嶺 立田山の中の一峯。立田川即ち今の大和川の龜瀬岩附近が急流をなして居り、それが所謂「瀧」であり、その上手にある峯。○咲きををる 枝も撓むほどに咲いてゐる。
 
    反歌
1748 吾が行《ゆき》は七日は過ぎじ龍田彦ゆめ此の花を風にな散らし
 
〔譯〕 自分の旅は、長くとも七日は過ぎまい、龍田の風の神よ、この花を決して吹き散らすな、歸つて來るまで。
〔評〕 この反歌では作者自身が旅立つことになつてゐる。前の長歌は見送るやうな趣になつてゐるので「反歌は旅行く人、長歌はその妻が詠んだものと解することが出來る」といふ見解(總釋)もあるが、前述の如く、作者が下僚であつた爲に、他の諸卿大夫を中心にして「旅行く君」とよみ、反歌に於いて、自身を表面に出したと見るべきであらう。
〔語〕 ○龍田彦 神名式に出て、風の神である。龍田神社に登る。○風にな散らし 「な」は禁止の助詞、多く「な‥‥そ」となるが「そ」を添へぬ場合もある。
 
1749 白雲の 立田の山を 夕暮に うち越え行けば 瀧《たき》の上の 櫻の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり含《ふふ》めるは 咲き繼《つ》ぎぬべし 彼方此方《こちごち》の 花の盛に 見ずといへど かにかく(374)に 君が御幸《みゆき》は 今にしあるべし
 
〔題〕 「一七四七」の題詞に「二首」とあるうちの一首である。
〔譯〕 立田山を夕暮に越えて行くと、瀧の上の櫻の花は、咲いたのは既に散り過ぎてしまつた。まだ蕾んでゐるのは、次々に咲くであらう。從つてあちらこちらの花の盛を、一度に御覽なさることは出來ないが、ともかく、君の御幸は、今すぐがよいであらう。
〔評〕 作者自身は立田山を通過した時の感懷であるが、天皇の行幸を期待する心もちを詠じた歌。
〔訓〕 ○見ずといへどかにかくに 白文「雖不見左右」。類聚古集等に「右」のないのにより「左」を「在」の誤とし「雖不見在」としてアラズトモと一句によむことも出來る。
 
    反歌
1750 暇あらばなづさひ渡り向つ峯《を》の櫻の花も折らましものを
 
〔譯〕 暇があるならば、山川を水にひたり渡つて行つて、向うの峯に咲いてをる櫻の花も折り取りたいものを。
〔評〕 長歌によるに、既に夕方のことであるので、花を折つて鑑賞するやうな暇がなかつたのであらう。前の反歌と同じく、反歌に於いては作者自身を表面に出してゐるやうに思はれる。
〔語〕 ○なづさひ渡り 「なづさふ」は、水にひたりながら行きなやむに用ゐる。ここは苦しんで川を渡る意。
 
    難波に經宿《やど》りて明《あす》の日還り來し時の歌一首并に短歌
1751 島山を い行き廻《もとほ》る 河副《かはそひ》の 丘邊《をかべ》の道ゆ 昨日こそ 吾が越《こ》え來《こ》しか 一夜のみ 宿《ね》た(375)りしからに 岑《を》の上《うへ》の 櫻の花は 瀧《たき》の瀬ゆ 落ちて流る 君が見む その日までには 山下《やまおろし》の 風な吹きそと うち越えて 名に負《お》へる杜《もり》に 風祭《かざまつり》せな
 
〔題〕 經宿 一夜宿ること。
〔譯〕 島山をめぐり流れる河に沿うた岡のほとりの道を通り、昨日私は越えて來たばかりである。そして一夜宿つた、ただそれだけのことで、來る時、峯の上に咲いてゐた櫻の花は散つてしまひ、瀧つ瀬から流れてゐる。行幸あそばされて御覽なされる日までは、山おろしの風が吹かぬやうにと、この山を越えて、風の神の名を負ふ龍田の社に風祭をしよう。
〔評〕 前の二首の長歌は往路の作であつたが、これは歸途の作である。櫻の盛はあわただしく、僅かに一泊したのみであるに、昨日とは著しく異つて、河瀬に落花が流れてゐる。この分では、行幸を願うたのも無駄になりさうである。龍田の風神に祈つて、散らさずに置いてもらはうといふのである。
〔語〕 ○島山 川をめぐらした山で、ここでは川に臨んでゐる山をさしたもの。○い行き廻る 「い」は接頭辭、めぐり流れてゐる。○からに ただその故に。ばかりで。○君が見む 「君」は天皇をさす。前の長歌に接する。○名に負へる杜 風の神といふ名を負うてゐる社、即ち龍田神社。○風祭 延喜式によると、四月と七月に行はれる五穀成就の祭であるが、ここでは風の禍を避ける爲の祭の意。
 
    反歌
1752 い行相《ゆきあひ》の坂の麓に咲きををる櫻の花を見せむ兒もがも
 
(367)〔譯〕 立田山の人々の行き會ふ坂の麓に、撓むほど一ぱいに咲いてゐる櫻の花を見せてやりたい、いとしい少女がここに一緒にゐてほしいものだ。
〔評〕 長歌では花の散るのを見て行幸まで散らぬやうにと願つたのであるが、反歌では、全く方面をかへて、爛漫たる花を携はり賞でる愛人を點出してゐる。
〔語〕 ○い行相 「い」は接頭辭。兩方から上つて行つた人が峠で出會ふので、行相といふ。○見せむ兒 自分が櫻花を示さうとする女の意。
 
    檢税使大伴卿の筑波山に登りし時の歌一首并に短歌
1753 衣手《ころもで》 常陸《ひだち》の國 二竝《ふたなら》ぶ筑波の山を 見まく欲《ほ》り 君が來《き》ますと 熱《あつ》けくに 汗かきなけ 木《こ》の根取り 嘯《うそぶ》きのぼり 岑《を》の上《うへ》を 君に見すれば 男《を》の神も 許し賜ひ 女《め》の神も 幸《ちは》ひ給ひて 時となく 雲居《くもゐ》雨|零《ふ》る 筑波|嶺《ね》を 清《さや》に照して いふかりし 國のまほらを 委曲《つばらか》に 示し賜へば 歡《うれ》しみと 紐の緒解きて 家の如《ごと》 解けてぞ遊ぶ うち靡く 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日の樂しさ
 
〔題〕 檢税使 臨時官で、五畿内七道に出張して、財政を點檢する。寶龜七年以後の史に見えるが、これはそれ以前である。大伴卿は旅人と推定せられる。但、この歌は旅人の作ではなく、旅人が筑波山に登つた時高橋蟲麿の詠んだもの、作中にある「君」は大伴卿をさす。
〔譯〕 常陸國の二つの峯の竝んでゐる筑波山を見たく思うて大伴卿が來られたといふので、暑いのにも拘はらず、汗をかき拂ひながら、木の根にすがり、ふうふう言つて山に登り、山頂の景色を卿に御覽に入れると、筑波山の男の神(377)も山に登ることを許し給ひ、女の神も幸を下し給ひ、いつといふことなく雲がかかり雨の降る習ひである筑波山の雲を拂ひのけて、明かに日の光を照らし、今まではつきりしなかつた國の眞中をつまびらかに示して下さつたので、喜んで着物の紐を解き、わが家に居るやうにうちとけて遊ぶことである。春霞のたつ時に見るよりは、夏草が生ひ茂つてはゐるが、眺望のよくきく今日の樂しいことよ。
〔評〕 夏の暑い頃、旅人卿を筑波山に案内し、幸に山頂の展望をほしいままにし得たことを喜んでの作で、作者の感情がよく現はれてゐる。常陸風土記によると、春秋に登るのが普通であつたらしいが、これは夏の登山であり、また丹比國人が登つたのは冬であり(三八二)、面白い對照をなしてゐる。
〔語〕 ○衣手 枕詞、古の衣の袖にはひだが多かつた爲といふ(冠辭考)。○二竝ぶ筑波の山 筑波山は山頂が二つに分れ、高い方を男神、低い方を女神といふ。○あつけくに 暑いのに。○汗かきなけ 汗をかき拂ひ拭ひ。「なけ」は歎息しての意とする考もある。○嘯き登り 「うそぶく」は、息を細く吐くこと。○清に照らして 神が雨雲を吹き拂ひ、さやかに日光を照らして。○いふかりし いぶかつてゐた。覺束なぐ思つてゐた。○示し賜へば 神が見せて下さるの意。○うち靡く 枕詞。○春見ましゆは 春見るよりは。「まし」は假説の意。
 
    反歌
1754 今日の日にいかにか及《し》かむ筑波|嶺《ね》に昔の人の來《き》けむ其の日も
 
〔譯〕 今日のこのよい日にどうして及ばうか、昔の人が筑波山に登つて遊んだその日も。
〔評〕 昔の人は誰をさすか明かでない。漠然というたのであらう。
 
    霍公鳥《ほととぎす》を詠める一首并に短歌
(378)1755 鴬《うぐひす》の生卵《かひこ》の中《なか》に ほととぎす ひとり生れて 己《な》が父に 似ては鳴かず 己《な》が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野邊ゆ 飛び翻《かけ》り 來《き》鳴き響《とよ》もし 橘の 花を居《ゐ》散らし 終日《ひねもす》に 鳴けど聞きよし 幣《まひ》はせむ 遠くな行きそ 吾が屋戸《やど》の 花橘に 住み渡れ鳥
 
〔譯〕 鶯の巣の卵の中にまじつて、杜宇が唯一羽生れ出で、その父である鶯に似ては鳴かず、その母である鶯に似ても鳴かず、うつぎの花の咲いてゐる野邊から、飛び翔つて來て盛に鳴きしきり、橘の花をふみ散らし、終日鳴きつづけてゐるが、聞いてもまことに心よい。贈物をしようから、遠くへ飛び去らずに、吾家の庭の花橘のあたりた、いつまでも住んでゐてくれ、杜宇よ。
〔評〕 杜宇は卵を鶯の巣の中に生み、雛を孵化させるといふ説話は、古來廣く行はれてゐたものらしく、卷十九「四一六六」にもある。この長歌は、俊頼髄脳、袖中抄以下の諸書に引用せられ、後世の文學に及ぼした影響も少くない。
〔語〕 ○かひこ 玉子。○ひとり生れて 唯一羽だけ變つた姿で生れ出て。○幣はせむ 贈物を與へよう。○住み渡れ 永く住みつづけよ。
 
    反歌
1756 かき霧《きら》し雨のふる夜《よ》を霍公鳥《ほととぎす》鳴きて行くなり※[立心偏+可]怜《あはれ》その鳥
 
〔譯〕 空がかき曇り、雨の降る夜であるのに、杜宇が鳴きながら飛んで行く。ああ、あの鳥よ。
〔評〕 長歌では杜宇の性情に關する傳説を述べたのであるが、反歌では趣をかへて雨夜の杜宇を詠んでゐる。枕草子にも、夜鳴く鳥として社宇を賞してゐる。
 
(379)    筑波山に登る歌一首并に短歌
1757 草枕 旅の憂《うれひ》を 慰《なぐさ》もる 事もありやと 筑波|嶺《ね》に 登りて見れば 尾花ちる 師付《しづく》の田井に 鴈《かり》がねも 寒く來《き》鳴きぬ 新治《にひはり》の 鳥羽の淡海《ちふみ》も 秋風に 白浪立ちぬ 筑波|嶺《ね》の よけくを見れば 長きけに 念《おも》ひ積《つ》み來《こ》し 憂は息《や》みぬ
 
〔譯〕 旅の憂さを慰めることもあらうかと思つて、筑波山に登つて見ると、尾花が咲き散るしづくの田圃には、雁も來て寒さうに鳴いてゐる。鳥羽の湖も、秋風が吹き白浪が立つてゐる。筑波山のこの美しい景色を見ると、長い月日の間、心に積み重なつてゐた旅の愁は、すつかり消えてしまつた。
〔評〕 短い長歌であり、最初の六句が序、終の五句が結で、中の八句が四句づつの對句となつて晩秋の景を述べてゐる。秩序整然とし、寧ろ理論的措寫に過ぎるの感がある。
〔語〕 ○師付 常陸國新治郡志筑村で、石岡町の西南に當る。○鳥羽の淡海 常陸風土記によると、當時は大沼澤をなしてゐたのであらうが、今は殆ど陸地となつてゐる。今の新治郡内の大寶沼とするは誤。
 
    反歌
1758 筑波|嶺《ね》の裾廻《すそみ》の田井に秋田苅る妹がり遺らむ黄葉《もみち》手折《たを》らな
 
〔譯〕 筑波山の山麓の田で稻を苅つてゐるいとしい女のもとへやる爲に、この美しいもみぢを手折らうよ。
〔評〕 山に登らうと來た途中、田を苅る田舍娘を可憐と見たのであらう。さうして今山上の美しい黄葉を見て、彼の可憐な少女に一枝を贈らうと口ずさんだのである。無邪氣な作である。
 
(308)    筑波嶺に登りて?歌會《かがひ》をせし日に作れる歌一首并に短歌
1759 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津《もはきつ》の その津の上に 率《あとも》ひて 未通女《をとめ》壯士《をとこ》の 往《ゆ》き集《つど》ひ ?歌《かが》ふ?歌《かがひ》に 他妻《ひとづま》に 吾《われ》も交《まじ》らむ 吾が妻に 他《ひと》も言問《ことど》へ この山を 領《うしは》く神の 昔より 禁《いさ》めぬ行事《わぎ》ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言《こと》も咎むな 【?歌は東の俗語にかがひと曰ふ。】
 
〔題〕 ?歌は、漢字の義は蠻人の歌の意であるが、この歌の註にも、東國の俗語賀我比といふとあり、常陸風土記には?歌之會【俗云宇太我岐、又云加我※[田+比]也】と註してゐる。男女があつまつて歌を唱和して樂しみ遊ぶ行事。語源は、神樂の「かぐ」と同じものであらう。「ゆきかぐれ」(一八〇七)參照。
〔譯〕 鷲の住む筑波山の裳羽服津のほとりに、うち連れ立つて、若い女と男が集まつて來て、互にかけあひ歌ひかはす?歌會に、他人の妻に自分も交らう。自分の妻に他人も自由に物をいふがよい。この山を領じたまふ神樣の、昔からお止めなさらぬ行事である。今日ばかりは不愉快とはおもふな。また咎めだてもするな。
〔評〕 攝津風土記・古事記・書紀などに見える京畿地方に行はれた歌垣に似て、更に原始的なものが、東國に行はれてゐ、それを「かがひ」と稱してゐたことが、この歌によつて知られる。風俗史上の貴重な資料である。この歌は、その原始的な行事を率直端的に敍して、露骨な官能の匂が強く流れてゐるが、たくましく健康な明るさがあるので、素朴な野趣を思はせるのみで、淫靡の感をおこさしめない。
〔語〕 ○裳羽服津 筑波山中の地名であらうが、今明らかでない。○あともひて 相率ゐて。「一九九」參照。○領く 領ずる、支配する。「八九四」參照。○めぐし 「三九七八」にもある句。見苦しい。目に不快なこと。
 
    反歌
(381)1760 男《を》の神に雲立ち登り時雨ふりぬれ通《とほ》るとも吾《われ》還《かへ》らめや
     右の件の歌は、高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ。
 
〔譯〕 筑波の男體山に雲が立ち、時雨が降つて來て、著物が濡れとほらうとも、この面白い?歌會から、自分は何で歸らうぞ、歸りはせぬ。
〔評〕 若い男女の歡樂を追ひあるく姿が、寧ろほほゑましく眼前に展開されてゐる。
〔語〕 ○男の神 男體山、常陸風土記にも、西峯を雄神と謂ひ、登臨せしめず、云々と見えてゐる。
〔左註〕 右の件の歌 上總末珠名娘子の歌以下、ここまでを一括していふものと思はれる。
 
    鳴鹿《しか》を詠める歌一首并に短歌
1761 三諸《みもろ》の 神奈備山《かむなびやま》に 立ち向ふ 三垣《みかき》の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝|月《づく》夜 明《あ》けまく惜しみ あしひきの 山彦《やまびこ》とよめ 喚《よ》び立て鳴くも
 
〔譯〕 三諸の神奈備山に對してゐる三垣の山で、鹿が、萩の花妻を得ようとして、有明の月夜の明けるのが惜しさに、遠く山彦の音を響かせつつ、喚び立てて鳴いてゐる。
〔評〕 「秋萩の妻をまかむ」で鹿といふことは分るのであるが、それにしても長歌にも反歌にも鹿といふ主格が現はれてゐないのは、何か散漫な感じを與へる。朝明の鹿の聲を、秋萩の花嬬を戀うて鳴くと見たところに、作者の温かな情味が通つてゐる。
〔語〕 ○三諸の神奈備山 「三二四」參照。○立ち向ふ 相對してゐる。○三垣の山 他に所見がない。御垣の意かと思はれる。地理からいへば甘橿の丘がこれに當る。○秋萩の妻をまかむと 「吾が岡にさを鹿來鳴くさき萩の花嬬問(382)ひに來鳴くさを鹿」(一五四一)と同じく、萩を鹿の花妻といつたもの。代匠記には「の」は「の如く」と解し、秋萩の如く愛らしき妻の意で、題詞にある鹿のことと解してゐる。
 
    反歌
1762 明日《あす》の夕《よひ》逢はざらめやもあしひきの山彦|響《とよ》め呼び立て鳴くも
     右の件の歌は、或は云ふ、柿本朝臣人麻呂の作なりと。
 
〔譯〕 今夜は程なく明けるにしても、明日の晩また逢へぬことがあらうか。それであるに、鹿は山彦を響かすまでに妻を呼び立てて鳴いてゐることよ。
〔評〕 哀韻長く響く曉の鹿の聲を、明日といふ日が無いかの如く、心いられして鳴くものと聞きなしたので、作者の抒情は、長歌の方から更に一歩を進めて痛切になつてゐる。
〔左註〕 或は人麿の作といふとあるが、これは人麿の格調ではない。
 
    沙彌《さみ》女王の歌一首
1763 倉橋の山を高みか夜隱《よごも》りに出で來《く》る月の片待ち難《がた》さ
     右の一首は、間人宿禰大浦《はしびとのすくねおほうら》の歌の中に既に見ゆ。但末の一句相換り、また作歌の兩主、正指に敢へず。困りて以ちて累ね載す。
 
〔題〕 沙彌女王 傳不詳。
〔譯〕 倉橋山が高いためか、夜ふけて出て來る月が、ひたすらに待ち遠しくて待ちきれないことである。
〔評〕 間人宿禰大浦の初月の歌「倉橋の山を高みか夜ごもりに出で來る月の光乏しき」(二九〇)と、僅かに結句が少(383)し異なるのみで、無論同一歌の異傳であらう。
〔語〕 ○倉橋の山 大和多武峯の東に連る音羽山のことであるといふ。「二九〇」參照。○片待ち難き 待ち焦れて待ちきれない。「片待つ」は偏に待つの意。
〔左註〕 上述の「二九〇」の歌をさす。作者は大浦と沙彌女王と、何れを正しいとすべきか分らぬの意。
 
    七夕の歌一首并に短歌
1764 ひさかたの 天《あま》の河原に 上《かみ》つ瀬に 珠橋《たまはし》渡し 下《しも》つ瀬に 船|浮《う》け居《す》ゑ 雨ふりて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳《も》濕《ぬ》らさず 息《や》まず來ませと 玉橋わたす
 
〔譯〕 天の河に、川上の瀬には、美しい橋を架け渡し、川下の瀬には、船を浮べすゑ、雨が降つて風は吹かないでも、風が吹いて雨は降らないでも、著物の裾を濡らさずに絶えずお通ひ遊ばすやうにと、美しい橋を架けました。
〔評〕 織女星の心になつて詠んだもの。華麗な對句を以て、巧緻に纒まつた作である。前に「上つ瀬に珠橋渡し、下つ瀬に船浮け居ゑ」と云ひ、終に「玉橋わたす」とのみで結んだのは、船のことを反歌に讓つた爲であらう。
〔語〕 ○裳 裳は、腰より下に着る女の衣であるが、ここは男にも用ゐたのである。
 
    反歌
1765 天漢《あまのがは》霧立ち渡る今日今日と吾が待つ君し船出《ふなで》すらしも
     右の件の歌は、或は云ふ、中衛大將藤原北卿の宅にて作れるなりと。
 
〔譯〕 天の河に霧が立ち渡つてゐる。今日か今日かと私のお待ち申してゐる彦星樣が船出をなさるらしい。
(384)〔評〕 天の川の瀬に立つ霧を、彦星の船出のために騷ぐ波のしぶきによるものと見たのである。「天の河浮津の浪音騷くなり吾が待つ君し舟出すらしも」(一五二九)に似たところがある。
〔左註〕 藤原北卿は、房前である。房前の中衛大將は天平元年任。「八一二」參照。(公卿補任では天平二年任)。
 
   相聞《さうもに》
 
    振田向《ふるのたむけ》宿禰の筑紫國に退《まか》りし時の歌一首
1766 吾妹子は釧《くしろ》にあらなむ左手《ひだりて》の吾が奧の手に纒《ま》きて去《い》なましを
 
〔題〕 振田向宿禰 傳不詳。
〔譯〕 自分の妻は、釧であつてくれればよい。さうしたら自分の左の手である奧の手に纒きつけて行かうものを。
〔評〕 愛人を玉に喩へた歌は多いが、これは釧と云つたのが珍らしい。しかも旅だちの際であるから、その着想が極めて自然で、適切なものに受取られる。「左手の吾が奧の手」と云つたところ、古事記などに見えてゐる如く、上代に左手を尊んだことのよき例證である。
〔語〕 ○釧 腕に附けた飾の輪。「四一」參照。○奧の手 臂と解する説(代匠記)は誤で、略解が古事記上卷の阿波岐原の禊祓の條を證として、左の手の意とし、奧の手にといふのは、妹を大切にする意としたのがよい。
 
    拔氣大首《ぬきけのおほびと》の筑紫に任《ま》けらえし時、豐前國の娘子《をとめ》紐兒《ひものこ》を娶《と》りて作れる歌三首
(385)1767 豐國《とよくの》の香春《かはる》は吾宅《わぎへ》紐兒《ひものこ》にいつがり居《を》れば香春《かはる》は吾家《わぎへ》
 
〔題〕 拔氣大首 傳不詳。
〔譯〕 豐國の香春は自分の家である。かはゆい紐兒といつも離れずつながつてゐるので、この香春は遠い他郷ではない、自分の家なのである。
〔評〕 紐兒の紐にかけて「いつがり」といふ縁語を用ゐたのは面白い。わびしい邊陬の任地にあつても、美人を得た喜に他郷たることを忘れるといふは、古今變らぬ人情の自然であらうが、大膽に率直に表明したところ、如何にも、上代人の風   ボウ躍如たるものがある。結句の繰返しにも、喜色が溢れてゐるのを感じる。
〔語〕 ○香春 豐前國田川郡香春町。鏡山(四一七)の近くにある。○紐兒 娘子の名。或は遊行女婦かと思はれる。○いつがりをれば 「い」は接頭辭。互につながつて一緒にをれば。
〔訓〕 ○拔氣 ヌキケは京大本緒の書入による。代匠記ヌケ、古義ヌカケ。
 
1768 石上布留《いそのかみふる》の早田《わさだ》の穗には出でず心のうちに戀ふるこの頃
 
〔譯〕 布留の早稻田は穗に出るが、自分はそのやうに外には現はさないで、心のうちで頻りに戀しく思ひ焦れてゐるこの頃なのである。
〔評〕 未だ紐兒を得ない頃の作であらうか。筑紫にゐながら大和の地名を序に用ゐたのは、忘じ難い故郷のことが、潜在意識となつてゐるからであらう。併しこの序詞も、一首の構想も、類型的たるを免れない。
〔語〕 ○石上布留のわさ田の 「穗」にかかる序詞。「出でず」までかかるのではない。布留は大和國山邊郡。石上はその附近の總名である。○穗には出でず 表面に現はさずの意。
 
(386)1769 斯《か》くのみし戀ひし渡ればたまきはる命も吾は惜しけくもなし
 
〔譯〕 こんなにまあ戀ひつづけてのみ日を送つてゐるので、自分は命も惜しくなくなつた。
〔評〕 平凡な着想ではあるが、それだけに誰しも考へる眞實であり、表現に強い力が籠つてゐるので、迫る所がある。類似の作には、「三〇八二」「三七四四」などがある。
 
    大神《おほみわ》大夫の長門守に任《ま》けらえし時、三輪河の邊《ほとり》に集《つど》ひて宴《うたげ》せる歌二首
1770 三諸《みもろ》の神の帶ばせる泊瀬《はつせ》河|水脈《みを》し絶えずは吾《われ》忘れめや
 
〔題〕 大神大夫 三輪朝臣高市麻呂の事と古義は云つてゐる。高市麻呂は、その作、懷風藻にも見え、靈異記にもみえてゐる。長門守となつたのは大寶元年正月のことである。三輪河 初瀬川の部分的稱呼で、三輪山附近でかく呼んだのである。
〔譯〕 三諸の神の帶にしていらつしやるこの泊瀬河は、水の流の絶えることはあるまいが、その水の絶えない限は、自分がどうしてあなたがたを忘れませうか。
〔評〕 眼前を流れる泊瀬河、それは美しい三輪山の帶をなして清らかに流れてゐる。その絶えざる水脈の長きにかけて、友情の長きを誓つた。遠く任地に向はうとするに際し、友人等の催してくれた遂別宴に於いての儀禮の作ではあるが、眞率にして巧言に墮せず、格調の堂々たる作である。
〔語〕 ○三諸の神の帶ばせる 「三諸の神」は三輪山のこと。古代信仰で山そのものを神と崇めたのである。泊瀬川は三輪山の麓を行き廻つてゐるから斯くいふのである。
 
(387)1771 後《おく》れ居て吾《われ》はや戀ひむ春霞たなびく山を君が越えいなば
     右の二首は古集の中に出づ。
 
〔譯〕 あとに殘つてゐて、定めて自分はあなたを戀しく思ふことでせう。春霞のたなびくあの山をあなたが越えて行つてしまはれたならば。
〔評〕 別離の宴の半にも、やがて別れた後の戀しさを豫想して、送別者の一人の詠んだものである。眼をあぐれば、友の旅行く彼方の山々は、春霞にまどろんでゐる。行方も遠き別である。わが愁緒も綿々として長いであらうと、これも單なる挨拶でなく、殊に三四句あたりの具體的描寫によつて、よく眞情が表はされてゐる。
〔語〕 ○後れ居て あとに留まつてゐて。○吾はや戀ひむ 戀しく思つてをらねばならぬことか。
 
    大神《おほみわ》大夫の筑紫國に任《ま》けらえし時、阿倍大夫の作れる歌一首
1772 後《おく》れ居て吾《われ》はや戀ひむ稻見《いなみ》野の秋萩見つつ去《い》なむ子ゆゑに
 
〔題〕 大神大夫 前記高市麻呂であらうが、筑紫に行つたことは他に所見がない。阿部大夫 廣庭。「三〇二」參照。
〔譯〕 あとに殘つてゐて、自分はまあさぞ戀ひ慕ふことであらう。稻見野の美しい秋萩の花を見ながら旅をして行かれるあなたゆゑに。
〔評〕 播磨の印南野は集中にも多く詠まれてゐて、都人士にも知られた勝地であつた。今親しい友の筑紫への旅を、印南野の秋萩の花を見つつ面白い旅行をして行くといふやうに見たので、美しい具體的の情景が描き出され、惜別の心に羨望の情をも加味して親しみ深い明るい歌になつた。
〔語〕 ○去なむ子 出かけて行く人。「子」は大神大夫を親しんで呼んだもの。
 
(388)    弓削皇子に獻れる歌一首
1773 神南備《かむなび》の神依板《かみよりいた》に爲《す》る杉の念《おも》ひも過ぎず戀のしげきに
 
〔譯〕 神依板にする神南備山の杉の木の「すぎ」といふ言葉のやうに、あなたの事を忘れるといふことはありませぬ。あなたを慕ふ心が頻りなので。
〔評〕 杉を以て思ひが過ぎるといふ序とした歌には「石上布留の山なる杉群の思ひ過ぐべき君にあらなくに」(四二二)「神南備の三諸の山に齋ふ杉おもひ過ぎめや蘿生すまでに」(三二二八)等がある。この歌は、神依板を用ゐたのが珍らしく、宗教的、文化史的の興味もある歌である。
〔語〕 ○神南備 「かむなび」は神の森の義。本集では飛鳥の神南備、三輪の神南備、龍田の神南備が多く歌はれてゐる。この歌の場合はその何れかを決すべき證はないが、三輪山にとるのが適當であらう。○神依板 杉で作つた板で、神を招請する具。琴頭《ことがみ》に立ておくと、神これに憑り給ふといふ。○する杉の 以上三句「過ぎ」を導く序。○念ひも過ぎず 思ひ忘れることが出來ないの意。
 
    舍人皇子に獻れる歌二首
1774 垂乳根《たらちね》の母の命《みこと》の言《こと》にあれば年の緒長く憑《たの》み過《す》ぎなむ
 
〔譯〕 尊い母上のお言葉であるから、長い年月の間をも頼んで過ぎるであらう。今に許される時があらうから、あせらずに待つてをらう。
〔評〕 愛人に云ひ贈つた歌で、母に深く信頼してゐる純眞な心が見える。契沖は、皇子の推擧を待ち頼んでをる者が、寓意を以て詠んだとしてゐる。
(389)〔語〕 ○たらちねの 枕詞。「四四三」參照。○母のみことの みことは尊稱。「四四三」參照。○年の緒 年月の長く續くのを緒に譬へていふ。
 
1775 泊瀬河《はつせがは》夕渡り來《き》て我妹子《わぎもこ》が家の金門《かなど》に近づきにけり
     右の三首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 泊瀬河を夕方渡つて來て、いとしい妻の家の門に、もう段々と近づいて來たことである。
〔評〕 單純な内容であるが、夕ぐれ泊瀬川を渡り越えて通ひ行く妻の家の門に近づいた喜が、躍つてゐるやうである。これらは自分の作品を、ある機會に皇子に獻じたものと思はれる。
〔語〕 ○金門 門のこと。「一七三九」參照。
 
    石河大夫の任を遷さえて京《みやこ》に上りし時、播磨娘子《はりまのをとめ》の贈れる歌二首
1776 絶等木《たゆらき》の山の岑《を》の上《へ》の櫻花咲かむ春べは君が思《しの》はむ
 
〔題〕 石河大夫 石河朝臣君子のこと。靈龜元年五月に播磨守となつた。
〔譯〕 絶等木山の峯の上の櫻の花が美しく咲き出す春の頃となりましたならば、あなたさまも私のことを思ひ出して下さることでありませう。
〔評〕 これまで寵を受けた石河大夫は、任を遷されて將に京にのぼらうとする。嘗て共にたゆらき山に櫻の花を眺めたこともあつたであらう。花咲く春には私をしのんで下さることであらうと、女らしく素直でつつましい歌である。
〔語〕 ○たゆらきの山 播磨の國府、即ち今の姫路市附近の山であらう。
〔訓〕 ○君がしのはむ 白文「君之將思」。「之」を「乎」とする本により、キミヲシノハムといふ訓もある。
 
(390)1777 君なくは何《な》ぞ身《み》装餝《よそ》はむ匣《くしげ》なる黄楊《つげ》の小梳《をぐし》も取らむとも念《も》はず
 
〔譯〕 あなたがいらつしやらなくなつたらば、何で私は、化粧などを致しませう。櫛筥の中の黄楊の小櫛も、手に取らうとも思ひませぬ。
〔評〕 思ふ人の爲に身を粧ひ、その愛に生きてゐる婦人が、思ふ人なきあとに、生きる張りを失ふであらうことが、痛ましくも可憐に思ひやられる。愛人に捧げた婦人の眞情が哀艶にあらはれた作である。毛詩に「自2伯之東1、首如2飛蓬1、豈無2膏沐1、誰適爲v容」とあり、また近世の歌謠娘道成寺に「誰に見しよとて紅《べに》鐵漿《かね》つけよぞ」とあるが、皆同じ趣を歌つたものである。播磨娘子は毛詩を知らずして詠み、娘道成寺の作者はまた、萬葉の歌を知らずして作つたのであらうが、人情の極致は、おのづから一致するのである。
 
    藤井連の任を遷さえて京に上りし時、娘子《をとめ》の贈れる歌一首
1778 明日よりは吾は戀ひむな名欲《なほり》山|石《いは》蹈《ふ》み平《なら》し君が越え去《い》なば
 
〔題〕 藤井連 藤井連廣成かといはれてゐる。廣成は「九六二」參照。
〔譯〕 明日からは私は戀しく思ふことでありませう。名欲山の石ころ道を踏みならしつつ、あなたが越えてお去りになつたならば。
〔評〕 類型的な句調ではあるが、三句以下の寫實的表現の爲に一首が引締り、眞率の情が溢れてゐる。
〔語〕 ○戀ひむな 「な」は詠歎の助詞。「見つつ思ふな巨勢の春野を」(五四)。○名欲山 所在不明。
 
    藤井連の和《こた》ふる歌一首
(391)1779 命《いのち》をし幸《まさき》くもがも名欲《なほり》山|石《いは》踐《ふ》み平《なら》しまたまたも來《こ》む
 
〔譯〕 自分の命がいつまでも恙なくあつてほしい。さうしたらば、名欲山の石ころ道を踏みならして、またまた逢ひに來よう。
〔評〕 交通の開けなかつた當時、別離に際しての心緒は、まことに哀切である。これらの歌を讀むには、單なる口頭の挨拶とのみ輕く見ては、上代人の眞意に觸れることは出來ない。
〔訓〕 ○まさきくもがも 白文「麻幸久可願」。諸本「麻勢久可願」は、意が通じ難いから、改字説によつた。
 
    鹿島郡|苅野《かるの》の橋にて大伴卿に別るる歌一首井に短歌
1780 牡牛《ことひうし》の 三宅《みやけ》の坂に さし向ふ 鹿島《かしま》の埼に さ丹塗《にぬり》の 小船《をぶね》を設《ま》け 玉|纒《まき》の 小梶《をかぢ》繁貫《しじぬ》き 夕汐の 滿《みち》のとどみに 御船子《みふなこ》を 率《あとも》ひ立てて 喚《よ》び立てて 御船《みふね》出《い》でなば 濱も狹《せ》に 後《おく》れ竝《な》み居て 反側《こいまろ》び 戀ひかも居《を》らむ 足摩《あしずり》し 哭《ね》のみや泣かむ 海上《うなかみ》の その津を指して 君が榜ぎ行かば
 
〔題〕 鹿島郡苅野橋 鹿島郡は今の茨城縣鹿島郡。苅野は今、輕野村と稱し、利根川に面してゐる。
〔譯〕 三宅の坂と向きあつてゐる鹿島の埼に、赤塗の小舟を用意して、玉の飾をした櫂を澤山つけ、夕汐の滿ち湛へて來る時に、船頭等を引き連れ、呼び立てながら、いよいよお船が漕ぎ出ましたならば、人々は濱も狹いほどにあとに殘り竝んで、さぞや輾轉しつつお慕ひ申すことでございませう。足ずりをし、聲をあげて泣くことでございませう。海上《うなかみ》の津をさして、あなたさまの御船が漕いで行つてしまひましたならば。
(392)〔評〕 格調齊整、詞藻秀麗、さ丹塗の小船、玉纒の小梶は、顯官のお召の船らしい壯麗さを思はせ、「御船子をあともひ立てて喚び立てて」云々は、その船出の壯觀を語つて躍如たるものがある。但、さうした形式美にも拘はらず、内容的には常套で、眞情の流露するものが乏しいのは、要するに儀禮の作である。
〔語〕 ○牡牛の ことひ牛は頭の大いなる牛。租米を負ひて屯倉《みやけ》に行くよりつづく。又は牡牛のやうな地形の爲につづく枕詞ともいふ。○満のとどみ 滿潮の極限。
〔訓〕 ○三宅の坂に 白文「三宅之酒爾」。「酒」を「坂」の借字とする。舊訓サキ。「浦」「潟」の誤字説もある。○おくれ竝み居て 白文「後奈美居而」。諸本「美」がないが、略解の説により補ふ。
 
    反歌
1781 海つ路《ぢ》の和《な》ぎなむ時も渡らなむ斯《か》く立つ浪に船出《ふなで》すべしや
     右の二首は高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ。
 
〔譯〕 海路がもつと和いでからでもお渡りになればよいと思ひます、こんなに浪の高いのに、船出をなさるといふことがありませうか。
〔評〕 格調雄健、古趣を帶びて、しかも端的率直に、よく情を盡した歌である。なほ此の歌の白文、二句名木名六、三句渡七六、四句加九、波二、五句可爲八と、數字が六字假り用ゐてある。
 
    妻に與ふる歌一首
1782 雪こそは春日《はるび》消《き》ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
 
〔譯〕 雪こそは春の日にあたつて消えもしよう。御身の心までも消え失せたからか、何の音沙汰もないことである。
(393)〔評〕 機智のある表現で、やんはりとした皮肉もなかなか上品である。女の消息の絶えたのを恨んでゐるが、それは遣瀬ない眞劔の戀といふではなく、多分に遊戯的氣分を含んだ間柄の氣のきいた應酬であることが、返歌の方から推しても分るのである。妻との贈答とあつても、無論今日の夫婦の如き關係でないことは明かである。
 
    妻の和《こた》ふる歌一首
1783 松反《まつがへ》りしひてあれやは三栗《みつぐり》の中上《なかのぼ》り來《こ》ぬ麻呂と云ふ奴《やつこ》
     右の二首は、柿本朝臣人麻呂の歌集の中に出づ。
 
〔譯〕 鷹が松にゐて羽毛がぬけかはる時のやうに、心がしひてをるからであらうか、近いところまでものぼつてこず、御機嫌伺ひにも來ない。麻呂といふ奴よ。
〔評〕 集中難解の歌の一で、古來樣々に説かれてゐる。初二句は「松反りしひにてあれかも小山田の翁がその日に求め逢はずけむ」(四〇一四)の類例がある。「松反り」などいふ鷹詞と解せられるものが枕詞として用ゐられてゐる。恐らくは男の名が麿といふのであつたので「麿といふ奴」と男にむかつて罵るやうにいつたのであらう。戀愛遊戯の歌と見て、一應右のやうに解しておく。
〔語〕 ○松反り 鷹の松にゐて、羽毛の拔け換ることといふ。枕詞。○しひてあれやは 感覺がなくなつてゐるからか。「しひ」は、目しひ、耳しひの「しふ」(四段活用)で、感覺に障害があること。「ひ」の假名の點からも「強ふ」(上二段)とはとりがたい(橋本博士)。○三粟の 中の枕詞。○中上り來ぬ 上《かみ》までは勿論、中まで、近い處までも來ない。「上り來ぬ」は尊大にかまへた言方で、出仕しない、御機嫌伺ひにも來ないといふのであらう。
 
    入唐使に贈れる歌一首
1784 海若《わたつみ》のいづれの神を祈らばかゆくさも來《く》さも船の早けむ
(394)     右の一首は、渡海の年紀未だ詳ならず。
 
〔題〕 いつの入唐使であるかは左註にいふ通り不明であるが、古義は「一七九〇」に見える天平五年多治比廣成入唐の時かと推察してゐる。
〔譯〕 海路の途中に祭られてあるどの神樣を祈つたならば、往きにも歸りにも、あなたの乘つていらつしやる御船が、早く進むことでせう。自分は、ひたすら御平安をお祈りします。
〔評〕 航海の不安を思ふにつけては、神に頼る外はない。しかも、海路の途上には多くの神々が齋き祭られてある。いづれの神を祈つたならば靈驗が著しいであらうか、と思ひ惑うた心を率直に述べたのである。幼稚な航海術を以て遙かな異國に渡らうとする當時の大航海にあつては、至當の感情ともいふべきであらう。
 
    神龜五年戊辰秋八月の歌一首并に短歌
1785 人と成る 事は難《かた》きを 邂逅《わくらば》に 成れる吾が身は 死《しに》も生《いき》も 君がまにまと 念《おも》ひつつ ありし間《あひだ》に うつせみの 世の人なれば 大君の 御命《みこと》かしこみ 天離《あまざか》る 夷《ひな》治《をさ》めにと 朝鳥の 朝|立《だち》しつつ 群《むら》鳥の 群立《むらだち》行けば 留《とま》り居て 吾は戀ひむな 見ず久ならば
 
〔譯〕 人間に生れて來るといふことは、容易ならぬことであるのに、たまたま人間として此の世に生れて來た自分は、死も生も、ただ親しい君次第とたよりに思つてゐた間に、現世の人の義務であるから、君は、天皇の御命令を畏多くも戴いて、遠い越の國を治めに赴任しようとて、朝の鳥の朝立つて行く如く朝立をし、群鳥の群れ立つ如くに、從者を多くつれて出發されるので、あとに留まつてゐて、自分は隨分と戀しく思ふことであらう。これからお逢ひしない(395)日が久しく續くならば。
〔評〕 平明の作で、「死も生も君がまにまと念ひつつありし間に」は、友情のこまやかであつたことを語つてをり、この歌一首の價値を高める上に頗る役立つてゐる。「大君の御命かしこみ」以下の十句は、「三二九一」の異傳の、長歌に酷似してゐる。
〔語〕 ○邂逅に 「わくらばに人とはあるを」(八九二)參照。代匠記には、四十二章經に「佛言、人離2惡道1得v爲v人難」とあるのを引いてゐる。
 
    反歌
1786 み越路《こしぢ》の雪|零《ふ》る山を越えむ日は留《とま》れる吾を懸《か》けて偲《しの》はせ
 
〔譯〕 越路の雪の降る山を、君が越えていらつしやるであらう、その日には、都に留まつてゐる自分を、心にかけて偲んで戴きたい。
〔評〕 平明の歌にしてしかも情趣ゆたかである。但、八月に都を出發したものとすれば、「雪零る山」を越えるといふは、如何に交通に日數を要した北陸とはいへ、いかがと思はれるが、作者は實地を知らず、越といへば直に雪を聯想するが故に、かく詠じたのであらう。
 
    天平元年己巳冬十二月の歌一首并に短歌
1787 うつせみの 世の人なれば 大君の 御命《みこと》恐《かしこ》み 磯城《しき》島の 大和の國の 石上《いそのかみ》 布留の里に 紐解かず 丸寢《まろね》をすれば 吾が著たる 衣《ころも》は穢《な》れぬ 見るごとに 戀はまされど  色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の あかしも得ぬを 寐《い》も寢《ね》ずに 吾はぞ戀ふる 妹が直(396)香《ただか》に
 
〔譯〕 自分はこの世の人であるから、臣民としての務で、天子樣の仰言をかしこみ、大和國の石上なる布留の里に來て、着物の紐も解かずに獨り丸寢をするので、着てゐる着物は萎えばみよごれてしまつた。これを見るごとに、家なる妻の戀しさはまさるけれども、顔色に出したらば人が知るであらうから、冬の長夜を明しかねるのに、ろくに安眠も出來ないで、ひたぶるに戀ひ慕ふことである、いとしい妻の樣子を思つて。
〔評〕 畿内の班田使に任ぜられて、石上なる布留の里を視察に行つた時の歌であらう。「色に出でば人知りぬべみ」と、人目を忍んで吐息をついてゐるあたり、同行の吏僚があつたことを思はせる。旅の丸寢に着物が萎えたことに氣がつき、これを見る毎に、家にあれば妻が洗ひ濯ぎをしてくれることを思ひ、家なる妻に對する戀がまさつて來るといふ心理的經路が、極めて自然に描かれてゐる。
〔語〕 ○妹が直香に 妻の動靜、樣子、直香は、戀しき人そのものの意。
〔訓〕 ○色に出でば 白文「色二山上復有山者」で、舊訓イロイロニヤマノヘニマタアルヤマハとあつたに、今日の定訓を發見したのは契沖の明察で、古樂府などを引き「山上復有v山」は「出」の戯書なることを明かにした。
 
    反歌
1788 布留山ゆ直《ただ》に見渡す京《みやこ》にぞ寐《い》も寢《ね》ず戀ふる遠からなくに
 
〔譯〕 布留の山からすぐ眼前に見渡される奈良の都にゐる妻を思つて、おちおち眠りもせずに戀ひ慕つてゐることである、遠くもない處であるのに。
〔評〕 かかる場合であれば、誰でもが詠むであらうと思はれるやうな心持を、平淡な詞句で歌つてゐる。しかし、そ(397)の中に、古典的な滋味がある。「遠からなくに」の句は、流石に大君のみことを畏んで仕へまつる身といふ自制の心もこもつて力強い結びである。
 
1789 吾妹子が結《ゆ》ひてし紐を解かめやも絶えは絶ゆとも直《ただ》に逢ふまでに
     右の件の五首は、笠朝臣金村の歌の中に出づ。
 
〔譯〕 妻が出立の際に結んでくれたこの下着の紐を、何で自分は解かうぞ。切れるならば切れようとも、妻と親しく逢ふまでは、決して解きはせぬ。
〔評〕 着想も形式も新奇なものではないが、當時の信仰に根ざした男女間の實生活上の一事象であつただけに、當事者同士では、かりそめならぬ事であつたに違ない。「二人して結びし紐を一人して吾は解き見じ直に逢ふまでは」(二九一九)など、類似の作がある。しかし、この歌には、古典的な品位と、練達した格調とがある。
 
    天平五年癸酉、遣唐使の舶、難波を發《た》ちて海に入りし時、親母《はは》の子に贈れる歌一首并に短歌
1790 秋萩を 妻|問《ど》ふ鹿《か》こそ 一子《ひとりご》に 子|持《も》てりといへ 鹿兒《かこ》じもの 吾が獨子の 草枕 旅にし行けば 竹珠《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り 齋戸《いはひべ》に 木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて 齋《いは》ひつつ 吾《わ》が思ふ吾子《あこ》 眞幸《まさき》くありこそ
 
〔題〕 天平五年云々 續紀天平四年八月の條に、多治比廣成を遣唐大使と爲すと見え、同五年四月難波津より出發してゐる。この時のことである。
〔譯〕 秋萩の花を妻として訪ふ鹿は、ただ一つの子を生むと聞いてゐる。その鹿の子のやうな、ただ一人子の我が子が、遠い唐土へと旅立つて行くので、竹珠を澤山糸に貫き垂らし、神樣を祭る酒甕に、木綿を垂らし、潔齋してお祈(398)りしつつ、私が一心に思ひつめてゐる一人子よ。どうか務を果して歸るまで無事で居ておくれ。
〔評〕 獨子を遠い異國にやる母の情まことにあはれである。ひたすら神にその平安を祈るのも、さもあるべきことで、簡明單純ではあるが、眞情流露した尊い作である。
〔語〕 ○鹿兒じもの 鹿の子のやうなものとして。或は、鹿の子ではないがの意。
 
    反歌
1791 旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が手羽ぐくめ天《あめ》の鶴群《たづむら》
 
〔譯〕 旅人の一行が、宿るであらう野原に、霜が降つたならば、どうかお前の翼で、その中にゐる私の息子を蔽うてやつてくれ、大空の鶴の群よ。
〔評〕 夜の鶴は子を思つて鳴くと諺にもいはれてゐるので、これはまことに適切で、あはれな感想と思はれる。古往今來、母性愛を歌つた作の中のすぐれた歌といつて溢美でない。
〔語〕 ○羽ぐくめ ここは原義で、羽の下に包むこと。後には轉じて撫育の意となつた。○天の鶴群 天のとあるは鶴は空を飛び廻る意で加へたもの。
 
    娘子《をとめ》を思ひて作れる歌一首并に短歌
1792 白玉の 人のその名を なかなかに 辭《こと》を下延《したば》へ 逢はぬ日の 數多《まね》く過ぐれば 戀ふる日の 累《かさ》里なり行けば 思ひ遣《や》る たどきを知らに 肝向《きもむか》ふ 心くだけて 珠襷《たまだすき》 懸《か》けぬ時無く 口|息《や》まず 吾が戀ふる兒を 玉|釧《くしろ》 手に取持ちて まそ鏡 直目《ただめ》に見ねば 下檜《したひ》山 下(399)ゆく水の 上《うへ》に出てず 吾が念《も》ふ情《こころ》 安からぬかも
 
〔譯〕 白玉のやうに美しい人のその名を、戀しいけれども人に知られるのを恐れて、かへつて言葉にも出さず、まして逢ひ見ぬ日數が多く過ぎたので、戀ひ焦れる日が重なつて行くと、憂悶を晴らす方法も無く、心がくだけてしまひ、かくて、いつも心にかけぬ時無く、絶えず自分が戀ひ焦れる女であるのに、釧の如く手に取ることも、鏡の如くぢかに見ることも出來ないので、ちり積つた葉の下を流れて行く水ではないが、表面にあらはさず自分の思ひ續ける心は、苦しいことではある。
〔評〕 戀情を繰りかへして情緒纒綿、哀韻は縷々として盡きないが、常套的成語の連續が多くて迫力に乏しく、萬葉的氣格は薄らいでゐると思はれる。
〔語〕 ○辭を下延へ 詞にあらはさぬの意。「下延へ」は内に思つて外に示さぬこと。○肝向ふ 「心」の枕詞。「一三五」參照。○玉だすき 枕詞。「五」參照。○口やまず 絶えず口にのぼして、の意であるが、初の「辭を下ばへ」とあはせて、單に、絶えずの意に解しておく。○玉釧 枕詞。「一七六六」參照。手に卷くものの意で次句につづく。
○下檜山 攝津豐能都西郷村大字大里の西北にある劍尾山であるといふ。「下逝く」の枕詞。
 
    反歌
1793 垣ほなす人の横言《よこごと》繁みかも逢はぬ日|數多《まね》く月の經ぬらむ
 
〔譯〕 垣根が間を隔て妨げるやうに、人の言ひ觸らす横しまな中傷の言葉が多いので、それを憚つて逢はぬ日が多く月がたつたのであらうか。
〔評〕 「垣ほなす人言聞きて吾が背子がこころたゆたひ逢はぬ此の頃」(七一三)に似たところがある。四五の句は、(400)集中の成語である。
 
1794 立易《たちかは》り月重なりて逢はねども眞實《さね》忘らえず面影にして
     右の三首は、田邊福麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 月が立ち易り、幾月も重なるまで逢はないけれども、まことに忘れられないことである、そなたの姿が目の前にちらついて。
〔評〕 相見ずして月日は隔たりゆくが、自分の戀情は聊かも薄らがぬのみか、いよいよ深くなつて日夜忘れ難く惱ましい、といふのである。戀する人の心境として、何の不思議もないことながら、率直に眞實を語つてゐるところに、強さがある。
〔語〕 ○さね 眞實に、本當に。○面影にして 「三九六」參照。
 
   挽歌《ばにか》
 
    宇治若郎子《うぢのわきいらつこ》の宮所《みやどころ》の歌一首
1795 妹ら許《がり》今木《いまき》の嶺に茂り立つ嬬《つま》松《まつ》の木は古《ふる》人見けむ
 
〔題〕 宇治若郎子 應神天皇の皇子。宮處は、今、宇治町の離宮址であるといふ。これはその宮處を見て後人が作つたのである。
(401)〔譯〕 愛人のもとへ「今來た」といふことが聯想される此の今木の嶺に茂り立つてゐる松の木は、古への人、即ち、宇治若郎子が御覽になつたのであらう。
〔評〕 往時茫々として夢よりもおぼつかなく、嶺の老松のみ獨り存して、人は既に幾代か變つてゐるといふ感愴が、多言を弄せずして滲み出てゐる。博通法師の「石室戸に立てる松の樹汝を見れば昔の人を相見るごとし」(三〇九)も稍これに似てゐる。
〔語〕 ○今木の嶺 宮處近くであらう。山城志には朝日山とある。今來の意でかけてあるが、假名として問題はある。
 
    紀伊國にて作れる歌四首
1796 黄葉《もみちば》の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも
 
〔譯〕 今は既に世を去つたあの女と、互に手を携へて遊んだ海岸を見ると、まことに悲しいことである。
〔評〕 嘗て手を携へて遊んだ紀伊の國の海岸に來て、今は亡き妻を偲んだ、あはれな歌である。平淡の中に哀愁がこもつて、一點浮華の跡がない。
 
1797 鹽氣《しほけ》立つ荒磯《ありそ》にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ來《こ》し
 
〔譯〕 潮氣の立ちのぼる荒涼たる磯ではあるが、今は世を去つて歸らぬ妻の形見として、來たことである。
〔評〕 人麿が、草壁皇太子をお偲びした作「眞草苅る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ來し」(四七)と同型である。
 
1798 古《いにしへ》に妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶLも
 
(402)〔譯〕 昔妻と共に自分が眺めた黒牛潟を、今一人で來て見ると、死んだ妻のことが思ひ出されて、眼前の景色までが荒涼たる感じがする。
〔評〕 眞率の作である。太宰府から上京の途上、大伴旅人の詠んだ「往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐればこころ悲しも」(四五〇)は、稍これに似た内容である。
〔語〕 ○黒牛潟 今の和歌山縣黒江灣。「一六七二」參照。
 
1799 玉津島磯の浦|廻《み》の眞砂《まなご》にも染《にほ》ひて行かな妹が觸《ふ》りけむ
     右の五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 玉津島の磯のめぐりの眞砂で、着物を染めて行かう。この砂には嘗て來て遊んだ時、妻が觸れたでからうから。
〔評〕 昔妻の裳裾が解れたかと思へば、磯の眞砂さへもなつかしいのである。氣品高い調子の中に、戀々の情が纒綿としてゐる。但、人麿歌集中にあるとはいへ、人麿の作とは思はれない。
 
    足柄の坂を過ぎて、死《みまか》れる人を見て作れる歌一首
1800 小垣内《をかきつ》の 麻を引き干《ほ》し 味なねが 作り著《き》せけむ 白たへの 紐をも解かず 一重|結《ゆ》ふ帶を三重|結《ゆ》ひ 苦しきに 仕へ奉《まつ》りて 今だにも 國に罷《まか》りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東《あづま》の國の 恐《かしこ》きや 神の御《み》坂に 和靈《にきたま》の 衣《ころも》寒《さむ》らに ぬばたまの 髪は亂れて 國問へど 國をも告《の》らず 家問へど 家をも言《い》はず 丈夫《ますらを》の 行《ゆき》の進《すすみ》に 此處《ここ》に臥《こや》せる
 
(403)〔題〕 足柄坂 駿河國竹の下から相模國矢倉澤に越える峠で、當時最も往還の多い處であつた。
〔譯〕 垣の内の麻を引いて干し、その愛妻が作つて着せたのであらうと思はれる白い着物の紐をも解かずに、一重に結ぶ帶を三重にも結ぶほどに痩せ果てて、病に苦しみつつも、よく奉公をしたと見えるが、いよいよ今からでも國へ歸つて、父母や妻にも逢はうと思ひながら出立したのであらうに、東の國の嶮しい足柄の坂で、著物も寒さうに、髪は亂れてゐて、郷國を問うても、郷國の名をも答へず、家を問うても、家の名をも云はないで、この人はまあ、家に歸る中途で、此處に横はつて死んでゐることである。
〔評〕 路傍に横たはる死人を弔ふ歌は、旅の苦しさ、人情の厚さなど、上代の社會生活の一斷面を示すものである。さうして、聖コ太子が龍田山の死人を見て悲傷された歌と傳へられる中の「家にあらば妹が手纏かむ」(四一五)や、讃岐狹岑島に於いて人麿が、疲人の屍體を見て弔つた歌の「妻知らば來も問はましを――待ちか戀ふらむ愛しき妻らは」(二二〇)の如く、妻と作る暖い家庭生活を想像し、その對照によつておのづから悲慘の感を深めてゐるのが常である。この一篇もその例に洩れないが、特色は、幸福な家庭生活と、苦しい奉公の義務とを對立させたことであつて、そこに社會性が存するのである。「――一重結ふ帶を三重結ひ苦しきに仕へまつりて」と正直に義務の辛苦を述べたところは上代人らしく、務を果して家に急ぐ樣を思ひやつたのがあはれである。しかも悲哀の語を用ゐずに「丈夫の行の進みに此處に臥せる」と勁健な語を以てうち切つたのは、寧ろ悲壯といふべく、言外に餘情も深い。
〔語〕 ○小垣内 「を」は接頭辭。屋敷の中。○妹なね 「な」「ね」共に親愛の情を示す接尾辭。「かくばかりなねが戀ふれぞ」(七二四)。○白たへの 枕詞でなく、白い紐をいふ。○神の御坂 神のいますかしこき御坂の意。すべて嶮岨な坂をいひ、足柄山に限るわけではない。○和靈の 枕詞。つづき方不明。○行の進みに 行き進む途中で。○こやせる 横たはつてゐる。
 
(404)    葦屋《あしのや》の處女《をとめ》の墓を過ぎし時、作れる歌一首并に短歌
1801 古《いにしへ》の 益荒壯士《ますらをのこ》の 相競《あひきほ》ひ 妻問《つまどひ》しけむ 葦屋《あしのや》の 菟原處女《うなひをとめ》の 奧津城《おくつき》を 吾が立ち見れば 永き世の 語《かたり》にしつつ 後の人の 偲《しのひ》にせむと 玉|桙《ほこ》の 道の邊《べ》近く 磐《いは》構《かま》へ 作れる冢《つか》を 天雲《あまぐも》の 退部《そくへ》の限《かぎり》 この道を 行く人|毎《ごと》に 行き寄りて い立ち嘆《なげ》かひ 或《ある》人は 啼《ね》にも哭《な》きつつ 語り繼《つ》ぎ 偲《しの》ひ繼ぎ來《こ》し 處女《をとめ》らが 奧津城《おくつき》どころ 吾さへに 見れば悲しも 古《いにしへ》思へば
 
〔題〕 葦屋 今、神戸市の東方。葦屋處女は、昔菟原壯士、血沼壯士(一名小竹田壯士)の二人に思はれて、いづれにも從ひ難く、自ら水に入つて死に、二人の壯士も後を追うて死んだといふ傳説上の女性で、下にも見え、卷十九にも家持の追和歌(四二一一)が見える。後、大和物語にも記載されてゐる。墓と稱するものは今も存し、御影町の東方住吉村字御田(血沼壯士の墓といふ)、御影町東明(處女墓と稱する)、都賀野村味泥(菟原壯士の墓と傳へる)の三個所にあるが、もとより傳説上のこととて、信ずべきものではない。
〔譯〕 昔二人の壯士が、互に競ひあつて、求婚をしたといふ葦屋の菟名日處女の墓を、自分が訪ねて來て立つて見てゐると、永い後世の話の種にし、後人のしのぶぐさにもしようと、道のほとり近く、岩を築き構へて作つたこの塚を、遠い國々の果から來た旅人も、この道を通る人は皆立ち寄つて、佇立低徊して歎き、或る人は聲をあげて泣きもしつつ、あはれな事がらを語り繼ぎ、偲びつづげて來た、この菟名日處女の墓なのである。かうして來て見ると、遙か後世の自分までも、まことに悲しい、古へのあはれな事がらを思ふと。
〔評〕 哀調を以て一貫してはゐるが、幾分平弱の嫌は免れない。冒頭の句は、勝鹿の眞間娘子の墓を過ぎた時の山部(405)赤人の作(四三一)を模倣した跡が見える。
〔語〕 ○妻問 妻として求めること、求婚。○葦屋の菟原處女 菟原は郡名であるから、菟原の葦屋娘子といふべきを、かういふのは、郡名の外に小地名があつたものであらうか、或は調の爲かとも思はれる。○語にしつつ 語り草としつつ。○偲にせむと 「しのひ」は偲ぶよすが。○磐構へ 磐を構へ組んで。○天雲のそくへの限り 遙に天涯に隔つて遠き果。「四二〇」參照。○處女ら 「ら」は親愛の意をあらはす接尾辭。
 
    反歌
1802 いにしへの小竹田壯士《しのだをとこ》の妻問《つまど》ひし菟原處女《うなひをとめ》の奧津城《おくつき》ぞこれ
 
〔譯〕 昔の小竹田壯士が求婚したといふ、そのあはれな菟原處女の墓なのである、これが。
〔評〕 墓の由來の説明をしたのみであるが、結句が強く一首を引緊めてゐて、やさしい娘子をいとほしむ温情が言外に溢れてゐる。萬葉ぶりの氣韻を湛へた歌である。
〔語〕 ○小竹田壯士 和名抄に和泉國和泉郡信太とある地の男。信太は、今は大阪府泉北郡。
 
1803 語りつぐからにも幾許《ここだ》戀《こほ》しきを直目《ただめ》に見けむ古壯士《いにしへをとこ》
 
〔譯〕 あはれな物語を語りつぎ聞きつぐ、それだけでも戀しく思はれるのに、その美しい處女を現に見た昔の二人の壯士は、どんなに戀ひ惱んだことであらうか。
〔評〕 右の傳説を聞く人の好奇心と同情とは、おのづからに一歩を進めて、傳説中の人物に對する羨望ともなる。それは恰も、少年が、童話、お伽噺を聞くと同じ心理であり、上代人の純朴さが如實に示されてゐる。
〔語〕 ○語りつぐからにも幾許 後世の所謂句割れの語法であるが、必しも排斥すべきでもなく、却つて面白い場合(406)も往々ある。「手にとるがからに忘ると海人のいひし」(一一九七)などもその例。もつとも「から」は、後世は全く助詞として扱はれてゐるので句割れといはれるが、古くは名詞として用ゐられたのである。日本書紀古訓に多く見える「故《かれ》」と同源といふ説もある。「からに」は、ただそれだけを原因として、ばかりのことで、の意になる。○直目に 直接に目にの意。
 
    弟の死去《みまか》れるを哀《かなし》みて作れる歌一首并に短歌
1804 父母が 成しのまにまに 箸向《はしむか》ふ 弟《おと》の命《みこと》は 朝露の 消易《けやす》さ壽《いのち》 神の共《むた》 爭ひかねて 葦原の 瑞穗の國に 家|無《な》みや また還《かへ》り來《こ》ぬ 遠《とほ》つ國 黄泉《よみ》の界《さかひ》に 蔓《は》ふ蔦の 各《おの》が向向《むきむき》 天雲《あまぐも》の 別れし行けば 闇夜《やみよ》なす 思ひ迷《まど》はひ 射《い》ゆ猪鹿《しし》の 心を痛《いた》み 葦垣《あしがき》の 思ひ亂れて 春鳥の 啼《ね》のみなきつつ 味《あぢ》さはふ 夜《よる》晝《ひる》知らず かきろひの 心|燃《も》えつつ 嘆き別れぬ
 
〔譯〕 父母が生み育てて下されたままに、自分と二人仲よく向ひあつてゐた弟は、朝露の消え易いやうなはかない命で、神樣の御心のままに、その思召に反することが出來なくなり、此の日本の國に、居るべき家が無くなつたためであらうか、再び歸つて來ないで、遠い冥土の境をさして、親子兄弟と別々にわかれて行つてしまつたので、まるで闇夜の中にゐるやうに思ひ惑ひ、射られた鹿の如き胸の苦しさに、葦垣の亂れたやうに思慮分別も亂れ、春の鳥の啼くやうに聲をあげて泣いてばかりゐて、夜とも晝とも知らず、心は燃えつつ歎き悲しんでゐることである。
〔評〕 枕詞の使用が稍多過ぎて煩はしい感がないでもないが、哀韻は咽ぶが如く流れてゐる。「葦原の瑞穗の國に、家無みやまた還り來ぬ」の表現は、哀傷の爲に理性を失ひ、幼稚に還つた眞實さがよく出てゐる。家持が弟書持の死を歎いた歌(三九五七)と共に、兄弟愛の情を披瀝した點で、集中の雙璧と云へよう。
(407)〔語〕 ○成しのまにまに 生み成したままにの意。この下脱句ありとの説もある。○箸向ふ 枕詞。箸は二つさし向へる意でつづく(代匠記)。又、枕詞でなく、愛《は》しく向ひ合つてゐると解すべしといふ説(全釋)もある。○神の共 神の御意志のままに。壽命は神の掌り給ふものの意。○葦原の瑞穗の國 日本の國。「一六七」參照。○家無みや 住むべき家が無いからか。○味さはふ 枕詞。集中多く「め」にかかり、「よる」に懸けたのはこの一例のみである。○かきろひの 枕詞。「燃え」につづく。
 
    反歌
1805 別れてもまたも遭《あ》ふべく念《おも》ほえば心亂れて吾《われ》戀ひめやも 【一に云ふ 心つくして】
 
〔譯〕 一たび別れても、また再び逢ふことが出來ると思ふならば、このやうに思慮分別も亂れて戀ひ慕ひはせぬ。
〔評〕 當然過ぎるやうなことを云つてゐるが、それが幼げに響いて、あはれである。幼稚に還つて一層悲哀の効果をあげた歌である。
〔語〕 ○心つくして 四句の異傳。心の限りを盡しての意であるが「心亂れて」の方が優れてゐる。
 
1806 あしひきの荒山中に送り置きて還《かへ》らふ見れば情《こころ》苦しも
     右の七首は田邊福麻呂の歌集に出づ。
 
〔譯〕 人げも無い荒涼たる山の中に、弟の亡きがらを送り葬つて置いて、人々が皆歸つて行くのを見ると、自分の心は苦しくて堪へきれぬことである。
〔評〕 大勢で屍骸を送つて來た人々が、次第に山から去つて行く。歸る人の後姿を見ながら、今は物いはぬ弟ではあるが、暫くでも永く側にゐてやりたいといふ肉親の情である。人麿の「衾道を引手の山に妹を置きて山路を行けば生(408)けりともなし」(二一二)に句法が似てゐる。人麿は、自分が山路を歸る時の心持で聊か趣は異なるが、眞情は一である。
 
    勝鹿《かつしか》の眞間娘子《ままのをとめ》を詠める歌一首并に短歌
1807 鷄《とり》が鳴く 吾妻《あヅま》の國に 古《いにしへ》に ありける事と 今までに 絶えず言《い》ひ來《く》る 勝鹿《かつしか》の 眞間の 手兒奈《てこな》が 麻衣《あさぎぬ》に 青衿《あをくび》著《つ》け 直《ひた》さ麻《を》を 裳には織り著て 髪だにも 掻《か》きは梳《けづ》らず 履《くつ》をだに 穿《は》かず行けども 錦綾《にしきあや》の 中《なか》に裹《つつ》める 齋兒《いはひご》も 妹に如《し》かめや 望月《もちづき》の 滿《た》れる面《おも》わに 花の如《ごと》 咲《ゑ》みて立てれば 夏蟲の 火に入《い》るが如《ごと》 水門入《みなといり》に 船漕ぐ如く 行きかぐれ 人のいふ時 幾許《いくばく》も 生《い》けらじものを 何すとか 身をたなしりて 浪の音《と》の 騷く湊の 奧津城《おくつき》に 妹が臥《こや》せる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが加も 念ほゆるかも
 
〔題〕 勝鹿の眞間娘子 眞間の手古奈のこと。「四三一」參照。
〔譯〕 あづまの國に昔あつた出來事であるといつて、今に至るまで絶えず語り傳へて來た葛飾の眞間の手兒奈といふ娘は、麻の着物に、青い襟をつけ、裳には麻を織つて著て、髪さへもろくに梳らず、履さへ穿かずに歩くけれども、錦の綾の中に包んで大切にされてゐるお姫樣でも、この手古名の美しさにどうして及ばうか。滿月のやうな豐かな面わに、花のやうに笑を含んで立つてゐると、恰も夏の蟲が火に飛び込むやうに、また湊に八らうと船が漕ぎ集まる如く、誘ひ寄せられて、男たちが樣々に言ひよつた時に、人の命は幾らも生きられないものを、どうしようと身を分別したものか、浪の音の騷ぐ湊近い墓場にかやうに横たはることになつた。それは遠い昔にあつた事であるのに、つい昨日にでも見た事のやうに、あはれに思はれることである。
(409)〔評〕 赤人の歌(四三一)と共に、勝鹿の眞間娘子を詠んだ集中の二長歌の一である。赤人の作が墓所の自然の景色を取り入れて、懷古の情を述べてゐるのに比し、これは傳説そのものを委しく述べてゐる。しかも「麻衣に青衿著け、直さ麻を裳には織り著て、髪だにも掻きは梳らず、履をだに穿かず行」く手兒奈の「望月の滿れる面わに、花の如ゑみて立」つ容姿の描寫、人々が「夏蟲の火に入るが如、水門入に船漕ぐ如く」慕ひ寄り、云ひ騷ぐ敍述など、具體的に生彩を帶びて、眼前に見るが如く描き上げられてゐる。敍事詩人高橋蟲麿の手腕は、まことに萬葉集中特異なものであることが痛感されるのである。
〔語〕 ○鷄が鳴く 枕詞。「一九九」參照。○直さ麻 「ひた」は純粹の意。麻の意。○齋兒 大切にかしづき育ててゐる兒。○行きかぐれ 「かぐれ」は諸説あつて明かでない。宣長は妻をよばふ意(記傳)、略解は懸想の意と推測し、新解には、香具山、神樂等、神の依り著く意に「かぐ」と用ゐてゐるものがあり、その「かぐ」の活用で、誘ひ寄せられる意と思はれる、といつてゐる。○何すとか 次の句まで連續して「何すと身をたな知りてか」の意。即ち、どうしようと我が身を考へてかの意。○身をたな知りて 「たな」は悉く、すべてなどの意。「身もたな知らず」(五〇)參照。○妹が臥せる 投身を直敍せずに、その結果を、墓に臥てゐるといつたのである。
〔訓〕 ○青衿 「衿」はエリとよむ説が多いが、大野晋氏の説により、クビとよむ。
 
    反歌
1808 勝鹿《かつしか》の眞間《まま》の井を見れば立ち平《なら》し水汲ましけむ手兒奈し念《おも》ほゆ
 
〔譯〕 葛飾の眞間の井を見ると、此の井のもとに立つて水を汲んだと思はれる美しい手兒奈のことが、あはれに思ひ出されることである。
〔評〕 眞間の井のほとりに常に水を汲みに來たに違ひない手兒奈の、麻衣に青衿をつけた可憐な姿を思ひ浮べたので(410)ある。今作者が踏んでゐる土は、かの麗人が履を穿かぬ足でいたいたしく踏みならしたその同じ土かと見れば、感慨無量なものがあつたであらう。
〔語〕 ○立ちならし 絶えず往來して、井のほとりを踏み平かにする意。
 
    菟原處女《うなひをとめ》の墓を見る歌一首并に短歌
1809 葦屋《あしのや》の 菟原處女《うなひをとめ》の 八年兒《やとせご》の 片生《かたおひ》の時ゆ 振分髪《をばなり》に 髪たくまでに 竝《なら》び居《ゐ》る 家にも見えず 虚木綿《うつゆふ》の 隱《こも》りて坐《を》れば 見てしかと 悒憤《いぶせ》む時の 垣ほなす 人の誂《と》ふ時 血沼壯士《ちぬをとこ》 菟原壯士《うなひをとこ》の 廬屋《ふせや》燒《た》く 進《すす》し競《きほ》ひ 相結婚《あひよば》ひ しける時は 燒大刀《やきだち》の 柄《たがみ》押撚《おしね》り 白檀弓《しらまゆみ》 靫《ゆき》取り負《お》ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競《きほ》ひし時に 吾妹子が 母に語らく 倭文手纒《しづたまき》 賤《いや》しき吾が故《ゆゑ》 丈夫《ますらを》の 爭ふ見れば 生《い》けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉《よみ》に待たむと 隱沼《こもりぬ》の 下延《したば》へ置きて うち嘆き 妹が去《い》ぬれば 血沼壯士《ちぬをとこ》 その夜|夢《いめ》に見 取り續《つづ》き 追ひ行きければ 後《おく》れたる 菟原壯士《うなひをとこ》い 天《あめ》仰ぎ 叫《さけ》び哭《をら》び 地《つち》に伏《ふ》し 牙喫《きか》み誥《たけ》びて 如己男《もころを》に 負《ま》けてはあらじと 懸佩《かけはき》の 小劔《をだち》取《と》り佩《は》き 冬〓蕷葛《ところづら》 辱《と》め行きければ 親族共《やからどち》 い行き集《つど》ひ 永き代に 標《しるし》にせむと 遠き代に 語り繼がむと 處女墓《をとめづか》中に造り置き 壯士墓《をとこづか》 此方《こなた》彼方《かなた》に 造り置ける 故縁《ゆゑよし》聞きて 知らねども 新喪《にひも》の如《ごと》も 哭《ね》泣きつるかも
 
〔譯〕 葦屋の里の菟原處女が、八歳ぐらゐのまだ幼稚な時分から、振分髪に髪を束ね上げるやうになつた年頃まで、(411)家を竝べた隣の人達にも顔を見せず籠つてばかりゐたので、どうかしてその美しい姿を見たいものであるとやきもきして、大勢の男たちが言ひ寄つて來た時、その中でも、茅渟壯士と菟原壯士との二人が、特に進み競つて、求婚をして來た折の樣は、互に太刀の柄を撚り、弓を取り靱を背負うて、水火の中にでも飛び込まうと、競《せ》りあつた。その時處女が母に向つて云ふには、賤しい私ゆゑに、立派な壯士たちの爭はれるのを見ると、假令生きてゐたとて、どちらのかたの意に從はれませう。いつそ私はあの世でお待ちしませうと心に思うて、うち歎きつつ身を投げて死んでしまふと、茅渟壯士は、其の夜そのことを夢に見、處女の跡を迫つて死んで往つたので、あとに殘つた菟原壯士、これも天を仰ぎ、大聲をあげて泣き叫び、地に伏して齒噛みをし、くやしがり、同輩の男に負けてはゐまいと、常に身につけてゐる短い刀を佩いて、跡を尋ねて死んで往つてしまつた。それで、三人の親族の者たちは寄り集つて、永い後の世までの標《しるし》にしよう、また遠い末の世までの語り草にもしようとて、處女の墓を、眞中に造り置き、壯士たちの墓を此方と彼方とに造つて置いたのであつた。さういふ故よしを自分は聞いて、遠い昔の知らぬ世の出來事ではあるが、新しい喪のやうに悲しくて、聲をあげて泣いたことであつた。
〔評〕 まづ蒐原處女の引籠りがちのしとやかな性情を述べ、處女を見ようとして集まる男の中に、血沼壯士と蒐原壯士の二壯士があつて、相競うて嬬問うたこと、ついで、處女は生きて思ふ人に逢ひ難きを母に訴へて自殺をしたことを敍してゐる。その死を夢に見た血沼壯士の自殺、つづいて蒐原壯士の自殺、親族どもが形見として處女墓を造り、その左右に壯士墓を建てたことを言ひ、最後に、作者の主觀を述べて結んだもので、その構想の精緻、人物の生彩、敍逃の的確、恰も劇詩を讀む感がある。二壯士が處女を得ようとして爭ふ措寫の、今や刀を拔いて戰ふかと思はれる息詰まるばかりの緊張ぶり、中に挾まる處女のしとやかな可憐さなど、敍事的手腕の非凡を語るものである。更に、菟原壯士の自殺のことに及んでは、死に至るまで競ひ争つてゐた悲壯さが、いたましい。
〔語〕 ○八年兒 八歳の子。○片生の時ゆ 未だ十分成長しない時から。○うつゆふの 枕詞、意味に諸説がある。(412)○いぶせむ時の 心の晴々せぬ時の。「二七二〇」參照。○垣ほなす 人垣を作る程多くの人が。○人のとふ時 「とふ」は妻問ふの意。「一七四〇」參照。○血沼壯士 和泉國茅渟の里の男。○廬屋燒く 枕詞。廬屋で火を焚けば煤の垂れる意で「すす」につづく。○進し競ひ 「すすし」は勢よく進む意。○相よばひ 「よばふ」は「呼ぶ」妻を呼ぶ、即ち結婚すること。○燒大刀 火に燒いてよく鍛へた刀。○柄 大刀の柄。○靱 箭を盛る器。○倭文手纒 枕詞。「六七二」參照。○逢ふべくあれや 「や」は反語。○ししくしろ 黄泉の枕詞。語義は明かでない。○隱沼の 枕詞。「二〇一」參照。○下ばへ置きて 心のなかに窃かに思つて。○蒐原壯士い 「い」は助詞。「二三七」參照。○叫び哭《をら》び をらびは大聲で叫ぶこと。○牙喫み誥《たけ》び 齒ぎしりをして叫ぶ意。○如己男 自分と同輩の男の意に解してゐたが、山田孝雄博士は、「もこ」は仇敵の意「ろ」は音を助けたもので、張り合つてゐる男の義といふ説を出された。○懸佩き 「かき」は接頭辭。○ところづら 枕詞。蔓を尋ねて薯を掘る意で「とめ行く」にかかる。
 
    反歌
1810 葦屋《あしのや》の菟原處女《うなひをとめ》の奧津城《おくつき》を往《ゆ》き來《く》と見れば哭《ね》のみし泣かゆ
 
〔譯〕 葦屋の菟原處女の墓を、往きにも還りにも見ると、いとほしくて聲をあげて泣かずにはゐられぬことである。
〔評〕 長歌の終句の「新喪の如も哭泣きつるかも」の主觀を更に反覆して、作者の同情を強く表明したものである。
 
1811 墓《つか》の上《うへ》の木《こ》の技《え》靡けり聞きし如《ごと》血沼壯士《ちぬをとこ》にし依りにけらしも
     右の五首は、高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ。
 
〔譯〕 墓の上の木の枝が、一方に片寄り靡いてゐる。さては話に聞いてゐたやうに、處女の心が、茅渟壯士に依り傾いて居たのであるらしいな。
(413)〔評〕 長歌の本文にはないが、此の反歌によつて、處女の心のよつたのが、ちぬをとこであつたことが知られる。
〔訓〕 ○よりにけらしも 白文「依家良信母」。通行本その他仙覺本はすべて、「依」の下に「倍」の字があり、これを「仁」の誤とする説(古義)もあるが、元暦校本以下の非仙覺本に無いのに從ふべきである。
 
萬葉集 卷第九 終