和歌史の研究、佐佐木信綱、大日本學術協會、435頁、4圓、1915.12.25、1921.7.25訂正再版
 
(1)【増訂】和歌史の研究序
 
 上古以來現代にいたる和歌の變遷發達を明らかにせる和歌史の著はされんことこそは、わが國の學界に最も望ましきことの一つなれど、なほ思ふに、今日はそが爲に、史料の蒐録批判等を必要とすること多しといふべし。吾人多年ここに志し、些か得たるところを一卷にまとめて、さきに公けにしつるが、この和歌史の研究なり。しかも學問の研究は、月に日に進みゆけば、その後、今人の論文の出でたるあり、古人の遺文の公けにせられたるあり。吾人もまた、新たに考へ得つるもの尠なからず。
 本書は、さまき日本歌學史とともに、帝國學士院より 奨を蒙(2)りて、恩賜賞を忝うしたるが、日本歌學史はすでに増訂を施して公けにしつるに、本書は未だその擧にいたらざりき。こたび、その後の研究によりて補正を試み、版を新たにすることとなしつ。即ち、卷末に加へつる十數頁の補遺は、或は微細に過ぎ、或は煩瑣にわたれる嫌なきにしもあらねど、固より專門的研究の立場より、精確を期するが爲に外ならず。吾人は、世の篤學なる人の、更に精緻なる研究を積みて、和歌史を大成せられむことを、希望するものなり。
   大正十年六月廿五日         文學博士 佐佐本信綱識
 
(1)和歌史の研究  目次
  序論…………………………………………………一
第一編 上世……………………………………………七
  第一章 上世の歌謠………………………………七
    一 上世の和歌の概觀………………………七
    二 上代文明と和歌………………………一七
    三 祝詞壽詞及び語詞に就いて…………二四
  第二章 萬葉集…………………………………三一
    四 萬葉集概觀……………………………三一
(2)    五 萬葉集第五卷論……………………三七
    六 柿本人麿………………………………四六
    七 叙事詩人高橋蟲麿……………………五〇
    八 最も古き萬葉註釋書の發見…………五八
    九 天治萬葉第十三卷……………………六一
    十 仙覺秦覽状の發見……………………六四
    十一 元暦校本萬葉十四卷本の發見……六七
    十二 有栖川宮家の元暦校本萬葉………七〇
    十三 平安朝書寫の萬葉に就いて………七一
    十四 西本願寺舊倉本萬葉集……………七二
    十五 仙覺奏覺状の古鈔本………………八〇
    十六 二人仙覺……………………………八三
    十七 古葉略類聚抄に就いて……………八五
    十八 萬葉學史上の慶事…………………八九
(3)    十九 類聚古集の出版…………………九一
    二十 義公と萬葉集………………………九四
    廿一 契沖と萬葉代匠記………………一〇〇
    廿二 水戸家と萬葉集…………………一〇二
    廿三 桂宮萬葉集の筆者………………一〇三
    廿四 藍紙萬葉集解説に就いて………一〇八
    廿五 外人の萬葉集飜譯………………一一一
  第三章 風土記の歌…………………………一一三
    廿六 風土記の歌………………………一一五
第二編 中世………………………………………一三三
  第四章 神樂催馬樂…………………………一三三
    廿七 神樂催馬樂に就いて……………一三三
(4)  第五章 古今集時代………………………一四五
    廿八 古今集論…………………………一四五
  第六章 中世歌學……………………………一五九
    廿九 貫之公任の歌學説………………一五九
    三十 公任卿抄に就いて………………一六三
    三十一 類聚證…………………………一六三
    三十二 歌經標式の古寫本に就きて…一六五
    三十三 隆源口傳………………………一六八
    三十四 和歌現在書目録………………一六九
    三十五 悦目抄論………………………一七〇
    三十六 悦目抄の異本…………………一七七
    三十七 六百番陳状……………………一七八
    三十八 若宮社歌合後序………………一八〇
(5)    三十九 日本紀歌註…………………一八一
    四十 和歌色葉集に就いて……………一八三
  第七章 今様及び雜藝………………………一八八
    四十一 歌謠史の研究とその新資料…一八八
    四十二 梁塵秘抄に就いて……………二二四
    四十三 今井似閑と梁塵秘抄…………二二六
  第八章 新古今時代…………………………二二八
    四十四 新古今集私見…………………二二八
    四十五 建禮門院右京大夫……………二三一
  第九章 中世の新派…………………………二四一
    四十六 中世の新派……………………二四一
第三編 近世………………………………………二四五
(6)  第十章 近世の歌風………………………二四五
    四十七 近世の歌風……………………二四五
  第十一章 元禄前後…………………………二八〇
    四十八 傳授思想破壞の第一人………二八〇
    四十九 戸田茂睡の壽碑………………二八六
    五十  養壽庵に於ける契沖…………二九〇
    五十一 荷田東滿に就いて……………二九二
  第十二章 賀茂眞淵及び其門下……………二九六
    五十二 眞淵の肖像……………………二九六
    五十三 眞淵と公美……………………二九八
    五十四 眞淵と宣長……………………三〇二
    五十五 宣長の歌の師二人法幢……三一〇
(7)    五十六 宣長の歌學…………………三一一
    五十七 石上私淑言の第三卷…………三一四
    五十八 久老と宣長……………………三二〇
    五十九 大平の宣長観…………………三二六
    六十  村田春海の歌風及び歌論……三二九
    六十一 楫取魚彦の歌…………………三三七
    六十二 歌人としての上田秋成………三三九
    六十三 中臣由伎麿……………………三四一
  第十三章 香川景樹及び幕末歌人…………三四三
    六十四 景樹の歌論の中心思想………三四三
    六十五 景樹の肖像……………………三四五
    六十六 橘守部の自傳とその者書……三四七
    六十七 富土谷御杖の著書……………三五〇
(8)    六十八 塙保己一と歌學……………三五一
    六十九 蒲生君平の歌…………………三五五
    七十  橘曙覽が詠史の歌……………三五八
  第十四章 附録………………………………三六二
    七十一 探頤記…………………………三六二
    七十二 續探頤記………………………三八四
    七十三 歌學史資料断片………………四〇四
    七十四 彰考館の古書…………………四一一
 
  結語……………………………………………四二一
 
  挿入書畫目次           竹柏園所藏
    一 天治萬葉集卷二………………………六二
(9)    二 仙覺奏覽?古鈔本………………八二
    三 古葉略類聚抄第八卷…………………八七
    四 萬葉代匠記初稿本…………………一〇一
    五 フヒツマイヤー譯萬葉集…………一一三
    六 古今集衛門切………………………一四七
    七 歌經標式古鈔本……………………一六五
    八 戸田茂睡寛文五年の書……………二八七
    九 養壽庵に於ける契沖………………二九一
    十 賀茂眞淵肖像………………………二九七
    十一 大平の宣長觀……………………三二七
    十二 香川景樹肖像……………………三四六
 
 
(10)和歌史の研究目次 終
 
(1)   和歌史の研究
 
                 佐佐木信綱著
 
       序論
 
 國文學に關する研究が日に月に新たなる今日に於いて、元來おこるべくして未だおこらなかつたのは和歌に對する眞の研究である。和歌たるや、いふまでもなくわが國民文學の精髄であつて、わが國民が過去の文學的産物中最も重きをなすものである。或意味に於いて、わが國民の過去の精神生活の――時代によつて或は全汎的に或は部分的に――或は結晶され、或は少くとも反映されたものである。而して或意味に於いて、わが國の文學史また國學史の根柢をなし、又おもな分野を占めて居る。
 蓋し紀記時代に屬するわが國最古の文學の産物と言つては、記紀に載つて居る二百餘編の歌謠があるのみである。奈良朝時代に至つても、古事紀と並んでその重きをなして居るもの(2)は萬葉集である。平安朝に至つて、散文の文學が盛んになつて、伊勢物語源氏物語等の多くの作品が出たが、その物語といふものは、詞書ある和歌を連續した形から發展したもので、即ち和歌的の情趣といふものが一編の一貫的根柢をなして居る。而して和歌そのものに於いても、古今集以下の勅撰集が續き出て益々盛んであつた。足利時代以後から一般の文學の衰微とともに和歌が衰へたが、この間にも、和歌は當時の士人の教養の具となつて來た。コ川時代に至つて文藝の興隆とともに和歌は盛んになり、それとともに古歌の研究はおこつた。古歌の研究は實に當時の國學の殆ど凡てであつた。契沖の語學の研究も、眞淵の古道の唱道も、その根柢は萬葉集の研究であつた。
 かやうに見てくると、和歌及び和歌の研究の歴史は、實に國文學の歴史及び國文學研究の歴史の重きをなし、またわが國の文明史にも深い關係を持つてゐることは明らかである。尠くとも、和歌史及び和歌研究史を無視しては、一般の國文學史、またわが國の古來の文明は到底完全に理解し得ないのである。而してまた從來の歌論に至つては、實にわが國の文學論、もしくは文學批評の重きをなして居るものであつて、わが國の文學上の見解の歴史を研究するには、歌論の研究は是非ともなされねばならぬ。殊に况んや、明治大正の代に入つて、和(3)歌はまさに一新面目を開き、全く新區劃に入らむとして居る。歌風歌論に於いて從來の歴史に大觀を試みるのも、或はまさにその時磯ではなからうかと思はれる。
 由來和歌の歴史的研究といへば、まさに歌學の一部といふべきもので、更に之を二大別して、歌學史と和歌史とになすことが出來る。歌學史とは、發達せる歌學の端緒たるべき歌論を中心として、和歌に關する一切の研究の變遷發達を研究するのを目的とするもので、之に對して、和歌史とは、各作家各時代の歌風や變遷、流派の消長を明らかにするを目的とするものである。
 而してこの種の研究に至つては、古來わが國の學者間に未だ十分に爲されなかつたが、しかし勿論その萠芽を爲し、又端緒をなしたものは少くはなかつた。殊に個々の問題に關する特殊的斷片的の研究に至つては、注意すべき成績を擧げて居る。今その一例を擧げて見ると、まづ歌論の方面では、新撰髄腦八雲御抄等の所謂歌學の書にその萌芽を示し、近世諸學者、殊に富士谷成章、同御杖、本居宣長等に至つて、頗る注意すべき發達をなした。次にまた和歌史の方面でいへば、中世では古來風體抄にその瑞を發し、コ川時代に入つて、賀茂眞淵、橘枝直、富士谷父子、吉田令世等にその研究が見られる。而して、これらは、いづれも比較的(4)まとまつたものについて言つたのであるが、其他、和歌史もしくは歌學史上の個々の問題に關する研究に至つては、もとより中々精しく研究され、吾人の爲に立派な研究資料たるべきものが多々ある。殊に上古の歌の修辭的方面を研究した小國重年、橘守部、六人部是香等の歌格に就て研究したものは、最も推奨するに足りる。
 併し、從來の學者の研究たる、吾人の爲に大いに參考とすべきものてあるのは言ふまでもないが、それとともに、十分に補正し開拓すべき餘地が多く存して居る。或は萬葉とか記紀の歌とかいふ古典になると、とほく古寫本にさかのぼつて、文字や訓詁から一定して根本的に研究する必要がある。或はまた古歌集歌論の書の傳來、古歌人の傳記等については、十分に資料を探索してかゝる必要がある。殊に、或は各歌人、或は各撰集、或は各撰集等の歌風の研究とか、更に或時代にわたつた概觀といふ方面は、最も吾人の研究を要すると思ふ。
 吾人夙くこの研究に志し、或は歌學史の方面に、或は和歌史の方面にいさゝか寄與して來た。こたびその成績の一部をあつめ、ほゞ歴史的に統一してこの一編をなした。併し初めから一編の書として執筆したものでない故、多少重複せる點もあるが、こは讀者の寛恕を乞はざるを得ぬ。期する所は、たゞ後日の大成にある。
(5) 終りに臨んで一言する。わが國が世界の耳目をひいて來て以來、西洋學者の日本に關する研究は益々くはしくなつて來、或方面に至つては、日本の學者の研究以上に出でむとして居る。チエンバレエン氏の古事記の研究の出でたのも、已に數十年の昔である。歌集物語等の古典も續々譯されてゐる有樣である。和歌に關する研究も少からず發表されて居る。かくの如きは固より喜ぶべきことであるが、他の散文の文學とは異なつて、和歌にいたつては、いづれの國に於いてもその國民にして始めて之を解し得べきで、この點に於いて西洋の學者いかに聡明なりとも、和歌研究者としてはわが國の學者に劣れるものといはねばならぬ。而して吾人としては、この意味に於いて、わが祖國の詩歌の研究に任じて、稱すべき成績を後代に傳ふるは、實になさざるべからざる義務であると思ふ。時恰も歐洲の大戰爭に際し、今後に於けるわが國民の使命の大なるを感ずるとともに、吾人國文學の研究に從事するものとして、特にこの感に堪へないのである。
 
(7)   第一編 上世
 
     第一章 上世の歌謠
 
       一 上世の和歌の概觀
 
 單に上世と言つても長年月の間の事であるから、その間にもとより變遷發達はあるが、暫く之を上世と言ふ一範圍に概括して見ると、この時期の歌は、その種類から言つても、その歌はれた思想から言つても、その形や體から言つても、複雜多樣で、歌としてのその性質も一層擴大せられたもので、歌としいへば三十一字の抒情詩と限られて了つた後世の和歌とは、大いに趣を異にして、ある意味では、一層進んだものであつたのである。而して實に後世進歩發達し來つた凡ての韻文は、いづれもこゝに淵源を有してゐる。
 まづ體から言へば、短きは二句より初めて、長きは百數十句にいたる種々の體があつて、(8)その句も、萬葉以前には必ずしも五言七言と整うて居らぬ。之等は萬葉に至つて、短歌、長歌、及び旋頭歌の三體となり、一句の字數も大方五言七言と整うたのであるが、萬葉以前に於ては、未だ混沌として居た。これはもとより自然の結果で、雜然たるものが統一され整へられた點に於て、進歩と見る可きであらうが、その爲に和歌の形式を窮屈にし、十分な發達をとゞめた趣がある。この點から見れば、偏りたる發達であると思はれる。少し例を擧げて見よう。
 二句の歌といふは、
  あなにやし、えをとめを、
  あなにやし、えをとこを、
 の二首で、之を歌と見る可きか否かは、徳川時代の歌學上の問題となつた所であるが、暫く歌の萌芽と見るに差支はない。
 三句には、五七七の片歌といはるゝものと、五七五の格と見るべきものと、二種ある。即ち、
  はろばろに、琴ぞ聞ゆる、島のやぶ原、
(9)  濱つ千鳥、濱よは行かず、磯傳ふ、
 四句には、
  えみしを、ひたりももな人、人はいへども、たむかひもせず、
 五句は短歌てあつて、例をひくまでも無いが、之にも種々の變體がある。即ち各句の字數が、始めは五七と整つてをらぬのである。その著しいのは、
  やまとの、たかさし野を、七ゆく、少女ども、誰をしまかむ、
の類である。
 また五句の東歌の後に、前に述べた三句の片歌を添へた體もある。
  八田の、一本管は、子持たず、立ちか荒れなむ、あたら菅原、」ことをこそ、菅原といはめ、あたらすがし女《め》、」
 また片歌を初めにおいて、次に短歌をおいた體もある。
  御諸《みもろ》の、その高城《たかき》なる、大ゐこがはら、」大ゐこが、はらにある、肝むかふ、心をだにか、相思はずあらむ、」
 六句の歌には、五七七、五七七の旋頭歌體、即ち片歌を二つ並べたものといふべき體、
(10)  池の邊の、小槻の下の、しぬな苅りそね、それをだに、君が形見と、見つつ忍ばむ、
 次に、短歌の終に更に一句を添へた佛足石體がある。
  いかづちの、ひかりの如き、これの身は、死《しに》の大|王《きみ》、つねにたぐへり、おづべからずや、
 短歌の上に一句をそへた體もある。
  いざあき、ふる熊が、いたでおはずば、にほ鳥の、近江の湖に、かづきせなわ、
 其他、五七と整うてをらぬ句を六つ連ねた、
  久方の、天かなはた、めとりが、おるかなはた、隼わけの、みおすひがね、
の如き體がある。
 七句以上は長歌である。詞珠衣の分類によれば、十五句までが小長歌、十六句より五十句までが中長歌、その以上が大長歌であるが、そのいづれも普く歌はれた。小長歌はおもに記紀にあるが、萬葉にも十三の卷などにはすぐれた作が出て居る。例へば、七句には、
  みづみづし、久米の子等が、粟生には、かみら一本、そねがもと、そねめつなぎて、うちてしやまむ、
 八句には、
(11)  つぎねふ、山城|女《め》の、木钁《こくは》もち、うちし大根《おほね》、ねじろの、しろたたむき、まかずけばこそ、知らずともいはめ、
 九句には、
  冬ごもり、春さり來れば、あしたには、白露おき、夕べには、霞たなびく、初瀬のや、こぬれが下に、鶯鳴くも、
 この小長歌は、長歌の中でも、中世にはすたれた體である。大長歌は、萬葉に多くある。最も長きが、卷二の人麿が高市皇子殯宮の時の歌で、百四十七句ある。
 また、互に歌を以て問答しあつて一首の歌をなす問答體もある。日本武尊の唱和を始めとして、催馬樂に例が多い。
  夏引の、白糸七はかりあり、さ衣に、織りても着せむ、汝妻《ましめ》離れよ、
  かたくなに、物いふ女かな、まし、麻衣も、吾が妻の如く、袂よく、きよく肩よく、ぬひ着せめかも、
 連歌の始も、已にこの時代にあつた。即ち、大伴家持と尼との、
  さほ川の、水をせきあげて、植し田を、 尼
(12)  かるはつ飯は、ひとりなるべし、   家持
 それから、連作もあつた。
  此頃の、我戀力、記し集め、功に申さば、五位の冠、
  此頃の、我鯉力、たばらずは、都に出でて、訴へ申さむ、
 の如き、その一つである。
 長歌の如き句數の多さものに於いては、一篇のうちに段落があつて、節をなして居た事も注意すべき事である。この例は催馬樂に多いが、長歌にも數多ある。而して長歌にては、段落毎に打かへしの修辭を用ゐる事が多い。萬葉十三に、
  もゝしね、美濃の國の、たか北の、くくりの宮に、日向ひに、いでましの宮を、ありと聞きて、わが通路の、おきそ山、みぬの山、」なびけと、人はふめども、かくよれと、人はつけども、心なき山の、おきそ山、みぬの山、」
 以上は、體についていつたのであるが、その歌はれた思想の性質からいへば、後世の和歌の如く、叙情詩もしくは叙景詩のみに止まらぬ。童謠といつて、時事を詠じたものがある。多くは諷刺的の性質を帶びたものであつて、例へば皇極紀に出でた、
(13)  岩の上に、小猿米やく、米だにも、たげて通らせ、かまししのをぢ、
 の如きがある。催馬樂には、この系統をひいたものがある。また叙事詩とも見べき物語歌もある。萬葉卷九の浦島子の歌、及び同じ卷の勝鹿眞間娘子、また菟原處女を詠じた歌の如き、それである。
 或は又、滑稽を詠じては、古今以後の俳諧歌の單に詞を弄した比でなく、一層生趣の活動したものがある。萬葉卷十六の、
  家に有し、櫃に?さし、をさめてし、戀の奴の、束み懸りて、
  痩す/\も、生けらばあらむを、はたやはた、?を取ると、河に沈るな、
  我妹子が、額に生ふる、双六の、ことひの牛の、倉の上の瘡、
 の如きである。また、祝詞、就中、大祓詞の如き、その敬神の思想罪惡の觀念など、わが國の歌のうち比較的宗教的の性質あるものもあつた。
 その他、思想上、中々深い面白いものもある。例へば、
  高山と、海こそは、山ながら、かくも現《うつ》しく、海ながら、しかもたゞならめ、人はあだものぞ、空蝉の世人、
(14)  いさなとり、海や死にする、山や死にする、死ねこそ、海は汐干て、山は枯れすれ、
 など、後世の歌には却つて見られない。
 次に、修辭上から見るに、その巧妙なる對句、重言、打かへし、枕詞の類、守部が所謂、光彩、數量、方邊等の、當時殊に多く用ゐられた譬喩法は、いづれも上世の歌の特色をなすものであつて、凡そ直喩法、隱喩法をはじめ、擬人法、諷喩法等、後世の歌文に見えた修辭法は、いづれも已に用ゐられた。以上を例について説明せむに,
  かぐはし、花橘は、ほつ枝は、鳥ゐからし、しづ枝は、人とりからし、三栗の、中つ枝の、ほつもり、あから少女を……
 ほつ枝は、しづ枝はの二句は對句で、それから三つ栗の云々でうけて、この全體が序となつて、ほつもりあから少女を形容して居るのである。この對句は歌格の基礎をなすものであつて、或は二句對句、三並對句、連對句等の種類がある。
 重ね言とは、
  かしのふに、よくすをつくり、よくすに、かみし大みき……
  高殿を、たかしりまして……
(15) の如きアリテレエシヨンの事で、これも頗る用ゐられた。また打かへしとは、
  しなてる、片岡山に、飯に飢て、こやせる、その旅人《たびと》あはれ、親なしに、なれなりけめや、さす竹の、君はやなき、いひにゑて、こやせる、その旅人あはれ、
 の如き反覆法である。神樂催馬樂の修辭の最も重なものは、この反覆法である。
 光彩とは、
  あから少女 玉裳 玉たすき 豐旗雲 みか星 足國
 のあから、玉、豐旗、みか、足、の如きで、雅澄が古義にいへる、發言、尊辭、美稱、賛辭、親辭の大方は之に屬する。
 數量とは、
  一道 二面 三栗 四方の國 五伴緒 七はかり 八汐の衣 五十槻が技 百たらす 五百重 千波
 の一、二、三、四、五、七、八等の數量的形容である。
 方邊とは、
  こむれが上 上つ枝 下つ枝 中つ國 弓末 手末 山邊 磯のうらみ 眉根 道の隈
(16) とやうに、場所を示した形容であつて、之も上世の和歌に殊に多き修辭法である。大體、上世の歌は、その修辭の巧なこと、句格の整然としてをつたこと、殊に長歌の句格などは、後世にはるかに立勝つてをつて、和歌の形式的研究を試みようとする人は、是非この上世の歌について、まづ研究せねばならぬ。
 その用語から言つても、佛語漢語をも取入れて詞の範圍の廣かつた事、自由であつた事、古今集以後の歌の比でない。その例は、萬葉に數多ある。
 最後に、一般に詩趣といふ點から之を見ても、繊細とか優美とかいふ點は、後世の歌に及ばぬ所もあるが、そのかはりに、雄大とか滑稽とかいふ點は却つて後世の歌に勝り、總じて感情の僞り飾らずまことなる事に於いて、模倣的形式的な後世の歌よりも、歌としての價値が大である。
 要するに、和歌は上世に於て始ど十分に擴大し、かつ又進歩して居たのである。まして歴史的に見れば、紀記の歌が萬葉集に至る輕過は、その後景にわが國純粋の文明が、漢學思想佛教思想を取入れて、奈良朝文明の花と開いた歴史を有して居る。上世の和歌の歴史的研究が、いかなる興味あり價値があるかは、多言を須ゐずして明らかであると信ずる。
 
(17)       二 上代文明と和歌
 
 文明、殊に詩歌の盛衰は、必ずしも一般文化の盛衰と並行して居らぬ。然りといへども、詩歌もまた文化の産物であるからには、この兩者の間には、何らかの關係があらねばならぬ。吾人はこの點から、上代、主として藤原奈良朝の和歌の歴史を考へて見ようと思ふ。
 平安朝以前を上代となせば、國初から奈良朝にいたる文明の發達は、四段の大段階をなして居ることは、學者の一般に認めるところである。第一の段階をなすものは、應神天皇時代の朝鮮文明の渡來である。漢文學の典籍は輸入せられ、工藝美術は傳來し、儒教思想の影響は人心に浸潤しそめて來た。第二の段階は、欽明天皇前後の佛致文明の渡來である。敬神崇佛の二派は、新舊兩思想の衝突となり、はては宮廷の爭にも及んだが、終に聖コ太子の大才が出でてより、佛教文明の興隆となり、その結果、工藝美術の發達となり、簡古雄勁なる推古式藝術の製作は生じた。第三の段階は、大化の改新である。大化の改新は、即ち隋唐文明輸入の結果で、制度官職、一に隋唐文明に倣つたものである。改新以後六十年の間に、律令は制定せられ、學制兵制はとゝのひ、始めて漢詩は制作せられ、外國音樂の輸入となりて雅樂(18)寮は出來、隋唐文明は大に模倣せられた。而して此の間に、法相倶舍の宗旨は輸入せられ、佛數は一層勢力をもつて行はれた。斯くして奈良朝に入るや、華嚴、やゝおくれて律の二大宗の、支那より輸入せらるゝあり。佛教は益々盛になり、こゝに在來の文明はその發達を盡して、燦然として精華を開いた。而してその佛教の隆盛とともに、目覺しい壯觀を呈したものを、建築彫刻の發達とする。その他、詩歌に、修史に、前代に見ざる盛觀であつた。而してこの奈良朝七代七十餘年の文明の最盛時は、實に雄麗無比なる彫刻建築の製作を以て有名なる天平時代である。咲く花の匂ふが如きとは、實に當時の帝都の榮えであつた。然るに、奈良朝も末期に至つては、漸う餘弊が生じて來て、雄健の精神は失はれて、文弱の風が社會に浸潤して來た。
 一般の文明が、以上四段の變遷發達をなした間に、和歌は如何なる變遷發達をなしたか。凡そ上代の和歌の歴史を考へて來ると、そは又四段の段階が認められる。國初より推古帝頃までを第一期として、その間は、和歌の形式も未だ確定せず、思想も極めて素朴幼稚である。欽明天皇頃にいたりて、一段階をなして、その頃より形式も整齊し、思想も一般に純化せられて來てゐる。然るに、持統文武の朝に入るや、こゝに天才人麿の出づるありて、上代和歌(19)は、その雄大秀麗の歌風を發揮して、嚴然として純固の域に入つてゐる。これ實に、上代の和歌の成熟せし黄金時代である。更に進んで奈良朝に入つて、なほこの上代隆盛期の黄金時代は連續して居たが、漸うはりつめた勢のゆるみかけた姿て、天平の盛時頃には、和歌は雄健の風から離れて、平易の歌風に赴く端をなして居る。この歌風を代表して居るものは、大伴家持以下奈良朝の歌人である。かくて、奈良朝の終から平安朝の初期へかけては、衰頽に向つて、つゞいて平安朝初期の漢文學隆盛となり、和歌は、文化の本舞臺から影をひそめて居る。斯くの如きが、上代和歌變遷の事實である。
 こゝに斯くの如き和歌變遷の歴史を、前述の一般文明のそれに對照して考へ來ると、吾人はその間に多少の注意すべき關係のあるを思ふ。抑も兩者の對照は、吾人をして直ちに兩者の變遷の并行してをらぬことを注意せしむる。朝鮮文明の渡來、佛教文明の渡來、隋唐文明の模擬、平安遷都の四段をなしてゐる一般の文明の趨勢と、長き原始時代を經て、舒明以後に一歩發展し、持統文武に隆盛になり、その以後衰へかけた和歌の消長とは、自らその行き方を異にしてゐる。朝鮮文明、佛教文明の渡來したその時代も、和歌はなほ原始の?態にあつた。聖コ太子が出でられて、文物工藝一榮えした推古朝を過ぎた頃より、和歌は漸う一段(20)の進歩につきかけた。大化の革新に始まる隋唐文明模擬時代も、和歌には別に變化はない。ところが、その末期に至つて、一躍隆盛の域に入つた。而して奈良朝文化の盛時なる天平時代には、却つて隆盛の域を去つて、衰へかけて居る。
 之をわが國の上代に就いて見ると、詩歌と、その他の美術工藝法令制度等の一般の文明とは、各上代文明の別方面を代表して居ることを知るのである。そを何ぞと言はば、一般文明がその始めより外國文明の刺戟影響によりて發達し、終にいたつても猶その模倣も多く出なかつたのに對して、和歌はその、變遷發達に於いて、その趣を異にし、外國文明の直接の影響は殆ど之を受けてをらぬ。さればこそ、その以前に於いては固より、佛教の興隆その極に達した奈良朝に於いて之を見ても、和歌にあらはれたる佛教思想の如きは、極めて僅かなもので、殆ど一方に雄麗無比なる佛教美術をなした時代の産物なるかを疑はしめるほどである。かくの如きは、蓋し一は當時の文明の外來的、また外的方面を語り、一はその固有的、また内的方面を語るものである。而してこの外的方面と、内的方面とが、斯くの如く背いて、一致してをらぬことは、やがてその外的文明が、未だわが國民精神に十分に消化せられず、十分にわがものとせられなかつたことを示すものである。和歌の歴史と、一般文明のそれとが、(21)別途に變遷發達してをるのは、一方からいへば、又かくの如き理由があるからである。
 併しながら、和歌も、彫刻建築法制等の其他の文明も、等しくこれ時代の産物である。その變遷發達の間には、全然交渉なしとは考へられぬ。否、吾人にして更に委しく兩者の間の關係を究め來らむか、果してその交渉を認め得る。然らば、その交渉點は何處にありやと云ふに、吾人は之を上代國民の氣力といふ點に認める。
 和歌作品の殘れる數も少く、その變遷發達の跡も顯著でない太古の時代は之をおく。奈良朝の前後六七十年間の和歌の隆盛と、工藝美術法制等の發達とを併せ見て來ると、吾人はその間に、上代國民の雄大にして旺盛な氣力といふ點に一致を認むるのである。藤原朝の和歌の雄大なる調、悲壯の想、激越なる感情は、この氣力の聲である。而して又、よく外國の文明の精華を吸收し、學んでなし得た天平美術の雄麗も、實にこの國民氣力の結晶である。萬葉集中なる天才人麿が千古の雄篇を讀んで、例へば東大寺、三月堂、その他の古寺に殘れる天平美術の遺品に對すると、吾人は兩者の間に、共に漲り溢れてゐる一種雄麗の精神を會得するのである。これ實に上代國民の精神の發現である。一面から見れば、各自別途の發達を爲せる和歌と、その他の文明とは、こゝに一致して居るのである。
(22) かくの如く考へ來ると、前に述べた和歌の發達と、その他の一般文明の隆盛との間に於ける時代上の關係にも、また意義が認めらるゝのである。和歌は、前にも述べた如く、一般文明の隆盛に先だつて隆盛になり、一般文明の隆盛時代には、已に衰頽に傾きかけてゐる。さらばこの間の意義は如何といふに、吾人は思ふ、藤原時代の和歌の隆盛は、即ち雄大なる國民精神の成熟である。その成熟せる精神が、外國文明の模範のもとに、外面的に發表せられたものが、天平時代の文明の壯觀である。而してこの時代には、已に内部の精神は、成熟し發達し盡して、力衰へてゐる。而して即ち、つゞきおこる文明の衰運を暗示してゐる。大伴家持によつて代表せらるべき歌人の作中に見ゆる一種平弱の精神は、この事實を示して居るのである。造形美術の盛觀その極に達してゐる、その一方には、斯くの如き衰運が暗示せられて居るのである、天平美術の雄麗に對して、心に家持が作を吟咏すると、此の間の消息は一種の深き味を以て吾人の心に感ぜらるゝであらう。
 而して、之は又一方に、上代に於ける文明推移の地理上の關係から觀察して見ると、興味の一層深いものがある。
 東には、春日、三笠、高圓、一帶の連山、西には、伊駒、葛城、金剛の峻峰、脈々とし(23)南方に走つてゐる。この間の平野、東西三四里、南北六七里、これ所謂古への大和國原で、實に吾人が述べ來つた上代文明の舞臺である。而して、この大和國原の地は、その文明推移の跡によつて、自ら南北の二部に別れてゐる。三山地方と奈良地方とこれである。三山地方は即ち南方畝傍山、天香具山、耳成山の三山鼎立の地であつて、こゝは畝傍橿原宮の昔より、持統文武の朝にいたる帝都の地である。即ちこれ、奈良朝以前の文明の故地である。淵瀬定めなき飛鳥川の流、田野の中を縫へるあたり、丘陵起伏して、こゝかしこに千數百年前の諸都諸寺の故跡は、今もなほ相交り相接して遺つて居る。こゝにして、畝傍山麓なる皇祖が建國の地、漢文學の曙光に照らされた大輕の里、はた佛教渡來の故跡たる向原寺の跡をはじめ、豐浦、岡本、小治田の宮より、香具山の西麓なる藤原宮にいたる諸帝都は、實にこの方數里の間に存在して居るのである。この三山地方の跼蹐の間に立つて、數百年間の文明のはぐくまれ培はれて來た經過を思ひ、さてこの地の文明の終局として、精華を放てる藤原朝の和歌を思ひ來ると、吾人は實に上代文明の精神の、欝乎として蓄積し凝結して、自ら洩れてこの雄大の調をなしたことを思ふのである。さて轉じて奈良地方に至らむか。まづ都跡村佐紀なる田野荒草の裡に、大極殿の跡をとひ、小安殿、龍尾道、朝集殿、歩廊等の礎石、今なほ芝(24)地田畑の中に碁布し、千餘年の遺跡たづぬべき間に立つて、こゝを北端として、南北三十町、東西二十五町、縱横九條の大道を通じた帝都の壯觀を想見せむか、東の方には、春日三笠の山が屏風の如くたつて、その麓には、東大寺、興福寺の堂塔、樹間に聳えてゐる。萩に名高き高圓山は、春日山につゞいて、その頃は離宮の甍も望まれたであらう。北は、佐保佐紀の山ゞ起伏して、昔は春の櫻、秋の鹿の名所であつた。法華寺、西大寺、唐招提寺、藥師寺等、西の京の諸大寺は、三笠山麓の諸大寺と相對し、堂塔相のぞんで、今もなほ、當時の梵唄讀經の聲を聞く思ひあらしめる。規模の大、地勢の快濶、三山地方が欝結せると、全然面目を異にして、彼處の間に蓄積せるものゝ、まさにこゝに精華と開き出づべき地であるのである。かくの如く觀來れば、かしこに藤原朝の和歌となりし上代の文明の精神が、こゝにあらはれて天平美術を以て代表せらるべき奈良朝文明となつた文明推移の經過は、この地勢上からしても、自然に、かつまた吾人にとりて明瞭に會得せらるゝのである。
 
       三 祝詞壽詞及び語詞に就いて
 
 歌謠といふことを廣義に解した立場に立つて考へると、祝詞壽詞及び語詞等もその中に入(25)るべきである。
 この三者は、從來の文學史家は、多くは散文の祖として認めたものである。併し吾人は、一方に宣命の後世散文の祖として存して居るのに對して、この三者のむしろ韻文として認めらるべき性質を多く有してゐることを思ふ。勿論、韻文的てあると言つても、その性質は長歌短歌等とは同じではないが、少くともこの三者は、思想に於いて修辭に於いて、長歌のそれと似たところが多い。これ吾人がこゝにこの三者について述べる所以である。
 祝詞といふのは、「のりときごと」の略で、神に申す詞の義である。祭の詞、祓の詞等がある。神の怒をなだめ、神を悦ばしめて災禍を防ぎ、幸福をもとめるために神に申しあげる詞の意で、要するに、上古の人の幼稚な宗教的感情を述べた祈?の詞である。壽詞も殆ど祝詞の一種といふべきものである。けれども、專ら祝賀の意を述べるもので、室壽の詞の如きは、單に祝賀の意を述べて、神に告ぐる意がない。なほ神樂歌の中に、まるで神事に關係のないものがあるのと趣を同じくしてゐる。祝詞壽詞の現存して居るのは、延喜式に殘つて居る廿六編、台記中に殘つてある中臣壽詞、顯宗記の室壽詞等合せて廿八編がある。是等の祝詞壽詞の制作時代については諸説があるが、其うちのあるものは、祭神の式と共に太古にその端を發し、(26)口づから言ひ傳へられ――その間に多少の潤飾變化を經つゝ――而して或時代に至つて(宣長は大寶令の頃ならむといつた)書きうつされ、現今傳はつて居るものゝ如き定型を得たであらう。又あるものに至つては、これらの古い祝詞壽詞に範をとつて、順次に作り爲されたものであらう。故に、これらの祝詞壽詞、殊にその太古に屬するものに於いては、たとへそをさながらに太古のものとは言ひ得ざるも、中に太古の傳説と太古の語とを含んで、國文學史上最も貴重なものである。なほ制作時代について、六人部是香は、「古語拾遺」「天書」等によつて、「大祓」「大殿祭」「御門祭」の三つは神武の御代に成つた(大祓詞天津菅麻にいづ)といひ、賀茂眞淵は、その文體上から、「出雲國造神賀詞」は舒明の朝に作られ「大祓詞」は天智天武の朝に、次に「崇神を却く」「大殿祭」は藤原宮の末に作られたもの、「祈年」「廣瀬」「龍田の祭」等は奈良宮の初頃と考へた(祝詞考序)。かく時代を確定することは、宣長も言つた如く、俄に從ひがたしといへども、吾人はその文體、その含んでゐる思想から考へて、大祓詞と出雲國造神賀詞との二つを最も古いものとし、中臣壽詞、祈年祭、大殿祭、龍田風神祭、廣瀬大忌祭、遷却崇神祭の數編を、これについで古い型を殘せるものとし、以て藤原朝前後に屬せしむるの可なるを信ずる。
(27) 紀記萬葉の歌謠に對して、祝詞壽詞が、宣命とともに、一方にわが國散文の淵源であつたことは確かな事實である。しかし祝詞壽詞そのものは前にも一言した如く、これをその性質から見、修辭から考へると、寧ろかの宣命に比して遙かに韻文的色彩をおびて居る。宣命は、天皇が臣下に下し給ふ勅であつて、これを神にさゝげた祝詞に比すると、兩者ともに同じく當時の口語として類似せる所はあるが、宣命は散文的である。祝詞が神を喜ばす爲に調子をとゝのへて歌はれたといふ事實、祝詞及び語詞の曲節があつて謠はれたことは、北山抄卷五大甞會の條にもその證がある。又その長歌の一句法と同じく、對句を設け、反覆を試み、言葉を綾なして、極めて耳に訴へて快いやうに作られたことなど、これ宣命に比して祝詞の特質をなせるもので、即ち韻文的性質といふべきである。例へば、出雲國造神賀詞の、「白玉の大御白髪まし赤玉のみあからびまし」の一節の如きは、殆ど長歌の體をなして居る。
 然らば、祝詞壽詞の上世の歌謠史に於ける意義如何と考へて見ると、その特色は、第一に、幼稚ながら我が國の歌に缺けた宗教詩的性質をもてることである。祝詞中にも、格別敬神の思想の歌つてないのもある。また歌つてあるものに於いても、その思想たる極めて乏しいものである。併しさういふ程度の敬神の思想すら、他の一般の和歌のうちに多く之を見るを得(28)ない。第二に、たとへ幽玄深刻といふが如き點はないと雖も、その結構の雄大な、その想像の豐富な趣は、他の歌謠に比して異彩を放つて居る。祝詞に見る、遠く筆を建國の初めに起して堂々と叙して來る筆法は、一種壯大な觀がある。而して祝詞が上代の和歌史上に有せる歴史的意義は、一つにはこの句法に存して居る。これ即ち人麿の長歌に大なる影響を與へたものである。人麿の作の、句法雄大、前代の長歌の比にあらざる觀あるは、これ實に祝詞に學び得た結果である。
 今この祝詞の例として、大祓詞をあげて説明する。大祓詞は、前に述べた如く、祝詞の中でも最も古いものゝ一つで、罪を神の前に祓ひ清めた古俗のうたはれたものとして、上古の人の罪惡觀、もしくは道コ觀をうかがふべき材料としても、注意される。「科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、」「朝のみぎり夕べの御霧を朝風夕凪の吹き掃ふ事の如く、」「大津邊に居る大船を舳解きはなち艫解き放ちて大海原に押し放つ事の如く、」「をち方の繁木が本を燒鎌の敏鎌もちて打掃ふ事の如く」の如く、同じ句法を反覆したところ、又さらに後段の、「高山の末ひき山の未よりさくなだりに落ちたぎつ、早川の瀬にます瀬織津姫といふ神、大海の原に持ち出でなむ、」「かく持ち出でいなば、荒汐の汐の八百路の、八汐路の汐の八百合に(29)ます速あきつ姫といふ神、持ちかゞのみてむ、」「かくかゞのみてば、氣吹戸にます氣吹戸主といふ神、根の國底の國に氣吹放ちてむ、」「かく氣吹放ちてば、根の國底の國にます速さすら姫といふ神持ちさすらひ失ひてむ、」と重ねた句法の如き、いづれも吾人が所謂韻文的特質をなして居る。
 壽詞の例としては、室壽詞をあげる。室寿詞は日本書紀顯宗天皇の卷に出たものである。新室を壽いだのである。「築きたつる稚室葛根、築き立つる柱は此家長の御心の鎭なり、」「取擧ぐる棟梁は、此家長の御心の林なり、」「取おける椽?は、この家長の御心の齊ひなり、」「取置ける蘆?は、此家長の御心の平らぎなり、」云々と句を重ねて來た句法、またその各句の譬喩的の言樣、いづれも韻文的である。否、全く一編の歌と見なしてよい。而して歌としての價値も、むしろ大祓の詞に勝つてゐる。(かつ萬葉第十六なる爲鹿述痛作の「吾角は御笠のはやし、吾耳は御墨の坩、吾目らは眞澄の鏡、吾爪は御弓のゆはず」云々の句法が、この室壽詞から出たと思はれることも注意すべきである。)
 次に、語詞もまた多くは韻律のない叙事詩と見なすべきもので、その思想は、長短歌の思想と異なつて、自ら別種の趣を爲して居る。殊に國引詞の如きは、その雄大な思想は、後代(30)の和歌などに到底見るべからざるものである。これは出雲風土記に出たもので、その句法から見ても、その思想から言つても、一編の無韻の詩といふべく、歌としては他に類例のない作である。
 
(31)     第二章 萬葉集
 
       四 萬葉集概觀
 
 試みに世界諸文明國の文學者を歴史的に表にして一見せむか、西暦七八世紀、即ち我が藤原奈良の時代は、西洋に於いては殆ど空白なるに反して、東洋に於いてはおそらくは古今を通じて(近世を別にしては)最も人名の輻輳せるを見るであらう。而してこの時代こそは、まさに日本にあつては人麿赤人等の出でた萬葉集の時代で、支那にあつては李白杜甫の出でた盛唐の時代である。當時に於ける東洋二大文明國の文學の隆盛は、世界文學史上の偉觀といふべきである。
 而も一層精しく之を觀るに、盛唐の詩は李杜以下幾多の專門詩人の事業なるに、奈良朝の歌に至つては、些か趣を異にして、人麿赤人等專門の歌人のみならず、また國民一般の勞作である。盛唐に萬葉集なくして奈良朝にこれありしは、うべなりといふべきである。
 萬葉集は二十卷一本の大歌集なりといへど、固より完全に齊整せられたる選集ではない。(32)一部分形式上齊整のあとあるとともに、また大部分は未だ草稿の面目を留めて居る。而して各編いづれも多少の特色を有し、必ずしも一樣に見るを得ざるものあつて、研究者にとつて寧ろ興味ある特質をなして居るが、今試みに一つの見地より概觀せむか、吾人は之を左の三種に大分するを得る。
 第一には、後世の勅選集と同じく、專門歌人の傑作を集めたる、いはゞ古典的選集として見る場合。
 第二には、第一とは稍や異なりて、專門歌人よりは、寧ろ當時の國民一般の作といふに重きをおいて、換言すれば民謠集として見る場合。
 第三には、萬葉集の撰者たる大伴家持(もしくは家持を中心として見たる大伴家)の歌日記として見る場合。
 第一の場合に屬すべきものとしては、時代作者ともに定かに、編次の法も正しき第一、第二の兩卷をはじめ、卷の三の大部分、(終りの一部をのぞきたる)、卷の四の前半、卷の六、卷の九等これに屬し、卷の七、卷の八、卷の十等、これに准ずる。萬葉集に於ける有名なる歌人の作は、概ねこの部分に載せられ、概ね作者を明らかにし、(但し七、十の兩卷は作者すべ(33)て不詳)古典的歌集としての萬葉集の面目は、これらの卷々に盡きて居る。殊に就中代表たるべきものは一二の兩卷で、眞淵がこの二つを、最も「古き選と見ゆ」とし、「古き大宮風」としたもこの故である。この部分に於いて最も光彩を放てるは人麿である。而して古來の萬葉學者が最も重きをおいてその發揮につとめたのは、この方面より觀た萬葉集の兩目なりといふを得る。
 第二の場合に屬すべきものとしては、十一、十二、十三、十四、十五、十六の諸卷がある。十一、十二の兩卷は、古今相聞往來と標した上下の歌どもをあげ、更に正述心緒、寄物陳思、譬喩、問答、羈旅、悲別等の目をしるして、當時の庶民の抒情の歌を載す。兩卷金體を通じて作者の名を記さず、最も天眞爛漫の趣に富んで、前部門の作に見るべからざる異色がある。十三の卷また作者を記さず。此卷には小篇の長歌の簡古雄勁にして、無技巧のうちに至極の技巧こもれるものが多い。崇古家たる眞淵が、特に此卷の古風なるをめでて、考の第三卷に擬したるもうべなりと云ふべきである。十四の卷は各部東歌で、多くは東方野人の作、民謠的趣味最もゆたかである。十五の卷は、天平八年新羅に遣はされた使人の往還の作、及び當時彼等が誦した古歌を主とし、別に中臣宅守と狹野茅上娘子との悲戀の作を載す。前者は庶民詩とし(34)て東歌に准ぜしむべきものを含み、後者に至つてはまた一異彩をなす。十六の卷には傳説にともなへる歌をはじめ、戯咲歌、詠數種物歌等を載す。後二者に至つては滑稽歌で、後世の誹諧歌とは選を特にし、一層の生趣がある。總じて十一以下の六卷、就中十三、十六の兩卷の作は、從來一般歌學者の間に比較的重んぜられなかつたこととて、隨つて研究の余地多く殘されたる觀がある。最も後人の獨創を俟つものが多い。
 第三の場合に屬するものは、十七、十八、十九、二十の四卷を主として、三の卷末、四の後半、六の一部等がある。全體をまとめて大伴一家の集をなすといへども、主たるは家持にある。而して之を家持の家集として見て最も興味ゆたけきは、其作の概ね年月日を記して、前にも述べた如く一編の歌日記を爲せるやの觀あることである。而して天平十八年(家持歿前四十年)の前より同二年(家持歿前五十六年)までの年月を記した作は、斷續的に(十七の卷を主として三、四、六等の卷々に)あげられてあるが、天平十八年七月家持が越中守に任ぜられて下つてより、天平寶字三年正月元日(家持歿前廿七年)因幡守在任中の作に至るまで十三年間のものは、十七の卷の後半以後、二十の卷末までに、年月日の順にて載せられてある。是に於いてか、たとひ爾後歿年(延暦四年)にいたる彼の晩年の作は之を缺くといへども、壯年(35)以來中老にいたるまでの彼が歌風の變遷、隨つてまた心的變化のあとは明らかに之をたどり得べく、たとへば壯年の武人的歌人たる彼に、後年無常觀の歌を見るが如き、頗る興味ゆたけきものがある。もしそれその歌風の間に變遷を讀んで、萬葉歌風の推移を察するが如きは、面白き研究事項であらう。
 この三種の外に、なほ五の卷の如きは、之を集中最も注意すべき歌人たる憶良の家集とも見るべきもので、研究上注意するに足りる。由來憶良は人麿赤人に比して古來聲名劣れる觀があるが、その歌人としての天分に於いて、決して兩者に劣らざるものである。かの貧窮問答の歌に見るが如き切實なる感情、かの令反惑情歌、哀世間難住歌等に見るが如き古代國民思想等は、大いに注意すべきもので、彼が渡唐の事實、彼が作の措辭用語に漢詩的影響あること等を以て、彼を模倣歌人となすが如きは皮相の見である。吾人は彼の思想の本質に於いて、寧ろ純日本的歌人を見ることが多い。卷の五を中心として諸卷にわたり憶良を研究するは、また家持に對する研究と共に、學問的興味ふかきものがあらう。
 以上試みに吾人が萬葉集に對する概觀的見解の一部を述べたに過ぎぬ。幸ひに學者の參考とならば幸甚しい。終りにのぞんで、一言、言及せまほしきは、眞淵が萬葉考に於ける萬葉(36)集卷次改訂の試みである。
 眞淵によれば、今傳はれる萬葉集廿卷は奈良朝當時の原形でなくて、原形は宮ぶりと國ぶりとの二つに分れゐたる六卷で、今本の一、二、十三、十一、十二、十四の順なる一、二、三、四、五、六の六卷よりなつた。その他の十四卷は、家々の集及び誰か一人の集めたものなどで、まづ今本十と七とが七、八にて、未詳の同一選者の手になれる一類をなし、今本五が九にて憶良の集をなし、今本の十五が十一の卷となりて別種の一類をなし、今本の九、八、四、三、六、十六、十七、十八、十九、二十が、十、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十となつて、家持の家の歌集たりといふにある。而して眞淵がかくの如き改訂の理由は、主として歌風の新古に對する鑑別と、編次の體裁に基づく見解とに存し、古今集序に萬葉集に入らぬ歌をえらぶとなしながら、集中には實際萬葉集の歌七首入れたるを傍證として居る。彼は萬葉集がかく混同したのは延喜後の事で、仙覺が校合の際にも奈良朝當時の原本を見るを得ざりしものというて居る。
 眞淵のこの見解が、史實に根據なき獨斷論で、にはかに首肯すべからざるは言ふまでもない。然りといへども、彼がこの考の根本となつた原萬葉集てふ思想と、萬葉集各卷々の歌に對(37)する歌風、歌體上の鑑別に關する眼職とは、さすがに卓見とすべきもの多く、古學者としての彼の天分の大なるを示して居る。之を獨斷論として空しく看過し去るが如きは、決して眞に眞淵を解する所以でない。要するに眞淵が萬葉改訂の説は從ふべからずといへども、その思想は重んずべきである。
 
       五 萬葉集第五卷論
 
 萬葉集二十卷中に異彩をなせる第五卷は、予の考ふる所では、舊説の如く、大體に於いて憶良が自記自選の家集である。即ちこの一卷は、憶良の歿後、その編纂せる類聚歌林とともに大伴家に傳はつたもので、かねて憶良の歌風に私淑してゐた家持が、萬葉集編成の際之を殆どそのまゝ編入したものである。隨つてこの卷は、かの十三の卷東歌の卷などと同じく、一種の特色ある一卷として萬葉集中に存在してゐるのである。以上は自分のかねて信じ、かつ今も信じてゐる説である。
 然るに昨年(大正三年)の三月、武田祐吉君が來訪されて、その第五卷説を聞くことを得た。當時予は、其箇々の歌の説に就いてほゞ同じ考を有したコ川初期の學者三宅正堅のこと(38)を語り、且いつかは同君の説を世に紹介したいと思つて居た。さるをこの三月(大正四年)、わが「心の華」に萬葉號を出すについて、芳賀博士の寄稿を得たところ、博士の説はゆくりなくも武田君の説に符合してゐる點が多い。こゝに第二萬葉號を出すにつけて武田君の寄稿を請うた。
 よつて芳賀博士及び武田君の説に就いて、予の考ふる所をこの機會に一言したいと思ふ。
   第一、個々の歌文の作者に就いて
 第五卷所載の歌は、舊説に於いては大抵憶良の作と爲された。多少異説をなしたのは、古人では三宅正堅と契沖とである。(正堅は正保四年に契沖は元禄二年に述べてゐる)いま古人近人の諸説を參照しつゝ、兩君の説に論及して見よう。
   (一)日本挽歌
 正堅は、「蓋聞」云々の文詞を指して、「此文詩與挽歌同時之作憶良也」とし、次に日本挽歌の條に、「此歌悼大伴卿妻没之作也序與詩共一時之作也」としるし、又、「仙覺が憶良が妻におくれて詠める歌也と思へるは誤なり、末に憶良上とあるを見て知れ、大伴卿へ遣はしたる歌なるをば」と云うてゐる。此説は芳賀博士の説と一致する。而して契沖眞淵千蔭雅澄等が、こ(39)を憶良がその妻を悼める作とした説は、かの博士の精しい説によつて打破られたと云へる。
   (二)梅花歌三十二首並序
 序を、契沖は代匠記本文には「未詳誰之作」と記し、同拾遺には「憶良の作なるべし」とし、東滿雅澄木村博士も「憶良の作ならむ」とし、黒川博士は「憶良の作なり文に帥老之宅とあり」といつて居られる。芳賀博士武田君はこを旅人の作とし、殊に武田君は「帥老」の文字をその論據としてゐられる。しかし予は、老といふ文字は漢土では、「老尊稱也」「老群吏之尊者」「老卿尊稱」「老大夫之尊稱」などとあるが如く、多く尊稱に用ゐてゐるから、こゝも憶良が尊んでしか書いたと見た方が穩當である。よし旅人が書いたにしても來會者の一人の作に擬して自ら帥老としるしたと見なすべきで、自卑の稱呼ではないと思ふ。(出雲風土記の「老細思枝葉」云々は、篤胤の云うた如く「老と自ら稱へる」ものと見るべきであるが、官名の下に直ちに老とそへた自卑の稱の類例がありや否や覺束ない。)また武田氏が三十二首の順序に着眼せられたのはよいと思ふが、主賓を主人の前に擧げてあるからとて、必ずしも序を憶良の記でないといふ證にはならぬ。憶良が主人の卿の言によつて序を書き、排列をもしたとも考へられる。要するに自分は、この序を旅人の作となす説には俄かに同意しがたい。(因に云、(40)順序に就いては木村博士も、「笠沙彌俗人にはあらで法師滿誓、俗名笠朝臣麿なるべし、其故はこゝの次第國守より以上を主人の上にあげ、大監以下を下にあげたるを、此人主人の上にあれば也、」と云うて居られる)
   (三)員外思故郷歌兩首
 正堅は、「員外者梅花卅二首員數外餘之義也非官名非人名蓋梅歌一時之作故載于後當是帥詠」と言うてゐる。東滿木村博士も「帥卿の作なるべし」として居る。これらは武田君の説と合ふ。而も武田君は卷三の旅人の歌を傍證とされて、旅人の作なることを斷定されたのは精しい。契沖は「誰とも知られず」といひ、雅澄黒川博士は「憶良の作なり」と言うてゐる。「賤しきあが身」の句、また後なる「聊布私懷歌」などからおもふと憶良の作とも考へられる。(賤しきを彌重とする雅澄の説はとらぬ)要するにこの條の説はなほ考へる餘地がある。
   (四)後追和梅歌四首
 正堅は、「此歌亦帥詠」とし、東滿は「是も旅人の歌ならむか、歌の意も我宿などよみて大伴卿の歌にきこゆるなり」とし、武田君の説と合うてゐる。季吟契沖は「作者未詳」の説をとり、雅澄木村博士は「憶良の作なり」とし、黒川博士は「家持か又は憶良」としてゐる。(41)予も初は憶良説をとつた。「見む人もかも」「わが宿」等の句があるからとて必ずしも旅人の作といふ碓證にならぬ。何故といへば、前の三十二首中にも、「わぎへのその」「わがやどの」「いもがへに」など、園梅といふことについて設け詠んだ作があるからである。要するにこれまた前の兩首と同じく、考へる餘地がある。つまり前の序を旅人憶良いづれの筆と見るかによつて決定されるであらう。
   (五)遊松浦河序
 正堅は、「按此序帥老之作也何以知之吉田宜啓曰梅苑芳席群英擒藻松浦玉潭仙媛贈答此可證矣且有奈良遲那留志滿乃己大知母之詞奈良之島者帥老之古家也」と述べ、契沖は五つの證をげて、「旅人卿の作なるべし」と辨じてゐる。武田君の説は之に合うて、しかも内容論に入つてゐる。千蔭は「誰とも知りがたし、」雅澄は「憶良の作なるべし、」芳賀博士は「憶良らしい」と言うてゐられる。これは自分も旅人説に賛成する。(黒川博士は、「旅人が古への傳説を聞き擬して作れるもの、追加も卿の作なり、そは宜の返書に敬ひいへるをもて知るべし」というて居られる)
   (六)後人追和之詩三首都帥老
(42) 契沖は、「都帥老の三字は後の人の加へたるなるべし」といひ、千蔭雅澄は三字を小字にし、芳賀博士は「旅人の附記したもの」とされた。武田君は、都を在京の意に解してをられるが、之は強ひたる説であらう、宜の返書の前に載せてあるのをば、翌年の春の追加と見るもいかかである。予は此序をも歌をも旅人の作といふ説を採つて居るが、都帥老の三字については後に予の考を述べる。
   (七)詠領巾麾嶺歌
 契沖は、「歌も序も大伴卿の作なるべし」というて、武田君の説と合つてゐる。東滿は「憶良」とし、千蔭は、「此山は未だ見ねども其いはれによりて憶良の詠めるなるべし」というてゐる。予は排列の順序から考へれば、憶良の作らしいと思ふ。
 要するに、個々の歌について考へると、從來多くは單純に憶良の作とみなしたものに、旅人の作と考ふべきものがあることは疑ふべからざる事實で、この點を明らかにされた芳賀博士武田君の説は頗る卓見に富んでゐる。しかも偶然にも正堅契沖等の説と合ふものがある。而して雅澄の修正は、武田君の説の如く最も誤が多い。たゞ武田君が代匠記を參照せられなかつたのは遺憾である。
(43)   第二、第五卷は誰が集ぞ
 第五卷全體に關する古人の説を見るに、契沖は「憶良の記しおかれたるに家持の終の一首を加へて注せられたりと見えたり」といひ、眞淵千蔭は「憶良の家集」、雅澄は「憶良の家に自ら集めおかれたるものなるべし、後に家持卿のいさゝか筆を加へられしと覺しき處もあり」などとあり。憶良が自記の家集といふのが定説となつてゐる。
 さらば上節に述べた如く、箇々の歌に旅人の作が少くないといふことが明らかにされたとして、右の説は全然破壞さるべきか、もしくはなほ維持されるであらうかといふのがこゝに考ふべき問題である。
 これに對しては木村博士は、「此卷帥卿に名をいはぬは家持の家集なり、其中憶良の集を多く書入たり」とし、芳賀博士は、「旅人卿の手許で色々な歌を書込んでおいた一卷」というて、憶良家集説を否認してゐられる。武田君のこの點に於ける説も、昨年の談話の折に芳賀博士と同説に歸するやうに語られたと記憶する。
 予の考は最初に一言した如く、憶良家集説を維持し得るとなすものである。詳しくいへば、この卷は憶良が自他の歌を書き集めた覺え書で、初の雜部といふ一行と、終の戀古日歌とは(44)家持が書き添へたものであらう。即ち、旅人在世中憶良が旅人に上つた歌の草稿に、旅人の作、また旅人の房前や宜等との贈答など、聞くがまに/\採録し、更に旅人薨後の自作をも書き載せたものであらう、その證としては次の八つの點が數へられる。
 一、初めに「太宰帥大伴卿」として其作を載せ、次に自身が上つた追悼の歌を掲げてあるのが、憶良自記の體であること。
 二、「伏辱來書」云々の歌詞兩首の下に、「太宰帥大伴卿」と割註せること。
 三、「後人追和之詩三首」の下に「都帥老」と書き添へたこと。(そはこの三首は、前の仙媛との贈答と内容が矛盾してゐるが、之も帥老の作であると憶良がことわつたものと思ふ。都は太宰府をほめいへるもの、或は都督の下略ならむといふ説をとる)
 四、旅人薨後の憶良の作があること。
 五、好去好來歌の「良宅對面献三日」の句の、自身の集に記した體なること。
 六、「去神龜九年」云々の文の、まさしく作者たる憶良が自分の集に心覺えに書き添へたものであること。
 七、卷末「似於山上之操載此次」とある文體の、憶良がまとめたものゝ後に、家持が萬葉(45)集編纂の際記し添へたものらしいこと。
 八、人々の歌をも聞くがまに/\雜然と交へ載せてはあるが、全體として憶良の作が多く、その覺書と思はれること。
 以上の八點のうちには、立場を代へて見れば、芳賀博士の説の如く大伴家選説の證とも見られるものもないではないが、大體に於いて憶良家集説を證するものとなす方が、一層自然であり、就中、四、五、六、三點の如きは大伴家の筆記とは見なしがたい證である。
 而して武田君の説によつて梅花序を旅人の作と見なすとしても、憶良が見聞を採録したものと見て差支ない。同君が憶良と旅人との交遊についての説は、やゝ忖度に過ぎはせぬか。旅人から四月六日に宜に贈つた歌文に對する返書が、七月十日に太宰府に屆いた。折から七夕の宴に招かれて來て八日から十一日まで滯在中の憶良は、此贈答に對して更に「麻都良我多」の三首を上つて、翰墨の興を添へたものであらう。由來梅花の宴で諸人の歌を徴したのは、唐土では三國の魏以來盛んに行はれた讌集賦詩に擬したもの、序は、季吟契沖等の云うた如く蘭亭集序を粉本としたので、追和の歌も詩の唱和に傚つたもの、老莊の思想を喜んで歌にも老けてゐた老長官は、壯年唐土に官遊し晩年懷を專ら歌に寄せた老國司と親しく、そ(46)の作を見せかはしたのであらう。隨つて梅花宴の諸人の歌、旅人が松浦の作、宜の返書、憶良が三首の歌となり、八日の宴などに旅人が玉島や領巾麾嶺に遊んだ談が出て、更に領巾麾嶺の歌の唱和となつたのであらうと思ふが、或は之も忖度の譏を免かれぬであらう。
 要するに芳賀博士及び武田君の説によつて、第五卷中從來不分明であつた諸々の點が明らかになつたことは、吾等萬葉學に後事してゐるものゝ深く喜びとする所である。予の考の如きも、猶諸家の説を聞いて是正する所があらう。
 最後に一言したいのは、第五卷が、憶良もしくは大伴家のいづれの選にしても、萬葉集廿卷中に特殊の意義を有する卷で、當時旅人を中心として九州に於ける風流を千古に語り、また社會詩人たる憶良の面目を傳へたものであつて、從來憶良の作とせられたものから、たとひ數首の短歌と文詞とを除き去るにしても、依然として憶良の光輝は奈良朝の歌壇に異彩を放つてゐるといふことである。
 
       六 柿本人麿
 
 萬葉集時代が和歌史上の黄金時代であるといふ事の中には、二つの注意すべき事が含まれ(47)てゐると思ふ。一つは萬葉集の和歌は、文學的作物として和歌史上最も立派な産物をなしてゐるといふ事で有る。いま一つは、萬葉集には、上代人の感情が天眞のまゝに發露された庶民詩ともいふべき立派な産物を含んでゐるといふ事で有る。換言すれば、萬葉集中には、同じ萬葉風の歌でありながら、二つの別な種類が有る。即ち一つは、文學的製作に屬するもので、いはゞ藝術詩である。一つは、之に對して自然詩といふべきもので有る。これはいふ迄もなく、文藝上の素養もない庶民の徒が、素朴に自分の感情を述べた歌で有る。後者の代表としては、十四の卷の東歌等が異彩を放つてゐる。前者を最も善くかつ最も立派に代表してゐるのが柿本人麿の歌で有る。由來萬葉集の歌は、大體に於いて自然詩的性質を帶びてゐて、藝術的技巧的の要素が少い事を寧ろ其特色としてはゐるが、併し吾人が文學的製作といふ、當時の學問あり素養ある作者によつて作られた所謂萬葉風の歌になると、その藝術的技巧的の要素が中々多くある。從來漠然と萬葉集を自然無技巧と解してゐる人が想像する以上に、はるかに其要素が多い。而して人麿の歌に於いては、いよ/\然りで有る。
 わが國上代の歌は、明らかに三つの時代を經過してゐる。第一が紀記時代で、その第一期として、推古までの淵源期を含み、第二期として舒明より天武までの過渡期をなして居る。(48)此間に素樸な太古の歌が、漸う文學的に發達の機運に入つて居る。第二が即ち萬葉集時代で有る。そは前後二期に分れ、前期は持統文武約二十年間の藤原朝、後期は元明より淳仁に至る約五十年間の奈良朝で有る。この間に上代の歌は隆盛に達したのである。第三が衰頽時代で、稱コ後古今集時代まで約百三十年間である。
 第二の萬葉集時代は、即ち上代の和歌の隆盛時代であるが、その前後兩期はそれ/”\性質を異にしてゐる。大體に就いていへば、萬葉風の特色たる雄大とか簡勁とかいふ特色を多く備へたのは、後期よりは寧ろ前期で、後期に至ると歌風が漸う平明になつて來てゐる。而して人麿は實に前期即ち藤原朝を代表した第一の歌人で有る。山部赤人、山上憶良、笠金村、大伴家持等、集中のすぐれた作家は、いづれも彼の影響を多かれ少なかれ受けたので有る。人麿が萬葉集中第一の歌人たる歴史的意義は、要するに以上の如くで有る。
 さて此人麿の作と考ふべきものは、集中三樣に記載されてゐる。その一つは柿本人麿と記したもので、長歌十六首短歌六十餘首、之は人麿の作として最も確かなものである。その二つは人麿歌集に出づとあるもので、長歌二首短歌二百九十餘首、旋頭歌三十五首、その三つは或曰人麿作といふので長歌二首と短歌三首とある。此二三中には、他人の作もまぎれ入つ(49)てゐると思はれる。
 之等の作品について人麿の歌を考へて見ると、その修辭の巧妙なこと、その格調の整つて居ること、その感情の強く又純化されて居ること等の點に於いて、上代の歌の最高所を示して居るのであるが、以上の大體の性質のほかに、更に人麿に注意すべき特質として、吾人が感じた點を左に擧げて見よう。
 一、人麿は抒景よりも抒情にすぐれて居た。哀悼の情をうたひ悲しき戀を歌ふにすぐれて居た。而して又單に自己の實際の感情のみならず、よく他人の感情を想像し同情して歌ふことを知つてゐた。此最後の點が殊に彼をして上代の歌人中に傑出せしむる性質で有る。
 二、彼は長歌短歌旋頭歌の三體のいづれをも歌ひ、そのいづれに於いても當時の他の歌人に勝れて居た。これ彼の歌人として大なる所である。
 三、彼はまた羈旅の作に富み、かつすぐれて居た。之れ蓋し彼の生涯の閲歴によるのである。
 四、彼は又、國家を讃し皇室をたゝへた思想を、明らかにかつ力強く歌つた古今第一の歌人で有つた。
(50) 五、これに件なつて、彼は又懷古の思想をしば/\歌つた。こは前の國家的思想と共に、彼の歌の雄健をなす要素となつてゐる。
 六、彼の歌に注意すべきは、その漢詩漢文の影響で有る。彼がその歌の修辭に、又工夫に、また構想に、漢文學の影響をうけた事多かるべき事は、吾人の認めざるを得ぬ所である。
 以上簡單で有るが、人麿の歌人としての大體の意義は説明し得たと思ふ。終りに一言するが、彼の傳記は確實には知られてをらぬ。唯集中の歌及びその端作によつて、幾種の斷片的事實が知られてゐるのみで有る。東西文學史上の文學者に於ける類例も思ひ合されて、むしろ興味がふかい。
 
       七 叙事詩人高橋蟲麿
 
 萬葉歌人のうちで、特にすぐれた個人的特色を有して、しかも多く注意せられなかつたものを高橋蟲麿とする。上代の和歌に對して、深遠なる學殖とともに、また卓拔の識見を有した賀茂眞淵も、わづかに「田邊史福麿、笠朝臣金村、高橋連蟲麿などは、徒らに古へを言ひうつせしものなれば、強きが如くにして下よわし」(萬葉考序)と非難し去つたに過ぎぬ。固(51)より未だ彼が歌人としての特長の他に推すべきものありし如きは、これを知らなかつたのである。
 彼が傳は詳でないといへども、天平四年、藤原宇合が西海道節度使に遣はされた時の作歌あるによつで、彼また、旅人、憶良、赤人、金村、坂上郎女等と同じく、奈良朝初期を飾つた歌人なりしことは、疑ふべからぬ。
 彼が作歌と記された以外に、彼の歌集中に出づとしたものに、
  詠富士山歌
  惜不登筑波山歌一首
  登筑波嶺爲※[女+燿の旁]歌會日作歌一首並短歌
  鹿島郡苅野橋別大伴卿歌一首並短歌
  詠勝鹿眞間娘子歌一首並短歌
  見菟原處女墓歌一首並短歌
 等がある。これら、その歌調によるに、彼が作と推定してよからう。まづ彼が手腕を、その宇合を送る時の詠に見るべきである。「白雲の龍田の山の、露霜に色づく時に」と、冒頭時(52)節を叙して、其筆色彩あり。さて其山を越えて、「五百重山い行きさぐみ、賊《あた》守る筑紫に至」らば、「山のそき野のそき見よと、件の部を班ち遣はし、山彦の答へむきはみ、谷ぐくのさわたるきはみ、國がたを見し給ひて」と、簡潔の句、よく任地における宇合が上を叙し、その任を終へ給はば、「とぶ鳥の早歸りこね」と、待つ心を述べ、さて其歸りまさむ時は、「龍田路の岳邊の道に」と、再び冒頭の龍田山をかゝげ來り、「につゝじのにほはむ時の、櫻花咲きなむ時に、山たづの迎へまゐでむ、君が來まさば」ととぢめた。露霜に色づく晩秋のさびしき別に對して、三春の好景のうちに迎へむ樂しさを叙す。筒勁のうちに情意あふれて居る。更にその反歌に曰く、
  千よろづの軍なりとも言擧せずとりてきぬべき男とぞ思ふ。
 と。けだし集中、剛健の作、丈夫の歌として、著名なるもの。
 飜つて、之を他の數篇について見よ。その多數は、東國に關する歌と、傳説をうたへる歌とで、其うちなる詠勝鹿眞間娘子歌と、見菟原處女墓歌とは、ともにあはれなる美人の生涯を歌つて、集中優秀の作品たる地位を占める。眞間娘子は、昔時東國にその名高かつた佳人で、赤人が、その墓畔に立つて歌つた挽歌三首は卷三に、無名氏の手兒奈を戀うた歌三首は、(53)卷十四にある。蟲麿がこの一編、同じく墓畔で佳人がありし世の美しさを忍び、一片の苔と化し去つた今を悲しめるものであるが、彼の赤人が歌の平淡なのに比して、措辭秀麗、「錦綾の中に裹める、齋兒《いはひご》も妹にしかめや、望月の滿る面わに、花の如ゑみて」たてりし美しい人の、「幾ばくもいけらじものを、何すとか身をたな知りて、浪の音の騷ぐ港の、奧つきに」臥せると對し來つた句法、巧みなりといふべきである。この歌が、赤人の歌に對するは、なほ後にいふべき富士の歌の場合と同じい。菟原處女は、十六の卷なる櫻兒、縵兒などの例にも見えた二人の男に思はれた一少女のあはれなる戀物語を歌つたのである。他に、田邊福麿の歌集にも、この少女をうたひ、大伴家持の追ひ和らへる作もある。智奴壯士、宇奈比壯士、二人の男が、一人の少女菟原處女を思つて、互に相爭ふのを見、少女はつひに自ら身を殺したに、二人の男また相ついで死すとの、一編の複雜なる悲劇を簡勁にうたつた。その巧なる手腕、到底、福麿、家持の作の及ぶところでない。
 已に彼がこれらの數編にも見えた、東國的といひ、物語歌といふ、二つの點、これ實に、彼蟲麿が特色と見なされる。
 かく述べ來つて、こゝにいさゝか吾人の臆説を提供しようと思ふ。そはさきに擧げた登筑(54)波嶺爲※[女+燿の旁]歌會日作歌(卷九)の未に記せる。
  右件歌者高橋連蟲麿歌集中出
 の句の解釋である。かゝる場合に、指す所の歌數多くにわたる時は、右件何首と、歌數を記すが、集中大方の例である。然るに、こゝには單に、右件歌とあるよりすれば、この右件歌を解して、たゞ※[女+燿の旁]歌會の長歌及び反歌をさしたものとなすべきやうである。これ思ふに一般の解釋であらうが、吾人はこゝに、九卷卷頭の歌よりの體裁を考へ來つて、この右件歌の指す所が、ひとりこの長歌短歌に止まらず、更におしひろめ溯つて、何々(作者の名)歌何首と記して擧げ來つた最後の歌なる兵部川原歌一首の次に、詠上總末珠名娘子一首並短歌とあるより以下廿三首を含むべきを思ふ。かく定め來る時は、こゝに蟲麿歌集の歌とすべきものに左の諸篇がある。
  詠上總未珠名娘子一首並短歌
  詠水江浦島子一首並短歌
  見河内大橋獨去娘子歌一首並短歌
  見武藏小埼沼鴨作歌一首
(55)  那賀郡曝井歌l首
  手綱濱歌一首
  春三月諸卿大夫等下難波時歌二首
  難波經宿明日還來之時歌一首並短歌
  檢税使大伴卿登筑波山時歌一首並短歌
  詠霍公鳥一首並短歌
  登筑波山歌一首並短歌
  登筑波嶺爲※[女+燿の旁]歌會日作歌一首並短歌
 最後のものは、即ち上に述べたものである。而してこれらの諸編たる、過半は、例の傳説の歌と、東國の地理とに關する。殊に注意すべきは、萬葉集中長編の物語歌として最も著名な浦島子の歌、及び妖艶なる末珠名の歌を此うちに含めることである。この兩編はよく之を讀み味ふ時は、その簡勁のうちに情景躍動せる作風、かの眞間娘子及び菟原處女を歌つた歌と、選を同じうする。かつその旁證として、春三月云々の長歌の、白雲之龍田山の句、及び別大伴卿歌と、檢税使大伴卿云々の歌と、同時の作たること、時鳥の歌の冒頭等、注意すべ(56)きである。かくの如くにして吾人は、蟲麿の手腕技量の愈凡ならざるものあるを認むるのである。
 次にまた言ふべきは、三の卷なる詠不盡山歌である。同處には、有名なる赤人の歌につゞいて、なまよみの甲斐の國云々の長歌と反歌二首とを擧げてあるが、その後に、
  右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此
 とある。此右一首を、古來の解釋の如くさながらに解して、單に最後の一首の短歌を指せりとせむか、さらば他の二首はいかにすべき。高尚がなした如く、之を赤人が作とするのは、到底、赤人が歌風に關する眼識を缺けりとの譏を免かれない。これ決して平明單純なる赤人が作風でない。その作風に、前述の蟲麿が風格あるは、吾人の認むるところ。また反歌中に、「六月の望に消ぬれば」と傳説を歌つたのも、一證とし得る。さらば右一首は、寧ろ之を右三首の誤となして、この中間無所屬の二首を、蟲麿の作とせむ方、最も穩當なりと信ずる。
 この富士の歌は、「なまよみの甲斐の國、打よする駿河の國」と、冒頭まづ地理を叙して雄大。次に、「もゆる火を雪もてけち、ふる雪を火もてけちつゝ」と雪を頂だける噴火山の壯觀を簡潔にうたひ、一轉して、「あやしくもいます神かも」と疑ひ、ついで、甲斐に屬する石花(57)の湖と、駿河を流るゝ富士川とを點出し來り、山麓の廣大なるを述べて、冒頭と對照せしめ、最後に「日の本の鎭めの山」と、嘆美の詞を以て結ぶ。措辭の簡勁にして巧妙なる、結構の雄大にして神彩ある、古來富士山を歌へる歌の中に、此上に出づるものはないであらう。
 更に吾人をして想像を許さしめむか。吾人は彼の第十四東歌の卷は、これ蟲麿が輯録にかかるもので、家持が第廿卷に防人の詠を輯めたのは、(かの菟原處女の歌を追和した如く)實にこれを襲うたものならざるやを思ふ。東歌一卷、もと他の卷々と全然趣を異にして、別に一種をなして居る。もとより何人かの輯録にかゝりしものでなければならぬ。古來何人もこれに就いて論じた人なしといへども、吾人の意見によれば、之が輯録者たりし歌人は、萬葉集の歌人中、東國に在つて東國の歌に富める彼蟲麿をおいてまた他に擬すべからざるを思ふ。其旁證の一二を擧げよう。さきに宇合を送る蟲麿の長歌を掲げたが、續紀によれば、「養老三年七月庚子、始置按察使令3常陸國守正五位上藤原朝臣宇合、管2安房上總下總三國1」とあつて、蟲麿が當時、宇合の屬官として東國にあつたことの想像せらるゝ、また筑波嶺のかがひの歌の終に、「※[女+燿の旁]歌者東俗語曰賀我比」とあつて、その東歌に東國の俗言を傳へむが爲に殊更に一言一字の書式を用ゐたのと同一の用意に出でたやうで、これらによつて、吾人は、(58)吾人の憶説の甚しく誤らざるべきを思ふ。
 果してかくの如くば、高橋連蟲麿は、實に叙事詩人として、傳説を歌つた歌人として、また東國の地方歌を傳へた歌人として、集中優秀の地位を占むべきものである。
 叙情の長編にすぐれた歌人には、人麿、憶良がある。叙景には、赤人、金村がある。而してこゝに又、叙事に蟲麿がある。萬葉時代の和歌が、後世の小杼情詩のみとなつたに比して、豐富に複雜であつたことは、又言ふを俟たぬ。しかも奈良朝の時代一度幕をとぢて、和歌また振はなかつた。蓋し時勢の影響固より多かるべきも、手腕ある歌人の出でなかつたのが、寧ろ大なる原因である。吾人はこれを思ふ毎に、常に我が和歌史の爲に、長大息するを禁じ得ぬのである。
 
       八 最も古き萬葉註釋書の發見
 
 萬葉註釋の最古の書たる「萬葉集抄」を近く(明治四十二年秋)發見し得た事は、歌學史の上に吾人の大いなる喜とする所である。
 中世の萬葉研究に就いては、嘗て「仙覺以前の萬葉研究」といへる一論文を草して、當時能(59)ふ限り精細なる研究を、帝國文學及び歌學論叢に公にした。その結果、吾人は藤原敦隆の類聚古集、及び無名氏の古葉略類聚抄を、萬葉研究の最初の成績を示せる現存中最古の書として擧げた。されどこの二書は、いづれも類纂の書である。註釋の書としては、仙覺以前の著は一部も見當らず、依然として仙覺抄を現存の書中最も古しとせざるを得なかつた。
 然るに、圖書寮の圖書を見る事を許されて、官府に藏せられてゐた書のうち、和歌に關するものの殆ど凡てを閲覽することを得たが、其中に萬葉集抄二卷一册があつた。そを熟讀考査して、そが實に袖中抄に引用せる「萬葉集抄」の完本で、隨つて萬葉注釋書の嚆矢で、また好代表書たる事を知り得た。
 その書は、大形の楮紙四十七葉の古寫本で、萬葉集中の短歌百六十九首、長歌三首、旋頭歌一首を拔萃し、一首毎に傍訓を臥し、歌の次に片假名にて註釋を加へたものである。その注釋の風は、簡短なる語釋に、故事出典傳説等の説明を交へたもので、其傍訓の未だ不完全の痕を留めてゐること、その註釋の粗略なことなど、中々に當時の面影を傳へて、歴史上興味深いものである。こゝにその一例を示さう。
  茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流《アカネサスムラサキノユキシメノユキノモリハミスヤキミカソフル》
(60)   アカネサストイフハ日ヲ云フ也。此歌ニ日ヲヨメルハヨセナシマヰラセタル也。ムラサキノユキト云フハ所ノ名也。
   紫野シメノト云フ野アル也。此野ハ近江國ニアル也。サレバ天智天皇ノ蒲生野ニミユキノ樣ヲミテヨメル也。
 而して此書の時代の古い事は、袖中抄に、青によし、放ち鳥、きびの酒、ゆたのたゆた、朝もよひ、百舌の草ぐき、國栖人、兒手柏、等の條に引用した文字と對照するに、いづれも全く同じきをもていぢじるしい。(仙覺抄の、やほ蓼、百千鳥、霰たばしり、ゆぎとり負ひて、等の註にも、書名は記さざれども引用して居る。)
 そも/\この尊重すべき萬葉集抄の著者は、何人なりや。本書の末には、「撰者範永朝臣」とあるが、(範永は彼の六人の黨の一人で、後拾遺以下の作者。)こは書中に範永の名が一所見えてをるので、後人が推し考へ記し添へたもので、其次に記した藤原資經の永仁六年五月十五日書寫の奥書に、「抑此抄、範永朝臣撰之由傳聞、又奧載2彼名字1、然者雖v不v可v有v疑、今妙兒手柏之尺、範永朝臣任2大和國司1之時過2奈良坂1云々、件朝臣爲2自抄1者、何可v載2朝臣之字1哉、今案、若範永以後之人撰v之歟、以2證本1可2尋校1也」と疑へる如く、範永の書でない。さらげ何人の著なりや。吾人は彼の萬代集第十八(及び忠度集)に、「藤原盛方朝臣かきおける萬葉集の抄を借りて侍りけるを、みまかりて後跡に返し遣はすとて、平忠度朝臣、(61)「在りし世は思はざりけむ書きおきて是を形見と人忍べとは」とある盛方を思ひ起さざるを得ぬ。素より他に之を彼盛方の著と斷定する確證なく、詞書の文意も書寫せるものと見られざるでもないが、その註釋中に論じ及んだ長歌短歌の説の、恰も盛方當時の問題たりし事、綺語抄童豪抄等の影響を受けたるらしき事、及び範永以後袖中抄以前の著なる事等より推し、この萬代集中の詞書に據つて、之を盛方の著の現存せるものと爲すの、恐らくは當を得たりと考ふるのである。而して、盛方は如何なる人ぞといふに、中山大納言顯時の子で、千載集以下の作者、中宮大進出羽守に任じ、治承二年十一月十二日、四十二歳で世を去つた。盛方の母は平相國清盛の叔母。盛方の妹は二位尼の兄なる平大納言時忠の室で、安コ帝の乳母。盛方の甥時長は、平家物語の作者と醍醐雜抄には傳へて居る。
 本書が、萬葉註釋の最古の書として、歌學史上注意すべきものたる事は、以上にて明らかであらう。吾人は此書の現存せるを發見し得た事を深く喜ぶものである。
 
       九 天治萬葉第十三卷
 
 山城愛宕郡雲母坂の下なる曼殊院に、天治書寫の奥書ある萬葉集の零本、二、十、十四、(62)十五、十七の五卷を殘して居た。そを開き知つた伴信友は、種々苦心して、弘化二年にそを見ることを得、一部分を影寫して、友人なる江戸の黒川春村に報じ、春村はその考證をしるし、信友は檢天治萬葉集一卷をものした。此ことは木村博士の萬葉集書目提要に、京本として掲げてあり、また現存の老學者谷森善臣翁の直話にも、壯年の頃曼殊院で見たとのことを聞いたが、この天治萬葉が、今傳はれりや否やに就いては不明であるから、そを確めたくて、明治四十三年三月に、京都に赴いて、修學院村なる曼殊院を訪うた。大學からの照會もあり、大森京都府知事の斡旋もあつたので、院の(63)執事は快く寶藏の中に案内せられて、數人がかりで普く捜索し、古くから勅封になつて居る古今傳授の箱を除いては、あらゆる所を隈なく求めたが、遂に見當らなかつた。
 執事の話には、維新前無住であつた際、古書類を反古として賣つたとの事なので、その事實を委しく知りたい爲め、當時の坊官であつた千種顯允氏を訪ひ、氏の話によつて、全く反古となり了つたことを知つた。然るに氏は、明治十二三年頃京都府で開催した博覽會の折、福井成功氏が萬葉の古寫本を出品せられたことを記憶して居るが、或はその一部では無からうかとの事であつたので、次の朝とく洛北衣笠村の福井氏を訪うた。氏の家はもと典藥で、父祖以來蒐集せられた古書類が多いが、かの萬葉は、明治の初年に京都の下村の賣立のあつた折にもとめて、一度博覽會に出したまゝ誰にもかつて示したことがないとのこと。一見を乞うたに、快くとり出されたのは、萬葉卷十三の卷子本一卷である。紙質は仙花紙で、罫が有る。かの曼殊院のとは別卷ではあるが、全く同種の天治本である。即ち奧書に、「天治元年六月二十五日后時書寫了以肥後前司本□件本諸家本委比校了」とある。曼殊院にあつた卷十四の終には、「天治元年八月一日於白川房寫了即一校了」、卷十五の終には、「天治元年八月八日白川房寫了即一校了於本者以多本比較之由載表紙也」とある由、信友の影寫によつて知り得る(64)が、月日がよく合ふ。この「肥後前司」は六條顯季の姪忠兼で、忠兼の母はかの隆源口源の著者隆源阿闍梨の妹である。顯昭もその六百番陳状に「和歌の才覺だて侍りき」と忠兼を稱譽して居る。「白川房」は六條家草創の白川の善勝寺で、百煉抄愚管抄などに其名が見えて居る。福井氏のには、古筆家の極に基俊筆とある。時代は基俊で合ふが、筆者に就いてかゝる極は容易に信じがたい。(卷十の斷片を古筆家では仁和寺切と稱して、忠家の筆と云うて居る。)とにかく此書は、かの仙覺の萬葉集奥書によると、流布本の原本ともいふべき希世の古寫本である上に、全卷一行も缺けて居ぬ本で、かの信友も見ず、其他の學者の手にも觸れなかつたものである。
 かの曼殊院のは終に見る事を得なかつたが、それが縁となつて更に別卷を發見し、學界に紹介し得ることは、まことに喜ばしい次第である。
 
       十 仙覺奏覽状の發見
 
 こたびの京都の旅行で、萬葉學史に於ける史料としても、萬葉學上から見ても、最も價値のある仙覺奏覽状一卷を發見することを得た。
(65) そは、上述の如く曼殊院の寶庫の中を捜索した時――目的とした天治萬葉は遂に見當らずして、思ひがけぬ發見があつたのである。
 元來この奏覽状は、その中の數行が、藤澤遊行寺の僧由阿の詞林釆葉抄に引用して傳はつて居るのみで、他に所見なかりしもの、即ち南北朝以後數百年間、かつて學者の耳目に觸れずして今に至つたものである。(京都府寺志稿にも其名が擧げてあるのみである)その内容は、まづ初めに載せてある奏覽状には、觀察の餘?萬葉を披閲するに無點歌あるを歎ずる由を述べ、其中にも、短歌にては第一卷の額田王の歌、長歌にては十六卷の竹取翁の歌の和し難い事から、萬葉の書式に、眞名、假名、正字、假名義讀の四種あることを述べ、さて寛元四年七月に百五十二首の點を施せるをいひ、終りに建長五年十二月日慈覺門人權律師仙覺上とある。以上を奏覽状の本文として、次に、萬葉集新點歌として、無點歌に、推點を加へた歌數を卷々によつて擧げ、それらを通じて長歌東歌旋頭歌等に分つて其數を擧げ、次に莫囂圓隣の歌をとり出でて、ゆふづきの云々と訓んだ理由に就いて細説して居る。(而してこは、仙覺が文永六年に著した萬葉集註釋なるゆふづきの訓の次に、「これは愚老新點の歌のはじめの歌なり、彼新點の歌百五十二首侍る中に、これは委しく尺をかきそへて侍る歌也、委しき旨を知らむと(66)思はむ人は、可v爲3披2見彼尺1也」といつて、省略せるものゝ全文である。)次に此状を奏覽したによつて、院宣並びに、「和歌の浦藻にうづもれて知らざりし玉も殘らずみがかれにけり」の御製を給はつた事を載せ(此御製は釆葉抄の古寫本には出て居るが流布本には無い)次に仙洞から、時代並撰者、奈良御門、長歌短歌の三箇條の御尋があリ、重ねて仰下されたのに答へた一編がある。(これで本文が終つて、最後に、仙覺、寂印、成俊。更に由阿、澄守、及政、慈澄と萬葉學の傳統が記してある。)
 以上はその大要であるが、先に述べた如く、この全文は從來未だ何人も世に紹介しなかつたところである。しかしてこの發見の學界にもたらした新事實の主な點を擧げて見ると、左の如くである。
 一つには、由阿の引用したのはまことにいささかであつたに、こゝに全文が出て、その全體がわかつたこと。
 二つには、隨つて仙覺が萬葉集註釋に、莫囂圓隣の歌に就いて「可爲披見彼尺也」といつた、その釋が知られたこと。
 三つには、「諸本無點歌百五十二首に推點を加ふることすでに畢ぬ」と萬葉集註釋に記した(67)ものゝ卷別の内容が知られたこと。
 四つには、其傳の知らるるところ極めて少なき仙覺の傳記に、材料を提供したこと。即ち建長五年に奏覽状をささげたこと、御製を給はつたことなど。
 等である。而してその推點を加へた歌の歌數は、仙覺本の面目を最もよく傳へて居る大矢透氏藏本、京都大學所藏慶長年間寫本等の新點の歌數と全く符合して居るので、點寫本であり、書寫の時代はさばかり古くは無いが、萬葉學史上尊重すべき一資料である。
 
       十一 元暦校本萬葉十四卷本の發見
 
 予はこの數日前(明治四十三年五月)に、元暦校本萬葉集の原本十四卷を發見した。
 元暦萬葉の解題は、古くは橘窓自語、梅窓筆記、難波江及び屋代弘賢の元暦萬葉集考等に出で、近くは木村博士の萬葉集書目提要に委しく出てゐる。靈元法皇が叡覺あつて御感あり荒木田久老も見て世に珍らかなるうづ寶と稱へた。始め伊勢射和の富山家にあり、次に攝津神戸なる俵屋にうつり、桑名の松平家に傳はり、同家から水野家に贈られたるものである。然るにこれまで同子爵家に予も屡々尋ね、他の人々も尋ねたこともあつたに、所在が判らず、(68)二十二年三田の火災に全く燒失したものと成つて居たが、此程、その果してまさしく湮滅したか否かを確めたく思つて、水野家を訪うて懇々語つた。同家でも熱心に捜索された結果、去る十二日土藏の隅から發見した。それは二重の箱に入つて、中はため塗の古いよい箱であるが、外のはさばかり古くない麁末な桐の箱で、外見はつまらぬ器具か何かをいれたやうに見え、かなり重いので、花瓶が入つてをるものと思うて、殆ど此二三十年間、人の手を觸れなかつた物とのこと。初めて一册一册の紙數を調べる時には、二重箱のしかも曳出しの中にあつたにもかゝはらず、高黴がはえて居た。しかし幸ひに少しも紙蟲が入つて居なかつたのは天祐であつた。其添へてある書類によれば、天保十四年六月松平家から水野越前守忠邦に贈つたものである。元來、元暦元年に校合した萬葉廿卷がはやく五卷缺け、更に十一の卷一册が享保三年前に缺けて、十四卷現存してゐるのである。(但し各卷の枚數は缺けて居る)
 それで本文の箪蹟、また全部の紙質等から考へると、第六の卷だけは紙も違ひ飛雲も無く全く後に書き足したものであるが、他は全部同時に書いたものである。かの享保三年の神田道伴の極めの如く、筆者を、時代のかけはなれた數人とするのは誤である。殊に元暦年間校合したものを、光俊や宗尊親王としたのは、あまりに甚しい誤である。しかも數人の寄合(69)書であることは確かで、その數人を、道伴の如く、誰々と定めることはむしろ不可能といふべきであるが、公任行成といふほど元暦より遠い時代のものでないといふことは斷言が出來るとおもふ。また本書は徳川の初期頃に装幀を改めたものとおぼしく、表紙は元暦當時のもので無い。粘葉であつて古く蟲がくつたのを、鳥の子をはがして中に薄い紙をいれて修補した手際は、まことに巧みである。しかも其際に上下を少し裁つた跡があり、またとぢ改めた際に歌の順序を間違へたところ、頁を違へたところもある。殊に終の奥書のところも頁の順が違つて居る。これらは、原本を手にして初めて判つた事がらである。また塙氏が板刻した丹表紙本の卷一に一頁不足してゐること、最初の頁が空白であるのを初めから印刷してあること、朱の上の墨を墨のみにしたこと、朱と代赭との區別のないこと、代赭のところは影寫でなく臨書した爲め誤の多いこと、などが知られる。
 元來本書は、水野家にあるべきものがあつたのであるが、同家にても其在る事を更に知らず、全く湮滅に歸したものと思はれて居たのが、此度再び吾人の目に觸れたことは、蘇生したものともいふべく、大に賀すべき事と思ふ。その萬葉學 校勘上最も尊重すべき好資料であることはいふ迄も無い。かつ此書は、僅々數行の斷片すら世上古筆愛玩家に珍襲せられて(70)居るのを、十四卷壹千五百六十四頁の全形があるのであるから、ひとり水野家の重寶なるのみならず、國家の至寶であつて、この貴重の古書の存在を明かにし得た事は、學界のため喜ぶべき發見として、吾人の喜ぶ所である。
  追記 この書、後、古河氏の有に歸し、また明治天皇の天覽に入りしこと等は、別項に述べたり。
 
       十二 有栖川宮家の元暦校本萬葉
 
 有栖川王府に元暦校本萬葉の一部があることは、古くから古筆家の間に、有栖川切と稱する元暦萬葉の斷片が珍重されて居ることによつて、想像し得た所であつた。然るに、かつて王府の曝書の折、田中伯が拜觀されて、果してその元暦萬葉であることを知り、かつ驚きかつ喜ばれて、直ちに御歌所から大口氏千葉氏等を遣はされて之を見せしめられたことは、田中伯よりもまた大口氏よりも聞いたところであつた。而もその王府御藏の元暦萬葉が、何れの卷々であるかはさだかでなかつたが、近頃(大正二年)拜觀することを得て、その實に、一、四、六、十、十二、十九の六卷であつて、まさしく古河家所藏の元暦萬葉のと同じ卷々であ(71)つて、その一部なることが明らかになつた。思ふに元暦萬葉傳來史の或時機に於いて、二つに分たれたものであらう。(一卷は十六葉、四卷は十三葉、六卷は三十二葉、十卷は二十一葉、十二卷は九葉、十九卷は十九葉、すべて百十葉ある。)
 而して本書が更に王府の御許があつて、自分等の萬葉集校訂の事業に校合することが出來、橋本進吉氏が六卷全部の校合を了つたことは、わが學問界の一慶事として喜びに堪へぬ所である。かの十四卷本は、久老や經亮が校合をしたことであるが、この王府の御本が學界の人の手に觸れて、學問の爲に用ゐられたことは、此たび(大正四年四月)が其初めである。
 
       十三 平安朝書寫の萬葉に就いて
 
 萬葉集の研究に古寫本の校合の必要なことは、自分の度々述べたところである。而して校訂上の根本資料たるべき平安朝時代の書寫にかゝる萬葉集の、斷片でなく、また類纂の書等でなくして、半卷以上あるものは、かつて予が著した萬葉集古寫本考に詳説した如く、桂萬葉、金澤萬葉、天治萬葉、藍紙萬葉、元暦校本萬葉の五種であり、またこの五種の外には存せぬことは、吾人が今日までの研究によつて斷言し得るところである。しかもこの吾人の斷(72)言が破れむことは、吾人の萬葉學上希望に堪へぬ一事である。
 
       十四 西本願寺舊藏本萬葉集
 
 言ふ迄もなく、學問の研究はあくまでも根本的でなければならの。而して古典の研究の基礎は、異本を校訂して定本を制定することにおかねばならぬ。而して苟くも明治大正の新時代に生を享けた我々邦學者たるものは、コ川時代諸先輩が研究の後を承けて、更に從來の學問を根本的に築き上げる決心が無くてはならぬ。即ちこの古典校定の事業の如きは、まづ第一に我々が爲すべき所である。これ實に吾人が此方面に於ける萬葉集研究の精神であつて、また曩に文部省が文藝委員會の議を容れて、萬葉集校訂の事を爲さしめ、現に之を繼續してゐる精神であると信ずる。而してこの萬葉集校訂の爲に、唯一の根本材料である萬葉集の古寫本に至つては、その世に傳はつてゐるものが極めて尠い。予が今日までに研究し調査して、親しくついて觀ることを得た結果によれば、鎌倉末期以前のもので半卷以上の形を備へたものは、僅に數部に過ぎないのである。今まづその數部に就いて述べよう。
 萬葉集の選者と推定せられる大伴家持の萬葉の稿本は勿論傳はつて居らぬ。家持の歿後百(73)六十七年なる天暦五年、村上帝の宣旨によりて所謂梨壺の五人が訓點を施した本も傳はつて居らぬ。平安朝末期の歌學者藤原清輔の袋草子に、「萬葉葉昔は所在稀云々、而俊綱朝臣法成寺寶藏飜を申出而書寫之、其後顯綱朝臣又書寫、自此以來多流布、而至于今在諸家云々」とある。が、それらは洛中數度の火災や兵燹等の爲に多くは湮滅に歸し、平安朝の書寫に屬するもので現存して居るは、御物の「桂萬葉」及び「金澤本萬葉」、有栖川宮家及び古河虎之助氏所藏の「元暦校本萬葉」、原富太郎氏所藏の「藍紙萬菓」、福井成功氏所藏の「天治萬葉」の五種があるに過ぎない。而してその五種に就いていへば、桂萬葉は、もと桂宮家に在つた故の名、卷四の雰卷で、體歳は緑白紫青黄茶六色の繼色紙に、金銀泥で草木花鳥を畫いた卷子本、行數總計四百九十四行ある。金澤本萬葉は、前田利常の頃から同家に在つたもので、去る明治四十三年前田侯爵家へ行幸の折献上になつた。卷二と四との零本で、紙數七十八葉、唐紙地の粘葉である。元暦校本萬葉は、飛雲形鳥の子の粘葉、數人の寄合書で、二十卷の終に、元暦元年六月九日以或人校合了右近權少將(花押)とある故にしか名づけたもの。有栖川宮家には卷一、四、六、十、十二、十九の六卷、百十葉。古河氏には、卷一、二、四、六、七、九、十、十二、十三、十四、十七より二十迄の十四卷、七百八十二葉がある。こはもと同一のと(74)ころにあつたのを、徳川の初期頃に故あつて二分したものとおぼしく、卷も同じ卷、表紙も類似して居て、例へば、卷一の前半が古河氏に、後半が宮家にあるのである。宮家のは、此書の斷片を、古筆家が有栖川切と稱して居たによつて、その名は古く知られて居たのであるが、かつて、宮家御蟲干の際に、田中伯がそを拜觀せられたが、何の卷といふこと、表紙のこと等はさだかで無かつたに、予近く拜觀することを許され、始めてそれらを明らかに知ることを得たのは、こよなき喜である。古河家のは、もと水野家にありと知られつゝ所在全く不明であつたのを、明治四十三年に發見したものである。藍紙萬葉は、薄藍漉紙に銀砂子のある卷子本で、古くその斷片を藍地萬葉というた故、しか名づけたもの、卷九の零卷で六百十八行ある。こはもと會津松平家に在つたのを、今は原氏の藏に歸したのである。天治萬葉は、他の四種が書寫の時代が明らかでないに、これは天治元年の奥書が有る故、しか名づけたもの。古く萬殊院にあつた卷二、十、十四、十五、十七の、五卷は散佚して、福井氏に卷十三の全卷が有る。仙花紙墨界の卷子本である。
 降つて鎌倉時代の書寫のものは、中期のものとおぼしい傳壬生隆祐筆の卷九の零本三百九行がある。そは素紙の粘葉であつたのを、今は卷子本三卷にしてある。こは予が架中に藏し(75)て居る。また、神田男爵所藏のものがある。一より十までは粘葉であつたのを綴本に改めたもの、白界の鳥の子の小本で、鎌倉末期の書と思はれる。十一より廿まではもとよりの綴本で、南北朝頃に前十册に傚つて書き足したものと推定せられる。
 別に、集中の歌を類纂せる後代の學者の著書中で傳はつて居るものには、まづ平安朝末期の書寫とおぼしい類聚古集十六卷千二百六十七葉がある。こは鳥の子白界の粘葉で、もと烏丸家に在つたが、今は中山侯爵家に藏せられて居る。この書は現に帝國學士院補助のもとに上田萬年博士が枚訂刊行せられつゝある。次に建長二年書寫の古葉略類聚抄の零本五卷がある。卷八、九、十、十二、不明の卷の五册百八十九葉で、もと春日若宮の千鳥家にあつたものを、延寶八年水戸家で謄寫せしめたが、そは彰考館に收められたまゝであつた。後、安永六年江田世恭が寫して世に流布するに至つたもので、元暦校本十四卷本と、これとは、徳川時代の萬葉學上の二大發見で、學界を益したものである。原書は仙花紙白界、大形の綴本で、うち四卷は奈良なる興福院に、卷八一卷は予の家に珍襲して居る。以上はいづれも萬葉學上尊重すべき典籍であつて、類聚古集、藍紙萬葉、元暦校本萬葉十四卷本は、明治四十五年東京帝國大學に於いて、明治天皇の天覽に供し奉り、興福院の古葉略類聚抄は、明治四十三年(76)京都帝國大學に於いて、北白川宮殿下の台覽に供したことである。
 要するに、吾人が萬葉集校訂事業の根本資料たるべき古寫本は、極めて尠く、上記の九種に、予の未だ見ることを得ざる註釋の書二種を加ふるも、種類に於いて漸く十指を屈し得るのみである。しかもそれらは、多くは原書の一部分で、二十卷全體を完備したものは殆ど無いと言うてよい。かゝる處に、最近(大正二年)發見せられたのが、こゝに紹介しようとする西本願寺本二十卷である。この事は近く市に出でて、高田相川氏の有に歸するに至つたもので、古來嘗て學者の眼に觸れなかつたものであるから、此書に就いては、些か精しく述べようと思ふ。
 西本願寺舊藏本萬葉集は、鳥の子二つ折の所謂大四半形で、長一尺六分、幅八寸二分、萬葉の古寫本中形に於いて最も大いなるもので、筆者及び書寫の年代は記して無いが、卷一より十まで、十一より十六まで、十七より二十まで、三人の筆で、就中一より十までの書體が勝れて居る。その紙質書風また片假字の異體を交ふる點等から推して、鎌倉時代後期の初め頃のものと定め得べく、殊にその二十卷全部を完備して居る。已にこれらの點に於いて、本書の尊とぷべきことは言ふを俟たない。(書體は後半の部は前半の部に比して文字が劣つて居(77)るが、その寫經風であるのは、恐らくは桑門の箪蹟であらう。或は仙覺抄を傳へた玄覺、もしくは仙覺の弟子といふ圓仙等に關係あらむも知りがたい。こは更に他日の研究に俟つべきものである。)
 而して言ふ迄もなく古書の學問上の價値は、單に時代の古いだけでは意味をなさぬ。勿論萬葉の如き古典に於いては、少くとも鎌倉時代前後の古寫本であれば、校訂上に多少とも參考すべき價値を有して居るのを常とするのであるが、この新たに發見された書に至つては、更に萬葉學上貴しとすべき所以を少なからず有して居るのである。而してその所以は、本書が實に仙覺の文永本の原形に最も近いものであり、その書寫も文永を去ること遠からざる年代のものと推定せられることに存する。由來仙覺本は流布本萬葉集の原本となつたもので、そは仙覺が將軍頼經の命を受け、寛元より弘長文永にかけて、當時多くの異本を校訂し、かつ新點を施したもので、今日に至るまで萬葉の定本ともせられ、また實際その價値も大いなるものである。吾人が萬葉校訂のことも、要するに仙覺が校訂の經過をたどり、また補つて、彼が成就した結果を改訂するにあらねばならぬ。これには言ふ迄もなく彼が校訂の結果を示せる流布本、またその原本たる活字附訓本だけを見たのでは十分でない。どうしても彼が校(78)訂の經過を査定せねばならない。而してこの經過を示した古寫本といふものが、從來(後に述べるものをのぞいては)殆ど見るを得なかつたのを、こゝに本書によつて實にその經過を最も完全に知り得べき根本資料を得たのである。今この書が斯くの如き根本資料として信ずべき理由、及びその仙覺が校訂の面目を示せる事實、他本と異なる點等を擧げると、左の如くである。
 第一に、本書の斯かる根本資料として信じ得べき理由は、少くとも八つある。
 一、本書には、寂印成俊等後人の跋が無い。
 二、卷二十の目録に武鞍國防人の名が無い。
 三、端作と歌との高低、文永本の面目を存してゐる。
 四、卷二吉備津釆女を悼める長歌に、悔彌可念戀良武の一句、流布本に無いものが本書にある。
 五、他本にない諸兄の傳がある。
 六、卷十九藤原清河等に賜はつた虚見津云々の長歌の宣命書が、元暦校本と合つてある。
 七、卷二十和我世奈乎都久之倍夜里弖の次に或本以此歌爲集終云々と記せる文が、袖中抄(79)の文と合つて居る。
 八、卷十一の鷄冠草の註、卷十三の「此一首入道殿讀出給」等が朱書の細字になつて居る。
 次に仙覺が校訂の經過を示して、吾人が研究上に最も參考すべき價値ある點は、少くも三つある。
 一、墨朱青の三點が記してあつて、仙覺が專ら準據した原本の點、彼自らの新點の面目が明らかにせられること。
 二、仙覺の書入を寫したとおぼしい朱書の文字(そは或は上記三點の解、或は裏書の文詞等)があつて、彼が多くの異本と校訂した跡の歴々として知られること。
 三、その朱書の中に、他に所見なくして恐らくは仙覺の考と推せられる注意すべき説の記されてあること。(たとへば卷十六伊夜彦の上に「産諸本皆同、然而依夢想直産字也」とある如き。)
 なほその學問上の價値に至つては、更に研究の上ます/\發揮されることゝ信ずる。而してこの書の系統に屬するものには、他に大矢透氏藏本、京都大學藏本、故木村博士藏本等がある。併し共に時代新しく、かつそれらの朱書に至つては、本書に比して何分の一といふ少數(80)である。(かの神田男爵のは、時代に於いてこの本院寺本の次に位するものである。)これらの數書は、いづれも根本資料として、それ/”\價値ある資料であることは言ふ迄もなく、萬葉學上の珍籍であるが、併し本書に比すれば、本書の方が學問的價値が多いと言はねばならぬ。これ吾人が本書の發見を大いに喜ぶ次第である。
 吾人萬葉の研究に志してこゝに年久しい。未だその事功の世に語るべきものは無いが、幸ひにも曩には元暦校本萬葉十四卷本、天治萬葉、及び萬葉最古の註釋なる萬葉抄、仙覺奏覽?等を發見し、こゝにまた本書を學界に紹介することを得たことは、まことに喜びに堪へぬ。苟くも古典の研究の如きは、多くの歳月と多くの努力とに俟たねばならぬ。吾人は愈よ奮勵して、この萬葉校訂の事業を大成せんことを希うて已まない。
 
       十五 仙覺奏覧?の古鈔本
 
 ききに述べた仙覺奏覽?は當日書寫して歸つたが、一昨年、件の曼殊院から借りて、東京で撮影することを得た。その時、同書の書體は寫經風で古體であるが、書寫の時代がコ川の中葉頃なるべく想像されること、卷の初めに僕云々とある語をはじめ、總體に奏覽  朕の樣式 (81)を備へてをらぬこと、またコ川の中葉には僞書の多かつたこともあるので、或は疑はしいものでは無いかとの説を聞いた事であつた。成程しかく懷疑的に見れば、その他、慈覺門人仙覺とあること、(門流の意であらうが)同?中に引用された仙洞の御製の他に所見なきこと、卷末の傳授風の相承の不審なこと等も、いかがと思はれる。併しこの書を、由阿の引いた文に前後を附加して後人の僞作したものであるといふ如き絶對的の懷疑説は、到底あり得べからざることである。彼のゆふづきの云々の釋のあること、新點歌の數が大矢本等に符合して居ること等の事實から推して、此書を僞書と見なす事は到底なしがたい。僕云々などとある文體も、むしろ鎌倉時代の體と見なすべきである。結末の傳承は慈澄が自らを尊くしようが爲に書き添へたものであらう。要するに本書は、學問上信ずべき奏覽?の原形を傳へたものであるとは、自分の考へて居たところであつた。
 然るに昨大正三年の二月、八代國治君から、淺草なる某家に仙覺奏覽?の古い寫しがある由を聞いて、是非一覽したく思ひ、?々某家に請うたが果さなかつた。併しその影寫を武田祐吉君から借りる事が出來た。そは同君が、大正元年十二月に寫されたもので、一葉には「仙覺之新點萬葉之譜奧書云」と端に記し、「僕觀察餘?」云々から「仙覺上」までが、五葉にしる(82)されてある。即ち曼殊院本の前半だけではあるが、まさしく同種のもので、書體がいかにも古雅に見える上に、文字の異同もあるので、校正をしておいた。然るに近い頃件の武田君影寫の原本が書肆文行堂に出たのを、幸田成友君が購はれたと聞き、同君に請うて見ることを得た。そは假字文書の裏面に書いたもので、假字文書は鎌倉頃のものかとおもはれる。しかも原藏者のもとには、金澤文庫關係の文書類があるので、こもその一つでは無からうかと思つた。隨つて裏面にかいた奏覽状も、その書體から考へて、南北朝頃の書寫であることは推測し得る。かく比較的古い書寫の出でたとい(83)ふことは、かの曼殊院藏の寫本が、決して前掲の懷疑説の如く、徳川中葉の僞作であるを得ないことを證するものといふべきで、學界の爲に大いに喜びとするところである。
  追記 この古文書は、幸田君に請うて、わが竹柏園に珍襲することゝなつたので、こゝにその一葉を掲げる。なほ假字文書のうちに「明忍御題」の句がある。近く八代君が、金澤稱名寺の聖教類を調査に赴かれて、正安年間に稱名寺の住僧に明忍といふのがあることが明らかになつたから、或は同人であらうと注意せられた。
 
       十六 二人仙覺
 
 仙覺に就いては、甞て歌學論叢中に自分の研究を掲げておいたし、其後もその萬葉集註釋の研究を續けてゐることであるが、傳記の中には不明の點が少くない。まづその宗旨が、眞言天台いづれに屬するかも詳かでない。ところが高楠博士から、傳燈廣録に血脈の所見のあつたよしを聞き、そを心の華第十八卷第五號に執筆を請うたことであつた。
 然るに昨年(大正三年)の七月、和田英松君が嘗て醍醐三寶院の寶物を見られた時の手帳が出て來て、その中に仙覺日記一卷の名があると聞いた。之を聞いた折の喜はたとへ方もな(84)かつた。恰も出張中の黒板博士三成君にその取調を乞うたところ、日記もあり書寫の經卷や肖像も出たゆゑ、大學に携へ歸るとの報を得、ひたすらその歸京を待わびて、九月初旬に漸く見るを得たところ、如何にも時代もほゞ同じく、また同じく權律師であり、更にまた同じく鎌倉に縁はあるが、萬葉學者の仙覺とは全く同名異人であるらしく思はれる。隨つてかの傳燈廣録のは、醍醐の仙覺であつたのである。
 また昨年の六月和田君が大和へ出張して當麻寺の曼荼羅を見られた時、仁治三年に厨子の扉を修理した際の修理勸縁衆の中に、權律師仙覺てふ名を發見されて、その寫して來られた寫眞をも見ることを得た。醍醐の仙覺は萬葉學の仙覺と同時にをつたのではあるが、醍醐の方は大分後輩で、後まで長らへてゐたのである。隨つてこの扉のは萬葉學の仙覺らしく思はれる。
 學問の研究は、分つたり分らなくなつたりして、その中に一歩づつ光明に近づいてゆくものである。わが仙覺の面目も斯くして追々に明瞭になつてゆくことを樂しびに、なほ研究を續けたいと思ふ。
 
(85)       十七 古葉略類聚抄に就いて
 
 近い頃(明治四十四年)、予は萬葉學上著名なる建長二年書寫の古葉略類聚抄第八一卷を獲た。この古葉略類聚抄の解説に就いては、尾崎雅嘉の群書一覧、木村博士の萬葉集書目提要等に出て居、藝文第一卷九號に吉澤學士の文も載つて居るが、學問上尊重すべき古書で有り、かつ予が研究の結果、以上の人々の説を補ふべき點もあるから、更に一言しようと思ふ。
 我が文學史上、萬葉の研究は、平安朝前半期の中ほどに於ける訓點の研究に始まる。續いて後半期の考證類纂 學風の結果として、分類註釋等の方面も開拓されて來た。この方面の最も古いものを、藤原敦隆の類聚古集と、無名氏の古葉略類聚抄の二書となす。共に萬葉の歌を分類したもので有るが、前者よりも後者の類別が詳しい。且つ書名から考へても、後者が前者に何等かの關係が有ると言ふ事は想像し得られる。
 而して、古葉略類聚抄は久しく世に埋もれて居たが、徳川時代になつて、延寶八年に水戸家で史料蒐輯の爲儒臣を畿内に遣はされた時、奈良春日若宮の神官中臣家で、建長二年書寫の零本五册【卷八卷九卷十卷十二及び卷數未詳一巻】を發見し、そを謄寫せしめ、彰考館に藏せられた。併し彼の契沖(86)阿闍梨に萬葉代匠記の再撰を命ぜられた際に、飛鳥井本中院本等は貸されたが、此寫本は貸されなかつたので、學界に知られなかつた。【此事實は予が彰考館の圖書を調べた際初めてわかつたので有る。】
 延寶後多くの年を經て、荷田東滿のもとに中臣家の祐宗と云ふが教子に成つたので、東滿がをを見るを得て、文字の異同を枚正した事が、僻案抄に見えて居る。眞淵の萬葉考は、東滿の校本によつて引用したので、原本は見なかつた爲、書名なども違つて居る。此書を世に傳播した功を負ふべきは、浪速の江田世恭で有る。彼は安永六年に奈良なる井上昌軌と共に苦心して影寫したが、それを本として次第に轉寫するに至つた。即ちかの古書の不朽を期する爲に其蔵書を林崎文庫に献納した京都の勤思堂邑井敬義は、安永九年に謄寫校合し、江戸では、田安の藩士で萬葉學に盡した長野清良が邑井本を寫し、それを借りて加藤千蔭は寛政六年に寫し、萬葉略解にも此書に就いて言うて居る。荒木田久老も轉寫本を蔵し、其著槻落葉に述べ、橘守部も萬葉墨繩に言うて居る。其他、細井貞雄舊蔵本、淺草文庫舊藏本などが今に傳はつて居る。斯くの如く所々に轉寫せられて、校勘學上學界を益した事が尠くない。
 併し、此原本が中臣家には現存して居らぬ由を聞いて遺憾に思つて居たが、一昨年の十二月、京都大學の新村博士が上京の際、原書の八の卷が、京都の某翁の許に珍襲されて居た事(87)が近くわかつた由を聞いたので、昨年の春京都に遊んだ時、某翁を訪うて初めてそを見るを得た。大形の册子本で、影寫本でも察せられはするが、書體雄勁、鎌倉時代の面目が窺はれる。その夏再び入洛した時、殘余の四卷をも同博士の斡旋で見るを得た。そは、奈良佐保村の興福院に有つたのを、京都大學で借り、七月卒業式の際臺臨の北白川宮殿下の御覽に供したそれで有る。僅か半年ばかりの間に、この学問上の重んずべき古書の原書が世に出て、其書に接する事が出來たのを深く喜んだ。而して原書は、中臣家の祐茂神主が建長に寫したものと世恭は傳へて居るが、彼の第八の卷の奥に有る花押を見て、三浦周行博(88)士が親行で有らうと言はれたと聞いた。親行で有るとすれば殊に面白い。何となれば建長頃に斯かる書を寫したらうと思ふ親行は、かの水原抄、蒙求和歌、百詠和歌等の著者源光行の子で、建保三年には萬葉を書寫枚合し、寛元元年には將軍頼經の命で萬葉を校調した萬葉學上關係の深い學者で有る故で有る。【親行の歿年を歌學論叢に建長七年としたのは誤で橋本進吉氏の注意によつて隣女和歌集を調べると文永の末年までは生存して居たのだる。】兎に角本書は、萬葉集最古の分類の書の一として、假令零本で有り、原著の時代が不明で有るとはいへ、校勘上に貴重な材料で有る。予が本書を見るを得て喜んだのも其故で有る。
 然るに此書の卷八一卷は、京都なる某翁の手を出て、原三溪氏の厚意により、予の書架中に蔵する事と成つた。元來、類聚古集、古葉略類聚抄、元暦校本萬葉の三部は、徳川時代の萬葉學者の三大發見と稱すべき可きもので、それぞれ校勘學の上に益を與へたものであるが、予は元暦校本萬葉を水野家の庫中に求め出て世に公けにし、類聚古集は編者敦隆の事蹟を明らめてその考證を歌學論叢に記し、此處に此書の一卷を珍蔵する事が出來たのは、學問の因縁淺からざるを思うて、深く喜ぶところで有る。
  附言 こゝに現存の五卷の奥に記せる書寫の年月と枚數とを掲げて置く。
   卷八  建長二年九月十二日   三十五葉
(89)  卷九  同  九日廿九日    三十九葉
   卷十  (奧書のところ缺く)  三十五葉
   卷十二  同  十一月十一日  三十七葉
   不明の卷  同  六月三日   四十三葉
             葉數合計百八十九葉
 
       十八 萬葉學史上の慶事
 
 明治四十五年七月は、我が萬葉學史上特筆すべき月である。そはこの年この月を以て、萬葉學史上記念すべき二つの事實がおこつたのである。
 萬葉集の訓詁註釋は、仙覺契沖以來研究を積み、鹿持雅澄木村博士によつて、ほゞ一段落をつげた。然りといへども、萬葉の研究もとよりこゝに終つたのではない。否、眞の研究は寧ろ今後に俟たねばならぬ。古事記と並んで、我が國の最も貴重なる古典たる萬葉の、文學史上、文明史上、言語學上等に於ける意義は、今後の研究によりていよ/\發揮せらるべきである。而かも眞の萬葉研究に入る基礎は、定本の作成にある。仙覺以前に遡り、古資料に(90)よつて、訓詁上の疑問を考へ、從來の學者の諸説を參照して、完全なる原本をつくるにある。これ予が夙く懷抱せる意見で、かねて古寫本古資料の捜索に志し、近年稍やその結果を擧ぐるを得て、いよ/\此事に着手しようとの志があつたが、こは寧ろ公けノ一事業として、完全に成就せらるべき性質のものである事を信じ、先輩諸氏にはかつた事があつたが、こゝにその議容れられて、文部省文藝委員會の事業として成さるゝ事となり、その議の決せられたは、去る六月の事であつたが、いよ/\此の七月を以て着手することになつた。
 七月十日、東京帝國大學卒業式の際、數種の標本古文書と共に、わが萬葉學上の貴重なる資料たる元暦校本萬葉十四册、藍紙本萬葉集一卷、類聚古集十六册の三部を 天覽に供へまつり、芳賀教授と共に、おのれまた説明し奉るの光榮を荷ふにいたつた。元暦校本は元暦元年枚合せるよしの奥書があり、享保年間靈元法皇の叡覽に入り、荒木田久老橘經亮等之を見るに及んで學界に知られ、專門學者の間に尊重せられて、橘千蔭の如きも略解中に屡々そを引用し、塙保己一はその三卷を刊行した。而かも轉々して各家の所藏となり、學界に出でず、空しく學者の渇望の對象となつて居たに、一昨年の五月に至つて再び出現したもの。藍紙本萬葉は、薄藍漉紙にしるせるを以て名づけたもの、訓點書風紙質等によつて、平安朝末期以(91)前の寫本と推定す。文字雄健、萬葉の古寫本中最も珍とすべきものである。類聚古集は、保安元年に歿した藤原敦隆が萬葉の歌を分類せるもので、萬葉に關する著書の現存せるものゝうち、最古のものである。これ又平安朝末期の寫本とおぼしく、萬葉學上の好資料である。かくの如き國文學史上貴重なる萬葉集の古寫本を、こたび 天覽に供するを得たことは、我が國文學界にとつて、限なき光榮といひつべきである。
 この二事實は、即ち吾人をして、本年七月を以て萬葉學史上永久に記念すべき月なりとなさしむる所以である。吾人幸ひにして事にこゝに當るを得た。益々奮勵してこの事業に隨はむことを期する。
 
       十九 類聚古集の出版
 
 天皇記國記等の史書が蘇我氏の滅亡と共に燒失したことは、吾が國文献史上の恨事として著名なことである。古歌集に就いては、かくの如き特に顯著な史實は存しない。が併し、これまた百年千年の長日月を經る間に、或は燒失し或は散逸して了つたものが多いことは、言ふまでもない。萬葉集中にその名が遺つて居る歌集でも、古歌集、人麿集、金村集、蟲麿集、(92)福麿集、類聚歌林等がある。このうち類聚歌林は、清輔の袋草子、俊成の古來風體抄等に出て居るが、その後更に所見がない。其他の古歌集に至つては、一切後代の文献に見えてをらぬ。これらは奈良朝時代の歌書であるが、その後平安朝の歌書に至つても、萬葉五卷抄、山戸兎田集、和歌類林、萬葉竟宴和歌集等をはじめ、逸書となつたものが尠くない。而して中世以後、古書の爲に大いなる禍であつたものは、京師に屡々起つた火災及涙兵燹で、中にも安元の大火、應仁の亂の如きは、その最も主なものであつた。
 かやうなわけで、今日その名のみ傳はつて實際に傳はらぬ古書は極めて多い。隨つて當時の名ある文献で、唯一本の寫本として傳はつてゐるものがあらば、その學問上貴重な價値を有することは言ふまでもない。而して現に中山侯爵家に在る類聚古集の如きは、正しくその一つである。こは今を去る約八百年前、保元平治の亂に先立つ約三十年の頃世を去つた學者藤原敦隆が、萬葉集の短歌長歌を分類した原書を、敦隆を去ること遠からざる時代に書寫したもので、萬葉研究の書の現存せる最古のもの、その唯一の古寫本であると共に、書風に於いても優に古筆としての價値ある古書である。されば、去る明治四十五年、明治天皇東京帝國大學に行幸せさせ給うた折も、天覽の光榮を得たものである。しかも本書の如き、縉紳家(93)の珍藏として、從來僅かに數人の目に觸れたに過ぎなかつたのである。
 然るにこの類聚古集は、上田萬年博士の發議のもとに、帝國學士院より撮影費を補助せられ、上田博士によりて、コロタイプ版を以て印行されることゝなり、昨年(大正二年)の九月に始まり本年の三月全部十六卷の出版を終了した。これまことに學界の爲に喜ぶべきである。殊にまた本書の容積たる、實に二千五百廿七頁の浩瀚なもので、かくの如き大部の寫眞撮影、及びコロタイプ版の出版は、まさに用版界未曾有の事といふべく、帝國學士院の補助中島男爵の斡旋のあつたとはいへ、よく此大事業の事に當つた出版者弓山煥文堂の努力も、また大なりとせねばならぬ。本書が若し一般的なる出版物であつたならば、必ずや世間一般の稱讃の聲の多大なるべき事は疑ないと思ふ。吾人は、本書を印行して、萬葉學上貴重なる研究資料を提供せられた土田博士に對し、學界の一人として深く感謝の意を表する次第である。
 なほこれは自分一個人の私事であるが、この時に際して思ひ起されるのは、故木村正辭博士である。博士が近代の萬葉學の大家として、學界の光であつたことは言ふまでもないことであるが、先年自分が水野家舊蔵の元暦校本萬葉集十四卷を發見した時、直ちに之を博士に告げた所が、博士は、從來同書の唯一の寫本として、博士が珍蔵されかつ誇りともされて居(94)た同影寫本が、この事の爲にその在來の價値を少くするといふことがあるにも拘らず、もとよりさる事は毫も關心されず、この發見を大いに喜ばれて、自分と共に水野家に赴いて親しく披見し、こゝかしこ寫しとられなどした。博士が學問を愛する厚き念からして、些かの私心をも交へず、後進の自分と共に喜びを同じうせられたことは、今に感激に堪へない。されば今回の類聚古集の出版の如きもまた、故博士にして世にいましたならば、いかに喜ばれた事であらうと思ふ。恰も本月(四月)十四日は、故博士の一週年に當ることゝて、殊にこの感に堪へぬのである。
 
       二十 義公と萬葉集
 
 義公に親近した安藤爲章の年山紀聞に、「公は萬葉を好み給ひて、二十卷を大方諳に覺え給へり」と記したやうに、義公は萬葉を愛讀せられて、釋萬葉集を編纂せられ、且つ契沖阿闍梨を保護して、その萬藥代匠記をなさしめ給うた。公が國文の上に於ける大いなる功績は、今更に事新らしく述べるまでもないが、自分は去ぬる四十一年の七月、三上、萩野、市村の三教授が出張せられて、彰考館の古書記録類を捜られた時と、本年(明治四十四年)の三月、上(95)田教授が新らしく成つた彰考館文庫の圖書捜索に出張せられた際と、二度同行して、彰考館及び潜龍閣所蔵の貴重な書を十分に捜索閲讀するの便を得た。隨つて義公が萬葉集註釋の事業に關しても、その?末を詳にするを得た故、茲にその一端を述べようと思ふ。
 義公が萬葉の註釋を思ひ立たれたのは、その中年頃で、晩年世を去られるまで心を致されたのである。板垣宗憺は寛文年中儒醫を以て公に仕へたが、彼は嘗て日野弘資、中院通茂に就いて歌を學び、最も文才の有つたのを以て、主として釋萬葉集の事業に當り、元禄十一年六十一歳で世を去るまで、其ことに與かつて居つた。而して「正木の葛」の撰者清水宗川、及び「古今類句」を編纂して今日までも學者に多大の便宜を與へた山本春正の二人も、萬葉の註解の事に與かるべき命を受けて仕へたが、春正は天和元年に仕へて、間もなく病を得て京師に歸り七十三歳で世を去つた。宗川も僅に「詞林釆葉抄」「萬葉集長歌載短歌字之由事」等萬葉に關する書物の校合ぐらゐをしたに止まつて、さしたる功績を擧げ得なかつた。それで更に遠く浪華に隱士下河邊長流が古學に長けたのを聞し召し、水戸に召されたが、彼は極めて不羈の性質で、心の趣かぬ折は、訪來る人にも物を言はず、枕を高くして或は眠り或は書を讀み、心に任せて過ぐすといふやうな有樣で、義公から紙筆の料を賜はつて萬葉の註を乞ひ給うた(96)が、心の趣いた折に、いさゝかづつ註釋を加へるといふやうな有樣ではかどらなかつた。それで長流と莫逆の友なる契沖阿闍梨が同じく浪華の片ほとりの今里の妙法寺に居つたのに命があつて、註釋を請ひ給うた。契沖は長流の磊落なるとは違つて、眞面目な學者氣質の人であるから、孜々として倦まず、註釋を成し遂げて、萬葉代匠託を奉つた。然るに義公が御覽になつて、まだ十分と思召されぬ所が多い。中にも契沖の用ゐたのは流布本であつて、校勘の上に不十分な點があるといふので、嘗て延寶年中に、侍医を京都、奈良、その他處々にお遣しになつて、古書の蒐集及び校勘を命ぜられた。その中に中院家及び飛鳥井家の古本を以て校合せしめられた、所謂中院本、飛鳥井本等を、浪華へお遣はしになつて、之に據つて更に校勘し、今一度註釋を加へるやうにとの命があつた。篤學なる契沖は再度の命を奉じて、更に撰んで奉つたのが、今日の精撰本萬葉代匠記そのものである。その前後に契沖は新説を考へ得るや、直ちにそれを宗憺の許に報じた。その草稿はいま彰考館文庫に藏せられて居る。それで宗憺は當時蒐集してあつた古い註釋や、奥沖の註を本として、專ら註釋の筆を執つて十六卷目まで草稿が出來た處、前に述べた如く彼は元禄十一年世を去つたので、從前から宗憺の下に勤めて居た伴暢が事に當るやうになり、又、大部の書を一人にては、手支へるだらう(97)と、更に安藤爲章にも命が下つた。而して成つた一の卷及び凡例の二册をば、爲章が特參して京都に上り、清水谷大納言の御覽に入れたに、「古今無双の註澤にて、萬葉の傳授は水戸殿より御受け候同然」と賞美の餘り、仙洞の叡覽に供へ奉つたに、「末代までの重寶」との叡感の言葉を賜り、且つ浪華にも持下つて契沖の跋文をもお召しになつた。然るに元禄十三年義公は病を以て薨ぜられた。その前後の事情、及び公が如何に晩年に專ら意を萬葉集に注がれたかといふことは、爲章の記した文に詳かである。曰く、
 今年の春より痞癪の病起り給ひて、御不食まし/\けるが、夙く神識に知らせ給ひてにや、正月の月末にてぞ侍りし、御釋を大阪に持ち上り、契沖に「委しく一覽し、腹藏なく是非を記し申すべき由をあとらへよ」とのたまひしかば、爲章二月に水戸を發して、東高津の傍に寄宿して、七月の末まで對話し、何くれの不審を申しはるけ侍りけり。御不食月月に重らせ給ふ由承りしかば、八月の末つ方水戸に下向し、西山へ參り、しか/”\の御答を申しつるに、いとも喜ばせ給ひしぞかし。果してその年の十二月六日に薨去まし/\ける。
とある。同じく十四日に、爲章、暢の二人から契沖の許へ、公の薨去を報じた書?の中に、
 先頃被遣候二卦、先に申し進じ候通り、中納言殿直に開封、感賞の儀にて、先づ文函へ收められ、自2圓珠師1珍奇之説得候間、我々共へも追て傳授可被成との事に御座候ひき。然る處、御病氣逐日重り候故、諸事御覺悟の體にて、去る四日右の二封密に我々共へ被渡、兼ては以2直書1御返答可v被v成思召候處、御重痛不v能2其儀1候條、兩人より可2申遣1樣は‥‥(此間に莫囂圓隣の註の事あり)…此趣我等共より可2申達1之由御座候。偖此以後集中又々御新案も出來候はゞ、(98)中納言殿在世と思召し、我等兩人の者へ無御隔意御傳授有之候はゞ、於2泉下1も可v爲2本望1との御遺言にて御座候ひき。斯樣のこと認め申候にも、涙眼不v任茫然至候へば書面不2分明1處、御推讀可被下候‥‥
とある。見るべし、公はその薨去の三日前、苦しき病の下に猶萬葉の研究に心を用ゐて居られたのである。公の晩年の精力は、專ら萬葉集に注がれて居たのであると謂つても、敢て過言ではあるまい。然るにその後爲章と暢との間には、註釋に關して意見の爭があつた。こは言はゞ新舊派の爭ひで、暢は舊派側で契沖の説を容れず、爲章は新派で代匠記の説を總て採らうとする側に立つた。後、爲章が獨り事に當ることになつたが、享保元年に爲章が没し、同十五年に暢が再び事に當り、十七年に暢も亦世を去つたので、初めから書寫の事に與つた藤全昌が之を繼ぎ、同十八年八月出來上つたのが現存の釋萬葉集五十卷である。集の名も、初めは釋萬葉集と云ひ、後に萬葉集纂註とし、また萬葉集新註とし、最後に元の名に定められたのである。
 以上で、代匠記の成つた次第、釋萬葉集の出來上つた 顛末は明らかであらう。抑々萬葉の研究は、天暦年中、源順等梨壺の五人が古點を加へたのに源を發し、次に匡房、基俊等所謂次點の人々が研究し、敦隆、盛房等の分類註釋がはじまり、更に鎌倉時代に至つて、將軍頼經の命 (99)で、源親行及び權律師仙覺が多くの古本を校勘して、今日の流布本の基をなし、仙覺は殊に新點を加へ、註釋をも物したが、仙覺以後は、僅に由阿、宗祇、宣胤等の註釋分類等の出でた外、徒らに高閣に束ねられて有つたに、義公が釋萬葉集を思ひ起し、長流契沖に命を下し給ふに至つて、始めて我々後學が今日容易く萬葉集を讀み味ひ得るやうになつたのである。近代の水戸の歌學者吉田令世が、その薯「聲文私言」に、「西山公をこそ萬葉學びの中興の祖とも申すべけれ。」と稱譽して居るのは、さることゝ思ふ。固より萬葉を註釋して、其の眞意を闡明したる功は、契沖にあることは言ふまでもないが、契沖に筆紙の料を供して、專ら註釋に力を致さしめ、之を成し遂げしめた功は公に有る。
 自分は昨年は三月と八月に京阪に赴いて、妙法寺や圓珠庵、曼荼羅院が廢院になつた後をついだ持明院などで種々調べた。【契沖はその遺言書にも水戸家の恩を謝して居るが、現に圓珠庵には義公の位牌が今も祀つてある。】今年(明治四十四年)はまた四月から五月にかけて、契沖が幼くて學んだ高野山に登り、奥の院に後人が樹てた墓碑の苔を掃ひ、清淨心院に義剛に贈つた書牘を寫し、歸途和泉國南池田村伏屋氏の舊居の跡を訪うた。嘗て明治三十年大町桂月君が伏屋氏を訪問した記事が、同君の著「契沖阿闍梨」の中にあるが、此度訪うて契沖の遺筆數種を見る事を得た。其中に次の如き書?があつた。
(100) ‥‥日本紀歌も連々御註解可被遣旨、本望に存ぜられ候。菅家萬葉の歌出所御考附、是亦珍奇不v尠候。右の謝禮私より相心得可2申出1旨、中納言殿被2申附1候故、如v此候、不悉。
   七月二十九日            板垣宗憺(花押)
     妙法寺樣
とある。これは宗憺の自筆ではなくして、契沖の筆である。そは水戸家の厚意を、恩人伏屋氏に報じたものである。この書?は、彰考舘にある「古萬葉集」及び「訂正管家萬葉集」に關しての書?であるが、かくの如く、公が契沖を優遇して、數種の名著をなさしめられたのである。我等國文に從事する後學は、今日尚隱然公の恩惠を被りつゝあるものと言うても宜しからうと思ふ。(某誌義公號の爲にしるす)
 
       二十一 契沖と萬葉代匠記
 
 水戸家から長流に萬葉註釋を命ぜられたが、長流が果さないで歿したので、その後をうけて契沖が代匠記をものしたといふのが一般の傳説で、年山記聞にのせた代匠記の序もしか見なされるやうであるが、代匠記の初稿は、長流の生前に成されたものと考へられる。
 代匠記は、今里で初稿本が成り、後、圓珠庵に移つてから再稿本が出來た。その初稿本は(101)水戸彰考館の文庫に藏されて居るが、惜しむべし數卷缺本になつて居て、その斷片がこゝかしこに珍藏されて居る。予がもとにも數葉を藏して居るから、こゝに其一葉を掲げて、初稿本の面目を示すことゝした。再稿本は徳川侯爵家に全部ある。初稿再稿の兩本をいづれも自分は見ることを得たが、就中最も完全なのはいふまでもなく再稿本の方である。木村博士の早稻田大學出版部から出版された活字本は、再稿本であるが、温故堂で寫した本をもとゝして刊行されたものである。よほどよく校合されては居るが、猶寫し誤りもあるやうであるから、徳川家にある契沖の自筆本と校合し(102)て、一層完全にすることが出來たならばと希望される。
 
       二十二 水戸家と萬葉集
 
 學友和田英松君からおくられた藤田幽谷の書?に、萬葉に關する一史實が記されて居る。全文を掲載すると、
  廿九日貴墨拜誦秋冷之節彌御安全珍重御儀奉存候。
  一契冲代匠記之儀御借出御無用之由有司と御辨被成候所、分り兼ね候に付御直に垂細御伺被成候處至極御尤に被思召候由大慶仕候。扨代匠記御斷にては、釋萬御用立可被成旨是は不得已之勢に御座候。昔年或堂上方の言に、萬葉の傳授は已來水戸家より受可申と被申候由、釋萬之書今より見候はゞ遺憾之事も可有之候へ共、畢竟契沖其祖師にて、善く契沖の才を被爲盡候即西山公にて御座候。此節より釋萬の書攝家の御方まで傳はり候はゞ、昔人の云々被申候事も不虚と被布候。尚追々御相談可申候。釋萬の書は今日爲指登候也。
  一文獻志筋へ御達之儀被仰上候所とくに御達に相成候旨御意御座候由、水戸有司にも承知無之候ては不宜候所、是亦執政へ御達可被遊之旨御意被爲在候由、左候はゞ近日右懸りの兩生等申出候様可仕候。尤此方へ右御達相廻り不申候已前に申出候は都合不宜候間、一ト通内意承候上にて可申出候。尚又貴地より早速御運御盛坐候樣御工夫可被下候。
    九月四日               一正拜
      青山賢兄梧右
とある。當時水戸家に於いて、萬葉代匠記を非常に大切にして居つたことがわかり、萬葉傳(103)授云々のこともしるされてある。宛名の青山賢兄とあるは延宇で、彼は當時圖書の出入の事を預つて居たのである。
 
       二十三 桂宮萬葉集の筆者
 
 「古く紀貫之といひ、また源順と傳へ、その斷片を栂尾切と云へり。されど、權記長保三年五月の條に、繼色紙一卷に萬葉を書きしこと見え、また御物の和漢朗詠集、前田家の北山抄等の筆蹟より推して、行成公任時代のものならむとせらる。」
 とは、予が藍紙萬葉集解説のうちに、桂宮萬葉集の筆者に就いて記したものである。即ち予は、この點に就いては、一方に古來の貫之説、順詮を承認し得ないと共に、おほらかに、その時代の凡そのところを、行成公任頃と諷めたので、未だそれ以上の斷案を下すに至つてをらぬ。然るに、吉澤君は、藝文第二年第四號に於いて、所謂「次點期」に屬すべきもので、故小杉博士の俊房説に左袒すると論じてをられる。君の説にして正しくは、まことに從來の問題を解決し得たに近いもので、學問上喜ぶべきである。併し、古筆の問題は、予がいふまでもなく、容易に定めがたいものであるから、一定の斷案に達するまでには、餘程愼重の態度(104)をとらねばならない。君の提説に對しても、予は未だ首肯し兼ねるものがある。よつて次にそを述べ、併せて予の説に對して、かの論文中に論じ及ばれた二三の事項に就いて、述べようと思ふ。
 まづ君は、天コ歌合判詞に於ける「うばたま」「ぬばたま」の使ひわけ説を注意し、そを標準として論じて居られる。この着眼はおもしろい。併し、天コ歌合判詞における件の説を、所謂「和歌所の定説」と認めて、そが歌人の間に遵奉せられ、保守時代なる公任時代には、勿論そのまゝに守られて居たとなし、それ故に、同判詞の説と違つた用ゐ方をなして居る桂宮萬葉は、公任時代の所産でないとなす斷定は、いかがであらう。
 君の説は、蓋し天コ歌合判詞を、當時の歌人の間に於いて、不可犯的に嚴守せられたものと認められたのであるが、こは如何なる根據によつてであるか。天コ歌合は、盛んな儀式で行はれ、兼盛や忠見の逸話なども傳はつては居るが、判者實頼のかゝる詞が、しかく定説として、當代の歌人いづれも之を遵奉したといふほどのものであつたらうか。――彼の顯昭も「中々に古人は如此事委不被沙汰歟」といつた如く」――こは未だ疑問の餘地がある。隨つて研究の餘地がある。こゝに於いてか公任時代繰下説は、未だ確説とはしがたい。
(105) 次に、君が俊房説を主張せられる根據をみると、第一は、恰も所謂「次點期」の頃に、萬葉の研究は興り、歌壇に幾分新精神が起つて來て、時勢上から、新説を生むにふさはしいとなすことにあるので、この根據から、「うばたま」「ぬばたま」の反對の使ひ方も、どうしてもこの時代に至つて起つたに違ひないとして居られる。こは天コ歌合當時に「うばたま」「ぬばたま」に就いて、一定の確説〔二字傍点〕が定められて後變改せられたといふ根本の考に基づくのであるから、予が前段に述べた如く、その根本の説が未だ確認しがたいとすれば、隨つてこの説も確認しがたくなる。
 次に、君が俊房説を提出せられたのは、この時勢上の理由と、他には、故小杉博士の説とを根據として居られる。小杉博士が、桂宮萬葉を俊房の筆ならむといはれた説は、心の華第九卷第四號及び五號に公けにせられ、予も親しく聞いたところで、その根據は、全く宇治鳳凰堂の靡なる色紙形の傳俊房の筆が、桂宮萬葉とよく似て居るからである。併し、予が小杉博士のこの説を、前に歌學論叢に紹介しながら、かの解説に載せなかつたのは、次の如き理由がある。第一に、鳳凰堂の色紙形の文字を、前田家所藏の俊房自筆として信すべき水左記の文字に比べると、筆勢、一は軟く、一はやや硬く、必ずしも同一人の筆と認められぬ。(勿(106)論、字體に多少類似の點はあり、一は永承年間一は承暦年問と時代の差はあるが)第二に、件の鳳凰堂の色紙形の筆そのものが、また必ずしも俊房の書なる確證が無い。少くとも、水左記に比して多く信すべく無い。夜鶴庭訓抄によれば、「額、源左府俊房」とあるが、扉の筆者の名はない。伊行の當時已に不明で、後代俊房が額の筆者といふより推して、扉をもさうであらうとしたものかも知れぬ。かつ鳳凰堂の建築の成つたのは永承八年で、建築と同時に扉の繪も書もかかれ、その供養があつたものと思はれる。(この説は平等院の建築に委しい武田工學士の考をも聞いたが、氏もこの點については同説である)然るに、當時俊房は未だ二十一歳で、よしや頼通と深い姻戚の關係があつたにもせよ、かゝる場合の筆者としては、余りに若きに過ぎはせぬかと思ふ。【因に云。内務省編纂の特別保護建築物及國寶帖解説には、「色紙形に書ける經文は、堀川左府俊房の筆といふ。俊房の書雄健氣力あり。其遺蹟の存する者をとつて比照すれば、所傳疑ふべからず」とあるが、彼の扉の書俊房なりとせば、雄健氣力ありとの評はいかがであらう。かつ俊房の書と傳ふるものは、彼の水左記の外に、御物の新樂府、京都の寺院の經文などが有るが、其いづれと比照してしか定めたるか疑はしい。】
 以上で予は、吉澤君の説の更に研究の余地あることを述べ畢つた。次に其他の點に就いて一言しよう。第一に、予が桂宮萬葉を行成公任時代のものならむとなす推測の根據として、行成の筆と傳へられたる御物の和漢朗詠集を引いた。この朗詠集に就いて、吉澤君は論じて居(107)られるが、予の指した朗詠集は、吉澤君の指された刊行本の意味では無い。元來御物の朗詠集には、三種ある。第一、傳行成二册本。第二、傳俊頼一卷本。第三、傳行成二卷本で、刊行せられたのは第一第二の二つで第三は未刊で、予が言つたのは第三である。この第三の書體が、桂宮萬葉に酷似してゐる。(小杉博士はこれをも俊房の筆ならむと、心の華第九卷五號に述べて居られる)なほ、この論の序に、「その行成を學んで後のものであることは、少し古筆を見なれたものの首肯するところであらう」と言つて居られるが、こは余りに獨斷に過ぎはしないかと思はれる。
 また、桂宮萬葉に似てゐると言つて、正子内親王歌合の影寫本を擧げ、以て桂宮萬葉の時代の新しい傍證として居られるが、しかいひ得べくんば、最もよき例は猶ある。そは前田家藏永承五年六月五日賀陽院歌合の文詞の眞字の如きは、桂宮萬葉に字體がよく似てゐる。併し、これらを始め、彼の鳳凰堂の扉の如きも、之を立場をかへて言へば、行成公任時代に書かれた桂宮萬葉一流の書風を魁として流行した時樣〔二字傍点〕といひ得る。又假に扉の字と桂宮萬葉と同筆であるとしても、扉の書の書かれたと考ふべき永承八年は、公任の歿後十二年、行成の歿後二十六年で、所謂次點期よりは寧ろ予の言つた行成公任の時代に近いものといへる。(但(108)し、次點及び次點期といふことに就いては、別に説があるが、こゝには混雜をおそれて略する。)
 要するに、予は未だ桂宮萬葉の筆者に就いては、今のところ、そを予の所謂五種の古寫本中最も古きものであるといふ鑑賞家の説に隨つて、かの藍紙萬葉集解説に記した如きおほらかなる説に滿足せざるを得ない。なほ今後の研究によつて、明らかにせられむことを俟つものである。
 
       二十四 藍紙萬葉集解説に就いて
 
 藍紙萬葉集解説に就いて、吉澤君の批評を恭くした。こゝに同君にお答へかたがた一言所見を開陳する。
 該解説は、藍紙萬葉集の如何なるものなるかを世に紹介せむとするにつけて、從來研究した結果にもとづき、平安朝時代に於ける五種の古寫本を判定し、そを概説するといふ點にいさゝか重きを置いたので、各書に於ける筆者論等は一切之を省略した。隨つてまた藍紙萬葉に於いても、筆者等の考證に就いてはたゞ古博のまゝに從つて、「筆者は古來藤原公任と傳へ(109)云へり」と記しておいたのであつた。固より自分も、件の傳説を重く信ぜるものではなく、些かその點について研究もした。古筆中、書風に於いて藍紙萬葉と似たものは、世尊寺伊經の筆と傳ふる尼子切で、こは筆致全く同じく、殆ど同筆と斷定して可なりと思はれるが、この尼子切が果して伊經の筆なりや否やは、他に伊經の筆として傳へたる久世切と全然筆致異なりたる點から見て、にはかに斷ぜられぬ。隨つて藍紙萬葉が伊經の筆なりとは推定しかねる。かゝる次第で、藍紙萬葉の筆者及びその時代については未だ定かに論じがたいが、自分が見し隈の多くの古寫本古筆とも比較對照し、紙質書風等の點より見、また萬葉研究の歴史より考へて、ほゞ吉澤君の説と同じやうに見きはめてをる。併し未だ他に意見をたつるほどの研究が行屆かない爲、暫らく古傳のまゝに、「と傳ふ」と記し置いたのである。
 かくの如き次第で、大體吉澤君の説と同じであるが、なほ逐條記された點について、いささか所見を異にして居るところもあるので、序でに一言して君の厚意にむくいる。
 吉澤君が第一の猥據として擧げられた墨界有無のことは、自分も固より氣付いたが、名葉集には元來誤少なからず、かつ自分が從來捜索したものによつて、淺黄紙に墨界ある萬葉の古筆切は、一皮も遭遇したことが無いので、この墨界も例の名葉集の誤ならむと思うて、重(110)きをおかなかつたのである。
 「うばたま」「ぬば玉」の二樣がきに就いては、おもしろい觀察であると思ふが、なほこれについては研究の餘地があらうと思はれる。
 藍紙本と金澤本との筆者同一ならむとの説は、全く當らざることを斷言する。こは金澤本が未だ獻上せられなかつた以前、親しく前田家に於いて觀覽することを得、その書風が到底藍紙本と同一ならざるを見極めおいた次第である。序でにこの金澤本は、田中親美氏の説によれば、紙質紋樣に於いて三井家の元永本古今集と全く同じく、筆者に於いて本願寺本三十六人集の順集、貫之集下、中務集、及び手鑑に散在せる兼輔集切等と同じく、所謂俊頼の筆とは違ふが、その元永の頃の書なるはいもじるしとのことで、こは自分も親しく實物について研究し、しか認めて居る。
 元來古筆の研究は、國文學者が十分研究して、かの史學に於ける古文書學に對して、古筆學として研究する必要のあることは、國文和歌の方面の歴史的研究に從ひをる我々の、切に感じてをるところである。わが小著に對する吉澤君の批評は、かゝる方面に注意する人極めて尠き目下に於いて、自分の最も喜ばしく思うたところである。
 
(111)       二十五 外人の萬葉集飜譯
 
 日本の中央では劍戟の音が漸くしづまりかけた頃、西方なる天草及び長崎では、ジエスヰト派致會から、布教上の目的で、日本語の文典辭典、伊曾保平家等の物語などが出版せられたことは、恰も枝頭に一點の梅花の蕾を認むるが如く、わが近世文化史上に頗る注意すべき現象である。これらのわが文獻の譯書中に、萬葉集があつたらばとは、自分の空想であつた。さきに新村出博士にこの事を問うたに、佛人パジエーの日本書目附録の中に歌集十卷の名があるが、そは何集ともわからず、寫本として書目に見えて居るだけであるとの事であつた。
 序でに、安永の末から天明三四年まで日本に滯留した阿蘭陀甲比丹イサーク・チチングの著した目本誌の中には、婚禮の節の贈物の表のうちに、萬葉集の名を擧げ、その解題として、「第十代の内裏《だいり》サイジン(崇神なるべし)天皇の治世より第六十代醍醐天皇にいたる古歌」(九〇五葉)とあるよしで、右の日本誌は、英文は一八二二年、蘭文は一八二四年に出版されたとのことである。思ふにこれが萬葉集の名の外人の書に出でたもののはじめであらう。
 チチンゲのは、單に萬葉の名の出たのであるが、更に外人で萬葉集の飜譯を試みた最初の(112)人は、維納の有名な東洋學者フイッツマイヤ―氏であらう。氏は日本語アイヌ語等に關する著書を多く有して居る人で、外國に於いて日本文の小説を刊行した人の初めで、その印刷に用ゐた活字は、假名四百八十一個、漢字二百廿七個で、其事は安政三年刊行のヒルドレツスの日本記附録に見えて居るといふことである。氏が萬葉集の飜譯は、卷四の大部分のみであるが、原文を掲げ、譯文と註とが添つて居て、その書式など、參考とするに足りる。こたび狩野享吉博士から贈られたのでこゝに一葉を寫眞版として挿入しておく。此書は、萬葉集よりの詩といひ、西暦一八七二年、即ち明治五年維納で出版されたものである。なほエンクステルンの大日本書史によると、フ氏は已に、嘉永年間に日本古代の歌に關する論文を著されてゐるといふ事であるが、其書は遺憾ながら我國に傳はり來りをれりや否やを知らない。
 思へばその當時、いかなる徑路を經てわが萬葉集が彼の國に傳はつたものか、また外國人で、しかも外國に於いて萬葉集を讀んで、かゝる研究をなしたその苦心は如何ばかりであつたらうか。(新村博士よりの書牘によると、フイッツマイヤー及びホフマンの日本研究の資料は、多くはシーボルトの舶載したものと思はれる。また蘭國ライデン大學所藏日本書籍目録中に、萬葉集の名があるとのことである。)
(113)フ氏獨譯萬葉集〔写真省略、大伴坂上郎女の三首が出ている。佐保川の…、千鳥鳴く…、来むといふも…〕
(114) その後著されたもので、吾人が架中に藏してゐるのは、チエンバレエン氏の日本古代の詩歌、ヂツキンス氏のジヤパニイステキスツ中には、いづれも萬葉の歌の譯を含んで居る。フロオレンツ氏もその譯に從事してゐたと聞いた。又新聞紙によれば、最近來朝せる露國の一博士も、萬葉集を譯したよしである。萬葉集は今や世界的の文學とならうとして居る。眞淵宣長等の國學者が之を聞いたらば、如何に喜ぶことであらうと思ふと、まことに感慨が深い。それにつけても、外人の萬葉研究といふ題目について、精しい研究をして、吾人を益してくれる學者があらばと望まれる。
 
(115)     第三章 風土記の歌
 
      二十六 風土記の歌
 
          第一 風土記總説
 
 萬葉集の歌に准ぜしめて論ぜねばならないものは、風土記の歌である。これに先立つてまづ風土記の概説から述べる。
 風土記は上代の地誌であつて、之を歴史に徴するに、和銅六年と延長三年との兩度に、時の朝廷が國々に召された。和銅六年當時元明天皇が風土記を召された時の記事を見ると、
  和銅六年五月甲子制畿内七道(ノ)諸國(ノ)郡郷(ノ)名(ニ)著2好字1其郡内所v生銀銅彩色草木禽獣魚虫等(ノ)物(ハ)具(ニ)録2色目1及土地沃?山川原野(ノ)名號(ノ)所由又古老(ノ)相傳(ル)舊聞異事載2于史籍1言上(セヨ)。(續日本紀)
とある。この文はまた風土記の内容性質を大體説明して居る。
 併しこれらの古風土記は多く散逸して傳はらず、近世古學興隆後も十分に明らめられるに至らなかつたが、前には今井似閑、山岡浚明、荒木田久老、後には伴信友、中山信名、吉田令世、狩谷※[獣偏+夜]齋、更に近くは敷田年治、栗田寛諸氏の研究によつて、段々その眞相が究めら(116)れ、現在のところでは古風土記として信ずべきものは、常陸、出雲、播磨、肥前、豐後の五つで、これらが各一部として(多少の脱文はあるが)殘つて居るものである。この外に續日本紀、仙覺抄をはじめ、其他の古文献に引用されてゐる斷片が數多ある。それらの文字は、畿内は山城、大和、攝津。東海道は伊賀、伊勢、志摩、尾張、駿河、甲斐、伊豆、相撲。東山道は近江、美濃、信濃、陸奥。北陸道は越前、越後。山陰道は丹後、因幡、伯耆。山陽道は美作、備中、備後。南海道は紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊豫、土佐。西海道は筑前、筑後、豐前、肥後、日向、大隅、壹岐等の諸國に關して記載して居る。
 これらの古風土記を集成して刊行したものには、栗田寛博士の標註古風土記纂註、古風土記逸文がある。前者は前記の五古風土記を收め、後者は諸書に出でた斷片を集めたものである。而して後者の爲に更に古風土記逸文考證がある。この三書は、古風土記研究の爲に貴重なる材料である。
 外に日本總國風土記といふものがあつて、信友の如きは弘仁時代に成つたものとなしたが、その僞撰であることは、平祖衡、中山信名等によつて明らかにされた。
 さて上に述べた諸言えの研究にしたがつて、いま上記の五古風土記のうち、上古歌謠の研究(117)に關係ある風土記の撰進の時代をあげて見ると、常陸風土記は和銅六年の注進ならむと信友はいひ、播磨風土記は靈龜元年以前の注進ならむと栗田氏の説である。而して其撰者はもとより書物の性質上知られぬが、就中文體の美しい常陸風土記は、その頃常陸の國守であつた藤原宇合の手がはいつたものではなからうかといふのは、管政友の説である。宇合は常陸守となる前、遺唐副使として唐に赴いた人で、彼の詩と歌とは懷風藻萬葉集にも出て、文藻のあつた人である。萬葉集中の叙事詩人高橋蟲麿も、常陸に居て、その長歌には傳説を歌つたもの、?歌また那賀郡の曝井を詠んだものなどがあるから、常陸風土記と關係がありはせぬかとも想像せられる。
 かくの如くにして、これらの古風土記は、いづれも萬葉集と相並んで、奈良朝文學の貴重な作物である。隨つて先づ文學としての方面からの古風土記の價値に就いても一考せねばならぬ。
 古風土記はいづれも漢文で記されて居る。しかしその文體はよほど和臭に富み、この點に於いて日本紀の體よりはむしろ古事記の風に近いといふべく、いはゞ紀紀の中間に來るものである。しかし諸風土記の中でも、常陸風土記は前にも言つた如く文體が所謂對偶排比で、(118)文飾に富んだ點で異彩がある。その他に於いても、古風土記の文は、古拙幼稚の中に味があつて、簡素の趣があり、中々風致に富んでゐる。
 而してをの記載の内容は、前に引いた詔勅の文字によつても明らかな如く、各地に産する動植物鑛物等の産物のこと、山川原野等の名の由來、故老の傳説等であるが、殊に地名の由來を説いたり、歴史上の物語を語つたりするものは、いづれも古傳説の説話で、いかにも素朴に、かつ上品にあつさりと語られてゐるのが甚だしく面白い。またこゝかしこの記事の中には、或はかゞひの事とか、或は泉のほとりに郷人が相むれて宴樂することを書いたとか、或は神怪不思議を書いたとか、いづれも上代の國民生活を髣髴たらしめるものがある。
 而して、これらの趣味に富んだ説話の中に交つて傳へられたのが、即ち風土記中の歌である。
 
          第二 風土記に遺れる歌
 
 風土記に殘つてゐる作は、長短歌に斷片をも交へて、約二十五首ある。その内譯を擧げて見ると、常陸風土記十一首、(長歌一、短歌九、斷片一)播磨風土記五首、(長歌一首、短歌三首、斷片一首)丹後風土記六首、(短歌六首)肥前風土記二首、(短歌二皆)伊豫風土記一首、(119)(斷片一首)である。
 まづ風土記の歌の全體としての特質を概觀して見ると、吾人はこれらの一群の歌の特色は、古傳の歌として、萬葉集大體の歌風に比して特色があり、この點に於いて、むしろ記紀の歌風に近く、語句の字數などに於いても、萬葉に見る文學的整齊が少く、また紀記の歌に似て繰返しの句法が多い等の點が認められる。
 而して更に之を、傳説に伴へる歌として萬葉集中の有由緒歌に比較して見ると、萬葉に於いては、大體に於いてその傳説なるものが歌の詞書と見て差支なく、その傳説を雖しても歌は歌としてわかるのに比して、風土記に於いては兩者の間が一層密接である。この點に於いて風土記の歌の方が、萬葉の歌に比して傳説の歌として一層純なもので、隨つて謠物的の趣味に富んでゐることが認められる。
 而して風土記中の歌の或ものにいたつては、萬葉紀記等にそれと關係ある作を有してゐるものがある。こは或は傳説の差を示し、或は歌ひなまりを示して、其間の關係が種々である。
 これらの點は、以下各書について説明するところによつて明らかであらう。
 
          第一 常陸風土記
 
(120) 常陸風土記は和銅六年の注進ならむとされ、風土記中でも最も古い。而してその含む歌も諸風土記中最も多く、隨つて諸風土記中最も主なる出所をなしてゐる。
 常陸風土記は前にも述べた如く風土記中の名文で、かつ中々趣味の深い傳説に富んでゐる。而してその含める歌とともに、それらの傳説は概ね一編の叙事詩を爲してゐる。こは以下實例について述べる所によつて明らかであらう。
     一
 新治郡の條に曰く、
  郡より東五十里に笠間村あり。越え通ふ道を葦穗山といふ。古老の曰く、古へ山賊あり。名を油置賣命といふ。今社の中に石屋あり。俗に歌ひて曰く、
  こちたけば小泊瀬山の石城《いはき》にもゐてこもらなむな戀ひそ吾妹《わぎも》
 この歌は、萬葉卷十六に、
  事しあらばをはつせ山の石城にもこもらばともになおもひわがせ
 とあつて、別なる古傳が添うて居る。これは并存してゐた同種の二傳説と見なすべきであらう。
(121)     二
 筑波郡の條に曰く
  古老の曰く、昔祖神尊、諸神の處に巡りいでます時、駿河國の福慈岳、即ち富士山に到られて、日暮に際し寓宿を乞はれた。この時に福慈の神が答へられたには、新栗《わせ》の初甞《にひなへ》して家内にものいみしてをれば、今日は貸し奉ることが出來ないといふ。是に於いて祖神尊恨み泣いて罵り給うて曰く、汝が親の爲に何故に宿をかさないか、汝の居る山はあらむかぎり冬も夏も霜がふり寒く冷えて、人民がのぼることも出來ず、飲食をまつるものもなかるべしと宣られて、更に筑波の岳に登つて亦|客止《やどり》を請ひ給うたに、此時筑波の神が答へて曰く、今夜|新甞《にひなへ》してをるけれど、いかで大御旨にそむき奉らうと言つて、飲食《をしもの》を設けて仕へ奉つた。こゝに祖神が大いに歡ばれて歌ひたまはく、
  はしきかも我みこ、たかきかも神つ宮、天地のむた、日月とともに、おほみたからつどひゑらぎ、をしものゆたに、よゝにたゆる事なく、日々にいや榮えて、ちとせよろづ代、たぬしみきはまらじ
而してこの後に記して、こゝをもて、福慈の岳は常に雪がふつて人が上り得ず、筑波の山(122)は、人々が往き集ひ歌ひ舞ひ飲み喫ひて今にいたるまで絶えず、とある。神が宿をもとめて許されなかつたことは、話は違ふが、書紀の素盞嗚尊の條にも見えてゐる。新甞の時人を宿さぬといふことは、上古の俗で、萬葉十四にも、
  にほどりのかつしかわせをにへすともそのかなしきをとに立てめやも
とある。いかにも趣の深い説話といふべきである。
     三
 前段につゞいて、筑波山のにぎはひを説いて曰く、
 筑波岳は、高く雲に秀でて、その頂の西の峰がさかしい。これを雄神といつて、人をして上らしめぬ。しかし東の峰は四方が磐石で昇降さかしく、その側に泉が流れ出て夏冬に絶えぬ、そこで關東諸國の男女等、春は花の開く時、秋は黄葉の時、相携へ飲食物を持つてよぢのぼつて遊樂する。而して互ひに歌を詠じて唄ひあつた。その歌いと多く載するにたへない。として、
  筑波嶺にあはむといひし子は誰がこと聞けばかみねあすはけむ
  筑波嶺にいほりて妻なしにわがねむ夜らははやも明けぬかも
(123) のこ首が例としてあげられてゐる。わが古俗の一つとして最も注意すべき※[女+燿の旁]歌に關する作として、かの萬葉集第九にいでた蟲麿は「登筑波嶺爲※[女+燿の旁]歌會日作歌一首并短歌」などに并べて見べき作である。なほ此二首の二句が字數が足らぬので、補ふ説があるが、或はかゝる一體の歌とも見られるとおもふ。
     四
 茨城郡の條に、
 郡より西南近くに信筑《しつく》の川がある。源は筑波山から出て、西より東に流れ、郡中を經て高濱の海に入る。この地は花の時紅葉の折、駕を命じてむかひ、船に乘つて遊ぶ。春は浦の花千々に彩ひ、秋は岸の葉百に色どる。鶯の歌を野にきゝ、鶴の舞ふを渚に見る。夏のころ暑さを避くる者はいぶせき煩をはらひ、岡の陰徐ろに傾けば、凉を追ふ者歡びの意を動かす。詠歌に曰く、
  高濱に來よする波の沖つ浪寄すともよらじ子らにし寄らば
  高濱の下風さやぐ妹を戀ひつまといはゞやしことめしつも
 香島郡の條に
(124) 年ごとの四月十日、祭を設け酒を灌ぐ。卜部氏の種屬男女つどひ、日を積み夜を累ね、飲みゑらぎ歌ひ舞ふ。其唱に曰く、
  あらさかの神の御酒をたげと言ひけばかもよわが醉ひにけむ
 この三句も字足らずである。
 これらの歌、いづれも、或は春の花に、或は夏の納凉に、景勝の地を求めて集まつた上古の人々の行樂の樣が伺はれて、感興が深い。
     五
 同じく香島郡の條に、
 南に童子女《をとめ》の松原あり。古へ年少童子女あり。童を那賀寒田の郎子と稱ひ、女を海上安是の孃子と號ふ。並びに形容《かたち》端正《うるは》しく郷里に輝けり。名聲を相聞きて同じく念ふ心熾なり。月を經日を累ねて、※[女+燿の旁]歌《かゝひ》のをりにたまさかに相遇へりき。時に郎子歌ひて曰く、
  いやぜるの安是の小松にゆふしでてわをふり見ゆもあぜこしまはも
 孃子報へ歌ひて曰く
  潮《うしほ》には立たむといへどなぜの子が八十島がくりわを見さば知りし
(125) すなはち相語つたが、人の知らむことを恐れて松陰に隱れた。秋風吹き月照らして、鶴は洲に鳴いて居た。俄に天あけ日明らかに出た。童子ら爲さむ所を知らず、人の見んことを愧ぢて松の樹に化《な》つた。郎子を奈美松といひ、孃子を古津松というた。
 その傳説もおもしろく、歌もまた紀記時代、しかもその古いところの歌風である。
     六
 同じく香島郡の條に、
 郡の北三十里白鳥里、古老の曰く、伊久米天皇の世、白鳥あり、天より飛び來り、童女と化る。夕べに上り朝に下る。石を摘て池を造る。其堤を築くが爲に、徒らに日月をつみて之を築く。築けども壞れて成る事を得ず。童女等唱うて曰く、
  白鳥のはかつゝみをつゝむともあらふまもうきはこえ(結末不明)
 かく口々に唱ひて、天に昇りて復降り來ず。是に由て其所を白鳥郷と號く。
 とある、白鳥に關する傳説は、わが上代に多い。殊に和歌の伴つたものは、古事記景行天皇卷の日本式尊薨去の條にある。
 
          第二 播磨風土記
 
(126) 播磨風土記は、靈龜元年以前の注進ならむとの栗田博士の説で、常陸風土記と同時代に屬するものと見てよい。その含むところは長歌短歌五首であつて、その歌風はいづれも紀記に近い、古いものである。
     一
 小目野の條に、
 小目野と號くるは、品太天皇巡行の時此野に宿りまして、四方を見さけました時、彼の見ゆるは海か河かとのり給うた。從臣《もとこひと》こは霧なりと申した。時に大|體《かた》と見ゆれど小目《をめ》なきかもとのたまうたので、しか名づけた。こゝに從臣井をほり、さゝの御井と云うた。又此野に因つて歌を詠んだ。曰く、
  うつくしき小目の笹葉に霰ふり霜ふるともな枯れそね小目の笹葉
とある。
 應神記に天皇が近江の岡に幸し給ひ、宇遲野に立つて葛野を見さけましてよました、として記した、
  ちばのかづ野を見ればもゝちたる家庭《やには》も見ゆ國の秀《ほ》も見ゆ
(127)と相並べて見べき作である。
     二
 志深《しじみ》里の條に、
 於奚袁奚二人の皇子等、彼此《をちこち》に隱れ西東に迷ひ給うた。こゝに志深村の首《おびと》伊等尾《いとみ》の家に役《つか》はれ給うた。伊等尾が新室の宴に、二子等に火|燭《とも》さしめ詠辭《なかめこと》を擧げよと令《おほ》せた。弟皇子立たしてうたひ給うた。其辭に、
  たらちし吉備の鐡《まがね》、さ鍬もち田打つ如《なす》、手うて子ら吾れはた舞はむ
  淡海《あはうみ》は水たまる國、倭は、青垣の大和にます、市の邊の天皇《すめらみこと》の、御|足宋奴《あなすゑやつこ》らま
 の二首がある。まさしく清寧記顯宗紀にいでた長短歌と同種のもので、「たらちし」は全く別のもの、「淡海は」は彼の「石の上ふるの神杉」の異傳といふべきである。かく相似て、傳を異にしてゐるところが、上古の歌の研究上に有力な資料をなす所以である。
     三
 明石の驛家、駒手の御井は、難波高津宮天皇の御世に、楠が井の上に生ひた。朝日には淡路島に蔭さし、夕日には倭島根に蔭さした。仍《かれ》其楠を伐つて船を造つた。其|迅《と》きこと飛ぶが(128)如くなので、速鳥と名づけた。是に朝夕に此舟に乘つて、御食に供へん爲に此井を汲んだ。然るにある日、御食の時に間にあはなかつた。唱《うた》に曰く、
  住吉の大倉むきて飛ばゝこそ速鳥といはめ何か速鳥
 大木の傳説は、しば/\古記に見るところである。
 
          第三 丹後風土記
 
 丹後風土記は、逸文として、仙覺抄、釋日本紀等に引用されてのこつてゐる。神龜天平頃の注進ならむとされる。
 しかして浦島傳説に關する五首の短歌(うち二首は後人追和の歌)、比治山傳説に關する一首の短歌が傳はつて居る。
     一
 浦島傳説に關するもの、
 與謝郡筒川村に、水江の浦の嶼《しま》子といふがあつた。釣に出て、五色の龜のかたち麗はしい婦人と化つたのに伴なはれて、常世の國にものした。三歳を經て土《くに》を懷ふ心を起し、神女が、ゆめな開き見給ひそというて與へた玉匣を携へて故郷に歸つたに、既に三百歳を經て居た。(129)こゝに前日の期《ちぎり》を忘れて玉匣を開いたに、雲が蒼天に翩つた。嶼子は還《また》會ひ難きを知り、涙に咽んで歌うて曰く、
  常世邊に雲立ちわたる水の江の浦島の子が言もちわたる
 神女遙かに歌うて曰く、
  やまと邊に風ふきあげて雲ばなれそきをりともよ吾《わ》を忘らすな
 嶼子更におもひにたへずして歌うて曰く、
  兒らに戀ひ朝戸を開きわがをれば常世の濱の波の音きこゆ
 この風土記に於ける浦島傳説は之を萬葉の長歌にうたはれたものに比して、いたく潤飾多く、支那思想の影響もあつて、はるかに、後代的である。思ふによほど記者の筆飾を經たものかと思はれる。が、その歌に至つては十分古體を得てゐる。萬葉の長歌と相並べて浦島傳説に關する古歌として、看過すべからざる遺珠である。
     二
 比治山の頂に井あり。眞井といふ。この井に天女八人降り來て水浴せるを、老夫婦竊かに天女の一人が衣裳を取り藏めた。衣裳あるは皆天に飛び上つたに、衣裳なき一人は、すべな(130)くて老夫婦の子となつて十餘歳を經た。天女は善く酒を釀して、其酒の一|盃《つき》を飲めば萬の病も除かれた。故《かれ》、家豐かになつたところ、老夫婦は、天女に歸り去れといふ。天女嘆き悲しみ、天を仰ぎて歌ひけらく、
  天の原ふりさけ見れば霞立ち家路まどひて行方知らずも
 こは後の羽衣傳説の根原になつたもので、浦島傳説と並んでわが國の最も主な傳説の一つをなしてゐる。「天の原」の歌また、素朴のうちに古意がある。
 
          第四 肥前風土記
 
 こは前の諸風土記よりやゝおくれて、延長年間の撰ならむといはれる。このうちに收められたものは、大伴狹手彦に關するものと、所謂杵島ぶりとの二つである。
     一
 大伴佐手彦の任那に渡つた時、弟日姫子、褶を以て振り招いた故、褶振峰と名づけた。然るに五日を經た後、姫子のもとを夜毎に訪うてくる男の容止が、狹手彦に似て居た。怪しんで績麻を襴にかけて麻のまに/\尋ねゆいたに、峰の沼に   地か臥して居た。忽ち人と化《なつ》て歌ひけらく、
(131)  しね原のおとひめの子をさひと夜もゐねてむしだや家にくださむ
 ひれふる山の故事をうたつた歌は、萬葉五にも見えて居る。しかしこれはむしろそれに續ける傳説をうたつたもので、かの褶振峯の傳説の變化を示して居るところが面白い。麻をすそにかけたことは、古事記に出てた三輪の神の傳説と似て居る。
     二
 縣の南に一孤山あり。杵島といふ。郷閭の士女、酒を提さへ琴を抱きて、歳毎の春秋に手を携へて登り、樂《えら》ぎ飲み歌ひ舞ひ、曲盡きて歸る。歌の詞に曰く、
  霰ふる杵島が岳を嶮しみと草とりかねて妹が手をとる
 これ杵島曲である。
 こはまづ仁徳記に、
  梯立の倉梯山をさかしみと岩かきかねてわが手とらすも
 とあり、萬葉三に、仙柘枝歌として、
  あられふりきしみが岳をさかしみと草とりかなわ妹が手をとる
 とある。
(132) この三首の關係は、たしかに仁徳紀のがもとで、これがよみかへ歌ひ傳へられて、本風土記の如くなり、更に誤り傳へられて仙柘枝歌として萬葉集中に入つたのであらう。
 而して杵島曲の話は、常陸風土記板來の條に、杵島曲を唱ふこと七日七夜云々と出てゐるのも注意すべきである。
 
(133)   第二篇 中世
 
     第四章 神樂催馬樂
 
       二十七 神樂催馬樂に就きて
 
          一
 
 神樂催馬樂は、千餘年前のわが國民の民謠である。萬葉古今を讀んで、當時の專門歌人、もしくは教養あるきはの人々の情懷を伺ひ得る吾人は、この神樂催馬樂を讀むことによつて、當時の庶民の詩境に立入ることを得る。凡そ俚歌童謠の類ひが、專門の作家の苦心の間に作り得た文藝的作品とは異なる別種の趣に於いて、すてがたい味ひのあることは、いづこの國、いかなる時代にても、然るところである。されば、專門の作家にして、或は聲調に、或は着想に、民謠の自然の情趣に學ぶ所あらむとして、またその功果をもたらし得た人も、外國には少なからぬやうに聞く。然るを、我が國に於いては、歴史上未だ民謠に注意した歌人を見ぬ。(萬葉集を除いては。)こは我が國の歌が、久しく堂上貴族の文學となり、貴族的性質に(134)囚はれ來た爲であらう。近世歌學の自然派を代表せる小澤蘆菴、香川景樹の如きも、未だ民謠の自然に學ばむとまではしなかつた。
 神樂催馬樂は、我が國千餘年前の民謠として、はたわが民謠の祖として、國文學史上注意すべき一産物である。その文藝的詩歌としての價値如何は暫くおくも、單に歴史上の意味のみに於いても、吾人の看却すべからざるものなることは、言ふを俟たぬ。果して然らば、ここに吾人がこの古い民謠に就いて、些か論ずる所あらむとするも、用なきすさびではあるまいと思ふ。
          二
 神樂催馬樂の語義に就いては諸説あれど、そを一つ/\擧げて説明する煩はこゝには省略する。たゞ、共にこれ古代の謠物で、神樂は主として神事に用ゐたものの一群を稱したものなることを言へば足る。而してこの兩者と性質を同じくして、それに從屬すべきものとして、東遊、風俗がある。この四種は、いづれもその名義を異にし、多少その由來を異にするにも拘はらず、その本質に於ては相同じく、共に古代の謠物として取扱はるべきものである。
 これらの謠物は、いづれも朝廷の雅樂の歌譜となつて現今に傳はつたものであるが、その現(135)今傳はれるものゝ如く制定せらるゝに至つたのは、概ね延喜の頃なりとする。隨つてそれらの歌謠の作られた時代如何と考ふれば、(勿論個々の歌に就いては、制定當時作られたもの、若しくはその以後に編入せられたものもあらうが)大體に於いて、その民謠たる性質として、延喜以前より歌ひ傳へられたもの、即ちその時代より幾分か前代に遡らしめて考ふべきものである。こは推察であるが、なほ吾人のこの推察を確むべきの事證が、これらの謠物のうちに少なくない。即ち第一に、「白金の目貫の太刀を」の如き、歌意より推して、奈良朝の作と考ふべきものが數首ある。第二に、萬葉に出た歌で入つてをるもの、「小で我が駒」(催馬樂「我駒」萬葉十三に出づ)等が數首ある。第三に、古今集に入つてをるものに至つては、かの「み山には霰ふるらし」をはじめ、神樂に六首、催馬樂に三首、風俗に五首の多數がある。而してこれらの古今に出でた歌たる、いづれも古今集の爲に根源となつたものである。これらの事實から推して、奈良朝の末から平安朝のはじめにかけての製作と推定して、ほゞ當れりと思ふ。而してこれらの歌謠が、形式上五七調と七五調との混淆を示してをるのは、また當にそが萬葉より古今への過渡時代の産物たることを示して居る。
          三
(136) 神樂催馬樂以下の古謠は、現今傳はれるもの、(勿論異本によりて多少の出入はあれど)神樂六十三首(本末合せて一首とす)催馬樂六十一首、(數段合せて一首と數ふ)風俗廿八首、東遊四首、合計百五十六首ある。これを萬葉の四千五百首、古今の千百首に比すれば、もとより極めて少數である。
 これらの百五十餘首を、その歌へる思想、題目上より概觀するに、人事を歌へるもの約百首を占む。而してその半は戀愛に關するもので、半は祝賀を述べ、人民の營業を歌ひ、滑稽諷刺の意を歌へるものなどである。次に、山川草木鳥獣魚介等、自然の風物を取材とせるもの約三十首。神事に關するもの約二十首ある。戀愛に關するものゝ多きは、長短歌の和歌にも同じく見る所であるが、をは和歌の戀歌とは趣を異にして、當時の庶民が、戀愛の情を露骨に歌へるものとして、卑野なるものも少なくない。が、一方より見れば、無邪氣にして野趣のあるものあり、又まゝ雜草に交つて咲いてある花にも譬へつべき美しきものもある。而して人事に關するものゝ多いことは、和歌と異なつて居て、其中には、和歌には見がたい境地を歌へるものあり。又その諷刺の作などに至つては、直截にしてしかも趣あるものあり。自然の風物を詠じたものも、自ら和歌の花鳥風月の詠とは異なつて、和歌には決して詠まれ(137)なかつた風物の面白く詠まれたものがある。神事を歌つたものは、いづれも、或は神の榮をたたへて祝賀の意を述べ、或は神と遊び樂しむ意を述べたもので、以て我が國民性の本來を伺ひ得る。
 已に、取材題目に於いて、一般和歌に對して以上の如き特色あるのみならず、更にその修辭上に於いて、寧ろ一層注意すべき性質がある。
 まづ、形式即ち詩形上より考へるに、句形に變化の妙があつて、長短歌のそれの如く、極りきつたものならずといふ特質がある。まづ句の字數より言へば、紀記時代の變體歌の不規則なる形式を繼承して、一句の字數必ずしも五七と整ひをらず、二字、三字、四字、九字、十字、十一字等の句錯雜してをる。勿論優勢なるは五字七字の句であるが、他の變體の句の割合も少なくなく、それらが、五字七字の句と錯雜してをる。決して僅かなる例外として、五字七字の句のうちにたま/\に存しをるといふのではない。而してそれらの句々の連續は上代の歌の特長を持して、上短く下長しといふを普通とするが、これに反封の例も少からぬ。其うちには、純然たる七五の調、また五七にはじまつて半より七五に轉じゆく例もしば/\ある。要するに、前に述べた如く、五七調と七五調との錯雜を示してをる。而してこれらの(138)歌謠に於いて、最も注意すべき句法は、同字の句の連續である。それには同字の異句を重ねたるもの(例へば六五七五五五五十八四四四四六、「淺緑」)と、單に同句を繰返す(例へば五八五五五五、五八五五五五、「港田」)ものとがある。後者は單に句調上の要求よりおこつたもので、思ふに雅樂の歌として歌ふ爲に生じた句法である。
 而して、是等の句が集まつて一編をなすに於いて、短きは二句一首より、長きは十四句一首まであるが、最も多きは六句で、五句四句が之につぐ。而して六句に最も多きは、五七五七七七、即ち短歌の七字の句一句多き體である。これらの長短の一體が、單獨に、或は二編或は二編以上集まつて一首をなしてをる。單獨のものよりも、二編もしくは二編以上集まつたものゝ方が多い。而してそれらは、各首段落をなして居て、そのうち最も多いのは、一段落二節のもので(殊に五七五七七七、五七五七七七の體が多い。これらは、句形上に相對をなして居るが、句數を異にした二編の一首をなしてをる例もある。以上の二節一首をなせるを主なるものとして、三節一首のものも少なからぬ。五節一首のもの、七節一首のものもある、二節一首のものは神樂に多く、三節以上のものは催馬樂に多い。總じてこの段落は、その句調上の面白みたるは言ふをまたず、その巧妙なるものに至つては、事を叙する土に、階(139)段をなし、順序をなし、修辭上に少なからざる妙味を添へて居るもので、長歌に稀に見る段落よりは、變化簡約の妙味がある。
 次に、一般の修辭法より見るに、上代の長歌の修辭の根本をなせる對句の修辭は、歌謠には多く用ゐられてをらぬ。その代りとして、疊句は到るところに用ゐられて居る。枕詞も長短歌の如く用ゐられてをらぬ。對句枕詞の用ゐられてをらぬことは、歌謠の句法をして、比校的單調ならざらしめた。譬喩法に於いては、擬人、諷喩、寓意等の修辭法比較的多く、かつ巧みに用ゐられてをる。これ長短歌に見ない所である。
 要するに、修辭上に於いて謠ひ物の特色は、その長短歌の齊整典雅、隨つて型に入つてゐるに對して、變化自在の妙ある點にありとする。これ取材題目の、上記の如き性質に伴なひ、歌謠の特色をなし居るものである。
          四
 以上吾人は、單に研究の結果を概括的に述べて、一々の作品に就きて例證するの煩を避けた。志ある人々は原書に就いて研究せられむことを望む。
 神樂催馬樂及びその他の古謠は、古來一方の萬葉古今等の和歌に比して、勿論重んぜられ(140)なかつたものとて、その研究もはるかに振はなかつた。かつまた、民間の俚謠として、その語義歌意の明瞭でないものが多く、一方の文藝的作品たる和歌に比して、幾分理解に困難なるものが少なからぬ。隨つて國文學史上神樂催馬樂の研究せらるゝに至つたのは、徳川時代古學復興以後の事に屬する。(其以前には、足利時代の一條兼良の梁塵愚案抄あるのみ)その端を開きしは、賀茂眞淵である。眞淵には神樂考、催馬樂考等の著あるが、その研究は、神樂催馬樂の名義の穿鑿を主とし、次に個々の歌の注解を施したので、卓見ある彼も、未だその萬葉に於ける如き理解をこの古歌謠に對して有するに至らなかつた。神樂催馬樂の古謠としての意義價値の、幾分明らかにせられ來たのは、近世國文學史上の後期ともいふべき時代で、そを代表すべき學者は、橘守部、及び熊谷直好である。而してこの兩者はまた、その解釋に於いて、互ひに相異なる二つの學風を爲して居る。
 守部は、元來卓見ある學者で、殊に古歌の研究に於いては、一見識を備へ、古歌の謠物としての性質を明らかにするに勉めた。彼の神樂催馬樂に關する特殊の著には、神樂入綾、催馬樂入綾がある。その解釋の大意は、元來神樂催馬樂などの謠物は、路巷の俚謠であれば、凡て表面の女字の底に隱れた意の遇せられ居るものであるといふ見解から、多くの歌を隱喩(141)的に解釋した。守部がこの見方によつて、從來明らかでなかつた歌意の、始めてその妙味を發揮せられたものが少なくない。しかしそれと共に、また餘りに穿ち過ぎて、正鵠を逸した解釋もないではない。(なほ守部以前に、山岡浚明の守部に似た解釋がある。)
 之に對して、他の一人の熊谷直好は、まづ守部のこの見地を批評して、
 「橘守部といふ人の入綾を見るに、前古學者の考へ知らざる條々多く、その考證の廣きこと至れりと云ふぺし。此人は歌の意を説くに及びて、悉く表裏の意ありとして、或は諷刺或は譬喩とやうに、必ず寓意を解かれたり。歌といふもの、己が見る所よりいへば、然らず。風俗童謠のたぐひ、みながら寓意あるものにあらず。只何となきが常にて、たま/\裏の意あるも交れるなり。國史などに載せられたる童謠は、たま/\寓意あるをもて記せり。只何となき歌は載すべきいはれなし。此神樂催馬樂の如きは、何となき歌こそ多けれ。されば歌意を説くに至りて、その筋大にたがふ所あり。」
と。この見地から、その著梁塵後抄に於いて、神樂催馬樂を解釋した。直好の考はたしかに守部の説の缺點を補つたもの。而して兩者互ひに相異なる學風をなして對峙して居る。
 この外に、所謂言靈説の立場から、古事記萬葉百人一首等を解釋し、た富士谷御杖に、紳樂催馬樂に關する研究があるが、その序説と、神樂の解釋の一部分のみ傳はつて居る。(序説に記せる神樂催馬樂の時代論は卓見である)その解釋風は、もとより言外に寓意を求むる、例の言靈の解釋であるから、當然守部と同一系統に屬せしめて考ふべきであるが、その神樂の(142)解説には、やゝ彼の神道説に囚はれたる傾向がある。
 神樂催馬樂を研究しようとする人は、まづこの守部の入綾と、直好の染塵後抄とを比較對照して研究したならば、その歌謠の意味を明らかにするには十分である。その以上にいでて、神樂催馬樂の歌謠としての價値を明らかにし、それから何物かを學び得來らむは、我ら新しき研究家の任務である。
          五
 吾人が、千幾百年の長きにわたる和歌の歴史を研究して、常に感ずる所は、其如打にも單調なることである。而して殊に長歌に短歌に旋頭歌にめざましい發達をなして居た萬葉時代が、其幕を閉ぢて古今時代に入ると共に、長歌衰へ旋頭歌滅びて、單に三十一字の短歌のみとなつた現象に至つては、我が國韻文の爲に慨嘆の情に堪へない。それを思ふにつけても、常に吾人の心のうちに思ひ起されるのは、恰もその過渡時代の産物として殘れる神樂催馬樂等の古謠である。これらの古謠が、雅樂の歌詞となつて、已に平安朝初期以來の文藝の教養ある社會にもてはやされて居たことは、源氏物語枕草紙等の古典の證する所である。萬葉時代の黄金時代をなす藤原朝を代表する天才の歌人柿本人麿は、祝詞の句法をとりいれて、かの莊(143)重なる長歌の一體を創りいで、以て紀記時代以來の長歌に一生面を開いた。祝詞の句法を活用したのは彼人麿の偉大なる天才の活らきと稱せねばならぬ。和歌史上平安朝歌風の新面目を開いた古今集、もしくはその前驅たる六歌仙時代の歌人に、人麿に比すべき大いなる天才が出でて、人麿の祝詞を活用したやうに、神樂催馬樂の變幻ある句法、その異彩ある修辭、また情趣を活用して、新しい歌風歌體を開く人があつたならば、我が國の和歌の歴史は更に特殊の觀をなしたであらう。こは吾人の和歌史を回想する毎に抱く感想である。世の歌人、世の國文學者のうちには、吾人とこの感を同じうする人も無きにはあらざるべしと思ふ。
 そはともあれ、不滅なるは詩歌の生命である。千餘年前に於ける我等の祖先の中の幾多の無名の歌人が心の調べは、幸ひに今に遣つて居て、その情想に、その聲調に、なほ吾人に生ける響を傳ふ。古歌を研究して、古歌人の心境を味ひ解することは、單に學問的研究の上のみならず、我々の創作の上に、大なる刺戟となり、大なる教訓となることは言ふまでもない。殊に從來顧みられなかつた、而して萬葉古今の典雅的なる作品とは別種の趣あるこの古歌謠の研究が、吾人に少なからざる益を與ふべきことは、吾人の信じて疑はぬ所である。吾人の以上の言、敢てこの古歌謠の價値を明らめ盡くしたものではない。僅かに古歌謠に對する研(144)究の端を開いたのみにすぎぬ。吾人はこの一小論文が、我が學界に多少の刺戟を與へて、この方面の研究を促がすにいたらむことを望むのである。
 
(145)     第五章 古今集時代
 
       二十八 古今集論
 
 古今集の歌風が、一種の優美純雅な風があつて、後世の歌人の間に殆ど模範的歌風として貴ばれて居るといふ事實は、何人も知る所で有る。さらば斯くの如き古今集の歌風が、發生し成立して來た由來は如何であるか。その歌風はいかなるものであるか。その和歌史上に於ける意義及び功過は如何。これらに就いて論じようと思ふ。まづ古今歌風の發生、成立の由來から明らかにして見よう。
 我が國の歌の歴史の起點は極めて舊いが、時代的に之を言へば、最初の時代は、日本紀古事記の時代となすことが出來る。即ち國初から天武天皇頃迄の聞を含む。この間の作品は、主として紀記に載つてゐる。その次が萬葉集時代で、持統天皇から淳仁天皇まで約七十年、所謂藤原朝奈良朝の時代で有る。第三に稱徳天皇後古今集に至る迄の時代が有る。以上が上古即ち古今集以前の和歌史の區劃である。この紀記時代、萬葉時代、萬葉古今過渡時代の三(146)期を經て、古今集の時代は出來、その三期を經て古今象の歌風は成されたので有る。古今集の前には、以上の三期を含んで居る「上世の歌」といふ和歌の大いなる時代が先立つて存して居るので有る。かるが故に、此上代の和歌史を解さなければ、古今集の歌風の歴史的の意義隨つて眞の意義は解せられないので有る。
 紀記時代の歌は原始時代の歌で有る。思想感情は露骨單純で、しかもその大約は、往々卑野なものさへ交つて居る戀愛の歌で有る。歌の形式から言へば、歌體は長短さま/”\で、五七の句法も、後代の歌の如く齊整されてをらぬが、比較的、修辭、殊に對句とか序詞とかいふやうな聲調上の修辭の方面には發達してゐる。作者からいへば、いま殘つて居るのは、主として教養ある上流貴族の作であるが、未だ大體に於いて庶民詩たる性質を脱しなかつたので、また專門歌人と稱する程のものは無かつた。勿論一概に紀記時代とはいふものゝ、更に委しくは、その後期、即ち舒明天皇より天武天皇まで約六十年の間に至つて、稍や進歩の跡を示してゐる事は凝ひない。第二の萬葉時代に至つて、上代の歌は一大發展の域に入つた。萬葉時代は、奈良朝文明の潜在時代として興國の氣象が欝勃として居た藤原朝時代、及び上代文明の精華を發揮した奈良朝時代の二つを含んで居る。この時代に入つて、紀記時代の歌は、(147)その素朴自然といふ上代詩の性質を全く脱せず、しかも藝術上はるかに進んだ域に入つて、思想感情は段々純化され、歌句歌形は整つて美的になつて來た。自然直截で一種の力のある想と、簡勁の語法句法等は、當時の和歌の特長をなして、後代の人をして所謂丈夫ぶりの歌といふ感を起させる。作者は此時代に於いては未だ限られず、國民全體にわたつてゐたが、其間に已に專門の歌人といふものを生じて來た。歌體から言へば、長歌旋頭歌短歌の三體が行はれ、中でも、長歌短歌が同じやうに盛んに行はれた。
 所謂丈夫ぶりといふ萬葉歌風の特質から(148)言へば、萬葉風の代表的時代は、奈良朝よりは寧ろ藤原朝にありとせられる。藤原朝を代表する人麿の歌は、その歌 想歌の形の相俟つて雄勁なところに於いて、萬葉風の精髄を發揮して居る。この人麿の歌風は、萬葉集時代に於いても已に變遷して、稍やおくれて出た赤人に至り、憶良に至ると、餘程優美となり平明となつて來てゐる。更に奈良朝の中期以後を代表して、萬葉時代の殿の歌人たる家持に至ると、益々その傾向が著くなつて居る。同じ萬葉集でも、家持の歌をとつて人麿の歌に比較すると、其間に餘程時代の推移の有ることがわかる。
 上代の歌が、一度家持の平明な風に移ろつて、和歌の上代史はその終りを告げた。而して續いて古今集の時代が出現する迄には、其間少なからぬ歳月を要したので有る。即ち稱徳天皇以後、醍醐天皇まで約百三十年の時代がこれで有る。此時代は平安遷都成つて文物制度も漸く整ひ、藤原氏の勢力が益々固く、宮廷が一般文化の中心、否殆ど其全體として國民を支配して來た時代で有る。國文學史上から見て、此時代の著しき特長は、漢詩文の隆盛と、之に對して和歌の衰頽とで有る。漢詩文の方には、懷風藻の後を承けて、凌雲集、文華秀麗葉、經國集等が選ばれ、前には空海、小野篁、後には都良香、菅原道眞の如き詩人が出でたが、こ(149)れに對して和歌は頗る振はず、上記の詩文集と並ぶべき程の歌集は出でなかつた。併し此間に和歌の生命が絶えはせなかつた。篁とか道眞の如き、いづれも歌にも勝れ、その漢詩文の作物の外に和歌の作物をものこして居る。併し當時の文壇の大勢から見て、和歌の勢力は漢詩文の夫れに比して微々たるもので有つたので有る。斯かる間に天才の歌人業平を先登とした、所謂六歌仙が輩出した。(六歌仙とはいふけれど、今にその作品を傳へて吾人がその作風を伺ふことを得る歌人は、業平小町遍昭の三人で有る。)この六歌仙時代は、弘仁期の漢文學隆盛の反動として、國民的自覺心に基づいて起つた和歌勃興の機運の爲に、前驅でも有り又そを促成する原因ともなつたので有る。斯くの如き機運が段々熟して來て、一つの社會的事實として發現したのが、即ち古今集の勅選で有る。
 古今集は、實に和歌の選集が萬葉以來百數十年間跡を絶ち、漢詩文の選集に所を奪はれて了つたところに、新たに和歌の爲に一生面を開かうとの當事者の大なる自信抱負の餘りに成つたもので有る。この自信抱負のあとは、勅選の事實の上に歴々として認めることが出來る。第一に、醍醐天皇が當時官位も低く年輩も若かつた貫之以下の四人に命じて勅選の事に當らしめられたといふが如きも、たしかに帝の心中に、舊習に拘まず適才に信任して眞に百世に(150)範たるべき歌集を選ばうとの御志が有つたことを證明してゐる。第二に、其命を承けて事に當つた貫之以下の、和歌の道を再興して後代に範を示さむとの所信と抱負とに至つては、古今の序一篇のうちに躍如としてゐる。第三に、その選進の苦心に至つては、第十九卷の長歌のうちにも言ひ表されてゐる所で有るが、そは彼が和歌を分類した四季、賀、別、旅、物名、戀、哀傷、雜、雜體の部立等に明らかに認め得る。この部立は勿論今から見れば標準が二樣にも三樣にも成つて、その結果分類が混雜してゐるし、物名などいふ詞の戯を弄したものを一部となしたなども面白くない等、多少の非難は免れないものゝ、之を萬葉の雜然として、未だ(勿論卷々の中には、部立をしたものは有つたものゝ)一定の部立に整へられて居ないのに比すれば、編制上遙かに進歩して居る。第四に、和歌を選出するに於いても、古人にのみ限らず、又必ずしも官位の高いものゝみでなく、自分等の歌も入れ、賤しい地位のものをも、勅勘を蒙つた人の作をも少しも憚からず入れてある。要するに此勅選の事が、眞面目に歌の道の振興といふ事を志として成されたことは確かに之を認め得る。どこまでも歌を中心とするといふ態度で有る。古今集勅選てふ事實の内に存在してゐた和歌に對する眞面目な精神、この精神が、古今集勅選の和歌史上に於いて有する不朽の生命をなすので有る。
(151) 斯くの如くにして古今集は成つた。古今集が成つて古今集の歌風は成立した。併し此所に注意すべきは、古今歌風の成立は、古今集といふ書物が出來あがつたからそこで成立したと解しては誤りであるといふことで有る。歌集の編制は一時的の仕事で有るが、その歌集の編制を促すに至る機運は長い年月の間に成をれ、歌風の成立に生つては更に長い年月の間に自然に促されたところで有る。七五の輕快な調、こまやかな感情、一體に優美にして平明な趣があつて、萬葉の丈夫ぶりに對して、所謂たをやめぶりと稱せらるゝ古今の歌風の出來て來た端は、遙かに之を萬葉時代の末に求められる。萬葉時代の終を代表する家持の歌風の、人麿等に比して遙かに平明優美で有ることは已に述べた。否更に遡れば、赤人にまで其源を求められる。人麿赤人と並べ稱せられながら、赤人の平淡な歌風は、人麿とは餘程ちがふ。赤人の歌風はその自然な所に於いて素より萬葉風の一方の能き代表者で有るが、所謂丈夫ぶりの眞髄たる雄勁の趣は人麿ほど著しく無く、家持の歌風を見ると赤人(憶良にも)に學んだと思はれる跡が有る。萬葉の歌風が其一つの特質なる自然といふ點をのこして、他の一特質なる雄勁といふ風から優雅の方に移つて來たのは、思ふに時代の好尚の推移の結果で有らう。萬葉時代のうちに於いて、已に斯くの如き變遷が有る。かくて漢詩文の隆盛そのものが、また(152)段々當時の和歌に影響を與へて來た。萬葉集の歌にも、漢文學また佛教思想の影響は見えるが、それは主として部分的で有る。平安朝に入つて來ると、歌風の上に漢文學や佛教の影響が認められる。一方に平安初頭、即ち弘仁前後の詩文は、主として文選一流の文學の模倣で有つたのを、貞觀寛平に至り、道眞などになつては餘程日本的になり來り、夫れ丈け模倣の域を去つて來てゐるといふ經過が認められると共に、その他方には和歌そのものが漢詩文の趣味に感化を蒙つて來たことが認められる。丁度此期に屬する業平以下の六歌仙の歌、及び古今集中の讀人不知の歌の歌風を、萬葉集本來の歌風は固より、家持等の歌風と比較して見ても、必ずしも技巧的になつたとは言はざるも、情趣が餘程藝術的になり、こまやかに成つて來た跡が見える。花鳥風月的趣味が著しくなつてきた事、人世を哀しむとか、不遇を嘆ずるといふ――而かも平安朝一流の美的、詩歌的、厭世的なる――思想の歌はれて來た事など、いづれも漢詩文趣味に感化されたあとを示して居る。
 斯かる傾向を大成して、古今集の歌風は成立したのである。然もそは前に述べた如く、漢詩文の隆盛に對する反動として、國民文學の自覺的精神に依つて成つたもので有る。萬葉に於けると同じく、どこまでも日本國民の國民的詩歌である。隨つてそは國民趣味の上に成立(153)つたもので有る。我が國民本來の自然のまゝの心情を以て、人事自然の美を享樂し、人事自然に對して起すその時々の自然の感情を殆ど直接的に述べるといふ所は少しも變らなかつた。唯それが藝術的に十分發達して居た漢詩文の趣味の影響を承けて、古今風に於いては大に純化されて、正雅とか優美とかいふ特色を多く得て來たので有る。而して、斯かる變化の要素としては、尚ほ色々の注意すべき事實が有る。古代の五七の調が、種々の原因で七五調に變じたことも有る。句法が萬葉の直截勁直なのから多少屈曲的に成つたことも有る。文藝が概して宮廷人士の事と成つたりした爲、自然、萬葉に於けるが如き庶民詩的の性質が見られなくなり、詠歌の題目が、自ら優美な宮廷人士の趣味圏内に限らるゝやうに成つたことも有る。其他數へ擧げれば猶認められるで有らう。
 斯くの如くにして成立した古今集の歌風は、實に後代の和歌の爲には百代の模範と成つた。古今の歌風が、後代の和歌にどれほど重んぜられたかといふことは、詳しくいへば和歌史全體を語るやうなもので有るから、極大體に於いて述べておかう。
 古今集後の勅選集の歌風は、いづれも古今風を模範としたもので有る。他の一大發達を示した新古今風も、その基礎とする所は萬葉風にあらで、古今風に有るといへる。況して新古(154)今以後二條家歌風に至つては、專ら古今風を學んだものである。而して古今崇拜の極は、所謂古今傳授などいふ現象を生じたので有る。近世になつて二條家舊派歌學の弊を破つて、和歌の復古を唱へた茂睡、長流、契沖等は、必ずしも古今主義者では無いが、長流契沖の如き、その復古主義の學問上の主旨は萬葉に有つたにも拘らず、その歌風は寧ろ古今風で有つた。眞淵に至つては、萬葉風の丈夫ぶりを主張したが、其よく萬葉の眞髄をとらへた歌にも、不知不識古今風の影響が認められる。縣門の江戸派歌人に至つては、明らかに古今風を主張し、又自らも歌つてゐる。殊に眞淵一派の復古派に反對して、一層鮮やかな意味で歌の革新を提唱し實行した芦菴景樹一派は、實に古今風を理想としてかゝげたもので有る。就中近世和歌史上に一異彩を放つた景樹に至つては、最も熱心なる古今主義者で有る。古今風の勢力は後代の和歌史上に一貫して存してゐる。
 最後に吾人は、古今集の歌風の和歌史上に於いて有する根本的の意義、並びに古今風の得失功過に就いて論じて此論を終らう。
 先づ第一に、今日吾人が從來の歴史的先入見を離れて、公平に古今集を讀み味つて見ると果して如何。古今集中には果して幾許の名作家が有るか。幾許の吾人の心を動かすやうな名(155)歌が有るか。まづ作家に於いては如何。いかにも古今集には、業平の如きが有る。併し業平は由來適當に古今集の歌人と稱すべきで無い。讀人不知中の作家に於いても同樣である。最も適當に古今集を代表すべき作家といへば、言ふ もなく貫之躬恒以下四人で有る。この選者は果して如何。元來貫之は後世人麿と並稱されて歌聖と稱せられる人で有るが、吾人は彼に於いて到底それ程の作家たるの實を許し得ないのである。彼の歌才は、人磨業平西行定家、また近世の一流の歌人などに到底比し得べきでなく、彼は歌人よりは寧ろ歌學者評論者とすべき事は、一方に彼の作を讀み、一方に彼が古今序に於ける我が國歌學の緒をなした文字を讀み、又彼が古今集編制の技倆 考へて見れば、殆ど何人も一致し得べき見解である。躬恒に於いては、歌才は寧ろ貫之の上にあらむが、彼とて決して一流の才では無い。其他の二人の如きは多くいふに足らぬ。四人の選者已に然り。他に適當に古今集の作家とすべき人のうちに、眞に不朽の生命を有し得るが如き作家は之を求むる事が難いのである。作家に於いて已にさうで有る。個々の作物に就いて見るも、又果して不朽に傳へられるが如き名歌は、古今集に多くあるであらうか。此間題に對しても吾人は否と答へざるを得ぬ。古今集の名歌を含めるは到底萬葉の比で無く、新古今の比でもない。殊に勅選集の第一として當然選者等の(156)嚴密なる取捨選擇を經てゐながら、古今集には後世我々が見てまことにあきたらない作品が有る。例へば、去年とやいはむ一流のつまらぬ理窟を弄んだものがある。これは感情自然の發表を眞髄とした萬葉集にも見ず、技術的に成熟した新古今集にも見ぬ。又古今集には、極めて興味のない説明的な一風が有る。これも新古今などには無い。それと共に萬葉などには多く見られぬなまなかに極く幼稚な技巧を弄したものが有る。而して之等の缺點を代表した作品は古今集中に決して少く無く、十分古今集の歌風のそれ/”\一要素をなして居るので有る。名歌に富むといふ點では、古今集は、萬葉には固より、新古今にも劣つて居る。惡い歌に富むといふ事では、比例的に言つたら元來精選せられない萬葉とも大なる差は有るまじく、況して新古今に劣る事遙かで有る。之が非常な意氣込で精選された古今集に於いて見る現象で有る。
 斯くの如く考へて來ると、古今の歌の後世に重んぜらるゝは何故であるか。そは最初の勅撰集といふ權威が、後代の識見の少いかつ崇古の偏見に傾ける歌人をおしつけた爲で有るか。それも確かにある。否、その以上に、單にさる權威のみでなく、前に述べたやうな古今集勅選の精神が長く後代の歌人を動かすが爲で有る。こは確かに古今集をして大なる勢力あらし(157)むる至當な原因である。
 併し果して斯くの如き精神のみが古今集の勢力で有るかといふと、さうで無い。斯くの如き精神に協ふ丈けの何等かの特長が古今の歌風に存して居つたからであらねばならぬ。さらばそは何であるか。此處に於いて吾人は言ふ。そは實に古今歌風の眞髄をなす純雅といふ事がそれである、と。萬葉に於いては未だ自然粗雜な所が有つた。それが漢詩文の教養によつて得て來た時代の一層純雅な趣味によつて純化して成されたものが、古今集の純雅といふものである。而してそはどこ迄も其根底には日本人本來の趣味性を存してゐる。即ち日本人本來の趣味性がよく純化されて發現したといふのが、古今集の情味で有る。中世文學を支配する典雅趣味といふものは、古今歌風で成立された。古今集の後世に不朽の生命を有してゐる故は此處に有る。而して此意味に於いて古今風は、後代の文學、殊に和歌を規定した。我が國の和歌史上に自ら成立つて來た「歌らしさ」といふ理想の、古今風によつて規定された觀あるは此故である。「歌らしい」とか「歌らしくない」とかいふ後世の歌人の心の中の觀念をおしきはめて見ると、主として古今集の歌風が其標準となつてある事は爭はれぬ。
 古今風によつて規定せられた歌らしさといふ觀念は、後代の歌人を支配して、和歌をして(158)一種特有の貴族的文學たる特色を保たしめ、野卑蕪雜に陷らしめなかつた。夫れと共に、又和歌をして人間の情感の不羈自由なる發表といふ事から一種遠ざからしめたもとをなした。此處に古今歌風の功過が並び存してゐる。吾人は所謂古今風によつて規定された「歌らしさ」によつて、將來の歌といふものがいつ迄も規定せらるべきものとはせぬ。否、かゝる古來の類型的歌風を破つて了ふ所にこそ之からの歌人の務は有らう。併しながら上代の歌を古今に至つて純化したその經過と、又古今が實際なした純化といふものには、或意味に於いて和歌そのものゝ眞髄を發揮した所以のものが有りはせぬかと思はれる。果して然らば此處にこそ古今歌風の不朽の意義はあるであらう。
 
(159)     第六章 中世歌學
 
       二十九 貫之公任の歌學説
 
 萬葉集時代、及び其以後に於ける歌人等の心に抱いた歌といふものゝ觀念の如何なるものなるかは、定かに知るよしないが、當時漢文學の流行につれて、その心に得來つた詩といふものゝ觀念に思ひよそへて、何等かやゝ形ある思想を有したのであらう。而してその思想が始めて明らかに言ひ表はさるゝに至つたは、貫之の古今集の序である。故に古今集の序を以て、我國歌學思想の淵源とみなすべきである。但しこの以前の作と傳へらるゝ和歌四式(歌經表式一名濱成式、喜撰作式、孫姫式、石見女式)あれども、現存の書は信をおきがたい。
 古今集序の思想は、我が國歌學思想の淵源たるのみならず、又根本をなした。以後の歌學を論ずるもの、皆その根本をこれにおいた。今その序に見えたる思想で、注意すべきものを擧げむに、六つの點がある。即ち第一に、その歌の本義を論じ、やまと歌は人の心を種として萬の言の葉とぞなれりけるといひ、第二に、歌は人の心より自然に發せる聲なる事をいひ、(160)世中にある人、事業しげきものなれば、心に思ふ事を見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり云々といひ、第三に、力をもいれずして云々といひて歌の効をたゝへ、第四に、この歌天地の開け始まりたる時より云々といひて起原を述べ、第五に、漢詩によりて、そへ歌、かぞへ歌、なずらへ歌、たとへ歌、たゞこと歌、いはひうたの分類をなし、最後に、即ち第六に、歌はあだなるたはぶれにあらずして、人の眞心より出づるものなる事をいひ、今の世の中、色につき人の心花になりにけるより、あだなる歌はかなきことのみいで來れば‥‥その始を思へば、かゝるべくなむあらぬ云々というて居る。こゝに殊に注意すべきは、自然といひ、眞心といふことに重きをおき、技術といふ方面の特に説かれなかつた事である。
 それより八十年餘を經て、藤原公任いで、歌學の書を著はしてから、こゝに所謂中世歌學の端は開けた。當時は歌合が漸う盛になつて、歌を批判し、歌をきそふ事が行はれ來た時代で、公任の歌學説も、一つにはかゝる機運に促されて起つたのである。
 さらば、その公任の説は如何、古今序の、自然といひ、眞心とのみいうて、單純であつた思想からこゝに至れば、吾人はその一層複雜になり來つて、或は風情といひ、或は姿といふ如き微妙なる事が注意せられ、又修辭上技巧上にも頗る注意をむけられて來た事を見るを(161)得る。彼の説に曰く、
 大方歌は、心深く姿清げにて、心にをかしき所あるを勝れたりとすべし。事多くそへてよみたるはいとわろきなり。一筋に姿すくよかになむよむべき。心姿あひ具する事難くは、まづ心をとるべし。終に心深からずば姿をいたはるべし。その姿とはふは、打きゝ清げに、故ありて歌ときこえ、もしは珍らしく添へなしたるなり。
 心といひ、姿といふ、固より明らかに分ち得られないが、思ふに、かれは主として思想をいひ、これは調をいうたのである。而してその心に於いて重んじたのは、構想よりは寧ろ風情である。是に於いてか、彼の心といひ姿といふ思想は、後世景樹の主張した調べの思想などにもやゝ觸れた觀がある。殊に彼は、その卷頭に説いて曰く、
 歌のありさま、三十一もじなり。五句なり。はじめの三句をば本といひ、下の二句をば末といふ。一もじ二もじあまりたりとも、打よむに耳にたがはねば、くせともせず。
 斯の如きやゝ復雜にして内容多き姿や心といふ思想は、古今序に未だ見なかつた所である。
 更に進んで、和歌の修辭約方面に於いても、彼は考へ及んだ。まづ歌の詞の上については、
 「和歌のむねとさるべき事あまたある中に、むねとあるは、二ところに同じことのあるなり。ことは同じけれど、心異なるは去るべからず。」「言は異なれども心同じきをばなほ去るべし。」「一文字なれども同じからむは猶去るべし。」「すぐれたる事のある時は、そうじてさるべからず。」
 また
(162) 凡そこはくいやしく、餘りおひらかなる言葉などをよくはからひ知りて、勝れたる事あるにあらずばよむべからず。かも、らし、などの古き詞などは、つねによむまじ。古く人のよめる詞をふしにしたる、わろし。一ふしにても珍らしき詞をよみいでむと思ふべし。
 と。かくて詞のよくとゝのうたところに姿はあるのである。故に歌の最もすぐれたるものの條件を述べて曰く、
 詞たへにして、餘りのこゝろさへあるなり。
 と。而して、たへにしてとは、華美なるにはあらで、自らのうちにいひしらぬ趣あることで、美はしとは別である。貫之が自然主義の流をこゝに見ることが出來る。
 公任の説が、古今の序の思想をうけて、如何に複雜になり來り、如何に進歩し來りしかはこれによりて明らかであらう。
 因にいふ。以上の公任の説は、新撰髄腦及び和歌九品によつた。この兩著中、新撰髄腦は、疑へば疑ふべきふしが字句の上にはあるが、大體に於いて信ずべきものとして、こゝに引いた。但し此書の刊本としては、古語深秘抄に收められたもののみであるが、図書寮所藏の二種の古寫本は、いさゝか原形に近いと思はれるから、こゝにはそを參照して引いた。
 
(163)     三十 公任卿抄に就いて
 
 公任は貫之についで尊ばれた平安朝の歌人であるが、彼が歌學の書として傳はれるものに、新撰髄腦、和歌九品がある。他に、悦目抄に引いた公任卿抄といふものがある。悦目抄以外に所見なきを以て不審に思うて居た所、近くその信ずべからぬ確證を得た。そは、かの公任卿抄云といふ一節は、俊成が日吉七社歌合後序の一節を全くとつたことである。而して前後の文からこれを見て、この抄の文字が、俊成の文詞をもとゝして作りなした後人の挿入なることが明らかで、隨つてそはやがてそを引用せる悦目抄そのものゝ疑ふべき事證の一つともなるのである。(悦目抄論參照)
 
     三十一 類聚證
 
 源氏物語玉かづらの卷に、「和歌の髄腦いと所せう」の語があつて、當時已に歌學の書どもの數多行はれて居たことを證してをるが、今日、當時の書として信ずべきものは、殆ど傳はつて居らぬ。
(164) 然るにこの類聚證は、徳川時代の末頃に古寫本から影寫したものから更に寫して、自分が藏してをるものであるが、内容は、歌句について古歌の例證をあげたもので、その擧げられた證歌は、古今集から後撰集までの有名な歌人の作である。學問上ではもとより幼稚のものであるが、その幼稚のところが却つて古いものたることを示して居る。しかして、終の一節に、「已上は小野宮庚申の夜、人々才覺の次《ついで》にめづらしきこと證にひくなり」とあるのは、本書の出來た由來を語つて居る。
 なほ本書によると、かの和漢朗詠集流布本の終に作者の名がしるしてない「しらじらししらけたる夜の月かげに雪かきわけて梅の花をる」の歌を躬恒の歌として、「躬恒、しろしといふことをよむ」として載せてある。この歌は公任の作といふ説があり、撰集抄には、殊に、雪の降積んで月の明かつた夜、村上帝の仰で公任が梅を折つてまゐり、いかが思ひつると仰のあつたに、此歌をささげて叡感を蒙り、「此世の思ひ出は是に侍り」と常に人に語つたといふ逸話が傳へられて居る。しかしこの歌の歌がらは、「白し」といふ題によつて機智を示した點が、むしろかの大鏡にのせた「弓張月」の歌の作者、また拾遺集なる參議伊衡と歌を以て問答した躬恒の作たるに協つて居る。思ふにこれはこの類聚證に從ふべきであらう。こは本書(165)によつて教へられた一事實である。
 現存の歌經標式が信ずべからずとせば、本書は思ふに現存の歌書中、最も古くしてしかもその原形を傳へたものと言ひ得るであらう。
 
       三十二 歌經標式の古寫本に就きて
 
 徳川時代の學者は、學問草創の際に出でて、熱心に古書の捜索考證につとめ、以て吾人の研究の基礎を作り、吾人の先驅者たる任務を十分に盡くした。吾人が古典の研究は、彼等の努力に負ふところが多い。されど彼等の研究も、固より遺漏なきを得ぬ。隨つて吾人が種々研究しゆくまゝに、往々にして彼等の眼に觸れなかつた古本を發見する事があつて、其折々そを學界に紹介することを怠らなかつた。近時予は、古來歌學の最古の書と傳へられた歌經標式の古寫本を發見せるをもて、簡單に述べて特志の人の參考に供しようと思ふ。
 歌經標式は和歌四式の一として、我が國最古の歌學書であるが、四式といふものが、果して所傳の如き時代に所傳の如き作者によりて作られたか否かは、已に學者の間に疑はれたところで、現存の書の僞書なる事は、殆ど一般の學者の定説となつてをる。そが中にも歌經標(166)式は、藤原濱成が寶龜三年に勅命をうけて作つたものとせられて居るが、その眞僞は別として、そが少くとも平安朝末期から鎌倉の初期にかけてもてはやされてゐた事は、仁安元年の和歌現在書目録、上覺の和歌色葉集、順徳院の八雲御抄等に徴して明らかである。然るに從來流布の歌經標式は、上記の書と殆ど同時代に屬する顯昭の六百番陳状、定家の長歌短歌古今相違之事、及び仙覺の萬葉集抄等に引用せる文詞と合はざる點がある。即ち流布本の歌經標式は、少くとも顯昭の時代に存して居た本と同一ならざる事はいちじるしい。さすがに近藤芳樹は夙くこの點に注意して、その著古風三體考に、「古本あるならむ」と言うて居る。予もこの點に着目して、こゝかしこの文庫、また諸家の目録等に、歌經標式の名を見る毎に、必ず一讀を試みてゐたが、いづれも、流布本の種類に屬するものと、そを省略したものとの二種あるに過ぎぬ。而してその二種は、文詞同じくして、一は省略したにとゞまる。隨つて上記の古書の引用にあふべき古寫本は見るを得なかつた。然るに、竹村氏かち得て予が架中に藏することを得た古寫本は、多少の脱落誤寫はあるが、その辭句、前記諸書の引用の文詞に概ねかなひ、かつ跋文が、流布本とは全く違うて、その中の「緘石知謬」の句は、和歌現在書目録の序に載せた句と合うて居る。これらから推して、恐らくはこの古寫本は、仁安當時
 
(167)〔歌經標式古寫本、図省略〕
 
(168)の古寫本に近いものと推定し得られる。而してこの古寫本を流布本に比校するに、文體その他に古式を存せるものがあつて、さすがに陳状以下の諸書に引用せることの理りなることも察せられる。
 和歌の髄脳の諸書は詩學の影響をうけて出來たもので、就中その歌病説は、空海の文鏡秘府論及び文筆眼心抄と、密接の關係がある。濱成の出でた奈良朝末期の頃に、果して歌經標式の如きもの出來しや否やは疑はしきも、前述の如く仁安の書目に引用せるを見れば、少くとも平安朝中期以前のものといふ事は確かめ得る。果して然らば、本書の發見は、歌學上裨益するところがあると信ずる。
 
       三十三 隆源口傳
 
 隆源口傳は、續群書類從に收められてあるが、(後世の耕雲口傳と並べて。)未だ何人にも多く注意はせられなかつた。しかも最も古い歌學書の現在せるものゝ一つで、當時の和歌の學問の面目をさながらに傳へたる書として、注意する價値がある。
 隆源は、後拾遺集の撰者藤原通俊の兄なる若狹守通宗の子で、千載集以下の作者である。(169)隆源の名は、袋草紙や顯昭の著書中に見えてゐる。元來隆源の叔母にあたる通俊の妹は、六條家の和歌の祖なる顯季の妻であり、隆源の妹は顯季の從妹隆忠の妻で、忠兼を生んだ(忠兼は萬葉に精しかつた學者で、その事は六百番陳状に見えてゐる)といふ縁故で、彼は當時の歌學の家たる六條家に關係が深い。忠兼の歌學、顯季の孫なる清輔顯昭の歌學も、――學問上にも親族的關係の由來深かつた當時の事ゆゑ、――或はこの隆源に負ふところがあつたかも知れぬ。
 この書は萬葉より後拾遺時代までの歌を抄出して、筒單なる語釋と考證とをしたもので、僅に十數葉の小册子で、特にいふ程のものではないが、その筒單なところに當時の面目も伺はれ、かつ上述の理由で、歌學史上注意すべきものである。
 
       三十四 和歌現在書目録
 
 和歌現在喜目録は、今日は已に活版の續群書類從中に收録せられて流布するに至つたが、この書はもとは、群書類從刊行後、績類從の見本として木版本に刊行されたのであるが、いささか印行したのみであつたので、見た人も少なく、隨つて從來の學者の間に殆ど注意され(170)ず、その名さへも知らぬ人が多かつたのである。
 しかし此書が、中世和歌史の資料として極めて重要なものである事は、吾人の夙く之を注意した所であつた。本書の撰者は不明であるが、仁安元年の撰で、藤原佐世の日本國見在書目録の體裁に倣つて作られたもので、本書の眞字序の中の一句は歌經標式異本の跋と符合して居る。而して八雲御抄の學書の一節は、全く本書の拔抄である事、本書によつて仁安當時現在の歌書がわかり、其後に於ける歌書の湮滅を知り得ること、悦目抄が歌論の書でなくて和歌を抄出せる書であることがわかること等は、吾人が本書から教へられた主な事實である。
 本書は八部にわけてあるが、第四部の半から以下は闕けて居て、遺憾ながら缺本で傳はつて居る。自分が別に見た一二の寫本もあつたが、そもまた同種のものであつた。いづこかに完本の藏せられてをつて、之を見るを得たらむにはと希望に堪へぬ。
 
       三十五 悦目抄論
 
 悦目抄は、藤原基俊の著として、中世歌學の書の中に重きをなせる書であるが、吾人は研究の結果、こゝにその假託の書なることを斷定せむとする。
(171) 素より該書に就いては、疑を挿んだ人がないではない。古く、細川幽齋の物語を烏丸光廣の筆記した耳底記の慶長四年三月の條に、三光院の言を引いて、「悦目抄は用捨あるものなり」と云ひ、寛文九年に薨ぜし烏丸資慶の資慶卿口授には、「とくとは心得ぬ書なり」というて居る。こは、共にその所説の必ずしも從ひがたきを言うたものゝ如くであるが、寶永五年に稻葉正倚の著はした席話抄には、疑書の事の條に、「悦目抄も此たぐひなり」というた。近時に至つて、藤岡博士は、國文學全史平安朝編にその疑を述べ、また最近に、鴻巣君は心の華誌上(第十三卷第六號)に同じく之を論じ、次いでまた藤岡博士の説も出た(第七號)。藤岡博士は、十訓抄及び清輔朝臣等の實例について之を疑ひ、鴻巣君は、主として歴史上の立場から之を論ず。兩氏の説、ともにそれ/”\眞理を語れども、未だ完しとはしがたい。吾人は研究の結果、悦目抄は大半が――しかも歌論として主要なる部分のすべてが――他の諸書より引用して、點綴せるものであることを知り得、而してそれより推して(吾人の説を覆すべき有力なる反證の出でざる限は)現存せる悦目抄の著が、基俊の名を負はしむべきものでないことを斷定し得。また、悦目抄の原書は、歌學の書でなくて、和歌を抄出した書であつたことを知り得た。今その結果を述べよう。
(172) 悦目抄の主要なる大半は、八雲御抄、簸川上、十訓抄、及び俊頼口傳等から引用せるものである。その各書に於ける引用の分量は、次の如くである。
 八雲御抄より、(歌學全書本悦目抄頁數)
   一頁一行――一頁二行
   一頁四行――二頁三行
   二頁六行――三頁五行
   三一頁六行――三三頁二行
   五〇頁二行――六〇頁三行
   六一頁四行――六五頁九行
 簸川上より、
   六頁六行――一六頁二行
 十訓抄より、
   六六頁七行――六九頁三行
   六九頁八行――七三頁五行
   七三頁八行――七四頁一〇行
   七四頁一二行――七五頁七行
   七六頁二行――七六頁一一行
(173) 俊頼口傳より、
   四二頁七行――四五頁一一行
   四六頁一行――四六頁一二行
   四七頁一三行――四八頁三行
 以上四書より引用せる行數五百四十五行にわたり、現存の悦目抄の過半を占めて居る。(全編の總行數は、九百九十九行である。)他に、和歌肝要と同じき數節(四十二行)あれど、同書はた俊成の名を負はしめた假託の書であるから採らヌ。
 この明瞭なる事實を以て、吾人の斷定を下さむ前に、なほ必要なる一問題がある。ソは、これらの書たる、いづれも鎌倉時代の書なるが、(俊頼口傳の基俊時代の著なるを除きては)これらの四書の方、却つてその文を悦目抄より引用せるにあらずや、との疑である。
 而してこの疑問に對して、吾人はその然らざるを證するを得る。(これらの四書の信ずべき書なることに就いては、別問題に屬すれば、省略して述べぬ。)
 まづ、第一節の師弟の關係をいへる文は、歌學史上、八雲御抄の時代にして始めて意味をなすべく、清輔を引けるもまた、八雲御抄の言としてうべなふべきである。(清輔に就いて(174)は、鴻巣君も云つて居られる。)
 悦目抄に、公任卿抄云として引いた一節は、八雲御抄に、俊成の言として引いた。(こゝまでは藤岡博士も注意せられた。)而して、この八雲御抄の方信ずべきことは、同文が、俊成の日吉社歌合の判詞の一節として、明らかに存せることによつて、また疑ふべくもない。
 簸川上は、元來、新撰髄脳、及び俊頼口傳の一節を布衍して記せる書なるが、悦目抄がふくめる同書の數節は、その文體よりして含味すれば、簸川上の文なること瞭然である。(新撰髄脳及び俊頼口傳の一節と、悦目抄の一節とが、同じき理由も、簸川上を讀まば明らかである。)
 十訓抄の文もまた、ある人云ふ云々の教訓の條の如き、まさに十訓抄全篇一貫の筆致で、(悦目抄中に出でたのは十訓抄一の卷の中の文にとゞまる。)決して悦目抄よりの引用とは認むべからぬ。
 これらの諸點をはじめ、比較對照すれば、前述の諸書が悦目抄より引用し來つたにあらざることは明瞭である。而して以上の結果よりして、悦目抄の、全く中世歌學の書として信ずべからざること明らかなると共に、それよりして吾人は、國語學史上、てにをはといふ語の(175)起源を悦目抄にありとする説の誤なること、及び、公任卿抄の架空の書たること、赤染衛門、伊勢大輔等を梨壺の五歌仙と稱するが謂れなきこと(こは藤岡博士もいへり)等を知るを得る。
 もしそれ、四書引用の文を除き去りたる他の半にいたつては、喜撰式、孫姫式によれる病の説と、他には煩鎖なる修辭説等のみ。かヽる零碎なる僻説の一群をさして、悦目抄の原形ならずやと疑ふが如きは、吾人の毫もその要を認めざる所である。(桐火桶に、金吾の説とて候ふ舊草云々、三五記に、金吾の説とて聊口傳抄を云々の句あれど、此二書はた假託の作である。)
 果して然らば、現存の悦目抄は、如何なる時代に何人が作りしぞといはむに、吾人は、之を他の半の所説、また奧書等に徴して、二條毘沙門堂兩家の爭のあつた後、定家の名を負へる他の書と共に、(思ふに井蛙抄より後に−そは同書に俊頼口傳及び日吉社判詞を引用したれば也。)二條家流派の手によつて作られたものと考ふ。さるは八雲御抄學書の中に悦目抄の名あるを見、家學の祖なる俊成の師基俊を一層重くせむが爲に、その説として、諸書より抄出點綴して、現存の悦目抄一篇をなしゝなるべきことは、蓋し疑ふべからぬ。
 而して、今一歩進んで考へむか。實際の悦目抄は、思ふに歌論の書でなくして、和歌を抄(176)出したものであつたのである。そは、仁安元年の和歌現在書目録に、歌書の部類を八つに分けて居るが、その髓脳家中にいれずして、抄集家中――和歌を拔抄せる新撰和歌、拾遺抄、金玉集、深窓集等と同列に悦目抄の名を掲げたこと、及び同書の序に、或稱樹下山伏之集、或曰發心悦目之抄、皆是奇才博覽之所撰、隱士處女之私集歟といへる、其證である。(八雲御抄の學書の條は、專ら和歌現在書目録の書名を襲ひしるせるもの、悦目抄の名を載せたるも亦然り。)その原書は、思ふに早く世に傳はらなかつたのであらう。彼の建久年中の上覺の著はした和歌色葉集なる撰抄時代の條に、悦目抄の名の見えざるも、傍證とすべきである。(又延寶四年刊行の和歌無底抄一名一子傳十卷がある。その五六七の三卷は、悦目抄をさながら取いれたものなるが、此書亦うづなく假託の書である。)
 最後に、基俊に關しては、他に信ずべき歌合判詞の遺れるがある。彼が一代の名匠俊頼に伍して相下らなかつたこと、其學を頼みて驕慢であつた爲に、時人に惡まれた逸話の殘つたこと等によれば、彼が如何に歌學に邃かつたかは窺ひ知られる。しかして萬葉にも精しかつたことは、詞林采葉抄に萬葉次點の一人とせるによつても明らかである。殊に彼は、歌人としては時流を拔いてをつて、多くの名作が今に殘つて居つて、現存の悦目抄は假託の書なり(177)といへども、なほその點に於いて、中世の和歌の歴史を飾るべき一人であることは言を俟たぬのである。
 
       三十六 悦目抄の異本
 
 悦目抄が後世假託の書であることは、已に論じたところ(前節參照)であるが、しかも、そのいづれの時代の假託にかゝるかに至つては、大凡はわかるが、確實なことはわからないので、その後も注意をおこたらず、悦目抄と題僉せる古寫本は、目に觸れるに隨つて購ひもとめ、今までに已に三種の古本を藏してゐる。しかも、これらはいづれも足利末から徳川初期ごろへかけての寫本であつて、文句に多少異なつたところはあるが、奥書は大同少異で、畢竟同一系統に屬するものである。
 しかるに松井簡治氏が藏せらるゝ烏丸文庫舊歳の古寫本は、極めて特色のある注意すべきものである。この書は小形蝴蝶綴の横本で、紙數は廿五枚ある。閲讀して見ると、普通の悦目抄よりははるかに分量が少く、前者に於ける他本からの?入等の疑はしい部分は、いづれも省かれて居る。而して本書には悦目抄といふ表題も記してない。が、その内容は、吾人が(178)研究によつて知り得た――即ち混淆分子を凡てのぞき去つた悦目抄と大體一致するところからして、その現行の悦目抄からの拔抄ではなくして、所謂悦目抄の原本と見なすべきものであらうと思ふ。なほ本書はかく注意するに足るものであるから、和歌叢書の第七編和歌作法集中に、異本悦目抄として、特に收めておいたことである。
 追記。最近に名古屋に旅行して、富田重助氏所藏の傳藤原家隆筆の卷子本二卷を見るを得た。そは清輔の抄物、八雲御抄の一部等に似よつたものであるが、從來見るを得なかつた中世歌學の稀覯書である。その中に、所謂悦目抄の原形にあらずやと思はるゝ部分があつた。いづれ委しく研究した後に發表しようと思ふ。
 
       三十七 六百番陳状
 
 中世歌學の巨匠であつた顯昭の學才は、當時に於いても認められ、大才定家の如きは、專ら彼を敵手と目し、又顯註密勘の著さへあつて、其奥書には彼を稱へてゐる。後世二條家の隆盛にけおされた爲、彼の名聲は俊成定家の如く隆々たるを得なかつたが、なほ元禄復古の時代に至つて、彼の學才は認められて來た。契沖茂睡の如きも、その著書に、二條派に對して彼(179)を重んじて擧げてゐる。
 彼顯昭の著書は少くない。註澤には古今集序註、古今集註、拾遺抄註、後拾遺抄註、詞花集註、散木集註及び堀川百首註(佚書)等がある。これらはいづれも歌書の註釋の初期に屬するものどもである。晩年(建永二年)に、なほ日本紀歌註(佚書)がある。外には、考證に、萬葉集時代難事、柿本朝臣人麿勘文。語釋に袖中抄。而して別に六百番陳状がある。
 さてこの六百番陳状とは何であるかといふに、六百番歌合の陳状である。六百番歌合とは、いふまでもなく、後鳥羽天皇の建久四年の秋、左大將良經の家に於いて催ほされた盛なる難陳歌合で、その作者には、左方には良經、季經、兼宗、有家、定家、及び顯昭。右方には定房、經家、隆信、家隆、信定、及び寂蓮。いづれもわが國の歌の歴史を飾る名家であつて、而して之が判者たりし人は、當時八十歳にして歌壇の長老たる俊成である。寂蓮と顯昭とが獨鈷鎌首の爭を傳へたのも、此歌合である。實に當時の和歌界の壯觀は、歴然としてこゝに現はれて、目覺しいばかりである。この歌合の俊成の判に對して、顯昭が更に辯難したものが即ちこの陳状である。かやうにしてこの陳状は、彼の歌論はもとより、當時の歌壇の大勢をうかゞふ上にも非常に有益なものであるが、その陳状、今は群書類從卷二百二十七に、顯(180)昭陳状となづけて收められて遺つてゐる。然るに、自分が先ごろ圖書寮の圖書を見る事を得た中に、この陳状の古寫本一卷があつた。そを讀んで、群書類從所收のものは、陳状の全體ではなくして、なはその後に數十枚、即ち殆ど類從本の紙數と同じにあたるほどの分量があることを知つた。即ち從來世に知られたのは、全部の約二分の一ほどで、この發見の書によつて、はじめて他の半を知り得たのである。
 さてその圖書寮本の半を讀んで見ると、顯昭が博學と才氣とはいよ/\明らかに現はれてゐる。而して彼が辯難攻撃の文字の鋭くして、小氣味よく判者に當つてゐるさまも、いよ/\明瞭に見えてゐる。殊にその奥書に記せる文のうちに、「愚僧者童稚十二歳之昔、始自v綴2和語之拙什1、長者六旬餘之今、至v鈞2好事之虚名1」云々とあつて、これによつて一には彼が十二歳から和歌を嗜んだ經歴がわかり、一にはこれまで知られなかつた彼の年齡の大凡をも知ることが出來たのである。(その辯難の文のうち注意すべき點は、日本歌學史の中に載せて置いた。)
 
       三十八 若宮社歌合後序
 
(181) 鎌倉時代の初期にいてて精緻なる六條家歌學の代表者として、歌學史上重んずべき顯昭の年齡については、從來知るを得なかつたが、こたびその大體を知ることを得た。そは建久二年に催された若宮社歌合の後序を見るに、「六十ぢあまりの齡にたけぬれば」云々と、彼自ら記して居る。假に其年を六十二歳とせむか、彼が古今集序、詞花集、散木集、拾遺抄等の註、人麿勘文等の著書のあつたのは、三十七八歳の頃で、即ち平家が滅亡した壽永二三年である。かゝる騷がしい世に、靜かにさる著作に心をひそめた彼の人格も忍ばれる。而して彼が晩年の著日本紀歌註の成つたのは、七十八歳の老齡であつたのである。(上記六百番陳状參照)
 
       三十九 日本紀歌註
 
 顯昭は、晩年に日本紀歌註を著した。こは單獨の書として日本紀の歌を註した嚆矢であるが、その完本は傳はつて居らぬ。しかしてその事蹟の傳はつて居るのは、定家の明月記建永二年五月廿日の條に、「顯昭付2家長1進2日本紀歌註1云々望2申法橋1云々不v知2其由1日本紀者我朝之國史尤可v重若可v有2其沙汰1者大臣公卿官外記尤可2奉行1歟非2法師撰進之仁1歟」とあるによつてである。元來二條家の定家は、六條家の清輔顯昭等と善くない爲に、かやう(182)に攻撃したのである。當時定家は四十六歳の後輩、顯昭は八十に近い高齡であるに、定家がこの老先輩に對する態度は、門閥と學才とを超んで議すべきふしのあつた彼の性格をあらはして居る。しかも定家がかく誹謗した文辭によつて、この日本紀歌註の出來たといふことが後世に傳はつたのは不思議である。宛も數百年の後に、顯昭を慕うた戸田茂睡が、茂睡を非難した執齋詠草の詞書、また大澤隨筆の一節によつて、その住居のさまや、平生の面目が躍如たるあるものと、古今揆を一にして居る。
 日本紀歌註は、爾來幾百年、何等の書にもその書名すら引用してない爲、全く散佚したものと思うて居たに、先年水戸彰考館の文庫で、日本紀歌抄と題する零本(崇神紀より景行紀にいたる)を見るを得た。そは弘安七年寂惠の奥書があつて、歌ごとに顯昭法師注云として、日本紀歌註の説がかゝげてあるので、寂惠の著に顯昭の説を引いたものと思うて、予が日本歌選、日本歌學史等に、寂惠の著として述べておいた。然るにさき頃、文科大學國語研究室で購入した小杉博士舊藏の假名日本紀二帖一册がある。そは柏木政矩所藏の正慶元年書寫本を影寫したもので、第一帖(第一より四まで)は神代より開化迄で、第二帖(第五より第八まで)が彰考館本と同じである。これによると寂惠は書寫した人で、著したのではないといふ(183)事がわかつた。しかして第一帖中の奥書によると、建永二年五月六日以正本書寫畢印稚(雅の誤か)とある。さすれば出來あがつた當時に印稚が寫したもので、これ即ち顯昭の日本紀歌註そのものではあるまいか。(假名日本紀といふ題僉は、所藏者たりし釼阿が書き添へたものである。)しかすればいよ/\貴いものである。第三帖以下が世に出でんことあらばと希望に堪へぬ。
 追記。史學雜誌廿六編第七號に、橋本進吉君の「假名日本紀に就いて」といへる精しい研究がある。橋本君は顯昭の註を引いたものとせられたが、予はこの書即ち、日本紀歌註そのものでなからうか。中に、私云といふ處もあるが、そは袖中抄にもあつて、矢張顯昭自らを云つたのでなからうかと思ふ。委しいことは、他日にゆづる事とする。
 
       四十 和歌色葉集に就いて
 
 山田孝雄君が、國學院雜誌に掲げられた論文の中に、和歌色葉集の上覺法師の著なる事、及び上覺の系統等に就いて精しく述べられたのは、歌學史を研究せる吾人にとりて、誠に喜ばしい次第である。
(184) 元來和歌色葉集は、其序を扶桑拾葉集に採録して、釋顯昭と記し、黒川春村の古物語類字鈔には、顯昭法橋の作とかいふめる色葉和歌集として引用し、稻葉正倚の席話鈔には、疑書の事といへる條に、其名が加へてある。かの寛文五年の刊本は、誤字の多いのみならず、奥書に建久元年とあるに、後鳥羽院順徳院の小傳があるなど、いぶかしい點がある。然るに、去年(明治四十二年)の秋、山田君を國語調査會に訪うた折、内閣文庫藏の古寫本(もと林羅山藏本)を見るを得、同君の説をも聞いた。其後同書の研究に志して、品田守信氏所藏の古寫本(もと東山文庫本で、外題には顯昭集としてある)を借り得、又圖書寮所藏の古寫本(もと桂宮御本)を見るを得て、疑團が氷解した。即ち疑を存した兩院の御名は、古寫本にはなく、刊本では餘り精しきに過ぐるをあやしんだ歌人の小傳も、古寫本には極めて簡單であり刊本では、本文の終と顯昭の奥書とが續いて居るのも、古寫本には間隔があり、また、奥書の弘長二年云々の上にも、東山文庫本には本云の二字がある。(しかして内閣本東山本は全く同種で、刊本の原書であるが、圖書寮本は奥書をはじめ聊かづつ違つた所がある。恐らく著者の初稿本を寫したのであらう。)
 かくて知り得た點は、和歌色葉集は顯昭の著にあらず、疑書にもあらずして、上覺法師(185)【又上覺とも書けり】の著で、鎌倉初期の著たる事疑なく、上覺はその草案を先輩顯昭に示したに、顯昭が通讀して奥書を記し添へたのである。而して上覺は、この和歌抄三帖を院の御覽に供して御感を蒙り、御物に收められたのみならず、他に歌舞一通、草木八帖をも、院宣を奉じて撰進した事は、右中辨長房、其弟なる刑部權大輔宣房との往復の文書に詳かである。
 かく博識なる上覺の傳記の詳ならざるは遺憾の至であると思うたに、山田君が、神護寺文書、愚管抄、元亨釋書、湯淺系圖等の諸書によつて、そを明らかにせられたは、上覺の爲にも喜ばしい次第である。
 こゝに顯昭の奥書について、吾人が心づいた點がある。そは奥書に、
  抑予依一寺之胙通 事之間役略抄之草見廣學之所許容無極感氣有餘雖似嘲哢彼書状云三卷髓腦六義肝心也屬喜撰之風
  追能囚之跡不堪感 加一篇
  難波津のそこの曇りもあらじかしかきあつめたるきよき玉藻に
    建久元年〔二字右・〕十一月十一日   顯昭
とある。これは本書下卷に、
  まぢかく九條殿下内大臣家に、人々百首歌よみける時、元日宴といふ題に、顯昭闍梨の、
  むつきたつ今日のまとゐや百敷のとよのあかりのはじめなるらむ
(186)  とよめりけるを、かれこれかたぶきて、豐のあかりは五節なり。元日宴は正月朔日の節會なれば、きはめたるひがこと也と難じけるに、作者、豐明とは、日本紀に宴字をよめり。是別ち節會なり。いはゆる正月一日は元日の節會、同七日は白馬の節會、同十四日は蹈歌の節會、九月九日は重陽の節會、新甞會は五節の節會なり。此五ケ度の節會の宣命に、皆とよのあかかりきこしめす日なりと書けり。豐はゆたかなる心なり。明はあきらけき心なり。或は豐樂ともかけるにつきて、元日宴をとよのあかりのはじめに祝ひて仕れりと陳じ申ければ、難者の英才、當世の歌仙、各口を閉て悉頭を低けるとかや。此義をば先達も此定にぞ沙汰せし。まことに五節は一の節會なれば、折につけていひ來れるを、五節ばかりに豐明とよむべしと定むる事は、深く知らずして浅く難ずるなるべし。讀口譜代は優にいまする人多かれども、運心劬勞は越ゆべき輩少なければ、件闍梨を廣學なりと此入道が許し侍るなり。諸家共は定めてあざけり笑ひあはれむか如何。【圖書寮本による】
 とあるを指したのである。がこれは、彼の後京極良經の家の六百番歌合をさしたので、六百番歌合は建久四年〔二字右・〕の秋に行はれたのである。當時良經は左大將で、内大臣に任じたのは建久六年〔二字右・〕の十一月である。又本書上卷に俊成の歌合の判詞を引用して有るが、をは建久六〔二字右・〕年正月の民部卿家歌合の一節である。さらば内閣本、東山本、刊本、いづれも建久元年〔二字右・〕とあるは、建久六年〔二字右・〕以後の誤寫で、草書の字體の似た七年、もしくは九年であらう。又圖書寮本の終には、「于時建久五年仲夏上旬西山隱士上覺抄記」とある。此五年も七年の誤であらうか、(因に云ふ、前に引いた右中辨長房【永昌記の著者藤原爲隆の曾孫仁治四年卒】を辨官補任によつて調べると、逢久九年十二月(187)九日右中辨に任じ、正治三年八月十九日左中辨に轉じたのである。)
 なほ本書の和歌の解釋は、大部分奧儀抄を襲用したものであるが、猶綺語抄、童蒙抄等との關係、八雲御抄への影響の如き、詳かに調べると、興味ある一問題である。他日善本を見るを得ば、更に精しく研究したいと思ふ。
 追記。奈良橋井氏の所藏に、嘉禎四年九月書寫の色葉集の零本一卷がある。色葉集古寫本中最も年代の古い稀覯書であるが、難歌會釋の一部で、種々の疑問を解決すべき卷尾の卷の無いことは學問上遺憾の極みである。
 また難波翰林堂より出せる和歌色葉集は、寛文刊行の板木を購うて、見かへしに、顯昭阿闍梨選定云々の文字を猥りに書き添へたもので、固よりとるにも足らぬものながら、書き添へて置く。
 
(188)     第七章 今樣及び雜藝
 
       四十一 歌謠史の研究とその新資料
 
 和歌史の研究は自分のかねて專門として居る所であるが、これと共に、和歌と並んで我が國の韻文の一半をなす謠ひ物の歴史に就いても、その必要を認めて平生注意して居るが、從來和歌の歴史的研究が開拓されて居なかつたと同じく、否、それよりも一層多く手がつけられなかつたのは、この謠ひ物の歴史的研究である。この方面のやゝまとまつた研究としては、栗田博士の學藝志林の問に應ぜられた俚歌童謠の變遷、小中村博士の歌舞音樂略史、小杉博士の歌舞、佐々博士の帝國文學に掲げられた謠ひ物の變遷等があるのみである。元來上代では歌謠は一つもので、其うちから歌と謠とがわかれて出たのであるから、少くともある時期に於ける和歌史の研究は、謠ひ物の研究を無視することは出來ぬ。而して由來謠ひ物は、和歌とは別種の趣があつて、文學上の作物としての價値を有するものあるのみならず、その形式の變化に富んで居る點は、新らしい詩歌の形式上に則るべきものがある。かつ謠ひ物の研(189)究は、言ふまでもなくその時代の文明風俗等の研究に好資料となるものである。これらの意味で、謠ひ物の歴史的研究は極めて必要であるにも拘はらず、從來未だその研究の微々たるは、最も遺憾とする所である。
 上代の謠ひ物としてまとまつて居るのは、神樂、催馬樂、風俗、東遊等がある。その中で、神樂催馬樂の研究は、古來の學者にも比較的多くなされた。從來の學者の謠ひ物方面の研究といへば、殆ど神樂催馬樂に限られてゐた。殊にその註釋に限られてゐた。(しかも橘守部の入あやの註が異彩を放つて居るのと、富士谷御杖の神樂催馬樂燈大旨に於ける制作の時代論とを除いては、大同小異の註釋のみと言うてよい。)神樂催馬樂以外に、或は一般に上代の謠ひ物、または其以後の謠ひ物に對して研究した人は、まことに尠い。徳川時代の學者で、古謠の研究に志し、もしくはその蒐輯を試みた人の第一は、今井似閑である。似閑は、萬葉を知るには、萬葉を經として、その緯となるべきものを究めねばならぬとの意で輯めた萬葉緯の中に、上代の謠ひ物を載せた。次に伴信友は、天保六年に中古雜唱集を編纂した。中世の諸書を捗獵して、精細に拔抄してある。(伴信友全集に、此書を洩らしてあるのは遺憾である。)
信友はまたその著假字本末の中に、伊呂波歌から延いて和讃の由來に就いて論じ、梵讃漢讃(190)から和讃の出來た事を説いたのは卓見である。次に黒川春村は、天保十四年に信友を訪うて、その中古雜唱集の稿本の整理を託され、自らも、中古國風、近時國風といふを編して、中古及び近世の歌謠を輯め、かつ今樣考證士代を著して、今樣及び和讃に就いて考證して居る。又色葉類説を著した。次に鹿持雅澄は、衢謠篇を撰んだ。總論に童謠の起原變遷を詳かに述べて、土佐の國内に傳はつた俚謠が輯めてある。彼の南京遺響に於ける如く、中古の謠ひ物を輯め、其考證を物したらむには、見るべきものが有つたであらうに殘り惜しい。また今樣の研究には岡本保孝の今樣考、黒川博士の今樣歌起原沿革がある。(猶個々の歌の考證には、加納諸平の安米都知や、屋代弘賢の夜須禮歌などがある。)而して明治に入つては、栗田博士の古謠集は、前述の中古雜唱集、衢謠篇等をも收めて、よく輯めては有るが、輯めたままで整齊されて居らぬ。其他には、大和田氏の曰本歌謠類聚があるのみである。
 前にも言うた如く、上代は歌と謠ひ物とが一つであつたのが、いつしかわかれて來た。紀記の歌にも已にその區別の端は存して居たが、その明らかに現はれて來たのは藤原奈良朝で、專門の歌人が出た頃である。專門の歌人が出で、和歌が一つの文學となると共に、他方に、それに對して上代の舞踏に伴つた歌、※[女+燿の旁]歌童謠などの系統を引いた謠ひ物が行はれ來つ(191)た。その一部分が、平安朝の初めに至つて、雅樂の歌としてとりいれられ、制定せられたのが神樂催馬樂である。神樂催馬樂は、平安朝中期には、他の謠ひ物の一なる朗詠と相並んで、盛んに行はれた。現に源氏物語には、石川の高麗人の歌曲から源内侍の一條が脚色されて居り、卷の名にも襲用されてある。この神樂催馬樂の中には、單に和歌を其まゝとつて、僅かに反覆の修辭を施したに過ぎぬもの(殊に神樂の中に多い)もあるが、其外に純然たる謠ひ物として、句法の變化に、構想の別趣に、和歌に見るべからざる面白みのあるものがあつて、實に、後代の謠ひ物の祖たるべきものである。所が、それにつゞいて、一方に越天樂の流行(穗井田忠友のいうた)及び和讃の流行から來た外部的影響と、一方に和歌内部の句法の變化との結果として、七五の句を主とした今樣歌といふものが行はれ來り、而して又、雜藝と稱した種々の歌謠が行はれた。即ち一方の和歌の方では勅撰時代であるが、歌謠の方では、文學史上、雜藝時代と稱し得る時代を形づくつた。雜藝とは、傀儡子記、染塵秘抄口傳集、郢曲抄、體源抄、拾芥抄、簾中抄等によるに、今樣、古川樣、足柄、片下、黒鳥子、伊地古、古柳、田歌、神歌、棹歌、辻歌、滿周、呪師、別法士、法文歌、沙羅林、早歌、物樣などの總稱で、神樂、催馬樂、風俗歌、和讃等の系統に分屬すべきものである。かくて後に小唄が(192)生じ、ついで近世の俚謠の類となるに至つたのである。
 小唄以後の謠ひ物については暫くおくも、其以前に於いては、第一に研究の資料が乏しい。換言すれば、謠ひ物の作品の傳はつて居るのが少ない。前に述べた如く、其名は多く傳はつてゐても、其歌の殘つてゐるのは、中古雜唱集、中古國風、今樣考等に輯められたものに過ぎぬ。これは研究者にとつて第一の不便である。梁塵秘抄口傳集卷十には、「我ひとり雜藝集をひろげて、四季の今樣法文早歌に至るまで書きたる次第を謠ひ盡す折も有き。」とある。源平盛衰記には、祇王が、「佛も昔は凡夫なり」云々の今樣を謠うたに、「入道打うなづき給ひて、景氣の今樣をば、いしくも謠うたるものかな。この歌は、雜藝集といふ書に書かれたるは、さは無し。」云々とある。この雜藝集といふ謠ひ物の集を見ることが出來たらばと思ふが、散佚して傳はつてをらず、わづかに紫明抄河海抄等にその數首が引用されて居るのみである。また後白河法皇の皇子守覺法親王の右記に「則染塵秘抄有此事、彼抄御製作」とあり、八雲御抄にも、「後白河院の染塵秘抄といふものに、今樣の上手のやうをかかせ給へる中に」とある。この後白河院は、今樣を非常にお好になつて、百錬抄承安四年九月の條に、法性寺殿で今樣合が十五夜の間毎夜あつて、上皇自ら今樣をうたひ給うた事が見えて居る。かく好み給うた(193)上皇の撰なる梁塵秘抄は、雜藝集と同じく、此種の古集として知られて居たもので、徒然草には、「染塵秘抄の郢曲の詞こそ、又あはれなることは多かめれ。」とあり、本朝書籍目録には、「梁塵秘抄廿卷後白河院勅撰」とあるが、其廿卷は今傳はつて居らぬ。(徒然草野槌に「後鳥羽院御作也」とあるは誤である。)前に引いた梁塵秘抄口傳集卷十は、零本ながら、この廿卷の中の殘缺として信ずべき書である。但、奧書に、「嘉應元年三月中旬の頃、これらを記し了りぬ。」とあるに、嘉應以後の治承二年の記事がある。又「かくの如く好みて六十の春秋を過しき。」「我身五十餘年を過し」などあるが、嘉應元年は後白河院は御齢四十三である。これらは不審であるが、嘉應の奥書は※[手偏+讒の旁]入で、後白河院勅撰のそれに違ひ無いと信ぜられる。なほ天文の東山左府眞筆本を摸した「梁塵秘抄」と題する書一册を黒川眞道氏が藏して居られ、内閣文庫及び予が架上にも其轉寫本を藏して居るが、これは同名異書で、後のもので有る。また一條兼良の梁塵愚案抄を、染塵秘抄と題僉したものもある。
 上述の如く、中世歌謠の書は、まことにその資料に乏しい。然るに近頃(明治四十四年)自分は、この染塵秘抄の一部分と信ずべき書と、その以前、神樂催馬樂制定時代を去ること遠からざる時代の作である神樂歌變體の一古集との二書を見るを得た。共に中世歌謠史の新資(194)料として、國文學史の缺けたるを補ふべき書として、尊重すべき稀覯の書と信ずるから、ここに紹介しようと思ふ。
 まづ時代の順によつて、後者から述べる。これは「日吉神社七社祭禮船謠」と題する書で、比叡山無量院の舊藏書、今は東京帝國大學文科大學國語研究室の所藏である。それを研究室の助手橋本進吉君が予に示されたので有る。借覽して攻究すると、山王權現、二宮、聖眞子社、八王子社、客人社、十禅師社、三宮の七社の船謠で、一社ごとに十首、(其半が船謠半が早謠としてある。)合せて七十首の謠《うた》を、一音一字の眞字書《まながき》にして、毎篇|節博士《ふしはかせ》が加へてある。元亨及び永正の奥書のある影寫本の輯寫で、永享三年四月亮守の奥書に、「右船謠七十首者、慈惠大師之作也。以眞筆於九條高倉御坊、不違一字奉之寫了。」とある。慈惠大帥良源は、延喜十二年に生れて、永觀三年に七十四で入滅した。その短歌は、續後撰集、續古今集に選ばれ、其門弟には、和讃に關係の深い源信や、歌人として名高い道命がをり、かつ長元四年にしるした慈慧大僧正傳によるに、若くしてその才辯天下を鼓動せしめ、延暦寺座主に補し、臺嶺の棟梁と成りて二十餘年を送り、山門の舊風を尋ねて地主三聖の爲に金剛般若經を轉讀した事もある。山王權現の祭を琵琶湖畔で行ふ事は、古い傳説によるのであるから、山門の(195)舊風を重んじた慈惠大師は、その船謠の作者としてふさはしいと思はれる。又其|謠《うた》を讀み味ふに、いかにも古雅で、かつ文字遣の上から見ても、この時代のものであると考へられる。
 而して七十首の謠《うた》は、殆どすべて萬葉古今の歌を謠ひ物化したもので、これも時代の古い一證となる。その七十首は、萬葉の長歌から三首、短歌から十五首、古今の長歌から十一首、短歌から三十一首を採つたので、他の十首は未詳である。句數は、三句から七句までで、それに一句の拍子が必ず添へてある。(一句を添へたのは佛足石の歌の體に同じである。)例へば、萬葉の、「古へに戀ふる鳥かもゆづる葉のみ井の上より鳴渡りゆく」をとつて、
  伊爾志閇乃《いにしへの》、己布留止理可毛《こふるとりかも》、和禮波乎止良志與乃《われはをとらじよの》、耶阿《やあ》、霓爾和禮毛乎止良志毛能乎《げにわれもをとらじものを》、
                 (ふり假字は原書には無い)
 古今なる、貫之の長歌の始の句をとつて、
  知波夜布留《ちはやふる》、加美乃美與々利《かみのみよより》、久禮多祁能《くれたけの》、世々爾多衣世努《よよにたえせぬ》、美阿閇爾阿布波乃《みあへにあふはの》、耶阿《やあ》、氣布乃美阿閇爾《けふのみあへに》、
 同じく古今に出てゐる神樂歌の、「霜八たびおけど枯れせぬ榊葉のたち榮ゆべき神のきねかも」をとつて、
(196)  志毛波夜多鼻《しもはやたび》、乎氣杼加禮世努《をけどかれせぬ》、佐加伎婆乎《さかきばを》、佐禰己地乃《さねこぢの》、禰己遲爾乃《ねこぢにの》、耶阿《やあ》、佐禰己遲乃禰己遲與乃《さねこぢのねこぢよの》
 五七の冒頭が多いが、七五もある。例へば、古今の、「いそのかみ古き都のほとゝぎす聲ばかりこそ昔なりけれ」をとつて、
  阿奈保止々義須《あなほととぎす》、米豆良志奈《めづらしな》、己惠婆加利己曾《こゑばかりこそ》、牟加志乃期止與乃《むかしのごとよの》、耶阿《やあ》己惠婆加利己曾《こゑばかりこそ》、
 古今の、「雲はれぬ淺間の山の淺ましや人の心を見てこそやまめ」の地名をかへて、
  比止乃己々呂乎《ひとのこゝろを》、美天毛耶麻賣《みてもやまめ》、阿佐加乃奴麻乃《あさかのぬまの》、阿佐萬志耶《あさましや》、耶阿《やあ》阿佐麻志耶《あさましや》、
 とあるが如きである。以上で知らるゝ如く、此謠は神樂歌の一種と稱すべきものと思ふ。隨つて催馬樂的の内容上の興味は之には無い。が併し、中には脱化の妙の面白いものがある。例へば、萬葉の、「玉|葛《かつら》花のみ咲きて成らざるは誰が戀ならめ吾《わ》は戀ひ思《も》ふを」をとつて、
  和我己比於毛布《わがこひおもふ》、和我世己乎《わがせこを》、波奈乃美佐伎弖《はなのみさきて》、奈良受阿留波乃《ならずあるはの》、耶阿《やあ》多萬加豆良與乃《たまかづらよの》、
 又、「渡つ海の豐旗雲に入日さし今夜の月夜明らけくこそ」をとつて、
  由布比佐須《ゆふひさす》、止與波多久毛與乃《とよはたぐもよの》、阿々加々止《あかあかと》、都伎波佐志能煩留興《つきはさしのぼるよ》、耶阿《やあ》都伎波阿加閼可止《つきはあかあかと》、
(197) また、「我はもや安見兒得たりみな人の得がてにすとふ安見兒得たり」の歌の返歌のやうにして、
  美奈比止乃《みなひとの》、惠賀弖爾須止伊布爾《ゑがてにすといふに》、伎美波志母《きみはしも》、衣多利耶奈《えたりやな》、阿奈於宅志呂《あなおもしろ》、耶阿《やあ》阿那於毛志呂《あなおもしろ》、
 或は、
  阿波禮阿那宇止《あはれあなうと》、須義爾志母《すぎにしも》、於母閇波久比弖《おもへばくひて》、加閇良奴止志奈美與乃《かへらぬとしなみよの》、耶阿《やあ》加弊良奴止志都伎《かへらぬとしつき》、
 などがある。その句法、繰返し、掛聲等は、神樂催馬樂時代につぐ當時の風が忍ばれる。なほ此集に注意せらるゝことは、その書式である。此書は、全部一音一字の眞字で書いてある。隨つて本書によつて、當時の萬葉集の文字及び訓方《よみかた》の一端がわかる。例へば、「人言を繁みこちたみ」の歌の三句が「巳母世爾」と萬葉の流布本にあるので、契沖はイモセニ、眞淵はオノモヨニと訓み、宣長は爾は河か水の誤としてイモセガハ、雅澄は生有の誤でイケルヨニと訓み、千蔭は母を我の誤としてオノガヨニと訓み、雅澄の一説及び木村博士は、元暦校本、類聚抄等に母の字が無いによつて、巳世爾でオノガヨニと訓むべしと云つて居られる。然る(198)に、此船謠にはまさしく、
  伎美乎乃美《きみをのみ》、志祁微己知多美《しけみこちたみ》、乎乃我世奈禮婆乃《をのがよなればの》、耶阿《やあ》安佐賀和々多留《あさかわゝたる》
 とあつて、此頃「おのがよ」と訓んで居た事がわかる。又額田王の、「冬木成春さりくれば、喧かざりし鳥も來鳴きぬ、さかざりし花もさけれど」云々の長歌の句をとつて、
  波奈毛佐伎《はなもさき》、止利毛伎奈伎弖《とりもきなきて》、布由己奈利《ふゆこなり》、波留佐理久禮婆乃《はるさりくれはの》、耶阿《やあ》波留佐利久禮婆《はるさりくれは》
 とある。成は盛の略字であるといふやうな事は、當時は分らなかつたので有る。(元暦校本にもフユコナリと有る。)
 其他、ナルハズ、ナリハズなどの説のある中皇命の長歌をとつて、奈加波豆乃乎止須留波乃《なかはづのをとするはの》とあり、又「味酒三輪の山、青によし奈良の山の、山際」云々とある長歌をとつたのに、味酒を阿麻佐那祁《あまさけ》、山際を夜麻能波《やまのは》と訓ませ、又ハギとハリと二説ある狹野榛をとつたのに、波義乃己呂毛泥《はぎのころもで》とある。以上はいづれも萬葉一二の歌で、一二の卷の古寫本は、元暦校本の外に現存の書が無い故、かゝる零碎の語も尊ぶべきである。
 また此船謠の文字によつて、當時の假字遣を知る事が出來る。前に擧げた於《お》母閉婆久|比《ひ》弖加|閉《へ》良奴、また惠《ゑ》賀弖爾須止伊|布《ふ》爾−衣《え》多利耶奈の如く、半ば正しく半ば亂れて居て、恰も(199)假字遣の亂れかけた過渡時代を代表して居る。而して此點から言つても、本書が所傳の如く、慈惠大師時代(よしや大師の作で無いまでも)のものであることは信ぜられる。
 この書に比して、歌謠集として一層價値の多いのは、次に述ぶる梁塵秘抄である。
 「梁塵秘抄」二卷は、越後高田の人で鐸屋門なる室千壽の舊藏書で、近い頃和田英松君が文行堂で購はれたのを、歌謠の書であるからとて直ちに予に貸されたので有る。博覽なる類聚名物考の著者山岡浚明も、「今思ふに梁塵秘抄は今は絶て傳はらず」といひ、信友も春村も見ず、歌舞音樂略史にも「今傳はらぬは遺憾なり」と有る、その梁塵秘抄の零本が發見せられたので有るから、果して後白河院の集められたそれで有るか無いかといふ事は、第一に究めねばならぬ。
 而して、此書の信ずべき理由は、歌體が古く、取材も用語も、當時のものとして十分考へられ得るのみならず、かの口傳集所載の六首中の四首が、さながら含まれて居る。
 又當時以前の書に載つてゐるもの、若しくは以前の作とせらるゝものと、此秘抄の歌とがよく合ふ。例へば秘抄にある、
  太子の身投げし夕暮に、衣は掛けてき竹の葉に、王子の宮をいでしより、履は有れども(200)主《ぬし》もなし、(原書は殆ど假字のみで、句讀も無い。假に文字を宛てたのである。
 は、體源抄によるに、「白河院の時、近藤といふもの御前に召されて歌ひたる歌」で有る。「わうしのみやを」は、體源抄には「鷲のみ山を」と有る。
  よろづの佛の願よりも、千手の誓ぞ頼もしき、枯れたる草木も忽ちに、花吹き實なると説い給ふ、
 は、古今著聞集、平家物語、盛衰記、體源抄等にも出て居る。(終を「とこそきけ」とある)
  佛も昔は人なりき、我等もつひには佛なり、三身佛性具せる身と、知らざりけるこそあはれなれ、
 は、彼の雜藝集に有つたといふ原形に近いもので有らう。盛衰記には、(佛も昔は凡夫なり――三身佛性具しながら隔つる心のうたてさよ。」平家物語には、「佛も昔は凡夫なり――いづれも佛性具せる身を隔つるのみこそ悲しけれ」と有る。
  うばらこきの下にこそ、鼬が笛ふき猿かなで、かいかなでいなご麿めて拍子つく、たてきり/”\すは鉦鼓の/\よき上手、
 は、狹衣に載つて居る歌と同じものであらう。體源抄風俗の部にも出て居る。
(201)  池の涼しき汀には、夏のかげこそ無かりけれ、こだかき松を吹く風の、聲も秋とぞ聞えぬる、
 は、唯心房集中の一首で寂然の作で有る、寂然は大原三寂と言はれた一人で、その家集は、釋教の歌三十首と今樣五十音とが有る。(唯心房集は、宮内省圖書寮の藏書で、當時の人として五十音の今樣の作が有るのは實に珍らしい。)
 なほこの染塵秘抄は、寂蓮の手蹟を、徹書記の門弟正韵が寫した本の轉寫本である。原書が寂蓮の手蹟との所傳は、信じ得る理由が無いでは無い。如何となれば、寂蓮は俚謠に趣妹を有して居たと思はれて、紫野今宮鎭花祭歌も、筑紫田歌も尾張田歌も、彼の筆と傳へ、其他いづこのとも知られぬ彼の田歌切が、古筆鑑賞家の許に藏せられて居るからである。
 本書は、梁塵秘抄卷第二と卷首にあつて、二册になつて居る。目次には、法文歌二百廿首、四句神歌百七十首、二句神歌百十八首とあるが、引合せると、四句神歌が二百四首、二句神歌が百廿二首で、内二首同歌があるから、凡てで五百四十四首ある。而して佛致及び經文を詠んだ歌がその半を占め、他の半は雜種の謠ひ物と神歌の類である。(四句と二句は唯長短の別ち、神歌も亦謠ひざまの名で、中に佛數の歌も交つて居る。)
(202) 歌體から觀察すると、七五四句の今樣體と、雜體の催馬樂體と、六句體と、純然たる短歌體との四つで有る。
 今樣體は、概ね佛教に關したもの、即ち和讃の一種で有る。併し本書の目録にもしか有るが、これは和讃と言ふべきでは無くて、和讃から出て雜藝の中に入つた法文歌、またの名沙羅林である。其證據には、今日傳はつて居る和讃の中で、比較的古いものと思はれるのと、讀み比べて見ると、彼の經文直澤的、若しくは訓誡的なのに比して、是は遙かに詩趣のあるものを多く含んでゐることで有る、例へば、
  佛は常にいませども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ曉に、ほのかに夢に見えたまふ、
  氷をたゝきて水むすぴ、霜を拂ひて薪とり、千年の春秋を過ぐしてぞ、一乘妙法聞き初めし、
  曉靜かに寢覺して、思へば泪ぞおさへあへぬ、果敢なく此世を過ぐしても、いつかは淨土へ參るべき、
  寂寞《じやくまく》音《おと》せぬ山寺に、法華經誦して僧ゐたり、普賢かうべを撫で給ひ、釋迦は常に身を(203)守る、
  極樂淨土の東門に、はた織る蟲こそけたに住め、西方淨土の燈火に、念佛のころもぞ急ぎ織る、
  阿私仙のほらの内、千とせの春秋仕へてぞ、あふこと聽くこと保つこと、かたき法をばわれは聽く、
  沙羅林に立つけぶり、のぼると見しはそら目なり、釋迦はつねにまし/\て、靈鷲山にて法ぞ説く、
 の如き、いづれも和讃の比では無い。「佛は常に」「曉しづかに」「極樂淨士の東門に」等は殊にすぐれてゐる。「沙羅林に」は、斯かる謠《うた》が行はれて、沙羅林といふ名をも負うたので有らう。而して斯かる今樣體の中に、或は一句を交へ、或は變體の句のあるものが有る。
  近江の湖《うみ》はうみならず、天臺藥師の池ぞかし、なぞのうみ、常樂我淨の風吹けば、七寶蓮華の波ぞ立つ、
 「なぞのうみ」の一句を間に入れて、問答の體にして有る。
  嶺に起きふす鹿だにも、佛になる事いと易し、おのれが上毛をとゝのへ、筆にゆひ、一(204)乘妙法かいたんなる功徳に、
 「筆にゆひ」の一句を入れ、然も格の一句の字數も變り、其音便なるも面白い。
 雜體と言ふのは、大概十句以内で(長いのは十數句のが有る)奇偶さま/”\で、又その一句の字數も、長短あり、同音句の連續あり、略ぼ催馬樂と同じい。只その同音句の連續と言へども、催馬樂に多く見るやうな同句の反覆では無い。此點は歌として催馬樂に比して内容に富んでゐる、今その内容の上から聊か分類して説明しよう。先づ祝賀の意を述べたものに、
  海には萬劫龜遊ぶ、蓬莱方丈えい洲、この三つの山をぞいただける、巖にれんずる龜の齡をば、ゆづるゆづる、君に皆ゆづる、
 終の二句は、殊に面白い。
  海には萬ごう龜遊ぶ、蓬莱山をやいたゞける、仙人わらはを鶴に乘せて、太子を迎へて遊ばばや、
 彼の盛衰記にある祇王祇女が、淨海入道の前で謠つた、「蓬莱山には千年ふる、萬歳千秋かさなれり、松の枝には鶴巣くひ、巖の上には龜遊ぶ」のたぐひである。
  黄金の中山に、鶴と龜とは物語、仙人わらはのみそかに立ち聞けば、殿は受領《ずりやう》に成り(205)給ふ、
 構想が殊に面白い。「殿は受領に成り給ふ」の句は、當時受領といふものが如何に尊とばれたかゞわかる。
 次に、情事を詠んだものは、素より斯かる歌謠の習とて數が多い。中にも秀逸と稱すべきは、
  われをたのめて來ぬ男、角三つ生ひたる鬼になれ、さて人に疎まれよ、霜雪霰ふる、水田の鳥となれ、さて足つめたかれ、池の浮草となりねかし、とゆりかうゆりゆられありけ、
 「角三つ生ひたる鬼となれ」と詛ひ、「水田の鳥」の「足つめたかれ」もをかしいでは無いか。
  わぬしは情けなや、わらはがあらじとも□□じとも、いはたこそ憎からめ、てゝや母の避け給ふ中なれば、きるともきざむともよにもあらじ、
 「いはたこそ」の俚言も注意すべく、「きるともきざむとも」は、後世の戯曲の詞などが思ひ出される。
  美女《びんでう》うちみれば、一本葛《ひともとかづら》なりなばやとぞ思ふ、もとより末までよらればや、きるともき(206)ざむとも、離れがたきはわが宿世、
 前の話のたぐひで有る。
  甲斐の國よりまかり出でて、信濃のみ坂をくれぐれと、はる/”\と、とりの子にしもあらねども、うぶげもかはらでかへれとや、
 「歸れとや」といはんが爲に、前の數句を序に置いた一種の體であらう。
 次に滑稽洒落なるものには、
  鴉はみるよに色黒し、鷺は年は經れども猶白し、鴨の首をば、短しとてつぐものか、鶴の足をば、長しとてきるものか、
 「鴨の首」「鶴の足」は莊子に出て居るので有るが、今日では戯曲阿古屋の冒頭の句がまづ思ひ浮べられる。諷刺的の妙味が籠つて居る。
  羽なき鳥のやうかるは、炭取かいとりかいもとり、いしなどり、いたどり、かきをに生ふてふさるとりや、弓とり筆とり、小弓の矢とりとか、
 調子の面白い一例で有る。「弓とり筆とり」は、當時の流行語であつたと思はれる。彼の「澁柿」の中なる「頼朝佐々木に被下状」の中にも、「すべて筆とりも、まして弓取も、むかひたる(207)目ばかりかゝりて、」云々と有る。
  舞へ/\かたつぶり、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に、くゑさせてむ、踏み割らせてむ、まことに美くしく舞うたらば、華の園まで遊ばせむ、
 當時の子守歌の類であらう。蹴の古言「くゑ」が、此頃まで俗語の中に殘つて居たこともわかる。
  居よ/\蜻蛉《とうぼう》よ、片脚《かたし》をまゐらむ、さて居たれ、働かで、簾篠《すたれしの》のさきに、馬の尾|綣《よ》り合せて、掻《かい》つけて、童べ冠者原《くわしやはら》にくらせて、遊ばせむ
 これも子供の歌で、とんぼつりを謠うたもの。「まゐらむ」は捕へむの意であらう。「さてゐたれ」云々は、ぢつとして居よの意。馬の尾のより合せたるにつなぐといふも面白い。
  いざれ獨樂つぶり、鳥羽の城南寺のまつかみ(祭見の誤)に、我はまからじ恐ろしや、こりはてぬ、造り道や四《よつ》塚に、あせる上馬の多かるに、
 獨樂の遊びの謠で有らう。祭見のことは山槐記に見えて居る。造道は兵範記に見えて居、徒然草にも出て居る。
  御厩《みまや》の隅なるかひ猿は、きづな雖れてさぞ遊ぶ、木に登り、常盤の山なる楢柴は、風の(208)吹くにぞちうとろゆるぎてうらがへる、
 後世の放下僧の謠《うた》のたぐひで有る。
  あそびをせむとや生れけむ、たはぶれせむとや生れけむ、遊ぶ子供の聲聞けば、我身さへこそゆるがるれ、
 感情言ひざまの素朴なのが面白い。
  女の盛りなるは、十四五六歳、二十三四とか、三十四五にしなりぬれば、紅葉の下葉にことならず、
 仁智要録なる詠に、三十云々四十云々と重ねた類であるが、「紅葉の下葉」と詩化してとぢめたのが巧である。
 又、優雅なものには、
  筑紫の文字の關、關の關守老いにけり、びん白し、何とてすゑたる關の關屋の關守なれば、年のゆくをばとゞめざるらむ、
 和歌によく見る趣向ながら、如何にも謠ひ物として古みを帶びて居る。「びん白し」と一句を入れ、「關」をわざと多く重ねたのも謠ひ物らしい。
(209)  思ひはみちのくに、戀はするがに通ふなり、見そめざりせば中々に、そらに忘れてやみなまし、
 後世の隆達節などの中に交へてもと思はれる作で有る。
  海にをかしき歌枕、磯邊の松原きんを彈き、調《しら》めつつ、沖の波は磯に來て、皷うてば、みさご濱千鳥、舞こたれて遊ぶなり、
 「松の琴」「波の皷」も、いひざまが巧である。
  春の始の歌まくら、霞うぐひす歸る雁、ねの日青柳梅櫻、三千歳になる桃の花、
  松の木かげに立よりて、岩もる水をむすぶ間に、扇の風も忘られて、夏なき年とぞ思ひぬる、
 法文歌の歌體の今樣體なるは別として、かの慈鎭和尚の四季の作の如き今樣歌は、前に擧げた寂念の「池の凉しき汀には」と、これらと、極めて少數で有る。
 又、枕草紙の何々ものといふやうな、ものはづくしが有る、即ち何々するものはと數へたてるのが一種をなして居る。
  よく/\めでたく舞ふものは、かうなぎ小楢葉、車の筒《どう》とかや、やちくまひきまひ、傀(210)儡子《てくぐつ》、花の園には蝶|小鳥《ことり》、
  をかしく舞ふものは、かうなぎ小楢葉、車のどうとかや、平等院なる水ぐるま、はやせば舞ひ出づる、いぼうじり、かたつぶり、
 平等院に水車が有つたと見える。後世ならば、淀の川瀬の水車と云ふ所で有る。
  すぐれて早きもの、はいたか隼手なる鷹、瀧の水、山より落ちくる柴車、三所五所に申すこと、
 今日ならば、自働車飛行機など言ふ所で有らう。結末の句は、當時の信仰のさまが知られる。
  をかしくかゞまるものはたゞ、海老よくひちよ、女牛の角とかや、昔かぶりの巾子《こじ》とかや、翁の杖ついたる腰とかや、
 輕妙である。
  心すごきもの、夜道船みち旅の空、旅の宿、こゞしき山寺の經の聲、思ふや中らひの飽かで退《の》く、
 結末がよい。猶此外にも、「風に靡くもの」「心のすむものは」「すぐなるものは」などが有る。
(211)  遊女《あそび》の好むもの、雜藝つゞみ小|端《はし》舟、大がさかざしともとりめ、男のあいくのる百大夫、
 「雜藝」の文字は注意すべきで有る。百大夫のことは大江匡房の遊女記にある。
  武者《むさ》の好むもの、紺よ紅山吹すわう、あかねほやのすり、よき弓やなぐひ、馬鞍太刀腰刀、よろひ冑に脇だて籠手具して、
 なほ、「ひじりの好むもの」、「すごき山伏の好むもの」といふのも有る。
 又當時の風俗世相の一端の伺がはれるものには、
  武者《むさ》を好まばこやならひ、狩を好まばあやゐ笠、まくりあげて、梓のま弓を肩にかけ、軍あそびをよ軍神《いくさかみ》、
 保元平治の軍などを見馴れて、かゝる謠も出來たので有らう。「あや藺笠」は當時の流行で、彼の寂蓮の書いたと傳ふる田歌の中にも、「螺鈿のつまずりあやゐ笠」の句が有る。軍神は、集中に「關よりひむがしの軍神、鹿島かんどり諏訪の宮」「關より西なる軍神」云々の謠も有る。
  鷲の住むみ山には、なべての鳥は住むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや、
(212) 「八幡太郎」といふ名は、今日では美しい繪で見馴れて、勿來關の花蔭のいさましくかつやさしい將軍を聯想せしめるが、當時は、後の鎭西八郎や加藤清正の如く、いかに強い恐ろしい名で有つたかがわかる。
  彼處《あしこ》に立てるは何人ぞ、稻荷の下の宮の大夫み息子《むすこ》か、眞實の太郎やな、俄に曉の兵仕についさゝれて、殘りの衆生を平安に守れとて、
 「俄に曉の兵仕に召されて」の句が、いかにも物騷であつた當時の樣をよく語つて居る。
  嵯峨野の興宴は、野口打出て岩崎に、禁野《きんや》のたゝかひ(鷹飼の誤)敦友が、野鳥合せしこそ見まほしき、
 白川天皇が、承保三年十月廿四日大井川に行幸し給ひ、嵯峨野に御鷹逍遥せさせ給うたことは扶桑略記、今鏡等にも見えて居る。寶物集には、「野の行幸は常の行幸には變りて、諸衛前後左右四方に陣を引きて、放鷹樂といふ樂を奏で、禁野の御鷹飼下野敦友が鳥合せけるこそ面白く侍りけれ」とある。嵯峨野物語には當日のさまを委しく記して、「主上あか色の御袍を召さる。鳳輦の前の左の柱をとらる。これ御鷹をすゑられむが爲也、關白左大臣、あか色の袍、色々の染装束にて、鳳輦の前に騎馬にて供奉せらる。近衛司の鷹飼四人、色々の狩襖ぬ(213)ひものしたるを着して、錦の袴を着、弓箭をおひて、鷹をすゆ。鷹の餌袋装束は、みな内裏よりこれを下さる。隨身錦のすみぼうし、色々のかりあを、すべて目を驚ろかすばかり也。質に隨身敦友究竟の贋飼なりしかば、鳳輦の前にて、おん鳥をたててこれを合す。やがてとりて御輿の前に落つ。叡感甚だし」とある。その當日の花やかなさまを歌うたのである。
  婿の冠者の君、何色の何ずりか、好うだう着まほしき、?塵《きぢん》山吹とめずりに、花村濃、みながしはや、わうこりと違《ちが》へ笹、結び纐纈まへだりの寄生樹《ほや》の鹿子《かのこ》ゆひ、
 當時の服飾の好みがわかる。
 催馬樂に「大芹は國の禁物《さだもの》」云々と博奕を謠つて居るが、この中にも數章有る。
  わが子は二十《はたち》になりぬらん、ばくちしてこそありくなれ、國々のばくたうに、さすがに子なれば憎か無し、負かい給ふな王子の住吉西の宮、
 不孝な子ほど一層可愛いゝ親の情があはれである。
  おうなの子供の有樣は、冠者《くわじや》はばくちのうちまけや、勝つ世なし、禅師はまだきにやかう好むめり、ひめが心のしどけなければ、いとわびし、
 冠者と僧と娘と、三人の子いづれも思ふやうならぬを歎じた母心がいとほしい。「やかう」(214)は夜行であらうか。
  拘尸那《くしな》城のうしろより、十《じふ》の菩薩ぞ出で給ふ、ばくちの願ひを滿てんとて、一六三とぞ現じたる、
 一六三と現ずる菩薩はおもしろい。いふまでもなく、一六三の數を合すれば、即ち十になる。猶、「法師ばくちのやうかるは」といふのも有る。
  此頃都にはやるもの、肩|當《あて》腰|當《あて》烏帽子とゞめ、襟のたつかた、さび烏帽子、布打の下の袴、四《よつの》幅の指貫《さしぬき》、
  此頃都にはやるもの、わうたいかみ/”\えせかづら、しほゆきあふみの女冠者、長刀持たぬ尼ぞ無き、
 建武年間記に載つて居る「此頃都にはやるもの、夜討強盗謀綸旨、召人早馬虚騷動、」云々といふ二條河原落書の口遊は誰も知つて居るが、冒頭の句は、夙く行はれた句で有つたので有る。(なほ後にも、一休の「はやるものなに/\、猿樂田樂うたひもの」云々の唄もある。)
  くすりのみ牧のときつくり、ときはつくれど娘の顔ぞよき、あな美くしやな、あれを三車の四車のあい行、輦《てぐるま》に打のせて、受領の北の方といはせばや、
(215) 好人事詩で有る。前なる、「殿は受領に成り給ふ」の句と同じく、收入の多かつた受領の北の方が、如何に士民の羨望の的で有つたかゞわかる。且つ枕草子に、「童べの國府《こふ》殿へ參りて」といふ俚謠の一句が引いて有るが、國府殿とか受領とかいふ詞は、?々俚謠の材料に成つたものらしい。
  ひじりをたてじはや、袈裟をかけじはや、數珠をもたじはや、年の若きをかたはれせむ、
 當時の僧侶に對しての好諷刺詩である。
  筑紫なんなるや、唐土《もろこし》のかね、白ろといふかねもあんなるは、ありと聞く、それを合せてつくりたる、あこやの玉壺やうかりな、
 美しい工藝品を歌つたので有る。
 また當時の地理を知る一端ともなるべきには、
  いづれか貴船へ參る道、鴨川みのさと、みどろ池、みどろ坂、はたいた、しの坂や、一二の橋、山川さら/\岩枕、
 貴船詣の道筋を述べたので、かゝる類には、「いづれか法輪へ參る道」、「根本中堂へまゐる道」、「いづれか葛《かつら》川へまゐる道」、「いづれか清水へ參る道」などが有る。清水のは殊に長い(216)道行風で、「南をうち見れば」の句は、謠曲の湯谷が思はれる。
  近江にをかしき歌枕、おいそとゞろき蒲生野布施の池、あきのはし、伊香具野、余呉の湖《うみ》のしかのうちに、新羅が建てたりし持佛堂のかねの柱。
  これよりひむがしは何とかや、關山關寺大津の三井のおろし、いまおろし、石田殿、粟津石山國分や瀬多の橋、千《せん》の松原竹生島、
 二首續いた近江名所の歌で、近江八景の先蹤を爲すもの。「石田殿」は今鏡に見えて居る泰憲の館で、當時第一とも稱すべき建築である。
  これより北には越の國、夏冬とんなき雪ぞふる。駿河の國なる富士の高ねにこそ、夜晝となく煙たて、
 當時富士の噴火して居た事もわかる。「とん」は「とも」である。なほ「土佐の船路は,おそろしや」といふのもあり、「備後のともの島」を謠つたのもある。
 飜つて形式の上から考へると、二節三節に節を分けたのが有る。神樂に本末があり、催馬樂にも段が有るが、それらは簡短で有るに、これは複雜して居る。
  春の燒野に菜を摘めば、岩屋に聖こそおはすなれ、たゞ一人野邊にてたび/\あふより(217)は、な、いざたまへ聖こそ、あやしのやうなりとも、妾《わらは》らが柴の菴《いほり》へ、
  柴の菴に聖おはす、天魔はさま/”\になやませど、明星やうやく出づる程、遂にはしたがひ奉る、
 第一は魔女が聖を誘ふところ、第二は聖の魔障に打勝つたのを歌つたのである。
  熊野へ參るには、紀路と伊勢路の、どれ近しどれ遠し、廣大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず、
  熊野へ參るには、何か苦しき修行者よ、安松姫松五葉松、千里の濱、熊野へ參らむと思へども、徒歩《かち》より參れば道遠し、すぐれて山きびし、馬にて參れば苦行ならず、天《そら》より參らむ、はね賜べ若王子、
  熊野の權現は、名草の濱にこそ下《おり》絵へ、若の浦にしましませば、年は行けども若王子、
  花の都をふり捨てて、くれぐれ參るはおぼろけか、かつは權現御覽ぜよ、青蓮のまなこをあざやかに、
 熊野詣を五節に述べたもので、當時の修行信仰のさまなどもわかる、第三と第五が殊に面白い。第四は口傳集第十永暦元年熊野御幸の條に載つて來る。それには「名草の濱にぞおり(218)給ふ」とある。第三のは體源抄に白河院の御時の謠に「海道下れば波高し、山道《さんどう》と思へば、すぐれて山きびし」云々とある類歌である。
 句法の上から言ふと、大體は七と玉で、長句短句がいさゝかまじつて居る。同音句の連續で詞の變つて居るものもある。
  我等が修行に出でし時、珠洲《すす》の岬《みさき》を、かいさはり、打めぐり、ふりすてて、獨り越路の旅に出でて、あしうちせしこそあはれなりしか、
  冬は山伏修行せし、いほりとたのめし木葉も、紅葉して、散りはてて、空さびし、にくと思ひし苔にも、初霜雪ふりつみて、岩間に流れこし水も、こほりしにけり。
 共に修行を詠んだ歌であるが、「かいさはり」云々「もみぢして」云々と、五音の句を連續せしめた同じ形で有る。
  君が愛せしあやゐ笠、落ちにけり、/\、賀茂川に、川中に、それを求むと尋ぬとせし程に、あけにけり、あけにけり、さら/\きいけの秋の夜は、
 これも同音句の連續であるが、稍や催馬樂風に近い。「あやゐ笠は」こゝにも出てゐる。
  雨はふる、いねとは宣《のた》ふ、笠は無し、簑とても、持《も》たらぬに、ゆゝしかりける、里の人(219)かな、宿かさず、
 八句の中に、五音の句が五句まである。
  月影ゆかしくは、南おもてに池をほれ、さてぞ見る、さんの琴の音聞きたくは、北の岡の上に松を植よ、
 前に擧げた「なぞのうみ」と同じ體で、今樣の中に五言の一句が挿んで有る。着想は、大鏡の「瓜を請はば器物を設けよ」の諺と同じく、美しい中に寓意の有さうな歌で有る。
 次に用語の方面から見ると、古語の殘つてゐるものに、當時の俚言が交つて居る。注意すべき詞に圏點を附して置く。
  うろのこの身をすてうてて〔三字右●〕、むろの身にこそならむず〔五字右●〕、阿禰陀佛の誓あれば、彌陀にちかづきぬるぞかし
  はかなき此世を過ぐすとて、海山かせぐ〔三字右●〕とせし程に、よろづの佛に疎まれて、後世わが身をいかにせむ、
  おうな〔三字右●〕が子供は只二人、一人の女ごは、二位中將殿の、くりやざうし〔六字右●〕に召ししかば、たてまてき〔五字右●〕、弟の男《をのこ》ごは、宇佐の大ぐじ〔二字右●〕が、早舟ふなご〔五字右●〕にこひしかば、またいてき〔五字右●〕、神も(220)佛も御覽ぜよ、何をたゝり給ふ若宮の御前ぞ、
  いざたべ隣殿〔六字右●〕、大津の西の浦へざこすき〔四字右●〕に、この江に海老なし、あの江へいませ、海老まじりの雜魚《ざこ》やあると、
 以上で雜體を終つて、最後に六句體と短歌體とに就いて述べる。
 六句體は、紀記萬葉にもあり、佛足石の歌で殊に知られて居るが、こゝには、それが謠ひ物化されて巧に用ゐられて居る點が注意される。
  吾戀は、一昨日見えず、昨日こず、今日音づれなくは、明日の徒然、いかにせむ、
  伊勢の海に、朝な夕なに、海士の居て、とりあぐる、あはぴの貝の、片思なる、
  東《あつま》より、昨日來たれば、妻《め》も持たず、此着たる、紺の狩|襖《あを》に、むすめ交《か》へ賜《た》べ、
  水馴木の、みなれそなれて、別れなば、戀しからむずらむものをや、むつれ習ひて、
  戀しくは、とう/\おはせ、我宿は、大和なる、三輪の山もと、杉立てる門、
 「東より」は、當時の風俗史の資料としても面白い謠で有る。「戀しからむずらむものをや」は、二句に謠つたのであらう。「戀しくは」は古今の歌の句をかへたもの。
  おぼつかな、鳥だに鳴かぬ、奥山に、人こそ音すなれ、あな尊と、修行者の、とほるな(221)りけり、
 七句であるが、六句の變體と見るべきであらう。
  高砂の、高かるべきは、高からで、などひらの山、高々々と、高く見ゆらむ、
  ねたる人、うち驚ろかす、つぐみ(皷の誤ならむ)かな、いかにうつ手の、たゆからむ、いとほしや、
 「高砂の」は、短歌の中間に「高々々と」の一句を混へたもの、「寢たる人」は佛足石體の變體。
  山伏の、腰につけたる、ほら貝の、丁とおち、ていとわれ、碎けて物を、思ふ頃かな、
  賤のをが、しの折りかけて、ほす衣、いかにほせばか、干《ひ》ざらむ、干ざらむ、七日ひざらむ、
 七句ではあるが、前と同じく中間に二句を加へたもの。「山伏の」は、源重之の歌の下句を巧に應用してある。
 短歌體の中には、全く五句の短歌の形式を取りながら、其中に巧に謠ひ物の性質をとつて居るものがある。例へば、
(222)  結ぶには、なにはのものか、結ばれの、風の吹くには何か靡かぬ、
  戀しとよ、君戀しとよ、ゆかしとよ、あはばや見ばや、見ばや見えばや、
  山をさが、腰にさいたる、つゞらふち、思はむ人の、腰にさゝせむ、
  夏草の、しげみにはむは、駒かとよ、しかとこそ見め、秋の野ならば、
 終の一首は俳諧歌で有る。
 卷の最後にある神社歌は、二三首の變體が有るのみで、凡てやすらかな短歌で有る。ここに石情水の二首を擧げる。
  山鳩はいづくかとぐら、石清水、やはたの宮の、若松の枝、
  石清水、ふかき誓の、流には、いくせの人か、わたされぬらむ、
 以上でこの梁塵秘抄の含むところの謠ひ物の、大體どんなもので有るかは盡くし得たと思ふ。要するに、神樂催馬樂(殊に催馬樂)の系統を受けて、その謠ひ物として一層發達したものを多く含んでゐることは、之を斷定して憚らないと思ふ。
 謠ひ物は、自分にとつては、和歌史研究の副事業であるから、未だ凡ての點に於いて精しい研究を盡くしてをらぬ。自分の見聞の及ばぬ方面に、未だ此種の材料の殘つて居るものの(223)或はあらむかと思ふ。例へば、古人の輯めたもの以外に自分の見たもので、珍海の菩提心集の和讃、文治二年に信玄が書寫した順次往生講式の法文歌及び催馬樂、朗詠要集、朗詠要抄、郢曲秘鈔、高野辰之氏が三千院から寫し來られた極樂聲歌等が有る。此方面の研究が、志ある人によつて益々開拓せられむ事が望ましい。
 終に臨んで一言するが、或は古來の書籍に傳はり、或は各地に口づから傳はつてゐる謠ひ物のたぐひを輯録するといふ事は、學問上極めて必要であると共に、個人の事業としては、中々完全にしがたい性質のもので有る。然もそをゆるがせにして居るうちには、益々散佚しがちのもので有る。自分は數年前に、その輯録の、官府若しくは學會の事業としてなされむ事を望んで、文科大學國語研究室の附隨事業としたいと建議して見たが、當時は未だ實行されるに至らなかつた。然るに近頃、文部省文藝委員會の一事業として、現代の歌謠のたぐひを輯録する事がいよ/\實行さるゝを見るに至つたのは、自分の喜ばしく思ふところで有る。が、現時のみならず上世中世近世に溯つて輯録し、此方面の研究に志あるものを利せられむ事を望むので有る。
 附記。こは文科大學國文談話會に於いて講演せし原稿を補正せしものなり。この講演の後、(224)梁塵秘抄に就いては更に挿索し、はた研究して、和田氏常磐氏の論文を添へ明治書院より刊行したりき。(刊本「梁塵秘抄」、及び「文と筆」の八六頁「中世歌謠の發見に就て」、また心の華第十七卷十二山田孝雄君の「梁塵秘抄を讀む」等參照)
 
     四十二 梁塵秘抄に就いて
 
 我が上代中代の文學は、徳川時代の國學者によりて比較的精しく研究せられ、吾人後學の爲にそれ/”\研究の途の開かれてゐる事は、吾人の感謝に堪へぬところで有る。それと共にまた吾人をして、なほ其あとをうけて開拓すべき範圍、研究すべき問題が尠なからず遺されてあるといふことも、また吾人の感謝すべき所で有る。
 上代中代の國文學上の諸問題中、謠ひ物の初期に關する研究の如きも、殊に吾人にとつて興味ふかい、而して先輩によつて未開拓のまゝ遺された問題の一つである。
 記紀の歌謠、つゞいて萬葉集中の一部となり、平安朝初期に神樂催馬樂となり、和讃や唐樂の影響から今樣を生じ、さて諸種にわかれて、終に近代の俗謠歌曲にいたる韻文の研究は、(225)まことに文學史上の好問題であるに、その從來吾人の爲に研究を難んぜしめた最大の理由は、研究資料たるべき作品そのものが少い事で有る。紀記萬葉に於ける作品、神樂催馬樂風俗東遊、續いて朗詠和讃今樣田歌等、諸書に散見するものを集めても、一方の和歌の數に比すれば到底比較にならない。殊に今樣歌が盛んに行はれて、王朝未の廢頽思想の發現とも見るべく、文藝史上の雜藝時代と稱すべき時代を作つたにもかゝはらず、その作品の極めて少數の遺つて居るのみなるは、遺憾の極みであつた。この點からして、自分が幸ひにも和田英松氏所藏の梁塵秘抄を借り得て之を研究し、學界に公けにし得た事は、私かに喜びとするところで有る。それにつけても刊行した原本が新らしい寫本であり、かつ極めて誤字の多い本であるから、善本を發見したく捜索を怠らなかつた。其後阿波文庫の書目に其名を見て同文庫に照會し、また同地に赴かれた芳賀博士にお頼したが現存して居なかつた。また故小杉博士の家、及び謠物に關係ある某伯爵家からも同名の書を借り得たが、をは共に梁塵愚案抄で有つた。最近には、橘經亮の遺書類が出たと聞いて、早速京都に赴き、新村博士の厚意によつて之を見るを得、その歌謠に關する書類を調べたに、其中に同名の書が有つたが、これは彼の天文本で、經亮もその眞の秘抄ならぬよしを記して有つた。斯くの如く、かの書公刊以來、自分(226)は絶えず心掛けてゐるが、未だ不幸にして、刊本一〇七頁に掲げた五辻家本はもとより、和田氏本の原本さへ發見し得ない。吾人は、いつかは發見されて、かの刊本の字句上その他の疑問も解け、文藝史上に一層完全な資料を寄與し得る時あらむことを期しかつ望んでゐる。
 
       四十三 今井似閑と梁塵秘抄
 
 今井似閑が、かの萬葉緯の撰の爲であらう、其家に梁塵秘抄を藏する由を聞き知つて、そを借りんために心を勞した時、上賀茂の社家岡本右京權太夫清茂におくつた書翰は、上田萬年博士が藏されて居るのを借りて、かつて心の華紙上に公けにした。これと同時の書翰を和田英松氏も藏され、自分も亦近く一通を藏することとなつた。自分が所藏するものゝ全文を掲げて見ると、
   猶以左之兩書之内御許容被下候はゞ、千萬/\可忝候。且又若御留主に御座候はゞ、此御返事大工長右衛門迄早々被遣可被下候。長右衛門事私別而懇候故、貴客參候はゞ態人を以指こしくれ候樣に今日頼遣候。又先可申上を申後候。益御安康目出度奉存候。
  此間以手紙得貴意候虚、御出京被遊候由にて使之者申置罷歸候。御覽可被下と奉存候。其節申上候假字日本紀之事、御手本に御座候はゞ此者に被遣可被下候。奉頼上候。
(227)  一去方にて、梁塵秘抄本替に可仕と申談候處、平範記平戸記之内遣候はゞ右之書かし可申と申越候。然處右兩書共所持不仕難義仕候。御存知之通數年大望之書に御座候故、何とぞ遣し、かり請申度奉存候。定而兩所共御節持可被成と奉存候間、右之内壹部御恩借被下候はゞ可忝候。偏に奉頼上候。夫政態々以使札御頼申上候。以上。
  四月十一日             今井似閑
     岡本右京權太夫樣
 とある。似閑がかく借覽を望んだ梁塵秘抄は、或は自分がかつて五辻家について捜索を乞うてしかも發見するを得なかつたものではないかと想像される。これは單に想像にすぎないが、上田博士和田氏所藏の書状によると、終にその希望に報いられるに至らなかつたことに就いては、まさしく古今同歎といふべきである。
 
(228)     第八章 新古今時代
 
       四十四 新古今集私見
 
 和歌の歴史を通觀するに、光彩陸離たる黄金時代は、前に萬葉集時代、後に新古今集時代がある。古今集時代は、この見地よりすれば、萬葉新古今兩時代の連鎖である。また徳川時代は、これら三時代の復活時代、折衷時代である、
 萬葉時代 新古今時代とは、幾多の天才巨匠輩出して、咲き亂れたる言葉の花目もあやに、吾人をして憧憬の感に堪へざらしむる點に於いては一なりといへども、更に進むで兩者を比較し來れば、もとより差異が少なからぬ。而してこの比較は、實に和歌史上興味ふかき問題である。
 一には時勢に觀よ。建國以來漸う成熟し來つた國民の精神が、大陸文明の精華をとりいれて、燦然たる上代文明をつくり出でたのは、萬葉の時代である。雄健豪壯の意氣漲りわたれる時代の響は、吾人はこれを萬葉集の歌調にきくを得。飜つて、新古今の時代は如何にと觀(229)むか。平安朝優美の文化は漸う末になつて、夕日に映ゆるうら紫の藤波の色香、なほ九重の雲に殘つてゐても、驕るもの久しからずして、平家が昨日の榮華を西海の波に洗うた無常の風は、萬人の心にしみわたつた。新古今の和歌の、華麗なるうちに一種のいひしらぬ哀調あるをよむもの、誰かこゝに時勢の反映を認めぬものがあらう。
 二には作者に觀よ。彼には、あまねく上下の階級にわたつて、作者の範圍は寧ろ庶民的と稱すべかりしもの、此には、狹く朝廷の一角に限られて、殆ど凡てこれ上流の才子才女、然らずんば僧侶である。彼の如き時代に生れて、自然奔放の情に、泣くも笑ふも喜ぶもたゞ一むきであつた萬葉作者の性情を、多感多涙、喜のうちに泣き、涙のうちにほゝゑみ、こまやかなる觀察と、鋭どき情感とに惱多くも暮らしたこれの時代の作者に較べ來らば、誰か其差のいちじるしきを見ぬのであらう。同じく一天萬乘の君におはしながら、全國の富をあつめて、東大寺の盧舍那佛に豪華のあとを耀やかし給うた聖武の帝に對へては、天下の政權幕府に移つた鬱悶の情を、わづかに水無瀬離宮の御遊に遣り給うた後鳥羽上皇がおはす。「をす國の遠のみかどに、汝等し斯く罷りなば、平らけく吾は遊ばむ、手むだきて我はいまさむ」と節度使に給うた壯んなる御製を、彼の「奥山のおどろが下もふみわけて」と、道ある代を願ひ(230)給うた悲痛の御聲と共に誦せば如何に。あらき石見の旅路に、妻をのこした人麿の悲しぴ、「雨まじり雪ふる夜」に、貧窮をかこつた憶良がなげき、はた「酒壺になりにてしがも」と打興じた旅人が心は、自ら攝改良經が、「袖に玉ちる」貴舟川の涙でない。「尾上の鐘」によせた定家が恨とは同じからぬ。はた家隆が、「鶯さそへ」のすゞろごころでない。「田子の浦ゆ打出で」見た富士の姿は、こゝには「霞になびく曙の空」にたゞよふ烟の美しさとなり、「こぎいでし船の跡なき」思は、西行寂蓮はた慈圓が歌の深きあはれとなつた。もし亦、これを女歌人に見むか、或は沈痛に、或は熱烈に、或は眞心ふかく、いづれもひたぶるなる情緒をせきあへなかつた笠女郎、茅上娘子、はた安倍女郎が心ざまは、式子内親王、宮内卿、俊成女が、物はかなげに優しい中にも、自ら才氣あふれて深く思ひ入つたのと、趣を異にする。
 而して、三にはこれを和歌古今の歴史に觀よ。紀記の混沌時代やう/\整齊の域に入つて、こゝに自然にして莊重素朴なる上代歌風の隆盛を示した萬葉と、すでに古今が純雅の趣味を傳へて以來、歌合に、歌論に、百首に、三百年の教養を經、技の圓熟と、想の精緻と相俟つて、景情ともなつたところ、餘韻幽遠の趣と現じ來れる中世歌風の極致と、かれが自然單純の美は、こゝには技巧複雜の妙となる。彼には、野に咲き亂れた秋草の色あれば、これには、(231)霞を隔てゝ見る遠山櫻の匂がある。かれは、直情徑行の上古人が山に野に立つてうそぶいた態を傳へ、これは、教養ある大宮人が、みやびたる勾欄のもとに沈吟せる風をとゞめて居る。
 かくの如くにして、この兩時代は、互に相對して、和歌史上の壯觀である。吾人はこゝに、たゞ簡單に言ひ及んだに過ぎぬが、精しい觀察は、幾多の興味多い問題をもたらすべく、更に進んで、新古今時代の歌風が、後世の和歌史に於ける消長、徳川時代に於ける復活の意義等、また注意に價すべき問題である。
 
       四十五 建禮門院右京大夫
 
 我國には女歌人が多い。わが國の文學史上和歌史上の各時代には、殆どいづれの時代にも、多くの男子の歌人と共に、幾人かの女歌人が出て、彼等の中にはその才に於いて優に男子の巨匠に匹敵するのみか、時にはそれにも勝つてゐる婦人があつたのである。女作家女歌人に富んでゐることは、思ふに我が國の文學史の一つの特色であらう。これには和歌といふものが、婦人の文藝にふさはしい特色を有してゐるといふこともその原因であらうが、また日本(232)の婦人が、本來優美な趣味や感情に富んでゐるといふことも、たしかにその主な原因であらう。さうであるとしたならば、それはまことに喜ぶべきことで、さういふ長所はこれからの婦人に於いても益々發揮させたいものである。
 わが國の和歌史上の主な時代といへば、萬葉集の出來た奈良朝時代、古今集以後諸々の勅撰集が出來た平安朝時代、新古今集が出來た鎌倉時代、それから徳川時代といはれる近世、との四つである。
 これらの時代は、一般の文明から言つても、それ/”\特色のある時代であつて、それ/”\その時代の精神とか風潮とか、人の氣風とかいふものが異なつてゐたので、その時代の精神風潮人の氣風等に養はれ、またそれらを代表してゐる各時代の歌人の性行にも、それ/”\差があり、隨つてその作風にもそれ/”\特色がある。女歌人に於いても亦さうである。
 奈良朝時代を代表した女歌人としては、額田王、大伴坂上郎女、笠女郎、狹野茅上娘子等。平安朝時代には、小野小町、和泉式部、紫式部等。鎌倉時代には、宮内卿、俊成卿女等。近世に至つては、大田垣蓮月、野村望東尼、その他縣門桂園の諸才媛等、これらの婦人の名はいづれも世人に聞えてをる。
(233) ところが、こゝにこれらの歌人ほど其名が世に知られないで、その閲歴に富んでゐたことに於て、その優しい性格に於いて、またその詠歌に於いて、優に彼等に相並んで、わが國文學史を飾る美くしい花の一本たるに足る女歌人がある。即ち吾人がこゝに述べようとする建禮門院右京大夫である。
 建禮門院右京大夫は、その名の示す如く、平家物語の女主人公、中宮建禮門院に仕へた女官で、平安朝時代の末から鎌倉時代に生存した人であるが、和歌の歴史の上では、鎌倉時代、即ち新古今時代に屬せしめるのが當然である。併し大夫の歌は、新古今集には載つてをらぬ。これ彼の名が多く傳はらなかつた一つの原因であらう。(その閲歴は平家物語にも見えてをらぬ。)
 彼の傳は詳しく書いたものがない。たゞ彼に建禮門院右京大夫集二卷といふ自叙傳體の家集がある。この家集及び後人がそれに添へた系譜によつて、その一端がわかる。併し一端とは言つたものゝ、それは單に事跡といふ方から言つたので、彼の思想や感情を傳へ、またその一生中のおもな閲歴を語つた生きた傳としては、この家集は吾人に十分なものである。女歌人右京大夫の面目は、家集によつて遺憾なくわかる。千古のもと、このすぐれた女歌人と(234)語り、その悲しき運命に泣かうとする人は、右京大夫集を讀まれよ。集は坊間に多く流布してはをらぬが、寛永廿一年に出版された刊本があるし、また群書類從の第二百八十卷に載せてあるから、志ある人は容易に讀むことが出來る。
 系圖で見ると、彼は能書の家として有名な世尊寺家に生れた。彼の父は伊行といつて、源氏物語の最初の注釋なる奧入の著者である。彼の兄には千載集や新勅撰集の作者なる伊經と行家尊圓等がある。妹は二人ある。甥の行能といふのは、新古今集以下の勅撰集に四十七首選ばれた歌人である。
 わが國の歴史上、平家の盛衰の一幕ほど、詩的な時代はない。右京大夫は、その運命をこれと共にした歌人である。女歌人多しといへども、彼ほどその閲歴に於いて詩的なものは少い。彼の一生は平家物語の縮圖である。而して彼の歌集は、實に詩人なる女主人公自身の筆をとつて記した、縮撮せられたる平家物語で有るといへる。
 彼は年若くして大内に上り、當時平相國の女として飛ぶ鳥をもおとすばかりの勢のあつた中宮建禮門院に仕へた。彼が宮廷生活は、彼にとつては一生の春であつた。當時の彼の歌には、或は宮廷の榮華に醉ひ、或は平家の公達を相手に風流韻事を事としたことが詠んである。
(235)  雲の上にかゝる月日の光みる身のちぎりさへ嬉しとぞおもふ
 これは高倉天皇が未だ位に在らせられた頃、正月一日建禮門院のもとに天皇の御出であつた折の、御姿、御装ひの、見る目もあやに見あげ奉つたのを詠んだのである。
  春の花秋の月夜をおなじをり見る心地する雲の上かな
 これは高倉帝の御母建春門院が、建禮門院を御訪ねあつた時、兩院の御對面の有樣を拜して詠んだので有る。彼が女性の細かい觀察で、兩院の御衣裳をうつした筆は實に美しい。曰く「女院は紫の匂ひの御衣、山吹の御上着、櫻の御小袿、青色の御唐衣、蝶を色々に織たりしを召たりしかば、いふ方なくめでたく若くもおはします。宮は莟める色の紅梅の御衣、樺櫻の御上衣、柳の御小袿、赤色の御唐衣、皆櫻を織たるを召たりし、匂ひあひて、今更珍らしくいふ方なく見えさせ給ひしに、大方の御所の御しつらひ、人々の姿、殊に輝くばかり見え」云云とある。
  いとゞしく咲き添ふ花の梢かな三笠の山に技をつらねて
 これは重盛が大臣大將に任ぜられ、宗盛が右大將になつたのを祝つたのである。
 彼が、ある年の春、中宮の御供をして、清盛の西八條の館に行つた折の有樣を記した文字(236)を見ると、「大方に參る人はさることにて、御兄弟御甥たちなど皆番におりて、二三人は絶ず侍らはれしに、花の盛に月明かりし夜、あたら夜をたゞにや明さむとて、權の亮(維盛)朗詠し、笛吹き、經正琵琶ひき、御簾の内にも箏かき合せなど、面白く遊びしほどに、内裏より隆房の少將御使にて御文持ちて參りたりしを、やがて呼びて樣々の事どもつくして、後には昔今の物語などして明方まで眺めしに、花は散りちらず同じ匂に見渡され、月も一つに霞みあひつゝ、やう/\しらむ山際、いつといひながら云ふ方なく面白かりし」と有る。
 うら若き婦人の身を、宮廷の中に起臥して、平家の公達等と交はつた花やかな彼の前半生の面目は、これらの歌文に活躍して居る。
 大内山の春の雲、西八條の花の色は、一夜のうちに散つた。壽永の嵐は天地をして滿目蕭條たる冬の野たらしめた。昨日の榮華の夢を、西海の波枕に追うた平家の一門が哀れな運命は、もとより身は京都にゐて、彼等に件なうて行くのでは無かつたものゝ、やがて彼れ右京大夫の運命であつた。その海に漂ようた人のうちには、彼の一生を托した重盛の次男資盛があつたのである。
 彼が老後、當時の感を懷想して、「壽永元暦の頃の世の騷は、夢とも幻とも哀とも何とも、す(237)べて/\いふべききはにもなかりし」と述べ「夢のうちの夢を聞きし心地何にかたとへむ」と身の變化を歎き、「胸にもあまれば佛に向ひ奉りて泣き暮らすより外の事なし」と悲しんだのも、實にもと思はれる。
 この以後の彼の歌は、皆がらに悲絶哀絶の聲である。彼の歌集の前半を讀んで、花かげに若き婦人の樂しげな微笑の聲をきく心地のした吾々は、その後半を讀むや、忽ちにして空しい谷を吹きわたる木枯の音を聞く思ひで有る。
  また例たぐひも知らぬうきことを見てもさてある身ぞ疎ましき
  うき上の猶うき果を聞かぬさきにこの世の外によしならばなれ
  あらるべき心地もせぬに猶堪へて今日までふるぞ悲しかりける
 いづれも思ひ餘つた折々の作である。
 たえず聞く平家の消息は、とりどりに涙の種でないのはない。維盛の熊野浦で身を投けたと聞いては、昔安元二年三月四日後白河法皇五十賀を法住寺殿でせられた時、維盛が青海波を舞うた折のさまを思ひ出しては、
  春の花色によそへしおもかげのむなしき波の下にくちぬる
(238)  悲しくもかゝる憂き目をみくまのゝ浦わの波に身を沈めける
 など詠んでゐる。
 殊に彼が、大原山の奥わけて寂光院に、昔宮仕へした建禮門院を訪ねまゐらせた一節こそは、彼の傳記の中でも最も哀れを極めたもので有る。そを記した文字の、家集中壓卷をなしてゐるのも理りである。「女院大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られてはあるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにてわりなくも」尋ねて行つた。「漸う近づくまゝに山道の景色よりまづ涙は先立」つたことは、いかにもと思はれる。御庵室にたづね着けば、「いふ方もなき御いほりの樣、御すまひ事がら、すべて目もあけられず、昔の御有樣見あげ參らせざらむだに、大方の事がらいかゞこともなのめならむ。まして夢現ともいふ方なし。秋深き山おろし近き梢に響きあひて、筧の水の音づれ、鹿の聲、蟲の音、いづくものことなれど、例なき悲しさなり。都ぞ春の錦を裁ち重ねて侍らひし人々六十餘人ありしかど、見忘るゝ樣に衰へたる墨染の姿して、わづかに三四人ばかりぞ侍らはるゝ」と。平家物語の名文に比しても、多く劣らない。否、寫實の筆だけに、その飾り氣のない所が中々に哀れである。
(239)  今やゆめ昔や夢とまどはれていかにおもへど現ともなき
  あふぎ見し昔の雲のうへの月かゝるみ山のかげぞ悲しき
 など詠んだ。併しこれは決して他事ではない。自分も同じ哀しびに洩れぬ身である。「かゝる御樣を見奉りながら、何の思ひ出なき都へ、われは何故歸らむと、疎ましう心うし」とは、哀もまた極まれりではないか。
 其後の彼の生涯は、たゞ昔の回想と、やるせなき悲しびのうちに過ぎた。亡き人のゆかりを訪ふとて、近き近江わたりを漂泊の旅にさまようたこともあつた。後年一家の事情は彼をして再び宮仕に出さしめたが、忘られがたきは猶昔のことである。月の隈なきを眺めては、
  今はたゞしひて忘るゝいにしへを思ひ出でよとすめる月かな
 とも詠んだ。
 彼が文才は、家集の詞書によつて窺はれる。物語に筆をそめさせたら、すぐれた作品が遣つたことゝ思はれる。彼が王朝時代の文學にも通じてゐたことは、集中こゝかしこに源氏を引用し、もしくは源氏の文に學んだと思はれるあとがあるのでもわかる。なほ家集によつて彼が漢學にもたけてゐたことも知れる。書も家の代々の業とて上手であつた。
(240) 要するに彼は、我が文學史上にその名逸すべからざる女歌人で有る。千手や横笛などと共通せるまごころのある、またあはれな美しい感情に富んだ平家時代の婦人を代表せる女歌人である。詩人の生涯は多く詩であると言はれるが、彼もまたこの例に洩れぬ。晩年當時の巨匠定家の求めのまゝ、おほとなぶらのかげくらき宮廷の一室に、その一生を思ひおこしつゝ書き記した自叙傳建禮門院右京大夫集二卷を、永久に殘して置いたのみで、其名も其傳も多く世に傳はることなく、わづかに心ある人の爲に、木かげの花と匂を放つてゐる彼右京大夫の生涯も亦あはれでは無いか。
 
(241)     第九章 中世の新派
 
       四十六 中世の新派
 
 正系をまもつて一面保守的の態度をとる一派が大いなる中心勢力となつてくると、それに對してその舊派の弊を破つて新しい機運を促進しようとする所謂新派のおこるのは、凡ての社會的現象に通じて見るところであるが、和歌の歴史に於いても勿論之があつた。近世の和歌が中世の和歌に對する革新であることは、最も顯著な例であるが、これを大體に於いて一勢力の消長の歴史と見なされる中世歌學そのものに於いても、かゝる革新運動の發生は之を見なくは無かつた。
 而して特に意識的に舊派に對する反抗といふ意味でなされたのは、前には曾禰好忠、源俊頼等の運動、後には藤原爲兼に端を發し、長親を經て了俊正徹心敬等のなした運動である。
 前者は當時古今集から後撰集となつて、平凡化した一般の歌風に對し、またこの歌鳳の代表者として當時の歌壇に主權を握つてゐた公任に對してなされたもので、その革新の性質は(242)萬葉などの古語をば交へて、歌風の單調を破らうとしたもので、主として用語上の努力に過ぎなかつた。しかしこの運動でさへ頗る當時の歌壇をおどろかした。曾丹集、散木棄歌集に於ける兩者の歌風は、當時一般の歌風に比して異彩を放つた。
 この運動は、當時に於いては歌界には注意するに足るほどの影響をうけなかつた。然るに後年これに呼應しておこつたのが爲兼である。
 爲兼の時代は、定家歿後爲家が之をつぎ、爲世之をうけて、二條家の家學が確立し、千載新古今の幽玄の歌風は到底及ぶべくもない、新勅撰の質實に近き風を主として、歌はたゞ確かに正しくよむべしとなし、偏に舊格をまもるを能とし、所謂二條派の歌風が一大勢力となつた時代である。爲兼は冷泉派をうけて、この保守守舊をあきたらず、進歩と革新とを標榜し、風情のゆたかならむことを重んじ、才覺即ち學問を末なりとし、定家の志にかへつて、所謂寛平以往の風、さかのぼつては萬葉にも學ぶべしとした。而して好忠や俊頼の試みが、彼の爲に重大なる刺戟であつたことは、前にも一言した如くである。
 しかるに爲兼の革新運動も、一時的の現象にとゞまつて、二條派には頓阿良基出でて、その勢力がいよ/\大きくなつた。これに對して冷泉家の流を汲んで出でたのが今川了俊で、(243)彼は二條家の平弱の歌風にあきたらず、爲兼一流に同情し、制詞などに對して自由主義を説いた。了俊に學んだ東福寺の僧正徹は、詩文の盛んであつた五山僧侶のうちに異彩を放つた歌人であるが、その歌論は、二條家風に反抗して、定家の本旨たる新古今の歌風に復歸せむことを説き、いはゆる幽玄體の理想を説き、その門に出でた心敬、また同樣の主張にたつた。而してその實際の歌風に至つても、正徹の草根集、心敬の百首等にふくむところの作には、當時の歌壇の單調をやぶるに足る、新味のあるものが少くない。
 要するに、主として用語上に限られた好忠俊頼の運動はもとより、爲兼一派のものといへども、未だその革新運動たる、徹底的のものでなく、實際の成蹟に於いて大いなるものを殘さなかつたが、しかしその長い中世和歌史の單調な場面に、注意すべき色彩を添へ、後代に多少の刺戟を與へた。近世の和歌革新家戸田茂睡が、梨本集に爲兼を推奨せること、又更に後に出でた近世歌人の異色加納諸平が夙に曾丹集を重んじ、多少その歌風にも影響せられた如きは、就中注意するに足りる。
 
(244)
 
(245)   第三編 近世
 
     第十章 近世の歌風
 
       四十七 近世の歌風
 
          一
 
 歌風といふ見解から、和歌を大觀して、近世の和歌に論じ及んで見ようと思ふ。まづ歌風とは何ぞ、この間題から考へねばならぬ。
 歌風とは、一言に言へば、ある作家の歌全體に現はれた作風、即ちその作家特有の風致と言ふことである。いやしくも一個の歌人である限、その人の作には、多かれ少かれ、他の歌人の作と異なつた何らかの特色が、その和歌の作風の上にあらねばならぬ。これを稱して、その歌人の歌風といふ。然らば、凡そこの歌風を更に分析して、そを作す要素如何と考へて見ると、大體、想の方からと、修辭の方からとの二つに分け得る。想から言へば、個々の作者によつて、自らその着想、即ち、人事自然に對する觀察、又その觀察を構成する想像にも、(246)又それらのものに通ずる情調にも――その巧拙は固より――各自の特色がある。或は好んで人事を詠む歌人があれば、或は好んで自然を詠む歌人がある。それらのうちにも、或ものは好んで戀を歌ひ、或ものは好んで貧を歌ふ。或ものは好んで月花を歌ひ、或ものは好んで覊旅を歌ふ。而してそれらの題目の詠み樣が、又各々特色がある。情趣に於いても、或は悲観的のがあり、或は樂観的のがあり、或は滑稽的、諷刺的のがある。それらの中にも、或は強く或は弱く、或は輕く或は重き差がある。第二に修辭の方面から見るも、其用語、其譬喩、其調等に於いて、歌人それぞれの特色がある。或ものは優美正雅な語を用ゐ、あるものは蒼古雄健、あるものは華麗絢爛、あるものは單純な直喩を用ゐ、あるものは複雑な隱喩を用ゐる。其調に至つても、又その用語と相俟つて、或は優美、或は雄健、或は華麗である。而してこれらの大體の特色のうちに、更に細かな特色がある。さてこれらのものが相俟つて、各歌人の歌風をなすのであるが、次に、さらば其歌風を生じ來るところの原因は如何と考ふるに、大體その歌人自らの個人性と、その時勢の傾向、學統の由來等がある。これらが原因となつて、和歌の着想修辭に、それぞれ特殊の色彩を與へるのである。而してこの歌人の個人性は、その生來もしくは習得の性質閲歴、はた郷土の地勢等の要素から成り、時勢の如何は、(247)當時の治亂興廢、一般の趣味好尚、文明の趨勢、其時代の都會の地勢等、之が要素をなしてゐる。而して此歌人の個人性と、時勢との關係を見ると、其二つは勿論相俟ち相交渉してゐる。個人は素よりその生活せる社會の時勢の影響を受ける。個人性を成す要素の大方は、時勢に屬するものである。しかも時勢は又個人によって成立する故、個人性の集合の上に、その時勢の傾向は存する。かくの如くにして、和歌に於いても、個人性の發表として各個人の歌風あれば、それと共に、時勢の發表として時代の歌風といふものがある。此二つの關係の相俟ち相交渉することは、なほ個人と時勢とのそれの如くである。が、更に進んで考へて見るに、個人の天才が大にして、その歌風が時代の歌風を導き、若しくは時代一般の歌風を超越したる場合と、又個人の天才が小にして、その歌風が時代一般の歌風のうちに埋没したる場合との二つがある。而して一般文學と同じく、和歌に於いて尊重すべきは、個人の天才であるから、この個人の天才の發揮せられた歌風が、最も尊重すべきは固よりである。
 かくの如く考へ來つて、和歌の歴史に對し、歌風といふ點から概観し來ると、吾人が第一に氣付く所は、歌風の單調といふ事である。殊に平安朝以後、宮廷もしくは上流といふ非活動的なる社會の一部分の遊戯的文學となつて、一種の慣習のうちに囚へられ來つた歴史的の(248)性質、及び其短詩形にして、即興詩的であつて、工夫構想に新意をひらく事の容易ならぬ本來の傾向等が累をなして、人心もしくは時代思想の自由なる發表を妨げた事は、和歌をして實世間と没交渉のものたらしめ、隨つて上下二千載文明推移變遷の中にして、尚歌風の單調を來したのである。而して更に個々の歌人に就ては、矢張此和歌一般の性質に囚へられ、又一には家族主義と關聯せる個人性滅却の我が國文學一般の傾向と、其傾向を同じうして、よく其個人性を發揮して、時代の歌風の上に更に異彩ある個人の歌風を詠出したのは尠なかつた。
 かるが故に、歌風といふ點から觀察して、わが國の和歌は極めて單調であるといへる。併しながら、これを和歌の歴史に考へて見るに、なほ區別すべき代表的歌風がある。即ち、藤原奈良朝に於ける萬葉風、平安朝に於ける古今風、鎌倉時代に於ける新古今風の三つが、これである。この各時代に於いて、或は一般歌風を導いてこれらの歌風の代表者となり、或はその中に多少自己の特色を發揮した歌人は、藤原奈良朝の人麿、憶良、平安朝の業平、貫之、鎌倉時代の俊成、西行等である。素よりなほ細かに考へ來れば、多少特色ある歌人は幾らもあるが、それらの歌人の歌風は、各時代の一般的歌風を超越してゐるほどでない。さてこの三代表的歌風が出て仕舞つた後は如何と云ふに、まづ足利時代より徳川初期へかけては、新(249)古今風の反動として古今風にかへり、しかも古今風の弊たる平弱無力の歌風をなして、その間に個人として獨特の歌風ある作者は殆ど出なかつた。この時代は、古歌、殊に古今集歌風の末の風を模倣するを目的として、重んずるところは師承傳授にして、個人が自己の歌風を詠み出だすことなどは、異端として斥けられ、たゞ意味の通ずることを以て、能事をはれりとし、漢詩の移風易俗といふことに對して、所謂和歌風體の變化なき事を説いて、そをわが國風にもとづくとして貴んで居た時代である。而して用語に構想に、拘束不自由の弊その極に達し、感情を自由に發表する詩歌本來の性質は全然失はれて仕舞つた時代である。さてこれについで興つた近世の和歌は、やがてこゝに主題として説く所であるが、そは大體に於いて、足利時代以來の暗黒時代から、萬葉古今新古今の三代表的歌風が復活したものと云へる。是に於いてか、翻つて、まづその三歌風に就いて概説する。
 
       二
 
 萬葉の歌風は、紀記以來の和歌が發達し成熟して、藤原朝に入り、人麿の天才によつて統一せられ大成せられ、奈良朝數十年に榮えたものである。寧樂帝都の壯觀、はた雄麗無比なる彫刻建築の美しき花を咲かしめた、その土壌を爲す當時の國民の氣概の、實際の、はた内(250)的の發表たる當時の歌が、葛城伊駒そそりたち、三山起伏する大和山野の間に生々活動した上古民の精神なる雄偉自然の風を特色としてゐることは言ふまでもないが、吾人は更に之を、思想、用語、句法等の上より觀察せねばならぬ。
 想といふ方向からの萬葉歌風の特色は、その着想が自然で、わざとらしき態なき事、實際的實感的で、空想的や假想的でない事、觀察が自然人事の現前の事象の全般に渉つて、深く精しくは無いが廣く、取材の範圍が後代の和歌の如く限られてゐぬ事等である。而してその題目とする所は、もとより所謂歌題の制限なく、人事自然の全汎に渉つてゐる故、四季の風物、戀愛、哀傷、諧謔等の人情、いづれも詠ぜられ、後代和歌に歌はれた題目にして歌はれざるものは無かつたと云へる程である。が、大體に於いてその傾向を見れば、最も多きは戀愛の歌で、自然の景物を歌つたものには、春秋の歌が多く、その中でも秋の風物を詠んだのが春のより多い。これはこの期のみならず、後代にも續いた傾向である。が併し、未だ叙景の歌に於いて、後代の歌のやうに一種の花鳥風月的趣味が優勢になるにいたらず、詠歌の舞臺が庭園的でなく、自然の山野にあつた。それで、紅葉とか萩とか白露とかの詠が比較的多い。又後世の歌に見ぬ海洋に關する歌なども多くある。さて想から見てかくの如き特色ある(251)當代の歌は、實に上代の未だ文弱に流れず、また撓められざる上代人民の直截にして實際的なる感情を生命としてゐる。隨つて、高遠とか幽玄とかいふやうな想像的の美は勿論缺けてゐるけれども、その現實的といひ直截といふところに力があつて、後代の歌風に見る繊巧にして力の無いやうな弱みなくして、強みがある。これ所謂|丈夫《ますらを》ぶりと云はるゝ所である。
 次に、用語修辭等の方面から觀てみる。先その歌に用ゐられた言語から觀察する。當時は未だ用語に歌語と言ふやうな特殊のものは無かつた事とて、その用語は、當時の一般語そのまゝや、制限せられず、廣かつた。而してその語たる、「あかつき」を「あかとき」、「われ」を「あれ」とか「あ」、「なれ」を「な」、「かな」を「かも」、「より」を「ゆ」とか「よ」といふやうに、音韻上、一種重くるしく急促の語である。又文法上から見れば、「紐ふきかへす」、「可古の島見ゆ」とやうに、動詞の活用の終りで言ひ切つて、後世の歌のやうに、「らむ」とか「けり」とか「なりけり」とかいふやうな助動詞をそへぬものが多い。隨つて句々の調子が切迫してくる。次に句の連續から見ると、未だ七五の調が多く生ぜず、五七五七と續いて、上短下長の續き合は、輕快でなく重々しい。隨つて句切が二句切四句切となり、そこで切れて上へ轉倒する。「山科の強田《こはた》の山を馬はあれどかちゆ吾が來《こ》し汝《な》を思ひかね」(四句倒絶)「朝影に吾身は成(252)ぬ玉かぎるほのかに見えていにし子ゆゑに」(二句倒絶)のやうな、前から續けて來た勢を中途で轉倒する急促の調子や、五七五七と息をもつかず續けて來て、第五句でせきとめる、「志貴島のやまとの國は言靈のたすくる國ぞまさきくありこそ」のやうな一本筋な直截な調子を生ずる。
 次に譬喩法から見るに、「朝妻」とか、「天橋」とか、「磐垣淵」、「夕波千鳥」、「草深百合」、「山邊|眞苧木綿《まそゆふ》」とかいふ風に、形容詞句で形容するところを實語に連ねて言つたのがあつて、後世の修辭に見ざる簡勁の趣をなしてゐる。
 形式に、内容に、以上の如き諸特色は、相俟つて一つの萬葉歌風をなして居るのである。が、かくの如き歌風の性質上、海洋天象等の雄大の景、痛切な哀傷の悲、熱烈な戀愛の情、皇室の尊嚴を歌つたもの等に優秀の作多く、「渡津海の豐旗雲に入日さし今宵の月夜明らけくこそ」「天の海に雲の波たち月の船星の林に漕ぎ隱る見ゆ」「朝よひに音のみし泣けば燒太刀のとごころも吾は思ひかねつも」「わが背子は物なおもほし事しあらば火にも水にもわれ無けなくに」「君がゆく道の長手を繰たゝみ燒き亡ぼさむ天の火もがも」「久方の天ゆく月を鋼にさしわが大王はきぬがさにせり」等、後世見るべからざる歌風を爲してゐる。がその弊として、天(253)眞のあまり露骨にして粗野なる、「故もなく吾が下紐ぞ今解くる人に知らゆなたゞに逢ふまで」、素朴單純の餘り詩趣なく含蓄なき、「なる神の音のみきゝし卷向《まきむく》の檜原の山を今日見つるかも」、優美な思想がその急迫せる語句とふさはしからぬ、「わがせ子がけせる衣の針目おちず入りにけらしなわが心さへ」等の、短所もしくは缺點がある。
 次に、古今集の歌風に就いて述べよう。山紫水明な京都の地より咲きいでた、感傷的、貴族的、神經質的、女性的な平安朝文明の趣味を代表せる古今集の歌風は、優美の語を以ておほはれる。而して漢文學隆盛の影響を受け、その詩文趣味に薫冶せられて、上代的の國民趣味は、こゝに正雅純粹の趣を得來り、しかも其中になほ上代的の簡朴の風を全く失はなかつたもの、これ古今集歌風の大體である。
 想から云へば、萬葉の粗野の弊を去つて來たこと、實際的の域より想像的に進んだが、それとともに小智を弄した、散文的な、理に落ちて興味索然たる風が喜ばれたこと、詩材が取捨選擇せられたとともに、萬葉のそれの如く廣くなく、制限せられて來たこと、然も幾分深くなつて來、佛數的の無常趣味も漸う消化せられてしみ込んで來たこと、而してそれらの特色を原因として、感情が純化せられ、萬葉の強みは失つたが、其かはり優美になつて來たの(254)である。題目に就いて見るに、戀愛を主とし、春秋の景物を多く詠んだことは萬葉と同じであるが、春秋のうちでは、萬葉に比して春の景物が多く詠ぜられた。殊に一には漢詩の影響、一には宮廷的都會的の庭園趣味からして、花鳥風月の吟詠が多く、これに反して、萬葉に有力であつた雄大な自然を歌つた歌は見えず、羈旅の歌は減じ、古今集中僅かに廿首を數ふるのみである。
 次に修辭の方面から觀る。大體に於いて修辭的方面に發達したことは言ふまでもない。これ一歩技巧詩に進んで來たことで、その顯著な例證としては、歌合、畫賛等の題詠的の歌の生じたこと、物名の歌、縁語掛詞の歌の生じたこと等が擧げられる。用語に就いては、言語そのものが萬葉のそれに比して、前に述べた如く、輕く寛やかになつた。そのうへ歌語として選擇せられて、美的に用ゐられてゐる。文法上から見ると、萬葉の樣に動詞だけで言ひきつて仕舞ふのは稀で、「うつろひぬらむ」「形見ならまし」「あやまたれけり」「鳴かずもあるかな」とやうに、助動詞が副へて調をいたはり、感じが副へてある。又は「なるぞわびしき」「花ぞちりける」とやうに、係結法を多く用ゐて、語が婉曲になつてゐる。句に於いては、七五の輕快な句法となり、萬葉の二句四句に切れて轉倒するやうな句法は殆どなく、萬葉の順直(255)を傳へて、優美にすらりとした、「野邊ちかく家ゐしをれば鶯のなくなる聲は朝な/\きく」の樣な風か、然らずば三句で切れて、上下兩句が相調和して一種のびらかな調をなす、「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」のやうな句法が行はれた。要するに、萬葉の自然順直な風が失はれずにその急促を去つたもの、これ古今風の句調上の特色である。さてかゝる特色を有する古今集の歌風は、「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」「大空はこひしき人の形見かは物思ふ毎にながめらるらむ」などの風に伺ふべきであるが、その弊風としては、「別てふことは色にもあらなくに心にしみてわびしかるらむ」の幼稚な技巧、「年の内に春は來にけり一年を去年とやいはむ今年とや言はむ」の理に落ちて興味なき、「鶯の谷より出づる聲なくば春くることを誰か知らまし」の平凡な風等に現はれてゐる。
 さて最後に新古今風の歌風であるが、この歌風は、古今に始まつた平安朝の歌風が、藝術詩としての進歩の極に達し、修辭は華麗巧妙になり、思想は精緻深遠になり、有心幽玄の歌風をなしたものである。當時は鎌倉時代の初期にあたつて、天下は兵亂相ついで未だ平らかならず、延喜の時の如く泰平の世では無かつたが、それにも關はらず、和歌は上流貴族の風流生活のうちに、實世間とは殆ど交渉が絶えて、貴族が爲の唯一の功名の手段となり、苦心(256)研究の結果發達して、俊成が千載集の歌風を先驅とし、こゝに新古今集に至つて、和歌史上萬葉古今に對して別種の光彩ある新古今の歌風をなしたのである。
 新古今風の思想上の特色は如何と云ふに、景を叙しては、多くの景物を詠み入れてその配合に美を求め、情をのべては複雜纒綿せる情緒をこめ、而して單純なる叙情に止まらで、これに景物をとりそへて風情を多からしめ、つとめて單調平板を破りて、心深く趣多からむを特色とした。素より萬葉の高古、古今の平明の趣も一體として詠まれ、當時の歌人は、彼らの所謂和歌十體(幽玄、長高、有心、麗、事可然、面白、濃、見樣、有一節、鬼拉)の思想に現はれた如く、凡ての體を詠まむとすることを忘れなかつた。が併し、新古今風の特色とする所は、實に上述の華麗幽玄にある。而してかくの如く、或は景情の一致、或は心の深さを喜んで、情趣の豐けさを重んじたのであるが、三十一言の短詩形のうちに、その要求をみたさむとする結果、言外に心を遺す餘情餘韻を旨としたことは自然のことといへる。この幽遠餘情の情趣は、蓋し平安朝文學の中心たる「物のあはれ」の結晶したもので、そが當時益々人心に浸み渡つて來た佛教趣味と結合して、いよ/\深くなつたものである。其歌はれた題目たる、戀歌の最も多きは、萬葉古今と同じ。而してその戀歌には、殊に新古今歌風の特色を(257)發揮した情趣の深いものがある。秋と春との歌がこれについで多いのも、前二つと同じ。古今に於いては最も歌はれにくかつた夏冬のうちにも、矢張その歌は少いながらよい歌が少くない。新古今の歌人は、夏冬の景物をもよく詩化した。但しそれらの歌は、夏冬の景物を詠んでも又、「夕暮はいづれの雲の名殘とて花橘に風の吹くらむ」「うつり行く雲に嵐の聲すなり散るかまさきのかつらさの山」のやうに、餘情があつて、何となく春の歌のやうな感がする。旅の歌に至つては、萬葉や古今のやうに實境を詠んで妙あるのは殆ど無い。その數も多くない。これ蓋し、平安帝都の外に踏出でなかつた當時の歌人には當然のことである。而してこゝに至つて特に現はれたのは、釋教の部で、そのうちに含まれた六十三首、(然數の卅一分の一)中に歌はれた、「これやこのうき世の外の春ならむ花のとぽその曙の色」「紫の雲路にさそふ琴の音にうき世をはらふ峯の松風」「靜なる曉毎に見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき」のやうな美化せられた佛教趣味は、よく新古今風の特色を發揮してゐる。(序に言つておくが、神祇の歌の中に、兩部の思想を歌つたものがあることも、又當時の思想の一面が伺はれる。)
 次に用語修辭の方面から考へる。用語は、大體から言へば古今のそれに異ならぬが、或は(258)「かたしきの袖」「冬の夜の長きをおくる」とやうに、用言を名詞的に用ゐたり、「思ひ出よ」とか、「しるべせよ」とか、「たえぬるか」とやうに呼かけの「よ」、感嘆の「か」などの詞を多く用ゐたり、「聞くやいかに」「下すか人の袖の」「いづらほのかに見えしかげらふ」とやうに、語脈を屈折させたり、殊にまた、「うき世には今はあらしの山」「へだてゆくよゝの面影かきくらし雪とふりぬる」等の、一語多義ならしめむ爲の、縁語掛詞を多く用ゐるなどあり。句法から言つても又、三句切の多くなつたのをはじめ、在來の二歌風以外に出でて、「なびかじな海士のもしほ火たきそめて」のやうな一句切や、「思ひあれば袖に螢をつゝみてもいはばや、物を、とふ人は無し」のやうに句の中で切つたり、出來るだけ冗語を省く爲に名詞止の句法、殊に、「床の山風」「袖の秋霧」「槇の下露」とやうの二一四の句が多く用ゐられた等、思想に、修辭に、平板單調を破つて、複灘變化あらしむる用意が、出來るだけ用ゐられた。その譬喩法また、萬葉の「夕波千鳥」風の連實の句法に似て、しかも修辭上一層進歩した、「床の山風」「袖の秋霧」「松山と契りし人はつれなくて袖こす波〔四字傍点〕に殘る月影」の如く、一句にはもとより、一篇に複雜な隱喩を用ゐた。次に又、情趣を深からしめる要求から、中世歌學以來の、所謂本歌取が巧みに用ゐられた。そはたとへば、古今の「春や昔」の歌を本歌にて、「面影のかすめ(259)る月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に」と詠んだたぐひで、よく古歌の情趣をとりいれて、一層の趣がそへてある。
 さて、かくの如き諸々の特色の間に、渾然と成り來つた新古今の歌風をよく示せるもの一つ二つを擧げて見れば、叙景の歌として、「霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるゝ横雲の空」の、その景物配合の複雜にして情趣ゆたけき、「花さそふ比良の山風ふきにけり漕ぎ行く舟の跡見ゆるまで」の華麗、「眺めつゝ思ふもさびし久方の月の都の明方の空」の幽玄、又叙情の歌としては、「何か厭ふよもながらへじさのみやは憂さに堪へたる命なるべき」の情緒の深さ、「思ひいでて夜な夜な月に尋ねずばまてと契りし中や絶えなむ」の複雜なる、「あはれなる心のやみのゆかりとも見し夜の夢を誰かさだめむ」の含蓄あるなど、これらの數首の例を以ても、この歌風の如何にその前二歌風と殊なる特色あるかは明らかであると思ふ。而してこの歌風の弊とするところは、長所やがて短所なる、その修辭に工夫するあまり、技巧の未に流れたる、「難波がた霞まぬ波も霞みけりうつるも曇るおぼろ月夜に」の風、及び、趣の深からむを求むる餘り難解に陷れる、「身にとまる思ひを荻の上葉にて此頃悲し夕暮の空」、の風である。
 
(260)       三
 
 さてこゝに翻つて、この論文の主題とする近世の歌風に就いて論ぜむとするに臨み、吾人のまづ明らかにせざるべからざるは、これらの在來の歌風を復活したといふ、その近世歌風の由來と、それに基づく近世的意義である。近世の歌風とは、徳川時代に生じた歌風である。が、穗川時代の歌風といはずして、特に近世歌風といふのは、そも/\徳川時代の中葉、元禄の世に當つて、文運復興の機運につれて、かの戸田茂睡、下河邊長流、僧契沖等が出でて、中世歌學の末流に沈淪した堂上歌學に反抗して、革新の聲を擧げたのに由來するからである。當時堂上歌學は守舊派に於いて、たゞに堂上家のみならず、民間にも望月長孝、僧似雲、北村季吟、有賀長伯等の歌人があつて、その勢力中々盛んであつた。さらばかゝる徳川時代に於ける近世歌學の意義は如何、革新派と守舊派との差別點は何處にあるかといふに、そは要するに、舊派が、師承傳授といふことを重んじて、一にその以外に出でず、その模範とするところの歌風が――古今を尊重しつゝも――新勅撰、草庵集等の末流にあつたのに反して、新派が、二條冷泉歌學の無意義な師承傳授を漸然打破して、その歌風の準據をおのれ自らの好むまゝに、或は萬葉、或は古今、或は新古今と、その源泉の清んだのを汲んだことで(261)ある。彼らとて、昔の歌風を準據としたことは、舊派の古今、新勅撰、草庵等の歌風を準據としたのに同じであるが、彼らは中世歌學の無意義な師傳を打破し、新しき眼を以て古人の歌風に對し、一意永く誤られおほはれたるその眞相を發揮せむことを志とした。この點に於いては古歌風の復活である。併しその復活は模倣にとどまらず――或は各作家自らは意識してしなかつたにしても、實際に於いて――その間に多少の特色をあらはして、特殊の歌風を作した。或は更に進んで、三歌風の類型以外に出でて、多少の個人的歌風を詠み作した。
 さて以下この點について細説するのであるが、始めに近世歌風の各派の發生の大勢と、その代表者の名とを擧げておかう。
 第一に復活せられたのは古今風である。茂睡は固より、長流契沖も――萬葉研究家でありながら――その作家は古今風である。而してこれについでは萬葉風である。これは賀茂眞淵によつて復活せられ皷吹せられて、彼の學統をうけた一派に擴まつた。而して古今派は一方にこの萬葉派の興隆に影響せられて、小澤蘆庵、香川景樹の主張となりて始めて旗幟を明らかにした。この二人とも、舊派の歌學に學んでそれから脱出したものである。而してこの派はその後最も普及し、最も有力になつて、終に桂園派の大勢力となつた。新古今風に至つ(262)ては、荷田在滿が國歌八論にそを主張したのにはじまり――こは眞淵の萬葉風の主張と殆ど同時であるが、その歌風は獨立的に一勢力とならず、他の二つの歌風のうちに普及した。而して代表的歌風以外に出でた個人的歌風の生じたのは、これらの歌風の復活せられ普及した機運におくれて、徳川末葉に於いてである。
 而してこれらの歌風の諸傾向は、實際に於いて相影響し相交錯した三代表的歌風の影響交錯はもとより、その代表的歌風のうちにして、その影響交錯は自ら各作者の特殊の傾向を作し、代表的歌風以外に出でた個人的歌風も、又それらの各作家それ/”\に代表的歌風の影響をうけてゐる。要するに、復活せられた古來の歌風のうちに個人的傾向あり、その個人的傾向のうちに代表的歌風の傾向が存するもの、これ近世歌風である。
       四
 まづ便宜の爲、萬葉の歌風から論ずる。萬葉の歌風は、實朝以來打絶えて居つたのを、近世に至り、賀茂眞淵【元禄一〇明和六】が出て詠み出した。【眞淵の歌風は、その生涯に於いて變遷があり、或は新古今風に近づき、或は古今風にゆいたが、彼の本意は萬葉風にある。】彼が萬葉風を詠んだのは、その高古雄健の調と、自然の情とを喜んだからで、而してその根本に於いては、上代文明を憧憬し理想とした彼の學問の精神に根據する。さて眞淵を始めと(263)して、この歌風に屬せしむべき歌人には、眞淵の直門なる田安宗武【正徳五明和八】揖取魚彦【享保八天明二】河津美樹【享保六安永六】栗多土滿【元文二文化八】眞淵の學統をひいて美樹の門に出でた上田秋成【享保一七文化六】本居大平【寶暦六天保四】の門なる加納諸平【文化三安政五】學統上眞淵の曾孫の系に當る常葉學者鹿持雅澄【寛政三安政五】學統以外に出でて自得せる平賀元義【寛政十二慶應元】等がある。これらの歌人は、いづれも技倆に於いて甲乙あるは固より、又各自多少の特色を持つてゐる。大體からいふと、歌才の卓絶せるは諸平で、魚彦秋成之につぐ。この三人は、その古語を驅使し、古調を爲す才、或は眞淵をも凌いでをる。これらの作家個々については細説せず、こゝには一括して、歌風上から近世の萬葉風として論ずるのであるが、元來眞淵を始め、上世文明に對する思慕の情に基づいた上世文學の熱心な研究と同情と、また十分な理解との結果に成つた彼等の歌であるから、その歌風が、思想に於いて、又修辭に於いて、よく萬葉の面目、萬葉の精神を傳へてをつたことは言ふまでもない。彼等の作には、萬葉集中に入れても少しも差別のつかぬやうなのがある。否、彼ら萬葉歌人の多くは、そを以て理想とし誇としたのである。例へば、
  唐土の海原かけて松浦潟押して照りたり月よみをとこ(雅澄)
  かなと田の秋のたりほの八束穗の穗向を見よと月は照るらし(雅澄)
(264)  武士のゆづるおしはり引きはなつ矢口の川の古へおもほゆ(魚彦)
等、否さらに、
  冬ながら今日の御爲といと早もみ園の梅は咲き出つるかも(魚彦)
  丈夫やしたには人を戀ふれどもますらをさびてあらはさずけり(魚彦)
  天の川五百霧隱り出でてゆかば妹があたりは見えずかもあらむ(土滿)
の如きに至つては、全然萬葉の模倣と云へる。たゞ古調を喜んで作つたのであつて、作者に特に萬葉歌風にふさはしい情趣を採り出でる心があつて詠ぜられたのではない。歌として評すれば、一つの癖といふ外、價値がない。
 さらば當時の萬葉風は、全然かくの如き萬葉の模倣に止まつて、その以外に出て居らぬかといふに、決してさうではない。當時の歌人は、多かれ少かれ、雄健自然な萬葉の長所と佶屈粗野なその短所とを意識して、短所をさけ長所を發揮せむとする用意を持つてゐたので、多くはその長所たる方面に努力し、よく内容形式相ともなつた雄健の作をなした。例へば、
  信濃なる菅の荒野を飛ぶわしの翼もたわに吹く嵐かな(眞淵)
  夕されば海上がたの沖つ風雲井にふきて千鳥なくなり(眞淵)
(265)  九萬里《こゝのよろつさと》に飛びかふ鳥すらも鷦鷯なすらむ天つみ空かも(魚彦)
  天の原吹すさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり(魚彦)
  六月の中の十日の中空にいともかしこき日のみ面かも(魚彦)
  ものゝふの草むす屍年ふりて秋かぜ寒しきちかうが原(美樹)
  壁たてるいはほ通りて天地にとどろき渡る瀧の音かな(諸平)
 の如き見物情趣、はた句法に雄大な萬葉風の特色がよく發揮せられてゐる。これ本來の萬葉風の、技術として一歩をすすめたものである。夫故に、彼らにして、優美な感情とか景色とかを歌はむとする時は、萬葉の句法をとらず、新吉今風古今風をとるとか、或は少くともそれに近づいた句法をとつた。例へば、
  うら/\と長閑けき春の心より一匂ひいでたる山さくら花(眞淵)
  播磨がた迫門の入日の末はれて空よりかへる沖のつり舟(眞淵)
  夕日かげ匂へる雲のうつろへば蚊遣火くゆる山もとの里(宗武)
 の如きである。この傾向は眞淵に多く現はれてゐる。之に反して又一方には、近代人たる彼等が獨特の思想を述べるのに、特に古調を弄してゐるのもある。
(266)  學ばでもあるべくあらば生《あ》れながら聖にてませどそれ猶し學ぶ(宗武)
  酒のみて見ればこそあれ此夕べ雪ふみわけて行きかふ人は(宗武)
 而して近世の萬葉風に於いて、最も推奨すべき價値あるものは、そのよく萬葉風のうちに、古今風新古今風の優美幽玄の情趣をとりいれて、雄大のうちに餘情ある新しき風を詠み出だしたことである。斯の如くにして、
  あしたづの翅の上に玉しきて神やますらむ瀧のみなかみ(諸平)
  高機をいはほにたてゝ天つ日の影さへ織れるから錦かな(諸平)
  天草や天よりをちのから山も雲に靡きて日はくれにけり(諸平)
  天地におほふばかりの翅もが憂世の人をはぐくみなまし(美樹)
  姫島の松の夕日に雁なきてわが子こひしきあき風ぞ吹く(諸平)
  紀の海の南のはての空みれば汐けにくもるあきの夜の月(秋成)
  天の原八重たな雲を吹き分るいぶきもがもな月の影見む(眞淵)
 等の如く、典雅とか、崇高とか、悲壯とかいふ歌風が出來てきた。これ元來の萬葉風には未だ無かつた所で、近世の萬葉風の特色である。
(267) さて終に、修辭上からの特色を一言のべておかう。その萬葉風としての特色は、萬葉風のところに述べた如くで、その特色を特色として居たのであるが、尚その節に細かに論じたことをとりいだして近世の萬葉風の歌に照しあはせ、それと比較して見ると、一方は自然の調であるのに、一方は學んで至つたものであるから、自ら色々の差がある。どうしても近世のものには不知不識のうちに技巧が用ゐられてあり、古今新古今の句法が入つてゐる。例へば雄健の作として有名な、前にも引いた眞淵の、
  夕されば海上がたの沖つ風雲井に吹きて千鳥なくなり
  信濃なるすがの荒野を飛ぶ鷲の翼もたわにふく嵐かな
 に就いて見ても、二つながら三句切である。その句法はまづ別としても、「鳴くなり〔四字傍点〕」「吹く嵐かな〔二字傍点〕」の句の止め方、殊に「雲井にふきて千鳥なく」といふ構想、「翼もたわに吹く」の巧みな言ひ樣等、本來の萬葉的のものではない。
 さて各歌人について論ずることは、煩を厭うて省くが、たゞ序に一言しておきたいのは、諸平である。眞淵の名におほほれて彼の名はさばかり大きくないが、近世萬葉風の歌人として、吾人が先に述べた典雅とか崇高とかいふ特色を發揮したのは彼である。蓋し彼は時代か(268)らいへば當時の萬葉派中比較的おくれて出でた。近世の萬葉風は彼によつて成熟せられた觀がある。(勿論その家集は玉石混淆してはゐるが)
       五
 古今集の歌風は、中世以來その末に走りつゝも、なほ專ら準據とせられて來たが、近世に至つて旗幟を明らかにして、そを主張したのは小澤蘆庵、香川景樹である。他に、言明してそを主張せぬまでも、實際に於いてその歌風に屬した人は甚だ多く――前記の萬葉風に屬せざる歌人の殆ど凡ては之に屬し、殊に近世に於いて最も有力な歌風となり、桂園派の勢力が盛になつてから、この歌風は殆ど全歌壇を風靡する觀があつたことは前にも述べた如くである。こゝにはその多くの歌人のうちで、主なる代表者として小澤蘆庵【享保八享保一】香川景樹【明和五天保一四】景樹門下の木下幸文【安永八文政四】及び女歌人大田垣蓮月【享保一七文化六】等をとり出でて、この歌風に就いて概説しようと思ふ。蘆庵の「たゞこと歌」の思想、景樹が「調べ」の説、畢竟する所、古今の歌風の想の天眞自然にして飾なきこと、調の流麗、情趣の優美を理想としたもので、彼等の歌、實によくこの理想を實現し得て、古今風の歌風をわがものとなし得た。併しその以上に出でて、彼らは古今を準據としつゝ、自ら古今の外に出でた。これ彼等に賞すべき點である。そは何(269)ぞといふに、第一に技巧を避け擬古を斥けて、古今の自然にして正雅なのを貴んだ思想からして、萬葉風の如き耳遠き古語、佶屈なる句法を避けて、比較的用語を廣くかつ平易にし、近代の人に親しき調を詠み出でたことである。
  我がごとや老て疲れし賤の女がおくれてかへる小野の山道(蘆庵)
  波となり小舟となりて夕暮の雲のすがたぞはては消えゆく(蘆庵)
  里の犬のこゑのみ空の月にすみて人は靜まる宇治の山かげ(蘆庵)
  喋よ/\花といふ花の咲くかぎり汝が至らざる處なきかな(景樹)
  遠近に門さしこむる音すなり凉みする夜はふけやしぬらむ(幸文)
 等を讀めば、彼の萬葉派の諸歌人の歌を讀むに對して、如何にも平易なるを覺えるであらう。第二には、古今の天眞矯めざるを喜ぶ事からして、眞情の流露となり、切實人を動かす風が生じた事である。
  身のうさを語りてだにも慰めし君にさへこそまた別れけれ(蘆庵)
  なべて世のあはれと人や思ふらむふりまさる身の秋の夕暮(蘆庵)
  子はなくてあるが安しと思ひけり在ての後になきが悲しさ(景樹)
(270)  益良雄のをのこさびすと打あげて泣かぬ心ぞまこと悲しき(幸文)
  思ふことはやもならなむ今日の日の嬉しき人に報いせむ爲(幸文)
  まどしきも嬉しかりけりかくまでに人の心の隈を知らめや(幸文)
 之等がその一例である。抑もこの眞情と云ふことは、古今風のみの説く所ではなく、近世歌風の殆ど一般の――後に説く荷田在滿を除いて――思想であつて、眞淵の如き、最も力を入れてこれを説いた。彼が萬葉風を主張したのも、實に上代の僞りなく飾なく、眞情流露たるを理想としたからである。が、その實際詠まれた上から見ると、此點に於いては古今派の方がたしかに成功した。そは萬葉風の方は、その耳遠き古代の句法語法が累をなして、どうしても感情が吾人に對して直接でない。第三に擧ぐべきは、萬葉風のところに述べたと同じく、新古今風の特色をとり入れて詠み出した一種淡泊にして幽遠な情趣である。これ即ち新古今の特色を古今化したもので、近世の古今風に於ける最も注意すべき特長である。即ち、景を抒しては、
  衣うつ聲は殘りて夕霧にやゝかくれゆく山もとのさと(蘆庵)
  松浦がた山なき西にゆく月をはるかにひたす沖の白波(蘆庵)
(271)  千早ぶる神の宮瀧音すみて吉野の奥も春や知るらむ(景樹)
  筏おろす清瀧川のたぎつ瀬に散りて流るゝ山吹の花(景樹)
  歸る雁鳴き行く末も見るべきに有明の月の朧なるかな(幸文)
  いづこにかなく山鳩の聲はして夜はまだ深し有明の月(幸文)
 の如く、事象景物の配合に言外の情味をもたせたものとなり、或は又、
  二度は越えじと思ふみちのくのいは手の關に鶯の鳴く(景樹)
  大井川かへらぬ水にかげ見えて今年もさける山櫻かな(景樹)
  旅にしてたれに語らむ遠つあふみいなさ細江の春の曙(景樹)
  をやみせず降くらしたる雨の中に覺束なくもいぬる春かな(幸文)
 の如く、叙景のうちに感情を寫し、又之と同時に、情をのべては、
  面かげを後もしのべとやよひ山有明の月に花のちるらむ(蘆庵)
  若草を駒にふませて垣間見し少女も今は老いやしぬらむ(景樹)
  覺束なおぼろ/\と我妹子が垣根も見えぬ春の夜のつき(景樹)
  悲しくも鵜舟さすなり長良川ながらへはてぬ此世と思ふに(景樹)
(272)  古へを月にとはるゝ心地して伏目がちにもなる今宵かな(蓮月)
  君なくておろしこめたるをすのとにありしみ影を月や求めむ(蓮月)
 の如く、そを自然の景物にとりよそへて、その情景一致のところに無限の味がある。斯くの如きは實に新古今の特色を得來つたものであるが、新古今が技巧的の屈曲せる語法や脚色を去つて、自然無縫の間に溢るゝ一味清新の氣に至つては確かに當時の古今風の特色である。但し以上述べたのは、當時の古今風の長所の方面からその特色を明らかにしたのであるが、勿論流派の末、殊に桂園派の末派に至つては、陳腐な想、平弱な調、極めて趣致に乏しい散文的な歌風となり、古今風の缺點を明らかに暴露した。例へば、
  郭公きかむと思ふに夏の夜は紛るゝ鳥の多くもあるかな(景樹)
  はるかにも鶯の聲きこゆなり尋ぬる花のあたりなるらむ(幸文)
 さて第三に論ずべきは新古今風であるが、この歌風に至つては、近世の和歌に獨立的に復活せられなかつた。歴史的に考へれば、此歌風は新古今當時に花と咲き出でた後、やがて衰へ、二條家の歌學にては新古今風の如き到底彼等の手腕に及ばざる所より、華に過ぎたりとして遠ざけられ、そを詠み試みる力量ある人も出でず、徒らに新古今風の修辭的技巧の餘弊(273)をのみ受け傳へて近世に至つた。而して近世に至つて復活した歌風は、萬葉風も、古今風も、いづれもその修辞的技巧の餘弊に囚はれて、生趣なき境より和歌を活かすことを以て主眼とした。而して斯かる排技巧的主義からして、新古今風の華麗はむしろ避ける氣味があつた、しかもその間に新古今の情趣をとり入れ、新古今風の影響をうくること大であつたことは上に述べた如くであるが、この爲、獨立して新古今風は一勢力をなすに至らなかつた。しかしこの間に、和歌は詞花言葉の技なりとして、明らかに新古今風を主張した歌人がある。これ荷田在滿【寶永三寶暦元】である。しかも彼は作歌に於いてはさばかり勝れたらず、本居宣長【享保一五享和元】も又、歌は「物のあはれ」をむねとするといふ彼の歌論の立場から、新古今風に同情し、新古今の歌風を闡明した「美濃の家づと」を作つたが、彼も作歌は稱するに足らぬ。その歌論は兎も角も、作歌に於ては新古今風に傾いたと思はるゝ加藤千蔭【享保二〇文化五】村田春海【延享三文化八】も、歌風の大體は古今風である。斯くの如くにして、新古今風は、近世に獨立した一勢力にはなるに至らなかつた。
       六
 近世の歌風が、わが在來の代表的歌風を復活して、しかもその各のうちに他の歌風の特色(274)をとりいれて、それ/”\原歌風以外に特色を發揮したこと、以上明らかにした如くで、これ近世の和歌の藝術としての一段の進歩であつて、その底には模倣以外に出でて、新境地を詠みひらかうとの精神が流れて居たのである。が、更に一歩進んで、この精神の發揮せられたものは、その代表的歌風以外に出でて、多少たりとも新しく詠み出されたる個人的歌風である。前述した代表的歌風に屬すべき歌人のうちにも、素よりこの傾向はあるが、それらはなほ在來の歌風におほはれてゐる。その裡に於いてである。それ以外に出でて、個人的歌風を詠みひらいた歌人は、多くはないが、二三ある。これ當代の歌風の一傾向として注意すべきものである。さてかくの如き歌人として擧げむとする人は何人ぞといふに、そは、大隈言道【寛政一〇慶應四】野村望東尼【文政三慶應三】井手曙覽【文化九慶應四】伊達千廣【享和二明治一〇】等である。
 大隈言道の歌は、かつて吾人は、「歌學論叢」の中に細説したが、着想が斬新、觀察が微細にして奇拔、而してその情趣は洒落輕妙なところがあつて、しかも俗氣がなく、人事自然の事象に對して、一種解脱した態度を以てのぞんで居る。而してその修辭に於いて、用語の自由、句法の一種碎けた洒落な態度、無生のものを擬人的に歌ふ得意の譬喩、いづれも在來の類型的歌風を出てゐる。その歌の題目に於いても、花鳥風月戀愛の慣用的のものに拘まず、(275)「子供」とか「酒」とか、新らしいものを見付てゐる。細説するの煩をさけ、その作品の例を擧げておかう。
  歸り來て寢ての後さへ花見つゝゆられて舟にある心地かな
  うたゝねの昨日の晝寢思はせてありしところにある枕かな
  散る花に目をもおくらず佛たちならびおはする峰のふる寺
  ところせく隣々をへだてたる世のなか垣のむつかしげなる
  あたひにもなる時なくて我園のやせたる竹の世の寒さかな
  さし柳さして幾日も經ぬものを根ざし引見る友わらはかな
 野村望東尼は、歌は言道の弟子で、言道の歌風をうけてゐるが、維新志士の間に交つて國事に盡力したその境遇上、特色ある歌を詠んでゐる。總じて、その閲歴とか境遇とかをその和歌に詠みいづるといふこと、即ち和歌が作者の經驗の直接の發表であるといふことは、個人的特色の發揮とともに、近世の和歌の一特色をなすものであるが、この特色は、一般歌人にはあらで、痛切なる閲歴を有する維新志士の詠に表はれて、古來未だ見ざりし一つの風を形作つて居るが、望東尼はこの方面のよき代表者である。彼についても「歌學論叢」の中に細(276)論した故、こゝには以上の注意にとゞめて、その作品數首を擧げておく。
  しばしだに物は思はじ其まにも柳はもえて梅はちりけり
  たひらけき道うしなへる世の中をゆり改めむ天地のわざ
  一度は野分の風のはらはずば清くはならじ秋のおほぞら
  もゝのふの大和心をよりあはせ末ひとすぢの大繩にせよ
  わが爲を祈るにはあらず神佛み代のみための人の爲なり
  住初るひとやの枕うちつけにさけぶばかりの浪の聲かな
 井手曙覽の歌は、その恬憺寡欲にして自ら安んじ、世俗に阿らなかつた高邁の人格を示して、洒落の風と清高の氣品とを備へてゐる。而してその尋常些細の事物の間に感興を見出し、意を寓するところは、その萬葉にならつて萬葉に拘まざる自由不※[覊の馬が奇]の修辭的手腕と相俟つて、何人も及ぶべからざる獨特の妙所を示してゐる。その洒脱のところ、その奇警のところに至つては、言道に似てゐるが、彼の輕妙なくして一種の氣慨のあるところ、蓋し人格の差に基づくのであらう。
  國を思ひ寢られざる夜の霜の色月さす窓に見る劔かな
(277)  着る物の縫目縫目に子をひりて虱の神世始まりにけり
  影たるゝ星にせまりて薄黒き色たゝなはる朧夜の山
  瑞山の青垣山のさかき葉の茂みが奥にわが魂こもる
  破れたる硯いだきて窓かこむ竹看る心たれに語らむ
  ありとある竹に風もつ谷の奧水の響をそへて鳴りくる
 殊に「影たるゝ」「ありとある」の如き、彼の叙景の歌に至つては、客觀詩として新生面を開いたもので、全然主觀を離れたところに妙味がある。
 次に、伊達千廣は、
  その山の水のたぎちに舟うけて朝日に匂ふ雪を見る哉
  熊野がた八汐路とほく大方の月をりかへし空にたつ波
 のやうな、諸平ぶりの典麗なのもあり、又、
  思ひかね秋の行方を眺むればまきたつ山も時雨ふるなり
 とやうな新古今的の古今風のもあるが、彼の個人的特色を發揮した歌風は、その禅趣味をとりいれたところにある。この點に於いて彼の歌は、尋常の叙景叙情の歌以上に含蓄すると(278)ころが深い。而して、
  何しかも物くるしげにうめくらむ月と花との面白の世に
  更に又何のすつべき物もなし唯かくながら我世經なまし
 の如きは、説明におちて露骨のきらひがあるが、
  あたたけき南庇にはしゐして落つる紅葉を一人みるかな
  夢もなく眠たらへるあけぼのに霞む外山の花を見るかな
  月花を同じこころに見む人のひとりもあらば何か思はむ
  月清し花もめでたし苅こもの憂世の中はさもあらばあれ
 の如きに至って、禅味のよく詩化せられ、渾然として異彩ある歌風をなして居る。
       七
 さて以上を以て、近世歌風の各について概観を丁つた。ここに筒單に結論してこの論文を終らうと思ふ。
 大體に於いて、近世の歌風は、在來の歌風の復活である。而してその復活は、十分なる同情と研究とに基づいて、よく異相をとらへ得た復活である。それのみにあらで、その上に一(279)歩出でて、單に在來の歌風そのまゝならず、よく各歌風のうちに他の歌風の長所をとりいれて、在來の各歌風に別の趣をそへて詠み出でた。否、吏に一歩を出でて、在來の歌風のうちにして新らしい個人的特色ある歌風を詠み出した。近世歌風の和歌の歴史上に於ける大なる特色はこゝに存する。この點こそ實に近世歌風の近世的性質である。
 
(280)     第十一章 元禄前後
 
       四十八 傳授思想破壞の第一人
 
 近世古學勃興時代の初めに當つて、傳承の僻見の破壞を企てた人といへば、戸田茂睡、下河邊長流の兩者である。茂睡が元禄十一年に著した梨本集の制詞攻撃の思想は、さきに吾人が學界に紹介した寛文五年正月の文詞に夙に現はれて居たので、恰も長流が寛文十年七月に刊行した林葉累塵集の、歌は堂上の專有物でないといふことを主張した序詞と、同時代に生れたのである。
 これらの事實は、既に日本歌學史の中に述べておいた所であるが、なほ吾人の最近の研究によると、茂睡長流よりも先に傳授の思想を愚人の説と喝破した第一人者と認むべき人が、他にあることが發見された。そは即ち木瀬三之である。
 三之の名は世に多く知られてはをらぬ。併し諸書に散見して居て、吾人には親しい名であつたが、其茂睡長流に先立つ新學の皷吹者であるといふ事は、近く之を明かにし得たのである。
(281) まづ始めに諸書に出でたる彼の事蹟を擧げて見る。
 彼は、通稱を作兵衛、名を隨宜とも言ひ、竹林齋と號した。山城なる山科の人で、後に近江の大津に移り住んだ。彼の生存の時代は、彼が、類字名所和歌集の編者なる里村昌琢の門弟であつたといひ、又、松永貞徳の友人であつたといふので推定せられる。(彼が竹林齋の號は、竹林の多い山科に住んで居たので、昌琢の號竹齋を襲うたのであらう。)
 三之について教を承けたものには、宮川松堅があつた。松堅は幼くより貞徳の門に入り、その玄旨より傳へられた歌道を繼續して、貞徳二世と稱して居たほどであつたが、大津に行つて更に三之の教をうけたのである。貞徳の弟子であつた狩野洞雲益信も、三之に就いて學んだ。また契沖の門人で、初め松堅にも就いた今井似閑も、若くして三之の教を承けた。
 松堅は、三之を、「博學得業近代之賢人也」とたゝへ、似閑は、「幼年より學に志し、百家の書にわたりて洽知りつくさずといふことなかりし」云々「また書を著はす事まれなり」と評してゐる。また鈴木※[月+良]は、三之の時代に注意して、「契沖よりやゝ先歟」というて居る。
 三之が萬葉の學問に精しくして、萬葉學史に洩らすべからざる一人であることは、似閑が、「予も壯年の頃より萬葉に志ありければ、花洛木瀬三之、難波下河邊長流などにもをろ/\承(282)りし」云々と、長流契沖に先立つて三之の名を擧げたこと、また三之の談として、萬葉の古註二種に關する説を掲げたこと、その代匠記の書入及び萬葉集の書入に、屡々三之の説を引いて居ること、而して又同じく契沖門下の海北若冲も、その著古類葉抄に、三之曰としてその説を擧げてゐること等に徴して明らかである。
 また三之は神道に精しくて、三輪若宮縁起の著があり、書を善くして、脱俗の風があり、かつ古筆にも趣味があつたとおぼしく、定家が書寫した貫之自筆といへる土佐日記を影寫して居る。また詠歌にすぐれて、世に名歌といひ傳へられた「かごとをや人のとふらむ」の作があり、概して當時にあつて、比較的新味に富んだ注意すべき作があることは、松堅の輯録したところによつて知られる。
 以上はかつて諸書に就いて吾人の知り得た所であつたが、本年初夏、諸説録【こは後人の題僉したもの】と題した一册の寫本を得た。その中には、長流、松堅、松下見林、野営定基等、諸家の説が載せてあつて、似閑がしるしたものかと思はれるふしが多い。而してその中に、三之の説も多く載つてゐるので、これを精讀して、吾人は三之の面目を大いに明らかにする事が出來た。
 その三之の説として記されたところは、何れも斷片的であるが、これによつて、彼が萬葉(283)及び古今に精しかつたこと、神道及び佛教にも通じ、大日經註や、枕草紙の書入のあつたことなどが伺ひ知られる。而してその中に、
  凡て古今に傳受などいへる事あるべからず。貫之心には、あまねく和歌の心を諸人に知らせまほしく思ひて書きたれば、ゆめ/\秘傳あるべからず。序にも、今もみそなはし後の代にも傳はれと書けり。末の代になりて愚かなる人のいやしき心より、傳受といへることは始まれり。
の一節がある。こは簡單な一片の文字に過ぎないが、極めて明白なる態度要領を得た辭句を以て、古今傳授の僻習を攻撃したもので、その交友なりし貞徳が戴恩記中の師承戴恩の思想に比ぶれば、霄壤の差がある。是に於いてか、かの舊派歌學の殿將ともいふべき細川幽齋の時代を去ること遠くない當時に於いて、この言をなした彼のごときは、確かに偉とせねばならぬ。
 勿論古今傳授の如き、その荒唐なる僻説たることは、新學問の機運と典に、苟くも心ある人の胸中に等しく浮んで來た考であるに相違ない。しかも、當時舊學問の勢力がなほ盛んであつて、中世歌學の長夜のねぶり未だ深かつた時に、かくの如き思想を明白大膽に道破したことは、卓見と稱せねばならぬ。而して彼は、前にも言ひ及んだ如く、似閑が教はつたので(284)あるから、可なり長命であつたらしい。兎に角、昌琢の門人としるされ、似閑によりて三之長流契沖とやうに記されてゐることから考へれば、その長流茂睡よりは時代に於いて先輩である。而して長流が、「口傳秘授などいへるはおろかなる事なり」の言の如きは、右の三之の説に比すれば、詳細といふ點に於いて劣つてあると言はねばならぬ。
 なほ三之については、自分は今年(大正二年)六月京坂に赴いた折、山科に立寄り、村長小學校長等に案内を乞うて取調べたが、同村には現今は木瀬といふ姓もなく、何の手がかりをも得なかつた。大津には立寄る時を得ず歸京したので取調を依頼してある。どうか、歿年享年等、不明の諸點を明らかにしたいと思うて居る。
 かやうにして、未だ詳しく明らめ知ることは出來ないが、三之が、將來わが國文學史を編む人の、近世古學勃興期のはじめに、必ず加ふべき一人であるといふ一事は、之を斷言し得ると思ふ。
 附紀
  三之の歿年は、上記の如く、昌琢の門人で似閑の師であること、又その晩年の著とおぼしい三輪若宮縁起が延寶七年に成つた事等から大凡に推測し得られる。元禄十五年に谷(285)重遠が書寫した閑話記の中なる古筆傳の終には、「古筆之内木瀬三之」とある。
  三之の姓、初め如何に讀むべきか知られなかつた。(鑑定便覽にはこの部に採録してある。それによつて掲げた大日本人名辭書は、きせとして載せて居る)二三の人に問うた所、中川泉三氏の返書に、近江石寺に今も木瀬氏といへるがありと。又福井源三郎氏の返書に、鏡師木瀬淨阿彌の後今も福井市にありと。而して共にキセと稱へをるといふ。
  三之の交友、もしくは門人であらうと思ふ名を掲げると、平井平介、三宅宗因、井川舟有等がある。
  この一篇に就いて參考した三之に關したものどもを、次に記しておく。
   寧永元年今井似閑が記せる代匠記序及び代匠記所入(椎本文庫所藏)、亭保八年刊行の和歌五十人一首同追加、古筆名翰抄、名家手簡、鑑定便覺、閑話紀、よゝの友、名家押譜、萬葉集墨繩總論、丙午雜纂、萬葉集谷川士清書入本(宮内省圖書寮、和田英松、品田太古、松井簡治氏等所藏)。萬葉集田中道麿書入本、同鈴木※[月+良]書入本、古類葉抄(品田氏所藏)。文藝類纂、谷川士清先生傳、諸説録、
 
(286)       四十九 戸田茂睡の壽碑
 
 戸田茂睡は、西鶴、近松、芭蕉、契沖等と同じく、最も適當なる意味で元禄時代を代表して居る。梨本集に峻烈なる筆で堂上歌學を攻撃した茂睡、隱家百官、鳥の跡等に輕妙にして幾分覇氣を含める和歌を遺した茂睡、紫の一本に洒落な文藻を示した茂睡、而して梨本書に神道武士道を説いた茂睡。彼の多趣多樣な人物には、種々の方面で當時元禄時代の影を見る事が出來る。歌論家としての彼は明らかに元禄の新學風の精神を代表したもので有る。文章家としての彼には、浮世草子を生んだ當時の面影が映つてゐる。佛教の來世觀を斥けて現世觀を説いたその主義には、當時の時代思想が見える。殊に名譽を重んじた彼の武士道思想は、武士道の精神未だ衰へなかつた當時の産物であつて、實に赤穗義士を出したと同時である事を思ふと、興味が深い。衆人にすぐれた才を抱いて、かつ名ある武門の家に出で、盛んな新時代の機運に際會しながら、不幸にして十分志を伸ぶる事を得ず、少なからぬ不平を包みて梨の本に世を隱れ、文筆に樂しんだ彼の人格には、白眼世人を見るといふ隱士風の所は無くして、寧ろ一種の文藝的廢頽派の面影があるので、この點から言つても彼の人物は、全(287)體としてまた元禄泰平の世の産物と稱すべきである。
 殊に吾人にとつて最も重きをなすは、歌論家としての彼で有る。當時の歌壇は、一方に嚴然たる舊派思想が偶像の如く存在し、その黒い影におほはれて、人の心を種と咲き出づるまことの花の無かつた時代である。茂睡は斯かる時代に出でて、刀を振つてその偶像を打壞した人である。その偶像の本體たる、もとより恐るゝに足らぬ幽靈である。しかもその幽靈を打破するには、幽靈の正體を枯尾花と見極める明がなければ出來ぬ。茂睡は實に舊派歌學の黒闇の中に存在して居た、所謂制禁の詞のたぐひを明らかな自覺を以て見破(288)り打破つた勇士で有つた。元禄時代の和歌の革新家たる彼は、とこしへにわが和歌史を飾るべき一偉人である。
 然るに、かゝる偉人の墳墓に至つては、その淺草金龍寺に在りといふ事が、墓所一覧茂睡考等に見えて居るだけて、當時の文献に確證なく、現存しても居らぬのは、まことに遺憾に堪へぬ次第であつた。さるを昨年(大正元年)の秋、池井寒泉氏が、茂睡といふ名のある碑を、ゆくりなくも牛込の一古物店に發見せられた。そは牛込築土萬昌院の鐘樓(寛政五年の竣工)の下に、礎石の中に入つて年久しく埋もれて居たのを、明治四十四年の春鐘樓の位置を少しく改めた際、世に出たものであると云ふ事である。自分は直ちに池井氏を訪うて、その碑を見ることを得た。碑には、憑雲寺打山茂睡と有る。而して歿年月が無い事からして、その逆修塔即ち生前に建てた壽碑である事がわかる。碑の文字の憑雲寺は、茂睡が渡邊氏たりし時の名の憑を頭に置いて自ら名づけたもので、貞享元年川中俊治が茂睡の文を書したものに、憑雲寺遺佚軒茂睡とある。打山は、萬葉集にまつちやまを亦打山とある。茂睡は淺草の待乳山に就いて、その著「武藏の國の名所」「名所不審相承歌」等の中で考證し、かしこに歌碑を建てなどして、自ら打山と名づけたので有る。五輪の時代から云うても、その文字から云うても、當(289)時のものたることは疑ふ點が無い。が、その何故に萬昌院の鐘樓の下に埋もれて居たかがさだかでないので、自分が萬昌院を訪うて、住職華藏界濟哲師に請ひ、古く傳はつて居る日過去帳を見るを得た。然るに、廿日の條に、渡邊茂右衛門老母清芳院殿高臺永壽大姉とあるのを發見した。即ち萬昌院は、明らかに茂睡の母の菩提所である。これによつて見れば、茂睡自ら壽碑を同院に建てたものである事は信じ得べき事實となつた。
 是に於いて、この壽碑の再建を澁井氏及び竹柏會の同人に謀り、東京市長坂谷男爵、及び福島甲子三長岡安平氏等の斡旋によつて、淺草公園の池畔に建てる事にした。蓋しこの國文學史上の偉人を、世人と共に永く記念せむと欲したに外ならぬが、そを東京市所轄の公園に建てた事は、他に理由が無いではない。それは茂睡には、特に紫の一本といふ名著があつて、そは江戸の名所記の古いものゝ一つで、しかも文學上から見て最も價値の有るものである。江戸市中のこゝかしこの名所を巡遊し、趣味ある筆で古へを談り今を寫したもので、江戸の歴史地理の資料としても、また當時の風俗を伺ふ材料としても、價値の多いものである。茂睡はこの著によつてたしかに東京市民の爲に記憶せらるべき一人物で有る。然らば何故に淺草公園に建てるかと云へば、待乳山には彼の歌碑が有り、本來ならば同地に建つべきで有(290)るが、その餘地が少ない。淺草公園は、この待乳山にも近く、かつ傳によれば、茂睡は金龍山の邊に居住して、「熊にあらず虎にもあらず淺草に起き臥す吾を誰か知るべき」とうたつて居るのをはじめ、その手向野の碑や、その子覺の碑のある寺院も近い。即ちこゝに選んだ故で有る。
 また斯く賑はしい地に建てるといふ事は、殊更に世を梨の本に隱れ住んだ茂睡その人の喜ぶ所であるかどうかと一應は思はれるが、彼は由來名聞の念の熾んな人で、生前にも待乳山や鴫立澤に碑を建ててゐる。吾等後學、和歌の革新に志して居るものが、元禄時代に和歌の革新を唱へたこの一偉人の墓碑を、その縁淺からざる地に再建するといふことは、恐らくは黄泉の下に徴笑を含んで居るで有らうと思ふのである。
 
       五十 養壽庵に於ける契沖
 
 かつて契沖の事蹟を探らうとて大坂に赴き、春の折には母のことを詳かにし、夏の折には父のことを明らめたが、翌年の春、高野に上つた歸さ和泉國萬町村なる舊家伏屋氏を訪うた。伏屋氏は當年契沖の保護者であつた長左衛門重賢の後である。かつて大町桂月氏も訪はれ、(291)また後に大坂の好古家も訪はれたことがあつたが、その時はともに、生憎當主が不在であつたよし、ものに記されてあるが 自分が行つた時は幸ひ、逢ふことを得た。契沖に關する遣物を尋ねたところ、なほ多少は遺つてゐるといふことで、見ることを得た。其折心ある人に讓つてもよいといふことであつたので、數種を讓りうけることにした。其中の一つがこゝに挿入した養壽庵の圖である。
 養壽庵は伏屋氏の邸内にあつた。伏屋氏は代々文雅の嗜み深い土豪でかつ客を愛したので、契沖以前にも貞徳をはじめ風雅の士が屡々來り宿り、契沖も數年間住居した(292)のである。この圖は壯年の契沖がその庵で學間にいそしんでゐた所を書いたものである。この庵は後に伏屋氏の好意によつて、こぽち移されて大坂高津なる圓珠庵となつた。其後再び同じあとに建てられた庵があつたとのことであるが、そも今は礎石のみ殘つて居るが、この畫にある松は今なほ立ち榮え、萬町の籔とて名高い竹籔もそのかみの面影を傳へてゐ、池田川の清流も、矣沖が清い瀬の音をきいた昔ながらである。なほ序でながら、圓珠庵に藏せる久井の圖といふのは、粗畫ではあるが大體の結構がこの畫にそのまゝであるし、かつ畫かれた契沖の年齡が、この畫に於けるに比してよほど年をとつてゐること等によつて見ると、そは正しくこの養壽庵をうつして建てられた圓珠庵に於ける晩年の契沖をうつしたものらしい。隨つて彼の畫は、義公が安藤年山を介してもとめられた契沖の像の一つであらうと思はれるのである。
 
       五十一 荷田東滿について
 
 一、宮内省圖書寮の藏書に荷田東滿が、村井久右衛門におくつた古今傳授に添へた書類がある。即ち左の如くである。
 
(293)  文明の頃より予が家に傳へ來たる古今和歌集の傳書あり。これ東下野守平常縁の傳記にして、頼常の傳抄なり。しかるを足下此傳書をうけ得たきよし懇望止がたかりき。予もとより足下歌の道に志ふかき事を知侍れば、これよりして猶至道にも及ばしめまほしくて、たやすく授與し侍る。もと此傳書、其人にあらすば見すべからずと云いましめ有によりて、人にかゝしめて與へがたくて、みづから全部書寫して授け侍る。足下もまた、其人にあらずは妄に見せ傳へらるべからず。且此傳書にて歌の奥義詞の正義至れり盡せりとは必おもひ給ふべからず。萬葉集の傳、並上古の歌の傳等は、此傳書の趣と異なるもの別にあり。其別傳は、此のち此傳書につきて往々うたがひ出來る時有べし。其時面授を爲べし。穴賢。
  享保十一月午十一月廿八曰
                     荷田宿禰東(花押)
      村井政方殿
 
  任便宜呈一簡候。時及嚴寒候へども、益々御竪固候哉承度存候。然ば古今傳書殘八册出來候間今度差遣候。御發足以後とく進度存候へども、難遁事ども候て延滯いたし候。傳書授與之趣も別紙進候。是にてよく候哉。猶御望も候はゞ可被仰聞候。別に歌書の事何かと相應の用事候はば可被仰越候。于今月次歌會も無懈怠興行候。門弟中御噂のみ申出し候。便の節御詠草可被遣候。古今集傳授候上は、御詠歌拙劣にてはいかゞに候間、無懈怠御精御出し可被成候。猶後便來年中月次之兼題相定候はば書附可進候間、御詠可被成候。何とぞ近年の内御上京希事に候。萬期得後便の時申候。
  恐惶謹言。
    十一月廿八日          羽倉 齋(花押)
        村井久右衛門樣
 
(294) この古今傳授のほかにも、齋明紀童謠の解釋を、秘傳として眞淵に傳へてゐる。
 當時の學界の覺醒者たる彼も、なほ一方にかく傳授てふ舊習を全く脱しかねて居たのは、時勢の個人に及ぼす情勢の現象に外ならないので、歴史上にその例のあることで、かの傳授思想の破壞者たる戸田茂睡に、なほ從弟山名玉山より都通傳をうけたことのあると一般、これが故に彼の學問の新精神を疑ふべきではないのである。
 二、自分はかつて稻荷神社を訪うて、同社に保管せられてある東滿の遺稿類を多く見ることを得た。彼が死するに臨んで草稿を燒かしめたといふことが傳記に記されてゐるが、現存の草稿中に、古今集に關する原稿の四邊がやかれて殘つてあるものがある。或は病中彼の傍に侍した人などが、その一部を燒いて彼に氣安めのために見せたものなどであらうか。東滿が自己の學問に忠實なため、未だしい草案を燒き捨てようとした志はさることながら、その著書が凡て燒失されなかつたことは、後の學者の大幸といふべきである。
 三、また同社に保管せられてある、東滿の藏書類をすべて見ることを得たが、其中に、東滿が契沖の和事正濫要略二卷を寫したもの、契沖の奧書ある難後拾遺を寫したものなどがあることを發見した。もしこれらの材料を用ゐて委しく研究する人があつたならば、この國學(295)界の兩覺醒家の關係に就いて、明らめらるゝ所が少くあるまいと思ふ。
 
(296)     第十二章 賀茂眞淵及び其門下
 
       五十二 眞淵の肖像
 
 古人の書を讀み、古人の心情を味ふものに、最もなつかしい感を與へるものは、筆蹟と肖像とである。中にも肖像は、吾人をしてまのあたり之に接する思ひあらしめる。
 肖像の中にも、別けて考へれば、寫實的のものと理想的のものとがある。古人の實際の顔や姿を其まゝにうつしたものと、比較的個々の部分の描寫に重きをおかないで、むしろ全體の印象とか風貌とか精神とかをうつしたものとである。前者も無論よいが、後者に至つては、後世の人をして欣慕の念をおこさしめる點に於いては一層よい。
 自分が藏してゐるこの眞淵の像は、殊にこの點に於いて自分の珍重してゐるものである。眞淵の像には、信ずべきものが由來四つある。一つは加藤千蔭のかいたもので、これは比較的數多くあつてここかしこに藏せられて居るが、大同小異である。二つは養子定雄の家にあつたもので、三哲小傳の口繪はこれである。そを桑名侯が寫さしめ、狛諸成の賛したものが
(297)〔肖像画あり〕
(298)傳はつて居る。三つには品川東海寺所藏の、友川の筆のものである。而して第四がやがて、自分の藏する内山眞龍の筆になつたものである。この四つ、とり/”\に特長はあるが、眞龍が伴信友の請によつて、その師のおもかげを書いて贈つた此一幅は、何となく漠然として大きいところがあつて、一見脱俗、仙に近い趣は、古道てふ理想にあそんだ晩年の彼の風格が現はれてゐると思ふ。寫實畫としてのこの畫の價値は定めいふすべを知らないが、門人の筆になつたもの故、その決して實際によりどころのない空想畫でないことは疑ひない。
 
       五十三 眞淵と公美
 
 異淵全集第四卷に、「龍のきみへ問ひ答へ」の一卷が收められてゐる。この表題の意は少しく考へて見ると、その意味をなさないことがわかる。が、それもことわりで、この書の古い寫本を見ると、「たつのきみえ、かものまふち」と並記して、さて、「問ひ答へ」とあるのである。「え」を「へ」と誤り記した爲に、かく意味の不明を來したのであつた。
 龍のきみえとは龍公美の事で、公美は草廬と號し、山城伏見の人、後彦根侯の文學に召されて、書にもすぐれ、また歌文をも相應に作つた。その父は契沖の門下の一人であつたが、(299)彼は眞淵について國學上に教を乞うた。この眞淵全集所收の問ひ答へは、その後半は、答問遺草の名で文久三年に出版された。それによると、原本では問の文が候文であつたのを、後に眞淵が全州所收のものゝ如く書き直したのであることがわかる。
 この問ひ答へは寶暦十年のものであるが、近時自分が濱松に遊び、眞淵の舊居を訪ひ、兩親の墓などをも訪うた折、同地の松根榮氏の所藏の眞淵の書状を見ることを得た。書中の事實によつて考へると、寶暦十二年の書牘で、問ひ答へよりはあとのものである。その全文を掲げると左の如くである。
 
       猶多事にて筆を走らせ打かへして見る間も侍らでまゐるなり、
  彌御多福春陽御迎被成候はんと歡察いたし候。小家無事なり。然者去々冬以來預示數度之處御答不申、殊に去初秋御丁寧被仰聞候以後も甚多事に而及失禮候。最前被遺候御問一册はいとはやく認置候を、書状調候閑無之、且如御察皇朝之大政之主意より始めて、初學之本意異國とは甚異に候を、異國之學、或は後世の歌等の御洞習よりして御論等御座候而は、一向相うつらぬ事故に、自然に御答も懶くて延引に及侯なり。御宥恕可被下候。向來も猶御問可被成之思召候はば、最前より小子申進候筋を以て御主意を改られ候而御問も候はば御報可仕候、
  皇朝の古意は神代より始めて武を以て標とし、和を以て内とし、?細なる事を少しもいはず、民を強ひずして、天地に合て治め給ふ故に、古は 天皇益尊く世治まりしを、異朝の人之作りたる道を用ゐ給しより。宮殿衣服禮式は宜く成て、天下は漸く亂れ行き、天皇衰へ給へり。此意をば萬葉の歌を數年よく見候へば、古人之心直きを知り、その直(300)きを以ておすに、天下古今に通せざる事なし。歌は心慰なるものと思ふは、今京以下の歌の事なり。古人は心情を不隱一意によみ出で侍れば、此書に遊ぶにつけて古への樣知らる。後世國學者流境此意を知らねば、此國はやはらぎたるを專とすと思へり。天照大神は女神におはせど、素盞嗚命の惡きに封には、男體と成て弓箭を帶び給へり。それより後、天皇皇太子、其外臣をや。かゝれば其意より出る歌即雄々しきなり。一意なり。仍て後世より泝て知らんに、所記書面にて大樣は知らるれど、所傳は或は傳の誤、或は筆者の潤色にて疑しきに、古歌は一言一句一辭を唱誤る時は、其歌不調故、必其句辭吟定して見れば、古人即對座親見の如し。よりて古歌ばかり古意を語り古意を學ぶ友は無之なり。今京以後の歌は巧て作れる故に、必ず其人の心ともなし。且山城國は女國にて、男尚女の如し。故に少しも雄々しきをば嫌て、面うるはしく心かたまし。さて武を忘れ給へる故にかくおとろへさせ給へり。此意をよく御考得かしと存候。筆にまかせたれば文言前後あり。猶かくのみにて盡がたし。そは御賢察可被成候。旦最前御詠を論じ可進よし被仰につきて委しく論じ候へども、御承引無之と見えて候へば、今更可申入事も無之候得共、再往御丁寧に被仰聞候故如此御座候。文章はた同事なり。多々後期音候。謹言。
  正月廿日
                 岡部衛士眞淵
      龍   元次郎樣
  此ほど家に人々つどひて歌よみつるに、鶯の鳴をよめるてふことばにて、
    打わたすみ門の原の雪のうちに鶯きなくはるの初聲
  又屏風の畫の題にてよむに、三月山里へ人の問きたるかた有る所を、
    山ざとは岩ほの中と聞きつるを花にこもれる所なりけり
(301)  右事のついでに書てまゐる。御門の原は萬葉卷二に人まろ埴安の御門原とよみ、今昔物語に應天門の原ともいひたるを以て、東都の大城の御門の邊の原の意にてよみ侍り。こゝにも火をよくるとておかるゝ原多きなり。
  御詠いかが。少し見せ給へ。おのれ去年は春よりこと多かりしに、六月こゝの大喪の後は、田安殿の御慰もなきまゝに、いとくさ/”\の學事をとうで給ひ、こはたゞおのれひとりに預る事故に、よる晝となくいそがしくて、それがあまり未だしはて侍らでなん。よりて過し秋の御こたへをだに怠りぬ。右に申せしは御心なるまじかれども、先申せし如くの道に入て試給へかし。二三年の間におぼし當りぬべし。見せ給へる契沖歌は、いかなればあしきにや。此人におきてはふかしぎ也。その樣は古歌を覺えて語には古を用ゐたれど、歌の巧の意皆後世の俗也。凡の語古へを用ゐても、用ゐる意後世なれば皆後世となりぬ。古語ならでも古への意をだに得つれば皆古語の如くなりぬる也。後世といへど、猶古今歌集まではさはいへど心高し。後撰より俄に下りて、皆心ひくゝ語野に近し。此人さばかりの事を心得ぬとも學えざるを、まだ草昧故に流俗のあかのあらはれぬ成べし。千變萬化いか樣にも巧もせらるゝ力を克止して、心高く巧をやむることにあらでは今の人の歌はとかくに賤く成ぞかし。此意をとく知給ふは鎌倉殿一人也。末の句などに巧みいふべきを強ていはで、たやすくいひ下しなどせし所に、高きこゝろ有るを考給べし。
 
 上代の尚武主義を高調し、外國の教を學びてより皇威の衰へたるよしを説ける、古歌ばかり古意を語り古意を學ぶ友はなしといへるなど、眞淵が隨處に説いたところではあるが、尚味ふべき言である。「田安殿の御慰もなきまゝに、いとくさ/”\の學事をとうでたまひ」云々といへる、また契沖の歌について論ぜるなど、注意すべきである。殊に言句の間にほとばしつた意氣精神に至つては、書翰だけに一層いちじるく眞淵の面目を語つてゐる。とにかく上記(302)の「問ひ答へ」を補ふものとして、すこぶる注意すべき資料である。
 
       五十四 眞淵と宣長
 
 眞淵と宣長とは、學問上ともにふかく相許してゐた師弟の間がらであつた。が、しかし和歌の一つに於いては、一は上古風、一は中古風を理想とし、その根本の意見を異にし、隨つてその作風も全然別であつたので、到底相容れなかつた。眞淵が宣長の和歌に對して、或は添削し或は批評したもので、この兩者の關係を見べき資料は、吾人が今日まで見たもののうち、主なものが三つある。
 一つは、松坂の人小津芳藏氏が藏せられる詠草で、左の如くである。
 
       山居梅          宣長
  かくれがやうめ咲く軒の山風に身のほどしらぬ袖の香ぞする
               此言一首にいはゞいひもしてん−句につゞめては今俗のはいかい言なり
       古寺落花
  夕あらしはつせの花やきそふらんそでにちりくる入相の鐘
               歌ともなし
       花埋苔
(303)  庭のおもは櫻ちりしく春風にさそはぬこけの色ぞきえゆく
               いやし
       夏月
  程もなくふくるを夏のしるしにてすゞしさはたゞ秋の夜の月
               此所歌にはならず
       野虫
  月影もこぼるゝ野邊の秋風にむしの音きえぬ淺茅生の露
               只今のはいかいにこそ
       野分
  敗にけり野分する夜のおもかげに明日の朝けの花の千種は
               かく上へかへしていふ事古今にも少しあれど歌にからめられたる人のわざなり
       月
  うき雲のゆきゝも空に絶えはてゝ吹く風見せぬ秋のよの月
               歌とはならず
       浦雪
  かつ散てつもりもやらぬ松の雪たがうちはらふ袖のうら風
               此つゞけいやし又浦の事こゝにの(不明)
       爲人忍戀
  いさや川いさめし人のひと言にうき名もらさぬ袖のしがらみ
               歌ならず
(304)    後朝戀
きぬ/\のなごり身にしむ朝風におもかげさそふ袖打うつり香
     言つまれり   一句いひつめては歌にならず
      戀命
同じ世の月見る事もこひ死なばこれやかぎりの契ならまし
             此言いかゞ
      寄魚戀
小車けわだちの水の魚ならでかるゝをなげくわがちきり哉
             から人の言を歌に用る事古今などにもあれど心ひくき事なりいかほどもこゝの古事なからんや
      寄筝戀
 かき絶て忘れなはてそ逢ふ事はなかの細緒のちぎりなりとも
      寄風戀
 さそはれぬ深き思ひの色も猶有りとは知るや庭のこがらし
             猶を言の下にいふ事後世の俗歌にのみ有なり古今には一首あれど古本には別なり
      寄枕戀
 思ひやれ三年打後もあかつきのかねのつらさは知らぬ枕を
             いひなしはいかいなり戀などは艶にあはれにこそいはめ
 是は新古今のよき歌はおきて中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりしなり。右の歌ども一つもおのがとるべきは無し。是を好み給ふならば、萬葉の御問も止給へ。かくては萬葉は何の用にたゝぬ事なり。
 
 一つは、津の川喜田久太夫氏が所藏の翁の書牘に曰く、
 
(305)七月之御示已後最前の御問につけて御答申せしや忘れつ。東國は七月末より凡雨天に而、月めでなど惣てとこやみ行ぬ。中國は旱とかやいふなる、いかゞ有らん。平らかにおはするにや。おのれことも侍らず。夏中朝ごとの業に、祝詞の考を書て、八月初漸一草稿了ぬ。かくて來春など中書の時改めなどすべし。又神樂催馬樂風俗の古本を得つれば、注を書はじめたり。是も朝のみにて未だいかほども出來ず。考ればよき事も出來る物也。
○萬葉十七八之御問、傍書いたし進候。いそがしければ、よるなどをり/\に書ちらしつ。おしはかり給へ。
○詠歌の事よろしからず候。既にたび/\いへる如く、短歌は巧みなるはいやしといふは、よき歌の上にても、言よろしく心高く調子を得たるは、少しも巧みの無ぞよき也。それにむかへてはよき歌といへど巧み有はいやしき也。まして風姿にも意の雅俗にもかゝはらで、只寄言薄切の意をいへるは惣て論にもたらぬ事也。風調の事、心得がたしとの御問、こはいか成事にか。風調は意の高きと賤は、たれか見わかざらむ。古今歌もいづれをよしとの問も心得ず。巧みなるを除き、其外に唱へのけだかきをよしとする事、何のうたがひかあらむ。おのれが歌、過し年少し書て進じ候ひし、大かたかの如く也。門人のもあれど暇もなく、又後世人の歌を何にかせむ。萬集中の調べ延て滯りなきと、古今のよみ人しらずてふ中のけ高きと、古雅にてあはれなると、大歌所の歌など、又鎌倉殿の歌の中になほくよみ給へるとを見ば何か足らざらむ。
○長歌は萬葉までにて絶たり。古今はいふにもたらず。其後なるは見むもさまたげ也。是は人萬呂ぞ先は拔群也。されど藤原宮御井歌などは、人まろ同時ながら事のいひなしことにて、殊によろし。それらよりも古雅なるも交りてあれど、そは大かたにてよみうつさるゝ事にあらす。先人まろなどを學び給へ。奈良人はおとりたり。そが中にもまたよく出來たるも無にあらず。惣歌は人によりことなれば、必一人のすがたをならふべきにもあらねど、凡の事を右にはいふのみ。
(306)○風調も人によりてくさ/”\也。古雅有。勇莊悲壯有。豪屈有。寛大有。隱幽有。高而和有。艶而美有。これら人の生得の爲まゝなれば、何れをも得たる方に向ふべし。唯?細に鄙陋なるを忌のみ。古へは人心直くして言雅なれば、打よめるにも鄙陋のことなし。後世は見聞く言皆鄙陋なれば、人心もおのづからそれにならへり。然るを其後世意を用ゐるからに、歌の言意共に鄙陋薄?也。是を改るに自己に改むる事を得ず、古代の歌を見て一毫も後世を不用して年月を經るまゝに、自然に古雅我心中に染也。其上にて後世を顧ときは、其善惡雲泥の違有故に、誰に問に不及、古雅に向めり。貴兄はいかで其意をまどひ給ふらんや。前の友有ば捨がたきとの事聞えられ候は、論にもたらぬ事也。おのれ三十年以前東都へ下りし時、千萬人擧て異端とて惡みしを、不改操して十年ばかり經るほどに、其惡みし人多くは來て門下に入たり。又世間を僞る歌人多けれど、一旦繁昌すれど終に何ほどの功も立ずして死せるのみ。これらは論るもまだしけれど、筆にまかするのみ。
○萬葉撰者卷の次第等の事御記被遣候。是は甚小子が意に違へり。いはゞいまだ萬葉其外古書の事は知給はで異見を立らるゝこそ不審なれ。か樣の御志に候はゞ向後小子に御問も無用の事也。一書は二十年の學にあらでよくしらるゝ物にあらず。餘りにみだりなる御事と存候。小子が答の中にも千萬の古事なれば、小事には誤りも有べく侍れど、其事の大意などは定論の上にて申なり。惣而信じ給はぬ氣顯はなれば、是までの如く答は爲まじき也。しか御心得候へ。若猶此上に御問あらんには、兄の意を皆書て問給へ。萬葉中にても自己に一向解ことなくて問るゝをば答ふまじき也。されども信無を知るからは多くは答まじく候也。此度之御報に如此御答申も無益ながら、さすが御約束も有上なればいふ也。九月十六日。               眞淵
       宣長兄
 
 いま一つは、松坂なる堀内鶴雄氏所藏の書牘である。
 
(307) 新年慶事申納候。彌御萬福被成御重歳致歡喜候。小子無事及迎春候御安念可被下候。舊冬霜月と十二月の芳柬到來、古事記中卷御返被下致落手候。下卷御かし可申所、無據門人之寫度と申候に付かし遣候所、其人無據多事有之未だ不返却候。いか樣今月中には來候はん、其上今一往一覽候て御かし可申候。暫延引ながら御待可被成候。日本紀訓先年打寄致候所、不宜事多く候間、去年神代紀を改候はんと取かゝれる中、萬葉之事指かゝり漸十月萬葉六卷迄草を終候體故、打捨置候。今春元日より是にかゝり、漸同月廿八日に一訓訖候。猶再見候へば塵を拂ふが如く改むべき事出來候。此事は四十年來の願ながら、無閑且は未だしければ不開口候ひしを、最早命旦碁に迫り候へば、古意を以て訓むに、元來本文に誤字衍文多く、又は甚前後錯亂せし文も有之候を今度改候。只今迄神代紀を講讀せし人此本文の錯亂等をばいかゞよみし物か、只本文をばよくよまで空に理を設て附そへいふ故に、之を昧るに至らぬ事と聞えたり。書は本文をよくよみ、その文にしたがひて意をいふべき事勿論の事なるを、本文を我古言もてよみぬべき事を不知、たゞ文字に泥みて訓む故、自ら漢意にうつりて皇朝の古意にうつらぬなるべし。古事記を見給ふにも此紀をむかへ見るに及ものなく、且此紀を見くらべぬる時、古事記は文意よく聞ゆる事も知らるゝ也。かの一書といふは即古事記の類也。數書有しを漢文に直して記に添へたれば、よろしからず成し事も多かり。又たま/\は古事記より紀によき事もなきにあらず。から文字を奴の如くつかひて訓む程にあらでは、我朝の古意をば得がたきを、我朝の人代を盡さで神代を意得んとするをこ意のみ世に行はれぬる也。
○古事記御覽、御案と合候事、又は御案の外に宜も有之候由、又御案と相違の事も多との事、必さ有べき也。その相違の事を委しく御示可被成候。度々會讀せしといへど誤る事も多く、今又見る度に改る事もあれば、其相違こそ好ましき事なれ。必書きて見せ給へ。猶また思ふ事あらばいふべし。
一、萬葉別記に書きしは、たゞ萬葉は男女の戀情のみ有て教へてふ事惣てなしなどいふ愚儒の説を破り、又皇朝には(308)同姓を婚などいふ事近年の儒の口實也。よりてそれら一二を諭せしのみ也。惣て皇朝の古、母を貴みて父を專とせず。故に同母を兄弟とし、異母を兄弟とせざりしを以て、異母兄弟姪等を妃とせしことあり。から國も元はさと見えて、莊子之言さる事也。只周の武王其主を滅して立て俄に私の制を立しより、天下に内心には不用とも、其言書に殘りしを以て、後儒の證と思へり。凡周文武の大惡心、聞くもけがらはしきを、それをば置て、天地の意に背きて立し制を守るこそ愚なれ。近頃見しに先年太宰純が辨道書といふ物を一册出せしを、鳥羽義著といふ人惡みて破却し、から國の聖人と稱せる人を證を擧て皆罵下せし辨辨道書といふ一册有之、皇朝の大意はよく得たる人と見ゆ。此書今は判失せしか、古び本のみ有之也。御許に御らん候哉。無左ば、書林御尋ね京大阪には有もすらん、必御覽可被成候。我朝の事をいふ人も、其本今はから文を信ずれば、明らかに辨ぜしなし。から國の惡國にて聖賢なく仁義禮等の名のみして有事の本を知る爲には右の辨々がよく候也。
右萬葉の奥に書しを見せ候はむを、いかが紛候や其小册不見候。重て可遣候。
一、語意の事下書草稿一册有之、此度遣候。御覺候へ。是は未だ不足にて、大意をも未だ不記候まゝながら、先遣候、御覽之上御心付候事は助言可被成候。
一、續紀の宣命の事よくぞ御心がけ問れ、一通り見候に、尤の事共も有之、答べき事も多し。しかしながら宣命集めたる本なければ、度々本書を取出くり出して見候事甚勞候故延引に及候。何とぞ其文ども寄集候て御遣し候へ。差候はば早速答可申進候。何事も繁多に而勞候故也。
一、草庵集之注出來の事被仰越致承知候。併拙門に而は源氏迄を見せ候て、其外は諸記録、今昔物語などの類は見せ、後世の歌書は禁じ候へば、可否の論に不及候。元來後世人の歌も學もわろきは、立所の低ければ也。己が先年或人の乞にて書きし物に、ことわざに野邊の高がや岡邊の小草に及ばずといへり。その及ばぬにあらず、立所の低けれ(309)ば也。と書きしを、こゝの門人はよく聞得侍り。已彫出されしはとてもかくても有べし。前に見せられし歌の低きは、立所のひくき事今ぞ知られつ。頓阿など歌才ありといへど、かこみを出るほどの才なし。鎌倉公こそ古今の秀逸とは聞えたれ。
一、かなの一册出來故遣候。代は五匁に而候。いつにても可被遣候。此中にも麁有て追々に改候事也。最前短のかな不見といひしを、萬葉十五に、三自かき命とある物を見をとしたりし。かゝる事にはあやまち多き物故、其許にても御見當候事あらば早々御申越可被成候。魚彦も同門なれば助けやられ候御心にて、吟味なされ可被遣候。猶追々可申進候。
一、舊冬爲御祝儀金百疋御投與相成致祝受候。謹言。
  正月廿七日    衛士
      本居宣長樣
  猶々、持病の癪氣中にて臥筆故かく亂筆也。御宥恕可被下候。世間之俗事は一向不致候へども、雅事も重り過ればさてさて苦敷候也。
 
 いづれも、宣長の草庵集ぶりの歌風に對して手きびしい非難を加へたもので、師たる眞淵の態度は頗る思切つたものである。蓋し彼が萬葉を祖述し、更にその以前にまでさかのぼつた高古の地位から見たらば、宣長の態度はなほ山腹にうろついてゐるものゝ如く思はれたのであらう。
 當時すでに一家をなしてゐた宣長に對しても、毫も假借するところなくかくの如き酷評を(310)あへてした學問的信念のかたい眞淵も偉とすべきであるし、かゝる酷評をうけても何等意に介せず、眞淵を師として尊び、その學ぶべき方面に於いては彼を學んだ宣長の廣い心も貴ぶべきである。
 
       五十五 宣長の歌の師 附二人法幢
 
 宣長が十八歳の時山田へ養子に行つて、はじめて就いた歌の師は中の地倉宗安寺の住職なる法幢であつた。この法幢について調べて見ると、その歌風は、全く草庵集ぶりの舊風である。宣長が一生その作歌に於いては草庵集風を脱し得なかつたのは、全くこの法幢から得た第一感化に原因する。而して彼が京都に留學に上つて後入門した歌の師は、かの季吟が居た新玉津島の社司なる森河對馬守章尹であつた。章尹は冷泉家の門人で全く舊派の歌人であつた。
 なほ法幢については、委しく調べてその短册書牘等をあさり得た結果、同じ伊勢に、一人は山田に、一人は雲出に、二人の法幢があつたことを知つた。而して宣長が就いたのは、その山田に住み、齋宮村に墓のある方の法幢である。而して筆蹟のたくみな方は、他の法幢であることが明らかになつた。
 
(311)       五十七 宣長の歌學
 
 古學に於て眞淵の正統をうけたりといふべき宣長は、歌人ではなかつたが、その歌學に於いては、其師が歌學説以外に出でて、最も異彩をはなつた。彼の石上私淑言は、和歌の修辭論以外に、和歌の理を論じたことに於いて獨歩の趣がある。
 石上私淑言から吾人が學ぶべき歌學説は、一、歌の定義、二、歌の起原、三、歌の原理、四、詩と歌との比較、五、歌本來の性質、六、歌と戀である。外に、歌及びそれに關する字、即ち歌、謌、よむ、ながむる、ながむるとうたふと、やまとうた、しき島の道等の字義語源について論じたものも交つてをつて、その説精細を極めてをるが、こは歌學説といふべきでない。
 その學説の要領に曰く、
 まづ歌とは、詞のほどよくとゝのひ、あやありて歌はるゝものである。しかく歌を廣義に解して、彼は三十一字の歌を始め、神樂催馬樂より、はやり唄に至るすべての歌を、之にふくましめた。而して五七を以て、最も詞のよくとゝのうたものなりとした。この見解よりし(312)て、國歌八論以來當時の問題たりし歌の起原に關しても、二尊の唱和にその瑞を發したとし、しかたたしかに起原とすべきは、五七五七七の體を整へた八雲神詠にありとした。
 歌はいかなる理によりて、生ずるぞ。彼曰て、人が物のあはれを感ずる故である。物のあはれとは、物についてわれらの心の感じ動く事である。而して何人もこれを感ずる心はあれども、人によりて深淺がある。かつ習によりて之を感ずる事を養ひ得。即ちその物事のあはれなる事をわきまへ知るによつて感ずるに至るのである。彼に於いてわきまへ知る事は、やがて感ずる事となる。而してそのあはれと感ずるは、喜怒哀樂すべてにあるが、悲しき事に動くのが多い。この物のあはれに堪へぬ時、おのづからに歌となつて洩れいづるのである。聲を長くし詞にあやをなしてとなへ出づるは、即ちあはれなる思の洩れいづる自然の形式である。而して之をいひいづるは、いひ出でて人にきかれ、人に感ぜしめて思ひなぐさむが故で、いひて何の益ありや否やなどは問ふところでない。
 詩と歌とを比較するに、もと同じあはれをいひいづる同じものであるが、その趣が異なるので、彼は技巧を主とし、是はその眞情を主とすと。これ、彼に從へば、國風人情の差ある故である。かるが故に、和歌の性質は、詩の如くはか/”\しうしたゝかなるものでなくて、(313)物はかなく童べの詞めいた事で、これが歌の歌たる所である。何となれば、これ飾らず僞らざる人の人たる情なればである。歌の外形は世世かはれども、この歌の本質は古今かはりがない。
 然らば歌に戀を詠めるもの多きもあやしむに足らぬ。否、戀はまことの最も切なる情で、もとも歌にかなうたる情なればである。凡そ情と欲とあるあつて、歌は意欲にいでず、情にいづ。名利の欲の歌はれずして、戀のまことの情の歌はるゝはこの故である。
 かくて歌よむ事と道徳の教とは全然異なつて、混ずべきものでない。道徳の教以外に詩歌の領分あり。歌は只ものゝあはれを主として、善惡をわきまへ心にえりとゝのふる事ではない。而して自然の情を發露して吟詠する事は、却つて吾人の心をとゝのふるよしとなつて、道徳の教にしるしある事ともなる。されどこはもとより歌の本意ではないと。
 之によつて見るに、彼の歌學説は、その精細なる點に於いて、深遠なる點に於いて、我が國歌學史上第一に位するものといふべきである。うべなり、そのものゝあはれの説、及び道徳より獨立せしめて歌の地位を論じた説は、彼以後の歌學説のいづれをも、或は直接に、はた間接に影響したる事。
 
(314)       五十七 石上私淑言の第三卷
 
 宣長の歌論の著として、歌學史上にも、また廣く我が國の評論史上にも、最も重んずべき著書の一つたる石上私淑言は、一般に世に行はれたるは、上下二册の刊本で、そを以て完成せるものと何人も思ひなし來つたところであるが、かつて本居清造氏より聞いて、本居長世氏所藏の、翁が自筆の續編を見るを得た。まことに學界の珍と稱すべければ、その大要を紹介しよう。
 この書、始めに石上私淑言卷三、舜庵本居宣長撰とあつて、文體編制なべて前の二卷に同じい。全編ほゞ前卷にあたる長さで、最後の頁に、問云反歌はいかに答云、として筆をおかれたのを見れば、なほ書き續けようといふ志があつて、筆をおかれたものゝ如くである。
 所論は、既刊本下卷が、歌と道徳との關係を説き、法師の戀の歌よむいはれを述べ、翁が歌論の中心思想を一わたり説き終つた後をうけて、まづ、古今集や紀氏新撰等の序に、和歌は教誡の瑞なるよし記せることについて、かくの如きは筆者が儒意をまなんで記せるので、まことの歌の本旨にあらざることをいひ、さらば歌は世に益なきかといふに答へて、歌にも體(315)用あり、歌の本體はたゞ物のあはれなることを詠み出づるより外なし、たとその用として、第一には、心につもりて堪へがたき思を慰さめ、第二には人情を養ひ人情を解せしむる等の功徳あり、とした。つゞいて、詩歌の優劣に就いて、例の歌の自らなるは詩のさかしらなるにまさるといひ、歌をまことに知るには、人の詠めるを讀むのみにては足らず、自ら詠まざるべからざることをいひ、轉じて眞情を尊とぶといふとも、もとより歌は平語ならず、物のあはれを深くもいひあらはして人をして感ぜしめむが爲に、文《あや》の必要なるをいひ、詞に調に美しきをむねとすべしとし、この見地からして、今言よりは古への雅言を尊び、また古人の情を學ぶべきをいひ、古へに重きをおくが決して歌を狹くするにあらざるを説いて居る。
 次に一歩進んで、歌には詞意いづれが重んずべきやといふ問題に立入りて、あくまでも主情説の立場より、歌に於いては詞を先とすべしといひ、古來の花實説に言及して、「花さかで實のなることはなきものなれば、實をえうするにつきても先づ花をこそ咲かすべきものなりけれ」と言うた。
 それから轉じて古今集序の六義説を非難し、歌の本來五句三十一字に定まつた理を歴史上より説明し、五言七言のとゝのへることを明らかにし、長歌短歌に就いて述べ、最後に前述(316)の如く反歌の問に入りて終つて居る。
 要するに、その説くところの主意は、既に既刊の二册及び源氏玉のをぐしの總論等に反覆とかれたるところで、特に新しいところはないが、文學上もしくは歌學上興味ふかい個々の問題に就いて、例の周密なる翁の意見を聞き得るのはまことに本書の賜といふべきである。それにつけても反歌に關する問を終りとして筆をおかれたのは、惜しむに餘りある。
 最後に、予がこの一卷を通讀して最も心にとまつた二個所、即ち翁が學問を重んじ道を重んずる例の精神から、先哲の説に對して忌憚なき批評を加へた一節と、歌に技巧の重んずべきこと、また心よりは寧ろ詞を先とすべきことを説いて、歌の藝術的性質を明らかにした所論とを引用しておかう。
 第一、古今序をひいて翁の説を難ぜむとするに答へた一節、及び後段の古今序を難じた一節に曰く、
  すべて先達のいひ置かれたる事とだにいへば、よきもあしきもわきまへずみだりに信じ、少しはいかにぞや見ゆる事をも、猶あるやう有るべし、うきたる事はよもあらじと思ひ、又心には誤と見ながらも、先達をもどきては人の信ずまじき事を憚かりて、かへりて其誤を飾り、あらぬことわりなつけて、猶よきにいひなしなどする事常のならひなれど、そは先達をのみ大事に思ひて、道をば何とも思はず、たとひ道の心はたがひて、あらぬ事になりゆきてもかへり(317)見ず、ひたすら先達をよきものになしはてむとするものにて、大きにいはれぬ事、道の爲は更にもいはず、その先達の爲にも中々心うきわざ也。よき人はみづからの名よりも、道を大事におぼすべければ、ひが事を見つけたらんには、憚からず改めたゞして、道の心ばへのたがはぬやうにせむをこそ、先達も喜び給ふべけれ。世の歌人のやぅに、道にそむく事をば思はで、只先達にたがはざらむとのみするは、かへりてその先達の心にもかなはざるべきことぞかし。又古への哥仙に誤はあらじといふも大きにおろかなる事ぞ。人麿貫之とても神ほとけにあらねば、ひがことなかるべきにあらず。
  此事は前にもいへるぞかし、まづ哥仙の説ならむからに、已にひがことはあらじと固く思ふ事いと愚なり、貫之とてひが事なかるべきにあらず。されば人の國には、古への人のいへる事も誤あれば憚かることなく、幾度も更に考へて、後の世によき説の出でくること多し。人かしこくて學問をよくする故なり。吾御國は、さこそいへ上つ代のおほどかなりし人心の浪殘にて、猶もの學ぶに精しからず、かやうの心ばへなどをとかくさだめ置きたるも、今みればいと淺々しくはかなき事のみ多かめり。さて後に其よきあしきをわきまへて、立かへり深く考へ直さんとする人もなく、唯書き説《サダメ》をのみひたみちに信じて、わろき事をも猶あるやう有べしと思ひ、又はそれを飾りつくろひてしひてよきにとりなし、あるは心得ぬ事の打まじりたるなどをば、中々に秘事などとてえもいはぬことにいひなしなどする、いとめざましきわざ也。されば一たびあらぬさまに誤まりぬる事は、正しき方に立かへるべきよしなければ、道は年月に添へてたゞ暗くのみなりもてゆく、いと悲しきわざにはあらずや。然るに今四方の海波靜かに吹く風の騷ぎなき御世にて、下が下迄さはる方なく、心のどかに何わざも習ひ學びつゝ、古へにもまさりて萬の道の榮ゆく折からなれば、古き書をよく見てその心ばへを深く考ふれば、古へ人のいひ置きし事のよきあしきも、いとよくわかるる事なるを、猶|ー《ヒト》やうに先達の言をのみ信じて、まことのさまをば深く尋ねむ物とも思ひたらぬは、いと口惜しくいふかひなく、道(318)の爲もいと心うきわざになむ。
 第二、一つは、「歌は心に思ひ餘る事をよみ出づるこそほいならめ、今の世のやうに更に思ひもかけぬ事を心も詞もいたく飾りてえんによみなすは、みな僞りにて些かも眞なければ、更に用なき事にはあらずや」といふに答へて、
  もとのやうを尋ぬれば、たゞ心にあはれと思ふ事をいひのぶるが哥なれど、それもたゞの詞のやうにみだりにいひつゞくる物にはあらず。必ことばに文《アヤ》をなして、ほどよく詠《ナガ》め出づるを歌とはいふ也。そはわざとたくむとしもなけれど、あはれと思ふ事の深き時は、おのづからながめいづる詞に文《アヤ》はあるものにて、其詞のあやありうるはしきによりて、深き情《コヽロ》もあらはるゝ故に、それをきく神も人もあはれとは思ふぞかし。さればあはれと聞れむ事を思へば、よき歌を詠まむとする故に、世のくだるにしたがひていよ/\心をも詞をも飾るにつけては、おのづから僞りも多くなりて、遂には心に思はぬ事をも詠む事にはなれるぞかし。其故は昔今と世の移り變るにつけては、人の情《コヽロ》も詞もしわざも、共に變りもてゆく事多きを、歌はたゞ心に思ふ筋をいひのぶる物ぞとて、今の人の心を今の詞もて、ありのまゝに詠みたらむは、今の世に賤の女童べの謠ふ小歌はやり歌などいふ物のさまにて、いといやしくきたなき歌なるぺし。さやうならむはたとひ實《まこと》の情《コヽロ》よりよみ出でたりとも、よも神も人もあはれとはきかじ。きれば後の世のいやしき心詞にては、よき歌はよみいでがたき故に、古へのみやびやかなる心詞を學びならふによりて、今思ふとたがふ事も多ければ、おのづから僞りごとになりぬるやうなれど、もとより歌は詞をほどよくとゝのふる道なれば、後の世には必かくなりゆく可きおのづからのことわり也。
 二つは、「意も言も共に古へのをまねびていづ方も雅びやかならむ事を求むる中にも、まづ(319)意をむねとすべきか、又詞を先とせむか」といへるに答へた一節、
  意も詞も共にみやびやかにとゝのへて、ひたすら俗《イヤシ》きをばえりすつべき事也。其中に詞のいやしきは知りやすく、意のいやしきはわかれがたき物にて、近き世の歌にはそれが多く見ゆる也。さるは無下にいやしき事を詠むにもあらざれど、たゞの言にいひてはえんなることの、歌によみてわろきがある也。其大むねをいはゞ、まづ人のしわざなどを、あまりくはしくこまやかに詠みとらむとすれば、必くだ/\しくいやしき事のある也。なほ其外も古への歌共をよく見て味ひ知るべし。さるを其わきまへなくてひたふるに珍らかなるさまをよみ出でむとする故に、ともすればかの俗き意のまじるぞかし。いかに珍らかなりとも、意のいやしからんはいとわろき歌也。されば後の世のむげにいやしき事はさる物にて、古への雅事《ミヤヒコト》の中にも、歌にはいやしく聞ゆる事のあるを、よくわきまへしりて擇すつべし。大かた意をみやびやかによまむとするには、此けぢめを知るをむねとすべし。然るに中頃よりこなた先達の意詞の中に意をむねとするにつきて教へらるゝやうは、たゞ詞をのみえんに飾りて詠むほどに、意のさだかならずおぼつかなく、あるは詞のほどよりは、意のさしも深からぬなどをぞ誡められたる。これも又さる事也。いかにみやびやかなればとても、何事とも心得がたからむはいとむとくなるべし。されどそは大方の人の上のこと也、中頃などのすぐれてめでたき歌には、意のいたくたしかにあらはにはあらぬも數多あめり。歌は底ひもなく深き心のあはれさを、たゞ一言二言にもながめ出づるわざにて、ほのかなる所にいひしらぬ味はこもるべき事なれば、すぐれたらん上はもとよりさりぬべき事也。さればかくれたる隈なく、ことわりあらはに聞ゆるをのみいみじき事にすめるは、猶二の町の事也かし。又詞はわきまへやすき故に、むげにいやしきはつかはぬ事にて、昔も今も雅言《ミヤヒ》のみなれど、これはた其中にもたゞの語と歌ことばのかはりあるを、近き世には其けぢめを知らでよめるも多し。よく心をつけてよきが上にもよき詞をえらぷべき事也。いさゝかもきたなき詞のまじりつれば、一首のさまこよなう劣るわざ也。さてこの意と詞と(320)は、昔よりとり/”\にさだめて、いづれをさきともいひがたき事なるが、まづ意をむねとせよといはむはげにと聞えて、誰も一わたりさも有ぬべき事と思ふべければ、今一たび思ふに、なほ歌は詞をさきとすべきわざになん有ける。其故は俗《イヤシ》き意を雅やかなる詞にはよみがたき物なれば、詞をだにも雅やかにとゝのふれば、おのづからいやしき意はまじらず、又意はさしも深からねど、詞のめでたきに引れては、あはれにすぐれたる歌つねに多かれど、詞わろくてよきはなき物也。さればいづれとなき中に、しひていはゞ猶詞をぞむねとはすべかりける。
 前者は以て翁の學問の精神を見るべく、後者はその精密なる學風を示すべきか。而してこの書が實に翁の青年期の作なるを思へば、吾人は古事記傳の著者たる翁が學問の由來するところ、決して淺からざりしを覺ゆるのである。
 
       五十八 久老と宣長
 
 同じく賀茂眞淵の門に出で、かつ其國をも同じうして、私交も相應に深かつたにも拘らず、荒木田久老は、とかくに宣長に對して反對的態度をとつた。思ふに久老は、學殖もふかく識見もあり、かつ年齡から言つても宣長と多くは違はず、かつ覇氣に富んだ人であつたところから、私かに相持して下らじとする余り、かゝる態度をとつたのであらう。久老が宣長に對する態度を伺ふべきものとしては、信濃漫録中の一節があるが、自分が最近に川喜田久太夫(321)氏から借り得た彼の書状は、私の音信だけにそを一層明瞭かつ露骨に示してゐて、久老の宣長觀を知る上に頗る面白いから、左に全文を掲げて見よう。
  盆前の御手帖相達し忝拜見致し候。殘暑難堪候處各樣御堅榮珍重奉存候。拙官依舊候。乍憚御休意可被下候。御詠草拜見則加墨愚意傍書いたし候て御返璧申候。宜長滞留中の儀委細被仰聞、且拙官行状の義御異見も被仰聞、御厚情の至千萬/\忝承伏致し候。何を申も天性に而御座候得ば如何共難致候。先づ宣長が出題嵯峨の松と申は風致無之題にて御詠かね被成候趣、官家の御歌をはじめ一つもをかしきふしは無之おぼえ候。この出題にて宣長が歌の下手或るは被仰下候趣に相違無御座候。發足後段々不評判の由も林寛哉橘泰などより追々承知氣毒いたし候。此地にても撞璧論と申書追々出來致し候。出來次第出版との事に而愚考尋來候。そも/\其書名は、宣長が書ける書、以玉名づけしが多く候故、玉を破碎く意にて、玉あられ玉かつま玉のをぐしをはじめ後釋の類に至るまで、正しき證あるひが言を拔擧て論じ候との事に御座候。此間或若人來りて問候は、神樂歌の霜やたびおけどかはらぬ榊葉の立榮ゆべき神のきねかもといふ歌、宣長が説に、神の木といふ言にて根はそへ言、羽をはね屋を屋根といふに同じと遠鏡にも大祓後釋にも相見え候。然るに古今六帖の貫之歌に、榊葉のときはにしあればながけくに命たもてる神のきねかも、又、足引の山の榊のときはなる陰に榮ゆる神のきねかも、と有之候。是等神の木としては更に當らず覺え候。宣長が説はひが言かと存候。御考あらば承度候と申候。已答へけるは、よくも問ひ給ひし。宣長は皇朝學におきては魁たる者に候得共近き年頃は老くれ候故か、又は天の下におのれに勝れる者なしと思ひ誇れる故か、かゝる臆斷ひが言多く候。されども天の下の古學の徒、宣長がいへる言としいへばすべて金玉としてもてはやし、巳等が説に當れる事有るをも、奇説或は僻説といひけちて、其善惡をも考ふる者なし。宜長に從へる彼十哲の徒、被仰下候如くいと/\愚也。宜長はよく愚をいざなひて天の下に名を得し者也。是實に豪傑といふべく候。親鸞日蓮が愚者をいざなひて法を説きひろめし如く、(322)皇朝學は宣長に興りて天の下に廣ごりたたれど、其學する愚者共の、宣長が廓内に取込られて其廓を出づる事能はず。故、皇朝學は宣長に興りて宣長に廢るものといふべし。可惜可歎候。終るにそこの此間を承るは、やがてかの廓を出で給ふものと存候得ば、大慶至極に存候故、無隔意愚考申候はむ。ききに門人西村重波と申す者、宣長が説をいぶかりて、城根《キネ》なるべしといへり。此説も貫之歌に證するに五十歩百歩の論にていふにたらず候。故、考へおけるは、延喜祝詞に神主祝部六《カミヌシハフリムツ》の御縣《ミアカタ》の刀禰等《トネラ》云々とある刀禰は、公役をつとめながら官位なき者なれば、外之部《トノベ》の意なるべし。【ノベの反ネなり】又うねめは内之部女《ウノベメ》。然らば、きねは神之部《カミノベ》なり。【カミの反キかみを約めて キといふ言古言に例多し】延喜神祇官式に神部何人とあるを、舊くかんとも何人と訓來れれど部をともとよむ例なし。必キネ何人とよむべき也。神に奉仕る者の惣稱也。かく見る時は貫之歌のきねも、後の歌に、神祭る卯月のきねとよめるも、きねが鼓の云々とよめるも、皆明らかなるにあらずや。又萬葉卷十三に、いぐしたて御酒座奉神主部之《ミワスヱマツルカミヌシノ》うずの玉かげ見ればともしも、とある神主部を、かみぬしとよみては部の字あまれり。故《カレ》はふりべとよむべく思へど、神主祝部は職役異なれば、神主と書きてはふりとよむべき理なし。是も主は之の誤字にてきねと訓むべし。然る時は、上をいぐしたて【くしは酒の古名たては酒を造る言なるべし應神紀の歌にそのつゝみうすにたてゝうたひつゝかみけめかもとあるたてゝは同じ紀歌解に委しくいへり、】御酒座《ミモロヲスヱテ》【みもろは味酒の事萬葉に吾やとにみもろをたてゝとあるに同じ】奉神之部之《マツルキネガ》云々とよむべし。是又巳が説の寄僻なる歟、宣長が説の金玉なるかといへば、彼若人拍手てよろこぼひ、承伏しぬとて去ぬ。この諭もかの撞璧論に書載すとの事に御座候。右にも申候通、愚者は宣長にいざなはるとも、智者はいざなはれじ。右にかの廓を出でずと申候は、たとへば宣長が言に、文字あまりの歌は、あいうおのこゑにあまりて、あいうおのこゑなき文字あまりは調はざるよしいへり。されど人麿の歌にも、あいうおなき文字あまり多し。また後撰集にも、あいうおなき文字あまりあり。たま/\古今集になきのみ也。然るを、寂蓮西行はこの格ををかすといへれど、かの廓を出でて見る時は、寂蓮西行は人麿に准據し、後撰にならふものにて、宜長が言は一家言といふべし。是等の論御高評承度候。巳が(323)放蕩を以て忌避候者は、古學執心なきもの歟、又は愚人かと存候。さる者は寄來ずとも何のいたき事かあらむ。宣長逗留中多く寄集し輩も、皆眞心に學するものにあらず。宣長發足後段々不評判なるは京師の人情也。己その情を知りて、去年京師逗留中、他行の札を張置しはこれが故也。宣長は學者にて律義者なり。己は放蕩にて中々京師の薄情には欺むかれず候。こゝをもて京師人は彌にくみ可申歟。いかに申すとも更に厭ひ不申候。併御深切に被仰下候趣は承伏いたし候。先頃豐前中津の書生重名と申す者あり候て申候は、此度江戸へ罷越候而千蔭春海にも出會仕候處、貴翁の萬葉を解き給ふはうがち過候而奇僻に落候と申候。宣長が説の如く穩に而有たきよし申候との事故、巳申候はさるは江戸のみならず京師にも浪花にもいふ言也。皆萬葉を釋得る事あたはず、巳が學才なきゆゑ、たゞおだやかならむといへるは愚の至り也。然らば學問は無益の事也。古人の言を守りをるにしく事なし。已《スデ》に加茂翁舊説をすてゝ新説を立てられしは奇僻にあらずや。口には加茂翁を尊信しながら、かかるひが言いひをるはいかに。蒿蹊が徒もしかのみいへり。すべて都會の學者、口腹の爲に虚名を賣ひろめて學才なく、己が考とては一つもなき故、他のよき考有るを妬みていひけつもの也。さるえせ人の言論にたらず、舊説によりておだやかならんといへど、こもまくら高《タカ》云々、燒太刀のへつかふ妹、たくぶすま白山風等の枕言葉、舊説に枕の高き、太刀の鞘を隔つ、栲《タク》ぶすま白きとかゝれりといへど、然らば手枕にても木枕にても高きといふべく、劔太刀或は太刀の鞘へだつといふべく、栲穗《タヘノホ》或は栲《タク》づぬの白きといふべければ、薦《コモ》といふ言も、燒《ヤク》といふ言も、ふすまといふ言も皆無益の言となれり。古へといへどもさる無益の言をいふべきにあらず。是等愚考ありて萬葉四の卷別記に擧げたり。かゝれば舊説とても執しがたきが多き也。今の世古學は盛に行はれながら、この萬葉を委しくする人のなきはいかに。是全く巳より考へ出むものと思はねばなるべし。己淺識管見といへども、萬葉一部におきては天の下に己が右に出づる者誰かはある。そこもえせ人のひが言に迷はされずて、われより能く考給ひねと申遣し候。猶申度事數多に候得共、人聞を憚候而申殘し候。此書とても御覽後(324)早々御火中可被下候。御兩君萬事御深切に被仰下候に付所存無隔意申上候。草々頓首。
 七月十六日          宇治五十槻久於喩
     御薗主計助樣
     世古帶刀樣貴答
  再白。此節二七に萬葉十五の卷、四九に土佐日記釋申候。十五卷の、しかのあまのほつ手のうらへをかたやきてと申す言、舊説に卜の事とすれど、うらへをとあれば、うらべかたやきといふとは同じからず。をの手仁波あるからは、さる意にはあらじかし。新考あり。世の萬葉をとなふる輩眼ありて眼なきに似たり。集中に正しき證あることをもすべて、見過してあらぬひが言をのみいひをるこそうれはしけれ。
  三白。宣長が説に、藤原宮造役民のよめる歌は、田上川より流し來れる木を難波の海へ出し、紀の川へ引入て巨勢より持運びて泉川にて筏につくり、藤原の宮へのぼす事といへるは、地理にくらし。紀の川は西南にありて巨勢は今の竹内越よりは遙に南にあり。泉川は山城國にて北東にあり。藤原の宮はこの中らにあり。然るに藤原の宮へ運び送る材木を、その藤原の宮を打過て何の爲に泉川まで持行くにや。いと/\おぼつかなし。若御勸考あらば承度し。
  四白。貴境に近頃古本土佐日記出候由承及候に付、菅緒方へ兩度申し遣候得共、何の返事も無之候。如何いたし候事哉。かの者も京師心歟、愚人にいざなはれしか、急々御せめ被下候而御下し可被下候。その古本には音便なきとの事、是己が考に當れり。古言をあやまり假名をあやまるも、皆音便よりの事にて有之候。音便並濁音は後撰の頃迄も無之事と存候。近頃龍麿とかいふ田舍者、假名の事を彼是申候。その考全く己より出たる考にては無之、宣長が説によりて其説に叶はぬは不正とし、其説に叶へるを正しとしたるものに候。古への假名にも悉くわかちあるよし申候。是も甚偏論にて御座候。譬へば紀の字は城の假名に用ひて、垣のきには用ひずなど申す類にて候。能考へ見候に、紀(325)の字城の義ならぬ所にもあまた用ひ候例有之候。是等も本文に申候通り、彼廓内を出です、己より考へ見申す力なく、宣長が説を尊信して、それを鑑として古へを強ひ候事に候。愚人のわざいふにたらず候。兼て常言ぬしへ御頼申置候清濁論、急に御校正可被下候。早く出版いたし度候。手仁遠波にも近頃大きに僻論有之候。是も宣長が變格といひしは、彼龍麿が不正といひしと同論と被存候。萬葉中の手仁波を悉く引出して明らめ申さんと存候得共、未だ其暇なく候。御考可被成候。かにもかくにも宣長が廓内に取込られぬが當時の學問かと被存候。
  五白。廣海が作りし蟹胥も彌出版の積りにて序文いたし遣候。入御覺候。其餘大橋逸水が鼎玄録の序御評承り度候。
  六白。宣長は前々より申上候通、己が學の兄に候得ば、在世中は一言も申すまじくと存じ含罷在候得共、無御隔意被仰聞候により所存白地に申上候。必々御他見御無用に御坐候。以上。
 例の覇氣のあまり、奇矯に流れたきらひはあるが、宣長を豪傑といひ、親鸞日蓮にたとへ、皇朝學は宣長におこりて宣長にすたると言つたのは、當時の宣長の聲望と、鈴屋門下の學風とを最もよく伺ふに足る興味ふかい文字である。かつ又宣長が京都逗留中のことについて記したものも、裏面史的の一小資料である。
 この事状は、享和元年、宣長が晩年京都から歸つた後のものである。これは文中に見えた蟹胥の序の年代及び其他によつてわかる。久老が宣長を攻撃しだしたのは、多分宣長晩年のこととおぼしく、はじめのうちは寧ろ覇者の親交を證明する材料が多い。思ふに宣長の晩年に宣長の名聲が益々あがつて、鈴門の學風が世を風靡すると共に、徒らに盲從的となつて來(326)たのを、例の氣象から憤慨した余り、愈々かゝる態度をとるに至つたものであらう。
 
       五十九 大平の宣長觀
 
 この程(大正四年六月)數年ぶりで故郷へ歸つたに就いて、松坂に行つて友人の堀内鶴雄君を訪問した。談話が鈴門の諸歌人諸學者の上に及んだ時、堀内君は所藏の伊勢人の學者の筆になれる斷片數十葉を示して、いづれでも望むところのものを贈らうと言はれた。好意のまゝに選びとつたのが、寫眞版にして掲載したこの二葉である。
 一覽してわかる如く、これは宣長の學問の系統や著書等について、大平が圖解的に記したものである。左邊に記した「安守兄御一笑に所圖也大平」のうちの安守といふのは、宣長の門人で、矢張松阪の人なる殿村安守である。
 この圖はかく戯れに、しかも反故の裏に記されたものであるが、精しく讀んで見ると、頗る興味あり、かつ學問上に有益なるものである。
 殊に、先輩として、西山公、堀景山、契沖を數へたのは、宣長が學問上の系統を明示してゐる。父主念佛者のマメ心、母刀自遠き慮りの二つを擧げたのは、宣長の人格の淵源をよく
(327)〔恩頼と題された図有り、省略〕
(328)語つてゐる。更に左邊に記したうち、眞淵は言ふ迄もないが、紫式部定家頓阿をあげたのは、宣長が歌風、歌論、文學思想等の由來をよく説明してゐる。而して更に孔子、徂徠、太宰、東涯、垂加等を擧げたのは國文學上の古學に於ける漢學の影響を無視しようとしてゐる後の國學者流の偏見とは全く撰を異にしたもので、壯年京都に留學して景山のもとに學び、漢學上の著書なども相應に捗獵した宣長の學風をよく説明してゐる。
 下方に記されたものを見ると、古事記傳を中心として書かれた書物も、よく宣長の著書の主なものを網羅してをるし、門弟等の名も、所謂直門の人々及び血統の人々を陣してゐる。殊に面白いのは、同じ歿後の門人でも、信友は圏内に入れたに對して、篤胤は之をその外に出したことである。
 大平は人物として篤實朴素の人だけに、宣長の學問はありのまゝに繼承し得た。この事は大平の著書を讀んで吾人の感じてをつた所であるが、今この表を見て、吾人は彼がそれのみならず、更に宣長の學問、隨つてその由來をも最も公平に了解した人であつたことを知り得るのである。
 この圖はいはゞ一片の戯圖であるが、かくの如く考へて來ると、文學資料として頗る貴重(329)なものであると思ふので、一言解説した次第である。
 
       六十 村田春海の歌風及び歌論
 
 關東の平野の一方に聳えて居る筑波の山は、富士の崇高なる趣は無く、妙義の奇拔なるところは無いが、萬葉歌人が所謂「二並」のなだらかな姿で、野末に紫に匂つてゐる。其さまいかにも優美で、關東平野の花の觀をなして居る。かの千蔭春海の兩歌人が、その優麗な歌風を以て、江戸の文壇を飾つて居た位置は、さながらこの二並の筑波の山にたぐふべきものであると思ふ。今年(明治四十三年)は、其一人なる村田春海の没後百年に當るので、その紀念講演會が、來る三月十二日、文科大學國文談話會に於いて催さるゝ事は、自分の喜ばしく思ふ所である。此機に際して、自分も、彼に就いて感じたことを、一言述べて見ようと思ふ。
 本居宣長一派の學者は暫く措く。縣門に出でた諸歌人に就いて見るに、そは大別して、二派に分れて居ると言へる。その一つは、田安宗武、揖取魚彦、荒木田久者を以て代表せらるべき一派で、他の一つは加藤千蔭、村田春海を以て代表せらるべき一派である。前者の歌風は、格調雄健なる萬葉風で、後者の歌風は、古今風に新古今を加味した、優麗なる風である。(330)而して後者は、特に江戸派歌人として、眞淵歿後の江戸の歌壇を風靡した。兩派の歌人に就いて見るに、古風家の一派中には、特に自己の歌論をたてゝ遺した人は無いが、後者の春海は、此間に歌論數種を著した。千蔭にもあつたが、極めて零碎なるものである。眞淵門下の歌人中、歌論家として擧げれば、宣長を除いてはこの春海である。蓋し春海は、漢學の素養ふかく、學識に富み、かつ國文に於いては殊に一家をなして居たので、自ら好んで歌論の著をもなすに至つたのであらう。以下、春海が歌人として縣門に於ける地位を考へ、合せて彼の歌論に及ばうと思ふ。
 春海の歌集琴後集に、千鳥を詠じた歌で、
 「沖つ風雲井に吹きて」有明の月に亂るゝむら千鳥かな
といふ歌がある。これを、眞淵の歌で有名なる、
  夕されば海上瀉の「沖つ風雲井に吹きて」千鳥鳴くなり
と合せ誦して見ると、他の巨細の比較をするまでもなく、既にこの二首に、眞淵と彼との歌風の差が明らかに見えて居る。この兩首、ともに千鳥を詠じ、しかもおそらく偶然にも、共に「沖つ風雲井に吹きて」といふ句を詠みこんでゐる。この二句だけとり離して見ると、ど(331)ちらかと言へば、優美といふよりも、むしろ雄大な句であるが、春海に於いては、三句以下の繪のやうな景色によつて、優美化せられて、全體として美しい歌となつて居る。眞淵に於いては、一二句の大きい歌ひだし、五句のしつかりしたとぢめと相和して、全體として雄々しい歌となつて居る。同じ「沖つ風雲井にふきて」の句を用ゐて、かゝる歌風の差をなしてゐる所、こゝに實に兩歌人の歌風の差は、明瞭に現はれて居る。
 眞淵と春海との歌風の差は、こゝに存してゐる。さらば春海が、眞淵の門下に出でて、自らかかる歌風を詠んだのは、どういふ意義があるか。こゝを考へて見ねばならぬ。これ即ち、彼自らの歌論によつて伺がふべきことである。春海の歌論の著には、「歌がたり」、及び稻掛大平と歌を論じた書翰二編を主なるものとして、外に千蔭と共に香川景樹の歌を難じた「筆のさが」の一卷、及び蘆菴の門人小川布淑がそれをうつたにつけて再駁した、「雪岡禅師に與ふる書」等がある。蓋しかかる「人に與へて論ずる書」の彼にあるのも、自ら漢學の影響であらう。かつこれらの書、いづれもその文詞、優雅にして自在、さすがに能文家たる彼の面目を示して居る。
 これらの著書によつて見ると、彼は、特にその師眞淵の、契沖春滿等諸先輩のなしたところ(332)以上に出でて、ひとり古學をひらいたのみならず、古歌の精神を理解し、古歌の風を自ら詠みひらいた點に重きを置いて説き、こゝにこそ眞淵の偉なる所はあるとしてゐる。――即ち、眞淵の本義を、歌人たる所にあるとしたもので、彼は此點に於いて、本居派と爭つて居る。而してそれと共に、眞淵か崇んだ古歌の精神を同樣に崇び、眞淵が理想とした古歌の歌風を同樣に理想として居る。これ明らかに彼が説いて居る所である。然るに、それとともに、彼は古へを崇ぶと言つたとて、耳どほい古語古調を眞似るのはよくない。古歌の自らなる精神をこそ學ぶべけれ。いたづらに古語古調に因へらるることなく、優美なる詞、なだらかなる調、僞はらざる自らの趣味感情を主として、其間に自己の境地を詠みひらくべきである。かくありてこそ、始めて自分の歌である、といひ、かくいふとともに自ら崇古の立場をすべり出て、萬葉風よりは古今風を理想とするに至り、否、實際に於いては、更に新古今風をも加味した歌風をなすに至つて居る。それとともに、一派から、彼の詠ずる所は眞淵の風と違つてゐるでは無いか、といふ非難に對しては、彼はかう答へてゐる。抑も、眞淵の歌に對する理想には、三期の變遷がある。第一期は、五十以前の頃で、まだ古へ振など唱へなかつた時代。第二期は、五十を過ぎてから、六十餘歳頃迄で、始めて古歌の美を眞に認めた時代。第(333)三期は、崇古の極端に走つて、萬葉をもなほ末なりとして、その以前を願つた時代、これは晩年である。この三期のうち、眞淵の歌に對する思想の本義は、第二期にあるので、第二期に於いて、眞淵が主張した古へとは、大方に廣く古へをさしたもので、いづれの時など、狹く限つたものでは無い。たゞ古人の雅びかにまことなる心ばへと、ゆるやかにのどかなる姿詞を學ぶべしといふことで、時代でいへば、おほらかに花山一條の時までの歌風をさすのである。その以後になると、この「古へぶり」の美は失はれて來て、全く卑しいものとなつて居る。眞淵の古へぶりの意味は、かうである。それ故に、古歌の精神を精神として、耳遠き古語古調に囚はるゝことなく、世々に應じた姿、わが好むところに協つた風を詠み出づるこそ、眞に眞淵の志をうけたものである云々と。これ彼の考の大要である。斯くの如き考を抱いた彼の歌風が、上記の如き性質をもつてゐるのは、自然の數である。
 春海が「古へ振」の思想は、歌論としては、當時なか/\進歩した考であるが、眞淵の歌論そのものゝ解釋としては、これを公平に觀れば、どうも自分の好むところに引き付けた傾向を免かれぬ。眞淵の歌論の主旨は、春海が解したやうな廣い意味で古へを主張したのでは無く、どこまでも、萬葉もしくはその以前にまで遡つて、古意、古調、古語を主張したもので(334)ある。こは眞淵自らの言に明らかに現はれ、眞淵自らの歌に確かに證據だてられてゐる。彼の歌論歌風に、春海の言つた如き變遷がありとしても、その主旨のこゝにあることは、疑ふべからぬ。この點は、一方には春海彼自らも、彼の歌論に於いて現に認めざるを得なかつたので、上に述べた如く、彼は、古歌やがて萬葉集の歌の精神を理解し主張した點に於いて、眞淵の功績を認めて、たゝへて居る。その思想のうちには、確かにこの眞淵の歌學思想の主旨を承認して、之をたゝへ、又その他彼の歌論の著、殊に「歌がたり」の中には、明らかにこの點に於いて、真淵の主旨を認め、かつこれを祖述してゐる。かくて彼の歌論は、こゝにその「古へ」の思想に於いて、矛盾してゐる觀さへある。
 さらば眞淵の門に出でて、自ら眞淵を繼承せりと考へ、歌人としての眞淵の本義を明らかにしようとした彼が、その歌論に、またその實際の歌風に於いて、かくの如き眞淵に對する差をなして來た理由は、どこにあるかと言ふに、これには、固よりまづ彼自らの趣味好尚といふものも、主なる原因をなして居よう。それとともに、江戸に生れ、當時の江戸の社會の風潮に影響せられた點もあらう。また、眞淵が復古的思想の反動といふ意味に於いて、自ら當時歌壇の一方に漸う勢力を有して來た蘆菴及び景樹一派の思想に影響せられ、相共通してを(335)つたこともあらう。が、それらは暫く別として、從來看過された歌學史上殊に興味ある他の一つの點は、同門の先輩にして眞淵の爲には弟子であつて、また友であつた加藤枝直の影響といふことである。
 枝直と彼との關係は、千蔭を通じて特に認められる。千蔭は言ふまでもなく春海とは同功一體の歌人で、その歌風に於いて、またその歌論に於いて、ともに同規道にあつて、互に影響しあつた同門の友人である。千蔭春海と相並べられて、互に決して離すべからざる關係にある。而して枝直は、實に千蔭の父として、千蔭を薫育し、眞淵とともに、否むしろ眞淵より一層大いに彼千蔭に影響を與へた人である。而して枝直は、それのみならず、彼春海ともまた交りがあつて、千蔭を通じて間接に彼に影響したのみならず、直接にも影響を與へて居ることは、たしかである。現に枝直の歌集「あづまうた」には、春海が序を記して、欣慕の意を述べて居る。さてこの枝直に就ては、從來餘り多く注意せられなかつたが、彼は眞淵に就く以前に於いて、已に一家の見を持して居つて、學に於いてまた識に於いて、眞淵もたしかに敬服して居つた。而して彼が歌に對する意見は如何といふに、即ち萬葉よりは、むしろ古今の歌風を、國風の純粹とし、理想としたもので、その詠み出でた歌、また優美なる風で(336)ある。彼の影響、彼の教育が、自ら千蔭をして、「うけらが花」一編の歌風あらしめたので、やがて縣門に於ける一流派の源となつて、所謂江戸派をなさしむるにいたり、春海またこの潮流をうけて、彼の如き歌論をなすに至つたことは、否定すべからざることと思ふ。
 最後に、春海について、特に注意すべき一つの點を述べざるを得ぬ。そは即ち彼が長歌を推重せしことと、彼の長歌の作歌に於けるすぐれたる伎倆とである。彼は、「歌がたり」中に、長歌に對する意見を述べて、短歌は已に古來多くの歌人も出で詠みふるされて居る、これから新らしい歌人が出で、新らしい境地をひらくには、長歌であるといひ、長歌には、三つの體がある。藤原奈良朝の體は上の品。古今の詞を交へて、よくその姿をとゝのへたのは中の品。詞を全く新しくし、古今集後のなだらかなのをえらび用ゐ、姿と勢とを古へに學ばむはその次で、三者いづれもよし。この三體に通じて、さて自分の體を詠み出だすべきである、と言つて居る。而して彼自らの作には、かの王昭君の長歌をはじめ、近代歌人の作中、秀逸とすべきものが少くない。長歌歌人としての彼の伎倆は、特に稱すべきものがある。而してその長歌たる、風格は之を萬葉に學んだが、その情趣や詞は、古今以後の風で、全く短歌と同じ優美なる彼一流の風をなして居る。
 
(337)       六十一 楫取魚彦の歌
 
 眞淵の門下は、和歌に於いては數流にわかれた。即ち、千蔭春海の風、宗武魚彦の風等である。千蔭春海の家集は夙く世に公けにせられた。宗武の家集天降言は予が家に藏して居たので、かつて續歌學全書の中に採録して、はじめて世の知るところとなつた。魚彦の歌は縣門遺稿に採録した安永五年六年の草稿と、香取四家集中のもののほか世に知られない。かつて大船楫取魚彦雜集といふ一卷を得て、續歌學全書に收めた。その後安永八年春雉歩宴歌と題する一卷を得た。されどこれらは彼の歌の小部分に屬するので、下總に遊んだ折、佐原なる魚彦の子孫の家を訪うて尋ねたが、別に得る所がなかつた。それは魚彦が江戸の濱町に住んで居て、江戸で火災にあうたため、故郷の佐原には何も殘つて居ぬといふことであつた。然るに、伊勢に旅行したをりに、萬葉竟宴歌集といふ一卷を見た。それは明和九年から安永四年にかけて萬葉の會讀を爲し、》そを竟へた折、萬葉中の人物を題目として、彼が自己をはじめ同人の作百四十五首をあつめたものである。然るに近き頃、松井簡治氏所藏の同書を見るを得たに、その終にあたつて、別に彼が自ら選んで記した四季戀雜八首の歌がある。そのうち(338)の四首は、予が未だ見るを得なかつたものであるが、他の四首はかねて予が彼の作中の秀逸として、國歌評釋、歌學論叢等に選べるものとさながらに一致して居る。わが歌を見る眼の、作者自らの見るところと違はなかつたことは、ひそかに喜び思ふところである。その選んだ歌は、
  皇のあもりましける日向なる高千種のたけやまづ霞むらむ
  水無月の中の十日の中ぞらにいともかしこき日のみ面かも
  天つ空吹と吹きぬる秋風にはしる雲あればたゆたふ雲あり (初二句家集には天の原吹きすさみたるとあり
  大君の東の海に出づる月もりてめづらむあだし國人
他の四首は、
  武士の臣のたけをら大雪をくゑはらゝかす馬の音きこゆ
  はゆまぢのはゆま馬やのはや馬のはやくぞ人をおもひそめつる
  朝よひにつかまつらんとなみたてる君が御まやの赤こま黒こま
  日出づるすめら皇國ゆ明けそめて千萬國に春わたるらし
 
(339)       六十二 歌人としての上田秋成
 
 上田秋成は、眞淵の門人なる加藤美樹に就いて歌を學んで、和歌に於いては、眞淵の系統を承けた萬葉歌人である。しかも彼の歌は、單に萬葉の風格を傳へたものとしてすぐれて居るのみならず、そのうちに、彼の特色ある人格が現されてゐて、興味が深い。その萬葉の風格を消化し、萬葉の語句を自由に使用した伎倆に於いて、その獨特の性質を發揮した點に於いて、彼の雄健高逸な歌風は、近世の歌人のうちでも特にすぐれてゐる。彼が當時、京都には、たゞこと歌の首唱者として有名な小澤蘆庵、件蒿蹊及び澄月、慈延の四歌人が名聲があつて、平安の四天王の名を博してゐた。蒿蹊は文章にすぐれて、歌はそれほどでない。澄月慈延は共に舊派に屬する。秋成の歌才は、蘆庵と并稱して、好個の對照をなす。蘆庵のたゞことうたは、古今風を祖述したもので、平明温雅である。秋成の雄健奇古なのと、その趣を異にしてゐる。而して兩者が、ともに當時の歌壇の二大歌風をなしてゐたことは、疑はれぬ。しかし秋成は狷介の性、人に容れられない爲め、當時にあつてはその力倆に相應する盛名をばかち得なかつた。後代彼の文章に於ける大才は頗る世に推賞せらるるに至つたが、彼(340)がかくの如き文才のうらには、古典に對する素養と、また歌才とがあつたことを忘れてはならぬ。
 彼はひとり、歌才にすぐれてをつたのみならず、歌論に於いても、彼一流の奇拔な卓見を有してゐた。例へば膽大小心録、癇癖談等の隨筆に於ける當時の歌人の批評には、例の痛快な罵倒がのつてゐる。その春雨物語の中には、海賊の言に托して、貫之を罵つて、歌に六義ありとの説を破してゐる。これらは彼の歌論の斷片とも見るべきもので、外に彼には惜しむべくも、一つのまとまつた歌論の著は傳はつて居らぬ。もし傳へたならば、そは必ず見るべきものがあつたと思はれる。その他、歌學に關しては、金砂及び金砂剰言がある。金砂は萬葉集中の長短歌を抄出し評釋したもので、その語釋の末に拘まないで、專ら歌の妙味を説かうとしたところに、その卓見が見える。ほかに、秋の雲といふ著がある。これは二十餘首の歌の批評で、奇才横溢して極めて面白いものである。要するに秋成は、歌才に於ても近世文壇の一大才で、その大なるは、なほ文章家として大なるに多く劣らぬ。雨月物語其他の作者として秋成を記憶する人は、彼が歌人としてもかく卓れた才であつたことを、忘れてはならぬ。彼の歌は、その歌文集、藤簍册子六卷中の半を占めて載つてゐる。今集中彼の歌風の特色を伺ふ(341)べきものを些かぬきいでて、未だ彼の和歌について知ること多からぬ人々の爲に、彼の歌風を紹介し、以てこの一小編のとぢめとする。
  吉野川岩のかけみち春ゆけばたぎつかふちに花ちりうかぶ
  大空をうちかたふけてふる雪に天の河原はあせにけむかも
  我を知る人しなければ我知らぬ人に見すべき言ぐさもなし
  鷹すゑてわくる野山にひく犬のさときは人に疎まれぞする
  風の上にたちまふ雲の行方なくあすのありかは明日ぞ定めむ
  我よりも貧しき人の世にもあればうばらからたち隙くゞるなり (庵にぬす人いりし朝の作)
 
       六十三 中臣由伎麿
 
 帝國大學國語研究室に、國史古歌集と稱する一編がある。中臣由伎麿といふ人の著である。さきにわが日本歌選を公けにした折、それを讀んで、その卓見に富める學者なることを知つたが、由伎麿てふ名は、未だ聞かざるところであつたので、單に眞淵學統以外の上古歌謠研究家の中に加へて置いた。其の後、井上頼圀博士所藏の古今集六義考を見るを得たに、同じ(342)き中臣由伎麿の著で、加藤美樹の門人と記してある。その六義考の説を見、また二書の文體を考へて、さては上田秋成が、例の性行からかゝる變名を用ゐたものでもあらうか(六義考の説が秋成の春雨物語の説にわたり、また秋成の鉗狂人の評に説くところが國史古歌集の説に似たるなどがある)と思ひ、日本歌學史のうちにもしか記しておいた。然るにその校正中、松井簡治氏の樂歌類經總目を見ることを得たに、その奥書に、中臣眞茂とある。その書の體裁の國史古歌集と全く同一なるよりして、眞茂が由伎磨の一名なることは疑ふべくもない。さては、秋成なりとのわが推測は全く誤れるので、別に中臣由伎麿、又ましげてふ一學者のあつたのてあると知つて、ずなはち、日本歌學史の補遺中に正誤しておいた。而してその眞茂の何人なるかは、未だ知るを得ざるところであるが、以上の三書、いづれも注意すべき、かりそめならぬ著で、しかも同年に成れるより見ても、なほ他に、著述ある人なることは明らかである。さほどの人なれば、いづれはまたこの言をも補ひつべき事實を發見するにいたるであらうことは疑ふべくもない。人こそ知らね、物學びするものの樂しびは、かゝる間にも求めらるるのである。
 
(343)     第十三章 香川景樹及び幕末歌人
 
       六十四 景樹の歌論の中心思想
 
 景樹の歌論の中心思想は、調といふ思想にある。調の論やがて景樹の歌論といふべきで、その思想に就いては、景樹はその歌論のいたる處に反覆丁寧に説いてゐる。その説明は、或は譬喩をとらへ、或は例證をあげ、或は正面から、或は側面から之を試みてゐる。しかもその要旨は、歌學提要の總論に記された、「今こゝに調べといふは、世に設けて整ふる調べにあらず、自ら出くる聲、同じ阿といひ耶といふも、喜びの聲はよろこび、悲しみの聲は悲しみと、他の耳にも分るゝをしばらく調べとはいふなり」といひ、更に進んで、「感應は專らこの音調にありて、理りにあらざる事を悟りて後、鶯蛙の聲も歌なりといはれたるを自得すべし」といへるに盡きてゐる。要するに、調といふのは人間の聲に自然に備つたもので、人爲とか理窟とかを超越した微妙の感じであるので、歌が人心を感ぜさせるのは、一にこの感じの力である。この感じをとらへ得ると否とが、歌と歌ならぬものとの境であるといふのである。こ(344)の調に就いて、或は心と詞との調和を説いたり、或は歌に重んずべきは語にあらで調であると説いたりする第二義の調論は、景樹の歌論の著に精粗さま/”\に論ぜられてゐるが、この第一義の調の説に至つては、幾百の説明も畢竟たゞ殆ど同じことを繰返すのみで、この以上には進んでをらぬ。
 しかもこはあながちに景樹を咎むべきでない。蓋しこの第一義の點に至つては、景樹にとつては實に言句を超越した悟入の境地であつて、説明以上の理である。されば彼は往々之を禅學の悟に比して論じてゐる。この教に對しては、吾人はその説明の不足を責めずして、むしろその境地を了解し味はねばならぬ。
 而してこの境地を了解し味はふが爲には、吾人は彼の歌論の著を讀み、殊に其うちに現はれた精神を了得するとともに、よく彼の歌風の精髓を解し、更に進んで、明瞭かつ徹底せる自覺を有して、當時の世に於いて歌人の貴き天職を信じた彼の人格の基調をとらへねばならぬ。彼が調の説も、要するにこの基調から來てゐる。この點に於いて、彼が調てふ自得は、詩歌の根本を道破した不朽の名言である。彼の歌論の力ある主張はこの自得の結果である。
 近世の大なる歌人にして、かねて最もすぐれた歌論家たる景樹の、以上の如き調の説を、(345)時にふれ事にのぞんで縱横に論じた歌論の書は、その數決して少くない。就中最も簡要を得かつ組織だつたのは歌學提要で、こは彼の説を門人内山眞弓が輯めたものである。しかもその精神の溌溂たるを見るべきは、彼が生前門人に答へて、機に臨んで筆を走らした隨所師説で、眞に才氣煥發、筆端雲を生ずる趣がある。更に古今集正義緒論に至つては、最も堂々として嚴正の態度を持してゐそ。終りに、新學異見は眞淵が新學に異をたてたもので、彼が攻撃の態度を見られる。しかも凡てこの種の作家的論客に見るが如く、彼の歌論の眞精神は、その批評でなくてその信念にある。新學異見の、幾分無理な攻撃の方面をたてにとつて、景樹の歌論の價値を疑ふものがあらば、そは眞に景樹を解する人でない。
 
       六十五 景樹の肖像
 
 かつて景樹の贈位の祭典が京都に催された時、ふりはへ入洛した翌日、京都圖書館長湯淺半月君を訪うて、この像を見た時以來、この像は自分の戀人であつた。隨つてその後數年を隔てて京に上つた時、君からこれを贈られた時の喜は、今に新たである。
 景樹の像には、五位の赤い袍を着たのや、六位の緑の衣をつけたのがある。しかし歌人と
(346)香川景樹肖像〔画像は省略〕
(347)しての彼の面目の最も現はれて居るのは、この像である。當時にあつて、歌人といふことを眞に自覺し、和歌を以て自己の生涯の天職と信じ、貧苦と戰ひ困難に堪へて、一意その志すところを貫いた彼の面目を傳ふるものとしては、それらの衣冠の像よりもこの袖無しを着た一老翁の像の方が親しみが切な心地がして、やせ衰へた中に確りした氣象のこもつて居るこの容貌を見ると、何物かを語らるゝ思がする。これ自分が特にこの像を喜ぶ所以である。
 この像は、傳によるに、景樹が世を去る少し前、松岡歸厚が、景樹の婿なる井上忠興にあとらへて畫かせたもの、顔だけは景樹が見て、度々かき改めたもので、景樹が本來の面目を知るに最もよきものである(彼の衣冠の像は後に出來たので、筆者も區々、容貌も修飾を加へた爲追々に變つていつた)とのことである。しかして忠興の紙にかいた粉本は、はやく井上通泰博士が得られて、その寫眞を同博士から得て、さきに續歌學全書にも掲げたことであつたが、そを畫き改めた絹本が二つあつて、一は即ちこれ、一は歸厚から鈴鹿連胤に贈つたので、今も鈴鹿家にある。
 
       六十六 橘守部の自傳とその著書
 
(348)          一
 
 學問の歴史的研究に隨ふものにとつて、第一に苦心を要する事は、事實の正確なる調査である。煩雜で有つて勞が多く、しかもその割にはえないにも拘はらず、これは凡ての學問的研究の基礎として、最も必要な事で有る。殊に一人の學者を研究するに就いて、その生歿の年月日、郷里、父母、師承、交友、その他大小さま/”\の事跡を明らかにする事は、微細な事だけに中々苦心を要する。發表された結果からいへば、わづか數字數行に過ぎないことの爲に、幾多の時間を費さねばならぬやうの事は、しば/\ある。之等の事は吾人の常に經驗する所である。
 近世の國學者間の偉人橘守部は、その學問界に於ける名聲と成績との尋常ならざるものが有つたにも狗はらず、その壯年の傳記に至つては、殆ど知られなかつた。例へば第一にその郷里についてさへ、單に北伊勢と云ふ事が傳へられたのみで、彼の父母はじめ一家に關する事も知られず、學歴なども不明で有つた。
 然るに、守部の家を嗣がれた文學土橋純一君によつて、守部の長女濱子の手になつたといふ守部の自傳「橘の昔がたり」が、わが心の華の誌上にて發表せられたのは、吾人の喜びに堪へないところで有る。この自傳は、遺憾にも、守部の壯年時迄で筆がとめてあるので、一(349)家をなした以後の事は知るを得ぬ。かつ又書き方に誇張的のあとが少なからず見える。之等の、史料として完全を許しがたい缺點は有るが、併し守部の傳のうちでも、從來最も研究の手掛りの少なかつた前半生の事跡が詳密に記されてあるので、守部の研究上に必要にしてかつ有益なる書たる事は言ふ迄もない。
 守部は、今更言ふ迄もなく、徳川時代に於ける國學者の巨人の一人で有る。殊にその神典古歌謠の解釋にあらはれた卓拔の學風、その歌格の研究にあらはれた精緻の學風、いづれも群を拔いて居る。殊に學説中に滿ち渡つてゐる獨創的の見識に至つては、まことに非凡と稱すべきもので、(勿論殊更に異を樹てむとするやうな形跡の有つた事は免かれ難い數で有つたが)本居宣長や伴信友等の穩健細微を旨とした學風と、好個の對照をなして居る。稜威道別、稜威言別をはじめ、萬葉墨繩、萬葉檜※[木+爪]、神樂催馬樂入綾、長歌短歌文章の三撰格等は、いづれもその卓拔の見識に成つた名著で有つて、守部が特殊の學才の結果として有する之等の著書に於ける暗示力は、長く後代の學者を益するであらう。
 守部の學問的功績を思ふにつけても、本書の發表せられて、その傳の一部分が明らかになつたことは、かへす/”\も喜ばしく思ふところで有る。(楠守部傳の後に
 
(350)          二
 
 家藏の萬葉摘翠抄一卷は守部が自筆の稿本で、文政元年三十八歳、彼が未だ庭萬侶と稱した頃の著述である。萬葉集中の短歌をぬき出して、一邊中無節格、第四句末而爲節格、第二句末切爲節格、又第二句末而爲節格、第三句末而爲節格等の諸格に分類したものである。未だ不備のものではあるが、後年の短歌撰格の源をなしたものとして、頗る注意するに足りる。いかなる研究にまれ、そを大成するは中々容易なことでない。出來上つた結果のみを見て、學者の苦心を察しない輕桃のいましむべきであることは、本書の吾人に教ふる教訓である。
 
       六十七 富士谷御杖の著書
 
 父成章の名におほはれて、御杖の眞價は世に認められざる傾がないではないが、彼が神道論に基せる歌學の、一種特色があつて、當時の歌學中、異彩を放つてゐることは、北邊髓脳、眞言辨、歌道非唯抄等の彼の著、これを證してあまりある。彼に萬葉燈、百人一首燈、土佐日記燈、古事記燈等の著がある。いづれも彼が特色ある學風のあらはれたるものである。外に神樂催馬樂燈あることは、かねて知つて居たが、之を見ることを得なかつたに、こたび藤(351)井準夫氏の藏書を借りて讀むことを得た。その零本にして未完の書なるは惜しむべきであるが、大旨に見えたる時代論の如き、かの北邊隨筆なる上古の歌の時代論とともに、彼の識見を見るべきものである。さるにても、難解にして興昧ある催馬樂に關する解釋を見るを得ぬのは、かへす/”\も遺憾である。彼の言靈表裏の説は、牽強のあとが無いでもないが、亦うがち得ておもしろいふしがある。殊に催馬樂に試みられたならば、かの守部が入綾の説と並んで、學者を益する卓見あるべきをと思はれるのである。
 
       六十八 塙保己一と歌學
 
 塙保己一は、寶磨九年十四歳にして萩原宗國の門に入り、初めて國學に志した。師なる宗固は百花庵と號し、鳥丸光榮、武者小路實陰、及び冷泉爲村等の堂上歌學の名流に學び、奮派の和歌に達した人で、歌に關する雜筆一葉抄、家集しのゝ葉草等の著がある。しかも宗固は固陋なる舊派氣質の人でなかつたものとおぼしく、明和六年保己一廿四歳の時、保己一に勸めて、當時の大家として聲名世を騷がした賀茂眞淵の門に入らしめた。保己一は縣門に入り、六國史などを學んだが、眞淵は同年の冬世を去つたので、親しく教をうけたこと半歳餘(352)りに過ぎなかつた。されば和歌に於いては、眞淵が古へぶりの風に化せらるゝまでには至らず、たヾ入門當時の歌に萬葉風を學んだものがあるのみ。學風に於いて、彼が眞淵に如何なる影響をうけたかは、著きものがないが、彼をして深く國學に思を潜むるに至らしむるに、縣門半箇年の就學が與かつて大なる影響あつたことは、想像するに難からぬ。もしそれ彼が類纂の學風に至つては、その律令を學んだ師なる山岡浚明に負ふところ多いものゝやうである。浚明は眞淵の門に出でた學者で、博覽をもて許された人。その著に示蒙抄一卷がある。國史、禮義、法令、記録、武備、詩文、和歌、釋門等に分類して、國史的文を學ぶべき人の必ず讀むべき書の名を擧げてある。彼の大著なる類聚名物考(三百四十二卷)亦此種の分類によつて、古書を拔抄考説してある。これ保己一が類纂の先蹤を爲せるものといふべきである。
 保己一には家集松山集がある。(吾人先に續歌學全書を編した折、近世名家々集に收めたいと思つて塙家に乞うたが、折から下卷の見えぬとのことで果さなかつたのは遺憾に堪へぬ。)其他彼の歌は、近代の類題集などに選び入れられしもの少なからぬ。その歌風は堂上風で、多く言ふに足らぬ。否、歌人としては保己一を評せむは、決して彼の志を得たものでない。彼は勿論學者であるのである。
(353) 保己一が、學者としての大事業は、正續群書類從の編輯で、この當時未曾有の叢書が、わが國學上に多大の貢献をなしたことは、今更に言ふまでもないところ。「群書類從にしてなかりせば」てふ想像は、容易にこの問題に答へ得べきである。吾人はこゝには我が歌學の方面に於いて、正續群書類從の功を述べよう。
 群書類從は、原則として、三卷以上の書を採らず、三卷以下の書を選び載せた。これ大部のものは比較的に散佚の恐尠ない故である。而してこはまことに至當なる用意として賞讃すべきものである。群書類從が蒐輯した和歌及び歌學に關する書は、分類中の多きを占めて居る。而して殊に、鎌倉以後足利時代等の典籍の傳はれるもの乏しき期間に屬せる書が、殆ど類從によつて一般の學問界に傳へられた觀をなすものが尠なからぬ。その例を擧げむに、正編二百八十九、九十卷に收めた拾遺集註、散木集註の如き、二百九十六卷の了俊の歌論に關する著、三百四卷五卷の心敬の著の如き、續編四百六十五卷の隆源口傳、同じく續編に附屬して早く梓行せられた和歌現在書目録の如き、いづれもこれである。就中、仁安元年の編著にして、歌學史料として色葉抄八雲御抄等に先立てる和歌現在書目録に至つては、他にはわづかに一本の寫本を水戸彰考館に藏せるを見たのみ。殆ど類從があつて初めて吾人に傳へらる(354)というても可い。他に百首歌合家集等の中にも、この種のものが尠なからぬ。
 保己一は、自己の學説をたてた人ではない。彼の學問は全然類纂的である。彼は編輯者にして、著者でない。然りといへども、これ決して彼の學問的事業の功績を小ならしむるものではない。研究の便宜今に比して遙かに乏しい當時にあつて、學問上貴重なる多くの古典を輯め、後代の學者の爲に研究の門戸を開いた彼の功は、萬世決して没すべからざるものである。吾人は彼が瞽人の身を以て學問上に樹てたこの不朽の功績に對しては、崇敬の念に堪へぬところである。
 而してその編纂飜刻たる、もとより十分の用意あつてなされたこととて、往々見るところの濫刻古人を誤るたぐひでない。編輯の類次校正等も、比較的精確で、かつ古書の選擇のよろしさを得たことは、前にも言ひ及んだところの如くである。しかも吾人にして深く研究してゆくまゝに、或は、徹書記物語と清巖茶話との、もと同書で上下なるを相別ちて正編續編に載せたる、近代秀歌と定家卿和歌式とは異名同書なるを、正編續編に重載せる、俊成卿正治奏状は、正治二年和學奏状と題せる完き書あるを取らずして後代の書を載せたる、題昭陳状は、その完本は稀覯の書なれども、舊紅葉山御文庫の藏本として現存せるにも拘はらず、流(355)布の不完本を載せた如き、不備なるふし/”\が發見せられないでもないが、こは小過のみ、その大功績に對しては、さる小過は言ふにも足らぬのである。
 今年(明治四十四年)保己一の歿後九十年に際し、その學問上の功績を追賞せられて、贈位のことがあつた。吾人後學の感激に堪へざるところ、たま/\保己一と歌學との一編を草して彼の偉業を忍ぶのである。
 
       六十九 蒲生君平の歌
 
 維新の志士として有名な人々は、殆ど凡て歌にすぐれ、それぞれ千古に傳ふべき慷慨忠誠の作の幾許を遺して居る。そはその性情と境遇とが、おのづから彼等をして歌人たらしめたのであるが、こはまた和歌史上に注意するに足るべき一現象である。就中、林子平、高山正之、渡邊登、藤田彪、僧忍向、吉田矩方、佐久良東雄、久坂通武、平野國臣、件林光半、眞木保臣、佐久間啓、野村望東尼等の如きは、多くの秀逸を遺して、鮮血の花を以てわが和歌史を飾つて居る。
 こゝには、君平蒲生秀實の歌に就いて述べよう。彼は彼等維新の志士の爲に、まさに先驅を(356)なした人である。彼が一生の性行は、まことに吾人をして感憤せしむるものが多いが、いま國文に關する方面で、彼の傳中注意すべき二三の事實をあげ、彼の作歌について述べて見よう。
 彼は、幼い時から國文や和歌には志があつた。彼が少年時代の手書に、太平記の詩歌のみを拔抄したものがある。また同じ頃のざれ書に、川柳狂句にそへて、俊頼、定家、逍遥院、後柏原院、飛鳥井雅章などの歌が記してある。また天明三年十六歳の時の作として、一首の歌がのこつてゐる。
 山陵志を書かうと思つて、歴朝の山陵を採るべく全國を旅行した頃には、諸國の學者や名家を訪問したものと思はれる。そのうち、歌人國學者と交はつた事實をあげて見ると、まづ京都に小澤芦庵を訪ひ、互に心事を吐露して、意氣相投じたことは有名な逸話となつて傳はつて居る。暫らく芦菴の家に逗留して、歸國しようとするに際し、芦菴が彼に贈つた歌は、芦菴の家集六帖詠草に出てゐる。
  君がため木曾の山道雲分けてまた往ぬらむか木曾の山道
といふのが、これである。
 本居宣長をも伊勢に訪ひ、山陵志を著すことについて談らひ、後その稿或るや、序文を見(357)てもらひにやつたことがある。
 その後、山陵志を上梓するや、之を平田篤胤におくつて意見をとひ、篤胤は?々彼をその病床に訪ふた。其他、水戸との關係からして、高田與清とも交り、與清の擁書漫筆には、君平が酒に醉ふと、故郷宇都宮の俗謠を口ずさんだことが出てゐる。また曲亭馬琴とも文藝上の交が深く、馬琴はその兎園小説中に、蒲の花がたみを記し、前に述べた芦菴との逸事などをも傳へた。
 彼の和歌は、遺憾ながら多く傳はつてをらぬ。彼の詩文を集めた修靜庵遺稿の末に、いささか添へられてある。その中には、彼の作として後世に傳ふべき次の如きものがある。
  遠つおやの身によろひたる緋おどしの面影うかぶ木々のもみぢ葉
 これは、會津なる祖先蒲生氏郷の墓に詣でた時の詠である。
  君の爲昔もかくときく川の波たつ風に袖はぬれつゝ
 これは、菊川の驛で、太平記の故事を思つて詠んだものである。
  みちのくは又も越えなむ契あれば限をいつとしら河の關
 思ふに、仙臺行の途につくられたものであらう。また那須野を過ぎての作もある。かの氏(358)郷も、朝鮮陣に赴くべく那須野を過つた折に詠んだといふ作が傳へられて居るが、一奇ともいふべきてある。
  ひえの山見おろす方ぞあはれなる今日九重の數したらねば
 こは、彼の作として有名なものである。
 まことにわづかではあるが、龍鱗の一片とも稱すべきもので、これらによつて推しはかつて見ても、彼は國文和歌の素養もあり、作歌に於いてもまた維新志士のあるものに多く劣らない伎倆を有してゐたと思はれる。たゞその作の多く傳はつて居らぬは遺憾である。
 
       七十 橘曙覽が詠史の歌
 
 記紀の歌の中には、時の人が當時の人の上を謠うたる歌があり、萬葉の中には傳説の人物を歌に詠んだものも有るが、完全な詠史の歌の始ともいふべきは、元慶六年、延喜六年、天慶六年などに行はれた日本紀竟宴の歌である。其後も撰集家集に散見してはをるが、盛に行はれるやうになつたのは近世で、小野務の詠史百首、加藤千浪の詠史百首、續詠史百首、渡忠秋の讀史有感集のやうに、一人で數多く詠んだ書や、平家物語竟宴歌、三十六歌仙賛のや(359)うな書もあり、詠史歌集、河藻集のやうな選集も出來た。
 詠史の歌のよみやうは種々あるが、(一)其人また其事がらを其まゝ叙したるもの、(二)評論論賛を加へたるもの、(三)比喩縁語をもてあやなしたるもの、(四)其人の心になりてよみたるもの等に分けられる。第一種第二種には、たヾ輪廓を畫いただけで、詩趣のない意の淺いものが少くない。中に、際だつてすぐれてをるのは、橘曙覽の作である。
 曙覽の信濃夫廼舍家集には、詠史の歌が四十餘首ある。しかしてその題目は、
 楠公、菅公、松前鐵之助、高山正之、御魚屋八兵衛、濱田彌兵衛、大石良雄、間光興、大石主税、近松行重母、祇園百合女、芭蕉翁、嵐雪、塙檢校、僧桃水、石川丈山、朱舜水、武者小路實陰卿、僧涌蓮、甲斐國徳本、岡野左内、賣茶翁、岸玄知、千利休、桃山隱者、玉瀾女、契沖阿闍梨、孝子莊助、僧元政、池無名、小澤芦菴、藤原忠文卿、袈裟、大國主神、車代主神、源義家朝臣、西行、頼山陽、等で單に題目の選擇だけを見ても、曙覽がいかなる人格を慕うてそを歌に詠じたかといふ點、隨つて曙覺の人格もわかるやうに思ふ。其中の二三を拔き出でむに、
  大御門其かたむきて橋の上にうなねつきけむ眞心たふと(高山彦九郎正之)
(360)  誠あれば地の下にてなく蟲の聲も雲井に響くなりけり(御魚屋八兵衛)
  劔太刀燒刃に我と身をふれて勵ましやりつ仇ねらふ子を(近松勘大行重母)
 その眞心をたゝへ誠をたゝへ忠節をたゝへた歌である。
  木のめ煮て此ごろ都うりあるく翁を見けり嵯峨の花かげ(賣茶翁)
  吾ためは徑もなさぬ桃山の春日のどかに一人書見つ(桃山隱者)
 二人共に、其隱逸が曙覽の平常によく似てゐる。賣茶翁の結句は一首をしてよく詩化せしめた句である。
  勢田の橋其人遠く去りて後捨し扇を見ほしがる哉(池無名)
かの大雅堂が、若い時、畫いた扇を賣りに出たが、誰もかへりみるものがなかつたので、勢田の橋の上から其扇を投げ捨てたといふ名高い逸事を採つて、大雅堂が天下に名を爲した後、人皆が其崩を見ほしがると云うて、世中の眼の低いのを嘲つた歌。さきに擧げた第二種の評論體の歌として實に成功した作である。
  此筆は眉根つくろふ筆ならず山水かきて脊に見する筆(玉瀾女)
 初の句は「此御酒は我御酒ならず」云々といふ崇神紀の古歌の成句から脱化し來たもので、(361)祖母なる祇園の梶女、母なる百合女の血を傳へて、夫の大雅堂と共に畫筆をとりて世事に頓着せざりし彼の玉瀾女の面目、言外に躍如としてをる。玉潤女此歌を讀んだらば、我意を得たりとほゝゑんだであらう。さきにあげた第四種の好標本である。
 さき頃得た曙覽の短册中に、池無名と題した一葉がある。それには、
  水うみに今はとすてし筆のあとをあたらといふも人あらぬ後
 とある。家集に載せたのはこれを改作したのであるが、「其人遠く去りて後」といふ句に無限の妙味がある。「あたらといふも人あらぬ後」は露骨の嫌がある。
  勢田の橋其人遠く去りて後すてし扇を見ほしがるかな
  湖に今はと捨てし筆の跡をあたらといふも人あらぬ後
 この二首を双べて讀み味ふと、詩歌に鍛錬の必要な事がよくわかるであらうと思ふ。
 
(362)     第十四章 附録
 
       七十一 探※[頤の旁が責]記
 
          一
 行誡上人の詠に、『旅衣たつ日となれば人並に杖よ笠よとうち騷ぎつゝ』と云ふのがある。塵の世の外の人すらさうである。まして事繁き身の、僅に數日間の旅行ではあるが、いろ/\の用事を片づくる爲に、出立の前夜は殆ど眠らなかつた。明けて三月廿四日(明治四十三年)朝とく新橋に行く。文科大學生立花君が、春の休暇を九州柳川に歸省するに出遇つて、同車する。短い旅ながら、いつもの例で、昌綱君が見送りに來て呉れた。折から曇り日で、窓の外の眺も晴れ/\しく無いが、箱根からさきは、一昨年の秋亡父の建碑式に、伊勢に行つた以來であり、時も違ふので珍らしい感じがする。山北小山邊は山々の頂のあたりに、谷のはぎまに、藁ぶさの屋根に、畑のうねに、こゝかしこ雪が殘つて居る。藪蔭の椿の花も美しい。唯富士の雲に隱れて見えぬのは、何と無く物足らない。昨夜出來きらず、車中で筆をとりつゝ(363)あつた釆風の校正が全部終つたので、沼津て郵便に出した。これでいよ/\旅人たる吾身に返つた心地である。岩淵邊から空が全く晴れて暖かに、三保の松原は黛のやうに霞んで居る。立花君と種々語る。柳川には幸若舞が殘つて居るとの事であるから、舞の本の研究に就いて語つた。柳川の地には、古來歌人として其名の傳はつた人は、釣が好きで致仕の後は釣彦と名のり、家集の名をも河隈集とつけた西原晁樹一人あるのみであるが、儒者には安東省庵がある。省庵は朱舜水が始めて長崎に來て、まだ何人にも識られず困窮して居つた時、その學才を見拔いて、自分も貧困の中からその俸給の半を割き、舜水を助けた人、後世稀に見る學界の美事である。また柳川の舊家に、ホルトガル人から大友氏に傳へた古彫刻の小さなものがある。そを顯微鏡で見ると、騎士の乘馬の圖を刻つたもので、其馬の前足が一本折れて居るが非常に精巧を極めたものである由など聞いて、耶蘇の教の潮と共に、おし寄せて來た當時の文明などに思ひを馳せた。とかくする内に、車は濱名の湖畔を行く。晴れた空の色でうつして湖の水がたとへやうも無く美くしい色に澄んで居るのを見て、清泉君と船を浮べた數年前の月夜を忍んだ。名古屋に着くと、今朝電報をうつたので片野君が來て居られた。歸途立寄つて古名家の尺牘類を見せて貰ふ事を頼んだ。伊吹山には殘雪ましろく、こゝかしこの水田(364)にうつる月の光も冷たい。汽車は夜の美濃路近江路を過ぎて、九時頃京都に着いた。立花君は別れるにのぞんで名刺に歌を書いて示された。自分も手帳のはしを破つて、途上の作をしるして贈つた。
 事を走らせて柊家に宿つた。疲れた身を運んで二階の靜かな客間に通れば、下の座敷から琴の音が聞えて來る。もう京都に來たといふ氣分になつた。
          二
 廿五日。鶯の聲に眼覺めた。市中の人繁い所であるに、さすがは舊き都であると思ふ。朝早く出て紫宸殿の前を通る。いつ通つても昔の忍ばれる、感じのよい所である。ふと京都の皇居が、今少し山の方によつて、東山に接して居つたらば、今見るとは違つた趣があらうと思ふ。思は遠く馳せて、懷かしい藤原の宮の趾を過ぎ、平城の宮の礎のみ殘つた小高い芝生に行く。と傍近く鶯の聲が聞える。松原のいづこかで頻に鳴いて居る。枕の草子の文が胸に浮ぶ。納言は、宮廷では鶯が鳴かぬとこぼして居るが、電車が御所の近くを走る今日、猶かく鳴くではないかと言うたら、才氣に滿ちた納言は何と答へるであらうかなど思ふ。まづ湯淺半月君を訪ふ。門内には梅が咲いて居て、閑雅な離屋がある。君は豫て自分の爲にとつて置(365)いたと言つて、柳原安子の書牘を贈られた。安子は桂園門下の女歌人で、その堂上家の夫人であつた爲、一般には全く知られて居なかつたのを、自分がさきに歌壇に紹介した人で、筆跡は先年柳原家で其詠草を見たのみであるに、君の好意を喜ばしく思ふ。次に富岡謙藏君を訪ふ。君は宋學に精しく又有名な藏書家である。三年前訪うた折に始めて見るを得た珍藏の別府信榮の訂正萬葉集、長野清良の定本萬葉集を再び見る事を得た。又、富士谷父子の住んで居たのは、中立賣西洞院と小川との間の一町で、今の區役所の邊である事などを聞いた。さて書畫を商ふ某を訪うて、元亨三年の龜山殿七夕七百首和歌(御製をはじめ彈正親王爲世實教以下廿五人の歌)を、貞和五年に寫した古寫本を見た。
 長壽吉君の紹介で、府知事大森氏に官舍で逢ひ、曼殊院への紹介を請ひ、さて府廳に行つて、事務官藤崎氏に逢ひ、去る三十九年、建仁寺の塔中大龍菴の藪地から發掘したものどもの保管されてあるを見るを得た。そは康治元年六月二十一日の極樂願從生歌二葉、永治元年の願文二葉、保延六年の法華經信解品一卷と、磬の破片一個とで、治承二年に世を去つた野山の沙門西念の書したもの、管に入つてをつたとはいへ、七百年間土中に埋もれながら、紙質墨色のよく原形を存して居るのは、實に珍らしい事である。中にも願往生歌は、かの源順(366)が、あめつち云々を沓冠にした四十八首と同じく、いろはを頭と尾とに置いた四十八首で、歌としても珍らしく、いろは歌の史料としても重んずべきものである。即ち始のは、
   い〔右○〕ろ/\の花を摘みては西方の彌陀にそなへて罪の身を悔|い〔右○〕。
 終のは、
   す〔右○〕べて皆佛のことをおもふ人遂には法の道にまど|は〔右○〕ず
 といふ類である。歌の次にある和歌序は、かの發心和歌集序などと同じく、和歌と佛説との關係を説く上の資料であり、殊に歌の文字は皆片假字で記されてあるが、それが平安朝の面目を傳へてゐるのは、國語學上の好材料でもあるから、其撮影を依頼したが、快諾を得た。
 次に小山源治氏を音づれた。氏は熟心なる上田秋成の研究家で、床の掛物も屏風も、秋成の筆蹟である。彼の著書の草稿數多を示された。就中その自傳一卷はその經歴性格を明らかに自ら語つて居るもの、秋成を知る上に貴重な文書である。それによつて、彼の父が武士で、其名を茂兵衛滿朋といひ、秋成は茂助滿宜というた事なども知られる。(此自傳の幾分は近刊の國學院雜誌に岩橋君が引用して居られる)これらの草稿類が多く殘つて居るのを見ても、秋成がその稿本を、廢井に投じたといふ事の眞で無いといふ事は知られる。自分はいろいろの(367)草稿類を見つゝ、明治の秋成ともいふべき齋藤緑雨を思ひ出さずに居られなかつた。秋成は緑雨のもつと學問のあつた人で、勿論兩者の違つた點はあるが、その才、その文、その境遇に於いては、大いに似て居ると思ふ。先年、小山氏等の發起で、無腸會といふ會が催ほされて、著書遺墨類が展覽せられたとの事、當日の來會者名簿を見ると、故藤岡博士の名もある。かの膽大小心録を世に紹介し、富岡氏減の春雨物語をも刊行せられた事などを思うて今更に忍ばれる。小山氏はいづれ秋成全集を出版し、精密なる年譜等をも添へらるゝ由、國文界を益する事少なからざるべく、その一日も早からむを希望する。
 京都府圖書館に行つた。新築の洋館で、彼方に見える大極殿の丹碧の色彩と共に、線濃き東山に對して、不調和の中に一種の調和を爲して居る。閲覽室及び書庫の設備等には、他の圖書館に見ざる苦心の跡の見える點があり、居心地よく出來て居る。館員の森潤三郎君に逢ふ。君は東京の史料編纂掛から轉任せられたので、文藝趣味のゆたかな湯淺館長の次に、歴史に精しい森者のあるは、舊都の圖書館として實に其人を得て居ると思ふ。藏書數種を見た中に、藤原宣胤の類葉鈔十三卷は、殊に目にとまつた。かくて二君の案内で、若林書店に行き、堂上家から出た古寫本數百卷をあさつた。去年以來數人の手に選り殘されたものの由であるが(368)猶十數種の珍書を得た。其家からいへば、かゝる累代の藏書を市に出す事は惜しむべきであるが、又その爲に我々の手に觸れる事も出來、隨つて學問界に寄與する事も出來るのは中々に喜ばしい。其十數種の中で、源承口傳は、藤原爲家の子なる源承法眼の歌論の書で、爲家對光俊、及び阿佛尼の上に就いて、和歌史の資材として貴重なる書である。松尾慶政上人の名も見えて居る。えとろふ紀行は、文化末年日野信清の旅日記で、かの堀田正敦、兒山紀成の蝦夷日記と同じく、所々にその詠歌が入つて居る。三代八百首は、古今選の類ではあるが、紀記歌集以外編著の多く傳はらざる林諸鳥の著である。悦目抄の古寫本は、紙魚の爲いたく損じて居るが、書寫の時代も從來見た同書中で古く、流布本類從本に較ぶればよい點がある。冷泉家傳は、冷泉族譜の類であるが、歌史の一資料である。
 今夜の月はいかにも春めいたやさしい光である。其影を踏みつゝ宿に歸つて、湯淺君の趣味深い物語を聞く。君は夙く池袋清風氏に就いて歌を學び、その長篇十二の石塚を明治十八年に刊行し、新體詩を國民の友で公けにせられた。氏等同志社の間に起つた桂園派の運動は、明治和歌史上の一新運動として、後世史家の逸すべからざるものである。かの故大西博士が物せられた、當時に於いて卓拔なる和歌に關する幾多の論文の如きは、此運動の最も貴き産(369)物である。
 半月君が歸られて、竹柏會員人見小華君の訪問をうけた。君は丹波の人、畫家である。非常に苦學した人で、年齒若きにかゝはらず、去年の文部省展覽會にも入選した將來有望の畫家で、歌にも又熱心である。畫がたり歌がたりに語り更かして、歸つたのは一時に近い頃であつた。
          三
 二十六日。六時前家を出て、森君と共に修學院村に行く。高野川と賀茂川との落合の邊は、遠くには比叡の山が霞み、近くには賀茂の堤の並松の緑が深い。京都のうちでも殊にみやびやかな眺めである。唯此處彼處に立つて居る煙突が目障りである。この古き都を烟の都會に化せずともと思ふ。昨日のうららかなりしに引きかへ、空が時雨めいて、そゞろに三年前、市田氏と共にこの高野川の流に治うて、大原の山里の秋を訪うた日の事が思ひ出される。さすがにそここゝの麥生には雲雀が鳴いて、何となく物に誘はれるやうな心地がする。やがて詩仙堂を右に見て、雲母坂の下なる曼殊院に來た。めぐりの石垣、廣々とした庫裡、清げに物さびた書院、さすがに法親王門跡として由緒ある古寺と思はれる。執事明靜房觀慶君と、(370)近く得度した明行房觀隆君との案内で、寶藏の中に入つて、數時間藏書類一切を捜索した。そは古くこの曼殊院に、天治書寫の萬葉集五卷があつたのを、弘化二年に伴信友が見るを得て、そを檢天治萬葉集と題して記した一卷がある。又現存の老學者谷森善臣翁も、其前後に院の諸大夫の家で見られたとの實話を聞いて居る。しかも其古本は、散佚して傳はらぬといふ事も聞いて居るが、萬一殘つては居らぬか、そを確かめたいといふのが、今度の旅行の目的の一である。故に、隈なくさぐり求めたに、種々貴重な書畫等はあつたが、目的の書はいかにしても見當らぬ。併し、仙覺律師奏覽状といふ卷物一卷を見出した。此奏覽状の小部分は、詞林采葉抄に引かれて居るが、全文に至つては、南北朝以來何人も見なかつた希世の書である。是によつて從來極めて明らかならざる仙覺の事蹟に、一の加ふるものを得た事は、國文學界の爲め喜ばしい次第で、森君を煩らはして、その全文を寫して貰つた。また震翰のみを收めた大なる長持の中に、古今傳授の小長持が入つて居る。それには錠をして、寛延元年九月晦日勅封、としてある。固より中を拜見する事は出來ぬが、其内容は、かつて圖書察で拜見した八條智仁親王の傳授の一箱、及び東滿の寫本、東家、神宮文庫、某家等で見ることを得たものと大差は無いであらうとは思はれるが、斯く勅封になつて居るのを見ると、そゞ(371)ろに神秘の感が起る。元來古今傳授といふやうなものは、眞の歌道の上に、寧ろ害を殘したものであるが、古人が道を重んじたその敬虔な心は、さすがに床しいものがある。
 森君は、かねて印影をあつめて居られるので、曼殊院の古印をおして貰つて、此閑靜な、しかもわが國文學上貴重なものを、多く藏しをる古寺の門を出た。
 歸途再び小山氏を訪うて、秋成の草稿の昨日讀みさした殘りを讀み、さて吉澤義則君を訪うた。かつて鳥丸光榮の和歌教訓に關した寂翁の著一卷を借りた禮に行つたのであるが、同じく光榮の内裏進上之一卷を借りた。光榮は近世堂上歌人中、最も學識あり、頭脳もよかつた人である。吉澤君とは、四式のこと、余が先頃得た歌經標式の異本などに就いて種々談りかはした。
 かの天治本萬葉の行方を確かめたい爲に、もと同院の坊官であつた千種顯允氏を訪うたが留守であるので、其勤めて居らるゝ二條離宮に訪うて逢ふを得た。氏は懇切に物語られた。維新前後無住になつて居た間に、種々の古い書物類を荒繩にしばつて、庫裡に堆く積み上げて賣拂つたのを目撃した。いかにも殘念とは思つたが、仕方がなかつたとのこと。さては其時に反故になつて、散佚して了つた事と思はれる。然るに氏は、明治十二三年頃京都府で催(372)した博覽會に、衣笠村の福井氏が萬葉の古寫本一卷を出された。或は院の萬葉の一部分ではなからうかと話された。さながら闇の道に一の光明を認め得た心地がして、嬉しさ極みないが、日も暮れたので、旅宿に歸ると、人々が訪問せられる。昨夜の人見君も來られて、奈良のスケツチ十數葉を示される。一つの殿堂をかくにも、數多の下圖を試みる苦心の容易ならぬを思ひつゝ、奈良は自分の最も好む地とて、樣々語りあうて、今夜も夜が更けた。
          四
 廿七日。起きれば小雨が降つて居る。朝とく電車を北野でおり、紙屋川橋を渡つて、衣笠村に福井成功氏示訪うた。典藥をつとめられた舊家で、有名な家である。氏は病氣であつたが逢ふことを得た。千種氏に聞いた古寫本の話をしたところ、博覺會出品以後かつて誰にも示さなかつたものであるが、御目にかけようとのことで、取出られた卷物をくりひろげて見てゆくと、そは十三の卷一卷で、かの曼殊院のと同種別卷の天治書寫の本である。しかも一卷完くして、一行も缺けて居らぬ。元來此天治本は、流布本の原本ともいふべき貴重の書である。然るに此十三の卷は、鎌倉時代以來、未だ學者の手に觸れなかつた希世の珍書である。
 其他とり出でて示されたものゝ中に、中殿御會圖の古い畫卷物があつた。彼の畫卷は、原(373)本も、そを模寫したものも失せたので、その模寫は此處彼處で見たが其中で、古いやうに思ふ
 こゝを辭して、冷泉家に行く。いかにも大宮人の住居とおぼしい邸宅の、庇の間といふべきところで伯爵が逢はれる。爲相以來傳來の古書の中には、必ずや珍らしい書が有るであらうと、三年前にもお頼したことであつた。伯爵は歌會の作法に就いて、いろ/\語られた。さて千種氏を訪ひ、福井氏へ紹介の禮を述べ、猶氏の案内にて、親族なる松田直兄翁の子孫なる人の家を訪うた。多くの古書を藏してをらるゝが、彼の六人部是香が、直兄から借りたと其著書に書いてをる古寫本の古今集は、今藏してをられぬ由である。
 京都府圖書館に湯淺君を訪ふに、景樹の肖像一幅を讓られた。こは續歌學全書にも掲げた井上通泰氏所藏のものと全く同じで、井上氏のは粉本で紙にかいたもの、これはそを絹に書き改めたもの、來歴最も正しき像である。去る四十年の秋、景樹の桂園派樹立百年祭に列すべく入洛した折、湯淺氏が二十年來所藏してをらるゝ此掛物を示された。其折に若し何時にても人に讓らるゝ時あらば、自分が讓り受けたいとの意を洩らしておいた所が、此度の入洛を機として、秘藏の幅ではあるが、斯道を專門として居る貴下に讓るから、長く竹柏會に傳へらるゝやうにと快く贈られた。元來景樹の像は、五位の像、六位の像が傳はつて居るが、(374)これは道服とかいふ袖なしを上に着て、筆を持つて居る平服の像である。景樹の偉らい所は、自ら歌人たる天職を自覺して、歌人として世に立つた所にある。その五位六位の人爵には無い。即ち此平服の像は、五位六位の像に比して、最もよく景樹の眞面目を傳へたものとして、これを贈られた半月君の好意を、深く喜ぶのである。
 圖書館の三階には、陳列場の設備があつて、時々種々の展覧會の催がある。近日蘭書展覽會があるので、其準備に來て居らるゝ富士川岡崎の二氏に逢ふ。岡崎氏は同じ町に住んで居て、二十年ぶりに京都で逢つたのも一奇である。
 さて岡崎のこゝかしこを訪うた。今は名古屋なる中村健一郎君の住居の前を通る。そのかみの秋、君の家に宿つて、百舌の聲や黒谷の鐘の聲を聞きつゝ、芦庵や景樹が同じく百年前に、百舌の聲や黒谷の鐘の聲を聞いた昔を忍んで語り合うた事を思ひ出した。南禅寺畔の市田氏の邸を訪ふ。泉石の眺め美しい庭園は、何時見ても心地がよい。先年宿つて河鹿の聲を聞いた春の寐覺の感じを思ひおこした。
 所々の書肆を訪ひ、七八種の古書を得て旅宿に歸ると、上田敏君が訪はれた。近く宇治より奈良に行かれた印象談を聞く。阿部仲麿に就いて、仲麿は當時の盛唐の文明に對する渇仰(375)を代表した人であつたらうなどいはれたのは、最も面白く聞いた。森君が來られた。福井氏の萬葉の撮影、小山氏藏書のうちの謄寫等を依頼した。
          五
 廿八日。須川信行翁が來訪せられた。先頃、景樹が木田近麿に送つた書状が多く出た話をされた。自分も其一通を東京で得た事などを話して居ると、隣室から大槻如電翁が來られた。翁は蘭書展覽會の講話の爲に、昨日岡崎氏と共に入洛せられた由である。東京で無沙汰がちの人々に、京都で逢ふのも不思議の感がする。京都の滯在もほゞ目的を達したので、旅装を整へて出かけた。
 途上、田中勘兵衛翁を訪ひ、翁が所藏の、現存の日本紀中最古の寫本たる應神天皇卷を始め、樣々の古書を見る事を得た。中にも歌學の書で珍らしかつたのは、詞林釆葉抄の古寫本で、終の方の文詞が流布本と異なつて居る。
 次に藤原重浪翁を訪ふ。初對面ながら打解けて種々物語られ、其藏書を示された。中に古葉略類聚抄卷八一卷は、希世の珍書で、此書の發現は、元暦萬葉の發見と共に、徳川時代の學者の非常に喜んだもの、其影寫本は?々見たが、原書を手にするは今が始である。元來寛(376)元から建長へかけては、親行仙覺の萬葉研究時代で、當時書寫の此書にむかふと、そゞろに當時の人にまのあたり逢ふやうな心地がする。他に、並河基廣のともし火のかげ二卷を見せられた。基廣は御杖の門人で、此書の中に北邊世家の一章がある。成章父子の傳を補なふ點がある。
 汽車に乘つて稻荷に降り、稻荷神社に詣で、氷室竹村二氏の斡旋で、荷田翁の著書數十種を見た。そは一昨年の秋大和へ行幸の折、もし京都へ行幸もあらばと、東滿の傳を新たに編纂した時、荷田家をさがして、古い長持に翁の著書が數多あるのを見出だしたのである。さて其著書どもをすべて見ると、翁が如何に萬葉の註釋と、語學の研究とに盡くされたかゞわかる。東滿在滿御風の書牘の卷物も、傳記を補ふ點がある。他に在滿の從弟松圃が、寛政五年に著した國事八論は、かの國歌八論に傚つたもの、國體皇統祭政禮樂文武儒釋歌詠伎藝の八編に分けて論じてをる。國體皇統等について、當時に述べて居るのは、やはり春滿の感化であらう。松圃及び圖書寮の古今傳授の箱に添うて居る暗丸のことは、竹村君に聞いても詳ならぬ由、遺憾である。其他荷田家の藏書類を見る事を得て、得る所があつた。
 再び汽車に乘り、大坂におりて、磯野秋渚君に電話で今里に就いて問うた。氏も行かれた(377)事は無いが、玉造から舊二軒茶屋を過ぎ、奈良街道であると聞いた。都合で歸途に讓つて須磨へと向つた。山邊君夫妻懇ろに待迎へられて、氏の別墅に赴く。恰も三重師範學校長相澤君も來り合せられた。別墅は靜かな海を見おろす小高い山の上に工を起して、近き頃その新築が成つた。室内は木の香が心地よくかをる。白い砂を敷つめた庭へ下りると、東屋からは沖を行く白帆が老松の間に隱見し、淡路島は近く霞んで居る。朝場重三君に電話をかけると、突然の事で驚きながら、喜んで直ちに來られた。さいつ年川田君朝場君と、須磨華壇に一夜を語り明かした事を思ひ出て語りあふ。山邊君相澤君とは、故相澤朮翁の上、亡父のこと、また西刀自の家集磯菜集などに就いて語り續けた。
          六
 二十九日。二十四日以來、毎日三四時間こそ眠らなかつたに、昨夜のみは夢安らかに熟睡した。小雨に霞む須磨の朝景色を眺めて居ると、大坂から高安夫人がふりはへ來られ、朝場君も來られた。有村氏は病の由で、殘念ながら來られなかつた。打つどうて、連句をしたり歌がたりをして、親しい人々へ畫葉書に歌などを書いて送つた。午後打つれて出た。朝場君は別を惜んで停車場に來られた。玉造で人々に別れて下車する。磯野君の詞、また朝場君に(378)も聞いたので、直に今里に向ふ。雨がはげしく降つて道がわるい。玉造の町を過ぎ、八丁畷とかいへる堤を過ぎて、今里村にいたり、妙法寺を訪うた。こゝはかの契沖が幼くて出家し、後年母と共に住んだ所、契沖が母の終焉の地である。本堂は昔ながらであるが、庫裡は新しい假建である。留守居の僧と來訪の老人とが、爐を隔てゝ談つて居たので、いろ/\聞いてみた。昔は榮えて居たが、今は衰へた上に、明治十八年の水害で庫裡は崩れ、後に今のを建てた由である。契沖についても、種々語つたが要領を得ぬ。話によれば、契沖の富士百首の原稿と、妙法寺の由來を書いたものとがあつたが、今は河内鬼住の延命寺にあるとの事。また契沖(?)が雨乞をして、麥藁の龍を作つて祈つたに、その龍が上天して、一里向ふの高井田村に落て雨が降つた。里人はその禮にとて、燈籠一對を送つて來たといふ話などを聞いた。又契沖の母は、門前に小家を造つて花を賣つて居た。其門は今の門とは位置が違ふとの事である。
 過去帳を問ふと、幸に古いのが殘つてゐた。調べて行くと、晦日の條に、
  素性信女【元禄三庚午正月空心闍梨母】
とあつて傍に後人の筆で、圓珠庵契沖師母と朱で書いてある。契沖の母の歿年月は、從來文學史上に知られなかつた所であるが、こゝに明らかにするを得たのは喜ばしい。兄の如水(379)に就いても調べたが、わからぬ。外に何か無いかと問ふと、契沖の師なる覺彦の自筆が一幅ある。その文は、
 延命教興兩寺門徒奴僕等若來斯寺宿住之則一日粥齋之料壹升應弁償之又一羮一菜之外不可受之也
   貞享丁卯十一月日           覺彦白
 本堂の裏へ行つてみると、雨に烟つて遠く山が見える。聞けば大和の暗がり峠の邊であるとの事。晴天ならば南に金剛山、北に茨城邊の山から叡山、西に大阪城六甲山が見えるとの事である。この妙法寺は、實に契沖が四十一歳から五十一歳迄十年居つた所で、義公の使の來たのもこゝである。代匠記の初稿本の成つたのもこゝである。長流と往來したのもこゝである。孝心の深い契沖が、母や兄と下川家の盛衰について語つたのもこゝである。いろ/\往時を追懷すると思ひが深い。契沖の生涯を思ふと、和泉久井の山里時代は國學の修養の時代、今里時代はその蘊蓄を傾倒して代匠記を著した萬葉時代、母が失せて高津の圓珠庵に移つてからは、和字正濫抄等を著した語學時代とわかつ事が出來るとおもふ。
 こゝを辭して米谷氏を訪ふ。氏は妙法寺の檀家總代である。養父が存生であらばいろ/\(380)知つてゐるであらうにとの事。契沖の母の墓は、玉造の舊家佐々木梅門氏が竹藪を切開いて探し出して、春秋の供養を怠らなかつたとの事。又鳥羽伏見に戰爭のあつた頃、尾州侯の家老?が伏見から來て、契沖の小使帳の反故を乞ひうけて行つた事などを聞いた。さて契沖の母の墓地へ行つた。玉造の方へ向ふ村の入口に、共同基地がある。數百の石塔が並んで居る奥の石地藏の前、槻のもとに墓石があつて、其上に三つ石塔が立つてゐる。その中のが契沖の母ので有る。左右の兩墓は字面磨滅して讀むを得ぬ。左の方のには延寶の二字が僅に見えるのみ。此もとに一代の大學者契沖の母は眠つてゐるので有る。しかも知つて跡をとふ人の少ないのは遺憾である。
 夜に入つて桃谷の山邊氏に着いた。主人が紡績會社に從事してから廿五年間の苦心談を聞く。東京から日本歌學史の校正が來てゐたので、直ちに筆を加へて返した。
          七
 三十日。朝とく山邊氏を辭した。雨が烈しい。昨日訪ふ事の出來なかつた三角ぬしは、停車場に待うけて次の停車場迄送られた。梅田にいたつて、大阪の社友諸氏に、急の旅であるから訪はぬ由の葉書を出す。
(381) 雨が折々降つて風烈しく、琵琶湖は波が騷いで、湖水とも見えぬ。伊吹山の邊は寒く、所々に咲き殘つてゐる梅がまことの雪かと見える。大垣のほとりを通つて、世を早くした杉山千代子を思つた。飛騨の山の見える景色よき里であつた由、一度も逢はなかつた人ながら、面影が忍ばれる。名古屋に下りると、片野君が迎へに來られた。共進會の開會中とて、旗提灯に市中は飾られて、人や車の往來が繁い。
 まづ大島爲足翁を訪うた。翁は名古屋歌壇の長老である。芦菴自筆の古今六義諸説、寛永年中二條御城歌會作法之圖などを示された。共に珍しいものである。また氷室長翁が元興寺の塔材で作らせたといふ文臺を見て、白珠は人に知らえずの古歌を思うた。
 千種の雪月花樓に行くと、片野君の母刀自が待ち受けて居られた。晩餐を共にして、こゝから共進會のイルミネエシヨンを眺めて、これで共進會を見物したといつて笑うた。打つれて氏の別墅に行く。市外の閑雅なる住居である。人々來つて歌がたりをした。かねて依頼しておいた、本居翁や千蔭の書状を見た。
 片野氏は有名な永樂屋で、古事記傳をはじめ本居翁の著書を版にして、殊に名高くなつた、國文學上功績ある書店である。今も神棚には、文將星、孔子、本居翁を祭つて、毎日神酒を(382)供へる由である。また千蔭の萬葉略解も本家の風月堂と共に出版したのである。隨つて本居翁千蔭の状ともに、出版に關したもので、千蔭のは木版のほり直しに就いてのものが多い。略解は創見の點に於いてはさほど價値の無いものとせられて居るが、併し是らの状に就いて見ると、その苦心の容易で無かつた事がわかる。又北齋漫畫を出版した縁で、北齋の書状がある。その中には、非常に奇拔なものがある。例へば、
 近年は段々と老年に及び候間、ホレ可申と存候へど扨左樣にも無之哉、去年より今年、先月より當月と、數々認め物多く相成候。右の腕三本も御座候へば、諸方の御機嫌もよく、愚老も金滿に可相成候。扨々親共之心得違にて、右の手一本に産付候故、彼是と都合あしく候。御一笑可被下候。…‥
の如き、或は新編漫畫の序文の草稿の奥に、
 俗文片言誤字重言、文邊の君子に御直し可被下と可被仰下候。蒼頡文字を作るの頃、北斎出生したるならば、世に文字といふものあらせず、畫を以而萬事通用すべきものを、末世に生れ出たれば、文字といふものにことかゝせらるゝと存候へば、甚殘念に御座候。
の如き、北齋の面目躍如として、彼の傳に載すべき材料と思ふ。又短册の類を多く觀た。
(383)          八
 三十一日。朝とく停車場に行く。風が烈しかつたが、靜岡邊へ來ると暖かになつた。沼津で下りた。汽車から見た田畑には桃の花菜の花が美くしく咲いて居た。町を通つて村山氏を訪ふ。夫人は三浦博士の妹である。夫君は病んで臥してをらるゝとの事である。
 舊家和田傳太郎氏を訪うた。氏の父君は鬼島廣蔭の弟子で廣蔭は七十三歳の時、伊勢から來て滯在してをつたとの事である。當時廣蔭はよほどの老年であつたが、非常な勉強家で、夜は丸寢をする、机にはひぢぷとんを置いて、絶えず讀書して居た由である。古今集諸註大成をはじめ、語學の書が多く殘つてゐる。又契沖の描いたといふ觀音の像、眞淵の掛物などを見るを得た。
 停車場に來れば、村山ぬしが來たられて、「憂ある我が家の門を春風の音づれなして師は訪ひましぬ」といふ歌を示された。わが先年よんだ「願はくはわれ春風に」の歌を思ひ出されたのである。
 汽車中、三島御殿場あたり、富士は見えなかつた。歌など考へつゝ新橋に着いたのは九時過であつた。
(384) 餘りに短時日の旅行ゆゑ、調べ殘した所も少くなかつた。他にも訪ひたい家、逢ひたい會員もあつた。濱松の眞淵の舊宅も訪ひたく思つたが、果さなかつた。
 今度の旅行は、元來、大學から取調の命をうけて行つたのであるが、八日間に、仙覺の奏覽状、萬葉の古寫本、源承口傳等を發見し、未知の事實をも知り得て、多少とも學界に寄與する所があつた事は、自分の喜ばしく思ふところである。
 
       七十二 續探※[頤の旁が責]配
 
          一
 明治四十三年七月三十一日、眞夏の暑い日、市中ながら古びた庭の數珠の木立には蝉が鳴いて、飛石には水が凉しげにうつてある。其庭に面した座敷の床には、時にあうた頓阿の幅が懸けてあつて、如何にも數代榮えて居る舊家といふ感じがする。所は大阪内平野町の殿村家で、坐にあるは、今日の東道の主人なる府知事高崎親章氏と、上田萬年博士と、殿村家の執事三井芳松君とである。
 中央の大きな机の傍には、先々代殿村茂濟翁があつめられた、契沖阿闍梨の眞蹟を、一部(385)づつ装幀して箱に容れたのが、うづだかく積んである。我々はこれを觀んが爲に訪づれたのである。
 一つ/\觀て行くと、
 著書及び雜筆のたぐひには、
  正語假字格    一 貞享二年成
  詞草正採抄    二 同四年成
  四季出題和歌   一 元禄三年成
  和學正濫抄序   一 同六年成
  源偶篇      一
  和字正濫抄    一
  くさ/”\の歌  記一
  浸吟集      四
  榮花物語月宴考  一
  ゆきかひ歌    一
(386) 寫本には、
  漢語抄      一 天和二年書
  虫盡歌合     一 貞享二年書
  朝野群載卷廿三  一 元禄三年書
  松島日記     一 同四年書
  四季出題抄    一 同六年書
  日本紀竟宴歌   二 同十二年書
  現報靈異記    一 同年書
  和歌式      一
  和歌作式     一
  歌合一集     一
  柏傳餘考     一
  衣かつぎの記   一
 校訂した本には、
(687)  蜻蛉日記   三 元禄九年校
  長明四季物語   一 同十二年校
  扶桑略記     六 似閑喜 契沖校
 等凡て二十五種で、奥書のあるものも多いが、そを一々載せるは煩しいから略する。
 中に注意すべきものを擧ぐれば、
  詞草正採抄
 は、枕詞を神祇天象地理等に部類して、たとへば、いすずの宮からさくくしろを引出だすやうにして、之に簡短な註釋を添へたもの。
  源偶篇
 は、源氏物語の難語を伊呂波分にした源語辭典である。
 この兩者は自著で、未だ學者の知らなかつたものである。また、
  四季出題抄
 は、長流の著を寫したもので、歌第の簡短な説明をしたもの、世に流布してをらぬ。元來著述の多く傳はらぬ長流の著として、珍とすべきである。契沖の著書のうちに擧げた四季出(388)題和歌は、この長流の題によつて、其すべてを詠じたものである。 また漢語抄と長明四季物語とを寫した終に花押のあるのも珍らしく、松島日記の終に空心記とあるのも、他の書物の奥には殆ど凡て契沖と記されてあるのに比して、珍らしい。
 其他、別に高津の隱士中川昌房が寛政九年に撰んだ契沖事蹟考一卷(大阪府立圖書館に、安政六年山川正宣の枚正した本があるがそれは誤寫が多い。)及び圓珠菴契沖行實一卷、(かの年山記聞に出て居るものを始め、其他の記事が輯めてある、)等がある。共に契沖の傳記の資料として、重んずべきものである。
 契沖は遺書は、數年前上賀茂の三手文庫所藏のを見、一昨年水戸の彰考館及び潜龍閣の藏書を見るを得、また小梅なる徳川侯爵家のをも見ることを得たが、一は似閑の家から納めたもの、一は水戸家のであるから、實にもとうなづかれるのであるが、今この殿村家にかく數多あるのは、茂濟翁が鈴屋門の村田春門の教子で、名の聞えた歌人であるから、阿闍梨を尊んで、かくあつめて、美しく装幀せられたのである。併し何處から得られたかは不明であるが、元來天王寺の明靜院に、契沖の遺書のあることは古く物に見えて居るが、明靜院は今は斷絶して、その遺書の行方もわからぬ。思ふに、茂濟翁は明靜院のを譲りうけたのであらう。
(389) 契沖の自筆のものは、一卷の書さへ珍らしいに、かく多くの著書寫本を、まのあたり見るを得て、國文學國語學上のこの偉人を親しく忍ぶことが出來たのは、喜ばしい。元來契冲の遺書が殿村家に藏せられて居ることは、大阪市史を編纂せられた幸田成友氏から傳へ聞いて知つたので、氏も同行せられる筈であつたに、來られぬのは遺憾であつた。高崎知府が、學問の爲に繁務の中を斡旋の勞をとられたことは、感謝の至りである。また三井執事が懇篤に世話せられたことも鳴謝する。
 かくて殿村家を辭し、上田博士は福岡縣教育會の講演に赴かれ、余は猶諸所にものして、和歌史の資料の蒐集につとめた。
          二
 契沖の教子の中で、今井似閑と相並んで、勝れて居るのは、海北若冲、またの名岑柏である。彼は師の學問を受けて萬葉に精しく、萬葉集師説五十二卷、同作者履歴九卷、同勝地篇十卷、同類林十五卷、同惣釋一卷等、八十七卷をものし、和訓類林七卷、和訓指掌略一卷をも著した。(また和訓類林の初稿本なる若冲自筆の古類葉抄を品田太吉氏が所藏せられ、海北若冲家集は、一昨年伊勢の千歳文庫で發見した。)併し彼の傳記は未だ明らかでなく、歿年もさ(390)だかでないが、享保二十年に萬葉を校訂して、奥に「考正のことば」を添へてあるので、似閑よりは十數年生きながらへて居た事がわかるのみである。かやうなわけで、若冲に就いては、從來知られるところが少なかつたが、こたび殿村氏の藏書中に、若沖の自筆なる三家和歌集三卷があるのを發見した。その如何なる書であるかは、次の跋文に、彼自らが明らかに語つて居る。
  やつがれ、此頃やまと歌まなび侍る、よりて、下河邊長龍のぬしに、擧白集の中のすぐれ歌をえらび出し、又そのぬしの歌の中にも、よろしと思へるを選び出でたぶべき由、のぞみ侍るつゐでに、契沖大徳にも同じごと、其自らの歌をあつめてたうびよとあつらへ侍るに、程なく三の集とゝのほりぬ。長龍のぬし擧白集の中を選び出られたるを、長嘯歌選と名づけ、其ぬしの歌を集められけるを、長龍延寶集とつけられ侍りしかば、契沖大徳のをも共に、契沖延寶集となん名付られける。をのれかくもとめ侍りける志は、此三の集をもつて、ちか比の春の歌よむべきのりとせむと也。しかあれは、今此三の集を一つに合せて、三家和歌集と名づけて、あるは窓に入る久方の日かげをむかへ、あるは夏は螢、冬は雪をと牒あつめて、むば玉の闇を照らし、敷島の道のかたはらをだに尋みばやと思ふにぞ侍る。延寶九年五月廿九日。湖海狂士書。
 以上によつて見ると、世に流布せる刊本自撰晩花集、自撰漫吟集(續歌學全書にも採録した、)は、若冲の囑につて、長流、契沖が各自ら選んだもので、他に長流の選んだ長嘯歌選のあるいはれも明らかである。隨つて後年選ばれた晩花集の名をとつて、白撰晩花集といふの(391)は穩當で無く、長流延寶集、契沖延寶集と名づぐべきであるといふ事が判然する。かの刊本に若冲の跋文を省いたのはいかゞしいから、こゝに其全文を載せたのである。(猶此跋文に長龍とあるのは、長流が前に長龍と書いたからである。その證は長流居士傳略に、長流子者浪華隱士也、姓小橋氏、名共平、字彦六、和州宇多之産、冒母氏稱下河邊長龍、後取浪華堀江之長流則改矣、云々とある。されば、長流の名を、ながると訓ます説もあるが、長龍の文字をかきかへたのであるから、音讀すべきであると思ふ。)
  追記 若冲の歿年は、浪華名家墓所記によつて、寶暦六年十二月七十七歳で世を去つたことがわかつた。また新村出博士が得られた若冲の書牘がある。そは七十四歳、即ち寛延元年にものした老筆で、誰に送つたものかは知られぬが、彼の傳を備ふに足り、かつ彼の志をも知るべき好資料たるをもて、こゝに記し添へる。文中、五十有全卷とあるは、即ち萬葉師説五十二卷を指したので、舊友は似閑と野田忠肅をいうたのである。
             下書
  其已來御無音耳、疎略之至、多罪々々、益御清福に御座候由、三雲氏御使ニ承、乍陰大慶不少候、小子御同然罷有候、然シ老衰日々弱、歩行不自由罷成、朝夕慕雖申、上京不任心、御疎縁不本意候、近々何□二三宿懸に罷登、御所談遂御無心申上度義、多年心懸、其故は野生十六七歳比、僧契沖師え參候來、性得乍不器申、歌學逸好、五六十(392)年不急、今年七十四歳、最早朝暮不被頼候、日比其器量之人ニ頼、讓置候はん之外無他事候へ共、才智ハ野生ニ悉雖倍勝、志誠不勇猛、師之本望可達人未得、怖傳扣書追々考□朋友存念少者愚案加、五十有余卷草稿未及清撰、老衰更不相叶、於師墓前燒失可致存取候へ共、本朝歌最初虚相成候樣に存候、管見殘念不大方候、貴公若御憐愍爲被下、乍萬々恐賢、仙院奉納御取次、堂上樣方御貞實御内意被仰上、御校考御改之上、御取持被下候はゝ、生前本望、小子申不及、先師□舊友迄も、草陰歡喜踊悦不過之、准享幸甚、御了簡爲被下、内々御沙汰成被御試、御思量奉頼上候、急義不爲候ヘ其、老人齡迫候ヘハ、御由斷被遊被下間敷候、御報樣子に寄、暖氣及候ハヽ罷登御面談存念申上度候、遠鄙蒼生我等迄皇帝之民一人ニ候ヘハ、何□百万之一功勲勤度願、年來候ヘ共、遠下之志爭而相達哉、貴公愛憐爲被下候段偏奉顔、不自由之文筆不粗謹言、
          三
 風月の縁淺からず、春三月須磨を訪ひ、八月再び須磨に來り、山邊氏の孤山莊の客となつた。莊は西須磨弧山の上にあつて、並み立てる松のひまより淡路島に相對する景勝の地。主人家刀自をはじめ、近わたりの會員、うちつどうて歌會を催した。
 翌々日山邊氏を辭して、神戸に赴き、直ちに生田町なる桃木氏を訪うた。
 氏の篤志の人で、數年前から國史學專門の圖書館を開いて居られる。元來我が國は、維新以後は、文化が首都に集注し過ぎて居る傾があつた。文化を各地に益々普及せしむることは最も必要なことで、さる點から、かゝる私設圖書館の擧の如きは、推讃すべきことである。(393)それにつけても、かういふ圖書館では、をの地方々々の學者の事蹟學問の歴史などに注意を拂つて、或はその地方の名ある學者の著書を蒐輯し、或はその藏書の散佚するやうな恐があつた場合には、適當の方法を以てそを保存するやうにして貰ひたいと思ふ。
 この書院には、萬葉に關する書も多く輯められてある。三四年前すでに一度訪問してそれを見たが、今日再覽した。主なるものを掲げると、丹表紙の古寫本は、端作や註に變つた點があり、かの悔彌可念戀良武の二句のある本で、白雲書庫小諸藏書などの印がおしてある。また文化十二年池本顯實の假字交りに書き改めた萬葉集は、余が數年來志して居る改訂萬葉集の先蹤をなしたものの一つである。また天明五年に橘經亮が古寫本をもて藤原堅石と共に枚正した萬葉集もある。萬葉以外の書では、夫木集、六百番歌合の古寫本、頼政集の校訂本、春門の講説を女綾子のかいた古今集私抄などを珍らしいと見た。
          四
 神戸から電車に乘つて、御影に向つた。多くの停留場を過ぎた中に、みぬめといふのが有る。かの「玉藻かるみぬめを過ぎて」といふ萬葉の歌が思ひおこされる。奈良朝の歌人等が、あるは九州へ下るとか、あるは新羅へ赴くといふ時に船出をし又船が舶てたのは、いはゆる大(394)伴の三津の濱である。三津は今の大阪の一部分であつたらしいが、千數百年殊に變化の多い大阪の地勢であるから、さだかでない。いま一つは武庫の浦、即ち神戸の傍の兵庫である。敏馬は二つの港の間にあつて、武庫の浦の一部ともいへる。奈良朝の歌人が、遠い旅行の出がけに、また歸途に、或は陸に或は海にながめつゝ通つた所である。一昨年の晩秋には大和を訪うて、(これまではいつも春夏に訪うた)秋雨の煙つて居る飛鳥寺や藤原の宮の跡、くづれた築地のほとり、高い木に百舌の鳴いて居る西の京などをめぐつて、そのかみを追想して感慨が深かつた。今また夏の日の薄く曇つて居る午後に此處を過ぎると、千年前の旅行がいろ/\想像せられる。其頃の旅行は、陸はいはゆる草枕にいね、海はさゝやかな船で渡つたので、かの、「額には矢は立つとも、背には矢はたてじ」といひ、「出向ひかへりみせずて、勇みたる猛き軍卒」の東をのこすら、防人によざされて、長程幾百里、白雲の遠の筑紫に下ることは、殆ど生別の苦であつた。千年前この地を歩んだ旅人の心は、今日の人が横濱の埠頭に立つやうなものではない。思を馳せると、萬葉集中の哀絶を極めた羈旅の歌が、いろ/\目に浮ぶ。しばらくにして電車は御影に着いた。
 御影では加納氏を訪うて、奈良一乘院宮家から傳來した手鑑、及び樞要鑑の二帖を見るこ(395)とを得た。中に、元暦校本萬葉の斷片が六頁ある。元來、元暦萬葉は、こゝかしこを截斷した斷片が、諸家に散在して居る。それらを輯めて、及ぶだけまとめたいと思うて、諸家の手讃の展覽を請うて居るのである。なほ手鑑の中に、俊頼の尼子切と古筆家の稱するもの、尊圓親王の金澤文庫切と稱するものもあつた。就中、金澤文庫切は三方に金線があつて、此萬葉が形の大きいにかゝはらず、卷子本でなくて綴本であることを示して居る。(この三方に金線のある切は、從來見た内では、酒井伯爵家の手鑑見ぬ世の友と、これとの二つのみである)
 金澤におりて、契沖門下の野田忠肅の裔を訪うた。忠肅の家は六甲山を望むので、六兒樓と名づけたとの事であるが、彼は萬葉五句類句をものして、靈元上皇の叡覽に備へ、次に仰によつて三代集類礎を撰んだ。(其さゝげた書は今も圖書寮に藏せられてある。)彼の遺書類は、預けた寺院の燒失と共に亡んで、家には忠肅の日記、竹内惟庸の書などがある。忠肅は、萬葉の學問に於いては契沖に就いて學んだが、歌は堂上派で、惟庸の門に出入した。かの戸田茂睡も、惟庸の點を請うた詠草が遺つて居る。また一奇とすべきである。
          五
 大阪では、今橋の芦田氏に客となつて、所々に古書古筆の類をさぐることを得た。
(396) まづ芦田氏の案内で平瀬氏を訪うて、珍藏の金葉集(傳云後京極良經筆)を見ることを得た。こはもと上賀茂社家松下攝津守のもとに有つたのを、三奏金葉集と名づけて、松田直兄が印行した、その原本である。金銀砂子の古びのある表紙で、蝴蝶綴の一帖である。(刊本は二冊になつて居、かつ形も大きいが、この原本は、縱八寸八分横五寸八分てある)元來金葉集は初度二度三度と選び改めたもので、今流布して居るのは二度のものである。また眺望集を見ることを得た。こはもと富士谷御杖の門人浦井有國が輯めた短册帖で、文化十四年に眺望集雛形と稱する册子、文政八年に摸本が刊行せられて居る。集の名は二條爲世の短册の歌題をとつたものである。振古仙雅、古今吹萬の二帖にわかれて、鎌倉の末葉から元禄時代にいたる名家の短册を輯めたもので、和歌史上名の聞えた人は殆ど網羅してあるのみならず、縉紳武人儒者僧侶書家連歌師などの名家のもあつめてある。短册帖として實によくそろうて居て、かの前田侯爵家の緇素法帖とともに一對の珍品である。
 次に契沖に就いて調べたく、高津の持明院に藤村叡運僧正を訪うた。僧正とは舊き交があるので、喜び迎へられて、亡父が足代翁入門前にやちまたを學んだ專順法師に就いての逸話などを聞いた。さて僧正の案内で生玉の持明院にものした。そは圓珠庵の遺書類は、持明院(397)の藏に保管されて居るからである。(持明院は、契沖がかつて住した鼻陀羅院が、維新後廢寺になつたのを合併した寺である。)即ち契沖の遺稿遺物の全部五十一種を見た。自筆の稿本、遺言書、肖像等をはじめ、傳記の資料として有益なものであるが、これらは宇田川大町二氏及び其他の傳に引用せられ、世に公けになつて居るから今更いはぬ。たゞ勢語臆斷の奥に、「誂老兄寫彼稿本」云々とあり、古今餘材抄の奥に「誂老兄去年寫彼草稿畢」云々とあるのを見れば、これらはいづれも兄如水の筆である。その筆蹟は契沖によく似て居て、いさゝかやはらかい書風である。(此加水の筆蹟に就いては、故小杉博士がかつて語られたことがあつた。)
 さて圓珠庵を訪うて、(これまで已に二回阿闍梨の墓には詣でたが)叡運僧正の好意によつて、庵中に所藏せるあらゆるものを捜索し、そを見るを得た。其中に、古い過去帳一卷を發見した。それによつて、契沖の父下川善兵衛元全が、寛文四年に歿した事がはしめてわかつた。(その忌日が九月十一日である事は、帝國文學十六卷一號に上田萬年博士が發表せられて居る。)この三月、今里妙法寺の古い過去帳で、契沖の母の歿年月を發見し、こたび又父のがわかつたのも、因縁があるやうに思はれる。なほ契沖の兄弟八人に就いては、上田博士が其六人までは詳にせられたが、(心の華九卷十一號、契沖阿闍梨の家系參照)過去帳廿三日の條(398)に、※[玄+妙壽信尼【享保四亥七月冲公 妹岡田茂左衛門母】とあるので、其一人は明らかになつた。又八日の條に、慈元智寂近住尼【享保十三甲六月契冲下女】とある。これは契沖の遺言書の中に、「一妙法寺を退候節覺心へ銀三枚深慶へ二枚慈元へ一枚可遣と存候處」云々とある中の一人で、妙法寺で契沖の母や契沖などによく仕へた尼と見える。
  追記 契沖父母の歿年月は、後に、家藏の足代弘訓翁の丙午雜纂に記してあるのを見出だしたことであつた。
          六
 三月の旅行の折、玉造の佐々木氏が、契沖の母の墓の香華を手向けられるよしを聞いたので、書状で問合せて、かの佐々木春夫翁の裔なることを知り得たので、こたび同家を訪問したところ、快く種々の藏幅藏書類を示された。中に、契沖の銀貳百目の券状が幅になつて居るのを見た。終に歌が書き添へて有る。伊勢長井氏の、本居翁の券状と一對といふべきものである。因に云ふが、彼の遺言書の文言、又この券状、浸吟集の詞書などで考へると、その窮乏して居た事がわかる。水戸家から白金壹千兩を給はつたといふ事が、爲章の書いた行實に見えてゐて、年山記聞に載つて居るが、(爲章の自筆の行實によるに白銀千兩である。)寡欲な(399)契沖は、さる大金をも、寺院の爲や貧しい人事にわかつて了つて、晩年乏しく暮して居たのであつた。
 また伴林光平の遺書が多く殘つて居る。そは春夫翁が光平の晩年を助力して居たからで、すべて傳はつたのである。光平は有名な勤王家であるが、歌人としてもまた注意すべき一人で、彼の歌に關する著としては、富士谷成章の北邊七體七百首から考へついた垣内七草、また垣内摘草などが刊行されて居る。其遺稿のうち、歌論の書としては、稻木抄、園の池水の二つがある。前者は修辭論、後者は、一種の見解から和歌は國家の道であると論じたもの。家集としては、小田の中道、萬年樹下詠草、安政四五六詠草等がある。隨筆には須美麗草がある。其中には、「萬葉全部五十返素讀の志を立つ、此業終て一度親寫すべきものなり」と書いてある。どの位實行したかはわからぬが、以て彼の和歌に熱心であつた事が知られる。またその子に與へた悲痛な文、近松紋右衙門作本櫻場御國の譽と題した櫻田の事變を祭文ぶしに作つたもの、その肖像などがある。動王家でまた歌人であつた彼の人物を研究せむとする人は、これらの材料によらぬばならぬ。而して又、光平の如きは研究すべき人物であると思ふ。
 玉造の歸途に大阪圖書館を訪うて、先年も見た龜井交山の萬葉草木考を再覽した。これは、(400)品類鈔、品物解のたぐひで、萬葉中の草木を分類し説明したものであるが、畫家の著だけに一々畫が添へてある。この類の書には、雅澄のものしたといふ品物圖繪もあるが、彼は極めて粗いもので、到底この書の精しさに及ばぬ。元來古歌に於ける品物の説明には、圖解に若くは無い。此書の如きものを基礎として、完全な書を編纂したいものである。
          七
 京都にものしては、田中村なる清野氏の別墅に客となつた。閑雅な洋館の樓上の一室を與へられて、遠く北山の山つづきを望み、近くゆほびかな林泉を眺めて暮らした數日の感興は、忘られがたい。
 京都大學に新村博士を訪うて、博士の厚意によつて、奈良興福院藏の、建長書寫の古葉略類聚抄の零本四綴を見るを得た。此三月に藤原氏で見た一册を加へると、かの江田世恭が影寫したものゝ全體をなすので、僅かに半年の間に、此うづもれて居た古鈔本に接することを得た眼福を祝福せざるを得ぬ。それにつけてもコ川時代に發見せられなかつたかゝるたぐひの古書が、奈良邊の古社寺から新らしく發見せられたならばと、望蜀の念に堪へぬのである。
 また、國語研究室で、伴信友の寫本校本等七十册を見た。中に、荷田在滿の國歌八論の再(401)論一篇がある。田安宗武の國歌八論餘言に對し、更に論じた書で、この書のある事は、加藤枝直がしるし、玉襷、泊  帽筆話などにも出て居るが、未だ世に現はれなかつたものである。
 また、八丈島歌詞一卷がある。爲朝に關した歌謠を、天保十二年に抄出したもの。信友の如き、また雅澄の如き學者が、夙くこゝに着目して、古歌謠を輯めた事は、國文學史上に注意すべき一事實といへる。
          八
 こたびも田中勘兵衛翁を訪うて、所藏の萬代集を見るを得た。そは同集の古寫本中最もすぐれたものである。丹鶴叢書本に載せた奥書の中に、本ノマヽとして、讀み難しとしてある處も、此古寫本では、さだかに讀み得られるから、こゝに載せて置く。
  寶治二年夏比撰定畢暮秋致添削者也抑御製任先例雖奉入依邪臣讒奏推以被切出可否未辨爲之如何委記而無由莫言々々
           淺香山斗藪侶釋(花押)
 また山本氏を訪うて、金砂十卷、金砂剰言一卷を見ることを得た。そは上田秋成自筆の稿本で、うち五卷は短歌、五卷は長歌で、いづれも集中の秀逸を採り出して、批評がしてある。評の詞は、例の奇拔な、趣のある筆で面白い。剰言は總説である。此書は、秋成が學者とし(402)ての面目を最もよくあらはして居るものなるにかゝはらず、未だ刊行せられずにあるのは、惜しい極みである。(因に云ふ。本書は帝國圖書館にもその寫本があるが、そは不完の書である)
          九
 能勢氏は、かの三井家の元永本古今集をもと所藏し居られた好事家であるから、訪問して、珍藏の古筆屏風をはじめ、數種を示さるゝことを得た。中に、古い萬葉切で、俊寛の筆と稱する斷片一葉があつた。これはやゝ新らしいものではあるが、紙質書風が從來見た凡てのものとは全く別種で珍らしいものである。(追記。後に高野山に上つて、龍光院に宿つた折、同院にこの種の切を見たことであつた。)
 また正徹書寫の三五記一卷を見た。奥書に、或は定家卿の作と稱し、或は謀書と號するよしが書き添へてある。三五記が、當時に於いて已に疑はれて居た事が明らかである。また里村昌純が、延寶四年に萬葉の長短歌五百首を拔萃した萬葉拔書一卷がある。こは眞淵の新採百首、魚彦の千歌以前の書として、歴史的價値がある。
 北野神社を訪うてその文庫を見ることを許されて、數種の書を見た。中に、應永十九年今川了俊が關口某に與へた歌論の書一卷(正保四年の寫本)は珍らしい。了俊は足利の中葉に出(403)た武將で、同時にすぐれた歌人であつた。彼は歌人また歌論家としては、當時の二條家に反抗した一派の代表者として、注意すべき人であるが、その歌論の著は、正續群書類從によつて傳はつて居るが、本書は其中に無いものである。
 また、太田滿穗が明治十年にものした萬葉集講録四十八卷がある。こは、師雅澄の古義を撮要したもので、創見は無いが、其勞は多とすべきである。
 なほ上賀茂の三手文庫に赴いて、先年も見ることを得た似閑が奉納した、長流の自筆本、契沖の校本類を再見した。
 歸さ、神田香巖氏を訪うて、慶滋保胤の消息を見るを得、徳川時代に摺つたその模本を贈られた。消息の終に、「寂心恐々謹啓」とその法號が書いてあるのを以て、寛和二年薙髪後の筆であるといふことが知られる。保胤の文は本朝文粹に見えて居るが、書も亦、野蹟佐蹟につぐ能書である。
          十
 以上は京阪で研究し得た所であるが、歸途汽車不通の爲に、名古屋に數日逗留した。岡谷氏を訪うて、その愛藏の手鑑鳳凰臺を見るを得た。中に、元暦萬葉、及び藍紙萬葉の斷片を(404)見て寫しとつた。
 また、若原翁のもとで、東滿の勢語奥談を見た。緒言に、土佐日記は僅一卷であるに、業平の事を三所に引いた。以て貫之が彼を慕うた事がわかるなどある。註も大體に於いて面白く、後年に出來た童子問よりは勝つて居る。なほ此書は、東滿が若くて三河岡崎にをつた時の著と傳へて居る。
 また大洲の天福寺を訪うて、先年も尋ねてわからなかつた正中書寫の萬葉集に就いて問ひ、數卷の目録をも繰つて見たが、不明であつた。
 一日を瀬戸に遊んだをり、木賀崎の長母寺に無住の跡を尋ねた。無住は大圓といふ國帥號をも贈られた高僧であるが、沙石集、雜談集、聖財集、妻鑑著の著者で、歌も數多は無いが卓れて居る。文章家、歌人としても、鎌倉時代の異彩ある一人である。
 
       七十三 歌學史資料斷片
 
 更科日記や濱松中納言の著者なる菅原孝標の女は、空想に富んだ文藝を愛した少女であつたが、父と共に常陸に在つて、母や姉から源氏物語の梗概を聞き、どうかその全部を見たいと、(405)等身の藥師佛を作つて祈願を籠めた。然るに其後都に上つて、叔母の家で源氏や其他の物語を借りる事を得て、そを讀み耽りつゝ、其嬉しさ、后の位も何にかはせんと喜んだ。
 自分は數年來、和歌の歴史的研究に志し、その材料を蒐集して居るが、今日は幸に神佛に祈らずとも、諸所に圖書館はあり、諸名家秘藏の書をも見る事を得るが、猶傳記にわからぬ點があり、著書の世に埋もれてをるのがある。偶々、或は從來知られざりし事を知り得、或は珍らしき書を探り得た時の喜は、孝標の女の嬉しさにも劣らぬと思ふ。逆に近世歌學の巨匠たる戸田茂睡、富士谷御杖、六人部是香の傳記、著書等に就いて、捜索した苦心を談さうと思ふ。
 戸円茂睡の傳記は諸書に斷片的に散見しては居るが、その系譜等は判然しない。所が、大學の史料編纂掛で、寛永諸家系圖傳、寛政重修諸家譜等を見る事を得て、從來知られなかつた系譜を明かにする事を得、茂睡と關係の深い山名玉山が彼の從弟であつた事等もわかつた。
 しかし、父の歿年がさだかでなかつたに、雜誌心の華の投稿を見て居ると、下野黒羽小學校なる深澤氏の歌がある。黒羽は茂睡が幼少の折父母と住んだ地であるから、深澤氏へ問合せたに、詳しい返事があつて、父の歿年、その墓の黒羽の寺にある事も、母は江戸で歿した(406)事もわかつた。殊に不思議なのは同氏がその事を黒羽小學校長渡邊氏に話をすると、同家は茂睡の兄の末孫で、茂睡の眞蹟二種を藏し居らるゝとの返事を得た。即ち渡邊氏に請うて借り受けると、一は後人が「梨本書」と表題した一册で、その一節がかの一語一言に出て居るものである。茂法師、睡法師と武士の茂右衛門とが神儒佛の三道を評論すると云ふ面白い書であるが、その奥書に、幻高庵隱融といふ文字がある。之によつて、百萬塔に、「紫の一本」は茂睡の作ではあるまいとある説の誤なる確證を得た。今一つは、「重代三文之銀寶錢之傳來」と云ふ一葉で、渡邊山城守が東照宮から銀錢を給はつた事が記してあるが、をの奥書に「渡邊茂右衛門憑法名梨本茂睡」とある。之によつて從來誰も知らなかつた彼の幼名が憑と云つた事がわかり、彼の歿後、戒名を憑雲寺殿とつけた譯もわかつた。彼は叔父の戸田氏へ養子に行つて恭光とつけたので、その兄弟は、善、重、高など、いづれも一字名である。
 茂睡の次男元周が信濃南佐久郡相木で歿した事、茂睡の遺書等を同地から得た事が、「近世名家書畫談」に出て居る。自分は數年前、甲州八が嶽の麓から千曲川の上流を旅行した事があるが、其折には心づかずに通り過ぎた。で、佐久郡から出る佐久新報社に捜索を依頼した。程經て岡村の猿谷氏から、元周の歿年、其妻の相木の人なりし事、元周が父母兄の法要の爲(407)に建てた碑が現存せる事等を詳しく通知してくれられた。又同氏所藏の茂睡眞蹟の「代始和抄」一卷を借り得た。その終に、貞享四年の大甞會の記事があるのを見て、彼が有職にも趣味をもつて居た事を知り得た。(茂睡の歿年に生れて、同じく和歌の革新を唱へた荷田在滿は、貞享以後また中絶して元文三年に行はれた朝儀に就いて、大嘗會便蒙を著はしたのも一奇である。)この一卷は後に同氏から讓り受けて、今は余の書架に秘藏して居る。
 茂睡の墓は淺草の金龍寺にあると云ふので、墓地通の山口君に問ひ、同じく武田君の同行をも請うて探したが見當らぬ。「うぶねのすさみ」に、水戸の學者板垣宗憺の墓の向に在るとあるが、その墓も廢墓となつた。只隣地の東陽寺の庭に、彼が長男の爲に建てた手向野の碑が現存して居る。彼の在滿の墓が同じく金龍寺にあるのは、不思議の因縁と云ふべきである。(在滿のやその妹蒼生子の碑は、現に同寺内にある。)
 茂睡が高野山に詣でた途次、大磯の鴫立澤に長男の追悼の爲に建てた碑は、今も猶圓位堂と斜めに、海に向つて、低い碑に歌を彫りつけたのが遺つて居る。鴫立澤を訪ふ人は、松蔭の此の小さい碑をも訪うて貰ひたい。
 淺草待乳山聖天の境内に、彼の歌の碑が現存して居る。夙く、上部が兩斷した爲、姪孫の(408)櫛分規貞が石室を以て三面を被うて、前面の歌の文字は、明らかに見えて居るが、其碑の横側に幻隱庵高融書の文字が果してあるか無いかと云ふ事は、些事ながら問題であるが、今は、裹まれてをるので知る事を得ぬ。聖天の寺や、傳法院をも訪うて尋ねたが、古い記録にもよくはわからなかつた。
 茂睡の著書は大方知り盡したつもりであつたに、或る人から、書物市に、彼の百人一首雜談といふ書が出たと云ふ事を聞いた。さる書物は聞いた事は無いがと思ひつゝ、三四人の手を經て終にそを贖はれた漢學者兩角寛翁の許を訪うて見る事を得たに、確かに茂睡の著書で百首の歌を借りて彼の歌論を發表した書であつた。歌學史上彼の著書に斯かる價値ある一書を加ふるを得た事は誠に喜ばしい。殊に兩角翁はさる書ならば貴下の許にある方が、茂睡も定めて喜ぶ事であらうと、讓りくれられたのは誠に喜ばしかつた。
 「茂睡眞蹟三十首」と云ふ折本がある事は、京山の「茂睡考」又「近世名家書畫談」に出て居るが見る事を得なかつた。或人が、芝の書肆村幸にあるとの事ゆゑ訪うたに無い。又ある人が駒込の書肆で見たとの事ゆゑ訪うたが、無かつたに、漸く文行堂から贖ふ事が出來た。後に伊勢を旅行して、川喜田氏の千歳文庫にあるのを見た。又同文庫には「紫の一本」の古本を(409)も藏して居られる。紫の一本は度々筆を加へたものと見えて數本ある。中にも、大槻如電翁藏の京傳舊藏の正徳本は、著作の年代に近い善本で、他本にはない不求橋其他の記事があつて、最もよい。また南葵文庫藏の書、及び同文庫保管の勝伯所藏の書、木村正辭博士、狩野享吉博士所藏の書などが變つて居る。又伊勢の神宮文庫では、茂睡の眞蹟に近い「歌學密受抄」を見た。その寫本は大學の國語研究室にもある。
 上田博士が信州から得られた茂睡の掛物を見たが、それは家隆や寂蓮の歌を評したもので、彼が中世歌學に造詣の深かつたのを知る資料となるものである。又、昨年(明治四十一年)の暮に品田氏から讓り受けた彼の眞蹟一幅は、彼が歌の改革に對する一種の宣言書とも云ふべきもので、寛文五年正月の書である。寛文五年は契沖が二十六歳の時、長流が林葉類塵集出版の五年前、春滿の生れる五年前、眞淵の生れる三十二年前である。即ち彼が元禄の古學復興に於て、その祖たる地位を占める確證を得た。これは歌學史上最も價値あるものである。
 かやうに彼に就いては調べたが、尚、高田與清が「松屋筆記」に茂睡傳の材料とした數種の書を見る事を得ない。高田早苗博士に尋ね、與清の遺墨展覽會でその藏書目録を調べ、水戸の彰考館を訪うた折にも捜索したが、見當らぬ。
(410) 富士谷成章の語學上に於ける功績は誰も知つて居る。成章の子なる御杖の著書は多く刊行されて居るが、父の名に覆はれて餘り世に重んぜられては居らぬ。然るに、近年御杖の歌學に闕する著書數種を贖ひ得た。讀み味ふと、彼が伯父なる皆川淇園、父成章の精緻なる學風の影響を受けて、我が歌學史上に特筆すべき思思を有して居た事を發見した。で、彼の傳記に就いて委しく調べた。彼は十二歳で父を失つて、叔父小川成均の指導を受けたのである。成均の傳は、淇園の末孫なる丹波龜岡の皆川氏に問ひ合せて知る事を得た。又學友和田氏から、彼が十三歳にして廣橋兼胤に入門した事が兼胤の「八槐記」にある事を開き得た。(成章は靈元帝の皇子なる有栖川職仁親王の點を請うた事が、その家集の文詞に見えて居る。)又富士谷成興氏を訪ひ、同家の系圖を見る事を得て、御杖の兄弟、その子等の事を知り得たから、彼の年譜等を作つて見たいと思つて居る。
 歌格の研究は近世歌學の中で最も學問的價値のあることであるが、自分は夙くその歌格研究の歴史に注意して其を調べた。然るに、六人部是香の「篶廼木綿垂」に、長歌が一種の形式で書いてあるのを見て、その歌格論の書を求めて居たに、狩野博士所藏の「長歌玉琴」一卷を見る事を得た。この書は、重年眞龍以來の歌格説を大成した、優れた書である。で、な(411)ほ、彼の著なる「詠歌本論」等を見たく思つて、京都に旅行した折、彼の後裔なる向神社の六人部家を訪うたが、古今集の研究に關するもの、短歌集の稿本等は見る事を得たが、志した書は見られなかつた。大坂で、彼の門人なる渡邊氏をも訪うたが無かつた。京都で富岡氏に聞くと、かつて詠歌本論の端本を書肆で見た事があつたとの事ゆゑ諸所をあさり、又彼の門人なる肥前の糸山、水戸の岡、東京の磯部諸氏にも問ひ合せたが猶未だ發見する事が出來ぬ。
 以上は自分が捜索に苦心したわれ面白の物語であるが、埋もれた古人の傳記、著書等がよしや聊かづつでも、次第にわかつて來たと云ふ事は、獨り自分一個の喜のみならず、我が歌學史の上にも益する所があると信ずる。
 ここに、前三氏の著書で、なほ見ることを得ぬ書名を掲げて置く。
 茂睡著。おはづかし。庄九郎物語。職原口訣大事。つゝ留相傳物語(また大岡壽禄に與ふる書)。五色御舍利傳記。
 御杖著。大量。點化秘術。
 是香著。詠歌本論。上古歌謠要解。?古長歌集。萬葉集要解。同別釋。同發語考。同作者偉。
  追記 茂睡に就いては、其後事蹟著書等種々發見せられたが、それらは、戸田茂睡論(大(412)正二年刊)、文と筆、茂睡考解題(ともに大正四年刊)等に掲げてあるを以て、省略すル。
上述のうち、待乳山歌碑の脇に書いてある文字のことは、享保十八年刊の江戸名物鹿子によつてさダかに知ることを得た。またかの正徳本は、余の架中に愛藏することとなつた。御杖に就いては、その門人五十嵐篤好が輯めた御杖歌文、及びその著書種數を得て、得るところがあつた。
 
       七十四 彰考舘の古書
 
          一
 
 本年(明治四十四年)三月下旬、上田萬年教授が、彰考館の古書を捜索せむと出張せられたに同行して、水戸に赴いた。予は、去四十一年七月にも赴いて、歌學上に得るところがあつた。その折に研究した顯昭の日本紀歌註、夕霧尼考、その他に就いては、歌學論叢、日本歌選上古之卷に載せておいた。こたびも亦、幸ひに多少の發見を爲すことを得たを以て、ここにその大要を記さう。
 
          二
 
(413)  延寶蒐集の古書について。
 義公が、大日本史、禮儀類典、扶桑拾葉集、釋萬葉集等の編輯の爲に、材料の古書を求めるとて、儒臣を派し、關西地方で謄寫せしめ、また蒐集せられたものゝ中に、すぐれたものが多い。これ即ち延寶年間の事である。今その二三を擧げよう。まづ、
  萬葉校本
 がある。所謂飛鳥井本や、幽齋本、官本、雅章の校本の三本を以て校合したもの。その奥書に、
  此奧歌九十餘首以木工助敦隆本加之件本以越州刺史本書加云々他本無此哥云々追書入畢
  以三證本校畢云々
 とある。類聚古集の編者として、萬葉學上注意すべき藤原敦隆の傳に、記し添ふべきものである。
 次の奥書に、
  建保三年夾鐘十日以累代之秘本終一部之書功重伺證本令校合畢時也卜禅林之古寺翫勝地之春山巖腹雪消草抽三分之緑林頭露馥花散數片之紅加之曉排松戸霞中之月朧々夕遊竹窓雨後之風習々視聽所觸感懷自然也耳
                    大炊權助源親行
とある。こも、未だ世に知られなかつたもので、親行の傳に補ひ記すべき事實である。この(414)建保三年は、彼の仙覺が十三歳にしてはじめて萬葉の研究に志した年で、而してその後二十九年なる寛元元年に、將軍頼經の命によつて、親行は萬葉を校調したのである。
 また次の奥書に、
  書本云斯本者肥後大進忠兼之書也而施入雲居寺了予借彼寺香山房所筆寫也件本表紙書云‥‥
 とある。雲居寺、香山房の名は、流布本の奥書に見えざるところである。
 雅章が校本の奥には、
  右萬葉集二十卷者以 官本爲本書讀合古本之訓點令書寫者也予自青年之昔有欲寫此集之志而未企及今處繁務雖少々退之暇爲果宿志凉閣拾螢冬幌聚雪歴二寒暑而終其功嗚呼殘生無幾何聊思兒孫之繼箕裘※[愍の民が牙]凌老眼揮禿毫而已
        寛文七年臘月除夜      散位藤(花押)
 とある。以て古人が寫本の苦心を察すべきである。校本の最後に、次の如く記してある。
  以三本校正所謂細川藤孝本飛鳥井雅章卿以官本所寫之本雅章卿以諸本所校正之本
        延寶戊午歳         京師新謄本
 別種の萬葉校本に、所謂中院本がある。この書はもと八條智仁親王の本を以て寫したので、由阿及び範政の奥書のあるものであるが、その一の卷の終に附箋して、
  右雌黄附遺者以小納戸所領 東照神君遺本校之
(415)      元禄甲戌初冬        彰考館識
 とある。彰考館の藏書中、駿河御讓本は數種あるが、こゝに記された萬葉の現存せざるは、惜しむべききはみであるが、神君御讓本の中に、萬葉のあつた事實は、注意すべきである。
 また「延寶庚申歳以南都春日社若宮神主中臣氏家藏書寫之」の奥書ある古葉略類聚抄五卷を發見した。この書の中臣家にあつたことは、荷田東滿の僻案抄にはじめて見え、世に流布したのは、安永六年江田世恭の寫したによる。しかも延寶八年は東滿が十二歳の時、安永六年よりは九十八年前に當る。この書がかくの如く夙く寫され居たにかゝはらず、庫中に埋もれて今日まで世に知られなかつたのは、惜しむべきである。しかして延寶當時、この書がすでに零本となつて居て、五册だけであつたといふ事もこれによつて知ることを得た。
 その他延寶五年公業の奥書ある萬葉集の寫本、所謂阿野本がある。また由阿の拾遺釆葉抄一卷がある。奥書に、
  萬葉集以四代之秘傳終一部之讀進不貽奥旨所奉授關白殿下也
        貞治五年七月十日      桑門由阿 記之
 とあるを以て知らるゝ如く、詞林釆葉抄と同年に成つたものである。
(416) また、和歌縁起一卷がある。和歌色葉抄の一部分で、終に高智記之とある。高智は上覺の別名にや、研究を要すべきものである。(こは寛政の影寫本である。)
 また、萬葉類葉抄の撰者中御門宣胤の萬葉集拔書一卷、撰者不詳の萬葉集抄一卷、柿本人麿集一卷、宗砌の古今連談集論三卷、延慶訴陳状の後に更に爲世の状あるもの等がある。
 以上は概ね延寶の寫本、若しくは蒐集本で、稀覯の書である。
 なほ釋萬葉集、參考書目ともいふべき彰考舘藏書中の和歌書目一卷がある。こは當時現存してゐた歌書を知るに便よき書である。
 
          三
 
  萬葉代匠記について。
 契沖が、義公の命をうけて萬葉註釋の筆をとりそめたのは、いつの年であるか、詳かでなかつたが、釋萬紀原寶永三年の文に、廿四年以前とあるによれば、天和三年に當る。又契沖が元禄十年に著した和字正濫通妨抄によると、「十餘年許さきより」また、「予十四五年來」云々の句がある。十五年とすれば、天和三年である。
 而して契沖は、その代匠記の稿本を献じたに、義公の志に協はなかつたところのあつたよ(417)しは、釋萬紀原及び今井似閑の代匠記の序に記せるが如くである。この初稿本とおぼしい契沖自筆の代匠記の零本二種が、彰考館に藏せられてある。
 即ち公の命として、まづ流布本を校勘すべき資料として、前節に述べた中院本、飛鳥井本等を難波へ遣はされた。(現にかの中院本には、契沖のものした符箋が多く添つて居る。)契沖は更に校訂し、はた研究して、新しい考を得る毎に、宗憺のもとにおくつた。その草稿は、筆削及び補遺など題せるが、遺つて居る。また代匠紀を水戸で清書し、契沖の後按を朱書したものも殘つてゐる。かくの如くにして、精選本の代匠記は成つたのである。こたび數種の原稿を合せ見て、はじめてその經路がさだかになつたのである。
 他に、契沖自筆の勝地吐懷編、及び古今六帖の校合本がある。また厚顔抄を水戸で書き改めた古萬葉集がある。(古萬葉集に就いては、日本歌選に掲げておいた。)
 
          四
 
  威公と義公。
 威公若くより和歌を嗜まれ、また神道に志ふかくて、萩原某を聘して神道の奧儀を受け、その自筆の神道に關する書が數種ある。以て義公の學問に淵源あることも窺ひ知られる。
(418) 威公遺愛の書の中に、日本書紀が三種ある。二種は、天文本と正保本とで、ともに卜部家の筆になつたものであるが、注意すべきは他の一つである。そは嘉暦三年鎌倉建長寺で沙門曇春が寫した神代卷で、もと二卷の卷子本であつたのを、帖に改めて四帖としてある。その書風が古雅で、訓點の國語學上に資するところが多いのみならず、卷二の奥に釼阿の奥書がある。こは從來かつて何人も注意しなかつたものであるが、嘉暦三年といへば、楠木正成が義兵を起した三年前である。當時鎌倉にあつた六十八歳の老僧がしるした言としては、頗る味はふべきものがあるから、こゝに掲げておく。
  竊以、有體者方含心識、有心者必具佛性、々々法性遍法界而不二也、自身他身與一如而平等也、云佛云神性相互體焉、云内云外|忘《妄カ》心別執矣、而我朝是神國也、以崇神爲朝務、我國又佛地也、以敬佛爲國政、是以、自垂仁天王以來敬神祭祀之勤無怠、自欽明聖代以來歸佛信法之儀尤盛、國依之靜、人依之康、敵國不能侵之、賊臣不能傾之、依之、東平肅愼、北降高麗、西虜新羅、南臣呉會、三韓入朝百濟内屬、范史謂之君子之國、唐帝推其和皇之尊、而今百王之流既臨末、十善之徳漸垂衰、上難値聖明之君、下希得忠直之臣、祭神之禮有名無實、歸佛之願少眞多僞、起君出臣、國患累頻重、上闇下諛、朝賞罰多誤、是以、諸宗佛法悉衰、諸社祭禮行業甚疎、善弱惡強、那顯正陰、遂使佛法王法共及湮滅、畿内畿外併致荒廢、豈不愼之、寧不悲之、故拾厩宿皇子之舊事本記、任大舍人親王之誰訓、不殘相承之秘傳、奉授曇俊禅師畢、于時嘉暦執徐無射※[門/奄]茂云爾           金剛釼阿【俗年六十八法歳四十一】
 文中、敵國不能侵之云々は、かの宏覺禅師が蒙古降伏祈願文の末に、『未の世の末の未まで(419)我が國は萬の國にすぐれたる國』とあるに同じく、内尊外卑の思想を明言したものとして注意すべく、又、今百王之流云々も、當時の時勢が知られる言である。而して此尊重すべき書が如何にして水戸家に傳はつたかといふに、額田信通の祖先が額田城主たりし時、建長寺の住僧が兵を避けて寄寓した折、携へ來た建長寺什物の多くの中の一つであつたのであらう。(なほ此釼阿が嘉元四年に寫した日本書紀は、丹鶴叢書の中に採録せられてある。)
 日本史の事に就いては、こゝには省略するが、唯注意すべきは、假字記傳議、及び假字鎌足傳である。前者は、義公の命により、大日本史を直譯體の假字交り文に書き改めようとしたに就いての議を述べたもの、後者はその一例として鎌足傳を書き改めたものである。
 
 彰考館文庫の藏書は、彰考館藏本と潜龍閣藏本(うちに小山田與清の献納本がある)とを合せて約五萬卷ある。なほ學問上貴重なる書多く、遺漏尠なからざるべきも、短時日の捜索を以て以上の收穫かあつたのは、心ひそかに喜びとするところである。かつ斷片的の事實に就いては、別に水府雜話として記すこととした。
 
(421)     結語
 
 「和歌史の研究」の校正の筆をおいた今日、恰も大正の 天皇陛下が御即位の大典をとり行はせ給うた時に際したことは、予一個人として喜びに堪へないところである。而して殊に自分の喜びとするは、今日發表せられた御贈位の人々のうちに、わが歌學史上に、その名の逸すべからざる歌人や學者の、少なからず見えた事である。
 契沖の先輩かつ友人で、萬葉集管見の著者はた林葉累塵抄の選者で、近世國文學の先覺者の一人たる下河邊長流。源氏湖月抄、枕草紙春曙抄、八代集抄等の著者で、國文學の普及開拓上に功績のあつた北村季吟。彰考館に仕へて、年山紀聞紫女七論等の著ノあつた安藤爲章。東滿の甥で、後その養子となり、田安宗武に仕へて、大甞會具釋同便蒙を著し、また國歌八論を著して堂上歌學を攻撃した荷田在滿。伊勢津に生れて、本居宣長が同國の先輩で、日本紀通證、和訓栞等の名著をのこした谷川士清。芦菴、澄月、慈延と共に當時平安歌人の四天王の名を得、國つ文世々の跡、近世畸人傳等の著のあつた件蒿蹊。宣長の門にいで、松屋文集、三の志るべ等を著した備中の藤井高尚。同じく本居門で、竹取物語解の名著があり、その門(422)に井手曙覽の如き歌人を出だした飛騨の田中大秀。土佐に出でて、貧困と戰つた努力の生涯のうちに、萬葉集古義の大著を成し、國文學史上に不朽の功績を擧げた鹿持雅澄。本居門の村田春門及び、平田篤胤に學び、古傳通解、歌日記以下、神道をはじめ古學諸方面に數多の著書をなし、その門人に玉松操、福羽美靜子等を出だした大國隆正。及び八田知紀に歌を學んだ宜之灣朝保等、いづれもそれ/”\贈位の恩典を恭うした。
 これらの人々は、或は之を本書中に論じ及んだ人もあり、また論じ洩らした人もあるが、その國文學史上及び和歌史上に、逸すべからざる功績の人であることは、いふをまたぬ。これら吾人の先輩として常に之を尊敬し、また精神的に親しみ來つた人々の名を、贈位の人名中に見たことは、特に吾人の喜びに堪へぬところである。
 今や歐洲諸國が、殆ど國といふ國を擧げて、戰亂の巷に化してをる時に當り、わが大正の大御代は平らかに治まり、盛んに榮えて、この千古の御大典を行はせらるゝは、まことに何の幸といふべきか。而して殊に吾等學事にたづさはる輩の、靜に學窓に專念するを得ることは、思へば歡喜に堪へぬ次第である。况んや吾等の學問の先蹤者であり、吾等の先輩たるこれらの人々のこの良き恩典に浴するを見るを得ては、實に聖旨の深大なるを思うて、感泣(423)せざるを得ない。吾等學に志すもの、益々奮勵努力して、聖恩の萬一に報い奉らねばならぬ。
 本書の擱筆にあたり、恰もこの千古の光榮を見奉つて、喜びの余り、一言を記して本書の結語とする。
 
和歌史の研究 終
 
(424)    和歌史の研究補遺
 
二四頁 「祝詞壽詞等に就いて。」藝文十一年、二、四、五號、井出淳二郎氏「祝詞の制作とその時代」參照。
三一頁 「萬葉集概觀」は、訂正して、「萬葉集の研究」の中に掲げたり。
四二頁四行、四四頁九行 都帥老の「都」の字は、校本萬葉集によるに、諸種の古寫本及活字無訓本に無くして、活字附訓本以後の衍入たること明なるにより、これに關する説を除く。
六三頁一二行 「二十五日」以下を、「辰時嘗寫了以肥後前司本也件本諸家本委校了云々」と改む。
六四頁五行 「云うて居る」以下を、「云うで居るが、忠家は天治以前の寛冶五年に世を去つたから、誤である。」と改む。
同頁一〇行 の次に、「なほ曼殊院にあつた五卷のうち、卷二と卷十四の斷片各一葉づつを見るを得た。卷十は、夙くから散佚したとおぼしく、その斷片がここかしこの手鑑におされて居る」。を補ふ。
六七頁一二行 の次に、「水野家に贈られたといふことは、木村博士が、はやく森枳園から聞かれて、(425)萬葉集書目提要に記された。」を割註として補ふ。
七〇頁五行 の次に、「なほ大正八年七月、古河家にて本書全部を撮影印行せられたり。こは後に述ぶる類聚古集の印行と共に、東京帝國大學に於ける萬葉集校訂事業の副産物ともいひつべく、萬葉學の爲に慶賀に堪へざるなり。」を補ふ。
七四頁一三行 「中期のものとおぼしい」の下に、「嘉暦相傳の卷十一の零本一册が、中山侯爵家にある。【こは細川幽齋から烏丸光廣に贈つたものと傳へて居る】また」を補ふ。
七六頁二行 「九種」を「十種」に改む。
同頁三行 「見るを得ざる註釋の書二種」の下に、割註として、「永仁書寫の萬葉集抄二册、弘安書寫の萬葉集註釋の零本三册ありと簡けど、所在詳ならず。」を補ふ。
同頁一一行 「十一より」以下を、「十一及十三より十六まで、十七より二十まで、卷十二一卷と、四人の筆で」と改む。
八一頁三行 「門流の意であらうが」の下に、割註として、「後のものではあるが、京都青蓮院所藏の曼荼羅供作法の表紙に、慈覺門人尊純と書いてある例もある。」を補ふ。
八三頁六行 の次に、「後、金澤に赴いて自ら調査したに、明忍は同寺の二世釼阿のことであるとい(426)ふ事がさだかになつた。即ち、本書四一八頁に掲げた日本紀の奥書をした釼阿と同一人である。」を補ふ。
八四頁 の終に、「附言。三寶院所藏の醍醐の仙覺の永仁五年に寫したる金剛隨心像、及彼の肖像は、史料編纂掛第九回史料展覽會に出陳せられたり。又、新和歌集に採録せられたる仙覺の歌三首あり。同集によるに、光俊親行等と親しかりし藤原時朝と、萬葉學の仙覺と交ありし事明なり」を補ふ。
八五頁 「古葉略類聚抄に就いて。」心の華廿一卷十一號、橋本進吉氏「古葉略類聚抄の錯簡に就いて」參照。
九六頁一一行 「藏せられて居る」の次に、「元來水戸家で萬葉の註澤を契沖に託せられたのは、義公の計畫せられた萬葉註釋の材料、もしくは原稿としてであつたとおぼしく、(釋萬紀原に、精撰本に就いて「是亦とくと入御意不申」とあるは、肯ひ難い。)契沖が精撰本を上つた後、」を加へ、「それで」の三字を除く。
同頁一二行 「專ら」の下に、「釋萬葉集の」の五字を加ふ。
九八頁一一行 の次に、「上述の如く、釋萬葉集の成立の過程には、契沖派と反契沖派との爭があつたが、現存の釋萬葉集によつて見ると、殆ど精撰本代匠記と同一のものとなつて居る。」を補ふ。
(427)一〇〇頁一〇行 「契沖と萬葉代匠記」、心の華廿四卷七號久松潜一氏「萬葉代匠記に就いて」參照。
同頁一三行 「長流の生前に」云々の十八字を削り、「貞享の末、即ち長流の没した貞享三年前後に成つたものと考へられるから、長流が生前自分の代りに契沖を水戸家に推薦したと見る方が妥當であらう。」を補ふ。
一〇一頁二行 「數卷」を、「卷二、三、十六、二十の四卷が」に改む。又「その斷片が」を、「中に、卷二の斷片が世に散らばつて」と改む。
同頁六行 「全部ある」の下に、「再稿の精撰本は四十九册で、中に卷七下の一册のみ文政十年以後の書き足し本、他は全部契沖の自筆である。」を割註として補ふ。
一〇二頁一行 の次に、「附言。初稿自筆本の卷十六一册は、近く水戸の坂本氏から得て、竹柏園に架藏することとなつた。また、再稿自筆本の契沖の奥書を木村博士刊行本と比校するに、卷二下の奥に、「元禄二年十月十二日注了校了 契沖」卷十上の奥に、「元禄三年三月廿二日抄之畢」、卷十三下の奥に、「元禄三【庚午】歳仲夏廿六日抄之畢」の三個所が刊行本に脱して居る。精撰本の成つた月日を語る貴重な史料であるから、ここに書き添へておく。」を補ふ。
一〇八頁六行 の次に、「附言。天暦二年書寫の授菩薩戒儀一卷(大口氏舊藏)を、近く架藏すること(428)を得たり。その眞字、氣分、いはゆる行成公任時代のに酷似せり。かかる時樣、すでに天暦の頃行はれゐし證とすべし。」を補ふ。
一〇八頁 「藍紙萬葉の筆者」、及一一〇頁四行「金澤萬葉の筆者」は、前者は世尊寺伊房もしくはその流風を傳へたる當時の人の筆、後者は伊房の孫定信の筆と定むべき證發見せられたり。「増訂萬葉集古寫本攷」及「萬葉集の古寫本及古筆の研究」參照。
一一四頁 の終に、左の數行を補ふ。「フ氏が、西暦一八四九年即ち嘉永二年に著した「日本最古の詩歌に關する論文」は、維納の帝國學士院の報告に發表した三十五頁ほどのものであるが、從來我國に傳はつて居なかつたと思はれる。然るに、その論文が米國紐育圖書館に所藏されて居たのを、同地在留の原良三郎氏が全部撮影して寄贈せられたので、初めて見ることを得た。最初に日本詩歌の音調形式等の特質を考察し、次に神話の一部分を譯しつつ、記紀の神代卷にある短歌長歌を全部獨譯してあるが、文中、萬葉集は價値の多いものであらうが、未だ見ることを得ないから、ここには述べない、と言つて居る。心の華廿六卷七號、久松潜一氏論文參照」。
一六五頁四行 「歌經標式の古寫本に就きて」、武田祐吉氏著上代國文學の研究參照。
一八〇頁一二行 の次に、「追記。史學雜誌三十一編三號橋本進吉氏論文「法橋顯昭の著書と守覺法(429)親王」參照。
一八三頁九行 の次に、「彰考館本の日本紀歌抄は、「神代六首和歌」と題する神代紀の歌の註と、顯昭の日本紀歌註の一部分との合本で、その表題に日本紀歌抄とある。神代六首和歌は、その註の中に「疏」をひいてある。そは多分「纂疏」のことであらうから、一條兼良以後の著である。日本紀歌註(假名日本紀と題してある)の奥書は、國語研究室本と同じことであるが、誤寫があるから、ここに掲げておく。弘安《本云》七年春令誂云心性房了 寂惠 正慶《(ウラニ)》元年仲冬十月有余日以右本書寫校合畢 暹儕、
 とある中の、「令誂云」は「令誂書」の誤、「暹儕」は「暹阿」の誤である。」を補ふ。
一八七頁 の終に、「また橋本進吉氏の説に、東寶紀卷一講堂の條に、建久八年依2文覺上人發起1高雄淨覺房上人行慈專覺房阿闍梨性我【右大將家護持僧】致2奉行1とあれば、上覺は名を行慈といひしならむ。かつその没年は、高山寺迎接院舊藏の一卷(永和三年の書寫)によるに、嘉禄三年十月五日以前なること知らると云ふ。」を補ふ。
一九一頁一一行 「雜藝及今樣に就いて」、史林第六卷一號二號志田義秀氏論文參照。
二二六頁三行の次に、「帝國文學廿五卷七號、拙稿梁塵秘抄の斷片と田歌切參照」を補ふ。
二七四頁一〇行 大隈言道の歌に就いては、大正七年、言道が五十回忌の記念に、大隈言道一巻を刊(430)行せり。
二八五頁末行 に、「附言。三之の事蹟に就きては、猪熊信男氏より、貝原益軒の朝野雜載卷十五に、小傳の載れること、京羽二重卷六に、地下歌學として住所の載れるコと、古畫備考十二に、木瀬正房として載れること【妙滿寺にものして其畫の光廣の筆なること、同寺の手鑑に正房といへる短册を古筆家の三之と極めたること】、偏易子の贈木瀬殿と奥書せる卷物のあること等を指示せられ、かつ三之が延寶五年四月にしるせる傳受書の寫本一册を贈られたり。」を補ふ。
二九八頁六行 の次に、「追記。大正七年十一月、眞淵の百五十年祭が國學院大學に催された時、肖像の幅が數種出陳せられた。それを見ると、髻を下げた像は顴が高く出て居、髻を上げたのは頬の肉が豐かである。後者が最も晩年の面目を示すものと思はれる。」を禰ふ。
三〇六頁一〇行 「萬葉卷の次第に就いて」、拙著賀茂眞淵と本居宣長一六〇頁參照。
三一四頁 宣長に石上私淑言の初稿本といふべき排蘆小舶一册の著あり。賀茂眞淵と本居宣長一六八頁參照。
三三七頁四行 「ところとなつた」の下に、「天降言の全集は、和歌叢書中の近代名家歌選に載せた。」を割註とす。
(431)三四九頁末行 の次に、「附言。橘純一君に、守部全集刊行の希望を屡々語つたことであつたが、近くそれが實現して、橘守部全集の刊行を見るに至つたのは、喜ばしいことである。」を補ふ。
三六六頁八行 の終に、「禅宗十七卷六號吉澤義則氏論文、同七號橋本進吉氏文詞參照」を割註として補ふ。
同頁一一行 「彼の父が」は「彼の養父の父が」。一二行「秋成は」は、「養父は」の誤。
三六七頁七行 の次に、「追記。大正七年、國書刊行會から上田秋成全集、同八年、藤井乙男博士の秋成遺文等が刊行せられた。遺文中には、上述の自傳も採録せられて居る」を禰ふ。
三七六頁一三行 の次に、「追記。羽倉杉庵氏より聞くに、暗丸は東滿の弟信名の別名で、倉丸、暗滿とも書いた。東滿の長兄信友の男信章も駒滿と稱したとのことである。」を補ふ。
三八〇頁八行 の次に、「追記。岩橋小彌太氏より送られつる書信を次に掲ぐ。妙法寺本堂の南には、契沖師が供養塔あり。此村の墓地の稍奥まりたる方に、南に向ひたる墓三基あり。東なるは無縫塔、中なるは位牌形塔、西なるは五輪塔なり。中のには表に慈性信女とあれば、師が母間氏の墓なり。東のには、裏に下川瀬兵衛□元氏と刻りたれば、こは師の兄なる人の墓なり。西の五輪塔の表の字は、雨風に削られて讀み難けれど、僅に讀み得たる文字には、阿闍梨、また延寶八庚□十月□八日(432)などあり。延寶八年は  手定密師の歿せられたる年なれば、これ密師の墓なるべし。」を補ふ、
三八一頁六行 「芦庵」の上に、「傳」の字を加ふ。
四〇二頁二行 「追記。金砂及金砂剰言は、上述の上田秋成全集に採録せられたり。」を補ふ。
四〇四頁二行 「また」以下四行を削る。後に調べたるに、契沖の勢語臆斷の寫本なりき。
四一二頁五行 の次に、「また、篤好の息政雄氏及渡邊刀水氏から、御杖の著で未見の書數種の寫本を贈られた。なほ茂睡に就いては、戸田茂睡全集が刊行せられた。」を補ふ。
四一三頁八行 「以三證本校畢云々」は低くさげて、前行の「書入畢」と双べ書くこと。
四一四頁一二行 の次に、「追記。水戸家で校合に用ゐた雅章校本の原本三十册は、飛鳥井家から出て、古河家の所藏となつた。」を補ふ。
四一五頁九行 の次に、「追記。橋本進吉氏が水戸lこ趣きての調査によたに、彰考館書寫の類聚抄は、原本の一葉を一葉に寫したるのみならず、流布寫本に脱して原本にある五葉すべてあり。また、原本十の卷の中より後に散佚せる三葉もありて、原本の缺を補ふべく、萬葉學上重んずべき寫本なりとす。」を補ふ。
四一六頁二行 「寛政」は「寛永八年」の誤、「影寫本である」の下に、「追紀。橋本氏の調登によるに、(433)本書は流布本よりも書きざま委しく、原本の一部分ならむとのことである。」を補ふ。
四一七頁一行 「とおぼしい」を「なる」と改め、二行の「二種」を「十八册」と改む。
同頁三行 「中院本」以下、五行の「はた研究して」までを削り、「中院本、四點本等を難波へ遣はされた。(中院本には契沖のものした附箋が多く添つて居る。四點本は、いま徳川家にあるが、契沖の書入が多く、またその附箋は取つて別に一册に張つてある。)契沖は、それらによつて、流布本に校勘を加へ、更にその結果を取いれて、元禄三年の終頃までに、精撰本萬葉代匠記を編んで水戸家に上つた。なほ其後も」を補ふ。
同頁九行 の「勝地吐懷編」の次に、「十八代集要略五册、三代實録中預密抄一册」を補ふ。
同頁一〇行 の終に、「また契沖の門人海北若冲の藏書目録の寫本がある。」を補ふ。
最後に、本書にしるせる典籍文書のうち、その移動をしるさんに、六七頁四行大矢本萬葉、及七六頁六行高田氏藏西本願寺本萬葉は竹柏園、一八七頁五行色葉集は大阪上野氏、三九三頁六行白雲書庫本は岩崎文庫、四〇三頁八行保胤の消息は構濱原氏の有となれり。また、一九九頁四行梁塵秘抄は和田氏より、三八二頁一〇行新編漫畫序草稿は片野氏より、三九一頁八行若冲書牘は新村氏より、竹柏園に寄贈せられたり。
(434)正誤 目次八頁八行四一一は四一二、六四頁三行百煉抄は百錬抄、九八頁末行盛房は感方、一二一頁四行新栗は新粟、三〇〇頁一一行後期音は期後音、三八九頁一三行和訓類林は萬葉類林、四〇四頁六行天福寺は眞福寺、四一二頁四行種數は數種、四一四頁七行々退は公退、四一七頁七行清選本は精撰本、四二一頁六行蓍者は著者の誤。
 
和歌史の研究補遺 終
〔2015年10月7日(水)午後1時28分、入力終了〕