左千夫全集第五巻 歌論・随想一 1977.4.11
非新自讃歌論………………………………… 3
小隱子にこたふ……………………………… 6
日本新聞に寄せて歌の定義を論ず…………12
非地租増徴論…………………………………21
當陽川村某と云ふ人に物申さん……………24
樂人漫言………………………………………26
内地雜居の營業的準備………………………31
象山先生の書…………………………………35
藤原久良岐ぬしへ……………………………36
麓ぬしへ………………………………………38
根岸短歌會と新派……………………………39
人に答ふ………………………………………42
露國の撤兵通牒………………………………45
嗚呼支那問題…………………………………48
歌に就きて吾今日の考………………………49
茶事漫録………………………………………58
新歌論…………………………………………65
越ケ谷の桃につき……………………………89
擬墨汁一滴……………………………………91
子規子の近状…………………………………92
兩子に答ふ……………………………………95
尋に一言………………………………………97
信綱氏の歌……………………………………98
光風君…………………………………………99
命のあまりに就て………………………… 100
續新歌論…………………………………… 105
ジユウ的ぬた人…………………………… 130
長信短報…………………………………… 132
奥嶋曉雨君之歌…………………………… 134
心の花評…………………………………… 136
病床日誌…………………………………… 138
歌おどろ…………………………………… 139
歳の壬寅に就て…………………………… 141
再び歌之連作趣味を論ず………………… 142
『心の花』短歌會記事一………………… 152
あわゆきがたり…………………………… 161
虚心平氣…………………………………… 165
樂々漫草 上……………………………… 167
『心の花』短歌會記事二………………… 171
『心の花』短歌會記事三………………… 174
樂々漫草 下……………………………… 180
『心の花』短歌會記事四………………… 186
藪蚊言……………………………………… 189
正岡子規君………………………………… 191
『心の花』短歌會記事五………………… 197
名古屋短歌會選評一……………………… 201
倶樂部欄の諸君に御相談あり…………… 203
師を失ひたる吾々………………………… 204
『心の花』短歌會記事六………………… 207
『心の花』短歌會記事七………………… 213
名古屋短歌會選評二……………………… 216
名古屋短歌會選評三……………………… 219
『日本』選歌評…………………………… 223
不言舍君に答ふ…………………………… 224
『加持世界』選歌評……………………… 225
新年第一回歌會…………………………… 226
花探し……………………………………… 232
根本的相違………………………………… 236
塵觀片々…………………………………… 240
神樂催馬樂管見…………………………… 243
名古屋短歌會選評四……………………… 249
名古屋短歌會選評五……………………… 253
連作乃歌…………………………………… 257
受動的宗教家……………………………… 260
市川の桃花………………………………… 266
第二十三通常會…………………………… 267
『加持世界』選歌評……………………… 270
名古屋短歌會選評六……………………… 272
仁徳天皇之御歌…………………………… 277
閑人苦語…………………………………… 299
萬葉論……………………………………… 304
竹の里人一………………………………… 321
「しどみ」………………………………… 324
『馬醉木』第二號消息…………………… 327
名古屋短歌會選評七……………………… 328
竹の里人二………………………………… 332
日比谷公園合評…………………………… 335
『馬醉木』第三號選歌附記 ……………… 338
新古今集愚考……………………………… 339
『鵜川』選歌評…………………………… 349
『破魔弓』に寄す………………………… 351
竹乃里人三………………………………… 353
今の所謂新派の歌を排す………………… 356
『馬醉木』第五號消息 …………………… 372
動作之趣味………………………………… 375
「地方俳句界を讀む」につき…………… 382
軟脚の弁…………………………………… 384
萬葉私刪…………………………………… 385
展覽會に就て……………………………… 386
落塵一掃…………………………………… 388
日比谷公園………………………………… 391
第二十六通常會記事……………………… 394
芭蕉の肖像………………………………… 396
草庵之秋…………………………………… 400
竹乃里人四………………………………… 404
『馬醉木』第六號選歌評………………… 407
新刊雜誌略評……………………………… 408
森田義郎宛書簡…………………………… 412
俗謠について……………………………… 414
廣狹辨……………………………………… 420
『馬醉木』第七號選歌附記……………… 422
筆のついで………………………………… 423
『馬醉木』第七號消息…………………… 426
和讃評釋…………………………………… 428
『比牟呂』都波奈會選評………………… 434
竹乃里人五………………………………… 436
隨問答……………………………………… 442
『馬醉木』第八號消息…………………… 445
萬葉通解著言……………………………… 448
萬葉集短歌通解一―五………………………450
『馬醉木』第九號消息…………………… 478
咨問課題答案……………………………… 479
『馬醉木』第十號消息…………………… 483
『馬醉木』第十一號歌會記事前文…………487
長塚節「海底問答」附言………………… 488
課題答案一括……………………………… 489
竹の里人六………………………………… 492
『竹の里人選歌』序……………………… 496
『竹の里人選歌』凡例…………………… 498
通信………………………………………… 499
竹乃里人七………………………………… 502
「歌の季に就て」に就て………………… 506
『馬醉木』第十二號選歌評…………………510
『馬醉木』第十二號消息……………………511
「歌くづ八つ ほつま」歌評…………… 512
竹の里人八 …………………………………516
書齋裝飾の仕方…………………………… 520
『馬醉木』第十三號選歌評…………………522
『馬醉木』第十三號選歌附記………………525
『馬醉木』第十三號稟告……………………526
つばな會第九回の柿村舍歌評に就き…… 527
(3) 非新自讃歌論
物の數にもあらぬ歌人なれどあまりに腹立しければいでや少しく物まをさん あはれ日の本の名におふ新ふみの記者よ 記者が世のまつりごとの上にあげつらひ給ふ言の葉はいとも雄々しくすぐやかにして人により言をしりぞけず名により人を尊まず常にまさしく大やかに物し給ふは年頃おのれらが貴紙をおもむじ貴紙をうやまふゆゑよしなり しかるをけふしも貴紙にのする處の新自讃歌てふくだりをみれば其かみ後鳥羽院の御時の盛事になづらひ今の大御代に名だかき歌人らの自讃歌十首づつをなんつぎ/\と掲げ給はんとあり こはいとうれしきわざなるが明治の歌壇其人に乏しからずとの給ひかつは明治聖世の歌壇しかく盛なるをなどいと輕ろげに言擧し給ふは日ごろのおごそかなるに似もやらでいと/\あかず 口をしうなんおもほゆるかし 記者のの給ふ如く今の歌壇果して其人に乏しからざるか 明治聖世の歌界果して後鳥羽院の御時のごと盛なりとたゝへらるべきか疑はしとも疑はしからずや 而も記者は廣く天が下に求めおごそかに撰み給ふことはせで只世にきこえたる人々にのみよりて其歌をえんとし給ふはかへす/”\もあかず口をしうなんおぼゆるかし 時めけるかどにのみ歌つみ神はやどせるとおぼし給へるにや つぎ/\のするらむ歌の如何なるべきやはえしらねど先其の頭にあげ給へる小出ぬしの歌のむげにいやしげなる口をしさよ かうやうの歌を撰みおきていやさかえにさかえたる明治の大御代の歌なりと後の世に傳へ後の世の人にしめさんは今の世の歌人の耻のみにあらで實に大御代の耻にあらずや また世の(4)唐詩つくる人々俳句物し給ふ人々に和歌てふものはこれにてもよき物やなどおもひとられんも世の歌人の耻にあらでやは かれ歌てふもの今古の歌聖が教へのごと調をもとゝして心の匂をあらはす者ぞ されば心のみはいかにうつくしくいかにみやびなりとも調のとゝのはぬはいまだ歌とは云ひがたきなり まして心も調もいやしげなるをいかで歌とはいふべき 今小出ぬしの歌をみるに調の上には少しも味はふべき趣きなく心また雅に高きてふ氣韻に乏し 一々言あげせんは煩しければ今そが二三を言はんに「牛ひきかへるうしろかげ」「ふしかへるふすま」「里はづれ」「車にのりしかひなかりけり」抔たふとき和歌の調かは 舟子牛逐等がうたふてふ鼻うたの調子にこそ 歌は心の匂なれば今此十首の歌によりて小出ぬしの人がらを推しはかるにかたからぬぞ口をしき 明治の大御代の歌人として第一にゆび折らるゝぬしにしてかゝる歌を自讃歌と世にいださるゝこそいとゞ悲しきことの極みなれ ぬしは日ごろ達吟の聞えある人にしあればおほ方の世に異なれる節を求むるのあまりかゝる横道には入り給ひけん 返す/”\いとをしきことにこそ 凡世の中の萬の物事美醜あり雅俗ありそをとり捨てしてこそ美術てふ物もいでくめれ 醜くきものいやしげなるものうちまじりなばそは美術てふ物の界にいるべきにあらず 故にいやしげなる調とみやびならぬ心とはいづれか一つまじらひては即歌にはあらじかし 歌の俳句にことなる所は心の外に調をおもむずるにあなり 去ば歌にして調なきはこれ直に俳句なり 文字の長し短をもて歌俳を分つは歌俳をしらざる人の上にこそ 歌は心と調と兩ながらまたきを要するぞかし これ和歌の俳句よりかたきゆゑよしにして和歌の俳句よりたふときゆゑよしなり たゞ/\思ひいづるまゝを三十一文字につくればとて直ちに歌ならんやは いやしき心みにくき物ごとを其のまゝうたひたりとて俳句にもならぬものをいかで和歌になるべきや 香川ぬしてふ古のあやしき歌よみが「それそこに豆腐のこゑのきこゆなる」などといひて後の世幾萬の人を惑はしたる(5)ぞや小出のぬしも其中の一人にやあるらし ぬしの歌は歌にはあらで三十一文字の俳句なり ぬしは歌人にはあらで新俳人ぞかし 三十一文字の新俳人ぞかし しかも十首の中には心もみやびならで俳句にすらおぼつかなきさへうちまじれり かゝる歌をまさきにかゝげて明治聖世の歌壇しか/”\盛なりなどとうたはるゝ記者こそ心得ね あはれ日の本の名におふ新紙の記者は徒に名によりて歌をとるの陋をやめて歌其物につきて深く歌のおもむきにかなへるやいなやをきはめ給ふてよ しからざれば今の世後の世のさはなる人をあやまるの罪は記者ものがれがたくやあらん さては歌の摸範てふ歌を三つ四つかきそへて筆をばさしおくになん
立田川紅葉なかるゝ神なひの御室の山に時雨ふるらし
田子の浦ゆうちいてゝみれはましろにそ富士の高峰に雪はふりける
住の江の浦わにいてゝ月みれは難波のかたに鶴そなくなる
橘の匂へる宿の夕くれに二聲なきてゆくほとゝきす
明治31年2月『日本』
署名 伊藤春園
(6) 小隱子にこたふ
一
小隱なる人あり近頃「日本」に載せたる新自讃歌に就ての吾人の言説に反對せり 吾人敢て議論を好まずと雖も小隱が言ふ所の數點の如きは今世の歌學上歌界上緊切なる疑問と信ずるが故に今一言の止むべからざるものあり 小隱が議論(上)の如きは事多くは己往に屬し重要なる紙面を埋めて再論議するの必要を認めず 説の良否の如き固より讀者の判斷に任せば可ならんのみ 日本記者に對し歌の撰擇に愼重を希望したるの外語氣自ら攻撃に渡りし如きは諺に云ふ所の人を斬りし刃の餘勢衣を裂くに至りしのみ 記者も此意は了せられたるべし
小隱が論説(下)に就て吾人が再戰を欲するものは以下の三壇に過ぎざるのみ 其餘の惡体的なる冗言駄語の如きは毫も吾人の論旨に關せざるなり
(一)小出の歌の如き調が卑しき調に非ざるや否や かゝる調なる歌も和歌と云ふべき物なるや否(之は小出の自讃歌に就て云ふのみ以下同意)
(二)小出の歌の如き句言若くは調が果して新材料若くは斬新などと云ふべき物なるや否や又小出の歌の如き變(7)體をも以て眞の進歩と爲し得べきや否
(三)詩は心を主とし調を客とし得べきや否や 詩形と調と同じき意味の物なるや否
今や此三壇に硯陣を懸けて小隱と筆鋒を交へんとするに先ち吾人は彼に通知して吾人の舊壘の一角を彼に渡さゞるを得ざるものあり 吾人の前説中歌の俳句に異なる所は心の外に調を重ずるにあり 去れば歌にして調なきは直に俳句なりの論詞は全く吾人の誤なり 吾人の心は歌の俳句に異なる所は心の外に調の異なる者あれはなり 去れば歌にして歌の調なきは直に俳句なり 歌は高尚即上品なる調を要し俳句は必しも然らずと云ふにあり 歌にのみ調なる者ありて俳句其他には調なしとの意にあらざりしなり 然れども兎に角吾人の論詞に誤ありし以上は此一角の舊壘は正に小隱に讓り置くべし
いざや本陣に返らん 小隱の辨頗る快なりと雖も句言を直に調と稱し調を直に詩形と稱したるが如きは詩旨を論ずるの上に於て理義甚不明瞭なるを免れず 句言は句言なり調は調なり詩形は詩形なり其間自ら異なる者あることを小隱はしらざるか
小隱よ吾人は小出の歌に就て調の卑しきを云ひしのみ 句言卑しとは云はざるぞや 然るに小隱は其の句の古言のみに依らざりし故に他ならざるなりとて吾人が卑げなる調と云へる意味を知り得たりと稱すれどもこれ句言と調とを混同したる僻言にして小隱は未だ吾人が所謂調なる者の意味を解せざるなり
小出が歌の如きも句々に分ち見れば決して卑しき句言とは云ふべからざるなり また決して斬新なる句言にもあらざるなり かゝる句言は千年以前より已に/\行はれつゝ有りしなり「牛ひきかへる」「うしろかけ」「ふしかへる」「ふすま」「車にのりしかひなかりけり」以上句言何故に斬新なるぞ 又卑しき句言にもあらざるぞや 吾人(8)は調の卑を云ひたるのみ 畢竟するに小出の歌のいやしげなるは句の組織よろしきを得ざるに依れるなり 言を換ふれば調を整ふるてふ手腕足らざるが故なり 無体に斬新を希望しながら意匠即調の足らざるが故に和歌には不似合なる姿となりしなり
之を衣服に譬ふれば同く是絹布なれども模樣柄の野卑なると斷縫の拙きより非常なる品格の差あるが如し 又物好なる貴族が新形の模樣と新風の縫樣等を好みたれど意匠と技術の足らざる爲其衣服は逐に高尚即上品と云ふ點に缺くる所ありて貴族の品格に適せざるに至りしが如し 小出の如きは其下品なるにも心附かずしてわれは顔に人にほこりしが如し
二
夫れ詩の上に於て調と稱する者は一句の上に就ての意味にあらず 句句を連接するなる即一詩を組成する技倆よりあらはるゝ結果を名づくるの意味なり 只形などゝ云ふ樣なる單純不動的なる語言にあらざるなり 故に調の足らざるは句としては卑しからぬも歌としては卑しくなれるなり 吾人は深く俳句を知らずと雖も今や和歌の調を論ずるにあたり再歌俳の關係を云はざるべからず 夫れ歌てふ者が調に於ても姿に於ても必ず上品なるを要すると俳句は必しも然るを要せざると皆是各其自然的性質の然らしむる所なり 縱令へば和歌は貴族の如し俳句は平民の如し 廣く社會の上より見れば貴族必ずしも尊からず平民必しも卑しからず 是猶文學の上よりみれは和歌必しも俳句より尊からざるが如し 然れども兎に角貴族は高等なる人間なり 社會の上流にある人間なり 故に其精神行状より衣食住の末に至るまで比較的上品ならざれば決して貴族の體面を保ち貴族の品位を維持すること能は(9)ざるなり 否貴族たる者の自然的資格に背くものなり 吾人が和歌てふものは調と心と全きを要し調も姿も勿論心も上品ならざれば和歌なる者の自然的資品に戻ると云ふも此意味なり 故に歌なる者は如何に變化するとも馬糞をよみ燒芋をよむ能はざるなり 猶適切に之を云へば輕佻無智なる貴族が文明とか進歩とか云ふから熱に浮され平民的自在輕躁なる行動を爲して天晴開化顔したらんが如し貴族たるの品位を損する怪しむに足らんや 吾人は小出が歌の變化の状甚是に類するが故に俳句なり卑しげなり横道に陥れるなりと斷言せるものなり 嗚呼斯る行動を目して斬新なり進歩なりと騷ぐ連中の今の世に多きこそ悲しけれ 小隱よ斬新を好み進歩を好むは春園も子に讓らぬぞや 只だ/\和歌たる者の本性以外に逸出するを憎むのみ
小隱は吾人が歌てふ者は調を本として心の匂を顯すものぞといへるを非なりとして曰「調を主として心を客とす 彼等は即詩形を先にして詩想を後にするなり(中略)而も詩想有りて後詩形は來るべきのみ云々」小隱が所論中眞に詩旨に渡りし者は只此一節のみ 而も彼は調と詩形を混同成せり 否彼は調を以て直ちに詩形と思へるなり 宜なり其の云ふ所極めて浅膚毫も取るに足らざるや抑調即しらべなるものは先にも云へるが如く名詞的不働の語言に有らず 調なるものは即世界の総べての事物を鹽梅調和して詩となす所以の根本藥なり 此調なる神藥の配剤宜を得ば通常平凡の心詞も以て詩と爲すことを得べし俗言俗事も以て詩と爲すことを得べし 況や詩趣ある者に於てをや 歌の歌たる所以俳句の俳句たる所以皆此調に依て定まるなり 氣龍と云ひ餘情と云ひ趣味と云ひ豪快悲壮と云ひ皆此一の調に依て生ずるなり 約言すれば調を離れて焉ぞ詩なる者あらんや 之を畫に譬ふれば調は即技術若くは筆趣と云ふが如き者なり 句言は即繪の具の如き者なり 詩想は即畫題若くは圖案と云ふが如き者なり 詩形とは即山川水石動植の如きものを云ふなり 是(10)歌の佶倔とか流暢とか或は雄大精細など云ふことにあたるなり
見よ畫家にして其技術筆趣已に精煉巧妙の境に達せば天下の萬物美術の材料たらざる者少し 如何に忠臣孝子壯士貞婦の事跡山川水石動植の美形を寫したりとも其筆の精煉巧妙なるなくんば詩趣焉ぞみるべけんや 徒に畫題の異常と畫形の奇怪なるを悦で斬新なり進歩なりなど云ふ輩は未だ共に美術を談ずるに足らざるなり 精煉巧妙の筆を以てせば一枝の椿一輪の菊猶能く詩趣を顕すに餘あるにあらずや 筆ありて後に畫あり 調ありて後に詩あり 詩形若くは詩想のみを以て詩を判するの俗なるは畫題若くは畫形のみを以て畫を可否するの俗なるが如し 今日の歌界と畫界と甚だ似たるも笑ふべきなり 某歌人と某畫家とが眞面目ならば兩人共相當の技倆を有しながら斬新とか何とかいふ或る突飛なる熱にかぶれて世の物笑となりしまで相似たるをかしさよ
小隱は詩趣滿眼却て詩なしと云ふことを知るか 詩趣直に詩にならざるが如く詩想直に詩に成らざるぞや 如何に詩趣滿限詩想満腹と雖も調を整ふるなる手腕なくしては詩の出來る筈あらんや 以上の所論に依り最早歌は調を本とするの心は解せられたるべしと雖猶吾人は適切なる一例を擧て小隱に示さん
あさか山かけさへ見ゆる山の井の淺き心をわれもたなくに
鳰鳥のかつしか早稻のにひしほり酌みつゝをれは月傾きぬ
此二首の詩想をたづねみよ 一は「浅き心を我はもたぬに」一は酒くみつゝゐるまに月が傾きぬと云ふに過ぎざるなり 是程の心は通常平凡の心なり 高雅優艶と云ふ程の想にはあらざるなり しかも出來あがりたる歌は如何高雅優艶無限の趣味あるにあらずや 是更に調の力に依る者ぞ 只夫れ調の力に依るものぞ
小隱は歌人にあらざるも詩壇中の一人と見ゆるに何ぞ今少しく論旨を深めて詩神のいますなる詞林の奥家に入(11)らざる 吾人子が再論を聞かんと思ふや切なり
明治31年2月23日、24日『日本』
署名 伊藤春園
(12) 日本新聞に寄せて歌の定議を論ず
吾人歌を酷愛すと雖も敢て歌を以て世に立つ者にあらず 又敢て歌を以て世に知られんことを求むる者にもあらず 從て歌に從事すること拾年敢て一度も世の所謂歌人間に交を結びしことなく又敢て一度も世の謂ふ所知名の歌人に藉を捧げたることなし 然るを頃日ゆくりなくも日本紙上に顕はれたる新自讃歌なる者を見れば吾人平生の所信に違ふや甚し 以請らく是後世を誤るなからんやと 平居歌を好むの情覺へず筆を採て聊か記者の參考に供せんと思ひしを宏量なる記者は直に紙上に掲げて世人に示され端なくも一時歌界を騷すに至りたる已に吾人の本志にあらず 況や小隱子と論戰を重ねんとは固より豫期せざる所に屬す 然りと雖も事茲に至りては又好める道に忠なる所以の義思ふ所を盡さんと欲するの念に堪へず 記者足下今一度の余白を吾人に給與せよ
戊戌年彌生の七日 伊藤春園
日本新聞記者足下
歌の定議を論ず
小隱子が再論は其出立の業山なるに係らず其掛聲の甚だ盛なるに係らず其議論や悉く組打的肉迫的にして戰法極(13)めて陋劣なり 今世歌人の迷夢を破り枯凋散落せる今日の歌界に春氣を促す的なる議論は今少しく堂々たらざるべからず 吾人は思ふ如斯屑屑たる議論は神聖なる詩壇の問題を決する所以にあらずと 然かも彼が議論の多くは吾人の論旨を誤れり そは兩説を熟覽せる人の必知する處ならん 故に吾人は重ねて口論的なる反駁の勞を厭ふ 吾人は先に務めて無要の辨を避けんが爲めに旨意を一括して立論せるものなるを彼は頻りに要領を得るに苦むと云ひつゝ強ひて有ることなき順序を逐はんとしたるが如き豈陋ならずや 且彼が小出の歌を庇するや曰無趣味なる非文學的なる歌に比すれば一歩を進めたり云々と 淺膚寧ろ笑ふに堪たり 無趣味なる非文學的なる即全然非詩的なる歌に比して一歩を進めたりとて焉ぞ卑調にあらずと云ふを得んや 吾人不敏と雖筆を取て歌旨を論ず 豈に今世の屑歌詠の歌を標準とせんや 尚彼が高尚上品の他に優麗豪壯流暢莊重其他の調を有し云々と云ひたるが如き普通の理義を得解せざる言樣なり 其他衣服の譬を解し得ざるが如き意匠即調と云ふ意味を解しえざるが如き詩形と調との論点に向て一言を出す能はざるが如き到底彼は詩哥の深旨を談ずるに足らざる者なり 吾人今は彼と論鋒を交へんことを願はず 三度茲に稿を寄する所以は只吾人が平居懐泡する所の歌の定義なる者を公にして今回の論局を結ばんと欲するのみ
夫れ皇御國の歌は第一品格高尚なるを旨として調ぶべき事 第二歌ふと云ふことを旨として調ぶべき事 此二つの者は則歌の定義にこそあれ 吾人は第一義を論ずるに先ち文學の階級を論じ置かざるべからず 文學の眼中只美あるのみ 豈に階級なる者あらんやとは思ふに小隱等一二輩の言説にあらず 必や今世一部詩壇の解見ならん歟 是吾人が茲に一言の必要ある所以なりとす 抑天理は人類を平等視すると雖も人道は社會の階級を無要現する能はず 何となれば政事の必要ある社會は秩序の必要を認めざるを得ざれはなり よし理想の發達は人爵を無視するに(14)至ると雖も人類の性質に天賦の賢愚利鈍あるを免れざる以上は社會に階級を生ずる是自然の勢ならずんばあらず 既に已に社會に階級ある以上は此社會中の一物たる文學豈獨り階級あるを免れ得んや 今之を事實に徴すれば醫術業代言業と豆腐賣野菜賣との如き社會の必要よりみれは同じく人生に缺くべからざる者なれど營業の品格に差あること爭ふべからざるが如く演劇に於ては能樂と芝居音樂に於ては琴と三絃文書に於ては修身哲学と稗史小説画に於ては本画と浮世繪詩に於ては歌と俳句皆是同じく社會に必要なる美術文學なり 而して其間各品格の差あるは免るべからざる事實ならずや 吾人平居画を酷愛す 請ふ画を以て譬へん 圓山應擧の遊女の画其上乘なる者に至ては價數百金美術品として又貴重の物ならずんばあらず 然ども其浮世繪【應擧を浮世繪師と云ふあらず】たるの品格は遂に高貴なる宮殿に入る可らざるにあらずや 是即馬糞を詠み燒芋を詠みたるの俳句は從令文學としては貴重すべき價直を有したりとも其品格は遂に高貴なる精神を義ふに適せざるに異なることなし 詩の眼中階級なしとは畢竟強辨に過ぎざるのみ
人或は云ふ 歌の品格を云々するは自ら歌の範圍を狹ばめて歌を束縛し歌を不自由にする者なりと 彼豈に詩の本義を知らんや 其束縛あり不自由あるは則詩の品格を保つ所以なり 豈に獨り詩に於てのみならんや 世事多くは然り 苟も世の上級に居る者にして其品格を保たんとせば必ず謹愼正肅を基とせざるはなし 謹愼正肅は即温和なる不自由の母ならずや 見よ彼れ漢詩に於ても嚴に聲律を逐ふにあらずや 要するに不自由束縛は總の詩の一素因と云はざるべからず 且夫れ吾人が品格を云々するも淺陋なる姿聲を避けんと欲するに過ぎざるのみ 思ふに俳句の起れるは歌の足らざる所を補ふべき必要に促されたるにあらざるなきを得んや 俳句は下級にある丈け不自由も少く範圍も廣きは理の正に然るべき所にして感化力を社會の下層にまで及さんとの必要は品格の下れるを致し(15)たる所以ならずんばあらず 本画の不足を補はんが爲に浮世繪なる者起りて社會の好尚を滿したるが如く歌俳兩々相待て大和民族が精神の營養に供するに至りし者にして又各相混すべからざる定義は其中に存するなり 然るを歌は俳句の長きものなり俳句は歌の短きものなり 三十一文字なる故に歌にして十七文字なるが故に俳句なりと思ひ誤り詩形の外に各異なれる節あるを知らざる輩は到底共に詩を談ずるに足らざるなり 然れども吾人は決して歌は上級の者なるが故に重く俳句は下級の者なるが故に輕しと云ふにあらず 自然的性質は彼が如く階級を生じたりと雖も社會の必要上に於ては歌俳に輕重なきを信ずるものなり
從是吾人は筆を轉じて歌なる物は何を以て品格高尚なるを旨とすべきやを説明せんと欲す
夫れ萬葉の歌は則歌の本體なること今日に於て何人も異議なき所ならん 是誠に當然の理なり 我國に歌なる者ありてより千有余年人麿赤人家持憶良等の歌聖相次て起るに及で詩運隆盛の極に達したり 此時に當りて歌なる者は已に發達し得るだけ發達し成熟し得るだけ成熟して歌てふ一の文學は茲に完全無缺の物となりしや敢て論を待たざる所なり 故に此時の歌を歌の本體と定め此時の歌を玩味研窮して歌の定義を茲に求むるは又當然の順序ならずんばあらず
扨孰/\當時の歌を考へみるに盛に冠詞を用ひたる所務めて簡潔に詠流したる處何となくつゞけたりと思ふあたりに反て心をこめたりとみゆるなどに依りても專ら品格の高からんことを期したるの跡歴々想像し得らるゝなり 殊に男女間の濃厚複雜なる戀情を歌ふにすらも務めて單純なる想を序し務めて簡潔なる言葉を撰びたるが如きはまたく歌の品格と云ふ点に深く心を用ひたるものと知らるゝなり
人或は曰萬葉の歌の大概單純簡潔なるは當時士人の思想皆簡朴なるが故なり 或は曰萬葉の歌の品格高きは自ら(16)なる姿にして求めて高を致したる者にあらず 或は又曰當時の歌は皆當時普通の言葉を以て有のまゝに詠める物にして殊更に言葉を撰み調べを巧みたる物にあらずと 吾人の見を以てすれば是皆極めて淺膚なる臆説にして大に誤れる僻言なり 何を以て之を云ふ 予一年寧樂の舊都に遊び法隆寺其他の古刹に就而其當時の美術工藝品なる物を歴覽せしことありしが高雅優麗なるは固より論なく其緻密精彩を極めたる点に於ても今世人の容易に及ぶ可らざるが如き者あり 抑如斯緻密精彩なる美術工藝品を殊愛したる所の當時士人の思想を只管簡朴なるべしと想像するは道理の決して許さゞる處なり 然ば則當時の歌の簡潔單純なりしは品格の高きを求めたるが故にして其品格の高きを要めたるは則歌の本義之をして然らしめたるや知べきのみ 其言葉に於ても冠詞の如き者普通の言語にあるべき筈なく歌は言葉の花と言ひ傳へ吾國は言魂のさきはふ國と言ひ傳へたるを見ても決して自らなる姿など云ふべき物にあらずして其詞を撰びしらべを巧み煉磨を盡したる者なることは知り得べし されど今人と古人との思想を比較し見たらんには古人の今人より簡潔單純なるは論なかるべし 吾人の言は只人の想像するが如き者にあらずとなすのみ 思ふに古代の歌聖と仰がるゝ人丸赤人の如きは必ずや畢生の力を盡して煉磨砥勵以て金玉を遺されたるに疑なし 萬葉の歌を以て徒に自然の詞なり有のまゝの言葉なりなど云ふは詩旨を得解せざる愚人の言ならんのみ 是を以て吾人は斷ず品格高尚なるを旨として調ぶるは歌の本義なることを
第二歌はうたふと云ふことを旨として調ぶべき事是れまた吾人は萬葉の歌に依て斷ずる者なり 萬葉の歌が哥ふといふことを旨としたることは種々の古書に歌ひ給ふ云々とあるをみても後世の識者の所説に依りても歌其物の姿に依りても充分に知り得らるゝなり 前にも云へる如く萬葉の歌は詞を煉り品格高く調るを專として是を歌の第一義と爲し思を述ると云ふ方は第二義となしたる者ぞ 是歌ふ者なるが故なり然るに世くだちていつしか此定(17)義は破れにけり 故に後世の歌は專ら思ひを並ぶると云ふ方に傾きて言葉調べなど云ふことは思ひを述ぶる材料に過ぎざる樣に成ゆきて歌は長く衰へにケリ 實朝卿賀茂翁の如き者稀に起りて名歌を詠まれたりと雖も自身其人の歌のみにして遂に他に及ばざりしものは思ふに此根本の定義を回復して教を立てざりしに由るなからんや 抑吾邦の古代初て交を漢土に通じ彼の文物典章を盛に採用せし時に當り一時漢土崇拜の思想は朝野を支配せるや必せり 思ふに當時天下の文士を擧て漢詩を弄し遂に歌をして非常なる否運に陷らしめしならん 皇御國の言葉の花なる歌の定義は全く此時を以て破にたりと思はるゝなり 詩を訓して唐歌と云ひ歌をば「やまと歌」と唱へたるが如き即其証なり 何となれば漢土に於ても詩と歌とは確然定義を異にし詩は志を述べ歌は言を永ふしと云へるなり 然るを何事ぞや其志を述ぶるを定義とせる詩に訓し唐歌と云ひたるは 是やがて歌ふを旨とするなる吾國の歌を誤りて漢土の詩と同じく志を述るものとなせるなり 彼貫之古今集の序を作り夫れ「やまと歌」は心を種として云々と説き其心を以て古今集を撰び其心を以て己れも歌を詠みけらし【〔欄外記入〕宇多と云ふ詞は吾國より外になし 何を苦てやまとゝはことわりたるぞ やまと歌と云ふ語の中に漢詩崇拜の思想殘れり】貫之にして既に如斯當時の歌人を擧て蕩々誤の淵に沈みたるや知べきのみ 是併其以前より已に誤り來りたる者にして獨貫之等を罪すべからずと雖も中古の歌聖なりとまで尊まれたる此人にして覺る所なかりしは歌の定義の長く混亂したる所以にして又歌の永く衰退したる所以なり 思へば豈に怨恨せざるをえんや 縣居の翁は云へり古今集には讀人しらへぬ歌にこそ善き歌はあるなれと 誠に理りなり 則歌の定義未破以前の歌なればなり
然れども吾人今日に及ては其思を述ぶる的なる三十一文字詩を全然排却消滅せんとは決して思はざるなり 寧一體の詩として歌の外に適當なる名稱を付し之を存し置かんと欲するのみならず猶之が發達をも希望する者なり(18)只歌ふを旨とすると思を述ぶるを旨とするとは詩旨に於ても詩形に於ても自其趣を異にすべきは當然の理義なるを以て自今劃然二者を區別して各其特有の光を發輝せしめんとするは吾人の希望に屬す 嗚呼歌てふ物は敷島の道と迄稱へつゝ國名を冠する程なる吾邦唯一の詩にして定義の混亂したること千有余年なるは實に吾邦文學の一大汚辱と云はざるべけんや 世上文學に從事するの人士よ願くは少しく思を茲に致されよ
上陳の如く歌道衰退の大原困は漢詩の浸蝕に遇ふて歌の定義破壊せられたるに基き爾來漢詩崇拜の思潮は長く吾哥界を毒したり 殊に其著しき者を白樂天の詩なりとす 林間暖酒燒紅葉香爐峰雪撥簾看などの詩に係る美談より例の中世の歌宗と仰がれたる定家の卿が手に自氏文集を離さゞりしと傳ふるに徴しても當時の文人等が如何に樂天の詩を崇拜したるかを知り得し 吾人は斷ず歌の徒に非哀的厭世的婦女的玩弄的に傾きて益柔弱に益蕩冶に陷りたるは白氏文集崇拜の毒潮が慥に其一原因を爲せりと 吾人の見を以てすれは彼樂天の詩は一種の体として尊ぶは妨げなかるべきも之を詩神の本尊視するに至りては甚しき誤なり 然るに詩と歌との區別さへ得辨へざるまで無見識なりし當時の文人等は濫りに之を歡迎崇拜したるの結果は遂に歌をして百代振ふ能ざるかと思ふばかり衰しめたり 吾歌道の爲めに一大痛恨せざるを得んや 然りと雖も是畢竟歌人の罪にして歌の罪にはあらざれば今世と雖も一朝大歌人の起るありて大手腕を振ふ者あらは敷島の日本の歌は粲として東海の表に光を發するや疑なし 故に吾人は今世歌人の振はざるが爲に決して落膽せざるも只此際速に歌の定義を明にせんことを願ふや切なり
近世の歌神と吾人が敬ふ所の縣居の翁は既に其端を開き給へり 其新學に於て卷頭唱破して曰 古の歌は調を專にせり歌ふものなればなり 其詞の大凡はのとにもあきらにも云々 其調と云ふ意義に就ては少しく吾人と見解を異(19)にするやの疑あれど兎に角歌は歌ふと云ふことを旨として詞ぶべきは歌の定義なりと教へられたるや明かなり 宜べに翁の歌は皆此意義に基きて作り給へり 然るに數多ある門人等一も翁の意を得ること能はず 遂に歌の心をして翁と共に死せしめたり 豈にいとをしき事ならずや 八田知紀氏は近世の達識なり 新學に絶對的反對を試みたる香川氏の門弟なれども其調の直路に於ては歌は調を本とすべき事論なしと云はれ歌ふと云ふことを旨としすべきやう論じたり 其天賦の調云々と云ふ点に就ては吾人大に反對なれども兎に角一部の見を同せり 此人をして縣居の門に出でしめたらばと思はるゝもなつかし【天賦の調は勿論總て調と云ふ意義に就而は吾人は古今の學者と見解を異にせり 異日機を見て論ずる事あるべし】以上歌の定義は畧説盡したりと思へば今世歌人たる者は自今如何なる体度を取るべきやに付て吾人の考を説て此章を終べし
夫れ歌は姿の整ひたるのみと思を云ひえたるのみとを以て滿足すべきにあらず 調べの働即言葉の使樣に依りて綾に響くを必要とするなり 此ひゞきの中にこそ趣味てふ者と氣韻てふ者はこもるめれ 人の心を動すと云ふも一に此ひゞきの力に依る者ならし 通常の談話と雖も猶云ひ樣によりて人を感ぜしむること深きものあり 況んや歌に於てをや 故に趣味と氣韻となき歌は直に歌にあらずと云ふことを得べし 是を画に譬ふれば画想と画形とは如何に完全に寫し得たりとも筆の働と彩墨の配色とに依りて趣味と氣韻なる無形の妙味を顯すなくんば此画は未だ以て美術と稱すべからざるが如し 夫れ詩と非詩との堺美術と非美術との境を説く豈に容易の業ならんや 吾人の凡庸なる只心に悟るあるのみ 之を口に云ふ能はず 之を文に説く能はざるなり 今の急進画家等が徒に画想画形の上にのみ倔托して技術の煉磨を次にすると今の青年哥人等が作哥の技倆を余所にして歌の改良進歩を云々すると毫も異なることなし 根本已に/\誤れり 焉ぞ其奥に近くことを得んや
天下の萬物を粉碎して美術となし天下の萬事を溶蕩して詩となすの技倆あり始めて文學美術の上に新機軸を談ず(20)べきなり 一物一事の上にすら詩趣を得るに覺束なき連中が暗雲に出過ぎたるこそなか/\に片腹痛けれ 詩形を新にするも人の感を動すの方法として決して輕ずべきにあらずと雖も詩の趣旨と云ふことを等簡にしては誠に甲斐なからんなり 大凡詩形の種類千状萬体なるべしと雖も要するに詩趣を顯すべき方法たるに過ぎず 故に吾人は充分に詩趣を顯しえたらんには詩形の如きは何れにてもよろしく必しも新しきと珍しきとを問ふの必要なき物と信ずるなり 兎に角作哥の技倆を煉磨しえたらん後にして歌の改善を云々すべきが當然の順序と信ずる者なり 猥りに自家獨許の怪しき歌を世に出すは反て後進を誤るの恐れあり 大志ある者は自ら重じる處なかるべからず 世の識者以て如何となす
戊戌の彌生七日の夜 於水石庵
伊藤春園 記す
明治31年3月 草稿
署名 本所茅場町第三街に住む 伊藤春園
(21) 非地租増徴論
斷乎として地租増徴の不可を明言しつゝ内閣の首斑を占めたる大隈伯俄然其印綬を解くや所謂元勲てふ藩閥の老骨連は躁遑内閣を組織し私利と虚名とに腐心するの外胸中胸裏に一物なき天下の私黨を操縱して生民の休戚と國家の大計とを度外に置きたる彼地租増徴案を取て再度今期の議會に提出せんと欲すと聞く 吾輩一介の賤民固より政論に習はずと雖も此際豈に叫破一聲其不可を鳴さずして止まんや 然も吾輩が地租増徴を否とするの理由は決して現行地租比準が我邦王朝盛時の地租に稍等しきが故之を動すは不可なりと云ふにはあらず 又我邦現行の地租が歐米各國と其規を同ふせざるが故に不可なりと云ふにもあらざるなり 何となれば王朝盛時は一千餘年以前の事其法美なりと雖も以て今日に法る可らず 歐米各國又其國情を異にす 其法美なりと雖も又直に移して吾邦に用ゆべからざるや是又論を待たずと信ずればなり
吾輩が地租増徴を否とする所以は其一視同仁の王道に戻り國費の負擔は四民均一たるべき税法の原則に背反し且爲政の大本を損ふの恐ありと爲せばなり 寧現行の地租と雖も吾輩は猶農民偏重を云々したる者況んや此上に増徴せんと云ふをや
夫れ現行の衆議院議員選擧法は國税の納額に依て選擧資格を定めたり 故に一度全國の選擧人名簿なるものを檢せば如何なる種類の國民が比較的最多くの選擧有權者を有するかを容易に知り得らるゝなり 肯て統計表を作ら(22)ざるも世人は毎時の議員選擧期に於ける各種の報告に依て之を記憶せん 抑何れの地を問はず市街なるものは必ずや其府縣若くは一地方の資力を吸集するものなり 故に負擔均一の原則よりせば此市街なるものは比較的必ず多數の納税者を住ましむべき筈なるに事實は決して然らざるものあり 近く我東京を見よ殷富全國に冠たる此市街に於て衆議院議員の選擧區一區中の選擧有權者其數五百に滿つるの區なきにあらずや 是に反し地方即田舍に於ける區内の有權者は實に二千の數を下る所あることなし 是大に賦課の任にある者の注目すべき點にあらざるか 市街居住者稍もすれば農民を侮り田舍漢と嘲り士百姓と罵ると雖ども人世最貴重すべき參政權を有するもの反つて遙に農民の下にあることを辱ざるなり 若夫れ飜て所得納税者の數を檢するに町人の狡猾なる巧に約税の義務を免るゝと雖ども猶其税納者の數は議員選擧有權者の數に幾倍なるにあらずや 然して地方即田舍に於ては全く之に非常なる反對の現況を示し即ち有權者千に對する所得納税者五十を得るは實に極めて稀なるべし 嗚呼所得納税者の多きは資力の盛を示すものなり 選擧有權者の多きは負擔の重を示すにあらざるか 苟も世の政事に志あるもの最も謹重に國費負擔の輕重を考ふべき義務あり 氣を靜め心を平にして觀察せよ 國税三拾圓を出す市街居住者と同額を出す地方人即農民と其生計の程度其資財の勢力に於て非常なる懸隔あることを發見する決して難事にあらざるなり 希くは世の政論家當事者三度思を是に致されんことを 市街には負擔最輕き士商工民の多數が居住する故に選擧有權者の數從て少く地方即田舍は負擔重き農民の住地なるが故に選擧有權者の數前に云へるが如く多數なること毫も疑を要せざるなり 然るに今や地租増徴論者は更に是の農民に向て負擔を加へんと欲するなり 嗚呼横暴なる哉
吾輩は云ふべし英と爭ひ露と競はんと欲せば先づ英の如き民露の如き民を作ることを先ぜよと 軍備擴張の如き(23)豈に必しも緊急の問題ならんや 對岸米國は實に吾邦の好摸範にあらざるか
吾邦農民の現状は教育に衛生に生産に未だ以て文明の國民たる資格と品位とを有せざるなり 然るに世の多くの爲政家等は一念是に及ばず重が上の重き負擔を更に農民に加へんとす 何ぞ無稽の甚しきや 吾輩は斷ず地租増徴は國家の大本を害ふものなりと
回顧すれは四五年以前なりし民力休養の議論は議會の大問題なりしなり 當時の諸政客今皆健在なるに民力休養已に成遂げたりと思へるにや 將た今は民力休養の不必要を悟りたるにや 將又例の健忘癖に失念したるにや 何ぞ近來其聲を聞かざるや 世にも頼まれぬものは今の政客にこそあれ
吾輩と雖も事今日に及では國費の不足又決して傍看す可らざるを知る 經費節減遂に爲し能はずんば何ぞ國民全般均等に負擔すべき税種を擇ばざる 鹽税砂糖税絹税何故に不可なる 或は其方法の難くして政府の勞多きを云ふか 是極めて不信切なる心得ならずや 吾輩は今日の場合斷じて一部國民に限れる負擔の増加に反對する者なり
明治31年11月『日本附録週報』
署名 本所茅場町伊藤幸次郎
(24) 當陽川村某と云ふ人に物申さん
本月四日の日本紙上竹の里人に呈すとて、君が申されたる處は、誠に尤らしく聞えて甚尤ならず、なべて虚言らしき虚言は寧面白き場合あれど、誠らしき虚言は極めて面憎き物ぞかし、「賤の男が稻こく小屋のかとくちに妻は夜寒の衣うつなり」此歌に付竹の里人の評言固より實際を得ずと雖も、然も此歌も君が云ふ處も、皆大に事實に違へるなり、實際と云へば小杉と云ふ人は勿論、君も田家の事には皆無通ぜぬことゝ思ふ、暗い同士の口論眞の田舍者には片腹痛し、何時の頃なりけん今の御歌所の歌が(そばの花ちる)と云ふ歌を詠で信州の農夫に難ぜられたと云ふ話ありしが、事實の物に推測を用ゆるは、初めより無理にて、小杉の此歌なども其通り、巧に穿た積りの大穿ちそこなひなり、一体精神上の事ならばいざしらず、事實の事を穿つと云ふが大間違の根原なり
扨田舍にて夜稻《よいね》をこくと云ふことは、必ずあることなれど當り前の事にはあらず、早稻や中稻には決して、夜間こくと云ふことはない、秋もやう/\末になりゆきて、遅稻の取入最中と云ふ時節、日はだん/\短くなり寒さは日増に加はりて、場合惡く雨雪に逢ふ樣のことありては、取入に非常なる難儀と損とを免れぬなり、故に此時分は農家に於て、植付に次での最も多忙なる折なれば一家總掛にて取入に從事するなり、大抵此際に於ける男の夜仕事と云へば、日中こいた藁の片附又は米をいるべき「俵」「ポツチ」(方言)などを作り、女共は夜稻をこくことなり、男のこくといふは稀有のことなりとす、全體夜るこけば穗をこき殘す患ある物なれば、極忙しい止を得(25)ざる時ならでは、夜稻はこかぬなり、されば夜稻をこくと云ふ忙しい自分に、女が衣うつなどゝ云ふことは萬々あることなし、腕拔《うでぬき》股引手指などの料なる太物は、植付とか取入とか、さ忙くなると云ふ以前に必ず支度を整へて掛る筈なり、忙しい眞最中に妻女が太物いびりしてゐる樣では、農家は立いかぬなり、若し或はそいふことが適にあるならば、夫れは極めて異例の事にして決して通常でない、且小屋の中にて稻をこけば、藁は必ず軒の入口にかさむべきなれば、小屋の中の燭光を間接に利用して、かど口に衣うつなんちうことは、思も寄らぬなり、理窟から考へても、此位の事は知れそうな物ならずや、評言其物の氣に入らぬとならば、何ぜ正面から反對せざるや、余は歌の事は更に知らざれば、歌の善し悪しは分らねどなどゝ空とぼけ田舍者らしく見せかけつゝ、尤らしう虚言をならべて人を誤魔化さんとは、極めて憎むべき癖者であるよ、君は。(本所の町はづれ茅のや樂人)
明治32年1月『日本』
(26) 樂人漫言 明治己亥二月
呈獺祭書屋主人
本年の初摺「ほとゝぎす」の卷頭には主人が物せられたる俳句新派の傾向と題せる一文を見る 論法整然理義明白古を説き今を論じ比較對照以て其所謂俳句新派が進歩せる程度及其傾向を論斷して意氣の盛なる一世を風靡するに足るゝものあり 予の如き近時稀に俳句を試むと雖も元來は歌の方に執心なる者なり 然かも之の文を讀で再三再四盆々敬重の念を加へたるを同派諸士の得意實に想ふべし 予は欽仰の余り一夜其實際に照合して反覆玩味を試みたるの結果二三の疑点を發見するに至れり 是予が肯て一書を裁して主人に教を乞はんと欲する所以なりとす 主人の論旨は大要二段に分てり 一は明治の俳句は複雜の程度に於て元禄天明に一歩を進めたりと云ふこと 一は元禄にも天明にも天保にもなき新趣味を明治の俳句に見ると云ふことなりとす 先明治の俳句が複雜となりたる例として清水の濁ると云ふ元禄以下の古句を擧げ終に
強力の清水濁して去にけり 碧梧桐
の句を出して云く「去にけり」の五文字にて清水を離れ且自己を離たり 即清水を掬ぶといふ動作の外に更に去るといふ動作を加へ清水と人とを配合したる光景の次に人無き清水の光景を時間的に連續し以て之を複雜にし云(27)々 一應至極の理なれども已に天明の句に
鮨つけてやかて去にたる魚屋かな 蕪村
之を以て前者に比する時は予は前者の進歩を認むるに苦むなり 請ふ暫く予をして此句の解釋を爲しめよ「鮨つけて」と起しそうして「やかて」といふ三文字を以て之を受けたるが故に鮨つけてといふ動作に頗る時間あるを示し從て魚屋の快活なる言語擧動并に庖丁俎鮨桶等すべて鮨つけるといふ動作を連想せしむ 而して其「やかて」の三文字は更に後句を引起し「去にたる魚屋かな」の半句は去ると云ふ光景及び快活なる魚屋の去りしあとの俄に靜になりし有樣及鮨桶などの整たる光景をも多少連想せしむ 其全然客觀的なる處兩句少しも異なるなし 只前句の「去にけり」と云ひ捨てたるは後句の魚屋かなと結べるに比して其後の光景を連想せしむるの力は無論多かるべしと雖も前半句の鮨つけての動作の複雜なるは清水濁しての動作の比ぶべきにあらざれば全体に於て兩句の複雜なる程度は何とも分ち難かるべし 如斯句は蕪村集中にも稀なるやうなれど從令一句なりとも已に有之以上は明治俳人をして獨鼻高からしむるを得ざるべし
次に雉子打といふ俳句を擧て明治の句には
將軍の雉子打て歸る玄關かな 秋竹
予は主人が明治の俳句進歩の一例として此句を擧げたるを深く惜まずんばあらず 固より句の良惡に關せずとのことにはあれどさりとて又如斯語格を誤りたる即意義の通ぜざる句を擧るとは何事ぞや 予は初一讀したる際には活字の誤りにあらずやと思ひし程なり 主人が解の詞にも「雉子提けて歸る〔二字右○〕」など云へるをみれは主人も全く氣附ざりし物なるを知りて深く疑を抱けり 偖此「歸る〔二字右○〕」といふことは決着せざる詞なり 例せば「家に歸る」「山(28)に歸る」「里に歸る」などいふ如く即家山里に末歸着せざる場合に用ゆる詞なり されば即歸着したる場合には必「歸りける」「歸れる」「歸りし」などいふべきものぞ 雉子打てと云へば必ず野か山なるは云ふまでもなし 故に「將軍の雉子打て歸る」と云へば將軍は未途中の人なるなり 然るを直に「歸る玄關かな」と連結したるは甚しき誤なり 殆ど句を爲さずと云ふべきなり 若夫れ將軍の玄關に歸着したる場合を云はんとならば「雉子打て歸し〔二字右○〕玄關かな」とあるべきなり 併夫に依りて此句の良くなるや惡くなるやは余の關せざる所兎に角語格の違へるや爭ふべからず 思ふに主人は嘗て日本紙上に於て今の歌人中には俳句を知る者一人もあるまじと痛罵せるの人なり 然るに此緊切なる論文の材料中如以上過失ありとせば知らず今の俳人中には語格を知る者なしなどゝ歌人をして放言せしむるなきや否 予は主人が千慮の一矢たるを信ずと雖も此雄大なる議論の爲に痛惜に堪へざるなり
奈良は鹿の鳴かさるを見て戻りけり 極堂
「奈良は鹿の鳴かさるを見て」といふ句調よりすると此十二字の中には余程の時間あるやうに感ずるなり されば如斯場合には戻りと云ふよりは「歸りけり」と云ふ方適當なるにあらざるか 戻り歸り大抵は同じやうなれど戻りと云ふは時間少き場合の用語に適す 夫は兎に角天明の句に甚だ似寄たるものあり
畠主の案山子見舞ふて戻りけり 蕪村
此句の戻りけりは肝要なり さすがは蕪村なりと思はる 戻りけりと云ふた爲め畠主の來り去るといふ動作の時間を縮少せり 其動作の時間縮少せる爲め畠壬の來る俤及其去りし背かげをも連想せしむるなり 若し之を歸りけりとせば調子にたるみを生じ余韻少從て光景散漫の弊に陷ゆる也 人或は云はん此句畠にある物の何たるを云はざる爲め光景極めて漠然たるを免かれずと 誠に然り 然れども其漠然たるが爲め却て大なる景色を連想せしむるの(29)利あり 野ら遙に見渡せば朝ぎりなど立こめて畠には何があるとも見わかねど覺束なく案山子のみたちたるを畠主なるべし畔逕より顯はれ出でゝ案山子の損はれざるを見てやがで戻り行たる光景及其あとに案山子の無事にたちたる光景を連想せしむ之を奈良はの句に比較して何れの点に於ても蕪村の句の劣れるを認むるを能はず 知らず主人及極堂氏は予が歸り戻りに就ての説を入るや否
三椀の雜煮かふるや長者ふり 蕪村
やゝ少き雑煮の餅の三つ哉 虚子
此二句の比較は極めて無理ならずや主人が此蕪村の句を三椀の雑煮かふると云ふ光景のみによりて其價値を定たるは如何にぞや 予は信ず此句は印象を主としたるにあらずして結句の長者ぶりと云へる意想を中心とせるものなりと されば之を全然印象的趣味を以て成立つ處の虚子の句に對照したるは其撰を得ざるものと云ふべきなり 尋に予をして又蕪村の句を解せしめよ 古來都鄙となく正月雑煮を食することは一の儀式のやうになれる物から薙煮と云へば成べく家内打揃ふて食するは大方の習なり されば往昔人氣の順良なる頃は一家打揃ふて雜煮を食する時などに若き男女や新参の俸公人などが遠慮して充分食せぬやうの事ありては不愍なりといふ長者の慈愛心より自ら多食の風をして他に勸むるなどいふことは能くあることなり 蕪村は其靄然たる光景を咏みしなるべし 之を眞面目に云はずして「長者ふり」といひて穿を用ひたる處に一増の趣味を加へたるを覺ゆ 返/\も虚子が「やゝ少き雑煮の餅の三ツ哉」と同趣味の物と解するは蕪村も地下に於て定て不平なるべし* 末段明治俳句の新趣味を説きし点に就ては予は深く主人の論旨に服す 猶云はんと欲する所なきにあらねど一先筆を擱くべし
要するに予は固より俳界の山だしたるを免かれずと雖も世間又予と見を同ふする者なきにしもあらず 願は主人(30)更□□ゆる所あれ 敬具
明治32年2月 草稿
署名 萱廼舎樂人稿
〔*印を附された個所の草稿上欄の書入れについて、編者の注記があるが、ほとんど意味不明なので省略する。〕
(31) 内地雜居の營業的準備
内地雑居の準備なる聲を耳にするや已に久しと云ふべし、然かも徒に天津風なす空論のみ多くして國民が直に營業の上に採り行ふべき法方心得如何といふ點に至れば茫として影を逐ふが如きを免れざるは何ぞや、一般社會の上に於ける準備の精神と云ふ事に就ては過日無私庵子が國民の愛國的精神に待の外あらずと云はれたるこそ此上なき議論とおぼゆれ、吾人が茲に大方の教を乞はんと欲する處は少く趣を異にせり。盖し内地雜居の準備を云々せんと欲せば先づ第一に對等條約の精神に溯て説起すを順序なりとす、云を待たず對等條約の精神とは苟も外國人にして一歩たりとも境を越て吾邦に入る者あらば必ず吾邦政府の支配を甘じ吾邦總ての法規に服從せしめざるべからず、而かも是お定りの理窟にして只是のみにては決して吾邦の名譽利益を完全に保持し得べきものにあらざるなり、若夫愈々内地雜居の曉に於て吾社會的勢力則適切に云はば邦人の營業的勢力が常に彼外人等を屈服せしむること能はず、却て彼等に凌壓せられ遂に總ての營業主權を彼等の手に握了せらるゝが如き場合に陷ることあらば夫こそ折角改正締結したる對等條約の効能も過半水泡に歸し去らんのみ、云ふこと勿れ内地を開放したりとて多數の外人豈に俄に來ることあらんや從て深く恐るゝに足らずと、昨の紙上銅本先生が示せるを見よ、外人一銀行の資力は吾十數銀行の資力に當るに足ると云にあらずや、思に如斯は又獨り銀行業の上のみに限らず他業多くは然らざるなけん、是豈に大に恐るべからずとせんや從て益々準備の必要を感ぜ(32)ずんばあらず、從來吾各開港場に於ける内外營業者の關係如何と見れば實に慨嘆に堪へざるもの多し、吾多數の營業は大抵彼少數なる外人の凌壓を受けつゝ甘じて其勢力下に屈服し居るが如き情況なるは常に志士をして憤恨に堪へざらしむる處にあらずや。由來外人等が彼狭隘なる居留地に籠居して運動上幾分の不自由ありしにも係らず彼の剛腕と彼の資力とは優に内地營業者を屈下せしめたるものを、今や自由の地に自由の運動を爲し縱横に彼が資力と彼が剛腕とを振ふあらば豈に恐れて恐れざるを得べき敵ならんや、若夫れ邦人漫に對戰の準備を怠り爲に現開港場に於けるが如き情勢を再度内地に馴致したるの後やがて是が克復を計るといふ如きことあらば今日の準備に幾十倍の勞を重ぬるも猶難かるべし、其際に於ける吾邦の不名譽と不利益とは實に計り知るべからざる者あらん、吾當局者並に營業者たる者茲に千度の思を致さずして可ならんや、今にして速に機先を制するの準備を爲し主客の勢を定めて徐に外人の來るを待あるにあらずんば吾人は恐る邦家の爲に千歳の悔を殘さんことを。
然らば如何せば可ならん、是豈に他あらんや、吾先づ準備して主勢の位置を占め、吾先づ衆力を集めて優勢の資を作り、彼等來ると雖も依て乘ずるの間隙なからしむるにあり、計は機先を制し勢は衆力を集めよ、團結なる哉團結、云はずや彼が一は以て吾十數に當るに足ると吾營業者たる者團結の力に依らずして何を以て彼に勝つことを得んや、凡そ社會の營業千種萬別と雖も其能く孤立して不利ならざる物幾許かある、假令相當の需要者を保ち一般社會に信用を有するとも同業者及關係營業者と融通圓滑なるにあらずんば長く其業を維持する能はざるや明なり、少くも大不利益を免れざるや明けし、故に吾營業者たる者現在組合の組織を刷新改良して其組合の効力を完全に利用し一朝新來の外人吾營業の習慣を侮り吾組合の利益を害するが如き擧動あらば吾組合は直に其外人を(33)して孤立の境界に排去せんこと誠に易々たるの業ならん、於是初て外人をして吾營業の習慣に從ひ吾組合に加入して其規約を守るにあらずんば吾内地に業を營むこと能はざらしむべし、已に外人をして吾習慣に從はしめ吾規約を守らしむ而して後吾營業者は常に營業的主力を保有して彼外人等をして毫も放肆暴慢なるを得ざらしむべし、内地雜居の營業的準備豈に是を置て他あらんや。而して此際吾人は大に當局者に希望せざるを得ざるものあり、猶豫なく現行の同業組合準則を改正し直に今の重要輸出品同業組合法の精神を一般營業者の上まで斷行して其成立の組合を大に保護奨勵するの方針に出でられんことを、然かも何事ぞ農商務省は内地雜居間近に及で各業組合に對し放任主義を採るに至れるや、是或は自治とか不干渉とかいふ虚聲空理に拘泥して適切なる牧民の道を誤解したるにあらざるか、(當局の意吾人の推測に違ふことなくんば吾人は大に誤解を論斥するの期あるべし)、嗚呼杞憂に堪へず。若夫れ完全なる同業組合を組織し堅固なる斷結已に成て而して後外人の來るを待つあらんか、外人毫も恐るゝに足らざるのみならず外人の來るは寧ろ營業者の便益邦家の福利たるや疑なし、禍を轉じて福となすも福を失ふて禍を招くも近く今明兩年の中を出でざるべし、覺醒せよ吾邦の官民、今日の期に及で何の躊躇する事か之あらん、速に果斷決行以て機先を制するの準備を立てよ、徒に外人接待的心得の研究に齷齪たるの徒は共に内地雜居の準備を談ずるに足らざるぞや。
吾人は終に臨で同胞諸君に一言の戒告を爲さん、由來吾邦人近少の利を逐ひ遠大の利に疎し、一個私の利を重じて衆と共にするの利の更に大にして安全なることを知らず、小理窟多くして斷結力に乏しき等なり、今や大敵を眼前に迎へたる吾邦人能く己の短所と長所とを知り而して後に敵の短所長所を究め以て是に應ずるの覺悟なくん(34)ば愈々對戰の曉に及で狼狽困頓遂に失敗に終らんこと明かなり、之れ吾人が失敬を顧みずして一言同胞の短を擧て戒告する所以にして則ち又以上の短所を戒むるなくんば組合團結も終に爲し得べからずと信ずるが故なり、嗚呼團結なる哉團結、内地雜居の營業的準備團結の二文字を措て外に焉んか求めん。
明治32年5月『日本附録週報』
署名 本所茅場町伊藤幸次郎
(35) 象山先生の書
予佐久間象山先生の書を藏す 其詩に曰
鼓進平呉不逆天。功成身退五湖煙。餘謀未棄人間事。猶止陶山爲富仙。先生も深く詩中の人に私淑せるものゝ如し 嗚呼今の經理家に些の道義なく今の道徳家に少の才氣なし 世の益々混濁して衰ふる所以なり 予天意人言欄を借りて此詩を世に示さんと欲する豈に夫れ偶然ならんや
明治32年8月21日『日本附録週報』
署名 謀堂
(36) 〔藤原久良岐ぬしへ〕
(前文を畧す)さて寝てゐるうちから雨だれの音がするのでいつもよりおそく寐衣のまゝ起いづれば朝早く屆いたと見えて例の心の華が机の上に載せてあつた故手にとつてまづ漫録欄を見るとなか/\賑かである 正岡大人のを始として先生の望岳快談例に依て氣炎富岳よりも高しといふ勢であるから非常のおもしろさに讀つゞけゆく中
チト支那の廣漠なる景色も歌人の咏まれむことを希望するのであるとありて玉咏も示され是云ふ風に少しは海外思想をも歌に注入するの必要があると思ふ賛成者は手をあげよといふに至りて僕は不思手をあげたのであるがそれといふも實は二三日前香取子と相携て根岸庵を音づれ長坐も長坐も午後の二時より夜の十二時迄(併し是は珍しくないのだ)話しこんで其時曇十首といふをやつたが僕のが非常に不印にて且極めて單調であつた故大人に大にやられて一言もなかつた 餘り口惜かつたから家に歸るや更に十五首を咏直して送りやれり 是は務めて復雜なる趣向を咏まうとの考にて作つてみた其歌の中に今見たる先生の歌とよく似よりたるものある故俄に手を擧るしるしとしてお目にかけ度なりし歌
大野らのゴビの砂原すなぐもる雲井をさしてつゞきゆくらく駝
如何御意にめし候や否呵々 序なれば曇の歌五六御目にかけ候御叱正あらんことをねぎ申すにこそ
(37) あしびきの山のかひなる群村《むら/\》の桃の花咲く桃の花曇
鯨船鯨えずして歸りたる浦間さびしき夕汐ぐもり
干潟には千萬人の海べには百船むれて汐曇すも
まきの夫が犬を指揮して千萬の羊逐ひくる野のうす曇
雲烟野にたれこめて一本のさくらかすかに明るくありけり
是は漢詩の譯なりしかも單調々々
うちなびく春野をくれば朝ぐもる藁屋の庭に牡丹の花あり
是又單調に陷れり
近作の玉詠も候はゞ御もらしの程願上候頓首
菴のうちにひとりねころび春雨の雫の音をきかくしよしも
長雨の此あめやまばたて川のあたりてらして牡丹はさくらむ
牡丹咲く園のまぢかのわが菴を牡丹見がてりとはずや吾君
そこまではゆきえずなどゝ頭やむ君がかへ言あらむを恐る
四月廿六日 左千夫
明治33年5月『心の華』
(38) 〔麓ぬしへ〕
●前略三卷五號の倶樂部のうち與謝野、正岡、渡邊、金子の新派云々とある かくの如き不埒なる投書を掲ぐるは甚よろしからぬことゝ存候(左千夫)
明治33年6月『心の華』
(39) 〔根岸短歌會と新派〕
●元來小生は舊鶯蛙吟社に加名して居るとは云ふものゝ只一個心の華の讀者たるに過ぎぬのであるから其編輯に就て無論彼是云ふべき筈はないが只々岡三郎氏香取秀次郎氏の兩氏は親友ではあるし且は吾根岸短歌會の人々なり そうして此雜誌の編輯に關係して居る人である故に青々の師表たる正岡常規氏に關する投書などを採録する場合には大に愼重なる用意あらんことを希望せねばならぬのである そは云ふまでもないが心の華と兩氏との關係又兩氏と正岡氏との關係以上の如き物あるが故に此雜誌に誤解の投書を掲載するは殆んど其誤解を兩氏に於て是認するに等しければなり
古來聖賢君子の當時に誤解せられ終世眞價を知られずして世を去りし者實に稀ならず 吾正岡師の歌學の如き或は其一なるやも知るべからず されば縁もゆかりもなき新聞雜誌などには何と云はるゝともそれは是非なき事なれども短歌會員たる兩氏の關係雜誌にして誤解を傳ふるに至ては誠に遺憾の極みならずや 其第三卷五號の投書は實に左の如し
「毎號の撰者に與謝野轍幹正岡子規〔四字右○〕渡邊光風金子薫園なんどの新派の若武者〔十字右○〕をして云々」(横濱某生)
正岡師と他の兩三氏を一列に見るさへあるに若武者なんどゝ稍輕侮の言を弄せるにあらずや 投書者は固より無知の一書生のみ深く咎むるに足らずと雖も吾親友たる兩氏の關係雜誌にして如斯投書の掲載を見る 頑狹小生の(40)如きは實に遺憾に堪へぬのである 是恐くは兩氏の錯誤ならん 小生は其誤に相違なきを信ずるなり 當時既に岡氏に對し不平を鳴らしをりしが事の尋なれば文意簡短明瞭を欠けり 然るに同氏此の端書文を三卷六號に出されたり 折も折とて知友坂井氏も又漫録欄に於て金子薫園氏と小生と同趣味樣に云ひなされたれば今は吾一身の爲にも聊か物云はねばならずなりぬ
凡世の中に苦しといふ事多々なれども自分を社會より誤解せらるゝは最も苦しき事の一つなるべし 吾は赤なるを茜と同色視せられ吾は白なるを鼠と同色視せられたらんには人誰かいぶせく思はざるべき
吾々はかつて新派と自稱したる覺はあらねど世間は吾々を目して新派と解するが如し 吾必しも之を厭ふにあらず 然かも吾々以外には却て自ら新派と稱する人々はあるなり 而して吾々は只彼人々と同樣に社會より視らるゝが苦しきなり 白色と鼠色とを同視せらるゝが如く感ずるなり 名稱は何にてもありなん吾々にして新派と云ふべくば彼人々は舊派なるべし 彼人々にして新派なりと云ふべくば吾々は何か外のものなるべし 彼人々の作歌を見れば今日の所徹頭徹尾吾々と一致すべからざる所あるなり 彼人々の歌と吾々の歌とは其標準に於て根底より相違して居ると云ふことを斷言するのである 歌の巧拙は場合によるべし 趣味の標準に於て非常なる大差ある今日の如くんば到底兩者は近づき得べき物にあらざるなり
今試に所謂新派諸氏の歌を吟味すれば其著しき物
【三卷二號】 かきえざる手の拙なきは云はずして罪なき筆をまた折にけり 落合直文
同 病人の戸口にかけし乳入を夜すがら鳴らす木がらしの風 同人
同 うち捨て寢なんと思へど蚊の聲のあなかしがまし耳にさはりて 佐々木信網
(41) 同 朝雲の山に語たらくなれとあれと古きちぎりありや別とあふ 同 同 「シベリヤ」の北風いかに寒からん雪の衣をいくかさねせよ 久保猪之吉
同 春風の來ておどろかす朝までは氷の扉開くなよ努 同人
【三卷五號】 幸に人に生れて幸に君と相見つ死なんともよし 服部躬治 同 世に厭きてたゞこのまゝに死なんとも君し忘れぬ吾名なりせば 同人其他與謝野鐵幹渡邊光風金子薫園等數氏の分は歌稿傍になければ證歌を出す能はずと雖ども前掲數氏と大同小異なるを疑はず 偖以上所掲の數歌の如きは吾々は見て以て歌とはせざるなり 文學たる價直を認めざるなり 其巧拙を云ふべき程度に迄達せざる物と斷じて疑はざる物なりとす 余は失敬の樣なれども吾々の歌の標準を以て諸氏の歌を見るときは百中二三を得る實に難し 是他なし先にも云へる如く其標準とする所根底より相違し居ればなり 歌學熱心なる諸氏よ漫に修飾なき言語を咎むることなく諸氏にして反對の説あらば願くは聞くことを得せしめよ(伊藤左千夫) 明治33年7月『心の華』
(42) 〔人に答ふ〕
●余は前々號の誌上に於て今世の所謂新派諸氏の歌各數首を擧て吾々は見て以て歌とはせざるなり文學たるの價値を認めざるなりと斷論せり 人あり余に問ふて日子が新派諸氏の歌を非認する快は郎快なり 然れども何故に歌にあらずとの理由を説かざると 余即答て曰歌にあらざるの歌は歌にあらずと云ふの外なきなり 文學たる價値だになき歌を擧て一々其理由を説明するが如きは餘りに兒童教訓的にして豈に余が堪ゆる所ならんや 聊たりとも歌を作り歌を知る者ならば前掲數首の歌の如きは反讀兩三回以て解することを得べきなり 猶了解に苦む者あらば萬葉あたりの歌を拔き來て比較講誦せば釋然として了得するを得む 然かも解せずと云ふ者あらばそは到底共に歌を談ずるの腦力なき者なりと云ふの外なかるべし 然れども余は歌論を好む 余は責任を知る 若夫れ余が掲出の歌を以て歌なりと辯護反論し來る者あらば余は進で快戰一番以て雄を爭ふの決心を有するなり 否余が敵と名指したる諸氏が奮然開戰を宣言し來らんことを寢て待ち起てまちしつゝある者なりと
然るに第三卷八號を見るに及で余は失望せり落膽せり 倶樂部欄内は徒に噪然たるのみ紛然たるのみ余如何に物好と雖も物蔭に隱れつゝ狐狸的怪聲を出して他を嘲り以て得たりとするが如き陋輩を相手に馬鹿々々しく議論など出來る物ならんや 笹の里人山のいたゞきなどゝ稱する人々は如何なる人ぞ 歌人なるか俗人なるか將彌次馬なるか何の疚しき所ありて本名をば名乘り給はざる 何の恐るゝ所ありて明々地に打出で給はざるか 貫之的定家(43)的老歌人等は今や聲息共に絶て歌壇久しく寂寥を感ず 此時に當りて新鮮明快なる旗幟の下に一戰を試むる豈に歌人の名譽にあらずや 余は山のいたゞき笹の里人に一言す 諸氏若し歌人ならば明かに名のりて陣頭に顯れよ 若ししからずして即俗人彌次馬ならば余は諸氏に會見を謝絶するものなり 吾々の趣味標準に就ての主張を明かにし以て大に異趣味の歌を論撃せんとするは余の熱望して止まざる所なれば好機會だにあらば何時にても躊躇せざるなり 只當倶樂部の如き徒に紛々たる場裏に於てするの勇なきなり 笹の里人と云ふ人よ心の華より外に歌を見たることなく外の新聞雜誌等にある歌は皆無しらぬと云ふ樣な不熱心の人では歌もわかる筈がない 文學の標準と云へば天地間に一あつて二あることなし 然るを「其標準の立て方が色々ある〔十二字右○〕」などゝ云はるゝ樣では文學の趣味なぞわかる筈がない 吾根岸短歌會の標準たる歌は則今春以來數回「日本新聞」に於て募集掲載せる歌がそれであるのだ 今日も(八月廿二日頃より)掲載中の瀧の歌なども則ち吾々の標準を示したる歌である かく云ふ余の歌なども少しは掲載してある 能く見て評論が出來るならばやつて呉れ給へ終に余は編輯諸氏に一言せん 余が前號の誌上正岡師に關する投書は岡氏香取氏に於て注意せんことを求めたるは其投書が人に對して輕侮の言を弄せる場合を指したるものにして歌に對しての評論罵詈等は固より毫も咎むべきにあらずとの意に外ならず 前言若し盡さゞるものあらば諸氏是を了せよ 現に例の端書の片假名歌に就てなどは種々なる惡言ありし樣なれども余は決して意に介せざるなり 何となれば是れ人に對するの言にあらざればなり 歌を非難すると人を非難するとは大に相違あればなり 縱令へば人丸赤人其人に對しては神の如く敬ふと雖も歌の評論に就てはつまらぬ歌はつまらぬと言ふを憚らず 是普通の事にして毫も怪むに足らざるなり 若夫れ佐々木氏に對し「青二才の佐々木が何が分るか」と云ふ樣なる投書があらば諸氏は無論是を排斥すべきが當然ならず(44)や 是に反し其歌に就ての攻撃は決して無益の遠慮を要すべきにあらず 余不肖なりと雖も人に對するの禮を知らざらんや 前々號誌上數氏の歌こそ非難したれ其人に對しての敬鎧を失へる言語諸氏其人を輕侮したるが如き言を弄したることなし 今後多少の議論を當誌上に爲すことあるも歌は罵ることあらん人は罵らざることを斷言し置べし 編輯諸氏及讀者之を了せよ(伊藤左千夫) 明治33年9月『心の華』
(45) 露國の撤兵通牒
天下第一等の野心國と目せられたる露國が、今回逸早く列國に向て撤兵通牒を發し併せて其が北京なる駐軍に引揚を命じたるの擧動は、實に天下の耳目を驚動せり、其正々堂々たる宣明の下に電光的活動を敢てしたるは殆ど他の荒膽を奪ふに足るものあり、宜也北京進軍に與れる列國をして疑惑に遑あらざらしめたるや、然かも靜に彼が平生の動作に視又今回進軍の情況に察する時は、這般の擧動は又しても彼が巧獪なる心術の發動に外ならざるを揣摩するに難からず、二十七八年日清の役終るや彼は我戰勝を忌み我勢力の發揚を嫉み所謂三國同盟なるものを作りて以て我戰勝の利を横奪せり、其宣明する所曰東洋平和の爲なりと、而して彼翻て支那に對しては其恩を稱して莫大なる報酬を要求し、剰へ先に我をして還附せしめたる遼東の地を己自ら取奪して憚ることあらず、其ヅウ/\しさと横着さは殆んど言語に絶したるにあらずや、夫れ如斯の彼れにして獨り今回の事に關し列國に先じて正義を唱へ公明なる擧動に出でんと稱すと雖も誰か能く是を信ずる者あらん、其表面宣朗の正々たるだけそれだけ裏面に於ては益々陋獪奸黠なる心術を貯ふるや疑なし、是れ智者を待て後に知らざるなり 盖し露國今回の運動の如き彼れ其ものゝ位置よりして之れを見る、實に敏速と巧妙とを極めたる良政策と賞すべく、彼れが這般の境遇に處して斯くの如き政策を電光的に決行したるが如き人をして露國外交家其の人あるを羨ましむるものあり、而かも是れ直に我の以て恐るべしとする所以たらざるを得んや
(46)抑も今回の變に於ける露國の位地を見るに、その聯合軍に如はるや常に陪從たるを免れず、從て戰功の見るべきなく、其北京に進入するや固より勢力の以て列國軍を動すに足るものなし、之に反して我日本軍は至る處に赫々の戰功を立て、聯合軍の主腦として天津を占領し北京を陷落し、支那官民の敬慕を博しつゝ勢威自ら聯合軍を壓せり、是れ野心滿々たる露が見て以て嫉しとする所にして又大に安ぜざる所なるや論をまたず、然りと雖も露國たるもの此際列國殊に日本に向て未だ撤兵の要求を爲すべき口術を有するなし、故に於てか百方苦慮終に一計を案出して自らの撤兵を通牒し、支那保全政府復立等の口術を設け、列國殊に日本をして己の爲に倣はしめんと擬したるなり 然らずんば何ぞ其行動の輕薄なるや、支那政府は自國内の擾亂を鎭定するの威力を有せざるなり、さればこそ今回の變も起りたれ、然るに今にして聯合軍一齊に引揚げたる復支那内地の平穩如何にして保つことを得べきや、是尤も見易きの理なり、露人豈に是を知らざらんや、且夫れ露國にして其宣明の如き實意あらば其少數なる北京駐軍を引揚ぐる前に當り、何ぞ目下航進中にある獨國の大軍ウアルデルゼーの一行を中途に止めんとはせざる、知るべし彼が支那保全政府復立なる宜明は正しく自家政略の口術たるに過ざるを、故に予は斷言す今日の場合露の通牒に同意するは一つ穴の狸にあらざれば則彼が術中に陷るものなりと
列國公使以下を救はんが爲に進入したる聯合軍は今日に於て最早北京に駐するの要なきが如しと雖も、支那保全を目的とするの列國は容易に北京の兵を撤すべきにあらず、殊に東洋の主人たるべき位道を有する、我日本の駐兵は支那保全平和克復の目鼻を明けずして決して引揚ぐべきものならんや、今日の支那政府なるものは殆ど政府たるの力なく、些々たる草賊の如きすら如何ともする能はざるにあらずや、列國兵の力をかるにあらずんば焉ぞ國内の治安を保つことを得ん(47) 『日本は今回變亂の原因には何等の關係なく領土も有せず特權もなきものなるに、公使以下救出されたる今日に於て何時まで北京に駐兵するものぞ、露國今回の通牒を幸に速に兵を引揚げて以て累患を免るべし』との議論は、他を患ふより自らを患へよ、日本今日の國力は支那を救ふに堪ゆるものならず、宜しく自らの上に慮る所あれとの主意にして頗る時宜に適したるの處置なるやも知べからず、然れども一葦帶水を隔たる支那の擾亂に對し、我日本たるもの遂に傍看の地位に立得べけんや、支那人如何に愚なりと雖も今に及びて平和を希望せざらんや、列國又幸に支那保全を是とするの意向を見る、此間際に於ける日本は列國に向ては言質を取り支那に對しては他意なきを示すの方法を回らし、支那を導びきて講和談判を開くの端緒を得せしむべし、支那人聯合軍の暴を恐る故に容易に近づかざるのみ、日本若し赤心を示して周旋の勞を採らば、支那と列國とを相近づかしめて意外速に平和克復の端を開くを得ん、故に我日本は今暫く北京に駐兵して外は二三虎狼國の野心を抑へ、内は支那内地匪徒の暴擧を威壓し、支那政府をして安じて講和運動に從事せしむべし、嗚呼是日本帝國の天職にあらざるか、吾輩は信ず今日にして我兵北京を引揚げんか、一ケ月を俟たずして支那は再び擾亂の舊に復せん、嗚呼北京撤兵豈に輕斷すべけんや
明治33年9月『日本附録週報』
署名 謀堂
(48) 嗚呼支那問題
禍亂地に最近接せるの理由を以て列國の希望に頼り先じて大軍を送り速に列國公使以下の急難を救ひ以て列國の希望を滿足せしめたる吾邦は從令其軍功を恃み過大の請求を提出せざるにもせよ支那救護東洋平和の爲め名譽ある發言權を有すべきや何國と雖も否む能はざる所なるべし 況や支那保全は列國の夙に宣明する所吾邦依て以て正義公論を其間に唱ふ一二野心を泡藏するの狼國ありと雖も豈に容易に其正議公論を排却し得んや、世界的難問題の局面に立て爲す所あらんとするもの所謂外交術の秘略を要するや固より言ふを待たずと雖も其背後に堅確なる國民の覺倍なるもの有て是を輔くるにあらずんば又決して充分なる働を爲し得るものにあらざるなり 今や謹厚忠實なる近衛公等は此時機の止むべからざるを見て奮然蹶起國民同盟會なるものを主唱し以て國論の歸一を計り依て國民の覺悟を定めんとす 是れ吾輩の感謝に堪へざる所なり 天下憂國の士は響應して其擧に同ぜんとするものあり 希くは依て以て内外交當局者を興奮せしめ外列國に向ては吾帝國々民の覺悟を示すを得んか
明治33年10月15日『日本附録週報』
署名 謀堂
(49) 歌に就きて吾今日の考
(一)
貫之的定家的の歌が文學上極めて價値少き物であると云ふことは最早世の有識者間一般の認むる所なれば其余唾を甞めつゝある所の今の老歌人連の歌に至りては既に攻撃の必要を認めざる次第なれど飜て其貫之的定家的歌に滿足する能はずとして起りたる所の今の所謂新派なる人々の作歌を觀るときは不幸にして到底賛同し能はざるものあり從て仔細に其作歌の理想を探究するときは益解すべからざるもの多し 而して吾輩又國歌の研究に熱心なる敢て人後に落ちざるもの所謂新派なるものゝ制作理想現下の如き有樣なるを見ては勢沈獣を守ること能はざる者あり 是聊か所感を述べて大方の教を請はんと欲る所以とす 勿論吾輩の所論と雖も研究中に屬するもの多きが故に自分等の今日の制作を以て滿足し居るものにあらず 從て歌に就ての吾輩の理想確定し居らざることは云ふまでもあらず されば只吾今日の考と云ふのみ大方の諸士幸に教ゆる所あれ。
而して吾輩は今本領に入るに先だち目下歌壇の情況に就て道破し置かざるを得ず 吾輩が先に雜誌(心の華)三卷七號に投稿して聊か云ふ處ありし所以は吾輩と所謂新派諸氏の作歌の趣味理想が顯著なる相違あるに係らず一目其相違を認め得るに係らず社會よりは同一の者と誤解せらるゝの傾きあるのみならず其所謂新派の人々の中には(50)殊に社會に向つて甚だ兩者相近き如く云ひなすかの如き傾きあると思ひしが故に其いぶせさに辨解を試みたる譯合にて落合氏以下數氏の歌を列擧して非難を加へたるは其目的は即ち他と吾との相違を證せんとするにありしなり 非難其物が直に吾輩の目的にあらざりしなり。
何ぞ測らん吾輩の投稿一度「心の華」に出るや一派の諸氏は非常に激昂し或は是を以て正岡氏の指囑に出たりとなし或は以て暴言なりとなし或は以て文壇の禮儀とやらを無現したりとなし其喧嗷を極めたるの状寧笑ふに堪たるものあり 固是利害得喪に關係なき文事上の事にあらずや 正岡氏何の必要ありて吾輩を指囑する 吾輩又何の
必要ありて他の指囑を受けて云々すべき 馬鹿/\しき邪推にも程こそあれ 苟も風流を樂て文筆の間に悠遊する者の胸間に起るべき想像ならんや 吾輩は斯る言を爲す人の品性を疑はざるを得ざるなり 之を暴言となし之を無禮などゝ云ふに至ては殆ど常識だに失却したるの言なるのみ 故に吾輩は之に對して云ふ所あらざるべし。
「心の華」の一記者なる者の言に對して殊に吾輩に關したる言に對して一言すべし 乍併記者よ又しても正岡氏の意を受けたりなどゝ邪推する勿れ 正岡氏は手も口もあるの人なり 物言はんと欲する何ぞ必しも人の力を借らん 吾輩の言は則吾輩の言なり 固より正岡氏は吾輩の師とするの人なり 其説相近きや云ふに及ばざる所然かも説の近きを視て直に吾輩の言を正岡氏の言と臆斷するは愚と云ふべし。
記者は云く落合佐々木久保服部諸氏の歌予は之を悉く文學的也歌の價値ありと思へり 但し名什なるか否かは第二の問題に屬す云々と 何ぞ云ふ所の馬鹿/\しきや 固より御自分の雜誌へ御自分の歌の價値なしと思へるものを掲く可き筈あらんや かく記者が思ふのは固より當然なるべし 然れども他の立言に反對しながら思ふとばかりではわからんぢやないか 何故に一歩を進めて價値あるの理由を説かざる 吾輩が此論稿の後に到て仔細に其非文(51)學たる理由を斷ずるを待て。
記者又云くよし百歩を讓りてこれらの例歌が歌の價値なしとするも千萬の作中僅に一二を取りて其歌人の眞價を判定せんことは果して穩當なる考なりと云ふを得るかと 茲に至て記者の狼狽燐笑すべからずや 恐駭の余りに何を見違へたるぞ 列擧の歌は非文學なり歌の價値を認めずと云ひし然かも未だ落合佐々木久保服部の諸氏は非文學者たり文學者の價値なしとは云ひたる覺ないぞや 歌を難ずると人を難ずるとは同からず位は御承知なるべきに兎に角に御手許の雜誌七號と九號とを今一度通讀あるべし 尋でなれば服部君に「心の華」の談議に就て云ふべし 非常に御不滿の樣子であるが彌次馬である齒牙に掛くるに足らずなどと云はれては不滿も無理ではないが同情なき評論の爲めに神經を支配せらるゝ程の愚物が今の文壇にあるべくも覺えずと云ひつゝも御自分自らもかうかいて居るのは笑ふべきでないか 全躰君が云ふ所不明瞭である 評論の根底は同情より起るのであるのである 而して評論の動作は寸毫も同情を許さぬのである 同情がなけれは評論は起らぬと云ふが常理である 公平以外に出でたるの評論は眞の評論と云ふべきものでない 則愛憎より來る所の毀譽と一般力士俳優をひいきすると否とに依毀譽を異にすると同じである 如斯は是を評論とは云へない 全躰に同情があつて始めて嚴正なる評論が起る 而して嚴正なる評論は一個の物一個の人に就ては寸毫の同情を許すべきでない 其人其物に對して同情を表するの評論は正當の評論にあらず。
然るに君は只漠然同情なき評論は根底なき評論なりと云ふは如何なる場合を指したるか通ぜぬ言語ならずや 無意義の同情は私を意味す 私あるの評論は評論の價値を有せず 一個人に同情あるの評論を望まば制作を世に公にせざるに如かず 自分門生の賛辞を樂むに如かず。
(52)吾輩は君を嘲罵して彌次馬なりと云へるを當然視する者にあらず 然れども他が自己の制作を難じたるを視て直に同黨伐異なりと斷じ他を嫉忌すること不倶戴天の仇敵の如くすと臆測するは社會に評論の必要を認めざるの言にあらざるか 甘言は毒なり苦言は藥なり 古けれども眞理を含む 甘言を悦ぶは君子の辱づる所峻烈なる評論を以て直に毒舌惡口なりと思惟するは文士の雅量ありと云ふを得べきか 吾輩は君が言語を飜案して而して君につげん 自己を知れ自己を知れ自己を知て後に不平を訴へよ 徒らに怨恨を繰り返さんよりは退いて自己の製作を吟味して見よ 自己の製作が果して他の非難を許さざるの價値あるか否かを吟味して見よ 吾輩は國歌に熱情を有するが故に或は又も君の製作を評論するやも知らず 吾輩固より君等に私怨あるべき筈なし歌惡しければ惡しと云ふのみ 佳なれば固より佳とするに躊躇せず 君輩猶壯年にして今より苦言を惡むは道に忠なりと云ふべからず 注意せよ好漢同情なくして言茲に至らんや。
(二)
二三の友人は、自我黨の我儘者などを、ゆめ相手にするなかれと我輩に忠告せり、然れども、我輩は如斯無情なること能はず、如斯嬌傲なること能はずして、茲に聊か告ぐる所あらんと欲するは、『明星』所載の言説が、與謝野氏の痴言とのみ見るべからざるものあり、少くも一部歌壇の意嚮を表示せりと信ずるに足ればなり、從て誤解を社會に傳ふること少なからざるべし、是れ我輩が一言の止むべからざる所以とす。
吾輩は先第一着に與謝野氏に戒告し置かむ、君が今回の論爭、即製作上の非難を受けたるに對して、自家の經歴談を持出したるは、如何にも見當違にして、下品なりしぞや、經歴は經歴なり、製作は製作なり、經歴あるの人(53)必ずしも良製作あるものにあらず、例へば、斯道に志すこと日猶淺き少年なりとするも、天才ありて其製作萬衆を壓するの技倆あらば、其經歴に富まざるの故を以て、佳良の製作を捨つべからざるは當り前の理窟ならずや、故に吾輩が向後君の製作、若くは議論に就て、論難する場合に際し、經歴談を持出す丈は止められよ、況や吾輩と雖も、或點に於ては慥に君が詩才を認め、君が經歴に就ても、君が友人桂月氏が太陽に云はれたる、壇歌の呉陳と云ふ位は充分に認め居るをや。
唯吾輩は君等一派が、現下の製作及其主張には、非常なる相違の意見を有するが故に、歌學研究の爲め止むなく論難の筆を採るに至れる者なり、されば落合、佐々木の諸氏、及君輩一派に對し、一個人間に惡感情を有すべき筈なければ、返す/\も其邊は了知し置かれんことを望む。
◎自我は即我儘なりなどゝ、社會の冷遇に激し、燒ケクソ的にスネ曲りたる囈語かと思へば、強ち然るにもあらずして、大眞面目の主張らしく見ゆるものあり、與謝野氏たる者注意せよ、自家の主張ともあるからは、何ぞ眞面目に、明晰に立言せざる、吾輩は君が所謂自我なる者の意味を解するに苦む、依て假に二樣の解釋を下し置かむ。
(一)古人の跡にすがり、古製作を模擬するの境域を脱去して、想と形式との上に於ける、自家の特色を發揮せよとの意ならんには、吾輩固より異存あるべき筈なしと雖も、是を吾物顔に自らの主張となすに至りては、餘りに平凡に、餘りに陳腐ならずや、如斯の所説は、舊派の大昔より唱道せられたる所なり、今日に於ても苟も文事に心掛けある程の者、誰か是を知らざらん、今の舊派歌人連なりとて、まさかに根底より模倣に安じ居る程の愚物もあらざるべし、況や多少新しき考を有する輩をや。
(54)思ふに新機軸と云ひ、特色と云ひ、摸倣襲蹈と云ふも、要は程度の問題に過ぎざるのみ、今夫れ君が論調を以て云ふならば、直文氏の歌と、鐵幹子、其他新詩社連中の歌調、極めて相近きを見る、否殆ど同調なりと云ふを得べし、然らば直文、鐵幹を模したるか、鐵幹、直文を模したるか、若くは諸同人鐵幹を模したるか、鐵幹諸同人を模したるか、論理の歸着は如斯に陷らむ、是に至て「われら一人一人の發明したる詩なり」などゝは、畢竟出タラメの寢言に過ぎざるのみ、漫に高言して虚聲を弄するのみと云はるゝとも、恐くは答ふるに辭なからむ、既に三十一字の形式を襲蹈し居るにあらずや、其模形の内に於て、如何に特色を出すと云ふとも、其爲す所知るべきのみ、故に吾輩は斷ず、模倣と特色、新機軸と襲蹈とは、即程度問題に過ぎざるのみと、『明星』所載の歌が「毫も古人の歌に似たるものなし」とは、如何に君輩の強辨と雖も明言し得べからざるは論より證據ならずや、以上の解説に依て此方面の『自我』なる物は、極めて劣等の價値たるを知るに足らむ。
且夫れ古人を襲蹈せず、古人以外に出るなどと云へば、一寸聞いてはエラソウにて、素人おどしには頗る面白しと雖も、實際古人以外をやると云ふのみにては、誠にツマラヌものならずや、少くも同等以上の、所謂以外ならずんば、其價値を認むる能はざるを如何せむ、或は知らず、君輩が所謂新畑なるものは、古人が早く價なきの土地なりと知り、敢て顧みざりしにあらざるなきか。故に苟も自我或は發明など云ひ度ば、先形式の變更より始むるを順序となす、古人以外の形式、即我自らの詩形なる物を作るこそよけれ、よし又如斯なる能はずとも、古人の最も製作少き形式に於て、大に製作を試むるも、自《オ》ら新境を開くの方便ならずや、例之へば旋頭歌の如き、長歌の如き、是なり、日本三千年間、旋頭歌が何首程作られてあるか、長歌が何百首作られてあるか、是等の形式歌は明治の歌人、即新派歌人の大に務むべき點にあらざるか。
(55)君輩一派がそれらをも務めんとはせずして、不相替の三十一字歌のみを繰り返しつゝ、自我或は發明などゝ根蔕なき空論を吐きちらすの大膽に驚かざるを得ず、即君輩が口癖に云ふ所の、虚名を惡むと云ふ言に矛盾することなきや如何。
(二)それから今一の解釋は、所謂自我と云ふ物を、歌の内容にまでも注入するとの意味なるが、君輩の製作の上に見る時は、以上の如く解せらるれども、全く如斯意味の自我にてあらんか、吾輩は奮然排撃せざるを得ず、如斯意味の自我なる物は、詩歌の仇敵なればなり、孔子詩を評して云、詩三百一言以て之を掩ふ、曰思邪なしと、善哉言や、詩歌は情の發展なり、詩歌の要は他の同情を得るにあり、他の同情を得ざるの詩歌は、又決して己を慰めざるなり、詩歌は公共的の物なり、他の同情を傷ふ如き物は即詩歌にあらず、故に邪念なきは詩歌の本領なり、美術文學を神聖の物とするも、要するに無我にして思無邪の意に過ぎず、美術文學の上に我を去れ、我を去れ、我を去つて而して後に眞諦を得ん、無我は即神聖の端にして、我は即邪念を意味するが故にあらずや、邪念はイヤミの問星にして、イヤミは同情の仇敵なり、君輩即云ふ、自我は我儘なりと、知らずや我儘は私の父、私は邪念の母と、我儘にして私なきものあるか、私にして邪念なきものあるか。嗚呼君輩が根蔕なき無稽の妄語は、適自家の資格を滅却するの材料ならんとす、見よ、注意して見よ、暫く自我を去て虚心擔懷汝が「明星」を見よ、滿紙滿目邪念紛々として、其自慢傲慢自惚等の製作を拉し去らば、殘る所幾許ぞ、吾輩は猶後編歌の主觀を説く條に至て、一々歌を擧て論ずる所あらむ。
乍併與謝野氏よ、吾輩又君が熱性を愛し、君が詩才を認む、只君が躁狂にして摯實ならず、漫に國歌壇上に功名を立てんと欲するの邪念より、今日の病を得たるを憐む、君又憤然として怒る勿れ、虚名の爲に詩を作るを愧づ(56)などゝ、所謂自我風を吹聴せば是即躁狂と云ふの他なし、苟も詩人を以て自らも許し、人もゆるすほどの者ならば、誰か虚名の爲めに、詩を作る馬鹿者あらんや、其是あるが如くみゆるは、自家の眼鏡に虚名的水氣のかゝれるに由るなるべし、吾虚名を愧づとは、恰も吾々は馬鹿の眞似をすることを辱づと、稱するが如し、是太平の世に吾はぶつて勤王論を唱ふるものと同一轍なり。
虚名を惡むと云、一ケ條の規約を設くるの必要が、新詩社にはあらんかなれども、如斯規約を掲ぐるのが、新詩社の面目であるか否かと云ふ點に就て、君は如何なる考を持して居らるゝか、と云ふことを疑はざるを得ざるなり、序なれは今一言云ふておかむ、詩の内容たる趣味、外形たる調諧(諧の字義解し難し)との約言が見えたれど是れ最も笑ふべき也、其文詞によれば、趣味とは詩の内容と云ふ意義であるか、而して格調は、趣味に關係なしとの意か、是は君が説明を要するであるが、文字に依れば以上の如く解するの外あらず、何ぞ吾輩の所信と違ふの甚しきや、詩歌は寧ろ内容より、格調に依りて趣味を生ずるの場合多し、少くも内容の趣味格調の趣味と云ふ方最も穩當なるべきか、坂井君よりの注意も有りし故、攻撃的態度を茲に改むることゝせむか。
前文としては余りに冗長の感あれど、所思を吐露せざれば吾熱腸を如何せむ、讀者諸君今暫く忍ばれよ、世の所謂新派諸氏の多くは、吾々の歌を目して擬古なり、萬葉模倣なりと稱するけらし、如斯評言を聞て、吾輩は其輕躁なるに駭き、其斯道に忠實ならざるを歎ぜずんばあらず、世間には、口能く萬葉を稱しながら、眞に萬葉を知り、萬葉を解する者極めて少きは、吾輩の痛嘆する所なりと雖も、斯くまでとは實に思はざりしなり、たまには萬葉の評釋位なす人々にして、如何に讀過したるかを怪むなり、兎に角、始め二三册も讀誦して、稍歌を解し得るの人ならば、否少しく注意して見るの人ならば、萬葉に客觀の歌が多いか、主觀の歌が多いか位は、解し得べ(57)き筈ならずや、云ふまでもあらず、萬葉中純客觀の歌を求むるならば、恐くは百中の二三を越えざるべし、而して吾々が常に公にし來りたるの歌が、如何に客觀歌多きかは、是又少しく注意して見る者の、容易に知り得る所ならずや。
萬葉の歌をも能くは見ずして、吾々の歌をも能くも讀まずして、輕薄なる妄評を下すに至ては、無法とや云はん、無責任とや云はん、内容の如何をも極めず、格調の如何をも察せず、漫に其言語の類似したる、即「かな」を「かも」と詠める位を見て、直に萬葉模倣なりと評するが如きは、余りと云へば膚淺ならずや、由來今の文學批評を爲す人々の多くが、徒に感情に支配せられ、所謂自我なる者を標的として、製作物その物の觀察には、疎慢を極め、標的たる其製作に對して、毫も忠實ならざるが如し、豈に藝術界の爲に嘆息せざるを得むや、吾輩を以て見る時は、萬葉の歌なるもの、少くも其眞髓なる物は、決して模し得べきにあらず、若夫れ眞に模し得るの技倆を有するの人ならば、何ぞ他を模するの愚を爲さむ、其技倆を一轉せば、國歌革新の事、實に易々たるものあらむ。然かも、萬葉は決して模しうべからず、容易に模しうるの萬葉ならば、萬葉豈に尊ぶに足らんや、他藝術に就て比較し見よ、古名匠の製作、今日の人能く棋し得るか、奈良朝の彫刻、宋元の繪畫、今日何人か模しうるものぞ、文學に於ても、美術に於ても、模擬製作なる物が、美術文擧の價値を保ち得べしと思へるか、迂愚も亦甚しからずや、吾輩は此の國歌評者に望む、吾々の歌が内容に於て、何れの點が萬葉に異なるか、精密なる觀察を經たるの後に、形式に於て、格調に於て、何れの點が萬葉に近く、比較論評せむ事を。
明治33年10月・11月『大帝國』
署名 左千夫
(58) 茶事漫録
一
◎世の中に茶の湯の宗匠と云ふのがある。馬鹿々々しき形式を人に教へてそれを一ツの活業として居る。なに流とかゝに流とかくだらぬ派別をして。各殊更に失九度意形式をこしらへて、之れを茶の湯と稱して居る。實際は傳授料を取る手段に過ぎないのだ。斯の如き宗匠連のために。眞の茶の湯と云ふものは。全く殺されてしまつて。今日は唯其形骸が残て居るのみである 其形骸すら昔の面影は極少くないのであらふと思ふ
◎其中でも新年の式と云ふのは、簡朴でやゝ趣味がある。土佐風の蒔繪などにて。一寸雅致ある遠山臺三寶に包ノシを載せて。床の間に据え置く。來客があると先づ此ノシ盆を客の前に持出して。それから辭禮を述べる。又ノシ盆には山道盆と云ふのを用ゆ。是は只遠山臺の足のないだけである。其外には軸物を掛ける釘に。三寸許な小き輪シメをかける。茶筅蓋置灰吹等は必ず青竹にて新しく作る。若掛花生など用ゆるならばそれも必ず青竹である。此青竹は如何にも新らしい感じがして。氣持のよいものである 茶の新年と云へは先づ是だけである
◎茶の湯には必ず豐公を思ふのであるが。豐公の茶の湯は眞の茶の湯である。人間の趣味的快樂。総ての需要を滿足せしむるの目的を以て。天然の美と人工の美とを。有形に無形に。鹽梅調和したる者。即是を眞の茶の湯と(59)云ふのだ。調和を神とし趣味を宮とし。意匠の湧く所。趣向の發する所。變化無限のものである。其風神の妙に至りては説明し得べきでない
◎豐公の茶の湯は。利休の茶の湯である。利休即日法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと。是消極に云へるなり。今日の茶人と云ふやつは。茶事の一端をも解して居ぬらしい。目を悦ばしむるもの。耳を悦ばしむるもの。鼻を悦ばしむるもの。口を悦ばしむるもの。一に趣味と云ふものゝ上に於てするのである。精神の美に於て色相の美に於て。悉く茶に備はらざるなしと云ふてよろしい。もしそれ其特徴を求むるならば。純然其日本的なる所。個人的なる所。情的なる所と云はねばならぬ
◎今の世に少しく才知あるもの。學識あるもの。多くは茶事を玩弄視して。之を顧みぬ樣であるが。偖其茶事を侮つて居る所の人達の好尚はどんなものであろうか。美術的好尚などは。全く缺如して居るではあるまいか。余をして益々豐公の茶事を思はしむるも決して偶然でないのである
◎豐公の治世僅に三十年に及ばず。然かも當時の工藝品が。赫として我國の美術史上に。異彩を放てるを見れば。豐公の茶事なるもの其係る所豈に少なからんやと云はねばならぬ。且又豐公の茶を好む。獨り自ら樂むを以て。足れりとせず天下と共にせるの跡あるは。其宏量最欽すべきである。豐公茶事の一端を示さんが爲め。對清雜記と云ふものより彼有名なる北野大茶の湯の高札なる者を抄出す(【群書類聚載する所と聊の相違あり】)
一來十月朔日於北野松原可有興行茶湯不寄貴賤不拘貧富望之面々令來會可催一興候禁美麗好儉約覺可申候秀吉
數十年求置候諸具可置※[金+芳]立條可見物者也
天正十五年八月
(60) 同御定之事
一於北野森十月朔より十日の間天氣次第被成御茶湯御沙汰に付て御名物共不殘被爲相揃數奇熱心の者に可被爲見爲如斯被成相催候事
一茶の湯熱心のもの若黨町人官姓以下によらず釜一ツ釣瓶一ツの物茶はこがしにても不苦ひつさげ來り可致事
一座敷の儀は松原にての條疊二疊但佗者はとぢ付いなはきにても不苦候事
一遠國の者に可被爲見し儀十月十日まで日限被成御延候事
右に之仰出候儀佗者を不便に思召候此度不罷出ものは向後に於てこがしも立候義無用との御異見に候不罷出ものゝ處へ參り候族もぬるものたるべき事
附遠國の者によらず御手前にて御茶可被下旨被仰候事
奉行 福原右馬介 蒔田權助 中江式部少輔 木下大膳亮 宮木右京太夫
知るべし豐公の茶と云ふものは。野に於ても山に於てもせらるゝものなるを。少しも形式に拘泥せざる所「こがし」にても苦しからずしか/\。「こがし」と云ふは小米をいりて挽きたるものなり。しきものは「とち付」「いなはき」にても若しからず云々に至りては今人の夢想にだに及ばぬ所である
二
◎茶の起原と云ふことに就てはいろ/\説があるやうなれど安永の頃に備前の人土佐經平と云へるものゝ書いた春湊浪語にある所やゝ信を置くに足るやうである 曰く
(61) 今の世に茶を點して翫とする其茶といふこと嵯峨天皇の弘仁六年四月近江國滋賀の辛埼へ行幸ありし時崇福寺にて大僧都永忠茶を煎して奉れるよし。類聚國史に見えたり。是我朝茶事の書史に記るされたる始なり。此茶の木を近江丹波播磨等の国々へ植ゑ廣められたることも同史に載たり。其後後朱雀天皇の時に惟宗孝言が書ける茶讃と云ふもの續本朝文粹に見えたり。安元御賀の時煎茶を奉る事。康和御賀の例を以て行はれしと云ふと玉海に見えたり。此時代のは皆煎茶にして又茶を植ると云ふことも中絶して異國より取寄せたるものらし。年經て後葉上の僧正と明惠上人と入唐し同船にて歸朝ありける時。又茶種を持歸れることは人の知る所。是即茶の中興にて葉上の僧正は筑前背振山に其種を植ゑて是を岩上茶と云ふ。又栂尾にも移して遂に世に廣まり事僧大蟲の茶湯記にしるせり。明惠上人は何所に植たのか其茶を鎌倉の右大臣實朝公に奉り。大に其功徳を譽め立たる喫茶養生記と云ふものを併せ奉れるよし東鑑に見えたり
此時分より引茶になりて世に是を翫ぶもの多くなりぬ。北條執權の末に及びて七十服茶首服茶など云ふこと聞えし。京都將軍慈悲院殿の比より盛に行はる。勿論其時の茶禮は今のとは樣かはりて本の茶非の茶と云ふことを分ち種々の茶を點じ出す事十服より百服にも至る。是れを飲むもの褒貶をなして勝負を爭ふなり。相阿彌が書ける君臺觀に茶器を多く長盆に並べたることの見えしは茶數種なればなり。其内に十服茶と云ふ式は三種の茶を各四服宛に包む。四服の中各一服を取りて試とす 殘る所三三九服に客と云ふ茶を一種添て以上十服を點じ出す是を十茶と云ふ。又三種試の茶とも云ふ 又一つの式には茶三種各三服に客を加て十服として最初に飲を一と定め其次々二三客として出す。無試式也是をは裹攻《ツヽミツメ》とも無試茶とも云ふ云々
是等の記事によると茶の始まりそれから起り又は變遷などのことはやゝ知ることができる。茶式のことは文詞簡(62)單すぎてよくはわからぬ。七十服茶百服茶と云ふのも何人位あつまりてするものやら。又十服茶と云ふのも同く人數のことがさつばりわからぬ。であるから其趣味などのことも勿論知れぬのであるが。おもふに茶のよしあし又は何所の茶であるかいなかと云ふやうなことを飲みくらべ。それを當てるのが勝であると云ふやうなことにて。一場の遊戯に過ぎなかつた樣である。勿論其中に器物を弄すると云ふこともあるやうなれども。殺風景なるものであつたらしひ。利休などのやつた茶湯と云ふものとは全く根底を異にして居たにちがひないのである。併しそんな事をやつて居る間にいつしか趣味的の茶も始まつて來た。義政の時に僧珠光と云ふものが眞の茶湯即ち趣味的のものを始めたのであるがまだ/\始のことであるからなか/\こなれたものではない。隨分あやしいものであつたのだ。云ふまでもなく一貫した趣味系的などはない。支那趣味やら日本趣味やら佛もあり儒もありてそれは蕪雜なものであつた。無暗に唐物々々と云つてからものでなければ。好茶器ではないとおもふて居たのである。古ひ物でなければ面白くないとしてあつたのだ。繁雜で固くるしくそうして儀式ばつて。矢張今日の茶の湯に似たものらしかつたのである。數日前或物を見やうとおもひ博物館へゆきし折。てうど珠光の遺物といふ茶器二つ三つを見たのであるが。予が想像にたがはず多くはごつ/\として支那趣味のものであつた
◎美術的天品ある豐公。根本的に日本趣味の好尚ある豐公。之を助くるに利休を以てしたのであるから。茶の湯と云ふものが遺憾なく改革を遂げられ。立派に發達成就したのである。精神を自然の上に求め。趣味を調和の中に悟ると云ふ鹽梅で。新なく舊なく器物は一に面白味いかむと云ふのみである。或は形式あり或は形式なく時に嚴に時に寛に。王公も樂まれ匹夫も樂まれるのだ。土を統ねし一樂焼を作り竹を削りて茶杓を作つたのである。唐物ふるひ物時にもちひぬではない。只調和如何面白味如何を問ふのみである。茶巾さへきれいなれば侘者は茶(63)ができると利休は云つたのである
利休の茶の湯いや眞の茶の湯と云ふものは。徹頭徹尾日本趣味のものであるのだ 日本趣味でないものは茶の湯には調和しないのである。故に日本人の潔癖ある如く茶の湯と云ふものは大の潔癖であるのだ。色相の上に於ても精神上に於ても純潔無垢でなければならぬ。然るを今の世の愚茶人と無茶人とは。古びて汚れて居るのが茶器の持前と思てゐる 馬鹿げて話にならぬ
三
◎どこまでも好尚の高潔なる利休は。其の精神の上にも。毫末の汚濁にえ堪へなかつたのである。此の事に全く無關係なる。一茶人の身を以て。禍を買ふたと云ふも。即其の汚濁を惡むの心に起因したのである
利休元來流浪の貧茶人のみ。一朝豐公の知を得て禄五千石を給せらる。知己の義と君主の恩とを合せたのだ。之に加ふるに一喝人を生殺するの威力ある豐公其の人に對し。寸毫の枉ぐる所あらざりしは。高潔極れりと云ふべきである
◎宗旦は少庵の子。利休の孫なり將軍家諸侯等の召聘に應ぜず。深く名利を避けて。隱逸なりしよしなるが。本阿彌行状記の記する所尤も味ふべし
近衛應山公(信尋公)あるとし。宗旦子の又隱庵へ被爲成候節。只一通りの建前にて濃茶献上。尤相伴は各服に候所。道具御覽相濟候後應山公被仰候趣は。我等などを茶事に招被申候時は。臺天目の樣に承侯所。今日は只一通りの濃茶手前の事不審に侯故尋候と御意の所宗旦御請に成程貴人方へ御茶献上は敬まひ候て。十人か九人(64)臺天目にて差上候共。箇樣の茅屋へ被爲入候事は。全体貴人にはなき事に候得ば。只佗しきを茶の本意に。市中ながら山家へ入らせられ候ての御慰にも候かと存じわざと一通りに而濃茶差上即時の間には。臺子相餝置候得ば。後の薄茶には臺天目にて差上候積りに。認置候とて。右の間へ御成を申御多葉粉盆干菓子等持出。ゆる/\と炭等を直し臺天目にて。薄茶を被上甚だ御悦び有之度々其後は御成も有し御懇意不浅とぞ云々
◎意匠の働きに富みたる事は。世擧りて遠州を推すのである。只だ巧に過ぎ華に過ぎたる所往々俗を脱せざるものあるは。又自然の數なるが遠州固より俗人にあらずと雖も。宗易宗旦の如き氣骨なかりしや疑なし。思ふに精神の美と色相の美とは。遂に離るべからざるものあるか。利常夜話と云ふものゝ中より一節を抄出す
後ち御上洛の御供に利常樣大津の御座敷にて御茶湯なされ作山申付けられ泉水も出來候所に。小堀遠州御見舞に御留守にて候へども御庭を一覽致され候て。大名の物數には小き御好にて候あの大山と湖水とは見えざるかと獨り言ひ申され候。慶安と石黒學介など承はり候て御歸り遊され侯と早々御聞に入り候へは利常樣御わらひなされ尤至極なりとて。夫より泉水も埋め作り山も崩し御取り捨。石ばかりを残し置き御書院の向ふに屏を御掛け眞中を御切抜き。格子をこまかに仰付けられ湖水より叡山唐崎三笠山までも一目に見渡され候樣なされ候。先遠州殿を御招請あり宗甫にも手をうちて是でこそ大名の御露次なりと。賞美致され候 退出の後仰られ侯は。和尚(今の宗匠と云ふ意也)になり候人の器量は別なりとて夫より以來御信仰なり
明治34年1月4日『日本』、1月
28日、2月11日『日本附録週報』
署名 茅堂
(65) 新歌論
一
天下何事か研究せずして發達するものあらんや。研究は學藝進歩の師導たること肯て言説を要せざるなり。然かも近世の文學者殊に歌人と稱する輩が其職に不熱心なる斯學の上に毫も研究を勉めざる豈に慨嘆に堪ふべけむや。彼等は非文學なる骸的歌を作るを以て斯學研究と思へるらし。彼等は古歌の解釋をも斯學研究と思へるらし。何ぞ誤れるの甚しきや。古人も既に云はずや歌を知るは歌を作るよりも難し、歌を作る者先歌を知るを要すと。所謂近世の歌人なるもの何人が能く歌を知るものぞ。如何なるものは非文學にして如何なるものが文學なるか。則精神的美術たる歌の定義と云ふものは如何なるものであるか。蕩々非文學なる骸歌を陳列して平然耻とも思はざる、彼等豈に能く歌を知ると云はんや。しかも予は彼等が毫も歌を知らざることを怪まぎるなり。何となれば彼等は歌を研究し居らざればなり。適斯學に盡せりと云ふも、古歌を解釋せるに過ぎざればなり。歌豈に解釋して知るべきものならんや。又決して解釋し得べき性質のものにあらざるなり。其所謂解釋なるものは意義の説明に過ぎずして、其本領なる趣味の點に向つては一歩も説明を許さゞるは則歌の歌たる所以、精神的美術の性質自ら然るべきものあつて存するなり。予は斷言す、歌を解釋するは童幼教導の事のみ。然らざれば一種賣文の業のみ(66)と。豈に是を以て歌の研究と云ふを得んや。彼等翩々たる教員賣文の徒固より責むるに足らずと雖も、一般の社會又如斯賣文的所業を以て、文學者當然の職務の如く思意して怪まざるなり。現社會が文學思想の幼稚なる豈に嘆息の至りならずや。
歌人が古歌を研究する、固自個が創作の原本に資すべきもの、恰も工藝家が古美術品を研究して自家の製作に資するが如かるべきなり。工藝家なるもの何の遑ありてか自己の製作を忽せにして他がために説明を事とすべけんや。徒に古歌の意義を解釋して以て歌を知れりとなし、盲目的に雅言を拈出して以て歌なりと爲す。願望一千年間只累々として骸歌の陳列を見る、豈に怪むに足らんや。國歌の衰微も實に極まれりと云ふべし。國歌の成立と其起を同うし、有史以前有文以前に於て既に能く文學的性格を具備せる國歌。堂々三千年の歴史を有したる所の國歌其物が今日に於て猶文學非文學を疑ふと云ふは實に痛嘆に堪ずと雖も、要するに萬葉集以下の歌人等が毫も歌を研究せざりしが故のみ。
人丸赤人貫之躬恒定家家隆等は同じく世人の歌聖とする所、大歌人とする所なり。然れども研究なき無數歌人の崇拜は悉く盲目的なるこそ悲しけれ。彼等は人丸赤人の眞價は勿論解せざるなり。貫之以下の眞價をば一層甚しく誤解せるなり。貫之窮恒定家は人丸赤人に及ざるも猶同種のものと盲信せるなり。焉ぞ知らん、人丸赤人の歌は貫之以下の歌とは全然趣味の根本を異にせるを。人丸赤人にして是ならば貫之以下は非なるべし。貫之以下にして是ならば人丸赤人は非なるべし。兩者の趣味氷族相容れざる如斯ものあり。若夫れ人丸赤人の靈にして地下に知るあらば、千年近くの長日月間、何の識別もなき盲者の崇拜を嘆息せしや必せり。予が歌人に研究なしと斷言せる、豈に偶然ならんや。
(67)獨近世の歌人が然るのみにあらず、貫之窮恒定家又毫も研究せざりしなり。彼等が萬葉を讀ざりし事、否讀みえざりし事は早く世の知る所。貫之古今集の序文に萬葉集に入らざる歌云々と云ひながら、萬葉の歌が正しく古今集にあるを見ても、彼明に萬葉を讀む能はざりし事知るべし。萬葉集を讀みえざりし彼等が、焉ぞ人丸赤人の歌聖なるか否かを知らむ。況や其神髓を窺ふことを得んや。宜なり、彼等は人丸赤人を歌聖と尊びながら、其詠歌に至りては人丸赤人の俤をだに得る能はざるや。之を要するに彼等が人丸赤人崇拜なるもの盲目的なりしや、毫も疑を容れざるなり。
嗚呼彼等にして少しく斯道に忠實に研究に熱心なるあらしめば、當時猶世を隔つること甚だ遠からず、萬葉の薀奥を探ぐる必しも難事の業にあらず。然るに彼等事茲に出でず、只漫然形骸を摸して盲拜に安じたる、己自ら誤れるのみならず、遠く百世の歌界を損へり。遺憾極みと云ふべし。
近世古學の徒刻苦して古文古歌の解釋を務めたる契沖眞淵宣長等大に斯學に便益を與へたりと雖も、是又悉く學者的研究解釋的研究にして、其文學的趣味的に於ては未だに一歩研究の歩を進むる能はず。故に盛に萬葉を唱道して議論相見るべきあるに係らず、自ら詠める所の歌に至りては、依然古今集以下たるを免れず。到底彼等も趣味的に於て、人丸赤人貫之躬恒の差點を識別し得ざりしなり。則精神美術なる歌の定義に對しては其盲目なりしを斷ぜざるを得ず。
思ふに如斯吾輩の言説天下無數の歌人之を視ば、必ずや瞠然として驚倒するものあらむ。予は只彼等が例の無研究なる疎漫と、趣味的に盲目なるとを憐笑するあらんのみ。
先に竹の里人子が出鱈目だけそれだけ貫之躬恒の歌に勝さると喝破せらるゝや、例の盲人共の驚骸如何許なりし(68)ぞ。彼等は到底眞面目なる論議を感受し得ざりしが如し。何ぞ知らん、彼等が驚きのそれだけ彼等は自己が研究なきを表白せるものなるを。竹の里人子瀕死の病躯を以て、寸刻も文學の研究を弛めず。子が一呼一聲悉く研究の結果ならざるはなし。何の閑ありてか、戯言を爲して人を驚さんや。子が萬葉を唱道する、單に文學的價値を認むるが故のみ。古今集以下を貶する又其價値を認めざるに依るのみ。多くの世人が漫に古きが故に好み、新しきが故に取らず。好むが故に尊み、好まざるが故に疎むの單純なるが如きものならんや。熱心なる研究者の眼中、決して古と新と萬葉と古今とあらざるなり。文學的價値如何、趣味の分量如何を視るのみ。あはれ天下無數の歌人、眞實に歌に熱心なるものあらば、徒に驚駭と怪異とをやめて、靜に諸集の上に趣味的研究を試みよ。悠々たる一千年間の歌人悉く研究なしと云ふ、庸濛の輩喫驚して怪訝を懷く、蓋又當然なるものあらむ。請ふ予をして更に論歩を進めしめよ。古今無數の歌人等が如何に萬葉を評したる、如何に古今等を評したる。
二
由來歌學上の一の定論あり曰く。萬葉集の歌は其當時の普通語を以て思ふ儘に有りの儘に詠出たるが多く。調子の高きと云ふも敢て求めて得たるにはあらずして自ら茲に至れるものなりと云へること。次に古今集新古今集の歌は句作悉く洗錬を經たるものなれば。流暢優艶にして極めて華麗なるものなりと云へること是なり。萬葉集を好むものと古今集新古今集を好むものとに論なく。其各集に對する解釋は大抵如斯に過ぎず。故に以上の解説は是を千古の定論と云ふも不可なきなり
嗚呼此千古の定論淺薄無稽なる千古の謬論。此謬論こそ正しく國歌を常末に重雲積霧の奥に埋没し來れるなれ。
(69)萬葉集を尊び人丸赤人を歌聖視して而して其然る所以の義を極めず、古今集新古今集を好み貫之定家を大歌人視して而して其然る所以何所に存するやを求めず。漫然として其高調を稱し優麗を唱ふ皮相も亦極まれりと云ふべし。
余は確信す明治の歌壇は此千古の謬論を打滅掃蕩以て根本的研究を爲すにあらずんば國歌の革新決して望むべからずと
抑美術文學の上に渡りて二大定義の存するを認む
(一)事實を面白くする事
(二)面白き事實を寫す事
事實を面白くするとは製作を主とするの謂にして即美術文學の上乘なるものなり。面白き事實を寫すとは即事實を主とするものにして題目の撰擇に重きを置く是を次なるものとす。萬葉集は大乘小乘兼有するが故に其歌は事實の面白きが故に面白しと云ふよりは製作の力に依て面白くなりし歌即製作を主としたる歌尤も多し。然も事實を直寫したる歌も決して少からず。萬葉集の歌を以て有の儘に思ひいづるまゝに詠めるなり質朴にして華麗ならずと爲せるが如きは萬葉の一重だも得解せざるの陋見のみ
古今集以下の歌は寫實派の定義に依らむとして然も横道に陷りたるものなり。何となれば這般の定義に依れる歌は事實を主とすべき筈なるに。古今集以下の歌は徒に皮相なる文字上言語上の縁をたづねて返て事實を僞造したるが多ければなり。事實を主とせずして己の感想を主としたるが多きなり。他に訴へたるにあらずして自個を主張したるが多きなり 要するに古今集以下の歌は十中八九文學の定義以外に逸出したるものと稱すべきなり。
(70)余は今萬葉集及古今集新古今集の歌を吟味せんとするに先ち。今少しく二定義の上に解説を試み置くべし。是を繪畫に譬ふれば製作を主とするとは即調子を以て勝さるの云ひなり雪舟光琳の如き是なり。事實を主とすとは即寫生を以て勝さるの云ひなり四條圓山の如き是なり。然れども誤ること勿れ調子を主とすると云ふも即事實に基づきて其上に己の趣味的調子を發揮するの云ひなれば寫實と云ふことも自然其内に含み居るものたることを 又寫生を以てまさると云ふも即面白き題目を撰擇すると云ふことは矢張其内に含めるなり。末派の畫家が調子派は事實を失却し寫生派は事實を偽造しつゝ繪畫の衰類を來したるが如く。國歌者流も殆ど同一轍を蹈て積衰の極に陷りたるは實に長大息に堪へざるなり
何を以て萬葉集の歌は製作を主とせるものなりと云ふぞとの問に對し余は之に答ふること極めて容易なり
(一)萬葉集には序歌多きこと
(二)萬葉集には枕詞の多きこと
(三)萬葉集には造語の多きこと
余は未だ萬葉集の序歌の數を精査したることなしと雖も其五百以下にあらざることは確かなるべし。此序歌なるものゝ性質に就ては肯て説明を待たず製作を主とせるの歌なる事は何人も了解し得むなり。又萬葉中に使用せられたる枕詞の數は畧六百内外なれども多くは當時の作家の手に依て作られたるものなること又言ふまでもなし。眞淵は人丸の歌を許して其詞は海潮の湧くが如しと云へり實に人丸のみにあらず當時の作家は皆盛に造語を爲せるなり即萬葉集中如何に造語の多きかを知るべし。是等の序歌是等の枕詞是等の造語あるによりて萬葉は萬葉の價値を發挿し其歌は光彩を百世の下に放てるなり。
(71)古今集及び新古今集に如何なる序歌かある枕詞かある造語かある。余は其絶無なることを斷言するに躊躇せず。適々序歌に類したるものになきにあらずと雖も萬葉の序歌とは全然其質を異にして厭ふべき縁語をあやつりたるに過ぎず造語の絶無は云ふまでもなし。枕詞は古今集にも新古今集にも勿論創作は絶無にして僅に襲用したるすら實に寥寥たるを見る 即左表を見よ
萬葉巻一 短歌六十八首中 枕詞ある歌 二十五首
同 二 同百三十二首中 同 三十四首
古今春上 同 六十八首中 同 三 首
同 春下 同 六十三首中 同 三 首
新古今春上 同 九十八首中 同 三 首
而かも古今新古今との三首中一首若くは二首は共に萬葉時代の歌にして古今新古今時代の歌にはあらず。以て如何に變化の大なるかを知るべし。萬葉時代の作家は盛に枕詞をも創作しつゝ用ひたりしを古今集以下に至りては既に有來れる詞をだに充分には使用せざりしなり。萬葉時代の作家は面白き詞働きある詞をも盛に創作しつゝ應用したるなり 古今以下に至りて自分に創作するは勿論不可能のことのみならず。萬葉中に疾に用ひられたる詞をすら使ひつくさゞりしなり。古今集以下の歌人等が如何に意氣地なかりしを知るべし。
萬葉の歌は有の儘なり思ひいでたるまゝを詠めるなり修飾なきものなりとは何者の盲者が云ひしぞ。製作を主としたるものと事實を主としたるものとに論なく。あらゆる色彩を應用しあらゆる摸樣を發明しつゝ滿裝盛飾光華の燦爛たるを見るは萬葉の歌にあらずや。
(72)轉じて古今集以下を見れば即貫之の所謂見る物聞く物につけて思ふことを云ひ出たるなりを。唯一の定義としたるものなれば。歌は事實を面白く詠むべきなど云ふことは始より知り得ざりしや云ふまでもなく。寫實の趣味すらも生かぢりなりしなり 何となれは寫實の趣味を少しだに解したらむには。題目の撰擇等にも今少し注意の跡あるべき筈なり。事實に對し事實の美を歌はんとせず徒に自個が思ひ巧める感想を主として文字上に言語上に洒落を弄したりしは淺間しからずや。如斯して作られたる歌何の所に優艶かあらむ何の所に華麗かあらむ。夫れ此の如く萬葉集と古今集以下とは趣味の根底に於て大差を有し氷炭相容れざるものありしなり。然るを趣味盲なる貫之定家の輩は己等の歌と萬葉集の歌とが斯く大差あるをも氣就ずして當推諒に人丸赤人を歌聖なりと唱へ居たるこそ片腹痛くも笑止なれ。いでや萬葉集の序歌とは如何なるものぞ
淺茅原小野にしめゆひ空言毛《ムナコトモ》あはんときこせこひの名草に
※[木+巨]※[木+若]越《ウマセコシニ》に麥はむ駒のゝらゆれと猶しこふらくしぬひかねつも
ゆふたゝみ田上山の狭名葛ありさりてしも今ならずとも
筑紫道の可太のおほしましましくも見ねばこひしき妹をおきてきぬ
御狩するかりはの小野の櫟柴のなれはまさらすこひこそまされ
是即万葉集の序歌なり如斯の歌は集中擧て數ふべからず 而かも是等の歌をば何人も有のまゝなり思ひいづるまゝなりとは云ひえざるべし。殊に附點の詞の如き固より本歌作者の創造なりや否は知る能はずと雖も古今集以下などに於ては決して見る能はざる働きのある詞なり。此等の歌に見るも萬葉の作家等が簡單なる事實を如何に面白く作れるかを知るに足らむ。
(73) 麻苧等《アサヲラ》を麻笥《ヲケ》にふすさにうますとも明日《アス》來せさめやいざせ小床に
吾背子は物な思ひそことしあらば火にも水にも吾なけなくに
足ひきの片山きゝす立ゆかむ君におくれてうつしけめやも
附點の如き働きある詞が萬葉以外にあるべしともおもへず。僅に七言にして此の如く長意義を含める詞が通常の語にあるべき筈なし是必ずや造語ならむ。余は常に如斯詞に接する毎に萬葉作家の技倆計り知るべからざるものあるを思はずんばあらず。
田子の浦ゆうちいでゝ見ればましろにそ富士の高峰に雪はふりける
山の端に月かたむけばいさりするあまのともし火沖になつさふ
朝ね髪吾はけつらず愛しき君が手枕ふりてしものを
東の多藝の御門にさもらへときのふもけふもめすこともなし
事實を主とせる歌とは如斯を云ふなり。眞率にして少しもつくろへる所なく感哀返て深き所以は題目の極めて趣味あるものなるが故なり。古今集以下の歌の巧に僞作したる事實をよめるものと年を同ふして語るべからず。さて古今集以下の歌は如何今例歌として著しきものを擧げむ
古 あふことは雲井はるかになる神の音にきゝつゝこひ渡るかな
片糸をかなたこなたによりかけてあはすは何を玉の緒にせむ
霄のまもはかなくみゆる夏虫にまとひまされるこひもするかな
新 冬の夜の涙にこほる吾袖の心とけすもみゆる君かな
(74) すまのあまの袖に吹きこす鹽風のなるとはすれと手にもたまらす
山かつの麻のさ衣梭をあらみあはて月日やすきふけるいほ是即古今集新古今集の序歌なり之等の歌が如何に事實即眞情に基かずして。淺浮なる文字上言語上の巧をてらひたるを知らむ。是を前掲の萬葉歌に比して如何なる點に相違あるかは肯てこと/”\しく云ふを要せざるべし。是を文字の玩弄と云ふ誰れか然らずと云ふものあらむ。
古 袖ひちて結へる水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
同 雪の内に春はきにけり鸞のこほれる涙今やとくらむ
月夜にはそれとも見えす梅の花香をたつねてそ知るへかりける
新 岩間とちし氷も今朝はとけそめて苔の下水道もとむらむ
同 谷河のうちいつる波も聲たてつ鶯さそへ春の山かせ
同 梅の花匂ひをうつす袖のうへに軒もる月のかけそあらそふ是種に屬する歌は古今新古今中幾百なるを知らず 之等の歌は一見して机上の空想より虚僞の事實を構成したることを知るべし。附點の句言に見ば事景實情にあらざることは毫も疑を容れざるものあり。句法面白きにあらず詞面白きにあらず採らへたる材料又面白きにあらず。只/\詞をひねくりたるのみ。色相の上に於ても感想の上に於ても一點の趣味をだに認むる能はざるなり。竹の里人子が出たらめにも劣ると云ひしは此等の歌を指したるなるべし。如此三文の價値だもなきひねくり歌を崇拜し來りたる一千年間の歌人共こそ情なくもうたてけれ
古 くるとあくと目かれぬものを梅の花いつの人間にうつろひぬらむ
(75) 同 色も香もおなじ昔にさくらめと年ふる人そあらたまりける
同 かくはかりをしと思ふ夜も徒にねてあかすらむ人さへぞうき
新 なかむとて花にも痛くなれぬれはちる別れこそかなしかりけれ
同 よし野川岸の山吹咲にけり嶺の櫻はちりはてぬらむ
同 時わかぬ波さへ色にいつみ河はゝその杜にあらしふくらし
何れも屁理屈的なる自己の感想を主とせるの歌なり如此歌を名づけて主張的の歌と云ふなり。余は實に當時の歌詠先生達が何故に花紅葉に對し花紅葉の実を歌はずして斯くも好んで屁理屈を並べたるかの理由を解するに苦めり。以上の如き主張的歌が根底より非文學なることは殆んど論ずるの必要もあらず。
然れども余は茲に一言せむ萬葉集と雖も屑歌なきにはあらず 古今集新古今集又良歌絶無と云ふにもあらず そは後日論ずることあるべし 今は只古今集以下の良歌なるものは根底なき偶然的なるものなることを告げ置けば足れり。之を要するに古今集新古今集と萬葉集とを比し其著しきものを擧ぐれば
即古今集以下の歌には
(一)事實に關係なき文字上言語上の洒落多きこと
(二)理屈多きこと
(三)自己を主とせる感想即主張歌多きこと
(四)事實の虚搆多きこと
(五)枕詞の創作絶無にして襲用も極めて少きこと
(76) (六)造語絶無なること
(七)材料の萬葉に比して非常に狹きこと
(八)調子の千編一律にして變化なきこと
(九)眞の序歌少きこと
(十)使用の詞萬葉に比して非常に少きこと
(十一)働きある詞の絶無なること
(十二)調子屈折してたるみ多きこと
(十三)強堅なる調子の絶無なること
如斯して古今集以下の歌は文學趣味なるものが消却し盡したるなり。以上は短歌の上に云へるものにして長歌の比較に至りては玉と瓦とを比するより更に甚しきものありと云ふを以て足れりとす。
萬葉集と古今集以下と人丸赤人等と貫之定家等と夫れ如斯大差あるを知れる者は果して何人ぞ。萬葉崇拜家たる眞淵の活眼にして。猶且萬葉の心を知り古今の姿を得ば云々と云へるにあらずや其他の輩に至りては推して知るべきなり。余が先に悠々一千年間の詩歌人絶て研究なしと絶叫せる豈に必しも誇張の言と云ふべけんや
三
歌を見る須らく其歌の價値如何と考へ、其趣味面白味如何と問ふべきのみ。集の何たると作者の何たるとは歌を見るの上に於て毫末の關係を有せざるなり、況んや時代の新舊を論ずるに於てをや。千年以前の歌千年以降の歌(77)何の關する所かある、趣味あれば取り趣味なければ取らず、一般社會が解すると解せざると歡迎すると歡迎せざると毫も問ふを要せざるなり。文學には文學の定議と票準とあり、定義に基づけるや如何 票準に合するや如何余が歌を論ずる只有之のみ
昧着はいふ、定義票準人各其見を異にし其解を同ふせず、從て己の定義票準を以て他を律すべからずと、愚哉論や、文學の定義は文學の定義なり、天地間豈に文學者なる人間の製造したる定義票準あるべけむや。其見を異にし其解を同せずは是則文學を解せざるなり、定義票準なき文學は文學の價値を有せず、若夫れ定譲票準に確然たる見解なきの徒は歌を作り歌を論ずる資格を有せざるものと斷ぜざるを得ず。余が萬葉集を推し古今集以下を排する豈又他あらむや、萬葉集の歌は所謂定義票準に合せざるもの少く、古今集以下の歌は全く是と反對なるものあればなり。
昧者は又いふ、萬葉集の歌は千年以前の人情言語、以て今日に取るべからずと 而して古今集新古今集をば排せざるなり。知らず萬葉の一千年以上古今新古今の七八百年以上時代の新舊に於て何程の差かある、痴言と云はざるを得んや。
所謂二十世紀とやらの今日、知識的進歩理窟的進歩は則有之、而かも文學の神髓たる美的感情なるものゝ上に於て劣却の徴跡明として疑ふべからず、人情の厚薄感懷の優劣果して今を推すべきか古を推すべきか。如何なる昧者と雖も此點に於て惑ふことあらざるべし。繪畫の如き音樂の如き月を重ね歳を積みて發達する者詩歌亦然り。などゝ云はるゝ或坊ツチヤマの論法を以てせば、即新しいだけそれだけ優等なる者、萬葉集よりは古今集、古今集よりは新古今集と新しくなるに從て次第に勝つてくる理窟、千代田歌集の如きは古今無類の好歌集と云はねば(78)ならぬのであろふが、併しながら如斯御目出度論者は天下稀に見る所である以上は、物質的進歩に伴ひ人情輕薄に赴ける實際の確論に從はざるを得ざるべし。
知れ歌は美的感情の發展なることを、知れ現在の實情なりとも輕薄なる野鄙なるものは文學の材料にあらざることを。
言語の上に於ては又果して如何、世は進むに從つて人事は益々複雜を如ふ、人事の複雜は言語の増加を件ふ是必然の勢ならずや、されば千年以前即萬葉集時代に於て、千言の詞數ありとすれば明治の今日世界に交通するの今日は、少くとも倍數即二千の詞數あるべきや是又必然の數なりとす、然り而して今日の歌人即二十世紀の歌人とやらが、歌の上に運用する所の詞數是を萬葉集に比較して幾許の増加したる所かある、余は今日の歌人恐くは萬葉の歌人等が運用したる詞のそれだけをも用ひ得ざりしことを斷ずるに躊躇せず、吾々の歌に時々古言を用ゆるを見て多くの歌人等が頻りに云々するは第一の證ならずや。益々複雜なる事物を歌はんと欲せば益々多大なる歌詞を要すべき筈なるに、却て千年以前の歌人等が運用したる詞のそれだけをも用ゆる能はずとは、實に情なき次第と云はざるを得ず。
要するに萬葉の歌人は有數一千(假定)の詞に各造語を以てせば則一千二百の詞數を運用したる割合なるべきに、在來の詞をすら充分に運用し得ざりし今日の歌人は、有數二千(假定)の詞も用ゆる所八百乃至千を越へざるや明なり。然も千年以前の詞を以て今日の人情を歌ふべからずといふが如き痴言に至ては、言語同斷沙汰の極みとこそ云ふべけれ。
今の多くの歌人皆曰萬葉の古語解し難し用ゆべからずと 意氣地無きも又甚しからずや、余が屡云へる如く萬葉(79)の歌人は枕詞は勿論新造語をも盛に行ひつゝ歌を作れるなり。而して今の歌人は在來の詞をすら能く運用すること能はざるのみならず、其詞をだに知らざる者多く猶漫に稱す、明治の歌は明治の詞を以て作らざるべからずと、明治の詞とは抑も如何なる詞ぞや間拔さ加減も茲に至て計り知るべからず。余は茲に斷定を下さむ、明治の歌人たる者は古事記日本紀と萬葉とを問はず、俗言と方言とを問はず、苟も歌詞に應用せらるべきものは、悉く復活し拾集し之に加ふるに新語と造語とを以てし、有數二千の詞は三千以上(割合を示すのみ)にもなして、始めて所謂二十世紀の事物を歌ふに足るべしと。余は一轉して歌の調子を論じ萬葉集と古今集以下猶今日の歌とが、調子の上に於て如何なる感化あるかを論究せむとするに先ち枕言と歌との關係及詞と歌との關係を略序し置かざるを得ず。
意義を含まざる枕詞は作歌の上に無用のものなるか、豈に夫れ然らむや、枕詞は之を繪畫に譬ふれば則模樣なり隈取なり、繪畫は事實を直寫するを以て目的とせず、或事實を借りて繪畫獨立の美を發揮するを本領とするが如く。歌は則人間の意志を發表するの器械にあらず、社會の或事實を借り來りて歌的獨立美を顯はすものなるが故に、模樣的隈取的なる枕詞は歌を粉飾するの上に於て極めて必要なる物ならずむばあらず。意志の發表を以て歌の主眼となし枕詞を邪魔物視したる古今集以下の歌が萬葉集と全く趣味の根底を異にせることは先に反復論じたるが如し。繪畫に於ける模樣隈取の必要及其趣味を解せるものは少し、而して歌の上に枕詞の必要と趣味とを解する考なきは怪むべし、
歌は見る物聞物につけて思ふことを云ひいづるなりと如斯く歌の定議を誤解したる貫之は、全く枕詞の必要と趣味とを解せざりしなり、古今集以下の歌に枕詞の使用極めて少きもの豈に偶然ならむや、(80)模樣と隈取との趣味を解せざるは即繪畫を解せざるなり、枕詞の趣味を解せざるは即歌を解せざるなり、景物を書過したる繪畫の反て品格に欠くる所あるもの多き如く、全首悉く働詞を以て充たされたるに高調なるは少し、歌を作るもの必ず枕詞の運用と妙趣と悟らざるべからず。
如何なる言語も歌に詠みえらるべきや、決して然らず、歌の上に於ける詞なるものは必ずや美を顯すべき資質を有するものたらざるべからず、前に云へる如く歌は意志を發表するの器にあらざるが故に、歌詞なるものは決して意義の符貼にあらざるなり。是又繪畫に譬ふるを便なりとす、歌詞は繪畫に於ける色料の如きなり、繪畫に於ける色彩が色取の符貼にあらずして、單に色彩其物のみの上に於ても趣味を有せざるべからざるが如く、詞其物が多少の趣味を含めるものならずむば以て歌詞とすべからず。すべての色料が悉く繪畫に用ゆべからざるが如く、普通の言語悉く歌に入るべからざるや論を待ざるなり。
萬葉の歌人が盛に造語したると、古來有名なる畫工が皆能く各自の色彩を創造したると毫も變る所あらざるなり。模樣を作出し色彩を創造して始めて良畫家たるを得る如く、枕詞を作出し新歌詞を創造して始めて眞歌人たるを得べきなり、歌人たるもの豈に容易ならむや。
附記して本誌讀者諸君に告ぐ 余は常に所謂らく明治の歌壇は猶一大論戰を經ざるべからずと、敢て自ら計らず主張と製作とを公にして以て諸君に問ふ、斯道研究に熱心なる諸君願くは論評の勞を吝む勿れ、人各見る所あり論難攻撃は余が悦で迎ふる所なり、而も論旨本領に入らざるに早くも悪口を弄するものあり(山本氏)物蔭に陰れて無責なる罵詈を逞ふするものあり(牛込の詩人)余は斯の如き、論議の禮儀をも心得ざる陋劣者あることを深く本誌のために悲む。諸君一片斯道に忠なるの心あらば正々堂々と打て出でられよ、余不(81)肖なりと雖も鞘を拂ひし事の尋なり、幾百回たりとも接戰を辭せざるべし
四
以上所論の外に於て猶大に萬葉集に取る所の者は則歌の性命たる調子の上にありとす、萬葉集と古今集以下とは、其歌の内容に於て非常なる相違あることは既に詳論せる如くなれども、調子の上に於ても亦岡じく大差あるを認めずんばあらず、そは勿論内容の相違より來る所の自然の結果に基くもの多しと雖も、又句法并に詞等に關するもの極めて大なることを忘るべからず。
今歌の調子を論ぜむとするに當り、先づ調子と云ふことの意義を解説し置かざる可らず、歌に於ける調子なる詞は廣義に稱する場合と單意に稀する場合とあり、廣義に稱する場合とは則、人丸の調子赤人の調子家持の調子などと稱するが如く、極めて大體に渡りて稱する所の詞にして從て其意義甚だ隱微なるが故に之を説明すること固より容易ならず、寧趣味と云ふことを解説せんとするに等しく、不可能のことなりと云ふも可なるべし、余が茲に論ぜんと欲するものは如斯廣義のものにあらずして、則單意義の調子、一首若くは一句若くは詞等に於ける調子にありとす、然れども調子なるもの何れにせよ具象的のものにあらざれば之を説くの困難なるは云ふまでもあらず、從て所論多くは履を隔てゝ痒を掻くの感あるを免れざるは豫め讀者諸君に了察を求め置かざるべからず。萬実の詞は地方的なり其調子は太く重く厚く堅く概して大きく高しなど云ふべからむ。古今集以下の詞は都市的なり故に其調子は輕く細く薄く柔かく概して大きく高くなど云ふ感じは決して是を古今集以下の上に求むべからず。尤も手近き例を擧ぐれは
(82) かも
かな
意義の上に於ては毫未の相違なく其詞も「も」と「な」との相違のみ、然も調子の上に至りては大に異なる所あらずや、「かも」と云へば太く厚く感ぜずや、「かな」と云はゞ軽く薄く感ぜずや、此最簡單なる二言詞が如何にも両者の調子を遺憾なく顯し居ること實に不思議と思ふ程なり、或人は吾々が常に歌を詠む人の「かな」と云ふ所に、必ず「かも」と作ることを痛く笑ひしと聞けるが、思ふに或人の如きは歌詞の上に意義をのみ解して、調子と云ふことは全く解せざるものなるべし、猶或人の如きは調子の變身は趣味なり、調子は歌の性命なり、歌詞と云ふものは決して意義の符貼にあらずと云ふ事をも未だ解し居らざる者なるべし。
簡單如斯の詞にして猶能く趣味と調子とを認め得らるゝ所即國歌の要妙なる所以にあらざるか、余は「かも」「かな」なる詞の意義の同じきのみを知て、調子の同からざることをだに解せざる人々が歌を作り歌を論ずることを實に情なく思ふのである、試に諸君に問はむ、普通俗語の内にも
ハイ
ヘイ
諸君は此二言詞の意義の同じき知らむ、而して調子の同じからざるを知らざるか、「ハイ」は地方的にして調子は重厚なり、「ヘイ」は都市的にして調子は輕薄なり、「ハイ」は「かも」の如く、「ヘイ」は「かな」の如し 俗語猶此の如し況や歌詞をや、萬葉の調子古今集以下の調子推して知ることを得べし、然れども又音聲少も變る所なき詞にして、萬葉に入れば重厚に感じ、古今に入れば輕薄に感ずることあり、是れ他全體の調子に動かされ(83)たる場合に存する事にして、又少からぬ例なれば歌人の最も注意すべき點に屬す、
猶萬葉ならば、風吹く、花咲く、など云ふ所に、古今集以下にては必ず吹風味花と云ふこと多し、風吹く花咲くと云へば昇るが如き感あり、從て其調子は強く太く大きく感ずる也、此に反して吹く風味く革と云へば僅の相違なるが如くなれども、調子の上には全く前者と反對なる感じを與ふるなり、総じて萬葉集と古今集以下とは、細微なる詞の上に於て以上の如く、悉く相反して居るなり、其相反して居る詞を以て一句を爲し一首を爲す 益調子に變化を起し來るや怪しむに足らず、
若夫れ一句一句に就ては如何なる相違かある、今尤も著しき例を云はゞ。
吾なけなくに
時じけめやも
問ひし兒等はも
いでかよひこね
しこりこめやも
明らけくこそ
いざ結びてな
如斯の句は萬葉中珍らしからず、含蓄多くして調子の重厚なる決して古今集以下に於て見る能はざる所なりとす、若以上の如き句の調子を形に顯すならば、
「※[波線]」の如くなるべきか、
(84) 思ひしものを
いふ人なしに
逢ふよしのなき
とくる下紐
定めかねつる
思ひ渡らむ
是古今集中手に應じて拾ふ析の句なり、如何に輕く細く淺浮なるかは敢て説明するまでもなし、即前者の如く形に書くならば「――」の如きものと云ふべし、古今集の歌が大抵如斯輕浮なる調子の句を以て結ばれてあるを知らば、其歌の價値云はずして知るべし、詞の調子如斯相違し句の調子如斯相違し居るを知らば、最早一首の上に於て解説の必要なき如しと雖も、聊か例歌を擧げて比較を試みむ、
萬葉 山ごしの風を時じみぬる夜おちず家なる妹をかけてしぬびつ
君が世も吾世も知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな
茜さす紫野ゆきしめのゆき野守はみずや君が袖ふる
家にてもたゆたふ命浪の上に浮きてし居れはおくがしらずも
山川もよりてつかふる神ながらたきつかふつに船出せすかも
此等の歌を形に書くならば
(85) ……………
……………
草根の歌 ……………
……………
……………
……………
野守の歌 ……………
……………
……………
……………
古今 年の内に春は來にけり一年を去年とや云はん今年とや云はむ
袖ひちて結べる水のこほれるを春立けふの風やとくらむ
梅が枝にきゐる鷺春かけて鳴けども未だ雪はふりつゝ
新古今 いく年の春に心をつくしきぬあはれと思へみょし野の花
はかなくて過ぎにし方をかそふれは花に物おもふ春ぞ經にける
白雲のたなびく山の八重櫻いづれを花とゆきてをらまし
古今と新古今との歌と云はゞ先づ開卷以上の如き歌を見るなり、之を前例の如く形にせは
(86) (…………… …………… …………… …………… ……………
(……………………………………… …………… ……………
(…………… …………… ………………………………………
何れの歌も以上の如く細く狹く從て輕く如何に慈愛の限を以てするも到底重厚なる調子など認むること能はざるべし。
或人は云く萬葉集あつて後古今集出たり、古今集あつて後新古今出たり、各其異なる所以は時代の然らしむる所なれば、穴勝に歌人をのみ咎むべからずと。豈に夫れ然らむや余が先に詳論せるが如く、古今集新古今集時代の歌人等は全然萬葉を解せざりしなり、萬葉集を解せざるが故に如斯歌をも萬葉集の歌と大差なくして良き歌なりと信じ居りしなり、即夫れが國歌大墮落の原因なりしなり、若しも當時の歌人等にして、兎角萬葉集を解し居て而して其萬葉集より變化せんこと求めつゝ、彼古今新古今の如き歌を作りしものならば、假令其手段は誤りたりとも、斯迄には墮落せざりしならむ、然るに悲むべし、古今新古今の歌は全く萬葉集の系統を有せざるものなり、然も其作者等は即人丸赤人の系統を繼ぎたるものと誤信して、而して情なくも根本的相違せるものを作りつゝ有りしなり、
人或は又云はむ、萬葉集と古今集と異なる如く古今新古今も異なると、萬葉と古今との相違は根本的なり古今と新古今の相違は殆ど口先の變れるのみ、大體に於て何の變ずる所かあらむ、
夫れ調子の異なること此の如く内容の異なること此の如し、吾輩が萬葉を取り、古今集以下を排する則以上の理由に基づけるものなり
(87)吾輩は萬葉の價値を知り萬葉を尊ぶこと以上の如しと雖も、然かも豈徒に萬葉を摸擬せんと欲するものならんや、王政古に復すと云ふも即政治の精神を云へるなり、實際の政務に至りては即現代の趨勢に從はざるべからざるが如く、吾輩が萬葉を稱道する即文學の精神國歌の根本を求むるのみ、萬葉の調子を取り萬葉の詞の働きを取り萬葉の句法を取るのみ、其内容に至りては全く現在の事實を歌ひつゝあるなり、そは吾輩が常に世に示す所の歌に依つて知るべきなり、世には吾輩の歌を擬古なりと云ふ者ありと聞く、思ふに彼等は歌の皮相を見て内容を知らざるなり、西洋服着たる人をば悉く西洋人なりと云ふが如きのみ、淺薄如斯評論に至りては到底相手にすべき價値なしと云はざるを得ず、
以上は吾輩が國歌に對する今日の懐抱の概要なりとす、余は是より進で事實問題に入り、現歌人諸子の製作を論評するの順序なるを知ると雖も、余が數回の議論に依りて吾輩の趣味標準を解せば其言はんと欲する所知るべきのみ、且吾輩も今日は猶研究の途中にあり、他歌人諸子に於ても熱心研究に從事せらるゝと聞けば、余は暫く茲に論評の筆を扣えて諸子の製作を注視せむ、余は筆を措くに臨で猶一言諸子に告げざるを得ざるものあり、萬葉集を斥けて古今集新古今集を崇拜措かざる諸子、萬葉の取難き所何所に存するか、古今新古今の取るべき所如何なる點に存するかを明々に論解せられんことを要す、國家の給養を仰ぎ歌壇の上流に依れるの諸子は、今日の場合其責任上、是非共自個の見地を公表せざるべからず、敢て諸子に問ふ、諸子は諸子の頭上に如斯責任ありと思はざるか、
飜て世の所謂新派の諸子、吾輩の視る所を以てすれば諸子の製作の如きは只句調の上に多少の相違あるのみにして、古今集新古今集と相去ること遠からず、其根底を推さは殆ど異なる所あらざるなり、人丸赤人異なる所あり、(88)憶良家持同じからざる所多し、是れ自然のことなりとす、自然的相違は之を以て新とすべからず、苟も歌壇の上に時代的新調を唱へんと欲する、必ずや確然たる根蔕を有せざるべからず、余は敢て諸子に問はむ、所謂新派なるものゝ根蔕は如何なる點に存するか、諸子の製作と古今集以下との根本的相違何所にか存する、嗷々として舊を罵り新を唱ふるの諸子、諸子は其諸子が有する國歌の定義なるものを明にして新の新たる理由を世に示さゞるべからず、如斯は諸子に於て免るべからざるの責任にあらずや、
余は重ねて云はむ、此際新舊の諸子たるもの、各其所見と主張とを明にし公々として歌壇の論場に立たゝれんことを望むと 明治34年3月〜6月『心の花』
署名 伊藤左千夫
(89) 越ケ谷の桃につき
●四月四日の本紙欄外に(アンキ)とか云ふ者の投書が出てゐるが、あれはまちがふてゐる、あんなこといふては非常に郷民に對して氣の毒である、予も二日の日に見てきたのであるが、大林の如きは無料で案内することになつてゐる、花の入口に四五人男らがゐて無料案内と云ふ札を持てきて案内しましよふといふから、予がなぜ無料で案内するかと問ふた處、案内者はどもりで話はよくわからぬけれど去年とかおと年とかに書生が澤山見にきた時、梅の枝をゑらく折られて困つた故、それから案内をしてみせる事にしたとのことであつた、予思ふにこは當然の事である 原來見世物に作つてあるのではない、桃實を收穫せんために桃を植てあるのだ、併し遠方より折角見にきたといふのに見せぬと云ふも餘り不本意であるから、漫に花を折られない樣にしてみせ樣と云ふ處から、繩もはり案内もしよふと云ふのであろふ 決して無理なことではない、況や無料で案内をしよふと云ふに於てをや、無論人の所有地内の花をみせて貰つた上案内して貰て只でさよならと云はるゝものでない、予は案内者に五錢投じてやつた どもり男は非常に悦でおぢぎをした、要するに彼は無料で案内する積りであつたのだ 大房の方は少しちがふ これも花の入口に男が四人許りゐたが、予がそこに到るや一人の男は園内通覽の札を御持くださいと云ふて立てきた、予がそうかと云ふて其札をとると思召しでよいからいくらかくれといふた、予は大林でも案内をしてくれたからおまへも案内をしてくれとたのんだ、彼はよろこんで四五丁の間を案内してくれ(90)た、別るゝ時いくらやらうかといふと、彼は思召でと云ふ、予は五錢を投じてやつたら彼は滿足の樣であつた、予は大林に於ても大房に於ても毫もいやな感じはおこらなかつた、寧ろ彼等の質朴なるに同情を勤したのである
案内を強ゆる五六十人の百姓が云々と云ふは全く誣言である、一昨日往つてきた予は此の投書を見て氣の毒に思ふの餘り一寸と申上た次第である(左千夫) 明治34年4月『日本』
(91) 擬墨汁一滴
總じて物にはたらき無きは面白からず。されどもはたらき目だちて表に露れたるは却ていやしき處あり。内にはたらきありて表ははたらき無きやうなるが殊にめでたきなり
道入の樂の茶椀や落椿
春雨のつれ/”\なるまゝの戯にこそ、 明治34年4月『日本』
署名 左
(92) 子規子の近状
拜啓、こんなに長く降られては苦情申度相成候。さて先日の御書中太平洋に正岡氏の噂有之候由、當時一寸同氏の近情申上度と存候ひしも少々忙しき事有之候ため延び/\に相成候。もとより無關係なる人に、同情なきを咎むるわけには參り不申候得共病者の言を冷笑もて迎ふるとは餘りなる事と存候、同氏の病状は近來ます/\宜しく無之、なか/\世人の想像するが如きものに有らず、恐らくは同人中にても同氏の病苦を半分知り居るものなき位に候。
小生も實は先日は家内に病者ありし爲、殆ど廿日許無沙汰を致候、五月は二回尋ね九日一回卅日に一回尋ね申候、此朔日にたづね、昨日も雨を犯してたづね申候、朔日に尋ね候時などは、ウン/\云ひ通してとう/\話も出來ずに歸り申候、
五月卅日に訪ひ候時は少し氣分よろしき日とていろ/\の話も有之候へ共、文學談などには無之候、尤も此二三月以來は行けば先苦しき話、痛い話、死の話等にて、それを同情もて聞居り候内に、だん/\興に乗じて文學談もしまひに出てくるのが常の事に候。
昨日も少しらくとの事にて、話し致し候併ウン/\云ふことは絶え不申候、當日の概畧を申上候前に病牀の有樣を一寸可申上候、六疊の疊に所々麻にて手をかける樣なものを床の四方にこしらへあり、これは寢反りの時に(93)是につかまつて僅に躰を動かすために候、又東の鴨居へ麻繩を張り、其より白木綿の紐を釣り、それにつかまつて幾分にても躰を浮かして痛み所をゆるめるために候、白木綿のひもは疊にも引張りて兩手にて此ひもを毎にとり居り候。
足などは自分では一歩も動かすことかなはず候、痛所なきは頬と手とのみに候由、手にいくらかの力あるばかりで、生きて居るだろうと昨日も申候。
毎日繃帶を替る時などは泣き通しの由に候、熱は毎日一回づゝ三十九度、三十八度五分位出る時間は三時間ほどかゝる由、昨年四月廿九日に小生宅へ參り候時翌日四十度の熱ありしを、當年は五月廿日片腿のあたり餘りに垢づきたればとてアルコールにて少し拭ひ候處其夜四十度の熱出で候由、其翌々日髪を刈り候處其夜三十九度五分の熱いで候由、壯健の人にても三十九度以上の熱は隨分苦しく候、極衰の躰に日毎の高熱御察し被下度候。活きて居るが、死なゝいのが不思議だと申すは決して誇張の言に無之候、加ふるに齒が痛み出して、昨日などはもう齒もいよく噛めなくなつたと申居候。
先月以來、日本新聞紙上の墨汁一滴も、悉く妹に書せ候由、自分で筆とることはかなはず、尤も五月の月は毎年惡いなれども、今日のまゝではどうも幾分でも恢復するといふことはいかゞかと思はれ候、山會即ち文章會だけは四月迄はやり來り候へども、最早これも出來なく相成候。
氣が短くなつて腹ばかり立つて居る樣に候、看護の家人などの苦勞實に察しられ候、如斯内にも猶俳句はたまにやり候、歌はもう出來なくなつたと申候、先月始の五十首の歌は終りかと思へば泣かずには居られず候、どうかして此夏を過させたら來年の夏までもつかしらと思ひ居り候へども、最早人間業にて救ふべき道盡き申候。(94)ガラス戸の前に日よけを作《つく》り糸瓜《へちま》、夕顧《ゆふがほ》など植ゑやうとて仕度致居候、筆を持つも一寸の線がひけぬと申したは四月末に有之候、今日は筆をとるだけ働けぬと申候、尤も只紐につかまるのとは違つて物をかくには姿勢を定めねばならぬ故と存候。
猶一層こまかい所に苦しきこと澤山有之候よしそれは醫者にもわからぬと申候、小生にも聞し事書け不申候。
如斯迄に衰へ候得共文學思想の標準は少しもくるひ不申此點は全く神かと存候、朝に道を聞て夕に死すとも可なりとは唐人の法螺かと存じ居候處、今眼前に其人を目撃致し候、我佛尊むなど申す馬鹿がある樣なれども、今の歌界の有樣は實に情けなく候、思はず不順序に長びき候、とてもかきゝれ不申候へば何れ其うち參上可申上候。
今の世に人に教へる人は澤山有之候へど自ら研究する人は一人も見え不申候、 明治34年6月『新聲』
署名 左千夫
(95) 兩子に答ふ
山田源子菅野眞澄の兩子に答ふるに余は左の數語を以て足れりとす、
卿等は甚しく余が論文の解讀を誤りたり從て論旨を馬鹿ケたる程感違せり、故に今兩子の説を反駁せんとせば余は自分の論文を解釋して後に是をせざるべからず、如斯無益なる所業は余の敢てしうる所にあらず、兩子よ兩子は余に向て質問する前に余が前論文と御自分の文章とを再讀比較を試みよ徒に己の誤解より他を煩はすこと勿れ、殊に滿腹の猜忌と嫉惡とより成立たる山田君の論文の如きは殆ど通讀に堪ざるなり、
明治の詞の何たるを知らず云々とゑらがりたるはよけれど君の長歌即本誌應募燈の長歌には君が所謂明治の詞とやらが、一向見えないのは如何なる譯にや、それともあんな詞も君は之を明治の詞と云ふにや、怪しき議論にあらずや 實行に伴はざるの議論は之を空論と云ふのである、余が先に確然たる詩的見解なしと云ふたのは即ちそんな所を指すのである。
菅野君の眞面目たるに對しては余は氣の毒に感ずるのである、詳細に余が考を盡さんと思ふなれど何分君が余の前論を誤解せること甚しきが故に今一應反讀を催さゞるを得ず、文學の定義とは美の輪廓を指せるなり、趣味標準とは内容の分量を云ふのである、それを君は同し樣に見て居るらしい、定議は天地の如く趣味は山川草木動植の類である、故に定義に二樣あるべき筈なし、是に反し趣味は千種萬樣固(96)より究極あることなし、然りと雖も趣味悉く美ならず趣味必しも詩にあらず故に標準を云々す、或標準以上にあらざれば以て詩と云ふべからず。
余が文學の定議を説き趣味の標準を云ふ豈に根岸派の定義と云はんや根岸派の趣味と云はんや、余が説く所は世界文學の定義世界文學の趣味である、且根岸派が研究しつゝあるもの又豈に君等が想像するが如き偏狹なる者ならんや、一言以て之を云はゞ根岸派は千種萬樣の趣味を含蓄す、
要するに余が國歌革新の意見は新歌論に盡きざるなり余は近日の内に更に新歌論を草して諸子に見えんと欲するのである、新歌論は固より大綱を論じたるものなれば諸子一見解し難き點あるは必しも無理ならずと思へばなり。(伊藤左千夫) 明治34年8月『心の花』
(97) 尋に一言
數回の本欄に「牛込大シジン」とか云へるアンカウ先生が顯はれて種々なぬたを申して滑稽をやつたが、それの兄弟でもあるか、井手何とか云へる男が又ゑらがりだした、ぬたよみには暇のある奴が多いと見へる、いや呑氣な奴が多いのだ、自分の仕事を放離して他人の仕事にしきりと氣をもむでゐる、こんな馬鹿の奴があるから困る、
なんだ仙臺の言文一致會員とやら、萬葉集は藤原平城の言文一致體の歌である云々、田舍者が能くも臆面もなく拔したな、をめえさんに萬葉集がわかるかい、除り出面張て耻をかゝぬ樣注意さつしやい(大伴牛養) 明治34年8月『心の花』
(98) 信網氏の歌
前號第四之卷九を通讀して、佐々木信綱氏の大磯百首と云ふ中に、予は氣に入りたる歌一首を得たり。
山深み神代おほゆるみづうみの清きみきはに歌おもふ君
一首少しもたるみなくして、而して自ら悠揚なる所あり。毫も細工を弄せず言ひ放しにして感却て深し。能く自然を得たる高調の歌と云ふべし。趣味標準容易に一致し難しと信じたる、同氏の歌中、たとへ一首なりとも如斯歌を得たるは。予輩の※[口+喜]しく思ふ所なり。他を評するは吾標準を示すの方便ならずんばあらず。同氏幸に欠禮を咎むること勿れ。(大伴牛養) 明治34年10月『心の花』
(99) 光風君
ろくでもない文章に、疾工毒點をつけるはよし給へ。活字拾の小僧だつて米を喰つて居るんだからネー、餘計なことなれど、除り馬鹿ゲてゐるから、一寸注告する譯だ 怒り給ふな。(大伴牛養) 明治34年10月『心の花』
(100) 命のあまりに就て
一
大キニヲセワ生だの、入らぬをせわ生だのツてつまらむ事を云ふてゐるじやないか、やれ居士と一面半知なきは不幸にして君と相知らざると同樣だの、やれ僕は双方とも知らぬがなんて、何にもそんな事を、おかしく氣に掛けるに及ばんじやないか、そんなことを、いやに彼是云ひはけがましく云はれると却て疑はしひ樣な心持がする、
知人であろふと、知人でなかろふと、理は理否は否、知人だからツて必ず褌をかつぐと極ツてはゐないよ、又兩方に關係がないからツて、必ず批評正鵠を得るとも極らないて、理否の分別もなく身びいきをするなんて、そりや小人と云ふ奴のことじやないか、
かくいふ吾輩は、正岡君の知人である、從て正岡君の事、殊に其心事に至つては疎遠な人よりよく知つてゐる積りだ、關係がないから公平だらふの、知人だから褌をかつぐだろふのツて、そんなケチな根性止めにして、少し吾輩の云ふ所聞いて貰ひ度だ。
大キニヲセワ生は、正岡君が一年有半を罵倒したのを、邪推にもことかへて、正岡君が兆民居士の成功を羨むで(101)難癖を附つけるのだろふと邪推した樣だが、邪推された正岡君より、邪推した君の方が余ほど見ともないよ、君は名を隠してゐるからよいようなものだが、
凡夫といふやつは情ないもので、自個の心を定規にして、他を推測するから、其推測が、往々自個の心底を白状する樣な結果になることが多いものだ、君が正岡君を邪推したのも、どうやら自分丈の心持で正岡君を視たらしひ、
正岡君が成功したか、兆民居士が成功したか、正岡、兆民を羨むか、兆民正岡を羨むか、君等兩セワ人達には分らぬかも知らぬが、天下の知てゐる人は、チヤンと知つてゐるのである、正岡君の俳句上の成功は天下之れを賛せざるなきは云ふまでもないが、其國歌革新の上に於ても、其研究の歳月猶淺きに關せず、殆ど成功の域に達し、深く歌の趣味を解したる同人間に於ては、歌界に於ける正岡君は、實に千古の偉人なりとせられて居る位であるのだ、
併し是れとても、相知れる間にのみ云ふべき事で、世間の多くは淺薄な評を下して居るに極つてゐる、根岸の新俳句も、竹冷宗匠紅葉宗匠の新俳句も同じ物の樣に見てゐるだろふし、落合與謝野や佐々木輩の、歌も根岸の歌も同じ物にして、見るだろふし、君等兩生も失敬ながら其仲間であろふ、
そんな眼で見るから、正岡が兆民の成功を羨むなどゝ云ふ邪推も起るだろふ、雀は雀だけの心持で他を推測して見た所で、大な鳥の心持が決して分るものでない、
吾輩の眼から見ると、一年有半の澤山賣れたと云ふのも、それは本屋の成功で、是を以て直に著書の成功と思ふのは大間違だ 賣れる本が必ず善い本ではない、澤山賣れたからとて、其本が必ず立派な本ではない、第一に見(102)給へ今日下等の新聞程、澤山出るじやないか、
其實今日の社會には、尊い書物程賣れないのだ、ぞりやつまらなくて賣れないのもあるには相違ないが、百世に傳へて尊まるべき書物が若今日に顯はれるとしたら、屹度賣れないに極まつてゐる、
正かに兆民居士と雖も、それほどに澤山賣れたら、おれの著書も成功したのだ、これで安心して死ねるとは思つて居まい、著書の成功を云ふものは、そんな商賣物の樣なきはどい物ではあるまい、
二
して見れは、正岡君が兆民居士を羨やむ所は少しもないぢやないか、それとも正岡君が一年有半の賣れるのを商賣的に羨むとでも思ふのか、餘りに滑稽な話じやないか、死かゝつて居て書いたと云ふことが主になつて、其著書の眞價と云ふことが、第二にも第三にもなつて、つまり情的批評、御世辞批評、云ひ替ふれば淺薄なる批評で、本屋の御手傳的批評、兆民居士多少悟れる所ある人ならば、そんな淺薄なこと嬉しひとは思ふまい、寧艶けなしの直截の批評を悦ぶのであらふ、朝に道を聞ひて夕に死すとも可なりと、古人も云へりと聞く、兆民有道の士ならば、千百の批評より正岡の一罵倒を有難く思ふてゐるかも知れぬ、
天下の人多く同情をよするに君一人目下の境遇が居士に讓らぬからつて何にも罵倒するにも及ぶまいじやないかと云ふもおかしひ話じやないか、罵倒するに及ばんかも知れんが、罵倒したつてよいじやないか、天下の人皆褒めるから正岡君一人罵倒したんだろふ、正岡君は兆民を罵倒したのじやない、一年有半を罵倒したのじやない、(103)平凡淺薄なる著書に對し、お世辭的批評の餘りに熾なるが、一寸癪にさわつて、一年有半と云ふより寧世人を罵倒したのであろふと思はれる、
正岡君の如きは、自個に對する世人の批評に就て、殊に經驗せられた場合が多いだろふと思はれる、俳句及び歌に對して、多年研究の結果、其得たる所の見地、其遂げたる所の成功、それに對して價値ある批評をしてくれる者は殆どないのだ、新派の俳句と云ふにも新派の歌と云ふにも、いろ/\あるのだ、世人の多くが其玉石の區別を見てくれないで、只だ/\病臥してゐてよく書くの、死かゝつて居て猶屈せずにやるのツて、そんな普通淺薄なるお世辭を云ふ人許り多い、正岡君に取つては、平生如何に口惜しく思つて居るであろふ、知己を百世にまつとあきらめて居ても、又機に觸れて憤激せらるゝ場合もあるだろふと思ふ、
一年有半に對する世人の批評も、著書其物に對する眞價の批評と云ふよりは、兆民其人の死に對する同情の挨拶であるのだ、それが惡いと云ふ譯ではないが、天下擧つてお世辭を云ふ中に一人正岡君なるものがあつて、死と云ふことを眼中に置ないで、著書其物の眞價値に就て罵倒を逞ふしたのは、却つて珍とすべきであろふと思ふ、冷酷なる達人の批評に依て、死一年前に幾分得る所ありとせば、兆民居士たるもの又滿足すべしである、
大キニヲセワ生も、くだらぬヲセツカイなどせずと、ご自分の職業を勉強さつしやれ、入らぬをせわなどやらも、入らぬお世話に見當違のベンゴなど有難くもないから、お前樣の仕事に身を入れて下さつしやれ、大聖人孔子の如きすら其當時にあつて大聖たることを識認したものは門人中の數人に過ぎなかつた位であるから、其人の眞價と云ふものは、親炙せぬ人に分るべき筈のものでない、兩方とも知らない人で愛憎がないから、おれの云ふことは公平だなどゝ云ふのは、夫れは俗人の云ふことだ、序に云ふが正岡君は宗匠ではない、俳句や歌に付て、點取(104)だの添削だの、そんなこと只の一首だつてしたことのない人だ、 明治34年11月『日本』
署名 黒天堂
(105) 續新歌論
(一)革新之意義
何處迄も、古今集新古今集等をば、作歌の手本と心得、貫之躬恒定家家隆等をば、大歌人と崇拜して、是等に摸倣するの外、寸毫の變化をだも爲し能はざりし、所謂舊派の歌讀連も近來漸く、歌も此儘ではならぬ、何とか革新せねばならぬであろふ位に、心付て來たりし樣に見ゆるは、兎に角惡現象にあらずと云ふべきか、さすがの御歌所の先生達も、未だ口にこそ左右とも云はね、暗々裏に煩悶するの情、見えすく如くなるはよも僻目にあらざるべし。
冥頑不靈の張本たる老骨連すら、既に此の如しとすれば、國歌革新の氣運は天下に充つと云ふも、決して過大の言にあらず、然らば國歌革新の前途は、温波臺蕩容易に進航し得べきか、豈に夫れ然らんや、國歌革新せざるべからずとの議論は、最早既に終結を告げたるに相違なしと雖も、如何に革新せむか、いひ換ふれば如何なる物を以て舊物にかゆべきか、此問題たる未だ全く新問題たることを免れず、近來新派と自稱する連中の歌集など續々と發行せらるゝに係らず、予は猶斷じて、國歌革新問題は最新問題なりと絶叫せざるを得ず。歌も愈々革新せねばならぬかな、などゝ呑氣なあくびをやりながら、寢惚眼を三年もこすりつゝありし老輩には(106)似もやらず、逸早くも、革新の旗幟を立てゝ、實行に着手したる所謂新派の歌に對しても、遺憾ながら予は失敗の宣言を與ふるに躊躇せざればなり(宣言の理由は後に言ふべし)
國歌革新の實行問題豈に夫れ容易ならむや、予願くは本誌の讀者諸君と其研究に從事するを得む。思ふに急進の諸子前に失敗して、漸進の諸子又躊躇して進む能はざる所以のもの、一は革新の意義を誤り、一は革新の理由自動的ならざるに坐せずんばあらず。
何をか革新の意義を誤れりと云ふか。
彼れ所謂新派の諸子は、其舊を捨つるや毫も舊の非點を研究せず、從て舊歌の非點を熟知せず、然かのみならず、業平西行等の卑俗なる歌をだも稱賛措ざるものあり、舊歌しかく尊ぶべくば何ぞ革新の要あらんや、苟も舊歌を捨てゝ、其革新を斷行せんと欲する、何ぞ先づ舊歌の非點を研究せざる。
彼等は舊歌の非點を解せざるのみならず、返て舊歌を稱賛しつゝ、而して是を革新せんと云ふ、彼等の無稽なる寧ろ驚くべからずや、畢享彼等の所謂革新なるものは、如何なる理由に基く者ぞ、知らず、平居驕傲なる彼等は、予が此詰問に對し能く答ふるの勇ありや否。要するに彼等が革新の理由とする所は、或は、漫に文明の世界に未開時代の歌は襲踏すべからず、明治の今日に舊體の歌は面白からず、などゝ云ふ位に過ざるなきか、是は餘りに露骨なれども、彼等の云ふ所と彼等の爲す所とを見れば、然斷ぜざるを得ざるものあるを如何せむ。彼等若し如斯淺膚なる理由に依り、歌の革新を思ひ立ちしものならば、予は實に日本文學の爲めに痛嘆せざらんと欲するも得むや。
嗚呼彼等は如何なる目的を以て歌を革新せんとするか、革新を以て革新の目的となしつゝあるにあらざるか、情(107)ない哉彼等の淺薄や。恰も下等なる政黨者流が、國家の利害を度外視して漫に内閣の改造を云々するが如し、彼等改造以外に改造の目的なし、改造は以て自家の名利を充すに過ぎずとすれば、心事の陋や唾棄すべきなり。
舊者の非を改むるの目的なき革新、改善を目的とせざるの革新、如斯の革新は則無意義の革新なり、無意義の變改是直に妄動と稱するを適當なりとす。知るべし所謂自稱新派の歌なるものが、着々失敗を掩はざる所以は、即妄動的革新の結果に外ならざることを。是に於て予は、所謂新派の諸子に戒告せむ。諸子謹で革新の意義を誤ること勿れ、「非を改む」「良に進む」此二義を有せざるの革新は無意義の革新なり、眞個の革新を思はゞ、須らく先づ舊歌の價値を玩味せよ、然らずんば諸子たるもの國歌革新者たるの資格だも無からむとす。
何をか革新の理由自動的ならずと云ふや。
今猶舊派たるの柔弱連は、古今集以下八代集の非點など、勿論悟りうべきにあらず、定家家隆を尊び、貫之躬恒を模範とすること、今も昔も、毫も替らざるなり、時世が時世ならば、歌の革新など夢にも思ふべき柄にあらず、彼等が眼識の程度よりせば、固より革新の必要を認めざるべし。
只夫れ大政の維新、社會の進歩、時世の推移、是等の現象を目前に視つゝは、如何に冥頑なる彼等と雖も、國政頽敗時代の、柔弱なる文學を模倣して、安ずること能はざるは自然の勢なるべし。時世に余儀なくせられ僅に思ひ立つことあるとも、固より自動的ならざる彼等、方針も分別も皆無なる彼等、豈によく斷行の勇氣あらんや、彼等は貫之躬恒に別るゝこと能ざるなり、彼等は八代集を捨つること能ざるなり、夫れ焉ぞ貫之躬恒の非點を吟味し八代集を研究して、其卑俗を發見するの腦力あるべき。(108)思ふに、彼等は八代集を手本として、八代集以上に出でむと希望せるか、彼等に果して歌を革新するの意ありとせば、恐くは如斯に過ぎざるべし、瓦を磨て玉光を得んと欲す其痴誠に憐むべきなり、彼等は遂に八代集以外に廣大無邊なる歌園あることを知るものにあらず。彼等到底國歌革新者の資格あらむや。
予は茲に至つて、予が革新の意見を述ぶべき責任に逢着せり、是れ固より予が待期せし所なり
予輩が國歌の革新を欲する、毫も時代などゝ關係を有するものにあらず、世界の交通、社界の文明、歌の革新と毫も關係する所あらざるなり、新と云はず舊と云はず、趣味的研究は非を拆け良を採るあるのみ、在來の歌、即古今集以下徳川時代に至る歌の多くは文學の定義に協はず、之を退くる所以なり、獨り萬葉集は國歌の神髓を得て、趣味津々たるものあり是を採る所以なり、故に予輩の意見は古今集以下より云へば、革新なり、萬葉集よりせば復古なり、復古と云ふと雖も、調子の上に於てのみ、句法の上に於てのみ、詞の上に於てのみ、其思想材料に至つては、現下の事實を歌ふや勿論のみ、洋語漢語新事物、打こなしては萬葉調たらしめんと欲するなり。
之を要するに、予輩が歌を革新せんとする、則正岡子規氏が俳句を革新したるが如けんのみ、正岡氏の俳句に於けるは天下其成功を賛せざるはなし、然かも其俳句を採て、芭蕉蕪村の句に比す、毫も異なる所あらざるなり、其異なる鮎を云はゞ、時代的材料の變化のみ、知るべし正岡氏の新俳句は、月並調よりせば則革新なれども、芭蕉蕪村よりせば則復古なることを、革新と云ふ、復古と云ふ、皆手段に過ぎざるのみ、終局の目的は即良製作を得るにあるべし、
所謂新派なる歌の、文學の價値を度外視して、漫に舊歌に異ならんことを求め、變化を唯一の目的として、組織せる、不自然不統一なる歌には予は斷じて反對せざるを得ず。
(109) (二)歌乃古言
歌詞に就ては、前歌論に於て聊か論述し置けるも、予は今本論を進むるに當て、更に前論を補足し併て其以外なる方面に向つて論究する所あらんと欲す。
世事益複雜を加ふるに從ひ、文學上の思想材料益其範圍を擴め來るは自然の理にして爭ふべからざるの勢、即所謂世の進歩と解する者是なり、されば其復雜なる事實を盡し、其擴張せる範圍を充たして、遺憾なからしめむと欲せば、極めて多大なる言語と、極めて働きある言語とを要すべきや、詳言を待ずして明なり。此論斷に就ては何人と雖も異存を插むべきにあらずと信ず。
而かも今日所有世上の文學者が、使用しつゝある所の言語なるものは、其復雜なる事實を盡し、其擴張せる範圍を充たすに於て、大に不自由を感ずることなきか。少くも歌に於て、予は大に不足不自由を感じつゝありと斷ずるに躊躇せざるなり。
思想材料益複雜を加へ、益範圍を擴む、而して是が需要に充すべき言語更に多きを加へず、更に働きある言語を作らず、國歌の振はざるもの誠に怪むに足らざるなり、更に其多きを加へざるのみならず、更に其働を増さゞるのみならず、今日の言語を取て、之を一千有餘年以前なる萬葉集に比す、其言語の數に於て其働に於て其趣味に於て、減退の明なることは前歌論に於て、既に論述せる所なり。
糧食の饒ならざる、武器の精ならざる、陣地如何に優なりと雖も、兵數如何に多しと雖も、遂に能く活劇を演ずることを得んや、形勢一變して、天下の事大に爲すべきものあるに際し、世上の戰士、悉く瞶々者流、遂に皆糧(110)を貯ふるの理を悟らず、器を精にするの道を講ぜず、徒に躁呼して狂奔す、嗚呼愚なる哉瞶々者流、今日天下無數の歌人等、能瞶々者流たらざるもの幾人かある。
世上多くの歌人等殊に曰く、萬葉の古調今日に適せず、萬葉之古語今日に解せずと。萬葉を素讀に讀過したる彼等、萬葉の趣味百分の一をも解せざる彼等、萬葉の眞價を知らざる怪むに足らずとするも、苟も、國歌の革新を唱へ、自ら稱して新派と名のりつゝ有りながら、歌と言語との關係に念及せず、萬葉集の言語が如何に廣くして働きあるかも解せず、萬葉の古言が如何に趣味あるかも究めず、漫然として曰く國歌を革新せんと欲すと、是則糧食なく、武器なく而して能く戰はんと云ふ瞶々者流と何の異なる所かある、眼識の淺薄なる、趣味の下劣なる、誠に燐むべきものあるは、吾輩の痛嘆に堪へざる所なり。
世に偽學者某なるものあり、かつて稱す、吾邦古代の言語多くは廢語なり、死語なり 以て今日に用ゆべからずと、瞶々着流傳て以て雷同し、無學淺識の徒、悦て以て各無能を掩ふの具となす、今や國歌の革新上、言語の増加と働ある言語を要する愈々急なること、前述の如くなる時に當り、如斯無稽の説あるは、國歌の革新上に障害を與ふるなしとせず、依て予は聊か其妄を辨責し置かざるべからず、
元來廢語の死語のとは何たる云ひ草ぞ、僞學者の大痴漢、抑も何等の狂悸敢て如斯不祥の言を爲す。
言語は國民の色なり、民族の聲なり、同種同調の言語あり而して始めて、國民の稱民族の別顯はる、國益繁榮にして國語獨り廢滅するの理いづくんかあるべき。國家の廢滅せる、民族の離散せる、「アイヌ」の如き「猶太」の如き、其言語の廢死せるもの固より多かるべし、其他にしては、屡、他國の掠奪に遭ひ、若くは異民族の征服に屈したる、國民の如きには廢語も死語も固より少からざるべし。
(111)獨萬世不易の皇統を戴き、民族の繁殖力又世界に類少しと云へる、我大和民族の原語に、如何にして廢語死語なるものあるべきや、僞學者の妄言實に憎むべきなり、只夫れ、遠近情を異にし、古今音調を同ふせず、甲に傳はれるもの乙に傳はらざることあり、乙に傳はらざるもの甲に傳はれることあるべし、則關東に傳はれるもあるべし關西に傳はれるもあるべし、奥羽と九州と又必ず趣を同ふせむ、故に全國の言語仔細に集めたらんには、上代の言語或は悉く、現時に行はれつゝあるやも知るべからず。
現に三河尾張等の方言には、「かァも」「なァも」など云へる、万葉調の「も」音が普通に行はれつゝあるなり、万葉集以下に於ては、歌の上にすら容易に見ることを得ざる、語尾の嘆聲音、即「も」と云ふ語音が今猶或方言中に存せるを見れば、万葉の古言なるもの、果して今言なるか古言なるかも容易に判明すべきにあらず、近世の國學者又多くは、古言の邊境に存せるを云ひしにあらずや、
淺學狹知なる己一個が、知り居らざるを以て直に古言を廢語死語なりと臆斷せる、其迂愚なること寧ろ驚くべからずや、後輩を誤れるの罪に至つては、決して恕すべからざるものあり、
又縱令其古言なるものが、現在に行はれつゝあらずとするも、史籍の上に歌文の上に、明に存在せる以上は、焉ぞ之を廢語なり死語なりと云ふを得べけむや、益々言語の多きを必要とするの今日、新造語の必要すら唱へつゝあるの今日、洋語漢語をも採つて歌にせんとする今日、何を苦んで古語を排せんとするか、頻りに古言を嫌ひつゝある世上多くの僞歌人等、予が此言に答ふる所あれ。古言の趣味多き、古言の働きある、徹頭徹尾詩的なる上代の言語、何故に歌に用ゐられざるか、普通語の如く事務に用ゐんとするならば兎に角、美を目的とせる歌、趣味を根本とせる歌、其物に何故に古言が用ゐられざるか、(112)今日新に造語を試むるとも、決して架空に造り得らるゝものにあらず、趣味に富める上代の言語の如き、求めても得べからざる貴重の寶にあらずや、國体の上より見るも、作歌の上より見るも、言語の重ずべき、古言の尊ぶべき、實に前述の如きものあるなり、然るに己れの無能無識なるより、敢て妄りに廢語死語を以て古言に擬す、僞學者の社會を害する憎みても餘ありと云ふべし、
吾輩は歌調を害せざるの程度に於て、洋語をも漢語をも懽迎せるなり、佛語も俗語も無論歡迎せるなり、況や趣味あり働ある古言に於てをや、然るに世人の多くは、皆吾輩を目するに、古に泥めるを以てせるが如し、是吾輩を誣ゆるの甚しきものなり、現時の言語多くは、輕桃浮薄の音調あるを免れず、此如の言語之を妄用する必ずや歌品の下劣なるを來す、吾輩が如斯の語を用ゐるに當りては、最も注意を加ふ、深く調子の如何を顧み、決して意義を達せんが爲に濫用するが如きをせざるなり、故に吾輩が一度採つて之を用う、現時の詞と雖も必ず人をして古語の觀あらしむ、世人一讀、古に泥むと爲す、畢享觀察の疎慢に坐するのみ。
之を要するに世上多くの歌人等が、趣味を主とすべき歌に、趣味に富める古語を用ゐることを知らざるは、即國歌の性格を誤解し、國歌の眞趣味を看取し居らざるの明証なりと云はざるべからず。
(三) 歌の調子
前歌論は調子を論ずるに、分析的量積的形象的に於てせり、今は聊か方面を變じて、性格的價値的なる論究を試みむか、
歌に於ける、意義と調子とは、猶一家に於ける夫婦の如きものあるか、固より別体兩個の物なれども、又決して(113)離れうべきものにあらず、意義の勝れる場合と、調子の勝れる場合と、勿論少からずと雖も、調子なき歌あることなし、又意義なき歌あることなし、意義は夫の如く調子は嬬の如く、夫は智に勝り嬬は情に勝るが如く、意義は働きに屬し調子は感じに屬す、働は智なり感じは惰なり、智は功を生じ、情は徳を生ず、若夫れ、夫と婦と何れか重き、智と情と何れか重き、功と徳と何れか重き、意義と調子と何れか重き、是即千古未定の問題にして、之を判明するは極めて至難の事に屬し、殆ど無用の業なるが如き感あらしむ、予は則之を以て判明し得べき問題なりとし、又之を判明するは極めて有益なる業なりと信ず、少くも文學美術の上に於ては意義と調子と、働と感じと何れが重きやを判明し置くは、研究進歩を催す上に於ける一大要件なりと云はざるを得ず。
國家の上より見る、徳は功に如ざるなり、社會の上より見る、功は徳に如ざるなり、何となれは功は利を主とし、徳は樂を主とすればなり、功の徳を輔くることあり、徳の功を輔くることあり、功と徳とは夫婦の如く、相扶けて離るべからざるは、固よりなりと雖も又各主要とする所なくんばあらず、故に歡樂を重ずれば婦を主とせざるべからず、功利を重ずれば、夫を主とせざるべからず、樂は婦徳をまつ故に婦は情を主とす、利は夫功をまつ故に夫は智を主とす、然らば、美術文學なるものは、天下の功利に屬するものか、將歡樂に屬するものか、此に於て人は之に答ふるの容易なるを知らむ、曰く、美術文學は即歡樂に屬するものなりと、夫れ然り、誠に美術文學なるものは即社會の歡樂方面に屬するものなり、更に之を譬ふれば政治經濟は國家即功利的のものなり、文學宗教は即社會的歡樂のものなり(宗教を歡樂的なりと云ふ宗教家は異存あるべし予は別に議論あり)(114)性格既に如斯とすれは、文學なるものは夫れ必ずや、働き的なる意義を從とし、情的なる調子を主とすべきや明なり、
智の面白味は到底情の面白味に如かず、意義の面白味は到底調子の面白味に如ず、然れども讀者誤ること勿れ、意義に依て調子の面白くなることもあり、調子に依て意義の面白く感ずることも勿論あることなり、只、意義の主となれる場合より、調子の主となれる場合が面白き歌多しと解し居れば可なるなり、
然れども兩者又其弊あることを忘るべからず、意義即働が主になれる歌には品格卑く殺風景なるが多し、調子を以て勝れるの歌は、時に平凡無味に陷ることあり、而かも平凡無味の價なきも尚下品殺風景の厭ふべきに勝れるとすべきか、意義は理を含むことを免れず、調子は遂に理を含むべき余地を存せず感じの上に於て理は到底情に如ざるなり、予は明に斷案を下して歌は調子を主とすべきを云ふ。
然らば今世歌人の歌は如何、予を以て之を見れば遂に幾分の成功をも認むること能はざるなり、予は今の所謂新派と稱する人々が、果して能く國歌の性格に就て眞解釋を有し居るやを疑ふのである、調子と云ふものゝ上に於て如何なる解釋を有し居るかを疑ふのである、予は彼等の歌に就て少しだも調子の趣味を認むることができぬのである、勿論意義の点に於ても、接續極めて不自然にして、配合少しも統一せざるもの、比々皆然りと云はざるを得ずである、予は後編に於て諸子の製作を直接批評するの機を得て更に大に論旨を盡さんと欲す。
(四) 連作之趣味
(一) 同人兩三子、一夕根岸に會す、此夜庵主の病少しく安らかなり、例に依て談頭八面、諸子相和して興快夜(115)の更くるを覺えざりき、談酣にして庵主徐ろに云ひけらく、余の俳句に於けるは、世間種々の説をなし、余自らも又幾分其功績を認めざるにあらず、然れども要する所は、如何に新派の俳句と云ひ、明治の新調と釋すと雖も、到底は元禄天明の燒直しに過ずと云ふを免れざるなり、さればいまの俳句それのみにては心窃に安ずること能ざりき、然るに其後偶然言文一致の寫生文を作り始めたり、西洋にも言文一致と云ふはあるなれども、今日吾々が作る所と全然其趣を異にす、無論吾國に於ては古來絶てなき所なり、
只是のみは古人のなさゞる處に於て、聊か創建し得たりと信ずれども、恨らくは病の故を以て自ら作ること極めて少く、未だ全成の物とは云ひ難し、併しながら必ず後の成功者あるべきを思へは、稍心を安じて死することを得ん云々。徒に芭蕉を尊むで其價値を解せず、僅に蕪村の名を知つて其光彩を認むること能はず、擧世蕩々として月並の愚を繰返し、以て得たりと爲せる間に立つて、雙手其雲霧を排し、元禄の美を顯はし、天明の光を揚げ、明治の俳運古を凌ぐを致さしめたる者、天下何人か正岡氏の功とせざるものあらむや、然かも氏は猶自ら安ぜず以て死するに足らずと爲し、必ず古人以外に爲す所あらむと務めたるの結果は、即所謂言文一致の寫生文なるものゝ起るに至れり、
予や今歌論中に於て殊に之を云ふ所以のものは、正岡氏の歌に於けるは、共俳句に於けると、頗る相類せるものあるを以てなり、
萬葉集の歌を美術的に研究し、趣味的に觀察し、以て歌なる物の性格を明らめ、遂に古今集以下千有余年間に於ける、其淺薄なる歌を斥け、上代の風調を復起して、眞國歌の靈光を揚げむとしたるは、即根岸派の歌にあらず(116)や、然れども単に歌其物の上に於てのみせば、上代の凰調を得て萬葉と別つなきの歌を作り得ば、以て滿足す可きが如しと雖も、國勢隆興の機運に副ふ所あらむとせば、古人の跡を逐ふて安むずべきにあらざるや云ふを要せず、百世を拔けるの見致を以て、然かも、研究倦むことを知らざる正岡氏は、又歌の上に於ても新趣味の開發を遂げたり、連作の趣味なるもの即是なり、
俳諧に於ける言文一致の寫生文は、歌に於ける連作の趣味と固より其趣を同うせずと雖も、古へを研究して遂に能く、古人以外に開發せる所ありしに至つては即一なり、予は今如斯名譽の問題を説明せんとするに臨み、深く予が拙劣なる筆の、其意を盡す能はざらむことを恐る、
(二) 歌の連作なる物は、始め一題十首の歌より起れり、歌の一題十首は俳句の十句作より來れるなり、根岸派の俳句會必ず十句作をなす、其俳句研究上に益する所多かりしを以て、正岡氏歌を研究するに及び、其俳句の作法を用ひて、一題十首若くは數題十首等の作歌を盛に行ひたり、是即歌の連作趣味を發見せる端緒なりとす、當時の十首歌なるものは、即俳句の十句作と少しも異なる所あるなく、個々別々の歌を無意識に十首作り集めたる迄にて、甲と乙との歌に何等の關係なく、勿論十首の上に何の関連をも有せざりしなり、從て歌の價値上より見ては、十首作なるものに少しの効力をも認め居らざりしなり、只夫れ詩想の發育作歌の習錬、此二点に於て頗る有益なることは、俳句十句作の經驗より得來て、盛に之を行ひつゝありしのみ、
研究漸く歩を進むるに從ひ、歌と俳句とは其詩形の異なるのみならず、性格根底より等しからず、趣味も又大に一致せざる所あるを悟るに及び、十首歌は變じて連作の歌となれり、
(117)回顧すれば明治三十三年五月廿日、人々根岸庵に會して萬葉の講究時を移せし間、遂に夜に及びて降雨烈しく、遠來の人々歸るに由なきまゝ、徹夜して歌を語り歌を作りけるが、翌朝庵主は、庭前の松に雨の降りかゝるを見て、
松の葉の細き葉毎に置く露の千霞もゆらに玉もこぼれず。
松の葉の葉毎に結ふ白つゆの置きてはこぼれこぼれては置く。
みどり立つ小松が枝にふる雨の雫こぼれて下ぐさに落つ。
松の葉の葉先を細み置くつゆのたまりもあへず白玉ちるも。
青松の横ばふ枝にふる雨に露の白玉ぬかぬ葉もなし。
もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりしところ白玉むすぶ。
玉松の松の葉毎におくつゆのまねくこぼれて雨ふりしきる。
庭中の松の葉毎に置く露の今か落ちんと見れども落ちず。
稚松の立枝はひ伎の枝毎の葉ごとに置ける露の繁げゝく。
松の葉の葉なみにぬける白露はあこが腕輪の玉にかも似る。
是則所謂連作の始にして、今より之を見る多少完全せざる点なきにあらずと雖も、或題目の趣味ある個所を見出して、之を四方八方より、詠み盡し、長短相補ひ出入相扶けて、一個の好趣味を歌ふ上に、遺憾なからしむ、作歌の手段より見るも尤も良法にして、其新工夫たるや爭ふべからざるものあり、古人以外に始めて新脚地を開き根岸派が國歌の上に、一斷の進歩を自認せるは、則此雨中松十首の歌を紀元とす、次いで、(118)翌六月七日夜病牀即事を詠める正岡氏の歌
ほとゝぎす鳴くに首あげガラス戸の外面を見ればよき月夜なり。
ガラス戸の外に据ゑたる鳥籠のブリキの屋根に月うつる見ゆ。
ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびけるみゆ。
ガラス戸の外の月夜をながむれどランプの影のうつりて見えず。
紙を以てランプおほへはガラス戸の外の月夜のあきらけくみゆ。
淺き夜の月影清み森をなす杉の木末の高き低きみゆ。
夜の牀に寐ながら見ゆるガラス戸の外あきらかに月更け渡る。
小庇にかくれて月の見えざるを一目を見むとゐざれど見えず。
照る月の位置かはりけむ鳥籠の屋根にうつりし影なくなりぬ。
月照らす上野の森を見つゝあれば家ゆるがして※[さんずい+氣]車行かへる。
個々の歌のよしあしは兎に角、連作の歌としては後者の前者に比して、著しく進歩せるや明なり、かくしつゝ連作の歌なるもの全く成功を見るに至れり、今一つ本年五月に於ける正岡氏の作歌を示さむ
佐保神の別れかなしも來ん春にふたゝび逢はむ吾ならなくに。
いちはちの花咲きいてゝ我目には今年ばかりの春行かんとす。
病む吾をなぐさめ顔に開きたる牡丹の花を見ればかなしも。
世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも。
(119) 別れゆく春のかたみと藤波の花の長房繪にかけるかも。
夕顔の棚つくらんと思へども秋まちがてぬ我いのちか。
くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに。
薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみし昔おもほゆ。
若松の芽立の緑り長き日を夕かたまけて熱出にけり。
いたづきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ。
見るも涙の種なれども、道のためとて掲げぬ、且つ完璧なる連作の歌なればなり、讀者は三者相比して次第に進境に入れるの跡を知らむ、連作の歌は全首の上に必ず連關あるを要すと雖も、又余りに近着に過ぎたるは宜しからず、歌は必しも限ると云ふにはあらねど、詞書のある歌、又は文章中に插入せる歌等を別にして、單獨なる歌には、多くは物足らぬ感あるを免れず、此則歌の性格上より來る自然の結果なるが如し、歌の連作を促せる原因は重もに、感じの上より出たるものにして、殊更に作爲して數を連ねたる物ならず、故に必ずしも十首と限るべきにあらず、五六首固より可なり、十二三首更に不可なし、要は長短相まち、出入相扶け、趣味を盡すに遺憾なきを欲するのみ、古人の考此に及ぶ能はざりしは、歌の性格を明むる上に猶至らざりし所ありしが故なりと云はざるを得ず、
今後如何なる進歩を見るに至るやは、固より得て知るべからずと雖も、今日の所、吾輩の立脚地は連作にあり、連作は即吾輩が歌壇に於けるの性命なりと斷言するに躊躇せざるなり、請ふ予をして更に歩を進めてこれをいはしめよ、
(120)(三)連作の趣味なるものは、歌の性格が自然に然るべき數理を有せるものなることは前に云へるが如し、予は常に之を植込的趣味と稱す、是に就て一の好談話あり、出して以て説明に換む
或時予は吾小庭に十數株の樹木を植しことあり、予性甚だ草木を愛す故に一木一草を庭に植るにも、其位置配合に就て非常に苦心するを常とす、此日植木師を招て終日相共に、木石の鹽梅に從ひ頗る愉快なりしが、其間に於て予は植込みと歌の連作との比較に得る所少からず、翌日根岸庵を訪ひ吾得たりと思ふ所を談じ、且つ疑を質せり予即曰く
昨日は終日庭作に從事したりしが、老大な樹であれば其何木たるを問はず、幹の太きにも美あり、枝の繁れるにも美あるが故に、之を何れに植ても、一本立にて左程趣味の不足を感ぜず、是は恰も長歌の如くで、長い中に相當の材料を含めることが出來るに依て、一首にて遺憾を感じない、勿論老大木に二三本の中木を植添ふるは、其趣味を加ふること、長歌に反歌あるが如く、無くとも差支なき如くなれども有る方が慥に賑かさを益す、若夫れ中木ならば、到底之を植込みにせざる以上は趣味の完全を得べからず、即松なら松、柏なら柏、其松の趣味柏の趣味を詩的に看むと欲せば、幾分ヅヽ變北ある樹にして縱令へば、背の高き背の低き、右へ枝の出たる、左へ出たる或は曲つてゐる或は直に延びてゐると云ふが如き、數多の樹を五六本より拾數本を程よく一團の植込みに作つて、始めて遺憾なかるべし、是即歌に於ける連作なり、短歌一首は恰も中木一本の如きものなれば、連作即植込みにあらざれば、大抵の場合に於て物足らぬ感あるを免れず、
一本にして差支なき場合と云はゞ、即或物に添へたる場合なるべし、譬へば、軒に添へて植たとか、門とか石燈籠とか、垣根とか猶種々あるべし、總て如斯場合には樹木が主にならざるがためならむ、詞書ある歌、文章中に(121)ある歌、手紙の端にかける歌等即此物に添へて植たる木と理を同うせるなり、歌を作るは猶木を植るが如し、連作の趣味は愈植込趣味なることを知り得たり、先生の考如何と問ひ猶語を進め、吾俳句を解せず然れども、歌には連作の必要あつて而して俳句には毫も連作の必要なきが如く思はるゝは如何と問ふ、先生の予に教ゆるや懇切なりき 今其要を摘む
曰、俳句は十七字にして極めて短き詩形なれども、性質綜合的なり、漢詩と其趣を同うせり、一句の内に幾個にも切れる也 故に種々の配合物を一句の中に入れ得らるる、從て一句能く一光景を畫きて、不足なきを得るなり、一句一光景を爲す毫も連作の必要なきにあらずや、歌は是に反し連續的のものなれば、即※[竹/卓]の如く紐の如く、中にて幾個にも切れては物にならぬ性質の物なり、縱令一首の中に種々なる材料を詠み入るゝにしても、必ず其材料をつぎ合せて、一本の※[竹/卓]一筋の紐の如くにせざるを得ず、個々の材料を並べることは、決して歌に於て爲す能はぬにあらずや、俳句ならば、寒菊やと云つて置く石でも鳥でも犬でも何でも、調和しさうなものを持つてきて並べることが爲し得る、それが歌であれば、石のあたりに寒菊が咲てあつて、そこに犬なり鳥なりが遊んでゐる、と云ふ如く必ず材料と材料を一つなぎにせねばならぬなり、俳句は綜合的、歌は連接的、故に歌は三十一文字にして長いけれども俳句よりも單純なり、俳句の雜複なる如くは、歌にては決して爲し得られざるなりとは常に云ひ居る所なり、
極めて單純なる物、それ一つにてはさびしく物足らぬ感じの起るは當前ならずや、長歌とても即中にて切ることの出來ぬものであるから、長くとも漢詩などに比して、非常に単純なり、況や短歌をや、物それ自身が非常に單純である故に、他の物に依らねばさびしき理窟である、短歌が、歌と歌と相依りて連作となるか、文章に依るか(122)の必要あるが如く思はるゝは、單純であるからと云ふの外ない、子が植込趣味と云ふは面白きたとへなり、
因記す 此文中先生の談話と云ふは、當時の筆記にあらずして、予が聞覺を俄に書たる故に或は多少の誤あるも知るべからず、されば若誤あらば後に訂正すべし、日迫つて先生に閲を請ふの暇なきを以て此に一言し置く
古來の歌人皆歌の内より歌を見る、則歌を解する能はざりし所以、獨正岡氏、歌の外面より歌を觀察せり、能く歌の性格を解し得たる所以か、俳句を作る俳句の性格を知らざる可らず、詩を作る詩の性格を知らざるべからず、歌を作る焉ぞ歌の性格を知らずして可ならんや、歌の性格を解し得ず、而して漫然曰く國歌を革新す曰く吾は新派なりと、豈に滑椿の至ならずや、
(四) 或人予に問ふて日子常に萬葉集の歌を嘆美す、而して萬葉には連作なし、抑も萬葉の歌は如何なる歌ぞ、予答て曰連作の趣味は、正岡氏が古人以外に開發せるものなれば、固より萬葉を以て律すべからず、而して萬葉の作者は悉く實地に臨んで作れるものなれば、歌一首ある必ず事情の説明すべきものあるが多し、故に萬葉の歌は十中の七八、詞書ある歌と云ふを至當なりとす、然かも萬葉作者の巧妙なる手腕は、一首孤獨の物にも面白味に不足を感ぜざるもの又少からざるは、則万葉の万葉たる所以ならずんばあらず、
予が前歌論に於て詳論せるが如く、萬葉の歌は、調子の重厚なる、内容の幅ある句の屈折多き、如斯働に依つて、歌の持前なる單純の弊を脱することを得たるなり、作者の手腕能く單純の弊を脱して、歌を詠みうるならば豈にそれをしも排斥すべけむや、然れども如斯きの歌は萬葉作家と雖も容易ならざるが如し、況や今世の人をや、一首單獨にして猶能く單純の感を脱し得たるの歌は、實に歌中の珍とすべき歌なれば、手腕ある作家は勿論熱心(123)なる作家は大に茲に勉むべきや、云ふまでもなき事なり、
萬葉に連作なしとて、連作を排するは愚なり、連作の歌は性格の自然なれば、歌は必ず連作ならざるべからずと云ふも非なり、
(五)綜合之趣味
美術文學、其類一にあらず、從て人各其好む所に赴く、固より其歸を同うせざるものあるは自然の數ならずんばあらず。夫れ然り、然りと雖も又世の所謂歌人なるもの程、古徃今來、單調平板にして、趣味の狹隘なる種族はあらざるべし。
他技藝家にありては、自個の專修以外に種々の技を好み、若くは製作を試み、往々其妙を極め、或は其趣味を解して愛玩する等、比々皆然りと云ふも過言にあらず、試みに近く三四百年來の畫家に就て見るも、本職なる繪畫以外、他藝術の趣味は一も解する所なしと云ふが如き愚物は、絶てあらざるなり、(【今日の畫家は知らず】)而して所謂歌人なるものゝ側に、就て見よ、云ふも馬鹿々々しき程ならずや、歌人にして俳句を解する者ありや、歌人にして詩を解するものありや、歌人にして美術の好尚を有するものありや、文學趣味を解せざる技藝家が多くは取るに足らざるが如く。美術的好尚なき文學家の多くは僞文學たるや云ふをまたず。
文學として既に如何がはしき、舊來の歌を無上に有難がる歌人等に對し、美術的好尚を希望するは、始より無理なる注文なるやも知るべからずと雖も、歌を好める吾輩たるもの焉ぞ、之を冷眼に雲烟視し去ることを得んや。(124)能く歌なるものゝ趣味を解すとするも、單に歌其物のみを知つて他藝術の上に毫も解することなくんば、歌其物の趣味をも、亦決して盡し得べきにあらず、何となれば、各類其体を異にせる、美術文學は、又必ず各、其性格の自然が要求する、相當の範圍を有せざるはあらず。故に歌の能くする所俳句の能せざることあり、俳句の能くする所、歌の能せざることあり、歌俳の能くする所、繪畫の能くせざることあり、繪畫の能くする所歌俳の能せざることあり、他の技藝多くは然らざるなし、是他なし、各種の藝術皆各其範圍の中心を異にすればなり、されば歌俳の範圍を知らんと欲せば、繪畫の範圍を知らざるべからず、繪がの範圍を知らんと欲す、又必ず歌俳の範圍を知らざるべからず、美術文學、固或點に同うして、或鮎に同じからず、從て範圍錯綜、各其体を異にしながら又決して離るべからざるもの有て存す、故に自個を明にせんとする、必ず他を知るの必要あり、換言せば、既に能く自個を解す、推して以て他を解することを得べし、則知る歌人にして、他藝術の上に毫も解する所なしとせば其歌人なるものは、能く歌をも解せざるものなることを。繪畫者は、繪畫を以て有ゆる世上の美を盡し得んと云ひ、歌俳者は、歌俳を以て有ゆる世上の美を盡し得んと云ふものあらば、疑も無く是美術文學の範圍を解せざるの徒なり。茲に於て予は歌人なるものゝ頭上に、一大鉄槌を加へ置かざるべからず、古今集以下千有余年間の歌人等が、遂に詩趣の上に一覺を開き得ざりし所以、其源因固より一ならずと雖も、主として他藝の上に少しも解する所なかりしが故ならずんばあらず、人或は云はむ、自個が本職たる歌の上に於てすら猶覺り得ざりしもの焉ぞ他藝の上に眞趣味を解し得んやと、是一理あるが如くにして必しも然らざるものあり。
吾邦技藝界は幸に時々達人名手を出し、幼稚なる歌界の、萬葉集の解讀すら能せざりしが如き、それ程に幼稚な(125)る程度にあらざりしなり。故に、若當時の歌人等にして、今少しく嗜好の單純ならざるものありて、他技藝界の達人名手に交り、其説を聞き其趣味を解し、其好む所に妙味を覺り得たらんには、依て以て自個が歌の上に及ぼし、必ずや開發する所あるべかりしを、如何せん、多くは根底より濟度し難き、偏狹頑愚なりし歌人等は、例の甘味も酢味もなき糟歌を以て、有ゆる藝術の上位にあるものと盲信し、毫も顧みて他と比較研究せんと欲するの念を起さゞりしなり。之を要するに歌人等が常に悟り得ざりしものは、趣味的嗜好の狹隘なるに歸せずんばあらず。
美術文學の趣味を、根本的に解得せんと欲せば、必ず先づ、各其性格を明めざるべからず、其性格を知り其範圍を明め、而して後始めて研究の方針定まり、其爲さんと欲する所に向ひ、始めて前進の途を開けむ也。歌を研究する、又必ず此途に出でざるべからず。
美術文學を通し、予は之を二分して、甲種綜合的、乙種連接的の、二種となす、連作の短歌、寫生文、小説、俳句、及び漢詩、新体詩、繪畫、園藝、以上は皆綜合的性格を備へたるものにして、予は之等を眞正の文學美術なりと云ふ。短歌、長歌、美文、彫刻、塑像、陶物及建築等、皆連接的性格を有する物にして、予は之を變則的美術文學なりと云ふ、何を以て之を云ふ綜合的複性の物にあらざれば、趣味完全ならず、連接的単性なる物は、趣味自ら狹隘にして變化に乏しきを免れざればなり。若し夫両者の價値を論ずるの必要あらば、連接的なる變則美術は到底之を第二位に置かざるを得ざるなり。予は故に一言し置かざるを得ざるものあり、以上二種の稱號は大体の上に就て名付たるものにして、綜合的なる種類中、連接的なる物あり、連接的なる種類中、又綜合的なる物あり、從令へは一草木、一動物を寫せる繪畫の如き、決して綜合なる物にあらず、俳句の如きは尤も綜合なら(126)ざる物多し、長歌短歌中又綜合なるもの少からず、故に要する所は程度の問題に屬す、兩者の通有性は或る程度以上に出づること能はざるを以て、性格の大体に於ては爭ふべからざるものあつて存す。
短歌の到底俳句に如かざる所以は、前途の如く其根本性格に於て劣る所あればなり、猶恰も彫刻と短歌とに於けるが如きものあるか、長歌の連接的なるは、新体詩の綜合的に如ざるものならん、予は新体詩に於ける研究は、日極めて淺く、未だ意見を定むるの機に達せずと雖も、而かも予は今後の歌人たるもの、よろしく大に連作の短歌と新体詩とに、力を盡す可しと大呼するに躊躇せざるなり。然りと雖も讀者は予を以て長歌短歌を喜ばざるものと爲す勿れ、彫刻陶器が、繪畫以外特種の趣味あるが如く、長歌短歌が又其他のものゝ決して摸し得べからざる特趣を有するや云ふを俟たず、只能く其性格の長所を知るべきのみ。
短歌は、俳句漢詩到底拮抗し得べからざるものなりしが、連作の趣味を發見するに及び、始めて單調の弊を脱し、綜合的性格を備へ、始めて眞正文學の價値を有するに至れるなり。予は茲に至つて、短歌連作創造者の功績を稱することを禁じ得ざるなり。嗚呼正岡氏の功や以て百世に傳ふべきなり。
予は繪畫園藝新体詩を以て綜合的の物なりと云へり、然り、繪畫は綜合的なり、園藝新体詩は綜合的なり、只是れ、其性格の上に就て云へるのみ、現實の繪畫園藝新体詩の上に、綜合の趣味を發揮するは、靈妙なる作家の手腕に俟たざるべからず。而して今日の繪畫、今日の園藝、今日の新体詩に對し、予は未だ綜合の趣味を得たりと信ずること能はず。
請ふ予をして、更に連作の趣味なるものに向つて説明を試ましめよ、
思ふに綜合の趣味は、配合の趣味の大なるものか、配合とは或主なる物に、二三恰好の他物を添へ、依て以て其(127)主なる物の趣味を加へんとするの云ひなれども、綜合の美と云ふは、更にそれよりも大にして複雜なるものと見ば可ならむ。
天下に美なるもの多し、然れども綜合を得て美を加へざるもの、決してあることなけむ、否如何なる物と雖も綜合に依て悉く美化せずんばあらず。縱令へば茲に牝牡二頭の鹿ありとするも、只鹿其物の並立せるのみにては、鹿としての美なるもの、極めて平凡に極めて陳腐極めて狹隘なりと雖も、之に配するに山を以てし、更に配するに草木岩石を以てし、また溪流を以てする等、何に依らず、調和すべき各種の綜合中に其鹿を置きたらんには、故に始めて鹿たるものゝ面白味無限にして盡きざるべきなり。
櫻の如き牡丹の如き、花それ自身が無上の美を有せるに關せず、猶是と調和する綜合中に置て之を見る、美更に其美を加ふるや言ふ迄もあらず、是れを鹿を中心としたる綜合の趣味と云ひ、花を中心としたる綜合の趣味とは云ふなり。天下何物か然らざらむ、綜合の趣味は美術文學の骨髓なり。美術文學家、苟も此理に覺る所なくんば到底共に語るに足らず。而かも誤ること勿れ、綜合其物は如何なる場合と雖も趣味ありと云ふにはあらず、必ずや妙腕ある技藝家の洗錬を經たる調和的綜合ならざるべからず。云ひ換ふれば趣味的統一連關ある綜合ならざるべからず。
綜合の技倆を欠けるの製作は、個々の材料の上に如何程の巧致ありと雖も、到底趣味の索然たるを免るゝこと能はず、綜合の趣味は、大局の趣味なり、既に大局に失敗せる者、區々の末技に巧を弄する何の甲斐かあらむ。由來吾邦の美術文學家、巧を末技に爭ひ、大局の上に着眼留意して、事に從ふもの少しとは西洋諸大家の常に唱ふる所なりと開く。
(128)予と雖も、吾邦今日の美術文學なるものに、未だ綜合の技倆を備へたる者あるや否やを知らざるなり、吾輩の眼に映ずる所を以てせば、今の多くの美術文學家は、綜合の趣味なるものに至つては、大なる注意を用ひざるが如し、酷言すれば綜合の趣味なるものをば、更に解せざるものゝ如し、嗚呼綜合の趣味は美術文學の基礎なりと知らざるか、豈に痛嘆に堪ふべけんや。
予嘗て知人某氏の畫を評せることあり、いふ、我れ子が畫を見るに、草木人馬面白からざるにあらず、家屋山川又面白からざるにあらず、個々の材料に就て見る決して排斥すべからざるに係らず、此畫の遂に失敗に終れる所以は、即綜合の趣味調和的統一に欠ぐ所あればなり、徒に巧を技末に弄し、各種の材料は綜合にあらずして陳列せるなり、是一見興快を感ぜざる所以か。猶子が畫の然るのみならず、今人の畫多くは此弊を脱し得ざるが如し、
是尤も注意すべき事項にあらずや、と、某氏苦笑して答へざりき。予又嘗て豪奢一世に名高き、某伯の邸を見しことあり。然かも是又前述の繪畫の如く建築の家屋美ならざるにあらず、庭中の木石面白からざるにあらず、后苑の花卉盆栽奇ならざるにあらず、然れども只見る、無數の材料雜然散列せるのみ、統一なく連關なく、大体の上に毫も趣向を費せるの跡なく、あたら廣大なる邸宅遂に綜合の詩趣を認むるに由なかりき。
予は猶芝上野の公園、靖國神社の神苑等を見る毎に、常に以上の如き感なき能ざりき、苟も美術國と自稱する帝都の公園にして、趣向なき如斯なるは豈に國民の耻辱と云はざるを得んや、嗚呼吾邦人は遂にすべてに於て綜合の趣味を解すること能はざるか、
予は進で韻文散文の上に、實例を擧げんとするも未だ適切なるものを得ること能はず、連作の短歌に至ては類例極めて少く故に掲げ來つて、分解評論する能はざるを悲む、例を他藝術の上にかる固止むを得ざるに屬す。
(129)之を要するに吾々文學家なるものは、文學各種の性格を明め、そが性格の自然に從ひ發達を求めざるべからず。
附説 大伴某が連作論に就ては、次號に於て詳細なる説明を與ふべし。
明治34年11月・12月、35年1月・3月『心の花』
署名 伊藤左千夫
(130) ジユウ的ぬた人
世間は廣いのでいろ/\な事がある、新〇社とか云へる社中の歌はあれは人間には讀でも分らない歌であるから、何所の歌かと聞て見ると、西洋の歌でもない、支那の歌でもない、朝鮮の歌でもない、ヤツ張日本のヌタださうだが、人間が作るのでないから、それで人間には分らぬのださうである、よく/\探つて見ると、ジユウ的ぬた人ちうものが作るのださうで、元は人間の子ださうだが、ジユウ的の事許やつて居るので、ジユウになつてしまつたのださうだ、
新しく女が出來れは、舊の女房や其兒供などを捨てるは、ランプのこはれを捨てる樣なものださうだ、醜業婦と云へば、人間の數ではないが、それでも兒のある女房を去つて、お前を身受してやると云ふても、大抵はいやだと云ふさうだ、何ぜと云ふとそんな薄情の男では末が案じられると云ふ譯であるさうだ、それで此ジユウ人は兒のある女房の罪のない女房を逐ひだして、自分に能く似たジユウ女『ヲツト』ジユウ牝を引張り込んださうだが、兩方が人間でないから、薄情も犬の糞もないのださうだ、是れが醜業婦もしないような、ジユウ的戀愛とやらださうだ、それでも仕合せ、まだ尻ツポも生へないで體にも毛がはへないから、世間では未だ彼等を人間と思つてゐると見えて、尻ツポのない毛物から作つた人間には分らない獣音のヌタの本や雑誌がちつとア賣れるさうだ、小さい樣でも日本もなか/\廣いからなア、
(131)それで近頃吠ヱ様が面白ひさ、おいらのヌタは万葉集古今集の系統以外のものである、吾々のヌタを以て万葉集古今集のものと見る様なやつは、ジユウ牙にかくるに足らず、ナンテやってるのさ 至極尤な次第であるのさ、万葉集や古今集は人間が作つたものだ、人間にチヤンと分る歌だからなア、獣的戀愛をやつて、ジユウ人となり濟したお前たちのヌタと系統を同うしてたまるかい、おまへ達のはヌタジャないか、人間に見せるのじやあるまい、コノ間人類學者の話であつたが、アヽ云ふことをやる奴は、つまりはつてあるく樣になる、もう二三年たつたら見給へ四ツンばいになつて歩行きだすだろふ、コン畜牛ソコラヘきやガツテ、小便ナンカシヤガルトたゝきつけてやるぞコソ畜牛メ(天童)
明治34年12月『心の花』
(132) 長信短報
(前略)小生は十月上旬に房洲旅行を思ひ立ち一寸暇申さむとて七日の午後に参り候時は別に替りも無之候故稍安心して旅立候ひしに十二三日目に歸宅早々參り候處實に意外にて同人等大に狼狽して陸翁に迄一夜來て貰ひしとの事に候 夫は何かの工合にて眼を痛め是迄飲食と見る物とて僅に慰み居候のに春中より齒を痛めて食物の方の樂を殺がれ今又限を痛めて見る樂を奪はる爲に心經を起して何とも云へぬ苦みを感じ候由。其夜寒川君も參られ歸途同君の話によれば當時苦悶の際、左千夫が房洲より歸つたら同人大會議を開き魔醉劑を多量にのませて死なして終まふ樣に計らつてくれとまで申され候由當時の状況御推察くだされ度候
爾來ほとゝぎすの消息の如く同人日替りにつめ居候足腰は立なくとも頸から上は健全だと自から信じて居たのであるが此春齒がわるくなつてそれから又眼がわるくなつた 頭も本當でない モウ駄目だナと申され候
四月頃歌を五十首作られ候後は絶て歌は作り不申候、歌が出來なくなつてからも俳句は作られ候へしが何時の頃よりか秋になつてからは俳句も一つも作られぬと申され候、さう/\竹冷氏が參られ候時は強ひて乞はれ候まゝ扇面に
珍客に夕※[白/八]の實を見せ申す
其後は俳句作り候とも聞不申候
(133)一夕虚子君と落合候時先生申す樣何時死ぬと云ふことが極つてゐないと實に困るでなア 醫者に聞た所で醫者も云ふてはくれまい又 醫者に判然云はれても聊か都合が惡るい、茲へ來る諸君に死期の投票をやつて貰度い、俳人は短く云ふだらふ歌人は長く云ふだらふ、皆の期日を合して平均に割つた日を死期と定めそれに依て総ての事をやつて行くと云ふやうにしたら極都合よいと思ふ、何時死ぬと極つてゐれば我儘も云ひよい、家の人達も無理なこともこらへてくれるだらうし一寸御馳走喰ひ度と思ふても、いつ死ぬか分らぬとなればゼイタクな樣ナ心がして少し云ひだしにくいと云ふ理窟だから是非諸君に一つ投票をやつて貰度云々
(中畧)先生は露月君の人となりを愛せられ時々同君に關する談話など承り申候 十月末の頃と存候 突然先生の云く露月を電報で呼ぶかと思ふた、何に用はないけれど逢つて見度いのさ 併し今來いと云はれては露月も少し困るだらうと思ふてよした、この話を小生は二度許りきゝ申候 他の人々へも話したさうに候 これは序に露月君に御傳へくだされ度候
先生の御病氣わるい/\も久しく相成候故諸君或は聞馴れて油斷せらるゝことなきか、器械的に飲食せらるゝとの一語、よく/\御注意被下度候 葬式に關する話など度々先生は申され候へ共こは書くにえたえ申さゞるまゝ筆置申候敬具(十二月二十六日、左千夫君より)
明治35年1月『俳星』
(134) 奥嶋曉雨君之歌
前號の倶樂部欄に、奥島君の紀行百首は多く海に關係あるに就き、雑誌「海」に廻稿云々との、編者君のことわりがあつたけれど、當時は別に心にも留めず居つたのであるが、十七日に森田君より「海」を送つてくれた、故に早速何はさて歌ずきであるから眞先に歌を見た 即奥島君の歌を見たのである、一渡り見終つて予は驚喜の惰禁じ難きものあるのである、
奥島君の名は始めて聞く、歌も勿論始めて見たのであるが、同人間の歌よりも、猶吾に近き歌を見る心地せられて、こんな面白い歌を、文學に關係薄き雜誌に埋めて置くは實に惜むべきだ、「心の華」は歌人に限つて見る雜誌であるから、これに掲げれば、兎に角多くの歌人に見て貰ふことが出來る、歌の數が多いので、縞者君も之を「海」へ廻したわけであらふけれど「海」の讀者は必ず「心の華」の讀者でないから、斯道のために如斯佳作は「心の華」にも少し掲げて貰度い、
予は失敬ながら吾愛吟した歌を是だけ拔た、
あかときの星かげふみて草まくら旅に出でたつ心たのしも
あかときの風をよろしみもろ帆あげて熱田みなとゆ船でするかも
海つ神の怒りをさむと天つ神天降りましけむ虹の橋かも
(135) 見渡せば遠つ伊良胡のあたりより立ちせまりくる夜の霧かも
吾船のいかりおろして風まつと野島の沖に夜はあけにけり
をとめらが潮あみをへて着る衣の赤裳のすそに浪のよるみゆ
八潮路は雲霧合つゝちかしまの簡島大島雨ぞ降り來る
あまの河いこぎ渡らふかは舟の櫂の雫か雨のふらくは
時じくに見とも飽めや神業とくしき眺望のこれのみ崎は
クリストの教ひろむと外國の鄙の島べに渡りこし君
月夜風涼しくふくに篠しまのま白砂はま我たもとほる
和田の底沖に沈める鮹つぼの鮹も出で見よ篠しまのつき
篠島の眞坐がみ崎はふるさとの市もとゞろに語りつぐべし
あはれ奥島君よ、予は君が玉詠を見て、遠き外國にて同俗同語の人に逢たらむ如き心地して、いとなつかしく思ひまゐらすぞや、よき折もあらば消息たまはれかし可志許、
明治35年1月『心の花』
署名 左千夫
(136) 〔心の花評〕
●拜唇仕侯『夜の夢』の中に、『牙白き』『幽《かす》けき』『ほゝゑみて』などいやな詞つきに候、此人の伎倆とも覺えず候、印度古代の抒情詩は無學なる吾輩には殊に有難く候
安藤野雁翁逸事是又面白く拜見致候、事實が面白ひのに書きやうも、飾りけなく醇朴の風があつて、誠に感じよき文章に候、翁の自撰家集があるとのこと、それは是非拜見致度候、又如斯奇翁であれば他に猶逸事がありさうなら、どうかさういふ所を見つけ出して是非書て貰度ものに候
香取先生の歌始めの十四首實情見え不申候
天響とやら恐ろしきひゞきかと存候析、いやはや蛆をせめる騷ぎ、いやな醜音に候、山田歌彦と申すは、口許りのシトの様に相見申候、だれもこんなシトに相手になる人はあるまじく候
萩原君の今様七首拜見不致候
石榑君の桐一葉少々長過はせずやと存候、此人の和文の巧みなるは、實に感服の外なく候、此筆を以て好題目を書き被下候はゞ、如何に面白からんと存候、歌の方は少々御勉強被下度願上候、いや此人にはいつそ歌などよして、大に文章に御骨折願度候
歌壇警語録、御苦勞樣に存候
(137)雪皓々、余り皓々とも見え申さず評省き申候
倶樂部欄の梅津曾とやら申す人、おひまな御方と存候、固より價値もない歌共。おひまのある方でなければ、まあそんなことはどうでもよい、人の歌なんぞ批評する手間で、ジイツと自分の勉強をなさつしやれ早々 不悉(天童)
明治35年1月『心の花』
(138) 病牀日誌
――明治三十五年一月二十二日――
午飯過ぎて後浣腸セラル 瓢亭來ル少時にして陸翁許ゆかる 虚子歸る
ウン/\云はるゝこと暫時 止みしと思へばうと/\と睡眠せられたる樣子なり(三時二十分)
空模樣暗くなり雪チラ/\降出す
(以上左千夫記)
明治35年1月
(139) 〔歌おどろ〕
〔一〕
▲「日本」が歌を募集するは善、而かも自個が積年の主張を輕侮し、派別に係らずなどゝ卑俗なる公平をテラヒ、何の必要ありてクダラナキ歌を募集せんとするにや、吾輩は「日本」の意を解するに困む「日本」は落合や鐵幹や信綱輩の歌に對し猶歌としての價値を認め居るにや、否文學の價値を少くも派別と解する程に認め居るにや、吾輩は「日本」の募集に應ぜんと思へど、小出粲や落合佐々木輩の手に吾作歌を選ばしむるを深く辱とする者也(天童投)
〔二〕
▲「日本」の短歌募集は、固より吾輩の深く感謝する所、而かも募集の趣旨に至つては、吾輩聊か慊焉たらざるを得ず、多年「日本」紙上に於ける短歌の標準は、湖村民愚庵氏竹の里人氏相繼で努力せられたるの結果、炳然確立世人をして「日本」派なるもの有るを知らしめたるにあらずや、予輩の所信を以てせば「日本」派の起れる所以は、所謂る舊派新派なる短歌を好まぬと云ふ如き淺膚な考よりせるに非ず、彼等の多くが、目先の變れるこ(140)とや、ことさらに無理なる句法を用ひ以て新となし、又は詩趣をそつちのけにして語調の巧を弄し、要するに文學をして極めて價少き物となせるが故なり、然るに、彼等と「日本」派とを單に派の異同を以て見るは何事ぞや(黒天投)
〔三〕
貴社にては今回大に短歌を募集すと何よりの事にて小生等の大に賛成するところに候 されど舊派にも特長ありとの説は新聞日本の言としては餘りに誤れるの甚しきものと存候 由來和歌は文學の一なり、必ず彼の理屈、比喩、謎等を目的とする舊派の如きを免さず 其調は冗漫其想は非文學なる舊派が果して和歌としての價値ありや否や、已に舊派は短歌の性質を誤るもの即ち和歌とはいふべからず 舊派の選ぶ所は必ず理屈なり謎なり其理屈や謎を掲載して特長ありと謂はんとするか 私に新聞日本の爲に悲まざるべからず 吁子親子病みて日本は和歌の主義を誤まるなるか(無骸骨生) 明治35年1月29日、2月2日『日本』
(141) 歳の壬寅に就て
歳の壬寅と申すくだりに月溪の年令が天明二年に四十一と有之候得共是は誤にあらずやと存候 月溪は寶暦十一年辛巳の生にて文化八年辛未五十一才に寂せられ候故に天明三年蕪村寂せられたる時には二十三に有之候 其前年即壬寅には正に二十二に有之候 圓山應擧が五十才にて候《左千夫》
明治35年3月『寶船』
(142) 再び歌之連作趣味を論ず
前々號誌上で和歌連作論と云ふ見出の下に議論めいた事をやつた、大伴某と云ふ人は一体何者である、歌の雜誌の上で眞面目に歌の議論をなすのに何故に本名を名乘らない、キマリが惡いのか、恥かしいのか、恐ろしいのか、御當人は立派な議論の積りであらうに、何にも覆面して出る必要はあるまい、自分の誤託を並べるのみならば兎に角、他の議論に對して口出しゝようと云ふには、余り無作法であらう、
こんな人を相手に眞面目な議論をやるは、實に馬鹿々々しくてたまらぬけれど、之を不問に附しては、或は多數讀者の誤解を招くこともやと思へば、仕方なしに再び説明すべく決心した。
論者よ論者は、更に要領を得ないとか、左千夫の考が分らぬとか云ふてるが、要領がえられぬなら幾回も反讀して見給へ、左千夫の考が分らぬなら分るまで研究して見るがよいじやないか。
短歌には短歌の趣味長所があり、長歌新体詩には長歌新体詩の趣味長所があるなんて、ツマラヌ講釋はよすがよい、連作の歌には連作の趣味長所がある、短歌以外長歌新体詩以外(續新歌論綜合の趣味參看)立派に趣味長所の存することは、論者にはまだ解し得られぬのであらう、
短歌は猶一枚の油畫の如きものであると來ては噴飯の至りじや、短歌が油畫の如くなら、何かネ、長歌は唐畫の如く、新体詩は浮世繪の如くとでも云ふのかネ、馬鹿々々しい、詩と云ふものゝ性格畫と云ふものゝ性格、論者(143)にはチツトも分つて居るのじやあるまい、成程美術と文學、或点に於ては無論一致してゐる。それは單に繪と詩とに限るのではない、美術と文學と押なべての上に就てゞある、それと同時に一方に於ては各其性格の本領と云ふものがあつて、毫も相混ずることのできぬ所があるのだ、只漠然と、歌は油繪の如くであるなどゝ、單純に比較し得らるゝものでない、生物知りに薄ツペラなこと云ふものじやない。
小言は是位で切上げ、本論に入らうと思ふが、其前に一寸と斷はつて置く、予が所謂連作の趣味と云ふのは、只同じ題の歌を數首並べたと云ふのではない、五卷一號「連作の趣味」中でも、歌の連作趣味は、一題十首より得たのであると、返す/\云ふてある、連作と一題十首は決して同じではない、連作には必ず連關がなければならぬ、趣味の中心がなけれはならぬ、只並べたのではない、連作とはツラネ作るだ、並べるのと同じだなどと、三百理窟を云ふ奴があるなら、それやそういふ奴の勝手だそんな奴は相手にせぬ、
香取君も、連作と云はずに何か新熟語をあてた方が適當かとも存じ、などゝ云はれたが予はそんな名目などは、どうでもよいと思ふ、實が主であるから實さへ分つて居れば、名目などは世間で勝手にいふがよいと予は信じてゐる、
香取者の手紙の通り、予も度々正岡先生と連作のことに就て話をしたのである、連作と云ふものゝ定義に就て、少しく廣狹の差はあるが、よく/\話して見ると、ツマリ先生は僕はどうでもよいと云はれ、予は専ら歌の体と云ふ方に重を置き、先生は歌の價値の方を主にして話された故、香取君の手紙の樣にも云はれたのである、
殊に先生自らは創建者であるから、他より評する場合とは自ら一致せぬ如く見ゆるのである、香取君も云へる如く、先生と予と多少見解を異にして居つても、それは固より當前のことで、先生の説を予が受賣した譯ではない(144)から違ふのが至當であるのだ、それから和歌連作論者は、予が先に雨中松十首を連作のはじめだと云ふたに就て頻りに云々したが、分らぬことを云ふ男じや、よしんば正岡以前に連作の歌がたまに有つたにしろ、皆偶然にあつたので決して連作の趣味と云ふものを悟つてやつたのではない、況や予が所謂眞個の連作趣味の歌と云ふものは、古來決してないのである、佛足石の歌、万葉中の歌曙覽の歌信綱氏の歌、皆連作にはなつて居らぬ、先にも云へる如く、一題數首を並べた歌なら、四五十年所か、千年前の万葉中にイクラでもある、吾々とても二三年前から一題十首は、盛にやつてゐたのだ、歌といふものゝ上に新趣味を發見して、其意を悟つてゐて作つたのと、偶然何の氣なしに作つたのとは、大に違ふのであらう、予の知る所では万葉中に、クツタ三首の連作が一つしかない、それとても無論偶然のものである、兎に角予が所謂連作と稱する如きものは、古來絶てあることなしと斷言するに躊躇せぬのである、
新趣味の發見と云ふても、其境に至らぬ輩には解しえられぬのが、當前であらう、芭蕉が古他の句に悟を開ひたと云ふても、其當時芭蕉の言を解し得たるもの幾人かある、芭蕉が死に臨んで猶古池の句に悟を得て云々と云へるを見れば、芭蕉が人の悟り得ざるをハガユク思ひしや知るべきのみ、芭蕉死後二百年、今日立派に宗匠顔して居らるゝ俳人中にも猶其意を解せざる者多きにあらずや、古池の句以前にも、古池の句の如き句がないではあるまい、それが即偶然にできてたのと悟つてゐて作つたのとの別である、老人連の歌にも適には見られる歌があるのと同じ道理である、故に予が正岡氏の雨中松十首を連作の始めと云ひ、新趣味の發見と云ふ、人の怪んで之を解し得ざる實に止を得ざる譯である、芭蕉は屡古他の句に悟り云々と自ら稱して居つたが、正岡氏は連作の歌はおれが始めたとは決して云はぬ、香取君の手紙の如く佛足石の歌も曙覽の歌も、連作と云へば云へるだらうと云(145)はれてゐる、予の見る所では連作の歌と云ふもの、否々正岡氏の連作の如きものは決してないのである 偶然にもないのである、たゞ充分に連作と稱し得べきものは萬葉中に三首の連作があるばかりである。
予が先に雨中の松十首の歌を評して、今より之を見る多少完全せざる點なきにあらずと云へるは、即ち歌の價値に就て云へるのではない、歌の体と云ふものより見て云へるのであつて、價値の點より云へば香取君も云へる如く、究屈なる材料を變化して、巧に情趣を顯して居る、最も珍しき歌である、併し其体の上より即連作の模形と云ふ点より見る時は、趣味狹隘で、極めて變化に乏しいのである、故に此の歌は是で面白いが、之を摸形として後の人が盛に作ると云ふことは迚ても出來ぬことゝ思ふ、不完全だと云ふたのは即それであるのだ。それで此歌は未だ不完全であると云ふても、猶古來決してない体であると云ふのは、雨中の松と云ふ光景を、露と云ふ客観的景物で連鎖したのであるが、それ許りでなく、根本から現實的であるから、作者の位置が定まつて居る、詩境の光景がまとまつて居る、それから時間が連續して居る、こう云ふ風に着眼の中心が露で、位置時間等が現在にまとまつてゐる、総体に此十首を吟誦すれば、一個詩境のまとまつた光景が、髣髴として限中に浮び來るのである、即是が連作の趣味と云ふので、如斯は一二首の短歌は勿論長歌でも、決して尽し得らるゝものでない、絶て古人のやつてゐない体である、曙覽の銀山の歌のやうに、「山の洞のうちに火をともし」と云ふ光景があるかと思へは、「馬を牽きたてゝ御貢つかふる」と云ふ所もあつては、位置の統一は勿論時間も決して同時とは思れぬ、作者の居所も一定して居らぬ、「洞のうちに火をともし」(御貢つかふる)などゝ云ふも皆想像であつて決して現實的でない、何等の連關も中心もないのである、之を並べて作つた歌と云へば一番早分りである、こういふ夙に解釋してくらべたら、雨中の松の歌と、銀山の歌とがどれだけ違つてゐるかと云ふのが分るだらう、(146)庭前の松と云ふ一つの景物を雨中に見て殊に露といふものを見つけだして、そして雨と露が十首全体に押渡つてゐる、それであるからチヤント連鎖が出來てゐるのである、之が只何の配合もなく、漠然と庭中の松と云ふ題で十首の歌を作つたのならば、即銀山の歌の如く、並べたものになつてしまうのである、曙覽の銀山の歌なども、朝見たとか、夜見たとか、或は雨中に見たとか云ふやうに現實的に他の全体に渡つた一つの景物を配合すれば、始めて連鎖ができて、まとまつたものになる、即予が所謂連作と云ふものになるのである、
佛足石讃碑の歌。大伴卿讃酒の歌、なども皆銀山の歌とおなじく、一題數首並べた歌である、何等他の景色の配合がない故に、景趣共に實現の感じにならぬのである、時間がなく、詩の境域と云ふものがない、即俳足石や酒を美的に解釋したと云ふやうに歸するのであらう、故に之等の歌を通誦しても胸裏にまとまつた一つの光景をゑがゝぬのである、如斯歌を連作と云ふならば戀の歌などは皆連作であるのぢや、客觀的一題十首も皆連作と云へるのぢや、予が連作の趣味と云ふのはソンナツマラヌ價値なき物ではない。誤解する勿れ、佛足石や酒の歌が價値ないと云ふではない、連作として見ればツマラヌと云ふのである。
曙覽が父母の靈祭によんだ五首などは云ふに及ばぬ、連作でもなんでもない、くだ/\しいから略す、家の歌會の樣をよんで藩主に奉つたと云ふ歌が、最も見所がある、無論連作になつてはゐないが、今少しで連作になるのである、此歌は位置と時間だけが、まとまつてゐる故、之に全体に渡つてゐる配合物の連鎖があれば、それで連作になる、此歌の境は夜であるから、全体に渡つて夜の光景が顯はれてゐればよいのであるが、半數以上の歌は夜と云ふことの分らぬ歌である、それでまとまりがつかぬ、又趣向を替へて藩主に奉つると云ふ一つの主觀で全体を連鎖してもよいのである、即的があつて作つた歌になるのだ、所で此曙覽の歌が藩主に奉つたとあるけれど、(147)奉つた体即的のある歌は此中に只一首
老し妻の飯匕とりて盛りたるを一口君にささげ見まほし。
ばかりである 如斯始終の一貫がないから、矢張並べたものになつてしまつた、歌會の記事的洒落歌になり了つたのである、歌會の記事をかくならば、究屈な韻文などでせずと、散文でくはしく面白くかけるであらう。
紙すきの歌に至つては、馬鹿々々しく話しにならん、苟も議論の一つもやつて見樣と思ふものが、今少し注意して他の歌を見たらよからう、「水に手を冬も打ひたし」「黄昏に咲く花の色」「鳴きたつる蝉に」冬から春から秋までかゝつた歌を、何所をどう見て、連作だなどゝ云ふのであらう、こんな目で文章を見られ歌を見られてはモウをしまいぢや、此歌と正岡氏の雨中の松十首と、如何に比較して同じ連作と見えるだらうか、情ない議論家もあればあるものだ。それから信綱氏の笛十三首の歌であるが、前に反復云ふた如く、詩境がない、時間がない、夜か晝かも分らぬ、一貫した配合物がない、從て家の中で吹てゐるやら、庭で吹てゐるやら野外で吹ているやら更に分らんじやないか、歌全体がそれではいかぬと云ふのではない、連作の歌と云ふものはソンナ茫漠としたものではいかぬのである、此笛の歌は佛足石の讃歌酒の讃歌と同じものである、笛に對する主觀をいろ/\に述べたまでゝ並べた歌であるのだ、並べた歌と、連作の趣味ある歌との相違を、物に譬へたらば、森林の樹と、庭園の植込との差があるのである、森林の樹は順序よく並べて植たので、組織上に何らの趣向があるのでない、之に反し庭園の植込みと云ふものは、必ず趣味の連關がなければならぬ、趣向を以て組織したものでなけれはならぬ、趣向を以て組織した植込み、是れが即歌でいふ連作であるのだ、併し論者の如き無趣味な人は、庭の植込みも、野外の林も同じ樣(148)に見るのであらう、そう云ふ人を相手に趣味の話などするのは實に骨が折れる、
予が未だ完全せざる所ありとする所の雨中松十首の連作すら、以上述べ來りたる如く、古來其例を見ないのである、或は予が未だ知らざる人にして連作趣味の歌が有るかも知れぬが、有つたにしても先に云へる如く必ず偶然的のものであらう、偶然的ならずして、趣味の上に悟る所あつて作つたと云ふ樣なものは、恐く有まいと予は固く信じてゐるのである。
さらば予は進で、予が所謂完全なる連作、成功せる連作に就て説明を試みやう、予が先に連作の趣味第二に擧げたる、六月七日病床即事を詠める正岡氏の連作は、雨中の松十首とは大に其体を異にして居る、前者は或る一の物体が主になつてゐるのに、それを又固形物の露を以て一貫したのであるから、極めて究屈なる趣向で變化が從て乏しいが、後者の方は即月夜と云ふ廣い景色を、ガラス戸の中に病臥して見ると云ふ、位置の視線でまとまつて居るのである、時間詩境共まとまつて居るは云ふまでもなく、予は之を位置を以て連關せる連作と云ふのである、此歌の如く作者の視線を以て位置の連關を爲す場合は病臥して居る所などは尤も面しろき境域と思はれ、作者の居所が、動いて隣りも見後ろも見ると云ふては、詩境がまとまらなくなるのである。是れが此連作の趣向である、
此連作の体が前者に比して大に進歩して居るといふは、ゑがく所の詩境が廣く含む材料が極めて複雜に自由になつてゐるからであるのだ、前者の連作で見ると、松、雨、露、庭、それを玉とたとへ青き枝といひ、針の葉といひ、立枝はひ枝、と形容した位で簡單なものであるが、後者の連作になると、郭公、ガラス戸、月夜、鳥籠、ブリキの屋根、森、白雲、ランプ、ランプの紙、杉の木末、夜の床、家、小庇、※[さんずい+氣]車、こんな鹽梅に複雜な材料を(149)以て組織されてゐるのである、然かも全編通誦すれば、作者當時の情景恍として眼に浮び來るのである。総合的一個の好詩境が、チヤントゑがゝれて居る、前者は連作の摸型として倣ふに容易ならねど、後者の方は之を摸形として作者の技倆次第極りなく作り得られると思ふ、
無理に此体の缺點を云はゞ、自然に位置がまとまつて居るのでなく、位置が主になつて連關してある故に、やゝもすると詩境漠然たるを免れざるの弊がある、此の歌の如く緊つてまとまつて居れば、少しも難はないが、之を壞して傚ふ人は余程注意せぬと、並べた歌になつてしまう、併前者と後者も連作の一種の体で、さうして後者は前者に比して、進歩せる体なることは云ふまでもない、此次なる庭前暮春の光景を詠める連作はどうである、予は此体を以て進歩完成の域に達せるものと斷じて居るのであるが、此連作は前の月夜の連作と全く其体を異にして居る、松の歌は材料即露を以て連關し、月夜の歌は位置即作者の視線を以て連關し、此歌に至つては、主觀即自個の死と云ふ情を以て連關して居る、客觀の光景が從になつて、主觀の情が主になつて居る、材料を含收する變化更に自由になつて、主要の連關線が、客觀の物なれば一々表面に顯はれてゐるけれども、主觀であると背面に潜んで居る故目にうるさく映じてこない、松に露/\月夜/\と一首毎に顯はれると、多少うるさい感じがないではない、それを主觀で連鎖すれば、客觀の材料を一々變せしめることができる、以上の如き觀察で予は此体の連作を最も上乘なる体と信ずるのである、
乍併是より盛に連作の歌を作りゆかば、又種々なる体の顯はるべきは勿論のことであらう、一場の光景を主觀で連關し、一個の景物に對して、主觀を詠める場合等、必ずや一定せざるものあらんなれども、予が所謂連作の歌に要する條件を云ふ樣なことを擧れば
(150) (一)連作は必ず二個以上の材料(或は主觀或は客觀)を配合せる連關を有すること。
(二)連作は必ず位置と時間と共にまとまつて居て余り散漫ならざること。 (三)純客觀の連作はあるとも純主觀の連作は成立しがたきこと。
(四)連作は必ず數首を連關すべき趣向あること。
(五)連作は必ず現在的なること(往事を追懷し後事を想像するとも必ず現在の事實に基づける感想ならざるべからざること)。
(六)陳列的ならずして必ず組織的ならざるべからざること。
其他は予が前號に論ぜる、綜合の趣味に就て看照すべし、終に臨て予は予が見て以て万葉集中唯一の連作なりとする所の歌を出して、聊か論評を試みやう、万葉卷之三
大宰帥大伴卿之歌
吾妹子が見し鞆の浦の天木香樹《ムロノキ》は常世にあれど見し人曾なき。
鞆のうらの磯のむろのきみむごとに相見し妹は忘らえめやも。
磯の上に根はふむろのき見し人をいかなりと問はゞ語りつげむか。
歌數あまりに少く、之を連作と云はんには物足らぬ心地せらるゝのであるが、体はまさしく連作になつて居る 天木香樹と云ふ一の景物を、妹を追想するといふ主觀を以て連關してゐるので、位置時間の散漫ならざるは勿論、兎に角チヤント連作になつてゐるのである、磯の室の木といひ、根はふむろのきといひ、やゝ詩境の光景も分る、只歌數少く室の木をうつすこと充分ならざる故に、詩境の光景を讀者の眼中にばはしむることが從つて充分でな(151)い、之と云ふも作者其人は偶然にやつたので、連作などいふ考は毫頭持つてゐずに作つたからである、
大伴某といふ人にいふが、人の議論でも人の歌でも、又例に引た古人の歌でも、よく/\心を入れて見なさい、人の云ふことの分らぬを疑はず、御自分の頭を疑ふて見なさい、予のいふことが分らなければ、幾回でも説明してあげるが、眞面目な話は眞面目に名乘つて出なされ。
猶連作趣味に就ての前後の論評は、根岸短歌會員である左千夫が一個の考であると云ふことを斷つて置く。
明治35年4月『心の花』
署名 伊藤左千夫
(152) 〔『心の花』短歌會記事 一〕
三月九日上野東照宮搆内に例會を開く、會する者左千夫、葯房子、麓、潮音、蕨眞、芳雨、秋水、義郎。作歌の品隲に先ち芳雨が作に係る人麿像の批評を試む。立像座像の二躰也。
〔略〕
左千夫一体この像は眺めてる處か考へてる處かボンヤリして居て分らない、ボンヤリさした積りだツてそれぢや仕様がない、義郎君もこの間いツたが今の製作は美術文學すべて趣向なしだから困る、この像も何等の趣向もないぢやないか。話しがすこし横入りするけれどもこの間人が崋山の幅を持ツて來たが牝鷄が一羽かいてある、元來普通のゑかきならば牝鷄只一羽はかゝない、よしかいても駄目だが、崋山はさすがはえらいもので、その牝鷄一羽でチヤンと趣向が立ツて居てものにつてる。どういふ工合かといふと足を、八風にしてむかうをむいてるのがこちらに振向いてる處でアツた、一羽の鷄の樣子に趣向がある、人麿の像に趣向がないとは根本に於て僕と意見を異にしてる。
〔略〕
議論百出否難につぐに否難を以てし、或は其相貌を想像し心事を推し骨格たくましきものとするもあれば感情の鋭敏なりし人となすもありて歸着する所をしらず遂にある歌によツて位置を明かにし今すこし年若く、有意味の(153)姿勢(即ち趣向ある)、形に改作し更に批評會を開くことに決し作歌批評に移る。
わが脊子が袖つけごろも白妙ににほひよろしき桃の花かげ 秋水
左千夫 どうにか歌になツてる。蕨眞 袖つけ衣はヘンです。秋水 袖つけ衣は晴の衣で、官人の袖付衣とふるくからあると思う。葯房子 詞のつゞき工合が白妙の袖付衣といふべき所と思う。
よしのがは鮎子さばしる清き瀬の細網さす岸に桃の花散る 秋水
義郎 吉野川が下の數句に對して如何にも不自然だ、僕は桃の花の感じはなくて山吹らしく感ずる。葯房子 鮎子さばしるはどうだか、子鮎といふ所ぢやないかしらん。左千夫 鮎子さ走る清き瀬といふ詞が萬葉にあるのでその儘用ゐたのだ。義郎 鮎子さ走るといふと早瀬で桃の花ちるといふ感じはゆるやかな流れのやうだ。麓 どうもさういふ感じがありますね。秋水 山吹ではふるくさい。
義郎附記 サバシルキヨキセノサデサスキシ佐行加行の音が甚だ多くして調をなさない。
羽採女が梭《ひ》の音もゆらに御衣おらす機屋の齋處桃の花散る 秋水
麓 梭の音もゆらにはをかしい。葯房子 ゆらにといふのは形のあるものを形容する言葉でせう。蕨眞 そうらしく思はれます 足玉も手玉もゆらにといふ樣にゆく言葉でせう。左千夫 御衣といふのはイヤだ。麓 機屋の齋處もをかしい。
左千夫又いふ、『梭のともゆらに』は『ひのともさやに』の思ひ違ひであらう、さう直してもよき歌にはならぬ。
わかくさの新妻もてる布教師が庭にさきたる源平桃のはな 芳雨
左千夫 一二の句は布教師の説明にすぎない、かういふ樣な句は成べく用ゐたくない、只布教師の庭に源平桃が(154)さいてる處をいへばいゝ。麓 若艸の新妻とつゞくのは………。義郎 僕は桃のナマメカシイ…と布教をする妻帯坊主とが何處の邊にだか調和してるやうに思う、併しイヽ歌といふではない、よしものになツてるとしてもゲビタ歌には違いない。左千夫 桃の花と妻帯妨主と調和しても此歌にては其新妻も妨主も客觀的に顯はれてゐないからいけぬのだ。
牛の子の群れてあそべる廣庭の吹井のほとり八重桃の咲く 芳雨
潮音 四の句はなくツたツていゝ。義郎 そこが作者の趣向なのだらう。潮音 四の句のない方がいゝ。左千夫 廣庭といふのがわるい牛の遊んで居る庭に吹井があるといへば澤山で廣庭といふ詞は殊更な感じがする併し境はえてゐる、
いぬ鳥のさとびの聲もきこえつゝ桃の花原見えにけるかも 左千夫
葯房子 結句が甚だ振はない。義郎 見えにける鴨といふよりも現在見えてるなりにいつたらどうです。葯房子 この次の歌の『左保神のいます宮居か桃霞み五百重のおきに見えこし高樓』なども現在にある方が感じが強くてよくあらはれると思う。左千夫 僕のこの十首は武陵桃源といふものを胸中にゑがいて其處にわけ入る心持ちを以て連作を試みたのである。葯房子 題詠の歌のやうで少しも作者自身で桃林にわけ入るやうに感じない。義郎 見えて來たといふよりも見ゆると直叙法を用ゐた方が確かにいゝ。左千夫 けるかもといふ語を皆無造作に使うが僕は家持の撫子の花さきにけるかもが一番有意味に使つてると思うのでこのけるかもゝ自分では些か考案をめぐらした積りだ。潮音 僕は見えにけるかもはこの通りでいゝと思う。
左千夫附記、見えてきたといふのと、見ゆるといふのと何程の差があらふか、余りこせついた評は難有ない。
(155) 白がねの眞砂しくなす河原べをそぐへもしらに桃の花咲く 左千夫
潮音 河原邊を………。(義郎曰ふこの間にそぐへの論大に盛んなりき)潮音 そぐへもしらにといふと『吉野山霞の奥はしらねども』といつた樣なものですね。左千夫 そりや違うサ、只際限もなくといふ語だ。義郎 河原邊をいふために三句を費してるが僕はよろしくこの三句を始め二句に約めて四五の二句を三句にいひたい。葯房子 同感 主となるべきそぐへもしらに桃の花さくが客に見えていかにも力が弱い。義郎 三句までは細かに形容して置いて突然そぐへもしらにといふ樣な壯大なことを持つてきて甚だ面白くない。左千夫 始めを二句にするといふ説に賛成。
ゆく水の絶ゆることなく桃の花千代か咲き散るとこ春のくに 左千夫
麓 いゝ歌だと思う。義郎 桃が動きはしませぬか。葯房子 『千代かさきちる』のかが氣にくはない 何も殊更疑はないで千代萬代に咲き散るといツた方がいゝと思う。麓 蕨眞 潮音 葯房子の説に賛す。
白桃に緋桃に飛びてながき日を蜂鳴りめぐり蜂まひあそぶ 左千夫
葯房子 一二の句が俗な感じがする。義郎 飛びて永き日をと續いてゐて緋桃にで一應切れるやうである、この飛びては四の句五の句にもかゝるので非常に強い語でなくてはならぬ樣に思う、ツマリ二の句の句割れが面白くない。左千夫 ブン/\蜂がうなツてる處の考へだ。潮音 桃の花がいかにもちいさい樣に思はれる。葯房子 蜂のうなツてる處は春の永日とよく調和してる。
春の江のながれの上に水枝さし朱のとばりと咲ける桃かも 左千夫
麓 潮音 感じのいゝ歌だ。義郎 流れの上に水枝さし朱の戸張といツてる處がすこしく明瞭をかいてる樣に思(156)はれる。葯房子 いきなり朱の戸張と出て居るのが如何にも突然である、女とか春の國とか何か前にあるならばすこしも無理を感じないのだが頭から朱の戸張ときてるから朱の戸張が甚だ鈍い。
左千夫附記、諸君の評が悉く詞詮義で持切つてゐる、趣向の如何を問はず、歌境の趣味ありや否やも問はぬは、最も遺憾である、固より武陵桃源など云ふは、夢想的の趣向である 漠然とした所を見て呉れんでは始めからだめなことは知れてゐる、寫實的筆法で土佐繪を論ずる様なものだ、余はくだらぬ寫實的の繪よりか寧摸様的の土佐繪を好むのである、寫實的の繪はだめだと云ふのではない、「朱けのとばり」と云ふのが突然だとは、予には更に分らぬ、
櫻ちる木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞふりける
と云ふ樣にちやんと縁語がなくばならぬと云ふ譯か、予はこんな風にキヨウにこしらえた歌は大嫌だ、朱のとばりと云ふ樣な語を用ゐるには何か是れに緑ある場合でなければいかぬなど云ふのは、それは古今集以下の思想じやあるまいか、桃の花が白いものと極つて居るに朱のとばりとやつたらそれは突然かも知れぬ、桃色と云へば薄紅色と極つてゐる今日、桃の花を朱のとばりと形容したのが何故に突然であらうか。從令へば
飛ふ鳥のあすかの山の櫻花風にみだれて雪とちるかも
此雪とちるかもと云ふのも突然であらうか、予はこんな詞使を少しも無理とも突然とも思はぬ、調べも大事だ詞使も大事だ、さりとて小さな所をこせ/\磨きたてゝ許り居たでは、のび/\とした大きな歌は決してできるものでない、それから予は義郎君が
菅の根の永き春日を瑠璃玉のか青き水に桃ちり流る
(157)を除かれたのは少し遺憾である、『瑠璃玉のか青き』と云ふに就て色の感じがないとか、玉と云ふ丸い形の感じが強いとか云ふて、無雑作にはねとばされたのが解せられぬ、『璞玉のとし』と云ふ枕詞の意義は如何である、此の『と』は『鋭』にて磨かぬ玉の角立てとがつて居る所から起つたのである、玉と云へば丸い感じが起ると云ふは後世の思想であらう、殊に此歌の瑠璃玉は殆ど枕詞と見てもよいのだ、此を瑠璃色と直したら調がたるんで小細工に陷りはせまいか、こんなツマラヌこまかい詮義に心を勞し大体の趣向及境の趣味と云ふ点に少しも注意して呉れぬとは、聊ならず不平であるのだ、吾歌がよいと云ふのではない、諸君の批評の仕方に就て考を異にしてゐる点を云ふのである。
春の野をたゝさ横さにめぐり行く水のくま/”\桃咲ける見ゆ 格堂
義郎 見ゆは贅。潮音 見ゆがなくばいゝと思う。潮音 ちいさい流が蜘蛛の手に流れてを其隈々に桃がさいてるのサ。左千夫 たゝさ横さは格堂君のよく用ゐる語だが僕は同意しかねる。全体に此歌箱庭的だ。
青柳のしだりかつらに折りそへてかざゝまほしき桃の花かも 格堂左千夫 古い。義郎 萬葉の梅と柳をかざすといふのと同趣で新らしい趣向がなく桃といふものも働いて居ない
眞白帆ののぼり下りす大川のなかつ洲根《しまね》の桃咲きにけり 格堂
義郎 上り下りするとあるべき所である 『す』では切れるが切れる所ではない 併しいゝ歌だ。潮音 同意。左千夫 僕はとらぬ、眞白帆の上り下りと云ふのは、どんな場合であらふか、風によつて進退する帆かけ舟が同じ時にのぼつたり下つたりすることがあらふか、蒸汽舶なら勿論であるが、蒸汽船では此光景に調和しまい。
〔略〕
(158) 三|千《ツ》年の桃さく頃をいとし子の乳母なるひとの里ごもりけり 義郎
葯房子 三千年は。麓 よくいふぢやありませんか。左千夫 三ツ年として植ゑて三年目の桃といふやうにした方がいゝでせう、歌はよくない。葯房子 同意。
乳母戀ひてあ子泣きやめす桃の木の實のむすぶとも來ぬ人なれば 義郎
葯房子 すべてが乳母と連聯してゐて乳母を歸すに『桃の花實になるまでと子にいひて乳母をばやりつ乳はなすため』と云のが前にもあツたのでいゝ歌だと思う、只なきやめずとあつては五の句の來ぬ人なればに對して如何にも態とらしくきこえる これはやまずとした方がいゝやうだ。蕨眞 いゝ歌ぢやと思ひます。左千夫 五句『こぬ人なれば』ではまとまらぬ、よい歌と云ふには賛同ができぬ。
桃の花枝に手折りて見すれども乳に泣く子をなぐさめかねつ 義郎麓 子供には梅もふさはしくない櫻も無論いけない 只桃の花のみがよくかなつてると思うその邊の消息がよくあらはれてるいゝ歌と思ひます。蕨眞 左千夫 葯房子 共に同感。
乙鳥水に羽根すりもゝの花さきてにほへるかはかみに飛ぶ 義郎
義郎 これは連作外です。左千夫 目ツケ所は確かに成功してるが羽根すりと飛ぶとがいかにも隔てるのは欠点だ。
ゆた/\と柳の糸を針に貫き縫ひて垂れけむ桃のとばりか 節
義郎 ゆた/\とがわからない 其他にたいした難もなくむしろいゝ方に思う。葯房子 前の左千夫君の戸張の如く突飛でない。左千夫 ゆた/\と云ふ語何のためか分らぬ、柳と云のもいらぬと思ふ 只糸とありたい、兎(159)に角つまらん歌だ。
あまさかる鄙少女等が着る衣のうすいろ木綿と桃咲きにけり 節
潮音 薄色ギヌとしたらどうかしらん、(鄙少女だものといふものあり)そうかそれでは仕方がない。義郎 まづくはない、左千夫 よくはない。
朝影にまひけむ鶴のいなだきのくれなゐ桃や妹に名かけむ 蕨眞
名かげむに就て議論あり。葯房子 桃といふことにはどうもすこしヘンだ 何か外のものにもツていつた方がいひでせう。左千夫 一二三までは非常に面白いが肝心な處で駄目にしてる。
桃の花むくさくゆふべ妹まてばけふりし雨のしみゝにも降る 蕨眞葯房子 左千夫 煙りし雨のしみゝにもふるは壮大な景色であつてこゝにはどうもはまらないやうに思はれる。
竹村のふる根をめぐり行く水にうくくれなゐは桃のはなかも 潮音葯房子 いゝ歌であるが惜いことには四の句でこはしてる。左千夫 景色もよくあらはれて新らしい趣向だ。葯房子 四五の句がどうかなりませんかねー。 わたし舟よこたはりたる岸の邊の緋桃青柳かげ水に在り 潮音
左千夫 材料が多すぎて不自然である。葯房子 緋桃か青柳かどちらか一つならばとも角も、青と排とを並べた所などは人工を弄したものだ。
〔略〕
二時頃より。雨にて來るべき人にして來らざりしもありて豫期の如く論難攻撃甚だしからざりしは頗る遺憾なり(160)しも大橋葯荊房子の來會によりいさゝか光彩を添えたり 九時終りを告げて散會。
以上記する所速記に非ず 予が記臆を後に記せるもの素より誤謬なきを保せず 其責皆予に存す(三月十日)
明治35年4月『心の花』
署名 義郎
(161) あわゆきがたり
かいたは/\久良伎先生、よくもあんなに書れたもんだ、善く言へば感寸に筆まめだと云ふだが、惡く云ふとクダラヌ事を長たらしくと申すより外はない、併しトウ/\讀ませられてしまつた所を見ると、矢張何所かに面白い所があるのだ、ソコはさすがに久良伎先生じやと云ふ所かナ。
一回驅足で讀み通つた中に、一寸癪にさはつた事があるからヒヨツクラ罷り出た次第じやがナ、福本日南先生一名利鎌舍サンの歌キエンもよいが、新しい古調で、之が面白い、あの萬葉古調一點張で甘んじてゐるのは度し難いさ、とかなんとか云ふてゐるが、あれは本氣でいふてゐるのか知ら、ソレで御自分は其新しい古調家を以て居る樣じやが、世の中には隨分と面白い事をいふ先生もあるもんじやナ、さすがは學者サンじやと申度いが、吾輩供無學者先生には一向ハヤ御分り申しマヘンやで、近世の人はなか/\物云ふことが非常に上手じやて、能く人の云はぬ珍しいことを云ひなはるよ、ナニカネ新しい古調ちふのは、洋語かなんか詠み入れた古調の歌をでも指して云ふ譯であるのかナ、おついでにコヽ一寸御説明が願度いテ、久良伎先生の御懇親な方らしいが、ドウか一つ無學者供にも相分る樣御教示が御願で御坐り升、ソレから萬葉一點張で甘んじてと、云ひなはるが今の世の中に萬葉調を得て遺憾ないと申す樣な大歌人が有るのでせうか、有ると思召なら一つ其御人の名を教て貰へますまいか、吾輩供は萬葉調を吾物にするといふは、容易な事ではないと思つて居るんですが、兎に角新しい古調ちふ(162)のと萬葉古調ちふのと、ドンナ相違があるのでせうか、一つ説明の仕分を是非願たい、
併し利鎌舍ハンに支那の御話でも聞くなら、當前だが何と申しても歌の方では素人ですから(オツト御本人先生はなか/\素人の御積りではないかも知れぬ失敬な言條だナ)キエンと申しても御常談半分の慰みとも聞きますかナ、久良伎先生に至つては製作は兎に角評論の點では、アツパレ苦勞人を以て任ぜらるゝ方であるから、おついでにモウ一つ伺つて置度事があります。
先生には近頃大分に、明星派の歌のために辨ぜられますが、御承知の如く、明星派の先生達は、吾々の歌は萬葉集古今集などの系統以外の物で即明星派が發明した、歌ジヤと申して居る樣ですが、先生に伺ひ申度のはこゝですテ、吾輩供が見ますと、明星の歌も矢張三十一文字形で、内容と云ふと戀が七分の樣です、して見ると形は昔の通り、内容も神代からの戀であるのに、何處が先生達の發明された所でありませうか、萬葉古今の系統以外と申すのはドコへらを云ふのでせうか、其歌の意味の分らぬ、滅茶苦茶な所が、即大發明の所でありませうか、譬へて申すと茲に新發明の車があります、此車は輪の形も昔の通り、仕掛ケも昔の通りであるが、挽てみるとギチ/\云つて更に輪が廻りませんが、發明者は大威張で其よく廻らぬ所が發明ぢやと申して居ります、明星派の發明とやらも、コンナ理窟に考へて居ればよいのでありませうか、ドウか茲一番先生に御教示を願度い、明星派の先生達には縁がありましネイから、ゴヒイキにさつしやる久良伎先生に是非御説明を願升。
先生も福本ハンの樣に萬葉調許りでいけぬと申さつしやるが、今日の歌人達は萬葉調の五分を吾物にして居る者がありませうか、半分も其趣味を得ることの出來ない連中に、萬葉調許りではいけぬと云ふた所で、仕方がない譯じやありますまいか、冬着の用意すら滿足にできないで、ぶる/\もので居る輩に、冬着許用意したつていけ(163)ない、夏物も二枚や三枚は是非用意せねばならぬと申たらドウです、御尤もの樣で甚だ不尤ではありますまいか、萬葉集の歌の意義すら、能くは解せぬ小僧供が、いきなり萬葉調一點張りでいかぬなどゝハイカラを切らすのとは事かはり、先生の議論には必ず別に見る所があつて申さるゝにちがひないと信じますが、今日の歌人で能く萬葉調を得て居ると云ふ歌は、ドンナ歌で何人の歌でありませうか。又先生の所謂萬葉調と申すのは、ドウ云ふ意味でありますか、是れも是非序に伺度のです、
御迷惑か知らぬが、最後にモー一つ伺ひ度事があるんです、先生は余程ケツメドの大きい人と見へるが、あんまり穴目度が廣過ぎはせまいか、蔭ながら實は一方ならぬ心配致します、泥ダラケな手で錦が織れませうか、欺僞盗賊が宗教家になる資格がありませうか、不義薄情汚劣なる品性の人間が、文學家の資格がありませうか、製作物は結果ですから、其結果がよろしければ其製作だけに就ては敢て作者の人品を問ふの必要は固よりないのです、乍併實際に於て汚劣なる人間にも品位ある製作の出來ると云ふことが、數々あり得ることでせうか、文學製作は桶のタガ懸や、破鍋のイカケとは、少なからず違ふ樣に思ひますがコヽを一つトツクリ分る樣に御教示を願度です。
先生の詞によると鐵幹が惡い人間だからとて、其歌まで捨てるなと云ふ樣に聞えますから、先生も鐵幹ちふ奴は惡い人間と認定されて居るに相違ないですが、明治の文壇は明かに汚惡な人間と知れて居る人に製作を要求せねばならぬほど、人間に乏しいのでせうか、よしんば五ツや六ツ採るべき製作があつたにしろ、多くの世人が一般に善くない人間としてある人の製作を、何の必要があつて、文壇の問題にするのでせうか、それがドウも吾輩には分らぬのです、そりやお前のケツメドが狹いちふものだとのお叱りがあるだろふが、吾輩には其先生のケツメ(164)ドの大きさは分らむのです、それで先生のケツメドの廣い所で、其鐵幹ちふ男の歌の中に先生のお氣に入つたと云ふやつを、十首許見せて貰ひ度のです、作者はよし汚穢な奴でも、是程の製作は捨てられぬと云ふ程の、作物を是非一つ見せて願ひ度のです、猶伺度山々有るけれども、頭を病んでお出なさるちふに、余りヒチツコク伺つては相濟ん譯ですから今日は是で置ます
明治35年5月『心の花』
署名 金槌
(165) 虚心平氣
久良伎のあそが屁奈土歌を金槌でやつたのは少々酷であつたかも知れむがナ、實の所先生などは當の敵ではないが、柄に似合はぬ出過ぎたこと云はつしやるから、ツイからかうて見たのサ、向の出樣でモウかまふつもりでもなかつたが、イヤに負惜みを云ふから一寸又木公を御見舞する譯だがナ、
偖久良伎先生世間に演説つかひと云ふのが有のを御存じでせう、あれは意見と云ふものゝない演舌で、一寸其場の聽者を笑はせるのが目的だ 隨分と下品なものですが、それと稍同じひのが文章家にあるのだて、いや今の文章家が多くそれだから困るのだ、意見のない文章正味の極少ない文字澤山の文章を作る奴を僕などは文章屋と申すのだがナア、いや先生を文章屋だと申す譯じやないが先生の口先のうまい一寸云ひ逃げの上手なのには感服しましたよ、おつと是は惡口申しては相濟まんことで、今の青年者流の文章、雜誌記者の文章、皆それ/”\うまいものだ、それも文章としてうまい許で議論として意見として見られるものが少ないのは嘆息の至りじやありませんか、こするな/\アテコスリはよせなどゝお小言がでるかも知れむが、金槌を万葉一点張と罵つた上で直ぐ純客觀許で成立つてゐると云はるゝのが分りませんなア、純客觀の歌が万葉中に何首ありませうか、万葉集は殆ど主觀の歌斗であると云ふことは御存じないのですか、殆ど主觀歌斗の万葉好な金槌に主觀の歌は説明しても分るまいとはそれや又どういふ譯です。
(166)善良なる君子と云ふことは難いかも知れぬが惡人ではあるまいと、惡人と君子と云ふのは格別違つたものでなく惡人でなけれはまづ君子じやと云ふのですかい、人間には多少の欠點はあるもの、ハヽアそれじや鐵幹は多少欠點のある君子じやと云はつしやるのですな、隨分と亂暴なる云ひ樣魂消ましたぜ、それ程迄辯護さつしやるには何か鐵幹先生と利鎌舍先生を通じて渡りがついたのですか、おこり給ふな明星夜叉五郎の狂言をさつしやつた頃とはメツキリ違つてきましたぜー。鐵幹の歌は好まない一人と云ふからは、歌の事は余り申すまいが、折骨でやつと拔かれた二首の歌、あれを兎も角も歌であると、いやまづ好い歌と思つて御出ですか、情ないことですなア、少しく御勘考が願度、當の敵でもない先生にソウ酷には申すまい、惡るいことは申さぬ歌に關する評論などは今暫く御扣を願いたい、彼二首のヌタが文章の一節と何等の分つ所がないなどゝ申して見た所で今の所ぢやそれもムダでせうから、只少々御勘考を願つて置く譯です多罪々々
明治35年7月『心の花』
署名 木公
(167) 樂々漫草 上
同人諸君が相率ゐて短歌の上に最も顯著なる進歩を遂げたるは、思ふに明治三十三年にあり、殊に同年後半期間の盛なりし光景は、今日に追想するも肉躍るの感なくんばあらず。
滿干常なきは濁潮流のみ然るにあらず、一張一弛は何事にも免れえぬ理數の存すればにや、翌三十四年に入りては諸國人又相共に振はず、頗る意気銷沈の状あり、然れども根岸なる恩師は此間に於いて短歌連作の上に無前の光彩を放ちつゝ、毫も他を指導激勵するの任を怠らず、されば短歌の氣連は容易に恢復の色なしと雖も、日本週報上に於ける同人の長歌は又頗る見るべきものあり、遂に三十四年は全く長歌研究時代の如き觀あらしめ、殊に長塚蕨の兩君が此間に面目を一新せられたるは大に他の注意を引けり。
かくて三十四年に於ける吾人は、短歌の上に殆ど何等得る所なく徒に本年に入れるが如き觀ありしが、仔細に其暗潮を檢察する時は又必しも然らざるものあり、例の精酷なる恩師は猶時々連作をものして、以て吾人が向ふべき針路を指示し、熱罵痛撃頻りに奮昂を催すあり、同人兩三相會する又必ず短歌不振を云ひて相激勵す、状勢既に如斯氷雪豈に久しく融解せざるを得んや、三十五年の初頭予も又聊か連作の上に拙論を試みしが、同人の意潮漸く春風と共に流勢を恢復し來れるを見る。同人今春の製作往々人を驚すものあるに至れば、思ふに三十四年中の潜勢力茲に發展し來れるものなくんばあらず。予は聊か僭越の感なきにあらずと雖も、今茲に本年前年期に於(168)ける同人の製作中予が驚嘆せる二三を擧て短評を試む。
梅(三月一日發行新佛教) 茂春
木のもとに日毎たてども梅の花未だ咲かねばさびつゝぞ居る。
ま日くれて梅の園生に月させど放ちし鶴は未だ歸らず。
久方の月ふけ渡るさ夜ふけの寒けき夜らを梅にほひくも。
眞玉なすふくめる梅を緒にぬきてうるはし妹にかつらがすかも。
梅の花咲ける園生を夜毎とへど羅浮の女神に未だ逢はざりき。
眞金枝に玉まけるなす梅に來てうくひすのとも羽振鳴くかも。
池の上に片枝さしたる梅か枝に遊ふ小鳥し花ふみ落す。
山そばのあかるきまでにいちしろく梅咲けるみゆ馬たきゆかむ。
誠に一家の風調を爲せり、之を梅花詩中の逸品と稱するも決して誇言にあらざるべし。
四月の末には京に上らむと思ひ設けしことのかなはすなりたれば心もだえてよめる歌(五月十八日『日本』所載) 節
青傘を八つさし開く棕櫚の木の花さく春になりにたらずや。
たらの芽のおどろに春のたけゆけば今さら/\に都しおもほゆ。
荒小田をかへての枝に赤芽ふき春たけぬれど一人こもり居。
みやこべをこひて思へは自樫の落葉かきつゝありがてなくに。
(169) おもふこと更にもならす枇杷の木の落葉の春に逢はくさぶしも。
春畑の桑に霜ふりさ芽立のまたきはたゝすためろふ吾は。
草枕旅にもゆかす木犀の芽立つ春日は空しけまくも。
にこ毛立つさし穗の麥の招くがね心にもへど行きがてぬかも。
思ふこと楢の左枝の垂花のかゆれかくゆれ心はやまず。
奇想縱横聲調温雅、何等の妙趣何等の風韻。而して又吾人の理想にかなへるの連作、從來同人の製作中絶て其比を見ざるの逸品なり、是予一個の私見にあらず、根岸庵の席上已に定論ありし所に屬す、單に明治三十五年間の優作にあらずして實に明治聖代の金玉たるやも知るべからず。如斯の佳作あるは獨長塚氏の名譽のみにあらずして直に根岸會の名譽ならずんばあらず、然れども長塚氏の他製作に就ては未だ悉く賛辞を呈する能はざるものあり、本誌載する所の一本柳の歌の如き殆ど同一作家の什と見るべからざるが如き感あり、長塚君たるもの請ふ少く注意する所あれ。
次に本誌五卷第六號所載安江秋水氏の什中殊に攝津鳴尾の浦の孤松を詠める八首の歌は、又予が敬服措かざる所なりとす、(前號所載なれば歌略す)
連作の上に成功したるのみならず、又實に秋水氏の風調なり、清高優逸、秋山霜月に鶴唳を聞くの趣きあり、共に百代に傳ふるの珍なるべし、平生一歩の先を以て自ら負へる吾人等豈に相顧て赦然たらざるを得んや。
欄外に於ける同趣味者の中、蕨直次郎君奥島金次郎君山下愛花君久野廣成君の如き、相追ふて進歩を競ふの状あるは斯道の爲め、吾人の深く悦ぶ所なり、
(170)昔は項羽沛公に約すらく、先づ漢中に入れる者は即王たらむと、予又近頃竊に所謂らく、先づ連作の上に優勢の旗幟を立つる者即歌壇に王たるべしと、嗚呼同人諸君何人か能く將來の歌壇に王冠をいたゞく者ぞ。
明治35年7月『心の花』
署名 左千夫生
(171) 〔『心の花』短歌會記事 二〕
鮎の歌會のびのびになつて到頭一月のびて、六月十四日雨のふりさふな午後より上野の例のたゞさへ鬱暗い矛杉の中で催した、會するもの僅に左千夫、葯房、蕨眞、秀眞と予の五人、予歌を作らず刑の執行をうけて筆記をつとむ、茂春、席に出ずして歌を寄す、しかも賞にあづからず、呵々、
玉川ノ、夕潮ヲ早ミ、月影ノ、ヨドメル淀ニ鮎サカノボル。 葯房
蕨眞、秀眞 淀める淀はどうもをかしい、おちつかないやうな感じがする、元來よどといふのは瀬ヲ早ミなんていふ所でなく水が靜かに沈んで居る處の樣に思う。
葯房 僕は決してさうは思はない、
この歌三点にして撰者皆これをとりしなり。
夏山ノ、青垣山ノ、カゲヒタス、細谷川ニ、朝鮎ツル子等。 秀眞
左千夫 青垣山は大にすぎて居る そしてすこしく遠い所にある感じがする、細谷川といへるのとも調和しない。
蕨眞 私はすこしもさう感じませむ、左千夫 で僕は二の句を瑞枝青葉のとし細谷川を夕谷川としたらよいと思う。義郎 夕谷川とは固有名詞ですか。左千夫 何にさうぢやないのざ。義郎 それでは朝鮎はつれまいて、左千夫 アヽさうか/\一同咲笑。葯房 結句に難がある。蕨眞 兎角この歌は机の上での想像の歌ですな。改行
(172) 鵜司ハ、鵜ヲトリスヱテ、鮎走ル、早瀬ノ波ニ、船出セスカモ。 茂春
左千夫、葯房 船出せすかもとはいかにも仰山で、殊に意も似つかはしくない、大君の鵜飼か何かのやうだ、この歌二點にして秀眞君は天にとれり。
水清キ、山里庵ノ、アサアケニ、ネザメテオレバ、鮎ヲウル聲。 秀眞
左千夫 鮎子とすればよからう。葯房 結句難、この歌二点にして蕨眞君天にとる、
白珠ノ、長玉フタツ、ヨロシナヘ、ヲハコニナメシ、鮎ノウマ鮓。 左千夫
葯房 珠といふのはどうしてもマンマルイ感じがあるので僕はどうかと思う。秀眞 併し非常に奇麗な感じがする、葯房 それは白珠にごまかされてるのだ、左千夫 珠といふことを形に見るから丸いといふ感じがするので質で見れは何も差支のない話で、普通の語の玉《ギヨク》といふ語に見てもらはねばならぬ。
この歌二点
八尋網、タグリ引ク手ニ、鮎ノ如、薄月夜目ニ、マグハシ見ユモ。 茂春
葯房 境は得て居ると思うがこのまゝでは明瞭を欠いでる。失名 鮎の如難。左千夫 こゝで網は主でない客であるものに仰山な形容を用ゐるのは神への供物などにはよいがかふいふ處で八尋網は先の船出せすかもと同一轍であらうと思ふ。
この歌二点
綾花ノ、夕波タチヌ、鮎ムラノ、上ツ瀬サシテ、寄セユクラシモ。 葯房
左千夫 鮎の寄せて來るといふのは瞬間の光景である、夕波といふのは?
(173)この歌二點
葯房子の天に選びし歌は
鵜使ガ、舟ユオリ立チ、鮎トルト、サヾレヲ蹈ミテ、鵜ツカフ淺キ瀬。 秀眞
最高点は茂春氏次は秀眞氏。
次會課題は『潮』にして會場は神田美土代町二の一大日本歌學會。日は七月二十日(第三日曜)何人にても吾等と志を同じうする青年士女の來會は一同に於て大に喜ぶ所。座蒲團もなければ茶もない内と御承知で午後二時より。
明治35年7月『心の花』
署名 義郎記
(174) 〔『心の花』短歌會記事 三〕
七月二十日雨の日潮の歌の會を開く、左千夫、葯房、蕨眞、秋水、と予の五人が寄り合つたので、作者は尾張の曉雨を加へて六人
左千夫君の作は男女の相唱和するに擬して作つてあつて潮をかりて戀愛をうたつたものである。
先波ユ次波マサリ滿ツ潮ノイヤマス如ク思ヒタギツモ(唱)
滿ツ潮ニ光リタヾヨフ月影ノ千々ノオモヒモ君ガ故コソ(和) 左千夫
葯房、先き波ゆ次波まさりは如何にも平和な調であつて思ひ激つといふ樣な烈しい感じはのらない、和の方で見ると何だか思ひが動いてるやうで、情熱のあるものらしく思はれない。蕨眞、唱よりは落ちると思う、千々の思ひは餘りに陳腐である。葯房、滿つ潮には無理に滿つ潮でなくてもよいのでこれも一つの欠點である。義郎、僕はそれは欠點でないと思う、潮の満ちて來るといふ事が非常に感じのいゝ事で、よせて來る潮に月影が碎けてる、それをかりて直ちに自身の感情を現はしたのは些の無理もないと思う、併し餘りに萬葉摸倣であるといふ點は作者に於ても異論はあるまい。
黄金雲|一角《ひとすみ》クヅレ海津日ノカクルヽカタニ潮引クラシモ 葯房
左千夫、潮引くらしもは面白くない、一二三の句までは至つて細かに叙して來て居る、然るに五の句に至つて潮(175)引くらしもと大きなぼんやりしたものを以て來ては、折角の細叙が何の役にも立たなくなる、これはむしろ白帆のかくれて行くのにした方が適切であると思う。蕨眞、印象が至つて不明瞭である、秋水、潮の滿ちて來る方が上來の句に對しては隱當である。義郎、僕は初めから何だか一二三の句が落ちつかないやうに思はれたがそれは全く左千夫君のいふ如く四五の句と對して均衡がとれて居ないからである。僕は題の潮を主として考へたものだから、初めがおちつかぬとばかり思つて居たがこの歌では初めの三句が苦心の所なのであらう。葯房、結句のおちつかぬといふ事には何とも答辯が出來ない。
干潟原潮滿チ渡リ照ル月モ山ノ端イデツ時ハ經ヌラシ(唱)
今シガタト思ヘルモノヲ干潟原潮滿チニケリ時ハ經ヌラシ(和)
義郎、これが一番初めにいつた方が都合がよさそうであるがさうでもないかしら、干潟原はをかしい干潟といつたので充分あらはれて居る何も原といふ語を加へるにはたらない。和の方にはかたといふ同音異義で二つの語が出て居るのも拙ではあるまいか。葯房、干潟原はをかしい。左千夫、其説は入れる事が出來ない。葯房、和の方の一二の句がわからない。左千夫、今しがたといふのは僕等の郷里の俗語で今すこし前といふ位のことである。義郎、僕の國などでも今しがたといふ語はありますよ。葯房、それは譯りましたが何を今しがたと思へるのかゞわからない。左千夫、それは來たといふ語を一の句と二の句との間に入れて考へなければ譯らない、來たとの語を省略してあるのだ。義郎、來たと、いふ詞はこの一首の上で非常に大事な語であつて省く譯にはすこし行きにくゝはないかしらん、葯房、省いて注釋がいるやうでは困つたものだ。左千夫、すこし無理かもしれん。
青海原霞タナ引キハロ/”\ニ潮路ノ末ノ白ミテアリ見ユ 葯房
(176)義郎、はろ/”\にの句は霞にかゝるのですか白みにかゝるのですか、はろ/”\に霞んでる處がはろ/”\白んで見えるのですか、それぢやをかしい。白みてある處は、霞の中ですか、霞以外ですか、霞の中、ます/\以て狐につまゝれる樣だ。白みたる見ゆとしては句が平凡になるのですか。葯房、何にさうぢやない、調子がだれるのだ。左千夫、それはそれでいゝさ、併し霞といふのと、白みてあり見ゆとは矛盾して居ると思う。蕨眞、どうもそこら邊がをかしいやうですな。
滿ツ潮ノ山濤ニツカルトタヅサハリ足フミナメテクモトホリスモ(唱)
思フドチ相タヅサハリ潮フムト潮ノネタミニ裳裾ヌラシツ(和) 左千夫
葯房、和の方のは今すこし力瘤をいれてさも潮がねたむらしく、上の方を現はしてほしい、思ふどちでは友達のやうで輕い、二人が抱き合ふてキツスでもしてる處位にしないと潮のねたみが、引き立たない。義郎、唱の方は思想の配列上、僕は意見がある、つかるといふのはいふまでもなく方言であらう、これも僕等の伊豫にもある、併しこゝで何もこの俗語に依つて直打の上ることもないから、むしろ普通の語でいつてはどうかしら、それはさて置き配列の事であるが、三四一二五とした方がよくはないかと思う、尤も二の句は直さなければならぬ。葯房、同意。左千夫、さうかもしれんな。
黒潮ノ濤ニ鰭ウチミナミユモ鯨魚《いさな》ノトモハ潮フキノボル 葯房
左千夫、敬服する事が出來ない(左千夫君この時低頭して何もいはぬといふ)、蕨眞、わからない。義郎、解らない事はないでせう。葯房、黒潮は黒潮川ですよ、義郎、解かりすぎる程解かつて居るが何處が作者の趣向であらうか、僕は平凡な至つて幼稚な歌であると思う、結句は尤もよくしまつて居ると思うが。葯房、僕はこの歌些得意(177)なのだが
沖ツ風吹キノマニ/\潮サヰノ浪ノ玉琴鳴リヒヾクカモ 秋水
葯房、玉琴なとゞ來たらもういやになつちまう、左千夫、鳴り響くと琴とはをかしいなア。葯房、無論駄目だ。
朝日負フ大鼇ニ騎リ八潮路ノ潮ノ八百路ニカケメグラバヤ 葯房
秋水、初句がをかしい。かけめぐるのかけといふ語は鳥かなにかの飛ぶやうにきこえる。左千夫、何にかこれには故事があるのですか。葯房、支那の神話に旭は黄金の鼇が負ふて出るのだといふことがあるのです。義郎、これは如何にも幼稚な作で誰しも思ひつくことではあるまいかと思う、八百路にといつたのには何か仔細があるのですか、普通ならをの方がよくきゝはしませぬか、にはどうも調子からいつてもをかしい。
〔略〕
ヤシマネノイヤ遠廣キ矢刺浦夕雲ナビキ潮サヰドヨム 蕨眞
葯房、支離滅裂。左千夫、すこしも纏まつてゐない。義郎、潮さゐどよむは「波たちさわぐ」といきさうな所だ。それにしても夕雲廣きは突然だ。
松原ノ奥ニ潮汲ミワカス湯ノ八尋ノ湯殿ワガ湯アミセシ 秋水
左千夫、たゞそれだけでないか、境は得て居るのであるがその目の付け所がわるい、何故進んで湯浴みをした其時其中の光景をいはないのであらう。
〔略〕
月ヨミノミ神アモラス沖合ユ許袁呂許袁呂ニミチ來ル潮ノ音 曉雨
(178)葯房、一二三冗長に過ぎる感がある。左千夫、月讀のあもらすもどうであらう。葯房、照つてるなら照てると直叙した方がいゝと思ふ。左千夫、中心點がない。
夕潮ノミチカナヒナバ吾脊子ヲ沖ニヤルベシ潮ミツナユメ 義郎
左千夫、結句がどうかしら。蕨眞、私はいゝやうに思ひます。
木枯ノアカトキ磯ニイデ見レバ北斗ヲヒタスウシホ波カモ 曉南
葯房、影がうつつてる所をひたすといつたのであらうがそれは無理だと思う。義郎、ひたすといふのは波が大きく大きく立つて北斗を浸すといふやうなことであらうと思ふ、かの「木枯の果はありけり海の音」より思ひついたことであらう。葯房、このひたすといふのは漢字の涵の字と思う。左千夫、うしほ波は窮して居る。
殿曇ル鳴門荒海ヒク潮ノシホノオト高ク舟マキクダス 義郎
葯房、目で見る景色と耳で聞く事とが混同してはゐまいか。左千夫、遠近の難もある。葯房、四の句がわるいので境は充分得てると思はれる。
これにて論評終り次回課題を議したが別段課題を設けないで十首以上持ちよる事となつたが、猶それもどうかといふので
墓參
こほろぎ
の二題を出して無理にこの題でなくてはならぬといふ事ではないといふ事にきまつた。合場は神田森田宅日は八月十日(第二日曜)午後二時よりである。眞正研究を思ふの士の寄稿若くは來會せらむことを望む。
(179) 明治35年8月『心の花』
署名 義郎記
(180) 樂々漫草 下
森田義郎君が本誌の第五卷第五號でやつた、小出老人の歌集くちなしの花後編の批評を見て、予は森田君の趣味標準に少からぬ疑を抱いた、其評中で森田君の稱揚せられた歌どもは、予は一も取ることが出來ぬ、歌としての價値をすら疑ふべきものどもを頻に森田君が譽めてゐる、同志中の森田君と予との考が是程相違して居るとは、少しく意外に感ぜられたのである。
それで又前々號五の七所載森田君の短歌會記事餘言と云ふのを見て、益疑ひを深くした、森田君が予等數人と大に見る所を異にして居ると云はれたのは無理でない、予等が早く既に其趣味の相違を認めて居る位だもの、小出老人の歌を稱するの眼を以てせば、予等の歌が好く見えぬが自然の理であらう。
此事に就ては森田君と會談の際意を盡して居るから、敢て之を公論する必要はなき樣であるが、併し予等が是に就て一言も云はず、森田君も其所説を取消さず、ある時は、讀者の誤解を招くの恐れあるのである、で若し森田君の所説を是認するならば、予等が信ずる所の根岸流の主張と云ふものが何所にあるか分らなくなるので、予は森田君に氣の毒な樣だが少しく辨じて置かねばならぬ。兩者の相違點を詳論するとなると非常に長くなると思ふて、予は森田君が、くちなしの花で大に譽めた一首を拔き、短歌會記事餘言で大に難じた一首を拔き此反對なる二首の歌に就て予が考を述べ他は畧する事としやう、
(181) はねつるべ枝にかけたる井の上の老木の柳わかみどりせり
此歌を森田君は、「誠に大家の作なり」と稱してある、大家か小家かそんな事はどうでもよい、予は此歌を月並の骨頂であると思ふ、調子と云つたら例の下品で、句法又少しも整ふて居ない、
先づ此歌の内容からいふて見やう、井戸端に老木の柳がある、其井戸にははねつるべが仕掛けてある、其はねつるべは柳の枝に仕かけてある それで其柳が若緑したと云ふ氣色、第一井戸端柳と云ふことが如何に平凡で如何に陳腐であらう、それがよし老木であつたにしろ、陳腐と平凡とを脱しえらるゝものでない、作者ははねつるべが柳の枝にかゝつてある所を悦んだのであらうが、そこが即月並思想の標本であるのじや、はねつるべが柳の枝にかゝつて居やうが、立木にかゝつてゐやうが美の感じに何程の相違があらうか、柳の枝などに仕掛けた樣な、へねくつた不自然なものよりか、却て立木に仕掛けてあるはねつるべの方が余程感じがよくはあるまいか、此如つまらぬ所でへねくつて常に替つてゐる所を悦ぶのが即月並思想であるのだ。
第二句法はどうである、「枝にかけたる井の上の」とある此枝は何の枝であるか、作者は柳の枝としてゐるのだらうが、かういふ叙し方では、ナゾ的に判方せねば柳の枝と見る譯にゆかぬ、柳と云ふてから枝と云へば順であるに、枝と先に云ふて跡から柳と云ふのは極めて無理な云ひ樣である、はねつるべと井戸との間に一句はさまつてゐる、柳と枝との間に又一句はさまつてゐる、こんな無理な不自然な云ひ方で決して氣色の感じが浮ぶものではない、又「枝にかけたる井の」と云ふと何にか井戸が何かの木の上にかゝつてゐると云ふ樣にも見える、老木と若緑とを掛合たるなどは、古今集以來の弊習嘔吐を催すの外はない、
徹頭徹尾小細工にこせついたる調子品の上らざるは云ふまでもない、要するに申分のない駄作と云はねばならぬ。
(182) 水清き山里いほの朝あけにねさめて居れば鮎を實る聲
森田君は、これはどこがよいのであらうか香取君の作と聞けばいよ/\驚かざるを得ないとまで難じてゐるが。予は決してさうは思はぬ、どこがそんなに惡いのであらうかと云ひたい、
今日世間の歌は勿論、同人間の歌に比して此位の作はまづ好いと云つてよいと思ふ、成程結句にタルミあることは予も始めより認めて居る さればこそ「鮎を賣る」を鮎子うると修正したのである、是がためにタルミを脱しえたとは云へないが、一句の中間に「を」の字あるは多くの場合にタルミを生ずるので予は之を修正したのだ、森田君が始め結句がタルミ云々と云ひながら、鮎をを鮎子と直した主意を解せぬとは情ない、そんな些末は暫く置て予が此の歌を惡くないと云ふのはかうである。
例に依て此歌の内容はと云はゞ、詞にあらはれて居る通りであるが、まづ旅情を連想しえらるゝのは尤も嬉しい、如此情趣は予は一回の經驗があるので尤も好い感じがする。
山坂を越えてきた旅人は頗る疲弊を覺え、物寂しき山間の殆ど素人的の旅舍に、朝あけの外の方は最早明るきにも係らず、まだ起きもせである旅人、谷川の水の音などこそすれ、四邊の物靜に山々の青葉のすが/\しき、すべて旅情にあらざるなしと云ふ此場合に更に香魚はよいか/\と賣りくる聲、如何で快感の起らざるべき、句法何の巧みもなく、又少しの無理もなくさら/\と云ひ下したのに、却て清き感じを覺ゆるのである、調子には別によいと云ふ所はないが、此情趣をあらはすに不足があるわけでもない、
之を要するに此歌に尤も取る所は連想にあるのである、俳句は連想を主とすると云つてもよい位であるが、歌には殆ど連想のあるのがない、是歌の大缺點かと思ふが、此歌には其大缺點を脱してゐる、此點から見ると、此歌(183)は近頃の逸作と云ふてよい、それから「鮎を賣る聲」と留めたに就て難ずる人もあるかも知らぬが、それは萬葉などにも例のあることで、其聲がいかにもあはれであると云ふやうな意味が省かれてあるのである、予が當時一寸、こんなかはつた調子と云ふたも即それであるのじや、
森田君が前者即小出老人の歌を大に賛して後の香取君の歌を大に難じたに就て予と根本的に反對して居る、森田君が獨進歩してゐるか、予の退歩してゐるのであるか、そは讀者の判斷に待つの外はないが、是程相違して居ては研究上黙過する譯にゆかぬ、森田君に再考を乞はねばならぬ、
其他多くの場合で森田君と一致せぬのであるが一々云ふに堪ないので此位にして置く。
尋でに佐々木君の
雨窓閑話に
就て少し言ひたい事がある、平生絶て評論などしたことのない佐々木君が、公々然として吾々に反對を宣明せられたのは、余輩の尤も快とする所である、佐々木君の歌に就ては、心の華所載同君の選評及び自詠の歌に於ては、余輩の是認し得ざる點が極めて多い、無論根本的の相違で、時に評論を試み樣かと思ふことないではないが、如何にも温柔なる同君の人となりを思ふと、其作物に冷酷なる批評を加ふるに忍びぬのである、然るに今回は却て同君より反駁的論鋒を向けられたので、予輩は寧ろ愉快に堪へぬ、此からは御互に愼重の體度を取て時々評論を試みたい、同君に於ても定めて快諾せらるゝであらうと思ふ、 竹の里人君に對しての詞に就ては同君より何とか御答あるかも知れぬが、竹の里人君が一言で古今集を非認したと佐々木君は云はるゝが、竹の里人君が古今集に對する研究的意見は數度公表せられてある、佐々木君は見たこ(184)とがないかも知れぬが、平生研究してあればこそ一言で非認するやうな詞も出る譯だ、
で佐々木君が是に反對し樣と云ふならば、佐々木君はどう云ふ所を萬葉の長所として居るか、短所としてゐるか、古今集のどういふ所を長所として取るか、短所として取らぬかを仔細に説明しなければ、議論にも何にもならぬ、萬葉にも長所あり短所あり、古今集にも長所あり短所ありと許りでは誠につまらぬ話である、何物にも短所長所あるは極りきつた事であるまいか、吾々は見ずと古今集を嫌ふわけではない、研究せずに排斥するのではない、取るも取らぬも研究の結果よりきたのである、歌學者としての歴史的研究は勿論予も非難はせぬ、併し詩人として作家としての體度は、研究の結果つまらぬものはどし/\排斥して顧みぬのが當り前ではあるまいか、
孔子にも長所あり短所あり釋迦にも長所あり短所ありなどと云ふてゐたら、主張といふものも確信といふものも立ないわけになりはせまいか、現今の歌を梅雨時代といふ佐々木君の詞はそれは、君自らの身邊を云ふのであるまいか、主張あり確信ある人の頭上には雲霧など決してない、佐々木君が吾根岸派を彼迷信派の桂園流と同樣に見らるゝなどは、失敬ながら梅雨的雲霧の作用によるのじやあるまいか、
連作の歌に就ても佐々木君は只予の説を取るに足らぬとか僻論であるとか云ふてゐるが、其取るに足らぬと云ふ理由、僻論であるといふ理由を少しも説明せぬは不都合であらう、若しさういふ事を許すとせば、予は即云はん佐々木君の談話は陳腐淺薄見るに堪ぬと、併し予は如斯筆法を以て他を罵倒するは、尤も厭ふべきことゝ思ふ、其陳腐なる所以淺薄なる所以も説明せずに、直に陳腐淺薄と云ふは即之を惡口といはねはならぬと思ふ、
予は佐々木君に改めて予が説の取るに足らざる所以及僻論であると云ふ理由を説明せられむことを要求する、佐々木君は言責上必ず予に答へねばなるまい、
(185)雨中松一躰をのみ連作だと予は云ふたことはない、予は連作の條件六點を擧げて、猶種々の躰が出來るであらうと云ふてある、殊に連作の歌としては雨中の松は完成したものでないと云ふてある、予が連作論を今一回讀んで貰ひたい、
前號所載長塚の歌の如きは、直に萬葉の神髓を得て居ると云ふより、萬葉中の或一部を除かば、即萬葉以上と云ふて少しも差支ない、此歌を讀んで新しい感じがせぬとはどういふ譯であらうか、こゝらが即吾々と佐々木君等と、趣味の根本に相違ある所以であらう、佐々木君の所謂萬葉の神髓と云ふことも承はりたい。
其他猶云ひ度き事多々なれどそれは佐々木君より答論があつてからにしやう、(八月十六日夜) 明治35年9月『心の花』
署名 左千夫
(186) 〔『心の花』短歌會記事 四〕
總選擧といふさわがしい日に例會を開いた、集まりし者は左千夫、秀眞、蕨眞、秋水、と予との五人、作者は尾張の曉雨、上總の蕨直治郎の二人を加ふ、 〔略〕
軒ノ端ヨ網スサヽガニ八十蚊ラヲ魚取リニ取ラムト網スサヽガニ 蕨眞
左千夫 八十蚊といふ仰山な語が如何にも不適當のやうに思はれる、秀眞、取らむとは回り遠い、取るとゝしてはいけぬかしら、左千夫、なんにしろこれでは駄目でないか
椎ノ木ノシゲミ小暗キ北庭ニ昨日モ今日モ蚊バシラノ立ツ 秀眞左千夫 椎の木の北庭と出て來ると何でも薄寒い感じで配合其物の趣味が夏の感じに乏しい、蕨眞、かういふ所には蚊柱が立つといふほどはをりません、秋水、藪蚊の大きな蜻蛉《とんぼ》見たやうなのが三匹位ゐ居る、義郎、昨日も今日もといふと除程繼續的のものゝやうで、常に動揺して居る蚊柱と思へない(抹殺々々と叫ぶものあり)
三墓ベニ植ヱタル椿タマツバキ花ハ咲キツヽ散リニケラズヤ 秋水
某の墓に参りし時椿の花さかりなりければといふ題がある、秀眞、四五の句花はさくべくなりたらずやとしてはどうであらう、自分の植ゑた椿の樹が花咲くやうになつたわいと感慨するならばよいかと思う、左千夫、散りに(187)けらずやとは無論感慨の意をもらして居るのであるがこの語がすこしも働いて居ない、即ち歎の因つて來る處がわからぬ
白玉ノ湯津花椿オチチリテユフカゲサビシオクツキドコロ 秋水左千夫 湯津は例のよくない、義郎、墓参といふ題はどこの邊にかいつてしまつた
〔略〕
隣屋ニユフ日カギロヒ吾ガ庭ノ※[木+宣]ノ木ヌレヲサワグ蚊柱 左千夫
義郎 隣屋といふのがいかにも妙に耳ざわりになる、左千夫、それは吾輩もさう思うのであるけれども實景を詠んだのでどうも直しやうがないのだ、蕨眞、さわぐといふのが面白くない
兒供等ガ水ウツナベニ植込ノ木ヌレヲタカミ移ル蚊柱 左千夫
秀虞 兒供等がと持つて來ずにボンヤリと時間をさしてはどうであらう、夕庭にとしてはどうかしら、左千夫、それは僕も氣がつかなかつたがなる程その方がよい、義郎、秀逸かね
植込ノ上ノ蚊柱見ツヽ我ガ居リ。眉引ノ新月影ヲサヤニ認メツ(旋頭歌) 左千夫
義郎 上のといふのは耳ざわりであるまいか、調子はよく調つてると思う
埴土ノ眞土ヲトリテ吾弟ガ造レル箱ニコホロギカフモ 直治郎
左千夫 思想の配列上にすこしく注意したならばものにならないこともないと思はれる、義郎、こほろぎをかうといふことに眼をつけた所は敬服する、調のメチヤメチヤは惜しい
獨住ミ獨リ飯焚クカマドベニコヽロコホシク蟋蟀ナクモ 直治郎
(188)左千犬 まづとれるものだ、義郎、こゝろ戀しくのこゝろといふ語が解せない
遠ツ祖ノミ墓ベサラズタタズメバ袂ニフキ來秋ノユウ風 曉雨
左千夫 陳腐である、義郎、中味のうすツぺらな輕薄らしい處がある、秀眞、これでは舊派の歌とかはらないぢやないか
〔略〕
次會は上總山武郡陸岡村埴谷蕨眞一郎宅にて九月十五日午後一時より開會の事、地方の同志は歌稿を森田義郎宛にて封書とし郵送せられたい事、當日同志の來會を望む事
題は
航海
秋海棠
其他隨意
明治35年9月『心の花』
署名 義郎記
(189) 藪蚊言
倶樂部欄即惡口欄の樣であるが、能く考へて見ると決してさうでない、茲へ出でゝくる連中は皆遠慮なしの我儘黨であるから云たい放題の饒舌が遂惡口の樣に聞えるのみで、根も底もある譯ではない、などゝ前口上で矢張惡口らしいことを云ふて見樣か、
前號の誌上で信綱卿の御出馬は、一寸空模樣が變つたネ、正さか天下將に多事ならんとするの前兆といふ程でもなからう、しかし例の竹柏園の月卿雲客が一齊に喝采せらるゝは受合じや、所が少々苦情が持上つたと云ふは彼佛足石の歌じやて、あれは去年の七八月頃であらう一回本誌へ載せたのであるに、日本人がいくら健忘だからとて本誌の讀者がまだ忘れはせまい、それに此紙のタケヘのに、一年立ぬ内に同じ歌を二度掲ぐるときは、余り經濟を知らぬ所行じやと云ふのださうだ、成程聞て見ると尤な話である、それからまだ信つな卿の御自詠で。
人の世の人の詞に限ありて我此思いひいでかたき。
と云ふのも一ぺん出たことのある題じや、どうも困りましたネイ、次に秋水老人ちふ畫かき歌びとのが更に非度意、一册の中に同じ歌が二所に出でゝゐる、それが三首である、これでは讀者が苦情申すも無理はない、
谷活東の小説はちよつと讀めるな、か人の女房となつてから、元のいひなづけの男を戀しがつて居たでは家の治りが惡るからう、
(190)ヤア名うての葯房主人の歌が出たな、ハア、詠雲なるはど、「蒼空の上に氷雲高しも」ちよつと分りませんな空に雲があれば蒼くない筈じやないかナ、「叢雲の渦巻碧」なるほど變つたことを云ひますナ、「薄雲の流る聲なく」ゥンニヤ薄ひ雲であるから聲がない、すると厚い雲には聲があるちふのかナ、面白いナア其聲を一番聞いて見度ナ、
ハアうみ苧集なるほど、すゞしい歌が澤山あります無茶に凉しがる人じやナ、青山椒など噛んで鼻の上に汗かく時なんか、あんまり凉しくもありますまいテ、
近詠十首吉野甫聞た楼な名だナ、コリヤ面白い、「ハイカラの女ハイカラ娶りたる田舍男の子は家かたぶけぬ」ドウも面白い歌じやなアおれも一つまねて見ようか、「ハイカラの男ハイカラむこにとり娘も家も玉なしにした」、名吟じやろナア、眠くなつたもうよさうか午前一時の時計チン(昔もの)
明治35年9月『心の花』
(191) 正岡子規君
一
吾正岡先生は、俳壇の偉人であつて、そして又歌壇の偉人である、萬葉集以降千有餘年間に、只一人ある所の偉人であるのだ。
然るに先生が俳壇の偉人であると云ふことは、天下知らざるものなき程でありながら、歌壇の偉人であると云ふことを知つてゐるものは、天下幾人も無いと云ふに至つては實に遺憾と云はねばならぬ。
先生の訃音が一度傳れば、東都の新紙は異口同音に哀悼の意を表し、一齊に先生が俳壇に於ける偉業を讃した、是は固より當然の事で敢て間然すべきではないが、只一人として先生の歌壇に於ける功績に片言も序し及ばなかつたのは如何にも物足らぬ感に堪ぬのである。
先生の俳句に於ける成功は、始め近親數人に及ばし遂に天下に廣充したので、北は北海道の果てより、南は九州の隅に至るまで、苟も文學に志す者で日本派の俳句を知らぬ者はない位であるから、俳句を知らぬ人でも其實績の上から、先生が俳壇の偉人であると云ふ事は知れる譯であるが、歌の方であると根岸派の歌と云ふても、區域が極めて狹まいので、眞に歌を解せぬ素人の眼から、其偉大なることの分らぬのも、穴勝ち無理ではない、しか(192)し又一歩進で考へて見ると、世人が、日本文學の精粹と歌はるゝ歌に對して解釋力の缺乏せるに驚かざるを得ないのである、縱令自ら作ると云ふことは出來なくとも、其議論を見て其製作を見たならば、是非の判斷位はつきさうなものじやあるまいか、世上多くの文士が先生の俳人たる價値をのみ解して、歌人たるの價値を少しも解せぬと云ふに至ては、吾々は多大なる不平が包みきれぬのである。
先生の俳句に於ける成功と歌に於ける成功と先生一個身の上よりせば、成功の價値に少しの相違もないのである、一は成功の餘澤を廣く他に及し、一は未だ廣く餘澤を及さぬと云ふに過ぎぬ、俳句は其の流を酌む人が多いから偉大で歌は其流を酌む人が少いから注意に價せぬとは餘りに淺薄なる批評眼と云はねばならぬ、
然らば、正岡が歌壇の偉人であるといふはどふ云ふわけかと云ふ問が起るであろふ、此れに對する答は、俳壇の偉人を説明する樣に簡單でない、實績に乏しき歌壇の偉人を説明しようには勢ひ歌其物に依て判斷せねばならぬ、即其作歌及歌論に就て價値を定めねばならぬ、併しながら如斯ことをなすは今其場合でないと思ふ、
先生が歌の研究を始めたのは、たしか明治二十九年の夏からである、年を經る僅に七年一室に病臥して、自宅十歩の庭でさへ充分には見ることのできぬ身を以て、俳壇を支配するの餘力を以て、今日の成功を見たる實に偉と云はねばならぬ、親しく教を受けて研究に預れるは僅に七八人に過ぎぬ、此七八人の根岸派同志が今日の歌壇に如何に重を爲すか、成功の確然たるものがなくて、どうして然ることを得べきか。
國家と其起源を同じくしてゐる所の歌は、又皇家と其隆替を同じくしてゐる、皇威衰へて歌も又衰へた、萬葉以降歌の奮はぬと云ふも、考へて見ると不思議と思ふ程である、思ふに世道人心と探く關係する所あるに相違ないのであろふ、帝皇の稜威が、全く上代に復して、歌壇に偉人の顯れたと云ふも、偶然のやうで決して偶然ではな(193)いのである。(左千夫)
二
先生には一人の愛子があつた、當年廿四才の男で歌詠である、こういふと餘り出し拔けで人の驚くのも無理はない、十年病に臥して妻といふものは勿論妻らしいものも無かつた先生に子のあらう筈がない、が、それも眞面目すぎた話で吾輩の子といふのはそんな血統的の話ではない、其關係といふものが、其交りの親密さといふものがどうしても親子としか思はれない點から、予は理想的に先生の愛子じやと云ふた譯である。
それはだれだ下總結城の人長塚節である、節は又最も予とも親しいので、先生と節との關係は予が最も能く知つて居る樣で、それは兎に角そんなことを書いて何が面白いかと思ふ人もあらふから一寸前がきがいる。
どつちかと云ふと、先生は理性的の人であつた、いやそうでない、情的方面は尋常で理性の方面は非常であるから、誰の限にも其理性の強い方面許り直ぐ分るので、非常に理性の勝つた人で全く智的の人の樣に受取れた樣だ、明敏精察でそして沈着冷靜といふ態度で、常に人に接するから逢ふ人は必ず畏敬の念を起すと同時に容易に近づく事の出來ぬといふ趣きがあつた、かくいふ吾輩も、此人は師として交るべき人で友として交ることは容易に出來ぬ人であるなどゝ思ふたことは幾度かあつた、先生自らも共性質をちやんと承知して居られた、從て遠くに先生を敬慕した人は勿論非常に多かつたに相違ないが、近いて親密にした人は割合にすくない、それには病氣や何かでいろ/\な事情もあつたろうが、非常に理性に勝れたせいではあるまいか、併し前にも云ふた通り情的方面も尋常ではあつたのである、決して無情酷薄な人ではなかつた、尤も人物評や作物評には、精察で峻勵といふ常(194)筆法でやられた故、往々酷に過るなきやと思はれた事もないではなかつたが、無情は有情の極といふこともあるから、斯ういふことは酷と思ふ方が無理であらう。
世間の普通からいふと理性の著しくまさつた人は情に薄いのが當前であるのに、一人先生は普通以上であるといふ證據として、長塚節が出てきた次第じや、赤の他人であつて親の樣に思はれ子の樣に愛するといふことは、無情な人の夢にも知つたことではない、先生と長塚との間柄は親子としては餘りに理想的で、師弟としては餘りに情的である、故に予は之を理想的愛子と名附けた。(未完、左千夫)
三
節が始めて先生に逢ふたのは明治三十二年の初夏、根岸庵の杉塀の若芽がふいた頃である、節は其以前から「日本」の愛讀者で先生に對しては見ぬ懸にこがれて居つたとのことで、夢に見た先生と逢つて見た先生とが同なじであつたといふて當時節は頻りにそれを不思議にしてゐた。
長塚が始めて先生に逢つた時、長塚は先生の俳句及歌の、自分が面白く感じた數十首を悉く記臆してゐて之を暗誦したのには、先生も一驚を喫したさうで、一體長塚は記臆のよい男であるが、先生を慕ふこと深くなければ、決してそんなことが出來るものでない、第一回の會見既に尋常でない、長塚が渾身情的無邪氣に兒供らしきに對しては、さすがの先生も理性をなげうち精察を捨てざるを得なかつたらしい、長塚は暫らく滯京して毎日の樣に先生の所へ往つてゐる、吾輩の所へもやつてきたので相携て又根岸庵へ往つた、先生と長塚とはもう一朝一夕の交りの樣でない、先生に逢ふてだれでも起る所の、其憚るべき畏るべき感じと云ふものが、長塚には毫末もない(195)樣であつた。
こんなことは先生には異例である樣だが、無邪氣な長塚に對したからと云ふ許でなく、矢張先生が決して冷性な人でないと云ふ所から出た結果であらう。
爾來長塚は東京に在つては勿論、郷里にある時でも一日も先生といふことは胸中を離れぬ樣であつた、其郷里は汽車場までは七八里もあるといふ邊鄙でありながら、絶えず何かを贈つてゐる 旅に出れは又必ず旅先から土産を贈つてくる であるから根岸庵では節の噂はたえぬのである 節が出京すると云ふてくる 先生は如何にもそれを待ち樂んだ樣であつた、或時など予が訪問すると、一昨日長塚がきて今日は君がくる日だから又參ると云ふて歸つた 今に來るだらふといふて、何か妹さんなど呼んで用意を命じた樣であつたが、どうしたか長塚が此日終にこなかつた、此時先生の長塚を待つたなど夫は非常であつた、長塚がこないを十何遍繰返したらう。
先生が節に教ゆるは歌の上許りではない、人間と云ふものゝ總ての上に就て噛で含める様に教た様であつた、隨分叱り飛すこともある、長塚が先生に物を乞ふことがある書畫など、こんな物を何すると叱る、暫して先生貰てもよいでせうといふ、馬鹿と叱る、又暫くすると先生貰てもよいでせうといふ、其の無邪氣なるには先生も敵しかねて終に持つてゆけとやつてしまうと云ふ鹽梅である、尤もおかしかつたのは、遂逝去以前三十日許のこと、長塚からツク芋を贈つてきた、それに大和芋とさも珍らしさうに書いてあつたので、先生は驚いた樣子で長塚も是程兒供では仕方がない、ツク芋も知らない樣ではといふので大に心配した、半枚の原稿も人にかゝせる時に、自ら原稿紙三枚ほど書いて、叱つたり教へたりしたようである。
然らば長塚は眞の兒供かと云ふに決してさうでない、歌も同人間に一頭地を拔いてゐる、處世の道に於ても、親(196)父なる人の少しく失敗し家産の整理に任じて處理を誤らぬ樣である、してみれば先生が長塚を愛したのも唯情一邊でないことも分る、去年の秋であつた 長塚と予と折よく會合した時に先生から長塚にやつた歌は、能く両者の情合を盡してゐる。
喜節見訪 竹の里人
下總のたかし來たれりこれの子は蜂屋大柿吾にくれし子
下ふさのたかしはよき子これの子は虫喰栗をあれにくれし子
春ことにたらの木の芽をおくりくる結城のたかし吾は忘れず
多くの場合に人に畏敬せられた先生にして、こんなことの有つたのは世人も少しく意外に感ずるのであらう。 (完、左千夫)
明治35年9月27日、10月3日、4日『日本』
(197) 〔『心の花』短歌會記事 五〕
九月十四日左千夫、秀眞、秋水、芳雨の四氏と予と相携へて上總銚子港に遊び歸路埴谷に至り蕨眞氏の宅を襲ひ、明くる十五日同所に短歌會を開く、主人と直治郎氏を加へて七人、作者は尾張の曉雨、肥後の谷岡深、東京の花舟、伊勢の起雲を加へ、義郎を除きて十人、前夜、左千夫氏對義郎の激論あり、今日は左千夫氏對秀眞の激論ありて共に氣焔萬丈、近來の偉觀たりき、論の大要は追つて誌上に公開することあるべし、
船子ラハウラ樂シミト明日ツカン下田テコナガ噂シテヲリ 曉雨左千夫 舟中水夫の情を借りて航海の題にもち來つた所は、目先きが變つて居つて面白い、義郎 二の句と三の句はものたりない氣がする、二の句末にトの字があるために調子が少しくダレ氣味になつたのかとも思はれる、
的矢津ニ船カケ居レバ大洋ノ夜浪ノヒヽキトドロ鳴リ來モ 曉雨秋水 トヾロ鳴リ來モは少し念が入り過ぎて居ると思う、左千夫 實感かしら、秀眞 實感でせうよ、併し航海といふことはすこしもあらはれて居ない、航海の歌としてはをかしいけれど、題にかゝはらぬものとすれば、さうまづい方でもあるまい、
〔略〕
萩ハサキ萩ハチレドモ海棠ノ秋ノ百日ヲオトロヘヌカモ 芳雨
(198)左千夫 秋街道の永い間咲いて居るものであるといふ趣はあらはれて居るが、海棠は秋海棠といはなくてはいかぬ、芳雨 如何にも語呂が惡いものですから、外に秋といふことさへ現はれて居ればいゝことゝ思つたのですが、秀眞 三句以下を『百日日を秋海棠のおとろへぬかも』とすればいゝぢやないか、義郎 永く咲いて居るといふことを顯はすのにはこれだけでは僕は何んだか露骨な感じがして面白く思はない、今すこし他に御化粧がしてもらいたく思うのじやが、さうはいかぬものかしら、秀眞 これでよく顯はれて居るでないか、義郎 顯はれて居るには違ひないが、其顯はし方が面白くないのである、これでは誰しも思ひうかぶことで是れぞといふ作者創意の所が見えぬではないか、
クレナヰノ秋海棠ヲ秋ノ日ノ清メルサ庭ニ見ラクアカナク 直治郎
左千夫 秋海棠は晴天の感じである そこをいつたのは面白い、秋の如何にも爽かな日の感じがよく顯はれて居る、秋水 見ラクは見レドとあるべき所と思う、
秋風ヨ今シモ吹カバ中庭ノ秋海棠ヲソヨラニ吹クベシ 蕨眞
左千犬 如何にも弱々しい所からゆくと萩の感じがして秋海棠らしくない、寧ろこれは萩にした方がいゝだらう、
秋雨ヲツヾリテサケル玉小莖秋海棠ノニホヒシアナニ 蕨眞
秀眞 三の句は何とか變へたい、義郎 三の句で調子がドント切れてしまつて、秋海棠の枕辭に用ゐた所の形容詞が其役をなして居ないのは遺憾である、左千夫 三の句を除いてはしようがない、一二の句の意味が甚だ不明瞭である、秋水 結句を匂ヒアナハモとしたい、義郎 結句は僕はこの儘では誇張に失して居ると思う、秀眞『秋雨ヲ玉ニツヾリチサキタルル………』とすればどうかしら、
(199) 青柿ノ葉蔭ノ庭ニユフ露ニ秋海棠ノ丹穗タリサクモ 秋水
左千夫 青柿と仔細に説明すると何だか柿が小さい物であるか、秋海棠が大きい物であるかの樣な感じが起る、これはたゞしげつて居ることだけいへばいゝと思う、義郎 柿の木は垣の内であるかまた垣の外に柿の木があるのか、秋水 それは何處でもかまはんと思う、義郎それは亂暴ぢや、垣の内に柿の木があるのでは夫は甚だ面白くないと思う、葉蔭の庭といふと如何にも柿の木が茂て居るらしい、しかも一本や二本ではないやうに見える、秋海棠が何々の蔭の庭にさいて居るとやうにすればよいかもしれぬがこれでは青柿の青が非常にきゝ過ぎて居ると思う、作者は無意識であらうけれども青葉がしげつて居つて……丹穗たりさくといつたのもワケありげじや、
サニヅラフ女ノ兒ウナヰガヱメルゴト風ニユリサク秋海棠ノ花 左千夫
義郎 ヱメルゴト隨分陳腐じやないか、左千夫 女ノ子ウナヰといふことはいふた者がないじやないか、秀眞 陳腐のやうに思はれるがない、
石井邊ノ秋海棠ノ露ヲ重ミ丹ノホ面伏シコトモトハヌ君 左千夫義郎 これは面白い 客觀を以て主觀を顯はしてよく其趣があらはれて居る、左千夫 それは『ナビキヨル秋海棠ノ朱ノ色ノ底ノ心ハ告ルも告ラズモ』と贈答に擬した積りなのだ、 義郎 秀眞 底ノ心ハノルモノラズモは古い、左千夫 ふるくはないだらう、
くさ/”\の歌には
千葉ノ黍野ヲユケバタカ黍ノ穗ノ上ニ青ク秋ノ海見ユ 秋水
月代に虫ガ音シヌビ山路ユク衣ハヌレヌ山ノサギリニ 左千夫
(200) 山畑ノ芋ノ丸葉ノ廣葉ナミ露ノシラ/\月フケニケリ 左千夫
サ霧立ツ月夜山路山畑ノ豆葉モミヂテ散リシケル見ユ 左千夫
などがあつた、
次會よりは毎月十九日、即ち師正岡先生遠逝の日を以て會日とし、當分森田宅を會場と定めた、課題は
霖雨雜雄詠
其他隨意、
明治35年10月『心の花』 署名 義郎記
(201) 〔名古屋短歌會選評 一〕
第一回 課題盂蘭盆雜詠
同志者地方歌會の先鋒として名古屋に起れるものを名古屋短哥會となす、九月三日を以て伊藤直郎氏の宅に其第一會を開く、會者五人、いはく不關坊董雨水雲曉雨直郎、寄稿者二人、曰廣成曉月、課題盂蘭盆雜詠作哥六十八首會者五人互撰の結果左の如し。
廣成五點董雨六點直郎五點曉月八點曉雨十點以下畧
三點二首
老人は少女子さびてをとめ子は老人さびて盆おどりすも 廣成
評 茶番といふものに斯の如き業すとのみ聞けるが盆おどりにもかゝる風俗ありや、然かも此の如き滑稽趣味を歌にせんとせば、調子に於ても滑稽的ならざるべからず、「盆おどりすも」など眞面目なる調子にては面白からず。
思ふとち踊りて居れは人言に我名たつとも情けくもなし 曉雨
評 盆踊といふもの眞面目に見て趣味を感ずるは少し無理ならずや、到底滑稽のものなるべし、此歌のみならず諸君の盆踊を詠める眞面目に過ぎたるは失敗の因なるなからんか。(202) 二點の歌六首
送り火のたく火の苧からもえのこり消えかてぬ夜を戸さしかねつも 不關坊
評 たく火の苧がらは無理であらふ、消えがてぬと云ふ語も此では無理なり、只消えぬ間はなど云ふべくや。
わか宿の淺茅か花はちりぬるをみそ萩折りて魂まつりせむ 同 人
評 一二三の三句盂蘭盆會に何等の關係かある、
灯ともせば灯籠さぶしも亡き魂の今霄寄りきてうつるといふに 同人
評 今少しなり、
立のぼる苧からの煙見つゝ居れは今さらさらに母をしおもほゆ 直郎
評 除り平凡ならずや、猶初三句つまらぬことを余りこと/”\しく云へるはわろし、中心點の引立つ樣心掛けありたし、
足玉も手玉もゆらに吾妹子か踊姿は見れとあかなく 曉雨
評 少しも盆踊の感なし、
八百潮のさわきどよもす盆おとり妹の唄こゑわきてさやけし 同人
評 命にかけし戀人なりとも盆踊りや其唄が上手ときいては、愛憎がつきて逃げだしたくなりはせずや、
九月廿三日妄評多罪 左千夫
明治35年10月『心の花』
(203) 倶樂部欄の諸君に御相談あり
反對の、攻撃のと云ふて見た所で、固より一つ鍋の飯をくふて居る諸君であるから、倶樂部などでもイヤニ皮肉なこと許りならべてヲツー白眼で睨ツこなんか、余り野暮じやあるまいか、御互に是から少し無邪氣に滑稽な話でもやつて、罪のない討論や歌の贈答なんかやつて見やうじやありませんか、氣取ツけなしに修飾なしに、天眞爛※[火+曼]とむきだしの出放題なんと云ふて樂むのが僕は大すきだ、諸君に御賛成が願ひたい(ノンコ)
明治35年10月『心の花』
(204) 師を失ひたる吾々
貴墨拜見仕候 新に師を失ひたる吾々が今日に處するの心得如何との御尋、御念入の御問同憾の至に候、夫に就き野生も深く考慮を費したる際なれば、腹臓なく愚存陳し申べく候、
正岡先生の御逝去が吾々の爲めに悲哀の極みなることは申までもなく候へども、其實先生の御命が明治三十五年の九月迄長延び候は殆ど天の賜とも申すべき程にて、一年か一年半は全く人の豫想よりも御長生ありし事と存じ候、然るを先生御生存中に充分研究すべき事も、多くは怠慢に附し去り、先生の御命最早長いことはないと口に云ひつゝ、猶うか/\と千載逢ひ難き光陰を徒に空過しながら、先生の御逝去を今更の如く御驚きとは、甚だ酷なる申條ながら餘り感服致し難く候、勿論先生が十年御長生あり候とて偉人ならざる吾々は、もう之れで先生に捨てられても大丈夫安心じやと申す樣な事は有間敷と存候、何時になつても先生に逝かれた時は必ず狼狽して驚くことは知れて居ることに候、されば今日俄に心細がつて狼狽し給ふ君を咎むるは少々無理かとも存候、驚もせず狼狽もせず平氣で、そして先生が晩年如何なる標準を以て「日本」週報の歌を御選みありしかを、敢て考究して居る樣な風もなく漫然歌を詠みつゝあると云ふ如き、人があるならば吾々の尤も輕侮すべき事と存じ候、
貴兄の如きは大に先生御生前中の怠慢を悔い、今にして覺然眼ざめ御奮勵との仰せ同感至極に存じ候、野生等と(205)て先生御生前中決して勉強したとは申難く、顧て追考すれば赤面の事のみ多く候、併しそれは今更後悔致し候とて何の詮も無之候へ者、貴兄と同樣今后如何に處すべきかを定め、それに依て奮勵すえるの外なく候、
何と申ても先生御存生中は、眞先に松明を振りつゝ御進みありて、御同樣を警戒し指導し、少しく遠ざかりたる時は高所にありて差招きくれ候事故、自然に先生に依頼するの念のみ強く、知らず/\安心して暢氣に不勉強致し候次第今更後悔先に立たざる恨有之候、松明の光常へに消えて寸前暗黒の感に打たれ、停立款考手探りして道をたづぬると云ふ樣なる趣に候、うかと致し候はゞ元來た道へ戻る樣な事なしとも極らず誠に何共不安心の至りに候、
永遠の事は分り申さず候へ共、差當り思就たるは左の二ケ條に候、之れに依て將來の針路を定め、自働的松明を得度と存じ候、他の指導に依頼して暢氣な行路をたどりし吾々、俄に自動的に道を求めねばならぬ境涯、なまけては居られ申さず候、自動的と自由行動とは違申候、
(一)先生が數年に渡れる製作及び選評の跡に見て、前後を比較し進歩變化の樣を充分に考量し、就中晩年變北の跡は最も細心に研究して、先生が微細とする所をも探求せざるべからず、
(二)美術文學に關する書籍は勿論哲學宗教に渡り、大に古今の書籍を讀究せざるべからず、自ら松明を作る必ず此方法に據らざるべからず、 一人にして製作と批評とをかねたる大偉人を師とせる吾々が如何に幸福なりしか、此偉人を失ひたる吾々が只悲嘆して止むべきか、落謄失望して止むべきか、大偉人の門下たる名を汚す樣の事あらば何の面目あつて世に立たるべきか、僕不敏と雖も貴兄の奮勵に從ひ吾生の有らむ限り事に從はむことを神かけて誓約可致候 末文に今一(206)語申添度きは、以上の二ケ條より辛じて松明を得て針路を探り候共如何にして吾々の滿足する批評者を得申すべき、此事に就ては失望の嘆聲を發するの外何等の考も浮び申さず、嗚呼、吾々は常へに批評者を得ること能ざるか、貴兄の意願くは聞くことを得む、妄言多罪
明治三十五年十月廿二日
明治35年11月『心の花』
署名 伊藤左千夫
(207) 〔『心の花』短歌會記事 六〕
床の間には先生が自ら作られた塑像を、自ら寫された畫と其歌『渾沌が二つにわかれ天となりつちとなるその土かたわれは』の對の幅をかゝげ、下には秀眞の作れる塑像を置き、其他は義郎の好めるオモチヤ、張子の虎外數品をめちやくちやに置いてある一間に、先生の初月忌を修し、かねて、例會を開いた、集るもの、左千夫、葯房、秀眞、蕨眞、予を加へて五人、追懷談もあれば短歌會の方針談もある、「短歌は一首としては到底趣味の完然したものを作ることが難しい、多くの場合に於て言葉書きを要するか、連作でなければ、遺憾なく自己の思ふ所を人に傳へることが出來ない」といふ論を主張する人もあれは、夫れを否とするものもあつた、叙景は歌の長所でない、兎角單調に陷り、薄ツペらに流れるといふものも出て來れば今迄の歌で見ても吾々今日の歌で見ても抒情的叙景若しくは叙景的抒情、言ひかふれば純客觀、純主觀よりも、主觀的客觀、客觀的主觀におもしろいものが一番多いといふものもあり、一論出づれば十談榮え、埴谷の一夜におとるべくもあらずとでも形容すべき有樣で、遂に卓を叩きて高論するやうになつて、談は韻文朗讀會にうつつて呵々一笑、批評會となつた。
霧ハルヽ曉庭ニ柿ノ葉ノ白露オキテ落チヽラヒケリ 秀眞
蕨眞 感心しませんな、柿の葉に露が置いて夫れが重くて落葉するなどは古今集趣味ではありませんか、葯房 (208)さうじやないのでせう、落葉してるのに白露が置いてるのサ、秀眞 さうじや、左千夫 それじや、白露とはをかしい、白露といふのはどうしたつて、柳の枝とか、松の葉とかのやうに上から下にさがつて居る感じがする、これでは落ちてる柿の葉に上から霜が落ちるやうに思はれる、義郎 それは餘りひどひ庭にとあり葉のとあるのだから。併し秀眞君のやうにも取れ難くい、重みか何かはわからぬけれども蕨眞君の取りかたが普通じやと思ふ、葯房 霧はるゝといふやうな動詞から助辭なくして曉庭と來るのは僕は厭いた、曉庭とか、夕庭とかいふやうな語は虫がすかぬ、左千夫 霧はるゝといふ働きある瞬間の光景も氣に入らぬ、たゞこゝでは霧といふことさへあればいゝので、その霧が晴れるといふやうに、些細なこと迄立ち入らぬ方がいゝと思ふ、
茶ノ畑ノウネ一ウネニフタナラビ胡麻白妙ニ花サキニケリ 秀眞葯房 まアいゝ、左千夫 茶畑に胡麻の花がさいてるといふだけならばいゝけれども一うねに二うねなどいふ所がわるい。義郎 左千夫君はこれを讀んで面白く思うのですか、思はないのですか、左千夫 僕は夫れじや君達に問うが、茶畑に胡麻の花がさいてるのが、面白いか、茶の一畝に胡麻二畝が面白いのか、義郎 茶畑に胡麻の花がさいてる、夫れが茶の一畝に、キチヤウメンに二畝ヅヽになつてる、其れが面白い、左千夫 夫れでは要領を得ぬどちらが主か、義郎 それは無論茶畑に胡麻が咲いてるのが主なのです、左千夫 それを一畝に二並びなどいふとそこが面白いやうにきこえる、秀眞 そこも面白いのは無論の事です。
木犀ノ花ノニホヒニ天地ヲクダス長雨ハレニケルカモ 直治郎
葯房 このにほひといふのは色か香か、蕨眞 夫れは色でせう、丁度私共の家に大きな木犀があるので、雨のふる暗い日もあかるい位ですから、その邊から思ひついたのでせう、左千夫 それではハレニケルカモとはかけ合(209)ひがわるい、この木犀の花といふものは、天氣にならうとするやうな時に特に匂ふものであるからいつたので、にほひは香の方であらう。
マ若杉 ウエシ平岑 三矛杉 立テル峯ノカヒ 長雨ノ フリシク雨ニ コモリヌト 土ナゴメレカ シガ上ヲ 禍風スサビ 尾花ナシ タフレシミ杉 ソノ綾葉 紅葉ニナレド ヤマヌ雨カモ 蕨眞
左千夫 杉の仆れたのを尾花なしの形容は如何にもをかしい、霖雨といふものと暴風雨といふものとの調和も考へ物である、よし事實でありとするも、暴風雨といへばどうしても一時さつと來て去るのが普通の感じで、其雨がしく/\いつまでも降つて居るとはすこしきこえぬ、義郎 杉の葉の綾葉も妙だし、ミ杉も妙だ、左千夫 全體が説明的である、葯房 シガ上などいふ言葉が、擬人の如くに聞えて妙だ、夫れに杉、岑、杉、雨、風、仆レシ杉、雨、いかにも錯綜して居つて何が何やら一寸聞とれ難くい、
附記 蕨眞君作の霧雨短歌にものすべきものありしも蕨眞君改作の意ありとの事で載せず、
サ庭べノ植木ガモトニ水ヅクマデ水カサマサレドヤマヌ雨カモ 左千夫
秀眞 これは雨がふるのを歎ていかにも心痛な處なのでせう、左千夫 勿論さうじや、その積りで言葉書きをつけたのじやがな、葯房 やまぬ雨かもといふのが如何にも雨のふつて居るのを面白がつて歎美してるやうにきこえる、秀眞 さうさう、困つたらしく受取れない、義郎 歎辭が効をなさぬので寧ろ只なんとなく猶雨が降りやまぬとだけをあらはしたら、却て困難の状があらはれたらうと思う、
出水モ未ダヒカヌニナホシアル雨ノトキケバイヲネカネツモ 左千夫
(210)秀眞 今日の左千夫君の中で之が一番いゝ、義郎 なほしふるといふのは止んで居たのがまたふり出したのか繼續して降つて居るのですか、左千夫 どちらでもかまはぬ、義郎 僕は一段止で居なくては、未だひかぬにがキカヌと思う、失名 それでは君は一段止んで居たとするサ、
松カネニ照レル錦木雨ヲアミヌレシ葉毎ニシタヽル丹保玉 左千夫
葯房 いゝ、秀眞 丹保玉といふのはどういふのかしら、蕨眞 丹秀でせう、義郎 雨をあみ ぬれし葉毎に、したゝる 丹保玉といふ句法は僕は何となく安心が出來ぬ、四三はどうも面白くない、秀眞 吾々のはモーさういふ感じに成つてしまつて居るので困るネ、どういふものだか落ちつかぬやうに思う、葯房 しかしこの歌なんかいゝサ、
日ナラベテ雨フリヤマズ時ナレバ山ノ松タケ腐リタルヘシ 義郎左千夫 時なればといふのが僕にはをかしく感ぜられる、一體松蕈といふものが、一度しか出ないものであるならばいゝけれども、つぎつぎ出るのでないか、義郎 春も秋も夏も冬もといふものでなく只僅かの間に出るのであるから用ゐたのです、蕨眞 時なればといふのはわかりませぬ、秀眞 時節柄サ、葯房 これでもいゝが、成るならば初めて出たとかした方が一層面白いと思う、義郎 時なればがキイテル考だがさうかしら、
刈リソケシ庭ノスヽキノ切リ株ニシクシク秋ノ雨フリヤマズ 義郎
葯房 前のよりもいゝ、左千夫 百中十首時代じやないか、秀眞 百中十首時代でもしようがない、義郎 左千夫君はアノ『元の使者既にきられて』などを今どどうお思ひですか、左千夫 調が窮して居つて面白くないと思ふ、今ならばすこしくゆつたりとして迫まらずにやつたであらうと思う、秀眞 左千夫君の歌は其ゆつたりの長所が、(211)近頃短所にもなつて居るやうに思う、義郎 元の使者を左千夫自らさう思ふて居られるのでは百中十首を悉くわるいといはれるのも無理はない、
玉桂ハナサキカヲリ秋ノ風コヨヒサワガズ月ハテリタリ 葯房
左千夫 月は照りたりといふと何は曇れりといふやうにいかにも、態とらしくきこえる、義郎 花はかをり風はさわがず、月はてりたり、でいゝじやありませぬか、左千夫 はととりわけていふ必要はないと思う、葯房 丁度夫れが滿月で如何にもくまなく照り渡つて居るとすれば、左千夫 そこをそのくまなく照り渡つて居る丈いへばいゝだらう、葯房 それをはの一字でキカシて居ると思う、左千夫 どうも賛成できぬ、はといふのは多くの中から區別していふ時の辭だもの、
雁阪ヲスギガテニスレバ夕月夜笛吹川ニキリタチワタル 葯房
秀眞 かういふのはすべて面白く感ぜられる、雁阪とは何處ですか、葯房 秩父から甲州に出る道中にある、
天シクヤ草野ノニシキ雁阪ニ棚キカヽル千萬ノヤマ 葯房
義郎附記 この歌はいろ/\議論があつたので、一々かき立てるわけにゆかぬが、まづかうである「雁阪といふ大きな阪がある、其阪に秋草が澤山さいて居る阪の下遙に千萬の山がある、雁阪に立つて眺むると秋草が千萬山を掩うて居るやうである」といふ面白い景色なので、それが一首の歌に入れられるの入れられぬのとさわぐやら何やらで、ツイ僕のきゝもらしもあるので勢この歌はそのまゝにして置く
次回は例の通り十一月十九日午後二時より、神田森田宅を合場として開く課題は
山茶花
(212) 銀杏
其他隨意
來會勝手次第
明治35年11月『心の花』
署名 義郎記
(213) 〔『心の花』短歌會記事 七〕
十一月十九日午後例に依て神田美土代町大日本歌學會に於て開會、會するもの左千夫、直次郎、葯房、秋水、
義郎、里靜、並びに余、潮音遲れて來る、
紅浪、寄する處の歌十首、花舟八首、起雲十首、評に値せず、
小春日にさける山茶花いたづらに時雨にあへど君おもはめや 蕨眞
葯房 コレはまづ採れる、左千夫 小春日にさいたのが時雨に遇ふと云ふ云ひざまがをかしい、義郎 ソレニ時雨と小春日といふのは時候が顛倒してはゐやせぬか、葯房 イカニモ小春日はをかしいかも知れぬが、小春日にソレ程重きを置かんでもよからう、タヾ暖い日に咲いた山茶花が時雨にあへど云々と樣に僕はとるのだ、葯房一人このうたをとる、
〔略〕
夕煙下這ふ岡のいてふ樹の黄葉のこすゑむらとりのたつ 秋水
葯界 煙が下這ふといふのはドウ云ふのか、義郎 煙が低く這つてゐるのサ、棚引くとは違ふさ、棚引くといふのは中途になびいてゐるサ、左千夫 コンナ位ならまあいゝさ、義郎 煙が下這ふて居つて群鳥の立つ、すこし出來すぎてる。秀眞 コレがとれる位なら他にもとれるのがあるぜ、
(214) 北窓をふさぎ南のまどにおく机の上の山茶花のはな 里靜
義郎 北窓をふさぎ「南の窓におく」、調子がイカにもヘンテコダな、秀眞 北窓をふさぎ「南の窓におく」といふのさ……三の句……三の句なしの歌も一體としていゝではないか。左千夫 北窓をふさぎといふ非常な働いた句を上へ持つて來た爲におかしな歌になつたのですね、南の窓の机の上の山茶花といへばソレでいゝのでせう、ネエ里靜君、葯房 ソレはそれに違ひない、左千夫 北窓を塞ぐ事柄をいひたれば北窓をふさぐ事をのみ云ふがいゝです、里靜 北窓を塞ぐといふ事が俳句の題などにもあるものですから、ソレでそう云ふたのですが……
〔略〕
岡のべの銀杏のもみぢ朝晴に色いちじろく空しぬぐ見ゆ 左千夫義郎 僕はいゝ歌としてとる、葯房 朝晴れに色いちじろくといふ樣なヨケイな句がある爲感じを損ずる、左千夫 晴れた緑の空に黄葉せるいてふがぬつとたつてゐるのを云ふたので三四の句が大に必要であると思ふ、葯房三四の句がある爲「岡のべの銀杏のもみぢ」と初二句をよみ下す時にいかにも邪魔になつて感じが起らないと云ふ事なのだ、朝時の空に銀杏が高く見えるといふのか銀杏の色が空しぬいでるのか分からない。(句の配置に難があるとて議論沸騰數十分時に亙る)。秀眞 とらない、秋水 イカン。義郎 三四の句を餘計といふに至つては驚かねばならぬ、一首の上に最も必要な句である。倒句法としては少し無理があるかは知らぬけれども、今晩の作物中この位銀杏樹の感じのあらはれて居るものはない。黄色が朝晴の空にカツキリとして居つて高いのが見えてるといふのさ 色が空しぬぐだのといふことではない。
いてふ葉を拾ひ遊べる左丹都呂布かくろ木履子忘れかねつも 左千夫
(215)左千夫 コレは少しく得意のつもりだ、潮音 俗ダナア、秀眞 木履兒もヘンテコライだが全體銀杏の黄葉と黒塗の木履と非常に不調和に思ふ、潮音 一體全體銀杏だの山茶花だのつて題が歌に適當してをらんぢやないか、諸君の歌を見るとミンナ俳句になる、ムシロ俳句で云ふた方が感じやすい事のみである樣に思ふ、秀眞 今更題の小言は恐れ入る、
日暮の里べをゆけば家並に庭をたびろみ山茶花の多し 左千夫
家並に植木うるやの木むら/\色どりさける山茶花のはな 同
秀眞 よくはないがとれる、義郎とるのは君ばかりだ、葯房ソレでは一説に曰くとるとでもして置くさ、どうも僕は感心しない、
いてふ葉のちり敷きわたる林道うすらあかりにおぼしく越ゆ 秀眞
葯房 林道と句をさしはさんだ爲、感じがのらぬ、左千夫 ソレもあるかもしれんが何とかしたいものだ、義郎 ソレでは再考を要すとして置くさ、併し僕は再考するまでもなくいゝ歌だとは思うのぢや 以上批評終つて雑談數刻、後散會 來る十二月は休會とし一月の課題を注連うれしと定め猶一月は發會の事故朝九時より參會近郊散策を爲す。
明治36年1月『心の花』
. 署名 秀眞記
(216) 〔名古屋短歌會選評 二〕
第二回 課題 獣
さみとりの若草野べを白玉の柔毛の兎飛渡みゆ 欣人
如斯統一なき雜報的事實を序して哥になると思ひしは吾々にありては數年以前の事なり、一言にして言へば余り平凡にして淡泊過ぎるなり、
氷の山をもそろ/\に白熊のアザラシ近くねらひよりくも 欣人如斯自あるものにや知らず、よし事實ありとするも只是のみにては前哥の如く歌として物足らぬ樣なり、
天つ日の光も知らに荒金の土の底ゆくこころもちかも 廣成
極めて幼椎なる説明のみ只是のみを以て哥と思へるは如何、
消えのこる里の燈火ほのくらく小雨ふる夜を狐しば鳴 同人
消えのこる燈火とは何の事か分らず狐が何の邊に鳴くかも更に分らぬはつまり作者の位置不明なるが故なり、
藥草採らまく山をわけいりて白き牡鹿に逢ひにけるかも 直郎
面白き哥なれども二の句採らまく山をと云へるは拙なり他に云ひ樣あるべし、
(217) 麒麟《ミヅシカ》は市に出ともとこしへに歌の聖し逝きて返らず 同人
着想極めて面白けれども序方に難あるべし 何となく落着ぬ樣なり かくもせば如何
みつしかの市に出とも逝ませる歌の聖し又かへらめや
ことひ牛三つならふとも龍子駒四つあはすとも象にしかめや 博象の形を云ふにや又は重量を云ふにや明かならず、又如斯比較法を用ゆるは目的物なるものを更によく寫さざれば何の詮なきなり、「馬四つでも象には如かぬ」と云ふは余り漠然たる序法ならずや、
第三回 課題 霜
十一月一ケ月休會して十二月十二日第三回を直郎宅に開く、會者不關坊欣人主人直郎と三人の外愛花廣成稿を寄せ、都合五十首の歌を送り來る題は霜なり
青雲の峯にほふまて冬の神いふきちらせる霜の花かも
高氣堂々として愉快なる歌なる哉
置く霜のしけきに堪ず時じくの藤は一日にうつろひにけり 不關坊
時じくの藤とは予未だ之を知らず
楢の葉に霜置く朝を八十神の出路雲遠く旅立たすかも 直郎
無造作に云ひ去て却て面白味多し、すべて課題の哥は題にすがり過ぎる弊多し、此歌などの如く題を輕くする方多くの場合に失敗なかるべし
(218) 奥庭の垣根のもとの寒菊に霜おく夜らは月更にけり 欣人
極めて平凡なる光景何等の趣向もなく序し去つたので此儘では歌にはならぬ、「奥庭の垣根のもとの寒菊の霜光あり月の照らくに」など直さばやゝ見るべし、
伊藤左千夫妄評
明治36年1月『心の花』
(219) 〔名古屋短歌會選評 三〕
秋草十番歌合
左 鳳仙花 不關妨
右 雁來紅 欣人
判者 左千夫
左。しの芒野邊をさぶしとうつくしき爪紅はさきにけるかも
右。背戸のべの竹垣そひに去年の種のこばれしが生ひぬ葉鷄頭の花
判。左。『野邊をさぶしとてつまくれなゐが咲いた』というては、つまくれなゐが野に咲いてある樣に聞ゆるなり。只野邊に鳳仙花が咲くといふは聊か無理ならずやと思ふ。若又作者の心は然らずして、野邊はさぶしく厭はしいから、里の家などに咲たとの意ならば、此詞つきにては足らざるべし。主眼たる鳳仙花の所在分らねば、何等趣味を感ぜず、試に左の如くせは如何と思ふ。
しのすゝき野守が庵の草垣につまくれなゐの花をあはれむ
右。第一句動く、第五句又動く、故に毫も葉鷄頭の趣味を感ぜず。且つ序法餘りに説明らしからずや。葉鷄頭は葉が美しいのであるのに、『かまつかの花』と花を指定したるは宜しからず。葉鷄頭花なきにあらねど、少し(220)も趣味あるものにあらず。兩首比較せば、猶左勝りたるべし。併し名譽の勝にはあらず。
左。旗すゝき穗に出るまでにしが下の爪くれなゐは咲きてちるかも
右。秋くさのこゝだ花さく花畑にしぬぎ立ちたるかまつかの花
判。左。只すゝきといへば野のものに極つて居らずや。それを鳳仙花を配合せんには、必ず芒の特別の場所ならざるべからず。其特別の場合をいへるものとせば、必ず芒の所在を指定せねばならぬ。よしこれが庭か垣根か何れかにせよ、芒の下の鳳仙花とは不自然な感あるを免れざるべし。
右。第五句の花といへる前歌の如く難あり。『しぬぎ立ちたる』も此場合如何とおもふ。草花の澤山ある中に葉鷄頭が一本立つてゐる、といふは聊か殊更に感ずる。試に
朝日さす庭の秋草百くさの色しぬぎ照るかまつかのむら
『かまつかのむら』我ながら究せり。前に同じく譽れ少き右の勝なるべし。左。東野の小松萱原萱刈りてつまくれなゐはつまずありけり
右。なよ/\に丈にのびたる葉鷄頭のもろたをれたりきぞの野分に
左。粟黍を刈りそけ畑の畔くまに爪くれなゐは嘆きしばかりぞ
右。萩はちり芒うら枯れし庭の秋を盛りの色にかまつか立てり
判。左右の花、いづれもかよはくこそ。
左。稻むらにけふ初穗つむ女等がつま紅の花さきにけり
右。たらちねは葉鷄頭折りて供ふれど佛の花に豈よくもあらず
(221)判。左。上三句はつまくれなゐの序ならんも、只つまくれなゐの花咲きにけりでは聊物足らずおぼゆ。是等も花の所在をいくらか顯したく思ふは如何。稻むらに初穗つむとは如何なることにや、覺束なし。殊に鳳仙花は夏の花なるをや。
乙女等が衣はし折りさゝぎほすつまくれなゐの花咲けるみゆ
農家の鳳仙花と感ずるや否。
右。何となく安からぬ歌なれど、又何となく面白さを感ずる歌なり。勿論葉鷄頭の色勝りたるべし。
左。田を刈るとつくる假庵の軒ちかく爪くれなゐの花あまたさく
右。花ばたにうねなみつくるかまつかと紫苑の花と高さあらそふ
判。左。作者は鳳仙花をよく知らぬにや。田を刈る頃にあまた咲くといふは穩かならず。秋に入りても咲かぬにはあらねど、本來は夏のものなり。
右。上二句穩かならず。紫苑は知らず、葉鷄頭をうねつくること如何に。此二句を『繁み立てる花の園生に』とせば、面白かるべくや。右の勝たること勿論なり。
左。垣萩はまだしき庭の草むらに爪くれなゐの咲くをよろこぶ
右。葉鷄頭のむら立つ空のこち/”\に蜻蛉とびかふ庭の晴れかも.
判。共に詞さまには無理なけれど、着想平凡にあらずやと思ふ。持。
左。草むらにほのかに咲きて露なづむ爪くれなゐに朝日さしけり
右。かまつかに小雨ふりすぎぬると葉の夕日かげてりて美しきかも
(222)左。朝つゆに蓬かるかやつゞりさくつま紅は露にとろけむ
右。庭のものに豆うちはたくかたへなる垣根のくまにしみ立つ葉鷄頭
判。此の二番のうた、鳳仙花、葉刑頭に限らぬ趣味也。
左。秋風のさむくしなれは草かくれ爪くれなゐは實となりにけり
右。むら立てる庭の雁來紅朝日てれば窓の障子に色てりかへす
判。共に着想は稍新し。右の調子落着かず。左の調子少しく勝りたり。左の勝なるべし。
明治35年11月〔推定〕
大正12年1月『短歌雜誌』
(223) 〔『日本』選歌評〕
一回は一回より應募歌の増加し來るは尤も悦ぶ所なれども、諸君の寄稿實に千遍一律其變化なきに驚ざるを得ず、苟も我『日本』に稿を寄せんとする程ならば、趣向の上に何ぞ工夫を凝らさゞるや、着想の上に何ぞ陳腐を脱せざるや、趣向なし故に平凡に終る、陳腐は固より文學上終天の敵ならずや
明治35年12月15日『日本附録週報』
署名 左千夫選
(224) 不言舍君に答ふ
短歌十首体と云ふのは吾々は之を連作と稱するのである、十首が頃合故多くは十首宛作るので、十首体と云ふても差支はないが、連作は必ず何首と極つては居らぬ、五六首でもよし十五六首でもよし、一つの趣向で一題數首を連作する歌を云ふのである、是は故正岡先生の創造であるのです、例せば長歌はやゝ大な一本の樹の如く、連作は種々振の替つた樹を植込にした樣なものである、併其植込は必ず數種の群木の上に連關と統一がなければならぬ、
茲が漫然たる一題十首と違ふ所である、精くは雜誌「心の花」五卷の一及び三四に就いて見られよ(左千夫生)
明治35年12月22日『日本附録週報』
(225) 〔『加持世界』選歌評〕
歌章数十百篇今採る所數章に過ぎず 頗る遺憾とする所なれども作者と選者と標準の一致せざる又止を得ざるものあり 投稿諸君願くは着想斬新に趣向に富めるの作を寄られよ
明治36年1月『加持世界』
署名 左千夫選
(226) 新年第一回歌會
根岸短哥會
一月十九日定日に於て義郎宅に例會を開く、不幸にして朝來雨甚しく會せるもの麓一人のみ、止むことを得ず廿六日午後より再會を催せり、天例會にたゝりを爲すか、第二會又雨に逢ふ。
予會場に至れる時正に四時、麓、秋水先づ來り居れり、あるじと予と合せて四人、此上來會者なしとするも是だけあれば會は出來ると人々安心す、
床の正面に竹乃里人の遺墨を掲げたるはよけれど、其の前には書籍雜誌信書反古其他雜物紛然として寸隙なし、床脇の椽には「心の華」「海」等の殘部雜然積上げられ、面の障子に寄せて眞四角なる机一脚、食卓となることありランプ臺となることあるは勿論、時に瓶子の口を揃て林立するも珍しからず、如斯調法なる机、今は裸硯に筆墨を添えられ、原稿紙雜書及、葛蔓の手つけたる巨大なる土瓶等載せられたり、澁紙色の燒物の丸火鉢二つ、此火鉢又雜然たる趣味を發揮して遺憾なし 薄黒き灰に交りて卷煙草の「吸カラ」「マツチ」の摺刺乏しからず、三升入大の紙袋に菓子充滿せるを其儘にさらげ出し′且つ茶を飲み且つ菓子を食ひ、放談高論日の暮るゝを知らず。
(227)歌道奬勵會を嘲笑するもの、「日本」週報の選歌及選者詠に異存をいふもの、いはく、今更古頭連を集合して古頭的歌道を奬勵するなどは隨分御目出度話ならずや、いはく、餘り人のこと許云へまい、今日の「日本」週報の選歌には、「宮人は梅をかざしてうたげせすかも」と云ふ如き、古い方では申分有まじ、いはく何、いはく何、議論はいつしか美術論に轉じ、忽裸體畫論に入りいはく、裸體畫も面白いに相違なしと雖も、世人が女子の裸體者のみを好み畫家又多く女子を寫すを思へは、其間に情慾的嗜好の存せること爭ふべからず、いはく然らず、そは畫家及び嗜好者の罪なるべし、純客觀的なる繪畫にして、多く女子を寫すは當然の事なり、客觀的に於て女子の體貌男子に勝るは云ふまでもあらず、男子の體貌美ならざるにあらずと雖も、男子の體貌美は、勇壯或は強健と云ふが如き寧ろ半主觀の美に屬するものなれば、到底繪畫的美に於て、男子の體貌美は女子に如ざること勿論なるべし、
秋水黙々として黙然たり 時に他が笑ふを見て貰笑をなすのみ、此時思出たる如く懷中より陶の掛佛幅三寸竪四寸許のものを出して衆に示す、話頭忽茲に轉じて稍靜なり、藥房突如として至る 茲に於て會益奮ふ、點燈後は演劇談に起り小説評論に入り再び美術論を交へ、形式美と寫生美との調和を研究せざるは今の美術界の弊ならずや等の論あり、最後戀愛論終りを告げて漸く晩食を喫す 時殆ど八時に近し誠に新年の會たるに背かずと云ふべきか、歌評、
秋水の歌
うれしの歌五首の内一首
故郷に近づく野邊のあげ雲雀たか鳴こゑを聞けばうれしも
(228)麓、義郎、こも/”\面白くない 句法も穩でないと云ふ。葯房、「たか鳴こゑ」と云ふ詞此場合に面白くないが、一二句は「故郷の野に近つきて」と直し度い。左千夫、雲雀の少し働き過ぎて居るのが氣にかゝる、併し※[口+喜]しい感じは顯れてゐる、予は一二句を「歸りきて故郷野べの」と直したい。
次に「しめ」の歌三首二首を評す、
新らしく尻久米繩を引はえて吹屋を齋ふ太刀うちたくみ
葯房いふ、取れる、麓、始めとらぬと云ふて後とらぬと云ふを取消す、義郎、とらぬ上四句迄の詞柔かで結句非常に堅く調子整はぬ。左千夫、予は総べて此種の平凡な説明的歌をとらぬ。
杉村のくらきが下の祓戸のしめ繩ゆらぐ曉の風
葯房いふ、ゆらぐといふ自動詞を受けては曉の風にといはねばならぬ。(衆其説に異存なし)、麓いふ、「くらきが下の祓戸の」といふ二句だらけてゐてしまりがない、此難を除けばとれる、左千未、麓説に同ず、義郎、おもしろひ歌とおもふ。祓戸と云ふ事に就き、衆説紛々、秋水いはく此は祓戸の宮にて參詣者の清めする所で、春日の社にある事實である、衆皆いはく 然らば此歌は春日の社に參りてよめると詞書置くがよからん。
麓の歌
しめ八首の中二首を録す、
ひゝら木になよしのかしらとりよろひなやらふ門ぞみしめなは張る
秋水、望の二句面白いといふ。葯房、義郎、共に句法穩ならねど取れぬこともないといふ。左千夫、節分のわざであるから戸毎に同じ事をやつてゐるのに、此歌では除り場所を指定し過ぎてゐると思ふ、「なやらふ門ぞ」(229)といふと其門許の事のやうに聞えはせまいか。麓いふ、これは鬼をやらつて後にしめを張るといふ式であるから、しめ張ると云ふ詞を始に持つてゆく譯にいかぬ。兎に角句法穩でないといふに一致す、
神南備の山の神杉おもひ過ぎこひば死ぬべし胸にしめゆへ
秋水いふ、難なし。左千夫いふ、おもしろい、譯房、いはく「おもひすぎ鯉ひば死ぬべし」といふは戀の情でない、こひて死ぬとも厭はぬといふでなければ面白くない。義郎、之に同説 猶いふ此歌の如き想は人情に背くものである、左千夫いはく、予は其尋常に違ふ所を取るのだ、死なば死ぬともといふような戀は戀としては左右ありたいが歌として陳腐極まつてゐる、戀といふものが必しも極端でなければ面白くないと定まつては居らぬ、此等の如き場合も有るべき事と思ふ、しかし「おもひすぎ」と云ふ詞つきは少しいやだ。
左千夫の歌
しめ繩の長歌一首
物皆の、さきくありこそ、まがつみの、よすなみこそと、家の内外、おちず清めて、豐の水、井戸にしめゆひ、豐へつひ、釜にしめゆひ、家の口、軒にしめゆひ、垣の戸の、木戸にしめゆひ、天地に、いはひことほぎ、さちまもる、大年の神を、迎へまつらふ、
義郎、左千夫君の歌としては出來がわるい。何だか物足らぬ。麓、少し面白味が足りない樣だ、秋水、「豐へつひ釜」といふを何か釜の枕詞にしたい。譯房、餘り面白くはないが、しめゆひ/\と四つ重ねた所や、「こそ」を二個「豐」を二個對にした所に面白味ありとすればとれる。左千夫いふ、作者自らも少しも負ふ所はない、趣(230)向平凡である事は自分も始めから承知なり、平凡な趣向で歌にせようとすれば、詞で振はせねばならぬ、少しは注意したのである さう振つてゐるとも云へぬ。
義郎の歌
注連五首の内二首を録す、
不入山《イラズヤマ》とはに雰たち自らはるしめなはのなかたえにけり譯房、はるしめなは張れるでなければなるまい、なかたえにけりといふも此場合をかしい、男女の中絶といふ樣な云ひつきだ、しかし自分は兎に角採る。秋水、どこに注連を張つてあるか分らぬ。左千夫、予はとらぬ、此歌ではとはに霧立ちといふ客觀の景色が目立ち過ぎて注連が朽たといふ樣な細微な光景と調和せぬ。此「自ら」は注連が自ら絶たといふ意であらうけれど、こふいふつゞきでは、霧がたつて自から注連を張るといふやうに聞へる。
神山の神のみ札にきる杉の杉より杉にしめかけわたす
皆難なしといふ。義郎、先の歌を消されて此歌をとらるゝは少し意外なりといふ。左千夫いふ、如斯歌は説明と云ふより寫せると云ふを適當とす、よし説明なりともつかまへ所珍らしければかまはぬ。
葯房の歌
席上注連の歌二首を作る即一首を録す、
弓執犬がこの宮にきて神杉のみ注連のうちに駒乗り入れず
皆いふ少し物足らぬやうなれどさしたる難なし。是にて會終りをつぐ 歌加留多數番を弄して解散、尤も愉快な(231)る會なりき。時計十二時を打つや衆驚いて外に出づ、天闇黒、地泥濘。 左千夫記
明治36年2月『心の花』
(232) 花探し
予は從來人よりも多く人を褒めて、又人よりも多く人を攻撃した、自分では中正穩健なる意見と確信して居るけれども人は仲々そうは取つてくれぬ、やれ君がほめ過ぎるからいけないの、やれ君は一體人の事を余りガミ/\いふなどゝ、攻撃せらるゝのである、褒めては褒過ぎ撃つては撃過ぎると云ふ事か知らんが、予は又確乎たる意見も云はず、甲にもよろしく乙にもよろしく、當らずさはらず交際上手にやるといふ樣な事はどうも天性好まんので、世渡といふはそうせねば損だ位は知らんでもないが、天性直情なる予にはそれが迚ても出來んのさ、何にやらうとも思はんのじや、
君は多血過ぎるから肉食などは余りせんがよいなどゝ醫師から注意せられた事もあるから多少熱し易い性癖があるかも知れぬ、
併し見出しの如く花さがしで、穴探しでないから惡口云ふ気遣はない、春早々から惡まれ口叩くなんか、予と雖も余り好まんからなあ、
六卷第一號で余は第一に褒めたいのは表紙の摸樣である、小林萬吾君の表紙の中で予が見た限りに於ては之を天位に推すのである、否々都下幾百種の雜誌中で、是等は慥かに拔群の作であらう、ほとゝぎす六卷第一號の表紙は、下村爲山君の作で近來の傑作と稱すべきものであるが、心の花と相對して表紙界の二大美觀と云ふも決して(233)溢美の言であるまい、彼は艶優精華、是は古雅温麗、共に兄たり難く弟たたりがたし、茲に一寸面白きはほとゝぎす表紙は毫も西洋臭味なき糸瓜を以て畫けるに係らず却て西洋臭味の掩ふべからざるものあるに反し、心の花の方は、百合と云ふ西洋好みの常にワイ/\云ふ所のものを以てしながら少しも西洋趣味を感ぜざることなり、色を以てせばほとゝぎす勝れり、線を以てせば心の花勝りたるべし、尤もほとゝぎすも二巻三卷に至つては、駄目なり、固より色を以て勝れるもの色を變じて駄目になりしは當然とみ、線を以て勝れる心の花は、色を變ずるの點に於いて頗る都合よかるべきか、
百合の花の西洋臭きを嫌へる人々は、一見して主觀的に惡感を起せるものあらんも、そは余りに幼稚なる見樣なり、予は此表紙の上に於て、毫も西洋臭味を感ぜず、此百合の花は全く日本の種にして萬葉的なり、配色又妙も俗気なく奈良朝の風味を存す、西洋畫家たる小林君にして此着眼ある予の大に敬服する所、然れども予は決して西洋趣味を嫌ふものにあらず、只東西兩趣味を生こなしで混和したるが如きを厭ふのみ、
百合の花を西洋の專賣なるが如く心得、明星あたりの自稱詩人等が特約販賣顔するなどは尤も滑稽なり、萬葉集中にも百合の歌少なからぬを知らずや全體日本は百合の多き國なのである。
畢りに百合の花を白紙の生地にて、しかも尤も眼立つ樣に顯せるなどは、大に經濟時に成功したる所、素人の氣づかざる點にて正に稱揚すべき價あるを疑はず、又余り褒過ぎるなどといふものなくば幸なり呵々、
門や玄關のあたりを大に褒めちぎつて、奥に入て褒め樣が足らなかつたら、主人公の御氣嫌を損ずるかも知れむが、褒め樣にも褒める物が無には仕方がない譯である、實を云ふと六卷一號はどう見ても表紙が一番振ふてゐると云はねばならぬ、是れには不服者が多いことであらうけれど、予はさう信ずるのであるから是れも仕方がな(234)い、
文章も一渡見たが文章中には花は見當らない、獨石榑君の文章、常のに比べては痛く見劣りせらるゝ樣なれども、例の手ぎはよき筆つきには感服の外なし、今少し面白きことゝ面白からぬことゝの取捨あらまほし、かゝる文章に歌など勿論なくもがなと思ふは如何、
「客人はみな手傳手なり、よその人よりも内の人の多きなり云々
の一節の如き何等の輕妙ぞ、此手ぎはもて趣向ある文章をかゝれたらばと常に人にも語る所なり、知らず石榑君受け給ふや否や、
サア是から短哥である、どうも少し失敬の樣であるが、信綱君を筆頭として、郷甫君秀眞君眞行君順君昌綱君、此諸君の短歌約首首以上の中で、予は遂に花を見出すことができなかつた、花がないのではなからう予が好める花がないのである、秋水君に至つて、ヒラカンモノカ久延比古の耳といふのを一首印をつけた、蕨眞君のは始の歌一首を面白しと思ふ、八湖漁人吉野甫服部綾足の三氏又一首なし 竹柏會同人の作中予を驚したるは清水寅治君の連作である、能く連作の躰を得て眞情人を動すに足るの作といふべきか、「雨の夜を」といふのと「やせしおもわ」といふ二首は餘り平凡にして稱するに足らねど、他五首は慥に卷中の優作なるべし、併し誤る勿れ廣く一般の上より見て逸作といふべき程にはあらず、只徒に虚誕妄想以て得たりとなせるが中に、着實なる眞情を歌へるを愛せるなり。
次に上條君の「一人身のゑかき義守」を、柳の戸君の「出雲路の旅に出立つ」を山下愛花君の「あかときの霧立こむる」を蕨眞君の「谷小田の鵙鳴く方を」を義郎君のは「妻にもと吾見し妹に」「伊勢人の※[言+虚]にも君の」の(235)二首を面白き花として印をつけた。
余計なお世話につまらぬことをやるじやないかなどゝ不平いふ人もあるに違ひないが、又お互に覺のあることで、大骨折つて歌を作つて皆々は自分でも氣に入らんが、多くの中に一つや二つ必ず得意なやつがあるものである、それを人の見てくれぬといふも隨分張合のないものである、予はそんな人のためにこんな事を試みたのじや、よく思ふ人が少く惡く思ふ人が多いにきまつてゐる、そこを思ふと予自身のためにつまらん事であらう。(樂尊) 明治36年2月『心の花』
(236) 根本的相違
少し古い事であるが、雜誌心の花第五卷八號で佐々木信綱氏は、こふいふことを云ふてある。「詩歌は感情を云ひ顯すものであるに、殊更に耳遠い萬葉集の古言をのみ用ゆるの※[敝/犬]を悟る時がくるであろふ云々」萬葉集の古言をのみ用ひてゐる歌人が今の世にあるか否かは歌を見ればすぐ分ることであるが、そは兎に角同君と吾々と根本的に相違してゐる点が以上の一語中に顯れてゐる 吾々は只感情をいひ顯したゞけでは之を詩とも歌ともいはぬ、詩即歌といふのは美的感情趣味的感情を云ひ顯したものでなければならぬ、も少しくはしく云ひかふれば作者自らが慰むは勿論作者以外の觀者にも快感を與へ同情を起させるようなものでなければ詩でも歌でもない、思邪なしと云ふのが詩の根本である、少しでも邪氣があつては他の同情をよび快感を起すことはできぬ、只感情と云ふても汚穢な感情もある 驕傲な感情もある 卑劣な感情もある、金がほしひ物が食いたいと云ふのも一つの感情である、されば感情といふものは必ず美とも醜とも極つてゐぬものじや、今更云ふでもないが古今集の序のまつ先に「人の心を種として云々思ふこと見るもの聞くものにつけて云ひ出せるなり云々」是だから貫之はだめである古今集は駄目だと云ふのである、人の心といひ、思ふことゝいひ、美とも醜とも問はず雅とも俗ともかまはず、趣味など云ふこと一向御存じなしのいひ振り、こんな考で面白い歌ができる筈がない、少しの考違ひで横途に這入てしまつたから分らぬのである、
(237)人の感情と云ふものは丁度水のようなもので、澄だ所は清いが、濁た所はきたない、根本は清いものであるが極めて濁りにしみ易い、澄ましてくむか、澄だ所をくむか、せねばつかへるものでない、人の感情も美な所趣味ある所を歌はねば詩にはならぬ、吾々の解釋は畧こうである、佐々木君の今少し精しひ説明が聞たい、萬葉の古言で耳遠と云ふことは、佐々木君一派の人々から能くきく詞であるが、是れが深く研究せぬ過ちであると思ふ、予の考では萬葉時代の詞の方が却て現在の社會に行はれてゐるのが多い 耳遠い所のことではない、古今集新古今集などの詞の方が一般社會からは餘程耳遠くて現に民間に行はれてゐる詞といふものが殆どないと云ってよい位である、成程歌詠と云ふ社會では七八百年も崇拜してきた歌集であるから耳なれてゐるであろふが、一般社會の人々に問ふて見たらばどうであろふか、恐く古今新古今時代の歌詞などつかつてゐるもの否々解しうるものは一人もあるまい、
萬葉時代以上の古言が却て國々の田舍に存してあると云ふことは、早く契沖眞淵等も頻りに唱へたのである、吾々も是に就て多少注意しつゝあるが、蕨眞君も云ふた如く(心の華五卷九號)吾郷里上總邊の田夫野人の日常つかつてゐる詞に少からず古言がある、試みに二三をあげて見よう。
さぼす(さ干す)
いじやる(い去る)
までる(まとめる)
片つく(海かたつく)などゝ同じ
木のうら棒のうら(木ぬれのなまり)
(238) 片去る(枕片去る)
くねをゆふ(垣根を結ふ)
ませの棒(馬塞)
せな(背兄)
しゞなり(繁々成)桃柿などの澤山になりたるを云ふ
よしかげる(よせ掛ける也 古事記の歌に豫嗣豫利據稱と同じ詞)
一寸思出したのみでも是位ある、能く調ぶれは澤山あるだろふ、是が吾一郷里丈であるから若し四國九州より關東北越奥州の隈々調べたらどうであろうか、耳違いなどゝ云ふ所の萬葉の古言が大抵現在の社會に行はれて居るかも知れぬ、能く研究もせずして自分達にのみ耳に速くて世間には現に行はれて居ることも知らずに、古言である耳遠い詞であると速了してしまうのは如何にも淺い考ではあるまいか。
それでなぜ比較的新しひ古今集以下の詞が一般現在に殘らないで、萬葉時代以上の詞が却て民間に傳はつたかと云ふに就て予は一の説がある、大君は神にしませばと歌ふてはあるが何といふても萬葉時代までは、社會の組織が簡單である、天皇陛下が野に菜を摘でゐる少女に歌をよむで賜はるといふような時代であるから宮中の詞も民間の詞も少しも變りがなく、それで民間の方はつぎ/\と其まゝ傳はつてきたのであろふ、然るに宮中即上流の方では支那の文物など盛に這入つてきて形式も益々繁縟を極め、上下の懸隔が著しくなつてきたので、勢上流の方が詞などの變化も多かつたに相違ない、即知るべし平安朝以降の歌詞と云ふものが上流のみ行はれた詞で、一般國民に行はれた詞でなくなつた事を、殊に吾國の歌といふものが上流社會のみ行はれてきた故、愈歌詞即古今(239)集以下の歌詞といふものが一般社會の詞と一致しなくなつたのである。こんなわけであるから民間に却て上代の詞が殘つてゐる筈である、そこへ世間の多くの歌人達が少しも氣がつかずに、自分供がつかひなれた詞をのみ新しい詞と思つてゐるは、如何にも誤つた考ではある。
予は特書して世間多くの歌人に警告したく思ふ、古言であるの新言であるのとそんなつまらぬ詮議をよして、日本人のつかつてゐる詞なら神代の詞でも田夫野人の詞でも現在に行はれてゐる詞は云ふまでもなく、行はれてゐない詞でも、苟も日本の詞であるならは悉く研究して、其趣味的なるをとり、其美的なるを採りどし/\歌に用ゆべしだ、少し一般に用なれた詞ならば漢語であれ洋語であれ、づん/\詠みこなして歌にせようといふ今日に、固有國語を耳遠いなどゝいつて排斥するなんど愚の極じやあるまいか、美的感情を云ひ顯すには美的詞の力をかりねばならぬ、趣味的感情を云ひ顯すには趣味的詞の力を借りねばならぬ、丁度繪かきが良い墨よい繪の具でなければ良繪が出來ぬと同じことで、人がつかつてゐるか否かを毫も詮議する必要はない、新しいか古いかも毫も問ふ必要はない、結局の要義は歌に適する詞であるか否かといふことを吟味するが第一である、實用的ならば、分り易いと云ふことが大事である、意義の通ずることを主とせねばならぬは、云はでも知れた事、詩は義を主とせねばならぬもの、趣味を要とせねばならぬものじやないか、苟も文學者の看板をかけてゐながら、是程見易き理窟が分らぬとは實に情ない次第である。
明治36年2月『鵜川』
署名 伊藤左千夫
(240) 塵觀片々
●予は最も青年と幼年とを愛するものである、世間では青年はとかく粗暴でこまると云ふも、その粗暴の所に意氣の淡泊で、而もくらますべからざる靈智を持つて居る、殊に幼年に至つてはその言動更に愛すべく、至つて天眞爛漫で、一點の邪念がない、内の父さんは拘引されるとかで皆が僕をいじめるからも−僕は学校にゆかないとだゝをこねる所なぞ、その母その父之を聽かば如何に彼等の心臓は鼓動するであらうか、少くも萎靡せし彼等の良心は此の小き光明の爲め最も刺戟強く心を動かさるゝであらう、此の世に若し天使があるならば幼年は最も能くその使命を全うするものである、故に余は幼年なけれは世は必ず腐敗するだらうと信ずるものである、幼年は實に/\天が此の世を清くせむが爲めに降したるものである、故に幼年の聲はとりも直さず天の聲である、世は實に幼年ありてその生命長に清らかである、幼年なき世は必ず滅亡を免れない、故に幼年の聲に耳を傾けないものは天に背くものである、畢竟するに破簾恥此の上もない人間である。
●世に次男三男はひやめしであるとの諺がある、是れ恐らくは家長制度より出でたるものであらう、しかし家族は須く平等的でなければならない、長子長女に愛を專らにするは野蠻の風習である、我等は癈疾孤獨のものに對しても人として之を見るべきである、まして或るものに限りて愛を專にしてその孝養を請求するは最も理の當を得ざることと思ふ。
(241)●近刊の教育界を見ると教科書事件を論じて居る、金港堂の教育界、盗人にも五分の理あるとの諺があるから、まんざら理なきでもなかるべしである、けれども何となく可笑感ぜられて面白し。
●之を或る醫師に聞く、私生兒の診、斷、年に必ず八九人あり、而して醫師は此の秘密を守らざれば繁昌せずと、あゝ是れ何の兆ぞ、是れ下流の事か將た上流の事か。
●二月發刊の中央公論に近衛公爵の學習院の生徒に告げたる話が載つている、曰く獨り悲むべきは彼等が卒業後の状態である、彼等は衣食に差支なく、地位があり、それで働き得る腕を有ちながら、社會の事に奔走する等の事は殆どせず、別莊に往くとか、温泉に往くとかして、寫眞を撮り、獵をする位が殆毎日の仕事となつて居るのである………あゝ富人閑居して何をなすとやら。
●予の最も嫌ひなものは大學卒業生である、彼等は殆猶太人的の根性を持ち、四五人も集まるとそれはこそ/\と、而も之れ見よがしに、何か赤門の特長を喋々喃々と饒舌してゐる、彼等のすることはこけおどしで、男らしくない、此の風のあるは理科と文科とが最も多い樣である。
●凡そ己が專門以外の知識は何人と雖小兒と異なるものでない、元來知識は或る事實に對する眞僞是非の認識である、從つて其事實を異にせば其知識を得るにも新なる認識を要することは理の當然である、されば我等は宗教的意識を有するが故に必ず宗教的知識を凡ての人が有するものであると斷言することが出來ない、その信仰はあるべけれども、宗教的知識は宗教家若くは宗教の事實を考察したるものに限りて有するもので、他の學者の知識は甞て學びたるその以内の知識である、然るに世人はともすると、彼は擧者である、而も此の教を信ずる、だから此の教は値があると云つて居るものがある、かゝる見解は佛教家に最も多い樣で、譬へば某は中將である、(242)此の人にして我佛教を信ず、彼は文學博士である、此の人にして我が儒教を信ず、此れ我教の勝れる所以であると威張て居る、成る程某は中將なれば軍事上の知識は一般の人間より多かるべく、又彼は文學博士であるから文學上の事は能く辨へしならん、されども宗教上の事は是れ平常彼等が知識する所でない、最もその大躰は知るべきも、その内容の如何を知悉して居るではない、是に至ると誰彼は凡てその専門以外の事は何ぞ三尺の童子と撰ばんやである、昔し孔子は農の事は我は老圃に如かずと云つたとやら、實に是れ凡て專門以外の事は兒童であるとの好例證であるまいか。
●佐藤一齋曰はく、一藝の士は皆語るべしと、然り凡そ一藝一能あるものは必ず相當の知見を有するものである、即動すべからざる毅然たる丈夫の志がある、是れ孟子にある王良が嬖奚に比せざるを以て徴すべきである、由て意ふに丈夫の志は學問のみに由て得るものでないことである、是に至つて學者……あゝ學者になりたくなきものである。
明治36年3月『新佛教』
署名 塵菴
(243) 神樂催馬樂管見
神樂催馬樂は謳ひ物なり、其歌體や其句法や皆音節に關係あること勿論なるべし、音樂を解せずして之を評せんとするは梶なくして舟を漕ぐが如けんのみ、是に關する著書又少からずと雖も、多くは國學者なるものゝ考證解釋徒らに其意義を辨説したるに過ぎざるが如し。
聲調の趣味に至つては固より音樂家を待て始めて知り得べきもの、門外漢の容喙を許ざるは勿論なれども、神樂催馬樂なる一體の古歌が種々なる點に於て普通歌人たる吾々の參考に資すべきものあるや疑ふべからず、只此體の折衷若くは摸擬を試みんとする者は、何所までも是れが謳物たることを忘るべからず。句法の變化多き長短定らず、五言五言と重ね或は七言七言と重ねたるが如き珍しからず、其縱横自在なる普通の短歌長短の形式稍一定せるものと同じからざるものあり、是の形式の變化せる所頗る面白きが如しと雖も、或は音律の必要より如斯なるやも知るべからざるを思へば、之を露骨に模倣せんは極めて危險にして無稽なる所業にあらずやと考ふ、必要なる場合に於ては三言四言固より可なり六言九言更に厭ふべきにあらず、然れども強て句法の變化を求め、殊更に普通ならざる句法を用ゐて、單に形式の上に表面のみの異體を悦ぶは、予の到底同意し難き所なり、謳ひものならざる普通の長短歌に、謳ひものなる神樂催馬樂の折衷を試みんとせば、大に戒心を要すべきや明かなり。
(244)近頃長塚君香取君等頗る神樂催馬樂の研究に熱心なるが如く、時々折衷體の製作を試むる所あり、其作歌未だ予輩を満足せしむるに至らずと雖も、平板なる常式を繰返すに飽き、聊か變化を新にせんと望まるゝの精神に至ては、深く敬服せざるを得ず、予又長塚君等に促されて少しく研究を試む、敢て愚考二三を抄出して諸君の教を待つ。
神樂催馬樂なるものが音律を別にして猶極めて面白く、萬葉以外に一種の趣味を有せることは云ふを待ずと雖も、予が殊に認めて以て神樂催馬樂の特色となす所は、其歌の十中七八迄唱和體若しくは連績體なるにあり、此唱和體なるものは萬葉集中の問答の歌と稱するものゝ一變したるものなれども、此神樂催馬樂歌に於て、縱横に其趣味を發揮したるは、最も注意すべき點ならずんばあらず、殊に連續體に至ては、前後其例を見ざる所、獨特の長所は實に此連續體にありと云ふべし、然らは神樂催馬樂歌は形式の點に於ては萬葉以上更に一歩を進めたりといふも決して誇言にあらざるなり。
予は先年本誌上に於て連作の短歌に就て論説を試みたるは讀者諸君の知る所なり、而して連作は短歌形式上の一大進歩にして、連作あつて始めて短歌形式の上に漢詩俳句其の他の詩と對抗し得べしと論じたるも予が拙文を讀める人は必ずや記臆せん、其當時予は反復説明したるが如く、短歌の形式は接續體一本調子なるが故に綜合せる複雜と趣味を發揮し能ざるの弊あり、是短歌性格の缺點とする所にして連作は其缺鮎を補ふべき、自然の要求に依て發生したるものと云ふべきか、予が連作創始者たる正岡大人の功績を偉大なるを稱して措かざる所以のもの豈に夫れ偶然ならんや。
而して予は今此神樂催馬樂中に萬葉以外連作以外別に一體の存せるを見て、神樂催馬樂作者の功績を激賞措かざ(245)らんとする者也、惜むべし其作者の何者なるや絶て知る能はず、思ふに萬葉以降猶暫くは作家に乏しからず、遂に余りに單純なる短歌形式の缺點を補ふべき一體を創始せるものなるべし、問答の歌は已に萬葉集に萌芽を顯し神樂催馬樂に至つて全く唱和の一體を成せり、連續體は唱和體の更に進歩せる形式なり、連作の如く純然たる綜合體の詩形にあらずと雖も長歌の云ひ得ざる所を容易に發揮し得べき體なるや疑ひを容れず、
如斯種々なる形式の創始せられ最早今日に於て短歌性格の不完全を感ずる患なきを得んか、神樂催馬樂の歌其數僅に二百首を出でず、然も國歌沿革上著大なる關係を有せることは以上の論明に依て知るを得べし。
由來神樂催馬樂の研究に從事せるもの其人に乏しからざるも一人の能く其短歌特異の點あるを發見し得ざりしは口惜し、國學者なるもの固より趣味を解せず只其解は意譯に過ぎざりしは怪しむに足らずと雖も、吾同人諸子苟も新進を以て自ら任じつゝありながら、神樂催馬樂に對しては其調子の變れるをのみ面白しとして露骨に模擬を敢てせんとするが如き形跡あるは予の遺憾とする所なり。單一なる短歌が詩形として不完全なるを免れざることは屡反復せる所、されば此短歌に於て更に趣味を發揮せんとならば更に工夫する所なかるべからざるは又た屡繰返したる所なり、萬葉以後の千萬の歌人等が、其短歌形式の缺點を覺り得ず千有余年間陳々相寄るの愚を演じ來りしを思ふに何ぞ測らむ、神樂催馬樂の作家は其歌數極めて少なきに係らず、能く短歌形式の缺點に對し一大工夫を凝せるの跡あるは予が稱嘆措く能はざる所なり、予輩今にして神樂催馬樂を見る遲かりしを悔ゆ。
吾正岡大人が晩年選歌の跡を考察するに、單一なる短歌を採ること殆ど皆無の有樣にして、短歌は連作にあらざれば不可なりとは斷言せずと雖も、少くも連作體ならざる短歌は趣味の完全を認むること極めて難しとなせるが如し、寧ろ小長歌或は小長歌を二つ三つ連ねたるを悦ばれたるが如かりしは、同人諸子の認めたる所なるべし、(246)今神樂催馬樂の歌を返復讀誦する時は、殆ど正岡大人晩年の選歌標準と甚だ相似たるかの感なくんばあらず、見るべし神樂催馬樂中單一なる短歌の殆ど皆無なることを、唱和の體ならざれば、連續體、然らざれば小長歌にあらざるはなし、複雜なる人間の感情は到底單一なる短歌一首にては滿足を與へ難きに依れる自然の要求が産出せる結果なるなからむか、併ながら是れ眞詩趣を要求する詩人にして始めて起るべき問題なることを忘るべからず。
何を唱和體といふか。
さかき葉の香をかぐはしみとめくれば八十氏人ぞまどゐせりける、(以下繰返の句は除く)
神垣の三室の山のさかき葉は神のみ前に茂りあひにけり、(同前)
此両首を一首づゝに引放し見ば如何にも簡單にして感興を滿足せしむるに不充分なるは云ふまでもあらず、然るを二首相待つて、一は、人事を顯し一は、さかきの所在を三室山の神のみ前と云ひて茲に兩首の綜合上混然たる一詩體を畫き得たり、如斯は一首にして到底爲しえざる所、若し強ひて顯しえたりとするも調子の上に於て失敗せんこと明かなり、此悠揚として緩やかなる調子を以て、複雜如斯詩境を無造作に顯しえたるは全く唱和體を工夫したるの功にあらずして何ぞや、神樂歌作家の容易ならざる手腕ありしことは此二首を以て見るも卜するを得べし、以下大同小異前首後首を補ひ後首前首を補ひ以て感興を多からしむるの工夫は同一轍なり、一々擧げて評せんは煩はし讀者宜しく集に就て見るべし。
形式聊か變る所あり且つ尤も面白き歌一二を評せん。
井奈野
(247) しながどりやゐなのふし原(あいぞ)「拍子詞」とびてくる鴫か羽音はおとおもしろきしぎか羽音は、
しながとりやゐなのふし原(あいぞ)網さすや吾背の君はいくらかとりけむいくらかとりけむ、
こは自ら唱て自ら和したるものなれども、之を唱和體と云ふ固より不可あらず、兩首相待て如何に能く作者の境遇思想を顯し得たるかを見よ、其の云ふ所如何にも單純なるは無邪氣なる作者の風貌視るが如く感ぜずや、「鴫か羽音はおとおもしろき」直覺的表情何ぞ夫れ天眞なるや、鴫の羽音が何故におもしろきか、そが懸ひ/\て忘れがたき夫は今鴫とりに野にあるなり、鴫といふことが其夫と相連關して作者なる女子に如何に強く感ぜらるゝか、其鴫の羽音の殊におもしろきは、鴫捕に出居る夫を思ふ女子の心より無意識に湧き出たる感情ならずんばあらず、其境遇に居る作者自身にのみ、殊に面白く感ずるなり 即直覺の直覺たる所以、然ども前者のみにてはそれだけの趣は感じられざるなり、後首あつて始めて能く作者の位置境遇が彷彿として目に浮び來るを覺ゆ、ゐなのふし原に網さす背の君はいくら鴫を捕つたか、飛てくる鴫の羽音を聞ては今は思ひに堪へず、可憐の少女はそが背の君に遇ひたさにゐな野に向つて往きつゝあるが如し、何ぞ情趣の靄然たるや、讀者をして覺えず恍惚たらしむるものあり、次なる脇母古と相接續して更に趣致の盡きざるを認む
脇母古
わぎもこにや一夜はだふれ(あいそ)あやまりにしより鳥もとられず鳥もとられず、
しなかどりやわか背の君は(あいそ)五つとり六つとり七つ八つとりこ1のよ十をはとり十をばとりけんや、
こは小長歌の唱和ともいふべき體なれども前の井奈野の歌と連接して見るべきものならむ、男唱へ女和したるなり、此兩歌前の井奈野と連接せざれば詞つき皆突然にして解し難き節なきにあらねど、例の連作的に四首連接し(248)て讀む時は興趣云ふべからざるものあり、
是等の體實に此集の獨特にして決して他に其類を見ざるなり、歌の趣は鴫を捕りつゝある井奈野の夫の許にゆきて少女が一夜やどれりしを、夫なる男戯れて卿と一夜ねて卿がことのみ胸に浮ぶ故遂に鳥を捕りそこなへりそれより更に鳥が捕れぬと歌ひたるなり、其實鳥がとれぬにあらず、殊更にとれぬと興じて幽懷を序したるなり、故に少女は背の君はさうはいふとも如斯茲に九つも十も捕つてあるならずやこれは如何にしてとりけんや、と戯れ返せるなり両者和樂の状如斯無難に顯はれたるは萬葉集中と雖も之を見ること能はざるべし、要するに進歩せる形式に依れるが故ならずんばあらず。此歌體は唱和體にして又連續體なり、予は如斯連續體を最も面白く思ふ、催馬樂中の「高砂」「貫河」の如き連續體は又少しく異なれり、予今は進て連續體を説明し詳論し且つ今の連作體との相違を詳にせんと欲すれども、森田君の催促急にして之を本篇に盡す能はざるを恨む (二月二十四日)
明治36年3月『心の花』
署名 伊藤左千夫
(249) 〔名古屋短歌會選評 四〕
第四例會 課題新年雜詠
〇 山下愛花
氷柱神菅玉かざる城の森よべの風なぎ年立ちにけり
第四句「よべの風なぎ」は面白からず、如斯廻り遠き説明は感興を殺ぐ場合多し、直に朝の森の靜なる感じを顯さんと務むべきなり、況や風なぎと年立との關係に何等の面白き節なきをや、「朝日たふとく」など直さば如何とおもふ、靜かと云はずして却て静なる感を顯し得むか、併し猶更に面白き云ひようあるべくや。
年の神天降りたまひし渡つみに日靈の比賣のゑみたゝすみゆ
如斯理想の形容を序せんとならば、今少しおほまかに句法も堂々として勢ある樣に云ざれば面白からず、天降たまひしといひ「ゑみたゝす」といひ何ぞ句に力なくこせつきの甚しきや、「ゑみたゝす」などいふとも固より客觀的に形なきものなるを、かくこと細かに寫生的にいふては、作り人形か何かの笑ひ居るが如く思はるゝなり、初日出の堂々として神さびたる感じを顯さんとする如き場合に、こせつき序法は最も忌むべきなり、試に
大年の神天降ますわたつうみ瑞日かゞよひ照り渡るかも
(250) 〇 黒部不關妨
年たつ日民なぐさむと天照す神の賜ひし屠蘇の御酒はも
「はも」のつかひ方誤れり「はも」といふ詞万葉集にては何々は如何せしか或はどうしたかしらなどいふ場合に用ゆ、たづね問ふ如き意味に用らる、吾同人諸君此詞を濫用すかの感あり、「神の賜ひし」「屠蘇の御酒はも」など如何にも勢なきいひようなり、これも愛花氏の歌と同樣理想の形容なれば強く大まかに云はざればたふとき感じあらはれず、天照らす神などゝ歌ふ場合に決して句の緩漫を許さず、試に
年立つ日民なぐさむと天照す皇大神のたびし豐みき
千早振神の御民らけふの日に命をのふる屠蘇の豐酒
第三句あろし、貫之の歌の「春立つけふの風やとくらん」のけふと同じくことさらめきて理窟に陷れるなり、「おしなべて」など云はゞ可ならむ、かく直さば感よき歌なり。
とそみきの醉のよけくに出でゝ見る四方の春邊はうるはしきかも
第四句よろしからず、殊に「かも」のつかひ方最も厭ふべし、うるはしきにて充分なるを文字足らざるために「かも」と入れて埋めたるが如し、此かもといふ詞を用ゆるは疑の場合は勿論嘆聲の場合にも必ず全首を受けて結ぶ時ならざるべからず、舊派の連中は無論なれども新派と稱する人々も、平氣に此「かも」「かな」を埋め詞に用ひつゝあるなり、無用の詞をうめくさに入るゝ故に句しまらざるなり、吾同人諸君願くは注意せられよ、萬葉集などには決して、一句のみの必要より用ひたる如き「かも」の用ひ方はあらざるなり、例せば
みこもかる信濃の眞弓吾引かはうま人さびていなといはんかも
(251) 東人ののざきのはこの荷のをにも妹が心に乘りにけるかも
前のは疑の場合後のは嘆息の場合、何れも其「かも」の字を拔きさらば意味まとまらぬものと成るべし 他は推して知るべきなり、如斯些細の點にも注意を怠らざるは吾根岸派の特色とする所なれば返す/\も諸君の注意を望む、さて此歌根本的に改造を要す。
〇 久野廣成
新しくいさこもらせて初ひきのつるの普高し宿の廣庭
新年に弓の初ひきを捕へたるはよき思つきなれど調子は全く近世振なり、「いさごもらせて」尤もいやみなる云ひようなり、すべて歌に命令的詞を用ふるは厭味なる場合多し大に注意を要することなり、上二句は自分の動作の如く、下二句は他人の動作の如し、練想注意を欠けるの過なり、試に
初引に弓を試む廣庭にいさごひきのし弓をこゝろむ
覺束なし、
初孫の初宮まうて年たちて餅なげすなりうふすなの森
こも前と同じく捕たる所は惡しからず、併しかゝる序しかたにては殆ど歌にならぬなり、「もちなげすなり」などは余りに卑俗なる云ひ樣ならずや、試に
あら玉の年のことほき初孫の初宮まゐり八重のほぎすも
〇 奥島欣人
白妙の、眞袖ゆら/\、赤羅引、緋の袴の、衣すれの、音のさや/\、(252)渡殿を、來るは妹かも、粥の木に、手力をこめ、玉たれの、小簾の戸かくり、しぬび入りにけり。
面白き題目の樣なれども、これだけにては何の事か分り難し、肝要の點は今少し明に序せざれば、感じまとまらざるなり、折骨好題目を捕へ得ながら刻苦せず、眼に觀たる寶玉を逸したる如き感なからずや。
廣前に妹がまつりし常陸帶吾名をかへせ鹿島大神
面白いとも面白くないとも云ひ難き歌なり、「妹かまつりし」といひ「吾名かへせ」といひ自他の意味明ならざるの感あり。
明治36年3月『鵜川』
署名 左千夫選評
(253) 〔名古屋短歌會選評 五〕
第五例會 課題 能樂雜詠
櫻ちる月讀くもり梅若の能樂堂に笛の音ふけぬ 山下愛花
思想の順序句の組織甚不自然なり、從て調子少しも整ざるは口惜し、一二句の所に既に月夜のことを序し又突然結句に「笛の音ふけぬ」など云はゞ感想の混雜を招く、總て「笛の音ふけぬ」「物の音霞む」等の詞厭味なり、詞づかひに小細工を弄するは何れの場合にも面白からず注意すべき事なり、試に、
久方の月もおほろの花のよる能樂堂に笛の音すも
良き歌にはあらず思想の順序を正せるのみ、
菅の根の長き春の日玉殿の御能の舞は見れとあかぬかも 山下愛花
「見れとあかぬかも」などいふ必ず特別の場合ならざるべからず、只「長き春日に能の舞は見れとあかぬかも」とは云ふべくもあらず、何れの物に就きても、通常より面白き場合にして始めて「見れとあかぬとか聞けとあかぬとか食へとあかぬとか」いふべきなり、況や見れとあかぬとか云ふ如き場合に、日の長きを感ずることあらんや、猶尋でなれば云ひ置き度きことあり、「菅の根の」と第一句にいひて又第三句に「玉殿の」と同じ調子にい(254)ふをば予は甚だ面白からず思ふ、尤も是は「の」に限らず「に」「き」「く」皆同じきなり、然れども此の如きは萬葉にも少からず同人諸君も無頓着の樣なれば、或は予一人の感じなるやも知れず、記して以て諸君に問ふ、
謠曲櫻川
花鳥の立別れつゝ親と子が逢ふ時知らす春も過ゆく 黒部不關坊
花鳥の立別れとは如何、こは矢張白雲のなどあらん方穏かなるべし、「逢ふ時知らず」「春も過きゆく」の二句調子如何にもだれたり、さればにや少しも熱情を感ぜず、猶謠曲櫻川としては少しく物足らぬ樣なり、
筑波ねの山風吹けは櫻川花ちりみたれ心はくるふ
すくひ網すくふは水にちる櫻吾戀ひしきはまな子櫻子
面白し、狂態限前に觀るの趣きあり、
久万の天の羽衣ひるかへし立まふ袖に春の風ふく 久野廣成
余りに平凡なる云ひ樣なり、天女の舞に立まふなどいふも又ふさはしからず、試に、
春風に天の羽衣ひるかへしみ空かけらひまへる少女や
謠曲熊野
たらちねの母の病をみまくほり思ひ煩ふ乙女子あはれ 伊藤直郎
鳥が鳴吾妻を遠みたらちねの母戀ふれどもせんすべなくに
たらちねの母の命を守り給へ南無清水の觀世音菩薩
能く眞情を得たり、平淡にして感深きは背面に熱情の存すればにや、
(255) 櫻咲く日高の寺の撞鐘のうちゆ舞出る鬼おそろしき 寺野黔雷
詞熟せず「鬼おそろしくなど無用の詞なるべし。鬼出づといへば恐ろしき感自らある樣に有たし、しかも此歌の初句櫻咲くなどありて、少しも物凄き景色なきに、結句突然「鬼おそろしき」といふは不調和ならずや、寧ろ能楽の鬼なれば面白く鬼を見る方却てよからむ、さらば、
櫻咲く日高の寺の釣鐘のやくらの内ゆ鬼あらはれぬ
猶説明に近くして面白からず、
羽衣の天つ乙女か駿河舞まひづる袖に櫻ふくなり 寺野黔雷
「袖に櫻吹く」といふ詞聊か穩かならぬ樣なれども聞えざるにもあらず、駿河まひとことはるは如何と思ふ、改作、
羽衣の天つ少女か天かけり舞出る袖に櫻吹くなり
此櫻吹くといふは風が櫻を吹きつくると見るより只櫻が斜に飛び來つて紬に當るを吹くと見たる方面白からむか、
本巣野のおやこのたみの末の子に今も傳へし瓢しぬばゆ 牧田三青
難なし、
謠曲羽衣
御能まふ臺につゝく廣前の庭をた廣み花咲きをゝる 奥嶋欣人
これは花のさかりに能舞臺にて能樂があるといふ思想ならむ、されば花を前に序して能の事を後にいふが順序かとおもふ、此歌にては中心点が花か能か判然せぬ、若し花を此歌の中心とせは、能樂の如きはでやかに複雜なる(256)事を半面に序して一面に花の事を少しいふたりとも、花の感じは壓しられてしまひはせずや、又これが現在に能樂があるにあらずして、第一句の御能まふといふが臺の説明ならむには、益感懷を混雜せしむる極めて拙なる序法なり、試に、
花を主として
能樂の舞臺の前の庭櫻庭も照るかに花さきをゝる
能を主として
櫻咲く長き春日を笛つゝみ妙にのどけき能の舞かも
良き歌にはあらず只中心を定めたる迄なり、
天つ女か降らす花かも否をかも廣前櫻花のちるかも
此「かも」を三つ入れたる句法早く万葉集にあり、平賀元義之を摸し香取君ら又之を摸し長塚君之を賞せり、予は如斯際立たる句法を摸するは甚だ不賛成なり、それも對照物非常に振つて居れば敢て不可ならねど、普通の物にては摸倣者の手柄更に無き譯ならずや、万葉の作家は此の句法を發明したるが故に面白きなり、後世の人先人の發明を盗むは余りに陋なりと云はざるを得ず、奥嶋君に對し甚失敬なれども再摸倣するものなからむを願ふまゝに茲に一言せるなり、且つ此歌の如き趣味、古人の句法を摸せずとも能く顯し得べきなり、試に、
庭櫻風かさそへる天つ女がしかも降らせる花のちらくは
明治36年4月『鵜川』
署名 左千夫選評
(257) 連作乃歌
に就きての御尋ね、心乃華誌上の拙稿は御承知の事と存候得共序でに聊か説明を試み申べく候、諸君の能樂雜詠の歌、之を連作と申して申されぬ事は無之候得共、愚考にては少しく物足らぬ心地致し候、諸君の雜詠は只漫然能樂に對する雜感を述べたる迄にて、之を連貫する趣向無之樣に見受けられ候、趣向無之候故數首の歌を列ね候ても、客觀的には詩境明かならず、主觀的には一貫せる思想無之、思ひ浮べるまゝをつぎ/\と讀めるまでかと思はれ候、是にては一題數首の歌と大差なく、短歌形式上に一進歩を遂げたるものとは稱しがたく候奥島君の羽衣の五首、稍連作に近く候得共、寫すこと精しからず、客觀的に見ては光景充分に顯はれ不申概括的説明に陷り候、要するに作者の位置即作者の立場が不明瞭なる故かと存候、現在に能樂を行ひつゝある時が櫻の咲いて居る時で、それを見たる作者の感懐を詠めるならば、作り樣に依て立派なる連作になり可申候、奥嶋君の歌は、それが事實でなく空想即想像故失敗致し候、空想も想像も必ず排斥すべきものには無之候得共、空想或は想像の趣向は極めて單純なる光景か若くば主觀的ならざれば、迚ても成功致しべきものに無之候、櫻の盛りに能樂を見て之を歌に詠むといふ如き、客觀時に極めて複雜なる事實を、想像にゑがくは實に無理なる事にて、危險此上なき業かと存じ候、小生は寧ろ其大膽なるに驚き申候、余り復雜なる事を順序なく統一なく概括的に詠みならべ候ては決して詩境の光景を顯し得る物に無之候
(258)連作の歌は趣向あつて始めて作りゑらるゝ物に候尤も事實は直に趣向なる場合有之候故事實の事はつかまへ所に注意するが即意匠と存じ候從令へば山吹の歌を作るとしても、庭の山吹、垣の山吹、水邊の山吹、などゝ申ても皆陳腐にして平凡、一首や二首は兎に角迚ても五首以上の歌が作れる気遣無之候、それが同じ庭にある山吹でも一寸精細に觀察して、垣根の出這入口にある山吹といふ事になると、一つの趣向に相成り候、此出這入口は種々なる人事を呼び起し、山吹との配合が極めて複雜なる思想を演出し申候(故竹の里人の歌參看)
謠曲雜詠にしても羽衣全体を歌にせんとするは無理なる事にて却て陳腐に相成り平凡に相成り可申候、羽衣中の一節何所か歌に成りそうなる一ケ所をつかまへ、謠曲の詞にある以上の事を想像して始めて歌に成可申候、自分の歌を引きて説明するは可笑しく候得共小生の羽衣八首は作者は白龍翁になり天人と別れて數年の後に再び三保の松原にゆき往事を忍びて感懷を述べたといふ趣向に有之候、歌のよしあしは別として、趣向のとりかたに就ては聊か得たりと存じ候連作として立派なものとは申されず候へども先づ連作と稱して差支なきものと自信致し居候
連作と申ても固より其体一ならず、複雜なるものゝ中に一か所をつかまへて詠めるは連作に候、簡單なる光景を種々に詠み盡すのも(竹の里人の歌松の露參看)連作に候 一個の思想を以て種々なる客觀の景物を一貫して作れるもの(竹の里人墨汁一滴中しひて筆とりての歌參看)も連作に候 作者が或特別の位置に居りて打見たる光景を順序的に詠めるなども位置に依てなれる連作に候(竹の里人ガラス戸の内より月を見て詠める歌參觀)前號の拙歌銀杏の歌は極めてつまらぬものに候得共、趣向は、或少女と銀杏の下に數々遊べる事を程經ての秋の頃其銀杏の殊に色美しきを見て、往事を追想して詠めるものに有之、即懷舊的戀の思想を抱きて銀杏を見、それより起る感(259)概を述たる故に連作に相成候、數首の上に客觀主觀共に統一あるものならざれば連作とは申がたく候、文章に拙なる小生迚ても書いては意を盡しがたく余は拜眉之節委曲可申述候 多罪々々
明治36年4月『鵜川』
署名 左千夫
(260) 受動時宗教家
宗教なるものに對しては、予はどこまでも受動の位置に安ぜんと欲するものである。諸君の席末を汚して、新佛教同志に加入せるも、又自らの身を諸君の活動に接觸せしめ、諸君の感化を受けんと欲するの希望に過ぎぬ。人を教ふる位置に加はらずして、人に教へらるゝ側に居らんと云ふのである。
かく云はゞ、そは横着なる考ぢや、人に教へられたものは又人を教ふるが當然である、自分は人に教へられむことを希望しながら、人を教ふるの任務はいやぢやと云ふは、社會に責任といふものゝあることを知らぬ申分であらう、と云ふ樣な非難があるかも知れぬ。
予は此非難には服せぬ、人を教ふるといふことは、重き責任の存することで、必ず専門的研究と修養と兼たる人でなければならぬ。佛教と耶蘇教との區別すら未だ十分には解し得ざる予の如きものが、今より多少の研究を爲したりとも、容易に人を教ふる迄に至り得べきでない。然のみならず、宗教と云ふものを、廣く社會の上より見るときは、教ふる人は極めて少く、教へらるゝ人は最も多い。從ツて教ふる人必ずしも尊くない、教へらるゝ人必ず卑しいといふ譯ではない。要するに、宗教上專門家と素人との相違に過ぎぬ。從來の名稱でいへは、僧侶と信徒との區別である。
されば、責任と云ふ點より見ても、僧侶には僧侶の責任あり、信徒には信徒の責任がある。即予は此信徒たらん(261)と欲するので、尤も正直なる新佛教の信徒たらんと希望するのである。從ツて信徒としての責任は、決して免れんと欲するものではない。
吾同志中に於ても、先に無僧論など主張せられた人もあつたと記臆するが、自由討究を唱道する新佛教徒にありては、當然の事なるべけれど、如斯問題は、餘り無造作に論斷すべきものでない、勿論今の所謂僧侶と云ふものゝ如く、餘り專門になり過ぎて、宛然一個の渡世の如き觀あるものは、甚だ面白くないものにきまつて居るが、此厭ふべき感じのある僧侶を嫌ふの餘りに、宗教上の專門家と素人と、即教徒と信徒との區別まで嫌はんとするは、大に考ふべき事であると思ふ。
茲に予が專門家といふのは、常識の基礎ある上に、專門家たる資格ある人を指すのである。名稱はどうでもよい、僧侶の名が面白くないならばそれは廢してもかまはぬ、寺といふ名が癪にさはれば、それも改めても差支はない。只自然の勢といふものは、人力を以てどうする事も出來ぬ。教ふる人と教へらるゝ人との區別がつくのは、自然であらう。既に區別がつく、名從て起るは勢であるのである。
予は寧ろ教ふるものを教徒といひ、教へらるゝものを信徒と云ひ、明に區別があつて、各其本分と責任とを盡す方が、却て何かに都合がよくあるまいかと思ふ。
宗教といふものが、社會に少數なる賢者や學者の慰みものでなく、廣く社會と關係して、如何なる人間にも感化を與へ樣とするならば、是に專門に從事するものがなくては、とても行はれるものでなからうと信ずる。如斯信じながらも、予は猶專門家たることを避けて、素人の位置に居り、教を受くる側に安ぜんとするは、先にも云へる如くであるが、猶別に專門の業があるのと、どこまでも受動的に宗教に關係するといふことに、頗る面白みが(262)ある如くに感ぜらるゝからである。
そこで正直なる信徒として、受動時宗教家としての予は、
一、宗教の總ての動作に接觸して受けたる信徒の感懷、
二、精神の慰安に關する信徒の要求、
三、詩人たる信徒の見地より見たる批評、
こんな順序で、是から時々愚考を述べて、諸君の判斷を乞うて見度いと思ふ。勿論社會に向つて言ふのではなく、一人の信徒が、專門宗教家に訴へるのである。又此三個の問題が、今同志間に有るといふのではない、是から逢着次第に訴へるとの考に過ぎぬ。是は讀者諸君に斷つて置くのである。
予はまづ信者でも何でもなかつた。宗教に對しては全く傍觀者であつた時の考から少し書いて見よう。茲十四五年以來、我國に於ける宗教問題は、隨分と騷しいものであつた。宗教家自らが論場に立つて騷ぐ許りでなく、新聞に雜誌に、局外者よりも頻りに論ぜられたのである。
世の所謂宗教家なるものは、社會の宗教思想が、零度以下に降下し居るといふ事には少しも氣づかずに、只頻りと、御互同志間に研究すべき問題を、社會に發表して、以て得たりとなせるもの比々皆然りであつた。
宗教家の議論は、所謂宗教家間の議論にして、宗教の目的たる信徒の思想感情と、何等の關係を有せぬのである。宗教家千百の議論は、信徒一人を導くの効力だも認められぬのである。傍観者たる予は、當時の宗教家なるものを、多くは宗教の本旨を解せざるものゝみと思つた。
局外者究固より宗教を解すべき筈なく、僧侶を以て宗教となし、僧侶の墮落を以て直に宗教の墮落となす。僧侶(263)の墮落を攻撃しては、佛教の廢頽たのむに足らざるをいひ、寺院の減少を視ては、佛教の滅絶遠からずと憂ふ。是等の事、固より宗教上の慶事でないに相違ないが、僧侶の墮落は僧侶の墮落ぢや、僧侶の腐敗は僧侶の腐敗ぢや、佛教の眞光明は、墮落僧侶のため毀傷し了せらるゝものでなからう。
予は當時以爲らく、宗教を論ずるもの、當事者局外者、共に根本に通ぜず、僧侶に依て佛教興敗すとなし、僧侶佛教を支配すべしとなす、既に此大根本を誤解す、如何にこね返すと雖も何の甲斐かあらむと。
幾千幾万萬の僧侶、悉く聖人ならざる何の世か然らざらむ、僧侶の腐敗墮落、必しも今世のみにあらず。佛教は依然たる佛教なり、腐敗僧侶なる寄生蟲の附着が、幾分其光明を掩ふあるとも、一旦社會の一方より、佛教に新要求を起し來るの日あらば、區々の腐敗僧侶何かあらむである。
社會の要求を基礎とせる宗教が、多くの活動力を有せざるは、自然の理屈にあらずや。佛教は依然たる佛教なり、而して久しく其活動を認め得ざるものは、罪何所にか歸すべき。僧侶の罪か、社會の罪か、僧侶固より罪多し、然かも宗教は僧侶に必要なるものにあらずして、社會に大必要のものなりと云はずや。自個に大必要なる宗教の活動を要求せざる社會、千年傳へ來りたる佛数の活動を要求するの必要をも感知せざる社會、予は寺院の廢頽をいふの前、僧侶の腐敗をいふの前、此社會の衰退を叫ばねばならぬ。
宗教の活動を要求せざる社會は、即精神界の凋落を意味するのである。然るに世の知識社會は、頻りに社會民人を以て憂となし、社會に宗教の必要を説きながら、宗教振作の事、一に宗教家に待たむとするは、社會と宗教との關係を解せざるものと云はねばならぬ。
予は今の宗教を論ずる社會に向つて、先づ此根本誤解を覺り、自個がまづ宗教要求者たるのみならず、眞誠なる(264)宗教要求者を社會に作るべく、務められんことを望むのである。
漫に世の宗教家なるものを排斥せむよりは、尤も有力なる知識社會が、率先相擁して宗教要求者の位置に就かば、所謂眞の宗教家なるもの、求めずして顯はれ來るであらうとおもふ。
今の宗教界程馬鹿氣て居るものはあるまい、下流社會では、寺院に衣食するの外、何等の目的なき寄生蟲的宗教家と、家内安全無病息災を祈祷するの外、葬式を依頼するのみの信徒許りである。如斯は、宗教がないと云ふが適當である、天理教にも遙に劣つてゐる。
それで知識社會はどうであるかと見れば、是は又不思議である。教ふる宗教家許あつて、教へらるゝ宗教家即信徒と見るべきものは殆ど無いようである。今の宗教家が、往々社會から無要現せらるゝのも、眞の信徒といふものを持たぬからであるまいか。
教ふる人のみあつて教へらるゝ人の無い社會、これは事理が顛倒してゐはせまいか。社會が宗教に對する要求は、教へらるゝにあるのであるまいか、教ふる人が先に澤山出來て、教へらるゝ人のないといふは、實に不思議な現象と云はねばならぬ。
是等の現象の依て來たれる原を考へてみると、一、宗教家といふものを、營業的になし居るものゝ多き事、二、社會の要求に應じて起れる宗教家少き事、等であるかとおもふ。
信徒なき宗教家が、教義や教理の議論許りやつてゐるのは、丁度治療を乞ふものなき醫師が、醫学の研究のみに從事して居ると同じ事で、一個の學者としてはそれでよい譯なれど、宗教家である醫師であるといふには、それではならぬのであらう。學問といふものが、宗教家醫師の本目的でない事はいふまでもあるまい。
(265)如斯宗教家も、少しは惡いことはない。寧必要かも知れぬ。只多くの宗教家が、皆それ許りでは實に困つたものならずや。當時の宗教界が、徒に議論許り熾で、少しも實績の擧らぬといふも、以上の樣な理由に基づくのであるまいか。
議論の宗教といふものは、それ程價値のあるものでない。學問あり才智あるものが、深く考へて論ずる樣な事柄が、決して廣く社會に解せらるゝものでない。實際的實行的でないものは、宗教の價値がないと云つてもよい位であらう。今日の宗教界の如く、宗教家と一般社會とが隔絶して居つて、殆ど別物の樣になつて居つては、宗教の實績を見るなどいふは、思ひもよらぬ事である。如此状態に社會がさまようてゐるのは、其罪いづれにあるか、先にも云へるが如く、宗教家固より罪多し、然も社會に有力な知識界の人等が、宗教の眞趣味を解せず、從ツて自ら進ンで宗教に入らざるが、即罪の主なるものであると云はねばならぬ。何ぜなれば、彼等の多くは、宗教が如何に社會に大切なるかを知り、宗教なき社會は、劣等なる社會なることだけは、十分に知り居るからである。
以上は、予が傍觀者として、考へ居たる大要であるが、幸に今日の宗教界は、天の一邊漸く雲晴れんとするの趣なきにあらず。吾同志新佛教徒の活動の如き、即其一端と見るべきものか。信徒として馳せ參じたる予の如き、どこまでも信徒としての感懷、又は要求、又は批評等を、遠慮なく呈出して、受動的宗教家たる本分を盡さうと思ふ。
明治36年4月『新佛教』
署名 伊藤左千夫
(266) 市川の桃花
停車場で釣錢と往復切符と一所に市川桃林案内と云ふ紙を貰つて汽車へのツタ、ポカ/\暖い日であつたから三等車はこみ合つて暑かつたが二等事では謠本を廣げて首をふつて居る髯を見うけた。市川で下りて人の跡へ付いて三丁程歩くと直ぐ其處が桃林だ、不規則な道はついて居るが人を入れまいとしつらへた垣根は嚴重で着物の裾に二つ三つかぎざきをせねば桃下の人となるわけには行かぬのである。徑が曲りくねつて居るから見た所が窮屈でごちや/\して居るので一向に興が薄ひ樣な心持がする、再び本道へ出ると桃の枝に中山こんにやくをぶらさげ自轉車へ乘つて來る人に逢つた
明治36年4月7曰『日本』
署名 クモ生投
(267) 第二十三通常會
は、四月八日、釋迦牟尼佛誕生祝賀晩餐會といふ、すばらしい長い名稱の會合を兼ねて、豫告の如く例の學土會事務所に開かれた。命が馳せ參じたは、丁度午後六時三十分頃であつたと思ふ。すつと上り口の扉を排して内へはいると、下駄箱の前に五六足の下駄が行儀よく並んでゐる、釣瓦斯燈が如何にも明るく、もつたいないような光を此下駄の上に浴せてゐる。殊更に三十分程後れてやつてきたのに、まだサツパリ集らんな、などゝ思ひながら這入てゆく 食堂のあたりを頻りと往來する人がある、見た事のある樣な無いような人々である。強近眼の命一寸面喰つて、挨拶する樣なせぬような躰度を採つてゆき違つた。食堂中ではボーイ先生配膳に忙しい樣子、もう始まるのかと問ふたら、あなた新佛教の方ですかといふ、さうぢやといへば、それでは此次ですといふ、受持之命再びまごついて早々いつもの一室へ逃込んだ。
日本人は必ず下駄をはいてゐるものとしての命の豫想は、がらり相違して、是は又意外なる人々の集り樣、中央のテーブルを圍みて大圓形をなし、ズラリと十五六人、高島君はいふ今一人で滿員になると。間もなく原田君がやつてきた、これで最早滿員であるとのことである。
高島君はさらば諸君食卓に就かふぢやないかといふ、命今の失敗談をなす、それでは玉でも突かうかと杉村君が云ひだし、高島安藤(慶雄)二宮是に應じて、玉突場にゆく。杉村君は知らぬ/\と云ひながらもなか/\巧みが(268)ある、安藤君に至つては、突といふよりも寧ろ打つといふの適當かと思はれ、白玉屡々空を躍つて飛び、卓外に逸出せざるを幸とせるのみであつた。やがて田中君が悠揚たる長身を輪し來つて、議長的態度で玉突會解散の大命を宣告する。
食堂は頗る靜肅、高島君が一寸開會の主意を述べる、酒はあるが臺所にあるから、諸君は宜しく各自蟇口を開いて取れといふ。杉村君はいつしか小さな紅皮の蟇口の口を開いたまゝ自分の前に置いて、オイオイ酒と呼んでゐる。境野君は、今日二個所の演説を了へて茲に合したるもの、しかも身錢を切つてラムネを飲まねばならぬといふて愚痴をこぼす。まづ食堂の逸事といつたら是位であらう。三四の元老諸子が小さな氣炎を聊かづゝ吐いて忽ち切上げとなつた。吾徒酒を用ふるもの少なし、食堂の振はざるは寧ろほこるに足るものがある。
人々談話室に會して、各々五分間づゝの話をしよう、殊に今夕始めて來れる人、若くは久しぶりで出て來た人々にまづやつてくれいといふ建議が出た、それ尤も面白からんといふ事であつたが、まづだれかれと推問答に時を費し容易に立つ者がない。それぢや僕が一寸やらうといつて、杉村君が三分五秒間許りの話をした。それは、こういふ機會に加藤咄堂君に對し大に誤解して居つて攻撃などやつた事を、謝罪しようといふのである。
原田君は、今夕始めて會した人、次に立つて自分が新佛教同志會に加盟するに至つた次第を簡單に述べた、是れも三分前後である。次に林君、次に渡邊君。其の次に堀田君は逢はない以前の想像と、逢つて見ての諸君とが、多くは相反してゐる、加藤咄堂君など尤も意想外である。田中治六君は商人じみた人かと思つたら、逢つて見ると哲學者然としてゐる。伊藤左千夫君は、もつと若くてやさ男であらうと思つたら、正反對であつたからおかしい(拍手起る)。次に小野藤太君、次に融皈一君、皆想像に反した風彩だ云々。是も五分に少し足らぬと呼ぶもの(269)がある。だれか時計を見てゐるやつがあるなと笑ふ。
杉村君は一問を提出して、諸君皆答へてくれ給へといふ。それは、諸君は朝起きて新聞を手に採つた時に何所から前に見るかといふのであつた。(此事は杉村君が何かに書くのであらう、其答は略す)只最後に杉村君が、答、皆愚答であるといへば、高島君は承知せず、問、甚だ愚問であるといきまいた。
それから、某君の頭がでこすけなりや否やの問題が出てきて、奇話一場を笑はしたのであるが、頭の主人公は此珍談の記事を峻拒して止まぬ。そこで筆記受持之命は又やつきとなり、此一節は今夕會談中の花であるのに、それをいかぬといふならば、命は筆を投げて逃げるといふ。一波おさまれば一波起る、しかも其爭は家族的である、親友的である。如斯の晩餐會、如斯の快樂事、毎月やりたいといふものが多かつた。散ずる時正に十時に近かつた。
明治36年5月『新佛教』
署名 受持之命
(270) 〔『加持世界』選歌評〕
春の歌
〇 杉村綾水
花すみれ摘む手も匂ふ少女子の振分髪に春の風吹く
評 つむ手も匂ふとは如何なる事か分らず、分らぬ詞にしかも小細工を弄するは尤も厭ふべし、心に感じたる趣味を正直に顯さんとつとめむことを要す、左の如く改作せばやゝ見るべきなり、
すみれつむ女の童らが黒髪の振分髪に春の風ふく
〇 岩田嶺月
面白く囀つる春の夕雲雀大空高く降りつ上りつ
評 餘りに平凡しかも意味まとまらず、併し作※[手偏+丙]幼稚なるだけに却て厭味なし、試に改作せば、
かぎろひの霞を出てゝ鳴雲雀大空高くあかりつ降りつ
〇 菊間の里人
百千鳥囀つる春は足引の山の奥さへ住みよかりけり
(271)評 如斯意味の歌は古歌は勿論世間の歌に數限りなくあるなり、陳腐にして平凡といふの外なし、しかも詞つき幼なければ猶見るべきに、「奥さへ住みよかりけり」など理窟めきたる言をいふは厭ふべきなり、
百千鳥囀づる春を足引の山にこもらふ春にあくまでに
明治36年5月『加持世界』
署名 左千夫選評
(272) 〔名古屋短歌會選評 六〕
第六會 課題 櫻
曳馬野ゆ吹きこす風に權現の花はちるとも言な絶そね。 山下愛花詞書がなければ分らぬ歌なり、友人と權現の花とに就て何かの消息ありて詠める歌ならんも、歌の表面には其感興を知るによしなし、且つ言な絶そねなどいふは心の切なるを序したる詞ならんに、朝に咲て夕に散る櫻になぞらへて、云へるは如何なる意にや、余りにはかなく輕きたとへにこそ。
春の日のうらゝ照る岡さくら花見らく飽なく君をしぬばむ。
第二句「うらゝ照る尾の」とありたし、
あかときの雨はれ渡り白妙の匂ひよろしき山さくら花。
以上二首一渡り調子はとゝのひたり、しかも平凡の非難は到底免れざるべし、
妹か髪夕山さくら風吹けば岩根松か根花ちりみたる。 黒部不關坊
第二句「夕山の櫻」といふ意か、「夕べの山櫻」といふ意か聊か紛はし、山櫻といへる一種の櫻ある今日の世なれは、かゝる際は少しく心すべき事ならざるか、勿論夕山の櫻といへば山の感じが強く第四句の岩根松が根の判(273)然たる光景に對して不調ならずやと
思ふ、何れにしても此歌陳腐を脱せず、不關坊君は俳人なり 思ふに説あるか、
春日のや神の八乙女八重櫻匂へる色の花の八乙女。
優艶とや云はん清高とや評せむ、卷中第一の逸品たり、月並者流或は云はん、此歌乙女が主にして櫻が客、櫻は少女の形容語にあらずやと、是歌を解せざる者の言なり、短形詩を解せる者のいふ所なり、一首の詩境中に櫻を認むれば足る、景物の主たる客たる何ぞ問ふを用んや、只其景物中何れが主なるやを感じ難き場合を厭ふのみ。
朝な夕なめづる小鉢の瑞花のくはし櫻は吹そめにけり。 伊藤直郎
「朝な夕なめづる小鉢」と云ひ下しては、其小鉢をめづる樣に聞えはせずや、作者の意は櫻をめづるならんも、此句法にてはしか感ぜず、況や櫻は今咲そめしと云ひながら、初めに朝な夕ななどいふは前後掛合はぬ詞つきなり、
朝な夕なめてし小鉢の瑞花のくはし櫻ははや散にけり。
かく直さば意義に於ては無難なるべし、只盆栽の櫻がそれ程面白きものなるや否は疑問なり。
すかの根の長き春日を鉢に咲く櫻の花に虻なきめぐる。
兎も角も虻の働きに依て生命を得たりと云はんか、
櫻花さきてる瑞枝蹈み渡り春の小鳥の來なき囀づる。
第四句及五句甚だ拙し、三句既に「蹈みわたり」と云ひながら、五句に來鳴くといへるは何ぞや、殊に枝ふみわたりなどゝ精細に形容せる場合には其鳥の名も明にしたく思ふ、小鳥の小さき足どりまで見ゆる時に何鳥か分らぬ筈なければなり、其鳥の名を知らざる場合は致方なきは勿論なれども、鳥の爪先まで判然と書きながら、其止まれる物は木か石か判らぬ樣なる繪を作つて平然たるは、痴鈍なる日本畫家に珍しからぬ事なり、無形の畫と稱(274)する詩歌に於ても、此邊聊か注意せずんばあるべからず、此歌敢てそれ程にはあらねど尋に一言せるのみ、試に
家近み來鳴く黄鳥櫻花さきてる瑞枝蹈渡りなく。
猶調子整はざる所あれども、先年吉野山の花の旅寢に鶯を聞ける事ども思ひ出でゝ、山家の春情を忍ばずんばあらず。
山つみの神の少女の唐綾を織りてかけたる山櫻花。 渡邊 博
此如趣向紅葉にも櫻にも珍しからず、詞の上に少しの難なけれど思想極めて陳腐なり、新進作家たるもの奇に敗るとも陳に失する勿れ。
植木うるつら/\店をつら/\に見れと櫻の買はまくはなし。
形式は萬葉の模倣なれども詩境は新し、兎も角も詠みこなしたりと云ふべくや、結句殊によし。
櫻花まさきしみさく岡の上をいさらえ男たもとほらすも。 寺野黔雷
詞整ひたれど想は陳腐。
吾背子か咲かばと云ひし櫻花咲きてちれともおとつれもなし。
調子難なしと雖も思想余りに平凡なり。
賤の男が籾うちひたす村中の種井のさくら風にちるかも。
種井の櫻を見つけたるは面白し、しかし詞つき調子共滅茶苦茶なり、「賤の男」「賤の女」などいへるは古の公卿共の云へる言なり、今日の世に以上の如き詞を一般の人が用ゆるは尤も厭ふべし、結句の「かも」此歌の如き場合には無用なり、前々號に云へるかとおもふ、
(275) 嵐山の花見すらくとみつ/\し京の瑞子に逢ひにけんかも。 奥嶋欣人
さしたる難はなけれど、第二句「花にことよせ」とあらば如何、
嵐山花の木のもとたもとほり貴人さひて遊びたりきや。
なくはしき嵐の山に花見して君が御歌のさはにあるべし。
詞調子の上に更に難ずべき点なし、只題目が嵐山の櫻とありては、如何で陳腐と云はれざらんや、これのみならず奥嶋の歌、詞は皆整たり、捕ふる所に注意を缺けるは甚だ惜し、
* * * *
予は總評の上に於て諸君に一言せむ、そは歌の題目の下に關してなり、花紅葉といひ月雪といひ郭公鶯といひ、是題目としては陳腐中の陳腐なるものにあらずや、然れども如斯陳腐なる題は詠むべからずといふにはあらず、實際に於て多くの面白味が此陳腐なる題目中に籠り居る以上は、大に詠むべきは當然なりと雖も、是等の題目に歌を得んとする場合に、極力戒心すべきは其陳腐と平凡に陷らざらむこと是れなり、古人今人共に最も多く見て最も多く詩歌に作れる題目なり、尋常普通に作ることあらば其淺薄に終るや怪しむに足らず、必ずや他の新らしき事物を捕へて相配するに非ずんば、生命ある詩を得ること能ざらむ。予は故に故正岡先生が吾輩等に教られたる一事を擧げて証とせむ。
三十四年の春、壁間に插たる梅を詠める歌十首を作り之を先生に送り置きたるに何時迄まてど新聞に出でゝこぬ、自分では慥に成功と信じたる故聊か不平を抱き往て之を問へり、
先生即日く梅といふ題は極めて陳腐なる題ならずや、此陳腐なる題にて歌を作る、最も心すべきなり、君の歌も(276)外の物であらば無論採れる歌なれども、梅である故に採れぬなり、梅を詠んでは今一段面白からざれば不可云々、以て先生の選評如何に嚴なりしかを知るべし、其落第歌數首を拔て諸君に示さん、
白波の寄する杉田の磯山の梅の月夜しおもほゆらくも
さ夜床に梅さしたればたちゐする袖のゆらきに香の動くかも
眞夜中に梅に向ひて獨居れば神の光儀し俤にたつ
家ぬちに滿ちたらはせる梅の香に浴みつゝ居れば歌湧きいつも
梅の香にあみつゝぬれは蓋しくも羅浮の神こそ夢に見えこめ
予は今諸君に白状せん、此歌に對しての先生の教を解し得るまで實に一ケ年を要したりしなり、當時内心頗る不平を抱き、先生の選評余りに酷なりなどゝ思ひつゝありしは顧みて漸愧に堪ざる所、茲に櫻の歌を評するに臨で往事を追懷せるまゝ記して諸君の參考に供す。
明治36年5月『鵜川』
署名 左千夫選
(277) 仁徳天皇御歌
(上)
政事上に於ける天皇の御盛徳は云ふも愚なる業にて、尊號の二文字能く説明して餘りあり、唯閨門の一事、後世の史家をして往々非難の聲を發せしむ。
日本政記の著者は則曰く、有文王無逸而。無其儀寡妻。閨門不修子孫視傚。故斷續之際。有仲皇子之亂云々。思ふに頼襄。徒らに才知を弄して情理を解せず、外面の事實に視て直に輕忽の斷を下せり。深く情の根本を究めざるは彼が如き妄論を爲せる所以なるべしと雖も、思ふに又彼が全く古歌を解せざるの過ならずんばあらず、蓋し如斯は頼襄一人を罪すべからずして、古來吾國の史家其過失を遺せるもの頗る多きが如し、古歌を解せずして吾國の古史を論ぜんは、恰も燭なくして暗夜を行くに似たらんか、史家も又難しと云ふべし。
予や固より史學に於て知る所あらず、焉ぞ考證の學を以て高津宮の閨門を議す可けんや、只夫れ記紀に顯はれたる所の數多の御歌に就き、當時の情況を考究する時は、史傳の正鵠を得ざるを知り得るのみならず。上下三千年間唯一の聖主と稱へられたる仁徳天皇は、情的方面に於ける男子として夫としての情操又高潔無類なりしを知るべし、察するに後世の史家が以て辭柄とする所は、天皇御宇三十年秋九月皇后磐之姫紀國熊野に遊行せる時に天(278)皇姫の在さゞるを機として、八田の皇女を宮中に納れ給ふ、磐之姫之を聞き大に恨み給ふといふにあるものゝ如し、然ども予は却て此事の顛末を考へ益々天皇の情操極めて高を知れるなり、今は順序として天皇の御歌の最も始めより評釋を試み其全部を終て而して後に概括の論定を與へむ。
日本書紀卷第十譽田天皇、十三年春三月、天皇遣專使以徴髪長媛。秋九月中。髪長姫至自日向。云々天皇知大鷦鷯尊感髪長姫而欲配云々 大鷦鷯尊與髪長姫。既得交慇懃、獨對髪長姫歌|之曰《ヒケラク》。
みちのしり、こはたをとめを、かみのこと、きこえしかど、あひまくらまく。
「みちのしり」は道の後《シリ》なり、道とは北陸道とか山陽道とか南海道とかいふ道と同じ、其道の始を道の口といひ後を道のしりといふ、縱令へば九州にて肥前を「ひのみちのくち」肥後を「ひのみちのしり」といふが如し 茲にては日向の國をさせるなり、九州にて日向大隅薩摩などは南のはてなればしかいへるなり「こはた少女」はこはたは地名なるべし、姫の名をいはずして其の生地の名を冠せて、「こはた少女」といへるなり、春日少女香取少女などいふと同じいひ樣と知るべし、「かみのこと」は雷の如くなり、一首全體の意味は、雷の遠く鳴る音を聞く如くに、兼ねて美しき名は筑紫のはてよりこゝまで聞えて、下心に戀しくのみ思ひ居りしなれど、緑あつて今は其戀ひしこはた少女と相寢することよと歌へるなり。
又歌|之曰《ヒケラク》。
みちのしり、こはた少女は、あらそはず、ねしくをしぞ、うるはしみもふ。
「ねしくをしぞ」此の寢しくとは寢るといふことを強めていふことなり、縱令へば只散といへば普通なるを、少しつよめていへば散りしく。といふが如く、雨のふるをも、ふりしくとも、しく/\ともいふと同じく、寢しく(279)といへばひたすらに相寢するといふ心なるべし、「うるはしみもふ」は愛しみ思ふなり、うるはしといふ詞日本語にては愛するといふが原とにて物の美麗なることに遣ひしは、それより推し移れるならんかと考ふ、さて一首の心は、髪長姫は日向の國に名高き良家の生れにて、しかも美名都にまで聞え、天皇より召されたるなれば、或は吾には否といはんかと思ひしに、少しも爭ひいなむこゝろなく、ひたすらに吾と相かたらふことのいとほしさよとの意なり、此に注意すべきは此こはた少女といへる一句は、其名高き「こはた少女」がといふ如き強き意味の含まれあることなり。
以上二首の歌に就て今は其好惡を云はず、大鷦鷯の性情が如何に此歌に顯はれ居るかを知らんと欲するのみ、髪長姫は正しき王孫にして筑紫に名高き良家の兒なりとも、當時賢明の聞えある大鷦鷯尊に配する事姫にこそ名譽なるべきなれ、尊に於てしかく謙遜し給ふことやある、然るに此二首の上に顯はれたる感情は、只姫を戀ひ姫を愛し、其相逢ふに至れるを幸とし、姫が少しも底意なく打解けたるを無上に悦ばれたるの外理窟なく知識なく尊卑なく榮辱なく、一點驕傲の氣なく毫末權威の風を存せず、唯々一男一女の靄然たる情念の溢るゝあるを見るのみ、詩的情操の極めて高潔なるなくんば豈に能く此の如くならんや。
今日の世匹夫と雖も猶其才知と權勢とを恃んで女徳を蔑視し其節操を玩弄するもの甚だ多からずや、天孫の貴を以て歌ふ所斯如し、高懷の尊とさ何に譬へて仰ぐべき。
古事記下卷之始曰。
大雀命坐難波之高津宮治天下也、云々、爾天皇聞看吉備海部直之女黒日賣、其容姿端正、喚上而使也、然畏其大后之嫉逃下本國、天皇坐高臺望瞻其黒日賣之船出浮海以歌曰、
(280) 沖邊には、小舟つらゝぐ、黒崎の、まさづこ吾妹、國へ歸らす。
「つらゝく」連なり浮べるさま、「まくらぐ」「かつらぐ」などの「ぐ」と同じ格なり、黒崎は吉備にある地名「まさづこ」は黒姫の本名、家にて呼ぶ名なるべし、萬葉集などにも所々に見る所の、垂乳根の母の呼ぶ名をとあるに同じく、まさづ兒とは其家にて呼ぶ名にて親しき間にて用ゆるものと思はる、「まさづ兒吾妹」と續けたるは、いとしまさづ兒吾つまといふ意なり。
一首の意は、沖邊には常になく小舟の連なり居るよ黒崎のまさづ兒吾おもふ兒はや國へ歸るはといへるなり、詞の表には戀ふとも悲しともあらざれど、何となく調子の沈みたるは、哀別の意言外に籠れるを見る、此歌只第四句まさづ兒吾妹の一句に無限の意味あるをおぼゆ、寧意味といふよりは意味なき調子に依て限りなき意味を感ぜしむ、作歌の妙を極めたりといふべし。
さて此歌に就ては天皇の御特質を顯せる點を認め得ずと雖も、御歌の依て顯はれたる事實を考究するときは種々なる問題の湧起するを見る。
磐之姫の嫉妬甚しかりしとは、古事記尤も盛に記載しあれども、是固より悉く信ずべからず、古事記の記事總て饒山なる筆癖あることは何人も能く認むる所ならむ、固より磐之姫の嫉妬は事實なりしならんも、匹夫の家庭と異なり、天下意のまゝに治め給ふ天皇の上なり又は天皇の御配※[藕の草がんむりなし]ともあるもの、如何に嫉妬の性ありと雖も、古事記に記せるが如き事あるべけむや、見るべし日本書紀に至つては其事多くは省かれたるを、一度如斯記事ありしより後世の史家をして其觀察を誤らしむ嘆ずべき事ならずや、吾國の古史多くは歌の先づ存して、記事を後より附したるが多し、然るに其筆者なるもの能く歌を解せず若くは痛く誤解したるため、歌と記事と眼前に一致せ(281)ざるが如き半間なる文字少からざるは、橘守部などの著書に依て明かなり。
予は古事記日本書紀等の記述せる天皇及磐之姫の御歌に考へ見て、姫の嫉妬を想ふより天皇の高懷優情を連想すること多し、天皇の家庭に於けるは、徹頭徹尾個人的に、感情の平和を得んと務め給へるなり、そは數十首の御歌の上に躍然たるものあるにあらずや、是等の御歌を以て却て盤之姫嫉妬の材料と見たるが如きは實に淺識陋見と云はざるを得ず。
試に今日の社會に見よ、一夫一婦の倫理は確乎不拔の眞理といふに係らず、猶妻女の嫉妬は男子の操行を保つに足らざるにあらずや。況や天皇の御時代にありては天子七八人以上の后妃を公然召給へるは普通の事に屬す、如何ぞ一人盤之姫が嫉妬を肆にして恒に天皇の御意を枉屈せしむること古事記の如くに至ること有るべけんや、磐之姫が深く八田皇女の入内を拒みしは大に理由あることなり そは後に詳説せん。
按ずるに仁徳天皇は其時代前后の天皇中に有りて尤も妃嬪を召給ざりしなり、御父天皇は史籍の載する所八人なり、然るに天皇の召す所四人に過ぎず然かも一人は盤之姫崩御の後なり、人或は云はん天皇の多く妃を召さゞりしは、磐之姫の嫉みに憚りてならんと、決して然らず、磐之姫は天皇の三十年宮中を去り給ひ五年の後三十五年に隱れ給ひぬ、此時天皇御年猶五十、磐之姫に憚り居しとならば其後多くの妃を召し給ふべきに少しも其事なかりしは、以て天皇の情操を察するに足れり。
要するに天皇は決して古事記に記せる如く后妃の嫉妬を招くべき御行跡なかりしは明なり、前に云へる如く只天皇は情操極めて高潔、根本的に感情の平和を要められ常に此理想を以て后妃に對したるが如し、是即平凡なる史家の誤解を招く的の御歌を數多遺し給へる所以ならずんばあらず。
(282)黒日賣が本國に逃下すと云へるも、幾分皇后の嫉みありしなるべしと雖も、天皇が皇后に對し其婦徳を重じ感情の不和を厭はせられたるの結果なるを察せずんばあるべからず、本國に逃下云々といふも、例の饒々しき古事記の筆癖ならんか、天皇の御目に留る程、多くの舟を連らげて出立し給ふ樣、豈に逃走の躰ならんや、必ず天皇の御許しを得ての事なるや明かなり。
皇后如何に嫉妬すと雖も、天皇にして黒姫を歸すの志少しもなきものならば、天皇の御身分にして一婦人を宮近くに住まはしむるの餘地なからんや、又た皇后と云へるも先帝が現に八人餘の后妃を召給へるを眼前に見知りながら、吾夫天皇に一人の愛人を拒むの理萬々あるべからず、皇后が天皇を戀ひ奉れる歌を見ても予は斷じて磐之姫に此の如き情に合せる理に協はざる事なきを信ず、嗚呼天皇の家庭は淺識無趣味なる史家に依て誤謬を千歳に傳へられぬ、豈に慨嘆に堪ゆべけむや、
天皇の情愛に於けるは何處までも優渥にありながら、賢明の理性自ら御身分に顧みて抑制する所あり、樂んで淫せず悲んで破らざるの高風ありしは今次に説く所の御歌に依て充分に感知するを得べし。
(中)
於是天皇戀其黒日賣。欺大后曰欲見淡道島而。幸行之時。坐淡道島。遙望歌曰。(古事記)
おしてるや、なにはのさきよ、いでたちて、吾國みれは、あはしま、おのころしま、あぢまさの島もみゆ、さけつしまもみゆ、
御歌の意味は解釋を要せずして明かなり、併し背面の意は、吾は黒日賣に戀ひて思ひに堪ず、遙々と今吉備の國(283)まで、行かむとするのであるが、浪花の崎より國見をすれば、あがしまもおのころ島も並んで見えるは、あぢまさの島さけつしまも並びて見えるは、それが何となく心有げにみゆるよと感嘆せられたるなり、天皇の御身を以てして斯まで思召す黒日賣を遠地に歸しやり給ひて、常に相見給はぬ事を本意なく、嘆かせ給ふの意は不言の内に感ぜらるゝなり。
然れども是全く天皇の情的感懷の發露にして、自然の嘆聲に外ならず、斯くは思召しながら其の情を肆にせず、能く理を以て之を抑へ給ふ所、益聖徳の高きを知る。
此の歌と詞書と例に依て一致せず、本文には淡道島に坐して遙望歌けらくとあれど、此歌淡道島にて作み給へるにあらざることは、歌の上に明かなり。
なにはの崎より國見すれば、あはしま(淡島は淡道島なり)おのころしまもみゆとあれば疑を挾むの餘地もなし、如斯の誤極めて多きは記紀の常なれば、序に一言し置くなり。
乃ち自其島傳而。幸行吉備國。爾黒日賣。令大坐其國之山方地而。獻大御飯。於是爲煮大御羮。採其地之菘菜時。天皇到坐其孃子之採菘處歌曰。(其孃子とあるは黒日賣を指せるなり)
やまかたにまけるあを菜もきび人と共にしつめは樂しくもあるか
天の下知らしめす天皇の御上にして此風流事ある、何等の優懷ぞや、此の天皇にして始めて這般の情致を見る、尊とくもうるはしき御心はへ、千歳の下猶人をして懷慕に堪ざらしむ。此御歌を見る、單に其の詞の上にのみ意義を求むべからず、「山かたに蒔ける青菜」此は只青菜といはむ爲めに、山かたにまけると云ひ下したるまでなり。「やまかたにまける」の詞は、殆ど意味なきものと見るべし、如斯は(284)古歌に其例多し、歌全躰の意味は、青菜をつむといふ如き些細なる業も、いとしき吉備の兒とつめば、如何にもそれが面白く樂しきはとの心にて、青菜をつむと云へる感興よりは、寧ろ青菜をかりて、黒姫に對する深き御情愛を歌はれたるなり、黒姫に取りては、如何に嬉しく辱なき事なりけむ、此歌の三句に「吾妹子と」とか「吾思ふ兒と」とか云はずして、殊に吉備人と云へるは、最も措辭の用意を見る、少し穿過るの嫌あれども、或は暗に都なる磐之姫に對して、吉備人と云へるにやあらん、都にて種々なる遊するとも左程樂くもないに、吉備の此いとし兒と遊べば、青菜をつむといふ如きわけもなき事までが、不思議と樂しい事よとの意あるを知るべし、如斯解釋して、始めて此歌の眞趣を味ふことを得むなり。
天皇上幸之時。黒日賣獻歌曰。
やまとべに西吹きあげてくもはなれそぎをりともわれ忘れめや
比喩の靈措辭の妙、何とも云ひ難く面白き歌なり、「そぎをりとも」は退き居りともなり、退離《のきはなれ》居ると云ふ意、一首の心は、大和の方へ西風の吹きあげて、雲が離れ/”\になる如く、今御別れ申して、天皇は都へ上り給ひ、自分は此吉備の國に離れてのき居るとも、深き御情を豈に忘れむやとなり。
意味の表は、御志の嬉しさ忘れんやはとなれども、哀別苦離の情抑へむとして抑へ難く、凄慘の音調自ら語底に存す、われ忘れめやの一句、何ぞあはれに力なきの甚しきや、幾度か云はむとして云ひ得ず、僅に云ひつくして聲を飲めるかの感なくばあらず。詞以外意味以外、更に一種の調子ありて、能く人を感動せしめるものは、實情内に溢るゝものあればならむ、古歌の妙又多くは茲に存す、後世の歌人、徒に詞章を弄んで、實情に乏し 其益巧妙にして益輕薄に流るゝもの、豈に怪むに足らむや。
(285)又歌曰。
やまとべにゆくはたがつまこもりづのしたよはへつゝゆくはたがつま
こもりづのは隱水之《こもりつの》にて下潜る水を云ふ、したよはへつゝは下よりはへつゝなり、隱水の如く下潜り通ふ意にて、表には顯さず密に心を通はすことなり、此歌に就ては、本居宣長橘守部等の解皆吾意を得ず。
此歌の意は、はかなき御契りながら、吉備人と共にしつめばなど仰せて、今日までは吾夫なりしを、いま別れをつげて大和へゆくは、最早吾つまにあらぬ、それはたがつまか、吾上の事をば、隱水の下ゆく如く密かごとにしたまひて、素知らぬ風に大和にゆくは、吾|夫《つま》宗ならぬそれは誰が夫《つま》かとなり、聊かスネて恨みごちたるなれども、其恨みといふは憎き恨にはあらで、深く天皇を戀ひ奉り、如斯御情探き君が今は吾夫ならずして、誰人か夫といつきて仕奉るか、さても吾身の幸なさよなどの意を含めり。
猶深く此等の歌を吟味するに、一痕の哀怨を含めるは勿論なれども、半面には又打解たる情緒の、温然春の如きものあるを感ぜずんばあらず。
天皇の黒姫に對する、如何に隔てなく御心厚かりしかは、察するに難からず、尤も如斯は獨黒姫に對してのみならず、何れの后妃に對しても、常に全幅の愛を注ぎ給へることは、天皇の情操なり、是れが爲天皇御自身には、又數々御苦悶せられたるが如し、情愛に厚き天皇の如く、然かも徳を重じ給ふこと又天皇の如き、兩者の衝突より時に苦悶を買ひ給ふは自然の數なるべし。
然れども、此苦悶こそ天皇の天皇たる所以にして、情操の美も此苦悶に依て色を添へ、高徳の美も此に依て益光を添へ、名什を千歳に傳へたるも又苦悶の賜なり。
(286)以上數首の歌に就ても、例の史學家國學家等は、悉く磐之姫嫉妬の反響の如く解釋せざるはなし、其迂愚にして事躰に暗き驚くの外なし、彼等の解釋の如くならば、天皇の磐之姫に對するは、從順なる臣子が暴戻なる君父に對するが如く、一も意の儘なる能はず、家庭内の事に就きて、天皇は一に磐之姫の鼻息を窺へるが如くならざるべからず、如斯の事豈に有得べけむや、暗愚なる君主ならば或は此事なしと云ふべからず、聖明之徳當時に稱へられたる仁徳天皇にして、焉ぞ如斯事有るを想像し得むや。予を以て之を見れば、天皇の情愛に厚き、甲乙何れに差異なしと雖も、尊卑の分本末之理、磐之姫を重じて他を次にせるは理義之自然なり、徳行の高き天皇にしては殊に然るを思ふ、黒日賣に對して情愛極めて厚く、一女のために遠く至尊の駕を抂させ給ひし程ながら、猶強て宮中に止め給はざりしは、磐之姫との圓滿なる感情を保たんが爲めなりしは勿論なれども、是決して磐之姫の嫉妬のみの故にはあらずして、天皇が磐之姫を重愛し給ふ御心と、其徳行の高きと相待つて、黒日賣に對する情愛を斷たれたるや知るべし。
天皇の御歌と黒日賣の歌と、反復御情操を察する時は、情限りなくして理に戻らず、理明かにして情を損せず、高風清韻悠然として盡きざるの趣きあるもの、豈に欽仰に堪ふべけむや、何者の迂愚ぞ、天皇の閨門を云々する。
日本書紀卷第十一 二十二年春正月。天皇語皇后曰納八田皇女將爲妃時。皇后不聽。爰天皇歌以乞於皇后曰。
うま人のたつることたてうさゆづるたえまつかむにならべてもがも
うま人は貴人なり、たつることたては立つる言立てなり、下賤には僞もあらめ君子に僞りはなきぞとの、其言立てをしてとの意、うさゆつるは儲弦《をさゆつる》なり、弓弦の絶たる時の掛替に用意する弦をいふ、歌全躰の意味は、貴人の(287)言立てして云ふからは、八田皇女を納れたりとも、決して卿を疎遠にはせず、儲弦を以て弦の絶間をつぐ如く、卿が居らぬ時の絶間に八田の皇女は召さんと思ふに、言に僞りはあらず、二人並べてよとの心なり。皇后|答歌曰《こたへうたひたまはく》。
ころもこそふたへもよきさよとこを並べむ君はかしこきろかも
歌の意は簡單なり、衣こそ二重もよいが、妻二人召して夜床を並べむとせらるゝは、畏しきことかなとなり、磐之姫の答としては無理ならぬ所、天皇の大に御苦悶ありしも茲に存せり。
天皇又歌曰。
おしてる浪花のさきの並びはまならべんとこそ其兒はありけめ
四句のならべんとこそと云はんが爲めに一二三の三句を置ける即序歌なり、天皇此事に理窟を仰せられたることなしと雖も、抑へがたくてや茲に聊かもらし給へるなり、其兒とは八田皇女をさす、疾くに皇后にせねばならぬ義理ある其兒はあるにあらずやとなり、それも姫を棄てゝ皇女を納むとにあらず、二人を並べ置かむと誓給へる、如何に苦悶の切なるかを知るべし。
皇后答歌曰。
なつむしのひむしの衣二重着てかくみやだねはあによくもあらず
此歌古來難解の歌として、諸説紛々、更に要領を得たるものなし、一々挙げて辨ぜんは本論の目的にあらず、予は予一個の考を以て解釋し置かむ、かくみやだねはは圍み夜床寢なり、是れは守部の説採るべし。
全首の意は、むし熱い夏のしかもむしあつい衣を二重かさねる如く、二人妻にかくまれての夜床寢が、どうして(288)よからうか、あゝいやなことぢやとの意なるべし、夏むしのひむしの衣といふに就き、異説百出すれども、餘り六つかしく解するは、却て歌意に遠ざかること多し、春の暖きを春暖といふ如く、夏の熱きを夏むしのといふに何の仔細かある、日むしも其如く、日暖か日寒くなどゝ同じく、日蒸しといへざるにあらず、要するに妻二人並べるといふは、うるさく面倒なる事なり、餘義ないとはいへ、いやな事であるといふが如き意味に解するを可とす。
磐之姫の歌意、如何にも理に協ひ情に合したるは勿論なれども、八田皇女なる人はかゝる普通の情理以上の關係あること後に云ふべし、併し是等の歌が、多くの學者等に誤解を與へたるならむ。
天皇又歌曰。
あさづまのひかのをさかをかたなきに道行くものもたぐひてぞよき
仁徳天皇の御歌の巧妙なる實に驚嘆の外なし、此歌といひ前々の歌といひ、一首として佳ならざるはなし、比喩の奇拔なる、語調の流麗温厚なる、後世人をして漸死せしむ。さて此歌の意は、卿が里の道なる、彼朝妻のひかの小坂を、ゆきなやみ、連もなくて片泣きに獨り泣きつゝゆく樣な時にも、道伴があらば如何に行易からん、それの如く、皇女と卿と相副ひて居らば、却て何かに便りよからむものをとの心なり、此片泣の語は輕く見るべし、獨り困みつゝといふ如き意と解すべし、温情の懇切なる、天皇御自身の義理をば次にして、姫のために便宜よからんと諭し給ふ、何等の愛情ぞや、此等の歌を誦する時は、實に温然たる御尊容を、親しく拜みまつるが如き思ひあり。
皇后逐|謂不聽故《ツヒニキカジトオモホシツレバ》。黙之亦不答言《モダシテマタコタヘタマハザリキ》。
(289)以上五首の歌は天皇の御家庭に著大なる關係ある歌なれば、全躰に渡りて聊か論評を試みむ、此歌の依て起れる源因は、八田皇女にあれば、先づ八田皇女の如何なる人なるかを知らざるべからず。
八田皇女之事に就きては、稜威言別之説最も正し、今其一節を抄す。
時皇后令奏言。陛下納八田皇女爲妃。吾不欲副皇女而爲后。途不奉見。乃車駕還言、云々。
是れを以てよく按ずるに、此磐之姫命は、實は是まで(仁徳天皇即位三十年)只妃夫人の列にて、皇后にては坐さゞりし也、又八田皇女は、御位の初より皇后と定り坐しつる事は、菟道太子、此天皇に天下を強て讓り賜はんとて、終に御自死坐の時御遺言に(【紀曰】)太子啓兄王曰云々、乃進同母妹八田皇女曰、雖不足納綵《メシタマフニハアカズトモ》、僅充掖庭之數乃《ナホキサキノツラニアテタマヘト申テ》、且《ヤガテ》伏棺而薨とある、此太子は菟道若郎子、同母妹は八田皇女也、是我御身に代へての、御遺言なりければ、三年まで御位を讓りあい給ふ程の御心にして、此の御臨終の御一言を背き給ふべけんや、磐之姫命の、此くまで拒み給ひしも此故なりかし、又天皇の強て頓にものしかね給ひしは、先帝の御遺勅にて、天下は菟道太子と定りつる後、只親王の御妃として、難波に坐しゝ初めより、磐之姫を娶て、既に年來そひ馴れ給ひし故にぞある、然るに紀に二年三月辛未朔戌寅立磐之姫命爲皇后と記しつるは誤なり、此は本諡よりおし移りて、紛れたるものとこそ見えたれ、そは八田皇后は、次御歌に見えたる如く、終に御子一人も有ざりつるに、磐之姫命は、御子あまた産し給ひて、履中天皇反正天皇允恭天皇と三御代までの國母となり坐しつれば、既く其御代の間に、皇大皇后と追諡せられしにぞありける云々。
橘守部が、仁徳天皇二年に磐之姫を立て、皇后となすとあるを斷然謬なりと定めたるは、實に歴史上有力なる發見にして、守部の功績偉大なりと云はざるを得ず、前後の文章及其歌に察する時は、守部の説動すべからざるも(290)のあり。
予が殊に守部の功を偉大なりと賛する所以は、天皇の御上に就て、歴史上種々なる誤解を得たるも。要するに、如斯の誤が、其源因を爲せること多きを信ずれば也、守部其人の如きも、折角有力なる發見を爲ながら、猶頻りに磐之姫嫉妬云々を繰返して、歌を評しつゝあるは笑ふべし、未だ皇后にも立たざる磐之姫が、單に女子の惡徳たる嫉妬の一事を以て、天皇の御心を枉屈せしむること、紀記の所載の如き事實が、萬々有るべけんや、一言以て之れを斷せば、磐之姫が極力八田皇女の入内を拒めるは、情愛上の嫉妬にはあらずして、皇后の位置に就て、到底八田皇女と兩立し難きものあればなり。
理に賢にして情に濃かなる天皇にしあれば、此際に處して、何所迄も兩者の調和を要められたるもの、即前掲五首の歌なりとす、しかも此事ありしは、實に天皇の二十二年、菟道太子の御遣屬ありしより殆ど二十餘年とすれば、八田皇女は、少くも御年三十歳以上なりしや明けし、是迄も御口づから、磐之姫に仰せられたることありしなるべしと雖も、是に至つて堪かね給ふ餘りに、歌を以て姫に乞られ給へるなり。
磐之姫は正妃にして且つ久しく馴染め給ひ、皇子も三柱まである間柄なり、八田皇女は自殺して天下を讓り給へる菟道太子の同母之妹君なり、且つ太子の後身とも見るべき關係ありて、しかも温順優和にありしことは、皇女の歌に依て察せらるゝ程なれば、何れにも理と情と兼存して斷つ能はず、天皇の御苦悶實に奉察するに餘りあるなり。
されば天皇は何所までも、二人同列に並べ給はんといへるなり、うま人のたつる言立てとまで誓ひて御歌ありしに見よ、日に二つなき如く月も二つなし、天皇一人にして皇后二人あるべき理なし、天皇はならべてとのたまふ(291)とも勢然る能はざるものあり、磐之姫が直に皇后としての八田皇女を否みて入内を聽かざりしは、女性としては、已むを得ざるの情なりとす。
天性寛仁なる天皇は、深く磐之姫の心情を愍憐し給ふ所あれば、磐之姫が頑として御意を拒み、其苦悶を酌まざるに係らず、猶天皇は姫に對して寸毫の權威を用ひざるのみならず、義の止むべからざる理窟をすら仰せられざるものゝ如し、權威を用ひず理窟を云はず、徹頭徹尾情的に姫の心を柔げんと求め給ふ、嗚呼此御心、聖とや云はん神とや云はん、理と情と兼全からんと望み給へる天皇は、此歌贈答ありしより後、更に八年にして漸く八田皇女宮に入る、遂に磐之姫大に恨み云々の事あれども、八田皇女は即位の始めより、當然皇后たるべき人なり、然るに三十年間の久しき其決行を視ざりしものは他なし、只々磐之姫と情的に和合し給はんとの天皇の御苦心に依れるなり、磐之姫に盡せる天皇の厚情は、至れり盡せりと云ふべし、萬々止むを得ざるに及び、情を抑へ理を全うし給へるは、至徳と云ざるべけむや。第一首に「たくへてもかも」といひ、第二首に「並へんとこそ」といひ、第三首に「たくへてぞよき」といひ、八田皇女と磐之姫との關係に就き、天皇苦心の存する所明瞭火を見る如きものあり、後に學者多くは此に察せず、磐之姫熊野に遊行の跡を窺ひ、八田皇女を宮中に納る云々との、記紀の表文を極めて淺薄に解釋し、無稽にも此事を天皇好色の結果、淫行の所爲と斷じたるが如し、至徳の行も、俗學の陋見、以て亂行と爲せる、千歳の恨事にあらずして何ぞや。
(下)
三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀井國到熊野岬、即取其處之|御綱葉《ミツナカシハ》而還、於是日天皇伺皇后不在、而娶八田皇(292)女納於宮中、時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女、而大恨之、云々(中畧)爰天皇不知皇后忿不着岸親幸大津待皇后之船而歌曰。
此詞書に就ては、前に屡々云ふ所ありしを以て、解説を省く、只例に依て次なる歌と意義の上に一致せざる所あるを注意し置かむ。
なには人すゞ舟とらせ腰なづみその船とらせ大御船とれ
すゞ船は驛路の鈴を懸けたる船なり、思ふに當時の水驛の御用船なるべし、腰なづみは水とか草とか或は露とか總て腰まで物に漬る如き場合にいふ詞なり、茲には無論腰まで水につかつてといふ意、とらせはとれと同じ、全首の意は、難波人それその鈴船をとれ水に腰までも這入てその鈴舟をとれよその磐之姫の乗らせる大御船をとれよとなり、即早く其船の綱をとつて此岸へ着けよとの心なり、天皇其時まで磐之姫の心を知り給はず、早く迎へのために茲まで行幸ありて待給へるに、姫の舟は其處まで來ながら此岸に就き給ざるを見て始めて御心つき給ひて、あはでいらちて仰せ給へる樣、情致能く顯はれたり。
時皇后不泊于大津、更引之泝江、自山背廻而向倭、明日天皇遣舍人鳥山、令還皇后乃歌之曰。
山背にいしけとりやまいしけしけあかもふつまにいしき逢はむかも
いしけとりやまは、い及《し》け鳥山なり、鳥山は舍人の名、いは發語|及《シク》は追及《オヒオヨブ》にて俗に追附などゝ同意なり、いしけしけは、いしけ/\にて追附くといふが如し。
全首の心は、倭まではゆかぬうちに早く山背に追附け、それ鳥山追つけ/\、嗚呼追つけるか知らむさて覺束ない事かなと嘆息せられたるなり、此歌といひ前の歌といひ、急迫せる調子を以て能く其急迫せる感情を發揮せ(293)り、磐之姫平生の氣質を知り給へる天皇は多少の御覺悟ありや明かなれども、事の愈破綻せんとする危變に臨て宸襟穩ならず、猶姫の精神を飜さんとあせり給へる當時の情況、眼に視る如きものあり。
此間磐之姫の歌前後三首の長歌あれども悉く挙げむは煩し 今古事記に載る所のもの一首を解かむ。
於是大后大恨怒、云云引避其御船泝於堀江隨河而上幸山代此時歌曰。
つきねふや、山背河を、河のほり、吾のほれは、河のへに、おひ立てる、さしぶを、さしぶのき、しがしたに、おひ立てる、葉廣ゆつま椿、しか花の、照いまし、しか葉の、ひろりいますは、おほきみろかも、
つきねふやは山背の枕詞なり、山背河は今の淀河なり、さしぶは、俗にいふさせぼの木なりといふ、さしぶをさしぶの木と續云へるは歌の調子のためなり、葉廣五百個眞椿は葉の澤に廣がり居る椿といふ意、てりいまし、ひろりいますは共に賛美の詞、全首の意を譯すれば、山背河を河のぼり吾のぼりくれば、河のべのさしぶの木の、其下に生ひ立て繁つてゐる椿の其花の赤く照りつゝ、其葉の廣ごり繁つてあるは、それは吾大王かしらむ、となり。磐之姫既に勢の止むべからざるを知つて、今は宮中を思ひ斷ち、なまじひ天皇に見え奉らば却て憂を増さむ悲痛を避けんとてにや、天皇の切に召し給ふをも聞かず、心強く大和に還らんとすれども、途中見る物毎に就き夫天皇を戀ひ給ふ情忍びかねければ、河岸の椿の花を見ても直に大君なりといひ、八十羽の木を見ても(八十羽の木の歌は日本紀にあり)又大君かと歌ふ、眼に見るもの悉く心を痛ましめざるはなし、殊に草木の色の華麗なるを見ては、直ちに思ふ人かと迄しのび給ふ、情緒の痛切なる何に譬へん、實に讀者をして千歳の下猶斷腸の思あらしむ。記紀の文徒に記して、皇后大恨怒云々といふ、今此前後數首の歌を見るに、何の所にか憤恨の跡を認めむ、讀誦(294)幾回予は毫末も、此歌中に忿怨の気味あるを感ぜざるなり。
嗚呼世に罪深き者は歴史家なる哉、如斯精神の根底を流露せる歌の歴然たるに係らず、嫉妬なり恨怒なりと斷ず、天皇と磐之姫と御夫婦間の御親交尋常ならざりしは、本編前後の詩歌並に萬葉集卷二の始め磐之姫の歌。
かくはかり戀ひつゝあらすは高山の岩根しまきて死なましものを
有つゝも君をはまたむ打靡く吾くろかみにしものおくまでに
等にて察せらる、如斯深きかたらひなりしを、餘義なき情理に迫られ永別の止を得ざるに逢ふ、悲痛焉ぞ限らむ、然かも一點毫末の恨みを述べず、はかなき草木を見ても猶大君と戀ひ給ふいぢらしき、嗚呼是れ尋常の戀ならむや、宜なり天皇の磐之姫に對する厚情の如き實に古來かつて聞かざる所なり。
古事記云、天皇聞看大后自山代上幸而、又續遣丸邇臣口子而歌曰。
みもろの、その高城なる、大猪子か原、大猪子か原にある、肝むかふ、こゝろをだにか、相もはずあらむ、
みもろは三輪山の事なり、高城もそこの地名、大猪子が原を二度いへるは例の調子のためなり、心をだにかは池心の宮といへる地の名に心の意を懸けたるなり、歌の意は、みもろ山のその高城なる大猪子が原にある、心をだに相思はずあらむかとなり、磐之姫の餘り心強きを怨み給ひて天皇の詠めるもの、是は序歌といふ體にて前六句は只心と云はんために、筒城の宮に至る途中の地名を以て序したるなり。
是れは平生最も深く相思へる間にして始めて云ふべき事なり、是迄は常に深く相思ひつゝありしが是程に種々心を盡しても、姫の強面なく還り給はぬは、義理のためとは云ふものゝ其實心をだに思はずにあるにあらざるかと、俗にいふイヤミを述べ給へるなり、若し是れが普通の間柄ならば何の意味もなき歌となるべし、只外に何事をも(295)云はず、心をだに思はずあらんかと云へる此場合に却て情の深きを見る。
日本書紀云、十一月甲寅朔庚申、天皇浮江幸山背時、桑江※[さんずい+公]水而流之天皇視桑枝歌之曰、
つぬさはふ、磐之姫が、おほろかに、聞こさぬかも、うら桑の木、よるまじき、河のくま/\、よろぼひゆくかも、うら桑の木、
つぬさはふは磐にかゝる枕詞、全首の意は磐の姫が餘りかど/\しくこと凡にきこさぬ哉、此河に流るゝうら桑の木(うらは枝のこと)の如くよろぼひゆくかな、うら桑の木よと、其流るる桑の木に向へる體なり、此うら桑の木といふ詞にはうらぶれ心ぐしなどの意もこもれり、茲に桑の枝を詠めること如何にも突然なれども、それが不自然の如くにして少しも不自然ならざるは實際の事なるが故なり、空想などにて決して出來得べからざる面白き歌といふべし。
此等の歌は後世の作物にして、此時の行幸は信じ難しなどいふ説あれど、予は此歌の樣に依て斷然然らざるを信ず、古事記の始めの八千矛神の歌などゝは、決して同視すべきものにあらず、八千矛神の歌の如きは、一見其作りものなるを知ると雖も、此桑の歌の如き趣向簡短にして然も實際的なる、少しく歌を作る程のものならば此歌の決して空想のものにあらざるを知るべし。
明日乘輿詣于筒城宮、喚皇后皇后不參見時天皇歌曰。
つきねふ、やましろめの、こくはもち、打し大根、さわ/\に、汝がいへせこそ、やがはえなす、きいりまゐくれ、
さわ/\の語に就き宣長は喧擾即わがしき意に解し、守部なども是れに同意しあれど予は之を取らず、大根を(296)生にて噛むときは口に辛く響くものなれば、磐之姫が口辛く強面なき其詞に譬へたるなり、やがはえなすは彌孫生《ヤゴハエ》なすなり、彌孫生とは木の伐株などよりいや繁く孫枝《ヒコバエ》の生ひいづるを云ふなり、一首の意は、山背女などが小鍬もて打掘る大根の口辛く御身がいはせればこそ、今打見る此彌孫生の如く、人もよこし自分もかく參りこし、といふ意なり、漢文などにて冠蓋相望むといふ如きことを、木の孫枝の繁に譬ていへる實に面白し、眞卒にして飾らず、然かも無限の詩味を覺ゆ。
亦歌曰。
つきねふ、やましろ女の、小鍬もち、うちし大根、根白の、しろたゝむき、まかずけばこそ、知らすともいはめ、
しろたゞむきは白腕なり、まかずけばこそは纏かず來たるものならばこそとの意、一首の心は、山背めのうちし大根の其根白の(此迄は序なり)白腕を纏いて相寢もせずに來たりしものならこそ、さようにつれなくも知らぬともいはめ、しかく疎遠なる間にてはなく、長年親しく睦びて來りしものを、よし幾許の恨はあるとも、左樣に強面なくしたまふとは餘りならずや、などある心なり、詞極めて簡にしてしかも意甚だ深し、天皇御製歌之技倆は驚くの外なし。
時皇后令奏言陛下納八田皇女爲妃吾不欲副皇女而爲后、遂不奉見乃車駕還言云々。
猶此外に天皇之歌彼是あれど今は省きつ、偖天皇始め八田皇女を妃となさむとおぼし、歌を以て磐之姫に請ひ給ふの事ありしより、茲に八年、磐之姫天皇の御意に從ざること屡なるに係らず、天皇磐之姫を親み給ふこと少しも變ぜず、姫が紀井より歸るといへば、天皇親ら海邊まで迎へ給ひ、姫が直に山背に徃き給ふや、又屡使を以て(297)召し給ひ、遂には御身親ら迎への爲め姫の宮にまで行幸せらる、天皇の磐之姫に對するの情、其至れる盡せる、古今かつて聞かざる所、加之其翌年即三十一年正月、磐之姫の長皇子去來穗別を立てゝ皇太子と爲し給へり、是又必御心ありての事なるや明かなり、熟々此間の消息を案ずるに、天皇如何に仁慈にあらせらると雖も、磐之姫が何等の理由もなく、單に嫉妬の情のみを以て、天皇の如斯厚情に背くこと、以上の如きものあらば、焉ぞ斯くまで許し給ふべき理あらんや、此間必ず一遍光明の理あるや知るべきなり。思ふに天皇の御家庭は、天皇が天下を知しめすに至らず、單に親王にしてあらせられたらむには、極めて幸福なる御家庭なりしならむに、事意外に出て遂に止むを得ずして、御位に如き給ふに及び、菟道稚郎子命之臨終の御依囑起りし爲め、天皇の御家庭には倫理上の一大不幸に遭遇せり、神聖なる戀愛の上よりせば、天皇は却て天位を厭はせられたるやも知るべからず、是心即天皇が磐之姫に對する無限の御厚情ありし所以にあらざるか。予は固より磐之姫嫉妬の事實を根本より抹却せんと欲するものにあらず、其平生勝氣にして人と相容れ難き御性質ありしは充分推知するに足るものあり、されば無論幾分嫉妬の性の人なりしやも固より知るべからず、然れども予は又夫れが爲めに、磐之姫が始終頑として天皇の思召に應ぜざりしを非認すること能はず。
前にも云へるが如く、天皇と磐之姫との御仲は決して尋常ならず、天地之間に只二人のみと相許せし間柄なりしを、不意の出來事より餘義なき義理を生じ、遂に其初心を遂ぐる能はざるに至れる、姫之不幸それこれを何に譬へむ、なまじひ此悲慘の地に居らんよりは、身を退くに如ずと決意せる姫の心事は決して無理と云ふべからず、如斯き際に強ひて本心を抂げしむるは却て人情に反す 天皇が二十餘年間八田皇女入内を決行し能はざりしも是が爲なり、古今類例なき厚意を姫に盡せるも又是が爲めなり、餘義なく袂を別ちしと雖も、其翌年正月早々姫の(298)長皇子を皇太子に立て給ひたるも又全く是れが爲めのみ。
然らずんば、又磐之姫が「かくばかりこひつゝあらすは高山の岩根しまきて死なまし」と歌ひつゝ戀ひ給たる天皇に、焉ぞ自ら好て離背すべき理あらんや、或は八田皇女に副ひて第二位にあるを厭へるの情もありしならんも、初一念の遂げざりし不幸に堪ざりしより、余義なき離背を見るに至れるや疑を容れざる所なり。
見るべし磐之姫が愈決意して山城に歸らるゝ時の歌に、一點秋毫の恨みなきのみならず、其天皇を戀ひ給ふの情、殆ど狂氣に類せることを、八十羽の木とは如何なる木ぞ、ゆづま椿とは如何なる木ぞ、それを見ては吾大君かと歌ひ給ひ、嗚呼是れ尋常の戀ならむや、一點毫末の恨みなき二三首の歌に無限無盡の悲痛が籠れると知らずや、予は是等の歌を反復讀誦して覺えず暗涙を催せり。
之を要するに天皇の家庭は倫理上の一大不幸に遭遇して種々なる變化を見たりと雖も、始終高明なる理想と神聖なる情愛とを以て一貫せり、其間に繊塵だも汚濁を存せざるなり、家貧にして孝子顯はれ國亂れて忠臣顯はると、予は所謂らく倫理上一大不幸に遭ひて天皇の清徳愈高きを見ると、然るに蒙昧なる歴史家は、漫りに輕斷妄議、以て亂行となし以て嫉妬となす、予は記し來つて茲に至り痛憤骨に徹するの思なくんばあらず。
咄陋儒頼襄罪萬死に當る、彼日本政記に於て何とか論じたる、彼は實に、吉備田狹の妻を横奪して遂に任那を失へる、彼暴戻なる雄略天皇に比論して、此天皇の清徳を議したる愚儒なり、嗚呼頼襄今に存せば、吾は直に彼が肉を喰はむと欲するものなり。 明治36年5月〜7月『新佛教』
署名 伊藤左千夫
(299) 閑人苦語
一
編輯の巧みにして體裁の整へる、記事のとり/\に面白く然も生氣ある、吾新佛教の如きは、雜誌界稀に見る所と云つてよからう、其中に狹まつて尤も見劣がして氣になるのは歌である(俳句新躰詩も覚束ないがそれは少々お門が違ふからいはぬ)ほんのお愛嬌に、少し酷に云はゞ躰裁を繕ふために狹んで置くかの趣きがある。新佛教の歌など、餘り注意して見るものもあるまい、吾輩などは好きであればこそ氣にするものゝ、一般の讀者間では、ナンダ歌なんてつまらんものぢやなどゝ、一寸一瞥を呉れたまゝほうられて終ふのであるらしい、從て好くとも飽くくともそんなことは、どうでもよいといふような傾がある。そんな待遇を受けてゐる本誌の歌に就て彼是云うて見るのも實は馬鹿らしいが、吾好める道とて、何分それが氣になつてならぬ、又一方からは新佛教徒と云へば理窟屋許りの集合躰で、趣味と云つたら下品で殺風景な奴が多い、其證據にはアンナ下らぬ歌を澤山並べて平氣でゐるなどゝ、云はれはしまいか。
こんな事を思ふと猶更氣になる、そこで餘計なことゝは思ふが、知らずして言ふは智ならず、知つて言はざるは忠ならずで、赤の他人から眞面目に惡口を云はれては、堂々たる『新佛教』編輯員諸君のお顔にかゝはる恐があ(300)らうと、多少の馴染甲斐に、吾輩が一つ惡まれ口を叩いて置かうと思ふのである。
古いことは兎に角、前號の誌上に載つた歌は二十六首である、相當に紙面も塞げてゐる、文學の雜誌でない雜誌としては、まづ澤山な歌數だといつてよからう、此多數の歌を一々評するは固より御免蒙る(敢て頼まれた譯ではない)。
桃李菜種の花の咲く頃をあふみのうみは云々
此歌の内容即景色といへは、湖に春雨けぶるといふに過ぎない、何等の形も見えぬ、大きい景色か小さい景色かそれも判然せぬ、つまり客觀音の一部につかまへた所がないから、景色が一つの形をなさぬ、くはしくいふまとまらぬ景色である、桃李菜種の花と詞にはあつても、それは時候の説明であるから、此歌の上の景色にはならぬは勿論である、要するに詞ばかりでごまかした歌といへばよい、こういふ歌を、昔も今も歌だと思つてゐるものが多いには困る。
不二廼山高嶺波險之道遠之云々
これもまとまらぬ歌である、下の句董摘筒と上三句とは接續しない、歌も繪も同しで、一首の歌一幅の畫、皆一つのまとまつた形をなさねばならぬ物ぢや、上の方の植物と下の方の動物とが、離れ/\では畫にはならぬ如く、上句下句まとまらなくては、一つの形とはならぬ、不二山はけはしくて遠いから昇るは大へんだに依つて裾野で董をつむでゐる、といふのらしいが、そんな理窟をこねるより、不二の高峯に雪か雲があつて美しいのに其裾野で菫をつむ、といふ樣に云へば陳腐ではあるが、厭味はないものになる、次の歌、「よそにみて」の一句でこはしてゐる、「多良乃芽乎摘」の歌と「裾野をたとる」の歌はやゝ見られる歌である。
(301) はし居すれは鶯鳴つ見上くれは鶯飛つ云々
中心もなく統一もなき、滅茶々々歌である。今の新派とか何とかいふ連中の歌は、ナンでも澤山なものをこて/\ならべて、變手古に云へば、趣味が新らしいと思つてゐる樣である、歌即詩といふものは、繪圖的に説明したものではない、趣味ある色彩で、趣味ある景象を顯はすのが繪である如く、趣味ある詞調子否形式で、趣味ある意味を顯すのが詩である、餘り酷な惡口の樣であるが、折角歌を作らるゝならば、少しく研究してほしい、他の七首皆歌らしきものなし。
門を閉ちて文讀む君かわび住の云々
此人の歌も繪圖的説明が多い、詞の趣味といふこと調子の趣味といふ事に注意せねば、歌にはならぬ、佐々木信綱といふ人がよく此人の歌の樣なものを作つてゐる、あんなものを歌と思つてゐる御當人や、世間の人の氣が知れぬ、實に情ない事である。
二
天下千百の新聞雜誌、多くは歌が載つてゐる。此の點より見ると、今の世は、實に歌が盛だといつてよからう。然るに情ないことには、其千百の新聞雜誌の歌といふものに、文學としての清高な趣味を認めることの出來ないものが、百中九十以上である。
作者は固より大多數のものであるから、集つてくる歌悉く成功して居らぬことは當前で、少しも怪むに足らぬ。只之を撰で載せるもの、毫も歌を解せざるに至つては、之を何といはうか、畢竟今の新聞雜誌に、何れもクダラ(302)ヌものはかり出るといふのも、自分更に歌を解せぬ眼で、漫りに取捨をする樣な無法者があるからであらう。イヤさうでない、分らずや先生が、自分免許で撰などをするからであらう。歌は文學である、心靈的專門の技藝である、さう無造作に出來たり分つたりするものではない。自個流に、口眞似手眞似的に、一年や二年やつたからとて、容易く解し得るものでない、ソソナに又無造作に出來るものならば、價値のあるべき筈がない。普通一般の職業にしても、一年や二年では、ロクな事は出來やしない、況や歌だ、況や文學だ。
古來歌を知るは歌を作るより難しというてある、勿論のことである。專門的に歌の修養がある上に、社會の表裏百般の事に其趣味を解して、始めて文擧も解し歌も解し得るのである。趣味といふものを解せぬ輩には、ペンキ繪と油繪との差別が分らぬ如く、詞が三十一字にさへなつてゐれば歌だと信じてゐる先生達に、文學と非文學との差別が分らう筈がない。
歌は單調な國語でやるから、一寸やり易ひ樣に思はれる。漢詩などの如く、韻字だの平仄だのと云ふ樣な、面倒なことがないから、素人連は無造作なものと思うてゐるものが多い、相當に學文見識のある輩でも、さう思つてゐるものが多いらしい。クダラヌ歌が數限りもなく出たり、盲天狗が軒端雀の樣に多いのも、それが爲であらう。成程歌は入り易いものに相違ないが、入り易いだけそれだけ成功の難いものである。それであるから、大抵終身わからずにしまふ人許りだ。
しかし、或る面から見ると、一年二年の人の解らぬは無理はない、隨分專門的にやつて居て、世間から文學者だ歌人だといはれて居る連中が、片端から怪しいのだから、慰み半分にやつてゐる輩に、解し得ぬは當前である。解らぬのが當前であるから、其解らぬことを自ら承知して居れはよいのだが、自ら顧みて曖昧でありながら、解(303)つた樣な躰度をするから、罪があるのである。又解るべき道も失うてしまふのである。歌といふものは、そんなに六つかしいものかしら。
前號で、佐々木信綱といふ人の歌は、歌とはいへぬと書いたが、此人は、當時立派な歌の宗匠で、天下に門人を有して居る、從つて世人も立派な歌人として許してゐるのに、此人の歌を、只漫然理由も云はずに歌でないなどゝいつては、人の承知せぬも無理はない。予もそれでは除り無責任であるから、少し茲に證據を上げて見樣。「心の花」六卷六號は最近の發行で、是に載つてあるのは、信綱最近の作であらう。その中にこういふのがある。
里まつりきのふ果てたるうぶすなの森しづかなり木つゝきの聲
此調子の俗なることは暫く置くとして、木つゝきの聲と、きのふのまつりが果てたのと、何の關係があるであらうか。木つゝきの聲といふが、何にでも取かへられるは、まとまつてゐぬ證であらう。それを「よしきりの聲」としたらどうであらう、「兒等が遊へる」としたら如何である、「人もゐなくに」、「鳩のなく聲」、何とでもいへるは調法な歌である。思ひ切つてくだらぬ歌が十首計り並べてあるが、一々之を評する程の勇氣はない、篤志家は就いて見るべしだ、予が言の無責任ならぬ事が直ぐに解る。
明治36年6月・7月『新佛教』
署名 樂尊
(304) 萬葉論
一
之を古歌論と云ふも可なり、單に之を歌論といふも又不可ならず、論據の例歌、悉く之を萬葉集に採る、依て以て萬葉論と名づく、夫れ又可ならむか。
萬葉集に關する古來之著書甚だ鮮からず、解釋に評論に精密詳細、既に盡せりと云ふべし、今人の萬葉を視るもの、其意義を解し句法用語の妙を悟り、趣味の深きと價値の尊きとを知るに於いて何等の不自由を感ぜず。
故正岡大人を始め、吾徒の同志之が論評を試みたるもの、又前後幾回なるを知らず、今にして又萬葉を論ずるそも何の要かある。
然かも吾「馬醉木」發行の初刊に於て、此論を草する豈に故なからむや、世間多くの萬葉を云々するもの、萬葉を熟讀玩味して果して何物をか得たる、評論研究に敢て怠るなきが如き世の多くの歌人等は、其萬葉中より何物をか獲得したる、萬葉の調子を面白しとして其調子を摸し、萬葉の句法用語の妙を悦で、其句法用語を摸し、萬葉の趣味多大なるを樂で徒らに其趣味に淫し、自個の本能性情を滅却したる摸倣的文學を得たるの外、何等發明する所なく何等獲得せる所なくむば、萬葉の研究は寧ろ歌人を害毒せりと云ふを適當なりとせむ、吾黨多年萬葉(305)を研究したるの結果豈夫れ如斯淺薄ならむや。
予は論歩を進むるに當つて猶茲に一言し置かざるべからざるものあり、そは文學美術上に於ける摸倣なるものゝ意義と價値とに就てなり、思ふに摸倣なるものゝ美術文學に於けるは、或程度迄は之を當然なりとして認容すべき性質を有するものならずんばあらず、美術は自然の摸倣なりとの解釋も又一面の眞理を有すればなり。
況や題目同くして作家に前後ある場合に於ては、題目の同じき點より、前作と後作と相類似するもの有るに至るは實に止を得ざるの數なるをや、前作後作相類せるを以て直に後作は前作を摸倣せるものと認定するは誤れり、よし又後作は摸倣なりとするも其摸倣なるの一事を以て直に作物を貶するは不可なり、要は製作其物の價値如何を主として其取捨を決せざるべからず、美術文學最頂の目的は、相對者たる快感の滿足にあるや勿論なれば、此場合に於ては其舊想と新想とを問ふを要せず、摸倣と否とを問ふを要せず、只其製作なるものが能く美術文學としての本能的目的を達したりや否やを定むれば足れり、摸倣其物の目的は美術文學の價値上に寸分を益するものにあらずと雖も、製作手段の上には重要なる價値を摸倣其物に認めらるゝこと少からず、之を要するに摸倣に依りて價値ある製作を得ることあるは普通の事に屬すれども、摸倣したるが爲製作上に毫も價値を加ふるものならざるは明なり、摸倣の價値は到底手段との價値たるに過ざるを知れば足れりとす。
吾黨の士先に大に萬葉集の價値を研究するや、古人今人の未だ知らざる所を闢く、從而同士の製作萬葉に類似せるもの多きを致せるは自然の數なり(吾同志の歌が萬葉以外に一地歩を占め居るは勿論なれども)美術文學上に眞價値を解せざる多くの世人は、吾黨の歌が一見萬葉に類似せるを見て、其眞價を咀嚼するの能力なく、直に擬古(306)となし萬葉摸倣となし、杜撰なる妄評を吾黨の製作に降せるが如し、淺薄なる※[耳+貴]々者の言固より齒牙にかくるに足らずと雖も、聊か摸倣なるものゝ性質を辨じて彼等に教置くも又歌壇に對するの義務ならんか。
總ての文學、總ての美術、其起原發達進歩の跡を考察する時は、多くは其揆を同ふするものあるが如し 予は從來歌と畫との比較研究上極めて有益に趣味ある問題を考究せり、古歌の研究 古畫の研究と頗る相似たるものあるは、常に素明子と相論談して快とする所、古歌古畫の研究や、其目的極めて多方面にして、其要求や決して單一なるものにあらず、種々なる點に於て稗盆する所大なるは云ふまでもあらずと雖も、最後の目的は新進の路を開くの料を求むるに過ぎず。
而して吾黨今日の研究程度は、區々たる末節の利點を拾集して以て甘ずべきの時機にあらず、古歌の研究といひ、萬葉の研究といひ、宜しく其根底を叩き其原因を極め、綜合的考察より統一的斷定を下して、以て爾後の進路に確然たる方針を立てざるべからず、然も予が殊に萬葉を擧げて其他を顧みざる所以は、古來無數の歌集中萬葉を置きて他に眞文學と認め得べきもの實に少なければなり、殊に萬葉は吾邦唯一の詩集にして、其羅織する所約五百年間包合する所甚だ廣く、發達變化の跡歴々として見るべく、劃然として一段落を爲せり、古今集以下の歌集が悉く單純一樣なるが如きものならず、予は寧萬菓以下千年間の歌集を一炬燒盡して直に萬葉の系統を繼ぐの快なるを思ふ、萬葉以降萬葉の系統とこしへに絶て、萬葉其物は又自ら能く段落を示したりしは實に奇といふべし、此點に就ては又歌と畫と甚だ状體を異にせり、
(307)繪畫の起原なるもの固より考證し得ずと雖も、其初めや簡單なる寫實より起れるや明なり、古土佐の繪畫に稍其趣きを見るものなきにあらず、然も幾分世に珍重せられ後世に傳ふるを得たるが如きは、其當時にして尤も巧妙なる作家なりしならん、其世に傳ふるに至らざる幼推なるものに至つては想像するに難らず、歌にありても是と同樣なる時代の有りしや知るべきのみ、單に心に思ひ浮べるまゝを形式の文字否々詞に顯はしたるもの、其幼稚にして淺薄なるものは世に傳はるに至らずして消滅せる、尤も古代の繪の存在せざると同じきものあるべし。思ふに上代の民、他一般の事物に比して、美術文學上の思想が尤も進歩的傾向を有せり、記紀神代の歌なるもの頗る見るべきものある以て知るべし。
簡單幼稚なる寓實を以て起れる美術文學は、果して如何なる徑路を取て進歩を始めたるか、美術的文學的には最も發達し易き素性を有せる上代の民は、幼稚淺薄なる製物に對しては久からずして、快感の滿足を得る能はざるより、忽ちより以上の物を要求するに至れるは自然の數なりとす、是に於て先づ如何なる方面に進歩的要求を起したるか。
最も顯著に最も強烈に感ずる物に向つて先づ要求を起し來るは人間の通有性、思想初歩の程度にありては尤も然りとなす、上代の民が簡單幼稚なる寫實より、一直線に形式美理想実の詩境に進入したるは、之を人間の通有性なりといふを至當なりとす、獨吾國のみならず支那に於ても西洋に於ても皆同一樣の徑路を取れるが如し、何れの國に於ても中世の美術文學が相約したるが如く形式美と理想実の發達を遂げたるは何人も認むる所ならむ。
色の上に於ても線の上に於ても、趣味の幼稚なる人に尤も顯著に感ずるものは形式趣味なり、尤も強烈に感ずるものは理想趣味なり、簡明を悦んで復雜を好まず、平凡を樂んで變化を思はず、是れ幼椎なる思想の自然なれば(308)なり。
然れども以上は思想の順序より云へるものにして勿論美の定義にはあらざれば、簡明必しも復雜に劣らず、平凡必しも變化に如かずとは云ふべからず、從て理想美形式美の歌や繪畫や、其成功せる物に至つては、美術文學上の價値に於て之を眞正寫實趣味の物と相比して何れを勝り何れを劣れりとは言ふべからず、理想は理想、形式は形式、寫實は寫實、各其異なる趣味と美とを有することは多言を俟たず、猶茲に一言を添置かざるべからず、理想や形式や寫實や全然獨立して相容れざるものにはあらず理想中にも寫實あり、寫實中にも理想あり只其主とせる所を異にせるのみ。
若夫れ吾邦の繪畫に就て極めて簡單に要概を云はゞ理想的形式畫最高潮は周文雪舟に至つて極まれり、雪舟以前雪舟なく雪舟後又雪舟なし、之を歌に比して云はゞ、周文は赤人なり、雪舟は人丸なり、人丸以前に人丸はなく、人丸後又人丸なし理想的形式歌は人丸に至つて極まれり、美術文學の趣味は決して雪舟人丸に盡きずと雖も、雪舟的人丸的の趣味に於ては明に最頂の上に達したりと云ふを得べし、之を今日に見るも一面の趣味に於ては無上の價値を認めざるを得ず。
美術文學界に於ける趣味の擴充進歩は、遂に又理想の陳腐に飽き形式の變化なきに滿足せず新要求の起るは勢の自然なるものあり、畫界に於ては雪舟後傑人久しく出でず、約二百年にして宗達光琳の徒起つて同じ形式の廓内に於て一變化し得たりと雖も、固是單純なる形式上の變化なれば忽にして陳腐の常弊に陷りたるは止むを得ざるの數なるべし。
呉春應擧の起れるは雪舟没後實に三百年、寫實趣味の泉源を開發し、美術上一大變化の端緒を起せるは、二人者(309)が寫實趣味の成功極めて幼稚なるものあるに係らず、畫界に新生面を闢きたるの功績實に大なりと云はざるをず。
畫界の變潮が斯く永遠の歳月を要したるに似ず吾歌界の變化は實に幸運なる經過を有せるが如し、萬葉集が有する歳月の經過は僅に四百余年に過ぎず、此僅々四百余年の間に理想形式趣味の一大成功を遂げ、直に進んで寫實趣味の初期を開發せり。
柿本人丸は形式派之代表者なり、山上憶良大伴家持は寫實開發の代表者なり、人丸は之を周文雪舟に比すべく、憶良家持は之を呉春應擧に比するを得む、
周文雪舟後約四百年にして呉春應擧の起れるに比し人丸後憶良家持の起れるは六七十年を出でざるが如し、歌界の進歩發達が如何に速なりしかを知るに足らむ 萬葉以後の歌界は常しへに暗黒を極めたりと雖も、萬葉集時代の歴史は實に上述の如き隆盛なる成績を示せるなり。
予は今進んで各製作の事實に就て、發達變化の跡を徴せんと欲す、然れども最も初期に屬する、所謂幼稚なる寫實的の製作は、共存留せるもの殆ど見るべからず、後世に傳はれる籍載皆成功時代の人に依て撰擇せられたるを思へば、其幼稚時代の製作今日に傳はらざるは怪しむに足らず、單に年代の上よりすれば、記紀に於ける神代の歌なるもの、即幼椎なる寫實なるべきが如しと雖も、予は其神代の歌なるものに就ては、全く其時代の製作なりや否に疑あり、故に予は茲に萬葉集所載の歌に就てのみ、形式趣味より一變して寫實の初期に移れるの跡を査究せむ、
(310) 二
人麿の歌及び人麿以前の歌
萬葉集卷三柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首
みつのさき波をかしこみこもり江の船よせかねつぬしまのさきに
殊藻かるみぬめを過き夏草のぬしまのさきに船ちかづきぬ
粟路のぬしまのさきの濱風に妹か結へるひもふきかへす
荒栲の藤江の浦にすゝきつるあまとか見らむ旅ゆく吾を
いなびぬもゆきすぎかてにおもへれは心こほしき可古乃島見ゆ
ともしひの明石大門に入らむ日や榜別れなむ家のあたり見ず
天離るひなの長路ゆこひくれは明石の門より大和しまみゆ
飼飯の海の庭よくあらし苅こものみたれいづるみゆあまの釣船
是等の歌を反復讀誦せば其妙味が、如何に主調子的なるかを知るに足らむ、八首の内に枕詞を用ひたるもの五首迄もあるを見ても、形式美に重きを置けるの製作なるや明かならむ。
同書卷四所載人麿の歌七首にして其内四首は序歌にして二首に枕詞を用たり、同卷七所載人麿歌集歌五十餘首而して枕詞を用ひたるもの二十餘首を數ふ 同卷十十一人麿歌集歌最も多し、兩卷合して百三十餘首、序歌及び枕詞を用ひたる歌數約三十八首、他卷の歌に比して序歌枕詞の少きは思ふに七夕之歌三十八首の如き理想的の歌多(311)きが故なるべし、理想的の歌は趣向其物が已に美なるもの從て粧飾的詞を用ゆるの要少なきは自然の數なりとす、
枕詞を使用せる歌を以て悉く形式派の歌なりと一概に斷定し難きは勿論なれども、予が茲に枕詞云々を繰返せる所以は、比較上形式派の歌に枕詞多きは、理の然らしむる所殊に寫實派と相對して其區別を説明するに當り、枕詞使用の如何を數ふるは、最も便利を感ずるが故なり。
人麿の歌及び人麿歌集の歌は略如斯、人麿以外當時の歌及其以前の歌は如何、人麿歌集以外に人麿以前の歌は萬葉集中甚多からず、一人僅に三四首の作歌は其時代傾向を證するに足らずと雖も、今試に齊明天皇及天智天皇時代の歌を擧ぐれば、卷一
にきたつに船のりせんと月まては潮もかなひぬ今はこぎてな 額田王
みもろの山見つゝゆけ吾背子がいたゝしけむいつ※[木+陛の旁]かもと 同
君か代も吾代も知らむ磐代の岡の草根をいさ結びてな 中皇命
吾背子は借庵作らすかやなくは小松かもとのかやをからさね 同
吾ほりし子島は見しを底深きあこねの浦の珠そひりはぬ 同
渡津味の豐旗雲に入日さし今夜の月夜清くてりこそ 作者不詳
三輪山をしかもかくすか雲たにも心あらなむかくさふへしや 額田王
綜麻形の林のさきのさぬはりの衣につくなす目につくわかせ 井戸王
茜さす紫野ゆきしめ野ゆき野守はみすや君か袖ふる 額田王
(312) 紫草之にほへる妹をにくゝあらは人つま故にわれこひめやも 天武天皇
枕詞などの使用こそ少なけれ、其高朗圓熱なる調子の如何に趣味深きかを知らむ、事實の空想ならざるは勿論なれども、然かも意味容易に解し難く中心點の明ならざる等一見趣味の寓實的ならざるを覺えむ、卷二天智天皇時代悉く歌を挙げむは煩しければ枕詞及序歌を數へ見む、
天皇御製の歌より巨勢郎女の歌迄十二首枕詞ある者八首序歌と見るべきもの八首其形式趣味なることは云ふまでもあらず、
人麿同時の歌と云はゞ、日並皇子尊殯宮之時舍人等の歌二十三首を見る最も便なりとす、二十三首中に九首迄枕詞あり、今其五六首を示さむ。
高光るわが日の皇子のよろつよに國しらさまし島の宮はも
島の宮上りの池の放鳥荒びなゆきそ君まさずとも
高光る吾日のみこのいましせは島の御門はあれざらましを
外に見しまゆみの岡も君ませは常つ御門と侍宿するかも
朝日てる佐太の岡邊に群居つゝ吾なく涙止む時もなし
御立たしの島を見る時庭多泉流るゝ涙とゝめかねつる (以下畧)
其形式的なる風調察するに足るものあり、
然らば山上憶良山部赤人の歌は如何、大伴家持等の歌は如何、所謂寫實的趣味の開發なるもの、そも如何なる歌ぞ、予は之を説明せんとするに先立ち、少しく人麿憶良赤人等が年次の相異に就き説き置くの必要あるを信ず、(313)彼有名なる高市皇子尊城上殯宮之時の長歌は察するに人麿晩年の作なるべし、而して高市皇子は持統天皇十年七月に薨ずとあり、且つ持統天皇も其翌年禅位せられたれば、人麿にして猶長生したらんには、文武天皇時代の歌と見るべきもの有べき筈なるに、慥にそれと知り得る歌なきを思へば少くも此後數年にして世を去りしや明なり、然るに憶艮の歌は、高市皇子の薨去の後僅に六年即大寶元年既に顯はれ居るを見れば、憶良は最も人麿に近き人なることを知るに足る、而して其後二十餘年神龜元年に至り山部赤人の歌を見る時は、其時赤人何才位なるや知る能はずと雖も憶良と稍同年なるか若くは今少し年若き人なること、大差なき推測ならむ、
大伴家持の歌が始めて萬葉集に顯はれたるは天平八年なれは、是又彼神龜元年を去ること十三年に過ぎず、當時家持未だ若年なるや固よりなるべしと雖も、此天平八年には赤人の長歌もありし年なれば赤人の生存せるは勿論、憶良の歌も天平五年のもの明に記載しあれば、思ふに此時猶生存したるならむか、以上の年次より考ふる時は、赤人憶良は人麿には子に當る程の年なるべし、家持は、又憶良赤人には、其子にして人麿に對せば、孫に當る程なること疑ひなし、如斯年次の上に於ては相接續せりと雖も、作歌の標準は前論に云へるが如く、頗る變化せるものあるを見る、即憶良赤人が稀世の大歌人たる所以も又人麿後相繼て出たるに係らず、能く人麿以外に開連する所ありしを以てなり、請ふ憶良赤人の歌を吟味せむ。
萬葉集巻五山上憶良の歌
家にゆきていかにか吾せむまくらつく妻屋さふしくおもほゆへしも
はしきよしかくのみからに慕ひこし妹か心のすべもすべなさ
(314) くやしかもかく知らませは青丹よしくぬちことごと見せましものを
妹か見しあふちの花は散りぬべし吾なく涙いまたひなくに
大野山きりたち渡る吾なげくおきその風にきり立ち渡る
銀母くかねも玉もなにせんにまされるたから子にしかめやも
ときはなすかくしもかもと思へとも世の事なれはとゝみかねつも
意味を主として調子を次にせる趣一讀して感知するを得む、人麿派の歌には如斯調子蕪雜なるものは一首も見ることを得ず、然れども是等の歌を返讀吟味すれば着想の最も自然にして情懷の極めて痛切なるを覺えずんばあらず、此外此卷中憶艮の短歌四十餘首而て枕詞あるもの十首に滿たず、序歌と見るべきもの一首もなし、其内に就て最も寫實的に自然なるものを擧れば、
天飛や鳥にもかもや都まて送りまをしてとひかへるもの
あまさかるひなに五とせすまひつゝみやこの手ふり忘らえにけり
いでゆきし日を數へつゝけふ/\とあをまたすらむ父母らはも
以て趣味の一般を知るべし、猶此卷中注意すべきは梅の歌三十二首なりとす、所謂憶良派の歌とも見るべきか、三十二首中枕詞僅に一首あるのみ、一見自然派の歌なるを知るべし、只寫實的自然派の作として未だ甚だ幼稚なるを免れざるのみ、
山部赤人之短歌(卷中散在故に卷を別たず)
田兒の浦ゆうちいてゝ見れば眞白くそ富士の高嶺に雪はふりける
(315) 富士のねにふりおける雪は六月のもちに消ぬれは其夜ふりけり
ふじのねを高みかしこみ天雲もいゆきはゞかり棚引ものを
詞の面白味といふよりは景色の面白味即意味を主として詠めるものたるを見るべし、
百敷の大宮人の飽田津に船のりしけむ年の知らなく
明日川かはよど去らす立霧の念ひすくべき戀ひにあらなくに
赤人の見地は慥に憶良の下にあり、憶良の歌には人麿の模倣らしき歌一首も見ざるに、赤人に至りて往々模倣の跡を留む以上二首の如き即是れなり、拙劣見るに堪ず蓋如斯は赤人の本領に非ず、
繩の浦ゆそかひに見ゆる奥つしまこぎたむ船は釣しすらしも
武庫の浦をこきたむ小舟粟島をそかひに見つゝともしき小舟
光景繪を見るが如し、赤人の價値慥に茲に存す 全く人麿に無き所にして、所謂寫實の新生面を見るべし、
奥つしまありその玉藻潮みちていかくろひなはおもほえむかも
若の浦に潮みちくれは潟をなみ葦邊をさしてたづ鳴き渡る
三吉野の象山のまのこぬれにはこゝたもさはく鳥の聲かも
烏玉の夜のふけぬれは久木生ふる清き河原に千鳥しばなく
足引の山にも野にもみかり人さつ矢たはさみさわきたりみゆ
猶多けれど省けり、葦邊をさしてといひ、こゝたもさはぐといひ、千鳥しば鳴くといひ、實景如何にも判然讀者をして身其境にあるの思あらしむ、歌に於ける寫實の成功は、畫に於ける呉春應擧の上にあるか、枕詞の使用最(316)も少きは又赤人の歌なり、
大伴家持短歌
萬葉集最も多くの歌を有するものは家持なり、從て家持の歌は其凰調諸家に出入して、容易に何れの派に屬するやを定め難きものあり、思ふに年若くして未だ習練中の作歌も并存すればにや、されは今茲に同卷廿天平勝寶以下のもの、即此集にしては家持晩作の歌を擧げむ、卷二十に收むる所七十餘首而して枕詞を用ひたる僅に四首なるを注意し置くべし、
宮人のそでつけ衣あき萩に丹保比よろしきたかまとのみや
たかまとの宮のすそみのぬつかさに今咲けるらむをみなへしはも
秋野には今こそゆかめものゝふのをとこをみなの花にほひ見に
秋の野に露おへる萩をたをらすてあたらさかりを過してむとか
たかまとの秋野の上の朝ぎりに妻よふをしかいて立らむか
ますらをの呼びたてませはさをしかのむなわけゆかむ秋の萩原
着眼極めて細微、必ず一個中心景物を抽出して其想をやる、寫實の筆法ならでやは、憶良の痛切、赤人の明快なしと雖も、又一種穏健なる趣致の演出せるを認む、猶
堀江こぐ伊豆手の舟のかぢつくめ音しば立ちぬ水尾速みかも
家持は如斯純寫實的の歌もあるなり、
月よめはいまた冬なりしかすかに霞棚引く春立ちぬとか
(317)如斯純模倣の愚劣なる歌も詠める人なり、要するに家持は自家の責任を充分自覺せざりしものゝ如し、憶良赤人の後を受け趨勢の自然に驅られ、寫實趣味に傾けるものゝ如く、自信的標準の確然なるものありしや否や甚疑はし、其作歌の大部は之を寫實派と云ふを當れりとすと雖も、寫實開發の成功上今一歩を進むる能はざりしを惜む、憶良赤人は革新創作家として製作の數少かりしは止むを得ずと雖も、此二人者の後に然かも相繼て顯はれたる、家持にして今一壇の作家なりせは寫實成功の上に更に光彩の發揚せるものありしならむ、誠に遺恨の極みといふべし、
萬葉卷七及其他に少しく見る所の古歌集の歌なるものは固より、何時頃のものとも知り難しと雖も、少くも人麿同時か其以前のものなるらし、然も其歌柄を見れば全く憶良派の調子にして、寫實趣味の傾向を有せり、憶良以前更に人麿以前、如斯歌ありしは最も奇とする所なり、
猶同十四及二十の東歌防人の歌は、是又其時代を明にし難し、所謂古歌集中の歌なるもの、之を眞に寫實趣味と云はむは聊か慥ならぬ所なきにあらねど、左に掲ぐる歌の如きは頗其近きものあるを認む、
月草に衣そゝめる君がためまだらの衣すらんと思ひて
春かすみ井のへゆたゝに道はあれと君に逢はんとたもとほりくも
さつき山卯の花もちしかなしきが手をしとりては花はちるとも
あかときと夜からす鳴けど此岡のこぬれのうへはいまだ靜けし
是決して形式派の歌にあらざるを知るべし、單に古歌集といふ果して人麿以前なるや或るは同時のものなるや固より得て知るべからずと雖も、家持の時代より指して既に古歌集といふ、殊に人麿歌集と相並てかくいへるを見(318)れば、思ふに人麿以前のものなるべし、應擧の前に幽汀あり、光淋の前に光甫あるが如く、憶良の前に古歌集の如き歌あるは、又自然の數なるか、萬葉十四東歌は、其歌柄といひ且つは卷中徃々人麿歌集云々の語あるを見れば多くは、人麿調の歌なるや怪むに足らず、予が茲に紹介し置かむとするは同卷二十防人の歌なりとす家持の時代にあつて、能く形式派の餘端を保てるもの試に三四を抜く、
父母は花にもかもや久左枕たびはゆくともさゝごてゆかむ
父母かとのゝしりへの百世草もゝ世いてませわかきたるまて
大きみのみ言かしこみいそにふりうのはら渡る父母をおきて
八十くには難波につどひ舟かざりあがせむひろを見も人もかも
見て一般を知るべし、是實に天平勝寶七年東人の歌なり、家持が拙きものは棄てつと云ひつゝ載たる歌なれば、當時面白きものとせるは明なれども、中央歌壇は早く一變化せるに係らず、地方に於て尚形式趣味即人麿調の盛なりしを察するに足る、呉春應擧の革新派起れる後と雖も土佐狩野の形式派が容易に衰へざるが如し 況や形式と寫實とを問はず佳作は何處までも佳作なるをや
萬葉集は一遍の歌集と云ふと雖も其包藏する所頗る廣大にして、文運の變化、發達擴充の跡極めて複雜なるは前述せるが如し、之を二大別して、主調子即形式派之を人麿派と云ふべく、主意味即ち寫實派之を憶良赤人派と云ふべく、更に詳に云へば形式派成功時代と寫實派開達時代と云ふべし、年月の上よりせば、形式派三百余年寫實派約百年となす、
若夫製作の價値より之を視る、憶良赤人の歌は到底人麿に比すべくもあらず、一は圓滿なる成功時代のもの、一(319)は寫實開發初期の製作、價値相如かざるや怪しむに足らざるなり、只彼等二人者が人麿と殆ど年次相續て出でながら、其人麿の高華雄渾に眩せず其糟粕を斥け別に一生面を開發せるの抱負と気慨とは、模倣是れ事とせる千歳の詩人をして愧死せしむに足るものあり、無聲會の同人諸子が、單に製作の價値よりせば、周文雪舟を成功せるものとし、優秀なるものとせるに係らず、其周文雪舟の精神を繼がずして、却て寫實猶幼稚なりとする所の呉春應擧の精神を繼で完全なる寫實の成功を期せんとするが如く、吾同志の研究進路又殆どそれと揆を同せり、
人麿の歌を優れたりとなし成功せりとなし、然も其系統を逐はずして、比較上劣れりとなし未だしとなす所の憶良赤人の精神を繼で、より進歩的寫實趣味の成功を遂げんと期するは、他なし、形式趣味主調子趣味の單純にして變化に乏しく、到底時代思想に適應せざるを以てなり、憶良赤人に取る所は歌の成功にあらずして、革新精神に存す、故に思想の進歩は是を憶良赤人に歸せざるを得ず、吾輩が人麿に據らずして、憶良赤人に據らむとするは是が爲なり、
何れの社會か形式なからむ、今日の社會又一面は形式を以て滿たさる、社會既に形式ある、形式趣味の絶對に排斥すべからざるや論なきのみ、要するに形式趣味以外更に寫實趣味を發揮すと云はゞ即可ならん、然かも形式派の既に成功せるものありとせば、其未だ成功を告げざる、寫實派に向つて猛進すべきは明治詩人たるものが當然の職務たるを認めずんばあらず 形式は理想に親み寫實は自然に親む 是れ理の正に然らしむる所なりと雖も、人麿にも寫實の歌あるが如く憶良赤人又形式の歌あり、即知る理想派又寫實なかるべからず、自然派又勿論理想なかるべからず、要するに程度の問題に屬し、形式趣味と云ひ寫實趣味と云ふ、固より大體上の区別なるを知らざるべからず、
(320)兩者各又長所と短所とを有す、其趣味に於ても固より何れを可とし何れを不可と定め難し、只夫れ活動社會の大法則は、次第に精細に次第に複雜に赴く、幼稚なる太古の自活政治は、一進して形式政治即君主政治となり、再變して進歩的自治政治の起れるが如く、文學美術に於ける趣味の進移趨勢又此大法則に違ふ能はず、幼椎なる寫實は暫く置く、單純なる形式趣味より進で複雜なる寫實的趣味の發動を見るは自然の勢なり、
知るべし寫實趣味の發動は、即變化的活動的趣味の要求に對し、其滿足を與へむとするにあること、
吾黨萬葉集研究の結果は、人麿以前三百年間形式趣味の大成功を認め同時に憶良赤人等が革新の偉業を推重し、其進歩的理想の系統を繼で今日の時代思想に適應せる成功を見むことを期す、予は猶終に臨で一言を添む、歌其物は元來形式的文學なれば、先に所謂寫實とは其形式的なる歌の上に於ての寫實なることを忘るべからず、且つ殊に自ら新派と誇稱する、新詩社の諸氏が、今猶理想を標榜し、形式趣味に固着せるの迂を憐み、繪畫界に於ける美術院の一派が、遲蒔ながら大に寫實に勉むる所あらむと宣言せるを多とす。(六月廿三日完稿) 明治36年6月・7月『馬醉木』
署名 伊藤左千夫
(321) 竹の里人 〔一〕
同人が各自、種々なる方面より見たる故先生をあらはさむことにつとむ
考へて見ると實に昔が戀しい、明治三十三年の一月然かも二日の日から往き始めた予は、其以前の事は勿論知らぬのであるが、予が往き始めた頃はまだ頗る元氣があつたもので、食物は菓物を尤も好まれたは人も知つてゐるが、甘い物なら何でも好きといふ調子で、壯健の人をも驚かす位喰ふた、御馳走の事といつたら話をしても悦んだ程で、腰は立なくとも左の片肘を突いて體をそばだてゝゐながら、物を書く話をする、余所目にも左程苦痛がある樣には見えなかつた。
物はいくらでもくふ話はいくらでもする、予の如き暢氣な輩は夜の十二時一時頃まで話をすることは敢て珍しくはなかつた、或夜などは門の扉が何か音がするなと思つたら翌日の新聞を配達して來たといふ譯で家へ歸つたら三時であつた、こんな鹽梅であるから實に愉快でたまらなかつた、予の如きは往く時から既に先生は千古の偉人だと信仰して往つたのであるから、其愉快といふものは實に話に出來ぬ位、其人に接し其話を聞き、御互に歌を作つては、しまひに批評して呉れるので、一回毎に自分は高みへ引揚げられる樣な心持であつた。
固より趣味の程度が違つてゐるから、自分のいふ所多くは先生の考と一致しない、先生のいふ所又一寸分らぬこ(322)とが少くない、それで質問される、質問する自分の非なることが直ぐ分る時と分らぬ時がある、分らぬ時は自ら衝突する、自分にも負惜みがあるから、右へ逃げ左に逃げ種々にもがきながらも、隨分烈しき抗辨をする、こうなると先生の頭はいよ/\さえてくる、益々鋭利になる、相手を屈服させなければ止まぬといふ勢で、鐵でも石でも悉く斷ち割るべきケンマク、そこまでくると降伏し樣にも降伏もさせない、骨にシミル樣な痛罵を交じへられる、こんな時には畏しく悲しくなることがある、先生は一面に慥に冷酷な天性を持つてゐらるゝなどゝ感ずるのは如斯場合にあるのであツた。
情的談話の時の先生はそれは又暖かいもので、些末の事にまで氣をつかひつゝ、内の人達にも悉く注意を欠かない、一語一語彼の緩かな長めな顧に笑を交ぜ、好で滑稽を弄するなど、風ふき花ちるの趣きがある、それで又決して談話に飽かない、それがサア議論となると前いふ通り、情實なく謙遜なく主客なく長幼なく尊卑なく先輩もなけれは後輩もない、老人をつかまへても遠慮なく攻めつける、書生をつかまへても顔赤くして論ずるのである、只々理想あるのみ自信あるのみ、少しも氣取りげなく毫末も先輩を以て居るといふ風はない、これが狹隘にも見える所で又高い所であるらしい、それであるから多少氣取けのあるやつや、いくらか優遇しなければ面白がらぬ樣なやつは、一旦來ても直ぐ放れてしまつたといふ譯である。
うぬぼれといふ奴がなければ、酷でも何でもないのであるが、自分がよいと思つた歌や、これ位なら取つてくれるだらうなどゝ思つた歌などを、少しも取つてくれぬと、どうもそれが先生が酷な樣に感ずる、何所迄もうぬぼれのぬけぬ人間といふやつしようのないもので、吾自らがそれであつたのである、所が先生の方ではなか/\酷どころではない、誰のも出した彼のも出した、今度は某のを是非出してやりたいが、偖其歌はどうも好くない困(323)つたナア、一層思切て出してやらうかしら、しかし是れではしようがないが、嗚呼困つたなと人に話すことも屡々あつたのである、
毎月一回ヅヽ先生の宅で歌會のある外に、何とか、かとか會もある一人々々でもゆく、歌もつくる評論もきく、といふ風に觸接すればするはど、先生はえらいといふことを感じ、趣味標準は常に吾々よりも高く、且つ始終進歩しつゝある樣に感ずるもので、吾も人も自と歌會に往くのが非常に張合があつて愉快である、大に排斥せられて不平であつたものも、非常に攻撃せられて心底に不快を抱いた樣な事も、二十日と三十日たつ中に、いつしか自分の非なる點が悟られてくる、先生はえらいといふ感念が益深くなる、此の如くなつてくると、先生の選先生の批評が非常なる勢力を以て、吾々の喜憂を支配するのである、毎月の歌會で先生が批評してくれる、或は先生の選にあたる、どんなにそれが嬉しかつたか、先生は容易にこれは面白いなどゝはいはぬ、故に適に先生より是れは面白いの一語が出ると、それが馬鹿に嬉しかつたものである、「日本」新聞で屡歌を募集する、其時の吾々の意氣組みと云つたら、それは盛なものであつた、その募集の歌を詠まむ爲に幾度か旅行を企てた、愈及第して新聞へ出ると一晩位は寢られない位嬉しかつた、骨も折れたが張合もあり樂みあり實に愉快な年であつたは三十三年である、吾派同人は新進の氣運を開いて一大進歩を遂げたのも實に此年の夏より秋へかけてゞあると思ふ、(左千夫)
明治36年7月『馬醉木』
(324) 「しどみ」
雜誌の名稱といふやうな事も、既にきまつて終へば何でもないものであるが、偖一番雑誌を出すと極つたが、何といふ名が好からうといふ場合になると、なか/\六つかしひもので、いや俗な名だいや語調が惡い、いや氣取すぎて厭味だ、いや余り淺薄な名ぢや、勿論他の眞似らしい事は愈駄目だ、とくるので一通ならぬ面倒なもの、寄る度に話しが出でゝも、何時もきまらない話許りで終てしまふ、五人よれば五人の好みがあるから、迚ても滿場一致などゝはこない、
發行準備も定まつて、愈第一回の編輯會となつてもまだ此名稱がきまらない、今日はまづ其名稱から先にきめてかゝらうといふ事で、相談にかゝつても矢張いつもの通りで、それがえいこれがえいと騒ぐ許りで、果てしがつかぬ、曰く夏草曰くあざみ、曰く名無草曰く眞璽、どれがどうで惡いとも云へぬかはり、どれがこうで好いとも云へぬ、もう仕方がないから投票で極めやうそれがよからうといふことで、やつとの事馬醉木が三點といふ高點で、勝利を得た譯である、さアこふ極つて見ると良い名だ面白い/\といふ事になつて打出した次第だ、
六ツかしひ名だ讀めない名だ、どうも賣さうもない名ぢやないか、隨分と非難の聲も聞くが、又一方よりは余程變つた名として多少の注意を引いたらしい、一體あしびなんて名をつけたはどういふ譯かと問はれて見た所で、出題者も別に理窟はないのだ、名は名に過ぎないので其處に何の意味もないのである、其何の意味のない所が出(325)題者の理想と云つても饒山だが、面白しと感ずる所だ、それで此馬醉木といふ木が、どんな木であるかといふと諸説紛々ときてゐるから益をかしいのだ、此稱呼もいく通りもある、「あせみ」「あせぼ」「あせふ」それから變つて馬醉木は「シドミ」(木瓜の一種)である躑躅であるといふ説もある、「あせみ」などいふ方は小白花の咲く木ださうな、「シドミ」躑躅は勿論赤い花である、要するに「萬葉集」にある「阿志妣」と「あせみ」といふものが果して同じ木であるか否かといふが疑問である、そこで山人などの考では、馬醉木の花は赤い花で派手な花であらふと思ふ、萬葉二十に
いそかげのみゆる池水照るまでに咲けるあしびのちらまくをしも
これらの歌のさまから見ると、どうしても小さな白き花の形容とは見られない、尤も照ると許りでは赤いものと決し難いが古今六帖にも赤人の歌として
春山のあしびの花のにくからぬ君ははしゑやよりぬともよし
この歌のあしびは、「にくからぬ」の序である、「に」即丹といふ詞へかゝつたので、「丹ほふ」「丹塗」などゝ同じく赤い詞の「に」であるは明かな事故、あしびは赤い花に相違あるまい、又あしび咲くさかえ少女などある詞つきも、あまり際立ぬ小白花にしてはうつらぬ詞である、萬葉古義の著者などは、いろ/\いふてどうしても「あせみ」に相違ないとしてゐるが、山人などは更に感服せぬ、赤い花とすれは加茂眞淵が、「シトミ」といふ説に賛成せざるを得ない、しどみ/\しどみの花は山人大すきだ、燃ゆるやうに赤く美しく花の形が又ふツくりとしてゐて少しも厭味のない花だ、躑躅などゝは比べものにはならぬ、萬葉時代の少女の形容には最も適當してゐる花かと思ふ、結城君が表紙に畫いたのも此しどみをかいたのであらう、しどみの花が眞赤に咲き續てゐる山(326)べたを村の少女等と籃をかゝへて桑摘した事などが眼に浮でくるやうだ、しどみなるかな/\、
「あせみ」は非常に毒な木であるとの事なれど「あしび」の花は萬葉時代に賞玩した事は其歌でわかる、してみると「あせみ」と「あしび」とを同じものとするは益疑はしひ、「しどみ」は上に花が咲いてゐて根には早く實を結ぶのである、つぎ/\と咲ので花の間が非常に長い、春の始めから夏の半にまだ咲いてゐる、梅の實のまだ喰へぬ内には、「しどみ」の小さな實を採つて赤漬をこしらへるのである、桑つみや山の畑へ仕事に往つた歸りには、必ず此しどみの實を採つてきたものだ、花と云ひ實と云ひ兒供らしひ幼ない趣味が如何にも嬉しい、郷里に在つてしどみを採つたことなどを思ふと實に昔が戀しいのである、馬醉木は「しどみ」に相違ないと山人は極めてゐる、 明治36年7月『馬醉木』
署名 あしひ山人
(327) 〔『馬醉木』第二號消息〕
J
拜啓、本誌第一號に就ては江湖操觚者諸君より、多大なる同情を寄せられ、懇切なる御批評を賜り候段、同人一同の深く感謝に堪ざる所、故に謹而御禮申上候
固より渺たる一小册誌に候得共、同人が負ふ所の責任は決して小ならず、聊か自負する所ありと雖も、初旅早々萬事無間なる事のみ多く、編輯の不手際なる赤面の外なく候、割合に世間よりは御好意を得しに係らず、却て内輪にありては、善きが上にも善きをとの贔屓より、種々なる不平有之、こんな事では辱しい、物嗤になるなど、それは随分と、きびしき小言も出でたるため、鐵石相打つ如き衝突も有之候程に御座候、併し是とて皆同人相愛するの情より出づるもの、議論の衝突は如何に烈しくとも、感情に於て毫も不快を遺すが如きが事なきは、殊に吾徒の得意とする所に候、如斯樂屋落の事申上るも無益の業に候なれども、吾徒同志が如何に熱心なるかを御推諒願度候、如此して一號は相濟候次第、本號は又諸君の忌憚なき御批評承度候
結城素明平子鐸嶺等は、遠く鳥取市に旅行せられ、繪畫原稿は旅中よりの寄贈に候、兩氏は更に京都奈良へ廻られ候由、定めて珍らしき土産物有るべく、三號に於て諸君に紹介するを得むと樂み居候、例に依て毎月十九日は歌會相開候間、御出席かさなくば歌を御投じ被下度希望に候(左千夫)
明治36年7月『馬醉木』
(328) 〔名古屋短歌會選評 七〕
第七會 課題 牡丹
五首の中三首を許す 山下愛花
思はめや牡丹の花のまくれなゐ匂へる君がこゝろはあたに
思はめやなど初句に突然と云ひ起すは新古今集あたりの特調なり、新古今の特調が必ずしも惡しゝとにはあらず、尤も意味のこもれる句を初に置くは既に頭勝の不快を感じ、其勿躰らしき句調が更に厭味を感ぜしむるなり、「匂へる君が心」とは赤心などいふ意味にや用語甚だ穩當を欠けり、
鳳凰の翅ひろくる庭山に緋雲かゞよひ花咲く牡丹
一句二句何の爲に必要ありや、全く以下三句と關係なき無用の詞なり 且つ「ひろぐる」とは俗語ならずや、俗語必しも排斥するの要なきも、俗氣ある詞は嚴に避けざるべからず、牡丹に對する緋雲の形容最早模倣といふを否む能はず、然ども一二句を左の如く改作せば猶生命を存するを得むか。
朝日影うらゝ押照る庭山に緋雲かゞよひさき咲牡たん
若葉庭かゝやき渡る紅の牡丹の花に黄蝶狂ふも
(329)かゝやき渡るとは、若葉が輝くにや牡丹が輝くにや解し難し、且つ風渡る雁渡る月渡るなどいふは動く物なれはしかいへど、動かぬ花に渡るといふは何事ぞや、紅の花に黄蝶など、畫の配色ならば勿論然るべけれど、歌の上にては殊更めきて厭味なり注意を要す、おほまかに只「蝶飛びまへり」とか「胡蝶舞へるも」とかあるべきなり、着想平凡改作の道なし、
九首の中四首を評す 黒部不關坊
日盛りに立てる牡丹は蕾よりから紅の匂ひ吐くかも
牡丹の趣味は形よりいへば重々しく色の上よりいへは強き感じあるものならずや、「匂ひ吐く」此にほひの一語柔弱腰を折る、此歌の如き趣向を得て何故に強き調子を以て顯さんとせざりしや、「日盛りに立てる牡丹は」と云へば既に花の感じなり、然るを更に「蕾より」と三句で受けたる予は作者の意を解するに困む、殊に蕾を主としたる場合は別として、牡丹といふ語中には花も蕾も含まれ居ると思はざるか、こせついて無用の詞を插入する故に調子のたるみを來すなり、試に、
庭山に立咲く牡丹ま日うけてからくれなゐに炎吐かむとす
朝風はうす紅の玉ひらく牡丹の花をそよらに吹けり
初句に朝風はといひて中の三句に種々なることを序し更に結句に至りてそよらに吹けりとある、是れ調子の整はざる所以なり、想の順序より考へても「花をそよらに朝の風吹く」となければならぬ、此歌は薄紅の牡丹に朝の風吹くといふまでの極めて單純にして平凡なる趣向なり、前にも云へるが、強く重き感じのある牡丹に「そよらの風」は不調和ならずや、櫻か柳ならば然かいふべし、牡丹に風、予は先づ殺風景を感ず、(330)俳句を能する不關坊氏にして、此感じといふことに無頓着なるが如きは、予の不審に堪ざる所、大をうたふて大の感なく小を歌ふて小の感じなく、重き強き物を寫して重き強き感じなく何物に據らず、其感じといふものゝ正鵠を得なかつたらば歌も俳句もあつたものにあらず、こは歌人一般に對して云ふことなり、猶二首評すべきなれども徒に惡口を叩く樣にて面白からねば省く、
七首之中三首を評す 奥嶋欣人
鉢にさく牡丹を見れは亡き大人が牡丹句録のいにしへ思ほゆ
佳作とにはあらねど先づ難なしと云ふべし、
舞ひ遊ふ黒き胡蝶の羽ふれて花ちりがての牡丹崩れけり
「花ちりがて」の一句語意を得ず、羽ふれてなどきはどきことをいふは多くの場合に厭味なり、大なる鳥か何かならばまだしもなれど、蝶の羽にふれてなど尤も厭ふべし、況や「牡丹くづれけり」といふ如き重々しき事柄と如何で調和すべき、花の崩れるといふ如きこと大なる牡丹の花にして始めて云ふべき形容なり、此一句のみ他より採り來つて此句の起れる所以を思ざるは何ぞや、よし理窟の上には蝶の羽にふれて牡たんの散るといふことあるにせよ、莊重なる牡たんの感じは蝶の羽に崩るといふ弱々しき趣味と到底一致すべきようなし、若此歌の如き場合を歌にせんとならば寧ろ兩者を原因結果的に配合せず、「牡たん崩れて蝶舞去つた」とか「日くれて蝶も去つた牡たんも崩れた」とかような意味を歌はゞ平凡ながら厭味なかるべし、試に、
夕庭の見らくさぶしもいつしかと牡丹崩れて蝶も去にけり
よしとにはあらねど猶前者に勝りたらんか、
(331) 白玉のしが名に負へる牡たん花うべもつらゝぐ白玉つぼみ
稍見るべし、
橋 神波糖袋
茨さく細谷川の丸木橋くちなは渡る春のどみかも
つかまへ所面白し 原作春深みとあるを点所の如く直せり 少の相違なれど注意すべし、
明治36年7月『鵜川』
署名 左千夫選評
(332) 竹の里人〔二〕
たしか四月下旬の頃であつたと思ふ、夕刻から根岸を訪ふた、相替らず種々な談話で何時しか夜も更ける、予は氣がつかなかつたが、先生はいつの間にか原稿紙と筆とを持つて居られ、且つ話し且つ書きつゝ、時々何か考らるゝ樣子、予はそれと氣がついたから、話しを控ゐてると、やがて先生から、今夜送る俳稿に今二三句足らないので、頻りと考へるがどうしても出來ない、題は雲雀だ、何しろ何年か家を出ないが、趣向が浮ばぬ、久しひことは多くは忘れてゐるし、新らしくは見ないのだから仕方がないよ、今雲雀に就て考へて見ても少しも思ひ出すことがないが、君何か雲雀に就て趣向になる樣な話はないかと問はれた。
予は、話と申す程面白い話も持ませんが、二三年前吉野から京都の方へ花見旅行をしました時、行掛に駿河の興津へ一泊し、興津の景色が非常に気に入つたが、連れもあり行がけでもありするので、翌朝其儘西行し、歸途には幸一人になつたので、江尻から※[さんずい+氣]車を降り、清水港に至り、そこから一里余の入江の渡しを渡つて、例の三穗の松原に徃つたことがあります、三穗といふ所は余程暖かい所で、花が漸く散つてしまつたといふ時分に早く麥の穗が出揃つてゐるような譯、蜿豆蠶豆なども三尺ものびてありました、松原越しに振りかへつて見ると、折柄天氣はよし、青雲高く聳えた富士には肩より以下まで、白雪を被つて何とも云へぬ景色でありましたそれに又雲雀が二つ許頻りに囀づりつゝ、(333)富士の峯よりも高く見える。思はず芝生に腰を掛けて暫く眺めながら、今は忘れましたがツマラヌ歌一つ二つ作つた事、思ひだすと眼に浮ぶよふな氣が致します、
調子に乘つて話してゐる間に先生は早く句作の考案に耽つてゐる樣子、如何ですかこんな所は句になりませんかと予は先生に問ふた、
先生は肘を突いた左の手に紙を持ち、右に筆を持ちながら、天井を視つめてゐられる 予が問ふた辞に返事もくれぬは、今正に句の成らんとするのであらふ。今は黙するの外なく、暫くは先生の手許を視つめてゐるうち不圖釣込まれてしまつて予も又句案の人となつた、先生も容易に出來ない樣子である、予は無造作に考へたのを、先生こいふのは如何ですか、物になりますまいか、先生は句にあぐねた時であるから、どれどんな句が、と笑ながら筆を置かれた、予は、
三穗に渡る舟の日傘やあげ雲雀
と讀むと先生手を拍つて悦ばれ、それ/\其日傘だ、それが山だ、それは寫生であろう、寫生でなくてとても出來ることでない、自分も今渡舟に雲雀の配合を頻りに考へたが、どうしても物にならなかつた「三穗に渡る渡小舟やあげ雲雀」では句がたるんでそうして景色も引立たず甚だ平凡であるが、そこへ舟の日傘と無造作に這入るから生きてくるのである、中七字の所、只渡舟では文字が足りない爲めに無用な詞を狹む、それで全く句がたるむで了ふのだ、
其日傘の山が解れば、歌でも文章でも出來る 總じて、山がないから俳句でも歌でも文章でもしまらないのだ、作者が小細工をやつて埋草など書たとてとても物になる筈のものでない、懇に教られた後其句は早速翌々日の「日(334)本」へ顯はれ、先生自身春夏秋冬を撰ばれた時に春の部に予の俳句が一句出たのは其句である。
日本人にはどいふものか此寫生の妙味がどうしても解らぬようであるなど話されたも、此夜の事であつた。
「日本」週報の募集で同人爭ふて長歌を作る時に、こいふ事で叱られたことがある、たしか髪といふ題であつたと思ふ、地方の人で始めて歌をよこしたのであるが、それが詞つき幼く面白いといふ話しから、長塚や君などは古語を自由自在に使へるので、自然思ふまゝに云いまはせる所から、余りに意味がハツキリし過ぎる弊がある、殊に長歌は今少し大まかに、漠然としなければどうも感じが惡い、俳句は兎に角短歌でも余り印象が明瞭過ると、徃々芝居の身振めきて厭味である、まして長歌は少しでもこせついては駄目である、それがどういふ譯かと問はれても、其理由を説明する事はできぬ、今の所理屈はない只厭に感じるのみである云々とあつた、兒供などの片言な物いひに頗る妙味のあることを忘れてはならぬ、長塚や君等の歌に此片言な所がない云々。
予は先生の教に就て多少の解釋がないではない、今なまじなことを云ふは謹むべきであると思ふ故に茲には云はぬ、只長歌を作る人のため、先生の教の深く注意せねばならぬ言であることを繰返し置くに止めるのである、
これは最も始めの頃であつた、互に手紙の往復を盛にやつた中に、或は歌許のこともある或は消息のはしに必ず歌がつく、其時分先生の話に、題を設け、是非に考へて絞りだす歌は、どうも殊更のものになり易い、充分云おほせた積りでも、意味がどうも解らなかつたり、又説明的に物の解釋するようになつたりするが、手紙のはしなどへ無造作に、ロク/\考もせずに作つた樣な歌に、非常に感じの好い歌が多い、誰のでも大抵手紙の歌は面白い、注意すべき事であらう、 明治36年8月『馬醉木』
署名 左千夫記
(335) 日比谷公園合評
サアどつちから見た處で、どんなに觀察眼を親切に働せた處で、優雅な点などは發見し得られないな、其趣味の淺薄さといつたらどうか、其調子の輕佻さといつてもあれ位なら澤山だ、
早い話が、なり上りの紳士の庭苑さ 主人公趣味なんといふ事、一切滅茶苦茶な先生、よそにもあるから乃公のうちでも位の考で、一日五十錢か六十錢の人足的植木屋によろしくやらせたといふ有樣、あの木の植方石の使方はどうだ、それも木其物がよく石其物が好けれはまだしもだが、マア見た處一圓に何本何個といふやつが多い、モ少し皮肉に云ふと、薄ツペラに外見は張るけれど、其實余りないヱセ紳士が、物持の眞似をして作つた庭だ、一寸金をかけた處もあるが、大抵ごまかしの間に合せ物許でやつてゐる、それも一切摸倣ときてゐるから、品といふもの藥にしたくもない、田舍者やお出入の町人位はおどかせるかも知れぬが、少し眼のあるものに見られたらたまつたものじやない、
ナ二大きい、何が大きいか、それや全面積はあの通り小さくはないさ、が趣味の大きい感じのする所が何所にある、運動場が廣いから大きいといふのか馬鹿め、池があり丘があり植込があり、躑躅だ竹林だ、皆てんでに店を張つてゐるぢやないか、全園抱合した統一といふものが何所にある、各趣味の一区々々が、各自勝手に、店を出して人を呼んでゐるのと何の異なる所がある、これ位なら何も大きな所に一纏にする必要はないぢやないか 小(336)さな趣味を無數集めた所で之を一貫する趣向がなければ、どうしたつて一つの大きな物とは見られないだらふ、低い山が幾百並だ所で之を大きな山とは云へまい、
ナア總じて物といふものは、大きいければ大きいよう小さければ小さいよう、ちやんと調子といふものが合ねばならぬ、ちよと木を見ても大木は大木らしく根ばりから枝ぶり、何所までも調子が一致してゐるは、いろ/\にくだらぬ名なんぞつけたつて其實物のざまを見い、鶴が天井口して水を吐たり鵞鳥がビツトコ口して霧を吹いたり、丸で玩弄物ぢやないか滑稽な話しだ、是れで大に趣向を凝らした積で當事の先生達お天狗か知らむが、冷笑の度も過ぎて實は東洋唯一の大都の面目のため、ハンケチで拭ひきれぬ程涙が出たよ、
運動場の周圍や車馬道の兩側に花紋石を敷詰めて水はきを作つたはよいが、植込の廻りのあの腕のような杭を立つて一尺一錢かそこらの鉄張金を引張つたはあんまり不調和ぢやないか、あんまりシミタレぢやないか、外圍の鉄柵と比べても不釣合の度が非度過ぎるよ、何十萬圓かゝつたといふぢやないか、今少し趣向がありたい 金もかけてほしいよ、横道の小路/\に砂利の中から拾ひだしたような、怪い丸小石を並べて土抑えにしたのも隨分安ツポい物ぢやないか、
眞うしろの北側にはあんな堂々とした大建築の林立してゐる所へ以てきて、蟻の塔程の小山をこしらえた、其馬鹿さ加減が迚ても吾々の頭でも解らんて 一体あの公園を作つた先生達は周圍の光景と園内の趣味とに就て如何なる連絡を計つたであろふか、別物にするなら別物にする樣な趣向がなければならぬ、連絡を取るなら勿論連絡をとる樣な趣向がなければならぬ、こう見渡した所では其邊に何等の考も方針もなかつた樣だ、なかつたような所でない 全くないのだから實に情ないよ、眼前咫尺の間に仰がれる帝城の壯嚴も、此公園に何等の極致を添え(337)ぬ、添えるような施設がないから、添えないのは當前だが、客觀の上から見ても主觀の上から考へても、此間に風致の連絡を計るといふことは此公園造設の第一眼目たるべき要点ではあるまいか、あの小山へ上れば能くお城が見えると 馬鹿め見えさへすれば連絡か、東京市にも隨分人間が多いのに一人の茲に心就くものがなかつたかい、さて/\情ないことぢや、
舊御堀の石垣の一端を殘した所を見ても、彼等の頭の中には模倣の味噌槽より外何等の生物なきことが知れる、田畝の間や山間荒野にあつてこそ、舊址殘壘も趣味を感ずるのだ、それに他は悉く新造にかゝる公園の入口に調和の趣向もなく、露骨に殘壘の見世物とは、何を考た氣まぐれだ、能く話家のいふ、丸窓が面白いと人の眞似をして何所でもかまはず、丸窓をこしらへた流義であらふ、模倣より外に何にもわからぬ手合の極つてやる事だ、尋でにもう一つ小言を云つて置かふ、雨降あがりといふものゝ、何所へ往つても植込の中に雜草がむつしやり生てゐるはあんまりだらふ、普通の往來でも巡査が廻つて草を採れ/\いふ今日、公園でないか、いくら立派な施設が出來ても、清潔の一事が欠けたら公園の資格がない位の事が解らむかい、
明治36年8月『馬醉木』
署名 左千夫
(338) 〔『馬醉木』第三號選歌附記〕
以上三十一首左千夫之を選ぶ 選歌は勿論落選の歌に就ても投稿諸君中若し質義をなすものあらば予は懇に答ふるを辞せざるべし 但し語の成るべく字義語意の解釋は避けらるべし 蕨眞氏の選又同じ。
明治36年8月『馬醉木』
(339) 新古今集愚考
一
萬葉集以降幾多の歌集中で金槐集を除たらば、先づ此新古今集が最も見られる歌集であらふ、他の歌集が大抵詞の上に小細工を弄で、内容の趣味といふことに一向頓着せなかつたに比べて、此歌集は聊か思想の進歩が認められる、余程趣味といふことに注意した跡が見える、併しかくはいふものゝそれも只比較上からいふことで、吾々の今日の眼から見ると完全と認め得る歌は甚だ少ないのである、それ程に價値もない古歌集を、今更彼是云ふにも當らぬではないかとの非難があるかも知らぬけれど、今日の歌壇を見ると、やれ舊派だの新派だなどゝ各自勝手に唱て居るものゝ、能々其製作に就て趣味思想を尋ねて見ると、甚だ曖昧なる点が多い、舊派に屬する人々も誠實に所謂新派と稱するものゝ製作を吟味せぬ樣子で從而能くも解らずに、徒に惡感を抱いて一も二もなく排斥してしまふ、それで又新派と稱する人々も、舊派といふものを充分に研究せず、古歌の研究などはソツチのけにして、頭から舊思想とか何とかいふて、舊想かどうか新想かどうかも實は御自分自らが、判然とした解釋もなくて、漫に新派顔する連中が大多數であるようだ、予は昨年「心の花」で新派の立脚地に就き世の所謂新派なるものに説明を求めたけれど、何人も予に滿足を與へなかつた、
(340)今此新古今集に就て愚考を述べるものも、依りて以て予が懷抱する所の、新舊思想の相違を明にしようと思ふ迄である、予が此擧世間多くの説を作る人々にして、新派とは如何なるもの、舊派とは如何なるものか、との疑あるものに向つて、聊かたりとも解釋を與得れば予幸とする所である、世の所謂新派の歌に就ては別に批評を加ふる積りなれど、予は讀者諸君に先づ奮歌思想の如何なる物であるかといふことを知り置かむことを勸告するのである、尋に一言して置く 題詞は批評上必要ならぬ分は省く。
卷第一 春歌上
みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は來にけり。 攝政大政大臣
歌意は説明する迄もなく、山も霞みて吉野の里に春がきたといふのである、隨分と平凡な陳腐な思想でないか、それも只平凡なりに小細工をせねばよいに、白雪のふりにし里にといつたので滅茶々々にしてしまつた、此歌作者は吉野に居て詠んだものであるに、漠然みよし野といつては吉野以外にあつて吉野を見たる云ひ方である、それのみならず、白雪といつて雪のふつた跡といふ意味にも引掛け、ふりにしといつて古里といふ意と新しき春がきたといふ意と、幾重にも詞の引掛けが使用されてゐる、如此詞のコネクリをやるから、山が霞み春がきたといふ長閑な感じは何所へか飛んでしまつたのである、初句にみよし野と云ひながら四句に至り又ふりにし里と同し所を二樣に別けて云ふから益趣味の純一が欠けるのである、茲等は舊派の濟度し難き所以である、殊にみよし野は山もかすみて、此もの字何のためにあるか解らず、普通の意味からいへば、みよし野の山は容易に霞まぬが其山も今は霞みてなどいふ場合ならでは使はれぬ文字である、そんな理窟のあらふ筈なければ、此歌の此も文字は極めて不都合である、舊派の歌詠或場合に非常に詞使に屈托しながら、能く無駄字を平氣で使つてゐる、今の新(341)派にも隨分珍しくはない、此歌を平凡なりにどうか歌にしようならば、
足引の山邊かすみてけさの朝け吉野の里に春は來にけり
〇
ほの/”\と春こそ空に來にけらし天のかぐ山霞棚びく 太上天皇
此歌殊更に春こそ空に來にけらしといふたのが悪いのである 山に霞が棚びく高い所で空である、そこで空に春がきたかしら山の高い所に霞が立つたといへば、理窟になつてしまふのである、もう春になつたかしら山に霞が立つたはといふのは理窟でなく感じである、それを空に霞が立つたから春が空にきたのであらふといふは、全く理窟の推想になるのだ、此理窟が歌を支配してしまふから、春の感じの長閑な趣味は消えてしまふ譯だ、萬葉集に、
久方の天のかぐ山此ゆふべかすみ棚びく春立つらしも
如此なれは霞棚びくといふが景色の主で春立つらしもといふのが作者の感じである、
〇
山深み春とも知らぬ松の戸にたえ/”\かゝるゆきの玉水 式子内親王
山中暦日なしといふ所から、深山で春のきたのも知れぬ宿に、然も春であるから雪が消けて玉水がたえ/”\にかゝるといふ意か、馬鹿氣たる理窟と駄洒落とをこねかへした、なぞ歌である、
全体深山で春を知らぬといふは理窟に過ぎぬ、實際天象の變化は都などより、山中の方が返て解り易いのである、山中には暦がなかつたといふ事がよし實際にあつたにしろ、それは太古野蠻時代の事に過ぎぬ、そんなことを推(342)測して歌を詠むなど不心得な次第である、
春とも知らぬ松の戸にたえ/”\雪の玉水がかゝつたら、それがどうしたのであらふ、此歌の作者は此松の戸を外から見て此宿の主は春を知らぬと推測したのであらふが、どういふ譯でそいふ推測を下したのであらふか、只山深みとばかりで此家の主が春とも知らぬと斷定するは、實に馬鹿氣た推測であるまいか、たえ/”\かゝる雪の玉水といふのも作者が門外から見た光景であらふ、雪の玉水といふのは門の家根の雪か松の上の雪か少しも判らぬではないか、よし松の雪にしろその玉水が只門の戸にかゝつたとて、何等の面白みがあるであらふ、此作者の意は自分が此松戸の主であつて山中であるから、春のきたのも知らなかつた所たえ/”\の雪の玉水で春のきたことが知れたといふのであらふが、なぞ的に判じなけれはそんな意味はわからぬ、よしわかつたにしろ誠につまらぬ洒落である、
且つ春とも知らぬ松の戸といつては、どうして自分の家のことゝは解しられぬ、雪が一旦降つたら春までとけぬといふは北國邊の事のみで多くは冬の内でも降つてはとけ降つてはとけ降つてはとけるのに、只たえ/”\かゝる雪の玉水といふた所で何とて春の故と判ずべき、愚な歌も此上はあるまい、これを選集にまで入れた當時の歌人といふものゝ考は迚ても常識では推測が出來ぬ 試に、
山蔭にとはに殘れる雪だにもいつか消えつゝ春は來にけり、
と詠まば固より平凡ではあれど意味明かで厭味もなからふ、
〇
かきくらし猶ふる里の雪の中に跡こそ見えね春はきにけり。 宮内卿
(343)不相替の駄洒落だ、雪といへば跡といふ所から春のきた跡は見えないが春はきたのだといふのである、思ひ切つてつまらぬ歌ぢや、こんな歌を見ると實に情なくなつてくる、比蚊的よいといふ、此集がこれであるから、萬葉時代にあれほど盛であつた文學が、かくまで低落したかとつく/”\嘆息されるのである、
かきくらし猶ふる里とは、何がふるやら突然で少しも判らぬ、三の句に雪の中とあるから、それで雪ときかせ五の句に春とあるから猶ふるといふたのであらふが、皆なぞ的に解釋せねば判らぬのである、猶ふる雪とあるべきを、其間に里の一字を狭むで、語脉全く絶てしまつた、此里といふ字は何の爲に入れたか、一体作者の心は猶雪ふる里に春はきにけりのつもりならんに、此語脉では里の雪の中に春がきたと聞えるのである、此歌のみでない詞をこねくつた歌は皆、以上の樣な理窟に、何が何やら、當人許よがつてゐても他人には更に判らなくなるが常だ、此歌の意味をつめると、かきくらして雪はしきりと猶降てゐる里に春がきたといふので、暦を見て承知した春がきたのである、萬葉集の歌に、
風まじり雪はふりつゝしかすかにかすみ棚引き春さりにけり
雪はふりながらも天地の光景はさすがに春であるといふ感じが能く顯れてゐるにあらずや、
二
或人は予が此愚考に就て、子がやり方は新古今集の特徴を認めないやり方で、新古今集をば萬葉調に直してしまふのだ、自分の好める樣な歌にしてしまふ事になる、それでは新古今集の特色を没してしまふ事になるのぢやないかと云ふた。
(344)以上のやうな考を持てるものは或人許りでなく、こういふ思想は世の歌人達の間に大多數を占めてゐるだらうと思はれる、併し予は斷じて此説を採らない、或人の説は如何にも一應尤もに聞えるが、少しく考へて見ると甚だ根據のない説である、表面一寸尤もらしいだけ誤解に陷り易い恐れが有ると思ふから、予は聊か辯じて置かねばならぬ。
一體新古今集の特色と云ふのも甚だ覺束ない者で、それは仔細に見てくれは聊か變つた風調を認められないでもないが、其變つてゐる所が文學上趣味上に一種の特種と認められるほどのものであるかは頗る疑はしい問題である。
先づどんな所が變つてゐるかと見ると、「折られけり」「とめこかし」「すぎにけり」「おぼつかな」「ながめ詫びぬ」「忘れじよ」など一首中尤も意味のこもれる普通ならば結末にあるべき詞を、初句へ出しぬけに置いた句調である、次には定家などの歌にある朦朧體などであらう、しかしこれとても特徴と名づける程澤山はない、よし是を特徴と認めるとした所で、これは形式上の極めて些末な事で、到底之を趣味上の特徴と云ふことは出來ないのである、今の新派々々と唱へてゐる連中には、此句調を頻りと眞似てるのが見えるのは尤も笑ふべきで何が新派やら聊か片腹が痛い感がある。予の見る所では、所謂新古今集の特徴といふのは、文學上の價値と認めることの出來ない許でない、新古今集に於ける一種の惡癖である、此特徴のために却て厭味を増してゐると信ずる、思想の發展が不自然で、句の配置が甚だ無理である、從て此種の歌は必ず頭勝尻拔の弊に陷つてゐる、是は必然の理であるのだ。且つ其不自然にこねくつた句調のために、甚しき厭味を感ずるのである、予は是を以て新古今集の病癖と斷ずるに躊躇しない。
(345)之を近世の畫家に見る、北齋曉齋等の畫の如き感がある、其筆の達者な所、技術の巧緻な所は、慥に素人を驚かすに足るのであるが、併し何人も知る如く彼等の筆つきに一種の癖がある、一寸見るとそれが彼等の特徴である如く思はれる、思ふに彼等はそれを得意にして居つたらしい、少しく趣味眼あるものから見れば、それが慥かに彼等の惡癖で甚だ厭ふべき筆癖であるのだ、これあるが爲に彼等の畫が悉く厭味で卑俗であるのだ、彼等の畫よりその筆癖を去つたら、或は平凡になるかも知れぬが、平凡になるだけそれだけ厭味の減ずることは慥だ。
新古今集の特徴も北齋曉齋の筆癖と同じで、尊むべきものでなくて卑しむべきものであるのだ、新古今集の特徴を辯護するは、庇意氣の引例しで寧ろ新古今集に忠實でないものと云はねばならぬ。
況んや吾々が歌を評する、只趣味あるのみだ 面白味如何と見るのみだ、萬葉集だから面白い、新古今集だから面白くない、など云ふやうなそんな馬鹿氣た標準があるものでない、萬葉集の歌だから面白いのでなく、萬葉集の歌が面白いのだ、新古今集だから面白くないのではなく、新古今集の歌が面白くないのである、
時代の變化とか時代の特徴とか云ふことは、それは學者歴史家の云ふ事で、詩人として製作家としての見地から見る場合に何にもそんな事を少しも頓着する要はない、歌として詩としての價値を吟味するより外に何等顧慮する事の有るべき筈がない、即予が歌評の見地は以上に外ならぬのである。
此愚考も新古今集全部を評するは餘りくだ/\しいかと思ふので、春夏秋冬戀雜の六廻位にて結完にしやうと考へる 次でに斷つて置くのである。
夏歌
春すぎて夏きにけらししろたへの衣ほすてふあまのかぐ山 持統天皇
(346)これは萬葉集の歌で誰も知つてゐる面白い歌である、御歌の意は六つかしくも何でもない、もう春もすぎて夏がきたらしい白い衣などほしてあるは天の香具山にとあるので、香具山の麓の里などが若葉の間から見える白衣のほしたのも見えたさまである、九重深く住みなし給ふ御上の事とて歌の調子が如何にも悠揚として少しも迫つた所なく誠に感じのよき歌である、高殿などに御いでましの折に打ながめさせ給ひしさま、光景も畫けるやうである、大抵の人はこういふ歌をば有のまゝの歌で心を勞したものでないなどゝいふのだ、心を勞したか否かは兎に角これがほんとうに巧な歌であるのだ 上手なうまい歌であるのだ、表の詞つきは誠に無造作で單純であるが、其含まれてる感じと景色とは決して單純でない、これだけの光景を畫き出してゐる歌は容易にない、試に瞑黙して此歌を誦して見よ如何なる光景が浮ぶか、
併し此評は原歌に就てゞある、何事ぞ此新古今集の選者は肆に此の名歌を直してゐるのである、實に愚な事をやつたものだ、直した所は僅な字数であるけれど全くこせついた歌にしてしまつた、衣ほすてふとは何のことである、此歌をなほした手際一つで此集の選者殊に定家などの趣味標準が明かに解るのである、原歌は附点の第二句が「夏きたるらし」第四句が「衣ほしたり」とあるので、原作の通でなけれはならないのだ。
をしめどもとまらぬ春もあるものをいはぬにきたる夏衣かな 素性法師
屁理窟駄洒落、よくもこんなクダラヌ事を云ふたものだ、それを又よくも臆面もなく勅選集へ載せたものだ、いくら惜でも往つてしまふ春もあるのに夏のやつはこいともいはないにもうきてしまつたと云ふのだ それへ夏衣をきると來たといふ詞を引掛けて洒落をこねたのだ 厭味といふより其馬鹿々々しさ、直して見やうもない、こんなものが六七百年間の間、文學である詩であると尊とまれてあつたかと思ふと實に泣きたくなる、こういふこ(347)とが若し外國の詩人などに知れたらそれこそ國家の耻辱だ、情ない事と云はねばならぬ
ちりはてゝ花のかげなき木のもとにたつ事やすき夏衣哉 前大僧正慈園
衣更をよみ侍りけるとある歌だ、衣をたつと月日がたつのと木のもとにたつといふのと二重にも三重にも詞の引掛けで必至になつて居るのだ、夏になつて衣が輕くなつた爽やかな感じなどには一向頓着せぬのだ、夏になつて天地草木のさまから人の心まで替つてきた事などには眼はくれないのだ、なんでも一生懸命と引掛詞に屈托してゐるのだ、作者の心では誠にたやすく夏衣を着るやうになつたと云ふつもりであらふけれど、詞のこねくりで持切つてゐるので、感じどころか説明の上にも意味が通じて居ない、迚ても助かる歌ではない、これ等二首のやうなものに就て云ふのも張合がないが、二首共結句が夏衣哉と、「かな」とめになつて居るが、此かなといふ嘆聲詞(萬葉では「かも」)は萬葉集などの歌であれば、必ず全首の意を受けて結んだ重い詞であるのだ、これでなければならぬ筈だ、五句の中の一句限りの嘆聲があるべき譯がない、此夏衣哉も矢張り、全首の意味に頓着なく使つてある、歌にしまりといふことがないのも、皆是等に原因するのである、今の新派の歌にも、此落着なき尻輕の哉が闇雲と使つてある、勿論彼等はそんな事に氣のつく迄研究をしてゐないのだ。
夏衣きていく日にかなりぬらむ残れる花は今日もちりつゝ 源道濟
此歌の意味は詞の通であるからよく解つてゐるが、解らぬのは思想の接續である、殘れる花は今日もちりつゝとある時に夏衣きてもう何日になるだらふかと云ふ樣な感念がどうして浮ぶのであらふか、それが判らぬのである、又殊更に今日とことはつたのは如何なる了簡であらふか。つまり是等の歌が皆題を詠みこなすとかいふやうなクダラヌ所に力を入れて、實際にあるまじき意味のものをこしらへてしまつたのであらふ、作者も選者も何でもか(348)でも題に協ふことを専一としたものらしい、それも題の趣味を主とすれは仔細はないが例の詞の上に許り屈托して居る先生達の事であるから見事こう云ふ歌が後世に傳はつた譯である、洒落や詞の引掛けがないかと思へば、思想の接續せぬやうな歌がでゝくる、これでは如何に此集の回護に熱心なる人でも、さすがに回護の道があるまい、此歌をなほすといふではないが、夏衣をきる時分になつて殘花がちりつゝある場合を歌にするならば。
夏されば衣はかへつしかすがに殘れる花はちりもつくさす
ちる花は未だつきぬを夏衣よそへる人のこゝらゆくかも
などあらはよき歌とにはあらねど聊か初夏の光景を感ずることであらふ。
明治36年8月・11月『馬醉木』
署名 伊藤左千夫
(349) 〔『鵜川』選歌評〕
課題鮎
〇 田口苔水
谷川の岸の岩梨咲にけり鮎子さ走る時は來らしも。
〇 草種
つぬさはふ岩間とゞろに玉くだく瀧つ早瀬を鮎の飛ふみゆ。
長良川川の瀬光り眞玉しく水底さやに鮎子さはしる。
〇 長良の舟人
夕月夜清みさやけみ長良川瀬にとふ鮎の腹しろくみゆ。
夏されは長良の川の川瀬には八十隈ことに鮎むれのぼる。
鮎つると長良の川の瀬に立てば稻葉群山夏かすみせり。
應募者七人歌數五十余首、中に就て佳什六首を得たるは、從來の經驗上予は其好成績なりしを悦ぶ、方今歌の湧きいづること蠅の生るゝが如く蚊の出づるが如し、然かも蠅以上蚊以上の價値あるもの幾許かある、今の多くの(350)歌を作るもの、良歌を作ることを樂まずして、徒に印刷に附せらるゝを樂むものゝ如し、至誠斯道の研究に從事する者をして、常に嘆聲を絶たざらしむるは、遺憾に堪ゆべけんや、同志の諸君願くは自重せよ、
明治36年8月『鵜川』
署名 左千夫選
(351) 〔『破魔弓』に寄す〕
〇ハマ弓毎々面白く拜見致候、六號の矢さけび一應御最と存じ候、併し俳諧といふ園外に在りて熟視致し候へば勿論褒める連中にも面白からぬ点有之候へば罵る連中には更に厭ふべき汚息有之樣相見え候
〇乍失敬俳人連には豪い人が多く候、大膽な人が多く候、申までもなく芭蕉蕪村と數へ來つて次には誰が何と云つても子規子なるべく候、子規子は一代の人には無之百年の人にも無之正しくそれ以上の人ならんかと存候、俳人として大なるは申までも無く候、此人を罵る資格ある人の澤山なるに驚き候 兆民を罵る資格あるものは吾なりと申されたるを聞覚え居り候、俳人子規子を罵るには夫れ丈けの資格ある人を待たねばならぬ筈かと存じ候
〇甲山瀾水の山水天狗連では聊か資格に不足無きかと迷ひ申候生きてゐる人には鳴雪翁碧梧桐先生虚子先生と云ひつゝ故人子規子をは子規々々と呼捨てにする猛者が俳人中に多くあるは甚だ感服致兼候
〇如何なる人でも罵つて罵られぬ事は無之候、山に小便天に唾やつてやれぬことは無之候、資格なき人間が大きな人を罵つて見た所で山に小便を仕掛ける樣なものかと存じ候 御當人が本氣で無い事は云ふまでも無いがそんな人間の云ふことを幾許か相手にする人間のある世間が情なく候、小生等は罵る人間よりか其罵言を聞いて何とか干とか思ふて居る連中の氣が知れ不申候
〇俳人といふ連中には一寸えらさうに見えて馬鹿な人もあるかと存ぜられ候 自分が初め他を罵りながら人より(352)反駁せられて俄にのぼせ上り無茶苦茶に悪口雜言を吐く樣な人に子規子を罵る資格有之候や、原稿を載せて貰ふ時には平身して頼みながら跡になつて困るからとか喰えないからとか云ふて原稿料をネダル樣な奴に人を罵る資格が有之候哉伺ひ度きものに候、早々
明治36年9月『破魔弓』
署名 阿志妣山人
(353) 竹乃里人〔三〕
◎寒川鼠骨君の新囚人が「ホトヽギス」へ出た頃であつた、予が根岸庵へ行つて話し込んでゐると夕刻になつて鼠骨君が見えた、例の鼠骨調で暫く一座を笑はせた後に、先生から新囚人に對する批評があつた、一寸とした話しであるが、當時予は深く心に感じたので、未だに記臆して居るが、先生の評はこうであつた、
君が今度の文章は總て面白い、事實が悉く新しいから勿論面白い譯であるが、只読むのを聞いて居て殊に耳障りに感ずるのは、眞面目な寫生中に、時々洒落的口調の出でゝくる一事で、洒落的口調が何處でも惡いなのではない、極平凡な事實を作者の働きで面白く書くといふ樣な場合には、さういふ手段も是非必要であるは、勿論であるけれども、君の今度の文章の樣に、事實が悉く珍らしく面白い許の如き場合には際立たない極平凡な詞で寫す程、事實の感じが強く顯れると思ふ、珍らしい事實で折骨面白い感じが乘つてきた所へ、突然作者の洒落的口調が顯れると、非常に感興を亂してしまふのである 事實が振つてゐれば振つてゐる程、其反比例に極めて平凡な際立たない詞で寫す樣にせねばならぬ云々。
文章を作る人の尤も注意せねばならぬ要點であるは勿論、俳句でも歌でも繪畫でも、以上の如き心得はなくて協はぬ大切の事と思ふ。
◎明治三十四年の一月場所で梅ケ谷が常陸山をたをした年の事であつたと思ふ、諸新聞紙が爭ふて稽古部屋の記(354)事を掲げてゐる頃に先生からこんな話を聞いた。
なんでも物はすべて正面からするより側面から寫す方が能く其感じが顯はれる、近頃の新聞で角力、稽古の記事が非常に面白い、小角力供が頻りと騷いだり角力つたりしてゐる、看客の某々などの談話や角力年寄の應對振りなどある、やがてそこの所へ梅ケ谷が二言三言簡單に物を云ひながら、ノソリノソリ出でくる所など如何にも感じがよい、梅ケ谷が如何にも大きさうに思はれる、外の人間は皆小さくて梅ナ谷が獨大きい樣に感ずるのである、
文章中には梅ケ谷の大きいことなどは少しも書いてないが、側面の記事で、それが如何にも大きく顯はれるので、非常に面白く感ずる、常陸山と梅ケ谷が、土俵にあがつて、角力ふ所を如何に巧妙な詞で形容しても、到底説明に過ぐまい、迚ても此稽古部屋記事の樣に、大きい感じを顯すことは出來ぬ、文章をかく人の一寸注意すべき點であらう云々。
◎去年の九月「ホトヽギス」に出た、坂本四方太君の「月待」といふ文章は、先生が最後に批評した寫生文である、坂本君が、其文章を持つて見舞かた/”\根岸庵へ來た時に、丁度予も落合ふたのである、此頃は一日一日と先生の御病氣が重もり行ので、人々安き心もなかつたが、此日は幸と少し氣分よろしき由にて、例の通りいろ/\と話があつて、夜迄愉快に話しをした、「月待」の文章に就てといふのではなかつたが、こういふことを話された、
其文章はそれで結構です、大へん面白いから少しも差支ないのですけれど、君の文章はすべて無駄が少しもない、無駄が無さ過ぎる樣に思ふ、面白い所ばかり拾つて書く樣な感じがして、幾許か不自然な樣な、こしらへた物らしく感ずる事がある、余り無駄がないからであるまいか、實際の事はさう面白い事許續てあるものでないから、(355)間にいくらか無駄なつまらぬ事柄も書いてある方が却て自然な感じがする、無駄といって全然關係のない、書かいでもよい事まで書くといふ意味ではない、無駄なつまらぬ事があつて、それから先に面白い振つた事が出てくると、其山の面白い所が一層引立つかと思ふ云々。
◎歌に就て最後の批評を聞いたのは。
月讀に虫かねしぬび山路ゆく衣は濡れぬ山のさきりに。
に就てゞある、此月の歌謌會は蕨眞君の家であつて、同志五人先づ銚子港の水難救濟會の大會に赴き、歸途成東停車場から、月夜二里余の山路をたどつて蕨眞君の家に會した時の歌である、歸來早々根岸へ尋ねた。
此日は實に去年九月の十五日、先生が世を去り給ふ三日以前である、先生はしは枯れた力なき聲で、面白い歌があつたかとの問であつた、予は當時のあらましを陳べて、格別振つた歌も出來なかつたですが、此歌を二三の人が彼是云ひましたが如何でせうかと答へた、暫くして先生は。
少し平凡ではあるまいか。
嗚呼此一語、實は是れ先生が歌に就ての最後の教、いつしか睡り給へる樣にて、其他の歌に就ては遂に教を乞ふことを得なかつた、嗚呼遂に常しへに教を乞ふことを得ずなつた。
明治36年9月『馬醉木』
署名 左千夫記
(356) 今の所謂新派の歌を排す
一
近來歌界の論壇には歌の革新などいふやうな聲は全く跡を絶つに至つた樣である、かういふ現象は歌壇の幸であらうか不幸であらうか、革新の成績に進歩的價値を認めることが出來るならば、勿論今日の太平は歌界の慶事に相違あるまい、乍併殘念な事には今日の所謂新派の歌といふのに、予は幾許の價値をも認めることが出來ぬのである。
予と雖も今日の新派といふのに、新といふべきだけの變化あることは慥に認める、單に革新といふだけの事實は是認することが出來る、只其革新の價値に就て大なる異存を抱いて居るのである、革新の成績が舊物より勝つて居るでなければ、其革新といふものは甚無意味なものであつて、多くの人々が無駄な腦力と手間日間を空費した丈けが損失に歸する譯でツマリ有害な結果に終るのである。兎角人間といふ奴は新しい物を好み變つたことを悦ぶものであるが、新舊を比較して新しき物の價値如何、變化後の結果如何を吟味して見る樣な事は或る程度以上の人間でなければ、考へぬのが普通である、尋常の世事でもそれでは少し困るのに精神界に尤も尊ぶべき文學に於て、如斯輕佻の風あるは甚だ嘆はしき次第と云はねばならぬ。
(357)論壇既に革新の聲なく、又所謂新派の成績に就て疑問を挾む人もなく、早くも世は太平の觀あるこれ實に明治歌界の大不幸であるまいか、豆粒の如き無數の小文士が、そが小なる名譽と小なる位置とを保たむが爲めに強いて無事太平を希望するに依るか、抑も又文界人なきに依るか、何ぞ近來の歌界が萎靡沈滯の甚しきや、愚な妻のかはりに姦物な妻を迎へて即いふこれで家庭を革新し得たと、革新は或は革新であらう、只此革新がどんな結果を顯はすのであらうか、革新の目的は何人も以前に勝るの成績を望むは勿論である、それであるのに、革新後の成績如何を吟味する考もなく、家人が早くも安心して太平を夢みて居たらばどうであらう、是を陋愚でないと云へるであらうか。
今の歌界の有樣が丁度こんな理窟であるまいか、舊派の歌のツマラヌ事はいふまでもないが、新派の歌はツマラヌといふよりは厭ふべき點が多くなつて居るやうである、新派の歌は舊派の歌に倍加して厭味が増してゐる、今の新派の歌人といふものは、慥に此厭味といふことを解せぬのである、厭味といふことは語を換て云へは俗氣といふことぢや、舊派の歌の弊の根本といへば、此厭味即俗氣が脱せぬ所にあるのぢや、然るに革新とか何とか云つて起つた所の新派の歌には、其厭味俗氣といふやつが更に多いときては、予は實に失望の極奮慨せざるを得ないのである。
厭味といふことを解せず俗氣といふことを解せず、これでは醜美の差別に正鵠を缺いて居るのであらう、趣味の感懷に標準がないのである、其歌といふ物の靈誕濫妄至らざるなきに陷つたも誠に怪むに足らぬ次第ぢや。
吾等同人と雖も、始め歌の革新を思ひ立つた當時は、今の新派諸君と其精神に於て異なる所は無かつた。只其研究次第に歩を進めて、標準もだん/\と明になつて方針が愈定まつた頃には、最早所謂新派諸子とは甚しく遠ざ(358)かつてきたのである、彼等の皮相的なる吾等の根本的なる、彼等は只革新と變化とを目的とし、吾等は良製作を得るを目的とし、革新と變化とは良製作を得るの手段に過ぎずと爲す、彼等は從來の歌に異なるといふを以て最も得意となし、自分等の發明せる歌なりと自負したのである、其變化した歌、發明した歌といふものは、文學としてどれだけの價値あるかは更に吟味して見樣ともせなかつた、吾々の研究はそんな淺薄なものではない、文學としての價値如何といふのが唯一の目的である、新しくとも面白ければ取る舊くとも面白けれは取る、新舊に氣をもむなど馬鹿なことはせぬ、一切歌集を研究して萬葉集が尤も價値あることを悟つたので、大に萬葉を研究して唯一の參考に資した次第であるが、吾々が萬葉集に對する體度は先に萬葉論に盡せるを以て茲には云はぬ。吾々を以て擬古派だ萬葉心醉派などゝ淺薄な批評をなす奴があるから一寸云ふて置くのである。
以上のやうな風に吾々と彼等とは研究體度が非常に相異して居る、趣味標準が益々遠ざかつてきたのに少しも不審はない、今の所謂新派の革新成績に就て大なる疑を抱いたのは既に數年以前の事である、予は二三の雜誌面に於て幾度か彼等に誡告を加へたのであるが、只々小名譽に腐心して眞實に研究せんとするの精神を持たない彼等は、少しも顧みて自ら戒むることを知らぬのである。
先師正岡先生は既に明治三十四年の始め、「日本」紙上に病筆を驅り、子規是なれば鐵幹非なり、鐵幹是なれば子規非なり、兩者の短歌全く標準を異にす、と宣告せられ、やがて明星所載落合直文氏の歌を評せらる、短歌十餘首難撃餘力なく、一首の完成をゆるさず、此一撃に依て歌人としての落合直文といふものは無造作に息の根が絶えてしまつた、丁度星亨が伊庭想太郎にやられた通で、アツとの聲も立て得なかつたのである、彼落合がグウの音が出なかつたのみでなく、與謝野鐵幹服部躬治等有ゆる門生諸子に至るまで、師なる人の落命に對し一言の(359)矢も酬ることが出來なかつたは敵ながらも氣の毒であつた。落合の如きは最早歌界に生命を失ふたものであるから、爾來吾々は彼を眼中に認めぬことにした、彼等一派の徒に少しく思慮といふものあらば、此時猛省一番深く相戒しむべきに、胸中に何等の定見なき彼等は、斯る變事に際しても固より爲すべきの道を知らず、只管耳を掩ふて其慘状を聞かずとしたのだ、寧ろ憐れむべきではあるが、明者少く昧者限りなき世の中に彼等猶後進を惑はしつゝあるからは吾々は更に大打撃を彼等の頭上に加へねばならぬ。
今の所謂新派といへば落合直文氏一派と佐々木信綱氏一派とに過ぎぬ、信綱氏の如きは幸に痛撃を免れ得たのであるが、予は今先師の遺志を繼て新派討伐の途につき、一切新派の諸士に砲弾を見舞ふとするのである、予に一面の識ある諸君今諸子の製作を論評するに至つたと云ふも、斯道研究上止むを得ないからである、私情的禮儀を欠くの一點は豫め諸子の寛恕を乞ふて置かねばならぬ、
服部躬治氏の歌
此人の歌を澤山には見ない、かぐ土とかいふ歌集があるとは聞たがまだそれを見ない、文庫といふ雜誌に選者をして居らるゝが、自家の作は出てをらぬやうで見ることが出來ぬ、近頃「莫告藻」といふ雜誌で漸く十二首許りを見た、尤も是は最近の作らしいから、批評するには極都合がよい、それから三年許前に戀愛詩評釋といふものを寄贈せられた、是等に依て此人の趣味の標準は判つてゐる、普通の腦力ある人で多少研究的の思想を抱くものであらば、三年といふ歳月を經れば、必ず幾分かの進歩を見るは當然のことだ、今戀愛詩評釋の事を云ふは、聊か氣の毒なやうでもあるが、今年の作だといふ莫告藻の歌を見れば根本の所は少しも變つて居らぬ樣であるから、其戀愛詩評釋から始めて見やう。
(360)渾身氣取で固まつてゐる、氣取虫の仕身とも見るべき同氏の事であるから、此位のことを怪しむ譯もないが萬葉集の歌も、吉原總まくりドヽ一カツボレも同筆法で感嘆してゐる、形式が云々内容が云々など云ふ所を見ると少しは判つてるのかと思へば、美醜もなければ雅俗もない、味噌も糞も差別のない、感嘆の仕様、實は是程判らぬ男とは思はなかつた。
此人の評釋の筆法でゆくと、戀の心を歌ひさへすれは立派な詩であるといふのだ、詩といふものは戀の講釋ぢやあるまい、形式も美でなけれはならぬ、内容も勿論、俗氣といふものがあつては詩といはれまい、形式にも内容にも、一口にも俗謠といふではないか、形式にでも内容にでも俗趣味といふものがあつたら、それは詩でない位の事が判らぬとは情ない、戀を歌ひさへすれは歌だ、歌でありさへすれば詩だと思ふのは、丁度目鼻や耳口があつて立つて歩きさへすれば人間であつて、女でありさへすれは美人だといふのと同しである、醜婦だからとて目も二つに耳も二つ口と鼻とは一つ宛あるのぢや、都々逸の内容はよし美しい戀情にせよ、形式は俗でないのか醜でないのか、相當な品位ある人間の愛唱には適せぬのである、況や俗謠なるものゝ多くは淫猥なる戀情を卑俗なる形式で抒したものである、淫猥なる戀情は決して詩的ではない、外貌と精神と共に美にして始めて美人ではないか、實用的からいふ人間の價値ではない、詩的にいふ所の美人、詩的にいふ所の歌謠といふものは内容形式共に超俗的美趣あるものでなければならぬ、醜婦も女である都々逸も歌である、只醜婦は醜である美でない、都々逸は俗である詩でない。端歌も都々逸も詩なりと心得居る人に趣味とか雅俗とかいふことを教ふるは、諺にいふ馬の耳に念佛かも知れんが筆の尋に云ふのである、氣取るといふことの厭味なことも、厭味といふものの俗なことも、此人に判る氣遣はないが、素人の九分九厘なる世の中では素人おどかしの氣取りといふやつが頗る有害な(361)働を爲すから、少し殘酷であるが打撃を加へねばならぬ。
萬葉の歌と端歌都々逸とは味噌と糞との如しだ、味噌にも匂がある糞にも匂がある、然し味噌は味噌の匂があり糞は糞の匂がある、萬葉の歌も懸愛だ端唄都々逸も戀愛だ、只雅俗といふ差別のあることを忘れてはならぬ、糞といふものも一つの有用物である如く、端唄都々逸も社會の有用物には相違ない、社會の有用物であるから美であるといふのは、糞は肥料として尊いものであるから美なものだといふと同じである、
既に詩といふものゝ根本義を誤つて居る此評釋固より仔細に評するの價値ないことは云ふまでもないが、著者の解詩標準を示さんが爲め忍んで聊か吟味を試みやう、著者が例の得手勝手なる曲解妄讃クダラヌ所に氣取を弄し冗漫讀むに堪ざる中にも、萬葉集以上の歌に就ては固より惡くない歌を褒めるのであるから、失體も少くないやうだが、業平以下の歌に至つては、彼は全く詩といふものに就て根本解釋を持たぬといふ本體を露出してしまつた、予はこんな物に多くの手間を費すことは出來ぬ、著者が極力稱讃した二三を抄出して見やう。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして
著者は此歌を褒めちぎつた末に、蓋し人丸以來一人たりと云つてゐる、人丸の歌が百分の一でも判つたらこんな歌が褒められるものぢやない、古來人丸位判らずやに多くかつがれた不幸な人は少ないだらう、
此歌は單に理窟をこねくつた丈だ、詞をひねくつてごまかした歌である、こういふ種類の歌は人丸はおろか萬葉集中には鐘太鼓で捜してもないのである、萬葉集を褒める眼光あらば此歌は褒められぬ筈だ、此歌を褒める程度では萬葉の歌が判る筈がない、所が此歌も褒め萬葉の歌も褒めてゐるのだから世話はない、自分で許判つた積りで天狗をきめ込む先生程始末にをへないものはない、偖、
(362)此歌に先づ難ずべきは表意の明瞭を缺ける點である、吾身一つは去年の儘にもとの身であるが月も春も去年の樣ではない、去年は戀しい人と嬉しく眺めた月も春も今は戀しき其人はゐず淋しく悲しく一人で眺むれば何たる變りやうぞ嗚呼去年の春が忍ばれると樣にも解せられる、此歌の抒し方ではそれ程には表はれてゐぬは勿論である、
又今一つには著者の解の如くに、月や春や昔のまゝならぬやは昔のまゝであるのに吾身一つはもとの身にしてもとの身でない淋しい悲しい吾であるは と樣にも無理に解されぬこともない、斯く作者の主觀の不明瞭なるは殊に感慨の歌にあつて大欠點である、両者の何れに解釋しても多少の無理は免れぬ、獨よがりの連中は例の得手勝手な解釋をして※[口+喜]しがつてゐるかも知れねど、一般解釋から見ると先づ生命の覺束ない歌である。其内容といつても、如斯の感慨は實は陳腐で然かも平凡だ、思ふに漢詩などの模倣であらう、それを理窟的に抒述したので三文の値打もなくしてしまつたのである、試に考へて見よ春も昔の通り月も昔の通りで吾許が變つたなど云ふことは少し小才のある奴ならすぐいふことだ、浅薄な理窟と云はねはならぬ、形式の點から見ても其調子と云ひ用語の蕪雜と云ひ、何の取る所がある、上三句は前云ふ如く意義明瞭を缺いてはゐるが、兎に角一調子で締つてゐる、折骨此三句を得ながら下二句は何たるさまぞ、「もとの身にして」などは隨分拙劣な云ひ樣、平凡極まつた語調でないか、上三句の含蓄あるに對し下二句の露骨蕪雜、竹につぐに木を以てしたやうである、且つ吾身一つはもとの身にしてもとの身にあらずとの意に解せしめんとは、到底獨合點たるを免れぬ叙法である、思ふに作者の意は、予が前に解したる如き心であらう、それにしても歌のつまらぬは同じである、こんな歌を褒めちらかす頭で、歌を革新するの新派で候のと大言する所、其押の強さに驚くの外はない、つまり文學の定義に何等の解釋(363)をも有せぬから起る結果である、
うとくなる人を何とて恨むらむ知られす知らぬをりもありしを
著者は此歌を褒めていふ、新古今集抒情詩中の絶品だ前後に類を見ないなどゝ云つてゐる、例の素人おどかしの饒舌、維摩經のどうの般若經の何のと、いやはやモウたまつたものぢやない、そは兎に角例に依て此歌の内容を吟味して見樣、だんだん疎遠になる人をおれは何だつてこんなに恨むだらう、昔おもへばお互に知らなかつた時もあつたのに、これだけの意味で自分から自分に理窟を云つて怪んだまゝである、こんな馬鹿氣た理窟に何所に痛切な感情を認められるであらうか、作者の心は理窟に合はぬ情を抒せんとしたのであらうけれど、歌の上には理窟の詞許働いてゐる、西行なんぞは勿論理窟は美でないなどいふ事は知らなかつたらうが、著者の如き明治の人間で新しい本を讀んだものが、感情を抒するに理窟を云ふの馬鹿氣たこと位は判りさうなものぢやに、何といふ情ない事であらう。
此歌の如き意味の事は、凡人匹婦の不断に云ふことだ、もと一文なしであつた時の事を思へば今又貧乏したつて悔むことはない、生れぬ先のことを思へば死だつて悔むことはない、夫婦にならない昔を思へは今別れたつて恨むことはない、皆同意味の思想である、實に凡慮である、理窟としても淺薄な理窟である、それを乙に氣取つて、こんな理窟であるにそれが諦められないで猶人の恨めしく思はれるのはどういふ譯かしらと怪んで見た所で、更にをかしくも面白くもないぢやないか、西行なるものゝ人物も推測られて淺ましい感じがする位だ、よし深遠な哲理を含んだにせよ、それが直ちに詩の價値になるものでない、詩は理窟でないことは屡云ふた通りである。
それでも調子でも面白けれは幾許か取柄もあるが、此歌の調子はどうか、「うとくなる人を何とて恨むらん」何(364)たる凡調だらう、凡調といふよりも俗調といふのが適當かも知れぬ、初句「うとくなる」こんなだらしない詞つきなどは、萬葉中などには針で掘つても等類があるまい、新古今集の歌のクダラヌ事は予が新古今集愚考でいつてあるが、其中でも此歌などは一層クダラヌ物であらう、萬葉集許褒めて置けばよいのに、こんな歌まで褒めるからお里が顯はれてしまふ、
かう書いてくるとモウ服部の歌など評するは厭になつた實際馬鹿々々しく思ふけれど、これが新派の一將であつて一部の歌壇を支配してゐるからは、斯道のためには、つく/”\馬鹿々々しいと思ふこともせねばならぬ、且つそれだけでは、それは三年以前の著作であるから、それ許評するは酷だなどゝいふものがないとも限らぬ、予は止むを得ず勇を鼓して、雜誌「莫告藻」に於ける彼が短歌を評さねばならぬ。
二
莫告藻所載服部氏の歌
※[まだれ/叟]《かく》さむや。誰そまたこゝに道を布く。わが物實《ものざね》はわれもたらせり。(原文の通)
これが日本人が日本の詞で作ツた歌であるとの事である、不思議といふは日本語を充分に解する日本人に分らぬことである、恐らく作者自身と雖も備忘録へ當時の考へを記してでも置かなかツたら幾年の後、必ず解らなくなツてしまうに極ツてゐる、先づ是等が獨よがりの標本と云ふべしだ。
それでも作者も成たけ人に解らせやうとの希望はあると見え、漢字にかなまでふツて居る、漢字に假名までふる位ならば、今少し全體の意味の通ずるやうに注意したらよいのに、大體で解らぬことをこねくツてゐながら、二(365)三の漢字に假名をふツた作者の心持が判らぬ。「かくさんや」といふ一句は判る。「誰そまたこゝに道を」これも詞の意味は判らぬことはない、「わが物實はわれもたらせり」これも一句の意味はどうか判る、さうしてかく別々にすれは判る所の三句を一まとめして一首のものは何の意味か分からぬ、謎かと思へは謎でもない。頭は猿といふことが判る胴は猪といふことが知れる尾は蛇といふことが判ツてゐる、併し此三つのものを一ツにした動物を昔は鵺といツたさうだけれど、今日の世にそんなものはない、それが新派といふ歌の中にはあるから怪しい、廿世紀に入つた時代の人間の作物にかういふものがあツて世人が不思議がらぬから愈不思議でたまらぬ。
千何百年といふ古代の歌でも一句一句の詞の意味さへ通ずれは一首の意味は直に了解せられる、古歌の解らぬといふは、解らぬ人が古語に通ぜぬからである、人情風俗非常に相違してゐる神代と稱する時代の歌でも今日判らぬことはないのに今人の歌が今人に判らぬとは之を何と云はうか、服部氏の此歌は一句一句に悉く意味が判ツてゐてまとめた上の一首に通じた意味が判らぬのである、つまり一二三句のものが句々の間に意味が通ツてゐぬのである、半身不隨にはあらで三句不隨の病體である、作者は判ツて居る積りであらう、作者自分より外に判らぬものは世間に通ぜぬものといふことに氣がついて貰たい、大にえらがりそこねたと云ふの外ない。要するに如斯不成形な片輪歌固より評するの價値あるものでないけれど、所謂新派といへる歌にはこんな獨よがりのえらがり歌が少くない、如斯ものを捨てゝ置くならば幾多の青年後進を誤ること容易ならぬのである、少しく修辞上の見解を備ふるならば決してこんなものに誤まらるゝ事はないけれど、或程度以下にあツては意外なる弊害を受くるのである、
(366)ごまかし、素人おどかし、えらがり、不誠實、不眞面目等あらゆる惡徳の合の子が、以上の如き歌を生み出すのである、コンナツマラヌ歌に數百言を費すのも其弊害の大なるを思ふが故である。
父母が賜びしわが名の天地はわが天地は王者《わうじや》も知らじ
これも氣取りえらがりの腹から生れ出たは勿論であるが「わが名の天地」とは如何なる天地であるか、不相替獨合點に※[身+沈の旁]つてゐる、歌を作るものは詞も作らねばならぬ、寧新造語は歌人の最も勉むべきことであるとは吾々の常に主張しつゝある所であるが、造語といふも必ず他に通ずべき詞でなければならぬ、獨合點のみで他へ少しも通ぜぬ詞は造語とは云はれぬのである、わが名の天地とは到底判らぬ詞である、吾天地といふならは聞えるが殊更に吾名と極つた天地とは何を云ふのか。
しかし此一句は判らぬけれども、此歌全體に通じては意句を解せられぬことはない、上三句は下二句の爲めの序と見てまづ差支ない、全首の意即「わが天地は王者も知らじ」(じ文字はずの誤ならむ)にあるのである、此歌に就て予は其形式の上にはまづ異存がない、只思想の根本に於て相反するのである。「吾天地は王者も知らず」は如何の意に解する、詩人としての吾天地は世間の榮華以外別に神聖なる樂があるそれは王者も知らぬことぢやと云ふのであらう、然り理窟は如何にもさうである、獨王者の知らぬのみでない、博學大智の人にも英雄豪傑の士にも知ることは出來ぬのである、父子兄弟の親夫婦の愛朋友の信ある間にも苟も天の與ふる所でなけれは決して知ることはできぬのである、詩人の境涯は詩人にして始めて知ることが出來るのである、理窟は其通りであるとしても其理窟が直に詩であるか否か問題である、況や傲然自ら大詩人を以て居り而して斯る理窟を云ふことが果して詩であるであらうか、更に況や氣取えらがりの俗氣紛々たる輩が、漫りに自ら詩人を以て居り其境涯は王者(367)も知らずとホラを吹くのに、厭味がないのであらうか、予は如斯俗氣根底に滿ちたる歌を見るごとに嘔吐三尺の感に堪ぬのである。
長安市中眠酒家天子呼來不乘船とは他より李白を謳ふたから面白いのである、李白自らが如斯詩を作つたら厭味である、即驕傲の氣を含むからである 此邊の消息を解せぬものは詩を談ずるに足らぬのである、詩三百一言以て之を盡す曰く思邪なしと、聖人の一言能く詩の定義を盡す、無邪氣は詩の根本苟も邪氣を含むものは詩にあらず、詩の理窟を排するは即此邪氣を恐るゝが爲である、まして驕傲的理窟をこねるに於て如何で邪氣を含まざらん。思ふに如斯の言は服部氏等の未だ解する能はざる所であらう。
猶一歩平易に云ふならは、詩は如何なる場合に於ても同情を基礎とせねばならぬ、自個が同情を有する許りでなく、他の同情を動すべき資質を備ねばならぬものである、如何なるものが最も人の同情を動すか、曰く思邪なし、無邪氣程人の同情を引くものはない、聖人の言實に至大至深と云はねはならぬ、少しでも智識張つた理窟張つた意味があつたらば無邪氣といふかをりはすぐ散つて了ふのである、況や驕傲の氣を含むに於てをや。
驕傲にして他の同情を得むとするは氷に座して暖を求むるより難いことであらう、畫工の畫を誇り詩人の詩を誇り富者の富を誇り權者の權を誇る其俗なる點に於て何の差別する所かある、自ら誇るものは大勢他を卑しむ邪氣の制すべからざる所以である、萬葉歌人は歌ふていう。
今の世に樂しくあらばこむ世には虫にも鳥にも吾はなりなむ
蓋しいやに賢者ぶつて氣取つた人間共を諷したのであらう、ロクでもない歌を少し許こねくつた許りで詩人面などするより、一杯の酒を啜て舌打ちしてゐる方が余程氣品が高いと知らざるか。
(368)服部氏が詩の根本義を解せぬといふことは此等の歌に依て明に斷ずることが出來るのである。
神よわが胸の血しほを冷えしめよ冷えなば冷えて世にあるべきに
兎に角意味を全首に通じてゐる、頭足の繋ながつてゐるだけは先づ無事と云つてよろしい、只肝心な魂の所在が判らない、感懷の中心がない歌である、今の流行語でいへは不得要領。
試みに此歌の内容を調べて見よ、冷えなば冷てあるべきに熱情ある吾はそれがために苦しみが止まぬ、願くは神よ吾血を冷えしめよと云ふのであらう、是だけの意味は判つてゐる、戀の苦しみに堪得ない無情の草木になりたいなどいふて實は熱情の高きを歌へる思想は萬葉集にもいくらでもある 只萬葉集などの歌は皆事實より出來てゐる歌であるから、當度もない空想的のものは一つもない、漠然とした熱情とか云ふやうな事を歌ふたものは決してないのである、服部の此歌は詞に顯はれた通り、血しほが煮えて苦しいから神よ吾血しほを冷えしめてといふので、言を換へて云ふと熱情で苦むからどうぞ熱情をなくしてほしいといふことである。
當度がないと云ふはこゝである、血しほと云ひ熱情といふ事は固定したものでない、戀にも熱する、義に熱する、怒りにも熱する、欲にも熱する、人間の血汐の熱する場合は、決して一二の場合に限らないとすれば此歌の如き感懷は如何なる場合のものであるか更らに判らぬ、つまり取りとめのない空言に過ぎぬと云はねばならぬ、なぜ熱情の現實を歌はぬのであるか熱情があつて人間は始めて人間であるのだ、熱情のない即薄情冷血な人間があるとすればそれは人間にして動物に近いもので詩人の眼から見て人間といふものではない、其冷血になりたいと云ふ如き詞はそれは表面の意味であつて、本旨は其反對にあるべきものである、心の熱する張さを訴ふるものに過ぎぬ、激情の反響より起る感懷を艶曲に宗せる作詩の手段と見るべきものである、故に如斯場合の用語はどこ(369)までも理窟を離れた情的の詞調でなければならぬ、服部の此歌の如く「冷えて世にあるべきに」など理窟的にしてしまつては、這般の感情は毫も顯はれない、返て眞に冷血な人間になりたいと希望する如くに聞えるのである、
要するに彼及び彼一派の趣味は、現實の感懷に基かず詞のこねくりや句調のひねくりにのみ腐心して居るのである、彼等の歌は趣味的感懷を歌ふにあらずして、變手古なる句調を弄せんがために空想を畫き虚誕を作るのである、詩を天地の大觀に求めず小頭蓋の中からのみ絞り出さんとしてゐる、古今集新古今集と少しも其根底を異にしてゐないのである 服部氏の短歌茲に載するもの總て十二首今其三首を評す、予は前號以來縷々論述せる所に依て同氏の作歌趣味を知るに最早充分なるを認めたのである、本論の目的は區々短歌の善惡を批評せんとするにあらねば、既に其人の趣味標準を論評するの材料を得れば足れり、三首を評するも十首を評するも要は作者の懷抱する所を捕捉するを以て主とするのである。
予は同氏最近の作三首の歌に依て、左の數項の斷定を同氏に與ふ。
一戀愛評釋以來三年間に彼が作歌理想毫も進歩せざること。
一情と理窟との關係に就て解釋を有せざること。
一厭味といふこと俗氣といふことを解しえざること。
一詩の形式と内容との關係に就て解釋を有せざること。
一後來悟脱する日なくば彼は到底詩人たるの價値を認め得ざること。
莫告藻に依て服部氏の歌を批評した予は、莫告藻の歌を見ぬふりして濟す譯にゆくまい、まして同じ系統の新派(370)の歌であれば、聊か畧評を試みやう。
まつときし髪の亂れに櫛をれてあさけものうき紫陽の雨 月の桂や
此歌は紫陽の雨を面白しと感じて詠んだのであらうか、それならば只末の一句で紫陽の雨と云ふた丈ケではすはらぬ何とでも動く、海棠の雨と云つても朝がほの雨と云つても秋萩の雨と云つてもよいのである、五の句と他の四句とに趣味の連絡がないからどうともなる、櫛をれてあさげものうきとはおかしなつゞけさまでないか、櫛がをれたから朝けものうくなつたと樣に聞える、何故に櫛がをれて物うくなつたであらうか判らぬ詞つきぢや、上四句の中には少しも紫陽に對する意味はなく、紫陽といふものが作者の感じを少しも動かしてゐないのに突然結句に紫陽の雨と斷つた所で作者はいまゝで知らなかつたものが出し拔けにそれへ出てきた樣に思はれる、要する所統一のない中心の定まらぬ歌である、此派の人々は此人許でなく皆目鼻の判らぬやうな海鼠的歌を作つてゐる、
しろかねの薄のかざしさゝやかに鈴もさゝやく月の一時 同人
此歌に至つては又非度い、眼目が判らぬ許りでない、如何なる所を詠んだ歌かも判らぬ、これも四句までは女の簪か何かをいふのであるか、それで其簪についてある鈴がさゝやくといふのか、馬鹿々々しい判じものゝやうなものぢや、出し拔けにしろかねの薄のかざしといふては薄の形容かとも思はれる、それにしては鈴は何の鈴か、月の一時とは何時頃の事か、先の歌と同じく結句に突然と又月の一時などいふたつて、それですはると思ふのか、家の中であるか野の中であるか、作者の感懷がどういふ時に動いて詠んだか、不得要領と云つて此位不得要領はあるまい、先づ煙りのやうなヌタだと云ふが適評であらう、かういふ人達には春の感じも秋の感じも、野の感じも家の感じも朝の感じも夜の感じも差別はないらしい誠に世話のない歌人達だ呵々、
(371) 宵の夢ふとしうかふにほゝゑまる玉沓かろき朝顔の園 毛呂清春
上三句は自分の事で下二句は他が事を叙せるやうだ、「玉沓かろき」と「朝顔の園」と連絡甚だおぼろかであるまいか、上も下も何れにも云ひ樣がある、又全體に渡つて上三句が主か下二句が主か、例の中心のない海鼠だ、小説の如き長大なものにも必ず主人公なるものあるを、此短小なる歌に中心の必要なること位どうして解らぬのであらうか、
さかしらを人よいづこに加ふべき二人にまろきとはの天地
さかしらを人に加ふるとは如何なる事をするにや、そは兎に角上三句の意を文字通りに解すると、「あのさかしらことをあなたよどうしてあの人達に加へてやりませうか」これでは作者の意には反するのであらう、人よのよ文字の使用が惡いからである、上三句は空間的で下二句は時間的である、統一せざるは怪しむに足らぬ、
是等の歌を多く批評するは到底堪へられない、水島楠本など豪傑連の歌は又緩つくり評する事としよう、
明治36年9月・10月『馬醉木』
署名 無一塵菴主人
(372) 〔『馬醉木』第五號消息〕
拜啓本年程風の吹かぬ秋は實に珍しく候、從而秋草の當り年に候、尤も萩などは盛夏の旱にまけ候樣子にて葉も元氣なく花も艶良からぬ樣に候へども、其他の草花はいづれも山の如く、美しさは申すもおろかに候、虫の鳴聲なども本年は常よりも、朗らかに聞えるかと存じ候 空氣も地氣もよろしきに協ひ候故にやと存じ候、當地の昨今右樣の次第に候得共、各地河海山野の秋色如何に候也、伺度存候。
草花をして獨妍艶を競はしめ、蟲族をして肆に美音にほこらしむ、人間中の靈物たる吾々同志は、此際愚都々々しては居られまじく候。
故竹乃里人先生の一週忌追善も、※[奚+隹]頭秋海棠に雨の雫のしたゝるゝ、大龍寺にて讀經を營み、大根畑やもろこし畑の間徑を過ぎて、筑波園と申すに七八人會合致し、夕刻まで雜談に耽り申候、短歌會同人近頃歌少き爲め、碧梧桐氏より大に苦言を聞せられ候、天然界の詩靈に對し誠に耻かしき次第に候。
月日の立つは目のまはるほど早く、「馬醉木」も五號とまで相成諸君の御厚意深く感謝致し候、諸事不慣のため、二號三號など非常に惡紙を使ひ申譯もなく候、敢て欲張りての仕業には無之全く不慣より起れる半間に候、後來は必ず前號通りの上等紙を用ひ、ペーシも毎號四十頁にて押通し可申候、且つ素明君特意の繪を石版色摺にて毎號相添可申尤も是は蕨眞君より實費寄附被致、兩氏の厚志に依り、「馬醉木」は一文いらずに、石版畫を諸君に(373)呈する事が出來る次第に御座候、茲に一寸兩君に謝し併て諸君に披露致し候。
先々月中同人間にて、先生の石塔を建てねばなるまいと云ふ發議有之、勿論何人も異存あるべき樣もなく、麓君專ら周旋致され、早速俳人側に交渉せんといふ事に相成り、各自の出金額も畧定り候所、「ホトヽギス」消息に傳ふる如く俳人側にては二年や三年の間に建なくてもよいと云ふ樣な事に取極め候由にて、歌人同志の協議も其儘立消候始末何となく物寂しき感じ致候、蕨眞君の如きは先月歌會の折には金も持參致し候樣の事にて猶更妙な心持致し候。
麓君は固より内氣の人に候へば、進で他を説きつけても建て度とまでは意地張り不申候、如斯次第にて石塔建立の事は一時無期延期といふ有樣に相成候。
何事かあると云へば、いつも出者張る小生此度は受動の地位に居候へども、如何なる故か只理窟もなく、石塔が建てたい石塔が建てたいの念がどうしてもあきらめられ不申、石塔らしきもの何を見るにつけても、先生の石塔はこんな風にあんな風になどいふ考許起つて仕方なく候、それといふも先月蕨眞君と箱根廻りを致し候節、蘆の湯より元箱根村に至る途中、曾我兄弟の石塔に大磯の虎の石塔と三基葦原の野中にあるを見てそれが如何にも感じよく思はれてから一層、石塔建たいの執念がつのり申候、今の大龍寺とて百年の後、全かるべきや否覺束なきものに候 いつ大根畑と化するやも知れ不申何時物持とやらの別荘地などになるかも知れ不申、木を植候とて墓印もなき立木を誰れか守り可申や、或は枯れ或は斬られ候はゞ何を印に先生の墓と知られ可申き、余り先の事を考候樣なれども、六七百年の後までも屹然古墳の嚴存するは誠に感じよきものに候、どうかあんな風にと思ふのも穴勝無理には有間敷候。
(374)十八日午後より根岸庵にて供養會有之例の人々相會し候故、小生はこらえかねて又石塔建てたいの駄々をこね申候、自然石の石塔などはいやなことに候と申された樣なれども、石塔建てるなどいやな事だとは申されぬやうなり、墓印は活木の立木が一番よいとも申されない樣なれば、是非建てたい來年のけふ頃までにはどうしても建たい、石塔を建てゝさうして諸君のいふ通り樹を植たい、ホトヽギスの消息の樣では、十年の後か二十年の後か判らぬといふ樣で誠に心細い、少くも三年忌までにはどうしても建てたい、僕は建たいなアを繰返し焼處碧虚兩君も心動き候ものと見え、吾々とて決して建度くないといふのではない、只何時々々までに是非建てねばならぬといふやうな考のないまでゝ、諸君の如き希望者さへあれば建てる事に固より不賛はない、如何なる石塔を建てるかといふ點で諸君と一致せぬやうな事があると困るからなどゝの話に有之候、これでは碧虚兩君も最早石塔建てたいに賛成してくれ候譯に候、如何なる石を建てるかといふ點に就て固より小生等の好みなきにはあらねど、他と爭ふても自個の好みを實行せんなどゝは思ひ居らず、愈々建てるに就て如何なるものといふ相談にまで運び候はゞ何の仔細なく決定致すべき事と存候、石塔問題も右樣の次第に候得ば、歌人方面の諸君にも小生等に賛同あらむことを希望致候。
猶十一月上旬を以て蕨眞君と小生と二人旅にて、故都の秋色探討致し度心算に御座候、其節は各地の同志諸君に會見の幸榮を得むことを樂み居候 先考秋冷の候諸君の御自愛を祈候 敬具 左千夫記
明治36年10月『馬醉木』
(375) 動作之趣味
人間は何故か動くといふことに愉快を感ずるのである、自分自らが動くのに愉快を感ずる許りでなく、他に對する場合にも、見る其物の動く時は多くの愉快を感ずるのである。譬へば水を見ても雲を見ても、或は草木を見ても、其靜な場合よりは、その動く場合の方が必ず多くの愉快を感ずるような譯で、生物に對した場合は猶更である。
それで此動の反對なる靜の場合にも愉快を感ずるのであるが、靜に就いての愉快は、靜其物に依て起る愉快でなく、即靜が主因となつて愉快を起すのではなく、他に靜をして愉快ならしむる源困があつて、始めて成り立つ所の感じである。繁雜なる仕事を終へた後とか、勞働を休止した後とか、或は暴風雨の後とかいふような場合に、誰しも愉快を感ずるものであるが、是は前にも云ふ如く、靜其物が主因でない、即繁雜勞働暴風雨を厭ふといふ感情の反響が、消極的に人を愉快ならしめるので、恰も身躰の疼痛が去つた時の愉快と同じ感じである。
人間は、靜と云ふことには、主動的には愉快を起すものでない、動の愉快は、主動的で正則的である、靜の愉快は他動的で變則的である。も少し適切に譬へて見ると、動の感じは物を喰ふ愉快で、靜の感じは物を喰過ぎて苦しいのが、緩和した時の愉快と同じである。何れにしても愉快には相違ないが、靜の愉快といふものは尋常なる場合に得られない感じで、普通に人間の要求すべき性質のものでない。何となれは、靜の愉快は、尋常以上に繁(376)雜勞働を歴たる後に伴ふべきものであるからである。單に動くといふは、人間の普通ではあれど、激動は之を人間の尋常事とは云へない。激動に伴うて起る愉快が靜の感じとすれば、靜の愉快は即變則的のものといふことが知れる。
如斯説明してくると、人間が動くに愉快を感ずるのが正則であるといふことに歸着する。然らば人間は何故に動くに愉快を感ずるか、問題が此方面へ入ると一寸と六ケしくなる。變化を好むは人の通有性であるから、即動くに愉快を感ずるは、此變化といふことに基づくのであらう。動くは直ちに變化を意味するからであるとの解釋は、先づ普通に人の云ふ所らしいが、此解釋は寧ろあべこべであらう、變化は動くより生ずる結果で、動くから即變化するのである、動くに愉快を感ずる人間が、變化を愛するは理の自然と云ふべしだ。變化其物が、直接に愉快を起す源因となる筈はない、變化其物でなく、變化の當的物其物が、前者即變化前の其物との比較上から、其觸接者に愉快を與ふるのである。變化より起る快感は、雙對の比較に源因すること明かで、動といふことが變化を生じ、變化より比較を人間に與ふるのだ、つまり變化は比較の媒介に過ぎぬ。
比較上より得る愉快を欲して、人間は變化を好むのである、それで此比較といふことは、又動くの餘響に過ぎぬのである、然らば問題は依然解釋されない。人間はなぜ動くに愉快を感ずるのであるか、學者にあらざる予、殊に美學などいふ六ケしい事は一向やつた事のない予は、以上の如き問題を、學理的に説明することは出來ぬのである。又如斯六ケしき事を説明するは、本稿の目的でない。只茲では、人間は動くに趣味を感ずるものであることを證明して、其動作の趣味といふものが、社會とどんな關係を持つて居るかといふことを考へて見ようと思ふまでゞ、人間は肉躰に營養を要求するように、精神には常に愉快を要求するのである。愉快を得るといふことが(377)人間の精神に至大な關係の存することは云ふまでもなく、此愉快を要求する人間であるから、愉快を起す所の動作を要求するのである、といふ位に解釋は止めて置く。
人間が動作の趣味を要求する程度は、實に普遍なもので、賢愚老幼を問はず、文明と野蠻とは問はずである。それで又人間が生れて最も早く愉快を感ずるのも、此動作の趣味であらう。何を見ても何を聞いても、何等の感じが起らぬような赤兒が、まだ笑ふだにせぬ赤兒が、彼楓葉のような手で母の胸邊を叩くのは、早く此動作の愉快を始めたのである。それから兒供が成長するに從て、種々な遊戯を爲すのも、皆此動作の愉快に基づくのぢや。今動作の趣味といふことを大別すれば、趣味的動作と實用的動作の二つである。其實用的動作にも、必ず愉快を感ずる趣味の多少附隨せるは云ふまでもなく、一つの研究問題であるは勿論なれど、少しく問題が別になるから、茲では單に趣味的動作に就いてのみ云ふのである。偖趣味的動作とは、愉快を得るといふ目的を主として起る動作で又之を二つに區別し、更に四つに區別せねばならぬ。
一、無意味之動作 節制ある
節制なき
二、有意味之動作 節制ある
節制なき
苟も人間とあるものは、どんな人間でも、此動作の趣味を要求せぬ人間はあるまい。白人でも黄人でも、文明でも野蠻でも、皆一樣に以上の如き動作の趣味を要求するは不思議である。或は人間が如斯動作の趣味を要求するは、更に不思議とするに足らぬ程の理由があるのであらう。何となれは、是は人間許りでなく、禽獣の類にも、(378)慥に動作の趣味を感知し居ることを認め得るのである。動物園へ往つて見ても解る、虎や熊が鉄扉の中にあつて無意識に徃來して居るのや、鳥類が金籠の中にあつて一定の行動をやつて居るのも、皆それに依て幾分の愉快を取るらしい、さうして見ると、此動作に愉快を感ずることは、生物一般の素性かと思はれるからである。そはさて置き、
一、無意味の動作
は兒童の最も多くすることであるが、大人にもある。これも節制ある無意味の動作、節制なき無意味の動作とある。前者は彼の踊、或は舞、其他西洋の舞蹈などで、大人兒童もやる。又西洋人の習慣で、夫婦相擁して散歩するなども即それである。後者は殆ど兒童の受持で、種々な遊戯は多くは無意味であるが、氷滑鞦韆の遊びなどが、無意味にして節制なき動作の適例であらう。
二、有意味の動作
これも節制あるのとないのとある。しかし、此動作の區域は頗る廣いのである。有意味にして節制ある動作といはゞ、宗教上の儀式に關する部分、總ての演劇、總ての禮式、茶の湯、其外祭事などの儀式等悉くそれである。有意味の節制なき動作は、又更に廣く、人間日常の一擧一動、此動作の趣味を含まぬは少ないといつてよからう。就中殊に著しいのは、宗教に關する儀式以外、總ての會集事、及び一般祭禮等の外、四季の花見遊行などは、悉く節制なき有意味動作の趣味に基づくのである。無意味の動作、其節制あると否とを問はず、人間が愉快を要求するに基因すとの斷定に就ては、予は甚しき反對のないことを信ずる、從つて反復解説の要を認めぬのであるが、有意味動作の趣味に就き、宗教の儀式を演劇茶(379)の湯と同一視し、宗教の會合及び一般祭事を四季の花見遊行と同一視し、共に人間が愉快を要求する動作趣味に基づくものと言ふのは、世人殊に宗教家よりは絶對に排斥せらるゝ説かも知れぬ、從て予は進で、猶詳説せざるを得ない譯である。
固より宗教家に云はせたならは、六ケしい深遠な論理があるに相違あるまい。併し全く宗教圏外にある予が、殊に其動作の趣味といふ點より觀察したる場合には、予が感じに響いたまゝ然か斷じたからとて、又予一個の見地で、必しも之を失當とはいへぬであらう。予は元來靈魂不滅論や有神無神論を、糞骨折で極論する位愚な事はないと信ずる。有るといふ説明も無いといふ説明も、出來ないのが即ち神であるのだ、人間の智力で知れないものといふ事は始から解り切て居るのに、猶あるとか無いとか騷ぐ馬鹿らしさ、予をして忌憚なく云はしむれば、神といふものは、人間が必要なる要求より假想したものである。
人間は何故に神の存在を假想するの必要があるかといはゞ、先にも云へる如く、動作の趣味といふことは、人間の生活に大關係のあるもので、それで人間は必ず何等かの方法に依て、此動作の趣味を得ねばならぬ必要がある。此動作の趣味を得ねばならぬ必要は、神の存在を假想するに至るのである。神の存在を假想したのみで、動作の趣味が滿足せぬことはいふまでもないが、此神の存在を假想して、是に奉仕し且つ種々な儀式等を作つて祭事を行ふといふことが、動作の趣味を得るに最も便宜であるからである。
世界のあるとあらゆる人間が、各自にむき/\すき/”\な事をやつてゐる。其信仰といふものも皆源困の揆は一つであるのである。或は天帝といひ或は如來といひ佛といひ、神といひ、山川を神とするもあり、動物を神とするもあり、偉人を神とするもあり、皆信仰者の好き勝手であツて、何を神としても少しも差支はないのである。(380)優等な人間はそれ相應な勿躰あるものを神として、劣等な人間は矢張り劣等だけにツマラヌものを神とせる迄の事で、動作を起すに就きての趣向の巧拙に過ぎぬのである。今日は理窟が進歩してきて居るから、最早大抵の人は、耶蘇教でなければ信仰は僞であるの、佛教でなければ信仰は虚であるの、又神教でなければ駄目だのと云ふような頑冥なことを云はぬでないか。それが即宗教は當的たる神といふようなものに、重きを置かなくなつた明證である。世界の人間が、各自に好める神を信仰して、少しも差支ないのである。これを以ても世界の人間が、各自に好める神の存在を假想して居ることがわかるではないか。
宗教家は、癖の樣に、迷ひといふことを人に向つて云ふが、實躰的に神の存在を固信する宗教家こそ迷ふて居るのぢや。併し神の存在を假想するのが、人間に必要であるとすれは、淺薄な趣向のない神を假想するよりは、成たけ意味深く趣向の勝れた神を假想するのが、進歩した人間の爲すべきことであらう。世人は宗教を餘り重く見過ぎて居るから、解釋がつかぬのである、予は一言斷じて言ふ、宗教は「マヽゴト」の發達したものであると。人間は大人になると智惠が増してくるので、虚飾心が多く欲性が烈しくなる、從て爲すこと多くは天眞を得ぬのであるが、兒童の中は實に無邪氣で、天眞を發露する場合が多い。人間の機微が、兒童の無邪氣な遊戯に認めらるゝことは、最も注意すべき問題であらう。文明となく野蠻となく、貴となく賤となく、兒童の爲すことは、大抵揆を一にして居るは更に注意すべき要鮎である。
母親の胸を叩く時代より、歩行を無上に悦ぶようになり、ブランコや氷滑りを樂むまでに進できては、此無意味な動作の餘り單純なるには、さすがの兒童時代でも飽かざるを得ない。そこで「マヽゴト」と云ふのが始まる、是れが有意味動作の元始で、そして、宗教の根源である。
(381)無意味の單純なる動作に飽きた兒童は、更に複雜で趣味深き動作を要求するので、自然に假想といふことを發明する、何々ゴトといふ眞似ごとをするようになる。神樣ゴトとか、戰ゴトとか、それは兒童の智惠次第で假想せられる。云ふまでもなく、此假想といふは、動作の愉快を得むための兒童等の趣向に基づくので、人間の精神要求の機微一端を見ることが出來る。只兒童のは、兒童だけに、露骨で淺薄であるだけ、それだけ又無邪氣である。それが大人の信仰となると、大人だけ勿躰らしくやるだけ、虚僞も交り罪惡も伴なひ、厭ふべき弊害も起るのである。要するに、宗教といふものは、人間が、人間に必要なる動作の趣味を要する所から起れるものであつて、根本假想的のものであることを再び茲に明言して置く。尤も宗義や論理を第二視して、宗教が社會に與ふる價値は、第一に動作を重とすといふは、予が宗教に對する平生の持論である。吾國の宗教議論家は、稍もすれば、佛教に理の深遠なるを誇り、耶蘇教に理の淺薄を非議する樣なれど、此如き論理は、宗教の原理を誤解せるものと云はねばならぬ。今の佛教は、議論が多くて動作が甚だ少くない、耶蘇教は、議論より慥に動作が多い、予はそれだけ耶蘇教は佛教に勝ると斷ずるのである。議論許で人間を動かさうといふは、まだ人間を解せぬ考であらう、茲は佛教家に篤と考へて貰ひ度い問題である。假想といふ點より見て、耶蘇教と佛教と何れが趣向がよいかといはば、予は佛教を勝れりとするに躊躇せぬ。只佛教は前にも云ふ通り、動作が少ない、否々動作をせぬ、つまり佛教の罪でなく佛教家の罪であらう。若し佛教家にして、宗教の本能は動作を重ずることを悟り、大に動作の趣味を發揮せば、無論佛教は耶蘇教に勝つてるに相違ない。
明治36年10月『新佛教』
署名 伊藤左千夫
(382) 〔「地方俳句界を讀む」につき〕
二三號前のホトヽギスで、坂本四方大君の地方俳句界を讀むの一文は、近頃俳句界の一問題となつたらしく本誌の乘合船の中などでも、大分に鵞なりの聲が高い樣だ、成程惡く云はれて見ると誰でも良い心持はせぬもの、自分が稍々天狗でゐる所を頭から一も二もなく、無造作に罵倒し去られると、こいつは隨分と癪にさはるものよ、功名心と負惜みとで腹の中は常に沸えつゝある所の青年血氣の輩にありては、我慢の緒が切れて遂に怒鳴り出すに至るも穴勝無理でもないが、
併しこゝだて、人間の大事な所は、吾輩なんぞは俳句に就ては固より門外漢であるが、余り隣りの怒鳴り聲が高いので、ツイ余計な口出しをする樣な譯になつたが、從令如何なる場合にしろ、他が吾に向つて罵倒したからとて、直にのぼせ上つて怒鳴りだすのは、余りに凡人的であるまいか、イヤに高くとまつてオツー濟し込んでゐるのも固より感服せむ次第ぢやけれど、個人的感情以外にあつての苦言よしそれが罵倒であつたにしろ、單に製作の價値上に關する事であるとすれば、苦言と罵倒とを頂戴した方で、兎に角一歩退いて吾を顧みる丈ケの度量がなくてはならぬ、
ましてそれが苟も斯道の先輩たる人の言であつてみると、益々輕卒な疳癪を起すのは甚だ其人の爲に惜むべきことである 誰れも知つてゐる通り子規居士などの批評は隨分烈しかつたものだ、世間からは先生/\と云はれて(383)ゐる人々に對しても一向頓着なしに痛罵冷評を加へた、それが爲に毫末感情の衝突がないといふのも根岸派同人の能く眞面目なる研究者であることを証明するに足るのである、
四方太君が都市俳人連にどんな關係があるか知らむが、何にも四方太君だつて無闇と都市俳人を惡んでゐる譯はあるまい、馬鹿氣た感情から殊更に都市俳人の俳句を罵倒する樣な、そんな輕薄な人でないことは、何も頼まれた譯ではないが、此胡麻鹽頭の頸をかけても保証するよ、都市俳人此点は萬々安心して可なりだ 吾輩など俳句はよくは判らん方だが、大体四方太君の活眼に服してゐるのだ、シヤポン臭と云はるれば成程シヤボンの臭氣がある、脂粉の氣があると聞けは成程とうなづかれる、であるから先づ感服したのであるが吾輩だつて、臭氣のないものに臭氣を感ずる譯もないから、さう云はれた人々はまづさクダラなく腹立つなんといふことはよして、兎に角、シヤボン臭いか臭くないか、脂粉の氣があるかないか、顧みて一番吟味して見る方がお爲めであろふ、人のふり見て吾ふり直せといふ諺があるが、他人が親切にシヤボン臭いと注意してくれるものがあつたら、ホントウに人に笑はれまいと思ふ精神ならば、腹立どころか早速其人に禮を云ふて吾がふりを直すが當前であるまいか、そんな所でおこるのは余り立派でない許りか、ツマリ損といふものだ、そいふ人に向つて再び注意する樣な親切な人はあるまいから、門外漢が出シヤバツて余計な言を拔かしやがるなどゝ怒鳴られぬうちにまづ/\切りあげる事にしやう失敬/\ 明治36年10月『鵜川』
. 署名 無庵
(384) 〔軟脚の辯〕
〇甞て此欄で華園君の軟卿なことを聞いたが、僕も之に劣らぬ足弱で、此間往復六里の道を一夜泊りで、足に豆を十こしらへた、健脚な人が自由自在に勝景を踏破して詩嚢を肥やすのは羨やましいが、しかし軟脚の者が旅で惱む時の感をあとから考へて見ると流石に詩的な處が無いでもない、之は足の強よい人の知らない處だと、痩我慢をいふて置く、(長松齋主人)
明治36年10月『鵜川』
(385) 〔萬葉私刪〕
〇森田義郎君萬葉私刪なる書を著す、君は所謂根岸派歌壇の先輩、其評や固より適切なるべく其擇や宜敷を得たるべし、然れども其評語の餘りに野鄙にして校書の口説白首の痴話めきたるは甚だ惜むべし、萬葉は調に於て想に於て吾人の採て以て摸範とする處、其摸範歌中の粹をぬきたる者に對し之を評するに如斯語辞を以てす、之れ古人を輕侮する者に非らざる乎、況んや其作家中には至尊を始め幾多の皇族を含めるに於をや 今少し愼重の体度を以てせられんことを望ましけれ。(松露軒主人)
明治36年10月『鵜川』
(386) 展覽會に就て
今日午後より友人誘引一覽致し愉快此上なく存候 出陳の夥多なるに驚き周旋諸君の勞容易ならざるを察し申候
一回の通覽何等の言を爲すを得ず候へども俳書類の珍本極めて多かりし樣なるもこれは一切手を觸るゝを得ねば其一隅をも窺ふこと協はず聊か遺憾に存候 二階の正面の床にかき据ゑたる木彫蕉翁の像(松平子爵出陳)稀代之珍と存じ候 温乎たる風容人をして自ら敬愛の念を起さしむるもの有之候 何人の作とも知れざりしは殘念に候
厨子も又美術上賞玩に値するものと存候 場中尤も珍らしく感嘆措く能はざりしものは小川破笠寫(清水晴風氏出陳)蕉翁の宵像に有之候 普通有ふれたるものと其撰を異にし生氣活動一見蕉翁壯時の風骨を偲ばしめ候 思ふに圖樣も立像半身の畫にして先づ其寫生の筆たるを知るべく蕉翁に親灸したる破笠にして現時に寫生の筆を取れるなれば其神を得たること怪しむに足らずと存じ候 後人何か賛樣のものを加へたるは誠に殘念なれど蕉翁肖像中の第一品かと存じ候(中畧)破笠は蕉翁の像を數多畫きしものと相見え外に自筆一摸寫三有之文晁臨摸の如き實に面白きものと存じ候 破笠八十二謹寫と記せる坐像は蕉翁老態の像にてこれは蕉翁没後に畫けるものらしく聊か遺憾の點なきにあらざるも猶蕪村崋山のものよりは立勝りて相見え申候 眼一世を空ふせる文晁も蕉翁の像に就ては破笠のものを重じたること明かに候 二圖共破笠のもののみを摸寫せるを見ても相知れ申候さすがに文晁の見地高かりしに感じ申候 田中宮相の蕉翁消息二幅實に珍らしきものと存じ候 蕉翁の墨跡と云へば百中九十九ま(387)で僞物なるを如此一點疑なく美しきものは實に天下に稀なるべく存じ候。外に百花園主人出品黒樂の茶碗は小生をして垂涎三尺たらしめ候(十月十一日夜)
明治36年10月『卯杖』
署名 伊藤左千夫
(388) 落塵一掃
莫告藻といふ歌の雜誌が出來た、これは落合直文氏を戴き「なのりそ」會と稱する、一團の歌人連から出すもので、其會員にのみ分つといふ非賣品の雜誌である、歌も澤山出でゝゐるが、一寸見た所で「明星」派と別つ所ないやうである、立入ての歌評は「明星」の歌と一所に何時か一遍やつて見る積であるが、何しろ二十世紀といふ今日、猶空想家の多いには少々ならず驚かざるを得ない次第じや。雜誌の名をは「なのりそ」といふはかりか其なのりそといふ詞の這入てある万葉集中の歌を三首表紙裏に掲たは、どういふ譯か知らぬが、しかも四号活字か何かでこと/”\しく人の注意を引てゐるに係らず、何處の隅にも萬葉趣味の一端をも認めえぬは、不可解的のやり方である、そは兎も角一渡打見て尤も可笑しきは、落合氏の出題で、會員各自が詩神につきての、想像を問ふた一個條である、
詩神といふものを仮想して、それに就ての各自の考を問ふて見るだけならば別に不思議な譯でも何でもない、寧趣味のある問題であるかも知れぬ、只落合氏のは其問ひ樣が如何にも變手古であるからおかしひ、今其二三ケ條を擧て見ると、曰く、
男神か女神か、春の神か夏の神か秋の神か冬の神か、晝の神か夜の神か、朝の神か夕の神か、恐るべき神か親しむべき神か、それから顔はどうの肥つてゐる痩てゐるかの、年はいくつかなどゝきてゐる、それからまだ澤山問(389)題がある。牛に乘てゐるか馬に乘つてゐるか、手には花類を持つてゐるか樂器など持つてゐるかとまであるのである、何と不思議な問方じやないか、第一こんなことを問ふて何等の趣味を感ずるのであらふか、男といひ女といひ春といひ夏といひ、そんなことを各自の勝手にいふて見た所でそれが何で面白いのであらふか、何等歸着する所のない空想は即妄想であるのじや、妄想を詞にいふたらは、それが即囈語である、であるから、落合氏の問は取も直さず會員の囈語を聞かむと迫るやうなものじやないか、
詩の神というものを假想し得たにしろ、生れたこともなく死んだ事もない神であるとしたらば、此神を生むだ親もなければ、此神が生むだ子もない、即人間以上のものとせねばなるまい、男でも女でもない神じやとも云へやう、又男の神もある女の神もあるといふてもよからふ、何といはふとも一向差障りのない話であるのじや、そんなこと問ふて見た處で云ふて見た處で、それに何等の趣味を感ずるのであらふか、年はいくつ位であるとか、起きてゐるか眠つてゐるかときては、もう噴きだすより外ないが、苟くも歌でもひねくる程のものが、隨分と思ひ切て愚問を提起したものじや、なのりそ會諸君が如何なる答をするか實にお慰な次第である、
取りとめもない事を想像するのが妄想であらふ、妄想其儘を言語に發したら、それが囈語といふのであるとは前にもいふたが、試に以下の如きことを考へ、それを眞面目に口に出したらは人は何といふであらふか、
自分は自分の思つたよりは大才が出でゝきて、することなすこと皆意の儘にならぬことはない、四五年の間に三十前后の時大宰相の位に就た、自分が大宰相になると十年立つかたゝぬ内に、日本國は世界一番に富み世界一番に強くなつた そこで世界の強國同盟して日本と開戰した、日本の富力と兵力とは無造作に此同盟軍を打破つた、同盟国は止むを得ず日本に屈服し莫大の償金を出して和議をした、大宰相の權威は世界を壓し、列國の帝王は先(390)を爭ふて、各自皇女中の美な奴を撰で日本大宰相の妻妾にせんことを乞ふといふ始末、こんな話を聞たらば、どんな空想家でも唖然一笑して、發狂人の囈語といふのであらふ、何ぜなれば根據もなんにもない、即取留のない妄想に過ぎないからである、
人間以上に有つて死生の外に遊ぶ假想の神を、男だ女だと云つたり、春の神だ冬の神だといつたり、年はいくつ位で、ふとつてござるの痩せてござるのと、云ふて見たにしても、それは何に根據して想定するのであらふか、これが取留のない妄想でなくて何が妄想であらふか、なのりそ會の諸君が、どんな囈語を吐いて其師に答ふるか、早く其樣子が見たいものである、
何にかにといふ内に、其答といふのが「なのりそ」の二号に出でゝきた、果然問の愚なるが如くなる、其答も愚である 評して見やう樣もない囈語である、誠に文界泰平の祥瑞ともたゝへつべくや、予は只其お目出度さに醉され茫然自失したのである、
明治36年10月『曉聲』
署名 あしひ山人
(391) 日比谷公園
予は東南角の隅の入口より進で、先づ西方面を見て通して北方面より再び東方面に歸來し、大体の觀察を了したるが、予が第一に不審を打つたるは、東洋唯一の大都府を以て自任し、然も其大都の中央にして魏※[山−我]たる帝城を目の間に拜し得るの地を相し、無量幾十萬金の費を投じて、建造せる大公園の設計が、視去り視來り如何に觀察眼を精細に活動せしむるとも、一貫せる造園の方針なるものを知る能ざるにあり、東洋の最進國、東洋の最強國、而して又東洋の美術國を以て自ら負ふ所の帝國にあらずや、其帝國の首都、其首都の中央に、二十世紀といふ時代の初頭に於て新に造營せられたる大公園にあらずや、此大公園の設計上何等の方針なく何等趣向の見るべきなく、漫に雜然竹木を驟集し、池を掘り丘を築き噴水を作り、運動場を作りしに過ぎずとは、何たる愚劣の妄擧ぞや、門に入ては主人の品性を知る、園に臨では其民の風尚を察す、とは、隨分古い云草ならずや、洛陽の盛衰は天下の盛衰を表はすといへるも甞て聞ける所、公園の趣味を見て以て都民の品性を察し、都民の好個を見て以て、一國の盛衰を達觀するの外客、今日にあるなしと信じ得るか、
當路の大官固より目前の事を知るのみ、下流の屬僚焉ぞ遠大の思慮あらんや、公園は只都民の遊戯場のみ、國家と何等の關かあらむと、公園と國家との關係の如き、固より彼等の夢想にだも思はざる所ならむ、或は知らず(392)西洋の文明諸國皆公園あり、吾國又公園なかるべからず程の淺薄愚劣なる猿智惠にあらざるなきを、然らずんば何ぞ此大公園の没趣味なる如斯甚しきや、
予は先づ問はんと欲す、此公園の大設計が、如何なる美術家考案家に依て立案せられたるかを、予は不幸寡聞にして、未だ立案家其人の名を知り得ざるなり、
我邦古來有名なる庭苑にして、當時名匠の手に成れりと傳ふるもの少からず、一個人の庭苑すら然り 況や帝都市民の好尚を察し引ては一國の隆替を卜するに足るべき、公園の立案に其人を撰ぶの必要をだも感知せざりし當事者の精神こそ實に不可思議と云ふべけれ、
趣味の統一と調子の一致とが何物の上にも必要なることは云ふまでもあらずと雖も、殊に複雜なる綜合的の物に於て益其必要を見る、予が此公園を一覧して着々感じ來れるものを畧擧すれば、廣大的なるが如く精細的なるが如く兩者の趣味毫も融合せざる事
自然的なるが如く人工的なるが如く兩者の趣味毫も調和せざる事
規則的なるが如く不規則的なるが如く甚しく統一を欠ける事
全園各區間に連絡の趣向絶無なること
園内と周囲との關係絶てる如く絶たざるが如く絶てる如くにして然も絶つに至らず、絶つに至らずして又毫も趣味の連絡なき事
公園の北面一体は魏然たる諸官衙の大建築林立し東北の一角鬱然たる帝城の森林を視る、此兩面の趣味は此公園設計に於て先づ如何なる調和の方法を取るべきかは最先決問題たらざるべからず、然るに怪むべし、此公園設計(393)者の腦中に、此兩面の趣味と公園との關係を感じたると否やを知るに苦むを如何せん、
猶個々の施設に就て云はしめば、第一に噴水の繊巧なる毫も大公園の趣味に調和せず、鶴の水を吐き鵞の水を吹くが如き何等の玩弄的ぞ、寧滑稽の觀なくむばあらず、
運動場の周圍車馬道の兩側花紋石を疊むで排水の施設を爲せるはよし、竹木の周圍に腕大の丸太杭を打蹈まば切んと見ゆる鉄線を張れるなど實に見すぼらしき、前者と相並て何等の不調和ぞや、車馬道の外少しく横道に入れば道の兩端又悉く怪しき最下等の小丸太石を以て土を抑たる、醜体一個人の下等庭苑にも見る能ざる所、折骨巨額の投費を敢てしながら、些細なる点にシミツタレなる業を爲すは愚とや云はん陋とや云はん、怪むらくは斯る点に意外なる罪惡の籠れるなきか、
新に植られたる雜木の大なるを得ざるは止むを得ずと雖も何ぞ木を撰ぶの亂雜にして、無趣味なる惡木の多きや、數万と見ゆる雜木中此木こそ幾許の價あれと見ゆるもの、指を屈するに足らざるは怪むべし、猶一ケ條の見のがすべからざるものは、今猶工事中といふと雖も既にして開園したる今日に於て、塵埃所々の林中に堆積し汚臭四散行人をして鼻をつまゝしむると、樹間多くは雜草群生頗る不潔を感ぜしむるとにあるあり、竹木丘池の設如何に整ひたりとも、一の清潔趣味を欠る焉ぞ遊苑の資格あらんや、猶指摘すべき点限りなしと雖も、既に大体に趣向なき公園、徒に細評すとも何の益かあらむ、終に臨て此公園に予が聊か氣に入りしは、大噴水池の北面一体に竹木數千竿を植たるにあり、新竹漸く繁く碧葉峯を摩するに至らば、思ふに園中の異彩なるべし、
明治36年11月『曉聲』
署名 あしび山人
(394) 第二十六通常會記事
同志古川大斧君が近日南米に渡航せらるゝに就て、其送別を兼ねての通常會は、豫告の如く、例の學土會事務所に開かれた。
モー時間であるといふので、人々食卓に就く。御定りの如く、酒は隨意で自辨でなど彼是云ひあつてゐる所へ、田中君はいきせきと這入つてこられた。諸君おそくなつて失敬々々と、歩きながら云ひつゝ、左から食卓を一週して、右の方の端に腰を据ゑ一寸時計を出して見て、七分をくれたと予に對して云はれた、これで豫期の十三名に滿ちたとのことである。
談笑漸く興に入つて手相を見るに神通を得たりと自稱する、姓は某名は縱横といふものあり、縱横に他の手筋を見て吉凶禍福を卜すること、又縱横自在の妙あり。痩せた人を見てはいはく、君は病を患ふるの手相なり、無妻の人を見てはいはく、君は極めて多情の筋なり、曰美人を思ふの筋あり、曰く何、曰く何、一々命中せざることなしといふ勢であるので一座爲に笑壺に入つた。
四十五餞の晩餐では、胃袋が少々不平を鳴す、そこでライスカレーを今一皿と注文した先生もあつた。これは誰も知つてゐるが、途中牛肉屋へ上つて下食ひをやつて行つたものゝあることは誰も知らなからう。人々古川君を擁して南米の事をとふ、北米行や欧州行は最早陳腐であるが南米とくると一寸珍らしい、南風がヒユ/\吹いて(395)寒くてたまらぬとか何とか云ふ國だから、總てが變つてゐるに極つてゐる。こんなことを考へながら古川君を見ると、如何にも君が英雄らしく見える、色黒く髪黒く肉豊かに背も高い、悠揚迫らず沈着寡言な所など、尤も氣に入つてしまつた。
食堂を出るや、やがて御機嫌よくの詞をかはして古川は歸られた。これから通常會といふので、例のつぶらの大臣から、通常會が如何にも振はない、こんなことで厭になつて了ふ、通知しても返事もせぬとは余り非度いなどゝ、色々小言を聞かせられた。まだ云ふことが澤山あるけれども、今夜はモウ云はぬなんどゝ、相替らず肝いり役を務めてゐる。身の丈ケ五尺八寸何分ある人、それより何分とか低いといふ人など、頻りと背自慢をしてゐる、大砲よりは低いが常陸山には負けないと云つて意張るので思はず其先生に視線を注いだ位であつた。
杉村君が教育上の問題を提起して、談話の火氣を吹起したけれども、樂燒老人の耳には能く判らなかつた。たまさか出ると記事をかけなんて役目を仰せつかつて、いま/\しいがまづ依て如件である。
明治36年11月『新佛教』
署名 樂尊記
(396) 芭蕉の肖像
此十月の十日前後を掛け、東京の日本橋倶樂部で俳諧温故展覽會といふのがあつた、角田竹冷氏などいふ人々の催しであるとのことで、なか/\盛なものであつた、予は國益新聞の福原雨六君から招待券二三枚送りこされたので、樂友矢田翁といふ老人と二人で早速一覽を遂げた。
俳人に關したものは書畫器物から一切の著書を集めて一場に展覽させた其勢力は一通りのことでなかつたらふ、千点近くもあるといふのだから、只一度眼をとほすさへ容易ではなかつた、もと俳諧に素養のない予などには、格別得る所もなかつたのであるが、一事頗る面白く感じたのは芭蕉翁の肖像に就てゞある。
翁の肖像はたしか十許もあつたと記臆してゐる、其内で予の面白く思つたのは、小川破笠作二幅、崋山蕪村各一幅宛、文晁の破笠作摸寫二幅、成美の破笠摸寫の一幅であつて、殊に予が感嘆に堪なかつたは、清水晴風氏出品の破笠作である。人丸の像と芭蕉の像といへば多くは世間にありふれた、極りきつた形で、甚だ如何がはしひもので到底人丸や芭蕉の風骨を得たとは思はれない、芭蕉の像なども、精神も氣力もなささうな喪心者の様なものが多い、幾百年間に卓絶した大文豪の風姿は決してあんなものであるまいと、平生思つてゐた予は、此破笠の畫像を見て、非常に愉快を感じた、
破笠は芭蕉直門の士で猶畫もよくした上に非常に長命であつた所から、破笠筆の芭蕉といふもの甚だ世間に多い(397)らしひ、一寸此會のみでも自筆二摸寫三あるを見ても知るべしだ、しかもそれが皆變つた圖樣である、當時眼一世を空ふせる文晁の如きも、芭蕉の像といへは破笠を摸寫してゐるを見ても、破笠の芭蕉像に最も價値を認めねばならぬことが知れる、四條派の名匠等が徒らに空想を畫けるに比して文晁の見地一段高かりしを見るのである、
東京諸新聞の評は蕪村筆芭蕉立像の畫を最もよいとして次に崋山などを云々した樣であつたが、是等は皆蕪村の雷名に聞おぢした盲目連の淺評で、畫といふものに就て殊に肖像畫に就て趣味を解せぬ手合の素人評に過ぎぬのである、そんな次第であるから破笠の畫のことなど何とも云ふたものはなかつた。其畫を見ない人々には、こんなこといふても判らん譯ぢやが、さすがに蕪村であるから、單に人物畫として見れば勿論面白いものであつた、只芭蕉其人の肖像として見るから、ツマラヌと思はれたのである、世間ありふれたものと格別の相違を認め得られなかつたのも、要する所一種の理想畫に過ないからであらふ、飄逸脱俗の風はあるも、精神氣魄の敬仰せしむる点がない、どうしても「夏草やつはものともの夢の跡」「荒海や佐渡に横ふ天の河」などの豪快雄渾な獨尊的の俳詩を吐き去つた大文豪の風姿とは見えなかつたのである、蕪村にして芭蕉を畫く誰でもまづ聞た許で難有思つて了ふも、穴勝無理でないが、肖像畫は空想でかいては全く駄目である、文晁が破笠の畫を摸寫して芭蕉の像を書いた見地を稱するのも、此空想を排する所からいふのである、蕪村にして茲に氣が附かなかつたは惜むべしだ。
書の技倆からいふたらば勿論破笠は蕪村や文晁に比せらるべきものでないが、獨芭蕉をゑがいては彼は何人にも勝れて居る 幾年か芭蕉に親灸して其風姿が腦中に刻まれてある破笠、又屡々其像を畫いた破笠、芭蕉をゑがい(398)て最も勝れてゐるは自然の理である、然るにもかゝはらず、世人が芭蕉の像に就て少しも破笠の畫に注意を拂はぬといふは甚だ遺憾な譯である。
清水晴風氏所藏芭蕉の像といふは如何なるものか、予は此事を記せんがために、再び清水氏を明神坂下に訪ひ、其畫幅を見せて貰ふた、まづ普通に異なつてゐる所は、老態でなくして稍壯時の像なことである、四十以上漸く五六位に見ゆる相貌で頗るいかつき面持覇氣が眉宇に溢れてゐる、眉の毛濃く眼大にして長く口も並より大きく顋《アゴ》はいくらか細い方で顔全体は上廣く下細く三角形に近い、顋の下及鼻下一体、耳たぼの邊より頬の下邊髯の剃り跡黒くかいてある、寧ろ一癖あるべき面魂とも云ひさうな顛である、少し頭を下げてかゞみ加減に何か考へつつあるといふ趣き、杖を斜に肩へかけて其先に小簑を結ひつけてある(此簑は今日行はれてゐる簑よりは稍簡單なもので猿簑の中にある「初時雨猿も小簑をほしけなり」とある小簑であらふとの清水氏の話であつた)左の手は網代笠を持ちながら杖に添てるらしく、頭陀袋を胸にさげてゐる(張子の上に織物の切などを張りつけた長方形の箱である)頭巾も普通のとは異つて今の世の輪形の帽子である、黒い法衣を着た旅仕度の半身の立像、肖像としては最も變つたかき方といはねばならぬ、予は始めて見たときに是は無論寫生であらふと信じた、併しよく見ると笠翁といふ印と卯觀子といふ印が二つ推してある、芭蕉は元禄二年五十一才で世を去り破笠は延享四年八十四才で世を辭した所から見ると、破笠二十六才の時に芭蕉世を去つた譯になるから、まだ其時分に笠翁と云ふ筈はない故に此印がある以上は此畫は芭蕉生存中のものでない事は爭はれない譯であるが此畫に就て少しく考へて見ると、どうも是は普通のものでない樣に思はれる、肖像としてかくのに簑を脊負ふて歩いてゐる半身をかくといふが我國從來畫風から見て余程變つてゐる、どうしても寫生らしひ書き方である、稍若い時をかいたとい(399)ひ其髯のそりあとをかいた工合と云ひ、跡から記臆をかいたものらしくない、或は破笠若年の時寫し置たのを後に再それをかいたのではないかしらと思ふのである、如何にも芭蕉の壯時はこんな六つかしい面をして居つたらふと思はれ生氣活動してゐる畫である 兎に角芭蕉の肖像中の珍と云はねばならぬ、
それから文晁の摸寫といふのは少しく其像より老態に見えるが二幅とも矢張いか/\しひ覇氣のある武士的面相をして居る圖柄は普通で笠と杖とを傍に置た坐像であつた、笠翁は八十二才謹寫と署してある畫は一層老態の坐像で別に珍らしひ所はないけれども矢張り眼長く口大きく、終始一貫の趣きがあつて老態だけに品位も備つてゐる 成美のは只破笠のを寫したといふのが判る許であるが、是等の數幅の畫を比較して見ると破笠の畫像には慥に芭蕉の俤が髣髴として想見されるのである。
以上は一場の展覽會に七八幅の芭蕉像に就て思ひついた許のことで別に他に據る所ある次第でなければ、或は是を打消す樣な有力な説がないとも限らぬ、もし萬一さういふことがあつたらば讀者諸君は願くば本誌に投稿して世に示されよ、故に記して以て大方に問ふ譯である。
明治36年11月『鵜川』
署名 左千夫
(400) 草庵之秋
いたく愛すとにはあらねど、佐久間修理が自作の詩をものせる扇面一葉、いにし年知人より惠まれたるを、額といふものにしつらひて、吾居間の右手のなげしにかゝげ置く、顔魯公の筆の趣きいとよく習ひ得たるは、見る度にも嬉しき心地せらる、初句及び二句に缺損あり、詩にいふ。
〇〇〇八十、我己失半〇、鬢邊雖未霜、漸覺減其莖、秋風不復夏、頽日難再昇、及時不※[馬+叟]志、形骸豈無傾、家聲久不振、名冑空伶※[人偏+丁]、吾心固非石、念之深傷情、
庚戌初秋偶作
時余年四十
象山平啓手録
庚戌の年は嘉永三年に當る、天が下内の事外の事共に安からず、今の大御世のいや榮に榮えたるに類ふべくもあらねど、身一つの上に比ぶれば、此詩は全く吾ために作り置かれたるかと覺ゆ、吾家固より名冑といふべきにあらず、かつ佐久間修理は偉人の名かぐはしき人なるを、如何で其人にたぐへんなど思はんや、只それ此秋にして此詩を見る。時余年四十の一語まづ心動かでやは、鬢邊雖未霜といふ吾齢等しふして鬢邊の霜白、やうやくいちじろきものあり、何一つ成し遂げたることなくして、徒らに形骸のきのふに似ざるを知る、吾たとへ名家の流(401)にあらざるも、人なみに劣らず四肢健やかに持てる丈夫の身にしあれば、木石ならぬ情のみだれ こほろぎ聲細き、秋夜孤燈のしも、深き思に沈むも一夜二夜にあらざりけり、
此額とま向ひのなげし、西壁の上に懸けたるは、これぞ根岸の大人が、仰向けに臥し給ひながら痩せ細りたるみ手にて書き賜はりし文字なりけり、題していふ。
無一塵
筆の勢墨の色、いみじく強く力あるさまなるは、重き病になやめる人のものとは見えざりけり、あした夕邊に打仰ぎて、一日も眼に離るゝことあらねど、月日の流夢と果なく、此秋は早くも大人の一週忌にしあれは、人々相合へば必ず追善の事など打語ふにつけても、いにし春の事いにし秋の事、限りなく繰返しつゝ偲ばるゝかし、此額のもとゝしいへば、明治三十三年四月の廿九日、草庵のほまれと、千とせに語りつぐべく思へる日なりけり、あとにも先にも只一度の御おとづれ、秀眞ぬし格堂ぬし打添ひけるを、折ふし家に在らで危く此の譽のまどひを空ふすべかりしに、幸と家に歸りて四人夜半過ぐるまで打語らひし、其後さう誌「ホトヽギス」にものし給へる大人の文は、其折のことなり、「さすがに茶を好める人の庭なり塵一もなし」などありける※[口+喜]しさに、強ひて乞へる文字なりけり、草庵の寶此上やあるべき、追善の事果てゝ、秋雨しく/\とふるに、蕨眞ぬしと二人眞夜中に歸りきて、此額の下にしはし打語りもはや月を越えたるきのふけふ、猶ふりつゞく秋の雨に獨庵籠り居れば一層いにし秋の事ども、思ひ絶間もあらずけり。
おのれ茶を好める癖あるものから、貧しき身をも顧みで、折々數奇なるわざに心をなやますことあり、こは其たぐひとは聊か異なれども、此秋の初つかた高山彦九郎ぬしの墨跡を得つ、只の文字ならば穴勝にほしとも思はざ(402)りけむに、其墨跡といふは萬葉ぶりの歌なりけり。
丈夫乃圓居世流夜波勇魚取海山越天風毛來勿鴨、
此人に此歌ありとは、聊かならず驚かされぬ、君を思ひ國を思ふの心篤かりしは、天が下に知らぬ者もなき程なれど、文學の上にもこゝまで至れる人とは露思はざりしを。餘りに珍らしければ家の物出して取換え置きつ、常にも我ゆかしき人の一人なりしを今此歌を得ていよ/\ゆかしさを加へぬ、晴の朝雨の宵、此文字を壁の間に掛居れば、自から心も緩やかに胸のすがすがしきをおぼゆ。
み歌にし君を偲べは藤原や寧樂の御代なる人にしありけり、
夜光る玉といふともみこゝろの靈にたくへば耻ぢて碎けむ、
庭先に八坪ばかりの畑ありけり、中に細徑を作り、右のは眞四角左のは細長く、短册といふものゝ形になしぬ、春の頃より、心つくしてさま/”\の草物など植あつめぬ、野菊はさる知人より秋草は向島の百花園より、近くは箱根二子山の峰より取歸れるなど、隈もなく植込めるに、九月の末ころになりて、まづ日廻りといふ花、まはり一尺にも餘りぬべき大輪の三つ四つと咲き始め、雁來紅の五本六本吾背にまさりて延び立ち、藤鷄頭天人草など繁りにしげりて、おのがじゝ花咲けり、短册畑に一つらに植たる群菊も僅に蕾を持ちそめたり、かりそめに植し茄子の幾本、花もあり實もなりつるが、なが/\に珍らしく、暇毎に打出でゝ何事も思ひ忘るゝまでに樂しかりしを、何等無慘の禍神が、一日一夜の荒らき雨風、果ては大水おし來りて、家の床をも浸しゝ程なれば、あはれや吾樂園の草花、泥にまみれ倒れふし、生ける色一つだもなし、二子山の頂より持來れる草も芽立ち葉も出でしと喜べるさへ、跡もわかずなりぬ、
(403) しどろもどろ草のなきから伏しみだるくだつ畑にこほろぎの鳴く
明治36年11月『馬醉木』
署名 左千夫
(404) 竹乃里人 〔四〕
先生が理性に勝れて層つた事は何人も承知してゐる所だが、又一方には非度く涙もろくて情的な氣の弱い所のあつた人である、それは長らく煩つて寢てゐたせいでもあらふけれど、些細な事にも非常に腹立つて、涙をこぼす果ては聲を立てゝ泣く樣な事が珍らしくない、其替はりタハイもない事にも悦ぶこともある。
一昨年の秋加藤恒忠氏が、ベルギー公使に赴任する前に一寸來られた時なども、ヲイ/\と泣かれた 加藤氏から貴樣にも似合はむじやないかと叱られた樣な譯で少し烈しく感情を激すると、モウたまらなくて泣く人であつた、内輪の人に對して腹立たり叱つたり泣たりするのも、皆一時の激情に過ぎないので、理窟もなにもなかつたのである。
自分が少しの事にも感情を激する位であるから、人に對してはそれは隨分周密に注意せられてゐたやうであつた、何處までも理は正してゐられたけれど他の感情を害するやうな事は又決して爲し得なかつた、そいふ譯であるから、理窟の上では非常に嚴重で冷酷なことを云ふても、其涙もろい惰的の方面になると直ぐ以前と反對な事をやるやうな事が屡々あつた。
同人諸君の内でも、虚子君鼠骨君秀眞君義郎君等は、所謂る上口の方で酒をやらるゝ諸君の處、先生は頻りに酒を飲むではいけぬといはれた、種々理由もあつた樣であるが、古來酒を飲むだ人にゑらい事をやつた人がないな(405)どゝ云はれてゐた、從て前數氏の人々などには隨分冷酷な注告をせられた事もあつたらしい、鼠骨君などからは此斷酒注告に就きての不平を聞かせられたこともある、義郎君などは最も非度く痛罵せられた方である。併し是れが皆前にいふ通り、理窟の上の事許りで、先生の所で何かにつけ飯が出る、又飲食會がある、それに必ず缺かさず酒を出すのだ、一方では冷酷に意見をしながら、直ぐ其跡から酒を出すから如何にも矛楯してゐる、一寸おかしく思はれるが、茲が先生の涙もろい所だ。
一所に飯をくいながらも、好きな酒を飲せぬといふは如何にも殘酷な樣で、迚ても堪られんといふのである、一度先生と交際した人は皆何となく離れられない風があるのも、こんな所からであらふ。
吾輩などは馬鹿に抹茶が好きであるから、先生の所へ往つても、どうかすると抹茶的義論などがでる、尤も先生は絶對に抹茶を排した譯では無かつたが、世間普通の茶人といふ奴が、實に馬鹿らしく形式だつた厭味なものであるので、吾輩の抹茶に就ても時折嘲笑的痛罵を頂戴したことがあつたのである、だがそれも矢張り酒のやうな筆法で、吾輩が非常に茶を好むといふ所から、抹茶の器具が一通り備られてあつた、吾輩が數年の間に幾百回と通つた内に、唯の一回でも此抹茶の設備と抹茶的菓子の用意とが缺けたことがないのである、
明治三十三年の夏、長塚君と日光まで瀧見の旅行をやつた時に、歸りは例の通り田端でおりて根岸へ寄つた、いろ/\話し込でゐる内に、やがて母堂には抹茶の小鑵を盆へ載せて出された、先生は笑ひながら君が非常に茶に渇してゐると思つて、大いそぎに神田まで人をやつて買はしたのだマア一ぷくやり給へとあつた、予はそれは先生恐れ入ましたなア、實は私は一日の旅でも茶を持つて出るのですから、二晩とまり三日の旅ですもの、チヤンと用意して參りました、まだ少し殘つてゐますどうも恐れ入りましたなアといふと、さすがに茶人だ僕は又君が(406)三日も茶を飲まないでは頗る茶に渇してる事と思つたから買はしたがさうであつたかと大に笑つた、先生の情的方面のことは多くこんな調子であつた、こいふ事を思ひつゞけると今でも胸の塞る樣な心持になる。これは少し事柄が違ふけれど、先生は仔細な事にも能く注意が屆いて居つて、すべて物事おろそかにするといふことのなかつた人である、病室のいつでも取りとゝのへられて、少しも亂雜不潔などいふことの無かつたは、誰れも知つてゐるが、極些細な從令へば手紙一本出すにつけても、如何に親しひ友達の處でも、屹度町名番地を明記して出される、名前ばかり記してやる樣な事は決してない、これに就き或時のお話に、世間には手紙をやつても返事もこないなどゝ不平を云ふ人が隨分あるが、自分の手紙に宿所を明記しない人は非常に多い、中には姓ばかり書したり、雅號許書したりして手紙を出す人が少くない、是等は人に對して敬意を失ふ許でなく、相手方では返事をしやうとしても宿所が判らないで、困ることがあるなどゝいはれた、それであるから、一ケ年百回近く通つてゐる人の所へよこす手紙にもちやんと町名番地が明記してある、何十通の手紙の中にも、此法則に欠けてるのは唯の一つもない、それから「日本」新聞社へやる原稿も俳句一枚のでも必ず三錢切手をはつて封書にして出してゐられた、開封でやるといふことは遂に見たことがなかつた、これは意味があつてかなくてかそれは知らないが、先生の平生が、こんな細事にも察せられるかと思ふまゝに記して世人に示すのである。 明治36年11月『馬醉木』
署名 左千夫記
(407) 〔『馬醉木』第六號選歌評〕
太刀の尻さゝげのさやのさや/\に十六夜の月背戸に上りぬ 放江
評 上三句の序は面白けれど四五の二句と聊か調和せざるが如し
まつろはぬ夷伐んと豐國や呉の港を艦山の如し 岡本白蟻
評 意氣堂々既に敵國を壓するの慨あり
明治36年11月『馬醉木』
署名 左千夫選
(408) 新刊雑誌略評
一 比牟呂 第四號 信州諏訪郡玉川村 「氷室」社
信州は教育の盛なるを於て名高き所なり、雑誌「比牟呂」は其陰影なるか、其記する所一地方の雜誌と見るべからざるものあり、帝都の中央より大つらして發刊する文學雜誌中、此一小雜誌に比して漸ざるもの幾許かある、俳句は予深く解せず、つばな會即山百合君等同人の歌を見るに實に予をして健羨に堪ざらしむ、本誌に收めたる夜奈疑乃戸、竹舟郎、千州等諸君の作什、悉く堂に昇れるものなり、予は從來一切の新聞雜誌に千百の歌を見て遂に面白しと思ひしことあらず、然も獨此小雜誌に於て、會心の歌を見る、予は未だ諸君と相知の親なしと雖も、早く一大強國の援を得たるの感あり、山百合君の短歌小評又我意を得たるもの多し。竹乃里人先生一週忌の翌日、此稿を草して先生を懷ふの心更に切なるを覺ゆ、先生にして世に在るあらば、予は即日走つて先生に此等の歌を示し吾思ふ所を質さんものを呼嗚先生…………。
併し此雜誌にして尤も遺憾なるは、この花會といへる一派の異趣味を混じ居ることなり、止むを得ざる事情ありといへば、地方雜誌の經營上致方なき理由の存するにや、可惜矣。
一 莫告藻 第四 麹町區三番町 莫告藻會
(409)こは落合氏眞參請君の手に成るものか、此派の派風は世人の疾くに知る所ならん、不得要領の短歌數百首を載す、玉藻を書いた表紙の模樣は能く無言にして卷中の歌を詐し得たる感あるもおかし、しまりなき調子要領を得ぬ思想、
倶樂部といへる欄内の言議頗る活氣ありて聞くに足るべきものあるは頼もし、語を寄す莫告藻會の諸君、詩は言の精なるものなり、精ならざるは詩にあらず、多きを求むるは精なる所以にあらず、徒らに歌數の多きを止めて、歌らしき歌を求めよ。
一 心の花 六ノ九 神田美土代町 大日本歌學會
いつもよその人許居て働きつゝあれど、家人等は更に働く樣子のなき家庭の如き雜誌なり、余り惡口は云へぬが、まづ中心の判らぬ雜誌と云ふは適評であらふ。
一 文庫 二四ノ一 神田南甲賀町 内外出版協會
禿頭將軍といふ人の「田舍新聞」甚だ面白し、歌及歌評共に見るに足らず、予は筆をおくに臨て信濃の篠原千州なる名字を見る、聊か異樣の感あり、千州君に語を寄す、只自個の歌を作れ。
一 ホトヽキス 六ノ十二 麹町區富士見町 ホトヽキス社
予は此雜誌が、何處迄も眞面目に摯實なるを敬す。
(410)一 寶船 三ノ十 大阪南區大寶寺町 賓船發行所
主幹青々君久しく眼疾を患ふ、予は只氣の毒の感に堪ず。
一 俳星 四ノ七 秋田縣能代港 俳星發行所
露月が頗つきの氣取は隨分と厭味でもあるが、其文章に慥かに或る趣味が宿つて居る、其厭味を拔いたら趣味は消えるかも知れぬ、五工が露月をかつぐは二王が不動をかつぐ樣な感がする、露月の俳句が駄目になつたのは、彼は顧みると云ふことを知らぬからだと云ふ人があつた。
一 鵜川 一ノ七 美濃稻葉郡鏡島村 鵜川社
鵜川を見ると華園君の風姿が躍如として眼に浮ぶやうだ、編輯のやり方が如何にも悠揚としてゐる、時に氣のきいたやうな事をやつても矢張それが逼らぬ調子できてゐる、其逼らぬ調子が又關東的でなくて関西的である所が妙でないか、氣がきいてゐる樣で實はズラリ間が抜けてゐる、間が拔けてゐるけれども、又何處かに氣のきいた處が潜むでゐる、之を關西的悠長と云ふのである、呵々、
一 アラレ 二ノ三 埼玉北足立郡安行村 アラレ社
幼な顔面白いのが少ない、目分で自分の幼ない時の事を書くといふが一體無理なのであらふ。
(411)一 ハマユミ 一ノ六 福島縣大町 破魔弓社
插雲氏が甲山を辨護するは、余程苦しさうに見える 自ら苦みを求めたやうな感がある。
一 サラシ井 一ノ五 本所元町 晒井發行所
チイサな雜誌だけれどなか/\馬鹿に出來ぬ雜誌である。
一 研精畫誌 十二 本郷向岡彌生町 美術研精會
畫の寫眞判五六枚卷頭に掲げてある、畫の多い本は何でも好きか(定價二十錢)
一 精華 本郷湯島 精華書院
あらたに出た美術の雜誌で、第一號には黒田清輝氏、久米桂一郎氏などの、執筆がある。第二號は白馬會の第八回展覽會の批評集だ。ぺら/\して居て甚だうすい、もう少し頁が多けれはよからうに、そしてもう少々やさしくかいてもらいたい。(定價五錢)
明治36年11月『馬醉木』
署名 阿志微山人
(412) 〔森田義郎宛書簡〕
拜啓過日平子氏方まで御遣被下候御書拜見仕候、多年相共に研究、途を同うせるも一朝分離を見る誠に殘念に存候へども、茲に至りては最早何も申上ぐる事は無之候、快然手を別つ方御互に便利なるべく候、昨夜も岡氏と會見、貴兄より同氏へ御達しの御書も一讀仕候、貴説の如く詩人としては趣味の一致せざるもの相伴ふべからざるは當然の事に候へども普通人としては、固より何等の惡感あるものに無之候、貴書中野生憤慨云々の語有之候樣なれども、野生は貴兄と趣味一致せざるを確信せるに外ならず、爲に分離を見るに至りたりとすれば、其他に何物の遺留すべき筈無之候、右は御諒察相成度候。貴兄と野生と趣味の背馳を見るに至れるは貴兄も御承知の如く、短歌會記事餘言口(【義郎註『こゝろの華』第五卷第七】)と題せるものを書かれし頃より始まり、今回雅俗論に了りしものにて申すまでもなくこは意見の相違には無之趣味の相違、即文學的原素の相違に有之、意見の相違はかねがね申居候如く、研究の途上當然逢著すべき筈なれば、同志として相伴ふ何等の故障を見ざる次第に候へども趣味の根本的相違は致方なく候、貴兄は野生を狭隘なりとし、野生は貴兄を以て雜駁なりと存じ居候、雅俗の感懷、趣味の感得懸隔を來たすは自然の理と存じ候、今更何の呶々すべきものも無之候、告別の御挨拶まで、御諒承被下度願上候、
猶一言申添へたきは著しき趣味の相違を認めつゝ野生より進んで衝突を敢てせざりしは、故先生没後間もなく、同志の分離を見るは、聊、心苦しく存じ候まゝ、早晩の分離を豫期しながら總て差控へ居候次第に候、前と申せ、(413)今回と申せ、皆貴兄より進んで衝突せられ候を以ても明なる事に候、故先生に對する分離の責任は趣味の背馳上止むなしとするも野生が衝突を避けたるの一事は顧みて、聊自ら慰め申候、是は無益の愚痴かも知れず候、唯々斯道のため御自愛御奮勵の程願上候敬具
明治36年12月『心の花』
(414) 俗謠について
予は俗謠に就て少しも知る所はない、故に俗止辨を作るは俗謠の趣味を説くのではなく、俗謠とは如何なる物か、正歌と俗謠とは如何なる相違があるかをいふのである、俗謠といふ語義はいふまでもなく通俗なる謠といふことであつて今日では、或種類即端唄都々逸盆唄潮來節とか河東節とかいふ樣な類の俗歌を總稲して云へるので、上古の風俗歌又は中古の催馬樂などゝは別種の物である、まして萬葉の一部を俗謠だなどゝいふのは、沙汰の限りで論ずるに足らぬ、俗謠は如何なるものかといふことを辨ずる前に少しく斷つて置くことがある、萬葉中にも隨分惡歌もある如く正歌は悉く雅なものとはいへない、さりとて多くの中に卑俗なるものが少し交つてあつても、それが爲に萬葉や正歌は卑俗だと云へない如く、俗謠は多くは卑俗であつても仲には隨分雅趣のあるのがあるは固よりである、併し又俗謠中極少數な部分に優秀なものがあつてもそれがために俗謠は皆面白いとは云へまい、俗謠は卑俗な歌であるといふも大體から云ふことである、俗謠の面白いといふも俗謠として面白いのであつて、正歌と比較上からいふのではない、いくら面白くとも俗謠は何所までも俗謠である、もう一つ上古の風俗歌も今の俗謠と同視すべきものであるかといふことを前決して置かねばならぬ、古事記應神天皇の段に既に風俗歌の事があるそれに猶同卷中に夷振天田振夷振之片下、績日本紀に難波曲倭部曲などあるも當時の風俗歌である 又催馬樂なども古の風俗歌であるは明なことで、古の俗謠と云つてもよいのであるが、其傳つてゐる歌數が極めて少(415)ない、であるから此少數の歌を以て古の風俗歌は皆斯如く面白かつたらふとは云ひ難い、極面白いの許りが殘つたのであらふと推測するが至當である、然かも猶萬葉の歌に比しては、卑俗と云はねばならぬ、それで又古の風俗歌催馬樂などに比べると今の俗謠といふものは更に卑俗である、試に催馬樂の歌一首を擧ぐ、
いもとわれ、妹とわれと、いるさの山の、山あらゝき、手なふれそや、香をかをすかにや、香をかをすがにや、
近世の俗謠
船ちや寒かろ着て行かしやんせ、わしか着替のこの小袖、誰に遠慮もないわいな。
内容は兎に角詞調の趣味に如何程の相違あるかは、一讀して判ぜらるゝであらふ、前者は無學文盲の能すべきものでない、後者は決して文藻的のものであるまい、古の風俗歌といふものは、當時の俗謠とは云ふものゝ、近世の俗謠とは全く其要素を異にしてゐる、予は斷じて古の風俗歌と近世俗謠とは同視すべきものでないことをいふ、縱令上古と近世と言語人情同じからずとするも、如斯著しく相違するは必ず作者の素養に依ること疑ふに及ばぬことである、近世の俗謠は多くは文學の素養なきものに依て作られ、古の風俗歌は、風俗のことこそ歌へ、作者は決して通常の人ではない、催馬樂などを少しく研究すれば明に判ることである、俗謠とは近世の風俗歌として偖て本歌と如何なる點に相違があるか、
予は俗謠に就て知る所少なきは前にも云へる如であるが、今服部氏の戀愛評釋に有る俗謠を見るも稍其要領を知ることが出來る、予は服部氏の説を痛罵しながらも、俗謠といふものゝ幾分を知り得たのは、服部氏の庇蔭に依れることを感謝せねばならぬ、予の見る所を以てすれば、俗謠には二個の要素を以て正歌と異つてゐる、
(416)一、詞のどこまでも普通的なること
二、形式即調子の卑俗なること
詞の普通的であることは、それが直に趣味の高卑に関する譯ではない、普通的の詞でも隨分高雅な詩が出來ぬとは限らぬ、只どこまでも普通的であるとすれは、文學の素養も何もない者にも意味の通ずるは勿論時に自作することも出來る譯である、何等の素養なき者に意味が通じ且つ作れるものは皆卑俗であると斷ずることも又出來ぬは勿論であるが、それは皆特別の場合を豫想した理窟に過ぎないのだ、何等の素養もなき社會に通じて作れる性質のものとすれば、それは地平線的最低度の思想と形式に過ぎぬと云はねばならぬ、必ず社會大多數程度に隨伴せるもので決して向上的性質を以て居るものでないと斷ずることが出來る、試みに思へ 社會何等の技藝でも修養なくして出來るものはない、どんなつまらぬ事でも、一つの藝とあるものが、習はずに出來る筈がない、若し修養なく出來るものがありとすれはそれは最低度の無造作なものでなければならぬ、俗謠が田夫野人にも無造作に解つて又作れる者とすれは其程度の低いは云ふまでもない、試に本歌に就て見よ、多年修養研鑽を經た人々にも、容易に出來ないではないか、無知無識の牧童草刈の作つたものが、智あり識ある文士騒客の詩歌より詩情的だといふ人があるが、予はそんな牧童草刈の作物を拜見したいものだ、實例のない空妄の言は何等の價値があるものでない、牧童草刈は牧童草刈として見るから面白いといふのだ、俗謠も俗謠として見るから、面白味もある譯だ、牧童の唄俗謠が面白いと云へば直に大雅の萬葉の面白味と同樣に心得とは言語同斷の話である、戀は神聖であるといへば、人間の理想を滅した獣類的醜情をも同じく神聖と心得居る馬鹿者と同じ格であるまいか。
前にも屡云へる如く物には例外といふことがある 俗謠中に適に眞文學的のものがあつたにしろ、それがために(417)俗謠全部を文學とし詩とする譯にはゆかぬ、何しろ俗謠有難連が俗謠を詩なり文學なりと云たいならば、そう云價値ある作物を澤山世に紹介するが第一であらふ、こゝでいふて置く俗謠がいくらか文學になりかけたら、最早俗謠は普通的でなくなる、モ一つ云ツて置く俗謠を何でも詩と云ひたいなら通俗詩とでも云ツたらよからふ それならば予は毫も異存がない。
形式即調子の卑俗といふことは、意味以外の調子詞が皆日常坊間で用ゆる俗調であるといふことである、縱令へば「いはしやんせ」とか「おもはんせ」とか「こちござれ」とかいふ樣な調子をいふのである、如此詞つきを卑俗でないとはまさかに云ひえまい、若し如斯ことを卑俗と云はずとすれば、卑俗な詞は今の世に無用な詞である、萬葉の東歌防人の歌に就ては長塚君が長々と研究意見を書れた如く、其時代の俗語を盛に取り用てあるに係らず何れの點にも、普通的な所や卑俗な調子を認めることが出來ぬにあらずや、餘りに長くなる恐があるから予は服部氏の評釋より同氏が、稱賛措ざる俗餘を二三掲げて見よう、
門に立ちたは八もじさまか夜風身の毒こちござれ
思ひだすとは忘るゝ故よおもひ出さぬよ忘れぬは
あらい風にもあてまい樣をやろか信濃の雪國へ
はなれはなれのあの雲見ればあすの別れもおもはるゝ
樣とわかれて松原ゆけば松の露やら浜やら
もしや途中で雨降るならばわしか涙とおもはんせ
服部氏がよりによつた名俗謠であらふ、まづ是以上の俗謠は少ないと云つても過言であるまい、其類少き此俗謠(418)一讀して如何に感ずるか、人々趣味の程度に依て各其感を同くせぬものとはいへ、思想の淺薄調子の輕浮といふことは爭はれない事實であらふ熱誠といふもの何處に籠ツてあるか 何所に熱誠を感ずることができるか、若し途中で雨がふつたら私の涙と思つてくれとの情も、「わしが涙とおもはんせ」といふ調子では笑ながら背中でも叩て云つたとしか思はれまい、歌に調子の大事なこと是等の所で適切に感ずるのである、
心情を意味的に云ひ表しさへすれば歌であると思へる輩は全く文學美術上に形式の趣味を解せぬからである、詩の上に使用する詞といふものは意味を表すだけの符貼ではない 一つの形式美をなさねばならぬ どんな思想でも詞調といふ形式趣味の力を借らなくては、人の心に自個が感ずるだけの情を傳ふることは出來ぬ、内容さへ美であれば形式は美でなくともよいと思ふは、人間を解せぬ詩を解せぬ愚見である、俗謠に最も難とする所は調子即形式趣味の不滿足にあるのである、詩歌の形式趣味に就ては別に稿を起す積りであるが、茲に手短に形式と内容との關係を云ふて見るならば、人間が風雨を凌ぐだけの家屋や寒暑を凌ぐだけの衣服で滿足が出來ぬのも皆形式趣味要求の一端である、人間の顔形は目鼻口耳と程よく整ふてあるのも、女に髯がなく男に髯のあるのも皆形式趣味である、女は女だけの務を盡し男は男だけの役をすれば跡はどうでもよいといふ譯にはゆかぬが、人間の人間たる所である、美なる形式と美なる内容と一致して始めて人間と人間の價値を完ふするのだ、詩歌の内容形式と少しも異なる所はない、内容さへよければ形式はどうでもよいといふのは、前に云ふ如く人間も知らず詩も知らぬのだ。
詩を知らざる者は人に有らずと大聖孔子は云つてある、人間を知らぬものが詩を知る譯もないが、詩を知らぬものが人間を知るべき筈もない、猶一歩進で云へば形式の趣味を知らぬものは人間でないと云へるのだ、極無造作(419)にたとへて云はゞ、學文もあり才智もあり財産もある血統正しひ、内容に於ては一點の申分なき婦人があるが、只口が人並より僅一寸大きい、或は鼻の先が五分そげて居るかしたらどうである、此婦人は美人と云はれないは勿論完全な女子としての價値さへ認めるものはあるまい、美と形式、人間と形式是程重大な關係があるとは大抵の人は氣がつかぬ、俗謠はたとへば内容も實は怪しひが、其形式が如何にも薄べらでお轉婆な人相をしてゐる女子の樣なものである、よし内容即心柄は美なものであつても形式即容貌が如何にも野卑であるならば、趣味の低い社會や實利主義の理窟やは知らぬこと、少しく趣味を解して居つては、到底滿足の出來るものでない、容貌などはどうでもよいとは屁理窟やが能くいふやつだが、實際人間の情的要求はそれで滿足しえらるゝものでない、なんでもかでもそれがいとしひと云はれゝばそれまでのことで俗謠即野卑女のためには、誠に辛頑な次第であるが、よい物ずきと云はねばならぬ。
明治36年12月『馬醉木』
署名 左千夫
(420) 廣狹辨
雅なる形式で雅なる内容を表現すといふが何故に狹いのであらふか、狹いか狹くないか予は知らぬ、詩は廣くなけれはならぬといふ定議はかつて聞かざる所、詩は何故に廣くなければならぬのであらふか、予は一切そんな事に頓着の必要を見ぬ、富士山の頂上は狹い、然かも予は只其高きを感ず、予を狹隘なりといふ人に告ぐ、願くは自個の廣き趣味が低く卑くあらざれと、予は廣くして低きを欲せず、否々低く卑俗なる詩歌の滅亡を謀るは今日の急務であると思ふ、滅亡々々予は廣き低き詩の滅亡を悦ぶ、予は常にいふのである、詩は横的のものでなく、縱的のものであると、横的のものは廣い、縱的のものは長い、横は低い縱は高い、横的のものは現代的、縱的のものは永世的、永世的なる詩は狹くとも即高からむこと要す、人が予を目して狹隘なりと云ふ、予は寧ろ之を名譽と感ず、俗謠は雅にあらずと云つて予は狹隘の名譽を得たるか、昔は孔子天下に周遊して簡蔡の野に飢ゆ、嘆じて曰く天下能く容るゝことなしと、顔回之を慰めていふ、容れられずして後に君子を見る、人は之を狹隘なりと云ふか、而して孔子の道は滅びず狹きこと何ぞ憂へむ、屈原はいふ、新に沐する者は必ず冠を弾き、新に浴する者は必ず衣を振ふ、安ぞ能く身の察々を以て物の※[さんずい+文]々を受くるものあらんやと、即ち湘流に赴て死す、人は屈原の狹隘を云々せん 予は只其高きを知る、魯仲連はいふ、秦は虎狼の國、詐術是重じ首功を尊ぶの國なり、彼若し肆然として天下に王たらば、我は東海を踏んで死することあらん(421)のみと、人は彼を狹隘なりとせん 予は只其高きを知るのみ、千利休はいふ、女子を賣物同樣にして榮華を見るは末代までの恥辱なりと、即豐公の懇請を斥け諸侯の榮華に換ふるに自殺を以てす、人は彼が狹隘なるを笑はむ、予は只其高烈を知るのみ、明正なる旨義主張を持し身踐自行嚴然抂ざるの勇あるもの、俗眼者流のために、時に狹隘の評を受くるは敢て不思議の事にはあらず、郎廣狹辨を作る。
明治36年12月『馬醉木』
署名 無一塵
(422) 〔『馬醉木』第七號選歌附記〕
吾馬醉木は茲に僅に七號を重ねたるのみなれども、投稿諸君の佳什號を逐ふて進歩の形況を示し數の上に於ても次第に増加し來るは、選者の深く光榮とする所なり、時に諸君の佳什に對し選者が無遠慮なる改刪を加ふるは、甚だ敬を失するを免れずと雖も、選者は飽迄も研究的態度を取り居れば、取捨改刪の上に少しなりとも、異見を存ずるものあらば、願くは質義を提出せられよ、是選者の最も希望する所にして、研究上御互に有益なるを信ずればなり、
明治36年12月『馬醉木』
署名 左千夫選
(423) 筆のついで
埼玉から出る『アラレ』は俳諧の雜誌であるが、時々吾馬醉木の評論や歌に就て何とか蚊とか云ふて呉れるは、まづ感心な譯であるけれど、偏狹で我執の強さうな、あの口振には一寸相手になりかねるのさ、十月中にも端書で少し許書いてやつた所、卷紙三尺許の返事であつたのでこいつは面白いな、俳的歌論は却て研究になるだらふ、それに合しらつて何か馬醉木へ書いてやらふなどゝ、忽ち原稿的欲心が出た位であつたが、ズーと一通り讀んで見ると、駄目だね、ねばりつこい事、磐石糊の如く、偏執なる事山羊の如くで他のいふことは何でもいけない、自分の思ふことは何でも推し通うさうといふ筆法であるに、然かも余り區域が廣いので、何といふて見樣もなかつた、
今度の『アラレ』にも又馬醉木前號の歌に就て何かチヨイといふてある、何を云ふたかと思ふて讀で見たら、何だツマラない、百舌は肉食鳥だから、飢て死とも榎の實を啄むことはなどゝ、力瘤を入れて云ふてある、動物學か何かであるまいし、君歌だて文學だよ、力瘤入れて理窟いふのはよし給へだ、理窟は學文ぢやないか、歌や俳句は學文ではない文擧だろ詩だろ、小鳥は何處までも小鳥であらふに何でも蚊でも算盤で勘定しようといふ人だから、百舌は肉食鳥だと理窟いふのも無理はないが、歌の面白いと否とは、動物學にはまるか否かに關係せぬのだから仕方がない、お針の稽古か何かに徃つてゐる女(424)の子が、窓の内で袷を縫つてゐると、窓の外で然かも近い榎の木で百舌が鳴いてゐる、そこで其女の子が動物學などいふ苦度い事は知らない其女の子が、榎の實を啄むのかしら、百舌がきて囀つてゐるワと、極無邪氣な感から理窟なしに作つた歌であるのだ、それが面白くないとか面白いとか云ふて見た所で、それは水掛論になつて駄目であるけれど、田舍屋であるが小サツパリとした家に、女が袷を縫つてゐる庭に百舌が鳴いてゐるといふ秋の清らかな感じがないであらふか、榎の實ついばむといふ詞が、理窟の上に氣になるなら、榎の實ついばむのかしらと四文字の詞を加へて見れば能く解る、如是詞の使方は古歌には珍しくない、注意して見ると今人の日常使つてゐる俗言中にも、そふいふ場合即尻詞を省畧していふ場合がいくらもある、從令へば、お前徃くかと問ふ時に、お前ゆく……お前飲むかと問ふときに、單にお前飲む……といふのは普通である、百舌だからとて必ずしも木の實を啄ばまぬとも限るまい、併此歌でそんな事を詮索する必要は少しもないのである、若し理窟を云ふならば、木の實を啄ばんでゐては百舌も囀れない譯だ、囀つてゐては木の實は啄ばめない筈だ、併しだ此歌はそんな些細な理窟から成立つてゐる歌ではない、結句を、百舌が囀ると説明的に云はず、百舌の囀りと名詞で留めた所に作者の技倆が存するのだ、もう此位にして置かうか、猶ことはつて置くが此歌は囀を聞て作つた歌で啄むを見て作つた歌ではない、
アラレ君、蕪村の句に狐が公達に化たり、郭公が櫃をつかむだりしてゐるが、あんな事は動物學には無さゝうぢやないか、蕪村は慥に諸君より少し大膽な樣だ、『秋の暮辻の地蔵に油さす』などゝやつてゐるからなア、辻の地蔵尊も蕪村といふ無法な爺に、頭から油をかけられた時にや、隨分と驚いたであらふよ呵々、小理窟はよし給へ蘇村に叱られますぞ多罪々々。オツト最少し云ふことがある、アラレ君等は吾々の歌を萬葉以外に出てゐな(425)いとか、萬葉模倣であるとか云ふてゐる樣だが、吾々に云はせるとそれが君達が歌の解らぬ證據であるのだ、試に諸君に問ふて見よう、却て諸君の今日の俳句が、元禄天明の燒直しであるまいか、元禄天明以外別に明治の俳句といふものがありますか 諸君の答が聞たいものである。
明治36年12月『馬醉木』
署名 阿志微山人
(426) 〔『馬醉木』第七號消息〕
歳將に暮れんとして諸君益御健勝大慶此事に御座候、日露騷ぎも口先の推問答許で、どうやら煙になりかけ申候、此調子で參り候はゞ來年も相替らず梅花を中心として世は春めき可申候、東都の出版界にても最早盛に新年の用意など廣告致し居り候、やれ特別附録の大景物のとそれは/\如才なく立廻ること敬服の外なく候、さうした物の人氣を得る世の中、眞面目は馬鹿と相場が極り居るかと存候、此夏から漸く新世帶を張り候『馬醉木』などは迚ても世間並の事は協ひ不申、木綿の紋附小倉の袴で年賀も致す所存愛顧諸君にも不惡思召被下度豫め願上置候。
近頃吾『馬醉木』も例の文擧雜誌に持前なる遲刊病に取附かれ愛顧の諸君には申譯もなき次第に候、殊に本號は先月中御承知の如く、蕨眞君と小生二人十二三日遊びあるき候爲め、愈々後れ申候、是等の埋合せは來春に於て屹度勉め可申誓約仕候。
故正岡先生の遺稿『竹乃里歌』は先生の一週期迄に出版致す可く『心の花』などにも廣告致し候得共、其後種々内部の事情有之、遂に約を果さずして今日に至れるは、根岸短歌會同人の深く漸愧に堪ざる次第に候、故先生の歌集を出版するに就ては同人一同深く其責任を重じ居候事故、自然行きなやみ致居候得共、愈今回俳人側の諸君と相談を決し、俳書堂より出版せんとする、子規全集の第一編として、來春早々發行致すべく候間、同堂若くは(427)当會へ、同集御入用の諸君は御申込有之度候、且つ又來年二月中旬を期し、本會同趣味者の歌集を出版可致候、是は故竹の里人先生が、國歌革新の精神を以て、選載せられたる、『日本』新聞本紙及び週報紙上の歌を集め、加之に爾後の同人製作中より、本會更に精選して以て、一部の歌集を作らんとするの豫定に御座候、猶委細の事は二月の誌上にて可申上候。
次に根岸短歌會同人として『馬醉木』編輯員たりし、森田義郎氏は、今回吾々同人と分離することゝ相成候、爾後同君は例の佐々木信綱氏を主幹とせる『心の花』に全力を注がるやに御座候。
明治36年12月『馬酔木』
署名 なし
(428) 和讃評釋
擔當記者
序言
『正像末和讃』を、主として無學的に解釋し、批評して見やう、勿論眞宗の宗乘はどうのこうのといふことや、或は殆んど佛教の名目、例の呉音讀みさへも知らぬ、連中が、よつてたつてたゝいて見やうといふ發企、何かなしにそれ面白からんとて滿場一致の賛成、あとからつら/\考へて見れば、こいつ甘く行きさうなことでない。果して第一回は御世辭にも成効したなどゝ言はれたものでなかつた。無學的の解釋は實は却て六かしいといふことを發見した。
第一首
釋迦如來かくれまし/\て
二千餘年になりたまふ
正像の二時は終りにき
如來の遺弟悲泣せよ
(縱横)兎に角一應の説明を誰かにやつてもらひたい。
(無角)説明をせんで、無學的にやる方がよいのではないかとも思ふのだが、然し杉村君の要求もあるから、僕が和上になつて(429)一應の説明をしやう。『正像末和讃』といふのだから、先づ正像末の意味丈を説明したら、それで大方わかるだらうと思ふ。正像末の三時といふのは、繹迦減後佛教が盛衰した次第を時間的に分けたので、釋迦減後五百年の間を正法の時とする。佛教には教行證の三つが揃つて、始めて完全に弘布せらるゝものと見るべきものなので、此の三つがチヤンと揃つて弘まつたのは、此の正法の時である。正は證なりなどゝ古風にはいふので、これは正法の時の外に、像法の時には、……末法には勿論だが、實際に證を得る人はない、そこで此の第一を正法と名けたのである。第二の像法の時といふのは、像は似ることで、正法に似て居る時代といふことである。即ち教行證の中で、教行ばかりあつて證がない。第三の末法には、教ばかりあつて行證共にない極く下劣の時であるのだから、像法の時は中劣位の所なのだらうか。そこで此の像法は其の間凡そ一千年で、末法は其の次ぎの万年とするのである。こういふ具合に時代は段々下つて來て、釋迦の教は到底眞に之を行ふ者がなくなるのであるが、しかも其の間に於て、獨り彌陀の本願のみが此の末法にも流布するのであるから、聖道自力の教を信ずるものは、釋迦如來を去ること遠くして其の行ひ難きを悲しむべし、唯我が淨土眞宗のものは、之につけても彌陀他力の教に遇ひ奉ることを喜ぶべきなりといふ意味をほのめかしたのが此の一首の大要であるのだ。(ナール程ウフヽと笑ふものあり。)
(縱横)一寸質問を致しますが、全躰此の正像末といふ樣なことは、どんな御經に出て居るのですか、其の典據は………。
(黄洋)僕が代つて答へるが、其の典據は色々な御經に澤山出て居る。例へば『摩訶摩耶經』とか、『大集經』とか、『大悲経』とかいふ樣なもので、また其の三時の年數に就いても、高島君の言はれた樣に、正法五百年、像法千年、末法万年と極つて居るわけではない、異説が澤山にあるので、今の高島君の言はれた外にも、正法千年といふ説もあるし、或は像法五百年といふ説もあるのであるから、必ずしも一定は出來ない。
(獏)こゝでは「二千餘年になり給ふ」といふのだから、正法千年、像法千年といふ説によつたものと見た方がよいのではありませんか。
(左千夫)一躰こんな説は誰が説いたのですか。
(430)(青巒)釋迦サ、釋迦が前以て示したものだ。
(縱横)僕は此の歌で、「如來の遺弟悲泣せよ」といふ句は面白くないと思ふ。高島君の説明によると、聖道自力の徒は悲み泣け、他力念佛の徒は喜べといふことを示したのだといふのだが、全躰「悲泣せよ」などゝ命令の言葉を遣ふのは可笑しいことだ。また同じ釋迦の教を信じて居るものが、一方は悲泣せよ、我々は彌陀の教を信ずる者だから喜ぶといふのも面白くない。
(黄洋)「如來の遺弟」といふについては、古來の註釋家に二説あつて、聖道自力の徒に對し「悲泣せよ」と言つて、之に反して他力淨土の教を奉ずるものは喜べといふ意を裏面に有たしたのだといふ説と、そうではない、「如來の遺弟」と指したのは佛教を奉ずる総べての徒を指したので、共に釋迦の減後二千餘年の末代に生れたことを悲めと言つて、しかもこれから淨土他力の法のみありて末代に相應した教だから、之を信じ喜べといふ所へもつて行くのだといふ説と二つの説があるのである。
(左千夫)「悲泣せよ」といふ言葉は、必ずしも命令ではない。こういふ場合には、もつと意味を輕く取ることが出來るので、つまり「せよ」といふ言葉には命令と命令でないのと二つの場合がある。
(縱横)要するに此の世界人類といふものは、どこまでも進んで行くものであることは決して疑がない。僕はスペンサーは大嫌ひの方であるが、然し其の進化の原理は否定することが出來ない。それから人が何でも事をなさうといふには、人が何と言はうとも、自分の死んだあとでは、何時か此の眞理が勝利を占めるのだといふことを確信してかゝらねばならぬ。それに正像末といふ樣な悲しそうな考は、絶望的の卑怯な思想を養ふもので、こんな思想は我々新佛教徒のどこまでも排斥してしまはんければならぬものだといふのが僕の考である。(黄洋)こゝで諸君に御參考までに申して置くが、此の正像末の三時については、前にも言つた樣に色々の異説があるが中でも正法千年といふのが一番盛に諸經に説かれて居るので、特に末法万年といふ樣な説は、『大悲経』に説いてある位のものだらうと思ふ。此の正法千年の意義に關しては、甞て荻原雲來君が「正法千年の解」と題して『佛教』といふ雜誌に掲げたことが(431)ある。其の中の面白いと思ふ點を略言すると、丁度印度のアンドラ王朝が終つてグプタ王朝の起つた頃、即ち紀元五世紀頃………釋迦の出世を紀元前五世紀とすれば、此の時が滅後千年になる。此の時に印度が四方大に亂れて、各地に獨立の王が起つた。其の中で北方には鉢羅婆、東方には、耶婆奈《ヤ〓ナ》、南方には釋迦、西方には兜婆羅といふ四惡王があつて、佛法の破滅を謀つた。其の時に※[立心偏+喬]賞美《コサムビ》國の王子に難當といふ人があつて、大變佛法に歸依して、此の四惡王と戰つて終に之に勝つたのであつた。そこで難當が大に僧侶を集めて佛法興隆を謀つた時に、僧侶が派を樹てゝ互に相殺戮をした、これ即ち末法に於て佛滅盡の相だといふことが、『雜阿含經』に出て居る、これが正法千年で、千年後佛法破滅したといふ説の基く所だといふのである。これは非常に面白い説と思ふ。それから僕の考では、正法何年といふことは、こういふ歴史的事實から出たのゝ外、大淨佛教徒が、自分の説も佛説であるといふことを主張する爲めに作つた事もある樣に思ふ。例へば大乘の南本『涅槃經』などには、我涅槃の後四十年間此の經流布して、それから隱没してなくなるといふ樣なことを言つて、それから正法の後の八十年の前四十年、即ち若し正法を七百年とすれば、六百二十年から六百六十年までに、此の經がまた興るのだといふのである……『涅槃經』は釋迦減後七百年にして佛法破滅すると言つてあるから、凡そ七百年頃までを正法としたのであらう。佛滅後七百年は、龍樹菩薩などが出て大に小乘外道に對し、大乘佛教を興した時であるから、大乘佛教に反對するものに對して、これ法減盡の相で、正法の時が去つたのだと説いたのではあるまいか。そこで此の經は佛滅後四十年間大に行はれたが、後無くなつて今また正法七百年の末に當つて行はるゝのだと言つたのではあるまいかと思ふのである。
(青巒)一躰禅宗あたりから言へば、釋迦在世の時代にも末法の機も、像法の機もある。今日でも正法の機もないではない。つまり三時といふことは、時間の上ばかりでなく、機の行證の上にもあることだとして、時間と空間とを一つにした樣に説いて行くことが出來るのだが、眞宗ではそれは出來んのであらうかナ。……それでは他力の法門がありがたくなくなるからナ。
(左千夫)僕は一寸杉村君の評論について一言して見るが、僕は六けしい理窟の方は知らんので、直覺的に浮んだ(432)ことを述べる丈に止まるのだが、全躰進化といふことがあれば退化といふこともあるのだから、西洋の樣に新しく進んだ方の國の人は、進化といふことを八釜しく言ふけれ共、東洋の樣に古く開けた方では、進化よりも退化の方に眠がつくので、尚古の風と言つて一概に惡くいふことは出來ない。要するに進化とか尚古とかいふのは、共に一方に偏した説だと思ふ。
(無角)進化といふことは、伊藤君の言ふ樣に、一部分で言ふのではない。勿論一部分/\でいへば、以後盛になる國もあれば滅びた國もある。然し全躰の上からいへば、滅亡した、退化した國も、既に全躰の進歩上に功を寄興して亡びたのだから、矢張り全躰には進歩である。東洋の方だの西洋の方だのと区別して言ふべきことではないのだ。
(左千夫)部分の上に進歩と退歩とあるならば、全躰の上にも進歩と退歩とがあると言ふことが出來るだらうと思ふ。
(禿山)釋迦の感化といふことを土臺にして見れば、釋迦の感化力が親しかつた時代が正法で、それから/\段々感化を遠ざかつて來たのだから、矢張り三時の區別は立つのであらう。
(青巒)つまり行證の上から言ふ話しなので、人類の進歩とか退歩とかいふ議論ではない。釋迦の教を修行して悟を開く人が、昔しは多くて後ほど少くなる。……行證といふ方、つまり釋迦の感化の方から言へば三時は少しも不都合はない。
(左千夫)これは語格上のことだが、「二千餘年になり給ふ」といふのは甚だ愚な言葉の遣ひ方である。
(獏)「釋迦如來が、かくれ遊ばして、二千餘年に御なりなさる」といふのだから、通常差支がないことゝなつて居る。
(無角)その二千餘年に御なりなさるがいけない。「釋迦如來が御かくれになつて、それから二千餘年たつた」といふので、「二千餘年御たちなすつた」といふ語法はない。何でも御の字や給ふといふ字をつければ、敬語の積りでこんなことをやるので、敬語の亂用といふものだ。
(433)(獏)此の一首はつまりどういふことになるのです。
(黄洋)此の一首は衆生を教化する釋迦如來が御かくれになつて、我々は親しく其の教を聞くことが出來ぬといふことを悲しまねばならぬと言つて、此の次ぎの一首には、また獨り釋迦如來に遇ふことの出來ないばかりではなく、釋迦所説の教法もなくなつてしまふといふことに及んで、説く人も説いた教もなくなつても、獨り存するものは彌陀本願の教ばかりだといふことにもつて行くのです。
明治37年1月『新佛教』
(434) 〔『比牟呂』都波奈會選評〕
第八回 課題 花火
童等はくる/\花火道に投げて往來の人の魂驚かす。 汀川
聊めづらしき所をつかまへたり調子未し。
天なるや神のみ園の眞白菊咲き照るなせる星花火かも。 山百合
第四句咲きかも照れるとありたし。星花火は花火星なるべし。
人皆は目にぞたのしぶ夜花火も音を戀ひ居らん盲の子我は。 竹舟
第二句余りに理りすぎずや 第五句厭味あり 三句の「も」の字理窟なり。
人皆の見まく爭ふ夜花火を音をこひ居らん目なし吾はも。
の如くせば如何。
増荒雄を城に送ると村はづれ村人つどふ朝花火かも。 蘆庵
難なし。四五句「村人つどひ朝花火うつ」と直されたし。
村人は花火するかもとよ年の秋をよろしみ花火するかも。 千州
(435)趣向固より陳腐なれども無造作なる所に面白味あり。
野の宮の秋の祭の※[雨/肖像]花火芒がくりに見ればすゞしも。(天) 山百合
四五句面白からず上三句おほまかに云ひしを下二句事こまかく云ふはよろしからず「芒が岡に上りてを見る」などせば面白き歌となるべし。
縣路を夕越え來れば高黍の穗の上はるかに花火揚れり。(地) 柳の戸
着想よし一句二句「星月夜野路こえくれば」四句「穗のへに遠く」とありたし。元句のまゝにては高いと云ふ意に聞ゆ。茲にては高きより遠きがよろしかるべし。
打靡く芒が岡の朝花火とゞろくなべに霧はれにけり。(人) 雉矢
第一句は「向つを」など云ふ方よからん。「芒が岡の」の文字はゆとありたし。遠望の趣なれば打なびくと云ふより大まかにありたく思ふ。
茸狩ると峰に登れば遠々し山の麓に花火はあがる。(人) 竹舟五句「花火打つ見ゆ」とある方よからん。面白し。
明治37年2月『比牟呂』
署名 伊藤左千夫選
(436) 竹乃里人 〔五〕
明治三十五年七月初旬の頃である、看護當番として午後二時少し過たと思ふ時分に予は根岸庵に參つた、今日はどんな樣子か知らむと思ふ念が胸に滿てゐるから、先づ母堂や律樣の挨拶振りでも、其日の先生の樣子が良かつたか惡かつたかと云ふことが直ぐに知れる。
今日は良くないなと云ふことが座敷へ通らぬ内に解つた、予は例の通り病室と八疊の座敷の間の唐紙に添ふて呉椽に寄つた障子の内へ座した、然かもソウツと無言で座したのである、無論先生如何ですかなどゝ挨拶する譯ではない、モウ此頃はお極りの挨拶などは無造作に出來なかつた、お話の相手にゆくのであるけれど、先生の樣子を見てからでなければ、漫りに挨拶することは甚だ危險を感じたのである、予は黙然と座して先生の樣子を窺つてゐる、先生は南向に寢てゐて顔は東の方戸棚の襖の方へ向けてゐられる、予は先生の後を見てゐる體度であつた、やがて母堂が茶を持つてこられ、次にお定りの抹茶の器具を出される、予は斯る際にどうかこんな事はおよしなされてと云へど、物固い母堂は此頃迄も決して此設備を缺たことはなかつた、誠に忘れんとして忘れられない事である。
昨日は秉(河東)さんの番でありまして、少し惡く御座いました、昨晩はサツパリと寢ませんで、今日も良くありません故、又朝から秉さんにきてお貰ひしたでしたが、少し眠りましたから十二時頃に歸られましたなどゝ、母(437)堂からお話しがあつた。
此間がまだ一時間ともたゝない内に、先生は右の手でくゝし枕を直しながら顔だけ一寸予の方へ向けて目禮された、余程苦しさうな樣子で口もきかないですぐ元の通り顔を背けてしまつたが、暫くたつてから今度は體を少し直して半仰向けになられ、僅にこちらへ顔を向ける姿勢をとつた、
けふはねイ、
一語暫く眼をつぶつてゐられ、息を休めるようにしてから、
けふはお晝前碧梧桐が獨逸の小説を讀むで聞かせてくれた、勿論飜譯ではあるが、僕は小説と云ふものは、吾々の感じを滿足させる樣なものは迚ても出來ないものとキメてしまつた、今迄では小説に就ていくらか迷つてゐたが、迚ても吾々を滿足させる小説は出來得ないものとキメてしまつた。
出拔に先生はこう云つて再度眼を閉てしまつた、これだけのことを云ふにも余程タイギさうに次の語を發しない、予は思はず膝を進めて。
それは先生文學上の大問題ですなア。
予は先生に次なる語を促すような語氣で以てさう云ふたのであるが、先生は甚だ息苦いかの如く、容易に其次を語らない、此時予は寧ろ次なる先生の説を聞たいと云ふよりは、話を續けて先生を慰めようと云ふ方に多くの意味を持つて、再び次の如く云ふたのである、
只今の先生のお話は一寸考へました處でも、實に文學上の大問題ではありませんか、西洋なぞの話では文學と云へは何より先に小説であつて、小説は文學と云ふより文學は小説と云ふ有樣で、云ふまでもなく小説は文學(438)の最高位にあるものださうぢやありませんか、さういふ小説が今先生の申さるゝ如く、文擧趣味の上から滿足な感を得られないと云ふことは、實に一大議論のように考へられます、かりそめのお話でなくて、眞に思ひ定めた確信かの樣に伺ひますが、私も先生の今のお話には非常に心が動いた譯であります、それ程の先生の確信、縱令少しなりとも何かへお書きになつて公表されては如何ですか、私は是非さう願度思ひますが。
予は思はず熱心こめてこう云ふたのである、先生は、ぢつと予の方に眼を向けられ。
それはさうだが、此さまでは迚てもそんな事は出來むぢやないか。
予は強い近視であるからよくは知れなかつたが、此時の先生の眼には慥かに涙があつたと思はれた、それきり先生は黙してしまひ、予も胸塞がる心持で、語を續けることは出來なかつた。如何にも先生の云はるゝ通で、此時分の先生の容體は、人々各番に毎日看護に來ると云ふ有樣であるから、以上の如き複雜な問題に意見を述べるなど云ふこと出來る筈がないのである。
お互に暫く黙してゐる内にも、予は我に返つて考へるとなく考へた、此問題に就ては最少し聞いて置かねはならぬ、こう思ついたので樣子を測つて、
只今のお話に就て最少し伺つて置きたいと思ひますが、話をしても宜しうございますか。
と云つて先生の許しをえてから、
私もと申しては少しをこがましひ譯ですが、演劇も小説も熱心に見たといふではありませんけれど、共に面白く思つて居りまして、小説なぞは讀みかけると夜の明けるも知ずに讀んだこともありますが、實を申すと極淺薄な趣味で面白いので、云はゞ只筋書許りを面白く感じますのです、つまりお伽的に面白みを感ずるのであり(439)ました、それで少し文學的とか詩的とか眞面目な意味から視ると、いつでも不自然殊更作りものといふ樣な感がすぐ起つてくるのです、今の大家といふ人々の小説でも文章は甘いが、趣味といふ點にはどうしても、不自然な殊更な感じを起さぬことはありません、演劇は見た程見ませんが、古いことですが明治座で左團次の曾我を見た時などは實に馬鹿らしくて堪りませんでした、團十郎は未だ見ない位ですから演劇の話などは無理でありますけれど、左團次の五郎と云つては名高いのださうでありますのに、其曾我五郎の左團次が捕縛される所などは、丸で人形の轉がる樣で迚ても眞面目な趣味感が起るものでありやしません、人を斬るとか自殺するとか、捕縛されるとか、人間の激情無上なるきはどい所などが、どうして不自然な殊更なマヽ事らしき感の起らぬ樣に演ずることが出來ませう、小説でも演劇でも平凡な事實をやれはつまらぬ債値のないものになつてしまう、少し際立つた奇なことをやれば、迚ても自然を得ることが出來ぬとすれば、到底詩的趣味の感懷を滿足させることは六つかしひ、普通一般的淺薄な娯樂としては勿論此上なきものであらふが、文學の素養深き人の詩的興快を動すこと甚だ覚束ないものではあるまいか、それは天才的大手腕家が出てきて技倆を振はれたら知らぬこと、今日の演劇や(能樂の演技は別)小説では要するに普通人の娯樂程度であつてマヽごとやお伽話の進歩した物としか思はれない。
私はこんな風な考へを持つてゐたこともあつたのでありますが、何しろ小説熱の盛な時代、そんなこと云ふたとて誰あつて相手にするものありません、さういふ私でありますから今先生のお話を伺つて私は非常に心が動いた譯ですが、只今の先生のお話は今私が申上た樣な意味で解釋して宜しいのでありませうか、私は大手腕家が出てきたらと申しましたが、先生のはそれが一歩進んで手腕に係らず、小説といふものは素養ある詩人の感(440)懷を滿足させることは到底出來ぬものとお極めになつたといふ樣に承知致しましたが、そう心得てよいのでありますか。
予はかく長々しく自分の考の有丈ケを述べて先生に判斷を乞ふたのである、先生は其間一語も插まれず、瞑目して聞かれた樣子で、予が話をきると直に大體そんな譯であると云はれた、猶話を進められて。
自分の親しく經歴した事を綴つたら、人に依たら或は一生涯に一つ二つ、吾々の想ふ樣なものが出來るかも知れぬけれど、さういふ事は小説と云ふよりか寧ろ其人の傳記といふのが適當であらふ、又自分が一年か二年前に實驗した事實を種として作るといふ樣なことがあつても、それは駄目であらふ、どうしても想像や推測が出てきて新に考たものと大差がなくなる。
かく話を添へられた、先生は餘程勞れてゐらるゝ樣子であるのに、こんな複雜な問題に就て長話をするのよくないことは知れきつてゐるのであるから、予は茲で此問題に就ての話は止めてしまつた、跡は母堂を相手に世間話を始めた樣な次第で其夜は常の如く十時迄居つて歸宅したのである。
以上の問題は考へれば考へる程大問題であるといふ感がましてくる、迚ても吾々如き凡骨の頭で容易くよいの惡いのと云はれる問題ではない、併し予はどうしても、先生の一語然かも心籠めて繰返された一語は、心の底まで染み込んだのである、其後先生歿後、之を碧梧桐に話したら、碧梧桐は首肯しない、それはそんな譯のものでないといふ、虚子に話せば虚子も首肯しない、鼠骨も勿論首肯しないのである、四方太には未だ話さない、從て四方太の考は知らぬのである、予の如きもの未だ如此問題に就て論議するの資格なきことを自任してゐるが、予が正しく先生より聞取つた談話は、前記の如くで、先生の話より予の話が多いが、當時の談話事況は記述の通りで(441)ある、これを世間に紹介して置くは予の責任であると思ふ、
世の中の進歩趨勢は其停止する所を知らずと云ふ有樣で、從て總ての思想界にも、頻々新主義を産出してくる今日であるのに、殊に文學美術の上に寫實主義の大潮流は、蕩々として洋の東西に湧き返つて居る今世の事なれば、或は欧米の文士間などより、前記先生の所説の如き議論が、何時湧出してくるかも知れぬ、こんなこと思ふと予は益予の聞いたゞけのことを公表して置くの義務あることを信ぜざるを得ぬのである、
日本帝國の偉文士正岡氏は、其現世を去りし二個月以前に於て、
小説と云ふものは迚ても吾々の感じを滿足させる樣に出來ぬものときめてしまつた、
此一語は正しく正岡先生の口より出でゝ左千夫の耳に入りしもの、即明治三十七年一月發刊の馬醉木卷頭に掲げ廣く世界の識者に問ふのである。
明治37年2月『馬醉木』
署名 左千夫記
(442) 隨問答
一
問ふ、馬醉木第七號所載、
薪切ると吾行く山はとのくもり雪かふるらむねこしさき山 志都兒三句「とのくもり」と、原作の「天くもり」と如何なる相違ありや、又「ねこしさき山」とは如何なる山にや。
◎答へ、「とのくもり」は棚曇なり、棚引など云棚と同じ意なり、つまり曇るを形容したる語と見るべし、「とのくもり」の語萬葉集十三、三諸之《ミモロノ》、神奈備山從《カムナヒヤマユ》、登能陰《トノクモリ》、雨者落來奴《アメハフリキヌ》、雨霧相《アマキラヒ》、凰左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》、云々、「たな」と「との」と音通ふが故にて外にも棚引を殿引と云へり、されば天曇と大體に大差なしと雖も、前句を「吾ゆく山は」と山を指定したる以上は天曇りなど漠然と云ふより、稍具象的に殿曇るといふが面白かるべし、たとへば海が曇ると云ふ時にも海が天曇りと云ふはおかしからむ、單に海曇るとか海殿曇るとか云ふが穩當ならずや。
ねこしさき山は、峯越前山にて峯ごしに見えるさきの山といふことなり、原作の結句は、吾ゆく山はと第二句を打返してあるが、如斯打返して結ぶ場合は其一句必ず、一首中の主要なる句ならざるべからず、此歌に於ける吾ゆく山といふ如き説明的なる句を打返すも何の詮なきことなり、此邊は歌を作る人の注意すべき點なり、一首全(443)體の意味は、柴きるとて出てきて今吾ゆく山は曇つてゐる何か雪でも降りさうな雲が山の上を掩ふてゐる 前の方の山では雪がふつてるのか知らむといふので風も身にしみる樣な感じの起る歌である、
質問者注意
一 質問は本誌に掲たるものに就き直接なるを要す。
二 字書類を見れば容易に知り得る如き語義語格に就ては答へざるべし。
三 成るべくは趣味上のことに就きて質問せられたし。
二
不言舎問ふ
朝顔の花咲たりとうなゐらが云々の愚詠を、花が咲きぬとゝ直されたり、是れ寫生時によく其状況を感ぜしめむとならんが。うなゐの口語其儘ならば、花が咲いたといふ方ならむ、御直の通りにては、世人は文法違反と思はむ、勿論場合によりては破るもよからむか。
答
散文の文法は必ずしも韻文に用ひ難し。咲たりを咲きぬと直したるは、寫生といふ意にてにあらず、咲たりは「咲てあり」故比較的時間を含み、且つ過去を含む、少しの相違なれど咲きぬと云へば、より現在である、幼童が朝顔の花を見つけて、今咲た如くに母を呼ぶ状況を感ぜしむるには、花が咲きぬとある方感じ適切ならんと思(444)ひしまでなり、大なる相違あるにあらねば、固執するの必要はなし、
序にいふ、歌は寫實をすといふとも、歌の形式を失ざる限りに於てせざるべからず。
明治37年2月『馬醉木』
署名 左千夫
(445) 〔『馬醉木』第八號消息〕
後れに後れ候得共、兎に角新年始めての御目文字に候得者、先々御慶目出度申納候、偖昨三十六年之歌壇に對する吾々の活動は顧みて遺憾の點少く候、絶大の詩人歿後の翌年、無論始めは沈痛寂漠の趣きありしも、諸同人相期して各自其使命に望み、前途の職責を自然的に感知せらるゝや、吾人同趣味歌壇の天候は刻一刻元氣作興之色を顯はし來り、活躍の端著は「日本」新聞を始めとして、美濃の「鵜川」信濃の「比牟呂」吾「馬醉木」の誌上等に發し、風起り雲走るの光景を認めたるは、獨吾人の欲目のみにはあらざるべく候、此際吾「馬醉木」の發刊に遲滯を見るは甚だしき怠慢に似たりと雖も、是全く小生蕨眞と旅行の結果、十二月の發刊痛く後れ候所へ歳晩年始の俗紛に逢ひ候爲めにて、製作研究の上に何等の關係は無之候、二月は十五日三月は十日と順次繰上げつゝ四月頃迄には必ず、既定發行期に復し申すべく候、
蕨、長塚、両氏の資力と根氣とは、馬醉木の前途大船に乘るの感あらしめ候へば、かく申すも聊か失敬なるやも知らず候得共二三回の遲刊の如きは何でもなき事かと信じ居候、原稿を買集め貰集めて、書籍商人然たる、出版を爲すものとは聊か類を異にせることを御承知願上候、人はいふ、雜誌の其發行期に出でざるは賣高に關するや大なりと、或は然らむ、乍併吾人は商人にあらざるの一語是に答ふるのみに候、
大家とやらの作物を紹介すといふ名目の下に、巧みに田舍者を欺き青年者流を瞞し、只管らに發賣の多きを計る(446)が如き、當世流の智者は迚ても馬醉木同人の及ぶ所には無之候、久しく郷里に退き、白雲流水の間、高蹈して清閑に耽られ居る諸君又御承知なる赤木格堂氏柘植潮音氏共に「馬醉木」の前途に助力を與へらるゝ事に相成候、潮音氏は既に前號より近作を出され、格堂氏は昨臘書を寄られ、いふ、
僕今の歌壇に意なし只老兄が三顧の値遇に感じ、一片の瘠骨老兄の用に供せんか、僕三分の計あるにあらざれど、胸中亦機蓄なきにしもあらず徐々として懷抱を吐くべく候、云々、僕既に歌壇よりは脱せし世捨人なり、今更オメ/\出馬するは區々名の爲にあらず、一片の侠骨猶稜々とし聳ゆる爲めに候、緋威の鎧黄金の兜は僕の要する所にあらず、坊主頭に黒頭巾薙刀脇に提げて闇夜忍び出る山法師の格に御座候、云々、
闇夜忍び出でんとあるを、茲に諸君に豫告しては或は荒法師の一喝を喰ふやも知らねど、闇夜の流星白光疾風にひらめくの時、余りに諸君の眼を驚すを恐るゝ婆心に候、これは極内々の事に候へばゆめ荒法師に告げ給ひそ、十五日、岡氏宅に於て「竹の里歌」の再選定を了し候、長短歌五百以上有之來月中には俳書堂より出版致べく候、十六日草庵にて新年歌會相開き候へども、歌を作らず、字を書き繪を書き、酒を飲み茶を飲み、菓子を食ひ飯を食ひ、其間は話を以て埋め、夜の十二時まで騷ぎ申候、二月短歌會は會報の如く、根岸の舊廬にて第三日曜即二十一日午後七時より開き候間、近住の諸君には是非御來會願上候、十七日、に歌俳南側の人々根岸庵に會して、故先生の墓石建立の事相談致し候、愈或定額を以て建立する事に決定致し何より※[口+喜]しく候、成るべく三週忌迄にとは一同の希望なれども、石塔の圖案は是非中村不折氏に相談したしとの意向より、止むなく同氏の歸朝を待つて諸事確定する事に相成候、因に中村氏は本年七八月頃には歸朝の筈に候へば、本年中には必ず大龍寺墓畔に異趣の表石を拜するを得る事と存じ候、資金の如きは篤志家の好意を寄せらるゝあらは固より悦て受くる所なれど(447)も、募集若くは勸誘的行爲に出るは斷じて避く可しとの事に相成候先は荒々早々敬具
明治三十七年一月十八日 左千夫記
明治37年2月『馬醉木』
〔448頁〜477頁、別ファイル「萬葉集新釈」にあり、入力者〕
(478) 〔『馬醉木』第九號消息〕
昨年十二月中岡麓君は左の所へ假越被致候新居購入まで同所に居られ候由、赤木格堂君松原蓼圃君梅の二月を以て共に結婚被致候由、結城素明君近衛隊へ召集せられ候、平子鐸嶺君は惇物舘へ、香取秀眞君は美術學校へ共に昨年末に出られ候、號外々々に心引かれ又々遲刊致候、雜誌の發行と申すもの隨分面倒いものに候、今少々の所御勘辨願上候早々 二月十六日夜 左千夫記
東京市神田区東紺屋町六番地 岡 三郎
猶本號原稿大に集り候爲め止を得ず左の數稿を第十號へ廻し候間一寸御斷申候 一、咨問課題答案
一、課題水仙選歌
一、西遊日抄(中)
明治37年2月『馬醉木』
(479) 咨問課題答案
吾宿の梅咲きたりと告げやらはこちふに似たり散りぬともよし
月夜よし夜よしと人に告げやらはこてふに似たり待たずしもあらず
此兩首優劣咨問に對しては、應間者は僅に三人であつた、從て會心の答がない、眞菰庵主人の評は、勿論正解とは云へないが稍云ひ得た點があるので、茲に掲げることが出來た、尤も出題者も罪がある、畧評云々と書いて置いたは惡かつた、此課題は畧評では出來ぬ、餘程精細に評せねば解らぬのだ、眞菰庵の評は左の通りである、終りに愚見を附することゝした。
眞菰庵主人
第四句までは二首とも同じ事であるが中に、前者は「吾宿の」とあるから來よといふに似て居るといふてもよいわけであるが、後者の如く、月夜よし夜よしといふだけでは、來よといふに似て居る點が見出されぬ、來よといふのか、行かうといふのか、酒でも飲まうといふのか、忍ぶ戀路の邪まになるとでもいふのか、何が何であるか分らぬ、加ふるに前者は、ちりぬともよしと景物の動作をのべて輕く結んだるに反して後者は待たずしもあらず等くだらぬ蛇足をくツつけて居る、尚後者の「人に」の二文字用なき詞とおぼゆ つまり後者は、萬葉をやき直して失敗したのである、無論後者は前者のそばへもよれぬ歌なるべし、強ちに萬葉を尚んで古今をけ落すといふわけではないのである。
(480)以上二首の優劣は、先づ二首の歌を各別に評してゆけば、優劣は自然明かである、梅の歌の方をまづ評して見樣、作者の精神は此歌の裏面に包まれてあつて、見渡した詞は表面の意義に過ぎぬのである、除程普通に變つた云ひ方で非常に面白く興味に富んで居る歌だ、萬葉中にも餘り類のないものである、
裏面に含まれてゐる意味といふはこうである、時候も春めいてきた、宿の悔も咲き立つた、自分が花の咲くのを待かねた心に比ぶれば、彼(友人)は疾くにモウ咲たらふと云つて來べきである、平生風流ぶつてゐる癖に、おれが心待に待つてゐるのも知らぬことはあるまい、梅もモウこんなに咲いたのに一向知らぬ風である、如斯親友的一種の不平を作者は持つてゐるのである、梅が咲たよと告げてやつてもよいが、こちらから告げてやらなくとも、此春めいた愉快な昨今、やつて來さうなものである、其來ぬのが癪にさはる(親い意味で)告げてやらねば氣がつかぬといふは、熱心の乏しい證であるいま/\しくもどかしい心持が充分作者にあるから、ソコで俗にいふ、スネ氣味で、梅が咲いたと告げてやれば來いといふに同じだ、彼が進んで來もせぬ所へ來いといふに似た樣なことをいふてやるもいま/\しひ、そんな奴に見せなくともよい、よし/\散つてしまつてもかまはない、これが表面の詞である。
つまり非常に待つてゐるから、來ないのに腹が立つのと同じで、此歌の作者も、何に散つてしまつてもかまはない、決して梅が咲いたなどゝ云ふてやるもんか、來なくともよい、などゝ口には云ふても、それは皆口先の事で、其實は待ち切つてゐるのである、それが情愛の極致だ、散りぬともよしの一句、スネた所に無限の情著が籠つてゐる、尤も懇な親しひ同士の間にして始めて存する情趣である、此位多くの意味と情とを含んでゐる歌は實に珍しい、告げやらばこちふに似たりと切つて置て、結末一句散りぬともよしと前四句に離れて云ひ下した所、事實(481)でなければ決して出づべき詞ではないが、此作者の技倆も非凡なものであるは勿論だ。机の上で考へて作つたものなどゝは、固より根本に相異してゐる、文字の細工許りこねくつて歌をこしらへてゐる連中は、如斯歌を少し研究してほしいものだ。
月夜よしの歌に至つては、槽も糟、糠味噌の糟位のもので、迚ても比較して論ずべきものでない、如斯咨問を出したといふも、多くの中に誤解してゐる人もあらんかと思ふた故に殊更に出題したのだ、第一に吾宿の梅なればこそ、告げてやるといふこともあれ、月夜よし夜よしならば、本所で月夜がよければ、淺草でも月夜がよいにきまつてゐる、向ふもこちらも同じ月夜であるに、月夜よしなどゝ告げてやる馬鹿もあるまい、
つまり事實の上に趣味を求めないで、詞の上で許り口眞似をやるから、此歌の如き愚を演ずるのだ、眞菰庵君も云ふた通り、月夜よし夜よしと云ふたとて、來いといふに似る譯がない、向ふでも月がよいとすれば、ゆかふかといふにも似る譯だ、模倣をやるにも、よく本歌の趣味精神を飲込んで、然る後に自個の新意を加へて自分の働を顯はして始めて物になるのである、口眞似的に露骨に摸倣すれば、それは寧窃盗の類であるのだ、此月夜よしの歌がよし物になつたにしろ、梅を月に換へた許りで、作者の新意は少しもない、予が口眞似だといふも決して酷言ではない、それから尤も笑ふべきは、結句である、眞菰庵はくだらぬ蛇足だといふたが、蛇足ならば未だよいが、前にも云へる如く梅の歌は表面待たぬと云つて、裏面に大に待つてゐる情が動いて居るのだ、それを摸倣先生は、表面の詞を淺薄に聞取つて、自分は待たないことはないとやつた、殆ど滑稽である、心の内に待つといふことがなければ、此情趣は歌にならぬのだ、前の梅の歌は「人に」などいふ樣な、餘所々々しい情致ではない、眞菰庵の「人に」の二字不必要と云へるは尤も吾意を得た、本歌の精神も情趣も少しも解せず、淺薄に模倣した(482)ので、眞似にもなつて居らぬ、
前者は、モウ待たない、來なくともよい、梅は散つてしまつてもよい、と腹を立つ所に熱情があるのだ、初から待たない人ならば、來ないからとて腹も立たぬ譯だ、それが後者であると、待ないこともないと露骨に云ふてしまつて、冷かな心も知れる、熱心に待たない情も顯はれ興味が索然としてしまふのである、此作者の心では、萬葉の作家は、散りぬともよしと云ふた、自分はさういふ場合に待たないこともないと利口振たので、浮薄輕佻唾棄すべきものである、眞個人情を解せずては這般の消息は到底解し得られぬ、此月夜よしの歌が八百年間歌詠の金玉と尊べる選集にあつて誰一人非難するものが無かつたのである、歌人といふ幾多の歌人の見識も思はれて、實に情なく感ずる次第である、要するに萬葉集と古今集との価値は、以上二首の歌に依て代表されて居ると信じた故、斯く長々しく辨じた譯である。
明治37年4月『馬醉木』
署名 左千夫
(483) 〔『馬醉木』第十號消息〕
熱い寒いも彼岸までと申す諺も今年許は虚言に相成候、梅花は殘りなく色あせ候得共櫻桃いつ咲くことやら、朝暮火鉢なくては手の先がこゞえ申候、日露交戰の烟火は全世界の視線を集め候際なれば、自然界の香艶相率て躊躇の色あるにやと存ぜられ候、江東數ある梅園賞客の少なき實に意想の外なりしと聞申候、櫻桃花を急がざるは無心の花又機を知るの趣有之候、況や多恨多情の人間にありては其影響更に甚しきものあるやにて、近時文壇の沈静限に余る惰態に有之候、戰爭に關する製作敢て乏しとは申されねど、概して千編一律頗る淺薄なるもの多きにあらずやと被存候、交戰の初期にありては衆情徒に激昂せるの結儕考黙思の餘裕を缺けるも、實に止むを得ざるの數なるべく候得共、戰爭と文學其關係する所極めて大なるもの有之、悲壯、剛烈、豪毅、莊嚴、強堅等の諸趣味及び死生の間に出入する人間極端の趣味、悉く戰莊に依て其實際を演ぜらるゝものに候へば、文學家が其天才を發揮するに最良の機會たることを覺認し居ねばならずと存候、
過日長塚君突然上京例の如く數日草盧に宿泊致し日夜快談に耽り候、同君云く、實際日本人は軍に出ることを嫌ふのである、又出す方でも甚だ嫌ふのが事實だ、それでなぜさうであるか、日本人は氣が弱くてさうであるかと云ふに、決して氣が弱いから軍に出るのを嫌ふのではない、日本人は軍に出れば必ず生きて還らぬものと、出す方でも出る方でも覺悟して了ふのである、人誰れか死を好むものがあるべき、軍を嫌ふは死を嫌ふのである、こ(484)れが日本人の強い證據である、なぜなれば人々皆死を覺悟して軍に出るからである、故に日本の兵皆決死の兵である、日本人は軍に出たとなれは皆死を覺悟してゐる兵である云々、小生は其至言に感じ申候、小生は常に新聞などで、兒を捨てゝ召集に應じた妻を離別して奮起したなどゝいふ、報道を見る度に、甚だ不快に感ずるので、そんな事は皆虚説であると思ひ居り候、眞に死を覺悟しての首途に、親と別れ妻子と別れこれを最後の見別れと感念した時に、悲しくないと云ふは虚言に候、實際悲まない人があつたらば、それは自分勝手な功名心から、人間の至情を滅した擧動と存じ候、親を思はず妻子を愛せず、それで愛國心に富むとは大虚言の皮に候、何程本人は死ぬ覺悟でも天は其人の運命を保護するものに候故、運命あるものは決して死ぬものに無之候、
乍併君國の大義を荷ひ軍に征役に從ふものが死を覺悟して出る位、忠義な感念は無之候、已に死を覺悟す而して親と別れ妻子と別る、世の中に是程悲いことは無之候、悲むが當前に候泣くが當前に候、悲んで悲みつくし泣いて泣きつくすが當前に候、悲み候とて泣き候とて決して臆病故とは申間敷候、泣くべき人の爲に泣きつくし候はゞ却て後に悲いと云ふことがなくなり可申候、親と子と夫と妻と別れる時に泣かないで、誰がために泣かんとやする、死を覺悟した人に最早涙の必要は無之候、親と別れ妻子と別れる時に、有限りの涙を絞つて跡へは一滴も殘すことは不入候、別れる時になまじ泣き殘すから戰場に臨で後れをとるようなことにもなり可申候、小生などは人の話を聞ても涙が湧き申候、こんな事を書きながらも屡眠が濡ひ申候、新聞などでは、出す人にも出る人にも、泣きも悲みもせぬのを良い事のように書き立て候得共、あれは大間違に候、別れる時には泣くだけ泣いて、出てから泣かないように心掛けるのが本當に御座候、小生は軍に出る人出す(485)人に勸め申侯、愈出軍と極つたらば一日でも二日でも、涙殘さず泣くがよろしく、悲むだけ悲むで了へば人は覺悟が定まるものに候、世間の手前見苦しひなど思ふは馬鹿な事に候、殊に女などに泣くな泣くなと泣かせないのは尤も惡く候、出る人も悲ひが出す人も悲みは同じに候、生きて苦樂を共にし死して穴を同ふすと、契りかはして子まである間を、決死の覺悟で別れる、殘る人とて嘆きは同じに候、それを何ぞや離別して出るなど非道の極に候はずや、淺薄な屁理窟ばかりこね返す連中が人の至情に悖れることを賞勵するは、甚だ憂ふべき事に候。小生も今は悲みの一人に御座侯、春寒猶身に染み候時に新たに孤兒に相成候、小生老母有之候が、此三月二日に不圖病つき、格別の事とは思はずありしが、俄に模樣惡しく遂に八日の曉に不歸の客と相成候、遺命に依り即日柩を故山上總に送つて、葬禮營み申候、右樣の次第故、在京辱知の諸君へも改めては御通知も不致候故何卒是にて御承知被下度願上候、老母年七十四小生年四十一、世間並みより考ふれば、小生の悲みなどゝ申上ぐる程に無之筈に候へども、小生の感じは老母を七十四才の人と思ひ不申、平生達者の方なれは、猶幾年も生存せらるゝものと信じ居り候、顧みれば常に自個が勝手なる考にのみ心を傾け、孝養を缺けること多く、今更悔恨限りなく候へども、愚者の跡智慧にて何の役にも立ち不申候、今月は早くと誓ひ侯馬醉木の發行も爲に遲延を重ね、遂に三月は休刊の止むなきに至り、小生一個の私情より此等閑を敢てせること、讀者諸君に單に御託申上候。
猶萬葉集短歌通解は必ず毎號掲載の豫定に有之候處、意外に原稿多く集り候て、編輯主任たる小生の作物を出すために他稿を排する譯に參らず、余儀なく此十號だけ休載することに致し候、併爾後は誓つて毎號掲げ可申、通解掲載號より購讀を望まるゝ諸君の厚意に背くは小生も苦く候。
「今の新派の歌を排す」及び「新古今集愚考」の續稿等、決して等閑に附し居る次第に無之候へども、紙數限り(486)あるに次々急要の原稿に追はれ、仕方なしに中止致し居候、其内に機を見て掲載可致候へば不惡御承知願上候、
其外竹の里歌並に竹乃里人選歌、兩樣共原稿小生方に有之、校證の責任ある小生が前陳の始末なれば共後れに後れ申候何れも罪小生一人に有之候、兩書共來月は愈間違なく出來可申候早々頓首
明治37年4月『馬醉木』
署名 左千夫
(487) 〔『馬醉木』第十一號歌會記事前文〕
四月歌會
月の十七日根岸舊盧の歌會は、賓に寂寥を極めたり、来ると思ひし秀眞來らず秋水来らず、會するもの僅に三人、云はく※[竹/高]水云く蕨眞云く左千夫、人は少しとも歌は多かれとて即四題を頒つ、山吹、木蓮、廣瀬中佐の戰死、マカロフの戰歿、おのがじゝ詠める所を左に録す。
〔※[竹/高]水、蕨眞、左千夫の歌略〕
明治37年5月『馬醉木』
署名 なし
(488) 〔長塚節「海底問答」附言〕
從來の長歌以外、今の所謂新體詩以外に於て、更に新しき形式の上に、長篇の作歌を試みむとするは、吾會諸同人の窃に攻究しつゝある所なり、海底問答の長篇、一讀種々の缺鮎を認むれども、着想凡ならず、詞調又見るべきもの少からず、讀者願くは五百金を投じて馬骨を買へる編者の精神を察せよ、此篇の缺點は、全篇の目的明ならずして趣向の纒まらざるにあり、理想歌としては理想解し難く、滑稽としては、余りに理窟臭し、要するに作者は如何なる目的を以て此篇を作れるかを知るに苦むにあるべし 記して以て作者の一考を促す。(左千夫)
明治37年5月『馬醉木』
(489) 課題答案一括
時軍國のきはなれば、歌詠む人々ものどめる心失ひたるにや、「馬醉木」の文章課題諮問課題らに稿をよせ來るもの、一人もなくなりぬ、年若きともがらが、戰と聞てひたぶるに、思ひ激つは一渡り理とこそきけ、直接にかゝづらひなき人等まで、文まなびの暇もなく打騷ぐは、いと/\飽かぬ心地におぼゆるかし、軍人は戰の上に職を盡し、家にある人は家なる職を守らむこそなか/\に正しき道なれ、一と月二た月の事ならば如何樣にもあるべし、二とせ三とせにも渡らむ事に、落着なき擧動せむは、名に負へる皇國の大御寶と云はんに聊か耻ならずや、いでや己れ老の身の暇あれは、今の時を鳥なき里の蝙蝠と、翅の限り飛び廻りてむ。
波羅門の作れる小田を食む烏まなふた腫れて幢矛に居り
世に物識といふものこそ馬鹿らしけれ、かれらは何事をも知らむとひしめくものから、意味なき事柄をも強て意味ありげに解かむとはするなり、心の花と云へる雜誌に高楠某と云へる博士が、此波羅門の歌に就きて云へるなど即それなり、そが説の愚なることは茲に論ふべき價あらねど、博士といふ名に聞怖て誤まらるゝ人もあるやと思ひて、茲に文學といふ上より解説をなし置くべし。
萬葉集十六の卷に、詠數種物《クサクサノモノヲヨメル》歌と云へるは、此時代に行はれし歌の上の戯にて、六つかしき物の名を歌に詠み入れ、なだらかに綴ることを慰みとせるものゝ即滑稽の一種と云ふべくや、滑稽にも意味ある滑稽と意味なき(490)滑稽ある如く、滑稽歌の上にも意味あるとなきとあり、波羅門の歌其他くさくさの物を詠める歌と云ふ意味なき方のものなり、たとへば。
石麻呂に吾物申す夏痩によしと云ふものそむなきとりめせ
其外「脇草を刈れ」「鼻の上をほれ」などあるは皆意味の上の滑稽なり、
吾兄子がたふさきにせるつふれ石の吉野の山に氷魚ぞさかれる
虎にのり古屋を越て青淵に鮫龍とりこむつるぎたちもが
猶同卷中に多し、右等は皆數種の物の名を讀み込むといふを旨として意味なき歌なり、後の世の読み込み歌と異なる所は、後のは誠らしう虚言をいふからに、いみじく厭味おぼゆれど、萬葉の歌にありては虚言を虚言らしく、詞の上のみ能く綴れたるさまにみせて意味は支離滅裂なる析に、却て無邪氣なるをかしみを含めり、波羅門の歌の如き即其類ひなり、波羅門、烏、瞼、田、旗矛、等の物を詠み込みたる外に、何等の意味あるにあらず、支離滅裂取とめもないことを、如何にも眞面目なる調子に云ひなせる所、最も滑稽の上手なりと云ふべし、如此滑稽歌につき、眞面目に意味の解説をなせる高楠ぬし如何に歌に暗しとは云へ豈に滑稽に近からずや、西洋の戯畫などを見るに、意味なき滑稽甚だ多し、意味なき滑稽畫とは動作のをかしみを旨とせるもの、我國の滑稽畫は遂に面白しと見しことあらず、能狂言と云へるものも、意味を旨とせるもの多くなりきて、滑稽の趣味は却て少きやに見たり、是等のことにつき予は聊か思ふ所あれど、あらためて後に述ぶる事とせむ。
槇の戸をあさあけの雲の衣手に雪を吹きまく山颪の風
和文めきた文章で歌の解釋などやつたは頗る愚であつた、偖右の歌が金槐集中にあることは、同集を精讀した人(491)にはとくに承知であらう、鎌倉の右大臣は竹乃里人先生が、萬葉以後三人と云はれた一人である、併しそれも比較上云つた事で、他に殆ど見られる歌が少ないから、稍佳作のある金槐集などが擧げられたのだ、金槐集とて精讀して見れば佳い歌は實に少ない、尤も先生も二三十首名歌があると云はれたと思ふ、只右大臣のゑらひ點は、少數であるけれども、佳作となると實に獨創的で千古に超絶して居るからである、茲に擧た歌なども慥に其一つであらう、句法の緊密なる氣格の高邁なる、萬葉を摸せずして却て萬葉に迫るの勢が見える、雲深き山中貴人別墅にあるの状が宛として目に視る如くである。
「槇の戸をあさあけの雲の衣手に」と云ひ下せる雲の字の用法に注意せよ、空想などで迚ても考及ぶ所ではない、勞せずして雲の字を得たのは事實であるからであらう、而して此一字即龍眼の點睛全首爲に活動を覺えるのである 通して三十三文字第二句が八文字で最複雜な意味を含んでゐるから、結句又字餘りの重みある調子で留めたのである、句は頗るしまつてゐるけれども、字餘りが二句もあるだけに又自ら迫らぬ所がある、小細工者流の夢想だも及ぶところでない、金槐集を褒める人があれば、無茶に金槐集を難有がる連中があるようなれど、金槐集中に如何な歌があるかと云へば頗る雷同的な答を爲すものが多いは甚だ遺憾である。
明治37年5月『馬醉木』
署名 左千夫
(492) 竹の里人 〔六〕
大詩人の言行としては、さもあるべき筈ではあるが、何事につけても、人並よりは多くの興味を感じつゝ居たらしかつた、多くの人の何でもなく思つてゐる事や極ツマラぬ事で一向顧みもしない樣な事でも、先生は頻りと面白がつて一人興懷に耽けるといふような事が常に珍らしくなかつた、從てたわいもない事にも兒供らしく興に乘つて浮かれる樣な事があつた、それは趣味の廣い人であるから、面白味を感ずる區域が、人よりも廣いは當前ではあれど、隨分意外に思ふ事も多かつた。
鍬形※[草がんむり/惠]齋や上田公長の畧畫の版本など吾々は兒供の玩弄品と思つてゐた位であるに、こゝの趣向が面白い、こゝがうまいなどゝ頻りと面白がつてゐた、或時などは、一枚五厘づゝのオモチヤ繪紙の、唐紅かなにかでひた赤く染たやつを二三枚、唐紙の鴨居に張つけて眺めてゐられ、頻りと面白い理由を説明して聞かせられた、先生はオモチヤがすきだなどゝ人々みやげに買うてゆく樣になつたのも、何でも面白がつた所から起つたのである、オモチヤが殊にすきであつた譯ではない。
繪畫に就ての嗜好は次第に強烈になつて、繪であればどんなものでも面白がつて見る樣で、或時陸翁の娘の六ツ許りになる兒が、書いた繪をこむなに面白いがどうだと見せられたこともあつた、晩年自分で繪を畫く樣になつてからは、一層嗜好の熱度を高めた、渡邊南岳草花の卷物に狂氣じみた事をやつたに見ても其熱度が判る、もう(493)長くは生きてゐぬと承知しながら、是非其の草花の繪を我物にしたいといふ執念、何といふ強烈な嗜好であらう、趣味の興快に乘じては自個の命を忘れるのである、自分の字がいやになつたから、少し假名文字を習つて見たいが、善い手本はあるまいかと問はれたのも、逝去二月許前のことであつた、
をかしく氣取つて死際を飾らうとする樣な手合とは丸で違つてゐるかと思はれる。
趣味を貪つては飽くことを知らぬといふ調子であつたから、日夕の飲食にも始終趣向々々と云つて居つた、まして二三人の會食でもやるとなれば、趣向問題が湧返つたものである、振つたの振はぬのと翌日の談話にまで興を殘した位であつた、予は隨分度數多く參勤した方であるが、文章や歌俳に就てこれは得意だなどゝいふ話は遂に聞かなかつたけれど、根岸へ西洋料理屋が出來て、客に西洋料理を御馳走することが出來又一品でも取寄せて食ふことが出來るといつては、そんなことを頻りと得意がつて居られたり、又骨拔鰌は根岸のが甘いなどいへば、これは近頃得意さなどゝ悦ばれたり、こんな調子で些細な事にもすぐ興に乘つて面白がられる、何事によらず三四の人が集つて興に入る時といつたら、眞に愉快な風に見えるので、集つた人も深く愉快を感ずるのが常であつた、或時など余程可笑かつたことがある。
たしか明治三十五年の春であつたと思ふ、追々と病體衰てくるので、人々種々と慰藉の道を苦心して居る時であつた、予も夕刻かけて訪問すると、河東寒川の兩君が居られて、けふは高濱が、女義太夫を連れてくるから聞いてゆけとのことであつた、先生も稍興に乘つてきてゐるので、おひるからは頗る工合がよいとの事で、頻りと談笑してゐられた。
やがて高濱君が來る、妻君も兒供をつれてくる、河東の妻君もくる、陸翁の令孃達が六人づらりと這入つてきて(494)並ぶ、いつのまにか日も暮れて明しがついた、三四臺の車が門前へ留つた、小聲の話聲がする、提灯がちらつく、家の人達は皆立つてゐる、門の扉がカタン/\してどうつと人が這入つてくる、根岸庵空前の賑ひである、予が先生、僕の方であると殆ど婚禮といふ感じですナアと云ふと、先生は、
松山邊でいへば葬式の感じさ、と云つて松山の葬式の話などしてゐる内に、太夫連は上り鼻の隣座敷で用意をやつてゐたらしく、床の正面に蒔繪の見臺の紫半染の重々しひ房を南端に飾つてあるやつが運出された、跡から師匠の老婆次に鳩羽色か何かの肩衣つけた美人の太夫が出てきて席に就いた、此時予は先生の頭の後方に座して居つたので、先生が思はず拍手してゐるのが見えた、それが余程滑稽で今でも思ひ出す度に獨笑するのであるが、寐返りもよく出來ぬといふ時であるもの、拍手したとて、どうして音がするものか、かさりとも音がしないぢやないか、予は可笑くてたまらなかつたが、先生はなかなか本氣でゐるので放笑する譯にもゆかず、漸くに口を掩ふてこらへたのであつた。
先生が物に興ずること、いつでもこんな調子である、二人の太夫の内一人は頗る美兒であつたと云へば、先生はランプの影に遮られて見えなく、それは殘念であつたなどゝ大に笑つた、迚てもこれが半死の病人と思へようか、烈しく興味を感じては殆ど病を忘れて了ふのである、
如斯些細な事の内に、先生の大詩人たる性格が躍如として顯はれてゐる、われ自ら深く興に入つて製作之に從ふと云ふ順序になつてゐる、先生の文章歌俳が一見平凡なる如くであつて却て常に人を動すの力があると云ふも全く以上の樣な理由に基づくのであらう、事實の上に興味を感じた譯でなく、筆の先に文字の巧を弄だ處で、到底讀者の感興を促し得るものでない。
(495)正岡を宗とする人は、どうか其名を宗とせずに其實を宗として貰ひたいものだ、歌俳以外文章以外の事は、よしそれが文學と密接の關係ある事でも、大抵は冷淡に他人視してゐるものが多い、そいふ人は少し位歌が出來俳句が出來ても、それは決して正岡宗の人ではない、前にも云うた通りで正岡の繪畫に對する嗜好の強烈な事遂に自分で書く迄になつた一事でも知れる、正岡を宗とせる歌人俳人中にも、給畫に對し時間と餞とを惜まぬだけの嗜好を持つて居る人が幾人あらうか、先生の趣味嗜好が多くの歌人俳人と何程其厚薄を異にして居つたか、甚しひのは歌人俳句に冷淡に、俳人歌に冷淡な人さえあると聞くは情ないと云はねばならぬ。そんな人は斷じて正岡宗の人ではない。
人には誰にも數寄不數奇がある、正岡は一體畫が最もすきであつたのだ、正岡が好んだからとて人にも好めと強ゐるは無理だといふかも知れぬ、併し文學と美術との關係が少しでも解つてゐれば、歌や俳句は面白いが繪は余り面白くないなどいふ事のあるべき筈がない繪畫の嗜好を缺いてゐるとすれは、歌や俳句も未だ解つてゐないことを自白すると同じである。先生の詩人たる所以を知り先生の作物の價値を知らんとするならば、まづ先生の趣味嗜好を研究してみるが、最も根本的で、そして近道であらう。
明治37年5月『馬醉木』
署名 左千夫記
(496) 〔『竹の里人選歌』序〕
竹の里人選歌は吾が正岡先生が皇國特有の文學たる歌の、千年荒敗に歸し陳々相倚るの陋態にあるを歎くの餘り、折しも俳句革新の偉業漸く成功を告ぐるに際し、更に進で歌の革新復興を思ひ立ち、其猛烈なる精力を振り起して「日本」新聞上に種々なる手段を盡されたるの結果、遂に明治三十三年一月初刊の同紙上に短歌募集の事ありしに初り、回一回進歩を重ね、年一年變化を經て、同三十五年の夏、病篤くして自ら其選を爲す能はざるに至れる迄の選歌集なり。其歳月僅に二年有年に過ずして而かも長短歌實に三千を數ふるは又盛なりと云はざるを得ず、固より革新の業未だ創始の期に屬するもの、之を以て直に完璧のものと爲す能はざるは勿論なりと雖も、此三千の歌林正しく根岸派發祥の地にして、今日を爲せるの基礎又實に茲にあり、後進の土依て以て道を是に求めば聊か其向ふ所を知るに足るべし、且つ夫れ後世明治盛世の歌史を編するものあらば、當時の歌壇に大光明を放ちたる、所謂根岸派なるものが如何なる徑路によりて、發達成功したるかを知るを得む。
猶讀者に注意すべきの一事は、募集歌第二回は第一回と同じからず、第四回は又第三回と同じからず、明治三十四年は即三十三年と同じからず、三十五年は又三十四年と異る、先生の研究歩を進むるに從て、標準次第に高く、選拔益々嚴を加ふ、應募數の次を逐ふて減却するに至れるは全く是れが爲なりとす、短歌漸く減じて長歌相次で(497)加はり、零碎なる短歌全く跡を絶ちて、連作の短歌を新出せる等、明に進移變化の跡を示せるを注意せよ、「日本」週報選歌の頃なり 瀧の課題出るや予は長塚子と共に、瀧を見むために三日間日光に旅行せり、長塚子作歌百に近くして、選拔を得たるもの僅に二首、其後松なる題あるや予は其歌を作らんため、駿河の三保に遊び、二日問に得たる長短歌數首、悉く抹却されたることあり、選者の選如何に峻嚴にして、應募者又如何に奮勵したるかを知るべし、如斯してなれるもの即竹乃里人選歌是なり、読者願くは輕々讀過すること勿れ
明治三十七年四月二十六日
伊藤左千夫謹述
明治37年5月『竹の里人選歌』
(498) 〔『竹の里人選歌』凡例〕
一、竹乃里人選歌は、正岡先生が竹乃里人の名を以て、明治三十三年一月初刊の「日本」新聞より始めて本紙及週報募集若くは投書の歌に就き選拔掲載せる歌を集めたるものなり。
一、序するに年次を以てせるものは、進歩發達變化の跡を示さむが爲にして且つ詞書頗る長き歌等にありては目次を立つること甚だ困難なればなり。
一、課題と記せるは募集の歌にて特に記載なき分は隨時投書のものなり。
一、小鳥の雛の長歌一編(左千夫)は「日本」に掲載なき歌なれども、當應募の期に後れたる爲に掲載し得ざりしものにて、先生の取ると云はれしものなれば茲に出すことゝせるものなり。
一、詠接骨木(左千夫)四月の末には京に上らむと思ひ云々節の歌とは、先生の選を以て「日本」に掲げたるものにあらねど、當時先生より面白しとの稱ありたるものなれは同じく茲に出せり。
一、時日の順序整はぬ所あるは「日本」本紙と週報を各別に纏めたるが故なり。
一、祝賀の部及び雜の部等の記入は聊か見易からむが爲めのみ 課題以外の歌は時日の順序を變更したるもの二三あるべし。
朗治37年5月『竹の里人選歌』
署名 なし
(499) 通信
(前畧)偖歌に就ての御意見少し大げさに相成一寸の手紙にては盡せなく相成候 昨年末も御端書にての御意見等も有之候故馬醉木誌上に御拔きの歌を評する考の處種々誌上の材料集り來り未だに其運びに至らず候 其内に評論を試み可申候 貴君の如くこれ/\の歌は面白いと思ふがどうぢやと申されると批評者には好都合に候
詳細は後日申上るとして、一寸御注意申上度きは、明星派に面白い處ありと申さるゝも萬葉以外に馳驅したいと申さるゝ一應は御尤にて、其研究的御精神は誠に結構なる事に相違なく候へ共、其よしと云ひ惡しといふ判斷を疎にしては困り申候、新らしきにも、取るべきと取る可らざると有之、善きにも取るべきと取る可らざると有之候、萬葉調とて皆々面白いとは申されざる如く萬葉以外とて皆面白いとは申されず候、新らしいとか舊いとかいふ樣なことは作物の價値に關係無之候、小生の見る所では明星連及其他新派と稱する歌は、新らしいと云ふことを(其癖其新らしいと云ふは皮相に過ぎず詞のこねくりが多い)唯一の目的とせるものゝ如く、其歌の價値といふことの注意を欠いてゐる、云ひかふれば、變つてゐるから面白いと云ふに近い、變つてゐると云ふことは面白味を助くるには相違ないが、變つて居るといふだけで直に價値ある歌とは云へぬ、茲で申すは大變故説明は不致候へども貴君の面白いと申さるゝ歌小生の見る所では多くは不完全なものに候
〔問者の面白しとして擧げたる歌は=創を負ひて擔架の上に子は笑みね嗚呼わざはひや人を殺す道 鐵幹=太秦の(500)祭をかしき月の闇鬼の一人に袂ひかれし 鐵幹=萩の神の桔梗に嫁ぐ夏の野を載せて迭るか黄金日車 鐵幹=母牛のうま乳呑まんと噪く子を追ひはらひたる人の親の心 子規=八千卷の文讀みつきて蚊の如く痩す/\生ける君牛を喰へ 子規=紅の戸帳垂れたる窓の内に薔薇の香滿ちて獨りぬる乙女 子規=美人問えば鸚鵡答えず鸚鵡問えば美人答えず春の日くれぬ 子規=湯浴みして泉を出でしやは肌にふるゝはつらき人の世の衣 晶子=等なり〕
正岡先生の歌とて君の拔かれた歌は此度の竹の里歌にも省かれた歌である、先生がやり始めの作、つまり修業中の作で成功した作ではない、人が何と云ふても自分だけには面白いと申されゝばそれまでに候へども、速斷を止めて、形式内容等の上に解剖的御考究被下度候、貴君が先きに萬葉以外と云はれた鐵幹の歌は、吾々などの決して爲さゞる程露骨なる萬葉摸倣に候いし、正岡先生の歌の「痩す/\生ける君牛を喰へ」なども萬葉模倣にて露骨なるものに候、萬葉十六を御覽相成り候はゞ解り可申侯、〇〇〇が云々と申され候へども〇〇〇などに何が解り申す可き、貴君などは遠くに居る故誤解致す譯に候、正岡先生は〇〇〇など迚も駄目だと常に申され居りしことに候
日本人の感情を日本の詞にてつゞるのに西洋趣味など申すこと大間違に候、西洋趣味が自然に這入るは何の故障もなく候へども是を入れんと心掛ける、即人爲的に注入せんとするは大なる考違と存じ候 支那と日本とは千有年間の交通其文物支那より輸入せられたるに係らず、歌に支那趣味のものこれあり候や、露骨に支那趣味と認めうるもの多く有之候や、自国の文学と自國の言語とが如何なる關係あるかを御考候はゞ判り可申候、支那思想印度思想も日本的にこなされて自然的に這入り居るは勿論に候へども、歌詠なるものが人爲的に支那趣味印度趣味を加味して作れる歌と云ふものは無之候、支那の詞西洋の詞とて日本の詞に譯すれば最早七分通り本國の趣味は(501)消失致し侯、況んや日本人の感想を日本語で歌ふに西洋趣味の加味などそんな手品の樣なことが出來可申哉 今夜は手紙を四本書き候故頭の疲弊を覺え候、其内重ねて可申上候、自個の見地を立つるも勿論大事に候へども、頭の半分は空虚にして他の説を迎ふるの局量なくてはならずと存じ候、單に自個の判斷を固守して他説を顧みざるは研究躰度とは申されずと存じ候(以下畧)
二月拾九日夜拾一時半 左千夫
柳の戸君
明治37年6月『比牟呂』
(502) 竹乃里人 〔七〕
「病淋六尺」 六月二日
余は今迄禅宗の悟りといふ事を誤解して居た、悟りといふ事は如何なる場合にも平氣で死ぬる事かと思つて居たのは間違で、悟といふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
此文に就ては先生も稍得意であつたらしかつた、平生先生は自分に對し世間から稱譽的の批評などがあつても、遂ぞ悦ばれた樣なことはなかつた、只此文に就て當時眞宗派の雑誌、「精神界」といふのが大に先生の言に注意した賛同的の批評をされた時に、折柄訪問した予に其「精神界」の事を話され、半解の人間に盲目的の賛詞を云はるゝ位いやな事はないが、又「精神界」などの樣に充分にこちらの精神意義を解して居ての賛評は、知己を得た樣な心地で※[口+喜]しひ云々、
これを話頭として此日は、其悟りといふ事に就き頗る愉快な話をした、その時のこと今日充分には記憶して居ないが、大要かうであつた。
予はまづ、私は彼の先生の文に就て非常な興味を感じました、悟りといふことゝは少し見當が違ふかも知れませむが、自分にも多少の實驗がありますので一層愉快に拜見しました、私は彼の文を讀て先生は實に大剛の士であると思つたのです、大槻磐溪の近古史談といふのに、美濃の戰に敵大敗して、織田氏の士地田勝三郎、敵の一將(503)を追ふこと甚だ急なりしが竟に及ばずして還る、信長勝三にいふ、曰く、今の逃將は必ず神子田長門である、凡そ追兵の甚だ急なる時に方つては、怯懦の士必ず反撃して死す、死せずして遠く遁る、大剛者にあらざれは能はず、既にして果して神子田であつたと、あります、
平氣で生きて居ると平氣で逃るとは趣が相同しであつて、平氣で生きてゐる方が、余程難事であるやうに思はれます、敵に追はれたとて其敵が若し自分より弱い奴でもあれば、更に遁るゝことが出來る又充分に逃げおほせる見込があるとすれば、恐怖心に襲はれないで、平氣で逃げることも出來る譯であるが、死といふ奴に追つて來られた許りは、遁るゝ見込みが立たないから、どうしても恐れずに居られない譯である、其死といふ奴が一歩の背後に迄やつて來てゐる際にも、一向其死といふことを苦にせず、猶平氣で吾爲度い事をなして生くるまで生きてゐることは、単に勇氣許りでは出來ない、勇氣以上の悟りがなければ出來ないのであらう、單に悟つたといふ許りでもどうかしら、死といふことを一向苦にせない丈の覺悟と精神修養とがなければ出來ないことかと思ひます、して見ると神子田長門の剛勇は未だ悟りには遠い譯でありますが、信長も面白い觀察をやるじやありませんか 予も一笑したのであるが。
先生も頗る話興に入つて、そんなことがあつたか、そりや面白い話だ、信長もうまい事を云ふてゐるなア一寸悟つた處がある、さすがに英雄だ話せるなどいつて笑はれ、それから君の實驗談といふのはとあつた、
左樣私の實驗といふは、犬に對する悟りで、私は兒供の時分に、犬位恐しひものはなかつたです、はゝ先生もさうでありましたか、外村へ使などにゆく 犬の奴が意地惡く森の蔭などからいつでも出てくる もうそれが恐しくてたまらなかつた、十五六才の頃までも犬を恐れました、それでいつの間にか此犬に對する悟を開いたのです、(504)犬が吠る彼れ始めは熱心でなく吠てゐる、其機先を掣して、こちらから突然襲撃するのです、何空手でもかまはないです、彼の咽喉部に向つて突貫をやるです、此手斷をやればどんな犬でも驚鳴敗走再び近寄つては來ません、この手斷を覺てから犬に對する恐怖心全く無くなりました、さあこうなつてくると時に犬を撃打して興味を弄ぶ樣になりました、
犬が吠る見ぬふりをして居て、成丈け犬の己れに近づくを待つて突然反撃、杖で撃つか下駄で蹴るのです、從令殺さぬ迄でも吠られた腹ゐせがすぐ出來て頗る愉快なものであります、それが今一歩進できては、犬の吠えるなどを氣にすることが馬鹿らしくなつてきたのです、犬が何程吠ても人に噛みつくものでない、よし噛みついた處で何でもないといふことになつて、其後はいくら犬が吠えてきても平氣で跡も見ないで歩くようになりました、犬が飛びつくかと思ふ樣に跡から吠えてきても、一向平気でそれを苦にもせずに歩き得る人は一寸少くないでせう 私はこれも一つの悟りかと思ひます、先生が死に追はれて平氣で生きてゐるのと、私が犬に吠えられながら平氣で歩いてるのと、聊か不倫な比較でありますが、趣きが一寸似てゐるじやありますまいか、
予の言の終るを待つて先生は、
ナボレオンの兵法は、敵國が未だ兵力を集中せない即戰闘準備の整ない虚に乗じて、急馳電撃之を潰亂せしめるのである、ネルソンの兵法はさうでない、敵を成丈け手近に引寄せて置て掩撃殺闘敵を粉韲するにあるのだ、君の犬に對する手段は、始めはナボレオンの兵法で後にネルソソの兵法に進んだのだ、どちらかと云へば、ナボレオンは未だ敵を恐れてゐるが、ネルソソは丸で敵を呑んでゐる、君の犬に對する悟非常に面白い、孫氏の兵法は戰はずして敵を屈するを最上の策としてある、君の悟りは大勢を觀取して敵を相手にせぬ所まで進んだのだ面白(505)い、ナボレオンネルソン以上だアハヽヽヽヽヽ戰爭は智の至らざる結果である、藤原の保昌が袴垂に追はれて笛を吹いてゐたのも、君が犬に吠られて平氣で歩いてゐたのも全く同意義である、禅宗の悟りといふのは少しそれとは違ふのであらう、神子田や保昌などの行爲は共に智勇の範圍を脱しないのだ 眞の悟りといふは智勇以上でなければならぬ、事の大小は兎に角、何事も悟る所があつて爲す事は興味があつて面白い 先から先と話のつくる期を知らずといふ有樣で實に愉快であつた。
明治37年7月『馬醉木』
署名 左千夫記
(506) 「歌の季に就て」に就て
俳壇の老將内藤鳴雪氏高濱虚子氏等が、ホトヽギス七卷四五六の誌上に、俳句の季又は歌の季に關して述べられた説話に就き、予は一章を草するの考を持つてゐたのであるが、節氏からまづ前稿を寄せてきたので先に之を掲げた次第であれど、予は節氏の説悉を賛する譯にはゆかぬ、今更萬葉集の歌に季の有無を詮索するなどは馬鹿氣た業であらう、固より季などに一向頓着なしで作つたものであるのだから、季のない歌の多いは當前のことである、さらばと云つて虚子氏の説の如く、歌人は季を入るゝの必要を知らなかつたかと云ふに、さうも云へまい、なぜなれは季がなくとも佳作良什が山をなしてゐるからである、予をして云はしむれば、季の必要な所には季を入れて必要でない所には季を入れないのである、趣味の主限とする所が、季に關係があれは勿論季の詞を入れてある、古今集以下の歌人ならば知らぬこと萬葉歌人の有數な人々にあつては、季の詞と趣味との關係位が解らなかつたとは思はれない、只俳句などの如くに人爲的に規則的になつて居らぬからとて、俳句に比して歌が此點に一歩後れて居ると思ふは間違つて居る、俳句に季を必要とするの精神は、歌に於ても極めて必要である、萬葉の歌が多くは戀想を含んで居て、其戀想のあるために、一層面白味を強めて居る所が、丁度俳句に季があるのと同じ趣きがあると、予が屡々同人間に話説したことは、四五年以前のことであつて、歌と季との關係に就ての議論などは予に於ては少しも珍しい事ではない、俳句の季を必要とするの精神が歌に於ても必要なるは云ふまでもな(507)いことであるが、歌と俳句とは其形式の上に根本的の相違がある、云ひ換へてみれは形式の性質上に相違があるのである、從て趣味の顯はれ方が非常に相違して居る、例せば同じ事實を俳句にすれは面白くて歌にして面白くないことが多い、それと反對に歌で面白い事を俳句にして大抵は面白くない、是はとりもなほさず形式の相違からくるのである、形式の相違といふことを物に譬へて云へば、盆栽と插花との相違である、盆栽にして面白いものを切つて插花にしたとて、決して盆栽の面白味を移せるものでない、插花に面白くなつたからとて、其木が決して盆栽になるものでないようなものである、俳句と歌との相違は大小長短の相違ではない 性質上の相違である、以上の如き問題は正岡先生の生前に於て、屡々話し合つた事で吾々に於ては已に研究濟のものである、俳壇の老將とも云はるゝ鳴雪氏等が、今時分に歌と俳句との相違を文字上の差點に云々して僅に十四字の相違に過ぎずなどゝ説くが如き、論旨の浅薄と用意の疎漏とを予は深く同氏のために惜むのである。
歌には季がなくとも良歌があるから、俳句にも無季の良俳句が出來ぬことはないと云ひ、俳句に季の必要ある如く、歌にも季の必要があらうと云ふ、共に歌俳形式の相違を研究せなかつた過ちから起つた謬論であるまいか。歌の方でも或場合に季の詞を必要とするは勿論、朝とか夕とか或は晴とか曇とかいふことも成るべく顯したいと思ふ樣なことが屡あるのである、叙景歌計りでない、叙情歌でも、季のはいつた方が、景情相待つて甚だ面白いことが少くない、であるから歌の上で季を必要とする場合は必ずしも叙情とか叙景とか限つていふことはできない、極めて自然的で極めて精神的で俳句などの樣に人爲的規則的で払いと云ふだけである、それで予は寧ろ俳句に對しては、季の詞も成丈自然的にありたいと思ふのである、規定時の季の詞の中にも、俳人中でこそ通用すれ、一般の感じから見ては頗る無理ぢやないかと思ふものもある、併し顧みて吾歌界の多くの人々が、俳句に季を必(508)要とする精神が歌の上にも必要であることに一向氣がつかぬは嘆ずべき次第である。
つまる所俳句が絶對的に季を必要とするは、理窟ではなくて事實である、鳴雪氏等の季がなくとも俳句ができぬことはないといふ説が、縱令議論としては價値がありとするも、實際の上に無季の良俳句が出來ないとすれば、價値なき空論と等しき結果に陷る譯である、若し鳴雪氏が猶も自説を主張しようとならば、先づ自ら無季の良俳句を作つて實證を擧ぐるが一番早手廻しであるまいか、歌の方でも、精神的には必要があつても事實の上では、無季の佳作がどし/\出來る以上は、何も今更俳句的に季を云々する必要はないのである、却て或點から見ると、季がなくともどし/\作ることの出來る形式を持つて居る歌は、俳句では入ることの出來ない所や、俳句の手のとゞかぬ所に於て、大に働くことが出來るといふ一つの長所と云ひ得るのである、一歩を進めて云ふてみると、叙情の事は暫く置く、叙景叙事の趣味でも季に關係ないものがいくらもある、建築衣服器物など單獨に見れば皆季に關係がない、單獨に見て季に關係がなくとも是等の物に詩趣がないとは云へまい、其叙景の上にも季の感じの甚だ不慥な場合が多いのは事實である、縱令へば富士山の頂上に宿つたとしても、眞夏に雪のあるような所で何の季に屬すべきか、單に富士詣りと云ふ人爲的の季にすがるより外あるまい、茲には季の感じがないから詩的美がないとは云へまい、又今日の事にしても軍艦に便乘して黄海に航行した場合に季といふものゝ感じが如何であらうか、海には、風と波と吾乘る艦と人許りで空には日月星雲など許りで、何に依て季を感ずることが出來よう只夏衣とか熱いと云ふ位に過ぐまい、以上のような場合であつたらば、俳句の上に神才のある人でも、恐くは手の出し樣があるまい、歌はそんな時にも少しも不自由なく長技を振ふことが出來る、これは鳴雪氏に對していふのではない、虚子氏の、「從來無季の歌のあつた(509)のは俳句に比し未だ至らざる一歩であつたのではあるまいか」といへるに對してゞある、予を以て見れば無季の叙景は俳句で不可能的のものならは慥に是れだけは俳句の短所ぢやあるまいか、
さらは歌の形式は俳句の形式に勝つて居るかといふに決してさうではない、予は數年前から俳句の形式は最も進歩せる詩形であつて遙に歌の上にあることを信じてゐるものである、予は歌の形式及俳句の形式に就て其性質を根本的に論究して見たいと思ふのであれど、本誌に餘白がないので別に稿を起すことゝした。
明治37年7月『馬醉木』
署名 左千夫
(510) 〔『馬醉木』第十二號選歌評〕
注意 徒に多作を貪るは誠に益なき業なり 願くは當選歌と落選歌とに就て、比較考究其如何なる點がよくて如何なる點が悪かりしかを思索せられよ 着想は如何趣向は如何聲調は如何、竹の里人選歌などに比較し萬葉集に比較し以て自作の欠點を覺られよ、必ず得る所あるべし、漫然濫作して研究の念乏しければ何程作るも進歩せざらん 敢て紅東君一人に對して云ふにあらず 總ての投稿諸君に聊か注意を促す(左千夫)
明治37年7月『馬醉木』
(511) 〔『馬醉木』第十二號消息〕
六月中小生少病のため、馬醉木又々大遲刊に陷り申譯なく候、只後來の精勵を誓つて謝辞とするの外なく候。原稿意外に多く誌面規定の如く狹く、止むを得ず次號へ廻し候、從而課題答案皆同運命に歸し申候 併し投稿諸君は益々投稿せられんことを祈り候、別項の如く平子鐸嶺君は、少喀血の爲め駿河臺東洋内科病院へ入院せられ候ひしが先月二十九日退院目下鎌倉光明寺中千手院に靜養中に候、結城素明君は竹橋内近衛二聯隊の營中にありて猶畫筆を弄せられ居候由其他同人健康、岡麓君は愈根城を左記の處へ定め申候
神田今川小路二丁目九番地 岡 三郎
明治37年7月『馬醉木』
. 署名 なし
(512) 〔「歌くづ八つ ほつま」歌評〕
歌くづ八つ ほつま
梅雨の頃雨なくて、盆栽の草木の枯れもやすらむとおもほゆるが中に、砂鉢に入れ置きたる面白き岩に去年植ゑける草弟切草の、今年は岩の面一面に丈二三寸ばかりに生へたるが、今や水氣なき爲、秋ならぬに根の方より一葉二葉ともみぢて、半は紅になりたるが、青き枝に苔生へ交りて、美しさいはむ方なし。乃ち盆栽棚より下して、隣の主人の贈られければ、日毎めでつゝよめる歌八首
砂鉢の苔むす岩に生へ揃ふおときりさうの夏もみぢかも
樂尊曰く前書の文で已に云へる事柄を再び歌に繰返すのも詮なき樣である
※[木+妥]芽曰く秋ならぬにと有るから秋紅葉するもので有るのか、さらば夏の紅葉と殊更に云ふのは少し落ちつかない云々
朝露の滑ゆる日むきのいなたきに黄金少さきおときりさうの花
樂曰く何の頂きか判らずくかね小さきも無理ではないか且つ全体に鉢植の感じがない假令詞書に鉢植と斷つて有つても一首の歌の感じの上には顯はれてゐなくてはならぬ
※[木+妥]曰くこの一首は僕の失敗の作(馬醉木十二號雜詠十六首)と更に撰ぶ所のないものだ 句法も僕のとソツクリと(513)云ひたい
枝苔と小連翹としみ生ふる瑞岩根ろのさゝれしらたま
樂曰く初二三四句皆五の句の説明詞になつてゐて五句のさゝれ白玉を殊に愛づるかの樣に聞える 併し作者の意は兩物相待ちて面白しと云ふ意で有らうが如斯句法では如何であらうかと思ふ
※[木+妥]曰く瑞岩といふことが面白くない 何も其の詞がどうかうと云ふのではないが瑞々とあんまり左千夫君や蕨君が用ゐすぎて鼻についてるのだ 但しこれは僕の感じだけと思ふ、この一首句法も何も取る所がない
眞清水をさゝとそゝげばしみさぶる瑞岩が根は島とうきいづも
樂曰く「さゝと泣く」の句と「島とうき出づも」の句と趣味が統一せぬ樣で有る 初句の眞清水もこゝでは殊更に聞える
※[木+妥]曰く三句迄は難がない面白い四の句は厭だ 五句も大袈裟に思ふ小さな草花へしかも水を注いだ風姿を表はすのには自らその鹽梅が讀者に見えなければだめだ 僕はあつさりしたものはあつさり作りたい意見だ云々
水盤の繪島の海の底てりにしつく白玉すゝしげに見ゆ
樂曰く五の句餘りに平凡ではないか且つ初句水盤の一句を以て盆栽と感ぜしめることは無理で有らう
※[木+妥]曰く前の歌と同じく弟切草には縁がない 弟切草の生へてゐる鉢として見たら幾分の感じを助けるかも知らないがこれだけでは平凡なつまらないものではないか
雨すぎし錦の島根見つゝをればとこよの小島おもほゆるかも
樂曰く盆栽の感じが充分でない樣だ
(514)※[木+妥]曰く常世の小島などゝ云ふ事はどこへでも持つて行かれる想像なので至極便利であれど陳腐極まつたものだ 作者は決して或る熱情の迸つて思はず常世の小島と絶叫したわけではなくて前に同人のいくらもいふたのをまねたにすぎまいと思ふ
松虫の鈴吹く風のふきおちておときりさうの花ゆうべもよ
樂曰く吹き落ちては餘りに巧に過ぎていや味である且つ四句のおときりさう動きはせないか
※[木+妥]曰くこの歌は趣がある 別に細工がないからである 二三の句では鈴を風が吹いて吹いてから後更に弟切草に吹き落ちるといふやうにも聞える 二三の句は「小鈴もゆらに吹く風」といふ樣にしたらだうだらう
なく蝉のしぐるゝ庵に晝寐してねざめ乏しき水鉢を見る
樂曰く一二三句迄に晝寢の事を叙し四五の兩句にて水鉢を見る感じを叙せんとするのは無理な叙法である故に無味の説明に陷つてゐると思ふ
※[木+妥]曰く四の句まで無難だがあんまり感服もしない 五の句只水鉢を見るでは餘り力がなさ過ぎる
總評
樂尊曰く要するに詞書で既に云ひつくしてある爲下の八首を讀み去りても詞書以上の趣味を感じない 思ふに如斯趣味を歌に顯はさんとしたのが始めから無理で有つたのであらう これは歌の領地以外で即ち繪の領地か文章の領地に屬するもので有らうか。客観を叙することはよいが然し必ず歌に適する客觀でなくてはなるまい さもないと劔を以て印でも刻む樣な迂に陷りはせまいか 妄評多罪々々
※[木+妥]芽曰く弟切草その物は面白いか知らんが鉢植といふのが既に變化のないものだ變化のないものを題にしたの(515)は思慮が足らんので有らう。であるから一首々々皆力が這入らず取立てゝ見るべきものがない云々 詞書には美しさいはん方なしと有るけれど歌では少しも表はしてゐない樣だ云云
又曰く梅とか桃とかいふものは知れ渡つたものだから名を聞いたゞけでその物の美しさを直ちに印象するが、さうでない物はその物の大畧を知らしむるだけの手數がいる、弟切草もそれだ 僕は知らないのだから先づ感じが薄い。詞書と歌と比べて詞書だけで澤山なやうに思ふ 詞書は實際の説明だからかう云ふものかと思ふが歌にはちつとも弟切草の特色と見るべき點が現はれて居ない、一言にしていへば失敗だ 全体の作が粗笨の二字で盡してゐるのは遺憾だ 妄言多罪
明治37年8月22日『日本』
署名 なし
(516) 竹の里人 〔八〕
竹の里人選歌に對して、「ほとゝぎす」や「帝國文學」の批評中に、子規子の標準も年と共に進歩したのであらうに前年の選歌を其まゝ輯て本にされては、却て子規子も迷惑ぢやあるまいか、とか、そんなことをしては子規子に叱かられはせまいか、などゝ云ふ樣な詞が見えるが、予が生前に子規子から聞いた話などに比べて考へて見ると、そんなことを云ふは、余り穿ち過ぎた考へ過しで云はゞ余計な心配と云ふものぢやあるまいかと思ふ、全體竹の里人選歌といふは、題詞にも斷つてある通り、歌壇に於ての子規子の事業の半面を世に傳ふるが同書發刊の目的である、さうでない、新聞に依つて傳つてはゐるけれど、新聞では散逸するから版本にして後に遺さうといふのが目的である、
成程半以上の邊には隨分拙ない作品も雜つてゐる、乍併佳作も又決して少くはない、世の中に如何なる事業でも、第一期の成績を二期若くは三期の程度から顧みて見れば、意に充たない所の出てくるは、普通の事で當前の理窟である、どんな偉人の事業でも決して免るゝことの出來ないものであらう、獨り子規子の事業に、それが在ることを怪むに及ばぬことぢやないか、世間普通の事を有のまゝに後世に傳へたとて何にも子規子が迷惑に思ふ譯はない、吾々の考ではなまじ手をつけて余計なことをするよりは、有のまゝを傳て世人の判斷を自由にするが却て子規子に忠なる所以文壇に忠なる所以であると信ずるのである。(517)況や、第三回の募集の時にすら先生は既に左の如くに云ふてゐるのである、
前畧、古來小區域に跼蹐して陳套を脱する能はざりし櫻花が如何に新鮮の空氣に觸れて絢爛の美を現したるかは連日掲載の短歌を見し人の熟知する所なるべし。且其語法句法の工夫は一段の巧を加へ文字の斡旋は能く云ひ難き新意匠を最も容易に言ひ得るに至れり。特に其中の傑作と稱すべきもの幾首は優に古人を凌ぎて不朽に垂るゝに足る。以下畧
帝国文學の記者は暫く置く、吾虚子君は猶是等の文章をも子規子のために抹却するをよしと思はるゝであらうか、「優に古人を凌ぎて不朽に垂るゝに足る」と子規子が云ふても新聞の散逸に任して置いたならば、どうして不朽に垂るゝ事が出來ようか、虚子君が子規子の精神を推測する資格がありとすれば、予と雖も幾分其資格がある筈だ、予は一夜夢に先生に見えて此事を問ふた、先生は云ふ、虚子が何を云ふ、余計な手入などせぬが却て※[口+喜]しいのだ。
予は自ら慰めてこんなことを云ふものゝ、子規子没後は虚子碧梧桐と歌はれてゐる其虚子君の口から、子規子が迷惑なるべくやに思はると云はるゝことを予は甚だ口惜しく思ふのである、親友に敬意を缺くの恐れがあるから余り理窟は云ふまい、只生前先生から聞いた二三の話を紹介して、世人の判斷に任せて置く。或日話のついでに、
先生私は二三年前に作つた歌は皆反古にしてしまはうかと思ひます、實に自分ながらいやになつて遺して置くのが氣になりますからと云ふと、
いやさうでない矢張り遺して置く方がよい、僕などは悉く記して取つてある、どんな人でも始めから上手といふ(518)ことはない、段々と進歩してくるのが當前だ、古いのを出して見ると自分にも非常に變つてきたことが判つて面白い、又人に見せる樣なことがあつても決して之れが耻になるものでない、初期のものであるもの拙なを怪しむことはない、それは又自選などして公にする場合は勿論別であるけれど、自然に自分の初期の作物が後世に傳つたとて少しも苦にすることはない、芭蕉の句などには見れば駄句が多い、佳句と云つたら二百句はあるまい、併し芭蕉の重みが其駄句のために滅ずる譯でない、却て多方面に大きい所が見える、金槐集などでもさうである、佳作と云つたらば二十首か三十首恐くは三十首を越えまい、それでも右大臣は勝れた歌人といふに妨げないのだ、初めの内の作物が後に傳はるを耻辱を遺すように思ふは狹い考である、
それから又別の時であるがこんな話も聞いた。
杜子美と云へば云ふまでもなく、盛唐一二の大詩人であるから、其詩集は金玉の佳什で埋つてゐるかのやうに思ふ人もあらうが、其實駄作も隨分あると云ふは苦勞人間の定説であるとの話だ、それで杜子美ともあるものが、どうしてそんな駄作を書いて置いたかとの疑ひもあるけれど、杜子美先生一向平氣で出來たまゝ書いて置たのが、傳つた譯で、一方より見るとそれが却て杜子実の大きい所であるとのことだ、駄作の混じてゐるために、杜子美の詩集の價値が少しも減じないのみか、却てそれがために杜子実の杜子美たる所以が顯はれて居と云ふは妙でないか、宋詩人(【名を忘れた】)に非常な杜子美崇拜家があつて、杜子実の長所を極力学んだ、其詩集を見ると殆ど杜子美に迫つてゐる、それで子美の好い所許を學んだのであるから、却て杜子美集の如き駄作が一首もない、さあそんなら此人の詩集は子美詩集に勝つてゐるかと云ふに、迚てもそんな譯にはゆかぬ、よい所許りを學だのだから、疵もないかはりに極めて狹い、子美集の如く變化がなく、多方面でなく奥がなく從て重みがないといふ話だ、それ(519)であるから歌の選などをするには成るたけは趣味多方面に渡らねばならぬ。
是等の談話を一々至言と感じた予は四五年を經過した今日になつても猶明に記臆してゐるのである、竹の里人選歌なども、先生存生中に自ら選び直さるゝならば兎に角、先生歿後に於て吾々が漫に取捨を爲す如きは以ての外であると信じ又これが萬々先生に背くのでないと固く信じてゐるのである。
もう一つ言ひ添て置きたいのは、當時の先生の病體に就てゞある、明治三十三年の夏から歌の會俳句の會も出來なくなつた、三十四年の春になつては寢返りも出來なく顔を自分で拭くことも出來なかつた、躰を少しでも動す度にウンイ々々と呻めきの聲を漏らされた、此時分にどんな風にして歌を選ばれたか、先生は頭を枕にひつたりと就けて横になつてゐられる、母堂や令妹が枕許に坐してゐて、投稿の紙を一枚々々先生の顧の前へ出す、先生はねながら見て居つて筆を右の手に持ち拔きの歌に點をつけるのである勿論拔いた歌は令妹が寫すのだ、一枚見ては呻き二枚見ては呻き、筆を措て中途に止めてしまう事も幾度あるか知れぬ、讀者諸君竹の里人選歌の三分の一と云ふものは以上の如き状況に依て選ばれたものである、先生猶長らへておられたらば、言ふまでもなく標準は進歩したであらう、乍併彼選歌は先生の手の動くまでやつた事業であるから致方がないのである。
明治37年8月『馬醉木』
署名 左千夫記
(520) 書齋裝飾の仕方
受持の平子鐸嶺君が暫く顔出しをせぬので、これも又老人が片づけをやらねばならぬことになつた、客間應接の間居間やれ書院だ書齋だなどゝ各室を別つて住む樣な贅澤の出來る樂叟でない、奥の八疊一間が書齋兼茶室兼客間兼何々といふ始末で、書齋裝飾の仕方はなどと云ふて見ても、甚だ如何がはしひ譯である余所の書齋といふものも實は見た事がない、併し書齋は讀で字の如く書齋であつて樂叟なども財さにあれば明日にも造り度は山々である。
普通書齋といふに二通りあると思ふ、一は日夕書物に立ちさはつてゐるを職とせる方、一は閑あれば書見でもするといふ方とである、前者の書齋は寧事務室であつて、趣味を主とせないで便利を重ずる傾きがあるであらう、勿論職務の室とは云ふものゝ、さすがは書齋であるから、商人の帳場や職人の工場と同視されるものでない、わざとならぬ所に趣味の掬すべきものあるに相違ない、さりとて始めから趣味を主と造つたものと比較することも出來ぬ、本箱などゝ云ふものが或る場合に頗る俗なものであるから、書見に便利と云ふことを旨とした書齋であつたら、一も二もなく面白いとは云へまい、そこで樂叟などに財があつて書齋を造るならば無論後者の趣味を主とせる書齋を造る。
人の財を數へる樣なものであるが一つ老人の希望を云つて見樣、オーそんならおれが金をくれるに老人早速作ら(521)つされと云ふ人が出るかも知れぬ呵々。
老人の書齋は三疊で澤山だ、南へ正面に向いて間口九尺奥行六尺、南表に高さ二尺五寸幅四尺の手摺窓がつく、間口九尺の中央である 夏は風すぎよく冬は光線室内に入る、東側に三尺の床がつく床は下に一尺五寸許の地袋棚がつく、袋棚には食器などが這入り、棚の上には机を片づけて載せることも出來る 文庫などは置くこともある 茶器なども、床の脇三尺の所には本箱でない書棚がほしひ、蒔繪などの立派なものでなく桑の棚位がほしひ、此棚には萬葉集陶器の書籍茶書畫帖等が這入る、棚の上には花瓶が載る或は佛像或は茶器等が載る、西側六尺は戸棚である 悉く書籍をつめる樣に出來る、硝子張の戸は面白くない、鳥の子の白帳で蝋色の塗ぶちなどの襖をたてる、北側の東手六尺の戸棚西側の通り、二個の戸棚に少くも千卷の書を收める樣にする、北側西手に三尺の出入口が出來る、此の出口を出れば廊下があるそれを左へ曲れば直ぐ一坪許の燒物製作場がある 其先が便所である、便所は余り遠くてはいけぬ、さりとて掃除の時臭氣が書齋へ來てはならぬ、臺所へは少くも座敷二間以上を隔つ、窓の前には四時の草花を植る、北側のなげしの上に油繪の竹の里人先生の肖像額がかゝる、床の掛物は常に精神的の書畫をかく、老人は午前中は大抵書齋で午後は多く陶器製作場に居る、此書齋の特色は、いやに書籍を飾つて置かぬ所にある、天井は兼好法師の向うを張つて少し高めに桝形に造りたい。
明治37年8月『馬醉木』
署名 樂叟
(522) 〔『馬醉木』第十三號選歌評〕
耕餘漫吟 古泉沽哉
わかぐさのツマグロヨコバイいざなふと山田の神は燈火てらす
短冊《たにざく》の苗代小田に網もちて立てる少女は虫捕るらしも
山畑に藍うゑ居れはいなさ吹き雨雲いでぬふりいでんとや
郭公いやしきなけど山里はきく人もなみ聲くさるらし
梅雨晴の若葉の森の片明り月の上りを啼く郭公
朝あけを目さめて居れは谷川の水音さやかになくほとゝぎす
早少女は今日植ゑそめと足引の山田の神にみき奉る
七まがる出湯の山みち彼方此方に百合の花さくでゆの山道
蓮の花ひらく音すも宿りけむ天つ少女や朝たゝすらし
石楠花の花さくま谷瀧津瀬のしぶきにぬれて岩つばめ飛ぶ
大瀧の上に我居てうそふけば七山かけて虹たちわたる
風吹けば藤の花房ゆら/\にゆらぐ心を吾持たなくに
(523)以上二十首中十二首を録す、古泉君の作を吾馬醉木に見るは始めてなりと思ふ、一見平淡少しも巧を求めず而して精神自から新らたしき所あり、根本に何等の趣向なく徒らに文字上に技巧を弄して得たりとなせるも多き間にありて古泉君の作意頗る予が注意をひけり。
芳井河の海に入る三里の上流に一勝地あり、鴨越と云ふ、後に斷屏を負ひ前は江流を隔てゝ翠巒に對す、北は徃昔備後三郎の據りしと傳ふる熊山を見て、南閑雲重疊たる兒島を望に收む、河勢の逼る處疊石一文字に走りて水堰を作し郷村灌漑の便に頼る、其水溢奔して飛湍を現するの状頗る壯觀なり、此江畔四圍の風物を擅にする好地位に一水閣を設く、嶽色江聲樓と云ふ、我妻の生家山名氏の有なり、甲辰之歳盛夏の一日吾此棲に遊び、興趣盡くる所を知らず、郎愛妻の繊手を把りて詠る歌二十首 兒山鳳嶺
若鮎つる吉井の河の夕風の浴みの面に吹くかよろしも
下つ瀬に漁る男の子腰籠の重みに見ゆる幸澤ならじ
水の聲吉井の河の向つ邊に青垣結べり八重瑞の山
茜さす入日に榮ゆる夕雲の向伏す山ぞわぎへ兒島は
上寺の青垣山の木の間より佛の臺はつ/\に見ゆ
夕つく日片帆にまけて河の隈現はれ出る棚なし小舟
漲りて落る瀬の普は山風の谷の諸木を吹きしくがごと
千尋谷嘯くなべに風起り虎かもほゆる水の音かしこし
月景色よけくあらんと吾待つに桂男の早も出ぬかも
(524) 邑久の山青垣結へる片かげに月讀出なばさやけかるべし
山河のながめよろしき鴨の越し愛ぐし吾妹が生ひ立ちところ
山により水に臨める浮殿を常宮とせる人しともしも
風清き夏の夕を水閣《ミツトノ》に昧と語らふ吾は幸あり
おはしまに倚りて語らふ妹と脊が四つの袂を風吹きかへす
美久邇兒はすがたよろしも名に負へる鴨越しの瀬の水にたぐひて
眞白玉のべし吾妹はうべな/\此河水に化粧せりけむ
行く水の盡くる日知らに瀬の音の紹ゆることなく吾は來て見む (録十七首)
兒山君と別れて殆ど二年、其間かつて歌を詠めるを聞かず、今卒然吾を驚すに此什を以てす、音響悉く自然にして而かも新意を見る、碧水風に動き青巒雲を吐くの赴きあり、日夕筆硯に耽けるの俗歌人をして顔色なからしむ、吾輩又顧みて赧然たるもの之を久ふす。(左千夫)
明治37年8月『馬醉木』
(525) 〔『馬醉木』第十三號選歌附記〕
別項告白の如く本誌掲載の歌は予は予の自作のもの及び予の選べる歌に就てのみ其責任を負ふ事に致したれば諸君は他作者の歌を以予を責むるなからんことを望む
明治37年8月『馬醉木』
署名 左千夫選
(526) 〔『馬醉木』第十三號稟告〕
◎本誌は十六號に滿つるをまちて第二卷に入る 爾後毎十六號を以て一卷となす、十六の數は最も目出度最も美しき數なればなり
◎本誌は從來編輯者に於て記事全體に責任を負ふの覚悟なりしが、そは編輯者に於て苦痛を感ずる場合甚だ多く自ら任に堪へざるの思ひあるを以て、以後署名者各自其責に任ずる事に爲したれば讀者諸君願くは其意を了せられよ。
◎八月短歌會は休會す
◎本誌規定の紙數限ありて、新古今集愚考及び新派の歌に對する批評等掲載するに道なく脱稿徒に消散せんとす、止むなく爾後は「鵜川」の余白を借りる事になしたれば諸君又御承知ありたし
◎文章課題諮問課題等の應募文は指定の號に掲げざること有りと雖も、合格せるものは必ず次號又は次々號にも掲ぐべければ應募諸君益勉められむことを望む
明治37年8月『馬醉木』
署名 なし
(527) つばな會第九回の柿村舍歌評に就き
人各見る處がある、從て考も一致せぬことの多いのは何の上にも免れないが普通である、殊に理屈以外にある歌などには猶更さうであらう、つばな會の柿村舍歌評に就ても、單に考が相違してゐるのみであれば、予は敢て云々して見る必要もないのであるが、此つばな會第九回に出てゐる、竹舟の歌二首は予が先に聊か改刪を加へて「馬醉木」に出した歌であるので、予は選者としての責任上、一言せねばならぬのである、
堯の雨舜の風吹きし八束穗の小田も苅られて冬さびにけり、 竹舟
雉夫唖水とる、五句は蛇足なり、(柿村評)
何故に五句を蛇足といふのであらうか、此歌に對して「冬さびにけり」の一句を蛇足と見たでは、滅茶苦茶となつて了ふ、何ぜなれば此五の句の一句が此歌の主眼である、作者が現在に見た景は即冬さびた田であるのである、故に此一句なけれは此歌はないのである、上四句は冬さびた反對で、一歳變化の状を詠じたものである、あれほど夏から秋にかけ豐かに實つて見るさへ心地よかつた田も今は冬さびて寂しくなつたと云ふのである、人事にしてもこれ/\と家も立込で榮えた町も今は荒れて麥畑になつてゐるなどゝ、觀ずるのも同趣味であらう、
越王勾踐破呉歸、義士還家盡錦衣、宮女如花滿春殿、只今惟有鷓鴣飛、
只今たゞ鷓鴣の飛ぶあり、は即冬さびにけりと同筆法である、詩は一句一句に切れることが出來る、歌は棹の如(528)く紐の如く切れることの出來ぬものであるから、一見無理の樣に感ずるが、それは散文的に見るからであらう、韻文として見れば此歌の如き句法で決して解らぬことはない、堯の雨舜の風は所謂五風十雨の豐かな作物によろしき雨風といふ、漢語から來つた形容であつて寧ろ面白い、柿村舍の心得がたしとは何の意か却て判らぬ、『吹きし』を咎むるは柿村舍にも似はぬ、これは堯の雨降り『舜の風吹きし』であつて降りが省かれてあるのだ、月やあらぬ春や昔の云々と同句法である、只一二の句より三句へ接續する所に多少無理があるけれど、それは韻文であるから是位は仕方がない、つまり五風十雨と期侯よろしきにかなひ八束穗と豐饒に實つた田地も今は悉く苅りとられて景色は全く冬になつた、併し其豐饒なりし八束穗の光景が作者の胸中に殘つて居る、前に八束穗の豐であつた丈ケに今冬さびた光景が一層強く作者に感じたのであらう、予は寧ろ一種變つた詠み方が面白いと思ふのである、
日の本の國つ寶と諏訪人は冬田圍ひて寒天晒す、
一二句詩美に重きを成さず、米でも材木でも國つ寶なり、(柿村評)
然り米でも材木でも生糸でも茶でも皆國つ寶である それらの物の國つ寶の如く寒天も國つ寶である、寒天を國つ寶と感じたのに少しも無理はない、國つ寶と感じた故に趣味があるのである、露骨に人民が米代を得んために寒天晒すと感じたのでは、それこそ詩美を成さぬ、又米や生糸を國つ寶と詠んだ所でそれでは陳腐で仕方があるまい、それほどによい歌とも云へないが、寒天晒すのも國つ寶と感じた、其質朴な作者の思想は慥に尊ひ價がある、兎角人は理窟の上に尤もとうなづかれることを悦ぶ樣なれども、それは考へものである、一首の上より云へば上二句は下三句の序の如きもので主眼たる『冬田圍ひて寒天晒す』に對しそれほど適切とも思はれないが、又(529)決して其詩味を害するといふ如き向ではない、無頓着に云ひ下した所却て取るべきであらう。
うつし世の炭燒く人かやく烟裾野なびかひ冬田這ひゆく、
此歌は予に責任のない歌であるが、柿村舍の難は少し酷で、うつし世は人にかゝる枕詞として、空蝉と同意に見て差支あるまい、勿論よい歌ではない、炭燒人と作者自身との關係が少しも判らぬ所、此歌の大欠点である。
明治37年9月『比牟呂』
署名 伊藤左千夫
〔2021年7月7日(水)午前9時8分、入力終了〕