左千夫全集第六卷 歌論 隨想二 1977.5.10
 
歌話漫草……………………………………3
正岡先生三年忌歌會………………………11
『甲矢』消息………………………………17
竹乃里人選歌に就き………………………18
諮問答案……………………………………24
雜言録一……………………………………32
『馬醉木』第十四號選歌評………………34
『馬醉木』第十四號消息…………………36
上田秋成の歌 上…………………………38
新佛教有て以來の文章……………………46
家庭小言……………………………………48
『馬醉木』第十五號歌會記事……………63
萬葉集短歌私考六―八……………………67
雜言録二……………………………………83
葯房主人「正述心緒歌五十一首」前文…86
『馬醉木』第十五號消息…………………87
『甲矢』選歌附言…………………………89
詩と運命觀…………………………………91
竹の里人九…………………………………95
新體詩に就きて……………………………100
『馬醉木』第二卷第一號歌會消息………102
『馬醉木』課題 初冬の消息……………105
『馬醉木』第二卷第一號選歌評…………107
『馬醉木』第二卷第一號選歌前文………108
「某大学生記」附記………………………109
『馬醉木』第二卷第一號消息……………110
新曲浦島所載の短歌………………………112
『馬醉木』第二卷第二號歌會記事………117
「諏訪行」に就て…………………………122
『馬醉木』第二卷第二號選歌評…………124
「まこもの一葉」附記……………………127
十九日會について…………………………128
『馬醉木』第二卷第二號消息……………129
歌譚抄………………………………………130
十九日會記事………………………………140
『馬醉木』第二卷第三號歌會記事………142
『馬醉木』第二卷第三號選歌附記………145
山百合作新體詩「桃」評…………………146
新體詩に就て………………………………148
『馬醉木』課題 床に關する記事………151
來世之有無…………………………………153
最も好める樹木に就て……………………154
雜言録三……………………………………157
『馬醉木』第二卷第四號歌會記事………162
山百合作新體詩「遠人」評………………165
『馬醉木』第二卷第四號消息……………169
『甲矢』選歌附記…………………………170
竹の里歌之内………………………………171
趣味と信仰…………………………………174
七月十九日會………………………………178
沼津之歌會…………………………………179
二緒の玉……………………………………181
雜言録四……………………………………184
玄女節………………………………………188
「新名につきて」附記……………………189
『馬醉木』第二卷第五號消息……………190
竹乃里人先生四週忌………………………191
修善寺行……………………………………193
雜言録一片…………………………………195
我甥の病死…………………………………197
『馬醉木』第二卷第六號選歌評・附記……200
『馬醉木』第二第六號消息………………201
「標野の夕映」附言………………………203
『馬醉木』第二卷第七號選歌評…………204
『馬醉木』第二第七號歌會記事前文……205
『馬醉木』第二卷第七號新年號予告……206
『馬醉木』第三卷第一號卷頭言…………207
絶對的人格…………………………………208
長廣舌………………………………………214
『馬醉木』第三卷第一號選歌評…………219
茶の湯の手帳………………………………220
『馬醉木』第三卷第一號消息……………231
『馬醉木』第三卷第二號卷頭言…………233
御嶽乃歌會…………………………………234
年始の歌……………………………………246
『馬醉木』杜陵三卷第二號歌會記事……247
『馬醉木』第三卷第二號選歌評…………250
『馬醉木』杜陵短歌會選歌評……………252
長塚節「課題選歌」附記…………………253
萬葉集新釈九―十…………………………254
『馬醉木』第三卷第二號消息……………265
上田秋成の歌 下…………………………266
『馬醉木』第三卷第三號卷頭詞…………270
與謝野晶子の歌を評す……………………271
『馬醉木』第三卷第三號歌會記事………285
『馬醉木』第三卷第三號消息・稟告……288
「驢耳弾琴集」附記………………………290
『馬醉木』第三卷第四號選歌評…………291
『馬醉木』第三卷第四號稟告……………293
批評家の態度を論じて高島米峰に與ふ…294
反省の叫び…………………………………297
三井甲之「「あやめ草」をよむ」附記…298
『馬醉木』第三卷第五號消息……………299
『馬醉木』第三卷第五號會報・予告……302
青年の煩悶と詩趣…………………………303
吾崇拜する子規子…………………………311
『馬醉木』第三卷第六號歌會記事………313
八面歌論……………………………………315
信仰と趣味…………………………………323
「峽乃秋霧」選歌評………………………332
「合歡木乃卷」選歌評……………………333
「九月乃歌卷」選歌評……………………334
「讀源氏物語」選歌評……………………336
「長塚節氏の文章炭燒のむすめにつき」附記…337
桃澤茂春君の訃報…………………………338
要報…………………………………………339
『馬醉木』第三卷第七號卷頭詞…………340
『馬醉木』第三卷第七號歌會記事………341
「嗚呼我三度死す」附記…………………344
『馬醉木』第三卷第七號消息……………345
一國の元氣を現顯せる歌ありや…………346
不折山人と語る……………………………350
四壁小言一…………………………………355
『馬醉木』第四卷第一號消息……………356
萬葉集新釈十一……………………………357
「金刺信古の歌」附記……………………361
『馬醉木』第四卷第二號消息……………362
『馬醉木』第四卷第二號稟告・正誤之謝辞…365
田安宗武の歌と僧良寛の歌………………366
詩と社會との関係…………………………391
『日本』選歌評……………………………400
写生文論……………………………………401
三川遺稿短歌………………………………412
子規と和歌…………………………………413
「募集課題空及水選歌」の後に…………418
應募諸君に告ぐ……………………………419
筴竹桃書屋談………………………………421
盛世之詞章…………………………………449
四壁小言二…………………………………453
「竹の里人先生六週忌」附記……………455
「馬醉木」終刊之消息……………………457
『馬醉木』第四卷第三號稟告……………461
御歌始の歌…………………………………462
『日本』選歌評……………………………468
二葉亭氏の「平凡」………………………469
子規子………………………………………470
『日本』選歌評……………………………471
『日本』選歌評……………………………472
『比牟呂』都波奈會乃歌選評……………474
讀萬葉雑考…………………………………478
子規子の居常………………………………483
『比牟呂』北山短歌會選歌評……………486
『比牟呂』都波奈會歌選評………………492
候……………………………………………493
願くは先づ其私心を去れ…………………494
東都來信……………………………………497
『日本』選歌評……………………………499
不透明式の文章……………………………501
伊藤左千夫大人談片………………………503
新年物と文士………………………………508
注目すべき本年の作品……………………509
碧梧桐氏に答へる…………………………510
信濃之人々…………………………………516
東京より……………………………………518
文士と酒、煙草……………………………521
文士と芝居…………………………………522
正月の小説…………………………………523
文士とすし、汁粉…………………………524
京都に門が四つある………………………525
「老獣醫」の批評に就て…………………526
退屈が堪へられぬ…………………………527
春宵歌談……………………………………530
小説の地の文の語尾………………………536
 
(3) 歌話漫草
 
     (一)
 
鵜川の諸君に暫く御無沙汰を致しました、別に仔細も何にもなく只譯なしに無沙汰したので有升、ところが今度俄に選者になつたり自作の歌を出したり歌話などを出したり、こう一度に五多々々持込では、或は諸君の中でこれはをかしひ何か仔細があらうなどゝ、妙な眼つきをする人があるかも知れぬ、それで言別を云ふ譯でもないが矢張仔細も何もない、華園が左千夫を持上げたのでもなく左千夫が馬醉木の殘稿を輸入したでもない、實のところ、馬醉木は經濟上の都合から紙數が制限されてあるので編輯を預る予が無遠慮に自分のものを掲げる譯にゆかぬ、それがためか、此頃腹の中へ聊か歌のグハスが溜つた苦痛を感ずると云ふも饒山だが、少し咳拂でもやつたらと云ふ了簡で、早速華園許へ鵜川二三頁宛借してくれぬかと出掛けた次第である。
子規子が未だ存生の頃から、高等中學程度の少年間などでは、俳句は子規子であるが、歌は鐵幹であらうと言ふ樣な考の人が多いとの噂を聞て、一寸をかしく思つたけれど、主動的の判斷に乏しひ少年時代には穴勝無理でもない、無論子規子の俳句などが、本統に解つて居るのではない、世評に雷同しての信向であるから、其鐵幹の歌(4)に對しての考も固より附和的に極つて居る、
少しでも趣味眠が明いて居るならば、子親子の俳句が解れば、鐵幹の歌も解る譯で、子規子の俳句が本統に面白く感ずるならば、鐵幹の歌の馬鹿氣てる事が解らねはならぬ筈である、であるから鐵幹派の歌のエラガリ獨よがりを有難がる手合ならば、子規子の俳句は百分の一も解る氣遣ひないのだ、今更こんな解り切つた事を言にも當らぬ譯ではあれど、近頃、此解り切つた事が解らずに、猶天晴れ根岸派俳人と意張つて居る手合のあるに驚いたのである。
予は始めは、子規の俳句鐵幹の歌などゝ云つてゐる少年輩は多くは門外の連中で固より子規子の俳句などは毫も解らぬ手合で、前に言ふた如く、其手合にしては無理もないと思つて居たのであるが、關東俳人の機關とも見える樣な「アラレ」の別働隊でゝもあるか、同じ所で發行する「浮城」と云ふ雜誌に、明星で見る樣な歌がズラリ並んでゐる、例に依て例の如く、天明の兄だとか、泣かないの笑はないの、胸にひめた手を握つた、など言ふ歌が出てゐる、
人各其思ひありで、何の雜誌にどんな作物が載つて居樣と、それを何も怪む譯はない筈であれど、俳句の側を見ると一騎當千の根岸派俳人が堂々名を列ねて選者になつて居る、そこへ並べて新詩社の君とか何とか言ふ樣なホー諧調が出て居ると、聊か變手古に感ぜざるを得ないのである、ホーカイは何處までもホーカイチヨボクレは何處までもチヨボクレ、獨りよがりは何處までも獨よがりで、鐵幹黨の連中が獨よがりの歌を得意がつて居たとて、それを不思議に思ふ次第ではない、只根岸派の立派な二三俳人達が、猶俳句は子規歌は鐵幹と言へる樣な程度にあることを証し得た爲に、聊か意外な感をした迄である。
(5)そこで予が殊に不思議に思ふのは、子規子の俳句は好いが子規子の歌はよくないと云ふは、どんな標準から言はるゝのであらうかと言ふにあるのである、少しく失敬な申分であれど、子規子の歌がどんなであるか、鐵幹の歌がどんなであるか、歌其物に就て直接に趣味の相違を説た所で半解の連中には迚ても解りつこない、依て予は今常識の上から少しく言ふて見よう、門前の井戸の水と屋後の井戸水とは共に地中の水と云ふことが解る人であつたら、河を流るゝものは水で山に生へてあるものは草木であることが解らねばならぬ筈である、子規子は半身に歌を湧かし、半身に俳句を湧かしたそれが同じ想中の産物で趣味相通じて居つた物であることは、雲は動き石は動かぬことを知る程度の常識で必ず解るべき筈のものである、頭の血液と腹の血液と能く流通せぬ凡輩ならば知らぬ事、何事にも首尾透徹した子規子に半身不隨的の觀察をすると云ふは、余程の鈍眼家と云はねばならぬ、子規子の歌を知らぬは子規子を知らぬのであらう、予は子規子を知らぬ人が子規子の俳句を知つてゐるを不思議と思ふのである、一雜誌「浮城」のために言ふのではない、子親子の趣味を解せざる如き根岸派俳人のために言ふのである。
 
     (二)
 
歌でも俳句でも又漢詩でも、世間一般に傳唱されてゐるやうな作物は、多くは俗作であつて、文學の價値と云ふ上からは、甚だいかがはしいもの許りであるが、今日はそんな類の、俗作に就ては、少し解つて居る間の問題でなくなつて居るから、今更ら彼是詳論の必要はないのである。
併し予が茲に聊か評論を試みやうとするのは、殆ど文學者といふものゝ悉く佳作とし名歌としてあるが如き、鎌(6)倉右大臣の歌。
   箱根路を吾越來れは伊豆の海や沖の小嶋に波のよるみゆ
に就てゞある、此歌は俗人間に歡ばれてゐるといふのではなく、寧ろ苦労人間に稱揚されてゐて、今迄何人も非難したことを聞かぬ歌である、
それで此歌がどうしてそのやうに名高くなつたかといふに、一つは鎌倉右大臣の作であるのと、一つは加茂眞淵が極力譽たところなぞから起つたのであらうと思はれる。又獨歌人一般がよいとしてゐる許でなく、俳人詩人などの側でも大抵はよい歌として居るらしい、現に「ほとゝぎす」七卷の四若くは六で、鳴雪虚子の兩君なども、專ら良歌として俳話の引合に出して居る、のみならず、「馬醉木」十二では節君もよい位に譽めて居る、思ふに吾々同人間でも駄作であると思つて居る者は殆どあるまい、して見れば歌の上に特別の素養なき鳴雪虚子の兩君が、佳作と見られたのも無理のない次第であるが、常に美術文學の論評精細を極むる諸君の所見としては少しく物足らぬ感を起したのである。
かく多くの文學者が佳作として居る如く、果して佳作であらうか、完全な歌であらうか、其稱揚には果して雷同附和の跡がないであらうか、人々が余り無造作に此歌を譽めるのに頗る不平な予は窃に此歌の解剖を試みつゝあった、人も知る如く子規子は鎌倉の右大臣の歌を大に稱揚したけれども、又集中に良歌の少ないといふことも書いてあるのである、眞淵の萬葉集を解するの程度が甚だ低いといふことも早くから云はれてある、眞淵の萬葉に對する歌評が浅薄で取るに足らぬことは云ふまでもない、予は聊か研究の結果世の文學者といふ文學者の注意乏しきに驚いたのである。先づ第一に此歌の價値をなみするのは摸倣の點に存するのであらう、萬葉集の歌、
(7)   逢坂を打出てゝ見れば近江の海白綿花に浪たち渡る
眞淵は右大臣の歌は此歌に依つて作つたもので其より立ち勝つてゐると云ふてある、迚ても話にならぬ次第ぢや、逢坂を箱根に換へ近江の海を伊豆の海に換へたまでゞ趣向は全く同じではないか、作歌の上に斯の如き摸倣を容すとせば場所の變る度に似寄つたものがいくつも出來る譯である、萬葉中に此歌のあることを知らないで、右大臣の歌許を見て良歌と思つた人達は罪は少ない、兩歌對照して猶右大臣の歌に價値を認めるといふは、實に解し難き次第と云はねばならぬ、右大臣の歌は摸倣も摸倣、少しも其精神は解しないで極めて皮相をまねたのである、
「逢坂を打出てゝ」の歌に就ても不注意な評家は充分な解釋をして居らぬらしひ、逢坂を出て近江の湖の見えるのは普通であつて少しも珍らしひことはない、萬葉の作家はそんな普通平凡な景色に感興を起したのではない、平生穩な湖面が其日は風荒く白波が立つて居たのである、逢坂まではうかとして來たが逢坂を出で見ると湖面白波を躍らして居たので、其平日に變つた光景に見とれたのであらう、此歌を只逢坂から近江の湖水を見て詠んだものと見るは皮相な觀察と云はねばならぬ、右大臣の歌は萬葉作家の其精神を見殘して形許りをまねたから駄目なのである、兩歌作者の境味を一考して見ると一は感興活躍してゐるが沖の小嶋の歌は餘りに平板に餘りに無造作で作者自身すら其面白味に感動した樣な趣が見えない、今日の詞つきで云ふと其つかまへ處の根本に相異がある、つまり浅薄な摸倣と云ふことに歸するのである、それのみでなく詞のつかひざまも口眞似をやつて居る、萬葉の歌を摸しながら萬葉の詞のつかひさまを能く解せずに眞似て居る、「吾越くれは」の吾といふ詞や「沖の小嶋に波のよる見ゆ」の見ゆといふ詞などは皆口眞似的である、只箱根路を越くればと云つて解つてゐるのに文字(8)の數を滿たさむために吾の文字を加へたのに過ぎない、萬葉の歌などには決してそんなあつてもなくてもよいような詞はつかつてない、手當次第に二三首拔て見ても。
   ぬは玉の夜渡る月をおもしろみ。吾居る袖に露そ置にける。
   山のはにいさよふ月をいつとかも吾待ち居らん夜はふけにつゝ。
   妹かあたり吾袖ふらむ木の間より出でくる月に雲なたなひき。
吾といふ詞が決して無意義に使つてないことが解る。見ゆと云ふ詞もあからさまな場合に必要のない詞である、例へば木の間から見ゆとか山の間から見ゆとか山へ登つたら見えたとか垣根の間から見えるとか、何かさはる物があつて其物のさはりがとれた場合に物の見えて來た時につかう詞で、明かに限前に見渡された時に見ゆなど云ふべき筈がない、吾々の日常の談話に考へても解ることである、萬葉の歌などに決して無意義に見ゆなど云ふてある歌はない、例せば。
   いなみ野はゆきすぎぬらし天づたふ日かさの浦に波立てるみゆ。
   あさなぎに眞梶こぎでゝ見つゝこし三津の松原波こしに見ゆ。
   木の國のさ日鹿の浦に出でゝ見れば海人のともしび波間よりみゆ。
   藻苅舟沖こぎくらし妹がしま形見の浦にたづかけるみゆ。
以て用語の義を知ることが出來よう、右大臣の歌のさまであつたらば「沖の小嶋に波立ちさはぐ」とか「沖の小嶋に波の白綿」などあるべきである、然らざれば二句三句四句を直して。
   箱根路を峯越來れば岨路より伊豆の小嶋に波のよるみゆ。
(9)こうもなければならぬ、
趣向が摸倣で用語穩當を欠いてゐる、これだけで此歌の價値は七分通り減じてゐる、調子の上からも甚だ感じがよくない、初め二句が頗る重苦しくて下二句「波のよるみゆ」などは調子が輕いそれで首尾のつりあひがわるい、中の句「伊豆の海や」も如何にもタルンで居る、頭勝ちの尻輕く中タルミと云つては余り酷評かも知れねど兎に角以上の如き感あるを免れない歌であらう。
此歌に季の詞があつたらよからうとの説には予も賛成である、併し右大臣の見た景色は慥かに春であらうと思はれる、「沖の小嶋に波のよるみゆ」の語調は春でなければならぬ、季の詞を入れるとせはどうしたらよからう、予は試みに。
   箱根山霞晴れくる岨路より伊豆の小嶋に波のよるみゆ。
調子もいくらか緊つたつもり摸倣の点も少くなつたと思ふけれど迚てもよい歌とはならぬ、併し世人は猶なか/\承知しまい、「馬醉木」十二の長塚君の説は予には解らぬ 長塚君は「相坂を」の歌は茫漠としてゐると云ひ「箱根路を」の歌はキチンとしてゐるといふてあるが予の考は全く反對で、「相坂を」の歌は決して茫漠としたものではない、相坂を打出でゝ見ればの二句一字の無駄がなく、作者の立つて眺めた位置状体如何にも明瞭で少しも動すことは出來ぬ、三句四句に至つては其見た光景作者が感興に打たれた光景を極力形容して遺憾がない、眞白き波が畝をなして寄せ渡るさまが讀者の眼に判然と映じてゐる、一点の惰容を認めない、全首に渡りて一字を増減することが出來ない、白綿花と波立渡るの光景が強く讀者の興を引くので無季の不足を感ずるいとまがない此位キチンとして調子が張つて居れは充分である、「箱根路を」の歌になると、第一に此作者が立つて眺めた處(10)が何處であるかゞ判然して居らぬ、「吾」といふ不必要の詞があつたり「沖の」といふ餘分な詞があつたり、そうかと思へば、歌の主限点とする小嶋の波に就て力を入れてない、全体にダラリとしてボンヤリとしてゐる、「伊豆の小嶋に」一句で間に合ふ所が「伊豆の海や沖の小嶋に」と延ばしてある、緊密ならぬ所以であらう、予は此歌にキチンとした處を少しも認めることが出來ない、大抵の文學者は調子の「タルミ」「シマリ」などいふことを解して居らぬが普通であれど、吾根岸派同人はそれではならぬ。
僅一首の歌に就て斯くまで極論したのは天下擧つて誤解して居る歌であるからである、單に此歌其物の上のみに就て云へば、これほど精評を要する價値ある歌ではない、鎌倉右大臣のためには速に削つた方がよいと思ふ位である。
                    明治37年9月・11月『鵜川』
                 署名(一)伊藤左千夫(二)左千夫
 
(11) 正岡先生三年忌歌會
 
     〔一〕
 
月の二十日午後一時より豫期の如く根岸舊廬に於て追善歌會を開く、朝來雨天なれども來會者意外に多く人々悦び合ひぬ、靈前に香華を供へ且つ語り且つ歌を詠む、課題秋海棠、人多き上に歌又頗る多し、今各一人一首づゝを抄出せり、敢て選拔したるにはあらず。
   秋海棠の花咲き出でゝ呉竹の根岸の庵に秋三たび來ぬ    甲之
   紅ふゝむ秋海棠の莖根掘じ包む穗藁は雨にぬれたり     阿都志
                               菅の山人   垣根ろに蚯蚓ほる兒らなれらよき兒ぞ。そこに咲く秋棠菜をもとな踏そね。
   大ひさご小ひさごまじりなり垂れし小垣の下の秋海菜の花  芳雨
   丹秀たるゝ秋海棠の鉢植のつゆ/\しきをもちて來し少女  秋水
   朱紐を秋海棠の玉くきの繼ぐの瑞枝の見かほしの花     蕨眞眞
   垣根行流れにあさる朝雀秋海棠のつゆにぬれ鳴く      左牟之
 
 
    (12)   ふして見し人已にあらずをとゝしの庭なからなる秋海棠の花 秀眞   くれ竹の根岸はこひし川添の家毎咲けり秋海棠の花 麓
      〇             左千夫
   ゆめうつゝ。はやふたとせや。三めぐりの。早あきなれや。降る雨に。さびし御庭に。※[奚+隹]頭も。秋海棠もあれと。あるとのみ。數乏しらに。かまつかは。種たえぬらし。金網に。鳥も住まなく。糸瓜棚。朽て破れつも。杉垣に。鳴く虫さへや。聲の淋しき。
     歌のみ送れる人には
   かりそめに手向し花の根を絶えず今年も咲けり秋海棠の花  柊村
   濡鷺の燈籠かもとに秋雨に丹秀ひふふめる秋海棠の花    里靜
人々咏みさゝげたる數多の歌は、取りまとめて更に「馬醉木」に掲載すべし(左千夫記)
 
      〔二〕
 
大龍寺に程近き道觀山の某園といふにかねて定めたりしを、前の日の夜になりて言違ひ來しすべなさ、雨さへ降りつゝきたれば、俄に根岸の舊廬に移る事となりぬ、其日も朝よりの雨なり、來會者十一人、山田三子君など、珍らしき人さへ參りたれば、今昔の物語殊に興多かりけり、靈前に香をさゝげて人々歌を詠む、おのがじゝ多くも少くもよしとの定めなり、題は秋海棠。
(13)                            甲之
   秋海棠の花咲き出てゝくれ竹の根岸の庵に秋三たび來ぬ(根岸庵)
   椽に近く秋海棠の花さきて昔を思ふ秋となりけり(同上)
   川端のつまくれなゐは實となりて今をさかりの秋海棠の花
   秋海棠の花咲き出てゝ河の邊の吾家《ワギヘ》此頃蚊居らずなりぬ
   朝川に洗物する笊の露のゆき來に濡るる秋海棠の花
   秋雨の止まずふれゝば書讀むに飽きて眺むる秋海棠の花
                              阿都志
   紅ふゝむ秋海棠の茎根掘じ包む穂藁は雨にぬれたり
   下籬に萱は刈りそげ秋海棠の雨おもしろき秋を樂しむ
   船人の舟に培ふ秋海棠は月夜|潮處《シホド》に乏しらに咲く
   苫舟に秋海棠の雨を寒み根藁結ひつゝ花葉伏すみゆ
   秋海棠の角實赭枯れ舊庭に淋しき秋は過きにけらすや
                              秋水
   丹穂たるゝ秋海棠の鉢植のつゆ/\しきを持てこし少女
   湯氣のばる湯殿の外の夕雨に秋海棠の咲きうるほへり
   葛下《カツシモ》の磯長《シナガ》の寺の庭古み雨にぬれさく秋海棠の花
(14)   亞米利加の秋海棠の朱の花は葉なからともし床の上に置く
                              菅の山人
   垣根ろに蚯蚓ほる兒らなれらよき兒ぞ。そこに咲く秋海棠をもとなふみぞね(旋頚歌)
                              芳雨
   おほひさご小ひさごまじりなりたれし小垣の下に秋海棠の花
                              左千夫
   夢現はや二とせや。   三週のはや秋なれや。
   ふる雨にさびし御庭に。 ※[奚+隹]頭も秋海棠もあれど。
   あるとのみ數乏しらに。 かまつかは種絶えぬらし。
   金網に鳥も住まなく。  糸瓜棚朽てやれつも。
   杉垣に鳴く蟲さへや。  聲の淋しき。
                              秀眞
   ふして見し人已にあらずをとゝしの庭ながらなる秋海棠の花(根岸庵)
   秋雨の雨間靜けき古庭に露に映え咲く秋海棠の花
   呉竹の根岸はこひし川添の家毎に咲けり秋海棠の花
   きぬた打夜寒になれば遠里の秋海棠の家思ひ出づ
(15)   風しぶく雨にこもるかかたつむり秋海棠の葉がくれにして
                              蕨眞
   朱紐を秋海棠の玉くきの繼きの瑞枝のみがほしの花
   新稻の風をいたみと伏しなげく宇賀のみ靈か秋海棠はも
   若子らがおぐしのかざし豐秋の笑みの足らへる秋海棠の花
                              左牟之
   垣根行流にあさる朝雀秋海棠の露にぬれ鳴く
   朝渡る庭草風に吹きゆれて秋海棠に置ける露ちる
   雨なびく朝あけの庭のにはたづみ秋海棠の根をひたしけり
   うがひすと朝戸出れは遣水のしふきにぬれて秋海棠の咲く
   朝日子の照る日に堪へすうなねつく秋海棠はもろこしの花
   朝雨晴る池のみぎはの岩かねに匂ひて咲ける秋海棠の花
   八重むくらおどろか中の一本の秋棠菓とにほふ君かも
   にほ花の秋海棠は根を絶ず今年も咲けり見る人なしに
   夕日かげ秋海棠に露おけば虫の鳴所となるかおもろし
   夕晴の砌を走るさゝながれ秋海棠の根をめぐりゆく
                              左千夫
(16)   出入りの瀬戸川橋の兩側《フタカハ》に秋海棠は花多く持てり
   をみなども朝夕出でゝ米洗ふ背戸川岸の秋海棠の花
   朝川にうがひに立ちて水際なる秋海棠をうつくしと見し
   雨晴れて空青き日の朝川に花きらきらし秋海棠の花
   朝川の秋海棠における露おびたゞしきが見る快さ
   秋海棠のさはに咲きたる背戸川に米とぐ女の兒手白足白
   米洗ふ白きにごりは咲きたれし秋海棠の下流れ過く
   朝顔は都の少女秋海棠はひなの少女か秋海棠吾は
其外歌のみを寄せられしは、
                              里靜
   濡鷺の燈籠がもとに秋雨に丹秀比ふゝめる秋海棠の花
   秋されば秋海棠も咲きぬれと臥所に寫す人のあらなく
                              柊村
   かりそめに手向けし花の根を絶えす今年も咲けり秋海棠の花
   早稻刈るや人の往來の小村には垣根に多し秋海棠の花
            明治37年9月『日本』・11月『馬醉木』
            署名『日本』左千夫記、『馬醉木』なし
 
(17) 〔『甲矢』消息〕
 
●甲矢愈々出來祝賀申上候 小生一寸田舍へ參り居候爲め今日拜見致候 先づ表紙大に気に入申候 色の工合最宜しく候 家庭欄面白く存候 諸君の筆の達者なるには驚き申候 此筆を以てせば何事も造作なく出來可申候 只御注意迄に一言申せば理窟に陷らぬ樣に有度成丈け趣味方面を寫す樣に願度候 某博士の談最も振ひ居候 今一ケ條の注文は人眞似の裏畫等に金を使ふよりは其金でも少し良紙を使はれ度候 高貴なる物品は疎末なる器中に置難く候(九月八日伊藤左千夫)
       〇
●御病兒遂に亡せ給ひ候由御痛恨嘸々御察し申上候 野生もかつて一年八ケ月の小兒を失ひ候事有之何事も心には解し乍ら未だ物もゑ言はぬ兒供程いぢらしきものは無之候 當分忘れ得られぬものに候 御同情申上候 花を澤山靈前に供へ涙を絞れば憂が薄らぎ可申候(左千夫、常世君)
                       明治37年10月『甲矢』
 
(18) 竹乃里人選歌に就き
 
高濱君から手紙が來た。
  前畧先づ小生は彼の歌集の中に一首もろくな歌は無いと云ふた覺は無之、さすれば。
   其中の傑作と稱すべきもの幾首は優に古人を凌ぎて不朽に垂るゝに足る。
といふ子親子の言を非認したと云ふ御議論は不思議に覺え候。
(左千夫いふ)少しも不思議でないようだ、櫻花の選は竹乃里人選の初期に屬するもので、高濱君及び帝国文學記者などの云ふ析の標準未だ低度にある時期であらう、然かも子規子(子規子此時三十四歳)は斷然として其中の傑作は優に古人を凌ぎ不朽に垂るゝに足るといつたのだ(子規子が容易に人に許さなかつたことは僕よりも高濱君が能く知つてゐる筈だ)成程子規子の言の中にも凡歌は一首もないといふた譯ではない、けれども、高濱君の所謂、「一見平凡陳腐なる歌の多く交れる」との言と子規子の言とは余り懸隔が甚しいではないか、凡歌でなければ傑作、傑作でなければ凡作と云ふ樣な、單純な論法が成立つならば知らぬこと、子規子の言は其中の傑作でなくとも優に今人を凌いで居るとの意は充分認められる、僕が「ほととぎす」中の高濱評を目して、子規子の言を非認したものと斷定したのは決して不思議ではない、露骨に云ふてないからとて言ひ拔けしようといふは卑怯ぢやないか。
(19)  (手紙の續)次にこれを發句旁で考へて見ると從來「日本新聞」に出た子  規選句を其まゝ集て出版することは小生は思もよらず、時々地方の人などより切拔きを集めて居るから出版したいがどうだらうなどゝ云はるゝ時、小生は常に其無用なることを切言致し居候、勿論其中には所謂。
   優に古人を凌ぎて不朽に垂るゝに足る傑作多々可有之候へども其代りツマラヌ平凡な句も其數十倍可有之候、
(左千夫いふ)又しても古人を凌ぐ不朽の作とツマラヌ凡句を垣一重の差位に云れるが如何にも氣になる。
  (手紙の續)其を其儘出されてはたまつたものに無之候、若し俳句仲間にこんな事をする者があつたら、子規子は定めて迷惑だらうと感ずると同じく、歌の方でも新聞に出したやつを其まゝ集めて本にされては、子規子の眉間には八字の皺がよること小生の目には見える樣に候。
(左千夫いふ)俳句の旁ではこうであるから歌の方でもこんなことをしちやいけないと云ふは聞こえない話だ、俳句は俳句歌は歌と別にして考へねば困る、第一子規子が歌を選ぶと俳句を選ぶと同じ心得でやつたかどうか、俳句は是非毎日出さねばならぬようであつたが、歌は決してさうでなかつた、此際に於ける子規子の心事を妄りに推定することは出來ないけれど、俳句の方はツマラヌ凡句があるから、歌の方にも一見平凡陳腐歌が多いと云ふは余りに暴言であるまいか、余りくだくだしく云ふは面倒だから、僕は明言するが俳句にはどうか知らぬが、歌の方には一見ツマラヌ凡歌といふものは決してない、それは勿論のこと凡歌は一首もないとは僕も始から云ふて居ない。
  (手紙の續)小生の希望は、新聞に出た歌のうち貴兄等の今日の標準で尚面白しと覺ゆるものを精選して、竹乃里人選歌抄となり何となり題して世に公けにされたらばも少し面白いものが出來たらうかと被考候。
(20)(左千夫いふ)一應は如何にも尤もである、さりとてこれでなければならぬと思ふは間違つた考であるまいか、選んだのも勿論よい選んだ所に利する點もあるは明かである、併し選ばずに其儘出した方には又其選ばぬ所、後人の手をつけなかつたといふ點に面白味がないであらうか、況んやだ、歌の方は俳句のように數が非常に多くて實際其勞は功を償はぬような理由が少くないではないか。
  (手紙の續)歌人の方は知らず候得ども、俳人の方で考へて見ると、二三十句位面白い句ある古人少からず、併し同じ二三十句面白い句ある俳人にあつても、他に駄句数百句ある俳人よりも、他に駄句一句もなき俳人の方なつかしく候、俳書にあつては殊に、數百句の中に二三十句面白い句ある俳書よりも、二三十句面白き句のみある俳書の方遙に價値有之候且つ其人の選句に凡句多き爲め其人大なりといふ理由は之を發見するに苦み候。
(左千夫いふ)如何にも尤も至極な話ではあるが、矢張一應の尤もと云はねばならぬ、高濱君はよく傑と凡とを一からげに云ふ癖がある、凡人の凡句と傑人の凡句とは同じ凡句と云ふても何所かに相違があるであるまいか、凡書中の凡と傑書中の凡とも同じ理でこれを一からげに只凡の一字で同一視するは考違であるまいか、子規子の選んだものにはたとへ凡句があつたにせよ何處かに子規子の俤が籠つてはゐまいか、杜子美詩集中の駄作、蕪村句集中の凡句、子規子選中の駄選、同じ駄凡の名がついても、駄凡人の駄凡作又は選とは到底之を一からげに云ふことは出來ないであらう、僕等は何人のものでも選び直しちやいけぬと云ふのではない又子規子のものでも何處までも手をつけぬがよいと云ふ頑固者ではない、選んだもよからうが選ばないのも面白からうと思つてゐるのである、只迷惑だらうとの一感念に支配されて、何でもかでも其儘出してはいけぬと云ふのが甚だ狹まい考のように思はれるのである。
(21)  (手紙の續)子規子が今日迄生きて居られて、其歌選集を編まれたなら、凡そ是位に精選されるであらうと、其心を酌で、成るべく凡歌を拔くやうにするが故人に對する我等の義務と小生は心得居り候。この點に就ては曾て「竹乃里歌」御選の時相衝突した形跡も有之候ひしが、其時は或點に於て調和した樣に覺え居り候、今回の歌集に於て著しく衝突したる爲め小生は「ほととぎす」紙上に寸言を費し置きたる也。小生は此心を以て子規遺稿をも編み度候 貴兄の言を推せば子規遺稿を編むも一言一句棄てず如何につまらぬ發句文章も悉く散逸するを惜しみ版本にして置くべしとの論に歸着する樣に候、是れ果して子規子の志たるや否小生は首肯する能はず候。(以下畧す)
(左千夫いふ)吾輩とて高濱君の言を一も二もなく非認した譯ではない、其一偏の理窟であることは認めて居るのである、只高濱君が其一偏の理窟で何もかも律せんとするの傾きがあるから、吾輩も前號一言を費したまでだ、成るべく凡歌を拔くやうにするが故人に對する義務といふが、それに異存の有やうがない、併しし成るべく佳作を失はぬようにするのも故人に對する義務であるまいか、どちらを一方に偏する譯にゆくまいぢやないか、其儘選ばずに出版されては迷惑ぢやといふ處もあるは勿論である、併し選ぶといふにも迷惑がられる處がないであらうか、子規子の佳作と思ふやつを捨てゝ却てつまらぬと思つてゐるやつを選ぶといふやうな恐がないであらうか、現に春夏秋冬の句選に就ても、子規子は今少し良句があつたと思ふがと不平顔をせられたさうぢやないか、凡句を取つた不平でなく良句を棄てたらうとの不平が、生きてゐる子規子の口から出たところを見ると、選ばぬが迷惑か、選んだが迷惑か容易くは判斷が出來ぬと云はねばならぬ、それが深い理窟があるのではない、虚子碧梧桐の凡句とする句を子規子は凡句とせぬかも知れぬ、又虚子碧椅桐の良句とする句を子規子が必ずしも良句とはせぬであらう、それであるのに只々選ぶのが故人に對するの義務とのみ思ふはどう見ても偏した考と云はねばなら(22)ぬ、僕に云はせれば後人が選び直すといふ事は實際に止むを得ないからであつて決して好でやるべきものでない。何れにしても如此事柄は其物の次第に依て決せねばならぬものであらう、「竹の里歌」の選に就ては斷然明治三十年以前を削つた其後の作歌につきては年に依て二十分の一を取り十分の一を取つた年もある、併し三十四年以後は殆ど削らぬ、僕とても此竹の里歌につきてまで選ばずに出版せようといふ如き無法は云はぬ、何ぜなれば子規子の極めて初心の時の駄作が多くあるからである、高濱君は子規子遺稿を編むに就ても左千夫などの考では選ぶのを好まぬだらうと思つてるらしひがそれは餘りに偏見といはねばならぬ、子規子遺稿は何年間のものか知らんが、勿論初期以上の時代のものもあらう、それらも殘らず出版せよなどゝいくら迂遠な左千夫でもまさかである、「竹の里人選歌」は明治三十三年一月から明治三十五年九月迄二ケ年半許の子規子の最晩年の仕事であることは諸君も知つて居る筈だ。
モウ面倒臭くなつた、こんなつまらぬこと長々とかく馬鹿らしさ、左にかいつまんで概要を書いてよさう。
 「ほとゝぎす」評に就て
    左千夫の癇癪に障はつた條々
 一、今の出版界の程度で「竹の里人選歌」位の本に不足が云へるであらうか。
 一、高濱君は子規子の晩年選歌に對して一見平凡の歌が多いなどと云へる資格があるであらうか。
 一、明治三十三年以降の子規子と今日の高濱君と歌の上にどれだけ修養の相違があらうか。
 一、高濱君が一見平凡陳腐と云つた歌を子規子が果してさうと承知するであらうか。
 一、子規子が晩年あれほど骨を折つて苦心慘憺の結果になつた一小册子だけの選歌をなぜ其儘傳て惡いであら(23)うか。
 一、竹の里人選歌の如きものは良歌集を作ると云よりは歌學研鑽の參考に資するが主であると見られないであらうか。
 一、早い時代のものを削つたとてなぜ晩年のものをも削らねばならぬであらうか、俳句の方で選むの必要があつたとてなぜ歌の方でも選ばねはならぬであらうか。
 一、何年かの「ほととぎす」の初摺であつたと思ふ、碧梧桐氏が中村某の小説に就て聊か批評らしひこといふたことがある 吾輩などは適評ぢやと思ふてゐた處、子規子は頗る不平であつた 自分で小説を書きもせず人の小説を惡く云ふは間違つて居ると云はれた 子規子といふ人はさう云ふ人である、虚子が歌一つ作りもせないで子規子の選ばれたものに對し一見駄作が多いなどゝ云ふた言を子規子が知つて居つたら何といふであらうか。
アヽくだらぬ事を云ふたものだ 言ひ過た/\、これだから僕はよさうぢやないかと云つたのだ、讀者諸君虚子と左千夫がケンクハをしたのではない、こいふ言は一般の人に對しても參考になるだらうと思つたから長々と書いたのである。
           .         明治37年11月『馬醉木』
                       署名   左千夫
 
(24) 諮問答案
 
吾「馬醉木」の諮問課題は、不幸にして會心の答案を得ることが出來ない爲めに休題の止むなきに至つた、予は甚だ之を遺憾とするのである、「馬醉木」讀者の範圍限りあるに依るかも知れねど、世上一般の歌人と云ふものを通じて、思想單純趣味狹隘然かも固陋の弊あるは、誠に口惜しき限りと云はねばならぬ、千年以來の歌人と云ふものが何代たつても同じ樣なる事を繰返して、遂に進歩の路を開くに至らなかつたといふも、固より色々な源因があるに相違ないが、其批評的研究に勉むる事を知らなかつたは、慥に一源因を爲して居ると思ふ、歌さへ詠めば歌人であると思つて居るは、此文運勃興の時代にすら敢て珍しからぬ程であるを見ても察することが出來る、彼の頑冥不靈な舊派の歌人といふものに對しては最早云々するも無益ならんも、新進の氣を負ふ處の青年歌人にあっては、深く往古の弊に鑑みて必ず製作評論相待つて研究の歩を進めるの覺悟がなければならぬ、若此覺悟がなかつたらば歌道の前途を開發して行くことは斷じて出来ないと云はねばならぬ、自分に批評眼がない自分に論議の腦力がない、それであるから他の批評を入るゝことが出來ない他の論議を用ゆること出來ないのである、そこで單純狹隘固陋偏見の不靈的産物に終るの外なくなる 如斯事、他學藝社會に有つては固より問題とするの價値さへない位であらう、獨吾歌壇の幼稚なる、猶之等の判り切つた事さへも論叫せねばならぬで聊か惰なく感ずるのである。
(25)何事の上にも此論議的研究がなくては決して發明し得らるゝものでない、今の論議を爲すものやゝもすれは、作家と批評家と全く區別あるを云ふは無稽の甚しきものである、批評限なき作家は完全の作家ではない、又製作力なき批評家も決して完全の批評家ではない、批評と製作とは殆ど舟の梶と櫓との如きもので、必ず兩々相待つての關係を有して居る此兩者の關係が平衡を得なくては學藝の進歩望み得べきものでない。
甚だ遺憾ではあれど、歌人といふものゝ中には能く論評を爲すものが極めて少ない、論評の腦力を養はんと勉めらるゝような人も殆んどないかと思はれる、歌道振作の爲には嘆かはしい次第と云はねばならぬ、世人或は批評議論を爲すは、專ら人を教へ人を導くのためとのみ思へるにあらざるか、若し一般の歌人が如斯考を以て批評論議を見るならばそは大なる誤解である、勿論他を教へ導くの性質を有し居るは云ふまでもないが、評論者自身に益する所又た非常なもので且つ愉快を感ずることも極めて多いのである、連想の働きが強くなる、批判力解釋力が精細になる 感覺力及び觀察力等が次第に鋭敏になる、是等のことは予が親しく自ら感じたる所で決して架空の臆測ではない、如此心靈の助を養ひゆくといふことは製作家の資格に極めて痛切に要用なものであることは云ふに及ばぬことであらう。
予は以上の如き考に依て好で自らも評論し、且つ諮問課題を設けて諸君に催した次第であれど、思ふに諸君は予の推察の如く、評論は自個の修業にあらぬ如くに誤了してゐるにあらざるか、諮問課題は常に冷淡に看過されたようである、これ予の尤も遺憾とする處であるが、今暫く休題して諸君の更に奮起し來るの日を待つ考である、されば諸君中批評文など寄稿せらるゝの人あらば、予は何時にても歡迎に躊躇せぬ、以上遺留してある二題の解決を結ぶに就て、一言懷抱を諸君に告げた次第である。
(26)     繪と歌と最も似た點と最も異つた點とを指示せよ
始め此諮問を出した時には、それ程考もせずに出題した次第であれど、今になつて考て見るとこれは少し六かし過ぎた題であつた、兩者性質の變つた物に就て似た處と異つた處を云へと云ふのであるから、普通の考では出來ない、山吹と菜の花とはどこが似てどこが變つて居るとの問は六つかしくはなけれど、山吹と蝶との比較はとなると六つかしひ、それと同じで、繪は有形的のもの歌は無形的のものである、どういふ事に比較するかといふ先決問題が先づ六つかしい、繪も詩である、歌も詩である、繪は色彩で趣味を顯す歌は詞で趣味を顯す、かういふ樣な異同は極り切つたことで固より問題にはならぬ、そこで此兩者の顯著な異同點を研究して製作家の心得ともなるべきことを發見しようといふには、一皮かき別けて更に内容の觀察を遂げねばならぬ。
予は兩者の異同點を比較する前に、何故に如此問題を提出したかといふに就て一通云ふて置くの必要がある、予の見るところでは、現時多くの芙術文學家といふものが、能く各自の本領を自覚し各藝術の領域を認知して居るか否かと云ふ點に頗る疑があるのである、手近く云ふならば、文章でなけれは出來ぬ事を歌にしようとしたり、文章を殆んど韻文かのように書たり、繪でなければ到底顯し得ない趣味を無理に詩歌で顯宗さうとしたり、畫書きの方で矢張り歌文でなけれは出來ぬことまでも悉く繪に顯さうとする、如此傾向が美術文學の一般に渡つて存じて居やしまいか、勿論以上の如き傾も或る程度までは、敢て差支ないのであれど、詩歌には詩歌の本領々域がある繪畫文章には繪畫文章の本領々域がある、或點は交錯して居ること勿論であるが、又決して相冒すことの出來ぬ所がある、美術文學家が能く自個藝術の本領と領域とを解得しないで、妄に變化を試むるならば多くは邪路(27)に陥るを免れない、美御院派といふ一派の繪畫が化物繪の評を受けたも、「明星」「萬朝」などにある新派の歌といふものが多くはゑらがりよがりであるのも、皆繪といふものゝ領域歌といふものゝ領域を自覚し得ざるの過である、
美術文學の振作上、變化は固より必要である、革新更に必要である、さりとて變化はどこまでも價値ある變化を要求し、革新はどこまでも向上的でなければならぬ、そこで問題は根本に返つて、各自の本領と領域とを自覺して居つての上でなければ、價値ある變化や向上的革新などは思ひもよらぬといふ事に歸する此根本的自覺がなく漫に輕擧妄動せる其效果は始より知れ切て居るのである、予は平生以上の如き考を抱て居た、それで余事は兎に角、此歌といふものに就て出來る限り、其本領と領域とを詞の上に説明して見たい、それには繪畫などゝ異同を比較して見るなどは、頗る面白き手段にあらざるか、このような考から思ひついて提出した課題であるが、思つたよりは複雜な然かも意識上の問題ときてゐるから猶更六つかしひ、果然應募者一人もないといふ始末、自ら穴を作つて自ら穴に陷つたような苦境、獨一笑するを禁じ得ない。
まづ最も似た點から比較して見よう、
繪の色料と歌の詞とは全く其意義を同くしてゐる、繪の色料は物體の色を説明する爲の材料ではない、赤いものを赤くそめ青いものを青くそめるは、其赤いといふこと青いと云ふことを觀者に合點させむが爲に赤く青くそめるのでない、赤い色其物に青い色其物に趣味的の美を含んで居ねばならぬ、それでなければ繪の面白味は充分でない。歌に於ける詞の趣味がそれと同樣の意義を持てゐる、歌に於ける詞は意味の符貼ではない、意味が通ずるだけでは歌の詞としては不滿である、歌の詞には単に其詞のみの上にも趣味面白味がなければならぬ、昔はこれ(28)を雅語とも歌語とも云つたのであるが、歌語や雅語といふものは一定してある筈のものでない、詩人が巧に使用すれば自然其詞に面白味を感ずるのである、自然に面白味を感ずる樣に使用したのでなけれは、詩的詞の使用法でない、上手な畫工が使へば面白く色が出てるのと同じく、詩才のある人が使へば何でもない詞も面白味を持つてくるのである、染物の色料が直に繪具にならぬ如く、日常の意義本位の詞は直に歌の詞にならぬのと少しも變らぬ、最も似た一つである。
繪の線と歌の調子との働きが殆ど同じである、繪に線は線其物にも趣味が含まつてあるけれど、堅い物を畫くには硬い強い線で寫さねば、其物體の感じを顯すことが出來ぬ、たとへば松や椎の木を畫く線と柳や山吹を寫す線とは固より同一ではならぬ、石廓と木の箱と同ようの線で寫すことは出來ない、其硬い石と堅くない木と趣味的に顯すには必ずまづ其線の剛柔に依らねばならぬのである、今少し適切に云へば、人體を畫いても骨の立つてゐる部分即肘膝等を寫す線は強く張つた線でなければならぬ、之れに反し肉の柔かい頬とか※[月+咢]とかふくよかな感じを顯す場合であつたならは、必ず柔な穩な線で寫さねばならぬは勿論であらう、歌の調子といふもの殆ど之と働が同じである、歌の調子も単に調子其物にも面白味が含まつてあるは誰れも知る如くであるが、其調子の働に依て※[口+喜]しひこと楽しひこと悲しひこと腹立つこと、それを能く其心持の如顯はすには、必ず其調子の緩急強齢の働きに待たねばならぬ、春風温暖の趣味を歌ふには、必ずゆるやかな穩な調子を以てせねばならぬ、ゴツゴツした調子では到底春の感じは顯はれない、枯木寒巖の趣を顯すならばそれの反對でなければならぬ。
   天地をなげきこひのみさきくあらばまたかへり見む志賀のからさき
いかに調子の念迫してゐるか、
(29)   千萬の軍なりとも言擧せずとりて來ぬべき男の子とぞ思ふ
いかに調子の強く勢があるか、
   春すぎて夏來るらし白妙の衣ほしたり天のかぐ山
いかに調子のゆるやかに柔かくあるか、此の三首の調子であつて能く三首の趣味が顯はれるのである、繪の方は線のみでなく色の上にも強弱温健があつて線の働きを助けてゐる 歌の方でも音聲の細大高低等で大に調子の働きを強める、繪と歌と最も似たところ二つである。
繪の色常に單色と復色とある、單色は固より繪師の作つたものでない、一般に何人にも同じ色に用ゐられる單色に就て繪師の働きは只配合に依つて面白みを加ふる點にあるのである、複色は二種又は三種四種を混じて成るもので、必ず繪師の作製にかゝる複雜な色である、此製色の巧拙は殆ど繪の價値を支配するものであらう、それも普通一通りの製色をして居つたら、過ちもないかはり面白味も少ないといふ譯であらう、これを歌の上で見ると、普通の語と造語といふのがある、普通の語は一般に用ゐられて何人にも同じ樣に使用されるのであれど、天才ある歌人が巧に使用すればより多くの面白味が加はるのは、繪師が單色を配合の上より普通以上の面白味を感ずるのと同じことである、造語といふは必ず詩人の製作にかゝるもので歌の上には古人の造語も珍らしくないけれども、歌人は常に此造語をなすの技倆がなければならぬ、造語は繪畫の複色と同じく、二三種の詞を混じて成るものであるから、固より意味も複雜である、此複雜な造語の使用が直に歌人其人の價値を支配することは、殆ど繪師の複色を作るのと等しき趣がある、併し今日の歌人と畫工とは以上の如き點に重き注意を拂つて居るであらうか、兎に角繪と歌と相似た所三つである。
(30)次に最も異つた所を擧げて見れば、
繪は一個の菓物、一本の草木、一個の動物、等單にそれのみでも、一幅の畫が成立つのである、それは詞で顯すものよりは一層強く具體的であるからで、到底歌の能する所でない、(一)
繪は又如何なる物體の千種萬樣複雜を極めたものでも收めて一幅の畫とすることが出來る、それは歌の樣に意味の連續を必要とせぬからである、(二)
繪は國家の區別もない言語の區別もない、文字の區別もない、歌などの樣に、國語と離れられない關係はない、歌は到底「日本」の文學であつて、他國の文字他國の詞で寫すことは出來ぬ、寫せば歌でなくなる 外國でも韻文は必らずさうであらう、(三)
歌は時間を寫すことが出來る、たとへば、
   天離るひなの長路ゆ戀ひくれは赤石の門より大和しまみゆ
   和歌の浦に汐滿ちくれば潟をなみ葦邊をさして鶴鳴渡る
などの樣に一首の中に余程の時間がふくまれて居る これは繪では絶對に出來ぬことである、(四)
歌は動く形を寫すことが出來る、たとへば、「波立ち渡る」とか「枝もたわゝ」とか「花ゆれ止まず」「柳の枝に風のそよふく」とか皆動く趣味であつて歌には珍らしくない、繪には出來ないことである 動くような趣きを寫せぬことはないが、要するに繪は寸間の光景を寫すものであるから、波が揚れば揚つたなり飛べば飛んだなりに書く外はない、われて碎けてさけて散るかもといふような活動を寫すは到底繪の及ぶ所ではない、(五)
歌に含む客觀の程度は繪に含む主觀の程度と殆んど相似て居る 歌に純客觀のものがない如く繪にも純主觀は有(31)ようがない、併し此反對は其反對なりに似た點から、主觀的の歌の中に少しの客觀趣味があると其客觀が全首の生命を支配する程の働をなす、それが丁度繪の中に少しの主觀があると、其少しの主觀が却て全幅の畫を支配するのと非常に能く似て居る、これは方向を異にした類似であるから、これを歌と繪との似てるといふ例に見ることは出來ぬ、寧ろ反對の部に數ふべきである。
以上は最も似た點と最も異なつた點とを擧げたに過ぎない、其仲間大同小異の點は少くないといふより、其他は殆ど大同小異と云つてよいのであらう、此解剖的説明に依て歌と繪との本領領域が判然したとは云へない、猶種々な比較研究をやらねば充分解得しがたきは勿論であるけれど、如此研究を數々繰返したらば、自ら其領域を解得するに至るのであらう、先づこんな根本的の研究をやつてから、徐に變化と革新とに進路を求めなかつたならば、邪路に陷つて自ら悟脱することが出來ず、生涯徒らに妄動し終るの愚に歸するのであらう。
                    明治37年11月『馬醉木』
                      署名 無一塵庵主人
 
(32) 雜言録 (一)
△「馬醉木」位高い雜誌はないと云ふ人があるさうぢや、それはなぜかと聞けば文字の數が少ないからだといふ事ぢや、そんな手合は甘藷一貫目八錢と聞いて其非常な廉価に驚くのであらう。
△「日本」新聞の陸翁に請ふて、予に同紙掲載の歌を見る樣にしたらどうぢやと云ふ人がある、吾派の歌を一時「日本」派とも唱られた位であるから、「日本」新聞の歌は吾同志即正岡系の人の手でやり度と思ふは無理のない希望であらう、乍併陸翁に對して僕に新聞の歌を見さしてくれと請願するやうなことは予に出來うることでない、日本新聞予を必要とせず、陸翁又予を用ゆるの心なきに、押賣り見たような馬鹿なことが出來やうか、押賣は商人と雖も耻づる、況んや文藝の上に於て押賣がましき態度を爲すの汚辱たること云ふに及ばぬ、予を目して偏狹となすものあらば予は其偏狹に安じて悔ゐないのである、予は只道を修むるの足らざることを憂ふるのみである、社會が予を用ゐると否とは予の關する所ではない、詩人の名譽は詩を解するにある、詩人の目的は詩を作るにある、詩人の職務は詩を講ずるにある、其他は一切予の知らざる所。
△予は十四五才の頃、始めて史記を讀で深く屈原の思想に感じ屈原崇拜の念は年と共に加はり、今日猶予が腦中の詩神は屈原である、釋迦孔子は大聖であらうけれど、予は猶屈原を崇拜するのである、予は何故にかく屈原を崇拜するか、予自身も明瞭には其理由を解せず、是れ不思議であるか不思議にあらざるか。
(33)                  明治37年年11月『馬醉木』
                        署名   樂尊
 
(34) 〔『馬醉木』第十四號選歌評〕
                      しみむろ
     予が征清從軍紀念品の中に遼東牛島にて採集せし草花數種ありたま/\虫干せむとて取り出て見れは轉た今昔の感に堪へざるものあり乃ち歌數首を作る
   劔太とゝせの昔御軍に諸越の野ゆ採りこし草花
   敵人か捨てし城の邊に父のためやまとへ向きて折りし此花
   大和には菖蒲葺く月を唐人が折りかづらぐは楊樹條《ヤンズデヨウ》これ
   月讀を見ればさ踊る兎子の手にかも似たる爐白白花《リユウパーアパーホウ》
   戰ひし迦羅野しぬはむ年久さにくしげの小花色なあせそね
   心ある人にも見せずいたずらに匣の小花朽まくをしも
此※[虫+潭の旁]室氏の歌は二十余首の内に於て僅に六首を採れり、選評甚だ酷なるが如しと雖も、此類の歌、外國の草花にして名稱だも聞しことなき物を歌に詠むことは大に考量を要すべきことなり、前號蕨眞氏の夏草花欄に出たるものと同種に屬するもの、予は彼の蕨眞氏の歌につきては少からず異存を有せり、要するに短歌俳句の如き小詩形のものにあつては、連想に待つ所極めて多し、然るに一般人の到底知ること能はざる材料を何の用意もなくして(35)漫に詠み入るゝが如きは、殆ど獨合點に終らざること稀なり、是等の問題に就て予は更に詳論を試むることあるべし。
                     明治37年11月『馬醉木』
                        署名  左千夫選
(36) 〔『馬醉木』第十四號消息〕
 
肅啓延刊又延刊最早申譯の詞も盡き申候、樂尊といふ男少し暢氣なためと何もかも一人でやるためといくらおくれても間に合せものを載せぬためと長い長い戰報をシヨツチウ讀ませられるためと貧乏ひまなしといふようなためとに候 何卒是からはこんな申譯など書かぬよう勉強可致候、同情深き諸君に對して何とも相濟まぬ事に候。日本人はどうしてこんなに強いだらうかとの問題が全世界の問題になつて、難攻不落の旅順も愈落ち申候、正岡先生の墓表も急々に出來る事に相成嬉しく候、平子鐸嶺君は全快赤木格堂君は補充兵にて召集せられ候處眼病のため除隊、在京同人中來年早々愛兒を擧るもの二人以上との評判に候、「比牟呂」に小生の気に入つた歌六首有之候 一寸御紹介申上候。
     田打の歌            蘆庵
   うれしきは小田打ちやめて田のくろの芝生の風に吹かれ居る時
   うれしきは若草萌ゆる畔の上に這ひころふして煙草吸ふとき
   うれしきは畑よりかへる草の戸の椽に新聞《ヒフミ》の投けてあるとき
   をかしきは桃吹く鄙にさかり居て詩を作るより田を作る時
   をかしきは田打に出つる道にして友が來しかば家にかへるとき
(37)   をかしきは馬醉木花咲く我庵に馬醉木歌文まち得つる時
これは作つた歌でなく咏んだ歌に候、こしらへた歌でなく湧いた歌に候、早々頓首(十月十日左千夫記)
                     明治37年11月『馬醉木』
 
(38) 上田秋成の歌 〔上〕
 
      (一)
 
上田秋成と云ふは、聊かひねつた歌詠みぢやと許り聞て居つて、其歌も文章も未だ見たことの無かつた頃である、其頃抹茶の上に予が師として居つた、葎園並根翁の許で、古代風の色紙短册拾余枚を出して示された、歌柄も余程變つてゐる、書風も尋常でない、彼のやまと流のぬらくした文字ではない、予は先づ其歌振文字振共に氣に入つた、翁は予が爲めに、此色紙短册の緑困を語つた。  余が家先代が、或年の秋一人の旅僧を家に宿し、其僧は只京都のものとのみで、定まつた住所のあるなしさへ聞かぬうちに、病氣になつて此世のものとも見えなくなつた、僧は、測らぬ惠を受けましたが今は恩に報る道もない、只此袋の内の物せめては形見になりと取置きてなどいふて、なくなられたとの事である、其後墨跡の鑑定など業とする男に見せた處、これは東滿の字であるとの事、云々。
予は東滿と聞て愈なつかしさに堪えなくなつた、なるほどさうであらう、其歌振文字振、古學の始祖とも云はるゝ人の好みらしい、予は當時東滿眞淵などをば、非常にヱライものと思つて居つた時分であるから、其色紙短册を推し戴くほど有難く思つたのである、翁は直に割愛して、色紙二枚短册二枚とを惠んでくれた、其時の翁の厚(39)意と心に嬉しかつた事とは今に忘れられない、其歌はかうである。
   田上の河邊の家に宿からむ網代の波に千鳥しばなく
   津のくにの昆陽野をゆけば露霜に小草花咲き葉はもみぢせり
   此朝け茅生もすゝきも枯れふして霜の原野は見るべかりけり
   かれかづらたぐれば絶ゆる百濟野の萩の古枝のましばゆふとて
これが非凡な歌と云ふ譯ではないけれど、其風調の珍らしく質朴雅醇な處は、無論古今集や新古今集の系統ではない、さりとて萬葉摸倣の痕跡もない、眞淵の歌にも到底此質實はない、どう見ても慥かに一家の風調である、萬葉集以降どの歌集を見ても、無論徳川時代のも何れも艶澤山な芝居者然とした歌ばかりの中に、斯の如き質實な歌を見た予は何となく嬉しくなつかしく、友を得た樣な心持をしたのである、東滿といふ人は、斯んな面白い歌を詠んだ人かしら、面白い早く家に歸つて春葉集を見よう、春葉集々々々といひつゝ家に走り歸つた位である。其夜春葉集を繰り返して讀んで見た、予は只々失望したのである、何遍繰返して讀でも、以上の樣な歌が無い、似寄つた歌もない許りか、其歌の凡ての風調といふものが、丸で違つた歌ばかりであるには、予も落膽せざるを得なかつた、試に春葉集の歌二三首を擧げて見よう。
   さく梅の立枝にならぶ香やはある春に色々の花はめでゝも
   薫りくる風をば梅のしるべにて主人もしらぬ垣根をぞとふ
   みる書も怠りぬべく咲きしよりうちむかはるゝ窓の梅か枝
一見質が違つて居る、固より同種の實から生へた草でない、如斯歌ではいくら同情的の眼を以てしても、芝居者(40)らしい脂粉的厭味を感じない譯にゆかない、併しながら當時の予は只前四首の歌が東滿のものに相違ないと許り信じて居つたので、種々と考て見た、自分にはこれ程面白く思ふ歌が一首も其集に出てゐないと云ふは不思議である、どういふ譯であらうとの推考から予はかう思つた、頻りに萬葉の価値を唱へた人であるから、歌も種々に詠み試みたに相違ない、何か新らしく詠み出でゝ見ようといふ精神は充分持つて居つたらう、それで彼の四首の如き歌も作つたに相違ない、詠むことは詠んで見たけれど、眞淵でさへ萬葉の心で調子は古今集によれなどゝ云ふた位であるから、四首の如き歌を耳なれぬとか何とかいふて成功せぬものとしてしまつたのであるまいか、それで集へも出さずにしまつたのであるまいか、實に惜しいことをしたものである、予は只一筋にそんなことに考込んだ上、取敢えず額に仕立てゝ奥の間に懸けて置いた、歌といひ文字といひ氣に入つたのであるから、來る人毎に説明して誇つたのである、正岡先生の來られた時なども誰れが書いたか分らぬものを掛けて置くなどは面白いといはれた位である、併し何とかして確とたしかめて置きたいとの念は始終頭にあつた、數年の後岡麓君であったと思ふ、東滿の文字はモツト艶があつて厭味なものだ、これは多分東滿ではあるまいと云はれた、又或人は上田秋成の歌集にこんな歌があつた樣だと云ふてくれた、予は即日、續日本歌學全書を調べて同書中小澤蘆庵全集の内に藤簍册子あるを見付け出し、且つ其卷頭に出だせる秋成の筆跡に依て、一見秋成の歌であつたことが判つた、藤簍册子を繰返して見ると秋成自選の歌とも見るべき、屏風歌といふ中に四首共載つてゐた、秋成の自信ある歌といふことも知れた。
此時分の予は最早東滿虞淵等に對しては崇敬心漸く薄らぎ、一方には秋成の人となりと其生涯の詩的なると又才筆縱横なるとに、深く同情を寄せつゝあつたので、四首の歌の秋成であつたことは却て東滿であつたよりか嬉し(41)さの度が強い、歌人といふものゝ中に天眞の詩人らしい人間は實に少くないが、秋成は歌人中にあつて實に古來稀有の詩人である、俳人無腸としては、續明烏、五事反古等に幾句かの俳句も出て居る、續明烏の跋文を書いたを見ても、俳諧に遊んだ程度が知れる、小説家としても偉才を有して居つたとのことである、歌詠みといふ歌詠が十人が十人迄歌より外に文學に尊いものはないように思つてゐる中に、俳句を作り小説迄書いた秋成、彼れが如き人物が歌人中から出たといふことは歌人の爲めに聊か氣を吐くに足ると云はねばならぬ。
然らば秋成の歌は皆此四首の如きものかといふにさうでない、實は藤簍册子中に四首のような歌は甚だ少ないのである、これには予も再び失望せざるを得なかつた、事の序に少しく彼が歌を吟味して見よう、見渡したところ、佳作は稀れであるけれど、比較的詞の飾りが少く専ら趣味を主として詠めるの跡あると、往々獨創的の作あるを見るは、さすがに秋成であると云はねばならぬ、藤簍册子を通して、摸倣の痕跡が少く、口眞似に類した浅薄を認めないは何より嬉しい。
 
      (二)
 
藤簍册子は長歌短歌を合して七百幾十首と云ふ少からぬ歌數であるが、今一讀打点した結果は短歌僅に二十三首を得たに過ぎない(長歌は別に見る考である)佳作は稀であると思つてゐた予も、更に其少きに驚いた、然も其四首は前編に出せるものであるから、故に選拔したのは實に十九首、今一首を選んで二十首にせようと思つたが、其一首が遂に見出し得られなかつた、歌人中の眞詩人である、と激稱した前編の語に對して、聊かならず失望せぬ譯にゆかぬ、併し是れ多くは時世の罪で獨秋成に完全を責むるは無理であらう、他の選集と云ふものゝ幾百千(42)首中にも、容易に會心の歌を見られないに比べて見れば、又秋成が尋常歌人中打に一頭地を拔いて居ることが知られるのである、勝氣で負惜みの強かつた秋成も、失望々々の語を繰返しつゝ褒てゐる、予の批評の痛酷なるに對しては定めて地下に苦笑を禁じ得ないことであらう。
  宮のうちは男をみなも白楮栲のころもゆゝしみ夏たちにけり
宮中の衣がへはどんな風か能くは知らねど「春過きて夏きたるらし白妙の衣ほしたり」などある歌の心に似て、兎に角青葉の夏になつて宮中の人々も新衣をまとへる、其清々しくたふとい感じが充分にあらはれてゐる、調子の張つて居るところ此時代の歌には絶て見られないものである。
   紀の海の南のはての空みれはしほけに曇る秋の夜の月
普通の歌詠は秋の月とさへ云へば、澄むとか清いとか物悲しいとか、極りきつたことを云ふのに、さすがは秋成大海の風浪に汐曇りした秋の月を見つけた所、新しいと云はねばならぬ。
   おく山の岩垣紅葉このごろはあした霜ふり夕べちりかふ(高雄山)
初冬の山寺、寂々寥々として空しく紅葉のちる所、一讀其境にあるの思がする歌である。
   寒き夜をあかしかねてぞけさ見れば生駒が嶽に雪のつもれる
ありのまゝを咏で能く寒さ早き山家の旅情をつくしてゐる、さゝやかな貧家に夜の物なども薄く主客の翁どち朝かゆ啜るさまも目にみるやうな心持もする歌ぢや。
   九重のとなりにすめる里人は宮なれてしも物はいふなり
とりたてゝ云ふほどの妙味もないが、寫寶でなければ出來ぬのである、當時の有樣推想するも恐多い次第であれ(43)ど、今日からは殆ど想像もできぬ位に里人が宮なれたのであらう、歴史的に考へて見ると非常に興味を以てゐる歌である「九重のとなり」と無造作に詠み下した所に最も實情が寫されてある。
   柳もえ芦つのぐみて津の國の長柄のつゝみ人のゆきかふ
寫生々々實に寫生である、此時代に此寫生がある 明治の歌人猛省して可なりだ、俳句を解した秋成にして始めて詠み得べき歌ぢや、實に獨創の作である、南畫の趣味ぢや蕪村の繪ぢや、實際の趣味を看取することを知らずに詞の上で許りこねくつて居る歌人達は毎日一度づゝ是等の歌を誦唱して居るがよい。
   かげろふのもゆる春日の小松原鶯遊ぶ枝うつりして
まるで繪ぢや、鶯鳴くと云はない所に注意せねばならぬ、考へて作つた歌でない實際を見て詠じた歌である、何等の巧みがないだけそれだけ景色の感がよく顯はれて居る「枝うつりして」の詞今日から見ると陳腐であるが、決して此歌に妨げない、歌全首悉く振つた詞で滿たさなくともよいのである。
   大寺のかとべにたてる古柳土はくまでに枝はたれにけり
縱令へ陳腐な題にても觀察点を一歩進めて注意すれは必ず歌を得られると予が常に唱へた所はこゝだ、寺の門前の柳實に陳腐である、然かも土はくまでに古柳の枝が澤山垂れて居るを寫せば決して陳腐でも平凡でもない、結句「枝は垂れにけり」と殊に「に」の字を入れて字余りにした所最注意して見ねはならぬ、如何にも枝が長々と澤山たれて居る感じを顯すには「枝はたれたり」と無造作に云つてのけてはいかぬ、「枝はたれにけり」と字餘りに重々しく云つたので古柳の大きな枝も澤山な感じが顯はれるのぢや、此あたりの消息を解して居らぬ歌人であつたら到底駄目である、秋成が今日に居つたら、吾々の無二の同志者であること疑ない。
(44)   うちむれてきのふは見しを櫻花雨靜なるかげとなりにき
   櫻花うれしくもあるか此夕べあらしにかへて小雨そぼふる
櫻と云ふもの春雨といふものゝ句点能く其趣きを解した人の作りうる歌である、雨靜かな櫻の朝何といふよい感の歌であらう、きのふは大勢騷いで居つた反對にけさの靜かさ、捕へ所が大事だと繰返し云ふのは茲ぢや、いづれも實際を詠めるものであつて、決して考へてこしらへた歌でないと云ふこと一目して明かに感ぜられる、此二首は並べ記してある所から、同時に作つたものであらう 連作になつて居る、二首合して見ると此櫻が野の櫻でもなく山の櫻でもなく、家のまはりの櫻といふことは、詞にはなくて感の上によく顯はれて居る 即周圍が不言の間にゑがゝれて居るのである、多くの歌人が此連作の働を解せぬは實に情ない程もどかしい。
   山里は夕ぐれ寒し櫻花ちりはそめねどにほひしめりて
一寸面白い所を捕へたが、「ちりはそめねど」の一句よくないと思ふが捨がたい所のある歌である。
   櫻ちる木のもと見れば久万の星の林に我は來にけり
落花の形容を星の林と云つたは新しくて面白い、極めて放膽な詞つきで却つて趣味がある。
   たちはなの嶋の御門にとのゐしてやま時鳥きかぬ夜もなし
こは歴史上の事實を推想して詠めるのだ、天武天皇の皇太子日並皇子の宮居を嶋の宮と云つたので、同皇子のおかくれになつた時に舎人等が慟哭歌を作つた二十三首の中に、「たちはなの嶋の宮にはあかねかも」云々の歌がある、是等の歌に依て其舎人等が皇子の御生前嶋の宮に宿直した心になりて詠めるものである、時鳥は橘の縁語から思ひついたものであらうと思はれるが、由來有ふれた詠史の歌といふもの、悉く謎か説明か然らざれば理窟(45)をこねた歌許であるに、此歌の如き人が詠史とも氣がつかぬ位である、蕪村は俳句の上に屡歴史を吟じて居るが皆此筆法でやつて居る、されば俳句では珍しくもないが、歌では頗る珍しいのである調子の上にも詞の上にも一点の淀みがなくて能く落着てゐる、萬葉時代の歴史を詠み乍ら萬葉を摸倣せぬ見識敬服の外ない、品格があつて感じのよい歌である、思ふに蕪村の俳句などから悟入したのであらう。
   五月雨は夜中にはれて月に鳴くあはれ其鳥あはれそのとり
月に鳴く時鳥、其捕へどころは如何にも陳腐であるが、五月雨は夜中にはれて意外なるに月もあらはれて時鳥も鳴いた、其趣きのたまらなく面白かつたので、何もかも云ふてゐるまはない、いきなり口を突いて出た歌である、場合が場合ゆゑ、稍騷狂の体であるが其騷狂が此歌の性命である、其騷狂があるので月に鳴くほとゝぎすも物になつたのぢや、事實の趣きを主と詠む時には陳腐な題目にてもどこかに新しい趣が含まれるものである、考へてこしらへた歌は珍らしければ珍しいほど不自然になつてしまう、修養中にあつては題詠も止むを得ないが、眞の歌を作るには必ず事實の趣味を歌はねはだめである。
                 明治37年11月・38年1月『甲矢』
                      署名   左千夫
 
(46) 新佛教有て以來の文章
 
人々の見る目と云ふものはかうも違ふものか、前七即五卷十二號で獏生君は、前々號即五卷十一號を「新佛教」近來の惡誌といきまかれてゐるが、予は其十一號中に「弟の戦死」繋哩生とある文章を以て、「新佛教」有つて以來の文章なりとして獨感嘆を禁じ得なかつたのである。
予は文章と云ふものに就て深く知る所あるではない、文法とか句法とかいふこと固より能くは知らぬ。乍併詩でも文でも人を動するの力あるものは、何處迄も上乘のものと云はねばなるまい、人を動すの力があつて始めて生命ある詩文といふものであらう。予は「弟の戦死」を讀で讀みつゝゆくうち、いつか涙が眼瞼に傳はり一度拭ふて復讀み終つた。予は此一文を讀み終るや無意識に卷を閉ぢ暫くは瞑目して嘆息した。終に堪へられなくなつたから端書一枚を飛ばして此文の作者ならんと信じた境野君に思つた通りを書き送つた。
不幸といふこと悲慘といふこと、今の世に珍らしいことではない、猶境野君の文に予の涙を禁じ得なかつたは、其事實が同情を催すとは云へ又行文の妙に依るのであらう。作者はうまく書かうと思うて書いたのではあるまい、名文を作らうと思うて作つたのではあるまい、しかし古來名文といふもの多くは皆さうであるらしい。只作者の巧思に依つてのみ作られた文に感嘆すべきものは少ないやうだ、多くの場合情滿ち意溢れて文自ら成る所に云ふべからざる妙味の存するを見るのである。今彼一文を繰返し見るに、文法又自ら整うて居る。先づ第一節は平夷(47)に簡潔に概略を叙して、それより細節に入つては層々として波のよするが如く、一波は一波より痛切を加へ、「不幸者中の不幸者であつた弟は云々僕の弟は死際まで他人よりは不幸な死方であつた」と云ふ邊を讀で涙を催さぬ人があつたら、そういふ人は冷酷な人であらうと思ふ。終に臨で軍人ならぬ軍人の功績を叙して聊か自ら慰め、末節に至つては包まんとするも包みきれぬ胸裏の恨、然も筆を謹みて多く記さず、詞盡て意盡きざるの趣悲で傷らずとはこういふ所を云ふのであらうと思ふ。
言自然に出でゝ文又自然に態を爲す、之をこれ即文の妙なるものと云ふのであるまいか、人は多く云ふ言文一致の文は淺薄である、重厚がない品格がないと、果して然か否かは是等の文に就て見るべしだ。彼の一文に對し文章としての批評などを受くるは、境野君に於ては迷惑に感ぜらるゝかも知れねど、予はあたら名花の空しく雜草に埋没し去らるゝの感に堪へない。併し「新佛教」に向つて大に文學趣味を加へられんことを望むとの「ばく」君の説には予も無論賛成であるのである。
                     明治38年1月『新佛教』
                       署名   左千夫
 
(48) 家庭小言
 
      (一)
 
近頃は、家庭問題と云ふことが、至る所に盛んなやうだ、どういふ譯で、かく家庭問題が八釜敷なつて來たのであらうか、其原因に就いて考て見たらば、又種々な理由があつて、隨分と面白くない原因などを發見するであらうと思はれる。乍併、此家庭問題を、色々と討究して、八釜しくいうて居る現象は、決して惡い事でない、寧ろ悦ぶべき状態に相違ないのであらう。只其家庭問題を、彼是云うて居る夫子其人の家庭が、果して能く整うて居るのであらうか、平生圓滿な家庭にある人などは、却つて家庭問題の何物たるかをも、知らぬと云ふやうな事實がありはせまいか 是れは少しく考ふべき事であると思ふ。予は現に、人の妻と姦通して、遂に其妻を奪つた人が、家庭の讀物を、發刊しようかなどゝ云つて居るのを、聞いたことがある。猶予自身の如きは、幸に家庭の不快など經驗したことがないので、家庭の問題などは、主人の心持一つで、無造作に解決せらるゝものと信じて居つた。殊更に家庭の圓滿とか家庭の趣味とか、八釜しく云ふことが、却つてをかしく思はれて居つた。
それは、今日世上に、家庭問題を論究しつゝある人々の内にも、必しも、不圓滿な家庭中の人許りは居るまい、人の摸範となるべき家庭を保つて居る人も、多いであらうけれども、實行の伴なはない論者も、決して少くはあ(49)るまいと思ふ。圓滿な家庭中の人が、却つて不圓滿な家庭の人から講釋いはるゝやうな、奇態の事實がありはせまいか。云ふまでもなく、家庭問題は、學術上の問題ではない事實の問題であるから、實驗に基づかぬ話は、何程才學ある人の云ふことでも、容易に価値を認めることの出來ないが普通である、世の學者教育家などの、無造作に家庭問題を云々するは、少しく片腹痛き感がある。世に家庭の事を云々する人には、如何なる、程度の家庭を標準として説くのであらうか、予は常に疑ふのである、家庭といふ問題に就いて、一つの標準を立て得るであらうか、其標準が立たないとした時には、何を目安に家庭問題を説くか、頗る取り留めなき事と云はねばならぬ。元來、家庭と云ふものは、其人次第の家庭が成立つものであつて、他から模形を示して、家庭といふものは、是々にすべきものなどゝ、教へ得べきものでないと思ふ。
人々に依り、家々に依り、年齢に依り、階級に依り、土地により、悉く家庭の趣味は變つて居る。今少しく精細に云つて見るならは、役人の家庭、職人の家庭、藝人の家庭、學者の家庭、新聞記者、政治家、農家、商家、其外に貧富の差がある、智識の差がある、夫婦諸稼の家庭もある、旦那樣奥樣の家庭もある、女の多い家、男の多い家、斯く數へて來たらば際限がない、一個人に就いても決して一定して居ない、妻のない時、妻のある時、親といふものになつての家庭、子に妻なり婿なりの出來てからの家庭、此の如き調子に家庭の趣きといふものは、千差萬別、少しも一定して居るものでない、標準などいふものゝ立ち樣のないのが、家庭本來の性質である。されば、世の家庭談とか云ふものは、實は其人々の思々を云ふたものに過ぎない譯で、それを以て、他を律することも出來ず他を導くことも出來ない筈のものである。家庭教育、家庭小説、家庭料理、家庭何々、種々な名目もあつて、家庭に對する事業も澤山あるやうだが、實際家庭を益するやうな作物があるか否かは疑問である。飛だ(50)間違つた方向へ應用されると、却て家庭を害するやうな、結果がないとは云へぬ、何れ商買上手の手合の仕事とすれば、害のない位をモツケの幸とせねばならぬが、眞面目に家庭談を爲すものや、本氣に家庭作物を讀む人々は、先づ此家庭の意義を、十分に解して居つて貰ひ度いものである。
予の考は、家庭の意義を根本的に云ふならば、其人の性格智識道徳等から、自然に湧くべき産物である。高くも低くも、其人だけの家庭を作るより外に、道はないのであらう。甲の家庭を乙が模し、丙の家庭を丁が模すると云ふやうな事は、迚ても出來ないことぢやと信ずる。其人を解かずして其家庭を解くは、火を見ないで湯を論ずるやうなものである。湯の湧く湧かぬは、釜の下の火次第である、火のない釜に、湯の湧きやうはない。家庭の趣味如何を問ふ前に、主人其人の趣味如何を見よ、趣味なき人に趣味ある家庭を説くは、火のない釜に、湯の沸くを待つやうなものだ、こう云うて了へば、家庭問題と云ふものは、全く無意義に歸して終ふ譯だ。然り教導的に家庭を説くは、全く無意義なもので、家庭を益することは少く、害する方が多いに極つて居る。
乍併、家庭は尊いものだ、趣味の多いものだ、樂み極りないものだ、人間の性命は、殆ど家庭に依つて居ると云つてもよい位だ。されば、人各家庭の事實を説くは、甚だ趣味ある事で、勿論他の參考にもなることである。只自身家庭趣味の經驗に乏しく、或は陋劣なる家庭にありながら、徒らに口の先、筆の先にて空想的家庭を説くは、射利の用に供せらるゝ以外には、何等の意義なしと云つてよからう。
家庭趣味の事實を談ずることは、談者自ら興味多く、聽く人にも多くの趣味を感じ、且つ參考になることが多い。故に家庭の事は、人々盛に談ずべしだ、面白い事も、悲しいことも、人に談ずれば面白いことは更に面白さを加へ、悲しいことは依て悲みを減ずる。家庭の圓滿を得ない人は勿論家庭圓滿の趣味に浴しっゝある人でも、能く(51)談ずれば、其興味を解することが益深くなつてくる。今迄はうかと經過した些事にも、強烈な趣味を感ずる樣になつてくる。何事によらず、面白味を知らずに其中にあるより、面白味を知つて其中にあれば、樂みが一層深いものである、山中の人山中の趣になれて、却て其趣味を解せざるが如く、家庭趣味に浴しつゝある人も、其趣味を談ぜざれば、折角身幸福の中にありながら、其幸福を、十分に自覚しないで過ぎ去る譯である。
他が爲に家庭趣味を説くは陋しい、人の各自に其家庭趣味を談じて、大に其興味を味ふといふは、人世の最大なる樂事であるまいか。吾新佛教の同人諸君、願くば大に諸君の家庭を語れ、予先づ諸君に先じて、吾ボロ家庭を語つて見よう。
 
      (二)
 
今一くさり理窟を云つて置かねばならぬ、予は先に、今の家庭説は、家庭を害する方が多いと云つた、何故に家庭を害するか、それを少しく云うて置かねばならぬ。
世人多くは、家庭問題は、今日に始まつたものゝ如く思つて居るらしいが、決してさうではない。吾々が幼時教育を受けた儒教などは、第一に家庭を説いたものである。彼灑掃應對進退の節と説き、寡妻に法り、兄弟に及ぶと云ひ、國を治むるのもとは、家を治むるにありと云ひ、家整うて國則整ふと云ひ、其家庭の問題を如何に重大視したか、詩經などの詩を見ても、家庭を謳うたものが多いのである。則家庭問題は、實に人世至高の問題として居つたことが到る。只古のは、根本的精神的であつて、今のは物質的の末節を云ふが多いのである。人格問題、修養問題を拔きにした、手藝的話説が多いのである。根を説かずしてまづ末を説く、予が家庭を害すること多い(52)と云ふは、此顛倒の弊害を指したのに過ぎぬのである。
能く家を整へて、一家をして、より多くの和樂幸福を得しむると云ふことは、人間の事業中に有つて、最も至聖なるものである。大きく云へば国家の基礎、社會の根底を爲すのである。至大至高の問題と云はねはならぬ。何等の修養なき、何等の經驗なき青年文士や、偏學究などに依て説かるゝ家庭問題、予は有害無益なるを云ふに憚らぬ。家庭の主人公なるが如く心得、家庭の事は、男子の片手間の事業かの如く考へて居るのが、今日家庭を説くものゝ理想らしいがこれが大間違の考と云はねばならぬ。
大なり小なり、一定の所信確立して、人格相當の家庭を作れる場合に至つて、物質的家庭趣味の撰擇に取りかゝるべきが順序である。己一身の所信覺悟も定まつて居らず、如何にして家族を指導し、一家を整へ得べき。精神的に一家が整はぬ所へ、やれ家庭小説ぢや、家庭料理ぢや家庭科學ぢや、家庭の娯樂ぢやと、騷ぎ立てることが、如何に覺束なきものなるか、予は危險を感ぜざるを得ないのである。既に、今日の教育と云ふものが、学問的に偏し、技藝的に偏し、人格的精神的の教育が缺如して居るかと思ふ。是等の教育に依て、産出する所の今日の多くの青年を見よ、如何に輕佻浮華にして、人格的に精神的に價値なきかを。如此青年が、順次家を成し、所謂家庭を作るに當つて、今日の如き家庭説、半驕奢趣味の家庭談を注入したる結果が、如何なる家庭を現じ來るべきか。
座して衣食に究せず、其日其日を愉快に經過するを以て、能事とせる家庭ならば、或は今日の家庭説を以て多くの支障を見ぬのであらう。然れども、如此種族の家庭が、社會に幾許かあるべき。多くは一定の職業を有して、日々其業務と家事とに時間を刻みつゝあるのである。家庭料理などゝ、洒落れて居られる家は少ないのぢや。既(53)に處世上、何等確信なき社會の多くが、流行に驅られて今の世にあつては、斯くせねばならぬかの如くに誤解し、日常の要務をば次にして、やれ家庭の趣味ぢや、家庭の娯楽ぢやと騷ぎ散らす樣であつたならば、今の家庭説は、徒らに社會に騎奢を勧めたるの結果に陷る譯である。
今日の事は、何事によらず、根本が拔けて居つて、うわべ許りで騷いでゐる樣ぢや。宗教界などを見ても、自個の修養をば丸で跡廻しとして、社會を救ふの、人を教ふるのと、頗る熱心にやつて居る輩もあるやうなれど、自分に人格がなく修養がなくて、どうして社會を教ふることが出來るであらうか、己が社會の厄介者でありながら、社會を指導するもないものだ。見渡した所、社會の厄介にならぬ宗教家ならば、まづ結構ぢやと云ひたい位だ。文學者とか云ふ側を見てもさうである、文藝を賣物に生活して居るものは、「ホーカイ」「チヨボクレ」と別つ所がないのは云ふまでもないが、エラさうにも、詩は神聖ぢや、戀は神聖ぢやなどゝ騷ぎ居るのである。匹夫野人も屑しとしないやうな醜行陋體を、世間憚らず實現しつゝ、詩は神聖戀は神聖を歌つて居るところの汚醜劣等の卑人が、趣味がどうの、美がどうのと云うてるのに、社會の一部が耳をかしてるとは、情ないぢやないか。
今の家庭を云々するものも、どうか厄介宗教家や汚醜詩人のそれの如くならで、まづ何より先に、自個の家庭を整へて貰ひたい。今の家庭問題に注意する人々に告ぐ、自分は自分だけの家庭を作れ、決して家庭讀物などの談に心を奪はるゝ勿れ。今の家庭説とて、皆惡いことばかりを書いてあると云ふのではない、本末を顛倒し、撰擇を誤るの書を恐れるのである。眞の宗教、眞の詩、眞の家庭、却て天眞なる諸君の精神に存するといふことを忘れてはならぬ。
 
(54)     (三)
 
調子に乘つて大きな事を云ひ散らしてしまつた、心就いて自ら顧みて見ると俄にきまりが惡くなつた、ラチもなき家庭談を試みようとの考であつたのに、如何にも仰山な前提を書き飛ばした、既に書いてしまつたものを今更悔いても仕方がないが、一度漸愧の念に襲はれては、何事にも無頓着なる予と雖も、さすがに躊躇するのである。乍併茲で止めて了ふては余りに無責任のようにも思はれる、諸君も語れ予先づ語らむなど云へる前言に對しても何分此儘止められぬ、マヽよ書過しは書過しとして兎に角今少し跡を續けて見ようと決心した、遠き慮りなき時は近き憂ありとは、能くも云ふたものぢやと我から自分を嘲つたのである。
予の家庭は寧ろ平和の坦道を通過して來たのであるが、予は自らの家庭を毫も幸福なりしとは信じない、悲慘と云ふ程の事もなかつた替り、尋常以上の快樂もなかつた、云はゞ、極めて平凡下劣の家庭に安じたのである、或一種の考から其下劣平凡の家庭を却て得意とした時代もあつた。
予は十八才の春、豐ならぬ父母に僅少の學資を哀求し、始めて東京に來つて法律學などを修めた、政界の人たらむとの希望からである、予が今に理屈を云ふの癖があるは此時代の遺習かと、獨で窃にをかしく思つとる、學文の上に最も不幸なりし予は、遂に六ケ月を出でざるに早く廢學せねばならぬ境遇に陷つた、何時の間にか、眼が惡くなつて府下の有名な眼科醫三四人に診察を乞ふて見ると云ふことが皆同じである、日く進行近視眼、曰く眼底澁血、最後の當時最も雷名ありし、井上達也氏に見て貰ふと、率直なる同氏はいふ、君の限は瀬戸物にヒヾが入つた樣なものぢや、大事に使へば生涯使へぬこともないが、ゾンザイに使へば直ぐにこはれる、治療したつて(55)駄目じや 只眼を大事して居ればよい、サウさ學文などは迚ても駄目だナア、コンナ調子で無造作に不具者の宣告を與へられてしまつた。
最早予は人間として正則の進行を計る資格が無なつた、人間もこゝに至つて處世上變則の法方を採らねばならぬは自然である、國へ歸つて百姓になるより外に道はないかなと考へた時の悲さ、今猶昨日の如き感じがする 學資に不自由なく身體の健全な學生程、世の中に羨しひものはなかつた、本郷の第一高等學校の脇を通ると多くの生徒が盛に打毬をやつて居る、其愉快げな風がつくづく羨しくて暫く立つて眺めた時の心持、何とも形容の詞がない、世の中と云ふものは實に不公平なものである、人間ほど幸不幸の甚しきものはあるまい、相當の時機に學文することの出來なくなつた人間は、未だ世の中に出でない前に、運を爭ふの資格を奪はれたのである、思ふ存分に働いて失敗したのは運が惡いとして諦めもしようが、働く資格を與へぬとは隨分非度い不公平である いま/\しひ、それでも運好く成功した人間供は、其幸運と云ふことは一向顧みないで、始めから自分達が優者である如く意張り散らすのである 予は茲で一寸天下の學生諸君に告げて置きたい、學資に不自由なく身體健全なる學生諸君、諸君の資格は實に尊い資格である、諸君は決して其尊い資格を疎かにしてはならぬ。
何程愚痴を云ふても返ることではない、予は國へ歸つた、両親は左程には思はれぬ、眼を病めば盲人になる人もある 近眼位なら結構ぢや、百姓の子が百姓するに不思議はない、大望を抱いて居ても運がたすけねば成就はせぬもの よし/\もう思ひ返して百姓するさ、一農民の資格に安じて居る兩親は頗る平氣なものである、結句これからは落着いて手許に居るだらう、よい鹽梅だ位に思つてゐるらしひ風が見える、何もかも慈愛の泉から湧た情と思へば不平も云へない。
(56)父は六十三母は五十九余は其末子である 慈愛深ければこそ、白髪をかゝへて吾兒を旅に手離して淋しさを守つて居るのである、今修學の望が絶て歸國したとすればこれから手許に居れといふ老父母の希望に寸毫の無理はないのだ、勿論其當時にあつては予も總ての希望を諦め老親の膝下に稼穡を事とする外なしと思つたが、末子たる予は手許に居るといふても、近くに分家でもすれば兎に角、さもなけれは他家に養子にゆくのであるから、老親の希望を遺憾なく滿足させるは、少しく覺束ない事情がある、
學文を止めたかとて百姓にならねばならぬと云ふことはない、學文がなくとも出來ることが幾らもある、近眼のために兵役免除となつたを幸に、予は再び上京した、勿論老父母の得心でない、暫く父母に背くの余議なきを信じて出走したのである、併し再度出京の目的は自個の私心を滿足させんとの希望ではない、衣食を求むるため生活の道を得んがため、老親の短き生先を自分の手にて奉養せむとの希望のためであつた、予が半生の家庭が常に變則の軌道を歩したと云ふも、一は限病で廢學した故と生先短き親を持つた故とである、殊に予の母は後妻として父の家に嫁がれ予の外に兄二人あるのみで、然かも最もおそき子であるから吾等兄弟が物覺のついた時分には老母の髪は半分白かつた 如此事情のもとに生長した予は小供の時より母の生先を安ずるといふのが一身の目的の如くに思つて居つたのである、眼病を得て處世上正則の進行を妨げらるゝに及びては、愈私心的自個の希望を絶對に捨てねばならぬ事になつた、
老母の壽命がよし八十迄あるとするも、此先二十年しかない、況や予が生活を得るまでには猶少くも三四年は間があつて、母の命八十を必し難しとすれば、予は自分の功名心や、遠い先の幸福などに望を掛けて、大きな考を起す暇がないのである、年少氣鋭の時代は何人にもある、予と雖も又其内の一人であれば、外國へ飛び出さんと(57)の念を起せるも一二度ではなかつた、只予の性質として人の子とあるものが只自個一身の功業にのみ腐心するは不都合である、兩親を見送つての後ならば、如何なることを爲すとも自個の一身は自個の隨意に任せてよいが、父母猶存する間は父母と自分との關係を忘れてはならぬ、よし遂に大業を逢げたりとするも、其業の成れる時既に父母は世に存せざるならば、父母に幸福を與へずして自個の幸福を貯へた事になる、人の子として私心的態度と云はねばならぬ、世の功名家なるものに人情に背けるの行爲多きは、其私心熾なるが故に外ならぬ、常に以上の如き考を抱いて居つた予は、遠大な望みなどは少しもない、極めて凡人極めて愚人たるに甘ぜんとしてゐた、予は一切の私心的希望を捨てゝ、老母の生先十數年の奉養を盡さむが爲に、凡人となり愚人となるに甘ぜむと心を定めた時に不思議と歡喜愉快の念が内心に湧いたのである、他人の爲に自個の或る點を犠牲にして一種の愉快を得るは人間の天性であるらしひが予が老たる父母の生先の爲に自個の欲望を捨てたのであるから、何となく愉快の念が強い、之に依て見ると人間の幸不幸といふことは、人々精神の置きどころ一つにあるのであるまいかと思つた、令名を當世に擧げ富貴の生活を爲すは人世の最も愉快なるものに相違ないが、予の如き凡人的愉快も又云ふべからざる趣味がある神は必しも富貴なる人にのみ愉快を與へぬのである、予一人の愉快のみでない、老たる父母が予の決心を知つて又深く愉快を感じたは疑を要せぬ、
僅に二圓金を携て出京した予は、一日も猶豫して居られぬ、直に勞働者となつた、所謂俸公人仲間の群に投じた、或は東京に或は横濱に流浪三年牛二十七才と云ふ春、漸く現住所に獨立生活の端著を開き得た、固より資本と稱する程の貯あるにあらず人の好意と精神と勉強との三者をたよりの事業である、予は殆ど毎日十八時間勞働した、されば予は忽ち同業者間第一の勤勉家と云ふ評を得た勤勉家と云へば立派であるが當時の状況はそれほど(58)働かねば業が成立せぬのだ、此時に予の深く感じて忘れられぬは人の好意である、世人は一般に都人の情薄きを云へど、予は決してさうは思はぬ、殆ど空手業を始めた困苦は一通りでない、取引先々の好意がなくて到底やりたふせられるものでない、予に金を貸した一人の如きは、君がそれほど勉強して失敗したら、從令へ君に損を掛けられても恨はないとまで云ふた、東京の商人といふもの表面より一見すると、如何にも解らずや許の樣なれど、一歩進めた交際をして見ると、田舎の人などよりは遙に頼もしひ人が多い、堅實な精神的商人が却て都國の中央に多いは爭はれぬ事實ぢや(少しく方角違ひなれば別に云ふべし)
 
      (四)
 
智の分子多きに過ぎた戀は醜汚を脱することが出來ぬ、智の分子少きに失した戀は愚劣に終るが常ぢや、予が老親に對せる情愛の如きは正に後者に屬するものであつた。愚劣な戀は大概心美しく可憐である、それで多くは志を遂ぐることが出來ぬ。多情多感の人は、其自らの美しき感情に醉はされて、智識的考慮を缺くのが普通である。人間生涯を誤るほどの危險が其醉魔中に籠つて居ることを知らぬ。予の如きは正に其一人であつた。
縱令心に少しも醜汚の念を抱かず、行ひ又悪を爲さずとするも、智識缺乏せる愚劣な行動をして自ら招く的禍に陷る人間に對しては、神佛の加護も及び能はぬのであらう、人間は自ら自己を守るだけの智識を貯ふべきは神の命令らしく思はれる。乍併美しき心を持てる人は、皆感情の方面に熱烈なる働をなすに係らず、智識の方面には甚だ無頓着で反省の念が乏しひのである。善人にして不幸なるもの少からぬは以上の如き理由に依るのであるま(59)いか。善人の不幸多きを見て直に神を疑はんとするは、疑ふ方が無理なのであらう。世の中は善の一道を以て通ることを許さぬ、如何な善人と雖も智慮分別といふものを缺いでは安全に世を渡ることは出來ぬといふが神の教であるらしい。予の如きは正しく其智慮分別を缺いた愚劣な善人の方であつた。
予は世に親切なる人の勸めと宿志を急ぐの念とに驅られた爲に、始めて家を持つといふことに就き相當の考慮を缺いだのである。一年と立たぬ内にそれと覺つたは覺つたが、覺つた時の予は既に容易ならぬ苦境に勸つて居たのである、後悔しても及ばぬ深みに落たのであつた。それを簡單に説明すれば力不相應なことをやつたのである。自個の欲望のためではない、老親奉養といふ重大な任務を持つて居る身を以て、取返しの就かない悲境に陷ることのあるべき事をやつたのである。一口にいへば自分の資金は僅少で多く他人の資金に依て業を始めたのぢや。これが只自己中心的事業であるならば、得心して貸す人があるとすれば、年少氣鋭の時代に或は惡いことはないかも知れぬ、乍併予の如き自分といふもの以外に目的を有して居るものが、一度着手すれはのつぴきならぬ境涯に陷る樣な事をするといふは、分別のないも甚しいものと云はねばならぬ。予は其甚しき自分の無分別なりしを氣づいた時の悲痛は今猶昨日の如く何とも形容が出來ない、死でも間に合はぬと思ふほどに精神の苦痛を感じたのである。
予の刻苦勉勵した事業一ケ年の結果といふものは、情なくも只負債の淵に深入したに過ぎぬ。元金は愚な事利子さへ怫ひゆく見込みがない、算數の上に豫算が持てぬ、繼績してゆく見込が立たないといふ状態に陷つた。予は予自身の倒産だけならばそれほど悲みも驚きもせぬが、予の志を諒し、予に無限の同情を寄せてくれた恩人即ち予の資金に保證人となつてくれた人がある、身一つなるものゝ予の負債に對し保證人となつてくれた人である。(60)世にも親切なる此人は富める人ではない、當時既に四十何才といふ年で兒供四五人もある、窮しても居なかつたが決して餘裕ある人ではない。されば予が倒産すれば保證の責任上恩人も共に倒産に至るは明かなる事實である。人誰れか恩に感ぜぬものやある、殊に其志に同情して助けてくれた恩人、其恩に報ずるに仇を以てすることにならんとした予の境涯、泣いても涙が出ぬ、死ぬにも死なれない苦さである。予は身神共に極めて健全である、縱令倒産した處で直ちに衣食に窮するものでない、予の老親とて郷里に在つて決して衣食に窮しては居らぬ、故に當時切迫した予の悲痛は、四十を越て妻子五六人と共に倒産流浪の身となるべき恩人の上にある。それが全く予の爲に倒産流浪に逢ふのであると考へたら、どうして煩悶せずに居られやう。愈さうとなつたら予は到底照る日の下に見て居らるゝものでない、死しても魂の行きどころなく思ふのである。
何たる愚劣な境遇であらう。男子一匹の身神を擧げて老親のために安養の地を作らむとした事業ではないか、今はそれを目的として働くことの出來ないことになつて、負債辨償といふことを親に仕ふるより大事にせねばならぬことになつた。それも辨償の目途が少しでもあれば、これほどに苦痛はない。凡そ人間の事あきらめてあきらめらるゝ事ならば六つかしい事ではない、死して事濟むものならば六つかしい事ではない。些々たる金錢問題にかゝりあふて死ぬに死なれぬ、苦悶をするとは何たる愚劣な事であらう。男子一旦覺悟した以上は、初一念の目的に斃れるならば少しもくやむ事はない、悲しむこともない、當初相當の考慮を缺いだ爲めに、今は初一念の目的に死ぬ事も出來なくなつた悲さ。
此際に處して予は如何にすべきか、百度考へても歸する所は只一筋である。難風に出逢ふた舟の如く力の限り盡して助かるとも助からぬとも、最後まで行きつめる外に道はない。予は自分を助からうとは露はども思はぬ、只(61)恩人を沈めまいと願ふの念、一心不亂に身のつゞく限り働ひて誠心誠意資本主に掛ける損失を少くしやうとした。自個の所有物悉皆を投出して、それで責務を終へたといふ譯にゆかぬ境涯に立つては、吾ながら實に憐れなものであつた。全幅の誠心誠意を資本主に示し、賀本主をして予の精神を諒として保證人に迫るなからしめんと願ふたのである。人間の苦境も茲まで陷れば殆ど極であらう。
併ながら獨者諸君願くば安心せよ、自個といふことを目安とせぬ誠意の働きは、末世と雖も人を動かすのである。予自らが斯くいふは聊か耻かしい次第であるが、先に一寸云ふた如く予の資本主は予の行動に感じてか、君がそれほどに丹精をしていけないならば、よし君に損失をかけられても悔まぬと云つた。此人今は内地に居らぬ、餘り人より譽められなかつた人であるが、予に對してはさういつたのである。兎に角人事豫め計りがたくそこに不思議の存するもので、到底見込みないと思ひ込だ予の事業も其後半年餘も立ちゆく間に、多くの人の同情もありし事とて、いつしか一陽來復の機運を認めらるるに至つたのである。種々な悲慘を想像した苦悶も單に苦悶だけにて事實にはならずに經過し得らるゝ感じになつてきたのである。未だ決して安心と云ふまでになつたのではないが、危險な感だけはなくなつた。思へば實に危險千萬な次第であつた。最初に少しく考慮を缺いた爲に非常なる危險の地を踏んだ譯である。力不相應な仕事不完全な獨立、予が今も身にしみて忘れられない所である。望の大小を別にして必成を期するの目的ある人は、順序と時期とに充分なる考慮を怠つてはならぬ。一度失敗すれば取返しがつかぬ。戀愛を持つて居る人などに對して予は殊に注意を促すのである。事業一度失敗したら命にかへる戀人にも別れねばならぬことになる。予は忘れもせぬ、或寄席にて彼有名なりし講談家圓朝が鹽原太助の話中、太助が炭屋を始める時に貯金二十兩の内拾兩を以て業を始めた、一度失敗しても再擧の出來る用意で、さすがに(62)心掛けが違つてゐると云つた。苦境の實驗中なる予は深く心に感じて、一場の戯談と雖も眞理があると思つたことを今だに覺へて居る。予は青年諸子に予の經驗を繰返すなからんことを勸めるのである。家庭談として少しく横道に入れることを讀者諸君に謝す。
             明治38年1月・2月・4月・6月『新佛教』
             署名 (一)−(三)伊藤左千夫(四)左千夫
 
(63) 〔『馬醉木』第十五號歌會記事〕
 
     十月短歌會
 
例に依て第三日曜某日、花見寺前秀眞庵に開く、會するもの十一人主人を合せて十二人、空前の盛會で八疊の間の狹きを感じた、「枝豆」「草花」「冬枯」「出征軍人の家族にかはり」等其他數題を出して數題數首一題數首とも各隨意に作る。節(十八點)左千夫(十二點)里靜(十一點)秀眞甲之(各九點)阿都志(八點)三子(七點)義郎秋水八風(各六點)以下畧
   あまさかる鄙の長路の旅にきく籾麿歌の節のおもしろ(四點)  三子
陳腐だといふ人あり、長路の旅がきかぬといふ人もあり
   舟つくる湖の中島草茂り野菊穗芒水に垂れたり(三點)     甲之
舟を造つてゐる中島ならば、人も居る譯であるが人の居さうな感じのせぬ歌ぢや
   我庵の裏山おろし朝寒み夜寒むみ轉た冬近みかも(三轉)    里靜
趣味の感じが列然しない
   庭くまの木のくれしげにほの白く八つ手花咲く秋ゆくらしき(三點) 秀眞
(64)「秋ゆくらしき」は余計の詞のやうだ
   犬ころは我より先に急きけり野菊の多き川端の道(三點)    義郎
「急ぎけり」の犬に對する詞少饒山すぎるやうだ
   此頃の朝掃く庭に花に咲く八つ手の苞落ちにけるかも(三點)  節
此歌も淡泊な趣味に詞づかひ饒山にすぎるようだ
   朝きらふ霞か浦のわかさきはいまか肥ゆらむ秋かたまけて(三點) 節
   起臥の朝戸夕戸に聲立てゝ吾悲しきを知るかこほろぎ(三轉)  左千夫
   刈莖に生ふる稻葉の再びを吾背に逢はせ御軍の神(二轉)    蕨眞
   綾瀬川夕ひく潮につりたるゝ人のもすそに咲くは野菊か(二點) 秀眞
   野菊咲く秋の落水ゆきあひに君を相見ず久しく經にけり(二點) 阿都志
   きぞの雨は朝露となりて燕くらの家戀ふる頃を人の男の子は(二點)阿都志
憶遠征人といふ題の歌なれど少し判りかねる
   實のみなる樗の枝に鵯の此頃來鳴き秋くれんとす(二點)    八風
   樹々の葉を風吹怫ふ音のさや/\。左夜々々に吾此心なぐよしも鴨(二轉) 秋水
   冬近き庵の窓見れは榛の木に夕日片さし野からす鳴くも(二點) 里靜
「冬近き庵」とは少し無理な詞だ
   武夫の妻にてあれと銃玉のかへらぬ我背をもへば悲しも(二點) 里靜
 
       (65)「銃玉のかへらぬ」は俗な詞だ
   冬近き濱邊の風の寒けきに沖邊さしゆく棚なし小舟(二點)   里靜
   枝豆のからを捨つれば流ゆく水さや/\し月もうつりて(二點) 甲之
席上で許列はなかつたが感じのよい歌だ
   油菊野菊といはず刈りこめし草籠ぬちに蟋蟀の鳴く(二點)   羲郎
   猿澤の池波たゝず水際なる夕日の柳こもごも散るも(二點)   三子
   月讀をよしと清しと端近に豆喰ひ居れは露庭に滿つ(二點)   左千夫
   枝豆を煮てを月見し古への人のせりけむ思へばゆかしも(二點) 左千夫
   天地に悲しき君を一目見ずみ墓も知らす妻と云ふべしや(二點) 左千夫
   鮭網を引き干す利根の川岸にさける紅蓼葉は紅葉せり(二點)  節
「さける」の詞此場合にない方もよからう
   秋の田の晩稻刈るへくなりしかば狼把草《タウコギ》の花過にけるかも(二點) 節
「けるかも」の濫用だ「タウコギ」などの花が過ぎたとてけるかもとまで云つて嘆ずるに及ぶまい、
   多摩川の紅葉を見つゝ行しかば市の瀬村は散りて久しも(二點) 節
   麥まくと畑打つ人の曳きこじてたばにつかねし茄子古幹《ナスビフルカラ》(二點). 節
こいふ詠口は節氏が近來の傾向のやうである、茄子畑を返して麥を蒔くといふ人事を叙しながら、其人事をば主とせず殊更に茄子古幹を中心とするのである、いくら客觀がすきだからとて茄子古幹にどれほど面白味があるか。(66)女房が茄子の古幹など片就けてゐる夫なる男が端から畑を打ち始める、そこらには麥の種などが何かの器に入れて置いてある、こいふ人事と配合してこそ茄子古幹も面白く見られる譯であらう、然るに其人事的復雜趣味をば全く説明時に過去に没却し去つて強てつかねた茄子古幹を一首の中心と寫し出すは、どう考へても不自然と云はねばならぬ、同じ茄子古幹でも土藏の腰壁に立掛けてあつたとか倉の庇の下に積であつたとかいふ單獨に見る場合は別である、節と予と主觀客觀の趣味感上折々衝突するは以上の如き場合に存するのである、試に予が作るならば
   茄子畑の茄子の古幹拔きたばねやがて打かへす麥蒔くらしき
一點なれど誰れかゞ天に選びし歌捨がたし
   こほろきの音をなづかしみ廳戸の秣か中を月に探りつ       義郎
                  (左千夫妄評)
                   明治38年1月『馬醉木』
 
(67) 萬葉集短歌私考〔別ファイルにあり→「萬葉集新釈」〕
 
(83) 雜言録 〔二〕
 
「浮城」第四號薇山氏の解嘲と名づくる文に答ふべし、卿等は文界の事業を見て作物の價値を認めむとするにあらざるか、子規子の俳句は天下に擴充せり故に子規子の俳句は玉成せりと思へるか、是れ大臣なるが故にエライ人なりと信ずるが如き思想なり、如此思想を以て子規子の歌を見る其價値を解する能はざるや怪むに足らず、卿等宜しく輕率の妄斷を避け暫く子親子の歌に就て研究せよ、卿等が子親子の俳句を好むといふがまゝに然かく婆言を云ふ 猶俳句の先輩たる河東高濱の諸氏に就て子規の俳句と明星の歌とに於ける趣味の根本相違を訂し見よ、達磨大師はエライ人なるべし、然れども土の達磨は玩器ならずや、ローマンチスムは進歩したる詩想ならむ、然れども明星の歌がローマンチスムの如何なる擬似をか得たる、予に云はしむれば、明星の歌がローマンチスムならばローマンチスムは劣等なる思想なるべしと、要は其作物の價値如何を吟味せば足れり達磨大師を摸したりとて土の達磨にては詮なかるべし、
いつかの明星に天明の兄云々と云ふ晶子の歌あり、鐵幹注解して云ふ天明の兄とは蕪村のことなりと 近い明星にも「銅にあれと御佛は美男におはす云々」と云へる歌あり、是等の用語思想を獨合點ともヱラガリヨガリとも思はざる人と如何にして詩を談じ得べき、況や其口調を眞似て悦び居る輩に於てをや、薇山氏予と諸君同趣味者とは到底縁なき衆生なるか、終に薇山氏の説は「浮城」を代表したるにあらざるを示さむが爲に一消息を傳ふべ(84)し、
  先便發送後「浮城」の一社員より文中に。
   鵜川近刊の分浮城短歌の批評圖に當り候 全く生等の無識を顯し候 頃日根岸短歌の研究を始めたる次第御一笑被下度候
  茲に「浮城」の悔悟の速かなるを喜候 アラレ生
明星派の既往及現在を痛折したる予と雖も同派が將來眞詩境に進轉し得たるの時あらば豈に讃評を贈るに躊躇せむや。
「はゝき木」第三號の矢崎奇峯氏に對しては、前項「浮城」の薇山氏に答へたるを以て充分なりと信ずれども猶一二饒舌を弄し置くべし、
頃日一面識の交を得たる奇峯君、聖人猶痛罵の言あるに罵詈何故に文士の口にす可らざるものなるや、幾百千年間、大歌人大詩人と尊崇され來りたる貫之躬恆以下所有歌人をも烈罵痛折して毫も憚る所あらざりし吾等なり、明治文壇の一部人士然も吾人が見て以て醜陋なりとする所の一輩を痛罵したりとて何故に君の怪異を招ぎたるにや、殊に笑ふべきは鐵幹を回護する人の口より人格云々の語を聞くことなり、予は一讀失笑を禁じ得ざりしと云ふに止めむ、それ以上を書くは筆を汚すの恐れあればなり、區々たる口頭の辭體を悦び、懷抱を明言し所信を直行して顧慮せざるを惡む所の奇峰君、巧に交際して能く美言を交換するの術を知らざる左千夫の如きは最も君の嫌ふ所なるべし、然れども既往現在の明星派一輩の徒に憎惡さるゝが如きは却て予の名譽とする所なるを如何せむ、
(85)奇峰君自ら云ふ余は歌の門外漢なりと、果して然るか予固より門外者に對して完全なる批評を要求せず、門外評素人評予は決して排斥するものにあらず、只夫れ門外評は何處までも門外評として注意を拂ひ置くの外なきのみ、素人評に大なる價値を認めらるゝは社會の趣味程度猶低劣なるを證す、予は今門外批評家たらんとする奇峰君の批評限に就て聊か吟味を試みむ、
  其想に於て客觀詩即主として直觀的叙景の範圍に跼蹐し萬葉の範疇を脱すること能はざる云々 單に想に於て客觀と調に於て萬葉とに拘泥し云々(原文の儘)これ萬葉集の歌を以て客觀趣味と爲せるものなり、予は奇峰氏が萬葉を讀みたるかを疑ふ、若し萬葉を讀みて猶以上の如き言を爲すとせば」、奇峰氏は明に萬葉を解し能ざるの人なり、萬葉中長歌は云ふに及ばず短歌四千を數ふる中に客觀趣味と目すべきもの幾首ありと思へるにや、如何に門外評なりと云ふと雖も如此程度に有つて、猶他の議論製作に向つて批評せんと云ふ其無法なるに驚かざるを得んや、こゝに至つて予は多言するの無要なるを知りぬ、多罪々々。
                     明治38年1月『馬醉木』
                       署名   左千夫
 
(86) 〔葯房主人「正述心緒歌五十一首」前文〕
 
葯房主人頃日歌百七首を寄せ來る、云はく、吾れ萬葉派にあらず、新古今派にあらず景樹派にもあらず、吾は只吾思ひを述べたるのみと 讀者諸君が如何に見るとも又諸君の隨意なり
                      明治38年1月『馬醉木』
                         署名   なし
 
(87) 〔『馬醉木』第十五號消息〕
 
鵜川終刊既に於て、欣人生が吾「馬醉木」に就て云々せる中に、「馬醉木」 の悲運云々の語あり、彼が如き愚言に對し敢て辨解するの要なしと雖も、事實上の事は少しく讀者諸君に告げ置くの要なくんばあらず、既往に於ても將來に於ても吾「馬醉木」の上に悲運なるものあることなし、營利的ならざる「馬醉木」は始より經費補給の覺悟あり、拾圓の不足ありとすれば半額即金五圓は蕨眞氏之を負擔し他の五圓は長塚氏と予と分擔しつゝあるなり、原稿に於て患ふる所なし、經費の點に於ては以上の如く加ふるに時々同情諸君の厚意を寄せらるゝあり、されば吾輩三人がいやにならざる間は「馬醉木」の花は絶ざるべし、如此言を爲すは只鵜川の言に因み蕨眞氏の功勞を謝するにあるのみ。
正岡先生の墓表は大坂よりわざ/\本場三影の石を取り寄せ表面子規居士之墓なる文字は陸翁の揮毫になり愈出來せり、參拜者は其ジミなるに驚くべし。
森田義郎君は正岡先生三年忌の會合に於て諸同人と和合を復舊せり、從而同君の作物「馬醉木」誌上に顯はるべし、血を分けた同趣味者は到底離難き理由あるなり。
小生十一月下旬甲信同人を訪問して十数日旅行したるため「馬醉木」は又一ケ月の遲刊となれり、讀者徒に「馬醉木」發行の無責任を咎むる勿れ、文學上の作は必ずしも常規を以て律すべからざるものあり、然かも深厚なる(88)同情諸君に對するの務めを日夜心に思ひつゝあるなり、
予は謹で茲に、
興國の新年を祝し、次に誌友諸君の幸福を祝し次に吾根岸派歌壇の前途を祝す。
                    明治38年1月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(89) 〔『甲矢』選歌附言〕
 
     冬鳥類             麥村
   荒波のとゞろとよする磯濱の大岩の上に千鳥ゐる見ゆ
     同               常世
   ふみ臼をふみつゝ居れば裏納屋の軒の干菜に三十三才とぶ
   小春日の眞晝靜けみ庭前にきつゝさゝなくいささ小籔に
附言、選べるもの僅に三首とは遺憾なり其三首と雖も敢て佳作とはいふべからず、思ふに冬の鳥類などいふ題のむつかしきにも依るならむも應募諸君が思考の至らざるに基くもの多きやに思はる、冬の鳥と云はゞ冬の鳥の趣味を捕ふべし 鴨と云ひ千鳥と云ひ、其鴨の趣味千鳥の趣味を捕ふべし、然らずして徒に鴨をよみ千鳥をよむ如何にして鴨千鳥の感じを顯はし得んや、其趣味を捕へんと欲する、必ずや其鴨と千鳥とを見て其起れる感じを基礎として作歌せざるべからず、題詠にては現在に見る能はざるは勿論なれども、此場合にはかつて見たる時の記臆をよび起すの外ある可らず、以上二者の要素を欠けりとせば斷然其題を作らぬに如くはなし、今諸君の諸作を見るに多くは不得要領なり、徒に實驗なき想像に依て不自然なる趣向を搾り出せるの状一見して知るべきなり 一言以て諸君を戒む、多罪
(90)                      明治38年1月『甲矢』
                         署名  左千夫選
 
(91) 詩と運命觀
 
肅啓高説排運命觀に就き何かとの仰せに候へども、深遠なる哲學上のこと、到底小生等の解し得る所に無之候。
只高説末項に至り詩的觀想又は詩的趣味等の語相見え、詩と運命觀との關係につき所説有之候邊は、小生等の領域に觸接致し居候間、其點に就き聊か愚考を陳じ置度、御參考にも相成候はゞ幸甚の至に存候。
西洋の詩は知り不申候、漢土の詩も知り不申候得共、我日本の詩小生等が研究しつゝある「日本」の詩に於ては、運命觀や因果の理窟などゝは、多くの場合に詩想と反對致し候。少くも小生等の詩的觀想上其本領と信ずる所は、運命觀や因果の理とは頗る隔り居るものに候。我「日本」の詩と申候ても古今集以降、貫之、射恆、西行、定家より、徳川時代の歌人に至るまでの歌に於て取る所極めて少く、常に口を極めて排斥致すと云ふも種々の理由有之候得共、其本旨を申せば百中九十九までの歌が、徒らに言語思想上の細工のみ多く、萬物自然の情に基かず趣味の天眞を得ざるに有之候。殊に得手勝手の運命觀や、獨合點の因果説などを基礎とせる物に至つては、詩趣の一分だも認め難きものあらむと存じ候。人間の覺束なき考にて斷定せる理窟の抑壓を受けし思想より成れる歌は、即作者一個人の私物にして決して人間一般に通ぜる感情にはあらざるべく候。言ひ換へれば人間の至情をためたるこしらへ物と云ふの外なく候。
よし得手勝手の運命觀にあらず獨合點の因果説にあらず、所謂聖人なるものゝ斷定せる運命なり因果なりとする(92)も、小生は直にそれを詩的観想とは認め難く候。詩人の一性分を有せる小生は、何事にも運命なり因果なりとて安じては居り難く候。運命と云ふものあらば、運命を排し度候、因果と云ふものあらば因果以外に出度候。因果の理に得心せず、運命の數に安ずるを知らねば、徒に苦悶を招いて自ら不平の地を求むるに等しからんと笑ふものあるべく候得ども、小生は今日まで其實際を缺き居り候。小生は因果の理に得心せず、運命の數に安ぜず候とも、漫に非望の念を抱き居るものには無之候へば、從て苦悶も不平も堪へられぬほどにはあらず候。苦痛は快樂の前提かと存ぜられ、苦痛後の快樂に快樂の眞諦を認め得べく、飢て食するの美味、渇して飲むの快味を知る人は多く候へども、快樂を望で苦痛を辭せざるの人は少く候。
われ人に勝る苦痛あり從て人に勝る快樂ありとは小生の人世觀に候。某博士は吾に樂みなし、從て苦みなしと云へりと聞く。是れ快樂を欲せざるにあらず、苦痛を酷惡するの人なり、小生の見て俗人といふの人なり。因果の理を明め運命の數に安ぜんとするは苦痛を厭うて快樂をも望まざるの人なり、詩人の最も反對なる俗人なりと存候。小生は先に我「日本」の詩に於ては云々と申候へども、實は古今集以下殆ど千年間、小生の所謂其俗人のために歌は全く破壞し去られたる次第にて、常に痛憤致し居る譯に候。故子規子は理窟のふくまるだけそれだけ趣味は減ずるものと申され候、況や運命因果の理を基礎とせる思想を如何で詩的感想と申さるべき。されば小生は排運命觀の高説には無論賛成に候へども、詩的感想の解に就ては又貴説に反對致し候。乍併こは貴兄と小生とが詩と云ふものに對する意義の見解を異にせるより起れるものにて止むを得ざることゝ存候。左に二三實例を上げて愚意を終り可申候。
     萬葉集卷四
(93)   天地の神し理なくばこそ吾思ふ人に逢はず死にせめ
連命が何因果が何、私は何でもかでも思ふ人に逢ひたい、どうぞ逢はして、何でもかでも逢はして下さい、私がこれほどの切なる願ひ、天地の神に理がないならば知らぬこと、それでないからは必ず逢はしてくれるに違ひない、まさか見殺しにはせまい。
と云ふに御座侯、なか/\數にあきらめ申さず候、理に安じ申さず候、情熱しては理窟を考ふるの餘地あるものに無之、あべこべに是を聞いてくれずば神が無理ぢやとまで思ひ込む所が詩に候はずや、※[口+喜]しく候はずや。是程の熱情ありてこそ神も人も動き可申候。かうなるも運命ぢや、何かの因果であらう、仕方がないと云つて早々あきらめ候はゞ、賢者には相違なからんも、そんな人の相手にはなりたく無く候。相手になり候とて、それほど冷にては何の面白い事の候べき。
     新古今集卷十四        西行法師
   うとくなる人を何とて恨むらむ知られす知らぬ折もありしを
これが因果の理窟より成り立つた歌に候。生悟りの歌が皆これに候。疎遠になつたとて恨むことはない、もとは知らぬ他人であつたものを、と云ふのに候。かくまで冷淡に出られては、貴兄と雖も愛想が盡き可申候。理窟家を以て聞えたる貴兄と雖も、こんな淺薄な屁理窟をこねられては、如何にや、猶なつかしい、いとしい心が起り可申や。理を重んずるほど情の冷かになるは當前の事に候。西行のやうな了簡でゐたら苦悶などはなかるべく候、併し氣味のよい事には、冷淡此の如き彼は熱誠の快樂などは知り不申候。相手の心持も思ひやらず、自分一人の屁理窟であきらめて濟して居るとは何たる薄情な坊主ぞや。運命とか因果とかの理窟をこねた歌は皆なこんな物(94)に候。此没分暁漢の俗坊主の歌などが、何百年間難有がられた歌壇と云ふものゝ、如何にくだらぬものなりしか、御賢察願上候。とんでもない惡口雜言、平に御容赦被下度候。早々頓首。
                     明治38年2月『新佛教』
                       書名 伊藤左千夫
 
(95) 竹の里人 〔九〕
 
近頃世間で予に對してゞあろう、子規子を舁ぐのが何とか歟とか云ふて居る、又ツマラヌ事に子規子を引合に出すのが何とかゝとか云ふて居るものもある、予はそれらの言を聞て頗る不審を感じた、予の子規子に對する態度が世間の所謂舁ぐといふことであらうか、若し予の態度子規子を舁ぐとすれば、予は何故に子規子を舁いだのであらうか、予の不審を感じたのはこゝである、
予は世間に謂ふ所の舁ぐと云ふことは、必ず何か爲にする所ある手合のやることであると思つて居た、そこで予自らは何の爲めにせんとて人を舁ぐのであるか、予は人から舁ぐとの話を聞いて、何の事を云ふのか知らむと思つたのである、人に惡まれ人に誹らるゝことなど屁とも思はず、自分の云たい放題の事を云ふて、雜誌が賣れなからうが平氣で遲刊もして居る樣な予の態度で何の必要から人を舁ぐと云はれるのであろうか、世間には隨分をかしなことを言ふ人もあるものぢや、併し人間は自分の信ずる通りに動くより外に仕方の無いものであるから、釋迦孔子を舁がうと耶蘇を舁がうと又親鸞空海を舁がうと、そは各人の勝手ぢやと云はねばならぬ、
精神に何等信ずる所あるでなく、只何か爲にするの目的で騷ぎ廻ることの廼劣賤しむべきは云ふまでもないことぢや、苟も子規子を崇拜して居るものに、右樣の陋者があると思はれるか、眞に其人を尊び其人を慕ふの精神から出ての言動であるならば、拜まうと舁がうと何の子細があらう、自分の最(96)もすきな人の話をするに何の不思議があるか子規子を舁いだがどうしたかと云ふのぢや、
予は子規子を引合に出して話をすると、いやにウルサがる所の新知識諸君、否さういふ人があるならば其手合の成行を拜見致度思つとる、さてけふもであるが、これからでもある、「馬醉木」の命のある限り左千夫の命のある限りは、子規子の話は絶えない、いや絶やさないから、迷惑に思ふ諸君は速のいて居れ遠のいて居れ、
吾々はそれほど子規子の俳句をヱライと思つて居ない、子規子の歌をヱライと思つて居ない、子規子の俳句は碧虚の諸子猶能く作る、子規子の歌は吾々又能く作り得ると信ずる、子規子の及ぶべからざる所は人格にあるのである、子規子はそれ自身が即詩である、子規子が趣味か、趣味が子規子か、子親子を研究するは即詩を研究するのぢや、子規子を語るは即詩を語るのである、詩を語るは即ち子規子を語るのぢや、
今一歩を進めて云ふならば詩が解らねば子規子は解らぬ、そこで子規子が解れば詩が解るのである、
詩が解れは即人間が解る人間が解つて社會が解らぬと云ふことはない、漫に詩人が氣※[陷の旁+炎]を吐と云ふ勿れ、繹迦耶蘇の言は知らぬ、孔子は云ふて居るではないか、曰く、
詩を知らざるものは人にあらず、
一語萬世を貫くとは此ことであらう、こゝで云ふ詩とは区々たる韻文散文を云ふのではない、人間の人間たる價値を表現せるものを指すのである、
予は信ずる。子規子が解れば孔子も耶蘇も大方は解る、釋迦も親鸞も大方は解ると、人は予が言の大膽なるに驚くのであらう、予は只眞誠に然信ずると云ふ外今はいふ語を知らぬ、
釋迦や孔子が今日の世に生れたらば、迚てもあれほど人に信仰されないは慥だ、今世の人は徃古の人より頭が空(97)虚でない、從つて人を信仰すると云ふことの少ないは自然であらう、釋迦や孔子は半ば信仰者に依つてヱラクなつたのである、釋迦孔子と子規子と非常に人間が相違する如く思ふは、信仰心の減却に起因するのであらうと思ふ、
人間は」自分と隔つてあるものを善く見るものである、今の人より昔の人がどうしてもエラク見えるのは即それである、徃古は聖人が出たが、後世に聖人は出ないといふ事の有るべき理由がない、前にも云ふた如く後世の人は頭腦空虚でないから、自分の眼で聖人を見出すことが出來ないのであらう、自分の交際してゐる人の中に聖人のあるに氣がつかないで、遠い昔の人許を聖人だと思つて居るは、要するに眼識の足らないのと信仰心と云ふものゝないためである、自分の家に立据な美術品が傳つて居るのに、それは眼慣れてゐるために有難く見えないで、他所からきた物が却て尊く思はれ、高金を出して自分の從來の物より劣つた品を背負ひ込むと云ふこと、能く世間にある話である、子規子が能く解らぬのもそれと同じ理窟で、眼慣れて居るからであるといふことに氣がついて貰ひ度い、
予の見たる子規子、予の知つた子規子はかうであつた、
心の動くまゝに行動した人であつた、
少しもヱラク見えない人であつた、
腹が立てぼすぐ怒る、つらい時はすぐ泣く、※[口+喜]い時は何もかも忘れて※[口+喜]しがつた、面白い物となると無性とほしがつた、半年と生きない事を承知して居ながら、南岳の草花卷物をほしがつて、一晩ねずに思ひ焦れた、苦しひ時は早く死たいと云つたが、少し樂だとモウ死たいなどゝは決して云はなかつた、命を惜がつたのである、さり(98)とて如何なる場合にも執着と云ふものが少しも無かつた樣に見えた、いよ/\いけないと云ふ時になつても何とも云はない、隣座敷に寢て居つた人も知らないやうに無くなつてしまつた、吾々凡人の考ではいよ/\いけないから諸君と訣別しようなどと云ふかと思つて居たが、只だまつて眼をねむつて了つた、死際にゑらさうな事など少しも云はない所が、却て及ばない所だと跡でつくづく考た譯であつた、女義太夫も聞いて、痩細つた手を打つて浮れるところなどを見ると丸で小兒であるが、又如何なる話をしても重い強い力があつて如何にも徹底して居つた、高い深い所から落下して岩の底に突あたるように感じない事はなかつた。
何もかもむき出して隈といふものがない、それであるから慣れて雑談をして居る時などは、親族とも朋友とも云ふ風であつて、病者の枕元に横になつて無遠慮に談笑して居つたのであるから、何等の異常感念はなかつた、併しながら夫れが一寸とした或動機で、先生の精神思想行動等に思ひ及ぶと、實に無上無限の崇高神聖至美の感に打たれ、至高至大な光明に接するの思ひせぬ事はなかつた、先生は宗教家でないは云ふまでもないが、人を感化しようの人を救はふのと云ふ念慮は少しも無かつた、釋迦孔子耶蘇は、高く自ら標置し聖人を以て自ら居り、天命を得て居ると云ひ天使なりと云ひ一切を濟度すと云ひ、所有人間の上に立つて人間を教ゆると云ふ態度であつたらしひ、夫れもヱライには相違ない、子規子は人間中の一人として、只自身に至高至美と感念せる事實に滿足せんとしたものらしい、人間として職分を全くするを人間最高の理想として居つたらしかつた、自らに遺憾なきを能事とせるものゝ如くであつた、先生は少しもヱラクなかつた所が、先生のヱライ所であらうと思ふ、(99)先生には隈がない何もかも脱き出しである、赤裸々である、飾りがないこしらへがない、有りのまゝであつた、從つて疵もあるやうに見えたが、其疵が少しも先生を煩はさないようであつた、否却て其疵と云ふが意外にも先生の尊い所を發露した、聖人と云ふものは如何なる性格のものであるか、聖人ならぬ予は聖人を知ることは出來ない、人間の至美なるものが聖人か、人間以上のものが聖人か、人間として完全なる者は、人間中の尊いものと云へるであらうが、能く人間を知らないでは完全の人間とはなれない、孔子は詩を知らざるものは人にあらずと云つて居る、子規子の如きは能く詩を知り能く人間を知つたと云ふには差支ないのであらう、
先に云つた如く先生には少しも社會を感化しようとの意心はないが、先生の精神的事業は自然に世を感北するは疑いない、恰も天象人馬の美觀が永劫に人間を感北する如きに比すべきである、詩人の感化は教化的感化でなく自然感化である、
                      明治38年2月『馬醉木』
                        署名   左千夫
 
(100) 新體詩に就きて
 
新體詩と云ふもの、隨分と澤山に出來て居るが、予は不幸にして、詩と感じ得べき新體詩に未だ甞て出逢はぬ、大評剤の露伴の新體詩も詩の形式で理屈をいふて居るらしひ、評論の面白味判斷の面白味若くは説明の面白味などを主とせるものであるならば、迂遠な詩の形式などを借らぬ方が得策ぢやあるまいか、ホトヽギスの俳體詩も、詞の趣味句の趣味は多少面白く感ずるけれど、内容の趣味ときてはどうしても面白く感じない、つまり判らぬといふことぢや、そこで人のは気に入らない自分で作つて見ようと云ふ程の自信が有つて作つた譯でもないが、久しくやつて見るつもりで居たのを、今度漸く一つ試みた次第ぢや、自分が人のを罵つた報ひに思ひきり人の罵りを受けて見樣と云ふ了簡である、單純帶の如き形式の長歌は、形式の上のみに於ては、到底新體詩の綜合的なるに如ずとの所信を持て居たは四五年前からのことであつたが、徒に多面に渡るの弊を恐れて、今日迄試作する暇がなかつた、併ながら何時まで空論に甘じて居る譯にはゆかぬ、そこで漸く修練寶行に取りかゝつて見た次第である、いざ作つて見るとなると實に六かしいものだ、思ふ百分の一も出來ない、吾々の好みからいふとまづ五七調をやるべきであるが、予は却て殊に七五調をやつて見た、兎に角二十か三十作らぬ内は、意見も立ちかねるが、只一個の文藝に於て得る所あるとするも、他の文藝に就ては又更に修養を績まざれば、決して眞個の趣味を解し得ぬといふ事だけは、茲に明言(101)し得るのである。
小説の大家露伴が一足飛に韻文の大家と歡迎さるゝ所から見ても、今の新體詩といふものゝ趣味標準がどの位幼稚の低度にあるかと云ふことが判る、新體詩といふのが如何に素人おどしがきくものであるかと云ふことが判る、學問でも出來ない知識でも出來ない才氣でも出來ないのが詩である、特別の修養を待つて初めて作り得らるゝものが詩である、詩が所有藝術の上に立つて最も神聖である所以もそこにあるのであらう、俳句が作れ短歌が作れても、長歌は直に出來ない、俳句短歌長歌が出來ても、新體詩が直に出來るものでない、小説が出來たとて直に新體詩が出來ぬも同じであらう、新體詩は別に新體詩に對する修養を經て初めて眞の新體詩が出來るものであると云ふことを知つた、それは常人の上に云ふことで天才は別ぢやと云ふ説もあらうけれど、天才のみで詩が出來ると思ふは、詩といふものを知らぬ人の云ふことぢや、素人の云ふことぢや。
予は拙作に就て讀者諸君の嚴評を待つ、有益と認めた批評は本誌に紹介する、併て短歌のみ作つて居る人に長歌も作らむことを歡め、短歌長歌のみの人に新體詩を作ることを勧めるのである。
                     明治38年2月『馬醉木』
                      署名   左千夫
 
(102) 〔『馬醉木』第二卷第一號歌會消息〕
 
       一月歌會(東京)
 
月の十五日、駒込千駄木林町の山田三子宅開會、※[竹/高]水八風甲之績阿都之左千夫蕨眞、主人を合して八人、十題十首を課す、其結果左の如し 蕨眞十三點左千夫十二鮎※[竹/鷹]水九點阿都志七鮎以下畧
     三點二首
   白玉の瑞齒も染めて手弱女が契るこころに動かざらめや(約束)  左千夫
   吾妹子をみづほの國の新年の富士のみ山しおもほすらんか(新年山)  蕨眞
吾妹子をみづほといふ詞いやだと云ふ人あり、陳腐なりと云ふ人あり、外國の人にやる心の歌ぢやと云ふ人あり、然りと云ふの外なかるべし、
     二點十首
   大江戸の寒さをさけて冬こもる熱海の宿に來鳴くうくひす(冬籠)  ※[竹/高]水
鶯が江戸からくるのか知らと思はれる、幼椎と云ふを免れぬ、
(103)   籔入のか青風呂敷風吹くや霜とけみちの茅原のさと(やふ入)  蕨眞
風呂敷に風がふくと云ふにや解らぬ歌ぢやと云ふ人あり、
   籔入の都のつどは春の日の光とてるか草のいほりに(同)  左千夫
田舎里のむさい家に不相應なみやげの目立つたところを云ふたつもりなれど充分顯はれて居らぬ、
   雷の神の天降りし時しもよ一本杉は神よびけらし(杉)  三子
杉に雷公が落れば枯れるか疵がつくかするに極つて居るが、之れがそれから度々落雷すると云ふ意にや一寸解らぬ、
   霜の夜の月かげ白き野の道のゆくへこゞしき杉森に入る(杉)
人が杉森に入るといふのか、野の道が入ると云ふか列然せぬ、
   神代木の杉の埋木坂にして茶室作らん時まつ吾は(杉)  左千夫
結句仰山ぢやと云ふ人あり、尤もの評ぢや、全體に厭味ある歌ぢや、
   かつて吾が田端野を行き哀みし燒場の竈父を燒くかも(悲)  阿都志父を燒くとは露骨ぢやといふ人あり尤もなる評ぢや、
   御民われ眞情あれど天地に一人の親を思へは悲しも(出征軍人の心を)  三子
眞情の意義が判然せぬ、親を思ふのも大に眞情であらう、
   海山を千里へだてしこゝにして妹かあたり見む奇しき眼鏡もか  ※[竹/高]水
   世の中の悦びことをほきことをいくつかさねし君か産やに(賀擧子)  左千夫
(104)明治三十八年の一月と云ふ詞がなくてはわからぬ歌ぢや 全體に歌が振はなかつた(左千夫妄評)
                     明治38年2月『馬醉木』
 
(105) 〔『馬醉木』課題 初冬の消息〕
 
      (一)
 
拜復仰せ越の旨承知仕候、明朝早速使に爲持差上可申候、今日小閑を得て漸く爐開き致候、只今兒供を相手に一服頂き居候際いろ/\と面白き御消息にて興添申候、過日激賞に預り候はしばみの黄葉今は殘り少なに相成侯得共燈籠の蔭に一枝六七葉僅に秋の名殘を留め、今しも夕日さしこみ何とも云へず良き感じ致候袖垣のあたりひた青なりし芝苔も二三回の霜にて茜色に相成り自から冬さび候所へ山茶花一つこぼれ落ち、笹鳴きの何時しか去りしと思ひ候内に、鶺鴒が参り何か意味有げに飛石に動き居り候、今日の如き日をば世間では、小春日和と申候へども小生は山茶花日和と申居候、小生は山茶花の全く東洋趣味なるを酷愛致候尤も單紅色に限り候、山茶花の如き清閑幽韻の趣味は迚ても紅毛連には解り申間数候、はしばみの黄葉落盡きぬ内に今一度是非御來遊被下度待上候不一
 
      (二)
 
根岸庵の近情如何との御尋承知仕候、實は只今根岸より歸宅候處、偖ては本日の情況荒増可申上候、今朝他より(106)寒牡丹一鉢貰ひ候故幸と根岸へ持參致候、近頃は餘程調子よき趣きにて、御悦び一方ならず、午前十時頃小春日の長閑かさ、日光ガラス戸の内深くさし込み先生は餘り熱いと申て御頭を西向きに致し片肘を突きて半身を起し居られ候、寒牡丹は初めて見ると申され、春のに比べて如何にも品位が高い、春の牡丹は又深草とも云ふが、花にふさはぬ名と思ひしに、寒牡丹を冬深草と云ふは協つて居るなど被仰候、小生が、春の牡丹は上方から苗が參り、冬牡丹は東京より上方へ參る由、殊に日暮里邊は寒牡丹に適したる土地にて、此在の舊家に大なる寒牡丹一株有之遠くから數奇者が見にゆくとの話など致候處、先生にはそんな話を聞くと、俳句がいくらでも出來るような心持がすると申され、取敢ず、
   日暮の里の舊家や冬牡丹       子規
右樣の次第にて、小日暮まで愉快に御話伺ひ誠に近來なき樂み致侯、是にて御安心被下度候 餘は重て可申上候、
                     明治38年2月『馬醉木』
                     署名(一)無庵(二)阿志微
 
(108) 〔『馬醉木』第二卷第一號選歌前文〕
 
十六號にして改卷すべき『アシビ』は十五號にて改卷せり、他意あるにあらず、月を以て數ふれば十七八ケ月にもなりたればなり、爾後は十六ケ月を以て改卷せんと思ふ、そは兎に角、第二卷に入れる吾歌壇は、選歌標準に就て、聊か投稿諸君に告げんと欲す、第一卷の選歌標準より第二卷の標準は、少しく高からんこと是なり、諸君にして是に對する用意を缺く時は、從來十中三四首を拔けるもの、或は一二に滅ずるやも知るべからず、願くは諸君選歌少なきを以て、徒に不平を懷くことなく、作歌の上に進境を開かむことを。
                      明治38年2月『馬醉木』
                       署名   左千夫
 
(109) 〔「某大學生記」附記〕
 
     〔一〕
 
以上予に宛たる手紙なり、説明解釋の空理よりは實驗實行者たらんとの念に支配され居る予は此手紙に大なる同情を有するなり      (左千夫)
 
     〔二〕
 
◎左千夫言ふ、宗教の意義、文學の意義、詩と人格との關係、内容と形式との關係、材料と語調との關係等説き得て遺憾なきを覺ふ、斯の如く各方面に渡れる見解上の一致を得たるは予の深き歡喜に堪えざる所なれば敢て一言を添ふ、                                      明治38年2月・4月『馬醉木』
 
(110) 〔『馬醉木』第二卷第一號消息〕
 
一筆呈候 日本人は如何して如此強きや、是現下世界の問題に候はずや、財を有すること紅毛に如ず知識に富めること紅毛に如ず、器械の整備又紅毛に如ず、然かも紅毛人遂に日本人に敵せざるは何ぞや、是に於て何人と雖も精神的日本民族の價値を認めざるを得ずと存候、日本民族の精神系統の根本、其根本抑も何邊に泉源せるか、歐洲にもなき印度にもなき支那にもなき、其根本精神とは抑も如何なるものなるか、一切國外の影響を受けざる日本特種の思想とは何ものに候也、古事記日本紀は後人の記述にて直に思想の本質を見るべからず、萬葉集約五千の長短歌、誰れか是れ日本民族思想の泉源と云はざるものぞ、徒らに外國文學に迷醉せる當世の文學者があべこべに歐米人の手に依て萬葉集の研究を促さるゝ日思ふに遠きにあらずと存候、
空氣※[陷の旁+炎]は暫く置き吾「馬醉木」も第二卷に入ることゝ相成、近來の成績は著大の進歩を示し候は御同樣嬉しき限と存候、殊に此二卷一號に於て小生を驚したるは、三井甲之君胡桃澤勘内君に候、一は昨春一は昨秋よりとのことなれども、其製作の手腕は優に先進を壓し申候、如此無造作に進歩するものにやと實に呆れ申候、是と申すも吾根岸派文學發展の氣運が産出せる現象と存候、足立清知君が、前古無比の大活劇中に在て、感咏せる作物は又本誌面に異彩を放ち居るは諸君も知る如くに候、其他信州高原の諸同人皆能く金玉の音を發す、吾馬醉木の事業は從令一般俗界の注意を引くこと少しと雖も、高々たる詩壇に諸君と相携て歡語するの樂みは、王侯猶夢想し能(111)ざる所と存候、
前卷十五號は實に十愚號に有之所有愚を演じ候内にも、正岡先生の石塔の如きは全く虚言に相成候本月中にも如何かと存候、信州同人の雜誌比牟呂は、馬醉木の上手なる暢氣に候、定價は拾錢乃至拾五錢にて二月に一回又は三月に二回との事に候、數拾錢の錢を上諏訪町の濱活版所へ屆けて置けば出來次第に發送致す由に候、其俗氣なきこと天下是れ勝る雜誌なかるべく候、
アシビ本號の俳句は百四五十句の内より碧梧桐氏の選びしものに候、アシビの俳句とて馬鹿にせば耻かき可申候、
新體詩は殆ど始めての作何卒諸君の御批評を願上候、表紙の摸樣は例の樂燒道人阿志微山人無一庵主人など申す連中の板面に候 御叱あらば引込め可申候、                              明治38年2月『馬醉木』
                      著名   左千夫
 
(112) 新曲浦島所載の短歌
 
坪内逍遙博士が國劇刷新意見と云を公表し次で其實例的脚本として新曲浦島を發刊せらるゝや、天下の諸名士爭ふて其批評を爲し、一時文壇の耳目を奪へるの觀ありき、惇士の如きは實に大家と云ふべきなり、吾輩演劇の嗜好なきもの焉ぞ其間に容喙の資格あらんや、近頃漸く借覧の機に接して僅に内容の如何を窺ふを得たるに過ぎず、思ふに博士の理想は、所有音樂を綜合して其變化と調和との上に趣味を味はんとするにあるものゝ如く、出場人物の性格感情を顯すが如きは曲の主要とせざるに似たり、
長沢常盤津清元一中節等に一切聾者たるの予は、曲其物に就て少しだも云はんとする者にあらず、只夫れ本文中に插入せる一首の短歌に就きて聊か怪訝を抱けるが故に茲に言を試むるのみ、是れ吾々の領域内に屬する國歌に就て所懷を述ぶるは吾々の責任なるを信ずればなり。
人或は云はん本曲中只僅に一首ある短歌に就き、從令多少の非難ありとするも、豈に事々しく論ずるに足らんやと、予所思らく然らず、博士の盛名と博士の抱負とを以てして、議論の實例と云ひ理想の下畫なり輪廓なりと云ふの、新曲浦島は決して之を一戯文と認め難く、從て其插入せる短歌は僅に一首に過ぎずとするも、博士が短歌に對する用意と見識とを察するに足るものあり、專門文藝に對する博士の精神を窺ひ得るの點に於ては一首も百首も區別する所あらざればなり、予は曲中の短歌に就き其短歌の價値如何と云ふよりは、其短歌に對する博士の(113)用意に就て多くの怪訝を有す、是れ國歌方面の文士たる予の資格上一言の止むなき所以なりとす、詰の幕第四段
  前畧、郎子と郎女とは驚き怪しみて仰ぎ見る、中空高く漂へる白氣のうちに、此時髣髴として現るゝ海津少女
   野麻騰毘登《ヤマトヒト》、可是布企阿禮天《カゼフキアレテ》、久毛美駝禮《クモミダレ》、所企遠理等母與《ソキヲリトモヨ》、和遠和須良須奈《ワヲワスラスナ》、
  郎子と郎女とに對ひて、「我が影を忘るな」といふ意の、簡古にして清淡なる、如何にも神々しき科介《コナシ》ありて、云々
右之歌は古事記下の卷大雀天皇の條、幸行吉備國《イテマシキキビノクニニ》、爾黒日賣《カレクロヒメ》、令《シ》大坐《オホマサ》其國之山方地《ソノクニノヤマカタノトコロニ》、云々、天皇|上幸之時《ノボリテイテマストキ》、黒日實献御歌《クロヒメノタチマツレルウタ》。
   夜麻登幣邇《ヤマトヘニ》、爾斯布岐阿宜弖《ニシフキアケテ》、玖毛婆那禮《クモハナレ》、曾岐袁理登母《ソキヲリトモ》(【此一句六言】)、和禮和須禮米夜《ワレワスレメヤ》、
此御歌に關係あること明なりと雖も、博士は寧ろ直接に古事記に據らずして、此古事記の歌を作り換へたる、丹後國風土記の、
   夜麻等幣爾《ヤマトヘニ》、加是布企阿義天《カゼフキアゲテ》、久母婆奈禮《クモハナレ》、所企遠理等母與《ソキヲリトモヨ》、和遠和須良須奈《ワヲワスラスナ》、
に據れるも明なり、第二句「西吹きあげて」を「風吹きあげて」となし、第四句「そき居りとも」を「そき居りともよ」とよの字を一字加へ、第五句「吾忘れめや」を「吾を忘らすな」とせるなり、第五句の變更は詠者の位置を顛倒したるものなれば難なしと雖も、第二句第四句の變更の如きは、丹後風土記の著者なるもの全く歌を解せざることを證明せり、西吹きあげてと云ふてこそ、雲離れの光景に適するなれ、僅かの相違に似たりと雖も、(114)風吹きあげてとありては其感じや漠然たらざるを得ざるべし、第四句に「よ」文字を加へたるに至ては、著者の幼稚なる一笑だに債せず、六文字の詞なれば六文字になし置くが自然ならずや、強て七字にせむとて無用の贅物を附す、調子の亂るゝ所以なり、然りと雖雉も戯作同様なる風土記の著者の如きは深く咎むるの要なかるべし。
獨怪訝に堪えざるは、逍遙博士ともある人の何故にか古事記に取らずして風土記に取れるにあり、然かも博士の歌は猶それにも改作を試みられたり、「やまとべに」を「やまとひと」となし「風吹きあげて」を「凰吹きあれて」となし「雲離れ」を「雲亂れ」となせり、是に依て博士の歌は益古事記の原歌と遠ざかれり、凡そ古人の製作を自個の作中に應用し、之が加除の變更を加ふる場合には必ず確然たる自信あるを要せざるか、博士は何等の確信ありて、古歌の改作を敢てせるか、博士は自個が改作せる歌は、其原歌に對し能く性命を保ち得ると信じたりや、請ふ予をして、古事記の歌と新曲浦島の歌とに就て其價値を吟味せしめよ。
 古事記 大和べに西吹きあげて雲はなれそき居りとも吾忘れめや
 浦島  大和人風吹きあれて雲みだれそき居りともよ吾を忘らすな
古事記の記する所に據れば、天皇吉備の黒姫を寵すと雖も磐之姫の嫉妬に恐れて、黒姫は吉備の國に逃歸れるを、天皇鯉しく思召す余り窃に吉備に行幸ありし時、黒姫別れを惜みて詠める歌とあり、やまとの方へ西風が吹きあげて雲が東へ離れる如く陛下にさかり居るとも深き御心はいかで吾忘れんやとの意で、「そき居りとも」は「退《シリ》ぞき」「遠のき」などの「ぞき」「のき」と同意離れ居りとの義なり。第一句より第三句までは第四句「そき居りとも」 の「そき」に對する序なり、思ふに當時の實況より思ひつきたる趣向たるや明なり、此比喩的なる序辞が、天皇と黒姫との關係に如何に適切なるかに注意せよ、靈辭妙想神に入るの思ひあらずや、此の如き名歌に對し、(115)漫りに變改を加へて其神聖を汚したる、罪既に不問に附す可らざるなり。
博士の變改に成れる歌に至つては、予は只情なしと云ふの外あらず、殆ど博士は古事記の歌を解し得ざりしにあらざるかの疑あり、初句大和邊にを大和人となせるは、猶神女が郎子郎女の二人に對し大和人と呼びかけしものと解せられざるにあらず、然れども、「風吹きあれて」「雲みだれ」の二句が如何にして、第四句の「そき居りともよ」に接續すと爲せるにか、雲離れと云へばこそ、「そき居り」即ち「のき居り」に意義の接續を得るなれ、「雲みだれ」にては何等離隔の意義なきにあらずや、博士は序歌といふものゝ如何なるものかも知らざるにや、以上の二句既に前後に接續せざる時は、博士の變作せる歌は詞の上に一首を構成せざるなり、殊に丹後風土記に眞似て第四句の末に「よ」文字を插入せる如きは何等の不見識ぞ、然も猶最も眞面目なる口調を以て、簡古にして清淡なる云々と、何を簡古と云ふか、何を清淡と云ふか、博士は歌の調子といふものゝ上には其一分だも解し居らざるなり、演劇の脚本若くは小説等の作物中に古歌を應用せんこと、固より妨げなしと雖も、其古歌なるものに對して、素人的支離滅裂なる變改を加ふるとは何たる不心得ぞ、聲色を擬するの洒落滑稽ならば兎に角、眞面目なる作物上に於て、斯の如き暴擧を敢てせる博士の精神を解するに困しまずんばあらず、結句「吾を忘らすな」吾を忘れ給ふなとの意なり、何等緑因もなき郎子郎女に對して、神女が突然大和人よ吾を忘れ給ふなと云へるも、余りに不自然ならずや、古事記の原歌は懸歌であること、よも博士や知らざることあるまじ。
今は予は露骨に明言せむ、博士は歌と云ふものを解せざるなり、少しだも歌の上に修養を有せざる人なりと、從來博士が歌を研究したるを聞かざれば、予は固より博士が歌を解せざるを怪まず、決してそれを以て博士を攻撃せんとするものにあらず、予は只何故に解せざるを解せぎるとせず知らざるを知らざるとせざるかを博士に咎む(116)るなり、自個に修養の頼むべきなきをも顧みず、漫りに古歌を改作して恐れざる博士の見識を怪むなり、
碁棊の遊技の如きものと雖も、其專門的技藝としては猶容易に素人の容喙を許さゞるにあらずや、況や歌に於てをや、惇士は何等の修養なきも猶詩歌を作り得ると信じたるにや、三十一字の國語さへ連ぬれば歌なりと思へる素人の歌にも猶文學の價値を認めつゝあるにや、
予は新曲浦島中の擬聲的短歌が如何に愚劣なるかを重現せず、只共一首の歌に依て博士が國歌に對する態度寧ろ文學に對する態度に輕佻浮薄の痕跡あるを瞰過し得ざりしが爲に茲に一言を費すに及べるなり、區々たる一章の短歌思ふに博士に於ては或は一場の戯なるやも知れず、然も敢て呶々の辯を費す所以は博士が明治文壇の大家なるを思ふが故のみ、願くは博士之を了せよ。
                     明治38年4月『馬醉木』
                      署名   左千夫
 
(117) 〔『馬醉木』第二卷第二號歌會記事〕
 
     ●二月短歌會
 
二月二十七日山田三子宅に開く、葯房子新たに臺灣より歸られ始めて來會、蕃人の首狩談などありて、近來の快會なりき、阿都志、八風、甲之、秀眞、左千夫、里靜、合して八人、秀眞歌を作らずして胡麻化し去る、例の數題十首、三子十三點、甲之十二點、左千夫八點以下畧、
     五點一首
   夕梅をともしきものと月が瀬の橋邊に立ては月山を出つ   三子
     三點二首
   み雪なす梅の花びら照り透す月の光は流るゝ如し      甲之
   鎌倉の八瀬のみ寺に梅見つゝ千鳥きゝけむ春思ひ出つ左千夫 
     二點八首
   谷間ゆく清き川瀬の舟にして見らくともしも月が潮の梅
   軒並べつゞく藁屋の低けれはうしろの畑の梅の花見ゆ
(118)   (に咲けると左千夫修正)         甲之
   坂をなす梅の林の登り路を登れば海の遠白く見ゆ  同
   こほれりしかけひの水の落そめて眞鯉緋鯉の尾をはねかへす 八風
   きかざりし水の音して見へざりし草みとりして小春となりぬ 同
   腸の九十九折なる路つきて谷間はるかに梅の林見ゆ     三子
   久方の月押し照りて岸邊なる梅はことごとく影水にあり   同
   潮霞みけぶるみさとの古寺に月寒くして梅をめでつも    左千夫
     一點之内天に選ばれたるもの三首
   梅の花咲けば必らず來鳴くちふ鶯さびよ我を訪ふへく    里靜
     右葯房子選
   物思ひすべなきゆふべ宿を出てゝ近きみ寺の梅を訪ひつも  左千夫
     右甲之選
   大和には梅の月かせ雫水《シツクミ》の玉凝り成しゝ君か太刀はや 阿都志
     右八風選
 
     ●三月歌會
 
二十六日下谷根津權現社内の某亭に會す、信州の山百合が出京する報知があつた故、十九日を二十六日に延べて(119)待つた所、急に差支が起つたとかにて來られなかつたは殘念であつた、會するもの三子葯房甲之阿都志秀眞左千夫、又候葯房子の臺灣談が盛に出た爲に、歌の互選が出來なかつた、選は左千夫に任せるとの事で散會した、左千夫の困却一方ならずだ、互選と云ふこといくらか兒供臭いけれど、人々の考が意外相違する所などが判つて、頗る興味がある 是からは勉めて互選をやりたいものだ 仕方なしに左千夫がよい加減に拔いたもの左の如し、礎山人と云ふは歌だけよこしたのだ。
     黒鳩禽                       葯房子
   ムークデンのひむかしにあたりやつかれは圍まれたりと御前に申せし
   そのさまをよく/\見れば黒鳩はいくさに逃ぐる鳥にしありけり
   楚の將が垓下に敗れ烏江をは渡らぬ心君知るらめや
   吾か門の五つ本柳雨に逢て鴨の嘴色の芽をふきにけり(柳)
   かゝなへて雨は五日になりにけりにはとこの芽はいたくのびにけり(題外)
     柳                         阿都志
   芦の芽の僅にぬける春の江の水の柳は霞みて立てり
   水めくる狭沼廣沼潮來のや柳に暮るゝ舟の歌はも
     クロハトキン
   黒鳩の羽縫の氷今とけて飛ばむ春來ぬと國人さはぐ
   舟なるや逆艪われ知る鳥にして黒鳩の翅尻尾向く見む
(120)   天地を逆《サカ》に見るちふあきつ眼のスラブの子らにゆけと云はめやも
   あらかしめ謀れる如く雁羽根のゆくとまをして擾れにげつも
                               三子
   ザアの前に誓ひて立ちし黒鳩のいくさにまけし心を思ふ(クロハトキソ)
   廣小路柳こと/\糸たれてヱレキ車の見えかくれくる
秀眞
   故さとの里川柳今見ても枝まはらなり昔見しこと(柳)
   先の祖の誰が折りけらし紙ひなの眼口もなしに幾世ありへし(雛)
甲之
   棚の上の雛照す灯い向ひて夜くだち語る吾等を照す
   湖の面遠白く明くる夜の汀の柳風も動かず(柳)
                               左千夫
   此あした病よろしくたま/\に市路を見れば柳垂れたり
   戰ひに燒けし砦に殘りたる三本の柳みとりたれたり
   青柳の重たる蔭に銃《ツヽ》の小尻刀の折れのさびたるもあり
   大山のかうべを得んといひし九郎鳩、自かかうべ僅にもちて逃げし九郎鳩(旋頭歌)                               礎山人
(121)   刺鍋の沸湯あみされ黒鳩はリネウイチイと泣きたちにけり
   口づから茨はきうづるサハロフにさ胸さはらえ病む黒鳩
                     明治38年4月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(122) 〔「諏訪行」に就て〕
 
拙作諏訪行に就て諸君の高評を得たるは余の感謝に堪えぬ處である、經驗少き余に取つては他の批評に發明するもの少くない、吾アシビの紙面少くして一々之を紹介するを得ぬは殘念ぢや、要するにまとまりが惡いといふ非難が最も多い、余は今拙作に就て辯護を試みんとするものではないが、聊か目下の考を云ふて置たい、余の考は新體詩は一節一節に切りをつけて小さくまとめてゆく所が新體詩形の特所である、從て全體に渡つては、寫生文や長歌の如く終始照應してキチンとまとまらなくともよいと思ふのである、此全體的まとまりを八釜しく云ふと、一節一節のまとまりの方が疎かになる、それでは長い長歌と同じになる、手取早く云ふと長歌の連作位のまとまりでよいと思ふ、故に余の希望は其の一節なるものにまとまりがあつて其一節を一連引き離しても一つの物になつて居らねばならぬと云ふ點にある、つまり短歌旋頭歌や長歌では出來ないと思ふ詩題を新體詩に歌つて見たいと云ふに過ぎない、吾々は決して人の眞似をして新體詩を作るのではない、吾々は全然創造者の考でやるのである、されば西洋の飜譯詩や今の新體詩人の作物などゝ何等の關係はない、新體詩には新體詩の句調語調があるなどゝ云ふは不見識極まつた事ぢや 余はそんな拘束は一切排斥して顧みないつもりである、
今の新體詩といふものは種が小さいのに大きな物を作つて居る、詞で種をこしらへて居る、寒天で大きくした羊かんの樣なものぢや、吾々の考は其反對で大きな種も成るべく壓搾して濃厚な正味許りで作らんと思ふのである、(123)文章でかくより作るなどは隨分馬鹿氣切つてゐるではないか、詞にも味はある調子にも味はある、併し調子や詞の本尊たるべき内容稀薄であつたらば、從令へば面の美しひ薄馬鹿な女が美服を着た樣なものぢやあるまいか、世の新體詩人といふものに此邊に少し氣がついて貰ひ度、殊に長いのを大作と心得居る人に、新體詩は是からである 叙情がよいの叙事がよいのといふ問題を論ずるは未だ早い、主觀をやつても形象を畫かなくてはいかぬと思ふ、形象なき主觀は「ソツプ」か「おつゆ」の樣なもので腹ごたへがない、拙作「諏訪行」が白樂天の琵琶行に酷似してゐるとの評が多いが是には余も閉口した、余は摸倣などする考は露程もなかつたが、余の不注意なりし用語はさう云れても致方ない所がある、併し諏訪行の内容は悉く事實であつて余の少しく加へた點は少女の歌だけである、それで其湯汲少女は事實である、故に摸倣との評は甘受せぬ、余の愚考は優艶なる少女の口をかり裏面の豪健をゑがゝんと試みたのであつた、朴訥義に富める諏訪男子が一度去つて家を顧みぬ幻容を顯さんとの趣向が失敗したのである 誰もそこを見てくれたものは一人もなかつた。
                     明治38年4月『馬醉木』
                       署名  左千夫
 
(124) 〔『馬醉木』第二卷第二號選歌評〕
 
     裸參りを見て詠める歌     星山月秋
   諸越の雪の荒野に、吾背子が軍にあれは、悲しらに思ひ堪えねば、
   黒髪も切りて惜まず、神にこひ神に捧げて、吾背子を護らせ給へと、
   薄衣膚へこほれど、思ひつめ祈るこゝろは、一筋に顧みもせぬ、小
   鈴振り灯を打ふり、軍もる神の社と、足ふるへ手もわなゝぎて、走
   りゆく、少女を見れは涙たぎつも。
   吹雪く夜の裸詣りにまじりたる手弱をみなは人を泣かしむ
左千夫いふ、絶好の詩題なり、斯の如き詩題を得たる時は、極力實情をゑがゝむことを要す。
     去年の秋世を去りしまゝ老父か上を思ひつゝけて  梅津愚久子
   荒浪のしく/\寄する岸の邊に足なへの子を殘し給へり
   里のため立てし學びや父君も土負ひましき石ひきましき
   門ぬちの茄子畑を土ならし建てし學びや人忘れめや
   教手の父の一人が風ひけば八十の兒供等枕につどひき
(125)   釣りにゆくと父か出れば里の兒等飼虫をとりて集ひきにける、したひきにける、
   故郷の家の梁今もなほかゝりかあらむ其釣竿や
   好ましゝ紫竹の竹の釣竿の空しくあらむ思へは悲しも
   故里を相分る時歎けくなと足なへの子を送り給ひき
   春さらば又相見むぞ幸《サキ》かれとねもころ云ひて去にし父はも
   酒くみて醉ひます毎に猿樂のまねごとしけむ其父はゝや
   父君のはふりの日にも行き得ずと此處にこもれり足なへ我は
   故里の醜けき小屋に殘り居りわび給ふらむ母が悲しも
左千夫いふ、梅津君の作皆六句一首の佛足石歌の體なりしも、斯の如き形式余程注意せざれば、蛇足の感を免れず、今只一首集ひきにけるしたひきにけるの歌を存す、全體に梅津君の歌は眞情流露そゞろに人を感動せしむ、
     滿洲雜詠            足立清知
   同胞《ハラカラ》の百千のかばねもゆる火に葬むる見れば胸湧きかへる   み雪降る寒き夜る/\戰友のほまれのかばね積みかさね燒く
   夜ごと夜ごとさ夜ふくるまで葬り火のみ空をやきて凄く悲しき
   日には四日夜には五夜の大雪に勇み戰ふ日本増荒雄
   勇ましく戰死《ウチシに》したる同胞のからの上あかく雪ふりつもる    給はりしやまとうま酒煖めて飲みたる夜は物思ひもなし
(126)左千夫いふ、物思もなしといふこと、歌人の能くいふ詞なれど多くは口眞似に過ず、余は此歌に於けるが如く其適切なるを感じたることなし、清知君の風貌躍々詞上に顯はれ、一見平凡に似て決して平凡ならず上穩にして深憂内にこもる、余清知君の歌を見て涙を拭ふこと一再ならず、ゆくりなく茲に一言を添ふ
     乳の歌
   雪晴れし日和よき日におのか守る厩のかげに虱かるなり
   筒袖のかくすべをなみそことなく虱くへとも只もかき居り
陣中の滑稽思ふべし
                      明治38年4月『馬醉木』
                        署名  左千夫選
 
(127) 〔「まこもの一葉」附記〕
 
左千夫いふ、觀海大人の讃辭は予の當る所にあらず、今吾編む所のさう誌に自らの讃言を掲げむは、いみじく面伏せなるわざながら、大人の好意を背くによしなくて掲げつ、讀者願くば咎むるなかれ、吾等歌咏の遊記は聊か障ることありて次號に出すことゝなしぬ。
                      明治38年4月『馬醉木』
 
(128) 〔十九日會について〕
 
  四月十九日を始めとして自今毎月左名の如き會を設け候間同志諸君の來會を望み候
     ●十九日會
 
一、本會は毎月十九日竹乃里人先生の忌日を以て「アシビ」發行所に開く
一、本會は趣味と信仰との交話を目的とす
一、本會は午後一時より十時に至る間に於去來隨意とす
一、本會は會費を要せず、主人茶を用意す、客茶菓を携ふるを妨げず
一、本會は入會退會等の規定を設けず
一、本會は竹乃里人先生に對し敬意を有せざるものを斥く
                       明治38年4月『馬醉木』
                          署名   なし
 
(129) 〔『馬醉木』第二卷第二號消息〕
 
正岡先生の石塔も愈出來致し本月中旬には相違なく建立致すべく候
赤木格堂君は再び召集せられ姫路第十聯隊補充大隊第七中隊へ編入せらる兩角柳の戸君は高崎第十五聯隊補充大隊第五中隊へ召集せらる鈴木葯房君今後「日本」新聞にて再び吾黨の歌を募集せらる 諸君又勉めて應募せられむことを祈る「アシビ」の遲刊は稍漫性に相成候へども五十日以上を遲刊すれば忽ち十圓金の没收を喰はせられ候こと故それ以上は遲刊の致し樣も無之僕、天下の新聞雜誌汲々として賣らむことを是れ務むる間にあつて讀者に諛はぬこと吾「アシビ」の如きものあるは聊か珍とするに足るなきか、「アシビ」流の新體詩を盛に寄せられむことを希望致し候
萬葉私考は原稿多きため餘儀なく二回休載致候得共二卷三號よりは相違なく掲載可致候 早々頓首
                      明治38年4月『馬醉木』
                       署名   左千夫
 
(130) 歌譚抄
 
     〔上〕
 
〇或人問ふ、近頃長塚氏は歌の寫生といふことを、頻りと唱へられて、自らも所謂寫生の歌を作らるゝ樣なれど、寫生の歌と非寫生の歌との區別が明にあるものか、
答、僕は自分の署名せぬ歌や文章には責任を負はぬつもりで、何時か雜誌で斷つて置いた筈ぢや、
問、これは困る 責任問題でなしに、お話を伺ひたい、
答、普通の談話上に、寫生の歌とか客觀の歌とか云ふ場合は、輕い意味で云ふのであるから、敢て差支いないが、一つの議論或は批評の場合に稍改まつての詞であると此寫生とか客觀とかいふ詞が歌の上では困る、正岡先生の評論を見なさい、皆寫生的客觀的と云ふて居る、郎寫生らしひ歌客觀らしひ歌といふ意味である、寫生文と云ふて居るがあれも嚴格の意味でいふのではない、寫生といふことは繪畫に就て云ふ詞で一概に使用する場合は皆寫生的と云はねばならぬ、況や歌の如き、形式の拘束ある上に調子を以て居るものに對して云へる詞ではない、調子を得やうとすれは直ぐ寫生でなくなる、寫生らしくやらうとすれば調子はなくなり、到底兩立しないものである、畫の方でさへ流派の調子を重ずれば、寫生は次になる、寫生を主とすれば流派はなくなる、繪畫が既にそれ(131)であるに、歌の上で寫生をするなど云ふことは殆ど滑稽である、止むことなくは寫實とでも云ふて置くがよからうと思ふ、僕は近來想像で歌を作るなどは殆どせぬ位ぢやが、事實を歌に詠むといふのみで寫生とは云はない、歌の形式歌の調子などに就て少しく考へて見ると、純客觀とか寫生とか云ふやうなことが云へるものでない、見よ歌の形式と云ふものは、帶の如くに接續して居る、俳句などのやうに中間で切れることが出來ない、二句切三句切れなど云ふ皆詞の組織上便宜でやることで眞に切れて居るのでないは云ふまでもない、であるから樹と石とあつてもそれを並べることは出來ないで、必ず左右につなぐとか上下につなぐとか是非つないでしまはねばならぬのである それで其つなぎは何かと云へば即主觀である、故にたとへば、「もちの木のしげきかもとに植なべていまた苗なる山茶花の花」の歌にしても、一二三句と「もちの木」のことを云ふても、山茶花をあらはさんための説明であつて、決してもちの木を寫生したのではない、即苗なる山茶花の上に説明の詞としてつながつて居るのである、人は或は長塚君も、是れらの歌を寫生の歌客觀の歌と云ふのであらうけれど、余を以て見れば決して之を客觀の歌寫生の歌とは云へない、なぜなれば客觀の主要點たる形象の明瞭を欠いて居るからである、第一其もちの木の所在が庭であるか或は背戸山でゞもあるかそれらが判然せぬ、第二只しげきと云ふても其もちの木の大きさは少しもあらはれてゐない、第三植並べてとあるから一本でないだけは判るけれど、數が多いか少ないかは判然せぬ、それであるから讀者の頭に明瞭な形象をゑがくことが出來ない、歌として何もそれほどに非難しなくともよいが、寫生としては殆どぜろぢや 云はゞ未成品と云はねばならぬ 此筆法で云ふと其他の歌も大抵未成品ぢや、一體三十一文字で寫生趣味を顯さうと云ふが大間違である、
〇歌は内容(即材料)の趣味と形式(即調子)の趣味と必しも平等に保つてゐるものでない、主内容(即寫實)主形(132)式(即調子派)との傾向を常に存して居る、併し内容派にも調子美が欠けてはならぬ、從て調子派にも寫實が伴はねばならぬは當前である、〇雪舟光淋などの調子派にも寫生が欠けて居らぬは識者の云ふ所である、人丸の調子的歌が決して寫實を欠いて居らぬと同じである、吾々の今日の立脚地が寫實にあることは、馬醉木初刊の萬葉論中に於て僕は充分に論じ置いた筈だ、從て今の馬醉木の誌上に殊に寫生歌なるものを認めて居らぬ、まして非寫生の歌をやだ、歌の上に強て寫生又は客觀などいふ詞を用ゐるならば、如何なる程度の寫生又は客觀であるかと云ふことの定義を極めてかゝらねばならぬ、それでなければ決して要領ある議論は成立しない、若し嚴格な意味で云ふならば寫生若くは純客觀の趣味と云ふことは、歌の性質上、有り得べきものでないと明言し得るのである、呉春や應擧が寫生々々と云ひながら眞の寫生をやつて居らぬ如く、吾長塚君も盛に寫生を唱へながら、御自分の作中往々寫實すら欠けて居るを發見するから、少しく親爺が小言を云はねばならぬ、予が小言の出ぬ内に早手廻しに注意してくれゝば幸であるが、已に出て居る歌に就ては小言を云ふつもりである、
やれ寫生趣味やれ客觀趣味と只空漠に云ふて貰ふては困る、寫生といふものの要義を呑込んで居て貰はねば困る、寫生と云へば油繪即西洋畫が最も發達して居ること云ふまでもないであらう、併し見よ油繪には、松葉を一本一本はつきり書いたり人間の頭髪を一本一本判る樣には書ぬではないか、感じを顯すといふことが寫生の目的である、人間は連想の力が誰にもそれ相當に有して居る、故に松葉を書いても頭髪を書いても一本一本判るように寫さいでもよいのである、形象の要點をつかまへるのが寫生の要義であらう、要點をつかまへなけれは、何程印象明瞭に書いても、それは只印象明瞭と云ふまでゝ、趣味の感じは明瞭しない、後世の浮世繪が、美人の睫毛をかく樣になつて却て駄目になつたでないか、古土佐の繪が面白いと云ふも、※[手偏+丙]相當即形式相當な要點寫生をやつた(133)からである。寫生と云ふことが只印象明瞭を主要とする如く思ふは大間違である、
歌は俳句より長い字數が多いからそれだけ精しく寫すことが出來ると思ふは極めて淺薄な考である、人間に連想の力あるを認めない考である、物象の要點をつかまへる點に於て俳句の形式は慥に歌に勝つて居る、予が屡云へる如く接續的な歌の形式は、物象の要點を描出する事が甚だマダルツこいのである、俳句が客觀に適し歌が主觀に適すと云ふも、此理に原因するのである、故に寫生趣味の點に於ては歌は到底俳句に及ばないが當然である、歌は長いからそれだけ精しく叙することが出來ると云ふは、毛筆は毛一本一本かいたり松葉を一本一本かいたりするには、西洋繪の刷毛より都合がよいと云ふに等しく、趣味發揮の上には少しも進歩を認められないのぢや、歌で寫生趣味をやらうと云ふは、土佐繪の筆法で油繪をやらうと云ふと似たものぢや、虻蜂とらずにならない用意が大事ぢや、領分を廣めるもよい事ぢや 開拓固より惡くはない、唯自個の本領を荒さぬ用意が欠けてはならぬ、
さうぢや長塚氏がいくら寫生々々騷いでも、連作の必要を自覺せぬ間は、長塚の寫生論に耳はかされぬ、なぜなれば、連作は寫實の上に非常な力あるものである、連作でなければ少しく復雜な詩境を歌で寫し出すことは出來ない、たとへば、先の山茶花の歌にしても、只もちのしげ木の下に山茶花の苗が植ならべてあるといふだけでは、已に云ふた通り在り所も不明だし、甚だ簡單である、これが連作的にゆくと、門の脇とか厩の前とか、それからもちの樹がどの位の大さであるか山茶花の花も赤い色とか白いとか幾本位あるのか、隣の爺が來たとか兒守子がきたとか犬が來たとか鳥が來たとか、兎に角もちの周圍の景物から人事の關係まで數首の歌の中に自然に顯し出すことが出來るのである、長塚が一首一首の未成品たる作物に安じてゐるは、彼が頭腦が寫生趣味に未だ幼稚で(134)あるからである、要するに長塚氏の歌は今のところ、寫生的即寫生らしひ歌ともなつて居らぬ、寫生臭い歌と云ふ位であらう、かうのべつに辯じられては問者も閉口かアハヽヽ、それぢや一服やらう、もう空論はよして次には、長塚先生の霜の選者詠に就て一番精酷なる批評をして見ようか、さうさ長塚氏も僕の歌を評して見るがよいさ、こゝで一寸と云ふて置かねばならぬことがある、以上の批評は寫生趣味といふ點から見た議論であるから、長塚氏の歌を全然非認したと取られては困る、長塚氏の歌は一種長塚調を爲して、又頗る面白い所があるは勿論である、僕はかう云ふてやつたことがある、君の歌は決して寫生で面白いのではない、君の詞つきに一種の調子があつてそれが面白いのぢやから考違せぬ樣にしてくれと、
 
     〔下〕
 
前編に、最早空論は止めにして、節氏の作歌に就き冷酷な批評をやつて見樣と云ふて置たが、次々節氏も新に歌を讀でくるのに、時過ぎた歌を執念深く惡口云ふでもあるまい、且つ節氏が頻りと辨解するのを暗雲と責め立てるも妙でない、今は其要點とする處を少しく書いてお終いとする、
節氏の今度の抗辨は一層究して居る、比喩頗る巧妙であるが論旨要領を得ない、鉄槌で打ちこはす樣な態度は冷酷に過ぐると云ふが、それは考違へて居る、打ち壞して直ぐ壞はれるやうな物は、惜まずどし/\壞はして了ふがよいのだ、壞せば直ぐこはれるやうな物を大事に取つて居ても何時しか人に壞されて終ふ、古への陶工は自分で拵へた陶器でも氣に入らないやつは、片はしから打ち壞して埋めて終つたと云ふではないか、幾ら壞さうとしても惜しくて壞されない物を作らふと心掛けて貰ひたい、元來が歌といふのに甘い吾々壞せと云ふても氣に入つ(135)たものを壞しはせぬ。
喰ふて甘けれは何處でとれた米でも甘いと云はねばならぬ、それに反して不味ければ、其米がよし開墾地のもので大に國益を考へて作つた米にしろ、不味いものは不味いと云はねばならぬ、それを新開地の米であるから多少不味くとも不味いといふは酷ぢやと怨言を發するは俗にいふ愚痴といふものであるまいか、何でもかまはず、うまい米を食はせさへすれば米食虫は喜で居るのぢや、
面白い歌を作つて見せさへすれば文句はない、故意に惡口云ふ氣遣は斷じてない、又そんな事のあらふ筈もないのだ。
それから節氏が今度の枯桑漫筆に、竹乃里歌の中から例歌を引いてあるが、あいふ事は少しく考へて貰ひたい、同書の凡例に固く斷つてあるではないか、「前後六年を通じて一定の標準を以てしたわけでなく其年々の作中に於て取捨を決したのである」何が爲に以上のやうな斷り書をしたかと云ふことは云ふまでもなく節氏も知つて居る譯である、故先生の歌が明治三十三年前半期以上の歌と三十四年三十五年の歌と如何に趣味の標準が變化して居るか、節氏は是等の點に就て充分研究して居るべき筈である、故先生の歌でさへあれば何年代のものでもかまはず、歌論の例歌に擧るといふは余り議論に身が入り過ぎて、實意が欠けて居ると云はねばならぬ、從令へ故先生の歌であつても其歌が未だ標準低き時期のもので、面白くない歌であつたならは、例歌として引用しても誠に疑のなきを得ない譯である、予は
故先生を信仰する點に於て決して人後に落ちぬ、乍併製作物に對しては漫に盲從はせぬのである、如何に先生の作なりとて面白くないものは面白くないと排斥するに躊躇はせぬ、今節氏が自説の援護として引用せる故先生の(136)歌二首につき少しく愚見を述べて見よう。
   杉垣をあさり青菜の花を踏み松へ飛びたる四十雀二羽
   一うねの青菜の花の咲き滿つる小庭の空に鳶舞ふ春の日
此歌最も欠點とする所は、杉垣、青菜の花、松、四十雀、の四種材料を組織統一する中心なきにあるのである、此四種を合せて一つの歌とする必然の連鎖が無いに存するのである、酷評すれば散文の一節で纏まりがないのである、一層精しく云へば四種の材料が並列的に集められた許で、吾々の常に云ふ詞でいふと一首の内に山がないのである、從て統一がない、統一がなければ詩といふ一つのまとまつた物體と認められないのである、從令へば、「杉垣をあさり」と云ふてもそれが必ずしも杉垣でなければならぬことはない、草垣でも柴垣でもよいのである、次に「青菜の花を踏み」が同じくそれでなければならぬことはない、寧ろ庭といふ趣から見れば、他の草花などの方が適切であらう、又「櫻の花を踏み」などある方が却て面白いかと思ふ、次の「松へ飛たる」も椎でも樫でも更に差支ない、結句の「四十雀二羽」も矢張り上四句の趣に適切なものは、必ずしも四十雀に限るとも思へない、「雀二羽あり」としても一首の趣に少しも無理を生ぜぬのである、此歌の中心たるべき四十雀二羽の結句すら、如斯動搖を免れないは即動すことの出來ない中心がないからである、斯く云はゞ從令趣味の中心がないにせよ、此歌の詞に依て顯はれた景色は面白くないことはなからんと反對するものがあらふ、それは詩歌と繪畫との區別を知らぬ人の云ふことである、成程此歌に説明された景を繪にしたらば、平凡ながら歌よりは面白くなるかも知れない、されど若其繪が面白くなつたとせば、其畫工の働に依て面白くなつたもので、決して其圖柄のために面白いのではない、況や其概括的圖柄を詞で説明したりとて何の面白味があるべき、詩や歌は給畫的圖柄や自(137)然物體を説明すべき器具ではない。それから次の歌、「一うねの青菜の花の咲き滿つる小庭の云々」の歌も殆ど前のと同樣である、「青菜の花の咲き滿つる小庭」と「空に鳶舞ふ」光景との趣味關係に少しも必然的な連鎖を認められない、只此歌が前のと異なつてる點は、此歌は景色が劃然二個に別れて居る處にあるが、材料が組織的でなく集列的であることは、前者も後者も少しも變らぬ、二個の景色が何れを主と見ることが出來ないから、即中心がなくなるのである、二個の景色を合して一つのものと作りあげても、其接續の關係が必然的でないから、兩者を何れにも動すことが出來る、兩景の關係に何等の面白味がないとすれば二個の景色を合せて一つにしたといふ事が殆ど無意義に歸する譯である、然らば兩個の景色を別々に見たらばどうかと云ふに、空に鳶舞ふ春日だけでは、殊に面白いと云ふ樣の景色でないは云ふまでもない、一うねの青菜の花の咲滿つる小庭の景色は面白くないことはないが、それとて只それだけにては一首の歌にはならぬのである、まして多少面白い景色が中心とはならず副景として上の句に云ふてある故、益々價値を少くしたのである、大體に於ては前の歌も後の歌も故先生が晩年毎時教えられた、所謂つかまへ所のない歌である、故に予を以て見れば故先生は、三十三年半期以後ならば決して以上二首の如き歌をば作らぬ、要するに以上二首の如き歌は革新的發達の經路に於て一度通過せる歴史上の價値は認め得べきなれども、直に文學其物の實價如何と見たならば頗る低度の物と云はねばならぬ、竹乃里歌を見る人は半面に必ず歴史的價値を認めて讀まれんことを望むのである、
以上長塚氏が例題として擧げられた作物其物に既に多く價値を認め得ずとすれば、其例歌に依て組立た議論は自ら根據を失ふ譯ぢや、されば今は予は多くを言はぬ、吾々の事業は前途頗る悠久である、漫りに新しく自説を立てんと急ぐ必要はない、故先生の、晩年の作意と選評の標準とを、篤と攻究思索して、岐路に迷はざる用意が、(138)最も緊要であらふと思ふ、予は如此用意と攻究との中より自づから新らしき發見を産み來らんことを疑はぬのである。
房州の古泉千樫氏云ふ、以下二三首の愚詠、調子に光澤がなく、こなれぬ詞つき多く候へども、投書の時分には、却て選ばれし(二卷第三號)歌よりは勝れ居るかと思ひし事に候云々、
   磯山の松の根方に腰をかけ海見て居れは胡蝶飛び來ぬ
此歌勿論調子も詞も勝れた點はないが、此歌の第一の病所は事實の平凡なるにあると、前にも云へる如く一首の中心がないのにあるのである、磯山の松の根に腰かけて海見て居るといふだけでは余りに平凡過ぐるのである、そこへ胡蝶が飛んで來たと云ふても、其肝心な胡蝶が前四句の趣味と適切に感じないので、所謂大切の句が動くのである、從令へは「かもめ飛び來ぬ」とも「燕飛びきぬ」とも又秋の景色として「秋津飛び來ぬ」とも云へる、春の材料が秋の材料と取換へることの出來るは、一首の組織最も不完全であることを證して余りあるのである、大體上趣味といふ點に注意を欠いて居るから如此歌がうかと出てくるのである。
   夕庭に一つ落たる玉椿見まもり居れは又一つ落つ
さもなき事柄を事々しく三十一文字に綴つたに過ぎぬとは少し酷評かも知れねど、詞多くて内容少き稀薄な歌である、此歌の事實は日ぐれの庭に椿の落つるのを見て居たといふまでゞあつて、一首の歌を構成する程の趣向にはならぬ、それが一つ落てやがて又一つ落たとて、椿が二つ落たからとて別斷に面白味が増す譯のものでない、初期の時代には誰れでも能くやる趣向であるが幼稚な主觀と云はねばならぬ、併し着想が幼稚でも、其詞つき無邪氣であると、平凡の人に一種の趣味を感ずるは勿論ながら、着想幼椎なるに云ひ樣が事々しく、從令へば小兒(139)が年に似合はずませた事を云ふに等しき詞つきの厭味に陷らぬは稀である、此歌の如き日暮れの庭に椿が落て居る景色を歌にするならば、花の落るを見て居るとか一つ落て又一つ落たとか、自分と椿との關係を云ふよりは、只日暮れに椿の落る静な庭の景色を寫さんと勉むべきである。從令へば其椿の位置とか木の大小花の多少又は其周圍の樣子などに注意して椿を中心としたあたり全體の趣きを歌はゞ必ず面白い歌の二つや三つは出來るであらふ。
   裏庭の籾殻の中に茗荷の芽僅に出でゝ春の雨ふる
春雨の感じを顯はさんために茗荷の芽を引合に出したは穴勝惡るい事はない、只「籾殻の中に」と云ひ「僅に出でゝ」と云ひこまかに些事を云ひ過ぎて、却て春雨の長閑な緩やかな感じが消てしまつたのである、「春の雨ふる」の一句は「春の雨晴れぬ」とも「春の風吹く」ともなるのである、上四句の趣味が春雨に適切でないからである、調子の上から見てもかゝる云ひさまは決して詩的の詞つきでない、詞のこなれぬとはかういふ詞つきなどに對して云ふのである、以下二首あれど畧す。
 記して此に至れは妻の老父重病命旦夕を測り難しとの報に接す、予は一切を放置して歸省の途に就く、萬葉私考又休稿の止むなきに至る、讀者諸君願くば之を了せよ。因に云ふ本稿は次編に於て佐々木信綱氏金子薫園氏の作二三に就き聊か評論を試みむと欲す。
            .       明治38年5月・9月『馬醉木』
                         署名  左千夫
 
(140) 十九日會記事
 
四月十九日いつになく朝早く起る、天氣のよいが先づ※[口+喜]ひ、雨戸を明け顔を洗ふ、裾端折つて室内の掃除にかゝる、障子の棧狐格子の棧までほこりを掃ふ、爐の灰をふるひ火鉢の灰をふるひ、机から火鉢まで雜巾をかける、用なき雜物は皆戸棚に片就ける、八疊の座敷であるが、氣のすむまで掃除したら約一時間半かゝつた、
朝飯濟して庭の掃除にかゝる、十五六坪の庭を隅から隅まで、塵といふ塵を一つ殘さず掃く、手水鉢を灰で洗ふ つくばひの中をサヽラで洗ふ、五郎太石を洗ふ 飛石の砂をサヽラで洗ふ、水道の水を取りよせて手水鉢に滿せる、つくばひに滿せる、玉の如くきら/\して水が如何にも清い、錦木の若葉のわか/\しひ青葉が動いてゐる 水にうつつて、何とも云ひようなく美しひ、誠に神聖な感じである、それで掃除は濟む、床へ規病筆と落款ある藤の繪に藤の歌七首書いてある幅をかける、秀眞作青銅の釣香爐をつる、沈香をたく 總て清淨を旨とする、此日一日は人が來ても來なくても心清く遊ぶといふつもり、大西五郎右衛門作の桐釜を爐にかける、釜好の予は釜に湯が煮てさへ居れば樂ひのである、おとツさん新聞と云つて兒供が這入つてきた、予は新聞を見ながら茶をひく、山田三子君がくる石原阿都志君がくる蕨眞君がくる、夜に入つて近角常音君三井甲之君がきた、大方一人か二人と思つたに意外に來會者多く非常に愉快であつた、興に乘つて際限なく話した話は一寸書けない、趣味と信仰との關係などいふ問題は區域余りに廣く、まとまつた話をするは頗る臆苦である、是からは趣味の話信仰の話(141)といふことにしようか、
趣味と信仰とは一致するといふ人と一致せぬといふ人とあつた、何れにも理がある、信仰は縱的で趣味は横的な感じもするが、そんな無造作な詞で盡せるものであるまい、上代は趣味と信仰殆ど一致したようにも思はれる、たとへば聖徳太子の如き、後世に至る程、信仰と趣味とは疎遠になつた樣に思はれる、譬へば今の宗教家に趣味を解するもの極めて稀な如く、三井君の如き趣味と信仰と必ず一致せねばならぬといふ方であつた、兎に角趣味と信仰との關係に就て考究的談話をやるといふことは、吾々が始めてゞあつて頗る興味あり且つ有益なことであらうと云ふ説は一致した、此問題に就て今暫く考究の上、議論を發表するといふ事で散會 歌を作らねばならぬ責任がなく、長閑に談話をする樂さ、文章や歌など持寄つて互に批評をやるも面白いことであらう、こいふことを書いて居ると、仰向て臥せられて居た、彼の稍面長な先生の顔が限に見える。(左千夫記)
                        明治38年5月『馬醉木』
 
(142) 〔『馬醉木』第二卷第三號歌會記事〕
 
      ●五月歌會
 
     四月歌會の歌は當時「日本」新聞に出せるを以て畧す、
十四日花見寺前の秀眞庵に會す、主人當日會の日なることを忘れて外出未だ歸らず、三子正夫阿都志甲之八風左千夫の六人葯房日暮頃來る、藤、弔寧齋、電氣鉄道、の三題を出して隨意十首を約して作る、阿都志正夫各六點
甲之八風各五點、三子左千夫各四點、葯房題作なく選に預らず。
     二點七首
   ぬば玉の夜の大路を眞晝なし花とかゝやきゆく車かも(電車)
着想除りに幼稚ならずや
   左夜ふけの雨の街に赤き灯を青き火を振り人暗に立つ(同) 左千夫
市中の感が乏しいは欠點ならんか
   千年ふる神の杉の木注連の如藤まつはりて花さきたれぬ(藤)  八風注連の如くとの形容は只藤のまつはるに對するものゝ如く聞えて落着かぬ感あり、注連を張れる如く藤の花咲け(143)りとあるべき心ならむ、まつはるの一語却て妨げをなしたるなり、
   岑の上より遠見おろせば麓べの寺の藤波松にかゝれり
麓べの寺のといふ如き概括的詞の次へ直に松にかゝれりと局部的語意を續くるは無理なるべし、意義の順序から云はゞ見下せば麓なる寺に藤あり松にかゝれりとあるべきにや
   玉藻なすかよりかくより吹く風にゆらきてなびく藤波の花    正夫詞の順序は吹く風にかよりかくより玉藻なすとあるべきなり、然かも藤の花は玉藻より美なるものなり、劣れる物を以て勝れる物を形容するは、男に似たる顔なりと美人を形容する如く詮なきことなるべし、且つ藤の花に對して何等の配合なく只花のゆらぐを見るのみは餘りに陳腐なる着眼ならずや、序に一言したきは、梅の如き櫻の如き藤の如き杜若の如き、題其物が既に陳腐極りたるものなり、如斯題に對したる用意は第一に陳腐を脱するの工夫を要するなり此用意なくして陳腐なる題に對するは始より誤れり、
   流れゆく水音底にかすかにて谷間は藤の花さきみてり     八風
如斯光景必ずしも藤に適したりとも思へず、落着ざる所以なるべし
   藤なみの花ゆた/\に鞍にさし駒たぎゆかす棧の上      阿都志此一首予のみ取れる一點の歌なれど、席上議論ありし歌なり、予は駒たぎゆくもと三字修正せり、作者は馬上手綱をくるの意なりと云ふ、予は野人馬を曳くの意に解す「たぐ」の詞は何れにも用ゐらるゝものゝ如し、併し歌の趣は斯の如く不得要領を許さず、「ゆかす」の詞は敬語なれども此一字の敬語あるために乘馬の人と解するは無理ならむ、鞍は荷鞍といふもあれば、かた/\此歌を立派なる人の乘馬のさまと見ること極めて覺束なし、棧(144)の上の一句あるが故に予は山中秣刈る男などのすさびと見たるなり、衆説決せずして別る、(左千夫妄評)
     題外五首録二首
   盆良夫か妹を懸ひつゝいはつゝじ咲たる枝に鶯鳴くも   葯房子
   垣の外の井戸のつるべのはねす花咲ける此頃人の來ぬかも
                      明治38年5月『馬醉木』
 
(145) 〔『馬醉木』第二卷第三號選歌附記〕
 
〇附記集歌充溢せるため石原阿都志君四十餘首望月光男君二十餘首村上しみ室君數首次號に廻せり
                      明治38年5月『馬醉木』
                       署名  左千夫選
 
(146) 〔山百合作新體詩「桃」評〕
 
    桃 春六種内録一                  山百合
  飛騨の深山の
     殘雪を
  松の木の間に
     望むかな
       石たくみらが
         石を切る
       谷べのはたに
          遲き桃
左千夫いふ、第二節原作は、「石の工みが」とあり、「谷の畠に」とあり「遲い桃」とありしを以上の如く改めたり、讀者の對照吟味を望む、此詩の缺點は作者の展望せる位置明瞭を缺き、第一節と第二節との景色關係は、同方向に見たるにや或は異方向に見たるにや判然せざるにあり、今一つは殘雪といひ石を切るといひ寒き堅き感じは普通梅に適せりとせらる、作者如何なる考ありて桃を配せるにや、併し普通なるは陳腐の嫌あれば、必ずしも(147)之を缺點と見る能はざるか、且つ本編の如き短小なる叙事は短歌若くは俳句にても爲し得べきの感あり、されば馬醉木の歡迎する所はかゝる短編に存せざるを一言す。
                     明治38年5月「馬醉木』
 
(148) 〔新體詩に就て〕
 
中村不折氏新に歐州より歸り、其談一々面白し其中殊に予の注意を引ける一節あり、氏は紀元前三四世紀年代の作物といふ人物の彫刻二三點を携へ來る、予訪問の時其彫刻人物を示され得意に價値を説明せられたり、依て予は問ふに二千年以前の美術と二千年後の美術とに就て其進歩發達の程度如何を以てす、氏は聊か遲疑の態なく予に答へいふ、気品の高き點に於て神韻に富める點に於て今人の作到底上代の作に及ばず、今人の作は只實際に近き點に於て慥に上代の作に勝るべし 故に今人の作到底上代に及ばずといふも誤れり、今人の作物上代より進歩せりと云ふも又誤ならむと、是ある哉言や 以て吾歌壇の上に借諭するを得べし、調子の高き點に於て神韻に富める點に於て、吾人の作歌は到底萬葉の歌に比すべくもあらず、只夫れ寫實の點に於て複雜なる點に於て縱横なる點に於て、或は萬葉以外に長所あるを認め得むか、思ふに古人と今人と一長一短の相犯すべからざるものあり、然らば今人の用意は、大に其の短所を養ふの覺悟あるべきは勿論なりと雖も、又其長所の生命なることを自覺し、是れが振作に勉むるは極めて肝要の事ならずんはあらず、語を換へて云へば明治の詩人たる吾々の眞生命は、寫實の點に於て複雜なる點に於て縱横なる點に於て保ち得べきを覺悟せむことを要す、萬葉體の長歌が能く以上の如き要求を滿すに足るや否、是予が久しき以前よりの疑問にして窃に新體詩を研究せんと欲せし導因なりとす、然れども以上は皆一片の理窟一個の空想に過ぎざるもの、如何なる新體詩が作れ得る(149)やは暫く實驗上の効果を待たざるべからず、故に目下の予は新體詩に就て餘り多くを談ずるを好まず、
終に臨で猶一言せんと欲するは、予の信ずる新體詩の特長は内容即意味の面白味にあるが故に、形式実即調子の面白味は第二に置くは自然の理なり、形式美調子美を輕ずるものと誤解する勿れ、寫實なる複雜なる縱横なる點に充分意を注がば形式美調子美の完全を期し難きは爭ふべからざるものあればなり、氣品高き神韻に富める點に於て長歌と其價値を爭はんとするは、新體詩の特長を知らざるもの、又明治詩人の生命を解せざるものなるべし、予が前號の斯欄に、文章より長き詩を愚なりと云ひしも此意に基づけるなり、形式美を旨とせる歌には勿論内容單純にして却て詞多きものあるは萬葉中序詞的の長短歌多きを以て知るべし、是即詞の面白味調子の面白味等總て内容の意味よりは外形の趣味を主とせるものなるが故なりとす、單に意味を綴る文章より反て長きものあるは自然なるべし、然れども内容の面白味を旨とすべき(少くとも予の信ずる新體詩)新體詩に於て叙詞文章の如くノロ臭くあらば到底詩たるの價値を認め得べきにあらず、予の前言盡さゞる所あり且つ阿都志君又此事をいふ故に茲に一言を添ふ
三子君はいふ、新體詩は殆ど散文に等しきものなれは新體詩を作るは殆ど無意義ならんと、今の多くの新體詩は或は散文と分つ所なきものなるべし、然れども吾々は今の新體詩を眞似て作らんとする者にあらざれば、散文に等しきや否は作物に就て評をきくの外なし、文章は達意を旨とせるもの、縱令面白味を旨と綴れる文章なりとも、大意は意義を明にするにあるべし、然るに字句に制限を如へ調子を附す、そは文章として寧ろ完全なるものにあらざるなり、如斯は要する所實行の問題なり、三子君大に言責を重ぜば宜しく新體詩の生存を許さぬ程の散文を作るべきなり、吾々は又大に新體詩軍を起して詩壇に生存の權利を要求すべし。
(150)                 明治38年5月『馬醉木』
                     署名   左千夫
 
(151) 〔『馬醉木』課題 床に關する記事〕
 
吾人の同胞程能く人眞似をやる人種は少ないであらう、服裝に見よ居住に見よ日常使用の什器に見よ、何れが人眞似にあらざる、家といふ家普通以上の家の奥の間には、必ず欠かさず附いて居る其床なども慥に人眞似の一つである、床といふものゝ起原沿革などに就ては種々の説がある樣ぢやが、今日の處では純然室内の裝飾である、奥の間の中心室内裝飾の眼目、床が就かねば座敷がおさまらぬ品位が立たぬ、旅宿に就ても料理屋に入つても、床のない座敷に入れられると待遇が惡いと感ずる位である、それほどに床といふものが無くてならぬ樣になつて居ながら、それが全くの人眞似からきてゐるからをかしひ、其證據には人々の家に就て見ると十人の内九人半迄は、床を床らしくして居らぬ、座敷の中心裝飾の眼目とはして居らぬ、趣味とか裝飾とかいふ事に一切頓着なき普通の俗人ならば兎に角、文人とか美術家とか常に趣味とか何とか云ふてゐる人々が大抵は床の裝飾などに頓着せぬは實に不思議と思ふ程である、幅物が掛つて居らぬのではないが、かゝつてゐる其軸ときたらば、多は下駄よりは少し高いが帽子よりは慥に安値らしひものをかけて平氣で居る、本箱が置いてある新聞雜誌が積である、反古紙がかさねてある、ランプがある火鉢などもどうかするとあるといふ躰裁で先づ亂雜な物置になつて居る、物置にして置く位ならば始めから戸棚に作つたらよからうに、そこが人眞似で床がなければ安心が出來ぬのである、
(152)座敷の中心たる床を物置にしてゐる人達が、一切他の裝飾に無頓着かと思ふに決してさうではない、身の廻りの作りなどは決して無頓着ではない、殊に妻君などには油斷なく裝飾させる、床の掛物は贋物でも妻君の指には純金の指環がはまつとるのぢや、大抵の家には妻君の羽織一枚だけの掛物はかゝつて居らぬ、何もすききらひから起るとも云へぬことはないで一概に悪口いふ譯にもゆかぬ、しかし人眞似に床を作つて置くといふことだけは爭はれまい、さりとて又床柱やおとしかけに、いやにひねくつた木材を使つてあるのは又隨分と、厭味で下品なものぢや、自分の體一つを包むにも、普通に二十圓や三十圓はかゝる、それも一度作れは生涯といふ譯にはゆかぬ、家族全體を包み時には來客をも合せ包む室内の裝飾ぢやから、せめては衣服一かさねの代價程もきばつて、少しく品位ある掛物を釣る位の用意は有つてほしひ、感じがよいとか惡いとか調和するとかせぬとか、常々口に云ふて居る美術家文學家などの家に對して殊に以上の如き感が起る、趣味的生活の中から眞の文學美術は出づるのぢやとの話を開いたこともあるから、或は諸君に敬を失ふの恐れなきにあらねど、思ひついたまゝに書たのである
                      明治38年5月『馬醉木』
                        署名   釜持
 
(153) 來世之有無
 
來世ありや否とは、抑も何たる問ぞ、予は之に答ふるに、秒時の勘考を必要とせず。人或は謂はむ、汝来世を信じて秋毫も疑はず、然らば汝能く來世の状態を語り得るかと。
天上十里、其状態如何と問はば、予は知らずと答ふるの外なし。地下萬尺の下、其状態如何と問はゞ、予は知らずと答ふるの外なし。然かも予は、天に十里の高所あり、地に萬尺の下底あることを疑はず。未だ來世に入らざる予が、來世の状態を知らざるは、理正に然るべきにあらずや。來世の状態を知らざるが爲に、其有無を疑ふは思想健全を欠くに因るや明なり。
然れども、予は茲に重要なる附言を爲さゞるを得ず。予の所謂來世とは、固く來世を信ずる者に就ての來世なれば、一般的に、何人にも來世ありとの意にあらず。されば来世を信ずる人にして、始めて來世あるべく、來世を信ぜざる人に來世ありや否は、予の知る所にあらず。要するに予は只予の來世を信ずるのみ、予の來世を信ずるに就ては、何等の理由あることなし。故に如何なる大聖茲に顯はれて、予に教ふるに來世の虚なる理由を以てするも、爲に予の來世を信ずるの信念は不動なるべきを信ず。(六月十六日)
                     明治38年7月『新佛教』
         .            署名 伊藤左千夫
 
(154) 最も好める樹木に就て
 
予が樹木に對する嗜好は極めて複雜ぢや、大抵の樹木は皆面白い、これはいやだと云ふ樹は殆どない、從て最も好な樹は何ぢやと問はれると一寸答に究する、冬木の中で、葉を拂つた枝振の最も面白く感ずるのは、第一槐第二柿第三楓だ、槐は予が庭前の一樹毎日毎日眺めて百日立つても二百日立つても飽かない、視れば視るほど面白くなつてくる、一寸の枝にも畫趣が躍つて居る、凡骨を脱してさうして自然である、柿の冬木は、昨冬甲州に遊んでから殊に面白味が頭にしみ込んだ、槐の仙骨はないが、一種の骨調、詩味忘る可らざるものがある、殊に峽中凋落の期に在つて、枯骨凌霄の趣、屈折交差せる千枝萬條、迚ても文字などで云へるものでない、槻の枝は古木にならねば面白くない、古來狩野派の畫が常に楓の枝調を寫してゐる、楓の枝趣は醇雅である、氣拔ではない痛快ではない、遒勁ではない、靜肅な幽閑な趣致である、戯れに歌人に比したらば、槐は人丸で柿は憶良か、楓は赤人と云ふであらうか。
夏の木では、椎の樹と合歡である、合歡の花色の飽まで優しい、合歡の葉容の飽まで柔かい、合歡の樹に對し其花と葉の美しさが身に染みて面白く思ふ時、予はいつでも命の生き延びる樣な心持がするのである、合歡の趣味は全く女性的である、淑女の心を具躰的に畫いて遺憾ないと云ふべしぢや、先年長塚君の家を訪ふた時、彼が書齋の軒先に合歡の若葉が風にそよいでゐた、予は羨しくて堪らなかつた、予は直に絶叫して君は此合歡の樹をど(155)うして歌にも詠まないのかと彼に云つた位である、長塚君は冷然意に介せざるものゝ如く、予は深く合歡の不遇を憐み、今に至るまで窃に同情を寄せつゝあるのである、長塚君の家が今少し近くあるならば、予は如何なる手段を盡しても、彼の樹を吾庭前に移し吾全幅の愛を彼の樹に加へんものをなどゝ思つて居る位だ、然るに長塚君は今に彼の樹に一顧の愛も加へぬと見えて、窓前一歩の先にある合歡のために一首の歌をも作らぬのである、長塚と予と往々趣味の衝突を見るは決して偶然ではないのであらう、併ながら長塚君が結婚でもしたらば或は彼の樹を愛する樣にならんかと思ひ、予は單にそれを樂みとして居る、
推の木は兒供時代からの關係がある故でもあるか、今日でも最も好きな樹と云へば矢張椎の樹である、夏になれば近所の兒供は勿論のこと犬も庭鳥も友達で、椎の樹の下に席を敷き、明けてもくれても其所に遊んだものである、田植近くになれば家の者は擧つて耕地に出る、其椎の樹の下に据風呂を立てゝ留守をするがいつも予の役であつた、屋敷裏の苗代に苗取をしてゐる女供が、午後の休息には脊戸から這入つてきて、少し涼ませて下さいなと云ひつゝ、菅笠脱いで椎の根に腰をかけ、眞白き胸推し開き顔から胸から汗を拭く、皆人並の女ではあるが、色の白く艶々しき美しさ、兒供ながら眼にとまつて今に記臆して居る、五月雨の雲漸く上らんとして、西日が其椎の樹の若葉にさす美しさ、晴を呼ぶといふ鳩が其椎の梢にきて鳴く田植も今日一日で終へるといふ、深く頭にしみてゐる田舍趣味、椎の木につけての予が連想はいつもかうである、
予が現在の居住にも推の木は拾數本植てある、椎の面白味といふは一寸説明が出來ない、其繁りに厚みがあつて、すきとほらぬ輕薄でない處にある、素朴な重厚な趣である、靜かな感じはあるが淋しひ感じはない、如何な天候の激變に遭遇しても、決して堪えられぬ事はないといふ趣が枝ぶりにも葉ぶりにも能く顯はれて居る、椎の樹の(156)詩趣は健全的である常識的である、癖のない趣味である、さらば美《ウマ》みのない趣味かといふに決して左右ではない、生地の美《ウマ》みで他の企及すべからざる美味があるは椎である、それで椎の面白味の眼目は葉振に存するのである、椎の樹の下に茶室を作りたいといふが予の生涯の希望である。               
                        明治38年7月『馬醉木』
                          署名   左千夫
 
(157) 雜言録〔三〕
 
△俗人相集れば必ず他人の噂を云ふ惡口をいふ、獨り婦女輩の井戸端會議許りではない、腹中無一物の彼等は、積極的には談話の材料皆無であれば、所謂世間話の下に、勢ひ他人の噂を語ることになる、されば多くは何等の意志があるでなく、徒に愚劣な談話の興を貪るに過ぎぬもので、寧ろ無邪氣な點なきにあらねど、地方の文學雜誌などの中には、文壇に盡す所あらむなどと、提唱頗る立派なるに係らず、誌面の材料には、往々彼の俗人的な人の噂人の惡口(眞面目なる批評でなく)などの多いは最も陋とすべきである、徒に小理屈をこねたり他人の噂など書たりするは實に無益な業でないか、一地方より一雜誌を出すの必要あらば、之を發刊する敢て不可なしであるが、其目的は必ず共地方同志者の本領を發揮するにあるべきことを忘れてはならぬ。
△世の中に茶の湯の師匠といふものがある、生花の師匠といふものがある、共に淺薄陳套千遍一律的の形式を繰返して人に教ゆる渡世のものじや、敢て茶の湯生花が頭からツマラヌといふではない、只彼渡世の輩は全く精神なき、拔け殻的形式を記臆して居るに過ぎぬ、されば元來立派な藝術に相違なきも、今は殆ど隱居樣於孃樣のお慰みと成り果てた次第ぢや、俗人のマヽ事的玩弄物となり果てたのだ、藝術としては殆ど價値なきものとなつて居る、是れと最も能く近似して居るものは、今日の多くの歌人といふものゝ歌であらう、
曰く御歌所派曰く黒田曰く海上曰く井上曰く何々園曰く何々大人、彼等の歌なるものに能くお孃樣御隱居樣のお(158)慰以上の價値がある歟、淺薄陳套千遍一律の形式にあらずと云ひ得るか、全く精神枯死せる拔殻にあらずと云ひ得るか、世上輙もすれば明治の文運を云々すれど、以上の如き玩弄的文學が猶大多數を占め居る明治の文運、何の邊に誇るべきかある、實に情ないと云ふの外はない、海上胤平佐々木信綱などいふ手合常に吾は顔に振舞ひ居れど、少しく色の變つた蛙位のもので到底蛙は蛙ぢや、鼻うごめかすだけ却て見惡い位ぢやらう、つまる所彼等の歌を概評すれば、いやでたまらぬ的厭味のあるほど働きはないのだ、さりとて味ふべき美味は勿論ない、藝術としての生命なきことは、今の師匠なるものゝ茶の湯生花と別つ所ないのである、然らば落合門下の一派は如何ぢや予は常に云ふ、信綱は美を解せず鐵幹は醜を解せずと、論理上醜を解せざるは即美を解せざるに歸するのであるが、鐵幹等の歌に或美點を認むるは事實である 只彼等の歌の醜なる點即一種の厭味は、常に其美點を壓して人をして近づく能ざらしむるのである、或る俳人云へり、鐵幹の厭味甚しきに比すれば、却て信綱の無味乾燥は堪べしと、これ余りに冷淡なる批評であらう、放蕩ものよりは白痴がよいと云ふに等しき論法である、
予は聊か彼等の爲に惜むの念を有して居る、若し彼等にして翻然其醜を脱し、其製作の上に汚臭的厭味を拔き去るを得ば、彼等の歌は決して生命なき形骸ではない、然れども要するに彼等の趣味は下劣の階級にあるので根本的に詩趣を解し來るにあらねば、價値ある性命は覺束ないぢやらう、液躰に混入せる臭味は逐に排するに由なきものか、
或人は云ふ、鯉も水中の産物鯛も水中の産物、蟹蛙孑孑又水中の産物ぢやないか、只品位の高下あるのみ 共に水中の産物たるに妨げずぢやらう 文壇の産物又是に等しく、茶の湯的歌生花的歌汚臭的歌皆共に明治文壇の産(159)物たるに妨なきにあらずや、要は只其鯛か將鯉か、將た孑孑か蛙かを識別せば足らんと、あおれ或は然るか呵々。
△何か悟る所あつてか葯房子近來の選歌に「哉」とめが多い、葯房子は何故にカモを嫌つてカナに移つたか、必ず理由のあることがあらう、吾々又世人がカモを嫌ふ如くにカナを嫌ふものでない、カモとカナとの相違は只調子の上にあるのぢや、輕快な織細な巧致な趣味にはカナとめもよからう、醇朴な重厚な堅實な趣味などには無論カモとめでなければならぬ、然るを何でもカナでなければならぬ樣に思ひカモでなけれはならぬ樣に思ふは愚なことぢや、吾々の歌にカナが少ないは田舍漢たる吾々は輕快繊細巧致などいふ趣味を余り好まぬからである、古今集や新古今集の、翩々たる公卿的歌に重い調子のカモとめが適せぬは當然のことである、カモは古い詞でカナは新しい詞であるから、カナを用ねばならぬと思ふ輩があるならば、それは詩といふものゝ上に調子の大切なことを知らぬのである。
△信仰心なき人の宗教談、趣味を解せぬ人の文學沙汰、世に馬鹿らしきものゝ好一對であらう、自個に信仰の確立せるなく、千百演説し千逆説教すとも、要するに風起つて塵埃を飛ばすに等しく、何等の意義を其中に認むることが出來ぬではないか、
今の多くの歌人新體詩人などいふ人々の製作を見るに、十中八九は根本に少しも趣味の修養なく徒に手の先口の先に文字の細工を捏返して得々たるに過ぎぬものである、續々として顯出する何々歌集何々集、皆是信仰なき宗教家の演説説教の類にて風塵的産物ならぬものはない、
年猶若く早く歌集を出して得々たる彼等は、憐べし自個の所業を以て、自個に修養研究の念なきを證明せるものである、試に思へ、眞に修養研究の念あらば、年と共に自個の理想と作物とに幾分の進歩と變化とあるべきを思(160)はねばならぬ筈である、今日の製作を二年三年の後に見ば如何あるべきかとも考へぬは、彼等が明に修養研究など念とし居らざるの證ならずや、抱負の小なる見識の卑なる趣味の下劣なる、彼等自個の所業を以て餘薀なく説明し居る、實に愚と云ふべしぢや。
△吾々歌人間にも俳句を作り得るもの少くはない、併しながら俳句の上に議論を試みむとする樣な出過ぎ者は未だない、近頃俳人の側を見ると歌らしひ歌一つ作り得ぬ人達が歌に關せる理窟を云ふて居るは、余り出かした譯のものであるまい、俳壇の光景漸く暗澹たる状態に陷らんとするの傾きある今日、俳人たるもの人の仙氣に頭痛をやみ居るほど暢氣なるを得るか、愚なる人々よ、ぼんやり余所見をして居る内に自個の立脚地が怪しく變轉せんとしつゝあるを知らざるか、
子親子を疎く思ふそれだけ、子規子に遠ざかる それだけ俳句が墮落し居ると氣が附ぬ才子達誠に憐れなる人どもである、子規子に依て開かれた眼ではないか、子規子を忘れて其眼に變化を來さぬと思ふは余り愚過ぎはせずや、子規子を盲拜せよといふではない 子規子を研究せよと云ふのぢや、子規子の俳句は成功したけど子規子の歌は未成功のものぢやあるまいかなどゝ愚にもつかぬことを思つてゐる手合は、要するに子規子を研究せぬ明證である、子規子が解らなけれは、芭蕉も蕪村も解りつこない、歌も俳句も解りやせぬ、誤解する勿れ子規子の外に俳句がないと云ふのではない、何故に俳句は革新の必要があつたか、如何にして俳句の革新は行はれたか、文字のお慰的俳句と眞文學的俳句と如何なる點に於て明瞭に相違して居るか、苟も是等の根本的諸問題に就て誤解せぬ樣にとの心掛があるならば、どうしても子規子を研究せねばならぬ筈である、斯くいふと子規子は研究せなくとも、チヤンと解つて居るといふ人が多いであらう、考迷ひしては困る子規子がさう無造作に解る位ならば(161)子規子は偉人でも何でもない、子規子は生前に親しく其話を聞其批評を聞且互に質問を交換しても容易に解らなかつたは子規子である、況や今日をやだ、
子規子が生前二三ケ月前に於て、如何に俳人諸君に痛棒を見舞れたかは何人も能く記臆して居らう、子規子が今日まで生存して居て今の俳壇の状況を見たならば果して如何なる批評を下すであらうか、全然趣味一致せりと悦ぶ樣な事が萬に一もあるであらうか、俳壇の諸將は各自に行旅的現在の位置を保持して只自ら守るに急なるが如き傾向を有せざるか、子規子は終焉二ケ月前に於て自分と兩三の人と何時の間にか趣味相違し來れるを發見せりとて、それが爲に殊に一會を開かれたことがある、思ふに孤立懸隔して各人趣味の疏通を欠くは發達澁滯を來すを以てゞあらう、以て子規子が用意を察するものなきか、碧梧桐は云ふ、鳴雪選虚子選殆ど不可なり、他は又云ふ碧梧桐は狹隘に過ぐ餘りに好む所に執着せりと、予は其何れが是なるかを知らず、只何故に諸子は趣味疏通の道を講ぜざるかを怪むのである、子規子研究の提議は、中央俳壇に於ても猶決して無要ではない、勿論俳人のみではない、所有文壇の諸豪傑で眞面目に忠實に研究的態度を取つて居る者が一向に見當らぬ、怪げなる既得の地位今少し惡げに云はゞ殆ど價値なき自個の現在を保持するに忙しき何等發展の餘地を認められないのが、蕩々皆然りである、他に攻撃せられむことを恐れては思い切つて他を攻撃することも爲しえぬ腑甲斐ない文士許ぢやないか、云ひたい事は山ほどあるが此位にして又の事にしょう、
                     明治38年7月『馬醉木』
         .             署名  死癖道人
 
(162) 〔『馬醉木』第二卷第四號歌會記事〕
 
      ●東京歌會
 
六月十一日、無一塵庵に會するもの、甲之、一也、蕨眞、主人を合して四人、折しも梅雨のながめ面白きに、人少なければ話興却て熾なり、五月歌會の歌に就き、潮音書を飛ばして激しく攻撃し來る、曰く不振も又甚しからずや、何年立つても同樣なる程度の歌を繰返す位ならば、斷然短歌會などといふもの解散するに如かずと、今日の歌會をして遂に談話會に終らしめたるは、其責め一半は潮音にあるべし、毎月の歌會は相撲の稽古場の如きもの、新入の人も來ることあれば、余りに八ケ釜敷云はぬがよかるらむなり、など申し合へり、主人いふ、然かも時には潮音を驚すの作なかるべからずと 衆皆いふ今日は歌を作らず却て愉快なりしと。
七月九日、曰く阿都志、曰く里靜、曰く主人、日中暑氣に苦み、日没して蚊に攻めらる、即盛に味柑の古皮を蚊遣に焚きつゝ、各十首を作る、前二回の不名譽を恢復し得るや否、即左に抄録す。
      〇             里靜
   岩山の清水を汲める釜の湯に薄茶のかをり忘らへなくに
   据風呂の釜焚き居れば庫裏と柄屋のあはひの梨に月ぞ出にける
(163)   釜たきの香黒男を誰かこふる目黒鼻くろ汗もくろくろ
      〇             阿都志
   さゝ栗の花の咲きちる梅雨《ツユ》晴れててれる新月影あたらしも
   五月雨の批把に音降り紫陽花の色ます夜らは灯かげ淡しも
   夏ころもかげのよろしきゆふ月夜蓮かをる水に翡翠飛ぶも
   ゆふ月夜短の鴨足草《ツユクサ》露もみゆ柿のあだ花かつ散るもみゆ
   ほとゝぎす鳴くに堪えず篠闇の梅雨の降る夜をひとりしなかゆ
   草庵に塵もあらなく神さびし吉きみ釜をめでもつ翁《ヲヂ》かも
      〇             左千夫
   瓦けの土の器に酒酌める古きむかしの平蜘蛛の釜(茲に釜といふは茶の湯の釜をいふ)
   平蜘蛛の釜かけ居れば苗束《ナヘタバ》に結髪《ユヒカミ》しけむ民等しおもほゆ
   五百とせの昔鳴りけむさながらに煮え鳴る釜したふとかりけり
   桃山の黄金の城に召されつゝ釜作りせる辻の與次郎
   秋山に西吹き起り空晴るゝ見の胸開く形よけき釜
  自註辻與次郎は豐公に仕へたる釜師なり、其作※[手偏+丙]を見るに調子強くして然かも暢びやかなり、故に一見壯快なる感を起さゞることなし、予其趣を歌はんとして能はず 思ふに讀者は獨合點なりとせむか
   群萌黄椎の若葉の下庵にかけば協はむ與次郎の釜
(164)   遠租の淨味の釜は大君の三笠の山の和形《ノドカタ》にして(名越古淨味の釜)
   若葉風かをるいほりに釜の煮え聞きつゝもとな猶樂しも
                      明治38年7月『馬粋木』
                        署名   なし
 
(165) 〔山百合作新體詩「遠人」評〕
 
     遠人
   辨當を椽におき
   疲れたる腰をおろす
   雨はれし草庭に
   石竹の花盛
〔下段〕   山百合
   お歸りと人も出ず
   留守の宿寂しけく
   日盛りに咲き靜む
   石竹の庭を見る
許にいふ以上二節想と調と共に自然を得て感じよし
   靴脱ぐも物うけく
   頬杖を膝につき
   眼を移す垣外の
   すんぐりの延びし梢
〔下段〕   淋しさに今馴れて
   障子あけひとり入る
   帽掛に帽掛けて
   森閑と八疊間
評にいふ以上二節の叙事余りに些事に渡れり 平凡にして趣少き些事を叙すること冗長の弊に陷る所以なり、予は此二節中より各二句を抜きて左の一節にせんことを欲す。
 「帽掛に帽掛けて森閑と八疊間」「眼を移す垣外のすんぐりの延びし梢」
(166)   空遠きひむかしの海
   はしき妻旅にあり
   いたづきを養ふと
   歸りこん日を知らず
〔下段〕   美すず苅る科野より
   安房といへば百里あり
   六月のうしほ浴み
   さびしみと告げて來し
以上の二節中「空遠き海のあなた」とあるを「東の海」と正せり、「海のあなた」といふ詞は對岸の意味を感ずればなり、他は敢て珍らしからねど難なし
   かく思ひ椽に出で
   庭を見て立つとき
   白き蝶二羽來て
   花低く飛べり
〔下段〕   音なみと靜けみと
   青垣をめぐりつゝ
   咲きつゞく花をこえて
   石の上にとまれり
以上の二節は插入甚だ突然なり從て不自然を感ず 拵へごとの感じ多し、且初句「かく思ひ椽に出で庭を見て立つとき」の如き全然説明にして少しも文章の一節と異なる所なし 二節共に全く削除すべし。
   にほへりし兩頬は
   日を經つゝ瘠せざるか
   清かりし彼が眼は
   今にして憂ふるか
此節の第三句「清かりし眼ざしは」を「彼が眼は」と正せり、まなざしといふ詞今の新體詩に能く見る詞なれど(167)演劇の身振りめきて頗る厭味なる詞なり、山百合君にして猶茲に心づかざるは何ぞや
   美しく髪結ひて
   家の門出づるとき
   癒えぬべき吉き事を
   吾がいへは喜びき
〔下段〕   眼に見ゆる日や近き
   眼にみえぬ道や遠き
   まさきくて歸り來と
   吾がいへば泣けりき
以上の二節は卷中の山なるべし
   故郷の手紙《フミ》見れば
   三日四日《ミカヨカ》もなぐさむと
   云ひこしし事を思ひ
   思ひかね椽に立つ
〔下段〕   白き蝶來り去る
   庭の石や靜かに
   石竹只|眞紅《シンク》
   日斜にかげ寂し
此節原作は「白き蝶まひ去つて庭の石靜かに石竹の深紅に日の脚傾けり」とありしを本文の如く正せり 讀者對照吟味を望む
   僅かなる風吹きて
   庭に草そよぐ
   垣外のすんぐりも
   うごきて靜まる。
此一節斷然削除すべし
(168)總評此詩章十四節の内予の考の如く四節を削除し去るも猶此詩が含める内容に對しては詞の多きを感ずる程なり、内容乏しきに徒らに詞章を豐かにせんとするは極めて幼稚なる考なり新體詩を作らんとするもの先づ第一に其幼推なる考を脱却し來らんことを要す(左千夫妄評)
                     明治38年7月『馬醉木』
 
(169) 〔『馬醉木』第二卷第四號消息〕
 
聊か期する處有之來月よりは順次發行期を恢復致すべく候、號一號と吾歌壇の振張しつゝあるは毎號の誌面之を證し候如く、同人一同の窃に慶賀し居る處に候、本號又原稿充溢のため、枯桑漫筆、歌譚抄、十九日會記事(文學と宗教)其他延着の歌稿は皆次號へ廻し申候早々
                     明治38年7月『馬醉木』
                        署名   なし
 
(170) 〔『甲矢』選歌附記〕
 
附記、何事によらず一藝の上に得る處あらんと欲せば、宜しく容易に屈撓せざるの精神を以て着手すべし、苟も此精神を欠く寧始めより學ばんとせざるに如かず、今の作歌者流多くは自ら刻苦研究するの念なくして、却て選者の嚴を嫌ふの傾あるは嘆ずべき事ならずや、何人にも容易になし得べき平凡事を爲し得たりとて何の樂みかあるべき 文學上眞に價値あるものを作らんとは熱望せず、たゞ/\徒らに雜誌に掲載せられんことを望むが如きは決して眞面目なる態度といふべからず、本誌の應募諸君を皆然りとすると誤解する勿れ、
歌は六ツかしくて駄目だ、六ツかしく許云はれるのでいやになつた、などゝは折々耳にする處なり、眞實作歌の樂みを共にせんとする人の爲めならば予は如何なる困苦をも辭せざるの覺悟なれど、上調子なる板面牛分なる投歌者の爲めに眞面目に腦力を費すことは予の平に御免を蒙らんとする處なり、予が選歌の嚴を惡む人予の直言に怒る人予が偏狹を悦ばざる人等は一切予の選題に應ずることを止めよ、妄言多罪 七月五日左千夫記。
                      明治38年7月『甲矢』
 
(171) 竹の里歌之内
 
   とばりたれて君未ださめず紅の牡丹の花に朝日さすなり
此歌に對して『君未ださめず』の君の字義を疑へる間は頗る其問を得て居る、此『君』の文字一字の意義に依て此歌の趣味境涯が定まるのである、卒然として讀過すれば、何人も無造作に應對的の『君』といふ語に解し去るのであらう、此歌贈答の歌ならぬことは云ふまでもないとすれば、君なる語は決して普通の敬語でなく、君王の意味ある詞と解するの外はない、從令帝王と云ふ程の嚴めしき場合にあらざるも、君公又は君侯主君など云へる意を以て居ると見ねばならぬ。
然らば此歌は臣下又は婦妾などの位置にある人の心になつて作れるものである、それにしても予は此歌に大なる疑問を持つて居る、そは此歌主たる人は屋内にあるか、將た屋外にあるかと云ふ点である、『君未ださめず』の語は屋外より見て推察的に云ふ詞ではない、從令へ主君なる人の躰躯は見えないにしろ、寢具などの有樣に依て一見主君の未ださめ給はぬことの知れたる場合に出づべき詞である、されば下三句の紅の牡丹の花に朝日さすの光景も屋内の樣と見ねばならぬ、して見ると主君未だ覺め給はぬといふに屋内の牡丹に朝日さすといふも、聊かをかしい、想像の出來ぬことである、
それとも此歌の漢詩より出たるは明かであれば、漢土高貴の家のさまにて、側近く奉仕する官女などが、朝勤の(172)ため主君の寢室近く進み入りて戸外の廊下などより、窺へるに主君の未だ覺め給はぬといふ如き場合にや、されば牡丹は戸外の廊下にでもあるものと見て朝日さすの詞は※[角+羊]つてゐるが、かゝる高貴の家にて戸外の廊下より主君なる人の寢室の帳を垂れて臥し居るさまが見えるものにや疑はしい。要するに少しく※[角+羊]らぬ歌である、女の詠めるといふさまもあれど必ずさうとも云へぬ、屋外の如く屋内の如く、詞の上には能く調ひ居る樣なれども、趣味漠然として想像し難い歌である、明治三十四年以降の標準を以ては無論削除さるべき歌であらう。
   武蔵野の冬枯芒婆に化けず梟に化けて人に賣られけり
滑稽の歌である、枯尾花と化物とは昔話などにもよくあることで俳句などにもあつたと思ふ、別に意味はない、冬枯れた芒原などの淋しき光景を主観的に云ふたまでゞあらう、梟に化けてとは前の諺などの意を受けて、龜戸あたりで兒供の弄具に賣つて居る、尾花で作つた梟のことを矢張主観的に梟に化けてと洒落れたのである、秋の末の頃になると龜戸天神の前などに、尾花を丸く束ねて一寸梟の樣にこしらへ、糸で篠竹の先へつりさげて賣つて居るのである 一つ一錢五厘位、
   妹か着る水色衣の衣裏の薄色見えて夏は來にけり
此歌に對する質疑も尤な質問である、女の單衣は多く或部分に色のある裏をつける、薄い單衣を透ひて裏地の色が僅に見えるさまの樣なれど、かくては盛夏羅衣のさまに似て初夏袷のさまでない、是は作る時考違ひをしたのであるまいか、選をする時も遂に氣がつかずに居つた、一寸詞つきのをかしきに惑はされたのである。
乍併若し此『水色衣』を袷と見た時は如何と一考して見たらばどうであるか、さうすると衣裏の薄色は全く裾裏(173)の色が見えるといふことになつて、風に裾がかへる時か、歩行の際に裾裏が見えることになるが、それでは必ず袷の時に限らぬことゝ思ふ、單衣殊に薄物の衣とすれば『夏は來にけり』がをかしひ、總じて是等の歌を作つた時代は專ら題詠を事として、實際に疎かつた傾がある、從て吾々の今日の批評眼を以て見れは隨分欠点を發見するのである、されば卷頭の凡例には此事を明かにことはつて置た、前後六年を通して一定の標準を以てした譯でなく其年々の作中に於て取捨を決したのである云々、竹乃里歌を讀む人は必ず此凡例を記臆して居て貰はねばならぬ。
                     明治38年7月『甲矢』
                     署名   左千夫
 
(174) 趣味と信仰
 
五月十九日一人六月十九日三人、翌日三井甲之君より來書にいふ、
  自分がエライかと問はれ候時は否と答ふるのみに候、されど汝が信ずる所はと問はれ候時は眞實なりと答ふるの外なく候、
  小生自分の信ずる宗教家の所へゆき候時は自己を忘れ申候、自分の信ずる詩人の所へ参り候時には世を忘れ申候、共に頭が空虚になるに候へ共なり工合少し異り候、自己を忘れ候時には物は見えなくなりて愉快に候、世を忘れ候時には物がよく見えて愉快になり申候、宗教家は美なる動作をするものと存候、文學者は美なる動作を感得するものと存候、結局双方とも美なる動作をなすに一致候も文學者は宗教家より自覺的なりと存候、
  宗教と文學とは男女の如しとの御譬今思ひ合せられ候、
  教行信證上、二十四丁に左の如き語有之候、
  信に復二種あり、一には道ありと信ず、二には得者を信ず、唯道ありと信じて得道の人を信ぜず、之を名づけて信不具足となす、
  面白しと存候。            三井甲之助
     復牘
仰せ越しの旨一々面白く拜誦致し候、小生は汝はエライかと問はれ候はゞ決してエラクはないと答へ申候 され(175)ど汝の所信と言動とはと問はれ候はゞ決してエラクないとは答へ不申候、如何となれば吾等は固より凡夫に候へども、不思議なる導きに依て、尋常人の容易に至る能ざる所に參り居り候、簡單に申さば小生等の居る所はエライ所に相違なく候、親鸞上人子規先生の精神を逐ひ人格を慕ひ候結果、吾等は尋常にして至り得べからざる地點に登り候義と存候、故に吾等は凡夫に候へども吾等の所信と吾等の言動とは決して凡夫にはあらずと信じ居候、自分の信ずる宗教家に逢ひ候はゞ、信仰の念先づ強く崇敬の心烈しく湧き可申候、人は此信仰と崇敬との心抑へ難き時、言ふ能はざる歡喜の念起り申候、されど一般の人情より見れば、如此歡喜は消極的の歡喜に候、頼もしき感念扶けられし感念、自己の精神を他にさゝげて一切他が支配に任ずるが如き情より起る安心等の動機に依て生ずる歡喜に候故、自己を忘れて物が見えなくなるとは如何にも尤もなる次第と存候、自分の信ずる詩人に逢ひ候はゞ、崇敬の念よりは先づ趣味的に美を感ずること強く、和樂の情漲り可申候、精神に緊肅の状少く寧ろ自由の感念に可有之候、※[口+喜]しといふよりは樂しみといふ情態に可有之、故に歡喜の趣は全く積極的に有之總ての感覺は却て敏活を加へ視る物聞く物につけて、より多くの愉快を感じ候事と存候、されば世を忘れて能く物が見えると申され候貴言如何にも適切と存候。宗教と文學とを對照的に概論致し候はゞ、宗教家は主動的の性質多く、自ら高く超然たるに安ずる事能はず、進で社會に觸接し、自ら修むると同時に併て社會を指導すべき天職を有する如く、相見え候へども、文學家は全く反對の性質多く、多くの場合に社會との關係は受動的に有之候、自己の必要より社會を觀察するも自ら進で社會に觸接するの必要なく、寧ろ社會が務めて文學家に觸接を要求するの状態を有し候、故に文學家は宗教家に比して極めて放縱にして超然たる天性ありと存候、されば茲に文學家ありて社會が之を好遇せず之れに觸接するの道を講ぜざるは、其責多くは社會にありと云ふを至當なりと存候、如此社會(176)は不健全の批判を拒むこと能はざるものと存じ候、之れに反し茲に宗教家ありて、徒に自ら高踏し敢て社會に觸接し社會を指導するの道を盡さゞるものあらば、其責多くは宗教家にあるべく何となれは宗教家の社會に對する働きは直接的にして、社會が宗教を要求する希望は極めて急切なるが故と存候、宗教の社會に對する働きは男性的にして直接なるべく、文學の社會に對する働きは女性的にして間接なるものと存候、宗教は理を中心とし智を中心と致し、文學は美を中心とし情を中心と致し候、宗教なき社會又は宗教の働き少き社會は男子なき家又は男子の働き鈍き家と同じく、生存の歸着甚だ危かるべく候、文學なき社會若くは文學の働き少き社會は女子なき家又は女子の働き(趣味的に)少き家と同じく、生存の結合を脆弱ならしむるは必然の事と存候、男子あつて男徳なく女子あつて女徳なき家は、人間の價値甚だ劣等なるが如く、宗教の働き少なく文學の要求せられざる社會は、世界に現實の實例に乏しからず候、如此社會が漸次に衰退凋落しゆくの情態を呈しつゝあるは毫も不思議には無之候、東洋にも西洋にも現に貧弱なる癈國の悉くが一樣に宗教振はず文學起らざるを見れば誠に明なる事實に候。
信仰と趣味との社會に於ける二大動力は、共存併行相抱合相扶掖して益其働を靈ならしむるものなるべく、偏傾孤立は其利用を全ふする所以にあらざるは申迄もなき事と存候、文學なき宗教家は文學と相扶くること能はざるべく信仰なき文學家は宗教と相携ふること能はず、文學を解せざる宗教家は穩健なる能はず、信仰なき文學は強堅ならず 若し夫れ兩者の状態以上の如きものあらば、如何にして兩者の本能を全ふし得べきか、思ふに如斯の問題、進歩せる論場にありては既に陳腐のものなるべく候へども、吾國現時の文學界宗教界は、趣味と信仰とに關する小生等の討究を無要現するの資格斷じて是無かるべく候、平生考へ居候事故機に觸れて思は(177)ず、書立て申候早々(左千夫)
                     明治38年9月『馬醉木』
 
(178) 七月十九日會
 
此日雨降り風吹く、三井甲之君上野一也君來遊、アシビ二卷四號出來の報至る、雨の晴間を窺ふて雜誌の受取と配附とを辨じ歸る、夜に入りて三人且つ談じ且つ雜誌の發送を爲す、二人遂に草庵に宿る、談話の要領を左に記す。
 人は非常なる困苦と深甚なる悲痛とに遭遇して猶能く平然恆の心を保ち得ば、以て悟れりとすべきか、曰く決して然らず、
 人世非常なる困苦の中には又非常なる面白味あるべし、深甚なる悲痛の中には又深甚なる趣味あらんなり、故に人は如何なる困苦悲痛に遭遇すとも困苦悲痛の中に能く其面白味と趣味とを味ひ得て、身の困苦悲痛の中にあるを忘れ得るに至るを要す、故に至つて人間の眞價値始めて窺ふを得んか。
之を敷演せば幾萬言猶足らざるを覺えむ、今約して大綱を述ぶ。
                   明治38年9月『馬醉木』
                    署名   左千夫
 
(179) 沼津之歌會
 
例のきはなる人々は、時軍國の世とも覺えず、暑中の常とて、海の旅山の旅など、とりどりに聞ゆ、人數ならぬおきなも、沼津の友垣木村秀枝がり參りて、今年は人並みらしう夏の旅しにけり、ついでなればとて人々歌の會もよほす、有信不言舍學道黄庭利文等まゐりあへり、あるじの秀枝とおきなとを合せて七人、十題づゝの題を分ちて各十首をものす、秋立て二日を過ぎし八月九日といふ日なり、風すさまじく吹きて村雨しば/\おそひきつ、天氣にきほひたるにやいと勝れたる歌も多かるらし。
   うち續く暑さも知らに住まひ居る磯山蔭に鈴の音すも(風鈴)  利文   いそ岩に立てる眞少女ぬば玉の髪もなびけり袖もなびけり    黄庭   岡のへゆ立ち眺れは八百代の青田をぬひて白帆まひくも     同
   大君の御楯の吾背ふるさとの妹か稻原おもほすらんか      學道   常勝《ヒタカチ》の大御軍の名も實もし榮えある結び見ずてはやまず 同
   のぼり立ち田子の呼坂月まてば清見の浦に火がさはに見ゆ    有信   言の葉に花のみ咲きて實らずば勝し御國のかひはなけむぞ    同
   まかゞやく日は照らせれど沖つ波木綿波立ちて風の涼しも    秀枝
(180)   石きりてきり残したる其山の崩えのとゞみに松しみ生へり  同
   風鈴のしき鳴るなべにうたゝねの夢よりさめぬ合歡木ねふる頃  不言舍
   千町田の青田のつゝき村に近く薄紅の蓮の花咲く       同
   靜浦の松原くれは香貫野や青田そよきて日は傾きぬ      左千夫   大口の眞神が吼ゆる空言をこゝたまをさね逃る日までは(露將リネウイツチ) 同
   もろ/\のなげき偲ばゞ天つ神|兩國《フタクニ》人に和《ナ》げとのらさね
   夕過ぎのそゞろあるきに待つとなく月待得たり岡登りきて  同
   繪の浦の磯の見立てと立つ山をまねく石きる惜しき磯山   同
   松高く砂原清き月讀に磯邊もとほり左夜ふけにけり     同
   秋立つと聞けるあしたを旅にして槿畫けり後のかたみに   同
利文はなかばにして去りつ、秀枝は近く學び得たる寫眞の博士なり、後の紀念にとて五人の痩せたる顔肥たる顔とも寫して分ちぬ、面白かりし一日や。(左千夫記)
                      明治38年9月『馬醉木』
 
(181) 二緒の玉
 
去年の冬なり、予は始て信濃に遊ぶ、暫し諏訪の山浦にとゞまりて、立科山の湯に浴せる時になむ、ほど近きよし聞て小平雪人大人を訪ひき、大人好古の癖あり、上代の玉石の類ひ限りなく貯へ給ふ、ことに一搆の家に藏め給へるを乞ふて示さるゝを待つ、其道に暗ければ石器土器などは只珍らしとのみ見る、曲玉管玉の尊とき、上つ代の手振も偲ばれて面白さ限りなし。
都に歸りける後、篠原志都兒がり消息のはしなどに、屡ば玉の忘れ難を云ひしかば、志都兒予が爲にねもごろに大人に乞ひけむ、此頃大人は快く愛をわけ給はり、種々の數取揃て惠みこさる、御歌さへ添え給へり、※[口+喜]しさ堪え難くて聊か唱和のこゝろを述ぶ。
   玉目録
一、琅※[王+干]曲玉、一個
 佐久郡春日村、彦狭島王の古墳にて拾ふ
一、瑪瑙小玉、一個
 同前
一、八坂瓊玉、五個
(182) 同前
一、紅玉の切子玉、一個
 出所不明
一、出雲蒼玉の管玉、一個
 諏訪郡塚原古墳より出づ
一、雷斧、一個
 諏訪郡湖東村花牧原
一、粗製雷斧、一個
一、矢の根石、三個
 同所
 〇春日村は日本紀景行紀五十五年の條に見ゆ、彦狹島王の薨せし地にして古墳累々たる所なり、塚原は健御名方の子孫の古墳多き所、花牧は延喜式に見えたる鹽原の牧の一端にて、花牧は思ふに端牧なるか、即附するに拙歌數首を以てす、
                     雪人
   春日の穴咋のむらの塚の邊ゆわか拾ひこし曲玉ぞこれ
   心ある人にも見せず我もてるうづの勾玉月日經にけり
   古へを多布斗牟人はわが如く眞玉手にまき愛でもつらんか
(183)   阿加陀麻を緒に貫きもちてうなげれは古きむかしの余曾比斯おもほゆ
   赤玉はあかくよろしく蒼玉はあをくよろしく緒さへ光れり
      こたへ歌            左千夫
   たまはりし玉のことこととりまとひ奈良人さびて楽しきを經め
   いにしへの尊とき人のまかしけむ薄青色のこれの曲玉
   薄青に潤ほふ色の沈みたるこれの曲玉神の玉かも
   石の斧石の矢の根も奇しくあれど玉したふとし光りあかなく
   掛けて見るいづれはあれと紅玉《アカタマ》の切りこの玉は家照るまでに
   遠つ代の神代の人の庵なれや柱に繁々に玉懸けて居り
   いにしへの人しなづかし押なべてをとこをみなも玉まきもたる
   玉といふは怪しきものぞ手にまけば心とほりて物思ひさりつ
   九つの玉を緒に貫き輪に結び手を去らず見む長き月日を
   管玉をしゝに貫重りいや長に結てをかも後のまじはり
                        明治38年9月『馬醉木』
                         署名   左千夫
 
(184) 雜言録〔四〕
 
△歌にも俳句にも陳腐を繰り返すの馬鹿氣て居るは云ふまでもないが、さりとて漫りに新奇を求めて、珍らしき材料をあさるの弊は、徒らに材料に重きを置いて、趣味の如何を顧みぬに至るのである、材料の新しひといふことゝ、趣味の新しひと云ふことは、自然区別の存するものである、材料が新しひからとて、直に趣味新しひと思はば、大なる誤解である、只材料に新らしきを求むるは新らしき趣味の作物を得る重要の手段に過ぎぬと云はねばならぬ、能く此邊の消息を解して居らぬ作者は譯もなく珍らしひ材料を讀み込めばよいかの如く、其材料從令へば植物とか器物とかの、其名を知れるのみにて、一向其植物や器物の趣味を解して居らぬ物を材料として歌や俳句を作るのである、如此は實に大膽と云ふより無法者と云ふべきである、寧相當の思慮を欠いで居る幼稚な程度にあるものと云はねばならぬ。
五月頃の「明星」に與謝野晶子といふの歌であつたと思ふ、琥珀の水盤云々といふ歌が出て居つた、是らは作者が琥珀といふものは如何なる物かといふことを知らずに歌に作つたものである、歌のよしあしは暫く置く、多少名を知られて居る作家としては其用意の淺薄に驚くのである、琥珀を知らないのに驚くのではない、前にも云へる如く、其名を知るのみで一向其趣味を解せぬ物を、趣味を性命とせる歌に詠む無法さに驚くのである、次手に琥珀のことをいふて置く、琥珀を玉質と思へるは、極めて昔のことであらふ、琥珀は火にかざせば燃ゆるもので、(185)松脂臭く煙を立てゝ燃ゆるものから、前世界の松脂の變化したものぢやと云はれて居る、兎に角玉の如く硬質のものでなく、水盤などに出來る樣な大きいものなく、又其質の脆い處からも決して水盤などに作られる物ではない、
七月發行の懸葵に、伏見にてと題して。
   淨林の釜かく音か閑古鳥       句佛
これは例の愚庵所感といふ淨林の釜に思ひよせての句作であらうけれど、矢張り作者は茶の湯の釜といふものを知らずに作つたものである、從令へ寫實でなく理想的のものにしても、茶の湯の釜に「かく」と云へるは何をかくことにや、釜をかくと云へは炭をかくと見るの外あるまい、京都から出る雜誌であつて然も作者が句佛であるから、殊に眼に立つのである、まさかに句佛師や四朋翁などが茶の湯の釜の如何なるものか位を知らぬ譯はあるまいにと怪まれる、或は愚庵方にては淨林の釜に薪を燃て湯を※[者/火]たかも知れぬけれど、それにしても如此例外の事實は普通的に詩の材料とならぬ、何れにしても作詩の用意を欠いて居る、以上予が一言を費すに至つたのは、敢て他を難じて快とするが爲ではない、これに依て聊か吾「馬醉木」の作歌者にも顧みる處あらんことを願ふのである、珍らしき植物又は珍らしからざるも從來餘り人の注意せざりし草花などを材料とする場合には、殊に趣味と材料との關係に注意して貰はねばならぬ、主なる材料とする場合は勿論從的材料たる場合と雖も單に其名稱を覺えたのみにて、其趣味特色等に就て一向に知らざる草花などを、漫りに詠込むことは切に相戒めて貰はねばならぬ、寫實々々と云ふても詩的材料の寫實でなければならぬ。材料の新いと云ふより趣味の新いといふ事を主とせねばならぬ、詩人は廣く物を知つた許りでは駄目である 廣く趣味を解(186)して居らねばならぬのである、詩人は學者でなくともよいから、物に間違があつたとてこれが直に恥辱にはならぬ、乍併知らざる事を知れる如く粧ふことは甚だ卑しむべきである、從令へ知らざることを知れる如く粧ふといふ程でなくとも、自個が趣味を解せざる材料を漫りに作物に入るといふことは、其用意の淺墓といふ點に於て詩人の耻辱であると云はねばならぬ、予は重て「馬醉木」同人諸君に苦言を呈して置く、自個に經験なき事柄を斷じて歌に作り給ふな、自分が其趣味を解せざる材料を決して歌に作り給ふな、手の先で拵へた歌に詩の生命は宿らぬものと返す/”\も合點あらんことを祈るのである、併し茲に注意せねばならぬことは、製作の場合には自分の知れる範圍自分の解せる限に於てするも、一面には大に見知を廣め多方面に趣味を解すべく修養を事とすべきは勿論の事である、一面に修養を勉めないで、自分の知れる限り自分の解せる限りと固守せば、そは忽ち所謂詩腸涸渇に陷つて了ふのであるから、茲は考違してはならぬ、
△前號本欄中、子規子研究の提議は中央俳壇に於ても猶決して無要でないと云ひしに對し、八月發行の「ほとゝぎす」に何か云ふ處あるべしと傳られたが、出るに及で見ると何とも云ふてない、予の前言は固より回答を望んだものにあらねば、それに就て何等の不足を感じたのではない、乍併予の前言と雖も決して筆まかせに書いた無責任の言ではない、予は近來の選句殊に幹部諸氏の選評中に屡異存を發見するのである、子規子晩年の所説と頗る一致せざるが如き點を見るのである、門外漢予の如き輩の言、敢て顧みるに足らざるべしと雖も、文壇に忠ならんとする一片の至情と所謂根岸派の俳句なるものと多少の關係を有する予に在ては、胸中の異存を強て包み居るに忍ざるの致す處であるといふ事だけは、充分に認められんことを望むのである、されば予の前言は決して漠然輕發したのでない、從て予は若し諸子にして何か云ふ處あらば、それを機として「ほとゝぎす」の選句に對す(187)る予の異存的批評を試むる考であつたことも合せていふて置きたい、
されど予は何處までも門外者である以上は、諸子にして自ら語るを好まず、又人をして語らしむるをも好まず、言ひ換へれば、同人間の趣味標準著しく懸隔せる現實の情態を自然に放任して敢て問題とするを好まざるが如き傾きあるを察知しながら、猶且つ云々するの愚なるを顧みねばならぬのである、「ソンナ事云ふたつて駄目サ」「イヤモウ惡口は云はぬ事にした」など⊥暢氣に構へて居て然るべきかも知れねど、元來田舎質の生眞面目に漫りに憤慨したのであるが、兎に角俳句の門外評は一先づ見合せる、併一言斷はつて置くは、予の所謂異存といふは、俳句の巧拙とか好惡とか若くは材料事實などの枝葉問題ではない、直に趣味の根本問題である それから今一つは何れの俳句にも異存があるといふのではなく時折見ると云ふのである、時折見るといふも、所謂千慮一失的に不圖考違ひしたといふ位ならば固より問題にはならぬ、三座の句にして然かも批評を加へた俳句で見ると、どうしても一時の思違ひと見る譯にはゆかぬ、即其人の趣味標準に對し疑問を起し引ひては之を容認する同人の上にも疑義が及ぶ、されば或場合には一二句の俳句も詞壇の問題とせねばならぬことがある、一二句の價値なき俳句が好評を得たるに見て俳壇の傾向を卜ふことが出來ることがある 予は今は俳評を思ひ絶つたのであるが、予が門外者たる資格をも顧みず敢て俳句の爲に一言せんと覺悟した理由を一寸云ふて置くの必要を感じたのである。
                     明治38年9月『馬醉木』
                       署名  死癖道人
 
(188) 玄女節
 
近刊の「ほとゝぎす」に題號の如き虚子君の文がある、近頃面白く讀まされた 殊に所謂玄女節といふ唄の面白さ、山中太古の如き民衆の質朴なる、感情と風俗と目に視ゆる心持である、詞に飾りがないので能く天眞が顯れてゐる、實に無限の味ひがある、
   玄女踊りは、飯より好きだ。わけたお飯は食はで來た。
   合津磐梯山、寶の山よ。笹に小判がなりさかる。
   玄女見たさに、朝水酌めば。玄女かくしの霧が降る。
   梭の目戸ほど、通はせ置て。糊があまいせイか、切れたがる。
   おかか裁つて呉れゴロフクの帶を。村に持たぬはおれ許り。
   可愛おぢさんと初對面で、後に遇ふやら遇はぬやら。
   郡山よりも、本宮よりも、茲は會津の東山。
                    明治38年9月『馬醉木』
                      署名  四壁道人
 
(189) 〔「新名につきて」附記〕
 
柿人とは山百合君のことなり敢て名を隱したるにはあらず、同氏は山百合と云ふ號を面白からずなれりと云へり。其所説は頗る吾意を得たり、吾言はんと欲する所を盡して遺憾なし、アシビ誌上殊に寫生歌なるものあらざることは予の明言せる所なり、只事實を基礎とせよ、趣味の要點を捕へよ、文字の細工を捨てよ詞の細工を捨てよと云ふに止まむ、若しそれ其責任を問はゞ作者よりは選者の責多かるべし、柿人の説も末三首の評は取らず。(左千夫記)
                     明治38年9月『馬醉木』
 
(190) 〔『馬醉木』第二卷第五號消息〕
 
拜啓歳月流るゝ如く子規先生の四周忌も本月と相成候、
例によつてアシビの遲刊又遲刊誠に申譯無之候 併し今回は先月末より愚妻の老父重病に相成夫妻俄かに歸郷本月に入り小生一人歸宅致候やうの仕末にてアシビの編輯中途にて休止し候ため十日餘後れ申候次第惡しからず御宥恕願上候子規先生四周年忌に際し殊に憂念に堪ざる一事有之候 そは我アシビ誌上に於て屡金石の韻を鳴らせる安江秋水氏の昨年末より今に至るまで消息者として聞えざる事に候 爾來遇ふ人毎に之を問へど遂に知れりといふ者無之何分心に掛り申候 讀者諸君中幸に同氏の消息を知る人あらば小生方まで御一報願上候 九月二日左千夫記
                     明治38年9月『馬醉木』
 
(191) 竹乃里人先生四週忌
 
九月は短歌會と例の十九日會とを兼て、田端の筑波園に故先生の四週忌會を行ふことに定まりたれば、其数日以前即十五日の日に、各在京同人に通知せり、然るに其日恰も仲秋の夕刻なりしより、興味ある間違を起したり、翌朝葯房主人より來状は即それなり。
 前略本日午後四時貴書を得「本月は筑波會にて」云々とありしを「本日」と讀み而かも「中秋の夕刻」の出とあれば、いきなりそれと思ひ、五時頃より早や筑波園に至り、貴君等の消息を問ふに園主ケヾンの態なり、されど其内に來るならんとて尻をすえ、
   田端なる筑波の園に月見むと入る日をまたず我は來にたり
などうなり居るに待てど/\誰も來らず。
   夕風に友待ち居れば萩か枝の起伏す下にこほろぎ鳴くも
やがて月の出る比となれるに
   木の間より月出でぬれどあるじなる左千夫來らず其外も來ず
やゝいらだちて
   うちむかふ木深き楢の梢より汝がゆくを見む早く飛べ月
(192)其うちに月の光ます/\さえわたれば庭におりたちすゞろあるきす、唐うたなど誦して、杜甫が、永夜角聲悲自語。中天月色好誰看。に至りて思さらに深し
   吹き裂くる角の音悲しもちづきの照れりといふとも誰かめで見む
是は今年の仲秋の感なりまた
   千萬のむくろの上に霜おきて月影寒しもろこしが原
これでは歌にまで魔がさすやうなれるなり、いざ歸らんと時計を見れば、八時、園の椽先に一葉の端書、取りあげて讀下せば「來る十九日午後一時より貴園に於て…………左千夫」
とがりたる嘴すぼみ膨れたる腹ちゞみ悄然園を辭す、道灌山上滿天の月色滿地の虫聲殆ど別るゝに忍びず、云々                             葯房主人
讀やうの惡かりしか書やうの惡かりしか今更詮議の必要なし、間違なかりせば葯房主人一人にて道灌山上の明月を領有するの快を得ざりしならむ、間違つて故に明月を看ると洒落置む哉。
前提此の如く盛なりしに似ず、當日は不幸にして雨天なりし故、道遠きに夜に入りては歸路困難ならんとて早く散會せり、會者は十一人 古屋夢拙君の來會は珍らしく散會後増田八風君も行たりと聞く、談興の盛なりし爲めと早く散會せるためとにて歌一首もなし、遂に葯房主人をして歌をも一人にて領有せしめたり呵々(左千夫記)
                     明治38年10月『馬醉木』
(193) 修善寺行
 
秀枝と左千夫の二人修善寺の湯に宿る、日はふた日夜は一夜の旅なり、狩野川の鮎なりといふ、少女の手程に肥たる鮎を、二人とも夜に二づゝ朝に四づゝ喰ひけり、左千夫は鮎といふものゝ眞の美味さを始めて知りつといふ、さらば食ひたる鮎の數ほどは歌も作らめとて詠める。
 
   益良雄の月見が岡邊ゆきもどり月出つるころに悲し虫の音
     頼家此地に幽せられ常に此岡に月見せりと云ひ傳ふ
   此里に悲しきものと古塚を訪ひけむ人の坐ろ偲はゆ
     此里に悲しきもの二つあり云々の正岡先生の歌あり
   謀られて湯氣と消えけむ益良雄のおくつきところ見てを悲む
   打わたす岸の家々人覺めずあかとき空に湯氣のぼる見ゆ
                              左千夫
     あやめの湯と云へるは源の頼政滅後其室菖蒲の前が伊豆の故郷に引籠りて、茲なる湯に浴せることありしより起れる名なりと云ひ傳ふ
(194)   すきとほり青ぎるみ湯に玉肌の匂へるさまし俤に立つ
   兩並ぶ乳房の花をにほやかに湯にたゝよはし茲にあみけむ
   沖つ浪千重の嘆きのすべなさに湯をしたひこしあはれ手弱女
   くしき湯の清々し湯もかひを無み君が憂ひは猶去らずけむ
   常岩に湯は戀ふるとも眞玉なすいにしへ人の又還らめや
   思ひつゝ戀つゝあれはとこしへにしか名負へどもしるしあらずけり
                     明治38年10月『馬醉木』
                        署名   なし
 
(195) 雜言録一片
 
多くの場合に、俳句は作るもので、歌は咏むものである、俳句は手の先で作れることがある樣なれど、歌は決して手の先では作れない、俳句と歌と同じ熱心にやる人は誰でも俳句の比較的容易に歌の比較的六ツかしひことを云はぬ者はないに見ても、其消息を解することが出來る。
俳句は題詠にて隨分佳句を得らるゝ樣なれども、歌は題詠に依て佳作を得ること、殆ど絶無と云つてよい、少くも俳句は題詠に依て句を得るの場合多きは動されぬ事實で、歌は全く是に反するは、吾馬醉木誌上の歌に就て見るも明である、如何に題詠の振はざるかを見よ、其數の上に於ても佳什の上に於ても一目爭ふべからざる事實を示して居る、而して叙上の如き顯著の成績を見たるは、聊か我誌壇の高しとして敢て自負する所以であることは事々しく言明するまでもない。
故に歌に於ける題詠の價値は、畢竟練習の上に多くを認むるの外ないのである、要する所俳句は製作的の場合が多く、歌は人格的なる場合が多い、研究的注意を怠らざる人は必ず俳句の多くが自個を離れ、歌の多くが自個を離れざることを發見するであらふ。
以上の如き予の考は、決して歌をあげ俳句を貶するの意を含むものではない、詩作究極の目的は良製作を得るにあることは言を待ず、既に良歌と良俳句とを得たりとせば、所謂事實は總ての議論を打破するの原則から其良句(196)良歌の如何なる議論と法方とに依て得たるかを問ふの必要はないのである、乍併歌俳の兩者は其形式の相近きが如く、其内容に於ても頗る相接近して居るに依て、兩製作に從ふものは、能く其相異點と均等點とを充分に自覺し居らねばならぬ、均等點は益々其均等を進め、相異點は益其特性を發揮して、比較研究上の利益を多大ならしめむことは、詩人を以て自ら居る人の、特に注意を怫ふべき問題である。
俳句は多く自個を離れて居るだけ比較的繪に近い、歌は多く自個を離れざるだけそれだけ繪を離れて居る、歌俳兩者の特性が茲に存じて居つて、各長所と短所とは又等しく茲に存じて居る、歌の有する所を俳句に吸収し、俳句に有する所を歌に容納して、兩者の開發に資せんとするは、最も興味ある問題らしく思はるれど、又頗る危險なる感じなきにあらず、故に以上の如き理想の實行を企つるとせば最も愼重の注意を以て、先づ歌俳両者の性格を充分に吟味して然る後に於てせねばならぬ、
歌は人格的な特性を有するだけ、淺薄なる主觀に陷るの弊多く、俳句は製作的なるだけに、不自然なる技巧に陷るの弊がある。
乍併俳句が淺薄な主觀をこねるの非は甚だ解し易きに似たれど、歌が技巧を弄する弊害の大なることを覺り得るは比較的難きやに思ふ、此邊は歌人たるものゝ決して忘れてはならぬ事項である。
                     明治38年10月『馬醉木』
                       署名  死癖道人
 
(197) 我甥の病死
 
國民歩兵近衛一等卒伊藤保三は我甥なり、彼が年令は猶豫備の軍籍にあるべきを、彼は現役中肋膜肺炎の爲に永く病院にありしかば、遂に除隊して國民兵に編入せられたるなり、
日露兩軍の抗争益其戰線を攪大するや、我軍兵員を要すること愈多く、彼は遂に國民兵として召集に應じ、北韓軍の鳳山守備隊に充てらる、健康全く舊に復せざりし彼は如何で風土の激變に堪え得べき、久からずして舊病再發又兵器を採る能はざるに至る、廣島に後送せられ次で東京に至り、信書幾度輕快を報じたるに係らず、九月二十八日卒然として不歸の人となりぬ、人生誠に果なしといふと雖も又夢幻の感なくんばあらず。
公議の眼を以てせば彼が死や深く悲むべきにあらず、徒らに死するは男子の最も耻とする所なるに、彼は一農民を以て、千古無比の國難に奉公の義を捧げ、遂に死を以て終はれるなり、固より一身の譽れ一家の榮となすに足る、然れども人生の目的は公議の犠牲たるを以て終はるべきにあらず、予は彼が不運なる境遇の憐むべきを思ひ、彼が死を悲み彼を追悼する情最も痛切なりし。
彼や家にありては中等の産を有し、健全なる兩親と最愛の良妻と幼兒二人とありて、人生の幸福を樂めるなり、國家事なかりせば彼は漫りに他に屈從するを要せざるなり、然るに身軍籍にあるの故を以て、一朝身を下して一兵卒の班に就き、最下級の任務に從て遂に病を異域に得たり、寸分自ら慰藉するのすべもなく、空しく病院なる(198)看護人等の手に死せるにあらずや、如何許無念なりけむ、予は彼が最後の懊悩を察して、眞に同情の涙に泣けり。彼にして始より軍人たるを希望し、生前幾許なりとも、軍人たるの榮華を荷ひしならば、予は決して彼が死を悲まず、從令彼一兵卒の卑にありたりとするも、戰場に於て出來得る限りの働きを爲し、幾許なりとも、自ら安ずるの功績だにありしならば、予は決して彼が死を悲まず、彼又農事試驗等の爲に誤つて命を落しゝものならば、予は決して彼が死を悲ざるべし、所有人間は命數の長短こそあれ一度は必ず死するもの、必ず死すべきの身を以て自個の本分に死するを得ば、男子の死や決して悲むべきものにあらざるを知る、然れども我甥の死や實に暗中の暗死、人間正に死すべき寸分の慰藉をだも有せざりしなり、世界無比の大戰に參加したる勇士名將の死や萬を以て數ふ、何ぞ一兵卒の死を悲むを要せんと云ふ者多からむか、輕薄にして淺膚なる形式是事とする、彼役人等と社會一般とは必ず以上の如き言を爲さん、予は彼が一兵卒なるが故に彼が病死なるが故に彼が一功績だも立つるに由なかりしが故に一層痛切に彼が死を悲むなり、所謂勇士名將の死や固より國家の爲に惜むべしと雖も、彼等一個人の上に就て考ふれば彼等は正に自個の本分に死したるなり、男子の正に死すべき充分の慰藉を有しつゝ死たるなり、予は果かなき人世に在つて却て彼等が死の幸榮を羨めり、人間身を殺して死に趣く 慘や固より慘なり、只それ内心に慰安を得て死するを得ば以て瞑すべきにあらずや、呼嗚暗中無念の死を逐げたるもの天下に猶我甥のみならんや、世は蕩々として現世の光榮を讃し名譽の死を弔ふに忙し、誰か又暗中に無限の恨を呑める一兵卒と其親戚知友とに同情を寄するものやある、
我甥廣島病院より東京に後送せらるゝや、彼の兩親妻子が未だ來り訪ふに畷あらず、一夜病勢急變俄に危篤に陷る、病院は三度び彼が聯隊の留守司令部に電知したりと云ふを、冷淡酷薄なる佐倉聯隊司令部の役人等は、病院(199)が最後に彼が死を報じたるものと、三回の電報を一束に郵便に附して彼が兩親に致せり、彼が母と彼が妻と彼が親戚の兩三とが、驚倒狼狽血眼になりて澁谷病院に走りつきたる時、不幸なる兵士は既に白骨と化し居るにあらずや、當事官吏の怠慢と云ふと雖も、無名の兵卒に對する國家の待遇も又實に無情なりと云ふべし、猶彼留守師團の大隊長なるものは、郷閭彼が葬儀を營むに際し、怪げなる形式一遍の弔状を村衙の小使をして、彼が兩親に送らしめたり、縣の郡吏と警吏とは又部下の一賤吏をして形式の參拜を行はしめたり、呼嗚此の如くにして彼の幽魂何の所にか慰藉を得べき。彼は一兵卒の故を以て彼は一功なき病死の故を以て、果して社會より同情を寄らるべき資格なきか、國民の義務に服し軍隊に入りたればこそ、彼は一兵卒ともなれるなれ、社會の一員たる人間の資格よりせば、彼と聯隊長大隊長と何等の相異なきものなり、單に奉公の感念よりせば、一兵卒の卑任に服せる者こそ却て大なる感謝を受くべき筈ならずや、然るに無情輕薄にして淺膚極まれる形式のみ是れ事とせる多くの官人等と一般の社會とは、彼の社會の一員として相當の資格を有しながら、國家の爲に身を一兵卒の卑に下し、遂に空しく病死せる不幸者に對して微塵だも同情を有するを見ず、郷黨縁戚の懇情彼を慰するなくんば彼が魂魄何所にか適歸せん、思ふに我甥の如き境遇に暗死せるもの決して天下に少からざるべし 今彼一兵卒の病死に對して予の哀慟を禁じ能はざるは豈に只一片の私情に依るものならんや、嗟。
                     朗治38年10月『馬醉木』
                     署名      左千夫
 
(200) 〔『馬醉木』第二卷第六號選歌評・附記〕
 
△前々號(二卷四)所載柳澤君の歌の内「黄葉みたる淺間裾野の稻田はら」の歌地形上の無理ありとの説に從ひ一首取消
     秋の果物をよめる        千里
   風あるゝ秋の雨夜を里人等松火ともし粟拾ひ居り
(許惠林寺の栗並木なるべし)
 
◎選者申す、選者は常に八度以上の強近眼鏡を離し得ぬ程の近眼なれば、投稿諸君は成丈文字を丁寧に大きく書いて送られ度し半紙一枚に二十四行以下一首を二行に書き一枚に十二首以下に願度候
                   明治38年10月『馬醉木』
                      署名   なし
 
(201) 〔『馬醉木』第二卷第六號消息〕
 
同人諸君の移轉現住は左の通に候
△本郷駒込曙町十六番   鈴木虎雄(葯房)
△本郷蒲生町一番地大盛舘  平子尚(鐸嶺)
△本郷元町一ノ三      森田義郎
前號消息に迷子の廣告致候安江秋水君は大意張にて瀾歩致居候事判明致候 歌も決して退歩せぬ覺悟をして居ると申され候故御安心被下度宿所は告てよいやら惡いやら判らず候間漏置申候、愈平和恢復と相成候以上、吾「馬醉木」も睡眠を貪り居る譯に參らず、同人相扶けて大に活動せんと決心を定め候、石原阿都志君三井甲之君増田八風君など、總ての上に助力せらるべき筈に候へば、從來の遅刊病などは一振して振り落し可申、就ては十一月中に二卷七號を出し、これにて此卷を終結し十二月は諸種の準備のため休刊其替三十九年一月元旦を以て第三卷一號を發刊致すべく表紙は已に中村不折畫伯に請て快諾を得居候早々
△萬葉短歌私考、雜言録、は歌稿充溢の爲め次號へ廻せり、歌譚抄に就ては信綱薫園兩氏の歌を評せむと約せしも、右兩氏の歌の如き既に具眼者の定評あり、馬醉木の誌上に論評を爲すべき程のものにあらず、從て無要の事は止よとの勸告ありしに基き、兩氏の歌を評せんとの約を取消す
(202)                 明治38年10月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(203) 〔「標野の夕映」附言〕
 
附言、本編「上」の參照歌、額田王歌「金野の美草苅葺」の歌を以て、直に大海人皇子額田王との關係なる作とせるは全く予の獨斷に出たるなり、次に中編參照、額田王下近江時作歌、「味酒三輪の山」も、之を大海人皇子に關したるものとせるも同じく予の獨斷なり、且つ其反歌の一なる「綜麻形乃、林始乃、」とある歌は諸本に井戸王和歌として記され居る歌なり、之を直に「味酒三輪乃山」の反歌なりと斷じたるも予の獨見なり、是等の點に就ては國学者など云ふ人等には無論、種々の理窟を以て反對せらるべし、予は只作家の見地より以上の判斷を下したるものなれば、學者の云ふ理窟には敢て拘泥するを要せざるなり、予は以上の如き解釋を以て、それらの歌を見る興味の層一層深きを感ずるのみ、製作力に乏しき國学者の説必ずしも固守するに足らざることは言を待たず、乍併予は自らの製作に就ては、未だ成功を自信せず、百日の考究よりは一日の實行を重しとして、茲に奮然として製作に從事せるのみ、願くは諸君と共に成功を他日に期するを得んことを。
                     明治38年11月『馬醉木』
                       署名   左千夫
 
(204) 〔『馬醉木』第二卷第七號選歌評〕
 
   川尻の芦の穗原の夕つく夜斜め雁がね一つらを見る    古泉千樫
   月寒くさ夜ふけぬればをみならが風呂おとすらしわたる雁がね
許月夜の雁といふ如き題にて能く陳腐に陷らざること豈容易ならんや
   北岸に船をつなぎて櫟葉の冬枯近き林に遊ぶ       柿の村人
評北岸と殊に北と指定したるは殊更なり 又櫟葉の林と指定せるもワザとらしくて不自然の感あり されば余は左の如くありたく思ふ
   くぬ木葉の冬枯近き林根に舟をつなぎて山ふみ遊ぶ
                     明治38年11月『馬醉木』
                       署名  左千夫選
 
(205) 〔『馬醉木』第二卷第七號歌會記事前文〕
 
       〇東京短歌合
 
十一月十二日無一塵庵に會するもの主人を合せて五人、「アシビ」の課題秋の樹木及初冬雜詠を隨意に詠む、諸星色各異なる、今其全部を掲げて席上の赤裸々を示す
 〔三子、八風、甲之、阿都志、左千夫の歌略〕
                     明治38年11月『馬醉木』
                        署名   なし
 
(206) 〔『馬醉木』第二卷第七號新年號豫告〕
 
平和克復の新年元旦を以て發行する、馬醉木三卷第一號は、大に内容の進歩を發表するは勿論、中村不折氏の名筆になれる、高雅なる表紙と卷頭の色摺插繪とは、以て都門の一光彩たるに愧ざるべきを信ず、猶寫眞版二葉は木村秀枝氏の好意に依て更に誌面を賑さんとす、吾馬醉木は從來と雖も殆ど實費を以て賣れるもの、今や以上の如き裝飾を加へて毫も價格を動さず、根岸歌會なるものゝ精神本領が何の邊にあるかを世に知らしむるに足らんか、第二卷終刊既に臨で此豫告を爲すの悦びを讀者諸君に頒つは編者の愉快に堪ざる所なり。
                    明治38年11月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(207) 〔『馬醉木』第三卷第一號卷頭言〕
 
信仰は直に人間の價値なり
詩は價値億ある人間の眞實なり
而して人間の眞價値、亦詩を待つて現はる
                     明治39年1月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(208) 絶對的人格 正岡先生論
 
子規子の世を去る也、天下の操觚者殆ど筆を揃て其偉人たることを稱す、子規子は如何なる理由に依て偉人と稱せられたるか、世人が子規子を偉人とする所の理由如何と見れば、人各其言ふ所を異にし、毫も歸一する所あるなく、而して只其子規子は偉人なりと云ふ點に於てのみ、一致せるの事實を見たるは最も味ふべき點なりとす。然り世人は相當の理由を有して、子規子の偉人たるを斷定せるものにあらず、只無意識の間に其偉人たることを感じたるなり、子規子は眞に偉人なりし、偉人なるが故に、世人が其偉人たるを感じたるは、是即ち理窟にあらずして事實なり、決定の自然之に過ぎたるはなし、何となれば、太陽なるが故に太陽たるを感じ、明月なるが故に明月たるを感ずると等しければなり、是に理由を云々するが如きは要するに人間の小理窟のみ。
されば單に子規子を偉人なりと云ふに對しては、何等の説明を要せず、然れども世に子規子を仰ぎ子規子を信ずる人々にありては、單に其偉人たるを知覺せるのみにては、固より滿足し難きものあるべし、殊に親しく左右に侍して其感化を蒙れる吾々に於ては、其偉人の資質を考定して之を世人に告ぐるの義務あるを感ぜざるを得ず。世上の多くは、子規子の事業を云々し、子規子の議論を云々し、子規子の製作を云々す、然れども予を以て見れば、これ等の事賓を以て子規子を偉人なりといふは當らず、何となれば、俳句は元禄に興り天明に進歩し、明治に中興せり、子規子の事業と言はゞ其俳句中興の主動者たるにあり、其成功も決して小ならずと雖も、それを以(209)て子規子を偉人なりと云はゞ偉人なるものは余りに小なり、其議論に於ても勿論偉とするに足るものあることなし、其製作は俳句を主とし寫生文歌雜筆等なりと雖も、主なる俳句に就て言ふも、芭蕉若くは蕪村に對して、容易に其優劣を定め難きものあるべし、勿論芭蕉蕪村に有せざるものも子規子に多からむが、子規子に有せざるものゝ芭蕉蕪村に多きも又明なり、寫生文歌雜筆等に於ては、之を偉人の事業としては、寧ろ論ずるに足らずといふを適當なりとせむ。
然らば子規子は、何を以て偉人なるか、予の考ふる所を以てせば、「天稟之腦力、二、絶對的態度即是れなり。
 
     子規子の腦力
 
子規子一度文壇に現はれて、其發程の途に上るや、精透なる研究猛烈なる活動、一刻の停滯なく寸時の休止なし、日を以て覺醍し月を以て進歩し、議論と製作と年を以て變化す、昨年の標準は決して今年の標準にあらず、今年の標準固より明年の標準なる能はず、議論に實行し製作に經驗し、覺醍となり進歩となり、年を經るに從つて愈勢力を加へつゝ、最終に至るまで聊かの滯溜を見ざりしは、實に子規子の生涯なりし。
見よ子規子の議論は屡矛盾を來し、標準屡動搖を招けり、始め大に蓼太をあげ後忽ち蓼太を痛罵し、前年は、歌は俳句の長きもの、俳句は歌の短きものとして毫も差支なしと論じ、翌年には、直に俳調俳語厭ふべしとの歌評を爲せる如き即其一例なり、研究的態度を以て活動せば、其以上の如き變化を見ること、固より當然なるべしと雖も、子規子の子規子たる所以は全く茲に存せることを知らざるべからず。
製作者と學者とは其性格を異にする勿論なりと雖も、彼近世國學界の大家なりと稱せらるゝ、本居宣長の如きは、(210)三十四五才時代の著述なる、石上私淑言の議論は彼が一生の議論にして、彼が論理は六十を越て、毫も變化を見ざりしが如く、腦力の固定思想の膠着、如何に活動性に乏しきかを見るべし、之を子規子の流動少しも靜止なきに比せば、天稟の腦力に非常なる相違あるを知らむ。
予輩等が屡子規子の門を叩て教を乞へるや、月に幾回なるを知らずと雖も、會談の日毎に必ず新問題を聞かざることなかりき、舊を改め新を悟り追求愈高く、然も先生の進むは早くして吾が追歩の甚だ寛なりし恨みを感ぜざりしは稀なり、思ふに先生の門に入りしもの、何人も如叙の感を抱けるや必せり、故に暫く先生と談話の機を失したる時に、何時しか趣味の離隔を發見する珍しからず、先生が最も晩年に於て、有力なる俳人諸氏と、趣味標準の相違を發見し云々と「病床六尺」に述べられたる如き、明かに這般の消息を認む、日に「モルヒネ」を服して僅に痛苦を忘れんとしつゝある際に於ても、猶如斯趣味標準の進昇に停溜の趣きなきを見る、焉ぞ腦力の偉と言はざるを得んや。
思ふに偉人は自覺的成功なし、活動に起り活動に終るは偉人の常なるが如く、古今東西の偉人多くは然るを見る、豐公の如き奈翁の如き、彼等は活動を知つて滿足を知らざるに似たり、偉人の成功は活動にして偉人の滿足又活動に存するか。
子規子の俳壇に於ける事業は天下の讃する處なりと雖も、子規子は毫も其成功を自覺せざりしものゝ如く、世を去る數月前に於て、獺祭書屋俳句帖抄に叙して、「吾俳句は吾思ひしよりも下等なりし」と云へるにあらずや、其本領たる俳句に於て猶然り況や其他に於てをや、子規子が自個の事業と製作とに滿足せざりしは爭ふべからず、察するに子規子幸に天壽を得たりとするも、遂に自個の滿足を得る能はざるに終はりたるべし、何となれば子規(211)子は偉人なればなり、偉人は只活動に滿足す、子規子一代の事業
一言を以て之を讃せば、曰く、
偉的腦力の活動。
 
       絶對的態度
 
天質に於て偉人たりし子規子は人格に於ても偉人なり、そは子規子生涯を通じて一貫せる態度の絶對的なりしにあり。
子規子の態度は絶對的傍觀の見地に立てり、歴史を傍觀し、階級を傍觀し、天子を傍觀し乞食を傍觀し、大宗教家大美術家如何なる種類と雖も悉く傍觀す、甞て仰視したることなく甞て俯視したることなし、思ふに是れ眞詩人の態度正しき感覺を得んと欲す、必ず正しき觀取に待たざるべからず、正しき觀取は必ず正しき傍觀に於てせざるべからず。
詩人は一切社會の外に立つて、社會の一點たる自個をも傍觀す、詩人は社會を離れずして只社會を觀る、詩人は社會を樂んで毫も社會に混ぜず、詩人は神に近きを尊び己に近きを佳なりとす、一切社會の批判者にして一切社會の讃美者なり、絶對的傍觀の見地に立ちて始めて、眞詩人の職を完ふし得べし、然らば即子規子の態度は眞詩人の態度なり。
西歐の詩人吾之を詳にせず、東洋の古今只詩作家の少なからざるを見るのみ、眞詩人の態度を得たるものあるを知らず、屈原陶潜杜甫李白、皆社會外に立てる人にあらずして要するに詩作家たるのみ、人丸赤人憶良家持又人格の察すべきなく、今日に於ては只其詩作家たるを感ずるのみ、以上の諸大家、詩作家としては固より其大を感(212)ずと雖も、人格としては予未だ其人を思ふこと能はず、要するに眞詩人たる態度に於て欠くる處あるに依れり。子規子の詩作は、固より其大を稱するに足らざるものあらむ、然も其態度と人格とは、之を大宗教家大政事家に比するに値す、若し夫れ文字上言語上の製作のみを以て、詩なりと言はば固より昧者の言のみ、趣味的に他が感覺を動すべき人格と態度とを有するものあらば、其態度即詩、人格即詩と稱すべきなり、されば偉人は其すべてが即詩なりと云ふを得べし、何となれば偉人は總てが趣味を以て滿され居ればなり、子規子は如何なる點に於て、絶對的傍觀の見地に立てりと云ふか、是當然に來るべき疑問なれども、そを具體的に解釋せんこと容易ならず、何となれば是理論にあらずして、趣味的實際問題なればなり、予は只子規子が、常に一切の事物を自個の標準に依て判斷し、自個以外に偉人を認めざりし態度を持したるを以て、絶對的傍觀の見地に立てりと斷せんと欲す。
唯我獨尊を稱したる釋迦如來は、絶對に自らを尊べり、絶對他力を唱へたる親鸞は絶對に他を尊で自個を空せり、孔子と耶蘇とは他を尊んで又自個を尊べり、遂に釋迦と親鸞に對して聊か讓る處あるが如くの感あるは、其態度の絶對的ならざるに存す、子規子の態度は、別に諸聖人の外に立ち、心を一切社會の外界に置けり、一切他を尊まず一切他を卑まず、勿論自個を尊まず自個を卑まず、自個の精神は、猶自個の一切をも余所にせり、即絶對的傍觀の態度是れなり。
故に社會的自個の行動は、毫も戒飭する處なく檢束する趣なく、極めて隨意に、心の動くまゝに振舞ひたり、親鸞の所謂自然法爾なるものと、頗る相似たるの跡ありと雖も、然かも子規子の態度は、釋迦如來の知らざるところ、親鸞上人の知らざる處なり、嗚呼豈に偉ならずや、予は猶終に臨で一言せん。
(213)子規子を知らんと欲せば、子規子の議論と子規子の製作とを、突き拔けて直に子規子其人を見よ、子規子の議論と子規子の製作とは、決して子規子の滿足したるものにあらざるなりと。明治三十八年十二月六日夜十二時記
                       明治39年1月『馬醉木』
                        署名 伊藤左千夫
 
(214) 長廣舌
 
前號の雜言録で、俳句は製作的の場合が多く、歌は人格的の場合が多いと言つたに就き、碧梧桐が異存を謂はれた、顧みて見ると予の雜言録も言ひやうが足らなかつた、
予の製作的人格的と云へる詞の意義は、歌對俳句製作的對人格的なる特別の場合に借用したるもので、一般的又は單獨的に用らるゝ製作若しくは人格といへる詞の意義とは異つて居るのである、
一般に用らるゝ人格的といふ詞の意義は、美術文學何れにも言はれるのであつて、或物に限つて人格的であるとかないとか言ひ得られぬが當然である、從令へば蕪村の句を見ると蕪村の磊落で勝氣なりし人格が現はれて居る、芭蕉の句を見れば、矢張り、芭蕉の剛直で周到なりし人格が、素人眼にも明かに判る、雪舟應擧の畫を見ても「ローランス」「コラン」の畫を見ても又人丸赤人の歌を見ても、皆夫々に作者の人格が現はれて居るのである、如此意味に用らるゝ人格的といふ詞は、一般に用らるゝ詞の意味であつて、予が局部的に即製作的對人格的歌對俳句と特別に限つて用ゐた意義とは異なつて居るのである、
されば局部的に人格的といふことを用るならば、畫と俳句とを比較すれば、俳句は畫よりも遙に人格的であると云ふことが出來る、何ぜなれば、俳句の方が遙に作者の精神生活境遇等の事實を直接に作物に現はす場合が多いからである、これは深く説明を要する迄もなく、何人にも解得しうべき、動きなき理由を存するのであらふ。(215)されば其意味に於て俳句と歌とを比較するならば、俳句よりも歌の方が遙に作者の精神生活境遇等の事實を直接に作物に現す場合が多いと云ふのである、從て歌は俳句よりも人格的な場合が多いと斷ずることが出來る、それで何ぜ俳句よりは歌の方が遙に作者の精神生活境遇等の事實を直接に作物に現す場合が多いかと云ふに、俳句は比較的材料を主とする場合が多く歌は感情を主とする場合が多いからである、今日迄に於ても進歩せる評論は、俳句は空間を叙するに長じ、歌は時間を叙するに長じ、俳句が客觀的なるに長じ歌が主觀的なるに長ぜりとなせるは殆ど既定の説と言つてよい。
予は是等の意味を解説して、俳句は自個を離る場合が多く從て材料的とも製作的とも言ひ、歌は自個を離れざる場合が多く從て感情的とも人格的とも言ふのである、然らば今一歩を進めて、俳句は何故に材料を主とする場合が多く、歌は感情を主とする場合が多きやとの究問が出づるに極つて居る、然れども予は今、事實を統系的に證明するの煩を避くべし、忠實なる研究家が聊かの注意的觀察を怫はゞ、容易に其の然るを發見し得可しと信ずるからである。
乍併更に進で局部的觀察を爲すならば、俳句の中にも人格的なと製作的なと、材料的なと感情的なとがある、勿論歌の中にも其兩面を有し居るので、要するに大體の觀察上、比較的或ものが俳句に多く或るものが歌に多いと云ふに過ぎぬ、
事實を言ふならば、前號に於ける予の雜言録は、馬醉木の作歌中稍もすれば製作的材料的の弊に陷らんとするの傾きあるを察し、聊か歌人諸子の注意を促さんと試みた次第で、俳句に關する諸説は寧ろ引合に過ざりしが、却て多く俳人の注意を引き、馬醉木同人の注意を引かざりしは、予の頗る遺憾とする處である、多く材料的に製作(216)的なるべき俳句が、其性の歸する處に趣くは、深く憂ふるに足らざるべけれど、歌が其性の自然を遠く離れて材料的に製作的なる弊に陷るといふは頗る警戒を要すべき點であらふ、
婦女子でも必ずしも弱くなければならぬことはない、或場合には隨分強くなければならぬことがある、只如何なる場合にも其本性を忘れず、短所の弊に陷らぬことを肝要とするのである、歌もそれと同じく必ずしも材料的を非とし製作的を排するのではない、只其本性の自然を疎にしてはならぬといふ迄である、さればと云つて、歌は必ずかうあるべきもの、俳句は必ずかうあるべしなどゝ云ふ如き、一つの形を立てゝ何でもそれに當はめんとするが如き説と誤解されては困る、堤防を築き砂籠を据て、河水の汎濫を治めるけれど、河の水は人間の思ふ通りにはならぬ、水の流るゝ自然の勢を察して其本性に戻らぬ樣に心掛けねば水は治らない、何事によらず性命あるものは、必ず其自然の本性を有して居る、歌の如き俳句の如き皆同じく各其性命を有して居るものであるから、從て歌は歌的に俳句は俳句的に自然の本性といふものがある、即能く其本性を明めて自然の發展に從はねばならぬと云ふのである、
自個を離れると云ふことは、一轉して人間を離れると云ふことになる、故に俳句は或る場合に頗る出世間であつて、現實社會の思想潮流と並行しないことが多い、現に日露の戰爭に際して、全國民の感情は殆ど戰爭熱に傾倒したるに係らず、俳句は超然として其大激動の思潮に相關せざるものゝ如くなりしは、眼前の實證である、予が俳句は人間を離るゝこと多く、其趣味は寧ろ人間と間接であると斷じたが果して誤であるか否かに就て予は俳人諸君の一考を煩したい、
即歌は多くの場合自個を離れないだけ、人間に直接である、されば戰爭に依て起れる、大々的激動思潮と、常に(217)接觸を保ちつゝありしは、吾馬醉木誌上の製作のみに依るも、一目して明かなるものがある。
如何に頭腦明晰を欠ける者にても、以上の所説を以て歌俳優劣論と誤解するやうなことはあるまいが、人間と間接であつて頗る製作的な俳句は、其長所もそこに存し、弊所もそこに存するらしい、歌も其通りで、自個に直接な所人格的な所に、長所も弊所もあるのだ、簡單に一例を云ふて見るならば、俳句は感情を輕侮し歌は感情を僞飾するの弊に陷り易い、見よ歌が人を別れ人を悲む場合に、如何に僞飾的の涙が多いか、是に反し俳句が人を別れ人を悲む時に如何に駄洒落を弄するか、
如斯歌と俳句とが其性格を同くせぬ理由は、何處から起るかと云はゞ、無論其形式の相違から來るのであるは明かである、三十一文字と十七文字の相違は云ふまでもないが、句の組織に於ても大に異つて居る、歌は敷演的で俳句は綜合的である、歌の形式は自然的である俳句は人工的である、此敷演的綜合的自然的人工的などの用語に、或は多少の無理があるかも知れず、又俳句の形式を人工的など云はゞ更に俳人の異存を招くかも知れねど、俳句の四季の題目が悉く約束的に其季を定めある折から已に人爲的なは爭はれない、何故に歌の形式が自然的であつて俳句の形式が人工的であるかを詳論することは他日を期する、兎に角歌俳の内容形式が以上の如くでありとすれば、歌を多くの場合人格的なりと云ひ、俳句を多くの場合製作的であると云ふに就て異存を容るべき余地はないと信ずる、
猶一言を添て置く、如叙の所説は予の議論と云ふよりは、寧ろ予の感念であると見て貰ひたい、予は只是の如く感じつゝある、之を公にして讀者が、依て以て何物かをたどり得るものあらば、予の滿足之に過るなしである、如斯空想的談理何の益かあらんと言ふものあるとも予に於て固より恨みはない、只歌人諸子の注意を望みたるも(218)のが、却て俳人の注意を招きしに止まれるを遺憾とするのみである、露骨に予の見を言ふならば、吾馬醉木の歌にも製作的の弊に陷りはせぬかと思ふ歌が少なくないのである、若し歌の内容は人格的で形式は自然的であると言へるを以て、直に歌を褒したものと、思ふものあらば、そは大なる考違ひである、余りに自然的な歌の形式は、遂に連作の工夫に依て、漸くに其短所を補ひ得た程である、此間の消息に、深き注意を怫はぬ作家は、到底歌壇の上に新光彩を放つことは出來ぬと信ず。
                     明治39年1月『馬醉木』
                      署名   左千夫
 
(219) 〔『馬醉木』第三卷第一號選歌評〕
 
 〔岡本倶伎羅の歌略〕
評にいふ、以上岡本君の歌、一見何の奇なく、只有りの儘なるところ、却て眞情の響を感ず、同情の念おのづから起り來るもの決して偶然にあらず、
                     明治39年1月『馬醉木』
                      署名  左千夫選
 
(220) 茶の湯の手帳
 
      (一)
 
茶の湯の趣味を、眞に共に樂むべき友人が、只の一人でもよいからほしい、繪を樂む人歌を樂む人俳句を樂む人、其他種々なことを樂む人、世間にいくらでもあるが、眞に茶を樂む人は實に少ない、繪や歌や俳句やで友を得るは何でもないが、茶の同趣味者に至つては遂に一人を得るに六つかしい、
勿論世間に茶の湯の宗匠といふものはいくらもある、女兒供や隱居老人などが、らちもなき手眞似をやつて居るものは、固より數限りなくある、乍併之れらが到底、眞の茶趣味を談ずるに足らぬは云ふまでもない、それで世間一般から、茶の湯といふものが、どういふことに思はれて居るかと察するに、一は茶の湯といふものは、貴族的のもので到底一般社會の遊事にはならぬといふのと、一は茶事などいふものは、頗る變哲なもの、殊更に形式的なもので、要するに非常識的のものであるとなせる等である、固より茶の湯の眞趣味を寸分だも知らざる社會の臆斷である、さうかと思へば世界大博覽會などのある時には、日本の古代美術品と云へば眞先に茶器が持出される、巴理博覽會シカゴ博覽會にも皆茶室まで出品されて居る、其外内地で何か美術に關する展覽會などがあれば、某公某伯の藏品必ず茶器が其一部を占めてゐる位で、東洋の美術國といふ日本の古美術品も其實三分の一は(221)茶器である。
然るにも係らず、徒に茶器を骨董的に弄ぶものはあつても、眞に茶を樂む人の少ないは實に殘念でならぬ、上流社會腐敗の聲は、何時になつたらば消えるであらふか、金錢を弄び下等の淫樂に耽るの外、被服頭髪の流行等極めて淺薄なる娯樂に目も又足らざるの觀あるは、誠に嘆しき次第である、それに換ふるにこれを以てせば、いかばかり家庭の品位を高め趣味的の娯樂が深からんに、躁狂卑俗蕩々として風を爲せる、徒に華族と稱し大臣と稱す、彼等の趣味程度を見よ、焉ぞ華族たり大臣たる品位あらむだ。
從令文學などの嗜みなしとするも、茶の湯の如きは深くも淺くも樂むことが出來るのである、最も生活と近接して居つて最も家庭的であつて、然も清閑高雅、所有方面の精神的修養に資せらるべきは言ふを待たない、西洋などから頻りと新らしき家庭遊技などを輸入するものは、國民品性の特色を備へた、在來の此茶の湯の遊技を閑却して居るは如何なる譯であらふか、余りに複雜で余りに理想が高過ぎるにも依るであらふけれど、今日上流社會の最も通弊とする所は、才智の欠乏にあらず學問の欠乏にあらず、人にも家にも品位といふものが乏しく、金の力を以て何人にも買ひ得らるゝ最も淺薄に最も下品なる娯樂に滿足しつゝあるにあるのであらふ、
今は種々な問題に對して、口の先筆の先の研究は盛に行はれつゝあるが、實行如何と顧ると殆ど空である、今日の上流社會に茶の湯の眞趣味を教ゆるが如きは、彼等の腐敗を防除するには最もよき方便であらうと思ふに、例の實行そつちのけの研究者は更にお氣がつかぬらしい、
彼の徳川時代の初期に於て、戰亂漸く跡を絶ち、武人一齊に太平に醉へるの時に當り、彼等が割合に内部の腐敗を傳へなかつたのは、思ふに將軍家を始めとし大名小名は勿論苟も相當の身分あるもの擧げて、茶事に遊ぶの風(222)を奬勵されたのが、大なる原因をなしたに相違ない、勿論それに伴ふ弊害もあつたらふけれど、所謂侍なるものが品位を平時に保つを得た、有力な方便たりしは疑を要せぬ、
今の社會問題攻究者等が、外國人に誇るべき日本の美術品と云へば、直ぐ茶器を持出すの事實あるを知りながら、茶の湯なるものが、如何に社會の風教問題に關係深きかを考へても見ないは甚だ解し難き次第ぢやないか、乍併多くは無趣味の家庭に生長せる彼等は、大抵眞個の茶趣味の如何などは固より知らないのであらふ、從て社會問題の研究材料として茶の湯を見ることが出來なかつたに違ひない。
多くは一向其趣味を解せぬ所から、能くも考へずに頭から茶の湯などいふことは、堂々たる男子のすることでないかの如くに考へてゐるらしい、歴史上の話や、茶器の類などを見せられても、今日の社會問題と關係なきものゝ如くに思つて居る、歐米あたりから持つてきたものであれば、頗る下等な理窟臭い事でも、直ぐにどうのかうのと騷ぐのである、修養を待ず直ぐ出來るやうな事は何によらず淺薄なものに極つて居る、吾邦唯一の美習として世界に誇るべき(恐くは世界中何れの國民にも吾邦の茶の湯の如き立派な遊技は有まい)立派な遊技社交的にも家庭的にも隨意に應用の出來る此茶の湯といふものが、世の識者間に閑却されて居るといふは抑も如何なる譯か、
今世の有識社會は、學問智識に乏しからず、何でも能く解つて居るので、口巧者に趣味とか詩とか、或は理想といひ美術的といひ、美術生活などゝ、それは見事に物を言ふけれど、其平生の趣味好尚如何と見ると、實に淺薄下劣寧ろ氣の毒な位である、純詩的な純趣味的な、茶の湯が今日に行はれないは、穴勝無理でない、當世人士の趣味と、茶の湯の趣味とは、其程度の相違が余りに甚しいからである。
(223)今日の上流社會の邸宅を見よ、何處にも茶室の一つ位は拵らへてある、茶の湯は今日に行はれて居ると人は云ふであらふ、それが大なる間違である、それが茶の湯といふものが、世に閑却される所以であらふ、いくら茶室があらふが、茶器があらふが、抹茶を立てやうが、そんなことで茶趣味の一分たりとも解るものでない、精神的に茶の湯の趣味といふものを解してゐない族に、茶の端くれなりと出來るものぢやない、客觀的にも主觀的にも、一に曰く清潔二に曰く整理三に曰く調和四に曰く趣味此四つを経とし食事を緯とせる詩的動作、即茶の湯である、一家の齊整家庭の調和など殆ど眼中になく、さアと云へば待合曰く何舘何ホテル曰く妾宅別莊、さもなければ徒に名利の念に耽つて居る輩 金さへあれば誰にも出來る下劣な娯樂、これを事とする連中に茶の湯の一分たりと解るべき筈がない、茶の湯などの面白味が少しでも解る位ならば、そんな下等な馬鹿らしい遊びが出來るものでない、
故福澤翁は金錢本能主義の人であつたさうだが、福翁首話の中には、人間は何か一つ位道樂がなくてはいけない、碁でも將棋でもよい、なんにも藝も道樂もない人間位始末におへないものはないといふやうな事を云ふて居る、さすがは福澤翁である、一面の觀察は徹底して居る、墮落的下劣な淫樂を事とするは、趣味のない奴に極つて居るのだ。
社會問題攻究論者などは、口を開けば官吏の腐敗、上流の腐敗、紳士紳商の下劣、男女學生の墮落を痛罵するも、是が救濟策に就ては未だ嘗つて要領を得た提案がない、彼等一般が腐敗しつゝあるは事實である、併しそれらを救濟せんとならば、彼等がどうして相率て墮落に赴くかといふことを考へねばならぬ、人間は如何な程度のものと雖も、娯樂を要求するのである、乳房にすがる赤兒から死に瀕せる老人に至るまで、(224)それ/”\相當の娯樂を要求する、殆ど肉體が養分を要求するのと同じである、只資格ある社會の人は其娯樂に理想を持つて居らねばならぬ、乍併其理想的娯樂即品位ある娯樂は、修養を待つて始めて得べきものであつて、單に金錢の力のみでは到底得ることは出來ぬ、
予を以て見れは、現時上流社會墮落の原因は、
  幸福娯樂、人間總ての要求は、力殊に金錢の力を以て滿足せらるゝものとの、淺薄な誤信普及の結果である。澄むの難く濁るの易き、水の如き人間の思潮は、忽ちの内に、濁流の支配する處となつた、所謂現時の上流社會なるものが、精神的趣味の修養を欠ける結果、品位ある娯樂を解するの頭腦がないのである、彼等が蕩々相率ひて、淺薄下劣な娯樂に耽るに至れるは勢の自然である、墮落するが當然であると云はねばならぬ、憐むべし彼等と雖も、生れながらの下劣性あるにあらず、彼等の誤信と怠慢とは、今日の不幸を招いだので時に自ら耻づる感あるべきも、始め神の惠みを疎にして、下劣界に迷入せる彼等は、品位ある趣味に對すれは、却て苦痛を感ずる迄に墮落し、今に於て悔ゆるも如何とも致し難き感あるに相違ない、さりとて娯樂なしには生存し難き人間である以上、それと知りつゝもお手の物なる金銀の力により、下劣淺薄な情欲を滿たして居るのであらふ、佛者の所謂地獄に落ちたとは彼等の如き境涯を指すものであらふ、眞に憐むべし彼等は趣味的形式品格的形式を具備しながら其娯樂を味ふの資格がないのである、されば今彼等を救濟せやうとならば、趣味の光明と修養の價値とを教ゆるのが唯一の方便である、品位ある娯樂を茶の湯に限ると云ふのではない、音楽美術勿論よい、盆栽園藝大によい、歌俳文章大によい、碁でも將棋でもよい、修養を待つて始めて味ひ得べき藝術ならば何でもよい、只其名目を弄んで精神を味ねば駄目と云ふ迄である、予が殊に茶の湯を擧たのは、茶の湯が善美な歴史を持つて居る(225)のと、生活に直接で家庭的で、人間に尤も普遍的な食事を基礎として居る點が、最も社會と調和し易いからである、他の品位ある多くの藝術は天才的個人的に偏して、衆と共にするといふことが頗る困難であるから何人にも樂むといふことが出來ない處がある、茶の湯は奥に高遠の理想を持つて居れど、初期に常識的の部分が多く、一の統率者あれば何人も其娯樂を共にすることが出來るからである。
 
     〔二〕
 
歐洲人の風俗習慣等に就て、段々話を聞いて見ると、必ずしも敬服に價すべき良風許りでもない樣なるが、さすがに優等民族ぢやと羨しく思はるゝ點も多い、中にも吾々の殊に感嘆に堪えないのは、彼等が多大の興味を以て日常の食事を樂む點である、それが單に個人の嗜好と云ふでなく、殆ど社會一般の風習であつて、其習慣が又實に偉大なる勢力を以て、殆ど神の命令かの如くに行はれつゝある點である、予は未だ歐洲人に知人もなく、從て彼等の食卓に列した經驗もないので其眞相を知り居らぬが、種々な方面より知り得たる處では、吾國の茶の湯と其精神酷だ相似たるを發見するのである、それはさもあるべき事であらう、何ぜなれば同じ食事のことであるから其興味的研究の進歩が、遂に或方向に類似の成績を見るに至るは當然の理であるからである、日本の茶の湯はどこまでも賓主的であるが、歐洲人のは賓主的にも家庭的にも行はれて甚だ自然である、日本の茶の湯は特別的であるが歐洲人のは日常の風習である、吾々の特に敬服感嘆に堪えないのは其日常の點と家庭的な點にあるのである、
人間の嗜好多端限りなき中にも、食事の趣味程普遍的なものはない、大人も小兒も賢者も智者も苟も病者ならざ(226)る限り如何なる人と雖も、其興味を頒つことが出來る、此最も普遍的な食事を經とし、それに附加せる各趣味を緯とし、依て以て家庭を統一し社會に和合の道を計るは、眞に神の命令と云つてもよいのであらう、殊に歐風の晩食を重ずることは深き意味を有するらしい、日中は男女老幼各其爲すべき事を爲し、一日の終結として用意ある晩食が行はれる、それ/”\身分相當なる用意があるであらう、日常の事だけに仰山に失するやうな事もなからう、一家必ず服を整へ心を改め、神に感謝の禮を捧げて食事に就くは、如何に趣味深き事であらう、禮儀と興味と相和して亂れないとせば、聖人の教と雖も是には過ぎない、それが一般の風習と聞いては予は其美風に感嘆せざるを得ない、始めて此の如き美風を起せる人は如何なる大聖なりしか、勿論民族の良質に基くもの多からんも、又必ずや先覺の人あつて此美風の養成普及に勉めたに相違あるまい、栽培宜しきを得れば必ず菓園に美菓を得る如く、以上の如き美風に依て養はれたる民族が、遂に世界に優越せるも決して偶然でないやうに思はれる、歐洲の今日あるはと云はゞ、人は必ず政體を云々し宗教を云々し學問を云々す、然れども思ふに是根本問題にはあらず、家庭的美風は、人といふものゝ肉體上精神上、實に根本問題を解決するの力がある、其美風を有せる歐人にあつては、此研究や自覺は遠き昔に於て結了せられたであらう、多くの人は晩食に臨で必ず容儀を整へ女子の如きは服裝を替へて化粧をなす等形式六つかしきを見て、單に面倒なる風習事々しき形式と考へ、是を輕現するの趣あれど、そは思はざるも甚しと云はねばならぬ、斯く形式を確立したればこそ、力ある美風も成立つて、家庭を統一し進んで社會を支配することも出來たのである、娯樂本能主義で禮儀の精神がなければ必ず散漫に流れて日常の作法とはならぬ、是に反し禮儀を本能とした娯樂の趣味が少けれは、必ず人を飽かしめて永續せぬ、禮儀と娯樂と調和宜しきを得る處に美風の性命が存するのである、此精神(227)が茶の湯と殆ど一致して居るのであるが、彼歐人等がそれを日常事として居るは何とも羨しい次第である、彼等が自ら優等民族と稱するも決して誇言ではない、
兎角精神偏重の風ある東洋人は、古来食事の問題などは甚だ輕視して居つた、食事と家庭問題食事と社會間題等に就て何等の研究もない、寧ろ食事を談ずるなどは、士君子の耻づる處であつた、(勿論茶の湯の事は別であれど)恐らくは今日でも大問題になつて居るまい、世人は食事の問題と云へば衛生上の事にあらざれば、美食の娯樂を滿足せしむる目的に過ぎないやうに思ふて居る、近頃は食事の問題も頗る旺であつて、家庭料理と云ひ食道樂と云ひ、隨分流行を極めて居るらしいが、予は決してそれを惡いとは云はねど、此の如き事に熱心なる人々に、今一歩考を進められたき希望に堪えないのである、
單に美食の娯樂を滿足せしむることに傾いては、家庭問題社會問題との交渉がない譯になる、勿論弦齋などの食道樂といふには衛生問題もあり經濟問題もあるらしいが、予の希望は、今少しく高き精神を以て研究せられたく思ふのである、美食は美食其物に趣味も利益もあるは勿論であれど、食事の問題が只美食の娯樂を本能とするならば、到底淺薄な問題で士君子の議すべき問題ではない。
予の屡繰返す如く、歐人の晩食の風習や日本の茶の湯は美食が唯一の目的でないは誰れも承知して居やう、人間動作の趣味や室内の裝飾器物の配列や、應對話談の興味や、薫香の趣味聲音の趣味相待つて、品格ある娯樂の間自然的に偉大な感化を得るのであらう 加ふるに信仰の力と習慣の力と之を助けて居るから、益々人を養成するの機關となるのである、
歐風の晩食と日本の茶の湯と、全然同じでないは云ふまでもないが、頗る類似の點が多いと聞いて、假りに對照(228)して云ふたまでなれど、彼の特実は家庭的日常事な點にある、茶の湯の特長は純詩的な點にある、趣味の點より見れば茶の湯は實に高いものである、家庭問題社會間題より見れば歐人の晩食人事は實に美風である、今日の茶の湯といふもの固より其弊に堪えないは勿論なれど何事にも必ず弊はあるもの、暫く其弊を言はずして可。一面には純詩的な茶の湯も勿論可なれど、又一面には歐風晩食の如く、日常の人事に茶の湯の精神を加味し、如何なる階級の人にも如何なる程度の人にも其興味と感化とを頒ちたいものである、
古への茶の湯は今日の如く、人事の特別なものではない、世人の思ふ如く苦度々々しきものではない、變手古なものではない、又輕薄極まる形式を主としたものではない、形の通りの道具がなけれは出來ないといふものでもない、利休は法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと云つてある位である、されば聊かの用意だにあれば、日常の食事を茶の湯式にすることは雜作もないことである、只今日の日本家庭の如く食室がなくては困る、臺所以外に食堂といふも仰山なれど、特に會食の爲に作れる食室だけは、どうしても各戸に設ける風習を起したい、それさへ出來れば跡は譯もないことである、其裝飾や設備やは各分に應じて作れは却て面白いのであらう、それは四疊半の眞似などをしてはいかぬ、只何時他人を迎へても禮儀と趣味とを保ち得るだけでよい、此の如き風習一度立たは、些未の形式などは自然に出來てくる 一貫せる理想に依て家庭を整へ家庭を樂むは所有人事の根柢であるといふに何人も異存はあるまい、食事といふ天則的な人事を利用してそれに禮儀と興味との調和を得せしむるといふ事が家庭を整へ家庭を樂むに最も適切なる良法であることは是又何人も異存はあるまい、人或はそんなことをせなくとも、家庭を整へ家庭を樂むことが出來ると云はゞ、予はそれには反對せぬ 別に良法があればそれもよろしいからである、併し予は決して他に良法のあるべきを信じない。
 
(229)       〔三〕
 
予はかう思つた事がある、茶人は愚人だ、其證據には茶人にロクな著述がない、茶人の作つた書物に殆ど見るべきものがない、殊に名のある茶人には著書といふもの一册もない、であるから茶人といふものは愚人である、茶は面白いが茶人は駄目である、利休や宗旦は別であるが、外の茶人に物の解つた人はない樣ぢや、かう一筋に考へたものであつたが、今思ふとそれは予の考違であつた、
茶の湯は趣味の綜合から成立つ、活た詩的技藝であるから、其人を待つて始めて、現はるゝもので、記述も議論も出來ないのが當前である、茶の湯に用ゆる建築露路木石器具態度等總てそれ自身の總てが趣味である、配合調和變化等悉く趣味の活動である、趣味といふものゝ解釋説明が出來ない樣に茶の湯は決して説明の出來ぬものである、香をたくといふても香のかをりが文字の上に顯はれない樣な譯である、若し記述して面白い樣な茶であつたら、それはつまらぬこじつけ理窟か、駄洒落に極つて居る、天候の變化や朝夕の人の心にふさはしき器物の取なしや配合調和の間に新意をまじへ、古畫を賞し古墨跡を味ひ、主客の對話起座の態度等一に快適を旨とするのである、目に偏せず口に偏せず、耳に偏せず、濃淡宜しきを計り、集散度に適す、極めて複雜の趣味を綜合して、極めて淡泊な雅會に遊ぶが茶の湯の精神である、茶の湯は人に見せるの人に聽せるのといふ技藝ではなく、主人それ自身客それ自身が趣味の一部分となるのである、
何から何まで悉く趣味の感じで滿されて居るから、塵一つにも限がとまる、一つ落着が惡くとも氣になる、庭の石に土がついたまで捨てゝ置けないといふ、心の状態になるのである、趣味を感ずる神經が非常に過敏になる、(230)從て一動一作にも趣味を感じ、庭の掃除は勿論、手鉢の水を汲み替ふるにも強烈に清新を感ずるのである、客を迎へては談話の興を思ひ客去つては幽寂を新にする、秋の夜などになると興味に刺激せられて容易に寐ることが出來ない、故に茶趣味あるものに體屈といふことはない、極めて細微の事柄にも趣味の刺激を受くるのであるから、内心當に活動して居る、漫然晝寐するなどいふことは、茶趣味の人に斷じてないのである、茶の湯を單に靜閑なる趣味と思ふなどは、殆ど茶趣味に盲目なる人のことである、されば茶人には閑といふ事がなく、理窟を考へたり書物を見たり、空想に耽つたりする樣な事は殆どない、それであるから著述などの出來る譯がない、物知りなどには到底なれないのが、茶人の本來である、されば著書などあるものであつたらそれは必ず商買茶人俗茶人の素人おどしと見て差支ない、原來趣味多き人には著述などないが當前であるかも知れぬ、芭蕉蕪村などあれだけの人でも殆ど著述がない、書物など書いた人は、如何にも物の解つた樣に、うまいことをいふて居るが、其實趣味に疎いが常である、學者に物の解つた人のないのも同じ話である、太宰春臺などの馬鹿加減は殆どお話にならんでないか。
               明治39年1月・3月・10月『馬醉木』
               署名(一)〔二〕四壁道人〔三〕四壁居
 
(231) 〔『馬醉木』第三卷第一號消息〕
 
       新年之御慶
 
謹て新年の御慶申納候、莊嚴を極め愉快を極め目出度さを極め候、元旦、歡喜踊躍の心は詞には現はし難候、日本國民なればこそ今世に生れ逢ひたればこそ、此難有元旦を見るを得れと存候、それに就けても陸海軍の深大無量なる功労を感謝し、殊に身異域の土と化したる諸神靈に對しては、實に感謝の道も辨へ不申候、
今上陛下の大稜威は申も畏き儀に候へども生民ありてより以來絶て聞ざる盛事と存候、生れて如斯御世に逢し歡喜を自覺致し候はゞ如何なる人と雖も其本分を盡すべき感念の湧起し來ること當然の事に候、御同樣文筆の業を任とするもの、愈責任の至大なる年頭に立ち申候、
吾「馬醉木」も遂に第二卷の局を結び今第三卷の新面目を以て社會に對するに臨み、顧みて第二卷の成績を思ふに、敢て大に誇るに足るなしと雖も、諸君の熱烈なる奮勵に依りて、短歌製作上に多大の進歩を遂げたるは疑ふの余地なく、根本的研究の發展は漸く明治詩人の特色を現じ來れることを確信致候 趣味と信仰との關係、文學と精神問題との交渉等、其研究の端緒に依て將來起るべき重大問題に接觸し得たるが如きは又特書すべき功績たるを信じ申候。
(232)只夫れ今日の御同樣は、區々たる過去の事蹟を云々するの時ならず、今後の活動に於ては願くは諸君と共に鬱然たる隆運の輿氣に乗じ、日東新強國の詩人たる職責に耻づるなからむ事を。天下詩人と稱するもの甚だ多し、然も詩を職業とせざるもの果して幾何あるか、吾馬醉木同人諸君の如きは、具に詩を樂むの高きに居るもの、願くは諸君の自重し給はんことを、謹て興國の新年を祝し諸君の慶幅を祈る、明治三十九年一月元旦、左千夫敬具、
 猶一言讀者諸君に謝せざるを得ざるは、插繪も寫眞も共に富士なりしは、不折君の好意と木村君の好意と偶然相合したる結果に候間致方無之候、編者が漫に富士を好みたる次第には無之候、且つ本號は年末の印刷を急ぎ不得止俄に十二月六日を以て〆切候爲め他の寄稿を待つ能はず從て非常に編輯の蕪雜を來し候次第、何分御諒恕願候
                    明治39年1月『馬醉木』
 
(233) 〔『馬醉木』第三卷第二號卷頭言〕
 
己を空ふする人に最も尊むべきは犠牲の感念に富めるにあり
我執の人に最も卑むべきは同情心の欠乏に存す
少くも自個の半を犠牲にして他に對するの覺悟なきものは人間の同情に至味を感ずること能ざるの人なり
己れ人に吾を空ふせば人又己を空ふして吾に對す、神聖の戀此に於て見るべし戀は犠牲の交換なり 犠牲心は同情の根底なり、犠牲の感念を欠ける交りは偽なり
                    明治39年2月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(234) 御嶽乃歌會
 
明治三十九年一月、此の重々しき新年の初頭、明けて七日といふ日を以て、吾々は甲州御嶽の峽中に於て歌會を開けり、
甲州の人は言ふ、寒中の御嶽は甲州の人と雖も行を憚れり、思立の壯なる既に人を驚すに足ると、一行の人々は誰々ぞ、いはく、神奈桃村、森山汀川、久保田柿人、村上※[虫+潭の旁]室、三井甲之、増田八風、蕨眞、伊藤左千夫の八人、猶東京の石原純甲州の岡千里信州の篠原志都兒兩角竹舟郎柳澤廣吉の諸氏皆來會の約ありしを、各故障ありて果さず、
天氣頗よし、信州の人等は雪なきに驚き、東京の人は寒からざるに驚く、和田峠の登り口の日あたりよき芝生に座して晝食を調のへ眼下甲陽の半面を見たる時、吾等は早く雲中の八仙なり、世に暇あらば斯る所に住てなど思はるゝ清閑幽寂の山郷いくつかを過ぎて、所謂御嶽の新道荒川の岸に出づ、是より流に添ふて、靈巖靈水の神峽をたどり、其間二里余に渡る、昇仙峽即是なり、
苛も痴狂ならざる限り、見て嘆美の聲を發せざるものなけむ、畫伯筆靈を奪はれ、寫眞器其能を喪ひ、詩人は其聲を潜む、此時に當り雲中の八仙能く八仙の名を保ち得るや否や、
靈氣身に迫り神象眼を壓す、十歩にして嘆じ百歩にして醉ふ、視神經は刻一刻、靈偉を傳へ神異を報ず、腦神經(235)は不思議の作用を起し、生來嘗て用ゐざるの機能を活動す、此に於て八仙の徒は四肢百躰の存在を忘れ、只頭腦なる一物が空中を行くが如き思を爲す、八個の調音神經は全く其機能を停止し、腦の命ずるところ一も發音するによしなし、巖石の状如何と問へは只神偉と云ふ、潭激の状如何と問へは只靈異と言ふ、神靈二語以外何等の意味を調音すること能はず、
一木一草の微と雖も悉く神を感ぜざることなく、橋あり昇仙橋と云ふ、瀧あり仙娥の瀧といふ、何れか河漢のものならざる、八個の羽衣今は全く醉夢の興に遊び、人界を去ること幾萬里、時一刻にして千年の感を爲す、傳ふ、上古の仙士は靈藥を服して、不老の歳月を貪り碧落に睡れりと、吾等は今雪を含み神境に來る、壽千年の興に耽り、紫碧の洞中を歩す、思ふに上古の仙士又吾等を羨むの大なるものあるか、仙娥瀑頭の暮月、冷白の微笑を輪して吾等を送る、瀧の音耳に遠く、峽端の洞穴をくゞり出でたるとき、吾等は夢の醒めたる心持して、千年昔のまゝなる只の人間八人と揃ひぬ。
御嶽村の一旅亭に夜の二時といふまで騒ぐ、八仙ならぬ八人の歌、約ありて一點以上悉く掲げつ。
                                八風
   谷底に落つる木立の影の間を見えつかくれつ我が影歩む(甲)
見つけどころは面白い、只趣向際どく詞使に無理がある、此の如き趣味を顯すには、谷底に落るなどいふ強き詞を初めに用ゆるは如何と思ふ
   路の邊にむら消えのこる白雪を口にふくみつゝ峠まで來ぬ(甲)
平凡にして感情が薄い
(236)   和田峠登りつむれば向山の岩山の間に煙立つ見ゆ(左、桃)
「岩山の間」を見つけたが新い
   山かげをめぐり出づれば山の間ゆ速見えそむる駒ケ岳かも(汀)
陳腐なるべし
   山かげにめぐりて入れば見えざりし深雪つもれる岨連れり(眞)
前歌と同體なり
   荒川の瀬をせく岩間落ちたぎつ水のしぶきに虹の色見ゆ(甲)
以上の三首如何にも無難なれど今少しく新いところがほしい
   大岩の千岩群れ立つ山のかひ山をどよもし流るゝ荒川(左、桃、柿、※[虫+潭の旁]、甲)
余も採れる歌なれど昇仙映よりは日光の剱ケ峰の下あたりの感じである、荒川といへる結句が働くので水の音が非常な樣に聞える、結句を水たぎり落つなどせば遺憾なからん。
                                蕨眞
   とこなめの瑞苔しげる五百箇岩に衣さはらし山川めぐる(甲、桃)
感情に乏しく説明に陷つてゐる、「衣さはらし」局部的の詞と「山川めぐる」概括的詞と調和がとれない
   夕つく日かぎらふ岩の秀つ嶺に松が神さび月の玉てる(甲、桃、汀)
日と月との方向が.ゴツチヤである、月の玉てるなど余りに幼稚で、夕つく日があるといふに月の玉てるといふ、照るとの感じは如何なる感じであるか、夜の感じも晝の感じも無茶とは余りのことである予は作者を責むると(237)と同時に選者をも責める、如此歌を掲げ如此評を爲す罪は選者にある、
   いほつらら五百箇玉岩のいはがくり少女の瀧の裳へに立つ(※[虫+潭の旁]、甲)
「裳べ」は裳裾べの誤であろふ、五百箇岩などいふ詞の濫用も甚しい、五百個岩とは一箇所の岩の形容ではない、此五百個岩と少女の瀧との關係を如何樣に見て此歌を構成したるか、玉岩も月の玉てると同格ぢや、
   美嶽ゆく夕日山川うらぐはし歌人八人心なづさふ(甲、汀)
これは、「うらぐはし夕日山川み嶽ゆく」とあるべきぢや、八人が何の爲に「心なづさふ」のであるか解らぬ、此歌に歌人が歌思ひに困つて居るとの意があると見るならば獨合點である、うつくしい所を見て苦しいといふても他人に其意味の解りやうがない。
   天の原さゝらえ男松かげの岩秀を下りて川上る見ゆ(※[虫+潭の旁])
評し難し
   美岳嶺の月のみ光結びたるつららの秀たり歌玉にすも(柿、甲、桃、汀)
今にして歌玉などいふは甚しいではないか陳腐といふことを如何に思へるにや、予は選者に問はん 垂水を歌玉にするとは如何なる心にや、理想も事實もゴツチヤ也
   天の川たぎち流らふ美嶽嶺の八色川水玉にまされり(八、甲)
天の川たぎち流らふとは、比喩にや形容にや、美嶽嶺の八色川水とは矢張り天の事にや、天の川たぎちと言ひ八色川水と言ひ、理想かと思へは、玉にまされりなど事實的詞もある、吾々には一向何の事かわからぬ、予は二人の選ある爲に一言するのである、
(238)                             桃村
   一足を進む忽ちあやしかもくしき岩々あらはれ來る(汀、八、眞、甲)三の句何とかありたし、「山よぎて」とか「道曲り」とせば如何、然らば寶状の感じ充分なり
   天そゝるくしき岩がね片そきのそぎふところに松生立つも(汀、八、左、甲)
四の句「そぎふところ」の詞が選ぶ時に氣になつた、よい考も出ないが「そぎのよどみ」など如何にや
   御嶽山冬見にくれば石門の門の下垂りつらゝせりけり(柿、甲)
少し物足らぬ
   五百びきの千びきの岩根ゆるかして落つる大瀧神わざなるらし(※[虫+潭の旁])
是は仙娥瀧の感じでない、華嚴の瀧などゝ言ふべき形容ぢや
   冬枯の御嶽畫がくと岩たゞみ紫にかくか黒きまでに(左)
     和田峠途上                       柿人
   わが登る松の木の間ゆ谷底の田のおも光り氷はるみゆ(甲、桃)
一寸面白いが、わが登る松の木の間と言へば作者が松の木に登るやうである、一の句を何とかありたい、「打見れば」では殊更か「息つくと」でも面白くないか
   手の平の眞平いはほのさけまより松しみ立てり谷川の上に(※[虫+潭の旁])
事實の感じがせぬ、手の平などいふ形容拙ぢや
   おちたぎつ早瀬の岸ゆただに立つ大平岩の高さ知らずも(眞、汀)
(239)早瀬の岸などいふ詞決して大きい感じではない、其感じを現はす詞でなければ、大平岩の高さ知らずといふとも、一箇の説明であつて大きい感じは顯はれない
   眞平けき巖のいたゝき仰ぎ見る眼のはるけしも松の並立(八、左、甲、桃、汀)
   この谷のいたゞき占めて古に寺ひらきけむ聖しおもほゆ(甲、桃)
「谷のいたゞき」は少し無理ぢや、趣向も古い これだけではものにならぬ
   湯津いはの千岩の紅葉散りつくし瘠せたる谷の川添を行く(左、甲、汀)
一句二句の詞の陳腐な爲に折角の歌も幾分の趣味をそがれた
     仙娥瀧
   大槻の枯枝の上ゆ冬の日の夕くれさやにたぎつ大瀧(※[虫+潭の旁]、眞、甲)
面白く感じた歌なれど、大瀧の一句が氣になつて採らなかつた、日光の瀧を見て居る予は何分、仙娥瀧を大瀧とは感じない、且つ此歌の他句の叙景も大瀧的ではない、寧ろ實際の仙娥瀧に適して居る配景であるから、結句を訂正するがよい、「落懸る瀧」などせば如何
   大瀧の岸べただちに天そゝる千岩松むら月の出をまつ(甲)
先にも言へる如く、岸べなど言へば大きい感じは消える、千岩などいふ詞も大きい感じでない 瀧の岸べに天そゝるといふ趣き解らぬ、思想の順序が顛倒してゐるからである、天そゝる大巖が根に瀧が懸つてゐるといふが順である、趣味と詞との關係に注意を望む
                              森山汀川
(240)   青淀のか黒きふちに浮き沈みたゞよふ木の葉魚かと思ひぬ(桃、甲)
これは寧ろ淺瀬に適する趣味であらふ
   滑かに水にすれたるみかげ石か青き淵をとりまきかくむ(左、甲、桃)   岩かげにたれしつらゝの玉とてり余り長けは取りて食ひけり(眞)
前々號の志都兒の歌に、「さるをかせ余り長けは手にとりて見し」といふ歌ある以上此歌生命なし
   我庭にこの水移しこの巖移し住まはゞ千年生き經ん(※[虫+潭の旁]、八、甲)
詞も心も圓熟を欠く
   打渡す湯津岩むらに苔むさず水滑かに流れてをゆく(柿、※[虫+潭の旁]、眞、八、左、甲)
   瀧の音のいかつちなして落ちくれは岩の枯草霧に靡けり(左)
   南をうけて建てたる谷の邊の小さき村は冬も長閑けし(左、甲)
   たゝなはる八重の山坂ふみさくみ雪の御嶽に分け入る吾は(眞)
心も詞も古し
   神左備志大巖見れば古のおほき聖の俤おもほゆ(眞、左、甲、桃、汀、柿)
   山をよみ只人吾も山人になりにけらしも雲ふみのばる(左)
   大岩をたきちまろめて流れ去る是れの荒川見るにかしこし(左、甲、桃、汀)
今見ると三の句穩當でない爲に全體の組織に無理を感ずる、三の句を流し去るとすれは石の流れることになる、(241)流れさるとすれば、川とつゞくは無理である、四句を「是れの川水」とすれば全體の構想がくづれる、多くの選者も皆氣がつかなかつたのであらふ
   なよ/\の手弱女さびし歌人らに雪のみ巖を畫にだに見せばや(左、汀)
   水淀むか青の淵にさし出づる岩根に立ちて歌思ふ吾は(八、左、甲、汀)
   山の峽いゆきつくして大岩のさへぎる所瀧落ちたぎつ(眞、左、甲、桃、汀、柿)
秀歌である
   くしび立つけやきの大樹葉は落ちて下つ岩根に瀧かゝる見ゆ(八、左、甲、柿)
仙娥瀧の歌としてはけやきの形容聊か仰山に過ぐ
   山の間の空そゝり立つ群山の山襞の雪日に輝けり(眞、汀)
山襞の雪は面白いが山の間の空そゝると云へば樹か何かでなければならぬ、三の句の群山は遠山であるとすれば、天そゝる遠山が近山の間より見える趣きに言はねばならぬ、群山といふと天そゝるといふ感じは弱くなる
   岩の間を落ちたぎち水岸の岩に迫り流るも千波しく/\(眞、※[虫+潭の旁]、八)
三の句の岸の位置が判然せぬために、感じのまとまりがつかぬ、千波しく/\は言ひ古した詞で然かも斯る場合に適切でない、若しこれを二個の中心ある歌と見るならば、上二句平凡にして一個のものとなすに足らぬ、只青い水が岩に迫つて流れるといふは面白い見所である
   千世をへて磨かえ伏せる河床はさやる隈なく水さ走れり(眞、八)
(242)伏せる河床といふこと少し解りかねる、伏せるといふことは或一つの物に對して言ふことで、區別の判らぬものに言ふべき詞ではない、併し河床も一局部をさし言へる場合ならば伏すとも言へるであらふか、それならはその樣に、言はねばならぬ、且つ此歌の内容は河床が平で水が能く走るといふまでゞ、とりとめた趣味を感じない
   向がしの岩ふところに抱かえし若子小岩を守るかさゝ波(左、桃、柿、八)
如何にも仙境の感じである
   河中の岩秀に立ては岩めぐる水のどよみを見過しかねつ(左、汀、八)秀歌である、「岩めぐる水のどよみ」とは實によくつかまへてよく言ひ顯して居る、此歌があれば前の「岩に迫り流る」の歌など惜むに足らぬ
   岩の間をめぐり流るゝ水底を水泡のかげはゆれて走れり(眞、左、汀、柿)
柳宗元の石※[石+間]の記を見る心持して感じはよいが少しく巧に過ぎたるの嫌がある、結句ゆれて走れりは「つぎて去り去る」とありたい、原句の詞では一つの泡に極り過ぎる
   千重たゝむ岩いたゝきの松が枝は空を遙けみつばらは見えす(桃)
空遙かで松の枝がよく見えないといふだけでは平凡である
   空ふたく岩秀めくれば瀧の音鳴りどよもして谷開けたり(眞、桃、※[虫+潭の旁])
瀧の音が鳴りとよむと許りあつて、瀧の形は見えない趣きにや、谷開けたりは眼の感じで鳴りどよもすは耳の感じである、此視官聽官の感じに調和が充分でない
   久方の天の幸湧く眞名井戸のあふれの水の落ちたきつ瀧(八)
(243)主觀の感じか客觀の感じか判然せぬ歌じや
   落ちたきつ瀧のとよみに水きはべのさゞれによする千重のしき波(柿)
此歌の主眼は細石にさゞ波のうつ點にあるので極めて精細な趣味である、よすると言ひ、千重のしき波と云ひ詞つき大業に過ぎて、折角立てた趣向も大業な詞に掩はれて讀者に何の趣味も感じない
   瀧つぼの底の細石にさやりつゝゆく水の上の浪のゆら/\(左、桃、※[虫+潭の旁])
觀察の深刻なところが氣に入つた、水の上の波といふ詞一寸をかしいが考へやうで却て面白くも思はれる
   久方の天の岩秀をこもり落つ瀧つ白玉光りとほれり(眞、桃)
一寸眼をまぎらかされる歌ぢや、一二三句まで漠然と大きく、四句に至つて俄にはつきりして小さくなつた、全體に如何なる感じか判らぬ 白玉もかういふ風に使つては濫用である
 
偖長々と妄言を費し失敬をした、全體に評して八仙の名を保留するの光榮は聊か六つかしいであらふ、乍併決して失敗の成績ではない、安座空想に耽るの徒の夢にだも及ばぬと思ふ歌が少くはない、兎に角寒中御嶽の奥を踏破した甲斐は、此歌だけの上に於ても充分であらふ、散々諸君の歌に酷評を加へて置て、自分の作を出すに躊躇するは甚卑怯の次第であるが、予は諸君の點を辭退し六號を以て卷末を汚して置く、單に讀者の參考に供するのみで、之を予の理想の作と見られては困る、全然失敗の作とも思はないが決して成功のものとも云へない、就ても予の用意だけは一寸言ふて置きたい、昇仙峽の如き神境は到底歌の及ぶ所でないが、何所か境中の中心たるべき一箇所をつかまへそれを極力詠みつくしさは或は依て以て御嶽を髣髴せしむることが出來やうかと考へたので(244)ある、水だけを詠まんか、石だけをよまんか、或は橋をよまんかなど種々苦心の結果、御嶽の中心はどうしても瀧と水とであると思つたのである、それで仙娥瀧の瀧壺を主としてやつて見たれど、思ふ十分の一も顯し得ない、諸君の歌を見て余り根本の用意に乏しいと思つたが、自分のは用意まけをした感がある、序に言ふて置きたい 理想の歌は深刻でなければ物にならぬ、神とか玉とか光りとか云ふことは深刻に痛切に詠まねば、口眞似に陷つて了ふ 趣向で持たせる作意でないからである、趣向は多くは陳腐であるから、精神と調子との上に非常な活動を示さねば、下手な神佛の彫刻に類してしまうのである、さういふ心を以て觀てくれたらば予の歌にも少しは生命があるかも知れぬ。                                              左千夫
   星層の光激ちて落ち注ぐ眞空の瑠璃に波たゞよへり
   色深み青ぎる瀧つぼつくづくと立ちて吾が見る波のゆらぎを
   姫神のめづる瀧つぼ波ゆらぐ蒼波が底に宮居ますかも
   天雲の八重垣垂れて神の子が舞せむ瀧つぼ時つげこさね
   紫に黒み苔むす大巖のまほらを斷ちてどよもす瀧つせ
   あかねさす樺に匂へる底岩に映ゆる青波見れど飽かずも
   瀧つぼに石のつぶてを打遊ぶ若子招くべく雲降纏ふ
   瀧つぼの青みが底に潜みたる蛟舞はせむ笛の音もかも
   懸橋を丹塗青塗瀧つぼに天降る少女が來遊ぶ吾見む
(245)   雲飛ぶや天馳使が種置ける覺圓峰の岩肩の松
   瀧つぼの瀬織津姫は照り透る底洋宮居に月戀ふらしも
   心ぐゝ月の照る夜は山祇も瀬織津姫も水面に舞せむ
                      明治39年2月『馬醉木』
                        署名  左千夫記
 
(246) 年始の歌
 
いつの正月とて正月に變りの有やうもない、從て此年始の贈答などには新しい歌は見られないが只世の變事につれ又は一身上の移りかはりのある場合など、之を直接に無雜作に詠み出でたものゝ中には、年始はがきの歌とて見捨に出來ないのがある、興國の新年といふ、嚴めかしき正月の紀念にもと二つ三つを記す
   背の面にはたま傷もなき久米の子が笑みかたまけて年ほぎ廻る 森山汀川
   諏訪なる北山に居て二十五年海も知らなくあけの春哉     竹舟郎
   八雲立つ出雲の神の子孫ぶり妻籠めすめる宿を見にこよ    民部里靜
   笛吹の川の中洲に庭鳥の番ひ遊べり初日さしつゝ       岡千里
   三冬過ぎ鶯の子は鳴かざれと猶巣こもりに死なずありけり   不關坊
   朝川にみさごは群るゝ吾がともは歌を詠まねばへだゝりにけり
とり/”\に情深く、題詠などにて考へうべくも思へぬ、用意なしに手紙へ書いた歌には一種云はれぬ味があると竹乃里人も云つた、併せて懇に年始状たまはりし諸君に御禮申上升(左千夫)
                     明治39年2月『馬醉木』
 
(247) 〔『馬醉木』第三卷第二號歌會記事〕
 
       ●東京歌會
 
十二月無塵庵歌會は、石原純三井甲之主と三人、此頃會者殆ど定りて新らしき人の來らざるは口惜し、例の如く課題にて詠む、純九首甲之二十五首左千夫十五首、録するもの左の如し、評は左千夫、
     靜           純
   上つ毛の毛野の三山は冬をこぞり聳えかあらしかの北空に
冬といふ詞は幾分靜な感じを含めるには相違なきも、此歌に顯れたるだけにては靜を感ずること聊か覺束なく思ふ、且つ何故に毛野の三山を指定して此想像を起したるかゞ明ならず、
   鍛冶か家に槌も鳴らさず冬の夜の此のさぶしきに貉なくきこゆ
   美濃の青墓の野に旅の子のしぐれかあらんこよひもぞおもふ
旅の子なるものゝ吾子にや人の子の上に言へるにや明かならぬは欠點なるべし
   冬されのふる江の水に鰻かき吾ある空ゆしぐれ降りきぬ
「吾ある空ゆ」の詞殊更に聞ゆ
(248)     手
   ひだり手の弓とる方の眉根かき戀ふちふものか妹はあやしき
   冬されは水づくしか手のかがゆれど人には言はずいたき思は
戀人に耻づるとの心にや、うら若き少女の小さき苦勞なるべし
      靜          甲之
   夕つく日浪の穗ぬれに傾ふかひ光りを放つ悲みの歌
   深海の上引く潮のゆるやかに心動かひ詠ましけむ歌
以上二首詞書を必要とする歌なるべし
   窓の外の枯木がうれにあさりする烏がたゝく嘴の音聞ゆ
   西の國の世に鳴る詩をたどり讀みおぼつかなけど心うごけり
靜かの感じを認めがたし
   駒込の木深き里に住み居れば市とは言へど人の音もせず
   空かざす銀杏黄葉の下ゆけば土さへ光り常世おもほゆ
   くがねなす銀杏黄葉は夕空の乏しき光り受けて流せり
結句「流せり」は説明に近く冷なり「流るも」とせばより多く現在の感じを顯し得んか
   靜かなる廣前ゆけば夕明り物のことごと目に落ち來たる
     手           左千夫
(249)   時惜み事せぐ折も幼兒が來しにすべなく抱きてを見る
   小さ手をひろげ胸寄る幼兒はもとないつくし只かきいだく
   垂乳根の母が乳房により睡り一つの味柑小さ手にもつ
   人まねのかざし※[口+喜]しみ雪子兒はうなゐが上に手をやり見るも
   何やかや乳にとりつく幼兒を母は罵れとも手にはさからず
   言問はぬ稚兒が乞ふ手を物もなく苦るしすべなし父おや吾は
   雪子兒が手にとりすがり肩馬にしのせとせがめばすべもあらなく
     靜
   さ夜ふけの峯のしら/\霜白き月夜入江を人渡るみゆ
   浦遠く人等數多が小夜ふけに物も語らす靜々ゆくも
   沖遠く夜舟の笛の普曳くやどよみは波の上渡りくも
   霜けぶる入江遠舟火を二つ波も動ず小夜ふけにして
   ゆきすぎし旅の人どち夜煙に聲遠のきぬ見れど見えなく
   天地は眠りに靜み小夜ふけて海原遠く月朱にみゆ
予の歌は讀者諸君の評をまつ
                       明治39年2月『馬醉木』
 
(250) 〔『馬醉木』第三卷第二號選歌評〕
 
     去年の冬蛙省の夜たま/\雪降り出でたるに風さへ無かりければ庵をかくめる竹林の折々は雪折の清らなる響をあぐるに興おさへ難くて其あしたかけて詠める歌の中         森山汀川
   押なへて庭の竹むら雪にたはみ今朝遠見ゆる庵のあかるさ
評云竹の雪折を聞く靜夜の趣、事實は趣味深きことならんも之を歌に詠むには大に陳腐を脱するの用意あるべきこと肝要なり
     稻苅の歌            柳澤廣吉
   稻刈の日和暖けば門の田の畔の日南にチヨマも遊べり
評云チヨマとは猫にや一笑々々
     玉山歌稿            藤井烏※[牛+建]
   うまいせむかりほつくると川のべに生ふるしこ草かりつくすかも
評四句最も肝要なり「生ふるしこ草」にては口惜し
     歌日記             柿乃村人
(251)
   底すみの眞澄の水に磨かえしなだら岩が根いく代經ぬらむ
   冬川の兩岸《モロギシ》削る岩垣の色滑かに苔も生ひせず
左千夫いふ以上三首の如きは、形式上の面白味で採れるのである、寫實の感じは聊か物足らぬ、
     雜歌              柳門子
   西陣や娘美し竹取の宿なす家の機始めかな
評これは西陣で美しい娘を持つて居る機屋で竹取の翁が家の如き機屋の機始めが興あることぢやといふ意であらふ、さう言ふ意味を顯す詞としては甚だ圓熟を欠いて居る、只機屋に美娘があるとてそれ許で竹取の宿といふも解らぬ、又竹取と機屋の關係も判らぬ、空想としても取とめなき空想である、根本詩趣の如何を次にして、詞調上の變れるを好めるの弊である、「西陣や娘美し」と初旬に言ふだけにて、之を機屋の娘と解せしむること無理である、此作者は手腕のあるだけに往々手腕を弄するの弊がある、願くは着實に眞摯に詩趣の根本に留意してほしひ、手の先筆の先で眞の詩が出來るものでない、妄言多罪
                    明治39年2月『馬醉木』
                      署名   なし
 
(252) 〔『馬醉木』杜陵短歌會選歌評〕
 
 〔星山月秋、楓岡生、紅東の歌略〕
左千夫いふ、總歌數八十余首、今僅に十一首を拔く、思ふに雪の歌に新しきを得るの難きに依るもの、諸君之を諒せよ、 
                     明治39年2月『馬醉木』
 
(253) 〔長塚節「課題選歌」附記〕
 
以上課題靜より茲に至るまでの歌は節氏の選べる所にして、更に予が三分の二以上を削減し且つ掲載の部分に對しても頗る訂正を加へたり、從て予は節氏と共に重き責任を負ふべし、予は課題の振はざるに不平を云ふ節氏は課題を廢せんといふ、予以謂らく課題必ずしも廢するの要なし、只價なきを採らざれば即可なり、題詠又作歌の一興、佳什を得ると否とは用意の如何に存す、諸君願くは選者の嚴を惡まずして自ら奮勵するあらんことを。(左千夫記)
                     明治39年2月『馬醉木』
 
(265) 〔『馬醉木』第三卷第二號消息〕
 
結城素明氏除隊せらる、足立清知氏は近く凱旋せんとす、安江秋水氏は不空と改號再び歌壇に立つ、望月光男君柳澤廣吉君岡千里君等近頃著しき進歩を認め候 殊に本紙課題文章の振へる編者の雀躍に堪へざる處、三村君の文又珍とするに足る、毎號の編輯苦勞多きも今回の如きは實に愉快に有之候、木村秀枝君の寫眞は聊かの手違にて次號に出す事に相成候、原稿充溢の爲め止むなく次號へ廻したるもの、左の如くに候
 一、散文詩         増田八風譯
 一、無門會――寫生文    松原蓼圃
 一、旅の歌五十首      篠原志都兒
 一、湖上――新體詩     久保田柿村
 一、釜の寫眞        木村秀枝
歌會は例に依て發行所に開き可申候
 三月十一日午後一時より歌會  會費  十五錢
 三月十九日終日談話會     會費無
                     明治39年2月『馬醉木』
                     署名    なし
 
(266) 上田秋成の歌 〔下〕
 
       (三)
 
  思へば予の怠りも實に久しくなつた、此稿を始めて本紙に出したは一昨年の十一月であるから、一年以上の長い間放棄して置た譯である、七百余首の内から二十三首を選び出した、前の熱心に比べて、後の冷淡なりしは、豹變も甚しい次第ぢやつた、地下の秋成に對して濟まないとの感念は、絶えず予を促しつゝあつた、今此稿を續くるに臨んで、地下の秋成と地上の讀者諸君に謝するのである。
   千里までてらせる影とゆふ波の汐のたゞへに月さしのほる
 三の句ゆふ波は夕波であらふ、一の句二の句は殊更めいた言ひ方で、面白くないけれど、以下の三句は感じよい景色が遺憾なく顯はれて居る、「汐のたゞへに月さしのぼる」などは、宛然吾黨の口調ぢや、景色も美しい、詞つきも想に協つて美しい、僅の事であるがさういふ處が、此時代の歌人連の歌集などには絶て見ることが出來ないのである。
   たゞならぬ雲のけしきに門たてゝすはさればこそ野分ふく風
際どい所を趣向にしたので、詞つきも騷しく落着もないは止むを得ないのであらふ、四の句「すはさればこそ」(267)の一句で愈こせついて居る、歌柄に品格なき所以である、作者の考では、うろたえた樣を寫したつもりならんが、さういふところが歌に適せぬといふことに氣が附かなかつたのである、狂歌めいたは是非もない譯だ、乍併一も風体二も風体で、只なだらかな詞つき、言ひ廻しよき口調許を旨として、内容の如何などは殆んどおかまひなしの時代にあつて、是丈實際の趣味を歌つたは、充分多とすべきの價値がある、俳句をやつた秋成であればこそ茲まで到り得たのであらふ、此歌は歌としての價値は聊か考ふべきであるが、其態度は採つてやらねばならぬ、三の句「門たてゝ」など無雜作に俗語を詠み入れて躊躇せぬところは秋成の爲めに注意すべき点である、兎に角空模樣俄かに變じて野分が吹卷き立つた趣はあらはれて居る、品格がないといふので直に排し去ることは出來ない、併し慾をいふならば今少し穩かな云ひようがあらふとも思はれる。
   音たつる時雨も知らで稻こきの夜聲賑ふ冬の山里
一の句「音たつる」とは聊か殊更な言ひ樣である、五の句「冬の山里」もことはり過ぎて居る、如斯光景必ずしも山里に限つた譯はない、是等が題詠の弊であらふ、「山里の時雨」とかいふやうな題で詠んだものらしい、以上の欠点あるに關らず、忙しく稻をこく農家のさま、時雨の降り出したも知らずに話興賑かな趣を見つけたは、さすがに秋成と云はねばならぬ、内容の趣味が充實して居るので、詞つきの欠点も左程耳たゝぬ位である、時雨とか山里とか云へば、此時代の歌人は勿論大抵の歌詠みは靜かとか淋しいとか、云ふに極つて居るのに、「稻こきの夜聲賑はふ」などいふ積極的快感を歌へるは、慥かに秋成の一見識あることを察することが出來る。
   夜の程に降りしや雨の庭たづみ落葉をとぢて今朝はこほれる
冬朝清閑の趣を叙し得て遺憾がない、「夜の程に降りしや」と疑詞を插める間に、朝晴の空青いさま迄聯想され(268)る、複雜な趣向を何の苦もなく、淀まず言ひおほせたは、其手腕の凡ならざるを見るのである、藤簍册子中に清新此の如き秀作あることを知つて居る人は實に少ないであらふ、予は秋成の爲めに同情の感に堪えない、今日でこそ是位の歌は取り立てゝ言ふ程のものであるまいけれど、秋成の時代で見るならば、實に萬礫中の一璧と云つてよいのである。
   かつまたの池の蓮のかれ莖に風ふき渡るあした寒しも
今日の眼で見れは平凡なものである、結句「あした寒しも」は面白くない、只例の如く此時代にあつて是程實際的趣味を詠んだ厭味なき歌は得難いのである、結句に今少し何か強く新しいものを詠み入れたらば直ちに佳什に變ずることが出來る。
   越の海は波高からし百舟のわたりかしこき冬は來にけり
取り立てゝ褒める程の歌でもないが、勢あつて調子の張つた歌である、積極趣味な天明俳句の余響でもあるまいが、秋成の歌は不思議と積極趣味が多い、眞淵などが男の歌雄々しき歌などゝ口に許り云つて居て、一首も調子強き歌なきに比して秋成に如此歌あるは、稱するに足ると云はねばならぬ。
以上二十三首の評は終つた、總評していふならば、秋成の歌はつまらぬと云はれても仕方がない、七百幾十首中の二十三首は、實に百分の三といふ少數である、予の如き不思議の縁故に依り、特別の同情心を有する者なればこそ、多數の中から極めて少數なるものを選り出して稱讃すれ、大抵の人は一見してあアつまらんつまらんと卷を閉づるに極つて居る、思へば予の如き同情者を得たるは、秋成の幸福と云はぬばならぬ、さらば予の酷評に對して、秋成も必ず地下に滿足するであらふ。
(269)予は此秋成の歌評に就て聊か思ひついたことは、吾秋成の歌に對したる如き熱心なる同情を以て、他の多くの歌人の歌を熟讀したならば、或は百分中の二三を取り得る程度の歌集が外にも隨分あるかも知れぬといふことである、歌集の數は多く、加ふるに製作に暇なき吾々は、能くも熟讀せずと、概括して價値なきものと排斥し去つてきたのは、頗る罪深き感に堪えないのである、されば予は今後時間の許す限りに於て、多くの歌集中より珠玉を拾ひ出すの業に從はんとの念を起した。
或人の如きは、秋成の文章も歌も發句も皆つまらぬものだといふて居る樣なれど、つまらぬと思ふ眼を以て見れば、大抵の者はつまらなくなる、芭蕉の發句は勿論、蕪村と雖もつまらぬ發句も少くはあるまい、獨り秋成許ではない、同情の眼を以て見れば、大抵の物にも取るべき点が幾分づゝはあるであらふ、只取るべきの比較的少ないといふだけで、無雜作に排し去つて仕舞ふは、頗る殘酷な所爲であらふ。
因にいふ、予は次手に秋成の長歌をも評する考であつたが、今一見する所秋成の長歌は一首も稱するに足るものはない、彼が長歌は徒に古語をこねくりたるのみ、古語の智識を衒へる如き跡さへ見ゆるは最も厭ふべきである、
 其吉野の長歌に、三吉野を三ゑし野と云へるが如き、其醜を極む、よし野をゑし野と云ふたら、それに何の面白味があると思へるにや、彼は茲に至つて全く腐れ學者の仲間入をしてしまつた噫。
                     明治39年2月『甲矢』
                     署名   左千夫
 
(270) 〔『馬醉木』第三卷第三號卷頭詞〕
 
總てに自分の計らひを無くせよと、親鸞上人の仰せられたは、吾々文學の上にも誠に深き味ひを感ぜられる、自分の計らひを交じえぬとは物の自然といふことゝ同じで、總ての物の、有の儘を得よといふことであらう。
種々の理窟をつけて物を觀ずるから、何事も六つかしくなるのである、色は色其物に面白味がある、形は形其物に面白味がある、小理を觀じて大理を觀ぜざれば、何事にも兎角自分の計らひが現はれて、意味なき物を殊更に意味ある如く思ふのである、自分の計らひを以て事物を判ずれば、眞の色眞の形は判らない、目前の實體を輕じて、徒に空影にあくがれるのは、理想家の最も戒むべき點であろう。
上人の仰せの如く自分の計らひをやめ、自己空虚の態度を取つて、總ての物に對すれば、始て見るもの聽くもの、其物通りに感受し得らるのである、意味ある物にのみ面白味を感じて意味なき物に面白味を感ずる能はざるは、理想家の陷り易き弊であろう。
                     明治39年3月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(271) 與謝野晶子の歌を評す
 
年來各地の同人諸君より、他派特に明星派の短歌に對し、批判を與へよと求められたること一再ならず、予も又其志なきにあらざりしも、「みだれ髪」「むらさき」等の歌集に就き其一端を窺ひ、且つは時々の「明星」など垣間見ての觀察によれば、概して衒飾僞搆、詞調の輕浮にして内容の幻怪なる、一種の妖氣は殆ど眞面目なる人をして近づく能はざるの厭味を感ぜしむ、此の如きの趣味も全く價値なき者にあらざらんも予の如きは其嫌惡の情に堪ゆること能はざりしなり。
與謝野夫妻は一部の評家に天才と稱せらるゝもの、固より天才あるに相違なからむ、然かも天才なる詞はそれほど大なる價値を意味するものにあらず、苟も藝術の苑にあるもの多少の天才なくしては一作物をも搆成し得らるゝものならねば、要は其天才が如何なるものを作り得たるかを吟味せば足れり、況や專修の素養なき、無責任の評者に依て、喃々せられたる所謂天才の稱何程の價を認め得べき、見よ貫之公任定家家隆西行等が、幾百年間大天才の稱號を保ち得たるかを、彼等が一朝眞活眼家の批判庭に列して一切空に歸したるは抑も何が故ぞ、他なし彼等の所謂大天才なるものは、例の如き盲目同志の妄賛に外ならざるが故である、
現世の虚榮是れ事とする、今樣文士に在つては、後世の批判を顧慮するなど、野暮の骨頂なるかも知れず、乍併以上の如き妄賛妄信の結果が、如何に猛烈に青年社會の詩想を毒せるかを思へば、悚然として怖れざるを得ざる(272)ものあらずや、現に御歌所派なる人々の歌風が、如何程新興國の青年を傷ひつゝあるか、一度彼が如き歌風に浸染せば、終生詩想發達の望みを絶つに至る無きか、此に至つて予は、社會に相當の位置を有する、文士諸士の評論に大なる責任を問はんと欲す、然るに今日の多くの文士は、批評の責任なるものを少しも思はざるが如し、相當の位置ある人々にあつては無雜作に談ずる批評と雖も頗る他を過まるの恐れあらずや、且つ専ら批評を事とする人々の態度に視る、多くは批評家なるものゝ資格をすら心得ざるなり、一般の讀書社曾も、大抵は専門的深切周到の批判をば歡迎せず、却て冷評半分なる盲評家の出放題に動されつゝあるの傾きあり、明治詞壇に眞詩人の顯はれ來らざるは其詩人なきにあらずして、無責任なる盲評家に動されつゝある社會は、眞詩人を顯し得ざるに原因す。
社會の罪か將批評家の罪か、日常の些事、猶且つ無經驗者の辨じ難きもの多し、況や文藝の批評をや、滿足なる小説も作り得ずして直に小説を評し、價値ある短歌一首も作り得ざるもの漫に歌を論ず、固より沙汰の極みに屬す、批評家的見識を欠ける、今の評家は、觀客の位置にあつて評するの態度を不見識なる如く思へり、文藝なるもの固より一面は社會に對するもの、從て觀客なる局外の批評も或點に於て重ずべきは言ふまでもなし、然も今の評家の如きは無經驗なる空論を叩て、直に作家を指導せんとするの態度を爲す、思はざるも又甚しきものならずや、無經驗なる局外者の言に動かさるゝが如き作家あらば、そは作家として極めて低度にあるの者たるや明なり。
與謝野夫妻特に晶子の天才なるものは、例の分を辨へぬ評家の盲賛に基づくなきか、然らざれば」何ぞ其實の名に添はざること甚しきや、「みだれ髪」時代の舊作は今更云々せず、人間は如何なる人と雖も、幾分の靈性を有す(273)るもの、縱令如何なる方法に依るにせよ、事に從ふて年處を經る。何等かの進歩と變化とを來すべきは當然の事に屬す、昨年以來明星派の人々も漸く萬葉集の研究を始めたりと稱せらる、晶子の歌の如きも頗る變化し來り、從來の空想主義を固守せず、大に寫實的抒景的傾向を有するに至れりといふ、果して然らば予は詞壇の爲に慶賀するに躊躇せず、予が聊か茲に批判を試みむとするに至れるも又それが爲なり、然れども予は最近の「明星」を知らず、又其所謂舞姫を知らず、されば二月一日發行の「藝苑」所載の歌と、三月一日發行「心の花」の紹介せる「舞姫」拔抄の歌に就て批判を試みむと欲す、是等の作物が晶子の特色を顯はし居るや否やを知らずと雖も、以て彼が近作の傾向を察するに充分なるべきを信ずるが故なり。
藝苑所載の歌
                             與謝野晶子
   海の旅船のまらうどまくらして白魚のはる水おもひ居ぬ
これは或航海の旅客が船中に枕してねながら白魚ののぼる水のさまなどを思つてゐると解される、先づ用語の點より云ふならは「まらうど」とは賓客即「客人」又は「お客さま」の意であつて行客旅客なといふ旅人とは全く意味を異にして居る、されば「船のまらうど」といふ詞を詞の通りに解するならば、海軍の人などが自分の軍艦へ人を招待した樣な場合に其賓客なる人をさして云ふべき詞である 此作者は賓客と旅客との差別も辨へぬらしい、此一點のみでも最早此歌の感じは滅裂して居る、次に四句五句の用語は自分のことになつて居る「白魚のぼる水おもひ居ぬ」と云へば自分がさう思ふて居る態としか思はれない、何ぜなれは人が腹の中に何を思ふて居るか餘所から見る他人に解る筈がない、作者の考では或は小説的に人の意思を推測してさうと極めて詠んだのを手(274)※[手偏+丙]にして居るのかも知れねど、三十一文字の短詩に小説的趣向の無理であるといふことは別としても、それならばそれの樣に全體から小説的にせねばならぬ、前半分には他人の事を客觀せる如く下半分は自分の意思を抒べた如く、意味の一貫も思想の統一も殆どないと云はねばならぬ、さて内容はどうかと見れば、不自然も又甚しい丸切り拵ひごとである、航海の客が如何なる動機で白魚の水を思ふのか、さういふ思想の至れる系統が少しも判らず、突然氣まぐれ的に湧いたものとせば、下の二句は何とつけてもよい譯である、何を考へて居ると云ふてもよい譯である、赤兒の生れたことを思ふても、蚕兒の桑はむことを思ふても、何を思ひゐるといふても差支ないことになる、何事を持つてきても差支ないといふは配合が組織的でないからである、組織的になつて居るものは無雜作に取換へることは出來ない。要するに前半の思想と後半の思想との連鎖に必然の關係がないからである、一首の歌は一首たるべき思想が組織されて居らねばならぬ、組織されてある者でなければ一つの物體ではない、種々のものを寄せ集めてもそれが組織されねば一個の物とは云へない、如此歌は思想の並列である、一つの纏りある思想ではない、組織的まとまりと云ふことに頓着せず或考と或考とを並べた丈けで歌と云へるならはどんな奇拔なことで破天荒なことでも出來る、そんな歌を變つた歌と云ふならば、氣違ひに歌を詠せれば、いくらでも變つたことを云ふであらう、乍併此の如き無稽は此作者許りではない、大抵の文士が皆組織も并列も差別なしであるから情ない、思想が古いの新しいの、やれ研究やれ天才と何を騷いで居るのか片腹痛さに堪えない次第である。猶此歌、何の爲めに海の旅と始めに斷はる必要があるのか、又何の爲めに「枕して」と斷はるのか、枕して考へるから白魚のぼる水が面白くなるといふ譯でもあるまいに、白魚のぼる水を思ふといふことが此歌の中心であるならば、三の句の腰部なる肝要な所で、「枕して」など際立つた詞を殊更に使用せば、中心たる白魚のぼる水の(275)感じが攪亂されるのである、此の如き細微の點は未だ此作者に言ふのは無益かも知れぬ、調子を評するほどの歌でもない されば調子の評は暫く畧して措く。
察するに此作者は、趣味と詞との關係、思想の自然と詩との關係等に就て、未だ何等の研究をも有して居らぬ こは此一首の歌に見るも明かである。
   美しき人ら海見ぬむらさきの雲に並びぬくれなゐの雲
これも用語から先に吟味する、「美しき人ら」は作者は美人といふつもりならんも、「美しき人」と説明的に云ふてこれを美女の意に解せしむるは無理である。美しき人はどこまでも美しき人で、必ずしも女に限らぬ、男でも美しい人は隨分あらう、此作者が好んで用ゆる美男なども美しき人である、それとも作者は美女美少年ひきくるめて云てるのか、何れにしても趣味と説明詞との關係などに何の考もなく詞を綴つて居ると言はねはならぬ、「紫の雲に並びぬ紅の雲」紫の雲は理想の感じで事實の感じではない、それに反し紅の雲は少しも理想の感じはない、事實も理想もゴツチヤである、事實の趣向ならば事實で一貫せねばならぬ、理想的の趣向ならば矢張り理想で一貫せねばならぬ、解り切つた事であらう、
美しき人らが海を見たとあるから、海の見える位置に其人達の居るといふことは判る、併其人達は家に居るのか往來に居るのか或は庭などに居るのか舟などに居るのか更に判らぬ、驚き入つた歌ではないか美しき人らと云ふも男か女か判らず、どんな種類の人間かも判らず、どこにどうして居る人間かも判らず、丸で説明にもなつて居らぬ、美しいといふことが判るならば其人の何ものであるかも判るべきである、何か人間らしいものが見えるなどいふ漠然たる場合もある それならばそれでよいが、一面に美しきと判然云ひながら其美しい人は男か女か(276)判らぬといふは理のとほらぬことである、それで紫の雲と紅の雲と美しき人といふのを配合したつもりか何かで濟して居られるとは、幼稚の程度も通り越して愚と云ふの外はあるまい、これ程に痛罵する考ではなかつたが余りに馬鹿々々しいので遂に言ひ過すのである、此の如き歌を作つてそれで天才の名を得たとせは、天才といふことはどんな意味を持つて居るのか。
もし又大に好意的解釋を下し、これを航海中の出來事と見て、盛装した貴婦人などが三四人甲板に出たとする、それが美しき人で、折節朝か夕か知らぬが天の一方に彩雲の棚引いたを見た場合とせば趣向は陳腐で誰も言ひさうな事ながら、詩趣ある光景には相違ない、併し此歌のやうな詞では、そんな所は少しも顯はれて居らぬ、只尾も頭もなく突然、美しき人らは海を見た、紫の雲が赤い雲と並んだとことはつて見ても、それが如何なる場合であるといふことが少しも判らぬではないか、美しき人ら(これも服装の美しいのか人が美しいのか男か女かも判らぬ)といふ詞と、紫の雲といふ詞と、紅の雲といふ詞とが、讀者に感ずるのみで、何等のまとまつた趣味を顯はし得てないではないか、材料の陳列ならばまだしもであるが、此歌の如きは詞の陳列と云はねばならぬ、それでも其詞つかひに作者の苦心などがあるならば、縱令まとまりがなくとも詞の面白味で幾分の價値を認められぬでもないが、其詞が人の言ひ古した詞であつては最早一分の取り處のないものである。
今一つ大に作者に同情して、此歌は其美しき人らの服装を紅紫の雲に比喩したものと見るならば、其言ひ顯はし方の拙なるに驚くのである、第一作者が此の推測の如く比喩のつもりならば、此作者は理想的に用ゆる比喩と、抒景的に用ゆる比喩との差別も知らぬ人である、美人の服装を雲に喩ふることも珍しくはないが、それは理想的の比喩であつて、抒景即客觀的の比喩ではない、理想的比喩とは涙雨の如くなどいふのと同樣である、人間の服(277)裝何程美しくとも抒景的に紅雲紫雲などいふ感じのあるものではない、併し全躰の歌※[手偏+丙]を見れば、此作者はそれほどの用意と苦心とを以て製作しては居るまい。
   春の山|先達衆《センタチシユウ》の大音《タイオン》に赤緒の笠のひかれゆくかな
又しても初めからことはつてある、徳川時代の幼稚な歌詠でも、歌はことはるものでないといふ位の理窟は心得て居つたに、兎に角にも天才とか何とか言はるゝ人の歌に何といふ情ない事であらう、春の山といふのも春の感じを顯すに必要であるならば、初句に言ふのが必ずしも惡いとは言はぬ、只一句だけ春の山といふから全くことはることになるのである、下の四句が春と離れられない關係がないから、春の山といふても夏の山といふても少しも差支いない、故に此の如き言ひ方をことはると言ふのである、いかなる場合か知らねど、笠といふ詞の這入つて居る點から云ふても夏の山といふが却て敵當するであらう、何の爲に春の山とことはらねばならぬ必要があるであらうか、「先達衆の大音云々」何といふ厭なことをいふ女だらう、もう批評もほと/\いやになつた、軍書などに有つてすら、鐙蹈張り大昔《ダイオン》あげ云々とあると、厭味がこみあげて聲がつまる位だ、兒供でゞもなくて、そんな所を眞面目に讀み得らるゝものでない、殺伐の事許り書いてある俗書中にあつてすら、大音云々などいふ露骨な詞は非常な厭味を感ずるのに、韻文中に「先達衆の大音」などゝ能くも臆面なく詠まれたものだ、然もこれが女の咏んだ歌である、併しこゝらの處が鬼才ぢや天才ぢやと言はれる點かも知れぬ 驚かれる次第ぢや、鷄は蚯蚓を食ひ雉子は蛇を食ふから、何も好き/\ぢやと言はれゝば夫迄であるが、予の如きは一見厭味の身振が起つて背中の筋肉が妙に動いた位ぢやつた、此作者に渇仰して居らるゝ幾多の文人達が、先達衆の大音云々と眞面目に高唱する顛つきを見てやりたい、
(278)赤緒の笠の云々とは女の同者が先達に引かれてゆくといふことにや、最早評する詞もない、やア管笠が引れてゆくなどゝいふ、宛然土方才子の口調である、笠が引れてゆくなどいふこと作者は好妙な詞と思ふて居るかも知らねど、無教育社會の一般に云ふことである、雅俗の辨へもない百姓才子の能くいふ洒落である、赤緒の笠は未だ赤緒と言つてあるだけ其女たることは判る、先達衆といふは女か男か、先達といふも男と極つた譯はあるまい、先達衆といへば幾人かであらうが、其幾人かの先達が大音に何を唱へてゆくのか、春の山とのみあつて何の爲に山へゆくのか、先達衆といふ一語で何かの參詣といふことを聞かせる積りなのか、一々謎を判斷する如く判じてゆかねば判らぬ、猶言ふならば「先達衆の大音に」は露骨で殺風景なだけ、調子は太く強く感ずるのである、そして、其次へ續く詞が「赤緒の笠」云ふまでもなく、弱く優しく感ずる詞である、されば此歌の調子は前半は丸太の如後半は篠竹の如くで、俗にいふ木に竹を繼いだ感じである、詩は内容形式共に整はねばならぬこと云ふまでもないことである、思ふに此作者の程度にしては調子の強い弱いなどいふことは未だ解つて居るまい、
此次猶十二首あるが、何れも似よりの歌である、着想の新陳などは暫く置く、兎も角も思想統一せる意味の一貫せる歌すらもない、極端に言へは放膽に詞を陳列したに過ぎない、從て幾首を評するも同じであるから藝苑のは止めて置く、
「舞姫」雜誌「心の花」紹介に頼る、
   春雨やわかおち髪を巣にあみてそだちし雛の鶯の鳴く
此歌は大體に意味は通じて居る、併し猶無理があるから、例に依て詞から吟味する、「巣にあみてそだちし雛」とは言ひやうがない、これでは雛が{自分で巣をあみそれで育ちし事になる、「巣にあみて」は親鳥からいふことで、(279)「そだちし雛」とは雛から言ふ詞である、されば、「巣にあみてそだてし」と親鳥からいふか、「あみし巣にそだちし」と雛からいふか、何れにか一方にせねば意味は通じない、考違をしたといふならば、或はさうかも知れぬ、かういふ詞は假名遣の間違と異なり意味のまとまりがつかぬことになる、育ちしと育てしとの差別もない詞使とは驚き入る、「雛の鷺の鳴く」もをかしいではないか、已に巣立ちをして普通の囀りをするならば最早雛ではない、若しさうでなく、未だ巣に居る雛が鳴くので、普通の囀りでないならば、そのやうな用意の詞を以てせねば、只雛の鶯が鳴くでは、どいふ聲に鳴くのか判らぬ、全く雛の鳴聲を詠めるならば、「鶯の雛が巣に鳴く聞ゆ」などいふが當前である、此作者は日本人であつても日本の詞を能く知らぬのだ、
詞の惡い點は直すとして此歌に幾分の價値があるかと云へば無いと云ふの外はない、此歌の着想は落髪であみし巣にあるので、春雨に鶯の鳴く詩趣を主眼として作つた歌ではない、作者の感興は落髪をあみし巣に育ちし鶯といふ、其いはれ因縁にあるので、俳人の云ふ月並の好みで、意味のこねくりを悦ぶ趣味で下等の趣味である、御歌所あたりの好みと別つ處はない、春雨や鶯鳴くといふても、それは見出しに言へるまでゞ、實は作者の心は落髪の因縁にあるのである、丁度俗人の骨董いびりと同じく器物其物の面白味より、誰の所持であつたの、誰の書付があるのと其いはれ因縁を有難がるのと同種の趣味である、
其親鶯は作者に馴れてゞも居つて、作者は其巣を度々見舞でもしたのか、第一さういふ事實であつたならば、春雨に鶯の鳴くなど陳腐極つた事を言ふより、鶯の巣を見舞ふて落髪を實見したさまを歌つた方が、遙に面白からうでないか、されど此作者はそんな事實の趣味に感興を動すやうな人ではない、下らぬ空想のこねくりを悦び、落髪より思ついた僞搆に相違あるまい、詩といふものゝ根本義が一向解釋されて居らないことは是等の歌に依て(280)掩ふことは出來ない。
   遠つあふみ大河流るゝ國なかば菜の花咲きぬ富士をあなたに
此歌も大體意味は通じて居るが詞は相替らず間違つて居る、「國なかば」は國半分といふ意味で國の中央といふ意ではない、若作者の心が國半分菜の花が咲いて居るといふならば、大河流るゝ國なかばの續きが無理になる、なぜなれば大河などいふ感じは河に臨んで見る感じで少くも作者が河に近く居て見て起るべき詞で、國半分などいふことは、高い處などより遠く見渡して起る感じである、大河流るゝと云へばハツキリした詞で、國なかばと云へば漠然とした詞である、これだけ感じの違ふ詞を直接に接續するの無理は云ふまでもない、されば、例の如く作者は詞と趣味との關係につき何等の用意も拂ふてゐない、大河など茫漠たる事をいふかと思へば、「菜の花咲きぬ」など精細なことを云ふ、感じの違つた詞が、幾個かまぜこぜになつて居るから趣味が統一しない、「富士をあなたに」も無理である、其菜の花が直接に富士の裾野に連なり居つたらば、富士をあなたとも言へるが、遠江の國なかからでは、只見えるといふに過ぎぬ、此詞を反對に言へば富士の手前に菜の花が咲いてゐるといふことであるから、直接に菜の花が富士に績く感じである、遠江から見て決して富士が直接に見えるものでない、趣味の感受が極めて幼稚であるから、以上の如き粗雜な對照を感ずるのである、初句に遠つあふみとことはるのも殆ど無意義である、下四句に抒した景色の面白味に感興を曳いたものであれば、其所の國名をことはる必要はない、國名は此歌の趣味と何の關係もないではないか、
此歌の景色を想像せば、國の眞中を大きな河が流れて居る其河に續いて菜の花が廣く咲いて居る向ふには富士が見えるといふのであらう、これだけの趣きが一首の上に現はれて居れは随分面白いが、修詞拙劣であるから景(281)色もあらはれず、調子もとゝのはない、左の如く詠み直さば見るべき歌であらう。
   國斷てる大河に續く菜の花や菜の原遠に富士の山みゆ
無論遠江にて詠める歌である、
   松かげの藤ちる雨に山越えて夏花使野を馳すらんか
さすがに「心の花」の記者がよい歌として拔いたといふ丈に、此の方には、藝苑の歌の樣に意味の一貫せぬ樣な歌は少くない、夏花使は古事記の天馳使から思ひついたもので面白いが、折角此趣向を思ひついても、松かげの藤ちる雨と冠しては駄目である、先に言へる如く寫實趣味は寫實で一貫し理想は理想で一貫せねばならぬ、此歌上二句は寫實で下二句は理想である、上二句は印象的で下二句は空想的である、實躰と陰影とをごつたにせる如き感じである、三の句山越ても無要の詞である、山を越えるといふても河を越えると云ふてもどうでもよいやうな詞はない方がよいのだ、左の如く詠み直せば此歌は物になる。
   雨一夜春も盡くるか此夜あけば夏花使野を馳すらんか
予は此次手に極力晶子の歌を評するの考なりしも、吾馬醉木は此一題目の爲に無限の紙面を假すことが出來ぬ、舞姫の歌僅に三首にして止むは聊か飽足らず思へど、再び時期の至るを待つ、終りに臨み、太陽の誌上大町桂月に依て大に稱賛せられたと聞く、例の一首を批判して筆を措くことにする。
   鎌倉や御佛なれと釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
此歌は昨年の本誌雜録にて、一寸冷評を加へたことのある歌である、其折は第二句第三句は、「金にはあれど御佛は」とありしと覺ゆ、それが今の如く直されたのである、桂月は何と褒めたか、それを今引合に出す必要はな(282)い、桂月が褒めたとてくさしたとて、それが爲に歌がよくなる譯もなければ悪くなる譯もあるまい、何か桂月は、此歌に就て大に晶子の見識を云々したと聞くが、それが本當ならば、桂月といふ人は意外に解らぬ人だ、見識と趣味とは丸で方角が違ふ、一寸言ふて見ても、昔の高僧達の作つた和讃といふものを見ると、其見識は固より非常なものである、が文学即詩として見ては余り價値のないものである、見識と詩と全く別物であることは此一事にて得心が出來やう、且つ銅像の大佛を美男と感じたなどは、見識どころではあるまい、作者其人の下劣を露出してゐはせまいか。
さて「御佛なれど」は判らぬ詞である、佛は醜男と極まつてゐるものならば、佛ではあるけれど鎌倉のは別で美男さまぢやと言へるが、佛は醜男とも何とも極つて居らぬ以上は、御佛なれどゝいふも詮のない譯である、併しそんな些末の詮議はどうでもよい、此歌が晶子の本音を露出して最も陋劣を極めたは、美男の詞にある、宗教的感念や美術的興味を以て晶子に望むは固より無理な注文であらう、併し歌詠ともある晶子が、男的物體に對し男振りの如何といふより外の感興が起らなかつたとは余りに情ないではないか、自己の詞は能く自己を顕す、晶子の詞は能く晶子を顕はして居る、美男の一語は晶子が日常の嗜好を深刻に畫いてゐる、無意識の間に自己を語つてゐるは寧ろ氣の毒である、花柳社會の情話と雖も男振り女振りが唯一の問題とはならぬではないか、大佛を見て親みの感を起したは惡くはない、只美男と見て親まんとするは餘りに下等である、
此作者が趣味と言語との關係を辨へぬことは前にも一寸言ふたけれど、美男といふ詞がどういふ意味を含んで居ると思ふのか、美男といふ詞で大佛が現はれるならば、醜男との一語で豐太閤が盡し得る譯である、兎角人間といふやつは、自己の嗜好を標準として總ての事物を見る、これが人間の弱點で無意識の間に自己の陋劣を自白す(283)るやうなことをやるのである、花柳社會がさアと云へば、容貌の醜美を云々する、學者が何事にも理窟をいふ、町人は何事にも錢金の事をいふ、晶子が大佛を美男といふたもつまり自己の弱點に陷つたのである。
五の句「夏木立哉」も例の並列である、或物躰に一個別の物を並べて置たと同じで、どのやうにも取替へることの出來る句である、通常の談話に見ても、人の家に客となつて、「御子息さんはお利口でございます、庭の松がよいなア」とやうの詞をつかつたとせは如何、これでは主人も挨拶に困るであらう、さういふのが晶子の歌の句法でないか、文句の末に無頓着なが晶子の特色だなどゝ云はれて、よい氣になつて居るらしい、心得違ひも甚しいと云はねばならぬ、彼等は形式の大切なることを知らぬらしい、
社會の事物中詩は最も完全を要求するものである、内容は勿論のこと、形式も完全せぬものは詩ではない、否内容は形式に依て顯はるゝものである、されば形式の完全ならぬは、内容の完全ならぬことを意味する、文句の末に無頓着とは、形式に無頓着と云ふことである、形式に無頓着は、詩といふものゝ意義を解せぬからである、猶一語を添へる、遊冶郎の内容が形式に顯はるれば即ち美男である、眞面目なる男子を評し、あの方は、立派なかたゞ、立派な人だと云へば、誰れも其敬意を認める、あの人は立派な男だと云へば誰も親善の意を認めやう、あの男はよい男振りだ美男ぢや好男子ぢやと云はゞ、花柳社會以外誰れも其詞に敬意を認めるものはあるまい、自己が用ゐつゝある詞の意義を充分に解し居らぬ人々に對し、此の如きことを説くは殆ど無益であらう、予は猶大體上より晶子の歌を畧評して筆を措く。
「藝苑」十五首「心の花」二十五首都合四十首中に、大音、大文字、大河、大赤城、大海、杉大木、大駿河、等七首まで大の字がある、此割合で見ると、舞姫六百首の中には百首以上大の字が這入つて居る譯である、以上如(284)何に此作者は大の字好きであるかといふことが判る、大といふ詞で直に大の感じが顯はれるものでないといふことを未だ御承知ないのだ、子規子なども、初期の句作に、なんでも大の字を詠みこめば面白く思はれた時代があつたと、獺祭書屋俳句抄帖に述懷されて居る、今日の晶子なども丁度其邊の程度にあるらしい、死罪死罪
                    明治39年3月『馬醉木』
                      署名   左千夫
 
(285) 〔『馬醉木』第三卷第三號歌會記事〕
 
      ●東京歌會
 
三月十一日、朝より天氣よし、蕨眞、里靜、純、先づ會す、次で常音八風甲之來る、主人を合せて七人近來の盛會なり、床に子規子消息歌の軸を掛く、其歌は未だ世に示さゞるものなれは、茲に掲げて讀者諸君に示さんか。
   いとし子のまな子のつゝみひまあらは牡丹見に來と文書きおくる
   今日明日に君來まさすば吾庭の牡丹の花の散り過きむかも
   去年君がたびし牡丹も今日已につほみ破れてくれなゐの見ゆ
   足引の山のつどひに君來ずば牛てふ題のうしやさびしや
   藤の歌山吹の歌うたまたうた歌よみ人に吾なりにけり
                      變なことして書く  規
歌に見ば此消息の何年のものなるかは明かならむ、「山のつどひ」とは文章會の事なり、月並といふ詞と「やま」といふ詞とは、子規子の事業に就て、眞個の好紀念詞と云ふべし、例に依て趣味談信仰談を繰返し、甲之常音の兩子は日暮締り去る、五人夜に入つて課題の雪と聲とを詠む、歌數六十餘今三十首を録す、敢て佳作と云ふにあ(286)らず、只人々の流風を見るのみ。
   庭竹の笹の葉末の雪の粉をはら/\散らし三十三才鳴く    里靜
   高殿に酒くみ居り夕されは雪の國原煙立ち立つ
   雪つもる十神の山の山脚を眞黒夜波のはた/\に打つ
   枯木立群れ立つ山の薄闇を聲裂けさけに落ちゆく谷川
   雪晴れの野の大空を高音振り鳴き渡る鶴をふりさけて見つ
   裏山にさゝなく鳥の聲聞きて春待つ歌のこゝたなりつも
   朝かへり乏しくもあるか鯖船のしぐれ漕きぬく艪の音高しも  純
   年飢て人の厩に馬を盗み獄につながゆ泣く兒らを措きて
   夜走りの舟の白帆のほの明み山燒くらしも人聲もすも
   牛飼へる茅場の庵の裏べなる蓮氷《ハスヒ》の田井に雪の積むみゆ
   淺間人馬挽く朝を鴨の毛の雪ちるなして山の灰ふる
   春淺く雪解の野邊に蒼繁き松か根くぼに殘る雪かも
   小夜ふけと夜はふけぬらし文机の暗きランプの音耳に立つ  八風
   八ケ岳吹雪の如く雲立ちて釜無川の風寒きかも
   中空に月かげさえてそき立てる雪の高峯は刃の如し
   ぬば玉の夜風いつしか變りきて窓の障子に雪降りかゝる
(287)   天地のねむりに沈む雪の夜しむかしの聖まのあたり見つ
   新材《アラキ》打つ手斧《テウナ》の音の山里にとよもす音は耳によろしも    蕨眞
   太梁の重みにさかひせび車繩曳くはしに叫びするかも
   山そひの小田のさ夜ふけ灯をつらね人聲のどに春の夜をゆく
   峠過ぎ夕おりくれは靄けぶる小田の小村に湯を呼ぶ聲すも
   釜無の川風寒みそがひ見し甲斐の雪山今も目にあり
   少女等が雪消乏しみ白莖の萌黄の若菜園に採らすも
   小夜ふけに目覺めいぶかるとなり間に人のけはひし頭《ツムリ》掻きかく  左千夫
   人來しと吾は知らぬをこし人は吾ありと知る其物語り
   いねかてに耳澄みくれば庭近く馬がゑば喰む音能く聞ゆ
   明け近くなれるも知るし山越の汽車のとまりに笛呼ばひして
   曉のゆめのふたゝび覺めし時くりやの方に火を吹く音すも
   やり戸繰る音の荒けく足重《アシオモ》に家もゆるぐと踏み立つ女子
                     明治39年3月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(288) 〔『馬醉木』第三卷第三號消息・稟告〕
 
本卷意外に遲刊致し申譯なく候、實は例年の癖にて春先は何時も頭腦惡く、兎角に書物憶苦に相成り、自分にてはやきもき急ぎ居り候ても遲く相成候、尤も四號の原稿は大抵有之候故、四月は早々發行致す考に候 湯本君(菅の山人)足立清知君、何れも壯健凱旋相成候、結城素明君は新婚披露有之候、森田義郎君は病氣の爲郷里松山へ歸省致居候、猶本誌は此三卷三號より別稿の如く、頁數を増加し定價も増し申候、木村秀枝君の好意になる寫眞も今後は必ず毎號掲載可致候、猶次手に申上候は吾々の歌會は、世間より只々六つかしきものゝ樣に思はれ居るやに考へられ候得共、吾々の會は決して六つかしき會には無之候、各向々に趣味上の話を爲し、歌も必ずしも作らねばならぬといふ譯もなく、興味の間に自然に修養を得るつもりに致居候故、志ある人は遠慮なく御來遊被下度候、吾々會合者に前輩もなく後輩もなく候、十九日會もなか/\面白く候、餘り話が多く相成候爲め、遂に記事も出來なき位に候も是又御來遊被下度候早々
 
     稟告
 
一、足立君歡迎歌會
 當日は、日露戦役中帝國歌壇に光彩放たれたる佳什を、本誌に連載せられし、足立清知君の凱旋を迎へ、聊か(289)祝賀の意を表し併て同君の絶快なる實話を聽むが爲め、左の畧規を以て開會致し候
一、四月八日午後一時より
一、本誌發行所に開く
一、會費金三十錢
一、日本酒、朝鮮飯、支那汁、ロシヤ揚の坐食あり
                     明治39年3月『馬醉木』
                        署名   なし
 
(290) 〔「驢耳弾琴集」附記〕
 
 〔石原純の歌略〕
左千夫いふ、今後の歌壇は如何に向上の發展を逐ぐべきか、思ふに是刻下の問題なり、以上純氏の諸作に就ては予は未だ完全を認めざるも、氏が深く考ふる處あるの作たるを認むるに足れり、讀者願くは作者の精神に鑑みるところあらんことを、
                     明治39年5月『馬醉木』
 
(291) 〔『馬醉木』第三卷第四號選歌評〕
 
(今回は課題の分の投稿少なかりし故に茲に纏めて選みたり、諸君の諒恕を乞ふ)
     歳晩の歌            古屋夢拙
   提灯を袖深にもち籾はかる俵のはたに足組み立つも(小作取立)
   女はあれど下部男の數をなみ俵かつきうる男無きかも(傭僕)
評云、右要するに事件の報告即雜報的にして何等詩美の感なし、寫生趣味の誤解に基づく弊たるを免れず
     詩經を讀む           不言舍
   吾味子が解洗衣干し居りと垣の緋桃にうぐひすの鳴く(葛※[潭の旁])
   春の野につみうはぎの和物をうましうからとくふがたのしも(※[草がんむり/不]苣)
評云、如斯作意は勉めて飜譯に陷らざらむを要す
 
       あさは會(信濃島内村)
 
     春の野外            河野源吾
   はしけやしくわし少女等川のべにつどひ居り見ゆ根芹摘むらし
(292)   春淺み花はなけども新草のもえ出づに野邊を行くがたのしも
   城山の松の木の間ゆ見さくれば淺羽の野良はかすみ渡れり
   犬飼の丘びに立ちて見のよけき青島野邊は柳青みぬ
   ゆた/\に南流るゝ大川や柳みどりに雪にごりせり
左千夫いふ、着想平凡なれども音調自然にして一讀朗快を感ず
                     明治39年5月『馬醉木』
 
(293) 〔『馬醉木』第三卷第四號稟告〕
 
一、六月短歌會は、第二日曜日即六月十日午後一時より京橋匠築地二ノ二十五籾山方に開く、會費は辨當料實費。
一、十九日會は、例の日例に依て發行所にあり釜など見んとするものは主人最も歡迎す。
 
     滿三年紀念號豫告
 
次號の第三卷第五號は、本誌發行滿三年の初號に相當せるに依り、紙數増倍の紀念號を發行す、插繪は結城素明氏の染筆にかゝる穩健なる色彩畫を入る、其外木村秀枝氏寫故正岡先生藤の畫、漁村網引の寫眞等を入る、同人作物は、小説新躰詩寫生文長短歌の競作を掲ぐ、其他は例の如く萬葉新釋茶の湯の手帳等、六月中に必ず發刊す、諸君又奮て寄稿あらんことを望む。
                     明治39年5月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(294) 批評家の態度を論じて高島米蜂に與ふ
 
五月の『新佛教』に於て君が『破戒』を讀むの一文は、僕の敬服措かざるところに候。僕は第一に、貴評の態度を、無上に悦び候。今日の文壇に於て、批評の筆を採るもの、皆悉く解つて居る態度を以てやられるので、いつでもうんざりするが、人間は、さう何もかも解るべき筈のものでないのに、專門以外の人が、直に專門家以上に立つて、かれこれいふのが、今の評家の常であつて、あれが解らぬ證據に候。解つて居る人ならは、何もかも呑 込んで居る樣な物言ひは出來ない、自分にどれだけ解つて居るかといふことも解らぬ人に、何が解るべき。根よく騷ぐ人が勝を占める世の中とはいへ、苦々しい有樣に候。今君が『破戒』に對する批評は、全然素人の位置に立つて、無我の態度を採られたるが、何より嬉しく候。詞柔かにして理義は明確、利刀ズイキを切るの感有之、實に痛快に候。貴評の如き態度を以て、自己の悉知せる範圍内に於て、的確明裁の批評に對しては、何人も、一言たりとも加ふることが出來まじく、相手たる人にとつては、實に動きはとれ不申候。如何なる場合にも、批評はかくありたく候。今日文壇の大弊は、作者も評者も、よい加減な事をかくに有之候。よい加減な事をいふ底裏に、責任などいふ感念は、寸分も無之候。今日の文士學者、口を開けば責任を云々すれど、よい加減の事を書かぬ文士學士は、容易に見當り不申候。
質は小生は、未だ『破戒』を買ひ不申候へども、知人が傑作など申すのみならず、三年間苦心の作と聞いて明治(295)文壇のために、窃に嬉しく思ひ居候處、貴評を見て、全く失望致し候。
藤村といふ人、技倆は兎に角極めて眞面目なる人と聞きしに、例のよい加減な事を書きしにやと、悲しく相成候。能くは調らべもせず、能くも知らぬ事を、よい加減に書くは、ごまかしに候。欺瞞に候。それも道徳上の事ならねば、必ず事實通りでなければならぬ事はなく候へども、ごまかしのよい加減に、實情の顯はるべき所以無之候。お伽話ならなそれでよろしく候も、文學はそれではならず候。縱令、五百頁の他の部分にどれだけ價値があるとも、貴評にいふ如きごまかしがあれば駄目と存候。世の中の物、何物も完全を要求致し候へども、詩ほど完全を要求するものは無之候。孔子も、詩音、一言以て之を掩へば、思ひ邪なしと云へる如く、一點の汚濁があれば、詩は駄目に候。小説をお伽話のませた物位に見て置くならば仔細はなく候へども、小説を純文學と見る以上は、一點のごまかしを容し不申候。一斗の芳醇も、一滴の石油が混じ候はゞ、全部價値を失ひ可申候。石油の一滴二滴は、我慢が出來るといふものあらば、これは餘程飢えた人か、さもなくば最下等な人間に限る事に候。貴評は、飽迄謙遜の態を持して、これしきの事は五百頁の大作の疵にはならぬと申され候へども、それは只御謙遜の辭と存候。
今の文士、坪内逍遥などでさへ、知りもせぬことをよい加減に書き候。藤村咎むるに足らずと云はゞ、矢張藤村の價値もなくなり申候。今の世人は、無造作に、眞摯とか熱誠とかいふ詞を振りまはし候へども、其眞摯とか熱誠とかいふことを、如何なる意義に解し居るにやと怪まれ候。今の文士は、佳作を作らんとするの念よりは、賣れるものを作らんとするの念が強き樣に候。從つてごまかすといふことが、作者の技倆の一つになり居るかと思はれ候。誠にいやな世の中に候。眞面目を以て詐され、熱心を以て許されたる藤村の作に、貴評にいふ如きごま(296)かしがあるとは實に情なく候。大業に申す樣なれど、文壇のために殘念に存候。
又惡口といはれるかも知れねど、次手に候へば、一言小生の疳癇を申上度候。そは貴評の態度の、極めて公明なるに比して、頗る遺憾に思はれ候故に候。前々號に於ける境野君の、現時の精神界に對する議論中、見神だの見佛だの救世主だのと、自稱する人々に、痛棒を與へたるは、小生等も、愉快に一讀致し、其論旨に敬服致し候へども、其一度文學の事に及ぶや、然かも無造作に、「日本の古文學は淺薄であります云々」と有之、實に情なく相成候。小生等も、境野君に、相當なる文學解あるだけは認め申候。乍併、境野君は、何を恃みに、如此傲然たる態度をなされ候にや、日本古文學或は淺薄の點あらんも、境野君が云はるゝ如き理由を以て、淺薄を認め不申候。況や、日本古文學と申せば、二千年間の作物、さう無造作に論斷し得べきものに候や。文学に就ては、門外者たる境野君が、餘りに輕率なる態度に候はずや。境野君は、高山林次郎氏の日蓮論を淺薄なりと云はれ候時、自己の文學論が、餘りに輕薄なるに氣づかざりしかを怪しみ候。小生は議論のよし惡より先に、先づ其人の態度に遺憾なからんを望むの念強く候。小生が先に諸君の席末を汚すに當りても、何處までも信徒の位置にあらんと覺悟せるも、其精神に外ならず候。されど、漫りに自己を以て他を律せんとする譯には候はず、境野君にして、文學上指導的態度に出でんとせらるゝならば、それに相當せる實行を先にせんことを望み候。露骨の意、甚だ失敬なれど、思ふこと包み居るは、却て知人に背く次第なれは、筆のついでに如此に御座候。不悉々々。
                     明治39年6月『新佛教』
                      署名 伊藤左千夫
 
(297) 反省の※[口+斗]び
 
世の中には自己の不明を頗みるの念に乏しく、自己の解せざるものを直に價値なきものゝ如く妄斷して恥ぢざるものが多い、
自己の肉體が不健全に陷つて居るを悟らず、妄りに飲食物其物の味なきを罵るは、全く反省心といふものゝ無い狂痴のことである、人間は自己の不健全を悟り得ざるに至つて、萬事即止む、眞に憐むべきは反省心の喪失者である、
自己の確立は人生問題の根本なることを悟れ、自己に何程の研究がある、何程の經驗がある、而して自己が何れだけの事を爲し得るかを反省すべきが、人間の社會に立つ發程の第一の用意でなけれはならぬ、
人を教えて人を賢にせんよりは、自ら學んで自ら賢にするの最先問題たるを忘れてはならぬ、反省心のない人は自己自づからを疎にする人と云はねばならぬ、反省心なき人に謙虚の徳があらうか謙虚の徳なき人に向上の道があらうか、吾は神の子なり、吾は救世主なりと、自ら名乗る人の輩出するに至て世は滑稽の觀を極む、人間恐るべきは反省心の喪失である。
                      明治39年7月『馬醉木』
                       署名   四碧生
 
(298) 〔三井甲之「「あやめ草」をよむ」附記〕
 
左千夫いふ、西洋の眞似をせねばならぬとは如何なる心にや、詩作の稽古といふならば兎に角眞似た作物に詩の價値はない。
                     明治39年7月『馬醉木』
(299) 〔『馬醉木』第三卷第五號消息〕
 
 拜啓明治三十六年六月、始めて新芽を發し候吾『馬醉木』の誌齢も、茲に本月を以て滿三年に相成候間、同人相慶して聊か紀念の章を遺さんと本號を發刊致候次第に御座候、顧みて以上三年間に於ける『馬醉木』の活動はと見れば、眞に汗背に堪へざるもの多く候得共、詞壇を擧げて名利に狂奔し製作の眞價を俗界の批判に待ち、文業の成功は一般社會に買はるゝに有るかの如く思ふの風は蕩々として全文士を支配せんとするの、汚氣濁潮以外に立てる、吾『馬醉木』の場屋は、狹少と云ふと雖も、常に涓滴の清靈を保ち、能く存在の意義を誤らざりし點に於て、深く自ら慰むるに足るものありと信じ申候。
 世論多くは懲露の武勲を激揚し、此際に於ける文業の競はざるを侮蔑致し候得共、吾『馬醉木』は昂々として其愚論を排斥致し候、何となれば武勲と文業とは根本に於て、其意義を異に致し候故にて候、伯夷叔齊は餓死し屈原は水死す、凡俗の徒は以て失敗の極とせんも、文業の成功如何に大なりしかは敢て論ずるまでもなく候はずや、神皇々后豐太閤の外征、偉は固より偉に相違なきも、之を萬葉集の存在に比して何人と雖も輕重の判斷に迷ひ申すべく候、凡俗の眼を以てせば、吾『馬醉木』の事業の如きは、只夫れ蒼海の一粟に過ざるべく、乍併固より毫末も俗衆に求むる處なき、吾人の態度は固く識者の判定に安じて、一道の清靈を無究に傳ふるの覺悟に外ならず候。
(300) 驕慢の汚醜は固より絶對に排斥致し候得共、詩人の自重は、至大絶高ならむことを希望致し候、詩人の詩を爲すや造物神の資格に於てすべく、一切萬有の上に超絶致し何等の拘束も何等の制裁も無之候。
 眞詩人の上には責任といふもの一切無之義務といふもの一切無之候、されば詩人は一切俗衆に求むるところなきも、詩人を出さゞるは社會の罪にて詩人を容れざるも又社會の罪に候、何となれば詩人を有せざる社會は劣等の社會たるを免れざるの故にて候、詩人は直接には社會に用なきものなれども、詩人をして無用のものたらしむる社會は劣等の社會に候、詩人には疑ひなく迷ひなく、自己の悦ぶところを美とし、自己の惡むところを醜とし、放縱自在にして天なく地なく、罪惡も業報も及ぶことなく候。
 詩人が造物神の本能を行ふに當つては、萬有界に自己以上のものを認め申さず候、神の命令と雖も自己の意に反して詩を作り申さず、帝者の求めと雖も勿論自己の意に違ふて詩を作り申さず、詩人は只自己が詩を作らんと思ふ心の起りたる時にのみ詩を作り申すべく候、詩は自己の計らひを以てすら、作るべからざるものに候 況や外物の意に應じて作るなど思ひもよらぬ事に候、詩人は只自己の意志に依てのみ動き得るものに候。
 斯く申さば詩人は頗る勇猛なる如く思はれ申すべく候も、詩人は俗界の勢力に對しては又何等の力あるものに無之、俗界の勢力を以てせば、詩人を殺すは蚊を殺すよりも易く、詩人を逐ふは蠅を逐ふよりも無造作なるものに候、それ故にこそ詩人に就ての一切の責任は社會に存する譯なれと存候。
 されば『馬醉木』の運命も勿論詩人の運命と同じかるべく、只詩を作らんとの思想湧きたる時に詩を作り居らばそれにてよろしかるべく、詩を作るに何等社會目的なき如く、『馬醉木』の發行にも何等社會的の目的は無之候、それ以外に考といふものあるなく、縁あれば就き縁なければ離る、強て人を集むるの要を認めず、強て社會に賣(301)れむを欲するの要もなし、外觀の變化を次にし内面の活動を望むは吾『馬醉木』の本領とする處に候、近頃『馬醉木』の將來に就て種々の説あるを聞き候間、餘白を假りて一書を讀者諸君に呈候、猶本號を刊するに際し中村不折君結城素明君木村秀枝君坂本桂治君外千葉縣の某君等に對し謹而御厚志を感謝仕候九拜。
  明治三十九年七月十日             左千夫記
                        明治39年7月『馬醉木』
 
(302) 〔『馬醉木』第三卷第五號會報・豫告〕
 
     會報
 
△、七月、八月、の兩月は歌會を休む
△、八月一ケ月十九日會を休む
△、九月歌會は左の通り開會す
 九月九日即第二日曜の午後一時より、上根岸八十二子規居士舊廬に於て、會費二十五餞
 
     豫告
 
△、次號即第六號は九月五日に發刊す、以降毎月五日の發刊を勵す、
△、左千夫の萬葉新釋茶の湯の手帳等、原稿充溢の爲め次號へ廻せり
△、猶萬葉新釋は、近々の内に一の卷を完結し長歌の解を加へて、取敢ず發刊を開始し、築地二丁目二十五俳書堂より出版す。
                     明治39年7月『馬醉木』
                      署名    なし
 
(303) 青年の煩悶と詩趣
 
     (蓼科山の奥より)
 
一書を新佛教に呈し候、斯號の誌上に何か書くべき約束をした樣に心就き、俄に氣になりかけ申候、現時の學生諸子の所謂煩悶と云ふことに對して、少しく思ふ處なきにあらねど、柄になき小生等の理窟などは、到底嶽生諸子の煩悶に慰藉を與ふるに足らざるべく候へば、左樣な先覺者めきたる事は止め申べきか、乍併今天苑の秋風花樣を傳ふるに先だち聊か冷風一陣的信書を寄せ申度候。小生は嶽生諸子の煩悶といふ事に對し、深く同情を寄せつゝあるものに候へども、又頗る氣の毒に感じ居る一人にて候、今日の所謂煩悶といふものゝ性質に就ては、前號の誌上に黄洋子の所説其意を盡され候へども、今日の嶽生諸子の煩悶は今少し時代的の意味を伴ひ居らずやと存候。
何れの世に於ても何人に於ても、青年たる人の必ず一度逢着すべき性質のものならば、所謂煩悶は黄洋子の謂はるゝ如く、時代的問題として重視すべきものには無之候はんが、小生の考は今少しく所謂煩悶といふものを重視致し候、今時の世運と頗る密接の關係を有し、必然伴ひ來るべき特發的問題なるべくと存候。
交通の便利出版の發達教育の普及(智識的)物質的文明の偏重等、是等の諸現象は、血氣熾なる全国の青年を衝動(304)し、社會的智識の暴進となり物質的欲望の興奮となり、猛烈なる勢を以て青年性格の偏重を來し、人格道徳情操等に對する諸念は、殆ど心中に屏息し、熱進急奔萬人一轍の目的に趣く、農夫は農夫に安ぜず商工は商工に安ぜず、相牽て同種の欲念に驅らる、學生の盛なる實に今日の如きは嘗て聞かざる所に候はずや、古昔の學生は學藝に遊ぶと云へり、今の學生は學藝を以て生活的欲望を達する唯一の方便となす、這間萬樣の病弊を釀し來るは毫も怪むに足らざる次第に候。
學生諸子の欲望と用意とは、殆ど萬人同一なるに係らず、社會の人を要求するや、漸く智識學藝を偏重するの時期を經過し、現時の社會は容易に學生諸子の單純なる欲望に滿足を與へず、加之社會内面の腐敗は比較的正直なる學生諸子に對して頗る同情的門戸を開くを惜む。
以上の如き諸現象が、今日の所謂煩悶なる叫びの依て起れる原因にあらざるか、故に眼前の状況より見れば、學生煩悶の叫びは必然起るべき時代自然の發動と云ふの外なく候、血氣に富める青年諸子が、時代的諸現象の衝動を蒙り、遂に今日の煩悶場裏に住するに至れるは、眞に同情に堪ざるもの有之候へども、諸子も又自ら顧みて當初の分別を誤り聊か思慮を缺けるの輕擧を悔いざるべからず、先づ反省の體度に出づる根本的解決なく、徒らに或は社會の組織を難じ、或は人生を悲観し、人をも併せて之を惡み、結果極端なる行爲に出づるが如きは、最も諸子の爲に取らざる所に御座候。
天地の大道は飽迄公平不偏なるべきを大悟し神を信じ人を重じ、根本的自己の確立を期し、而して後徐に社會に求むる所あらば、社會は決して學藝あり智識ある諸子を冷遇せざるべし。
天下の學生諸子今や煩悶苦腦の結果、或は宗教に趣き或は哲學に走り或は社會主義に投ず、然かも諸子容易に煩(305)悶の聲を絶たざるは何ぞや、宗教哲學社會主義が未だ容易に諸氏の煩悶を慰藉せざるは何ぞや。小生の見を以てせば、諸子が先づ第一着に有し居るべき、自己の用意に缺くる處あるが故と存候、自己の用意とは何ぞ、根本的自己の確立即是なり。自己が人間として、果して如何なる發達と完成とを遂げ居るや否やを反省し、これに對する修養と補給の道とを自覺したる時に、諸子は初て自己の確立を感ずるを得べし、而して後に諸子は其趣かんとする處に趣くべし、然らば諸子は必ずや、至る處に至大なる吸収力を以て、人生修養の養分たる所有材料を自己に吸集し得るや疑なく候、宗教固より可、哲學固より可、文學大に可、社會主義更に碍なしに候、美食は腸胃の健全を根本とす、材料如何に鮮良なるも料理如何に巧妙なるも、腸胃不健全者に到底美食の満足を與ふること能はざる如く、自己の確立なき人に對しては、如何なる文學宗教哲學と雖も滿足なる慰藉を與へるものに無之候。自己の不完全を反省するの念なくして漫りに宗教哲學等にのみたよりて慰安を得んとするの結果は、其思ふが如く慰安を得ざるに及び、却て失望に陷り懷疑に陷り愈煩悶を多くして遂に淺薄なる妄斷を下し或は宗教を侮り哲學を輕ずるに至るもの多きが如し、如斯は佛者の所謂濟度すべからざるものにて候。
之を要するに人生の煩悶とは幸福と慰安とを求めて得る能はざるより起るものに外ならず候、之を云ひ換ふれば、人生内面の枯涸即精神生活の窮乏より起る叫びに候。
今の學生諸子にして、一度人生の幸福慰安は必ずしも物質的滿足にのみ依て得らるべきにあらざるを悟り、精神生活上に窮乏を脱するの用意に勉めば、萬人同一なる社會的欲望に狂奔し、相競ひ相排して人生是苦と叫ぶの悲境より、無造作に超脱し得ることゝ存候、一箪の食一瓢の飲陋巷に有り回や其樂みを改めず賢なる哉回と云はれたるも、只夫れ顔回や能く物を解し理に通ず 故に常に内面豐潤にして精神生活の富滿なるを云へるに候はずや、(306)小生常に思ふ、悟りとは物を知るの意にあらず、物を解するの謂なり、物を解するとは物其物の趣味を味ひ得るの云ひなり、天地間の所有物に其趣味を解得せば、天下如何なる所にか快樂と慰安となからん、されば悟りとは人生最も幸福なる境涯に住し得るの云ひなり、煩悶境裏の學生諸子幸に物質界の苦境を脱却して、内面的蓄積を計り精神生活の富者たらんと勉めよ、要するところ煩悶苦惱は下界凡俗のことなり。
諸君願くは速かに物質的肉體的なる下界凡俗の境涯を脱し、趣味の一道より進で觀察の見地に立て、而して先づ自己が如何なる物體なるかを觀察して見よ自己が如何なる人間なるかを觀察して見よ、必ずやそこに大に得るところあるべく、茲に人間といふものゝ頗る興味あるものなることを悟り得て更に世上所有種類の人間に對する觀察を試よ、富貴顯榮の徒卑賤罪囚の徒と共に等しく趣味眼中の觀察材料たるに過ざるを發見せん、河海山嶽鳥獣草木何物か顯察の材料たらざる、詩眼漸く高く見地人間以外に立つの境に住するに至らば、天上天下所有有象無象の物悉く吾に快樂を與ふの料ならざることなけむ、所謂人間の煩悶なるものと雖も詩的觀察者の眼に入らば、又好個の趣味材料たらんなり。
諸君余を以て徒に高言放論すと爲す勿れ、目を閉て考ふるの人は凡智を頼むの人なり、宇宙に滿つる神の惠みを視ずして、徒に人間の凡智に考ふ、究塞して煩悶に陷るもの固より當然のことなり、宇宙の萬物悉く趣味を偶するは即神の惠みの大なるを知るべく、神は一切平等に人間に快樂の材料を與へつゝあれども、欲念熾盛の人間は虚心に物を見るの餘裕を有せざれば、宇宙の萬物何物に對しても愉快を感ずること能はざるなり、繪畫を解せざる人に對しては如何なる妙畫と雖も其趣味を感ぜしむること能はざるごとく、事物の趣味を解せざる衆生には神も其惠みを餘ふること能はざるなり、廣大なる世界に穴居の思をなし、歡樂充滿せる社會に煩悶苦惱しつゝある(307)人々は、自ら神に背き神の惠みを排拒せるに同じからずや、人は美術の尊きを知れども美術を解するは少し、天地萬物の大を知らざるものはあらざるも、天地萬物の趣味を解するものは少し、理窟的に考ふる人は多くして趣味的に觀察するものは少し。
能く神の惠みを感知し趣味に住するの悟を得ずば、人間は永劫に煩悶を出づること能はざるべし。
諸君余は再び茲に諸君に告げむ、煩悶苦惱は到底下界凡俗の事なり、人間としては未だ完全せざる人間の事なりと。或は云ふ今の學生煩悶の聲は生活問題に關すること多しと、余は大に疑ひなき能はず、生活問題固より煩悶の一因たるに相違なからむ、然れども單に生活問題と云へば頗る單純なるごとく聞ゆれども、生活問題にも幾重の階級を存す、一日一人二十錢にても滿足せば滿足し得べし、五十錢にても滿足せずとせば滿足せられざるべし、若夫れ凡俗的欲念に節制するなくんば、縱令生活問題に普通の滿足を得たりとするも、容易に煩悶を脱すること能はざるは明なり、煩悶が貧困者の專有にあらざるに見るも、生活問題が煩悶の重要なる原因にあらざるを知らむ。
知識に伴ふ欲念の作用、余の煩悶に對する見解は到底此一語を出でざれば、余は知識より來る問題を以て解決せんとし、欲念より來る問題を欲念の滿足に依て解決せんとするは、火を以て火を救ひ、水を以て水を救ふに等しからんと信ぜざるを得ず。人悉く詩人たる能はざるは勿論なれども、相當の用意だにあらば、詩趣を解するは難からず、一般人が何等の愉快をも感ぜざる場合に於ても詩趣を解するものは、深き興味を感ずることあるを常とす、人間の幸福とは最も多き最も高き愉快を有するにありとせば詩趣を解するものは人間の最も幸福なるものと云ふべきか、詩を知らざるものは人に非ずとは聖人の至言なれども、今世に於て詩を知らざるは普通人の常なり、(308)聖人今日に出でば必ず云はむ、詩を知る者は最も人間の幸福なるものなりと。
固より教育ある學生諸君、速に欲念を變轉して凡俗的煩悶に苦むの境涯を超脱するの工風を立てよ、衣食足りて而して後に詩を樂まんといふが如きは、根本に詩を誤解せる俗流の言なり、最早理窟は止め可申候。
山深けれは秋早く、雲おさまりて氣清し 麓の尾の上には秋草千種花の原、數里に渡る大花園は、人間の預り知らざる天作地成のものなり、水の音遠く鳥の聲幽かに聞ゆれども固より花園の内を離れず、顧みれば下界の人郷は只一抹の濛氣に包まる、八ツケ嶽横嶽蓼科山等遠近相雍して此天苑を守る、一人何者の驕兒ぞ、今朝より茲に傲嘯散策肆に天苑を領して、群る芳艶に腰下をまとはせ、兩袖又花に委して露を厭はず、花、人言を解するか、人、花意を了せるか、相悦び相樂むの状は、さながら百年離れ難きの風あり、而して山神敢て咎めず河伯敢て妬まず、思ふに是れ人間の子にあらざるか、徘徊顧望忽にして遠く去り忽にして又歸り來る。わが肉むらの重きを知らざるものゝ如く然り、行雲時に止まる彼又石に踞して低唱す、其唱にいふ。
   花苑廣くして山近く見ゆ、
   雲たゝよふあたり水響あり、
   吾歌ふ聲も又自然にかなふ、
   來往人間の心は消えぬ、
   一日の樂み百年の思ひ、
   百年一日われ其差を知らず、
   只百年一日の如き人を憐む。
(309)
   山や水や花の原や、
   けふの音容けふのまゝに、
   わが悦びもとこしへなれ、
   常なき世にして常あるねがひ、
   みどりの空のいやながに、
   心に寫れる今日を守りて、
   時しく茲にけふに遊ばむ。
   人は變化を喜びて變化に泣く、
   變化は人の執着より起る、
   あはれ生涯執着の絶さる人、
   我執に苦み我執に終はれ、
   我執の人は神も教へず、
   止みなむ止みなむ人間の事。
   花やもろ/\風動く、
(310)   舞へや花むら風のむた、
   おのがしゝなる振を舞へ、
   あな面白の袋舞ひ、
   ほたる袋の花ふくろ、
   ふくらふくらに舞ひゆらぐ、
   あな面白や花のまひ、
   吾もまはなむ吾も舞はなむ。
聲は風に傳はれば、花苑は聲に和してどよめり、或は強く或は弱く、或は昂り或はさがり、花と人と風と聲と、自然に成れる歌舞の場、驍兒の何者なるかを問ふに及ばずして日は暮れぬ、人と花苑と早く物色すべからずになりて、水の音のみさう/\として、下界に落つる響を傳ふ。       早々頓首。
                    明治39年10月『新佛教』
                      署名   左千夫
 
(311) 吾崇拜する子規子
 
吾崇拜する子規子は、吾視たる子規子吾知りたる子規子である、他人の視た子規子他人の知つた子規子ではない、歴史上の子規子事實上の子規子をいふは第三者に任せる、吾視た子規子は圓滿無垢の子規子である、光明赫灼たる子規子である、兎の毛羊の毛の先程も汚點のない子規子である、他人の知つた子規子が如何樣で有とも、それに何等の關係もない、吾盲從せんとする子規子は即吾子規子で、決して他人の子規子ではない、子規子に盲從するとは自己に盲從すると云ふのと同じである、子規子を研究せんなどいふは、思ふに子規子に眞似んとするものにあらざれば、子規子の欠點云々を揚言して自ら高ぶらんとするに過ぎぬのであらふ、崇拜するとも崇拜せぬともそは人々の随意に從ふべきである、花を面白いといふも面白くないといふも人々の好み次第に任すべきである、一切人に交渉を及ぼす必要のないものである、只夫れ光明に接して光明を感受し得ざるは、自己に光明を感受し得べき主觀的の眼を有せぬからであるといふことを忘れてはならぬ、美味を食して美味を感受し得ざるは、腸胃完全ならざるに依ると同じである、自己の不完全を悟らずして、漫に自己の好惡に依て、他を云々せんとするもの程厄介なものはない、子規子を云々せんとする前に、先づ自己が如何なる人間なるかを顧みよ、俗氣とは人間に云はるべきことである、自然の物は牛糞馬糞猶趣味を存するではないか、宇宙間何物か趣味なからむである、自然の物に俗氣を感ずといふものあらば、そは直に自己に俗氣あることを證するのである、自己に經驗修養もな(312)き事柄に對して、無遠慮なる高言を吐くもの、要するに俗氣去り難き人間に限ることである、人間一度反省心を失へば何者を見るとも、其眞を感受し得るものでない、丙午九月於挾竹桃書屋左千夫記
                     明治39年10月『馬醉木』
 
(313) 〔『馬醉木』第三卷第六號歌會記事〕
 
     九月歌會
 
竹乃里人先生五週年忌の月なれば、根岸の舊廬に會す、當日は差合ふ事もやとて月の九日と定めぬ、例に依り蕨眞上總より來る、予と相携て根岸に至れるは晝過ぎて二時といふ頃なり、次で三井甲之來る石原純來る、最も後て鈴木葯房來る、母堂まめ/\しく用意調へ給ふ、庄兵衛の釜陳元※[(文+武)/貝]の茶碗木皮の炭取など、取揃へられたれば、有りし世の事切に偲れて尊とし、庭の草木も心あれや。「臥して見る秋海棠の梢哉」と吟じ給ひけむ、それもまどひの内を漏れざりけり、糸瓜の棚は跡を絶ち、大鳥籠も取片けて今はなし、去歳の暮には寒花三輪を見きといふ冬牡丹の徒に莖延たるも語りくさの一つになむ、かき曇れる空合いつしか小雨降りいでし淋しさ、人數少なければ、物靜かに人々心ゆくさまに打語らふ、とりどりに詠み置ける歌ども書き記せば。
   秋野の花のやち草率ゐつ1霧らへるに立つかまつかの花    純
   新秋の月はともしもおく露の八千よそはしめ花野に敷けり
   去歳なりし秋の騷ぎの戒嚴《イマシメ》に花野うらぶれ行きしこと思ふ
   くれ竹の根岸の里に秋毎に咲くしなづかし秋海棠の花     甲之
(314)   咲く花も乏しき庭のかたすみの推の木蔭のゆふべ淋しも
   風もなき秋の夕べを※[奚+隹]頭の花のしづくの落つるを見居り
   ころ/\とこほろき鳴くも萩叢の散る露珠にあえつゝ鳴くも   葯房
   青麻の薄蚊帳とほり照る月の光たゞよふ吾枕邊に
   五月雨に似たる空よりほとゝぎす鳴きも來ぬかも秋霧のうちに
     予は本誌の課題合歡木を詠む              左千夫
   秋立つと未だいはなくに我宿の合歡木はしどろに老にけるかも
   秋の色に老し合歡木の葉しかすかになほ霄々に眉作るあはれ
   庭の木のさびれ合歡木の葉しひだぐる風ものものし荒れ來るらんか
   此ゆふべ合歡木のされ葉に蜘蛛の子の巣がくもあはれ秋さびにけり
                      明治39年10月『馬醉木』
                        署名  左千夫記
 
(315) 八面歌論
 
近來予の作歌に就て四方より非難の聲を聞くが、予は寧ろ一種の愉快を感ずるのである、非難の聲に愉快を感ずると云へば、頗る負惜みに類すれど、人と同じ方向に歩けば非難は起らぬ、非難の起るのは人と同じ樣に歩るかないからである、水に逆らう物がなければ波は立たない、波の立つのは水の平行に逆らうものがあるからである、予の作歌が衆人の平行に逆らうたのであらう、予は自覺的に常則だの習慣だの歴史だのいふ、文學上の人爲的拘束以外に逸せんと考へて居るから、自然他と平行を得られないことになつた、自覺的行動が事實に現はれた點に愉快を感じた譯である、
乍併予は決して自我に執着して、殊更に他と平行を嫌ふのではない、常則習慣歴史を悉く排し去らんといふが如き考を以て居るものではない、衆との平行も惡くはないが、適には平行に逆らうものも無ければならぬと思ふのである、習慣常則歴史もよいが、それ等に頓着せぬ、寧ろそれ等以外の物の出でんことを強烈に希望するといふまでゞある、予の作歌の如きは、まだまだ迚てもそんな處へ出ては居ない、然かも早く非難の聲を聞く 一言の止むなき所以である、云ふまでもなく文學美術は個性的のものである、詩的個性が作物の上に現顯したもの、之を文學と云ひ美術といふのである、されば眞に文學芙術の發展を望まば詩的個性の修養と其作物的現顯とを根本とせねばならぬ、個性(316)の顯はれない作物は細工物で拵物である、模倣しては個性が現はれない、法式に拘泥しては個性が現はれない、否現はれ樣がないのである、常則習慣歴史等の拘束が多ければ多いだけ、作物の上に個性が消滅する、後世の文學美術が稍もすると、小細工に陷り拵物になつて、小さな玩弄的作物ばかり多いのは、師を以て自任する人々が教育法的の拘束をのみ八かましく云ふて個性の發動を抑壓した結果である、
歌はかうあるべきものであるとか、かう作らねばならぬとか、全體文擧はかういふものであるからそんなものは歌でないとか、これでは俳句だこれでは歌でないとか、其體を得ないとかいふ樣なる極て覺束なき一個人の私見的無形の法則を云々する樣では、到底活た作物は出來ない、自己の歌を人に支配されて、自分の歌を人のいふ形にはめて、それでどうして自己を發揮することが出來るか、自己といふ詩的靈性が發揮されない作物は桶笊と同じである、法則に從つて作つたものは口眞似である手眞似である、今の世の中に如何程口眞似手眞似の文學が多いか、口眞似手眞似の作物に詩的靈性が宿る位ならば、泥棒にも高利貸にも歌が作れることになる、そんな理窟があつて溜るものでない、要する處法則の拘束を受けたり或は名聞の爲め或は利欲の爲めに、個性を失ふて拵へ上げた作物は、之を物質的言語物質的文學といふが適當である、毎日毎月幾百の新聞雜誌が、此物質的言語物質的文學を文學であるかの樣に掲げてある世の中である、これが明治の文壇といふ情ない文壇である、
原來文學といふものは、或物を或は情趣でも情緒でも又は天然現象でも、それ等を描寫し紹介し敷演し若くは解釋説明したものではない、絶對に根本に新なるべき物で、生れるもの湧くものでなければならない、換言すれば拵物でないといふに同じである、
予が常に詩人を造物者であるといふのも此意味に於てゞある、宇宙間に新たに物を造るもの造物者と詩人許りで(317)ある、生れて見ない間は男か女か親にも判らぬが生まれるといふもので、如何なる歌が出來るか作者にも判らぬのが文學の生れといふのである、生れない先から形を拵て置て、形の通りに生れてこいと注文するの不合理なことは云ふまでもない、常に習慣に支配されつゝある多くの世人は、自己が習慣に支配されつゝあることを忘れて、少しく習慣に違ふものを見ると驚異するのである、併しこれ到底凡衆の見である、凡衆の見を以て放縱なる詩人を評せんとする 間違切つて居ると云はねばならぬ、詩的個性の修養もなく、製作能力も備らぬ後進の人が思ふまゝを無造作に歌に作つてもそれは物にはなるまい、未だ詩人の資格を得ぬ人が直ちに詩人の態度をしてもそれは無理であらふ、價値の低い個性は作物に現はれても價値が低いからである、乍去或程度に達した人々に對しては、予は飽までも放縱に大膽に無造作に歌を生み出さんことを勸めるのである、無造作に作つて價値ある作物の出るやうでなければいけない、無造作に作つたものでなけれは、其人の特色其人の自然が躍つて來ない、出來上つて面白くなかつたらば捨てるまでの事である、
人が何程非難しても、自分に面白ければよろしい、自分に安心が出來れば、搆はない、これは我執ではない、我執と安心とは根本が違ふ、我執では安心が出來るものでない、檻を出た馬のやうに籠を離れた鳥のやうに、力の限り驅け廻つて飛び廻つて見たいが予の願である、予の作歌の善惡は別として、精神は以上の通りである、隱居樣的お孃樣的見物人が、いくら驚いたつてそれは頓着せんつもりである、
吾産んだ歌は吾が愛さねばならぬ、讀者は或は迷惑かも知れないが、今少し吾歌の愛護を許して貰ひたい、前々號の拙歌、「菜の春の一夜雨降り云々」の歌の、「菜の春」といふ詞に就て俳書堂歌會の節猛烈な議論があつた、石原氏を除く外皆反對された紀念號に於ける、石原三井兩氏の議論もこれに基因して居る、かうなつては作者(318)たる予も一言せねばならぬ、予は全體これ許りの事に熱論の湧いた主因を疑ふのである、馬醉木近來の傾向などゝ大業に云ふのが解らない、予は固とそれほど考て作つた詞ではない、例の無造作に出て來た詞なのである、「菜の春」とは概叙でもなければ説明でもない、石原氏の云ふ樣に「菜の咲く春」といふても違ふ、「菜の咲く春」と云へば稍説明に近い、菜の春は薬の咲く春ではなく、菜の春と感じたから直に菜の春と云ふたまでゞある、説明して云ふならば、菜の花の支配する春である、吉野山に花が咲けば吉野は花の春と感ず、紅葉がすれば紅葉の秋と感ずる、春は花許りではない菜許りでもない、秋は紅葉許りでもないけれど、只自己の周圍に最も多いものがあれば、其物許りの春か秋かのやうに感ずるは普通の事である、菜の花の盛りに※[虫+解]が下り、蕎麥の花の盛りに鰻が下る、他國の人は知らぬかも知れないが僕の郷國上總では諺になつて居る、門に立つて野らを見ると菜畑や菜田や黄雲點々として朝日に映えてゐる、此時菜の春と感じたに何の不思議があらう、雨上りのいつもの川には若いものが※[虫+解]網を張つて居る 岸に立つて見て居る人もある、田舍の長閑な趣きそこに詩趣がないであらうか、理窟は何とでもつかう、僕は人の煮返しなどはせぬつもりである、「春のゆつり葉」の非難に至つては論ずるに足らずと思ふから置く。
去月の「日本新聞」に鈴木葯房子は、予の夾竹桃歌箋の歌を難せられたが、各人考を異にするの免れ難きを常とする以上、一々辨解の要はない、只葯房子が考違ひかと思ふ點を少しく言ふて置く、葯房子の非難も實は例の習慣常則文法などから自己の好みに合はぬと云ふまでゞある、前に云へる如くさういふ人爲の約束は歌を殺す道具に過ぎぬと信じて作つた僕の歌にはまらぬは勿論である、
   おひろまは寂と神さび花瓶を四尺の青磁對に据たり
(319)此歌を語を爲さぬと云ひ「花瓶を」のを字を大いに氣にされたが、上代調を唱ふる葯房にも似合はぬ事だ、「四尺の青磁花瓶を對に据たり」と句を置替て見れは直ぐ解ることである、萬葉集中例歌のいくらでもあることだ、例歌を茲に引證するまでもあるまい、それから初句の「お」の字を氣にした人もあつたが、それも習慣的の感じに過ぐまい、「お廣間」はおん廣間である、「お」の字を俗に感ずるは、長屋を俗に感ずると同じである、萬葉集に長屋王《なかやのおほきみ》といふ人があるが俗でもなんでもない、ぐにや/\繩のやうな紐のやうな女の詞めく調子でなければ、すぐ歌でないとか調を爲さぬとかいふ人達には困つたものである。
   公けの職はやめつ今日よりは閣のあるじぞ山ほとゝぎす
葯房ではないが、この歌俳句の句法だといつたものがある、この位の事が解らんで文學を談ずるとは押が強すぎる、これは義滿が將軍をやめて道義と稱した頃の心を義滿になつて、ほとゝぎすに言ひかけた意である、もう職はやめてこれから眞に金閣の主ぢやぞお前の友ぢやぞおいほとゝぎすとやうに見ればよいのだ、
   白妙の麻の衣にもみうらの匂へる妹を青葉しみ山
   吾思ひ息にいつらん息うつす紙もあらなむ青葉しみやま
   吾知れる詞極り吾思ひの一重もつきす青葉ゆる風
此三首葯房は解らぬ歌だと難じ、結句一句は置去りの句ぢやと笑はれた、僕も一笑を禁じ得ない、青葉に寄する叙情の歌でないか、青葉山に對して作者が直接に思を訴へたとは解されぬであらうか、青葉しみ山と呼掛た句法がなぜ解らないのか、僕のは創作するつもりで作例などに依て作つたものではないが、如此句法は萬葉中に珍らしいことはあるまい、ほとゝぎすに對し白波に對し例歌はいくらもある、客觀の歌とか叙景の歌とかいふこと流(320)行してから歌が冷かになつた、作者がいつでも第三者の位置に立つて冷靜に物を見てゐる樣な歌が多くなつたは正しく今の歌壇の一の弊であるまいかと信じて居る、「妹か名呼て袖そ振りつる」とある如く思余つた時に縁りのある景物など呼びかけて思ひを遣るといふことないであらふか、色好まぬ男子は玉の盃底なき如くで迚ても話せない呵々
今人の歌解能力に就て一言いふて置きたい、此歌は意味が通ぜぬとか、語を爲さぬとかいふのが、如何にも常識的に散文的に解釋を求めつゝあるが今人の通弊である、論文はどこまでも論文として見ねばならぬ、詩語はどこまでも詩語である、實用的常識時に解せんとするが始より間違つて居る、今の人の歌を評するを見ると解り切つて居るに殊更に解らぬといふのである、句々の意味が直接に續いて居らねければすぐ解らぬ歌だと云ふ、散文と韻文とを混じた誤解である、處が今日の歌人が馬鹿にして居る、古今集時代の歌人はちやんと、その邊を心得てやつて居る、
   久方の光のどけき春の日にしつ心なく花のちるらん
のどかな此の春の日に「どうして」しづ心なく花はちるかといふ意で、「どうして」といふ意を加へて見ねば解らぬ歌である、
   名にし負はばいさこと問はむ都鳥わか思ふ人はありやなしや
これは吾思ふ人は「無事で」ありやなしやと「無事で」の詞を加へて始めて通ずべき歌である、歌のよしあしは別として、古人が韻文に對する用語の精神と其解釋の精神とを察することが出來る、例歌はいくらもあるが略す、以上の如き歌を作者も得意で人に示し、見る人も名歌として推稱して居る、以て古人の作歌精神が解るではない(321)か、然るに常に研究的態度を自負して居る今の歌人が韻文的用語の上にも其解釋力の上にも少しの進歩を認められない許りでなく、聊か非常識の語法に働くと直ぐ解るの解らぬのと云ひ出す、それが後世人の情ない處で已むを得ないかも知らんが、かくては研究も何の役にも立たぬ譯である、それであるから手も足も動かせない樣な究屈な歌許り出來るのであらふ、
前號三井氏の議論に就て意見を云へと云ふ人があれど、一々僕の意見を附するは容易でない、誰れの議論でも其人一個の私見と見て置ば差支ない、三井氏の論には、局部には同意の點も多いが、詩の根本義といふ上には殆ど反對の考を有して居る、それを論ずることになると一編の論文を書かねば盡せぬ、前にも云ふたが詩はかういふ物であると樣に一定の意義の下に定め云はるべきものでない、或現象に接して動く感情を言語に云ひ現はしたからとて、それを直に詩とは云へない、繪畫は天然を再現するなどいふは繪畫を解せぬ云ひ方である、或情想を言語に現してもそれが直に詩でない如く、或天然を遺憾なく描寫してもそれを以て直に美術とは云へぬ 從て嚴正なる意味に繪とは云へない、情想若くは天然の描寫に作者の製作の靈技が加はつて居ねければ美術とはならない、如何なる事を描寫してもそれが詩的に描寫されねば駄目である、苟も詩的であれば、概叙でも説明でも悉く詩である、概叙がいけない説明がいけないといふは、趣味なき概叙趣味なき説明がいけないと云ことで、詩はそんな究屈なものではない、現に三井氏の詩と題した新體詩は悉く概叙的ではないか、一朝天才的詩人が出て來たらば、如何なる詩を生み出すか知れるものではない、要するに如何なるものを寫せば詩かといふ問題ではない、如何に描けば詩になるかといふのが問題である、何程一生懸命になつたとて、只一生懸命では詩の出來樣がない、詩を生み出すべき靈性を有せぬ人が、いくら一生懸命になつても仕方があるまい、際限がないから止めるが猶一言し(322)て置きたい、吾々は變化と活動と活動と變化で向上せねばならぬ、或は活動の途上變化の間際に、よし多少の躓きありとするも、それを彼是憂惧する必要は少しもない、人に最も戒むべきは私心である、私心さへなければ向上の道を失ふ心配はいらぬ。
                     明治39年10月『馬醉木』
                       署名   左千夫
 
(323) 信仰と趣味
 
友人境野黄洋近刊の「新佛教」に論じ云ふ、
  宗教には人格の感化を中心とするものと、教義の高尚深遠を特色とするものと、二つの區別があるものでありますが、然し宗教は素より哲學といふ樣な學問ではないのでありますから、最も力となるものはどうしても人格の感化であります、佛教が今日まで久しい間、廣い土地に勢力を持つて來ることの出來たのは、其根本の原因は疑ひもなく、釋尊の偉大なる人格の感化に基して居るのであらふと信じます、併し今日日本に行はれて居る佛教は、人格中心の佛教か教義中心の佛敷かと云へば、申す迄もなく教義中心の佛教であります。
  これが後世の佛教には、活きた感化力がなく、唯學問佛教、書物の上の佛教となつて、所謂宗教としての血も熱もなくなつた所以であらふと考へるのであります、云々
猶進で釋尊の人格及其人格感化の偉大なりしを詳論し、釋尊在世の教化は議論を主とし教義の淺深高下を競へるものにあらずして、寧ろ人格の感化に衆徒の歸復せるものなることを云へり。
近頃會心の議論なり、平生考へつゝある處と甚だ相似たるを以て、予は頗る愉快を覺えしなり、然れども固より宗教家ならざる予の考といふものゝ云ふまでもなく詩人の見地に立ての考なり、黄洋子の議論は勿論宗教家の立(324)場にあつての議論なれば、予の考と甚だ相似たりと云ふと雖も、決して宗教上の議論に於て相似たりと云ふにはあらず
宗教と詩と、信仰と趣味と、共に同じく精神上の問題なれば、深く相離るべからざる關係を有しつゝも、然も又決して相混ずべからざる、各特種の性格を有すること殆ど男子と女子との關係に近し、宗教は主に社會的なれども詩は殆ど個性的なり、信仰は主に人爲的なれども趣味は殆ど自然的なり、宗教は多く智の分子を含み詩が多く情の分子を含むも、各有する性格の然らしむる處ならずんばあらず
世の推移と共に人間の性格も自然變化を免れざるものあるが、古へは男子猶頗る情的なりしが、今日は女子猶頗る知的の傾向を有す、況や男子をや、女權擴張や女子獨立論や女子活動が漸く社會の表面に現れんとするや、皆是女子變性の現象にあらざるはなし、男女性格の推移が、男女の關係に至大なる變化を來すべきは自然の勢なり、是れ果して人世の幸か不幸か、世に物識りの徒は之を社會の進歩と稱す、吾々詩人は之を人世覆滅の徴象といふ、何を以て之をいふか、社會の生存競争は、人間をして何より先に知識の發達を必要とせしむ、之れ既に社會の進歩にあらずして、人間生存上餘義なき知識偏重の發達に過ぎず、知識遍重の發達が愈偏重に進めるもの即今世の状況となす、知識の偏重は感情の枯燥を意味す、感情の枯燥が即社會の融合力をして薄弱ならしむるは推理の免れざる處、人間相互の關係が全く無味乾燥なる、知識的金錢的實用的に陷りたる時は、人間眞個の幸福は消滅し去りたるの時なり、予は之を唱へて人世の覆滅といふ、自己中心的感念が夫婦父子兄弟朋友間に實現するに至て、社會の組織根柢は全く解躰し去りたるものなり、かくて知識偏重の社會は、相牽て其乾焼無味なる荒原に向つて急ぎつゝあるの徴象を見る、聾者は聾に慣れて聾の不幸を忘る、盲者も盲になれては盲の不幸を知らざるに至る、(325)蕩々たる無趣味の衆生は其無趣味に慣れて無趣味なるの不幸を悟らざるを常とす、何時しか人間根本の要素たる情操を失却して、身は半獣の境涯に陷りたるもの既に現時に於ても目睹に難からず、所謂今日の文明、社會の進歩なるものが、單に物質的文明物質的進歩にして、精神的文明は寧ろ退却しつゝあるは、聊か茲に注意ある社會の確知する處なりとす、而して社會が毫も之を救ふの道を講ぜざるは何ぞや、思ふに聾盲者其聾盲に安ずるが如く、其實今日の社會状態は、自らの一大缺陷に氣づかざる愚蒙に陷りつゝあるなり、所謂今日の文明なるものは、要するに小智の進歩にして、大智を缺ける底拔けの文明たるに過ざるなり、嗚呼之を救ふの道果して如何、宗教家宗教の必要を説いて社會は却て宗教を冷視す、詩人詩の力を説くも社會は詩を重ぜず、嗚呼人世の覆滅は遂に救ふの道なきか
男子をして全き男子たらしめ、女子をして全き女子たらしむ、救濟の道只是れのみ、然かも是至大至難の問題にして聖人政※[手偏+丙]を採て始めて爲し能ふべきのみ、主動的なる宗教は男性の如く、受動的なる詩は女性に似たり、男女兩性をして其本能を全からしめ、而して兩者の融合圓滿を見るに至て理想的社會の根本は確立せりと云ふべし、詩と宗教との一致の如きは男女兩性の融合圓滿と等からずや、宗教詩を待て始めて其靈威を保つことを得、詩宗教に依て其本能を發揮することを得ること、男女兩性の關係と毫も異なることなし
黄洋子の所謂人格中心の佛教とは、予の論旨より云はば、宗教と詩との一致せる境涯にして、信仰と趣味との融合最も宜しきを得たる佛教なりと云ふべし、是れ眞に理想的宗教なり、其感化の偉大なりしや理の正に然らしむる處なり、前次所論の如く時代の推移は、人間の性格に變化を致せる如く、宗教其物の變化詩其物の變化と共に、宗教と詩との關係にも大なる變北を見る、宗教漸く趣味を疎じて專ら理窟を唱ふ、所謂教義中心の佛教とは之れ(326)なり、詩又宗教との融合を失ひ、或ものはいつしか知識的の産物に化したり、或は俗家の粧飾品となり人間の玩弄物視せらるゝに至る、其罪果して何れに存するか、宗教家の罪か詩人の罪か、將た社會の罪か、最も主動的にして最も智識的なる宗教家に多くの罪を問はざるべからず、併し宗教變化せりとも詩變ぜざるべからざるの理なし、詩の墮落は要するに又詩人をも咎めざるを得ざるなり、詩と雖も必ずしも智識を排すべからざる如く、宗教固より感情を排斥すべき理由なけむ、只夫れ詩は知識を含むことあるも趣味を離るべからざるが如く、宗教理を重んずるも又感化を措くべからず、智と情と何れが人を勤し、理と趣味と何れが人を動すかを問ふものあらば、何人と雖も情と趣味とが最も人を動すべきを答へむ、然るに感化と安心とを性命とせる宗教が何故に情と趣味とを疎外するに至れるか、
黄洋子は日本の佛教は皆教義中心の佛教にて、即理窟を本尊とせるものを云へり、佛教の歴史に通ぜざる予は固より其然るべきを信ずるの外なしと雖も、予の見地より見たる日本の佛教は其始め頗る人格的寧ろ信仰と趣味と融合一致せるものにあらずやと思ふは如何、聖徳太子の信仰の如き、理想は寧ろ單純にして其施設行動の人目を引けるもの、皆趣味的なりし感あらずや、法隆寺堂塔の建立夢殿參籠に就ての傳記の如き、太子が信仰的趣味の如何に神韻に富めりしかを察するに足れり、
太子年十四歳にして早く法隆寺の建立を發願し、四十九歳薨去の年まで僅に三十四年、此間寺院の建立十を以て數ふ、然も法隆寺の如きは十餘年の歳月を費したりと傳ふるに非ずや、太子が千年以來工匠の祖神と崇められ來りしに見ても太子が寺院建立に心を勞せられたるの大なるを察するに足るべし、太子は佛法を説くよりは寺院を建立し、佛を信仰せりと云ふよりは、佛に奉仕したるの人ならんか 其傳ふる處悉く趣味的なりしは、決して謂(327)はれなきにあらざるなり、降つて傳教弘法の諸聖に至つては、固より教義の高遠深邃を説きたらんも、人格の偉大なる趣味的行動の赫耀たる實に當時の社會を聳動せるものあり、「吾たつ仙に冥伽あらせ給へ」の歌より大寺院を作り大佛像を刻み佛畫を作り、和讃を作る等、決して説教一遍の單純なるものならず、從て信仰と趣味との關係は頗る親密なるを見るなり、之を鎌倉時代の親鸞日蓮の二祖が超然として自ら寺院建立の如きに留意せざりしものと大に其觀を異にし、漸く説法本位の状況を現し來る、門外漢予の如き者の眼には、所謂教義中心の佛教とは如斯ものなるかを思はしむ、弘法大師は固より盛に教義を説きたらんも、其人を動したるは寧ろ教義の高速なるにあらずして、全く詩的活動の力多きに依らざるか、一人親鸞聖人の信仰は、寺院なく佛像なく寧客觀的趣味の伴ふなく單に主觀的信仰趣味に依て人を動せるは、從來の佛教に比して特種のものたるを認む、日蓮聖人は知らず、親鸞聖人の信仰は徹頭徹尾主觀的にして少しも客觀的に詩的行動の見るべきものなければ、之を教義的宗教と云ひ難きにあらざるも、今熱ら聖人の信仰状態に就て考ふれば、全然知識の範圍を脱し、理窟以外に超出して、主觀的詩趣を根本とせるものなることを發見す、口を開けば無義の義を云ひ不可説不可思義を稱す、共根柢の理窟に存せざるや知るべし
  親鸞におきては、たゞ念佛して彌陀にたすけられまゐらすべしと、よき人のおほせをかうふりて、信ずる外に別の子細なきなり、念佛はまことに、淨土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてはんべるらん總してもて存知せざるなり云々(親鸞の詞)
所謂聖人無義の信仰にして其間に毫末の理窟をも存せざるなり
  彌陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとくるなりと信じて、念佛まをさんとおもひたつ心の(328)おこるとき、即ち攝取不捨《せつしゆふしや》の利益《りやく》にあつけしめ給ふなり云々(親鸞の詞)
心理的作用より來る精神内面の趣味に基因せる信仰なれば、人若し其境涯に住せば、安心の情愉悦の心自ら胸中に湧氣するを覺えむ、然らば之を教理といふも當らず、教義といふ固より當らず、要するに親鸞聖人の信仰は、理義を以て解くべからざる、主觀的宗教趣味と解するを得べし、加ふるに人格の高きを以てし、猶悠々として歌を詠じ和讃を作て感化に資す、信仰と趣味との關係猶頗る深かりしを思ふべし、遂に大に人を動すに至れるもの決して偶然にあらざるを知る、之を知識的なる教義中心の佛教と云ふは頗る其當を得ざるに似たり、黄洋子の所謂「後の佛教には活た感化力がなく、學問佛教書物の上の佛教となり血も熱もなくなつた」なるものと其選を異にせるものあらずや、親鸞聖人の信仰は決して、活た感化力なきといふ如き乾燥無味の信仰にあらざりしは眞宗の盛大なる事實が之を證して餘りあり、
然れど聖徳太子より茲に至つて順次に詩的活動の分子が減じ來りしは爭ふべからず、而して今日の宗教家に至つて遂に如何なる變化を遂げたる、寺院を作らず佛像佛畫を作らず、歌も詠まず唱歌も作らず、演説に次ぐに講演を以てし、講話に次ぐに絶叫を以てし、學問と理窟と相待つて信仰を説明し、安心を解釋す、聞く人其意味と理義とを解して精神に何等の感化を得ること能はず、宗教家の趣味なく餘裕なき茲に至つて窮まれりと云ふべし
これ社會の罪か將た宗教家の罪か、時世の然らしむる處如何ともすべからずとして止むべきか、予は再び之を云はむ、人は智に動かずして情に動く、理に動かずして趣味に動く、今日の宗教家が、人の能く動く所以に考慮を欠けるは、徒に勞多くして効少き所以にあらざるか、今の新進宗教家に寺院の必要はと問へば講演演説の爲めな(329)りといふ、寺院の名稱を嫌ふて會堂と稱す、説法若くは説教の語を厭ふて講演といひ、演説といふ、何ぞ些末に拘泥するの甚しきや、予の如きは、會堂講演演説等の言語に、寸分だも信仰的趣味を感ずること能はず、信仰的趣味とは如何なるものかと問ふものあらんか「念佛まをさんと思ひたつ心のおこる時即攝取不捨の利益にあつけしめたまふなり」聖人の所謂不可稱不可説なる美妙の感じは、信仰に伴なふ内容的趣味なり、趣味なるが故に不可解不可説なるなり、婆羅門教徒が佛弟子の信仰的態度の尊きに感じて五百の教徒を率て佛に歸したりといふは、理に動きたるにあらずして趣味に動たるなり、道途に望見して人格の如何は未だ悉知し難きに、早くも大なる感動を受く、予は之を名づけて信仰的趣味といふ、
現身釋尊は、思ふに其精神其態度、其生活其寺院其説法等悉く趣味的と云はず詩的と云はず、直に趣味なり詩なりしならむ 所謂不可釋不可説なる信仰的趣味とは是なり、釋尊の傳記が歴史的事實を缺き、悉く詩傳なりしは、少しも怪しむに足らざる事ならん、何となれば趣味は到底記述し難けれはなり、
上古の佛教は信仰と趣味と一躰なり、中古の佛教は信仰と趣味と兩立相扶く、親鸞の佛教は一種獨特の趣あり、一切外觀的行動を捨てゝ、深く主觀的内面趣味に住す、能く教義本能の弊を脱し信仰と趣味との融合一躰なるを得たるも、其趣味内面に偏したるの觀あり、聖人其人の如きは勿論純主觀純内面的にて滿足し得んも一般衆生に至つては到底純主觀純内面的趣味に安じ得べきにあらず、祖師の内面的なる反動とも見るべきか、雄大なる寺院の却て他宗を壓するに至れるは、茲に何等かの理由を存せずや、美食に安じて服飾居住に留意せざる人あらば、そはいふまでもなく變性の人なり、眞宗の興隆するに及びて高大なる寺院の並起するに至るは是人間要求の自然なり、只始祖親鸞聖人の精神と、後の高大なる寺院並起との間に如何なる交渉の存するものか、高大なる寺院(330)の並起は聖人の豫期せざりし處なりとは、輕率なる斷定にあらざるか、此疑問は畏友近角定觀子に教を乞ひ置かむ、鎌倉以後の宗教に就ては予其特色を知ること能はず、思ふに教義も趣味も漠然祖先を繼紹せるに過ざるべし。
以上極めて放漫なる叙説なれども、詩趣を伴はざる宗教には、感化力極めて薄弱なることを證し得たりと信ず、今の有數なる宗教家の熱心誠實なる躰度に對しては敬服措かざるところなれども、予の一考を諸子に乞はんとするは叙上の問題なり、趣味と信仰との關係、趣味と信仰との融合状態、趣味と信仰との相扶くる法方等に就て、如何なる考慮を費しつゝあるか、教義中心の佛教既に活きたる感化なしと云ふ、講演佛教演説佛教討究佛教に果して如何なる感化力ありや、大乘佛教の教義中心を卑みたる黄洋子は必ず茲に考ふる處あるべし、經文の解釋信仰の説明、歴史研究等多少の趣味なしと云ふにあらず、別に更に大なるものあるに注意を怠るなからんことを希望するのみ、今の宗教家諸子は、宗教の實質を疎にして、寧ろ宗教の事業に熱中し過ぎるの傾きなきか、人を教へ社會を指導せんとする前に、先づ自己の信仰と自己の趣味との修養に大に努力するあらんを望むの念に堪えず。信仰を樂み趣味に親しむの餘裕なくして人焉ぞ品位の高きを致し得んや。終に臨て予は現詩壇の状況に就て宗教家諸子に一條の慙悔を訴へ措かざるを得ず、曰く會員募集、曰く懸賞曰く版權曰く印税、現詩壇の作物なるものが、以上の數語と如何に密接の關係を有するか、商買的渡世的感念を離れて詩壇に立つもの果して幾人かある、而して明治の現詩壇は實に其商買的渡世的文人の支配に甘じつゝあるなり、然かも社會之を怪まず、有識の人又之を咎めず、長大息せざらんとするも得んや。
(331)                  明治39年10月『馬醉木』
                        署名   左千夫
 
(332) 〔「峡乃秋霧」選歌評〕
 
 〔岡千里の歌略〕
左千夫いふ去秋の頃より著しき進歩を認めつゝありし、岡干さとが今回の成功に對して予は驚喜措く能さるものあり、全數八十六首拔くところ實に六十八首に及ぶ、着想穩健にして又能く清新なり、用語自在にして句法是に伴ふ、最も複雜なる事實の題目を捕へて毫も澁滯の風なきは此作者の特色ならんか、然れども穩健は枯燥を招き自然は平板に陷り易し、願はくは質樸にして高華なる蒼古にて流麗なる萬葉に就て更に少しく養ふところあれ
                     明治39年10月『馬醉木』
 
(333) 〔「合歡木乃卷」選歌評〕
 
 〔志村南城、槙不言舍、掘内卓、胡桃澤勘、望月光の歌略〕
左千夫いふ、全數五十一首に就て十六首を拔く、諸君漫に其嚴選に驚くこと勿れ、予は決して嚴選なる考を有せず、何となれば選歌悉く金玉と稱し難ければなり、趣味の美妙にして然も特色を有せる合歡木の如きは其感じを捕ふるの頗る難きものあるらし、然らば諸君も又必ず選者の意を諒とせんか 作歌の眞價は一二評者の言に依て動くものにあらずと雖も、馬醉木、近來の傾向は平凡なる議論を余儀なくせしむ云々と、云はるゝが如きは諸君も又予と共に名譽とせざる處ならむ、顧みて予も聊か自から求むるところあり、諸君よろしく卑衷に察するあらんことを願ふ。
                     明治39年10月『馬醉木』
 
(334) 〔「九月乃歌卷」選歌評〕
 
 〔平福百穗の歌略〕
左千夫いふ雄渾壯大眞に富嶽の歌なる哉 意氣高朗風姿峻烈の状髣髴眼前に迫る、百穂畫家にして猶此什あり、同行の犀東子は漢詩の巨匠なり それ必ず快作あらむ。
 〔望月光の歌略〕
左千夫いふ、望月君の連吟には驚かざるを得ず、毎號必ず五六十首を降らず、今回の如きは實に百十首を算す、選拔三十三首以て好成績と稱し難きも、常に新意を求めて倦まず、語法句法自然に調ひ來るの趣きあり 言ひ難き新意を顯すに能く自己の工夫せる詞を用ゆるが如き進歩の蔽ふべからざるを見る、只望むらくは稀薄にして多量なる弊に陷るなからんことを。
 〔蕨橿堂の歌略〕
左千夫いふ、橿堂氏の富岳游草は短歌百餘首長歌一章の内、今短歌十七首を拔く、作者或は失望せんか、然れども予は寧富士登山者にしこれだけの佳什を得たるを意外とするものなり、橿堂氏の風調は平淡自然極めて有のまゝなるを悦ぶ、其弊は無味乾燥に陷るにあれども、成功したる作に至つては三讀、讀飽かざるの味あり、如何なる珍奇の問題に對しても猶平然として詠過するは此作者の特長なり 故に其失敗は多く平凡なる材料を詠める時(335)に多し、願くは自家の特色ある用語に工夫する處あれ。
                   明治39年10月『馬醉木』
                     署名  左千夫選
 
(336) 〔「讀源氏物語」選歌評〕
 
讀源氏物語の課題は全く失敗せり、集歌幾十首一首を得る能はず、予又試みむとして能はず、予は全く出題に失敗せり、竹乃里人選讀平家物語の際先生も既に題に失敗せりと云はれたりしを健忘なる予は遂に忘却し居たりしなり、殊に源語は美文に成功したるものだけ、歌の題などには都合惡しきやに思ふ、加之殊に桐壺と限りたるは愈不可なりしならむ、勿論源語五十篇歌題なしとは云ふべからず、然れどもそは更に研究の余に待つべきなり。
                   明治39年10月『馬醉木』
                      署名   なし
 
(337) 〔「長塚節氏の文章炭燒のむすめにつき」附記〕
 
     長塚節氏の文章炭燒のむすめにつき
                           坂本四方太
  美裝の「馬醉木」有がたう青果とは誰か、「炭燒のむすめ」はうまいでないか、「千鳥」と好一對ぢや、かういふ先生が續々輩出しては、吾輩筆を燒かねばならぬ、
因に云ふ「青果」は節氏の別名「千鳥」とは「ほとときす」に出た文章なり、                        明治39年10月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(338) 〔桃澤茂春君の訃報〕
 
茂春桃澤重治君去八月二十七日伊勢の桑名病院に没す 根岸庵歌會の當時毎次相會して歡笑せるもの今其一人を失ふ 謹而之を讀者に告げ茲に哀悼之意を表す
                     明治39年10月『馬醉木』
                        署名   なし
 
(339) 要報
 
本號の大々遲刊は陳謝の詞なしと雖も必ずしも編者の罪のみにあらず 次刊七號は申譯號の名を以て十一月二十五日必ず發刊して讀者に酬ふべし 依て原稿〆切を十一月五日迄延す
                     明治39年10月『馬醉木』
                        署名   なし
 
(340) 〔『馬醉木』第三卷第七號卷頭詞〕
 
予は居常空手を以て蠅を捕ふることを好む、周圍に何等の障碍がなく、手に全力を注ぎ得れば必ず取れる、少しにても手の全力を碍ぐる位置なる時は又必ず取れない。
故に必ず取つてやらふと思ふ時は、是非手の全力を注ぎ得る境地でなけれはならない、予は人間の總ての仕事が此蠅を捕ふると少しも變りのないに氣づいた。
自己の全力を擧げて、さうして其全力を注ぐに、何等の障碍もなき境地に立てば、大抵の事ほ必ず爲し遂げらるものと考へた。(四壁居)
                     明治39年12月『馬醉木』
 
(341) 〔『馬醉木』第三卷第七號歌會記事〕
 
     樂々亭歌會
 
十月十四日例會歌會を下總なる千葉に開く、樂々亭歌會即是れなり、猪之鼻臺に續く千葉寺村の一隅を占め、今年新に成れる瀬川博士の別墅は、近く人界に接するも能く人界を脱せり、千葉の海千葉の漁村は、庭松の木の間より自然の畫を展じ、主人又畫癖ありて名畫を藏す、加ふるに氣靜かに天爽かなる秋晴の日に遭へり、人々深く博士の好意によりて一日の佳遊を得たるを悦ぷ、時に茶室に入つて清香を味はひ、更に庭に立つて高氣を賞す、興趣限りなければ却て作歌の境に入り難く、遂に夜に及んで僅に會意を遂ぐ、上總よりせるもの蕨眞橿堂桐軒、成東中學の村上※[虫+譚の旁]室若杉鋒村、東京より石原純伊藤左千夫、の七人、例に依て得鮎の歌を掲ぐ、※[虫+譚の旁]室最も高點純桐軒是に次ぐ以下略。
     三點
   朝開き漕き行く船のほのかにも島山見えて秋の海澄む  ※[虫+譚の旁]室
     二點
   八千草の千葉の高野ゆ開きたる青空が下に秋の海見ゆ  純
(342)   千葉の野の秋は晴れたり青戸なす總の遠山たなひける見ゆ
     同
   青杉を吹きくるかぜに茶の室のとりあしの實のあからに光れり  橿堂          同
   紅の足茂けなべて生ふ蕎麥の畑の袂を馬引く少女  桐軒
     同
   千葉の海を猪の鼻丘ゆ見さくれば遠に澄みたる秋の不士の根  ※[虫+譚の旁]室
   茶の室に茶をのみをれは庭石に※[翁+鳥]飛ひきて晝靜なり
   秋深み露霜寒き門畑の豆の落葉にこほろきの鳴く
   千葉の海や鯊つり歸へるかりそめの莚帆小舟秋の風吹く
     同
   秋されは心は澄みぬ庭松の緑色濃く富士も晴れつゝ  左千夫
     一點の歌の中にて
   ゆふ燒に海の面光る袖か浦鰯とるかも舟澤に見ゆ  若杉鋒村
   秋晴のかぜてりそよぐ岡のへの丸葉楊を百舌飛び離る  蕨眞
   庭くまみ植しあすなろはふ枝の松にたぐひて常世さびたり
   青松の廷枝ゆ見ゆる遠波のさゆらぐ光新室てるも
(343)   千葉あかた見さくる宿に千葉寺も近しと聞きて昔偲はゆ  ※[虫+譚の旁]室
   御狩人|陸稻《をかほ》刈り頼む片岡の畑中道を露にぬれゆく
   千葉の沖の出入小舟見つゝ住む是れの庵は時しけめやも
   寒川のあまの家村は秋霞うすきりか中につゝまれり見ゆ  橿堂
   軒近に松か枝は鳴り寒川の軒の淺瀬の見ゆるしよしも  桐軒
   秋霧に青き山々透き見ゆる松の木の間に飛ぶは鶸らし  純
   秋雨の百日降りつき崩えたらは千葉の大野はさぶしからんもの
   數奇屋なる四坪の庭は楠くぬぎ女竹をまぜに植込みにせり  左千夫
   かぎろひの西日になれば秋の海の波かゞやきて能く見えずけり
   千葉の岡の海を見おろす皆岨《みなみそき》松をよろしくいほりせりけり
                       明治39年12月『馬醉木』
                         署名  左千夫記
 
(344) 〔「嗚呼我三度死す」附記〕
 
 〔槇繁清の文略〕
市の虎も三度にして問題となる、繁清氏の誤報又三度にして此文を出す、然も予の過に依て三度たるに至れるを見れば、過失も又時に有用なることあるか、記して過を謝す(左千夫)
                     明治39年12月『馬醉木』
 
(345) 〔『馬醉木』第三卷第七號消息〕
 
◎拜啓匆々忙々として明治三十九年も正に終らんと致し候、遲刊の申譯も、物笑たるべく候へども、自ら製作を試み且つ雜誌の發行編輯より販賣の俗務に至るまで、一人の手を以てすることは到底不可能の事と御推察願上候、十一月始めより重き病に臥せられ居候蕨眞氏も、此頃幾分宛宜敷方に向ひ候由御安心被下度候、次號第八號は一月中旬に相成可申、元旦號などゝ申世間氣は止に致し候、回顧するに本年に於ける同人諸君の經過は頗る愉快なる傾向を示せり 各、同一方向に或一定の高所を望んで進むといふ模傚的時期を通過し、各自己の本領を發揮し自然に各立脚の確知せらるに至れるは順序的正道の進歩と存ぜられ候 猶新年號にて委曲可申述候敬具(左千夫)
校正の序を以て追啓致し候其後蕨眞君愈快方に赴き候 實は蕨眞君の病氣は醫師も余程手重に申され候故一同深く痛心罷在候處意外に早く快癒に向ひ候間同君も悦びの餘り新年號には聊か祝意を寄せ不折畫伯の繪二枚百穗畫伯の繪一枚外に表紙をも改め美を盡さんとの計畫に候へば紙數も平日に倍し可申候へば樂で御待被下度勿論定價は原の儘にて候早々
                      明治39年12月『馬醉木』
 
(346) 一國の元氣を現顯せる歌ありや
 
元氣旺盛なる國民は必ず優秀なる詩作を有す、優秀なる詩作を有する國民は又必ず元氣旺盛なる事實を存す、元氣、詩作を産むか、詩作元氣を成すか、そは暫く論ぜずとするも、元氣ある國民と優秀なる詩作とは、殆ど熱と光との關係の如く、必ず相伴ふを常とすること世界古今の史乘が充分説明して餘りあるのみならず、之を目下の世界に見るも實に明なる事實なりとす、
吾帝國々民の元氣は近く拾數年の間に於て、いやが上にも旺盛の事實を發揮し、征露大勝の結果を得るに及びて、更に其絶大を極む、上に聖明の 天子あり下に此國民を有す、國運の隆々たる千古其類例を見ず、正に是れ元氣旺盛なる國民内面の實質を現顯せる詩章の起るべき必然の時機にあらずや、
予は今、天地榮ゆる此の明治四十年の年頭に立ちて、一大遺憾を感ぜざるを得ざるを悲む、殊に國粋的文學たる作歌の上に於て、一國の元氣を發揮せる快作に接せざるを悲む、歌人や實に多し、歌を以て世に知られたるもの其數に於て決して盛ならずとせず、近く十年以來に於て世に公表せられたる作歌は實に濱の眞砂の數限りを知らず、然も其眞砂の砂礫以上なる歌が果して幾許かある、能く一國の元氣を發挿せる、力あり重みある優作に至つては遂に片影だも見る能はざるにあらずや、
擧世蕩々として、口調的の歌を詠み手工的の歌を作り、其輕きこと木の葉の如く、其小なること小砂利もたゞな(347)らず之を遊器玩弄の物なりと云ふとも何の辭か之を辯ぜん、今日の作歌が到底一部閑人の遊戯に過ぎざるの觀ある所以は全く玩弄的作物にして、精神的ならざるが故に外ならず、此の如き無精神的産物が如何にして一國の元氣と交渉を有し得んや、
宛然小兒の爭ふ如く、黨を立て派を別ち、各吾は顔に振舞ひつゝある彼等の作物を見よ、固陋柔弱恰も世間知らずの婦女老幼が何等元氣も活氣もなきものにあらざれば、浮華輕佻衒飾殆ど下等役者の口吻あるものか、然らざれば工匠が木材を組が如く乾燥無味なる詞調を物質的に配列せるに過ぎざる等の愚作を以て滿されつゝあるを見ずや、然かも以上の如き藝人的渡世的歌人が明治の歌壇、即此の榮えに榮ゆる大御代の歌壇を強塞しつゝあるなり、豈に慨嘆せざらんと欲するも得んや、國民の精神元氣と何等の交渉なき詩章は、是を帝國の詩章と云ふべからず、即ち一部國民の玩弄物にして取りも直さず個人の私有物ならんのみ、然らば明治の國民は其國民的精神を表明せる所謂一國の詩章を有せざるなり、予は明治四十年なる精神界が斯の如く變則の状況にあることを悲み且つ之を怪むの念に堪へざるなり、國民の元氣は數次事實の上に發揮し、國家の隆運は比例を見ざるの盛況にあつて、而して是に伴ふべき詩章の起らざるは、實に異と云はざるべからず、
何故に然るか、是れ既に問題なり、今日の如き情況は後の精神界に如何なる變化を來すべきか、是れ更に大なる問題ならずや、予は今斯の如き複雜なる問題に對して輕率なる判斷を與ふるを好まず、只それ世の達限家に一應の注意を求め置む、
飜て咲く花の匂ふが如くと歌はれたる、奈良の御門の盛代には如何なる詩章の起れるかを檢せんか、今明治四十(348)年の年頭に立つて、一首の歌能く當時の盛觀を現顯せる詩章を、讀者諸君と講評せんとするに於て予は至大なる興味を感ず、
聖武天皇天平六年、海犬養宿禰岡麿の歌を見よ
   御民吾《ミタミワレ》、生有驗在《イケルシルシアリ》、天地之《アメツチノ》、榮時《サカユルトキニ》、相樂念《アヘラクオモヘバ》、
意は簡短なり、陛下のおん民たる吾は眞に長生したる甲斐ありし 此の天地榮ゆる時に逢ひし事を思へば、眞に生て居りし甲斐ありしよとなり、思想の簡明なるは作者の卒直を偲ばしめ、依て以て作者の元氣を感ぜしむ、詞調勁健にして句法莊重、眞に堂々たる大丈夫の聲明たるに協はずや、作者自身を發揮すると同時に能く時代の元氣を發揮せるを見る、詔に應じての作歌と云ふを、劈頭直に「御民吾」と唱破せる處元氣の横溢精神の傾倒、作らず飾らず、硬骨なる老武士の風※[蚌の旁]躍如として聲調に現ず 第三句第四句「天地の榮ゆる時に」と雄大莊嚴なる形容語が口を突いて出て來る、自己の元氣と國家の盛容と渾然一致して始めて此自然を見るべし、「榮ゆる御代」など艶《ツヤ》ある句を云はず却て「榮ゆる時に」と朴訥に云へるところ、「逢へるを」と云はずして、「逢へらく」と勁直に云へるあたりに注意を要す、些細なる點なれども、此朴訥ありて一層作者を現はし、其勁直ありて更に聲調の強きを致す、作者自己の發現は自然に國民の元氣を代表せり、眞に能く聖代の壯觀をたゝへ得て遺憾なしと云ふべし、聖武の盛代にあらざれば此歌を詠むこと能はず、此歌にあらざれば、聖武の盛世を盡すこと能はざるの感あらしむ、其力ある語勢を見よ、其重みある聲調を見よ、此雄健と莊重とありて、始て一首の短歌に一國の元氣を現顯するに足れり、奈良朝文學は即奈良朝國民の精神的實質なり元氣なり、而して此一首の如きは最も元氣的なる顯著の偉作なり、奈良朝盛世の文華は、永遠に國民の誇りとする處なれども、斯の如きの詩作ありて、更(349)に其盛大を仰がしむ、此に於て一首の短歌も其關係する所の至大なるを知るべし、
呼嗚明治の盛世は實に天平に十倍す、然かも此盛世を歌ふて、一國の元氣を現顯し得たる作歌如何と見れば、予は悵然として大息を漏すの外なきを如何せむ、嗟。
  丁未歳旦硯を洗ふて無一塵庵に記す
                     明治40年3月『馬醉木』
                      署名   左千夫
 
(350) 不折山人と語る
 
〇九月十日である、其前日の根岸庵の竹乃里人五週忌歌會に集合したる秀眞子と共に、不折山人の孔固亭を叩く、秋雨しよぼ/\降る晝過であつた、母堂の案内に從つて二人客間に通る、忽ち平日見つけぬ物が二つ眼に留つた、東側の壁に崋山の百合の横幅と床に古銅の花瓶である、山人の道樂も銅器にまで及んだかと思ふた、從來唐物模造といふ青銅の大きな花瓶があつたが、今日のはこれとは達ふ、頗る古色蒼然たる物だ、山人こられる、果然此銅器はどうかといふ、底に鑄出した文字が漢の文字だからそれが氣に入つて買ふたとの事である、兎に角日本作ではない 頗る面白いが漢まではどうかと云へば、或古銅癖が此音は千年以上の音であると云ふたとカンカン叩いて見せる これは秀眞子の領分であらふと笑ふ、
それから例の山人の家憲に移る、古法帖は忽ち左右前後に顯はれる、説明は屡々聞いたが、簡單でないから容易に覺える事は出來ないが、面白いことは何時見ても面白い、書癖山人相替らず説明して飽かない、聞いても聞いても記臆は出來ないが、面白いといふ點は殆ど一致して居る、鄭道昭の字は何といふても愉快ぢや不調形な所に素朴蒼古な云ふべからざる味のあるものとは異なつて居るが、鄭道昭の字は一角一點悉く活きて居る、うごめいて活きてるのではない、大きく活きてる、足も手も伸びるだけ伸ばして活歩して居る、こんなこといふて山人に笑はれるかも知れないから止めるが、六朝の文字を見ると誰でも手習の氣が起る、器用な字書きは、必ず自分(351)の字の下品といふことを悟らせられる、六朝の字は萬葉集の歌を形に顯はした樣な物だ、六朝の字を味ふと云ふ事は品性修養に極めて有益なるものと思ふた、併し山人の前では山人の説明を謹聽する許りで、出過ぎた事は言へなかつた、
山人いふ、此間或人が、君は金を取つて書くより只で書く方が能く出來ると云ふ評判だから、是から吾輩にも只で書く仲間へ入れてくれまいかと云ふから、ウンそれもよからふが、君などの樣に、かうしたら賣れようああしたら賣れようと云ふ寸方から茲をかうしてくれ、これを茲へ入れてくれなど云ふ人に只書いて貰ふ資格はあるまいと云つた云々、「馬醉木」の埴輪馬の表紙や紀念號の表紙は實に近來稀に見る所の出來であるから、不折山人は只で書けば好く出來ると云ふ評判をとつたらしい、「馬醉木」は實に光榮な次第ぢや、茲で不折山人に感謝する爲に一寸讀者諸君に告げて置きたい、予が始め山人に乞ふて注文を提出したのは、骨健にして肉温といふ萬葉趣味を發揮して呉れと、頗る六かしき希望を添たのである、二葉の表紙が如何に予の希望に添へるかは、見る人は必ず見るであらふ、宛然六朝の書の神意を得て居る、山人の靈腕は、日本古代の歴史材料を捕へ來つて、更に新意を發揮して居る、實に明治萬葉の趣味が形と色とに顯はれて遺憾がない、
話興は漸く熟して畫談に入る、山人いふ、洋行するとてそれ程困難ではない、僕は一年だけ居るつもりで出掛けたが、とう/\五年居てしまつた、徃つてしまへばどうにかなるものである、實は僕も今一ケ年居たかつた 勿論居る考で居たところ、戰爭の爲に歸ることになつたが又一方から考へると一年も早く日本へ歸らねばならぬ必要もあるのだ、何ぜなれは畫の研究上日本へ歸つてからの仕事が非常に多いからである、鹿子木などのやうに、又出直して洋行することは僕は其意を解せぬ、
(352)吾々があちらへ徃つて向ふの人等と競爭も出來、向ふの人のやる處をやり得るのは、肉の工合とか線の工合とか色の工合とか強みとか、温かみとか云ふ點に止まつて、愈一個の畫を組立てることになると迚ても彼等と競爭は出來ない、社會の階級に依て生活状態も異つて居る或は農家とか商家とか官吏とか學者とかそれ/”\異なる點が多い、日常の細事彼等にとつては極めて無造作な事でも、日本人にそれが容易に解らない、五年や十年居つたとてそれが何程も解し得るものでない、丁度彼等に日本の事情など話しても容易に解らぬと同じである、從令へば、八疊の客間に、背の低いテーブルを中にして客と主人が對坐話をして居る、テーブルの上には硯がある筆もある、茶托茶碗と土瓶もある古法帖なども一筋あると云へば、日本人には無造作に呑込めるが、之を西洋人に聞したら、何が何やらさつばり解りはしない、簡單に圖を書いて見せたつて解りはしない、大名の門や寺の山門など、どの樣説明しても彼等の頭に浮びはしない、日本人が西洋の事情に對するのがそれと同じである、それだから、西洋人の書く樣な畫を書いて居たら、どんな事したつて彼等に及ぶものでない、日本人はどうしても日本へ歸つて日本の畫を書かねばならぬ、さうなるとそれに就ての用意や準備や畫題の工風等種々な研究が容易な事でない、こちらへ歸つてからの仕事が非常にあるとは其事である、西洋で充分やつてくれば、日本へ歸つて直ぐに立派な油畫がかけると思ふは大間違である、日本へ歸つてくると西洋に居つた時より大抵畫がまずくなると、多くの世人は云ふさうだが、それは以上の樣な消息を解しないからである、日本へ歸つたとて上手なものが下手になる譯はない云々、予は大に其説に敬服した。
話は次から次へと移る、山人いふ、大きな希望を抱いて立つた人が其目的を達しない内に倒れると、世間から心にもない誤解を招き、汚名を蒙つて終る人が世間には隨分あるであろふ、渡邊崋山や僧月僊などは畫を書いて非(353)常に金を取つた人だが、是等の人は或目的の爲に畫を書た譯で自分の心には、畫家のつもりではないのだ、始めより金を得るために畫を書いたのである、金の爲に金を取つたのでなく、或目的の爲に金を取つたのである、されば金を取つたと云はれた彼等の畫に少しも俗氣がない、崋山は貧乏士族で、國の爲に盡す事も親を養ふことも、金のない爲に出來ない所から、畫を書いて金を取ることの最も好方便なことに心就いて畫を書いたのであるから、始めから畫の爲に畫を書いたのでない、金をとると云ふことに就て少しも心に疾ましい事はないのだ、月僊も其通りの僧であるから、佛に仕へる爲め寺を整理する爲に、金を得る策を講じて畫を書いたのだから、勿論自分は畫家のつもりでない、金を得る目的で畫を書いたのである、併しそれも寺の爲にとつたので金の爲に金をとつたのでない、幸に其目的を達して寺も立派に出來上り、猶幾千兩の殘餘金を、其筋の役人に獻じて、近傍の貧民救助の道を講じたといふことである、かうなると金をとつても立派なもので、乞食月僊の名も却て名譽に感ずる位である、世間には同じ目望を持つた人も不幸中途に倒れて陋劣の名を蒙つて終る不運の人もあるに違ひない。僕なども洋行前には一心に金を溜めた、世間からは隨分不折金を溜る金を溜ると云はれた、「日本人」の香川などには頻りに惡口を云はれた、併し僕は金を溜めなければ洋行は出來ない洋行せねばならぬ爲に金を溜めた譯である、若し不幸にして僕が洋行も出來ない内に倒れたらば、金を溜めた畫かきと云はれてしまつたのである、可笑しいことは、僕が洋行したら、香川が手を返す樣に僕を褒めた、世事は皆そんなもので大に幸不幸がある。蕪村などは全く畫を以て性命とし、自ら畫家の天職と品性とを考へて居つたが、金錢に關することを少しも傳へない、崋山の弟子どもは只崋山の金を取つたところ許り學んで、無暗と金をとつたは極めて陋しい、
不折伊藤侯を叱すとか仰山な事が新開に出た、あれは只伊藤侯が僕を面白いやつとでも聞いたか、侯の所へ出入(354)するといふ男がきて、侯が遊びに來むかと云ふから遊びに徃かんかと云ふので、僕は權門に出入するのは嫌いだ、詩人や畫家などは決して權門に出入すべきものでない、そんな事をすれば必ず好い結果を見ない、僕は現にどこへもそんな所へ行かないと云つて斷つたさ、それだけの事がすばらしく仰山に新聞に書かれた、伊藤侯はそんなことゝをに忘れて居つたらふさ、一笑して山人稍意氣軒昂であつた、時に馬醉木紀念號で、君が卷頭の氣炎は大賛成だ、ウムあれは僕の愚痴さと云へば山人これに就て猶話があつたが、手前味噌になるから略して置く、併しあれに就て餘り賛同の聲を聞かなかつたから、不折山人に大賛成といはれて頗る※[口+喜]しかつた、千人の笑者ありとも、不折山人の如き一人の大賛成者を得れば以て安ずることが出來る、日暮に歸る、四壁居記
                      明治40年3月『馬醉木』
 
(355) 四壁小言〔一〕
 
作物に對して批評を爲す者の多くは、これはうまいと云ふて褒めるが、これは面白いと云ふては褒めない、うつかりして聞けば、うまいも面白いも同じやうに思はれるが、其意義は大に違つて居る、うまいとは主に手際に對する詞で、面白いとは重に趣味に對する詞である、それで多くの世人は、大抵うまいと感ずる手際を悦んで、何となし面白く感ずる趣味を解し得ないのである、行義のよいおとなしい兒供を褒めるものは多いけれど、幼なく無邪氣な天眞のかわゆさを解するものは少ないのと同じことであらふ、趣味といふものは容易に解せられないものと見える、左千夫記
                     明治40年3月『馬醉木』
 
(356) 〔『馬醉木』第四卷第一號消息〕
 
拜啓本號は第四卷一號と改卷致候 此盛容を諸君に御目にかけるは蕨眞君の出資により候、兼て申上候通蕨眞君恢癒喜び既に候故、是非一月中とあせり候へども例の通にて申譯はなく候 蕨眞君も其後次第に宜敷三月へ入候ハヾ庭前歩行位は出來可申候間御安心被下度候、
小生も新年早々老父に永別致し候、八十五歳の高齢を以て、法華經誦讀中、傍人には居睡りと思はるゝ程、無造作に永眠致候由、多くの人々よりは結構な終り、目出度往生なりと申され候 自分にも之れに相違なく考候 目にも笑ひ口にも笑ひ候得共、一昨年母に別れ又一人の父に別れ候ては、内心は矢張り淋く候、兩親ある人が非常に羨しく相成候、右樣の次第に候間本號にて新年の御慶は止申候 此段不惡御承知願上候、早々頓首(左生)
                     明治40年3月『馬醉木』
 
(361) 〔「金刺信古の歌」附記〕
 
 〔篠原志都兒の文略〕
左千夫いふ、金刺信古の歌に就ては前に柳の戸君より歌の拔書を寄せられたることあり、當時予は今少しく知ることを得んと欲して、掲載を見合せ居りしなり、今志都兒君の寄に依て其一端を紹介することを得ぬ、歌に環点を附したるは予の注意を表したる歌なり、其文及歌に依て見れば、信古は神官にして又能く眞誠なる信仰を有したるの人なり、其信仰心の表現即彼が如き眞卒にして簡直なる歌をなせり、附点の教授の如き直ちに赤心を披瀝せる間に自ら一種の風調を見る、漫りに萬葉を口眞似したるものにあらざるの痕跡を窺ふべし、作歌餘りに少數なれば、未だ深く稱揚し難しと雖も、徳川時代の歌人中平賀元義以外更に一人を得たるの感なきにあらず、信濃の諸同人願くは振つて、遺玉を拾ふの策を立てよ、丁未四月二十六日記。
                      明治40年5月『馬醉木』
 
(362) 〔『馬醉木』第四卷第二號消息〕
 
      (一)
 
肅啓諸君益御健勝御悦び申上候、「馬醉木」の發行一回にして世は既に青葉と相成候、世上の物總てがチョコチョコ致しセコセコ致し小さな車の廻る如く忙がしき中に、吾「馬醉木」の如きノロマにして放縱なる怪物が、不思議と生命を持續致居候、勢家に求めず世人を迎へず、氣儘勝手に打振舞ふて、二十世紀の大道を押通らんとするは、馬鹿と見らるゝ程大膽太き業と時々自らも呆れ候こと有之候、前號よりの表紙及前號の插畫松と梅とは例の不折畫伯の好意に候、田舍の少女は百穗畫伯の好意に候、然るに前號目次はそれを落し申候故一寸茲に申上置候。
 
      (二)
 
神田彩雲閣發行「趣味」に二三ケ月前より、同人諸君の歌を出し、猶今後大に根岸派の作物を歡迎致す事に相成居候間、文章なり歌なりどし/\御投稿願上候 稿は直に小生方へ御投稿の方便利に候
 
(363)      (三)
 
小生先月より「日本」新聞へ作物を出すことに相成り、其後引續き勾玉日記といふを出し居り候、それに就き一言本誌の讀者諸君に申上度候、從來吾根岸派の歌と「日本」新聞とは最も深き關係を有し居たるも、子規子世を去りて漸く疎く、三宅雪嶺陸葛南の二氏は全然歌を知らず、(葛南氏は歌を作るも眞の歌は知らず)子規子の歌も井上通泰氏の歌も差別なき程の人々なるは、子規子の系統を有する吾諸同人の歌が、當時の日本紙に重ぜられざりしことは、能く諸君の熟知せらるゝ處と存候、故に舊「日本」の記者諸氏が連合同紙を去り候とて、吾根岸派の歌に何等の關係を感ぜざるなり、文學は個人に隨從すべきものにあらず、個人的感情の支配下に生息する文學は渡世文學なり營業文學なりとは小生の持論に候
虚子氏碧梧桐氏が「日本」を去るは、虚子氏碧梧桐氏の隨意に候へども二氏が「日本」を去りしとて、俳句が「日本」を去らねばならぬ理由は少しも無之候、況や俳句が舊「日本」の記者諸子と去就を共にせねばならぬ理由の如き毛の先程もなき筈と存候、故に小生は以上の理由を以て、當時根岸派の俳句が個人の去就に隨從したるの感あるを甚だ遺憾と致し候、されば小生が今回「日本」新聞の希望に依り吾作物を同紙に出すに就きては何等顧慮する点は無之候、要するに小生は小生を用ゆるものゝ爲に働くに外ならず、如何なる新聞と雖も小生を信じ小生を用ゆるものあらば、小生は其新聞のため又吾文學の爲めに働き可申候、まして小生の最も敬親する中村不折君が其美術顧問として「日本」にあり、而して小生を勸め小生を紹介せるあるをや 猶小生は本誌の讀者諸君にして小生に同情ある人に「日本」を購讀あらんことを希望致候。改行
 
(364)      (四)
 
森鴎外氏の發意になれる、一種の歌會が、此三月より同氏宅に開かれ、爾來毎月一回づゝ相催し居候、それは主人及び上田敏佐々木信綱與謝野鐵幹平野萬里の諸氏と外に小生との會合に候、文學に對する趣味と見解と頗る相異なれる、人々をあつめ候、此會合が如何なる結果を産むべきかは、今日のところ豫測し難く候、時には談笑の間に友義的研究を共にし、或時は又颯然衣を拂つて筆戰相見るも愉快なるべく候、要は私情を捨てゝ公明に從ひ、眞個斯道に盡す念よりせば交遊固より可なり敵對毫も不可なしと存候、
 
      (五)
 
出來るならば吾馬醉木も毎月發行致度候へども實際のところ、小生一人の手にてはそれは六つかしく候、されば今後早く公表致度き諸君は「日本」若くは「趣味」へ御投稿願上候、一度に多く發表致度き諸君は、「馬醉木」へ投稿希望致候、我作歌を百世に傳へんとするの抱負ある諸君は、雜誌發行の遲延位に屈托するなからんことを希望致候、本誌編輯に當つて、平福百穂君掘内卓君等の新進作家が嶄然頭角を顯し來れるは小生愉悦禁じ難き處にて候、其他齋藤茂吉君柳澤廣吉君又各獨特の地歩を占めて注目をひくに至れるも頼もしき限に候 妄言多罪(五月一日左千夫)
                     明治40年5月『馬醉木』
 
(365) 〔『馬醉木』第四卷第二毫稟告・正誤之謝辭〕
 
     ◎稟告
 
一、今後歌文章とも課題を廢して、隨意の投稿を待つ
一、歌會は毎月十九日左千夫宅と定む 歌を詠めば歌會、歌を詠まざれば十九日會とす、臨時に歌會を開く時は特に報知を掲ぐべし
 
     正誤之謝辭
 
〇前號四〇頁下欄獨荊軻傳以下六首は齋藤茂吉君の歌なり。
〇仝四二頁及び四三頁中横川眞吉文は眞古文の誤なり
猶此外に誤植多く候へども、是全く小生に校正に能力なき結果にて如何とも致方無之候、校正に就て小生は決して不注意不親切等はせぬ考なるも、頭腦の工合故力及び申さず候、同人中に特志家ありて馬醉木の爲に校正を爲しくれるなきやとのみ考居候、讀者諸君に御推諒を祈り候、(左千夫手記)
                     明治40年5月『馬醉木』
 
(366) 田安宗武の歌と僧良寛の歌
 
     (一)
 
徳川時代殆ど三百年、此間に於て能く歌を以て顯はれたるもの其數實に百を算す、所謂堂上歌人の愚昧者流は固より云ふに足らずとするも、早く當時の墮落に憤慨し自ら革新の意氣を主持して起ちたるは、彼の戸田茂睡を始とし、下河邊長流僧契冲荷田春滿父子賀茂眞淵及び其諸門生猶香川景樹小澤蘆庵等、最も有名なる人々なりと雖も、然も以上諸子の議論及び其作歌に就き今親しく吟味を逐げ來れば、一掃蕩然として手に殘るもの少し、議論の淺薄なる作物の幼稚なる、到底貫之躬恆の糟粕定家西行の餘沫に過ぎざるの感なきにあらず、勿論景樹蘆庵の徒は固より貫之定家に比せらるゝを以て無上の光榮と心得居るべければ、深く云ふに足らず、夙に萬葉を唱道し頻りに古へ振りを尊みたる眞淵一派の歌又殆ど取るに足らざるは口惜しき限ならずや、宣長魚彦の如きは殊に古躰を詠めりと稱せるものあるも多くは口眞似手眞似の滑稽に陷り、萬葉の精神を得たりと覺ゆるもの實に百中に一をも存せざるなり、之を要するに當時の萬葉主唱家等は、萬葉の歌の、其言語を解して其精神を解せず、其句意を解して其趣味を解せず、故に之に倣はんとするや、只其形を模して未だ精神を得る能はず、徒らに語調の口眞似に終はれるなり。
(367)余は、眞淵一派の歌景樹蘆庵諸流の歌に就き、いつか必ず一度掃討的議論を試むるの決心あり、然れども今其機にあらざるを思ひ、虚中に實を探ぐり、闇中に光を求むるの擧に出で、徳川時代歌礫の中より聊かなりとも玉を拾はんと欲す。
前述の如く、萬葉主唱家の作物は、殆ど其實なしと雖も、其唱道の聲は遂に虚聲に終らずして、思はざる所に萌芽を萌すに足れり、其萌芽は固より萌芽にして、未だ確實の域に達せざるも、其當時にありての作物としては大に稱揚するの價値あるや明なり、所謂虚中の實とは何、闇中の光とは何、先年本紙に於て、子規子が紹介せる平賀元義の如き田安宗武の如き猶予の新に加へたる僧良寛の如き即ちそれなり、平賀元義の歌は今之を重複するの要なし、以下聊か宗武良寛の歌に就て愚見を添ふべし。
 
     (二)
 
宗武卿の歌は續日本歌學全書中近世名家集所載天降言抄に依れり、此抄は編者佐々木氏が天降言全編中より抄出せるものなれば、宗武卿の歌は此天降言抄以外に猶多く存するものなるを知るべし、今は本編を見るに由なく、單に佐々木氏の選出にかゝる此抄本の歌僅に七十餘首に就て卿の作歌を論ずるを遺憾とす。
予は茲に天降言抄七十餘首の中より檢して二十八首を得ぬ、全編の約五分の二以上を採れるなり、予は讃者の誤解を避けむが爲に猶一言を附加せざるを得ず、「上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ二人」と子規子は歌へる如く、徳川時代のあらゆる歌人中只此二人ありとせる其一人の歌に僅に二十八首を抜くと云はゞ、人或は予の餘りに狭隘なるを疑ふことなきにあらざらんも、實際に於ては子規子の激賞と雖も三百年間殆ど歌人なきに僅(368)に卿と元義とを發見し驚喜の餘に出でたるものなれば、固より多くの凡歌人に比較しての批判なるや明なり、予の稱揚も又其意に外ならず、然らざれば其作歌の價値に於て製作の數量に於て卿の歌も元義良寛の歌も未だ激賞に價せざればなり。
予は先年聊かの事情に驅られ、上田秋成の藤簍册子《とうろうさつし》の批判を試みたることあり、秋成は一種の氣骨を有し當時稍時流を拔けるの人なりしも、其作歌を檢するに及び、藤簍册子七百餘首中僅に十九首を得るに過ぎず、今一首を得て二十首に滿たしめんとせしも遂に其一首を得る能はずして止めることあり(此稿は三河|同人《どうにん》の發行にかゝる雑誌「甲矢《はや》」に褐ぐ)然かも當時に於て予は猶秋成の他歌人に一頭地を拔けるを稱せり。されば予が今田安卿の歌に於て十中四を採るの割合を得たるが如何に其異數なるかを知るべし、豈に只天降言抄のみならんや、彼の有名なる鎌倉右大臣家集と雖も、精嚴なる批判眼を以てせば、採るべきもの四五十首の間を出でざるは明なり、然かも稱揚にあたへせる所以は皆周圍歌人との比較に基づくものなるを知らざるべからず、讀者深く茲に注意するところなくんば、金槐集を讀み天降言を讀みて、大に誤まらるゝことなきにあらざるべし、
是れ予が茲に反覆婆言を費す所以とす。
宗武仙卿の歌に於て殊に愉快に感ずる點は、詞調にも着想にも、少しも「ヒネクリ」たる跡なきことゝ、感懷の最も醇正なる事とにあり、斯の如きの言を爲すも、又これ當時の作歌が殆ど皆ヒネクリコネクリを出でざるが故なるを察せよ。
 
(369)      (三)
 
     田安宗武の歌
 
   ま帆ひきてよせくる舟に月照れり樂しくぞあらむ其舟人は
「佃邊《つくたへん》にて」と詞書あり、平意淡懷如何にも無造作に詠み下したるに却て清興流るゝ如き感あらずや、感想極めて自然にして叙辞又少しも巧むところ無し、此一首に依ても猶作者の人となりの、如何にも朗かにしてくど/\しからざるを知るべし。
   夕づく日はやかくろひて旅衣ころも手寒くあき風ぞふく
「旅の心を」とはしがきあり、一見平凡何等の奇なきも、旅中の秋のくれ何となく物淋しき平易なる旅情を見る、單に淋しいと云ふには決して悲痛なる意あるにあらず、何等か特別の事情なき限りは斯の如き尋常平易の旅情を詠ずるに却て人情の自然を見るべし、ヒネクリ歌人の夢想にだも知る能はざる所なり、猶此歌に就ては句法の齊整に注意を要す、「夕づく日」と初句先づ切句なるが故に、二句も同じく、「はやかくろひて」と切れ、三句勿論「旅衣」と切句、四句も「衣手寒く」と切れ五句「秋風ぞ吹く」又切れ句なり、依て以て句法一貫せるを見よ、萬葉集人丸の歌。
   名くはしきいなみの海の沖つ波千重にかゝりぬやまと島根は
卿は慥に是等の歌は句法を吟味し居《ゐ》るものたることを知るべし
(370)   昨日まで盛を見んと思ひつる萩の花散れり今日の嵐に
かくまで平易には何人にもえ作れまじ、思ひ浮ぶ其まゝを飾りもつくろひもなく、雲の山を出でたらん如く詠み出でられたるに、却て清く無邪氣なる作者の人格と境遇とを顯はし得たり、一誦人をして晴々しき思あらしむ、斯の如く一見際立ちたる節なき歌は能く味ふて而して後に始めて其風韻を知り得べきなり、兎角物々しきを好み始より終まで苦毒六つかしきを以て復雜なりとのみ心得たる小才子づれの目に留るべき歌にはあらず。
   吾や妹や子等はいましにあえぬべし汝は猶も松にあえてよ
「九十の賀し侍りける人をほぎて」とはしがきある歌なり、「あえぬべし」はあやかるべしなり、われらは皆々して汝《いまし》にあやからんぞ汝は猶千歳の松にあやかれよとの意なり、例に依てのどかに朗かなる卿の歌振り、敬愛の情は隈なく詞調の上に溢れたるを見よ、祝賀の歌とし云へは百が百まで形式的詞句の配列たる中に、少しの角々しき詞もなく又虚禮的無駄詞もなく、眞率にして温情に富める能く祝賀の躰《てい》を得たりと云べきか。
   天地のめぐみにあるる人なればあめの命のまに/\をへや
此卿の歌はいづれも其眞情をさながらに流露せる感あるは嬉し、思ふに是れ卿の理想にして又卿の信仰なりしならん、彼の天命を樂んで又何をか疑はんと云へる陶淵明が心事を慕へるか、卿は能く富貴に處して猶淵明の清節あり、白雲靈山に倚るの觀を爲す、眞に人世《じんせ》の至樂なり。二の句「あるゝ」は生《うま》るゝなり四の句「あめの命《めい》の」命《めい》はいのちと讀むべし。
 
      (四)
 
(371)   さゝ波の比良の山べに花さけは堅田にむれし雁歸るなり
   山城の井手の玉がは水清みさやにうつらふ山吹の花
極端に陳腐なる平凡なる題目にして然かも猶極端に平易に叙し去つて一點の修飾を用ひず、思ふに相當なる製作力ある作者にして、斯の如く虚心に作り得るは却て其凡手にあらざるを見るべし、平凡にして平凡に終り陳腐にして陳腐に終らば固より論ずるに足らず、此二首の如き只陳腐平凡なりとして抹殺し去るべきか、予は決して其然らざるを云ふ、題目は陳腐なり叙法は平凡なり、然れども此作者の一種微妙なる手腕は僅かなる寫實的叙法に依て能く一片の生靈を附與し、讀者に陳腐を感ぜざらしむ、例に依てどこまでも無邪氣なる此作者の態度が無意識の間に物の眞實を捕らへ居るを察せざるべからず、此卿の特色として感情まづ詞句を掩ふて居るに加ふるに「堅田にむれし」と云ひ「さやにうつらふ」と云ひ此の僅かなる寫實的筆法に依て能く二首の歌に一道の生氣を與へ得たるは、卿の無邪氣と虚心とあつて始めて能し得べきところなり。
予は猶一言の婆言を費し置く、予と雖も是等の歌を傑作なりとして稱揚するものにあらず、宗武卿の作歌は一見平凡に見えながら、極めて微細なる點に能く死を活《いか》すの妙手ある事を示さんが爲なり、されは如何なる場合と雖もこれらの歌は決して模倣し得べからざるものなるを知るを要す。
   夕日かげにほへる雲のうつろへは蚊遣火くゆる山もとの里
   はちす生ふる池のみぎはにたゝずめば衣匂はし清き風吹く
「にほへる雲のうつろへば」と云ひ「衣にほはし」といひ、僅かなるところに寫實的妙手を振へるは前二首と殆ど同一の叔法なり、多くの歌人といふ歌人の歌は大抵徒に想をコネクリ其詞をヒネクルが故に、其作者自身の(372)性格と風姿とを連想し得るもの殆ど稀なるを常とするに、ひとり此卿の作歌はいづれの歌にも能く作者自身の性格風姿を連想せしむるなり、此卿の作歌の風格が最もそれに適せるにも依るべけれど、作意よろしきを得ずんば焉ぞ然るを得べけんや。
以上の蚊遣火の歌の如きは、殆ど客觀的作物なるに係らず、猶作者自身の清高なる風姿が或地點に於て山麓の蚊遣烟を眺め居るかの如き感あり、心朗かなれば歌もおのづから朗かに出で來るが故に、引て作者の風姿を偲ばしむるにやあらん、「はちすおふる」の歌は「みぎはにたゝずめば」など作者自身を叙したれば、作者の顯はるゝは勿論なれど、高士靈華に對するの状、如何にも眼に見る心地するなり、「衣にほはし」の一句殊に富麗を極む、此「にほほし」は色の上に言へることなるは勿論なり、蓮葉《れんえふ》の緑蓮花の紅白、渚に立てる錦袍の人と色相映じたる時、眞に天國の觀ありたるべし、衣にほはしなどいふこと、單に其詞の美しきを悦で、心なく普通の人の使いたらんには、到底口眞似たることを免れざらんか、萬葉集に見ゆる「曳馬野に匂ふはりはら入りみだり衣にほはせ旅のしるしに」とあるなども、從駕の朝臣等の歌へるものなり、されば斯の如く華やかなる形容語を普通人の使用する場合には、頗る注意を要すべきなり。
 
     (五)
 
   み吉野のとつ宮ところとめくれはそことも知らに薄生ひにけり
   武藏野を人は廣しとふ我は只尾花わけ過ぐる道とし思ひき
二首いづれも薄を題として詠めるものゝ如し 然も通誦反覆少しも題詠臭味を感ぜざるは頗る敬服すべき點なり、(373)卿の好みほ最も自然といふ點に存したるものゝ如く、此吉野の歌の如きも、猶限前の薄を主と言擧《いひあ》げして、其懷古の感慨は却て幽かに想底に潜めたる如き以て其作意を窺ふに足る、
一見極めて平凡なるも用意根柢に存することを忘るべからず。
武蔵野の歌の如き、大抵の歌人ならば、徒に空漠たる想像に耽り、とりとめなき形容をヒネクルなれど、卿は直ちに眼前の事實を主とし、少しも實際を離れざる感懷を叙して暗に他を冷笑せるかの趣きある、卿の見識高く時流を拔けるを知るに足れり。
吉野の歌にも只薄生ひにけりとのみあつて、荒たりとも古へを思ふとも云はず それが爲め却て感慨の深きを感ぜずや、武藏野の作も其手法を同ふせり、人は武藏野を漠然廣しと云ふと雖も、われは只尾花をわけ過ぐる道と思ふのみとあり、廣しと云はずして却て廣き感じあるなり。予は卿の歌に就き屡寫實の妙手あることを云へり、今又此二首に就ても之を稱せざるべからず、「尾花わけ過ぐる」の實際に適切なる用語の如き此卿の注意を見るに足るのみならず依て以て平靜なる歌に能く一道の生氣を附與するの活手段たることを知るを要す、題詠を爲さんとするものゝ如き、深く是等の歌にかんがみる處あるべきなり。   あしたのぼり夕べまかづる宮人の家によろしき朝がほの花
朝顔歌中の神品とや云はまし、清麗にして優艶なる朝顔を配するに、世は泰平にして朝夕氣安く宮仕する宮人の家を以てしたる、眞に説明し難き美妙の感じなり、あした昇り夕べまかづる宮人なる詞の中に、奉平の氣は自から溢れ居らずや、實に朝顔は平和の趣ある花なり、其麗はしく手弱《てよは》き風情は如何にも宮人の家によろしき花なり、(374)宮人も高華なる家居にはあらず、所謂朝のぼり夕べまかづる中流以下の宮人なるべし、其高華ならざる宮人にして始めて朝顔に適するなり、卿の歌を得て朝顧の花も始めて神彩を發揮せり、宗武卿の詩境は實に茲に至れるか、予は今にして卿を知れるの遲きを悔ゆ。
   梅咲て帶買ふ室の遊女かな      蕪村
落想甚だ相似たるを見ずや、妙は配合神を得たるに存す、漸の如き詩作を得て花神も始めて滿足すべきなり。
   ひたりみきり馬の寮《つかさ》のさはぐなり貢の駒の今や來ぬらむ
   かぐ山におふるま榊えださやにさえたる月は神もめづらむ
殊にとり立て云ふべき歌にもあらねど、例に依ていづれも、行雲流水のとゞこほりなく兎の毛の末ほどなる塵も濁りもあらぬ歌なり 貫之の歌に「逢ふ坂の關の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」とある 此の影見えてなどとヒネクルが爲に俗氣を生ずとは貫之以下千年間の歌人にはどうしても解すること能はざるなり。
 
      (六)
 
   東の山のもみち葉ゆふ日にはいよ/\赤くいつくしきかも
   松の葉の古葉もふれり住の江のあらゝ松原あられふれゝば
平凡なりと云はゞ云へ、兎に角眼に實際の好景を見て其感懷を歌へるものゝ如く見ゆるは、詩想醇正にして叙辭又甚だ自然なるが故なり、題詠にして斯の如くなるは其用意の尋常ならざるを見る。
   風はやみには火のかげも寒けきにまこと深山は霰ふるらし
(375)如何にも寒夜の感じを歌はれたり、卿の歌多くは、のどかにゆるやかなるを常とすれど、此歌は卿の歌には珍らしく、能く寒惨なる趣味に協へる調子にて、音調堅く引き緊りたるは、さすがに卿は調子の緩急をも心得たる人なり。
   かへらむと我せし時にわが紐をむすびし姿いつか忘れむ
想調ともに能く萬葉の精神を得たり、堀川百首の題にて詠める歌とあれど、題詠の構想よりなれるすさびとは思はれぬ作振《さくぶり》なり。
   百代ふる翁のまひのたちつゐつをかむ御前の竹なびくなり
   千年かねて遊ふてふこと誠かもむしろ田に今も鶴遊ふなり
如何なる題に對しても、どこまでも感興の實際的なるは、此卿の歌が徳川時代全体の歌人に卓越したる所以なり
「たちつゐつをかむ」と云ひ「むしろ田に今も遊べり」と云ふ、どうしても目に其實際を見たる感じなり 予は卿の歌に於て得る處多し、そは如何なる平凡淡泊の材料と雖も、作者の實際的感興を作歌の上に顯はし得ば、生命ある歌を作り得べきを知れり、構想に巧を弄し材料に奇を撰ぶとも、感興的情趣が詞と調子との上に顯はれざれば、精神なき人形と等しかるべし、歌を作るもの最も能く這般の消息を解するを要す。
   楯なみてどよみあひにし武夫のこてさし原は今はさびしも
   いにしへにゆきはゞかりし不破の山關の關屋は跡だにもなし
凡そに見るならば只無難の作なりと云ふべきなれど、吾々の好みを云はゞ斯の如き題意を歌はんには今少しく痛切なる感情と緊張せる詞調とを希望するなり、乍併又の一面より考ふれば、そは此卿の本領にあらず、前に繰(376)返し云へる如く、宗武卿の天性寛裕何事にも平易に緩やかなる所の其儘作歌に顯はれたるが卿の本領にして、高く他に傑出したる所以もそこに存するなり、されば以上二首、こてさし原や不破の關に對する懷古的純主觀の歌にも猶悠容迫らずの風を見る、是れ卿の長所にして又短所なりと云はゞ云へ、斯る場合に必ずしも痛切なる感情ありとのみ定め難ければ、卿の如き位置の人にして又卿の如き性格ある人の感情と見ば、普通人の痛切なるべき所に、猶迫らざるの情趣を見るは一種の詩趣と云ざるを得ず、古人も云へることあり、歌を作るは易く歌を知るは難しと、此卿の歌の如き最も知り難き歌に属するものか。不破の歌にも、句法に用意の存するを知らざるべからず、三の句「不破の山」と結び置きて次に關の關屋はと改めて呼び起せる邊《あたり》に頗る力の籠れるを見るべし、一首の中心に最も力籠れる作意は萬葉の神髓なり。
 
      (七)
 
   青雲の白肩の津は見されどもこよひの月におもほゆるかも
明和六年九月十三日とはしがきあり、例の高朗圓熱、宗武卿の本領實に茲に存せり、高く天地の間《あひだ》に悠遊し遠く人間《にんげん》の畑霞《えんが》を離る。
   武夫のかぶとに立る鍬形のなかめかしはは見れどあかずけり
何となし面白く興ある歌なり、「見れどあかず」など云ふ詞は、如何なる場合にも大抵差支なく用らるゝ詞だけに、能く濫用さるゝ詞なれど、此歌の如く最も適切に感ぜらるゝは甚だ少し、或る一つの物に對して最も強く觀賞的感情の起れる時ならでは「見れどあかず」など云ふ詞を適切に働かし得べきにあらず、是等の歌に就て同(377)一の用語も其場合に依て如何に適不適あるを察すべきなり。
   しめはふる岡のつかさの清ければいもゐも安しぬさも安けし
こは舞樂のあひのまに詠をなさしめたる爲によめりとあり、「岡のつかさ」のつかさとは小高き所を云ふ、「いもゐも安し」のいもゐは齋場《いもひのには》なり、品位高くやすらかにして能く清淨の感じ現はれたり、神前の朗詠には最も体を得たりと云ふべし、今日の世は何事も活動を尊ぶからに、直接社會に關係なき歌の上にも其影響を蒙り、意味の多く籠れる歌や材料の變化せる歌のみをよしとして調子を以て勝れるものを、閑却するの傾きあり、歌に詩品を欠くは多くは調子の如何に存すれば、此卿の歌の如きは今日の如く品格なき歌のみ多き時代にあつては、大に研究を要するものたるを信ず。
   物もなさで世にふる人はへら鷺のむなゐざりすに猶劣りけり
巧妙なる諷刺の歌に猶よく詩品の高きを失はず、どこまでも卿の本領を以て押しとほす處最も敬服に堪ず、「むなゐざりす」面白き詞ならずや、「むなゐざり」は空しくあとじさりするの意なり。
   秋深き立田の川はかくぞあらん入日さす雲のうつる川づら
茸狩《たけがり》にゆきけるとき中川を過ぐるほどと詞書《ししよ》あり、例の如く、「入日さす雲のうつる」と眼に見たる實景を直接に詠みいづるが卿の特長なり。
   晝ゆきし川にしあれど夕されは靜けくゆたに新しきごと
こは歸途の作なり、實見の感懷を詠ずるの外決して殊更なる空想をたどらぬは、其識見遙に眞淵の上にあり、秋の日くれに夕露しツとりとせる川面の如何にも靜におちつきたる景色に新なる感興を引るなり、是らの歌に依て(378)卿の趣味感覺は極て高く最も發達したりしを知るべし、古今幾百の歌人、多くは才気を以て歌を作る、巧に想を構へ趣向をこらし、言語の運用又頗る妙を盡すと錐も、憐むべし彼等の多くは、趣味感覺極て幼椎なるが故に、悉く拵へものに陷り精神裳拔の骸歌を作り得るのみ、嗚呼彼等は遂に詩品は絶對に精神に伴ふものなることを悟り得ざるなり。
以上宗武卿の歌に就き、予は殆ど其の云はんと欲する所を盡せり、然かも予は猶卿の歌全体に對して數語を添ざるを得ず、天降言を通じて徹頭徹尾襲蹈の痕跡を留めず、其作物に依て卿の心を察するに卿は只自己の爲し得る所に安じ從容事に當れるものの如く、強て自己の能はざる所好まざる所を爲さんとするが如き念慮は少しだもなかりしならんと察せらる、萬葉を唱道して敢て萬葉を模せず、加茂眞淵荷田在滿を敬して然かも少しも彼等に倣はず、自己が心の趣く所に趣き超然として自己の本領を持す、他が模倣し能ざる自己の天品を其作歌の上に發揮し、悠揚として天地の間に棲息せり、而して玉の如き其人格は又人をして眞に敬仰に堪ざらしむるものあり、當時の歌人一人の之を知るものなく、明治の歌人又一人として卿の歌を知るものなし 俳人を以て世に目せられたる子規子に依て始めて其卓絶を認められしと雖も、猶今日の文士中眞に能く卿の歌を解するものありや、偉人にして始めて偉人を知る、子規子にあらずして焉ぞ宗武卿の歌を知り得んや。
 
      (八)
 
     良寛の歌
 
(379)明治十二年三月刊行に成れる僧良覚歌集てふ小册子に依て、禅師の歌を見るを得たり、良寛禅師は越後の人今其傳記を詳にせずと雖も、行ひの高潔なると能書の靈筆なるとを以て夙に世に聞えたる人なり、禅師又歌を好み隨時に作詠を試みられたるものの或は失し或は存し、後人僅に其の歌集一本を止むるを得たりと云ふ、禅師固より歌人を以て居らず、只自ら好めるまゝに隨所隨時の懷をやれるに過ぎざるものゝ如し、然かも其僅に存せるものゝ中に於て、徳川時代幾百人の專門歌人が、殆ど至り得ざりし所に至れるの佳什を殘せり、集中載するところ、長歌十四章、旋頭歌九首、短歌九十餘首を見る、長歌は別に論ずるの期を待つ、今旋頭歌短歌合して百餘首の中より、二十九首を拔き別に子の所藏歌幅十三首中より五首を拔く、前後合して三十四首を得たり、全數に對する三分の一強に當る、抑も歌人ならざりし禅師が果して如何なる歌をか有する。
   山さゝにあられたばしるおとはさらさら。さらり/\さら/\とせしこゝろこそよけれ(旋頭歌)
良寛禅師は其人即ち總て詩なり、其心即ち詩なり其詞即ち詩なり、されば目に見たる物におのづから動ける心を口に出でくるまゝの詞にて直ちに歌とせり、詩の心動いて詩の調影《てうかげ》の物に從ふ如く出で來れるもの即ち此歌なり。
心の響きをさながらにひゞける此歌、即良寛其人は隈なく此歌の上に想見せられずや、一首の構成上に、少しだも手拵らへの跡を見ず、作者其の人の心は、何等の障りにも逢はず何等の隔てにも逢はず其思ひは其まゝに流露せるが故に、意義にも詞にも、いさゝかのとゞこほりを見ざるなり、眞と美とを一致せる歌ありとせば此歌の如き即ちそれなるべし、作者の構へた思想や拵へた詞の爲にいつも作者の本心の響きはさゝへらるゝものなることを知らざるは眞に憐れむべきなり、世上多くの歌人らは、只おのれの心をのけ物にして、漫りに、筆の先詞(380)の先に空想を構へ、寧ろお伽話に類する趣向を立つるを以て、作家の本領と迷信し居るなり、斯の如きは寧ろ詩人にあらずして詩細工人たる歌人らに此の禅師の歌を見せしめば、必ずやさ湯を呑むの思ひすと云はんは必然なり、詩細工人者流の歌、時に人をして面白からしむることあるべし、斷じて人を感ぜしむること能はざるを如何せん、落語講談能く人をして面白からしむ、若しそれ歌にして単に人を面白からしむるに止まらば彼の落語講談と何の別つ所かある、眞詩人にして始めて詩を談ずるを得べし、ヒネクリコネクリの詩細工人者流焉ぞ詩を談ずるの資格あらんや噫。
 
      (九)
 
   此のゆふべ秋は來ぬらし我宿の草のまかきに虫ぞ鳴くなる
   わがまちし秋は來にけりたかさかの尾のへにとよむ日ぐらしの聲
良寛の生活は所謂雲水の生活なり、一切人間の榮華を顧みず、生を社會に屬するも只それ身は天地の回轉に委して秋毫の執着なし、淡泊水の如き生活にも時に詩章の感懷を催し來るもの即歌となれり、禅師の生活と禅師の心事とありて始めて此の如く自然なる詩章を得べし、想は平凡なり材料は陳腐なり、然かも詩章の平凡ならざる陳腐ならざる所以のものは、作者の生活即ち歌なるが故なり、世を捨て家を捨て僅に躰躯を存するの禅師にも猶秋をまち秋を悦ぶの情想は殘れり、歌の淡然たるは淡然たるべき理由あるなり、美食は必ず肉食ならざるべからずと云はゞ、俗人の名を否むこと能はざるべし。
今の小才ある文士の言を聞けば、二言めには必ず、生活の趣味といひ、家庭趣味といひ田園生活といふなり、(381)乍併彼等が其詩章を爲さんとするや彼等は決して、自らの生活を歌はず家庭を歌はず、田園を歌はざるなり、歌を淺はかなる人間空想にのみ存すると思はゞ愚の極と云ふべし。
以上二首の一見甚だ模し易く見えて而して遂に模し得べからざるものあるは、作者の生活即歌の性命を爲せるが故なり、此の如き歌を只無造作なる歌淺薄なる歌と思ふが如くば、到底共に詩を語るに足らざるを知るべし。
   あはれさはいつはあれども葛の葉の裏吹きかへす秋の初風
例に依て詞は平凡材料は陳腐、然も一片の清淡、目に神師の精神を見る思あらしむ、超然として時俗を脱し、毫末の塵氣をも心に留《とめ》ざるの高風おのづから詞句の上に溢れたり、作歌の上にも自己が平生の陋を隱し得ずして、詞句の上に思想の上に常に虚飾是れ事とする俗歌人と、到底是等の歌を談ずるを得べからず。
 
      (十)
 
   秋風を待ては苦しも河の瀬に打橋渡せその河の瀬に
こは七夕の歌なり、歌の意は秋風の立つまでは餘りに待ち遠し、いざ天の河の其河瀬に打橋を渡せ、早く往かんと思ふぞ 其の河の瀬に打橋を渡せとなり、織女が天の河の渡守に對して促し立つる戀の情を推想せる趣向なり、斯の如き趣向の歌萬葉集には固より珍らしからざるも、禅師の時代にして萬葉の内容と形式とを呑込み得たる此歌の如きは珍とすべし。
   秋風に赤裳の裾をひるかへし今かまつらんやすの河原に
織女が日の暮るゝを待つらんとの意なり。
(382)   ふして思ひおきてながむるたなはたのいかなることの契りをかする
   わがまちし秋は來にけりつき草のやすの河原に咲きゆく見れば
織女《おりひめ》の心になりて詠めるなり、牽牛織女の神話を事實的に想像せる趣向は、前にも云へる如く、萬葉集の歌を蹈襲せるに相違なしと雖も、禅師の歌はいづれも始より趣向に頓着せず、用語を巧まず、思ひの浮ぶまゝ詞の出づるまゝに、三十一字を組織し居るなり、故に禅師の歌を見んもの其心して見ざるべからず、然らざれば禅師の歌の面白味がいづれに存するかを知る能はず。
輕快にして澁滯なく清高にして曇りなき、精神早く塵寰を超脱せり、其詞と調子とそれに伴ふて仙氣を帶べるは固より自然の數なりとす。
安の川原に月草の花の咲きゆく見れば吾が待ちこひし秋はきにけりと神女の喜べる状態を目に見ずや、其光景其感懷眞に縹渺を極む、古人云ふ、徳あるものは必ず言ありと、思想の清高禅師の如き人にして始めて、清高前掲の如き歌を詠み得べし、趣向は摸すべし詞調は似すべし、人格の高きより流露せる自然の詩は、到底摸擬すべからざるなり。
   秋はぎの枝もとをゝにおくつゆを消たずもあれや見む人のため
   秋の野ににほへて咲ける藤袴折りて送らむ其人なしも
天清く家靜かなる朝夕、無念朗誦以て始めて是等の歌の妙を感じ得べきなり、胸中に繊塵だも暗濁を藏するものゝ得て解し得べき歌にはあらず、暴食亂飲の徒が遂に料理の至味を解し得ざるが如く、心に卑俗なる趣味を思ふもの、固より淡快清娯の詩を味ふの資格あるべけんや、噫呼禅師の歌只清高の二字之を評し得るのみ。
 
(383)      (十一)
 
   風涼し月はさやけしいさともに踊りあかさん老のなごりに
   いさうたへわれ立ち舞はむぬは玉の今宵の月にいねらるべしや
弊衣菜食一切人間の執念を絶ちたる禅師も折にふれての詩的感興は決して淡如たりしものゝみにあらざるを察すべし、前首「老のなごりに」と云ひ後首「いねらるべしや」と云へる結句最も力あり、此力あり以て感興の強きを見るべし、此兩首の如き例の如く趣向も着想も最も陳腐にして猶能く歌に生気ある所以は、作者の強き感興が詞調の上に活躍せるが故なることを知らざるべからず。   秋の夜は長しといへと刺竹のきみと語ればおもほへなくに
   月讀の光りをまちて歸りませ山邊は栗のいがの多きに
事實なるが故に趣向も詞も自然なり、趣向も詞も自然なるが故に、作者當時の感興を讀者に傳ふるを得るなり、山道には粟のいが多し月の出づるを待て歸れと云ふ何等の自然ぞや、自然とは一面に精神の活動を意味することを是等の歌に依て察す可きなり。
   いまよりは古郷人のおともあらじみねにも尾にもつもる白雪
   白雪はいくへもつもれ諸越の牟漏の高峰をうつさんと思ふ
一は寂寥を叙し一は興快を叙す、平易の中に自然に新しきところあるは禅師の歌の常なり、全く世を捨てたる人にも猶人をなづかしむ心はある、いまゝでは時折人も訪ひきておのづから故郷人の便りも聞たりしが最早それも(384)協ふまじ 如何にも雪は深くなつたぞとの意なり、「峰にも尾にも」此の「にも」の詞にも淋しき情緒は動き「つもる白雪」にも淋しき心は見ゆる 淋しき意義なくして而して淋しみを感ずるは一に調子の上に存す、「峰にも尾にも」の詞は固より平凡なり、「つもる白雪」固より平凡なり、然かも此二つの詞が、禅師の此歌の中にあつて決して平凡ならざるは何ぞや、其詞が有する普通の意義以外に、此詞が此歌にありては一種の感覚を含み居るが故なり、そはいふまでもなく、一首全体に渡れる淋しき調子の内に存すればなり、一句の詞が有する意義と一首全体に渡れる調子との関係如何に依て其歌の價値に大なる影響あることを知らざるべからず、歌を作るものは必ず此間の消息を解得し、無意味の句に能く意味を附與し、更に其詞の有する意味以外の働きを起さしめ、其句を活し用ゆるの工夫に潜心注意を拂はざるべからず。
   柴の戸の冬のゆふべのさびしさをうき世の人にいかでかたらむ
これまた着想の面白味にあらず、趣向の面白味にあらず、「うき世の人に」など云へるは工夫を要せずして能く禅師の境遇を顯し居れども、とりたてゝ稱揚する程の事もあらず、只一首の調子は如何にも作者の淋しき情趣を顯はし得て遺憾なきに注意すべきなり。
 
      (十二)
 
   くかみ山岩の苔道ふみならしいくたび我はまゐりけらしも
詠じ去り詠じ來つて一語のとゞこほりなく精神能く全首を一貫し、作者の感興は句々に充溢せり、作者の感興内に旺なれば容易に言語を驅使し得て、一句一語悉く作者の感興に從順ならしめたるを見ずや、此歌や殊に揚げ(385)て佳作と云ふに足らざるは勿論なりと雖も、作者が能く言語を驅使し居るの状態に注意すべきなり、古今多くの歌人が作歌に從ふや、殆ど詩趣の感興を思はず、漫りに題を探り想を構へ、詞句の配列に遑なきの有樣を以て歌を作るなり、されば何れの歌も作者の精神は言語に埋められ、作者の感興は詞句の廓底に屏息せるを常とせり、故にそれらの歌は一讀して先づ詞句の意義を感ずること強く、作者の感興の何の邊にあるかを知るに困む、思想の從僕たるべき詞句が却て作者の感興を壓しつゝあるの愚態を見る、然かも言語や詞句や何の罪あらん、愚昧なる歌細工人者流の歌は、言語や詞句の主腦たるべき作者の感興を有せざるなり、故に詞句作者の感興を壓するにあらずして、詞句徒に主なき家に配列せられ居るなり、歌を作るものは多く、歌を知るもの少し、靈魂なき形骸に等しき死歌の山を爲して他が通行を妨ぐ、眞に痛嘆に堪ざるなり。
予は多くの歌人らが、趣味と詞句との關係に就て何等研究を有せざるを認むること久し、故に今機會を得て聊か一端を漏し置く。
   去歳の春折りて見せつる梅の花いまはたむけとなりにけるかも
   人の子の遊ぶを見ればにはたづみ流るゝなみだとゞめかねつも
兒供を失へる親の心を詠める歌なり、禅師はおのれ以外に世に歌作る人のあることを心にとめざりし人なり、おのれの歌が人の歌に類することあるともあらずとも、それらの事に一切頓着せずして歌を作れるに似たり、或は新し或はふるしなど云ふ事だも念頭に置かざりしものゝ如し、故に其歌多くは平凡に類するもの多し、以上二首の如き最もそれに近し、然れども禅師の歌は悉く自己の感興の産物なるが故に、平凡にも精神あり生氣あり、是れ即多くの歌人と其選を異にせる所、形骸の他に類すると否との如きは、考慮以外に置ける禅師の作意は只其(386)根本を誤らざるにありしを察すべし。
   いづこよりよるの夢路をたどりこしみやまはいまだ雪の深きに
由之を夢に見てと詞書あり由之は禅師の甥なるべし。
   ことしあれはことしあるとて君はこじ事なきときはおとづれもなし
   あづさゆみ春になりなば草の庵をとくとひてませ逢ひたきものを
   あふさかのせきのこなたにあらねともゆきゝの人にあこがれにけり
禅師は固より捨身求道の士なり、一切俗念を絶て理想境に遊べるの人なり、されば禅師は理性一遍の人にして、普通人の感情を有せざりし人かと云ふに決して然らず、予を以て見れば其理性の如何は知らず、其作歌のあとに察すれば、禅師は最も感情的性格に富めりし人なり、いづれの歌も皆感情詞句に溢るゝの感あれど、殊に以上にあげたる四首の如き尤も然るを見る、西行法師が戀の歌などヒネクリながら、殆ど感情趣味を缺けるが如き比にあらず、而して神師の感情は如何にも醇正にして毫も偏狂の跡なし、寧ろ湿情和意紙墨に漲ぎるを見る、卓越なる作歌を殘せるもの決して偶然にあらざるなり。
 
      (十三)
 
   われありとおもふ人こそはかなけれ夢のうき世にまほろしの身を
禅師が平生の信仰を窺ふに足れり、所謂人生無常なる觀念に住し、一身を投じて佛陀に奉仕したるは禅師の生涯なり、由來悟遺者の詠み傳へたる道歌即ち教理的の歌には露骨なる理窟にあらざれば多くは謎的のものゝみなり、(387)文學即ち詩としての價値を認め得べきもの殆どあることなし、良寛歌集中此類の歌を載する僅に九首、猶多くは主觀的趣味と見るべき歌にして決して彼の道歌なるものゝ如くらちもなきものにあらず。
   いにしへの人のふみけむふる道はあれにけるかもゆく人なしに
これ又九首中の一首なり、以上二首とも理性の産物に相違なきも、理義は明白簡短少しもくど/\しからず、而して調子の上に嗟嘆の響き多きが故に、一誦して作者其人の嘆聲を聞くの感あり、是等の歌の能く文學化したる所以茲に存するを思はざるべからず。
   もゝ長のいさゝ群竹いさゝめにいさゝかのこすみつくきのあと
どこまでも禅師の謙虚にして清高なる俤を傳ふる嬉しさ、歌は作者の思ひを叙するものなれば、歌の上に作者の思へる意義を解し得れば足れりと思はゞ大なる誤りなり、其の詞調と風姿とに依て作者の態度音容を一首の上に感じ得るを要とす、作者の感興嗜好人格等が、説明的意義を假らずして其儘作物の上に現れ來るを上乘とせざるべからず、此一首の如き吟味誦玩の内におのづから、禅師の精神状態より、其嗜好生活等如何にも淡として烱《けい》の如くなりしを感想せしむるを見ずや。
吾詩は即我なり、吾詩は吾が思想を叙したるにあらずして、直ちにわれ其物を現したるものならざるべからず、故に其歌を見れば直ちに其作者を想見し得るの域に達するを要とす、人丸の歌赤人の歌憶良の歌を見よ、いづれか其作者を想見するに足らざるものかある、雪舟の畫を見よ、元信の畫を見よ、宗達應擧の畫を見よ、各其作家の精神嗜好感興が其畫面に躍動せるを見ずや。田安卿や良寛禅師や、果して能く以上の如き自覺ありしや否や少しく明瞭を欠くと雖も、其作歌中には能く以上の精神にかなへる佳作あるを認め得るなり、以下數首は良寛(388)歌集になき歌にして、予の所藏中より抄出せり、いづれか良寛其人を見るの思ひせざるものやある。
   やまかけのいしまをつたふ苔水のかすかにわれは住み渡るかも
   をとみやの森のしたいほしはしとてしめにしものを森の下庵
心にかないて暫く住はんと思ひたるを、住みがたき事起り、去らんとして猶心殘せるの状、例に依て意少く情多し。
   高砂の尾の上のかねの聲聞けばけふの一日もくれにけるかも
   我が宿はくかみやまもと冬ごもりゆききの人のあとかたもなし
以上禅師の歌に就て予の賛評は隨分思切つて稱揚せる如くなるも、猶言ひ盡さゞるの感あり、然れども是禅師の歌の長所に就ての言なり、前にも云へる如く禅師の歌は即禅師なり、故に禅師以外の趣味を禅師に望むは固より無理なるべし、禅師の淡泊清高自然なる長所は一面に豪健熱烈莊嚴等の趣味を缺けり、是れ禅師の短とする所なりと雖も、作者と作物との關係を重ずる上より見て、禅師の作歌中、是れは禅師の柄になき歌なりと思ふもの一首もなきは、却て禅師の高きを敬せざるを得ざるなり。
 
      (十四)
 
田安卿は高貴にして社會を超絶し、良寛禅師は出家にして又社會を超絶せり、卿は將軍(主權者を意味す)の弟にして禅師は乞食の寒僧なり、位置境遇は斯の如く極端なる相違を有すれども、其作歌の上に注視すれば、其精神嗜好甚だ相似たるもの多し、其社會より超絶せる外觀は殆ど天地の相違あるも、其精神の快適に於ては或は却(389)て絶對に等しきものあるやも知るべからず、今試みに相似たる點を擧ぐれば、共に萬葉を悦で萬葉に拘泥せざる所(一)どこまでも自己の感興を基礎として決して空想的に歌を作らざりし所(二)自然にして清高なる所(三)平易淡泊にしてどこまでも朗快なる所(四)感情醇正にして然も温和なりし所(五)共に豪健熱烈僧嚴等の趣味を欠ける所(六)共に自ら歌稿を處理せずして後人の手に遺稿を集めたるところ(七)共に柄に似あはざる虚喝的の作物を見ざるところ(八)故に一言せざるを得ず、予が斯る言を爲すものは、眞淵一派桂園一派は勿論當時の歌人の無見識なる、カライバリの歌多き見るに堪えざる程なるが故なり。
卿と禅師と異なる所は、僅に調子の上に存するのみなり、卿は寧ろ寫實派に近く内容の趣味に重きを置けるの觀あり、禅師は格調派に近く調子の面白きを悦べるの跡あり、然らば卿と禅師と何ぞ相似たるの多きや、卿をして若し邸宅の大儀容の盛を捨て赤裸々たる一個人ならしめば、良覚を置て天下に親友とすべきものなかるべし、知らず卿と禅師と地下に聞て予の言を首肯するや否や。
上來予は卿と禅師との歌に對し、讃辭を呑まざりしも、卿の歌と禅師の歌とは、所謂卿の歌禅師の歌にして吾人は決して之を宗とし之を學ばんとする念あるべからず、卿の歌は卿にして始めて詠むべく禅師の歌は禅師にして始めて詠み得べき歌なれば、決して他の模倣し得べきにあらざるなり、超絶的境涯にある人の歌を超絶的ならざる人の斷じて爲し得べからざるを知るを要す。
今や吾諸同人は、正に文學隆興の壇頭に立つもの、宜しく力の限り精の限りを盡して活動すべきなり、側見もなく躊躇もなく直に自己の精力を發揮し來るべきなり、極力的活動には毫末の餘裕を容さず、餘裕なき所に作者の自己は躍動すべし、他を模倣し前を襲踏するが如き餘裕ある間は、決して吾作物に我れを躍動せしむること能(390)はざるなり、讀者は誤解すること勿れ、餘裕なき活動とは決して騷狂の意味にはあらず。
餘裕なき活動とは、自己の純粹を發揮せよとの謂ひなり、精神|内《うち》に充實し意力是にかなふて始めて餘裕なき活動を爲し得べし、作物にタルミあるは力の足らざるが故なり、作物に精神なきは、ヒネクリコネクリするが故なり、餘裕なき活動は直ちに作者の奥底を叩き來るが故に、隱るゝ所なき自己の自然を現はし得る、故に至つて口眞似や手眞似やヒネクリコネクリの餘裕あるべけんや、田安卿と良寛禅師とは共に他が模倣を許さゞる、立派なる自己の歌を作れり、論評非常に進歩せる今日の諸同人、自己を發揮せる作物なくして、焉ぞ先人に對するを得んや。
                 明治40年5月28日〜6月14日『日本』
                        署名   左千夫
 
(391) 詩と社會との關係
 
是は過る頃予が信濃に旅行して諏訪郡蓼科山の麓なる、北山村といへる一村落に留まれる時、村中の青年團体より求められて試みたる談話の概要なり。
▲茲で詩といふことは、文學美術など申す、総じて趣味ある作物に對していふ詞であります。平たく申すと歌とか俳句とか、音樂とか繪畫とかいふ類のものをさすのでありますが、かういふ類のものは固より直接に社會に關係がなく、一寸無造作に考へますと、人間の生存に格別必要のないものゝ樣でありますから、常識だけの一般社會は勿論、隨分立派な學問のある人達迄も、此文學美術などゝいふものは、只人間の道樂事で閑人の物好かなんぞの樣に心得て居るものが極めて多い。先づ大抵の人はさう思つて居るらしい。今日ではまさかにそれほど幼稚なる考を持つて居る人達もあるまいと思ふが、つい此間まで文學亡國論だの、或は美術の風俗壞亂論などがあつた位であります。
乍併今日でも此詩と社會との關係といふことが、國政上に重要なる問題として、未だ研究されては居ない樣であります。私は今茲で國政上に關する問題を諸君にお話致さうとするのではありませぬ。次にお話する前提として、此詩と社會との關係といふことが、人生上にも國政上にも、至大至重の問題であるといふことを、申上げて置きたいのであります。(392)それは一國の大政に參與する階級の人達ですら、詩と社會とか若くば娯樂と人生とかいふ樣な問題を重要視して居らぬ位でありますから、一般社會の人や、普通常識の人達が、家を保ち業を逐ぐる爲には、美術だの文學だのといふ事に立づさはるは、寧ろ有害なるかの如くに考へるのも、無理のないことであります。
▲前申す通り、詩と社會との關係が、それほどに重要でありますから、無造作な淺慮凡智に任せて居てはならないのであります。
世間大抵の親達は『外に惡い道樂をしないから、給や歌の道樂位は仕方がありません』、こんな考で居られては困ります。さういふ調子でやらせ、さういふつもりでやつて居つたでは、文學美術の極めて靈聖な感化力も、其光を發揮することが出來ませぬ。況して其素因なき人を感化することは猶更出來ませぬ。
▲餘り高遠な話許り申す樣ですが、今少し大体の上に就きて申さねばなりませぬ。私は少し不穏當かも知れませんが、詩といふことを平易に解釋して、品格ある娯樂と申します。諸君其おつもりでお聞きを願ひます。
▲品格ある娯樂をば、前にも申した人間の道樂事や、餘計な物好と同じ樣に思はゞ、大間違であります。詩といふものは、社會の組織上に、最も重く最も尊い要素で、其詩的要素の稀薄な社會は、直に劣等な社會であると申されます。價値ある社會、いひかへれば文明的民族といふものは、多量な詩的要素に依て組織されたものでなければならない。何ぜと申せば、詩は趣味的に品格ある娯樂の本尊樣であります。今少し判り易く申さば、眞正な幸福の泉源であります。猶一方から申すならば、詩の支配下にある社會でなければ、眞正な幸福は宿らぬと申してよいのであります。
▲孔夫子といふ方は申すまでもなく、東洋の大聖、今日では世界の大聖人でありませう。此大聖が何といふて居(393)りますか、『詩を知らざるものは人に非ず』かういつて居ります。此詞の意味は人に依て解釋に相違もありませうけれど、私はかう解釋致します。即ち品格ある娯樂を知らない人を價値ある人間とは認めないと申します、此二十世紀といふ進歩した世の中に於ても、猶ほ私は孔夫子の聖言に至靈な光明を認めます。如何に知識材能に富める人たりとも、私は詩を知らぬ人に、多くの價値を認めませぬ。
▲かう申すと私が詩人として、無上に氣焔を吐く樣に聞えますが、是は決して気焔でもほらでもありませぬ。故に眞正の幸福といふことを知らぬ人がありとせば、諸君も必ずそれは人間として價値少き人といふに躊躇せないのでせう。眞正の幸福は品格ある娯樂にまち、品格ある娯樂は必ず又詩を知るに依て、始めて得らるゝのであるといふことも、諸君に於て疑ふの餘地はありますまい。
▲樹に棲む地に住む鳥獣の類でも、常にそれ/”\相當な娯樂は知つて居りませう。只だ彼等は趣味といふことを自覺しませぬ、品位も詩趣も心得て樂みませぬ。要するに動物共通の快樂に遊ぶのみであります。されば人として動物共通の快樂を知るのみでは、人間眞正の幸福を知るとは申されません。人間はどうしても、自覺的に品格ある娯樂を解するに至らねば、人間相當の價値ある人とはいはれないのでありませう。孔夫子が詩を知らざる者は人にあらずと斷じたのは、以上の如き意味でいはれたに違ひないと思ひます。
▲乍併又飜つて人間といふものを、他の一面から觀察して見ますと、宇宙の萬有悉く詩的要素のないものゝ無い如く、人間は猶更或程度までは悉く詩であるともいへます。
人間それ自身の體躯や心情や、生活や行動やに詩的な點の甚だ多いは、申すまでもないが、只それは人間の自然が詩的であるといふばかりでない。いはゞ天の惠みだけであつて、人々自らの働きでもなく、又自らそれを悟つ(394)て居るでもなく、自覺的にそれを直に娯樂とすることは出来ないのであります。たとへば生れたまゝの赤兒が悉く詩趣に富んで居るのと同じで、之を他族の動物に比しては勿論價値を認め得るが、同じ人間仲間でいふときには、自覺せぬ趣味は價値とはならぬのである。いひかへると人間自然が持つて居る詩趣は、之を其人の價値とはいへない。人間一般は誰でも、先天的に有して居る事であるから、それを個人的に其人の價値と認めることは出來ない。
▲それで人間といふものは、天から賜はつた平等な頭割の幸福以外に、自ら力行して出來得る限りの幸福を作らねばならぬ。即詩を知るといふ、自覺的に價値ある人間に、自ら進まねばならぬのであります。
▲又孔夫子の詞を借ります、飽まで食ひ暖かに着、逸居して教なければ禽獣に近しとあります。誰れでも知つて居る言でありますが、空中飛行器も出來るといふ今日でも、此詞を寸分動すことは出來ませぬ。要するに聖人の言は、人間は自ら人間たるの眞價値を覺知せねばならぬといふことでありませう。詩を知らざるものは人にあらずといふのと根柢は同じでありませう。倫理的にいへば教といふので趣味的にいへば詩といふのであります。教と詩、倫理と趣味、只現はれた色の違ひ許りであると私は思つて居ります。今日有識者の言は、大抵宗教は殆ど詩であるとか、詩は直に宗教であるとかいつてゐますが、皆似寄つた意味であります。少し話がそれて來ましたが、要するに人間は自覺的の娯樂を少しでも多く知らんと勉むるが肝要であります。
▲かう抽象的に許りお話致しては定めて解りにくいでせう。前置の話が少し長過ぎました。私の談話の目的も社會問題や人生問題では無のですから、諸君が個人的に如何なる事をせば、品格ある娯樂を得らるゝかを申上げませう。品格ある娯楽と云ふ事を詩的生活などゝ六ケ敷云へは意味が極めて深く極めて廣く在ますが、手近く申せ(395)ば又無造作に出來る事であります。歌を作つたり、俳句を作つたり、繪とか音樂とかをやらねば、品格ある娯樂を得られないと思はば間違つて居ります。私なども歌が好きだから歌をやるといふまでゞ、歌人とか詩人とかいふことを目的としては居ません。前にも申した通り、娯樂に品格あれ、生活に價値あれと願ふ心より、自らの性に適して最も面白くやれますから歌をやる迄で、人間の中に一種毛色の變つた世間の所謂詩人といふものは好まないのであります。それですから私は今諸君に對しても、歌をやれ俳句をやれとは申しません、何でもよいのである、只其娯楽が肉慾的でなく、品格ある娯樂で、精神的に趣味的にありさへすればよろしい、肉慾的な墮落的な娯樂に陥つては大へんです、位置と財産と暇さへあれば、修業もなく研究もなく直ちに得らるゝ樣な娯樂は大抵墮落的なものです。縱へば酒色に耽るとか賭博を爲すとか遊惰に流れるとかいふことは、修業も何もいらぬことでせう、さういふ娯樂は人間共通で愚者も賢者もないです。動物共通の娯樂ともいへます、それで下卑た娯樂墮落的娯樂といひます、さういふ娯樂に耽つては人間の價値を減ずる許りですからいけませぬ。
▲そこで品格ある娯樂といふものは前から申した詩といふものにまつの外ないのであります。詩に樂むといふことは如何なる事にても相當な研究と修養とを經た後でなくては得られませぬ、力があつても智惠があつても金があつても修養なしに其娯樂に遊ぶことが出來ない。
▲人或は申しませう、放蕩は別として、眞面目に家業を勉強して、順次に財産を作つてゆく樣な行動を爲せば、娯樂其中に存すで、何も殊更に品格ある娯樂などゝいつて、手間日間潰してまでも藝ごとなどをやる必要はないと、かういふことをいふ人は、世間でいふ物固い人で一ふし見識の有る人には違ひない、其説も一應尤もに聞えるが、つまり凡夫の考に過ぎない、人間は是非向上的に進歩的に生存せねばならぬものであることを知らないの(396)である。一寸譬ていはゞ、向上的に進歩的に活動して居らぬ國があつたらそれは半亡の國です、人間もそれです、財産を増すことを知つて人間の價値を増すことを知らねば、つまり劣等の人といはねばなりませぬ。それは勿論愚な事をして家産を失ふ人と比べれは優つて居りますが、自分の克己心に任せて、永く無味乾燥な生活を續ける結果は、人間を傷ふに至ります、只々篤實に家業を勵むといふ中にも相當な快樂はあるに相違ないですが、其快樂は餘りに尋常過ぎて、向上的に精神の活動を望むの人を滿足せしむることは出來ませぬ。能く樂んで而して篤實である人でなければ、眞正に人生の價値を顯すことは出來ないです、品格ある娯樂のない家庭は遂に破壞を免れないと思ひます。一代に財産を作つた人が、往々子孫に其人がないとか、自身自ら陋劣な娯樂を貪つて社會にまで害毒を及ぼすといふ樣なことに陷るのであります、實例の頻々たること諸君も御承知でありませう。今日能く世間で騷ぐ上流社會の腐敗といふことも、つまる處衣服に困らぬ階級の人達が品格ある娯樂を知らねば勢ひ墮落するのが自然であります。人は頻りに上流の腐敗を攻撃するけれど、私は寧ろ氣の毒に感じます、彼等と雖も娯樂の上品下品位は知つて居るのですが、修養なき彼等には品格ある娯樂に遊ぶ資格のない悲しさに、餘儀なく金の力や位置の力を用て陋劣な娯樂に趨くのであります。
▲人間は肉躰に食物の必要なる如く、精神に快樂を必要と致します。盛に勞働する人が大食するやうに、精神を勞する人は又多くの快樂を要求するのであらうと思ひます。そこで其食物に千種萬樣なる如く精神の快樂も千種萬樣である、肉躰に常食の必要なる如く、精神にも尋常の快樂は必要であります、私のいはんとする處は此尋常の快樂ではなく、それ以上な品格ある娯樂即ち食物と云はゞ御馳走がほしいのであります、今少し尋常の快樂といふことを申して見ませう。
(397)▲天の惠みは人間に無限に快樂を受け得る樣に出來て居ります。諸君は注意して御覽なさい、生活一切の事は一面から皆快樂を意味して居ります、人倫の上から見ても親子兄弟夫婦朋友親戚等の關係より、常に快樂の感情は湧きつゝあるでせう。猶手近かに申せば汗を拭ても快を感じ髪を刈つても快を感じませう。
▲けれどもそれは前申した通り、人間共通の極めて尋常なる快樂ですから、向上的に活動する人にあつては、かゝる天與の尋常的快楽では滿足の出來ないが當然である。又決して滿足せんとすべきでない、必ず性癖の趨く處に從て、品格ある自覺的の娯樂を求ねばならない、一面に高い娯樂を持て居れば、一面に種々な不快にも苦痛にも堪る事が出來るのであります。彼禽獣の類にも能く遊戯を見るでせう、矢張り彼等にも自然にそれが必要なのである、まして苦勞多き人間に何か一つ位實務以外に娯樂がなくてはどうしませう、當然無くてかなはぬ事が欠けて居るから間違も起るし、つまらないことにもなるのである。品格ある娯樂などゝいふと、頗る六づかしく聞えるが、考へ樣一つで何でもない事です、さう心掛けて修養さへしてゆけば、いつの間にか出來てきます、私は是非諸君に、一つの娯樂を覺えられんことを希望致します。小人閑居して不善を爲すといひますが、小人でなくて生活に不自由なく閑居して無能なれば、必ずよいことはせぬものです、又不善をしないにしても、あたら樂しき月日で、一度|過去《すぐ》れば二度と返らぬ此月日を、誠にラチもなく價値なく空過するは、神意にも戻ります、自個の爲にも惜いことでせう、さういふ事は自個に不利益な許りでなく、子孫にまで惡結果を與へます。私は一筋に諸君に娯樂を勸めますが、一つ念を押してことはつて置かねばならぬは、何程滋養的に吟味した料理でも食過せは人體を害しますから、品格ある娯樂といふても耽り過ぎては家をも身をも害ひます、要は其弊に陷らぬ用意なければならぬ、品格ある娯樂といふ心は、品格ある藝と思つてはいけません、歌でも俳句でも何でも、下卑た(398)やり方をすれば過ぐ下卑てしまいます、ですからいひかへて申すと、品格よくやれば大抵の事は詩的になります。精神をおろそかにして、技藝の末を悦んでは駄目です、現に今日の世の中では、本來品格的の藝術も、下卑た人間に何程汚されて居るか知れません。故に私は先づ何をやるにしても品格よくやれと勸めますが、品格よいといふことをお孃さまおくさまにいふ樣な上つらの意味に考へてはいけません、同じ事を繰返す樣ですが、品格よいといふことは、何事も精神的にやると思へば間違がはないでせう、福澤諭吉といふ人は、拜金宗といはれた人ですが、それでも『福翁百話』の中には、道樂の一つ位ない人は始末におへぬといふて居ります。此福翁の道樂といふことも其精神は私のいふ、品格ある娯樂と大差ないでせう。
▲長々と不得要領の事をお話致しましたが、然らば諸君に何をやれと、お勸めしませうか、それは諸君が各自お好みに近い事をやるより外はないです。音樂なり歌俳なり、園藝なり盆栽なり、文章でも習字でもよいです。數年心掛けて漸く面白味を解しうる樣にやらねばいけませぬ、月に二日の休日を利用して、家庭的にやるとも同志相會してやるとも、娯樂の多いだけ家業の勵みにならうと思ひます。如斯高潔なる風味が一度社會に押廣まる樣であつたらば、眞に理想的文明の社會を見る事が出來やうと思ひます。今日の文明といふことは兎角皮相文明の感があります、餘りに理窟詰な殺風景な文明でありますが諸君は山間僻地に住して、昔ならば暦を知らぬ安逸を誇つて居てよかつたものですが、交通縱横に開けた今日では、矢張國民團體の一部として、一面に世界に對するの覺悟がなければならぬ。諸君が品格ある娯樂に遊ぶといふ個人の一些事に相違なきも、前いふた如く其影響は現在の社會及永遠の社會にまで及ぶものであるから、自個の爲めにも、社會の爲にも、貴重なる人生をラチもなく空過せぬ樣に速にお心づきあらんことを望みます。談話になれませぬから、何分意をつくせぬ 從て要領を得(399)ない樣に思ひますがよろしく御推考を願ひます。
                     明治40年6月『斯民』
                     署名 伊藤左千夫
 
(400) 〔『日本』選歌評〕
 
     信濃歌           望月光男
   山畑によりでの芽葉の桑つむやみやまし少女が丹の玉襷
     「よりで」は方言桑の初葉のこと「みやまし」は能く働くと云ふこと
   ふすぐれしよろびし家も吾が家と蠶棚のゝあひさにちゞかまりねる
     「ふすぐれ」は煤びたること「よろび」は傾けること
   くじな採りちご/\とりと連れ歩きまつまりたりし弟を思ふ
     「くじ菜」はたんぽ「ちご/\」は翁草「まつまる」なづくことなり
評にいふ、歌に方言を讀み入るゝこと、時に非常に面白き歌を爲すことあり、只方言を詠み入れむ爲に想を構ふることは絶對に不可なり、地方特有の名詞を歌語に用ゐたる爲に、より多く其地方人の情趣を顯し得る場合に限るべし、言語其物の面白味をのみ喜んで、漫りに地方人の難解なる詞を用ゆることは注意を要することなり。
                    明治40年6月13日『日本』
                     署名 伊藤左千夫選
 
(401) 寫生文論
 
未だ世人の注意をひく程な文章一つも書いてない吾輩が寫生文論などゝは頗る出過ぎた業であるが、寫生文も近來漸く世上の問題となつて來たに就て、種々な非難攻撃もあり、又是に對する説明反駁も現はれ、兎も角も從來子規子一派の専有たりし觀を爲し來つた寫生文が、一般文士の注意を呼び起したは事實でもあり且つは予の如きも、從令へ滿足な寫生文を作りしことなきものながら、子規子の時代より絶ず研究の席末に列し窃に將來に期するところある以上は、此問題を空吹く風と聞き流す譯にはならぬ。況んや世論多くは寫生文を誤解せるの感あるをや。已に多くの文章ある四方大君虚子君鼠骨君等は雜誌に新聞に或は著書に、少からず寫生文に對する意見を公表されて居る。然らば後進予の如きものが今更に駄辯を弄するの必要があるかと云ふに、予はあると答へるのである。
かういふては餘り仰山で且つ不遜に渡るの恐れがあるけれど、寫生文研究者を以て自ら任ずる予の考にも、中央諸家のこれまでの寫生文中にはこれではどうかと思はれるのが多いのである。從て其議論にも一々同意が出來ない。さりとて其文章や議論がつまらぬと云ふのではなく、只予に滿足が出來ないといふに過ぎぬのである。
四方太君虚子君の文章は四方太君虚子君の文章と見れば少しも差支ない許りでなく、それ/”\面白味があるは勿論である。そして其製作の實驗に伴ふた議論批評等又それに相當せる立派な價値を有して居るは勿論である。併(402)しながら茲に最も注意すべく予の言はんと欲する所は、寫生文は決してこれまでの寫生文にとゞまらぬ、從てこれまでの議論にも寫生文の理論は盡きて居らぬといふ點である、露骨に云へば予は別に予の信ずる議論と予の好む寫生文とを作りたいと思つて居る。
押擴めて云ふと、俳人が作れば俳趣味の寫生文が出來る、歌人が作れば歌趣味のものが出來やう、宗教家畫家其他の美術家などが作つたならばそれは各々變つた寫生文が出來やうと思ふ、寧ろそこに却て寫生文の眞の面白味があらうと信ずる、又他に歌もやらず俳句もやらず、美術等に專攻の素養もなく、始より文章をのみ作れる、所謂眞の寫生文專門家を以て任ずる人があつたら、それは又更に面白いものが出來やう、今日の寫生文專門家と目さるゝ諸子は、皆俳人側の人である、從て作る文章は俳句に近いものが多い、爲に作者自身も寫生文は最も俳句に親しいものである樣に言ひ、世間からも、寫生文は俳趣味に偏したもので一種特別の文章かの樣に言はれて居るが、予は寫生文研究者の一人として、寫生文俳句親類論には大反對である。子規子も寫生文は俳句の親類ぢやとは、決して云はなかつたと記憶する、現に子規小品文中の「くだもの」や「九月十四日の朝」や只口語で書いたといふまでゞあつて、是を俳句に近いとも歌に近いとも云はれないのである、元來俳趣味だの歌趣味だのいふのが甚だ覺束ない詞で、どんな事でも十七字詩に入れゝば俳句になつてしまう、それとひとしく三十一字詩に作れば大抵は歌になる、孔子でも釋尊でも十七字詩の材料にされゝば皆俳趣味となる、要するに歌趣味俳趣味と云ふ如き事は、其三十一字若くは十七字の形式を離れては殆ど無意味である、故に文字上の型式を脱した寫生文はどこまでも寫生文趣味と云はねばなるまい。
寫生文の領土は廣大である、寫生文の未來は無邊である、故にどこ迄も今の寫生文は領土の一端、世紀の始まり(403)である、然るに今日の輕率な寫生文批評家や攻撃家は、此領土の一端世紀の初期たる寫生文に對し、それより以上には何もなく何も出來ないかに彼是と駄言を弄して居るのである、前にも云へる如く、予はこれまでに出來た寫生文や議論は皆立派であるとは云はない、寧ろ大にあきたらず思ふて居る、されどそれは此寫生文の大に擴張すべき領土と未來とに何等の關係があるものでない、固より寫生文に就てろくだまな研究もない手合が、人の事業に妙な燒餅を燒いて、淺薄な惡口を云ふなどは頗る見ぐるしいと云はねばならぬ、それに對しては、「ほとゝぎす」十卷九號に四方太君が遺憾なく論破されてあるから茲には餘り云はぬ。
予は寫生文論は續文擧論なりと云ふのである、一般文學論と衝突を來す樣な寫生文はそれは物になつた寫生文ではない、寫生文は他の文學と其原則を異にした一種變つたものと思はゞ大間違ひである、俳句が有する原則、歌が有する原則、小説劇音樂繪畫が有する原則と少しも背戻せぬ原則の上に出來て居るものである、目の色髪の色皮膚の色やがいくら變つて居つても人間はどこまでも人間なるが如く、寫生文はどこまでも文學であつて、然かも著しく理論的に進歩した文學である。子規子はかういつて居つた、寫生趣味を一部に注入された文章は昔からあつた、支那にも西洋にも勿論日本にもあつた、只寫生文はない、日本は勿論西洋にも支那にも決してない、西洋の所謂寫實小説といふものは、吾々の寫生文とは其根底を異にして居る、吾々の今研究して居るやうな純美術的な寫生文は、これまでにどこにも決してないから、寫生文だけは吾々の創造したものであるが、かういふ死をまつ有樣では自分で製作が出來ないから殘念である、併し後來誰かの手に依て發達を遂げられるであらふと云はれ、吾々は眞に慚愧に堪ない次第であるが、一日も寫生文の事を考へぬ事はない。
(404)子規子の云へる如く、寫生的筆法のある文章は古來珍らしくはない、支那でも司馬遷の文章などには、屡々明快に應用されて居る、國文にも處々珍らしくはないが源氏物語などは殊にうまいとは四方太君の常に云ひ居る處である、乍併それは皆寫生趣味があると云ふまでゞ、決して之を寫生文とは云へない、で寫生文はどこまでも子規子の創造と云はねばならぬ。
然らは眞の寫生文即所謂創造的寫生文とは如何なるものかと云ふことを説明する前に、從來の文章とどんなところが異なつて居るかと云ふことを少しく説明して置かねばならぬ、くだ/\しく多くの例を擧げるは甚だ煩しいから、彼の記事文を以て有名な柳柳州の九記を引いて見やう、此九記は四方太君も寫生趣味の一例に引かれた位であるから、他の漢文に比すれば、頗る寫生趣味に富んでる文章である、然かもそれが到底眞の寫生と云へない理由を以下に云ふて見やう。
  凡(ソ)數州之土壤皆在(リ)2袵席之下1。其高下之勢。※[山+牙]然(高キ)※[さんずい+圭]然(低キ)若v※[土+至]宕v穴尺寸千里。
云ひやうは頗るうまいけれど、これでは高い所から數州の土壤を見おろして山や谷の高低が見えると云ふに過ぎぬ、概叙的説明であるから、面白味は景色を寫し得た點でなく、其云ひ方即ち妙句の面白味である、蒼然(タル)暮色。自v遠而至と云ひ、心凝(リ)形釋(テ)與萬化冥合(ス)と云ひ、いづれも妙句であるが要するに概叙で寫生ではない、併しさすがに寫生眞を盡せる句もある、流沫成(シテ)v輪(ヲ)然後(ニ)徐行(ス) 皆此の通りの筆法で終始すれば今の寫生文家も兜を脱がねばならぬが、かういふ所は甚だ少ない、潭中魚可2百許頭1皆若(シ)2空遊無(キカ)1v所v依日光下徹(シテ)影布(リ)2石上1、漢文の寫生是以上を見るべからず、名文の名ある決して偶然ではない、潭西南而望(メバ)斗折蛇行(シテ)明滅可v見(ル)。真にうまいものであるが妙句と云ふが適當である、坐(スレハ)2潭上(ニ)1四面竹樹環合。寂寥無v人凄(シ)v神。寒骨悄愴幽邃。實に一種の面白味であ(405)る、讀者に其清境を髣髴せしむ、能く漢文の長所を發揮して居れど、又其短所の掩ふべからざる所もある、つまり概叙を脱することが出來ない、作者の精神状態も能く判らず周圍の光景も活躍の状が少しもない、子規子の根岸草廬の記を引いて見る。
  我机の向ふへ置いてやると少しも騷がないで、靜かに三尺の池に浮いて居る、物書きながら餘り靜かだから、もう寢て居るのだらうと思ふて鴨を見ると、なか/\寢てゐないで丸き小き眼をランプに光らせて居る。さなくとも早寢がちの根岸、冬の夜の十二時過ぎては死んだやうな靜かさで笹一枚動く音もせぬ、其しんとした中に我と鴨とが起きて居ると思ふと淋しいやうな寒いやうな心持がしていつまでも鴨と離れたくなかつた。
柳州の文は面白いには面白いが、實は文句の面白味が多く、其寫した實景もぼんやりとどうやら面白い感じはあるが、何か一|重《ぢゆう》物に隔つた感じで、其景色をしみ/”\と讀者の頭に感ぜさせることは出來ないが、子規子の文となると、如何にもはつきりと鴨の様子から周圍の状態作者の感興と精神状態まで隈なく讀者に傳へるのである、柳州の寫した景色は非常に面白い光景であるが、それが只ぼんやりとしか感じない、子規子の寫した所は何でもない一家事である、それで其感興が如何にもしみ/”\としてゐる、寫生文と普通の文とはこれほどな相違がある、殊に柳州の文は千古の名文と云はれた文でもさうで、寫生文は未だ幼稚だ初期だと云ふても、千古の名文がそこにもこゝにもごろ/”\して居る。
寫生文は子規子の創造にかゝる一種の文章である、寫生趣味を加味した文章はどこにもある、西洋にも支那にも日本にも、併し純粹の寫生文はない、少くも子規子の書いた樣な寫生文はない、子規子自らも云はれたが予もさう信じて居る、然らば寫生文は從來の文章にはない、如何なる顯著な新素を持つて居るか、予はそれに就て予の(406)考を述べる前に猶一言いふて置く事がある、文學は作者を待つて出來るもので如何に論理や文法や作法が備つてもそれ許りでは到底眞の文章は出來るものでない、眞の文章はどうしても、天才的作者の靈技を待たねばならぬ筈のもの、されば俳句はかういふもの歌はかういふもの寫生文はこれこれのものといふて見ても、それは或程度迄に留まる事で、不易の理論も法則も定めやうがない、從來は有つたとか無かつたとか云へるが、未來は何とも云へない、であるから、今寫生文に就て云ふ事も予の今日の考であると云ふの外ない、予はかう考へて寫生文を作り又作らんとしつゝあると云ふの外ない。
從來の文章と云ふもの(勿論美文の事である)は作者の感興も對象の人事天然總て文章的材料は、作文の道具に過ぎなく、一つの文章の爲に作者の思想も對象の材料も皆從僕となつて居る、故に文章を面白くする爲に、心にもない事を書いたり見もせず聞きもせぬ事を書くのを常とする、言ひ替へると、事實の面白味より手際の面白味が主になつて居る、猶云ふて見ると、文句の面白味が主になつて居る、是を形式趣味の文字とも云へる、併し其文句の面白味形式趣味の面白味はつまらぬと云ふのではない、只寫生文はそれとはゆき方が違ふと云ふまでゞある。從來の文章は作者、文章、材料此三つの中に文章が主人公であつて、いつも作者と材料とは一|重《え》裏になつて居る、故に先に擧げた柳州の文など最も寫實の文章ですらが、作者は文章中に聲はするが形は見えない、從令へば壺を傾けて醉ふとか、相枕して以て臥すとか覺て起き起きて歸るとかいふても、只人間の居さうな音ばかりで形は讀者の目に浮ばない、恰かも線書きの繪が線は明瞭でも實物の感じが明瞭でないと同じぢや、それは又極力形容した對象の光景が明瞭に讀者に感ずるかといふに、前にも云ふた如く、どうやらさうらしいぼんやりした感じである、之を要するに文句に感興を引くことが強く文章の詞が第一番に讀者の耳や眼に響くから、作者や材料やは(407)いつでも文章の裏に潜んで居る、作者や材料やの感じはいつでも直接でなく間接である、おれがつまり文句の妙味にのみ力を入れるから出てくる結果である。寫生文は即ちそれに正反對であつて殆ど文章即ち文句に重きを置かない、即ち作者、文章(或は文句と云ふ方よいかも知れぬ)材料此三者の内で作者の感興と作者自身の活動及び材料の活躍に重きを置くところから、文章は其二者の從僕又は犠牲である、讀者の目や耳に文句や詞の存在を感ずること少ないだけ、作者と材料との活躍を多く讀者に感ぜしめるのである、それは前に擧げて對照した、柳州の文と子規子の文とで明かに判る筈である、寫實の名文たる柳州の文すらそれである、況んや其他をや、寫生文にも句の面白味を絶對に嫌ふのではない、文句の振つてる爲に文の局部にハヅミをつけて平淡にしてタルミ勝な場合に能く其|間《あひだ》を間の拔けぬやうにすることはある、其外にも内容の感じを強くするため、或は叙事に膨脹を必要とする場合等多々名句の働きを待つことがある、されど從來の文章中の名句と寫生文中の名句とは、全く根本に其用を異にして居る。
以上は解説充分ならざるも、從來の文章や寫生文とは作者の用意に根本の相異がある、從來の文章は、飾立ての文章、道具立の文章、寫生文は一切飾りを避け、どこまでも正味の面白味を宗とするものといふことが解るであらう、猶寫生文にはいつも作者自らが半面の中心になつて居る、それは寫生文の特色が總ての描寫に間接を嫌ふところからくる、作者と對象即ち文章の材料とがいつでも密接に錯綜して居る、言ひかへると總てが抽象的でなく具象的である、寫生文も頗る形容詞を用ゐることがある、けれどそれが皆事件に適切でなければならぬ、從來の文章のやうに遠廻しの比喩で謎に類する樣な事は決して許さないのである。
大要以上の如き用意と精神とを以て作られた文章は從來には決してない筈である、若しあるといふ人があるなら(408)ば參考のために見せて貰ひたい、司馬遷の藺相如傳や刺客列傳の荊軻傳などで、藺相如が彼の趙璧を取返し持璧睨柱のあたりや、彼の荊軻が秦王に見ゆるあたりは、異に當時の光景讀者の眼前に躍るの趣がある、併しそれでも、作者が親しく現場に居て四圍の光景と作者自身の直接なる感覺を缺いで居るため、どこやら芝居めいた感を免れない、彼の文にして猶斯の如し況んや其他をや、屡々繰返す如く寫生文の特徴は作者と對象との關係が密接であつてそしてそれに對する作者の感覺が直接的な點にある、故にどこまでも寫生でなければならぬ、どこまでも實際でなければならぬ、此條件に離るれば離れるだけ、寫生文としての妙味は減ずることになる、以上の精神から寫生文は、最も飾りのない最も平易な耳立たない口語を用ゆるの必要があるのである、單に寫生趣味といふだけならは、漢文でも和文でも或程度までは出來るが寫生文即ち吾々の所謂最も進歩した眞の寫生文は口語でなければ出來ない、子規はかういふたことがある、鼠骨君が入獄雜記を書いた頃である、それに對する子規子の批許の一節は、事件が悉く珍らしいから皆面白いが、事實の面白い感じが現はれつゝ居る所へ、君が突然洒落など云ふからよくない、其作者の洒落詞の爲に折角湧き來つた事實の面白い感じが攪亂される、さういふ場合には出來るだけ平易な耳立たない詞で叙し去らねばいけない、詞の目立たないだけそれだけ事實の感じは能く顯はれるのだ云々。
寫生文の意義と精神とを能く解説して居る、其當時文章はうまいものだといふことが寫生文としての貶詞《へんじ》であつた位と記憶して居る、それほど從來の文章的技術を卑んだものである、今日と雖も其精神は少しも變つて居らぬ、それから猶説明ではいけない雜報ではいけない(雜報とは或事件の概叙的報告を云ふ)紀行的でいけない(紀行的とは或事件を只時間的に次々と記述することを云ふ)山がなくてはいけない、まとまりがなくていけない。(409)山とは一口に云へば文章の中心といふ意になる、積極的に云へば山と云ひ消極的に云へばまとまりと云ふことにもなる、何ぜなれば一文章中に中心たるべき山がなければ決して文章にまとまりのつく気遣がない、山、即ち一文中の主眼點が目立つて居らねば、文章のまとまりもつかねばしまりもつかぬといふことは子規子の創見でもなんでもない、歌でも俳句でも繪畫でも苟も趣味を生命とせる作物にはなくてならぬものである、只子規子がさういふことを明瞭に意識し、山といふ名稱を與へて研究に便したのだ、所謂美術的作物の生命は即ち山であるが、殊に寫生文は言語の飾りや文句の作りを取りのけた作物だけに殊に此山といふものが、目立つのである、從て此山といふものゝ働きが寫生文に於て殊に著しいのである、どうも寫生文をやらない人には此山といふものゝ解得が出來にくいやうであるが、文章を一つの物躰として山なるものを具躰的に考へると解る、假令へば一幅の畫一寺院の建築にしても、一幅の畫中必ず人物なり家産なり或は動植の物なり山なり水なり、そこに必ず幅中の主眼點が中心を爲して居らねば、一幅の繪のしまりもつかずまとまりもつかぬのであらう、寺院にして必ず中心たる主要の建物があつて七堂も始めて位置を得る次第である、子規子は常に云うて居つた、此山といふことの意義を飲み込めば歌でも俳句でも出來るさと、眞に然りだ 以て家を治め以て天下を治むることも出來る。
元來文章に限らず總ての美術的作物は嚴格に躰貌の齊整を要求して居る、それで寫生文は從來の文章に比して最も躰貌の齊整を特色として居る、單に寫生、小説などゝ云へるものゝ、漫然としてまとまりなきものとは此點に於て別個の趣きを有して居る、小説のまとまりといふは東京より出て京都に終るといふが如きものなれど、寫生文のまとまりといふは、一幅の繪畫の如きまとまりである、大要以上の精神に依らざる寫生文あらばそは應用的寫生文若くは模擬の寫生文と明言して置く。
(410)四方太君は「ホトヽギス」で吾々は寫生文の新發明を主張せぬと云つてるが、子規子が居つたならばさう云ふまいと予は信じて居る、寫生文といふものに對する考へやうにて四方太君の云ふ樣に考へても無論惡いことはあるまい、寧ろ穩當かも知れないが、予の考は前に繰返し云うた如く創造であると立派に明言するだけの理由を認めるのである。
一編の論文を以て到底云ひつくせぬ、除り長くなる恐れがあるから、又の日を期することゝするが、猶一言云ふて置かねばならぬは、寫生文と作者との關係である、作者の人格と云ふも少しく穩當であるまいが、從來の文章的形式を一切放棄して、飾りも作りもない口語を以て書く寫生文は、殊に直接に作者が現はれる場合が多い、從來の文章は文章的技巧に依て、作者の人格性癖等の露出を避け得る場合が多かつた、寫生文はさうはゆかぬ、そこが寫生文の眞劔なる自然なる處で、寫生文の生命又そこに存する譯なれども、それだけ作者は自己の修養を根本的に勉めねばならぬ理由も出てくる、俳人が作れば俳趣味の文が出來、歌人が作れは歌趣味の文が出來る如く、如何に寫生的技倆があつても、到底作者の人格の物しか出來ないといふことに歸納する、高邁なる感興と卓越なる觀察とを有する人が寫生文を作つたとせば、それぞれに立派なものが出來るに違ひない。一部の世人は寫生文には或ものがないとか、裏面に一種の筋がないと云ふさうぢやが、それは勿論有つてもよいが無くともよい、有るのは有つて面白く、無いのは無くて面白い、柳州九記などには裏面にも背面にも何にもないけれど、相當には面白いではないか、つまりさういふことは作者次第のものである、作者の感興と作者の觀察と作者の描寫とに高い價値があらば、何を書いても價値なきものが出來る筈はない、作者の詩的人格を基礎としてゞなければ、議論も作物も根柢の不確實を免れる譯にゆかぬ。
(411)世上片々たる文學作物は多くは拵物なるだけに、賣物になるが、寫生文は絶對に拵物にならぬから賣物にならぬ、されば一寸いくらかにしやうと云ふ樣な考にては、絶對に寫生文は出來ないものであると揚言し得るは寫生文研究者の名譽とする處である、予は即坐筆を投じて岐蘇の青葉にたび立す。丁未六月十二日深更記了
                       明治40年7月『趣味』
                        署名 伊藤左千夫
 
(412) 三川遺稿短歌
 
明治四十年六月二十五日信濃の高士上原三川子逝く。三川子は明治新俳壇の初期に於て最も賛助の功ありし人なり。久しく病を養ふて松本なる淺間の湯にありしを、遂に永眠の訃を傳ふ。三川子身を處すること清く、高風超然として時流を拔けり。去年松本に遊び子と一度相見て、深く故舊の感を抱く、爾來消息相通ずと雖も、再び相見るの機を得ずして、永く幽明を別てり。
近頃松本諸同人其遺稿を寄せらるゝ、短歌三十四首皆明治三十九年の作にかゝる、今其歌風を見るに着想自然にして格調平淡、甚だ故子規子の歌に近し、清痩淡懷直に三川其人を見るの思あり、予深く三川子の俳句を知らず、而して今此短歌を見る、予をして三川子は俳人にあらずして寧歌人たるの感あらしむ、由來俳人にして歌を作らんとするものなきにあらざるも、能く作り得たるもの少し、予は三川子の成功に驚き、且意外なる新歌人一人を得たるを悦ぶ(左千夫記)
                       明治40年7月24日『日本』
 
(413) 子規と和歌
 
 正岡君に就いては、僕など餘りに親しかツたものですから、却て簡單に一寸批評すると云ふこと難かしいのです、そりや彼の人の偉い處やまた缺點も認めて居ない事もないのですが、何うも第三者の位置にある樣、冷靜な評論は出來ませんよ。
 僕も初めから正岡君とは手を握つて居た譯ではないのです、寧ろ反對の側にあつたもので時には歌論などもやつたものです、それが漸々とその議論を聽き、技倆を認め、遂に崇敬する事となり此方から降服したと云ふ姿です、それであるから始めから友人交際であつた人達よりは其偉らさを感じた事が強かつた樣です 從て崇敬の度が普通以上でしたらふ、であるから僕の子規論などは往々人の意表に出でゝ、世間からは故人に佞し若くは故人を舁いだものかの樣に受取られた事が多いのです。乍併棺を蓋ふて名即定まるで、所謂明治文壇に於ける子規子の價値は、吾々の云々をまつて知るを要せぬことになりました。
 今日新派と云はるゝ人々と正岡君の和歌との關係ですか、僕の考へでは與謝野一派、竹柏園の一流、其他尾上金子などの一流と即ち今日の所謂新派とは殆んど關係がないと思ひます、第一趣味の根底が違つてますからね。
 何う違ふ?、それは趣味上の問題ですから一言にして盡し難いが、今日の新派の人々のなす處を見ると、歌を作くるの前に其の作り出づべき題に對して先づ注文を建てゝ居るやうに見えます、令へば歌其物の價値と云ふこ(414)とを主なる目的とせないで、新しくなければいかんとか珍らしくなければつまらんとか、從來の物と是非變つてゐねばいかんとか、又新思想殊に西洋思想などを加味せねばならぬかのやうに初から考を立てゝ置いて作つて居らるゝやうです、寧ろ詩といふものゝ價値を、直に其新しい珍らしい從來に變つた詩材若くは所思想のそれに存するかの如く考へて居らるゝ樣に見えます、彼の人々の作物其物に就て觀察すると慥かにさう見えます。
 茲が甚だ六つかしい誤解し易いところですから、能く注意を願ひます、吾々とて其新しい珍らしい變化とか新思想を毫末も嫌ふのではない、只詩其物の價値は思想や材料やのそれに存するのではなく、或種の思想材料に作者の技能が加つた作物の成功それに存するものと信じて居るのです、如何に珍らしき新しき詩的材料を捕へ得ても、其成功の如何は必ず作者其人の靈能に待たねばならないのです。
 只新しく珍らしく變つてさへ居れば直ちに詩として面白いものゝ如く思ふは、詩といふものゝ價値を根本に誤解して居るところから起る誤りでせう、新を好む人は只新しければよいものと思ひ、古いを好む人は古ければ直ぐに能く感ずる、是等は兩方とも間違つて居ます、新いにもよいのも惡いのもある如く古いにもよいのも惡いのもあるでせう、要するに詩作の價値は、新舊の如何思想材料の如何以外に多くの部分があるのである、着想がいくらよくとも圖とりが何程よくとも只それだけにては直に良賀とは云へないと同じである。
 今の所謂新派の人達と吾々とは以上の意味に於て根本的に相違して居るのです、今申上げたことは直に正岡の言ではありませんが、僕の頭にある正岡は慥かにさう考へてゐたと信ずるのです。でこういふことを猶能く具體的に説明するとなると容易でないですから次にうつりますが、さういふ風で正岡君のやり方は、何でもかまはない只出來た歌が面白けれはよい、いくら理窟は進歩的でも新思想でも變化して居つても面白くない歌は仕方がな(415)いさ、そんなものは文學でも詩でもないさ、といふ樣な調子で、有振れた事であつてもなくても西洋趣味など加味せうとせまいと一向頓着せられなかつた、古事記などの詞が非常に面白いと云ふ間にも「ガラス」も「ランプ」も「ブリキ」も平氣に歌に詠んで居られた。
 話が外れますが、此の頃ろ萬葉集が大變持て囃されますね、萬葉は佐々木君も面白いと云ふ、鐵幹君も面白いと云ふ、併し兩君の面白いと云ふのと吾々の面白いとするのとは、殆ど其趣きを異にして居ると思ふのです、どんなに違ふか、さアこれも一寸説明が六つかしい、萬葉が好いとして取る點は、詞は蒼古だとか、思想が自然だとか調子が雄渾だとか、中には只何となく上代の國ぶりを悦ぶ類であるが、恁な事では眞に萬葉の趣味を解して居るものとは元とより言はれない、吾人の萬葉の豪いとする處は要するにその歌が生き/\して居る點にあるが、第一に作者の詩的感懷が高い、材料の觀取が非常に廣い、言語の驅使が自在である、使用の言語が非常に饒多である、今日の歌人の作物など感興の幼稚なる言語材料の狹隘なる迚ても比較になるものではない、此等の諸點に一々實例を擧げて云へば面白いがそれは茲には出來ません 萬葉の歌は死物でなくして活物だ、活物であればこそ今日我々が見ても陳腐と感じない譯ではないでせうか、此の點から見て僕は今日の新派諸子の作歌を甚だハガユク思ふ一人です、何うも其の歌が眞でない、拵へものの感じがしてならぬ、人工的であツて、天然流露の趣がない。
 尾上金子佐々木等の諸君の作物には今日の處接近の見込みがありません、與謝野君ですか……與謝野君の玉と珍重する材料を僕はつまらぬ土魂をひねくつて居るやうに見えてならないです、要するに新詩社一派は根本の一個所に誤解がある樣に僕には見えるです、晶子君などもちツと考へれば直ぐ解りさうな間違を平氣で遣ツて居ら(416)れる樣だ、もしこの根本の誤解を反省せらるゝの機會あらば、此の派の人々とは吾々も或點まで歩調を一にする日があらうと思はれます、これは例の鴎外宅歌會の折直接に與謝野君外出席の前で直言した事があるです。
 これからまた正岡君に返ります、世間では歌に於ける正岡君は未だ成功しない樣にいふ樣ですが、實際さうも云へるでせう、何にすろ正岡君の歌を遣り出したのは、明治三十二年で、尤もその以前にもちよい/\手を出した事もありますが、竹の里人と名乘を揚げ正式に歌壇の城門に馬を進めたのは三十二年の春であります、三十五年には最う故人となつたのですから、その研究も自から足れりと許すの域に入つてなかつたのは明らかです。然しながら歌の正岡君を未だ成功せぬと見る眼を以て他の歌人を見たらどうでせう、萬葉集以後恐らく一人の成功した歌人はないでせう。
 その頃ろ正岡君が歌に關する議論の變化は劇いもので走馬燈の樣でした、昨と今とは全然違ふと云ふ調子で、議論主張は變るのが當然である、終始一貫などゝ詰らぬ事だと云ふて居られた。
 歌人に與ふる書を發表した時代には俳句も短歌も要するに形式上の差であつて内容に到たつては仝一のものと論じて居る、それでその頃の歌には、俳句趣味を和歌にも宿さうとした、否な宿したのもある樣です、それが直ぐ形式の差は内容の差を伴ふべきものだと叫び俳調俳歌厭ふべしと罵倒して仕舞はれたのです、吾々も然う思ふですなあ、仝じく詩であつても、俳句は概括的に遣つて退ける、和歌は局部局部を唄はふとする、それで俳句では一句で足るのが和歌では五首も費さなけれはならぬ事もある、だが五首を一句に盡すから俳句が豪いでもなければ、一句を五首にしたから和歌が劣つてるのでもない、詩の價値なるものは全然かゝる數學的關係を絶して居るのは元よりです。
(417) こんな風に正岡君は常に批評的立脚地を離れないで、どの方面に向つても必ず議論を終始して、其態度はいつも研究的に周到な用意を以て歩一歩と進んだ人で、歌を遣るにも、始めはなるらん、けるらん、とかの領分から發足して、次第に一家の風調を成した樣です、俳句方面にもかう云ふ話があります、正岡君が虚子君や碧梧桐君に向つて、
  「お前方は月並/\と云ふて大變恐怖がつて居るが、己れなどは月並からやつて來たのだから、もう月並にならうとしてもなれんので恐怖くも何んともない、月並を恐れるのは要するに月並がほんとうに解らんからだ」
と一喝を與へたと云ふ話も聴いて居ります。
 正岡君などは全く天降だりした神の子の樣な詩人ではなく、立派に地上から生れた詩人です。勿論世には天才と云ふものがあつて生れながらにして知ると云ふのもありませうが、それはそれとして正岡君の如きは孔子の所謂下聞を耻ぢず下學して上達す的の人で極低い程度から始めて、徐々に高處に攀ぢ、遂ゐにその絶頂に達し、眸を四顧に放ち、一旦豁然として萬象の歸趣を悟ると云ふ如き、眞に力ある大天才でなけれは出來ぬ仕事と自分は信じて居ます、あアさうですか、まアようございませう、これでは未だ僕の子規子評は序幕ですよ、……ぢや甚だ要領を得ませんがこれで。
                   明治40年9月『中央公論』
                      署名 伊藤左千夫
 
(418) 〔「募集課題空及水選歌」の後に〕
 
選者申す、選者又水難被害中の一人にして一ケ月余を過たる今日猶假居の境涯にあり、爲に應募諸君に背きしは選者も遺憾とする處諸君願くば之を諒せん、空なる題は前募集の雲と余りに近似せる故にや應募の數も少なく佳什にも乏しきは、出題宜しきを得ざりし選者の失敗ならん、猶次回奮つて投詠を望む
   課題
一、留守居  二、老者を慰む  三、虫
以上三題短歌を主とし各体の歌を募る
〆切十月三十日迄
投稿は東京本所區茅場町伊藤左千夫宛
                  明治40年10月8日『日本』
                    署名 伊藤左千夫選
 
(419) 應募諸君に告ぐ
 
應募の寄稿毎回多きは一人にして五十首以上少きも一人十首を下らず(稀には一|人《にん》二三首の人もあれど)諸君の熱心なるに對し予は深く自らの怠慢を耻づ、今後は予も奮勵以て諸君に背かざらんとするに當り選抜の標準に就き一|言《ごん》諸君に語らんと欲す。從來の選拔十中の五六を得るは少く多くは十中に二三を拔くを常とす、五十首六十首にして猶四五首を拔かざるもあり 思ふに諸君の不滿を買へること多かるべし、然れども眞面目にして熱心なる諸君は、其選拔の跡に就きておもむろに削正若くは落選の諸作に比較し見ば、選者の意の何邊《なへん》にあるかを察するを得んなり。
予は信ず歌は人間眞實の「かをり」なり 否修養ある婦女士君子の「かをり」なるなり、故に作歌の態度は何處までも、眞摯と誠實と活力とを基礎とせざるべからず、古人は云へり徳あるものは必ず言ありと、然り其言や即ち内に財ふるところあつて「かをり」外に發し來るものなり、徳者の言之を調ぶるに形式を以てせば其言や直に歌たるなり、予は寧ろ總じて詩の根本義を其處に求めんと欲す、其人格を養ひ得て其歌始めて見るべし、一首の歌豈それ容易ならんや。
諸君一般社會の人は此歌といふものを如何樣に見つゝあるか、從來の歌人及び今の多くの歌人は歌を如何樣に弄びつゝあるか、人世の一遊技所謂風流娯樂の一藝と思ひ居らざるか、人事に遠ざかり世俗を離るゝを韻事の(420)本能と爲しっゝあらざるか、宜べなるかな、最も世事に関係なき幼童婦女の遊事となり老人隱居者のなぐさみものとなり所謂閑人の閑事となり了せることや、社會活動の中心たる血氣の人とは頗る縁遠きものとなりしより、眞の歌と名づくべき歌の跡を拂ふに至れるにあらずや。
諸君歌の革新とは他義あるにあらず、以上述べたる如き、歌に對する根本の誤解を開破し、其人格を養ひ得て始めて其歌を見るの見地に立ちて眞の歌なるものを振興するにあり。
高論は易く實行精神に伴ふは難し、願はくは諸君と其修養を共にし、所謂眞歌を樂むの境に至らんことを望む、若しそれ予の選拔削正に對し、諸君に異見の存するあらば忌憚なく質問を提出せられむことを乞ふ、予は出來得る限り 筴竹桃書臣談中に於て諸君と研究の交換を勉むべし。
                     明治40年10月18日『日本』
                        署名   左千夫
 
(421) 筴竹桃書屋談
 
     (一)
 
歌を作り文を作り若くは繪畫彫刻何れの製作に從ふとも、要するに作者其人の人柄丈けのものしか出來ないが普通である、作者其人の人品は低いが作物の趣味と品位とは高いなど云ふやうな事は、有り得べからざることゝ思はれる、されば文學美術上の根本問題は到底人格問題を離れることの出來ぬものである、乍併其人格なるものも或點までは修養に待つところが多いらしい。さうして見ると如何に修養して人格を向上せしめ得るかといふことになつてくる、天稟の品性には及び難しとするも、自ら修養して、其人格を向上させんとの用意はどういふことを爲せばよいのであらうか。
徒に人格云々の空論を出でゝ、實際問題に分け入つて見るならば、之を普通に云へば、學問見識修行信仰と云ふやうな順序であらうが、一歩進んで考へて見ると、學問があつても必ず人格があるとは云へない、見識があつても必ず人格があるとも云へまい、素行が修まり信仰が固くとも是又それのみを以て直ちに人格があるとは云ひ難いのである、學問あり見識あり素行正しく信仰堅固といふやうな諸目は勿論人格の一成分には相違ない、重要なる成分の一部には相違ないけれども、未だそれだけにては所謂人格なるものは完全しないのである、併しこれ(422)は絶對的に云ふことにて比較的に見る場合は別である自ら修養して人格的向上を求むるならば、絶對的境地に向つて進まねばならぬ、故に人格的向上を説かば主として絶對的人格を説かねばならぬのである。吾々の見地から云へは人格の完全とは、以上列擧の諸目以外に、嗜好が高くなければならぬのである、嗜好が高いとは、其人の趣味が高く且高き趣味を解するの意である、此嗜好の高いと云ふことは以上四要目に通じて其價値の根柢であるのである。
新に浴するものは必ず其衣を拂ふ、新に沐する者は必ず其冠を弾《ひ》く、自己の身体が清潔なれば清潔なるだけ汚穢《をくわい》に居るに堪えないのが人間の通有性である、であるから、高き趣味を解し、高き趣味を愛好するの念が、強固に性を爲すならは、精神的生活の卑きに安じ得られぬのである、極めて自然的なる感情に於て、汚卑に安ずることが出來ぬといふところに人格なるものが現はれるのである、否そこに顯はれねばならぬのである。
清を好み汚を悪まぬものはない、高を愛し卑を嫌はぬものもない、無いけれども、清と汚とを眞に解するものは少く、高と卑とを眞に解するものは少ない、清と高とを解するものは猶あるべく之を好むものは更に少ない、好むものはあつても強固に好んで性を爲すものに至つては愈々少ない、學問ある人は少くはない見識ある人も少くはない素行方正信仰強固の人も決して少くはない、然も人格高き人は甚だ稀れであることが之に依て知れるのである。
然らば又如何にして高き趣味を解し、之を愛好するの性を養ふべきか、是又吾々詩人の見地より云へば、眞面目《しんめんもく》に詩的製作物に勉むるを以て唯一の方便と信ずるのである、其人格がなけれは眞の詩的作物は出來ないけれども、詩的作物に勉むるは又人格を養ふの好方便なることを忘れてはならぬ。
(423)以上は必ずしも美術家文學家なる人に對してのみ云ふにあらず、一般人と雖も、高き趣味を解し高き趣味を愛するの性なき人は精神的に高き生活と高き幸福とに樂むと云ふこと、斷じて出來ないのである。
故に吾々が歌を學び歌を作るは、世人の目に映ずるが如き暢氣なる閑事業ではない、吾生活の上に高快な天地を開き、吾幸福の上に光明を點ずるの道である。
 
     (二)
 
西洋の物は勿論東洋の物でも、繪畫彫刻の最も優品と稱せらるゝものは、殊に裸体的の物に多いとの事である、それは又どういふ譯かと云はゞ、專門的に必ず深き理由のあること勿論なるべけれど、天地間の有ゆる萬物に超越した、精神と思想とを包んで居るものが即ち人体である、世の中に何が複雜で靈妙であると云つても、人間程に複雜な靈妙な、内容と外觀とを持つて居るものはあるまい、天象の盛觀や動植物の變化や、固より多靈多趣味で無限なものには相違ないが、それでも之を人間の包藏し表象し居る多靈と多趣味とに比すれば、何物か能く淺薄を免れ得べきぢや。
されば何れの國何れの時代を問はず、文學美術の最も發達した時代と云はゞ、其最も靈妙多趣味な人間が最も能く詩的製作に現はれた時代ぢやと云ふ事に歸着するのであらふ。
最も靈妙に最も多趣味な人間といふ活物が然かも直接に然かも深酷に、其外觀と内容とを盡して詩的作物に顯はれたもの、即ち最も進歩した發達した美術文學であらふ。
叙景や叙事や、寧ろ人間を離れ、若くは人間に間接な製作物を、一概に卑斥する譯ではないが、只最も發達した(424)美術文學の精神に協へるものと云はゞ、必ず人間を標的としたものでなければならぬのであらふ。水の音も面白い、風の音も面白い、虫の聲鳥の聲は更に面白い、金石糸竹の響き又一層面白い、乍併人間直接の聲の更に妙なるには如かないのである、音樂の音が如何に美しくとも直接に人間の口より響く聲の妙なるには及ぶべきではないが、人間の聲にしても、つくろひけの多い飾りけの拔けない大人の聲は、往々口の響きで、腹の響きでないことが多い、されば人間の聲も、腹の底から心をさながらに響かせる兒供の聲が最も趣味深く感ずるのである。
生氣と活神とを包んだ人躰の眞は、衣服の被覆《おひ》なき裸躰畫に於て、始めて見ることが出來る、人間の靈機を漏した眞の響は、少しも修飾心なき小兒の聲に依て聞くことが出來る。
 
     (三)
 
どういふ人が最も健全な人で攝生に成功した人であるかと云はゞ、予は日々の常食に美味を感じつゝある人ぢやと答へる。
世間一般の人は、うまい物と云へば必ず常食以外に特別な食物を望むを常として居るが、其實は常食に美味を感ずる程な攝生と健全とを持つてゐねば、特別な食物にも其價値相當な美味を感ずるは六づかしからう、病氣と名のつく程な缺陷を身に持つて居る人は別ぢやが、さもない人は、うまい物をくはふとの工夫より、うまく食ふといふ用意が大事である、それで大抵の人は其用意を缺いて居る、何でもなき事のやうぢやが世間其用意に不注意な多くの人は、蕩々として皆な食物上に於ける天與の快樂を全ふすることが出來ないで居る。
(425)財に乏しからざるの徒が、料理に料理の巧を盡し品質に品質の精を選ぶとも、一面に欲を節し生を養ふの用意を缺く以上遂に食味の満足を得られぬであらう、肉體上の事にすら、神は只勉むる人に快樂を與へる、増して精神上の事をやである。肉體上に常食をうましとするやうでなけれはならぬ如く、精神上にも日常の生活に至大な趣味を感じ得るやうでなければ人間としての修養が足らぬのである、人世の目的は如何に討究しても幸福の二字に外ならぬ、そして辛福といふことを單純に解釋せば、樂を全ふすると云ふに過ぎない。
然るに蕩々たる一般の人は、此樂みといふことは日常の生活以外、特別な場合に於てのみ得べきものとして居る、修養未熟と云ふよりは、寧修養の心なき凡夫社會は、趣味感覚甚だ粗笨であるから、日常生活などの平淡な趣味に快樂を感じ得る賀格がない、されば財ある人は只財の力に依てのみ快樂を得んとして、多くは其弊を極めて居る、財に餘りなき社會は徒《いたづら》に人世不如意を嘆て其憂に堪えぬといふ生活を造りつゝある、見來れば實に憐むべき人のみ多き世の中ではないか。
從令生活餘力なしとするも、吾性の適するところに趣味の修養を勉むるならば、依て以て日常の生活に快樂を感じ得るに至るは必然である、「朝に道を聞て夕に死すとも可なり」と云へるも「修養は幸福を産む」と云へるも人間修養の必要なるを説いたものに外ならぬ。
又財餘りある程の人々がよし財力に依て得べき娯樂に遊ぶとするも、日常生活に趣味を感じ得ざる程な幼椎な趣味にては、何事に遊ぶも其快樂を盡すことは出來ない、自らは盡した積りにても自己の腦力だけしか快樂は得られぬが普通である、増して清くして高き趣味などは其一片を味ふことも覺束ない。
神の惠みは天地に滿て居る、故に天地の間如何なるところにも如何なる事物にも人間を樂しましむべき趣味が宿(426)つて居る、試に自己の行動に顧て見よ、長く立つて後に座すれば座して趣味を感ずる、長く座して後立てば立つて趣味を感ずる、動いて後休み休んで後動く其度毎に趣味を感ずるは人間の常態である、されは深く物の趣味を解する人は、如何なる境涯に入るとも、其樂みを奪はるゝの憂はない、富貴に居れば以て富貴に樂み、貪究に居れば以て貧究を樂むことが出來る。
趣味を解するの道如何、曰く精進曰く修養。
 
     (四)
 
凡そ人に勇氣の肝要なことは云ふまでもないことであるが、多くの人は、人に勇氣の必要な場合は何か變つた事のあつた時に限るかの如く思ふてるが普通である、併し勇氣といふものは人には何時でも必要なのである。日常の事にも勇氣に乏しき人は、常に心にもなき虚僞者となりつゝあるのである、交遊間の對話にも一寸体よきことを云ふが此勇氣なき人の持前である、いつも面從して背謗すといふやうな事をするは必ず此勇氣なき人のすることである。
勇氣なき人は、些細の事にも決斷に乏しく始めに反對すべきに反對し得ず、始めに無論賛同すべく解りきつた事にも直に賛同し得ないで、相手の人をしていつでも齒痒き感を抱かしめ、安じて信頼が出來ないとの感を深くせしめる、此の如き人は何事にも終に雷同して衆に從ふか、孤獨となつて取殘される人で、寧ろ燐むべきものなれども一種の陋劣漢といふことは免れ得ない人となり了するが常である。
親友問の談話にも常に熱氣を欠き、語るに力なく聽くに張合がない、最も親密な談話にも其興味を盡すことが出(427)來ない事が多い、俗にいふ煮切らぬ人といふがそれであらふ、かういふ人には眞の友人といふものが得られない、勇氣なき人は熱情にも乏しく從て人に親み難い、つまり自身も淋しい人間となり終はるが結極である、これでは獨り友人間許りでなく、親族郷黨間は勿論夫婦兄弟間にも、暖き親交を得るが六つかしい、されば人は如何なる場合にも適當な勇気が必要であることを知つて、修養につとめねばならぬ。
 
     (五)
 
世人は輕々しく人格を説き、そして好んで人格を語る、品位といふことを輕々しく唱へて、對話の飾りにも品位を説く人が多い、それでこれらの人は人格の重ずべきをも能く解し、品位の尊ぶべきをも能く解してゐる。只それら多くの人は人格其物を解して居らぬ、品位其物を識別し得ない、つまり彼等は人格とか品位とかいふことを理義の上にのみ心得て居つて趣味の上に解して居らぬ、それであるから其云ふ處は立派であつても其爲すところが、いつも愚劣を免れ得ない、淺薄に外面を飾り、皮相に形式を整へれば人格あり品位ありと思ふて居る、品位的な意味にさへなれば、それで直に人格あり品位ありと爲し居るのである、口に理想を説き神佛を語れば人に品位があると思ひ、想を深遠にして詩的な題目を畫けば、直に畫に品位があると思ふて居るのである。能く信仰の尊ぶべきを知つて常に信仰を説くものは、世間に夥しいほど其人を見るが、おのれ自身に眞の信仰あるものは甚だ稀れである、美術文學論は、いよ/\ます/\盛になるやうだが、眞の美術文學的作物は寧ろ滅びつゝゆくの感がありはせないか、信仰論道徳論愈々熾になりつゝ、眞の信仰者は益々少く、墮落敗行のもの盆々多くなりつゝあるは現在の事實ではないか。
(428)物識は漬の眞砂の如く多い、議論は磯打つ波の如く熾であるが、それほどは生民の幸幅は進歩しない、進歩しないと云ふよりも寧ろ或幸福を破壊せられて居るの感がある、元來学者になるは六ツかしい事ではない、信仰を説き趣味を語るは少しも六ツかしい事ではない、只其精神を得ねば千百の學者も論説も、格別の役を爲さぬが普通である、其神を得て其趣味を解するでなければ、何事も空論に終りを告ることに歸してしまふ。
人格や品位や信仰や、一に精神に存するもので、根柢なき形式に依て得らるべきものではない、空理空論とは何の關係もなき實体的のものであるから口の先や文字の上に説くことは到底其皮相を云々するに過ぎない、俳優が能く英雄を扮しても演劇はどこまでも演劇であつて、眞の英雄を演劇に見ることは出來ない、今の紳士や貴女や學者宗教家などの、所謂品位人格なるものが、俳優的ならざれば幸である。
 
     (六)
 
何事に就けても心に思つたこと其儘を、感じたこと其通りを遠慮憚りもなく、口にも筆にもして頓着せぬといふ態度は、往々人から嫌惡せられるといふことだ、或はさうであらう、せち辛い今の世の中に人から惡《にく》がられるといふは大事なことぢや、何しても人に惡がられるは頗る損なことに相違ない、殊に社會的に一つの野心ある人などには、猶更此の人に惡がられるといふことは大禁物でなければならぬ、所謂思慮ある老成家のいふ處を聞くと大抵以上のやうな意味が多い。
乍併それが人の世に處する心得の完全なるものか否かは聊か考へねばなるまい予は寧ろ士君子を以て自ら居《を》るの道はさうではなからうと考へて居る。(429)かういふことをするは損だ、さういふことをいふは人から嫌はれる損だ、そんな態度は時世に合はない損だ、何も損だかにも損だと、何事にも控目にするといふことは、一寸は思慮ある振舞のやうに思はれるが、さういふ心得は、それに伴ふ弊害も又頗る大なることを顧みねばならぬ、總て文明の流儀は何事にも圓曲をよしとするのであるが、其圓曲を好むの弊は勢苟合虚僞に陷り眞實の情を失ひ輕薄に流るゝことを免れない。剛直簡明で然かも眞情を悦ぶの人の目からは、萬事圓曲主義のやり方は馬鹿々々しくてならなく思はれるに違いない、世の中はさうしたものさと、生悟りに濟して居るのが悧巧かも知れねど、眞面目な氣質の人間には出來ることではない、眞面目に正直な人間は一と口に愚といはれる世の中、どうにもかうにも仕方のない當世である。胸に醜穢《しうを》を藏《ひ》めて詞は美しく、心に險惡を貯て口に謙遜の語をいふ、いやつまらんものです、誠に杜撰なもので云々、汗背に堪へずとか、大方の教を乞ふとか、云ふ如き謙遜の語を聞くは、珍らしい事ではないが、云ふ人の心と詞と一致して居るや否やがいつでも疑はれてならない、さういふことをせねば世に立つて損だの分別心から、虚僞の謙辭を爲すとせば、寧ろ氣の毒な感も起る次第なれど、それを士君子の心事として耻ないならば情ないと云ねばならぬ。損といふことは世の所謂愚者でも之れを好むものはない、人に惡まれゝばつまり損だ、いくら眞面目の人でも、惡まれることを悦びはしない、只惡まれまいとすれば、思ふことも充分に云はないで居ねばならぬ、損にならぬやうにと思へば、心持よくないこともせねばならぬ、上下こも/”\利をとつて國危しとは孟子の語であるが、世人悉くが損な事はせまいとのみ心掛けて世に立つとせば、社會はどういふ事になるであらうか、世人皆心を欺いても損をせまいとするならば、吾々は損であつても心持のよい事をして活きて居たいが願である。改行
 
(430)     (七)
 
文を賣つて口を糊するに何の不思議がある、今のところ文士が文を賣つて飯を食はねでどうして飯を食ふか、文士が文を賣るに何の耻るところがあると、力氣《りき》んでる人があるが、それはどういふものか知ら、聖人でさへ、賣らむかな賣らんかなわれは價をまつものなりと云ふて居るから、只賣るのが惡いと云はれないは勿論であるが、物を賣るにも、いろ/\な賣りやうがあるではないか。立派な賣りやうもある下卑た賣りやうもある、農家も工家も物を賣るが、商人の物を賣るとは、そこに自ら差別がある、商人とて必ずしも下卑た賣りやうをするもの許りでない、隨分と立派に品位を以て賣る商人もいくらもある、商人は固より賣るを目的として賣るものであるが、猶精神は品格より賣るを理想とせねばならないと思ふ 文士は製作に骨を折るが理想か、賣るに骨を折るのが理想か、問題はそこにある。出來た作物を賣るのに何の仔細があらう、價よく賣れゝばそれだけ名譽な譯である、併し少しの差でも、始めから賣るを目的として作るとせば、賣れるか賣れないかを考へて作らねばなるまい、ひたすらに賣れるやうにと心掛け更に買ふ人の注文と讀者の好に應ぜんとする心があつて、製作に從事したとせばどうであらう、それでも文學者たるものゝ人格が保てるかどうか、そんな精神でほんとうの研究ほんとうの製作が出來るかどうか、茲までつめれば問題は明かである、吾々の希望とてゑらく難題なことはあるまい。
旦那米を賣つて下さい、此頃米があがつてますから今日は値を買ひます、如何です旦那少し賣つて下さい。いやいけないお前|何日《いつ》も安買だからお前には賣らない、此次に買つて貰らはう、そんなこと云はないで旦那、賣つて下さい今日はほんとに骨折つて買ひます。
(431)農家の米を賣るはかうである、農家のゆかしいところもそこにある、農家は作るを目的として米を作るのに、文士がどうして作るを目的として文が作れるのであらうか、少しく口惡になるが、文士文を賣るともせめて出版業者に輕蔑されない程度に於て賣つて貰ひたい、これをも六つかしい注文といふならば、それは全然云ふ方が無理であらう。
 
     (八)
 
娯樂は人間の生命である、娯樂がなければ人間一日も生きて居られぬ、故に高い娯樂に住む人が尊《たつと》い人で、多くの娯樂に生きる人が富者である、人間の高下も國家社會の分野も、此娯樂の高下と多少とに依て定まるのである。娯樂の卑しく且つ少き人が、よし富貴であらうと寿命があらうと、人間としての尊とい價がどこにある、身體健全で長命をしてそれで富貴な地位に居るとせば、それ以上に人間の幸福がどこにあるかと思ふものが百人中に九十八人半位あるかも知れない、さういふ九十八人半の人達は、自己の身體に具備した五官の働きが、僅かに肉體を維持するだけにしか用を爲さぬ人達である、自分の家《うち》の米の飯より他家の家の麥飯をうまいと思ふ人達である、富貴と壽命とがあれば聾盲でも痴鈍でも幸福であると思つて居る人達である、他家の家の立派なに許り目を奪はれて、自分の家を掃除する道も知らない人達である、祖神の血液が漸く減少して、靈なき性欲を充たすの外には絶て娯樂を感じ得ない人達である。
品格ある娯樂、高雅なる娯樂、此樂みを樂む資格がなく、又之れを得んとするの精進もなく、性欲の求むるまゝに凡情を充たすの樂みをのみ娯樂とせば、人間は墮落せまいとしても、墮落せぬ譯にはゆかない、人間は如何な(432)る場合にても、其の欲する所求むるところに向つて赴くの外仕方のないものである、其好むところが卑く其樂むところが低けれは、即ち欲するところ求むる所が低いのである、人は自ら卑しきを好むものはないが、然も樂しとするところが卑けれは、其卑きに赴くの外はない、樂しみに卑きを求めて墮落せざらんとするは、魚を求むるに風船を望むと等しい譯である。
娯樂は人間の生命である、品格ある娯樂なき人間は人間としての生命がないと云つてもよい、況や士君子としての生命をや、國民の娯樂が卑ければ國家の位置も伴ふて卑からざるを得ない、西隣の老帝国が容易に陋態を脱し得ないなども、予をして云はしむれば、國民の樂しとするところ卑しきが故と斷ずる、支那國民の將來を議するもの彼れ支那人等が最も樂しとする娯樂の程度如何を察せずして、何事をか畫《くわく》し得むと云ひたい、獨支那國民の上のみでもあるまい、吾國民中にも殊に上流社會の最も樂しとするところの娯樂の程度如何は頗る注意を要するものあらざるか。
個人として娯樂の高きを求めざるは、自ら其幸福を求めざるに等しく、強ては他より之を責め難きものあるも、常に人を支配するの位置に居り、國家と社會とに關係を有する、上流の人々にあつては、深くそこに注意するところなければならぬ筈である、國家問題といひ、社會問題といひ、議論は甚だ盛なれど、國民の品性に關する、根本的精神の問題即ち其娯樂の程度といふ點に注意を欠いて居りはせぬかといふ感がある 支那上古の聖訓に、禮樂刑政と云へる順序は頗る面白いではないか、禮樂を以て國政の主要とせるなど、上古の政法とは云へ、其用意の精神は實に立派なものと云はねばならぬ、禮樂は文字の如く禮と樂とに相違なきも、之を平易に約言すれば、品格ある娯樂といふことゝ全く其精神を同くするのである、政論は詩人の※[手偏+丙]《がら》にあらざるも、趣味と國政との關係(433)に思ひ及びて一言經綸家の注意を求むるも、穴勝に出過たわざにもあらずと思ふのである。
 
     (九)
 
いや理窟はよさう、理窟を云ふは小言を云ふと同じで、多くの場合云ふ人の興味になつて聞く人の興味にならない、さう思ひつゝもいつしか理窟に落てる、人間は理窟の好きな動物と見える、理窟屋に云はせると、理窟の立つてる處に人間の値打があるので理窟が立たなければ人間と動物との差別は判らないと、そんな譯もあるまい、兎に角今の世の物事何を見ても根本の問題が拔きになつて居る、其證據には何事にも落つきがない安心がない。今は學問が進んで居る 知識も理窟も進んで居るとは誰も云ふことだが、外觀許り立派でも根が朽て居ては駄目だ、少數の優者が我儘をするにのみ都合がよくて、多數の人が益々困つてゆくやうな有樣では、知識の進歩も理屈の進歩も自慢になつた話ではない、世を益すといひ人を益すといふ、其の世を益し人を益する事も一面には世を害し人を害して居ることに心づくものは殆どない、底の抜けてる理屈ほどつまらぬものはない。
古の物も面白いと云へば、どこがどうで面白いかとは問はないで、一口に好古癖だといふのが、今の進歩家の十八番である、いや又理屈になつたもうよさうか。
鴎外氏宅の歌會に石といふ題で愚詠
  もろ/\の石の器を見つゝゆけど女《をみな》のものに似る物は見ず
席上「女のものに似るものは見ず」について非難があつた、女のものなどさういふ詞は甚だ厭はしいとのことであつたが、予は未だ氣づかぬので一座笑になる、能く聞けば女のものといふ詞の猥褻に聞えるとのことで、予は(434)自らその當世に後れたるに氣づいた、それで本紙へ出す時には、女が持つにと修正して掲げると、猶或友人より「女が持つに」など猥褻にあらずやと難じて來た、上代の歌には「眞玉手を玉手さしまき股長に」ともあり「霄《よい》に逢ひて朝面無み」などゝ眞面目に平氣に詠んでゐる、今の人は「女のもの」「女の持ちもの」など云へばはや猥褻に感ずるとは、古今感情の相違に驚くのであるが、此調子でゆくと、女と云ひ妻といへは直ぐ猥褻ぢやなどいふやうになりはしまいか、因に云ふ、下駄草履などに就ては、女もの男ものなどの稱呼がある、傘や煙草入などには女もちなどいふ稱呼がある。
 
     (十)
 
古代の書(文字《もんじ》)を見ると、如何なる筆使ひで書いたかと云ふことが想像される、どう見ても今日の人のやうに、ちよこ/\手早に無造作に書いたもので無さゝうである、しつとり/\と筆使ひ極めて大まかにゆるやかに書いたものらしく思はれる、文字にあはてた迫つた樣子の少しも見えないは慥かにそれである。
上古の歌と中世以後の歌とに就て極めて同樣な感がある、上古の歌は口ゆるく朗誦《らうじゆ》せねば圓滑に詠めない、それが中世以後の歌となると、口調がどうしても詠み急がれるやうに出來て居る、それ故おのづから口早に舌こまかくすら/\と無造作に詠まねばならぬ樣になる、同じ三十一文字でも如何にも歌が小さく思はれるのは全く此口調のこまかい點にある、これは或意味に於て人間の體格精神等の變化に伴ふ自然であるかも知れない、されば後世人が到底上古の人に、文字でも歌でも及び難い原因が茲にあるのであらう。
輕くすら/\と滑かな歌の中には、重みのある強みのある思想も言語も入れられない、これは入れられないが自(435)然で無理に強き重き詞を入れるならば、必ず未熟なをかしなものになつてしまふ、中世以下の歌が殆ど女の口振に流暢一點張になつて、豪健|莊重《そうぢゆう》雄渾など稱すべき作が全く影を潜めたのも主として、此口早な手輕な滑かな調子を好める弊である。
考へて見ると獨歌許りではない、總てのものが、輕く柔かく調子早になつて居る、忙しくきはどくこせ/\せねば何事も人の注意を引かないやうだ、それで以て見ると趣味の下向は到底抑へることの出來ないものであるか、萬葉集の歌が今の人に解らなくて好まれないのも、免れることの出來ない世變の推移であるかも知れない。
萬葉集の歌は、極めてゆるやかに落ついてゆつくり/\詠まねばなだらかには詠まれないのである、これが一方から見ると、如何なる思想材料をもこなし得て、歌のたけ高く廣《ひろや》かになる所以である、故に萬葉の歌は後世の歌のやうに單調でない、含蓄があつて重厚であるのだ。
今|世人《せじん》は生活が複雜で趣味は單調である 上古の人は生活單調で趣味は却て複雜であつたらしい。
  ▲昨日の本欄最末に左の一節を脱す
  愚詠の意味は、石器時代の物を見ると荒々しいもの許りで女のものらしいおとなしいものが見えない、石器時代の女といふものはどういふ風のものであつたかとの想像から詠んだのである。
 
     (十一)
 
今出來る陶器に趣味的のものは殆どない、作る人は隨分骨を折つて面白いものを作らうとしてる樣に見えるけれど、骨を折れば骨を折るほど俗なものになつてる樣だ、尤も營利の點から見れば、雅俗の差別なく頓着なしで賣(436)れさへすれは差支いないが、陶器の如き原來趣味的のものを、然も面白くと望んで作るものが、骨を折つていよ/\俗になるといふ事は、考へて見る必要があらう。
予を以て見ると、いつも云ふ事だが陶器者が皆根本問題を閑却して、材料や器械や手の先に許り力を入れて、作者の頭といふ問題を少しも考へて居らぬからいけないので頭のない人が何程骨折つた所で、よい物の出來やう道理がない、俗人がなまじい巧を弄すれは愈々俗になるは極りきつた事である、相當常に趣味を解する頭を持つてる人でも、一つ面白いものを作つてやらうなどゝ考へて凝つてやつたら駄目に極つてる、面白く作るではいけない、面白く出來るでなければいけないのだ、これは陶器に限つて云ふことではない、何の上にもさうである、繪畫彫刻文學何でも同じである、作者の技倆が自然に現はれるやうに心掛けないで、言換へれは根本に苦心修養がなく、技巧で許り面白くしようとするから、作者の淺薄な苦心が露骨に作物の上に見えるやうな物ばかり出來るのである、こねくればこねくるほど俗な物になつてしまふ。
されば今出來るものには職人などが骨を折る餘地のないやうな安物に却つて面白いものを發見することがある、汽車の停車々々にお茶はよいかお茶はよいかと賣に來るあの茶碗などに往々雅致あるものを見ることがある、予も一つ持歸つて愛して居つたが是れは面白いと友人に懇望されて贈つた、今では賣つてるかどうか、中仙道|小山《おやま》驛で親子丼とか何とか云ふて賣つて居た土器が頗る淡雅な趣きが有つて、予は傍客《ばうかく》の目を忍び窃に新聞紙へ包み、携歸つて菓子器に使つた事がある、これらは皆所謂掛流しのもので極安いものであるから、職人がつまらぬ巧《たくみ》を弄する餘地のない爲に、俗了を免れたのである、今の陶器を作るもの眼の先許に注意しないで大に眼の後《あと》に注意せねば駄目である。
 
(437)     (十二)
 
陶器は殊に昔の物がよろしい、如何に好古癖を笑ふ手合でも、是には異存を云へぬらしい、昔の物がよいと云へば、それは時代が附いて古色があるからである、物それがそれほどによいのではない、古色のお蔭であると早合點する人が多い、勿論古色にさびたところに趣味もあるには相違ないが、昔の陶器の面白いといふことはそんな淺薄な理由に依てゞはない、漫りに古物を騷ぐ人があるから、それと反對に解りもせずに古物を嫌ふ人も多い、埒もなく面白がるのも愚であるけれど、又解りもせんで古物を輕蔑するのも愚である、古い陶器には面白かるべき理由が四つある。
  古人の性格が比較的今人より智識的でなく寛濶であつた事
  製造上の器具が少ない爲に比較的作者の手が直接に作物に加はりし事
  技巧が少く作意が甚だ自然であつた事
  今日の如くに實用的ならざりし事
如斯理由のもとに昔時《むかし》は製造も營業的の意味も今日の如く純渡世的ならざりしならんと察することが出來る、從て昔時《せきじ》の陶器には作者の寛濶な性格や時代の急迫ならざる嗜好が能く作品の上に窺ふことが出來るのである、器具の助けを多く借れば借るほど作者の個性は滅ずる理窟である、作者の個性と云つても今世人《こんせじん》の如くこせ/\した餘裕のなき個性が現れても何んにもならんが作者の人となりに趣味があるとすれば、其作者の個性が作物《さくぶつ》に現れゝはそれだけ作品に生氣を見られるのである、又それと同じ樣に知識的に覺込だ樣な技巧が多けれは多いだ(438)け、作者の個性は滅して、作物は拵へ物の扮裝的の物となつて、陶器の趣味は消えてしまふのである、技巧の過ぎた陶器は只技巧其物の働だけが價値で、陶器其物の本來の趣味は技巧の蔭に隱れる樣になる 今の陶器は悉くそれである、であるから何人が作つても何所で作つた物でも、即ち京都燒も九谷燒も瀬戸燒も皆似寄つたものになつて仕舞つて、各其作者の本色、其燒所の特色といふものが滅してしまふのである、此精神を悟り得なければ、美術的陶器は永劫に出來る氣遣がない。
それにもう一つは、陶器は全く實用的のものとなつてしまつたので、これに從事するもの悉く純粹の職人である、故に美術的天才のある人が此陶器界などに這入らないのだ、今日の陶器が趣味的に殆ど亡びつゝある有力な源因の一つである、博物舘などへ徃つて見ても判るが、古人の作品には、立派に詩的賞玩に値するものが多いに、今日に於てはそれが出來ないとは殘念至極な次第ではないか、斯道に關係ある人に何とか考へやうが有さうなものである。
 
     (十三)
 
柴田是眞の遺作展覽會が此十五日限と聞き半日の閑を借りて見に徃つた、八十二才|筆《ふで》などあるを見るほどな長命な人なれど、それにしても作品の彩多なには驚ざるを得ない、六七年前にも展覽會をした事があつて、當時も一覽したのであるが、其時のもので今回出て居るものは、幾品《いくしな》も記憶にない、されば是眞の作品は今回の展覽以外猶非常に多からんと想像される、其精力には敬服の外ないのである。
現時に大家と稱へられた人は、其人のものとあれば何でもかでも珍重され保存されるといふことも作品を遺すに(439)預つて力がある、今回の展覽畫中にも是眞其人の爲には捨てて仕舞つた方がよいと思ふ樣なものがいくらあるか知れない、勿論大家たるの品位と重みとを持つて居る畫《ゑ》も二三には留らないけれど、馬鹿々々しく思はれる作物の頗る多いも事實である。
先づ惡い方から云ふて見るならば、是眞の畫全体を通じて、美術に最も尊ぶべき、閑雅なる品位と莊重《さうぢゆう》なる威嚴とを缺いで居るのが口惜い、勿論それが絶無と云ふのではないが、所謂是眞の本領とする即是眞趣味の作物にはそれが缺けて居る、一口に云へば詩品の乏しいもの許りである。
世人は彼の畫才を稱するらしいが、彼の畫才は詩才にあらずして俗才である、されば彼が俗才的畫才の働きが現れゝば現れる程其|畫《ぐわ》は俗になつて居る、慥かに彼が狂歌的俗才は彼が畫を傷ふて居る、併し世間が彼が狂歌的俗才を買ふたとせば世間又彼を傷ふたのである。
彼の作品中最も見るべきものと云へば、彼が畫才を束縛して出來た作物に多い、それは他を模したものか然らざれば、彼が才筆を振ふの餘地なき趣向の少ない小品に多い、李龍眠模作羅漢の如き、彦根屏風模作元禄人物の如き最も見るべき優作は、彼が才癖の痕跡なき作物である、彼をして少しく茲に悟るところあらしめば、是眞の價値をして一段の高きを爲さしめたらんにと思はれるのである。
今回の出品中寧ろ是眞全体の作品中に於ても、最も優品と云ふべきは、三韓征伐の屏風であらう、此の屏風の畫は全く是眞の想中より出たるものか、或は如斯模本あつての模作にや、そは判然せざるも、よし模作なりとするも、それはそれ是は是れにて別に美術的性命を有するは云ふまでもない、色彩にも品位あり構想にも厭味がなく、活動も充分である、これほどの神品は諸大家中の作物にも容易に見ることが出來ぬ、此一品許りでも是眞(440)は優に大家たるの價値は充分である、これに依て見れば彼が腦底には慥かに詩才も潜んで居つたに違いない、彼の三韓征伐の繪に就て古實を云々するものがあるかも知れねどそれは美術と没交渉である、惜むべし彼の人格詩品に乏しく、偶世間が彼の狂歌的俗才を買ふて遂に彼の詩才を没了したのであらう。
蒔繪も稍繪と同じく、模作品に取るべきもの多く、彼が才氣よりなれるものは多くは卑俗を免れない、漆畫の如きは到底玩弄の物のみ、漆畫を以て是眞を云々するが如きは、庇意氣の引例しである。
 
     (十四)
 
世間一般の人は、詩人などいふものは、現實の社會に迂遠なるもので、普通人間と離れた別世界に樂んで居るものゝ如に思つて居る。
乍併《しかし》吾々の考へてる詩人はさう云ふ仙人的のものではない、眞詩人は一切萬有の趣味を解し殊に深く人間を解して居るものである、されば事務的に直接の仕事は出來なくとも、如何なる種類の職業者に對しても、有力なる相談相手になるだけの資格がなけれは詩人とは云へない、寧ろ詩人となれない、田夫野人の相手となつても、商人職工の相手になつても、彼等に滿足を與ふるだけの工風を持つて居らねば詩人ではない、又一朝にして一國主權者の顧問になるとも文を評し詩を評すると、少しも變りなく其顧問に應ずることが出來るやうでなければ眞詩人ではない、さういふと奇矯の言に聞えるが、一首の歌が分解的に完全に解し得れは人間の事は解る、又人間の事がほんとうに解らなければ、一首の歌もほんとうには解りやせぬ、家が治まれば國が治まると聖人の云つたも、其精神は一つである。
(441)此頃一|日《にち》赤木格堂子と會して、面白い話を聞いた、江州商人とは誰も云ふ事で、實際江州の商人は國内到る所に勢力を有して居るとの事であるが、其江州商人の始めは、彼の俳聖芭蕉に負ふところ多いとの事であるから面白い、芭蕉は人も知る如く生涯を旅に暮した人である、芭蕉各地を漫遊して近江に至るごとに、江州人は其氣質より、芭蕉に各地の風土人情を問ふて、其商才に資したとの事である、芭蕉又心して問者に滿足を與へ、江州商人の基を爲したとの事である、此事餘り物の本にも傳はらねど、事實なりとの説であつた、予もこれある哉と手を打つた、さすがは芭蕉である百世の詩人たるの人格決して偶然ならざるを知つて愉快で溜らなかつた。
返す/”\も歌を好み俳句を好むもの、其歌や俳句に依て修養し得たるものを、人世に應用し實業に發揮して、其何等修養なきものに比して、常に特種の高成績を見るやうでなければ、歌も俳句も徒らなる遊藝に過ぎないのである、歌や俳句が落語淨瑠璃と異ならぬものならば、歌や俳句は詩人の仕事ではない。
 
     (十五)
 
新体詩に就ては予は僅に十餘篇の製作を試みたる外に、格別の經驗はないのである、從つて批判上にも未だ何等の標準的理想なども勿論持つて居らぬ、乍併此の新体詩なる一体の歌も、何日か成功を見るの時期あるを信じて猶自らも製作を續けんとの考を持つて居るものである、近來一般の社會が此の新体詩を視ること甚だ冷淡である許りでなく、寧ろ嘲笑を以て迎へつゝあるかの感がある、それは云ふまでもなくこれまでの作物に一般社會を動す程なものゝなかつた罪であらう、徒らに獨でよがつて居るものか、さもなければ似寄つた作者同志で愚にもつかぬ褒合《ほめあひ》をして居る、これで社會に同情を求めるのは寧ろ押が強いと云はねななるまい、氣候の加減で發生し(442)たものは又氣候の加減で滅する、無邪氣なる作者に依て作られた幼稚な新体詩が自然に埋却し去らるゝに不思議はない。
只それに依て新体詩なるものゝ未來を侮るのは間違つて居る、却て気候的に發生した浮氣なる作者の退いた後にこそ、眞面目な本氣な作者が出てくる時であれ、知識の發達に伴ふ人間自然の要求は、成るべく形式を脱せんとする、出來るだけ總ての上に自由を欲するのである、詩として最も形式を輕じ最も言語や句法の自由な新体詩の現はれたは、時代が自然に要求したものと見るの外ない、故に一般社會が嘲笑を以て迎へても何しても新体詩は必ず起るべき天分を持つて居る。
或は最早ほんとうのものが隨分出來て居るかも知れない。
從來予の見たる新体詩は、漫に形式の上にのみ舊形を脱したるも、精神は依然たる舊理想で巧みに、外人の思想など加味しても少しも作者自身の詩的感興が高まらない、縱令へば詩的趣味に觸れて起れる感情の動きを、眞面目に自然に記述するのでなく、徒に感情を作意し若くは感情を推測し、扮裝的なる感情の客觀記述に過ぎない、如斯詩作の精神は從來最も墮落した作者の理想である、乍併既往は咎むるも詮なし、新なる詩作は必ず新なる光をもつて現れんことを待つのである、次手に云ふ、本紙三題募集選歌の中に、古泉千樫の新体詩「留守居」の如きは、殆ど成功に近きものであらう。
 
     (十六)
 
或事實に依て起された趣味的の感情、其の感情の動きそれが即ち眞の詩であらう、されどそれは詩の精神であつ(443)て未だ詩の体ではない、共感情の動きを具体の物に留めて始めて其感興を人に分つことが出來るのである、それで社會的に詩作の必要もある譯であるが、作詩の精神は詩の精神即ち感情の動きその物が、成るべく直接に其動きの如く詩形の上に現はれんことを要求するのである、其要求の充たされたゞけそれだけ詩は純粹に近いのである。
詩は文字と詞とを借らねばどうしても具体のものにならないから、餘儀ない事ながら其詞と文字は或場合に精神と形体との一致を妨げることがある、詩作家の至大なる注意を要する點は其處に存するのぢや、趣味と詩語との調和若くは感情と詞との抱合《だきあひ》、それをよろしく一致せしめる工風がなくては詩人の資格はない、舊派の歌人は云ふに足らず、新派と誇る人々にも能く考へそこに及べるものありや否や。
趣味的感情の動きを忠實に記述せる歌が、今日に見られないで、却て千年以前の萬葉集に見るのが不思議である。
   春過ぎて夏來たるらし白妙のころもほしたり天の香具山
   吾脊子はいつくゆくらん沖津藻のなばりの山を今日か越ゆらむ
   旅人のやどりせん野に霜降らば我が子羽ぐゝめ天の鶴群
作者の感情が動ける其の如くに、調子が波をなして居るのに注意せよ、作者の心の動きが直に歌の調子の動きに接續して居るのである、長歌にも左の如きものがある、感情の動ける順序と其語調の波を爲せる流動の趣きを見よ。
   わが育子は待てど來まさず、天の原ふりさけ見れば、
   ぬば玉の夜も更けにけり、さ夜ふけてあらしの吹けば、たちまつに吾が衣手に、
(444)   降る雪は凍り渡りぬ、いまさらに君來まさめや、さな葛後も逢はん
   と、慰むる心をもちて、み袖もち床うち拂ひ、うつゝには君にはあ
   はず、夢にだに逢ふと見えこそ、天の足夜に。
風に流るゝ雲の如くに、液体的詞調の動きと感情の動きとが遺憾なく一致して居る、新体詩を作る人等の、潜心參考となすべき歌である。
 
     (十七)
 
良寛禅師の能書なりしことは今日は誰知らぬものなきやうなれど、予は明治三十五年の頃始めて良寛師の書を見たる時、徳川時代三百年間只一人の書であると思つた、龜田鵬齋は良寛に逢つて始めて書の上に悟るところありしと傳へられたが、鵬齋の書の如きは到底比較になつたものにあらず、超然雲外に悠遊せるの状、其の流煙の如き文字の上に現はれて居る、此頃桂湖村を訪ふて、談たま/\良寛に及べるに、湖村又激賞措かず、遂に一條の逸話を語る。
北國の某代議士良寛の書卷を携來つて、共箱面に題せんことを湖村に求む、湖村良寛の書靈に耻ぢて應ぜんとせず、暫くして例の天田《てんだ》鐵眼が來訪を幸と、之を示して題字を求むれは、鐵眼又一見再拜して其靈筆に驚き、とても耻しくて此書に題字など出來ぬといふ、僧の書に僧が題するの當然なるを云へば、鐵眼即いふ、空海の書猶飾りけあつて、卑しき所あり、良覚の書は實に日本一なり、吾れに三年習練の歳月を貸さば、願くは此書に題し得んかと、遂に某氏の諾を得て伏見に持ち歸る、後一年鐵眼世を去つて遂に題字を成さゞりしとの事であつ(445)た。
良寛鐵限湖村どこかに似通ふところあるらしく思はる、斯く思ひつゝ此逸話を聞けば一層趣味深きを覺ゆ、予又意外なる同好者を得て愉快禁ぜず、湖村藏する所の良寛の書は歌なり、其歌良寛歌集に見えざる歌なれば茲に録し置く。
   蜂の子を吾が見ざれどもとる人はなしとる人はなし蜂の子あはれ
越後人が國のほこりとする人二人上に謙信あり後に良寛ありと云ふと聞く、然ども予は謙信を取らずして良寛をとる、此歌の如き到底千年以前の人の風韻ならずや。
 
     (十八)
 
冬至の二日前といふ日に久振にて根岸の舊廬を訪ねた、常々心には掛けながら、身勝手な事にのみ追はれて、忘れるとにはあらねど無沙汰をして居つた、年も僅かと迫れるに驚き、不折畫伯の病氣見舞を兼て、此の日御伺した譯である、
いつも淋しい鶯横丁歳晩の此頃は又一しほの靜かさ、一日の内に幾人の人が通るかと思ふほどである、小石にまじる落葉の細道を蹈んで舊廬の前に來て見ると、表ての雨戸一枚を明け殘し、寂然《じやくねん》として人の氣はいもせぬ、門の扉を押して見る 栓が掛つてゐる、「いらつしやりませんか」を三遍はど聲高に呼んでみた、返辭がない、半分でも戸が開《あ》いてゐるからはお留守な譯はないと思へど返辭のせぬは庭の先で水でも汲んでお出かも知れないと氣づいて、予は前田家の邸内を這入つて庭前へきた、時雨模様で今にも落ちさうな空合、おとなふ家に人のいら(446)へも疎く身にしみるほど淋《さみ》しさを感じた。
 「安火にかゝつて居ましたから……何か表てに聲がするやうなと思ひましたが……さあどうぞ」と母堂はいそ/\と障子を明けられた、予は暫く椽に立つて庭を眺める、鷄頭は霜にうたれてされほうけた儘に殘つてゐる、薔薇が一輪黄ばんでる、冬牡丹が光る許りに蕾が二つ立つてる、母堂は牡丹を指して、かう寒くなつてはよう咲きませんなどいふ、寒慘たる小庭に二點の深紅《しんこう》、さすがに當年の活氣を偲ばれる、
明治三十四年の初冬、先生の病苦を慰めん心やりのそれである、其當時先生には冬牡丹は初めて見るとの事にて非常に悦ばれた、春の牡丹とは殆ど其趣味を異にして花に品格がある、深見草の名は春の牡丹には、ふさはしからぬ名だが冬の牡丹には能く協つた名であるなど語られ、予が冬牡丹は此日暮里が名所とのよしをいへば、何んだか俳句がおのづから湧きさうだとありて、
   日くらしの里の舊家や冬牡丹
と口吟せられた事など、つらなりに胸に浮びくるのである、それより冬牡丹は年々一つ二つの花が咲くが、舊廬はとこしへに淋しい、訪ひ寄る人もありやなしや、母堂のおもざしも衰へ給へるさまが目にとまる許りに、今更の如く悲みを覺えた、勸めらるゝまゝに茶を啜つて暫く物語る、予は何となく物悲く、是迄になき心の淋しさを禁じ得なかつた、愚庵逝き葛南逝き近く淺井畫伯逝く、流るゝ光陰も今年は殊に速き思がする、令妹は學校は三時までなれど道が遠いから歸宅は四時半を過ぐる由、電車も毎日は乘りきれませんからなど母堂の物語りあはれ偉人の遺跡、予は胸に溢るゝ思ひを湛《たゞへ》てお別れ申上げた。
 
(447)     (十九)
 
人の病氣も或種の病氣は、病後却て病前の體に勝つて壯健になると聞くが、我家の水難も今になつて見ると水難前の家より水難後の今日の方が丈夫になつたかと思れる。世人の頭には最早水難などいふ感念は遠に消去つて忘れて居る頃であらう、土臺をとりかへ床を直し戸を繕ひ、襖を張替へ壁を塗直し、殘るところなく手入をすることになると、頗る手間どるものである、つい四五日前やつと壁の仕上げが終つた許りで、未だ充分に壁も乾かぬのである。
今日此頃の我家のさまは、病氣上りの人が湯に入り髭を剃つたといふ日の心持である、新らしい障子に日がさして室内隈なく明るい、床に一軸を懸け水仙の花清く瓶にさし愛する釜に湯が激ぎつて、煮え音は強くさやけく一室の浮塵《うきちり》を鳴り沈め、世の中の總ての音響の濁りを澄すべく覺ゆるかそけさ、如何なる物の底にも染み入る細音に鳴るのである。
世を澄まさんと鳴くこほろぎの聲絶てより空なる星の光も沍え、庭池《ていち》の水も底を隱さず、時に雨風《うふう》の曇りはあるとも、冬の心は飽くまでも濁を許さぬ神のいさめを感ぜざるを得ない。
心靜かなれは人は必ず周圍と調和し得らるゝものである、我心能く周圍と調和せる時われに靜かなる思ひあつて淋しき思ひなし、靜なること久しければ、心漸く澄み來る、清閑古へを偲ぶは、冬日獨居の樂みである、今日は冬至なり蕪村句集を見る、
   新右衛門蛇足を誘ふ冬至かな
(448)   書記典司故園に遊ぶ冬至かな
いづれも今日の如く靜かに清々しき冬至であつたかに思はれてなづかしい、草庵遂に人の訪ふものもなかつた。
                  明治40年12月6日〜30日『日本』
                       署名   左千夫
 
(449) 盛世之詞章
 
       (上)
 
新たなる年を迎ふる毎に、誰か我が祖國の上代を偲ばざるものやある、日の出づる國は神の國なる名に於て、光輝く三千年の歴史眞に華麗莊嚴を極めずや。此光輝ある歴史三千年の眼目にして、吾邦の精神的文明の根柢を爲せる聖武《せいむ》盛世の事跡を想像し來る時は、實《げ》に天に悦び地に躍るの愉快を感ぜずんばあらず。
宗教文學美術の三大文明の素因が、相並で其盛を極めたるは實に聖武の盛世なりとす、當時に成れる東大寺の大佛殿は、幾回の燒失に逢ひ甚しく縮小されたりと云ふも、猶世界第一の木造建築と云ふにあらずや、當所の盛觀はそれ幾許りなりしか、文學は萬葉集の編者《へんしや》大伴家持の壯時なり、美術は所謂天平式の起れる時なり。
聖武盛世の文明は、獨吾邦文明の眼目たるのみならず、之を千有餘年後の世界文明の班に列するも、猶最大光彩を有すと云ふは眞に日本民族の名譽にあらずして何ぞ、宗教美術を語るは別に其人あるべし。
予は今萬葉集を閲《けみ》して、所謂聖武盛世の詞章なるものを讀者諸君に語るを光榮となすものなり。日本武族の根本思想と稱られつゝある彼の
(450)   海ゆかば水つくかばね、山ゆかば草むすかばね、大君のへにこそ死め、のどには死なず、
と歌へる即ち大伴家持にして此時代に近き作物なり、豪邁高華、三十一文字を以て能く一代の隆運を讃美し得たる、彼岡麻呂の作、
   御民吾れ生けるしるしあり天地のさかゆる時にあへらく思へば
の歌も實に聖武盛世の産物なり、乍併以上の歌は洽く人の知るところなれば茲に多くを云はざるべし。
 
       (下)
 
聖武天皇天平四年八月藤原宇合卿が西海道の節度使に遣さるゝ時高橋連蟲麿がよめる歌の如きは殊に注意すべき作物なり。
   白雲の龍田の山の、露霜に色つく時に打超て旅ゆく君は、五百重や
   まいゆきさくみ、賊守る筑紫に至り、山の曾伎野のそき見《め》せと、伴
   の部を班ちつかはし、山彦のこたへむ極み、谷くゝのさわたる極み、
   國方を見し賜ひて、冬木成春さりゆかば、飛ぶ鳥のはや歸りこね、
   龍田道の岳邊の路に、丹躑躅のにほはん時の、櫻花咲きなん時に、
   山たづの迎へ參ゐ出ん、君がきまさば、
     反歌
   千萬の軍なりとも言挙げせずとりて來ぬへき男の子とそおもふ
(451)意気の颯爽たる、語調の緊張せる、一讀おのづから活氣の躍動を感ずるは、作者の製作的手腕に依ると雖も又た當時士風の活氣と高潔とを察するに足れり、一點の惰容なく又毫未の塵氣なし、精神的作物ならずして焉ぞ茲に至るを得んや「言挙げせず」即彼是との物いひはせず、いかなる大軍なりとも直ちにとりひしいで來るべく頼もしく思はるゝ男の子ぢやとは反歌の心なり、其豪宕なる語調に、云ふ人も現はれ云はるゝ人も現はれたるを見るべし、如斯して始めて作歌の上に時代精神との交渉あるを發見するを得んなり。
同時に天皇各節度使等に酒を賜ふて詠まし給へる御歌。
   食國の遠のみかどに、汝等しかくまかりなば、平らけく吾は遊ばむ、
   手うだきて我れはいまさん、天皇|朕《わか》うづの御手もち、掻き撫ぞねぎ
   たまふ、打ちなでそねぎたまふ、還り來む日、相飲まむ酒そ、此の
   豐御酒は、
     反歌一首
   大丈夫のゆくちふ道ぞおほろかに念ひてゆくな大夫の伴
眞に是れ帝者の詞章なり、然かも天をいたゞき地を踏まし神ながら神さびいますとあがめ歌へる、吾國体に於てのみ殊に有する尊嚴無比なる帝者の詞章なり、如斯の詞章は思ふに世界古今の帝王に於て決して見ることを得ざる特異の詩なるべし、臣寮民國に對して愛嬌的辭令を爲すが如きは、吾邦の盛世に於ては殆どなき事なり、現神《あきつかみ》なる神的態度に自ら威嚴と慈愛とを兼備したるは、特異無類なる吾國体がいたゞく至尊の理想ならずんばあらず。此御製を反復拜誦し來らんか、偉靈にいます聖天子の氣宇宏量髣髴として腦裏に浮ぶものあるべし、汝《いまし》らがか(452)くまかりなば手を拱して朕はあらんと云ひ「天皇わがうづの御手もち」と自ら仰せ給ふところ如何に神的なるか、「打ちなでそねぎ給ふ」(ねぎはねぎらふの意)と自らの仰せにも給ふと云ふは古体の常なり、威容と愛撫と兼ね至るの精神字句に溢るゝを察すべし、所謂天地の榮ゆる御世を統べ給へる聖天子の音容、森厳にして慈愛を含む、眞に是れ詩章の靈高華の極《きはみ》にあらずや。
「ますらをのゆくちふ道ぞ」とは大丈夫たるものゝ任ぜられてゆくべき道ぞとの意なり、立言堂々句調又悠容として迫らず、如何にも天地包雍の氣宇あるを見て、華麗豐富にして然も眞實簡朴の神《かみ》を失はざるは吾が 聖武天皇の偉容なり、此精神發して宗教となり文學となり美術となり、吾邦文明の限目を爲したるなり。
萬葉集の小半は實に聖武盛世の文華なり、單に文學研究の眼を以てせば廣大なる著作を待たざるべからず、今は聊か當代の世運を窺ふべき詞章を擧げて、明治盛代の詞章家に、比して以て顧みるところあらんことを期するのみ。
                  明治41年1月1日、2日『日本』
                       署名   左千夫
 
(453) 四壁小言 〔二〕
 
人の悦ぶを見て以て樂しとするの心深き人は現在に於ても後來に於ても先天的に幸福なる位置に居るべきの人なり、
おのれ幸福なる位置に居りつゝ其幸福を他に分たんとするの念なき人は自から有する幸福の價値をも解せざるの人なり、
人間の事總じて全きこと一つもあることなし、只愛憐の心こそひとり圓滿無垢のものなれ、神を離れて以來人間は其愛憐の心にのみ、僅に神の俤を傳ふ、されば愛憐の心には眞を包み善を包み美を包む、
愛燐の心深き人にして始めて眞の幸福を味ひ得べく、又その人たるの尊とさをも感じ得べきなり、愛燐の心はおのれ自身の幸福を神ならしむるのみならず、其愛燐の心に接し觸るゝものをもそれに幸福を感ぜしむるの靈を有するなり、自己の精神以外に於て求めたる幸福は、人間の事常に心の儘なる能はざることに依て多くは破壞せらるゝを免れず、ひとり神より傳はりたる其愛燐心の靈に依て感じ得る幸福は、如何なる場合に於ても決して他の障害を被ることなし、何となれは至神至妙なる愛燐心の靈光を妨ぐる程の力は天地の間に絶て在らざればなり、
世上の所謂幸福なるものゝ一切は天雲の定りなく、瞬くひまをも頼みがたきを常とすれど、愛燐の心より興る神(454)なる幸福は八面照りとほりて圓滿無垢永劫の幸福なり、
愛燐の心少き人は神を離れたること愈遠き人なり、人は神を離れつくしたる時最早人にはあらず、詩人が最も神に近しと云はるゝは詩人に最も愛燐の心多きが故なり詩人の聲は愛憐の響きなり 詩は愛憐の光に外ならず。(左千夫)
                     明治41年1月『馬醉木』
 
(455) 〔「竹の里人先生六週忌」附記〕
 
      ▲竹の里人先生六週忌                志都兒記
  この月十九日に秋蠶の忙しきは當地毎年の例なるに今年はわきても忙しく夜に入りて少しの閑を得たれば先生六週年のしるしにもやと心ばかりの歌詠みけり、一二の友垣より送られたる歌もうれしく合せ記して歌手向しぬ
  〔黙坊、望月光の歌略〕
      〇              志都兒
   眞心を親に仕へて守る蠶らの忙しくして今日も暮れけり
   並み立てる蠶棚の間に灯ともして此夜寂しく一人歌よむ
   血を吐きし病の床によましたる竹乃里歌人を泣かしむ
   こほろぎの淋しゝが音や夢現早やも六年の秋となりけり
   呉竹の根岸はこひし秋毎に秋海棠の咲けらく思ほゆ
   吾妹子が手繰の糸のいく返し讀めども飽かず竹の里歌
   くれ竹の根岸の靈と殘りたる竹の里歌吾が命なり
   吾が心くゞもる時は出しよみていつきなぐさむ竹の里歌
(456)   親竹のくねりもあらずすく/\に生ひ立ちゆかな歌人の伴
   心ゆく竹の里歌よみ居れば絶えずや大人に侍れる如し
   正岡の大人のみ歌をよむ度に心もさやに胸開く思ひ
   ぬば玉の闇世に立ちて放ちたる歌玉光り常世照らせり
左千夫いふ山の端出つる月讀やおのづからなる眞心のにほひいひしらずうるはしき歌なりけり 目立たぬ歌振りの、輕く見過す人もやあると一言かきそふるにこそ
                     明治41年1月『馬醉木』
 
(457) 「馬醉木」終刊之消息 〔第四卷第三號〕
 
蕭啓「馬醉木」第四卷も發行僅に三册にして、明治四十年は暮れたり、「馬醉木」の惰刊今日に至れり 就ては、其責め一に小生に存す、小生は今一般讀者諸君及び同人諸君に對し、其好意に背きたる怠慢を謝するの外、最早何等の辯解を爲さゞるべし、之を善意に解釋せば、吾根岸派文學の發展上、一廻轉の期に達到し、自然の段落を爲すに至れるを見る、物極れば必ず通ずるの古言に漏れず、吾が「馬醉木」は本號を以て終りを告ぐと雖も、直に二月一日を以て「馬醉木」の後繼者は猛然として現はるべし。
雜誌、名は「アカネ」と稱す「馬醉木」の名を改めたるに就ては別に深き意味あるにはあらず、重もに第三種郵便認可上の都合に依れり、三井甲之君主として編輯に當り、腦力と經濟との上に全責任を負ふて奮起せるに基づけり。
三井甲之君新に大學を出で、新進の英氣を以て、全力を擧て斯道に盡さんとの決心を有し、増田八風君大須賀乙字君等大學の同級諸君之を助け、勿論從來「馬醉木」に盡力せる諸同人相一致し活動せんとするの覺悟なれば、「アカネ」は前身「馬醉木」に比して、内容に於ては大に複雜を加へ活動に於ては其精力を擴大すべきこと疑なし。
歌道新興の發展上、子規子の活動は其第一期に屬し、「馬醉木」五年間の奮勵は其第二期を劃したりと云ふべし、(458)而して「アカネ」の責任は第三期の成功を擧げんとするに有り、今や「馬醉木」の活動は其段落を終り、新進雜誌「アカネ」の活動を迎へんとするに臨み、「馬醉木」に最も重き責任を有したる予は、「馬醉木」の成績に就て一言諸君に語らんと欲するの念を禁ぜず。
子規子の研究的態度は文學は只文學を目的とし、歌は只歌を目的と爲せしと云へる見地に立たるものと見るべく、從て其作物の跡に就て見るも、自然を親み人生を傍觀せるの趣きあり、歌と他一切の文學美術との關係若くは宗教問題社會問題人生問題等の諸問題と文學との關係に就ては、殆ど意を注ぐ所なかりしなり、言ひ換ふれば歌の問題は單に歌なるものゝ範圍内に於てのみ解決を求めたるものなり、勿論研究の初期に有つては、一意專心周圍を現るの暇なかりしは寧ろ當然のことゝ云はざるを得ず、子規子をして猶春秋に富ましめば如何なる發展を遂ぐべきかは、固より臆斷し難きものありと雖も發端の精神を墨守して動かざるが如き子規子にあらざるや明なり、子規子の事業を繼承して起れる「馬醉木」の活動は、甚だ遲鈍を免れざりしと雖も又窃に自ら安ずるに足るものあり、發展の進向は一日も停止せず、萬葉の研究に於ても漸次に其歩を進め、批評の範圍撰擇の標準に於ても逐年且つ廣く且つ高まりつゝありしを信ず、趣味と信仰との關係趣味と人生との關係あり、歌と他の文藝との交渉等に就て漸く接觸の端緒を開けり、
文學美術上一切の問題が、人間の研究を根本とせる如く、歌に於ても勿論寧ろ人間其物に最も直接なるべきを論じ、作歌理想は子規子時代と頗る其中心を異にし、明確に其然るべき理由を自覺せり、故に其態度は自ら人生を親み自然を傍觀するに至れり、「馬醉木」誌上に、新体詩現はれ小説出づるに至れるは全く以上の系路に伴へる産物なりとす、
(459)新体詩小説の製作的精神は勿論、人生問題宗教問題及び一般藝術に對する精神交渉等、悉く作歌の研究に依て養ひ得たる趣味と理想とに其解決を求む、以上の精神に依て作られたる製作は未だ之を具体的に充分に確認し得るもの少しと雖も、「馬醉木」五年間の作物が、竹乃里人選歌時代に比して非常なる變化と進歩とを遂げたるは何人と雖も認め得る處ならん、
是を要するに第一期の活動は未だ灣内的なるを免れざりしを、「馬醉木」五年間の奮勵は兎に角其活動中心を海洋に移して各種の潮流と接觸を保つの運動を爲すに至れるなり、更に運動の實績を擴大し明治の文運に新光彩を加ふるは「アカネ」の責任にして即第三期の事業たらずんばあらず、事の成否は一に同人諸君の奮勵如何に存す、
放縱落々毫も拘束を知らざりし、「馬醉木」編輯者の手を離れ信仰的熱烈なる三井甲之君に依て新興の「アカネ」を經營せらるゝは、斯道の爲めに予の衷心より慶賀措く能はざる所なり、今後諸同人の活動上予は幸に客位の地に居るを許され、年來の事業たる萬葉新釋の稿を急がんとするは、予の熱烈なる希望にして又一生の責任なり、蕨眞君長病根本より癒て健康舊に加はり、益斯道に盡さんとするの決心あり、今後諸同人の活動上必要の時機に際せば何時なりとも、獨力經費の一切を負擔して道の爲に盡すところあらんと誓はる、節君は年漸く三十にして精力更に加はり來るを覺ゆ、予又萬葉新釋の外、敢て余勇を鼓し、創作上に於ても猶諸君と鞍を並べんことを期す、
今や思想界の潮流は決して善徴ならず、高潔純正なる吾派諸同人願くは斯道の爲め、社會生民の爲め益精進奮勵するところあらんことを祈る、老夫七人の兒女を抱て明治四十一年の年頭に臨み敢て此の愉快なる年頭を祝し併(460)て諸君の健康を祝す。
                    明治41年1月『馬醉木』
                      署名  左千夫
 
(461) 〔『馬醉木』第四卷第三號稟告〕
 
 一 「馬醉木」に前金ある諸君には「アカネ」を送る
 一 雜誌に關する一切の件は「アカネ」發行所へ直接申込ありたし
 一 「アカネ」發行所は東京本郷區千駄木町五十番三井甲之助方
 一 根岸短歌會は「アカネ」發行所に移す
 一 歌會並に總て研究會等の事は二月一日發行「アカネ」に發表すべし
 一 毎月一回の十九日會は依然左千夫宅に開く
                     明治41年1月『馬醉木』
                       署名   なし
 
(462) 御歌始の歌
 
      (一)
 
毎年行はるゝ宮中御歌始めの歌に就ては其發表毎に必ず非難の聲を聞くが其非難者の主なるものゝ一|人《にん》はいつでも海上氏である、海上氏は御歌所に何の宿怨あるにや、二十年も昔から御歌所の歌さへ見れは、犬が猿を見た如くに騷ぎかゝる、何の宿怨と云はれて海上氏は立腹するかも知れないが、去年も慥どこかの新聞に相變らずの難説が出て居つた、文字上の爭ひ詞句上の我見、三句切れがどうのかうのと勝手極まる淺薄な非難であつて、少しも趣味上の議論ではなかつたと記憶して居る、且つ海上氏の作歌を見れば御歌所の人達の歌と五歩三歩の差で其の趣味の根本に於ては何等の相違があるのではない、赤馬が黒馬を笑ひ景樹が眞淵を誹るとひとしく、自分と同色でないから惡いのぢやと爭論するのと何の變る所もないのである、つまり自己の價値を反省するの誠意がなく、漫りに異伐を事として居ると云はねはならぬ、一生を通じて御歌所に反對したと云へは一寸面白くも思はれるけれど、研究の根本精神に誠意を缺いて居る以上は、其非難は宿怨の業《ごふ》と云はれても仕方がなからう。予は固より御歌所諸子の作歌に就て幾許《いくばく》の價値を認め居るものではない、然も海上氏の非難を排斥する所以は我れ今御歌始めの歌を批判せんとするに當り、例の海上一流の漫然たる非難と同現されむことを恐れてゞある。予(463)が平生の持論と見地とより云へば、御歌所諸子の多くの作歌の如きは、殆ど批評を加ふるに足らざるものと信じて居る、文學的作物詩的の作物として見るに足るものでないと信じて居る、乍併顧みて予も又明治文壇の一員歌界の一人たるを思へば、斯道の爲め且つは天下歌を好むものゝ爲めに、其所信を公にして、一は當事者に反省を促し一は歌を讀む公衆の參考に供すべき義務あることを思ふまゝに、敢て此の御歌始めの歌に批評を試みるのである。
 
      (二)
 
   かぎりなく生添ふ松を男山かみそもるらんわが君のため    正風
如斯着想の歌が文學としてどれだけの價があるかと云ふ根本問題は別として、此歌の心は、男山に澤山生てる松を男山の神がわが君の爲に守るであらうとの意と解されるが、「男山の松」と「吾が君の爲」との關係は、どう云ふ所から起つたのか、大君が殊に男山の松を愛し給ふと云ふ事實が明かになつて居らねば、此歌に云へる「わが君の爲め」と云へる詞は、甚だ漫然たる詞ではないか、作者の心の如く、わが君の爲に男山の神が其社内の松を守ると感じたものならば、「もるらむ」即ち守るであらうなどゝなぜに曖昧なことを云ふのか、只おとなしく柔かに許り歌ふのが能事でもあるまい、神が守るか守らぬか疑うて居る位ならば始めからそんなことを歌はぬがよいのだ、精神がなく氣力がなく堂々たる男子の歌柄でないと云ふのは精神から詞つきから曖昧で判然しない病所を楷すのである、
男山の神は如何なる神ぞ、わが君の爲に男山の神が守るとならば、松を守らなくとも外にいくらも神の守るに相(464)當したものがあらう、「かぎりなく」など云ひさへすればらちもなく目出度がつて居る幼稚な頭には相當な思想かも知れねど、おぼろかな考へと云はねばならぬ、
   すめらきの宮居に生る老松はわか大君と共に榮えむ     重朝
 
大君の榮を祝ふの心ならば、老松よりも若松がよからうでないか、何故に殊更に老松と云ふ必要があるか、以下信道の作歌に至る迄七首の歌は殊に記するの必要はない、
引きまとめて評し置く、これら七八首の歌を大體から云ふと、社頭の松といふ題意を、或は右より左より或は甲より乙と、少しづつ詠みかへたと云ふに過ぬものであつて、其松に對して新しい觀察があるでもなく發見があるでもなく、趣向にも着想にも句法にも、毛の先程も創意があるではない、一首の中のどこかに作者の創作的な分子が加はり、作者の精神の動きが現はれてゐねば、文學として何等の生命もないものである位の事は人から云れるまでもなく、其職責上からも心得て居らねはならぬ筈である。
 
      (三)
 
     選歌
   廣前にたち榮えたるおい松の千代の影汲むみたらしの水   高畠千畝千代の影を誰が何の爲に汲むのか、松のかげの映つてる水を汲んでどうしたと云ふのか、作者の興じた心持が少しも判らんぢやないか、榮えるとか干代のかげとかみたらしの水とか、紋切形に延喜のよい詞を無意味に綴つたといふの外はない、詩的思想から見て何等の統一もない歌である、
(465)   みつかきの松吹き渡る朝風は神の御聲のこゝちこそすれ    伊楚子
勿論幼稚な歌であれど、意味もまとまつて筋もとほつて居る、併し松風の聲が、殊に其の朝風が神の聲の心地するといふは、幼推な構想である、神々しき社頭に立たとき、風の聲まで何となしに尊いとの感じを歌ふならば、殊に松とか朝とか決めて了ふのが惡いのである、松の風朝の風許りが殊に神の聲と聞ゆるといふのが自然でない、その時許り其松許にさう感じたといふならばそれは作者の私情といはねばならぬ。
   廣前に杖ゆるされし老松は神につかへていく代へぬらん    大町 壯
これは洒落である、詩的趣味と言語上の洒落との差別も心得ずに、詠むも詠んだり採るも採つたりと痛罵して置く。
   神路山年こもりして大まへの松に初日を仰きつるかな     奥田大和
是は選歌中最も歌になつて居る作である、歳晩一夜を神宮に參籠して、既に心清々しきに翌る元旦大まへの松に初日を見た時は如何にも一種の感があつたらう、其清く尊い心が充分に現はれてはゐないけれど、思ひついたところは甚だよろしい。
   こま犬も苔むしにけり千代をへし神のいかきの松の雫に   木村忠彦これは只こま犬が古いといふだけの歌である。
   千早振神の廣前のとかにて鶴も遊へり松の木蔭に    鷲尾とみ子
この鶴は作りものゝ鶴かほんとうの鶴か、人が飼つてゞも置かねば、自然に鶴の遊んでるといふ樣な所は、此日本中にあるまい、されば不自然な虚構である、一口に眞心などゝいふ先生達が、どうしてこんな虚構的な歌を採(466)つたか、それでも例のお目出度い好みから、松の木蔭に鶴も遊べりと云ふ所が嬉しくて採つたのか、誠にお目出たい次第である。
 
      (四)
 
精神がない創作的でないといふ事を、少しく解説して云はうならば、文学といふ形、歌といふ形許りで、文學としての實質、即ち生命のある内容がないと云ふことである、此の形といふことを猶精しく云ふならば、縱令へば力の入らない角力と同じである、角力年寄は能く角力の形を心得て居る、角力の手も心得て居る、併しながら角力の根本精神たる力といふものがないから、角力年寄には角力はとれない、よしとらして見ても、角力の生命たる力といふものが少いから、所謂角力といふものゝ形をやる許りであるから、さういふ角力に興味はない、八百長とかいふ角力がつまらぬといふも、眞の勝負といふ精神がなく、負け勝ちの形であるから觀者《くわんしや》に興味を與へないのである、練りに練つたおのれの力を、精一ばいに發現さして角力ふから、角力が形を離れて活きてくるのである、
歌即ち文學の作物は以上の角力の精神と少しも變らぬ、作者たる人の腦力、即ち趣味的に養ひ得たる腦力を、精一ぱいに作物の上に發現させて始めて、歌も活きてくるのである、然るに高崎正風氏以下の作歌は、筆の先口の先の技巧で歌といふものゝ一つの形《かた》に過ぎない、これだけでは諸子にも合點がゆくまいから今一歩進んで説明すると、人各相異なれる性格を有する作者の腦力が、どこの端にも發現してゐないか、どの歌も同じ調子で同じふかさで同じ背丈でさうしていづれも同じ心に松とさへ云へば、かはらぬとか千歳の色とかいふ、お目出たい意(467)味より外にない、それもさういふ思想が、諸子の創意であるならはまだよろしいが、いふまでもなくそんな思想は千年昔から繰返されて居ることで紋切形とかいふことゝ同じく、そこに作者の働きは少しもないのである、
詞の上になり句の上になり若くは趣向着想の上にもどこにも作者の特別な力の入つた所がなければ、精神のない力のない歌の形似《けいじ》ぢやと云はれても辯解の道はなからう、これらの歌に強て幾分の面白味をたづねるならば、其の形似の上にあるといふの外はない。
              明治41年1月20日〜23日『東京朝日新聞』
                         署名 伊藤左千夫
 
(468) 〔『日本』選歌評〕
 
     竹               中村憲吉
   山の根の煙立つ家の棟の上に孟宗の葉しだれかゝれり
   灰小屋をまばらに圍ぐる孟宗の葉あひをもれて煙なびくも
   新桶を伏せしかたへに割る竹の竹紙輕く春風に飛ぶ
   女竹垣をくゞりて出し白犬が塵振ふ背に桃の花散る
   音きしるはねつる瓶は孟宗の月そよぐ菓の中に動くも
左千夫いふ 素朴なる寫生の趣味に、一種云ひ難き味あるを覺ゆ、一見決然として然かも作者の用意底にこもれり、予は平生寫生歌の容易に成功し難きを云へるもの、今此作を得て前言の淺きを悔ゆ、敢へて一言を附する所なり
                     明治41年1月26日『日本』
                        署名 伊藤左千夫選
 
(469) 二葉亭氏の「平凡」
 
アカネの編輯同人は大變平凡を褒めたけれども僕にはそれに對して不平がある。僕は小説を書いたことも見たことも少ない。尤も念を入れ興味をもつて見たのは平凡だ。面白くも讀んだ。平凡を讀んでから他の小説を少しよんで見ると二葉亭君の小説を書く筆致の點に於て群を拔いて居ると思ふ、作者が書かうと思ふたことを遺憾なく書き現したやうに見える、其小説的事件を描寫せる技巧に對しては全幅の同情を表する。けれども不服がある。題目が平凡とあるから無理かも知れぬが篇中の主人公と重なる人物がよく現はれて居るけれども作者が小説に現はれた人物及事件に對して如何なる興味を有つて居つたかわからぬ。平凡の人間輕浮の女を其儘紹介して見せて貰つただけでは飽足らぬ。
此點僕と作者とが文學上の意見を異にするかも知れぬ。平凡の人物事件を平凡に見てしまつては作者の理想はどこにあるか分らぬ。作者が平凡で無かつたなら如何なる人物事件にも平凡ならざる興味があらう。僕の不平に思ふのは此點にある。これは小説に對して素人たる僕の考であるからそれで平凡をつまらぬとはいはぬ。けれども平凡愛讀者中僕のやうの考を以て見て居るものがあるといふ事一言して置きたい。(左千夫)
                     明治41年2月『アカネ』
 
(470) 子規子
 
子規子は性格の甚だ複雜な人であつた、隨分怒り易く激し易く、愛憎の念も強かつた、さらば感情的な人であつたかと云ふに、又決してさうではなかつた、常識の發達した上に、理性に富んで、批評や議論や明晰徹底的であつた事は、世人皆知る處である、故に子規子は簡短な詞で、かういふ人であるといふ樣に一二言で其特性を云ひ盡すことは出來ない、予は今も記憶してゐて最も敬服に堪えないのは、子規子の常に反省心を有して居られた點である、いつも自分で自分の非點を悟りつゝ停滯なく、新しく進むことを求めた人であつた、尤も此精神が吾根岸派の本領である、自分で自分の作物が判らぬやうな事では、到底進歩發達など望むべきでない、「自分の俳句は自分の思つたよりも、下等であつた」とは、子親子の世を去る三月許り前の詞だ。(左千夫)
                     明治41年3月『アカネ』
 
(471) 〔『日本』選歌評〕
 
     思新兵(六首)         柿乃村人
   枕邊のガラスの窓に傾ける有明月夜國異なれり
評、景情共に新しく詩趣活躍せり「國異なれり」の結句能く一首に生命を與ふ、用語平易にして趣味は萬葉の神を得たり、以下の歌皆面白し。
   ガラス戸のしら/\月夜起き出でて寒きズボソに足とほすかも
   顔洗ふ有明月夜はる/”\に父母の國の山見えぬかも
   よべのまに降れる雪かも馬出だす庭べ眞白に月押照れり
   明けさむく銃荷ひつゝ父母のきのふの家をおもふらんかも
   月庭に銃とりなめる八十男等の心は知らに雁鳴き過ぐる
                     明治41年4月15日『日本』
                      署名 伊藤左千夫選
 
(472) 〔『日本』選歌評〕
 
                       掘内 卓
   おし積める胸のくるしみ
   君開きわれも明しつ
   まごころを一夜かたれり
   うつそみに二十年生きて
   友のなさけ今ぞ知りぬと
   きみが目に我が目をまもり
   わがめをば君にこらして
   ちかへりし天地の友ぞ
 
   眞心の友とは思へど
   直かれと心は呼べど
   燒け土となりし心か
   思ふ事の己れを計り
   いふ事は心にそはず
   かくなさばにくまえんかも
   こをいはゞあざけらえんかも
   かくぞのみ日々をくるしむ
 
   ます/\と心はもだえ
   もだえつゝ頭け重く
   うつろ木のくされたほれん
   末まつぞあゝ我れに長きくるしみ
評にいふ、極て複雜なる内心の苦痛を、能く簡明に歌ひ得て、句々含蓄あり、語々弾力あり、情深く心悲し。
(473)                     明示41年5月19日『日本』
                          署名 伊藤左千夫選
 
(474) 〔『比牟呂』都波奈會乃歌選評〕
 
     課題「朝」
 
  〇枕邊のガラスの窓に傾ける有明月夜國異れり(思新兵)  柿乃村人
評 命意嶄新内容活動あり面白し
  〇ガラス戸のしら/\月夜起き出でゝ寒きズポンに足とほすかも(同)  同
面白し
  〇顧洗ふ有明月夜はろ/”\に父はゝの國の山見へぬかも(同)  同人
   よべのまに降れる雪かもみ馬曳く庭べ眞白に月押照れり(同)  同人
三句「馬出だす」とあらば如何
  〇明けさむく銃になひつゝ父母のきのふの膝べおもほゆるかも(同)  同人
四五句「昨日の家し思ほえんかも」では如何 どうでもよし
  〇月庭につゝとり並める八十兒等の心知らねば鴈啼きて過ぐ(同)  同人
四句「心は知らに」などある方穩なるべし
(475)  〇冬の日の寒き朝げを|朝立てば《外に立てば》つく息氷り衣を凍てつも  山水
  〇足引の山かたつきて家居せば珍ら小鳥の朝毎になく  同人
面白し
  〇人しげき市の眞中の橋の霜は日出でぬ間に塵に消たれつ  同人
着想新し
  〇朝早く※[さんずい+氣]車立ちすべき友をとめて更くる夜ごろを歌語りすも  同人
  〇朝茶立てんと急須を見れば氷りつきて葢とれずけり寒き朝かも  同人
信州にては煎茶に立てると云ふにや初句矢張「茶入れんと」と云ふ方穩かならん
  〇寒の日のさむき朝げの今朝を撰み春蠶の種を水浸しせり  同人
  〇朝日さす西山つゞき白妙のみ雪輝く空鮮かに  同人
平淡なれども斯くまで明瞭に寫し出せば面白し山水子の進歩驚くべし
志都いふ 山水君の歌には一種山水調があつて云ふに云はれぬ面白味がある 精神も活躍生動してゐる
  〇あかときの谷あひ湯村人さめず靜けき空に湯氣たゞよへり  汀川
同  
  〇おぼろかに夕なづみ來し山川を見下す宿の朝げうれしも  同人
  〇湯烟《打ち渡す》のあかとき空に|立つ見へて《湯烟立ち》湖國諏訪の夜は明け|んとす《にけり》  同人
「明けんとす」では湯烟も見えざるべし
  〇八千民が朝餉たくらしあかときの靜けき町に烟立ち立つ  同人
(476)一句二句拙し「人の世を我が見おろせば」などいはゞ如何 かくせば取るべし
以下落選歌中數首節録
  △夜のとばり今し開くやうす紅に巨摩の群山朝日さす見ゆ  無限
今少し創見ありたし
  △吹雪する朝道來れは下駄の跡馬蹄の跡に雪はたまれり  同人
右餘り平凡也 且つ吹雪は寧ろ大雪の感なり
  △朝寒み畑の冬菜の葉莖ろのみどり見へぬまで霜置きにけり  同人
「朝寒み」など云ふ語は酷寒の意にあらず、畑の冬菜も働なき詞也
訂正「此朝菜畑おしなべ葉も莖もみどり見へぬまで霜置きにけり」對照吟味を乞ふ
總評無限子の歌概して餘りに趣向に乏し
  △色厚く胡粉ぬりたる土佐の繪のさまして朝の雪はれにけり  柳の戸
繪の如き景色と云ふこと着想已に幼稚なり
  △朝な/\材木曳くと雪落つる森の径を行きなづむかも  同人
材木曳くの語不熟なり、如何にして曳くにや
  △北の海に巖そゝる島雪晴れて臘虎のともら朝たけるらし  同人
淺薄なる想像はいとふべし
  △打揃ひ朝餉し居れば虚無僧の笛吹きならし物乞ひ來る  朴葉
(477)餘り尋常過ぐるやうなり
  △新住ふ家造らんと妻や子と雪の朝々木曳きよせけり  同人
同 朴葉子の歌總じて物足らぬは詩的材料の看取に注意を欠けると一首の構成上に趣向なき故なり
〇全体に就て云はゞ採れる人のは大抵とれて採れぬ人のは皆採れないはどういふ譯かと思ふに作者が始めに趣向あつて作れるのと始めに何の趣向もなくて作つたのとの差である。無限朴葉柳門の諸子は何の趣向も見つけずに作り始めた過ちであらふ
                        左千夫妄評
  左千夫先生が本會の爲めに毎回力を惜まず御教導被下候厚意は何とも感謝に堪えず候 今回は出詠者の數少なかりしは遺憾なれどもまア此位の成績に行けば愉快に存候 中にも山水君の進歩の如き眞に驚くの外なく候 小生も今回は出詠を怠り甚だ申譯なけれど次回よりは誓つて相つとめ可申諸同人打ち揃つて御出詠あらんことを希望致候 面白半分に一寸顔出ししては見合せ居る樣なそんな呑氣では迚ても仕事は爲し遂げ間敷と存候 吾茅花會は一時的の薄ツペラなものには之なく候故お互にどうか眞面目に熱心に飽かず倦まずのお覺悟にて論究願上候      《三月廿五日 志都兒記》
                   明治41年5月『比牟呂』
                   署名 伊藤左千夫選
 
(478) 讀萬葉雜考
 
     一
 
前號石關子の所説を敢て駁せんとするにはあらず、予は只別なる予の所感を述て聊か讀者の參考に供せんと欲するのみ、忙中筆を走らして所思を盡す能はざる憾あり、豫め讀者諸君の諒恕を乞ひ置くべし。
   足日木乃、山之四付二、妹待跡、吾立所沾、山之四付二、
此歌の第四句『吾立所沾』をワレタチヌレヌと『吾』をワレと訓むは、甚だ所以なき事なり、ワレとワガとの用語を何れにても大差なきが如く思ふは、言語が表現する意義と感情との關係を解せざるに因れり、
古來歌學者若くは國学者なるものゝ萬葉を解くや、多くは意義を解して趣味を解するに至らず、知識的解釋に偏して、感情的に其精神を得ること能はざりき、作者と學者との差別もなき時代に於ては止むを得ざる次第なれども、言語と感情との關係に注意なくして萬葉集を解せんとするは甚だ覺束なきことゝ云はざるを得ず。
『吾れ』と『吾が』とは意義の上に於ても感情の上に於ても、明なる差異あるにあらずや、然るに何等のとりとめたる考もなく、只漠然として或はワレと訓み或はワガと訓む、思はざるも又甚しきものなり、云ふまでもなく韻文に使用する言語は、些細なる点にも極めて微妙の働を有するを常とす、韻文の韻文たる所以、歌の歌たる所(479)以も茲に存するなり、韻文中の詞には言語それが有する意義の外に、更に微妙の表現あること多きを解得せざるものは決して韻文に遊ぶの資格あるべからず。
徳川時代の先賢諸子が萬葉に對する意義的解説の大功に付ては予と雖も固より感謝に吝なるものにあらず、然も猶其趣味的解釋に付ては押なべて甚だ幼稚なりしことを一言し置くの必要ありと信ず、感情の表現上必ず『吾が』と訓まねばならぬところに、確たる定見もなく漫に『吾れ』と訓ずるが如きは殆ど何の意たるを知るに苦むなり。
一般用語の例は暫く置く、此歌何故に『吾が立ちぬれぬ』と訓まざるべからざるかと云ふに、此の『吾が』の詞は人間相對間に於ける感情表現の自然より出でたる親みの詞なればなり、ワレと云ふ詞の如く、單に自己といふ意義を現はしたるものと同視し得べきにあらず、例せば『人を待つ』『女を待つ』と云ば相對の感情にあらざるも、『君を待つ』『あなたを待つ』と云へば相對的親しみの感情を表現するが如し。
此歌全首の意は、自己の感懷を叙したるにあらずして、思ひ人に對して我が親みの情を告げたるなり、されば此歌の根本が已に相對的に成立せるものなることを知らざるべからず、從て第三句『妹待跡』の語意も『妻をまつ』『人を待つ』等の單なる語意と異り、必ず、『君をまつ』『あなたを待つ』等の相對的親みの語意に解せざるべからざるなり、此三の句の妹なる詞は、妻と云へる意義の説明詞にあらずして、直ちに『君』若くは『あなた』なる語の情意に解すべし、此歌のみならず、万葉集中に於ける『妹』なる詞は、決して妻若くは情人の別名詞にあらず、必ず相對的に妻若くは親しき女を親み呼ぶ語意に用ゐらる、後世の歌人此意を解せず、妻と云ふべき場合或は相對的ならざる場合にも、猶妹若くは吾妹子等の語を濫用するは、淺薄なる萬葉の口眞似にして最も笑ふ(480)べきなり。
されば『吾立所沾』の『吾』は決してワレとは訓み得ざること明かなり、前句なる『あなたをまつ』などいへる親みの語を受けて、次に『われ立ちぬれぬ』と余所々々しき詞の出づべき筈なきなり。
 
     二
 
猶石關子は、此一句『立ちぬれぬ』と切れたるを難ぜられ、『立ちぬれし』又は『立ちぬる1』にあらずやと云はれたれど、予は此歌の性質上、『立ちぬれし』とも『立ちぬるゝ』とも云ひ難く、必ず『立ちぬれぬ』と切れざるべからざる歌格と信じ居れり。
此歌の如く五句悉くが直接に接續せざる歌躰を、予は之を段落躰と名づく、段落躰の語聊か穩當ならざるに似たれど、予の私に稱するところなり、集中此躰の歌を擧ぐれば。
   茜刺、紫野ゆき、標野ゆき、野守は見ずや、君が袖振る、
   麻裳よし、紀人ともしも、待乳山、ゆきくと見らん、紀人ともしも、
   名くはしき、いなみの海の、沖津波、千重にかくりぬ、大和島根は、
如斯句々に段落ありて直接に次句に續かざるを見るべし、此歌躰は一句一句に切れたるところに音調の響きを生ずるなり、少しく注意して讀みゆかば集中猶此段落躰の歌を見ること少なからざるべし、『山のしつくに、妹まつと、吾が立ちぬれぬ、山のしつくに、』と句々切れたるが此歌の調子を爲せる所以なれば、四の句の一句を『たちぬれし』『たちぬるる』など云はば、此歌の調子は亂れて節を爲さざるなり、試みに之を接續躰にせんと(481)ならば、
   妹まつと吾がたちぬれし足曳の山のしつくに吾がたちぬれし
僅かの相違なれども斯く作りなほさば句々接續して稍流暢なるを得べし、かくして此歌が原歌より佳くなりしやと云ふに、到底原歌に及ぶべくもあらず、原歌は『妹待跡』と云へる如き此歌の精神たる意義ある詞が第三句の要部にあるが故に調子に重みを生じ全躰に内容充實せる感あれど、試作の方は足曳のといへる無意義の詞歌の中邊たる三の句に入りて却て意味多き『妹まつ』の句が第一句にあるが故に頭勝に過ぎ中たるみの形を爲せり、されば試作の歌は全躰に力拔けたる歌となれるなり、(此事に就ていひたけれど略)段落躰は屈折して響きを爲し、接續躰は搖曳して余情を殘す、石關子が
   吾背子を大和へやると小夜ふけてあかとき露に吾か立ちぬれし
   大船の津守かうらにのらんとは正しに知りて吾か二人ねし
此接續躰なる二首を引證して、段落躰なる前歌の句切れを疑へるは誤れり 此二首の如きは結句に『吾がたちぬれし』『吾が二人ねし』といひ切らざるところに搖曳の音を殘して、人を動かすの余情もそこに籠れるなり『わがたちぬれぬ山のしづくに』と反動的に響きを起すものとは、全く作歌構成の根本を異にせるものなることを知らざるべからず。萬葉の歌の多くは、眞に一語一句と雖も悉く有理的進歩的なる注意に成れるを見る。當時の作家に果してそれ程の自覺ありしものなるや否やは斷言し難しと雖も今日よりして之を見る、其正整と完全とに驚かざるを得ず、故に漫然讀過して萬葉を窺はんとするが如きは到底不可能の事に屬す(來客に逢ふて筆を措く 忙中萬葉に對照して考ふるの余裕なく記憶の儘を記す)
(482)                明治41年7月・8月『國歌』
                      署名  伊藤左千夫
 
(483) 子規子の居常
 
 作物に就ての直接な批評は勿論、學問上若くは人事世事等の上に就ても、議論的對話などの場合には、それは隨分と普通以上に峻嚴冷酷な言語が續出したもので、折々は内心頗る不平を貯へぬ譯にゆかぬ事もあつた、それで時に多少の反抗的議論など試みようものならば、やゝもすると痛烈な冷罵を加へられる、さういふ場合には、我知らず腹が※[者/火]えて苦痛の堪へ難さに、心の据りが一寸と六ケ敷くなることがないでもなかつた。
 先づそんな次第で理性的方面の子規子は何となく恐しく氣味の惡い感じのある人であつた、今から思へば、それが即精進向上の道に相違ないが、其當時はなかなかさうは思へなかつた、いや思つてゐても感じが何分穩かにゆかなかつたから、實際内心馬鹿々々しくてならなく思つた事が幾度かあつた、それは恐く予一人のみでなかつた「先生の所へゆきたいけれど何だか恐ろしくて」など人の※[口+耳]くを能く聞いたものである、當時苦痛を忍んで聞いた事は、大抵後に至つて成程と解悟する樣な事であつたが、偖永久に其苦言も聞くことが出來ないことになつて、一年と立ち二年と立ち四年五年と立つて、今昔日の事を追想すると、當時の自分が如何にも幼稚にして思慮の淺く、鈍根教へ難く想像以外に子親子を困まらせたであつたらうと悔恨に堪へない次第である、かういふことを考へるに就ても今更の如く其時代が戀しくてならない。
 況や又子規子は、一方議論の鉾先ではそれほどに冷酷でありながら、それが一度感情的友義的交際の方面にな(484)ると、それは又實に用意周到懇切で、寸分だも人を疎略にする樣な事のない人で、談笑和樂心おきなく人と交つたものだから、いつまで立つても當時のなつかしさが忘れられない、それは勿論母堂や令妹も能く其點に一致して人を懇切にされたからでもあるが、子規子の懇到な注意は、いつも居常些末な事の上にも明かに感ぜられたのである、さりとて子規子は決してお愛想的な詞や、もてなし振な事など些末も云つたものではない、それは子規子に近い人の誰れでも知つてることである、要するに子規子の交際は懇到な用意と態度の誠實とに外ならなかつた。
 予が子規子に交際を求めて根岸庵に出入した間は約三年、其間予は一ケ月中に必ず三四回宛は訪問したものなれど、遂に只の一度も疎ましい感を覺えなかつた、隨分時間嫌はず訪問する、夜深しをする夕飯を饗せらるゝは毎度の事であるにも拘らず、冷かな待遇を毛の先ほども受けたことがなかつた、考へると實に感謝の念が禁へ難く起る、予が抹茶を好むといふところから、予が其幾百回の訪問中遂に一回たりとも、其抹茶の用意とそれに對する準備とを缺いた事はなかつた。
 云ふまでもなく予の訪問といふのは、決して賓客としてゞはない、子規子の病を訪ふの意味ばかりでもない、文學上の事は勿論の事、人間總ての上に道を求め説を聞かんとの精神が主となつて居るのである、云はゞ師弟の關係を以ての訪問であるから、固よりお客樣の款待を受くべき所以はないのにも拘らず、母堂も令妹も徹頭徹尾疎略に取扱ひをしてくれなかつた、聊かながらの予が文學上の修養といふものも以上の如き子規子の恩遇を受けつゝ、爲し得たことを顧みると予はいつでも其厚誼が有難く瞼を潤すが常である。
 訪問の度毎にいつでも同樣な感を繰返すのは、長座して御厄介になつては相濟ぬと思ふ事であつた、さう思ひ(485)ながら又いつでも晩食を御厄介になるのである、勿論自分の方にも、少しでも長く話をして居たい念もあるから、自然相濟ぬと思ひつゝも厄介になるのであつたが、子規子が又いつも其の飾り氣のない誠實な然かも何となく人を牽き附けるやうな力ある詞で、「君飯をやつてゐつてくれ給へ」と、かう簡單に云はれる其の一語が、どうしても背き得られない思ひがして、いつもいつも同じやうな情態で晩食を厄介になる始末であつた。
 それで跡にも先にも只一度、無理に其好意を辭して歸つたことがあるが、其時の事が未だに忘れられない、例の通り話しが長くなつて晩近くなつたので、予は今日こそは御厄介になるまいと思定めた時、丁度子規子が一寸君失敬するよと云ひつゝ、便通をとる爲に子規子と予との間に襖を立てた、(是は明治三十四年の末であるから此時分には最早子規子は床上横臥の儘便器を用ゐてゐた、客があれば必ず其度に襖を暫く閉たのである)予は其間に決然辭し去るべく襖越しに子規子に挨拶して起つた、何となし胸安からず思ふには思うたけれど、今日こそはと思うて門を出るや急ぎ去つて終つた、所が其後訪問の時に聞けば、(子規子は何とも云はず平然としてゐたけれど)其時跡で子規子は泣いて腹を立ち、左千夫は遠慮して歸るのであるのになぜ止めなかつたのかと母堂や令妹を叱つたとの話。其折も令妹は横丁のはづれまで予の跡を追うたが間に合はなかつたといふ樣なことで、是からはどうぞ歸らずに下さいなど云はれた時は、予は眞に其懇誠に感泣した、さういふ有樣で予は其後は子規子の云ふがまゝに、厄介にもなり無遠慮に長居もした、かういふ事は他人に聞かせて餘り面白い話でもないが、子規子の性格の一端が、此居常の些事にも現はれてゐようと思ふまゝに書いて見たが、一言にして云へば、子規子は恐しくてそしてなつかしい人であつた。
                   明治41年9月『ホトヽギス』
                      署名  左千夫記
 
(486) 〔『比牟呂』北山短歌會選歌評〕
 
山浦諸同人が紀元節の日に歌會を催し、雪、水鳥、ランプの三題につき各持寄りし歌中より、柿乃村人氏の選にかゝる、南信日々新聞所載の短歌を評せよと志都兒氏の求めある儘に聊か愚見を述ぶ。
予は加評に先ち猶一言し置くの要あるを信ず、以下の各歌は已に柿乃村人の選を經たるものなれば、今予が其歌に忌憚なき批評を加ふるに就ては、予は加評の標準を云ふの責任あり、採ると云ひ採らぬと云ふも要するに標準の如何に依て決するものなれば、柿乃村人が採れりし歌を予が採らざるの理由は多くは意見の相違にあらずして採擇の標準に相違あるに基づく。
是れ等の諸作を單に明治盛世の泰平に樂む逸民たる諸君が、生業の餘暇韻事に遊ぶの作物と見れば、以つて蓼科山麓の風土習慣の美と、諸人士の高懷とを察すべく、予と雖も寸毫の異議を加ふべきにあらず、諸作皆相當に面白みあること云ふまでもなし。
然りと雖も今夫れ是を一地方人の作歌と見ることなく、明治文壇の作物として、後世に傳ふべく永遠に生命を有せざるべからずとせば、予は諸作に就て容易に面白しとの一言を呈すること能はざるなり、故に予が今諸子の作歌に就て深酷なる批列を加ふるは、予の希望が諸子に對して極めて大なるものあるが故なることを諒せられむことを望むや切なり。
(487)◆雪人子の作歌十首、予の採るところ三首。
   朝日照る諏訪のみ池のみなきはに鴨は遊べり飼鳥のこと
   久方の月夜を清み山の上の鴨場の小屋に一夜明せり
   芹澤の芹の中ゆくせゝらぎに水鳥遊ぷ餌をあさるらし
雪人子歌を物すと聞きしより未だ久しからざるに、早く此圓熟と洗錬とを見る、予の敬服に堪えざる所なり、三首の歌一見して平淡他奇なきが如くなれども、机上の想像を以て決して構成し得る歌にあらず、材料の撰擇自然なるが故に措辭又從て穩當なり、一氣呵成意盡きて然も餘情を含む、而して清峻犯し難き風姿を見る、蓋し當日の壓卷なるべし。
   諏訪の湖早やも氷りてスケートの今盛りなり君ぞ來まさね(課題外)
此の如き歌を何故に採らざるかを一言すべし、一首の首腦たる着想が、何事の上にも轉換し得るは、趣味の要點を捕らへ得ざるが故なり、此歌の中心たる三句と四句とは、『梅の花今盛りなり』とも『桃の花今盛りなり』とも如何なる事にも云ひ得るなり、一句と二句は固より事件の報告なれば、是れ又何の上にも點用せらるべし、從令へば、『隅田川秋風清く』とも『吉野山霞棚曳き』とも云ひ得るなり、生命を得ざる所以以て察すべし。
他は一々辨ぜず、以下各君の歌評此例に依るべし。
◆朴葉子の作四首、予の採るものなし
   足乳根は學び舍に行くめぐはしの子等思ふ心雪掻ける加裳
足乳根は大体に於て母の事なり、雪を掻くなどいふに父を置きて殊に母を云へるは何故か、或は父なき孤兒なる(488)か、然もそれにては作者のみの心得にて讀者には解し難し、雪を掻くと云ふも何處を掻く事にや、自家の門前か或は学校までの道路か、いづれもが不明瞭なるが故に趣味感に統一を欠けり、單に親が其子の學校に行く爲めに雪を掻くと云ふだけにては人事上一事件の報告に過ぎず、韻文として成立すべき内容を有せぬ、以下三首も皆一首に中心點なく短き散文の如き感あり、予は朴葉子其人のみならず、他諸君も聊か茲に注意あらんことを望む。
◆工圭子八首、予の採る歌なし。
   薪伐り秣刈る山雪積めば兎を狩りて吾は樂む
『薪を伐り秣を刈る山』とは年中行事を總括したる意味なるを兎を狩るなどいふ、尋常以外の事件寧ろ一時的なる事件と漫然配合せるは、此歌の落つきを得ざる所以なるべし、且つ兎を狩ると云ふ事が稍突然たる感あるは、如斯場合に、作者以外には兎を狩ると極めたる意味が明かならざればなり、併し如斯内容が歌に適せぬと云ふにはあらず、要するに措辭上の問題たるに過ぎざるべし、以下の如く訂正せば如何。
   秣苅ると薪を伐ると親みし山も雪降り兎狩るかも
『秣苅り薪伐つて親みし』と云ふことを主として、兎狩るといふことを軽く副へたる事件とせば、稍統一を得べきか 主客の定まる所即生命の存する所なり、這般の消息は最も細心の注意を要す。
   蓼科の山の雪路を行きなやみ炭燒小屋に一夜寐にけり
作者の感興が解らぬ歌なり、雪山に行き暮れて苦しかりし興味を歌へるにしては、苦痛の感を現し得ず、『一夜寐にけり』などと無造作に叙し去つては、何等の苦痛を感ぜざる如く見ゆ、『野をなつかしみ一夜寐にけり』は面白かりし一夜なりしと云ふ意なるが故に宜しきなり、『面白かつたか、つらかつたか』の差別なき如き云ひ樣(489)は謹むべき事なり、雪人子の、『山の上の鴨場の小屋に一夜明せり』とは形は類するも内容に雲泥の相違あることを知らざるべからず。
◆竹舟子七首、予の採るもの一首。
   夕寒み炬燵し居れば北庭に三十三歳鳴く雪降らんかも
着想稍陳腐なれども、如何にも寒むさうなる感じあり、一句一句切れたる躰にして、調子に弾力あるところ平凡なりとして捨つべき歌にあらず。
   ふる雪に野山埋れは軒に積む藁にこの頃頬白の來も
平凡も此の如く平凡にしては殆ど生命なし、結句の頬白何等の働きを爲さぬ、以下五首皆凡作なり、竹舟子昔日の俤殆ど見るによしなきを恨む、願くは少しく奮起するところあれ。
◆柳の戸子七首、一首を採る。
   いたつきにこやる六尺の床ぬちにラソプ小暗く君苦しめり
結句に力ある所最も悦ぶべし、詞の上に接續を離れて却て感情に統一あり、若し夫れ『君苦めり』の一句を、ランプの暗きに苦しむと解する者あらば、解者の解淺薄の誹りを免れず、他四首は、子規子文章中の語にすがれるもの多くして拙なり、例に依て一首に惡口を云べし。
   白玉の水仙少女雪少女相舞ふらしも月冴ゆる夜に
とりとめなき空想は寢言に等し、空想的に神を描く固より詩人の事なり、然れども歌は繪畫の如く色相を現實ならしむこと能はざるものならずや、漫りに水仙少女雪少女など名稱を作りたりとて、何等の印象を想像し難きに(490)あらずや、柳門子常に空想趣味を愛して、其の弊を察するの注意を欠く、往々獨よがりの陋を演ずるも是れが爲めなり。
◆志都兒子の歌、旋頭歌九短歌六、予の採るところ旋頭歌二短歌一。
   天地もかきくらしつゝ雪はふりふる、馬曳て今朝出てし人ぞいづくをか行く
此の如くせば面白し、對照吟味を乞ふ。
   むな底の思ひことごと語る此夜は、さや/\にランプの曇り拭へるがごと
比喩面白くして、這般の感情を適切ならしむ、内容能く旋頭歌に協へり、他七首は只漫然旋頭歌体を試作したるに過ぎざるなり。
   小夜更けて磯路さぶ/\一人來れば湖の氷に鴨鳴く聞ゆ
取り立てゝよしと云ひ難き歌なれど、平易なる内に、自然の味ひありて捨てがたし、志都兒子平生に似合はず、歌數多き割合に採る所少なきは遺憾なり。
   かけ流す野邊の水掛水湛へ北山人は夜を鴨とる
   雁金や鴨來る待つとまち小屋に榾火かそけく焚きて夜を守る
かう報告的にては無趣味なり、詞調の上に少しも感情の動きが現はれ居らざるが故に、從つて讀者を刺激するの力なきなり、鴨待つ小屋に榾火焚いて夜を守るといふ事實は、趣味あることなれども、そを報告したる文字には其事實の趣味を感ぜざるなり、志都兒子の歌は叙法常に平坦を悦び、厭味といふもの少しもなき替りに、徃々無味乾燥なる報告的説明をなすことあり、記して注意を望むもの必ずしも志都兒子の爲めのみと見るべからず。妄(491)言多罪
                     明治41年9月『比牟呂』
                      署名 伊藤左千夫
 
(492) 〔『比牟呂』都波奈會歌選評〕
 
  課題、風、うれし、
  出詠者岡千里小林山水森山汀川志都兒四人四十三首中一首を採る
   荒金の国内のものら悉く息吹き蘇る春の風かも  森山汀川
大なる注意を諸君に呈す仮想的趣向の多くは徒らごとに陷る事を忘る勿れ、左千夫妄言
                    明治41年9月『比牟呂』
                     署名  左千夫選
 
(493) 候
 
子規子七週忌紀念として子規子没後根岸短歌會諸子の歌集を編輯致居候本年中には出版の豫定に候
                   明治41年10月2日『国民新聞』
                       署名 伊藤左千夫
 
(494) 願くは先づ其私心を去れ
 
道遠からずとは千年以前の古賢が云へる言なれど、今日に於ても猶道遠からずである、世上有らゆる諸問題の根柢たるべき眞理は寧ろ高遠なる文章に存せず、却て平凡な常識的な言語に存する樣である、
物に本末あり事に終始ありといふ、如何にも平凡至極な言である、乍併此平凡至極な言語が含める意味は殆ど宇宙を抱合するに足るのである、人間一切の事何事か此終始本末の顛倒を許すべき、個人固より然り國家社會又固より然り、苟も這般の考慮を欠く、必ずや不可抗的に大なる行違ひを生ずる、人生多くの慘事が其行違ひの逆境に起るは大雨が洪水を伴ふに等しいのである、終始本末の言や余りに平凡であるが故に常に世人の注意に漏れ居るの感あるは眞に憂ふべきことである、
天の惠みに漏れざる程の人間には、必ず相當な常識を有して居らぬものはない、さうして又苟も相當の常識あるもので、人事の大躰に終始本末を辨へぬものはない筈である、然るにも係らず、天下蕩々として其終始本末を辨へざるの行爲を敢てして、平然たるものあるは、不思議である、大臣宰相の器を以てしても猶且つ其解り切つた終始本末をして倒行し困り切つて職を辭するなど往々見る處である、世上誰一人として失敗を好み成功を惡むものはないのに猶相率て逆行倒施の無理を冒すは、何かの理由が其所に存するものに違いなからう、予の考を以てするとかうである、
(495)人間が普遍的に有する弱點、即本來の良心に反對なる欲念の私心が、いつも其本心を害するからであると思はれる、
人間は何程學問があつても知識があつても又才能があつても、自ら其私心を制しうるだけの修養と、本來の良心とを確保するだけの意志力がなければ、甚だ如何がはしい人間と云はねばならぬ、公明心の使役に供してこそ、擧問知識才能も人間の利器なれ、私心一度公明心を掩へる人間の利用に任するならば、学問知識才能は究極人間の凶器に過ぎぬ、飽くまでも、終始本末の考慮を欠ける今世の人は、人間社會の總ての上に主裁たるべき公明心を輕しめ、其根本を忘れて、學問知識才能の末を重じ殆ど、人間の光明なるものが如何なる點に存するかも知らないのである、政治界實業界は暫く云はず、学術界宗教界文藝界、いづれの方面を見るも、私心的行動の痕跡を認めざるは無いと云つてよい位である、
見よ世間は有らゆる方法に依て、論議を盡し聲を大に言を巧に至らざるなきに係らず、廣く人生の幸福といふ上より見ば、日に月に索漠の感を加へ來るではないか、
予は一文學雜誌に依て所有世上の問題を議せんとするものでない、近時の文壇がいづれの方面に於ても晴天の快明を見難きの状態にあるは、窃に痛嘆に堪へないのである、
人格的に修養極めて乏しく然かも文藝を以て世に誇らんとするもの、學藝技術猶幼稚にして早く人に教へんとする躰度を爲すもの、己れの品性如何を顧みるの念なく漫りに他を非議するもの、内に何等の標準なく只己れに親しきを上げ、己れに疎きを排して平然たるもの、其作品を金銀に換ふるを唯一の目的とせるが如きは、固より云ふに足らず、數へ來れば一として私心に囚はれたる非公明心の擧動でないものはない、
(496)文藝が人生に負ふ所の神聖なる職責に對し、深く顧みて自重するの士君子を得て、始めて文運の隆興を期すべきである、是れ實に根本の問題である、予は文藝上の主義を論ずる以前に於て先づ文藝家の人格を論ずるの急要なるを叫ぶ、已に其人を得る主義の如き流派の如き、日出て山川明かなるが如きものがあらうと信ずるのである、「アラヽギ」發行に際し予は作者の一人として以上の言を現文壇に提供せんとするのである。
                   明治41年10月『阿羅々木』
                      署名  左千夫生
 
(497) 東都來信〔『阿羅々木』第一卷第一號消息〕
 
アラヽギ原稿取揃へ御送り申上候、今月中に御發行に相成候へば結構にて候 發行期日などに氣揉み致候は商人の事にて候、吾々の發行する雜誌は只内容の如何に死活を定むべき筈に候、今回諸同人より來集せる作歌の意想外に振ひ居る事實に雀躍の至りに候、柿の村人の「分水莊」秋圃の「馬宿」等題目極めて新く技巧又着想に協ひて一讀痛快を覺え申候、小生の選べる部分にも金玉相打つの響きあるもの、鬱然堆積の感有之、近來の大快事に覺え申候、余り推奬致候ては、却てお上手を云へる樣にとられはせずやと差扣へ候程にて眞に心の底より悦ばしく候、子規子歿後僅に七年諸同人に此進歩あり、子規子の靈魂天翔りつゝ悦ばれ給ふ事を想見し得らるゝ心持致候、由來子規子の議論及び其作歌は屡世人の誤解を招き候事御承知の如くにて候、或は趣向を片重して詞調を輕視せりと云ひ、或は萬葉に心醉して擬古に陷りたりと云ひ、多くは、淺薄なる自己を標準として、無定見なる批評を下せるに過ざるものに候へども、解る人は少く解らぬ人の多き世の中に、以上の如き妄評に惑はされたる者も少からざるべく候、御承知の如く子規子の研究理想は、趣味を根柢とし生新にして、不滅的なる創作を得んとするにあるものに候へは、内容と形式との關係に就き、片輕片重の偏固に執するが如き愚に陷る所以は決してあるべき箸なく候、又擬古にせよ逐新にせよ形似の外觀に囚はるゝが如き左樣なる痴に陷る所以も決して無之候。乍併要するに空論は無益至極のものに候、現に發展せる吾々後進諸同人の作物其物に就て、直接に精神の存する(498)處を看取せば足れりと存候、吾々諸同人の創作は即子規子の精神と、子規子の理想との現顯に外ならずとの強固な信念に依て奮勵せねばならずと存候、從て諸同人の責任は甚だ重大なるもの有之候譯にて候早々
   明治四十一年九月十九日子規子七週年忌の日に於て  左千夫生
                   明治41年10月『阿羅々木』
 
(499) 〔『日本』選歌評〕
 
     濃霧の歌                    長塚節
    明治四十一年九月十一日上州松井田の宿より村間の間を求めて榛名山を越ゆ、
    湖畔を傳へて所謂榛原の平を過ぐるにたま/\濃霧の來り襲ふに逢ひければ
    乃ち此歌を作る
  群山の尾ぬれに秀でし相馬嶺ゆいづ湧き出でし天つ霧かも
  ゆゝしくも見ゆる霧かも倒にさうまが嶽ゆ搖りおろし來ぬ
  はろ/”\に匂へる秋の草原を浪の偃ふ如霧逼り來も
  久方の天つ狹霧を吐き落す相馬が嶽は恐ろしく見ゆ
  おもしろき天つ霧かも束の間に山の尾ぬれを大和田にせり
  秋草のにほへる野邊をみなそこと天つ狹霧はおり沈めたり
  はり原は天つ狹霧の奥を深み和田つみそこに我はかつけり
  うへしこそ海とも海と湛へ來る天つ霧には今日逢ひにけり
  うつそみを掩ひしづもる霧の中に何の鳥ぞも聲立てゝ鳴く
(500)  しましくも狹霧なる間は遠長き世にある如く思ほゆるかも
  久方の天の沈霧《しづぎり》おりしかば心も疎し遠ぞける如
  常に見る草といへども霧ながら目に入るものは皆珍らしき
  榛原の狹霧は雨にあらなくに衣はいたくぬれにけるかも
  おほゝしく掩へる霧の怪しかも我があたり邊は明かに見ゆ
  相馬嶺は己《おのれ》吐きしかば天つ霧おり居へだゝり二たびも見ず
左千夫いふ久振にて吾が節君の作歌を見る、境涯の隔世的なるに詞句皆超脱の響きあり、人をして一讀現寶を忘れしむ、三四首の議すべきものなきにあらざるも敢て感興を妨ぐるに至らず却て又籟の眞を窺ふに足るべし
                  明治41年10月18日、21日『日本』
                       署名 伊藤左千夫選
 
(501) 不透明式の文章
 
▲私は此頃「日本」と「朝日」と「國民」の三つを取つて花袋氏の「妻」漱石氏の「三四郎」秋聲氏の「新世帯」とを彼れ此れ比べて面白く讀んでゐる。併し讀んでゐるうちに此三氏の作物に就て少なからず※[厭/食]き足らぬ感が起こつた。其に就て一言し度いと思ふ。
▲前以て斷つて置くが、※[厭/食]き足らぬといつたところで決して作の善惡に就ていふのでは無い。唯私が讀者として興味の有無といふ點からいふのである。三者共孰れも全力を擧げ全精神を籠めた作者の苦心の痕が見える。其點には敬服するが趣味といふ點からいふと私の好みとは違つてゐる。
▲どういふ點かといふとどうも作が透明過ぎる。即ち形からいふと印象が明瞭過ぎる。文章からいふと意味がはつきりし過ぎて居る。其爲めに或は露骨な感じ、餘裕の無い感じ、暖か味の少い感じがする。例を寶玉に取つていふと水晶やダイヤモンドの類であつて眞珠とか玉とか瑠璃とかいふ類のぼんやりしてゐるものでは無い。勿論これも玉其ものゝ價に就ていふのでは無い。
▲私は不透明な玉や瑪瑙のやうな文章を好む。透明式は評論、説明、解釋等には必要であらうが小説に於ては表現法を今少しぼんやりし度いと思ふ。讀者としての我々が暖か味のある感じを受入れる事の出來るのは不透明式の文體でなければならぬ。透明式の文體は冷めた過ぎる。
(502)▲私は此點に於て三氏の作に※[厭/食]き足らぬ。重ねていふが此は水晶の玉を好むか瑪瑙の玉を好むかといふ趣味の相違の問題であつて金剛石と眞珠との價値の問題ぢやない。
                   明治41年11月12日『國民新聞』
                        署名 伊藤左千夫
 
(503) 伊藤左千夫大人談片
 
  九月八日の夜で有つた。古泉君をともなひて伊藤左千夫大人を訪問して種々歌論を聞いた。其折心覺えに少しづゝ其要と有る處を書付けて置いたのを多少つゞり直して掲げる事とした。もとより正式に筆記したのでは無いから誤も有る事で有らう(敦夫)
       〇
凡て歌は解釋の上に多くの知識を要するようではいけない。感情的に會得せらるるものでなくてはならぬ、理窟に落てはいけないといふも其處に基づくのである。古今以下の歌は多くは理窟をこねて居るからいけないので有る。ひとり萬葉は能く感情的に叙せられて居る。作者の感情がもとゝなつて一首が成立つて居る。一寸例へて見ると
   袖ひちてむすびし水の氷れるを春たつ今日の風やとくらん
此歌に今日と云つたのは全く暦の上に定めたる立春といふ日を指した詞で知識より考へ付いた事で意味が理窟を含んで居る 萬葉の
   我せ子はいつくゆくらんおきつものなばりの山を今日かこゆらん
此方の今日は同じ詞でも全く精神が違つて感情を強く現はして居るではないか。此今日と云ふ語で天象の上迄が(504)思はれる。之れで此歌は活きて居る。即ち天氣のよくないのが思はれる。なはりの山あたりを今日此天氣の好くないのに越るで有らうかと云ふ事が此の今日と云ふ二字でいかにもうまく強く現はれて居る。夫なる人の上を氣づかつて居るのが此句で現れて居るから妙だ。
       〇
近世の歌は一首の内に含まれてゐる感情思想が平均して居て太細がない。上げさげがない。凡て調子がズンベラボーで有る 萬葉は其はちがつて居る。今云つた歌でも『我せ子はいつくゆくらん』此處迄は輕くやさしく出て居るが三四五で強くなつて居る。其處でタルミがないのである。始めはやさしく出かけて下がはつて來ねばならぬ。下が強くなつて來ねば、どうもたるんでくる。
       〇
作者が一首構成上に感情の集中せる處即一首の中心点であるそれがあつて始めて一首の統一が出來るのである、其處を吾々は常に山と云つて居る。此の山といふものがなければ歌でも文章でも俳句若くは小説でも繪畫でも決してまとまりのつくものでない 故に形式上から云へは山は如何なる場合にも藝術の生命である。
調子は低きより上つて高く強くなつて少しゆるんで止まると締りがよい。
       〇
文學美術何でもあるが詩は只興味を生命とする、云ふまでもなく興味は快感のもとである故に冷靜な感情は文學にはつまらない。
       〇
(505)凡て形式に拘はつてはだめで有る。形式を離れて自然に歸れで有る。意味はうまく言語に現はし得ても其動作が調子的に現はれねば從て感情も現はれない。例へば吊詞を云ひに行つた處で深交の有る所へ行つたのと外の一通の人の處へ行つたのとは同じ言語を用ゐても感情の現はれやうが違ふのである。形式は同じ事で有るが感じに深淺が有る。其が自然である。歌でも嬉しい事を只嬉しいと云つただけでは意味の上に嬉しいといふ事が判るだけで感情は判らぬ其嬉しい事が調子に出て來ねばダメで有る。萬葉の
  我大君ものなおもほしすめ神のつきてたまへる我なけなくに
に就て見ても悲しいといふ詞は半句もないが能く吟味して此謌を咏じて見ると一種悲哀の感が歌の上に充實して居る。意味でなく調子に感情が現はれて居るといふは此歌の如きを云ふのである、これが眞に高い歌である 故に歌は只語格文法許り研究して居ては判らぬ。
  勝間田の池は我しるはちすなし然いふ君かひげなきがこと
などを見ても一首の調子が既に/\笑つて居る様に感ぜられる 能く是等の歌を味ふてみるるべしぢや。意味は例へて見れば圖取りで有る。意味だけではとても繪とは成らぬ。色彩との調和がなくては繪とはならぬ。即ち歌は調子が無くてはならぬ 意味以外感じが現はれてゐねばならぬ。扨て其感じは理窟や作り物ではとても出て來ぬ。其處で人格の修養と云ふ事になつてくる。人格が高くて作も始めて高いものが出來る。
       〇
連作的趣味、三十一音でつめられぬ想を無理に詰め込んで作らなくともよい。連作の必要は其處に起る。扨連作は縱から見横から見て詠むでもよいので有るがどうも其方は言ひ方を變へてみたと言ふやうに成りやすい。其よ(506)りはやはり其物のつぎ/\變化して行く處を詠んだ方が面白く出來る。例へて見れば竹の里人の山吹の歌の方のよみ方がやり安い。松の歌の方は見方を變へた方で有るが此方は中々にやるのが困難で有る。扨て連作は材料を續ぎ/\變へて行かねば成らぬが、しかし終始一貫した觀念が無くてはならぬ。之は大に注意して置かねばならぬ。例へて見れば前に云つた竹の里人の晩年の歌に就て云へば來年迄はとても生きられぬと云ふ事が全首を貫いて居る。で此歌を讀むと子規先生の當時を忍ばずには居られぬ。連作には一貫した觀念が第一で有る、と云ふ事を注意せねばならぬ。
       〇
感情の平均と云ふ事は注意せねばならぬ。
   千萬の軍なりとも言あげせず取りて來ぬべきをのことぞ思ふ
斯くも大きくなくては感情の平均が取れぬ。かく皆張つて居るが斯く張つて居らねばならぬので有る。其で此歌なども三句『言あげせず』と切り、一頓挫して又四句で一寸と切つて有る。で感情が非常に激して居る。千萬の軍も動かす事は出來ぬ調子に成つて居る。其だから凡てが働いて居る。働いて居るうちにも又斯く變化して居る。決して一本調子ではない。斯く調子に變化が無くつては意味許り判つても形式上の趣味音節上の味がなくなる。
       〇
詩人は從來有つたもののまねをして行くべき物でない。天才は破格もやるが批評は其うではない。批評は現在を評すればよい。詩は生れて行くもので有る。評は未來に向つては云へぬ。現在を云はねばならぬ。で有るから評家は斯く作れとは云はぬ筈で有る。余はいつでもいつてる 詩人は造物者である。批評家は造物者の作つたもの(507)を評する賀格はあつても造物者に對して、これ/\の物を造れと注文する資格はないものである。
                      明治41年11月『國家』
 
(508) 新年物と文士
     ――アンケート――
 
此八日に富士裾野の三ケ月湖に遊び十四日歸宅致候 春陽堂の雜誌へ短篇の小説を書く約束致候 勿論ホトヽギス新年號へも一篇書く考に候 新小説の方は「廢める」といふ題にて高等學校を卒業して本年大學へ入りたる學生が肺病の爲遂に廢學歸國に至る迄の苦悶に對し或友人の同情慰藉せる關係を主とせるものに候 ホトヽギスの方は例の田園趣味のものに候 どちらが長いかは書いて見ねば判り不申一生懸命にやつて見る考へに候
                  明治41年11月27日『國民新聞』
                       署名 伊藤左千夫
 
(509) 注目すべき本年の作品
     ――アンケート――
 
かう申ては失敬なれど、本年の文壇に於ける小説に注目すべき心にて見たるものは無之候。尤も小生は月々の創作を半分も見不申候故見ないものゝ中に如何なるものありや判らず候。尤も本年評判高かりし「平凡」と「蒲
團」の中、「平凡」は讀み候。「平凡」は技巧の點に於ては三嘆して敬服致候へ共文擧上の價値といふ點よりは左程のものとも思ひ不申候。一言にして申さば社會の或人物事相は巧に描き出され候へども人格的高い匂が何處にも感じ得ざる故物足らず存候。「蒲團」は逐に讀むに至らず候。
                   明治41年12月29日『國民新聞』
                        署名 伊藤左千夫
 
(510) 碧梧桐氏に答へる
 
◎「日本及日本人」の九月十五日號で、碧梧桐氏は子規七週忌として、「ホトヽギス」所載片上天絃氏の所論及び、「馬醉木」終刊號に於ける、予の消息文に向つて不平を述べて居る、予は予の消息文に對する碧梧桐氏の言に答へる、答へるといふと少し仰山であるが、兎に角それに就て少し云ふて置きたいと思ふのである、
恭敬以て君に仕ふれば世人は之を諛へるなりといふ云々と慥か孔夫子の愚痴かと覺えて居る、今日でもさういふ場合が多い、自己の所信を明確に宣言すれば、大抵は傲慢ぢやと受取られる、思つて居ることを明らさまに筆舌にすると、少くも人に悦ばれない、「馬醉木」終刊號の消息なども、予の所信を余りに明確に發表した點が、碧梧桐氏の肝癪に觸れたであらふと思はれる、議論に反對といふよりは予の態度が癪に障たと云ふが早解りであらふ さうでないとすると、碧氏の不平といふ意味が余りに不得要領である、
予は予の性分として人言に恐れて自分の所信を言はずに居るとか、若くは曖昧に發表するとかいふ、さういふ悧巧な事が出來ない、さういふ事が出來ないからあんな消息文も書いたのである、乍併予の所信は何所までも予の所信である、予はさう信じて居るから彼の消息文を書いたのである、人の癪に障らうが反對があらうが、それは是非ない事である、碧梧桐氏の不平は碧梧桐氏の不平であつて、予の所信は何所までも予の所信である、故に予は碧梧桐氏の反對論に不平も云はなければ、反駁する氣もない、
(511)如何に無頓着なる予と雖も、子規子の議論及び作物に就て、余り詮索的露骨な批評は好まない、子規子が議論及び作物に於て、人生に親むと云ふより自然に親んだことは、碧梧桐氏自身も認め居るではないか、恐く一般の批評もさうであらふ、
云ふまでもなく自然に親むと云ふ事が幼稚だと云ふのではない、物の順序として創始の運動に屬すると信ずるのである、物事に順序本末がある、いくら偉人でも初めから何も彼もやれるものではない、
子規子は三十六歳で世を去られて居る、向上發展の力が一日も停滯せざりし子規子であつたけれど、三十六歳で世を去られて居る、子規子平生の態度から推して考へると、子規子は仕事を始めた許りで死ぬやうな考がしたであらう、であるから若し四十歳の子規子があり、四十五歳の子規子があつたらば、子規子の議論作物に如何なる變化があつたらふか、云はずと知れた事である、宗教問題にも人生問題にも決して從來の如く側面現して居なかつたに違いない、腰の立たない子規子は、戯れながらも實業がやつて見たいと云はれた事さへあつた、實生活即人生問題に興味を持たれた事は既にそこにほのめいて居つた、其上予は屡々宗教談を子規子から聞いて居つた、子規子は爲すべき仕事を大殘しに殘した人であると、予は固く信じて居るのである、
予は改めて明言する、子規子の文業は、いくら吾本尊として見ても、橿原時代を出なかつた、殊に吾が歌といふものの上に於ては、只都を定めた許りで世を去られたのである、碧梧桐氏が予の作歌中心異動説を以て大膽ぢやと驚嘆したのは、聊か虫の居所が違つて居たせいであるまいか、
子規子を信仰し居るといふ事に就て予は、數次「馬醉木」で發表して居る、我れながら我が明言の大膽なりしに自ら驚嘆した位、子規子信仰の感念を發表したものである、碧梧桐氏も當時予の子規先生論に批評を加られた程(512)であるから、讀んでくれたに違いあるまい、今日と雖も予の子規子信仰は依然舊の如しぢや、
子規子の天品と子規子の精神と子規子の人格とは、予の絶對に信仰する所である、予が生のあらん限り此信仰は一厘たりとも動くまじき事を信じて居る、されど試に思へ道に當つては師に讓らずと云ふではないか、芭蕉蕪村を崇拜するからとて、其駄句までも崇拜するのは衆俗の事ではないか、云はずと知れた事である、子規子を信仰したりとて、其議論作物悉くに盲信を張らるべき筈のものであるまい。
吾々は子規子の置いてゆかれた橿原にこぶりついては居られない、子規子の通つた跡を追つて許りは居られない、即ち子規子のやつた事をやつては居られない、子規子のやらなかつた所に足を蹈出さねばならぬと信じて居る、それが即子規子の希望に添ふ所以であると信じて居るのである、
教られた道は稍解つたつもりである、それからは教はらない道を開かねばならずと信じて、今日までやつてきた、橿原を出て幾分奈良藤原に向つて出てきたと信じて居る、吾々は大洋へ向つて出てきたつもりなれど碧桐桐氏の眼からは溝へはまつて居ると見えるかも知れない、世間からもさう見られてるかも知れない、吾々は吾々を侮る人の眼から如何樣に見られても、少したりともそれに後悔はない、又實際大洋へ出たつもりで溝へ落たりとも是又少しだも後悔はない、吾々の腦力が固よりそれだけのものであるならは、誠に是非もない事で、少しも後悔すべき理由はないと信じて居る、予は只一向專念、吾が有限の力を用ゆる所に自己の性命が宿つて居ると信じて居るのである、子規子は其年の九月十九日に世を去られたのに、其五日以前の十四日に、五體殆ど動かず、物を視る眼と物を云ふ口のみ活き居ると見ゆる時に於て、猶從容として庭前の風光を樂み、生死の界を出でゝ一章の文を作られた、其天品其精神其人格、信仰せざらんとするも得ないのである、予不敏只此一事を渇仰して忘るゝこ(513)とが出來ない、而して予の研究と創作とに就ては予は只予の自由に安じて何等の危險何等の不安絶て感じ得ないのである、精進道を求め專念向上の一路をたどり、死に至つて止まんとするのみである、以上の如き予の精神と自信とが、縱令過つて予を墮落に導くことありたりとするも毫未も後悔すべく思はぬのである、碧梧桐氏幸に意を勞する勿れ、
予は子規子に對する感化は極めて自然的であつたことを自覺し且つ希望して居る、不背予の今日ありしは、子規子に學べるに依ることは云ふまでもない、乍併予は今日まで直接に一度たりとも子規子の文子規子の歌を見習つた事はないのである、子規子の感化が主觀的にどれだけ予に及ぼして居るかは、予自身よりも却て他人の目に判ぜらるゝことが多いと思ふ、予は甞つて子規子の文字を習つたこともなく、眞似やうと思つた事が無かつたに、予が或歌會、始めて出席した時に、席上の七八人、予の文字を見て一齊に、予の文字の子規子の文字に酷似せるを嘆稱した、勿論予自身はそれほど似て居るとは氣づかなかつたのである、予は實に子規子の感化力の偉大なことを其時に深く感じた、然かも其感化は極めて自然的であることを驚嘆した、それで予の放縱なる行動の上にも、必ず偉大なる子規子の感化力が加はり居ることを信じて居るのである、予に於ける子規子は決して予の身外にあるものではなく、子規子は常に予の放縱なる行爲中に混化し居るものであると信じて疑はないのである、以上で大抵予の考はつきて居る、依て予は少し碧梧桐氏に質して見たい、氏は、
  其の月並であつた時代には皆人生を親んで自然を傍觀して居つたのであると云つてるが、予は不思議の感に堪えない、氏は月並といふことを、どういふ意味に云ふのか、人生と云ふことをどういふ意味に取つて云ふのか、擧足をとるやうだが、人生に親むのが月並であるならば、子規子は人生を傍(514)觀した趣きがあると云つた予の言に、碧氏が不平を云ふべき筈はないではないか、
花鳥風月だの月雪花だのと、らちもなく風流がつたのが、月並の歌人俳人ではないか、超俗解脱世外に立つといふのが、昔の風流人の大よがりによがつた事ではないか、碧氏は何を見てどう考へて、月並者流が人生に親むなどゝ云へるのか、文學上に人生といふ詞の意義を、そんな淺薄な意味にのみ考へて居るのか、予の考は全く氏と反對である、人生といふ事の意義を一分たりとも解して居るならば恐らく月並の淺薄には陷いるまいと思ふ、自分の家庭の究困にも墮落にも、一向心を止める氣もなく、淺薄な風流三昧に耽つて居るといふやうな事は、月並者流に限つてる事であるまいか、月並者流が親むといふやうな人生ならば、傍觀しても傍觀しがひもないよ、かういふ不得要領な論法で攻撃されることは甚だ困る、青年血氣の手合のいふことならば敢て氣にも止めないが、碧梧桐氏の筆に依て、月並は人生に親しんでるなどゝ云れては、失敬ながら根岸派といはるものゝ面目にかゝはると思ふ、余りに輕率な言論であるまいか、今一つ、子規子は趣味の高い歌を作るのを目的としてゐたと云はれてるが、氏は如何にも疎忽に物を云ふ人である、誰が趣味の低い歌を作るを目的として居る奴があるか、予は碧氏の所謂趣味の高いといはるゝ、其高趣味なるものは、どんな趣味かと窃に懸念に堪えないのである、人生に親むといふことを頭から俗な事下等な事と獨極した、論法から出て來た詞であるまいか、
もう此位で失敬して置くが、終りに力癌を入れて云ふて置く、片上氏の議論と予の消息文とは精神の根本が違つて居る、猶予は子規子の言を引いて、歌人と俳人とに告げる、子規子云はく、昔から歌詠は大抵馬鹿だから、歌が何よりも一番よいものと思つてる云々、俳句が何よりも一番よいものと思つてれば、俳人は大抵馬鹿だと云は(515)れやう、何でも自分の物が一番よく、自分が一番高雅で自分が一番解つてる、自分許りが月並でないやうに考へ、獨りでゑらく思つてゐて、少しも自分を反省せぬやうな人が、一番危險である、いや又惡まれ口を叩いた。
                     明治42年1月『阿羅々木』
                       署名   左千夫
 
(516) 信濃之人々
 
     〇三人より  淺間湯
   春蠶夏蠶六十日のくたびれに出湯の宿に只ねむり居り     柿人
   あしひきの山の松風さや/\に清き月夜を小夜更にけり    卓生
   ゑはかきに繪を書き居れは歌を讀むいとまはなくて歸る時來ぬ 胡生
     〇二人より  北山
   足乳根の飼ふ蠶せはしく湯にもゆかす友を一夜に別るゝは惜し 志都
   わか聞ける耳にまさりて蓼料の裾曳く野邊は見るにたぬしも  胡生
     〇三人より  松本
   うつくしき桃の木の實は樹におきて目にたのしむしょろしかるらし 禿山
   夕日さす桃の林の遠つゝく穗の上に淡き西のむら山      卓生
   桃くひて思ひはなけど來といひて來ぬ人故に少しさふしも   光生
     〇十一人より 不士見
   よべの間は霧深かりきけさ晴れし不士見花野に氣まゝ遊へり  汀川
(517)   ころふして思ふこともなく眺むれは芒を渡る小雲白雲   露のや
   足曳の入笠山の山下は蕎麥畑多く霧晴れにけり        山水
   不二見岡の松の並木に打續く蕎麥の畑は花のまさかり     刀毛
     〇二人より  富士見
   とほに來しから松林夕ぐれて雀さはげり家近みかも      柿人
   入笠の山の緑に朝日さし茜旗雲が松の間に見ゆ        卓生
     〇三人より  淺間湯
   麻葉野の青田見さけて淺間湯に三人こもれり暑き此日を    志都生
   かきろひの夕日の名殘り消ゆくや日ぐらしもなくこほろきもなく 卓生
   本庄の翁か噂さをいつも/\此三人よれは語り笑ふも
     〇二人より  蓼科湯
   雨つぎし次の朝明を朝霧の晴間に分くる裾野花原       卓生
   いそしみの夏蠶もあかり心ゆたに湯あみこもれりよき友と二人 志都生
二人よれば必ず消息を馳す、消息必ず歌あり固より筆のゆくまゝに讀捨てたるものなれど、其おのづからなる内に、能く景を寫し惰を傳ふ、記して以て後の思出となす
                       左千生
                      明治42年1月『阿羅々木』
 
(518) 東京より 〔『阿羅々木』第一卷第二號消息〕
 
〇原稿纏り候に付一筆申上候、例に依て例の如く本年も茲に終を告げて「阿羅々木」第二號に相成候、瑞々しくも若やかなる「阿羅々木」が深く前途活動の氣力を包藏し、のつそりとして世に顯はれ候時、明治四十二年なる年もぽかと明け候事かと思へば何となく嬉く候
諸同人益元氣を加へ原稿山の如く、研究と創作と兩々相進むの陣形を取て、吾「阿羅々木」の新天地を開かんとするは聊か痛快に存候、願くは諸同人と共に盆公明にして嚴肅なる意義を体し、人生即文學なる「馬醉木」以來の精神を發揮し來らんことを、
吾行く道は我れ自ら之を開かざるべからず、吾欲する幸福は我れ自ら之を作らざるべからず、吾開ける道にあらざれは我が道にはあらず、吾作れる幸福にあらざれば、決して我が幸福にはあらざるなり、文學の創作的眞性命は茲に存することゝ存候、古人も既に文學は即吾が天地を開くにありと申され候由に候はずや、
人を教ゆるよりは自ら學ぶこと肝要と存候、人を濟ふよりは自ら濟ふこと更に肝要と存候、是れ誠に明白なる事理に候得共、人生の眞意義が其所に籠れるかと存ぜられ候、人間と申す者兎角己れを差置いて他の世話を燒かんとするものに御座候、これは一つには慾心より一つには造樂心よりに候、文學を營業とするが故に、人を教ゆるやうに相成り、文學を道樂視するが故に人を濟ふなどゝ浮氣が出で申し候、
(519)營業的欲心や浮氣なる道樂心にて、文學が解し得らるゝならば文學は落語講談に等しかるべく候、如斯事は解り切つた話に候得共、實際には平生立派なる口をきく人々が片端から、文學に卑俗なる欲心を交じへ、文學を玩弄物的に道樂視致居候、かういふ心得を以て文學に對し居れば、眞文學は久からずして我日本人の上に消滅可致候、
文學消滅致候後の事を考ふれば、限前に其例乏しからず候、支那朝鮮印度は最早殆ど文學の滅したる國に候、こんな大業な事はどうでもよしとしても、文學なき人間は己が天地を有せざる人間に候、氣の毒なるは自己の天地なき人にて候、
吾々は自己の天地に我が人生を開かねばならずと存候、故に小生は常に人生即文學と申候、忙しい最中に説法めきたる事も如何と存候得共、吾々お互に相反省努力して以て人間に生れたる眞意義を全う致度き願望の切實なるまゝに思はず筆に出申候、
本號に於ては齋藤君最も活動被致目覺ましく存候、五十首の短歌も容易ならぬ苦心の作に候 推敲又推敲數晝夜を重ねて選拔致したるものにて、決して漫然五十首を作り漫然五十首を出したるものには無之候、百餘首の内より漸く五十首を得たる譯に候、齋藤君の研究評論と其創作には齋藤君の個性的一種特異の點有之處甚だ面白く存候、千里君、古泉君の卅首も殆ど百首餘の中より選べるものに候、齋藤君といひ古泉君といひ、其作物の如何は別として、あれだけの作物は非常なる努力の結果であることを小生より一寸申上置候、
小生も久く怠り居候萬葉集新釋を第三號よりは誓つて掲載可致候、萬葉に没頭してはいけないとか、萬葉かぶれは困るとか、物知りめきたる人は、無造作にそんな事を云ふやうに候得共、小生は反對に吾々諸同人もまだ/\萬葉の研究が足らずと存居候、一寸見ても、精神の充實せぬ歌や、調子の緊張せぬ歌や、言語に囚はれて居る歌(520)やが、澤山目に觸れ候は、明かに萬葉研究の足らざることを證するものに候、
子規子七週年紀念の根岸短歌會歌集も、小生の怠慢より追々延引致候得共、實は「アカネ」の發行に次で「比牟呂」の再興「阿羅々木」の奮起等の爲に、諸同人一齊に元氣振作の風有之候間、成べく此際の創作を新歌集に編入致度考が自然其發行を急がぬ事に相成候、乍併決して漫りに延引するものには無之晩くも明春の花期迄には發行致す決心に候、從て選拔締切も茲三ケ月許りの間に候、願くは諸同人此三ケ月の間に、殊に御振作あらんことを祈候、
阿羅々木第一號の所載の歌に就き、「アカネ」第十號の批評に依れば、節奏ある歌甚だ少しと有之候得共、甲之氏の求むるが如き節奏は或は無からん、然れども、詩人は必ず自己の節奏を有するものに有之、吾々諸同人又各自己の節奏を有し居る者に候へば、甲之氏の所謂節奏とは交渉少き者と存候、筆を擱くに臨み謹て諸同人の前に新年の敬意を捧げ候(左千夫)
                    明治42年1月『阿羅々木』
 
(521) 文士と酒、煙草
     ――アンケート――
 
酒は嫌ひにあらざるも飲め不申、煙草も好きでもなく、嫌ひでもなく候。併し何か骨を折つて書くといふ時に酒を飲み煙草をやるは大害あることを、つい先月實驗致候。併し是は小生が除り好きでない故かとも被存候。
                    明治42年1月9日『國民新聞』
                        署名 伊藤左千夫
 
(522) 文士と芝居
     ――アンケート――
 
芝居は見ないで好きに候へども八度の近視鏡を二つ重ねるやうな眼では致し方なく、あきらめ居候
                   明治42年1月13日『國民新聞』
                       署名 伊藤左千夫
 
(523) 正月の小説
     ――アンケート――
 
新年の小説と云つてもホトヽギス、中央公論、新小説だけしか読まない。ホトヽギスでは藪柑子の「まぢよりか皿」と虚子の「三疊と四疊半」とをうまいと思ひ候。何れも技巧の點に敬服致候。「四疊半」は餘り手際に念を入れ過ぎてアクが拔け過ぎたやうにも思はれ候。「まぢよりか皿」背像畫以上ならぬ點に少し物足らなく感じ申候。中央公論のは風葉の「耽溺」、白鳥の「強者」の二つ、熱のある力の籠つた作であると興味深く読み候。以上諸作を通じて聊か物足らず感じたる一事は、描かれた人物及事件が餘り一般社會と離れ過ぎた點である。今少し通常の人間社會と交渉點があつてほしい。言ひ換ふれば其等の人物事件を包んでゐる周圍が現はれてほしい。藤村の「一夜」は不熟な作と存候。新小説の「鷄」(秋聲)、「前半生」(風葉)等は代作であらうといふ説を信ずる外なく思はれ候。「掘田の話」(薫)は一種の味を感じて讀み候。頭から作者を馬鹿にしてる樣な批評には少々不平に候。
                   明治42年1月21日『國民新聞』
         .             署名 伊藤左千夫
 
(524) 文士とすし、汁粉
     ――アンケート――
 
汁粉は嫌ひではないが、三杯と一度にやつたことは是迄唯の一度もない。鮨は昔毎日々々食つてすツかり胃腸を損じ閉口した事がある。そんな譯で今でも大好物である。大抵の鮨屋の鮨はやつて見たが日本橋の袂で立喰したのが一番甘かつた。鐵砲袖《つゝそで》の連中と肩を並べて立喰をやるには餘程の勇気を要するのでいつも横目に見て通り過ぎる。一度旅の歸りに草鞋姿であつたから今日はと勢込んで來て見るともう出來ませんといふ。そこらに鮪を賣ってるのになぜ出來ないと云へば、私共では江戸ツ兒でなけりや使ひませんといふ。江戸ツ兒とは何かと問へば、房州鮪の事ですと云つて僕を見た。時には竹の皮包で買つて來たこともあるが家へ持つて歸つては立喰の味はない。
                   明治42年2月10日『國民新聞』
                       署名 伊藤左千夫
 
(525) 京都に門が四つある
 
第一大佛殿の四つ足の門第二東寺正面四つ足の門第三南禅寺の山門第四東福寺の山門を記憶して居る、それで自分は二つの四つ足の門が殊に面白かつた、大佛殿は無論豐公時代にや東寺のも徳川時代初期の物であらう東福寺の山門は藤原時代南禅寺の山門は多分鎌倉時代かと思つた、それにもかゝはらず兩四つ足の門が面白かつた 形式が簡單である故下手な技巧を弄する事が出來なかつたのが好かつたのであらう、裝飾が少ないから却て豪宕嚴肅な生地が遺憾なく顯はれて居る、乍併これは恐らく徳川時代の建築師の頭で出來たものであるまい古い形式を其儘寫したものであらう 徳川時代の人の頭で出來さうに思はれない、何しろなつかしい門である 一般の人は一向注意せぬ樣なが口惜しい 金閣銀閣と等しく尊重すべき建築であると思ふ、専門家の意見が聞きたい。
                      明治42年3月『懸葵』
                      署名   左千夫
 
(526) 〔「老獣醫」の批評に就て〕
     ――風聞録――
 
▲一筆申上候。今日貴欄に於ける拙作「老獣醫」の批評は少し恨めしく候。作物其物の非難ならば小生等は如何なる酷評にても甘じて受け居候へども其態度の非難は餘りに酷かと存候。虚子君なども知らるゝ通り小生は實は餘り今の新作を讀まぬものに候。新聞へ出た作か然らざれば虚子君より時々借りて見る位に候。白鳥、秋聲、等《ら》の作も二三篇しか知り不申小剣の物は一度も見たる事なき位に候故何人がどういふ作風かなどいふは餘り知り不申候。且つ小生は他人の物を眞似るなどは不肖乍ら大嫌に候。さればいつも/\評家には理窟が多いの説明が多いのと申され候。人の眞似をする位ならばそんな下手な事は致不申候。(「老獣醫」は殆ど事實談に候)小生は現文壇の事情に疎いから「老獣醫」の如き人のやり古した材料を書くのだと言れるならば小生は一言も不平を不申侯。然るに「人の跡尻にすがりついて許り」云々との評は餘りに殘酷な批評(然も小生を誤解した)かと恨めしく候間一|言《ごん》評者に訴へる次第に候。(三月十八日、伊藤左千夫)
                   明治42年3月20日『國民新聞』
 
(527) 退屈が堪へられぬ
 
 電車や汽車に乘ると、私は第一に退屈を感ずる。一寸近いところに行くのなら、さうでもないが、電車でも少し遠い、品川とか、青山とかに行くとなると、どうも退屈で仕樣がない。汽車などでは殊にさうである。それで私は、さういふ場合には、何か讀むとか、考へるとかいふことを始める。さうして居るうちに、何時の間にかうと/\と眠つて仕舞ふ。だから、汽車でも電車でも待つことが大嫌ひで、寧ろ堪へ切れない方で、少し退屈になつて來ると、直ぐ方向を變じて仕舞ふ。さもなければ、電車などは次の停留場まで歩くといふ風である。
 歩く時は、小説の熱のある時は矢張小説のことを考へて居る。歌のことは餘り考へない。考へないこともないが、つい是まで纏まつたことがない。そこへ行くと、小説の方は、道で作るといふのではないが、それに關する事柄とか、或は人物とかに就て考へて居るので、其間の時間が面白い。それで、私は道を歩く時は、小説のことを考へるのが一番趣味がある。歌は纏まらないから考へぬ、隨つて興味がない(途中では)といふことになるだらう。勿論、歌や小説以外に、處世上の不如意のことなどがあれば、隨分さういふことも考へる。
 で、その歩くとか、電車に乘るとかいふ場合に、歌や何んかのことを考へて、感情が昂ぶつて、心持が韻文的になることがあるが、さういふ時には何だか自分ながら尋常人でないやうな氣がされる。そして社會の人が皆な小さく見える。決して見えの爲にするのではないが、何だかさういふ風な、一種の、自分ばかり価値があるやう(528)に思はれて、他の人がうよ/\して居るやうな氣がする。さういふ時の心持を醫者にでも言はせたら、知らず知知らず慢狂的になつて居ると言ふかも知れない。
 さうかと言つて、人の雜閙するやうなところが嫌ひでもない。嫌ひどころか、兩國の川開きなどで、群衆《ひとごみ》の中に立ち交つて、花火を見るといふやうなことも好きである。さういふ場合には感情が興奮して來て、何の故ともなく愉快な心持になる。また新橋ステーシヨンなどでも同じことで、あすこへ行くと、いかにも妙に、機嫌よく興奮して來て、我も人も何となくいき/\と動いて居るのが頗る愉快である。そして、決して人がうよ/\して居るとは思はない。だから私は、兩國の花火とか、停車場とか、或は祭りとかは好きだ。然しさういふ時はもう韻文的なところはなくなつて居るので、さつき言つたやうな場合とは不調和でも何でもない。唯さういふところの雜閙の中に立ち交つて居ることが面白いのである。
 それから時とすると、今日行つても行かんでも可いところへ、矢も楯もたまらなく行きたくつてならぬことがある。例へば友人の宅へでも、別に差し當つて用事もない、行けば明日《あす》でも可いといふ場合に、是非とも行かねば濟まない氣がされて兎に角出かけて行く。そして後から考へて見ると、何矢張行かねば行かぬでも可《い》いことなのだ。また自分の家で茶菓子がないといふ場合に、一寸子供を走らせても可いことなんだけれど、どうしても自分で行つて來たいことがある。そして行つて來ると矢張氣持がよくなる。それは、重に何か書かうと思つて心を苦しめて居る場合で、さういふ時にさういふことを思ひ出すと、實は書くことが差し當り大儀だから、まア行つて來てからにしやうと思つて、つい自分で出かけるのである。だから一面から言へば苦痛を避けるのであつて、矢張行つて來なければ書かうと思つたことも書けなくなる。一體が氣を揉む方なので、見たいと思つたその見た(529)いこと、行きたいと思つたその行きたいこと、それが實は何でもないことではあるが、直ぐそれをやつて仕舞つてから書きたいといふ氣が起つて、どうしてもそれがその儘に濟まされない。さういふところが小説の上にも現はれるのであらう、高濱などに會つて、君の小説は氣を揉まない小説だと言ふと、高濱は私に向つて、君の小説は氣を揉む小説だといふ。だから旅行をしても、茶代なんぞのことに下らぬ氣をかけることがある。どうも茶代といふものは、置かないのも變だし、さうかと言つて置くのも何だか面白くない氣がされる。そして少し冷遇でもされると、自分が茶代を置かなかつたから冷遇するんぢやないかといふ方に僻んで仕舞ふ。女中への心づけもそれと同じで、さういふことから折角の旅行も不愉快になることがある。然し境地の遷るに随つてまた心持も違つて行く。
                     明治42年4月『文章世界』
                       署名 伊藤左千夫
 
(530) 春宵歌談
 
     加納諸平の歌に就て
 
   姫島の松の夕日に雁なきて我子戀しき秋風ぞ吹く
作者の詠まうとする精神はわかる、けれども調子が堅くてことわりすぎてゐるからそれが現はれない、『松の夕日に雁なきて』といふといかにもさえざえして淋しい感じでない、『我子戀しき秋風ぞ吹く』といふ旅情の淋しき心持を主としていふべきを、これでは初三句の客觀的光景がききすぎてゐる 叙景をしすぎてゐるから景色をめでてゐる樣にきこえる 中心が二つにわかれてゐて感情の統一を缺いて居る、前半は遠くから景色を賞でて居る樣で突然我子戀しき秋風ぞ吹くというても詮がない、結句秋風ぞ吹くといふのも此場合餘りに漠然としたいひ方で前と調和がとれない、かういふのがことわるといふのだ。
然し諸平の歌は批評の出來る歌である『松の夕日に雁鳴て』といふ言葉も只これだけとりはなして見れば働いた言葉である。
   岩くえて磯回の城門は荒れにしを夜聲寒くも寄する波かな
『岩くえて』の位置がわからぬ、岩と城門との關係が分らぬ夜聲寒くといふと隔ててきく感じで眼前に見てゐ(531)る感じでない、『よする浪かな』といへば見てゐる感じだ磯回の城門といふのは大きな輪廓的、岩くえてといへば部分的であるからそれも分らぬ、尚岩くえてといふのも眼に見た感じである、少しも統一のないわけのわからぬ歌である、『荒れにしを』の『にしを』も變である。
   さざなみやしがの都は荒れにしを昔ながらの山櫻かな
なら歌の善惡はとにかく意味はまとまつてゐる。
つまりかくの如きの歌は言葉をよせ集めたものである、組織されてゐない、言語が皆むき/\の働きをしてゐる、我儘をしてゐる、作者の心持を少しも現はしてゐない。
   みづち住む淵を千尋の底に見て太刀の緒かため行く山路かな
こしらへた樣な歌である、自然の感じが無い、千尋の底に見えるのに『ふち』の感じはない、池とか川とかいふべきである、知識的に淵とわかつたにせよ、淵の感じは無からうと思ふ。『みづち住む』といふだけで山路の物すごい恐しいといふことは現はれない、故に何の甲斐も無い、狼の聲がきこえてきたから太刀の緒かため行くならまだしもよい、あたまから『みづちすむ』などときめてしまつて咏むからいけない、噂にきいたとか物の本で見たとかいふ淵ならばその樣に咏むべきである、芝居的歌、こさへた歌である、事實的感じに訴へてよまないから誠に詮がない。
   山賤がもちひにせむと木の實つきひたす小川を又やわたらむ
木の實をとりて餅を作るべくひたしたる山川が面白かつたのであらうか、なに(?)橋が無いから又心なく渡りて水を濁す事かといふ意だつて、さうはきこえないではないか、木の實といふものがさう一面にひたしてあるもの(532)ではないから、若し濁すのが心ない事と思つたのなら外の所を渡ればよいではないか、小川だもの。
とにかくこの歌の最缺點は概叙的なる事である、木の實だけでは何のことか讀者にはわからない、ひたすといつても少しも眼に浮んで來ない。
   打おける板目にきれし黒髪をゆゝしと見つゝ背子や歎かむ
打おけるといふ言葉もまづい、ゆゆしと見つゝのゆゝしが少しもきかない、折角背子や嘆かむといつても嘆くといふ感情の動因がわからぬから詮がない。
   壁たてるいはほとほりて天地にとどろき渡る瀧の音かな
二句いはほとほりては此場合よくない『天地にとどろき渡る』だけでは淺薄なる説明に過ぎない。
   高機をいはほに立てて天つ日の影さへ織れるから錦かな
から錦が少しもきかない『高機をいはほに立てて』大瀧の感じがない 畢竟するに瀧の趣味といふことを思はないで趣味を離れた譬喩のもてあそび文字のあやを喜んでゐるのである、高機とか天つ日の影さへ織れるとか……
   あしたづの翅の上に玉しきて神やますらむ瀧のみなかみ
あしたづと瀧といふ無關係のものを持つてきた動因がわからない、かういふ感情の起るべき源がわからない、瀧の趣味と少しも關係のないものを只文字の美はしいものを持つてきても仕方がない 讀者には突然としか感ぜられない。
   神ならば岩おしわけて歸らまし山路の暮は家ぞ懸しき
思想の歸着點がない、感情の起るべき動機がわからない 一二三句迄は大變な事件でも起つたらしいが四句五句(533)は實に漠然としてゐて、寂莫の感、困つた苦しい痛切の感は現はれてゐない、只山路の暮とばかりいうた所がそんな痛切の感が現はれるものでない、要するにこれも岩おしわけてなどいふ語を見つけてうれしがつてゐるのである。…………妹が門見むなびけこの山といふからなびけこの山がきくのである。影法師の如き歌である。
   若草のみづのみ牧の放ち駒誰がとる鞭に千里ゆくらむ
ひねくりの歌である、誰がとる鞭に、こねくり。若草のみづのみ牧の放ち駒といふだけでは駿馬といふ感じがない、何にせよつまらぬ歌である。
   天草や天よりをちのから山も雲になびきて日はくれにけり
雲になびくといふのはどういふことか、天よりをちなどいふ遠い所で雲か山かわからない、青雲ならわかる 天よりをちといふ言葉も變である、誇張もよいがわけのわからぬことは仕方がない。
實は大隈言道の草徑集を批評せうと思うて始めの方二三十首見たが殆ど評するに足るものを見ぬ それでやめようと思つたが傍に佐々木氏の歌學論叢があつたので見ると諸平の歌が拔いてある、それについて思ひついたまゝを話したのである。
草徑集は尚よく見て批評することがあるであらう。
然し大隈言道の歌でも、蘆庵の歌や眞淵景樹の歌などに澤山面白い歌があるといふ樣な標準で見るならば言道の歌にもない事はない、が少しく嚴格の態度で見ると文學的價値あるものが見當らぬのである。
 
(534) 景樹の歌一首
 
   ふたたびは越えじと思ふみちのくのいはでの關に鷺のなく
これは有名な歌で大分ほめる人があるから批評して見よう。
この歌は言語の飾のみが讀者の注意を引く歌で内容に少しも創作的な實質がない、結句鶯のなくは勿論それだけのことで創作的でない、三四句は地名でそれを点呼したまでである、地名そのものが含む言語の面白味はあるけれ共作者のはたらきにはならない。殘る所は初二句ふたゝびはこえじと思ふにある、こゝに作者の主觀がいはれてあるけれどもその主觀が特別に作者が發見したものでなくて只その時の心持を説明しただけで創作的の實質はない、試に咏味して見よ。
みちのくのいはての關といふ名を點呼したばかりで光景に於て何等のけしきも現はし得てない、ふたたびはこえじと思ふといふた所が作者が獨でさういふ樣に感じただけで讀者にそれを合點せしむるだけの事實は缺けてゐる、若しみちのくのいは手の關あたりの人が京都見物をした時に
   ふたたびは渡らじと思ふ鴨川の
というた處が何の詮もないと同じだ。
かういふ歌をほめる人たちの文學研究といふものは實に氣の毒なほど馬鹿げてゐる、内容を分解する能力もなく、言語と趣味との關係を識別するのはたらきもなく、只漠然空しき色に眩惑して居るのである、こんな實質のない歌に興味を持つと云ふ不確實な歌よみが多い笑止千萬の話である (古泉千樫筆記)
(535)                 明治42年4月『國歌』
                    署名 伊藤左千夫談
 
(536) 小説の地の文の語尾
    ――アンケート――
 
小説地の文の語尾といふやうな事改まつて考へた事之無候。「であつた」「である」「これ/\して居る」「これ/\してゐた」かういふ過去に云ふ事と現在にいふ事との場合は書きゆく間に自然に判り來る心持致居候。
                   明治42年4月17日『國民新聞』
                       署名 伊藤左千夫
〔2021年11月7日(日)午前9時50分、入力終了〕