左千夫全集第七卷 歌論 隨想三 1977.6.13
 
萬葉集新釋 一卷上 十二―十六…………3
歌人閑語………………………………………28
東京より………………………………………36
雨が大好きだ…………………………………38
文士と八月……………………………………40
短歌合評………………………………………41
『アララギ』第二卷第一號選歌評…………47
蓼科山中より…………………………………49
執筆……………………………………………50
短歌研究一 …………………………………51
作歌余滴………………………………………62
放縱欄と歌會の歌……………………………65
『アララギ』第二卷第二號消息・稟告……66
短歌研究2 …………………………………68
東京短歌會……………………………………76
木曾だより……………………………………77
短歌研究3附記 ……………………………78
『アララギ』第二卷第四號消息……………79
予の見たる子規子……………………………81
萬葉集新釋 一卷上 十七―十八…………83
柿本人麿論 萬葉新釋一卷中 十九………96
萬葉集新釋 一卷中 二十―二十二………106
短歌研究四 …………………………………127
慨嘆すべき歌壇………………………………130
消息に代て一言を附す………………………137
妙な我れ………………………………………138
短歌研究五 …………………………………141
短歌研究六 …………………………………144
短歌研究に就て………………………………147
名士と花………………………………………148
歌と櫻花………………………………………149
短歌研究七 …………………………………153
曙覧之歌に就て………………………………160
『アララギ』第三卷第四號選歌評…………163
唯眞抄一 ……………………………………164
短歌研究八 …………………………………167
『アララギ』第三卷第五號選歌附記………176
卷頭の歌………………………………………177
唯眞抄二 ……………………………………178
閑文字…………………………………………181
『アララギ』第三卷第六號消息……………183
「懸賞吟咏」選歌評…………………………186
茶の湯の手帳四 ……………………………187
忘れ片身………………………………………189
唯眞抄三 ……………………………………190
アラヽギの評論に對する創作の批評に就て…193
『アララギ』第三卷第八號消息……………201
短歌研究九 …………………………………202
堀内卓君を悲む………………………………205
唯眞抄四 ……………………………………208
短歌選抄一 …………………………………210
短歌研究十……………………………………226
唯真抄五 ……………………………………232
『アララギ』第四卷第一號消息……………234
萬葉集新釋 一卷下 二十三―二十六……236
唯眞鈔六 ……………………………………262
唯眞閣夜話一 ………………………………263
茶の煙一 ……………………………………267
小説「分家」を出すに就て…………………270
八行欄「雨の花野」…………………………271
短歌研究十一…………………………………273
茶の煙二 ……………………………………276
『アララギ』第四卷第四號消息……………278
茶煙抄三 ……………………………………279
アララギ抄……………………………………281
牛舍での立ち話………………………………293
唯眞閣夜話二 ………………………………296
茶煙日抄一 …………………………………298
唯眞閣夜話三 ………………………………300
茶煙日抄二 …………………………………304
「分家」の筆を措いて………………………305
『新小説』選歌評……………………………306
子規正岡先生…………………………………308
茶煙日抄三 …………………………………311
滿洲雜詠序……………………………………313
短歌研究餘談…………………………………315
茶煙日抄四 …………………………………322
日本國民の嗜好的生活………………………323
獨語録一 ……………………………………328
獨語録二 ……………………………………329
短歌選抄二 …………………………………333
『我が命』に就て……………………………352
『アララギ』第五卷第一號消息……………359
獨語録三 ……………………………………363
修養之工風……………………………………367
懸賞文藝「新年」選評………………………371
感想……………………………………………372
新しい歌と歌の生命…………………………373
アララギの歌に就て…………………………378
獨語録四 ……………………………………380
『アララギ』第五卷第三號選歌評…………382
懸賞文藝「早春家に籠る」選評……………383
強ひられたる歌論……………………………384
『新小説』選歌評……………………………392
礎山先生論……………………………………393
柿の村人君へ…………………………………396
藝術上の氣品と云ふ事に就て………………399
朝風暮雨………………………………………404
予の「分家」に就て…………………………407
表現と提供……………………………………408
どうも氣になる………………………………413
おことはり……………………………………416
談話會記事……………………………………417
『悲しき玩具』を讀む………………………419
緑汁一滴 上…………………………………426
叫びと話 上…………………………………439
乃木大將自刃の觀……………………………445
日本人は戰爭が強いばかりだ………………446
雜録三題………………………………………448
歌學び一口話…………………………………456
短歌選抄三 …………………………………459
緑汁一滴 下…………………………………479
獨語録五 ……………………………………483
文明茂吉 乃村人評…………………………486
古泉千樫中村憲吉評…………………………491
叫びと話 下…………………………………495
歌の潤ひ………………………………………505
叫びと俳句……………………………………512
御製より觀奉りたる仁徳天皇………………524
名士の愛讀書…………………………………556
短歌選抄四 …………………………………557
 
 
(28) 歌人閑語
 
     〇根本問題
 
 何事の上にも、何時までも根本の問題を云々せねばならぬ樣では實は仕方がないのである、乍併どういふものか當世の人は、其根本の問題を疎にして、手取早く上面に事をやりたがるのである、土臺を作ることを考へないで早く家を建てたがるのである、であるからどうも本當の物が出來てこない、洋行歸の某畫伯がかう云つた事がある、
  日本から巴里へ留學した洋畫家で、本當にデツサンから仕上げてかゝる人は殆どない、大抵はデツサンをえい加減にして油繪をかくから、教師の方でも其積りでえい加減に教える云々
 成程それで見ると本當の油繪は出來ない譯だ、是は一場の坐談であれど、當世実術界の一面が判るやうな氣がする、それでも洋畫家は未だ日本畫家よりは眞面目であるのだといふ事である、彫刻家固より然であらふ、以て美術界の消息を察するに難からずだ、春秋二期の美術展覽會も、どうも淺薄な技巧の競爭としか思へない、根柢ある實力ある作物は容易に見當らない、素人にそれが解るかといふものもあらふが、畫に精神のあるかないかは、常に部分的技巧に没頭して居る黒人よりは却て素人の方が能く解るのである、根本の問題を疎にして居るといふ(29)ことが、隱さうとて隱し得らるるものではない、
 然らば文學界はどうであるかと見るに、更に甚だしきものがありはしまいか、或人は今の文學は今の繪畫よりは進んで居ると云ふたさうだが、それはどんなものか知ら、
 近く二三年の間に現はれた小説中には、勿論讀者を悦ばしめ讀者を樂しましめた作物は乏しくあるまい、併し讀者をして尊敬を拂はしめた作物があつたであらふか、予は寡聞にしてそれを聞かないのが遺憾である、
 今の文學者なるものゝ態度、今の文學者なるものゝ精神、引きまとめて云へば、今の文學者の人格、それ等が能く一般社會から尊敬を要求すべき資格があるかどうかである、文學界の根本問題と云へば、文學者の人格問題より外にはない、人より尊敬を受くべき人格がなくて、どうして尊敬すべき文學が出來やう、人格なき文學界から大文學を要求するのは、山中から鯨を得んとするやうなものだ、
 今の文壇の議論を見ると、曰く自然主義曰く非自然主義日く理想派云々、曰く近代的思想曰く時代の要求と、要するに部分的議論と末節的議論で許り持ち切つて居る、
 根本的人格問題を拔きにした、主義の議論は、どう甘く論じても、つまりは勝抜の力自慢に終つて了ふ外はない、人格高い作家が出れば、自然主義でも理想派でも、どつちにしても必ず相當な作物が出來るに違ない、いくら極端な論者でもこれを非認することは出來まい、であるからどうしたつて人格論は第一義で、主義の論は第二義である、こんな議論は古い話で極りきつた議論ではあるが、何程議論を繰返して見ても、結局第一義から固めてかゝらぬ議論は、砂上樓閣を築くの愚に陷いる外はない、
 それで今の社會は今の文學者に多くの尊敬を拂つて居ないのが事實である、小説を買つて見る人は少くないに(30)しても、小説に尊敬を拂つて買ふ者の少いも事實である、
 文學者を尊敬するの道を知らない社會は幼稚である、社會の尊敬を受け得ない文學者は卑い者である、これは云ひ樣に依て何れとも理窟はつくけれど、今の社會は軍艦一隻を國家の問題とするの知識はあつても、文學者一人を國家の問題とするだけの知識はない、さうして軍艦は金さへあれば出來るが文學者は金の力だけでは出來ない事を解し得ない社會である、であるからかういふ幼稚な社會から尊敬がないとて、直に今の文學者を卑しい者と斷じ去ることは到底出來ない、
 乍併文學者なる者は如何なる場合に於ても社會の先覺たるの位置に居るべき筈であるから、社會が自己を尊敬すると否とに係らず、必ず高く自ら守持する所なければならぬ筈である、苟も此の精神と此態度とに欠くる所がある、文學者たるの人格に全きを得られないは云ふまでもないことである、
 以上の如き見地から今の文學者を評するとせば、如何なる結論を得べきか、予は遺憾ながら今の文學者に多くの欠陷を見ない譯にゆかないのである、冷酷なる或評家はいふ、今の多くの文學者は、甚だ卑しむべき名利の念に支配されつゝ、猶容易に藝人的態度を脱し得ないのであると、果して然りや否、予は今そこまで立入つて酷評するの材料を持たない、
 只々予は今の文學者に有數なる人々が家庭に於ける好尚の余りに淺薄なるに驚くのである、そは其人々の作物が明白に事實を傳へてあるから云ふのである、性欲的肉欲的事件を文學の材料とするは固より差支なしとするも自己の嗜好までが性欲的肉欲的趣味を出でずとあつては、社會の先覺たるべき人格を如何にして全くすべき、予は大なる疑をそこに起さぬ譯にゆかない、
(31) 最も高き精神と最も嚴なる態度とあつて、始めて性欲的にも、肉欲的にも、醜陋なる人間の内面に尊い意義を發見し得るのであらう、彼のゲーテは壯時羅馬に遊び、深く伊太利の古代美術に親み、始めて安ずる所ありしと傳へらる、予は今の文學者が是に似寄つた用意あるをも聞かない、人の好尚は其性格に依て異なることあるとするも、精神修養に資するに何等か高尚な趣味に親むの工風がなくてはならぬ筈である、
 或は今の文學者にそんな餘裕はないと云ふかも知れねど、酒樓に快を呼び一夜數十金を散ずるの餘裕があれば、大抵の事は出來るのである、高い人格がなければ高い文學は出こはない、是れは何と云ふても根本の問題である、
 歌壇の上に言及するとなると當りさはりのつく恐れがあるが、予は歌壇の上に一層聲高く人格問題を叫びたいのである、人格問題といふと語弊があるかも知れないが、茲で人格といふことは人を輕侮するの意味を含んでるのではない、
 今日歌人といふを以て名を知られて居る人々の内で渡世の意味を離れて歌壇に立つてる人が幾人あらふか、歌人と雖も生活以外に立つことは出來ない、渡世の意味を以て歌壇に立つといふことを直ちに排斥も出來ないが、予が茲でいふ渡世の意を帶びて居るといふのは今の歌人が作物を賣つてるのではなく、師匠をして即ち人を教えるといふことを主とせる歌人が多いから云ふのである、作つた歌を歌集として賣るだけならば、そは多く咎むるを要せぬと思ふ、只今日の歌人は弟子とりのやうなことをして渡世として居るから困るのである、畫家が畫をかいて報酬をとる、書家が書をかいて報酬を取るならば、それは少しも差支ないことで、如此行爲が決して美術家たるの人格を損ずることはないのであるが、若し其畫家や書家が、畫を教え書を教えるのを主とする樣になつて(32)は、眞の畫家でもない、書家でもない、小説家が若し自分で作ると云ふことよりは、小説を作ることを教えて渡世としたらば、最早其小説家は文學者たるの資格はない、
 今日の多くの歌人に眞詩人たる人格がないといふのは、今の歌人が多くは師匠をして居るからである、一面に人を教える師匠の態度をして居ながら、詩人顔文學者顔をして居るから卑しむのである、主なる人に師匠の根性があるから其下に幾派も幾派も出來る、それで故意に褒めたり故意に惡口云つたりするといふ事が起る、渡世の意味で雜誌が経營される、渡世の意味で評論が書かれる、皆私心の交つた行動である、それが卑しいのである、さうして居て一面には文學者顔して居やうと云ふのだから可笑しいのである、
 自己に何程の修養があるか、自己に何程の作物があるか、本當の作物は勉めに勉め、勵みに勵んでも、容易に出來ないのが普通である、然るに自ら修め自ら學ぶの念に乏しく、早くも人を教えやうとするのは、余りに淺々しい心得ではないか、淺薄な智識や淺薄な經驗を賣物にするといふは心あるものゝ最も耻づべき事である、それも或場合にそんな事もせねば親も養へない子も育てられないと云ふならば多少恕すべき點もあるが、今の歌人中には文學者としては此師匠をすることの耻づべきをも知らぬらしい者もある、
 後進を導くといふやうな事は、或程度まで其道に熟達した人が、報恩的に義務的に余儀なくやるべき事である、それでも求道の精神から見ればよい事ではない、生若い年輩で早く宗匠的態度をするなどは、陋劣眞に唾棄すべきである、
 如斯卑しむべき態度と精神で、歌を作り歌を評す、共結果は云ふに及ばぬ話である、忠實な研究は正しき態度でやらねば駄目である、正しき態度は正しき精神でなければ出來ることではない、正しき精神とは何か、眞詩人(33)たるの人格を自覺することである、
 眞の研究は、どこまでも眞面目で謙虚でなければ決して出來るものではない、自慢心があつたり我執が強かつたり私心が多かつたりして、それでどうして本當の研究が出來やう 實に解り切つた話である、
 今の世の中では、文士と云はれると何となく極りが惡い、歌人と云はれると馬鹿にされた樣な氣がする、これはどういふ譯かと考へて見ると、今の小説家や歌人と云ふ人々の、精神及び人格に欠くる所があつて、知らず/\の間に人の尊敬心が落て居るからであらふ 吾々は深くお互に顧みて勵まねばならない、予は吾阿羅々木諸同人の責任が益重い事を思はない譯にゆかない、
 
     〇歌の詞
 
 『アカネ』二卷一、不空氏の歌中に、『み霜の下の』と云ふ詞がある、『さ遠し』『眞椿』と云ふ詞がある、それから比露思氏の作中にも『さ昇る』といふのがある、
 成程『み雪』といふ詞があるから『み霜』と云へない事もないかは知らねど、さうすると『み雨』とも云へる譯だ、『さ遠し』『さ昇る』も『さ渡る』といふ詞があるから云ふのであらふが、かういふことは少しも作者の働にはならなくて只濫用の感が先立つ許りだ、どういふ積りでこんな淺薄な濫用をするのか、これでは古語をヒネクルと云はれても仕方があるまい、造語といふことを思ひ違いをして居るのではあるまいか、『眞椿』といふことを差支ないとしたら、眞松眞柳などゝいふのも出てきさうで、寧馬鹿々々しい氣持がする、諸同人中の作には、『ま』『み』『い』などいふ助字が能く使はれるけれど、かういふ助字を用意なく濫用すると、一種の厭味に陷い(34)るから注意してほしい、古語を用ゆるには其古語を活して使うといふ工風がなくては困る、殊に漫然として古語に似寄つた、先例のない助字を使ふなどは心のない、業と云はねばならぬ、
 『惚れる』といふ詞を齋藤氏は非常に面白いと云つて歌によみ込だ 三井氏は惚れるなどいふ詞は歌の品位を破る語であるといつてる、二卷二號でも『さういふ事をどうでもよしと放つては置け不申』と云つて居るが三井氏は只いけないと許り云つて其いけない理由を少しも云はないから、惚れるといふ詞がなぜ卑しく感ずるのか少しも解らない、成程下等社會の野卑な男女が使へば、野卑な意味を帶びてるに相違ないが、眞面目に使へば必ずしも野卑な詞ではない、元來言語に先天的に野卑だとか高尚だとか云ふことはない、使う人により又使ひやうに依て差別が出來てくるのである、縱令一般には下品な詞でも詩人はそれを立派に詩語を用ゆることがあつてこそ詩人の詩人たる所以も判るのである、惚れると云ふ語が卑しく聞えるのは、野卑な社會の習慣的感情に支配されてるからである、理窟は何とでも云へるが一例をあげて獨者の參考に供へる、     嘆異紗第十六節中の語
 『往生にはかしこきおもひを具せずして、只ほればれと彌陀の御恩の深重なることを』云々
以上は云ふまでもなく彌陀に對する、森嚴なる信仰の精神を説明したものである、實に神聖なる意味を説明したものである、時代が違ふなどいふ辨解があるかも知れんが、予は以上の如き例なしとするも使用する人の態度如何に依て毫も差支ないといつて信じて居る、然も此嘆異鈔は最も神聖なる眞宗の經典として熱心な信者は毎日佛前に誦讀するといふ位の尊いものである、三井氏が一人で何と云ふたつて、そは三井氏の勝手であるが、讀者諸君は誤解せぬやうにありたい、
(35)   疑の耳を氣つき言ひ消たむ言にまどひぬ心もとろに  左千夫
 此歌に對する三井氏の批評が最もをかしい、曰く、『耳』がいかぬ、かういふ一語一語に肉感的具象的云々(何とのことか判らぬ)風變りの人の目を引くやうなケバ/\した語を云々、
 耳と云ふことが何ぜ風變りにや、千年昔の歌人もかういふ歌を詠んでる、
   吾か聞し耳に能く似はあしかびのあしなへ吾背つとめたふべし(萬葉二卷)
 女の歌であるが用語の活躍を見るべしだ 三井氏の肉感といふ詞が頗る怪しい、耳が美しいとか(耳が美しいといふものもあるまいが)顔が美しいとか云つたら、肉感的詞とも云へやう、『疑ひの耳に氣つく』とは對話者の相手が其相手の話を疑つて聞いて居る素振に氣がついたと云ふので、肉体的に耳といふものゝ趣味を云ふたのではない、言語の活用といふことに少し注意してほしいものだ、『耳に能く似ば』といふ萬葉の活語などを少し研究すると、『疑ひの耳に氣つく』などいふことも直ぐ解るのである、何かと云へば肉感的だの明星派的だのと三井氏は實に毒言の達者な人である、予は茲で斷つて置く、三井氏が自分の雜誌で、勝手な事云ふのを一々相手になることは出來ないから御免を蒙つて置く、他を評して墮落だの惡風だのと毒舌至らざる無き『アカネ』の評論を相手にすれば惡口の突合ひをするやうになる 御免を蒙る所以である。
                     明治42年4月『阿羅々木』
                       署名   左千夫
 
(36) 東京より〔『阿羅々木』第一卷第三號消息〕
 
例の如く一筆申上候、梅花も今を盛りと相成候好期を以て、嚴君還暦の御祝事遙に奉欣賀候、
偖本誌と『アカネ』との關係にも困り候、云はんと欲する事を云へは角立ち、言はざれば誤解を招くの恐れ有之候、本年に入りて小生も三井氏を訪問致し、三井氏も又來訪有之個人間には何等の惡感も無之候得共『アカネ』は根岸短歌會の名に依て發行せられ、『阿羅々木』は根岸短歌會の人のみに依て發行せらるゝものなるに、『アカネ』の一月號には『阿羅々木』を見ると不健全の作が充滿して居る云々と有之候 阿羅々木の歌が不健全か否かは、私心なき公平なる毒者の判斷に任せて置いて差支なく候ものゝ關係淺からぬ兩誌の一方が、如斯惡言を公表して憚らざるは嘆はしき次第に候、本誌が又『アカネ』の如き態度に出でゝ『アカネ』の所載の歌を見れば無靈無魂の歌を以て塞つて居る云々と言返し候はゞ如何に候や、只識者の笑を招ぐの外何の得る所もなかるべく候 小生など最も烈しく攻撃被致候得共此場合小生は謹で沈黙を守り可申候、乍併惡感化とか墮落の一歩とか云ふ語を無遠慮に人の上に加へ僕三井氏の血氣は寧ろ氣の毒に存候、親鸞聖人の如き人も何時も何時も愚禿親鸞と被申候ものを信仰心に富める三井氏にして何故に今少し謙遜の態度をせられぬにやと氣の毒に存候、『消極的に云ふのがいけぬ』とか或は『さういふのがいけぬ』とか『これ/\せねばならぬ』とか總ての事に輕卒な斷言を下すことは、最も戒むべき事に候、勉めて自ら自己を節制し我執の念を抑え私欲の心を靜めて篤と自分を顧み候へば(37)決して高言など吐かれる筈のものに無之候、そんな消極的な考はいかぬと云ふ人があるかも知れねど根柢なき積極は危險此上なきものに候、議論も大事に候へども、貿行は猶大事に候、議論に力癌を入れても作物に強みも力もなくては誠にをかしな話に候『アカネ』にても今少し作歌に骨折つて貰ひ度選拔にも念を入れて貰ひ度候 同時に本誌の放縱縦欄は寄稿其儘を出すものに供へば此欄への寄稿には必ず自信ある作歌を寄せられんことを希望致候、
猶本月一日より再興、在京諸同人毎月一回宛第二日曜毎に歌會を開く事に致候、題を課し強て歌を作るも文學研究の一つに候、同志相會して互に話合ふのも文學研究の一つに候、親友團居一日の遊びを爲すは正に人生の一快事に候、志を同うする人あらば何人の來會をも厭ひ不申候敬具
                   明治42年4月『阿羅々木』
                     署名  左千夫生
 
(38) 雨が大好きだ
 
自分は我れながら不思議と思ふ程雨が好きだ、雨の降る日に傘をさして近所を歩くのが昔から面白い、又蓑笠に身を竪めて篠突く雨を冒すのは實に愉快である、馬車でも人力でも※[さんずい+氣]車でも雨の中を遠く走り去る趣きはいつでも、立つて見送らずには居られない、自分がそれらのものに乘つて雨の村落雨の小川を眺めてゆくのは更に面白い、春雨はいふまでもなく梅雨は最も自分の好きな雨だ、泣くやうな冬の雨、さゝやくやうな軒の雫各又特色はある。
雨が降りながら夜が明ける、其晝と夜との界が判然せぬのが面白い、朝明るくなつてから人の目を忍ぶやうにそろ/\と降つてくる雨の印象は兒供の時から心地よく忘れられない。
日暮の雨も三つ許りの印象が強く頭に殘つてる 終日降つた雨が、降りながら日の暮れる時は闇が近くから落ちてくる、木下闇が見るまに廣がつて家はいつの間か夜にかこまれて終ふ、日暮のほの闇らがりから降り出す雨もよし、全く夜に入つてから幽かな音を軒外に聞くのも自分には強い感興が起るのである。自分は元來、何でも明るいものより暗いものが好きだ、はつきりしたものよりはぼんやりした物が好きだ、明放しの家よりは籠るやうな隅に暗い所のある家が好きだ、思ひきりのよいのが嫌だ、未練の無い明らめのよいのが嫌だ、それだから人間にしても悟つてゐる人間が嫌だ、濕りが有つて潤ひがあつて他と交渉し易いのが好きだ、(39)女の顔も目鼻立の正しいといふより、どこか整はない處があるやうで其輪郭が余りきちんとしない顔が好きだ、雨が降ると見るものが皆ぼんやりしてくる、それが自分に愉快でならないのだ。
 夏の雨殊に青葉の雨と云つたら、年中に於て自分の最大愉快とする處だ、花にも紅葉にも惡くはないが、青葉の雨程ではない。
葉山繁山とおひ蓊つた青葉の山、山が重なつて谷が深かい、雨雲が濛々として山も谷も無くなるかとすると又一隅の方から雲が薄らいできて、山々の青葉の色谷の深みも見え里の家々寺なども浮いてくる、水の落ちる音は何所とも判らず鳴つてる、かうなると自分は只々愉快で現實の總てを忘れて終ふ。
自分は未だ奥羽の地を知らない、雨好きな闇好きな自分は、奥羽といふ國であつて山でいふと月山羽黒山とかいふ、何となし闇といふものに縁故のありさうな、神代ながらの闇が今も殘つて居さうな、其隱國の奥羽の雨に遊んで見た事のないのが殘念である、青葉深い奥羽の山々が五月雨に閉ぢたさまをどうかして一度見たいものである。
                    明治42年7月『俳星』
                     署名  左千夫生
 
(40) 文士と八月
     ――アンケート――
 
久しくなまけ居候故、八月には何か是非書たき念禁じ難く、「アラヽギ」。「ホトトギス」等へ寄稿致度存候。信州八ケ嶽の温泉へ一寸なりと行たく思ひ居候へど覚束なく候。近來暑氣甚しく候へども、朝夕の天象何となく壯嚴の趣に富み、之に對する感じは眼前の小事を措て何か大きな力ある事をやりたき思有之候。
                   明治42年8月15日『國民新聞』
                         署名 伊藤左千夫
 
(41) 短歌合評
 
  急に思ひ立つて同人の短歌合評を試みた、依りて各人の意見を相互に交換し、併せて作歌の標準に資せんためである、只時日少なきと紙面狹きとのため廣く求めることが出來ないのは遺憾である、從て往來の便宜ある都下二三の人に止めたのは此故に外ならない、評すべき歌に就ては選ぶのに困難であつたが、アラヽギ前號の短歌中、自分の注意を惹いた作から一人一二首を限りて採つた、(純)
   あからひく日に向きなほる向日葵の苦しかりとも明日を待つべし 千樫   あたゝかき雨の一夜に湖《うみ》の氷ゆるむ心を責めて寢にけり
  〇里靜曰く 向日葵は日に向つて咲くを欲する花だ、それ故苦しかりともと云ふ語を起すべき序辭としては不適當であらう、次の歌は詩才のほのめきが見える、
〇左千夫いふ、第一首「ひまはりの明日をまつべし苦しかりとも」と見るべきである「日まはり」は明日といふ詞にかゝるのであらう、枕詞の一句隔てた次の句へかゝる例は万葉集にも澤山ある、民部君の難は少し無理のやうだ、
固より才藻の勝つた歌であるから、それほど深い含蓄もない、けれど究して亂するに至らず、悲んで破るに至らざる或場合の情趣を、詞藻美しく詩的に解決した處に此歌の命がある、思想の詩化せる處に深い興味がある、疑(42)惑の解決を得たる處に大なる慰藉があらふ、さう苦がつて思ひつめたものでもあるまい、明日といふ新らしい日がくるではないか、日まはりの日にむきなほるやうに望みある明日を待てといふ、此場合に向日葵なる特種の趣ある花が、比喩として如何にも痛快である、
第二首は全くの序歌であつて、第一首の比喩躰とは少しく異なつたものであるが、作者内心の不安と情緒の沈痛とは頗る近いものである、向上的奮勵の苦痛に堪えかねて、屡倦怠を催す時、これではならぬと自ら勵すのである、奮勵し、倦怠し奮勵する間際に不安と悲喜との絶ざることを思はせる、「責めて寢にけり」の一句に不安の情溢ふれ居ることを見免してはならぬ、是等の歌は無造作に讀過せば、何の興味をも見出すことが出來ない、乍併此歌の序は此歌の内容に適切でないかと思ふ、此歌の欠點とする處もそこにある、
   湊いづる吾乘る船ゆ大坂や大城をかけて煙たなびく   蕨眞
   伊豫と安藝の春の島山海のどにゆたけき最中吾船はゆく
〇左千夫いふ、第一首調子もよい措辞も穩當である 一讀愉快な感じがする、只着想は古いといふ誹を免れ得まい、第二首は春の海の長閑にどんよりした景色らしいが、それにしては伊豫と安藝の春など言語が明晰過ぎるやうである、もう少しぼんやりとした詞つきであつたら、文章的説明の弊を脱し得たであらう、
   ぬば玉の夜の起居の春ごゝろおのづから思ふ梅のまがきを   左千夫
   釜の※[者/火]えのおほに鳴りつゝ春とおもふ心はみちぬ夜のいほりに
  〇里靜曰く。初の歌先づ/\春夜の情が顯はれてゐる、次の歌は詞其儘に解すれば春だと思ふ作者の心情が庵の裡に充ちたとなる、では無理でもあるし面白くも無い、多分作者の眞意は釜のうなりを聽くにつけても庵中おのづから春の氣に充(43)ちたかのやうな心持がすると云ふのであらう、さすれば他に未だ適當の語句もあらう。
◎作者の辨解、民部君の評は作者の眞意を誤解してるやうである、此歌は春夜の趣きといふい天然を主として作つたものではない、天然の趣を描寫せうとして作つたのではなく、呼嗚春だなと作者の心に感情の動きが起つた當時の主觀状趣を歌つたつもりである、乍併春夜といふ天然の情趣が副産物として此等の作歌の上に伴ふべきを考へて作つたことは勿論である(左千夫)
   風孕む帆布によりて言もなく近づく濱を見るし樂しも   光
〇左千夫いふ、一通りの歌であるが、どこかに欠點があるやうである、風孕む帆布に凭るといふ事柄と近く濱を見るといふ事柄との配合に少し無理があるやふである、吾が乘つてる舟が段々濱に近づく其近づく濱を舟から見てるのが樂しいといふだけならば難はない、此歌の詞つきに見ると帆布に持て見るから樂しくて帆と關係なく見ては樂しくないか知らといふ疑が起る、これは帆布と濱とを強て交渉さしたからである、帆は風を孕んで舟はまともに濱に向つてる 濱は段々近くなるとやうに自然にありたい。
   林檎のや木の實を包む白紙を靡けさやがし秋の凰吹く   里靜
   蟻じものあまたよりてゐてもの運ぶ船付處秋日傾く
  〇千樫、二首共一通りの歌である、そしてやゝ俳句的である、林檎のやはをかしい。
〇左千夫いふ、第一首「林檎のや」の用語は眞面目を欠いて居る、作者の意は、二の句の「木の實」は林檎のつもりならんと思へど、初句りんごのやと切つて更に木の實云々と云ひ起してはどうしても二の句の木の實は林檎以外の物としか思へない、白紙といふこと此場合如何と思ふ、此歌の意では、木についてる林檎を包む紙を云ふ(44)のであらふが、雨に風に堪ゆる紙は必ず油紙か澁紙でなければならぬ、雨露に堪ゆる紙に白紙があるとしても、通常の感じは白紙ではをかしい、詞の難はそれだけとして、此歌の内容と表現の如何を吟味して見ると、乍遺憾未成品と云はねばならぬ、古來秋の風吹くと云ふ歌は澤山ある、故に如此着想の歌は古人の取扱つた材料よりは、より多く秋風に適切な材料を見つけねば作者の働きはない譯である、林檎の實を包んだ紙が殊に秋風に適切であるとは思へない、よし珍らしい材料であつても趣味に調和が無くては製作上に成功を認めることは出來ない。
第二首二の句の、「あまたよりてゐて」余りに働かない詞である、此句でそんなにひねくる必要はないから、明らさまに、「あまたの人の」と云つて終つた方が、却て解り易く自然であるまいか、結句も「秋日殘れり」などありたし。   やみ人の氷代ふると小夜ふかくさむき厨に灯をともすかも   柿の村人
   夕げすと膝並べ居る三人子のさびしき心母につどへり
〇左千夫いふ、二首共に病人の上が氣づかはしくこれでたすかるか知らと思ふ禁じ難き不安の念がよく現はれて居る、幼きもの供までが其不安の空氣に包まれて、云ひ難い淋しさに顔を見合つて居るといふ、其力のない淋しい家庭のさまが充分に感ぜられる、強て難を云はゞ云へぬこともないが、予は佳作といふに躊躇せぬ、柿君の作往々潤澤を欠くの弊があるけれど、此歌の如き題目に潤澤は却て無い方がよいだらふ。
   生けるもの逐に死にすることわりをしみら悲しく病みて思ほゆ   勘内
   夜の底の冷たき國邊行く吾れにもの遠々し天の星屑
  〇千樫、望月君の歌(馬粹木四卷二號)に
(45)   うつそみの人等は遂に死するとはかなきことを病めば思ひぬ
  といふのがある、よい歌だと思うて記憶して居る、だから「生けるもの」の歌は寧ろ捨つべきものと思ふ、後の歌はとる。
〇左千夫いふ、第一首には困つた、予は望月君の歌に類歌ありしことを全く忘れて居つて此歌を採つたが、前後の順から云へば無論後のを捨つべきであれど、今兩首を比べて見ると、望月君の歌は、死といふ樣な強い酷い感じを歌ふのに餘り無造作過ぎた、調子が輕過ぎた、よし作者は死といふことをさう重く考へて居ないにしろ、死といふことはどうしても、人生に於て最も莊嚴な問題であるから、調子輕く歌つて終つては、實際らしい感じがしない、かう見てくると、望月君の歌も永久に殘すべき歌ではなからふ、
それで此歌はどうかと見ると、問題の取扱方には慥かに進歩を認められるが、考に浮んだ事を巧みに三十一文字に記述したといふ之れ以上には餘り出て居ない樣である、要するに死といふ人生上の問題と自己の現在の病氣とを交渉的に考合せた時、正に起るべきうら悲しい一種淋しい強い感じが、意義の上には充分解得されるけれど、具體的感情の表現は頗る足りない、然らば何處に欠點があるかと云ふに、「病みておもほゆ」といふ結句が全くの説明であるから、全體の調子まで記述的になつて経つたかと思はれる、猶此歌を精細に分解すれば更に幾多の欠點を發見するに違ひないけれど、余り長くなるから畧す、未定稿の作として今一段の推敲を經べきであらふ。第二首は、詞調の上に多少未熟の觀なきにあらねど、新たなる境地を新たに鋤返した、其新しい土の香りを臭ぐ心持がする、高原國の嚴冬、寒霜空に滿ちて一寸法師的人間は如何にむ夜の底を歩く心地がするであらう、寒氣の壓迫と天地の大とを感じた時には自分が地上の一粟たるを思はぬ譯にゆかぬ、星の殊更に遠く見えたも、其心からくる自然であらふ。
(46)   春のぬを酒のひさごのふら/\にほろゑひくれば月圓にいづ   茂吉
   甕腹《みかはら》にことはこもれりかにかくにいはまく無益《むやく》ことはこもれり
〇左千夫いふ。作者の心中にゆらめいた感興が、これ程遺憾なく現はれた歌は少なからふ、
第二首は、破き自信と、其自信より來れる、精神の充實とが、緊張した詞調の奥底に潜んで居る處此の作の生命であらふ、思ふに是等の作恐くは言語の面白味のみが讀者の目に映じて、言語以外に現はれて居る多くの意義は閑却されるであらふ、予の評の、只面白い歌ぢやと云つて安じ得ざる所以である。
   湯口守るおきなの兒ろはしが父の大き皮靴はきて雪をかく   秋圃
   山宿の眼さめのさむさ引きよする桑名火燵は消えてありけり
〇左千夫いふ、西洋のポンチ繪などに能く見る趣向であるが韻文の内容としてはどうであらうか、滑稽の歌かとみれば滑稽にもなつて居ない、一寸と可笑な事件を三十一字に記述したものとすれば、雜報の一くさりである、此歌を製作すべく作者の興した處はどこにあるのか、大きな皮靴をはいてる兒供を憐れと見たのか、或は繪畫的に滑稽を感じたのか、作意の主要點が判然しない、散文と成り了へた所以である。
第二首分解すれば詞にも無理があるやうなれど、元來無造作な事をかう無造作に作つて終つたでは、言語の遊技になつて終ふ、韻文の内容は今少し眞面目に今少し容積的でなければ困る、此歌の内容は殆ど空である、それであるから、何の爲に此歌は作られたのであるか判らない。
                   明治42年9月『アララギ』
 
(47) 〔『アララギ』第二卷第一號選歌評〕
 
     蠶飼雜詠           小沼松軒
   霧雨に室ぬち寒むく稚な蠶は桑も得食はず胸安からず
   うまいする稚蠶守りつゝたらちねは衣縫ひ在ます吾は芋を植ふ
     仝 旋頭歌
   やからとち蠶飼忙しみいそはく此頃。いたつきになやめる父か飯を炊くも。
   百萬千萬の蠶かつむり打ちふり。おのかしゝ桑食む樣のはしくもあるか。
   火をたけと蠶飼の室の寒むき此朝。しなさかる越の群山雪ふれる見ゆ。   時しくに飯綱の山に雪降れりけり。桑園に霜降るらむと人々おつも。
   桑摘みて月に歸れは心すか/\し。たらちねは夕飼とゝのへ待ち在ますかも。
   金山ゆ若葉かくりに時鳥啼き。蠶飼するさ庭隈なく月押してれり。
   いやしみゝ若葉の風に松の花散り。并らへほす籠のわたりにそか花粉まふ。
評 從來諸同人中旋頭歌を試みられたるもの少からざれども、能く旋頭歌が有する詩形上の長所を發揮し得たるは稀れなり、今松軒子の作を得て始めて眞の旋頭歌に接したるの感あり、着想材料共に自然にして少しも強て作(48)りたるの風なく然かも詩趣を捕へ得て遺憾なし 田園生活の趣味誠に健羨に堪えざらしむ、嘆誦の余り敢て一言を添ふ。
                    明治42年9月『アララギ』
                      署名  左千夫選
 
(49) 蓼科山中より
    ――風聞録――
 
信州蓼科山中より一筆申上候。こゝの湯は巖温泉と申候。近く八ケ岳の連山を見、遠くは甲州の駒ケ岳、木曾の御嶽を望み、海抜五千尺以上の地點に於て靈泉汪湧海の如くに候。湧泉の盛なること思ふに海内に比類なかるべく候。茲に青天井を眺めて湯につかり居るは惡くはなく候。(伊藤左千夫)
                   明治42年9月9日『國民新聞』
 
(50) 執筆【時間、時期、用具、場所、希望、經驗、感想、等】
    ――アンケート――
 
執筆時間は無論連續する方都合よく候へ共、其間《そのあひだ》に斷間《たえま》ありてもそれほど苦しくは無之候▲日中執筆午前は殆ど駄目に候。夜も深更《しんかう》は大抵いけなく候。ペン若くはテイブル等の經驗は無之候。執筆の場所については、何時もどこか靜かな場所にて書きたいと思ふ心は有之候へ共、さういふ事をした事はなく候。併し旅行先などにては落つきがなく、家に居つて書く方宜いやうな氣も致候▲書かねばならぬ、是非書かうと決心してかゝても愈々原稿紙を染る迄には、何時も二三日の無駄日《むだび》を費すが常に候。
                  明治42年9月21日『國民新聞』
                      署名 伊藤左千夫
 
(51) 短歌研究〔一〕
 
  今度の合評は餘り長くなり過ぎた、今後は編輯の都合上もう少し短くせねばならぬと思ふ。次號は他派の歌について合評を試みるつもりである。
   鰍瀬河瀬青も立たず向つ尾もうまい横臥し有明月夜       (百穗)
〇左千夫、云ひ分のない歌である。山も靜だ月も靜だ、嗚呼靜かな有明だと見れば、常は鳴つてる河の瀬も音がせぬ、如何にも感じのよい靜けさである、うまい横臥すなどいふ詞が感じ能く働いてるから、靜かと云つても寂しい感じのないのに注意せねばならぬ專門歌人大に緊褌の必要があらう、
   水涸れて木かげもあらずざれ風の扇岡邊に家をすてかねつ    (無限)
〇左千夫、實にやりつ放しな歌である、無限子の気質がほのめいてゐて面白い、「水涸れて」と云つて次へ無頓着に「木かげもあらず」と續けた放膽は如何にも無限君である、さうして又其二句をも言ひ放しにして置て、「扇岡邊に家を棄てかねつ」と結んで居る 殆ど言語を投出して作つたやうな歌である、それでゐて能く吟味すれば、決して内容の統一を損じてゐない、一見疎放な詞つきで裏面に同情がある、幾村落一流しに打流された洪水の跡、今は川の流も涸れ/\である、處々木立はあつても立枯で木かげにもならない、すさんだ風は、流し殘された見るかげもない扇岡の荒家を吹いてる、こんな見るに堪ない中にも我家はさすがに捨てかねて人が住んで(52)る、作者は憮然として同情の眼を寄せたのであらう、水難の説明もなく同情的の詞もなく、さうして能く具象的に同情が籠つて居る、一寸見ては何の事かと思はれるやうで、吟味一番して始めて深き味を感ずる歌である、二の句「木蔭もあらず」と切つて其響きの消えないうちに「ざれ風」と云ひ起した接續法は不用意の間に成功して居る、記して後の參考とすべきである、猶一言を添へる、此歌の如き放膽なる句法が、決して考へて作り得らるゝものでない、事實の目撃より得來つて、始めて此活句法が出來るのであらう。
   吾ひとり木の種まけば掌《たなそこ》にその躍る音土につく音     (礎山子)
〇茂吉いふ、四五句は大袈裟であるが併しそれは誇張したのである、その誇張したる處に作者の歓喜の情が(音調となつて)餘程よく現はれて居るのが嬉しい。音と云つても直ちに破鐘を聯想しまい。こゝはサラ/\といふ細かな、かすかな音を聯想すべきである。只「オト」といふ語の稍々強いのが音調上仕方が無い。
〇左千夫、前評と稍同感である、只五の句の一句が躍動せぬと思ふ、「土につく」というては音のする感じがせぬ、これは「土に落つる音」とありたい、それで此修正は此歌に就て輕い問題ではなからう。
   高山も低山もなき地の果ては見る目の前に天し垂れたり     (左千夫)
〇純いふ、偉大なる天地の趣をあらはし得た重みのある歌である、調子も悠つたりとして併かも強い力のこもつた内容に最も適うたものである、「見る目の前に天し垂れたり」此句の莊重ありて始めて上三句の稍曲折ある叙し方を締め括ることが出來る、三讀四讀繰返すに從ひて趣味の盡きないのは平淡なる中に眞理を云ひあらはせるものゝ特色である、學ぷべき處であると思ふ、尚予は九十九里作中の傑作として此歌をとる。
〇里靜いふ、大まかなところを採る、天し垂れたりは少しく陳腐に感ずる、巧は「目の前に」の一句に在るやうに思ふ。
(53)〇茂吉いふ、第一二句。作者が山ある國を出でゝ先づこの濱べに立つたる時の感じを最も正直に最も巧妙に表現したものである。
この句が一首の初めにある點、他の句との關係、吾人が斯る自然の光景に接した場合の心持を靜に内省する時はこの句の妙味は分るとおもふ。第三句の「は」は甚だよくひゞく。以上の二句で既に作者が雄大の景に接して驚きの氣分を感受した事が奥の方に現はれて居るに注意した。第四句は實に力ある句だ。「我が目の前に」と代へて比較すべき處である。この句は第四句に位し結句の大と相待たむとするのであるから非常に大切な句であるのに斯る力ある句を得て、作者の手腕に驚く。第五句大なる句だ、如何な言葉もこれに代用する事は出來ない。支那には「垂天」の熟字ある樣である。その「垂」字は我國の「たる」と幾分の語感の差ありとはいへ、これ等の漢字は既に日本化されたるものであるから日本の語法に用ゐるのも詩人の手腕の一である。新しい句だ、この作に於て新なる生命を有して居る。
宏大な歌だ、正にこの大自然と融合せむとするの概がある。空想の虚仮おどしとは違ふ。この邊の消息は第一の評者が言ひ盡して居る。大自然に接し驚き讃歎して居るにも係らず、ユツタリとして居る處がある、こゝがこの作者に面白い點である。この作者はよく「し」なる助語を用ゐるがこれが時に缺點になる事があるから注意せよ。無論この歌の場合では無い。
〇千樫、大自然から受けたる感じを現はし得たよい歌だといふだけでは予には物足らぬ、この歌を讀むと作者が只一人天地の眞中に立つて居る感がある、常に心に滿ち溢るゝ感情を湛へてたま/\この大自然に接し全感情を集注せしめて製作せる歌である、客觀的光景を叙してあるにもかゝはらず、其音調の莊重なる自然は却て從屬的になつて作者の優越せる感情が主として胸にひゞく所に注意せねばならぬ「地のはては」といつて直ちに「見る目の前に天し垂れたり」といひ下す所如何に作者の氣力旺盛精神活躍せるかを見るべきである。
九十九里の歌を見ると如何にも言語を縱横に驅使して居るのに驚く。
   春の葉の若やぐ森に浮く煙吾がこふる人や朝かしぎする     (左千夫)
(54)〇純いふ、「春の葉の若やぐ」といふことと「浮く煙」と戀人と其處に一種の調和がある、併し其の「朝かしぎする人」が其家の娘らしからず、下女らしからず、寧ろ人妻らしい感じがするのは厭ふ感である、但し之は予の立ち入りすぎた勝手な解釋かも知れぬが、此作を讀んでどうも自分にはさう感ずるといふ迄である、之を外にして此歌の思想(少くとも其のあらはし方)は稍古い、新らしい生きた思想として感ぜられぬ、右の理由で予は此歌を採らない、
〇里靜いふ、森などあつて家も舊く大きく、煙も下女が炊事の煙と見える……戀人の焚く火の煙は木かげまばらに裏戸口障子もチラ/\白く見ゆる處より立たせたい、
〇茂吉いふ。平凡な事實も陳腐な歌材も一度び優秀なる詩人の手に依てこゝに新なる生命を得來る。この作の如きもその一例であらう。その歌材の平凡なるが故に、餘りに普遍的なるが故に稍々ともすれば讀者は棄てゝ顧みない。余も一讀正に棄てむとしたのは事實である。「我が戀ふる人」は種々に解せられる、第一下女か娘か(下女と云つてもさう見下した者でない)第二自分の細君か、第三人妻か、併し一首全体より見て「田園生活をして居る家の顔佳き少女」と解するのが最も適當であると思ふ。若し人妻を戀ふるのならばコンナゆつたりした濕ほひのある心のゆらぎが一首の調となつて現はれ來る理由は無い。男は勿論自稱現代人などでは無く田園生活をして居る健實な少男の處である、ソコデ「朝かしぎ」するも利いて來るし、人妻らしい處は無いのである。〇單に「春の葉」といふ言葉は概括的な言葉である、今現在見て居る景色に對して斯る概括的な言葉を用ゐるのは善くないと思つた、併し余のこの考は感服出來ぬ。第一、萬葉にも「堤に立てる槻の木のこちごちの枝の春の葉の茂きが如く思へりし妹こはあれど」とある如く「槻の木の……春の葉」などゝ用ゐてある、是等の用法は輕く「若葉」の意に解すべきもので「秋葉」を「モミヂ」の意に用ゐたのと同樣である、吾々日本人は決してこの如き先用例を輕々に看過してはならぬ(春の葉の茂きが如きは茂きと云はむ序であるから概括的でも善いが此歌の場合は違ふなど云ふ愚論者は相手にせぬ)第二、「春の葉の若やぐ森」と云つてあるこの森は抽象的の森でほ無くして今現在見て居る森である、ソコデこの春の葉のと云ふ言葉は活きて來るのである、第三、作者の對して居る現在の光景は春の朝のウツトリと霞んで居る景である加之妹があたりから(55)煙がゆるく上つて居る、かゝる景に對して明かなる句を第一句に置くものでは無い。かく考へ來ると作者の用意周到なるに驚いた、〇「浮く」は「浮ける」では無い、ゆるやかなる運動を表はして居るのに注意すべきである。第三句で「煙」とやつたのもこの場合は最も善い。〇結句に「する」など使用するのは多くは厭味なるものであるが、この場合「や」と云ひ「する」と止めて何とも言へぬ趣があるのに注意すべきである。又疑問を表はす場合には何時も堅過ぎる樣になるのが日本語の弊と思つて居たが研究して見れば左樣で無い事が是等の句を見ても分る。〇圖に乘つて書きあまり長々となつたからこれで止める。
 
作者の考を少し云はして貰ひたい、此歌に於て作者の所謂吾が戀ふる人といふを、純君は人妻と見られ、里靜君は下女と見られた 茂吉君は只田園生活の少女と見られた、歌評の面白味はかういふ處にあると思ふて愉快だ、作者も黙して居られぬ所以である、下女、娘は云ふまでもなく妻君も勿論飯をたく、奥樣御新窓時には朝炊ぎをするのも事實であらう、予は奥樣令孃の朝炊など最も興味が深いと思ふ 併し茲で奥樣といふは人妻の意味ではない、朝炊ぎと云へば、直ちに下女女房と極めて終ふのは詩人の考としては除り單純過ぎはしないか。戀人はどこまでも戀人である 神言寄せて成立つた戀仲は、さう無造作に人中へむきだしにされるものでない、兩親と雖も我子の戀人を知らない場合が多い、然るに歌の批評者が、只朝炊ぎすると詞だけを見て直ちに人妻であらういや下女であらうとの詮議は、少々岡燒の氣味と云はねばならぬか。隣席に女の話聲がする、其聲のみを聞いて、下女か令孃か細君かを判ずるは、聽覚神經の靈能に待つ外はない如くに、此歌の戀が、卑い戀か美しい戀かは、此歌の歌柄に依つて判じて貰ふより外はない、作者が只告白して置たいのは、此歌は其音調が示せる如く平和な戀である、世間へ知れて耻しいといふ戀でもなく、前途に不安のある戀でもない、相當の時期に達すれは周圍から羨まるべき間柄である、目下の處少しの都合にて女は叔父の家に居るので、朝炊ぎの手傳もさせられて居る、(56)作者の心にはそれが聊か可哀想に思はれる、其樂しいやうな苦い苦痛が此歌の心である、
〇千樫。作者の辨解は面白いがこの歌は作者が思ふ通りに現はれて居らぬと思ふ、陳腐といふ程内容は涸燥して居らぬ樣ではあるが親類の家に居る女、樂しい樣なそして輕い苦痛それが果して作者が云ふ如く現はれて居るであらうか、予には俄に賛成出來ぬ。
   山の世のとほのはたてに鴨一つ浮きて遊べる水の静けく    (柿の村人)
〇左千夫、作者の視て以て歌にせうとした景色は面白いに違いないが、かゝる景色を捕へて我が物にせんとするに就ての用意は頗る當を失して居る 大きな魚に網の足らない感がある、此歌の場合に鴨は只點心たるべきである、然るに何事ぞ、其副物たる鴨に對して、一首中最重要なる、三の句四の句の二句を費して居る、「浮きて遊べる」などは冗漫も甚しいではないか、結句「水の靜けく」も殆ど無用の説明である、此場合鴨のことは、只「鴨一つ居り」位の結句を置き、他の四句に於て極力四圍の光景を叙すべきである、一の句二の句に輕々しく超凡的秀句を吐いて三の句以下凡語凡句を以て埋めたのが甚だ口惜しいのである、
  ヽヽヽヽヽ。ヽヽヽヽヽヽヽ。山の世の、湖のはたてに。鴨一つ居り。
失敬であるが、かうして一の句二の句に、適當の句を得たらば實に秀逸な作となるであらう、實地を知れる作者に於てせは、一の句二の句に就てはいと易い工風であらう。
茲に一言斷つて置くのは、柿の村人子此歌稿を寄せて後二回までも自ら安ぜざることを云ひ來されて、嚴に削正せんことを望まれたのである、されば此歌の如き決して作者に於て得意として居る物ではない、讀者誤解する無からんことを望む。
(57)。千樫。「山の世の遠のはたて」は山深くの意で太古の如き靜寂を現はすために用ゐたるものと解するのが至當であらう、評は前評に盡きてゐる。
   野の裾の遠き谷べゆ吹きあぐる白榛風も瀬の音まじれり    (柿の村人)
〇左千犬、高原の一隅から起つた風の音と山川の音と相混じて聞える趣は甚だ面白い、乍併此歌も前歌と同じく如此想を得ての一首構成上に用意は誤つて居る、云ふまでもなく此歌の主眼は風の音と水の音と混じて聞える所にある、周圍を描くは只其輪廓を作ればよいのである、然るに此歌は其主眼點に注意すること少く、却て客觀的對象を叙するに非度く力を入れて居る所謂主客の輕重を疎にして居る、一寸と云ふて見ても、二の句は「遠き谷べゆ」とあるのに、四の句で「白榛風も」とある、よしそこに白榛が多くあつたにせよ、「遠き谷邊」と見渡した場合に殊に白榛風などゝ一材料を強く明叙する必要はない、況して白榛は此歌に於て副景に過ぎないのでないか、要するに部分的趣味に心を引かれ過ぎるから、材料に興味を持過ぎるから、一首の統一が欠けるのである、白榛風といふのは材料としても面白く詞も面白いけれど、此白榛風が此の歌の主眼でないことを忘れてはならぬ、主眼でない一句が殊に強く働けば、必ず全体の統一を妨げるのである、これでは未だ言ひつくせないから、早手廻しに歌を修正して意見を補つて置く、
  野の裾の白榛の木に鳴る風に瀬の音もどよみ野は晴れんとす
   弓揚げて弦音高く射る甲矢の果無き空を青嵐吹く    (里靜)
〇左千夫。弓を射るといふ壯快な事柄と青嵐の風とは、そこに面白い調和があるやうに思はれるが、それで一首の歌を構成せんとするには、適切なる事實と多くの工風とを要するのであらう、兎に角此歌では物足らない、
(58)   澁いろにほとびし柿のあだ花のあだをぞ嘆くをみなのあるべし    (純)
〇左千夫、此柿澁柿と見えて、詞から調子から丸で澁味づくめだ、感情のさえない所以もそこにあるか、言葉が巧妙との評もあるが、内容に忠實でない詞は、巧却て拙に劣ることがある、何にしろ今少し調子に活を入れねばどうにも困る。
   世に堪へずしなんいのちは麥の穗のくろきしひな穗の枯るゝごとしも    (純)
〇左千犬、此歌でも僕は調子に不足を云ひたい、着想は甚だ面白いが、如何にも調子が緊張を缺いてる、故に意味の上には充分合點が出來ても感情に刺激を得られない。
   草も木もみなよみかへる夏の夜を獨りはかなと萎え居るかも    (桐軒)
〇左千夫、これは戀の不安にくよく/\て居る少女に同情した歌である、勿論作者と少女とに戀の關係があるのではない、戀に戀するといふ事は小説家が能く言ふ樣なれど、此歌は戀する者に同情して即戀を燐んだ歌である、此點に於て此歌の用意は甚だ新しい、
   風吹けば風にさ搖らぐともしびのあやうきかもよ獨り居る汝は    (文明)
〇左千夫、此歌の主要なる五の句の一語が、露骨に陷つた爲に、淺薄の歌となつて終つた、此作者の歌には睡蓮の歌の方に、取るべき作がある、要するに一番不出來な歌を選んだ感がある、
   皮膚深く折れてこもれる針先の安からぬ思ひ尚戀ひにけり    (千里)
〇左千夫、こなれの足らない歌であつた、工風まけした歌である、「針先の安からぬ」の續けも拙かつた、
   さみだるゝ宵淺みぎりにかい/\と蛙一つあはれげに鳴くも    (茂吉)
(59)〇左千夫、材料が珍らしいでもなく、思想が變つて居るのでもなく只此作者の特殊的情調が、一種の統一融合の上に浮出て居る、アラヽギ二卷一號は、凡人の眼に知れない多くの寶が籠つてるが、此歌の如きも其優れた寶の一つである、四の句「蛙一つ」は原稿の時には、「かへる子二つ」とあつた樣に思ふが如何に、
〇千樫。「蛙一つ」と六音の方がよいと思ふ、「かい/\」といふ副詞が四の句を隔てて然も直ちに「鳴く」にかからずに「あはれげに」といふ他の副詞に副ひて、其意を限定するこの歌の如き場合、中にはさまれる四の句を六音にしたといふことは注意すべきである、なほ蛙子一つと子の字を入れると親しみの感じはあるが、いくらか目に訴へる樣になる、さて一首全體についての批評は前評殆ど盡して居る、この作者の趣味は「細微」である、細微は作者にとつて眞實なる「偉大」である、これだけ言うておきたい。
   をさな妻あやぶみ守るわがもひのゑぐしごゝちにつゝしむろかも    (茂吉)
◎作者申す。省略法を用ゐてあるのであるが或は舒法が無理かも知れぬ。然し、第三句の助辭「の」の慣用法と、「ゑぐし」といふ味覺(實は混合感覺)を借り來つて心的状態を表はさむとした事と、單に「愼む」と用ゐてあるがこの「愼」字の意味。以上の三つをモ一度噛みしめて戴いたならば、意味だけは分ると思ひます。
〇左千夫、我が將來の妻たるべき少女は十一か十二で即ち幼妻である、さうして一つ家に居る自分は少女をどこまでも吾が妻と思つてゐるが、少女は未だ何の氣もない、馴れ/\しく親むかと思へば、又一向に情愛のないやうなこともある、彼が女となつて能く自分と調和するか否かとの危みもある、彼れの天品が能く圓滿無垢に發育してくれゝばよいがといふ危みもある、理窟にも感情にも何等手答のない幼妻を守つて居る、此際に於ける一種の苦勞、即ゑぐし心である、此のゑぐし心は或時機に達せねば解決の道はない、それで忠實に考へれば自分を愼(60)む外はない事に落てくる、引〆て優しい情緒が此歌の地である、此の如き複雜な人事を兎も角も三十一字に詠み得たのは、技巧の上から實に大なる成功である、乍併此技巧上の成功が、直に歌其物の成功と一致したとは云へない、此歌は内容の余りに複雜なるが爲にや、一首の譜調に響音が乏しい、さればと云つて決して捨得らるゝ歌ではない。
   もや/\し大野のみどり色に立ち黄なるが中に日の沈む見ゆ   (千樫)
〇左千夫、此歌は「大野のみどり色に立ちもや/\し黄なるが中に日の沈む見ゆ」と句を置換て解する句法である、是れは萬葉中に其例がいくらもある、此歌は大膽に常規を離れた用語がそれで僕は疵とも見られ面白いとも見られる無理を冒して或點まで成功した歌だと云ふを憚らぬ、水蒸氣の工合と夕日を受けた緑の反射で空氣に一種の色の立つは事實である、それを大膽に黄なる色と云つて終つた處に幾分かの無理がある、其無理を無理としても、猶此歌の捨てられないのは、兎に角創作的精神が全首に動いて居るからである、
   ひとり身の心あやしく思ひ立ちこの夜梅※[者/火]るさ夜ふけにつゝ   (千樫)
〇純いふ、ひとり身の人が思ひ立つて梅を煮るといふのは如何にも面白い、此場合どうしても梅でなくてはならぬ處に無限の妙味がある、第五句は惜しい、もう少し意義ある句を欲しいものだ、夜ふけと云ふ意味をあらはすはいゝが「この夜」と「さ夜」と重ねてくり返すのは不必要ではないか、
〇左千夫、これが所謂輕いをかしみを歌つたものである、何と云ふ事はない、梅の煮たのが食たいといふでもなく、外に梅を煮る必要があるでもない、只ふと思ひついて梅を煮たのである、作者は自分ながら自分の心理状態が判らず、梅を煮るといふことに興が湧いたのだ、意味があるでもなく、無いでもなく、獨りものゝ氣まぐれに、(61)突然たる事をやる所に、輕いをかしみがある。「心あやしく」の詞は此歌に於て必要である、此歌は單に梅を煮ると云ふ事件の興味を主として居るのではない、獨身ものが、何といふ事はなく心怪しく思ひ立つて梅を煮ると云ふ突然たる事をやつた、獨ものゝ常規的ならぬ生活のをかしみが主であるのである、五の句は只刻限を示したまでゝ、是非必要と云ふこともないが、無けれはおさまりが惡い、此獨身もの恐くは、折角煮たのも半分までは食はないで、跡は戸棚の隅でどうかなつて終つたらう。
                   明治42年10月『アララギ』
 
(62) 作歌餘滴
 
      〔一〕
 
〇一念まをせば八十億劫の罪を滅し、十念まをせば十八十億劫の重罪を減し云々とは佛書の詞なり、尊くも意味深くも、いと面白き詞かな、或機會に觸れて、歌を作らんとの心動き、一念茲に超越したる時、煩悩具足の我々もいつしか人間の心を忘れ、身は陋巷にありながら、思は遙かに闇黒を離れ罪惡に遠ざかる、光明界裏無碍の心神は、恣に詩趣を高天滿地に探るの快に遊ぶ。
あはれ一念の超越、そこに如何なる人も安息し得べきなり、
〇水は流動止まざる處に、水の靈性は存せり、宗教は信心堅固にして始めて、救濟力の大なるを見る、人は云ふ、宗教は衰へつゝありと、然して信仰心の衰へたるを云ふものなし、信仰なき人に何の宗教かあるべき、歎異鈔に曰「唯信心を要とすと知るべし」と、親鸞の一語如何にも平易にして能く宗教の旨を盡せり、今世の人は己れに求むること少く、徒らに宗教に求むること多し、是れ今世人の宗教を失ひつゝある所以なり、
〇道は道其物の尊きよりも、求めて止まざる處に却て道の精神は存するか、道其物のみが人を尊とからしむと思はゞ誤りなり、道を求むるの心、其切なる心即人をして尊とからしむべし、故に求道の精神は專ら自己の欠乏を(63)自覺するにあり、求めて止むことを知らず、朝に道を聞て夕に死すとも可なりとの精神あつて、始めて共に道を談ずるに足るべし、
心貧しき者は幸福なりと西哲も云へりとか、予は思ふ、心滿ちたる者に靈活なし、
 
      〔二〕
 
〇花を見て直に花を解せんと思はゞ誤れり、歌を見たるのみにて歌を知らんとするは、獨花を見て花を解せんとするが如けむ、故に能く歌を知らんと欲せば、必ず自ら歌を作り而して又能く作者なるものを知らざるべからず。
其著書を見て聖人を知らんとするは順序なれども、聖人の實驗なくば到底聖人の書は解すべからず、何となれば聖人の悉くは書に現はれ居らざればなり。
〇歌を作るに就て徒らに技巧の上にのみ興味を有する人は、必ず其歌の依て湧くべき根本の問題に注意を缺く 此の如き人は偶然好詩題に逢着したる時にのみ、能く歌を作り得れど、詩題の撰擇に就ては、殆ど盲者なるが故に、常に自覺的作物を得るを難しとす。
慧悟と健覺だにあらば、技を待つこと少くして歌は能く上達せん、汝若し眞面目に熱心ならば、豈に言語に究し、文字を探ぐるを要せん。
〇政事家實業家の墮落より來る社會の損害は猶恢復し得べし、文字美術宗教の墮落より來る國家の敗頽は、遂に恢復すべからず、變化の及ぶ處精神上最も深き根本に於ける腐敗に基づくが故なり。
(64)〇犧牲的精神の本尊は女性にあり、女性的精神の國家に對する關係は間接的にして却て根本なり、女子をして獨立せしめ女子をして直接に社會に關係せしめんとするは、女性の本能を解せざるの致す處なり。日本國民は元來女性的なり 故に犧牲の精神に富めり、見よ日本國民が如何に神系過敏なるかを、又如何に事に臨んで覺悟のよきかを、日本の政事家は此の女性的精神の作用に注意を怠るべからざるなり。
                  明治42年10月・11月『アララギ』
                        署名   左千夫
 
(65) 〔放縱欄と歌會の歌〕
 
放縱欄と歌會の歌は大に精選する必要ありと思ふ。淺野梨郷の歌は始めて見たやうであるが大に注目すべき者と思ふ。少しもコネクラなくて自然に平氣にやつてる態度が賛成である。
                  明治42年10月『アララギ』
                      署名   なし
 
(66) 〔『アララギ』第二卷第二號消息・稟告〕
 
      消息
 
馬粹木二卷より三卷に渡り、滿州雜詠の作者として同人間に喧傳せられたる、下總佐倉の人足立清知君は九月七日病を以て死去せる由突然遺族の方より通知有之只々驚嘆の外なく候、思ふに今回アラヽキの奮起をも知るに及ばずして逝かれるにあらざるか、誠に痛嘆の至に候、足立君の滿洲雜詠は永遠不朽に傳ふべき秀歌と存候へども、作者其人は遂に再び相見るを得ざる事に相成申候、初秋未だ落葉を見ず一夜天際に詩星を失ふ、紙に臨んで弔慰の詞も出で不申候、茲に謹で消息を諸同人に傳へ哀悼の情を披瀝致候、敬具(左千夫)
 
      稟告
 
頁數の都合にて止むなく次號へまはしたる原稿は
  彼の老人(小説) 安藤黙斷子
  茶の湯の手帳   左千夫
其他東京、沼津、犬蓼短歌會々稿等多く候、雜誌御覽の上御推察願上候。
(67)前號二八頁田園雜詠芋乃花人とあるは誤にて八首中初めの六首は芋の里人氏の歌、後の二首が芋の花人氏の歌に付こゝに正誤致候。
本號より表紙々質を改めたるは下總某君の厚意に御座候。
依田秋圃君より金壹圓柳本城西君より金貳圓御寄繪に預り難有御禮申上候。
前記の通り原稿堆積候爲次號へまはしたるもの多く候へ共尚定數を數頁超え申候 此分は次號に於て節約致すべく候。
                  明治42年10月『アララギ』
 
(68) 短歌研究〔二〕
 
     (一)
 
 近刊の「スバル」「心の花」「國民新聞」等に現はれたる、中里萬里、與謝野晶子、平出修、石榑千亦、佐々木信綱、尾上柴舟、井上通泰諸氏の作歌を評す、猶吾々は時に各氏個別に一人の作歌に就て極力批評を試むべし。
   わが窓は艶《えん》にゆたかに夕されば廓の燈《ひ》見ゆこれやわが窓    (平里萬里)
〇左千大曰、窓から遊廓の灯が見えるといふことが、詩趣といふ上から見て何程の価値があるか、よしこれが艶にゆたかに見えたにした處で、百姓町人の目にこそ嗚呼美しい賑かだなアと見ゆれ叙景詩の材料として何程の價値があるか、其觀察に少しも進歩的思想がなく、感興に少しも創作的な處もない、おれの家の窓から吉原が見えるぞと、眞面目に誇りがに之を歌に詠んだ作者の根本思想が解しかねる、如斯歌を拔き來つて予に眞面目なる批評を強ふるならば予は今後の合評は平に御免を蒙る。
   戀人は朝を夜とし保つこと二時にして今とはり引く      (與謝野晶子)
〇左千大曰、此歌は懸愛を歌つたものではあるまい、戀人といふ詞を除いて見るならば、此歌には戀愛的情調が殆どない、作者の心では、戀人といふ詞は只一種の親み詞として茲に使つたのであらう、古語でいふ「吾背子」(69)とか「吾君」とか、今の詞では「うちの人」と云ふ位の意味に見てよからう、(併し吾背子とか「うちの人」とか云ふ詞は他人に對しても云へるが「戀人」などゝ他人に對しては云へまいからそれだけの差はある 偖一の句は「うちの人」といふ意味として此歌が何を表現して居るかと見るに、例の散文的記述であるから、情調のあらはれ居らぬことは勿論であるが、先づ此歌の大体の意義を解すれば、所謂戀人なる人の變つた性癖(性格とは少し違)から起る事件、即何の爲めに朝を夜とするかは不明なれども、兎に角夜が明けても猶夜として燈火も消さずに夜を保つこと二時間の後始めて帳を引いて朝にしたといふのであらう、これで作者には、其戀人が何の爲に朝を夜とするかは判つて(讀者には判らない)居るとしても、作者が其戀人なる人の變つた行爲に就て如何な感じを有してゐたかは不明である、此歌に情調的表現がないと前に云つたのもこれである、されば此歌は事件の興味を目的として此歌を作つたものと見る外はない、予は歌は絶對に情調的でなければならぬとは云はぬ、乍併事件的興味の滿足を得やうとするには三十一文字の短歌は、余りに形式の拘束が嚴しいことを忘れることは出來ない、此歌の如きが現に其證である、此作者の手腕を以てしても、此歌が含み居る事件の表現は、讀者の興味を引べき程度に達して居らぬ、戀人の一語は作者と相手者との關係は判る、帳の一語は其生活の程度の幾分を現し得たりとするも、何故に朝を夜とするのか、何故に夜を保つこと二時と時間を明定するのか、夜明けといふことを如何なる刻限より算定して二時間を數へたのか、明定すべからざることを明定するのは記述としても不自然であるまいか、それに此歌の記述とは其戀人なる人の變つた行爲は其朝許り突然やつたのか或は時々そんなことをして居るのか其精神系統も一向に判らない、假に夜でなければ仕事の出來ない人が、是非夜の内に仕上げて終はねばならぬ人が、夜は明けても猶夜のつもりで仕事をしたと見るにしても、其仕事の何物たるかゞ判らないから、(70)聲ばかりして正体の見えない化物騷ぎに等しく、進歩的精細な頭腦には感動し得べき興味を與ふることが出來ないのである、從令へば、大喧嘩があつた人殺があつたと事件として聞かせられても如何なる人が如何なる關係で如何に喧嘩したかゞ判らなければ、少しも事件の興味が無いのと同じである、要するに三十一文字の歌で事件的興味を傳へんとならば其題目の選擇に最も緻密なる注意を要するのである、情調的趣味と事件的趣味との關係及び其兩趣味と韻文との關係に就ての研究上、予は與謝野君等と根本の意見を異にして居る、予は與謝野君等が三十一文字の短形式を以て事件的興味を歌はんとする根本的議論を望むこと甚だ切なるものがあるのである、
   たはれ男の酒事するにまじりたる君をし見ればしづ心なし(桂の濱の少女のうたへる)(平出修)
〇左千夫曰、小才が産んだ聲色式の歌である、其聲色も駄洒落の拔けない聲色である、どれおれが一つお前に代つて歌を詠んでやると云つたやうな掛りで作つたらしい調子が詞の節々にほのめいて居るではないか、苟も女性たるものが眞面目な意義に於ける女といふものが、男子殊に自分の意中の男に對し、「君をし見れば」など云ふ口調は、普通の會話に於ても輕薄極つた詞つきである、これが單に自分の感想を叙するに止まつた歌ならば、吾背を見ればとか我子を見ればとか云はぬとも限らぬ、作併相對的に夫に對し妻に對し、おまへを見ればとか、あなたを見ればとか云ふ詞が如何なる場合に出てくるかを考へ見よ、語調が内容に伴はぬければ自然なる感情は決して表現し得るものでないとは吾々の常に繰返しつゝある處である、「しづ心なし」など言ひはなして澄して居る余所々々しさ、男の上を心配して不安の情を抱いて居るといふ、女の口などから決して出得べき詞ではない、散文にしても、これでは意義が充分に通じない、況んや感情を表現せんとする韻文に於てをや、此の如き不自然な詞つきでどうして感情を表明し得べき、終りに一言する、此歌は兎に角、内容は批評すべき債値があるのであ(71)るが、前に云ふ如く表現の仕方が惡いのである。
   かささぎの橋に立ちてやながむらむたむくる笹の稀になる世を (井上通泰)
〇左千夫曰、異趣味の人の歌なればとて、頭から痛罵するのはよくない事と思つて居るけれど、かういふ歌を見ては力を入れて批評する勇氣も出ない、一首に含まれて居る詩量を分解して見る氣になれぬ、露骨に云へば分解するだけの趣味性分は此歌にないのだ、思想と云へば童男童女のまゝ事的思想であつて、大人から見れば淺薄な遊戯である、雛の顔がよくても惡くても人間の眞面目な問題にならない如く、此の如き歌はよからうが惡しからうが嚴格な意義に於て、決して文藝上の問題とはならないのだ、甚だ失敬ではあるが、横文字の讀める作者にしてどうして、文藝上遊戯と眞文藝との差別が解らないのであらうか。
   夕靄は蒼く木立をつゝみたり思へば今日はやすかりしかな    (尾上柴舟)
〇左千夫曰、内容も貧血的だ 調子も貧血的だ、併し、これでも、廓の灯を「艶に豐かに」と讃美し、それが自分の窓から見えると眞面目に興じてる歌から見れば、遙かにケツカウである。
   遠鳴の潮の音きこゆ濁まき流るゝ水の上をつたひて      (石榑千亦)
〇左千夫曰、作者の視感に入つた趣味は甚だ面白いらしいが、描寫が表現的でなく、記述的説明であるから、作者の感じた趣味を讀者が感じ得ないのである、濁流の上を傳へて潮の音聞ゆといふ詞である「濁まき」「流るゝ水の」などゝ分ち云ふべきでないのに、それを二句に分ち云ふから語勢も無くなつて、殆ど科學的説明になるのである、
   我生はあまりにさびし秋風に九十九里の濱ふみゆく如し    (佐佐木信綱)
(72)〇千樫。小さき統一的景品を喜ぶ目から見れば、九十九里は餘りに單調なまとまりの無い淋しい所に見えるかも知れぬ、それならそれでも惡くない、秋風に九十九里の濱を行く心持をしんみりと現はしたならば面白い歌が出來ると思ふ、この歌の如く、我生はあまりに淋しと概叙的に説明して秋風に九十九里の濱ふみ行く如しと譬へただけでは意味だけはわかつても、少しも胸にひゞかぬ、餘りに無雜作にいつて了つて前半と後半とがたゞ並列されて居る樣で有機的組織が充分でないからである、作者の詩的熱力が足らなかつたからである。失敗の作と思ふ。
〇左千夫曰、前評以上に云ふ所はない。
 
     (二)
 
 本誌前號の短歌を拔抄して主に地方同人諸君に批評して頂いたのである(董)
   げんげんの花原めぐるいくすぢの水遠くあふ夕映も見ゆ    (柿の村人)
〇左千夫。感じのよい歌であるが四句五句のあたり頗る調子の緊張を欠いてる爲めに讀過して響韻がないのは遺憾である。夕映に對して見ゆると云ふも用語聊か穩當でない。
   富士見野をひとりすくれば秋花のはつ/\くはし人を憶へり   (蕨眞)
〇左千夫。此歌に注意すべきは何處となし汽車にて過ぎた感じがある點である。最もこれだけの詞で作者が汽車に居て見たといふ意味はないけれど、秋花の續いて居る富士見野を徒歩して見たならば「はつ/\くはし」などいふ瞥見的感じのある詞は出ない筈である。隨分廣い高原も汽車に視て過ぐれば如何にも淋しく花も僅かに見えたらう。詞書と相待つて靜かに此歌を味はつて見ると作者の當時の精神状態の自然が解つて面白い。第五句は今(73)一工風がほしかつた。
   新治つくはの小野をてる月のよこ雲の色に秋ちかづけり   (秋圃)〇左千夫。雲の色に季を感ずる趣味は前評の如く古いこと勿論であるが此歌の生命とも見るべきは四の句五の句に跨がつて「雲の色に秋近づけり」と靈靜なる感じを具象的に叙した点にあるが此叙法は成功したとは云へない。從令ば春來るらしと云ふ處に春近づけりというて見ても只云ひ過ぎた感じがある許りで特別の手柄にならぬと同じである。
   老人のすげむ口元秋風の言のはし/\漏れていとしも    (里靜)〇左千夫。五の句漏れていとしものいとしもの意味が判らないから評が出來ない。
   思ふにし心悲しも夜を清み月にむかへる草の上のつゆ    (左千夫)
〇柿人。清澄透徹の夜色に對して故人を想ふ心持が遺憾なく現れてゐる。一二句と三四五句と形に於て即かぬやうでゐて心持に於ては非常に緊密に融合してゐる。三四五句を得て作者の月夜に對して居る光景が思はれるのみならず故人の人格の凛然たる面影も髣髴される。趣向を凝らす思索的な歌では迚もこんな玲瑯玉の如き※[王+軍]然たるものを得る事は出來ぬ。四句「むかへる」といふ詞をこんなに活動させ得るものかと驚く。
〇桐軒。草の上の露を古人に擬して詠むだ歌は有る樣に思ふがこの歌の樣に深刻に憶念を表現したものはない「夜を清み」と置いたのが生命の中心であらう。
   ぬは玉の常暗の世と國土はゆれつゝもとなたどき知らずも   (勘内)
〇左千夫曰、詞は如何にも能く整つてる居るに係らず、生氣の動かないのは、作者に現寶に觸れた、電氣的作用(74)がないからであらう。
   雨こふる蛙の面にそゝぐ水つむり空しく一日くらせり      (千里)
〇左千夫曰、千里君の歌はいつも意味の働きが多くて情調が乏しい弊がある、此歌の如き洒落な才想は面白いが、何分内面的統一の見るべきなく遊戯に近いものとなつた、千里君は運が惡い、いつも余り振はない歌許り拔き出されて非難をされて居る 猶附記する、研究の題歌を拔くことは甚だ六つかしい、無難な作許り拔いては評が振はない、さうかと云つて、作者自身でも余り得意でない作を拔かれて難撃されても、迷惑であらう 出題者の苦心はそこにあるが、今度の拔歌には大に褒める歌は無かつた、これからは一つ各作者の自信的作を提出して、忌憚なき衆評を、求めて見たらばどうであらうか。
   あなうま粥強飯ををすなべに細りし息の太り行くかも      (茂吉)
〇左千大曰、あなうまの一句は今一工風ありたかつた、全体に就ても意味と調子との交渉に今一段の努力がほしかつた、
   湖はなれ暗きに見れば松の間ゆ湖の面光り湖浮きて見ゆ     (禿山)
〇左千夫曰、これだけ複雜な光景を、これほど叙し得たのだから、先づ成功と云つてよからう、予は此歌に對しては多少責任があるから余り立入つた評は出來ない。
   まひるのあかるき村をかへるにもためらはれぬるむねのさみしみ (千樫)
〇左千夫曰、推敲が足らなかつた、三句の「にも」は矢張いけないのだ、前後の句へ少しも響かない詞だ、一の句「まひるの」も一向に働かない、三十一文字中にこれだけ、働かぬ詞があつては、弾力も響も出ぬのがあたり(75)まへだ。
   降り來ぬと思ふまもなくにはたつみただに流れぬ赤松が根を
〇左千夫曰、これでは無造作過ぎる、努力の足らない作物には、どうしても含蓄が乏しい、無造作に取扱へば、どんな事でも無造作になつて終ふものであるから、如何なる場合にも苟もせぬといふ態度が大事である、尤もこれは席上の即詠であるから、此歌に對して眞面目過ぎた批評をされては作者も迷惑に違ひない。
   夕立はわが里すぎて向つ岡の落葉松林鳴りて降り行く      (朴葉)
〇左千夫曰、描寫的の歌は捕へ得た僅な處から一首の生命が出てくる、文章でいふ山がそれだ、此歌の第五句がそれだ。
                    明治42年11月『アララギ』
 
(76) 東京短歌會
 
十月九日、尊とくもなづかしき根岸の舊廬に會するもの十人、秋日和日薄く。木蔭冷かに土潤ふ、例のまめやかなる母堂の嗜みは、十歩の庭前塵もとゞめず、菊未だ咲かねど※[奚+隹]頭秋海棠の花はありし昔をさながらに殘せり、愚哉が寫せる故大人の宵像は、大人の俤能く寫し得て生ける人に逢ふ心持ぞする、いと懇ろにいそ/\と物し給ふ母堂の健さは、なつかしく、嬉しく、涙もこぼるゝ許りにて、人々かたみに打ちくつろぎ語り合ひぬ、
世の中に樂しきことの數はあれど、志合ひて道を同くする友どちが、相慕ふ故人の舊廬に打寄り、舊を偲び今を親むのまどゐに如く事やあるべき、歌は作るも作らずも心は等しく高雅の趣味を思ふ、
談興盡くる時なく、日は漸々暮に近づくにさらばとて「冷」「横」「蓮の實」の三題を頒ちて、各五首以上と掟して作歌を試みぬ、今は其數十首の中より、席上稍高評なりしを拔き出でつ(左千夫記)
 〔茂吉、千樫、夏井、董湫、利郷、文明、允、芳雨、左千夫の歌略〕
                    明治42年11月『アララギ』
 
(77) 木曾だより
 
 先年平福君木曾に遊び、偶然籔原の湯川寛雄君に會し、懇情を結びしより、一昨年久保田君と予と相携て同氏を訪問し、昨年又蕨眞君同地に遊びて交を暖め、爾來消息を絶ず、湯川君は實に吾々諸同人の同情者なりしが、今回同君は、本年僅に二十四才なりし最愛の令閨を失ひたる不幸に遇へり、三才なる幼兒と當才なる赤兒とを左右に擁して此秋を泣く鰥夫となれりとの消息を傳へ、且つせめてもの慰藉のため、諸同人より哀歌を乞得て一册子を作り亡き人の靈に供へんことを希ふ趣きを附記せられたり、願くは諸同人の各位、一片の同情を寄せられんことを、小生より切に懇願する處なり敬具(神無月十二日左千夫)                    明治42年11月『アララギ』
 
(78) 短歌研究〔三〕附記
 
附記す、自分は都合ありて最も諸君におくれて評する事にしたのであるが、今諸君の批評を見ると意外に考が違つて居る自分の今の考で見ると以上の十首の歌に就て、面白いと思ふ歌を一首も認める事が出來ない、單に面白くないと云ふ許りでなく、自分の考へて居る韻文といふものとは趣味の主要點が余りに離れ過ぎて居ると思ふのである、されば今自分の考を充分に述盡さうと思へば、此狭隘な紙面の殘端ではどうすることも出來ない、殊に此欄も余り長過ぎては人をして飽かしむるの恐れがある、されば自分は次號に於て、以上十首の評を主として曙覽の歌を充分論評して見たいと思ふのである、かういふ譯で今回の研究に漏れたことを讀者諸君に謝す。
                       左千夫生
                    明治42年12月『アララギ』
 
(79) 〔『アララギ』第二卷第四號消息〕
 
拜啓 年がくれ候とて何の珍らしき事も無之候へ共、只年を送ること頻々たる感じのみ強く相成候、國民の文化と云ふ上に於ては、愉快に感ぜらるゝ處も少くは無く候へども不愉快な處も多く候、人生と文藝との關係に就ての議論は隨分盛に行はれたる樣に候へど、偖制作其物を吟味して見れば、技巧を賣物にする感なきものが何程有之候や、文藝上技巧の大切なる事申迄もなく候ものゝ、精神を欠ける技巧は高等なる職人に候、職人臭味を帶た文藝は、人をして面白がらせる事は出來るも人をして仰がせることは出來不申候、人格と作物との關係を輕視して平氣なる文藝壇に精神あり氣品ある作を要求すること始めより無理なるべく候。
余所は兎もあれ吾根岸派歌壇に於ては文藝根本の意義を人格の尊重に置きつゝ御同樣に相勵み來りたる次第に候へば職人臭味の作物が吾が諸同人の中より出づべき筈は無之候、乍併多く作る即技巧がうまくなる、技巧がうまくなれば、知らず/\技巧を弄するの弊に陷るは、容易に免れ難き通患に候へば、平生深く戒めねばならぬ事と存候。
偖本年の歌作壇に於て小生の最も嬉しきは、北信濃諸同人の奮起に候、小沼松軒君芋の里人君殊に創作多く、着々進境を示され候、次に甲州の日原無限君が近頃の活動は、才藻煥發、人を驚かし申候、放膽縱横なるは、岡千里君の巧妙精彩なる作風と相對して頗る面白き好對照を爲し居候、小生は猶外二人を諸君に紹介致候、沼津の木(80)村秀枝君名古屋の淺野利郷君に候、秀枝君は馬醉木時代初期よりの特志家に候へども、初より倦まず撓まず冷せず熱せず、著しく人の注意を引きしことなきも一歩一歩の進歩は、目立たぬ發達を遂げられ候、從て歌の作風も穩麗閑雅目立たぬ處に長所を有し居候、小生は秀枝君が今少し會稿以外に創作あらんことを希望致候、利郷君に至つては最も新しく今夏以來の作家ながら、其作風は實に從來の例を破りたるの感あり、是迄小生等の考にては、素朴無邪氣なる趣味は地方人殊に山中の人の獨專なるを信じ居りしに、利郷君は名古屋藩士の名古屋生にて純粹なる都人に候、而して一點才氣を弄せず毫末浮華を見ず、素朴も無邪氣も又自のづから地方人と異なる處甚だ面白く思想感情はどこまでも都人にして趣味は淡素純粹なるが嬉しく候、只年少の人は變化し易し 利郷君の作風が今後如何に發達すべきかは注意に値する問題と致候、終に臨み古參の諸將に今少し御精勵の程を希望致候(左千夫生)
                   明治42年12月『アララギ』
 
(81) 予の見たる子規子
 
 子規先生の事は隨分種々なる方面より、多くの人に依つて雜誌などに掲げられてある。現に私など「馬醉木」へ續けて書いたこともあつたが、未だ々々先生に對する話は盡きない。今一つ生活と趣味に就いて話しをしやう。
 全體子規先生の人格はと言ふと、一概に言へない程複雜なので、趣味といふ事には非常に憧憬されて居られた。而して其趣味は長く一つの物の趣味に泛ふて居るのでなく、汎きを求めたのである、私は能く書畫を先生にお目に掛けて其趣味に就て互に意見を闘したが、一時は非常に面白ろがられるが、其れを是非自分の手にして長く愛玩しやうといふ風ではない、善い繪なら石版摺などのものでも一時は面白がつて居られる。
 併し何を見ても趣味は高かつたので、例へば赤や青でごて/\と彩色した子供の繪などにも趣味を感ぜられた、又團扇の繪なども女小供に適する樣には如何に色彩を用ゆるかといふ樣に見られるが、何んでも捨てない。
 又大變に趣向を追はれた。一寸食事をするのでも、其菜の間に何にか一つ趣向を求められた。「それは趣向が無いな」未だ耳に殘つてる言葉である。であるから、度々題を出して持寄りをする、いつか黄といふ題で、持寄つたとき、ある人は琵琶を持つて來たら、先生は黄色に琵琶は余り趣向がないと言はれた、其時先生のは大方卵であつたと思ふ、割つてから黄色が出るところが大に自慢された。
 又病氣で臥せつて居られたせいもあらうが、文學談などより他方面の話を非常に好まれた。之れを見ても多趣(82)味を味ふかが強かつたのがわかる。
 又常識的の用意周到で、來客に對して其感情を害しない樣に心を痛められて居た、世間では非常に冷淡と見られて居るが決してさうではない、涙もろき情に厚き、人を信用し過ぎる方で――磊落な豪傑肌な人ではなかつた。
 和歌などを見て頂く時には、決して頭から批評されない。能く其れを讀んで作者の心持ちとなつて見てから、質問を起される、其の答へる尻を捕へて、作者の不用意の点を指摘するので、終に作者が一言の答も出ないことになる。
 要するに、子規先生の趣味は鋭く細かつた。決して粗放でなかつたのと、趣味と生活とを接觸に勉められた、即ち文學的生活を募られたと云つてもよいであらう。今回は是丈けにする。
                   明治43年1月『藻の花』
                     署名   左千夫
 
(127) 短歌研究〔四〕
 
      香川景樹の歌
 
  景樹を崇拜する部類の人以外に於て、景樹の歌人的聲價は定つて居る、世の中の弟子取り歌人かさもなくば盲目歌人にあらざるよりは景樹を褒める者は少い、併し好惡の念を離れ、敵味方の感を去つて、公平な吟味を遂げて見やうといふのが吾人の目的である。
 
     春月朧
   おぼつかなおぼろ/\と吾妹子が垣根も見えぬ春の夜の月
〇左千夫曰。何がおぼつかないのか「知らない人の處へ行くでなし、迷子を尋ぬるのぢやあるまいし、朧ながらも月のある夜に吾妹子といふ情人の家を尋ねるのに何のおぼつかない處があるのだ、よし月がおぼろでいつも見えるあたりから情人の家の垣根が見えなかつたにせよおぼつかなといふ感じの起り樣が無いではないか、つまらぬ事に興がつて喜んで居るのが景樹の持前だ、春の夜のおぼろといふやうな言葉から垣根も見えぬといふことを推定してさうしておぼつかななどと醉狂な興がりをいつてるのだ、彼が歌をおもちやの樣に取扱つてるといふ事は此一首でもわかつて居る。
(128)     河上花
   大井川かへらぬ水に影見えてことしも咲ける山櫻かな
〇左千夫曰、こんなものは評する價値がない、人の口眞似をして居るのだ。
     寒月
   てる月の影のちりくる心地して夜ゆく袖にたまる雪かな
〇左千夫曰。月の面白味をよんだのか、雪の面白味を詠んだのか、一向にわけのわからぬ歌だ、終の一句を「たまる花かな」と直したらどんな歌になるか、第一句より第四句まで少しも雪らしい言葉がなくて突然たまる花かなといつたつてことわる事にはなるけれども雪の感じは少しも現れて居ない。元來景樹の歌を評して感じの現れ方などといふのは彼を買ひ過ぎた話なのだ、あまり惡口をいふ樣であるからもう一言いうておくか「てる月の影のちりくる」といへば空の清明ないかにも月の照りわたつて居る心持である、第四句までかういふ晴れ/\した言葉の次ぎへ持つてきて突然「たまる雪かな」といふ、此雪はどこから飛んできた雪か、馬鹿げきつたいひざまである。文法がどうのかうのといふ連中がこんな歌をほめて居るから氣が知れない。試みに雨のふるといふ意味を第四句まで綴つて突然第五句に日の光かなととめたらどんな歌が出來るか。馬鹿
       〇
   富士の根を木の間/\にかへり見て松のかげふむ浮島が原
〇左千夫曰。「木の間/\に」といふ言葉が大變巧みな樣で拙いのだ。只松の木の間からふりかへる度に富士が見えるのであるのを木の間木の間とさも一本一本差別のある樣にいふのがいけないのだ、かういふのがいひ過ぎ(129)て居る 言葉遣ひで言語の感じが強くて趣味の感じを破つて居るのだ。「松のかげふむ」といふのは一時的の動作である、木の間/\にかへり見るといへば長い時間の含まれて居る動作であるから趣味の接續に調和を缺いて居る、要するに分解すれば統一も融合も無い歌である。一見巧みに見えるのは幼稚な讀者をごまかし得るに過ぎないのだ。かういふ人達の歌にはいつもきまつて居る事ではあるけれど、「松のかげふむ」といふ事が面白くてこの歌を作つたのか、木の間木の間に富士をかへり見るといふのが面白くて作つたのか、景樹は無論木のま/\に富士をかへり見ることを面白しとして此歌を作つたのであらう、それに拘らず第四句の要部で強くいうて居るから趣味の統一を破るのであるのだ。
       〇
   若草を駒にふませて垣間見しをとめも今は老いやしぬらむ
〇左千夫曰。三十一文字の散文である、突然氣まぐれにこんな事を思ひ出して、三十一文字に洒落れて見たまでの事である。元來景樹は歌に對する態度がいつも眞面目を缺いて居る、彼は才氣で歌が作り得らるゝものと思つて居たのである、彼が歌二三首を見れば彼の文學に對する態度が頗る輕薄であつた事が鏡に對して影を見る如く明かである。彼を崇拜する歌人は世の中に隨分あるけれど徒らに盲目的に崇拜するばかりで韻文といふものゝ根本論から充分に彼を辯護し得た者は一人も無い。予は尚彼が頭上に一言を加へておく、彼は風流を弄んだ卑俗なる詩人である。(左千夫氏の評は口評を筆記せしものである)
                  明治43年1月『アララギ』
 
(130) 慨嘆すべき歌壇
 
 新年の諸雜誌に現れた短歌
帝國文學、尾上柴舟氏の歌十首
   みづからを強くあざけりなほ足らず足らざるにしも涙おちぬる
〇左千大曰。自分を強く嘲けつてもまだ足らぬといふ心持が前半でわかる、その嘲り足らぬに涙が落ちるとあつては自分のなさけないのに涙が落ちるのではなくて、あざけり足らぬ爲に涙が出るのであるらしい、その心理状態が吾々にはわからぬ、作者の心持では自分をなさけなく思うて涙がおちたといふつもりであらうけれど言語があらぬ方にはたらく爲に作者の現さうとした通りに現れぬと見るより外はない、涙がおちるといふのはいふまでもなく悲しい事であるが只涙が落ちるというたばかりで悲しい情調が一首の上に感ぜられない。
〇純曰。自分のどこが惡くてあざけるのかわからぬ。
〇左千夫日。自分をあざけるといふ心には悲しみが含まつて居るのであらうが自分を嘲けるといつた説明の言葉には何等の悲みもない、此差別がわからねば韻文のわかり樣はない。
   わがあるを知らぬ顔していそぎつゝ人は行くなり電車待つ間を
〇左千夫曰。氣づいた處は文學的だ、現し方がかう無雜作に人はゆくなりなどあつてはあまりさら/\としすぎ(131)て刺激を感ずることは出來ない。
泥海の汐干のあとのくさき香にそひてぞたどる物多き道
〇左千夫曰。この作者の着目する所は同意すべき點が多いに拘らず、それを詩化するについての句法や言語の斡旋が甚だまづい。
與謝野晶子の歌十四首
   二つ三つ忘られぬ文書きこして心の上を走り行く人
〇左千夫曰。走りゆく人といひとめてあるがその走りゆく人がどうしたのか。〇純曰。これでは韻文でなくて単に走りゆく人ありといふ事實の説明である。〇左千夫曰。この作者はいつでも才で歌をこなさうとしてるが言語がいかに働くかといふことを無頓着に使用して居る、さうしておいて自分はかういふ心持でつかつたのだと獨合點させやうとしたつてそれは無理だ、作者がどういふ量見で使つたとしても言語は言語の働く意味に解するより外仕方のないものである。
   夜に來り寢る人よりも晝かたる友の戀しくなりし頃かな
〇左千夫曰。この歌の心持は古いけれども文學的だ、然し夜に來り寢る人などとは與り露骨ではないか、何とかいひやうがありさうなものだ、この露骨なことを平氣でいつてる所が自然主義などに動かされた所だ、多くの子供が出來て寢面目になつた人間の心を現さうとした歌なのであるから上の二句はこの歌に重ずべきでないから今少し穩かな云ひ樣があるべきだ。
〇左千夫曰。この作者の歌を見ると人事的事件の圖取を見るやうだ、感情的事件を歌つても少しも感情が表現さ(132)れて居ない、この人の歌から才氣を抜いたら乾燥無味な圖取が讒るばかりだ。
       〇
スバル、茅野蕭々氏の歌
   京に來て先づわが見しはきぬ/”\の祇園の町の有明の月
   快き戀の終を味はゝむ願ひばかりにまた戀をする
〇左千夫曰。幼稚だ、幼稚だ。どんな事を咏んだら人が感心するかと思つていろ/\たくらんで居る樣があり/\と見える。幼稚だ幼稚だ。
平野萬里氏の歌
   わがごとくしたらぬ戀を氣になやむ女のあらば又戀をする
といふ歌を始めとして
   稽古屋の三味の普吸ふ窓硝子芝居の家根の燈を吸ふ硝子
   さまあしくひろげられたる女房の腕の抱くおそれとうとみ
などいふのが五十首程ある。
〇左千夫曰。元來平野君が歌を作るのが不思議だ。
〇左千夫又曰。僕は眞面目に一言する。自分で考へるばかりをやめて少し他人の説に耳を傾けて見たらよからう。かういふ歌を發表するならば一遍韻文に就ての議論する責任があるであらう。
平出出修氏の歌
(133)   大船は錨をまきぬかなしげに君すむ國へむきて笛吹く
〇左千夫曰。この一首を讀んでこの調子ならとあとを讀みつゞけて見た。とう/\五十首を讀んでしまつた。一首も拔いて見る歌がなかつた、惡口ばかりいふ樣で誠に殘念だけれども止むを得ない。
       〇
日本及日本人卷頭新年雪八首
   年の始雪ふりつみぬけだしくも新たの道を誰ふみ行かむ
   心すむにひ年の朝をふる雪にありしを忘れたゞ雪を見つ
〇左千犬曰。かういふ歌を咏んで居れば氣樂なものだ、聲はするけれども影は見えないといふ樣の心持のする歌だ、一句々々の言葉の意味は明瞭に分るけれども全首を通じての作者の心持は少しもわからぬ、新年雪といふ題でよむのだからお芽出たいのも尤なわけだ。
       〇
新潮金子薫園氏の歌
   見あぐれば空には星のちらばれり人いこふべき時を歩める
〇左千夫曰。内容は何もないのだ、少しばかり云ひ方をひねくつたまでの歌だ。見あぐれはといふ必要はない。星のちらばつて居るといふのも言語がきかない、あたり前の事を殊更にいふの必要はないのだ、人のいこふべき時を歩んでどうしたのだ、なまこの樣の歌だ。
   夜ふけて藁荻におくぬくもりの靜かにきゆる程をおもひぬ
(134)〇左千大曰。おもひぬと云ひきめてしまつたのがいけない、程までは惡くない、藁灰におく埋火の靜かにきえゆく感じは甚だ詩的情緒に富んで居る、靜かな心の動きが自然にとまるまゝに現せばよいのだ、思ひぬと強くとめた爲にその感じを損ふのである。
   郊外の歳暮はさびし冬されのいたましき中に人は黙せり
〇純曰。感情のあらはれた面白い歌だ、薫園氏近作中にかやうの歌を見出し得たをよろこぶ。
〇純又曰。とにかく趣味に對する斯様の態度はよい。
〇左千夫曰。賛成。
若山牧水氏の歌
   くだものをあまたたうべし疲れより飯の白きを見るは眼痛し
〇左千夫曰。これはくだものを思はず澤山たべて飯を見るにもいやになつたといふ無雜作なことをよんだものであるがさういふ無雜作な趣味を歌はうとするには言語も其趣味に適ふべくせねばならぬのだ、飯の白きを見るは眼いたしなどとあら/\しい言語を投げ出した樣に使つてはこの歌の樣な趣味の感じを歌ひ得られるものではない、言語と趣味との關係といふことはしば/\言ふことであるが女の聲と男の聲とひゞきの違ふ樣に趣味の表現に忠實な言語は其趣味の表現を妨げぬ樣に働かねばならぬのである。
       〇
此外心の花、中央公論、八少女などの歌は餘り長くなるから略す。
吾々は眞面目くさつて年頭の諸雜誌に現れた短歌を一わたり讀んだ上、正直に吟味して見ようとかゝつたのであ(135)る。一應吟味して見るといかにも吾々の馬鹿正直であつたことがきまり惡くなつた。文部省の美術展覽會を見て、全體に淺薄輕浮なる作者の心事が暴露されて、其自信なく定見なく、其爲さんとする所に迷ひつゝあるあわてきつた状態をいかにも情けなく思つた、其時の心持と殆ど同じ状態で失望した。たゞ新しい/\と、あせつて、藻掻いて、韻文といふものの根本に一定の考へを持つて居らない。出鱈目な試作を以て滿たされて居る、他の方面に新傾向といふ騷ぎがあればそれに驚いて目を廻す。小説に自然主義といふ議論があればそれにおどされてうろたへる。其輕薄な無定見な短歌作者の見すぼらしい心事が、あり/\と作物の上に現れて居る、其癖議論を見ると相當に物のわかつた立派な理窟をいうてる人もたまにある、けれどもその人の作物すら實に何を考へて居るのかわからない樣な作物が多い。彼等は去年の短歌壇はどうだの本年の傾向はどうだのと花柳界の連中が髪飾や衣服の流行を氣にする樣な態度である、元來生命ある文學とは何のことをいふのか、少し眞面目になつて本氣に考へて見るがよからう、立派に理窟をいふ人に是等のことがわからぬ筈はない、そのわからぬといふのは、淺薄な名譽心や、ラチもない浮かれ考から一種の熱にかぶれて我知らずつまらぬことをして居るのだ。吾々は決して好んで惡口をいふのではない、どうか眞面目に短歌といふものを研究して見たいと思ふ心から努めて他派の歌も批評して見たいとかゝつて居るのである。然るに少し批評を加へると、善惡に拘らず反對してかゝらうといふ態度も見える、殊更に知らぬ振して居るのも多い。人の苦言をきいていくらか反省の參考とせうといふ樣な人は殆ど見えない。自分一人でえらくとまつてしまつて自分の作物がこれでどうだらうかといふ反省の誠意が無いから、いつまでたつても目の醒める時機は無いらしい、自分の不足を感じて更に求めねばならぬといふ樣な求道的の眞面目な考へがないから他人の苦言が少しも耳にはいらぬのだ、それであるから、今の歌を眞面目に批評するなど(136)は馬鹿々々しく思はれてならぬけれど、吾々も短歌を作る一人として道に對する義務の觀念から敢て無用と思ふ批評をもするのである。
もう一ついひたい事がある。短歌界には議論が餘りに少い、何の研究でも、研究に議論のないといふ事はない、短歌界に議論のないといふことは研究の少いといふことの動かす事の出來ない證據である、其議論が如何なるものであるといふことはとにかく、小説界に於ける議論の盛であると同時に其研究も盛であるといふことが解る、如何なる種類の事業でも議論がなくて進歩するといふためしは無い。
新詩社諸同人スバル諸同人何故に議論なきか。佐々木氏尾上氏何故に議論なきか。議論がないから、獨合點獨よがり盲從雷同が跋扈するのである、明治の歌壇といふことを思ふとどうしてもにくまれ口もきゝたくなるのである。議論の無いのは卑怯なのである、不熱心なのである、不忠實なのである、かういはれても恐らく辯解する道は無からう。
かくの如くいふ吾々の言も議論し得ざる今日の歌壇には恐らく知らぬ振見ぬ振される事であらう。人間に感情といふものゝ存する間は韻文は存在せねばならぬものである、小説が如何に盛になつても韻文の天地は嚴として存在せねばならぬ。小説に議論の盛なるに對して韻文家は何故に議論するの勇氣を缺くか。吾々が斯の如き不遜なる言語を發するのも已むを得ないのである。
                    明治43年1月『アララギ』
                      署名   左千夫
(137) 〔消息に代て一言を附す〕
     ――選歌欄の後に――
 
消息に代て茲に一言を附す、本號の選歌欄は、歌數に於て著しく増加し、能くは數へざれども、殆ど千首以上の多きに達せり、然して選拔し得たるもの如斯少し、如斯には其選びたるものも、餘り振はざるを常とす、研究欄に於ては古今の作者を排撃しつゝ、顧みて吾歌欄の振はざること、斯の如きは、選者の遺憾に堪へざる所なり、思ふに諸君の技巧は殆ど遺憾なき程度に達し居れど、其想に於て、其用意に於て、猶至らざるもの多きが如し、天然を味ひ人生を味ひ、依て得たる處の感懷を創作せんとするに當ては、深く自ら戒めて吾態度の嚴正を保つの用意なかるべからず。予は切に望む、輕々しく文字の技巧を弄び思想の遊戯に陷る無からむことを、改卷一號の初頭に於て敢て苦言を諸君に呈するは、聊か諸君の奮省を乞はむとするに外ならず。
 猶一寸斷り置くは、讀者中選外掲載と、選欄掲載と待遇の如何を云々する者あれど、選外の歌は只選せざる歌といふまでにて、決して優遇の意味あるにあらず、故に其良否の如きは、宜敷讀者自らの判斷に任すべきなり、之に反し選歌は隨分多數の中より僅かの歌を選ぶが如き虐待に似たれど其代り選拔の作に就ては選者が責任を負うて、裏書の位置に立たるゝの利あるを知るべきなり(左千夫)
         .          明治43年1月『アララギ』
 
(138) 妙な我れ
 
 或年の新年であつた、日本橋通三丁目あたりを通行した折、或紙屋の看板に、新年の繪はがきが出て居つた、予は不圖其繪はがきを買ふて見る氣になつたのである、それで予は直に其紙屋の店頭に立つた、可なり大きい紙屋で、店前は種々雜多な紙製の物品が散らかつて居る、番頭三四人は何か忙さうに働いて居つた、予が繪はがきをくれんかと聲を掛けても、大きな番頭どもは、挨拶する風もなく、互に話合つてる、さうして一人の小僧に顋で差圖して、二三封の繪はがきを予の前に持つて來さした、予は番頭供の態度などには氣も留めないで、三枚一組の繪はがき買ふたのである、さうして店頭を去つて十間程來ると、後から小僧が、モシ/\と云ふのである、予が振返つて何かと云ふと、小僧は予に對して、一寸と店まで戻つて下さいといふのである、其時予は何氣なしに、何の用があるのぢやと口に云ひながらも、小僧について店頭へ戻つた、さうすると、一人の番頭は予に向つて、
 先刻あなたに繪はがきを二組差上げましたなア。
 かう云ふのであつた、予は、袖に入れて居つた其繪はがきを、番頭の前へ出して見せながら、おれは一組だけ買ふたのだ、此一組なのだと云ふと、番頭は、さうでしたかそれぢやよろしう御座いますハテナと云つて、立つたなり外の仕事を仕樣とする、他の二三の番頭等は予の樣子振りを見て居るらしかつた。
(139) 予はそこで聊か頭の中がごたっついたけれど、直ぐにどうといふ意識が定らなかつた、其内にも自分の足はさつさと自分を運び去つて、予は其店頭を七八間離れて來て終つた、七八間來てから予は始めて意識が明瞭になつた、これはあの番頭の奴らおれが繪はがきを一組胡摩化したと思ひやがつたのだなと氣がついた、おれは盗人の疑ひを受けたのだなと思ひついて見ると、俄かに腹が立つて溜らなくなつた、それに人を呼返してやがつて、事が判つても敢て失敬を謝しもしなかつた、考へると愈癪に障つて溜らぬ なぜ彼の時店頭で番頭つらを怒鳴つけてやれなかつたか、其時にはウンさうかと云つて出て來て終つたから、空しく怒鳴つけてやるべき機を逸して終つたので、其儘泣寢入りにして歸つて來たが、其時の事を思ふ度に忌々しくてならない、考へて見ると自分は或神經が非常に鈍ぶくて、不意に侮辱される樣な事があつても直ぐ激怒することの出來ない性分らしい。
 もう一つかういふ事がある、これは家も覺えて居る、池の端仲町の福島といふ紙屋であつた、自分は人から頼まれて繪絹を買ふたのだ、外にも二三品買ふた、自分は品物を能くも見ずに、番頭が卷いてよこした儘、持つて出てくると又小僧が後から追つて來た、半町許りも來た所で小僧から一寸と店まで戻つて頂きたいとやられた、其時も何の用か人を呼戻してと云ふには云つたが、格別癪にも障らず戻つて見ると、大人の番頭は呼戻して濟まないとも云はず、平氣な顔で、予の先に買ふた品物を、一寸とそれをと云ひながら、予の手より取つて、繪絹の尺を取直して見た、けれども尺は間違つて居なかつた、彼れは尺を間違へて切つたと思ひ違いして、予を呼戻したのであつたのだ、予を田舍者と輕侮して居つたものか、矢張前の通り、番頭の奴自分の不都合を謝する氣もなく、只よろしう御坐いますと云つて、元の通りに卷直した品物を予に渡したのである、其時も予はうか/\と出て來て終つた、暫く歩いてから、始めて考へついて、人を馬鹿にした奴だ、不都合な奴だなどゝ思ひ出したので(140)ある、それから急に忌ま/\しくなつて來たけれど、前同樣不都合を詰責すべき機を逸して終つたから、其儘胸をさすつて歸る外無かつたけれど、暫く腹が煮えて忘れられなかつた。
 さうかと思ふと、夜おそく歩いて忍びの巡査などに誰何され、巡査の物言ひが癪にさはつて、巡査を相手に喧嘩した後、直ぐに後から何だつて、取るにも足らぬ巡査などゝ喧嘩をしたか知らと後悔した事が數回あつた。
 平生でも自分の考へと自分のする事とは往々一致しない、それが突左の場合には殊に甚だしい、誰れでもさういふものか知らとも思ふが、必ずしもさうと許り思へない、それでおれはどんな人間だらうなと考へるけれど、自分で自分が本當には解らないやうだ、考へてるのが本當の自分か、考へと一致せぬ事をする自分が、本當の自分なのか、突左の事件に思ひかけぬ事をする處を見ると、自分には、自分に解らない、未だ自分の知らない自分があるらしい、それで、自分が若し突左に人に殺されるやうな事があつたら、自分はどんな心持でどんな風に死なれるかと云ふことは、今の自分には到底見當がつかない。
 今考へて見た處では、自分の腹の中には、食客虫が、澤山居つて、其虫が頗る働き廻つて居つて、腹つきの元からの自分の虫は、どの位居るのやら、どの位働いて居るのやら解らぬ樣な氣がする、妙な我と云つて見ても、それが又當つてるのかどうかも解らない。乍併今の自分は其食客虫のお蔭を蒙つてる事が多いといふを考へずには居られない、只一朝思ひがけない、大事件に遭遇する樣な事のあつた場合に、食客虫が役に立つか、腹つきの元からの虫が役に立つかゞ問題である、要するに自分には自分の半分は解らない。
                     明治43年3月『新佛教』
                       署名 伊藤左千夫
 
(141) 短歌研究〔五〕
 
   家をめぐる櫟林はことごとに落葉せりけり月庭にあり     (柿の村人)
〇左千夫曰、此歌一讀して統一不充分の感がある、それは客觀的光景に就て云ふのでは無い、一首を構成せる思想的内容に就てである「家をめぐる櫟林」と云つては、櫟林に力が入り過ぎて居る、「こと/”\に落葉せりけり」と云つては落葉に力が入過ぎて居る、「月庭にあり」の一句が又余り力強くまとまり過ぎて居る、かう部分の働きが強くては、一首の成立せる原動力の所在が不分明に歸して終ふが當然である、心理學者は云ふさうでないか、身躰各部の働きは、人格の統一上各其働きを制限され居るものである、生命ある歌は一首の構成上、心理學者の説と同じ理由で、部分的働きは一首の統一に必要なるだけ制限されねばならぬ、これは此歌に就てのみ云ふのではない。
   桑つむと人等いそはく此頃をひとり淋しく草刈りて居り    (科野舍)
〇左千夫曰、余り無造作である、力の入つてゐない歌だ 力を入れて評し樣がない、いつも云ふ事だが、詞書にすべき事を直ぐに歌にするから淺いものが出來るのである。
   よきことを今朝はしつると朝雀心をどるも獨りうれしく    (岡 千里)
〇左千夫曰、一首の調子に、どことなく※[口+喜]しいさまに見えると感じて採つた歌であるが、只それまでゝあつて取(142)立てゝ固より評論する程の歌ではない、
   いささかの秋の野川によどむ砂なかすをなして蟹よりあそべり  (無限山人)
〇左千夫曰、作者の見つけた光景は面白いが余りに冷靜に叙し去つた爲に情調の味がない、縱令へ叙景の歌なりとも、作者の見た光景が描れると同時に、作者が其光景に感じた心の状態が、言語の調子の上に幾分現はれてほしいのである、
   父母に綿の衣を乞ひしかばいつや着くかと待つがたぬしき    (淺野梨郷)
〇左千夫曰、兎も角も歌になつてると云ふまでの事で固より深く味ふて見る程のものではない。
   かぎろひの夕棚雲の心ながく長く待つべみいふがすべなさ    (古泉千樫)
〇左千夫。推敲に推敲を重ねて漸く纏めたといふ趣を免れない一讀情調の著き弛緩を感ずるのは慥かに拵過ぎた弊である、言語に「ハヅミ」が無く調子に生氣が無い、恰も疲れた時の物を云ふに似て居る、結句「いふがすべなさ」も嘆ずる心に力がない、すべなさなど云ふても調子が弱いと、眞にすべなく困つてるのか知らと疑はれるのである、言語の調子は僅かな處に内心の機微を漏すのである、同じ詞でもそれが本氣に受取られるも、言のなぐさに聞かれるのも、只調子一つで別れるのである、此の歌の第一の欠點は、作者自己の情緒を歌ふた歌でありながら、作者の心は只「すべなさ」の一句にしか云はれてないのである、他の詞は皆相手方の動作を云ふ爲に使用されて居る、それであるから、作者の情緒は現はれ樣がないのである、要するに此歌、作者は「すべなさ」と云つてるに係らず、作者の態度は何となく暢氣に見えるのである、
  たらちねの母か手離れかくはかりすべなき事は未たせなくに
(143)さすがに萬葉の歌は、言語に響きがある、調子に「ハヅミ」がある、作者なる人の、落つきかねた情緒が如何にも能く現はれて居る、これは相手の事を少しも言はない、夕機雲の歌は自己の事を
句に云ふて居る、表現法の如斯相違は以て參考とすべきである、
   おほゝしき諸木の小里醜牛をそも。中に据ゑ價を笑み苦がむ、尻たゝきつゝ。 (礎山生)
〇左千夫日。畫にかゝれてある寒山拾得の顔を見る樣な感じがする、礎子が他を冷罵嘲笑する風※[蚌の旁]躍如として詞調に現はれて居る。
                     明治43年3月『アララギ』
 
(144) 短歌研究〔六〕
 
   まごころを迭みにさかりもろともにうはへさかしく老いゆくものか (胡桃澤勘内)
〇左千夫曰、かう言語にも調子にも熱がなくては、讀者は只意義を解得する許りで、韻文の味ひを感ずることが出來ない、
   われむしろすげなき振りを見するからあやになづけりにくからなくに (望月 光)
〇左千夫曰、四の句「あやになづけり」は作者はどういふ意義に使用したのか、なづく即親みの意に使ふたものとすれば、前句「すげなき振りを見するから」の意味と接續がをかしい、自分がすげなき振りをして居るから、女が苦悶して居るの意ならば、「あやになづけり」のなづくは、苦む意義に解せねばならぬ、かういふ用語は徒らに趣味感を索然たらしむる許りである、されば二三の二句は「すげなき振りをしつゝあれど」と訂正すべきであらう、
   霜がるゝふゆ木のにはにくれなゐも色は沈めりさざんくわの花   (土産文明)
〇左千夫曰。佳作である、「紅も色は沈めり」の句を得て始めて一首全體に情調が現はれたのである、
   山裾の靜けき海にこぎ出でて四方秋山の色をたのしむ      (志都兒)
〇左千夫曰。少しも小細工が無く、十分に讀者の注意を引くやうな動いた處もない、乍併足を實境に蹈入れて、(145)親しく目に視心に感じたまゝを取繕ひもなく詠んだ歌だけあつて、何となく味がある、こねくりひねくりして拵上げた歌とは、頭から感じが違つて居る、第一に歌柄が大きい、第二に事實の感じが強い、秋深き山中の湖水、明るく清々しく、景色も落ついてる作者の感情も落ついてる、詞は足らなくても感じは現はれて居る、水も清いだけでは平凡であるが清い水の感じは強い、此歌がそれに似て居る、平凡な歌には違いないが、感じは強い歌である。
 
     附記                    左千夫
短歌研究欄で問題にして居る歌は、單に研究の材料に選拔したものであるが、一寸見ると極つて居る人々のみの歌許りを拔く樣にも見え、又比較的佳い歌を拔いた樣にも見える、かういふ誤解があつては困ると氣づいた予は、研究欄の評は、勉めて短く以て紙を儉約し、拔に漏れた人々の内から、輕々しく讀過して貰ひ度無いと思ふ歌を茲に再掲したのである、聊か作者を奬勵し、併て讀者の參考に供せんとの婆心に依る、次手に一言したい、研究欄の選歌精神は今後重な作者の歌許り擧げると云ふ樣な事は止めにして、内容形式いづれにか新しい努力を認め得る歌を擧げる事に仕度いと思ふ。
 
第二卷第四號
 湯川寛雄  取殘す妻がかもじ毛さながらにありしかほりを今日も泣くかも 柳本城西  妹が焚く風呂の煙は花枇杷の木ぬれに迷ふ軒の夕映
 柳澤月萩  秋の雨ふりみふらすみ柿の葉のしば/\落ちて日はくれにけり
(146) 芋の花人  林檎の木にふと高なりし風のむた廣げ干す籾に落葉ちり來も
 高二川   とく起きて淺間か岳を見はらせば烟すぐ立ち心すが/\し
 湯本禿山  大寺の昏皷のひゞきとゞろ/\うつつさながら遠のく思ほゆ
 政子    夏の夜や森に片そふ高き家のまとにもたれて虫の音を聞く
 節子    明けはなつ家をむなしく人等みな門べにつどふ夏の夕ぐれ
 忠夫    秋風の吹くあしの海を舟やればそこに照る日は月とし思ほゆ
 學道    少女らの手さけかこ坂秋はやく越えまくをしも花さき亂る
 ※[虫+潭の旁]室  おほ野が原あさ霜ふかくおごそかに天の門あけて日はさし昇る
三卷一號
 小沼松軒  犀川の橋の上を行けば傘にふる雨の音たかし瀬の音と共に
 湯本政治  柿の實の殘りをあさりはむからす嘴ならし鳴く冬の山里
 蔦の山人  天地に想をさぐる歌人の夜のしづまりに炭はじく音
 和山知人  ひろ原に月をながむる冬の夜の心さびしも水の音遠く
 木村秀枝  み山路の秋の花野に立つきりの朝立ちゆけば鈴の音さむし
 大橋不老  高殿に君がやすらにぬる夢をもるかとかゝる有明の月
 柳本城西  陰妻の心いやしく入りつ日の丘にもえ立つ曼珠沙華の花
 木村秀枝  和田の原そきゐる雪の仄明にとこ世のなみの立ちかへる見ゆ
                   明治43年4月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(147) 短歌研究に就て
 
〇研究上の議論は必ずしも決定を必要としない、趣味の上の議論は固より決論を得難いのが當然である、乍併それは云ふべきを云ひ盡しての上の話である、本誌上の短歌研究も漸く佳境に進んで來た、從て各自其見る所感ずる所頗る相反せるものも少くないが、一つの歌で褒める人と難ずる人の有る場合に歌主の考も聞いて見たい、反對説の人の考も今一應聞いて見たいと思ふことが多い、難ぜられた歌主も難説に從つたのか從はないのか、或は非難を受けて反省する處ありしか、別に發見する處もあらざりしか、評者相互に於ても考の相反するものを見た場合に、更に自説を主張せんとの考あるか、或は反對説に依て幾分參考する處ありしか、それらを互に、せめて「はがき」でゞも通じ合ふて見ては如何、今のまゝにては、何となく物足らなく思ふ諸君以て如何となす(左千夫提議)
                    明治43年4月『アララギ』
 
(148) 名士と花
     ――アンケート――
 
◎余の愛する花はと簡單に答へることは一寸と六づかしい、種々な花の中に勿論多少の好く好かぬはあるけれど其折々の見る花に皆面白味を感ずる 併し強て二つ三つを云へば睡蓮と龍膽と藤袴、梅櫻桃固より惡くはないが春の花は概して刺撃が弱い 又夏の花は濃艶なるには垢拔のせぬ感がある 睡蓮の一輪清明な朝日の光に咲き出《いで》た其姿其色其匂ひ眞に神花である 只生氣のそよぐ靈花である 其神靈の氣に觸れて心動かぬ人があつたらばそれは餘程人間から退化した動物であらう、龍膽と藤袴其風姿から其色彩から只韻文的だといふの外形容の仕樣がない 睡蓮に對しては愛の極敬して手を觸るゝに忍びない 龍膽と藤袴愛して睨まじには居られない 勿論龍膽藤袴は山中のものでなければならぬ。余は余の最も愛する以上の花に就て余を滿足させた詩歌俳句を發見せぬ。
                  明治43年4月6日『讀賣新聞』
                      署名 伊藤左千夫
 
(149) 歌と櫻花
 
 日本民族が殊に櫻花を重寶するの風は、隨分古くからであるやうだが、花と云へば櫻と云ふやうになつたのは、少しく後になつてからであるらしい、奈良の都の人よりは慥かに、平安朝の人の方が殊に櫻花を愛したやうである、國人が櫻花を愛するの風は、一時代毎に増りつゝ來たかの感がある、縱令へば鎌倉室町の時代よりは、徳川時代の方が一増櫻花に對する好愛心は進んだやうである、花は櫻に人は武士の一語、如何に徳川時代の人が櫻花に憧憬したかゞわかる、彼の本居宣長が日本魂を櫻花に比した歌が一般に稱揚されてから、増一増櫻花は我邦人の重愛する花となつた、明治時代になつては愈々益々櫻花が増植されつゝあるも事實であらう。
 それで櫻花が、斯く邦人に重愛されるやうになつたのは聊か、我田引水の樣ぢやが、古來の歌人と云ふ歌人が、口を極めて褒めちぎつた歌を詠まれた爲ではあるまいか、漢詩にも俳句にも隨分賞されては居らうけれど、櫻の趣味がどうしても歌的《かてき》であるから、櫻花に對する歌人の聲は慥かに俳人漢詩人のそれよりも高かつた、乍併予は歌人として古來の歌人が櫻花を賞觀した事を決して誇とするものではない。
 それは扨置、櫻花が何時頃の時代から多く歌に現はれたかと見るに、奈良朝の時代には初めの程は殆んど櫻花の歌など無いと云つてもよい位少ない、萬葉集中唯一の女詩人たる、額田王の如きは春の花よりは秋の紅葉がよいと歌に判せられた程であるから、天智天武両時代頃には櫻花の歌は殆どない、人丸時代と云ふより赤人の時代(150)頃から萬葉にも櫻の花が見え出して居る、そんな譯であるから、萬葉集には櫻花の歌は甚だ少ないのである、從つて非常に面白いと思ふ歌もない樣である、萬葉集五千の歌集中に櫻花の歌は、僅かに三十首あるかなしである、これも櫻花を主として詠んだものは少なく、或思想を歌はんが爲に櫻花を材料にしたものが多い。
 それで自分などは、櫻花が歌の好題目になつてから歌は衰へ始めたと云うて居る位である、日本魂を櫻花に比することが、果して適當であるか否かは別として、我々の祖先は、今日の同胞の如く櫻を唯一の佳花とは思はなかつたものである、櫻の花を歌に詠むやうになつても、殊に櫻花を愛して詠んでは居ない、馬酔木の花などは、今日の人は大抵知らぬ人が多い位であれど、萬葉時代の人は櫻も馬酔木も同程度の感情で歌に詠んで居る、假令へば
   こそ咲きし馬酔木今咲く徒らに土にや散らん見る人なしに
   足びきの山かひ照らすさくら花此の春雨に散りにけるかも
   佐保やまのさくらの花は今日もかも散りみたるらん見る人なしに
   蛙鳴く吉野のかはの瀧の上の馬酔木の花は土に置くなゆめ
是等を見ても判るのである、尤も萬葉集の歌も此歌の頃は餘程衰て居るから、以上の歌は何れも餘り住い歌ではない、要するに萬葉時代には其末期から櫻花の歌が見えて居る、然かも萬葉集中の櫻花の歌は集中に於て少しも重きを爲すものではない、人心の變化と櫻花の好尚と云ふ問題は國民思想史上の面白い問題でも無からうが、萬葉集では櫻花の歌が見え出してから慥かに歌は衰て居る、かう云ふ目で見てくると櫻花が盛に歌に詠まれる樣になつて歌は益々衰て來たのも不思議である、萬葉以後、代々の歌集は、春の歌と云へば花の歌殆んど≡分の一を(151)占めて居《を》る位に盛であるが、其多い櫻の歌に殆んど見るに足る歌が無いのである。試に各集から一二首宛を拔いて見る。
    萬葉集               赤人
  足びきの山さくら花日ならべてかく咲きたらはいとこひめやも
(理窟がゝつて面白い歌ではない)
    同櫻花歌              作者不明
  おとめらが、かざしのためと、みやびをの、かづらのためと、しきませる、國のはたてに、咲きにける、櫻の花の、にほひはもあなに
    反歌
  去年の春逢へりし君に戀ひにてき櫻の花は迎へけらしも
才氣でこなした歌で集中の他の歌に比して著しく劣つては居るが、さすがに後世の歌のやうな厭味はない。
    古今集
  花散らす風の宿りは誰か知る我に教へよ行きて恨みん
  一目見し君もや來ると櫻花今日は待見て散らばちらなん
    金葉集
  よそにては岩越す瀧と見ゆるかな峯の櫻や盛りなるらん
  今日くれぬと明日も來て見ん櫻花こゝろして吹け春の山風
(152)いづれも淺薄極まつた歌にあらずや。
    新古今集
  白雲の立田の山の八重櫻いづれを花とわきて折りけむ
  白雲の春は重ねて立田山おくらの峯に花にほふらし
次第に言語の遊技になつてる、櫻の面白味よりは詞の綾といふ事に力を入れて居る、本章は歌の研究が目的でないから是位にして置く、櫻の歌には古來の有所《あらゆる》歌集の歌よりも、明治の歌が勝れて居る試に二三首を示す。
  家へだつをちの木末に咲く花をい吹きまどはし我庭に散る    竹の里人
  うちなびく春の女神はしこ神にせまられけらし花散る見れば   巴子
  青疊八重の汐路を越えくれば遠つ陸山《をかやま》花咲ける見ゆ 左千夫  上下《かみしも》のやはらぎ遊ぶ春山の櫻は禮《ライ》に樂《ラク》にまされり   岡麓
               明治43年4月『臺灣愛國婦人』
                   署名 伊藤左千夫
 
(153) 短歌研究〔七〕
 
       〇
   ふと兎見出でて追ひし我聲に谷しばらくは鳴も止まらず     (桃栗山人)
◎左千夫評。文字を書いても面白く書ける字體と、何となく書きにくい字體とがある、作物に對する批評も稍それに似た處がある、批評の本義は作物に附隨して行くべきものでもなく、指導的態度でやるべきものでも無い、作物と並行對立して獨歩するの精神で行かねばならぬのである、創作的批評とは即それであるのだ、人は能く云ふ、人の作物を評するのは易いが、作るのは容易でないと、それは大へんな考違ひである、以上の如き精神での批評は固より眞の批評と云ふべきものではなく、囲碁などで云ふ『ツゲ口』といふものと同じく固より無責任なものたる事云ふまでもない、されば作物の容易ならぬ如くに批評も容易でないのだ。
それにしても前に云ふた如く、批評のやりにくい題目とやりよい題目とは慥にある、今度の出題はさういふ精神で選んだつもりである、選んだ歌は内容外形いづれかに於て、新しい働きを認る物をと望んだのであるが、さういふ意で見て見ると、容易にさういふ歌は見つからぬ、茲に拔いた歌も皆新努力を認め得るとは云へないこと勿論である、只さういふ精神で兎も角も以下の數首を選んだといふ迄と見て置て貰いたい、それでないと誤解を生ずる恐れがあるから斷つて置く。
(154)それで新しい働と云つても、作者が自覺して努力したものと、作者にはさういふ自覺は無く、奔放な天才の煥發から自然に出たものとの二種があると思ふ。桃栗山人の此作の如きは後者に屬するものである。此歌の尊いところは、粧飾氣のない、やりつ放しな山出しの儘な處にある、良いとか惡るいとか面白いとか面白くないとか云ふのは、見る人の嗜好次第であつて、此作物とは殆ど關係はない、此作はこれだけの物としてどこまでも生きて居る。作品の高下は別として、此作が近來の作物中に異彩を放つて居るのは事實である。作者は今まで悠々として山中に遊んで居つた、其間際に不圖兎の居るのを發見した、野兎が空手で捕へられるものではない、作者も捕らへやうとまで確定した意識で追つたのではない、此場合追はずには居られずに、譯も無く追つて見た、思はず聲も出した、作者も固より長くは追はない、兎は直ぐ見えなくなつて終つた、突然に起つた出來事で、今まで靜かであつた自然と作者とが不意に一騷ぎをやつた、事止んで自然も作者も以前の靜かさに歸つた、三十一文字の働きで、これだけの興味を讀者に與へたのが、此作の大なる成功である、一首の詞調は一見して蕪雜に見えるけれども、爭はれない自然的言語の組織が全首に生氣を漲らして居る。予は此作者が未だ彫琢的技巧に囚はれないで、極めて初心な生ま/\しい處のあるを深く愛して居るのである。疎より細に進み放膽より小心に入るのは何人も進歩の系路を同くするのであるが、予は殊に同人諸君に注意したい、願くは諸同人いつまでも若々しかれ、決して細に進み小心に入るを急ぐこと勿れ。
       〇
   聳え立つ雪の列ら山日の殘り空むらさきに夜に入らむとす  (柳澤黙坊)
〇純いふ。(中略)此歌はそれ程の作とはいかぬ。殊に第三句「日の殘り」は獨立したボツ/\と切れた云ひ方でどうも耳障り
(155)になる。日ののこりと「の」の字が二つ續くところがいやである。又日の殘りは此場合に必要な語かも知れぬが或る點に於て結句の「夜に入らんとす」と重複した意味がある。(中略)第三句を「日殘れば」として結句を何とか改めて見たい。
〇千樫曰、荒削りの歌である。そこに此歌の價値がある。三句の日の殘りといふのはどうも調和して居ない。
〇左千夫評、此歌も前歌と等しく非自覺的に、一向苦勞の無い放膽な作風に生命を認め得るのである、題目は固より珍らしくは無い、言語の斡旋にも句法の工風にも何等異とする點はない、然るにも係らず、一首を通じての上に何となく生氣を持つて居るのは、作者が虚心に正直に、目に映じたまゝを巧みもせずに言ひ放つたからであらう。此歌の對象は實に莊嚴を極めた景色らしい。作者は其莊嚴に打たれてそれを歌に詠んだのであるが、如何にして其莊嚴を描かんかとは苦心しない。少しも苦心した跡が見えない、そこが、此作の物足らざる點であつて、又一方には良いところであるのだ、莊嚴な趣きを平氣に取扱つた爲に、却て幾分の莊嚴を捕へ得たのである、第三句『日の殘り』といふを前の兩評者は頻りに氣にして居られるが、其の磨きの無い朴訥な詞を然も、ぶつきら棒に補入して平氣な處が、此歌の見處であるのだ、併し桃栗君や黙坊君にして始めて、以上の如き言語も句法も活きるのであるから、これが面白いからとて、殊更にそれを學ばんと思はゞ愚である。
 
     天城山中燒木の歌
   山祇がとはに秘めけむひめ事の燒山かくす朝ぎり夕ぎり    (木村秀枝)
〇左千夫評、此歌と他のつれ歌二首とを連作として物足らぬといふには無論同意である。全躰を通じて力の乏しいのもそれが爲である。乍併予が此歌を選出して研究の問題に提供した考は、此歌を連作の一首としてゞは無い、此歌に於て努力した點は、神秘的趣味の現顯でもなく、客觀的光景の描寫でも無い、此歌に神秘的思想の加味は(156)寧ろ一種の背景と見るが至當であらふ、山の奥に燒けた立木が澤山ある所がある、土地の人も此燒け木をいつごろの火事に燒けたものかを知らない、只昔から燒け木の山と言ひ傳へて居る、それを土地の人も神秘的に考へ、作者も神秘的に感じたには相違ないが、此作の成立は其神秘思想が主題ではない、昔から燒け木が立つて居るといふ客觀的光景に神秘的思想を背景としたものであることは一首を通讀して見れは解る、此歌の生命は長い時間を描寫し得た點である、春夏秋冬滿山の樹木は常に變化して居る、のみならず山には雨霧雲霧と變化が多い、獨此不思議な燒木は長い年月何の變化も無く山に立つて居る、此の長い年月の間にいつまでも燒け木として立つて居る、其時間的趣味を描き得たのが作者の新なる努力と認められる(作者が自覺して居たか否かに係らず)山祇の秘密とか朝霧が隱すなどいふは、寧ろ技巧に屬する事にて、作成上の一趣向と見て置たい、其證據には此歌を通誦して最も強く讀者に感ずるのは、誦け木が長い時間を立つてる光景の感じである、神秘的思想の方は却て輕く受取られて、其感は非常に弱い、此歌に神秘的の感じは殆ど無い、前の兩評者が、やゝ物足らぬと云ふのは其點にあるけれど、此歌に對して神秘的趣味を要求するのは此歌の作意と戻るのであらふ、此歌の欠點は第三句の餘りに凡句たるにある、此一句の爲に、一首の調子が非常にだれて終つた、力の乏しい精神の充實せぬのも『秘事の』の一句凡を極めたからである、第五句は此歌の全生命を僅に救ひ得た句である、此句あつて始めて時間的光景の感じを確實に讀者に與へ得たのである、要するに欠點は欠點として、此歌は決して凡歌では無い、容易に有り得べからざる歌であるといふことを繰返して置く、
 
     妻の里籠をいたはる
   産屋髪假りにゆひ垂れ胸廣に吾兒掻きいだく若き母を實《さね》   (左千夫)
(157)〇作者の辨解、予が此歌を批評の問題に提出したのは、此歌の第五句『若き母を實』此の「さね」の一句の使ひ方に就て、諸君の説を聞きたかつたのである、かういふ使方は殆ど前例がない、予の創始した使ひ方と信じて居るが、是れで無理では無いかといふ疑ひを持つて居つたのである、幸に此句法に就ては柿乃村人君始め純君千樫君皆異存が無いらしい、予は此點を大に滿足した、此句は、若き母をさねいつくしく思ふ、の意のいつくしく思ふといふだけを省いたのである、言語の省略法は珍しくは無いけれど、かういふ省き方は今まで無かつた樣に思ふから危ぶんだのである、偖此歌に就て柿村子の評も純子の評も首肯が出來かねる、千樫君のも矢張同意しかねる點がある、題詠ではあるけれど此歌は予は漠然たる思索より得た印象ではない、全く顯著な實驗上の深き印象を叙したものであるから、一句一句皆實際の感じから得た詞である、
只戀と云へば無造作であるが、兩性間の情緒の錯綜した複雜な感想は實に多種多樣なものであることは云ふまでもない、夫婦といふ問題に遠い戀は別として、只妻といつても嫁といふ時代から所謂差向ひの期に入り更に二人の間に子が出來るといふ迄だけでも相當に夫婦兩方の情緒に幾重の變化があることは誰も實驗する處である、此歌は夫婦二人の間へどつちへも就かれない子といふものが出來た時の情緒を歌ふたのである、里に居つてとうに妻は分娩した 我等はもう親といふものになつた、などいふ位の事は、充分に意識して居つた、併しながら目に見て其聲を聞いた感じは又別である、三ケ月の餘離れて居て、相見えんの情は夫婦のいづれにもあるは云ふまでも無からふ、只でさへ三月逢はねば珍らしい、其情緒を湛て行つて見ると、未だ産屋住みして居た妻は、取繕つた妻では無く髪も假結ひにゆひ垂れ、着物とて其通り、眞からの生地其儘で、赤兒を抱いて居つた、胸廣といふ詞の適切であるのも解るであらふ 自分の産んだ子を始めて見せるといふ情緒もあらふ、妻は二人の間に出來た(158)子の若いお母さんになつて居た、久しく日の目に遠ざかつてゐた妻の兒を抱いてる其胸や手やに悉く新な感じを與へられた、若き母といふ詞が餘所々々しいの、掻き抱きの詞が強過ぎるのと云ふ評には辯解を試みる勇氣もない、手前味噌と云はれてもよい。
他人までが、お父さんに似たお母さんに似たのと、我々は親しい意味に於てどうでも父にされ母にされて終ふ、是れからは我々の父はお祖父さんになり母はお祖母さんになり、兩親からも我々をお母さんお父さんと呼ぶことがある、つまり愛する兒供の呼ぶ名を云ふのである 是等の詞は悉く親みの心から流れ出る響きではないか、新に出來た一人を其親みの中へ取込めた處から自然に起る稱呼の變化ではないか、若き母と云ふ詞は夫婦といふ相對的な形が二者の間へ出來た一人の爲めに形が變じて來た處から、其一人をも二人の親みの中へくるめる爲に出て來たのである、垂乳根の母の呼ぶ名といふ事が、どれだけ親しい意味を含んで居るかに注意してほしい、思はぬ事で懷舊の情を忍んだ 感謝々々
 
     桔梗原客居
   冬野吹く風をはげしみ戸をとぢてはや灯をともす妻遠く在り   (柿乃村人)
 
〇純いふ、客居の情をあらはし得たるよい歌である、第四句に於て切り第五句を獨立せしむる語法は柿の村人子の近時好みて用ゐらるゝ處である。此歌の如きは其最も成功せるものゝ一であらうと思ふ。(下略)
〇千樫曰、第三四句戸を閉ぢてはや灯をともすで急に靜かになつて世間から遠ざかつた樣になる。靜かに寂しくなる時遠く家に在る妻子を思ひ起せる心持がよく現はれて居る。いゝ歌だと思ふ。(下略)
〇左千夫評、大體に於て前の兩評に異存は無い、其思想其感じさうして之れを叙した句法等、一々自覺的に成立(159)つた歌である。從て作者の感じて居る趣味も作者の考へて居る理想も、周圍の風物等悉くが、讀者に通じて居る 意識的い於ては
殆ど遺憾が無いまで成功して居る。之れで欠點は無いかと云へば、云ふて見れば云へる欠點もある、千樫君も少し云ふて居るけれど、叙述の言語に叙述以外の響きが乏しい、云ひ換へて云へば、作者の感じ動いた情緒の搖れが、言語の上に現れ方が少ない、深く或物に感じた人の言語は、必ず其内面の動きを語調の上に傳へるのが自然である、此歌は作者が當時に感動した内面の動きを語調の上に傳へ樣が足りないといふのである、要するに意識の上の興味が勝つて居つて、情調の味が乏しい 一首が何となく枯燥して居るのも之れが爲であらふ、今一歩進んで云へば此歌どことなく、自ら其淋しみを弄んで居るやうにも見える、人生問題から見て、能く淋さに堪て其淋しみを弄んで居るといふことは、價値のある事であるが、其態度を其儘文學に移しては、作物が冷靜の弊に陷いることを免れない、
句法に就て難を云へば、冬野の風が烈しいから戸を閉たと文章的に一二句より三句へ直接に續けたのが面白くない、思想の順序は、淋しいから早く戸を閉て灯を燈した、冬の野風は夜に入つても吹いてる 妻は遠くに居るといふ樣にありたい 併し決して凡歌ではない 能く實際的感じを傳た佳作である。
                   明治43年5月『アララギ』
 
(160) 曙覽之歌に就て
 
曙覽の歌に就て予は批評の約がある、其約をいつまでも果さずに置くのは、一種の苦痛を感ずる、曙覽の歌の評をやらねばならぬと思つたのは實は久しいものであるが、容易に機會に接することが出來なかつた、今度は是非意ふ存分の批評を試みる考で、前日の同人合評にも漏れたに係らず、猶曙覽の全集を讀了するの時間を得られない、然かも一方には約を果すべき事情に迫られ余儀なく、苟且の批評をするのは甚だ遺憾である、乍併一面から考へると故子規子の評並に今回諸同人の評に依て、曙覽の評定は殆ど決して居る、
故子規子が始めて歌の研究に着手するや、萬葉集以外の歌人といふ歌人の歌は、蕩々として、文學的内容を有したるもの少く、精神なき實質なき、言語上に文字に淺薄なる技巧を弄びたる者のみなるが中に、兎も角も曙覽の作歌態度は大體に於て、精神を尊び資質を重じた趣きあるを見、他の余りに馬鹿々々しきに激して居る際とて、稍過分に曙覽を揚げたといふ風があつた爲に曙覽の歌は我が諸同人間にも余程重ぜられ過た傾きがある、是れは予の殊に我諸同人に告げて置きたく思ふのである、されば子規子も曙覽許の結論には、『曙覽は歌調を解せざる爲に、彼は終に歌人たるを得ずして終れり』とある、一語の斷定曙覽の歌人的評價は是に盡きて居る、此一語ある以上重て細論の要なき感がある、
依て予は前回諸同人の評せられた歌に就き概評を試みて責を塞ぐことゝす、
(161)     遲日
のどかなる花見車のあゆみにもおくれて殘る夕日影かな
一見したところ曙覽の歌らしくないが、能く見ると矢張曙覽の歌である、花見車といふ事を、曙覽は如何なる事の積りで詠んだのか、作者自らも恐らく何等の想定が無く、只漠然言語上の興味から詠み入れたものであらふ、であるから此歌を一讀して先づ此花見車の一語が、印象は愚かなこと、其事の概念すら感じ得ることが出來ない、諸同人多く曙覽の歌に於ける見識を云はるれど、予は先づ此一首を讀んで彼が歌學上の見識といふものの極めて漠然たるものであることを疑はぬ譯に行かない、
車の歩みにも遲れて殘る云々の如き全くの駄洒落に過ぎ無いのだ つまらぬ處に駄洒落的才氣を弄ぶと云はねばならぬ、元來曙覽の歌は徹頭徹尾才氣を以て勝つて居るが、此歌に用ひられた才氣の如きは殊に甚しき低級のもので、寧ろ月並的下才である、隨分暢氣に緩々遊んだが未だ日は殘つてるとやうに、虚心に詠ずるならば却て春の長閑な心持が現はれるのである、それでは歌に曲がないとか、趣向がないとか思ふのが、趣味といふものに對する考のけんとうが違つて居るのである、此の根本の考が違つて居つて、方角違に才氣を働かすから、非文學に落ちて終ふのである、
此歌頗る品のよい意味の事を歌つて居るに係らず、全躰にこせ/\して、調子の低いのは、要もなき小才の働きが全く詩品を損ふて居るのである、
曙覽は平生萬葉集を重じ萬葉集を解せりとの見識振りをしたらしいが、此歌の結句、『夕日影かな』の句法の如きは、萬葉集などには斷じて無い句法である、『夕日影かな』の詞は云ふまでも無く、夕日かげかな嗚呼此夕日(162)が面白いとか悲いとか若しくは惜しいとか嘆じた意味を持つて居る詞である、されば其夕日影がどうして面白いか悲しいか若くは惜しいかが前四句の上に表示されて無ければならない筈なのだ、又さういふ場合でなければ、夕日影かなと嘆息する詞の出てくべき筈は無いのだ、然るに飜つて此歌の意味をどうかと見ると、一首の内容は決して宗と夕日影を嘆じたのでは無いのだ、作者は春の花見の長閑な趣きを歌ふつもりであるのだ、然るにも係らず結句の方角違ひの嘆息して居るから、一首の感情が少しもまとまつて居ない、例せば、實に面白い花ぢや長閑な春ぢやと嘆美したる詞尻へ來ていつのまにか氣が變つた樣に嗚呼夕日影がと嘆じてるやうなもので、思想の一貫も無く感情の統一も無い句法であるのだ、要するに是れが感情の自然だといふ事は、てんから考の無い幼稚極まつた頭腦で作つた歌である、尤も如斯句法は當時の歌人は勿論の事今日の恐しく新しがつてる詩人達でも蕩々として平氣にやつて居る句法であるから獨り深酷に曙覽を責むべきでは無いけれど、次手に一言して置くのである、
猶云はゞ、此歌の如きは曙覽の初期の作であつて、曙覽もいつまでも、そんな幼稚では無かつたといふ實證があるならば曙覽の爲に悦ぶべきであるが、松籟艸といへるは曙覽自ら選び置けるものとあれば、作歌の上に感情の統一を必要とするなどいふ事は、未だ心づかざりしものであらう、
                  明治43年5月『アララギ』
                    署名   左千夫
 
(163) 〔『アララギ』第三卷第四號選歌評〕
 
評、歌數の多きに比して採れる歌少きは遺憾である。手輕に詠める歌は即興に落ちて人を動かす力の無いのが普通である。作者に注意す、今少し力を籠めて詠まれむことを望む
                  明治43年5月『アララギ』
                    署名  左千夫選
 
(164) 唯眞抄〔一〕
 
五月十九日
七十五年毎に現はるべき彗星の、此世界に最も近づくといふ日である、我が方丈の一室も漸く工を竣へ此日始めて諸友を茲に會した。信陽の湯本政治君が折よく上京して此會に列せられた。木村芳雨君民部里靜君石原純君齋藤茂吉君古泉千樫君淺野利郷君土屋文明君、主人を合せて九人の會合であつた。十九日は固より我々の忘るゝこと能ざる日である。今又此日を以て此會を爲す。今後予をして更に此日を親しましめるであらう。予は永久に毎月此日を以て、此一室に諸友の來遊を待つことゝ定めた。
彗星來降の實況は晴天なるにも係はらず遂に何事をも感ずることが出來なかつた。夜に入つては只月白く風爽かに、若葉青葉の薫りが夜氣に搖らぐを覺ゆるのみである。會は實に面白かりし樂しかりし、おのがじゝの戯れごとを端書に書いて、地方の諸友に郵送した。木村芳雨君は殊に予が爲に、唯眞閣たる銅印を作りくれた、其印を捺して諸友に送つたのである。
唯眞閣は新室の號である。我れながら其名の仰山なるを後めたく感ぜざるを得ない。閣などゝは貧處士の家にふさはしく無いであらう。乍併予の如き物好なる人間が一農民の子であつたのが、已に生れそこなつたのである。神樣がひよつと勘違ひをされて予を貧乏人の子にして終つたらしい、予の如き性質の人間を貧乏人の子にされて(165)は迷惑至極である。
唯眞閣の名が予にふさはしく無いのではない、元來貧乏といふことが予にふさはしく無いのだ。……
人々の高笑する聲が耳に入つた。予は自分の考へを笑はれたものと思つて居つた。能く聞いて見ると、予の鼾聲に驚いて人々は笑つたのである。考へて見ると予は今眠つたのである。五人の客は清明な月に消去つた尤も若い三人の客は歸るを忘れて殘つた、
 
五月二十二日
朝來極めて靜かである、空はひた/\と曇つて居れど、明るい雲である。庭の飛石が濡れて居る。見ると椎の若葉の上に雨足が見える。予の最も好きな日和である。明るい曇りが已に嬉しい。それに若葉に見ゆる靜かな雨、溜らなく愉快だ。予は取敢ず風爐に火を入れて閣中に坐した。窓近くの葦原では例の暁々子が、頻りに喘々とつぶやいて居る。西方少しく隔つた或家の森に珍らしく鳩が鳴く。二三日以前も聞いたが今朝で二度聞いた。予は茲に任して廿年、今年始めて鳩の聲を聞いた。鳩の鳴聲は又予の最も好む聲である。彼れは餘り多くは鳴かない。彼は曇りを好んで鳴く。靜かを好んで鳴く。其調子は穩かで響きにどよみがある。鳩の聲を聞いて温和な心を感ぜぬ者はあるまい。予は此朝此聲を聞いて所有人世の不滿を忘れた。
床には竹の里人先生の遺墨を展した 此室の起因を記してある。
   かみふさの山の杉きりみやこべの茅場の町に茶室つくるも
     明治三十五年一月
思へば予の茶室騷ぎも久しいものであつた。予が茶室を作らば、蕨眞君は木材の大部分を寄勝せらるべき約あり(166)て、爲に先生より此歌を贈られたのである。爾來殆ど十年、今漸く此記を此閣中に書くの樂を得た。予は深く蕨眞君の芳志を感銘するの餘、此室に名づくるに眞の一字を乞ひ得たのである。唯眞閣の名は斯の如くして成つた。それで予の家數々水難を被むりしに恐れ、出來るだけ床を高くした。閣の名は水難除けの禁厭ぢやと云ふ 必しも駄洒落のみでも無いのだ。
一日不折先生を訪ふた。先生曰く、君が唯眞閣の名は何に據るところあるかと、予が何の據る處も無きを云へば、そんな事はあるまいと云ふ、予は蕨眞君の好意を告げた。先生曰さらば偶然の事であつたか。頼山陽杜工部詩集に記して云ふ。『唯眞故新』と唯眞の二字意義深遠なるものあるでは無いかと。予は始めて山陽の語を聞く。山陽もさすがに解つて居るなどゝ笑つた。先生の號不折も實は『不折節』の不折であつたが近年漢書中から、『萬古不折』の熟語を發見した。今日ではそれを畫印に用ゐて居る。予の唯眞と偶然な處相似て面白い。
此日終日人なく、獨閣中にあつて、『アララギ』の稿を見た。
                   明治43年6月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(167) 短歌研究〔八〕
 
近頃歌集を出した、若山牧水氏の作歌を研究的に批評して見やうといふので、以下の六首を同氏の歌集『別離』から拔いた、自分は『別離』全篇は讀まなかつたから、拔いた六首は集中で比較的良いとか惡いとか云ふことは出來ない、只上篇も下篇も末の方を拔いたのは、成るべく今に近い作歌をと望んだのである、勿論他派とか異趣味とかいふ隔意なく、今の歌壇に現はれた一作物を忠實に批判するといふ考であるから、比較的自分の感じに乘つた歌を拔いたのである、從來他派(【文學に派といふことは無いけれど假に】)の歌を評すると、稍もすると排撃一方に傾く恐れがあつた 確固たる自信を以て立た以上は、黨同伐異必ずしも惡いとは思はないけれど、今回は殊に他の欠點を打つといふ精神を根柢から取去つての研究であるから、題目とする歌を選ぶにも、寧ろ自分の好みに近い歌を拔いたのである、であるから割合に非難が少ないかも知れないそれだからとて吾々が大に牧水氏の歌を認めたと思はれては困る、一寸斷はつて置く必要を感じて一言して置くのである、(左千夫)
   月の夜や君つゝましう寢てさめず戸の面の木立風眞白なり
〇左千夫評、趣味と言語との關係を凡に見て置けば、感じもよく、題目も面白い、であるから大體の上には感興の打方も情緒の動き方も、吾々の作歌と同系統のものと思はれてなづかしい、
(168)只内部に立入つて言語の組織を分解して見ると、惜哉生命の附與さるべき内容の融合がない、第一に此一首に最も重要な、君つゝましう寢てさめずの二句が幾通りにも解釋され得る事である、幾通りにも解されるといふ事は、一つの明瞭な表現がない事になる、作者其人と作者の君と呼んでる人との關係は相許した若い男女と解るにしても、其男なる人が女を呼んで君と呼掛けるには、矢張其場合がある、此二句の詞の上では、其場合が少しも解らない、次に寢てさめずといふ詞の出るにも必ず其の場合がある、此二句だけの詞の上では矢張其場合が解らない、これだけの詞では想像も連想も働し樣がないのである、一首の中心である重要な二句が、斯く明瞭を缺いて居るから、何となく面白さうではあるが感興が非常に弱い、早呑込みに無造作に合點して、獨よがりによがつて居ればよいやうなものゝ、それでは余りに幼稚な鑑賞である、外の面の木立風眞白なりの二句に天然の面白味が無いではないが、これだけでは余りに平凡で到底副景に過ぎないだらう、月白く風清くを燒直したやうなものだから此二句だけでは到底一首たるべき詩趣の容積はない であるからどうしても二の句三の句が持つてる人事の色彩がもう少しはつきりしなくては此一首に生命を呼起すことは出來ない、かういふ状態の歌を吾々は中心が無い統一が無いと云ふて居るのである、今少し部分的に用語の缺鮎をいふならば、初句月の夜やと云ふ呼掛けの詞がどういふ意味で用ゐられたのか解らない、月夜の光景に興を呼んで月の夜やと云つたものか、詩境を説明するの意で先づ一首の輪廓を描く爲に月の夜やと云つたものかゞハツキリしない、結句で風眞白なりとまで月夜の實體を描いて居るのに、三句を隔てた上の句で殊更に月の夜やと説明する必要は無い筈だ、三十一文字しかない短詩形でさういふ無駄詞を弄する餘地は萬々無い筈だ、古人畫を評するの詞に、墨を惜むこと金の如しと云へる語がある、吾々小詩形の短歌に天地を開かんとするに當ては、言語を尊重すること黄金も只ならずの用意が無ければな(169)らぬ筈である、短歌に輪郭的言語が絶對にいけないと云ふのではない、無要有要の識別に愼重の注意を要するとの意である、
元に返つて、月の夜やと云ふ詞が(【此歌では無論感興を呼んだ詞と聞える】月夜の興を呼んだものとすれば、末の二句と相應じて作者の感興は全く月夜の光景にあつたものとなるのである、折角作者の捕へた君つゝましう寢て覺めずの元來不明瞭な事件が愈景がうすれて、此一首は只木立に風眞白なりだけの價値のものとなつて終ふのである、思ふに作者の作意は決してさうではあるまい、
結句風眞白なりも是れが月夜の趣を主と詠んだものであれば、此誇脹した美は面白いけれど、此歌の作意が、君つゝましう寢て覺めずの情緒を主と作つたものであれば、周圍の光景を余りに誇脹して描くなどは、無要の働きである、一局部に無要な誇脹は、無要と云ふよりは寧ろ中心を薄弱ならしめる妨碍となる許りである、
以上の如く分解してくると此一首の形體は殆ど組織的構成を爲して居らぬと云へるのである、然らば、趣味と言語の關係を凡に見て置けば面白いと云つた理由は何處にあるかと云へば、吾々が平生養ひ得た想像で迎て解釋するからである、
相許した男女が未だ結婚の式は上げないけれど睦しく往來して居る、其夜も行くといふ約束で女は待つて居つた、男は何かの事で夜おそくなつた、月のよい夜である、家の者は居つたにせよ今は憚る必要も無く、女の居間に入つて見ると體に惡い處でもあつてか女は寢て居る、男が來ても猶目を覺さず眠つてる、さすがに女の嗜みも見えてつゝましやかに眠つて居るのが男の心を動かした、男は直ぐに目を醒まさせるのも本意なく思はれ、其まゝ窓に立寄れば、外は月夜の木立に風の心持もよい、それだけは現はれて居ないがかういふ趣に想像して見れば、非(170)常に面白くなる、大體に感じがよいと云つたのはそれである、惜哉是だけの詩境を發見しながら、詞句の構成宜しきを得ない爲に、折角の光景も情緒も一向に活躍しないのである、
乍併或一派の作家の如く、徒らに奇怪な事件を虚構しわざとらしい思想のひねくりを記述して得たりとせる者や事實でさへあれば何でも詩と心得、卑俗な事件を手當り次第に歌にする人達に比すれば、板本の着意に於て雲泥の差あることを認めてなづかしい。
   君睡れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
〇左千夫評、是れも詩題目は甚だ感じが好い。けれど想は頗る陳腐である、それに句法が餘りに幼稚で、艶にして氣韻ある此の詩材を取扱ふのに、餘り工風が無さ過ぎる 少しも努力の見るべきものが無い、灯の照る限りなどは一寸と新しい言ひ方の樣であるが、寧不熟である、夜は匂ふなりは『かをる』の意であらうが、外の事か室内の事か判らぬ云ひ方である、殊に灯の照る限りなど云へば猶更庭の樣にも思はれる、それでは又君睡ればの一句が孤立して突然に感ずる、言語が事實に適切でないから、意味が正確に響かなく、感覺の紛亂を免れないのである、結句たち花も、室内にあるのか外にあるのか、眠つた女と如何なる關係になるのか、只ポツンと一句結句に据ゑたゞけでは、判り樣が無いぢやないか、
是れも迎へて想像するならば、女は風邪か何かで先に寢た、やがて睡に入つた、白い若やかな顧などが目にとまる、男は獨机に寄て書見などして居る、夜は靜かさを増して灯の火の室内に滿ちくるにも心つく、盆栽か何かの橘のかをりが、きゝ捨てにならない程強く薫つて此詩境を煽動する、かういふ場合であれば、何人も感興を引かぬ譯にはゆくまい、是程豐富な幽玄な詩趣を捕へながら、言語の不熟句法の粗笨、到底斯かる詩品を取扱ふ柄で(171)ない、眞に惜むべしである、
それにしても意を着くるの高き、好む處の正しき 予は深く作者を敬して其自重を望むの念が切である、新派の歌は只現實を歌ふもので、手段も方法も無いと云ふ樣な馬鹿者もあるが、言語が整はぬければ想は傳はらない、着意が高くなければ(【美でも眞でも】)卑い價値の少い製作が出來る、そんなものでも作者自らには大事な作物かは知らねど、文壇の方ではそんな作物は掃出して捨てる時間も惜い、
   風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寢む
〇左千夫評、萬葉集束歌に、いざせを床にと云ふ歌がある、いざ君よ寢むなどいふ情緒は、遠に萬葉時代の詩人に歌はれて居る、新派を名乗る多くの人達の歌を皆古い樣に云ふてる此作者にもかういふ古い歌がある、之れを敢て惡いと云ふのではない、例に依て詩趣を捕ふる爲めの、言語配布が余りに散漫では無いか、落葉の木の叢のなかなる、何といふ弛緩した散漫な詞だらう、之れは兎に角、冬木原の吾家といざ君よ寢むの情緒と何の交渉があるであらう、それから風凪ぎぬといざ君よ寢むと何の必然的關係があるのか、斯く何れも必然的に交渉の無い事柄を漫然配列した處で、そこに如何なる組織を成立し得るであらう、風が恐しくて寢られなかつたが、漸く風が凪いだ、さア寢やうと云ふのではあるまい、これならば、松と落葉の木の叢だの吾家だのといふ詞は更に必要が無い筈だ、讀んで見る處では、女と二人で外に散歩でもして居つた樣な詞つきであるけれど、今まで知らなかつた家を見つけ出したのでゞもあるかの如く、松と落葉の木の叢のなかなるなどゝ事細かに事々しい説明は何の事ぞ、吾家は、松林に冬木の落葉樹も多い中にあつて淋しいとか面白いとか云ふならば思想の纏りはつくが、いざ君よ寢むでは、丸で三十一文字中の詞が各自勝手に動いて居ると同じで、情緒の一貫も感じの纏りも就き樣が(172)無いではないか、客觀的描寫などいふ詞に囚はれた不自然極つた記述である、前に云つた東歌の内容は、こんなに桶に一ばいになるまで苧をうまなくとも明日といふ日が來るでは無いかさあ寢るとしようと云ふのである、これならばいざせ小床にといふ情緒が全篇にきいてるではないか、一つの強い情緒で三十一文字の全語を一貫して居るを注意せよ、血液が全身に渡つて居ねば健全な體ではない 思ひつきは新しくとも、活きた情緒の動きが三十一文字の全語に行渡つて居ねば生命のある歌でない、
   男あり渚に船をつくろへり背《せな》にせまりて海のかゞやく
〇左千夫評、これでは散文も散文、幼稚な散文の一節と云ふの外ない、第一男ありといふ詞が、どんな韻文的容積をもたらして居るか、其男といふのは若いのか老いてるのか、どんな風をしてるのか、裸躰でゞも居るのか、着物を着て居るのか、只男と云つたゞけでは女では無い男だといふだけの意義だけしか解つて居ないで無いか、これが長い文章でもあれば初め只男ありと書起しても長く書いてる内にどういふ人間であるといふ事の判る樣に書けるが、三十一文字中の只一句に男ありと云つたゞけで、何の意義も現はれては居ないで無いか、試みに少しく藝術的に考へて見よ、男ありと云へる詞が、何を描いて居るか何を現はして居るか、讀者の頭にどんな印象を與へ得るか、年齢も判らず、服裝も判らずでは、男といふものゝ單なる輪廓だも現はれやしないでないか、概略の説明にも成つて居ないのだ、牧水ともあるものが、何とてこんな風船玉のやうな歌を歌集へ出したのだらう。船をつくろへりとて其通り、藝術的に見るならば、何等の意義をも現はしてゐないでないか、更に云ふ、男ありだの船をつくらふだのいふ詞は單にそれだけでは、談話の語としては意義があるけれど詩語としては何の意義も無い詞だ、何となれば其船の大小形状新舊の程度等少しも判らないから、詩語としては全く空虚な言語であるの(173)だ。以下評するに及ばず、
ゆふ日赤き漁師町行きみだれたる言葉のなかに入るをよろこぶ
〇左千夫評、何か一寸と面白かつた樣に感じたけれど、直ぐ跡からどうして面白かつたつけか知らと云ふ樣な誠にあつけない歌である。言語の配列が散漫で、趣味的容積の集中が無いから、刺激が非常に弱い、何か面白くなりさうにしてる内にもう跡がない、物足らぬこと實に夥しい、繩をたぐる樣に次から次へとたるんだ詞を續けてる、是れでどうして調子に張りが出やうか、句に響きが出やうか、韻文として一篇を通した調子の張りがなく、句々に相感ずる響きが無く、それでどうして内容に纏りがつかう、一時百文字文といふのが有つたことがある、調子の張りもない、句に響も無い歌は、是を三十一文字文といはれても抗辯の道はあるまい、是れは決して惡口では無い、短歌に忠實な牧水氏に是位の事の判らぬといふことは無い筈だ、みだれたる言葉の中に入るをよろこぶとは餘りと云へば抽象過ぎた詞で無いかこんな事實に疎い詞で、詩的の何物かを傳へて居ると思ふならば詩人といふものは實に暢氣なものぢやと一般人から云はれねばなるまい、
如何に牧水氏等と吾々とが、韻文に對する趣味標準が違つて居るにせよ、生命のあるものと無いものとの見解に相違の有りやうはない、纏つたものと否と緊つて居ると否との見樣に二通りあるべき筈はない、牧水氏に説があるならば聞たいものだ、
   春|白晝《まひる》こゝの港に寄りもせず岬を過ぎて行く船のあり
〇左千夫評、これも前々の歌と同じく、詩題は甚だ面白い 直に同感の起る詩題である、けれども例に依て此詩題を活すべく、詞句の構成は頗る粗笨である、感じが生動しないから、想までが有ふれたものゝ樣に思はれる、(174)だが今日吾々の問題とする處は、想の古い新いではない、創作が生命を得たか否かの問題である、歌が活きてるか否かの問題である、活々動いて居ればどんな古い材料でも必ず新しい感受が得られる、であるから想の有りふれてるといふ事は、吾々は一向氣に留めない、
春眞晝といふ事を此歌にては云ふ必要があるにしても、かう初句にかぶせて云つては、所謂頭勝で一首の形が整はない、初句に春眞晝などゝ充分壓搾を加へた詞を使つて置ながら、次からは直ぐ、だら/\と緊りのない詞を綴つて居る、此二句は茲には寄らずと一句に引緊められる詞なのだ、いつも來る船が見える所まで來たが茲に寄りもせず行つて終つたといふならば、寄もせずと強く云ふ『も』の字もきくけれど、只通りかゝりに通る船が、港へ寄らずに通つたからとて、それを寄もせず云々と事々しく云ふのは、言語の自然を欠いで居る、此歌の如き場合の用語は單にこゝには寄らず行く船のあり若くは港に寄らず行く舟のありと樣に成るべく連關してる意味の詞は引締て云ふべきである、然るに岬を過ぎての一句が其間へ插入されたから、一首の調子は全然弛緩して終つたのである、勿論此歌が船の行過ぐる光景を主題とせる歌なれば、岬を過ぐる共島山の間を過ぐる共極力其状態を描くもよいが、此歌の主題とする處が寧後者の氣分にありとすれば、岬を過ぎてはあつても無くてもよいのだ、其あつても無くてもよい詞が肝要の句の間へ插れるから弛緩を來すのである、併這般の消息を共に談じ得べき者幾人かある、さう歌を六つかしい物にして終つては大抵の人には歌が作れなくなるといふ者もあらう、元來歌はそんなに安い物ではないのだ、否月々何千何百と發表される樣な歌は一種の遊技としてならば兎に角文學としては必要はないのだ、二三年立てば流行おくれになる樣な歌ならばどうでもよい、時代變遷の上にも超絶して生命を百世の後に傳へやうといふ歌は、一字一語の中にも生命が無けれげならない、牧水氏の歌に就ても云ひたい事(175)は際限なくあるけれど今は止めて置く、終に失敬して一首に修正を試みた。
  靜かなる春の眞晝を煙立て茲には寄らず行く舟のあり
                    明治43年6月『アララギ』
                         署名 左千夫
 
(176) 〔『アララギ』第三卷第五號選歌附記〕
 
      〇              藤森紫水
   移り越してまだ家馴れず釜無の瀬の音を雨とあやまるしば/”\
   胸をいだき草のとぼそに打しをれ物をおもへり雨の夕暮
   さ曇りは小雨となりぬ春の夜の上諏訪驛に君を送れば
附記。紫水君の作歌實に五十首、而して今僅に三首を採る選者の遺憾に堪へざる處なれども止むを得ず。紫水君に注意す、願はくは詩趣を確實に捕ふる事に努力せよ、輕々に無造作に點檢したる如き態度を以てせば容易に印象を得がたかるべし。
                   明治43年6月『アララギ』
                      署名  左千夫選
 
(177) 卷頭の歌
 
勉めて止まざる駿遠の諸同人は、其敬すべき態度より、遂に著しき進境を示し來れり、今最近の會稿中より數首を拔いて卷頭に掲く、醇乎たる眞情の現はれには、毫末も遊戯的氣分を交へず、聲調おのづから其精神を傳へたるを見るべし。
   子を思ふこゝろ隈なきたらちねの汝が母はあれど汝が乳はなし
   安からぬ常夜の夢のしはらくをすかす空乳に細々ねむるも
   もらひ乳のうま乳に足りて眠る兒やかなしき面わ罪もあらなくに (木村秀枝)
   たま/\に歸る吾身を力にてさびしみおはす父母悲しも
   世に出でず年經るわれを天が下の力とおぼすことのかなしも
   四面の壁の外なる桑はさながらに冬木なれども來居る春鳥 (佐藤禄郎)
                    明治43年8月『アララギ』
                        署名   なし
 
(178) 唯眞抄〔二〕
 
六月十日
昨日の暮方に、蕾の張り樣が、今朝は必ず、睡蓮の咲くべきを示して居つた、それで今朝其睡蓮の開くところを見やうと常になく早起したのである、
植込の隅には、夜の名殘が猶消やらぬさまに、薄暗い木蔭には、蚊の鳴聲さへ幽に聞えるのである、天氣は良いらしく、四方に霧は見えても中空は蒼く、柿の青葉槐の青葉、皆しつとりと靜に朝露に濡れて居るのが判る、空氣がひや/\として目覺心地が頗るよい、
柿の葉の繁みに、青蛙が一つ、天地間の何事かを語るかの如く、かいかいと鳴いて居る、今咲かうとして居る睡蓮の心と、何等かの心を聲に漏らして鳴く蛙と、そこに何かの關係が無いものか有るものか、青蛙の聲は夜が明けたと鳴くやうにも聞える、充分に夜氣を吸ふて露に睡つてる草木は、是等蛙の呼聲に眉を動かし始めるのかも知れない、青蛙は涼しい空氣に聲を澄して頻りにかいかいと鳴いて居る、
水蓮を植た水鉢の水も、只寂然として透明な固形躰でゝもあるかの如く、鉢に盛られて居る、天地間に大なる意義を有しながらも、意味も何も無いものかの如く、此朝の靜かな統一に順應して、其平靜な天性に歸して居る、水と離れることの出來ない睡蓮の爲に、飽くまで忠實な保護者であることを現して居る、睡蓮の蕾は水平上に三(179)寸の莖を拔いて立つて居る、青蛙の性急に聲を掛けても、少しも花神の動く樣子はない、睡蓮は別に待つところがあるのである、
太陽が地平線上に現はれて、其光を直接に、我身に投掛けてくれた時、睡蓮の花神は始めて動き始めるのである、睡蓮の待つ時間は近くなつた、太陽の光が世界に滿渡つて、此小さな庭の、水鉢の上に迄及んだ時に、睡蓮は夢から覺めた如くに、其蕾は見るまに開くべく運動を起した、籟の尖頭にかすかに白く薄紅い色を現してから、一時間と立たぬ内に、多量の香芬を放散しつゝ、生氣に滿ちた鮮かに麗しい、柔かみ温かみと云ふやうな、何とも云へぬなつかしい色を、匂はせ出した、白色に紅みをおんでると云ふか薄紅に白みをおんでるといふのか、一言で云ふべき詞は到底ない、今死ぬ人でも此花を見たならば必ず一瞥した其瞬間に死を忘れ得るであらうと思はれた、
予は耽視徘徊暫く我を忘れて居つた、天地の空間に大なる意義を見出した樣な氣になつた、荒凉たる我が人生にも深い深い味が籠つて居ると氣づかせられたやうな心地になつた、それで譯もなく、戀は人を活すといふ詞を思ひ出した。六月十二日
靜かに降りくらす梅雨の一日を室に籠つた、室小なれば、居ながら四面の自然に親しむことが出來る、右にも左にも窓外一歩に花卉竹木を見て梅雨の潤ひを身に近く味ひ得る※[口+喜]しさ、固より奇石珍木のあるべくもあらねど、予は平凡なる天然に却て飽かぬ趣きを樂むことが多い 乍併南窓十歩の外に數千坪の葦原を展開し、際間の水邊には、常に紅冠黒身の水※[奚+隹]五六羽が眼の先に、遊戯して居る其天與の奇趣を嫌ふものではない、
(180)獨居萬葉集を講じつゝ、時に起て窓外の葦原を見るの樂み、聊か唯眞閣の名にかなへるものあるかを思ふ。
六月二十日
或事に感じて、良友のなつかしさを深く考へた、吾が悲みを心から悲んでくれ、吾が悦びを心から悦んでくれる人が、今更の如くつく/”\なつかしくなつた。
                   明治43年8月『アララギ』
                     署名   左千夫
 
(181) 閑文字
 
安藤黙斷子、一日卒然として唯眞閣に到る、主人迎へて甚だよろこぶ、蓋し黙欲に飽き靜欲に飽きたる兩者が、茲に梅雨に會せるは頗る其機を得たるものあるか、抹茶數※[土+宛]閑談半日、黙欲の人靜欲の人共に相慰めて、暮色の將に至らんとするを知らず、夕闇の軒端に雨聲の加はるを覺ゆる時、閣外更に濛々、垣石竹木悉く糢糊として、方丈の洞室世を離るゝこと百里の感あらしむ、夜に入つて一燈二仙棊局に對す、黙斷子棊を學んで猶十數局を試みしに過ぎずといふ、而して主人遂に四局を讓る、主人一笑して曰く、詩腦は雨の如く、棊腦は風の如し 予詩腦を以て局に臨む敗や當然のみと、客又黙笑敢て誇色なし、雨聲幽寂として夜は更けぬ 敬具   左千夫生
拜復、詣有所極、則不可復進、天之雨、非有進于晴、今日晴而明日雨、人樂其日新而不窮、故無進境、而有變境、是成齋重野翁之叙方園新法、以魏氷齋之論文、論棊也、僕亦請以翁之所論、又論先生之棊、夫自然者、詩家之生命也、故其棊亦多變境、而少進境、是先生之所以讓四局於黙斷子、而且洒々焉也、
先生已成唯眞樓閣、日伸雅懷、小生獨未竣田澤湖畔之別業、徒憊俗事、仙凡之差、眞可慚矣。    湖南生
僕棊、亦頗富變境、不甚落于先生之後、此點、於爲詩家之資、有餘矣、  呵々
      黙堂生
 予は先に萬葉集人麿の長歌を講じて、凡句の活用を説く、今は竹村湖南碁を論じて、凡手の樂みを説く、又奇といふべし。竹村湖南は黙斷子の家兄、内藤黙堂又縁戚なり、湖南は中川七段に五子を打つと聞く、以て其技を(182)知るべし、去秋予羽後角館に遊んで田澤湖に廻ぐる、以上の諸子皆交遊好を辱うす、湖南が田澤湖別業成るの日予や又必ず席上喜舞の客たらんと期す、
                    明治43年8月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(183) 〔『アララギ』第三卷第六號消息〕
 
 本年の梅雨は例年より少し長いかと存候、梅雨を只鬱陶しいものと思へば、長い梅雨は有難くない譯に候、併梅雨を面白いものと思ふものには、長い梅雨も長いとは思はず候、
 偖頗る現代離れをした本所の果から、今の文壇を觀望致候へば、其色調は實に哀れな程單調に相見え申候、一時は無性と痛切がつた色調が見えたりしも、今では只々新しがりの一調子と相成候、文壇何れの方面を見渡しても、其摺つたもんだと五駄つき居る状況が、只々新しがりの一點張りにて、前後も左右も無く、顧慮も熟察も無い有樣と相見え申候、
 所謂新しい創作なるものに、文學的眞の生命が宿つて居るか否かを、靜かに吟味して見るの誠意あるものは少く、只我れ先と爭ふて其新しい試みといふ事にのみ腐心して居る、それも人々各自に、獨創的な新しみを求むるならば、兎に角惡い事では無く候へども、才走つた二三先輩の手眞似口眞似に日も又足らずといふ、實に哀れな状態なるが殆ど文壇の總てゞあるらしく見え候故情なく存候、
 正しき精神を以ての新しい試み、是程結構な事は無之候、力のある生きた藝術は、必ず正しき精神を以ての新しい試みなる尊き態度から生れるものと存候、然るに人眞似に巧者な國民は、口眞似手眞似にスバシコイ文藝家許りを産出致居候、荒土を開墾するも開墾が開墾の目的にはあらで、開墾より來るべき收獲が目的であることは(184)誰れでも知つて居る處に候、收獲のない開墾は徒勞に候はずや、今の文壇に於ける新しがりの運動が、如何なる收獲を擧げ得るかは見物と存候、
 文藝上嚴正な意義を以てして、「新しい」といふ事は如何なる意味に解すべきかを考へて貰ひたく候、太陽も月も有史以前から、今見るものと同じかるべく、山も海も有史以前からたいして變りは無かるべく候、然かも太陽も月も山も海も、何時も新しく候はずや、春は昔の人の暖かい如くに今の人にも暖く、唐辛は今の人に辛い如く昔の人にも辛かりしものと存候、月や日を歌ふのは舊趣味だ山や海を面白がるも舊趣味だと云ふものがあつたら、如何に新しがりの人々と雖も、それを滑稽に感ぜぬ譯にゆくまいと存候、
 全體批評上の言語に、舊趣味だの新趣味だの、現代的だ非現代的だなどいふ詞の意味が、小生などには解りかね候、本來新しい味といふ事と新趣味と云ふ語とは根本の意義が違つて居る、新しい味を要求するは文藝上極り切つた話に候、此極り切つた要求以外更に新趣味なるものが、容易に發生し得べきであらふか、小生等は常に云ふ、眞實なるものに、いつも新味がある、活きてるものにいつも新味があると、文藝上に小生等の要求は只それのみに候、
 要するに新趣味新傾向若くは現代的などいふことは、時の流行といふ意味以上には何等の意義は無いと存候、是に於て小生等は申度候、流行は直ぐ舊くなる、今の現代的なるものは次の現代的なるものから見れば舊趣味と云はねばならず候、されば。流行的新味なるものは、眞の新味で無い譯に候、
 眞の新味なるものは、時代と流行とに超絶して永久的生命ある創作に於てのみ見るべき事であると存候、
 其新しがりの更に浮薄輕佻を極め居るは、短歌界の現状と存候、試みに今の所謂新しい歌なるものを一瞥致候(185)はゞ、直ちに目に當る流行語を發見致すべく候、縱令へば初夏(ハツナツと讀むらしい)といふ詞は一二の才子が使つたものであるらしいが、當今之の口眞似の多いこと實に驚く許りである、口眞似者流は初夏の感じなど云ふ事に頓着はない、只初夏といふ詞を詠み込みさへすれば、それで佳作と爲つた積りで居るらしく相見候、それから更に甚しきは、高くを高う赤くを赤かう白くを白う薄くを薄う近くを近う、實に驚き入つたものに候何んでもかでも「う」でなければ納りがつかぬらしい、此の如き流行的言語の使はれた歌が現代的短歌と申すにや、兎に角淺薄な流行に動きつゝあるは現代新歌人の一般にて候、余りに思想言語の貧弱さが暴露されてる樣な感有は情なく候、それも未派の人々の作に見るならば、未だしもなれど所謂一派の主腦らしき人々の作歌にも見え居候、薄くを薄うと近くを近うと云はねばならぬ批判的理由が聞いて見たく候、よし薄う近うが薄く近くに勝つたにせよ、人の眞似に等しき詞使を耻とも思はぬは困つたものに候、
 其單調を極めた、新しがりの色調の依て起れる源因等に就て猶多々申上度事有之候へども、それは後日に讓り申候、
                    明治43年8月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(186) 〔「懸賞吟咏」選歌評〕
 
      題朝
 
     一等           津田たき子
   山小屋のやもめの家に子の泣くをあやしみなから朝の雲見る
評、事柄が珍らしくて然かも自然な感がある、淡如とした句法が又能く、作者のかすかな情緒を傳へるに協つて居る。
     二等           萩原檜笠
   我かむねもうつろの如くすか/\し朝月に見る池の白蓮
評、思切つて強く朴訥に言ふた處に味がある。
     仝            桑名高子
   朝起の目を養ふや若葉庭こゝろしづかに歩みても見る
評、如何にも事實に適切な言ひやうが面白い。
                   明治43年8月『新小説』
 
(187) 茶の湯の手帳
 
     〔四〕
 
 一般の人は、茶の湯など云へば只暢氣な氣樂な人間のする事と許り思つてる樣だが、暢氣な人間には決して茶の湯は出來ない、庭に塵埃が散つても氣にならないやうな人には迚ても茶の湯は駄目である、家の内も外も兎に角片づいて居ねば氣になる、手水鉢の水も新しい水が湛てゐねば氣になる、床に花がなければ淋しい、坐右に美術品の一つもなければ何となく物足らない、襖の開閉に砂のある音が厭でならない、障子の棧にほこりが見えては氣持が惡い、茶の湯の好きな人は必ず以上のやうな調子になつてくる、であるから茶の湯は横着者に決して出來ない、
 常に動いて、さうして常に靜かな趣味を求めてゐるのが茶人の持前である、行住坐臥悉く趣味を以て終始したいのが茶癖家の常であるから茶人は年中忙しい、それで無性者には到底茶は出來ない、
 年中忙がしがつてさうして年中落ついた趣味に遊んでるのが茶癖家の本領である、落つきと云ふ事は徹頭徹尾茶の湯の精神である、落つきたい茶人が何ぜ忙しいかと云へば、落つきといふ趣味の蔭には必ず調和と疏通とが無ければならぬ、調和なき疏通なき落つきは廢止である、廢止に生命はない、内面に調和と疏通との生動があつ(188)て、落つき此に於て無限の趣味がある、即茶癖家は此の調和と疏通との爲に忙しいのである、
 茶の湯を究屈だと云ふものがある、これは門外漢の云ふことで茶の天地を知らない人の考である、三十一字の歌や十七字の俳句は、自己の思想を入るゝに究屈だといふのと同じである、三十一字でも十七字でも、之れを我が天地として、其内に這入つて居ればなかなか廣大無限な心持で居られる、それを究屈に思ふは歌も俳句も解らぬ人の云ふことである、茶の湯もそれと同じで、其天地に住めば無限の廣さと自由とがあるのである、茶の湯を究屈と思ふ位ならば、初めから茶の湯など云ふことを考へぬがよい。
 樂んで住まねば世界も究屈である。況や四疊半をや、好んで住むところ膝を入るゝの小天地にも樂みはつきない 況んや複雜無限の綜合ある茶の湯をや 茶の湯は人間に普遍的な飲食と家とを中心として居る故に茶の湯の趣味は應用が無限である、
                   明治43年9月『アララギ』
                      署名 阿しび山人
 
(189) 忘れ形見
 
貴書拜見、只驚嘆之外なく、御弔み申上ぐるすべも知らず候、かねて御病氣との御消息なりしも斯る事とは實に思も寄らず、痛々しき御文繰返し拜見致し、つく/”\人生の無常を感じ申候、御年猶僅に二十四の由、花の前途も長かるべき御年にて情なき事致し候、幼き二人の御片身と御淋しき有樣、目に見える樣に痛しく存候、春花秋草幾十度嘆き還るとも幽明相別れし人は、常末に相逢ふの期はなく候、御契りは現身に僅に四とせに候とも恨みは長く千秋も盡きまじく候、迂生も今夏三才の幼女を失ひ、哀恨猶昨日の如き折柄一層御同情も深く候、次ぎのアラヽギヘ吾兒のおくつきといふ歌八つ許り出し申候其内の一首   いにしへのひじり/\の言はあれど死といふことは思ひ堪ずも
貴君にも定めて同樣の御感ある事と存じ御目にかけ申候、秋の野にある限りの花を、御おくつきに捧げ、御涙のかぎりを新おくつきにそゝぎ候へかし、御望みの事はアラヽギの消息に記し置候間同情ある諸同人、必ず歌を寄せ來るべく候、迂生も此手紙書きつゝ悲しく相成候間筆挌き申候、御忘片身をふびんと思召御悲哀の中にも秋冷御厭可被成候、不悉
                   明治43年9月『しのぶ草』
                     署名 東京伊藤幸次郎
 
(190) 唯眞抄〔三〕
 
 九月二十四日
 秋季皇靈祭の日で彼岸の中日である。予は此月の中頃から苟且の病にて半ば臥床の人となつた。今日が彼岸の中日と聞いて、俄に亡兄の墓參を思ひ立つたのである。彼が姉の幼き二人を連れて、龜井戸の普門院に向うた。未曾有の水害に、荒廢を極めた途中の町々に注意を拂ひつゝ車は普門院の門前に達した。 予は普門院の門に出入すること十年以來の事であるが、今日始めて所謂彼岸參りなるものの夥しきを實見した。是は自分がさういふ事に注意を拂はない爲に氣が付かなかつたのか、或は近來俄にかくの如き信心者の増加したのであるか、それは一寸判斷がつかぬ。兎に角此寺に所謂墓參りといふ者以外の參詣者即ち信心を旨とする參詣者の多いことが事實であるのに驚かされた。予はこの新しく感じた事實について、種々な考を胸に浮べたのである。住職の法師に回向を請うた。いつもの清淨なる讀經の聲は、常よりも深く予の心を動かした。 今の世の宗教を談ずるものは多くは讀經を無用視して居る樣であるが、予は早くより讀經は意味を以て尊いものではない、讀僧その人の精神を發露する直接の聲ときいて尊敬を拂うて居る。であるから、何でも讀經が有り難いと思ふのではない。讀僧その人を信じて始めて難有味を感ずるのである。普門院の法師は徳行に於て予の尊敬する一人である。予は此有り難き讀經をきいて、堂前群をなす處の信心者に、層一層の注意を促されたのであ(191)る。
 夕日影薄く、荒れに荒れた葛原の奥深くに、二兒を伴うて亡兒の墓に、秋草の花を夥しく供へて、歸途に就いた。予の歸る時、尚入り来る信心者も尠くなかつた。予は途中車にゆられ乍ら以下のやうな事を考へた。
 今の世の中では、所謂學問見識の傑れたる側に於ても、眞面目に熱心に信仰問題といふことは論じられて居る。宗教問題といふことは、今の世論の上から決して閑却せられて居るわけではない。然るにも拘らず、それ等の議論が殆ど盡く予の今日目撃した實行的信心者とは、何等の交渉を見出す事の出來ないのは不思議である。所謂彼岸參り、大師詣りの信心者を、今の社會は大體に於て、善男善女などと(冷笑の意味を含んで居る言葉で)如何にもよそ/\しく見て居るが普通である。彼等がいふ善男善女といふ言葉は、時代後れの愚夫愚婦といふ意味に聞取られるのである。予は今の社會が宗教々々と、相當に嚴しく論じながら、其實際に於ては、意外に宗教に對する態度の甚しく冷淡を極め居るに驚かざるを得なかつた。
 よく理窟をいふ人は、これ等の信心者を一概に時代思想に關係なき迷信家として居るらしいが、それは病氣を直して欲しいとか、金を儲けさしてほしいとか、勝負事に勝してほしいとかいふやうな信心者も隨分あるであらう。さういふものはもとより論ずる限りではない。春秋二季の好期を利用して、報恩的に物參りをするといふ事が決してこれを利己主義一遍の迷心と見ることは出來ない。
 百の空論よりも一の實行が尊い。予は此實行的信心者に、空論家の曾て氣付かざる深意の存するを疑はないのである。
 そして予は又一歩進めて考へて見た。學問見識のある側から見て所謂愚夫愚婦といふものに、眞の信心があり(192)得べきものなるや否やを考へた。予は斷じて思ふ、信仰の心あるものはたゞそれだけで既に愚夫愚婦ではない。自己以上の尊者を信じて、これを崇敬するといふことは、人間の精神統一上唯一の方便である。信仰の心なくしては、人生の内部生活に其統一を見るといふ事の出來ぬといふことは聖賢の屡々繰り返し論じたる處ではないか。彼岸参り、大師詣りの信心者を愚夫愚婦の状態なるが如く思ふは淺薄なる知識の僻みから實行的信心者をよそに視た罪惡である。
 予は斷じて思ふ。世の中には智的方面の愚者と、情的方面の愚者とがある。新しき學問知識の爲に情的方面の荒廢を來して、信心の味ひを感知し得ざるの徒は、よし智的方面に於て賢者なりとするも情的方面に於ては愚者といはねばならぬ。それとは反對に愚夫愚婦といはるゝ信心者は信心の心より内部精神の統一を得て比較的慰安の情に富み、常に温みある生活をなすとせば、學問も知識もなく時代に遲れたる點を愚者なりとするも、情的方面に於てはこれを賢者といふも決して過言ではないと思ふ。
 情に賢なるが幸福か、知に賢なるが幸福か、それは容易に決すべからざる問題である。
 予の車は家についた。予は再び仰臥の人となつた。大工がしか/”\、引家《ひきや》がしか/”\、土方の仕事がしか/”\と家人よりうるさく聞かされて、水害復舊工事の混雜を考へる身となつた。
 唯眞閣に爐を開いて、釜の音をきくことは本年中には覺束ない。
                           (口述筆記)
                     明治43年10月『アララギ』
                        署名   左千夫
 
(193) アラヽギの評論に對する創作の批評に就て
 
 この事は九月號に於て云ひたいと思つて居つた事であるが、天災の障碍に逢うて予は筆をとるの暇がなかつた。本號に於ては是非書かねばならぬと考へつゝも意外の病を得て空しく數日を經過した。予は已むなく、千樫君を煩はして病臥の口述を筆記して貰ふことにした。思考餘りあつても意を盡さゞるの憾みを豫め讀者に訴へておく。
 奇贈せられた創作八月號は水の爲に失うて今座右には無い。それで今は予の記憶を辿つて口述するに過ぎない。けれども、予が此稿を起すに到つた所以は敢て若山牧水氏の評論を反駁せんとするのを目的とするのではない。予はたゞ短歌研究上予の信ずる處を出來得る限り説明して、牧水氏が吾々の作物及び評論に對して見る處の誤解及び遺漏に就て、なるべく吾研究の誠意を出さんとするに外ならぬのであるから、創作八月號の座右になきを敢て不都合とは思はぬのである。
 論旨を本題に進むる前に予は一言いうておきたい。専門的に深く研究して得たる所の思想感情を、研究の徑路を共にせざる人に示すに當つては、その説の賛否は暫く措いて、吾が所説を聽者に兎も角も會得させるといふ事が既に非常に困難であることを予は經驗したことがある。明治四十年の秋頃であつたと思ふ。鴎外博士が佐々木與謝野氏予外數氏を招いて歌會を開いた事がある。それは博士の考へでは、世間からも又各自に於ても、趣味の相違を認めつゝある人々を一堂に會して何等かの研究に資せんとするの考へよりしたものである。予は博士の精(194)神に同情してその招きに應じて快くその歌會に列したのであるが、當時予は私かに自負する處多く、多年の研究より得たる強固なる自信及熱心なる主張を誠意誠心以て云ひ盡すならば、佐々木與謝野其他の諸氏に、多少の黨派心の隔意ありとするも、必ず幾分は吾が持説を入れしむべしと信じたのである。されば毎回の互評の場合には極力其意を盡し、十數回を亙る歌會に於ての予の評論は、言語に論法に所有工夫を盡して、吾が意を傾けて論難を試みた。然し乍らその結果は殆ど何物をも得られなかつた。予はもとより佐々木氏與謝野氏等を吾が説に賛成させやうとまでは思はなかつた。けれども諸氏も亦熱心なる研究者であるからは、尠くも予の説く處を會得させることは出來得るだらうと信じて居つたのである。然し乍らこれ皆予の無經驗なる愚直の過ちであることを心付いた。自らさういふのもをかしいが、予の誠意熱烈なる所説も列席の諸氏を動かす事は無論の事、吾が論旨の要點を會得して呉れた人は一人もなかつたやうに思はれた。そこで予は始めて研究の徑路を共にせざる人と其研究を語ることの困難なることをつくづくと氣付かせられたのである。
 今度の創作に於ける若山氏の吾々の作物及評論に對する誤解は又餘りに甚しい。要するに其作物に於ても、評論に於ても、その精神本領のどの邊に存するかを解して居てくれない樣である。見殘しなら見直して貰ひたいといひたいけれども決して見殘しではない。失禮ながら吾々の精神の存する處を了解し得ないらしいが、それは前いふ通り研究の徑路を異にする若山氏であるから無理でないことゝ思つて居る。
 牧水氏は吾々の作物に對して、吾々が短歌製作上特別に格調を重んじて居るやうにいつて居られた。さうしてそれから見れば自分等の作物は無作法千萬なものであるやうにいはれた。吾々の短歌研究は『離別』を評した評論だけでも殆ど數萬言といひたい程言論を費して居る。それを讀んでくれて、どうして以上のやうな言が出るの(195)であらう。不思議である。
 吾々は平生既成の短歌を評する場合に、格調云々と評することはある。併し乍ら、短歌は如何なるものであるかを研究する場合に於ては、格調等といふ言葉を使用する場合を發見せぬ位である、短歌製作上の結果より見て批評する場合には格調云々といふことをいふやうな場合がないとは限らないが、吾々の今日の短歌研究はそんな初期のものではない。内容は内容、形式は形式と區別をして、此區別の出來ないものを區別して評論したのは十年も昔のことである。
 吾々は短歌の上に形式を云々する場合は、多くは結果より見た場合のことであつて、創作的精神上からは内容形式と差別を立てることは出來ないのである。
 世間の人は吾々が短歌研究上萬葉を唱道するを見て吾々の短歌は直ちに萬葉調なりと(寧ろ言ひ貶す意味に於て)いはれつゝあるが、萬葉集の歌がその當時に於てかういふ形式(所謂萬葉調)を作らうとして作つた歌でない如く、吾々も或形式の歌を作らうとして作つて居るのではない。
 萬葉の歌が千年後の今日に生命ある理由は單に言語が古雅なるが爲といふは淺薄取るに足らざるの議論である。當時の作者たちの思想感情の表現から自然に現れた形式が即ち萬葉調であるので、萬葉調といふ調子があつて萬葉の歌が出來たのではない。即ち萬葉集といふ結果より見て、同集の歌を萬葉調と稱するは差支はない。かういふ調子に詠まうと思つて咏んだものでないことは少しなりとも詩眼を有する士には分るべき筈である。
 當時の製作精神が既にさうである。然るに其千年以前の歌調を模倣して吾々の思想感情を歌へると思はゞ愚の骨頂ではないか。結果より見て吾々の作物が萬葉に似たるものありとすれば、それは吾々の思想感情が萬葉詩人(196)の正しき精神を受け繼いで居る日本人であるから、千年後の今日に於ても、その思想感情に相通ずる處のあるべきは當然の結果である。
 少し横道に這入つたが、吾々が短歌の上にいふ調子といふことをいうて見よう。歌を作るに當つてかういふ調子が面白いからかういふ風な調子にやつて見ようなどと思ふ樣な幼椎なものは吾々同人中に一人も居ない筈である。作歌的動機にふれて、興奮したる處の思想感情をひたすら專心に表現するの外何の苦む處もないのである。であるから創作の精神は甚だ自然でなければならぬ。作歌のまとまる分秒の前までは如何なる歌の出來るかは作者に於ても解らぬのである。(吾々も敢て推敲をしないといふのではない)さうして出來上るべき歌は必ず調子の一樣ならざるが常である。調子の變化は内容の表現に伴うて、自然に形を成すものである。たとへば喜ばしい、うれしい場合の思想感情であるならば其調子には自然にゆるやかに出て來るとか、憂苦に堪へないやうな思想感情を歌ふ場合であつたならば自然調子も弱く細くなるのが常である。
 こゝで一言斷つておく。若山氏などは、それはさういふ考へは吾々と同じだといふのであらう。又鴎外歌會のことをいふが、概論に於ていつも與謝野君らと違はなかつたのだが製作の趣味に於ては非常の隔りがあつた。これは智識上には一致し易いが、趣味上には容易に一致し難い理由が存するらしい。
 短歌の調子といふことに就いては昔の人も今の人も隨分よく論じてあるが皆内容と調子との關係をおろそかにして單に調子ばかりを論じて居るから、いつも徹底しない。男ばかり論じても又女ばかり論じても人間が解らぬと同じである。
 思想感情のまとまらぬ前に調子といふものゝあるべき筈がない。歌の調子はかうあるべきものだなどといふ樣(197)な考へがあつてから歌は拵へ物になつたのである。今日に於て短歌を研究するものが、尚格調を重んずるとか、内容を重んずるとか、そんな淺薄な考へを持つて居る樣ではなさけない事だ。かういふと調子はどうでもよいかといふ人があるかも知れぬ。さういふ風に聞きとられると大いなる間違である。歌の生きる、生きないは調子によつて定まる位のものである。言語や文字は人間の思想を傳へるけれども、眞の感情を傳へることは言語や文字では出來ない。その思想を表示する處の言語と文字とに調子といふものが加はつて始めて人間の思想感情は他に傳ふることが出來るのである。
 『誠に御愁傷でございます』といふ言葉は單に悔みの意味だけしか現はれて居ない。その言語にそれを述ぶる人の同情的調子が加はらなければ眞の同情の悔みにはならない。所謂禮儀一遍の型になつてしまふ。それを述る人の言語に陳べる人の同情的調子が加はらなければ眞に御愁傷でござるの誠意はその言葉を受ける人に達し得ないのである。
 普通の言語應對が既にそれである。永久に生命を有すべき詩の内容と調子との關係が如何に重要であるかといふことはこの一つでもわかるべき筈である。 元來吾々の感情が言語文字の記述では現れないのが普通である。言語の調子に伴ふ聲調の色合(こゝの意味はどうしてもうまく云へない、假りに色合といふ)によつて始めて人に傳ふることが出來るのである。であるから感情の分子の最も多き韻文に於て調子の働きが十分でなければ詩の生命がないのは當然のことである。
 牧水氏は短歌の調子といふことを人間の行儀作法の樣にでも心得て居るにや。さうして吾々が言語句法と調子との関係を六ケ敷云へは、たゞ年寄りが行儀作法を六ケ敷いふ様に解して居るらしい。
(198) さうして自分達の歌はそれに比して無作法であるというてあるが、吾々の眼には諸氏の歌は無作法といふよりも拵へ物の感じが多い。今少し無作法に咏んでくれゝばよいと見えるのである。無作法に無頓着に作つた歌ならば、一首々々の上に今少し感情の統一があるべきである。
 予はかういふ事を説明するに當つては自分の考へをいふのが精一杯で、言語を婉曲にする餘裕がないから、かう露骨にいつては又牧水氏におこられるかも知れない。然しどこまでも眞面目なる研究上の意見であるからどうか腹を立てずに貰ひたい。
 今度は全體の氣分といふことと内容の解剖的批評といふ事に就て少しくいうておきたい。
 吾々が詩に對する賞鑑的要求は勿論全體の氣分といふ事に相當以上の注意を拂つて居るのである。大體にうち見て、感じがよく、これは面白いなと心を引けばこそ細かに立ち入つて賞鑑する氣にもなるのである。それで大體の氣分には面白く感じられても、吾々の賞鑑の程度が大體の氣分が面白いなどと無雜作に見過すことが出來ないので更に賞鑑措かずといふ態度を以てその作物に臨んで見ると始め大體に面白かつたものも幾多の不滿足を發見してくる。それはどういふ譯かと一考して見ることになると、どうしても内部の組織(言語の上にも思想の上にも)の分解を試みることになるのである。これを分けていふと、言語句法の組織、内部的には思想感情の綜合、それ等の組織が不完全であるとどうしても纏つた感じが得られなくなる。吾々が常に言語句法の上にも思想感情の綜合の上にも、分解的批評を事とするのは、詩の生命のよつて起る組織の完全を求むるが爲である。苟も生命あるものに組織の完全を要求せぬものはない。短歌に於て獨り形式内容の上に組織の完全を要求せぬといふ事はない。吾々が短歌研究中に於て常に言語句法の不自然、遲緩、散漫、或は組織を成立しない韻文的容積がないと(199)か、完全なる意味を構成しないとか、感情の統一がないとかいふ樣な言を使用したのも皆詩的形態の組織を要求したものである。 一通り凡そに見渡してこれは感じがよい、これは面白いとよそに見てすぐる位ならば吾々の如く七くどく内部を分解して組織を云々する必要はないのである。吾々は詩に對してそれ程冷淡なることを得ないのである。吾々が牧水氏の歌を評するに到つたのも大體の氣分に同情する點があつたからであるといふことは幾度も斷つてある筈である。
 若山氏は吾々の短歌研究中の批評も主として措辞の蕪雜や思想の散漫なのを指摘してあるやうにいはれて居るがそれは見當違ひである。吾々が思想の如何を咎めた其精神は主として短歌なるものゝ生命を要求するに起因して居るを了解して居ない。それは牧水氏の下の言葉を見ると解る。
  少し位ゐは目が眇まうと私は生きた人間の歌が咏みたい。眉目整然たる人形をば作りたくない云々
というて居る。牧水氏の研究の如何にも淺いのに驚かされた。人間の面構へを見てその人の價値を云々することの出來ない如く、歌の面構へ(少し皮肉だけれども)淺薄な外的形式を見て歌の價値を云々するものと吾々を見て居るにや。
 生きた人間の歌とはどういふ意味か吾々にはわからぬけれども(死んだ人間には歌は出來ない)吾々は短歌研究中に於ても生命ある歌、生きた歌、要は死生の問題であると幾度も繰返していうてある積りである。男振りの善惡や女振りの善惡は批評の問題ではない。その精神及身體の健否如何といふことが吾々の批評の限目である。
 牧水氏は吾々に反對して生きた人間の歌を咏みたいといふが、吾々は生命ある即ち生きた歌を咏みたいと主張(200)してゐるのである。この吾々の生きた歌を咏みたいと主張した言に反對して居る牧水氏の言を今少し精細に聞いて見たいものである。
 大體いひ盡した。最後にもう一言いつておきたい。
 吾々の考へが牧水氏と一致しようとは固より豫期して居ない。牧水氏と雖も吾々の賞讃を得ようとは豫期しては居なかつたであらう。されば牧水氏等と吾々とが趣味感情の背馳する處多きは始めより解り切つて居る。して見れば吾々の論難に對して牧水氏等が殊更に感情を害すべき筈はなからう。眞面目なる研究者は眞面目なる反對を喜ぶとまでは行かぬまでも、吾々は牧水氏より巧妙なる人身攻撃を受けようとは豫期しなかつた。牧水氏は議論は下手だから出來ないといひながら、場末町の荒物屋の主人が云々とは實に左千夫に對する巧妙なる人身攻撃である。牧水氏もまだ若いなと一笑に附して居ればよいといふものゝかういふことは前途有望の青年詩人の爲に惜むの念に堪へない。(口述筆記)
                 明治43年10月『アララギ』
                    署名   左千夫
 
(201) 〔『アララギ』第三卷第八號消息〕
 
實に雨多き秋にて候、近古未曾有の水害に苦められ今猶其災害の中に生息致居候小生には層一層此秋雨のすべなさを嘆かずには居られ不申候、何もかも一切の事此の雨の爲におくれ申候
アラヽギも又々遲刊致候得共小生は一家の生存を危くせしめられ候程なれば讀者諸君には只不惡御諒恕あらんことを祈候
小生今回の災害に就ては同人諸君より親身も及ばざる厚き御慰問を賜り御芳情感銘に堪ず候 謹で御禮申上候、本月二日江東橋々畔の假住より舊宅に歸申候、八月十二日夜水潰く家を逃れ出てより約五十日目に歸宅致候譯に候、乍併荒廢を極めたる舊宅は、漸く荒壁をつけたる許に有之疊も障子も無き亂雜極まる生活にて候、そこへ毎日々々の秋雨に候、最早愚痴は止め可申歟、去年の夏幼兒を慘死爲致候てより小生の身邊には禍の神がつきまとつて居られ候、それでも小生は所有災害に反抗し、頑強に奮闘を續け、幸に今日猶幾分の餘勇を慘し居候間乍憚同人諸士の御放念を乞ひ上候
文壇の近事は申上度事限なく有之候へども、順次發刊すべき誌上に於て可申終に臨で同人諸君の健康を祝上候
不一(左千夫)
                     明治43年10月『アララギ』
 
(202) 短歌研究〔九〕
 
   我好む作法 言語のひゞき
 
 好きな歌といふ事は六ケ敷い。好きな歌とよい歌とは必ず一致するとは云へなからう。自分の一番好きな歌はと云へは自分の歌といふ事になる。自分の歌の中にも種々あるが兎に角さういふ事になる。さもなくば自分と思想感情趣味の最も似寄つた人の歌である。これもやはり自分の歌が好きであるといふのと同じ事になるであらう。自分の歌は拔きとして、他人の歌に就いてどういふ歌が好きかと聞かれると比較的好きな歌がないではないが、それも我が好む處に近い歌になる。やはり我歌を好むと精神が同じになる。これは趣味の上に就いていうた話しである。
 これを技巧の上歌の格調形式上に就いて自分の好きなものをいへば、それはいはゞ歌の作法とか何とかいふ方面に屬することである。それを以て直ちにこれがよい歌であるといふ事は云へない。
 それで僕がどんな形式の歌が最も感じがよいかと云へば例の
   あかねさす紫野行きしめ野行き野守は見ずや君が袖ふる
といふ樣な言語の斡旋といふよりも言語を自分の思ふ樣に驅使操縱して恰度言語の繩を手放して放れた言語が猶自分の思ふまゝに働いてる擒縱自在といふやつだ。
(203) 小さな思想の圏内に言語がごて/\と寄り集つて居るのではなしに言語が散兵的に非常に範圍廣く働いて居るのである。故に言語の接續が一句々々に直接に附着して居ない。それにも拘らず作者の感情思想がまとまりを失つて居らぬ。つまり文章と韻文と異る所以の其韻文の特色を模範的に發揮して居る。短歌の形式としては殆ど此以上の作法を考へることが出來ない。
 それでこれを今の吾々の同人の歌に就てさういふ考へを以てどうかといふと遺憾ながらそれだけの手腕を揮つた歌が見えない。どうも何分後世になる程人間の趣味感情が散文的になるのかしらと思はれる。
 吾々の今日の歌もその長所と認むべき點が少くはないがこれを萬葉集などに比較してより散文に近づいて居るといふことは爭ふことの出來ないは事實である。
 三十一文字の形式を以て自分の思想感情を歌はんとする場合にそれが散文に近ければ近いだけにそれだけ歌は小さくなるべき筈である。尚いうておきたいのは、言語と言語とが直接に接續して文章に近い歌は皆いけないといふのではない。韻文の本領といへばさきに擧げた歌のやうなのを好むけれどもそれでなければならぬといふと弊があることを斷つておく。
 人麿の歌に
   ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
の如きは言語が直接に尻へ々々と接續して文章に近い歌であるけれどもこれらの歌は決して惡い歌ではないが、『あかねさす』の歌に比しては到底比較にならぬと思ふ。意味が一讀して明かであるだけ淺薄な感じがする。
 文章に近い歌の最も弊とする處は解り易くして淺薄に陷る處であるであらう。
(204) 赤人の歌
   春の野の董つみにと來し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける
 これ等も相當に認められた歌であるが、僕にいはせるとやはり文章に近い歌で淺薄の謗りを免れないと思ふ。
 詩の品位といふ點から見て含蓄に乏しいといふことは最も嫌はねばならぬ事である。
 『野守は見ずや君が袖ふる』だけでは作者のいはんとする心持は云ひ盡してないのだが言語のひびきは十分に作者の心持を讀者に傳へて居る。
 言語のひゞき――韻文の生命は主として言語のひゞきによりて多く傳へられるものである。言語にひゞきがあるから、離れて居る言語も相鳴響應して言語の有する意味以外の感情を傳へ得るのである。韻文の研究者は此言語のひゞきといふことを瞬時もおろそかにしてはならぬと思ふ。
 我が好む歌とはいはず、我が好む作法といへば以上の如く言語を操縱して其ひゞきの相響應せしむる樣な作法を最も好むといひたい。
 さういひつゝも自分の云はんと欲する意味を十分に言語に通ずる事が出來ない。(談話筆記)
                   明治43年12月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(205) 堀内卓君を悲む
 
 秋は急に寒くなつた。
 今年の秋は、眞に淋しい悲しい秋であつた、予は去年の夏、最愛の幼女を悲んで、間も無く嫂が急激なる病の爲に、一夜の中に此世を去つた、今年の春は又實の姉にも永別して終つた、禍は三重にも四重にも襲うて來る。
 二百年以來の大洪水に逢うては、人世の有らゆる困苦を嘗めた、難を逃れて五十日、秋風漸く身に迫るも被服居宅未だに整はない。
 かゝる間に十月十九日、掘内君の訃報が突然予を驚した、精神の不安に疲れた予は、夢の如き心地に其悲報を讀んだのである、呆然として直ぐには涙も出なかつた、悲しい秋は何處まで悲しい秋であらう。
 掘内君と予との交りは、年處僅に四五年の間で長い交際とは云へないけれど、親しみは決して淺くは無かつた。
 其鹿兒島高等學校にあつて、屡病を訴へられた時には予は、實に慰藉の詞に困んだのであつたが、其後病は思つた程で無く、此夏首尾よく卒業して東京へ歸つた時、血色頗る勝れて居つた、予は悦びに堪へなかつた、病氣は脊髓であるとの事ながら、大學の附属病院でも意外輕く診斷したと聞いて愈安心して、予は心から嬉かつた。
 然るに悲むべし、世にも不運なりし掘内君は、其大學醫院の診察に錯誤があつたとの事である。
 俄に生命に關する樣な事は、決して無い病氣なのだといふに、遂に治療の及ばなかつたは、第一診の錯誤が、(206)其重因を爲したと聞くのである。
 嗚呼不運な掘内君、學業中に病氣をするといふことが、既に大なる不運である、其不運の上に最も頼みに思つた醫師の診察が過つて居つたとは、よく/\の不運であつた。
 予は不運といふことに、今度の如く、強い深い意義を感じたことはない、取返しのつかない、死生の大問題に錯誤をした不運、實に思ふに堪へない悲しい不運である。
 不運といふ一概念の蔭には、云ひ難き悲慘も、限りなき痛恨も籠つて居る。 諦らめるに諦らめられない、遺憾−慘念−怨哀−何と訴ふるに道もなく、せうことなしに不運といふ果ない詞を、僅に氣安めのよすがとして居るものが、世間には何程あるか、判らないのであらう、堀内君の不運の如きが其一つであるのだ、思へば實に痛恨限りなき不運の悲しみである、運命は諦め易い處がある、不運の悲しみは諦らめ難き思ひがするであらう、堀内君の不運の如きは、更に諦め難い………
 堀内君の心靈は、貴い光を包んだ玉であつた、其包まれた光が多く外に現はれない玉であつた、堀内君の不運は、堀内其人のみの不運では無いのである。 死ぬ病氣では無いと聞いて、深くそれを信じて居ながらも、所謂虫が知らすと云ふものか、堀内君の逝く數日前、予は何といふこともなく不圖思ひ出して、
 萬一堀内の病氣が重い樣ならば、如何なる都合をしても今一度逢ひに行くから、良くない樣ならば直ぐ知らしてくれ、
 と久保田君まで云うてやつたのであつたが、其返事の來ない内に、悲報が來たのである、予は物足らぬ思ひを(207)永久に、胸深く殘す事となつた。
 堀内君の寫眞を見ると、どうしても此の世に居ない人とは思はれないが、今はどうしても、此世にては逢はれない人なのだ。
 堀内君が如何なる人であつたかと云ふことは、久保田君の消息が云ひ盡してある、堀内君は、能く自分を解した多くの友人を持つてゐた、我同人中堀内君を解した人は少くなかつた、堀内君は現世に形影を失うても、多くの友人の靈地には、永久に其印影を存して居るに相違ない。
 世に一人の知己を得れば、男子は以て死するに足るのだ、其點に於ける堀内君は、多く遺憾が無い筈である。
 只々不運の悲みは慰むる詞もない、予は此秋の餘りの悲しさに、信濃の諸同人と其淋しさを語るべく、急に思ひ立つて松本に走つた、堀内君の家を訪へば、既に此世を去つた人の居るべき筈もない、音容共に空しく、只それ靈壇寂寞目に映ずるものは、皆現世の色相のみである、一度び幽明遠く隔たりては、心靈も相感ずることが出來ない。
 堀内君の父君と母君とは、涙を呑んで予に始終を語られた、予は日限定めある放とて、聞べき事も聞きつくさず、語るべき事も語りつくさで辭さねばならなかつた。
 それもこれも、あれの不運又私共の不運なので致方もありませんが、實に殘念でなりません………
 打萎れて父君の語られた一語は、今猶耳にあつて同情に堪へない、嗚呼何と云つても最早堀内君は此世の人ではないのだ。
                     明治43年12月『アララギ』
                        署名   左千夫
 
(208) 唯眞抄〔四〕
 
 十一月六日
 漸く快晴が續く、此夜四ツ目の縁日、夜店が非常に盛である、予はやうく整つてくる唯眞閣の庭に植る爲め、樹木を買に來た、橋なりに縱の通りは、雜貨と飲食の露店が隙間なく出て居る、河岸通りの横町が植木の店場になつて居る、菊の期節で菊の花が最も多い、植木の最も多いのは、檜葉である、何故に檜葉が多いのか、最も賣れるから、最も多く賣つてるのであらうけれど、檜葉を好む人が最も多いと云ふ點に何か意味が有りやしないか、何日の縁日にも檜葉が多いから、一寸と以上の樣な考が浮んだのである。
 一人の植木屋が、予に檜葉を買うてくれと云つた時、予は口に任せて、檜葉の木を庭に植ると、役人の庭臭くなるから厭ぢやと喝破したのである、予は突嗟の間に何を考へる暇も無くて、言つた詞であるが、後から考へて見ると、予の喝破は何等かに觸れた樣な氣がする、何となく不思議に思はれる。
 予は五六莖づゝ一株になつて居る杉を三株、貳圓十錢で買うた、ゆづり葉二本で三十銭、柊南天二十錢、竹一株十五錢、翌日それで唯眞閣の庭には、こも/\とした一叢の植込が出來た、予は縁日の樹木の安いに驚くと同時に、錢の尊とさを考へた、唯眞閣の庭は貳圓七十錢餘の木で、然かも立派に出來た、田園生活を誇る人に都會生活を誇て見たいと思ひ出した。
(209) 十一月十二日
 情の有る人と情を解して居る人とは大に違ふといふことを或機會に思ひついた、情を解して居る人は、必ずしも情のある人では無いのである。
 情を解して居る人を、直ぐに情のある人と思ふと必ず後悔することがあるだらうと同時に考へた、殊に兩性間の關係に其弊があるやうである。
                   明治43年12月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(210) 短歌選抄〔一〕
 
      一
 
      〇              神奈桃村
   新年の寢覺の床に幼等に神代の噺かたり聞すも
   幼兒が朝ねの床に枕邊の年玉包に日影さすなり
   福引の寶珠の玉をあらそひて兒等がこぼてば鞠ころげ出づ
長閑に趣味多き家庭のさまが目に視る如く景物も能く現れ情趣も無限の味がある。いづくにもある事柄であるが、其の面白い處を巧みに描出して一讀新年の情趣を感じさせる歌である。
      〇              齋藤茂吉
   櫻花匂ふやまとのかくはしの若き物の夫にみ酒奉る
   かへり來て今日のうたげに酒を飲む海の大丈夫に髯あらずけり
若き軍人を迎へての新年宴會である。男々しき武骨な物言ひの間にも自ら親友の情が溢れて居る。歌とさへ云へば女々しく優しきものと許り思つてる人達に読ませたい。
(211)      〇             望月光男
すごろくのさいにもる目のひと日たち二日はすぎぬ年立ちてけり
   青馬に女神は立たし白玉をまかし給ひて年立ちにけり
      〇              蕨橿堂
   いつしかも雪は消えつつ禿山の山より山を春の風吹く
總じて新年の歌は幼げに罪なきが面白い。
      〇              池谷觀海
   屠蘇飲めば父し偲ばゆ旅衣重ねしままに年越えぬれば
   すめろぎの御軍けみし立ちませる青山の野に春の風ふく
身を祝ひ世を祝ふ詞の中にも、苦勞多き人生の有樣が自ら現れて居る。
      〇              柿の村人
   小春日の岡の芝道|湖向《うみむか》ひ家三つ竝び柿をひさげり
   漕ぎめぐる岸のまがりゆふりさくる谷遠開け雪の山見ゆ
山中の湖邊、空気明るく、水も澄み空も澄み如何にも靜かな趣が偲ばれる歌である。靜かとも澄めりとも云はないで、其の感じのあるのが良いのである。
(212)      〇               依田秋圃
   朝月夜かけ鳴く頃を厩より駒牽きいだし苗市にゆく
   霜日和まがきにかけし干簑にここたも散れる山茶花のはな
ただこれだけの詞なれど、世間のこぜり合に關係なく、氣樂に過す田舍の人の生活が現れて居る。
      〇              胡桃澤勘内
   久方の細みち月夜かげほのに十夜の人の繁き通る見ゆ
   鉦の音の一つ一つに我が心常世のくににたどりゆくかも
祖風の習慣に樂しみ、國士のめぐみに浴して、一郷の民平和に生活するといふ、穩かな空氣が能く現れて居る。
      〇              竹舟郎
   乳房なき胸地さぐりて男手に眠るとすらん見れば悲しも
   汝が悲し落葉する世の寂しさを今か二歳《ふたつ》の胸にや覺えし
緑兒の母なる妻は重き病にやかかれる。若き父は男手に緑兒をはぐくみかねて居る、人の親の痛切な感情である。男泣きといふ事能く人の云ふ事なれど、斯る場合にこそ眞に男泣きといふ心が知られる。
 
      三
 
      〇              本吉柊村
   丘もとや芋を藏めし南受けよき日なたなり梅も咲きつつ
(213)暖き心のよく感ぜらるる歌なり。世間並の歌は春の歌と云つても春の感じなきが多し。春とことわらねば春の歌にならぬやうな歌は文學といふものの上には何の價もなきものなり。
      〇              岡 千里
   村肝のこころまよへか見るものが我が思ふ人の俤にみゆ
   玉きはる聲には呼ばずふみにのみ妹よ背よといふ心なくさに
戀の歌なり。懸も悲しき苦しき戀にはあらず春の如く温く柔かき心の戀なり。           〇              蕨桐軒
   植木むろの鉢のことこと日和よみさ庭に出せば春の風吹く
日の光暖く照るさまの目に見ゆる心地する歌なり。
      〇              蕨橿堂
   春の夜のおぼろの月にたくみらが板削るおとさらさらきこゆ
   足曳のやまにすみやき相かたる妹背をつつみ霞棚引く
都會の人には到底思ひつき得ざる趣なり。寫實の面白味を解せざれば、活きたる歌は作り得べからず。
      〇              望月光男
   神ますとしめゆひたれしはりの木の枝の間遠く日は傾きぬ
寫生の面白味を味ふべし。
   我が病いかによくやと朝雪に訪ふ君を無みあまたさぶしも
(214)   ありよしとすみよしと云ひし平瀬山清き河内あれまく惜しも
穩かなる感情のすらすらと云ひ現はされたるに味ひある歌なり。
 
 
      〇              本吉柊村
   糠雨のふりみ降らずみ朧夜や井の邊笹生にひきかへる鳴く
四の句、井の邊笹生は只七言の一句にしてこれだけ復雜なる光景を寫し出せるに注意すべし。朧夜にひきかへるの聲を聞くは、必ずしも珍とすべからず。井の邊笹生を描くに至つて始めて詩境を髣髴たらしむ。
      〇              大鹽學道
   男山ねぎことありて朝ゆけば宮近くして鶯の鳴く
此の歌を讀むもの何人と雖も、心清々しき思ひせざるを得ざるべし。
      〇              てる子
   我門は菜畑青畑すゑ遠み木曾の御嶽の雪おほに見ゆ
景色も自然なれば詞も自然に出づ。安住せる人の幸福を言外に見るべし。
      〇              佐藤紅東
   烏羽玉の夜行く汽車は白雪の積れる小田に火の子降らしつ
此の如き歌を見ば、歌は無造作に作り得るの思ひすべし。然れども歌を作るは甚だ難きが如くして甚だ易きこと(215)あり。甚だ易きが如くして又極めて難し。此の歌の如き一讀無造作にして、而も能く人をして成程と感ぜしむるの味ひあるを思ふべきなり。
   瓶にさす水仙のもとゆ灯ともして拔き放ち見る三尺《みさか》のつるぎ
趣味の調和より起る崇高莊嚴なる感懷を味ひ見るべし。
      〇              森山汀川
   休み日をうまらにねつつ朝つく日向ひの山を離れて高し
詩趣遠からず。常に座右にあるの思ひあらしむ。四の句五句の、平易にして然かも讀者を動かすの生氣あるを看過する勿れ、是れ白樂天の詩に於て常に見る處の筆法なり。
 
      五
 
      〇              望月光男
   城山に立ちて挑むる山邊野やすすきの宮の森は霞めり
   城山のみなみうけなる麦畑畑うつ人ら陽炎ひて見ゆ
   城山の谷のさくらは咲かなくに春日長閑けみかりそめにゆく
   犀川に舟ひく舟子がふな歌の遠く聞えて花曇りせり
田園子の悠々たる風姿が髣髴目に浮ぷではないか。歌はいづれも平凡であるが、其の平凡な情趣が寧ろなつかしいではないか。能く自然に親む人は、極めて平凡な景色にも強き興味を感ずるのである。常に平凡を樂み得る人(216)は尊い詩人であらう。
      〇              蕨 眞
   みみず鳴く庭のまなかに立見れば梅の青葉に月の笠すも
   井の水の汲みてこぼれしうるほひの土に聲あり夏のおぼろ夜
花の騷ぎは夢の間に過ぎた。永き日は愈永くなつて人は漸く淺く淺宵の靜けさを待つらしい。折柄蚯蚓の鳴くのに心づいて、もう夏ぢやわいと、我れ知らず庭に降りたつたのである。作者は人間の樂むべき材料は天地の間に充滿して居るかの樣に感じて、蚯蚓の鳴くを聞いてるらしい。
      〇              岡 千里
   親ごころ我子が望みに旅路には遣りてすべなく物思ふらし
   父母に仕ふまつりて此の鄙にわれは住まなむ世にうとくとも
夫妻年既に老いて只一人の子を頼みに世を心細く思ふさまらしい。一子又老親の情を安ぜんとして、自己の欲望を絶たんとするのである。眞に優しき日本民族の美質だ。何人もそれに同情を惜むものはあるまい。
 
      六
 
      〇              桃村
   苗代の苗針ほどに水を拔きその針毎に露光る見ゆ
清彩を極めたる斯の如きは實に稀である。針ほどな苗が僅に水を拔き出でて、ささやかな青みに露を持つて居る、(217)朝日さし出でて光の茲に及ぶままに其のささやかな露が光つて見ゆるといふのである。天氣の清々しい朝に作者が田廻りをする趣も偲ばれる。胸の透くやうな歌である。
      〇              山崎生
   日かげ草しげれる上に若竹の皮のちれるをいまだ拾はず
如何にも日の長い初夏のさま、家族も少いのであらう。歌柄總てが靜かな感じである。いつも拾つて置く若竹の皮を今日は日もたけたのに未だ拾はないといふのが、悉く靜かな趣である。
   あらたまの年の端毎に夏されば屋根おほひ咲く桐の鈴花
桐も少くは無いだらうが勿論家は大きくはないのだ。作者の生活も目に浮ぶ心地して、云ひ知らずなつかしみある歌である。「年の端毎に」と無造作に云つた詞の中に世に安じて落ついて居る作者の平生が窺はれる。
      〇              長塚 節
   藪蔭のおどろが中にはへまどひ蕗の葉に散る忍冬の花
   きその宵雨過ぎしかば棕櫚の葉にちりて溜れるしゆろのきの花
寫生の作である。田苑初夏の實景、眞に目に見るやうである。
      〇              三浦麥村
   雲雀鳴く廣野横ぎり村人は旗押立てて兵送りゆく
兵は音でよむ。無造作な敍述であるが、光景眞に繪の如くである。
      〇              まつ子
(218)   草のいほり人は居ぬらししかれども庭に物干し池にあやめ咲く
暢氣に長閑な田舎のさま、庭に物干し家は明けたままに、野べにでも出たのであらう、人の居る樣子もない、作者は稍都びた人であらう。田舍の気樂さに驚き、且深く興を持つたさまが見える。
      〇              岡 千里
   あやめ咲く池の汀の飛石に鶺鴒一つ來ては去にけり
これも靜かな清明な趣である。「鶺鴒一つ來ては去にけり」の敍法は能く動を描いて靜を寫し有を語つて無を現はして居るのである。
      〇              蕨橿堂
   菜の花のにほひかすめる春の日の刀根の河島を舟こぎめぐる
春の永日の長閑な舟遊び、午前か午後かも忘れる許り人生の事の總てを脱却した暢氣な心である。只美しい清い作者の情趣以外、何物をも感じ得ない歌である。
      〇              齋藤茂吉
   梅雨の雨ふれるさ庭にいとけなきかへる子どもが數多跳ね居り
天地は靜かである。作者は無心である。廣大な世界も複雜な人生も何も無い。作者の目には只いとけなきかへる子どもの跳ねつつあるのが面白く映じて居る許りである。作者は人か仙かを疑はせる。
(219)      〇             胡桃澤勘内
   蓼科の裾野のみどり末はろに雲吹きおとす青嵐の風
立ち向ふ我眉近く蓼科の青山の雲を仰ぎてぞ行く
高大なる天地に向へば詩人の心は無際限に大きくなる。空晴れて山は青い、.一望千里の光景を一人の所有かの樣に見なして樂んで居る。であるから大きな景色を見れば大きな歌が出來る。蓼科山は信濃諏訪郡にある名山である。
      〇              堀内 卓
   さ霧はふ朝明を來れば日の下に群屋根ぬれて未だねむれり
   入笠の山のみどりに朝日さし茜の雲の松の間に見ゆ
一讀した許りで其の景色の美しいのに醉されて終ふ。詩人は魔力を持つて居る。どんな事でも一度詩人の手に入つて歌にされると必ず人に刺戟を與へるから不思議だ。
      〇              村上※[虫+潭の旁]室
   玉ならば琅※[王+干]の玉我が大人の御言響ける竹乃里歌
竹の里歌は故子規先生の歌集である。比喩適切で一首の音調能く想にかなつて居る。形なきを形あるが如く聲なきを聲あるが如く歌ふは、言靈なる所以である。
   市人の魚星八兵衛増荒夫もいはぬを云ひて世を動かせり
神躍り氣溢る。能く詠史の體を得たものである。魚屋八兵衛匹夫なれども至誠天を貫く。一首歌ひ得て永久に讀(220)者を動かすべき生氣を有して居る。
 
      八
 
      〇              木村秀枝
   子を思ふこころ隈なきたらちしの汝が母はあれど汝が乳はなし
   安からぬ常夜の夢のしまらくをすかす空乳にほそほそ眠る
   もらひ乳のうま乳に足らひ眠る兒の悲しき面わ罪もあらなくに
三首の情緒と聲調とは、我が子の爲に嘆く、やさしき親心の眞實を、遺憾なく現して居る。いとしい我が生みの子に、與ふべき我が乳は出ないのだ。あらゆる手段を盡して僅に養ひつつあるものの、泣く聲にも力なく、日數は經ても大きくなるさまもないのだ。衰へた其の顔を見るにつけても、實に遣瀬ない親の心は、我が命さへ細りゆく思ひがするのであらう。作者は滿腹の同情を其の憐れな母子の上に傾倒したのである。
      〇              佐藤禄郎
   たまたまに歸へる吾身を力にてさびしみおはす父母悲しも
   世に出でず年經る我れを天が下の力とおぼす事のかなしも
   花咲けど春としもなし父君の病おもへば春としもなし
質朴な詞卒直な態度、そこに人の眞惰が現れる。君國を思ふとか父母を思ふとか云ふ詞には、虚僞が多い、只聲調の響には、心の奥底が現れて僞ることは出來ない、であるから、如何に詞巧みにういことを云うても、虚情(221)の聲調は必ず輕薄に響くから仕方がないのだ。此の三種決して巧みな歌では無いが、只嬉しいのは聲調の響に眞情を傳へて居ることである。
      〇              柳本城西
   春の人こみあふ汽車にゆられつつ立ちつかれけりふけゆく夜らを
新しみが勝てば多くの場合に圓熟を缺く。此の歌の如く新しく而かも詞調圓熟せるものを最も得難しとするのである。
   朝川の風の白きにおもはえつ打つれ遊ぶ家鴨子のとも
春光うららかに見るもの悉く明快なうちに、一群の家鴨が殊に印象の中心となつて居る。事も無げに描出した一幅の詩畫を、直ちに讀者の眼前に展開して、いやでも愉快と云はせねば止まぬ趣がある。
      〇              日原無限
   ゆひなほす背戸の垣根や新粗朶の匂ひうれしく春の雨降る
   ゆれゆれに春湛へたる庭の池に小波立ちて雨ふりそそぐ
考へて作つた歌とは一讀して其の感じが違ふ。實際の感興に打たれて詠み出た歌は言語が平凡でゐて却つて趣味の新しみを現して居るから不思議だ。
      〇              左千夫
   うつそみの八十國原の夜の上に光乏しく月傾きぬ
自註。宗教衰へて精神界には光明とこしへに消えんとしつつある。
(222)   世の中に光も立てず星屑の落ちては消ゆるあはれ星屑
自註。消えて空しき落星の如く、人の多くは何の意義も無く死につきつつ天地は廻轉し去るのである。
   まなかひに見えて消ゆともおのが光り立てて消えなば悔はあらめや
自註。泡沫夢幻の人世にあつて、聊かなりとも、我が思ふ事を爲して死することを得ば以て滿足すべきである。
 
      九
 
     草とり             淺野利郷
   曇る日のあつさ堪へがたし庭草の短かく小きつみあぐみつも
   梅雨のうちに地に吸ひつき生ひ出でて雜草の根の人をぢらすも
庭草の繁りを氣にする樣な人は世の所謂閑人ではない。閑中に事件を求め無事の中に怠屈せぬ人にして始めて清閑の趣味を樂むことが出來る。一木一草の變北にも、天地の心は動いて居る。心靜かな人にあらざれば、これを感ずる事は出來ないのだ。草とりに愚痴を云ふのは、涼風が燈火を消すと等しく、愚痴が一種の興味であるのだ。
     五月雨の一日難一羽死す     科野舍
   いにけると手にとり見れば腹のあたりやや動く見ゆ殘る息かも
   夕さればねぐらにつくと寄りくるに死にたるころを思へば寂しも
人間の心には何人にも可憐な情緒を有して居る。極めて小さな出來事で、少しも人間の問題にならぬ事にも、自分が直接に觸れた爲、大いに心を動して、鳥の子猫の子の死せるにも悲哀を催すのはそれである、詩人が能く小(223)さな事件を歌ふのは、人間の通有性なる可憐な情緒を代表するのである。
〇              石原阿都志
   梅雨にぬれし青目の石のかたへなる水葵葉の縞のよろしさ
   つゆ晴れのゆふほのあかみ紫陽花の花むらが上に三日月の見ゆ
只繪の如き歌であると云ふだけでは無い。其の色彩に潤ひがある、梅雨のぼんやりした景色の中から、明瞭な色彩の材料を發見したのが面白い。
      〇              神奈桃村
   緑せる甲斐の群山拔き立ちて富士目にとまる夏は來にけり
   素袷をかたはだ拔きて若葉さす林に一人弓引くやたれ
晴々した初夏の感じが、心ゆく許り能く現れて居る。作者は田園の人である、いつの間にか周圍は夏になつたのを、始めて氣づいた樣子が又能く田園の人を現して居る。
 
      十
 
     八月十六日馬追を聞く.     望月 光
   庭草に夕吹く風の涼しけく秋なるらしき蟲の聲かな
   はらわたにとほり聞ゆる秋蟲のスイトの聲にいくど泣きけん
作者は弱々しい人である、空氣も澄んだ靜な夕暮に、我が生の悲しきを感じて、我知らず蟲の聲に動かされたの(224)である、我れと悲むは我と我が生を慰むる自然の作用から起る。併し其の悲みが詩となり得る人は神の寵兒と云はねばならぬ。
      〇              蕨 眞
   松並木秋の日漏りて凰のむた秋萩ゆらぎあきつ舞ひ來も
   青空に浮ける白雲櫻葉の紅葉の映えに風吹き渡る
秋の空のうら安く晴れた、晴れ心地のよい光景に對して、作者も氣安く心輕いさまが、詞句に溢れて居る。白雲紅葉の敍法も極めて自然で、一層愉快げに讀まれる。
      〇              寺田 憲
   嵐立つあらゝ松原たちまちにさ霧あとなく月押し照れり
   岩かげや雲の雫におひにけむ天の香に嘆く白百合の花
胸にとゞこほりの無い人は、どうしても其の聲が晴れ/”\として居る。始の歌景色が既に快濶ではあれど、其の聲調が更に快濶である。物に屈託のある人ならば縱令同じ景色を見てもかうまで快濶には歌へないであらう。次なる百合の歌なども、「天の香に咲く」などいふは、等しく快濶な胸から溢れた匂ひと云はねばならぬ。
      〇              岡 泰元
   赤くのみ見つゝ經にける鷄頭の花已に老ゆ寄する語もなく
   大根の二つ葉匂ふ月の畑に聲の老いたるこほろぎの鳴く
前二作家の系の如く、何時も/\心晴れ氣安き境涯の人ではない。身一定の勉めに勵めばおのづから天然の變化(225)にも心づかぬ場合が多い。もう秋も暮れるかと驚いた時に、鷄頭も色が老い、こほろぎも聲の老いたに心のさびしさを禁じ得ない。一首の聲詞も朗快でないのが却て其の自然を痛切に感ぜしむるのである。
                 明治43年1月〜9月・11月『臺灣愛國婦人』
                           署名 伊藤左千夫
 
(226) 短歌研究〔十〕
 
   木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり (茂吉)
〇左千夫評。この歌は面白いといふ人と、解らぬといふ人と二樣に見られた歌である。それで、先づ作者にその意味を尋ねて見ると木の下で梅を食つたら酸い吾が幼な妻は人に恥らふ樣になつたといふ意であるさうだ。で僕の考へは面白いといふ人にも全然不同意ではない。解らぬといふ人にも同意せねばならぬ。面白く感じたのも事實である。面白く感ぜぬものを面白いといはるべき筈はない。それと均しく解らぬといふ人の説も事實である、解らぬといふ人は先づ一首の意味を辿つて内容の纏まりを得られなかつたからいふのであらう。面白いといふ人は意味のまとまりなどは凡そにして趣味の感受を面白く感じたのであらう。この歌の價値を吟味する前に兩種の批評者の見方に就て先づ僕の考へをいうてかゝらねばならぬ。批評がくどくなるのは斯くの如き歌の性質上已むを得ない事である。
自分が先づ此歌を面白いと見たのは一首全體の價値に就ての感じではない。幼な妻所謂その子供々々した許嫁の妻が漸く女心がついて人に恥らふやうになつたのを夫になるべき人が側面より見て氣付いた情趣を捉へたのはこの作者の獨創的なる着想で先づそこが非常に面白い。で、それを人にさにづらふなどいふ新しき言語を造つていうてあるのでこの點は誰でも一讀して面白く思うであらう。さにづらふといふ事は只ほんのり赤いといふ意味で(227)ある。それを人に恥らうて顔を赤らめるといふ意味に働かせた使方は全く作者の創造である。
その若い少女が人に恥ぢて顔を赤らめるといふ場合を現はすのに人にさにづらふというたのは實に巧妙の極である その一點に於てもこの歌は激賞するの價あるものである。先づ面白いといつた評者の動機もそこにあらうか。
 然し乍ら、それは到底部分的の見方で一首を纏めた完成な作物としての見方ではない、先に若山氏の歌を評する時にもかういふ場合に遭遇した事がある。それは一首全體の纏まりを凡そに見ておけば面白いがといつたのがそれである。
序であるから少しくその意味を説明しておかう。凡そに見るといふ事は客觀的の態度からいふと、距離の如何といふ問題になる。例へば繪を見る事に就ていうて見ると檜畫は顔を畫面につける迄近づいて見るべきものではないにしても適度以上の遠距離より見れば大抵の繪は面白く見える。凡そに見れば面白いといふのがそれである。適度以外の遠距離から見て面白いからといつてもそれによつて繪畫の價値をきめることは出來ない。繪畫を見るには繪畫を見るべく適當の距離を標準として觀賞してその繪畫の價値を評すべきである。遠距離より凡そに見て面白いからというてどこまでもそれを面白いとするは正しき見方ではない。品川の臺から横濱を望見して横濱を美しいものであるといふのに均しい誤りである。遠くから見て美しかつたから横濱は何でも美しいものであると先入的感受を固守して、如何しても横濱を面白いものと見ねばならぬといふ見方は所謂先入見に囚はれた見方といはねばならぬ遠くから凡そに見た爲に面白いのは歌そのものの面白いといふよりも凡そに見るが爲に面白いのである、であるから正しき批評は作そのものより直接に得た正しき感受でなければならぬ。
それでこの歌を面白いと見た人を誤つて居るとはいはれないけれど正しき見方ではないといひ得るのである。見(228)方が既に態度を誤つて居るとすればその評定に種々の誤りが含まれて居るといふ事はいふまでもない事である、殊に、一面に解らぬといふ人のあるのをも顧みずして評者が自己の凡そなる考へを以て一種の意味を獨斷的に解釋して了ふ事は甚だ危險である。かういふ態度は往々作者の作意に反した見當違ひの解釋に陷るの弊がある。作者が居るならば、先づ作意を問ふのが順序である、作者にその作意を問ふ事が出來ないならば解らぬ點はどこまでも解らぬとして、獨斷に陷る解釋は避けねばならぬ。予はこの歌を面白いというたのは部分的の面白味に就ての感じである。凡そに見て、面白かつたこの歌を更に精細に見直して見る段になると種々な缺點がある。それでこの歌を解らぬといふ評に就て少しくいうて見ればこの歌の意義の統一が不十分である所に強く注意を惹いた爲に部分の面白味を顧みなかつたといふ不親切な點がある。けれども前二句の『梅はめば酸し』といふ意味と少女が人に恥らふやうになつたといふ事柄と、この二つの意味がどういふ點に於て交渉して居るかといふの不可解なる事は爭ふ事の出來ぬ事實である。
この歌の言葉の儘でこの二つの意味に交渉がある樣に見るのは第一接の先入解に囚はれた見方である この歌を解らぬ歌として見捨ててしまふのは酷であるけれどどこ迄も面白い歌として解らぬといふ人の見方を斥けて了ふのも誤つて居る。
 面白いといふのは理窟でなくて感じであるから、人の面白いといふのを理窟で面白くないと打ち消すといふ事は出來ないけれども進歩した賞觀は必ず根底に合理約分解の批判を持て居らねばならぬ。
 そこで予は少しくこの歌の分解を試みよう。
 この歌の心を口語にいうて見れば、いつのまか春も過ぎて若葉の夏となつた。梅の實もいつか目立つ大きさに(229)なつて酸くなつた。昨日まで子供であつた幼き妻もいつのまか人に恥らふ樣になつた。自分と幼妻との關係も變化することになつた。かういふ意味と情とを歌はんとしたものであるとすれば、この歌の言語の配置は頗る妥當を缺いて居る。單に梅といへば梅の酸いのは當然の事である。それを殊更に梅を食へば酸いといふのは何の爲であるか、時間の感じからもう梅も酸くなつたといふならば聞えて居る、それをだしぬけに木のもとに梅はめば酸しといふのは頗る言語の自然を失うた言葉である。感情をいひ現はした自然の言葉でないから言語に何等のひびきがない。言語のひびきといふ事は前號に於てもいうたが異る意味の二つの言語が意味以外に交渉し得るに到る理由はその二つの言語が有するひびきの働きに待たねばならぬのである。この歌の初二句の言葉に既に情調的のひびきがないから異つた意味の下の三句に交渉し得られないのは當然の事である。
梅酸しといふ言葉もきれて同時に意味も切れて居るこの切れた言葉切れた意味で何を以て下の三句に交渉を起すべきか。俳句に於てはかういふ切句の接合は珍しくないけれども多くの場合點呼的な俳句の句法を何の用意もなく歌に用ゐるといふ事は寧ろ無法といはねばならぬ。單に意味の上から見ても梅はめば酸しの現在的なる叙事と下三句の少女が人に恥らふ樣になつたといふ時間の明示し難き事柄に接續せんとするは言語の自然を得てをらぬと思ふ。
 次に結句の『時たちにけり』であるが『春たちにけり』『秋たちにけり』春のけしきが空に立つた 秋の景色が空に立つたといふ感じを特つて居る言葉と、若い女が人に恥らふ樣になつたといふ感じとは言語の働きが非常に異つて居ると思ふ、されば、春たちにけり、秋たちにけりは甚だ自然にきこえるがこの歌の『時たちにけり』はこの歌の想と甚だ不調和であると思ふ。それで時たちにけりは寧ろ時が過ぎたといふ意味になるが自然でこの歌(230)の意味の樣に使ふのは無理であらう。これも言語の自然に反した無理な言ひ樣であるとはいはれなければならぬ。尚言語の趣味の上からいうても人にさにづらふといふ婉曲にして柔みのある言葉の下に時たちにけりとは餘りに堅く強く明瞭すぎた言葉である。赤松の枝に一枝黒松の枝が生へて居る樣である。光琳趣味の描法に狩野派の筆つきが交つて居る樣な感じである。
 終りに一言いうておきたい。吾々お互に努力しつゝある今日の歌はこれはいけないだめだ これは面白いといふ樣に單純にとるか捨てるかといつてしまはれないやうな歌が多い。隨て批評がくどくなる事を免れない。
   いさゝかの丘にかくろふ天の川のうすほの明りその丘の草    (柿の村人)
〇左千夫評。齋藤君の歌で長くなりすぎたからこの方は略評で御免を蒙らう。一讀して作者の感興に入つた心持は解る歌であつて面白い歌であるがこの歌の内容を組織的に見るならば締りが足らない感じがする。言語のすべてが、弱々しくて何となく重みが足らない。從つて作者の感興をそれ程強くなかつたのであらうと思はれるのだ。薄墨で書いた繪を見るやうな感じがする。
讀者からいふと感じの印象が弱いとも云ひ得る。
 結句『その丘の草』と呼びかけた作者の感興も頗る不明瞭である。天の川のうすほの明りにその丘の草が見えたとするとどうかしらといふ疑念も起る。うすほの明りはうすほの明りで、その丘の草はたゞその丘の草であるといふならば、その丘の草がどうしたのであるかと問うて見たくなる。
 強い刺戟といはずとにかく身答へのある刺戟を讀者に與ふるには今少し言語にも内容にも強い力をほしい。
(231) 要するに作者が希望したらしい表現は無いといはねばなえらぬ。
明治44年1月『アララギ』
 
(232) 唯眞抄〔五〕
 
 十一月二十八日、荒れに荒れた居住も、近頃壁が出來疊がはいつて、漸く住むべき家らしくなつた 居住が稍整うても、精神猶落ちつかないのは、烈しく受けた内心の動搖が、未だ靜まる時機に達しないからであらう。
 精神の不安を不安ながらに一日の閑居を貪り、籠庵獨居、久振で茶に親んだ、陶器や釜や、古畫一幅の靜けき、釜の煮え香の燻り、茶事の面白味は益趣味の深きを覺ゆるも、近く切實に感じた、人生是れ苦の思ひは容易に消ゆべくもない。
 初冬の靜寂夜晩く、沈んだ釜の煮え音は何事かを、さゝやく如くにも、又深く人生を悲む我が心に共鳴するかの樣にも聞える。
 人生の悲みを共に語り共に泣き得る人があつて、詩作に茶事に相慰め合ふことが出來るならば、などゝ、考へは益我れを悲みに誘ふのであつた、夢のやうに不思議な一夜であつた。
 
 十二月一日、朝日が南窓の障子に、明るい輝きを投げかけて、四壁の室内が外處《そと》よりも明かである、例の如く閉籠つて、暫く獨坐沈心の興に耽つた。
 壁の趣味を愛して、四壁居の印を造つた程であつたけれど、今日始めて壁に籠つた感じと障子襖を閉て籠つた(233)感じの著しき相違に氣づいた、障子も板戸も襖も壁も外の見え透ぬのは何れも同じである、障子は明りを透すから別としても、板戸も襖も明りを透さぬ事、壁と差別はない、併し籠つた感じは、それ/”\皆異つて居る、感じの説明は出來ないが、壁に籠つた心地は一層籠居の感じを強くする計りでなく、其籠る心地に一種云ひ難い趣味がある、古人が洞穴に籠つて聖書を寫したと云ふ詩趣も偲ばれるのである。
 今にして四壁の一室を作りながら、南にも西にも窓を作つたことを悔た、夏になつて風透しの良い樣になどと思つたのが、抑も俗な考であつたのだ。
 古い茶室は大抵洞のやうに作られ、入口も極めて小さくニジリ上りといふは、殆ど穴から這込むやうであるが、なぜそんな事をしたかといふ旨意が今日漸く解つたのである。
 壁に籠るのは土に籠るのだ、土に籠る…………實に靜かな親しい感じである。
                      明治44年1月『アララギ』
                          署名   左千夫
 
(234) 〔『アララギ』第四卷第一號消息〕
 
粛啓
明治四十三年が四十四年になり候ふとて、そこに何の意味も無之候。人間といふ奴は妙に形式を氣にするものにて候。そこで一月といへば、何とかそこに一月らしい事をして埒もなき滿足を得むとする者に候。そんな事に頓着なく居ようとしても吾々も人間の仲間である以上はそれを平氣で居る譯に參らず候。
偖アラヽギも第四卷といふ事になつて、新らしき活動に行くべき標示を掲げねばならぬ事に相成候。
毎年同じ事をいふ樣なるが、やはり去年の成績を稽へて本年の新なる道に入るといふ事は無意義な事の樣にて中々深い意義ある事を思はしめ候。
四十三年の歌が四十二年よりも如何に變化し如何に進歩したかといふ事は一片の消息にては盡し難く候。創作の事は見樣の如何によつて種々に區別さるべき事に候へ共何人の眼からも昨年のアラヽギ紙上に於て目に立つた事は議論の進歩したといふ事に候。昨年の初號に於て、何故に歌人に議論なきかと喝破した吾々は、吾々先づ自身相當の議論を試み申候。たゞ議論をしたといふ事は敢て誇るに足るものには無之候へども、吾々の聊か誇りとする處は今日甚古人も今人も甞て論究せざりし點にまで精細に深酷に新たなる闡明を試みたる點に候。詩に於ける内容と調子との關係、言語と思想との關係、言語のひゞきは、言語が有する意味以外に於て詩的表現上深大なる(235)意義を有することを論究したるが如き、歐洲文明國の詩論と雖、恐らくは是より以上出でざるべしと切に信ずる處に候。
茲に一言したきは、吾々の議論の進歩は、西洋人などの書きたる美學概論などを讀みかぢつての、空想半分の議論にはあらずして、盡く短歌製作上の實驗より得來りたる點に有之候。
吾誌同人の創作がその進歩せる詩論に如何の程度まで相伴ひたるやの成績點※[手偏+僉]は本年の論壇に於ける好題目たるべくと存候。
歐州文明の趣味思潮澎湃として吾藝術壇に浸入し、有ゆる藝術がその影響を蒙らざるなくその弊と利と相錯綜して甚だ蕪雜混亂の状を呈するの觀なきか。今後幾多の變遷を經て渾然たる成功の日あるべしと雖も現時思想界の混亂は識者をして擯斥せしむるものあらざるか、我大和民族が有する二千年の文明史は幾多外入の趣味思想を大和民族が有する本來の思想感情に融化適合の宜しきを得しめたるに非ずや。吾々は飽くまでもこの偉大なる歴史を有する處の日本人さながらにして、世界文明の事業に參加致し度きものに候。吾等の純日本詩たる韻文の研究は廣き藝術壇の上より見れば區域甚だ少なるものあるべしと雖、大和民族が有する趣味思想の純粹なるものなることを誇りとするものに候。その民族の有する藝術はその民族の純粹なる思想ならざるべからずとは世界の達識が夙に論じたる所に候はずや 吾々は聊か現時の思想界に戒告して切に諸同人の自重を望む所に候匆々。(左千夫)
                   明治44年1月『アララギ』
 
(262) 唯眞鈔〔六〕
 
亥一月三日。
 朝、雜煮餅を食ひながら、不圖考へた。己れに似た作物を褒める人は小さい。漱石君は自分に出來ないと思ふものを見ると屹度褒る、子規子もさうであつた、誰が何と云つても、子規子や漱石は大きい、それに子規子は人に逢つて、いつでも、多く人から話を聞きたがつた、さうして餘り自分の話を人に聞せようとしなかつた。
 自慢話を無遠慮に人に話したがる樣な人は、多くは高の知れた人だ。表へ年賀の客が來た。餅を大騷ぎに呑込んで出たら、もう歸つて終つた。
                   明治44年2月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(263) 唯眞閣夜話〔一〕
 
  一月廿一日夜、左千夫先生を訪うて、いろ/\短歌に對する話をして戴いた。今其重なる事を口授して戴いて『唯眞閣夜話』と名づける。吾等はこの夜話にょつて得る所が必ず多いだろうと信ずる。私は爾後先生を訪うて、なるべく毎月のアラヽギ紙上に種々の話して戴き度いと思つて居る。同時に讀者諸君よりの反響を待つ。(茂吉記)
 
突然來られてサア話せと云はれると、一寸まごついてしまふ。種々思ひ付いた事が澤山あつた樣に思ふけれど話出す小口《こくち》が明かないと腹の中で種々の考がごたごたして糸口が上つて來ない。特に今夜は少し酒を飲んで頭の工合が惡いから尚更考の纏りが付かない。かういふ時にサア話せと云はれると實は困つてしまふ。デ今夜の話は後で見たらば意外つまらないかも知れぬ。柿の村人君の歌に就て少し言つて見よう。
柿人君の熱心なる態度、自立的な態度、何時も人の先きに立つて進んで行く樣な態度は僕が最も尊敬する所である。自ら燈火《ともしび》を捧げて自分の進まむとする處に進み行く其態度は何處までも自立的であつて、他が人の燈火を望んで追ひつゝ行くのとは全然選を異にしてゐる、尤も或程度以上の創作家は必ずこの自立的態度を有するのが勿論であるけれども、柿人君の其態度は著しく人の注意を牽くのである。さうかと云つて柿人君のその態度が自ら多くの人の先きに立つて他を指導せむとするの意味を有して居るのではない。自己の作物を得るといふ點に於ての其の自立的態度が目に立つのである。それが自然に多くの人の中に一頭地を拔いて居ると僕は見て居る。僕が
 
 
     (264)批評的態度で柿人君の前進する態度を眺めて居ると其處に僕の云はんとする處が幾つかに分れて來る。
去年の半ば頃から今年一月のアラヽギにかけて最も異色を放つたのは淺野梨郷君、内田芋の花人君、中村憲吉君等であるが、この三人の創作家の前進振りを見て居ると只愉快で心配の要らない思ひで見て居られるが、それを柿人君の態度に比べると柿人君の前進振りは僕をして一面には快哉を呼ばしめて一面には不安を抱かしめる。その僕の今言うて見ようといふは、僕をして不安を抱かしむるといふ點にあるのである。(此處で僕の不安といふ言葉は穩當で無いかも知れぬ、併し今適當の言葉が思ひ出せないから左樣言つて置く。)
其は柿人君の態度が前に言ふ通り特に他に優れて自立的に前進しつゝあるから、謂はゞ側面から見る人をして多少の危さを感ぜしめるのであらう。其ばかりでなく柿人君の前進は殆んど側目を振らない態度である、尚言ひ加へると自分の過《あやま》ち若くは蹉づきをも敢て意としないといふ樣な趣がある。(これは柿人君がそういふ自信を以てするのでは無からうけれど側から見るとさう見えるのである。)
人の後を追はぬといふ事は議論にも創作にも最も嘉すべき事であるが、それに伴ふ幾分の弊害を顧みないと入るべからざる處に入つたり、守るべからざる事を守つたりして其を後から見る無駄な努力になる事である。人より早く歩るいて何時も人より先きにあるといふ事には其に伴ふ自然の結果として或は前進の一歩を過り、若くは蹉きなどする事は當り前であるから其は敢て苦にするを要せずと言はゞそれまでゝある。併し慾にはどうか無駄足又は蹉くなどいふ事をせずに前後左右を顧みて何事もなく進んで行き度い。
かういふと僕が聊か柿人君を貶する樣に聞えるが僕は貶する積りで言ふのではないから此處は誤解して貰ひ度く無い。
(265)もう少しく詳しく言うて見ると柿人君の創作的態度は面白さに誘はれて我知らず進むと言ふよりは此處に面白い處がある。彼處に面白い處があると、その面白さを感ずるといふよりも面白さを自覺するとふ事が何時も先きになつて居るらしい。
花を見て只面白さに興ずると言ふよりは、この花が面白いのだと意識する力が勝つて居る。僕が柿人君の前進振りを側から見て居て幾分不安を感ずるといふのは、感情の動きよりも意識の力が目立つて見える時である。柿人君の近作に就て、僕が幾度か思ひ付かせらるゝ事はその作物の上に作者の興じた趣は充分に分つて居りながら、作者の感じた其感興を會得するのは何時も智識の方面からであつて直接に感じの上から會得し得ない事が多い點である。さう云ふ歌を見る度に前言つた通り意識が勝つて居て情緒が足らない事を感ずるのである。一例を云へば第三卷八號の
   いと強き日ざしに照らふ丹の頬を草の深みにしみて思ひし
   草の日のいきれの中にわきもこの丈けはかくろふわが腕のへに
   夏草のいよゝ深きにつゝましき心かなしくきはまりにけり
以上三首に就いて言うて見れば、作者が或る若い女と連れ立つて暑い夏の日に草深き野べを歩いて前後に人の通行も無く只二人して歩るきつゝある場合に、両性間に於ける一種の情緒の動きに深き興味を感じて作られたといふ事はその三首を讀んで充分に意識する事が出來る。その詩題は非常に新らしく非常に面白い。それにいたく反響を引いた作者の自覺は確かに尊い値がある。併しながら、この三首の歌を反覆吟味して見るとどうしても意味の上に會得するのみで、言語の上に作者が感じて動いた情調のゆらぎが表れて居ない。少し酷評かは知れないけ(266)れどこの言語の上とはその詩題の輪廓だけしか表れて居ない。『丹の頬を草の深みにしみて思ひし』と言つてしまつては、己《オレ》は斯う思つて居ると、自分の考へて居る事を意味の上に説明したまでゞある。僕は如何に自分の心地を靜めて見ても、この句から情調のひゞきも、ゆらぎも聞く事が出來ない。
第二の歌で、『我妹子の丈はかくろふ我腕のへに』とあつても、矢張さうである。この句に作者の内的感情の動きが少しも表れて居ない。
第三の歌の『つゝましき心かなしく極まりにけり』も前二首の句と少しも異なる處が無い。
要之、輪廓的意義の説明に過ぎ無い。
柿人君が以上三首の如き好詩題を自覺的に捕へて居ながら、それを創作化する用意と態度とが餘りに無頓着でありはしまいか。折角面白い花畑を見付けながら、それを充分に自ら賞觀憧憬する事は爲ないで、第三者に、此處に面白い花畑がある、面白かつたぞと立札をして過ぎ去つた樣な感がある。僕が柿人君の創作的態度に不安を感ずるといふのは、折角捕つた好詩題を取扱ふに就ての用意に苦心を缺きはしないかと思ふ點である。人より先きに進んで續々詩境を發見して呉れることは實に有難く思ふけれども、それを創作化する用意に就て今少しく顧みる處あつて、自己の不足を氣付いて、それを補ふべき工夫を考へて貰ひ度い。尚斷つて置くがこれは柿人君の短處の方面を言うたので、柿人君の長所の方面には僕をして讃嘆せしむるの作ある事は勿論である。批評家としての柿人君に就て、少し言ひ度い事はあるが其はこの次ぎにする。
                   明治44年3月『アララギ』
                     署名   左千夫
 
(267) 茶の煙〔一〕
     ――唯眞抄改題――
 
二月四日
節分といふ事の意を、始めて解し得た時から、殆ど四十余回の節分を經過した。
節分は幾十回繰返しても、予の心には只予が七歳の春、始めて明日から春になるの心を會得した時の印象より外に、少しも新しい印象は無い。
それで節分と云へば、何時でも必ず其幼時の印象を思ひ浮べて、盡ることの無い愉快な感情に樂むことが出來る、生地《きぢ》な心へ始めて與へられた、善印象は甚だ尊いものであるらしい。
 
寒い暮色が降りてきた、背戸山の推森の上に、僅に夕陽の名殘が流れて居る、正月五日を過ぎて未だ二日日であるから、家の圍り軒の砌り、黒い土に掃木目がついて清がくしく兒供ながらも氣持がよかつた、見ると屋根の軒口高くに、をかしな物が出してある 二間許の竿の先へ、目籠を倒さに釣りさげてある、籠の中には柊と胡頽子の枝などが取つけてある、竈屋の奥から、手拭冠襷掛けの母が急ぎ足で出て來た。
「オヽ歸つたかい、おまへあんまり遲いからな、お母さんが今迎に往かうとした處だ、それやよかつた、早く(268)上へあがつてな、床の間や佛壇へ燈明をつけてくろま、
 「お母さんこらあんだがい、
 「今夜はない年越だから夜になると鬼が來るつちから、かういふ事するだよ、豆をいつてやるからな、
自分が燈明をつけると父は圍爐裏に火を燃した、さうして何時もの樣に、爐端の正面に据つてる 其内に飯になつた、今夜は家中夜仕事は休みだつた それで家中が爐端の圍りへ集つた、父から年越の譯《いはれ》を教はつた、父はいり豆十二粒を火の端へ並べて燃してる、右から數へて十二の豆は十二ケ月に擬してあるのだ、それで燃した豆の白いのが天氣で、黒いのが雨といふ占になるのだ、燃て終つた後父は、今年は天氣都合がえいと云つて喜んだ 母や姉やは頻りに今夜は鬼が出るといふ話をして居る、どことかの酒呑婆さんが、酒飲んだ勢で夜晩く歩いてとう/\鬼に出られて殺された さうして顔の皮を剥がれて居たといふ話をして聞かせたけれども自分は其話を面白く聞いて少しも恐しいとは思はなかつた、却て先刻父が豆を蒔いて、福は内鬼は外と大きな聲で呶鳴つた方が氣味が惡かつた。
それで何となく氣持がよく深く心に感じた事は、父も母も等しく、今夜寒が明いて、明日から春になるのだと云はれた事であつた、俄に寒く無くなつた樣な氣心になつた、明日の朝は早く起て行つて背戸の田に氷が有るかどうかを見やうと思ひつゝ、快く眠つたのであつた。翌朝は遊びにかまけて、背戸の田を見ることを忘れて居つた 十時頃に始めて氣づいて背戸の田を見に行つて見ると、成程氷は少しも無かつた、水の上には、小さな泡が浮いて畔は霜が解けて土が黒くなつて居た、成程|寒《かん》が明いて春になつたから、氷も無くなつたのだなと、つく/”\思つた事を、四十年後の今日まで有々と覺えて居る。
(269)九十九里の濱では、節分と云はないで年越と云つて居るのである。
予は以上の如き印象を覺えて居る爲めか、節分と云へばどうしてももう暖かいと云ふ氣になつて終ふのである。
                     明治44年3月『アララギ』
                         署名 四壁道人
 
(270) 小説「分家」を出すに就て
 
長篇の小説を書くのは、僕は今度が始めてゞある、で今それを出し始めるに就て豫告をしろと云はれ僕は聊かまごついた、今度始めて長篇の小説を書く程の僕に主張の抱負のと云ひ得る資格は無いのが當然だ、
それで僕は今、僕の小説を讀でくれる人々に只左の數言を見て置て貰ひたいと思ふ。
僕は不幸にして小説に就て自分の崇拜し渇仰し得る議論に接して居ない さうして又作物の上にも是れは理想的小説だと思つたものを讀んだことも無い、それで僕は無學な詩人である四十八歳の男である。
是れだけである。
               明治44年3月13日『東京日日新聞』
                     署名  左千夫生
 
(271) 八行欄「雨の花野」
 
       〇
   雨の花野來しが母屋に長居せり
に就て種々に諸子の議論あれど小生は歌人として歌を研究した見地から少し申上げて見たい 以上一句の言語及び意義の組織を分解して見ると俳人諸子の未だ言及せざる幾多の欠點があるけれど小生は此句に就て第一に咎めるのは言語の自然を無視(或は氣が付ぬのか)した事である 母屋と云ふこと文字の通り母屋であつて只本家若くは家と云ふのとは違ふこと勿論である 此句
       〇
で母屋の語が働いて居るとすれば花野といふ語は死語とならねはならぬ それと同樣の意で反對にも云はれるのである 母屋に長居したと云へば一の屋敷内の離家か何かに居る人の言ふべき語である さうして花野といふ語の出る場合は何等の制限も無いのである 此の如く全く働きの性質を異にして居る言語が一組織の中に働きを一致し得べき筈が無いことは云ふ迄も無い話である 單に一句の意義からいふならば雨の花下とか雨の花庭
       〇
と云はねばならぬであらう 如何程廣い邸内にしても母家と離家の間を野とはいひ樣が無い 我々歌人側では目下(272)詩の内容に関する言語の自然といふことを研究して居ます 不自然な言語は正しき意義を達し得ざるのみならず詩味感情を攪亂するのである 小生等のかいま見る所では此句計りではない 新傾向の句に殊に不自然な言語が見える 一寸としても碧梧桐の句 柑子の下菊枯るゝ蘭もやたら植ゑ なども言語に不自然な點を認める。
                     明治44年3月『懸葵』
                     署名   左千夫
 
(273) 短歌研究〔十一〕
 
   ものこほしくありつつもとなあやしくも人厭ふこころ今日もこもれり (左千夫)
 左千夫曰。吾れ自ら吾が歌に就ての考へをいふ事は作物その物の爲に利する所あるか否かといふことは考へねばならぬ問題であらう。作者自らが餘り云ひ過ぎない所に讀者の味ふべき餘地を存して居る場合などには作者も餘り云ひたくない。讀者も餘り云うて貰ひたくないかも知れぬ。併し吾作物を研究の材料に提供して歌を作る者の參考にしようといふ場合は單に歌を味ふのとは其要求の精神が異つて居るのであるから兎に角是非ない次第である。元來研究的に或作物を分解評論するといふ事は頗る殺風景な仕事である。かういふ點から思ふと自分の愛する所の作物を研究の材料に提供するといふ事は一種の犧牲的精神に基くといはなければならぬ。
 さればこの歌の如きも作者自らの考へを述べた爲に圓滿なる讀者の興味を損するかも知れぬ。この歌は作者自らが得意というては妙であるが兎に角自分では遺憾の少い歌である。
 この歌は、意味の上に於ては説明を如ふるの必要も無からう。言語の意味も其情緒も言葉の上に現れた通りである。併し連作中の一首であるから今自分のいふ所を見てくれる人はこの歌の前後にある歌を讀んで置いて後に見て貰ひたい。この歌と連續して居る一聯の連作は自分が非常なる天災に逢うて生活的生存の上に非常な危殆を感じて隨分長い間連續的に精神の波瀾を持つて居た際であるのに、ただでさへ物寂しく種々な哀情を促さるる霜(274)枯の時期であつた。加ふるに陰鬱な冬の曇りは三日も四日も續いた時である それに堀内君などの意外な訃音を傳てきた。自分の内心の不安に加ふるに更に友人の死を悲しみ一日の陰鬱な冬の曇りを何ともいへなく寂しく感じたのである。この際の自分の一種の哀情はただ寂しみを飽くまで寂しがり、悲しみを飽くまで悲しがる外に吾れを慰むる道はなかつた。かういふ場合に心ない人に來られることは勿論のこと、少しでも自分と感情の異つた人に接することはわけもなくいやであつた。『人厭ふこころ』といふのは理窟も何もないただいやであつたのだ。それで自分一人で籠つて居るといふ樣にならせられたのである。この歌はただそれだけの心持をそのままに歌うたまでである。この歌を技巧の上から見ていふならば第三句の『あやしくも』といふ言葉はどういふものかと自分でも考へられるが、自分はこのあやしくもといふ言葉は此際無造作に出た言葉であつて、それ程の意味を考へていうた言葉ではない、寂しい悲しいといふ心持を害ふまいとする心から自然に人を厭ふ樣になつたのであるから別にあやしくもと自らの心持をあやしむ必要はないのであるが此際自分があやしくもと出た言葉はただ(をかしく)人がいやになつた位の心持である。この言葉のこの歌の中に於ての働きはその位輕く見てほしいのが作者の望みである。讀者の感じはどうであるか、自分はそこ迄は考へなかつた 第五句『今日もこもれり』の『も』の一字は曇る日が續いたといふ事と、當時の寂しい哀情の連續とを意味する肝要の一字であるといふことを注意してほしい。
 もう少し云ひ殘した事がある。この歌とこれに關聯した前後の歌に就て自分は思想若しくは材料に就て少しも新しいと思つては居ない。句法若しくは言語の斡旋等の技巧の上にも少しも自負し得る所はないと思つて居る。ただ一つ見て貰ひたいと思ふ點は數首の上に通じて現れて居る、作者當時の寂しい心持がありはせぬか これは(275)自分が只管さう思うて居るから自分にのみさう見えるのであるかしらんと思ふが、茲は虚心で讀んでくれた人の感じをきいて見たい。
 歌の内容即ち思想材料に取立てていふべき筋もなく技巧の上にも格別他に勝れて居るとの自信はないのであるから、此歌に意味以外の作者内心のひびきが現れて居ないとすればこの歌の價値を主張することは出來ない事になる。自分は今詩作の研究上材料とか題目とかいふ事に藝術の成功的價値を認むることは甚だ尠いのである。創作社諸君若しくは與謝野晶子氏等の歌などと吾々の異る點はただ前にいうた意味の上に於てのみであると思て居る。吾々は詩的材料若しくは好題目を巧みに三十一文字を以て提供されただけでは滿足出來ない。之を言ひ換ると吾々は韻文の上に於て事件的興味に滿足し得られないのである。                   明治44年4月『アララギ』
 
(276) 茶の煙〔二〕
 
 二月十二日
 午後からの空模樣、俄かに變じて、十二三分の間、淡々しい雪を降らした、吹入れた雪がかすかに色を見とめる許り露地に積つたと思ふ間もなく、稍、傾いた太陽は其の強い光の、金泥の海に似たような色を、窓の障子に投げかけて來た。見ると露地の雪はもう全く消えて終つた。飛石の濡れてるのは雪の名殘である。露地の土いろ黒々と濕つて居るのも雪の名殘であつた。
 雪解に潤つた露地の色は何とも云へない味があつた。庭苑や、林畑や、道路にしても、新に濕ふた土の色は甚だ思心地のよいものではあるが、更に近く人と親しい趣に熟した露地のつちが、潤を含んで人なづかしげに見ゆる其の色合は、一層味が深い。清く新らしい、活々とした、人の心を動かさねば止まないとする樣な趣き、其の上障子に映えて太陽の光の反射を受けた空氣は、一種の明りを起して、潤ふた石、潤ふた土を詩飾するのである。
 かういふ事は、茶の湯に遊んだ者として始めて感受し得る味であるかも知れぬと、予に取つてはいま我生の尊とさを思はない譯に行かなかつた。
 予は元來、この露地といふ詞からして、既に、味を感じて居るのである。露井、露臺、露營などいふ事は其の(277)詞だけの上にすら、予は深い味を感ずるのである。
(277) 茶室の庭を露地と云ひ始めたのは何人であるか。考へると其の判らない人がなつかしくて溜らぬ。
 勿論、露地の趣きは、それ許りではない。夕月の薄い光にも、曉の冷かな月影にも、落葉の溜まった淋しさ、苔の蒸した靜けさ、變化は固より無限である。
                     明治44年4月『アララギ』
                         署名 四壁道人
 
(278) 〔『アララギ』第四卷第四號消息〕
 
〇前號の『編輯所より』に就て聊か申上度候、蕨眞君より齋藤君への消息中、小生が今は故子規子を崇拜して居らぬと云ふ樣な詞有之、小生は驚き申候、始終互に談合致居候蕨眞君が斯くまで小生を誤解し居らんとは思ひ掛けざる所にて候、
〇子規子は我々の祖先に候 親にて候子規子の開拓地は我々の發足地に候 崇拜するのしないのと云ふのは却て他人がましき申條と存候、小生の子規子に對する感情は年と共に深くなるとも淡くなりやうは無之候、本所の果てより根岸へ一年百度も通つて最後まで病蓐に看護致候小生の胸中は他人の推測を許さざる處に候、十九日會も來會者あると否とに係らず、其行事は決して絶え申さず候、坂本四方太などは愈誰も來なくなれば僕が行くと申居候、蕨君などにもどうか十九日會の爲に時にはわざ/\御上京願上候、
〇乍併文擧研究上に於ては、小生は飽までも道にあたつては師に讓らずの態度に候、且つそれが子規子の精神にして子規子に奉ずる所以の道と存居候、作物に於ても議論に於ても今日猶予親子時代の有樣にて候はゞそれこそ子規子に百棒を喰らはせらるべき事火を見るより明にて候 不具  三月十五日左千夫生                   明治44年4月『アララギ』
 
(279) 茶煙抄 三
 
 四月十日
◎或西洋人の話が面白い。獨逸の醫學博士某といふ人が、日本へ來遊した時に。博士に親交のあつた人達が種々誠意を盡して饗應したけれど。博士は猶何となく物足らない風情であつた。それで或日の會談中最も打解けた人許りであるから、席上の一人が。『博士が日本人に對する所感、殊に我々に對する所感の最も遠慮なき一言が聞きたい。
とやつた。すると博士は左右を見て暫く笑つて居つたが、暫くしてかう思ひ切つた體にて。
『どうかはんとうの日本人に一度逢はしてくれ、かう云つては失禮だけれど、自分は本國に居つて、聊か日本人の生活嗜好等に就て研究した結果。非常に日本が好きになつた。それで今度の來遊は實は其日本人の生活嗜好等に直接に觸れて見たいの希望が主であつたのである。處が來て見ると、ほんとうの日本人に未だに逢ふことが出來ない。どうか諸君の御盡力で、ほんとうの日本人に逢はしてくれ。
一坐相顧みて呆然、能く博士の言を解した者は無かつた。それで坐中の一人が又かういふた。
『我々は皆純粹の日本人であります、決して日本人以外の血の混じてる人間ではありません。
博士は如何にも親しげな笑を目に湛へつゝ。
(280)『是れ以上を云ふのは餘りに失禮であると思ふが、最も親しき諸君であるから、云ふて見やう 諸君は決して怒つてくれてはならぬ。自分の眼に映じた諸君は日本人の子孫ではあるが、ほんとうの日本人ではない。日本人特種の性情を長い間養ひ來つた、其日本人の優美で閑雅な生活嗜好に就て、諸君は餘りに知る處が乏しい。細かい事は暫く云はない、建築繪畫陶器漆器等、極めて太體なる趣味嗜好に就ても、諸君は驚く許に冷淡である。
 殊に世界中に於て只日本人だけが有する蒔繪の類などは、殊に日本人の誇りであるべきものを、予の如き外國人の間にすら諸君は一通りの答をだも與へてくれなかつた。諸君の知識學問は予の敬服措かざる處であるが、諸君が日本人としての生活嗜好は、遺憾ながら、予をして諸君は只日本人の子孫であつて、ほんとうの日本人とは云へないと思はせるのである。
傳士は之を一場の戯談として高笑し去つたけれど、席上の人々は終生忘れることの出來ない耻と悔とを感じたのであつた。
                    明治44年5月『アララギ』
                       署名  四壁道人
 
(281) アララギ抄
 
      〇              蕨橿堂
   菜の花のにほひかすめる春の日の刀根の河島《かしま》を舟漕きめぐる   春の日の霞が浦は菜の花のにほへる中を舟行きかへる
左千夫評 二首の歌同じやうなる形にて、精神は異れり、前のは手許を主とし、後のは遠くを主と詠めり 珍らしくもなく、六つかしくも無き歌なれども、うら/\と動く春の空氣が、心ゆく許り現はれたるが嬉しきなり。 (5・27)
      〇              蕨橿堂
   鹿島坂《かしまざか》ひとは歸りをいそげども吾はかへりみるかしまの松を
左千夫評 戀々として去りがてにする情緒が如何に自然に現はれて居る。
   夕ぐれに船を呼びたつ大船津《おほふなつ》長根川《ながねかは》さやに月も上りぬ
同 日暮にどよめく船つき場の賑ひ、それに對照した静かな河静な月、光景髣髴として動く。 (5・28)
      〇               日原無限
   かきろひの日暮の池や河骨《かはぼね》のしけみが上に蚊柱の立つ 
(282)   夕暮の雲照りかへす池の上にゆら/\立ちてゆらぐ蚊柱
左千夫評 繪畫的鑑賞より得たる歌なれども繪畫にては到底此の精緻と活動を描き得ざるべし。 (5・31)
      〇              日原無限
   草の屋の軒端に高くそゝり咲く日まはりの花を手を垂れ見るも
左千夫評 花の大きいだけ一層詩境の靜かさが偲ばれる、手を垂れ見るの語、丈高き日まはりにして始めて面白し。
   現身の業をせはしみかこちたるおろかさとりぬ日まはりの花に
花に對する主觀が面白いと云ふよりは、日まはりを描くに最も巧妙なる主觀的表現と云ふべきか。花の愚なる趣却て人の利巧を壓したるなり。 (6・4)
      〇              古泉千樫
   おほらかに三月はすぎぬ八十國のきほひどよめくみやこべにして
   おもひわく大きみやこにますらをが起つすべもなくひるねするかも
左千夫評、男子徒らに田畝に死すべからずの壯志を抱いて來れるも、事多くは豫期に反し漂泊空しく三月《みつき》を過ぎて、意氣甚だ振はざるの色あり、然かも一片の精神猶詞調の端《たん》に存するを見るべし。 (6・7)
      〇              蕨桐軒
   見さぐれはあふりのみねはたゝなはる青かきやまに雲のよろしも
あしからにつゝくやまやまうちかすむかすみの裾に見ゆる菜の花
(283)左千夫曰、打見たるまゝの叙景何の巧もなくて却て光景能く現はる 實際の感興にあらざれば、かくまで平易には詠み得ざるべし。
〇伊都岐神社に詣でゝ
   時をよくはるにまふてゝ花ふゞき海のとりゐに散るにあへるかも
驚喜の情も躍り光景も能く現はれたり。 (6・9)
      〇              日原無限
   桑蠶《くわこ》もるまろねのねやのまどろみの暫しのひまも君がみえつゝ (6・9)
左千夫曰、衣脱いで寝る間も無きいそしみの中にもあはれや人に戀する思ひは止まず。
     蠶の恙
   初鷹《うぶたか》のねむりも無事にそだちきてつゝみうらめし何のさやりぞ
蠶家《さんか》の痛恨事察するに餘りありと云ふべし。 (6・11)
      〇              齋藤茂吉
   うつし世は一夏《いちげ》にいりてわがこもる室《しつ》のたゝみに蟻をみしかも
左千夫曰、詩人の感興は蟻一つ這へるにも天地の變化を思ふ。
   さみたれのふれるさ庭にいとけなきかへる子どもがあまたはね居り
獨逸の詩人は小石一つにも神の存在を信じ得たりといふ、知らず日本の歌人かへる子どものあまた跳ね居るを見何を思ひつゝありしか。 (6・14)
(284)      〇             篠原志都兒
   こひ思ひ三とせへにつゝ今日の日に逢へらく嬉し山も晴れたり
左千夫曰、着想言語共に平凡なり。然かも今日はとて出立する心の勇みが調子の上に味はれ得るを見るべし。山も晴れたりの結句突然に似て決して突然ならず。
   蓼科の草深道のつゆに濡れ分けゆくあけや鳥のさへづり
感興胸に溢れて登りを急ぎつゝ猶四圍の光景に心引かるゝ詩人の俤。目に見ゆる心地あり。
   天地をつゝめる霧もうすらぎて鳥鳴く聞え日は出でにけり
   朝日子の光透れはうつそみの我目に近くさ霧走れり
左千夫曰、山高くして心漸く靜かに、日出でゝ四|山《ざん》の形を薄霧《はくむ》の中に髣髴す。身は早くも人界に遠ざかれるを感じつゝあり。 (6・27)
      〇              篠原志都兒
   鳥の音も幽けくなりてかへり見るふもと青原朝日照らせり
   いたゞきの岩|秀《しう》に立てば雲晴れて見るにうれしも天津國原
左千夫曰、幽谷を出でゝ絶頂に到る、廣大なる天地の氣にふれて心開き氣あがる。自己が小なる人間の一粒たること忘れれたるが如し。 (6・30」)
      〇              蕨橿堂
   夏畑の豆葉《まめは》ふきかへす夕風に菅笠《すげがさ》忘れ歸へりくるかも
(285)   豆の葉の日むきに向ひかたよりに吾《わ》がよるこころ君は知らずも
     偶感              蕨橿堂
   現蝉《うつせみ》の人に知らえずわがこゝろ天《あま》の八重雲《やへくも》の上にし置けば
   世の事ら黄金《こがね》とならば禮も義もなみするものか人といふもの評、始めの一首を見れば徒らに高言するに似たり、後歌を見るに及んで空言の詩人にあらざるを見るべし。 (7・19)
 
     偶感(承前)          蕨橿堂
   田に畑に害ちふ虫を別ち得ぬ田業男《たざをとこ》をあはれまざらめや評 愚民の憐むべきおのれの稻を害ふ虫の恐るべきをも解せず、然も刑罰時に身に加へることあり。
 我れを置きて人はあらずと人皆のほこる此の世は晝寢し居らん
評 同感々々 (7・21)
 
     偶感              蕨橿堂
   あかときの露草花の露の間のにほひ爭ふ人をあはれむ
   大空に雲もあらなくに照渡るまゝろき月の心をもかも
   ぬば玉のゆふさりくれば鰌《どぜう》とると田に立つ奴蛇にかまるな
評 歌皆寢言に似たり然かも詩人の寢言は捨て難きもの多し。 (7・23)
(286)   しがいのち尊とき知らに徒らに蚯蚓のともと土を爭ふ
   ゆた/\と風のみ舟に大空にたゞよふ心土に落ちにき
   目のみえぬ人はよく見る目のみゆる人はよく見ず見ざらめや見んや
評 諷意の取るべきより諷詞の面白きを取るべし。 (7・28)
      〇              寺田 憲
   凌霄花《のうぜんかづら》ほろり/”\と土につく小雨の日暮れ人を歸しつ
評。景も美し情も美し、然かも淋しき日暮れかな、歸したくなき人も歸さゞるを得ざるは世の習ひなり、歸へる人も歸りたくはなかるべし、只禮儀の亂し難きを如何せん。朱けに艶《えん》なる凌霄花徒らに雨に落ちて人を悲しむ。
   凌霄花空しき雨の淋しさにたどる思ひの行くへ悲しも
評。理は背くべからず、然かも情緒の搖らぎは又容易に止まるべくもあらず、こゝに於て人は往々罪の子と稱せらる。
      〇              寺田 憲
   庭に咲く紫陽花の色の淡々しその淡々しくてあらばとぞ思ふ
評。彼が淡々しきが如くに我れも又淡々しくてあらば、却て心安きものあらんかと思ふも、彼が表面の淡々しきは果して彼れが眞實なりや否や。 (8・8)      〇              寺田 憲
   ぬれ土の冷たき庭にちからなく梅おのづからうみて落つるも
(287)人間の感情は絶對に自由を求むるも、人間は其存立の上に於て、常に其自由を制縛せらるる故に最も敏感を有する詩人に最も悲み多し、然かも詩人の悲みは卑しからず。
   梅の實の木かげに落つるおとにだに我が悲みの情はうごく
常人《ぜうじん》は己れに同情を有する人を得て始めて其悲みを語ることを得ると雖も、詩人は能く無心の對像に向つて直ちに我が悲を披瀝す。 (8・18)
      〇              寺田 憲
   うるほへる和土《にきつち》の上も晴れをまちて摘み捨てらるゝはかなき草か
   ひやゝかに心を持たば現世《うつゝよ》に人にそむかず悔も無からん
   ほのくらき青葉木立に鳴きかはし枝蛙《えだかへる》らも懸を鳴くかも評。我が悲しきは人を悲しむが故なり、人を悲むは愛する人を悲むより悲しきはあらず、然かも我が力是れを救ふこと能ざる時に於て最も悲し、昆虫猶戀を悲む況や常住制縛の人間如何で戀を悲まざらん。 (8・23)
      〇              寺田 憲
   紫陽花の花さびしらに雫すも悲しみを包む人のごとくに
評。人も其悲みを我れには語らず、我れまた我が悲みを容易に人に語る能はず、只無心の紫陽花に向て僅に其悲みを語るのみ。 (8・25)
     濃霧の歌            長塚節
   ひさかたの天の沈霧《しつきり》おりしかば心も疎し遠そけること
(288)   常に見る草と云へども霧ながら目に入るものは皆めづらしき
評、いづれも實況實惰が産める歌なり、只聲勝りて響き足らざるの感なきにあらず。 (9・3)
     濃霧の歌            長塚 節
   秋草のにほへる野邊をみなそこと天津|狭霧《さきり》はおり沈めたり   しましくもさ霧《きり》なる間は遠永き世にある如くおもほゆるかも
評、前者は能く霧の流動を示せり。次は濃霧に籠れる感じを歌へり。或は言語の組織緊密を缺けるの嫌あるべし。
      〇              依田秋圃
   三河の小江《さえ》の濱邊の草の家《や》にまつことありてひと日くらせり
評、内容は極めて單純なる歌なり、事件の珍らしきをのみ面白しと思ふ人々には、湯を飲むの感あるべし。此の歌の生命は作意が自然なる言語に依て感情化されたる點に存するなり。云ひ換ふれば言語の響きが能く作者の心を語り居る處にあるなり。 (9・5)
      〇              依田秋圃
   板橋《いたばし》にたゞずみ居れば宵寒く松風吹くよ小江《こえ》の松原
   宵闇の小江《こえ》の松原松の間をともし火一つ來るがさびしさ
評、作者の心が何事かに動きつゝあるの趣を感じ得べし。
新しき歌といふもの多くは事件の報告のみ。事件如何に面白く如何に奇に如何に珍なりとも雜報的記述に何の詩趣があるべき。 (9・7)
(289)      〇             岡 千里
こゝにして笛吹川の下つ瀬に立つ秋霧を汽車過ぎる見ゆ
   城山のふもと小村《こむら》の久保たいら秋の日かげに人はたを打つ
評、一語を加ふるの要なし、讀者は詩中の光景を容易に腦中に描き得ると同時に、氣澄み心靜かなる作者の雅懷をも連想し得べし。 (9・8)
      〇              左千夫
   世の中に光も立てず星屑の落ちては消ゆるあはれ星屑
   わくらはに淋しき心湧くと云へど兒等がさやけき聲に消《け》につゝ
   夜《よ》のまもり晝のまもりと守《まも》りたまふ神も笑むらん兒等がさわぎに
   ゆく雲の雲間の星のまたゝきをまたず消えゆく現身の世や
   秋の空の物悲しきに顧みて虚假《こけ》をいだける心くやしも
   うつせみの八十國原の夜《よ》の上に光乏しく月傾きぬ (9・14)
      〇              左千夫
   かりそめといふ言《げん》はにくしもぬめり多き君が心によりてにくしも
   ともしびのほやにうづまくねたみ風ねたむことはり無きにしもあらず
   打破りし硝子の屑のねばりなくとがしき人は見るも苦しも (9・17)
      〇              齋藤茂吉
(290)   遠つ世の事を思ひて壁にもたれ膝に手を組む秋の宵かも
   秋の夜の我が獨居のこゝろぬち世も人もこも/\至り去るかも
評、秋の氣の心にしみ通れる心地ぞする。獨居氣儘なる事を爲し、氣儘なる考に耽けり居るなり。然かも全く秋の人にして何等か人間の眞消息を漏しつゝあり。 (9・17)
      〇              齋藤茂吉
   秋風の吹きて盡きなく名にふりし牧の高原馬稀に鳴く
評、作者は何を思ひつゝあるか、眼に映じ耳に入るもの、悉く涙を誘はざるはなし、百年容易に過ぐるも功を遂げ名を爲すもの幾人かある。
   秋霧のみなぎる中の月あかり山のやどりに世は遠のきぬ
評、恐るべき悲むべき喧號の世の、目にも入らず耳にも入らざる暫時の境涯を發見して、そこに氣安く息休みの樂しみを得たるを悦ぶ。 (9・21)
      〇              古泉千樫
   滑かに黙に押し行く大河のやまぬ流れに遠き世をおもふ
   うつそみの水と流るゝ吾が心大河のべに行方知らずも
   さ夜ふかみますみの空の月に向ひ今更におもふ旅にあることを
評、年壯にして猶世路に迷へる心の淋しさ、天澄み地靜なる秋に對して情緒の千々に搖らぐを禁じ得ざるものあるべし。
(291)      秋思            胡桃澤勘内
思ふこと言《こと》に云はずばこほろぎの鳴くにし泣くし心ゆくべし
   ぬば玉のくらき家《や》ぬちにひとりさめて思ひは悲ししき鳴くこほろぎ
   わがこゝろうらかなしきにこほろぎのいやなきなけば涙し流る
評、詩人は能く泣く人間なり、然れども其泣く聲や、必ず綾ある個性の響きを傳ふ。 (10・26)
      蓼岳游草           篠原志都兒
   こひ思ひ三とせへにつゝ今日の日にあへらくうれし山も晴れたり
   蓼科の草深道のつゆにぬれ分けゆく曉《あけ》や鳥のさへづり
評、如何にも如何にも愉快氣なるさま目に迫まる心地ぞする。二首共に結句の點出最も働きあり。
   天地をつゝめる霧もうすらぎて鳥鳴く聞え日は出でにけり
   朝日子の光とほればうつそみの我が目に近くさ霧走れり
   鳥の音もかそけくなりてかへり見る麓青原朝日照らせり
評、漸く登り漸く高く、光景も變る愉快な心の状態も變る。最後の一首は、心落つきたる作者が悠然下觀の状、神に迫まるとや云はん。 (10・27)
      北海旅路           民部煕光
   夕燒けの上照る山の谷|庵《いほ》は夕餉すらしも煙のぼれり
   天雲の向伏《むきふ》すところ遠長きまゆずみかゝる石狩の山
(292)   未遂に雲にかくるゝ石狩の秋の廣原河を隔て見る
評、河の大なるを少しも云はざるも、然も石狩川の大なる感じ現はれたり。
      〇              石原 純
     たふときかな、ラヂウム、後の世の釋尊の御手に珠數を見るべくば、蓋しラヂウムを以て作るべからん。
   山深みみづしかはあり百世へに聖を待ちて麒麟《みづしか》はあり
   みづしかのまかゞやく目の玉葉《たまは》もれさしも來しかばラヂウムぞこれ
評、千古萬年も動ぬ太陽を誰れも不思議とは思はぬ、人間のつく息引く息、それも人は不思議とは思はぬ。科學思潮を詠める歌を不思議と怪む必要はない。 (12・27)
             明治44年5月27日〜12月27日『東京日日新聞』
                        署名  左千夫選
 
(293) 牛舎での立ち話
 
 「私は斯うして、牛を飼ひ、乳を搾るのを職業としてゐるので、生活の方はこれでやつてゐます。それやあ、自分の書いた原稿が賣れゝば嬉しい。併し別に文學を以て生活しようなどゝは始めから思つてゐません。たゞ好きな處から生活に這入つて來たわけです。商賣の方は家内がやつてくれますから、自分は只牛の賣買とか、奉公人の指圖とかをしてる、つまり取締りですな。だが止むを得ん時には、配達でも搾乳でもやるつもりです。
 「自分の商賣と文學との交渉に就ては、別に今迄斯うと云つて、まとまつた事も考へませんでしたが、文學をやつてると、何だか自分の生活に内容があるやうに思はれて、從つて、文學をやらぬ人の生活とは何處か異つてゐると云ふ事實を感ずる。つまりは生活の豐富でせう。
 「作をする中には、單なる趣味以外に非常な努力と苦痛とを味はせられます。で私は金がウンとあつたら他に樂を求める、決して創作なんかしない、と時々或人に言ふ事がありますが、併しそれはそんな立場を想像して云つた話で、實際自分がそんな境遇になつたら、どうか解りません。些つと疑問です。
 「私は自分の性癖から、東洋趣味に生活したいと思ひます。で、書齋の隣りへはあゝして茶室と云つたやうな物を作へたり、植木弄りをしたりしてゐます。一體私は泰西諸國の事は些つとも知りませんが、一も西洋、二も西洋と云ふ風な西洋心醉はどんなものでせう。東洋には東洋獨特の趣味があり、私達の祖先も其趣味を解し、それ(294)に依つて生活と云ふものを味つて來たのですからね。此間フランスから歸つて來た人の話に、其人が或日ルーブル博物館へ行つた處、一人の俳人が陶器を持つて來て、それに就いて色々の質問をする。併し其人は、その陶器が日本の物だと云ふ事だけは解つたが、それ以上の詳しい事は何にも知らんので、非常に閉口したと云ふ事ですが、日本人が日本の事を碌に知らずに、却て他國の人に教はるなんて事は、餘り氣の利いた話ではありますまい、のみならずそれでは、日本人其者の生活の情味と云つたやうな事も味ひ得られる筈がないし、又祖先の持つてゐた趣味特性などゝ云ふ事を解する事が出來まいと思はれます。
 「人生は一面、「趣味の働き」とも取れるやうに思はれますね。
 「一體、現代の人は皆、内部と外部の調和してゐない生活をしてるやうぢやありませんか、外部ぢや隨分立派に見せられてる人も、内部へ立入つてよく其人を見る時、意外の感に打たれる事がよくあります。
 「遂此間までは、あの――邊に、芦の生へた水溜りがありまして、水鷄が三四羽來てよく遊んでゐましたが、何時の間にか其處が埋められて、水鷄は何處へ行つたか姿を見せなくなつて了ひました。どし/”\空地へ家が立てられて行きます――此地響は、汽車の響きです。
 「目的と云ふやうな事よりは、目的を得んとする運動の經路其物の方が、よりよく味ひあり、そしてそれが生活の大部ぢやないでせうか。つまり、戀をするにした處が、得られた後よりは、得んとする努力の其處に面白味があるんですからね。藝術にした處で、事件の結果とか何とかよりは、其過程に興味を覺えるんです。勿論、結果が良好なればそれに越した事はありませんが、其部分々々でも、よく出來ればそれで好い。例へば、腕一本でも完全に出來れば、それは作品として立派な物だらうと思ひます。で私は作物を完成した悦びよりは、完成する迄(295)の苦心、即ち其處に起るすべての氣分に興味を發見するんです。
 「此邊は水蒸氣の多いせゐか、空の少し曇りつてる日でも、本郷あたりへ行つて見ると、カラリと晴れてゐます。
                        明治44年6月『文章世界』
                            署名 伊藤左千夫
 
(296) 唯眞閣夜話〔二〕
 
◎悲しみとか淋しみとか、苦悶的懊惱的な暗い陰氣な歌を詠むと我れながら力の籠つた奥のある歌を作り得たやうな氣がして、自分は天晴れ天分のある詩人であるらしく思れるが、實際自分は平生そんなに、悲しんだり淋しがつたりしては居ない。
◎悲しむべき痛ましい事實が、ひし/\と身に迫つて居つても、其悲しさ淋しさに全く支配されて、眞實泣くやうな事は甚だ稀れである、悲しい事實に接して居る時に却て種々な興味を探り求めて、聊かの間にも慰安を得んとするのが常である。淋しさ悲しさを飽まで味つて見るなどいふこと、能く云ふことであるが、さういふ事が果して出來るものか知らと近頃疑はしくなつた。
◎元來人間は芝居の好きな性分を持つてるものである。文明人も野蠻人も、それ相應に必ず芝居をやつてるからをかしい。色氣と欲氣のない者は無いように、芝居氣の無い人間は少ないやうだ。それで自分は多くの歌を見る中に其芝居氣が産んだ歌ぢやないかと思ふ作物に接することが屡ある。人の上許りでは無い、自分がいつのまにか芝居氣で歌を詠んでるのに、卒然として氣がつくことがある、よし芝居を打つた歌にせよ、其假粧的感情の力が、讀者を充分に芝居に引入れて終う事が出來れば、其芝居氣といふ事を必ずしも非難すべきでは無い。併し藝(297)娼妓を弄んで情味の滿足を得らるゝ人でなければ、假粧的感情の歌には滿足が出來ないものと心得て置く必要は(297)あるであらう。
◎自分が近頃歌に對する感じは少し皮肉かは知らねど、根本に苦勞の少ない人が却て能く悲しい淋しい歌を詠みやすまいか、暗い陰氣な歌の半面に暢氣な影が連想されてならない。それと反對に、面白をかしく無邪氣に通讀されるやうな歌の蔭に涙ある作者が連想せられてならぬ事がある。
◎元來能く悲み能く樂む人を見るに、其境遇にもあること勿論なれど、寧其人の性質に依る方が多いのであるから、一概には云はれないこと無論であると斷はつて置かねばならぬ。
◎さうして自分は近頃どういふものか、無造作に自然に骨も折らないで腹の中から流れ出るやうな歌を詠みたくなつた、勿論それは口から出まかせの意ではない。
                   明治44年6月『アララギ』
                      署名   左千夫
(298) 茶煙日抄〔一〕
 
 五月九日
 夕月夜風、さはやかに槐の若葉を動す。浴後食濟みて外氣なつかしく。草履輕く飛石を傳うて砌の露地に獨佇めば、沈香の飴薫猶室を漏れて水鷄の聲遠く垣外に聞ゆ。
 孤蓬庵宗甫が、人に露地の趣きをこれにて知れと云はれし發句。
   夕月夜海少しある木の間かな
予常に思ふ、孤蓬庵の茶は、幽婉にして夏の風情なりと、紹鴎は云く。
   心とめて見ればこそあれ秋の山ちかやにまじる花のいろ/\
清閑明快、紹鴎の茶は殊に秋の風情をよろこべるものありしか。利休は又いふ。
   樫の葉ももみちぬからに散りつもるおく山の寺の道のさびしさ
利休の茶は靜寂たる冬の風情にて、さびを宗とせられたるものと知らる。猶聞く光琳茶事を好んで、露地には多く草花を植ゑ庵室洞然何物も置かざりしと、情を天然に委して行事簡略淡如たる。趣きを察するに足る。光琳の茶は春の風情とや云ふべき。
古人は各其天性の敵する所に從て雅懷を樂しめるを見る。風情自のづから高きものありしは、眞に所以あることに(299)こそ。
今人茶を語るもの、曰く一軸の價幾許曰く茶碗曰く茶入徒に其價數千金なるを誇る、然かも一人財貨を以て評價し難き露地の風情を説き得る者なし、名器空しく俗人の玩弄に供せられ、茶事の精神遂に滅するに至る無きか。
                    明治44年6月『アララギ』
                       署名  四壁道人
 
(300) 唯眞閣夜話〔三〕
 
短歌研究欄で議論のある笠女郎の歌に就て意見をいはう。この歌の結句『ぬかづくがごと』とよみ、或は『ぬかづくごとし』と二樣によんでゐるが、自分は『ぬかづくごとし』とよまなけれはならぬと思ふ。この歌の場合に『ぬかづくがごと』といひ止めてはひびきがないやうに思はれる。そこに深い意味はないけれども『ぬかづくごとし』といひ放つてしまつた方が、言語の上にも意味の上にもひゞきがあるやうに思はれるのである。それから、多くの歌を見るうちに知識から出發して感情を歌つた歌と、感情から出發して知識の働いた歌とがある。この二つのものを何れが最も文學的であるかといへば無論後者にあるといはねばならぬ。たとへ感情を歌うた歌にしても知識から出發した歌は到底感情的氣分を表現することが出來ない。この歌などはその所謂後者に屬するもので感情から出發して知識的に見える歌である。
 この歌の大醍の意味は解釋する迄もなく寺の前にある何の靈験もない餓鬼を拜んでも何の拜み甲斐もないやうに、思つてくれない人を思ふは恰度そんなものであると恨みをいうた歌であるが、それはたゞこの歌の言語の表面だけを解した迄で、この歌が含んで居る内容には非常に複雑な情緒を湛へて居ると思はれるのである。
 この歌の解釋について或時二三人の人と話し合つて、自分の解釋と友人の解釋と非常に違つて居た事を驚いた事がある。然し考へて見ると、僕の驚いたのは餘り自分の自信が強かつた爲に驚いたのであらうが、自分の此歌(301)に對する解釋は自分と一致せぬ人のあつたのに驚く迄に自信があつたのである。
 考へて見ると此歌は從來萬葉集中の惡歌の例としては問題になつた歌であるけれども、面白い歌の例としてはとんと問題になつた事のない歌である。それを多大な文學的價値ある歌として批評を試みたのは恐らくは自分が初めてであらう。その位であるから不同意者のある位のことは當り前の話である。それにも拘らず、僕は不同意者のあるに驚いた程この歌に對する僕の解釋には自信が強いのである。
 僕は自分の考た樣に見て解釋せなければ殆どこの歌の價値はないと迄考へて居る。
 一見した處で見るとこの歌は言語が蕪雑で意味が露骨で殆ど淺薄極まつたものゝやうに思はれる。昔の人がこれを惡歌の例として擧げたのはさう見たからであらう。この歌は言語の裏面思想の背景を連想して見て始めて味ひを解せらるべき歌である。
 『大寺の餓鬼のしりへにぬかづくごとし』と殊更に露骨に做大《おほぎやう》にいふ處が滑稽と洒落とを帶びて居るのである。眞面目に本氣に恨みをいうたものならばこんな露骨な蕪雑な言語を羅列する氣遣ひはない。恨をいふうちにそこに洒落たといふだけの餘裕と親しみとが所謂相思ふ同士に十分あるのである。恨むといふよりは洒落の意味を以て拗《す》ねたと見るのが本當の見方である。殊にこの作者は女である。女が人を思うてそしてその戀人が自分が思ふ程に自分を思うてくれないといふ場合に眞面目にその男を恨むといふやうな感情をこの歌の如く露骨に無作法にいひ居られるものかどうか、這般の消息を少しく解し得たものならば解りきつた話である。その洒落れて拗ねた言葉の底には幾分の恨を含んで居ることは勿論である。けれどもこの歌の全體の調子は決して深酷な痛切な恨みを持つた人の言葉ではない。快活に無邪氣にさもない事を做大にいつたその輕快な言語の調子を味うて見るべき(302)である。
 それは人の感じは理窟にきめるわけにはいかないから此歌にも深酷な悲痛な感じがあるといはれゝばそれ迄の話である。けれども人間の自然の感情から虚心にこの言語を味へばそんな感じは起りやうがない。
 人を深く思ふ程自分の感情の滿足を要求するの念が強いものである。それだから、戀する人に恨みの伴ふのは當り前の話である。大體の親しみの中に恨みをいふやうな事の起つてくるのはむしろ親しみが深いからである。この歌に含まれて居る恨は深い親しみの中に自然に起るべき小さな恨みの發現である。
 この歌の作者は自分等が今味つて見る程の復雜な意味を言ひ現はさうとして咏んだものでない事は勿論である。その相思ふ同士の間に起つた事件を平氣に無雜作に歌にしたのが却て種々の意味を伴うたのである。その發作が極めて自然な爲に作者の豫期しない表現を得たのである。
 もしこの歌の如き外形を摸して漫りに駄洒落を弄する樣の事があつたらばそれこそ三文の價値もないものになる。事實といふ背景を十分に連想させる丈の内容があるから始めて蕪雜にして露骨な言語にも無限の情味を伴ひ得たのである。
 この歌は種々の方面から色々に味ふ事の出來る歌であつて幾重にも幾重にも底に底がある樣な味ひを含んで居る。
 千年以前の女性の心裡を推測するといふ事はをかしなわけであるが、この歌は少くとも二十五六歳の女性的感情知識の完全に發達した人の作物であることが窺はれると思ふ。
 恨みをいうて居るやうで眞に恨んでは居ない。露骨な言語には敬意を忘れて居るやうにも見えるがそこには親(303)しみの情が籠つて居る。拗ねては居るけれどもその相手を思つて居るかあゆらしい心持も十分現はれて居る。
 際限がないからこの位にしておく。
                    明治44年7月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(304) 茶煙日抄〔二〕
 
 人と人と相親むこと小なる庵室に如かず。壁一重の外に自然に親むこと小なる庵室に如かず。軒外一歩、樹石露壞に親むこと小なる庵室に如かず。籠居世を忍び俗に隔たること小なる庵室に如かず。一縷の香煙一明の花、又小なる庵室に如かず。
 新しき水を汲み、新しき花を切る、小なる庵室にして始めて、我が居なるの感多し。古書畫古器物古人の作品を味うて、我れに祖先あるを思ふこそ樂しけれ。
 我が心に常に混濁を離れず、故に清淨を想ふこと深し、我が身は繁劇を脱し得ず、故に閑寂に慰藉せらるゝの情を忘るゝこと能はず。
 方丈の一室、是れ我が天地なり我が生命なり。梅雨に咲く著莪の花、柿の青葉、ゆづり葉の雫。我が生きの緒の猶絶えざるを頼もしく思ひつゝ、筆を措く時暮色木の間を傳うて人に親み來るも又※[口+喜嗜し。 (六月十四日。)                                  明治44年7月『アララギ』
                       署名  四壁道人
 
(305) 「分家」の筆を措いて
 
◎作者は今筆を措いて、本篇に多大の同情を寄せて讀んでくれた讀者諸君に感謝する。作者の書んとした分家はこれで完結したのではない、本篇は分家の前篇である、主人公要之助がこれから社會一員となつて、現社會とどんな風に交渉するか、周圍の貧民とどういふ關係を保つてゆくか、さうして自分はどんな生活を爲すかは、分家の後篇に書きたいと思つて居る、本篇を物足らなく思ふ讀者もあらんかと思ふまゝに一言を附す。(七月十五日)
                 明治44年7月19日『東京日日新聞』
 
(306) 〔『新小説』選歌評〕
 
      題 高山の巓より
 
     一等             津 田中不及
   雲やゝに晴れ行く中にめさめたる幾山河の朝のしつけさ
     二等             横濱 佐治ゆり香
   妾《わが》兄子はほがらに見ゆる故郷に火中に消ゆる妾《われ》を尋ねむ
     同              青山 佐久良友哉
   ひろびろの世に人といふ我が魂《むくろ》のありとも覺へず高嶺にたてば
     三等             群馬 福島乃武
   ぬば玉の夜の底なる國原ゆ生ける惱みか火が我を誘ふ
     同              神奈川 萩原檜笠
   千早振る神代の雪に蘇り麓の嶺に湧く雲見るも
(307)   やゝ神に近しと思ふあけぼのゝわれをめくりて雲のゆれゆく
◎選者曰、一等の歌とて二等三等より大に優れて居る譯ではない。只想と詞と相適して一首圓熟無難なるが故に、一等としたのである、二等の中にも一等に優つて面白いと思ふのがあるけれど、聊か圓熟に欠くるところあると見て二等に下したのである。
                   明治44年8月『新小説』
                    署名 伊藤左千夫選
 
(308) 子規正岡先生
 
 先生に永別してから、もう十年になるのである。故に振返つて其十年の間を顧みて見ると、只々薄暗かつた道を通つて來たやうな氣がする。考へて見れば十年の月日は決して短かいものではないが、薄明りで總ての印象の弱かつた道程は、どうしても長い氣持がしないのである。
 それで自分は有りし昔の事を回顧する度に、いつでも其薄暗かつた道程を透して、明かつた先生の生活起居が、一々見えてるやうに思はれるのである。
 思ふに是れは永久に消えない、自分の胸中に存する光であらう。今後猶幾年薄暗い道を通つて行くにせよ、何處にても一度立留つて回顧するならば先生の身邊から發する不滅の光は、いつでも我行く先々の足元を照すのであらう。自分等は永久に先生の恩を感謝せねばならぬ。
 自分の接した多くの人の中で、先生程自己を確實に把持して居た人は無い。先生は云ふまでもなく確實な自己を有して居つて、さうして其自己を自分の思ふ樣に把持して居つた人であつた。
 或時は自己を正面に露出して奮進されるかと見れば、或時には全く自己を我が頭の中から取除けて置いて、他人の言説に耳を傾けて居られる。我れと我が有する自己の如何なるものかを、虚心に吟味して見らるゝやうな事が始終あつたのである。
(309) 一方には確實な自己を有しつゝ、一方には常に反省的に謙虚的に、求道精進といふ風であつた。之れは自己を我が思ふ如くに把持し得る人でなければ決して出來ることではない。
 確實な自己を有するといふことが、人として既に大問題である。凡夫は確實な自己といふものも無いのに、然かも事々自己を枉げずとするのである、自己を抑へるだけの修養が無い人に、到底求道の誠意は宿らない。
 先生を偉い人と誰れも云ふが、先生の偉い所以を解した人は少なからう。先生は何事に依らず、いつも一歩をひかへて考へられた、是れでは自分が間違つて居やしないかと必ず反省してかゝるのである。獺祭書屋俳句帖抄の自序文なるを見れば、能く先生の平生が語られて居る。
 先生は些細な事にも輕々しく斷定を下すことを大へん嫌つた。であるから平生の談話にも、先生は自己を語ることが少く、多く人の話を喜んで聞くといふ風であつた。一寸した對話にも自己を空くして人の話説に耳を傾けるといふことが、何でもない事のやうで、それが容易に出來る事では無い。人は容易に己れを空うすると云ふことを云ふが、それが人として容易ならぬ問題である。求道の心漸く衰へ、自己の感念に節制が失はれて來ては、到底己れを空うするなど云ふことは出來ない。同時に向上の途は荒れて來るのが自然である。
 かういふ事を書きつゝある中にも、人の對話中に人の云ふ處と自分の考と相違した場合に、輕々しく是非を云はない先生が黙然として暫く考へられた風貌が、あり/\と目に浮んで來てなつかしい。
 是等の事をつく/”\考へて見ると、先生は眞に生きてる限り道を求めた人であつた。卓越な自己を有しながら、猶自己以外に我れを置いて、自己の砥礪に勉められたのである。大きな自尊心は常に自己の頭上に無くして、自己を離れた我れと云ふものゝ上にあつた。先生の偉なる點は慥にそこにあつたと自分は考へて居るのである。
(310) 獺祭書屋俳句帖抄は、先生の現世を去らるゝ數ケ月以前に出來た、先生が唯一の自選句集である、それに先生は自叙してかう云つてる。
 「自分の句は自分が輕蔑して居つたよりも更に下等である」
 先生が平生如何に自己といふものを取扱つて居られたかゞ窺はれるであらう。以上の自叙文付九十四頁の句集に三十頁の長文章である、此文を一讀せば先生の文學研究が、どれほど謙虚に精進的であつたかゞ解かるのである。自分は我アラヽギの讀者に是非彼の叙文を一讀あれと勸めたいのである。(八月十五日記)
                  明治44年9月『アララギ』
                     署名  左千夫記
 
(311) 茶煙日抄〔三〕
 
 七月六日
 朝、草掃木を手にして庭へ降りた。庇の下、袖垣の蔭、太陽の光が適度に及ぶあたりは、蒼苔鮮かに生ひ渡つて居る。稍赤みをおんだ三影の飛石と色の配合が甚だ面白い。潤を持つた八尺の露地に自然と人爲との融合調和せる昧ひを見免すことは出來ない。
 予は草掃木の穗を立てゝ、蒼苔の上に僅に存せる塵埃を掃つた。鮮かな蒼苔が更に一層鮮かになつた。予は我が些細なる此の行爲が、思ひ掛けなく、新なる天地を脚下に發見した愉快が甚だ樂しくてならない。予は草掃木を置いて暫く我が發見した天地に見とれて居つた。
 我が發見した樂しみ。我れに取つて是程尊い樂しみは無い。新天地の發見は神來の感興である。
 八月十日
 予は一日の困憊を癒すべく、此夜清風に燈火を包み、一美術雜誌を讀見した。中に面白き一項を發見した。
 葛飾北齋曰。我れ人間の活動を畫くに當つて、古實風俗何かあらんと。此の如き彼れの見地が、如何なる作品を爲せるやは知り難きも、予は其卓越な見識と大膽な明言とに、動かされざるを得ないのである。
 事件は人間ではない、人間に事件があるのである。人間を理解せぬ事件の描寫に、何程の藝術的價値があらう。
(312) 文藝家に社會を解せよと云ふは、畫家に古實風俗を知れと云ふに等しいと云はねばならぬ。社會を解し古實を知る。それは或程度まで必要なこと勿論である、けれどもそれがなければならぬと思はゞ大間違である。
 予は徳川時代の藝術家に、北齋の如き卓見家ありしを知つて、驚かぬ譯にいかないのである。
                  明治44年9月『アララギ』
                     署名  四壁道人
 
(313) 滿洲雜詠序
 
遠き古之事は知らず。江戸幕府時代に於て。下總の地は名ある三人の歌人を出せり。曰く楫取魚彦曰く伊能穎則曰く神山魚貫。其歌風の如何は暫く措て。三人の名聲は世の遍く知る處なり。
明治の文運漸く盛なるに及びて。下總には又三人の歌人を見たり。江戸時代三百年間の三人に比して。明治に至つて一時に三人を出せるは盛なりと云はざるを得ず。後の三人とは誰ぞ。日く香取秀眞曰く長塚節曰く足立清知。
足立氏不幸。年末だ不惑に達せず。明治四十二年九月七日病を以て逝く。予足立氏と久く風交あり。氏が其作歌を東都の詞壇に發表せらるゝや。多くは予の閲を經たり。氏の詞壇に於ける光彩は。其早世と共に期間甚だ短かりしも。然も氏は其間に於て。我日本民族が全世界を震驚せしめたる。日露の大戰に參加せり。氏の作歌も又此時に於て最も其光彩を發揮せられたるが如し。當時雜誌「馬醉木」に掲載せられたる滿洲雜詠は。毎次諸同人の推讃を得たり。
日露の大戰は無數の動功者を産せりと雖も。我足立氏の滿洲雜詠は又日露大戰が遺せる唯一の産物たらずんばあらず。
從令今俗世間の凡眼よりは逸し居ると雖も。後世必ず具眼者に逢ふて。其光彩は百世に傳はるべし。氏の遺風を(314)慕ふもの故に滿洲雜詠を刊行せんとするに當り。來て予に其序を徴す。依て即喜んで序す。
   明治四十四年九月上浣          唯眞閣明窓下に於て
                           伊藤左千夫
                     明治44年10月『アララギ』
 
(315) 短歌研究餘談
 
 第七號から第八號にかけて『餓鬼のしりへにぬかづく如し』の歌の批評は、うるさく繰返す必要もないやうに思はれるけれど、又讀者も却て迷惑かも知れねど、予は從來の短歌研究が、往々同人中餘りに離れ過た異論を見た折、更に一歩を進で論究すると云ふことが無くて終つた事を、當時聊かならず物足らなく思つて居つたのである。
 それで止めた方がよいでないかと云ふ人もあつたらしかつたが、研究はどこまでも研究でなければならぬ、良い加減な生煮《なまにえ》な批評の陳列ではろくな研究にはならないと思つて居た予には、實際馬鹿々々しかつた。それで今度は思つてるだけの事を云つて終ひたいのである。
 併し予の云ひたく思つてた事は齋藤君が七分通り前號で云つてくれたから、予の云はうとする處は大に減じて居る譯だ。
 千樫君は、予が其前に此歌を佳作とか傑作とか云ふのは穩當でない、自分は只面白い歌味ある歌として取るのであると云つたに對し、それはどつちでもよいと云はれたが、予はさういふことをどつちでも良いとは思はない。それでは批評が曖昧に歸して終ふのである。齋藤君も予も傑作だなどゝ云ひもせず思つても居ないから、千樫君は七號で傑作として感心する事は自分には出來ないと云つて反對説を書いたけれど、さういふ意味ならば、齋藤(316)君も僕も異存のありやうが無く、千樫君が反對説を書く必要は無い筈だ、他が傑作とも何とも云はないのに、傑作と云つたやうに殊更云つてそれに感心が出來ないと云ふのは、淺薄である。面白い歌と云へば佳作傑作と云つたも同じなどゝいふ小理窟は措いて貰ひたい。
 予は此歌を偶發的のものであると思ひ、其偶發的な處に、作者の心の自然な響きがあると味つたのである。例へば畫で云うて見ると、席畫とか、スケツチとか云ふ側の物で、偶發的な働きの多い畫に、他の改まつた作物に見られない面白味を味ひ得ることがある。さういふ畫も面白いものであるから佳作傑作と云へない事は無いかも知れねど、席畫やスケツチに非常に面白い處があると云ふと、おれはそんなものを傑作として感心することは出來ないと反對して見た處で詮のない事であらう。
 それからつまらぬ事だけれども、明治の新しき歌人云々さうして其新しき歌人の説と云ふものを列挙した中に僕の云つた詞も這入つて居る。さういふ餘所々々しい云ひ方を、千樫君の筆に依て書れた事を僕は當事非常に厭に感じた。之れは僕等も所謂新しい歌人かは知らない、けれども世間の所謂新しい歌人とは、明かに異つた主張を持つて居ること、千樫君が知らない筈は無い。他人なら兎に角内輪の人から、おほざつぱに明治の新しき歌人云々と、頭から同じい埒内に置かれることは甚だ不快であつた。僕と雖も敢て殊更に他と異つて居たいとは露程も思つては居ない。されば先年鴎外さんの歌會へも出た譯である。然かも事實異つて居るものを、好い加減な取扱を受けるのは絶對に厭である。 さういふ事は本題の話ではないが。僕は乙字君の反對説も千樫君の不同意論も、前の予の説に對して殆ど見當違の反對許りで、もどかしさに堪へない。思ふに乙字君は僕の説を忠實には讀んでくれないらしい、千樫君も又(317)僕の説を解して居てくれないとしか思はれない。さうしてゐての反對は隨分迷惑な話である
 僕は其後數回自分の説を讀返して見た。口述を千樫君に筆記して貰つたのであるから、充分意を盡せない點の多いは勿論であるが、大體に於ても今も訂正する必要は無いと信ずる。然るにどうして見當違の反對を受けたかと考へて見ると、多少誤解さるべき(それも無造作に讀まれゝば)點もあつた。
 察する處それは背景といふ詞の解釋を違はれた處から起つた事ではないかと思はれる。
 この歌は言語の裏面、思想の背景を連想して云々(七號二十五頁)、事實といふ背景を十分に連想させる云々(七號二十六頁)、當時僕は自分の考を適當に云ひ現すべき詞に迷つて、止むを得ず背景云々といふ語を使つたが、實はあれでは自分の考通り、其使用した言語は働いて居ないと思つて居たのである。單に背景と云はず、思想の背景と云ひ、事實といふ背景と云つたのである(事實といふ詞は事件といふ詞と同意義でない)後から考へて見るとかういふ用語は、同情の少ない讀者に無造作に讀まれゝば誤解さるべき詞であつた。千樫君が(七號二十一頁)背景を十分に思はせる云々と云ひ、乙字君の(八號七十五頁)此歌の背景に控へたる作者を云々といつた其等の背景といふ詞の意義と僕の前に使用した背景なる詞の意義とは、全く別種のものであるのだ。同じ言語に對して全く違つた解釋を要求する僕の希望が無理かも知れねど、僕は又僕の(七號唯眞閣夜話)を忠實に讀んでくれた人には、同話中に使用した背景といふ詞は、話者がどういふ意味で使用したかを知るに、さまで六つかしくは無からうと思ふのである。
 要するに同話中に云つた背景といふ詞は、彼歌の聲調の響から感じ得る、作者の情緒を云ふたのである。さも無ければ言語の裏面思想の背景とは云へないのである、事實といふ背景を十分に連想させ云々の場合もさうであ(318)る。空想を弄した詞技巧の働いた詞と違ひ、自然な言語の自然な響きを茲で背景と云つたのである。此際事實といふ詞が誤解を招き易いと思ふが、空想に對する事實の意で、即作者の擧動などを意味する事件とは全く別な意味なのである。
 僕の彼の夜話中では、徹頭徹尾、味ひを解せらるべきと云ひ、言語の調子を味うて見るべきと云ひ、情味を伴ひ得たと云ひ、事件的背景を連想するやうな、作者の行動などを連想するやうな事は、一言片語も云つては居ないのに、千樫君や乙字君から、どうしてあんな、千樫君は背景その物に興味を持過ぎ云々乙字君は此歌の背景に控へたる作者を役者と見て其役者振りが面白いといふ論云々といふやうな反對を受けたのであらう。僕は不思議でならない。
 どうか乙字君の宣明の如く感情問題を一洗し反對の意見を交換したい。どうか乙字君も今少し僕の説を同情的に読んで貰ひたい。
 抒情詩に小説及び劇的興味を託するはいけないといふ御注意は、失禮ながら御心配さら/\御無用と申上げて置たい。乙字君は僕の歌に對する所説を一向に讀んでくれた事は無からうけれど、抒情詩に對する僕の鑑賞は、いつでも、事件的興味や題目的興味や、取材とか用語とかの興味を第二義第三義となし、抒情詩の生きた味は、必ず内容と言語の融合から起る聲調の響きに、作者の情緒のゆらぎを感じ得る處にある。抒情詩の第一義はそこにあると云へる僕の所説は茲數年以來變つて居ない。乙字君は兎に角千樫君が、今時分に背景(事件的)に興味を持過ぎ云々と聞くは實に情ない感じがする。現にアラヽギ四ノ四(三十二頁)にも左の如く宣明してある。
(319)  自分は今、詩作の研究上、材料とか題目とか云ふ事に藝術の成功的價値を認むることは甚だ少ないのである。創作社諸君若しくは晶子女史等の歌などゝ、吾々の異る點は只前にも云うた意味の上に於てのみと思つて居る。吾々は詩的材料若くは好題目を巧みに三十一文字を以て提供されただけでは滿足が出來ない。之を云ひ換ると吾々は韻文の上に於て事件的興味に滿足し得られないのである。
 かう云つてる僕が、背景に控へた作者の役者振りを面白がるなどゝは、途方も無いお話である。萬葉の歌を見且つアラヽギの歌を見て呉れる場合には、内容と言語との關係上、言語の自然と云ふことゝ、言語の自然から起る、聲調の響きに注意して頂きたい。
 猶乙字君は、此歌沈痛な處少しも無いとか、抒情詩は感情の高潮を示すものならざるべからず。など云はれてあるが、此歌に沈痛な處のないのは此歌本來の面目であつて、當然なことであることは、僕も既に云つてあり齋藤君も反復云うて居る。元來抒情詩は沈痛でなけれは抒情詩の價値は無いものであるとどういふ理由で極めて終つたのか。僕にはそれに同意は出來ない、乙字君のは※[口+喜]しい悦ばしい感情は抒情詩にならぬといふ議論にや。
 僕は歌はかうでなければならぬとか、抒情詩はこれ/\ならざるべからずとか、限定した云ひ方には賛同が出來ない。乙字君の好みとして沈痛な感情を歌つたものでなけれは飽足らぬと云ふならば聞えるが、ならざるべからずとの獨り極めは、或は後進に教ふる教育法としては、必要かも知れねど、一つの議論としては成立しないであらう。
 乙字君は僕が、當時の女性の一面が窺はれるとかいふやうな事を云つたやうに云つてるが、僕はそんな事を片語も云つた筈はない。僕が二十五六才の女性的感情知識の完全に發達した人の作物云々と云つたのとは全く意味(320)が違つてる。
 それから乙字君も千樫君も、此歌は機智的だからいけないと云つてるが、それは間違つた考である、それはかういふ滑稽の分子と洒落れた意味のある歌に幾分機智的分子の含まれてあるは勿論であるが、此歌に含まれた機智は極めて僅なものである、此歌の重なる價値は決して機智にあるのではない。機智的な歌と云へば。
   寺々の女餓鬼申さく大みわの男餓鬼たばりて其子産まはむ
   吾岡のおかみに乞ひて降らしめし雪のくたけてそこにちりけむ
 僕はかういふ歌が機智的のものであると思つてる。此の二首の歌から機智をとれば何にもなくなる、機智が此二者の生命であるけれど『餓鬼のしりへにぬかづく如し』の方は餓鬼といふ詞の働きが全く別である。讀比べて見れば兩者に機智の含まれてる分量が直ぐ判るであらう。
 次に機智的の歌を頭からいけないと云ふことにも僕は賛成しない。余り長くなるから、只機智的な心の働きも文學になり得る場合があると云つて置く、少くも滑稽な趣味には必ず機智が加つて居る。
 もう一つ言ふことがある、二君は此歌から輕薄な趣味を感じ、從て此歌の作者を輕薄な女性と見るらしいが、僕は此歌に決して輕薄な感じは起らない、此の歌の外二十四首に依て見るも、此歌の作者を、僕は決して輕薄な女性とは思はない。斷じて輕薄な女性ではない。
 滑稽な歌を詠み洒落れた歌を詠み、男にあまえたすねた歌を詠んだからとて、それがなぜ輕薄であらう。二君はあまりに無粹な人達ぢやと笑ひたくなつた。何程つゝましい女性でも、肌身許した戀仲同志の間は別である。彼歌位の洒落がなぜ輕薄であらう。
(321) あまえたりすねたり、時には怒つて見る、恨んで見る、所謂痴話は戀の持前位二君と雖御經驗のあつた筈だ。さうしてつゝましこと其仲にありと申してこれでお終ひにして置く。
  ◎附記此號で記念號の所掲の作歌を評する考なりしも、信州旅立を急ぎて間に合はず、罪を謝す。
                    明治44年10月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(322) 茶煙日抄〔四〕
 
 九月十日。間宮英宗師が、福島へ講演に行かれた歸途、草庵に維摩經を講じた。久振での同人會合が先づ※[口+喜]しかつた。木村秀枝君木村芳雨君古泉千樫君淺野利卿君石川景扇君。平福百穂森田義郎の二君は日暮になつて來た。維摩經の提唱を聞いてると、六づかしい顔して、六づかしいことを云つてる、病維摩の老骨が目に見えるやうであつた。
 聞いてる間は面白くて解つたやうな氣がしたけれども、後で何も覺えて居られなかつた。
 悟つて人間を離れて終ふのはほんとうの悟ではない。人間のまゝでの悟りがほんとうの悟りだ。飯と思つた時に天地間飯より外に何もない。
 こんな事を聞いたやうな氣がする。森田新發意は相變らず酒を飲む。曰く禁酒して居ても此位は飲むのだから飲むさと。
 秀枝君の寫技は益進歩した、唯眞閣の寫眞始めて成る。(左千夫)
                    明治44年10月『アララギ』
 
(323) 日本國民の嗜好的生活
 
 題目が少し大き過ぎたかも知れぬ、かういふ題目の下に七八頁の原稿を書くことは却て六つかしい。
 極めて大ざつばに云ふて見ると、我國民の嗜好的生活の色別《いろわけ》は、何人にも無造作に知り得らるゝやうに鮮かである。
 佛教渡來以前の國民は、勿論、祭神の儀式調度及び其行事動作等が、常に嗜好的生活の中心となつて居つたに相違ない。所謂「竹玉を繁々《しゝ》に拔き垂れ祝瓶を祝ひ掘据え」とか云つたやうな、風であつたのであらう。道徳家や、宗教家は、祭神の儀器や行事を嗜好と云はないかも知れねど、それは別に論ずる事として、予は自己の見地から假に生活の嗜好と見て置く。
 云ふまでも無く佛教渡來後と雖も國民の嗜好が俄に一變したものではなく。家庭的祭神行事が大体奉佛式に變ずるまでには、相當の年月を經たものには相違ない。
 さうして其祭神的嗜好を中心とした、時代の生活状態は、簡潔清素と云つたやうな事で、極めて單純なものであつたらうと思はれる事は、其時代の遺物に、美術品として鑑賞し得べき物の皆無なるに見ても察することが出來る。所謂竹玉(卵管玉)も祝瓶も美術品と云ふまでには成つて居ない。其外剣と云ひ曲玉と云ひ先づ知れたものである。最も見るべきものは鏡らしいが、佛教渡來以前の、全く祭神式の鏡はどんな物であつたか。それを(324)問題にするには材料が餘りに少い。
 要するに祭神的嗜好を中心とした時代の生活は清淨と云ふ高い氣分はあつたらうが、簡素幼稚であつたに相違ない。
 聖徳太子攝世の代に至て、太子は佛教の精神に依て憲法十六條を定め。其治世中全國に十六個寺の大寺院を建立《けんりつ》した。自らも奉佛的生活を爲し宮居斑鳩宮は其儘寺院(今の法隆寺)となつて殘れるにも、太子の嗜好は充分に察することが出來る。
 佛教盆隆盛を極むるに及びて、上帝室より公卿諸豪族、悉く奉佛的生活を爲すに至れることは、或は法皇と稱し入道と稱し、殆ど寺院在家の差別さへ無きが如き趣きありしに依て明かである。
 此奉佛的嗜好が國民の生活を支配した事は隨分長かつた、概略に云へば寧樂朝の末期から室町時代の中期にまで及んだと思はれる。
 其間に國文趣味(物語趣味とも云ふ)即ち和樣の嗜好が多少あつた、料紙文庫書棚硯箱等の蒔繪物類は其系統に屬するものであらう。けれども奉佛的嗜好の赫燿たるに比すれば物の數にはならないのである。
 鎌倉時代に入つて、武士的嗜好の加味せられた形跡もある、併し當時少し毛の生へた武士は大抵何々入道であるに見ても、其奉佛的嗜好が、上流の嗜好界を支配して居つたことは云ふまでもない。
 國民の嗜好は、高ければ高い樣に低ければ低いやうに、當時の人心を表現した藝術を遺すのが常である。
 拳佛的生活に入つてから、我國民の嗜好は俄然として向上した。其時代の遺物は、其時代の嗜好を説明する生きた證據である。奉佛生活の初期即ち推古朝、それから奉佛生活の天平時代。それ等の時代の嗜好的生活の、ど(325)れだけ立派なものであつたか、日本國民の誇りとする處で何人も能く知つてる事である。
 それから藤原時代から平家時代を經て、鎌倉時代に入つた、鎌倉時代は藝術復興期の稱あれども、其嗜好は何處までも奉佛的であるが。蒔繪物の類、武器の類に藝術的嗜好の見るべきものが、少なくなくなつて來た、そうはいふものゝ、文學からして奉佛的になつて終つた時代であるから、大体の支配力は矢張奉佛的嗜好にあつたのである。
 足利時代の中葉になつて、佛教の信仰も漸く衰へ始めたものと見え、國民の嗜好的生活は、茲に一變の徴を現した。東山時代の藝術が即ちそれである。茲で信仰を論ずべきにあらざるも、嗜好的生活の變化は、信仰の衰退を事寶に證明して居るのである。
 足利時代の藝術は固より奉佛的嗜好から多く離れたものではない、周文雪舟明兆祥啓悉く佛徒であるに見ても、餘り多く離れやうの無い事が解る。乍併それは單に外面から見て云ふことであつて、内面の變化は慥に革命の意味を含んで居つたのである。
 鎌倉時代までの藝術は悉く信仰本位であるが、足利時代に興つた藝術は、全く藝術本位であつたことは、何人にも認め得る處である。
 之を約言すれは、佛教上の人物を畫《か》いても、信仰心から畫いたものではなく、單に作畫の題目として釋迦を畫き達摩を畫いたもので、信仰本位に畫いたものとは全く其精神を異にして居るのである。花鳥山水を畫くのと同精神で畫かれた釋迦達摩は、奉佛的嗜好外の物であることは云ふに及ばぬ事である。
 佛教の信仰が衰へて、獨り奉佛的嗜好の存《そん》じやうは無い。されば佛教の信仰が衰へて、嗜好的生活の變化す可(326)きは自然の理である。佛教の信仰が衰へ、奉佛的嗜好が無くなつて、佛教的藝術は全く跡を絶つた。足利時代に入つて全く信仰本位の藝術が消て終つたのは、當に然るべき理由があるのである。國民の嗜好に伴はない、藝術の興りやうは無い。
 足利時代には國民の嗜好的生活に革命が行はれて、藝術の精神にも革命が行はれたのである。
 一時混亂を來した足利時代の嗜好界は、何等か新しいものを要求せねばならなかつた。永く統一されて居た嗜好界が遂に混亂して統一を失ひ其生活の空乏を感じた時、何等か新に統一を得んとするの要求が起るべきである。東山時代の茶の湯と云ふものは、其要求に依て起つたものに相違ない。
 茶の湯なる名目を冠した、一大勢力ある嗜好界の統率者は、印度支那朝鮮等の種々な思想と趣味とが、加味されて居ること勿論であるけれど。從來から自然に成熟し來つた、日本人の思想感情と、最も能く醇和融合して、當時頗る進歩した嗜好界に滿足を與へた。
 世は前古未曾有の亂世でありながらも、茶の湯の勢力は非常な勢で發展した、豐公の時代に至つて其盛觀を極め、徳川時代に入《い》つては、茶の湯は全く當時の嗜好界を支配して終つた。
 茶の湯と云へば人は必ず利休を云ひ豐公を語るけれども、豐公時代には茶の湯の行はれた範圍がまだそれほど廣くはなかつた。茶の湯が國民の嗜好を支配して終つたのは徳川時代に入つてからである。
 豐公時代の代表的藝術家たる永徳山樂等が茶をやつた話を聞かない。それに反して徳川時代に入つては、光悦光甫を始め探幽松花堂光琳乾山等悉く茶人であつた。以て當時嗜好界の大勢を察することが出來る。
 要するに茶の湯は足利時代の末期《ばつき》から徳川時代の中世に及ぶまで、我國民の嗜好的生活の統率者であつた。奉(327)佛的嗜好時代が遺した雄大華麗な美術品に比することは覺束ないとは云へ、茶の湯時代の嗜好からも、隨分國民の誇となるべき遺物が少なからず殘つた。
 茶の湯の生きた支配力は、元禄少し過ぐる頃で盡きた。其後の茶の湯は僅に型式の殘骸が殘つたに過ぎむ。元禄以後茶の湯から藝術品の出ないのが何よりの證である。
 藝術を産まない信仰は靈の無い信仰である、藝術を遺さない嗜好も靈の無い嗜好である、靈の無い嗜好に生活する國民を何と云つたら良いだらう。
 元禄に芭蕉が出でゝ嗜好界は幾許か賑ふたけれど、廣く國民の上に嗜好的生活の統率者にはなれなかつた。其後漢學者連と文人畫とが抱合して、嗜好界の一大勢力を爲した事がある、文晁竹田山陽などの活動した時代がそれである、けれども俳人の嗜好や文人の嗜好は、一般的嗜好生活と容易に調和し難い處がある、永く嗜好界を支配し得ない理由もそこにあつた。
 文人的嗜好が勢力を失つてから、嗜好界に新しい勢力が起らない、系統なく統一なく、蕪雜亂調を極めて居るのが明治の嗜好界である。
 それは今の嗜好界には祭神もあり奉佛もあり、茶人もあり文人もある、けれども夫が只ゴツタ交ぜに玩弄されて居る。自分は是から先どうなるだらうといふ氣がしてならない。今の蕪雜亂調な嗜好界が、如何なる藝術を産むであらうか、それが氣になつてならないのである。
                   明治44年10月29日『獨賣新聞』
                        署名   左千夫
 
(328) 獨語録(一)
 
◎事件は人間ではない、人間に事件があるのである。個性の描寫を疎にして、徒に事件の委曲を巧みに描寫した處で、到底淺薄を免れ得るものでほない。
 藝術の題目として、人間程尊く美しく神聖なものは無い。客觀的にも主觀的にも、一分一厘たりとも、人の體に醜な點はない。
 人間は周圍から汚されざる限り、徹頭徹尾聖にして且つ美なものである。裸體畫を醜なりと云ふは、云ふものゝ眼の醜なる故である。懸愛を醜なりと云ふは、云ふものゝ心の醜なるが故である。
 人間に起る事件は直ちに人間其物ではないのであるから、事件を寫して人間を得んとするは、始めから無理なのである。
 人間の生命に最も直接な交渉がなけれは、如何なる表現にも藝術の生命は宿らない。生を求むる純なる人間の動き即藝術の根本義である。
 されば藝術は人生に觸れただけではいけない。人生の問題に觸れて居らねばいけないのである。人間の生を求むる自然の動きに、直接交渉の無い藝術は、遊戯的裝飾的の意味に於て僅に人生に必要を認め得るのみである。
                   明治44年11月『新佛教』
 
(329) 獨語録(二)
 
      八百長式繪畫
 
 文部省の展覽會を見て、自分の最も飽き足らず感じたのは、諸名家の作品が、如何なる藝術觀の上に作られたものであるか、明瞭を缺いて居る點であつた。之を云ひかへると、藝術觀上に、確固たる信念を有して居て作つたものと、思はれる作品を、發見し得なかつたのである。
 自分の入場した時には觀覽人山の如く、落ついて見てる間も無かつた程、混雜して居つた際であつたけれど、隨分畫を見るには熱心なる自分をして、其混雜を忘れしめるやうな畫は一面も見當らなかつた。自分は始めから終りまで、勉めて見るやうな氣持で見て終つた。思はず引据られて我れを忘れるやうな感興を遂に得られずに終つた。
 自分の胸中には何等の感激も起らなく、悠々たる平氣な心持で、多くの繪畫彫刻を點檢し去つて終つた。さうしてそれを決して自分の罪などゝは思へなかつた。
 會場を出やうとする時までに歸納し得た自分の考は餘り同情の無い考かは知らねど、八百長式の藝術であると思ふたのであつた。
(330) 八百長は相撲の形《かた》である、相撲の摸擬である。其精神が相撲ではない、であるから強く觀客の心を刺撃することが出來ないのである。八百長式の藝術とは、藝術の形である、藝術の模擬品であると云ふことである。言餘りに過激なやうであるが、諸名家は所謂新しい試みなるものに忙しくして、藝術觀上自己の確信を養ふの暇が無い。動搖定らぬ迷ひの氣分が、遺憾なく其作品の上に現れて居る。二等三等の受賞品中にも、摸倣の痕跡掩ふべからざるものあるを見たらば、自分の放言の決して過激でない事が解るであらう。
 去年の展覽會に出た、人の作品を摸倣して、今年の展覽會へ出品するとは何たる情ない了簡だ、敢て今年許りではない、いつの展覽會を見ても、摸倣の空氣が至るところ漲つて居る。さういふさもしい下劣な了簡で藝術家とは何事か。
 創作とは讀んで字の如く、徹頭徹尾創作でなければならぬ。作家の精神と離るゝことの出來ない、交渉を有して、全然作者其人の自分の物でなければならないのだ。作品が自分の物になつて居るか否かの問題は、直に其作品に生命あるか否かの問題であるのだ、他人の手つき筆つきを眞似て、敢て恥とせざる作家に、眞の藝術品を作らんとするの誠意が無いといふ事は、盗賊に信義がないと同じである。
 自分は諸名家の作物に對し、其技巧の一點に於ては頗る敬意を有して居るものであるが、惜哉諸子の技巧は、創作的意味に於ての技巧でなく、藝術の形を演じ藝術の摸擬を爲すに就ての技巧になつて居る。其技巧は相撲の上手なのではなく、八百長が上手なのに過ぎない事になつてるのである。
 全然觀賞家の位置にある自分等が、實技の上にまで言及することは避けねばならないが、打渡した東洋畫の方に、人物を畫いたのが非常に多いけれど、失敬ながら、東洋畫に於て人物を畫くの用意如何と質問された時、確(331)信的意見を答へ得るもの幾人かあると云ひたい。
 進歩した思想から、進歩した觀賞に應ふる、藝術觀上、人物を畫くといふ事は云ふまでもなく重大な問題でなければならぬ。
 精神的にも肉體約にも、人間の動き程複雜にして靈聖なものはない。それだけ人物は藝術の題目として重大な意味を有して居るのである。それ程に重大な畫題を捉らへて、深い用意も確信もなく、輕々しい取扱をして人物を畫くといふは、隨分亂暴と云はねばならぬ。
 諸名家の人物一見して片端から不自然を極めたもので、極端に云へば人間の形にもなつて居ない。第一板のやうな人間が多い、肉の重みがない、肉の生きてる表現が無い、運動の力が描かれて居ない。立つてる足には重い體をさゝへた力がない、重みのない力のない人物は、風に障つたら直ぐにも倒れさうに見える。衣服の色彩形状の如きは、幼稚な群蒙を瞞する板面に過ぎない。
 以上の畫に對して眉目口唇等の形状及び四肢の運動状態等に依て表現せらるゝ、内的心情の動きを捉らへたる、主觀的描寫を望むなどは、固より百里も遠い話しである。
 親しく眼前に見得る人物に於てすら、滿足には描寫し得ない人達が、到底目に見られない宗教畫、歴史畫を創作するとは、如何なる考であるのか。自分などには迚ても、さう云ふ人達の抱いてる、藝術觀を想像することが出來ないのだ。
 進歩した藝術觀上、歴史畫宗教畫等、理想的畫題に就ては、大に考ふべき問題であらうと思ふけれど、未だ暫くは扣て居る。
(332) 何しろ東洋畫家は勿論、西洋畫家にも、今少し落ついて居て、確乎とした意見の下に、自分の物になつてる作品を見せて貰ひたい。
                     明治44年12月『新佛教』
                        署名  左千夫
 
(333) 短歌選抄〔二〕
 
      十一
 
     友の新婚を祝す        篠原靜居
   玉だすきかけのよろしき新妻の煮たるうま飯いかによけくや
 改まつた祝詞と云ふよりは、打解けた親しい同志の感情から出た、親みの祝歌である。
   天つ神國つ御神のことよせて新妻得たる君を祝はん
 眞面目に改まつた樣な口調の中に、おのづから親みの情緒が見える點に注意せねばならぬ。親んで駄洒落に陷り、改まつては形式の冷淡に流れぬのが、祝意の最も體を得たものであらう。
      〇               兩角柳門
   貧しくも清住みつつを雲に倚る仙人さびて爐によるわれは
   新年《にひとし》の少男《をとこ》少女がかるたする心ねもごろ時じくにあれ
 我を疑はざれば迷ふことも少い。さうして我が生活の有のままを樂んで居る人は幸福である。若い男女の春遊びを見て、そこに何等の疑もなく、何等の理屈も考へず、只平和親善の情を悦ぶそこに人生の樂みはあるのであ(334)らう。作者を徒らに樂天家と思はば間違である。
      〇              佐藤江東
   足乳根の母に離れて男の子われ肌著の破れ縫ひつくろふも
   白雪の達摩の腹に竿さしてかつぎもて行き川に流せり
 年若くて心の暢び暢びとした、何等屈託する處なき男性の心理がありありと現れて居るのが如何にも面白い、言語が如何にも無造作で、一讀出たらめの如くであつて、然も作者の心には詩的感興が搖らめいて居る。其の心地よげなさまを見るべきである。
      〇              兩角竹舟郎
   堯の雨舜の風吹きし八束穗の小田も刈られて冬さびにけり
 豐饒な秋から閑寂な冬に移つた、豐かにして樂しく靜にして又樂しい田園の生活、羨望に堪へない趣がある。
   灯ともして初荷車の七車こほりの湖をとどろに渡る
 諏訪町の賑ひ諏訪湖上の氷上往來、それを新年の朝に見たのが殊に面白いのである。詩題の選擇はかくあつて始めて有意味となるのである。
      〇              蘆庵
   あさあけの丘吹く風に少女らが衣手なびけ小稻苅るかも
 此の作者は信濃の人である。信濃は寒さの來ること早き所なれは、農家は秋の忙しき事一方ならずと聞く。朝
朝稻を苅るといふが珍しい光景も面白いが、さういふ人事にも趣味がある。
(335)   此丘に夜刈稻刈少女等が絶えず歌へばさぶしくもあらず
 これは前歌とは異り夜稻を刈るのである。業の容易ならざるを嘆じた作者の心を見るべきである。
      〇              蓼圃
   我妹子が手ひきの木綿の眞白にぞ霜ふりにけり長柄長橋
 作者は美濃の人である。霜が降つたと云うても寒い感じの少いは自然である。信濃人の歌と比べて見ると、自然に爭ひ難い差のある處、最も味がある。
 
      十二
 
     藏王山に登る          齋藤茂吉
   岩の上に我が立つ今や天の川清らに垂れて靜けき夜なり
 作者の胸中は底の底まで澄みとほつてるやうな歌である。永久動くことなき岩上に立つて、天地四方只星許り目にとまる處に偉大な靜けさである。
   天《そら》なるやかがやく星を手をのべてとらまくおもほゆ山高みかも 山上の靜夜、氣清く空澄む、作者は家を忘れ身を忘れ自己の人たることをも忘れた、星粒を手に取つて、握りつぶしてでも見たくなつたのであらう、人界と相去る幾萬里の感がある。
     早春の歌            長塚 節
   蒼雲のそぐへを見れば立ち渡る春はまどかにいやはるかなり
(336)   麥の葉は天つひばりの聲ひびき一葉一葉にゆりもてのぶらし
 嗚呼春だなといふ感じが、心の隅々までしみ渡つて居る。春の空氣のゆれると等しく、作者の心も揺れつつある、それで景と情と渾然融和した作者が無造作に湧いて來る。
      〇              平福百穗
   春河の雪解の出水平押しにあふれみなぎる國移るべく
 「國移るべく」の一句、春來つて大いに雪解けのする雪國の光景を描き得て神に迫るの感がある。今までに是だけの歌を見ない。今後又是れだけの歌は容易に出まいと思はれる。
   ここにして岩鷲山のひんがしの岩手の國は傾きて見ゆ(国見峠にて)
 これ又大景の歌である。「國傾きて見ゆ」の一句如何にも雄大な敍景であつて、活氣又それに協うて居る。
      〇              蕨橿堂
   山かげのこぶしの花は泡雪のはだれの如く月に匂へり
   天地に梅と柳とよりあへる春の心をよろづ代までに
   春霞たなびく中にさき匂ふ花とこほしもわが思ふ吾君
 樂しい滿足した感情が、胸にただようて居る人の心から流れ出た歌である。心の滿足を歌うた歌の多くは淺薄に陷つて居るに、これだけ奥ゆかしみのあるは作者の技倆である。
      〇              柿の村人
   この朝け岸邊の氷切り急ぐ簑笠の人に春の雨ふる
(337)   湖《うみ》のべの雪は消えなくに温泉《いでゆ》立つ煙おぼろに春の雨降る
 諏訪湖の春である、湖上の氷未だ解けないうちに、世は春となつた、氷切る人に春雨がふる、雪の中から温泉の煙が立つ、然かも氷も雪も寒くないやうに思はれる、寒國の春には又別種の趣がある、そこを發見したのが作者の働である。
      〇              丸山近美
   寒澤を葦間分け入るをし鳥の影かくれてもなみのあとゆれ
 印象の明かで精彩なこと此の歌の如きは實に珍しい。鴛鴦は葦間に入つて終つても、其のあとに水の動きが見える、時間の推移が現れて居る處最も珍とすべきである。
 
      十三
 
      〇              佐藤江東
   みちのくの馬飼人が馬の子のよき子を祈る馬頭觀世音
   み佛を思ひてあれど美しきまばろし少女忘れかねつも
 文明の中心から離れて平易な生活をして居る。樂むところも淺いだけ、苦労も輕いのである。
     伯夷列傳            齋藤茂吉
   谷つべに寐なんと思へば春深き首陽山南日垂にけり
   春深く飢ゑなんとして底つ世の親を呼びつつ詠みにけん歌
(338) 精神的に最も美しく最もあはれなる歴史上の事實を更に詩化せんと試みたのである。
      〇              胡桃澤勘内
   青柳のきらふ春べも夕さればいまだ寒けく鳴く千鳥かも
 薄暮の春寒、身にしみる思ひである。殊に高山國なる信濃の地、晝夜の温度著しく差違ありと聞く。一首の詞調自のづから國情を示して居る。
   春の朝の日のうららかに廚戸に水照り返す桶の水かげ
 能く實際の光景を捕へて、春情溢るるの感がある。
   新草のさみどりはゆる川又川幼なさびつつ越えて來にけり
 春光に誘はれて情緒は自然に幼くなつた。川又川を渡つて、何を追ふのでもない何を求めるでもない。樂しい人は動かずには居られないのである。
      〇              掘内 卓
   春過ぎて木々の葉芽ばる此頃は山葵の茶飯を食ふがたのしも
   穗高のや山葵のかをり遠つ世の穴居醜男の酒しおもほゆ
 山人の樂しみは物さびて清く、神仙の氣がある。
     病牀歌             望月 光
   病みふせば心晴れねば苛立て母を苦しめ後悔ゆるかも
人皆の晴るる心をもちがてにとのくもりのみ悲しきものを
(339)   我命は遂に死にせむ死にせざるたふときものと名を祈るかも
   春の野の廣きを知らぬカナリ汝れを汝がとももぞも汝を聞き病めば
 
      十四
 
      〇              齋藤茂吉
   あかつきの草の露玉七色にかがやきわたり蜻蛉|生《あ》れけり
   曉の草に生れて蜻蛉はまだうら若み飛びがてぬかも
   薄絹のあきつの羽に朝日さしあやにかがやく田の小草道
 物の大小を問はず、萬物の發生には殊に顯著に神意を感ずるのであるが、此の作者は先づ蜻蛉といふ一種の趣ある、昆蟲が忽然とし生れ出づる現象に、深く神の心を感じたのである。蜻蛉の發生を神景と見た作者の眼には、其の總てが清淨神聖に見えたのである。三首の歌を吟誦し去つて、まづ清淨の氣の溢るるを感ずるもの即ちそれである。
      〇              志村南城
   河そひの小村家なみ桃さきて馬皮干せる見ゆ韓の村らし
 韓の村とは俗に云ふ穢多村なるべし。それを韓の村らしと云へるは、想化力に富める作者の詩才である。
   おほろかに月はかかれる三熊野の森の櫻の花白う見ゆ
(340) 趣向は平凡であるが、花の匂ひ花の感じ、それが全首に滿ちて居る。
      〇              渡邊幸造
   うつそみの黄金光れり黄金をし得ずば飢ゑんと老いし父母
   秋風や旅行く時のふところに黄金の袋われ忘れめや
   千早ふる神代にありて黄金それ山にしありし夜は光りつつ
 作者は黄金を有して居る人である、さうして能く黄金の徳を解し且其の徳を重じてる人である、然かも黄金を詩想化し得る趣味を持つて居る人である。
      〇              岡田撫琴
   朝まだき馬追うて行く峠路や谷の若葉に靄晴わたる
 只是れだけであるが、是れだけの詩境を發見して、是れだけに寫し得れば、作歌の上乘なるものである。
      〇              篠原志都兒
   菅笠に共に畑打ち吾妹子と二人泣び居人目ひくらん
   蕨折る妹が歸りの遲ければかにかく思ひて戀しもわれは
 無邪氣な若夫婦、可憐な戀、景に於ても、一點の俗氣なきは、歌の精なるものである。
 
      十五
 
〇              岡 千里
(341)   桑畑はか黒きまでに繁りつつ蠶飼樂しき吾住居かな
 門や垣などいかめしき居宅ではない。桑畑が手近く家を圍んだ簡易な生活であらう。夫婦に子供二三人といふやうな、氣安く樂しい家庭が窺はれる。
   ゆふやみを螢も細く川の邊の麻のしげりに小雨けぶれり
 幽かに靜かな趣を樂む時、心もそれにつれ詞もそれにつれてやさしい。
      〇              篠原志都兒
   世の中の一人少女を戀ふるままに秘めて苦しき思ぞ吾がする
   藤波の花の長房いつまでも戀ひつつ居らんこひとげんまで
 心のやさしくおとなしい人は、戀ひするにもつつましいのがあはれである。      〇              蕨橿堂
   吾妹子がくりやの方に椎蕈を火どるかをりの渡る宵かも
 春の夜とも樂しい夜とも詞には無くて、春の夜の靜かな樂しさが偲ばれる。      〇               蕨桐軒
   草枕旅に道問ふ家もなく山路別れに來る人まつも
 些細なことを輕く云つてのけた處に、暢氣な作者の人となりまで解るのでをかしい。
      〇              長塚 節
   天水のより合の外《そと》に雲收まり拭へる海を來る松魚船
(342)   白帆干す入江の磯に松魚船いまこぎかへる水夫《かこ》のよびごゑ
 すべての物が明かで、晴れ晴れとした賑かな海邊のさまがよく現れて居る、蒼い潮白い波を目に浮べて居て後に此の歌を誦すべきである。
      〇              安藤黙斷子
   春雨のひるすぎ獨《ひとり》灯ともして葵の花を造るに樂し
 女子工藝學校の生徒などが今日は宿にこもりての手すさびとおぼゆ。若き女の顔まで見えるやうで美しい。
   春晴れに雲雀あがれる廣野原あなたの岡には村人二人
 幼い心幼い詞譯も無いところに味がある。
      〇              柳澤廣吉
   あからひく朝温泉の庭の明けに駒鳥鳴きて谷飛び渡る
 温泉と云つても、都人など入込み雜沓する温泉場ではない。浴客も少いやうな感じがする。
      〇              古泉千樫
   新はりの畑の蠶豆花咲きて楢山かくりうぐひす鳴くも
 かうして鶯の鳴くのを樂しんで居たら、山間僻地の居住も寂しくは無いだらう。
 
      十六
〇              蕨橿堂
(343)   天が下の人に後れて足曳の山のいほりに蘭《らに》を樂しむ
わが家は空しくあれど一鉢の蘭《らに》の瑞葉がおくにしげれり
 何事にも新しきを良しと許り思ふ人々には着想が古いなど必ず思はれるであらう。乍併清きこゝろゆかしきかをりに固より新舊の差別はない。一鉢の蘭《らに》を愛して、我が生活の上により多くの幸福を寄與することが出來るならば、想の新舊を云々するの要いづくにかある。
      〇              齋藤茂吉
   紫のにほへる蕾かぐはしみながめて居るかも花あやめ草
   我が見ても美くしきぬに喜びて羽子《はご》つく見れば命ほりすも
 許嫁の妻の、まだ幼なげなるを、待ち樂みつゝあるらしい。ながめて居るかもと云ひ、命ほりすもと云ふ、幼な姿の美しきを見るにつけても餘所ならず見る心の内、樂しくも又もどかしくもあるべきである。
      〇              柿の村人
   荒玉の年の二とせ一日だに汝《なれ》が病む眼を忘れて過ぐせや
   親ごころすべなき時は眠りたる汝《な》が顔見つつ夜を寝《い》ねず泣く
 七歳なる我が子の眼病を悲しむと詞書あり。病兒を悲む親ごゝろ、詞調の響に現はれて直ちに其聲を聞くが如き心地ぞする。
   汝が病おこたる時は天つ風千雲ひらきて日を見る如し
 病少しく惡ければ、九地の底に沈む思ひがする、それに反して稍宜しく是れならば仔細もあるまじなど思ふ時(344)の、晴れ晴れしさ、思ひの切なるだけ、喜憂の情手を反す間もなく動くは人の自然であるのである。
   いはけなき稚心《をさなごころ》に癒むとし願へる心思へば悲しも
 七歳の幼兒平生何の聞別けがあるべき、然かも身の一大事と思ふ心は、常になく何事も親の云ふに戻《もと》らず。幼き心にも癒んと願ふ心あればと氣つきたる親の悲しさ、眞に遣る瀬なき思とはかかる時に、云ふべき詞であらう。      〇               蕨 眞
   みみず鳴く庭のま中に立ち見れば梅の青葉に月の笠すも
   井の水のくみてこぼれしうるほひの土に聲あり夏のおばろ夜
 自然の人に自然の想がある、作り詞がなく作り聲がなく、聲調自然に出づるのも又自然である。
 
      十七
 
      〇              長塚 節
   青芒しげれるうへに木の間もる日のほがらかに松蝉の鳴く
   莢豆の花さくみちの靜けきに松蝉遠く松の木に鳴く
   松蝉の松の木ぬれにどよもして袷ぬぐべき日も近づきぬ
 初夏の岡邊に、晴明な林中、靜かなさまも晴れてるさまも、松蝉の聲と共に言語の上に響いて居る。山居の愉快が自ら聲詞に現れて居る。
山桑を求むる人の谷を出てかへる夕に鳴く蚯蚓かも
(345)   菁莪の根に籠る蚯蚓よ夜も日もあらじけむもの夜ぞしき鳴く
 山居の黄昏、ほのくらき細徑、桑を摘んで歸る人もある、只打眺めて停立して居る人もある、草の葉の香などする。
   黄皀莢の花咲く谷の淺川にかじかの聲は相呼びて鳴く
   鮠の子の走る瀬清み水そこにひそむかじかの明かに見ゆ
   さるかけのむれ咲く花はかじか鳴くさやけき谷にふさはしき花
 清絶閑絶、世事の一切を忘却して、獨詩興に入つたのである。只かじかの聲だけで天地は寂然として靜かだ。
   妙の浦ここをも鯛のよる海と鵜の立つ島をさしてぞ漕ぎ來し
 「鵜の立つ島をさしてぞ」の一句、光景畫の如く、讀者の眼前に開き來る。   磯なぎのよろしき日には鯛のよる貽貝が島は波打ちしぶく
 此の人の歌どこまでも繪畫的感興の上に作らる。其の聲調は清く朗かである。作者の人品が其の好みと音聲とに隱るる處なく現れて居る。
   芋植うと人の出でされば讀り居て炭燒く我に松雀しきなく
 天遠く日永し。思ひは直に太古に接す。
     夏蠶              志村南城
   はなれ家のともしび明かく少女等が浴衣清げに桑くばる見ゆ
 眞に夏蠶のさまである。桑くばる人も心地よげである。それを見てる人も心地よげである。
(346)   いそしみのまゆとりあげて吾妹子が悦ぶ見れば我れも嬉しも
 實に平凡な事である、只其の平凡日常の歡樂の中に人生の眞趣はこもつて居る。此の歌一讀晴れ晴れとして心地よげなるを取る。
 
      十八
 
      〇              長塚 節
   松蔭の沙に咲きつづくみやこぐさにほひさやけきほのあかり雨
   松蔭は熊手のあともこぼれ葉も皆薄濕りみやこ草咲く
 みやこ草は常に路傍に見ゆる雜草である。花形は梅の花に似て美しい黄金色を咲くのである。雲の明るい小雨の濱邊を行いて松蔭の白沙に此の花を見たのは、見榮もない此の花の爲に、最も良い見處を見たのである。熊手のあとある砂地も松の落葉も薄濕めりしてみやこ草咲くとは。寫生の精彩も茲に至つて究れりと云ふべきである
   蚊帳越しにあさあさうれし一枝は廂の蔭にそよぐ合歡木の木
 寫生は此の作者の生命である。合歡木の一枝は廂の蔭にそよぐとは、實に巧妙な寫生である。「そよぐ」の一句寫生でなければ到底云へない句である。此の一句ありて、猶朝床にある作者の身邊蚊帳も動いている涼風の心地よさが、如何にも鮮かに感ぜられるのである。
   水掛けて青草燻ゆる蚊やり火のいぶせきさまに萎む合歡木の葉
 前歌は朝の合歡木、清々しき風姿を樂んだ。此の歌は夕にしぼむ合歡木の情を憐れと見たのである。何が故に(347)夕べの合歡木が憐れかと問ふのは無要である。
   暑き日の降り掛け雨は南瓜の花に溜りてこぼれざる程
 敍し方が説明に陷いつて餘韻の味ふべきものが無いのを遺憾とする。乍併天候自らどよめく殘暑の有樣を忍ばせて捨てがたい處がある。
      〇              志村南城
   世の人の忙し申す夕まぐれ多魔の時をねむる合歡木の木
 長塚節の歌にもありしが、朝は必ず晴々する合歡木の、夕べは又必ず明快を缺く合歡木の情を捕へ得て面白い。
   夏山の青葉谷間の水清み合歡木咲く岸に假庵せんかも
 是れは晴れた日中の明るい清い感じの合歡木である。
      〇              胡桃澤勘内
   あからひくねむの花むら打ゆらぎ天の朝門を風渡るかも
 目を覺ました晴れ晴れと心地よげな合歡歓木のさまである。無心の草木をすら情あるものの如くに思ひなして、感興をやるは詩人の常であるが。合歡木は植物の中にも、朝と夕とに或る動作をする植物である。詩人の目に一層主觀的感情を催すのが自然であらう。
 
      十九
 
      〇              篠原志都兒
 
(348)   坂のぼり里見かへれば家煙しら/\明けにたなびき渡る
   白雪のとはりたれたる八ケ岳硫黄ケ岳は上なかは見ゆ
 光景殆ど繪のやうな許りではない、これだけ復雜な敍景をしながら何の苦もない詞の調子に、作者の愉快な心持が現はれて居る。
   山裾のあらゝ松原朝明けに鳴きのともしき鳥の聲すも
 「ともしき」といふ詞茲では其の聲を愛する意になつて居る。空氣の澄んだ朝晴れの趣が言外に感ぜられる、作者が如何にも心地よげに其の鳥の聲に耳をとめたかゞ窺はれる。
      〇              柿の村人
   短夜のしら/\明る川添の山葵が畑を霧這渡る
   山葵葉を素湯《さゆ》にひたせる壺の蓋をとれば清しき其のわさびの香《か》
   駒ケ峯ゆ流るゝ水は科野《しなの》にもわきてさやけく山葵よろしも
 わさびの歌が既に珍しい、第一首に山葵の生へてる山畑の光景を稱し、第二首にわさびの香の清淨なるを稱し、第三首は山葵のいづる國の山水尋常ならざるを云ふ。山葵といふものゝ食物として如何にも俗を離れた風趣を、各方面から遺憾なく歌つてる。實に一讀清氣におそはれるやうな歌である。
      〇              依田秋圃
   秋の田の稻置《いなき》の材料《しろ》に赤楊《はんのき》を此の國人は苗市に買ふ
朝月夜かけ鳴く頃を厩屋より駒引出し苗市にゆく
(349) 無造作な事柄を無造作に詠んだうちに、田舍の空氣が漂ふて居る。自然と人事とが密接してる處が田舍の面白味である。
      〇              胡桃澤勘内
   久方の細道月夜かげほのに十夜の人の繁《し》き通る見ゆ
   十夜するかね聞きつつも窓にさす西なる月のさ夜更けにけり
 はかないあはれな氣分が、詞の調子に現はれて居る。作者は物哀しい心のうちにも、頼もしい慰安の情はあるのである。十夜する人々の心に作者は動された處が詩であるのである。
      〇              伊東桐梧
   乳房なき胸地《むなぢ》さぐりて男手に眠るとすらん見れば悲しも
   汝が悲し落葉する世の寂しさを今が二歳《ふたつ》のむねにや覺えし
 世の中に幼兒ほどむごきものはない、されば又兒供の事ほど悲しい事はない。
 
      二十
 
     夜苅歌             柿乃村人
   うれかれし楢の林の木蔭田に夜苅しこもる風寒みかも
   足曳の山田の畔に榾火たき刈りつむ稻に霜おくらんか
   三つ星のひんがし方にさかるなべ夜頃おそしと稻つみかへる
(350) 雪早き寒國の秋は、稻を刈入るること皆夜の仕事なりと云ふ。三首の歌能く夜苅の状況をつくせり。殊に三首を通じて其の調子に、如何にも寒むさうなる感じの現れたるを味ふべし。
   前山にすすきを苅ると朝行くや穗波の末に殘る月あり
   あしびきのあらら松原うちなびく萱苅るらしも今朝人が見ゆ
   遠津峯のつめる白雪朝日照りいちじろしもよ蒼峯の上に
 秋の空氣の清爽なる感じがひしひしと讀者に迫るを覺ゆべし。目に浮び來る光景も又決して凡ならず。第二首の結句「今朝人が見ゆ」の一句讀者にまざまざと現在の感じを傳ふるを注意すべし。
      〇              柳本城西
   朝霜の庭照るまでに瑞々し朱欒黄玉が色つきにけり
   かどぬちの厩につなぐ若駒の稚木のざぼんここだみのれる
 題目の珍しきのみにあらず。天地の氣澄み來つて、人の心も自ら爽かなるを感じ得べき歌なり。
      〇              石原 純
   貧し居る夢の障子に月姫が秋の狹庭の梧桐を映せり
   苔むしろひとりの庭を雨晴れて八つ手か花の眞白玉散る
 著想既に珍しくして、其の感興は清く靜かなり。獨居秋を樂しむの詩境と云ふべき歟。
      〇              蓼  圃
   鳥狩すとあかとき起きて百草に霜置く野べを犬つれてゆく
(351) 一讀平凡何の巧なきが如く、然かも極めて自然なる其の想と詞とには、どことなく捨て難き味あるを見るべし。
明治44年1月・2月・4月・5月・7月〜12月『臺灣愛國婦人』
                                署名 伊藤左千夫
 
(352) 『我が命』に就て
 
  『我が命』はアラヽギ第四卷第十號所載の左千夫氏作短歌八首をいふのである。作者に短歌の自解を求むる如きは實は作者を侮辱した物であるかも知れぬ。たゞ、アラヽギの樣な性質の雜誌にはかういふ種類のお話をして頂くのは大變有益だと思ふ。由來短歌鑑賞でも相當の用意と修練が要る。手の端の運動のみの歌を作り、都合のよい當り觸らずの歌のみを鑑賞して來た者には『我が命』の如き歌が解せない事になります。解せないといふ事が若し同人中にあつたらそれは悲しい事に相違ない。この點に於てかういふ種類のお話は有益であります。同時に歌の缺點も若しあれば發見する事が出來て大變有益になる。次に作者は『自分獨りで窃に味つて居たい』云々と云つて居る處が『予が作歌の態度』と一致するので尊いと思ひます。この事に就ては纏めて何時か述べます。參考のため數首抄します(編著)
 
   いまの我に僞ることを許さずばわが靈の緒は直ぐにも絶ゆべし
   生きてあらむ命のみちにまよひつゝ僞るすらも人はゆるさず
   世に怖ぢつゝくらき物かげに我が命僅かに生きて息づく我妹
   悲しみを知らぬ人等の荒らゝけき聲も我は死ぬべく思ほゆ
   世の中を怖ぢつゝ住めど生きてあれば天地は猶吾を生かすかも
早くから自分の胸にあつたのである。勿論或動機から(353)作歌を思ひ立つて無造作に作つて終つたのである。
此歌を作つた時、自分は反覆口誦して見て、自から我歌に我心の動搖を覺えた。云ひ惡いことを云うて終つたやうな氣がして、自ら氣持がよかつた。さうして、永久に人に示さず自分獨で窃に味つて居たいやうな氣がした。乍併已に一つの藝術として成立つたものを、世に示さないといふは藝術本來の性質に戻るものといふ考から思切つて發表したのである。愈雜誌が出來た時にも猶不安の念が消えやらず、胸騷ぎがした程である。反響を恐るゝの念が猶胸中を去らない内に、其中の何首かを自ら解釋せよと云うて來られた。自分は三度物に襲はれたやうな感じを禁じ得なかつた。已に發表した以上は、最早其自解を否むべき理由は少しも無い譯であるが、元來此作歌の告白が多少尋常を越て居るけれど、告白としては猶云ひつくさずに、包んである處があるのだ。然るに今此歌に自解を加ふることになれば、其包んである處までは云つて終はねばならない。自分は前にも云つたことがある。自分の歌を自分で解釋するのは、云はずに置くべき事を云つて終はねばならないやうな氣がして、或場合に頗る興覺しの感がありやしないかと云うたのである。況や今回の如き發表にすら躊躇した作物に自解を求められては、猶更當惑の念なきを得ない。
殊にかう云ふ歌に就て、自ら何かを云ふとなると、自然自分を回護するやうになり易い。自ら自己の弱點を告白して置いて、後から我れと回護めいた事を云ふは沙汰の限りである。自分は齋藤君から云うて來られた時に、よしてくれゝばよいにと實際思つたのである。されど人間は或場合不思議と、矛盾した感情を懷くものである。自分は一方に以上の如き考で恐々しながら、一方には又、自分に對する眞の同情者に、かういふ歌を見て貰ひたいやうな氣持もした。從てかういふ歌に就て眞の同情者から何とか云はれて、自分の心の底を打明けさして貰ひた(354)い氣持もあるのである。
人間は或意味に於て、又所謂強者の位置にある者と雖も或場合に於て、極めて弱いものである。其弱い人弱い場合に於て、僞はるといふことを全く許されなかつたらばどうであらうか。否到底僞らずには居られるものでは無い。
岩に住む魚は岩の色をして居る、砂に住む魚は砂の色をして居る。木に居る虫青葉に居る虫、敵を欺く道を神から許されて居るではないか。さうして人は擧つて虚僞を惡む。彼は虚僞を敢てしたと云へば、四圍の者悉く目に角立てゝ之を責めんとするけれど、能く虚僞の恩惠を蒙らないで、安全に生活し得る人が、世の中に果してあるであらうか。
世界に夜と晝とがある如くに、人間にも明い處と暗い處があつてよい譯ではなからうか。夜は休む時である。暗い處は人間の隱れる處で無からうか。さういふ意味に於て、虚僞といふことは或場合に人間の隱家でありやしないか。
實際人間の多くは、僞といふ薄暗い物蔭に身を潜めて、直接に身に迫る苦痛を避けつゝ僅かに安穩を保つて居るのである。日光直射の下に平然として立ち得るものは強者である。弱者に至つては何物かの蔭に便つて、日光の直射を避けなければ、少しも安穩を保つことは出來ない。晴天白日の身を誇りとするものこそ却つて大虚僞家であるまいか。晴天白日の境涯は、從令へ強者と雖も決して幸福の理想境ではあるまい。僞りの功徳を感謝せねばならぬ程に、世にも自分は人間の劣弱者である。今日まで實際生活に於て、自分は両親に對し、兄弟に對し妻に對し子に對し、晴天白日の何等包むところない態度は出來なかつた。苦痛も恐れ傷害を恐るゝ、自然的なる意識(355)の作用は、少しの顧慮を許さずに自分をして僞りを云はしめて終ふのであつた。自分が全精神を傾けて愛する人であつて、自分に又全身を委して慕つてくれる人との間にも、猶不明白な感情を隱して居ることを自覺し且つ容認して、自ら怪しまない程に、自分は僞りから脱することが出來ない。之でありながら人間の僞りは到底惡性のものであること、猶欲情の惡性なるが如きものである。
僞りを惡み僞りを卑むの心は、自分と雖も世の所謂強者聖者と少しも變りはないと思つてる。欲情の恐るべき悲しむべき且つ卑しむべきものである如くに僞りの惡性のものであることを考へて居る。さうして居て一方には僞りが人間の幸福を擁護する至大な功徳を思はねばならないと思つてゐるのである。欲情が人を傷ひ人を殺す傍に於て、至大なる人間の幸福を産しつゝあるに主客の差を以て其働きを同くするのであると信じて居る。
我が人を愛するは人を傷ふのかも知れない。人の我を思うてくれるのは、我れを傷ふものであるのかも知れない。人間の生活程矛盾なものはないと誰かゞ云つたやうに覚えてゐる。
人生はさういふものであると思ひつゝも、矢張り僞りの生活は苦しく悲しい。卑しむべき偽僞り惡むべき僞り、さう考へつゝ猶自分は僞らねばならないのだから、其内部間に絶えざる衝突に苦まねばならない。
自分が人世に何等の要求も無かつたならば、何の事も無いかも知れぬ、然かも多少自覺した生活に精神を附與されたいとの要求があつて見ると、不斷に内部の衝突を感ぜぬ譯にはゆかないのである。
如何に餘儀ないからとて、僞はるといふことは善い事ではない、故に良心はいつでも自分の僞りを咎める、それで平氣に僞はることは又到底出來ないのだ。只生きたい生きたいと願ふ弱い心は、自然的に生を失ふの痛みを恐れて、良心に反抗するの結果が殆ど無意識に(356)まで僞はるに至るのである。
是非來て下さいと云ふ所の厭な所である時も、厭だから行かないとは云はないで、差支へがあると云つて斷はる。それとは反對に、行きたく思つてゐる所へは、差支が無ければ一寸來て下さいと云ふ所へでも、差支あるのを隱して差支が無いと云つて出て行くのである。
考へて見ると人間のする事は大抵僞りである。
さうしてゐて平氣に僞はることも出來ないから、苦しみの絶ゆる時はない。世人は皆僞はるのであるから、我一人僞りを苦しむには及ばないと思ひ得る程、卑い心にもなりきれないからどこまでも苦みから免れることは出來ない。
人は生きて悟りを開くといふ事六づかしき業であると、親鸞も云はれたやうなれど、誠に人間の肉を有して居る間、清淨な心には到底成り得ないものかも知れぬ。
僞りを卑んでも僞りから脱する術がない。罪を恐るゝ苦みよりは、生を失ふ苦しみを思ふこと強く、自然に生を貪つて、僞りの苦しみを忍ぶことになるのであらう。
愛欲の曇りは常に良心の晴れを妨げる。晴天白日が神意の全體で無い如くに、良心は人間の全部ではない。晴天白日が百日續けば宇宙の生物は其生存に堪へられなくなる。水甚しく濁れば魚は死す、然かも魚は又餘りに澄める水にも住まない。
人間も又明るい生活に苦み、暗い生活に苦む。こんな事を考へつゝ自分は今暗い生活に苦んで居る。明るみへ立つては迚も生きて居られないやうな、卑しい弱い生活のもとに、僅かに生甲斐のある命を保ちつゝあるのである。(357)「我命」の八首は其苦しい生活の呻きである。
八首の歌、作者の告白と見てくれる人もあらう。思想の歌と讀む人もあらう、又戀の歌とする人もあらう。
柿の村人は、「かういふ事を冷かに遠く見ないで、一人稱で詠んだのが面白い」と云うてくれた。自分はそれに敢て不服を云ふ氣はないが、自分の歌は自分の生活をそんなに離れたものではない、僞りの生活苦しい生活とは、宗と自分の事で決して餘所のことではないのである。
圓滿なる善は固より自分の及ぶ處ではない。清淨無垢なる美は更に及ぶところではない。苟も生きんと願ふ劣弱な心から、反抗の出來ない力に捉へられて、不完全極まる生活の下に、僅に我が生を安ずる、慰藉の聲であると見てくれる人が、最も自分の同情者である。
かう書いて終つて見ると、矢張り辯解に陷り自己回護に陷つて終つた。どうして自分はこんなに僞りから出られないのであらう。
自分が全く僞りから脱し得る時は、我肉體の土に歸した時であらう。自分が純清淨の境涯に入るのは、身の白骨に化した後でなければならぬ。
此の悲むべき人世に、猶愛欲の念は絶えずに、生を貪るの心が飽くまでも狂ふのは、如何なる理由に基づくのであらうか。
自分は深山に分入つた時に山に死たいの念が起る、蒼い海に臨んだ時には、海に死たいの念が起る、三ケ月湖に憧憬してはそこに死たいの念が湧いた。
自分の心の何所かに、早く自然に返りたい清淨に入りたいとの願ひがあるらしい。考へて見ると自分の躰も自分(358)の心も自分の物では無いやうに思はれる。
譯の解らぬ事を長々しく書いて讀者諸君に失敬したが、猶一言いはしてほしい「我が命」の八首は、自分の内面生活を明らさまに告白したやうになつてるけれど、實際は猶僞つてる處がある。全部の戀の歌ではないのに、戀の歌のやうになつてる。さうして一面に全く戀の歌であるのを、何か或意味に比喩したやうにも見えるやうだ。自分はさういふ用意があつて作つたのでは無かつたけれども讀者の反感を避けやうとした自然の僞りが歌にも現はれて居つた。自分は大法螺を吹きつゝ長生きしたいと云うてる人の暢氣が羨しい。
                    明治45年1月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(359) 〔『アララギ』第五卷第一號消息〕
 
 拜啓、例に依つて消息を書くのも余り面白くもないが、黙つて年を迎へるのも物足らない。矢張り何か書いた方がにぎやかでよからう。去年は齋藤君が、極力編輯に骨を折つて呉れたので、我々の雜誌としては前例のない程立派に發行が出來た。
 新しい歌人も相當に出來た。殊に十年來の記録を破つてうれしいのは信州から多数の女流作家が現はれたことである。萬葉時代には、女流作家が數へきれぬ程あつたのに、明治の歌壇に何故女流作家が出ぬかとは我々同人間に於ける一つの疑問であつた。それが去年に至つて、急に七八人の作家を見るに至つたのは、多年の疑問を一時に解釋し得たやうで實にうれしい。それについては柿の村人君の努力を感謝せねばならぬ。
 諸同人全體の成績に見るも、去年は技巧の上に於て著しい發展を認めることが出來る。各自己の特徴を發揮して、各圓熟の境に達したと云つてもよい。一人々々について少しは長短を云つて見たいのだけれどそれはしばらく後にすることとして、去年全一ケ年を通じて、縱横馳驅勞るゝ事を知らなかつたは岡千里君を推さねばならない。君の歌は技巧の熟達より進んで、所有實生活の上に於て深く人世の問題に觸れた作が多い。實生活の辛苦を味つた人でなければ解することの出來ぬ所まで這入つた歌も認められた。
 それから全體の人についていさゝか思ひついたやうな所も言つて諸君の參考に供したいと思ふ。技巧の發達に(360)つれて似寄つた歌の多いといふことは甚面白くなく思ふことである。殊に一風變つた人の言葉を無造作に眞似るなどは甚見苦しいことである。例へば、『樂しみにけり』とか、『樂しかるかも』とか『淋しみにけり』とか『いとほしみけり』とか『嘆かひにけり』とかいふ風に一捻り捻つた言ひ方は初めて一度見るすらも余り感心せぬ詞である。こんな言の本家は齋藤茂吉君であつたと思ふ。齋藤君の歌の一種他と異なつた階調の中にあつても僕は余り感心が出來なかつた。それを多くの人々の歌に見た時は殆口眞似のやうな感じがして實にいやであつた。僕は露骨に諸君に忠告する 如何なる場合に於ても製作上人の眞似をするといふことは大なる恥辱であることを悔いて、本年の歌壇には斷じてかういふ淺薄を見せて貰ひたくない。其の句を單獨に考へてもかういふ主觀的の語をこと更に過去に言ふのは面白くないと思ふ『楽しかるかも』などは甚しく感情が弛緩して仕舞ふ。(此の事に就ては他日機を見て詳説したい考へである。)
 余り長くなるけれども余は前號に於て、黙過することの出來ない三首の歌を發見した。それは
   草枕旅ねのことも知らなくに汝は別れて行きゆくか旅に
   かぎろひの夕青葉の下庵に子等と歸りて夕餉するかも
   寄るべなき母と思ひて行くか汝胸の迫りの足まどろなり
 末の盲『胸の迫りの』これでも差しつかへのない例があるか知らねど『胸や迫れる』と直した方がよいと思ふ。以上三首の何の巧もなく何の珍しい所もない歌を讀者諸君は恐らくは注意するものは無かつたらう。自分は此の三首の歌の哀れに靜な聲調を味うて作者の境遇を想像し、作者の直情に同情の涙を禁じ得なかつた。初めの歌『行きゆくか旅に』と殆むせぶやうな詞|樣《ざま》が自然に字餘りの體を得て居る。萬葉集にも此の心持を讀んだ歌が(361)ある。
   旅人の宿りせん野に霜降らば我子はぐくめ天の田鶴むら
 哀な心持がないではないが歌の讀み方が上手に過ぎてそれ程に哀を感じない。批の萬葉の歌に比して丑子の歌は飾りのない丈自分には深い感情を與へられた。次の第二首の歌に至つてはいよいよ平凡であるが其の平凡の詞のうちに、親と子と淋しく相よる哀れな感情が其の馨調の上に如何にも自然に現れて居る。第三首の歌も同じ樣な心持で深い感動を與へられた。作者の内心生活と直接に交渉のない歌は眞の感情が傳りにくい。
 歌を作るに詩才の必要なること言ふまでもないが、製作の上に才氣のほの見える丈それ丈情調の減ずるものなることを考へねばならぬ。歌は必しも多くを作るを要しない。純粋な感情を宿せる生きた歌であるならば二首でも三首でも結構である。去年より詩壇に現れた女流作家に余り多くの注文を提出するのは無理であらうが願くは諸君何物にも捕へられない純粹なる女性の感情を自覺し尊重してそれを作物の上に表し來らむことを望むのである。製作上に努力といふことの意義は徒に思索的苦心などすることゝ思はゞ誤りである。自己の抱ける思想感情の純眞を保つことが印努力なのである。これは女流諸君にのみに對して云ふ事ではない。
 次に犬蓼會議君に少し言ひたいことがある。諸君の歌は、概して余りに輕々しく作られてある。諸君は或はさうでないかも知れねど諸君の歌を見れば、輕々しく作るといふことが総ての上に明瞭に表れて居る。諸君は歌を作るといふことを人生の遊戯と誤解し居るに非るか。遊戯的娯樂のためにするならば、歌を作るなどいふことはつまらぬ惡戯である。殊に今作る歌は諸君の内面生活の記念であると思つて見よ、諸君が將來に於て今日の歌を過去の内面生活の記念であると顧みた時、諸君は如何に寂しさを感じねばならないか。價値ある生活の記念を殘(362)さない生活は人生に於て無意味の生活であると考へて見たらば今少しく今日の作歌に眞剣な努力を必要とするであらう。未諸君に歡語を交へるの機を得ないけれども犬蓼會の會稿も四十二回重ねたる親しみを思へば露骨なる忠言を必しも拒み給はぬであらうと思ふ。新年早々から餘りに憚りなき言を述べて敬を失ふ事多く候。終に臨んで諸君の健康を祝し、謹んで敬意を捧げ候。匆々(土屋文明筆記)
                   明治45年1月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(363) 獨語録(三)
 
      こつそり死たい
 
 自分の家は、隅から隅まで人には見せたくない。世を忍んで居たいと思ふのでは無いが、自分は何となし、自分が家に居るか居らぬかを、いつも明らさまにして置きたくない。
 自分の家を賣物にして、我家の内を隅まで人に見せる時の心持はどんなだらうかと考へることがある。相當に考の高い人でもいくらかいやな氣持はするであらうとは思はれる。
 自分の腹の中の有たけを書盡して、賣物にする淺ましさを思ふと、自分は成たけ人前で物を言ふまいといふ氣が起る。
 自分はどんな人間であるかといふ事を、明さまに人に知らして終ひたくない。どうか自分は胸に貯へた一部分のものを、永世に人に知らさないで、我に保有して置いて死たい。
 分量の大きい割合に、内容の乏しい著述などを讀んで見た時に、其作者を氣の毒に思ふことが多い。自分はどういふものか、心に思つた事を言つて終つた時よりも、言はふと思つてた事も言はずに、濟まして終つた時の方が、後で餘程氣持が良い。
(364) 言つても言はんでも良いやうな事を、何かのはづみで、然かも談話の興に任せて我知らず膨脹までして饒舌つて終つた後の不快さ、自分の淺ましさを、つく/”\と悔ゆることがある。
 含蓄のない物は何んでも面白くない、まして含蓄のない人間程いやなものはない。
 冬の夜のながい/\夜が、全く更け沈んで、さすがに大都會も靜まり果てた眞夜中過ぎを、自分一人が起きて居つて、いろ/\と人間の事など考へてるのが甚だ氣持がよい。
 尊い光りを深く胸に藏めて、それを多くは人に見せないで、黙つて死に入つた人が昔から必ず多いに違いない。さうして今生きてる人の中にも、さういふ人が決して少くはないであらうなどゝ考へると、もう愉快な氣持が胸に漲つて嬉しい。
 人間の眞の價値は人に知られない處にある、自分はどうしても、さう考へられてならない。世に知られない尊い心を抱いて、こつそり世の中から引込みたい、何んにも云はないで人の知らないまに死にたい。こんな氣持の良い事はないだらうと、思ふのである。
 そんな事を考へてると、徒らに生を貪つて、騷廻る人間の莫迦/\しさが氣の毒に思はれてならない。
 下卑た心をば飽迄も腹の底へ隱し、嬉しくもないのに嬉しがつたり、悲しくもないのに悲しがつたり、自分の腹の中にはろくなものゝないには一向頓着なく、他人の事許り氣になるやうな事を云つて騷いでる。さうして萬人が萬人長生きをしたがつてる。
 何の爲に長生きがしたいのか、人間程世の中に解らないものはない。病みほうけてよろ/\になつても、未だ生きたがつて藻掻きまはつてる。さうかと見れば、偉い物知りと云はれる人達でも、世の爲め人の爲めといふや(365)うなことを云つて、自分の爲に計りつゝ生を貪つてゐる。
 世の中に何が卑しいと云つて、人の爲め人の爲めと云ひつゝ、自分の欲を掻く位卑い事はあるまい。今の世の中で醜陋な事と云へば、必ず男女の問題になるけれど、男女の關係などは如何なる場合と雖も、決して醜陋の極に達するものではない。
 從令有夫の婦が姦淫罪を犯したにせよ、政事家が其主張を賣物にしたり、官吏が賄賂を取つたり、學者や宗教家やが、人の爲め人の爲めと嘘をつきつゝ私を營んでるから見れば、醜陋の度は遙かに輕いものであらう。
 考へて見ると人間程卑しいものはない、所有卑い事を敢てして、苟も生きたがつて居る。そんな世の中に藝術の芽の伸びやうはない、藝術が漸く枯死せんとするの徴を現してるのは、當前な事である。
 乍併それは現はれてる人間の價値であつて、今の世の卑しく知れ渡つてる人間が、人間の全體ではなからう。少くも自分は人に知れない陰れてる處に、人間の價値は籠つてると思つてる。
 しんから自分の好きなものは、人に見せたくない。根性の卑しい人などには猶更持つてるといふことさへ知らしたくない。純虞純美な藝術の種は、さういふつゝましいやさしい人の胸の奥に潜んで、永久に發芽の時を待つてるに相違ない。卑しい卑しい人間が、しんから悔悟して、藝術に憧憬するやうになつた時に。
 自分は今直ぐに死たいと思ふ程苦しくはない、生の樂みも盡たとは思はない。愛する人と相見て深く愉悦を感ずる時、猶生の惠みを神に感謝して居る。
 けれども自分は、自分に窃に貯へた心の物を、永久に我物と保有して、こつそり死に入る時の樂みを待つて居るのである。
(366)                 明治45年1月『新佛教』
                      署名  左千夫
 
(367) 修養之工風
 
 人に修養の必要なることは論ずるに及ばぬ事である、最も手近に云ふならば、修義のない人は個人としては一人前の人でない、社會員としては訓練のない兵士と同じく、物の役に立ないのである。
 それで人間は相當の年齢に達した以上は、世に立つべく自然的に各自の必要上或修養が行はれるのである。其修養の如何によりて其人の實力も定まり運命も略定められるのである。かう云つて終へば教育も修養も差別のないことになるが、他動的に云へば教育で自動的に云へば修養と云つても良いのであらう。 乍併茲に修養といふ問題を掲げて考へることになると、さういふ漠然としたことでは話にならない、そこで修養とはどういふ事を意味するかを、具鉢的に云ふて見るならば、已に相當の教育を終り精神も肉體も生理的に完全な發達を遂げた上に、更にそれに磨きを掛け、持つて生れた力を充分に發達させ、不確的な處を更に確的たらしめるやうに、心掛けて行くのを修養と云ふのであらう。
 故に修養は論理に重きを置くべき問題ではない、其工風と實行とに依て價値の定まる問題である。どんな風に心掛けてどんな風に實行して行くべきが問題であるのだ。自分は世の修養を論ずる人達に、修養は必要である、修養せねばならぬと其理由を詳論せらるゝよりは、各自御自分の修養經驗を語つてほしいと思ふ。
 修養は決して空想上の問題ではない、高遠な深刻な論理上に發明し得べき問題ではない、日常卑近な實行上に(368)注意すべき問題である、人の眞似をすべき問題ではない、自己を磨き自己を正すべき問題である。であるから自分は修養問題には工風が第一であると考へるのである。
 西郷隆盛は偉い人である、大久保利通も偉い人である。若し人間に手本といふものが入用であるならば、あアいふ人達は實に立派な人間の手本である。乍併あアいふ人達が並の人間の手本になるであらうか。眞似て眞似得られるものであらうか。云ふまでもなく西郷には西郷の天品があり、大久保には大久保の天品があつて、それに勿論修養といふ磨きが加つて、あんな偉人が出來たのである。
 然るに西郷は完全な偉人である大久保は尊ぶべき偉人であるから、あアいふ人を手本にして修養せよと云ふのは、とんでもない間違を起しやすまいか、到底眞似得らるゝものでないから、たいした心配はないやうなものゝ、多くの人が西郷や大久保を眞似やうと心掛けるやうな事があつたら大へんである。良く行つても人間のにせものが出來、惡く行けば氣違が出來る。親孝行は眞似でもよいと一口に云ふが眞似で親孝行が出來るかどうか、そんな親孝行には親孝行其ものに價値がない。人眞似で人間の修養が出來る位なれば、修養といふものは埒もないものと云はねばならぬ。
 前にも云ふた通り、修養とは人間否自己に磨きを掛け、自己を確乎《しつかり》させることなのであるから、もつと大に着實に眞面目に考へて貰ひたい。隣の娘を見ろ向ふの悴を見ろといふ樣な筆法で、決して教え得らるゝものではないであらう、無論周圍からの奬勵も大事ではあるが、自發的工風が主とならねば、到底修養らしき修養が出來る筈のものではないだらう。
自分  考へものである、云ふまでもなく人は相當の年齢に達した時いやでも社會の人とならねば(369)ならぬ。即他人の中へ出て、自分に容赦してくれない他人と接觸せねばならぬ。いやでもおうでも何事かをせねばならぬ。そこで眞面目な心掛さへあるならば、必ず自分の短所長所が的切に自ら判つてくる。修養の第一歩はそこから起つて來ねばならぬ。
 縁なき衆生は濟度し難しといふ、人間に眞面目な考と向上心とが無くては如何とも仕方がないけれど、苟も向上心のある人ならば、必ず自己の短所長所に對する用意と工風とが自然に起つて來る筈である。救ひを求むるの念なき人は神と雖も救ふことは出來ない、向上の心なき人は聖人と雖も教えられない。故に修養の根底は自發心を待たねばならないのである。修養に心ある人は第一にそこから氣づいてかゝらねばならぬ。
 猶一歩進んで精神的に云ふならば、人間の心といふものは極めて弱いものであるから狂ひ易い、清いものであるから濁り易い、で正直にと思ふてもなか/\正直に出來ない、勝手な事は爲まいとしても、つひ勝手な事をする。勵げまう/\としても、勵むことにはいつも苦痛を感ずるのである。さういふ風な自己の心の動きを充分に自覺して、これではならぬ、これではならぬとの心掛けを、持續して行けば、必ずそこに効果が現れてくる。人間の體は手を使へば手が發達し足を使へは足が發逢するやうに出來てるのであるから、頭腦《あたま》を使へば必ず頭腦が發達する。人間が自然に有する良能を發達させ得るといふことは、肉體上にも精神上にも、容易に認識得らるゝ事實である。
 そこで修養といふ事は、學術上若くは空想上の實際を離れた問題では無く、人間の生存上、どうしてもせねばならぬ事である許りでなく、一度實行に心掛れば容易に勉めたゞけの實績を上げ得る問題であるので、普通な常人が、偉人傑士の精神行爲を手本として、其眞似をせんとするやうな、そんな浮調子な漠たる問題では無いの(370)である。
 人の精神や行爲やを手本としなくとも、正當な順序で自己の有する天品を養ふに勉めて行くならば、其人が偉人であるなら自のづから偉人となるのである。
 さればと云つて或一定の考を立て、自己の日常|行事《かうじ》に規律を立てゝ、それを嚴守して一生を送り得た處で、直ちにそれに修養の價値を認めることは出來ない。
 教育家が何十年間無事に勉めたとか、警察官が何十年間無事に勉めたとかいふことを直に修養上の効果とは云へない。多年謹直に職務を行ひ遂げたといふ、人格的成功を修養と云へないことも無いが、修養の意義は今少しく積極的價値の上に解釋を求めたい、寧ろさう解釋せねばならぬ。修養の意義は、どうしても精神上肉體上、發達と向上とを意味せねばならぬ。修養の効果は、去年は出來なかつた事を今年は爲し得る。今年出來ない事も來年は、爲し得る、といふやうな意義の上に發達を認め得ねばならない。
 前號の紙上、修養に關する諸大家の議論があつたに思ひついて聊か鄙見を述て見たが、充分意を盡しては居ない。
                    明治45年1月『精神修養』
                       署名 伊藤左千夫
 
(371) 〔懸賞文藝「新年」選評〕
 
     一等
   わが背子が鋤初めすと子をつれて下り立つ畑にくだかけも鳴く
     長野縣下伊那郡上郷村飯沼  櫛原たづ子
選者曰ふ 前回發表の分及び選外にも是以上の作あれども右の中には多少の修正をせしものあり▲一二等はすべて修正せざるのを選みたり▲二等に入るべき歌の數に滿ざりしを遺憾とす
                 明治45年1月9日『東京日日新聞』
                      署名 伊藤左千夫選
(372) 〔感想〕
 
        〇
自己の不完全に氣づいた時に、始めて信仰の心が起る。信仰の心があつて、人は始めて眞意義の生活に入るべき端緒が得られるのである。誠實に自己の不完全に氣づいたならば、いやでも求道精進の端緒が開けねばならぬ。
        〇
自己を空くする力の強い人は自己を大きくする力の強い人である。
        〇
くだらない駄洒落を興がつて、夜の更くるを思はないやうな、暢氣な人の多いのは、實に堪へ難い苦痛である。我々の現在には、そんな暢氣な時間は少しでもないのである。一刻も早く愛する女の呼吸に觸れて、我生の消耗を補ひたい。刻一刻に我れを消滅する、此時間といふものを、脈一つ打つ間たりとも我々は忘れて居ることは出來ない。
                         左千夫生
                      明治45年2月『アララギ』
 
(373) 新しい歌と歌の生命
 
新しい歌といふ美名は、歌の生命を閑却してまでも、今の世の中に悦ばれてゐやしまいか。
歌は新しい爲に價値があるのではない、生命があつて始めて藝術であるのである。茲に異存《いぞん》を云ふものは一|人《にん》も無い筈であるが、事實はなか/\さうでない。
事件材料それから言語句法などに、少しでも新しみがあれば、一も二もなく讃賞してるのが、今の歌界の事實だ。其思想感情と言語句法とが、どれだけ融合統一されて、一首の生命を得べく組織され居るかを、慎重に吟味して歌を賞鑑し居《を》るものが居ないであらうか。
それで新しい歌は多いが、生命のある歌は實に少い、今のやうに新しがつて許り居る歌界に、當然隨伴してくる弊として、立派に生命のある歌でも、何か一寸目につく外形的新しみがなければ、直に古いものとして見向きもしないのである。
さうして一方には、思想感情は古い/\新古今集あたりの歌と、何等異なる處のない歌も、僅に外形の少く變つてる爲に、新しい歌として大に推賞されて居るといふ有樣である。小説其他の藝術に就ては隨分深く論じて居る人が少くないけれども、不幸にして歌の上には未だそれがない。世人は藝術上に、所謂新しいといふ事を餘りに淺薄に解して居るやうである。殊に議論の少い歌界などでは、最もそれが甚しい。
(374)元來生命のない、即ち生きて居ない作物に、藝術的新しみなるものゝ、存し得べきではないのだ。
我々もつい近い頃まで、新しいといふことゝ、生命といふこととを別に考へて居つた者である。併し我々の鑑賞はいつ迄そんな幼稚であることを許されなかつた。
詩歌の鑑賞上、深く其作物内部の生命に觸れて始めて滿足せんとするやうになつてから、我々の詩歌に對する要求と注意とは非常に變化した。
今までは無造作に見て無造作に面白く感じた。それが今日では如何に珍らしい新しい若くは奇抜な、事件や材料を歌はれた作物《さくぶつ》でも、其作物に生命の附與されて居ることを感じ得ない以上は、到底詩的興味を其物から受ることが出來なくなつた。三十一文字で雜報を書いてる樣な歌にはもう飽き/\して終つたのである。
それがよし文章の一節でなく、隨分巧妙に、三十一文字の詞の内に、多くの意義を含まれたにせよ、雜報は到底雜報で、記述報告はどこ迄も記述報告である。さういふ類のものは、いつの世になつても詩といふものとは緑のないものである。
我々の要求を局限して短歌の上に云ふならば、作者が或境遇に於て、動いた、其生きた感情を其儘永久に傳へ得べく言語と句調とが成立してゐる作物でなければ、生命のある歌とは思へないのである。
よし作者の考は面白くても、作者の見た事件、作者の取扱つた材料、それ等は皆詩的な事柄であつても、只それを巧に三十一文字に綴つて、提供されたゞけでは、理智上に詩味を認識し得る事はあるとも、生きた作者の詩情に觸れることの出來ない以上は、其作物に生命のあることを感ずることは出來ないといふのである。
創作上から云へば生命を傳へると云ひ、批評上からは生命を感ずると云ふのであるが、どんな作物に生命を感じ(375)ないかとの實作を擧ぐる前に、少しく創作に就ての考へを云ふて置きたい。
如何にして一首の歌に、永久死せざる生命が附與されるか、是れ實に重大な問題である。神が獨り會得し得べき問題であつて、到底人間の窺得べき問題で無いかも知れない。よしや最も神に近き詩人の腦力はそれを會得し得るとするも、是れを解説することは又到底不可能の事であること勿論である。
若し云ひ得る處まで解説を試みるならば、一度生命を得て生まれた詩は永久に死ない。作者は無論死し作者の國まで滅びても、其作物は猶死ない。此點に於て詩は人間よりも國家よりも尊い。されば詩は人間の爲す事の内に於て何物よりも尊いのである。
それ程神聖な歌も、作者が創作に勉むる時に當つては、極めて細微な働きに依て、生きると否とは決せられる。一首の歌が生命を得るのも、天地間一切の生物が生命を得るのと、同じ程度に複雜な神聖な意義を有するのである。一首の成立する一切の分子の融合統一した組織が更に或神意を傳へて始めて生命が起ると云へば、それでよいやうであるが、其一切の分子を融合統一する主要力は何かと云ふ問題に移らねばならない。
固より解説し難い事を解説しやうとするのであるから、能く云ひ得ないに極つてるが、予をして言はしむれば、作者の、作歌境遇に於て、興奮した作歌感情の力が、一首の組織に要する一切の分子を融合統一するのである。反對に云へば作歌感情の興奮なくしては、一首の歌も成立しやうはないのである。世の多くの紹介報告記述的作歌に生命のないのも以上の理由に依るのである。
作歌感情の興奮した動きが、創作的働きを起して、力ある運動となつた時に、卒然として神意は傳り、總ての思想材料言語句法が融合され統一され、同時に生命は一首に附與されるのである。
(376)一首の組織が完全に構成された時には、其思想も材料も、其一首の爲めに特種の思想材料となり、其言語も句法も悉く其一首の爲めの特種な言語句法となるのである。少しく仰山に過ぎた云ひやうであるけれど、其一首中の一語を他の作物中に移して、少しも變りなき働きを爲すならば、其一語は眞に其一首中に融合されたとは云へないのである。眞に生命を得た一首中の言語句法は、其一首以外に於いて、決して同樣の働きを爲す場合があるべき筈はないのである。
一首の構成に全く融合され充分に聲化して作者の感情を、其儘に傳へた言語句法は、其一首から離れゝば、直ちに元の働きを失ふといふは、當然な事である。
興奮した作者の感情が、遺憾なく言語句法の組織に傳つた時に、其言語句法は悉く聲化して、其言語句法が、作者の作歌感情の興奮を傳へた、直接な作者の聲となるのである。
言語の聲化がなければ、作者の感情は決して文字《もんじ》の上に傳はつて來ない。それならはどうしたらば、言語(文字上に云ふ言語)が聲化されるかと云はゞ、それは容易に説明が出來ない、否殆んど説明が出來ないであらう。言語は聲化させやうとして、聲化され得るものでないのだから、自《みづか》ら生きた歌を作り得る作者と雖も、思ふまゝに言語を聲化することは出來ない。古い詞で云へは、天來の興で自のづから出來るのだとも云へやう。技巧を超絶した技巧で、作歌感情の興奮が、神的働きを起すのであるとも云へやう。要するに具躰的には説明が出來ない。けれども此の言語の聲化が無ければ、詩的生命は到底文字の上に宿らないのだから、説明は出來なくとも、作歌上事實の問題として、そこに極力思ひを潜めねばならない。
猶一歩を進めて云へば、言語の聲化は、其一首の中《うち》に含まれて居る思想材料等一切の物を感情化させるのである。(377)であるから一方から云へば言語の聲化が一首を融合統一する主要力であるとも云へる。
かふいふて来ると、それは叙情詩の上に聞くべき事で、叙景叙事の場合にどうであらうかとの疑問が起るかも知れねど、それは答ふる必要のないまでに無要な疑問である。叙景の作叙事の作の出來る動機は、作者が其景色なり事件なりに、作歌感情の興奮した點にあるのであるから、叙景にも叙事にも必ず作者の興奮した作歌感情が、其一首の上に附隨してあるべきである。若しそれがなくて、只單なる叙景叙事の記述ならは、前に云へるやうに、雜報紹介の範圍を脱することの出來ない非文学である。
只純叙情と叙景叙事とは、言語の聲化が色調上に各其色を異にするは云ふまでもないことである。
誤ること勿れ、思想感情や材料や事件はどうでもよいと云ふのではない。如何なる思想感情、材料事件も、言語の聲化から來る融合統一がなければ、生きたものには決してならぬと云ふまでゞある。
猶一言茲で斷つて置くことがある。感情の表現と感情の記述説明とは、詩分の性質に非常に相違があるといふことである。明治の新しい歌人達の歌にも、感情を冷靜に記述説明した叙情詩が、夥しくあるのは口惜しい次第である。
予は如述のやうな考で、現代新歌人の歌を此の次に批評して見たいと思つてる。
                   明治45年2月11日『讀賣新聞』
                        署名 伊藤左千夫
 
(378) 〔アララギの歌に就て〕
 
〇柿乃村人云く、人の口眞似はよくないに違ひないが、ほれた人の眞似するのは自然で不可抗力であると。左千夫云く、物眞似すると云ふことは、人間の弱點であらう、であるから原來弱い人間が、好きな人の眞似をするのは、不可抗力に屈するのであると云つてよからう。乍併不可抗力であるからと云つて、人眞似に價値を認めることは出來ない。人間の不可抗力に屈するのは、決して人間の希望ではない、向上的理想の上から考へて見れば、悲しむべき人生の弱點と云はねばならぬ。先天的に弱點を有する人に、不可抗力にも屈してはならぬと云つても、それは仕樣のない事であらう、けれども人生はどこまでも其弱點を悲む處に、僅に光明の存するものなることを忘れてはならぬ。
〇東京府中に於ける醜業婦の數は萬を以て數ふるのは、人間の弱點を現實に説明して居るのである。東京府民が不可抗力に屈して居るのである。僕と雖も絶對廢娼を人生の理想と信ずる程、理想なるものを究窟に解せんとするものではない。只人生は絶對廢娼の理想境に安じ得ざる人間を悲まねばならないのである。
〇人眞似は人間の弱點に對する不可抗力で仕樣のない事なりとするも、僕は其弱點を悲みたい。口眞似の淺薄を悲まない藝術に滅亡を脱れ得る望みがあらうか。
〇藝術の理想は、どこまでも生きんと進むところになければならぬ。生命の乏しいものに、力のある藝術のり(379)やうはない。人眞似の上に新しい天地があるであらうか。人眞似に自己の生命が保ち得られるであらうか。
〇柿乃村人君に少し考へて貰ひたい、否苟も人眞似を恐れない人に大に考へて貰いたい。                    明治45年3月『アララギ』
                        署名 伊藤左千夫
 
(380) 獨語録(四)
 
    藝者に美人なし
 
 どんな美人でも藝者を一年させたら美人でなくなる。藝者類似の者で藝者以下の者は云ふに及ばぬ事だ。
藝者が有する表現は、徹頭徹尾浮表的外部の運動に過ぎないのだ。それは藝者といふ者の現在の生活が、不可抗的に彼等の表現の總てを外的ならしむるのである。さうして淺ましい彼等の内生活は、深刻に彼等の表現を浮薄ならしめる。藝術眼に映ずる彼等は空虚にして實質なき、單なる色彩の浮表に過ぎないのである。
 美人の問題にどうかすると藝者を引合にする樣な、日本の文明は實に卑むべき耻づべき文明と云はねばならぬ。單に外面を粉粧した許りでなく、卑しい内面を包み得ない彼等の表現に、兎も角も興味を得らるゝ、現代の紳士は、如何に鑑賞の幼稚にして、お目出度いものであるかゞ判る。
 乍併一面から云へば、藝者の下卑てきたのも娼妓の下卑て來たのも料理屋の下卑て來たのも(彼等は固より下品なものにあらざるも)彼等に交渉の多い連中の下卑てる事を、遺憾なく證明してる譯であるのだ。
 彼等の營業振が昔のそれに比して、著しく下卑て來た事は、彼等自身の云ふてるところである。
 藝者の中に美人があつても無くても。料理屋藝者屋などが、下卑て來やうがどうしやうが。そんな事はどうで(381)も良いぢやないかと、お固い連中は云ふかも知れねど。日本人中でも藝者や料理屋に交渉の多い、働きのある連中の、女性に對する鑑賞。と云つては語弊があるかも知れないから
嗜好とでも云つて置く。日本の男子の女性に對する嗜好上の趣味が下卑てるとあつては、社會問題として相當に大きい問題であらう。お客本位の藝者は、お客の好くやうに好くやうになつて行く。さうして東京の有りと有らゆる藝者の服裝は、徹頭徹尾春畫的である。
 意地の惡い目で見て云ふならば、藝者位東京の或部分の男子に對する、痛快なる無言の罵倒は無いだらう。けれども春畫然たる風姿を憚りもなく振廻して、耻づることさへ知らぬ彼等を、美の表象としてそれを描寫し、以て藝術の神を耻かしめてる、畫家もあるのだから。元來藝術心の乏しい、世間並の連中が、自分の愛する藝者に依て、自分達の趣味の下劣を曝露されつゝあるのに、氣がつかないのも穴勝無理では無いのだ。
 日本もどうか長足の進歩を遂げたやうに聞くけれども、其日本の文明に責任の有る連中が平生どんな事を樂んで、どんな品格ある生活を爲しつゝあるかを窺つて見ると、隨分情なくなることが少く無い。
 藝者に交渉のある男子の問題だ。さうして日本文明の問題にもなるのである。引いて一般女子の上にも問題になるのだ。近頃女子の問題が益盛になつて來たやうだが、女子に對する男子の好尚が卑しい間は、女子の問題は永久に解決は出來ない。
                    明治45年3月『新佛教』
                     署名   左千夫
 
(382) 〔『アララギ』第五卷第三號選歌評〕
 
     吾嬬と酒と           岡千里
 〔歌略〕
左千夫いふ。千里君は諸同人中唯一の多作家なり。如何なる事柄も歌にせざれば止まざるものに似たり。其口を突いて出る作歌は又悉く一種の氣芬をおぶ。而して云ふところ世相の眞核に觸れざるもの少し、予は同君の天眞を損ぜんことを恐れ從來同君の歌稿に對し予の意を如へざるを常とせり。近日同君書を寄せて、懇切に予の嚴選を望み來る。予は同君の熱誠に感じ今回の稿は予の滿足し得るまでに選びたり。依て総数百十首の内茲に三十首を録す。斯の如きは予も亦選者として甚だ愉快とするところなり。
     夕と晝             淺野梨郷
 〔歌略〕
左千夫いふ。梨郷君も千里君同樣切に嚴選を望み來たれは其心して選べり。即ち二十首の内より四首を録す。
                   明治45年3月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(383) 〔懸賞文藝「早春家に籠もる」選評〕
 
     一等
   幾度うむも育てぬ猫の戀ひいでゝぬれてはかへる春の淡雪   上野 福島のぶ
評。第一匠氣のない虚が氣に入つた。事柄が平凡なだけ一首の意味も簡明である。而かも作者の苦心などいふところの無いのに、却て自然がしのばれて嬉い。
                明治45年5月9日『東京日日新聞』
                       署名 伊藤左千夫選
 
(384) 強ひられたる歌論
 
前々號の豫告は遂に實行し得なかつたけれど、僕は此數ケ月間どうしても、一度大に歌を論じて見たいと思ふ念が絶えないのである。新たな思ひつきが幾許づゝ次第に腹に溜つて來て、是非一度腹の中の掃除をやらねばならないやうな思ひに堪へられないのである。自分の考が稍纏つて明かになつて來れば來る程、諸同人の作歌に氣に入らないのが多くなる、時々齋藤君等と話して見ると、餘程考が離れて來て居る。さうして話す度に議論が一致せぬと云ふよりは、先づ自分の考へを齋藤君等に會得して貰ふことが、うまく出來ないと云ふ状態が多い。で議論は徒らに激して衝突の感じ許り高まつても、結局要領を得られない事が多い。久保田君とも折返し六七回も手紙の往復したけれど、是れも何等の解決を見ることが出來ないで終つた。
 かうなつて來ると僕の腹の中では、論戰の區域が益擴大して來た感じがするのである。さなきだに今度論じて見たいと思ふ處を盡すには、少くも二三十頁を要すると思つて居たのに、かう論戰の區域が擴大して來ては、一日や二日の準備では論場に出陣が出來なくなつた、從而非常に億劫になつて來た。一方では僕は新聞の小説を執筆中であるから猶々六つかしくなつたのである。アラヽギの編輯に忠貿無二な齋藤君は夜を日を次いでの催促である。癪にも障はるけれども、厭とも云へない處もある。
 強ひられた歌論には、後論の前提として、先づ大體論を試みて置きたいのである。久保田君はアラヽギの近い(385)傾向は、進歩的歩調を取つて今日に至つた樣に云はれて居るが、僕はそれを是認することが出來ないのである。
 久保田君は現在の諸作歌に滿足はしてゐないが、順當の理想をたどつて來て居るやうに云はれて居るが、齋藤君の考もさうと見て差支ない。衝突の根本はそこにあるのである。
 僕の考では、前にも久保田君の作物及び作歌態度に就て云つたことのある如く、創作理想も批判態度も、先づ意識が先に立つて、かういふ風にやつて見ようとか、かういふ事を歌にしたいとか、かういふ徑路になるのが進歩であるとか、情緒的から情操的に移り、感激的から瞑想的になつたとか、總て計らひが先に立つて、意識的行爲に出ることが、僕にはどうしても、殊更に拵へるやうな感じがしてならないのである。
 久保田君は、靜に味つて見る感情とか、即いて見るとか離れて見るとかいふ事を云はれてゐるが、これは久保田君の考へと久保田君の詞とが一致してゐないのぢやないかと思はれる、久保田君の考が惡いのではなく久保田君の云ひやうが惡いのかとも思はれるが、兎に角久保田君の詞の通りでは、悉く計ひに落ちた云ひ方である。さういふ考で歌を作れば、拵らへ物になるのが當りまへである。批判的態度から云うても、固より明瞭に分ち難き事柄を、詞を美しく判然と云ふのがよくないのである。
 僕の考は、意識の力や分解能力の發達を以て創作の進歩不進歩を計算するのは全然間違つて居ると思ふのである。感激の強度如何瞑想の深度如何といふ事を吟味して始めて藝術的表現の價値を論ずべきである、藝術的能力が劣等であつては感激も瞑想も等しく藝術の價値ある表現を示すことは出來ないと思ふのである。さうして詩の表現ほ何處までも感情自然の發作を尊重せねばならぬ。叫ばなければならなかつたら叫ぶべきである、沈吟的境遇にあつたら沈吟すべきである。感激でも瞑想でも、只自然のまゝにあるべきである。叫喚的激發的感情は初生(386)的で、沈思的瞑想的感情は後生的であるといふやうな事は、甚だ根據のない斷定である。自然現象と云ふものは、さう人間の注文通りに、前後を正しく起つて來るものではない。
 昨日沈吟瞑想に耽つた人も、今日境遇の變化から、叫喚的激發的感情に血を躍らすことがあるであらう。それが自然であるのぢやないか。
 創作上にも批判上にも又鑑賞上にも、計らひの心が内々働いて居ると、總ての事を自己の好きな樣に見て好きなやうに極めることになり易い。よくは極らぬものを我から早く極めて見たいのは、人間の一つの弱點である。多くの間違が皆そこから起るのである、自のづから極まるのを待てば何の事はないのである。結局いつも云ふ力の問題である、藝術能力の如何といふ事に重きを置き、他は一切自然の動きに任して創作に從ふべきである。
 自然感情の動きを尊重せよと云ふことは、求道精進又は修養といふ精神と何等の衝突があるべきではない。自然感情の發達を勉めるのが修養である、自然感情を何等亂さるゝことないやうに勵むのが、求道精進であるのである。僕は言語の自然といふことを、數々言うた筈である。自然な言語でなければ、自然感情の表現は到底不可能であるからである。
 趣味の月並といふことを一言にして云ふならば、計らひの私心が、自然感情を攪亂して、拵物に墮したものを云ふのである。
 久保田君は、僕の文章(ホトヽギス所載)「奈々兒」の作を、單情的の※[口+斗]びで、藤村の「芽生ひ」は同じ幼兒を失つた事を書きながら、情趣的である。僕のと藤村のとは即いて見ると離れて見るとの差であると云つたが、僕の文章を單情的の※[口+斗]びであると云ふのは差支ないが、それは當時作者の自然感情であつて、何ら計ひのない、僕(387)の感情其儘が表現されたのである。それを殊に離れて見て情趣を味ふといふ事が出來得べきでない。それを文章はかう書くのが、新しい書方であるとか何とか考へて、殊に自分の痛激な感情を抑て、冷靜に自己を客觀視するといふやうな事をして、果して自然の感情を表現し得られるであらうか。さういふ態度を僕は計らひと名づけるのである。僕も彼の文章を事件後半年も過ぎてから書いたらば、或は久保田君の所謂情趣時に書けたであらうが。併し僕には文章を書く爲に、自分の感情を殊更にさういふ風に取扱ふのを、矢張計ひで不自然であると思ふのである。痛切な感情を痛切其儘に、單情的に※[口+斗]ぶのが、却て眞に其情趣を味ふことになるのである。其痛切な感情を昧つてればこそ文章になるのである。何も殊更に自己を客觀視して、自己の痛切な感情を靜かに味ふといふ態度を創作に示す必要は無い。
 僕は藤村の「芽生ひ」は讀んで居ないから、批評は出來ないけれど、若し藤村が、感情自然の表現を尊重する作者であるならば、其情趣的(【久保田君の詞をかりて】)であるのは情趣的なるべき理由があつての事であらう。それがさうでなくして、情趣的なのが進歩した藝術であるから、情趣的でなければいけないと思ふ考から、殊更にさう書いたものならば、「芽生ひ」には必ず不自然な拵へものらしい厭味を脱し得ないであらうと思ふ。
 描寫と表現、僕は自分の藝術觀から、描寫といふ詞をすら氣にして居る。描寫するといふつもりで書いた文章に感情の自然表現が得られるかどうかと思つてゐる。僕は高級な藝術は、描寫といふやうな觀念を超越した表現でなければならないと信じて居る。此點に於て久保田齋藤君等と、根本に藝術觀を異にして居るかも知れない。
 併し形式上の拘束なき散文にあつては、猶描寫の働きに待つ處あるべきを認められるが、韻文殊に短形式の短歌に於ては、到底描寫的働きに依て表現さるべき餘地はないと信じて居る。即いて見るとか離れて見るとか云ふ(388)事は、短歌の表現に描寫の働きを重んじた精神から出た詞である。久保田君は意見の發表に往々言語を輕現する弊があるから、即いて見る離れて見るといふやうな事も、さういふ深い意味で云うてるのでないかも知れねど、些細な態度の過りから、計らひが出るのである。計らひは虚假《こけ》の表現を産む、虚假の表現即ち拵物のいひである。
 僕がいつも、内に問題が無いといひ、浮表的動きであると云ひ、充實が乏しいと云ひ、力がないと云ひ、歌が小さく輕いと云ひ、題目的興味でいけない、形式的興味でいけないと云つて來たことは悉く、虚假の表現に對する非雜の説明であるのだ。
 猶此機會を利用して、少しく自作の歌に就て僕に云はしてほしい。僕の作「冬の曇」を久保田君が情趣的であるといふに僕は少しも異存はない。只久保田君の云ふやうに情趣的な歌を作らうといふやうな考へで作つたのではない。僕は「冬の曇」の作歌動機は極めて自然であるといふことを言明して置きたい。
 離れて見るといふから語弊に陷る、あの歌の内容は痛切な哀傷から時間が離れて居る、從而作歌當時の作者の精神状態は、悲哀の情は動いて居つても、其情緒は余程緩暢して居る。其聲調に激越な響きのないのは當前な譯で、それが自然なのである。如斯境遇に於て動くべき自然の感情であるのだ。
 それから「吾が命」と「黒髪」とは、痛切な感情の現實である、作歌當時が痛切な哀傷の當時であるのだ。其聲調が急切で激越なが自然であるので、強ひて云ふならば、「吾が命」と「黒髪」とは、痛切な哀傷の情趣を味ふべき作と云つても差支はない。けれど作者はさういふ餘裕があつてあの歌を詠んだのではない。
 そこに進んだも進まないもない。痛切な激越な感情を歌ふべき機會に接しない人達に、痛切な激越な感情の歌を作れと決して云った覺えはない。只久保田君等が、情緒的から情操的に進み、感激的から瞑想的に進んだとい(389)ふやうなことを云はれたから、一言するのである。
 感激的※[口+斗]びの情は、初期の感情で、靜觀瞑想冷かに感情を味ふのは後期のものであると思ふのは、甚だ根柢のない空想である。概して若い人に感激が多く、老人に靜觀的な處が多いとは云へるが、ぞれは尋常平凡な場合に云ふことで、痛切な哀傷に逢うては、老人と雖も若い人と同じ樣に絶叫もする泣喚もする。要するに靜觀沈吟すべき境遇にあつては、靜觀沈吟すべきである。激發叫喚する境遇にあつたら、激發叫喚すべきである。只さういふ事だけでは藝術の價値と何の關係もない事である。
 僕の前號「花と煙」は「冬の曇」と稍同系の歌で、前者に比して後者が、稍多く時間的に哀傷を離れて居る。であるからそれだけ、「冬の曇」よりも花と煙の方が一層聲調が緩暢して居る、全體に餘裕があつて痛切な情がない。さういふ意味で見てくれた人があつたかどうか知れないから、一言いはして貰ふのである。
 さう云つたからとて、僕は以上の自作が皆得意であるのではない。僕は近來、此歌は良い此の歌はいけない、これは得意だあれは自信が無いといふやうな事を、輕々しく言ふのが嫌になつた。生命のあるものであるか、虚假のものであるか、定まればそれでよい。虚假のものは自然人から捨てちれて消滅する、生命のあるものは人々の好みに從つて味へばよい。自分が非度く面白く思つたからとて、人にまで自分のやうに面白がらせようと思ふのは間違である。自分の歌とて其通りで、只どうにか生命があるだらうと思ふ自信だけに滿足せねばならぬ。
 僕は是から進んで、近いアラヽギの諸作に批評を加ふべきであるが、齋藤君から今日限りと迫られて居るから、これで御免を蒙つて置くが、
 近いアラヽギに現はれた、柿人茂吉千樫文明等の諸君にも、僕は強い感興を引くことが出來なかつた。内に強(390)い深い感情の動きが無くして作られたと見ゆる歌許りである。意味の面白味はあつても情味の面白味はない。茲で情味といふことは單に人情の意義でない。
 自然を得ない言語と、無理な技巧とが目に立つて、感情自然の動きと響がない。言語を詩化すると云ふ理想とは余程離れてる感じがする。
 隨處隨時の發作的零碎なる感興を拾集して、小さく一つづゝ纏めて作るやうな歌に、力の籠りやうがない充實のありやうがない。
 諸君の歌に精彩な綾はある、意識に與へらるる種々な意味の感興はある。只強い力の動きがない、深い靜まりの湛へがない。弾力を有すべく言語組織の融合が足りない。
 徒らに大掴みに酷評するのは失敬であるからよす。僕は謹で諸君に忠告する、決して無理に作るな。無理に多く作る位無意義な事はない。決して……無理に作るな。
 戀は盲目であるといふ、盲目にして始めて戀に深い情味がある。諸君歌を作る時は盲目なれ、只盲目に感興に耽れ、さうして自然に面白い歌の出るを待て。さうして諸君は連作の精神と連作的創作の短歌が將來に有する使命の大なる事を充分に會得して欲しい。連作の精神などは百も承知ぢやと云ふ人もあるかも知れぬが、連作の精神が近來の「アラヽギ」には餘り多く發挿されて居ないから云ふのである。明治三十四年僕が連作論を『心の花』に發表して以來殆ど十年になる。さすがに我が「アラヽギ」には絶えず幾許づゝの連作は現はれて居るけれども未だ充分に發揮されて居るとは思へない。却て若山牧水氏の作などに屡々連作を見るにつけても僕は多少の感なきを得ないのである。齋藤君の『女中おくに』の作などは前後に卓越した佳作である。彼の作が思想感情言(391)語悉く自然にして然も力の籠れる所以は何故であるかを考省して見るならば、連作の精神が短歌創作上にどれだけ緊要なるものなるかを必ず自覺し得らるゝであらう。なほこの事に就ては精細に論ずる機會の至るを待つて論ずる事にしよう。
 (参照)左千夫作、冬の曇り(アラヽギ第四卷第二號)我が命(第四卷第十號)黒髪(第五卷第一號)花と煙(第五卷第二號)茂吉作、女中おくに(第四卷第四號)
                    明治45年4月『アララギ』
                       署名 伊藤左千夫
 
(392) 〔『新小説』選歌評〕
 
      題 花散る夜
 
     選外佳作          東京 黛紋之助
   渡殿にうすくともれる夕ともしなびくともなく散る櫻かも
選者曰、佳作であるけれども賞に入れないのは修正を待つた爲めである。
                   京都 岡田不及
   春雨のふりみふらずみほの/\し花白く散る夜の圓山
選者曰、面白き歌であるが選者の加筆多きが故に選外に録す。
                      明治45年4月『新小説』
                        署名 伊藤左千夫
 
(393) 礎山先生論
 
 千葉縣下に於ての山林家なる蕨眞一郎君は、即我礎山先生なり。
 先生常に自ら山人を以て居る、然り先生は先生の人となりの總てに於て眞個の山人なり。世上多くのえせ風流家の稱號となすが如きえせ山人の儔にはあらず。先生の風貌言語より其動作嗜好悉く山臭を帶ばざるはなし。山臭此の如き山人は又眞に山林家たるに適せり。
 俗諺人の見掛けによらざるを云ふ、然かも先生の如く見掛けによらざるもの又少し。先生は財産家にして詩人なり、山林家にして教育家なり。
 若し夫れ先生の風貌動作を望見し而して後先生の言語と山臭とに接するもの、百中必ず九十九人半までは先生を輕侮し、以て共に語るに足らずと爲すや必せり。然も先生を輕侮せる九十九人年中の九十九人までは、必ず先生より侮蔑の逆襲を受くるの實あるを奇とせざるべからず。
 財産家にして其財を整理し山林家にして其林を經營するが如きは、固より當然にして敢て稱するに足らずとするも先生の歌は詩人たる礎山の歌にあらずして、財産家たる山人の歌なり。先生の教育又然り、詩人たる礎山の教育にあらずして、山林家なる山人の教育なり。
 故子規先生は明治文壇に於ける偉人と稱せらる。先生晩年自ら病魂を叱咤して猛烈に歌界の廓清を唱ふ。其風(394)を慕うて起るもの又千を以て數へたり。親しく其雅筵に列して先生の直接徳化を蒙むる者又數十人なりし。而して先生没後正に十年詩魂猶減ぜざる者幾人もあることなし。
 我礎山先生が今猶斗酒百韻の概ある以て先生の山臭が尋常のものにあらざるを知るべし。山人が望見に於て輕侮を受くるが如く、山人の歌が又一見して陳套を漫罵せらる。
 然り山人の歌や陳套なり。然も尋常なる陳套にあらず。其人に山臭あるが如く其歌に又山臭あり。是山人にして始めて山人の歌ある所以ならずんばあらず。明治の歌界は恰も盤上豆を揺するが如く、其運動はこせ/\として力なく其聲調は輕薄にして重量なし。大體に於て此の如くならば、そこに新しき生命ありとするも、其生命の小なるを如何せん。
 洋臭の歌を以て山臭の歌に對す、明治の歌壇は容易に山臭の歌を排すべからざるなり。
 予教育を評するの眼目なし。山人の教育果して如何、思ふに今の教育實情は、小學課程にしては猶頗る足らざるが如く、然かも中學に入らんには資力の許さゞるの恨み多し、今日は實に其中間教育の機關を欠けり。山人の教育が其缺陷の要求に應じたるものとせば、甚だ時宜に適したるを見ずんばあらず。去年開校今年更に三十名の入學を許せりと聞く、來年來々年益増員を許すの盛況に達せんこと明かなり。
 始めて礎山先生を見るもの、誰れか其歌人たり教育家たるを首肯するものあらん。現に歌人たり教育家たるを聞くと雖も猶必ずや其作歌や其数育や何程の事かあらんと云はざるなけん。
 只夫れ事實は浸罵に對する唯一の返撃なり。山人に對する幾多の漫罵者が、事實の返撃に遇うて遂に沈黙を餘儀なくせらるゝ日あらば、山人の紅準想見するに難からず。
(395) 明治の財界に少しく大きなる男ありたり。古川市兵衛是れなり。彼れ平生人に語らく、人の成功は、鈍、根、運なりと。鈍とは何根とは何運とは何、其語俗なりと雖も、云ふ處の意を解するに難からず。
 我礎人先生や固より一代の風運兒にあらざるも、其輪郭甚だ明瞭を缺きながら、實際の重量に富める處、稍市兵衛爺に類するを見る。只市兵衛鈍者ならば礎山は愚人なり。共に尋常者流の及ぶべからざる處あり。
 千葉縣の風土温和にして民衆徒に順良なり。其弊の伴ふ處、堅實の氣重量の器に乏し。洲濱に飛ぶ流砂の如く、平地を下る春水に等しく、實に手ごたへなき徒輩のみを以て滿たさる。其間に崛起して、轉ぜざること巖石の如く溶けざること金糞の如き、我礎山先生の如きは、以て千葉縣下の珍とするに足るものあるか。
 先生の長所は轉ばざる處にあり、溶けざる處にあり。其野暮なる所以、融通のきかざる所以、其愚なる所以も又其處にあり。而して其總てが山臭を以て滿たされたる處、先生の最も大なる長所たらずんばあらず。
 先生山人と云ふと雖も、山の神の子にもあらずして正しき人間の事なり。不轉不溶の質容易に近く可らざるものありとするも迎ふるに美酒を以てし、暖むるに麗容温膚を以てせば、其不轉不溶や必ずしも保し難きものなきにあらず。然かも其時に當つて溶けたる先生が舊に復せざるに先ち、先生を溶かしたる魔性の者や必ず先づ後悔すべし。
 先生願くは自愛せよ、文學に於て教育に於て、飽までも其山臭を尊重し、天下の愚人を以て、世の中の有らゆる賢い悧巧な類の族を叱咤せよ。(四月十九日稿)
                    明治45年5月『アララギ』
                       署名 伊藤左千夫         
 
(396) 柿の村人君へ
 
拜復、とても逢つて話さなくては駄目だ。失敬だけれども君の議論は學問から出發して居るやうだ。「情趣的でなければならぬ、情趣的に咏むべし」とはいはない、考へた事もないといはれるがさうであらうと僕も思つて居る。けれども君の議論は計らひを産むやうに働いてゐやしないか、君は人間は自分の考へてる通りに自分を支配し得ると思つてるのか、君の歌、君の評論それは君の考へてる通りでないと思ふのが僕の批評限に照らした歸納である。議論は反對者に勝つのが目的ではない、勝敗の念が強くなると、口論になる、君の議論否論旨に異存は少いが、君の作物と君の鑑賞とに異存が多い、君は既に計らひはいけないといふに異存をいはないのみならず、さういはれたのを驚いた程計らひを非認して居る。その點は君の考へと僕の考へと一致して居るのだ。僕は唯考へが一致して居るだけでは滿足が出來ない。態度、創作、鑑賞の上にそれが實現されて欲しい。今度の君の漫言、大體に異存のあらうやうもないが、人間の心の動きは人々によつて違ふのである。境遇によつて違ふのである。自覺の有ると無いとで違ふのである。特殊の修養のある人と無い人とでは違ふのである。それに君も異存はないだらう。多くの人間は一樣だと斷定したやうな議論は少し困る。(第一信)
 もう小説に追はれて居るから歌のことばかり考へて居られない。今度はこの葉書二枚だけでよさう。
議論を緻密にしても議論ばかりでは到底解決はつかぬ。議論と實行とがどれだけ并行して居るかを吟味(397)せねば駄目である。作者自身ではしみじみとした情趣を味つて居るにもせよ、其動機が生んだ歌にせよ、歌そのものゝ成功が第三者即ち鑑賞者にしみじみとした興味を與へなければ駄目ではないか、創作の成功が鑑賞者をしみじみさせるだけの活力を持つて居なければ駄目である。(僕のいふ力といふことを誤解しないやうにして貰ひたい)かういうて來ると又君から己はそんなことを言つたり考へたりしては居ないと言はれるかも知れない。大體から言ふと君のはいつも自力の信念に立つて居るやうだ。僕のは殆ど他力の信念に立脚して居る。それで根柢にそれほど差が無くて居て、議論の外形が大變反對のやうになるらしい。君の議論は誤解を招き易い。
 人間はかうだ、我々の感情はかういふ風に變化して來たといふだけでは創作的評論にはならない。人間一般から見れば藝術は人生の特殊な表現であるから藝術の要求は心理學者の解釋では解らぬ。個人の藝術的天賦の能力及修養から得た特殊能力の發達を唯一の標的として論じねばならぬと思ふ。(第二信)
 どうも云ひかけて見ると、云ひ盡して終ひたい。君は、僕が君の手紙及びアラヽギの評を讀まないだらうと言つて居るが、僕は讀んで居ると答へる。さうして僕は君の論題と爭はないと云つて置く。君の手紙及評論には、批評的立言と創作的立言とが不明瞭な所がある。
 叫喚激發の聲はそれが直ちに感情の表現である云々に計ひの交るべき余地はないが、君の繰り返し言つて居る即いて見る離れて居る、若しくは離れて味ふ歌 かういふ語のそれに既に計らひの起る意義を充分に有して居る。味があるといはず、味ふて見るといふ、その自動的な、働きかける態度が計ひにならないであらうか。離れて味ふ、かういふ語に計ひの伴ひ來ることは避け得べからざることである。さういふことを言ふと、言葉の上げ足を取るやうになるから一々は言はない。現に今度の漫言中に、「新しき土地に自己の運命を開拓しつゝある。」云々。(398)かういふ態度に計ひが出ないと信じ得るか。であるから君の云ふ通り計ひの歌がアラヽギには無數にある。君の評は過去を評したもので、今後これこれの態度で進まねばならないと云つて居るのではないが、たとへ、過去のことを言ふにせよ自己の運命を開拓しつゝあると稱揚するのはとりもなほさず計ひを是認して居る言ひ方ではないか。
 尚味ふといふことが創作になるまでには余ほど距離がある。味ひ見る能力と創作的能力とは働きが全く別である。たゞ叫びだ、沈吟だ、微動だ、冥想だと云つて創作の價値とは何の關係もないことである。價値のある沈吟微動冥想でなければ駄目ではないか。どうか君自身の言葉に缺點の多いことを少し靜かに顧て欲しい。(第三信)
                   ――四月八日――
                明治45年5月『アララギ』
                   署名   左千夫
 
(399) 藝術上の氣品と云ふ事に就て
 
 昔時の鑑賞上に於て最も大なる要求であつた藝術の氣韻とか品格とかいふやうな事が、現時に於ては殆んど問題になつてゐないやうであるは如何なる故なるか。
 寧ろ今時の藝術評論上で、気韻とか品格とかいふやうなことを云はうものなら、頭から古い議論とされ、少くも藝術の氣品などいふことは現代的評論家の筆に昇るべき問題でないやうに思はれてゐるやうである。
 藝術に對して氣品を要求するといふことは、全く時代おくれの思想として、そこに何等考ふる處がなくてもよいのであらうか。予は素人鑑賞家の一人として、否否と絶叫する一人である。
 それは昔時の鑑賞が、一も氣品二も氣品で(光淋の鵞などは當時に於ては、品格が低いものとして士人の床上には適せぬと云はれたといふ事である)淺薄な形式上の氣分に憧憬し根底のない、精神のない、極めて上べな形ちだけの品格高雅と云つたやうな幼稚な鑑賞は、到底低級なものである事は云ふまでもないが、如何に時代は推移して、人間の思想感情の變化から、藝術上にも種々新しい要求が起つて來たにせよ、更に推移し變化するにせよ、藝術に品位を要求せぬといふ結論の來るべき筈はない。人間が人間の品位といふことを考へないやうになつたら知らぬこと、氣品を問題にせぬ藝術があつたとせば、それは已に滅亡し若くは滅亡期にある藝術である。
 併し人間の滅びない先に藝術は亡びる、其實例は現に目前の世界に横たはつてゐる。藝術のない國民は品格の(400)無い國民である。國民が國民の品位を問題にせぬ樣になれば、それは精神的に滅亡し若くは滅亡に近き國民である。
 藝術氣品論は、大なる國民的問題でなければならぬ。さうして事實上、現時の藝術界に於て鑑賞上にも評論上にも、氣品の高下若くは有無といふことを輕視して居る。予は氣品を閑却しつゝある現藝術界に深憂を懷いて居るものである。
 固より氣品といふやうな事は、其解釋の如何に依て、価値の上に大なる相違のあるべきは勿論である。
 其意義の不明瞭なだけ、論題にし惡い。現藝術界で氣品などいふことを問題にせぬのも、一つには解しにくい論じにくい爲めであるといふ點も認められる。
 けれども藝術の氣品を有價的に解するといふことは、藝術の生命に關する問題であつて、同時に文明の内容上重大な問題であるのだ。で現藝術界が、氣品の有無高下若くは其解釋等に就て、重要な注意を拂はぬといふことは、日本の藝術の爲め、將た日本文明の爲に深く憂ふべき事である。
 具象的には、到底説明も解釋も出來ない氣品なるものを論ずることは實に六づかしい。甲が以て氣品ありとするも、乙は以て氣品なしとすることなきにあらず。固より論理を以て決し難き問題であるから、爭ひは結局水掛論に終はるの外は無い。故に藝術の氣品なる問題は氣品其物の問題と云ふよりは、文明的頭腦の問題である。論じて決定の出來ない問題である。
 一方藝術家側から云へば、全く作者其人の精神問題であつて、作者自らと雖も、氣品あるものを作らうとして作り得らるゝものにあらざれば、勿論評論家や鑑賞家の要求に應じべきやうも無いのである。
(401) それにもかゝはらず、問題は何處までも、人文的重要な問題であるのだ。
 氣品を解して始めて氣品の要求が起る。氣品を解しない社會に、氣品のある藝術の起りやうはないであらう。藝術を要求せぬ社會に藝術の起りやうはないと同じである。藝術は藝術の藝術で他の要求に依て起るものではないといふ説も盛にあるやうなれども、それは幸に藝術を有して居る國民内で云ふ事で、廣く人類の上から見て言ひ得る事ではない。人間の爲す事で人間の要求なきに存し得るものはない筈である。藝術は人間の要求あるも猶且つ衰へつゝある、まして要求なきに存し得る理由がない。
 そは兎に角現代の評論及び鑑賞が、藝術の氣品を閑却して居る原因に就て、予は茲に四個の疑問を提出したいと思ふのである。
 一、現代新藝術の創作程度は、其熟達の上に於て未だ個性化の不足、言ひ換へれば其作品が全く作者の物とならず、更に言ひ換へれは猶習作程度にあるが爲に、気品を表現するの域に達せざるにあらざるなきか。
 二、評論家の鑑賞程度が、論理認識の知覺に没頭して、未だ論理以上の氣品的趣味を要求する頭腦を缺けるにあらざるなきか。
 三、藝術上に歐洲思想の急激なる注入は、藝術總てが模倣的翻案的試作の混亂渦中を脱する能はずして、作者の思想感情が猶藝術的醇化を缺くに依るなきか。
 四、自然に推移し來れる現代國民の思想は、現實的表現に興味を感ずること多く、形似上の精神的なる、氣品的趣味を要求すること少きに依るなきか。
 第一第二第三の問題は、猶向上的前程を有する問題であるから、望を後來に屬するの餘裕があるとも云へる、(402)忠實なる自覺と熱誠なる反省と、それに加ふるに、有價的努力を以てせば、少くも現時よりはより以上に文明の内容を充實せしめ得べき藝術を産み來るの望みあるが如く思はれない事はない。
 乍併第四の問題に至つては、不可抗力的人類思想の推移的變化に起因するものであるから、殆ど人爲を以てどうすることも出來ないやうな、自然的人類の墮落と云はねばならぬ。近く日本民族の上に一例を擧ぐるならば、日本民族の精神最も旺盛を極めた時代の思想を回想して見るも、瓦となつて存せんより玉となつて碎けよと云ひ、士君子の面目を保持せんが爲には、何時でも割腹するの覺悟を誇れるにあらずや。如斯精神の發揮は、藝術上には勿論、何事の上にも氣品的趣味の尊重せらるゝに至るべきは自然の數である。多数國民の總てが然るべしとは信じ得ざるも、少くも國民の中心たる士君子の列にあつては、氣品是れ士君子の生命と信ぜられた時代ありしを信ずることが出來る。
 飜つて現代思想の大勢を見よ。國家の威嚴、國民の品位、紳士の面目なる感念は決して乏しからずとするも、如何なる場合にも利害を考計するの念を閑却せず。利權問題の前には如何なる問題も屏息せねばならぬ。國家の生活が然り個人の生活が然り現代文明の思想が然りと云つてよい位である。
 斯の如き内生活が、現實的興味に強き嗜好を起し、氣品的趣味を閑却するに至るは、是又自然の數と云はねばならぬ。
 現代藝術界の氣品問題を閑却する原因が、以上の如く深き根底に基づくものならば、人爲を以て如何ともすることの出來ない不可抗力的人類の墮落を嘆ずるの外はない譯である。
 予は今の藝術を樂觀する程暢気者たり得ざるを悲む者である。
(403)                     明治45年5月『日本美術』
  署名 伊藤左千夫
 
(404) 朝風暮雨
 
       〇
 朝風暮雨の惠みを感謝し得る境遇に、我生の幸福を樂みたい。日に二回夜に一回の食事を、美味く食ふと云ふ。尋常平凡な生活の上に、深い意義を感じつゝ暮したい。
 人類の總ては必ず自己の出發を其處に起さねばならぬ、さうして人生の總ての問題も又必ず其處から出發するのである。で我々は我出發地の尊重を自覺し常に之れを回願するの念を失ふてはならない。
 我々の人生は、行程の進路に錯碍を生じたる時に、如何なる場合と雖も、其出發舊地に還るべき希望を有して居らねばならぬ。
 自己の行爲に何等節制の勵みなく、我れと我自然性を破毀したる、罪惡の徒は多くは自己の出發したる舊地に還るの希望を失はざるを得ないのである。
 推移と變遷の行途に置かれたる我々は、いつしか周圍の教唆する處となり、衆と前進を共にせざれば、自己の幸福を保有し得ざるの感を抱くに至る。故に前進又前進、人生の幸福は只前進に依てのみ得らるゝが如く思ひつゝ。歸還を失ふの禍を知らぬのである。
 歸還なき前進は、終局の敗滅に急ぐのである。歸還なき人生は統制なき人生である。
(405) 時事問題を追ふて徒らに前進を事とする人々に歸還の聲を掛けたいのである。
 政事家宗教家藝術家、徒らに前進して其精神と目的とを失ひつゝあらざるか。
 前進に依て進歩が得らるゝと思ふのが、禍の始めである。
       〇
 自己の自覺は成るべく晩いのが良い。人間は成年に達する頃から、必然的に目己の自覺が起つて来る。自己の自覺は或意味に於て人間の成熟である、同時に人間の固定である。さうして人間は其不完全な成熟と固定とに依て多くは愚人になるのである。
       〇
 釋迦を信じない人に釋迦は解らぬ、耶蘇を信じない人に耶蘇の解りやうはない。科學上の問題は研究して解るかも知れないが、人間は研究しただけでは解らぬ。其人を信じて始めて其人も解り其人の言ふ處も解るのである。
 おれを信じない人におれが解るもんか、おれを解し得ない人がおれと議論をしやうと思ふは大間違である。何の役にも立たない事は始めから判つてる。
       〇
 詩は、人間が行程を取つた生活の紀念ではない。赤い物を食つて赤い糞をたれ、青い物を食つて青い糞をたれて經過した行程に何の價値があるか。單なる推移變遷に伴ふ新らしみは、まり立ての糞の新しいのと何の相違はないのだ。 行程の軌道を離れて終へ、推移變遷が與ふる隨時の効果を捨てゝ終へ。不死の生命は時間を超絶したものであ(406)る。詩を作り得た時に人間は神である、詩は不死の生命を有するからである。
                     明治45年6月『新佛教』
                       署名   左千夫
 
(407) 予の「分家」に就て
 
予の小説は予の與へられたる人生の興味を書いたものである。最う少し精しく云はしてくれるならば。かういふのが人生の興味であるとか、かう書くのが藝術であるとか云ふやうな考が主となつて書くのではなく。
只々自己に與へられた自然人生の興味を書くのである。勿論それで藝術たり得べく、又或點までは必ず読者に興味を與へ得るとの信念はあるのである。
さうして讀者に興味を與へんとする予の用意は。單に予の與へられた興味を記述し、若くは自然其物が有する藝術的容量を描寫したものでは無くて。予自らが受けた興味の感動から、予の創作に自然一道の生氣を齎らすやうに勉めねばならぬと信じて居るのである。
                            (東京日日新聞掲載中) 
                        明治45年6月『ホトヽギス』
                             署名 伊藤左千夫
 
(408) 表現と提供
 
 土が裂けて筍が出たと云ふは内的の言ひかたである。筍が土を破つて出たと云へば外的の言ひかたになる。此二つの言ひかたを藝術的に考へて見るとそこに面白い意味が發見される。
 前者は詞が自然で其言ひかたに技巧がない、見た有のまゝを言つたので少しもそこに計らひがない。後者は詞に技巧があつて言ひかたが働いて居る、見た有の儘でなくて、筍が土を破つたといふやうな言者の想定がある、それだけ後者には言者の計らひがある、自然とは云へない所以である。
 で前者は平凡で後者は奇警である。前者は筍の力が主であつて土の裂けた事はそれに伴うた出來事になる、詞に技巧がないから、筍の感じが多くて詞の感じが少い、言者の意が少くて筍の意が多い、内的の言ひかたと云ふ所以である。後者になるとそれが反對で、筍の出た感じよりは土を破つた感じが強い、詞の働きが主になつて、其詞の爲に筍は材料にされた感が多い、であるから言者の意が多くて筍の意が少ない。一歩進んで云ふと言者は自己を虚くすることなく物を側から見てるといふ餘裕があるものである。即外的の言ひかたと云ふ所以である。
 此二個の立言は同事件に關する意味の提供ではあるけれども、両者が與ふる細微なる感覺の差別は、前者は事實の情が勝つて、後者は言語の綾が勝つて居る。同一事件に對する立言ですらも、内的に言へるものは充實し外的に言へるものは虚弱である。
(409) 單にその言ひかたの内的なると外的なるとの差に於ても、結果の相違は以上の如きものがある。表現と提供との相違は、藝術的價値の上に非常なる差別あることを知らねばならぬ。
 簡單な詞で例を云つて見ると、一人淋しも、我は悲しも、これが内的の言ひかたで、言者の心が直接に此嘆聲に表現されて居る。咏嘆の響きは數語の組織から構成される場合が多いから、一句一語に就て云ふのは無理であるけれど、一例として假に擧げたのである。
 で、淋しみにけり、樂しみにけり、悲しみにけり、かう云へばそれが最早只一句ですら之れを外的の言ひかたであると云へるのである。從而表現では無くして言者の意の提供になをのである、言者の心の直接な響きではなくして、言者の、心の記表である。(記述といふ詞は穏當でないと思ふから記表と云ひたい)
 オウ※[口+喜]しい、アアつらい、や大へんだ、かういふ風に出てくる詞は無論内的で言者の心の直接表現であるが、※[口+喜]しかつたぞ、若しくは※[口+喜]しいぞ、悲しかつたぞ、悲しいぞ、驚いたぞ、等の詞は言者の心の直接表現にはならない、即外的言ひ方であつた、言者の心が意味に依て現されて居るので、言者の感情が詞の意味に依て提供されたのである。
 此兩樣の詞が、聽者に與ふる力が言語藝術上の大なる要素となるのである。それで表現的な詞が最も人を動かすのは、言者の心が直接に聽者に傳はるからである。提供的な詞に人を動かす力の無いのは少くも弱いのは、聽者は前者の如く言者の聲から直接に感じを受けることが出來なく、言者の詞の意味に依て、傳ふる處の感情を味はねばならぬ。でさういふ感情は一面から餘裕があるとも云へる、冷靜とも云へる。靜に味ふとか離れて味ふとかいふ趣味もそこに出て來るのである。
(410) 前者は訴へるのであつて、心の表現である、後者は話合ふのであつて、意味の提供であるのだ。久保田君などの云ふ處の、前者は動的で後者が靜的である。動的のものに力があつて靜的のものに力のないことは、云はずして明かであらう、久保田君等もそれに異存を云ふことは出來ないだらう。
 只以上のやうな動的表現靜的提供の依て起る原因を時間的關係に解釋して、動的なるは初生的で靜的なるが後生的とやうに考へるのが間違つて居るのである。
 自分の※[口+喜]しい若しくは※[口+喜]しかつた事を、或は悲しい若しくは悲しかつた事を、自分の同情者に對し靜に語つて其情を自ら味ひ且つ聽者の共鳴を求めることは面白い事である、さういふ情緒を藝術的で無いといふのでは無い。只さういふ風に、靜かに話し靜かに味つてゐては滿足の出來ない程自分の感情が興奮して居る場合には、さうしたくもそれが出來ないものであることを忘れてはならぬ。詞の意味と聲とに感情を凝らして訴へるといふ場合に、自分には自分の感情を味ふなどいふ餘裕はない。其自分のないだけそれだけ聽者を動かす力は強いのである。藝術の鑑賞は如何なる意味に於ても人を動かすの力、即其力が主要でなければならない。靜に味ふといふことは、作者自らの興味であつて、それが直ちに作物の興味となるものではない、のみならず作者にさういふ餘裕があつては(そこに必ずひねくりも出る計ひも出る)作物の上に作者の精神が緊張し來るものでは斷じて無い。
 記表的説明的報告的、さういふ風に外的な詞の働いた歌には作者の心作者の感情の直接に傳りやうがないから、さういふ歌には人を動す力がないのである。
 人は自分を語るの權利はあるけれども、他をして強て自分の感情に共鳴させる權利はない。で自分の味つてる興味は自分一人で味つて居るべきものである。他人の興味たりし話が自分には聽くに絶えられない退屈である如(411)くに、自分の味つてる事を人の前に提供するは、人を溜らなく退屈させるものと思つてかからねばならぬのである。
 人間といふものは痛切な訴へには同情が出來るけれども人の味つた興味の惚氣《のろけ》話などに同情が出來るものではない。であるから力の充實精神の緊張はどこまでも藝術の生命であるのだ。
 萬葉集の歌は大抵咏嘆した歌であるから(家持以下のものには思索して作つたものも多いが)作者の興奮的感情が直接聲調の上に表現されて居る。作者の考や感情を提供して讀者の同感を強ひるやうな歌は少ない。
 今日の歌の最も大なる惡弊は、各考へに考へた上に勝手な自覺を開き、意識の働きを驅つて、無暗と思索に思索を重ねて歌を作つて居る點にある。自然感情の動きが直接に響きを發したやうな歌は實に少ない。實際感情の興奮から湧いたものでなく、情趣を思索し想像し、然らずとするも、殊更に我れから勉めて釀した興奮に於て(さういふ事があり得るや否やは疑問であるが)作つたと思はれるものが多い。であるから『眞』の感じある歌が無く、『假』の感じの歌が多い。歌に充實がなく力のない所以は、それが爲めであらう。
 更に約して云へば、無我なる作者の内的表現でなく、作者の自ら面白かつた事件や感情の提供であるのだ。であるから多くは作者の勝手な自己の慰みであつて歌が小さいのだ。
 元來歌は作者の勝手な慰みや惚氣を不用意に發表して周圍を退屈さすべき筈の者ではなからう。ぢや退いて黙つてくれと言ふだらうが、我々貧乏人は日本を退去して國外へ逃れる程資力が無いから困るのである。
 嚴肅な意義に於て、詩は人類共有の藝術である。こんな事云ふ必要は無い筈だが、今の歌壇に對しては、大きな鐘を撞いて人に警戒を與へるやうに、突然云つて見たくなつたのである。
(412) 笑ひたくなつたり泣きたくなつたり叫びたくなつたりしたら、そこに全精神を傾けて、無我に笑つて終へ、泣いて終へ 叫んで終へ。何等考へる必要は無い。かくて人間の眞實な聲は出るのだ。其聲が人類を一貫した大きい或物に觸れるのだ。それでなければ大きい歌は出來ない。力のある歌は出來ない。人類共有の藝術たる歌は出來ない。(これは未完にして置く)
                    明治45年6月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(413) どうも氣になる
 
 四月下旬柿の村人上京の爲に開いた歌會の席上で同人歌評をやつた時、或歌に就て僕が其歌の作意を作者に問うた。すると二三の同人から作意を作者に問ふ必要はないといふやうな反對を受けた。
 僕は歌の批評に作者の作意を問はねば批評が出來ないと思つてる譯でもなく、作者の説明を言質として自分の非難を確實としようと思つて問うた譯でもない。幸ひ作者が同席して居るから便宜上問うて掛つたのであるが、僕は今それを繰返し論ずる積りはない。アラヽギの批評には是れまで作者の考と違つた解釋をして褒めたりなんかした事があつて、其後僕は氣になつてならなかつたから、此機會に一言して見たいのである。
 いつか抱月が藤村の小説を褒めた處、藤村は作者の考はさうでないと云つて、辨解を試みた事があつたさうだ。それはさうあるべきである。假令褒められたにせよ、作者の考と違つた解釋をされて批評されては、作者も有難い筈はないからである。アラヽギには時々さういふ事があつたが、作者も評者も其儘にして更に論究する事をせなかつた事が氣になつたのだ。
   木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり (茂吉)
 此歌は木の下で梅を食つたら酸いと作者が梅を食つたのであると作者は云つて居る、さうして柿人の評には『幼妻が庭前の梅の木陰に嫩い木の實を食ふ』と解して居る。此意に依て此歌を大に褒めてる。かういふ場合に(414)作者も評者もそれきり黙つて居るといふのは、創作其者に忠實な所以でなかつたと思ふのである。評者の解が誤つて居るか、誤り解せらるべく作物が不完全であるか、どつちかでなければならぬ。
 僕も當時細評を試みた歌であるから、茲でいづれを無理とも裁決は云はないが、作者が梅を食つたのと作中の女が梅を食つたのでは、作意全躰の相違である、作者もまさかにどつちでも良いと云つて居られる譯ではなからぅ。評者も作者も意が評者の解と違つて居つても評には關係がないと思ふならば、實に埒もない馬鹿氣た批評と云はねばならぬ。
 かういふ場合に作者は批評家の言に服して其歌を訂正するかさも無ければ其批評の誤れる所以を辨解せねばならぬ筈である。評者の方でも自分の評を取消すかさもなくば、作者の考の如何に係らず、其作物は立派に完成した所以を今一度論じて置かねばならない筈だ。でなければ何の爲めの短歌研究かと云ひたい。短歌研究が只原稿を作る目的であるならば、もう云ふ處はない。自己の研究を此の如く亂暴にして置いて他の作歌を云々するのは不心得千萬と云はねばならぬ。それが一度ならず二度も三度もあつては黙するに堪へないのである。
 前々號所載柿人君の作『あるものは』と四首同語を上句に連用した歌に就ても、稍相似た不體裁を演出した。此歌に就ては茂吉君等と大に考を異にした結果、隨分烈しく席上に爭論したが、僕は猶依然技巧上の非難は云はないとしても、題目の提供に過ぎないと思つてる。此歌から悲哀の音調を感ずることは出來ない。此歌に哀音があるならば蛙の聲にも哀音がある、否何の聲にも京音があると云へる。僕も始め眞面目に論究して見る積りであつたが、茂吉君から『甚だ見の淺薄なものである』と云はれ『評者の感じ方に一種の障礙がありはしまいか』と不思議がられ、おまけに「見當違いの批評に過ぎない」とまで痛罵されては、もう討論を試みる勇氣も無くなつ(415)た。何物をも恐れざる其斷定に敬意を表して『さうで御坐いますか』と引下つて置くことゝしたのである。
 それは兎に角此場合に氣になる點は、此四首の歌は、作者は返す/\も自身の無い歌であると云つてるのに、茂吉君が三四人の同勢を語らつて、四首の歌を稱揚したのであるが、作者が自信はないと云つたとて稱揚するに少しも差支は無いが、『或程度まで作者の心に共鳴することを得て從て佳作』と云つて居られるから、自信のないと云ふ作者のどういふ心に共鳴し得たのかゞ怪まれるのである。勿論茂吉君の讃辭の如き表現があるならば佳作と云つて差支ないのである。
 それで又作者たる柿人君は、茂吉君の讃評を如何樣に受取つたのか。褒めるには褒めた理由があるのであるから、自信のないといふ作者もそれを是認して讃評を受取つたのか。それならば作者は自分の氣附ない點を評者に發見されたことを感謝し自信がないと云つた前言を取消すが至當でなからうか。若しさうでなく作者は今日も猶自信がなく、讃評の理由をも是認することが出來ないならば、更に自信のない理由と讃者の云ふが如き精神で作つたものでないといふことを述べて潔く讃評を辭するのが當然であらう。問題にならないなら兎に角既に問題になつた以上は、藝術に忠實なる精神からどうか盡すべき事は盡してほしい。殊に意地惡く云ふのではない。かういふ事を良い加減にして置くのが、僕にはどうも氣になつてならないからいふのである。
 附記 長塚君があの歌を褒めたのは茂吉君の云ふやうな理由に依つたのでないやうに聞いた。
                    明治45年6月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(416) おことはり
 
 一 選歌を暫く休みます。
 二 是から重に歌の批評を致したいと思ひます、
 三 歌に對する自分の考へを自由に言つて見たいのです、
 四 それに就て選歌をして居ては都合の惡いことがあると思つて選歌を休むのです、
 五 併し是非自分に歌を見よと望む人あらば個人關係で見ることに致します(返稿料の郵券封入)
 六 新體詩は解らないからおことはり致し升 (左千夫生)
                   明治45年6月『アララギ』
 
(417) 談話會記事
 
 柿の村人の上京を機として、五月六日中村憲吉宅に會するもの八人。最近のアララギの歌に就て互に意見を發表する筈であつたが、時間の都合で僅に柿の村人の歌數首を批評しただけであつた。
   灰いろの草がれ道を毛物にてあるが如くに思ひ動くかも
 茂吉曰。 どういふ事なのですか。
 柿人曰。 自分が毛物のやうな氣がして、自分の肉體が動いてるといふことです。
 文明曰。 動くとは道を歩いて行くといふ事ですか。ぶる/\顫へるといふことですか.
 柿人曰。 さうです。道を歩いて行くといふことです。
 左千夫曰。 作者の説明に曰く、灰色の草枯道を歩いた時にふと自分は毛物であるかの樣に思はれた心持を詠んだ歌である。その思ひの起つた動機といふものは別にないんだ。
さういふ氣持を歌にしたといふことが、少くも前後の詩境がそれに加はつたにせよ、今の僕の藝術觀に當つて居ないと思ふ、かういふ刹那的に浮んだ、作者の平生に交渉も脈絡もない(これは此歌にさういふ表現を感じられない評者の考へである)やゝ思ひつきに似たやうな感じを記述しただけでは、一個の藝術としては著しく内容の不足を感じるのである。それでもふと浮んださういふ氣持の爲に、作者が精神の動搖を來して其心の動搖が聲調(418)の上に現はれて居るならば勿論立派な藝術といへるがこの歌のすべてが説明的記述的に出來て居るから、事件と感情とが融合されないのである。さういふ意味に於て僕には非常にあきたらない。
   板の上に煙草のほくその吹かるゝに似つゝおのれは野をいそぐなり
 左千夫曰。 僕も深い味ひを感じられざる一人である。藝術の表現が警喩を以て描寫される場合に最も吟味を必要とする點は譬喩と被譬喩との兩對稱が意味若くは形状等の上に於てする場合でなく、兩者相互の交渉が感覺の上に於て相通ずる點がなければならぬと思ふ。この缺點よりしてこの歌の譬喩が予には當を得ずと思はる。第四句に『おのれ』といふ言葉があるが『われ』といふ意味と如何なる差異あるか予には理解を得られない。かゝる異存あるが故に技巧に言及するの要なしと思ふ。
   白ざれの粟稈畠《あはがらはた》に立ちとまり何思ひしかいま忘れたり 左千夫曰。 僕には十分な批評が出來ない。かういふ感じを歌うた歌として遺憾なく成功して居るとは思ふ。然し今の僕の要求からいふと何か物足らなく思はれる點もある。たゞかういふ感じを提供された迄のやうに思はれる。この歌の作歌動機が作者の興奮した感情に起因して居らぬやうな表現であるからである。何だか自分の心持が云ひ盡せないやうに思はれるが今少し考へさせて欲しい。
                    明治45年6月『アララギ』
 
(419) 『悲しき玩具』を讀む
 
 石川啄木君は、齢三十に至らずして死なれた。『一握の砂』と『悲しき玩具』との二詩集を明治の詞壇に寄與した許りで死なれた。
 石川君とは鴎外博士宅に毎月歌會のあつた頃、幾度も幾度も逢つた筈である。處が八度の近現眼鏡を二つ掛ける吾輩は、とう/\其顧を能く見覺える事も出來なくて終つた。
 さうして今此遺著を讀んで見ると、改めて石川君に逢着したやうな氣がする。かすかな記憶から消えて居つた、石川君の顔が思ひ浮ぶやうな心持がした。 それは吾輩が今此詩集を味讀して、石川君の歌の特色を明に印象し得たからであらう。
 此詩集に収められた歌と、歌に對する石川君の信念と要求とに關する感想文とを繰返して讀んで見ると、吾輩などの、歌に對する考や要求とは少なからず違つて居るから、其感想文には直に同感は出來ない。從て其作歌にも飽足らぬ點が多い。
 だが讀んで見れば、感想文も面白く、作歌も相當に面白く、歌と云ふものを、石川君のやうに考へ、歌と云ふものに、さういふ風に這入つて行かねばならない道もあるだらうと首肯される點も充分認められるのである。
 吾輩は只石川君の所謂(忙しい生活の間に心に浮んでは消えて行く刹那々々の感じを愛惜する云々)といふやう(420)な意味で作られたものが最善の歌とは思へないだけである。記述して置かなければ、消えて忘れて終ふ刹那の感じを歌の形に留めて置くと云ふだけでは、生命の附與された、創作と認めるには、顯著な物足らなさを、吾輩は思はない譯に行かないのである。
 歌はこれ/\でなければならないなどゝは吾輩も云ひたくはない。又そんな理窟の無いことも勿論である。だから吾輩は只此集のやうな歌に滿足が出來ないと云つて置くのみだ。
 石川君はまだ年が若かつた、吾輩はそれでかう云ひたい。石川君は此のやうな歌を作り作りして行つて最う少し年を取つて來たら、屹度かう云ふ風な歌許りでは滿足の出來ない時が來る。それが内容の如何と云ふことでなく、技巧の上手下手と云ふことでもなくて、既成創作が含める生命の分量如何に就て、必ず著しい物足らなさを氣づいて來るに違ひ無いと思ふのである。
 茲は歌の議論を爲すべきでないから、多くは云はないが、石川君のやうな、歌に對する信念と要求とから出發したものならば三十一字と云ふやうな事を始めから念頭に置かない方が良いのぢやなからうか。よしそれを字餘りなり若くは、三十六字四十字を平氣で作るにせよ、大抵三十一文字といふ概則的觀念の支配下に作歌する意味が甚だ不明瞭で無かないか。吾輩は要するに詩といふものに、形式といふ事をさう輕く見たくはないのである。詩の生命と形式との關係には、石川君などの云ふよりは、もつともつと深い意味が無ければならぬと吾輩は信じて居るからである。
 乍併此詩集を讀んで、吾輩の敬服に堪へない一事がある。それは石川君の歌は、君が歌に對する其信念と要求とが能く一致して居るのだ。云ひ換へると石川君は、自分の考へた通りに、其要求の通りに作物が遺憾なく目的(421)を達して居るのである。
 最う少し精しく云ふて見れば、今の詩壇には、新しい歌を讀む人が隨分少くはない、併し其諸名家の作物を讀んで見ると、其人達は歌に對する、どういふ信念と要求とから、こんな風な歌を作るのかと怪まれるものが比々皆然りで、作者の精神が何處にあるのか、殆ど忖度し難いものが多い。少し惡口云ふと、歌海の航行に碇も持たず羅針盤も持たないで、行きあたりばつたりに、航行してゐるやうに見えるのだ。
 それが石川君の歌を見ると、航行の目的と要求とが明瞭して居つて、それに對する、碇も羅針盤も確實に所有し、自分の行きたい所へ行き、自分の留りたい所へ留つてるのである。
 世評許り氣にして居る、狡黠な作者が能く云ふ、試作なといふ曖昧な歌が、石川君の歌には一首も無いのである。
 で若し石川君が茲に居つて。
 『君はさういふけれど、人には好不好と云ふものがある、僕はかういふのが好きなのだかち仕方が無いぢやないか
 と云ふならば、吾輩も一義なく石川君に同情して其歌を一種の創作と認むるに躊躇しないのである。
 かう云ふて來て見ると、吾輩は讀者に對して、歌に對する自分の要求を、一言いふて置くべき義務があるであらう。吾輩は生活上心に浮んだ刹那の感じに、作歌の動機を認めるにしても、心に浮んだ刹那の感じを、直ぐ其儘歌にして終ひたくないのである。
 心に浮んだ感じを、更に深く心に受入れて、其感じから動いた心の搖らぎを、詞調の上に表現してほしいので(422)ある。
 散文は意味を傳へれは目的は達してるが、韻文は意味を傳へたゞけでは滿足が出來ないのである。吾輩の要求する歌には、心に浮んだ刹那の感じを傳へたゞけでは足らない。云はゞ最う少し深いものを要求するのだ。
 刹那の感じから受けた心の影響を傳へてほしいのだ。それでなければ、作者の個性發揮も充分でない、情調化も充分でない。かう吾輩は固く信じて居る。 さういふ意味に於て、吾輩は石川君の歌に不滿足な感が多いのである。
 石川君は、驚きたくないと云つてる。吾輩は敢て驚きたいとも思はないが、強て驚きたくないと猶更勉めたくはない。驚くまいとしたり、泣くまいとしたり、喜ぶまいとしたり、さう勉めて見た處でそれはさううまく行くものではあるまい、さういふのは極めて不自然であるのだ。
 石川君は『歌は私の悲しい玩具である』と云つてる。さうである、石川君の歌は石川君の玩具であらう。であるから、石川君の歌を見ると、石川君其人が如何にも能く現はれて居る。
 薄命なりし明治の詩人啄木は、此の詩集の如き意味に於て作られた歌に依て、明かに後世に解せられるであらう。さういふ意味から見れは、此詩集は又大に面白くもあり價値もある。
 乍併さういふ意味に於て歌の價値を認めるのは、吾輩の考へでは、歌といふものを餘りに侮蔑した見方であると思ふのである。歌は作者に依て作られること云ふまでも無いが、作者の爲めに作者を傳へんが爲に作らるべきものでは無い。其作歌に依つて作者の傳はるのは妨げないが、歌はどこまでも、作者を離れて別に生命を有して居らねばならぬ。
(423) 吾輩は我が生んだ子を、親の爲に許りの考で育てたくないやうに、我が作つた歌を、我が玩具として終ひたくない、我を傳ふる犧牲として終ひたくない。作者たる自分は、どんな人間か判らなくなつて終つても、我作歌は永く人間界に存してあつてほしい。それもさういふ目的で作歌するといふのではない。
 歌を尊重したいと云ふことは、歌を作ることを偉い事と思つて云ふのではない。かうは云つても石川君は前途を持つてた人であつた、思つた事をやり始めた許りで死んだ人であつた。吾輩は僅かに遺された著書だけで、石川君はかういふ考へを持つて、これ/\の人であると云つて終ひたくない氣がしてならぬ。
 最う一つ言ひ殘した。此詩集の歌で見ると、石川君は醉はない人らしい、といふよりは醉へない人らしい。で他人の醉つたり狂つたりして、常規を失するやうな言動が皆虚僞のやうに見えたらしい。石川君は驚きたくないと云つたが、驚かない寧ろ驚けない人であつたらしい。かう思つて見ると石川君の歌に情調化の乏しいのは、それが當然であるのだと見ねばならぬ。
 石川君は自分で自分をあまり好いて居ない、從て自分の歌を自分で好いて居なかつたであらう。さうして居て猶歌を作らねばならなかつたとせば、石川君は矢張此集のやうな歌を作るより外なかつたのであらう。
 石川君に猶春秋を與へたなら、或は遂に自分の好きな歌を作つたかも知れないが、それにしても此集の歌は矢つぱり誰の歌でもない石川君の歌である。吾輩は固より此集の歌を好まないけれど、此集の如き歌が明治の詞壇に存在する事を苟にも拒みやしない。
  併し集中にも左の如き歌は吾輩も嫌ではない。否非常に面白い歌である。かういふ歌を好きだの面白いのと云ふのは聊か穏かでなく思はれるが、只佳作だなど云ふのは猶をかしいからさう云つて置く。
 
(424)   いつしかに夏となれりけり。
    やみあがりの目にこゝろよき
    雨の明るさ!
 
   まくら邊に子を坐らせて、
   まじまじとその顔を見れば、
   逃げてゆきしかな。
 
   おとなしき家畜のごとき
   心となる、
   熱やゝ高き日のたよりなさ。
 
   とけがたき
   不和のあひだに身を處して、
    ひとり悲しく今日も怒れり。
 
猫を飼はゞ
(425)   その猫がまた爭ひの種となるらん、
かなしきわが家。
 
   茶まで斷ちて、
   わが平復を祈りたまふ
   母の今日また何か怒れる。
 
   買ひおきし
   藥つきたる朝に來し
   友のなさけの爲替のかなしさ
 
 これだけ拔いたのは、面白いと思ふ歌がこれだけしか無いといふのではない。吾輩も以上のやうな歌は非常に面白く佳作であると思ふのであると云ふまでゞある。外にもまだとりどり面白い歌は澤山にある。
 吾輩は茲で、アラヽギ諸同人に忠告を試みたい、我諸同人の歌は、概して形式を重じ過ぎた粉飾の過ぎた弊が多いやうであるから、石川君の歌などの、とんと形式に拘泥しない、粉飾の少しもないやうな歌風を見て、自己省察の料に供すべきである。
                    大正元年8月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(426) 緑汁一滴〔上〕
 
                     岡 千里
   たらちねの親のみ代より傳へつゝ黄金のみことにみつき奉《まつ》る
   年ごろを年のみつぎのとゞこほり金のみことの餓鬼|等《ら》責め來も   ますらをがたやすくは地に突かぬ手をもろ手をおろす南無|金黄《こがね》大菩薩
君子も小人も、宗教家哲學者詩人等しく黄金《こがね》なくては命の繋げぬ世の中なり。作者の自嘲は黄金を敬するの心、己を敬するの心に過ぐる無きかを危み且懼たるにあるべし。
                     平福百穗
   鰍瀬川《かじせがは》瀬音も立たず向つをも熟寢《うまい》横臥し有あけ月夜
   窓の外《ほか》の古杉《こすぎ》が枝のまろ葉ごし月の天路《あまぢ》に雲あらずけり
   枕邊に落つる月影窓かたに物影もありて繪を見る如し
自然に對する畫家の鑑賞は、先づ客觀的形似より入來《いりきた》るを見る「うまい横ふし」と云ひ「まろ葉越」と云ひ、「窓形に物影あり」と云ふもの即それなり。
   うちなひき妹が寢夜具《ねやぐ》の山形の其裾の邊《べ》に月あかく落つ
(427)   有明の月のかたむきゆら/\に大き力に移りゆくかも
第一首始め「妹が寢夜具」と云へり、故に「月朱く落つ」の句其趣致を添ふること幾段。第二首、月の移り行くは誰《たれ》も云へども、天地回轉の大勢力を感じて歌始めて新らし。
   山かげに月は入れども輪に匂ふほの照る明りに彼の國おもほゆ
古來月の山に入るを歌へるもの幾千百人あるべし、團形既に没して後の、ほの明りに其餘韻を慕へるもの幾人かある。 (8・4)
 
                      日原無限
   九十九折《つづらをり》道きはまりていたゞきの草原《くさはら》の上にいさよふ白雲《しらくも》
山深く雲近しの趣致は、敢て珍とするに足らず。只一句「草原の上に」雲のいさよふを見て、此歌に永久の生命《せいめい》を附與し得たり。
   夏されは草は刈りつゝ扇岡昔おもへは久しくなりぬ
「草は刈りつゝ」の「は」の一字注意を要す。事志と違《たが》ひ本意《ほい》に背ける月日の久しきを思へば、人生の果なきを思はざるを得ざるものあるべし。 (8・28)
 
                      日原無限
   日盛りを燒くる岡邊にしほれ立つ萩や芝や吾に似るかも
(428)失意の生活に疲れて、見る物目に痛ましきの情を窺ふべし。
   水涸れて木かげもあらすざれ風の扇岡邊に家を棄てかねつ
本意ならぬ現在の生活も、運命の拙なるが故か將た決意の乏しきに依るか。荒《すさ》び果た岡見すぼらしき吾家すらも、容易に棄つること能はず。
   夕顔《ゆふかほ》のすゝろのさやぎ葉かくりに妹が潜まん胸打ち騒ぐ
稚情掬すべし。 (8・29)
 
                      柿乃村人
   白雲のおりゐる谷に駒鳥の鳴音《なくね》間遠に朝の靜けさ「以下四首上高地温泉の作」
   久方の朝あけの底に白雲の青嶺の眠り未だこもれり
   野の裾の遠き谷べゆ吹きあくる白榛風《しらはりかぜ》も瀬の音《おと》交じれり
   朝つゆの木かげのみ湯の山深き曉《あけ》の光を遙れて湛へり
中の二首最も深山の感じあり。 (8・30)
 
                      石原 純
   澁色にほとびし柿のあだ花のあだをぞ嘆くをみなのあるべし
   草こけば手にしむ汁の濃青《こあを》にも浸《し》みてありなん情《こゝろ》なりしを
(429)   世に堪へず死なん命は麥の穗のくろきしひな穗の枯るゝが如し
如何なる場合にも熱狂すること無き作者の性格を窺ふべし。
 
                      古泉千樫
   夕山に銃音消えて山靜み雉子は遂に鳴かす暮れつも
一二回銃聲を聞しなるべし、然るを銃音消えてと云ふは穏當ならず。然し一|度《たび》銃聲を聞て後、雉子も鳴くこと無く山色其儘|暮靄《ぼあい》に閉され行く、其景と情とは多量の味を含めり。
   かきろひの日はくれにけり彼《か》の家に機《はた》の音《ね》やみて燈《ともし》匂へり
今は只隣家の人、餘所《よそ》の女なり、然れども甞ては餘所の女にてはあらざりしなり。作者は暫く家にあらずして、今歸り來れるなり。隣家の機の音、やがて又機の音止んで燈のにほひ。悉く甞て我が有《ゆう》なりし女の音容を偲ばしむ「彼の家に」の一句不用意に點出して最も働きあり。 (9・4)
                      古泉千樫
   雨喜ぶ青葉の家や女等は蠶豆《そらまめ》を煮る午後のくりやに
第一句と第二句との措辞に幾許の缺點あるべし。然かも好雨を喜んで一家半日を休む。愉情の掬すべきは充分にあり。
   天《あま》てる日のうるはしき國原や覆ふ雲もなく青嵐の風
(430)「覆ふ雲もなく」の一句平凡に似て平凡ならず。爽朗にして明快な夏の郊原を描得て遺憾なし。 (9・5)
                      古泉千樫
   宿の子がうゑしほゝづきもとつ實ははや色つきて夏くれんとす
初句「宿の子」と無造作に云ひ出でたる處、自づから旅情あるを見るべし。結句「夏くれんとす」には落ちつき得ざる心に、我知らず時の過ぎたるを驚くの状あり。
   おばろかに三月はすぎぬ八十國のきほひどよめく都べにして
前歌と感情は連續せり。第三句「八十國の」は萬葉時代の語風なり、今云ふ諸國など云ふに同じ。或一部の歌人等は、如此古調をおべる詞を嫌ふと雖も、一語にして如此復雜にして然かも圓熟したる言語の代ふべきなきを如何せん。志を抱いて都會に來れるも、先づ大都の盛觀に眩惑して、徒らに日を送るの淋しさを見るべきなり。 (9・6)
 
                      湯本政治
   八つが峰のすその高原《たかはら》時じくぞ霧雨降り來|青空《あをそら》の日も
「青空の日も」と結句にことはりたるは面白からず。乍併一讀し去つて、高山|大澤《たいたく》の氣象を想見するに足るを取らざるべからず。
                      望月光男
(431)   夏日照る青草原にあらかじめ咲くが悲しき松蟲草の花
望月は故人なり、今にして此歌を見る、當時彼が病の既に深かりしを察するに足る。第三句「あらかじめ」は此の場合、大方の意に見るべし。松蟲草は山らしき山には何處にもある、薄紫の花を咲く草なり。 (9・7)
                      望月光男
   夏の日の照りこむ河原にちゝ千草さはに生ひたり熱き河原に
一首の意義は只詞の如くなれども、作者は息苦しく咽せつゝ河原に立つて居たるが如き感あり。健全な人の胸よりは響かぬ哀音《あいおん》あるを味ふべし。
   くりやべの水仕のわざに掃き拭きに男の兒等は母を助けず
率直平易日常の茶談に等しきも、作者が殊に此作を爲せる境遇と其情緒とを思ふ時、讀者の胸に大に響くものあるを感ずべし。 (9・8)
 
                      望月光男
   夕顔の棚の葉かげに月待つに飽かぬものかも白く咲く花
   月代を待宵草の野に立ては現《うつゝ》さながら世に隔たりぬ
無理にも進んで現實界に奮闘せんとするよりは、超然世を逃れてか弱い生命《せいめい》を保有せんと願ふ、極めて弱い情緒の發露たるを窺ふべし。 (9・10)
 
(432)                     齋藤茂吉
   ひとり居の靜かに聞けば今宵しもこほろき汝れは醒めたる聲かも
   窓おせば外面《そとも》は望《もち》の照りとほる清夜は更けて眠りしづめり
此歌の長所は感覺の穎敏なるにあるべし。而して其短所は、作者の胸中に、何等の曇りも滯りも無いが爲め、聲調に情化の見るべきものなきにあり。
 
                      齋藤茂吉
   現《うつ》し世は一夏《いちげ》に入りて吾がこもる室《しつ》の疊に蟻を見しかも
一葉落て天地の秋といふ心を、巧みに夏に移せるなり、然かも一葉の秋は空想に近く、疊の蟻は現實の感多し。
   梅の雨ふれる小庭《さにわ》にいとけなきかへる子どもがあまた跳ね居り
平俗なる事件に對して、常に能く詩的感興を得つゝあり。此の作者の天稟には敬重すべきもの多きを見る。 (9・16)
 
                      故掘内 卓
   湯に入りて瀬の音うつくしくきゝ居れば星のかゞやき夜《よ》に入りにけり
   秋寒き温泉《いでゆ》の宿の夢さめて山近く見ゆあけがたの月
(433)秋漸く深く、山中の温泉浴|客《かく》殆ど無く、旅舍の靜閑ばるは、作者をして殊に一層山間の靜凉を味はしめたるが如し。兩首とも詞に少しも靜なることを云はず、而して靜凉の氣を言外に湛へたり。
 
                      故掘内 卓
   入笠《いりかさ》の山のみどりに朝日さしあけの旗雲松の間に見ゆ
普通「山のみどりに」と云へば夏の感じなり。然れども此歌飽くまでも秋氣清明の感あるは最も尊重すべき點なり。秋と云はずして秋の感深きは眞に秋を描寫し得たるが故なり。
   さ霧はふ朝明《あさあ》けを來れば目の下に村屋根ぬれて未だ睡れり
第四句第五句の描法、神を叱するの概あり。されは僅々三十一文字にして、斯く複雜なる光景を容易に描出し得えたるなり。 (9・30)
 
                      蕨 眞
   秋雨のしめれる庭に鷄頭も秋海棠もおちかはり咲く
   糸瓜花咲けるを見つゝ一日《ひとひ》降る雨の夕べの過る悲しも
是又子規忌に詠める歌なり。忌日に子規庵に會し其庭上の光景を見るまゝに詠みたるが、自然に如斯歌の躰を得たるなり。故人を思ふの詞を漏さずして、却て故人を思ひつゝあるの情深きを見るべし。第二首「雨の夕べの過る悲しも」語は簡なれども切々の情を漏して餘韻盡きざるの趣あり。 (10・1)
 
(434)                    村上※[虫+譚の旁]室
   玉ならば琅※[王+干]の玉我が大人の御《おん》ことひゞける竹乃里うた(「竹乃里歌」は子規子の歌集)
   歌靈《うたゝま》の大人のたまつさくりかへし昔しのぶに秋の夜《よ》ふけぬ
   臥しながら梢見ましゝゑんさきの秋海棠は花咲けりけむ
作者は遠く都を離れ居て、子規子の忌日に詠めるなり。遙かに思ひを子規子の舊廬に寄す。詞句簡明にして却て餘情に富めり。第三首は「臥して見る秋海棠の梢哉」とありし子規子の句に依れり。 (10・5)
                      民部里靜
   わらはべに水|警《いまし》めて飲まざれと云ふ日も長く暑さ殘るも
   つく/\うしつく/\うしと鳴く蝉の聲聞く宿に熱さ殘るも
平易にして自然なる叙述の中に、倦怠に疲れたる懶《ものう》さを見るべし。(10・6)
 
                      故掘内 卓
   夕空に御嶽山を見つゝあれば胸のさわぎがしづまりにけり
秋天朗かなる遙かの雲際に、高山の連峰夢の如く立てるを眺めたる時、何人と雖も超世の感に打たれざるはなかるべし。殊に木曾の御嶽山に於て其感や最も大なるを覺ゆ。
(435)   岐蘇|山《さん》に夕日沈めば天津|眞洞《まほら》あけとくらきと二分《ふらわか》れせり
岐蘇山は勿論主に御嶽山を指せり。併し此歌にして御嶽と云はずして、凡《すべてに》に岐蘇山と云へるを可とす、夕日|高山《こうざん》に没して、天は猶明るく地は漸く暗らし。雄大の觀超俗の情、人をして人間に還へるを厭はしむるの思ひあらしむ。 (10・14)
 
                      石原 純
   白樺の木のはだ白く立ちたるに山の朝霧消えまくもよし
幽谷霧深く、旅人《たびにん》朝歸《あさがへり》を急ぐ、猶|秋山《しうざん》無限の感興に別れ難きの情あるを見る。
   黄の臘を流すに似たる夕ばえの雲を眺めて立てる宵かも
説明の部分多くして作者の受けたる感動の表現に足らざる處多きを惜む。作者の動ける光景はよし、只其光景に對して作者の気分が如何なる状態にありしかを知り難きのみ。 (10・14)
 
                       秋峰生
   さ夜深く更くる峠を肌守り君にたよりて一人越すかも
病ある人などの、人をたよりに峠を夜越するといふ、弱々しい情緒が味はれる。「肌守り」は躰に氣をつける程の意で、面白い云ひ方である。
   秋晴《あきは》れの山の表を學生の群がり越えて去りにけるかも
(436)「山の表」といふ一句裸山なることを不用意に云ひ得て働いて居る、朗かな展望の歌である。 (11・14)
 
                       笠人
   傾ける月夜を深く一人出でゝいづくに行かんかこほろぎ鳴くも
平易な生活をしてる作者の情緒である。
   水透ける秋の小川の底淺く流るゝ眞砂に日影さしたり
   いやさやに天《そら》は明けゆく芋の葉に冷けき露が玉と凝りたり
秋氣明徹、心に浸み入るやうな澄んだ感じである。 (11・17)
 
                       溪流漁郎
   夕雲のみだれは消えてさゆる庭に能宣《のうせん》かづら落葉するかも通常の落葉には淋しいうちにも幾分の華やかさはある、のうぜんかづらの落葉には、聊かだも華やかな處はない、それだけ此歌の境地は荒凉さが思はれる。
   湯上りの皮膚《はだえ》をあけに太き身のたのもしくあれどいまだ子もなし
そんな人間も隨分世間にはありさうに思はれる。 (11・30)
 
                       千里山人
(437)   さくら葉《は》の並木|西日《にしひ》に明るけく木《こ》の間を吾と影と行くかも
   さくら葉はほろ/\こぼる暮の道影に別れて淋しかりけり
二首共に如何にも印象の明瞭な歌である。前者は夕陽影長く、後者は日限つて落葉のほろ/\落つるに身の一人を淋《さみ》しむのである。印象も二者明かに区別されて、感情も光景に伴うて變化して居る。 (12・1)
 
                       千里山人
   提灯を一人ともして闇深くようべの夢をたどり行くかも
昨夜《ゆふべ》の夢とはどんな夢か、浮いた夢でない事は此歌の調子が能くそれを語つて居る。つまらぬことゝ思ひつゝも譯もなく其夢を氣にして居るのであらう。
   月の夜を風ゆるゝらし柚の實の障子に映つる我が一人|居《ゐ》るに
明瞭な印象と安靜な情緒とが味ははれる。 (12・4)
 
                       相澤 貫
   雨晴《あめば》れの夕べあかるく黄に映ゆる豆の畑に人も無きかも
   見てあれば小鳥か立ちぬ廣らなる豆畑《まめはた》の黄にあかるき中より
田苑に住して田苑に目の明いた歌である。晴明な靜かな、秋の豆畑《まめばたけ》をつくづく眺入つてる作者の風姿が偲ばれる。聲調の單純な處に作者の若さと平易さが窺はれる。 (12・6)
 
(438)                      千里山人
   夕寒き草にとまりて動かざる蜻蛉は唖に生れ來てしかや
蜻蛉を只蜻蛉と見るのが普通である、目は大きくとも蜻蛉は唖だと氣づくのが詩人である。
   茨《ばら》の實の赤きが淋し幾時雨降りて經にきや此の草の原
   こほろぎのかそかにすだく草原に落入る如く日も暮れにけり
世事の苦勞に堪へつゝ、緊張した敏感で自然に對し居《を》る作者の内生活が窺はれる。 (12・7)
 
                         雪腸
   破蓮《やれはす》の池に流るゝ水筋《みなすぢ》に開山井《かいさんゐ》あり人に汲ましめず
   倉蔭の濕《うる》めし土に鳴く蟲に流れを聞かず水細りしか
單なる叙景の歌は散漫に陷り易い、作者の觀取した景趣は讀者に傳へられても、作者が其景趣に對して、どれだけの感興を有したかゞ解らない。一首に統一を得られない所以である。 (12・28)
              大正元年8月4日〜12月28日『東京日日新聞』
                         署名  左千夫選
 
(439) 叫びと話〔上〕
 
     (一)
 
 一篇の歌論を試みやうとして、かういふ題目を掲げたのである。自分が歌論を試みやうとするに何ぜこんな妙な題目を掲げたかと云ふに、何時の頃よりとなく、アラヽギの評壇に『叫び』と云ふ詞が幾度も使はれて、齋藤君も能く云つた、柿乃村人君も屡用ゐられた。かくいふ予も能く云つたやうに覺えて居る。
 それで後から氣をつけて考へて見ると、同じ叫びといふ詞ながら、三人が各違つた意味に使つて居る。少くも予が歌に就て云ふ叫びといふ意味とは餘程違つて居る。從て其爲に互に論旨を誤解した點が少なくなかつたやうである。
 予はさう氣づいてから、歌と叫びといふことの關係に就て、少しく自分の考を云つて置かねばならぬと思つたのである。
 叫びは即ち叫びで、普通の意義は甚だ簡單明瞭であるが、之れを文學的意義の上に考察を試みて見ると、非常に復雜にさうして非常に深い意義の含まれて居ることが發見されるのである。
 單に叫びの歌などゝ無造作に云つて終へば、多くの歌の中に稀れに見る一部分であるかの如く思はれるけれど(440)も、予の考では短歌の如き小詩形の韻文に於ては叫びが文學的要素の大部分であると思ふのである。概して、韻文に、力といふもの無く熱といふものゝ無いのは、其韻文中に含まれて居る叫びの分量の乏しきに基困するとの結論を見るのである。
 勿論熱の存する處必ず力がある。力は即ち總ての物の生命である。それで短少なる三十一文字詩に、生命の力を附與する主要なる原素は、叫びの含有にあるのである。
 予は短歌研究に心を潜むること十有餘年、今にして始めて、三十一文字詩の詩的生命が、叫びに負ふ處最も大なることを氣づいたのである。
 予はさきに、短歌に生命の附與せらるゝは、必ず言語の聲化に待たねばならぬを論じた時、短歌評論の上に一歩の闡明を進め得たとの自信が深かつたけれど、今になつて考へると、言語の聲化は殆ど叫びの作用に外ならぬことを氣づいたのである。
 予は是れから本論を進めるに就て、最う少し、叫びの用語を説明してかゝらねばならぬ。世人の多くは絶叫とか叫喚とかいふ、痛切な激越な用語に耳馴れて、日常平易な場合に於ける、叫びの表示を殆ど閑却して何等意に留めないのが普通である。
 乍併吾人の日常に於ては、小なる感激小なる驚異、若くは些々たる愉悦嗟嘆に於ても、屡叫びを發するが常であるのだ。而して吾人が不用意に發する口語の自然的聲調は、能く叫びの程度を錯りなく表示しつゝあるのである。
 然るに叫びなる詞を、只強烈なる感情の表示とのみ思ふは甚しき誤りであるのだ。要するに一般に於て表情的(441)の口語中には、殆ど叫びを含み居らぬ場合は無いのである。叫びと云へば直ちに、絶叫的叫喚的叫びの單なる意味を以て、無造作に詩論を試むるならば、其結論に大なる錯誤を伴ひ來るべきは、極めて自然の數であるのだ。
 人は常に如何なる場合に叫びを發するものなるか。吾人は虚心に我が平生を省察して、極めて容易に發語の所因を知り得べきである。各個人の異なれる性格は口語に發する叫びにも多くの相違あるべきは勿論であるが、歡喜哀傷嗟嘆異驚等、總て感情の動揺を禁じ得ざりし時に、我知らず叫びを發するに至らぬものは少なからう。如斯吾人の叫びは、筆舌表情の最も自然にして、個性的なるべき理由を有するのである。
 禁じ得ざる感情の動搖は、吾人の創作上重要なる動機であつて、表情の自然的聲調や、個性的感情の表現やはいづれも又短歌生命の重要な要素である。かう推論してくると創作と叫びとの深大な關係が略解るであらう。
 
     (二)
 
 叫びと話。かう題目を掲げたところで、叫びの歌 話の歌のやうに、さう簡單に云ふことは出來ない。話が直ちに歌でない如く、叫びが直に歌にはならない。で叫びに近い歌 話に近い歌と云つたら良いであらう。
 叫び其物の根柢には固より智も恵も含まれて居る如く、話の方にも感情は籠つて居る。況んやそれが一首の歌とまで構成されてくると、愈両者が相近づき相似寄つてくる。で叫びに近い歌と話に近い歌とは、其要素に於て其價値に於て、決して相混ずることの出來ないまでに相違して居ながら、漫然として之を見るならば、容易に鑑別の出來ないまでに相似寄つて居る。それで鑑賞評論共に隨分進歩して居る今日に於ても、話に近い短歌が天下に滿て居つて、盛に鑑賞家の歡迎を受けて居るのである。予と雖も話に近い短歌を絶對に非文學と云ふのではな(442)い。只話に近い短歌は韻文として餘りに其要素を缺いて居る。話に近い歌の常弊は、一首の含有が殆ど智と意とを以て滿たされ、一首を統一融合すべき感情化が足らないから、大抵は散文の一節に墮して、記述的報告的になつて居る。
 叫びに近い歌と話に近い歌との相違を出來る限り指摘分解して、其要素を明かにし其價値を定むることは短歌研究の最大重要な問題である。論理の闡明が足らないから、眞假の差別が解らないのだ。葉と花との見別けがつかないのである。花に似た對象を見て、花なりと早合點して、盲目的に空虚な感興に耽つて居る。薄暗い中に白い或物を見て直に女と合點しつゝ、獨戀情を湧かすやうな痴態を悟り得ない鑑賞家許りである。
 之は兎に角、歌が話に近くなつたのは決して新しい事ではない。萬葉集にはさすがに話に近い歌は少ない。それでも憶良や家持の歌には、頗る話に近い歌があるやうである。
 思ふことを三十一文字に言ひ出づれば、それが歌であるやうに心得て居たらしい、貫之に至つては、愈話に近い歌許りとなつて終つた。土佐日記に、船子どもの云つた詞が歌のやうであると面白がつて書いてある。其船子の云つた話は、
   御船より仰せ給ぶなり朝北の出て來ぬさきに綱手早や引け
 貫之はさすがに歌になつてるとは云はない、只歌に似た詞だと云つてお茶を濁して居るけれど、當時の歌と云ふものに比べて船子の詞は立派な歌である。それだけ當時の歌が話に近くてつまらぬものであるのだ。日記中から手に任せて二三首、
ひく船の綱手の長き春の日を四十日《よそか》五十日《いそか》まで我は經にけり
(443)   行けと猶行きやられぬは妹かうむをつの浦なる岸の松原
 今更こんな歌を彼是れ云ふでもないが、三十一字になつた船子の話と何程の差があらう。詞を綾なして少し許り句に飾りがついて、さうして三十一字になれば悉くそれが歌であるのだ、始めの歌は、永い春の日を然かも四五十日船に暮した其退屈の情を歌ひながら、其退屈した鬱情は少しも現はれないで、平氣に『我は經にけり』と云つてるから話になつて終ふのである。おまけに『ひく船の綱手の長き』などゝ句の飾りに氣を取られて居るから、嗚呼永かつたと嘆息の叫びが消えて終つたのである。是れを『なか/\し夜を獨かもねん』に比べて見ると直ぐに解る、此歌の方にも飾りは隨分あるけれど、それでも此歌には『ながいながい夜を獨りで寝るのかなア』といかにも人待かねた物足らなさの情が叫ばれて居る。其叫びが含まれて居るから此歌に僅に生命があるのだ。それにしても此歌にも一二三句の飾り、『山鳥の尾のしたり尾の』は全く無要として苦度々々しい飾りに過ぎない。此無要な飾りの爲に一首の情化を荒増傷つて終つてゐる。併し此歌が話に陷らないのは、下二句が殆ど叫びに近い句で結ばれてあるからである。
 以下萬葉集から現代に渡つて、叫びに近い歌話に近い歌を列挙し、對照して批評を試みる前に、猶少しく叫びと話との文學的関係を説明して置かねばならぬ。
 叫びには餘裕がない。さうして無我の發作が多い、從て自己の計らひが殆ど無い。其人の性質に依て多少の誇張がありとするも、個性の自然に出る場合が多いと信ずることが出來る。話は多くはそれと反對で、餘裕の無い場合が稀にありとするも、多くは話には餘裕がある。從て我を忘れて話すといふやうな事は少ない。必ず自己の計らひが加つて誇張が多い。
(444) 叫びは内感情の發散かさもなければ訴へる感情を以て居る。話は互に鬱情を話し合ふといふこともあれど題目の興味を逐ふことが多い。叫びは感情の純表現であるが、話は説明報告が多い。叫びは直ちに自己の發表である、話は自他を紹介する。叫びは必ず熱情を伴ふ、話は多くの場合冷靜である。話が或場合に頗る熱して感情興奮し來れは話はいつしか叫びに變じて居る。叫びに智と意とが少くして話しは殆ど智と意とのみである。
                   大正元年9月『アララギ』
                      署名 伊藤左千夫
 
(445) 乃木大將自刃の觀
      ――アンケート――
 
 乃木大將の精神と其實踐とより成れる崇高なる人格に就ては、殆ど世界的に決定されたり。今日に於て區々の論議を爲すは全く無要の事なるべし。強て論議を試みるならば、釋尊、孔夫子、キリストに對しても猶云々を爲し得る物なり。乃木大將の如き、純良純誠なる精神より現したる行爲は、決して凡人の常識を以て論ずべき限にあらず。
                    大正元年10月『新佛教』
                      署名 伊藤左千夫
 
(446) 日本人は戰爭が強いばかりだ
       ――アンケート――
 
 明治文壇に於て、偉大と認めたる作品はと問はれると、自分には鳥渡答へが出來ない。お前の好な作品はと云はれるなれば、それは隨分あるけれど、最も偉大と認めたる作品はとなると、どうも無いと答へる外はない。
 明治時代に於ける、國家の發展。日本民族の名譽。さういふ世界的光輝を背景として、其の表面に現はれた文藝。かう考へて來て見ると、明治文壇の作品は、殘念だが見劣りがしてならぬ。
 正岡子規の俳壇に於ける成功、坪内逍遥の劇壇に於ける努力。是等は天下の人の認めたる事實であつて、事業といふ上で云はゞ稍偉大と認められない事は無からうけれど、それすらも強露を撃破した軍人の功績に比してはどうも對照が出來ないやうな氣がする。
 自分は嘗て上古三韓征伐の勲功と萬葉集の存在とを對照して、日本に萬葉集の存在するは、神功皇后の三韓征伐に勝るとも劣りはせぬと論じた事があつた。併しいくら慾目で見ても明治の文壇には、明治軍壇の事業に對照し得べき文章は無いと云はなければならない。
 何と云つても「トルストイ」の作品及び其人物位でなければ、偉大と云ふには少し氣耻しい譯である。
 自分は劇壇の事は丸切不案内であるが、故市川團十郎は、人間が少し大きいやうに思はれた。さうして今の三(447)宅雪嶺などが何となく大きく思はれる。此兩人位の者は、今の軍人中にも鳥渡對照すべき人が見當らぬ。
 團十郎の事業、雪嶺の事業が、どれだけ大きいかと云へばそれは自分には能く解らぬ。只譯も無く二人者は明治の文壇でも大きい感じのする人達だと云ふのみだ。それにしても「トルストイ」などの偉大に比して猶偉大とは云へないこと勿論であらう。すると明治の文壇を、世界的に見ては、偉大と稱するに足る何物も無いと云ふ外はない。日本人は戰争に強い許りだと外國人から云はれても、どうも意張つた挨拶が出來ない譯だ。誠に殘念な次第であるが仕方がない。
                     大正元年11月『新潮』
                      署名 伊藤左千夫
 
(448) 雜録三題
 
     一、叫びのこもり
 
 前々號即記念號所載「ある時は」(ふじ女詠)八首はアラヽギ中近頃予の注意を引いた歌である。一首一首讀んで見た處では、此歌が殊に良いとか、かういふ點が殊に珍らしいとかさう云ふやうな目立つた處は無いのであるが、寧ろ詞の至らぬと思ふところもある、未熟な感じのある句もある。それにも係らず、作者のしんから眞面目な感じが全體に通じてゐる、何か云はずには居られない。餘儀ない訴へを聞くやうな感じを與へる歌である。泣いて叫びたくもある内部生活を、自ら抑制して僅に歌に漏らして居るかのやうに見える歌である。 要するに此八首が含める思想や題目や、それ等が殊に他に優れてる譯でもなく、其詞藻や句法にも取立てて云ふ程の事もなくて、然かも強く讀者の同情を引き、少くも讀者をして眞面目に本氣にならしめるだけの力を持つて居る。遊戯的氣分が少しもなく、技巧を弄するやうな輕薄にも犯されて居ないのが何より嬉しいのである。
 咽元から押し出される作り聲でなく、詞の調ひは稍足らなくとも、胸の奥から自然湧いて出るやうな、叫びの籠つた歌を突然見られたのが悦ばしいのである。人の歌を見て「成程近頃はこんな調子にやるのかな」と考へたり、「此詞が面白い此の調子が變つて居る」などゝ、思ひついたりして、自己の内生活と没交渉な動機が働いた、(449)人の歌の口眞似に近いやうな歌を作る人達は、此作者などに對しては正に愧死すべきである。
 予も此八首を完全な佳作と云ふのではない。其外形には幾多の不具足はあるけれど、兎に角藝術要素の充分な、作歌動機の正しくて力の籠つた、感情の純眞な其表現を尊重するのである。
   やうやくに一と日一と日と疲れつゝ我れらの心はへだゝれりけり
 勿論これは作者個人の叫びである。作者が只自分の胸中の思ひを遣る爲めに自然にいふた叫びに相違ない。乍併其聲は深く人生の問題に觸れて、何人の心池にも響きを與ふべき聲である。
 さういふ意味に於て、此歌は「ふじ女」の作ではあるが、一面に於ては人間の叫びであるのだ。詩は一面に吾人同族の思想感情を代表する處あるが爲に、人生に大なる使命と永久なる生命とを有するのである。
 作者の聲が個性を帶びるといふことゝ、人生に觸れるといふこととは、内容に矛盾を含んでは居ないのであるが、それは暫く後に云ふ事とする。
 
     二、陰影の評
 
 前田夕暮氏の歌集を見るのは、予は今回が始めてゞある。予は是迄同氏の歌に就て極めて知る處がなかつた爲めに、陰影は新しい詩人の作を迎ふるやうな氣持で之れを讀んだ。未だ全部は見ないが、半分以上は慥かに讀んだ。面白く讀んだ作も多かつた、只其面白いといふことが藝術的同感からでなかつた事の多いのを遺憾とするのである。
 どういふ點が面白かつたかと云へば、作者の内生活や、其嗜好や其藝術觀が、其作物の上でほのかに窺はれる(450)點にあるのだ。殊に始めて其人の歌集を見るのであるから、其名許り聞いてゐた未見の人に接したやうな心持で、種々理知上に興味を感じたのである。
 予は先づ集の始めの五六首を讀んで、集の名の陰影といふ詞を思ひついた。 「成程陰影だ慥かに作者の陰影だ」と思つた。さうして作者は「藝術は作者の陰影である」といふやうな藝術觀を有つてる人らしく思はれた。其の上作者の嗜好も、強いとか緊張してるとか、輪廓の正しい實體の判然たるものよりは、夢のやうな影のやうな、淡淡しい手應へのないやうな趣味を悦ぶ人ぢやないか知らと思つた。
 さうすると夕暮氏は自分などゝは、其藝術觀も嗜好も性格も異なつた人だなといふ考が起るのである。集中の作物に同感の出來るのが極めて少なかつたのも、それが爲めであつたらう。
 たしか此春頃の讀賣新聞であつたらうと思ふ。或相當の批評家が、「藝術は作者の總ての陰影である」といふやうな論文を掲げた事がある。予は當時其批評家の藝術に對する不眞面目な態度を口惜しく思つた。不圖思ひついた出來合の考から、直ぐ一編の批評論を發表する批評家を情なく思つた事を覺えて居る。
 藝術をそんな「たわいもない取留めのない」ものと思つてる人もあるのかと、不審に堪へなかつた。
 藝衝は作者の分靈でなけれはならぬ、作者の思想や嗜好や、其生活や人格を傳へるだけのものでは決して無いと、固く信じて居る予は、飽迄も藝術は作者の分靈分魂で藝術的生命が傳はるのであると思つて居る。
 藝術は作者なる人の、生活の記念であるとか、作者の動きの陰影を記寫したものであるとか、さういふやうな事は、一寸誰れにも解り易く、如何にも尤もと聞えるけれども、それは藝術史的批評の範圍に属する事で、理解的に云ふ眞藝術評にはならないのである。
(451) 以上のやうな考を持つてる。予の鑑賞には、陰影の歌は、只物足らなくて仕やうがない。手應がない爲に一首一首味つて見るに苦痛である。どこまで讀んでも思潮が平々坦々、昂りもせず下りもせず、走ることも無いから、休むやうな感じもない。其聲はいつも平調で其色はどこまでも淡靄である。
 若し作者がさういふ人であるならば仕方がないぢやないかといふならば、夕暮氏は詩人としての要素が非常に乏しい人であると云はねばならぬ。
 内生活に力が無いから、何事にも感激が弱い。かういふ人は、腹が立つても強くは怒れない。嬉しいにも悲しいにも、強くは叫ばないのであらう。驚異にも嗟嘆にも周圍を自分に引着けるやうな力はないに極つてる。
 陰影の歌の多くは、神心共に疲れ切つた人の、何事にも徹底しない弱さが、どこまでも行渡つて居る。
 若しも夕暮氏の人となりが、以上に云ふやうな内生活に力の弱い人でないならば、氏は必ず誤つた藝術觀に囚はれて居るのであらう。縱令氏は氣の好い温和しい人にしても、或場合には氣の張つた感情の熱する事が無ければならない譯だ。
 熱狂的な感情を持つた人でなければ、内生活に價値が乏しいのだと、輕々しくは斷ぜられないこと勿論であるけれども、如何なる場合にも感情の興奮し得ない人ならば、其人は天質に於て大なる欠陷を有する人であらう。
 かう考へて來ると陰影は、慥かに幾許かは誤つた藝術觀に禍されて居るのであらうと思はれる。
 仔細に全集を吟味して見たならば、内容の充實と聲調の緊張した作があるかも知れぬ、それを全部を見ないで酷評を下した罪は大に夕暮氏に謝して置かねばならぬ。予の見た處では「日に燒くる青草」の中の「故郷に歸りて」の作には力の張つた歌が二三首認められた。
(452)   ふるさとの人々の瞳のけはしさがわれを捉らへて放たざりけり
   われらをば見に集ひ來し人々の醜き顧をまのあたり見る
   兩手もて頭いだきて暗き家の底に眠れる父のさびしさ
   久にしてあへば親子のへだゝりの思ひの外の深かりしかな
 これ等は詩品の乏しい作ではあるが、情にも意にも慥かに強みを含んで居る。果然夕暮氏は或方面に於ては、隨分皮肉な冷酷な感情のある人といふことが、此數首の歌に依て認められる。氏は何故に此強みを醇な方面にも發揮しないのであらうか。
     巻頭の二首
   このあかるき悲しみのうち新しき二人の世をば形づくらん
   見のこしし夢をいだいて嫁ぎ來し女の夜のうつくしさかな
 これでは作者の考へてる、意味が讀者に傳はる許りで、聲調が傳へる何物も無いから、讀者は只「うんさう」とうなづき得るだけである。要するに作者に感情の興奮がないから、聲に力がないのである。「かたちづくらん」は詩調をなさぬ如何にも「タルイ」詞でないか。「女の夜の」なども、少しも温みのない餘所餘所しい詞ではないか。かゝる場合に作者がわざとさういふ態度をしたものならば、情の虚僞で此歌は拵へ物である。又さうではなくて作者も相當に温い愛情もあつて、こんな歌を作つたものならば、作者は※[口+喜]しい事を※[口+喜]しがり得ない人か、つまらぬ處に見榮をする人であらう。妻なる人が自分の氣に入る入らないは兎に角、新妻を迎へた感想を詩題として、こんな睡氣の出でるやうな、緊張のない聲調はどうした譯だ。
(453)     卷末の二首
   夜の空黒くにじめる青山のふもとの旅舍の灯のしめりかな
   明日越ゆる山に光りのうすくさし暮れて行く見ゆ旅人の目に
 集中多くの歌が皆これである。思想の問題ではない、詩材の問題でもない、作者に感興の熱がないから、詞に興奮の調子がない。此二首なども興味のある詩題を捉らへて居るのであるから、このやうに平然たる口調でなしに、今少し調子強く言つたら直ぐ面白い歌になりやしないか。
 終りに總評して云へば、陰影の作は、前に云ふ通り弱く淡く低く平らと云つた歌が多いだけ、やり過した厭味は少い。物の陰影が物足らないが淡雅な面白味のあるやうに、夕暮氏の歌には淡雅な處は至る處に認められる。
 これだけの批評でも、作者に取つては隨分惡口と受取れるであらう。併し予は毫末も惡口をする氣などがあるのではない。しんにかう思ふから思つたゞけを云つたまでゞある、氏も怒らないで拙評が若し少しでも省察の料になつたらばしてくれ給へ。
 
      三、連作の歌に就て
 
 前々號所載「短歌連作論の由來」中最後に齋藤君はかう云つてる。
  「現在の予は短歌の盡くが、是非連作でなければならぬ(連作とは左千夫氏の意味に於ける)と云ふ如き論は勿論信じないし、實行もしない、從て能く左千夫氏から小言を云はれる。」
とあるが、かう云はれては、予も聊か迷惑する。齋藤君の所論を始めから見て注意してくれゝば解る事ではある(454)けれど、齋藤君の云ふ通りにすると「短歌の盡くが是非連作でなければならぬ」と左千夫が云ふてるやうに聞える。左千夫は決してそんな凝固つた動きの取れない究屈な考へを持つては居ない、議論もしたことはない。猶予の歌に對する考も年と共に幾許づゝは變じつゝあるのである。
 齋藤君が連作論の由來を書いてくれたのは感謝するが、予の歌論が十年動かざるかのやうに云はれては大に困る。
 連作の精神と云ひ連作的創作(連作論の由來中)と云つた、予の數言の内にすら、予の連作論のしかく究屈なものでない事は解るべき筈である。
 勿論予一人の嗜好から云へば、今猶連作の愛着者である。從て作つた歌も、時々發表する詩談も多くは連作の精神を離れない。けれども議論としては、短歌はかういふものであるとか、是非かうで無ければならないとか。さういふ事が斷じて云へゞき筈のものでないことは論ずるに足らない事である。
 詩作の方から云へば、歌は作るものではない、産れるものである出來るものである。決して他が注文や指導に應ぜらるべきものでは無い。作者の方から云へば、詩人は一の造物者である。縱令一首の歌なりとも其歌の將にならんとする時は神的造化力が働くのである。これは早く「馬醉木」時代に於て予の稱道した詞である。予が平生律法的論議を絶對に非認し來りしは明かな事實である。
 齋藤君が予の議論を信ずると否とは固より齋藤君の自由である。予の歌論と何の交渉も無い筈である。只予の議論を引合に出さるゝ時に、誤り傳へないだけの誠意を望むのみである。
 石川啄木氏の歌集を見ても、前田夕暮氏の陰影を見ても又若山牧水氏の作などにも、屡連作的作歌を見るのみ(455)ならず、吾人の同感し得て佳作と思はるゝ作は大抵又其連作中の歌である。
 十年前に於て連作論を發表し今日猶連作の精神を離れないと自稱する予をば、世人及び我同人が如何樣に見て居るとも、事實多くの新歌人に依て、連作の作られつゝあるを見れば、予は只滿足の外ないのである。
 予はアララギの讀者諸氏に對して、決して連作を強ふるものではない。只以上述べたるが如く、諸氏に於て予の連作論を、餘りに究屈なるものと誤解するなからんことを切に望んで止まないのである。
                   大正元年11月『アララギ』
                      署名   左千夫
 
(456) 歌学び一口話
 
 「詩を知らざる者は人に非ず」と聖人の言つたことは實に深い意味のあることである。
 人間は何か一つ詩的な樂しみがあつて、其精神を養ふ工夫が無ければ、縱令衣食住に困らぬにしても、人間と生れても誠につまらなく、何の爲めの生命かと思ふやうな終りをして了ふものである。
 人間一生の生活は實に復雜なものであるが、如何なる問題に遭遇しても、胸中に一片詩的な感懷のある人は、そこに一種の餘裕と人間の品位とを保つて、卑俗な劣等人に墮するに至らないことが出來る。
 詩の精神程、無生命と醜穢卑劣とを嫌ふものは無い。で人間は社會の有りと有らゆる物質を所有して居つても、一つ詩を解する能力が無かつたらば、それは一も二もなく劣等人と云つてよいのである。聖人が詩を知らざる者は人にあらずと云つたのが即ちそれである。
 勿論物質の供給が無ければ、人間は肉體を安んじて行くことの出來ないことは言ふまでもないから、決して物質を輕んじてはならない。精神の尊いやうに肉體も尊いには相違ないからである。乍併人間は物質上の生活が滿足なだけでは、人間と動物との差別が甚だ怪しくなつてくることを考へねばならない。
 深山大澤を我が有となし、立派な羽毛に身を飾つて、極めて自由な生活をして居る異鳥猛獣の徒も、彼等は精神生活を有せぎるが故に、到底動物であるのだ。であるから、人間も物質上如何に立派な生活をして居つても、(457)精神的内生活を有しない輩は禽獣に近い劣等人であるのだ。さういうたら或は縱令劣等人でも生きてる間面白く暮らせたら良いではないかと云ふ者があるかも知れないが、禽獣も面白く暮してることは人間の目に判つてるから、彼等の生活も相當に面白いには相違なからんも、只彼等は高尚な理想的樂みを知らないから、淺薄なたわいもない事を面白がつてゐるに過ぎない。人間もさうである、醜汚も陋劣も知らないで、禽獣の樂みと同じ程な樂みしか知らなければ、其生活の價値も禽獣に近いと云はねばならない。
 今の世の中には、其内生活の價値を知らないで、物質的欲望の滿足を誇つて居る人間共が無數に居る。聖人の所謂人にあらざる人間が非常に多くなつてる。
 彼等と雖も人間の子である以上は、心から内生活の尊むべきを知らないのではない。時には窃かに自己が内生活の無價値に氣がつく事があるに違ひないが、物質的生活さへ之を得ること容易でない如く、精神的内生活を得ることは猶更容易でないから、今更心づいて内生活を得ようとしても、それは容易に得る事が出來るものでない。で彼等は不幸な癈疾的精神状態に陷つて居るのである。
 彼等は成長の初期に於て、精神的内生活に資すべき修養と準備とを怠つた上に、不幸にも早く物質的滿足を得るに至つたから、知らず/\精神的の不具者となつて、其人間の價値より取返しのつかない不幸に陷つて了つたのである。 然るに世上多くの少年にして、未だ眞人間の價値を解し得ざる間に於て、他が物質的生活の浮華に眩惑し、精神的生活の萌芽を枯死させて了ふものが多いのである。
 是は個人の上に取つては、人になるかならぬかの問題であつて、實に精神的に人間生死の問題であるのだ。故(458)に詩を學ぶといふことは、単に品の良い娯樂などいふ輕い問題ではない。人生問題として、非常な重大な問題であるのだ。
 文明國といふ文明國は古今東西を問はず、いづれも極力文學美術の奨勵を怠らないのも、其精神に外ならないのである。
 國家社會の政策上に付ては茲に云ふべき限りにあらざるも、個人の問題として、人々成長の初期に於て、やがて價値ある内生活を營むべき準備は極めて重要な事である、人間の事何より先に、そこに用意と工夫とが無ければならないことを覺らねはならぬ。
 詩といふ範圍は極めて廣い。何人にも何事も出來るものでないから、人各々其性の適する處の詩を求めねばならぬ。されば予は今讀者諸君に對して、必ずしも予が好む處の歌を學べと云ふのではない。藝術の嗜好ならば何でも良い、それを高尚な精神で樂むならば。
 予は只以上所説の理由に依り、青年諸子が、やがて内生活を營むべき準備として、先づ歌を學び歌を知るの必要を説かんとするのである。
 予が諸子に歌を學べと云ふのは、諸子に詩人になれ歌人になれとの意を以て勸めるのではない。勿論諸子が修業の上歌人となり詩人となれたらば猶結構であるが。予は茲では諸子が完全なる人格を養ふ上に、重要なる條件として諸子に歌を説かんとするのである。
                     大正元年11月『和歌』
                      署名 伊藤左千夫
 
(459) 短歌選抄〔三〕
 
     二十一
 
      〇              村上※[虫+譚の旁]室
   うぐひすのささなく山のやまもとに梅も咲きたり冬としもなく
   我がまつや雪はふりこず足引の山の※[雲の云が龍]にいかに賄せん
 暖國の冬なるべし、冬の歌なれども二首を通じて、音調に少しも寒き感じなく、作者の心情猶のびやかなるものあるの自然を窺ふべし。
      〇              篠原靜居
   小衾のなごやが下に新妹背さぬらく思へば吾れはねたしも
   葦曳の北山浦にうたはれしはしき少女を君得つるかも
 新婚を祝へる歌なるらし、山中飾り少き人々の、率直なる心情を流露して、さながら萬葉歌人に接するの思ひあり。
      〇              柳の門
(460)   貧しくも清く住みつつ雲による仙人さびて爐による我れは
   冬ごもる雪の三月を信濃女は苧うみ絲引き炬燵して居り
 山家の冬ごもり、又人間の一樂境たるの感あり。
      〇              樂叟
   ぬば玉の闇夜さぐりて妹許りの軒の糸瓜につむりうたれぬ
   我がつむりうてる糸瓜ははねかへり軒の坂戸をとどとたたけり
 作者自らが笑はぬ處に却て滑稽の溢るるを見る、人は平生自ら滑稽に住しつつ其の自らの滑積なるを知らざること多し。此の作者の如きも、糸瓜に頭を觸れ返打に糸瓜に頭を打たれたる時、始て我れ自らが既に滑稽の材料たりしを氣づきたるなり、茲に於て滑稽更に滑稽を加ふ。
      〇              長塚 節
   我が門の茶の木に這へる野老蔓秋かたまけて色つきにけり
   さらさらと梢散りくる垣内に葉うども茗荷も色つきにけり
   こぼれ藁こぼれし庭の朝霜にはららに散れる山茶花の花
 人は能く云ふ、歌を作り詩を作ると、歌や詩や豈に人の作り得るものならんや、只年々止むこと無き四時の推移は、常に天地の間に無限の詩歌を産す、そを能く發見し得る人が始めて歌を得詩を得るなり。節氏の歌を見て殊に其の感多し。
 
(461)      二十二
      〇              長塚 節
   はりの木の花咲きしかば土ごもり蛙は鳴くも日の暖かく
 まだ土の中に居る蛙の鳴くといふこと少しどうかと思はれるが併し又どこかでさういふ聲を聞いたやうな氣もする、榛の木に花も咲いた早春の氣は天地に動き始めて居る、此の時詩情にあくがれた歌人の耳には夢現の間に土中に鳴く蛙の聲を聞いたのであらう。
   稻莖の小莖がもとをほる目掘春まだ寒し榛の木の花
 極めて珍しい歌である、目掘とは水涸田に稻株のあたりなどの小さな穴を認めて鰌を掘ることである、榛の花と相對して如何にも早春の景物である。
  筑波嶺に雪はふれども枯菊の刈らず殘れる下萌いづも
  春雨のふりの催ひに淺緑染めいでし桑の藁解き放つ
 自然に最も深い興味を持つてる此の作者は常に細かく自然の景物に目を注いで居る、興味のある處に心の動くは自ら然かるべきであらう。前の歌、枯菊のまだ刈らずあるに根には若芽が立ちかけて居る、此の作者はさういふ處を目敏く發見しつつ早春の氣の動きを樂んでゐる、次の歌も同じ心から發見された新しい目つけ處である。
      〇              蕨 眞
   灯のしげき町をいづれば春雨の山北くらく河音さびしも
(462) 第三句と四句、甚だ無造作であつて、然かも能く其の光景を描寫し得て居る、結句の「河音寂しも」の一句突然のやうだが、なかなか働きがあつて、不即不離の妙意を得て居る。
   久方の月讀いかに照りませる春の雨夜を道の明るき
   春雨の夜の杉山さよふけて木挽荒夫が湯あみして居り
 二首いづれも實際の感興でなければ決して得られない歌である。春雨の雨はしよぼしよぼ降りながら月の夜頃とあるからほの明るい、其の靜かに趣味深い杉山に木挽の男が湯あみして居るとは、實に面白い景色である。發見が新らしければ勞せずして歌は新しくなる。
      〇              神奈桃村
   朝雨の晴れたる野邊を布霞おほに棚引き人二人ゆく
 ありのままな詠口の中に、布霞など無造作に新しい詞がつかつてある。平凡に似て決して平凡ではない所以である、暖かい春光の漲つてる感じが溢れて居る。
      〇              本吉柊村
   春雨に花うるはしき桃の村蓑賣る家に酒も賣るなり
 漢詩などから脱化したやうな着想古いやうであるが、蓑賣る家に酒も賣るは、如何にも田舍らしく、桃の花と相對して甚だ感じが良い、これだけの發見があれば矢張新しい歌である。
 
         二十三
(463)     〇
   春の夜のそぞろねむたみ湯に居れば雨降り來ぬと人の呼ぶなり
   月讀のうなげる白玉しらしらしふくめる梅の花にしあるらし
 春の感じは幻覺的なところが多い、殊に春の夜の氣持を追想して考へる時は、殆ど夢に近い、此の二首の如きも、氣持の良かつた春の夜の感じを、後から意識して詠んだものであらう。
     〇               松原蓼圃
   鴨うつと野良の苅田のかたよりの樫の木原にわれ潜み居り
 これだけでは何の妙味も無いやうであるが、率直な敍事の詞つきに、子供の書いた文字を見るやうな一種の味がある。
     〇               丸山彩堂
   かぎろひの日和よろしみ野をくれば霜とくるなべに畑打ちけぶる
   青雲の遠つ山べの白雪を小田の榛間ゆふりさけて見つ
 自然な人の自然な歌である、面白く思つた景色をありのままに作つたのが、此の歌の良い處なのである。
     〇               伊藤直郎
   ひんがしの野に出で立てば雪白き猿投の山し眞向に見ゆ
   庭木戸のかたへに立てるぼけの木の若芽赤みぬ春立ちぬらし
 誰にもいくらでも作れさうな歌である、けれども上手な業は巧者な人には眞似られる、實際の事を正直に云つ(464)てる詞といふのは、決して眞似られるものではない。實際の感興を讀んだ作歌は平凡なやうでも、どこかに潤がしみ出て居る。
     〇               蕨橿堂
   たけり猪のこれの荒川秩父根の巖もゆるかに流るる荒川
   秩父根に大雲動き荒川に龍をどる夜を越ゆる旅かも
 激流の音を親しく聞くやうな心地する歌である。かういふ歌は二首相待つて、響が一層強く感ずる、おのづから連作の體を得て居るのである。
     三月人を待て          柿乃村人
   未だ見ぬ人にはあれど我宿のさくらの下に夢に見えつも
 格別良いとにはあらざるも、第四句「さくらの下に」とあるが頗る働いて面白い。
   諏訪のうみの氷見に來と云ひやりて四賀の桃さへ散りにけらずや
   穗屋野刈る諏訪の山賤君により都忘れず草は刈るとも
 深き味ひを有するものでは無いが、詩才縱横の感ありて、輕快な興味を與へる歌である。
     兒の眼病三月に渡りて未だ癒えず、悲しみて 柿乃村人
   めぐし子は物をし見ねば眞悲しみ花も手折らずその親のおもひ
   眞悲しき吾子が手引きさき庭の梅の木かげに我は立ち泣く
   須波のうみの夕波千鳥今にして子を思ふ親に如かず泣きけり
(465) まさやかに眼しあらば吾子がため夜照る玉も我れは捨つべし
 子を思ふ親のこころ程切なるものはない、殊に幼きものの病みたるは、如何ともすべきやうもなく悲しいこと、何人も然らざるはない。四首の歌才氣を以て作れる感あるに関らず、然かも自然に哀惜の禁じ難きを見る。
 
     二十四
 
     〇               齋藤茂吉
   櫻花匂ふやまとのかぐはしの若き武夫にみきたてまつる
   生きて來し丈夫が面赤くなりをどるを見ればうれしくて泣かゆ
 若き軍人の遠征より歸れるを歡迎しての歌である。櫻匂ふといふ詞のうちに若き武夫の風貌がおのづから現れて居る。遠征の疲に痩せてでもこしかと思ひしに、さはなくて立派に美しい友の風貌が先づ目に止つて嬉しいのである。次の歌、無事で歸つてくれればよいがと、竊に心配して居つた心から、酒に顔赤くして躍り出した親友のさまに、嬉しさが込みあげてきて涙が出たのである、二首とも友なる男の無事に遠征から還つて來られたのを、しんから喜んだ有樣がありありと目に見えるやうな歌である。
     〇               蕨橿堂
   春の夜のおぼろの月に工匠らが板けづる音さらさらきこゆ
 板をけづる音がさらさら聞ゆるといふ情趣が加はつて、おぼろ夜の靜けさは只靜かと云つた許りでは物足りない心持に滿足を與へられたのである。春の夜は靜かでも寂しい感じは少い。此の歌は靜かといふことを云はない(466)で、能く其の春の夜の靜かさを語つてゐるのである。
   足曳の山に炭燒き相語る妹背をつつみかすみたなびく
 これは春の晝の靜けさである。然かも寂しみのない春の靜けさである。妹背と云ふ詞には若い夫婦であることは自ら云はれてある。
     〇               石原 純
   のどかなる天の足る日に圓く青く二つ並べる春の山かも
   春潮や風に吹かれて綾瀬より下りくる舟の白帆續きぬ
 一は山の長閑けさ、一は水の長閑けさである。誰も見る平凡な景色ながら、かう詠じて見ると、目に見えるやうに新しい感じが起るのである。
     〇               左千夫
   人來しと我れは知らざりしこし人は我れあるを知る其の物語
   いねがてに耳澄み來れば庭近く馬がゑばはむ音能く聞こゆ
   明け近くなれるもしるし山越の汽車のとまりに笛呼ばひして
   曉の夢のふたたびさめしときくりやの方に火を吹く音すも
 自註。以上の四首は旅中、田舍の旅宿に一泊して得たる作である。讀者其の考もちて見てくれなければ、充分に情趣を得られぬかと思うて、一言を添へるのである。
 
(467)     二十五
 
     〇               民部里靜
   据風呂に釜たきをれば庫裏と納屋のあはひの梨に月ぞ出にける
 三十一文字の短文字でこれだけの光景を描き得たのを多とする。風呂場の梨の花も見つけ處甚だ面白い。やがて白團塊の降來あるべきを言外に殘したのが巧妙の技である。
   釜たきのか黒男に誰《た》が戀する目黒鼻くろ汗もくろくろ
 こんな黒い、釜たき男にも女房は出來るだらう。かう思ふと妙にをかしくなる、そこに滑稽趣味があるのだ。
     〇               石原 純
   五月雨の枇杷に音降り紫陽花の色ます夜らは灯かげ淡しも
 「枇杷に音降り」は面白い言ひ方である。更に幽艶な色彩を描出して、詩趣横溢人を醉せる歌である。
   ゆふ月夜垣の鴨跖草《つゆくさ》露も見ゆ柿のあだ花且つ散るも見ゆ
 物寂しいまでに閑寂な光景である。物思ひある人には、あだに見過すことは出來ないだらう。
     〇               長塚 節
   五月雨のけならべ降るに庭の木によしきり鳴かば人まつらんか
 何でもないやうだが夏の感じのある作である。
   栗の木の花さく山の雨雲を分けくる人に鳴くかよしきり
(468) 是れは山國の人が來ると聞いて、其の山人によしきりが鳴くだらうと想像した歌である。
   竪川の君住む庭は狹まけれどよしきり鳴かば足らずしもあらず
 淡雅な景と淡雅な情とが、髣髴として現はれて居る。
      〇              胡桃澤勘内
   さ庭べの柿の木ぬれの夜風吹きゆするゝなべに天の川見ゆ
   泣坂のそがひの丘の夏木立汽車かも走るけぶりたなびく
 情の足らない歌であるが、光景が目に見えるやうに描かれてある。
      〇              木村秀枝
   まかゞやく日は照らせれど沖つ波木綿波立ちて風の涼しも
 如何にも海の歌である。何でもなき事柄を平易に歌つてるが、詞のはし/”\に生氣が滿ちてる。
   石きりて切殘したる其の山の崩《くえ》のとゞみに松しみ生《を》へり 作者は石を切出されて山の景色の破壞を惜んでるのであるが、猶片方を松の殘れるを見て、それでもあの松だけは殘されてあるはと悦んだのである。
 
      二十六
 
      〇              長塚 節
   さみだれの降りも降らずも天霧らひ月夜少き夏蕎麥の花
(469) 「月夜少き」と云つても夜中蕎麥の花を見たのではない。五月雨頃の兎角曇勝な、總ての眺めの精彩でない時節に、白ら白らしい幽寂な趣のある夏蕎麥の花を殊に面白く感じたのである。作者の詩想が窺はれて趣が一層深く味はれるのである。
   夏蕎麥の花に白らめる五月雨の曇月夜にふくろふの鳴く
 これは夜の歌である。曇月夜の蕎麥の巧既に詩趣無限な感があるに、ふくろふの鳴くを聞いて、幽趣更に玄妙を覺えるではないか。夏蕎麥の花、曇月夜、ふくろふの聲、詩趣多き此の三つのものが、相待ち相和して言ふべからざる詩境を作つて居る。
   朝霧の庭を涼しみ落葉せる樒がもとも立掃きにけり
 寂しい程靜かな、濕めりを持つた空氣を感ずる歌である。夏の朝に樒の落葉を見つけた作者の幽懷が溜らなくなつかしいのである。
   にほとりの足の淺舟さやらひにぬなはの花の隱りてを浮く
 夏の沼などで能く見る景色であるが、描寫の精緻實に好妙を極めた歌である。「隱りてを浮く」とは、實に精彩の極である。
   山桑の木ぬれに見ゆる眞熊野の海かぎろひて月さし出でぬ
   那智山は山のおもしろ芋の葉に月照る庭ゆ瀧見すらくも
 紀州の那智で讀んだ歌で相變らず見方の面白い歌である。良い加減に考へて作つた歌とは其の選を異にして居る。實見の上に猶著眼の高い人でなくては作れない歌である。
(470)     〇             槇不言舍
   朝毎に茄子呼びくる香貫女の朱の緒襷目につくをとめ子
 日常に見る平凡な事柄であるが、朝の茄子賣りと云ひ之れが朱の襷を掛けてる若い女といふ、そこに清い感じもある、悠長な感じもある。
      〇             古泉沾哉
   梅雨晴の若葉の森の片明り月の上りを啼くほととぎす
 夏の歌は總て清い感じがする。此の歌なども月が上つたと云へ夜の景色で、物がさう能くは見えないに相違ないが、それで何となく清い感じがする、月が上つて森の半面が明るくなつて來た、梅雨が上つて氣持良いのに、ほととぎすも鳴くのだ。讀んで胸の空くやうな歌である。
      〇             柳門子
   舟祭り里はさわぐを餘所にして蠶飼いそしむ諏訪少女等は
   蓮の花さやかに匂ふ床の邊に今宵の夢路清くありこそ
   かきつばた濃き紫のうらにほひ下咲ましけん妹しおもほゆ
 ほとんど萬葉集の歌を見る心地がする。こせこせしない田園の人の歌は一見平凡な感あれど、其ののんびりとした處に飽かない味ひがある。
 
      二十七
 
(471)     去年の秋世を去りましし老父が上を思ひつづけつつ 梅津愚久子
   荒波のしくしく寄する岸の邊に足なへの子を殘し給へり
 病ある子を殘して世を去りたる慈父の心と殘されたる孤兒といづれが悲しき、歌をいたづらに詠む人達に眞似うべき歌にはあらず。
   里のため立てし學びや父君も土負ひましき石曳きましき
   門内《かどぬち》の茄子畑を土ならし建てし學舍人わすれめや
   教手の父の一人が風引けば八十の兒供等枕につどひき
 毎首悉く眞情流露、親を思ふ子の哀音を宛ら聞くの感あり。かくてこそ眞の歌と云ふべきなれ。
   釣にゆくと父が出れば里の兒等餌蟲を採りて集ひ來にける
 父の遺徳を思ひ慕ふ時、云ふところ自ら歌となるを見るべし。
   故郷の家の梁《うつばり》今もなほかかりてかあらん其の釣竿や
 「かかりて『か』あらん」、「其の釣竿『や』」自然の詞とは云へ此の「か」の字の使方、「や」の字の使方に、作者の情緒が揺らぎ居るを見るべし。
 詞は自然にして始めて能く働くものなることを知らざるべからず。
   好ましく紫竹の竹の釣竿の空しくあらん思へば悲しも
   故里を相分る時なげくなと足なへの子を送り給ひき
   春去らば又相見んぞ幸かれとねもごろ云ひて去にし父はも
(472)   酒汲みて醉ひます毎に猿樂のまねごとしけむ其の父ははや
 實情を自然に嘆咏せる以上のごとき作歌を見れば、想を構へ詞を飾りつつ、強ひて作れる歌の厭味が直ちに感じ得らるるなり。
      〇             神奈桃村
   梅雨のふりつづきたる庭さきの棚なし南瓜蔓延びにけり
   畑べりの桑のしげりを切り去れば麥刈る野べや村遠に見ゆ
 田園生活に自然の變化を見のがさざるは、詩趣を豊富にする所以ならずんばあらず。常に天然の變化に心氣つく敏感を有せざれば、田園の生活や其の單調に飽果つること必せり。五月雨の降り續く間に南瓜の蔓の意外に延びたるに氣づき、繁れる桑を刈つて、麥刈る野べを見出したるは即ちそれなり。
 
      二十八
 
      〇             岡本倶伎羅
 
   はまひさし久しく雨の降らざれば小川水涸れ蟻塚を築く
 第五句、蟻、つかを築く、と句を切つて讀む。河床の泥土乾いて、久しく水の流れざる樣である。併し一首の聲調には、必ずしも天變の大事件を感じて詠んだもので無いことが知られる。第四句「小川水涸れ」と輕く云つて居る處に作者の情緒の平易が窺はれるのである。歌は只それだけの事に何といふことなし詩趣のあることを味ふべきである。
(473)   夏川にかつぎし居れば翡翠《かはせみ》が岸の柳に來て去りにけり
   高殿に涼みし居れば下行くや夕川の瀬に鮠《はや》のしきとぶ
 二首共に明るく清い感じに滿された歌である。さうしていづれも周圍に人など居なくて、作者が只一人靜に、自然の光景に見とれて居る趣が窺はれて、清爽な中に閑寂な味がある。
      〇             丸山近美
   夏涸れの河原のまさご暑けきに待宵草はしほれて立てり
 暑氣に燻ぼつた日の光も見るから恐しげに赤くて勞苦に馴れた田園の人さへ熱さに呆れて居るのであらう。
   ほのぼのと靄たちこめし朝川を馬に桑積み漕ぎ渡す見ゆ
 夏の渡船場を曉の霜に人の渡る趣きは誰にも思ひつくが、桑を荷著けした馬と共に人の渡る光景までは實際見なければ云へぬ事である。直に一幅の畫である。
      〇             まつ子
   大君のいくさの物のうまくるま越え行く山に雲の峰立つ
 大演習の行軍などを見て詠んだものであらう。雲の峰が既に世俗を離れた感じであるから、行軍の砲車などが續々として山を越えて行くといふやうな、物々しい光景と其の調和が非常に面白い。さうして是れが女子の目に映じた光景として味つて見ると、更に一種の興味が味はれる。
      〇             信堂
   亂れたる思ひやらんと門に立てば雲遠長し夕山の上に
(474)      〇           岡 千里
   雨を含む雲ひろごりて山の上に今昇りたる月夜し惜しも
   猿すべり朱けみ木高み花いきれ旱雲立つ日盛にして
 以上三首何れも雲を詠じて居るが、とり/”\に面白い處を見て歌つて居る。第三首「猿すべり」は百|日紅《じつこう》のことである。百日紅に「花いきれ」と云へるは殊に珍しく面白い。
 
      二十九
 
      〇             望月光男
   白雪に高そそり立つ蓮華岳片面明るく夕照りかへす
 白雪にそそり立つとは云へど、冬の歌にはあらず。信濃の高山多くは秋の末に早く白雪を見る。雪の半面に明るく夕照の映じたるさま、如何にも神々しき光景を想見すべし。
   夕風に逐はれて歸る河ぞひの枯葦むらはざわめき立てり
 高山國の常として秋風俄に寒く、枯葦原のざわめく光景に我知らず心驚くあわただしさの情あり。
   歸り來る行手の空の七星の眞下に黒き森は我が家
 何の事もなく唯それだけの事なれども、譯もなく夜寒に心寂しう家に急ぐ作者の情緒を見るべし。
   裏山に雪か降れると見るまでに雲降り敷けり寒き月夜を
 寒さの早き山國の秋、白雲雪の如く裏山に降り敷きたる其の光景寫し得て遺憾なし、雪の如く雪が降りたりと(475)は山國の人ならでは云ひ得ざる處なり。森沈たる月夜の情憂ひを抱く人をして泣かしめざれば止まぬ趣あり。
   信濃らの男の子光男は涙垂れ病みてしあれど泣く妹もなし
   古ころもき奈良井川の明けくれに霧立ちこめて寒き此の頃
 作者は不治の病を抱ける人なり。妻もなき身の然かも餘命幾許もあらぬを思ふとき、奈良井川に明けくれ霧立ちこめて天漸く寒き此の頃のさま、獨寂しき自然に對して涙千行の感なくんばあらず。
      〇             岡本くきら
   島の氣は病によしと聞くままに家島の浦に吾れは來にけり
 家島は播磨の海にある孤島なり。「吾れは來にけり」の一句他意なきものの如くして、なかなかに悲哀の音を傳へたるを味ふべし。
   遠島の家島の浦に語るべき友垣もなく病臥す我れは
   西吹けば海の荒けくちちのみの吾戀ふ父は今日も來まさず
 癒難き病と知りつつも、猶親族の手を離れて遠く海島に病を養ふ、一語一句が聲音自ら悲哀の響あるも宜なり。
   母上の召します船の今もかも帆をまき上げば吾れは悲しも
   浜に出でて母を載せ行く船影の見ゆる限りを見つつ立ちけり
 飾りなき詞に情味却て深し。
   西吹きて潮滿ち來れば海どよみ岸べに寄する波おそろしも
   朝なぎに濱べに立ちて見詰め居れば玉藻の中にメバル群れ居り
(476) メバルは海中の小魚なり。命細りたる人の聲音が、あはれに力なき眞に同情に堪へず。
      〇             左千夫
     初冬の連日、峯に雲なく地に風起たず、獨居最も意に適す。
   まがつみの亂れ靜まり神も人もこころなごみて空澄めるらし
 自註。日露の難平らぎて、都鄙漸く安靜なり。
   空澄める初冬の庭に吾立つと小鳥が來鳴く篠の小藪に
   松が根の苗の楓は色おそくいまだ殘れり霜降りしかど
 自註。心平かに氣靜まりて、自然の些影初めて限に入り來る。
      〇             篠原志都兒
   横岳のつがの梢の猿麻※[木+峠の旁]あまり長けば手に取りて見し
 作者は諏訪の人なり。横岳は蓼科山に泣べる山といふ。「あまり長ければ手にとりて見し」と云へる咄痘の情自然にして甚だ味ひあり。
   久方の雲遠長に帶をなし筑摩野の原雨降るらんか
 高所にあつて遙かに里原を見降したるの状殆んど人をして繪を見るの思ひあらしむ。
   うまし國信濃をかくみ飛騨に亙る五百重群山はや雪置けり
 「はや雪置けり」の一句季を捕らへ景を敍して一首始めて生く。三十一文字に天地の大觀を歌ひ、從つて用語粗大なるを免れざるに係らず。然かも全首緊張して少しも弛みなきは、雪はや置けりの結句、畫龍睛を點ずるの(477)手法を得たるが故なり。
   かくみ立つ栂の木がくり青黒く湛はす池の水のかしこさ
   しみ立てる樛の木ぬれゆ鳴る風に池のささなみ立ち立ち止まず
   竝び立つ白枯れふる木地際に幾世へぬらん知るよしもなし
 以上三首、横岳の峯深くに、二兒ケ池と稱する靈池を詠めるなり。上古年若き夫婦の者、其の池に來つて姿を失へりと言ひ傳ふ。國人と雖も容易に至り見るものなしと云ふ。人界を超絶して永久に靈氣を湛へたるらし、三首の歌能く其の俤を髣髴せしむ。
      〇             兩角竹舟郎
   小泉山今朝風無けどこの庭の木の葉且つ散る霜をしみかも
   木の落葉ちりしく中に狂ひ咲くあやめさぶしも色はあせつつ
 山間霜早く、日に日に冬枯れ行く四圍の光景平易なる短章の中に、然かも深刻に現れ居るを見るべし。作者は手に鎌鍬を放さぬ人なり、自然の人能く自然を解するものなるか。
   乳房なき胸地さぐりて男手に眠るとすらん見れは悲しも
 母なん病みければ、其の幼兒を男手に抱寢ねつつ詠むとあり。有の儘なる詞の内に、人を動す情は籠れり。
   汝が悲し落葉する世の寂しさを今か二つの胸にや覺えし
   汝が母は見ねば思はぬなかなかに目は見てあれば堪へずぞ吾がする
 母の乳ならでは如何ともすべからざる、まだ二つといふ幼兒を男手に掻きいだき、つくづくと憂ひ多き世状《よのさま》を(478)感ず、夫婦相頼み親子相倚るの心、人は斯くの如くして始めて、倚託の縁の容易ならざるを知るを得ん。
      〇             本吉柊村
   足引の山に入ること多ければ干鱈を買へり霜月の市
 干鱈を買ふとは、山に入る辨當といふものの副食にせん料なるべし。自然人の自然の行爲、其の淡雅掬すべきものあらずや。
   取入れの四日も五日も掃かざれば椎の落葉の多き庭なり
 「椎の落葉の多き庭なり」何等の自然ぞ。眞面目なる田園の人、勤勉なる耕作の人、然かも何等か精神に餘裕の存するを見ずや。醇の醇なる詩とは如斯を云ふべし。
   曉に人未だ覺めずくちなしの霜の籬になくみそさざい
 早起は農事に勉めての早起なるべし。然も此の歌の如き詩興を見逃さざるの餘裕あり。眞の詩人は却て詩人以外にあるの感なくんはあらず。
            明治45年1月〜3月・5月・7月・大正元年8月〜10月・12月『臺灣愛國婦人』
                           署名 伊藤左千夫
 
(479) 緑汁一滴 〔下〕
                    學道
   流しべに夕日さしつゝつはぶきの黄花映るがうら淋しかり
一首全体の聲調に淋しい氣持が無いから、結句に「うら淋しかり」とあつても、それが只ことはつた計りで、淋しい氣持を傳へない。
   うちあげしこゝだ板子《いたご》の目なれぬに浦人さわぐ秋の曉
難破船の漂着を、浦人が發見したさまを詠んだ歌であるが、詞つきが情趣を持つてゐない爲に、驚きの意はあつても驚きの情が乏しい。 (1・5)
     唐詩譯歌           不言舍
   春風に柳の糸の亂れたる我れはた知らず君がこゝろを
第五句「われ、はた知らず」と讀む。象徴が足らないから氣分が充ちて來ない。謎が解けたのか解けないのか、云はゞ不得要領過ぎるのだ。
   ゆくりなく相語れども故郷《ふるさと》の人にしあらねば物足らずけり
(480)詩を譯すれば、どうしても概念に陷るの弊を免れない。捕らへ得たつもりが多くは取逃した感じである。兩首とも物足らないけれども何となし原詩の匂ひがする處を取つた。 (1・20)
                    不言舍
   雲の上《へ》を思ひしことは昔にて向ふ鏡の影遣る瀬なし
聾調に今少し淋しい氣持があつてほしい。
   群鳥《むれとり》は雲間にかき消え入相の鐘ひゞくかも山の峽《はざま》に
着想は固より陳腐であるが、獨坐不安の情趣が味はれる。 (1・24)
                    不言舍
   友のゆくあなたを見れば鳥すらもひとりは行かず夕《ゆふべ》淋しも
幼稚な感想であるけれども、聲調が能く其感想にかなつてゐる。讀者をあはれがらせる所以である。
   裏山に語らふ人の聲はして夕日うつらふ青苔の上に
閑清な氣持が能く現はれて居る。以上六首漢詩の譯である。予は今是等の歌が原詩の味を傳へて居るか否かを吟味したのではない。只以上の歌の歌としての價値を吟味したゞけである。 (1・28)
(481)   物思《ものおもひ》のすべなく立てば三日月の影ほのかなりコスモスの花に
結句「コスモスの花に」とある此の「に」の一字が此の歌を生かした感がある。歌を作るもの歌を味はふもの、かういふ處に注意せねばならぬのである。
   里砧《さときぬた》初夜打つころの月しろにしが身を嘆き湯女《ゆな》は泣きけり
一寸面白い歌であるが、作者は其湯女をあはれと感じたよりは、其あはれを興がつた感がある。それは餘りに周圍を美しく描き過ぎた爲めである。 (1・29)
                    渉
   みかへれば我か故郷の伊豆の國田方の里は眼の下にあり
   村も町も遠く幽《かす》けし伊豆の海の沖の小島は浮べるがごと
   いにしへの箱根の關の石垣にからめる蔦の長き世を思ふ
三首とも新しみの無い歌であるが、實際感興を詠んだ歌だけに氣持好く誦まれる處を取るのである。 (1・30)
                    紅緑天
   ほの赤き夕暮の雲西に飛ふ穗芒の野をひた急ぎけり
何の爲に急ぐかを詮議する必要はない。何か知ら野を急ぐ人と、赤い雲が西に飛び穗芭のゆら/\する光景とが、人を落ちつかせない趣きを現して居る。
(482)                  素玉女
   乳《ち》にあきてすや/\眞入るはしき面《おも》母の心といつなりにけん
意味は解つても感じの足らないのが缺點である。 (1・31)
          大正2年1月5日〜1月31日『東京日日新聞』
                    署名  左千夫選
 
(483) 獨語録 〔五〕
 
  只生きてる許りのやうな氣がしてならぬ
 興味は人間の生命に於ける、内的生活の養分である。であるから、人間が此世に於ける、あらゆる興味は、人間の生存上に必至必要なる條件である。人間は只其興味に依て内的生命は持續される。
 人間は如何なる生の壓迫を受けても、苟も生命の存する限り興味を求めて止まないのである。肉體に生の宿れる間は何等かの養分を求めて止まないのと何ら異なる處はない。肉體が養分の要求を全然絶止したる時は、假令心臓は皷動して居つても、物質に生の惰力が殘つて居るに過ぎないのであらう。
 精神の生命に於ける興味の關係は、殆ど肉體の養分に於ける關係と全く等しいものである。只其興味の種類に依て生命の價値は決せられる。薄弱なる養分に依て持續せらるゝ肉生命が、完全なる人間たり得ざるが如く、低劣なる興味に依て持續せらるゝ精神生命には、人間の理想を認め得ざる、低級の價値が存するのみである。
 故に人間の生活には常に何等かの愉快が無ければならぬ。自ら生を斷念して死を覺悟したる時にも、如何なる種類の人たるを問はず、必ず自らを飾らんとする念なきものは無い、即ちそれが精神生命に對する最後の養分要求であるのだ。               普遍的に人間の求むる興味は、多くは自己の一般的慾望を滿足させた快味である。けれどもそれは只一般的に(484)生命を保有するに過ぎない精神的養分であるから、價値ある生命の要求には、養分的興味は價値ある興味でなければならぬ。そこで人間の理想が要求されるのである。
 興味の最も理想的であるものは、善的興味と美的興味であらう。爰で善とは道徳を意味し、美とは藝術を意味するのである。人間の興味は決して善と美とに限られざること勿論なれども、善的興味とは、興味の理想的なるものであるとは云へるであらう。
 精神生命の養分としての興味といふ點から云へば、其興味は善的若くは美的と敢然區別することは出來ない 又強て區別する必要もないのである。善的興味に生きつゝある者が、我れ知らず藝術的であることもあらう。又美的興味に生きつゝある者が、知らず/\道徳的であることもあらう。藝術と道徳と相戻るが如きは、其藝術も道徳も理想的のもので無いとは予の自信である。藝術と相容れざる道徳ありとせは、そは道徳の弊でなければならぬ。從て道徳と相容れざる藝術は是れ又藝術の弊である。藝術は何物にも障らざる程に高いものでなければならぬ、道徳は又何物をも疎外せざる程廣いものでなければならぬ。道徳も藝術も共に人間の理想に滿足を與へるものでなければならぬ事勿論である以上、兩者決して衝突を生ずべき筈がない、人間の理想的要求から云へば、道徳と藝術とが必至衝突を免れざる場合あらば、其何れにも制限を加ふるの當然なることを認めねばならぬ。
 そこで予は社會人類の上に於て、道徳と藝術との最好調和者は宗教であると信ずるのである。道徳も宗教に依て狹隘と偏固とを免れ、藝術も宗教に依て淫靡と低劣とを免れ得るであらう。宗教と交渉なくして道徳も藝術も成立しないとは云へないこと勿論である。併し信仰を伴はざる道徳藝術は、人生問題から理想的のものでないと云ひ得るのである。
(485) 宗教道徳藝術の三者が、理想的に交渉されて、爰に人間の理想的興味が無限に供給され得るのである。宗教家は信仰あつて人間の生活に始めて意義があると云ひ、藝術家は、藝術を解して人間の生活を始めて意義があると云ふ。道徳家は又、人間の生活は道徳的節制を持して始めて意義を有すと云ふ。三者の言何れも眞理である。
 乍併三者の内の何れなりとも、其完全なる場合には、必ず二者が適當に加味され居るに相違ないのである。
 人間生活の第一義は生命である。さうして其生命の第一義は理想的興味に生くるにある。其理想的興味は、宗教道徳藝術の三者が、最も適當に交渉せられた場合に於て供給せられるのである。之を約言すれは、綜合統一ある生活がそれである。
 我々人類の努力は其理想境に向つて進むを唯一の目的とせねばならぬ。其正しい目的を有してゐない人間は只生きて居る許りと云はねばならぬ。予は自ら顧みて只生きて居る許りのやうな氣がしてならぬ。
                     大正2年1月『新佛教』
                      署名 伊藤左千夫
 
(486) 文明茂吉梯乃村人評
 
     一、土屋文明評
 
文明君に就いての評は、アララギ十一月號所載『ゆふべ』六首に就いての評である。
 ▲左千夫いふ。始めの歌一首あれば澤山の樣な氣がする。この歌に對する僕の氣持を云へば、この歌の文學的要素に理想の部分が多過ぎると思ふ。モ少し吾々の實際生活、つまり寫實的(具象的でも抽象的でも)のものに觸れてゐなければ、何となく譯もなく物足らないと思ふ。つぎつぎの歌を讀んでゆくと矢張り皆さういふ感じがする。而して是等の歌に別に厭味を感ずるのでもなく、別してツマラないといふのでもなく、そこに一種の藝術的感興を得る事が出來るが、自分の藝術的滿足から云ふと何となく物足らない。どういふ處に不滿足を感ずるかを強ひて云へば、この歌の創作的動機に必然的な部分が少ない樣に感ずるのである。
 ▲節いふ。面白くないには面白く無い。僕にはこの歌はよくは分らんが、僕には何だか無理に絞り出した樣な感じがしてならない。今夜の座談に木曾の藪原の櫛を挽くのが濕つぽく苦しい感じがすると云ふ事が出たが、この歌も何だかさういふ苦しい感じがする。併し其櫛を挽く音の苦しさは惡い意味にも取れようが非常に好い意味に於ての苦しさとも取れるだらう。此歌から受ける感じの苦しさは殘念ながら惡い意味に於てばかりである。要するに前にも云つた樣に、頭の中に無いものを無理に(487)絞り出した苦しさを吾々は感ずるのである。だから、青竹をスカツと割つた樣な心持は何處にも求められない。其點は僕は近頃のアララギの歌全體に亙つて浴びせかけたい評である。
 
     二、齋藤茂吉評
 
茂吉君に就いての評は、矢張りアララギ十一月號の『郊外の半日』十八首に就いての評である.
 ▲節いふ。全體として非常に血のめぐりの惡い樣なそしてゐて其中に意外に鋭敏な處のある樣な氣のする歌である。さう云ふ處が之を讀んで一寸驚かされる。而して自分には迚も出來さうにもないと思ふ。それでゐて、一つ一つは、何だか、獨立し得られない樣な感じがする。それはネ、かう、繁つた杉の林の中に、たまたまポツリポツリと生へて居る晉竹が杉の林と一處にあれば始めて立つて居る事が出來るけれども、杉の木を切つて仕舞ふとヒドク淋しくなるばかりでなく、時には自分で立つ力を失つて倒れるものがある樣に、その一首一首で立つて行け相にもないものゝ樣に感じられる。今の僕から云へは、かういふ事は散文で言ひ現はした方が大へん言ひ現し好いと思ふ。つまり、この歌の中で僕が鋭敏だと驚く分子も僕等が散文で書き現す場合には極めて容易に出來る樣な感じがする。さういふ頭で全體を見ると短歌といふ形式で之を現したといふ事に大なる缺陷がある樣にも思はれる。
 ▲左千夫いふ。土屋君の歌を讀んでから茂吉君の歌を讀むと、これは又非常に氣分が違つて、作歌の動機も作者の態度も丸で違つてゐるのに驚く程である。僕は土屋君の歌に不滿足を云つた其反對の意味で茂吉君の歌に不滿足を云ひたい。それは、土屋君のは理想の部分が勝過ぎた爲めに些か吾人の實際生活を離れて居る樣な氣がしたが、茂吉君の此歌は盡く對象が主になつてゐて、作者が其對象に對してどれだけの感興的情緒が動いたかを見る事が出來ない。かういふ風な對象を吾々に紹介されても、たゞ作者が妙な所に面白味を持つて見て居ると云ふ(488)事を感ずるだけで、作者が如何な興味を持つて居たかゞ感ぜられないから、どうも作者と讀者とが他人間《たにんこ》で居る樣な氣がする。今の流行語でいふと作者の感興に共鳴が出來ないといふ事であらう。さう云つたからとても、此歌が客觀的過ぎるからいけないといふのでは無い。歌の中に含まれて居る事件材料、其ものに欠點又は不足を感ずるといふのでは無い。たゞ作者の目の作用《はたらき》が多く目立つて居て、その目から受けた興味を深く心に染み入れて其を味はつてから、その味はつた感情が聲詞の上に現れてゐない。であるから、換言すると作者はこの詠んだ事件材料に對して其程興味を以て詠んだのではないだらうと云ふ感じがする。それで、此歌が充實の足らない概念的な感じが多い。然らば斯ういふ事件材料をどう取扱つたらよいかといふに、今少し作者が自分の抱いて居る主觀といふものと此事件材料との交渉をさせる工夫がなけれはなるまいと思ふ。『郊外の半日』の樣な遣り方は厭味に陷つたり卑俗に陷つたりする憂の無い遣り方で、あぶなげが少ない詠み方である。だから歌を作る初期に屬する人などには極て安心な態度であるが、一かどの詩人としての作物としては、も少し自分の精神の全部を傾倒してかゝる所が欲しいのである。即席の批評であるから、茂吉君が以前からやり來つた歌との比較を明瞭にして見る暇が無いが、此歌などで見ると此作者の詩的感情の潤ひが以前に比して著しく枯涸した樣な氣がする。茂吉君の以前の歌には、今少し歌に潤ひがあつた樣に思つて居る。
 
     三、柿乃村人評
 
 柿人君に就いての評は、矢張り十一月號の『病院の前の下宿の座敷』といふ長い題のある歌に就ての評である。
 ▲節いふ。何事を云つても非常に悲觀した樣になつて居なければ氣がすまないと云ふ樣なのは近頃の此作者の態度である。(489)實際に於て悲觀して居るのかどうかは分らない場合が多い樣である。だから、辛いとか悲しいとか失望したとか云ふ樣な意味の言葉が多い割合には哀韻が吾々の耳に響き足りない感がある。今云つた樣な意味の言葉が殆ど使用されないで吾々の心にひしひしと響いて来る歌が古人の歌に幾らもある事を振返つて見て貰ひたい。それから此作者に一番多い事は第一句に言葉(文字)の足りないのが澤山にある。それが甚しく一首の調子を破つて居る樣に聞える。又第一の句に文字の足りない例では、古事記にある、
   ちばの、かど野を見れは、もゝちたる、家庭も見ゆ。國の秀も見ゆ。
かういふ行き方を考へて見て貰ひたい。作者の他の句は順當に一直線に連續してゐるにも拘らず、第一句だけが孤立して居る。そこが甚だ不調和に感ぜられる所である。
 
 ▲左千夫いふ。僕は始めの十首の歌に就いて云つて見たい。此歌は作者の考では連作の歌として作つた樣に思はれる。で、此歌を始めから終り迄讀んで見ると作者の創作的動機、それから此十首に含まれた事件、それに對する作者の情緒、さういふものを悉く讀者たる自分に了得する事が出來る。それで、此十首の歌が含んで居る事件と其に對する材料、作者の情緒、さういふものは盡く、文學的純粹な要素である。されば此歌の内容はと云へば立派な藝術的要素を持つてゐると思へるのである。然し此一聯の歌を始めから一首一首と讀んで見るとどの歌にも充實が足らない。稀薄である。少し皮肉に云ふと此作者が吾子を夫婦して病院に連れて行つた、其實際的事件といふものを、吾と冷かに客觀して居る樣な風が見える。強い情緒の漲りが無く、總ての歌がスラスラとして平易な文章の樣に綴られてゐる。其は人々各個性の然らしむる所で僕の言が或は無理かも知れぬが、然し吾子の重病を夫婦二人して病院に送るといふ場合であつたならば縱令その人々の性質で仕方が無いとしても、も少し此(490)事件を手重に取扱つた表現がなけれはならぬと思はれる。要するに此歌に對する缺點は大體二つあると思ふ。一は作者の詩作的態度に何等かの錯誤がありはしないか。もう一は此歌の内容に對する技巧に著しい缺點のある事である。技巧の缺點といふ事を少し具體的にいふと凡てが文章に異ならない綴り方である。歌の技巧に對して表現法とか句法とかいふと其處に少し語弊があるが、此歌の材料を表はすのにかういふ技巧ではどうしても稀薄若くは平凡或は充實が足らないのである。
  附記。或日柿人・千樫・憲吉・茂吉の四人が寄合つて、牧水氏の、『死の藝衝か』の合評などして居た。それも雜談に移つて仕舞つて、到頭批評は千樫に頼む事に定めた。さうして居る中に長塚さんと左千夫先生がヒヨツコリやつて來た。其から長塚さんの旅行談で、醍醐の三寶院の壁畫の話や、平將門の骸骨だといふのを見て居ると案内の小僧が『人相見が見ますと謀叛など起す骨相では無い相で……』と云つた話や、千樫が三笠の頂上で鹿の密會してゐるのを驚した話や、先生と柿人と憲吉の木曾藪原の女の話、櫛挽く音の話など出た。それから一つ、先生と長塚さんに僕等の歌の評をして頂く樣に無理に御願した。長塚さんがいふ先生がいふ。其を千樫と僕が鉛筆で筆記する。柿人は腕組して聞いて居る。憲吉は烟草を吸ひながら聞いて居る。批評の半ばで、『本日は大に元老連が暴れまわるネ』と先生は笑つた。來月號には、古泉千樫評、中村憲吉評を掲載する。
                            (茂吉記)
                    . 大正2年1月『アララギ』
                        署名 伊藤左千夫
 
(491) 古泉千樫中村憲吉評
 
     一、古泉千樫評
 
千樫者に就いての評はアララギ五卷十一號の『富士ゆき』に就いての評である。
 ▲節いふ。僕には富士登山の経験がないから分らないが、此歌に現れた所でみると熔岩の原といふものはつまらない處の樣である。元より絶對につまらないといふ處は何處にもあるべき筈は無いが、充分の興味を以て觀察しないと、つまらぬといひ去るべき場處は隨分あるであらう。熔岩の原も上の空で素通りすれば矢張りつまらぬに相違ない。而して此作者は熔岩の原に向つて深い興味を持つてゐない樣に思はれる。つまらぬ處を強ひて特別に面白く詠み、面白い處を見免して詠んだのは此熔岩の原の歌である。だから根本に於て已に大なる故障がある。だからもう藥の盛りやうはない。此作者には相當の腕は養ひ得られて居る。だから何でも歌にする事が出來るやうになつてゐる。而してその弊害に陷つてゐるのである。吾々が甞て一度通つた邪路に向つて一足踏ん込んでゐるのである。
 ▲左千夫いふ。千樫君の歌を讀んで僕は其昔しばしば子規先生から云はれた話を思ひ出した。子規先生は殊に晩年好んで連作の歌を作られる樣になつてから、いつも『歌を作るには捉《つかま》へ所が大事である。大きな複雜對象に對しても或點を捉へさへすれば歌は無雜作に出來るものである』と云はれた。先生の云はれた事を今日の吾々の(492)批評程度から考へると先生の考は少しく對象に重きを置き過ぎた樣に思はれぬでもない。然しそこを一歩考へて見ると先生の所謂捉へ所といふ事は創作對象と作者の主觀との關係を無視して居られたものとは考へられない。僕は今千樫君の歌を讀んで以上の樣な事を考へた。子規先生が千樫君の歌を見たら矢張り捉へ所がなくて詠んだ歌といふであらう。此十首が含んでゐる作者の主觀が作者の對象に對する批評と、それから其場に望んでの空想に過ぎないやうである。富士山といふ大きな對象中から十數首の歌を作るべき或捉へ所を得たなら、もう少しく作者の個性的主觀若くは感興が數首の上に一貫して居るべき筈である。連作といふ上から見ても僕の考へて居るのとは大分違つてゐる。連作的味ひに乏しい。
   熔岩原の夕影青葉うらがなしひとり棄てられしわれなるかなや
此歌なども概評して見ると『吾なるかなや』と結句に叫んでゐても其叫びが讀老の心に響を與へない。人間の叫びが聞く人の心に響を與へないのは其叫びが人類共通の感情を傳へないからである。要するに連作の歌にあつてはその歌を讀み了へた時に容易に讀者に全體に亙る作歌動機が響いて來なければならぬ。それが無いと讀者といふ者にかまはず作者は勝手に話したり叫んだりする樣な獨りよがりの弊に陷つて仕舞ふ。
 
     二、中村憲吉評
 
憲吉君の評も『曉は動くに』『太陽の愁』の評である。
 ▲節いふ。現今亂作をして居る或種の小説家の作品を讀んで見ると、所謂氣分といふ事を八ケ間敷云つて居るにも拘らず、幾らか只其氣分を味ふ事が出來るといふに過ぎないものが可なりに多いやうである。憲吉君の歌も通讀すれば或種の氣分を味(493)ふ事が出來る。然しながら僕はアララギ歌壇からしばらく疎遠になつてゐた爲めか、一首一首に就いて見ると其一首一首を了解して氣分をよく味ふといふ事が至難の業になつてゐる。つまり僕には何だか分り難いのが可なり澤山にあるといふ事になる其で全體として或種の氣分を味ふことが出來ても一首一首の境界線が甚だ不明瞭だとも云へる。一首一首の獨立が甚だ暖昧だとも云へる。極端に惡く云つて見れば、どうも駄菓子のおこしの樣なところがある。目に見てあられの一粒一粒が明瞭に分つてゐるが、飴か砂糖でねばりつけてあるので一粒一粒を噛みしめて味ふ事が出來ないやうなものである。散文の一句一句であれば其でもよいが、然し短歌である以上は今少し其區劃がはつきりとしてゐて貰ひたい。それと、も一つは、蘭引にかけたものゝ樣にも少し力を入れて、數が少しは減じても一首一首はもつと確かに味はれる樣にあつて欲しい。最後に以上の全體を※[手偏+總の旁]括していへば、本月號に限らず、本誌の近頃の主觀的の作品は寒い晩に足をちゞめて、寐て夢をみた時の樣な感じがする。夢の中で或おそろしい者に追はれて逃げようと思つても思ふやうに逃げる事が出來ないで苦しむやうな、何だか一種の壓迫されるやうな苦しみを感ずるのである。
 ▲左千夫いふ。土屋君から始めて、かうずつと見て來ると諸君の歌にそれぞれ著しい相違がある。その中で憲吉君の歌は(無論本月號の歌に就いて)著しく柿人君の歌に其色合が似てゐる。それは作家としての態度對象に對する情緒が似てゐると云ふよりも、一首の組立方、又は材料の取扱方が似て居るらしく見えるのである。で、『太陽の愁』に就いて云つて見ると、自分の感情の漲りを叫ぶといふよりは、心に感じた事を文章に綴つたやうな形をして居る。それ程人生に對する感激もなく作者が個人に對する接觸上から起る感情衝動も少なく作者は自己の感情をほしいまゝにして、自然に對した刹那の感じが全篇を通じて歌の動機となつて居る。さういふ點に於て無論柿人君の歌と同じではないで、之を皮肉にいふと餘計な感情を弄んでゐる樣な氣持もするのである。一々其實例を云ふのも大變だが『太陽の愁ひしみみに降れば人の世の都はあはれ朝よくもりぬ』といふ樣な事も餘り(494)に一人極めではあるまいかと思ふ。『曇影《くもり》ふる街の底べのおぼろより知らざる顔があまた出て來るも』などは比較的よく分る歌であつて、而して相當に面白い歌である。それでも歌の全體の聲調のひゞきは作者の呑氣を現して居る。作者の呑氣な態度が分つて居るといふ事を輕々しく非難するのではない。たゞ此歌の内容が必然的な情緒の動きといふ樣な點が足らなく多少文學を輕く取扱つてゐるやうな所もある。も少し一讀して本氣な氣分を受けられるやうな表現が欲しいと思ふ。
  ▲附記。どうしても斯うでならぬと思ひつめた強い感激に住む場合には、作者としての僕等は、縱し短歌の樣な小さな微かなものであつても、矢張り全力をそそぐのである。さういふ場合には實行に際して必ずしも批評家に從はない。けれども僕等は常々批評家の言に對するに鶺鴒の卵のやうな心持を以てしたいと念じてゐる。務めて此念々の燃えん事を希つてゐる。さもなければ歌人などは馬鹿殿になつてしまふであらう。吾等の歌を評して下された二氏に感謝する次第である。 (茂謹記)
                     大正2年2月『アララギ』
                       署名 伊藤左千夫
(495) ※[口+斗]びと話 〔下〕
 
     三
 
 云ふまでもなく叫びは聲の調子を通して、叫者の心を傳へるものである。心を傳へると云ても、殆ど意と云ふ程のものではなくて、單なる感情を傳へるに過ぎない。で之れを言換へると最も單純化された、叫者の心を傳へるものである。それだけ聽者の心には純粹な感じを與へるのである。勿論叫び其物が、殊更にわざとらしく出たものでなく、叫者の無我な自然の叫びであるならば、其叫びが固より純粹な感情の表現であるから、聽者の心に純粹に響くのは自然であるのだ。
 それを聽者の興味と云ふ方から考へて見ると、さういふ純粹な單純な感情の表現に對しては、どんな高級な詩的感能を有するものでも、それを詩として味ふには足らないに極つて居る。詩といふものは、天地間の有りと有らゆる物の内に於て、最も寧ろ極端に純粹であるべきものではあるが、詩は一つの詩たるべき多くの要素の組成に依つて一個の躰形を爲すものであるから、絶對な純粹を要求しても、絶對に單純を要求するものではない。詩と叫びとの關係は、さういふ意味に於て交渉を有するものである。要するに叫びは詩の要素中に於て、最も重要な最も高級な要求であるのだ。
(496) 故に詩に對する最高の鑑賞及び其吟味と批評とは、既成詩の組成中に、作者の叫びが如何なる程度に含有されて居るか、さうして其叫びは如何なる程度に自然であるか。以上の絶對的に重要な二個の問題を最も高級な詩的感能に依て解決されねばならないのである。
 さうは云ふものゝ、詩は多くの要素を以て組成さるゝものであるからして、勿論思想も大事である、詩材も大事である。技巧も大事である、更に言語の採擇といふことも大事である。決してそれ等の要件を輕んじてはならないのである。乍併前に云うた、叫びの重要なるに比しては、それが第二義第三義のものであると云ふことを、確實に了解して居らねばならぬ。
 思想を重ずる人は、思想即詩であるやうに思ひ、宗教も哲學も皆詩であるなどゝ思つてる人も隨分あるやうだ。詩材即ち題目を重ずるものは、材料や題目をそれが直ちに詩であるやうに思ひ、人生即詩であるとか人間其物が詩であるとかさういふやうに云つてる人も又少くないやうだ。技巧を重ずる人は又技巧即詩であると云ひ、言語を重ずる人は、言語それが詩であると云つたりしてゐる。さうかと云つてそこに徹底した自信が、あるのでも無いらしく迷つてる。であるから今の創作家や批評家はいつも岐路を辿つてるやうな者が多い。
 議論が少し横に入りかけたが、叫びは詩の重要な要素である、叫びを含んでゐない歌は、駄目であると云つたからとて、叫びを模擬したり、叫びを僞作したりしてはいけない。外形がよし叫びになつてゐてもそれに少しでも模擬や僞作の意味が混じて居つたならば、それは決して予の言ふ處の叫びではない。さういふ叫びは、戯談の一部でなければ、空騷ぎといふものである。戯談や空騷ぎは詩作と何の關係もない。無造作に叫びの歌が作れると思ふものがあるならば、駄洒落の歌を文學と思てる程度の者と云はねばならぬ。
(497) 之を要するに、詩の情調化と云ひ、單純化と云ひ、或は詩想詩材の融合と云ひ、言語句調の渾成と云ひ、又予の常に云ふ言語の聲化と云ひ、いづれも自然にして節調された、叫びの働きが其根柢を爲して居るのである。
 そこで一歩を進めて、創作家といふものゝ立場から考へて見るならば、詩人として最も重要な資格は鋭敏にして高級な感激性を持つて居ねばならぬことは云ふ迄も無いが、予は感覺と云はずして特に感激と云ふ。其感激性の鋭敏なだけ、驚異讃嘆哀傷怨怒怪疑等有らゆる境遇に接して、自然的に叫ばれねばならない、内的状態を起して來る。詩作の動機は必ずそこに發して來ねばならぬ。
 そこへ思想や詩材や言語の採擇や技巧が加つて、創作が起つて來るのである。故に詩人の用意としては、自個の天分を自覺し、さうして其天分を發達さすべく、修養と努力とを必要とするのである。自覺のない詩人、自覺がなくても立派な詩を作る人も隨分あるにはあるが、遂に自覺のない詩人は、創作が永續しない、養はれない感激性は境遇の變化に持續を保たれないものと信ぜられる。
 言換へると感激性の持續する間詩人は性命を有して居るのである。古來の聖賢偉人は、皆死に至るまで叫んで居る。さう思ふと感激性の持續は、必ずしも詩人に於てのみの性命でないとも云へやう。
 詩人も勿論、萬物に對して、觀察、分解、批判等の腦力が充分なければならぬ。併し詩腦的高級な觀察分解批評力があつても、感激性がなければ叫びが起らないから高級な詩は作れない。感情の興奮が乏しければ、到底詩の情調化を望むことは出來ないからである。
 詩的な思想や題目や言語句調を只三十一文字で記號しただけでは到底話に近い歌であるのだ。思想や詩材が何程新しく、言語や句法が何程詩的に面白くあつても、又作者の詩材に對する感じ方見方が有價的であつても、單(498)に言語が有する意義に依てのみ傳へらるゝ興味は要するに談話の興味である。
 叫びと云ひ情調化と云うても、必ずしも抒情詩の上にのみ云ふのではない。叙事詩でも叙景詩でもそれに少しの相違もない。其事件に對し其景物に對し、作者の興奮した感激がなくて、否其興奮した感激が聲調に傳へられてゐない歌には、談話以上の興味は無いと斷言する。
 詩的な感想や詩的な題目を、巧に詩的句調の形式を取つて構成せられた歌を、單なる記述である報告紹介であるとは云はない。少くも作者の物に對する詩的な見方感じ方、對象に對しての或る憧憬の氣分が、三十一文字に依て傳へられて居る以上、それを敢て詩でないとは云はない。只それ等の作物から受ける興味が談話の興味以上に出ないから、それ等の歌を低級な詩であると言つて置きたいのである。
 談話と云つても、説明報告交渉等純實用的の場合は別として、苟も相手者の感情に訴へる談話であるならば、必ず自然に抑揚緩急の調子が加つてくる。況して興味を主とする談話であれば益相手者を動すべく自づから口調が働いて來るのが普通である。此の如く談話でさへも自己の感想と興味とを、より完全に聽者に傳へようとするには、語調の働きに待つ處が多いのであるが、叫びが聲調を通して聽者に心を傳へるのとは、大に趣きを異にして居る。同じく調といふ詞であつても、其意義と働とは全く別のものであることを注意して置かねばならぬ。
 談話に於ける調子は、話者の内感情を傳ふるものではなく話者が話さうとする事柄と其意味とを興味的に聽者に傳へんが爲めに働く處の語調である。故に談話の興味はどこまでも、事件と題目とそれに對する話者の説明解釋が主であるのである。であるから談話の興味は、要するに散文的であつて、韻文が與ふる興味とは、其根柢を異にして居るのである。少し立入つて云へば、話者自身の感興が談話の主要ではなく、話さうとする題目の興味(499)が談話の主要であるのである。從つて其興味は人間其儘人生其物で無くして、人間を描寫し人生を説明し得た處から起る興味である。でさういふ興味が文學的でないと云ふのでは無い。只さういふ興味は散文的興味であつて、形式に依つた韻文本來のものでないと云ふのである。
 事件的題目的談話的興味は、散文に待つ外はなく、又散文が相當して居るのである。飜つて韻文は何故に形式があるかと云ふことを考へて見るに、人間の興奮した感情はさう永く持續すべき筈のものではない。されば鬱情發散の要求から起つた韻文が、それに適應した長くない形式を爲すに至つたのは、思ふにそれが自然の成立であって、人が作つたのでは無く出來たのである。さういふ風に、韻文の成立した本來の精神から考へて見れば、事件的題目的興味を韻文に要求するのが初めから間違つてるのである。韻文は原來情調表現から起つたものであるからどうしてもさう長かるべき筈のものではない。其長かるべき筈のものでない處から自然に形式が出來たのだ。
 既に形式が出來て、其形式内に於て、韻文成立の精神に戻つて、描寫的に事件的題目的興味を傳へんとするは、甚だ不自然な要求であつて、韻文散文の起因を忘れた誤謬と云はねばならぬ。
 日本語の歌といふ詞は、訴へるの語源から轉じた詞で、古來歌は思ひを遣る情を放つ爲めのものであると解釋されて居る。即鬱情を發散するのである。さうすると歌といふ詞は、能く韻文成立の源因を説明して居る。
 以上歌は描寫的のものではなく咏嘆的のものである。談話的のものでなく、叫び的のものであるといふことを稍説明し得たと思ふ。
 猶茲に斷つて置かねばならぬ。談話にも散文にも、幾分必ず叫びが含まれて居る。叫びが含まれて居なければ其談話にも散文にも、熱がなく力がない。であるから、談話にも、散文にも叫びの含まれて居るといふことは大(500)事なことである。只散文や談話に含まれて居る叫びは、其働きがどこまでも助成的であつて、韻文のそれの如くに主性要素でないといふだけである。繰返しいふ、叫びのない歌は詩ではない。叫びの乏しい歌は低級の詩である。最う一言斷つて置く。今の藝術界では、繪畫も彫刻も作者の叫びであると云つてるやうだが、繪畫や彫刻をどういふ意味に於て、作者の叫びであると云ふのであるか。予は未だ其意味を能くは解して居ないけれども、予が今歌に就て云ふ叫びといふことは全く其意味を異にして居ること勿論である。
 
     四
 
 叫びを含んだ歌、話に近い歌、と歌の種類をかう判然と二つに分けて終ふことは固より出來ることではない。叫を含まない歌であるから皆話に近い歌とも云へない如くに、話に近い歌は皆叫びのない歌であるとも云ひ切れない。であるから立論の便宜上二つに分けて論じたものゝ、どつちにも附かない歌もあると云ふことを云つて置かねばならぬ。
 隨分長く書いたけれども、未だ充分には歌に含まれたる叫びの意味が云ひ盡せない。で最う一言云つて實例に移らうと思ふ。
 作者が對象に依て得た感激の情緒、其情緒の動搖を抱いて居る胸から出で來る聲調が、讀者の同感を引くまで歌の上に現はれて居れば、それを叫びの歌叫びの含まれた歌と云ふのである。思想や詩材や作者の感じ方現し方と云ふものゝ外に、聲調が傳ふる情緒の搖《ゆれ》の乏しい歌を、話に近い歌と云ふのである。
 萬葉集以後の歌には叫びの含まれた歌が實に少ない。源實朝卿の歌には不思議に叫びの含まれた歌がある。そ(501)れも何十首といふ程は無論ないけれども、凡だが二十首以上はあるだらうと思ふ。
   物いはぬよもの獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
   山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心我れあらめやも
 此二首などは何人にも解るべき叫びの歌である、自然を歌つた歌にも、叫びの含まれた作が隨分ある。
 古今集新古今集あたりの歌を今更例に引くのも煩はしいが、各卷頭の歌二首づゝを引いて見る。
   年の内に春は來にけり一とせを去年とやいはん今年とや云はん(古今)かういふ歌が話にしても埒もない話である事が解るであらう。
   袖ひぢてむすびし水の氷れるを春立つけふの風やとくらん(古今)
此歌の中にどこを探しても感情はこもつてゐない。
   みよしのは山もかすみて白雪のふりにし里に春は來にけり(新古今)
   ほの/”\と春こそ空に來にけらし天の香具山かすみたなびく(新古今)
 前者は古い里に新しい春が來たと云ひ、後者は春が空に來たらしい山にかすみが棚引いたと云ふ。さう詞の綾に興を持つて作つた歌であるから、固より春の感じや春といふ情緒などのありやうはない。談話としての興味も無い歌である。徳川時代になつて眞淵も景樹も、以上の古今集などを絶對に佳作として居つたのであるから、茲に例に擧げる必要はない程、二集の歌に似寄つた歌を詠んで居る。田安宗武と僧良寛とに、僅かに叫びの含まれた歌がある。茲に例に擧げたいが余りに長くなるのを恐れるから省く。曙覽にも元義にも殆どないと云つてよい。曙覽は話に近い歌を、元義は空虚な歌を以て滿たされて居る。かう云つて來て見ると、眞文學として藝術的要素(502)を充分に含んだ歌は、古來實に少ない。
 結局萬葉集より外に、ほんとうに韻文の要素を具備した歌を多く見ることは出來ない。萬葉集の始めの方には、手に從つて例歌を擧げることが出來る。
   いづくにか舟はてすらんあれの崎漕たみゆきし棚なし小舟
 どこに舟泊りをするのであらう。はる/”\崎を漕ぎ廻つて行つた小さな舟は。と心もとなく詠嘆した心の揺れを、一首の聲調の上に味はれるであらう。思はず溜息を突く心の叫びが歌の背面に籠つてゐるのである。以下一々評釋は省いて例歌を擧げる。
   ながらふる雪吹く風の寒き夜に吾背の君は獨か寢らん
   葦べ行く鴨の弱がひに霜ふりて寒きゆふべは大和しおもほゆ
   みよしぬの山した風の寒けきにはたや今宮も我が獨寢ん
   くしろつくたぶしの崎に今もかも大宮人の玉藻苅るらん
   潮さゐにいらこの島べこぐ舟に妹乘るらんか荒き島みを
 以上の二首は人丸の歌である、思ふ女が行幸に從つて荒い海邊の舟乘などに困つてゐるのを思ひやつてもどかしがつた情のある歌である、さう思つて見なければ此歌の味が解らぬ。
   吾背子はいづくゆくらんおきつ藻のなばりの山を今日か越ゆらん
   打麻を麻續の王あまなれやいらこが島の玉藻刈ります
   古への人に我れあれやさゞなみの古き京を見れば悲しき
(503) 以上殊に佳い歌として擧げたのでは無い。比較的情調の感じ易い歌を拔いて見たのである。かういふ歌をようく味つて見ると、材料的題目的な歌の、淺さ輕さが能く解るのである。
 併し萬葉集の歌は皆住い歌許りだと思ふと、大きな間違である、憶良や家持の歌には隨分話に近い歌が多い。
以下のやうな歌がそれである。
   銀もくがねも玉も何せんにまされる寶子にしかめやも
 歌もかうなると子を思ふ感情よりは、子は大事なものだ可愛いものだといふ考の方が主になつて居るから、歌から受ける興味の主體が作の考即思想にあるのである。前に云つた話に近い歌であつて、一般の人には面白がられるだらうが詩人の感興には甚だ低能なものである。外に憶良の撰定したといふ歌を擧げて見やう。
   龍の馬も今も得てしが青丹よし奈良の都に行きて來んため
   うつゝには逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にをつぎて見えこそ
 徒らに想を弄んだ歌である。次でに云ふが太宰帥大伴卿の宅で詠んだ多くの人の梅の歌も、大抵は話しに等い歌である。只此時代の人の詞つきが朴訥である爲に、厭味といふものが無く、一寸面白いまでの事である。
   たるひめの浦を漕ぐ舟梶間にも奈良の我家を忘れておもへや
   ほとゝぎすこよ鳴き渡れ燈火を月夜になぞへ其影も見む
   卯の花の咲く月立ちぬほとゝぎす來鳴きどよめよふゝみたりとも
   居り明し今宵は飲まんほとゝぎす明けんあしたは鳴き渡らんぞ
 是れが家持の歌である。家持もこんな風に遊戯に墮した、つまらぬ歌を詠んだかと驚く程である。話も眞面目(504)な話ではなく、戯談話である。聲調も情緒もあつたものではない。憶良家持等には拵へた歌が多い。僅かな時代の相違であるが、家持の時代になつて萬葉集の歌も漸く墮落し始めて居る。予は折を見て憶良と家持の歌を嚴肅に吟味して見ようと思つてる。
 此歌論は是れで終りを告ぐべきではない。以上所論の旨趣を以て、現時の新作歌に批判を與へねばならぬ。乍併予は是れまでの經驗から、現代の歌人は眞面目な批評を要求して居ないやうに思はれてならなくなつた。かういふ時に正直な批評を書くなどは愚である。今になつて氣がついたかと笑ふ人があらう。實際予は愚であつた。で予に稱揚の出來る歌が出るまで、暫く黙することにする。
                     大正2年2月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(505) 歌の潤ひ
 
 潤ひのある歌と、味ひのある歌と、そこにどういふ差があるかと考へて見た。單に詞の上で見るならば、潤ひのあるといふことは、客觀的な云ひ方で味ひのあるといふことは、主觀的な云ひ方であるとも云へる。併し細微に兩者の意味を推考して見ると、兩者に幾分の相違があるやうにも思はれる。
 味ひのある歌であるが、つまらぬ歌であるといふやうな歌があるであらうか。又それに反して、味ひは少しも無いが、歌は面白いといふやうな歌があるであらうか。さういふことが歌の上に疑問として成立つものかどうか。かうも考へて見た。
 それで味ひはあるがつまらぬ歌だといふやうな歌は有り得ない事であらうと思ふことに多くの疑ひは起らぬけれど、味ひといふやうな感じはないが、何處か面白いといふやうな歌は或はあるだらうと思はれる。然らばどんな歌が、味ひは無くても面白い歌といふ例歌があるかと云はれると、其例歌を上げることは余程六つかしい。其味ひのあると云ふこと即歌の味ひなるものが、具體的には説明の出來ない事柄であるから、甲は味ひを感じて味ひがあると云つても、乙は味ひを感じないから味ひが無いと云ふことも出來る。かうなると、甲は味ひがあるから佳作だと云ひ、乙は味ひは無いが面白いから佳作だと云へる譯である。それを又一面から云ふと、甲の味ひを感ずるのは何等かの錯覚に基きやしないかと疑ふことも出來る。乙の味を感じ得ないのは、或は感覺の鈍い爲め(506)に其味ひを感ずることが出來ないのであらうとも云へる。
 これが飲食物であるならば、味ひがなくてうまいといふものは絶對に無いと云へるが、食味の鑑賞と藝術の鑑賞とを全然同感覺に訴へる事は出來ないやうにも考へられるから、歌の上には味ひは無いが面白いことは面白いといふやうな歌があるであらうとも考へられる。藝術が人に與ふる興味は、飲食物のそれよりも、更に數層複雜なものであること勿論である以上、味ひは無くても面白い歌といふ歌は有得べく思はれる。
 かう押詰めて來て見ると、其面白いといふこと(味ひが無くても面白いといふ面白さ)は正しき藝術的感能に訴へた面白さであるか否か、と云ふことだけが疑問として殘る譯である。がそれは到底説明し能ふべき問題でないやうな氣がするから、結局面白く感ずるのは、其人が何等かの味ひに觸れるからといふ、概念的結論に歸着する外無いかも知れない。
 極めて漠然とした概念から差別して考へて見ると、味ひを以て勝つてる佳作と、要素を以て勝つてる佳歌との差別は考へられる。故に云ふ味ひは、藝術組成上の諸種の要素の、調合融合上かち起る味ひを云ひ、要素とは藝術組成上に必要なる、思想材料言語句法の各要素を云ふのである。勿論其要素それ自身に、各其味ひがあるのであるから以上の如き差別は、假定の上に概括して云ふことであるけれども、大別して云ふならば、味ひを以て勝つてる佳作と、要素を以て勝つてる佳作と、概括した差別は云ふことが出來る譯である。
 之を食物に譬へて云へば、諸種の材料を混和した調味と、刺身の如き燒肉の如き、材料其物の味ひとの如きものである。人爲の勝つた味ひ、自然の勝つた味ひとの差である。
 で之を云ひ換へて見ると、情調的の歌は味ひを以て勝り、思想的材料的の歌は要素を以て勝ると云へるのであ(507)る。結局味ひと云ふ詞の解釋上に起れる假定の差別に過ぎないので、味ひは無くても面白い歌といふ事は、味ひといふことを、或意味に極限した上から出た批評に過ぎないのであらう。
 かう考へてくると味ひのあるといふ事と潤ひのあるといふ事とは、其意味の内容に殆ど相違は無いやうに思はれる。一寸考へると、潤ひのあるといふ事は味があるといふよりは稍狹義に思考せられるが、潤ひがあつても味ひは無いといふ事は、想像が出來ない。さうして味ひのある歌に潤ひが無いといふことも考へられない。只味ひの無い佳作といふ事は容易に想定が出來ないに反し潤ひの感じは無くても、佳作はあり得ると無雜作に考へられる。味ひと潤ひとはこれだけの相違はあるやうに考へられる。
 けれども如何なる場合に於ても、歌に潤ひが無いといふことを以て、創作上の進歩と認め得るやうな事は斷じて有得ないと考へられる。さうして予は最も潤ひのある歌を好むのである。潤ひのある歌が何となく※[口+喜]しくなづかしい。味ひを感じない歌に至つては最う嫌ひである。少し其意を進めて云ふならば、情調的味ひの無い歌には殆ど興味を感ずることが出來ない。茲で斷つておくが此情調といふ語は、勿論人情の意味ではない。併し予も自ら潤ひの乏しい歌と思ふやうな歌を詠んだ經驗は少くない。前號『曼珠沙華』などはそれである。鬱情を散ずるに急なる、情調を湛ふるの餘裕がなくて出來た歌である。自分の慰安の心よりは、餘義ない氣持の勝つた歌である。さういふ心的状態で歌の出來ることは、何人にもあることであらうと思ふ。されば自分の歌として其存在を欲して居ても、自分の好きな歌ではない。或意味に於て、予の最も強く主張する叫びの意味の多い歌であるが、予の好みは其叫びの聲が今少し潤ひを帶びてありたいのである。
 表現の具象が餘りに鮮明な歌には、必ず潤ひを缺くの弊が伴ふのを常とする。自分の好まない歌をなぜ作るか(508)と云ふ者があるかも知れないが、自分の感想は自分の好きなやうに許り有得ないから、これは餘義ないのである。
 刺身と燒肉、それを予は決して嫌ではない。けれども刺身と燒肉が何より美味いといふ人には、到底眞の料理を語ることは出來ない如く、藝術の潤ひを感取し得ないやうな人に詩趣を語ることは出來ないと思つてる。
 それに就ても、近頃の『アラヽギ』で予の最も※[口+喜]しいのは石原純君の歌である。一月號の『思ひ出』の作も極めて平淡な抒情の内に深い味ひのある歌であつたが、二月號の『獨都より』の作は又一層面白い歌である。
 さういふては失敬であるが、今度の歌は從來の石原君の歌とは頗る趣を異にして居る。從來石原君の歌の多くは、意味の複雜な具象の鮮明な歌であつた。從て潤ひがあるといふやうな歌は少なかつた。
 それが今度の歌は、全く面目を異にして居るのである。予の最も好きな淡雅な味ひと情調の潤ひとが、無雜作な自然な語句の上に現はれて居るのである。『思ひ出』の十首は殊に單純で平淡である。何等の巧みもなく、少しも六つかしい意味もなく、只すら/\と旅情の追懷を歌つて居る。かういふ歌を大抵の人は、平凡である、稀薄である、素湯を飲むやうであると云ふのであるが、其淡然たる聲調の上に何處ともなく、情緒のにじみが潤ひ出て居る。少しもこねかへしがないから一讀純粹な清淨な感情が味はれる。
 あらつぽい刺撃の強い趣味の歌とは全く其味ひを異にしてるのであるから、讀者の方でもかういふ歌を味はうとするには、氣を靜め心を平かにして、最も微細な感能の働きに待たねばならない。
 十首の内取立てゝどの歌が良いとも云へない。十首の連作を通しての上に、物になづむ親しみの情の淡い氣持が、油然として湛ふてる。思ふに作者も想の動くまゝに詠み去つて、其表現にさういふ自覺があつた詩ではなからう。そこが最も尊い處で、其味ひも潤ひも極めて自然な所以である。
(509) 併しかういふ歌は、かういふのが面白いから作つて見ようと云つて作り得らるゝ歌ではない。歌の生死の境が眞に一分一厘の處にあるのであるから、ほんの一厘の差で乾燥無味に陷つて終ふのである。
   すもゝ實るみなみ獨逸のたかき國の中にありといふミユンヘンの町
 其語句に於て着想に於て、其題目に於て、何等の巧みも新しみもあるのではない。唯能く統一した一首の聲調に、物に親しみなつかしむ氣持が現はれて居るのである。
   人もあらぬ實驗室の夜の更けにしづかにひびく装置を聞きぬ
 此歌は題目が殊に新しく、着想も面白いが、其題目や着想が淡い情調に融合されて、少しも目立たないで能く單純化が行はれて居る。それから『獨都より』の「リンデン」の作は、作者も云ふてる如く、前の歌の淋しい内にも嬉しい親しみのある情調とは異なり、旅情の淋しさと自然のさびれた淋しみとを獨りしみ/”\と味はつてる情調が、一句一句の端にも湛ふてる。
   リンデンの嫩芽の萌えを見て過ぎしこゝに又來ぬ枯葉落つる日
 靜かな聲、物うげな調子、それを味ふて見るべきである。例の如く題目も思想も取立てゝいふ程の事ではなくてゐて、しかも無限の味ひを持つてるのは、一首の聲調に作者の淋しい内的惰態が、さながらに表現されて居るからである。結句の『枯葉落つる日』此一句これを取離して見れば、只それだけのことで、何等作者の獨創があるのでなく、唯一句の記號に過ぎない詞であるが、此歌の結句に此一句を置いて見ると、此平凡な一句が一首全體の上に、非常に淋しい影響と共鳴とを起すのである。此平凡な一句が先に置かれて生きて來るのみでなく、一首全體に統一を促し生命を起すの働きが出て來たのである。作歌に從ふものは、此不可説なる、融合統一力の依(510)て起る神意を考ふべきである。かういふ歌を見て「なんだ只それだけの事ぢやないか」などと輕く讀過して終ふやうな人には、到底共に詩の生命を語ることは出來ない。
   葉の落ちて只黒き幹のぬくぬくとあまた立ちならぶ樣のさびしも
 初句『葉の落ちて』の極めて自然な詞つきに、はや淋しい聲を感ぜられる。第四句第五句なども「あまた立ちたり見るにさびしも」と明晰に云つて終へば口調は強くなるけれども、淋しい沈んだ氣持は現はれない。僅かの相違であるが『あまた立ちならぶ樣のさびしも』と詞に乾みのある云ひ方が自然に作者の心持を現はして居る。是等の歌から受ける興味の程量は讀者の嗜好に依て相違のあるべきは勿論であるが、兎に角生命の脈々たる歌であるのだ。
   リンデンの枯葉の落つる秋もまたけおもき空は曇りてあるなり
 これは前の歌のやうな感じを得られない歌である。結句『曇りてあるなり』の口調は此場合聊か輕快に過ぎると思ふ。
   そぼぬれてせまき歩道のしきいしを一つ一つに踏みて行きけり
 以下一連の歌は悉く金玉である。平淡な叙述の内に一道の寂しい情調が漲つて居る。
   夜眼さめて指針《はり》の光れる時計をば枕邊に見る二時にしありき
 結句「二時にしありけり」と云はないで『ありき』と留めた處に深い感じがある。此一連の歌は、題目も新しく感じ方も新しい。さうして言外に寂しい情調が、しみ出て居る。さうして作者の心理状態が寂しい内にも漸く落ちついた處に僅かな餘裕も窺れる。其自然の動きの現はれてるのが、溜らなく※[口+喜]しい。
(511) 以上四連の歌を通讀して見ると、作者の心理状態が時處に從つて動搖し變化した自然の跡が歴々として讀者の胸に響いてくる。一首一首を詠んでそれ/”\生きた感情に觸れ、更に全體を讀去つて、又全體から受ける共鳴の響きが、暫くの間讀者の胸に搖らぐを禁じ得ないのである。
 予は是等の歌を、潤ひのある歌、味ひを以て勝つた歌として推奬したい。さうして又理想的に成功した連作の歌として稱揚したい。
 十年以前より連作論を唱へた予は、近日更に連作に就て一論を試みたく思ふて居る際に、以上の四連作を得たことは、予に取つて非常に嬉しいのである。                               大正二年三月『アララギ』
                       署名   左千夫
 
(512) 叫びと俳句
 
     (一)
 
 叫びといふことを廣い意味に云ふならば、人間の爲すこと、叶を含むでゐないものは無いとも云へる。そは兎も角も單に藝術の上に云ふ叫びといふことは、其藝術の種類に依て叫びの意義にも幾分づゝの相違がある。繪畫彫刻も作者の叫びで無ければならぬと、多くの批評家は云ふて居るが、それはさう云へる意味があるに相違なからう。併しながら人間の聲音と密接な關係のある、言語文字に依て表現される處の、詩文の上に云ふ、叫びといふことは、繪畫や彫刻に云ふ叫びとは、同じ叫びといふ詞であつても、餘程異つて居ること勿論でなければならぬ。
 更に一歩を進めて、散文と韻文との上に於ても、叫びといふことの意味は、餘程異なつて居る。劇も小説も、批評も總ての議論も、給畫彫刻のそれに比すればより多く作者の直接的叫びである。
 併し予が前々號に極説した、韻文の上に云ふ處の叫びは、韻文が聲調の響きを性命とせるものであるだけ、叫びの意義が、散文に比してより多く具體的でなければならないのである。
 劇や小説や批評であつて見ると、其描寫と説明とが徹底して居るなれば、叫びを含まれた分量が、それ程目に(513)立たなくとも、其作物の價値が爲に多くを失はれないと信じ得られるけれども、韻文に於ける叫びは、前々號に云へる如くに、根本的性命であるのである そこに大なる相違がなければならぬ。勿論是れは韻文に對する、予の主張的要求的解釋であつて、是れには世間或は異論者も少くないのであらう。
 予は一日坂本文泉子を訪ふて、其所感を叩いて見た。さうして俳句の事は、深くは解らないが、自分の見る處では近代の俳句も多くは談話的興味のもの許りで、叫びのある作が無いやうに思ふが如何と問ふて見た。
 文泉子は直に俳句に對する持説を語つて、君が云ふやうな叫びのある俳句を作つた者は、古今只芭蕉一人である。俳句と歌とは、其形式に於ても内性格に於ても大に異なつて居るから、歌に要求するやうな叫びを直に俳句に要求するの可非は、容易に云はれないやうであると。兎に角今の俳句は、話の興味であるは勿論、記號した繪畫と云つてもよいものさへ多い。併し俳句は殆ど元禄に盡きて終つて、中にも作者の聲を直接に聞くやうな俳句は芭蕉一人であると云はれ、大に予の叫び説に賛成してくれた。
 予はゆくりなく、文泉子の言に促されて久しく手にしなかつた俳書を再度見るやうになつた。予も又久しい以前から、おぼろげながら、芭蕉の俳句にのみ、他の多くの俳人の句に見ることの出來ない、哀調の響きを感じて居つたのである。されば予は文泉子の言に依て芭蕉の俳句に現はれて居る叫びを吟味して見る氣になつたのである。
 歌に養はれた感覺を以て、俳句に臨むのであるから、意外な失敗を招くかも知れないことは覺悟の前である。
 「奥の細道」はさすがに感慨の溢れた句を以て滿たされて居る。才を弄して徒らに多作をせぬ抱負と自重とが一句一句に窺はれて敬服に堪へないものがある。
(514)   世の人の見付けぬ花や軒の栗
 句才を恃み技巧を喜ぶ作者であつたならば、かう平易に詠じることをせぬであらう。感嘆の情を曲折なく歌つた處に餘韻がある。聲調にどことなし響きのあるのは之れが爲めであらう。平凡とか陳腐とか云ふこと許り氣にして居る人達には餘り面白く感じない句であらうが、作者の嘆聲があり/\と読者に聞えるやうな味ひがある。
   笠島はいづこ五月のぬかり道
 「笠島はいづこ」の一語如何にも詞が自然で嘆息の有の儘である。かねてなづかしく思つて來た藤中將實方の遺跡。聞けばそれ程遠くもないと云ふが、此五月雨には詮がないとの嘆息を、其まゝに何等句作の巧もなく叙したのである。着想も感慨も極めて平凡なものであるが、嘆息其儘の表現に、同情せずには居られない味ひがある。
   夏草やつはものどもが夢の跡
 感慨の深い句と云ふを以て有名な句である。例の通り何の曲折もない感慨其儘が句になつて居る。慨然として停徊した作者の風※[横線三本縦線一本]と其嘆息の聲とが、直に吾人の耳目に觸れるやうな感がある。
   閑かさや岩にしみ入る蝉の聲
   有かたや雪をかをらす南谷
   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
   すゝしさやほの三日月の羽黒山
 芭蕉の句に於ける「や」の字の使方は、決して単なる句切れの文字ではない、又單に對象に向つて呼掛けた詞でもない。此の「や」の一字に深い嘆息の聲が現はれて居るのである。俳句を能く知らない人は誰の俳句も皆さ(515)うのやうに思ふてるかも知れねどかういふ風に「や」の一字に嘆息の籠つてる使方は、芭蕉以外の句には殆と無いやうである。試に二三の例を擧げて見れば、
   いそかしや沖の時雨の眞帆片帆    去來
   あらいそやはしり馴れたる友千鳥   同
   たけの子や畠隣に惡太郎       同
   はつ露や猪の臥芝の起あかり     同
   柿ぬしや梢はちかしあらし山     同
 「や」の字の使方が如何にも輕いではないか。かういふ「や」は單に對象に呼掛けたまでゝあつて、嘆息の聲でないことが知れるであらう。予は決して去來の句から殊にかういふ句を拔いたのではない。次に其角は如何蕪村は如何
   寐心や炬燵蒲團のさめぬ内      其角
   此の木戸や鎖のさゝれて冬の月    同
   初雪や内に居さうな人はたれ     同
   夜神樂や鼻息白し面んの内      同
   うすらひやわつかに咲ける芹の花   同
 「此の木戸や」の句は當時評判のあつた句であるが、それでも其「や」の詞には深い意味はない。句の善惡は別として「や」文字の輕く使はれて居ることは一讀して判るであらう。
(516)   閻王の口や牡丹を吐かんとす     蕪村
   河内路や東風吹き送る巫か袖     同
   夕凪や水青鷺の脛を打つ       同
   水鳥や舟に菜を洗ふ女あり      同
 見來れば何れも同じである。俳句の用語法として、それが普通であつて、芭蕉に於て獨他に異つて居ると見るべきである。能く調べて見たらば或は以上三人以外の人の句に芭蕉に等しい使方をした句があるかも知れないが、以上三人は元禄天明に於ける俳壇の代表者であるから、此人達の句に見られなければ、大體無いものと見て差支ない譯である。
 單に「や」の字の使方が異なつて居ると云つただけではそれまでゝあるが、感慨の淺深もそこにある、一句の輕重もそこにある、叫びの有無もそこにあるのであるから、此問題は俳句鑑賞の上から、決して輕々に論じ去るべき問題ではないのであらう。茲で斷つて置くが、芭蕉の句は其句悉くが、以上云ふたやうな「や」の使方をして居るかと云ふにさうは云へない。普通な「や」の句も隨分あるのである。芭蕉はそれを自覺して居つたかどうかも判然しないのである。
 
      (二)
 
 芭蕉の句集から、單に對象に呼びかけた、切れ字の「や」文字ある句を見出すことは、却て六つかしい位である。思ふにさういふ句は芭蕉句集中に何句もないであらう。試に數句を拔いて見やう。
(517)   紫陽花や藪を小庭の別座しき
   夕かほや醉ふて顔出す窓の穴
   汐越や鶴脛ぬれて海すゝし
   島々や千々にくたきて夏の海
   蓮池やをらで其儘たま祭
   鷄頭や雁の來る時なは赤し
   苅跡や早稻かた/\の鴨の聲
 かういふ句は芭蕉句集中に於てこそ例外の感があるものゝ他の俳人にあつては普通であるのである。「紫陽花や」「夕かほや」と云つても、其紫陽花や夕がほに深い感嘆の聲を發したのではない。只一個の景物として紫陽花を呼びかけ夕がほを呼びかけたのである。前項に列擧した感嘆の深い叫びの籠つた句とは、自づから句作の動機を異にして居るのである。客觀的描寫的分量が勝つて居るだけ、作者の感嘆的叫びは極めて乏しいのである。
 以上は假りに「や」の字のある句に就てのみ云ふて見たのであるが、全體に渡つて芭蕉の句には感嘆の響きを以て勝れた句が多い。前にも云へる如く「奥の細道」中の句の如きは悉く感嘆の響きを有してゐない句は一句もない。殊に注意すべきは曾良の句である。曾良の句までが、奥の細道中にあるのは、芭蕉の句と同調になつて響きを持つてる事である。
   ゆき/\てたふれ伏とも萩の原    曾良
   終宵秋風聞くやうらの山       同
(518) いづれも深い感傷に、作者の情緒の不安に揺れたさまが現はれて居る。當時作者が旅に病んで師に別れた感傷の情緒を叫んで居ることは、貳百年後の讀者に新たな事實の如くに思はせるものがあるではないか。試みに猿蓑中から曾良の句を少許抜いて見やう。
   なづかしや奈良の隣の一時雨     曾良
 なつかしやなど初めから感嘆の語で起しながら、全體の感傷の響きはない。着想が既に平凡であるのに、感傷の情も現はれてゐない駄句であらう。
   浦風や巴をくつすむら鵆       曾良
   疊目は我手のあとぞ紙衾       同
   破垣やわざと鹿子のかよひ道     同
 いづれも淺い技巧で作り上げた句許りだ。細道中にある二句の如くに深い感傷を味ひ得らるゝ句ではない。芭蕉は何故に以上兩者の相違を指示して門下を教へざりしか。予は此點に芭蕉の自覺を疑ふのであるが、そは後に至つて云ふ考である。
 自覺の如何は暫く置いて、芭蕉の句集は、感傷の深い叫びの籠つた句が至る處に發見される。
   早稻の香やわけ入る右は有磯海
   ひとつ家に遊女も寢たり萩と月
   玉まつりけふも燒場の煙り哉
   むさんやな甲の下のきり/\す
(519)   吹き飛す石は淺間の暴風哉
   俤や姨ひとり泣く月のとも
 以上のやうな痛切な題目に就て許りでなく、平易な生活の句にも猶著しく感傷の聲を聞くことの出來る句を擧れば、
   青くてもあるへきものを唐からし
   やす/\と出てゝいさよふ月の雲
   かくれ家や月と菊とに田三反
   夕月や門にさしくる潮がしら
   山寒し心の底や水の月
   碪打つて我に聞せよや坊がつま
 第一句只唐がらしが赤くなつたと云ふ意味だけである。それを青くてもあるべきものと強く感じた處に唐がらしのきび/\と赤い趣きが味はれる。第二句も只むら雲立つた空に月があつたといふまでの光景であるが、それをやす/\と出ていざよふと、強く主觀した處に芭蕉の感傷が窺はれるのである。以上の諸句いづれも題目の問題でもなく取材の問題でもない。さりとて句作的技巧の問題でもない。芭蕉の對象に對する感傷の情緒が、句々の主題であるのである。即ち作者内心の叫びが一句に性命を與へて居るのである。であるから芭蕉の句には力がある、深みがある強味がある眞面目があるのである。以上のやうな句だけを見るならばこれが俳句の持前の如く思はれるかも知れねど、以下に聊か蕪村の句を擧げて對照して見やう。
(520)   櫻狩美人の腹や減却す      蕪村
   菜の花や月は東に日は西に      同
   夏山や京盡し飛ふ鷺一つ       同
   麓なる我蕎麥存す野分哉       同
   古井戸や蚊に飛ふ魚の音暗し     同
   顔白き兒のうれしさよ枕蚊帳     同
   畑打つや鳥さへ鳴かぬ山陰に     同
 いづれも面白い云ひかたをして居る、面白い題目を捕へて居る。美しいさうして感じのよい詩的な材料を取扱つて居る。であるから面白い句であるとは云へる、句作がうまいとは云へる。藝術的な句であるとも云へる。が只それだけである。感情が平靜で態度が悠長である。全精神を傾倒した感傷ではない、深刻もなけれは雄渾もない。強い力深い味といふものが無い。
 淡然たる情緒超然たる思想。風流には相違ないが藝術的要素が、生の全態を基礎として居ないのである。苦悶は輕く執着は少い。要するに感傷が淺いのである。
 かういふ藝術には、其藝術的總量の上に於て甚しく遊戯の分量が勝つて居つて、眞面目な眞劔な生の動きが極めて少いのである。極端に云へば體屈凌ぎに供せらるべき趣味の量が多いのである。云ひ換へれば、暢氣な生活に必要なる部分が多くて、絶對なる生の叫びではない。されば此の如き藝術は其根本性に於て輕く淺く弱いのである。從て人生に對する權威が乏しく、必要不可缺的主力を有して居ないのである。
(521) 予と雖も以上の如き藝術の人間に存在することを敢て不必要視するものでない、人生生活は暢気も遊戯も平易も靜閑も、淡然たるも超然たるも、時あつて極めて必要なるものであつて、生を慰するの道として又缺くべからざるものであること勿論であるけれども、予は只其藝術がそれ以上にないのを甚だ飽足らずとするのである。
 以上は決して一人蕪村の句に對してのみ云ふのではない。元禄天明の俳句、芭蕉を除いては、大體に於て大同小異。全精神を傾倒した生の叫びが表現して居るやうな俳句は殆どないのである。されば予は茲に他の多くの俳句を例擧することを止めて置く。
 猶繰返して少しく芭蕉の句に就て云はゞ、
   夏草やつはものどもの夢の跡
   むざんやな甲の下のきり/\す
 敢て材料の奇があるでもなく、着想の妙があるのでなく、又句作の巧があるでもない。然かも力の籠つた強みと、充實した精神の緊張と、更に云ふべからざる深い味ひとが感ぜられるのは何が爲めか。芭蕉の、深い人生に對する感傷が、句作の基をなして、自然に發した叫びであるに外ならぬのであらう。後世幾百の句作り俳人の句に於て到底見ることの出來ないものである。
 「むざんやな」と頭から叫び出すやうな句作は、徒らに思索に神を勞し、題目に倔托して、言語の斡旋に巧を漁つてるやうな俳人に到底出來ることではなからう。其不用意な自然は深い感傷の發露に依て始めて見得る事である。
 情調的題目の叙述でなく、自然なる叫びの發露が直ちに情緒其物であつて、そこに作句と生との直接な交渉が(522)あるのである。
   荒海や佐渡に横ふ天の川
 嗚呼荒海やと先づ嘆呼した、のである。かういふ風に初一聲から、嘆息の音を聞得るやうな句は、芭蕉以外に於て絶て見られないのは奇である。
 常住もなき漂浪の客、蜉蝣の如き果なき身を以て、北海の荒海に對したのであるから、平生人生に感傷の深い芭蕉は、今更の如くに、大自然の無究なる活動と不變なる大觀とに對して、一層深く我生の果なきを感じたのであらう。さうして我一切を忘れて漏らした嘆聲が此一句であらう。其感懷の大きく其聲の力あるのに、遺憾なく芭蕉其人が現はれて居る。
 淡然超然として平易に安靜に生活して居る人達の腹から、決して此の句の如き、強い力のある聲が出るものではない。此句を以て單に壯大な自然を描寫したと見るが如きは、此句を解せざると同時に芭蕉を解せざるものであらう。    まづたのむ椎の木もあり夏木立
 句作の工風に凝るのを能事としてるやうな人達に決して「まづたのむ」などゝいきなりな云ひ方は出來ないであらう。初句がいきなりな云ひ方で起つてるやうに、此句は何の工風も考案もなくいきなりに出來た句に相違ないが、そこに此句の尊い生命があるのであらう。
 「まづたのむ」の一聲は、寒暑風雨に苦しみ、生に疲れた漂浪の孤客が、茲に僅に休息の地を得て、自のづから發する嘆息でなければならぬ。何を思ふ餘裕もないまでに「まづたのむ」と物にたよつた、傾倒した情態が此(523)句の表現である。
 其境遇に居り其境遇を味つた芭蕉でなければ、作れない句でもあらう、其味ひも解らないであらふ。聲調に力があり、生のにほひを感ずるのも其自然ないきなりな語調に存するのである。
 以上の數句の如きは、名句であるとか面白い句だとか、着想がどうの、取材がどうのと、そんな外的な見方で評し得べき句ではないのである。芭蕉が句作に勝れて居るから、かういふ句を作つたとも云へない。何ぜなれば前に云へる如く、以上の詩句は着想にも技巧にも別に勝れた處がないからである。然らば芭蕉の境遇上經驗とがあれば、外の人にもかういふ句が作れるかと云へば、さうもいへない。何ぜなれば是等の句は皆芭蕉其人の感慨が作句の基礎となつてるからである。
 要するに是等の句は、芭蕉其人の生が、作句に直接な交渉が存して居る處に、藝術的尊い生命があるのである。言ひ換へると句々が芭蕉の分靈であつて、芭蕉其人の價値が直に俳句の價値であるのだ。
 芭蕉と芭蕉の句を極論するのは本篇の目的以外に走るの恐れがあるから、俳句と叫びから、芭蕉の句と叫びの論途に歸らねばならぬ。
                  大正2年4月・6月『アララギ』
               署名(一)左千夫(二)伊藤左千夫
 
(524) 御製より觀奉りたる仁徳天皇
    《本年は即位千六百年に相當す》
 
      (一) 千古の疑問
 
 祖國の歴史に就て、予は固より深い知識を有して居る者ではない。勿論古代歴史の疑問など提起し得る資格を有するものではない。
 只仁徳天皇は歴代聖主の中に於て、殆ど唯一の歌人であると信じた所から、天皇の御製に殊に深い興味を以て研究した結果、是まで誰れ一人疑ふ者も無かつた、史傳に疑ひを起したのである。
 言ふまでも無く、仁徳天皇と申せば、苟も我日本の國といふ自覺ある程の者、天皇の盛徳を知らない者はない位で、其史傳は明々白々な譯であるが、其明々白々な史傳の内に、古事記にも日本書紀にも、天皇の御事に就て、聖主といふに不似合な事が書いてあるのである。
 予は段々と天皇の御製を解釋し、深く考察を潜めて、御製の依て作られた動機竝に一首一首の精神に就て、能く/\味つて見て行く中に、天皇の御閨室の事に就ての記紀の記載にどうしても合點が行かなくなつたのである。
 で、さういふ疑念を胸に置いて調べて見ると、古事記や日本書紀が、多くの歌を史傳上非常に重く視て記しながら、本文と歌とが往々其の意義を異にして居ることを發見するのである。天皇の御製に就ても其意義を誤解し、(525)甚しく御製の精神を取違へた處がある。(それは後で詳細に御製を解釋する所で云ふ)
 要するに仁徳天皇の御内行は、決して古事記や日本書紀に記す程、醜褻な意味を藏して居つたものでは無いと信ずべき理由があるのである。どうもこれは廣くは我日本の歴史の爲め、且つは我古代史上に於ける一大光彩である處の仁徳天皇の爲めに、黙過することの出來ない問題であると思ふのである。
 古事記日本書紀は、日本上代史の唯一經典と云ふべき史書であつて、それに記載してあるのだから、後世の史書がそれ以外に出ないのは、誠に當然な譯である。茲で諸家の記載を一々列記するには及ばないが、近世の碩學殊に史論に長じた頼山陽は其著日本政記で何と云つてるか。
  (前省)稚郎子之讓位。亦知3其徳屬2天下之望1也。然讓v之可也。而至v於2以v讓殺1v身。過2斷髪文身之泰伯1。可謂爲已甚者矣。遂使d致3後世u容2疑其間1。以爲或希v旨臣。如3羽父之請2於魯隱1者。而抱焉而慟。又類3太宗之哭2徳昭1。豈仁徳之處2兄弟1。又有d未2善美1者u邪。可v勝v惜。
 實に驚くべき冷酷な邪推である。千載仁徳の名を歌はれた仁徳天皇の御性格に對し、どうしてかやうな恐しい邪推が起るのであらう。思ふに隨分見識の高かつた頼山陽であつても、立派な古事記日本書紀の記事には誤られて、天皇女色に溺れ、閨門修らずと云ふやうな、誤つた憶測より深く天皇の御性格を疑うた處から起つたものに違ひない。頼山陽は更に論歩を進めて、
  帝之徳。過3禹之卑2宮室1。而不v及2湯之不1v邇2聲色1。有2文王之無逸1。而無d其儀u2寡妻1。閨門不v修。子孫視倣。政繼續之際。有2仲皇子之亂1。允恭安康之際。亦云危矣。反正之智。雄略之武。※[がんだれ+僅の旁]以足v靖2其難1。而雄略之失2任那1。亦由2好色1。夫以仁徳之徳。而一不愼焉。則貽禍後嗣如此云々。
(526) 千載仁徳の名を以て仰がれ來つた、仁徳天皇に對し、斯まで深刻な批評を加へたのは、山陽も聊か考ふる處あつての事とは思はれるけれど、山陽の云ふ通りにすると、天皇は國政の上には、仁徳の君であつたが、内行には好色の亂行家であつて、爲に禍を子孫に傳へたといふやうで、御性格の上には多くの價値を認められないことになるのである。
 一つの誤つた憶測は更に多くの憶測を生み、逢に途方も無い、寧ろ亂暴とも云ふべき結論を得ることゝなつた。末頃田狹臣を殊更に任那に遣し、田狹が未だ出發もせぬ内に其の妻を横奪した、堆略天皇の暴逆を引合にして、仁徳天皇の好色を斷じて居るには、予は殆ど戦慄した。歴史家の憶測が斯くまでに人を傷ふの大なるに至るに呆れたのである。
 乍併我日本從來の史学は、此山陽の仁徳天皇論を誰れ一人怪み咎めた者も無く、片言隻語だも敢て非難を如へた人も無い處を見ると、仁徳天皇に對する史學上の批判は、大抵其邊に極つて居ると見られる譯である。
 それといふも、殆ど動かすことの出來ない、古事記日本書紀の記事が、根柢を爲して居るのであるから、山陽の妄評と云ひ、一般史學がそれを怪まないと云つて、強ちに非難する譯には行かない事情もある。けれども我日本列聖中の、一大光彩と見るべき仁徳天皇の御事蹟中、殊に其御性格が、千載に誤解されて居るかと思ふと、實に殘念で堪らない。
 仁徳天皇は、斷じて一般歴史が傳ふるやうな好色の御方では無い。寧ろ當時の列聖中に於て、殊に御内行の清淨なりし實蹟が歴々明記し得られるのである。天皇の御内行に對する千古の誤解を闡明しようとするには、どうしても先づ古事記日本書紀の記事を糺してかゝらねばならないが、予は古事記日本書紀以外に一册の古文書も、(527)別な材料も持つてる譯ではない。予は飽まで糧を敵に依るの手段で、古事記日本書紀所載の歌を吟味し解釋して、古史の誤傳を正したいと思ふ。
 されば予の所説は、甚だ考證的努力の少ないものであるが、予は是非共、此千古の疑問を史學壇に提起して、有力なる專門史學家の攻究に資したい。
 猶事は聊か餘談に亙るが、仁徳天皇の記事は、其御内行から誤りを後世に傳へただけあつて、上代列聖中に於て最も御内儀の記事に富んで居る。從て天皇の御内行が最も能く後世から窺ふことが出來る。さうして其御内行から生れた御製は又列聖中に於ける唯一のものである。其御製の數の上に於ても、文學上の價値の上からも、前後に其類が無い。
 さういふ方面から考へても、天皇の御内行研究は、非常に興味の多い問題である。上代文明の内容が明瞭に意識されるといふ點が殊に愉快である。されば少しく繁雜に過ぎる嫌はあるが、先づ古事記日本書紀所載の御製を全部評釋してかゝる考へである。
 併し解説の順序として、我日本の古代史と歌との關係を其前に記述して置かねばならぬ。
 
      (二) 日本古代史と歌との關係
 
 神話に近いと云ふよりは、殆ど神話である處の古代史の中から、吾々現代民族の、思想感情の泉源を、事實的に慥かめようとするならば、古事記日本書紀所載の歌に求むる外はない。
 天つ神國つ神の記事は勿論、人皇時代になつても、顯宗武烈あたりまでの記事は、猶人間らしい處が少ない。(528)併しそれが歌の方から見ると、どの歌も一つとして(詞は少し解し惡いけれど)吾々思想感情の系統から少しも離れたものではない。であるから記紀の記事の中から、歌だけ取離して讀み味つて見ると、吾々の祖先即ち吾々と等しい人々が髣髴として頭に浮んで來るのである。
 かういふ處から記紀の文を讀み考へると、茲に種々な判斷が浮んで來るのである。予は今仁徳天皇の御内行の實際心證を得ようとするに就て、後人の作爲の加はつて居ないと認められる御製に依るの外はない。歌以外の記事は、種々な理由から殆ど信を置けないものであるといふことを、先づ記紀全體の上から考察して掛らねばならないと思ふのである。
 勿論日本書紀は古事記に比べると、餘程歴史の體を爲して居る。尤も古事記の撰録者太安萬侶は、又日本書紀編者の一人でもあるのだ。それで古事記の方は、其の太安萬侶が序文にも書いて居る通り、當時稗田阿禮と云へる、「爲人聰明度v目誦v口拂v耳勒v心」なるものが、勅命に依つて、帝皇の日繼及び先代舊辭を誦習つたものを、太安萬侶が文字に撰録したのであるから、其撰録の精神が始めから日本書紀とは違つて居る。
 それに反して、日本書紀は舎人親王などが、太史官のやうな主役で、太安萬侶も其史官の一人として、兎に角堂々たる態度で、我日本に始めて官撰の歴史を作つたのである。
 要するに古事記は、聰明な稗田とは云へ、一人の誦習つた舊事を、太安萬侶が一人で撰録したもので、日本紀の方は、外にもあつたらしい、誦傳物《よみつたへもの》の多くの中から、幾人かの人が評議採決して撰したものであると云ふだけの差があるのである。故に日本書紀の方が、精神に於て正しい歴史であることは言ふまでもない。一見より多く歴史の體を爲して居るのも當然な譯である。
(529) 乍併誦傳物(假にさう云つて置く)と云ふものは無論口から口へ誦習はれて傳はり來たもので、それには代々作り加へて來たといふ意味も無ければならぬ。それがどういふ意味に於て傳はつたか、如何なる資格の人に依て行はれたか、考ふべき點が多いけれども、茲ではそこまでは詮索しない。が必ず代々幾人かづゝさういふ誦傳へた人があつて、決して一人や二人では無かつたらうから、或は傳へる人に依り又は作り加へた人の相違もあつて、同じ事柄に就ても必ず幾分づゝの相違があつたものと見ねばならぬ、といふこと丈を言つて置きたい。
 日本書紀の初めの方に「一書曰」云々とあるは大抵それであらう。繼體天皇頃以下は兎に角、其以前に「一書曰」など云ふべき立派な典籍はありさぅもない。多少あつた處で、所謂其誦習つた人々の手控と云つたやうな者位に相違ない。
 さう云ふ次第であるから、古事記と日本書紀とは撰録の精神に於て、前に云つたやうな相違があつたにしても、材料の據所が誦傳物より外に出ることは出來ないから、大體に於て多くの相違があらう筈は無いのである。されば日本書紀が、始めから歴史の體を爲してゐるのも、其記録の體裁を歴史らしく作つたに過ぎないものと云つて良いのである。
 序でに云つて置くが、應神天皇の代に誰れも知つてる通り、漢籍は日本に傳つて居るが、繼體天皇の頃まで約三百年の間は、猶全く其字義を解し得なかつたと云ふ位であるから、文字に依つた記録らしい物などある筈がない。天智天皇の皇子大津皇子などは、詩文を能くしたとあるが、持統天皇の御宇即太安萬侶の時にさへ、稗田阿禮の口誦から、漸く古事記が出來た位で見ると、當時文字の程度は大抵想像が就くのである。
 それでも日本書紀が、其繼體天皇頃から、漸く實歴史らしくなつてる處を見ると、繼體天皇以後には漸次記録(530)らしい物が出來て來たものと思はれる。
 要するに、日本書紀も、顯宗天皇武烈天皇あたりまでの處は、其誦傳物を撰録する外は無かつたものに相違ない。で、打見た體裁は良くとも、古事記にあるやうな、稍々坐興話に近いやうな處を省いたまでの事で、餘り大なる差異は無いのである。
 それから前にも一寸言つたが、其誦傳物が、長い間重にどういふ意味に於て誦傳へられて來たものかと云ふことに就て考へて見ると云ふ事は、記紀の記事を實際的に考察する上に於て、極めて必要に又極めて興味のある問題であらう。勿論稗田阿禮などは勅命に依て誦習つたとある位で、其以前に於ても、少くも漢籍渡來の頃からは、其所謂舊辭を誦習ひ、誦傳へ、又|作誦《つくりよ》む上には、必ず幾分の、眞面目な嚴肅な、歴史的典籍を傳ふる精神が加はつて來たには相違無からうと思はれる點はある。
 記紀いづれも、勅命といふ嚴肅な意味で撰録されたに係らず、或點までの記事の大體は、どう見ても時代時代に於て、訓辭を誦習つた其主なる意味が、史實を傳へると云ふよりは、多くの人に誦聞かせ、それを聞く多くの人も、今の世の讀物謠物に稍々等しい、興味本意であつたらうと思はれる點が多い。嚴肅な意味で誦習ひ誦傳へるといふのは、表面の言ひ方で、語り物謠い物として傳つたのが實際であつたに違い無からう。謠物と云ふと歴史の精神と頗る離れて來るやうだが、物語ることと歌ふといふこととは元來日本語の自然であつて、今日でさへ或地方では、語ることを歌ふと云つてる「あの人がかう歌つた、これ/\歌つた」と云うて居る。古事記などの大體は上代の歌ひものに相違ないのである。
 餘り問題が中心を離れるから、成るべく切上げを急ぐことゝするが、要するに、記紀の或點までの記事を一貫(531)して居る大要を見れば、
 第一に兩性の關係、
 第二に爭闘、
 第三前二者に關聯した歌
 それ以外に出た記事は、撰録者が經典としての體裁を作る爲に附加へたと云つて良い位である。其歌の多い處などは、記事は殆ど歌の詞書のやうで(尤も歌が主で事柄を附加へたものが多い)歌集と見て少しも差支ない程である。それ等が第一に興味が主であつたといふ證據である。
 兩性の關係に就て、少しく云つて見ると、丹塗の矢で陰を突かれたとか、梭《ひ》に陰《ほど》を衝かれて死せりきとか、裳紐をほどにおしたれとか、ほどの記事が幾個所あるか知れない。其他|婚《みあひ》といふ文字は何百となくある。古事記は一に婚の記と云うて良い程である。さういふ事の多い誦物を聞いて、八百萬の神達が、高天原を搖がして笑ひ喜ばれた有樣が目に見えるやうである。それから總ての敵に勝利を得た喜び、それが盛に空想され誇張されて詩的に歌はれたのだ。
 それだけであると、吾々の祖先は餘程野蠻な神達と思はれるが、なか/\以て野蠻でない證據には、戀の歌は勿論の事爭闘に勝つても負けても歌を誦んで居る。さうして其歌が皆立派な文學になつて居る。
 歌は勿論興味が主であるに相違ないが、歌は歌其物が傳はり易いに比して、史傳的事實の方は、事件其の物に興味を求めるのが自然であるから、どうしても誇張され附加され易い理由がある。唯さういふ記事を神話として讀んで居るには何の差支もないけれど、幾許か眞面目に史傳の意を以て見る段になると困るのである。
(532) 結局記紀に於て、其誦傳物を撰録したと見ゆる部分の記事には、多くの信を置けないといふ事になる。要する處、記紀の書記から、吾々祖先の實際的俤を髣髴せうとするには、誦傳者の附加も誇張もない歌を味つて見る外はない。歌はどの歌でも直に上古の俤を味へるが、茲に二三の例を擧げて見る。
 須佐之男尊なども、其記事には、少しも人間らしい處はないが、三十一文字歌の創作と云はるゝ、彼の有名な八雲立つの歌はどうであるか、少しく評釋をして見よう。
   八雲立つ出雲八重垣妻こみに八重がきつくるその八重垣を
 結句「八重垣を」の「を」は「よ」といふ意になる古語の格である。多少難解な點が無いではないが、大體に於て了解し得る歌である。
 靜かに雲の八重垣が立つた、妻こめに我が居る新しい我家の爲に空の雲が八重の垣を作る、其八重垣の心よさよ、と解せられるのである。一讀して飽まで心の落ちついた、平和な氣分が溢れて居ることを感ずるであらう。
 猶繰返し味うて見るならば、須佐之男尊なる方が、決して別世界の神といふものでなく、又敢て不可思議な人間でもない、今日のわれ/\と少しも變らない思想感情に生きた、まさしき人間の聲調が自然に了解されるのである。
 若い時代には隨分亂暴もし、我儘者であつたにせよ、四方を放浪して幾多の苦勞を經た後に、ゆくりなくも居處が定まり、愛しい妻をも得、新しい住居も出來たのである。そこで自から思想感情も落ちつき、悠然四圍の光景にも親むといふ平和怡樂の情を言外に湛へて居る歌である。
 此歌を味つて見てから、須佐之男尊に關する記事を見れば、それが悉く假想のもので、極端に誇張されたもの(533)であるといふ感じが強くなるであらう。此一首の歌に依て始めて、眞實な須佐之男尊の、圓熟した尊い人間としての人格が窺はれるのである。
 豐玉艮賣命は海神の女と云ひ、其御子鵜葺草葺不合尊を産む時は、八尋の鰐となつて、匍匐委蛇《はひもこよひき》とあるが、其後御妹玉依姫を遣はし、日子穗穗手見尊に獻じたといふ歌は、
   あか玉は緒さへ光れど白玉の君がよそひし尊とかりけり
 この歌はどうである。神でもなく鰐でもなく、あり/\とした女性の姿と其感情とが形にも聲にも現はれて居るのみならず、其夫なる尊の白玉をうながせる姿まで見えるやうな歌である。直ちに今の世の人の歌として見ても少しも異なつた處のないまでに、女性の情緒が溢れてるではないか。
 歌だけは事實を傳へて居ると思ふ感じが盆強くなる。下つて神武天皇の御製にも、
   葦原の醜けき小屋《をや》に菅|疊《たゝみ》いやさや敷きて我が二人寢し
 これは天皇が、皇后伊須氣余理比賣を宮中へ入れられた時に、其以前始めて姫を愛された時の歓びを歌はれたものであるが、如何にも實際的な、光景と情緒とが溢れて居つて、此歌を書いて知らない人に見せたならば、今詠んだ歌と云つても、恐らく怪む者は無からう。古事記は丸で神話であると誰れも云ひ、又全く神話に相違ないが、歌には一々人間の聲調が響くばかりでなく、其實際の人事的光景までまざ/\と現はれて居る。
   猶八千矛神と嫡妻《むかひめ》須勢理毘賣命との贈答の歌を見ても、其歌には能く人生の自然と、紛ふ方なき吾々の祖先たる男子と女子との性質が現はれて居る。
 要するに歌はどの歌でも人間の實際を語つて居るのである。で、記紀の中から歌だけを殘し、文章を悉く消し(534)て終つて、其歌から直接に事實を求めて見るならば、神代の祖先神々と吾々との間に、少しも隔たりの無い事を、容易に發見し得られるのである。されは一面から云ふと、歌を充分に解して掛らなければ、古代史の研究は殆ど闇であるのだ。其外事柄を記した方は、前に繰返し言つた如く興味を主とした謠物を撰録した物であるから、其年代と云ひ事實と云ひ、殆ど當にすることの出來ない實證が幾個所にもあるが、餘り長くなるから省いて置く。
 斯くまで長く記事と歌との關係に就て詳説したのは、仁徳天皇の御内行が、千載に誤解された原因は、全く其信の置けない記事が誤り傳へたものなる事を證せんが爲めである。尚ほ神代の卷の記事は、後世誰れもそれを事實として見る者も無いから、差支ないやうなものゝ、仁徳天皇あたりの記事になると、多くの人が、それを事實と見るから、誤解されたのである。それ故聊か問題外に渡つたやうだが、記事と歌との關係を、聊か解説したのである。
 
      (三) 仁徳天皇は何故に好色の評を得給ひしか        
 
 日本書紀の方は、さすがに正史といふ精神で撰録されたものであるだけ、興味的に油を掛けたやうな記事は、餘程省かれてある。それで強ひて日本書紀の中から、天皇の色に關する記事を求めるならば、
 二十二年春正月天皇語2皇后1曰。納2八田皇女1將v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2皇后1云々、と天皇と皇后との間に贈答の歌が五首ある。次に三十年九月云々、皇后遊2行紀國1云々、天皇伺2皇后不在1。而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟。聞3天皇合2八田皇女1而大恨之云々。只これだけである。それでも、天皇が、八田皇女を宮中へ、召し納れねばならぬ理由を、少しも考へずに、且つ天皇のかずかずの御製を了解もしないで、(535)只其記事だけを見るなれば、それは天皇が好色の爲めと見られないことはない。併し日本書紀の撰録者が、爰にある多くの御製を充分に了解して、天皇の御精神を知り得たならば、此邊の記事は、今少し後世を誤らないやうな書きやうがあつたのであらうと思はれる。而して後世日本書紀を讀む人が、御製を眞に解し得たならば、是等の記事を以て直に天皇の好色を云々する譯は無いのである。兎に角かういふ記事に依て、天皇は後世から好色の御方と誤られたに相違ない。
 それには古事記の記事が更に油を掛けたのである。尤も古事記の記事は、例の興味本位の證傳物其儘であるから、誤を傳ふべき有力な材料となつたのである。皇后磐之姫も興味的に誇張された、古事記の記事に依て、大嫉妬家にされて終つた(此事は後に歌の解の項に其誇張に過ぐることを云はう)。其記事を譯すれば下の如くである。
 紀の國に行幸の間に、天皇八田若郎女に婚ましぬ。還幸の時に水取司に使はれし、吉備兒島の仕丁、是れが己れの國に退る時、難波の大渡に、後れたる倉人女の船に遇ひて語り云ふ、天皇者此頃八田若郎女を召して、晝夜戯遊給へるを、太后は此事を知り給はねば、靜に遊幸云々と。倉人女はそれを聞いて御船を追うて、具さに其事を太后に語れる故、茲に太后大に恨怒云々。
 天皇が後世から、好色の御方と誤られたのは、全く以上の記事に原因したらしいのである。此記事で見ると、仁徳天皇は其當時に於て、已に世人から誤解せられて居られたものである。(誤解の理由は御製を解する時に云ふ)。それが立派な書籍に記載されたのであるから、後世誤り傳へるのは、無理のない譯であるけれども、今の世の中でも、妻の留守に別な女を入れたといふやうな事は、興味あふ噂話の種になり易い如く、一般の人は内面に存する深い理由は知らずに、更に誇張して誦物にされたそれが、猶幾百年の間誦傳へられたうちに更に誇張さ(536)れたものであらう。然るにそこに撰録者が深い考察を加へず其儘傳へたのが、古事記の記事と成つたのである。後世史籍を見る者、悉く之を重んじて歌の方を閑却した結果、愈々誤解の正される時がなかつたのである。
 今の世の中でも、戀の歌を多く作れば、歌を解しない一般の人からは誤解を招き易い。それと同じく仁徳天皇は列聖中最も戀の歌に富んで居られる處から、古歌を解し得ない歴史家に誤解された點も多いと信ずる理由がある。それは學者の耳に一寸通じ難い話であるが、現に記紀の撰録者でさへ、多くある歌の意義を充分に解し得なかつたものと見え、歌に就ての記事が其歌と意義の一致しない處が、幾個所もあるのは何よりの確證である。
 我國の古代史に於ては、歌が最も事實を語つて居るものである。さればこそ、何かと云へば直ぐに歌が出てくる位、重要な位置を占めて居る。記紀の撰録者が早く其意義を取違へて載録してある程に、歌に修養の無い後世の學者が、眼光紙背に徹する能ざつたのも實に止むを得ない次第だ。かくて仁徳天皇の御内行は後世に誤解される事となつた。さういふ意味から天皇は誠に御運が惡かつたと申上げる外は無い。
 もう一つ天皇の御閨門の事に種々の憶測説を生じた原因は、古事記の中に以下のやうな記事がある。
 「太后石之日賣命、甚だ嫉妬多く、故に天皇の使はす妾《みめ》達は宮中を得のぞかず、言立てば足もあがゝに嫉妬み給ひき」とある。后妃の嫉妬が必ずしも天皇好色の證とはならぬ、又それが爲に閨門修らずと速斷することも出來ない筈である。併しかういふ記事が天皇に對する後世の誤傳を助長するに力を添へたらうと思はれるのである。
 予の考ふる處では、石之姫皇后の嫉妬といふ事も古事記の記事が餘り大業に失して居ると思ふ。で、遉に日本書紀の方では、さういふ處を削つてある。石之姫皇后の嫉妬といふ事に就て考へて見るに、天皇と姫との間に家庭上の爭ひがあつた事は、次に列擧する歌に依て明かであるが、其爭ひを直ちに姫が嫉妬の結果と速斷すること(537)は出來ない。それも御製と皇后の御歌とに依て、其内情を窺ふことが出來る。
 天皇と皇后の間に纏つた爭ひの原因を、御製なり御歌から歸納して見ると、明かに二つの原因のあることを知るのである。其一つは天皇と皇后との間柄は、尋常以上の戀中であつたと云ふ點である。殊に皇后は深く天皇に戀して居られた、詳しくは例歌の項でいふが、萬葉集二卷にも皇后の戀歌が出て居る。
   かくばかり戀ひつゝあらずば高山の岩根しまきて死なましものを
    註「戀ひつゝあらずば」懸ひつゝあらんよりはの意。
   有りつゝも君をば待たん打靡く吾黒髪に霜のおくまでに
 無論是れは天皇に戀しての御歌である。茲で少しく斷つて置かねばならぬのは、人の口から誦傳へて數百年忘れられなかつた當時の戀歌と云ふものは、後世の歌の鑑賞的に多く咏まれた歌とは頗る其根柢を異にして居ると云ふことである。故にかういふ歌は事實を證明する材料となるのである。
 其二は八田皇女はどうしても皇后にせねばならぬ人であつた事である。(其理由は後に云ふ)
 此二つの原因から、御兩人の間に起つた葛藤が、記紀にある多くの歌を生んだのである。さうして其多くの歌から、天皇好色の名も出た。石之姫嫉妬の名も出たらしいのである。されば其御製及御歌を充分に解釋して、其葛藤の原因を究めさへすれは、天皇の御内行に對する千古の誤傳が明かになる藥である。
 
      (四)仁徳天皇紀に現はれた歌及古事記の歌
 
 記紀に載せられた、天皇の御宇の歌は長短歌合せて三十首ある。其内本論に關係のない數篇を除き、他を以下(538)に評釋する。茲で歌の評釋をするのは聊か煩しい譯であるが、上代の歌は少しく註釋を加へなければ、專攻以外の人には解し難いから止むを得ないのである。
 記曰、「爾に天皇吉備海部直之女、名は黒日賣釋容姿端正と聞こして、喚上げて使ひ給ひき、然れども太后の嫉を畏みて本國に逃下りき、天皇高臺に座して、其黒日賣の船出浮海を望瞻して以歌曰」、
   沖邊には、小舟連らゝく、黒崎の、まさづ子吾妹、國へ下らす
 黒崎は吉備の地名、黒姫の在所をさしたのである。まさづ子は、家で呼ぶ黒姫の親み名で、上代の風俗、謂ゆる母の呼ぶ名である。で御歌「まさづ子吾味」と云ふのは其詞の内に十分親みの意味が含まれて居る。
 御製の大意は、海の沖に小舟が連なつて澤山見える、黒崎まさづ子吾が思ふ妹が今國へ下る、と云ふのである。只まさづ子が國へ下ると云つたきりで、他を云はない處に、却て姫を愛惜する深い情愛が現はれて居る。能く一首の聲調を味つて見れは、叡慮の存する處が自ら解る。
 次の文には例の如く事々しく石之姫嫉妬の状を記してあるが、予の見る處では天皇は別に御考があつて、黒姫は歸へされたものと信ずる。只石之姫嫉妬の爲に黒姫が逃げ歸つたものならば、石之姫の嫉妬は其時始つたものでない筈で、天皇が始めから何の用意もなく、遠くから黒姫を召寄せられる譯がない。
 「茲に天皇其黒姫を戀ひ給ひて、大后を欺きて淡道島見給はんとて幸行の時、淡道島に座して遙望歌ひたまはく」
   おしてるや、難波の崎よ、出立ちて、我が國見れば、淡島、おのころ島、あぢまさの、島も見ゆ、さけつ島も見ゆ。
(539) 此歌は註解の必要はない、只「我が國見れば」は我れ國見をすればの意。御製のこゝろは、淡路島おのころ島が竝んで見える。あぢまさの島もさけつ島も竝んで見える、と嘆息されたのである。それに相思の中の黒姫と離れ離れになつてをるといふ、淋しい御心持が含まれて居るのである。言葉の上には少しも其意を云はないで、只竝んで居る島の名を呼び掛けた許りであるが、一篇の聲調に嘆息の響があり、能く味つて見ると情の籠つた御製たるは論を竢たない。
 「乃ち其島より傳ひて吉備國に幸行しき、爾に黒姫其國の山方の地に大坐しめて、大御飯を獻りき云々、天皇其孃子の菘を採む處に到坐して歌ひたまはく」
   山方《やまかた》に、まける青菜も、吉備人と、共にしつめば、楽しくもあるか
 極めて簡素な天皇の行動が窺はれて面白い御製である。此御製にも其無造作な詞の内に、當時の天皇の情緒が現れて居る。第三句普通ならば、「吾妹子と」と云ふべき處である。それを吉備人と他人らしく云ふ處に、多少洒落れた意もあるが御自分を客にした意があるのである。此一語の内にも天皇が既に内心餘儀ないことゝして、黒姫を斷念されて居られたことが窺はれる。之れを單に皇后を憚つて、天皇が本意なく斷念されたと見るのは淺い見方である。
 此歌の調子には寧ろ洒落れた、輕快な情調がある。天皇はかうして忍んで幸行あらせたものゝ、既に御心の内には姫を斷念せられて居るから、姫の内心を察して姫を慰藉するやうな自然の感情が含まれて居る。
 「天皇上幸の時に黒日賣の獻れる歌」
   大和べに、西吹きあげて、雲はなれ、そきをりとも、我れ忘れめや
(540) 歌の大意、大和の方へ西風が吹上げて雲ばなれしたやうに遠のき居るとも、我れ我が君を忘れやうか、との意である。「そき居りとも我れ忘れめや」の聲調には悲しい情緒と幾分の恨みが含まれて居ることを味うて置かねばならぬ。
 「又歌曰」
   大和べに、ゆくは誰が夫、こもりづの、したよばひつゝ、行くはたがつま
 「誰がつま」とは天皇をさしたので、我が人ではない誰がつまかといふ意である。「こもりづは」は隱水《こもりみづ》の意。一首の大意は、大和へ締歸行くなつかしい人はそれはもう我が夫《つま》ではない誰れの夫か、こゝへの幸行すら忍びごとにして行かるゝは到底我が人ではない誰れのつまかといふのである。此歌は一首の調子に悲しみの情よりは、恨みの強い稍々すね氣味な情調があるのである、「行くは誰がつま」とわざと餘所々々しく云ふ詞の底には慥かに恨めしい情緒と、むしやくしやしたすね気味な情とが籠つて居る。それは天皇が内心斷念せられて居るから、姫の心では天皇の思召が今少し深いならば、どうしてなりと縁は繋がれやうものをとの念があつたに相違ない。
 輕快に洒落れて姫を慰められた御製に見ても、天皇が内心既に姫を斷念されて居ることが知れて居るから、姫の歌には哀怨の情と稍々すねたやうな濁つた情調とが現はれて居るのである。
 元來古事記の記事の通りならば、黒姫は假令へ皇后の嫉妬に怖れられたにせよ、天皇の思召に背いて國へ逃げ歸つたのであるのに、天皇はそれに何等の咎めもなく、八隅知らす大君といふ御身を以て、遙々姫の爲に吉備の國まで幸行されたのであるから、黒姫なる者感泣して御心の篤きを喜ぶべきである。然るに却て天皇からお愛想の御製があつて、姫の歌は悲哀と怨恨の情とを漏して居る處を見ても姫に對する天皇の愛著心が、どの位の程度(541)にあつたかゞ解る。
 紀云、「十六年秋七月戊寅朔、天皇宮人桑田玖賀媛を近習舍人等に示して、朕れ是婦女を愛《め》さんと欲へども、皇后の妬を苦《うれ》ひて、得|合《め》さず多年を經たり、何ぞ徒らに其盛年を棄《さまた》ぐべきとのたまひて歌ひけらく。」
   みなそこふ、おみのをとめを、誰れ養はん
 「みなそこふ」は水底經でおみにつゞく枕詞であを「おみのをとめ」は臣の孃子である。歌意は詞の通り簡單な意である。
 前に黒姫を國へ歸らしめたと云ひ、玖賀姫を近習に賜はつたと云ひ、假令記紀の記事の如く皇后の嫉妬に依つたにせよ、天皇の情操正しき決斷が無ければ、爲し得る事ではない。是等は皆天皇の御内行の公明な證にはなるが、少しも天皇の好色を議する證とはならない。
 予の考では、天皇は八田皇女を宮中に入るゝに就て、石之姫の快諾を得んと切望された御精神から、八田皇女以外の女子に就て、總て石之姫の歡心を傷はないやうにと勉められたものに相違ないと信ずるのである。
 紀云、「二十二年春正月、天皇皇后に語つて、八田皇女を納れて妃に爲んと曰へる時に、皇后聽かず、爰に天皇歌を以て皇后に乞ひ給へる御製。」
   うま人の、立つる言立て、うさゆづる、絶え間繼がんに、並べてもかも 「うさゆづる」は儲弦《をさゆづる》で、掛替に用意して置く弓弦である。此歌は最も巧妙な比喩で成立つて居る。歌の大意は、決して僞るといふこと無き君子貴人の誓言を立てゝ云ふからは、必ず御身を疎むやうなことはせぬ。掛替《かけかへ》の儲弦のやうに、御身の居らぬ時などの代りにせんと思ふに二人並べてよといふのである。
(542) 此の歌を深く味うて見ると、種々な深い意味の含まれて居ることを發見する。「うま人の立つる言立て」と云つた御詞は、漫りに一時皇后を欺き賺す爲に言ふ詞ではない。天皇平生の操行が、非常に勝氣に氣六つかしい石之姫に對しても、自分の云ふことに僞りはないぞと言ひ得るものと見られるのである。
 「並べてもがも」一通りの意味は、八田皇女と石之姫とを二人並べて宮中に置きたいと云はれる意味に過ぎないが、二人並べると云つても、皇后の二人あるべきでないから、八田皇女が宮中に入内されるれば其儘すぐ正后に立させられて、石之姫は天皇の皇太子時代とかはりなく妃の列で終らねばならぬのである。そこで此の一句が二つの重大な意義を齎らして來る。紀にも記にも、皇后石之姫とか大后云々とか、石之姫は始めから皇后であるやうに書いてあるが(勿論紀には二年春磐之姫を立て皇后となすと明記してある)此の御製で見ると石之姫は皇后になつてゐられないことが明かである。(猶外にも證あり後に云ふべし)次に八田皇女が早くから皇后にならるべきであつた事も「並べてもがも」の内に含まれて居る。尤も紀には菟道太子自殺の際の遺言を記し、太子啓兄王曰云々、乃進2同母妹八田皇女1曰、雖不足納綵僅充掖庭之數乃、且伏棺而薨、とあるけれど、例の事々しい書きやうであるから悉くは信じ難いのであるが、今此御製に對照して見ると、或はさういふ事が實際あつたのかも知れない。
 「皇后答歌曰」、
   ころもこそ、二重もよき、小夜床を、並べんきみは、かしこきろかも
歌の意は、衣ならば二重もよからんが、二人の妻に床並べさせんとする君は恐しい御心ぢや、といふのである。此歌に別段深い意味は無いやうであるが、一首全體の調子から察すれは、八田皇女を宮中に入れられやうとする(543)に就て、正面から拒み得る理由の無い弱さが窺はれる。
 「天皇又歌曰」
   押照る、難波の崎の、並び濱、ならべんとこそ、其兒はありけめ
 三の句並び濱までは、四の句の「並べんとこそ」の詞を云ひ出さんが爲めの序である。御製の意は、御身も知れる如く、御身に並べて宮中に入れんとてこそ、待たしてある其兒はあるではないか、あるであらうに、といふのである。其兒とは八田皇女である。皇女はどうしても皇后にせねばならぬ義理の兒ではないか、そこを聞きわけよとの意で、それを理詰めに言はないで、御身に並べよと婉曲に歌はれた、天皇の情操を味ふべきである。
 「皇后答歌曰」
   なつむしの、日むしの衣、二重著て、かくみやだねは、あによくもあらず
 「なつむしのひむしの衣」の解釋は古人の説紛々一致せず。余は無造作に夏蒸の日蒸の衣として、蒸し熱い衣の意味に解きたい。大意は、蒸し熱い衣を二重著たやうに、二つま並べた夜床寢が何がよからう厭な事だ、と云ふのであらう。
 此御歌も、嫉妬々々と歌はれた石之姫の御詞にしては如何にも力が弱い。矢張り正面から皇女を拒む理由が無い悲しさに稍々失望してやけになつたやうな調子を現して居る。
 「天皇又歌曰」
   あさづまの、ひかの小坂を、片泣きに、道行く者も、たぐひてぞよき
 これも巧妙な比喩である。御製の大意は、御身も知らるゝ、朝妻のひかの坂を、連れもなく越して一人泣きに(544)道を行く者も連れがあればよいやうに、御身も皇女と相副ひて語合ふた方がよからうにと宣ふのである。
 初の御製は「並てもがも」と乞ひ求め、次の御製は「並べんとこそ其兒はありけめ」と止むことを得ぬ事情を諭され、第三の御製には「たぐひてぞよき」さうした方が御身の爲にもよいぞと、姫の迷ひを懇ろに諭されたのである。石之姫は遂に聴かずして答へなかつた。
 以上三首の御製は、菟道太子と八田皇女とに對する天皇の情操も窺はれ、天皇が皇子たりし時に正妃であつた石之姫に對する天皇としての情操も察せられる。天皇が其御内儀の處理に就き、其態度の理義明白、情理宜しきを失はなかつた、正しく美しい情操を、明瞭に意識することが出來る。
 黒姫の事、玖賀姫の事に就ては、天皇御自身の希望を空くして、石之姫の感情を損はずと勉められたのに、石之姫はどうして、八田皇女の事を忍び得なかつたか、そこが石之姫の嫉妬々々と云はれた所以であるらしいが、猶考ふべき餘地がそこに大に殘つて居る。
 紀云、「三十年秋九月云々、皇后紀伊に遊行云々是日天皇皇后の在さゞるを伺ひて、八田皇女を娶して宮中に納れましき。時に皇后難波の濟に到り、天皇八田皇女に合ましきと聞こして大恨云々。爰に天皇皇后の忿つて著岸し給はざるを知らずして、親ら大津に幸して、皇后の船を待ちつゝ歌ひたまはく、」
 記紀の記事の如何がはしいことは、前に繰返して云ふたけれども、爰にも「皇后の船を待ちつゝ歌ひたまはく」とあるが、其御製は待つ歌ではなくて次の解の通りである。
   難波人、鈴舟とらせ、腰なづみ、その舟とらせ、大みふねとれ
 「鈴舟」は鈴をつけてある舟である。昔驛路の鈴といつたやうに官船には鈴を著けたものであらう。歌意は、(545)難波人それ鈴舟の綱をとれ、腰までも水に漬つて早く其の舟を引け姫の乘らせる大御舟の綱をとれ。
 石之姫が舟を岸へ著けまいとする樣を天皇が御覧あつて、あわてゝ仰せられたさまが、如何にも能く詞の上に現はれて居る。
 「時に皇后大津には泊てずして、更に舟を引いて江を泝り山背より廻りて倭に向ひき、明日天皇舎人鳥山を遣して皇后を還さしむ、乃ち歌ひたまはく」
   山城に、いしけ鳥山、いしけいしけ、吾思ふつまに、いしき逢はんかも
 歌の大意は、舟の後を追うて山城に追ひつけよそれ鳥山、追ひつけ/\さては吾が思ふ妻に追ひつき逢はれるか知らんといふのである。磐之姫は天皇の岸に待ち給へるを顧みず、直ちに御船を河に向けさせ山背をさして溯られたのである。それを舍人鳥山に命じて追ひかけさせられた歌である。取急いでそれ早く追ひかけよと急ぎ立て給へるさまが目に見えるやうである。爰も前文は歌の意と一致しない。
 「皇后還りまさず猶行まして、山背河に到りて歌曰」
   つぎねふ、山城河を、河のばり、我がのばれは、河くまに、立ち榮ゆる、百たらず、八十葉の木は、大君ろかも。
 「つぎねふ」「もゝたらず」共に下の詞へかゝる枕詞である。歌の大意は、山城河をだん/\と我がのぼりくれば、河のまがりに、立榮ゆる美しい八十葉の木は、我れをそこに待ち給へる大君かと思はれる、といふのである。天皇の種々に仰せられたのも振切つて、心強く河をのばつて來たものゝ、悲しさと淋しさと、さうして猶天皇の戀しさに、河隈に榮えた美しい木が、夫天皇の立給へるかと見えるさまなのである。
(546) 古事記には別に變つた長歌が一首あるが、それも心は同じさまの歌である。いづれも前文には、皇后大に恨み云々、大に忿り云々とあれど、歌の上に少しも天皇を恨める處も怠れる處もない。あはれに悲しい感情が二つの歌に漲つて居る。以上の歌は磐之姫嫉妬云々を解釋するに就て、最も注意して置かねばならぬ歌である。磐之姫の行動が只單純な嫉妬から出たものであるならば、さう一筋に思切つて心強く天皇の思召に背かれる筈もない。さうして別れて直ぐに悲しく天皇を戀ひ慕ふのも理に合はない。
 「即奈良山を越て葛城を望て歌曰」
   つぎねふ、山城河を、宮のばり、我がのばれは、青丹よし、奈良を過ぎ、小楯立つ、大和を過ぎ、我がみがほし國は、葛城高宮、我家のあたり。
 歌の大意、山城河を高宮さしてのぼりつゝ、我がのぼれば、もう故郷が戀しい、早く奈良を過ぎ大和を過ぎて (爰で大和は京の意で輕の明宮の地をさす)嗚呼我が見たい處は、葛城高宮我が家のあたり、といふのであらう。詞の足らない處は傳へ漏れたものと思はれる。
 姫も爰まで來ては決意漸く定まり、心も聊か落ちついたらしい。さうして頻りに故郷なつかしくなつたのである。其いとしの夫を失うた姫の悲しい淋しい心を慰めるものは、今は故郷の家より外にはない。一篇を通じて弱々しい聲調に、限りない哀愁が籠つて居る。
 記云「天皇大后山城より上幸しぬと聞こしめして、又續ぎて丸邇臣口子を遣はすとて歌ひたまはく」
   み室の、その高城なる、大韋古が原、おほゐこが、原にある、肝向ふ、心をだにか、相思はずあらん。
 歌の大意、御身の近くに、み室のその高城なる、おほゐこが原に、池心の宮といふ處がある。其心をだに、自(547)分がこれほど胸を痛めて居る其心をだに御身は少しも思うてくれぬのか。
 天皇の八田皇女を入れられたのは、全く餘儀ない御事情であつた。露程も磐之姫を疎む心があつてされた事ではない。其天皇の疚しくない心を磐之姫はよく知つて居たのだ。であるから天皇は姫に對して、直ちに是れ程の我が心をだに御身はどうして思ひやつてくれないのかと宣はれたのである。
 紀云「十一月甲寅朔庚申、天皇浮江幸山背時に、桑の枝水のまに/\流れき、天皇其桑の枝を視て歌ひたまはく」
   つぬさはふ、いはの姫が、おほろかに、聞こさぬかも、うら桑の木、寄るまじき、河のくま/\、よろぼひゆくも、うら桑の木。
 歌の大意、磐之姫が今度のことを、どうしてもおとなしくは聞いてくれぬ、流れゆくうら桑の木よ、寄るまじき河のくま/\をよろぼひ流れる、うら桑の木よ。自分の此のよろぼひゆくも其桑の枝の通りぢや。姫の爲にかうして覺束ない心で河をのぼつて行く、との御意であらう。實に巧妙な御製で到底文章に直すことの出來ない程韻文の特長を現はして居る。
 磐之姫の聞分けのなく片意地なのに、ほと/\困じ果てられたさまである。 「明日乘輿簡城宮に幸して、皇后を喚び給ふに皇后見えまつり給はず、時に天皇歌曰」
   つぎねふ、山城女の、小鍬持ち、打ちし大根、さはさはに、汝が云はせこそ、打渡す、やがはえなす、來いりまゐくれ。 
 歌の大意、山城女どもが小鍬もて打ちほる大根の、噛めば口辛いそれのやうに、六つかしく汝が云ふからに、(548)その邊に打見る、木の孫生《ひこばえ》の、繁きが如くに、人々が御身の處へいろ/\に參り來る、自分までもかうして參りくる。
 天皇、姫が餘りの聞きわけなさに聊か恨むやうに諭されたのである。
 「亦歌曰」
   つぎねふ、山城女の、小鍬もち、打ちし大根、根白の、白ただむき、
まかずけばこそ、知らずとも云はめ。
 歌の大意、山城女の小鍬もて打ちし大根の、其根の白いやうな、眞白い御身が手をさしまいて睦しく寢た間柄ではないか、さういふこともなかつたならば知らぬとも云へやうが、もう少し物の聞きわけはあるものぞ、との御意。
 御製は實に巧妙で、詞が少く意が深い。言ひ殘した詞の響に、餘韻の盡きない味ひがある。尤も御製に味ひの深いのは、天性情愛の深い天皇が理にも情にも正しく美しく、どこまでも磐之姫を捨てまいとせらるゝ叡慮が溢れて居る爲である。
 「時に皇后申さしめたまはく、陛下八田皇女を納れませれば、吾は皇女に副ひてさもらはんことは欲せずとのり給ひて、遂に見えたまはず、乃車駕還りましぬ」とある。此の文に見ても、磐之姫は妃といふ列にあつて皇后では無かつたに相違ない。天皇即位の始めから皇后たるべき八田皇女があつたのであるから、磐之姫が皇后に立つべき筈がない。古事記日本書紀に皇后といひ大后と云へるは、姫の皇子三人共天位を繼いで居られるから、後から尊んで言はれたのを其儘記されたものであらう。
 記云、「天皇八田若郎女を戀ひ給ひて賜遣御製」
(549)   八田の、一本菅は、子持たず、たちか荒れなん、あたら菅原、ことをこそ、菅原といはめ、あたら清し女。
 八田若郎女は八田皇女である。皇女には皇子がなかつたから、天皇それを御憐みになつて此の御製があつたのである。「一本管」は皇女の名の八田といふ縁語から皇女を象徴したのである。御製の御意は、八田の一本菅は子もなくて遂に荒れさびやせんか、惜しい菅原である、言にこそ菅原と云へ、誠に惜しい清し妻よ、空しく年をとらするのが惜しい、との御意である。
 詞の上ではそれだけであるが、天皇即位三十年にして猶皇太子を定め給はなかつた事と、此御製とを對照して考へると、天皇は八田皇女に皇子があらば、それを太子にせんとの思召があつたらしく思はれる。菟道太子の遺言、菟道太子の身代りである皇女に生れた皇子を太子にせば、菟道太子讓位の精神にも報いられるとの御希望があつたに相違ない。されば「あたら清し妻」の一句には單に皇女に子なきを燐まれたといふ以上に深い意味が籠つて居ると見られる。
 前にも云へる事なれど、御製の巧妙を極めたるは、列代聖主中に於ける唯一の詩人であらせられる。殊に象徴に富める點は古今獨歩である、「大根のさは/\に汝が云はせこそ」と云ひ「根白の白腕」と云ひ「よろぼひ行くもうら桑の木」と云ひ「あたら菅原」を繰返して「あたら清し女」と歌ひ給へる、御製の氣分と其状況とが、實によく讀者の心に印象される。
 此菅原の御製に依て見ると、八田皇女は、心も姿も素直に清らかな女性であつたに相違ない。次の皇女の歌が更にそれを證明して居る。
 「爾八田若郎女答歌曰」
(550)   八田の、一本菅は、ひとり居りとも、大君し、よしと聞こさば、ひとり居りとも、
 歌の意は解釋するまでもなく單純である。一人居る自分を大君が燐れにいとしと思召し給はゞ、獨り居るとも何の不足があらう、といふのである。素直な簡潔な歌柄によく皇女の優しい氣質が現はれて居る。一本菅と云へる象徴に「あたら清し女」と云へる御製の詞と、此皇女の歌とを引合せて考へると、皇女の靜淑な柔和な性格が目に見えるやうである。
 
      (五) 結論
 
 以上多くの歌を列擧評釋し終つて、徐に考を廻らして見ると、其の多くの御製が如何なる事情に依て成り、御製が天皇の御内行を如何樣に語つて居るか、天皇の御性質と磐之姫八田皇女の性格とが、如何樣に現はれて居るか、同時に天皇の御内行に於ける紛糾がどんな性質のものであつたかは、殊更に論團を要するまでもなく、明かに心證される。
 乍併言ふまでもなく古事記日本書紀は、勅命に依て撰録された、吾邦唯一の上代史である。其兩史に明記された事實の誤りを幾分なりと正さうとするは容易な事ではない。勿論出來る限りの論究を盡さねばならぬ。かう考へて來ると猶幾多の問題が起つて來る。
 八田皇女は、菟道太子の同母妹であつて、太子死に臨て皇女を天皇に屬し、殆ど自分の身代に進められたのである。それは日本書紀の文許りでなく、天皇の御製「並んとこそ其兒はありけめ」に見るも明かである。さうして天皇も皇女を憎からず思召したのに、どうして二十餘年の長い間宮中に納れられなかつたか、天皇御製もて磐(551)之姫に皇女を宮中に入れんと乞はれたのは、天皇の二十二年正月である。さうして八田皇女の宮に入御なつたのは天皇の三十年である。菟道太子薨去の時に八田皇女を十五歳とすれば、皇女入内は御歳四十五の時になる。日本書紀に記された年代は、さう確實なものでないにした處で、隨分長い年數の間皇女入内の實行は延引されたらしい。それを只單純に磐之姫の嫉妬故と許り見ることは出來ない。
 天皇も唯漫然と、磐之姫の嫉妬に憚り、磐之姫も又埒もなく拒んで、大事の決行が二十年も三十年も遲れたとすれば、天皇も磐之姫も其性格が餘りに淺過ぎる事になる。菟道太子の靈に對し、先帝の靈に對し、餘りに義理が立たない事になる。そこは深く考察を要すべき一つである。
 其疑を解くべく、何等實證の徴すべきものが今は無い。余はこれを斷じて、前にも聊か云へる如く、天皇と磐之姫との間柄が、尋常以上の戀仲であらせられたが爲めと思ふのである。かう云へば、道徳家や歴史家は、直ぐ之を打消すであらうけれども、日本の古代史から戀の歌を拔いて終へば、何物も殘らない程、戀の歌が古代史の眞核を爲して居る。上代に於ける戀の問題は今日の學者達の考へるやうに輕いものではない。爰で斷つて置くが、今言ふ戀といふことは、天皇好色といふやうな事とは全然其意義を異にして居る。平清盛が祇王を追返けて佛を入れたのは、好色と云ふ外に何の意味もない事であるが、仁徳天皇が磐之姫の遊行中に八田皇女を宮中に入れられたのは、清盛のそれとは、玉と瓦との相違の如くに其根本の質を異にして居ることを云うて置かねばならぬ。
 それから又記紀の文に依ると、磐之姫の宮中に於ける状態は、徹頭徹尾我意を押通し、天皇は唯々磐之姫の意の儘になつて居られ、聖意は一として宮中に行はれず、黒姫も磐之姫の爲に國へ歸し、玖賀姫も宮中に留むることが出來ないのみか、深い義理ある八田皇女さへも三十年間も宮中へ納れられなかつた。謂はゞ天皇は磐之姫の(552)爲に虜となつて居つたやうな有樣である。それが果して事實であるであらうか。
 さうして天皇はどうであつたかと見れは、飽迄も寧ろ極端に迄も、磐之姫との衝突を避けられ、如何なる我儘をも咎められなかつたのみか、姫に對する同情慰撫殆んど至らざるなしと云ふ有樣である。姫の我儘も極端であるが、天皇のやさしさも又實に極端であつた。
 さうして記紀の文の表面で見ると、聖天子仁徳天皇、其聖天子の極端な敬愛を受けた磐之姫、さういふ人格の上にどうしても連絡を發見することが出來ない。多くの歴史家は、そこを天皇の好色、磐之姫の嫉妬と無造作に見て終つたらしいが、予は記紀の文の一面には誇張に失し、一面には書き足らなかつた處の多かつたことを爰にも繰返さねばならぬ。深く考察を要すべき今一つの點である。
 此疑問に就ても、予は天皇と磐之姫との相愛關係が尋常ならざりしものありしが故と解するのである。
 天皇黒姫の爲にも御製があり、八田皇女の爲にも御製があつたけれど、解に云へる如く決して感情を傾倒したものではないが、それが磐之姫に對した御製となると、悉く感情を傾倒したものであることは解の通りである。是れも天皇の御内行を解するに就て、注意すべき一項と見て置かねばならぬ。他に列挙した御製にも現れて居る如く、天皇は百方手を盡して、磐之姫の還宮を促がされた。遂に天皇御自身筒城宮に行幸してまで、姫の心を和めやうとされたのである。天皇は磐之姫が、思召に背けば背く程、盆々姫を憐まれた趣きが窺はれる。
 姫は何故に斯くまで厚き天皇の思召を、極端に退けたのであるか、天皇は又何故にそれ程聞き分けなく思召に背いた磐之姫を、極端に憐まれたか、其疑問を解決すれば、天皇の御内行の賞状は明らかにされるのである。
 天皇は理義を重んじて、愛情を保たうとされるに、磐之姫は何物も顧みずして情に生きんとしたのである。天(553)皇が八田皇女を宮中に納れられたのも、磐之姫を極力宮中に留めんとされたのも、皆同精神から出て居るのである。八田皇女の宮中入りの後れたのは、天皇が深く磐之姫の愛情を燐まれ、どこまでも姫を宥めて、快く皇女の宮中入りを得心させようと望まれた爲めである。 磐之姫は天皇が皇子たりし日の正妃で、さうして前に云つたやうに、尋常ならぬ相愛の間柄であつた。されば天皇にして若し天位を繼がれるやうなことがなくて、單に皇子で世を送られたならば、天皇は其御内行に於て最も圓滿な高級の幸福を得られたに相違ない。天皇も磐之姫も却てそれを希望せられたかも知れない。
 幸か不幸か、菟道太子死を以て天位を讓られ、それに關連して八田皇女といふものが出來たので、天皇の御内儀は、爰に大變動を除儀なくされた。殊に磐之姫の身に取つては、何物にも替へ難き生の全目的が傷はれる事になつたのである。天皇に於ては、民の富は朕が富なりといふやうな、犧牲の精神から、他の幸福をも犧牲にして天位を繼がれる御覺悟が有つたらうけれど、最も感情の強い磐之姫が、女心の一筋に、其大變動をどれ程悲しく思はれたか、略ば察することが出來る。民の富は朕が富なりと宣まうた天皇の叡旨から推して、姫の幸福は朕が幸福なりといふ意味を以て磐之姫にも對せられたに相違ない。さういふ精神から、八田皇女の爲に、幸福の根柢を傷はれた、磐之姫の境遇に天皇は極力同情されたのは自然の數であらう。
 かう解釋してくると、感情の強い磐之姫が、極端に聞き分けがなく、我意を張つた我儘にも、單に嫉妬と云つて貶するに忍びない。生命にも名譽にも替へられないと、一筋に思ひ詰めた女性の感情には、何人も同情せぬ譯には行かない。
 次に、八田皇女の宮中入りの非常に遲れた事も、天皇が極端に磐之姫の我意を宥恕された精神も、自然解し得(554)られるのである。
 以上の所説を綜合して考へて見ると、天皇の内外に處せられた御精神は、始終一貫して居つて、理を正し惰を重んじた、美しい情操を明瞭に看取することが出來る。
 外觀上御内行の修らなかつた觀のあるのは、それが前にも云つた樣に、天皇の御不幸であつて、毫末も天皇の徳を議する理由とはならない許りでなく、却てそれが爲め、天皇の情操の正しく美しい事を明かにして居る。
 要するに、天皇は天質最も情に厚く渡らせられたけれども、情の爲に決して理を失はれない。黒姫を還し、玖賀姫を舎人に賜はつたのも、八田皇女を容易に宮中に入れられなかつたのも其爲めである。磐之姫が飽まで思召に逆つても、猶姫の心情を汲まれ、理性の判斷に訴へて咎め給はなかつたのである。さうして又姫が身を以て爭ひしに係はらず、遂に八田皇女を宮中に納れて理義を完うされたのである。天皇簡城宮に磐之姫を訪はれた翌年磐之姫の出たる長皇子を立てゝ皇太子とされた。即履仲天皇がそれである。爰にも天皇の思召が窺はれる。
 天皇情の爲に理を失はず、理の爲に情を捨てず、其御内行に於ても仁徳の御名の空しからぬことを證して居る。上代の事、殊に御閨門の事に至つては、今日の理と情とを以て、批評し難きものゝあるのは勿論であるが、以上列擧した事實は、天皇の情操を解するに充分である。
 尚世人の最もよく知つて居る事で、然かも世人の注意から漏れて居る一事を擧げて、此編を完結する。天皇民に三年の課役を免じて、宮屋雨漏を防がれなかつたと傳へて居る。それは誰も知つて居る。併し之れを一面から見れば、民の貢がなければ天皇は宮屋の修繕すら出來ない程、私財といふものが無かつたのである。一國の君主としで是程公明正大な事は無いのである。眞に理想的聖天子と仰ぎ奉る外はない。
(555)                 大正2年5月『日本及日本人』
                       署名 伊藤左千夫
 
(556)     〔名士の愛讀書〕
         ――アンケート――
 
一、平生愛讀の書と云へば文學に關する物が多く候 文學書と云ふても小生のは大抵歌集に候《そろ》 殊に萬葉集は机上常備の書に候 外の小説書類は一遍通讀後大抵用なき物に有之愛讀とは申されず候 西洋の物も譯書にては二回三回讀返して味ふ氣が致さず候 何の書籍にても讀めば面白く候得共深く味を感じて愛讀飽くを知らざるは只萬葉集二十卷に候。
一、學生の學科以外修養の賀料となるべき書籍と問はれても小生には答へ難く候 人各好む處ある故にて候 されば強て云はゞ自分の最も好む物を讀めと申す外なく候。
                      大正2年7月『新修養』
                       署名 伊藤左千夫
(557) 短歌選抄 〔四〕
 
      三十
 
      〇            潮音
   薪打つ斧の上なる梅の花春を深みといまだふふめり
 上二句無造作に言ひ得て、素朴なる田家の生活と、梅花の野趣とが極めて自然にゑがかれ餘韻の掬すべきを見る、技巧らしからざる技巧が尊いのである。   伊吹根に夕居る雲は吾宿の梅が枝しぬぎ霰せんとか
   梅が枝に雪零り來たる落つる日の雲の悲しく天きらひつつ
 梅が枝云々と云つても、花の無い梅である。花は未だ花とはならざるも、粒々の蕾は漸く人目に留つて居る。春の心を感じつつある作者の情緒と空気に籠れる梅枝の光景とは、誠に味ふべき趣を感ぜざるを得ないのである。
   水の邊の篁中ゆ斜臥し花乏しらに咲ける梅かも
 著想は極めて平凡なれども、描き得て正さに一幅の好畫である。句法の簡潔なるが歌柄の品格ある所以である。
   月讀は光もさやに梅の花照添ふ見れば相思ふらし
(558) 月に梅の配合は陳腐な題目である、然かも誦し來つて歌格の上品なるは捨て難い歌である。
   月讀の光を清み夕戸明け梅に倚り立つ待つ人故に
   夢人の世にかもあるらん白ら白らと梅の月夜の影の淡きは
 作者の梅に對する感興は、寫賓的對象の興味から遂に理想の感興に入つたのである。然も獨り自らよがるの厭味がなく、歌柄に依て作者の人柄の清高なるも偲ばれて嬉しい。
      〇              鈴木葯房
   春と云へば高砂の島も霞立ち柳のみどり萌えそめにけり
   雪解くる彌生の野らにつみし芹歳のはじめにみけにつくれり
   いざ兒供袖うちつれて遠方に紅立てる桃の花見む
 臺南に暫く住居たる折の作なりとあり。ここと云ひがたけれども、何とはなし内地の春とは氣持違へる趣あるがさすがと思はるるのである。終りの一首殊に大きいところ現れて、如何にも支那大陸の一隅よと感ぜられる。優れた歌である。
      〇              宮野雲峯
   隣家に人も住まねば烏鳥來てはついばむ庭のいちじく
 悠々たる田家の長閑さが窺はれる歌である。
      〇              木村秀枝
   木枯のはつるみなと田いちじろく氷れるが上に月押照れり
(559) 「木枯のはつる湊田」とは實に面白い見つけどころである。海岸の廣い感じと、吹きさらしな水田が一面に氷渡つて月の寒い光景目に見えるやうである。
      〇              池谷觀海
   いくさ船いづちゆきけんアムールの空は雪降り海は氷りつ
 寂寞荒寥天寒く地睡る。人力の總てが屏息せる北海の冬を歌へるは實に絶好の詩題である。
      〇              左千夫
   伴烏歸る日暮ゆ晩稻田の夜刈りをすとや諏訪の里人
   天《そら》飛ぶやねぐらに歸る伴烏見るに得堪へぬ思ぞ我がする
 自註。此の日頃人を待つ思に堪へないで居る、今日もはや暮近く烏の鳴き渡る聲も餘所には聞かれないのである。
 
      三十一
 
      〇              三浦麥村
   七草の粥啜りつつ古ことをさながら語る伯母も老いにき
 「伯母も老いにき」の一句に、作者は親のない人であるらしい感じがある。されば此の歌を誦して見ると一月七日一家和樂の中にどこか寂しい處がある。そこに簡素な趣も味はれる。
   山さとの八日のどけし瀬戸畑に菜を摘み居ればとりの寄りくる
(560) 打見る光景が如何にも落ちついて清楚な自然人の生活が目に見えるやうである。かういふ淡雅な味ひは、日本人にして始めて問題になるのである。      〇                        赤木格堂
   人皆のかへらまく欲る故郷にわれは歸らず母なしにして
   故さとに母しいまさば白雲の天往きかへり逢ひてこんもの
   君がふみ妹がうみをの卷きかへしくりかへし見つ國なつかしみ
 以上三首は連作の體である。三首竝べて讀んで見て始めて深き味ひがある。遠く異境に在つて、なつかしく忘れられない故郷にも今は母もないのだ。新年を迎へて兎角賑かな世間の春を餘所にして居る情緒である。
      〇              菅生淇舟
   歌詠まん時にしあるらしつばくらめ雲雀少女やさくら小夜姫
 意味がとんと纏らないけれど、口に云へない意味は解つて居る。春の光景總てが人の心をそそる。作者は只春の気分にそそられてかういふ歌を作つたのである。これが眞に天來の歌かも知れぬ。譯も解らず面白い歌である。
      〇              丸山彩堂
   庭畑の菜はたに降れる淡雪は鷄の踏めらん跡よ消ぬらし
 如何には春の淡雪である。鷄の足跡から消え始めるのは實景である。誠に些々たる事ながら、かう歌に詠まれて見ると、捨てがたい淡雅な趣が味はれる。      〇              岡本くきら
(561)   つつじ咲く山のたひらにむしろしきをとこをみなの兒等が遊べり
 なんでもない事柄であるが、極めて自然な詞つきと事柄の平易とが能く一致した、求めずして得た光景勞せずして歌も出來た。氣の乘つた作者の心持が聲調に傳つて居る、平凡といつて捨てられない歌である。
      〇              佐藤紅東
   をのこ等が五たり六たり肩ぬぎて疊さし居り春の風吹く
 歌は實にかうありたい。實景を描いて少しの不熟がなく、能く尋常俗事を詩化して、如何にも氣持の良ささうな春風の感じが溢れて居る。
      〇              失名氏
   山吹の小川の水に夕はゆる雲うつれるを獨り見て居り
 幽寂な暮春の光景、憂ひなき人にも、心引かるる艶麗が多い。何心なく見ては居るものの必ず何等か思ひ出す情趣がなければならぬ。
 
      三十二
 
      〇              近田常世
   獨居のゆふべさびしみ庭を出でて空しく垣の蕗を眺めつ
 第五句「蕗をながめつ」は眺望などいふ意味ではなく永く見つめてゐる意である。里へ行つた妻などの今日歸つてくる筈となつて居るのではないが、何となく待れるのである。心には待たれるけれど一面には今日は歸りや(562)しないのだと思ふ心あるから日の暮れ近くに物足らなく寂しいのである。蕗をながめてゐても心は蕗にはないのであらう。かういふ情緒が、如何にも能く映えない蕗の花にふさはしいので、歌の味ひを深くして居る。
      〇              烏※[牛+建]
   あから引く朝の窓ゆ昨日植ゑし早苗の上を風渡る見ゆ
 昨日までは唯一面の土田であつたのが、今朝は其の田に青々と苗を植ゑられて、しかも天氣もよいのに心地よく風さへ吹いてる。何んでもないやうな歌であるが、氣の晴れ晴れする初夏の光景が現れて居る。歌の調子も之れにかなつてさらさらとして居る。
      〇              宮林眞弓
   天そそる西岳山に雪はあれど外山の梢若葉しにけり
 寒い國には能く見る景色で、着想は極めて平凡ながら、打見たままを何の巧もなく歌つた、其のさつばりとした歌柄に初夏の感じが出て居る。
      〇              山崎道壽計
   あらたまの年のはごとに夏されば屋根おほひ咲く桐の鈴花
 これは夏といふ自然の趣よりは、大きな桐の木の花が屋根をおほひ咲くといふ、特殊な住居の趣を味ふべきである。
      〇              蕨眞
   しみ室のをむろを訪へば新みどりさやかに晴れて留守の人居り
(563) 若葉に空も清い靜かな感じである。歌柄に能く晴れ晴れした感じのあるのが面白い。「留守の人居り」の結句が如何にも靜からしく思はせる。
      〇              菅の山人
   さみだれの雨のしげきに綾瀬川眞菰おしふせこづみよりくも
 じめじめ降つてる雨にも、いつか河には水を増して來たのである。青々してゐた眞菰に聊か意外なちりあくたの寄せかけた景色。それに五月雨の感じがあるのである。
      〇              長塚節
   春の田を耕し人のゆきかひに泥にまみれし母子草の花
   鍋につく炭掻きもちてこことぬり誰れ戯れのそら豆の花
   春雨の洗へど去らずそら豆のうらわか莢の尻につくもの
   よひにはきてあしたさやけき庭の面にこぼれてしるき錦木の花
   暑き日の照る日のころと即《たちま》ちに傘さし開く人參の花
 以上五首とりどりに、作者が常に能く自然に親しみ、如何にも細かに自然に注意を拂ひつつ、それに自ら興じて樂しむさまが歌はれて居る。物に對する深き興味は、深き注意に依つて得らるることを知るべきである。
 
      三十三
 
      〇              槇不言舍
(564)   鈴菜畑むぎはたつづき野らのさき桃の小村に酒の旗見ゆ
 漢詩などにありさうな趣である。「麥畑つづき野らのさき」と無造作な云ひ方であるが、詞つきが自然で、光景も能く現れ、「き」字の連用が一首の調子に響を起さす働がある。五句の句毎に詞を切つて層々と意を重如して行く處に緊張と充實とが現れて居る。
      〇              川口野冬木
   花鳥の送り迎ふる春山は獨りゆけども寂しくもあらず
   かりがねと我も歸らんふるさとの野べの櫻に妹まつらんか
 目に視て心に浮んだ氣持を有りのままに詠み下した。其の氣安い若い人の氣分が、ゆつたりとした語調に現れて居る。平凡な歌であるが其の平凡に棄て難い味ひがある。
      〇              朝倉天易兒
   遠つ野にきぎすも聞こゆかぎろひの夕門川に鰍洗ひ居り
 田苑の光景と田苑の人の氣安さと、それから作者がそれらの對象に親しんで居る、悠々たる情態が自然の語句に現れて居る。
      〇              佐々木碧村
   藥練る翁が庵の桃ゑまひひいな孔雀に春の風吹く
 「藥練る翁」といひ、「ひいな孔雀」といひ、尋常でない家に尋常でない材料の取合せが、先づ目立つて居ながらそこに少しも不自然な感じがなく能く春の氣特に融合して居る。
(565)      〇              山崎道壽計
   水ほしと云ひける時に垂乳根は藥やりしと悔い泣きたまふ
 亡弟を懷ふと題してある。事賓を有のままに敍して、作者は何等の主觀をも加へないが、愛兒を死なした母の悔恨に限りなき同情を寄せ、其の母と共に亡弟を悲む情緒が詞もうるむ計りにふるへて居る。かういふ歌を見ると作りげの多い歌の厭はしさが思ひ出される。
      〇              村上※[虫+譚の旁]室
   となりやに麥つき止みて蚊遣たく煙も來ねばさ夜更にけり
 うす暗い軒端に蚊遣りたきつつ麥を搗いてる、小さな農家のさまと、いつのまにか其の音も止んで、蚊遣りもたかなくなつた後の、さ夜更けた靜かな田家のさまと、頗る時間の含まれた歌である。詞は簡單であるが、複雜な光景を髣髴させる。含蓄に富んだ歌である。
      〇              朝倉天易兒
   門のべに干せる菜種の莢はぜり頻りにはぜるひる近みかも
 田苑初夏の實景が、さながら目に見えるやうである。菜種を干しひろげてあるとは想像しても云ひ得よう。莢のはぜりが日たけた日光の強きに、頻りにはぜて來て、もう晝らしいとは實際を見た人でなけれは決して云へない處である。人の作歌と思へない程親しみの感じを與へられる歌である。
 
(566)     三十四
 
     〇               蒼生子
   朝出でて表に立てばひやひやと空氣つめたく頭痛忘るも
   植木屋の若き者ども荷をつみて出でんとする頃日は出でにけり
   植木屋の若き男がぐび人草いぢりて居つつ朝天氣よし
 歌は幼く詠めと古人も云つて居るが、さて幼く詠まうとて、容易に幼く詠み得るものではない。此の作者のまだ年若くて、詞も情も有りのままなる幼さの自然なるが何とも云へぬ味ひである。子供の書いた文字を見るやうな感じがある。才智にたけた大人には、なかなかかうは詠めないと思はれる處が非常に面白い。
     若き叔母
   床上げに抱きて見しかなみどり兒をわれを叔母とや若き叔母ぞも
   珍らしがり赤兒をかこみかしづくや妹ら三人幼な叔母達
 自然が最も新しいと誰かが云つた。眞に然りである。此の二首の如き實に無造作に有りの儘であるが、其の題目も景情も極めて珍しく新しい。詞つきは固より猶未熟を免れないけれど、切りたての花果其の儘の感があるではないか。
     〇               長塚節
   山桑の木ぬれに見ゆる眞熊野の海かぎろひて月さし出でぬ
(567)   ぬばたまの夜の樹群のしげき上にさゐさゐ落つる那智の白瀧
 さすがに寫生家の歌である。何等の空想も誇張もなく、然かも能く其の詩墳と情趣とを描出して遺憾がない。
   那智山は山のおもしろいもの葉に月照る庭ゆ瀧見すらくも
 此の歌景は甚だ面白いが、作者の興がりやうが過ぎた爲に、歌柄が淺くなつた。二の句「山のおもしろ」の句が、良くないのである。
   あたらしき那智の月かも人と來ば見ての後にもかたらはんもの
 非常に面白い景色などに對しては誰も起りさうな考である。それだけ此の歌が淺いのであるが、さすがに一ふし變つた巧な詠方である。
     〇               丸山彩堂
   夏蠶飼ひ裏野の畑につみ桑す暑き眞晝のひる顔の花
 こことさして云ふ程の面白い處もないが、素朴な情趣の何となく捨がたい味がある。
     〇               まつ子
   しげ山を汗かき越えて河開く渡の里のやどし涼しも
 始めて歌を詠んだといふやうな詞つきで、景も情も面白いが、何となし一首の上に光彩が足りない。
     〇               古泉千樫
   梅雨晴の若葉の森の片明り月の上りを鳴くほととぎす
 月にほととぎすは、着想固より陳腐に相違ないが、森の片明りを描出して、想も新しくなり歌も新しくなつた。
 
(568)    三十五
 
     〇
    芳井河の海に入る三里の上流に一勝地あり。鴨越と云ふ。後に斷壁を負ひ、前面江流を隔てて翠巒に對す。往昔備後三郎の據地と傳ふる熊山を北に眺めて、南は閑雲重疊たる兒島を一望の中に收む。河流疊石に激し、飛湍奔放の状、又頗る壯觀なり。妻山名氏の岳父茲に一閣を有せり、嶽色江聲樓と稱す。夫妻一日棲上に客たり。
                     兒島鳳嶺
   水の聲吉井の河の向つべに青垣立てり八重瑞の山
   茜さす入日に映ゆる夕雲の向伏す山ぞ我家兒島は
 生きた歌に新舊の別はない。只歌格卑しからざるも生命の乏しきと。それと反對によし新しき生命があつても歌格の卑しきは共に價値少しと云はねばならぬ。兒島氏の作能く其の弊を脱して時流を拔いて居る。平生殆ど作歌なく、卒然此の作を爲す。最も味ふ可きである。
   漲りて落つる瀬の音は山風の谷の諸木を吹きしくがごと
   月景色良けくあらんと吾待つに桂男の早も出ぬかも
 感懷の充實と聲調の緊張とが、極めて容易に極めて自然に、作の生命を持たらして居る。
   邑久の山青垣たたむ片かげに月夜さやけく早くも照りこそ
(569)   山河のながめよろしき鴨の越しめぐし吾妹が生ひたちどころ
   眞白玉伸べし吾妹はうべなうべな此の河水に化粧せりけむ
 氣滿ち情熱し、自己を忘れて自己の幸福を感ずるのが、人の自然であつて又歌の自然である。情意の自然を發露して然かも歌格を損するに至らない處が、作者の品格であつて又歌の價格である。
     〇               岡本倶伎羅
   ありそ松吾れ待顔に朝顔の朝な朝なに咲くが樂しき
 縁語といふもの、大抵は文字の遊戯に墮す。此の歌巧に縁語を斡旋して、然かも自然と眞面目とを失はないのを多とするのである。「荒磯松」の一句能く詩境を黙出して更に容易に、松の音調から「吾れ待ち顔」と轉じ得たところ、有形無形を産み無形又有形を産むの妙がある。
   そにとりの青葉が下に吾居れば蝉や軒羽やおのがじし鳴く
 「軒羽」は雀である。初夏の清々しい自然と作者の悠々閑散たる情趣が味はれる。無造作な歌であるが、其の無造作が安價な無造作ではない。
     〇               柳の戸
   吹く風のいたくしあらば消えもせめなよなよしもの一重白芥子
 物を形容する場合は、能く言ひおほせたところに價値を生ずるのである。縱令珍しい形容語にしても之れが言ひおほせてなければ、讀者は甚だ物足らない不熟な感じに苦しめられるのである。此の歌の形容は著想は極めて平凡に有ふれたものなれど、其の形容が如何にも能く言ひおほせて居るから、讀んで氣持が良いのである。
                 〔2022年3月5日(土)午前9時37分、入力終了〕