中国文学における孤独感、斯波六郎、岩波文庫、1990.9.17、337頁570円
初出、同名の単行本、岩波書店、1958年、文庫化の時振り仮名が増やされている。
 
(3)目次
一 孤独……………………………………………………… 七
二 隠者………………………………………………………一七
三 『詩経』…………………………………………………二二
四 屈原………………………………………………………二六
五 宋玉………………………………………………………四二
六 項羽………………………………………………………五一
七 漢代の諸作家……………………………………………五八
八 阮籍………………………………………………………七四
九 劉※[王+昆]…………………………………………八二
一〇 左思……………………………………………………九五
(4)一一 鮑照………………………………………………一一三
一二 袁粲……………………………………………………一三〇
一三 陸機……………………………………………………一三四
一四 王羲之…………………………………………………一四七
一五 陶淵明…………………………………………………一六五
一六 杜甫……………………………………………………二一三
一七 李白……………………………………………………二四六
附録 中国文学における融合性……………………………二八五
 あとがき……………………………………………………三二一
 解説…………………………………………(茂木信之)…三二九
 
 中国文学における孤独感
 
(7)     一 孤独
 
 『孟子《もうし》』の梁恵王《りようけいおう》篇下に「老いて子なきを独〔傍点〕といい、幼にして父なきを孤〔傍点〕という」と見え、この二者は老いて妻なきものを鰥《かん》といい、老いて夫なきものを寡《か》というのとともに「天下の窮民にして告ぐるなき者」とされている。けれども孟子は、まだ「孤独」という熟語を使っていない。
 ついで『荀子《じゆんし》』の王覇篇に「孤独鰥寡」という使い方があるけれども、これも「孤独」が熟語をなしておるとは思えない。
 ところが、『孟子』や『荀子』のこの意味を順次うけついだと思われる「孤独」なる熟語が『礼記《らいき》』の王制篇や、『淮南子《えなんじ》』の時則訓篇や、前漢の司馬相如《しばしようじよ》の「上林賦《じようりんのふ》」に見える。孤独の語としては、それらが最も古い用例であろう。
 ただしかし、それらは、主として物質生活上における、たよりのないものをいうのであって、現今、普通に行われておる孤独なる語が主として精神生活上についていうのと、(8)その内容にずれがある。
 また「特」は「独」に通ずるという立場から、「孤特」の語をさがせば、『管子《かんし》』の明法解篇、『韓非子《かんぴし》』の孤憤篇、及び『史記』の項羽本紀《こううはんぎ》に引く所の陳余が章※[甘+おおざと]《しようかん》に与えた書などに見える。けれどもそれらは、政治上または交際上などの対他関係における孤立無援の状態を意味するのであって、これまた個人の精神生活上の立場からいったものではない。
 精神生活の立場からいえるもの、少くとも、精神生活上での意味を多く含むと見られる「孤独」の語が、はじめて現われたのは二世紀の中頃以後、すなわち後漢も末近くの頃かと思う。『楚辞《そじ》』の七諫《しちかん》に施された王逸《おういつ》の注の中に見える「孤独」、『毛詩』の小雅、正月に施された鄭玄《じようげん》の箋《せん》の中に見える「孤特」(特は独に通ずる)などが、それである。これらは現代語の「孤独」にかなり近いものと見てよい。
 もっとも中国において、かかる意味での「孤独」の語の現われたのは二世紀の中頃以後ではあるが、孤独そのものの自覚はもっと前からあったのである。
 これから述べようとする「孤独」は、現代語としての意味に従う。
 数年前のこと、或る雑誌に、或る作家が、大体次のような話を載せていたことがある。
(9) 「東京警視庁の調査によれば、自殺者は遺書の有るものと無いものとに分けられる。そして若い者には殆《ほと》んど皆遺書が有るけれども、中年以後の人にはそれが無いという。これは中年以後の自殺者には極めて複雑な事情があり、到底他人にはわかってもらえないと考えるからである。言い換えれば他人の理解を拒否する性質のものである。他人の理解を拒否する程に複雑であるから遺書も書けないのである。」
 この話に表われておるような、自分だけの問題としての、全く他にとりつく島もない、たった一人だけの気持、つまり自分は孤独であると感ずる気持、これが「孤独感」である。
 しかし、これは何も自殺者だけのもつ感じではなく、いやしくも内省力のある人ならば、誰でも大なり小なり経験するところであろう。そしてこの個人個人の経験する孤独感をつきつめてゆけば、人間は所詮、孤独のものだということに気づくのではないかと思われる。
 人間というものは社会生活を営むものである。『荀子』の王制篇に次のような意味のことが書いてある。
  人間は、一人の能力についてみれば、甚だ貧弱であって、荷う力においては牛に及(10)ばず、走ることは馬に及ばない。それにもかかわらず、牛馬を使役しているのは何故であろうか。それは畢竟《ひつきよう》、団体生活を営んでいるからである。
  力不若牛、走不若馬、而牛馬爲用、何也、曰人能羣、彼不能羣也
 『荀子』の書を著《あらわ》した荀況《じゆんきよう》は、紀元前三、四世紀の頃の人であるが、この言葉は、はやくも人間には社会性があるということを暗示しているようである。
 しかし、かく人間は元来社会性をもつとともに、また一面最初から一人ぼっちの性格をもつものである。
 それは『左伝』の襄公《じようこう》三十一年に既に、「人の心の同じからざるは、その面の如し」(人心之不同也、如其面焉)の語があることによっても知られる如く、古人もうすうす気づいていたのではないかと思う。「人の心の同じからず」とは、人にはそれぞれの考えがあるという意味であるが、それは畢竟するところ、人人はめいめい孤独であるということを暗示しておるからである。
 また、「同床各夢」の語も、さまで古い語ではないが、これまた人間の孤独性を暗示しておると見れば、甚だ味わい深いものがある。
 人間はこのように、一面「社会性」をもつとともに、一面では「孤独性」をもってい(11)るのである。「孤独」なるが故に社会を作るともいえるであろう。
 しからば「孤独感」の奥底には何があるのであろうか。それは生命の不安感ではなかろうか。人間はいつでもその心の隅に、動物的な、生命の不安感を蔵していて、それがもとになって、「孤独」を感ずるのではあるまいか。
 不安感について『列子』の天瑞《てんずい》篇に、面白い話がある。昔、杞《き》という国に、苦労性の人がいて、天が墜ちてき、地がくずれていったら、どうしようと心配して、寝食を廃するに至った。するとその心配しておるのを、また心配する人があって、わざわざ慰めに行ったという、このような話である。「とりこし苦労」という意味に使われる「杞憂」とか「杞人の憂え」とかの語はここからおこった。
 また三世紀の頃、阮籍《げんせき》という人がいて、いわゆる「竹林の七賢」の一人であるが、この人は 「大人《たいじん》先生伝」という文章の中に「むかし天は下にあり、地は上にあったのである。それがびっくりかえって、そのままになっていて、未だ安定していないのだ」という意味のことを書いておる。
 『列子』の話も阮籍の言葉も、それぞれの哲学を述べる上の必要から書かれたものであり、殊に阮籍がこういうことを考えたのは恐らく当時の時勢の不安からであろうが、(12)ともかくこの二つとも考えようによっては、実に面白くも、人間生来の不安感を象徴しているといえよう。
 ところで、不安感は一面、憂愁となって表われる。それはまた苦悩でもある。すなわち、人の生れながらにして、「不安」をもつことは、「憂愁」・「苦悩」をもつことであるともいえるのである。
 『荘子《そうじ》』に既にそのことを「人の生くるや、憂えと倶《とも》に生く」(至楽篇)といっており、また「人生はいろいろの心配ごとが多く、よく考えてみると、口をあけて笑うのは、一月の中、四、五日に過ぎない」(盗跖《とうせき》篇)という意味のことも、いっている。これらは、人間は一生、憂愁につきまとわれて苦悩の日をつづけるものだ、というのである。だから荘子はまた「寿《いのちなが》きものは※[立心偏+昏]※[立心偏+昏]《こんこん》として久しく憂えて死せず。何ぞ苦しめるや」(至楽篇)ともいう。
 かかる「憂愁」「苦悩」−「不安」が根抵となって、そしてその不安が誰にも通じないで自分ひとりのものだと感ずる時、「孤独」という感じがわくのではあるまいか。
 しかし、孤独感はいつでも一人のときおこるかというに、そうではなく、多勢の中ででもおこるものである。『日本文学』昭和二十八年七月号に、西郷信綱氏が、山上憶良《やまのうえのおくら》(13)の
  憶良らは今やまからむ子泣くらむそのかの母も吾《あ》を待つらむぞ
の歌について、次の如く論じておる。
  この「宴をまかる歌」にしても、たんに家族愛をうたったものと受けとるだけでは浅いというよりほかない。この作品は、すぐ次ぎに出てくる旅人の「験《しるし》なき物を思はずは一杯《ひとつき》の濁れる酒を飲むべくあらし」以下十三首の「讃酒歌」がつくりだしているような享楽的で貴族的な生活にたいして反撥し、それに背をむけて宴の席を立ちのいてゆく憶良の心意気というようなものを、やはりふくみこんで考えないと、どうしてこんな歌がつくられたか具体的に理解されないだろう。「憶良らは」とみずから強く名のり出たうたいっぷりにも、こういう反撥があらわれている。
 この論は甚だ面白いと思う。いま、蛇足かも知れないが、少し私見を加えれば、結局、憶良は、多勢得意気に贅沢《ぜいたく》にしている中に、周囲と調和しない、取残された一人ぼっちの自分を見たのである。それで、何ともいえぬ一種の寂しい気持を感じたのである。そこで、妻子の許へ早く帰ろうという気になったのが、この歌の動機であろう。その一人ぼっちの気特は「憶良らは」と自己を強く打出したところによく表わされている。中国(14)における『詩経《しきよう》』『楚辞』でも、他から切りはなした自己を意識したところでは、我・余・吾などの一人称代名詞が頻《しき》りに使われている。この多勢の中でとり残された感じを持つことが、多勢の中における孤独感である。
 『荘子』に、「多勢の中にいながら、どうしても、周囲の人人とうちとけて融合することを好まぬ人がある、これを、陸沈《りくちん》の者という」(則陽篇)という意味のことが書いてある。水に沈むのは当然であるが、「陸において沈む」とは、人人の中にいながら、それらと融合できないことを喩《たと》えたのである。これも解しようによっては多勢の中における「孤独感」を表わしたものともとれる。芭蕉も時世に対して調和することができず、孤独なる自分をだきしめて、それを深めていったのであり、その孤独感がもととなって、彼の俳句が生まれたのであろうと思う。
 これらの孤独は飽くまでも精神上の問題であって、最初に引いた『孟子』や『荀子』に見える「鰥寡孤独」の如き物質上の問題ではないのである。
 さて、孤独感は、他人から拒否された時、或いは拒否されたと感じた時、換言すれば、自分の思いが他に通じようもないと感ずる時の一つの心理状態である。更にいえば、自分の思いが他人に通じないで、自分だけがとりのこされたる感じをもって、自分で自分(15)をながめる時に生ずる心持である。だから、自己凝視の時の一種の感じであるともいえよう。もっとも、自己凝視は、何も孤独感のばあいのみになされるとは限らず、道徳的反省などのばあいにもなされるのである。
 われわれは、自分で自分の心の中を省みると、「我」を眺めるもう一人の「我」があり、更にまたそれを眺める第三の「我」、第四の「我」といくらでも「我」が存在することに気づくであろう。この第二の「我」が第一の「我」を眺めるのが、自己凝視である。だから、道徳的立場から我と我が身を省みるのも、自己凝視である。老荘では「見独」という。「独」とは一人ぼっちの自己であり、それを自ら省みるのが「見独」である。儒教では「慎独」という。この「慎独」は一般に、一人我のみある時に、その動作を慎しむのであると解しているが、かかる平凡な、浅薄なる意味ではなくて、自分が、自身全体をいつもふりかえって慎しんでいる、心全体の慎しみという深い意味をもつもののようであって、これも自己凝視である。
 かく「反省」「見独」「慎独」はいずれも「自己凝視」である。けれどもこれらと、孤独感の生ずる自己凝視とは、少しく違う。すなわち孤独感の生ずる自己凝視は感情を主として、そして多くのばあい寂寥感《せきりようかん》を伴なうものであるのに対して、反省・見独・慎独(16)における自己凝視は、全く理知的なものである。だから、両者の間には、感情的と、理知的との相違があるといえよう。
 さて、われわれにはもともと、このような自己凝視――孤独感の生ずる――をする習性があるのである。しかし忙しい世の中なので、外物に捉われて忘れられていたり、或いは何ものかにすがることによって消されているのである。ところが何かの機会に、ふと自己凝視をして、孤独を感ずることがあるのであるが、そういう感じをおこさせる原因そのものにいろいろの種類があり、生じた孤独感そのものも多種多様であって、これらを精密に、分析して説明することは頗《すこぶ》る困難である。かかる問題の研究は恐らく心理学の分野に属するであろう。
 以上は「孤独感」の意味について、ざっと述べたのであるが、中国の文学において、こういう孤独感がどのように表われておるかを、これからあらまし述べてみたい。
 
(17)     二 隠者
 
 中国における孤独感について、一応時代順に考えてゆこうとすれば、最初に思い浮かぶのは、いわゆる「隠者」の気持である。
 『孟子』の尽心《じんしん》篇上に「古《いにしえ》の人……窮すれば則《すなわ》ち独りその身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす」(古之人……窮則獨善其身、達則兼善天下)とあって、その「達する」とは、自分の理想を行うにつごうのよい位置を得ることであり、「窮する」とは、理想を持ちながらも、これを行う位置を得ないことであるが、この「窮すれば則ち独りその身を善くす」という態度が、「隠者」の態度に連るのである。孟子は紀元前四世紀頃の人であって、その孟子が「古の人」といっておるのであるから、随分の大昔から、こういう態度をとった人がいたのであろう。
 そしてまた、はじめから位置を得るとか得ないとかを問題とせず、ただ「独りその身を善くする」人もいたはずである。堯《ぎよう》が天下を譲ろうといったところ、聞くもけがらわ(18)しいとして、潁川《えいせん》で耳を洗つたという許由《きよゆう》とか、無道をした周の俸禄は受けませぬとたんかを切って首陽山に隠れ、薇《わらぴ》をとって食っていたが、遂に餓死してしまったという伯夷《はくい》・叔斉《しゆくせい》兄弟とかは、ひたすら「独りその身を善くした」人人であろう。
 もっとも、許由に天下を譲ろうとしたという堯は、紀元前二千数百年頃の天子とされていて、そういう時代は半ば伝説の時代に属しておるのみならず、許由のこと自体も伝説の域を脱し得ないし、伯夷・叔斉のいたという殷末周初は歴史の時代ではあるけれども、伯夷・叔斉の行動についての記録が、どれほどの信憑性《しんぴようせい》をもっておるものか、疑えば疑い得る。しかしながら、これらの話が古くから伝わっておることは、こういう態度をとった人人の存在が、甚だ根深いものであることを自然に物語っておるとも解される。
 ところで「隠者」といえば、普通は、世を避けて仕進《ししん》を求めない人、いわゆる「世捨人」だけを指すようであるが、厳密に考えれば、もう一つの隠者がある。すなわち理想を懐《いだ》きながらも隠没《いんぼつ》して顔われなかった人、そういう人をも隠者として考えるべきであろう。
 『荘子』の繕性《ぜんせい》篇に「古のいわゆる隠士は、その身を伏《かく》して見《あらわ》れざるにはあらざるなり。その言を閉《とざ》して出ださざるにはあらざるなり。その知を蔵《おさ》めて発《ひら》かざるにはあらざ(19)るなり。時命おおいに謬《もと》ればなり」とある。すなわち荘子は、時命が非なる故に、その身はそのまま世にありて言動しながらも、認められないで埋もれた人を「隠士」といっておる。
 荘子はまた、道の行われない時世における聖人について、「聖人は山林の中にあらざれどもその徳は隠る。(徳の)隠るるが故に(身)みずから隠れることをせず」ともいって、かかる聖人を「隠士」と見ておる。
 このように『荘子』にも隠没せる意味の隠士が見えておることでもあるから、隠者を問題とするはあいにはこれを忘れてはならない。つまり隠者には、世を避けて隠れた〔三字傍点〕型と、世を避けないでいて隠された〔四字傍点〕型とがあるのである。
 それはともかく、この二つの型のいずれに属するにしても隠者としての生活に堪えたのは、堅い信念を持っていたからである。そしてまたそういう人はその生活をけだかいものとしていたであろうし、他人もいつとはなしに、そういう人を尊敬するようになったであろう。こういう空気が時とともに次第に凝集され来って、「王侯に事《つか》えずしてその事を高尚にす」(『周易《しゆうえき》』蠱卦《こか》、爻辞《こうじ》)などの言葉ができたものと思う。これは隠者の態度をいったものに違いない。「その事」とは、隠者その人の仕事、すなわち「道」であり、「高(20)尚にす」とは、けだかく持することである。
 かく隠者の道がけだかいものとされ、他人から尊ばれるようになれば、本気からではなく、形だけ隠者ぶったり、都合のわるい時だけ世を避けたりする不心得者も出たであろう。というのは、他人から尊敬されることを好むのは人間の本能だからである。
 そこで、ずっと後世のことではあるが、劉宋の何尚之《かしようし》は、官を退いて方山に隠れ、『退居賦』を著して所信のほどを示したが、間もなく出て来てまた仕えたので、袁淑《えんしゆく》からひどく嘲笑され(『南史』何尚之伝)、南斉の周※[禹+頁]《しゆうぎよう》は、鍾山《しようざん》に隠れていたが、後に詔《しよう》に応じて出でて、海塩県の令となったので、孔稚珪《こうちけい》は「北山移文」を書いてこれをそしった(『文選《もんぜん》』四三、向注)というようなことがおこった。
 もっとも宋斉の時代には隠者的生活が一つの趣味ともなっていたので、これらのふらふらした人間を節操の上からのみ責めるのは少し気の毒であるが、しかしそういう人間に、隠者的生活によって自分の声価を高めようとする不純な動機のあったことも、到底否めない。
 時代は少し前後するが、晋の※[擢の旁]湯《てきとう》、その子の荘、荘の子の矯《きよう》、矯の子の法賜《ほうし》のように、四代つづいて隠者の生活をした例もある(『晋書《しんじよ》』隠逸伝)。こうなると隠者も世襲の職業(21)の如き観がある。
 また唐の時代にも、隠遁を出身の方便とする人が少くなかったらしいことは、『新唐書《しんとうじよ》』の盧蔵用《ろぞうよう》伝にある次のような話からでもほぼ推察がつく。
  本当の隠士であった司馬承禎が朝廷のお召しで都の長安に出て来、やがて終南山へ還るとき、かつて終南山に隠れ今は仕えておる盧蔵用が「山の中には気特のよいところが随分とありますな」というと、承禎はおもむろに答えた――わしにいわせれば、出世の近道があるだけじゃ。
 不純な動機を混じた隠者はさておき、大昔おったという、道をいだいて時世と合わなかった、本当の隠者は、一体どんな気持で日を送ったであろうか。それらの人人は、その周囲と隔絶された感じをもち、そこに大なり小なり自己の孤独を感ずることがあったのではないか。これは何の根拠もない、「想うに当《まさ》に然りしなるぺし」的の推論に過ぎないけれども、そういうことは、十分あり得たのではないかと思うのである。
 もしそういう隠者の孤独感があったとすれば、これから述べようとする文学に現われた孤独感の大部分は、その源をここに発したものと見られることになろう。
 
(22)     三 『詩経』
 
 さて、文学に現われた孤独感は、『詩経《しきよう》』に見られるものが最初である。『詩経』は、孔子(紀元前五世紀)が、その頃伝わっていた三千余首の詩の中から、三百五篇を選び出してまとめたものだという。内容は民間で歌われたものと、朝※[まだれ/苗]《ちようびよう》の儀式の際の楽章とに大別されるが、いま問題にするものは主として前者の中に見出される。その数例を示そう。
 
  予《わ》が美《よきひと》は此《ここ》に亡《な》し
  角《つの》かざれる枕は粲《あざや》かに
  錦《にしき》の衾《ふすま》は爛《うるわ》し
  誰とか与《とも》にせん 独り旦《あか》す
 
  予美亡此
  角枕粲兮
  錦衾爛兮
  誰與獨旦
                 (唐風、葛生《かつせい》)
 
 繰り返しの五章から成る詩の、第三章である。旧説によれば、この詩は、夫を喪《うしの》うて(23)空閨《くうけい》を守る女が、その孤独を歎いたのだという。「美」とはその夫を指す。愛人を喪い、または愛人と離別せる女性の悩みは、後世の中国の文学におけるおもな主題となるが、後世では多く男性の作者によってとりあげられる。しかしこの詩は、女性が歌ったものであろう。
 
  むかし我が往きしとき
  楊柳は依依《しげ》りしに
  いま我の来《きた》るや
  雨《ふる》雪《ゆき》の霏霏《とびか》う
  行道《みちゆ》くこと遅遅《のろのろ》
  渇きつ飢えつ
  我が心は傷み悲しむも
  我が哀《なげ》きを知るもののあらぬ
 
  昔我往矣
  楊柳依依
  今我來思
  雨雪霏霏
  行道遅遅
  載掲載飢
  我心傷悲
  莫知我哀           (小雅、采薇《さいび》)
 
 六章から成る詩の末章である。征伐にかり出されて久しく苦労しきった男が、その心(24)中の歎きを歌ったのだという。
 
  心の憂うる
  それ誰かこれを知らん
  それ誰かこれを知らん
  蓋《いま》しまた思うことなけん
 
  心之憂矣
  其誰知之
  其誰知之
  蓋亦勿思           (魏風、園有桃《えんゆうとう》)
 
 国勢の日に非なるを憂うる大夫《たいふ》が独り悩む心中を歌うたのだという。二章から成る詩の、各章の後半に、この四句が繰り返されている。
 
  彼れに旨酒《うまざけ》あり
  また嘉※[肴+殳]《よきさかな》あり
  その隣に沿比《した》しみ
  昏姻を孔《はなは》だ云《とも》とす
  念《おも》うて我れ独り
(25)  憂心の慇慇《いたいた》し
 
  彼有旨酒
  又有嘉※[肴+殳]
  治比其隣
  昏姻孔云
  念我獨曾
  憂心慇慇           (小雅、正月)
 
 小人が志を得て、その友その親戚と親しんで楽しめるに、我はとりのこされて不遇なるを歎いたのだという。後漢の鄭玄《じようげん》は 「此れは賢者が孤特にしてみずからを傷めるなり」といっておる。十三章から成る長篇の第十二章である。
 右の例は皆、周囲から拒否された、そして何人にも訴えることのできない、自分の悩みを歌ったものである。がしかしこれらは、或いは肉体の隔離から来た悩みが主であって、そこには精神的な煩悶が乏しかったり、或いは精神的な煩悶ではあるが、それはまだ甚だ素朴であり、かつその表現もまた簡単なものである。
 
(26)     四 屈原
 
 ところが、紀元前四世紀の頃に、烈しい孤独の苦悶を複雑な表現で歌うた詩人が出た。楚の屈原がそれである。
 その頃はいわゆる戦国時代であって、天下|併呑《へいどん》の野心をもつ秦は、西の方から次第にその勢力をのばしてきたが、当時の二大国である楚と斉とが連合することを最も恐れていた。そこで屈原の生れた楚の国に、この秦に対抗しようとする一派と、秦に随従しようとする一派とが対立し、前者は斉・魏・趙・韓・燕と連合して、あくまでも秦に対抗してゆこうとしたのであるが、屈原はこの対抗派に属していた(林庚著『詩人屈原及其作品研究』三−四頁参考)。
 屈原は、楚の懐王の一族で、政治にたずさわり、初めは懐王に信用されていたが、讒言《ざんげん》に遭《お》うて追放された。追放されてからも自分の祖国を思うてたびたび王を諫《いさ》めるが聴きいれられず、遂に都の郢《えい》から遠く離れた洞庭湖の近くに流され、そこで煩悶の極、入(27)水《じゆすい》自殺してしまったのである。
 彼は、儒教的教養をもっていたらしいが、その理想が王から無視されて、悪い連中が、跋扈《ばつこ》するばかりであったので、心中憂憤に堪えなかったのである。そこでその周囲から拒否された自己の苦悩を述べたのが彼の作品であって、それは『詩経』には全く見られない想像の豊かな表現をもったものである。
 その作品の中の代表的なものが「離騒」であるが、「離」とは「罹」すなわち「かかる」という意味であり「騒」とは「憂」であるとされている。もっとも「離騒」の語義については、近頃別の説をなすものがあって、この二字は一字ずつわけて解すべきでなく、二字ひとまとまりで「怨恨」の意味を表わす楚語であるという。この新説に賛成したいが、惜しいかな論証がまだ十分でない。
 そのことはともかく、「離騒」は約四百句から成る長大篇であって、自分の生い立ちを先ず述べ、次いで身を修め信念を守ることを種種の香草を身につけることで象徴してのべている。そして他の人人の変節を憤り、悪いものがはびこって自分は押し出されたのを日夜|慨《なげ》きつづける。たとえ我が身は死のうとも、王が考えをかえてくれさえすればよいのだが、王はその側近の悪い人間に蔽われていて、とても覚《さと》ってくれない。彼が悩み(28)つづけるのを見て、それはむだなことだと諫める人が二人でてくるが、その一人は姉であって、「皆が濁るなら、それと共にしたらよいではないか。多勢の人を、一人一人説いてまわることはできないのだから、皆と調子を合わせていくことが大切だ」と忠告する。もう一人は占者であって、彼が思案に余って訪ねていくと、「何も楚の国にだけ、恋恋とすることはあるまい。楚の国が用いてくれないならば、他国へ行けばよいではないか」という。がしかし、屈原はこれらの忠告には耳をかさずに、信ずるところに従おうとする。そしてやむなく先賢の魂に面会して苦衷を訴えてみるが、それとても、ただ自分の自信をかためるだけで、王を覚らせる効能は全くない。容れられない自分の苦悩はこの世では誰に訴うべくもない。それで訴うべき人をさがすために天上界に往《ゆ》く。雲に乗って往くのであるが、雷神・風神等が護ってくれる。天上界の神の所に辿《たど》りついたが門番に遮《さえざ》られる。致し方なく、ひきかえして下界を見ると、美女――賢王に喩える――がいる。そこで結婚を申込むと先約があったり、或いは品行の悪い女であったりする。このように方方歩いても認められないので、昔も世に容れられずして死んだ人がいるが、自分もその後を追うほかないと思う。
 これが「離騒」の内容のあらましであるが、この作品を貫いているものは、自分のも(29)つ正義感とこれを守りぬこうとする信念とであって、そのために邪悪な人間と調和できないで悩むところの感情が到る処にあらわれている。その悩みの濃くあらわれているところを、二、三ぬき出して示そう。
 
  固《まこと》に時俗《よのひと》の工巧《さかしら》なる
  規矩《きく》に※[人偏+面]《むか》いつつも改めて錯《えが》き
  縄墨に背《そむ》いて曲《まが》れるに追《したが》い
  競うて周容《おもね》りてそを度《つね》となす
 
  固時俗之工巧兮
  ※[人偏+面]矩而改錯
  背繩墨以追曲兮
  競周容以爲度
 
 当世の人人は、ぶんまわしとさしがねが眼の前にあるのに、それをさしおいて、勝手に円や四角をかき、すみなわの示すまっすぐな線にそむいて、わざわざ曲った線にしたがう。他におもねるためのさかしらである。しかもそういうおもねりをあたりまえと心得ている。
 これは世に合おうがために道をまげる人人をそしったのであるこというまでもないが、そういう人たちとともにおる屈原は全く孤独である。そこで、これにつづけて歌う、
 
(30)  ※[立心偏+屯]《なや》み鬱邑《ふすく》みて余《われ》は※[人偏+宅]※[人偏+祭]《うらぶ》れ
  吾ひとりにして此の時に窮困《ゆきつま》れるかな
  寧《むし》ろ溘《がくり》と死《ことき》れて(魂は)流亡《さまよ》うとも
  余《われ》は此の態《ざま》をなすに忍《た》えざるなり
 
  ※[立心偏+屯]鬱邑余※[人偏+宅]※[人偏+祭]兮
  吾獨窮田乎此時也
  寧溘死以流亡兮
  余不忍爲此態也
 
 ゆきつまったひとりぼっちの我を意識する。がしかし、命にかえても、他の人人の如きみにくいざまはしないと、信念の堅さをいう。そして更につづけて、
 
  ※[執/鳥]鳥《たけきとり》の群《むれ》なさざるは
  前世《むかし》よりして固《まこと》に然り
  何《いか》で方《しかく》と圜《まる》との能《よ》く合わんや
  夫《そ》れ孰《たれ》か道を異にして相安んぜん
 
  ※[執/鳥]鳥之不群兮
  自前世而固然
  何方圜之能合兮
  夫孰異道而相安
 
 ※[執/鳥]鳥すなわち猛禽《もうきん》は、昔から群をなさずに一羽で飛ぶことにきまっておる。その性の(31)はげしさのためであろう。きびしく道を守る人間がひとりぼっちなのはそのようなものだ。むかし殷《いん》の暴君|肘《ちゆう》王を諫めつづけて殺された比干《ひかん》にしても、殷に対する節操を守りつづけてついに餓死した伯夷にしてもそうだったなどと思うて、孤独なる我を自慰するのである。
 右に引いた十二句は、ひとつづきに歌われておるのであるが、かかる悩みは、長篇であるこの「離騒」のあちこちに、形をかえてしきりに出ておるのである。そして「離騒」の最後は次の五句で結ばれる。
 
  己《や》んぬるかな
  国に人なく我を知るものなし
  また何ぞ故都を懐《おも》わんや
  既に与《とも》に美政をなすに足るなし
  吾まさに彭咸《ほうかん》の居る所に従わんとす
 
  己矣哉
  國無人莫我知兮
  又何懷乎故都
  既莫足與爲美政兮
  吾將從彭咸之所居
 
 「彭咸」は、殷の時代の賢大夫であって、その君をいくら諫めても聴きいれられない(32)のを悲しみ、ついに投水自殺したと伝えられている。屈原も楚の大夫であり、楚王を諫めても聴きいれられない。その境遇が似ておるところから彭咸に親しみを感じていたらしく、彼の作中にはその名がしばしば出ておる。最後に「吾まさに彭咸《ほうかん》の居る所に従わんとす」といったのは、孤独に堪えかねて、屈原も自殺の覚悟をしたことを表わしたのである。
 このように、屈原は歎きつづけて、最後には自殺の覚悟さえ示しておるが、その歎きとともに、今はどんなに認められなくても、自分は天道の公平なることを信ずるという気持の出ておるところが同じ「離騒」の中にある。
 
  皇天《あまつかみ》には私阿《えこ》なし
  民の徳あるものを覧《み》て輔《たす》けを錯《お》く
  夫《そ》れ維《こ》れ聖哲にして茂行《おこないすぐ》れたる
  苟《まこと》に此の下土《あめのした》を用《おさ》むるを得ん
 
  皇天無私阿兮
  覽民徳焉錯輔
  夫維聖哲以茂行兮
  苟得用此下土
 
 おてんとうさまには、ある特定の人だけを愛するというようなえこひいきの心はない。(33)ずっとみまわして徳のある人間を見出し、それをもりたてるのだ。だから聖哲で立派な行の人がそのおめがねにかなって天下を治めることができるのである。
 この四句は屈原の信念と理想とを表わしたものであるが、特に「皇天《あまつかみ》には私阿《えこ》なし、民の徳あるものを覧《み》て輔《たす》けを錯《お》く」の二句に注意したい。これは、『左伝』に『周書』を引いて、「皇天には親なく、惟《た》だ徳を是れ輔く」(僖公《きこう》五年)といえるのや、『老子』に、「天道には親なく、常に善人に与《くみ》す」(第七十九章)とあるのと同じ思想であって、屈原がいまこのことを作品の中に歌っているのは、この信念を吐露することによって自慰したのである。
 一体この「天は善に与す」との思想は、このように古くからあるが、現実の人間界では、なかなかそうはいかず、正義の人が世に容れられないで、却って邪悪な人が成功したり、正道を守る国が振わずに、没義道の国が栄えたりすることがある。そこで、後世ではあるが前漢の司馬遷も『史記』の中に、「天道は果して是か非か」といっておる。すなわち伯夷・叔斉は、殷の臣であって、殷が周に滅ぼされてからは、「周の粟《ぞく》を食《は》まず」といって、首陽山に隠れて薇《わらび》をとって食べた。そうして遂に餓死してしまった。それで司馬遷は、伯夷・叔斉の如き善人でもこのような不幸な目に遭う。「天は善に与す」とは(34)いうが、「天道は果して是か非か」と大きな疑問を投げ出しておるのである。これはまた一面、司馬遷自身の不幸を悲しむ心中の歎きを託したのでもあろう。
 さて屈原は後に自殺したのであるが、その直接の動機は、或いは、自分の信じている皇天が、一向、正義に味方してくれないので、ついに絶望したことにあったのかも知れない。前漢の東方朔《とうぼうさく》の
「七諫《しちかん》」に、屈原の心中を推測して、
 
  独り冤抑《ぬれぎぬをき》て極《はてし》なく
  精神《こころ》を傷《いた》めて寿《いのち》ちぢまる
  皇天《あまつかみ》は既に命を純《もつぱら》にせず
  余《わ》が生ついに依る所なし
 
  獨冤抑而無極兮
  傷精神而壽夭
  皇天既不純命兮
  余生終無所依
 
  願わくは自《みずか》ら江流に沈み
  横流を絶《わた》りて径《ただち》に逝《ゆ》かん
  寧ろ江海の泥塗《ひじ》とならん
  安《いかで》か能《た》えん 久しく此の濁世を見るに
 
  願自沈於江流兮
  絶横流而徑逝
  寧爲江海之泥塗兮
  安能久見此濁世
 
(35)といえるなどが、ひょっとすると、屈原の自殺の動機をうまくいい当てているのではなかろうか。もしそうならば屈原も、「天道は是か非か」の強い疑問をもったことであろう。ただそのことは彼の作品には現われていない。
 さて、屈原は天を信じつつも、現実においては、孤独の苦悶をもちつづけていたのであるが、そのことの一層はっきりと写されているのは、彼の作品なる「九章」の「悲回風」と、それに「遠遊」との二篇である。まず「九章」の「悲回風」から、次に「遠遊」から、数句ずつ摘出しよう。
 
  惟《こ》れ佳人の独り懐《しのべ》る
  芳椒《ほうしよう》を折りて以て自処《みつくろい》す
  曾《ますま》す歔欷《なきむせ》びて嗟嗟《ああ》となげき
  独り隠伏《うずも》れて思慮《おもいをめぐら》す
 
  惟佳人之獨懷兮
  折芳椒以自處
  曾歔欷之嗟嗟兮
  獨隱伏而思慮
 
 「佳人」は屈原みずからをいう(集注)。「芳椒」は香り高いさんしょうの木。屈原の作(36)品には、香草・香木を身につけることをいうて、心を潔白に保つ意味を表わしたところが多い。この歎きは更につづく、
 
  涕泣《なみだ》は交りて凄凄《うらさび》しく
  思うて眠られで曙《あけぼの》に至る
  長夜《あきのよ》の曼曼《ながなが》しきを終《あかす》まで
  此の哀しみを掩《はら》えども去らず
 
  涕泣交而凄凄兮
  思不眠以至曙
  終長夜之曼曼兮
  掩此哀而不去
 
 以上は「九章」の「悲回風」からとったのであるが、そこに烈しい孤独の苦悶を見る。同じ苦悶が「遠遊」にも表われているのであって、それを示せば、
 
  沈濁《にごり》に遭うて汚穢《けがしよご》され
  独り鬱結《むすぼ》れてそれ誰とか語らん
  夜《よわ》にも耿秋《いらいら》として寐《まどろ》みもせず
  魂は※[煢のワなし]※[煢のワなし]《さえざえ》として曙に至る
(37)  惟《こ》れ天地の窮《さわま》りなき
  人生の長く勤むるを哀しむ
  往者は余《わ》れ及ばず
  来者は吾れ聞かず
 
  遭沈濁而汚穢兮
  獨鬱結其誰語
  夜耿秋而不寐兮
  魂※[煢のワなし]※[煢のワなし]而至曙
  惟天地之無窮曾
  哀人生之長勤
  往者余弗及兮
  來者吾不聞
 
 「自分は讒言《ざんげん》を被《こうむ》り、まことに憤懣に堪えない。この結ぼれた胸中を誰に告げたらよかろうか。夜中もいらいらして寝つかれず、魂はいやさえてそのうちに天が白んでくる。天地は悠久である中に、人間はこうしてつとめつづけて、その一生を終るのがあわれである。自分は過去のよき時代に遅れ、未来にもあうことができない。全く見はなされた孤独なる自分である」という。このような意味のことが表現のしかたをかえて、「九章」の「悲回風」と「遠遊」との二篇の処処に色濃く出ているのである。
 また「漁父《ぎよほ》」という作品がある。これは屈原の作といわれて来たが、種種の点から考えてみると、どうやら後世の人が屈原を哀れんで作ったもののようである。
 この篇は、隠者のような漁父と、それに屈原とが、たがいに人生観を述べ合うしくみ(38)になっていて、殆んど問答からできており、短篇ながら、戯曲のような面白い作品である。屈原の一生そのものが一大悲劇であるが、この篇だけをとり出して、現代的なドラマに作り上げたら、随分意味の深いものになるであろう。
 ところで漁父は、周囲と調和していくのこそ至上の生き方であるといい、屈原の「深く思い高く挙がる」態度を非難する。これに対して屈原は「世人は皆濁り」「衆人は皆酔う」なかに、自分だけは清く、そして醒めて生きたく、衆人と妥協するくらいならば死んだ方がましだと力説する。その屈原の言葉は、
 
  吾これを聞く
  新たに沐《かみあら》えるものは必ず冠《かんむり》を弾《はじ》き
  新たに浴《ゆあみ》せるものは必ず衣《ころも》を振うと
  安《いかで》か身《わ》が察察《きよらか》なるをもってして
  物の※[さんずい+文]※[さんずい+文]《けがらわ》しきを受くるに能《た》うるものぞ
  寧ろ湘流《しようりゆう》に赴いて
  江魚の腹中に葬られん
(39)  安《いかで》か晧晧《いさざよ》き白さをもってして
  世俗の塵埃を蒙むるに能《た》えんや
 
  吾聞之
  新沐者必弾冠
  新浴者必振衣
  安能以身之察察
  受物之※[さんずい+文]※[さんずい+文]者乎
  寧赴湘流
  葬於江魚之腹中
  安能以皓皓之白
  而蒙世俗之塵埃乎
 
 この言葉は、『荀子』の不苟《ふこう》篇の文章と関係がある。『荀子』にはいう、「故に新に浴《ゆあみ》せるものはその衣を振い、新に沐《かみあら》えるものはその冠を弾《はじ》くは、人の情なり。それ誰か己の※[さんずい+焦]※[さんずい+焦]《あきらか》なるをもってして人の惑惑《くらき》を受くるに能《た》うるものぞ。」「漁父」は恐らく『荀子』の文章に本《もと》づいたのであろう。しかしこの言葉でもって、屈原の潔白孤高の態度をよく表わし得ておる。晩唐の汪遵《おうじゆん》という詩人の、「漁父」と題する詩の中に、「霊均《れいきん》は説き尽くす孤高の事を、全く逍遥とは意の同じからず」とあるが、汪遵は屈原の作とされている「漁父」篇のこの言葉を思い浮かべて、歌ったのであろう。「霊均」とは、屈原の字《あざな》である。
 ずっと後の五世紀のことであるが、劉宋の謝恵連に「雪の賦」があり、謝荘に「月の賦」がある。前者は、梁の孝王が司馬相如や鄒陽《すうよう》・枚乗《ばいじよう》に雪景色を賦せしめるしくみであり、後者は陳思王が王粲《おうさん》に月夜の景を賦せしめるしくみであって、二篇とも、過去に実在した人物を持ち出し、それらの人物自身の立場で事が運ばれるように作られておる。(40)そこで清の崔述《さいじゆつ》は、この「漁父」も「雪の賦」や「月の賦」とほぼ同じ性質の作品であるとし、決して屈原の作ではないといっておる(『考古続説』巻一)。屈原の作ではなかろうが、遅くとも後漢を降《くだ》らないものであることは疑いなく、屈原の生活態度の特色をよく捉えておる点で注意すべき資料である。
 以上述べた如く、屈原の作品には、その周囲と調和できないために生まれた孤独の苦悶が表われておるのであるが、その周囲との不調和というのは、自分の占めていた地位から追われたことを意味するのではなくて、自分の守る正義が周囲から拒否されたことを意味するのである。かかるばあい正義に対する信念が強ければ強い程、その悩みは大きいのが、人情の自然というものであろう。屈原の作品には、架空的な想像の翼をひろげたところが多く、また同じ趣旨をいろいろな表現で、繰り返してのべておるところが多いが、かかるやり方は、南方人の性格から来たものだとのみ簡単にかたづけるわけにはいかない。その苦悩が大きいだけに、そういう方法によらねば表現のしようがなかったのだともいえるのではあるまいか。
 ところで、屈原の作には、孤独の苦悩はよく写されているが、孤独な自分をもう一度みずから眺めて、それを更にみずから悲しみ、みずから哀れむという情は、まだ表わさ(41)れていない。この孤独なる自分を更に眺めて、みずからこれを哀れむ気持は、次の宋玉の作品に至ってはじめて見られる。
 
(42)     五 宋玉
 
 宋玉は屈原と同時で、やや後輩である。或いは屈原の弟子というが明かでない。彼の作「九弁」の中から先ず二カ所を引用しよう。
 
  廓落《うらさび》し ※[羈の馬が奇]旅《たびぞら》にして友生《とも》のなく   惆悵《いた》んで私《ひそ》かに自《みずか》ら憐れむ
 
  廓落兮※[羈の馬が奇]旅而無友生
  惆悵兮而私自憐         (九弁、其一)
 
さすらいの旅における失意の身を憐れむのである。
 
  ※[青+見]《しずか》なり※[木+少]秋《あきのすえ》の遥夜《よなが》
  心は繚※[立心偏+戻]《くだ》く 哀《うれ》うることのありて
  春や秋や※[しんにょう+卓]※[しんにょう+卓]《はろばろ》とさりて日は高《た》け
(43)  然《ここ》に惆悵《いた》んで自《みずか》ら悲しむ
 
  ※[青+見]※[木+少]秋之遙夜兮
  心繚※[立心偏+戻]而有哀
  春秋※[しんにょう+卓]※[しんにょう+卓]而日高兮
  然惆悵而自悲          (九弁、其七)
 
 日月は空しく過ぎ去って、志の達せざる自分を悲しむのである。
 この二つの引用における、「自ら憐れむ」(自憐)、「自ら悲しむ」(自悲)の表現に注意したい。
 もともと「自」という語は、自分で自分を……する、という意味に使われるのであって、そのことは「自殺」とか「自修」とかの用法について考えてみればよくわかるであろう。すなわち、「自殺」とは自分で自分を殺す意味であり、「自修」とは自分で自分を修める意味である。こういうわけであるから、「自憐」といい、「自悲」というのは、自分で自分を憐れみ、自分で自分を悲しむことにほかならない。
 そうすれば、右に挙げたはじめの方の表現は、さすらいの旅における失意の自分を、自分で憐れんでおるという意味であり、あとの方の表現は、日月の空しく過ぎ去る中に悶え悩む自分を、自分で悲しんでおるという意味であると解しなくてはならない。「惆悵《いた》んで私《ひそ》かに自《みすか》ら憐れむ」の下に、「窃《ひそ》かに内に己を念うて〔五字傍点〕自ら憫《あわ》れみ傷《いた》むなり」と注しておる後漢の王逸も、恐らく右の如く解していたのであろう。
(44) ところでこのように、自分で孤独なる自分を憐れみ、自分で孤独なる自分を悲しむことは、言葉を換えていえば、第一の我を第二の我が明かに意識して、しみじみと憐れみ悲しむことであって、こういう心理の状態になると、孤独なる自己は一層具象的に捉えられ、その孤独感はひとしお深まるのである。
 「九弁」から、もう一つ、引用しよう。
 
  皇天《おおぞら》は淫溢《あふれ》て秋の霖《ながあめ》をふらす  后土《このよ》は何《いず》れの時か※[さんずい+乾]《かわ》くを得ん
  塊《つくねん》として独り此《こ》の沢《めぐみ》のなきを守り
  浮雲を仰いで永歎《ためいき》をつく
 
  皇天淫溢而秋霖兮
  后土何時而得※[さんずい+乾]
  塊獨守此無澤兮
  仰浮雲而永歎          (九弁、其四)
 
 認められない自分の心のむすぼれを、秋の霖雨の鬱陶しさに象徴して歌ったのである。「沢のなき」とは、主君の恩恵に浴しないことをいう。
 ここで注意したいのは「塊として独り」(塊独)の表現である。もっとも、これは或いは「塊として独り」と読むべきでなく、「塊独」二字を一語として読むべきかも知れない。(45)しかしどちらにしても、意味の上では大差がないから、いまは、『楚辞』の「七諫《しちかん》」の「塊兮鞠」の下、及び「哀時命」の「塊独」の下に見える王逸の解に従って、ここを読んでおく。
 ところでこの「塊」は、ひとりつくねん〔四字傍点〕としておる姿を形容せるものであるが、この類の形容のしかたについて、他の用例をもあわせ考えてみると、少くとも二通りの区別がある。
 すなわちその一つは、何もしない〔三字傍点〕でひとりつくねんとしておる姿を形容するもので、例えば、『荀子』の君道篇に「故に天子は、視ずして見、聴かずして聡、慮《おもんばか》らずして知、動かずして功あり。塊然〔二字傍点〕として独り坐して天下これに従うこと、一体の如く、四支の心に従うが如し」(故天子不視而見、不聽而聴、不慮而知、不動而功、塊然獨坐而天下從之、如一體、如四支之從心)とあるのがそれである。わが久保愛の『荀子増注』は、この「塊然」に「無為の貌」と注しているのももっとものことである。
 これに対してもう一つのは、何事も手につかずに〔九字傍点〕、ひとりつくねんとしておる姿を形容するもので、例えば、時代は降るが、魏の曹植の「親親を通ぜんことを求むる表」(求通親親表)に、「四節の会ごとに、塊然〔二字傍点〕として独り処《お》り、左右には唯だ僕隷のみ、対《こた》うる(46)所は唯だ妻子のみ」(毎四節之會、塊然獨處、左右唯僕隷、所對唯妻子)とあるのがそれである。
 同じ「塊然」の語に、このような二つの色あいが感じわけられるのは、何もこの語自身の色あいが、はじめからわかれておるに因るのではなく、用い方の如何《いかん》によってはじめてわかれるのではある。がしかし、ともかくこの色あいの感じわけのことを心得ていて、然る後、いま問題にしておる宋玉の「塊として〔四字傍点〕独り此《こ》の沢《めぐみ》のなきを守る」を見ると、この「塊として」は、何事も手につかないで〔十字傍点〕、ひとりつくねんとしておる、あわれな姿を形容せるものであることが、非常にはっきりとするであろう。
 そうすると、この句は、鬱結せる不遇の歎きを懐きながら、しょんぼりと坐しておる自分の姿を客観視して写したものであって、そこに孤独なる自分を、自分でしみじみと眺める気持が表わされておるといってよい。
 右において、宋玉の作から「自ら憐れむ」「自ら悲しむ」「塊として」の表現をとり出して、それは孤独なる自分を、自分がはっきりと意識して眺める意味であることを述べたのであるが、こういう傾向は既に『詩経』の小雅、正月篇に見え、また屈原の作品にもそれとなく感じられたのであるけれども、その表現も、随《したが》ってその意識も、宋玉にお(47)けるが如き明瞭なるものではなかった。
 そこでここに、屈原の孤独感と、いま述べた宋玉の孤独感との違いを、やや理窟っぽくいえば、屈原のは、自分がひとりぼっちであることを意識してはおるけれども、その自分を客観化して見るということがまだはっきりとは意識されていなかった。これに対して宋玉のは、ひとりぼっちであると意識する自分を一度つきはなして、更にこれを客観化して、明かに意識しておるのである。これから後、漢の作者は、しばしば宋玉の如き表現法を用いるようになった。
 ではどうして、宋玉の孤独感が、かくの如き複雑なものとなったのであろうか。それについては二つの方面から考えることができる。「九弁」は、宋玉が屈原を憫れんで、屈原の立場で作ったものだとされている(王逸の九弁序)。果してしからば、宋玉は屈原の心中を推測する余裕をもつことができたので、第三者の立場から屈原をつくづく観察し、その結果こういう細かい感情が生れたのだといい得るであろう。これが一つの考え方である。
 もう一つの考え方は、宋玉も楚の大夫であったらしいから、悲しむべき楚国の実情は、屈原と同様に知っていたはずである。ところが、屈原の積極的な性格に比べて、宋玉は(48)消極的な性格であったものの如く、『史記』に、「宋玉らは敢えて直諫《ちよつかん》することがなかった」と書いてあることからも、そう推測せられる。消極的であったが故に、信ずる所に従って行動することができずに、その憂愁が一層内攻的となって、その結果こういう細かい感情が生れたのだともいえるのではあるまいか。
 なお「九弁」九節のあちこちに、秋の季節の寂しさを描いて、孤独なるものの心中を表わそうとしているところがある。「悲しいかな秋の気たるや、蕭瑟《すさま》じく草木は揺落《ちりお》ちて変《うつろ》い衰う」にはじまる第一節において殊にそれが著しい。秋は悲しきものといいそめたのは、けだし、この「九弁」であろう。文学における季節感や自然描写の発達を考える上においても、「九弁」は大切な資料である。
 ところで、孤独なる自己を自分が眺めかなしむこと、もっと広くいえば孤独感にひたることは、一種の低徊《ていかい》であって、低徊することによって、実はかなしみがいくらか慰められるのである。遥か後世ではあるが、趙宋の詩人、辛棄疾《しんきしつ》は「愁えの慈味」(醜奴児)といい、また、わが蕪村は「さびしさのうれしくもあり秋の暮」と詠じておるが如く、悲しみやさびしさの中にもしみじみとした味わいがあるものであって、それをかみしめていると、そのままいくらかの慰安となるのである。
(49) がしかし、これは一時的の慰安に過ぎず、それだけでは到底なやみは救われきれない。そこで、自分の悩みを消してくれるものを他に求めようとするに至るのは、けだし人情の自然であろう。実は屈原においてもかかる心の動きがすでにあったのであって、さきに述べた如く、彼が天道の公正を信じようとしたのはそういう心の動きであったと見られる。それに屈原はまた、かすかながらも、「時」ということを考えていたもののようである。
 
  曾《しきり》に歔欷《すすりな》き余《わ》れ鬱邑《こころむすば》る
  朕《わ》が時の当《よか》らざるを哀しみて
 
  曾歔欷余鬱邑兮
  哀朕時之不當         (離騒)
 
 この「時」は、自分の生れた時世を指すのであるが、このように、よき時世にあわなかったことを悲しむのは、実は、不遇の責任を「時」という原理に転嫁し、それによってあきらめをつけようとする考えに、かすかながら連るものがある。
 宋玉もまた、このような「時」を考えていた。
 
(50)  悼《いた》むらくは 余《わ》が生の時ならずして
  此の世の※[人偏+狂]攘《みだ》れたるに逢えるを
 
  悼余生之不時兮
  逢此世之※[人偏+狂]攘      (九弁、其三)
 
 しかしながら屈原にしても宋玉にしても、その「時」の考えはもちろん、まだほんのかすかなものであって、不遇の責任を「時」に帰せしめ、それによってあきらめてしまおうと、そう意識するところまではいっていなかったのである。あきらめの原理を明かに考え出したのは、漢の時代になってからのことかと思う。
 
(51)     六 項羽
 
 漢代の作者たちは、どうにもならない孤独なる自分を哀れむと共に、その悩みから救われる道を自己以外のものに求めようとした。文学作品にはそれが、二つの傾向になって現われる。第一は俗世を避けて山に入り、山中で、或いは仙人を求め、或いは自然に親しむことであって、そのことは、前漢(紀元前二−一世紀)の賈誼《かぎ》の作かといわれる「惜誓」、東方朔《とうぼうさく》の「七諫《しちかん》」、それに後漢(一−二世紀)の王逸の「九思」という作品などに見られる。そしてそれらの作品の中に、後の自然文学の素因が認められるが、この第一の傾向については、いま立ち入らない。第二は天とか時とかにすがることであるが、この方について、あらましを述べよう。
 自分の思いどおりにならぬことを「天」とか「時」とかに結びつけて考え、それによって自ら慰め、自らあきらめようとするいき方は、漢の時代に著しくなったようである。もっとも、自分の不遇を「天」と関係づけて考えることは、既に『詩経』の詩にも見え(52)ておるのであって、
 
  己《や》んぬるかな
  天実にこれを為す
  これをいかにせん
 
  已焉哉
  天實爲之
  謂之何哉      (※[北+おおざと]風《はいふう》、北門)
 
などがそれである。旧説によれば、この北門の詩は、志を得ざる忠臣の悩みを詠じたものという。右の三句はその詩の各章の結びをなすものであって、悩みのはてに、自分の不遇は天のせいだからどうしようもないと考えたことを表わす。がしかし、これは、どうしようもないと歎くことが主であって、だからあきらめよう、というような気持は稀薄であるかと思う。その歎きは、ただ天に訴えようとする気持をもったものの如くである。
 それから、自分の不遇と「時」とを関係づけて考えることは、さきに引いた屈原や宋玉の作品に既に見えるが、しかしそれとても、「時」のせいとして歎くのが主であって、それによってあきらめようとする気持はまだ明かではなかった。
(53) ところが、秦末漢初になると、「時」とか「天」とかの責任であることを自分に言い聞かせて、それを歎くよりも、むしろそれによってあきらめるという気持があらわになった。その例が、項羽の詩と、その言とに見られる。
 
  力は山を抜き気は世を蓋《おお》う
  時 利あらず騅《すい》は逝《ゆ》かず
  騅の逝かざるは奈何《いかに》すべけん
  虞《ぐ》や虞や若《なんじ》を奈何せん
 
  力拔山兮氣蓋世
  時不利兮騅不逝
  騅不逝兮可奈何
  虞兮虞兮奈若何      (『史記』項羽本紀)
 
 項羽が垓下《がいか》というところで追いつめられて、漢軍に囲まれたとき、漢軍が楚の歌を歌ったのを聞いて大いに驚き、楚人までも漢の味方になったかと錯覚をおこしてしまう。そしてもうこれまでだとあきらめる。例の「四面楚歌」の語はこのことからおこったのであるが、そのせっぱつまった際、みずからこの詩を作って歌ったのだという。ただ昭和三十二年三月刊行せる水沢利忠著の『史記会注考証校補』によれば、「時 利あらず騅《すい》は逝《ゆ》かず」(時不利兮騅不逝)の一句を「時 利あらずして威勢は廃《お》ち、威勢 廃ちて騅は(54)逝かず」(時不利兮威勢廢兮、威勢廢兮騅不逝兮)の二句に作った古本のあったことが知られる。意味の上からも形式の上からも、古本の方が古い姿かと思うのみならず、当面の問題を考える上でも古本の方がふさわしい。
 「騅」は項羽の愛馬を指し、「虞」は項羽の愛姫の名。この詩は虞に対するあきらめきれない愛着の情を歌ったものであるが、ここでは「時 利あらず」を問題としたい。
 「時 利あらず」とは「時」が自分に味方をしてくれないとの意味であって、そのことが「威勢の廃ちた」原因、すなわち敗軍の原因であると、項羽は考えたのである。つまりこれは責任を「時」に帰せしめる考え方であるといえよう。どうしてこういう考えを、いまおこしたかといえば、のっぴきならぬ境地においつめられた項羽は、やりきれない、ひとりぼっちの自分を感じ、せめて、こう考えることによって自ら弁解し、自らあきらめようとしたにほかならない。
 もっとも敗軍と「時」とを、このように結びつける考え方は、或いは「力は山を抜き気は世を蓋《おお》う」といったほどの強い自信を持つ項羽にしてはじめてできたことであるかも知れない。それにしても、苦悩の処理のしかたの、時代的変遷を示す一つの著しい例ではある。このように自分に不利なことを、「時」とか「天」とかの責任に帰せしめる考(55)え方は、やがて「時」や「天」を信じない考え方を生み出すもとになる。そのことについてはあとで触れるであろう。
 なお一つつけ加えておきたいのは、項羽の「時」と屈原や宋玉の「時」とは、果して同じ概念かどうかということである。屈原や宋玉の「時」は、「時代」とか「時世」とかの現世的な時間を指すらしく感じた。ところが項羽の「時」は、どうやら「時運」ともいうべき、超現世的な理法を意味しておるやに感じる。その点、次に述べようとする「天」とほぼ似ておるかと思う。ただしかし、何れも用例が極めて少いので、確かなことはいえない。
 なお昭和二十九年十月刊『中国文学報』第一冊に、吉川幸次郎博士の「項羽の咳下歌《がいかのうた》について」という詳しい論文が載っている。参看されることを望む。
 項羽の詩で見たと同じ考え方が彼の言葉の中にも現われておる。項羽のその言葉とは、『史記』の項羽本紀の叙事の中にはさまれているので、資料としては間接的なものである。がしかし取り挙げる価値はあろう。
  吾れ兵を起してより今に至るまで八歳なり。身《みずか》ら七十余戦せり。当る所の者は破られ、撃つ所の者は服し、未だ嘗《か》つて敗北せず、遂に覇として天下を有《たも》てり。然るに
(56)  今|卒《つい》に此《ここ》に困《くる》しむ。此れ天の我を亡ぼすにて、戰の罪にはあらざるなり〔天の〜傍点〕。今日|固《もと》より死を決せり。願わくは、諸君の為に快戰して、必ず三たびこれに勝ち、諸君の為に囲《かこみ》を潰《やぶ》り将を斬り旗を刈《か》りて、諸君をして天の我を亡ぼすにて〔九字傍点〕、戰の罪にはあらざることを知らしめん。
 咳下の包囲から脱出して遁走《とんそう》したところを漢軍に追いつめられたとき、自分の部下にいった言葉である。騎慢ともいうべき項羽の自信は、敗軍の全責任を「天」に帰せしめる。
 彼の傲語《ごうご》した如く、果して追撃軍の包囲をやぶり得て、更に逃げると、烏江《うこう》の亭長が、「急ぎ渡つて江東へ行き、そこで一旗あげよ」とすすめる。項羽は笑いながらそれをことわっていう、
  天の我を亡ぼす〔七字傍点〕、我いかでか渡ることをせん。且つ籍(項羽の名)は江東の子弟八千人と江を渡つて西せしに、今、一人の還るものなし。縦《たと》え江東の父兄は憐れんで我を王とするも、我は何の面目あってこれに見《あ》わん。縦え彼は言わずとも、籍ひとり心に愧《は》じざらんや。
 ここでもまた責任を「天」に帰せしめておる。かく「天の我を亡ぼす」(天之亡我)こと(57)を繰り返していっておるのであるが、これは、さきの「時 利あらず」と同じ考え方である。項羽も楚の地方の人であるから、こういうふうに 「時」や「天」を持ち出すことは、屈原・宋玉の「時」の考え方と連っておるのかも知れない。がしかし屈原・宋玉は「時」のせいとして歎くのであり、かつその「時」は時間的の意味らしく感じられたのに対して、項羽は「時」のせいとしてあきらめるのであり、かつその「時」は理法的のものらしく思われるのであって、両者の考え方の間に差のあることは、さきにも触れた通りである。
 項羽の敗死したのは紀元前二〇二年であって、その年に漢王の劉邦《りゆうほう》は、皇帝の位につき、漢帝国はそれから約二百年間つづく。中間に新という時代十数年をはさんで、後漢に入り、これがまた約二百年間の生命をたもつ。この前漢後漢約四百年にわたる間の文学作品には、孤独感がどのように表われているであろうか。
 
(58)     七 漢代の諸作家
 
 漢時代の文学は、屈原・宋玉らの作、いわゆる『楚辞』の影響を受けること大であるが、いま孤独感の表われた作品をさがすに当っても、その主なるものは皆、『楚辞』直系のものから選び出される。そしてそれらは、屈原を追憫《ついびん》せる形をとって作者の感懐を寓せるものと、作者が直接に自分の不遇を歎いたものとの二種にわかれる。前者は王注本『楚辞』に輯録《しゆうろく》せる漢人の作によって代表せられ、後者は『文選《もんぜん》』の賦部志類及び設論部に採択せる漢人の作によって代表せられる。
 宋玉の作に至って、孤独なる自己を憐れみ悲しむ情が表わされており、しかもその孤独の寂しさを秋の季節感の描写によって表わしたところがある、とさきに述べたが、屈原を追憫して作者の感懐を寓せる漢代の諸作は、大体において宋玉のこの風をついだものである。しかしこれらの作品において注意すべきことが二つある。その一は内容についてであり、その二は表現のしかたについてである。先ず内容について述べよう。
(59) 宋玉までは、自分はひとつの自分として考えられていた。ところが漢の作者には自分を凝視して、これをいくつかにわけで感ずるものが出てきたのである。例えば、前漢の東方朔《とうぼうさく》はいう、
 
  哀《かな》しむ 形体の離解し
  神《たましい》は罔両《ふらふら》として舎《とどま》るなきを
 
  哀形體之離解兮
  神罔兩而無舍      (七諫、哀命)
 
 「離解」は文字どおり、ばらばらになることと解したい。この二句は、自分が肉体と精神とにわかれ、更にその肉体が四肢五体ばらばらにわかれたと感じたことを表わす。憂愁を懐いて遠行せる我の、疲労の極の気持である。
 また同じく前漢の劉向《りゆうきよう》はいう、
 
  腸《はらわた》は憤※[立心偏+絹の旁]《もだ》えて怒を含み
  志は遷蹇《うつ》りて左に傾く
(60)  心は※[立心偏+黨]慌《ぼんやり》してそれ我に与《くみ》せず
  躬《み》は速速《かたくな》にしてそれ吾に親しまず
 
  腸※[立心偏+絹の旁]而含怒兮
  志遷蹇而左傾
  心※[立心偏+黨]慌其不我與兮
  躬速速其不吾親        (九歎、逢紛)
 
 右の四句において、ひとりの我は、腸・志・心・躬の四つにわけて感じられておるのを見る。「志」は志向であって、理想ないしは抱負を意味し、「心」は精神一般をいう。「左に傾く」とは、志が衰えることをいえるものの如く、今の「左傾」ではない。あとの方の二句にいうところの、我が心、我が躬でありながらも、「我」のままにならない、じれったさ、もどかしさは、烈しい悩みか、長い間の悩みの末の気持であろう。
 このように我を分析的に感じとったのは、それだけ自己凝視が深くなったことを物語る。もっとも、我を分析して考えることは既に『荘子』にしばしば見え、「坐忘」(大宗師)はその一つである。しかし彼にあっては理智的にわけて考えるのであり、此《これ》にあっては情趣的に分けて感じ味わうのである。
 つぎに、漢代の作品における表現のしかたについての注意すべきことは、これまた二つある。その一は、やや具体的な自然描写が出て来たことであって、その著しき例を前漢の劉向の作品に見る。
 
(61)  陵《おか》は魁堆《かいたい》として視《まなじ》を蔽《おお》い
  雲は冥冥として前を闇《くらく》す
  山は峻高にして※[土+艮]《はて》しなく
  遂《かく》て曾※[門/広]《そうこう》として身に迫る
 
  陵魁堆以蔽現兮
  雲冥冥而闇前
  山峻高以無※[土+艮]兮
  遂曾※[門/広]而迫身
 
 追放を悲しむ身が、さすらいの旅路で見る景色であって、陵も雲も山も、心のむすぼれを増させるばかり。殊に、はてしれぬ高さの山は、ずっしりと負いかぶさってくる感じ。「陵」は大きなおか。「魁堆」はうずくまるような姿で高いさま。「曾※[門/広]」とは上がほそまらないで高いさま。写景は更につづく、
 
  雪は雰雰《ふんぷん》として木に薄《つ》き
  雲は霏霏《ひひ》として隕《くだ》り集る
  阜《おか》は隘狭《あいきよう》にして幽険に
  石は※[山+參]嵯《しんし》として日を翳《かげ》にす
 
  雪雰雰而薄木兮
  雲霏霏而隕集
  阜隘狹而幽險兮
  石※[山+參]嵯以翳日(62)      (九歎、遠逝)
 
 雪や雲までわが身を襲うが如く、阜はほそくてあぶなかしく、石は高く低く並び立って日をさえぎる。憂愁の上に寒苦さえ加わる。
 この類の描写が劉向の「九歎」をはじめ漢代の作品のところどころに出ておるが、これらは決して実景を写したものではなく、ましてや自然の美しさを描こうとしたものではない。かかる山中の景などを構成して、それによって孤独の苦悩を表わそうとしたのである。宋玉は秋の季節感を利用したが、漢代になると、それ以外に、このような自然の景色をも利用するものが現われたのである。これが表現の上で注意すべき、その一。
 表現の上で注意すべきその二は、孤独なる自分の姿をやや具体的に描いたものが出て来たことである。例えば、
 
  顔は黴〓《あかづ》いて沮敗《くず》れ
  精《たましい》は越《ち》り裂《わか》れて衰耄《おとろ》う
 
  顔黴〓以沮敗兮
  精越裂而衰耄
 
 孤独なる自分の面貌と精神とを客観的に描けるもの。この面貌と精神とをもつ我の旅(63)姿はといえば、
 
  裳《はかま》は※[衣+蟾の旁]※[衣+蟾の旁]《ひらひら》として風を含み
  衣《ころも》は納納《しつとり》と露に掩《ひた》さる
 
  裳※[衣+蟾の旁]※[衣+蟾の旁]而含風兮
  衣納納而掩露        (九歎、逢紛)
 
 風露に苦しみながら、とぼとぼと歩くみじめさである。
 また、自分の姿を影法師とともに描けるものがある。
 
  廓として景を抱いて独り倚《とつおい》つ
  超として永く故郷を思う
 
  廓抱景而獨倚兮
  超永思乎故郷        (厳忌《げんき》、哀時命)
 
 「景」は影法師。がらりとした処で、ひとり自分の影法師を抱いて、どうしようか、こうしようかと悩みながらさまよう、というのであって、その「景を抱く」といえるところに、自分で自分の孤独を悲しみ憐れむ気持がよく出ておる。つまり第二の我が第一の我を、影において凝視するのである。そしてそのように凝視しておる自分の姿を客観(64)的に描いたのが、この句である。
 一体、人間が自分の影に気づいたのはいつのことであったか。これは興味ある問題であるが、『荘子』に、影と※[虫+罔]※[虫+兩]《もうりよう》との問答のことが記されており(斉物論篇・寓言篇)、また或る卑怯者が自分の影と足跡とがこわくてたまらず、何とかしてそれから逃がれようと思って、ひた走りに走ったところ、終《つい》に力つきて死んでしまったという話がある(漁父篇)。これなど、文献に見える影としては、古いものであろうけれども、それは譬《たと》え話《ばなし》に過ぎない。
 それから道徳的立場で用いた「影」も古くからあって、「君子は独り立ちて影に慚じず〔五字傍点〕、独り寝ねて魂に慚《は》じず」(『晏子春秋《あんししゆんじゆう》』外篇、不合経術者)、「聖人は影に慚じず〔五字傍点〕、君子はその独を慎しむなり」(『文子』精誠篇)などがその例である。しかしそれらと、いま問題とせる文学的の用例とは、その性質が同一でない。すなわち、道徳的用例の「影」は、自分の良心の投影であって、冷厳なる監視者ともいうべき性質を持ち、文学的用例の「影」は、自分の感情の投影であって、温柔なる同伴者ともいうべき性質を持つ。ともかく、文学として、自分の心情を表わすために「影」を用いたのは、右に引いた厳忌の作などが最も早いものであろう。厳忌は前漢の景帝の頃の人である。
(65) その後、後漢末の蔡※[王+炎]の作に、やはり、影で、孤独の寂しさを描写したものがある。
 蔡※[王+炎]は後漢の学者|蔡※[災の火が邑]《さいよう》の娘であるが、匈奴《きようど》が侵入した時、掠奪せられて匈奴の地につれて行かれ、そこで結婚を強いられて留まること十二年、その間に二児を生んだ。やがて曹操《そうそう》が、学者のあとつぎの絶えるのを惜しみ、金品を匈奴に贈って十数年ぶりで蔡※[王+炎]をかえしてもらい、薫祀《とうし》という人に嫁せしめた。
 蔡※[王+炎]は、この匈奴につれてゆかれる途中の苦難、匈奴の地における不愉快な生活、自分が帰るに当って二児と別れる、その別れのつらさ、帰ってからの孤独の寂しさを、長篇の「悲憤詩」に歌っていて、二児との別れのつらさ、帰ってからの孤独の寂しさを抒《の》べたところが、最も読者の心をうつ。
 
  天属《あめつながり》は人の心をも綴る
  別れなば会う期《あて》のなく
  存《いき》ても亡《はて》ても永《とこしえ》に乖隔《へだた》るを念《おも》い
  これと辞《わかれをい》うに忍びず
(66)  児は進みて我が頸《くび》を抱き
  問う 母は何《いずく》に之《ゆ》かんとはする
  人の言う母は当《まさ》に去るべし
  豈《いかで》か復《ふたた》び還る時あらんやと
  阿母《あぼ》は常に仁惻《なさけふか》かりしに
  いま何《いかな》れば更《はなは》だ不慈《むじひ》なる
  我は尚お未だ人と成らず
  奈何《いかに》せばや 顧思されざるをと
 
  天屬綴人心
  念別無會期
  存亡永乖隔
  不忍與之辭
  兒進抱我頸
  問母欲何之
  人言母當去
  豈復有還時
  阿母常仁惻
  今何更不慈
  我尚未成人
  奈何不顧思
 
 引用第四句目の「これと」の「これ」は児を指す。第六句目の「問う」は第十二句目の「奈何《いかに》せばや 顧思されざるを」までかかる。この七句は、すべて子供の問いを写したのである。詩は更につづく、
 
  此れを見ては五内《ごない》の崩れ
  恍惚《きぬけ》して狂痴《ものくる》い生《だ》し
(67)  号泣《なささけ》びつつ手もて撫摩《かきな》で
  発《いでた》つに当って復《ま》たも回疑《ためら》う
 
  見此崩五内
  恍惚生狂癡
  號泣手撫摩
  當發復回疑
 
 「五内」は五蔵、すなわち肝・心・脾・肺・腎。この四句は我(母)の狂態を写す。
 生みの子を三千里彼方の胡地に置いて、永久の生き別れをするその場の母の心は、狂うばかりの悲哀にみたされる。それは全く悲哀そのものであって、悲しみを味わうゆとりなどあり得ない。ゆとりのないところには文学は生れぬ。右の十六句は子と別れて帰り来って後の思い出なることもちろんである。思い出の世界において、なまなましい、子のあ声を聞き、我の狂態を見る。そしてそれを聞きそれを見て悲しむ我みずからの孤独を感ずる。詩はまた帰って後の有様を歌っていう、
 
  既に至れば家人は尽き
  又た復《ま》た中外《うから》もなし
  城郭は山林となり
  庭宇《のきば》に荊《いばら》艾《よもぎ》の生えたり
(68)  白骨は誰なるかを知らず
  従《たて》になり横《よこ》になりて覆蓋《おおい》もなし
  門を出ずれど人の声なく
  豺狼《さいろう》の号《さけ》び且つ吠ゆる
  ※[煢のわがんむり無し]※[煢のわがんむり無し]《しよんぼり》として孤景に対し
  怛咤《いた》んでは肝肺の糜《ただ》るる
  高きに登りて遠く眺望すれば
  魂神《たましい》は忽ちに飛び逝《ゆ》く
 
  既至家人盡
  又復無中外
  城郭爲山林
  庭宇生荊艾
  白骨不知誰
  從横莫覆蓋
  出門無人聲
  豺狼號且吠
  ※[煢のわがんむり無し]※[煢のわがんむり無し]對孤景
  怛咤糜肝肺
  登高遠眺望
  魂神忽飛逝
 
 この「孤景」は、置き去りにしてきた子の声に聞きいり、姿に眺めいる孤景である。
 右に述べた厳忌や蔡※[王+炎]の作品に見える「景」とほぼ同じ意味の「影」が、後に晋の陶淵明の作品にしばしば現われ、時代はずっと降るが、わが国の芭蕉の句にも現われる。
 さて、つぎに漢代の作品では、孤独感と、「時」或いは「天」との関係がどのように考えられておるかというに、大体において、前漢の作品では、時や天に責任を転嫁して、(69)自己の孤独をあきらめようとする傾向が認められる。例えば、東方朔《とうばうさく》は「答客難」で、「彼も一時なり此も一時なり」といって、志を得るのも得ないのも時世の如何《いかん》に因ることを明かにし、今の世の処士が、身を修めながらも、当時に用いられず、「塊然《つくねん》として徒《とも》なく、廓然として独居しておる」のは、時世に遇わないからであるとして、それは「固より其の宜しきなり」とさえいっておる。「答客難」は滑稽味を帯びた作であるから、この言は、ただやせがまんをいったに過ぎないかも知れない。しかしそれにしても、そこに彼の考え方の一面が見られる。
 また厳忌は「哀時命」において、「時命の古人に及ばざるを哀《かな》しむ」といっておるが、その「時命」をどのように解釈するかは問題であるけれども、この句の言い方から、責任を「時命」に帰せしめようとする気分が汲みとられる。劉向が「九歎」で「容与《ゆるり》として時を竢《ま》たん」といっておるのも同様である。
 しかし、これらは、さきに述べたところの、宋玉が「時世」のせいとして歎いた態度から、やや前進した程度のものに過ぎない。これよりも、一層注意すべきは、東方朔の次の作品に見える考え方である。
 
(70)  人事の不幸を哀《かな》しみ
  天命に属《ゆだ》ねてこれを咸池《かんち》に委《まか》す
 
  哀人事之不幸兮
  屬天命而委之咸池       (七諫、自悲)
 
 「咸池」は天神の名だと旧注にいう。自分の不幸を哀しんで、独り悩んだあげく、それは自分の力ではどうしようもないものだと気づき、すべてを天命にゆだね天神にまかせる、というのが右の二句の意味である。これはそのまま、今の不幸も天命であるから致方もないとしてあきらめようとする気持を表わせるものにほかならない。さればこそ彼はまたいう、
 
  古《いにしえ》よりして固《まこと》に然り
  吾また何ぞ今の人に怨まんや
 
  自古而固然兮
  吾又何怨乎今之人        (七諫、乱)
 
 「今の人に怨まんや」とは、忠臣にして不遇であった例は古からある故、不遇なる今の人(すなわち自分)においてのみそれを怨むことをすまい、との意味であって、これまた「天命」にゆだねてあきらめる気持を表わせるものである。
(71) かくの如く考えられた「天命」は、あきらめの原理としてこれを捉えたものであって、この点、さきに述べた項羽の「時」といい「天」といえるものと相通ずる。
 ところで、「時」とか「天命」とかに責任を転嫁してみずからあきらめようとすることは、「時」や「天命」には到底抗し得ずとして、自己能力の限界を自覚することである。そして、自分が如何に正しくても不遇に悲しまねばならぬのは、「時」に遇わないためもしくは「時」や「天命」が味方してくれないためであると考えて、このことは、自分の能力では如何ともし難いと自覚すれば、もはや不遇などは、あきらめるよりほかなくなるであろう。
 がしかし「時」や「天命」を超越しない限り、「時」に遇わざること、もしくは「時」や「天命」の味方せざることをあきらめる心は、そのまま「時」や「天命」の好転するのを待つ心でもある。後世ではあるが、劉宋の鮑照《ほうしよう》が、「擬行路難《ぎこうろなん》」の末首で、「酒に対して長篇を叙し、窮途の運命は皇天《あまつかみ》に委《まか》す」とあきらめておるものの、それはすぐ前の句に「言う莫《な》かれ 草木は冬雪に萎《しぼ》むと、会《かなら》ずまさに蘇息《いきづ》いて陽春に遇うぺし」という、その春待つ心を持っての上でのことであったのを見ても、そのことがわかるので、鮑照はこの種のあきらめの心理を最も端的に表わしたものといえるであろう。
(72) このように、あきらめる心は、そのままあてにする心でもあるが、「時」や「天命」は、こちらが、待っているからとて、注文通りにはやって来てくれるものではない。しかも人の生命には限りがあって、いつまでも待っておれぬ。それは、劉向が「容与《ゆるり》として時を竢《ま》たんと欲するも、年歳の既に晏《おそ》きを懼《おそ》る」(九歎、怨思)と歎いたとおりである。そこで、強いて「時」に遇おうとし、強いて「天命」を好転させようとすれば、勢い己をまげて時代に迎合するよりほかない。しかしそれを平気でやれる人は問題外であるが、それをやるに忍びない人はどうしたらよいか。「時」や「天命」以外に別なものを求めてたよらねばならなくなるのもまたやむを得ないことであろう。
 こう考えて来れば、前漢末から後漢にかけての作品に、「時」をあてにすることなく、堅く自ら信じ、自ら守る所あるべきことを強調したものの出たのは決して偶然ではない。例えば、楊雄の「解嘲」、班固《はんこ》の「答賓戯」・「幽通賦」、張衡《ちようこう》の「思玄賦」などにかかる傾向を見るのである。
 「守る所」あってそれにたよろうとすることは、やがて超俗隠遁の思想にも通ずるのであるが、前漢末から後漢へかけての「守る所」があろうとする人人は、一時の名よりも永久の名を遺そうとの意図のあるものであって、未だ全く「化」に任せるというとこ(73)ろまでは行っていない。「化」のままに任せて安んずる境地は、晋代に至ってはじめて見られる。
 さて、屈原・宋玉は、正しさを守るが故に周囲に容れられない自分を、悲しみ、哀れんだのであったが、その悲しみは、東方朔の言葉に従えば、「衆人の信じ難きに苦しんだ」(苦衆人之難信兮)(七諫)ものであって、それを今ばやりの言い方によって、少し大げさにいえば、「人間不信」の悲しさであった。この悲しみに堪えるために考えついたのが、宋玉以下の「時」や「天命」のせいとする考え方であろう。ところが、後漢の作者は「時」や「天命」はあてにできぬと考えるに至ったのである。後漢の作者のこの考え方を、右の「人間不信」に準じて大げさにいえば、「時運不信」、ひいては「運命不信」の考え方といえぬこともない。そして後漢の作者は、この考え方から、更に進んで、「自ら守る所」にたよろうとするに至ったのである。ところで、これは、結局、屈原・宋玉の立場に逆戻りしたかの如き観がある。がしかし、実は両者の間には、「時」との対決を経たのと、経ないのとのへだたりがあるのである。
 
(74)     八 阮籍
 
 屈原・宋玉の作品、及びさきに分類して示した漢代作品の、屈原を追憫せる形をとって作者の感懐を寓せる類、それらに見える孤独感は、自分の守る所が周囲から拒否されたために起ったものであった。そしてまた漢代作品の、作者が直接に自分の不遇を歎いた類に見える孤独感は、自分の位置に対する不満から起ったものであった。
 ところが、魏・晋(三−五世紀)の作品中に右の二つとは少しく趣きの異った事情から起った孤独感が見られる。第一は、こちらから周囲を拒否することに因るものであって、その例を魏の阮籍《げんせき》の作品中に見、第二は亡国破家を哀しみ憤る情からのものであって、その例を晋の劉※[王+昆]《りゆうこん》の作品中に見、第三は階級の差に対する不満からのものであって、その例を晋の左思の作品中に見る。
 阮籍は、いわゆる竹林の七賢の一人として有名であるが、その口は、決して時事を評論せず、人物を是非しないので、司馬昭から、至慎の人であるとして尊敬せられたとの(75)ことである(『世説』徳行篇)。しかしそれは結局、禍《わざわい》を避けるがための沈黙であったに過ぎない。一体、魏という時代は、はじめから安定した時代ではなかったが、殊にその末頃は司馬氏の陰謀があったので、うっかり口にしたことが禍の端となって、いつ殺されるかわからぬというようなけんのんな社会情勢であったからである。
 こういうけんのんな国家や社会に生きることは、あたかも不安の網にしめつけられておる如きものであるから、できるだけそういう周囲を自ら拒否して、ただ自分だけをたよって生きて行くよりほかなくなる。そういう生き方をせねばならぬものの心は、深い絶望的な孤独感に満たされるであろう。阮籍は実に、そういう生き方をした人であり、そういう孤独感に悩んだ人である。
 彼に「詠懐」と題する詩が八十二首あり、随時その感懐を詠じたものであるが、何しろ甚だ難解で、容易に真意を把握することができない。今その中から比較的わかり易いもの二、三首をとって、彼の孤独感をさぐろう。
 
  夜中《よわ》にも寐《まどろ》む能わず
  起き坐して鳴琴を弾ず
(76)  薄帷《うすきとばり》に明月を望《なが》め
  清き風は我が衿《えり》を吹く
  孤鴻《いちわのおおとり》は外野《そとも》に号《さけ》び
  翔《かけ》れる鳥は北の林に鳴く
  徘徊《さまよ》うて将《は》た何をか見る
  憂思して独り心を傷ましむ
 
  夜中不能寐
  起坐彈鳴琴
  薄帷鑒明月
  清風吹我衿
  孤鴻號外野
  翔鳥鳴北林
  徘徊將何見
  憂思獨傷心        (詠懐、其一)
 
 「夜中《よわ》にも寐《まどろ》む能わざる」のは、憂思のためであるこというまでもない。琴でも弾じて気をまぎらそうとしたが、それもせんないこと。そこで月光にさそわれて戸外に出たのである。その戸外でのことをのべたのが後半の四句であると解しても、不都合ではあるまい。「孤鴻」と「翔れる鳥」とは何かを託したのかも知れないが、一応、実景と見てよい。それにしても「孤」なるところに悲しさを感じ、「翔れる」ところに安からざるものを感じたことであろう。同じ「詠懐」の、その十七にも「孤鳥は西北に飛び、離獣は東南に下る」の句がある。「徘徊《さまよ》うて将《は》た何をか見る」は、もの思いにふけりながらさまようていた作者が、ふと我に帰ったところであり、「憂思して独り心を傷ましむ」は、誰(77)に告げようもない憂思をもてあましておるところである。
 
  開秋《はつあき》にして涼気の兆《きざ》し
  蟋蟀《こおろぎ》は牀帷《ねだいのとばり》に鳴く
  物に感じて殷憂《ふかきうれえ》を懐《いだ》き
  悄悄《いたいた》しく心を悲しましむ
  多言も焉《いずく》にか告ぐる所ぞ
  繁辞も将《は》た誰にか訴えん
  微風《そよかぜ》は羅袂《うすもののそで》を吹き
  明月は清き暉《ひかり》を耀《かがや》かす
  晨鶏《しんけい》の高樹に鳴けば
  駕《が》に命じて起《た》って旋《めぐ》り帰る
 
  開秋兆涼氣
  蟋蟀鳴牀帷
  感物懷殷憂
  悄悄令心悲
  多言焉所告
  繁辭將訴誰
  微風吹羅袂
  明月耀清暉
  晨鷄鳴高樹
  命駕起旋歸        (詠懐、其十四)
 
 この詩にも訴えどころのない心中の苦悶に己が身をもてあまし、やるすべない天涯孤独の寂しさに悩んでいる作者を見る。そしてその苦悶、その寂しさは、自ら周囲を拒否(78)せしところからおこったのである。だから、「物に感じて殷憂《ふかきうれえ》を懐《いだ》く」の句も、ただ秋の景物に心動かされて、時の移り易《かわ》りにそぞろ深い悲しみを覚える、というだけではなく、必ずや時政に関する堪え難い孤憤を含んだ殷憂を懐いたのであったにちがいない。
 同一文字若しくは同義語が一篇内に重出することは、古詩にしばしば見るところではあるけれども、さきにあげた詩で、「弾ず」「号び」「鳴く」の、音に関する語を三度も使い、この詩にも「鳴く」を二度も使っておるのは、彼の心が絶えず高鳴っていたことのおのずからなる発露であろう。言いたいことはいくらでもある。がしかし、千言万語を費したとて、この深い憂愁を誰にかわかってもらえようぞ。しかもそれを言えば必ず禍がふりかかる。禍を避けるがためには固く沈黙を守るに如《し》くはない。彼自身の詩句を借りていえば、「天網は四野に弥《わた》り、六つの※[隔の旁+羽]《はねのね》は掩《おお》われて舒《の》びず」(詠懐、其四十一)の状態である。そこには烈しい憤懣と、寂しい孤独とが残るだけであろう。
 「晨鶏《しんけい》の高樹に鳴けば」というところを見ると、憂愁に堪えかねて夜中彷徨しつづけていたのであろう。「駕《が》に命じて起《た》って旋《めぐ》り帰る」は、「時に率意《そつい》、独り駕して径路《みち》に由らず。車迹《しやせき》の窮《きわま》る所、輙《すなわ》ち慟哭して反《かえ》る」(『晋書』阮籍伝)のことを思い合わさせる。けだし憤懣憂愁の極、こうしたとっぴな行動に出でざるを得なかったものかと思う。
(79) 彼は常に、礼法を無視する言動をしたといわれるが、それは恐らく当代に反抗する心が、伝統に反抗する形となって現われたのであろう。いわば、反抗しようとする心構えがまずできていて、行動をその心構えに合わせていったようなものであろうか。果してしからば、彼の礼法無視的言動は、一つの空しいお芝居であったので、そういうお芝居を演ずる己の姿をみずから打ち眺めるわびしい心が、さきに引いたような詩となったのであろう。
 阮籍がこのような孤独感を懐きつつ、とどのつまりに突き当ったところは何であるか。
  一身 自《みずか》らをすら保たれず
  何ぞ況んや妻子を恋いんや
 
  一身不自保
  何況戀妻子        (詠懐、其三)
 
この句は、恐らく王粲《おうさん》の「未だ知らず身《わがみ》の死する処を、何ぞ能く両《ふたり》ながら相|完《まつと》うせんや」(七哀詩)の句に本づけるものであろう。王粲のこの句は、戦乱の惨禍に喘《あえ》ぎ、饑《う》えきった一婦人が、その子を捨てる際の歎きの言葉を写したものである。すなわち、乳呑児《ちのみご》を抱いた婦人が、戦乱の巷《ちまた》を逃げまわり、疲れ果て饑えきって、どうにもこうにもなら(80)ぬようになったので、その児を草叢《くさむら》に捨て、泣き叫ぶ声をあとに、逃げ去るのであるが、その時この婦人は「わが身さえ命からがらだのに、この児まで助けることがどうしてできよう」と独り言をいったのである。この言葉は人間としてのぎりぎりの情を表わしたものであって、実に悲惨の極みではあるが、また一面、人間の禽獣とつながる利己的本能の露出せるものであって、実に残酷の極みであるともいえる。王粲は、この句につづけて「馬を駆《はや》めこれを棄てて去りぬ、此の言を聴くに忍びずして」といっておるが、その「聴くに忍びなかった」のは、悲惨の極みと感じ、残酷の極みと感じたからであったに違《たが》わぬ。
 それはともかく、王粲の詩に見る婦人のこの言葉は、混乱しきった心理状態のもとに、とっさに口から出たものであって、深い自己沈潜を経たものではない。ところが阮籍の句は、王粲の句に本づいたとはいえ、深い自己沈潜を経た後の、自分の感じを表わそうとしたものかと思われる。
 しからば、それはどんな感じであったかといえば、人間の宿命とも見るべき孤立性の感得であったのではなかったろうか。そしてこれは、深刻な孤独感を味わったはてに覚《さと》った境地ではなかったろうか。この人間の宿命とも見るべき孤立性ということに気づい(81)た心境こそ、実は根本的な孤独感であって、爾余の孤独感は、そこに達するまでの入口でしかない。ただ阮籍は、そういう根本的な孤独感をどの程度まで意識的に捕えていたか、それは甚だ疑問である。そのことは唐の杜甫に至ってはじめて、比較的明瞭に意識されたのではないかと思う。
 なお、吉川幸次郎博士の「阮籍の詠懐詩について」(昭和三十一年、『中国文学報』第五冊、及び三十二年、同誌第六冊)には、孤独感に関しても委《くわ》しく論述されており、甚だ卓見に富む。参看されたい。
 
(82)     九 劉※[王+昆]
 
 西晋が北方で亡び、多くの人人が江南に移り来て、そこに東晋をたてたという歴史的事実は、民族にとっての一大悲劇であったとともに、中国の文化の流れに、著しい変革をもたらした。が、そのことを論ずるのは当面の問題ではない。いまはただ、西晋から東晋のはじめにかけて生きていて、亡国破家の哀憤と、それからおこる孤独感とをあらわにその作品に述べた、劉※[王+昆]《りゆうこん》という人をとりあげる。
 もちろん、そのころ、亡国を悲しみ歎いたものが他にも少くなかったことは、『世説新語《せせつしんご》』に見える周※[豈+頁]《しゆうがい》(言語篇)や、桓温《かんおん》(軽※[言+※[氏/一]]篇)の悲歎の話などからもわかる。がしかしそれらはそういう話があるだけで、その悲歎を詠じた作品が残っているわけではない。また例えば郭璞《かくはく》の如く、亡国の悲歎を歌うた作品を残しておるものもあるけれども、そこには劉※[王+昆]の作品に見えるような深い孤独感は認められない。
 さて劉※[王+昆]は、かの豪奢を競うたことで有名な、西晋の石崇《せきすう》という人の、金谷にある別(83)荘に招かれて、詩を賦するを常とした仲間の一人であり、また、賈后《かこう》の一族として権勢を振うた西晋の賈謐《かひつ》につかえて、その二十四友のうちに数えられた人である。しかしそれは比較的わかかったときのこと。その壮年期は実に西晋の衰亡した時に当る。彼は慷慨の気に富み、最後まで晋の恢復のために奔走したのであるが、その効もなく西晋は遂に滅んでしまったのである。
 彼は人をなつけることが巧みで、一日に千人も帰属させたけれども、しかしそのあしらいが下手なために、そむき去るものも、一日千人あったという(『世説』尤悔《ゆうかい》篇)。また、かつて晋陽で胡騎に囲まれて窮迫したとき、夜中に楼に登って胡※[竹/加]《あしぶえ》を吹いたところ、賊軍はそれを聞いて、故郷を思う情にたえがたく、涙を流して嗚咽《おえつ》したので、明けがたもう一度吹いたら、賊は囲みを棄てて帰ってしまったという(『晋書』劉※[王+昆]伝)。こういう逸話を残しておる人物である。
 ところで劉※[王+昆]の部下に盧※[言+甚]《ろじん》というものがあった。盧※[言+甚]の従母が劉※[王+昆]の妻であり、かつ盧※[言+甚]は才能があり家柄がよいので、劉※[王+昆]は特にこれを親愛していたが、後に事情あって、盧※[言+甚]は劉※[王+昆]の下を去り、段匹※[石+單]《だんぴつてい》の部下となった。しかしさすがに、劉※[王+昆]の旧恩を忘れ難く、長い手紙と詩とを送ってその意中を訴えた。そこで劉※[王+昆]もまたそれに答うるに手紙(84)と詩とをもってしておる。いま問題としたいのは、その時の劉※[王+昆]の手紙になまなましく写し出されているその心境である。
  むかし少壮なりしとき、嘗《まつた》く検括《しま》らず。遠くにては老荘の斉物《せいぶつ》を慕い、近くにては阮生《げんせい》の放曠《ほうこう》を嘉《よし》として、厚と薄とは何によりて生じ、哀と楽とは何によりて至るかと怪《いぶ》かりき。
  ちかごろ※[車+舟]張《おどろきあわ》てて逆乱に困《くる》しむ。国は破られ家は亡ぼされ、親友は彫残《そこな》われたり。杖を負《かた》げて行く行く吟ずれば、百《もも》の憂え倶《ともども》に至り、塊然《つくねん》として独り坐すれば、哀《かな》しみと憤りと両《ふたつなが》ら集る。
  時おり相ともに觴《さかずき》を挙げ膝を対《むきあわ》せ、涕《なみだ》を破《か》えて笑としつつ、終身の積れる惨《いたみ》を排《はら》いて、数刻の暫しの歓《こころよさ》を求む。(されど)譬えば疾※[やまいだれ/火]《やまい》の年をへたるに、一丸(の薬)もてこれを※[金+肖]《け》さんと欲するがごとし。それ得ぺけんや。……
  然る後に、※[耳+冉]周《たんしゆう》の虚誕《でたらめ》たり、嗣宗《しそう》の妄作《みだりごと》たるを知りぬ。
  昔在少壯、未嘗檢括、遠慕老莊之齊物、近嘉阮生之放曠、怪厚薄何從而生、哀樂何由而至、
  自頃※[車+舟]張、困於逆亂、國破家亡、親友彫殘、負杖行吟、則百憂倶至、塊然獨坐、則(85)哀憤兩集
  時復相與、擧觴對膝、破涕爲笑、排終身之積惨、求數刻之暫歡、譬由疾※[やまいだれ/火]彌年、而欲一丸※[金+肖]之、其可得乎……
  然後知※[耳+冉]周之爲虚誕、嗣宗之爲妄作也 (答盧※[言+甚]書)
 劉※[王+昆]は東晋の太興《たいこう》元年(三一八)五月に四十八歳で段匹※[石+單]に殺されたのであるが、この手紙はその年か、またはその前年、つまり歿した時より、さして遠くない時期に書かれたものである。
 その頃の晋の国情をいえば、永嘉五年(三一一)、いわゆる永嘉の乱で、洛陽は劉曜・石勒《せきろく》等の軍に陥れられて懐帝は虜《とりこ》にされ、七年(建興《けんこう》元年)には懐帝は遂に劉※[馬+聰の旁]《りゆうそう》の弑《しい》するところとなった。建興《けんこう》四年(三一六)には、劉曜が長安を陥れ、愍《びん》帝は出でて降った。かくて西晋は滅亡し、中原は胡族の蹂躙《じゆうりん》するがままにされたのである。翌五年、宣帝の曾孫、※[王+良]邪王睿《ろうやおうえい》が建康において晋王の位に即《つ》いて建武と改元し、翌太興元年帝位に即いた。これが東晋の元帝である。かくて晋の命脈は辛うじて江南においてつがれた。
 つぎに劉※[王+昆]についていえば、終始よく義に勇んで、晋室の復興に努力したが、その効を挙げるを得ず、その父母は、賊手にかかって斃《たお》れたのである。
(86) あらまし右の事実を知っておけば、劉※[王+昆]の手紙の「国は破られ家は亡ぼされ」の内容も、ほぼわかり、また彼の哀憤のほども、おおよそ推察できるであろう。
 さて、さきに挙げた手紙の文の「むかし少壮なりしとき、嘗《まつた》く検括《しま》らず……哀と楽とは何によりて至るかと怪《いぶ》かりき」は、わかかりし日の追想である。魏晋の時代はいわゆる「清談」の流行した時代であって、知識階級の多くは老荘思想を弄んで、実務を放棄し、規範を無視しがちであった。劉※[王+昆]もいくらか、かかる風潮に染まっていたのである。「斉物」とは、生死・是非・善悪・彼我などの一切の差別を超越して、すべてのものごとを同じにみることで、「道」を体得すればそれができると、老子・荘子、特に荘子は説いておる。「阮生」は、竹林の七賢の一人なる阮籍。「放曠」とは、ものごとにこだわらないで気ままにふるまうこと。こういうふるまいは、大体において阮籍ら竹林の七賢にはじまり、以後そのまねをするものが多く出た。
 わかい頃は、遠い昔の老荘の説いた斉物の心境にあこがれ、近い昔の阮籍のとった放曠の態度が気にいった。そしてそれにあやかろうとして、全く身をひきしめることをせず、また俗人どもが、愛するものに厚くし憎むものに薄くしたり、死を哀しみ生を楽しんだりしているのを見て、そんな差別的な考えがどうしておこるのかと、いぶかしくさ(87)え思ったことであった――こう劉※[王+昆]は追想して、亡国破家という、のっぴきならぬ大事件に直面しておる今、そのような生き方は何の救いにもならないと歎くのである。
 「ちかごろ※[車+舟]張《おどろきあわ》てて逆乱に困《くる》しむ。……それ得べけんや」は、憤懣と哀愁とによる、堪え難い現在の苦悩をのべる。
 「杖を負《かた》げて行く行く吟ずれば」という、その「吟じた」ものは、或いは憤りの歌、または哀しみの歌であったであろう。それにしても、杖を負げて行く行く吟ずることは、少くとも、いくらか気分がはれやかであるか、もしくは、いくらかでもはれやかになろうとつとめるときの動作である。それにもかかわらず、胸中にわだかまる憂愁は、いつしかあれもこれもと湧き出て来てとどまるところを知らない。ましてやただひとり、つくねんとしておるときには、百の憂えよりも、もっと凝集した、もっと具体的な哀しみと憤りとが襲うて来て、身も心もさいなまれる、というのである。
 それで時おりは、君と対坐して酒くみかわし、しいて泣き面を笑顔にかえながら、積り積った心のいたみをはらいのけて、しばしでも愉快な気持になろうとつとめたが、たとえていえば、それは、ながのわずらいを一粒の丸薬でなおそうとする如きもので、とてもできることではなかった、と歎くのである。
(88) 「然る後に、※[耳+冉]周《たんしゆう》の虚誕《でたらめ》たり、嗣宗《しそう》の妄作《みだりごと》たるを知りぬ」は、老荘と、阮籍との批判である。原文では、この句の前に、盧※[言+甚]との別れのことを述べた一節があって、この句は、直接にはその一節の結びとなっておるが、実は間接に、「むかし少壮なりしとき……かと怪りき」と呼応し、そして、それ以下全体の結びともなっておるのである。
 「※[耳+冉]周」とは、老※[耳+冉]《ろうたん》すなわち老子と、荘周すなわち荘子とをいい、「嗣宗」は阮籍の字《あざな》である。老子・荘子は斉物などといっており、阮籍らは放曠のふるまいで通したけれども、いま悲劇の大渦巻の中に立っておる自分には、彼らの言動は、うそでたらめとしか思えぬというのである。劉※[王+昆]がこの言をなしたのは、盧※[言+甚]から贈られた詩に「死と生とすでに斉《ひと》しくす、栄と辱といかんぞ別たん」などとあったからにも因るであろうが、しかし、苦悩にあえぐ劉※[王+昆]としては実際にそう感じていたのであろう。さればこそ、その盧※[言+甚]に答えた詩の中に、「誰か云う聖は節に達し、命を知って固より憂えずと。宣尼《せんじ》は獲麟《かくりん》を悲しみ、西狩に孔丘《こうきゆう》は涕《な》けり」といって、孔子さえも道の窮せるを知つては、悲しみ泣いたではないかと、聖人でも哀楽の情は如何ともしがたいものがあったことを肯定しておる。(宣尼も孔丘も孔子のこと。孔子、名は丘、字は仲尼《ちゆうじ》、漢の時に宣尼公とおくり名された。魯の哀公の十四年に城の西のかたに狩して麟《きりん》を獲《え》た。孔子は麟の出《い》ずべき(89)時にあらずして出たのを見て、わが道は窮せりと、悲しみ泣いたという。事は『春秋公羊伝《しんじゆうくようでん》』に見える。なお、「宣尼は獲麟を悲しみ」と、「西狩に孔丘は涕けり」との二句は、同一の内容をくりかえしていったに過ぎないので、その点から、とかく非難される句である。)
 そもそも魏の正始頃から人人は著しく老荘思想に傾いたといわれる。そうなったことには種種の理由があろう。がしかし、儒教だけでは、どうにも処理し切れぬ、深い悩みをもつ人が多くなったことが、その根本的理由だったのではなかろうか。沐並《もくへい》という人が正始の末頃に書いた『終制』に、儒学をば「未だ是れかの理を窮め性を尽くし、陶冶《とうや》変化するの実論にあらず」(末是夫窮理盡性、陶冶變化之實論也)と評し、進んで、
  能く、始めを原《たず》ね終りを要《もと》めて、天地を以て一区となし、万物を芻狗《すうく》となし、(また)該覧《ひろくみ》て玄に通じ、形景の宗を求めて、禍福の素を同じくし、死生の命を一にするが若《ごと》きは、吾れ道に慕うことあり〔十字傍点〕。
  若能原始要終、以天地爲一区、萬物爲芻狗、該覽玄通、求形景之宗、同禍福之素、一死生之命、吾有慕於道矣(『魏志』常林伝注引魏略所載沐並終制)
といっておるなどは、そのような空気を代弁しておるものと見られる。
(90) その後、老荘的思想がますます流行して、虚誕・放蕩の言行をなすものが増加するにつれ、その弊害も次第に著しくなって来たので、これを批判するものが出て来た。従来虚無を談ずることを主としていた清談者の中から、まずこれが出たのは、甚だ皮肉な現象である。西晋の裴※[危+頁]《はいき》は当時「言談の林藪」と評された人であるが、『崇有論』を著《あらわ》して、虚無を貴ぶ弊を矯《た》めんとした(『晋書』の裴秀伝附※[危+頁]伝、及び『世説』の文学篇)などがその早いものであろう。東晋となってから、かかる批判をなすものが続出した。すなわち、王隠の『晋書』には「その後、貴游の子弟、阮瞻《げんせん》・王澄・謝鯤《しやこん》・胡母輔之《こぼほし》の徒、皆、阮籍を祖述して、大道の本を得たりと謂い、故《ことさら》に巾※[巾+責]《ずきん》を去り、衣服を脱し、醜悪を露《あらわ》して、禽獣に同じゅうし、甚だしきものを名づけて通となし、次なるものを名づけて達となせり」(『世説』徳行篇注引)と酷評し、干宝《かんぽう》は『晋紀総論』において、「学者は荘老を以て宗となして六経《りくけい》を黜《しりぞ》け、談者は虚薄を以て弁となして名倹を賤しんだこと」が、西晋滅亡の要因であると論じ、王坦之《おうたんし》は『廃荘論』を著して、『荘子』の天下を害すること多きを詳述しておる。殊に袁悦(『晋書』本伝は袁悦之に作る)の如きは、『論語』『易』にも、『老子』『荘子』にもあいそをつかして、「天下の要物はただ『戦国策』あるのみ」と語つたとさえいわれる(『世説』讒険《ざんけん》篇)。
(91) この類《たぐい》を拾い出せばまだあるが、要するにこれらの老荘批判はおしなべて、社会風紀の問題としてか、もしくは政治の在り方の問題として、なされたものである。
 ところが、いま劉※[王+昆]が老荘や阮籍を批判しておるのは、そういう客観的立場からではなく、自己個人の主観的立場、つまり主観的苦悩の解決に役だつか否かの点から、しておるのである。さきに魏の沐並が、自己の苦悩を解決するがために求めた老荘思想も、ここに至って、全く否定されてしまった。劉※[王+昆]のこの考え方は、約四十年の後、王羲之《おうぎし》によって承け継がれる。
 以上、劉※[王+昆]の慮※[言+甚]に答えた手紙の一部分を取り出して、その大体の意味をさぐり、それによって、常住坐臥、堪え難い憂愁ないし哀憤の情に悩みつづけていた劉※[王+昆]の心中を見ることができた。後に唐の李白は「刀を抽《ぬ》いて水を断《た》てば水は更に流れ、杯《さかすき》を挙げて愁えを消せば愁えは更に愁う」(宣州謝眺楼、餞別校書叔雲)と詠じているが、劉※[王+昆]の憂愁ないし哀憤の消しつくされないことは、あたかも李白のこの句のいうところに似ていたのであろう。
 ところで劉※[王+昆]の憂愁ないし哀憤の性質であるが、これは自己の信念の行われないのを憤ったとか、生命のはかなさを哀しんだとか、または世をすねてわびしさを感じたとか(92)いう色あいのものではなくて、亡ぼしたもの、殺したもの、害《そこの》うたものへの憤り、亡ぼされたもの、殺されたもの、害われたものへの哀しみ、が主となっていたのではないかと思う。つまり、理をひねって生れた情ではなくて、自然に溢れ出た素樸《そぼく》な情ではなかったかと思うのである。彼の詩が熱情に富んでおることも、また彼の臨終のことばともいうべきものが「死生には命あり。ただ恨むらくは、讎《あだ》と恥とを雪《すす》がずして、下《よみじ》にて二親に見《まみ》ゆるによしなきを」(『晋書』劉※[王+昆]伝)であったことも、その哀憤の性質をおのずから物語っておると見られる。
 それはともかく、劉※[王+昆]はこういう哀憤を懐いて悩みつづけたのであるが、同じ時に、ほぼ同じように亡国を歎き破家を悲しんだ人はほかにもあったに違いない。それにもかかわらず、劉※[王+昆]は散歩のときも独坐のときも、ただ一人で悩みつづけねばならなかったのである。そしてそういう自分の姿を「杖を負《かた》げて行く行く吟ずれば、百《もも》の憂え倶《ともども》に至り、塊然《つくねん》として独り坐すれば、哀《かな》しみと憤りと両《ふたつなが》ら集る」とみずから眺めたのである。そこに彼の孤独感があったといい得るであろう。殊に注意したいのは、他と対酌せる時の彼の心中である。
 時おり劉※[王+昆]の対酌したのは、恐らくまだその下にいたころの盧※[言+甚]であろう。盧※[言+甚]もそ(93)の父母を胡族の劉粲《りゆうさん》に殺されていたのである。そういう盧※[言+甚]と対酌することによって、しばし苦悩から逃れようとしたのであろう。
 ところで劉※[王+昆]は、その時の心のはたらきを「涕《なみだ》を破《か》えて笑となす」(破涕爲笑)といっておるのであるが、この「破涕」という表現は、管見《かんけん》の及ぶところでは、これが最古の用例であって、その持ち味をはっきりととらえかねるけれども、つまるところ、泣き面《つら》をかえたことであろう。それにしても、そのかえることを「破」といっておるからには、そこにはやはり、努力して打ち破るという意味がつきまとうておるに違いない。そうすると「破涕爲笑」とは、涕はしょせん一人ずつのものであるから、しいてそれを打ち破って、笑顔となり、笑の境地において相手とともになろうとしたのだと解釈されよう。
 ところが「笑」そのものがまた、甚だくせもの〔四字傍点〕である。涙にはにせは少いが笑にはうそが多い。盗跖《とうせき》はすでに「口を開いて笑うのは、一カ月に四、五日に過ぎない」と喝破したといわれ(『荘子』盗跖篇)、遥か後ではあるが、唐の岑参《しんじん》は「一生に大いに笑うは能く幾回ぞ」(梁州館中、与諸判官夜集)とさえ歎いておる。本当に心から笑うことは、そうたびたびあり得るものではない。しかも心からの笑いでさえも、ふりかえってみれば、その空しさに驚くことがある。いみじくも西の詩人は、「腹からの笑いといえど、苦しみのそこ(94)にあるべし」と歌ったという。笑いとは元来そのようなものである。
 いま、劉※[王+昆]はしいて笑うことによってその相手と一つになろうとした。がしかしもともと、その笑いはつとめた笑いでしかなかった。心からの笑いでさえも、所詮は空しいものである。ましてや、つとめて笑うことによって相手と一になろうとしても、それは一つの擬装を凝らすことに過ぎない。かくては対坐しながらも、依然として、一人の我のみがそこに残るのである。さればこそ劉※[王+昆]は、ついに、「譬えば疾※[病垂/火]《やまい》の年をへたるに、一丸もてこれを※[金+肖]《け》さんと欲するがごとし」といわざるを得なかったのである。
 
(95)     一〇 左思
 
 門閥が重んじられることは、大なり小なり、何《いず》れの時代にもありがちであるが、晋初はその傾向が甚だしかったようである。
 一体、晋時代の官吏は、魏の時代に定められた九品中正《きゆうひんちゆうせい》の制度によって採用されたのであって、その九品中正の制度とは、地方に中正という役人を置き、人材を第九品から第一品までの九等にわけて、中央に推薦させる制度である(この制度については、宮崎市定博士に『九品官人法の研究』というすぐれた業績がある)。これは甚だ公平なやり方のようではあるが、しかし中正のさじ加減で、いかようにもなる弊を伴いやすい。さじ加減は貴族・門閥に有利なようにされるのが常である。晋初、門閥の重んじられる弊の著しくなったわけはそれによるのであって、そのことは、劉毅《りゆうき》や段灼《だんしやく》の言によっても知られる。
 すなわち劉毅は上疏《じようそ》して、九品の制に八損あることを論ぜる中に、今の中正は、党利(96)と愛憎とを本にして品評する結果、
  上品には寒門なく、下品には勢族なし
  上品無寒門、下品無勢族(『晋書』劉毅伝)
という状態であると指摘しており、また段灼は上表して五事を陳ぜる中に、当時の選人の法を非難して、
  今、台閣の選挙する、徒《いたずら》に耳目を塞《ふさ》ぎ、九品(の制)によりて人を訪《さが》すに、唯だ中正に問うのみ。故に上品に拠《あ》げらるるものは、公侯の子孫に非ずんば、則ち当塗(要路のもの)の昆弟なり。二者(台閣の選挙法と九品制)苟《いやし》くも然らば、※[竹/畢]門蓬戸《ひつもんほうこ》(貧賤のもの)の俊、いかでか陸沈(埋もれる)するもの有らざるを得んや。
  今臺閣選擧、徒塞耳目、九品訪人、唯問中正、故據上品者、非公侯之子孫、則當塗之昆弟也、二者苟然、則※[竹/畢]門蓬戸之俊、安得不有陸沈者哉(『晋書』段灼伝)
といっておる。更にまた東晋の干宝は、その『晋紀』の総論において、西晋の滅亡せし原因を論じておるが、その中に、
  世族と貴戚との子弟は、陵邁《りようまい》超越(他をしのぎとびこえる)して資次(この語は劉寔《りゆうしよく》の『崇譲論』にも見え、資格上の順序という意味らしい)に拘らず。
(97)  世族貴戚子弟、陵邁超越、不拘資次(『文選』卷四十九)
といって、世族・貴戚の子弟がみだりに栄達したことを、その一つとしておる程である。左思の歎きは、こういう社会のもつ階級の差を背景として生れたのであった。
 『晋書』の左思伝や、『世説』の文学篇の注に引く所の左思別伝を見るに、左思の家は世族でもなく貴戚でもない。左思の妹の芬《ふん》の作った「離思賦」に、自分の生い立ちについて「蓬戸《ほうこ》の側陋《そくろう》なるに生れ」といっておるのも、決して謙遜した言葉ではあるまい。
 『晋書』によれば、「左思は、交友を好まず、閑居を以て事となし、一年かかつて斉都賦を作り、更に三都賦を作ろうとしていたが、泰始八年(二七二)、妹の芬が召されて宮中に入ったので、京師《けいし》に移り住み、思いを構えること十年、家屋敷の内の処処に筆と紙とを備えておいて、一句を得る毎にその場で書きつけるという精進ぶりであったものの、見聞が狭くて思うように作れないので、求めて秘書郎となった」という(左思伝・左貴嬪伝)。『晋書』で知られる左思の官職は、右に記せし如く、秘書郎という属官となったことだけである。もっとも、左思別伝では、秘書郎となる前に、司空の張華が辟《め》して祭酒としたことを記しておるが、その祭酒とても秘書郎以上の位置ではなかったであろう。
 左思が秘書郎となった時の長官、すなわち秘書監は、賈謐《かひつ》であった。賈謐は、名門の(98)出であり、恵帝の皇后賈氏の甥で、恵帝の暗愚なるに乗じて権勢を専らにした男である。そしていわばそのとりまき連〔五字傍点〕が二十四人あり、これを賈謐の二十四友といったが、左思もそ一の一人であった。そのことを見れば、彼もまた賈謐にたよって立身しようとする野心があったのかも知れない。のみならず、その妹の芬が、女官の最上位である貴嬪《きひん》となっていたので、その因縁での栄達を当てにしていたかとも疑われる。というのは、左思別伝に、妹のことをたいそう自慢したとあるからである。かくの如く、立身栄達を夢みていたと思われるのに、その夢は実現されることなく、永康元年(三〇〇)賈謐が誅《ちゆう》せられるや(『晋書』恵帝紀)、左思は官を退き、もはや出でて仕えようとしなかった。
 さて左思に 「詠史」八首があり、これは史上の人物を仮りて自己の感懐を詠じた詩であって、主として史上の人物のみを詠じていた従来の詠史の詩に変革を与えたものとされておるが、この「詠史」八首と、それに「雑詩」とに、彼の心境が最もよくうかがわれる。これらの詩によれば、彼は富貴を度外視せる高尚な生活を理想としていたようである。すなわち、自分の心構えを歌って、
 
  功は成りて爵を受けず
(99)  長揖《ちようしゆう》して田廬《でんろ》に帰らん
  功成不受爵
  長揖歸田廬        (詠史、其一)
 
といい、また戦国時代の魯仲連が、談笑裡に秦軍を退けて越を助けながら、人のために難を解いて、お礼をもらったりすれば、商売人になりさがってしまうといって、その大功に対する報賞を受けなかったことを称揚して、
 
  功は成りて賞を受くるを恥《は》ず
  高き節《みさお》は卓として群《たぐい》あらず
 
  功成恥受賞
  高節卓不群        (詠史、其三)
 
といえるにて、そのことが知られる。
 ところが、こういう理想を実現するには、実現し得るに足る地位にいなくてはならぬのであるが、彼の地位は一属官に過ぎず、目覚ましい大功を立てんがためには余りにも低きに過ぎた。何故にその理想を実現し得る地位に就けなかったかといえば、門地の高からぬがためと、彼は考えたのである。
 
(100)  鬱鬱たり澗底《たにぞこ》の松
  離離たり山の上の苗
  彼《か》の径寸の茎を以てして
  此の百尺の条《えだ》を蔭《おお》う
  世冑《せいちゆう》は高位を躡《ふ》むに
  英俊は下僚に沈む
  地勢これを然らしむ
  由来 一朝のことに非ず
 
  鬱鬱澗底松
  離離山上苗
  以彼徑寸莖
  蔭此百尺條
  世冑躡高位
  英俊沈下僚
  地勢便之然
  由来非一朝        (詠史、其二)
 
 「離離たる、直径一寸に過ぎぬ若木のくせに、鬱鬱たる百尺の老松をすっかり木蔭にしてしまう。一は山上にあるのに、一は谷底にあるがためにほかならない。このように、お家柄の若者はやすやすと高位をつぐが、普通の家の子は英俊でありながら、いつまでも下僚にうずもれねばならぬとは。しかしこれは地勢がそうさせるので、何も今にはじまったことではない」というのが、右の詩句の大意である。
 「離離」は、枝葉がまばらに垂れ下っておるさまであろう。上の「鬱鬱」は、枝葉の(101)密生せる、寧ろ上昇的な強さを表わすのに対して、、これは下降的な弱さを表わす。「苗」は、若木を指していえるものらしく、上の老松が四時をわかたず常緑の節操を守るに比して、この若木は寒冷に凋《しぼ》む落葉樹の若木であると見たい。白楽天の「元※[禾+眞]《げんしん》に贈る」(贈元※[禾+眞])詩にある「豈《あ》に無からんや 山上の苗、径寸にして歳寒なし」の句は、恐らく左思のこの句に本づいたものであろうが、やはり落葉樹の若木としておる(なお白楽天には、左思のこの「詠史」その二に本づいた「澗底松」と題する詩がある)。
 岩乗に蟠《わだかま》る根をはって、聳《そび》え立つ常緑の老松と、根の浅いひょろひょろの落葉する若木とを対比して、英俊と世冑との差を暗示しておるところに、自信のほどと、門閥に対する反撥心とが溢れている。同じ「詠史」の、その六に、
 
  貴者は自《みずか》ら貴ぶと雖《いえど》も
  これを視ること埃塵《あいじん》の若《ごと》し
  賤者は自《みずか》ら賤しむと雖も
  これを重んずること千鈞の若し
 
  貴者雖自貴
  視之若埃塵
  賤者雖自賤
  重之若千鈞
 
(102)とある、そういう気持が、右の詩にもこめられておると見るべきであろう。
 これは明かに、門閥重視による階級差の甚だしさを憤り歎いたものである。がしかし、左思はそのために、門閥重視の社会を徹底的に否定して、これを打破し、改革しようなどと考えていたのではない。ただ自己の不遇の責を「地勢」に帰せしめ、そうすることによって、ひそかにあきらめようとしたに過ぎないのである。「地勢これを然らしむ、由来一朝のことに非ず」の句や、また右に引いた八句の次に、寒門の出身で、白首《はくしゆ》まで郎署に屈していた漢の馮唐《ふうとう》を、引き合いに出しておるところを味わえば、そのことがおのずからわかるであろう。
 同じ「詠史」の、その五において、※[山/我]※[山/我]《がが》たる高門の内に奥深く建ち並んでおる王侯の邸宅を写し、その次に、
 
  まことに攀竜《はんりゆう》の客に非ずんば
  何為《なんす》れぞ※[火三つ+欠]《たちま》ち来り游ばんや
 
  自非攀龍客
  何爲※[火三つ+欠]來游
 
といっておる。「攀竜の客」は、王侯にとりすがって栄達しようとするもののことではあ(103)るが、ここの用法は、家柄のよい、限られた人人のみについていう。そういう選ばれた人人でなくては、奥深い邸宅に気安く出入することはせず、また奥深い邸宅が、受け容れようはずもない。そんな王侯の邸宅など、おいらには全く無縁の存在だ、と左思は憤り歎くのである。ここにも、門閥に対する反撥と、自己の家柄の低さを顧みることによる、あきらめとの気持が漂う。そこでこの句の次に高士の許由《きよゆう》のあとを追おうといい、最後に、
 
  衣を振う 千仞《せんじん》の岡
  足を濯《すす》ぐ 万里の流れ
 
  振衣千仞岡
  濯足萬里流
 
と結んでおる。この結句は後世、有名になったが、かくの如き清曠で剛健な句のできたのは憤りとあきらめとが凝集せる結果であるといえよう。
 さて、理想を持ちながら、そしてそれを実現するに足る力量があるとの自信を持ちながら(もっとも、左思別伝には「思は人と為《な》り、吏幹なくして文才あり」とある)その力量を発揮する地位につくことができないのは、家柄の低きが故であると自覚すれば、そ(104)のような家柄に生れついた、いわば因業な、己れ自身が、この上もなく憐れである。そこで左思は、一面には、己が身を顧みて、孤独の感を深くせざるを得なかったであろう。そのような寂しさが右に挙げた二つの詩の底を流れているのであるが、なおその孤独感の比較的あらわに出ている詩がある。すなわち、「詠史」の、その四がそれであって、その詩では、まず王侯の豪奢な生活ぶりを描き、次にそれと対照させて、楊雄のわびしい住いを左の如く描いている。
 
  寂寂たり楊子の宅
  門に卿相の輿《くるま》なし
  寥寥《りようりよう》たる空宇の中
  講ずる所は玄虚に在り
 
  寂寂楊子宅
  門無卿相輿
  寥寥空宇中
  所講在玄虚
 
 『漢書《かんじよ》』の楊雄伝の賛に雄の自序を引いて、「家もとより貧なり」とあり、「人のその門に至ること希《まれ》なり」ともある。貧乏人の家へ、卿相など訪れようはずもない。楊雄の生活はこの時、権勢の社会とは全く没交渉であった。「空宇の中」とは、がらん〔三字傍点〕とした(105)家の中におるということであるが、実はそのようなところに、ただ一人おることを表わすのである。そして肉体がただ一人でおることは、ここでは、そのまま精神の孤独を意味する。そういう姿で楊雄は、玄虚、すなわち奥深い道を研究していたというのである。
 つまりこの詩句は、権勢の世界と全く没交渉に、静かに道を研究してそれを守っておる楊雄の孤独な姿を想像して、そこに左思自身の姿を見ておるのである。そして、『楚辞』の九歎に「空宇の孤子を閔《あわ》れむ」の句がある如く、左思は、空宇の楊雄、ひいては孤独なる自分に、憐憫の情を動かしたに違いないが、しかしそこには、単に憐憫の情が動いただけではなく、ほのかな希望の情も動いていたらしく感じられる。というのはこの詩の結びが、
 
  悠悠たる百世の後
  英名を八区に擅《ほしいまま》にせり
 
  悠悠百世後
  英名擅八區
 
となっているからである。孤独に堪えた楊雄は、後世に英名をとどろかせたといって、自分もまた将来への希望をもつことを託しておるのが、この結句の意味であろう。
(106) なお、楊雄は、その家が貧であったことは前に述べたが、その伝によれば、吃音《きつおん》であったことがわかり、それに禄位も容貌も、人を動かすに足らなかったといわれておる。左思もまた、「貌《かお》は寝《みにく》くして口は訥《どもり》なり」と『晋書』の本伝にあり、殊にその容貌の醜については、お婆さんたちから唾を吐きかけられたとの逸話さえある(『世説』容止篇)。このように、左思は、楊雄と似た点をもっていたことから、特に親しみを感じていたのかも知れない。
 「詠史」の、その八は、一層、孤独感のあらわれた作である。
 
  習習たり籠中の鳥        
  ※[隔の旁+羽]《はね》を挙ぐれば四隅に触る    
  落落たり窮巷の士        
  影を抱いて空廬を守る      
 
  習習籠中鳥
  擧※[隔の旁+羽]觸四隅
  落落窮巷士
  抱影守空廬
 
 「習習」は、飛ぶことをくりかえすさまであろう。「落落」は、人と疎遠にし、疎遠にされておるさまであろう。しかもその疎遠は、自ら守って、軽軽しく妥協しないが故の(107)ものである。
 「籠の鳥は何度も飛びたってみるが、そのたびごとに四隅にひっかかって、高く飛び上ることができない。その如く、うらだな住いのおのこは、大きな抱負をもちながら、どうしても栄達できないので、ただ影法師を抱いて、空き屋同然の家に、うら寂しく世と遠ざかっている。これは、籠の中におり、うらだなに住むという境遇がそうさせるのだ。」
 以上が、はじめ四句の大意である。詩はつづく、
 
  門を出《い》ずるに通路なく
  枳棘《いばら》は中塗に塞《ふさ》げり
  計策は棄てて収《と》られず
  塊《つくねん》として枯池の魚の若《ごと》し
 
  出門無通路
  枳棘塞中塗
  計策棄不收
  塊若枯池魚
 
 「門を出ずるに通路なく、枳棘《いばら》は中塗に塞《ふさ》げり」の二句は、「窮巷の士」の門前を写して官途の通じないことを寓し、「計策は棄てて収《と》られず」は、すぐれた計策も、官途が通(108)じない故に顧られないことをいい、そして、その生活の窮乏を枯れ池の魚にたとえたのが「塊《つくねん》として枯池の魚の若《ごと》し」の句である。「塊」は一人じっとしておるさま。詩は更につづく、
 
  外に望むに寸禄なく
  内に顧みるに斗儲《とちよ》なし
  親戚すら還《な》お相蔑《あいあなど》り
  朋友も日夜に疎《とおざ》かる
 
  外望無寸禄
  内顧無斗儲
  親戚還相蔑
  朋友日夜疎
 
 この四句は、窮乏生活の描写である。「寸禄」はわずかの俸給。「斗儲」はわずかのたくわえ米。この窮乏生活の描写の裏には、それに堪えきれず、何とかして栄達したいという気持がこめられておる。
 けれども「窮巷の士」には、それは、はじめから何ともしようのないことであった。そこで、この詩は、ここで一転して、達観の境地を詠ずることになる。すなわち、「朋友も日夜に疎《とおざ》かる」の次に、蘇秦《そしん》と李斯《りし》とを挙げて、その忽《たちま》ちにして栄達し、また忽ちに(109)して凋落《ちようらく》したことをいい、最後に、
 
  河に飲むも腹を満たすにて期《た》れりとす
  足るを貴んで余りあるを願わじ
  林に巣《すく》うも一枝に栖《す》む
  達士の模《のり》となすべし
 
  飲河期満腹
  貴足不願餘
  巣林栖一枝
  可爲達士模
 
と結んでおる。この結びは、いうまでもなく、『荘子』開巻第一の逍遥遊篇にある「鷦鷯《しようりよう》は深林に巣《すく》うも、一枝に過ぎず。偃鼠《えんそ》は河に飲むも、満腹に過ぎず」をふまえたものであって、そのような鷦鷯や偃鼠こそ識見すぐれて流俗に同じない士の模範とすべきものであるから、それに倣って、自己の境遇のままに足れりとすることを第一とし、それ以上むさぼることを願うまいというのである。
 これは老荘の知足安分の思想に帰着するのであるが、平凡であるといえば平凡であり、消極的だといえば消極的である。がしかし、本当にどうにもならない境遇に苦しみぬいて、身をもってこの思想に帰着したものにとっては、それは甚だ生き生きとした、そし(110)て力強い、一つの信念となり得るであろう。
 さて、この「詠史」その八は、「窮巷の士」を主題とせる作であって、作家が窮乏の士をとりあげたものとしては、最も古い部類に属するであろうが、この「窮巷の士」は、実は作者自身の影像である。してみれば、そこに「影を抱いて空廬を守る」といい、「塊として枯池の魚の若し」といって描いておる窮巷の士の孤独の姿は、そのまま作者自身の孤独の姿であり、しかもその姿は、単なる影絵ではなく、孤独なる魂そのものの凝結した生きた姿であると見なくてはならない。そこに左思の孤独感が最も率直に表現されているといい得るであろう。
 ところでここに一つ、無用とも見える穿鑿《せんさく》を試みる。左思より約百年後の陶淵明に「貧士を詠ず」(詠貧士)と題せる詩が七首あり、多分、左思のこの詩の影響を受けたものと思われるが、しかしそれらに詠じられておる貧士は、少しも官途に恋恋としていない。それに比べれば、左思の描いている「窮巷の士」は、甚だ官途に意がありながらも、その意を達し得ない士である。
 そこで問題としたいのは、この「窮巷の士」は、官途について栄達することができないがために窮巷の士となったのか、それとも窮巷の士であるがために栄達することがで(111)きなかったのか、ということである。つまり、左思は、この二つのばあいの何れに属するものとして、窮巷の士を描いたのかということである。
 この問題の解決は、詩のはじめの四句「習習たり籠中の鳥、※[隔の旁+羽]《はね》を挙ぐれば四隅に触る。落落たり窮巷の士、影を抱いて空廬を守る」の吟味によって、なされるであろう。すなわち、籠中の鳥は四海に飛翔し得る能力を持つ鳥なのである。にもかかわらず飛翔し得ないのは、不幸にも籠の中に置かれているからである。このような意味で「籠中の鳥」は取り挙げられている。すると、その鳥に喩えられている「影を抱いて空廬を守る」人は、不幸にも窮巷に生れついたが故に、そうしなくてはならなかったものとして出されておると見るべきであろう。
 それのみならず「窮巷」の語は、その人の生い立ちをいう場合に用いられておる例が少くない。『戦国策』に「且つ夫《か》の蘇秦はただ窮巷〔二字傍点〕掘門、桑戸捲枢の士〔傍点〕なるのみ」(秦策、一)とあり、漢の王褒《おうぼう》の「聖主得賢臣頌」に「窮巷の中に生まれ〔八字傍点〕、蓬茨の下に長ず」とあるなどがそれである。かたがた、左思の「窮巷の士」は、窮巷に生い立った士の意味であると解して、殆んど間違いあるまい。
 果してしからば、この窮巷の士の栄達できないのは、一〇〇頁に引いた「地勢これを(112)然らしめる」ものであって、「影を抱いて空廬を守り」、「塊として枯池の魚の若き」孤独の姿は、ひそかに「地勢」を歎く姿であるともいえるであろう。このような歎きのはてに達したのが、さきにも引いた、この詩の結び「河に飲むも腹を満たすにて期《た》れりとす、足るを貴んで余りあるを願わじ。林に巣《すく》うも一枝に栖《す》む、達士の模《のり》となすべし」の心境である。「地勢」の歎きが深ければ深いだけに、この心境は借りものではないはずである。
 要するに左思の孤独感は、「地勢」の不利を意識せるところから来たものであった。この「地勢」の不利の意識は、すなわち当時の社会の階級差に対する反抗意識であるといい得よう。がしかし、その反抗意識は、果してどの程度まで、階級一般の問題として意識されていたかは疑問である。
 左思の後、約百五十年にして出た劉宋(五世紀)の飽照《ほうしよう》は、左思と同じく家柄の卑賤なることを思い起して自分の不遇をあきらめようとした人であり、更にまた、それとともに自分の性格を顧みることによっても、その不遇を慰めようとした人である。
 
(113)     一一 飽照
 
 『宋書』及び『南史』の飽照《ほうしよう》伝(ともに臨川王道規伝に附せらる)には彼の父祖については一言も触れておらず、また梁の虞炎《ぐえん》の「飽照集序」には、「家は世世貧賤」とある。これらによって、飽照の家柄の低かったことが知られる。されば彼みずから「臣は孤門の賤士」(解褐謝侍郎表)といい、また「我れ※[草がんむり/畢]門《ひつもん》の士を以てして」(答客詩)といっておるのは、決して謙遜していえるものではないとわかる。
 『世説新語《せせつしんご》』の撰者として知られる臨川王の劉義慶が、江州|刺史《しし》であった時、文学の士を招聚《しようしゆう》したが、飽照もまたその中にあって国侍郎とされた。呉丕績《ごひせき》の飽照年譜には、恐らく元嘉十六年(四三九)、彼が三十五歳のときのことであろうとしておる。晩年には孝武帝に仕えて太学博士兼中書舎人となり更に出されて秣陵《まつりよう》などの令となったが、最後は荊《けい》州刺史なる臨海王|子※[王+頁]《しきよく》の前軍参軍掌書記で終っておる。呉氏の年譜では、太学博士兼中書舎人となったのは、孝建三年(四五六)五十二歳の頃のことであろうとし、歿年を、(114)六十二歳としておる。
 飽照は都の建康で、行薬すなわち服薬後の散歩をした際に、名利に奔走する人人を見て感ずるところあり、そのことを詩に詠じておるが、その詩の結びにいう、
 
  尊賢は永く照灼《しようしやく》たり
  孤賤は長《とこし》えに隠淪《いんりん》す
  容華の坐《そぞろ》に消歇《しようけつ》するを
  端《はた》して誰が為に苦辛する
 
  尊賢永照灼
  弧賤長隱淪
  容華坐消歇
  端爲誰苦辛       (行薬至城東橋)
 
 「尊賢」は尊貴なる家柄のものをいい、「孤賤」はたよりどころのない微賤なる身分のものをいう。この「孤賤」は彼みずからいっておる「孤門賤士」のことである。尊貴の家に生れたものは、その才能の如何《いかん》にかかわらず常に栄華の地位を保つが、孤門の賤士は、いつまでも見捨てられてうだつがあがらない。そういう世の中に、身を労し心を苦しめて、いつしか若さを失う孤賤の士は、そもそも誰のためにそんな苦労をするのかと、自ら歎き自ら悶えるのである。
(115) この歎きこの悶えは憤りと自嘲との交錯であるが、そのはてはまたしても「孤賤」という厚い壁につきあたる。この厚い壁につきあたって、どうにもしようのない作者の孤独の悲しみが句間にひそんでいるのを見逃がしてはならない。
 彼にまた「瓜歩山《かほさん》掲文」という文章がある。劉義慶に仕えていた頃の作と思われるが、その中に、瓜歩山は小山に過ぎないのに、江中にあるがためによく目立つことを述べ、つづいて、
  これまた居勢これを然らしむるなり。故に才の多少は勢の多少に如《し》かざること遠いかな。
  是亦居勢使之然也、故才之多少、不如勢之多少遠矣
といっておる。「居勢これを然らしむ」は、『漢書』の景十三王伝の賛にも見える句であって、その「居勢」とは、居るところの境遇、地位という意味の如くである。つまり、瓜歩山が、小山のくせに目立つのはそのあり場所がよいからだというのである。そして、そのことから、人間社会の実際を想起せるのが「故に才の多少は勢の多少に如《し》かざること遠いかな」である。この「勢の多少」とは、地位の高下の意味であるが、それは結局自分の家柄のひくきが故に大才をふるう地位につき得ないのを歎いたのである。
(116) 彼はまた、「詠史詩」において、まず富貴の徒の繁華のさまをのべ、最後に、
 
  君平は独り寂寞《せきばく》たり
  身と世と両《とも》に相《たがい》に棄てて
 
  君平獨寂寞
  身世兩相棄
 
と結んでおる。「君平」とは前漢の厳君平という人である。厳君平は蜀《しよく》の成都で売卜を業としたが、その日の生活費だけをかせげば、あとは店をしめてお客をことわり、簾《すだれ》を垂れて『老子』を講じたという。つまり世俗的な慾望をすっかりたった人である。そのことは『漢書』の王貢両※[龍/共]鮑伝の序に見える。
 都なる富貴の家には、まだ夜も明けきらぬうちから、野心をもつ賓客がつめかけるのに、それにひきかえ、蜀の君平の家は、一人の車馬の客も来ない寂寞さであると、この詩はいう。つまりこの詩は、そういう君平に傾く心を詠じたのである。
 それでは、厳君平のどのようなところに心がひかれたのであろうか。それは「身世兩相棄」の句の吟味によって知られるであろう。もともとこの句は、恐らく『荘子』の繕性篇の、
 
(117)  世は道を喪《うしな》えり、道は世を喪えり、世と道と交《こもご》も相喪えるなり。
  世喪道矣、道喪世矣、世與道交相喪也
から思いついたものであろうが、「身」は厳君平自身であり、「世」は君平の生きていた時世をいう。君平自身は時世を棄ててしまって、仕えようともせず、時世は君平を棄ててしまって、用いようともしなかった、というのが、この句の一通りの意味である。がしかし鮑照は、これを単に、君平と時世との、お互さまのことだとして、考えていたのであろうか。恐らくそうではあるまい。時世が君平を棄てたが故に、君平もまた時世を棄てざるを得なかったのだと考えていたものと思う。彼の「蜀四賢詠」に、
 
  君平は世の間なるに因り〔八字傍点〕
  還《かえ》って寂寞を守るを得たり
 
  君平因世間
  得還守寂寞
 
とあるのも、世に棄てられたことを主にした言い方である。そして、彼は、そう考えることによって、世に棄てられた君平の孤独なる心境に同情し、それに、不遇による自分の孤独感を託したのである。しかも、その不遇は、自分の家柄と結びつけて考えられた(118)ことであろう。
 鮑照の作品には右の外にも、孤独の歎きを歌ったものがあるが、それらの中で、その感情の最も烈しく表わされておるのは「擬行路難」十八首(『古詩紀』による)の、その四とその六とである。
 「擬行路難」の、その十八に、
 
  丈夫は四十の彊《さかい》にして仕う
  余《われ》は二十の弱冠の辰《とき》に当る
 
  丈夫四十彊而仕
  余當二十弱冠辰
 
の句があるので、その十八は確かに二十歳ころの作であるとわかるが、その他の十七首もすべて、そうであるかどうかは明かでない。現に、その六の如きは、二十歳ころの作と見るには疑問がある。というのは、その六は仕官しておることを歌っておるが、年譜をしらべると、鮑照のはじめて仕えたのは三十五歳だからである。
 それはともかく、「擬行路難」の、その四にいう、
 
(119)  水を瀉《そそ》いで平地に置けば
  おのがじし東西南北に流る
  人生また命《さだめ》あり
  いかんぞよく行きては歎きまた坐しては愁えんや
  酒を酌みて以て自《みずか》らを寛《ゆる》うせんとし
  杯《さかずき》を挙げ断絶して路難を歌えば
  心は木石にあらずいかでか感なからんや
  声を呑み躑躅《あしずり》してあえて言わず
 
  瀉水置平地
  各自東西南北流
  人生亦有命
  安能行歎復坐愁
  酌酒以自寛
  拳杯断絶歌路難
  心非木石豈無感
  呑聲躑躅不敢言
 
 地面に水をそそいで見ていると、おのがじし、東西南北にわかれて、流れてゆく。同じ水を同じところにそそいだのに、かくもわかれわかれに流れ去って、それぞれの方向に行かねばならぬとは、これこそ水流各自のもって生れた運命というものであろう。思えばこの世に生きる人人にも、貴となり賤となるおのおのの運命がつきまとうているのであるから、己の不遇を行住坐臥愁歎するにも及ぶまい。よしさらば、酒でも飲んでいくらかでも心のしこりを解こうものと、盃をとりあげて口に進めつつ、感にたえないで(120)行路難の曲を歌えば、木石ならぬわが心は、わけもなくゆすられて、またしても深い感傷に浸らざるを得ない。がしかし足ずりしながら声を呑んで、その悲しさを口に出すことはしない。
 人おのおの到底まぬかれ難い運命をもっておるということは、理智の上では認めるけれども、いかにしてもそれをうけがってくれないのが感情である。この感情の複雑さは言おうにも言いようがなく、よしんば言ったとしたところで、他人にはわかってもらえるものでもない。ただじっと、ひとりでこらえ忍ぶよりほかはないのである。こういう感情の激しい揺ぎに悩みつづける自己の胸中を吐露したのが右の詩である。
 このような激しい感情の揺ぎに悩んだ鮑照も時にあきらめの境地を見出すことがあった。何によってあきらめたか。自己の家柄と性格とを思い起こすことによってである。同じ「擬行路難」の、その六にこれを見る。
 
  案《つくえ》に対《むか》えども食う能わず
  剣を抜いて柱に撃《きりつ》け長歎息す
  丈夫の世に生くる幾時なるべき
(121)  いかでたえん、※[足+牒の旁]※[足+钁の旁]《ちよこちよこ》として羽翼を垂るるに 
  うち棄てて官を罷《や》め去り
  家に還りて自《みずか》ら休息せん
  朝には出でて親と辞《わか》るるも
  暮には還りて親の側《かたわら》に在り
  児《こ》の牀前《しようぜん》に戯《たわむ》るるを弄《なぐさ》みとし
  婦《つま》の機中に織れるを看《なが》めん
  古《いにしえ》より聖賢も尽《ことごと》く貧賤なりき
  何ぞ況《いわ》んや我が輩の孤にして且つ直なるをや
 
  對案不能食
  拔劍撃桂長歎息
  丈夫生世會幾時
  安能※[足+牒の旁]※[足+钁の旁]垂羽翼
  棄置罷官去
  還家自休息
  朝出與親辭
  暮還在親側
  弄兒牀前戯
  看婦機中織
  自古聖賢盡貧賤
  何況我輩孤且直
 
 憤懣のあまりご飯もほしくなく、柱にきりつけて、ふかいためいきをつくばかり――わが大才をもってしながら、尾羽《おは》うち枯らしつつ、ちょこちょことして、上役のごきげんをとりつづけて、あたらこの一生をたてられようか。ままよ官を辞して郷里に帰ろう。そこでもたつきのために朝早く家を出ねばならぬとはいえ、夜は帰り来って、親とも児とも妻とも、ともに楽しく過ごし得るであろう。そここそわが安息の場である。とはい(122)うものの、大才を抱きながら栄達することのできないわれは、何としてもみじめではある。このやるせない気持をどうしよう。がしかし、更に考えてみれば、古から聖賢も皆栄達しなかった。聖賢でさえもそうだから、ましてや、孤にして且つ直なる我輩では、むしろ当然のことである。
 この詩は、実際に官を辞して帰った時の気持を詠んだものともとれるし、官を辞して帰ることを想像して詠んだものともとれるが、いま仮りに後者と見ておく。
 さてこの詩で特に注意したいのは「孤且直」の三字である。これは「孤直」なる一語をわけて用いたのではなくて、「孤」と「直」との二つを並べあげたものであると思う。そしてこの「孤」は恐らく家柄の卑賤なることをいったのであって、鮑照みずから「臣は孤門の賤士」といっておる、その孤門に当るであろう。「直」は、けだし個性まる出しで融通のきかない、非妥協的な性格をいえるものであると思われる。彼の「代白頭吟」に、
 
  直なること朱糸の縄の如く
  清なること玉壺の氷の如し
 
  直如朱絲繩
  情如玉壺氷
 
(123)の句がある。琴の緒のようにはりきって、みじんも曲らない直さ。それは個性のままに行動して全く妥協を許さないものである。ここの「直」もそういう直さをいうのであろう。
 「孤且直」を右の如く解し得るとすれば、鮑照は自己の家柄と性格とを顧みることによって、そのやるせない孤独感を慰めようとしたことになる。この家柄をもちだしたことは、門閥を重んずる当時の社会機構の、いかんともしがたいことに、一応のあきらめの場を見出したことを物語るのであって、その点では左思の「地勢これを然らしむ」といった心情と同じである。
 ところで、ここに特に問題としたいのは、左思には見られなかった自己の性格を顧みてあきらめようとする態度である。この自己の性格が直なるが故に世に容れられない、或いは容れられなかった、と観じて、あきらめようとする心持は、さきに述べた漢代の作者の「守る所」あってそれにたよろうとする態度(七二頁)といくらか似ておるが、全くは同じくない。
 どのように同じくないかといえば、「守る所」とは、己の信念とか、聖賢の道とか、政(124)治上の理想とかを内容とするのであって、つまり研学により、修養によって身につけたものという色彩が濃厚であるが、もって生れた性格という色彩は殆んど感じられない。ところが、ここにいう「直」(もし、「孤且直」をば、「孤直」なる熟語をわけて用いたまでのことと見れば、「孤直」)とは、研学や修養によって身につけたものという色彩は極めて稀薄で、生れつきの性格という色彩が甚だ濃いのである。だから「守る所」あってそれにたよろうとする態度は、真理と信ずる、抽象的な、あるものを守りぬこうとするのであるが、「直」(もしくは「孤直」)なることを顧みて、あきらめようとする態度は、自己の性格をそのまま肯定してかかることであって、両者の間には差違がある。
 自己の個性のままに振舞うことを、むしろ得意とする傾向が、後漢末期頃から、目立って来たように思う。例えばかの建安の七子に数えられる孔融において、これを見る。
 孔融は、「幼にして自然の性あり」といわれ(『後漢書』孔融伝注引家伝)、「剛直」といわれ(『後漢書』孔融伝)、「直情」といわれた(『後漢書』孔融伝論)人物であるが、「自然の性」といい、「剛直」といい、「直情」というも、要するに束縛されることなく、個性のままに言動したことについての評であろう。
 孔融のこういう性格を物語る逸話の類がいくつか残っているが(『後漢書』孔融伝、『魏志』(125)崔※[王+炎]伝注、『世説新語』徳行篇。その性格を彼みずからはむしろ得意としていたもののようである。そのことは「雑詩」の中のつぎの句から知られよう。
 
  安《いかで》かたえん 一身《おのがみ》を苦しめて
  世と挙措《おこない》を同じゅうするに
 
  安能苦一身
  與世同挙措
 
 「挙措」とは行動と静止とであって、自己の意志によって或いは為し或いは為さざることをいう。つまり一切の行為のことであるが、この詩における用法は主として日常の挙動を意味しているようである。世俗の人人と同様の挙動をすることは自己を苦しめることである。自己を苦しめてまで世俗と調子を合わせることは、我には堪うるところでない。我は我が個性のままに挙動しよう。そこにこそ我の自由があるのだと彼はうそぶくのである。そこには妥協を拒否しきった昂然たるその面魂が見られる。されば彼の友人が、その剛直の性を改めるようにと、忠告したにもかかわらず、一向ききいれなかったといわれているのも、さこそとうなずける。
 このような、小節に拘らないで、個性のままに挙動し、しかもそれを誇りとするが如(126)き傾向は、竹林の七賢以下、魏晋のいわゆる曠達《こうたつ》の士を生む一つの素因となり、やがて鮑照の態度にもつらなるのである。
 さてさきに挙げた鮑照の「水を瀉《そそ》いで平地に置けば、おのがじし東西南北に流る」にはじまる一首にしても、「案《つくえ》に対《むか》えども食う能わず」にはじまる一首にしても、己の不遇を歎いておるのではあるけれども、少くともおもてむきでは泣きごとをいったものではなくて、堪え難い憤りの情を吐き出したものである。だから二首ともに傲岸不遜《ごうがんふそん》ともいうべき気分が行間に漂うておるのを感ずるのであるが、「案に対えども……」の詩において特にそれが強い。従ってこの詩の「何ぞ況《いわ》んや我が輩の孤にして且つ直なるをや」の句からは、むしろそれを誇りとせる気分が汲みとられる。清の張玉穀《ちようぎよくこく》の『古詩賞析』にこの句を評して「筆勢なおおのずから傲岸」といつたのもさこそとうなずける。すなわち、それは我が性格ゆえに致し方もないと、恐れ入ったのではなくて、むしろ開き直ったというところである。かくの如く、自分の「直」――非妥協性――を、むしろ誇りとするという態度は、さきに述べた、後漢末頃から目だって来た個性のままに挙動して、むしろそれを誇りとする傾向につながるのである。
 さてしからば、孔融が「安《いかで》かたえん 一身《おのがみ》を苦しめて、世と挙措《おこない》を同じゅうするに」(127)と言い放った如く、鮑照も表面きってその個性を主張したかというに、そうではない。「何ぞ況んや我が輩の孤にして且つ直なるをや」の句にはやはり、悲しみの情がこめられている。個性を殺すことはもとより好むところではないが、さればとてそれ故にこそ不遇であるとは、何としても悲しいことである。己の不遇は家柄故、性格故であって致し方がないと、一度はあきらめの場をそこに見出したものの、更にその家柄を思い、その性格を顧みることによって、またしても孤独の深淵に陥らざるを得ない。これをしも、水の東西南北に流れ去らねばならぬような、人間の運命というべきであろうか。こういうめぐりめぐってはてしない感慨が、この二句にこめられておる。これはまさしく、彼の「代東門行」に、
 
  長歌して自《みずか》らを慰めんとすれば
  いよいよ長恨の端を起こす
 
  長歌欲自慰
  彌起長恨端
 
とある、そのような気持であろう。「水を瀉いで平地に置けば……」の詩において、「心は木石にあらずいかでか感なからんや、声を呑み躑躅《あしずり》してあえて言わず」といったのも、(128)いつもこういう複雑な感慨をもっていたので、実はそれを言いあらわしようがなかったのかも知れない。
 なお鮑照の孤独感について、もう一つつけ加えたいことがある。「平地に水をそそげばその水は東西南北にわかれておのがじし流れるが如く、人はそれぞれの運命をもつ」というこの考え方は、つきつめてゆけば、同じ人間でありながら、各人の運命はそれぞれ異るということ、つまり人間は人ごとに異った運命をもつものだということになる。このことを更につきつめれば、一人一人は別別の存在であって、同じ人は二人とあり得ないということになる。鮑照は果してここまでつきつめて考えていたかどうかは疑問であるが、少くともこういう到着点を指向せる考え方を持っていたことは明かである。
 今年はもはや去年ではない、今日は昨日とは異るという考え方、すなわち時は刻刻別物であるという考え方は既に晋の陸機にあったらしく思われるが(一四一頁)、人間の各自が別物であるということにうすうすながら気づいたのは鮑照のこの考えなどが最もふるいものであろう。
 晋の左思のつぎに劉宋の鮑照をとりあげたわけは、鮑照において、左思と同じく、家柄の卑賤を思い起こすことによってやるせない孤独の情を慰めようとしていたことを見(129)るとともに、左思にはなかった、自己の性格を思い起こすことによって孤独を慰めようとしていたことが見られるからである。
 
(130)     一二 袁粲
 
 つぎに少しく毛色の変ったものであるが、衆愚に抗して孤独を守ることの、如何に困難であるかを滑稽化して表わした作品について述べよう。それは劉宋の袁粲《えんさん》の書いた「妙徳先生伝」であって、いわゆる民主主義氾濫の現代、達識の士が往往にして直面するであろうところの孤独の苦悩を、千数百年前既に予言しておるかに見えるものである。
 「妙徳先生伝」は、約二百五十字から成る散文で、その前半は、先生の人物について記し、後半は、先生が或る時その従者に語った話を記しておる。いま問題にしたいのは、その後半であって、あらまし左の如き意味のことが書かれている。
  むかし、国中にただ一つの泉しかない国があった。その泉は狂泉と呼ばれていた。国人は皆この水を飲むので、狂わぬものはなかった。しかし、国君は例外で、別に井戸をほって汲んでいたので、これだけは正常であった。ところが国人はすべて狂ってしまっておるものだから、国主の狂っていないのを、却って狂っておるのだと(131)思いこんだ。そこで相談したあげく、みんなで国主をつかまえて、お気の毒な狂い病を治してあげようものをと、やいと〔三字傍点〕よはり〔二字傍点〕よ薬よと、あらゆる手をつくした。苦しくてたまらないのは国主である。苦しさの余り、泉のところへゆき、やむなくその水を酌んで一杯飲んだ。飲み終るがはやいか狂い出した。これで国君も臣下も一様に狂ってしまったので、民衆は、はじめてうれしがった。
 妙徳先生のお伽話《とぎばなし》はここで終り、さて先生は言葉をついで、
  わしはちっとも狂っていないので、とても孤立してゆくのがむつかしい。それでこのごろ、ひとつ狂泉の水でも飲んでみようかと思っている。
  我既不狂、難以獨立、比亦欲試飲此水
と語り了えたところで伝は終る。この文は『宋書』及び『南史』の袁粲伝に載せられておるが、それが「妙徳先生伝」の全文であるかどうかはわからない。
 妙徳先生のこの終りの言葉は、周囲と調和できない自己を意識して、そこに孤独を感じておることの表白である。がしかしその孤独感は、むしろ誇りを伴うたものである。そのことは、衆人みな狂えるに己ひとり狂わずと信じているところでわかる。つまり彼の孤独は自らを高しとする孤独、いわば孤高自負である。とはいえ、それは必ずしも快(132)いものではなかった。それで、冗談にもせよ、皮肉にもせよ、「とても孤立してゆくのがむつかしい。ひとつ狂泉の水でも飲んでみようかと思う」といったのである。
 「妙徳先生伝」の作者袁粲は、劉宋の政治家であり軍人であって、劉宋の末(四七〇年代)五十八歳で殺されておるが、彼の本伝によれば、この「妙徳先生伝」は、彼れ自らを況《たと》えたのだという。つまり、自分をモデルにして「妙徳先生伝」を作ったわけである。そういえば、本伝に記された彼の性行と、「妙徳先生伝」の前半に書かれた先生の性行との間には、類似点が多い。すると「妙徳先生伝」の後半に出ておる孤独感は、すなわち袁粲の孤独感であるといってよいであろう。
 少しわき道にそれるけれども、「妙徳先生伝」が滑稽味を帯びた文体をとっておることについての疑問を附記したい。袁粲の叔父、袁淑は、『世説新語』の撰者である劉義慶にも仕えた人であるが、この人に『俳諧記』(または『俳諧集』、または『俳諧文』)という撰著があったらしく、唐宋の類書に引かれたその佚文《いつぶん》を見るに、何れも滑稽味に富んだ作である。それで趙宋の王応麟は、唐の韓退之《かんたいし》の「毛穎伝《もうえいでん》」などを、この『俳諧記』に関係づけようとしておるほどであるが(『困学紀聞』巻十七)、いま、この袁粲の文体は、叔父なる袁淑の文体と、何かの関係があるのではなかろうかと疑うのである。
(133) これまで述べたのは、自分の周囲、或いは時世に対する不満・抵抗からおこつた孤独感のあらましであったが、この種の孤独感は事情の如何によっては解消し得る可能性がある。というのは、周囲が変り、時世が運《めぐ》って、もはや不満・抵抗を感じなくなることもあり得るし、自分が周囲や時世と妥協することもあり得るからである。ところが、一度自覚したが最後、生きておる限り、どうにも免れようのない孤独感が二つある。その一つは生命のはかなさの歎きから来るものであり、もう一つは、人間は所詮一人一人のものだと意識するところから来るものである。まず、この前者について述べよう。
 
(134)     一三 陸機
 
 自分の生命を惜しむのは生物の本能であるから、人間がその生命のはかなさに気づいた歴史をたどれば、或いは人間らしい生活のはじまった大昔にまで遡り得るであろう。それはともかく、古典の内で、人の生命のことに最も多く言及しておるのは荘子である。荘子は生命のはかなさを自覚していて、そのことから超越したいと考えぬいた人である。生命のはかなさを感じ、何とかしてそれから超越しようといろいろと考えたのが、荘子の哲学であるといえよう。これは、見ようによっては、最も生命に執着せる態度だともいえる。しかし、何れにしても、荘子はすべてを理智的にわりきろうとする。荘子の思想は随分深く、その文章は、ある意味での文学作品として眺めると非常に面白いけれども、しかしどうも情がない。すべてを理智でわりきってしまっていて、人生を味わい人生を歎くということが乏しい。だから人の命の短いことを天地の無窮なるのに比べて述べたりしてはおるが、それとても理窟の上からであって、人生のはかなさを歎いたので(135)はない。
 生命のはかなさの歎きのはじめて見えるのはやはり『詩経』である。もちろんそれは、まだ単純な歎きに過ぎないもので、例えば次の如くである。
 
  死し喪《ほろ》ぶこと日なけん
  幾《いくばく》もなし 相見るは
  酒を今夕に楽しむ
  君子のこれ宴して
 
  死喪無日
  無幾相見
  樂酒今夕
  君子維宴          (小雅、※[支+頁]弁《きべん》)
 
 十二句から成る章が三つある詩の、第三章の終り四句であるが、この君子はどんな人を指すと見るか、またこの君子の宴にあずかっておるのはどんな人であると見るか、これらの見ようの如何によって、詩の解釈が異ってくる。しかし今はただ、君子の宴にあずかれる、ある人の詩と見るにとどめて、一通りの意味をとる。すなわちこれは、衰乱の世にあること、または老衰を自覚したことなどから、人生のはかなさを感じて、せめて今夕の酒を楽しもうとする、そういう当座の気持を歌ったものである。
(136) ついで『左伝』に見えるものになると、かなり複雑であって、それは魯の孟孝伯の言葉として引かれておる。すなわち、
  人生は幾何《いくばく》ぞ、誰か能く偸《かりそめ》にすることなからんや。朝《あした》ありて夕《ゆうべ》に及ばず、将《は》た安《いずく》んぞ善を樹《た》つるを用いん。
  人生幾何、誰能無偸、朝不及夕、將安用樹善(襄公三十年)
 「人の一生は知れたもの。その短い一生では、誰だってその場しのぎのことだけをするものなのよ。朝あって夕方はもうあてにならぬ生命であるものを、何で遠い将来のために善をうえつけておく必要があろうぞ。」
という意味であって、そこには、生命のはかなさが人間一般の問題として捉えられており、かつ夕べをも保証できないと感ずる沈痛な歎きが見られる。孟孝伯は春秋時代も末期近くの、前六世紀ころの人、さきに引いた『詩経』の詩を旧説に従って仮に前八世紀ころのものとすれば、両者の間に二百年ほどのへだたりがある。
 降って前一世紀、前漢の中ごろの李陵が、匈奴に降伏せよと蘇武にすすめた言葉の中に、
  人生は朝露の如し、何ぞ久しく自《みずか》ら苦しむこと此《かく》の如きや。
(137)  人生如朝霧、何久自苦如此(『漢書』蘇建伝附武伝)
の語がある。「人生は朝露の如し」は、今でこそ常套語になっていて、殆んど感動を伴わないが、二千年の昔、匈奴の地で、この語をはじめて使った李陵は、深い歎きをこめていったに違いない。
 李陵より三、四十年後の楊※[立心偏+軍]《よううん》が缶《ほとざ》をうちつつ歌ったという詩の中にいう、
 
  人生は行楽せんのみ
  富貴を須《ま》つも何れの時ぞ
 
  人生行樂耳
  須富貴何時      (『漢書』楊敞伝附※[立心偏+軍]伝)
 
 富貴の境遇、それは確かに行楽をほしいままにし得る境遇であるが、そういう身分になることをまちうけたとて、いつのことかわからない。はかない人生で、そんなものをあてにせず、その日その日を行楽して一生を過ごそう、というのである。
 この、生命ははかないが故に、ただ楽しんで一生を送るがよいという趣旨を、はじめて一篇の詩に歌いあげたものが、「古詩十九首」の中に二首ある。今その一首を引く、
 
(138)  生くる年は百にも満たざるに
  常に懐く 千歳の憂えを
  昼は短し夜の長きに苦しむ
  何ぞ燭を秉《と》りて遊ばざる
  楽しみを為《な》すこと当《まさ》に時の及《うち》にすべし
  何ぞ能《よ》く来らん茲《とし》を待たんや
  愚かなる者は費《ついえ》を愛惜《おし》みて
  ただ後の世にぞ嗤《わら》わるる
  仙人の王子喬《おうしきよう》は
  ともに期を等《ひと》しゅうす可からず
 
  生年不滿百
  常懷千歳憂
  昼短苦夜長
  何不秉燭遊
  爲樂當及時
  何能待來茲
  愚者愛惜費
  但爲後世嗤
  仙人王子喬
  難可與等期
 
 「人間は百歳までも生きられぬのに、いつも千年さきのことまで心配しておる。そんな馬鹿げたことはせずに、夜を日についで、その時その時のうちに楽しみをつくすがよい」というのである。「古詩十九首」は大体前後漢の間のものとされておるが、右の一首などは、楊※[立心偏+軍]の時代とそんなに隔たらない頃のものであろう。
(139) ところで、人生のはかなさを歎いて、その歎きから達する心境にはさまざまあり得ようが、楊※[立心偏+軍]の詩にしても、この古詩にしても、案外手軽に、快楽を貪ることによってその歎きを消そうという心境になっておるものの如くである。深い歎きに沈潜して、孤独の寂しさに堪えるとか、そこから刻刻の生の真の喜びを見出すとか、はかないが故に生そのものまで無意味に思うとか、というような深刻なところまでは、これらの詩はまだ行っていないようである。その点からいえば、さきに引いた『左伝』に見える孟孝伯の歎きにも及ばず、寧ろ、『詩経』の、
 
  蟋蟀《こおろぎ》は堂に在り
  歳ここにそれ莫《く》れん
  今にして我の楽しまずんば
  日月はそれ除《さ》らん
 
  蟋蟀在堂
  歳聿其莫
  今我不樂
  日月其除    (唐風、蟋蟀篇第一章)
 
といい、また、
 
(140)  今者《いま》にして楽しまずんば
  逝者《つきひ》はそれ亡《し》せしめん
 
  今者不樂
  逝者其亡       (秦風、車隣篇第三章)
 
といえる類と大差ないのではあるまいか。人生一般を大きな背景の裡《うち》に捉えて、深くそのはかなさを意識し、しみじみとそれを歎いた作品は晋代(三−五世紀)になってはじめて見られる。
 さて、人生を大きな背景の裡に捉えることは二つにわけて考えられる。その一つは、永久の時間の流れに浮かぶ人間を眺めることであり、もう一つは、無限なる宇宙の広がりの間に漂う人間を眺めることである。晋時代においてこの二つの立場からそれぞれ人間を眺めて人生のはかなさをしみじみと歎いた作品が出た。前者の立場からのものに陸機(三世紀)の「歎逝賦《たんせいふ》」があり、後者の立場からのものに王羲之(四世紀)の「蘭亭詩序」がある。
 まず陸機の「歎逝賦」について述べよう。この賦のはじめの部分にいう、
 
  伊《こ》れ天地の運《めぐ》り流るる
(141)  紛として升《のぼ》り降りて相襲《あいよ》る
  日は空《あまじ》を望んで駿《と》く駆《かけ》り
  節は虚《なかぞら》を循《めぐ》って警《おどろ》き立《くぎ》る
  ああ人生の短期なる
  孰《たれ》か長年を能く執《たも》たんや
  時は飄忽《たちまち》にしてそれ再びせず
  老は※[日+宛]晩《ゆうさ》りてそれ将《まさ》に及《いた》らんとす
 
  伊天地之運流
  紛升降而相襲
  日望空以駿驅
  節循虚而警立
  嗟人生之短期
  執長年之能執
  時瓢忽其不再
  老※[日+宛]晩其將及
 
 「日月は速かに運行し、時節は忽ちに推移する。この運行、この推移の裡にあって、ただ人間だけがどうして永久の生命を保たれようか」というのである。この背後には、人間の生命も万物変化の法則に支配せられねばならぬものだという考え方がひそんでおる。この次に四句を隔てて、更にいう、
 
  悲しいかな 川は水を閲《す》べて川を成すに
  水は滔滔《とうとう》として日《ひび》に度《すぎゆ》く
(142)  世は人を閲《す》べて世を為《な》すに
  人は冉冉《ゆきゆき》て行《つい》には暮《みまか》る
  人は何れの世としてか新たならざる
  世には何れの人としてか能く故《ふる》からんや
  野には春ごとにそれ必ず華《はなさ》き
  草には朝として露を遺《のこ》すことなし
 
  悲夫川閲水以成川
  水滔滔而日度
  世閲人而爲世
  人冉冉而行暮
  人何世而弗新
  世何人之能故
  野毎春其必華
  草無朝而遺露
 
 「川は多くの水の集合でできるが、個個の水は刻刻に過ぎ逝《ゆ》く。時代は多くの人間の集合でできるが、個個の人間は次次に死んでしまう。だから、どの時代でも人人が新らしくならざるはなく、どの人でもある時代に百歳二百歳と長生してはおられない。野には春ごとに新しい花が咲き、草におく露は一朝一朝のものでしかない」というのである。
 これは、川そのものの永久性、人間社会そのものの永続性を認めて、その構成分子たるもののはかなさを歎いたのである。だからさきに引いた、日月の運行、時節の推移を歎いた部分も、刻刻の時間だけについて、そのはかなさを歎いたのであって、実はその背後には時間の悠久性を認めてかかっているのである。「野には春ごとにそれ必ず華《はなさ》き、(143)……」で、花は春ごとに変るも、草木そのものには永久性のあることを認めて、それと、一朝ごとに消え去る露とを対照させておるところからも、そのことが知られよう。賦はつづく、
 
  終古《とこしえ》に経《わた》りて常に然れど
  品物を率《およそ》にみればそれ素《もと》の如し
  譬《たと》えば日及《むくげ》の条《えだ》にあるや
  恒《きま》つて尽《ぼば》めども悟《さと》らざるが如し
 
  經終古而常然
  率品物其如素
  譬日及之在條
  恒雖盡而弗悟
 
 「人間は次次といれかわり、花は春ごとに新に咲くというようなことは、永久につづくが、それは決して同一の物が千年万年生きつづけるのではない。がしかし、それらいろいろの種類の物を、全体的に見れば、いつも変らずもとのままに生きつづけておるかのように見える。それはあたかも、枝に咲いている木槿《むくげ》の花が、その一つ一つは、毎夕きまって萎んでおるのだけれども、木槿を全体的に見れば一向にわからぬようなものである。」
(144) 右に引いた四句の意味をくだいていえば、こんなことになるかと思う。
 このように陸機は、人間の生命を永遠につづく時間の流れの裡に諦観しておるのである。この「歎逝賦」は、その序文によれば、彼が四十歳のときの作であるとわかるが、かかる諦観を詠じた作品はこれが最初ではあるまいか。賦はまだまだ続く。しかし引用はここでうちきろう。
 さて、時間そのものは悠久であろうが、刻刻のとき〔二字傍点〕は忽ち消えてしまって決して再びは来ない。それは正しく、陸機自身が「短歌行」で、
 
  時は重ねて至ることなく
  華《はな》は再びは揚《ひら》かず
 
  時無重至
  華不再揚
 
と歌っておるとおりである。
 人間社会そのものは永久に続くであろうが、個人個人の生涯は速かに終ってしまって決して二度とはあり得ない。これまた彼れ自身、「挽歌」において、
 
(145)  人は往きて返る歳あれど
  我は行きて帰る年なし
 
  人往有返歳
  我行無歸年
 
と歎いておる如くである。「人」は生きておる人。「我」は死せる我。
 このように個人個人の生涯は決して二度とはあり得ないからには、人がこの世を去るということは、それは、永遠の自己消滅ではないか。何と寂しいことであろう。しかもこの寂しさは、めいめいのものであって、誰にどうしてもらうこともできないのである。
 こういうぎりぎりの寂しさが、陸機をして、さきに引いた「歎逝賦」の諸句を書かせたのであろう。
 では、陸機は、何によって、この寂しさから解放されようとしたか。そのことは賦の終りの部分に述べられているが、それを要約すれば、「よく造物の理を悟って、時の無常を当然のことと観じ、静かに生を養って、世の栄誉を忘れる」ということに帰するようである。
 人生のはかなさを、天地の無窮に対照して考えることは、既に後漢の張衡(二世紀)の作品に見えるが、それは荘子の思想を本として概念化された考え方であって、陸機の潜心(146)沈思した細かな歎きには程遠いものである。
 ここに附記しておきたいことがある。『子華子』の「神気篇」に「子華子曰、今世之士、其無幸歟、川閲水以成川、世閲人而爲世〔川閲〜傍点〕、河之下龍門也、疾如箭之脱筈、人壽幾何、而期以有待也」とあって、この傍点をつけた二句は、「歎逝賦」の句と全く同じい。もし現存の『子華子』が先秦のものであるならば、陸磯はその句を用いたことになり、かかる着想も表現も、陸機の独創ではないことになろう。しかし、『子華子』が、果して先秦のものならば、『文選』の「歎逝賦」注において、李善は必ずやそれを引証したはずである。しかるに李善はこれを引いていない。のみならず現存の『子華子』は、『四庫全書総目提要』に、後人の偽作ならんといっておる。かたがた陸機の句は、他から借用したのではないと見ておく。この附記は、清の張雲※[王+傲の旁]《ちよううんごう》の『選学膠言《せんがくこうげん》』巻八にある説に本づいたものである。
 つぎに、無限なる宇宙の広がりの間に漂う人間を眺めて、しみじみと人生のはかなさを味わった作品として、王羲之の「蘭亭詩序」をとりあげよう。
 
(147)     一四 王羲之
 
 「蘭亭詩序」は、東晋の永和九年(三五三)三月三日に、王羲之《おうぎし》が、内史すなわち長官であった会稽郡の、その山陰、今の浙江《せつこう》省紹興《しようこう》県、の西南にあった蘭亭に、名士四十余人を招いて、ともに禊《みそぎ》をし、曲水流觴《きよくすいりゆうしよう》の宴を催し、おのおの詩を作った際に、みずから作った序である。ここで、ちょっと三月三日の宴について説明しておこう。
 三月の第一の巳《み》の日、すなわち上巳《じようし》の日に、水浜に出て禊をして、一年中の不祥をはらう風習が古くからあった。それが、『宋書』の礼志二によれば、魏の頃から、巳の日にかかわらずに、三月の三日に行われることになったという。ところで、この行事が宴会を伴うようになったのである。例えば、『後漢書』の周挙伝に、「永和六年三月上巳の日に大将軍の梁商が、多くの賓客を招いて洛水の浜に宴会し、酣飲《かんいん》して歓を極め、酒は闌《たけなわ》にして倡は罷《や》んだとき、継ぐに薤露《かいろ》の歌を以てしたので、聞くもの皆ために涙を掩《おお》うた」とある。薤露の歌というのは、葬式のとき柩《ひつぎ》をひく人の歌うとむらいうたであるから、(148)梁商がこの席でそれを歌ったことを伝え聞いた周挙は、「場所がらを弁《わきま》えぬもの」と非難したとのことであるが(とむらいうたを宴席で歌った例は他にもある)、ともかく「酣飲して歓を極めた」とあるところを見れば、その日の行事は、禊よりもむしろ、宴会の方に中心があったのであろう。
 このような宴会がいつ頃からはじまって、どのように伝承されたかということは、別問題として、王魏之が永和九年三月三日に催した宴会は、曲りくねった水流の岸のところどころに客の坐が定められてあり、上流から流れてくる觴《さかずき》を受けて、順次に酒を飲みかつ詩を作るというやり方だったようである。これがいわゆる曲水流觴の宴である。この三月三日の宴に詩を作ることは、劉宋・南斉に見られるが、晋以前にはちょっと見当らない。或いは王魏之のこの時の催しが最初なのであろうか。
 さて本筋にかえって、その時作られた王魏之の「蘭亭詩序」は、唐の欧陽詢《おうようじゆん》らの『芸文類聚《げいもんるいじゆう》』巻四、唐の張彦遠《ちようげんえん》の『法書要録』巻十、及び『晋書』の王羲之伝などに載せられているが、別に王羲之の「臨河叙」と題する一文が『世説新語』の企羨《きせん》篇の注に引かれている。両者の内容を比較してみると、いずれも同一原文から出たもののようである。「臨河叙」は「蘭亭詩序」の約半分の長さしかないから、節略の度が多いことを知るが、(149)しかし、それには、今の「蘭亭詩序」には見えぬ記述が四十字ある。してみると、今の「蘭亭詩序」も原文のままではなくて、いくらか節略があるのかも知れない。
 もっとも『法書要録』巻三に載せられている唐の何延之の「蘭亭記」によれば、王羲之真蹟の「蘭亭詩序」は二十八行三百二十四字に書かれておるという。今の「蘭亭詩序」は三百二十五字あって、何延之のいうところと殆んど一致する。それを節略があろうと疑うのは、ちと乱暴なようでもあるが、しかし何延之のいう王羲之の書なるものを、誰か保証してくれない限り、こう疑うてみたところで、さまで無理ではあるまい。
 なおこの文は、はじめ「臨河叙」といい、後に「蘭亭詩序」または「蘭亭序」というようになったのであろう。『古文真宝後集』に、この「蘭亭詩序」をば「蘭亭記」と題して「記」の類にいれておるのは宜《よろ》しくない。
 さて、「蘭亭詩序」の要旨は、たのしみのはかなさを歎き、ひいては人生そのもののはかなさを歎くことにある。来会者の一人なる孫綽《そんしやく》が、同じくその時に作った序もまたほぼ同じ趣旨であるところを見ると、恐らく当日そのことについて語りあったのであろう。想像を逞しゅうすれば、何か人生問題について清談を交わした結果、こういうことに発展して行ったのかも知れない。『世説新語』の言語篇に、西晋の末頃、諸名士が洛水に至(150)って戯《あそ》び、清談をした記事があって、そこの注に引ける竹林七賢論によれば、それは禊をしたときのことらしく解せられる。すれば、王羲之らが、この時、清談をしたと想像しても全く根拠のないことではない
 王羲之はみずから漢の陸賈《りくか》・班嗣《はんし》・楊王孫の処世態度をその理想とすると、謝万にやった手紙の中でいっておる。
 陸賈は前漢の高祖の功臣であるが、つぎの恵帝のとき、身の危険を感ずるや、直ちに家居して自適の生活をした人であり、班嗣は前漢の班彪《はんぴよう》の従兄で、老荘の術を貴び、常に山居した人であり、また楊王孫は前漢の人で、黄老の術を学び、遺言して裸葬させたことで有名である。そして三人とも天寿を完《まつと》うしておる。恐らくこの三人の名利に淡泊な態度を、王羲之は範としたのであろう。
 ところが、この三人ともに、なるほど名利は避けたけれども、その物質生活は概《おおむ》ね豊かで平和なものであったらしく、さして深い精神的苦悩をもっていたとも思われない。だから彼らは黄老、或いは老荘の思想を学んだにしても、それは殆んど、俗世と隔絶するという生活形式において利用しただけのことで、その精神生活を深め高めるという点においでは、どれだけ役にたたせ得たものか頗《すこぶ》る疑問である。
(151) されば、班嗣が、桓譚《かんたん》から老荘の書の借用を申込まれた時、それを拒絶し、「何ぞ大道を以て、偽りて自らを眩曜《げんよう》せんとするや」といって、その老荘の学を見せかけの用に供しようとする態度を非難したと、『漢書』の叙伝に見えるけれども、かくいった班嗣自身にしたところで、単に「蕩然として志を肆《ほしいまま》にする」生活のいいわけとして、老荘を弄《もてあそ》んでいたのではあるまいか。
 しかもこのことは、ただに班嗣や楊王孫らだけに止まらず、一般に漢魏の老荘臭味者は、極めて特殊の人を除いて、老荘的思想をば、ほぼこの程度に理解し、利用していたに過ぎなかったのではなかろうかと思う。というのは、漢魏の作者で、如何にもやすやすと老荘的言辞をその作品に羅列しておるのがあって、それらは、老荘的思想をただ概念の遊戯として鵜呑みにしていたに過ぎないのではないかと疑われるからである。
 ところがそれらに比べると、王羲之の精神生活は、真に身につけた老荘思想によって深められ、却って老荘思想を超克しておるかの観がある。そしてその超克せる心境から、彼の人生についての歎きが涌《わ》き出たのである。これを「蘭亭詩序」において見てゆこう。まずその中ほどの一節を引く、
 
  夫《そ》れ人の相与《あいとも》に一世に俯仰《ふぎよう》する、……趣舎は万殊にして、静躁は同じからざれども、(152)その遇《あ》う所に欣《よろこ》ぶに当っては、※[斬/足]《しばら》く己に得て、快然としで自《みずか》ら足り、曾《まつた》く老の将《まさ》に至らんとするを知らず。その之《ゆ》く所の既に倦《う》むに及んでは、情は事に随《したが》つて遷《うつ》り、感慨これに係る。向《さき》の欣《よろこ》びし所、俛仰《つか》の間《ま》にして、已《すで》に陳迹《ちんせき》と為《な》る。なおこれを以て懐《おもい》を興さざる能《あた》わず。
  夫人之相與俯仰一世、……雖趣舎萬殊、静躁不同、當其欣於所遇、※[斬/足]得於己、快然自足、曾不知老之將至、及其所之既倦、情隨事遷、感慨係之矣、向之所欣、俛仰之間、已爲陳述、猶不能不以之興懷
 この「者の将《まさ》に至らんとするを知らず」とは、人生のはかなさを全く忘れておることをいったのである。人生のはかなさをすっかり忘れて楽しんでいたものが、既にしてその心が倦むや、情は変じて、やるせない感慨が涌く。そのやるせない感慨をかみしめれば、ほんの今まで楽しんでいたことが、もはや過去の彼方のものとなってしまったという、そのはかなさを歎くやるせなさ、つまりは楽しみのはかなさを歎くやるせなさにほかならない。
 王羲之のこの歎きは、魏の曹丕《そうひ》の
  楽しみ往きて哀しみ来り、愴然《みにし》みて懐《むね》を傷《いた》ましむ。
(153)  樂往哀來 愴然傷懷(与朝歌令呉質書)
 
  楽しみ極まりて哀情の来り
  寥亮《むな》しさに肝心を摧《くだ》く
 
  樂極哀情來
  寥亮摧肝心      (善哉行)
 
などと通ずるけれども、曹丕のひたすらなる感傷であるのに比べて、王羲之のはよほど知的思考を経た苦悶であるといえよう。
 ところで、楽しみのはかなさを自覚して生ずる感慨は、畢竟《ひつきよう》、老の将に至らんとすることを想起させる感慨であり、人生のはかなさを歎く感慨である。さればこそ序にはひきつづいて、
  況《いわ》んや修短も化に随いて、終《つい》に尽くるに期《とき》あるをや。古人の云う、死生もまた大なりと。豈《あ》に痛まざらんや。
  況修短隨化、終期於盡、古人云、死生亦大矣、豈不痛哉
といって、「向《さき》の欣《よろこ》びし所、俛仰《つか》の間《ま》にして、已《すで》に陳迹《ちんせき》と為《な》る」どころか、人間の生命そのものが、長短の差こそあれ、結局は死を約束されておるではないかと、まともから人(154)生のはかなさを痛んでおるのである。
 「古人の云う云々」は、『荘子』の徳充符篇に、
  仲尼の曰く、死生もまた大なり〔八字傍点〕。しかれどもこれがために変ぜしむるを得ず。
  仲尼曰、死生亦大矣、而不得與之變
とあるのを指す。『荘子』では、仲尼すなわち孔子が、王駘《おうたい》という人の心境を説明して、こういったことになっておるのであって、死生のことはもちろん大問題であるが、しかし王駘は、死生を一にしておるから、そんなことで彼の心を動かさせることはできない、というほどの意味のようである。けれども王羲之がこれを引用したのは、死生はもちろん大問題であるから深く心を動かさざるを得ない、という立場からである。
 この王羲之の、楽しみのはかなさから、人生のはかなさに及んだ感慨は、ちょっと見たところ、前漢の武帝の歎き、
 
  歓楽は極まりて哀情の多し
  少壮は幾《いくばく》の時ぞ老を奈何《いかに》せん
 
  歓樂極兮哀情多
  少牡幾時兮奈老何      (秋風辞)
 
(155)と同じようである。がしかし、武帝のは、歓楽をいつまでもつづけることのできない歎き、露骨にいえば、帝王の贅も死には克てないと感じた、その当座の歎きに過ぎないが、王羲之の方は、常に心中にわだかまる人生問題としての生死の苦悩の歎きなのである。
 ところでかくの如く「陳迹」に感慨し、「死生」に痛心せざるを得ないのは、是れすなわち、どうしても「死生を一にする」ことができないからである。そもそも「死生を一にし」「彭殤《ほうしよう》を斉《ひと》しゅうする」(長命と短命とを同じに見なすこと。彭は八百歳まで生きたという仙人彭祖の名から転じたもの。殤はわかじに。『荘子』の斉物論《せいぶつろん》篇に「天下に秋毫《しゆうごう》の末より大なるはなくして泰山を小となし、殤子より寿なるはなくして彭祖を夭となす」とある)という意味のことは、荘子がまずこれを唱え、その後、晋の頃、清談者が好んで口にしたところであって、そのさまを、王羲之より数十年前の葛洪《かつこう》は『抱朴子《ほうぼくし》』の勤求篇で、
  俗人は荘周に大夢の喩《たとえ》あるを見て、因って復《ま》た競うて共に死生を斉しゅうするの論を張る。
  俗人見莊周有大夢之喩、因復競共張齊死生之論
といっておるほどである。しかしそれら俗人どもの論は、あきらめきれぬ心の悩みを慰(156)めるための言いぐさか、或いは覚ったらしく見せかけようとする誇示の言に過ぎなかったのではなかろうか。人間としてほんとうに、死生を一にすることなどは、到底できるものではあるまい。こういう考えが序の次の文句となる。
  毎《つね》に昔人の興感の由を覚《み》るに、一契を合したるがごとし。未だ嘗《か》つて文に臨んで嗟悼《さとう》せずんばあらずして、これを懐《むね》に喩《ゆ》する能わず。固《まこと》に知る、死生を一にするとは虚誕《でたらめ》たり、彭殤を斉しゅうするとは妄作《みだりごと》たるを。
  毎覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喩之於懷、固知一死生爲虚誕、齊彭殤爲妄作
 「古人が創作をした気持も、今の我が気持と同じいのを知って、古人の作品を読みながら、人生のはかなさを感じ、悲歎の情でやりきれない。それで死生を一にするとか、彭と殤とを斉しゅうするとかいうことは、よいかげんのでたらめに過ぎないとわかる。」
 ざっとこのような意味であろう。この中の「不能喩之於懷」は、いいようもなく悲しくてたまらぬとか、わけもなく悲しくてたまらぬとかの意味であろうと思うが、確かでない。これとよく似た表現が王羲之の他の文にしばしば見える。
 右に引いた一節では 「固《まこと》に知る、死生を一にするとは虚誕《でたらめ》たり、彭殤を斉しゅうする(157)とは妄作《みだりごと》たるを」に注意しよう。
 もっとも、差別の世界を超越しきった老荘の思想が、差別の渦巻のなかに生きておる人間のせっぱっまった悩みを救うには、何の役にも立たない、という考え方は、王羲之のこの文にはじめて見えるのではない。王羲之のこの文よりも四十年ばかり前に書かれた劉※[王+昆]《りゆうこん》の「答盧※[言+甚]書」にすでにそれが見られる。すなわち、劉※[王+昆]は、国は破れ家は亡び、知友また或いは難にあい、或いは離別したがために、憤りと哀しみの情にたえがたいことを述べ、そして、
  然る後に、※[耳+冉]周《たんしゆう》の虚誕たり、嗣宗《しそう》の妄作たるを知りぬ。
  然後知※[耳+冉]周之爲虚誕、嗣宗之爲妄作也
といっておるのである。「※[耳+冉]周」とは老※[耳+冉]すなわち老子と、荘周すなわち荘子とであり、「嗣宗」とは竹林の七賢の一人なる阮籍《げんせき》の字であるが、老子・荘子・阮籍の言行はでたらめであり、みだりごとであって、今現に自分の胸中にわだかまる深刻な悩みに対しては何の救いにもならないと劉※[王+昆]は考えたのである(八八頁参照)。
 王羲之のこの「固に知る、死生を一にするとは虚誕たり、彭殤を斉しゅうするとは妄作たるを」の考え方は、劉※[王+昆]の考え方とほぼ同じいのみならず、表現までも二者相似て(158)いる。恐らく王羲之は劉※[王+昆]のあの文章を読んでいたのであろう。
 しからば、劉※[王+昆]の考えと王羲之の考えとは全く同じ性質のものかというに、必ずしもそうではない。
 劉※[王+昆]の考えは、国家破亡という大変動に直面して触発された、堪え難い憤激と哀愁との情に苦悶するの余り、考え及んだものであって、そういう状態の下に置かれた人ならば、誰しもそう考え得る可能性のあるものである。これに対して王羲之の考えは、春日和暢《しゆんじつわちよう》の下に展開されている名山水の佳景を眺めることにより、そぞろに涌き出て来たいいしれぬ哀愁の情がきっかけとなって、平素から抱懐していた疑惑がくっきりよみがえって来たものである。これは、同一の佳景を眺めた人ならば誰でもそう考え得るという性質のものではない。
 更にまた、劉※[王+昆]の方は、興亡・生死・離合、ひっくるめていえば人間生活のはかなさ、そういうことに対する哀愁、これが一つ。もう一つは、破壊、もっと身近かにいえば己の適意の生活の破壊、そういうことに対する憤激。この二つが混じたところから考え及んだのであるが、王羲之の方は、興亡・生死・離合を歎かざるを得なくさせる、その根源的なもの、すなわち生死という問題に、考えがしぼられている。
(159) 要するに、劉※[王+昆]のは主として激情的な悩みから来ておるのに対して、王羲之のは主として沈思的な悶えから来ておるのであって、そこに王羲之の考え方の執拗ともいうべき深刻さがあるといえよう。
 少しわきみちにそれるが、死生を一にするという老荘的な考え方に対する疑惑は、劉※[王+昆]や王羲之とは違ったゆき方でもなされ得る。例えば唐の李白にその一つを見る。李白の「月下独酌《げつかのどくしやく》」のその三にいう、
 
  窮通と修短とは
  造化より夙《つと》に稟《う》けしところ
  一樽にて死生を斉《ひと》しゅうす
  万事もとより審《つまびら》かにし難し
 
  窮通輿修短
  造化夙所稟
  一得齊死生
  萬事固難審
 
 これはあらまし次のような意味であろう。
 不遇だとか成功だとか、また長命だとか短命だとか、そんなことは、生れる前に造化からうけて来ておるのでどうにもならないのだ。一体、人生の万事もとよりその真相の(160)わかるものではない。だからくよくよせずに、一樽の酒で酔っぱらうに限る。人間にとって最も大きな問題である生死のことさえ酔っておれば、全く同視できて愉快この上もない。
 李白の詩のこの意味をもっとつきつめれば、老荘の言などは空論に過ぎず、生死超越の実際は酔境にのみあるということになろう。
 つまりこれは、老荘の考え方に対する疑惑であり、否定でさえある。いわば李白は、正面から取り組むことをやめて、肩すかしをくわしたのである。こういう態度と比べて見ると、劉※[王+昆]や王羲之は、まじめに正面から取り組んで悩んだものといえよう。
 なお、蘭亭の会で作られた謝安の詩に、
 
  万殊も一象に混ず
  安《いずく》んぞまた彭殤を覚えん
 
  萬殊混一象
  安復覺彭殤
 
の句があったので、それで王羲之はそれに反対して「死生を一にするとは虚誕たり……」といったのであろうとの説が趙宋の葛立方《かつりつぽう》の『韻語陽秋』巻五にあるが、それは必ずし(161)もそうではあるまい。何故かといえば、『法書要録』巻十に載せてある王羲之の手紙の中に荘子を「誕謾《たんまん》」と評したものがあって、彼はしばしば荘子を批判していたらしいことが知られるからである。
 さて心の中にわだかまる右の如き王羲之の悩みを念頭に置いて、そして序の中程、実はさきに引いた三カ所の文のまえにあるのであるが、その一節をふりかえってみよう。
  是《こ》の日や、天は朗かにして気は清く、恵風《はるかぜ》は和暢《のどか》なり。仰いで宇宙の大なるを観、俯して品類の盛んなるを察するに、目を遊ばしめ懐《おもい》を騁《は》する所以《ゆえん》にして、以て視聴の娯《ここちしよさ》を極むるに足る。信《まこと》に楽しむべきなり。
  是日也、天朗氣清、惠風和陽、仰觀宇宙之大、俯察品類之盛、所以遊目騁懷、足以極視聽之娯、信可樂也
 これだけを一読したところでは、のどかな春日の眺望を楽しむ風流ごとの叙述、すなわち東坡《とうば》のいわゆる「造物者の無尽蔵」をたのしむ心を表わしたに過ぎないと解せられるであろう。
 がしかし、さきに述べた王羲之の心中の悩みを想起しつつ、更に「仰いで宇宙の大なるを観……」を味わってみると、必ずしも単なる、陽気な遊楽気分の発露だけではない(162)とわかる。というのは、宇宙の大と品類の盛とを特にとりあげておるのは、それと対照して、いかにも人間の微小なることを感じていたことを物語っておると思われるからである。これこそ、東坡のいわゆる「渺《びよう》たる滄海《そうかい》の一粟《いちぞく》」たる如き人間を、よしんば朧気《おぼろげ》ながらにしても、感じていたのであろう。
 だから右に引いた一節は、その裏面に、人間のはかなさについての哀愁が漂っておるといわなければならない。王羲之の「会稽王に与うるの牋《せん》」(与会稽王牋)の内に、
  今|欣《よろこ》ぶべきの会ありと雖《いえど》も、内これを己に求むれば、憂うるところは乃《すなわ》ち欣ぶところよりも重し。
  今雖有可欣之會、内求諸己、而所憂乃重於所欣
という句がある。これは時事についていえるものではあるが、その景物を賞するに際しても、恐らく、こういう態度であったであろう。
 果してしからば、「信《まこと》に楽しむべきなり」の一句も、この天与の景物を存分に楽しめという表面の意味の裏に、はかなき一生故にこの一刻をよくよくかみしめて味わい楽しめという意味がこめられておると見なくてはならない。そして、この裏面にこめられた意味こそが、やがて序の「夫れ人の相与《あいとも》に一世に俯仰《ふぎよう》する……」以下において表面に出て(163)来るのである。この時に作られた彼《か》の「仰いで碧天の際を視《み》、俯して※[さんずい+碌の旁]水《ろくすい》の浜を瞰《みおろす》す」にはじまる詩も、右に引いた一節とほぼ同じ趣旨である。
 もっとも、人間を広大なる宇宙の裡において眺める、その眺め方は王羲之とほぼ同時の羅含の『更生論』に引ける向生《しようせい》の言に、
  天とは何ぞ、万物の総名なり。人とは何ぞ、天中の一物なり。
  天者何、萬物之總名、人者何、天中之一物
とあり、また戴逵《たいき》の『釈疑論』に、
  夫《そ》れ天地の玄遠、陰陽の広大を以てして、人の其の中に在るは、豈《あ》に唯に※[禾+弟]米《のびえ》の太倉に在り、毫末の馬体におけるのみならんや。
  夫以天地之玄遠、陰陽之廣大、人在其中、豈唯※[禾+弟]米之在太倉、毫末之于馬體哉
といえる中などにも見られるけれども、これらは理窟の上からのことであって、それによって人間の微小なることを歎いたのではない。
 右は、「蘭亭詩序」を通じて、王羲之の人生のはかなさについての歎きを見たのであるが、人生のはかなさを歎く心は、すなわち死を思う憂愁に通ずる。
 一体、死という自然律は、生きたいという人間の欲望を拒否するものである。人がこ(164)の死という自然律の拒否にあう際には、その周囲の人人もこ、れをどうすることもできない。それは結局その当人が周囲から拒否せられたのと同じことである。だから死を思う憂愁とは、やがてはこの世を去り行く自己を、すべての人人から切り離して眺めることにほかならない。自己だけを周囲から切り離して眺めることはすなわち孤独感に浸ることである。してみれば、「蘭亭詩序」の表面には孤独感を打ち出した文字こそないが、その裏面には孤独感が全篇に漲《みなぎ》っているとも言い得るであろう。
 さて以上、屈原から王羲之に至るまでの作品を通して知られる孤独感を、境遇からおこるものと、生命のはかなさからおこるものとの、二つに分けて見て来たのであるが、この二つの孤独感をしみじみと味わって、巧みに歌いあげた詩人が出た。それは晋の陶淵明である。
 
(165)     一五 陶淵明
 
 陶淵明(四−五世紀)は東晋の中頃から劉宋の初めにかけての人であって、その中年以後は社会不安が一層激しくなり、策謀家の暗躍する、虚偽の多い時代に当っていた。彼は天性閑適を好んだが、特に、当時の策謀の多い虚偽に充ちた社会を嫌い、また常に人生のはかなさを感じていたもののようである。
 淵明の詩は殆んど皆そういう孤独なる生活からにじみ出たものであるともいえるが、その孤独感の見られる作品は、主として、社会と調和できないがために涌《わ》いた孤独感を湛《たた》えたものと、主として、人生のはかなさを歎くがために涌いた孤独感を湛えたものとの、二つに一応わけて見ることができる。
 まず、社会と調和できないがために涌いた孤独感について述べよう。「雑詩」のその八にいう、
 
(166)  代耕《やくにん》は本《もと》より望みにあらず
  業とする所は田桑にあり
 
  躬親《みずか》らは未だ曾《かつ》て替《おこた》らざるに
  寒《こご》え餒《う》えて常に糟《かす》と糠《ぬか》のみ
  豈《あ》に満腹より過《うえ》を期《のぞ》まんや
  但《わずか》に粳糧《めし》にて飽《はらふく》らさんと願う
 
  冬を御《ふせ》ぐは大布《あらぬの》にて足り
  ※[鹿三つ]《あら》き※[糸+希]《あさ》もて陽《なつ》に応《あた》らん
  正《た》だ爾《それ》だけをすら得る能わず
  哀しいかなまた傷ましき
 
  代耕本非望
  所業在田桑
 
  躬親未曾替
  寒餒常糟糠
  豈期過満腹
  但願飽粳糧
 
  御冬足大布
  ※[鹿三つ]※[糸+希]以應陽
  正爾不能得
  哀哉亦可傷
 
 精いっぱい耕作や養蚕にはげむのに、それにもかかわらず衣にも食にも常にことかくのを歎いたのである。「代耕」は、『孟子』の万章篇下に「禄は以てその耕に代うる〔五字傍点〕に足(167)る」とあり、『礼記《らいき》』の王制篇にもほぼ同じことがあるところからできた語で、俸給とりをいう。
 どうしてこんな窮乏生活をすることになったのか。詩はつづけていう、
 
  人はみな尽《ことごと》く宜《よろ》しきを獲《え》たるに
  生《よすぎ》に拙《つたな》くして其の方《すべ》を失《あやま》りつ
  理なり 奈何《いかに》すべき
  且《とま》れ一觴《ひとつき》に陶《うつらよ》うをせん
 
  人皆盡獲宜
  拙生失其方
  理也可奈何
  且爲陶一觴
 
 窮乏生活をせねはならぬのは、他の人人は皆うまくやっておるのに、自分だけはよすぎが下手でそのやり方を誤ったからだと歎くのである。この「拙」の字は、巧拙の拙で、下手なことを意味するとともに、また「園田の居に帰りて」(帰園田居)の、
 
  荒《あれち》を開く 南野の際《きわ》
  拙を守る 園田に帰りて
 
  開荒南野際
  守拙歸園田
 
(168)に見る如き「守拙」の拙でもあって、淳樸《じゆんぼく》を意味し、機巧の反対を表わす。
 そこで、この「生《よすぎ》に拙《つたな》くして」は表面では、世渡りの下手なことをいっておるのであって、淵明は、そういう自己を打眺めて自嘲しておるのであるが、しかし世渡りが下手だということは、実は、世渡りの巧みな人人の立場から見てのことであって、当の淵明自身においては、それは機巧のない、淳樸な態度なのである。従って「生に拙くして」は、自分の機巧のなさ、淳樸さ、を表わしておることにもなるのである。それで世渡りが下手だと自嘲する淵明の心の中には、一面その磯巧を絶した淳樸さを自負する気持がひそんでいたであろう。
 ところで「生に拙くしてその方《すべ》を失《あやま》った」からには、考えてみれば、窮乏生活をするのも理の当然である。理の当然であるからにはどうしようもないこと。とまれ一杯かたむけてよい気特になろう――というのが終りの二句「理なり 奈何《いかに》すべき、且《とま》れ一觴《ひとつき》に陶《うつらよ》うをせん」の意味である。
 このように淵明は自嘲し諦念して、世俗と調和できない自己を凝視しておるのである。
 後漢の張仲蔚《ちようちゆううつ》は、隠れて仕えずして交友を絶ち、善く文を作り詩賦を好み、常に貧窮(169)に安んじて、屋敷には雑草が茂って人を没するほどであったという。ことは西晋の皇甫謐《こうほひつ》の高士伝に見えるが、淵明の「貧士を詠ず」(詠貧士)の、その六は、この張仲蔚を主題とせるものである。その詩のはじめの六句に張仲蔚の孤独なる生活をのべ、その次に、
 
  此の士は胡《なんす》れぞ独り然る
  実《げ》に同じゅうする所《ひと》の罕《な》きに由る
  介焉《ひとりだち》にてその業に安んじ
  楽しむ所は窮通にあらず
 
  此士胡獨然
  實由罕所同
  介焉安其業
  所樂非窮通
 
といって、世俗と隔絶し、窮通を問題とせぬ張仲蔚の心境に同感の意を表しておる。そして最後に淵明自身の心境をのべて左の如くいう、
 
  人事《よわたり》の固《まこと》にも拙《つたな》ければ
  聊《ねが》わくは長《とこし》えに相従うを得ん
 
  人事固以拙
  聯得長相從
 
(170) 世人と調子を合わせて、うまくつきあってゆくには、己をまげることも必要であり、てくだを弄することも避けられない。そんなことのできぬ身は、張仲蔚にあやかって暮らしたいというのである。
 こういうふうに、世間と調和のできなかったことは、淵明みずからもその性格として認めていたのであって、
  性は剛に才は拙にして、物と多く忤《さか》う。
  性剛才拙、與物多忤(与子儼等※[足+疏の旁])
とはっきりと言い放っておるほどであるが、何故に調和できなかったかといえば、機巧が多く虚偽に充ちた社会に反撥を感じたからである。そのことは、
 
  道は喪《ほろ》びて千歳に向《なんなん》とす
  道喪向千歳       (飲酒、其三)
 
  世俗は久しく相欺けり
  世俗久相欺       (飲酒、其十二)
 
  世を挙げて真に復《かえ》ること少し
  擧世少復眞(171)     (飲酒、其二十)
 
などの句が、おのずから物語っておる。「真」は、『荘子』にしばしば見え、淵明もまたしばしば用いておるが、人間のあらゆる作為とすべての拘束を脱した、自然のままの淳樸な世界、または心境、極端にいえば、私利を絶した世界または心境を指すものの如くである。
 つぎにこっにわけた後者、すなわち人生のはかなさを歎くことから涌いた孤独感の湛えておる例としては、「己酉《きゆう》歳九月九日」の中に、
 
  古《いにしえ》より皆|没《ほろ》ぶることあり
  これを念《おも》いて中心《むなそこ》は焦《こ》がさる
 
  從古皆有没
  念之中心焦
 
 死を念えば「中心が焦がされる」のは何故であるか。死は永遠の自己消滅であり、永遠の自己消滅は、自己一人をすべてのものより永遠に隔離することであるに因る。また「雑詩」その三にいう、
 
(172)  栄華は久しく居《お》り難く
  盛衰は量るべからず
  昔《きのう》まで三春の※[草がんむり/渠]《うきは》なりしに
  今《きよう》はしも秋の蓮房《はちす》となれる
 
  榮華難久居
  盛衰不可量
  昔爲三春※[草がんむり/渠]
  今作秋蓮房
 
  厳《きび》しき霜の野草に結ばれて
  枯れ悴《やつ》れつつも未《な》お遽央《つ》きせず
  日や月や還《めぐ》りて復《ま》た周《まわ》り
  我れ去らば再びは陽《ひて》らず
  眷眷《なつか》しや往昔《そのかみ》の時
  此れを憶《おも》えば人の腸《はらわた》を断《た》たしむ
 
  嚴霜結野草
  枯悴未遽央
  日月還復周
  我去不再陽
  眷眷往昔時
  憶此斷人腸
 
 野の草に厳しい霜がおくと、草は枯れやつれるが、しかし決して死なないで、やがて春ともなれば再び青青と茂る。にもかかわらず、日月のめぐるにつれて、自分が一度死ねば、決して生きてかえれない。そう思えば無性に寂しくなり、そぞろに若き日のこと(173)が想い出されて胸がはりさけそうだ――というのである。この胸のはりさける如き悲愁は誰に訴えようもないものであり、よしんば訴えたとしても、完全に理解してもらえるものではない。
 「形影神」と題する詩がある。形すなわちからだが、影すなわちかげばうしに向って、「人生ははかないものであるから、酒を飲んでその憂愁を忘れるがよい」という。影はそれに対して「善を行うてこそ生を過すべきだ」と答える。形と影との問答を聞いていた神すなわち精神《たましい》が最後に出て、「酒を飲めば却って命をちぢめ、善を行うても誰も誉めてはくれない。ただ大化の中に漂うて運に任せておればよいのだ」と諭《さと》すというしくみになっているが、その内での形すなわちからだのことばに左の一節がある。
 
  奚《なん》ぞ覚《きづ》かれん一人の無《か》けしを
  親《やから》も識《とも》も豈《いかで》か相思《しぬ》ばんや
  ただ余《のこ》せり平生《そのかみ》の物
  目《まなこ》を挙ぐれは情《こころ》の悽※[さんずい+而]《いた》まる
 
  奚覺無一人
  親識豈相思
  但餘平生物
  擧目情悽※[さんずい+而]
 
(174) 人が死んだ当座こそ、他の人人も哀しみなつかしがってもくれるが、しばらくたつと、みんな忘れてしまって、一人ぐらい欠けても平気である。親戚や友人さえも思い出そうとはしない。残るは死者の用いていた品物だけ。それを見てわが(形)情が悲しくなる――これは、兼好法師の、
  思ひ出《い》でて、忍ぶ人あらむ程こそあらめ、其も又程無く亡《う》せて、聞き伝ふるばかりの末末は、あはれとやは思ふ。
といえるのと似ておるが、かかる考え方の根柢には、自己の永遠の消滅を寂《さび》しむ情がみなぎっておるのである。
 自分が、やがては孤影悄然として、この世におさらばを告げねばならぬのであることを痛切に感じた時、人間のとる生活態度は、およそ二つにわかれる。その一は人生ははかないが故にこそ、刻刻を能う限り有意義に暮らそうとするものであり、その二は、人生ははかないが故に、刻刻を能う限り本能の満足に充てようとするものである。前者は肯定的、積極的態度であり、後者は否定的、消極的態度である。さきに述べた漢の「古詩十九首」などに見える態度は後者に属するものであるが、これに対して、淵明の左の二つの詩に見える態度は前者に属するものである。
 
(175)  憶《おも》う 我れ少壮《わか》かりし時
  楽しみ無きに自《みずか》ら欣予《よろこ》び
  猛《たけ》き志は四海に逸《はや》りて
  ※[隔の旁+羽]《つばさ》を※[蹇の足が鳥]《あ》げつ遠く※[者/羽]《と》ばんと思《ねが》いしを
 
  憶我少壯時
  無樂自欣豫
  猛志逸四海
  ※[蹇の足が鳥]※[隔の旁+羽]思遠※[者/羽]
 
  荏苒《いつしか》に歳月は頽《くず》れて
  此の心は稍《やや》已に去り
  歓びに値《あ》うも復《ま》た娯しさなく
  毎毎《ことごと》に憂慮《ものおもい》の多し
 
  荏苒歳月頽
  此心稍已去
  値歡無復娯
  毎毎多憂慮
 
  気力は漸く衰損して
  転《うた》た覚ゆ 日《ひぴ》に如《し》かざるを
  壑舟《かくしゆう》は須臾《たゆと》うなく
  我を引いて住《とど》まるを得ざらしむ
 
  氣力漸衰損
  轉覺日不如
  壑舟無須臾
  引我不得住
 
(176)  前塗は当《は》た幾許《いくばく》ぞ
  未だ知らず 止泊の処を
  古人は寸陰を惜しめり
  此れを念《おも》えば人をして懼《おそ》れしむ
 
  前塗當幾許
  未知止泊處
  古人惜寸陰
  念此使人懼    (雑詩、其五)
 
 「壑舟」は『荘子』の大宗師篇の文に本づいた語で、もと壑《たに》に蔵《かく》せる舟の意味であるが、ここでは、気づかぬうちに過ぎ去る時を意味するようである。淵明の曾祖父の侃《かん》は、西晋の大司馬にまでなった人であるが、常にいった言葉に、
  大禹《たいう》は聖人なるも、猶《な》お寸陰を惜しめり。凡俗に至っては、当《まさ》に分陰を惜しむべし。
  大禹聖人、猶惜寸陰、至於凡俗、當惜分陰(『世説新語』文学篇注引晋陽秋)
というのがある。この詩の「古人は寸陰を惜しめり」は、恐らく侃の教を承けついだものであろうが、それを念うて懼然《くぜん》たらざるを得なかったのは、刻刻を有意義に暮さねばならぬという自覚を持っていたからである。
 
(177)  人の生《いのち》には根蔕《ねもと》なく
  飄《ただよ》うこと陌上《みちのべ》の塵の如し
  分散して風を逐《お》うて転ず
  此れ已《すで》に常《とわ》の身に非ず
 
  人生無根蔕
  飄如陌上塵
  分散逐風轉
  此已非常身
 
  地に落ちては兄弟《はらから》なり
  何ぞ骨肉の親のみに必《かぎ》らんや
  歓《かん》を得ては当に楽しみを作《な》すべし
  斗酒もて比隣《となり》を聚《あつ》めん
 
  落地爲兄弟
  何必骨肉親
  待歡當作樂
  斗酒聚比隣
 
  盛年は重ねて来らず
  一日は再び晨《あした》なり難し
  時の及《うち》にぞ勉励《はげ》むべき
  歳月は人を待たず
 
  盛年不重来
  一日難再晨
  及時當勉勵
  歳月不待人    (雑詩、其一)
 
(178) この終りの四句は昔、小学校や中学校の教科書に載せられて、「なまけるな、勉強せよ」というお説教の材料に、よく使われたものであるが、実は必ずしもそういう狭く、堅苦しい意味ではなく、もっと広く、ゆとりをもった意味である。そのことは、この句の前に「歓《かん》を得ては当に楽しみを作《な》すべし、斗酒もて比隣《となり》を聚《あつ》めん」といえるにて知られる。かといって、「若い時は二度ない。それ飲めや騒げや」というような、なげやりな享楽を謳歌したものでは、勿論《もちろん》ない。
 そもそも無常といい、はかないということは、何も生命の消滅だけを意味するのではなく、一刻一刻が、忽ちに過ぎ去って、未来永劫《みらいえいごう》、決して帰って来るものではないということをも意味する。このことを、しかと意識せる人は、その時その時の行楽さえも、あだおろそかに逸し去らしめることはできないであろう。こういう気持が「時の及《うち》にぞ勉励《はげ》むべき」の句となったものと思う。「勉励」の語が、とかく学問とか、道徳とか、仕事とかをすぐ連想させるけれども、ここの用法は、行楽にはげめの意味である。勿論それは耽溺《たんでき》生活をせよというのではなく、時の無常を知って、それを取り逃がすなという、厳粛なひびきをもっておるのである。
 一刻一刻が、とりかえしのつかぬ、かけがえのないものであると知って、それを有意(179)義に過すことは、そのまま、とりかえしのつかぬ、かけがえのない一生を有意義に過すことになる。このことに気づけば、流転の相そのままに、すなおに受け容れようとする気持になることができよう。さきにも引いた「形影神」において、神すなわちたましいに、
 
  大化の中に縦浪《まかせただよ》い
  喜ばずまた懼《おそ》れざれ
  尽《つ》くべくんば便《きまま》に尽きしむべし
  復《ま》た独り多慮《おもいずすろ》うなかれ
 
  縱浪大化中
  不喜亦不懼
  應盡便須盡
  無復獨多慮
 
といわせており、また「歳暮《さいぼ》、張常侍に和す」(歳暮和張常侍)と題する詩において、
 
  窮通に慮《わずろ》う攸《こと》なく
  ※[焦+頁]※[卒+頁]《しようすい》は化遷《うつろい》の由《まま》にせん
 
  窮通靡攸慮
  ※[焦+頁]※[卒+頁]由化遷
 
(180)といえるなどは、こういう気持を歌ったものであろう。殊に「飲酒」その十一に、
 
  千金の躯《からだ》を客養《かくよう》し
  化《か》に臨んで其の宝を消《しよう》せん
 
  客養千金躯
  臨化消其寶
 
といえるには、流るるがままの刻刻のからだをそのままに貴んで、やがて来る死をもすなおに受け容れようとする気持がよく表われておる。
 およそ、人がある高い心境に達するということは、全く俗界と絶縁して、天上界の人となってしまうということではなくて、俗界にありながら天人の呼吸をすることである。そしてその天人の呼吸も、天上界から空気を送ってもらうのではなくて、俗界の空気そのままを呼吸するのである。淵明が無常の歎きから、「尽《つ》くべくんば便《きまま》に尽きしむべし」という心境に達したとても、もはや「奚《なん》ぞ覚《きづ》かれん一人の無《か》けしを」という寂しさが無くなったわけでもなく、「これを念《おも》いて中心《むなそこ》は焦《こ》がさる」という悩みからすっかり解放されたわけでもない。寂しさは寂しさとして、悩みは悩みとして、味わいつづけながらに、またそれを超越して、自己の苦悩そのものまでも、おおろかに諦観する境地に、達した(181)までである。だから、その境地に達したと思われる後にも、やはり寂しさや悩みを歌った詩を詠《よ》んでいても、それは決して矛盾でもなく、撞著でもない。もし寂しさもなく、悩みもなくなってしまえば、そこにはもはや諦観も成り立たねば、悟覚もあり得ないであろう。
 淵明のこうしたすなおに死を受け容れようとする気持は、理論的にいえば、さきに述べた、陸機の「歎逝賦」の終りの部分に見える趣旨とほぼ同じことであるが、陸機のは抽象的な考え方に傾いていたのに対して、淵明のは具体的体験的の味わいがある。
 淵明の孤独感について、つぎに述べたいことは、自分の本領を守りつづけるところから涌く孤独感である。
 さきに、淵明の詩に見える孤独感を、社会と調和できないことから起ったものと、人生のはかなさを歎くことから起ったものとの二つに一応わけて述べたのであるが、これから述べるのは、社会と調和できないとか、人生の無常を感ずるとか、ということを本にしながらも、しかもむしろ、それらを超克して、ただあるがままの自分そのものが所詮ひとりぼっちだという自覚から生れたものについてである。そしてあるがままの自分そのものとは、淵明にあっては、その本領を守りつづける姿のことである。
(182) 「飲酒」その十六にいう、
 
  少年《わかき》より人事《よのつとめ》の罕《まれ》に
  游好《たのしみ》は六経《りくけい》に在り
  行く行く不惑《よそじ》に向《なんな》んとするに
  淹留《ひさしくとどま》りしも遂に成るなし
 
  少年罕人事
  游好在六經
  行行向不惑
  淹留遂無成
 
 学問に相当の年期をいれたが、いまだに、わが志は達せられそうもない。学問が却って身のあだとなったかとさえ思う。詩はつづく、
 
  竟《はて》には固窮《こきゆう》の節《せつ》を抱いて
  飢えと寒さと飽くまで更《な》めぬ
  敝《やぶ》れたる廬《いお》に悲しき風の交り
  荒《みだ》れたる草は前の庭を没《かく》せり
 
  竟抱固窮節
  飢寒飽所更
  敝廬交悲風
  荒草没前庭
 
(183) 学問に相当の年期をいれたものの、とどのつまりは固窮の節を抱いて貧乏生活をつづけるだけ。固窮とは困窮を固く守りつづけること。節は節操で、いまの信条と理想とをつきあわせたような意味。この固窮の節が、淵明の精神生活のささえとなっていたのである。詩は更につづく、
 
  褐《ぼろ》を披《き》て長夜《よなが》を守るに
  晨※[奚+隹]《くだかけ》は肯《あ》えで鳴かんともせず
  孟公の茲《ここ》にあらざれば
  終《なが》く以《ため》に吾が情《こころ》を翳《くも》らす
 
  披褐守長夜
  晨※[奚+隹]不肯鳴
  孟公不在茲
  終以翳吾情
 
 「孟公」は前漢の陳遵《ちんじゆん》が字《あざな》。酒を嗜《たしな》みて来客を喜び、客が来ると門を閉ざし、客の車のくさびをはずしてしまって、容易に帰さなかったという。『漢書』の游侠伝に見える。
 また「癸卯《みずのとう》の歳の十二月中に作る、従弟の敬遠に与う」(癸卯歳十二月中作、与従弟敬遠)と題する詩にいう、
 
(184)  跡《み》を寝《ひそ》めぬ 衡門《かぶきもん》の下《うち》に
  ※[しんにょう+貌]《ひとざととお》く世と相絶《さか》りつつ
  顧眄《かえりみ》すれど誰をか知らん
  荊扉《しばのと》は昼《まひる》も長《とこし》えに閇《おお》えり
 
  眞跡衡門下
  ※[しんにょう+貌]與世相絶
  顧眄莫誰知
  荊扉晝長閑
 
  凄凄《すさま》じ 歳暮の風
  翳翳《うすぐら》し 日に経《わた》る雪
  耳を傾《かし》ぐるに希《かそ》けき声も無きに
  目《まなこ》に在《い》るもの皓《しろ》くして潔《きよ》らなり
 
  凄凄歳暮風
  翳翳經日雪
  傾耳無希聲
  在目皓已潔
 
  勁《つよ》き気《つめたさ》は襟袖《ころも》を侵《とお》し
  箪《わりご》瓢《ひさご》は屡《しばし》ばの設《しつらい》を謝《いな》む
  蕭索《ものさび》しいかな 空《ひそけ》き宇《いえ》の中
  了《つい》に一つの悦ぶべきものなし
 
  勁氣侵襟袖
  箪瓢謝屡設
  蕭索空宇中
  了無一可悦
 
(185) 「箪」は竹であんだめしびつ。「瓢」には飲みものをいれる。孔子が弟子の顔回を賞して「一箪《いつたん》の食《し》、一瓢《いつぴよう》の飲《いん》、陋巷《ろうこう》に在り。人はその憂えに堪えざらんも、回やその楽しみを改めず」といつたと『論語』の雍也《ようや》篇にあるが、自分にはその一箪の食、一瓢の飲すら、ことかきがちだという気持。淵明の自叙伝ともいうべき「五柳先生伝」にも、「箪瓢は屡ば空しけれど晏如《あんじよ》たり」とある。「箪瓢謝屡設」は、食事にことかきがちなことを、わざと、箪や瓢がお膳だてをことわった、という表現にしたものと思う。詩はつづく、
 
  千載《そのかみ》の書《まき》を歴《つぎつぎ》に覧《ひら》き
  時時に見る 遺《のこ》されし烈《いさお》を
  高き操《みさお》は攀《およ》ぶ所《べき》に非ざれど
  謬《あやま》って得たり固窮の節
 
  歴覽千載書
  時時見遣烈
  高操非所攀
  謬得固窮節
 
 書物に見える古人の立派な節操にはとてもおよびもつかぬが、自分は自分なりに、がらにもなく「固窮の節」をみにつけておる。詩は更につづく、
(186)  平津《へいしん》に苟《いやし》くも由らざれば
  栖遅《やすろ》うも※[言+巨]《なん》ぞ拙《つたな》しとせん
  意《おもい》を寄す 一言の外《ほか》
  茲《こ》の契《まもり》を誰か能く別《みわ》けん
 
  平津苟不由
  栖遲※[言+巨]爲拙
  寄意一言外
  茲契誰能別
 
 「平津」は平津侯であった前漢の公孫弘を指す。多くの賢者の世話をした人であり、また曲学阿世《きよくがくあせい》、つまり人気とりのにせ学者と非難された人でもある。ことは『史記』『漢書』に見える。
 平津侯のような有力者にたよれば出世もしようが、自分は全くそれをしないから、こうした隠居生活も当然のことで、別によわたりが下手だなどとは思わぬ。こうした心中をこの詩にこめておくるが、われとわが心にちぎり守っておることは、君ならで誰にか見せん梅の花である。
 右にひいた二つの詩のうち、あとの方は明かに淵明三十九歳の作であり、はじめのもほぼそのころの作とされておる。この二詩ともに「固窮」の語を使っており、また他の詩にも、少くとももう二回は使っておる。この「固窮」ということが淵明の精神生活上(187)の信条となっていたらしい。よってここで少しく「固窮」の語義について穿鑿《せんさく》してみたい。
 「会《さと》ること有りて作る」(有会而作)と題する詩で、淵明は「固窮」と「斯濫」とを対させて使っておるから、これは明かに『論語』 の衛霊公《えいれいこう》篇にある「君子固窮〔二字傍点〕、小人窮斯濫〔二字傍点〕矣」によったものとわかる。とすれば、淵明の「固窮」の語はすべて『論語』から来たものと見てよいであろう。
 ところで『論語』の「固窮」を、古注すなわち魏の何晏《かあん》の『集解《しつかい》』は「固《もと》より窮す」の意味に解しており、新注すなわち趙宋の朱子《しゆし》の『集注《しつちゆう》』も、それをそのままとって、ただ「程子の曰く、固窮とは、固く其の窮を守るなりと。亦通ず」と附記するだけである。もしこの程子の説に従えば「固窮」は「窮に固《かた》くす」とでも読むことになるわけであるが、この説は行われず、普通は「固《もと》より窮す」と読んでおる。それで筆者も旧著『陶淵明詩訳注』(昭和二十六年、東門書房)には淵明の「固窮」を、一応「固より窮す」の意と解しておいた。がしかし、淵明の用法を吟味してみると、どうもそれではしっくりしないので、「淵明は、固窮を、困窮を固く守る〔七字傍点〕の意味に用いたのかも知れない」と、旧著(二五二頁)に附記しておいたのである。
(188) 「固窮」の語義についてこう迷い出すと、実は他にも疑わしい用例があるので、後漢の班彪《はんぴよう》の「北征賦」、晋の左思の「白髪賦」、及び葛洪《かつこう》の『抱朴子《ほうぼくし》』の詰鮑篇に見える「固窮」、それに時代は降るが『後漢書』の憑衍《ひようえん》伝、「顕志賦」下の唐の李賢注に用いてある「固窮」などがそれである。
 もっとも、古典の文章の一句から二字をきりとって一語となし、その一語に、原典の一句分の意味を含ませる手法は、文人、特に六朝《りくちよう》の文人のよくやることなので、そういう立場をも考慮して解すれば、右にあげた「北征賦」以下の用例も、何とかつじつまをあわせられぬことはない。がしかしどことなく、しっくりせず、これらも「困窮を固く守る〔四字傍点〕」の意味と見る方が、よりふさわしく感じられる。『抱朴子』の用例において特に然りである。
 もちろん、これらのばあい、程子の説を利用すれば、解義の上ではことなくおさまりそうなのではあるが、後世人の説を遡って利用するわけにもいかず、何か適切な『論語』の古説がないものかと心がけていたけれども、ついに無駄だった。
 ところが、清の劉宝楠の『論語正義』には、「固窮とは、窮するも当に固守すべきを言うなり」(固窮者、言窮當固守也)といって、程子説とほぼ同様に解し、かつ「尸子《しし》に曰(189)く、道を守り窮に固《かた》くすれば、王公を軽んず」(尸子曰、守道固窮〔二字傍点〕、則輕王公)と、それに『荀子《じゆんし》』 の宥坐《ゆうざ》篇の文とを引いて、その説の根拠としておる。
 劉宝楠は、かくして、「固窮」は当に「窮に固す」と読むべきことを証明したのである。なるほど『尸子』の文は「固より窮す」とはどうしても読めないから、確かによき傍証である。
 よって思うに、朱子の附記せる程子説は、或いは古来の一説の名残かも知れない。こう考えると、淵明が「固窮」を、「窮を固す」、または「窮に固す」、すなわち「困窮を固く守る」または「困窮に際しても固く守る」という意味で使ったということも、あり得るわけである。
 「固窮」の語義についてこのように穿鑿してみると、わが吉川幸次郎博士が、その著『陶淵明伝』において、「固窮節」をば、「窮《わび》しさを固くまもらんとの節《こころざし》」と、あざやかに訓訳しておられる(一〇三頁)その学識に深く敬服せざるを得ないのである。
 以上の如き次第で、「固窮」をば、「困窮を固く守る」または「困窮にも固く守る」という意味に、淵明は使ったものと今は見るのであるが、その何れにしても、くわしくいえば、困窮に屈しないで、自分の信念なり主義なりを守りつづけることである。これを(190)逆にいえば、困窮に堪えられないで信念なり主義なりをまげてしまうということをしないのである。淵明においての困窮は、おおむね貧窮を意味するが、主義信念をすてて世渡りをうまくやることによって、その貧窮は恐らくきりぬけられたであろう。しかしそれをしないのが「固窮」である。
 さてしからば淵明は、その「固窮の節」をいだいて、何ら心の動揺もなく、枯木死灰の如く平然として、窮乏に堪えつづけたのであろうか。
 もし彼が、果して枯木死灰の如く平然として過すことができたならば、恐らく「固窮の節」を歌った詩そのものすら、生まれなかったであろう。しかるに、事実、しばしば「固窮の節」を守る自己を歌わざるを得なかったことは、そういう信念をもって、餓えと凍えとに打ち克ってゆかねばならぬ、自己の姿をかえりみて、そこにいい知れぬ寂しさを感じたがためである。
 そういう寂しさが、右に挙げた二つの詩に強く現われておる。また、あとで孤独感の表現のしかたについて述べるところで引くつもりであるが、「清晨《あした》に門を叩くを聞き」の句にはじまる「飲酒」その九にも、守りぬこうとするものの孤独感がよく表われておる。
 「固窮の節」を守りつづけることは、広い意味での個性を、ありのままの姿で守りつ(191)づけることだともいえるであろう。ありのままの姿で屹然《きつぜん》と立つものの心から涌く孤独感は、周囲と調和できないとか、人生の無常を歎くとかから生れた孤独感とは、また別な気分をもつ寂しさを伴うものではあるまいか。そのことはさきに引いた詩の中の「竟《はて》には固窮の節を抱いて」、及び「謬《あやま》って得たり固窮の節」の句を、それぞれの詩の位置において深く味わってみれば、恐らくおのずからわかるであろう。
 そしてそれを味わって感得するわれわれの寂しさは、嶷然《ぎぜん》と聳《そび》え立つ山が、その山、本然の姿で立っておるという、そのこと自体のために、そこにはいいしれぬ寂しさが漂うているのを感ずるにも似ておるといえようか。
 つぎに淵明の孤独感の表現のしかたについて述べよう。それには二つの特色がある。その一は、自分の「影」をたびたび持ち出しておることであり、その二は、ことばでは表わし得ないといういい方をしておることである。
 自分の「影」を凝視してその孤独感を味わうことを歌った詩句については、既に前漢の厳忌《げんき》、後漢の蔡※[王+炎]《さいえん》、晋の左思のことを述べたところで触れておいた。またそのほかに、自分の「影」をその詩に取り入れたものは、唐の李白・杜甫の作品からも拾い出し得る。がしかし、如何にも深く自分の影に喰い込んで、それをいとおしみつくし、絶えず撫《な》で(192)さすっているような趣きの感ぜられるのは、陶淵明の作品に如《し》くはないであろう。
 
  言《かた》らんと欲すれど予《われ》に和するなし
  杯《さかずき》を揮《あ》げて孤影に勧む
 
  欲言無予和
  揮杯勸孤影    (雑詩、其二)
 
  偶《たまた》ま名酒を有《え》しかば、夕ごとに飲まざるはなし。影を顧みつつ独り尽《のみつく》し、忽焉《たちまち》にして復《ま》た酔う。
  偶有名酒、無不夕飲、顧影獨盡、忽焉復醉 (飲酒序)
  春服は既に成り、景物は斯《こ》れ和《なごや》ぐ。景と偶《なら》びて独り遊べば、欣《よろこ》び慨《なげ》き心《むね》に交《ゆきか》う。
  春服既成、景物斯和、偶景獨遊、欣慨交心 (時運序)
 この三つの作品は、作られた時に前後があって、一時の作ではないが、或いは 「杯をあげて己の影にすすめる」といい、或いは「己の影を顧みつつ盃を飲みつくす」といい、また「己の影と並んで遊び歩く」というのは、ある瞬間だけ影に目をとめたのではなく、何れも、ある時間継続して影を相手にしたことを意味しておる。これから推せば淵明は常に自分の影をただ一つの伴侶として生活していたらしく思われ、しかも、影を相手に(193)何か知ら、ぼそぼそと語り合っていたのではないかとさえ想像される。
 また、さきにも引いた「形影神」の詩は、全篇擬人法をとり、問答体で終始しておる、その構成の上からも注意すべき作品であるが、自己を形と影と神との三つにわけて客観的にしみじみと眺めておる点からも注意すべきものである。この詩において、影と形とは離れることのできない伴侶同志であることを、次の如く、影をして語らせておる。
 
  子《おんみ》と相遇うてよりこのかた
  末だ嘗《か》つて悲悦を異にせず
  蔭《ひかげ》に憩《いこ》えば暫し乖《はな》るるに若《に》るも
  日《ひなた》に止《とど》まれば終《いつまで》も別れず
 
  與子相遇來
  未嘗異悲悦
  憩蔭若暫乖
  止日終不別
 
 この影の言葉は、右の四句を含めて、十六句から成るのであるが、その結びの四句は、
 
  善を立てなば遺愛あらん
  胡為《なんすれ》ぞ自《みずか》ら竭《つ》くさざるや
 
  立善有遺愛
  胡爲不自竭
 
(194)  酒は能く憂いを消すと云わるも
  此れに方《くら》ぶれば※[言+巨]《なん》ぞ劣らざらん
 
  酒云能消憂
  方此※[言+巨]不劣
 
となっていて、善を行うことを主張しておる。この点いささか道徳的の影(六四頁参照)らしくなっておるけれども、これを詩の全体から見れば、淵明の他の影と同じく、やはり文学的の影であると解さなくてはならない。
 こういうふうに、淵明のその影に対する関心は甚だ深くて、それは、ある瞬間だけ、己の影にじっと見入るというのとは、かなり程度が違うようである。
 「我」をAとし、影を眺める「我」をA′とし、眺められる影をA″とすれば、影を眺めて慰められるということは、AからA′とA″とを分立させて、そのA′とA″とが仲よく語り合うのを、Aが満足に感ずることである。ただ一人おる人が大声で歌いつづけ、自分で自分の歌に聴きほれる心理状態を考えあわせてみれば、このことは一層明瞭にわかるであろう。
 筆者はある年の夏、出雲の立久恵峡《たちくえきよう》というところへいったことがある。そこは耶馬渓《やばけい》ほど豪快でもなく壮大でもないが、清流をはさんで両岸に壁立する岩山の面白さは、十(195)分賞観するに足るところであり、二、三軒の旅館があるだけで、民家は一軒もない山中の別天地である。
 筆者がそこに泊ったときは、たまたま他の客は一人もなく、全く俗塵を絶した静寂境そのものであった。ところが、朝のひととき、その静寂を破って一人の女中が、声高らかに歌いながら掃除をはじめたのである。その歌い方が、いかにもほれぼれと、みずから己の歌に聴き入っているというふうなので、山中に住む人の寂寥は、かくの如くして慰められるのかと、ほとほと感に堪えず、筆者もまたそれを聴きつづけたのであった。
 このばあい、その女をAとし、歌うときの女をA′、歌い放たれた歌をA″とすれば、Aは、A′とA″とを生んで、そのA′とA″とが仲よく融合しておるのに満足を感じたのである。
 山中に住む若い女の心境と、陶淵明の心境とが同じだというつもりで、このことを書いたのではない。淵明が影を相手として、自分の孤独を慰めたその心理状態を理解する手段として、引き合いに出したまでのことである。
 ところで淵明が、自分の影に深い関心をもって、常にこれを伴侶としていたことは、彼が常に孤独の寂寥を感じつづけていたことを物語るものであるが、この己の影をさえ相手としてその寂寥を慰めるということは、人間には「絶対的の孤独」は到底あり得な(196)いのではないかと、考えさせられる。
 つぎに淵明が、ことばでは表わし得ないという、いい方をしておることについて述べよう。
 人間は、思い余ることがあると、それを誰かに聞いてもらいたくなるものである。がしかし、たとえそれを誰かに話したところで、果して完全に、こちらの気持が、相手にわかってもらえるものであろうか。相手にわかってもらえないということは、その原因の一つは相手側の心の状態にもあるが、も一つの原因は話す方のことばの不完全さということにもある。ことばの不完全さとは、その話し主の上手下手ということではない。ことばそのもののもつ宿命なのである。この意味でことばは必ず虚偽を伴うものだともいえるであろう。その虚偽とは、たくらんだ虚偽ではなく、ことばのもつ宿命的な不完全性から生れる、やむを得ない虚偽である。
  言《かた》らんと欲すれど予《われ》に和するなし
  杯《さかずき》を揮《あ》げて孤影に勧む
 この句はさきにも引いたが、秋の夜長を眠られぬままに、独り物思いに耽るさまを歌ったものである。その物思いの内容は、この句につづけて、
 
(197)  日月は人を擲《す》てて去り
  志あるも騁《の》ぶるを獲《え》ず
  此れを念《おも》うて悲懐を懐き
  暁を終るまで静かなる能わず
 
  日月擲人去
  有志不獲騁
  念此懷悲悽
  終曉不能靜
 
と歌っておる、そのことであろう。もっともその「騁ぶるを獲ない志」とは具体的に何を意味しておるかはわからない。がしかし、そのことについて独り苦悩しつづけ、誰かに語りたい気持になったことは確かである。
 ところで、既に、語らんと欲しながらも、「予に和するなし」とあきらめてしまったのは何故であるか。夜中のことで、そこには誰もいないからというような単純な理由ではあるまい。よしんばそこに誰かいたとしても、恐らく語ることができなかったのであろう。
 「和するなし」の「和」とは、諧和・唱和・融和の和であって、それの成立するためには、両者の間に、完全に一致せる共通の境地がなくてはならない。だからこの「和」(198)を主として、こたえる〔四字傍点〕とか、相手になる〔五字傍点〕とかという意味で用いたにしても、その語の本質はどこまでもつきまとうのである。その点、同じくこたえる〔四字傍点〕意味とされる「答」――返答をする――とも違い、「応」――反応を示す――とも違う。してみれば、「予に和するなし」とは我の物思いを完全に理解してくれるものがないという意味でなくてはならない。
 ところで、完全に理解せられないのは、さきにも述べた如く、必ずしも相手だけの責任ではなく、語ろうとする側の責任でもある。その語ろうとする側の責任は、思いを寸分違わずに表出することのできないという、ことばの宿命的な不完全性・虚偽性にかかるのである。
 こうなると「言らんと欲して」しかもそれをやめた人は、他人との絶望的な無縁の立場におかれることになり、その心中には深い孤独感が涌くはずである。かかるやりきれない孤独感が涌いたればこそ、「杯を揮げて孤影に勧む」ることとはなったのである。
 この「言らんと欲すれど予に和するなし」の句は、淵明より約百年も前の人、西晋の張華の「雑詩」に、
 
(199)  枕に伏して遥昔《よなが》に終《わた》り
  寤《さ》めて言《かた》れど予《われ》に応《こた》うるなし
 
  伏枕終遙昔
  寤言莫予應
 
とあるのと同じ着想であって、恐らく淵明は張華に本づいたのであろう。いやこの句だけでなく、この句を含める詩一篇そのものが、張華のかの句を含める詩一篇に本づいたものであろう。けれども淵明のこの句と張華のかの句とを比較して味わえば、両者の心境には深浅のへだたりのあることがわかるのである。
 「飲酒」のその五は、例の有名な、
 
  菊を采《と》る 東籬《とうり》の下に
  悠然として南山を見る
 
  采菊東籬下
  悠然見南山
 
の句のある詩であるが、この句につづけていう、
 
  山気は日夕《ゆうべ》にして佳《よろ》しく
(200)  飛ぶ鳥は相与《うちつれ》て還る
  此の中にこそ真の意あれ
  弁ぜんと欲して已《すで》に言を忘る
 
  山氣日夕佳
  飛鳥相與還
  此中有眞意
  欲辨已忘言
 
 「此の中」の「此の」は夕空にひとしお美しい南山、その辺へ還る飛鳥の群をこめた景色(その景色に感動した心境といってもよいであろう。しかもその心境は、酒を飲んで陶然たる気持の上に成立したものである)、すなわち淵明が見たその時、その場の景色を、最も直接的、最も具体的に指し示したのである。そして、そうだ、「此の」中にこそ、かねがね抱懐していた「真」なることの意味が、具象的に示されておる、と気づいたのが「此の中にこそ真の意あれ」であろう。
 「弁ぜんと欲して已《すで》に言を忘る」の意味をさぐるために、少しくわき道にはいりたい。『荘子』の知北遊篇に大要つぎの如き一節がある。
  知が道について、無為謂《むいい》に質問したが答えてくれないので、つぎに狂屈に問うたところ、狂屈は、「※[口+矣]《よし》、予《われ》これを知れり、将《まさ》に若《なんじ》に語らんとす」といったものの、言わんと欲しながらも、途中で、その言わんと欲する所を忘れてしまった〔言わんと欲し〜傍点〕。
(201)  狂屈曰、※[口+矣]、予知之、将語若、中欲言而忘其所欲言 『荘子』の「言わんと欲して、その言わんと欲する所を忘る」とは、どんなことをいうつもりだったのかそれを忘れてしまったという意味で、本当に道を得ておる人は、それを説明することができないものだという趣意を表わしたものだと思う。そういったわけは、言葉で説明すれば、道はもはやくずれてしまうので、どうにも説明のしようがないからである。同じ知北遊篇で、黄帝が、知に教えたことばの中にある「本当に知っておる者は言うことができず、言うことのできる者は本当に知っておるのではない」(知者不言、言者不知)もそういう意味であり、また同じく知北遊農で無始が「道はかくかくのものだと言うことはできない、言うたときはもはや道ではなくなっている」(道不可言、言而非也)といったのも、その意味であろう。
 ここで本筋に帰る。淵明の「欲辨已忘言」は、右に述べた『荘子』の「欲言而忘其所欲言」と関係があるのではないか、もっと端的にいえば、淵明は『荘子』のこの句を想起しながらこういったのではないか、と思うのである。
 このように推定して、さて淵明の句の意味をさぐれば、「此の中にある真の意」を会得した淵明は、それを説明しようと思ったのである。そのことを「欲辨」といった。とこ(202)ろが「弁ぜんと欲して」おるうちに、もはや、言おうとしていたそのことがらをすっかり忘れてしまったというのが「已忘言」であろう。この「言を忘る」とは、いくら思いあぐんでも思い出せない忘れ方であって、つきつめていえば言葉では説明できないことをこういったまでである。何故説明できないかといえば、かくかくであるとあげつらえば、もはや「真の意」はくずれてしまって本物ではなくなるからである。かくて淵明は「真の意」をひとり胸にいだきながら、此の景に見入るのである。
 この「言を忘る」すなわち、言葉では述べられないと意識したことは、これを裏返しにいえば言語の限界性につきあたったことであるが、このような述べようのない「真の意」を懐いておる自分に気づいた淵明の心は、すなわち孤独を感じた心であったと見られよう。
 淵明に、或る朝突然田舎おやじの訪問を受けたことを歌った、洒脱の味に富む詩がある。「飲酒」その九、がそれであって、まずおやじの来訪のことから歌いはじめる。
 
  清晨《あした》に門を叩くを聞き
  裳《しよう》を倒《さかさ》にしつ往いて自《みずか》ら開く
 
  清晨開叩門
  倒裳往自開
 
(203) 『詩経』の斉風、東方未明篇に「衣裳を転倒す」の句があり、あわてて、上衣とずぼんとをとりちがえて着る意味。それを本にして「衣を転じ裳を倒す」の語もできた。来客の殆んどない淵明の家に、しかも早朝やって来たのはそも何物。淵明があわてたのも無理はない。そこで怪しみながら、
 
  問う 子《おんみ》は誰なるかと
  田父《でんぶ》の好懐《こうかい》を有《も》てる
  壺漿《さかだる》さげて遠くより候《たず》ねくれ
  我の時と乖《そむ》けるを疑《いぶか》る
 
  問子爲誰與
  田父有好懷
  壺漿遠見候
  疑我與時乖
 
 誰かと問えば、見知らぬ田父すなわち百姓、かねてから好感をいだいていたのが、今朝、思いたってはるばる訪ねてくれたのである。手土産の酒をさしだし、さてその田父は、なぜに皆の衆と調子をあわせなさらぬかといぶかって、そしていう、
 
(204)  襤褸《つづれ》をまとう 茅簷《かやぶき》の下《なか》に
  未だ高栖《こうせい》となすに足らず
  一世《もろびと》みな同《とも》にするを尚《たつと》べば
  願わくは君もその泥《どろ》を汨《なみだた》せよ
 
  襤褸茅簷下
  未足爲高栖
  一世皆尚同
  願君汨其泥
 
 この四句は、田父の善意にみちたお説教である。窮乏生活がすなわち高尚な生活というわけのものではない。皆の衆が濁ったら、おまえさまもいっしょに、泥波をたてなされ。――このおやじなかなか達観したことをいう。まるで屈原に忠告した漁父そっくりだ。よしそれなら、わしは屈原といこう。――淵明は答える、
 
  深く父老の言に感ずれど
  稟気《うまれつき》は諧《かの》う所すくなし
  轡《たづな》を紆《ま》ぐるは誠に学ぶが可《よ》きも
  己《おのれ》に違《たが》うは※[言+巨]《なん》ぞ迷《めい》に非ざらんや
 
  深感父老言
  稟氣寡所諧
  紆轡誠可學
  違己※[言+巨]非迷
 
(205) 好意あふれる忠言まことにありがたい。お言葉に従って、これまでの信念をかえるのがよいようにも思うが、なにしろねっから妥協ぎらいなわし。信念をまげると、つまりは迷うたことになるので、このままでゆきとうござる。
 淵明の答はなお二句あり、それでこの詩は終る。
 
  且《とま》れ共に此の飲《さかもり》を歓ばん
  吾が駕《が》は回《めぐら》すべからざれど
 
  且共歡此飲
  吾駕不可回
 
 まあまあ理窟はやめて、せっかくのこの酒、おもしろくやろうではござらぬか。ご忠告にそうことのできないのはまことに心苦しいが。
 同じ「飲酒」のその十四にも、酒を持って訪ねてくれた故人すなわちふるなじみと、ともに飲むことを歌っておるが、それは数人づれで来たもののようである。ところがこの詩に出る田父は初対面の人であり、それに一人だけの如くであって、それだけにこの田父の善意のほどがしのばれる。
 おしなべて文学というものがそうなのではあるけれども、殊に淵明の詩においては、(206)常にことがらが、著しく単純化されておる。この田父の忠告も実際は、もっと回数多く、もっと長くしゃべったに違いない。善意にみちたおやじとして描かれておるだけに、一層そうであったろうと思われる。
 この詩の意味を一応右の如く了解しておいて、さて特に「且《とま》れ共に此の飲《さかもり》を歓ばん」の句に注意したい。自分の信念はまげられないと淵明が、返答したところで、それだけで、田父をうなずかせ得たとは思われない。なぜならば、田父の立場は全く異っておるからである。だから、実際の場面では淵明が「……己《おのれ》に違《たが》うは※[言+巨]《なん》ぞ迷《めい》に非ざらんや」といって、息をいれたとき、田父はすかさず、言葉をはさんで、自分の考を述べるというようなことがあったかも知れない。いや、そう想像してみると、この淵明・田父会見の場は、一層おもしろく感じられるであろう。
 それはともかく、淵明の返答が田父に十分うけがわれなかったことは、淵明自身もよく知っていたはずである。そこで心から田父になっとくしてもらうには、自分の心中をことこまかに説明してやらねばならない。がしかしそんなことはしたくもない。こういう気持が、
  且《とま》れ共に此の飲《さかもり》を歓ばん
(207)の句となったものと思う。「且」は、それまでの問答を一応うちきる気持を表わす。つまり「そんなことはどうでもよい。まあいっしょにたのしく飲もうよ」と話をそらしたのである。話をそらしたのは心中を説明したくなかったからにほかならない。心中を説明したくなかったのは、こんなおやじは話すに足らないという気持からではなくて、本当の考を完全に語るべきことばがなかったからである。かくて田父とともに飲みながらもその心中は孤独であったといわねばならない。明の黄文煥《こうぶんかん》がこの詩を評して「共にするの中、なお独りなり」というたのもまことにもっともである。
 淵明について最後に述べたいことは、己の孤独感を他にも推し及ぼしておることである。
 さきに述べた屈原から王羲之までの作品に見える孤独感は、概《おおむ》ねただ自分一人だけのものであって、これを他に推し及ぼすということは殆んど認められなかった。しかるに淵明に至っては、自分の孤独感を他にも推し及ぼしておるのである。例えば「飲酒」その四にいう、
 
  栖栖《せかせか》せり群《とも》に失《はず》れし鳥
(208)  日は暮れて猶《な》お独り飛べり
  徘徊《さまよ》うて定《おちつ》き止《とど》まるなく
  夜な夜な声の転《うた》た悲し
 
  栖栖失羣鳥
  日暮猶獨飛
  徘徊無定止
  夜夜聲轉悲
 
 友にはずれたがために塒《ねぐら》に帰ることもできないという、一羽のその鳥は、つい近頃巣立ったばかりの子鳥でもあろうか。夜な夜な悲しい鳴き声をたてながら、あたりをさまよう、あわれなその姿。そこに淵明は己の孤独の姿を見たのである。こうした己の孤独から鳥の孤独に同情する心づかいは、
  闇の夜や巣をまどはしてなくちどり
と詠じた芭蕉の心づかいと通ずるものであろう。詩はつづく、
 
  ※[礪の旁]《はげ》しき響きは清遠を思い
  去りつ来りつ何ぞ依依《したわしげ》なる
  孤生《ひともと》の松に値《あ》えるに因り
  ※[隔の旁+羽]《つばさ》を斂《おさ》めて遥けくも来《きた》り帰《よ》る
(209)  勁風《こがらし》ふいて栄え木のなきときも
  此の蔭のみは衰えじ
  身を託《よ》する已《すで》に所を得たり
  千載《とこしなえ》に相違《あいさ》らざらん
 
  ※[礪の旁]響思清遠
  去來何依依
  因値孤生松
  斂※[隔の旁+羽]遙來歸
  勁風無榮木
  此蔭獨不衰
  託身已得所
  千載不相違
 
 一篇の眼目は、この結句、すなわち「孤鳥よ、他の木木はその葉を落してしまっても、此の松だけは決して葉を落すことがないから、汝は、いつまでもそこに棲《す》めよ」というところに在るのである。
 この詩はつまり、友とはなれて悲しめる鳥を見ることによって、つくづくと、貧窮に悩む自己を悲しみ、孤生の松を見ることによって、しみじみと、「固窮の節」を守る自己をいたわったのである。だから「夜な夜な声の転《うた》た悲し」とは、鳥の悲しみであるとともに、淵明の悲しみでもあり、「千載《とこしなえ》に相違《あいさ》らざらん」とは、鳥にすすめることばであるとともに、みずからにいいきかせるささやきでもあったのである。かく孤鳥に、孤生の松に、自己の孤独な姿を見る心は、孤鳥や孤生の松の孤独をあわれむ心である。
(210) また「貧士を詠ず」(詠貧士)の、その一の中で、孤雲に同情していう、
 
  万族《ものみな》は各《おのがじ》し託《たの》むところあるに
  孤雲《ちぎれくも》のみ独り依《よるべ》ぞなき
  曖曖《うすかげ》りつつ空中《なかぞら》に滅《き》え
  何《いず》れの時か余《あま》んの暉《ひかり》に見《あ》わん
 
  萬族各有託
  孤雲獨無依
  曖曖空中滅
  何時見餘暉
 
 はてしない大空のただ中にぽっつりと浮かぶ孤雲。友もなく、よるべもなく、ひとり寂しく、ゆるやかに漂う。その姿とても、いつまで永らえられようか。やがては、夕陽の沈むとともに、次第にうすかげりゆき、はてには忽焉《こつえん》として消えてしまう。かくてとこしえにもとの姿となる由もない。こういう寂しくはかない孤雲に、淵明はまた己の姿を見出したのである。
 右に引いた詩の中に 「孤生《ひともと》の松に値《あ》えるに因り、※[隔の旁+羽]《つばさ》を斂《おさ》めて遥けくも来《きた》り帰《よ》る」といって、一本の松に愛情を示しておるが、このほかにも、しばしば一本の松に心の惹《ひ》かれることを歌っておる。
 
(211)  連林《はやしなす》とき人は覚《きづ》かず
  独樹《ひともと》にして衆は乃《はじ》めて奇とす
 
  連林人不覺
  獨樹衆乃奇       (飲酒、其八)
 
  景《ひ》は翳翳《うすかげ》りて将に入らんとし
  孤松を撫《な》でつつ盤桓《たちもとお》る
 
  景翳翳以將入
  撫孤松而盤桓      (帰去来辞)
 
 これらもまた、己の孤独感をそれに託して表わしたものであろう。いったい松は、常緑樹の代表として、その色の変らないもちまえを愛《め》でられるのであるが、その木の姿には、いつもいい知れぬ寂しさが漂うておるのではあるまいか。殊にそれが、ひょろひょろと生えておる一本の松であるとき、その感がひとしお深いように思われる。淵明も恐らく、松の木のもつ常緑の性質のほかに、その木から醸《かも》し出される、こういう寂しさを感じて、みずからいだく孤独感をそれに託したのであろう。こうして一本立の松の樹に深い愛着を感じておるさまは、あたかも芭蕉の、
  なつ来てもただひとつ葉の一葉哉
(212)といえる心情にも似ておるといえようか。
 なお、陶淵明についての右の記述は、旧著『陶淵明詩訳注』(昭和二十六年、東門書房)の上篇と重複するところのあることをことわっておく。
 さて、孤独感ということは、非常に思いあがれる人はいざ知らず、さもない限り大抵の人人の、おしなべて持てるところであろう。けれども、それを単なる一時的の感傷にとどめておくか、それとも、更につきすすんで深く味わい、深く考えるかは、その人その人によって異るのである。すぐれた詩人の多くは、こうした孤独感に徹して、そのはてに、自他融合の境地にまで到達していたのではあるまいか。こう考えれば、とりあげて論ずべき詩人はいくらもあるが、今はつぎに杜甫をとりあげることにする。
 杜甫を択んだわけは、その到達せる融合の境地が、陶淵明のそれと対照的だと思われるからである。どういう風に対照的であるかといえば、淵明の融合の境地は自己の心を他物に推し及ぼしたものであるのに対して、杜甫のは、それぞれの物自体の立場そのものに、自分がなりきったものである。淵明のは、自己拡大であるのに対して、杜甫のは、自己転身であるともいえようか。
 
(213)     一六 杜甫
 
 杜甫(八世紀)はただに唐第一の詩人なるのみならず、中国三千年の詩史上第一の詩人というべきであろう。或いは世界第一流の詩人といっても過言ではあるまい。
 唐の玄宗の開元三十年間は太平の時代であったが、しかし、うち続く太平の裡《うち》には、いつしか爛熱頽廃の気運を醸成し、そしてこの気運に乗じて勃発したのが安禄山《あんろくざん》の乱であり史思明の乱である。これより国土は戦乱の巷と化し、人民は死亡離散の苦しみに喘《あえ》いだ。
 杜甫はかかる状勢の下に生き、しかも四十七、八歳頃から、五十九歳をもって旅先で死ぬまでの十年ばかりの間は、衣食のために漂泊の旅をつづけたのである。されば杜甫の生涯は殆んど憂愁に充ち満ちていたものであったが、その憂愁たるや極めて複雑で、一身の憂え、家族への憂え、国家への憂え、民人への憂え、生物への憂えなど、かずかずの憂えを含んでいたのである。
(214) 杜甫は自分で自分のことを、
 
  居然《やすらげ》に章※[糸+拔の旁]《しようふつ》を綰《まと》えども
  性を受くること本より幽独なり
 
  居然綰章※[糸+拔の旁]
  受性本幽獨        (客堂)
 
  平生より独往の願いあり
  惆悵《うら》めし 年の百に半ばするを
 
  平生獨往願
  惆悵年半百        (立秋後題)
 
  人を畏《おそ》れて小築を成《つく》る
  褊《かたくな》の性《さが》は幽棲を合《ふさわ》しとして
 
  畏人成小築
  褊性合幽棲        (畏人)
 
などといっておる如く、どちらかといえば、元来、孤独な生活を愛する性格であったらしい。そして、そういう性格から、絶えず内省をしていたものの如く、
 
  毎《つね》に悔吝《くいうらみ》の作《おこ》ることを愁え
(215)  天地の窄《せま》きを覚ゆるが如し
 
  毎愁悔吝作
  知覺天地窄         (送李校書、二十六韻)
 
 いつも自分の行為について悔恨の情のおこるのを気にかけ、広大なる天地も身の容れどころがない程に思われる――とまでいっておる。
 杜甫の詩に、自己を蓬《よもぎ》にたとえ、鴎《かもめ》にたとえた句がしばしば見える。例えば、
 
  関内にて昔は袂《たもと》を分ち
  天辺にて今は転《まろ》びゆく蓬《よもぎ》
 
  關内昔分袂
  天邊今轉蓬         (寄司馬山人、十二韻)
 
  転びゆく蓬は地を行くこと遠く
  桂に攀《よ》じんとして天を仰げば高し
 
  轉蓬行地遠
  攀桂仰天高         (八月十五日夜月)
 
  壮節に初めは柱に題せしも
  生涯ひとり転びゆく蓬
 
  壯節初題柱
  生涯獨轉蓬         (投贈哥舒開府翰、二十韻)
 
(216)  多少《そこばく》なる残生《おいさき》の事
  飄零《ただよ》うて転びゆく蓬の任《まま》にせん
 
  多少殘生事
  飄零任轉蓬     (客亭)
 
  帰りて古松柏に号《な》かんとするも
  老い去《は》てて苦しむ 飄《ただよ》える蓬なるを
 
  歸號古松柏
  老去苦飄蓬     (往在)
 
  飄える蓬にして三年を踰《こ》ゆ
  首《こうべ》を回《めぐら》せば肝肺は熱す
 
  飄蓬踰三年
  回首肝肺熱     (鉄堂峡)
 
などは、転蓬・飄蓬にたとえたものである。また白鴎・沙鴎《さおう》にたとえたものは左の如くである。
 
  白鴎の浩蕩《わだつみ》に没しなば
  万里にして誰か能く馴らさん
 
  白鴎没浩蕩
  萬里誰能馴    (奉贈韋左丞丈、二十二韻)
 
(217)  万事 すでに黄髪なり
  残生《おいさき》は白鴎に随《したが》わん
 
  萬事已黄髪
  殘生隨白鴎    (去蜀)
 
  白鴎は元より水宿するものを
  何事ぞ余哀のある
 
  白鴎元水宿
  何事有餘哀    (雲山)
 
  飄飄《ひらひら》として何にか似る
  天地なる一わの沙鴎
 
  飄飄何所似
  天地一沙鴎    (旅夜書懐)
 
 これらは、漂泊生活を余儀なくさせられておる自己を、荒野を転転する一株の蓬や、沙辺に飄飄たる一羽の鴎に、たとえたものであって、つまりは、周囲と調和することの出来ない、或いは周囲から拒否された、孤独なる自己を凝視した結果、生れた句である。その他、片雲・孤月・燕などに託して孤独なる自己を詠じたと思われる作はいくらもあるが、ここでは孤雁に自己の孤独の情を託したものと、秋月を描いて孤独の情を託せるものとを挙げておく。
(218) すなわち「孤雁」と題する詩にいう、
 
  孤雁は飲みも啄《ついば》みもせず
  飛びつつ鳴いて声は群《とも》を念《おも》う
  誰か憐まん 一片の影の
  万重《ばんちよう》の雲に相失《みうしな》えるを
 
  孤雁不飲啄
  飛鳴聲念群
  誰憐一片影
  相失萬重雲
 
 万重の雲の裡に、そのなかまとはぐれて、ひとりぼっちを悲しんでおる一羽の雁。その一羽の雁に、孤独なる杜甫自身の姿を見たのである。この四句につづけていう、
 
  望み尽くるも猶《な》お見るに似たり
  哀しみ多くして更に聞くが如し
  野※[亞+鳥]《のがらす》は意緒《こころばせ》のなく
  鳴き噪《さわ》いでまた紛紛《いりみだ》る
 
  望盡似猶見
  哀多如更聞
  野※[亞+鳥]無意緒
  鳴噪亦紛紛
 
(219) なかまをおいかけるために前方を望んで飛んで来たのであるが、その見込がなくなっても、なおなかまの姿が見えでもするかのように飛びつづける。しきりに哀しげな声でなかまをさがしているのをみると、まだなかまの声が聞えでもしておるかのようである――といっているのであるが、これはもはや杜甫が孤雁になりきっておるのである。
 このように、なかまとはぐれたことを悲しみ、なかまを念うてやまないところに、孤独の孤独たる所以《ゆえん》がある。ひとりぼっちということを全く意識せず、なかまなつかしとも思わぬものは、よしその肉体はひとりぼっちであろうとも、真の孤独ではない。この詩を旧説では杜甫が兄弟を念う情を託したものと見ておるが、むしろ兄弟と限定しない方がよいのではあるまいか。芭蕉の、
  病雁《やむかり》の夜さむに落て旅ね哉
はこの詩と通ずるものがあるように思われる。
 つぎに 「十七夜、月に対して」(十七夜対月)と題する詩にいう、
 
  秋月の仍《な》お円《まどか》なる夜
  江邨《こうそん》に独り老ゆる身
(220)  簾《すだれ》を捲けば還《ま》た客を照らし
  杖に倚《よ》れば更に人に随う
 
  秋月仍圓夜
  江邨獨老身
  捲簾還照客
  倚杖更隨人
 
  光りは潜める〓《みずち》を射て動かし
  明《あかる》さは宿《ねむ》れる鳥を翻《ひるがえ》すこと頻り
  茅斎《ぼうさい》は橘柚《きつゆう》に依る
  清切にして露華《つゆ》の新たなり
 
  光射潜〓動
  明翻宿鳥頻
  茅齋依橘柚
  清切露華新
 
 十七夜の月はやや欠けてはおれど、まだ円く見える。それを眺めるのは水辺の村に独り老いるこの身である。まだ円く見えるというのはそれを喜ぶ気持。「客」といい「人」という、みな杜甫自身を客観視せるもの。簾をまいて坐すれば、わが客身の姿を照らしてもくれ、杖によって庭を歩けば、われという一人につき随ってもくれる。そしてその月光は、水底・樹間にもさしこんで潜〓《せんきゆう》・宿鳥をも目ざまさせ、更に茅屋・樹林を照らして橘柚の緑葉におく露玉に新鮮さをそえる。
 月影も十八夜になればもはや円いとはいえない。十七夜の月を捉えたところに、その(221)なお円きを喜び、名残を惜しむ情がこめられておる。江村に独り老ゆる身なるが故にその情は深い。
 さて杜甫は白鴎の如く、転蓬の如き生活をつづけておる間に、いかにみじめな自己の姿をまざまざと見せつけられたことであるか。そのことは「百憂集行」と題する詩の中の左の句によって代表されるであろう。
 
  強《し》いて笑語をもって主人に供《ささ》ぐ
  悲しみ見る 生涯に百憂の集るを
 
  強將笑語供主人
  悲見生涯百憂集
 
 これは、強いて顔をやわらげて、世話になっておる人に笑語をささげる、みじめな自己を自嘲したものであって、杜甫の漂泊生活はほとんどかかる心情の連続であった。
 ここでゆくりなく、思い合わされるのは、芭蕉の置炬燵《おきごたつ》の句である。芭蕉が曲水に送った手紙に、「いね/\と人に言はれても猶《なお》喰《くい》あらす旅のやどり、どこやら寒き居心《いごころ》を侘《わび》て」と前置きして、
  住みつかぬ旅の心や置炬燵
(222)の句が書かれているという。暖かなようでどこやらうすら寒さを覚える置炬燵のあたり心地は、ほり炬燵の味を知れるものにとって、ひとしおわびしく感じられるであろう。杜甫の「強《し》いて笑語をもって主人に供《ささ》げた」気持は、或いはこの芭蕉の置炬燵の気持でもあったろうか。とともに、芭蕉もまた、強いて笑語をささげたこともあったであろう。
 それはともかく、かかる心情の連続の間に、杜甫の最も痛切に感じたことは、およそ人情というものがいかに頼み難きものであるかということであった。「久客」と題する詩のはじめにいう、
 
  ※[羈の馬が奇]旅《たびぞら》にて交態を知り
  掩留《ながい》して俗情を見る
 
  ※[羈の馬が奇]旅知交態
  掩留見俗情
 
 旅のそらで過ごす身には、人間の交際の様子がよくわかり、ある土地にながく逗留しておると、世俗の人情というものがまざまざと見せつけられる。やはり自分は、どこまでも一人ぼっちだ――となげくのである。
 この「交態」「俗情」は、「戯《たわむれ》に俳諧体を作りて悶《もだえ》を遣《や》る」(戯作俳諧体遣悶)と題する(223)詩、その一の中にある次の句にて、更に具体的に歌われておる。
 
  旧識は能《よ》く態を為し
  新知も已《すで》に暗に疎《うと》んず
 
  舊識能爲態
  新知已暗疎
 
 旧《ふる》くからの知人は、うまくうわべをつくろい、新たに近づきになったものも、もうはや、ひそかに疎んじて居る。いずれも皆おざなりのつきあいに過ぎない――というのである。
 これでは、こちらからいかに親しもうとしても、本当の親しみなぞは、かわされ得ようはずもない。杜甫の詩に旅愁を詠じた句が甚だ多いのは、常にこういうやるせなさを感じていたからであろう。そしてまた、その詩に故郷をなつかしみ、弟妹を恋うる句の多いのも、かかる他人の交情にあきたらなかったことが、その一因をなしていたと思われる。
 こういう交態の裡にある孤独なる自己をみつめつつも、やはり、その土地の風俗には、すすんで馴れ親しもうとする己ではあった。「冬至《とうじ》」と題する詩の中にいう、
 
(224) 江上の形容よ吾れ独り老いぬ
 天涯の風俗に自《みずか》ら相親しむ
 
  江上形容吾獨老
  天涯風俗自相親
 
 江のほとりに独り老ゆる痩《や》せ枯れたわが姿を意識したとき、むかし形容|枯槁《ここう》して江のほとりを行吟したという屈原を、恐らく思い出していたであろう。杜甫は当時、おそらく四川省の〓《き》州にいたので、そこを「天涯」といった。その天涯の風俗に、われから進んで親しもうとする、そういう自分が却って哀れである。
 人情のたのみ難きは、何も異郷の人人においてのみ感じられるのではない。
 
  厚禄の故人《とも》よりも書《ふみ》は断絶《とだ》えぬ
  恒《つね》に飢えたる稚子《ちご》は色《かお》の凄涼《やつれは》てたり
 
  厚禄故人書斷絶
  恆飢稚子色凄涼
 
 幼児は飢え通しのため顔色もやつれはてているので、あの大官となっておる旧友の救いの手をまっておるのに、その旧友さえ、この頃は音沙汰がない――というのであって、(225)「狂夫」と題する詩の中の句である。
 がしかし、これらの詩に、他人の薄情を怨む気持は少しも見られない。けだし杜甫は、人情とはこんなものだと見極めていたのであろう。人情とはこんなものなのだと見極めていた気持が次の句から読み取られる。
 
  棲託《せいたく》しては高臥し難し
  饑寒は向隅《きようぐう》に迫る
  寂蓼たり 相※[口+句]沫《あいくまつ》すること
  浩蕩たり 報恩の珠《たま》
 
  棲託難高臥
  饑寒迫向隅
  寂寥相※[口+句]沫
  浩蕩報恩珠       (舟出江陵南浦、奉寄鄭少尹審)
 
これは、大暦《たいれき》三年(七六八)の秋、杜甫が湖北省の公安から南方へ旅立とうとして、舟が江陵の南浦《なんぽ》を出たとき、江陵の少尹《しよういん》なる鄭審《ていしん》に寄せた詩の中の句であって、この意味は 「饑えと寒《こご》えとが、一人悲しむ自分に迫ってきて、その身を寄せている処に枕を高くして眠ることもできないので、今、南方へ行こうとするのである。生活にあえぐものを救うてくれる人はなかなかいないものだのに、あなたはよく私の面倒をみて下さった(226)が、私はそのご恩に報いることもしない」というのである。「向隅」とは、自分だけが室の隅でさびしそうにしておること。のけものにされた生活。満堂の人人が酒を飲んで楽しんでおるとき、一人だけ隅に向いて泣いておるものがあれば、みんながおもしろくなくなる、ということが『説苑《ぜいえん》』の貴徳篇にある。それからできた語。「※[口+句]沫」は、同類たがいに救いあうこと。泉の水が涸れると、魚はたがいに、湿《しめりけ》を※[口+句]《ふきか》けあい、沫《あわ》で濡《ぬら》しあう、と『荘子』の大宗師《だいそうし》篇及び天運篇にある。「浩蕩」はひろびろしたさま。ここでは縁遠いさまをいった。「報恩の珠」は、むかし随国の君主が蛇を助けたら、蛇はすばらしい珠をそのお礼にしたという話が『准南子《えなんじ》』の覧冥訓篇にあるのに本づく。
 この「寂寥たり 相※[口+句]沫《あいくまつ》すること、浩蕩たり 報恩の珠《たま》」の二句の裡にこそ、「人情というものはこんなものだ。何も他人を薄情などと、責めるまでもない。自分だって少しもご恩返しをしないではないか」という気分がみなぎっておるのである。
 では杜甫は、そういうたよりにならない人情なるものを全く超越してしまって、何ら問題としていなかったのであろうか。決してそうではない。というのは何ら問題としていなかったのならば、かかる詩そのものも生れなかったはずだからである。けだし杜甫はその生活の道程において、人生の奥深くに潜んでおる一つの暗黒面につきあたって、(227)そのために憂鬱にもなり煩悶もしたのであろう。そしてその憂鬱、その煩悶にたえて、それを克服しようとする、いたましい自己の姿を見たのであろう。このいたましい自己の姿を眺めたところから、その詩が生れたのである。
 ところで、こういうふうに、いたましい自己の姿を眺める心は、またいたましい他人の姿をも眺める心である。さればこそ、杜甫の詩には、自己を眺める心をもって、他人をも眺めた詩がしばしば見られるのである。
 
  寒さは市上に軽くして山煙は碧《みどり》に
  日は楼前に満ちて江霧は黄《きいろ》なり
  塩を負うて井《いど》より出ずるは此の渓《たにがわ》の女
  鼓《つづみ》を打って船を発するは何郡《なにぐん》の郎《おとこ》ぞ
 
  寒輕市上山煙碧
  日滿樓前江霧黄
  負鹽出井此溪女
  打鼓發船何郡郎
 
 これは四川省の雲安にての作「十二月一日三首」、その二の前半四句である。雲安には塩井があり、その辺の川は流れが急なので、前船の鼓声が遠くなってから、次の船も鼓を打ちながら出るようにして衝突を避ける。杜甫はそこで、塩を負う女と、鼓を打つ男(228)と、それぞれ生活にいそしむ姿を見て、あれはあれ、これはこれ、何処にもいとなみがあり、人はめいめいみずからの手で生きてゆくより外はない、おのおのは別別である、と感じて、深く人生のあわれさを覚えたのであろう。そういう気持は、「此の渓の女」、「何郡の郎ぞ」の表現に、特に感じられる。この詩を読むと、何とはなしに、芭蕉の「秋深し隣は何をする人ぞ」の句が思い出されてならない。
 杜甫のこの句を、李白の「秋浦吟《しゆうほぎん》」と比べてみれば、その味わいが一層はっきりするであろう。秋浦は安徽《あんき》省の貴池県近くに当るところらしいが、李白はその「秋浦吟」十七首の十六に、秋浦の住民の生活状態を左の如く歌っている。
 
  秋浦なる田舎の翁
  魚を採って水中に宿す
  妻子は白※[閑+鳥]《しらきじ》を張《とら》えんとし
  ※[横目/且]《あみ》を結んで深竹に映ず
 
  秋浦田舍翁
  採魚水中宿
  妻子張白※[閑+鳥]
  結※[横目/且]映深竹
 
 その土地の住民の生活状態の珍らしさに眼をとめておる点は、杜甫の句と同じである(229)が、しかし李白は、生活の状況そのもの、特に「深竹に映じた」詩趣に感興を動かしたのであって、そういうくちすぎのいとなみを、わがことのようにあわれんでおるのではない。
 人はみな、めいめいの生活をもつということについての杜甫の詠歎は「清明二首」の、その一にも表われておる。すなわち、
 
  繍羽《しゆうう》は花を衝《ふく》んで他《かれ》なりに自得す
  紅顔の竹に騎《の》れるは我に縁なし
 
  繍羽衝花他自得
  紅顔騎竹我無縁
 
 湖北省の潭《たん》州(長沙)にて、清明節すなわち陰暦三月はじめころに詠んだものである。「美しい鳥が花をくわえて得意げに飛んでおり、紅顔の少年が竹馬に乗って遊んでいるのは今の自分には無縁のことである」という。自得しておる美しい羽の鳥や、嬉遊しておる紅顔の少年から、異郷にさすろう己を一応切り離して見たのであるが、その切り離した裏には、彼らにもめいめいの生活のあることを認めておるのである。
 人はみなめいめいの生活をもつことを強く意識する心は、人はみなめいめい別別であ(230)ることを強く意識する心につらなる。次に引く「清明」と題する詩は、この、人はみな別別のものであることを意識して、それを詠歎せるものである。
 
  五十なる白頭の翁
  南へ北へと世難を逃る
  疎《あら》き布《ぬの》を枯骨に纏《まと》い
  奔走して暖かならざるに苦しむ
 
  五十白頭翁
  南北逃世難
  疎布纏枯骨
  奔走苦不暖
 
  已に衰えて病さえ方《まさ》に入る
  四海は一《ひとえ》に塗炭《じごく》なり
  乾坤《あめつち》の万里の内も
  身を容るるの畔《ほとり》を見るなし
  妻と孥《こ》とまた我に随う
  首《こうべ》を回《めぐ》らして共に悲歎す
 
  已衰病方人
  四海一塗炭
  乾坤萬里内
  莫見容身畔
  妻孥復隨我
  回首共悲歎
 
(231)  故国《ふるさと》は丘墟《あれあと》となりて莽《くさ》しげり
  隣里もおのおの分れ散《に》げたらん
  帰路に此れより迷い
  涕《なみだ》は尽《つ》く 湘江の岸
 
  故國莽丘墟
  隣里各分散
  歸路從此迷
  涕盡湘江岸
 
 老病の白頭翁が、妻子とともに、戦乱を避けようとして逃げまわるのである。がしかし何処へ行っても同じ苦難。この広い天地にわずか五尺の身を容れる所さえもない。われにたよりきってあとにつづく妻子を振りかえって見ても、ともに悲歎はするが、さりとてどうしてやることもできない。ともに悲歎はしても、結局各自別別の悲歎ではないか。郷里の隣り近所の人人もてんでんばらばらに逃げ散つたであろうが、これまためいめいが己の苦難を嘗めるだけで、如何に親しい人同志でも、相手の苦難をどうすることもできねば、己の苦難をどうして貰うこともできるものではない。
 こういう肉身同志でも親友同志でも、どうにもならぬ、ぎりぎりの気特は、われわれも幾度か爆弾にさらされた時、痛切に味わったところである。こういう気持は、言葉を換えていえば、人間はめいめい孤独であることを感得した気持だということになろう。(232)けだし杜甫もこのことを感得したればこそ右の詩ができたものと思う。
 杜甫は、自分だけのことを歎かずに、国家のことを歎き、民衆のことを歎いた詩人であり、そこに、その詩人としての大きな特色があるといわれておる。がしかし、ひとしく国家のことを歎き民衆のことを歎いたと見える詩も、おのずから二つの種類にわかれるのではあるまいか。
 元来、杜甫は、
 
  身を許すこと一《ひとえ》に何ぞ愚なる
  窃《ひそ》かに稷《しよく》と契《せつ》とに比せり
 
  許身一何愚
  竊比稷與契    (自京赴奉先県詠懐、五百字)
 
といっておる如く、太古の聖君なる舜をたすけた稷《しよく》や契《せつ》という賢臣に自分をたぐえるほどの自信をもち、また、
 
  君を堯舜《ぎようしゆん》の上に致し
  再び風俗をして淳ならしめん
 
  致君堯舜上
  再使風俗淳    (幸贈韋左丞丈、二十二韻)
 
(233)と歌っておるように、わが天子玄宗皇帝をたすけて、むかしの堯や舜にもまさる聖君たらしめ、そしてわが唐の風俗を太古の理想時代の如く淳ならしめようとの抱負をいだいていたのである。
 しかるに、そのような自信をもち抱負をもって現実の世界を眺めたとき、その現実のあまりにもなさけないありさまに、深く苦悶せざるを得なかった。彼の詩にはその苦悶の情の発してできたものが多いのであるが、その内の、例えば、「兵車行」「前出塞」「麗人行」などは、なるほど古来傑作とされておるほどあって、いかにもその裡《うち》から、作者の国家を憂え民衆を憐れむ情がよく汲みとられる。しかしながらそこには、どこやら、かすかなそらぞらしさが漂うておるような感がしないでもない。
 ところが、それらと対照して、あの有名な「新安吏」「石壕吏」「垂老別」「無家別」などを味わってみるに、これらからは腸《はらわた》をしぼるような民衆の沈痛な叫び声が聞えて来るだけで、そらぞらしさなどは微塵《みじん》も感じられない。
 更に、詩としてはさして有名ではないが、「また呉郎に呈す」(又呈呉郎)と題する作を見るに、杜甫は西隣りの貧婦が自分の家の棗《なつめ》を盗むのを、極めて温い心で許していたよ(234)うであって、そこには少しのそらぞらしさもない。呉郎というのは杜甫の身うちのもので、杜甫が四川省の※[さんずい+襄]水《じようすい》という川の西にある草堂から、川の東の東屯《とうそん》へ移り住んだのち、川西のもとの草堂には呉郎が住むことになったものの如くである。そこで杜甫は呉郎に詩を送って、草堂の西隣りの貧婦に対する心づかいを諭したのである。その詩の前半にいう、
 
  堂前に棗《なつめ》を撲《う》つは西隣に任《まか》す
  食なく児なき一婦人
  困窮の為ならずんば寧《なん》ぞ此れあらんや
  ただ恐懼《きようく》するによりて転《いと》ど須《すべから》く親しむべし
 
  堂前撲棗任西隣
  無食無兒一婦人
  不爲困窮寧有此
  祇縁恐懼轉須親
 
 この四句は、杜甫自身がいままで貧婦に対してはらってきた心づかいをのべて、これからさき呉郎にも、このようにしてもらいたいという意味をこめたのであるが、殊に「ただ恐懼《きようく》するによりて転《いと》ど須《すべから》く親しむぺし」――おそるおそるとっているのだから、いよいよいつくしんでやらねばならない――といえるところに、それは決して尋常一様(235)の同情ではなく、心の真底から貧婦の気持になり切っている情が見られるのである。
 そして同じ詩の後半において、まがきをつくったりなどして、貧婦に恥ずかしい思いをさせてはならぬと諭しておるのであるが、ここに至って貧婦に対する思いやりとともに、呉郎に対する親切もまた極まるといわねばならない。このように貧婦の気持になりきる情は、
 
  寂寂《せきせき》として春は将《まさ》に晩《く》れんとす
  欣欣《きんきん》として物は自《みずか》ら私す
 
  寂寂春將晩
  欣欣物自私    (江亭)
 
と詠じて、万物おのおの、いそいそとしてその生活をとげつつある時、己れ独り不如意の日を過ごさねばならぬ、という深い孤独感を味わったことのあるものでなければ、到底起らないであろう。
 この貧婦の気持になり切る情は更に鳥虫渓魚草木の気特にさえもなり切る情である。
 
  小奴《しもべ》は鶏を縛《いま》しめて市《いち》に向って売らんとす
   (236)  鶏は縛《いま》しめらるること急《きび》しくして相喧争す
  家中は鶏の虫蟻を食うことを厭《いと》いて
  知らず 鶏の売られなば還《かえつ》て烹《に》らるることを
  虫と鶏と人において何ぞ厚薄あらん
  吾れ奴人《しもべ》を叱してその縛めを解かしむ
  鶏と虫との得失は了《おわ》る時なし
  目を寒江に注いで山閣に倚《よ》る
 
  小奴縛鷄向市賣
  鷄被縛急相喧爭
  家中厭鷄食蟲蟻
  不知鷄責還遭烹
  蟲鷄於人何厚薄
  吾叱奴人解其縛
  鷄蟲得失無了時
  注目寒江倚山閣    (縛鷄行)
 
  場《おきば》を築いては穴なる蟻を憐れみ
  穂を拾うことは邨《むら》の童《わらべ》に許す
 
  築場憐穴蟻
  拾穂許邨童  (暫往白帝復還東屯)
 
  盤※[歹+食]《さらのもの》なる老夫の食
  分《わけまえ》を減《へら》して渓魚に及ぼす
 
  盤※[歹+食]老夫食
  分減及溪魚  (秋野五首、其一)
 
  堂西の長《の》びたる筍《たけのこ》によりて別に門を開き
(237)  塹北の行《なら》べる椒《さんしよう》《によりて却って邨《むら》に背そむ》く
 
  堂西長筍別開門
  塹北行椒却背邨 (絶句四首、其一)
 
 鶏に食われる虫を救うべきか、売られて煮られる鶏を救うべきかに思い惑い、稲置き場を築くがためにその穴を壊される蟻を気の毒がり、さては豊かでもない自分の食物をへらして渓流の游魚に与え、草堂の西に筍がのびたのでそれを踏むまいと別に門を設ける、という。
 こういう気持が、写景の詩の中にも、みなぎっておるものがある。
 
  径《こみち》に※[米+參]《ちりまじ》わる楊《やなぎ》の花は  白き氈《けおり》を鋪《し》き
  渓《たにがわ》に点《ちらほら》する荷《はす》の葉は青き銭《ぜに》を畳《かさ》ぬ
  筍の根なる雉子《きじのこ》は人に見らるることなく
  沙《すな》の上の鳧雛《こがも》は母に傍《そ》うて眠る
 
  ※[米+參]径楊花鋪白氈
  點溪荷葉疊青錢
  筍根雉子無人見
  沙上鳧雛傍母眠  (絶句漫興九首、其七)
 
 白氈も青銭も、わが手にとって愛撫してやりたいくらい。筍の根もとにひそむ雉の子の人に見つからぬのをわがこととして喜び、母にそうて眠るこがもにはわれもまた添い(238)寝をしてやりたい。
 これらの諸詩に見える、そのものになりきる気持は、万物おのおのが孤独であることを感得して、己の孤独なることを憐れむの情をそのまま万物個個の立場に推し及ぼしたものであって、蛙を憐れみ蠅を憐んだ一茶の心境がややこれに近いかと思うが、ひとしく孤独感の強かった陶淵明の詩にもこれほど徹底した万物同視の情はまだ見られなかったのである。
 かかる心境は、単に「君を尭舜の上に致す」の理想を持つとか、「草木昆虫もみな其の所を得」(前漢、成帝の詔)しめんとする思想を学んだとかだけでは、とても達し得られるものではなく、自己に深く深く沈潜しつづけたあげく、はじめて感得し得られるのである。杜甫みずから、
 
  拙をもって吾が道を存し
  幽居して物の情に近づく
 
  用拙存吾道
  幽居近物情  (屏跡三首、其二)
 
といっておるのは、おのずからその間の消息をもらしておるものであろう。このばあい、(239)幽居とは、ただしずかな生活ということではなく、深く自己に沈潜したしずかな生活のことと解したい。
 杜甫の長安在留時代にも、なるほど国家を憂え民衆を憐れむと見られる作はあった。けれども、それらは多く、政策の不当に対し、貴族の家督に対する憤激から発したもので、必ずしも深い自己沈潜による人生への歎きから出たものではなかったようである。深い自己沈潜を経て作られたと思われるものの殆んど全部が、その漂泊の時代にできておるのも、決して偶然ではない。こういう心境から発した斉物の情は、世俗の気まぐれ的な、いわば遊戯のようなあの皮相的な同情などとは、全くその質の異る、きびしい、謙虚な、心の冴《さ》えである。
 かく孤独を自分一人の問題とせず、人間すべての問題とし、更に生物すべての問題として感得しておるところに杜甫の特色があるといえよう。同じく社会詩であっても、杜甫の作が、白楽天の作よりも心をうつのも、ここにその原因がある。趙宋の黄徹《こうてつ》の『※[恐の心が石]渓《きようけい》詩話』巻九に「老杜は飢寒にして人の飢寒を憫《あわ》れみしものなり。白氏は飽暖にして人の飢寒を憫れみしものなり」(老杜飢寒而憫人飢寒者也、白氏飽暖而憫人飢寒者也)との説をあげておるが、そういうふうに観られる原因も、杜甫のこの特色と無関係ではある(240)まい。
 さて孤独感は必ず寂寥感《せきりようかん》とともにあり、その寂寥感はほのかに不安感と通ずるものである。されば孤独を感ずるものはその寂しさに堪えずして、語り合う相手を求めようとしたり、何かしらたよりになる永久のものに合一しようとしたりする。つまり、その孤独感から解放されようとするのである。杜甫の詩にも、かかる心情の動きが見られる。例えば「府《やくしよ》に宿《とのい》す」(宿府)の前半にいう、
 
  清秋の幕府には井梧の寒く
  独り江城に宿《とのい》して蝋炬《ろうそく》の残る
  永夜《よなが》の角《つのぶえ》の声《ね》は悲しくして自《みずか》ら語り
  中天《なかぞら》の月の色は好けれども誰とか看《み》ん
 
  清秋幕府井梧寒
  獨宿江城蝋炬殘
  永夜角聲悲自語
  中天月色好誰看   (宿府)
 
 清秋の月色をともに眺める友もなく、夜ながの一人居には彼方から聞える角笛の悲しさが身にしみて、ぼそぼそとひとりごとをするという。ひとりごとによって、いくらかでも、孤独の寂しさから解放されようとするのである。この詩を読めば、島崎藤村の(241)「エトランゼ」にある、族空の孤独に堪えかねた主人公が一人語りをする場面を、想い起こさせられる。
 がしかしこの程度のことは、張華の「枕に伏して遥昔《よなが》を終うるまで、寤《さ》めて言《かた》れど予《われ》に応《こた》うるなし」とか、陶淵明の「言《かた》らんと欲すれど予《われ》に和するなし、杯《さかずき》を揮《あ》げて孤影に勧む」とか、と相通ずるものであって、何も杜甫独特のものではない。ところが、次の例のようなものは、張華や淵明には見られなかったところかと思う。
 
  ※[王+代]筵《たいえん》に管《ふえ》は急にして曲また終り
  楽しさ極まり哀《あわ》れさ来りて月は東より出ず
 
  ※[王+代]筵急管曲復終
  樂極哀來月東出
 
 これは、玄宗の開元年間に有名な女舞踊家であった公孫大娘《こうそんだいじよう》という人の弟子が、剣器という舞をまったのを観たときの詩(観公孫大娘弟子舞剣器行)の句であるが、立派な宴席で笛の類が急に奏せられて舞曲が終り、今まで見とれ聞きとれていたわが身には、楽しみのいやはてに哀れさがこみあげて来たが、その時東の空から明月が現われた、というのである。この「哀れさ」は過去の追憶、現世の時事、舞女の身の上、行くさきの目(242)あてもない漂泊のわが身などについての複雑な哀感であろうが、要するにわが心のなかにわが孤独なる姿を凝視した哀感といえよう。そういう哀感に浸っておる時、ふと東方から出る月に眼をとめて、その哀感から暫し解放されたのである。
 
  鶏と虫との得失は了《おわ》る時なし
  目を寒江に注いで山閣に倚《よ》る
 
 これはさきに引いた詩の中の句であるが、――鶏が虫を食うのをいやがり、その鶏をしばって売りにゆこうとする下男を見て、鶏もまた売られれば煮て食われてしまうことの哀れさに気づかぬその愚かさを叱ったものの、よく考えてみれば鶏を助ける方がよいのか、虫を助ける方がよいのか、わからなくなり、いくら考えてみてもはてしがない、そこで山上の楼閣に倚りかかりながら、寒天の江流をじっと見つめるのみだ、というのである。
 鶏と虫とどちらを助くべきかと考えるのは、鶏虫の生命の軽重を理論的に計量したのではない。鶏に食われてもどうすることもできない孤独なる虫の姿と、人から煮られてもどうすることもできない孤独なる鶏の姿とを互に思い浮かべて、その虫になりきり、その鶏になりきって、いとおしんだのである。そして目を寒江に注ぐことによって、そ(243)のいとおしみの悩みから暫し解放されたのである。
 
  明年は此の会に誰か健《すこやか》なるを知らんや
  酔うて茱萸《ぐみ》をとりて仔細《しさい》に看る
 
  明年此會知誰健
  酔把茱萸仔細看
 
 これは或る年の九月九日|重陽《ちようよう》の節句に、藍田《らんでん》の崔《さい》氏の別荘で作った詩(九日藍田崔氏荘)の中の句であって、「明年もこういう宴会が開かれるかどうかわからないが、かりに開かれるとして、さてその時、今集っておる内、誰が果して元気でいるであろうか、そう思うと感慨に堪えず、茱萸の枝を手にして、酔眼もてしげしげとながめるのである」という意味である。
 戦乱の時代故、明年のこの会があてにできぬこともさることながら、それにもまして、杜甫の胸中には自分を中心とした人間の生命の無常に対する深い悩みがひそかに去来したのであろう。しかし、そういう感慨にふけっていた杜甫は、そのあいだ、酒のやりとりをことわっていたわけでは、恐らくあるまい。他の人人とともに酒を飲みながら独りで考えていたのであろう。つまり衆とともにありながら、その心は孤独だったのである。
(244) そして独りそういう感慨にふけっているとき、ふと眼にとまったのが茱萸の実の色である。そこでその茱萸をとりあげて、と見こう見、しげしげと眺め入っておるうちに、いままで胸中にわだかまっていた悩みから、暫し解放されたのである。
 おしなべて人間は、あることに思い悩んでいると、眼はうつろになりがちであるが、そのうつろな眼はまた、はたと何かを捉えがちである。そしてそれは多く、つい今まで気づかなかったもの、無関心でいたものを捉えるのが常である。つい今まで気づかなかったもの、無関心でいたものにふと眼がそそがれたとき、そこに今更のように、新鮮な生命のいぶきを感じ、神秘さを感じて、心はそのものと融合してしまう。
 右に述べた杜甫の胸中の哀感苦悩が、月影を眺め、寒江を見つめ、茱萸に見入ることによって暫し解放されたということは、つまりは、その凝視したものと融合したのである。だから哀感苦悩から解放されたといっても、それまで胸中にわだかまっていた哀感や苦悩が、そのまますっぱりと消え失せてしまったのではなくて、それらのものを凝視することによって起った感懐の内に融合してしまったのである。融合するとは作者とそれらのものとが一体となることであり、孤独寂寥なる人間の心が、広大無辺なる宇宙の原理に帰入してしまうことなのである。
(245) そしてこのことは、知らず識らず、常に大きなものにすがろうとしておる、人間の心の弱さの一断面が、はしなくも露呈されたのにほかならない。如何に人間が何かにすがろうとするものかということは、防空壕内で空気の厚さをさえ、たよりにした体験からも、しみじみと感じられるのである。人間の生き方とは、結局、何にすがろうとするかという問題に帰着するのではあるまいか。そしてそれはまた人間は孤独であるとともに、絶対的の孤独は到底あり得ないということ、ひいては人間の愛情ということに関連してくるであろう。
 以上は、杜甫の孤独感について、主として陶淵明との違いに注意しながら、そのあらましを述べたのであるが、最後に、李白の孤独感について、主として杜甫との違いに注意しながら、そのあらましを述べてみたい。
 
(246)     一七 李白
 
 李白は杜甫よりも十一年さきに生れ、八年さきに六十二歳で歿しておる。その五十三、四歳頃までは、比較的太平の時代であったが、それ以後、歿するまでの約十年間は、安禄山の乱、史思明の乱のつづいた時代であった。
 四十二歳(天宝元年。以下李白の年齢は清の王※[王+奇]《おうき》の『李太白年譜』による)の時、玄宗に召し出されて供奉翰林《ぐぶかんりん》とされたものの、三年後には、讒言《ざんげん》にあって官を退いた。彼の一生中、中央に仕官したのは、この三年間だけで、その前後は殆んど方方を漫遊して過したのである。漫遊時代に、山にこもって道士的の生活をしたこともあり、五十歳台も半ば過ぎた頃、玄宗の第十六子、永王の※[王+麟の旁]《りん》に仕えて、一働きするつもりであったところ、永王の兵は敗れて事は成らず、彼は潯陽《じんよう》の獄に入れられ、また夜郎《やろう》へ流される(途中で赦されたが)ということもあった。
 李白はみずから「我はもと楚の狂人」(盧山謡、寄盧侍御虚舟)といい、「もと是れ疎散の人」(247)(翰林読書言懐、呈集賢諸学士)といい、また「一生傲岸にして諧《かな》わざるに苦しむ」(答王十二、寒夜独酌有懐)といっておる如く、疎放傲岸の性格であったらしい。「楚の狂人」とは、孔子をそしったという陸通のこと。李白はみずからを陸通にたとえたのである。
 また 「我輩は豈《あ》に是れ蓬蒿《ほうこう》の人ならんや」(南陵別児童入京)といい、「富貴は吾れ自《みずか》ら取らん」(※[業+おおざと]中、贈王大勧入高鳳石門山幽居)、「青雲は当《まさ》にみずから致すべし」(冬夜酔宿竜門、覚起言志)などといえるを見て、栄達の念の強かったことが知られる。
 そしてまた彼は 「願わくは一たび明主を佐《たす》け、功の成りて旧林に帰らん」(留別王司馬嵩)、「平明《よあけ》にして空しく嘯咤《いきま》く、世の紛《もつ》れを解かんと欲して」(贈何七判官昌浩)、「余また草間の人なるも、頗る懐く物を拯《すく》うの情」(読諸葛武侯伝、書懐贈長安崔少府叔封昆季)という抱負を持っていたのである。
 しかるにその抱負はついに、実現するに由なく、一生、「哀哀として苦寒を歌い、鬱鬱として独り※[立心偏+周]悵《うらみかな》しむ」(冬夜酔宿竜門、覚起言志)という気特で過したもののようである。彼に「臨路歌」と題する作があって、中天にて翼が摧《くだ》け、その図南《となん》の志を果し得なかった大鵬の歎きを詠じたものであるが、清の王※[王+奇]の説によれば、「臨路〔右○〕歌」は「臨終〔右○〕歌」の誤りであろう、とのこと。果してしからば、彼はほぼ最後まで不遇の歎きを持っていたこ(248)とになる。
 彼の傲岸の性格と天馬空を往くが如き才気とは、豪放の気に富んだ作品を多く産んだが、それらの諸作品においてさえも、その基調をなすものは、この不遇の歎きとそれに伴う憤りとであったともいえるであろう。
 さて、李白もまた、不遇を憤り歎くことによって生まれた孤独感、人生の無常を悲しみ歎くことによって生まれた孤独感をもっていた。そしてそのような孤独感の表われておる作品に、作品として優れたものが少くない。しかしそのような性質の孤独感については、他の作者のところで既に述べたので、李白においてはこれを略し、ここでは、今までに殆んど見られなかった性質の孤独感だけを取り挙げよう。
 それは超越の境地における孤独感であるが、その孤独感は自分を高くかまえて、その孤独を守り楽しんでおるだけで、他と融合することの少ない性質をもつものである。二、三の作品を吟味することによってこのことを明かにしたい。
 
  衆鳥《むらとり》は高く飛びて尽《き》え
  孤雲《ちぎれぐも》は独り去ること閑《しず》かなり
(249)  相《たがい》に看《なが》めて両《ふたりなが》ら厭《あ》かざるは
  ただ敬亭の山あるのみ
 
  衆鳥高飛盡
  孤雲獨去閑
  相看而不厭
  只有敬亭山   (独坐敬亭山)
 
 敬亭山は、安徽《あんき》省の宣城県の北方十里にあり、南斉の謝※[月+兆]《しやちよう》が宣城郡太守であった時、この山を愛してしばしば登り、詩数篇を残しておる。『年譜』によれば、李白は天宝十三載五十四歳の頃より約二年間宣城に在り、また上元二年六十一歳の頃、宣城・歴陽二郡の間を往来したという。この詩は、この二つの期間の、どちらかで作られたのであろうが、彼は平素、謝※[月+兆]を敬慕していたから、謝※[月+兆]にゆかりのある敬亭山には、懐古の情をもって対したに違いない。
 はじめの二句は、恐らく夕方の景色であろう。敬亭山の嶺の辺の上空で捉えたのである。李白はそれにじっと見入っていたのであるが、群をなす鳥はいそがしげに飛んで、まずその姿を消し、ついで今まで漂うていた一片の雲も、ひとりしずしずと去っていって、やがて見えなくなってしまう。かくて空寂なる夕方の天地に、とり残されたのは、敬亭山と我のみである。そこでひたすらに山容に見入って、いつまでもそれをつづけるのである。
(250) 孤雲と衆鳥とを併せて夕空に捉えた句は、「春日独酌」二首に二回見えて、その一つは、「孤雲は空山に還り、衆鳥もおのおの已《すで》に帰る」となっており、それにつづけて、「彼の物はみな託するあるに、吾が生のみ独り依るべなし」という。ここの二句は夕景色と見なくても意味はよく通ずるけれども、しかし「春日独酌」の例から推せば、やはり夕景色を詠じたのであろう。そしてここの二句にも、「彼の物はみな託するあるに、吾が生のみ独り依るべなし」の意味が、極めてかすかながら、こめられておるように感じる。そう感じることによって、敬亭山と対坐しておる李白の孤独な姿が、一層はっきりと目に浮かぶ。なお、この詩が夕景色を捉えたものだとすれば、李白が、厭かず眺めたのは、夕方の光線に刻刻その色を変えてゆく壮麗神秘なる山容であったであろうと想像され、敬亭山と李白とが「相《たがい》に看《なが》めあい」ながら、やがてそのまま、すっぽりと夜のとばりの裡に消えてゆく場面も、おのずから思い描かれる。
 ところでこの詩の「相《たがい》に看《なが》めて両《ふたりなが》ら厭《あ》かざるは、ただ敬亭の山あるのみ」という表現のしかたに注意したい。この二句はもちろん、静寂なる大自然の中に動いていた、ただ二つのものである衆鳥と孤雲とが、いつしかその姿を消してしまって、自分はただ敬亭山とばかり〔ただ〜傍点〕いつまでも向かい合っておるという意味であろう。
(251) がしかし単にそれだけではなく、もっと複雑な心の色あいがこめられているのではあるまいか。すなわち、「相に看め」「両ら厭かず」の表現は、自分と相手とを対等に見て、この相手こそ自分の真の理解者であるという意味を表わす。そして、かかる相手となるに足るものは誰かといえば、「ただ敬亭の山あるのみ」。つまり、自分の真の理解者はこの世にたった一つの敬亭山があるだけだということになる。こういうふうにせんじつめられるとすれば、この心の底には人間どもは――我を除いたすべての人間どもは、全く相手とするに足らないという考えが潜んでいると見られるのではないか。
 この二句を陶淵明の「悠然見南山」(飲酒)と比べてみれば、このことは一層明かとなろう。淵明の句は、「悠然として〔三字傍点〕南山を見る」意味なのか、「悠然たる〔二字傍点〕南山を見る」意味なのか、解しようによってはどちらともとれるが、これはどちらでもよく、否、むしろどちらをも併せ味わってしかるべきであって(昭和二十六年刊の拙著『陶淵明詩訳注』六二頁、昭和三十一年刊の吉川幸次郎博士著『陶淵明伝』六三頁を併せて参照)、淵明と南山とが、無条件に、渾然《こんぜん》として融合しておる心境を示す。しかるに李白の方は、敬亭山と対立して、それのみが知己であると意識しておるようである。といってもそのことで、淵明と李白との優劣を論じようとするのではない。淵明を引き合いに出して、李白の心中を推測したまでで(252)ある。
 
  余に問う 何《いか》なる意《こころ》ぞ碧山《へきざん》に棲むはと
  笑うて答えず心おのずから閑《しず》かなり
  桃花 流水 ※[穴/目]然《ようぜん》として去る
  別に天地の人間《じんかん》にあらざる有り
 
  問余何意棲碧山
  笑而 不答心自閑
  桃花流水※[穴/目]然去
  別有天地非人間      (山中問答)
 
 この詩の題は一本には「山中答問」に作り、また「山中答俗人」に作るという。どんなつもりかと問うたのは俗人である。一一説明することは不可能でもあり面倒でもある、それでただ笑うだけ、答えないで笑っている間も、わが心はそのままゆったりと、この境の情趣に浸っておる、というのである。
 そしてそうさせるのは何かといえば「桃花 流水……」以下にいえることがそれであって、それがまた俗人への答ともなる。「桃花 流水」の桃花は流水の両岸に咲く桃花であり、また流水に浮かぶ桃花である。「※[穴/目]然」の語で、落花を浮かべた水が、ほのかにはるか彼方へと流れ去るさまを感じるとともに、その流水がいくらか深さをもっておるこ(253)とを感じる。この句は、清らかさ、静かさ、それにゆたかさをたたえており、次の句に「別に天地の人間《じんかん》にあらざる有り」という、その別天地を象徴しておる。恐らく武陵桃源を念頭において書いたものであろう。
 このような情趣に満ちた、俗人の世界ではない天地が、別にここにあって、それが気に入ったのだと李白はいうのである。
 さて、俗界と隔絶した別天地に住むという李白は、明かに孤独を意識していたのであり、しかもその孤独を寂しいとしないで、楽しいとしていたのである。そしてその「俗界ではない、別天地」といっておるところに、俗界は相手にするに足らないという心のひらめきが見られるのではなかろうか。
 
  独り酌んで孤影に勧《すす》め
  閑《のど》かに歌う 芳林に面《まむか》いて
  長松よ 爾《なんじ》は何をか知らん
  蕭瑟《さわさわ》と誰《た》が為に吟ずる
  手は舞う 石上の月に
(254)  膝には横たう 花間の琴を
  此の一壺《ひとつぼ》よりの外
  悠悠たるは我が心に非《かな》わず
 
  獨酌勸孤影
  閑歌面芳林
  長松爾何知
  蕭瑟爲誰吟
  手舞石上月
  膝横花間琴
  過此一壺外
  悠悠非我心  (独酌)
 
 春月の下に独酌せる酔興を歌うた詩であって、一篇は十二句より成るが、ここでは、はじめの四句を省いて引いた。
 「独り酌《く》んで孤影に勧《すす》む」は、自分のわびしげな影法師を相手にして酒を飲むのであり、「閑《のど》かに歌う 芳林に面《まむか》いて」は、わが歌声とともにあるのである。この二句に作者の孤独感は十分うかがわれよう。さりながら、わが影法師に対してもわが歌声に対しても、しみじみとした愛情をそそいでおるというような趣きは殆んど感じられず、ただ一時の友としているに過ぎないかに見える。つまり作者は、わが孤独を孤独として楽しんでいたのであって、孤独なる自己を凝視することが乏しかったのではないか。
 もともと李白には、その詩趣においても詩句においても、陶淵明の作に本づいたものがいくらかあるが、この「独り酌んで孤影に勧む」の句も、実は淵明の「雑詩」の二によったのである。淵明はいう、「言《かた》らんと欲すれど予《われ》に和するなし、杯《さかずき》を揮《あ》げて孤影に(255)勧む」と。心中の悩みを語ろうにも理解してくれるものとてはなく、とり残されたようなわが身の寂しさ。そういうわが身の寂しさをまざまざと写し出した影法師がいかにもあわれである。こういった情感が淵明の句からはにじみ出ているように思う。ところが李白のこの孤影からは愛情はあまり感じられないで、むしろ写景的な気分が感じられる。淵明の「飲酒」の序の「影を顧みて独り尽くし〔十字傍点〕、忽焉《こつえん》としてまた酔う」によったところの「壺を傾けて幽酌を事とし、影を顧みてまた独り尽くす〔十二字傍点〕」(北山独酌、寄韋六)についても、同様のことがいえよう(李白の「月下独酌」の一は、ここに引いた「独酌」とほぼ同じ主題を歌ったものであるが、そこに出てくる「影」は、写景的気分が一層濃い)。
 「長松よ 爾《なんじ》は何をか知らん」以下の四句は、あらまし次の如き意味であろう。
 長松よ、爾はもと無情のものであるから、何も知らないはずである。しかるに今、ものさびしげに吟ずるところをみれば、定めし、わが心を知って、慰めようとしておるのであろう。よしさらばわれはその吟声に合わせんものをと起ち上って、月下の石上に舞いの手の影を落しながら舞いつづけ、舞いつかれては花間に坐して琴を弾ずる。
 ここでも作者は自己の孤独を意識しつつも、長松をばただしばしの友としておるだけで、それと融合していない。
(256) 最後の二句は甚だ難解であるが、「この一壺の酒さえあればよく、この酔境の外にある、あの世間の俗物どもは、すべてわが心と無関係である。」およそこのような意味ではあるまいかと思う。「悠悠」の語は大体、晋宋以来の作品にしばしば用いられておるが、李白の「雑詩」にも「悠悠人」の用例があって、それは平凡人の意味らしく、李白よりやや後輩の張謂《ちようい》の「贈喬琳詩」には「知己」の語に対して使われた「悠悠」があって、それは冷淡な人人とか、疏遠な人人とかの意味らしい。ここの用法もそれらとほぼ似た意味であろう。
 最後の二句の解釈が、甚しい見当ちがいでないならば、この詩においても、孤独なる自己を、ことさらに世俗より高く持しておる李白が見られる。
 右の諸例において知られる如く、李白の孤独感の中には、超越の境にいてなおかつ孤独を感じ、しかもその孤独感には、みずから高くかまえてその孤独を楽しむという気持と、他と融合しきらない気持とを伴うているものが、あるのである。このような性質のあらわに認められる孤独感は、従来殆んどなかったところではあるまいか。
 では李白において、どうしてこのような孤独感があり得たのか。それは孤独感そのもののつきつめ方の問題であり、その人の性格の問題である。以下いささか、そのことに(257)ついて述べよう。
 さきに杜甫のことを述べたところで、杜甫は人情のたよりなさを感じとり、それをつきつめて、人間の孤独性を認め、万物それぞれの立場に同情するに至っていたといったが、李白もまた人情のたよりなさを感じとっていた。次の二つの詩からそのことが読みとられる。
 
  他人の方寸の間
  山海 幾千重《いくせんちよう》なり
  軽《かろがろ》しく朋友に託すと言うも
  九疑の蜂に対面《まむこ》うがごとし
 
  他人方寸間
  山海幾千重
  輕言託朋友
  對面九疑峰
 
 君臣の交り、朋友の交り、つまりは人間の交りというものが、ながつづきしないものであることを歎いた作に「箜篌謡《くごよう》」と題するのがあって、その中にこの四句がある。この四句は難解であるが、そのおおよその意味は次の如くであろう。
 他人の心のうちは、幾千重の山海を隔てたるかの如くわかりにくい。それで、世間で(258)はよく、気軽に朋友にたのむとか、まかせるとかいうけれども、その朋友たるものの心の中はとてもわかるものではない。九疑山はそれぞれ名をもつ九つの峰から成るが、その九つの峰は互によく似ておるので、どれがどれやらさっぱりわからぬという。そういう九疑山の峰峰とむきあっておるように、朋友の心の中はわからない。
 他人の心のうちは、とてもわからないというのは、人情のたよりなさを感じとったことである。もっとも李白はそのことを決して好ましいこととしていたのではない。好ましいことではないが、人間の現実の姿が、確かにそういうものであると観じていたのである。
 「樹中草」と題する作に、鳥が野草をくわえて来て、枯れた桑の木の上に誤って落したところ、やがてその野草は桑の木の上に積っていた土に根をおろして生え出したことをいい、その次にいう、
 
  草木は情の無きものなれど
  因り依りて尚お生くべし
  如何《いかに》せん 枝葉を同じくしながら
(259)  おのがじし枯と栄とのあるを
 
  草木雖無情
  因依尚可生
  如何同枝葉
  各自有枯榮
 
 草木はもとより無情のものである。それでもこのように互に助け合うて生きることができる。ところが、一本の木から生えた同じ枝葉でありながら、片方に枯れたのがあり片方に茂ったのがあって、一向に助け合わぬのをどうしよう。
 これは兄弟同志、ひいては人間同志が、往往にして示す非情さを歎いたものである。このように人間は互に非情さを示し合うものであると観ずることは、人間は所詮おのがじし別物であると観ずることである。
 これらの詩から推せば、李白もまた、人情のたよりなさについて深く感じていたことが知られ、従って人間の孤独性について、少くとも或る程度の意識はしていたであろうと思われる。その点、杜甫の感じたところと同じであるといえるであろう。がしかし、そう感じさせられるに至った過程は、二人互に異るのみならず、そういう感じの処理のしかたもまた、必ずしも同じでない。
 杜甫が人情のたよりなさを感じたのは、主として、漂泊の旅での貧窮の生活に悩むことからであった。しかるに李白は主として、不遇ということからである。
(260) 「君馬黄」と題する作に、二人の騎馬の朋友を写して、
 
  君が馬は黄《きいろ》
  我が馬は白し
  馬の色は同じからざれど
  人の心は本より隔つるなし
 
  君馬黄
  我馬白
  馬色雖不同
  人心本無隔
 
 黄色の馬と白色の馬と、乗っておる馬の色こそちがえ、二人の心は少しもしきられずして全く一つである。――こう打ち出し、つぎに、この二人が、ともに朝に仕え、長剣を輝《かがや》かせ、高冠も鮮かに、洛陽の市中を乗りまわしておる得意のさまをのぺ、最後に、
 
  猛虎も陥穽《かんせい》に落ち
  壮夫も時に屈厄す
  相知るは急難にこそあれ
  独り好しとするまた何の益かあらん
 
  猛虎落陷穽
  壯夫時屈厄
  相知在急難
  獨好亦何益
 
(261)と結ぶ。すなわち、百獣の王といわれる猛虎でもつい落し穴にひっかかることがあるように、意気天を衝《つ》く壮夫も時には窮厄にあうことがある、そういう急難の際にこそ相知の助けが必要なのであって、自分だけ得意になっていて、友を急難から救おうとしないのでは何の役にもたたない、というのである。ここに「屈厄」といい、「急難」というのは、生活上の困窮を意味するのでなく、恐らく讒言などによる官途上の失脚を意味するのであろう。
 この詩の趣意は、人間は、ともに順調である間こそ、知己だとか相知だとかいうけれども、一方が不遇に陥ると、とかく、助けようとしないものだ、ということを諷するにあると見たい。この作などはその歌い方がまだ娩曲であり一般的であるが、もっと直接に自分のことを歌ったものも少くない。
 「従弟なる南平太守の之遥《しよう》に贈る」(贈従弟南平太守之遥)詩二首は、李白が夜郎流罪を赦されて後の作、恐らく乾元二年(七五九)五十九歳の作とされておるが(王※[王+奇]『年譜』)、その第一首に、自分に対する他人の態度の変化をのべていて、かつて翰林院《かんりんいん》に在って得意の生活をしていたときは、
 
(262)  当時《そのかみ》わが微賎なるを笑いし者
  却って来って謁《おめどおり》を請うて歓《よしみ》を交《か》わす
 
  當時笑我微賤者
  却來請謁爲交歡
 
という状態であったのに、その後、
 
  一朝《ひとたび》 病と謝《ことわ》りて江海に遊ぶや
  疇昔《さきのひ》の相知は幾人か在る
  前門には長揖《ねんごろにいや》して後門は関《とざ》し
  今日は交りを結んで明日は改む
 
  一朝謝病遊江海
  疇昔相知幾人在
  前門長揖後門關
  今日結交明日改
 
となってしまったといっておる。「前門」「後門」は、時の前後の上からいう。
 天宝三載(四十四歳)以後の作、「新平の少年に贈る」(贈新平少年)詩に、
 
  放《ふる》き友すら相恤《あいめぐ》まず
(263)  新しき交りいかでか衿《あわれ》みをしめさん
 
  故友不相恤
  新交寧見矜
 
といって、朝廷より追われて零落せる我を、故き友は見て見ぬふりをし、新たに得た知人はなおのこと、少しも憐れんでくれないことを歎いておる。
 かくの如く、李白は、己が不遇の際に体験した知友のつれない態度に、つくづくとあいそをつかし、その非情さを歎き憤っているのである。こういう歎き憤りを重ねておるうちに、やがて、
  他人の方寸の間
  山海 幾千重なり
に見られるような、人情というものはすべてたよりないものであること、ひいては人間は所詮一人一人のものであること、そういうことを感得した境地に達したのであろう。
 ところで李白は、人情というものが、いかにたよりないものであるかをしみじみと感じてはいたものの、それは概ね他人が己れに対してとった態度だけを見て感じたものであって、一歩退いて己れ自らを省みて、自分が他人に対してとった態度がどうであったかと吟味してみたというようなことは、彼の作品において、殆んど認められない。この(264)点、かの杜甫が、「浩蕩たり 報恩の珠」といって、「何も他人を薄情などと責めるまでもない。自分だって少しもご恩返しをしないではないか」(二二五−二二六頁参照)という意味を歌っているのと、異るところである。
 されば李白は、人情のたよりなさ、ひいては人間の孤独性について、じっくりと味わってみるというよりも、むしろあっさりと、多寡《たか》をくくつてしまっていたのではないかとさえ思われるふしがある。というのは、つぎの詩句から、そのような気持が汲み取られるからである。
 
  廓落《むなし》くなりぬ 青雲の心
  交りを結ぶがために黄金は尽きたり
  富貴となればかえって相忘れ
  人をして忽《たちま》ちみずから※[口+西]《わら》わしむ
 
  廓落青雲心
  結交黄金盡
  富貴翻相忘
  令人忽自※[口+西]  (送趙判官赴黔府中丞叔幕)
 
 かつて懐いた青雲の志は遂に達せられず、今や全く空しくなってしまった。思えば、志を達する手段として豪傑の士と交りを結ぶために、万金をつかいはたしたことである。
(265) しかるにそうして交りを結んだ相手も、一旦富貴の地位を得れば、こちらのことなど、がらりと忘れてしまう始末で、廿かった自分の愚かさ加減がおかしくなる。――右の四句は、あらましこのような意味であろう。
 ここで特に「人をして忽《たちま》ちみずから※[口+西]《わら》わしむ」(令人忽自※[口+西])の句に注意したい。かかる用法の「人」は、第一人称を第三人称視した、すなわち「我」を客観化した言い方であって、自分はじめ誰だって、という意味を含む。「自※[口+西]」とは、自分で自分の愚かさをあざわらうのである。それでこの句は、「万金をつかいはたした結果がこのざまで、思ってみれば、まことにつまらぬことをしたものだと、自分の愚かさが、にわかにおかしくなる」という意味となろう。ここに、人情のたよりなさを、さまでつきつめないで、ありがちのこととして、かたづけておる気持がうかがわれる。
 では、李白はどうしてかくの如き気持をもつに至ったかというに、それにはわけがある。そもそも彼は自分の才能に対する自信が極めて強く、しかも世人は賢と愚とをとりちがえておると深く信じていた。そこで自分の才能を認めないのは、認めない方に見識がないからだとしていたのである。だから、まことにつまらぬことをしたと、自分の愚かさをわらったのも、見識のないものを相手としていた、その愚かさを自嘲したのであ(266)って、その自嘲はむしろ自負心の形を変えたものといえよう。
 不遇とは、才能に相当する地位が与えられないことである。だから自分が不遇であると思うことは、自分の才能についての自信――たとえ他人から見れば、それは単なる己惚《うぬぼれ》に過ぎないにしても――がその前提をなす。中国の詩人で自分の才能に自信を持ち、自分の不遇を歎いたものは多い。しかし李白ほど、不遇を歎き不遇を憤り通した人は、けだし少いであろう。それだけにまた彼の自信は強かったのである。
 
  長《たけ》は七尺に滿《た》らずとも、心は万夫に雄たり。
  雖長不滿七尺、而心雄萬天(与韓荊州書)
 
  独酌していささか自《みずか》ら勉《つと》む
  誰か貴ばん経綸《けいりん》の才を
 
  獨酌聯自勉
  誰貴経綸才  (玉真公主別館苦雨、贈衛尉張卿、其一)
 
  才力なお倦《たの》むべし
  世上の雄たるに慚《は》じず
 
  才力猶可倚
  不慚世上雄  (東武吟)
 
(267)  天の我が材を生める必ず用うるあり
  千金は散じ尽くせばまたまた来らん
 
  天生我材必有用
  千金散盡還復來  (将進酒)
 
  奈何《いかに》せん 良《よ》き図《はかりごと》を懐きながら
  鬱悒《うつゆう》として独り愁えて坐するを
 
  奈何懷良圖
  鬱悒獨愁坐  (酬崔五郎中)
 
 これらは李白の自信のほどを知るに足る資料であるが、この類のものを拾い出せば、まだいくらでもある。自信が余りに強きが故に時には不遜とも尊大とも見える言となった。
 
  終然《つい》に賞を受けじ
  時人と同じきを羞《は》ず
 
  終然不受賞
  羞與時人同  (五月東魯行、答※[さんずい+文]上翁)
 
 戦国時代の魯仲連の如く、大功を立てても、ついにその賞を受けないのを理想とするわれは、一般の人並であることを恥じとする、という意味であって、世人を見くだした(268)気持が読みとられる。この詩は、三十五、六歳ごろ、まだ朝廷に仕えない前の作であるが、その後、これとほぼ同じことを「東武吟」や「王司馬|嵩《すう》に留別す」(留別王司馬嵩)の詩にも歌っている。この功を立てながら、その賞を受けない態度を理想とすることは、既に晋の左思の「詠史詩」に歌われていて、李白は恐らく左思の影響を受けたのであろうが、左思の詩には、時人を見くだす気持は出ていない。李白はまた歌う、
 
  古《いにしえ》を好んで流俗を笑う
  素《もと》より賢達の風を聞けり
 
  好古笑流俗
  素聞賢達風  (東武吟)
 
 古の賢達の風を聞き、それを好んでおるわれは、世俗の輩を冷笑するというのである。
 
  世人は〓※[奚+隹]《さかばえ》のごとし
  いかでか梅生を識《し》るべき
 
  世人若〓※[奚+隹]
  安可識梅生  (留別西河劉少府)
 
 「〓※[奚+隹]」は『荘子』の田子方《でんしほう》篇、『列子』 の天瑞《てんずい》篇に見え、酒甕《さかがめ》などにわく小さい羽(269)虫。「梅生」は漢の梅福のことで、劉少府に比した。この句は劉少府が認められないのを歎き、暗に李白自身の不遇の感をこめたものであるが、それにしても「世人は〓※[奚+隹]《さかばえ》のごとし」といいきったところに、李白の不遜さが見られる。
 もっとも、自分を他人以上に評価したがるのは人情の常であって、杜甫にもそうした気分がなかったとはいえない。例えば、
 
  世人はみな鹵莽《おろそか》なるも
  吾が道は艱難に属す
 
  世人共鹵莽
  吾道屬艱難  (空嚢)
 
 世人はみなよいかげんな生き方をしておるが、自分は己の道を守るために難儀をする、という。また、
 
  眼辺に俗物なければ
  多病なるもまた身は軽し
 
  眼邊無俗物
  多病也身輕  (漫成二首、其一)
 
(270)目ざわりになる俗物がいないから自分は多病ではあれど身が軽い気特だ、という。
 これなどによれば、確かに杜甫も、自分を鹵莽なる世人と区別し、また俗物とも区別しておる。けれども、世人の上に、俗物の上に、みずから高くかまえるというような気特は殆んど感じられない。
 このように、時流と撰を異にすると信じて、高くかまえていた李白は、天宝元年(七四二)四十二歳のとき、玄宗に徴されて、約三年間仕えただけで、天宝三載|讒言《ざんげん》によって官を退いてからは、宝応元年(七六二)六十二歳を以て歿するまで、不遇で過したのである。この不遇の原因については、李白みずから、
 
  苦笑す 我が誇誕《こたん》を
  知音《ちいん》いずくに在らんや
 
  苦笑我誇誕
  知音安在哉   (贈王判官、時余帰隠居廬山屏風畳)
 
といって、ほらふきと苦笑されて相手にされなかった我が身を、自分もまた苦笑し、さらに、
 
(271)  一生 傲岸にして諧《かな》わざるに苦しむ
  恩は疎《そ》に媒《ばい》は労して志は多く乖《たご》う
 
  一生傲岸苦不諧
  思疏媒勞志多乖   (答王十二、寒夜独酌有懐)
 
といって、自分の傲岸のために世間と調和できないで一生苦しんだと述懐してもおるが(もっとも、この詩を明の蕭枠可《しようすいか》は後人の偽作という)、しかし李白は、恐らく、調和しようと進んで努力するということは、しなかったであろう。のみならず、自分を不遇ならしめたのは世間が勝手に棄てたからだという口吻《こうふん》さえ見える。
 
  我はもと世を棄てざるに
  世人はみずから我を棄てたり
 
  我本不棄世
  世人自棄我    (送蔡山人)
 
 この句は、或いは蔡山人の立場からいえるものかも知れない。それにしたところで、少くとも李白の平素の考えが託されておると見て間違いなかろう。直接にせよ間接にせよ、こうぬけぬけいわれると、却って愛敬になる。
 では何故に世人は勝手に我を棄ててしまったのか。それは世人に人物を見わける眼が(272)ないからだと、李白は語を変え筆を改めて憤りつづけるのである。
  流俗には錯誤おおし
  豈《あ》に玉《ぎよく》と※[王+民]《ぎよくびん》とを知らんや
 
  流俗多錯誤
  豈知玉與※[王+民]   (古風、其五十)
 
 「君子は玉を貴んで※[王+民]を賤しむ」と『礼記《らいき》』 の玉藻篇にあるが、世人はとかく物の真価をとりちがえがちで、玉と、玉に似て非なる※[王+民]という石との区別がつかない、とそしり、※[王+民]のような見せかけの人間が貴ばれて玉のように優れた自分が棄てられておる不満を託したのである。
 
  世に洗耳翁なし
  誰か堯と跖《せき》とを知らんや
 
  世無洗耳翁
  誰知堯與跖   (古風、其二十四)
 
 堯が許由に天下を譲ろうとしたところ、許由は聞くもけがらわしいとして、耳を穎川《えいせん》の水で洗ったという話が、『高士伝』に見えるので、「洗耳翁」は許由を指すが、ここで(273)は、聞くべきことと聞くべからざることとを、はっきりと区別できる人、すなわち高い見識をもつ人の意味に使ったのであろう。「跖」は盗跖という大泥坊。この詩に託せるところは前例と同じい。
 
  白玉もて斗粟《とぞく》に換え
  黄金もて尺薪《せきしん》を買う
  門を閉ずれば木葉|下《ふ》り
  始めて覚ゆ 秋にして春にあらざるを
 
  白玉換斗粟
  黄金買尺薪
  閉門木葉下
  始覺秋非春    (送魯郡劉長史遷弘農長史)
 
 はじめの二句は、高い代償をはらって平凡なるものを少しばかり買う意味で、世人がつまらない人間を貴んで、却ってすぐれた人物を貴ばないのを、そしったのであろう。おわりの二句は、貴ばれない人物、すなわち自分のわびしい気持を写す。
 
  榛《はしばみ》を樹《う》えて桂を抜き
  鸞《らん》を囚《とら》えて※[奚+隹]を寵す
 
  樹榛跋桂
  囚鸞寵※[奚+隹]  (274)(万憤詞、投魏郎中)
  梧桐に燕雀《えんじやく》を巣《すく》わせ
  枳棘《いばら》に鴛鴦《えんおう》を棲ましむ
 
  梧桐巣燕雀
  枳棘棲鴛鴦   (古風、其三十九)
 
 この二つも、清濁賢愚その位置を転倒させておる世の中をそしったのであるが、つぎの詩句に至っては、更に筆を極めてこのことをののしる。
 
  ※[奚+隹]は族《やから》を聚《あつ》めて食を争い
  鳳《おおとり》は孤《ひと》り飛んで隣《とも》なし
  ※[虫+偃の旁]※[虫+廷]《やもり》にして竜を嘲《あざけ》り
  魚目にして珍《たま》に混《まじ》る
  ※[女+莫]母《しこめ》が錦を衣《き》て
  西施《よろしめ》が薪《たきぎ》を負う
 
  ※[奚+隹]聚族以爭食
  鳳孤飛而無隣
  ※[虫+偃の旁]※[虫+廷]嘲龍
  魚目混珍
  ※[女+莫]母衣錦
  西施負薪      (鳴皐歌、送岑徴君)
 
 右に示した諸例によって、世人の眼のなさを李白は如何に憤っていたかが知られる。
(275) 「君平すでに世を棄て、世もまた君平を棄てたり」(古風、其十三)とも李白は歌っておるが、この漢の厳君平の如く、自分も世を棄て、世もまた自分を棄てたのなら、これはおたがいさまともいえるであろう。しかるに李白にあっては、「我はもと世を棄てざるに、世人はみずから我を棄てた」のであった。李白は世人から無視されておると感じていたのである。さればこそ「世路は秋風の如し、相逢うて尽《ことごと》く蕭索《ものさぴ》たり」(遊敬亨、寄崔侍御)の歎きも出たのであろう。
 自分の才能についての自信が強ければ強いほど、それを無視された憤りは深いはずであって、そういう憤りが強く出ておる作品もある。
 
  烈士は玉壺を撃《たた》き
  壮心にして暮年を惜しむ
  三盃のみほし 剣を払《はろ》うて秋月に舞えば
  忽然《たちま》ち 高《こわだ》かに詠《うた》いながら涕泗《なんだ》の漣《こぼ》るる
 
  烈士撃玉壺
  壯心惜暮年
  三盃拂剣舞秋月
  忽然高詠涕泗漣   (玉壺吟)
 
 これは、四十四歳にして朝廷を退いた後、不遇の境においての作であろうが、玉壺も(276)われよとばかりたたきつけて、齢の傾きを惜しんだのも、剣をふりまわして秋月の下に舞い、声高らかに歌うたのも、歌いながら、ふと涙のこぼれて来たのも、すべて心の奥にわだかまる深い憤りがそうさせたのだと解される。いささか主観に過ぎるのそしりを免れないが、こういう憤りを、李白は、恐らく一生もちつづけたのであって、その作品には、この憤りの情が基調となれるものが、案外に多いのではないかと思う。
 さて世人から自分の真価が認められないと感ずることは、いいかえれば周囲から拒否されておる自分を感ずることである。そして、周囲から拒否されておる自分を、自分でしげしげと眺めるとき、そこに孤独感が涌くのであって、李白の作品に、こうした孤独感を歌ったものが少なくない。しかし、いまここで特に注意したいのは、周囲から拒否された原因についての、李白の考え方である。
 おおざっぱにいって、周囲から拒否されたと感じていた人はいくらでもあった。その代表的なものとして、すでに屈原・宋玉以下数人を挙げておいたのであるが、これらの人人は、拒否された原因を、主として自己の抱懐せる信念の正しさということだけにおいたか、または「時」とか「命」とかの超人間的な力に帰せしめたか、それとも社会の制約に帰せしめたかである。ところが李白にあっては、自分が拒否された原因を主とし(277)て世人の無理解・不見識に見出しておるのである。もっとも、李白とても、「時」ということに全く無関心であったわけではなく、「時なるかな 苟くも会せず」(贈崔郎中宗之)などともいっておる。けれどもかかる例は極めて少ないのみならず、その「時」も運行してやまない「時運」というよりも、ただいまの「時世」という色彩の濃いものである。
 こういうふうに見て来ると、世人の無理解・不見識こそ、自分が拒否された原因であると考えたところに、李白の生き方、従って創作態度の、一つの特色があり、ひいてはその孤独感にも影響しておるといい得るであろう。
 さて、李白がかくの如く、自分の拒否された原因、つまりは自分の不遇の原因を、主として周囲のものの責任に帰せしめたのは、その自信の強さがそうさせたのであろうが、強き自信はとかく自負を伴い、自負するものはおのずから他をないがしろにしがちとなる。すでに二六六−二六八頁に例示したような、みずから尊大にかまえた詩の作られた所以《ゆえん》はここにあろう。
 そしてまた、かくの如くみずから高くかまえる人には、自分を他人の位置におき換えて、しんみりと他人の気持になりきってみるということはできないものである。これは人情の自然といってよい。さきに、李白はおぼろげながらも人間はおのおの別物である(278)との意識をもつに至っていたろうと述べておいたが、そういう意識をもっていたろうと推定されるにもかかわらず、李白の作品には、杜甫に多く見られるような、他人の気持になりきったところの、真の同情から生れたものが、余りに少ないのは、一面においては恐らくこうした自負心のさせたわざであろう。
 自負心というものは、他人蔑視と、うらはらである。他人を蔑視することは、少しおおげさにいえば他人を敵視することと連なり易い。まして自己不遇の原因が他人にあると意識するものにおいてはなおさらである。そのような人における己と他との関係は、全く「君が情と妾が意とは、各自《おのがじ》し東と西とに流る」(妾薄命)となる。
 そうした敵視にも近い疏隔の感をおこさせる周囲の中に、己が身をおくということは、決して愉快なことではない。こうなると、「我はもと世を棄てざるに、世人はみずから我を棄てたり」と如何に考えていても、それは理窟だけのことであって、感情としては、どうしても「我もまた世人を棄て」ざるを得なくなる。仙に関した詩、酒に関した詩の多いことで、李白は有名であるが、彼がそれほど人外の境を愛し、酔境を愛したその主なる理由は、このような感情の動きにあったのではないか。しかもこのような感情の動きとも思われるものが、作品のところどころに表われておる。
 
(279)  刀を抽《ぬ》いて水を断《た》てば水は更に流れ
  杯《さかずき》を挙げて愁えを消せば愁えは更に愁う
  人生 世に在りて意に称《かな》わざれば
  明朝は髪を散《さば》いて扁舟《こぶね》を弄ばん
 
  抽刀斷水水更流
  擧杯消愁愁更愁
  人生在世不稱意
  明朝散髪弄扁舟   (宣州謝※[月+兆]棲、餞別校書叔雲)
 
 この四句は、十二句から成る送別の詩の、終りの部分であるが、送別の意味と直接の関係はなく、主として作者の主観をのべたものである。大意は次の通り。
 刀をひき抜いて、ずばりと流水を断ちきっても、水はまたもや流れつづけてやむことを知らない、その如く、酒を飲んで胸中の愁えを消しても、愁えのやつめ、またぞろ愁いだしてはてしがない。このように、人間は(または一生涯)ろくでもないこの世に住む限りは、気にくわぬことばかりだから、よしっ、早速、明朝にも、髪をふり乱した自由な姿で、ひろぴろした湖水に乗り出し、小舟をあやつって気ままに過ごそう。そしてこのろくでもない世間と全く関係を絶とう。
 ここで特に注意したいのは「愁え」と「世」との意味である。
(280) この「愁え」は、或いはこの場での離別の悲しみにも関係があるかも知れない。しかしそれにもまして、その内包を占めるものは、恐らく「世に在りて意に称《かな》わざる」ことであろう。つまり平素から胸中に鬱積する不平・不満・憤慨、こういう複雑な感情、つまりどうにもならない孤独感が、この「愁え」の意味であると見たい。
 一体、杜甫もそうであるが、李白もまた甚だしばしば、「愁」の語を使う。そして李白の「愁」には、その場で触発された、一時的のせつなさというよりも、胸底にひそむ憤慨の情が、ふとよみがえって来て、どうにもやりきれない、そういうせつない孤独感を意味するものが、いくらもあるように思う。ここもその一つである。
 つぎに「世」であるが、これは、語るに足らない俗物どものはびこる世間を指す。すなわち「世人はみずから我を棄てたり」の「世人」が住む世である。そういう「世」だから、そこに身を置く限り「意に称わない」のであり、孤独なのである。
 「愁え」と「世」とをこのように解すれば、「刀を抽《ぬ》いて水を断《た》てば水は更に流れ」の句も、単に次の「杯《さかずき》を挙げて愁えを消せば愁えは更に愁う」をおこす譬喩《ひゆ》のはたらきをしておるだけではなく、もっと含むところがあると見たくなる。恐らく李白は、「刀を抽いて水を断つ」所作をすることによって、もしくはその所作を思い浮かべることによ(281)って、「愁え」の流れをもずばりと断ち切りたい気持になっていたのであろう。
 さて、さきに引いた四句について右のように吟味してくれば、この四句の基調をなすものは、「愁え」すなわち「世に在って意に称わざる」孤独感であるとわかるであろう。そしてそれによって、「明朝は髪を散《さば》いて扁舟《こぶね》を弄ばん」は、この「愁え」を払い落すがための手段であることが非常にはっきりしてくるのである。
 もちろん、渺茫《びようぼう》たる大潮の静水に一艘の小舟を浮かべて、行くて定めず漂うことは、思うただけでもすっきりした気持になり、それはそれだけで甚だ魅力を持つ。けれども李白は、少くともこの詩における李白は、ひたすらその魅力に惹かれて何でもかんでも出かけようというのではない。酒で消そうにも消しきれぬ、やりきれない愁えをふり払うために、そこへ出かけたいというのである。
 なお「髪を散く」(散髪)とは、髪を結い冠をかむっていたのをやめて、のびたままの総髪をふりかぶる姿となることであって、『後漢書』の袁※[門/広]《えんこう》伝に「髪を散《さば]いて世と絶ち〔四字傍点〕、迹《み》を深林に投ぜんと欲す」の用例がある如く、この語そのままで、俗世を避ける意味を含む。だから「髪を散いて扁舟を弄ぶ」とは、俗世を避けることを象徴したのであって、文字通りに舟に乗ることだけを意味するのではない。
 
(282)  窮愁は千万端
  美酒は三百杯
  愁えは多きに酒は少けれども
  酒 傾《つ》きて愁えの来らず
 
  窮愁千萬端
  美酒三百杯
  愁多雖酒少
  酒傾愁不來   (月下独酌、其四)
 
 窮愁は何千何万と沢山あるが、美酒は三百杯も飲めばこと足りる。かく愁えの量の多いのに比べれば酒の量など知れたものだが、その酒を飲みつくして恍然《こうぜん》となると、さすがの窮愁ももはや襲うては来ない。
 「月下独酌」四首の、その四から、最初の四句だけを切り取ったのであるが、この「窮愁」の内容は、同じ「月下独酌」の、その三に問題とされている「窮通」(不遇と栄達)と「修短」(長命と短命)についての憂愁などがその主なるものであって、つまりさきの「愁え」と同じことであろう。「三百杯」は李白のしばしばいえるところで、「一日〔二字傍点〕すべからく三百杯を傾くべし」(襄陽歌)ともいい、「かならず一飲〔二字傍点〕に三百杯なるべし」(将進酒)ともいっておる。
(283) この詩は、少少おどけた作であるが、それにしても「酒 傾きて愁えの来らず」といえるところに、李白の飲酒の動機の一つが明かに語られている。これを、さきに引いた「杯を挙げて愁えを消せば」、それに「滌蕩《あらいなが》せり 千古の愁えを、流連《たのしみふけ》りて 百壺の飲に」(友人会宿)などと併せ考えればこのことが一層わかるであろう。
 彼は、「酔中の仙」(贈宣城宇文太守)、「酒中の趣」(月下独酌、其二)、「酔中の真」(擬古、其三)を愛しておるが、かくの如き心境を愛した動機、少くともその主なる動機は、「愁えの来らざる」こと、つまり憂愁から逃避するにあった。そして彼は「終日酔う」(春日酔起言志)ことによって、終日逃避しようと欲したのである。これを逆に考えれば、終日酔わざるを得なかったのは、その憂愁が大きかったからだということになろう。
 以上、李白が、人外の境を愛し、酔境を愛した主なる動機は、常に胸中に涌く憂愁を払うにあったことを述べたのであるが、これはいわばわかりきったことであり、また必ずしも李白にのみ見られることではない。それにもかかわらず、このことに筆を弄したのは、李白にあっては、それが甚だ明確に意識されていたと思われるからであり、そしてそのことを次の如き見方にもってゆきたかったからである。
 李白が憂愁を払おうとして著しく人外の境を愛し酔境を愛したことは、憂秋――孤独(284)感とまともにとりくんで、その悩みを深めてゆくということに、熱心でなかったことを物語るのではなかろうか。言葉を換えていえば、彼は現実の苦悩に肩すかしを食わせて、非現実の世界へ逃避することにつとめたのではないか。「人生 命に達すれば豈《あ》に愁うるに暇《いとま》あらんや、且《とま》れ美酒を飲まん 高楼に登りて」(梁園吟)と歌えるなどは、そのような態度をみずから語っておるのかも知れない。彼が楽天主義と見られ、快楽主義と見られるとすれば、実はこういう生活態度が、そう見せるのであろう。のみならず、さきにも述べた如く、自分を他人の位置におき換えて、しんみりと他人の気持になりきったという作品が、李白に少いのも、一面においては、こういう生活態度の生んだ当然の結果ともいえようか。
 そしてこの態度こそ、実は、超越の境にあってもなおかつ孤独を感じ、しかもそれはみずから高くかまえる気持を伴い、他と融和しない気持を伴いがちのものとなった、大きな理由であろう。といっても、このことによって李白の詩人としての価値をどうのこうのとあげつらうつもりは毛頭ない。世もさまざま、人もさまざま、いろんな生き方があるものだと思うだけである。
 
(285)  附録
     中国文学における融合性
 
 本篇は、昭和二十八年十二月十三日、広島の「二日会」第七回定例会に於て行った講演の速記録である。標題の如き問題は、学問的立場からは、そう軽軽に論断出来るはずのものではなく、私自身も今なおこの問題を深く追究し得ておるわけでもない。ただその会の性質上、厳密なる学術的講演をする必要もなかったので、軽い気持で思いつきを話したまでのものが、本篇となった次第である。だから読者諸氏も、軽い気持で読み捨てて下されば、それで結構である。がしかし、万が一にも、この類の問題について精研しようとする人人にとって、本篇が一片の捨石にでもなり得るならば、それこそ全く望外の幸である。                         (三〇・六・二九)
 私は、藤原さんに頼まれましたとき、つい「中国文学における融合性」という題に、しておきましたものの、あとで考えてみますと、なかなか困難な問題でありまして、大変困ったことになったと思ったのでありますが、今更致し方もありませんから、概略私の考を申し上げましょう。
 文学とは何かということになりますと、大変な問題でして、昔からどこの国でも、大(286)変むつかしい問題とされております。簡単な言葉で述べることは、とても出来ませんが、私は、文学というものは、要するに、人生をしみじみと味わうものだと思うておるのであります。世の中のことを、ただ素通りするのではなく、よくかみしめて、その味をじっくりと味わい、そしてそれを文字に表わしたものが、文学作品であると思うのであります。だから、読者は作品を読むことによって、またしみじみと人生というものを、味わってゆくのであります。
 ところが、人生の味わいを表わしますのに、味わいを味わいのまま表わす行き方と、もう一つは、味わいの結果得たところの一つの真理と思われるものを、主義主張という形にしまして、その主義主張を述べるということに、重点をおく行き方とがあるかと思うのであります。前者を、私は低徊《ていかい》文学と名づけ、後者を主張文学と名づけておるのであります。中国の文学におきまして、いわゆる韻文の形、韻文と申しましても、普通われわれが言う詩の外に、賦《ふ》・詞《し》などありますが、それらは大体、低徊文学であり、普通散文と言われておるものの大部分が、主張文学であります。そしてその主張文学というものは、とかく道徳とかあるいは政治などと、結びつきやすい性質を持っておるのであります。
(287) 文学と政治あるいは道徳との関係、これまた古今東西いつでも問題になるのでありまして、文学というものは、独自のものでなくてはいけない、あるいは、政治と結びつくべきものだ、あるいは、道徳と結びつくべきものだ、といろいろな意見がありますが、中国におきましては、漢の時代即ち西暦紀元前後一世紀、二世紀ごろの文学は、大体に於て、これは道徳に隷属した文学でありました。それが三世紀ごろに、魏の、あの有名な曹操《そうそう》、この人は主として武将として知られておりますが、それだけではなかったのでありまして、実はすぐれた文学者でもあったのですが、この曹操とその子の丕《ひ》、植《しよく》との親子三人が中心になって、非常に文学の鼓吹に力を尽したのであります。そのころに始めて純文学というものの価値が認められたのでありますが、曹操の子供の丕という人の言葉に、文学のいわば独立宣言とも言うべきものがありまして、それは、「文章は経国の大業、不朽の盛事なり。」というのであります。この言葉はあの西洋の「命は短いけれども、芸術は長い。」ということと、ほぼ同じ意味だと解してよいでしょう。こういうふうに、魏の時代から文学は独立するようになったのでありますが、その後また道徳、政治とからみあって、ずっと変遷して来ております。もし文学というものが、何かとからみあわなくてはならない、極端に言えば、何かの奴隷にならなければならぬのならば、こ(288)れは政治の奴隷になるよりも、道徳の奴隷になった方がよいと思います。なぜかと申しますと、政治の奴隷になりますと、文学は政治の宣伝機関になるだけであって、政治を批判することができません。しかし、道徳の奴隷になりますと、道徳の立場から、政治を批判することができます。政治の善い悪いに拘わらず、文学がただ政治の宣伝機関になってしまいますと、世の中のより一層の進歩ということは、望まれません。ところが、文学が道徳に隷属しますと、ほかの立場から、即ち道徳の立場から、政治を批判することができますから、こうなれば、社会の進歩に貢献する所が多くなりましょう。
 さて、文学は人生を味わうものだとして、それをどう表わすかという立場からみますと、さきに申した低徊文学と主張文学との二つに分けられるのでありますが、しからば、それを書きます時に、どういう題材をとるかという点から、これを考えてみますと、作者が、誰も気づかない人生の一面を鋭く把握して、こういうところに、人生の本当の姿があるのだというふうに、それを描写叙述しまして、そしてそれによって、読者に人生をまざまざと味わせる行き方が一つ。もう一つは、だれでも知っておることを、あるいは、前にもだれかが言ったことを、それをもう一ぺん取り上げて、今さらのように読者に人生を味わせるという行き方があると思います。つまり新しい材料を取って行く行き(289)方と、古い材料をもう一ぺん取り上げる行き方との二つがあるのです。ところで、中国の文学、何千年来の作品を通じて見られる中国文学の傾向は、どちらかというと、目新しい境地を開拓してゆくという積極的な努力は、あまり払われていないで、古いもの、従来もとりあげられたことを、何べんでも繰返して題材にしてゆくという、一つの特色を持っておるのであります。こういうように、前の人の言ったことを、あるいは、だれでも知っておることを、更に取り上げて、もう一ぺん人人にじかに味わせるには、どうしても表現の上で工夫をこらして書かなくては、人は相手にしてくれません。そこで、中国の文学におきましては、表現の工夫ということに、大変骨を折るのであります。
 元来、文学というものは、たとえ新しい題材を扱うにしましても、表現の問題を抜きにしては成立しないのであります。文学は内容が主か、形式が主か、ということも、古今いずれの時、東西いずれの国でも、よく問題にせられるのでありますが、しかし表現の工夫を全然やらないものは、これは文学ではないのであります。文学の発達を調べた人は、だれでもすぐ気づくことでありますが、文学のまだ十分進歩していない時代には、筋書き、つまり話の進みというものにのみ興味を持っておるのでありますけれど、それが相当発達しますと、筋書きよりも、いかに巧みに表現しておるかということに、興味(290)を持つようになってきておるのであります。
 とかくわれわれは、何でも思っておる通りに言えるもの、また言う通りに書けるもの、というふうに考えがちでありますけれども、実際は決してそうではありません。思っていることを、そのまま言葉で表わすなんてことは、殆んど不可能でありますし、また、口で話すその通りを、文章で表わすということも、殆んど不可能でありましょう。こういうことは、昔から中国人はちゃんと気がついていたと見えまして、
  書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。
  書不盡言、言不盡意
という言葉があります。これはよく引き合いにされる句で、孔子の言葉だとされておりますが、確かではありません。しかし遅くとも、西暦紀元前、一、二世紀ごろのものでありましょう。書いたものは、言葉を十分尽くして表わし得るものでなく、言葉というものは、思う通りを十分尽くして表わし得るものではない、という意味であります。大変、味のある言葉でありまして、まことにその通りだと思います。
 言語というものは、――一寸本筋からそれるかもしれませんが、言語というものは、自分の思いを表わすものでありますけれども、工夫をしないで使うと、かえって意思を(291)表わし得ないことになるものなのです。思う通りをこまかく、くどくどと言おうとすれば、かえって言い尽くすことができないものなのです。私はバスに乗って学校へ通うのでありますが、そのバスに――最近は目につきませんけれども――何月何日にDDTをまいたということを書いた表がかけられていましたが、その見出しが非常にふるっておるのです。それは、「予防消毒実施済表」と書かれてあったのです。これはまことに至れり尽くせりの書きかたであるけれども、さて消毒するのに、予防でない消毒があるのでしょうか。実施済とあるが、済まぬ実施ということはどこにもありますまい。丁寧に言おうとして、かえって要点をぼやけさせてしまっております。あるいはまた、バスの車掌さんがうるさく言う、「皆さまこれより路面が悪くなりますので、従って車体の動揺がはげしくなりますから、お気をつけください。」これまたまことに至れり尽くせりでありますが、しかしこういうふうにいわれると、車体の動揺するのは、何も道路が悪いためばかりではなく、自動車その物も悪いからではないか、とやりかえしたくなります(笑声)。簡単に「車が揺れますから御注意ください」といって、十分用がたされ、しかもその方が一層効果的であるのに、丁寧に言おうとして、長たらしくしゃべるものだから、言葉が稀薄になって、肝腎の要点がぼやけてしもうのであります。こういう現象は、言(292)葉だけではなく、法律などの文面でもおこることがないでもありません。いろいろなことをすべて漏れなくきめよう、あれもきめ、これもきめ、また一カ条の条文を書くにも、こういうことも入れ、ああいうことも入れ、というふうに手を尽くしますとかえって落ちてしまうことがあるのです。いわゆる法の盲点をつくということは、そんな所から起るのではないでしょうか。老子は「天網|恢恢《かいかい》疎にして漏らさず」といっておりますけれども、これでは、「人網細細密にして必ず漏らす」となり、逆の現象が起って来るのであります(笑声)。こういうふうに考えますと、話すことも書くことも決して容易ではないのでありまして、正しく自分の思想や感情を表わそうとするには、どうしても表現の工夫が必要となってくるのであります。ましてや、読者に美感を起こさせることを使命とする文学作品においては、尚更のことだといわねばなりません。そもそも言語というものは、時勢が混乱しますと、知らず識らずの間に混乱するものでありまして、中国の例を見ますと、混乱した時代には言語も混乱しております。日本でも同じでありまして、戦後は非常に言語が混乱しております。戦後四種の新聞について、私は一カ月間ほど言い方の統計をとってみたことがありますが、論説は非常に大切な文章でありますのに、どの論説の文章も申し合せたように乱れておると感じました――もっとも、最近はたい(293)へん落着きましたけれども。言語なんかは、どうでもよいと思う人があるかも知れませんが、実はそうではありません。言語はその人の考え方と表裏の関係をもつものでして、言語が乱れることは、考え方の乱れておる証拠なのです。話が戦後のことにそれたついでに、戦争中に使った面白い言葉の一、二について述べましょう。戦時から配給という言葉が使われ出しましたが、この言葉は、わが国でだれが使いはじめたのか知りませんけれど、実は中国で、三世紀、四世紀、おそらく四世紀ごろ使われておったようです。晋の時代に、王敦《おうとん》という人がありまして、天子の姫君を頂戴したのですが、その時つき従って来た美人が、百余人だったと申します。ところが、やがて世の中が大いに乱れて、その美人の処置に困ったので、それらを部下の将士に配ってやったということであります。そのことを歴史に、「これを将士に配給〔二字右○〕す」と書いてあります。これなどが配給という語の最も古い用例でしょう。もっとも公定価格はいくら、と書いてはありませんが(笑声)。それから最近まで牛田では、酒屋に「冠婚葬祭用酒配給所」という札がかかっておりましたが、これも甚だうまいことを言ったものです。しかし婚は結婚、葬は葬式、祭はお祭りということは誰でもわかるとして、さて冠とは何かと問われて、元服のことだと答え得る人は恐らく多くはありますまい。まして元服の実際など知っておる人は殆ん(294)どないでしょう。また事実、むすこの元服だから、酒を配給してくださいと言っていった人もなかったと思います。これなどは、簡にして要を得た古い言語をうまく使ったのですけれども、いかにせん、冠はもう死語であって、今の世には通用しないのです。ともかく適切に表現することは、なかなかむつかしいことです。
 さて、中国の文学におきましては、表現の工夫を非常に重んずるということをさきに申しましたが、それはどういうふうにすることかと言いますと、例えば、紀元前三世紀頃の作とされるものの中にこういう書き方があります。
 
  これに一分を増せばはなはだ長く
  これより一分を減ずればはなはだ短し
  粉をつくればはなはだ白く
  朱を施せばはなはだ赤し
 
  増之一分則太長
  減之一分則太短
  著粉則太白
  施朱則太赤
 
 これは美人の背丈色つやを形容した一つの表現です。もうまったく申し分のない背丈であって、一分足せば長すぎ、一分へらせば短かすぎるくらいのほどよさであり、おし(295)ろいをつければ白すぎ、紅をつければ赤すぎるほどの美しい自然の白さと、自然の色つやを持っているという意味であります。
 この文句を三世紀ごろ魏の作家がまねして、更に一層工夫をこらしたのが、つぎの書き方であります。
 
  ※[禾+農]織《じようせん》中を得
  脩短《しゆうたん》 度にかなう
  芳沢も加うることなく
  鉛華も御《ぎよ》せず
 
  ※[禾+農]織得中
  脩短合度
  芳澤無加
  鉛華不御
 
 大りすぎもせず、やせすぎもせず、ほどよさを得ており、高からず、低からずして、丁度であり、べになどは使わず、おしろいもつけない、という意味であります。この文句はさきほどの文句から来たのですが、表現に一層工夫をこらしたので、字数はへって、しかも内容が豊かになっております。あるいはまた、
 
(296)  君を思うこと流水の如し
  いずれの時かきわまりやむことあらん
 
  思君如流水
  何時有窮己
 
 河の流れのようにいつも君を思い続けて、決してきわまりやむことがない、という意味をこう表わしたのがあります。すると後の人が更に工夫をこらして、
 
  問う 君よく幾多の愁かあると
  恰《あたか》も似たり 一江の春水の東に向って流るるに
 
  問君能有幾多愁
  恰似一江春水向東流
 
 こういう風に作ったのです。あなたはどれぐらい深い悩ましい思いを持っておるかとお尋ねになるならば、私はこう答えるでしょう。それは、あたかもあの揚子江、しかも春の揚子江の水が滔滔と東に向って流れるが如く、無限の愁を持っておる、と。という意味でありまして、この表現は前文より字数は多くなったものの、よほど具象的になっていて、深い興趣をたたえております。すなわち前文を一歩進めたものといえましょう。こういう工夫を殆んど各時代の作者が繰返しておるのです。
(297) 中国の作者たちが、いかに表現に苦心したかという例をあげましょう。唐の賈島《かとう》という詩人が、月夜にそぞろ歩きをしている時、「僧は推《お》す月下の門」という句が思い浮かびました。月夜の美しさにうかれて、ぶらぶら歩いておるうちに、思わず知らず歩きまわって、友達の家の辺まで行った。もう夜もふけておれどついでに友達を訪ねてやろうという気持になった。この気持を「僧推〔右○〕月下門」の句で表わしたのですが、さて考えてみると「推す」というよりも、「敲《たた》く」とした方がよいような気もする。更に考えてみるとやはり「推す」がよいとも思う。どちらにしたものかと、手真似で推してみたり、敲いてみたりしながら、夢中になって歩いておると、たまたまそこを通りかかった行列にぶつかって、大変叱られました。そこで実はこうこういうわけで、と正直に申しましたところ、幸いにその行列の主人公が韓退之《かんたいし》という有名な詩人でしたので、「それは敲くの方がよかろう」といってくれました。それで賈島は「敲」にきめたという話があります。これは簡単な一字の問題ですけれども、非常に味わいが違ってくるのです。「僧推〔右○〕月下門」とすると、門は推せばすぐ開くのです。夜ふけに友達の家を訪ねて門がすぐ開くのは、あらかじめ通じておいたということになります。これはそうではなく、夜中に突然訪ねて行くのですから、どんどん敲いてやっとあけてもらうことが出来るのです。それ(298)で「敲」とするところに面白味があることになるわけです。こういう一字の工夫、たった一字でも非常に工夫をするのです。それで唐の詩人の中には、
 
  吟じ成る 一箇の字
  ひねり断つ 数根の髭
 
  吟成一箇字
  撚斷數根髭
 
とうたっている人があります。これは詩人が、推敲する自分のみじめさを自嘲的に言ったものです。たった一字を、髭をひねりながら工夫して、やっときまったときには、髭が何本もひねりきられておった、というのです。
 中国の文学は、こういうふうに表現に骨を折る文学ですから、その文学作品には、表現の工夫のこり固った幾つかの特色があります。そしてその表現上の特色に、おのずからその民族の考え方の特色がうかがわれるのは、まことに興味のあることであります。そこでその表現上の特色の一つは、「意、言外に在るを貴ぶ」――表向きの言葉の裏に意味のあるのを貴ぶ、ということです。その一例をあげますと、杜甫の有名な詩に「春望」というのがあります。
 
(299)  国 破れて山河 在り
  城 春にして草木 深し
  時に感じて花にも涙をそそぎ
  別れを恨んで鳥にも心を驚かす
  蜂火 三月につらなり
  家書 万金にあたる
  白頭 掻くに更に短く
  すべて簪《しん》にたえざらんとす
 
  國破山河在
  城春草木深
  感時花濺涙
  恨別鳥驚心
  烽火連三月
  家書抵萬金
  白頭掻更短
  渾欲不勝簪
 
 これは戦乱をいたんだ詩です。「国 破れて山河 在り、城 春にして草木 深し」とは、国都は破壊されてしまったが、山河は依然として存在しており、城下は春たけなわで草木が深深と茂っておるという意味です。しかし、山や河が依然として存在しておるとか、草木が深深と茂っておるとかということに重点があるのではありません。「山河在り」ということによって、実はもとあった都の立派な姿が今やすっかりなくなってし(300)まった、という深い悲しみをあらわそうとしておるのであり、「草木 深し」ということによって、実は今までたくさんの人が住んでいたこの街に、今やだれ一人も住んでおらないという深い悲しみをあらわそうとしたのであります。つまり、滅びたもの、なくなった人人に対する、詩人の深い情感がこめられておると見るべきでしょう。また、「時に感じて花にも涙をそそぎ、別れを恨んで鳥にも心を驚かす」というのも、花や鳥は非常に楽しいものでありますのに、その楽しい花にさえも涙をそそぎ、楽しい鳥にさえも胸をどきつかすということによって、まことに悪い世の中になったという深い歎きを込めておるわけなのであります。この詩のように言外に深い意味をもたせておるものが、高くかわれるのでありまして、いわゆる「眼光紙背に徹す」とは、こういう言外の意味を読みとることなのであります。
 このことを日本の俳句などで比較してみますと、一層はっきりするでしょう。たとえば、
  枯枝に烏とまりけり秋の暮
 あるいは、
  古池やかはづ飛びこむ水の音
(301)という句がありますが、この「枯枝に」の句は、秋の夕方の寂しさというものを、まず感じておって、そうして枯枝にとまった烏というものを、その象徴として出して来たものでありますか、あるいは、たまたま枯枝にとまっておる烏を見まして、それから秋の夕暮の寂しさというものをしみじみと感じたのか、どちらが先か、これは作者に聞いてみなければわかりませんが、いずれにしましても、秋の夕暮の寂しさを表わしておることには間違いありますまい。そこで、「枯枝に烏とまりけり秋の暮」という、この枯枝にとまっておる烏は、そのまま秋の夕暮と一直線です。秋の夕碁の寂しさと、枯枝にとまっておる烏の姿、それは一致しておるのです。ところが「国 破れて山河 在り」の方では、「山河が在る」ということによって、実は滅びたものを表わそうとしておるのであります。それから「古池や」の句にしましても、まず閑寂さを感じておって、それをかわずの古池に飛び込んだ音によって象徴したのか、たまたまかわずの飛び込む音を聞いて、それによって深い閑寂を感じたのか、どちらが先だったのかわかりませんけれども、いずれにしましても、その閑寂さということと、かわずが古池に飛び込む音とは一致しております。ところが、この詩は、表面の言葉と表わそうとする意味とは一致しておりません。つまり意味を言外に託しておるのであります。
(302) もちろん、中国の文学にも一直線に述べるやり方が全然ないわけではありません。たとえば唐の詩に、
 
  古道 人の行くなし
 
  古道少人行
 
という句があります(「稀」とか 「少」とかを、日本では、まれにある、少しはある、という意味につかいますけれども、漢文では、「ない」という否定の意味に用いるのです)。「古道 人の行くなし」は、古道をだれも通っておらぬという寂しさを見たままに表わしたのでして、
  此の道や行く人なしに秋の碁
の句は、これにもとづいたのでしょうが、ともかく、こういう一直線の行き方もないことはないけれども、こういうのはあまり高く評価しないで、むしろさきの杜甫の詩のような行き方を高く評価するのです。つまり言外に意味をこめたものを貴ぶということになりましょう。そこでこういうふうに、どんな行き方を高く評価するか、その評価の仕方によって、その民族のものの考え方がわかるのであります。
(303) この言外に意味をこめるということは、どんな考え方感じ方からきたのかと申しますと、「山河 在り」ということは、作者の頭の中には、田畑がきちんと整い家が立ち並んでいた、平和な時代と、山河だけがもとの姿である今とを対照して考えた結果、こういう句が生れたのでありますし、「草木 深し」ということは、人がたくさん住んで街が栄えておったときと、それがなくなって草木だけが茂っておる今とを対照して感じた結果、こういう句が生れたのであります。これはつまり、物事を対照的に考えるというところから、こういう表現が生れたのだといえましょう。そこでその根本問題は、対照的な考え方ということになるのでありますが、この対照的な考え方ということが、さきに申しました文学表現の幾つかの特色を形成しておるのであります。今述べました意の言外に在ることを貴ぶというやり方は、その特色の第一でありますが、次に対句という表現形式が、その対照的考え方を最も端的に表わしておることについて述べましょう。
 対句ということは、どこの国の文学にも見出されましょうが、しかし中国におきます対句には、わが国や西洋の対句とは違った形と味わいとがあるのであります。中国の対句は、形も内容も完全に均斉のとれた句を並べる行き方なのであります。たとえば、
 
(304)  饑歳《きさい》の春には、幼弟にも餉《しよう》せず、
  穣歳《じようさい》の秋には、疏客《そかく》にも必ず食《くら》わしむ。
 
  饑歳之春、幼弟不餉、
  穣歳之秋、疏客必食、
 
 饑饉年の春、去年収穫した僅かばかりのみのりは、はやなくなりかけておる。それで自分の子供には何とかして食わせるが、その子供についでかわいそうな小さい弟、そこまでは手が及ばぬ。ところが、穣歳すなわち豊年のその秋、収穫したばかりのときには、疏客すなわち縁故の薄い来客にも必ず食わせる。こういう意味で、これは完全な対句です。形式から申しますと、饑歳−穣歳、春−秋、幼弟−疏客、不餉−必食。こういうふうに均斉のとれた形式、しかも内容も均斉がとれておる。こういうのが、中国の対句なのです。右の対句を文句の上からだけ見ますと、饑饉年の春は、幼弟にも十分食わせないということと、豊年の秋は、疏遠なお客にもうんとごちそうするということと、二つのことを並べてあります。ところで、この対句の表わそうとする中心の意味は、並べてある二つのことがらにあるのではなくて、並べてある二つのことがらを、対照的に考えることによって、そこから生れ出る一つのことがらにあるのです。その一つのこととは何かといえば、人間の生活は結局、物質によって支配されるものだということなのであ(305)ります。言いかえれば、人間の生活は結局、物質によって支配されるものだ、ということを表わそうとして、饑歳……と、穣歳……との二つを対称的《シンメトリカル》に並べたのであります。右にあげた対句は、形式の上では、余り巧みな対句とはいえませんが、次の例は非常に巧みなものであります。
 
  三五夜中新月の色
  二千里外故人の心
 
  三五夜中新月色
  二千里外故人心
 
 白楽天が遠方におる友人のことを思って作った詩です。これは立派な対句でありまして、三五に対するに二千、夜に対するに里、中に対するに外、を持って来ており、新月に対するに故人、色に対するに心を持って来ております。あたかも積木をきれいに積み重ねたような形ともいえましょう。三五夜とは十五夜です。かつて友人とともに眺めた十五夜の月を古い月と見なし、今、目の前に澄みきっておる十五夜の月を新しい月と見なしたので、新月の色といったのです。これが第一句の意味。第二句は、あの友人は二千里のかなたで、何を思っておるであろうか、というだけのことです。ところが並べて(306)あるこの二つの句を対照して味わうと、そこに作者の友人をなつかしむ温い情が、しみじみと感じられるのであります。だから白楽天は、友がなつかしくてたまらぬという心、その心をこの二句によって表わしたのだということになります。日本でも対句ということは、ないことはありません。たとえば、『平家物語』の初にありますところの、
 
  祇園精舎《ぎおんしようじや》の鐘の声   諸行無常の響あり
  沙羅双樹《しやらそうじゆ》の花の色   盛者必衰《じようしやひつすい》の理《ことわり》をあらはす
 
 これは一種の対句なのです。しかし、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」も、世の中は無常だという意味であり、「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」も、世の中は無常だということを言っておるのでありまして、こういう二つを並べても、同じことを繰返しておるだけであります。従って二つを対照してそこからあるものを生産するという機能はありません。日本の対句はあるものを生産することのできないのが普通なのです。しかるに、中国の対句は、二つのものを別別に並べて、そうしてそれが対照されて、そこから夢の世界を生み出すというのが本質なのです。三五夜中と二千里外と(307)の対句、これと祇園精舎の対句とを比較しましたが、少し縁が遠いから無理かも知れませんので、人生無常ということを言った中国の対句と祇園精舎の対句とを比較してみましょう。
 
  天地は万物の逆旅《げきりよ》にして
  光陰は百代の過客《かかく》なり
 
  天地者萬物之逆旅
  光陰者百代之過客
 
 これも皆さんお若い頃に読まれたかと思いますが、天地というものは万物の宿屋だ。その宿屋に万物が宿っては帰って行き、宿っては帰って行きする。光陰とは日月です。運行する日月というものは、百代つまり永久の時代におけるお客さんだ。永久の時間があり、そこには日月があって、今日がおいでになったかと思うと、今月がおいでになったりして、今年は去ってしまう。しかし永久の時間はそのままある。天地は無限大の空間で、その無限大の宿にいろいろな万物がお宿りになり、さっさと行ってしまう。また無限大の時間の流れに日月というものがおいでになっては過ぎて行く。すなわち一つは空間的、一つは時間的、この二つのことを並べて対句になっておるのですが、これは何(308)を表わしておるかというと、この二句を対照して考えるときに、われわれ人間というものは、空間的に見ても、この大きな宿屋の中の極めて小さい一部に過ぎない。また、われわれの生命というものは、時間の支配、制限を受けておるから、永久の時間から考えれば、まことに些細な一人のお客に過ぎない。人生は非常に無常なものだということを言い表わしておるのであります。つまり、祇園精舎の鐘の声の趣旨と結局は同じことなのです。同じことだけれども、祇園精舎の対句は、無常のことを繰返していうに過ぎないのに対して、これは二つの違った空間と時間とを並べただけで、表面には人生のはかなさということを言わないで、この二つのことを併せ考えたときに、人生無常ということを生産するのであります。
 こういうやり方、こういう文学表現が発達したのは、結局彼ら民族のものの考え方がそういうふうになっておるからなのです。このような対句の発達をみたのは、その言語の性質に因るのだとも言えましょうけれども、そういう性質の言語を使うということは、結局それは言語だけの問題でなく、考え方の問題が根本ではありますまいか。そういうふうにものを考えるから、そういう言語になる。言語のために考えが支配されるのではなくて、民族独自の考え方が、民族独自の言語を生み出しておるのだと思います。彼ら(309)のものの考え方は、ものを一直線に考えることをしない。すなわち、前後左右をふり返りながら、古今上下を顧みながら進むという考え方、ふり返りながら、物事を引合いに出して並べては考え、並べては考える、そういう考え方をするのだと思います。並べながら考えるということは、これは結局単独のものを単独のものとして引きちぎってきて、そればかりに考えを打ち込むのではないのであって、言いかえると、全体の中における一部分として考えるということなのです。これは絵についても同じことがいえましょう。油絵で林檎《りんご》を描くとしますと、主として林檎というものに全力を集注する。林檎の色、形というものに全力を集注してぬりつぶし、そうして背景か何かをつけ加える。これが油絵の描き方であります。東洋の絵は、林檎を描くか花を描くかしましても、画面が宇宙なのです。この画面を非常に大事にする。画面そのものがはや芸術なのです。全宇宙を画面に象徴し、その全宇宙における一部として、全体の中の花なら花を線でくぎりとる。そしてそのくぎりとった形だけが大切なのではなく、この空間の――紙の広さとの関係、あるいは紙の色つやとの関係など考慮する。全体の一部分としてよく調和させながら描くというのが東洋画の行き方なのです。これは、すべて物事を一直線に考えないで、配合――いろいろなものとの関係において考えるということになるわけであります。(310)天地ということばは、天と地だけの意味ではなく、天と地とを対照的に考えて、空間の広さということを表わしておるのであります。日月でも同じことです。太陽と月とをただ二つ並べておるのではなく、太陽と月とを並べることによって、時間の悠久さというものを表わしておるのであります。陰陽でもそうです。陰のものと陽のものという意味ではありませんで、陰というものと陽というものを対照的に考えて、宇宙に充満しておるところの一つの気を表わします。男女も男と女というだけのことではなく、全人類ということなのです。大抵こういう行き方になっております。
 もちろん中国人だって直線的にものを考えることが、全然ないわけではありません。そのことにばかり食い入って、真相をつきとめようとする学派がなかったわけではありません。しかしそういうものは大体からいうと、曲士――へりくつや〔五字傍点〕とか蔽われた者とかいわれて、あたり前の行き方とはみなされておりません。一直線にのみ考える代表的なものは、名家といわれた連中がそれです。
  一尺のむち、日にその半をとらば、万世つきず。
  一尺之※[木+垂]、日取其半、寓世不竭。
 一尺のむちを、毎日つぎつぎと半分ずつ折って行けば、永久に折りつづけられるとい(311)うのです。なるほど線は無限の点が連続せるものと見られるから、その立場からのみ考えればこんなことも言えましょう。この考え方は、兎がいかに追っかけても、永久に亀を追い越すことはできないという、あの西洋の昔の理論と同じであります。こういう理論をふりまわすのが、いわゆる詭弁です。しかしこれなどはまだいい方でありまして、この行き方のひどいのは、
  卵に毛あり、鶏に三足あり。
  卵有毛、鷄三足。
 卵に毛ありとは、すべてものには初めがある。鶏が生れながらに毛がはえているのは、生れるときに突然はえるのではない。鶏の元の卵にちゃんと毛があるのだ。こういう議論です。鶏に三足ありとは、およそものは、二点で支えられなければ安定しない。しかるに鶏の歩くときを見るに、一本の脚は地に着いておるけれども、一本の脚は必ず地から離れておる。それなのに鶏が倒れないのは、もう一本われわれの肉眼に見えない脚があって、それと二本で支えるからだ。とまあ、そんな調子です。
 こんなふうにある点だけに限定して考えますと、どんなりくつでもきっと成り立つものなのです。つまりりくつというものは重宝なもので、元来通るようにできておるので(312)あります。そこで問題は、一見すじの通ったりくつが、果して物事の真相を得ておるかどうかということにあるのでして、この点が非常に大切なのであります。ところがわれわれもとかくその真相を得ておるかどうかということはとんと忘れて、ひたすら筋が通るか通らぬかということばかり問題にしがちであります。そういうやり方を、中国人はすでに二千何百年もの昔、「よく人の口に勝つも、人の心を服せしむる能わざるもの」と言って笑っております。ともかく中国では、ものごとを一直線に考えるしかたが、全然なかったわけではないけれども、本筋の考え方としては、発達しませんでした。そのことが、天体観測のすべを非常に古くから知っていたり、二千年も昔、地震計を作った人もあったりしたにもかかわらず、科学が進歩しなかった一つの原因でありましょう。こういうわけで、さっき申した、左右前後をふり返りふり返り、そうしてそこからいいものを見出そうとする考え方が、彼の民族の特色かと思います。そしてそういう考え方が文学の表現において、対句という構成になって来たのであります。
 それから、もう一つの特色は譬喩《ひゆ》です。譬喩もどこの国にもあるのでして、何も中国特有のものでないことは言うに及びませんが、中国の文学ほど盛んに使う国は、おそらくないでありましょう。まずわが国の譬喩を例にとりましょう。紅葉を「血の色をした(313)紅葉」というのと、「赤い紅葉」というのと、意味の上ではどちらも同じことなのですが、この二つを比べてどちらがおもしろいかというと、「赤い紅葉」といいましても、赤にはいろいろありましてはっきりしません。ところが「血の色をした紅葉」といいますと、何ともいえぬきれいな色が、目の前に現われて来ます。もともと紅葉の色は非常に複雑な赤さですが、それをこういうふうに赤い、ああいうふうに赤いと説明しなくても、「血の色をした」というだけで、ぴったりと印象がはっきりいたします。山に雪の積っている風景をいうのでも、「白い峯」というよりも「白銀《しろがね》の峯」というと、何ともいえぬ渋味のある、ちかちかと光って落着きのある白い景色が、ぴったりと印象づけられるのであります。これが譬喩の効能なのです。譬喩の効能は二つの方面から考えられるのでありまして、たとえを持って来ることによって、理知的なことを相手にたやすく理解させる。これが一つ。もう一つはおもしろさをおぼえさせ美的感覚を起こさせることです。
 この譬喩ということが、中国の文学では盛んに利用されておるのであります。たとえば「朝三暮四」という言葉がありますが、そのおこりはこうです。ある人が、猿を好んで沢山飼っており、とちの実を食わせておいたのですが、食糧事情が悪くなったので、猿を集めて「困ったことには食物が足らんようになったから、朝は三つでがまんしても(314)らいたい。そのかわり夕方は四つやるから」といったところ、猿どもは非常に怒った。そこで「では朝は四つ夕方は三つやることにしよう」といったら皆満足した。それで朝三暮四という言葉ができたのですが、俸給を上げてやる、そうして税金でごそっと引くのは、この朝三暮四のやり方であります(笑声)。ところでこの朝三暮四の語は何を表わしておるかというと、本質においては何もかわらぬのに、人間というやつはばかだから、目先のことにこだわって問題をおこすということをたとえておるのであります。結局三つと四つは七つであって、七つはどうしてもかわらぬのに、三つ四つということにこだわって争う猿どもと同じことだというのです。渾沌王《こんとんおう》の話があります。この王様は、目も鼻も口も耳もない、のつぺらぼうの顔をしていたので、友人たちが非常に気の毒がって何とかしてやろうと、親切にいろいろ苦心して、目鼻口耳を作ってやったところが、渾沌王は死んでしまった。いらぬせわをしてくれたから死んでしまった。これは何をいみしておるかというと、世の中というものは、ごたごたとしたことをやらんでもよいのだ。ごたごたと小細工をやるから純粋の世界がこわれてしまうのだということを暗示しておるのです。これらは理知的な譬喩の用法でありますが、また情趣、味わいを深めるための譬喩、
 
(315)  玉容 寂寞として涙 闌干《らんかん》たり
  梨花一枝 春 雨を帯ぶ
 
  玉容寂寞涙闌干
  梨花一枝春帶雨
 
 これは唐の玄宗皇帝が、愛しておった楊貴妃を失ったとき、日夜煩悶にたえないで、使者をやって楊貴妃の魂を訪問させた。そのときに出て来た楊貴妃の姿を表わした言葉なのです。きれいなかんばせの人が泣いておる。そのさまは、ちょうど白い梨の花が一枝、春の雨にぬれたようなおもむきだったという表現であります。玉容――玉の如く美しい姿――がすでに譬喩ですが、それにしっとりと春雨にぬれた白い梨の花を持って来たために、「玉容」が一層美化され、情趣深くなるのであります。
 こういう譬喩が盛んに行われたのでありますが、譬喩ということの機能は何であるかと申すと、これまた対照的の考え方感じ方をさせることなのであります。女の姿と春雨にぬれた梨花の姿とを照し合わせることによって、豊かな情趣が生み出されるのであります。また理知的な譬喩ならば、照し合わせることによって、豊かな理解が生み出されるのであります。つまり譬喩は、二つのものを対照することによって、別な幽玄の世界(316)を作り出すはたらきをするといえましょう。この譬喩ということはだれでも知っているものを持って来なければ効果がないのです。だれでも知っているものを持って来て対照させるというところに譬喩の特色があるのです。
 中国の文学における表現上のもう一つの特色は、盛んに典故《てんこ》を使うことであります。もちろん典故の利用も、中国だけの専売ではありません。しかし、中国の文学ほど盛んに使ったものは、恐らく他に見られないでしょう。私はある雑誌にも書いたことがあるのですが、私の教え子の一人で長く満洲にいましたのが、この戦争後引揚げて来ました。太平洋戦争の始まった直後のこと、その人が平素親しくしておった一中国人に向って、「今度の日本の出方をどう思うか、率直に話してほしい」と言ったところ、その中国人はただ「君子固窮」の四言をもって答えたそうです。これは、『論語』に「君子固窮、小人窮斯濫矣」とある文句の上の四字だけをとったのです。『論語』のいみは、「君子だってどたんば〔四字傍点〕に追いつめられることがある。しかしどんなに追いつめられても、決して悪いことはしない。ところが小人は追いつめられると、すぐむちゃ〔三字傍点〕をする」ということなのです。そこでその中国人が、「君子固窮」と四字いったのは、どこに狙いがあるかといえば、『論語』の文句の下の部分、「小人窮斯濫矣」にあったのでして、それによって日(317)本を批評したわけなのです。
 このように典故の利用ということは、自分の考えを率直に述べないで、古典のかげにかくれて述べるというやり方であります。だから自分のいうことに非常に権威を持たせることが出来ますとともに、相手におだやかにひびくのです。しかし典故の効能はただそれだけではありません。また相手に非常に深く考えさせるという効能もあり、またときにユーモラスを感じさせることができるなど、いろいろな場合があります。昔、裴楷《はいかい》という人は、人からお金をもらっては、それで貧民の救済をやるので、友人が裴楷に向って、「自分のもっているものを人に与えるならば話がわかるが、もらって来て与えるのはおかしいじゃないか」と言いますと、裴楷は答えて、「余り有るを損して、足らざるを補うは、天の道なり」(損有餘、補不足、天之道也)と言いました。あり余るところから取って来て、足らないところにやるのは天の道だ。こういったのです。これは非常にユーモアの意味で言ったのですが、これは拠りどころがあるのです。老子の言葉に、「天の道は余り有るを損して足らざるを補う。人の道は然らず。足らざるを損して余り有るに奉ず」(天之道、損有餘、而補不足、人之道、則不然、損不足、而奉有餘)とあるのがそれです。あり余るものから取って来て、足らないものに補ってやるのが天の道だ。ところが(318)人間はそうではなく、足らないものから取り上げて、ありあまるところへやる。こういう意味であります。裴楷はこれを持ち出して、「あれは天の道を行うのだよ」と皮肉ったのです。
 この典故の利用は、相手に深い暗示を与えます。たとえば、今引きました「損有餘、補不足、天之道也」とこれだけ言ったので、相手は『老子』の言葉全体を思い浮かべたわけですし、さきの一中国人が、「君子固窮」といっただけで、こちらは、「小人窮斯濫矣」までも思い出します。だから作品の中に典故を利用してありますと、読者は何ら拘束されずに、ごく自由な気持で、その簡単な言葉によって、複雑な背景を思い浮かべますから、自然に作品の解釈鑑賞を非常に豊富にすることが出来るわけであります。つまり作品を立体的に、奥ゆき深く、解釈し鑑賞することができると言えましょう。そこが、典故のもつ文芸的効果の大切な点であります。ただ問題は、読者がこれを知っておらなければならぬ、予備知識がなければならぬということです。譬喩はだれでも知っていることを持って来て効果をあげるのですが、典故はそうでなく、予備知識のあるものだけがわかる使い方なのです。そこに貴族的というか特権的というか、一つの困難があるわけであります。
(319) ところで典故の利用とはどういうことかと申せば、その原理においては譬喩と通ずるので、むしろ譬喩の一種とも言えましょう。その詳論はしばらくおくとして、ともかく、過去の事実と今の事実とを照し合わせて考えることなのです。たとえば、今の裴楷の話で申しますと、貧民を救うことは現在です。この現在のことと、老子のいった過去のこととを照し合わせて考えるのです。一中国人が、「君子固窮」と言ったのは、現在のことを『論語』の文句と照し合わせて考えるのです。それはつまるところ対照的の考え方だと言えましょう。さきに述べました、意の言外にあるを貴ぶとか、対句とか、譬喩とかは、二つのことを対照して、そこからもう一つの新しい意味を生産するのが普通ですが、この典故の場合は、どちらかと言えば、古典に帰一する色彩の濃いのが普通です。しかしいずれにしましても、これらのやり方は皆対照的にものごとを考えたり感じたりして、それから一つの世界を生み出すという点は共通しておるのであります。
 さて、ここで、ものごとを対照的に扱ってそこから別の一つの世界を生み出すとは、一体どんな意味をもつのかについて、考えておく必要があります。二つのものごとを対照して考えたり感じたりするとは、その二つのそれぞれの立場において、その特色を発揮させ、また認識することにほかなりません。そしてその対照によって、別の世界を生(320)み出すとは、これすなわち融合の境地を出現させることではありますまいか。中国の文学において、少くとも過去の中国の文学において、今まで述べたような表現上の特色があるとすれば、その民族には融合の境地を求めようとする一つの性格があると推断することも、あるいは許されるかと思います。
 以上大変ごたごたしたことを申しましたが、世の中のすべてのことが、対立の姿においてのみ考えられるならば、それはいつまでもへりくつ〔四字傍点〕の泥仕合に終始して、あたかもかの二本の平行線が無限につづくが如く、未来永劫《みらいえいごう》、融合の境地に達することが出来ないでありましょう。まあ私のつまらぬ話も、対照的にお考えくださって、何か皆様方が融合の世界を生み出してくださるように……。御清聴を感謝いたします。(拍手)
 
(321)     あとがき
 
 鶏肋《けいろく》ということばをはじめて知ったのは十二、三歳ころのことであった。とりたてるには足らぬが、捨て去るにはちと惜しいものをいうのだと、父から教えられたのを、今なおはっきりと覚えておる。この拙稿『中国文学における孤独感』は、私にとっての鶏肋である。自信のもてるものでは固《もと》よりないけれども、さりとて捨て去ってしまうには、何かしら惜しい気がする。
 もともとこの稿は、書こうとする意図をはじめからもっていて、直接に書きあげたものではない。実のところ、妙ないきさつを経てなまじいにまとめられたものである。そのいきさつのあらましを述べておくのも、この稿の性格を理解していただく上に、なにがしか役だつであろう。
「国 破れて山河 在り」とは、山河のみ依然としてもとの姿を存することをいって、破壊しつくされた人間社会のみじめさを悲しんだものであろうが、原子爆弾を投げつけ(322)られた広島は、そんななまやさしいものではなかった。そこには山河までももとの姿をかえていたのである。そしてまたそこには、七十五年の間草木一本も生えぬであろうとさえいわれたのである。
 そのようなところに辛《かろ》うじて生き残ったものは、喜ぶことも悲しむことも、すっかり忘れはてていた。しかしそれでもまだ、わが国の運命については一縷《いちる》の望みを失いはしなかった。しかるに数日ならずしてロシヤの対日参戦となり、更に数日ならずしてわが国の無条件降伏とはなった。こうして一縷の望みはまことにあっけなく断たれてしまったのである。途方にくれたのはわが国民のすべてであろうが、山河の姿まで変えられ、七十五年間生物の棲息が不可能だといわれた、その広島の地に生き残ったものにとっては、ただただ茫然自失して、おびえおののく、うつろな心をいだきながら、空しく明かし暮らすよりほかに、どんな生き方があり得たであろうか。
 こういう状態がまだつづいていた昭和二十一年の秋、尚志会の主催で教養講座が開かれた。人人の心に、少しでも安らぎとうるおいをという願いからである。そのとき私は講師の一人として、「生活詩人としての陶淵明」と題して話したのであるが、それは、陶淵明は遊戯としての詩を作ったのではなく、生活そのものを歌ったのであるという立場(323)から、主としてその孤独なる生活について述べたのであった。その講演が、実はこの稿の濫觴《らんしよう》となったのである。
 というのは、それがきっかけとなって、中国の他の詩人たちの孤独感についてもしらべてみたいという気がその時おきたからである。がしかし懶惰《らんだ》の性は、直ちにそのことに着手することもなく、いつとはなしに忘れ去ってしまっていた。
 ところが昭和二十八年の冬、広島大学文学部で開放講座が催されることになり、その五時間が私にわりあてられた。この帯に短く襷《たすき》には長い時間をもってして、そもそも何を講ずべきか、思案のはてに心に浮かんだのが七年前に思いついたところの孤独感の問題であった。
 そこで大急ぎに陶淵明以前では屈原・宋玉・漢代の諸家・阮籍・左思・陸機・王羲之をとり、陶淵明以後では杜甫をとって、あらましのメモを作り、あたふたと講壇に立つことにした。
 準備の不十分に加うるに生来の早口のこととて、さぞかし聴きづらい講演であったろうに、当時、旧制文理科大学研究科学生であった横田輝俊君が、克明に筆記してくれた。それを見るとかなりの分量になっている。よくもこれだけの分量をしゃべったものと、(324)我ながら驚くとともに、早口にもまた一得のあることを知った。それを見ると、反故《ほご》にしてしまうには未練が残るというわけで、それにそこぱくの補訂を加えて印刷したものが、二十九年の春、『中文研究叢刊』第三輯《しゆう》として出したところの『中国文学に於ける孤独感』である。これは少数の同学・知友に頒布《はんぷ》したに過ぎない。
 ところが、今年の夏、岩波書店から、この『中文研究叢刊』第三輯を、もう少しくわしくして、単行本として出してはと逍遥《しようよう》された。そこでその気になってゆっくり読み返してみると、到るところあらだらけである。それを自分なりに得心のゆくようにするためには、はじめから書きなおすよりほかはない。しかし、それをやりかかると、筆不精《ふでぶしよう》の私には、いつになって完成できるものやら全く見当がつきかねる。そこでやむなく、比較的いちじるしいあらだけをつくろい、それに劉※[王+昆]《りゆうこん》・飽照《ほうしよう》・袁粲《えんさん》・李白を加える程度にとどめておくことにした。戦後急造のバラック小屋を、すっかり改築する能力もなくて、不本意ながら、応急修理だけであきらめたようなものといえよう。この稿のまとめあげられたいきさつは以上のとおりである。
 ここに一つおことわりしておきたいことがある。最近、「孤独」の字がよく目につく。新聞を見ても雑誌を読んでも、必ずといってよいほど、この語をいくつか見出す。この(325)語は従来とてもよく使われていたにもかかわらず、私が無関心で過したのであろうか。それともこのごろになって、急に多く使われ出したのであろうか。いずれにしても「孤独」は、「平和」「民主主義」の語とともに、現代の三大氾濫語として数えてよいであろう。
 このように頻りに使われる「孤独」の語は、その場その場で感じわけてみると、それぞれ複雑な色あいを持つものの如くである。そこでこの稿のはじめに「これから述べようとする孤独は、現代語としての意味に従うのである」といっておいたことが甚だ気になる。有体《ありてい》にいえば、それは「孤独」の語のもつ複雑な意味について、深い考察を加えた上でのことではなかった。つまりそのころはまだ、極めておおまかにしか考えていなかったのである。
 だからこのごろのように、複雑多様な意味で盛んに使われると、私がうかつに「現代語として」使ったこの語が、このごろの用法と必ずしも一致しないのではないかと気づかわれてならない。おことわりしたいというのはこのことである。
 それはともかく、おおまかな意味ながらも、孤独ということを私が問題にしたのは、孤独の城壁にたてこもって、ひとりで深刻がりつつ、みずから世の中を狭めてゆくよう(326)な、そんな生き方を礼讃したためではない。人間は所詮孤独なものと気づいて、孤独なればこそ、互にその立場を理解しあい、手を握りあわねばならぬと思う人が多くなればなるほど、世の中はいっそう思いやりに富んだ、うるおいのあるところとなるであろうと考えたからであり、更にまた、他人の人格を認め、人格の尊厳性を知るという高尚な理論も、とどのつまりは、人間の孤独性に帰着するのではあるまいかと考えたからである。
 ところで、古人の作品を読むには、できるだけその作者の立場に身をおくようにつとめて、読まなければならない。古人の作品を批評するには、現代の尺度をもってして、かろがろしくその非をあげつろうことなく、その作品がその時代でつとめた役割をよく認めてやらなければならない。このようなことは、概念としてうすうす心得ていても、さて具体的の仕事にかかってみると、凡俗にはなかなかその通りにはゆきかねる。
 いま私が中国の古代の作家たちをとりあげて、その孤独感をかれこれと穿鑿《せんさく》したものの、それはわずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけたのに過ぎないから、当の本人は、全く心外のこととして 「何を見当はずれをいうか」と、さぞかしせせら笑っておることであろう。こう思うと、まことに面映《おもはゆ》い限りである。がしかし、最も精密を(327)誇る現代自然科学最高峰の理論にしたところで、もし宇宙の主宰者があるならば、あるいはそれを全面的には肯定してくれぬかも知れない。自分の研究の粗雑さのいいわけに、最も精密な自然科学のことを引き合いに出すのは、ますます以てその粗雑さのうわぬりをする結果となるであろうが、私はともかく、そう考えることによって、臆面もなくこのささやかな業績を、敢えてここに世に送る。もしこれが一つの機縁とでもなって、すぐれた人人のすぐれた研究が、続続と出てくることになってくれれば、私にとってこれほど喜ばしいことはない。
 附録の「中国文学における融合性」は、その篇のはしがきにことわっておいたとおり、一場の通俗講演の速記録である。これは専門の速記者を煩わしたものであるが、その速記者はすぐれた腕をもっていたと見え、まことによく書きとめてくれたので、引用文の訂正のほかは、多く筆を加える必要もないほどのできばえであった。といってもそれは速記についてのこと。講演の内容に至っては、「中国文学における孤独感」よりも、もっとざっとしたものであり、しかもこれは、『支那学研究』第十三号に一度掲載したものである。がしかしいま、ことのついでに本書の末に加えた。
 この書物の刊行については、岩波書店の実際仕事に当って下さった方々、ならびに小(328)尾郊一氏に、大変お世話をかけた。ここにこれらの諸氏に深く感謝する。
  昭和三十二年十二月十七日亡父命日
                     広島の寓居にて
                         斯 波 六 郎
           〔2011年7月20日(水)午前10時15分、入力終了〕