萬葉集を讀む
正岡子規 〔入力者注記。底本の校訂方針から抜粋。<>は明らかな脱字を編者の補ったもの。改行の一字下げを行った。<原>とあるのはもともとある振り仮名である。そうでない場合は編者の付したものである。ママとあるのは底本のままということ。以下、入力時の変更等。フォントに旧字体がないときは、一部注記したもの以外はそれに近い字で代用した。踊り字等も同様。漢文の返り点は分かりやすいものにかえた。初出の注記はポイントが小さいが本文と同じにした。〕
 
      (一)
 
 四月十五日草廬に於いて萬葉集輪講會を開く。議論こも/”\出でゝをかしき事面白き事いと多かり。文字語句の解釋は諸書にくはしければこゝにいはず。只我思ふ所をいさゝか述べて教を乞はんとす。
    籠もよみ籠もち、ふぐしもよみふぐしもち、此岡に菜摘ます子、家聞かな名のらさね、空見つやまとの國は、おしなべて吾こそ居れ、しきなべて吾こそをれ、我こそはせとはのらめ、家をも名をも[#長歌は各行4字下げで各行地付きから4字上げ]
 右は雄略天皇御製なり。文字は總て原書に據らず。籠には「コ」と「カタマ」との兩説あり。ふぐしは篦《へら》の如き道具にて土を掘るものとぞ。籠ふぐしなど持ちて菜を摘み居る少女に向ひ名をのれとのたまふは妻になれとのたまふなり。當時の御代にては斯るむつまじき御事もありけん。
 此御歌善きか惡きかと問ふに面白からずといふ人あり。吾は驚きぬ。思ふに諸氏のしかいふは此調が五七調にそろひ居らねばなるべし。若し然らばそは甚だしき誤なり。長歌を五七調に限ると思へるは五七調の多きためなるべけれど五七調以外の此御歌の如きはなか/\に珍しく新しき心地すると共に古雅なる感に打たるゝなり。趣向の上よりいふも初めに籠ふぐしの如き具象的の句を用ゐ、次に其少女にいひかけ、次にまじめに自己御身の上を説き、終に再び其少女にいひかけたる處固よりたくみたる程にはあらで自然に情のあらはるゝ歌の御樣なり。殊に此趣向と此調子と善く調和したるやうに思はる。若し此歌にして普通五七の調にてあらば言葉の飾り過ぎて眞摯の趣を失ひ却て此歌にて見る如き感情は起らぬなるべし。吾は此歌を以て萬葉中有數の作と思ふなり。
 此歌には限らず萬葉中の歌を以て單に古歌として歴史的に見る人は多けれど其調を學びて歌に詠む人は稀なり。其人のいふ所を聞けば調古くして今の耳にかなはずといふにあり。我等は調の古きところが大に耳にかなふやうに覺ゆれどそれも人々の感情なればせん方も無き事なり。萬葉を善しといふ人すら猶五七調の歌を善しとして此歌の如きを排するは如何にぞや。尋常俗人の心にては見馴れ聞き馴れたる者を面白く思ひ、見馴れざる聞き馴れざる者を不調和に感ずるなり。極端にいへば俗人は陳腐を好みて新奇を排するの傾向あり。故に古今調の歌に馴れたる耳には萬葉調を不調和に思ひ、輪廓畫に馴れたる目には沒骨畫を不調和に思ふが如き類少からず。然れども多少專門的に事物を研究する人は陳腐を取りて新奇を捨つるの愚を學ぶべきにあらず。新奇なる者に就きて虚心平氣に其調和せりや否やを考へて後に取捨すべきなり。歌を研究する者にして萬葉集を知らざるが如き不心得の者は姑《しばら》く置く。苟も萬葉を研究せんとする人にして一概に五七をのみ歌の調と思ひ三言四言六言等の趣味も變化も知らず、或は歌はいかめしく眞面目なる事をのみ詠むものと思ひて滑稽(萬葉第十六の如き)の歌を知らざるが如きは量見の狹き事なり。若し我をして臆測せしめば諸氏は短歌のみを作りて長歌を作るに習はざるために此趣味を解せざるにはあらざるか。今日の歌界に於ける諸氏は愚蒙の群中に一頭地を拔きたるために先鞭者の名をこそ負へれ他日歌界一般に進歩したる時、空しく人後に落ちて陳腐好きの俗輩と伍せられざらん事を祈るなり。 
 〔日本附録週報 明治33・5・14 一〕[#地付きで1字上げ]
 
      (二)
 
       天皇登香具山望國之時御製歌
   やまとにはむら山あれど、とりよろふ天の香具山、のぼりたち國見をすれば、國原は煙立ち立つ、海原はかまめ立ち立つ、うまし國ぞあきつ島やまとの國は[#長歌は各行4字下げで各行地付きから4字上げ]
 舒明天皇御製なり。とりよろふは足りとゝのへる意、かまめは鴎[#旧字体]なり。海原は埴安《はにやす》の池をいへりとぞ。
 簡明にして蒼老、大なるたくみなくて却て趣盡きぬ妙あり。「のぼりたち」より「國見をすれば」につゞく處平凡なる如くなれども實際作歌の場合にはこれだけの連續が出來ずして冗長に失することあるものなり。「立ち立つ」と二つ重ねて物の多き有樣を現すなど極めて巧なる語なるを、後世の人時に此語を襲用して其儘に「立ち立つ」と使ふも、他の語に此語法を應用するの機轉すらなし。支那の古詩に行々重行々といへるも同じき語法にして、蕪村は「行き/\てこゝに行き行く夏野かな」と使へり。古今集以後の歌人の氣が利かぬこと今更にあらねど呆れたる次第なり。
      天皇遊2獵内野1之時中皇命使2間人連老《ハシビトノムラジオユ〈原〉》1獻歌
    やすみしゝ我大君の、あしたには取り撫でたまひ、夕にはいよせ立てゝし、みとらしの梓の弓の、なか筈の音すなり、朝狩に今立たすらし、夕狩に今立たすらし、みとらしの梓の弓の、なか筈の音すなり
 中皇命は舒明天皇の皇女なり。なか筈につきて、長筈長[#「長」に「ママ」の傍書]筈等の諸説あり。
「すなり」は「するなり」の略なり。若し文法學者がいふ如く嚴格なる規則を立てゝ一々之によりて律する事とせば此語も亦文法違犯たるを免れず。然れども文法に拘々《こうこう》たる後世の歌人皆此文法違犯を襲用して却て平常の事とするはさすがに此便利なる語を棄つるに忍びざるなるべし。由來韻文を律するに嚴格なる文法を以てするは理窟を以て感情を制する弊あり。歌は感情を現す者なれば感情の激發したる際には自ら文法を破る事もあるべく、文法を破りたりとて意味だに通ずればさまで咎むべきにあらず。又其言葉を面白くするためにことさらに文法を破ることもあるべく、そは寧ろ作者の手柄として見るべき者少からず。然るに日本の文法學者は文法を以て韻文を律するのみならず、文法の例には歌を引くを常とす。簡單なる歌を以て文法の例となすを得ば文法上には便利なる事ならん。但文法の例に引かるゝやうな歌をつくりて滿足し居る歌人の鼻毛こそ海士が引く千尋※[#「栲」の旁の下半分が丁]繩《ちひろたくなは》よりも長かめれと氣の毒に思はるゝなり。ある人自己の歌集を世に公にするとて其はじめに、多く作れる中より語格の誤少からんを選みて云々と書けるよし、此等の人は何のために歌をつくり居るにや、文法學者に頼まれて文法の例歌をつくり居るにや。
 蕪村は「すなり」に倣ひて「すかな」と使ひしに文法學者は「すなり」を許しながら「すかな」を咎むるなり。しかも近時の俳人は眼中に文法などあらばこそ「すかな」は常に用ゐられて今は怪む者も無き迄普通になりぬ。さりとて文法を盡く破れとにはあらず、破りて却て面白き處には破れといふなり。文法學者に支配せらるゝ程の歌人は物の用にも立つまじき事論なし。
       反 歌
    玉きはる内の大野に馬なめて朝ふますらん其草深野
 其草深野の一句縁語の如くにて縁語にあらず。言葉を短くするには必要なる語法なり。「朝ふます」の如き語法も萬葉に多くありて後人却て知らず。     〔日本附録週報 明治33・5・21 二〕[#〔〕の部分地付きで1字上げ]
 
      (三)
 
       幸讚岐國安益郡之時軍王見山作歌
    霞立つ長き春日の、暮れにけるわづきも知らず、むら肝の心を痛み、ぬえ子鳥うら歎《ナゲ〈原〉》居れば、玉だすきかけのよろしく、遠つ神我大君の、いでましの山ごしの風の、獨り座《ヲ〈原〉》る我衣手に、朝夕にかへらひぬれば、ますらをと思へる我も、草枕旅にしあれば、思ひやるたづきを知らに、網の浦のあまをとめらが、燒く鹽の思ひぞ燒くる、我が下心[#長歌は各行4字下げで各行地付きから4字上げ]
「わづき」に説あり。「遠つ神」を人に遠き意と解するはいかゞ。此歌を讀んで第一に感ずる事は始より終迄切斷せし處無く一文章を成したる點なり。元來長歌はそれからそれへと句をつゞけて作るが癖にて終止言を用ゐる事少きは一般に同じければ特に此歌に限るわけはなきやうなれど、此歌の如く「うらなげ居れば」といふ句より一轉して「玉だすきかけのよろしく遠つ神我大君の」に移りしが如きは類例少きかと覺ゆ。殊に「いでましの山ごしの風の」といふ句の造句法には注意を要す。極めてめづらしく面白き句なり。百忙の中に「玉だすきかけのよろしく」の一閑句を插みたるも手柄あり。普通に萬葉集を讀むには解釋する側より見る故多少の意匠を凝らしたる句に逢へば只難澁の句とのみ思ひそれをとにかくに解釋するを以つて滿足する者多し。然れども歌として萬葉を研究せんとする人は作者の側に立つて熟考するの必要あり。例へば「いでましの山ごしの風の」といふ句の意義を知るに止めず、更に進んで作者は如何にして此句を作りしか、若し我作らば如何に作るべきかと考へ見よ。さて後に此句が夷の思ふ所に非るを知らん。萬葉の歌人は造句の工夫に意を用ゐし故に面白く、後世の歌人は造句を工夫せずして寧ろ古句を襲用するを喜びし故に衰へたり。今の萬葉を學ぶ者萬葉を丸呑にせず萬葉歌人工夫の跡を噛み碎きて味はゞ明治の新事物も亦容易に消化するを得んか。此歌に就きては猶歌以外に研究すべき事あり。今の人にして行幸に供奉したらん程の人、歌を詠まばまさかに旅中の悲などはいはざるべし。こは如何。第一に時代の相違、第二に人間の思想の相違にあるべし。昔の旅は交通不便なる地に行きて不自由をする事故都の人は旅にありて故郷を憶ふ情今日よりは遙に強かりしならん。其上昔の人は法律學も政治學も知らず權利義務の考も薄ければ國家などゝいふ觀念もたしかならず只感情ばかりにて尊しとも悲しとも思ふわけなれば供奉《ぐぶ》中にても悲しき時は悲しきと歌よみたるべし。畢竟古の人は愚なるだけに虚飾の少かりしやに見ゆ。明治の人には明治の思想あればそれを歌に詠むはいふ迄もなき事ながら虚飾的の忠君愛國などは之を詠んで何の妙もなかるべし。古より慷慨悲憤の詩歌に佳作無きは虚飾多きためなり。此歌軍王とあるは考ふる所無しと古人もいへり。此歌に裏面の事情ありや否やは知らず。
       反 歌
   山ごしの風を時じみ寢る夜落ちず家なる妹をかけてしぬびつ
「ときじみ」に説あり。
       額田王歌
   秋の野のみ草刈り葺きやどれりし宇治の宮子の假庵しおもほゆ
「みやこ」といふ事に就きて兼ねて論あり。皇居のあるところを都といふはいふ迄もなけれど、此歌にては行在にても都といふが如し。鎌倉の都といひ得べきか否かに就きて、ある人、昔は國府を鄙の都といひし例もあれば鎌倉の如く江戸の如く覇府《はふ》ありし地は都といひてもよかるべし、といへり。
       額田王歌
   熟田津《ニギタヅ〈原〉》に舶乘《フナノリ〈原〉》せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな
 伊豫の熟田津より西國に行幸ある時の歌なるべしと。「月待てば」は實際は潮を待つならん。「ふなのり」といふ語今は俗語に用ゐられて歌などに詠まれぬが如し。
 莫囂圓隣云々の歌讀方諸説あり。今省く。    〔日本附録週報 明治33・6・11 三〕[#〔〕の部分地付きで1字上げ]
  〔編注 「莫囂圓隣云々の歌」とは「熟田津《ニギタヅ》に」の次にある歌で古來、萬葉集中最も難訓歌とされ、異説の多いものである〕
 
      (四)
 
      中皇命往于紀伊温泉之時御歌
   君が代もわが代も知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな
 上二句は磐といふ字にかゝりていへるにて、磐は永久の者なれば君が代をもわが代をも知る筈なりといへるなり。磐を擬人にしたるなり。併し其の磐は地名なれば地名にあやかりて其處の草をむすぶといふなるべし。草を結ぶとか木を結ぶとかいふ事此頃の習慣なりと見ゆ。
    吾勢子は假廬つくらす萱なくば小松が下の萱を刈らさね
「萱なくば」に就きて議論あり。「刈りたる萱なくば」と見るが穩當ならん。「小松が下」は別に意味あるにあらず。意味無き此一句あるため一首活きたり。
    わがほりし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞひろはぬ
 第二句一に「見しを」とあり。野島は既に見たれど阿胡根の浦はまだ見ずとの意にや。「底深き」は前の「小松が下」と同じく無意味の装飾的の語なれど「小松が下」の自然なるに如かず。併しここも惡きに非ず。以上三首皆面白し。
      三 山 歌
   かぐ山はうねびをゝしと、耳梨とあひあらそひき、神代よりかくなるらし、いしへもしかなれこそ、うつせみも妻をあらそふらしき[#長歌は各行4字下げで各行地付きから4字上げ]
 天智御製なり。男山女山といふ事に就きて即ち初二句の解釋に就きて論ありたれどそは如何やうにもあるべし。戀の爭ひといはゞ俗にも聞ゆべきを、山の爭ひを比喩に引きしために氣高く聞ゆ。結末七言二句の代りに十言一句を置く、亦一法なり。「こそ」の係「らしき」の結なり。
       反 歌
   かぐ山と耳梨山とあひし時立ちて見に來し伊奈美國原
 出雲の阿菩《あぼ》の大神が三山の爭ひを諫めんために播磨の印南郡に到りしが爭ひやみたりと聞きて行かでやみきとなり。反歌には戀の意無し。
   わだつみの豐旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ
 此歌、題を逸す。雲が旗のやうに靡きたるを見て旗雲といふ熟語をこしらえ、それが大きいから豐といふ形容を添へて豐旗雲といふ熟語をこしらえたり。豐旗雲を只成語として見ず、古人が如何にして此熟語をこしらえしかを考へ、自己がある物を形容する時の造語法を悟るべし。成語ばかりを用ゐて歌を作らんには言葉の範圍狹くして思ふ事を悉く言ひ得ざらんか。此歌の意義に就きて現在と未來との議論あり。余は初三句を現在の實景とし、末二句を未來の想像と解したし。且つ結句「こそ」の語を希望の意と解せずして「こそあらめ」の意と解したく思へど、萬葉に此樣の語法ありや否やは知らず。三句を現在と解すれば第三句より第四句への續き具合よからずと非難もあれど、「入日さし」と接續的の輕き語を用ゐたるが却て面白きやうに思ふなり。
       天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
    冬ごもり春さりくれば、鳴かざりし鳥も來鳴きぬ、咲かざりし花も咲けれど、山を茂み入りても取らず、草深み取りても見ず、秋山の木の葉を見ては、黄葉をば取りてぞしぬぶ、青きをばおきてぞなげく、そこしうらめし秋山吾は[#長歌は各行4字下げで各行地付きから4字上げ]
 此歌、秋山を以て春山にまされりと判斷はすれど、其まされりとする理由は少しも分らず。或は思ふ、天智天武兩帝同じ思ひを額田王にかけ給ひきと聞けば、此歌も暗に春山を天智帝に此し秋山を天武帝に比し、此時いまだ志を得られざる天武帝をひそかになつかしく思ふ旨を言ひいでられたるには非るか。                           〔日本 明治33・7・3 四〕[#地付きで1字上げ]
 
底本、『子規全集第七巻』、講談社、1975年7月18日発行
            2005年7月2日(日)、再校正、米田進
 
萬菓集卷十六
正岡子規  〔入力者注記。底本の校訂方針から抜粋。<>は明らかな脱字を編者の補ったもの。改行の一字下げを行った。<原>とあるのはもともとある振り仮名である。そうでない場合は編者の付したものである。ママとあるのは底本のままということ。以下、入力時の変更等。フォントに旧字体がないときは、一部注記したもの以外はそれに近い字で代用した。踊り字等も同様。漢文の返り点は分かりやすいものにかえた。初出の注記はポイントが小さいが本文と同じにした。〕
 
 萬葉集は歌集の王なり。其歌の眞摯に且つ高古なるは其特色にして、到底古今集以下の無趣味無趣向なる歌と比すべくもあらず。萬葉中の平凡なる歌といへども之を他の歌集に插《はさ》めば自ら品格高くして光彩を發するを見る。しかも此集今に至りて千年、未だ曾て一人の之を崇尚する者あるを聞かず。眞淵の萬葉を推したるは卞和《べんくわ》の玉を獻じたるに比すべきも、彼猶此玉を以て極めて瑕瑾《かきん》多き者となしたるは、善く玉を知らざりしがためなり。眞淵は萬葉に善き歌と惡き歌とありといふ。歌に善きと惡きとあるは何の集か然らざらん。然るに特に萬葉に於てしかいふ者は萬葉には殊に惡歌多き事を認めたるに非るか。萬葉に於て殊に惡歌多しといふ裏面には古今、拾遺|抔《など》が比較的に善く精選せられたるを意味するに非るか。若し然らば眞淵は萬葉の惡歌を以て古今の惡歌よりも更に惡しとする者にて、余の所見と全く異なる所見を抱き居りし者なり。余は眞淵を以て萬葉を解せざる者と斷言するに躊躇せざるなり。論より證據、眞淵の家集を繙《ひもと》いて彼の短歌(長歌の事はこゝに言はず別に論あり)が萬葉の調に近きか古今以下の調に近きかといはゞ無論何人も古今以下の調に近き事を認めざるを得ざるべし。眞淵は口にこそ萬葉善しといへ、其實、腸《はらわた》には古今以下の臭味、深く染み込みて終に之を洗ひ去る事能はざりしなり。只彼の歌が多くは字句の細工を斥けて、趣味ある意匠を撰ぶに傾きたるは、當時に在りて極めて卓越せる意見にして、これこそ彼が萬葉より得來りたる唯一の賜《たまもの》なりけめ。されど萬葉の長所はこれに止まらず。眞淵は僅に趣向の半面を見て調子の半面を見得ざりしなり。萬葉の調子の善きは如何なる凡歌といへども眞淵の歌の調子拔けたるが如きはあらず。況んや眞淵は趣向の半面すら其一部分を得たるに過ぎず。萬葉の趣向は眞淵の歌の如く變化少き者にあらざるなり。
 眞淵以後萬葉を貴ぶ者多少之れ有り。されども其萬葉に貴ぶ所は其簡淨なる處、莊重なる處、高古なる處、眞面目なる處に在りて、曾て其他を知らざるが如し。簡淨、莊重、高古、眞面目、此等が萬葉の特色たる事は余亦異論無し。萬葉二十卷、殊に初の二三卷が善く此特色を現して秀歌に富める事は余も亦之を是認す。只萬葉崇拜者が第十六の卷を忘れたる事に向つて余は不平無き能はず。寧ろ此一事によりて余は所謂萬葉崇拜者が能く萬葉の趣味を解したりや否やを疑はざるを得ざるなり。余は試に世人に向つて萬葉第十六卷の歌を紹介し我邦の歌、しかも千年前の歌に此種類の歌ある事を現すと同時に、萬葉集の中に此一卷ある事を知らしめんと思ふなり。
 萬葉第十六卷は主として異樣なる、即ち他に例の少き歌を集めたる者にして、趣向の滑稽、材料の複雜等其特色なり。併し調子は皆萬葉通じて同じ調子なれば如何に趣向に相違あるも其萬葉の歌たる事は一見まがふべくもあらず。左に其一二を擧げんか。 
            〔日本附録週報 明治32・2・27 一〕[#地付きで1字上げ]
    さし鍋に湯わかせ子供いちひ津の檜橋より來むきつにあむさむ
 こは狐の鳴くを聞きてよめる歌にて狐に沸湯を浴びせてやらんと戲れしなり。眞率なる滑稽甚だ興あり。
    す薦《ごも》敷き青菜煮もてきうつばりにむかばき懸けてやすむ此君
 食事の時の有樣なるべし。或る人が行騰《むかばき》を梁に懸けて休息して居る處へ薦(食事のために敷く者)を敷き菜を煮て持て來たといふ事にて、材料極めて多し。
    はちす葉はかくこそあれもおきまろが家なる者はうもの葉にあらし
 うもの葉は芋の葉なり。おきまろは人名なり。これは蓮の葉を見て「これが蓮の葉ぢや、おき丸の内にあるのは芋の葉であつたらう」といふ意なり。無邪氣なる滑稽今人の思ひよらぬ處なり。
    玉箒刈りこ鎌麻呂むろの樹と棗《なつめ》がもとゝかき掃かむため
 鎌麿は鎌を擬人法にしたるなり。玉箒は箒木なるべし。我邦に擬人法無しといふ人あれど物を人に擬するは神代記に多く見え歌にも例あり。此卷に鹿と蟹とが自己の境遇を述ぶる長歌二首あり。擬人法の長き者なり。
    からたちのうばら刈りそけ倉建てむ屎《くそ》遠くまれ櫛造る刀自
 歌に糞を詠まずといふ人あれど此歌には詠みこみあり。しかも尿まると詠みたり。
    勝間田の池はわれ知る蓮無ししかいふ君が鬚無きがごと
 こは人の知れる歌なり。或る人、勝間田の池の蓮を見て歸りて其趣を女に語りけるに女此歌を詠みて戲れたるなり。其實、池には蓮多くあり、其人には鬚多くあるを反對にいへる處滑稽にして面白し。此歌の第二句「池はわれ知る」とあるは「池は蓮無し」といふべき其中へ「われ知る」の一句を插入したる處最も巧なる言葉づかひなり。後世の歌、此變化を知らざるがために單調に墮ち了れり。萬葉調を主張しながら「句の獨立」などくだらぬ論を爲す者は論語よみの論語知らずとやいはん。ついでにいふ、前の歌も此歌も三句切なり。
    奈良山の兒の手柏のふたおもにかにもかくにもねぢけ人の友
 佞人《ねいじん》を詠めり。此歌、殺風景なる佞人を題としながら其の調の高きために歌が氣高く聞ゆるなり。此調の高き所以は初句より一氣呵成に言ひ流し最後に名詞を以て結び、一箇の動詞をも著けざる處に在り。末句を八字にしたるも結ぶに力強ければなり。此調萬葉以後に無し。
    吾妹子が額におふる雙六のことひの牛の鞍の上の瘡
 此歌は理窟の合はぬ無茶苦茶な事をわざと詠めるなり。馬鹿げたれど馬鹿げ加減が面白し。
    寺々のめ餓鬼申さく大みわのを餓鬼たばりて其子産まさむ
 これは大みわの朝臣といふ人が餓鬼の如く痩せたるを嘲りて戲れたる者にて、女の餓鬼が大みわの朝臣を夫に持ちて子を産みたいといふ。といへる、奇想天外なり。普通ならば「夫に持ちたい」といふばかりにて結ぶべきを更に一歩を進めて「其子うまさむ」といふ處作者の伎倆を見るに足る。ついでにいふ、前の歌の「雙六《すごろく》」此歌の「餓鬼」皆漢語なり。         〔日本 明治32・2・28 ニ〕[#地付きで1字上げ]
  〔編注 「寺々の」の歌の第五句の原文「其子産播」は、「其の子生まはむ」と訓むのが普通である〕
    此頃のわが戀力記し集め功に申さば五位の冠
「功」「五位」皆漢語なり。戀に骨折る功勞をいはゞ五位ぐらゐの値打はある、と自ら戲れいへる歌なり。
 戀に骨折る程度ともいふべき事を「こひぢから」といふ一語につゞめたる作者のはたらき畏るべき者あり。此の活用あるため萬葉は常に調子高き事を得たるに反し、古今以後にては詞は總て古きによるの主義にて全く造語を禁じたるため皆腰拔の歌となりたり。時として近時の俗謠に調子善き者あるは詞に束縛せられずして却つて詞を活用するに因る。自ら萬葉の旨を得たるものなり。
 長歌はこゝに論ぜざる者なれど餘り珍しければ前に言ひたる蟹の述懷の歌一首を擧ぐべし。
    おしてるや難波のを江に、庵つくりなまりて居る、蘆蟹を大君召すと、何せむにわを召すらめや、あきらけくわが知る事を、歌人とわを召すらめや、笛ふきとわを召すらめや、琴ひきとわを召すらめや、かもかくもみこと受けむと、今日今日と飛鳥に到り、立ちたれどおきなに到り、つかねどもつくぬに到り、ひむがしの中の御門ゆ、參り來てみこと受くれば、馬にこそふもだしかくもの、牛にこそ鼻繩はくれ、足引の此片山の、もむ楡を五百枝剥き垂れ、天照るや日のけに干し、さひづるやから臼につき、庭に立つから臼につき、おしてるや難波の小江の、はつ垂れを辛く垂れ來て、すゑ人の造れる瓶を、今日行きて明日取り持ち來、わが目らに鹽ぬりたべと、申しはやさも、申しはやさも[#長歌は各行4字下げで各行地付きから4字上げ]
 これは初より終迄蟹の詞にて、大君が蟹を鹽漬にして楡《にれ》の皮に交ぜて喰ふ、といふ事をのべて斯くいへるなり。此大意を俗語にて言はゞ「難波の海に我(蟹自らいふ)が穴を造りて住んで居ると、君よりお召しがある、何事に召さるゝであ〈ら〉うか、我を歌人と思ふて召さるゝでもあるまい、笛吹や琴ひきと思ふて召さるゝでもあるまい、とにかくに仰承らんと飛鳥の宮に行きて承れば楡の皮を乾して臼について、難波の鹽の垂れ初の辛い處を取つて來て、瓶を明日持つて来て、我が目へ鹽を塗つて喰ふて下され喰ふて下され」とでもいふやうな事なるべし。言葉つゞきの理窟に合はぬ處あるは却て面白し。  此等の歌は皆趣向の珍しきのみならず、其趣向が文學的の趣味を帶び居るがためにいづれも善き歌として余は賞翫するなり。此一卷は萬葉の光彩を添ふると共に和歌界の光彩を添ふる者として余は特に之を抽《ぬ》き出だしゝなり。然るに所謂歌よみ等の之を擯斥《ひんせき》するは其趣向の滑稽なりとの理由による者にやあらん。何故に滑稽は擯斥すべきか。
 滑稽は文學的趣味の一なり。然るに我邦の人、歌よみたると繪師たると漢詩家たるとに論なく一般に滑稽を排斥し、萬葉の滑稽も俳句の滑稽も狂歌狂句の滑稽も苟《いやしく》も滑稽とだにいへば一網に打盡して美術文學の範圍外に投げ出さんとする、是れ滑稽的美の趣味を解せざるの致す所なり。狂歌狂句の滑稽も文學的なる者なきに非ず、然れども狂句は理窟(謎)に傾き狂歌は佗[#「佗」に「ママ」と傍書]洒落に走る。(古今集の誹諧歌も佗洒落なり)これを以て萬葉及び俳句の如く趣味を備へたる滑稽に比するは味噌と糞を混同する者なり。鯛の味を知つて味噌の味を知らざる者は共に食味を語るに足らず。眞面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文學を語るに足らず。否。味噌の味を知らざれば鯛の味を知る能はず、滑稽の趣を解せぜれば眞面目の趣を解する能はず。實にや彼歌人は趣味ある滑稽を斥けて却て下等なる佗洒落的滑稽を取る事其例少からず。こは味噌と糞とを混同するにあらず味噌の代りに糞を喰ふ者なり。
 且つ萬葉卷十六の特色の滑稽に限らざるは前にいへるが如し。複雜なる趣向、言語の活用、材料の豐富、漢語俗語の使用、いづれも皆今日の歌界の弊害を救ふに必要なる條件ならざるはあらず。歌を作る者は萬葉を見ざるべからず。萬葉を讀む者は第十六卷を讀むことを忘るべからず。       〔日本 明治32・3・1 三〕[#地付きで1字上げ]
 
底本、『子規全集第七巻 歌論 選歌』、講談社発行、1975.7.18
  2003.11.23(日)、入力者による校正を行った。2005年7月1日(金)再度校正。
 
 
龍田考     六人部是香
 
(入力底本、萬葉集古註釈集成近世編2第20巻、1991.10.25、日本図書センター。入力者注、《 》はふりがな、( )は二行割り注。係助詞ハ以外の、漢字の送りがなのカタカナの部分は大変小さいが普通の大きさで入力した。)
 
龍田考目次
龍野坐龍田社龍田坐龍田社両社辨  初葉
龍田山辨  九葉
附 小鞍嶺 島山 闇峠 日下直越
龍田川辨  十四葉
附 山崎神并社
神南備之三室山辨  卅二葉
附 平群郡神岳神社 神名火川 明日香川
磐瀬社毛無岡辨  四十二葉
 
龍田考
龍田はいと古くより書にも歌にも多く見えたる地《トコロ》にて、社は更なり山、川、なと殊に世に名高く、尚歌に詠合せたる此の邉リの名所には、神南備山《カムナビヤマ》(または川とも)三室山《ミムロヤマ》(または岸とも)磐瀬《イハセ》ノ社|那良志《ナラシ》ノ岡などをはじめ尚なにくれと詠合せたる名所ども多かるを、いづれもいと紛紜《マギラ》ハしくなりきつるは、元來《モト》龍田ノ社の立野と龍田と二タ所にありて、龍野なるぞ公《オホヤケ》よりも重く祭らせ給ふ名神大社にましますを、中昔より以後《コナタ》四月七月の風神祭も絶て勅使《オホミツカヒ》を發遣《タテ》らるゝ事も無くなりつるを、龍田のかたは地理《トコロノサマ》の便りもよろしく普く人も知り、社も栄えましますうへ元より名高き名所ども龍田に近かる地《トコロ》に多かれば、其《ソ》を龍野の方にハ羨《ウラヤ》ミ嫉《ネタ》む愚痴者《シレモノ》や有けん、元より本宮ととます立野なれば古く龍田に詠合《ヨミアハ》せたる名所どもは、山も河も何も悉皆《ミナガラ》龍野の方に在といはんとて、多くの名所どもを其ノ近き邉リに設置《マウケオキ》つるから、さしも多かる名所どもの、今も二ツ方に現存して龍田にてハ龍田なるを真《マコト》の所なりといひ、龍野にてハ基《モト》とある社すら龍田なるは龍野の憩所《タビショ》なれバ、名所も何も龍野なるを後に移《ウツ》し設ケつるものなりと我猛《ワレタケ》ていひかすめをる趣キなるを、其はじめハ何時《イツ》ばかり誰《タ》が所為《シワザ》なりけん今慥カに察シるべきよしハなけれども、元亨ノ頃記しつると思しき總國風土記にハいまださる僞妄《イツハリ》の趣キもみえざるを、行曩抄に引る應永の頃の紀行の文にハ既《ハヤ》く彼ノ僞妄のみえたるをもて想《オモ》へば、元亨より應永までの間に設ケ出つる僞リにハ違ヒあるまじくこそ(それにつけて思ふに、もしくハ紀行に見えたる彼ノ別當などの所為にはあらざるか)かゝりしより後ハ多くの人々、彼が詭僞《イツワリ》に欺《アサム》かれ來つるを古ヘ學の開ケ初メしより、さすがに然《サ》る詭僞《イツハリ》にハ欺かれざる物から、契冲加茂翁などが龍田の神南備三室を疑《ウタガ》ひ、鈴屋翁が立田川に異説を唱《トナヘ》られ、近頃香川景樹が古歌を誣《シ》ひ、橘守部が再び龍野の詭僞《イツハリ》に欺《アサム》かれて、代々の識者《モノシリヒト》たちを人も無《ナ》げに云腐《イヒクタ》しつるより、弥《イヤ》益《マス/\》に紛紜《マギラ》ハしく成増りつるまゝに今ハ普く古書に徴《アカ》し、正《タヽ》しく今の地理《トコロノサマ》に考ヘ合して次々|辨悟《ワキマヘサト》すべし、
[#これより3字下げ]
但しかゝる事をこと/”\しげに書著《カキアラハ》さんハいと鳴呼《ヲコ》の所為《シワサ》なれど、前《サキ》に小倉百首|嶺紅葉《ミネノモミチバ》を著しつるほど、立田川の余《マロ》が考どもハ書顕《カキアラハ》し置つるを、近キ頃守部が鐘響《カネノヒヾキ》といふ書をみれバ、龍田につきての考をも多かるを、何れもいと信難《ウケガタ》く思《オボ》えしかバ、今年芳野をものする序《ツイデ》に此所《コヽ》に至リて尚|熟《ヨク》見巡《ミメグ》り考ヘ得つることどもゝあれば、社を始メにして山川などをも条々《ヲチ/\》に引キ出て次々|論定《アケツラヒサダメ》てんとす、
[#3字下げ終わり]
其《ソ》はまづ龍田ノ社とまをすハ、崇神天皇ノ御代ニこの龍田の立野小野《タチヌノヲノ》に風神、天御柱神《アメノミハシラノカミ》、國御柱神《クニノミハシラノカミ》の社を建《タテ》て齋祭《イツキマツラ》しめ給ひき、是レなん今の龍野村なる龍田ノ社にハ坐《マシマ》しける、
[#これより2字下げ]
其ハ祝詞式に、龍田尓称辞竟奉皇子神乃前尓白久《タツタニタヽヘコトヲヘマツルスメカミノミマヘニマヲサク》、志貴嶋尓大八嶋國知志皇御孫命乃《シキシマニオホヤシマクニシラシヽスメミマノミコトノ》、遠御膳乃長御膳止赤丹乃穂尓聞食須五穀物乎始弖《トホミケノナカミケトアカニノホニキコシメスイツクサノタナツモノヲハシメテ》、天下乃公民乃作物乎草乃片葉尓至万※[氏/一]《アメノシタノオホミタカラノツクルモノヲクサノカキハニイタルマテ》、不成一年二年尓不在《ナシタマハザルコトヒトヽセフタトセニアラズ》、云々誰神曽天下乃公民乃作作物乎《タレシノカミゾアメノシタノオホミタカラノツクリトツクルモノヲ》、不成傷神等波我御心曽止悟奉禮止宇氣比賜支《ナシタマハズソコナフカミタチハアカミコヽロゾトサトシマツレトウケヒタマヒキ》、是以皇御孫命大御夢尓悟奉久《コヽヲモテスメミマノミコトノオホミイメニサトシマツラク》、天下乃公民乃作作物乎《アメノシタノオホミタカラノツクリトツクルモノヲ》、悪風荒水尓相都々不成傷波我御名者《アシキカセアラキミツニアヘツヽナシタマハズソコナフハアガミナハ》、天乃御柱乃命《アメノミハシラノミコト》、國乃御柱乃命止御名者悟奉※[氏/一]《クニノミハシラノミコトヽミナハサトシマツリテ》、吾前尓奉牟幣帛者《アカミマヘニタテマツラムミテグラハ》、云々|吾宮者朝日乃日向處《アガミヤハアサヒノヒムカフトコロ》、夕陽乃日隠處乃龍田能立野乃小野尓吾宮波定奉※[氏/一]《ユフヒノヒガケルトコロノタツタノタチヌノヲヌニアカミヤハサタメマツリテ》、云々|奉宇豆乃幣帛者比古神尓《タテマツルウツノミテクラハヒコカミニ》、云々|比古神尓《ヒコカミニ》、云々|比賣神尓《ヒメカミニ》、云々とあるにて論無《アケツラヒナ》し、但し此ノ文|龍田《タツタ》尓といふより大御夢尓悟奉久《オホミイメニサトシマツラク》といふまでハ古き傳《ツタヘ》言《コト》を後に記《シルセ》る地ノ文にて、天下乃公民乃作作物《アメノシタノオホミタカラノツクリトツクルモノ》乎、といふより以下《シモ》ハ、當時《ソノカミ》神の御誨言《ミサトシコト》のまゝを記《シルセ》る古文なれば其心して等閑《ナホザリ》に見過《ミスゴ》すべからず、(すべて古き祝詞にはかゝる例多かり)さて志貴嶋宮《シキシマノミヤ》とハ磯城瑞籬宮《シキノミヅガキノミヤ》の事にて即チ崇神天皇に坐《マセ》り、
[#2字下げ終わり]
さて其ノ立野にハ鎮リ座るものから、其ノ邉リの總名《オホナ》ハ龍田なるを(祝詞にも立田能立野の小野とみえたり、)其社に鎮リ坐るハ祝詞にもある如く、比古《ヒコ》神|比賣《ヒメ》神の二タ柱の神にましますから、(立田ニ坐ス比古神比賣神の義なり)常には打任《ウチマカ》せて立田比古《タツタヒコ》立田比賣《タツタヒメ》ノ神とぞ称《マヲ》しにけん、
[#これより2字下げ]
其ハ萬葉巻九(廿丁)諸卿大夫下ル2難波ニ1時ノ歌に吾去者七日不過龍田彦勤此花乎風尓莫落《ワガユキハナヌカニスキジタツタヒコユメコノハナヲカセニナチラシ》難波ニ經テv宿明ル日還リ來ル之時ノ歌に君之将見其日左右庭山下之風莫吹登打越而名負有杜尓風祭為奈《キミガミンソノヒマデニハヤマオロシノカゼナフキソトウチコエテナニオヘルモリニカザマツリセナ》、とあるをもてやゝ古くより打任せてハたゞ立田日古、立田日賣と呼《イヒ》つる事を悟るべし
[#2字下げ終わり]
かくて神名式、大和國平群郡龍田ニ坐ス天御柱國御柱ノ神社二座(並名神大月次新嘗)と載られたるハ、彼ノ龍野村なる龍田ノ社にます事云も更なるを、此ノ社に並ヒて龍田日古、龍田日賣ノ神社(二座)とあるハ、今の龍田ノ里なる龍田ノ社なるべくおぼゆ、
[#これより2字下げ]
其ハ此ノ龍田なる龍田ノ社ノ傳に、聖コ太子法隆寺を建給ふ時その建立の地を此ノ社に乞祷《コヒネキ》たまふとて、毎日《ヒコト》此ノ斑鳩《イカルガ》ノ宮より彼ノ立野ノ社に参詣《マウデ》たまひしが、法隆寺|成就《ナリ》て後に其ノ傍に勧請し給るよし(尚此ノ神の老翁に化《ナリ》て伽藍の勝地を教へて我また守護神とならんと詔しよしなどもあり、)に傳《ツタヘ》つるハ實《マコト》にさもあるべし、(上ノ件のおもむきハ諸社一覧龍野ノ社縁起などにもみえたり、)按《おも》ふに當昔《ソノカミ》此わたりまでも、彼立野神の産土地《ウフスナトコロ》なりけんより、さすがの太子も其地《ソノトコロ》を乞給ひ、尚また其ノ寺の為に社をも勧請したまひつるものなるべし、(何事《ナニワサ》をなすにも太古《イニシヘ》ハまづその所の産土神に乞奉りて後になしおこなひつる事のよし、ハたそれが徴なとハ神事傳に委しく注り)さてしか勧請し給ふにつけてハ平生《ツネ》に龍田比古龍田比賣ノ神と呼馴《イヒナレ》きつるまゝに、即チ其ノ御名もて祭られしなるべく、さるから神名式にも然擧られつるなるべし、(立野のかたなるハ彼の祝詞にもみえたる如く、止事《ヤムコト》無き由縁《ミイハレ》ありて公ケより重く祭らせ給つる社なるから名神大社にましますを、龍田のかたのさもなき小社の列《ツラ》なるも、彼ノ太子の私に斎祭《イツキマツリ》初《ソ》められし社なればなるべし、但シ彼ノ太子の頃斎キ祭そめられし社の官社と成れるが式に載《ノレ》るも珍《メツ》らしからず、況《マシテ》や然《サ》ばかり世にいミじくもてはやされし太子の勧請まつりたまへる社なるをや)かくて其ノ龍田比古龍田比賣神の社のある地《トコロ》なるから、其処《ソコ》をも龍田と呼《イフ》ことゝハ成レるにて當時《ソノカミ》此ノわたりまでも龍田といひつるにはあらず、此の邉リハ弘く斑鳩《イカルガ》と呼《イヒ》つる地《トコロ》なること古書どもの趣キにて論ヒ無し、(社の号《ナ》より土地《トコロ》の称号《ナ》と成レる例ハ、神名式甲斐國山梨ノ郡松尾ノ神社とあるハ原《モト》山城ノ松尾ノ社より後に移し祭れる社なるを、其社の坐るから其ノ土地《トコロ》を松尾ノ郷といひ、丹波國多紀ノ郡祇薗村といふハ、都の祇薗ノ社を移し祭れるより然土地の名にも負るなり、かゝる事どもハ例いと多かり、)されば土地《トコロ》の名にさへ負るをもても式なる龍田比古ノ社ハ今の龍田ノ社に坐す事をよく思定べし、然るを大和志に、此ノ小社の列《ツラ》なる社をも倶ニ在2龍野村ニ1云々神幸之地ハ在リ2龍田村ニ1旧名|御憩所《オタビシヨ》今建ツ2小祠ヲ1称シテ曰フ2新宮ト1、とあるハ今の立野ノ社なる枝社《エタヤシロ》をさして式なる龍田社ぞと云るにて、其は今も彼ノ社にてハもハら如此《シカ》傳へをれども、信《ウケ》られず、また今の龍田ノ社を憩所なりといふは、今も毎年《トシゴト》の九月十三日の神祭にハ、立野ノ社の神輿《ミコシ》を立田の社に舁持来《カキモテキ》て御饌《ミケ》などたてまつりて後、本ツ社にハ還り坐スよしなれば、それを※[手偏+處]《ヨリトコロ》として然《サ》ハ云めるなれば、此ハ本來《モト》立野より移し祭れる社なから、其《ソノ》縁《イハレ》に因リて今も神幸《ミユキ》なし奉り、御饗《ミアヘ》なども奉るにこそあれ、唯に憩所《タヒシヨ》とのミいふにはあらじをや、(然るに祝詞考に今法隆寺の所によろしき社二ツあり是を立田の本宮ぞといひなすハ例の偽なり、此処ハ立野の御旅所なること今もしかり、」と云れしハさすがの翁も今の立田社を彼ノ比古比賣二神ノ社なりといふことに考及《カムカヘオヨホ》されざりしからの誤なり、されど立田にてハ彼太子の勧請し給ヒつる後ハ公ケよりの御祭も何も此ノ龍田ノ社にて執行《トリオコナ》ふげに云めるをさして、龍田の本宮ぞといひなすとハ注《イハ》れしなるべし、されど公ケより祭らせたまふハ立野のかたなること論を俟《マツ》べきにあらず、かゝれバ龍田の偽言《イツハリコト》に欺《アサムカ》れじとして、還りてまた立野の強言《シヒゴト》になづまれつるものなり、)かくて龍野ノ社は上に擧つる祝詞に見えたる如く崇神天皇の御代に龍田の立野の小野に鎮坐《シツマリマセ》るとある、立野小野といふハ則チいまも鎮リ坐る立野村る杜《モリ》いとよく地理《トコロノサマ》にも符《カナ》ひたれば、太古《イニシヘ》より此処《コヽ》にハ鎮リ坐つるものなるべし(今年春のころ此処にものして、神主中西兵庫といふ人に逢ヒて聞つる趣キにてハ、今の社よりハ三四町ばかり西ノ方に昔の社蹟《ヤシロアト》ありて大キなる石三ツばかり残れりといへりき、然《サ》ばかりの違ヒハ有まじきにもあらざれども、其処《ソコ》なる瀧を三室ノ瀧ぞ、其ノ川を立田川ぞなど云る浅ましき説にひかれて、其蹟なりといふ処にハ得尋ものせざりしかども、其は聊カの違なればともあれ強《シヒ》て妨《サマタケ》無し)其ハ祝詞に朝日乃来向處夕陽乃日隠処《アサヒノキムカフトコロユフヒノヒガケルトコロ》とある如く、東ノ方ハ遙に弘くうち開《ヒラケ》たる地《トコロ》にして、西は所謂《イハユル》龍田山高く聳《ソハダ》ちたれば、實に然いふべき地《トコロ》のありさまなるうへ、上に引る万葉巻ノ九ノ歌に打越而名二負有杜尓風祭為奈《ウチコエテナニオヘルモリニカサマツリセナ》とある、打越てとハ難波より歸るとて立田山を打越てといふ事にて、立野ハ立田山の東の麓なればよく符へり、然るを橘守部が著せし鐘ノ響に、「土人ハ龍田村なるを本宮といひ、學者ハ立野なるを本宮として互に一方を新宮と心得たれど、今思へば龍田ノ社ハ三室山の新宮にて、立野はまた三室山の斎きどころなりければ、世の學者ひたぶるに立野を本トとして、此ノ龍田なるを立野の新宮と思ひいふハ還リてひが事なり、行嚢抄龍田明神の條に昔の紀行の文を引て別當のいはく、此神は神皇十代崇神天皇の御宇に斎ヒ鎮メたまへる、山を神南備山といふと縁起にもあり、山深く侍れば此所へ(立野の原へなり)移し奉りたりとなんいひ傳へたると語る、云々如此あるをみれば其ほどまではよく心得たりしなり、云々實に山深くして行あへざりし故に、一里を近めて道の平かなる立野にして祭られたるなり、」と云るハすべて信難《ウケガタ》き妄言《ミダリコト》なり、今も龍田の土人といへども龍田を本宮、龍野を新宮といへる事はかつゝゝ無し、此は祝詞考に龍田ノ社の事を本宮と云なすと云れしは、彼ノ公ケより祭らせたまふことの上につきて云れつることなるを、わろく見て如此《シカ》云るなるべし、さてまた龍田ノ社を三室山の新宮なりと云るハ、殊《コト》に珍《メツラ》しき強言《シヒコト》なり、此ノ社ハ龍野より移し奉れりとこそ社傳ハ更なり土人の口碑にも云傳へたれ、三室ノ山より移し祭れりといふ事ハ書にも此ノ両社の傳へにもかつて無き事なり、(もし三室ノ山より移せるといはゞ、立田のノ社ハ風神にハあらずとせんかいかゞ)また龍野を三室山の斎所《イツキトコロ》なりといへるも何に拠て云るにや、もしくハ彼別當が詞に崇神天皇の御宇に齋キ鎮メ玉へる山を神南備山といふ云々山深ければ此所へ移し奉れり、」と云るを拠《ヨリドコロ》として推定《オシサタメ》て云るにや、されども此別當か云つる神南備山といふハ信難《ウケガダ》く、(其ハ後ノ世の偽妄なるよし下に弁《イフ》べし、)よし其ノ神南備にもあれ、さしも今ノ社とハ隔れる処にハあらざるをや、況《マシ》て然いへるハ上に擧つる今ノ世彼ノ所にて三室山と唱《イフ》ところにて、(彼ノ神主中西某が旧社地といへるすなハち此処なり、)今ノ社よりわづかに三四町ばかり奥《オク》なり、(山深ければと云るハ徃来ノ道より少し深くて参詣《マウツ》る便りのわろきよしなるべし、)然るを山深くして行あへざりしゆへに一里を近めてなどいへるハ彼ノ神南備(三室山にもあれ)を、立野よりハ一里も奥深きところと思へるにや、さバかり隔りなバ龍田山ハ越はてゝ、彼ノ祝詞に朝日乃日向処《アサヒノヒムカフトコロ》、夕日乃日隠処《ユフヒノヒガクルトコロ》とあるにも符《カナ》ハざるうへ、此ノ大神を崇神天皇ノ御代に斎祭《イツキマツリ》そめ給つる時より、此ノ立野なりし事ハ則チ祝詞に、龍田乃立野乃小野尓吾宮波定奉※[氏/一]《タツタノタチヌノヲヌニワガミヤハサタメマツリテ》とあるは神の御誨言《ミサトシコト》にして地詞《ヂノコトハ》にハあらざれば、當時《ソノカミ》の詞《コトバ》なる事云も更なるを、さバかり山の奥ならんにハ小野とあるをもいかにとかする、(龍野より西ハたゞちに山にて小野といふべき地はあること無し、すべて彼ノ記者ハ祝詞に、地ノ詞と古傳古語をそのまゝに擧たるとの差別《ケヂメ》ある事を得知らざるから、かかる妄リ言をも云いでつるぞかし、)かゝれバ同書に尚も「崇神天皇の御代に斎祭《イツキマツリ》そめ給しハ今土人の三室山とおぼえたる山に斎《イハ》ひたまへるなれバ、いまだ祠《ヤシロ》などハなくて其ノ嶺に生茂《オヒシケ》れる梢どもぞ即|神籬《ヒモロキ》なりしなりける、かくて其後遙に過て天武天皇ノ四年夏四月遣テ2小紫美濃王、小錦下佐伯ノ連廣足ヲ1祠ル2風神ヲ于龍田ノ立野ニ1とあるハ彼ノ三室山までハ王臣の人の使するに其山道狹く嶮《サガ》しくて堪ざりし故に、此ノ御世にして風神の遙拜所を立野ノ原に定めたまひしなり、云々即チ右の書紀の文にも立野に坐とハ記さず、祠ル2立野ニ1とある祠ノ字に心をつくべし、又神名式其佗の古書にも立野ニ坐と記せる事ハなくて、凡て龍田ニ坐ス天ノ御柱とやうにのミいへり、」なと注《イヘ》る事どもの押あての非なる事を悟るべし、(神籬《ヒモロギ》の事ハ別条《コトクタリ》に尚委しく見えたれどいミじき非なり)但し天武ノ巻なる云々とあるハ、此ノ時絶たるを改て祭らしめ給ヒしにハあらず、此ノ御祭ハ彼ノ崇神天皇より以後《コナタ》ハ年毎に必ス行れつらんを、其事の史にハ漏つるなるべし、かゝる例ハ日本紀にいと多かる事なるをや、(さて祠ノ字ハ祭ノ字と同しさまに用ヒられつる事ハ即チ此ノ同日に祭られし廣瀬ノ社にハ祭ノ字を用られ、崇神紀に祠ノ字も祭ノ字をも彼是《カレコレ》用ヒられつる上を考ヘ渉しても別に用たるにハあらざる事知られたり、また立野ニ坐スとハいはずして龍田ニ坐スと記るハ龍田ハ大名なればなり、其ハ廣瀬ノ社も廣瀬ノ川合に坐れども川合ニ坐スとハいはずして、廣瀬ニ坐と記ると同し例にてこれはたあやしむべきにハあらざるをや)
[#2字下げ終わり]
かくて龍田山ハ、彼ノ龍野村の西にいと高く聳《ソヒ》へたる山にて西の麓ハ河内國大縣郡なり、此山越の道を今も立田越(または亀瀬越とも)いひて大和國より難波にものする太古《イニシヘ》よりの一ツノ路なりしよしハ、神武天皇ノ紀に遡流而上《カハトリノボリマシテ》経《ヘテ》2至河内ノ國草香ノ邑青雲ノ白肩津《シラカタノツヲ》1、云々|皇師《ミイクサ》勤兵《ツハモノヲトヽノヘテ》歩《カチヨリ》趣ムク2龍田ニ1、而其《ソノ》路《ミチ》狹嶮《サカシクテ》人不得並行《エナミユカサリキ》乃《カレ》還《カヘリテ》更ニ欲《オホシキ》d東ノ方踰《コエテ》2膽駒山《イコマヤマヲ》1而|入《イラマク》c中ツ洲ニu、云々とあるをはじめにて、天武天皇ノ八年にハ此ノ所に關を居《スヱ》られ、尚此ノ道より徃來《ユキヽ》しつるよしハ、萬葉巻ノ六(二十六)藤原ノ宇合卿ヲ遣サルヽ2西海道ノ節度使ニ1之時ニ高橋ノ連蟲麻呂カ作ル歌に白雲乃龍田山乃露霜尓色附時丹打越而客行公者《シラクモノタツタノヤマノツユシモニイロツクトキニウチコエテタヒユクキミハ》云々巻ノ九(二十)諸卿大夫等下ル2難波ニ1ノ歌白雲之龍田山之瀧上之小鞍嶺尓開乎為流櫻花者《シラクモノタツタノヤマノタキノヘノヲクラノミネニサキヲヽルサクラノハナハ》云々反歌|吾去者七日不過《ワカユキハナヌカハスギジ》云々(上に引り)また(廿丁)白雲乃立田山乎夕晩尓打越去者瀧上之櫻花者《シラクモノタツタノヤマヲユフクレニウチコエユケハタキノヘノサクラノハナハ》云々反歌|暇有者魚津柴渡向峯之櫻花毛折未思物緒《イトマアラバナツサヒワタリムカツヲノサクラノハナモヲラマシモノヲ》また(同丁)難波ニ經テv宿ヲ明ル日還リ來之時ノ歌|島山乎射徃廻流河副乃丘邉道従昨日已曽吾越來牡鹿一夜耳宿有之柄二岑上之櫻花者瀧之瀬従落墮而流《シマヤマヲイユキメグレルカハソヒノヲカビノミチユキノフコソワカコエコシカヒトヨノミネタリシカラニミネノヘノサクラノハナハタキノセユタキチテナカユ》云々などあるをもて、其|上下《ノボリクダリ》ともに此ノ道より多くものしつる事をまづよく弁ふべし、
[#これより2字下げ]
此ノ徑《ミチ》の事を玉林抄といふものに、聖コ太子の初て開き給ヒしよしに記るハ、今も普く此処《コヽ》の土人《サトヒト》どもゝいふ事にハあれど、そハ非なるよしハ既に神武天皇の御代に此ノ山を越むとしたまひしとき人ども並行《ナミユク》ことこそならざりけれ、全《モハラ》道無からましかバ此道にハ出たちたまふべくもあらず、されども彼ノ太子此ノ斑鳩《イカルガノ》宮より、數《シバ/\》河内にものし給しよしなれバ、其ノ程さしも狹嶮《サガシ》かりし路を平穏《タヒラ》に造らしめ給ヒしかバ、其を誤リて如此《シカ》いふなるべし、さて万葉ノ歌に瀧ノ上之とある瀧ハ尋常《ヨノツネ》のにハあらで、古ハたぎち流るゝ速川の事を打まかせて瀧とぞいへりける、今も此ノ川龍田山なる亀が瀬といふあたりにてハ、岩にせかれ落瀧《ヲチタギ》ち流るゝが故に如此《シカ》云るなり、彼ノ巻九の歌にハ既に|瀧之瀬従落墮而流《タキノセユタギチテナガル》とさへよめり、然るを万葉畧解に「實に瀧ある所なれバなり」といへるハ非なり、また小鞍ノ嶺ハ此歌どもによるに彼亀が瀬の邊リの一《ヒトツ》のやまの名にハ有ける、(總名《オホナ》ハ龍田山なる事いふも更なり)大和志に小倉ノ峯有リv二ツ一ハ在リ2立野村ノ西ニ1、一ハ在リ2小倉寺村ノ上方ニ1とみえたれバ、今も此ノ龍野の西に然《シカ》呼《イ》ふ山あるなるべし、(然るを契冲、加茂翁、橘守部などの今の闇峠《クラガリタフゲ》の事ぞと注《イヘ》るハ誤りなるよしハ、下に委しく弁《イ》ふべし、)また島山とよめるは彼ノ川の折廻《ヲレメグリ》て島となれる処をさして島山とハいへるなり、(必しも四方ともに縁を放れて川中にある島ならでも古ハ川の折廻れるところは島といへり、)されば|射徃廻流《イユキメグレル》とハよみつるなれ、然るをこれをも畧解に「島山ハ大和なり、巻ノ五奈良路なる島の木立《コタチ》巻ノ十九島山にあかる橘とよめり、故郷の島山のあたりを出しハ昨日《キノフ》なりしをといふなり」云るも違ヘり、(また此ノ島山の事を大和志に神南《シンナン》に在るよしに記るハ例の杜撰《ミタリ》なり、)此ノ歌ハ昨日《キノフ》此ノ龍田山の島山をいゆきめぐれる川添の岡邉《ヲカビ》の道を越こしが、一夜|寝《イネ》たりしからに云々といふ意なれバ、こゝにて故郷の事などをいふべきところにハあらざるをや、されば一ツの名所にハあらで、唯川の徃廻《ユキメグ》りたる島山といふ意なり、
[#2字下げ終わり]
然るを契冲が古今ノ余材抄。加茂翁が伊勢物語ノ古意などに、此ノ立田山なる小倉ノ峯を暗峠《クラカリタフゲ》の事なりと註《イハ》れつる事の誤りなるよしハ、既《ハヤ》く上田秋成がよしやあしやといふ書に弁へおきつるうへ、鈴屋の翁も古事記傳さてハ玉勝間などに委しく辯へおかれつるが如くなるを、尚も鐘ノ響きに彼ノ暗峠を此ノ龍田越に混じつるだにあるを、古書どもに日下直越《クサカノタヾコエ》とあるをさへ、龍田越に引付て解たるハ抑々いかなる非《ヒガコト》ぞや、
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さるハ鐘ノ響に「かくて此龍田越闇かり峠にかゝる道ハいと久しき時よりの間道なり、神武ノ巻龍田越の條に云々(是香云此ハ上に引つる文なり)とある是レ其ノ濫觴なり、此ノ山路甚タ近道なりけれバ、つひに龍田の直越《タヾコエ》とハ名に負しなり、万葉集六(二十六丁)超ル2草香山ヲ1時神社《カミコソノ》忌寸|老麻呂《オユマロ》カ作ル歌|直超乃此徑尓師弖押照哉難波乃海跡名附家良思裳《タヾコエノコノミチニシテオシテルヤナニハノウミトナツケヽラシモ》、故レいにしへ西ノ國へ行にハ必す此道を經て難波へかゝりしなり云々(是香云此所に上に引る万葉巻ノ六蟲麻呂が哥巻ノ九の哥どもをも引り)おもふに此ノをくらといふ名義ハ、後世暗かり峠と呼フばかり山樹繁りて天を掩《オホ》ひ、昼も暗き山なりけれバ即チ小闇《ヲクラ》きよしもて負る名とぞおぼしき、そも/\又|如此《カク》繁茂せる山なりけれバ、つひに紅葉の名所となれりしもうへにざりける、云々」といへるハすべて非なり、其はまづ龍田越と暗がり峠とハ道の程、南北二里余り隔《ヘタヽリ》て暗峠ハ河内國河内郡に在て、(龍田山ハ、河内のかたにてハ大縣郡にて、河内ノ郡とハ其間に高安郡を隔たり、)大和にてハ同し平群ノ郡の中なから、其間に信貴越《シキコエ》、鳴川越《ナルカハコエ》、十三峠などいふ河内に通ふ路を隔てたり、されバ立田越と暗峠とハかけても紛混《マギラ》すべきにハあらざるを、契冲が混じそめつるハ龍田の小倉ノ峯ハ知れる人|稀《マレ》なるを、暗《クラガリ》峠にハ小倉寺村といふありて、其《ソ》処に小倉ノ山と呼《イ》ふ山もあるより不意《ユグリナク》思ひ誤りつるなり、(加茂翁の万葉に白雲の龍田の山の瀧上の小倉の峯とよめるは今の暗峠といふぞいにしへの立田山の小倉の嶺なるといはれしを、上田秋成が此ノ考ハ前に高津ノ阿沙梨の誤られしを、東人のふとしたかはれしハさる事ながら誤りなりと、弁へつるハいとよきいひさまなり)そも/\暗峠といふハ、今も公ケの書留《カキトメ》の帳《フミ》にハ倉銀峠《クラカネタフゲ》とあるをもて思ふに、倉嶺《クラカネ》峠の義《コヽロ》にて、小倉山といふ小《ヲ》もじハ小山田《ヲヤマタ》、小治田《ヲハリタ》など古く称ヘいふ小《ヲ》なるべし、さればくらがりといふハくらがねを訛《ヨコナマ》りつる事疑無《ウツナ》かるべし、(行嚢抄巻ノ五に、此峠の事を暗晴《クラハレ》峠と記せるハ當時《ソノカミ》しかかきつる事もありつるか、はた如此聞誤りて記し留《トメ》つるにもあるべし、)然るを守部が此ノをぐらといふ名義ハ後世に暗がり峠と呼ばかり山樹繁りて天を掩ひ、昼も暗き山なりければ即|小闇《ヲクラ》きよしもて負る名とぞおぼしき、」といへるハいかにいミじき推量《オシハカリ》の強言《シヒコト》にハあらずや、(但し二所ともに小倉と名に負る因《イハレ》ハ闇《クラ》きよしにハあらじ、此ハかの闇淤加美《クラオカミ》、闇山津見《クラヤマツミ》などいふクラと同しく谷の事なり、そハ何処にもあれ山越の道ハ谷間《タニマ》を越るものなればなりまた椋嶺《クラガネ》などいふネといふ言も嶺の事のミにハあらず、)殊に甚しきハ此ノ山路甚タ近カ道なりければつひに龍田の直越《タヾコエ》とハ名に負しなり、」と注《イヘ》るこそ心得ね、其は古く日下之直越道《クサカノタヾコエノミチ》といふ事ハ古事記(雄畧段)に見え、則こゝに引おきつる万葉巻ノ六に超ル2草香山ヲ1時の哥に直越乃此徑尓師弖《タヾコエノコノミチニシテ》ともよめるにハあらずやされバ日下之直越《クサカノタヾコエ》とこそあれ、龍田《タツタ》の直越《タヽコエ》といへる事ハ古書ともハ更なり、後ノ世の書にもかつて無き事なるをいかに思ヒ誤りけん、すべて此人ハさる無《な》き称をすら設ケ出て闇かり峠をも、そこなる小倉山をも、日下《クサカ》の直越《タヾコエ》えおも、悉ク此ノ龍田に引付て説つるハいとあやしき事にあらずや、(按《オモ》ふに契冲、加茂翁ハ立田山を暗峠に引付て説誤り、守部ハ暗峠を立田に引付てとき誤れり、)さて日下之直越《クサカノタヾコエ》とハすなハち今の暗峠《クラカリタフケ》の古名なり、そハ古ヘ河内の日下《クサカ》といへるハ此あたりの總名《オホナ》なりしかバ如此《シカ》いひつるなり、直越《タヾコエ》とハ此道奈良より難波にものするにハ直路《タヽチ》にしてあるが中にも近かるが故なり、[#2字下げ終わり]
さてまた龍田川といふハ、今の龍田ノ里より三町ばかり西にありて今も普く龍田川と呼(イ)ふなる川、すなハち古歌どもに多く詠おきつる龍田川の事にして、尚また今の官道《オホチ》に掛《カヽ》れる土橋より四五町ばかり下なる、いはゆる御室山《ミムロヤマ》の東の山本を流れ廻《メグリ》て其処《ソコ》より十町余り下なる、大輪田村といふ処にて廣瀬ノ郡より流れくる廣瀬川に落合ヒて、船戸《フナド》、勢野《セヤ》などいふ村を過て竜野にいたり、龍田山の麓を流レ落チて河内國に行なるを、彼ノ廣瀬川も此ノ龍田川の流レ合ヒつる後ハ廣瀬川の名ハ無くなりて、彼土橋の邉より河内ノ國にいたるまで、凡二里ばかりが間をむかしハ龍田川とぞいへりける、
[#これより2字下げ]
さるハ今の龍田川すなハち昔よりの龍田川なる證《アカシ》四ツあり、其ハまづ第一に總國風土記(此書ハ元亨ノ頃記つる書なるよし師の古史開題記に論《アケツラ》はれたり、)龍田ノ郷ノ下《トコロ》に、郷ノ西ニ有v川号ク2龍田川ト1源ト出ツ2膽駒ノ山足平群谷ヨリ1其ノ流レ自リシ2西北1而《テ》東南ニ流レテ入ル2大倭大路ノ川ニ1也と見えたれバ、當時《ソノカミ》にハ論《アケツラヒ》無《ナ》かりしにこそ、(但し大川の事を大倭大路ノ川といひて、其処《ソコ》まて立田川の名の及へるよしに記《シルサ》ざるを思へハ、當時《ソノカミ》大川にハ此ノ名を呼《イハ》ざりしなるべし、さて大和志にハ此川のことを平群川と擧て、源ト出テ2俵口村ヨリ1經2過山崎。一分、小瀬《ヲセ》、※[木+典]《シテ》原、下垣内、楢井、龍田等ヲ1至テ2神南《シンナンニ》1曰フ2神南備川《カムナヒカハト》1有リ2古歌1流レテ入ル2龍田川ニ1とありて立田川の事をハ、自リ2廣瀬郡1流テ経テ2勢野ヲ1至テ2龍野ノ西亀瀬ニ1入リ于2河州ニ1とみえて、龍田川といふを廣瀬川の此ノ平群郡に入ての名とせり、風土記とハ上ミ下の違ヒあり、されども平群川といふ名ハ古くものに見えたる事なし、平群谷よりながれくる川なるから推當《オシアテ》に如此《シカ》いへるなり、神南備川の事ハさる事なり、そハ尚下に委しくいふべし、)二ツにハ古今(秋下)神なび山を越過て龍田川をわたりける時、もミぢのながれけるをよめる、(清原ノ深養父)神なびの山を過ゆく秋なれば龍田にぞぬさハ手向る、と詠るハ河内の方より出こし道の次第《ツイテ》にて、神南備山(此山の事も論なり次条にいふべし、)を越て三町ばかり來《キタ》りて立田川に流るゝ紅葉を見て、今過きつる神なび山を越過て徃《ユク》秋なればこの龍田川に紅葉のぬさを手向る事よ、さればこそかく紅葉は流るれといふ意にてよめるなれバ(此哥先達の解よろしからず)神南備山ハ、此川より西の方らでハ符《カナ》ハず、其は秋ハ西に徃《イヌ》ものなればなり、もしこれを東より出こし道の次第《ツイテ》ならむも知るべからずといはゞ、彼ノ神南備山を越て勢野、立野まどいふ村を過て一里余りの道を經て、立田の大川にハ出る事なるを、たゞに神南備山をすぎて立田川を渡りける時云々とハくまじくこそ、されば契冲も「此ノ端書《ハシカキ》をみれバとかく神なび山と龍田川ハ近きほとりにして、」云々といひ、(此ノ後に云る事どもハわろし)香川景樹も是より神南備山を越て西ノ方へ歸りいなんずる秋なれバ、先山口ちかき立田川にミそぎはらへて幣をバ手向るといふにて、今秋の越んとするなれバ此山ハ立田川の西にあるなり、」など云るハいづれもさる事なり、其ノ上龍田川を渡りけるとあるにて今の龍田川なる事いよ/\あきらかなり、そハ神南備山を越てこなたに渡るべき川ハ立田川をおきてハ外にある事無し、もしこれを東より西にものせるなりといはゞ、立野にてハ唯|川副《カハゾヒ》の路をこそゆけ、あなたの山ハ嶮《ケハシ》くて渡るべくもあらず、されば上に引る万葉巻ノ九ノ歌に、暇《イトマ》あらバなづさひ渡り、と詠るも此川ハ普通《ツネ》にハ渡らざる処なるから、殊更に暇あらバとハ詠つるにハあらずや、三ツにハ龍田山を詠る歌、万葉集に十四五首みえたれども、龍田川を詠る歌ハ一首もある事無し、と鈴ノ屋翁のいはれつる如く、(但し立田川とハつゞけざれども
上に引る万葉哥どもに、瀧上とも、魚津柴《ナツサヒ》渡りとも、島山をいゆきめぐれる河ぞひの道とも、滝の瀬ゆたぎちて流るとも、よめるハいづれも此立田の大川をいへるものなる事ハいふもさらなり)實に奈良ノ都より以徃《アナタ》の古書どもに此名見えたることかつてなし、彼ノ古今の立田河紅葉ミだれて流るめりわたらハ錦なかや絶なん、(此の哥読人不知と載て左注に、奈良ノ帝の御哥なるよしにしるせり、同書の序に秋ノ夕立田川に流るゝ紅葉をハ、帝の御ン目に錦と見給ひと書るハもはら此ノ御哥をさして云るにて、玉勝間にも平城天皇なるべきよしにいはれつるハ、実にさる事なり、)とある御歌ぞ立田川といふ名のものに見えそめたる始めにハ有ける、さるハ古ヘより有こし地《トコロ》の古き書にハ漏たるが後に名高く成る例も無きにはあらねど、此処ハさるたぐひにハあらで、上に弁へつるが如くもと龍田比古、龍田毘賣といふ御名をもて、此処《コヽ》に斎祭《イツキマツ》れるから、其ノ御社を龍田ノ社と称《イヒ》てもとハ社のミ坐しけんを、後に其社ノ邉リに民の家居の出來つるまゝに其里をも即龍田といひ、其龍田ノ郷近く流るゝ川なるから其川をもおのづから龍田川と呼《イふ》事とハ成るにて、万葉ノ頃ハ尚いまだ其ノ名無かりしかバ其をもよめる歌もあらざりしにこそ、(彼ノ聖コノ太子の御時此ノ社を建玉ひ、其後あまたの年月を経て、平城天皇のころにいたりて、里ノ名の川ノ名にも及ひつる次第《ツイテ》をつら/\按《オモ》ふべし、)かゝれバ平城天皇の立田川もミぢ乱れて流るめり、と詠せ給へる即チ此川なりける證《アカシ》なるうへ、わたらバとさへある御詞のつづけがら、渡るまじき川に對《ムカヒ》てよませ給る勢ヒにあらさるをも思ふべし、(龍田の大川の渡るまじきよしハ既にいへり)四にハ後撰元方立田川たちなバ君が名ををしミ岩瀬の杜のいはじとぞ思ふと磐瀬ノ杜を詠合せたる、其岩瀬ノ森、彼ノ龍田の土橋より四五町下にあれバ、此処なる立田川を詠るものなる事疑ひ無し、(但し岩瀬杜にも論ヒありて下に委しく云べし)かゝれバ今の龍田の立田川ぞ此川の名の起れる原《モト》なりける、さて其由をよく弁へおきて、彼ノ廣瀬川に流レ合ヒつる後ハ大川筋を龍野ノ湊過るほど迄をも立田川といひつる徴《アカシ》三ツあり、(すべて二ツノ川の流レ合ヒて後に一ツの川の名と成レるよしハ、近く都のうちにても高野川と加茂川と鴨ノ河合にて流レ合ヒつる後ハ、高野川の名ハ清く絶はてゝ、やゝ下迄もたゝ加茂川とのミいふがごとし)其ハ兼盛集に、(初瀬にまうでけるに)から錦あらふと見ゆる立田川大和川國のぬさにぞ有ける、とあるは河内國より彼ノ立田越を越えきて、今大和國に入つるをりしも其処なる立田川に紅葉の流るゝさまの、から錦をあらふがごとく見ゆるハ、此大和國にて用る太麻《ヌサ》にぞ有けると詠るにて、今大和國に入リ初メたる時の歌のさまなれバ、此ノ立田川ハ大川筋の立田川なる事あきらかなり、これをも立田の立田川としてハ大和の國界に入てより、道のほどやゝ隔りてもの遠し(但し此ノ哥夫木集に長谷寺にまうづとて、はつせ川に紅葉の流るゝ見て中納言兼輔卿、からにしきあらふとみれバはせ川や大和國のわさにぞ有ける、とて載たるハ作者の名の似たるより誤りつるなるべし、哥もかくてはなにごとゝもきこえず)また古今(秋下)立田川もみぢ葉流る神なびのミむろの山に時雨降らし、拾遺(物名)神なびのミむろの岸やくづるらん立田の川の水の濁れる、後拾遺(秋下能因)嵐吹ミむろの山のもミぢ葉は立田の川の錦なりけり。これらの哥どもハ龍田川の河上に神なびの三室山ハあるよしなれバ、これも彼立野わたりにて其大川をさして立田川と詠るものなり、もし然らざれば彼ノ龍田の立田川にてハ神なびの三室ノ山ハやゝ川下にあれバ符《カナ》ハす、また古今(秋はつる心を龍田川を思ひやりて貫之)としごとにもミち葉流す立田川湊や秋のとまりなるらん、六帖もみち葉の流るゝ時ハ立田川ミなとよりこそ秋は行らめ、などある湊は即チ立野の湊なる事云も更なり(大和志にも以テ2立野ヲ1為ス2運送之津ト1といへり、)されバ此歌ハもハら大川筋の立田川をよめるものなる事|著明《アキラカ》ならずや、(湊云々とよめるハ倭ノ國にしてハ西極《ニシノハテ》なれバ秋ハ西に歸るといふよりしかよめるなり、)かゝれば立田川といふ名ハ、龍田ノ里より起りて、大川筋を立野ノ湊まてかけてしかいへりしものなりといふ、余《マロ》が説の誣《シヒ》ざる事を悟るべし                             
[#2字下げ終わり]
然るを龍田の龍田川を、名所の立田川にハあらずといふ事のものに見えそめたるハ行嚢抄に、龍田川ハ龍田町の出口ニ在り、是ヲ名所とイヘトモサニ非ス、古哥ニヨミタルハ立野ノ本宮の辺リニアリ、云々また同書龍野の条《クダリ》に、龍田川は本宮ノ後ヨリ大河ニ落合フ小流ヲイフ、但是ヲ神南備川トモイフトナリ、」と記して應永ノ頃しるせりと思《オボ》しき紀行の文を引て、「神なび山ハ三室山より二三町西にあり、三室ノ岸、龍田川なども皆こゝにあれバ、世々のうた人、此所を龍田川とよミたるなるべし、云々其岸のはるかに下に流るゝいさゝ小川を所にてハ龍田川といふ、云々わづかに二三尺ばかりもありなん、云々又明神より十町ばかり南にいとおほきなる川あり、東より西へながれたるを龍田川といふ、彼ノ小川ハ北より南へながれて此川へ落入なれバ、ミむろのもみちながれ入べし、龍田の川のにしきとよみたるもことわりにおほえ侍る、」とあるなどぞ始めにハ有ける、此ハ上にも弁《イヘ》るが如く龍田ハ後に移し祭れる社なるを、其処《ソコ》に名高き名所のあるを嫉《ネタミ》て、龍野なる嗚呼《ヲコ》ものゝ思ひよりてさる処の名を設ケ置つるを、彼紀行しるしつる男《ヲノコ》のよくも糺さでしか記しつるを受嗣て行嚢抄にも然《サ》ハ記しつるなるべし、されば龍田の立田川を名所のにハあらずといふハ、全《モハラ》龍野のかたを正しと思ひ採《トレ》るが故なり、されどもそれ非なるよしハ外に弁ふまでもなく、上に擧つる三ノ徴四證にて論ひ無るべし 
[#これより2字下げ]
もとより抄にいへる龍田の龍田川といふは、今も簗店《ヤナノタナ》より二町ばかり東に龍田川と石に彫付たる標石《シルシ》たてる小溝にして、官道《オホチ》を横に大川に落いる処に貮尺ばかりの石橋かゝれり、川は水もかれ/”\にてあるが中にもはかなだちたる唯|尋常《ヨノツネ》の小溝なれば、川の名をもてとりて呼《イフ》ばかりのさまにはあらず、(紀行ノ文にもわづかに二三尺とあれば當時《ソノカミ》よりかゝるさまなりしにこそ、)さるを此ノ龍野にてハ普くこれぞ真《マコト》の龍田川にて、今龍田にて立田川といふなるハ塩田川といふ川なるを、私にさる名を負せて此所の名所を奪《ウバヘ》るよしにいへるハ、かの昔の嗚呼《ヲコ》の巧言の毒氣ながれて今も尚わろき匂ヒの残れるにこそ、(龍田の立田川を龍野にて、塩田川と呼《イ》ふをいかなるよしかと尋しかバ、此処の祭は更なり、奈良の春日ノ祭に預る人どもゝ、龍田|垢離《ゴリ》といひて彼川に来り、塩もて垢離とる習ヒなるから如此《シカ》いふとぞ、さりとて塩田川と云んハいかゞなれど、よしやさる由縁《イハレ》によりて塩田川といふにもあれ、其ハ一ツのまたの名なるをや、)
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かゝれバ是等《コレラ》の書、またハ土人《サトヒト》の口碑《クチツタヘ》などにハいかにいふとも強《シヒ》て罪無きを、さしも弘く古書どもをひき、普く近キ世の博士たちの説を※[言+告]《ナジ》りつる例の鐘響《カネノヒヾキ》に、これに從《シタガ》ひて古歌を誣《シ》ひたるは抑いかにぞや、
[#これより2字下げ]
さるハ守部が上に引る紀行の文を擧て、「これにて龍田川いと定かなり」といひ、行嚢抄の順路に、龍田磐瀬とついでて岩瀬ハ自v路左ニ流ルヽ河ノ瀬ヲイフ、杜《モリ》ハ川辺に在リ名所ナリ、水源ヨリ六町」とあるに拠て神なび川の哥どもを擧て「かく詠めるハ龍田川の一名にハあらで、彼水源の北より南へ流れて神名火に近きあたり岩瀬迄の六町の間を分て神名火川といひ、大河に落合ヒてののを龍田川といひしなり、」と注《イヘ》るは抑々何事ぞや、抄に岩瀬の事をいへるも誤なるを、(其由ハ下ノ条にいふべし)こゝに水源より六町と云るは彼ノ小溝の龍田川の事とハ通《キコ》えざれど、(其ハ抄に云る岩瀬ハ、彼ノ小溝の立田川とハ、三四丁ばかり東にありて、大川筋にてハ川上なれバなり、)暫く守部がいへる如く、小溝の龍田川の事と見て論ハんにも、彼ノ小溝の水源ハ今ノ世三室ノ瀧と呼《イヒ》て、彼紀行の文にいへる三室ノ山よりいさゝか滴り流るゝ溝にして、其水源より大川までハ實に六町ばかりならでハあらざるを、其間を神なひ川といへるとならバ、其六町の間にハ立田川の名ハなきにや、よしそれも立田川の亦ノ名なりといふにもあれ、(抄にハ既に是ヲ神南備川トモイフ」と擧て此に小溝の亦名とせり、)さらバさしもの大川に、かゝる小溝の濁れる水の落入たらむに、大河の水の濁れらんも、(拾遺の哥思ふべし)かゝる小溝より流るゝ紅葉の大川に流れ入たりとて、三室ノ山の時雨をとがめ、嵐を想像《オモヒヤ》り、(古今ノ哥、また能因が歌思ふべし、)などせんハいとも似つかハしからざるうへ、深養父か神なび山を越過て、立田川をわたりける時、とかける古今の端書をいかにとかする、(紀行ノ文、また抄、さてハ守部 なび山ハ、越行べき道の便り無き処なるをや)また大川に落チ合ヒての末を龍田川とハいひしなり、と云るハ此ノ大川筋を元よりの立田川なりといひてハ、其川上なる三室ノ山の歌ども解難ければ、強《シヒ》て彼ノ小溝の落チ合ヒての末とハ云るなれど、さてハ小溝の落チ合ヒたる所より山本までハ纔《ワツカ》に一二町ばかりにて、谷間に流れ落たれば、さしも名高き立田川といふハ、一二町の間の名なるにや笑ふべし、(殊に可笑《ヲカシ》きハ、小溝の神なひ川といへるも、後に立田川と名のかハれるよしにもいへれバ、こゝに注《イヒ》つるとハ前後《シリサキ》あハざれども、其ノ説に皇都を山城に遷されて大和ハ他國となりし故に、今ノ京こなたハ其地の弘き總名《オホナ》もて立田川とハ呼ならひこしにこそ、」といへるもいかゞ、とてもかくても二三尺はかりの小溝を他國よりにもあれ其処《ソコ》の總名《オホナ》もて呼めやもよく思ふへし、但し此ノ小溝の大川に落チ合ヒての後を立田川といふとの説と、余《マロ》か今の龍田川の廣瀬川に落チ合ヒての後ハミながら立田川といふと弁《イヘ》る説《コト》の似かよひて聞ゆれども、龍田の立田川ハさる小川にハあらさる事ハ 抄にも「橋アリ卅余間」とみえ、今も普く龍田の大橋といひ、川も名高き佐保川、初瀬川、などに比《クラベ》てハやゝ大きなる川なれバ、彼ノ小溝などハ等《ヒト》しなミにいふべきにあらず、)
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さて如此《カク》真《マコト》の龍田川を執へ、龍野の立田川の僞妄なる事を弁へおきて、尚また事の因《チナミ》に近キ世の博士《ハカセ》たちの此ノ川につきての説どもをも次々擧て弁ふべし
[#これより2字下げ]
其ハ鐘ノ響にもあくまで弁へおきつれども、余《マロ》が思ふ心《ムネ》とハたがへる事も多かればなり、
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さるハ契冲が余材抄に、今の法隆寺の邉リに立田といふ処あるを元《モト》として其ほとりに神南《シンナン》と音にいふ処あり、それを神南備山と心得、立田川をも立田山をも彼ノ処を本としたるによりて古歌にかなハざるなり、万葉巻ノ九に、白雲の立田の山瀧ノ上の小倉の嶺、と詠るハ今の俗、くらがり峠といふ処なり、云々然れバ其山の麓に流るゝ川を立田川といふべし俗説に迷ふふべからず、」といへるは此法師ハ神南備の三室といふを、飛鳥《アスカ》にれる事とのミ思ひとりつると、立田山を闇峠に混《マギラ》しつるとによりて、龍田川をも彼処《カシコ》にハ川のありや無しやをも弁へ訂《タヾ》さで、唯|推量《オシハカリ》にしか注《イヘ》るにて、慥に今ノ世それの川ぞ昔の立田川なると定めいひつるにハあらず、されどもその説の誤なるよしハ、本とある神なびハ彼|神南《シンナン》なるあかしあるうへ、龍田山のいたく違ヘるをもて弁《イフ》にたらず、
[#これより2字下げ]
但し龍田の立田川をさして古哥にかなハすといへるは、もとより神なびの違ヘる故なるべけれど、彼処をのミ龍田川といへるにてハ、彼ノ拾遺集などの古哥の通《キコ》え難きに心付るにも有べし、
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また加茂翁も、其ノ大かたハ此ノ法師の説によりて、彼古今の深養父が端詞をあげつらひて、「彼ノ飛鳥川もミぢ葉流るとありし古哥をはやくより立田川と誤れるを、今の京人ハ大和國のやうを委く知らねバ、其誤につきて深養父も彼哥を思ひ得つるより、端書をハ推シ量リに設ケて書しものと見ゆ、」といはれしハ殊に甚《イミ》じき強言なること、鈴屋翁の「哥主のミづから其山を越、其川を渡りてよめるとあれバ誤りとハ云ヒ難し、たとへ哥ハひが心得してよむこともありとも、さる詞書までも作るべきものかハ」、云れつるがことし、
[#これより2字下げ]
但しこゝに飛鳥川もみぢ葉流ると擧られつる哥ハ、古今の立田川もみち葉ながる神なびのとある歌の事なるを、其ノ左注に、又はあすか川とあるに拠《ヨリ》て擧られつるなり、さるハもと契冲が余材抄に、三諸山は高市郡に在リて飛鳥川其麓を流れたれバ、左注に飛鳥川とある正義なるべし、立田川ハ龍田の麓に流れて、平群郡なれバ遥に隔りて川の流れさへ別《コト》なれバ、三諸山の紅葉こゝに流るべきにあらず、古ヘも地理をよく考へられざりけるにやおぼつかなし、」と云るをひたぶるに諾《ウベナ》ハれしかバ、如此《かく》引直《ヒキナホ》してハ引れつるなり、(抑モ彼ノ古今の哥に、左注のかたならんにハ、飛鳥の三諸の山のことにてそれも難にハあらざれども、立田川とあるも元より此処の三諸ノ山にて、少しも疑ふべきにあらず、但し万葉巻ノ十に飛鳥川|黄葉《モミヂハ》ながる葛木の山の木葉ハ今し散かも、とあるハ全同し趣キの哥ななるを、此ノ結句の詞つかひもてもかの哥ハ今の京となりての哥なるべく、今京と成ての哥ならんにハ、立田川のかた増りてこそおぼゆれ、さて此ノ万葉なる飛鳥川ハ、河内のなる事いふもさらなり、)
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また鈴屋翁が玉勝間に、此神なひ山も立田川といふも大和なるにハあらじ、といはれつるハ大和の立田川ハ万葉集の歌に十四五首もみえたれども、いづれも/\山をのミよみて、川をよめるハ一ツも見えず、其外の古書にも立田は山のミありて川をいへる事の無きよしなとを論ヒて、彼深養父が端書を擧ケて、此神なび山は山城ノ國乙訓郡にて、同古今別山崎より神なびの森まで送りに人々まかりて、云々とあると同処なり、さて源ノ重之集に山崎川を立田川といふをつくしにいくとて、白浪の立田の川を出しより後悔しきハ船路なりけり、とあり然れハ立田川といふも、山崎のあなた津ノ國嶋上郡にて、彼神なび山近き所にて築紫へ下る道なり、大和の立田とハ別なり、」と見え、其後ミづから此処にものして考へられつる説に、「立田川といへるハ今の水無瀬川の事なるべく、神なびといへるハ神名帳に自リ2玉手1祭來ル酒解神社とあるを、續後紀、臨時祭式なとに山崎神ともあれバ、此ノ神社によりたる名にて、則チ山崎山の事にぞあるべき、」といはれつれども此山崎なるハ同名にこそあれ、昔より普く歌によみきつる神なびミむろに、立田川をよみ合せたるハ、必ス此ノ大和國平羣なる龍田にまがひあらざるよしハ、上に引つる兼盛集に、唐錦あらふと見ゆる立田川大和國のぬさにそ有ける、とある哥にて明《アキラ》かなれど、其は尚初瀬川といふ異説もあれバいかゞといはゞ、昌泰元年宮瀧遊覧ノ記(此ノ書ハ朱雀院の従駕《ミトモ》し給ヒて、天満宮のミづから書留《カキトメ》たまひつる書なるを、扶桑畧記に抜書しつるなり)に上皇|指《マウテ玉ハントス》2摂津住吉ノ濱ニ1経テ2龍田山ヲ1入リ玉フ河内國ニ1龍田ハ是レ自v古ヘ名山勝境ナリ也各々獻ル2和歌ヲ1とありて此ノ時の哥と察《シラ》れて古今ノ顕注に、寛平宮瀧御幸に在原友于の哥に、時雨にハ立田の川も染にけりから紅に木葉|絞《クヽレ》ハ、「これに考へ合さるゝハ此時の素性がうたに、雨ふらば黄葉の陰に隠れつゝ立田の山にかくれはてなん、天満宮の御詩に雨中衣テv錦ヲ故郷ニ歸ルと作らせ玉ひつるなど、いづれも雨をよミ合せたるをもて此ノ友于朝臣の哥の此時の哥なることを思ひ定むべく、此ノ朝臣の同し従駕《ミトモ》なりしよしハ則チ此遊覧記に見えたり、)とあるハ彼の龍田越を御幸なりつる道の次第《ツイテ》なれバ、(此ノ須路をもて、立田山の闇峠にハあらさる事を悟るべし、)此処《コヽ》の龍田なる事いふも更なるを、龍田ハ是レ自v古ヘ名山勝境也とあるをも思ふべし、かゝれバ山崎なる立田川ぞとの説ハ、神なびのもりといふ処のあるうへ、其処《ソコ》に立田川といふ一名ある川さへあるから、ふと思ひよられつるなるべけれど尚非なりけり、 
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鐘響に此鈴屋翁の説を論ヒて、凡かばかりいミじきしひ言もあらざるを」といひ、かう人惑ハせなる強説ハ弁へずても得あらぬなり」といひ、本居氏いともの遠き水無瀬川をしも引出られたるわらふに堪じや」など、さま/”\口を窮《キハメ》て誹謗《ソシラ》れしかども、尚問を起せし人のきよくハ承引《ウケヒカ》ざりし趣キなるハ、其人守部が龍田川の考の悪きには心も付ざりしなるべけれど、神なひのもりといひ立田川といふさへ山崎ニ有リて、既に古今の端書に其《ソノ》徴《アカシ》もあれバ、立田川の大和なるべき明證をも引出て喩《サト》すべきを、さもあらざりし故なるべし(因《チナミ》にいはん、彼ノ古今の端書《ハシカキ》に山崎より神なびの森まで」とある神なびの杜ハ、今の離宮八幡宮の森をさして云るなるべし、然いふ故ハ昔此ノあたりに関を居《スエ》られて、山城ノ國の四境の其一ツなる事朝野羣載に見え、やゝ後なる治安二年に前ノ肥後ノ守公則といふ人、此関の外院の預りなりしよし扶桑畧記にもみえたれハ、延喜ノ頃にハ慥に関守をもすゑおかれたるべく思ゆるを、京より西ノ國にものする人々をハ此関まで送りきつるよしハ、則此ノ端書にて著明《アキラケ》く、東國に下る人を逢阪まで送りつるをも考合すべし、されは彼ノ端書なるも然|子細《コマカ》にハしるさゞれども、山崎にて休息《イコヒ》さて関戸なる神なびの森まて送りて其処《そこ》にて別れつるものなるべし、但し今の離宮八幡宮ハ貞観のころ斎キ祭りし社なれバいかゞと思ふ人もあるべけれど、此ハもと延喜式に山城ト与ノ2摂津境ニ祭ル疫神ヲ1とありて、疫神などを祭らるゝ祭場の杜に彼八幡宮の宇佐より遷幸ありしとき、假に※[しんにょう+千]坐なし奉りつる因によりて、永く此処にも斎キ祭る事となれるなるべく、彼ノ祭場をさしても神なびの杜とハ呼つべくおぼゆ、此を鈴屋翁の式なる自リ2玉手1祭リ来ル酒解神社の杜なるべきよしにいはれつるハ違ヘり、其ハ彼ノ社ハ今の天王の社にていと高き山の頂《イタヽキ》に坐れバ彼端書の趣キにかなハざれバなり、また今の神南《カウナイ》なりといふ説もあれど、此ハ河内《カウナイ》といふ意にてもとハ大川の折廻《ヲリメク》りたる処にありし村なるべくおぼゆ、そのうへ今の神南《カウナイ》村よし水無瀬ノ里の辺りに在つるにもあれ、関戸を越て送らんこといかゞにおぼゆれバなり、さて此ノ処の神なびの森の事を下学集に、神並《カンナビノ》森ハ山崎ニ加茂春日両社並フ故云フv尓カ土人ノ云フ森ノ内ニ有リ2小社1とみえ、異本山城風土記ニ離宮ノ傍ニ有リ2神社1所v祭ル大山祇ノ命也、又有リ2神社1号ク2神並ノ社ト1賀茂春日両神也、などあるハ此処の杜に古くより此ノ名あるを神並《カンナミ》といふ言ぞと非心得《ヒカコヽロエ》して、後に彼ノ両社を離宮の傍に祭リつるさがしらなるべし、尚此処の神なひの古くものに見えたるハ、菴主《イホヌシ》に津國なる寺にまかりけるに、神なびのほどに鹿の鳴けれバ、我ならぬ神なび山にまさきへてつのまく鹿も音こそ鳴けれとあるより外にハ見あたらず、此津國といへるハ此ノ地則津ノ國の堺なれバほど遠からぬ地なりしなるべし、さてまた重之集なる立田川といへるハまことに今の水無瀬川のことなるべし、此川の大河に落合たるあたりより、舟に乗て大川を下りしかバ、浪の立といふを縁にとりいでて詠るなるべし、されども打まかせて常に 山崎川を立田川といふをとことわれるをもても知られたり、これもし當時《ソノカミ》名高かりし立田川ならましかバ、然ハ云べくもあらずかし、按ふに此処に神なびの名あるより、彼ノ龍野の狡意《サカシラ》の如く此ノ山嵜川にもさる名をひそかに負せつる人のありしを、重之の聞いでゝよめりしにも有べし、此を今山嵜の里中なる小溝をさして立田川なりと此処の里人のいふなるハやがてまた彼ノ集によりて無下に近キ世に再ひ設ケ出つる名なること、小溝にてハ白浪の立とつゞけたるに符ハさるをや、また此を景樹ハ淀の大川の名ぞといへれど、大川をさして山さき川と云る事なく、もとより立田川と云つる事もあらざるをや、此ハ彼の水無瀬川の大川に落合ふあたりまで歩行《カチ》にてきつるを、其処《ソコ》より舟に乗て難波に下り、難波より築紫に下りつるから如此よめりしにて、其ノ山嵜川より舟に乗て下りつるにハあるべからず、また行嚢抄に大和の龍田川のことを記して、一本ニ龍田川ヲ大和川トモ山嵜川トモ云フ」とあるは、正《マサ》しく彼重之集より思ヒよりつるなるべく、一本といへるハ則彼ノ集を指て云るにも有べし、彼ノ書ハその所々にて人の語るをきゝて書留《カキトメ》つる書なれバ、或人なとの ハいふべけれと一本とハ云ましくこそ、)
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また香川景樹が、此ノ川ハ何処《イツク》のいかなる所を流るゝ河ぞといふ差別《ワキ》をだにたゝし弁へずして彼ノ能因が哥を深くとがめつるハいと誣《シヒ》たる所為《シワザ》にハあらずや
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さるハ百首異見能因が哥の釋に、此ノ嵐吹云々ハ吹たつけしきを今見渉したる調べなり、末ノ句の錦なりけりも本より打見て歎じたるハ論無し、然れバ山も河も見あげ見おろして打わたしたるさまなり、然るに古今集に立田川紅葉ながる云々拾遺集に神なひの三室の岸や云々などあるを見れバ、三室山ハ龍田川の水上に引はなれてあんなれバ、一目にけぢかくみゆる処にもあらじ、按に今ハ内の哥合によみていはゆる晴の歌なれば、只姿け高く心やすらかならんとして、まこと其処のけしきにハ心をいれぬなるべし、」といひて批釋とかいふ書に此哥を「三室山を望めりとも見えず、龍田川を臨めりとも見えず、たゞ是臥述坐論にや、虎を画キて成らずして却リて狗に類するものなり」などいへる愚論を擧て、「此ノ論甚しといへども實に能因が薬石なり、云々もとより誠實なきを見出たるハ尤賞すべし、」など尚何くれと長々と論《アケツラ》ひたる主意《コヽロ》ハ、彼古今拾遺などの哥によりて三室山ハ立田川の水上に引はなれたれば、一目にけぢかくみゆる処にハあらじと推量リに思ひとりつるから、此哥を誠實無きよしにさま/”\難しつるものなり、されども三室山ハ立田川に臨める山にして則此哥、今の龍田ノ里より打見て詠る哥として露バかりも事實の上に違ヘる事ハ無き歌なるをや、(彼ノ二集の哥ハ、立田川の川下にあ りて其河上なる三室山を想像《オモヒヤ》りてよめるなるを、能因が哥ハ、其処にいたりて正《マサ》しく其ありさまを打見てよめる趣キなれハ、何のとがゝハあるよく思ふべし、)然るをまづ訂《タヽ》すべき其川のありどころをも弁へおかずして、ミだりに古人を誣《シ》ひ、初學の徒を惑せつるハいともあぢきなきしわさなりけり、
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かくて立歸り、龍田の龍田川に紅葉の名高く成つる本源《モト》を熟《ツラ/\》考るに、まづ鈴屋翁が説(古事記廿二巻)に後ノ哥に佐保姫といふことあり、春ノ哥にハ佐保姫秋ノ哥にハ立田姫とよめり、此ハ奈良ノ京のころ云出たる事なるべし、立田ハ奈良より西にあたりて立田姫と申ス神ましますに對ヘて、佐保姫ハ東にあるをもて春にとりて、佐保姫といふ名を設たるなるべし、」此諺奈良京のより起りつる事には違ひあるましもと俗間より起りつる諺なれは哥なとにはをさ/\よまさりしことなりしを今の京と成ぬるころよりやう/\哥にもよミそめしか(此事万葉にはみえすして古今の哥に多かるを思ふへし)ことのさまのをかしきまゝに平城天皇ふたゝひ奈良に坐して、此ノ龍田の邉に行幸まし/\しほど、彼ノたつた河ももミぢ乱れて流るめり渡らバ錦中や絶なんとしたゝかなる紅葉の流るゝさまにはよませ給ひつるものなるべし、(其ハ秋を司《ツカサド》る龍田姫の坐《マシマ》す辺りなる龍田川なるから、錦と見まがふばかり美麗《ウルハシ》き紅葉の流るゝよしにハよませたたまひつるなるべし、此川を哥によミそめしも、此大御うたぞはしめなるよしは上にいへるがごとし、)されバ當時《ソノカミ》ハ此川に限らず、立田とだにいへば紅葉の名高かりしハ、もはら彼ノ姫の秋を司るといふ諺あるが故にて既に上にも引るが如く、昌泰元年の宮瀧遊覧記にも、龍田ハ是レ自リv古ヘ名山勝地也、と見え、天満宮ノ御詩に満山ノ紅葉破ル2心機ヲ1況ヤ遇フ2浮雲足下ニ飛ニ1寒樹不v知何ノ處ニカ去ル雨中衣テv錦ヲ故郷ニ歸ンと作らせ給ひ、(此ノ時素性、友于などの詠る哥ハ上に引り、)古今(立田川のほとりにとよめる、是則)もミぢ葉のながれざりせバ立田川水の秋をハ誰か知らまし、(兼覧王)立田姫たむくる神のあれバこそ秋の木葉のぬさと散らめ、後撰見ることに秋にも有かな立田姫もみぢそむとや山もきるらん、唐衣立田の山のもミぢ葉ハはたものもなき錦なりけり、立田川色紅に成にけり山のもミぢぞ今ハ散るらし、(貫之)龍田川秋にしなれバ山近ミ流るゝ水ももみぢしにけり、(かゝる哥ども尚いと多かり)なども詠るなり、然るを後にハ川にのミむねと紅葉を詠合すこととなれるハ彼ノ平城天皇のしたゝかなる紅葉の此河に流るゝよしに詠せたまへる一首の本拠となりて、其ノ後貞観のころ古今に(二條ノ后の東宮の御息所《ミヤストコロ》と申しける時御屏風に、立田川もミぢ流れたるかたをかけりけるを題にて、業平)ちはやふる神代もきかず立田川からくれなゐにミづ絞るとハ、(同し題にて 素性)もみぢ葉のなかれてとまる湊にハくれなゐ深き波や立らん、などいふいミしき哥を詠出つるより、弥《イヤ》益《マス/\》に世にも名高く成れるにて、遂にハ此河とだにいへば必紅葉をよミ合すべくなれるものなるべし、(此二首の殊にその名高かりしと思しきハ、彼友于朝臣の時雨にハ云々と詠るハ其父朝臣の哥を思ひてよめるなるべく、六帖なるもミち葉の流るゝ時ハの哥ハ素性が哥を本としてよめるものなる事あきらけし)彼ノ一首の本拠となりてさバかり其ノ名高くなれる事は、彼ノ橘を古今の一首より永く昔をしたふ事となれる例、また河原ノ大臣の一首の哥より、信布摺《シノブズリ》の世に名高くなれる例、などをも思ひ合すべし、(かゝれバ彼ノ平城天皇の大御哥ハ、必ス此辺に行幸まし/\ける時諸木の紅葉の流れきつるを御覧《ミソナハ》しまし/\て、彼諺を心《コヽロ》に持てしたゝかなるさまによませたまひつるを、二条ノ后の屏風にハ紅葉の中にも楓の紅葉ハ殊にうるハしけれバ、楓の紅葉のさまをや繪にハかきとりけん、其ノ後深養父、貫之、兼盛などか此川をわたりつる時流れつらんハ必また諸木の紅葉なるべきを、既に彼古哥どもによりて、錦とも幣ともよめるなるべきよしハ彼ノ御詩に満山ノ紅葉とあるをもて察《シ》られたり、其ハ川にこそあらね此所に紅葉の名高かるから如此ハ作らせたまひつるものなれバなり、然るを今の龍田の龍田川のほとりに楓樹のいと多かるハ、寛政のころやんごとなきあたりより栽させたまひつる樹なるよし、尾張人菅成斉といへるが書るものに見えたり、)
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然るを守部が「後世|闇《クラカリ》峠と呼ばかり、山樹繁りて天を掩ひ昼も暗《クラ》き山なりけれバ、云々如此繁茂せる山なりければ遂紅葉の名所となれりしもうべにざりける、」と云るハもと龍田山を闇峠に混《マキラ》したる妄リ言なれバとかく弁《イフ》にも足らず、但し万葉にも既に此ノ龍田山に黄葉を詠る哥どもこれかれミえたれども、其ハ常に打みる春日山《カスカヤマ》、高圓山《タカマトヤマ》、神岳《カミヲカ》などと同しく此山をも常に徃來《ユキカヒ》しつるから、其黄葉のけしきを詠出つるにこそあれ、取別《トリワキ》て此ノ所の黄葉を賞《メデ》て詠たるにはあらずそは集中の哥を見渉《ミワタ》してもおのづからそれとは知らるゝ事ぞかし、されバ万葉のころよミつる黄葉と、古今のころより以後《コナタ》此処にとりわき紅葉を賞《メツ》る事と成るとハ事の趣《オモムキ》別《コト》なり、
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さてまた神南備山三室ノ山といふは、龍田ノ里より四五町ばかり南のかたにやゝ高き山にて、今も普く土人のよく知りをりてミむろ山とぞ呼なる、これぞ中昔より龍田川に詠合せきつる神なびの三室ノ山になん有ける、其ノ山東ハ高き岸にて龍田川流れ廻れり、西ノ方やゝ低《ヒキ》く成レるところに龍田ノ里より、彼龍田越にものする官道《オホチ》ありて其処なる阪を椎阪《シヒサカ》といへり、彼ノ古今の端書に神なび山を越すぎてとかけるハ則此ノ阪の事なりけり、さて此椎阪を南に越《コヱ》れハ勢野ノ里なり、北ハ田畠にて南のかたにハ神南《シンナン》村といふありて、此ノ村より南ハ南さがりに打ひらけたる畑のミあり、(其下りはてたる所に龍田川東より西のかたに流れたりこゝにてハはやく廣瀬川に落合ていと大きなる河となれり、)さて其神南村の上のかたなる山中に、今ハ里人の山王社といふなるぞ式に見えたる神岳《カミヲカノ》神社にハ坐しける、
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さるハ總國風土記、神南郷の次に甘南備山《カムナヒヤマ》と擧て、此ノ山嶮也、多ク出ス2榧柏俟杉等ヲ1、鳥獣亦タ不スv少カラ、山下ニ有リv神号ク2甘南備《カムナヒ》明神ト1、所ロv祭ル都味歯八重事代主神《ツミハヤヘコトシロヌシノカミニマス》也、と見え大和志にも神岳神社ハ在リ2神南村ニ1など見えたる社にませり 
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さて其ノ神岳《カミヲカノ》神社ハ、式に見えたる高市郡|飛鳥坐《アスカニマス》神四座(並名神大月次相嘗新嘗)とある社を遷《ウツ》し祭れる社なる事、其ノ飛鳥ノ社の坐《マセ》る地を古書どもに神岳《カミヲカ》とも雷丘《カミヲカ》ともいへれバ、此処に移し奉りても尚神岳社とハ云しなりけり、
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其ノ移し奉リし由縁《イハレ》ハ更なり時代《トキヨ》といへども傳ヘ無けれバ知難けれど、既に式にも載《ノ》れる官社なれバやゝ古き社にまします事ハ云まくも更なり、(此ノ社の事を万葉考三ノ巻ノ別記に、奈良へ都移しましてハ故郷の大寺なども移されしかバ、此ノ飛鳥ノ社ハ世に崇畏《イツキカシコミ》し神なるが故に奈良の都近くへ其神の霊を移給ヒしなるべし、平安ノ都と成て春日、今木などの神を移されし類ヒ多きが如し、と云れつるハよく心付れしことにハあれど、尚奈良と此龍田とハ五里ばかりも離れたる地なれバ、奈良の都近くへ移さるゝとならバかゝる離れたる地にハ移さるべきにハあらず、按ふに聖コ太子ハ磐余池邊《イハレノイケノベノ》宮の辺りにて生れ給へるには違ひあるまじけれバ、飛鳥神南備《アスカノカムナビノ》社を産土神《ウフスナノカミ》ともち斎《イツキ》給ふべき理りなれバ、斑鳩《イカルカノ》宮に移り坐つる時、其ノ産土神に坐すから飛鳥ノ神岳《カミヲカノ》社を、其ノ宮ノ近き此処に遷し坐奉り給ヒしなるべし、彼ノ龍野の龍田ノ社の此ノ斑鳩ノ地の産土神に坐すを、近く遷シ坐《マセ》奉り給へるにも思ヒ合すべし、抑々此ノ斑鳩ノ宮ハ太子の今暫し世に坐《マサ》ましかバ都となりぬべき地なれバ、太子の此ノ斑鳩宮を造り給るハ、やがて大宮遷しのこゝろばえなれバなり、)
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さてその本源《モト》とある飛鳥の神岳ノ社ハ、いと古く貴《タフト》くやんごとなき御社に坐《マシマ》すよしハ出雲ノ神賀詞《カムヨコト》に、乃大穴持命申給久皇御孫命乃靜坐牟大倭國申天《スナハチオホナモチノミコトマヲシタマハクスメミマノミコトノシツマリマサムオホヤマトノクニトマヲシテ》、云々|賀夜奈流美命能御魂乎飛鳥乃神南備尓坐《カヤナルミノミコトノミタマヲアスカノカムナヒニマセテ》、天皇孫命能近守神登貢ぎ置天《スメミマノミコトノチカキマモリトタテマツリオキテ》八百丹杵築宮尓靜坐支《ヤホニキツキノミヤニシツマリマシ/\キ》、とある飛鳥《アスカ》ノ神南備社《カムナヒノヤシロ》に坐り、(如此《カク》こゝの飛鳥の神岳社にハ賀夜奈流美命を祭れるよしなるを、彼ノ神南なる神岳ノ社を事代主命を祭れりと、風土記にいへるをいかにと疑ふ人 もあるべけれど、此ハ互に誤あるにハあらす、其ノ由ハ事長ければもらしつ、)されバ古くより其山をも、神南備《カムナヒノ》の三諸《ミモロ》ノ山(またハ三諸の神南備山とも、)といひ、其処《ソコ》なる里を神南備《カムナヒ》ノ里とハいひつるなり、
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神岳といふはもと雄畧天皇の御代に、小子部※[虫+果]羸《チヒサコベノスガル》と云し人の、此処《コヽ》にて雷《イカツチ》を捕《トラ》へつる故事《フルコト》より此ノ人の名を雷《イカツチ》と賜ひ、其ノ落たりし地を雷岳《カミヲカ》と呼《イ》ふことゝ成レるなり、(其よしハ雄畧紀、霊異記などに見えたり、)當昔《ソノカミ》ハ雷《イカツチ》をも唯《タヽ》に神とのミいへれバなり、(例多かり)かくて万葉巻三(廿九)登リテ2神岳ニ1山部ノ宿祢赤人カ作ル歌に三諸乃神名備山尓五百枝刺繁生有都賀乃樹乃《ミモロノカムナビヤマニイホエサシシヾニオヒタルツカノキノ》云々|明日香能舊京師者山高三河登保志呂之《アスカコノフルキミヤコハヤマタカミカハトホシロシ》、云々巻ノ二(廿五)神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨《カミヲカノヤマノモミチヲケフモカモトヒタマハマシアスモカモメシタマハマシ》、(此ハ天武天皇の崩ませりし時、大后のよませたまへるにて、神岳ハ浄御原宮よりちかく見放《ミサケ》らっるゝ所なるから、如此よませ給へるなり)巻ノ十三(三丁)神代従云續來在甘南備乃三諸山者春去者春霞立秋徃者紅丹穗經甘嘗備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之水尾速生多米難《カミヨヨリイヒツギキタルカムナヒノミモロノヤマハハルサレハハルカスミタチアキユケハクレナヰニホフカムナビノミモロノカミノオヒニセルアスカノカハノミヲハヤミオヒタメカタキ》、云々反哥|神名備能三諸之山丹隠藏杉《カミナビノミモロノヤマニイハフスキ》、云々同(十三)味酒乎神名火山之帶丹爲流明日香之河乃《ウマサケヲカムナビヤマノオビニセルアスカノカハノ》、云々(尚多かり)などあるをもて、神岳《カミヲカ》に坐す社を三諸《ミモロ》とも神名備《カムナビ》ともいひつる事をまづよく心留《シタトメ》おくべし、(此ノ神岳ノ社のちに天長年中にいたりて神の託宣《ミサトシ》によりて今の鳥形山《トリカタヤマ》に遷坐《ウツリマシ》て今ハ飛鳥ノ社といへり、)さて其ノ社の邉リの里を神南備《カムナヒ》ノ里といひつるよしハ、万葉巻ノ七(十)思フ2故郷ヲ1歌二首とある中の一首|清湍尓千鳥妻喚山際霞立良武甘南備之里《キヨキセニチトリツマヨヒヤマノマニカスミタツラムカムナビノサト》とあるをもて悟るべし、(但シ此ノ哥をも守部が龍野のかたに引付て注《トケ》るハいミじき妄リ言なり、そハ今一首に年月もいまだ経なくに明日香河瀬々《アスカヾハセヾ》ゆわたしゝ石橋《イハハシ》も無し、と明日香《アスカ》に詠合せたるを想ふべし、此ノほど明日香より奈良に都遷りありつる時なれバ、集中明日香の旧都をよめる哥多し、上赤人のうたをもおもふべし、)
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かゝれバ此ノ龍田に近き山に、彼ノ神岳ノ社を移されしかバ、即チ其山を神名備山とも三諸山ともいひ、其社の許《モト》なる村をも神南備《カムナヒ》村と呼《イヒ》つるを、後に音にて呼《イフ》ことゝハ變《カハリ》つるなり、
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すべて社を移し斎キ祭れるによりて、其地の名と成《ナレ》る例ハ近く上に擧たる龍田ノ里、尚その下《トコロ》に引置つる甲斐國の松尾ノ郷《サト》、丹波ノ國の祇薗村、さてハ河内國石川郡春日村といふハ、所謂《イハユル》佛師春日といひけるが住ける地にて、やゝ古き所なるを其処《ソコ》を春日といふも、春日ノ社を移し斎キ祭れるから起れる名なる事、(尚かゝる例ハ、備前國に石上《イソノカミ》といふ地名のあるハ、其処に大和の石上なる布都之魂神社を斎キ祭れるに因レる、また山城の加茂社を移し祭れる社のある地を、加茂と称《イヘ》るが諸國に多かるなど、かゝる例ともはいとおほかり、)などを思ヒ合せて此ノ処も彼神岳を移し祭れるから、山ノ名をも村名をも然|呼《イヒ》つる事を悟るべし、(但し今音にてジンナンと呼なるハ古き処の音もて呼《イ》ふも珎しからず、そハ高市郡浄御原といふハ天武天皇の坐《マシ/\》し地なるを今ハ浄御《シヤウゴ》と呼ひ、甚しきハ字《モジ》をも上居《シヤウコ》とも諸替などもし、葛上、葛下、丹南、丹北、など郡をも全音にて呼《イ》ふをもおへ、)尚いはゞ式に山城國綴喜郡|甘南備《カムナヒ》ノ神社とあるも尚彼ノ神岳の飛鳥社より移し祭れる社なるべきを、其ノ鎮リ坐る山を今神鍋《カンナベ》山といふなるも、甘南備《カムナヒ》を訛りつるものなる事をも思ひ合すべし、そも/\神なびとハ神之森《カミノモリ》といふ言の約りつる言なりと、賀茂翁のいはれつるハ實に動まじき考にて、(されバ神なびの社といふハ重語なれど、神なびといふことの地名となれるうへにてハ、そこの森といふ意にてあふミの海といふがごとしと鈴屋翁のいはれつる、これもさることなり、)何処《イツク》の神の森にても然いふべきを、大和にて古く三輪と飛鳥と葛城とに其名高かるハ、いづれもいミじく止事無き社どもなれバなるべく、後ノ書に此龍田に近き神南備のその名高く成るハ、さばかり哥讀の多かりつる大伴氏の本居《モトヲリ》なりしまゝに、おのづから哥にも多くよミいでたるうへ、其後ハ龍田川の名高きにひかれて神なびも三室も共にその名高くなれるなりけり、また三諸とハ御室《ミムロ》の義《コヽロ》にて神の御屋代《ミヤシロ》をさしていふ事にて、(守部が生諸木《オヒモロキ》の約れるなりといへる説ハよろしからず、其よしをも弁へいはまほしけれどこゝにハさしもえう無けれハもらしつ、)これはた何《イツレ》の社にも称呼《タヽヘイフ》べきを、古く三輪と飛鳥にのミ呼《イヒ》きつるを、後に此所の名高くなれるはた、神なひと同し因《イハレ》に依《ヨレ》ることなり、(加茂翁も既《ハヤ》く此ノ神南《シンナン》なる神岳ノ社の事を、高市ノ郡の神南備ノ社を後代今ノ京の始めなどに平群郡にも移し斉《イハヽ》れたることありし成べし、故にその後なるにつきて平群ノ郡の立田山に神なびの三室を詠合せしにやとも助くべきを、」とまでハ考へ及ぼされしを、尚其ノ徴をも得見出られざりしハいと惜しきことになんありける、)さて大和志に三室山(在リ2神南村ニ1嶺ヲ号ク2大島ト1又曰ク2島山ト1山中有リ2三宝院1)とミえて今の三室山といふを、昔の三室山ぞと諾《ウベナ》ひたるハさる事なるを、大島島山などをこゝの事ぞと云るハ推當《オシアテ》の杜撰《ミダリゴト》なり、三室院といふは今も在てはかなき堂一宇たてり、(此ノ院の事を万葉三ノ巻ノ別記に神南寺といはれしハ暗《ソラ》に思ひ違られしなるへし)
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かくて龍田川ハ此山の麓を北より南に流れたるを、此ノ山本流るる四五町ばかりが間を別《ワキ》て神名備《カムナビ》川とはいへりける、其《ソ》は神南備山を經るほどなれバ即《ヤカテ》如此《シカ》呼《イヒ》つるにこそ、
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同じ川も其流れ経《フ》る所々にて呼別《ヨヒワク》る事ハ、吉野川といふはやゝ川上なる、大瀧|西河《ニシカウ》の邉リよりもハらしか呼《イヒ》つる事ハ、万葉の歌にても知られたるを、やゝ下なる菜摘ノ里にいたりて其里を經る間《ホト》を別て菜摘川と、同し万葉にも詠るをも想《オモ》ふべし(かゝる例多かり、)さて此ノ川の神南を經《フ》るほどを神なひ川と称《イフ》よしハ既に大和志にも見えて上にひけり、
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かれハ普く万葉集に見えたる哥どもを見渉すに、三諸(またハ山)とも神名火(またハ山)とも、三諸の神名火山(またハ神名備のミもろのやま)とも詠る ハいづれも三輪と飛鳥の事なるを、ひとり此ノ神南なるハ磐瀬森またハ河を詠合せたる哥のミ神なび(またハ神なひ山)ともありて、其外ハ川をのミ神なび川といへり、されバ打任《ウチマカ》せて神なび山とも、三諸山とも詠る哥ハある事なく、三輪にも飛鳥にも同しさまなる川ハあれど、三諸の神の於婆《オバ》せる初瀬《ハツセ》川、(巻ノ九に見えて三輪山をさせり、)神名火《カムナヒ》山の帶《オビ》にせる明日香の川、(巻ノ十三に見え飛鳥をさせり、)などいひて二所ともに、その川どもをさして神なび川と呼《イヘ》る事ハ無し
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其ハ巻ノ六(廿四)大納言大伴卿在テ2寧樂《ナラノ》家ニ1思フ2故郷ヲ1歌に、(大伴卿とハ旅人卿の事なり、)須更去而見牡鹿神名火乃淵者淺而瀬二香成良武《シハラクモユキテミテシカカムナヒノフチハアセビテセニカナルラム》とあるを、巻ノ八に此ノ旅人卿の孫なる大伴ノ田村ノ大孃が、其ノ妹坂上ノ大孃に送れる歌に、古郷之奈良思之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトトギス》とあるに考へ合すれバ、旅人卿までの本居《モトヲリ》ハ龍田ノ南なる奈良志ノ岡に在し事|著明《アキラカ》なり、(尚いはゞ此ノ坂上ノ大孃といへるハ家持ぬしの妻にて、其母大伴ノ坂上ノ郎女《イラツメ》といへるハ、安麻呂《ヤスマロ》卿の女《ムスメ》にて旅人卿の妹なれバ、家持ぬしの為にハ叔母《ヲハ》に當れり、されバ同書巻ノ六に坂上ノ郎ノ女与フd姪《オヒ》家持従リ2佐保1還c歸ニ西ノ宅ニuとあるハ則この奈良志岡の館《タチ》なりし事も思ふべし、)其ノ上巻ノ八(十四)神奈備乃伊波瀬乃杜《カムナヒノイハセノモリ》と詠る磐瀬ノ杜も此処《コヽ》の川邉《カハベ》にあれバ、(奈良志岡いはせの森などの事ハ次条にいふべし、)これらの哥の此処の神なびなるに付キてハ巻ノ十一(卅四)神名火折廻前乃石淵隠而耳八吾戀居《カムナヒノヲリタムクマノイハフチニコモリテノミヤワガコヒヲラム》、(折ノ字今本打とあるハ誤なりと鈴屋翁のいはれつるハさる事なり、然るに大和志に打廻前《ウチワノクマ》と訓て一箇《ヒトツ》の名所とせるは非なり、)巻ノ八(十七)河津鳴甘南備河尓陰所見而今哉開良武山振乃花《カハツナクカムナビガハニカゲミエテイマヤサクラムヤマブキノハナ》巻十(四十一)神名火之山下動去水丹川津鳴成秋登將云鳥屋《カムナビノヤマシタドヨミユクミツニカハツナクナリアキトイハムトヤ》とあるなどハ、此ノ神南備川《カムナビカハ》を詠るものなる事、地《トコロ》の形勢《アリサマ》にもよく符《カナ》ひて疑ヒ無し、(其ハをりたむくまとハ此ノ川の折廻《ヲレメグ》れる所を云るにて、しかいひつべき地今も彼ノ垢離取場《コリトリバ》といふ処の下《シモ》にあり、此辺り大なる磐ども川内にたてれバ、岩淵とも岩瀬ともいはんハもとよりにて、いと清《サヤ》けき流れなれば、蛙のすめらんこと云も更なるべし、)然るを契冲、加茂翁、鈴屋翁さてハ畧解などにこれらの哥どもを、彼ノ明日香河の事とせられしハさしも多かる飛鳥の神なびの哥にひかれて思ひ混《マガ》へられつるにハあれど非なり、(此ノ神なび川立田川などの事ハ、おのれ既《ハヤ》く如此考ヘ定メてさきに小倉百首嶺ノ紅葉に弁へおけりしかども、今ハ其説をも取出てこゝに記しつるなり、)然るを守部が此等の神なびを飛鳥のにハあらざるよしに心付るハさる事なるを、巻ノ十三(廿三)黄葉之散乱有神名火之此山邉柄烏玉之黒馬尓乗而河瀬乎七湍渡而《モミチバノチリノマガヒタルカムナビノコノヤマベカラヌバタマノクロウマニノリテカハノセヲナヽセワタリテ》、云々巻ノ七(十)思フ2故郷ヲ1哥に、清湍尓千鳥妻喚山際尓霞立良武甘南備之里《キヨキセニチドリツマヨビヤマノマニカスミタツラムカムナビノサト》(此哥の事ハ上に弁り)などいふ哥をも此処の神なびぞといへるもまた妄リ言なり、其ハ十三ノ巻なる哥の末ノ句に河瀬乎七湍渡而《カハノセヲナヽセワタリテ》とあるハ明日香河《アスカガハ》の明證なる事巻ノ七(卅六)明日香川七瀬之不行尓住鳥毛意有社波不立目《アスカガハナヽセノヨドニスムトリモコヽロアレコソナミタヽサラメ》とあるにて論ヒ無く、其ノ外明日香河にハ古ヘより瀬の事を多く詠るハ、(巻ノ十三|明日香之河乃速瀬尓《アスカノカハノハヤキセニ》巻ノ七|明日香川湍瀬尓玉藻者雖生有《アスカヾハセヽニタマモハオヒタレド》など尚いと多かり、)此ノ河|稲淵《イナブチ》細川《ホソカハ》の二川落合てより、飛鳥ノ里のしも豊浦《トヨラ》、雷《イカツチ》などいふ村を過るほどまでハ殊に速瀬にて、処々に落たぎち流るゝ処多かるが故なり、(然るを守部が此川の殊を論ヒて、飛鳥川ハ石橋渡《イハハシワタス》などよミて、小石を置並ヘて蹈渡るばかりの川にて黄葉の乱れて流るべき川にもあらず、又|山下動《ヤマシタドヨ》ミ行水のなどいふ水勢にハ昔よりあらさりき、されバこそいとはやくより砂地の原となりて、終ににその跡だに無きばかりにハ成にたれ、云々と云るハいち/\心得ぬ事なり、そハ万葉十三ノ巻に明日香の川の水尾速《ミヲハヤ》ミ生《オヒ》ため難き石根にも苔むすまてに、」とありて苔さへ生留《オヒトメ》難き速川とあるをハじめ巻ノ三にハ河登保志呂之《カハトホシロシ》と見え尚集中此川の速瀬なるよしも、黄葉の流るゝよしに詠る哥なども多く見えて、今もやゝ大なる速川にして万葉にあまた見えたる趣キに露たかハず、山下動《ヤマシタドヨ》ミ流れたるを、然いふべき水勢にハ昔よりあらざりき、」とハ何を拠《ヨスガ》にいへるにや、万葉の哥の上にも、今の現存《マノアタリ》の形勢《アリサマ》にも、更に符ハざるハいかにぞや、元より此ノ辺りハ磐のミ多き地なるを「はやくより砂地の原となりて」といへるもいとあやしきまでの違ヒにこそ、また淵瀬定らぬよしによミ習ヒこしも例の行嚢抄によりて、河内の飛鳥川の事と定めいへるもたがへり、河内の飛鳥川も古き名所にハあれど、此処の明日香川ハ古ヘより瀬の事を多くよミ習ひたるうへ、彼ノ七瀬などいひて湍《セ》の多かれバおのづから替り易《ヤス》かるが故にしかいへるにこそあれ、河内の飛鳥川はかへりて世の常の砂川にして、さしも淵瀬のかハるべきさまにハあらざるをや、ともすれバ彼ノ妄なる抄に迷されつるハそも/\いかにそや、)
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かゝれバ今の神南村の社ハ式なる神岳社にます徴(風土記大和志)山を神なびといひ、(岩瀬森ならしの岡詠合せたる)川を神なび川といひ、(大伴卿の故郷とある、)三室ノ山とハ今も普く土人《サトヒト》の云傳えたるうへ、此ノ里ノ中に大和志にも出たる三室ノ院といふ寺の今もあるなどを考ヘ渉して、彼ノ深養父が神なび山を越過て龍田川をわたりけると、古今にしるせる端書の神なび山ハ、今のいはゆる椎阪を越けるものなる事も、三室の岸のくづるゝとて立田川の濁れるも、此山の紅葉の立田川に流れし趣キをも、心の底邉《ソコヒ》思ひあきらむべし、
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但し万葉の頃こそあれ、今の龍田の名高く成つる今の京と成るころにハはやく神なび川の名ハ無きが如くなりて、彼ノ山本廻れるあたりをも押なべて龍田川とハ云りしなるべし、(守部が後にも神なび川の名ハ失《ウセ》はてずしてよめるとて引出つるハ、いつれもやゝ後世の哥にて古哥にすがりて詠る哥どもなれバ事の證にハ採かたし、)、もとより此山万葉に紅葉をよめる哥の見えざるを(神なびに黄葉をよめる哥あまたあるハ、いづれも飛鳥の神なびなり、)後にその名高くなりつるハこれもゝハら龍田姫の故事より起れる事なれバ、後に神なび川の名ハうせて立田川とのミいひつるもおのづからの勢ヒにハ有ける(古今神なびのミむろの山を秋ゆけバ錦たちきるこゝちこそすれ、我門のわさ田はいまだ苅あげぬにまだきうつろふ神なびのもり、十月時雨もいまだふらなくにかねてうつろふ神なびのもり、などあるハいづれの神なびならんも知るべからねど錦たちきるといへるハ、此処なるべしく後の二首ハ哥さま古く聞ゆれバ飛鳥のかたならんも知るべからず、)
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然るを此ノ三室も、神南備《カムナヒ》も、神なび川をも、共に龍野のかたにありといふハ例の偽妄の巧言なる事ハ云も更にて、さる妄リ言なるから其地《ソノトコロ》もこゝかしこにありて、さだかならずきこゆ、
[#これより2字下げ]
其ハ上龍田川ノ條に引置つる應永頃の紀行文にハ、神南備山ハ三室山より二三町西にありといひ、神なびミむろのあハひを流るゝ川なれバ神なび川とよみたるもこれなるべし、などいへる趣キにてハ今龍野にて三室山と呼《イ》ふ山と通《キコ》えて彼ノ小溝の龍田川を隔《ヘタ》てゝ西ノ方なるやまなるべきを今土人ハ神なひ山のさたハかつ/\なくして、(抄にも三室山を挙て、神南備ノ三室トヨメルコレナリ」とありて西に離《ハナ》れたる神なび山ハ見えず)龍野ノ社を南へ離れたる処《トコロ》官道《オホチ》の北西に當れる道の傍に、少《イサヽ》か樹木《コタチ》の残れる処を神なびの杜なれとハいへり、此処のを神なびといふよしハ諸社一覧などにも見えたり、(神主中西某が其森を教ヘて、當社よりハ正南《マミナミ》に當れハ神南備といふと云ヘりしハいと傍痛《カタハライタ》く思えしが、此説も二三百年|以徃《アナタ》より聞えたる事にて、彼山崎の神並森といへると伯仲《ヨクニタ》るミだり言なり、)さてハ紀行にいへる処と、抄にいへるともやゝやゝ其《ソノ》在処《アリトコロ》隔《ヘタヽ》れり、(もとより三室と神なびと別処《コトヽコロ》にあるべきいはれなし、按ふに大和志立野村の下《トコロ》に、父老云村ノ西ニ有リ2畝尾山1山ノ上ニ有リ2両封土1崇神天皇七年十一月定ム2天ツ社國ツ社ヲ于此に1,とある山の事にしてさる云傳へを密に執リて此ノ社の上にいひなし其処《ソコ》をさがしらに神なび山とハいひつるなるべし、これにつけても此処《コヽ》の僞妄ハ彼ノ別當が思ひよりつる所為《シワサ》にハあらざることハ弁《イヒ》つるなり、されども本よりあとなし言なるから、紀行記しつる時彼ノ別當がいへりし神なび山と、抄を記しつる時の神なび山と、今の土人のいふなると、悉くたがへるなるべし、)もとより其ノ神なび川といへるハ絶々なる小溝《コミゾ》なれバ、山下《ヤマシタ》動《トヨミ》とも、岩淵ともかけても云べきありさまにハあらず、(當昔《ソノカミ》すら二三尺といへるにはあらずや、)元より龍野にもあれ龍田にもあれ、此ノ二社の上に三室とも神なびとも云る例ハかつ/”\ある事無し然るを守部が彼ノ紀行、さてハ抄などを信《ウケ》ひきたるだにあるを、「神名火の称ハ最第一に龍田ぞ名高かりしと云るハいかにいミじき妄リ言にハあらずや、(尚また万葉巻ノ十三ニ神南備乃清三田屋乃垣津田乃《カムナヒノキヨキミタヤノカキツタノ》とある御田屋《ミタヤ》をも、彼ノ年穀を祈る神にいませバ殊に御田をも奉りおき玉へる故に御田屋の名も有にこそ、」といへるもたかへり、此処の神なびハ上に弁《イヒ》つる如く、紅葉を詠る哥万葉にハあることなきを此哥の反哥に、神名火乃山黄葉《カムナヒノヤマノモミチバ》と見え、此哥の前後の哥どもゝ皆飛鳥の神なびの哥のミなれバ此哥のミ此処《コヽ》のなるべき謂《イハレ》も無く、飛鳥ノ社東シ古書どもハ更なり上に引つる十三ノ巻なる長哥の上にても察《シ》られたるが如く、貴く止事《ヤムコト》なき社に坐《マセ》れバ、御田を奉りたまひつる事、本よりしかあるべき事にこそしかるをこれ
をも方角抄などいふはかなき書に迷ハされたるはいかにぞや、)
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かくて磐瀬ノ社ハ、今の龍田川の川下《カハシモ》真《マコト》の神南備の三室の山本に係《カヽ》るところ、川の東傍《ヒカシゾヒ》に松の老木ども村立残《ムラタチノコ》れる森を今も土人の普く岩瀬ノ杜と呼《イフ》なる、これ則チ古歌の趣キにもよく符《カナ》ひたり、また奈良志ノ岡とよめるハ此森のあたりより東南をかけて、弘く南さがりの岡なるを、古くより悉く《コト/\ク》畑《ハタ》にすきかへしていと弘き畑あり、此ノあたりを古ヘよりひろくならしの岡といへりしなるべし
[#これより2字下げ]
其ハ万葉巻ノ八(志貴ノ皇子)神名火乃磐瀬乃杜乃霍公鳥毛無乃岳尓何時來将鳴《カムナビノイハセノモリノホトヽギスナラシノヲカニイツカキナカム》(かくよませ給ヘるハ此ノ皇子の御殿《ミあらか》この毛無《ナラシノ》岡に在て其処に住給ヒしかバ今磐瀬ノ杜に鳴なる霍公鳥のいつか吾住処にハ移リ来鳴むと詠せ給ヘるなり次なる鏡女王も此邉りに住給てよませたまへるなるべし)同巻(鏡女王)神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥痛莫鳴吾戀益《カムナヒノイハセノモリノヨフコトリイタクナヽキソワカコヒマサル》、同(刀理ノ宣令)物部乃石瀬乃杜乃霍公鳥今毛鳴奴香山乃常影尓《モノヽフノイハセノモリノホトヽキスイマモナカヌカヤマノトカゲニ》、(とかけとハ、鈴屋翁の山のたわミたるところをたをともわともいふ、そのタワの約《ツヽマ》りトなれバ折たわミたる山陰をいふといはれつるが如し、彼ノ巻ノ十一なる神名火折廻前《カムナヒノヲリタムクマ》とよめる折たむも折たわむ隈《クマ》といふ事にて、此とかけとあるも同処なるをも想《オモ》ふべし、今現存せる磐瀬ノ杜まことに然いふべき処のさまなり、)同(大伴ノ田村ノ大孃與フ2妹ノ坂上ノ大孃1歌、)古郷之奈良思之岳能霍公鳥言告遣之何如告寸八《フルサトノナラシノヲカノホトヽキスコトツケヤリシイカニツゲキヤ》(此《コ》ハ祖父《オホチ》旅人《タビト》卿より此ノ奈良志ノ岡に家居《イエヰ》せられしかバ、古郷とよまれしものなるよしハ上にいへり、)後撰(恋六元方)龍田川たちなバ君名を惜ミいはせの杜のいはじとぞ思ふ(上万葉なる哥どもに、磐瀬ノ杜を神奈備に詠合せたるを、後撰にいたりて龍田川によミ合せたるをもて、今京と成て龍田の其名高く成つるといふ余が考の誣さることをさとるべし、)かゝれバ磐瀬杜の今|現存《アル》杜《モリ》なる事をも思|决《サダ》むべく、(大和志に磐瀬ノ杜ハ在リ2神南ノ東車瀬村ニ1といへるも則この杜の事なり、此処ハ車瀬村の領《ウチ》なれバなり、さて今|現存《アル》もりの微少《サヽヤカ》なるハ後ニ畑にすきかへすとて、狭《セバ》めて其形ばかりを残せるなるべし、)奈良志岡の其邉りなる事をも思ヒ悟るべし、(名所図會に、立田ノ大橋より四町ばかり南の川添にさゝやかなる森あり、此所ならしの岡なり、と云り森ハ磐瀬の森をさしていへる事と知られたるを、ならしの岡なり」と云るハ事蹟《コトノアト》にもよく符ひてさる事なり、然るを同し續にハあれど大和志に、毛無《ナラシノ》岡ハ在リ2目安《メヤス》村1と云る目安村ハ磐瀬森よりも神南備よりもやゝ道のほと隔れゝハいかゝにきこゆ)さて毛無岡と書《カケ》る字《モシ》ハ、人の蹈《フミ》ならす地《トコロ》ハ草木の生《オヒ》さる意《コヽロ》をもてかけるなりと畧解に注《イヘ》ハ、垂仁紀なる奈良山の名義に思合するにさる事なるべくおほゆ、(さて同し畧解に、磐瀬ノ杜ハ大和ノ城上郡と見え、ならしの岡も其辺り歟といへるハ何に拠《ヨリ》て注るにや、いたく地理たがへり、また菅笠日記に、今の飛鳥ノ社の辺りにいはせ瀬の森のあるべきよしに
いはれしも違う、此ハ神南備を明日香とのミ思ハれしからの誤なり、)
[#2字下げ終わり]
然るを守部がこれらのところどもをも、例の龍野に引付て強《シヒ》て論定《アケツラヒサダ》めつるハ、甚《イト》もうるさき誤りになん有ける、
[#これより2字下げ]
其《ソ》ハ彼ノ万葉なる神名火折廻前乃石淵《カムナヒノヲリタムクマノイハフチ》といふ歌を解《トク》とて、例の小溝の龍田川の事を擧て、「此小川の北より南へ流れて彼ノ大河に折廻《ヲレメク》れる川曲《カハクマ》の岩淵をいふ」といひ、「集中此地の歌に岩湍《イハセ》とも岩淵ともよめるがあるも、右の山川の流れ廻れるあはひ巌《イハホ》ありて、そこに淵も瀬も有けん事知らる此処《コヽ》に車瀬《クルマセ》村と云が在を思へハ渦《ウズ》など廻《マキ》て面白き流れなりけん」などいへり、抑神南備の神南なるよしハ上に弁へつるが如くなれバ今此|非説《ヒカコト》ハ弁ふべくもあらされども、彼小溝は紀行の文に出たるにも既二三尺の小川にあらずや、然るをそれがさしも大和一國の大川に落合たりとて、大河に折廻れるなといふべき形勢《アリサマ》ならんや、心を平穏《タヒラカ》にしてよく思ふべし、(元より此あたりにハ少《チヒサ》き岩だにある事無く、彼ノ小溝の大川に落合たる所ハ、草原にて慥にも知られぬばかりの処なり、)尚甚しきハ渦《ウズ》など廻《マキ》てといひていと面白げに取合せたる車瀬村といふは、此処《コヽ》よりハ壹里余り隔りたる龍田の南にして、真《マコト》の磐瀬ノ杜の在る処なるをや、(車瀬といふハ此川筋立田より上ノ方いはゆる平羣谷といふあたりまで、 今も水車いと多かれバ、それに因て後につけたる村ノ名なるべくおぼゆ、)また岩瀬杜の事を弁《イフ》とて神名火乃淵《カムナビノフチ》石淵《イハフチ》なとよめる歌を引て、「これらの哥に石淵とよめるを考ふるに彼ノ小川の水の大河へ流れ入る川曲《カハクマ》にある淵瀬にて岩瀬とよめる即チ是なり、神社は其ノ川隈の社中に在ゆゑに此瀬より名に負ヒて岩瀬ノ杜と呼《ヨブ》なるべし」と注《イヘ》るも上に弁へつるが如く、彼ノ小川の大川に落合ふ処にハ淵も瀬もあるべき形勢《アリサマ》にあらざれバ、とかく弁にも足ざれども今此ノ龍野にて岩瀬ノ杜といふは、彼ノ小溝の大川に落合たる処よりハ三四町ばかり川上にて、官道《オホヂ》よりハ南の川傍《カハソヒ》に松の村立たるよきほどの杜をさしてしか呼《イヘ》り、(然《シカ》名を負せつるにハやうこそあらめと思て、杜ノ中に別入て見しに杜にハ社も何もあらざれども、此ノ杜の下を大川の流れたるを、凡二三十間ばかりが間、少き岩とも粒々と現れ出たり、此あたりハ上も下も岩ハ絶て在《アラ》ざる処なるを此処《コヽ》にのミ如此岩の現れ出つるより、さる名に思ひ寄て岩瀬杜をも此処に設つるなるべし、但し行嚢抄に「岩瀬ハ自v路左ニ流ルヽ河瀬ヲ云、此瀬ニ簗ヲ掛テ魚取リ神ニ備フ、岩瀬社ハ川辺ニアリ名所ナリ、水源ヨリ六町」といへるハ此処ノ事なるべし、さて水源ヨリ六町」とあるを守部ハ小溝の立田川としてとかく論ヒつれども、其ノ川とハやゝ所違ヒたれバ此処に彼川の事をいふべき由無し、按《オモ》ふに此ノ社の傍にこれも彼ノ小溝の立田川よりも今|一層《ヒトキハ》少き溝を岩瀬川と云ヒて名所なるよしにいひて、龍野ノ縁起などにも載たり、されば抄にこゝに水源を注《イヘ》るハ、その岩瀬川の事なるを、上に文の脱《オチ》たるなるべし、)また奈良志岡の事を弁《イフ》とて、「行嚢抄に龍田大明神那良志ノ岡と次第して其下に那良志ノ岡ハ三室山ノツヾキナリ」とあるにこれも従ひ弁り、(今も此処にて三室山といふ山のつゝきに、峯上《ヲノヘ》まで畑にすきかへしたる山ありてそれをしかいへり)されどもこれらハ皆後ノ世の僞妄なる事、上の神南なる磐瀬ノ杜、毛無ノ岡の古哥に符るよしを知得たらんにハ弁を俟べきにあらずかし、かゝれバ龍田山と今の龍田とハ元より引はなれたる地《トコロ》にて、(道さへ壹里余りを隔てたり、)神南備山ハまた當時《ソノカミ》よりの一箇《ヒトツ》の名所にハ有ける、然るを古哥どもに其引|離《ハナレ》れたる龍田より名に負《オヒ》きつる龍田川に神なびの三室を詠合せ、さて龍田山の麓を流るゝほどまでに係《カケ》て詠るものなれバ、さらぬだにいと混《マギ》らハしきを、彼ノ龍野の僞妄さへ混淆《マジリ》てさしもの近キ世の博士たちも決定《サタメ》かねつる事なるを、守部がこれを決断《サタ》するとて、引はなれたる龍田の事をも、神南備三室ハ更にもいはず、磐瀬ノ杜、奈良志ノ岡にいたるまで彼ノ僞リ設ケし龍野に引つけ、さて其ノ龍野の龍田山を、あるにもあらぬ闇峠に持越《モチコシ》て論定《アケツラヒサタメ》しものなれバ、其|注《イヒ》て弁つる事ども一ツとして當レる事無く、いとゝ言痛《コチタ》く煩《ワツラ》ハしく成増りつるハ、甚《イト》も居々《ユヽ》しくあぢきなき事になん、
[#これより2字下げ]
まことや此ノ龍田の事よ、とてもかくても強《シヒ》て妨《サマタゲ》と成べき事にもあらざれバ、さしもこと/”\しげに論《アゲツラ》ふべくもあらざれども、近ツ世の説どもを思ひ渉《ワタ》すに、元より一所なりける立田山の、二方《フタカタ》にそバたち(真《マコト》の立田山と、闇峠をいふとの説々なり、)奈良志ノ岡の三所にきこえ、(神南なると、龍野なると、目安なると)伊波瀬ノ杜の四処に繁り、(神南、龍野、さてハ城上郡といふ一説、また三室の五所にたちさかえ、(神南、龍野に二所、山崎、飛鳥、)龍田川の六筋に流るゝ事とさへなりぬるを、(龍田、龍野の大川をのミしかいふとの説、龍野ノ小溝、また此小溝の打合たる末をいふとの守部の説、契冲が闇峠の麓を流るゝ川をいふとの説、山崎の立田川、)彼ノ龍野の僞妄も四百年あまり以徃《アナタ》より根ざし深く設ケ置つる事にて、彼ノ紀行しるせる連哥師、さてハ行嚢抄、名所方角抄などいふ類の書を著しつる人をこそ欺きつれ、其後古ヘ學|開初《ヒラケソメ》てよりハ然《サ》る僞妄に迷《マトハ》さるる人もあらざりしを、守部が遂これが穽《オトシアナ》に滔《オチイリ》て、はかなく歎きおほせられつるハいとも云甲斐なく慷《タチオシ》く概《ナゲカ》しき事なるに付て思ふに、すへて此ノ人の著しつる書の上を見渉《ミワタ》すに、鈴屋翁の説とだにいへば強《アナカチ》に云破《イヒヤフラ》んとのミ心構《シタカマヘ》せられしよしに通《キコ》ゆれバ、如此《カク》大船《オホフネ》の漕《コギ》の進《スヽミ》の誤りをも引出つるにこそと思《オホ》ゆるに付ても、博士《ハカセ》だちてものゝ紛亂《マギレ》を訂正《タヽサ》んとする人ハ、何事《ナニゴト》の上に付ても深く心を用ゆべき事にこそ、阿那《アナ》うるさの言擧《コトアゲ》なりや、
 弘化二年十一月朔日より筆を採そめて同し六日の夜の子ばかり、大原野のかりの庵に書をへぬ、
                            六人部是香
  (入力者注、以下出版社の宣伝)
   六人部是篶舎翁著述書目
古道本義傳           十巻
   古道の趣《オモムキ》ハ古事記ノ傳古史傳などに丁寧《ネモコロ》に説諭《トキサト》しおかれしかども彼ノ二書ハ神代の事績ハ更にもいはずあらゆる古言の語釈より器械地理に至る迄深く探《サグ》り遠く索《モトメ》て精密《コマカ》に釈《トカ》れしかバ還《カヘリ》て古道の本義にいたりてハ其ノ注釈に挾《ハサマ》れて主意の貫通せざるを憂《ウレ》へ器械語釈の繁蕪を去り古道を委《クハ》しく説《ト》くに至リてハ彼ノ二書に説漏《トキモラ》されし事どもをも深く考て新《アラタ》に発明せられし事ども甚タ多くすべて吾古道の真義を書著されし書なり
古傳本辭録 并徴         三巻
神代の古傳の事績ハ平田大人の古史の成文に集成せられて炳焉《アキラカ》なるを神武天皇以来の成文ハいまだ成《ナ》らざるが故に古事記日本紀を基《モト》としてあらゆる古書に拠《ヨ》り彼ノ成文に效《ナラ》ひ神武一帝の成文をなしそれが徴をも委しく擧《アケ》られたる書なり尚次々次第を追て歴代の本辞録(入力者注、以下底本の改ページにより収録されず)
     2004.1.24(土) 10時9分入力終了。
 
 
 
地名字音転用例 本居宣長著 
 
出版地: 名古屋 
出版者: 片野東四郎等 
出版年: 〔明治年間〕 
ページ数: 34丁 
大きさ: 26cm 
装丁: 和装 
NDC分類番号: 291.034 
著者標目カナ: モトオリ,ノリナガ(1730〜1801) 
著者標目: 本居,宣長(1730〜1801) 
一般件名: 日本 -- 地名 日本語 -- 音韻 
全国書誌番号: 55010560 
請求記号: YDM22682 
    入力者注、すてがなと小書きの漢字と割り注は()に入れた。傍線の付く語は「」でくくった。所謂二の字点は々で代用した。漢字の左にその字が問題になっていることを示す○傍点があるが、省略した。同じくカタカナの右にその字が問題になっていることを示す矩形の傍点があるが省略した。
 
(1コマ)地名字音轉用例
(2コマ)地名字音轉用例
凡そ諸國ノ名、又郡郷ナドノ名ドモ、古(ヘ)ハ文字ニカヽハラズ、正字ニマレ借(リ)字ニマレ、アルベキマヽニ、身刺《ムサシ》三野《ミノ》科野《シナノ》道奥《ミチノク》稲羽《イナバ》針間《ハリマ》津嶋《ツシマ》、ナドヤウニ書キ、或ハ上毛野《カミツケノ》下毛野《シモツケノ》多遲麻《タヂマ》ナド、字ノ数ニモカヽハラズ、三字ナドニモ書(キ)タリシヲ、ヤヽ後ニナリテ、字ヲ擇ブコト始マリ、又必(ス)二字ニ定メテ書(ク)コトヽハナレルナリ、續紀和銅六年五月(ノ)詔ニ、畿内七道諸國郡郷(ノ)名、著《ツケヨ》2好《ヨキ》字ヲ1ト見エ、延喜(ノ)民部式ニ、凡(ソ)諸國部内(ノ)郡里等(ノ)名、並《ミナ》用(ヒ)2二字ヲ1、必(ス)取(レ)2(3コマ)嘉名(ヲ)1、ナド見エタルガ如シ、(嘉名ト云モ字ノコト也)但シ和銅六年ヨリ前《サキ》ヨリモ、既《ハヤ》ク字ヲ擇バレシコトモ有(リ)シトハ見エタルヲ、彼(ノ)時ニ至(リ)テ、ナホタシカニ定メラレタルナルベシ、出雲風土記ニ、郷名ドモ、神亀三年改(ム)v字(ヲ)トシルせル多ケレバ、和銅ノ後ニモ、ナホツギ/\改メラレシモ有(リ)シナルベシ、又必(ス)二字ニ定メラレタルモ、延喜式ヨリ始マレルコトニハ非ズ、既《ハヤ》ク奈良(ノ)朝ノホドヨリ、多クハ二字ニ書(ケ)リト見エタリ、サテ國郡郷ノ名、カクノ如ク好字ヲ擇ビ、必(ス)二字ニ書(ク)ニツキテハ、字音ヲ借(リ)テ書(ク)名ハ、尋常《ヨノツネ》ノ假字ノ例ニテハ、二字に約《ツヾ》メガタク、字ノ本音ノマヽニテハ、其名ニ叶へ難キガ多キ故ニ、字音ヲサマ/”\ニ轉ジ用ヒテ、尋常ノ假字ノ例トハ、異ナルガ多キコト、相模《サガミ》ノ相《サガ》、信濃《シナノ》ノ信《シナ》ナドノ如シ、カヽルタグヒ皆是(レ)、物々シキ字ヲ擇ビテ、必(ス)二字ニ約メムタメニ、止(ム)事ヲ得ズ、如此《カク》サマニ音ヲ轉用シタル物ナり、然ルニ後(ノ)世(ノ)人、此(ノ)義《コヽロ》ヲタドラズシテ、國郡郷ノ名ドモノ、其字音ニアタラザルコトヲ、疑フ者多シ、殊ニ漢學者ナドハ、タヾ漢籍ヲ見馴(レ)タル心ニテ、字ヲ本ト心得ルカラ、其音ニ當らざる地名ヲバ、後ニ訛レルモノトシテ、タトヘバ相模ハモト「サウモ」、信濃ハ「シンノウ」(4コマ)ナリシヲ、「サガミ」「シナノ」トハ、後ニ訛レル也トヤウニサヘ思フメリ、是(レ)イミシキヒガコト也、「サガミ」「シナノ」ハ、本ヨリノ名ナルニ、相模信濃ナドノ字ハ、後ニ填《アテ》タルモノニテ、末ナルコトヲ辨ヘザルモノ也、是ニヨリテ吾今、カヽル惑(ヒ)ヲサトサムタメニ、地名ノ唱(ヘ)ノ、其字ノ本音ニ合(ハ)ザルモノヲ、類ヲ分テ聚擧(ケ)テ、轉用ノ例ヲ示スナリ、
○韻ヲ省キテ用ヒタル字音ハ、尋常ノ假字ニモ例多ク、ツネノ事ナレバ、此(レ)ニハ擧(ゲ)ズ、國名ノ「アハ」ヲ、安房《アンハウ》ト書ルタグヒ是ナリ、
○凡ソ此(レ)ニ擧ルハ、國(ノ)名郡(ノ)名ニテ、和名抄ニ出タルマヽナリ、其餘ノ地名ハ、大カタ擧ズ、然レドモ其《ソレ》モ、名高ク常ニ出ルヲバ、思ヒ出ルマヽニ、彼此《コレカレ》トアゲタルモアリ、
○和名抄諸國ノ郷名ノ中ニ、字音トオボシキハ、此(レ)ニ擧タル外ニモ、なほいと多カレドモ、唱(ヘ)ヲ注セザルハ、いかなる名トモ知(リ)ガタケレバ、皆|漏《モラ》セリ、其中ニ、其國ニテハ、其名今モ残リテ、唱(ヘ)ノ知ラレタルモアルベキヲ、其《ソ》ハ此(レ)ニ擧タル例ドモニ傚《ナラ》ヒテ、其轉用ヲ知(ル)ベシ、
○此(レ)ニ擧タル凡テノ例ヲ、初(ノ)條ナル「サガラカ」ニテ云(5コマ)ム、先(ツ)さがらかト擧タルハ、其地名ナリ、次ニ相樂ハ、其音ヲ轉ジテ當《アテ》タル字也、次ニ其下ニ細書ニ、山ト記せルハ、山城(ノ)國ノヨシ也、凡テ諸國|何《イヅ》レモ、省キテ一字を出せリ、郡ト記セルハ、郡名ノヨシナリ、郷ハ郷名ナリ、又郡トモ郷トモシルサヾルハ、郡郷ノ外也、次ニ佐加良加ト記せルハ、和名抄ニ注セル唱(ヘ)ナリ、和名抄ニ唱(ヘ)ヲ注せザルハ、他《アダシ》古書ニ見エタルヲ以テ記ス、其《ソ》書ノ名ヲ擧グ、凡テ何《イヅ》レモ右ノ例ヲ以テ心得ベシ、
 
ウノ韻ヲカノ行(リ)ノ音ニ轉ジ
○さがむ 相模(國)佐加三《サガミ》 相ハ「サウ」ノ音ナルヲ、韻ノ「ウ」ヲ轉シテ、「サガ」ニ用ヒタリ、 (此(ノ)國名ハ、モト「サガム」ナリシヲ、和名抄ニ佐加三ト注シタルハ、後ノ唱(ヘ)ナリ、古事記ニ相武ト書キ、哥ニモ佐賀牟トアリ、模(ノ)字モ、「モ」ノ音ナレバ、「ム」ニ近クシテ、「ミ」ニハ遠シ、) ○さがらか 相樂(山郡)佐加良加《サガラカ》 相《サウ》ヲ「サガ」ニ用ヒタル、上ニ同ジ、(樂《ラカ》ノコトハ下ニ出) ○かゞみ 香美(土郡阿郷)加々美《カヾミ》 ○いかゞ 伊香(河郷)伊加々《イカゞ》 ○かゞと 香止(備前郷)加々止《カヾト》 コレラ香《カウ》ヲ「カヾ」ニ用ヒタル、上ノ相《サガ》ノ例ニ同ジ、
以上ウノ韻ヲガニ用ヒタリ
(6コマ)○おたぎ 愛宕(山郡)於多岐《オタギ》 ○たぎの 宕野(勢郷)多木乃《タキノ》 コレラ宕ハ「タウ」ノ音ナルヲ、「タギ」ニ用ヒタリ、 ○よろぎ 餘綾(相郡)与呂岐《ヨロギ》 綾ハ「リヨウ」ノ音ナルヲ、(「リヨ」ヲ直音ニシテ、「ロ」ニ用ヒ、)韻ノ「ウ」ヲ「ギ」ニ用ヒタリ、 ○くらぎ 久良(武郡)久良岐《クラギ》 ○みなぎ 美嚢(播郡)美奈木《ミナギ》 ○たぎま 當麻(和郷)多以末《タイマ》 (此(ノ)郷名「タギマ」ナルヲ、和名抄ニ多以末ト注シタルハ、後ノ音便ノ唱(ヘ)ナリ、古事記ニ、當岐麻《タギマ》トモ當藝麻《タギマ》トモアリ、) ○ふたぎ 布當(山)万葉六ニ見エタリ、(コレヲ今(ノ)本ニ、「フタイ」ト訓ルハ、當麻《タギマ》ヲ「タイマ」ト云ト同ク、後ノ唱ヘニテ、誤ナリ、)
 右良ヲ「ラギ」、嚢《ナウ》ヲ「ナギ」、當《タウ》ヲ「タギ」ニ用ヒタル、上ノ宕《タギ》綾《ロギ》ノ例ニ同ジ、
以上ウノ韻ヲギニ用ヒタリ
○うまぐた 望多(上総郡)末宇太《マウタ》 望ハ「マウ」ノ音ナルヲ、「ウ」ノ韻ヲ轉ジテ、「マグ」ニ用ヒタリ、(上ノ「ウ」ニ當ル字ヲバ省ケリ、「ウ」ヲ省ク例ハ常也、サテ和名抄ニ、末宇太トアルハ、後ノ音便ノ唱(ヘ)ナリ、古事記ニ馬来田《ウマグタ》、万葉ニ宇麻具多《ウマグタ》トアリ、) ○いくれ 勇礼(越後郷)以久礼《イクレ》 勇ハ「ユウ」ノ音ナルヲ、「イク」ニ用ヒタリ、(「ユ」ヲ「イ」ニ用ヒタル例ハ下ニ出)○かぐやま 香山(和)神武紀ニ、香山此(ヲ)云2介遇夜麼《カグヤマ》ト1トアリ、是(レ)香《カウ》ノ音ヲ取れる也、(訓ヲ以テ香来《カグ》山ナド書ルトハ異ナリ、思ヒマガフベカラズ、サテ書紀ニ、字音ニモ訓注ヲシタルコト、例アリ、興台産霊《コヾトムスビ》ト云神名ノ興台(ノ)二字モ、音ナルニ、訓注アリ、)
以上ウノ韻ヲグニ用ヒタリ
(7コマ)○いかご 伊香(近郡)伊加古《イカゴ》 ○あたご 愛宕(丹波)神名帳ニ、阿多古《アタゴ》ト見エタリ、コレラ香《カウ》ヲ「カゴ」、宕《タウ》ヲ「タゴ」ニ用ヒタリ、(カノ神名ノ興台《コヾト》ノ興《コヾ》ナドモ、「コウ」ノ音ヲ取レルニテ、是(レ)ト同例ナリ、)
以上ウノ韻ヲゴニ用ヒタリ
(上件「ウ」ノ韻ヲ轉ジテ、「カ」「キ」「ク」「コ」ニ用ヒタル地名、其(ノ)轉ジタル音、皆濁音也、其中ニ久良《クラキ》ノ「キ」ト、勇礼《イクレ》ノ「ク」トハ、清濁イカナラム、知ラネドモ、餘ノ例ヲ以テ見レバ、此(レ)ラモ濁(ル)ナルベシ、)
ンノ韻ヲマノ行(リ)ノ音ニ通用シタル例
○いさま 伊参(上野郷)伊佐万《イサマ》 参ハ「サン」ノ音ナルヲ、「サマ」ニ用ヒタリ、 ○なましな 男信(上野郷)奈万之奈《ナマシナ》 男《ナン》ヲ「ナマ」ニ用ヒタリ、(信《シナ》ノコトハ下ニ出)
以上ンノ韻ヲマニ用ヒタリ
○いじみ 夷※[さんずい+僭の右上/隔の右下] (上総郷)伊志美《イジミ》  ※[さんずい+僭の右上/隔の右下]ハ「ジン」ノ音ナルヲ、「ジミ」ニ用ヒタリ、(燈心《トウシミ》ナドモ、此(ノ)例ナリ、)但シ古事記ニハ伊自牟《イジム》トアリ、モトハ然云シナルベシ、(サレバ「イジミ」ト云ハ、「サガム」ヲ「サガミ」ト云類ニテ、後ノ唱(ヘ)カ、)書紀ニハ伊甚トアリ、 ○あづみ 安曇(信郡)阿都三《アヅミ》 曇《ドン》ヲ「ヅミ」ニ用ヒタリ、 ○みぐミ 美含(但郷)三久美《ミグミ》 含《ゴン》ヲ「グミ」ニ用ヒタリ、 ○くたみ 玖潭(雲郷)風土記ニ久多美《クタミ》、(和名抄ニ、潭(ノ)字ヲ澤ニ誤レリ、神名帳マタ風土記ナドニ、潭トアルナリ、) ○みたみ 美談(雲郷)風土記ニ三太三《ミタミ》、 ○しゞみ 志(8コマ)深(播郷)之々美《シヾミ》 書紀ニ縮見《シヾミ》トアリ、古事記ニハ志自牟《シヾム》、 ○いなミ 印南(播郡)伊奈美《イナミ》 南ハ、「ナン」ノ音ヲ轉ジテ、「ナミ」ニ用ヒタルナリ、(訓ノ「ミナミ」ヲ取レルニハ非ズ、伊邪那美(ノ)神ノ御名ノ那美《ナミ》ヲ、書紀ニ冉《ナミ》ト書レタルモ、此(レ)ト同例也、冉ハ史記(ノ)正義ニ奴甘(ノ)反トアリテ、呉音「ナン」ナリ、コレヲ書紀(ノ)今(ノ)本ドモニ、冊ト作《カケ》ルハ、写(シ)誤ナリ、) ○わざミ 和※[斬/足](濃) 天武紀ニ見ユ、万葉二ニ和射見《ワザミ》トアリ、 ※[斬/足]《ザン》ヲ「ザミ」ニ用ヒタリ、 ○みミらく 旻樂(肥前) 續後紀六ニ見ユ、万葉十六ニ、美弥良久《ミミラク》トアル是ナリ、旻呉音「ミン」ヲ、「ミヽ」ニ用ヒタリ、
以上ンノ韻ヲミニ用ヒタリ
○なめさ 南佐(雲郷) 風土記ニ、云々故(レ)云2南佐《ナメサ》ト1、神亀三年改(ム)2字(ヲ)滑狹ト1トアリ、然ルヲ和名抄ニ、南佐ト滑狹トヲ別ニ擧タルハ、マギレタル誤ナルベシ、
右ンノ韻ヲメニ用ヒタリ
○ゑども 惠曇(雲郷) 風土記ニ惠伴《ヱドモ》ト見エ、惠杼毛《ヱドモノ》社モアリ、
右ンノ韻ヲモニ用ヒタリ
 
   ンノ韻ヲナノ行(リ)ノ音ニ通用シタル例
○しなの 信濃(國) 之奈乃《シナノ》 信《シン》ヲ「シナ」ニ用ヒタリ、古事記ニ科野《シナヌ》トアリ、(濃(ノ)字モ、「ヌ」ノ假字ナレバ、モトハ「シナヌ」ナリ、) ○いな(9コマ)ば 因幡(國)以奈八《イナバ》 古事記ニ稲羽トアリ、 ○ゐなべ 員辨(勢郡) 為奈倍《ヰナベ》 ○いなさ 引佐(遠郡)伊奈佐《イナサ》 ○うなで 雲梯(和郷)宇奈天《ウナデ》 ○なましな 男信(上野郷)奈万之奈《ナマシナ》(男《ナマ》ノコトハ上ニ出)
以上ンノ韻ヲナニ用ヒタリ
○たには 丹波(國)太迩波《タニハ》 丹《タン》ヲ「タニ」ヽ用ヒタリ、(後世ニ此(レ)ヲ「タンバ」ト唱ルハ、音便ニ頽《クヅ》レタルモノ也、「ニ」ヲ「ン」ト云音便、常ニ多シ、難波ヲ「ナンバ」ト云ナドモ同ジ、波《ハ》モ、モト清音ナルヲ、「ン」ノ音便ニ引レテ、濁ルナリ、凡テ音便ノ「ン」ノ下ハ、必(ス)濁レリ、此(ノ)「タニハ」ヲ、「タンバ」ト云ヲ、字音ニ因レル唱(ヘ)ト思フハ非ズ、) ○おとくに 乙訓(山郡)於止久迩《オトクニ》 訓《クン》ヲ「クニ」ヽ用ヒタリ、(乙《オト》ノコトハ下ニ出) ○をにふ 遠敷(若郡)乎尓布《ヲニフ》 ○やまくに 養訓(藝郷)也万久尓《ヤマクニ》 ○なには 難波(津) 古事記ニ那尓波《ナニハ》、
以上ンノ韻ヲニヽ用ヒタリ
○さぬき 讃岐(國)佐奴岐《サヌキ》 讃《サン》ヲ「サヌ」ニ用ヒタリ、 ○さぬき 散吉(和郷) 是(レ)ハ神名帳ニ、讃岐(ノ)神社トアル處ナルベク思ハルヽ故ニ、「サヌキ」トせリ、廣瀬(ノ)郡也、 ○みぬめ 敏馬(津) 万葉ニ美奴面《ミヌメ》又|三犬女《ミヌメ》ナドモアリ、敏呉音「ミン」ヲ、「ミヌ」ニ用ヒタリ、 ○みぬめ ※[さんずい+文]賣(同上) 神名帳ニ見ユ、 ○ちぬ 珍(泉) 万葉十六、又姓氏録ナドニ見ユ、古事記ニ血沼《チヌ》、書紀ニ茅渟《チヌ》、續(10コマ)紀ニ珍努《チヌ》ナドアリ、
以上ンノ韻ヲヌニ用ヒタリ
○うねび 雲飛(和) 万葉七ニ見エタリ、
右ンノ韻ヲネニ用ヒタリ
○しのぶ 信夫(奥郡)志乃不《シノブ》 ○しのだ 信太(泉郷) ○みのだ 民太(勢郷)三乃多《ミノダ》 神名帳ニ、敏太《ミノダ》(ノ)神社トアル、是ナリ、(今ハ美濃田ト書(ク)也)
以上ンノ韻ヲノニ用ヒタリ 但(シ)是(レ)ラ、古(ヘ)ハ「シヌブ」「シヌダ」「ミヌダ」ト云シヲ、「ヌ」ヲ「ノ」ト云ハ、皆後ノ唱(ヘ)ニゾアラム、野《ヌ》篠《シヌ》角《ツヌ》忍《シヌブ》陵《シヌグ》ナド、古(ヘ)「ヌ」ト云シヲ、後ニハ皆「ノ」ト云例多ケレバ也、和泉ノ信太《シノダ》モ、万葉九ニハ、小竹田《シヌダ》トゾアル、
 
ンノ韻ヲラノ行(リ)ノ音ニ轉ジ用ヒタル例
○さらゝ 讃良(河郡)佐良々《サラヽ》 讚《サン》ヲ「サラ」ニ用ヒタリ
右ンノ韻ヲラニ用ヒタリ
○はりま 播磨(國)波里万《ハリマ》 ○へぐり 平群(和郡)倍久里《ヘグリ》 ○はしりゐ 八信井(近) 万葉七ニ見エタリ、
     以上ンノ韻ヲリニ用ヒタリ
○するが 駿河(國)須流加《スルガ》 駿ハ「シユン」ノ音ナルヲ、(11コマ)(「シユ」ヲ直音ニシテ、「ス」ニ用ヒ、)「ン」ノ韻ヲ轉ジテ、「スル」ニ用ヒタリ、○くるま 群馬(上野郡)久留末《クルマ》 ○つるが 敦賀(越前郡)都留我《ツルガ》 敦《トン》ヲ、「ト」ヲ「ツ」に轉ジ、「ン」ヲ「ル」ニ轉ジテ、「ツル」ニ用ヒタリ、但(シ)此(ノ)名モトハ「ツヌガ」ニテ、古書ニ角鹿《ツヌガ》トアリ、 ○くるへ 訓覇(勢郷)久留倍《クルヘ》 ○くるべき 訓覓(藝郷)久留倍木《クルベキ》
以上ンノ韻ヲルニ用ヒタリ
 
入聲フノ韻ヲ同(シ)行(リ)ノ音ニ通用シタル例
○あゆかは 愛甲(相郡)阿由加波《アユカハ》 甲《カフ》ヲ「カハ」ニ用ヒタリ、(愛《アユ》ノコトハ下ニ出) ○おはらき 邑樂(上野郡)於波良岐《オハラキ》 邑ハ呉音「オフ」ナルヲ、「オハ」ニ用ヒタリ、(樂《ラキ》ノコトハ下ニ出) ○さはだ(佐郡)佐波太《サハダ》 ○いざは 伊雜(志郷) 神名帳ニ伊射波《イザハ》トアリ、(和名抄本雜(ノ)字ヲ椎ニ誤レリ、大神宮儀式帳ニ伊雜、) ○そかは 蘇甲(讃郷)曽加波《ソカハ》 ○かはし 合志(肥後郷)加波志《カハシ》
以上フノ韻ヲハニ用ヒタリ
○いひほ 揖保(播郡)伊比保《イヒホ》 揖《イフ》ヲ「イヒ」ニ用ヒタリ、 ○アヒラ 姶羅(隅郡)阿比良《アヒラ》 姶ハ烏合《ウガフ》(ノ)反ニテ、「アフ」ノ音ナルヲ、「アヒ」ニ用ヒタリ、 ○きひれ 給黎(薩郡)岐比礼《キヒレ》 給《キフ》ヲ「キヒ」ニ用ヒタリ、 ○いひしろ 邑代(遠郷)伊比之呂(12コマ)《イヒシロ》 ○さひか 雜賀(紀) 万葉六ニ左日鹿《サヒカ》、
     以上フノ韻をヒニ用ヒタリ
○おほち 邑知(石郡能郷)於保知《オホチ》 ○おほく 邑久(備前郡)於保久《おほく》 ○ほゝき 法吉(雲郷) 神名帳ニモ風土記ニモ、タヾ法吉トアリテ、「ホヽキ」ト唱フベキコトハ見エザレドモ、必(ス)然唱フベクオボユ、(其故ハ、風土記ニ、此神名ノ由縁ヲ記シテ云(ク)、神魂(ノ)命(ノ)御子宇武賀比賣(ノ)命、法吉鳥(ニ)化《ナリ》而《テ》、飛度(リテ)静(マリ)2坐(ス)此(ノ)處(ニ)1、故(レ)云2法吉ト1トアル、法吉鳥ハ、鳴(ク)声ニヨレル名ニテ、必(ス)ホホキドリト訓テ、※[嬰の上/鳥]ノコトヽ聞エタリ、サレバ此ノ郷名、必(ス)「ホヽキ」ナルベシ、)
以上フノ韻ヲホニ用ヒタリ
入聲ツノ韻ヲ同(シ)行(リ)ノ音ニ通用シタル例
○しだら 設樂(三郡)志太良《シダラ》 設《セツ》ヲ「シダ」ニ用ヒタリ、(「せ」ヲ「シ」ニ轉用シタル例ハ下ニ出) ○たゝら 達良(房郷)太々良《タヽラ》 ○くたみ 忽美(雲郷) 風土記ニ見ユ、(後ニ改メテ玖潭ト書リ、玖潭ノコトハ上ニ出、) 忽《コツ》ヲ「クタ」ニ用ヒタリ、(「コ」ヲ「ク」ニ轉用シタル例ハ下ニ出せリ)
以上ツノ韻ヲタニ用ヒタリ
○ちゝぶ 秩父(武郡)知々夫《チヽブ》 秩《チツ》ヲ「チヽ」ニ用ヒタリ 右ツノ韻ヲチニ用ヒタリ 但(シ)「ツ」ノ韻ノ字、呉音ニハ、一日《イチニチ》吉《キチ》八《ハチ》ナドノ如ク、多ク「チ」ノ韻ニ呼(ヘ)バ、是(レ)ハ通用ノ例ニハ非レドモ、秩《チヽ》ハメ(13コマ)ヅラシキ故ニ姑(ク)擧ツ、
○いだて 伊達(奥郡) 神名帳ニ、出雲ナドニ、伊太(氏/一)《イダテ》ト云社号多シ、
右ツノ韻ヲテニ用ヒタリ
 
○おとくに 乙訓(山郡)於止久邇《オトクニ》 乙《オツ》ヲオトニ用ヒタリ、(訓《クニ》ノコトハ上二出) ○かとしか 葛※[食+芳](下総郡)加止志加《カトシカ》 葛《カツ》ヲカトニ用ヒタリ、但(シ)萬葉ニハ勝鹿《カツシカ》又|可都思加《カツシカ》ナドアリ (※[食+芳]《シカ》ノコトハ下二出セリ サテ山城ノ郡名ノ葛《カド》野ノ葛《カド》ハ、古事記ノ御哥ニ、加豆怒《カヅヌ》トアリテ、カヅラノラヲ省ケルナレバ、字音ニアラズ、此《ココ》卜混ズベカラズ、) ○もとろゐ 物理(備前郷)毛止呂井《モトロヰ》 物ヲモトニ用ヒタリ、(理《ロヰ》ノコトハ下二出) ○かしと 佳質(備後郷)加之土《カシト》 質《シツ》ヲシトニ用ヒタリ、 ○やけひと 益必(周郷)也介比止《ヤケヒト》 必《ヒツ》ヲヒトニ用ヒタリ、(益《ヤケ》ノコトハ下ニ出)       以上ツノ韻ヲトニ用ヒタリ
 
     入聲キノ韻ヲ同(シ)行ノ音ニ通用シタル例
○かとしか 葛※[食+芳](下総郡)加止志加《カトシカ》 ※[食+芳]呉音シキヲシカニ用ヒタリ、(葛《カト》ノコトハ上ニ出) ○しかま 色麻(奥郡)志加萬《シカマ》 ○しかま ※[食+芳]磨(播郡) 和名抄ニ唱(ヘ)ノ注ハナシ、 ○あぢか 安直(藝郡)安知加《アヂカ》 直《ヂキ》ヲヂカニ用ヒタリ、
      以上キノ韻ヲカニ用ヒタリ、
 
(14コマ) 入聲クノ韻ヲ同(シ)行(リ)ノ音ニ通用シタル例
○みまさか 美作(國)美萬佐加《ミマサカ》 作《サク》ヲサカニ用ヒタリ、 ○さがらか 相樂(山郡)佐加良加《サガラカ》 樂《ラク》ヲラカニ用ヒタリ、(相《サガ》ノコトハ上ニ出) ○あすかベ 安宿(河郡)安須加倍《アスカベ》 宿《シユク》ヲ(シユヲ直音ニシテスニ用ヒ)韻ノクヲカニ用ヒタリ、(ベニ當(タ)ル字ハ省ケリ、字ヲ省ケル例下ニ出、) ○かゞみ 各務(濃郡)加々美《カヽミ》(務《ミ》ノコトハ下ニ出) ○つかま 筑摩(信郡)豆加萬《ツカマ》 ○あさか 安積(奥郡)阿佐加《アサカ》 積《シヤク》ヲ(シヤヲ直音ニシテサニ用ヒ)韻ヲ轉ジテカニ用ヒタリ、 ○さかど 尺度(河郷)尺ヲサカニ用ヒタリ、(和名抄本ニ、尺(ノ)字ヲ尸ニ誤レリ、相模伯耆ナドニモ、尺度ト云郷名例アリ、)清寧天皇ノ御陵|坂門《サカドノ》原、此(ノ)地ナリ、 ○かゞし 覺志(武郷)加々志《カヾシ》 ○たから 託羅(阿郷)多加良《タカラ》 ○はかた 博多(和 筑前) ○はかた 伯太(河) 神名帳ニ見ユ、續紀十一ニ波可多《ハカタ》、 ○ありまか 阿理莫(泉) 神名帳ニ見ユ、崇唆紀ニ有眞香《アリマカ》邑トアル是ナリ、
       以上クノ韻ヲカニ用ヒタリ
○やきづ 益頭(駿郡) 益《ヤク》ヲヤキニ用ヒタル也、是ハモト焼津《ヤキヅ》ナリ、然ルヲ和名抄ニ、末志豆《マシヅ》ト注シタルハ、後ニ焼《ヤキ》ト云コトヲ忌テ、益(ノ)字ノ訓ニ唱(ヘ)カヘタルモノナ(15コマ)リ、(サル例他ニモアリ、備後ノ安那(ノ)郡ハ、穴《アナ》ナルヲ、安(ノ)字ノ訓ニカヘテ、ヤスナト唱ルナド、同ジコト也、又大和(ノ)十市(ノ)郡ノ郷名|飫冨《オホ》ヲ、飯冨ト書(キ)カヘテ、イヒトミト唱ルモ比(ノ)類也、) ○おはらき 邑樂(上野郡)於波良岐《オハラキ》 樂《ラク》ヲラキニ用ヒタリ、(邑《オハ》ノコトハ上ニ出) ○さへき 佐伯(藝郡)佐倍木《サヘキ》 伯《ハク》ヲヘキニ用ヒタリ、(ハヲヘニ轉用シタル例ハ下ニ出) ○いふすき 揖宿(薩郡)以夫須岐《イフスキ》 ○つきや 筑陽(雲郷) 風土記ニ調屋《ツキヤ》トアリ、 ○しがらき 信樂(近) 績紀ニハ紫香樂《シガラキ》トアリ、(信《シガ》ノコトハ下ニ出)
        以上クノ韻ヲキ二用ヒタリ
○やけひと 益必(周郷)也介比止《ヤケヒト》 益《ヤク》ヲヤケニ用ヒタリ、(必《ヒト》ノコトハ上ニ出)
       右クノ韻ヲケニ用ヒタリ
   
     イノ韻ヲヤノ行(リ)ノ音ニ通用シタル例
○はやし 拜師(加越中阿讃等郷)波也之《ハヤシ》 ○はやし 拜慈(備中郷)波也之《ハヤシ》 ○はやし 拜志(豫郷)波也之《ハヤシ》 コレラ拜《ハイ》ヲハヤニ用ヒタリ、此(ノ)外諸國ニ、拜志ト云郷名多シ、皆ハヤシニテ、林ノ意ナリ、
       以上イノ韻ヲヤニ用ヒタリ
○あゆち 愛智(尾郡) 書紀ニ吾湯市《アユチ》又|年魚市《アユチ》、万葉ニモ年魚市《アユチ》トアリ、然ルヲ和名抄ニ、阿伊知《アイチ》卜注セルハ、(16コマ)後ニ訛レル唱(ヘ)ナリ、(魚ノアユヲモ、今(ノ)人ハアイト云ニ同ジ、)愛《アイ》ヲアユニ用ヒタリ ○あゆかは 愛甲(相郡)阿由加波《アユカハ》(甲《カハ》ノコトハ上ニ出)
       以上イノ韻ヲユニ用ヒタリ
 
     アノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○あご 英虞(志郡)阿呉《アゴ》 ○あいた 英多(作郡)安伊多《アイタ》 ○あが 英賀(備中郡播郷)阿加《アガ》 是ラ英《エイ》ヲア又アイニ用ヒタリ、 ○あちえ 謁叡(丹後郷) 神名帳ニ阿知江《アチエ》トアル是也、謁《エツ》ヲアチニ用ヒタリ、 ○えち 愛智(近郡)衣知《エチ》 愛《アイ》ヲエニ用ヒタリ ○おたぎ 愛宕(山郡)於多岐《オタギ》 愛《アイ》ヲオニ用ヒタリ、(宕《タギ》ノコトハ上ニ出) ○おはらき 邑樂(上野郷)於波良岐《オハラキ》 ○おふみ 邑美(因郡石播等郷)於不美《オフミ》 ○おほち 邑知(石郡能郷)於保知《オホチ》 ○おほく 邑久(備前郡)於保久《オホク》 邑ヲ如此《カク》オニ用ヒタルガ多キハ、此(ノ)字呉音オフナレバ也、サレバ此《コ》ハ通用ニハ非レドモ、此(ノ)字オフノ音ヲ、人多クハ知ラザル故ニ、姑(ク)擧ツ、
 
       カノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○くゝち 菊池(肥後郡)久々知《クヽチ》 (神代紀ニ菊理《クヽリ》媛ト云神名モアリ)(17コマ)後(ノ)世ニ是(レ)ヲキクチト云ハ、字音ニ依テ、訛レルモノナリ、
○くゝま 菊麻(上總郷)久々萬《クヽマ》(和名抄本、菊(ノ)字ヲ菓ニ誤レリ、) コレラ菊《キク》ヲクヽニ用ヒタリ、 ○みぐみ 美含(但郷)三久美《ミグミ》 含《ゴン》ヲグミニ用ヒタリ、(但(シ)此(ノ)字ヲ用ヒタルコトハ、メヅラシケレバ、フクミノ訓ヲ兼タル意モアルカ、) ○くたみ 忽美(雲郷) 風土記ニ見ユ、(上ニモ出)忽《コツ》ヲクタニ用ヒタリ、
○こむく 感口(河) 神名帳ニ見ユ、和名抄ニハ紺口《コムク》トアリ、感呉音コンナリ、仁徳紀ニ感玖《コムク》、又古事記ニ高目郎女《コムクノイラツメ》、應仁紀ニ※[さんずいへん+勞]來田《コムクダノ》皇女ナドアル、皆一(ツ)地名也、
 
          サノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○しだら 設樂(三郡)志太良《シダラ》 設《セツ》ヲシダニ用ヒタリ、(ツノ韻ヲタニ轉用セル例ハ上ニ出) ○あすかべ 安宿(河郡)安須加倍《アスカベ》 (クノ韻ヲ轉用シタル例ハ上ニ出) ○すくゝ 宿久(津郷) 神名帳ニ須久々《スクヽ》(ノ)神社トアル地ナリ、(和名抄本ニ久(ノ)字ヲ人ニ誤レリ) コレラハ宿《シユク》ノシユヲ直音ニシタルナレバ、(宿祢《スクネ》宿世《スクセ》ナドモ同ジ)通用ニハ非レドモ、姑(ク)擧ツ、
         
          タノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○つくし 筑紫(國) 筑《チク》(又竺トモ作《カケ》リ)ヲツクニ用ヒタリ、(18コマ) ○つゝき 綴喜(山郡)豆々岐《ツヽキ》 綴《テツ》ヲツヽニ用ヒタリ、(下ノツヲ濁ルハ非ナリ、古事記ニモ書紀ニモ、筒《ツヽ》ト書タリ、然ルニメヅラシキ綴(ノ)字ヲシモ用ヒタルハ、清濁ヲ通ハシテ、ツヾルノ訓ヲ兼タル意モアルカ、上ナル美含《ミグミ》ノ例思フベシ、) ○つくは 筑波(常郡)豆久波《ツクハ》 ○あづみ 安曇(信郡)阿都三《アヅミ》 曇《ドン》ヲヅミニ用ヒタリ、 ○つかま 筑摩(信郡)豆加萬《ツカマ》 ○つるが 敦賀(越前郡)都留我《ツルガ》 敦《トン》ヲツルニ用ヒタリ、 ○つくま 筑摩(近) ○つくま 託馬(同上) 萬葉三ニ見ユ、託《タク》ヲツクニ用ヒタリ、 ○つくぶすま 筑夫嶋(近) 三代實録卅五ニ見ユ、神名帳ニ都久夫須麻《ツクブスマ》トアリ、(今チクブシマト云ハ訛也、竹卜書タルモツク也、)
        
          ナノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○なら 寧樂(和) 寧ハ奴丁《ドテイノ・ヌチヤウノ》反、漢音デイ、呉音ニヤウ(常ニハ漢呉共ニネイト呼(フ))ナルヲ、ナニ用ヒタリ、(但シ.ニヤウノニヤヲ直音ニスレバナトナル、)諾樂《ナラ》乃樂《ナラ》ナド書ルハ、本音ニテ、韻ヲ省ケル例ナリ、(諾ハ奴各《ヌカク》(ノ)反ナレバ、呉音ナク也、伊邪那岐神ノ御名ノ那岐ヲ、書紀ニ諾《ナギ》ト書レタルモ、此(ノ)音ノ韻ヲ轉用シタルモノナリ、)
      
        ハノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○あへ 阿拜(伊郡)安倍《アヘ》 敢《アヘ》トモ書(ケ)り、(ヘ清音也、) 拜《ハイ》ヲヘニ(20コマ)用ヒタリ、是(レ)ハ尋常ノ假字ニモ、賣《マイ》米《マイ》ヲメ、禮《ライ》ヲレ、帝《タイ》ヲテニ用ル類ト、同格ナリ、(礼《レ》帝《テ》ナド、漢音ノレイテイヲ取ルニハ非ズ、)又書紀ノ假字ニハ、哀《アイ》愛《アイ》ヲエ、開《カイ》階《カイ》ヲケ、西《サイ》細《サイ》ヲせ、俳《ハイ》珮《ハイ》ヲヘ、昧《マイ》毎《マイ》ヲメニ用ヒタル類多キモ同ジ、 ○さへき 佐伯(藝郡)佐倍木《サヘキ》 伯《ハク》ヲヘキニ用ヒタリ、 ○くるへ 訓覇(勢郷)久留倍《クルヘ》 覇呉音ヘナリ、然レドモ人多クハ、此(ノ)呉音ヲ知ラザル故ニ、擧ツ、此(ノ)字、績紀ノ宣命ナドニモ、ヘノ假字ニ用ヒラレタリ、(訓《クル》ノコトハ上ニ出) ○覇多(遠郷)反多 此(ノ)反ハ、ヘント唱ルヨシカ、ハタヘカ、詳ナラズ、此(ノ)郷名國人ニ尋ヌベシ、 ○たへ 多配(讃郷)多倍《タヘ》
 
       マノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○さがむ 相模(國) 模《モ》ヲムニ用ヒタリ、此(ノ)國名ノ事、上ニ云ルガ如シ、 ○かゞみ 各務(濃郡)加々美《カヾミ》 務《ム》ヲミニ用ヒタリ、 ○まきむく 巻目(和) 萬葉七ニ見ユ、モクヲムクニ用ヒタリ、常ニ纏向《マキムク》ナド書(ケ)リ、(マキモクト唱ルハ、ヒガコトナリ、) ○こむく 高目(河) 古事記ニ見ユ、此(ノ)地ノ事、上ニ出タリ、
 
       ヤノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
(21コマ)○やむや 塩冶(雲郷) 風土記ニ止屋《ヤムヤ》又|夜牟夜《ヤムヤ》、崇神紀ニモ止屋《ヤムヤ》トアリ、エンヲヤムニ用ヒタリ、後(ノ)世ニ此(レ)ヲ.エンヤト唱ルハ、字ニ依テ訛レル也、(和名抄本ニ冶(ノ)字ヲ沼二誤レリ) ○いくれ 勇礼(越後郷)以久礼《イクレ》 勇《ユウ》ヲイクニ用ヒタリ、
 
       ラノ行(リ)ノ音同(シ)行(リ)通用セル例
○とゞろき 等力(甲郷)止々呂木《トヾロキ》 リキヲロキニ用ヒタリ、
 
        雑《クサ/”\》ノ轉用
○はゝき 伯耆(國)波々岐《ハヽキ》 伯《ハク》ヲハヽニ用ヒタリ、 ○つしま 對馬(國)都之萬《ツシマ》 古事記ニ津嶋トアリ、此(ノ)意ノ名也、然ルヲ對馬ト書ルハ、漢籍《カラブミ》魏志ニ見エタリ、サレバ此《コ》ハモト、彼(ノ)國ニテ譯シタル字ナルヲ、ソノママニ用ヒラレタルモノナルベシ、其故ハツシニ對(ノ)字ヲ書ル、假字ノサマ、當昔《ソノカミ》皇國ノ假字ノ用ヒザマニハ似ザレバ也、 ○ふゝし 鳳至(能郡)不布志《フフシ》 ウノ韻ヲフニ用ヒタリ、 ○おほく 大伯(備前郡、邑久《オホク》是ナリ、) 書紀ニ見ユ、大来《オホク》トモアリ、伯《ハク》ヲクニ用ヒタリ、(上ノオホノホノユカリニ、其通音ノハヘ連《ツヾ》ケテ、ハクノ音ノ字ヲ用ヒタルカ、然ラズハ、クニハクノ音ノ字ヲ用フベキヨシナシ、) (22コマ)○さはら 早良(筑前郡)佐波良《サハラ》 ウノ韻ヲハニ用ヒタリ、 ○とゞろき 等力(甲郷)止々呂木《トヾロキ》 トウヲトヾニ用ヒタリ、 ○うなみ 宇納(越中郷)宇那美《ウナミ》 ナフヲナミニ用ヒタリ、若(シ)クハ納ハ、網ヲ誤レル字カ、(丹後ノ郷名ノ網野《アミノ》ヲモ、納野ト誤レル例アリ、彼(ノ)網野ハ、神名帳ニモ見エ、今モ網野村ト云アリテ、マガヒナシ、)然ラバウノアミヲ切《ツヾ》メテ、ウナミナリ、 ○しゝぬ 漆沼(雲郷) 風土記ニ、舊《モト》司志沼《シヽヌ》ト書ルヨシ見エタリ、シツヲシヽニ用ヒタリ、 ○もとろゐ 物理(備前郷)毛止呂井《モトロヰ》 理《リ》ヲロヰニ用ヒタル、(ロヰノ反リ)イトメヅラシ、 ○かしを 賀集(淡郷)加之乎《カシヲ》 シフヲシヲニ用ヒタル、メヅラシ、(若(シ)クハ乎(ノ)字ハ、布《フ》ヲ誤レルニハ非ルカ、此(ノ)郷名國人ニ尋ヌべシ、) ○しつな 志筑(淡郷)之都奈《シツナ》 チクヲツナニ用ヒタルイカヾ、(奈字、誤写ナルベシ、此(ノ)郷名國人ニ尋ヌベシ、) ○かくち 甲知(讃郷)加久知《カクチ》 カフヲカクニ用ヒタルイカヾ、(久(ノ)字ハ誤写カ、) ○かわら 考羅(山) 仁徳紀ニ見ユ、古事記ニ※[言+可]和羅《カワラ》、崇神紀ニ伽和羅《カワラ》トアル、同地也、ウノ韻ヲワニ用ヒタリ、 ○にひき 新益(和) 持統紀ニ見ユ、天武紀又持統紀ニモ、トコロ/”\ニ新城《ニヒキ》トアルト一(ツ)ニテ、此二御世ニ、都ヲ遷シ賜ハムトセシ地也、(績紀ニ、宝亀五年八月、幸2新城(ノ)宮(ニ)1トアルモ、此《コヽ》ナリ、今添下(ノ)郡ニ新木《ニキ》村ト云處也ト云リ、)キニエキノ音ノ字ヲ用ヒラレタルハ、(上ナル大伯《オホク》ノ伯《ク》ノ如シ)好(23コマ)字ヲ撰ヒテナルベシ、 ○かわら 各羅(筑前) 雄畧紀武烈紀ニ見エテ、カワラト假字附(ケ)せリ、カクヲカワニ用ヒタルカ、 ○みまな 任那(外国) 此(ノ)名ハ漢籍ニモ見エタレド、モト皇國ヨリ名(ツ)ケタルニテ、ミマナノ假字也、(百済ヲクダラ、新羅ヲシラキナド云トハ異ナリ、)任《ニン》ヲミマニ用ヒタリ、(ニトミトハ通フ例多ク、又ンノ韻ヲ、マニ用ヒタル例モ、上ニ出セルガ如シ、)
 
     韻《ヒヾキ》ノ音ノ字ヲ添(ヘ)タル例
タヾ一音《ヒトコエ》ノ名ハ、二字ニ書(ク)ニ足(ラ)ザルガ故ニ、其(ノ)韻《ヒビキ》ノ音ノ字ヲ添(ヘ)テ、二字トセリ、今其例ヲ此《コヽ》ニ擧(ク)、
○き 紀伊(國) 是(レ)木《キノ》國ナルヲ、キノ韻《ヒヾキ》ノイノ音ノ字ヲ、添タルモノ也、下皆此(レ)ニ効《ナラ》ヒテ知(ル)ベシ、 ○き 基肄(肥前郡) 肄音イ也、 ○ゐ 謂伊(遠郷)井以《ヰイ》 コハ井ト注スベキ例ナルニ、井以ト注セルハイカヾ、 ○ひ 斐伊(雲郷) 古事記ニ肥、書紀ニ簸《ヒ》卜書レタリ、(和名抄本ニ、伊(ノ)字ヲ甲ニ誤レリ、風土記ニ伊トアリ、) ○ひ 毘伊(肥後郷) ○つ 都宇(備中郡近越後備後藝等郷)津《ツ》 ○ゆ 由宇(周郷) ○え 穎娃(薩郷)江乃《エノ》 績紀一ニ、衣評《エノコホリ》トアル是ナリ、(郡ヲ評ト云コト、書紀ニモ、其外ニモ例アリ、)神代ノ可愛《エノ》山陵モ此(ノ)地也、(此(ノ)事ハ、古事記傳ニ委(ク)云リ、サテ此(ノ)郷名、今國人ハエイト云リ、和名抄ニ、江乃《エノ》卜注シタルハイカヾ、思《フ》ニ此ハ、エノ郡ト云トキノ、ノヲ添テ書ルニコソハアラメ、)(24コマ)娃(ノ)字ハ、アイノ音ナルヲ、エニ用ヒテ、添(ヘ)タル也、(アイヲエニ用ルハ、愛《エ》埃《エ》哀《エ》ナドノ如シ、) ○せ 弟翳(備中卿)勢《セ》 翳(ノ)字ハ、エノ假字ニ添(ヘ)タル也、サテ弟ヲせト云(フ)ハ、女ヨリハ、弟ヲモ兄《せ》ト云ヘバ也、此(ノ)郷名、サル由アリテ、弟トハ書ルナルベシ、サテ此(ノ)弟《せ》ハ、字音ニ非ルニ、韻《ヒビキ》ノ音ノ字ヲ添(ヘ)タルハ、メヅラシキ例也、 ○ほ 寶飫(三郡)穂《ホ》 飫ハオノ假字也、 ○そ ※[口+贈]※[口+於](隅郡)曾於《ソオ》 書紀ニ襲《ソノ》國トアル是也、サレバ曾《ソ》ト注スベキ例ナルニ、曾於ト注セルハイカヾ、 ○を 呼※[口+於](泉郷)乎《ヲ》 古事記及神名帳ナドニ、男《ヲ》トアリ、 ○と 斗意(備後郷) 意ハオノ假字也、 ○と 覩※[口+於](日郷) ○都於(石郷) 此(レ)ハ都ヲトノ音ニ用ヒタルカ、又ハ都(ノ)字ハ、覩《ト》ヲ写(シ)誤レルモノカ、何レニマレトヽ云(フ)名ニ非レバ、下ノ於(ノ)字當ラズ、(若(シ)ツナラバ、下ノ字|宇《ウ》ナラデハ叶ハズ、ナホ此(ノ)郷名、國人ニ辱ヌべシ、)
 
       字ヲ省ケル例
凡テ國名郡名郷名、皆必二字ニ書(ク)ベキ、御サダメナルニ、長クシテ、二字ニハ約メ難キヲバ、字ヲ省キテ書タリ、其例ハ、國名上野下野ハ、カミツケヌ シモツケヌ ニテ、古事記ナドニハ、上(ツ)毛野《ケヌ》下(ツ)毛野《ケヌ》トアルヲ、毛(ノ)字ヲ省(25コマ)キ、大和ノ郡名|磯城《シキノ》上下ヲ、磯(ノ)字ヲ省キテ、城上《シキノカミ》(之岐乃加美《シキノカミ》)城下《シキノシモ》(之岐乃之毛《シキノシモ》)ト書キ、葛城《カヅラキノ》上下ヲバ、城(ノ)字ヲ省キテ、葛上《カヅラキノカミ》(加豆良岐乃加美《カヅラキノカミ》)葛下《カヅラキノシモ》(加豆良岐乃之毛《カヅラキノシモ》)ト書(ク)タグヒ諸國ニ多キヲ其(ノ)例ニテ、字音ヲ以テ書ルニモ、字ヲ省ケリト見ユル、彼此《コレカレ》有ルヲ、今|此《コヽ》ニ擧(ク)、
○むざし 武藏□《ムザシ》(國) 藏(ノ)字ハ、ザニ用ヒタルナルベケレバ、シニ當(タ)ル字ヲ省ケルナルベシ、(蔵《ザウ》ヲザシニハ用ヒガタカルベケレバナリ、)古事記ニハ牟邪志《ムザシ》ト書キ、(邪モ藏モ濁音ナレバ、古(ヘ)ハサヲ濁リシナルベシ、)又古書ニ身刺《ムザシ》トモ書タリ、(身ヲムト云ルコト、例多シ、) ○たぢま 但□馬《タヂマ》(國)太知萬《タヂマ》 是(レ)モ但(ノ)字、タヂニハ用フベキニ非レバ、ヂニ當(タ)ル字ヲ省ケル也、古事記ニハ多遲麻《タヂマ》、舊事紀(ノ)國造本紀ニハ但遲麻《タヂマ》ト書リ、 ○みまさか 美□作《ミマサカ》(國)美萬佐加《ミマサカ》 ○あすかべ 安宿□《アスカベ》(河郡)安須加倍《アスカベ》 雄畧紀ニハ飛鳥戸《アスカベノ》郡トアリ、 ○たぢひ 丹□比《タヂヒ》(河郡)太知比《タヂヒ》 古事記ニ多遲比《タヂヒ》トアリ、 ○あはちま 安八□《アハチマ》(濃郡) 天武紀ニ安八磨《アハチマノ》郡トアル是ナリ、續紀三ニ、安八萬(ノ)王ト云人(ノ)名アルモ、此(ノ)地名ニ由レリト聞ユ、(天武紀ニハ、アハツマト假字附(ケ)ヲシタレドモ、ヨアハチマナルベシ、又今國人ハ、アンパチ郡ト云(フ)ハ、字ニ依レルイヤシキ唱(ヘ)ナリ、) ○とよめ 登□米《トヨメ》(奥郡)止与米《トヨメ》 ○ちぶり 知夫□《チブリ》(隠郡) ○あがた 英□太《アガタ》(勢郷)阿加多《アガタ》 (26コマ)○ころも 擧□母《コロモ》(三郷)古呂毛《コロモ》 ○つがは 都賀□《ツガハ》(石郷)都加波《ツガハ》 〇やまくに 養□訓《ヤマクニ》(藝郷)也万久尓《ヤマクニ》 ○しがらき 信□樂《シガラキ》(近)
    上件字ヲ省ケル例トせル中ニ、韻ヲ轉ジタル例トシテ、上ニ出せル雜《クサ/”\》ノ轉用ノ中ニ収《イ》ルベキモアラムカ、又カノ雜ノ轉用ノ中ニ収《イ》レタルニ、字ヲ省ケル例ナルモアラムカ、此(ノ)二(ツ)ノ例、今慥ニハ分(ケ)ガタキモアレド、其《ソ》ハ大カタニ分(ケ)テ擧ツ、
 
               板元   名古屋本町通七丁目   永樂屋東四郎
   (以下26コマから37コマにわたって、古事記伝、萬葉集略解、三大考、神代正語、出雲国造神壽後釋、玉勝間等々の詳しい出版案内がある。)
2004.3.10(水)午後8時8分、入力了、   米田進
 
 
 
詞八衢 本居春庭著  
 
出版地: 東京 
出版者: 随時書房 
出版年: 明17.11 
ページ数: 2冊(上50,下53丁) 
大きさ: 19cm 
装丁: 和装 
NDC分類番号: 815 
著者標目カナ: モトオリ,ハルニワ 
著者標目: 本居,春庭 
全国書誌番号: 40078685 
請求記号: YDM78374 
 
(1コマ)言葉のやちまた   上
(2コマ)本居大人著
詞のやちまた二冊
皇都     隨時書房梓
言葉のやちまた|序《ハシフミ》
哥《ウタ》よみふみかく人はいふもさらなり。すべていにしへまなびにこゝろざゝむには。まづむねと詞《コトバ》の道にぞわけいるべき。そはいにしへの書《フミ》どもの。文《フミ》にまれ。歌にまれ。ふかき心をこまやかにしらむには。天尓遠波のこゝろばへ。辭《コトバ》のはたらきなど。その世の物いひさまのねむ(3コマは2コマと同じ、4コマ)ごろなるさま。みやびかなるさまなど。ふかくこまやかにあぢはへしらでは。えあるましければなり。かれ詞の学《マナ》ひにしては。いはゆる五十連《イツラ》のこゑのたてぬきによりて。正し考ふべきなり。そも/\この五十連《イツラ》の音《コヱ》といふ物は人の口より出る音《コヱ》のかきりをつくして。たてはたてのまに/\。よこはよこのまに/\。ゆきとほりたらひてなむあれば、辞《コトバ》のすぢ/\千々にかよはせ。萬《ヨロヅ》に轉《ウツロ》はせて。考へこゝろむるに。一《ヒトツ》としてまぎるゝことなく。あやしくくすしく妙なる物なりけり。そは天尓遠波のとゝのへ。かなづかひのさだまりをはじめ。言《コトバ》ののびちゞみ。言《コトバ》きれつゞき。自他《コナタカナタ》のいひざまなど。みなこの經緯《タテヌキ》のすぢ/\にひきよせて。(5コマ)わきまへたどるに。いとかすかなる言《コト》のたよりのはぶき詞。はかなき俚諺《サトビコトバ》のかたはしまで。露ばかりもみだれまぎるゝことなくなむありける。されば此|八巷《ヤチマタ》にわきまへられたる。詞の活用《ハタラキ》の。四段《ヨキダ》にわたり。一段《ヒトキダ》にかぎり。中の二段《フタキダ》。しもの二段《フタキダ》などとて。四種《ヨクサ》にわかれたるも。もはら此段々《コノキダ/\》によりて。考へさだめられざることなし。かくてかの假字《カナ》づかひの書《フミ》。天尓遠波の書《フミ》どもは。さき/”\皆考へあらはされて。今はおぼつかなきくま/”\もなかめるを。この言葉のはたらきといふ事は。いまだ世にあげつらへる人もなく。をしへさとしたる書《フミ》も見えざりければ。こたび鈴屋大人《スゞノヤノウシ》の真子《マナゴ》。いまの本居大人《モトヲリノウシ》ときこゆる。春庭君《ハルニハノキミ》。萬《ヨロツ》に(6コマ)考へわたして。此|二巻《フタマキ》になむあらはし出給ひける。これぞこの。言葉の道のこまやかなるすぢ/\わきまへたどるべき。いみじきしるべ文にはありけるかくいふは。文化三年五月十三日。尾張《ヲハリノ》植松有信《ウヱマツノアリノブ》。
 
詞八衢上
                        本居春庭著
言葉のはたらきはいかにともいひしらずいとも/\くすしくたへなるものにしてひとつこと葉もそのつかひざまによりてことかはりはたらきにしたがひつる意をことに聞えなどしてちゞのことをいひわかちよろづのさまをかたりわかつにいさゝかまぎるゝことなくまた見るものきく物人のこゝろにおしこめたるおもひのくさ/\すべて世の中にありとしあることいく千萬のことなりともいひ盡しまねびやらむにたらはぬことなくあかぬことなきもこの活《ハタラキ》によるわざになむありけるさるは神代よりおの(7コマ)づからさだまりありて今の世にいたるまでうつりかはることなくいさゝかもたがひあやまるときはそのことわからずそのこゝろきこえがたきものにしあれば一文字《ヒトモジ》といへどもみだりにはぶきみだりにくはへなどすべておほろかにおもひなすべきわざにはあらずなむかくていにしへの人はおのづからわきまへて用ひたかふることはなかりつるを後の世となりてはやう/\にみたれゆきつゝ誤ることのみおほくなりぬるを世に見とがむる人もなくとかくあげつらふ書も見えぬまゝにいよ/\みだれあやまることのミぞおほくなりきにけるかゝれはものまなばむ人はいにしへのたゞしくうるはしきをよくかむがへふかくならひてこそものすべきわざなるをいかにともおもひたどらずたゞなほざりにのみおもひすぐして猶あやまることおほきはいかにぞやされと歌よくよみ文章よくつくれる人はおのれよくこゝろ得とはなのれどおのづからのものにしあればおのづからかなひてたがふることはをさ/\なかめるをうひまなびのともがらはいとたど/\しくまぎらはげにてあやまることいとおほければ今その人々にさとししらしめむとていにしへのそのさだまりをこれかれあげてくはしくわかちしるしつこを詞の八衢としも名づけたるよしはおなじ言の葉をその活ざまによりていづかたへもおもむきゆくもの(8コマ)にしあれば道になぞらへてかくはものしつるになむ見む人よくたどりてふみまがふることなかれ
○活はすべていとおほくさま/”\なる中に四種の活(この事下にいふべし)もともそのたぐひさま/”\ひろくいとおほくしてこれにならぶはたらき多《ホカ》にはなし次にはたゞ「し」「しき」「しく」また「し」「き」「く」とはたらく詞のみなりその餘のはたらきはこれにくらぶれはいとせばく詞もすくなしさて「し」「しき」「しく」「し」「き」「く」とはたらくはこと葉もいとおほけれどこはたゞ「加」行のみの活にてその餘の行にかくはたらくたぐひのこと葉なけれハ猶せばきを四種のはたらきハ「あ」「か」「さ」「た」「な」「は」「ま」「や」「ら」「わ」の行におしわたりてことごとくそのはたらきあるうへに行ごとに又四種三種あるひハ二種などづゝの活もありていとさま/”\ひろきにしたがひてその詞もいとおほしかゝれハ先この四種のはたらきをさとさむとてくだりくだりの圖などあらはし次々にそのよしくはしく書しるしつその餘の種々のはたらきは別にあらはすべし
〇四種の活といふは四段の活一段の活中二段の活下二段の活此四つなり活のさまは次にいふべしさてこれらの名もとよりあるにあらざれども事をわかちいはむに名目なくてはたよりあしければ今かりにつけたるなり下すべて此名をもていへり
○四段の活とは「か」「き」「く」「け」「さ」「し」「す」「せ」とやうに第一の音より四の音(9コマ)まで次々四段に「あか」む「あき」「あく」「あけ」「おさ」む「おし」「おす」「おせ」などはたらくをいふ也此活詞かぎりなくいとおほし
〇一段の活とは「い(射)」「いる」「いれ」「き(着)」「きる」「きれ」など第二の音一段のみにてはたらくをいふ「いる」「いれ」「きる」「きれ」の「る」「れ」は言をそへて活をなせるにて某行《ソノクダリ》の音にはかゝはらざるなりさて此はたらきすべて一音にて「い」「き」といふより外なけれはこの活こと葉いとすくなし
○中二段の活とは「き」「く」「くる」「くれ」「ち」「つ」「つる」「つれ」と第二の音三の音二段にて「おき」「おく」「おくる」「おくれ」「とぢ」「とづ」「とづる」「とづれ」などはたらくをいふなり「くる」「くれ」「つる」「つれ」の「る」「れ」は一段の活の所にいへるがごとしこのはたらき詞もおほからず
○下二段の活とは「く」「くる」「くれ」「け」「す」「する」「すれ」「せ」と第三の音と四の音との二段にて「うく」「うくる」「うくれ」「うけ」「見す」「見する」「見すれ」「見せ」などはたらくをいへり「くる」「くれ」「する」「すれ」の「る」「れ」はこれも上にいへるにおなしこの活のことばはまたいとしおほし
○又この四種のはたらきのおなしたぐひにていさゝか活さまの異なるありそをかりに變格と名つけてその詞ある行の圖に出せりそのよしはその所々にいふへし
 
(10コマ)○四種の活の圖 并受るてにをは
                  此處四段の活と一段の活とは切ると續くとを兼て一(ツ)なるを中二段の活下二段の活にては二(ツ)にわかれたり(入力者注、終止形と連体形のこと)
四 飽(か)ず (き) て  つゝ (く)めり かな    (け)ば
段 押(さ)で (し) けり き  (す)らん まで    (せ)ど
の 打(た)じ (ち) けむ なば (つ)べき に     (て)ども
活 逢(は)ぬ (ひ) つる ぬる (ふ)らし を     (へ)
  住(ま)む (み) し  しか (む)と  より    (め)
釣(ら)まし(り)       (る)とも       (れ)
 
一 射(い)ず    て  つゝ (いる)めり かな   (いれ)ば
段 着(き)で    けり き  (にる)らん まで   (きれ)ど
の 似(に)じ    けむ なば (ひる)べき に    (にれ)ども
活 干(ひ)ぬ    つる ぬる (きる)らし を    (ひれ)
  見(み)む    し  しか (みる)と  より   (みれ)
居(ゐ)まし         (ゐる)とも      (ゐれ)
 
中 起(き)ず    て  つゝ (く)めり(くる)かな (くれ)ば
二 落(ち)で    けり き  (つ)らん(つる)まで (つれ)ど
段 戀(ひ)じ    けむ なば (ふ)べき(ふる) に  (ふれ)ども
の 試(み)ぬ    つる ぬる (む)らし(むる) を  (むれ)
活 老(ゐ)む    し  しか (ゆ)と (ゆる) より (ゆれ)
舊(り)まし         (る)とも(るゝ)   (るれ)
  率(ゐ)           (う)  (うる)   (うれ)
 
下 得(え)ず    て  つゝ (う)めり(うる)かな (うれ)ば
二 受(け)で    けり き  (く)らん(くる)まで (くれ)ど
段 痩(せ)じ    けむ なば (す)べき(する)に  (すれ)ども
の 捨(て)ぬ    つる ぬる (つ)らし(つる)を  (つれ)
活 兼(ね)む    し  しか (ぬ)と (ぬる)より (ぬれ)
辨(へ)まし         (ふ)とも(ふる)   (ふれ)
  譽(め)           (む)  (むる)   (むれ)
  消(え)           (ゆ)  (ゆる)   (ゆれ)
  枯(れ)           (る)  (るゝ)   (るれ)
  飢(ゑ)           (う)  (うる)   (うれ)
                切るゝことば 續くことば こその結辭
                受るてにをは 受るてにをは 受るてにをは
    此處(入力者注、未然形と連用形のこと)一段の活中二段の活下二段の活は一(ツ)なるを四段の活にては二(ツ)にわかれたり
 
(11コマ)○すべ右の活詞《ハタラキコトバ》より受るてにをは猶いとおほかれどこと/”\くはいださずその大低をあげたるなり又「や」「なり」などのごとく「ゆきや」云々「ゆくや」云々など「き」よりも「く」よりもうけまた「きこゆなり」「きこゆるなり」など「ゆ」「ゆる」よりもうくるてにをはなどはまぎらはしければこれものせざるなり
〇四段の活は〔あ〕〔な〕〔や〕〔わ〕の四行にはなし第一の音「か」「さ」「た」「は」「ま」「ら」はそのまゝにてはいまだ語をなさずたたとヘは「あかむ」「あかず」「あかじ」「かさむ」「かさず」「かさじ」「うたむ」「うたず」「うたじ」などを「あか」「かさ」「うた」とのみにては語をなさゞるなりその下にうくるてにをはの「む」「ず」「じ」にて語をなすなりこれは四段のはたらきにかぎれることにて一段の活中二段の活下二段の活にはこの語をなさゞるはたらきなしさてこの第一の音よりうくるてにをはは「ず」「で」「じ」「ぬ」「む」「まし」などなり第二の音「き」「し」「ち」「ひ」「み」「り」は用言へつゞくこと葉なりうくるてにをはは「て」「つゝ」「けり」「き」「けむ」「なば」「ぬる」「つる」「し」「しか」などなり第三の音「く」「す」「つ」「ふ」「む」「る」は切るゝ詞と躰言へつゞく詞とをかねたり受るてにをはも二つをもちひて切るゝかたよりうくるてにをはは「めり」「らむ」「へき」「らし」「と」「とも」續くこと葉よりうくるてにをはは「かな」「まで」「に」「を」「より」などなり第四の音「け」「せ」「て」「へ」「め」「れ」は「こそ」の結詞なり受るてにをはは「ば」「ど」「ども」などなり
〇一段の活は〔さ〕〔た〕〔や〕〔ら〕の四行にはなし此活はたゞ第二の音の(12コマ)「い」「き」「に」「ひ」「み」「ゐ」の音のみの活にて四段の活の第一の音と二の音との二つの活をかねて用言へ続くことばなりうくるてにをはもそのふたつをかねもちふること圖のごとしまた此音に「る」もじをそへたるは四段のはたらきの第三の音とおなじく切るゝ詞と躰言へつゞくとをかねてうくるてにをはも二つを用ふること四段の活におなじ又「れ」もじをそへたるは四段の活の第四の音とおなじく「こそ」のむすひにてうくるてにをはもおなじ但し「る」もじをそへて切るゝこと葉とつゞくことばとをかねたるは後のさだまりにてふるくは萬葉集十に春野のうはぎつみて「煮良思」文古今集に花とや「見らむ」六帖六に松がえのときはに「似べき」後撰集に来て「見べき」人もあらじな土佐日記に「似べき」など第二の音「い」「き」「に」「ひ」「み」「ゐ」より切るゝ詞をうくるてにをはを用ひたりこのほか猶多し
○中二段の活は〔あ〕〔さ〕〔な〕の三行にはなし第二の音「き」「ち」「ひ」「み」「り」「ゐ」はこれも四段のはたらきの第一の音と二の音との活をかねて用言へつづくこと葉なり受るてにをはも二つをかね用ひたる事一段の活に同じ第三の音「く」「つ」「ふ」「む」「ゆ」「る」「う」は四段のはたらきの第三の音のきるゝ詞のかたにてうくるてにをはもその切るゝかたの「めり」「らむ」「べき」「らし」「と」「とも」なとを用ふるなりまたこの音に「る」もじをそへたるは四段のはたらきの第三の音の体言へつゞく言葉のかたにてうくるてにをはもそのかたを用ひて「かな」「まで」「に」「を」「より」などなりまた「れ」もじをそへたるは四段(13コマ)の活の第四の音の活とおなじく「こそ」の結びにてうくるてにをはもそれにことなることなし
○下二段の活は十行こと/”\くあり第三の音「う」「く」「す」「つ」「ぬ」「ふ」「む」「ゆ」「る」「う」は四段のはたらきの第三のの音の切るゝこと葉のはたらきのかたにて受るてにをはもそのかたをもちふるなりまたこの音に「る」もしをそへていへるは四段のはたらきの第三の音の躰言へつゞく詞のかたにてうくるてにをはもそのかたのてにをはを用ふるなりまた「れ」もしをそへたるは四段のはたらきの第四の音とおなじく「こそ」のむすびこと葉にてうくるてにをはもこれにおなじ第四の音「え」「け」「せ」「て」「ね」「へ」「め」「え」「れ」「ゑ」は四段のはたらきの第一の音と第二の音とをかねて用言へつゞく詞にてうくるてにをはもそのふたつをかねて用ふる事一段の活の「い」「き」「に」「ひ」「み」「ゐ」中二段の活の「き」「ち」「ひ」「み」「い」「り」「ゐ」とおなじ
○さてかくうくるてにをはを圖などにも出してわつらはしきまでいへるを無益のことゝおもふ人もあるべけれどすべてうくるてにをはは圖のごとく横にとほりてすこしもたかふことなくいとたゞしくまた四種の活詞をわかちしらむにこのうくるてにをはをもてさだむるが肝要なれはよくわきまへしめむがためなりそは「す」「て」「し」「ぬ」「む」「まし」のてにをはを第一の音「か」「さ」「た」「は」「ま」「ら」よりうくるは四段のはたらきことばとしるべく第二の音「い」「き」「ち」「に」「ひ」「み」「り」「ゐ」よりうくるは一段のはたらきこと葉中二段の活こと葉としるべく第四の音「え」「け」「せ」「て」「ね」「へ」(14コマ)「め」「え」「れ」「ゑ」よりうくるは下二段の活詞としるべきなりこの外もすべて右のことくうくるてにをはによりてそのはたらきさまのしらるゝなりそは受るてにをはのことをいへる所々又圖をよく見でしるべし
○続く詞は「そ」「の」「や」「何」の結びにてこれらの辞《テニヲハ》上にあるときは切(レ)て下へつゝかざるなり四段のはたらきの第三の音「く」「す」「つ」「ふ」「む」「る」は切ること葉とつゞく詞とをかねて「ゆく」「おもふ」「わたる」などいひてきれもしまた「ゆく」舟「おもふ」人「わたる」川なといひてつゞきもするなり一段のはたらきは第二の音「い」「き」「に」「ひ」「み」「ゐ」に「る」もじをそへてこれも切るゝこと葉とつゞくこと葉とをかねて「き《着》る」「み《見》る」などいひてきるゝ詞ともし又「きる」衣「みる」花などいひてつゞくこと葉ともするなり中二段の活と下二段の活は四段のはたらきの第三の音「う」「く」「す」「つ」「ぬ」「ふ」「む」「ゆ」「る」「う」ながら「すぐ」「こふ」「あく」「ながる」とのみいひては切るゝことばにてつゞかず「すぐる」月日「こふる」ころ「あくる」夜「ながるゝ」水など「る」もじをそへていはざれはつゞかざるなりすべて続くこと葉といふは躰言へつゞくをいふなりたゞし用言へつゞくははたらきも別にてそはうちまかせてはつゞく詞とはいはざるなり用言へつゞくことばはまづ四段の活一段の活中二段の活にては第二の音「い」「き」「し」「ち」「に」「ひ」「み」「い」「り」「ゐ」より「ゆきかよふ」「おもひあまり」「きなるゝ」「見すぐす」「おきあかす」「うらみわぶる」なといひ下二段のはたらきにては第四の音「え」「け」「せ」「て」「ね」「へ」「め」「え」「れ」「ゑ」より「うけとり」「きせ奉る」「ながめやる」などいふは(15コマ)みな用言へつゞけたるなり
○世にいはゆる下知の詞は四段の活にては第四の音「け」「せ」「て」「へ」「め」「れ」をそのまゝにて「さ《咲》け」「わた《渡》せ」「おも《思》へ」なといひてすなはち下知の詞となるを一段の活にては第二の音「い」「き」「に」「ひ」「み」「ゐ」に「よ」もじをそへて拾遺集にやくすみぞめの衣「きよ」君古今集に山のさくらをあはれとは「見よ」蜻蛉日記にはちすには玉「ゐよ」とこそむすびしかなどいひ中二段のはたらきも第二の音「き」「ち」「ひ」「み」「い」「り」「ゐ」に「よ」もじをそへて古今集にこの一もとは「よきよ」といはまし天つ風雲のかよひぢ吹「とぢよ」吹風をなきて「うらみよ」うつほ物語藏開にまとゐするまて「おいよ」ひめ松拾遺集にひとりねはくるしきものと「こりよ」とやなといひ下二段の活は第四の音「え」「け」「せ」「て」「ね」「へ」「め」「え」「れ」「ゑ」に「よ」もじをそへて古今集に人には「つげよ」あまのつりぶね拾遺集にこちふかばにほひ「おこせよ」云々またつくり「かさねよ」千代のなみくら古今集にわれに「をしへよ」ゆきてうらみむ万葉集にきなき「とよめ余《よ》」古今集にはひ「まつはれよ」枝はをるともなどありて此三種の活にはかく「よ」もじをそへざれは下知の詞とはならざるなりたゞしふるくは下二段のはたらき詞には「よ」文字をそへず古事記記下巻哥に加理許母能美陀禮婆美陀禮《カリゴモノミダレバ「ミタレ」》續紀宣命にかくおもひてはかること止等《「ヤメ」ト》のりたまふ萬葉集二にまつろはぬ國乎治跡《クニヲ「ヲサメ」ト》同五にたゞに率《ヰ》ゆきてあまち思良之米《「シラシメ」》同十七に阿比見之米等曾《アヒ「ミシメ」トソ》同十八におくつきはしるく之(17コマ)米多底《シメ「タテ」》人のしるべく同十九に馬しまし停息《「トメ」》佛足石哥に都止米毛呂毛呂《「ツトメ」モロモロ》すゝめもろ/\大神宮儀式帳に國つ罪云々犯(シ)過(ル)人尓云々祓(ヒ)「清(メ)」止《ト》定(メ)給(ヒ)支東遊風俗哥古本に与世波与勢与曾不流比止能尓久可良難久尓《ヨセバ「ヨセ」ヨソフルヒトノニクカラナクニ》などもあり今の世にてはことたらはぬこゝちすれどいにしへの一格なり古今集のころよりこなたはこの例をさ/\見あたらずたゞ順集にゑこひするきみがはし鷹したがれの野になはなちそはやく手に「すゑ」とあるのみなり一段の活詞中二段の活ことばには此例いにしへにもなし
○活詞《ハタラキコトバ》を躰言にいへることおほしそは四段の活一段の活中二段の活はいづれも第二の音「い」「き」「し」「ち」「に」「ひ」「み」「い」「り」「ゐ」にて四段の活は万葉集にきみが「ゆき」けながくなりぬ後撰集にほとゝぎすはね「ならはし」に枝つたひせよ拾遺集にいのちをは「あふ」にかふとかなどいひ一段のはたらきは古今集にこまなへていさ「見に」ゆかむ云々またたち「ゐ」のそらもおもほえなくになといひ中二段の括は拾遺集にことし「おひ」の松は七日になりにけり古今集にさきだゝぬ「くい」のやちたびなどいひて躰言とし下二段の活は第四の音「え」「け」「せ」「て」「ね」「へ」「め」「え」「れ」「ゑ」にて拾遺集に道「さまたげ」にたちなかくしそ古今集にいつまでわがみした「もえ」にせむ又こゝろ「がへ」するものにもがなどいひて躰言とする定まりなり猶かく躰言にいへることいと多しすべて四段の活一段の活中二段の活の第二の音は下二段の活の第四の音とはたらき(18コマ)おなじきことうくるてにをはなど圖を見てもしるべし
〇四段の活の第一の音「か」「さ」「た」「は」「ま」「ら」より「ゆかなむ」「とらなむ」「ゆかね」「とらね」などうくると第二の音「き」「し」「ち」「ひ」「み」「り」より「ゆきなむ」「とりなむ」「ゆきね」「とりね」などうけたると「なむ」「ね」はおなじことなれどもそのうくるところの音によりて意かはるなり一段のはたらきと中二段の活は第二の音「い」「き」「し」「ち」「に」「ひ」「み」「い」「り」「ゐ」より「き《着》なむ」「み《見》なむ」「きね」「みね」といひて右のふたつをかね下二段の活は第四の音「え」「け」「せ」「て」「ね」「へ」「め」「え」「れ」「ゑ」より「う《受》けなむ」「よ《寄》せなむ」「うけね」「よせね」などいひておなじくふたつをかねたりこは前後の詞にておのつからその意はわかちしらるゝなり右の「なむ」「ね」は意はことなれともおなじこと葉なれはうくるてにをはのところにはのせずさて圖にしるしたるてにをは五つにわかれたりそは四段のはたらきの第一の音よりうくると第二の音よりうくると第三の音の切るゝこと葉より受るとまたつゝく詞よりうくると第四の音よりうくるとなり此五つおの/\全くして他にまじはり混ずることなきなり
○中二段の活の第三の音に「る」もじをそへたる「くる」「つる」「ふる」「むる」「ゆる」「ゝる」「うる」を俗言には第二の音にうつして「きる」「ちる」「ひる」「みる」「いる」「りる」「ゐる」といへり「お《起》くる」を「おきる」「とづる」を「とぢる」「うらむる」を「うらみる」などいへるがごとし又下二段のはたらきの第三の音に「る」文字をそへていふ「うる」「くる」「する」「つる」「ぬる」「ふる」「むる」「ゆる」「るゝ」「うる」を俗言には(19コマ)第四の音にうつして「える」「ける」「せる」「てる」「ねる」「へる」「める」「える」「れる」「ゑる」といふかさだまりにて「う《受》くる」を「うける」「や《痩》する」を「やせる」「すつる」を「すてる」といふかことし猶下に出せる圖の所々かたはらに片假字《カタカナ》をつけてさとすを見て知へし四段の活一段の活にはかく俗言にうつるはたらきなし但し四段の活詞の第一の音「か」「さ」「た」「は」「ま」「ら」より「む」のてにをはをうくるに俗言にいへることありそは其第一の音と「む」のてにをはをあはせて第五の音「こ」「そ」「と」「ほ」「も」「ろ」といへり「ゆかむ」を「ゆこ」「かざゝむ」を「かざそ」「またむ」を「まと」「いはむ」を「いほ」などふなり
〇四段の活の第四の音「け」「せ」「て」「へ」「め」「れ」より「ら」「り」「る」「れ」と活くありそは「さけらむ」「さけり」「さける」「さけれ」「おもへらむ」「おもへり」「おもへる」「おもへれ」「かすめらむ」「かすめり」「かすめる」「かすめれ」なといへるこれなりさてこの「さける」「おもへる」「かすめる」などをやがてひとつのこと葉として〔羅〕行の四段の活に入(ル)べきさまなれど受るてにをは「るれ」よりうくるは四段の活に全くおなじけれども「ら」「り」よりうくるてにをはいさゝかことにして四段のはたらきのこと葉ともしがたしそは「さけらむ」「さけらば」などはうくれど「さけらじ」「さけらまし」などはうくまじく「さけりせば」「さけりしか」などはいふべけれど「さけりて」「さけりぬ」などはいふべからざればなり餘もこれになぞらへてしるべし一段の活中二段の活下二段の活には此活なし
(20コマ) 阿行之圖 并受るてにをはの圖
一 射《イル》 ず  て   つゝ     めり    かな     
段       で  けり  き      らん    まで     ば
の   (い) じ  けむ  なば (いる)べき    に  (いれ)ど
活       ぬ  つる  ぬる     らし    を      ども
  鋳《イル》 ん  し   しか     と     より
        まし             とも
 
下       ず  て   つゝ     めり    かな      
二       で  けり  き      らん    まで       ば
段得《ウル》(え)じ  けむ  なば (う) べき (う《エ》る)に (うれ)ど
(ノ)     ぬ  つる  ぬる     らし    を        ども
活       ん  し   しか     と     より
        まし             とも
  ○此行には四段の活中二段の活なし
  ○圖の上に「射」「鋳」「得」などの字をしるしたるはその活詞の文字なりこは圖を見てその活ざまをはやくしるべきためなり猶其活ことばは次に出せり下の圖の所々も皆しかなり
  ○此一段の活は此行の「い」か〔也〕行の「い」か定めがたけれどまづしばらくこゝに出しおきつ猶いづれのくだりとたしかにさだむべきよりどころありげなりよく考ふべし
〔一段の活詞〕
射《いる》   鋳《いる》
  ○此詞すへて一音のみなれば「い」といへる外なしいづれの行も皆しかり
〔下二段の活詞〕此「うる」を俗言には「える」といふ例なり
得《うる》   こゝろうる
  ○こは心をうるといふ意なれどおのつから一(ツ)の詞のごとくになりたればこゝに出せりこのたぐひ猶多し
(21コマ)
  加行之圖 并受るてにはの圖
四 飽《アク》   ず    て  つゝ    めり       かな    
段         で    けり き     らん       まで    ば
の      (か)じ (き)けむ なば (く)べき       に  (け)ど
活         ぬ    つる ぬる    らし       を     ども
  吹《フク》   む    し  しか    と        より
          まし            とも
 
一         ず    て  つゝ    めり       かな    
段         で    けり き     らん       まで    ば
の 着《キル》(き)じ    けむ なば(きる)べき       に (きれ)ど
活         ぬ    つる ぬる    らし       を     ども
          む    し  しか    と        より
          まし            とも
 
中         ず    て  つゝ    めり       かな    
二 起《オクル》  で    けり き     らん       まで    ば
段      (き)じ    けむ なば (く)べき(く《キ》る)に (くれ)ど
(ノ)       ぬ    つる ぬる    らし       を     ども
活         む    し  しか    と        より
  過《スグル》  まし            とも
 
變         ず    て  つゝ    めり       かな
格         で    けり き     らん       まで    ば
の 來《クル》(こ)じ (き)けむ なば (く)べき   (くる)に (くれ)ど
活         ぬ    つる ぬる    らし       を     ども
          む    し  しか    と        より
          まし            とも
 
          ず    て  つゝ    めり       かな
  受《ウクル》  で    けり き     らん       まで    ば
       (け)じ    けむ なば (く)べき   (くる)に (くれ)ど
          ぬ    つる ぬる    らし       を     ども
  授《サヅクル》 む    し  しか    と        より
          まし            とも
 
  ○變格の活は「く《來》る」といふ詞のみにて此外なし活きざま受るてにをはなど圖の如し但し「し」「しか」のてにをはをうくるは「きし」「きしか」など「き」よりのみ受る格なるをそれはいとまれにて「こし」「こしか」など「こ」よりうけたる多しさてすべての活に第五の音に活くことこれのみにて外に例なし又下知の詞には「こ」とのみいへる例なり
〔四段の活詞〕
 あく       あく     ○あがく     あざむく(22コマ)
○あざやぐ     あふぐ    ○あへぐ    ○あゆぐ
 あり《る》く  ○いく     ○いすゝく    いそぐ
○いそはく     いだく     いたゞく    いつく
○いなゝく    ○いらゝく    うく      うごく
○うし《す》はく ○うすゝく    うすらぐ    うそふく
○うたく     ○うなぐ    ○うなづく    うめく
 おく       おどろく    おぼめく    おもむく
 およぐ      かく      かく      かぐ
 かゞやく     かしく     かしづく    かたぶく
 かづく     ○かづらく   ○かひろぐ    かわく
 きく      ○きしめく    きつく    ○きらめく
○くゝ       くだく    ○くつろぐ   ○くどく
○けさやぐ     こく      こぐ     ○ころゝく
 さく       さく      さゝめく   ○さゝやく
○さへぐ      さや《わ》ぐ  さわやぐ    しく
 しく       しぞく    ○しだく    ○しづく
 しのぐ      しはぷく    しぶく     しりぞく
○すく       すく      すく      すく
 すゝぐ      すだく    ○すみやく    せく
○そく       そぐ      そゝく    ○そゝめく(23コマ)
○そゞろく    ○そほどく    そむく     そよぐ
 そよめく    ○たく      たぐ      たじろく
 たゝく      たなびく    たひらぐ   ○たをやぐ
 つく       つく      つぐ     ○つゝく
 つゞく      つなぐ     つまづく    つらぬく
○つらゝく     とく      とぐ      ときめく
○とつぐ     ○とづく     とゞろく   ○とよぐ
 とよめく    ○とろゝく    なく      なぐ
 なげく      なびく    ○なへぐ     なまめく
 ぬく       ぬぐ      ぬかづく    ぬぐ
○のく       のぞく     はく      はく
 はぐ      ○はじく    ○はたゝく    はぶく
○はるく      ひく      ひざまづく   ひしぐ
 ひしめく     ひゞく    ○ひゞらく    ひらく
 ひらめく    ○ひろめく    ふく      ふく
 ふさ《た》ぐ   ふせぐ    ○ふづく    ○ふゞく
 ほぐ      ○ほざく     ほのめく    まく
 まく       まぐ     ○まくらく   ○まじろく
 まねく      みがく     みじろく   ○みそぐ
 みちびく     みつぐ    ○みづく     むく(24コマ)
 むだく      もぐ      もどく     やく
 やはらぐ     ゆく     ○ゆらぐ    ○ゆるぐ
○よく       わく      わく     ○わかやぐ
 わなゝく    ○ゑなぐ     ゑらぐ    ○をく
○をめく      をのゝく
  ○右に挙たる詞の頭に○の印をつけたるは其詞の活の證を下に引るしるしなり下みなおなじ
  〇右に出したる詞の外|何《ナニ》「めく」といへることば猶おほかるべしみなこのはたらきなり
  ○あがく 新撰字鏡に※[足+宛]「阿加久」とあり
  ○あざやぐ 源氏物語寄生に「あざやぎ」て云々など猶あり
  ○あへぐ 万葉集三に「阿倍寸」つゝわかこぎゆけげ和名抄に喘息「安倍岐」枕草紙に老たるものゝはらたかく「あへぎ」ありく云々また「あへぎ」まどひなどいへり
  ○あゆぐ 拾遺集物名に星の「あゆぐ」と見えつるは千載集雑に「あゆぐ」草葉にとあり
  ○いく 六帖四に「いける」日の云々うつほ物語祭使に「いく」まなこのぬけ拾遺集別こ「いく」くすり同戀に「いかばや」とおもふ後拾遺集戀に「いかむ」とぞおもふ源氏物治桐壺に「いかまほしき」は命なりけり手習巻にさてなむ「いく」やうもあるべきと伊勢集に(25コマ)わか身かく「いかむ」とならば後六々撰に實方朝臣「いかばや」とおもふをりもこそあれ小侍従集に「いかば」いきしなばおくれじ夫木集に家隆卿「いく」薬とるすみよしの浦なと猶ありさて此詞此行の中二段のはたらきにて「いき」「いく」「いくる」「いくれ」とのみ活く詞と覚えしにかく四段に活かしたるかたおほくて中二段に用ひたるはいと稀なればかくおほく挙てそのよしをしらしむるなりまた右のごとく四段にも中二段にも活きておなじ意なること葉これかれあり猶そのところ/”\にいふべし
○いすゝく 古事記中巻に立はしり「伊須々岐」伎とありこのことばほかに見えざれども此はたらきなるべし
○いそはく 萬葉集一に「伊蘇波久」みれはとあり
○いなゝく 拾遺集におのれ「いなゝけ」とあり
○いらゝく 源氏物語橋姫巻にさむげに「いらゝき」たるといへり
○うすはく 祝詞に「宇須波伎」坐せとあり
○うすゝく 源氏朝顏に御門もりさむけなるけはひ「うすゝき」いできて云々とあるこれなり
○うたく 古事記下巻に其猪怒而「宇多岐」依来日本紀歌に「宇※[手偏n施の旁]枳」かしこみ云々なと見えたり
○うなぐ 万葉十六にわが「宇奈雅流」玉のなゝつを日本紀に「うながせる」と延へてもいへり(26コマ)
○うなづく 竹取物語に「うなつく」とあり
○かづらく 万葉十八によもぎ「可豆良伎」十九に「※[草冠/縵]可牟」また「可豆良久」は山した日かけ「可豆良家流」など猶おほし
○かひろく 和名抄に※[舟+少]「加比路久」注に船不レ安也とあるはこゝのはたらきこと葉なるへし
○きしめく 枕草紙に「きしめく」くるまにのりてとあり
○きらめく うつほ物語俊蔭に「きらめき」てといへり
○くく 古事記上にわがたなまたより「久岐」斯子也万葉集十七に郭公このま多知「久吉」十九に立「久久」等はふりにちらす
○くつろぐ 源氏みをつくしに「くつろく」ところもありけれと若菜上に冠のひたいすこし「くつろき」たるまた枕草紙に「くつろぎ」てなどいへり
○くどく 住吉物語にうち「くどき」夫木集にぬかのこゑ/”\「くどき」つるかななとあり
○けさやぐ 源氏松風に「けさやき」てまゐりぬとあり
○ころゝく 和名抄に※[口+斯]咽「古路々久」とあるこれなり
○さゝやく 後撰集に人みて「さゝやき」ければ云々とあり
○さへく 万葉集二に言「佐敝久」とあり
○しだく 古今集物名にわがやとの花ふみ「しだく」云々など猶多しまた丹後守爲忠家百首に仲正冬くればむれゐるたづ(27コマ)に「しだかれ」てともはたらかしたり
○しづく 萬葉十九に底きよみ「之都久」いしをも催馬楽に江《エ》の波爲爾之良太万之川久也《ハヰニシラタマ「シツク」ヤ》云々古今集に水のおもに「しつく」花の色さやかにもなどあり
○すく うつほ物語あて宮に木の實松の葉を「すき」て云々又ふみをちいさくおしつゝみてゆして「すき」いれてなどありまた源氏若紫にさるべきものつくりて「すかせ」たてまつる金葉集連哥に春の田に「すき」いれぬべきおきなかなかのみなくちに水をいればやなともいへり
○すみやく 新撰字鏡に※[立心偏+余]※[立心偏+日/ノ+十]惶遽也於地加志古彌「須彌也久」また詞花集戀に「すみやかれ」つゝともあり炭焼をかねたり
○そく 古事記下巻に雲ばなれ「曾岐」をりともとあり
○そゝめく 枕草紙にくつのおと「そゝめき」とあり
○そゞろく 夫木集に慈圓「そゞろき」わたる山のはの雲
○そほどく 源氏賢木巻にぬれ/\うち「そほどき」て竹川巻にも「そほどき」てとあり
○たく 萬葉二に「多氣」ばぬれ「多香根」ば長き九にかみ「多久」までに十に「手寸」そなへうゑしもしるく云々などあり又十四にこまは「多具」とも十九に馬「太伎」ゆけばとあるはおなしことばか別にても活はおなじことなり(28コマ)
○たをやぐ 源氏総角に「たをやぎ」ぬべきとあり
○つゝく 萬葉十六に石もちて「都追伎」やぶりとあり
○つらゝく 古事記上巻にをふね「都羅々玖」
○とつぐ 和名抄に「止豆木」乎之閉止里又祝詞に嫁継《トツキ》給弖
○とづく 重之集にそのはらやふせ屋に「とづく」かけ橋もとよめり
○とよぐ 日本紀に鳴※[口+句]騒動※[言+宣]言※[言+宣]※[言+華]などをしかよめり
○とろゝく 古事記上巻にうじたかれ「斗呂々岐」弖とあり
○なへぐ 古事記下巻に必自(ヲ)跛《アシナヘグ》也字鏡に※[足+蹇](ハ)足「奈戸久」馬又「和名抄」に蹇訓阿之奈閉此間云「那閉久」また蜻蛉日記三にも「なへぐ」/\云々などあり
○のく 堀川二郎百首にへだつるきりはたちも「のく」やととよめり猶文にはおほし
○はじく 万葉十四に「波自伎」おきてとあり
○はたゝく 竹取物語にみな月のてり「はたゝく」にも
○はるく 蜻蛉日記三にもの思ひ「はるける」やうにぞおぼゆるとあるのみにて「はるかむ」「はるき」などはたらきたること見えざれどもすべて第四の音より「る」のてにをはをうくるは四段の活詞の例なり下二段の活の「はるくる」を「はるける」といふは俗言の例なりおもひまがふべからず
○ひゞらく 源氏箒木に「ひゞらき」ゐたりとあり又紫式部(29コマ)日記におこなひがちにくち「ひゞらかし」云々ともいへり
○ひろめく 枕草紙に「ひろめき」てとあり
○ふづく 日本紀に恚恨《「フツク」》哭恚《ナキ「フツク」》忿《「フツク」》などよめり
○ふゞく 蜻蛉日記に雨風いみじく「ふゞく」とありまた夫木集に「ふゞかれ」てともはたらかLいへり
○ほざく 日本記神代巻に神祝祝《カム「ホサキ」「ホサキ」》之とよめり
○まくらく 古事記中巻に枕《「マクラキ」テ》2其后之御膝1万葉集五に人のひざのへわが摩久良可武《マクラカム》などあり
○まじろく 字鏡に※[目+宣]ハ目數動※[貌の旁]「方志呂久」とあり
○みそぐ 万葉三に潔身而麻之乎《「ミソギ」テマシヲ》濱松中納言物かたり哥にこひしさを「みそげど」神のうけねばや云々などあり猶あり
○みづく 万葉十八にうみゆかば「美都久」かばねとあり又さか「彌豆伎」いますとあるも同言なるべし
○ゆらぐ 万葉二十に「由良久」玉のをとあり
○ゆるぐ 佐吉物語に「ゆるぎ」侍るまた枕草紙に「ゆるぎ」ありきたるも云々などいへり
○よく 後撰集秋に宿を「よかなん」貫之集に「よく」處なき秋の夜の月又「よかず」ぞあらまし興風集に秋を「よかなん」元眞集にものおもふ宿の萩の葉は「よけ」蜻蛉日記にこひしき道は「よかなく」に狭衣三に「よく」かたのなかりけるも又四に(30コマ)ひき「よかぬ」わざもカな堀川百首にけふひき「よかず」かけてけるかな丹後守為忠家百首に仲正ちりしける花をゝしむと「よく」ほどになどありさてこの詞此行の中二段にもはたらきて意全くおなじけれはかく例を多く引出せるなり
○わかやぐ 枕草紙に「わかやぎ」とあり
○ゑなぐ 字鏡に※[口+屎]ハ出2氣息1心呻吟也「惠奈久」
○をく 万葉十七に「呼久」よしのそこになけれは拾遺集物名にはしたかの「をき」ゑにせむと云々などあり
○をめく 枕草紙に「をめけ」ばとあり
○万葉三に見毛|左可受伎濃《「サカズ」キヌ》十四つら波可馬可毛《「ハカメ」カモ》などあるは全くこゝのはたらきこと葉のさまなれどともに此外に活きたる例もなく又かくはらくべき詞のさまとも見えざればこの活詞のつらには出さすさてこの詞は此行下二段のはたらきなれは見も「さけず」きぬつら「はけめ」かもといふべき例なりすべて「ず」「め」のてにをはを第一の音よりうくるは四段の活第四の音より受るは下二段の活なる事上にもいへるがごとし
 
〔一段の活詞〕
 着《きる》(31コマ)
〔中二段の活詞〕この「くる」を俗言には「きる」といふ例なり
○いくる   お《起》くる   すぐる   つく《尽》る
○なぐる   よくる
   ○いくる 蜻蛉日記一にしなむとおもへど「いくる」人そいとつらきやとあるのみにてこの活なるは見あたらずさてこの詞この行四段にも活きておなし意なることそこにいへり
○なぐる 万葉四にしはしはこひは奈木六《「ナギム」》かと又十七にしげきこひかも「奈具流」日もなく又十九にこゝろ「奈凝牟」となどありすべて第二の音より「む」のてにをはをうくるは中二段の活ことばの例也さて此詞も四殴にはたらきて意はおなじこと也
○よくる 万葉九にはるさめの「與久列」とわれをまた十五にたつ月ことに「與久流」日もあらじ古今集春にこの一もとは「よきよ」といはまし好忠集に草葉を「よきず」うつぼものかたり菊宴に山つとを見すへき人はなけれともわかをる枝に風も「よきなむ」かくねがふ意のなむを第二の音よりうくるはこゝのはたらきの格なり源氏竹川に尤「よきす」まゐり給ふ又「よきぬ」などの給はするは今撰和歌集うらみてもこひしきかたやまさるらむつらきは「よくる」ものにぞありけるなとあり此詞も四段にはたらけりそこにいへるがことし(32コマ)
〔下二段の活詞〕此「くる」を俗言には「ける」といふ例なり
 あくる   あぐる   あづくる   ○あらくる
○いはくる  うくる  ○うらぐる    おもむくる
 かくる   かゝぐる ○かじくる    かづくる
○かまくる  くだくる  さくる    ○さぐる
 さゝぐる  さづくる  さまたぐる   しりぞくる
○しらくる ○しらぐる ○すぐる    ○すゝくる
 そむくる  たくる   たすくる    たはくる
 たひらぐる たむくる  つくる     つぐる
 つゞくる  とくる   とぐる     なぐる
 なづくる  にぐる   ぬくる     ねじくる
○のくる  ○はぐる  ○はるくる   ○ひしくる
○ひたゝくる ひらくる  ひろぐる    ふくる
○ほくる  ○ほろくゝる まくる     まぐる
○むくる  ○やくる   やはらぐる   わくる
 わらくる ○わゝくる
  ○あらくる 古事記中巻に逃散《ニゲ「アラケ」ヌ》日本紀神代巻に散去《「アラケ」ヌ》又廿六に散卒《「アラケ」タルイクサ》などあり
  ○いはくる 源氏繪合に「いはけ」たる御ふるまひ栄花物かたりかゝやく藤壺に「いはけ」たることなくなどあり(33コマ)
  ○うらぐる 古事記中巻におほみきに「宇羅宜《ウラゲ》」て又下巻にもあり又「うらがし」といふ詞もあり
  ○かじくる 古事記下巻に姿體痩萎《カホカタチヤサカミ「カジケ」テアレバ》云々源氏物語東屋に「かじけ」たる云々堀河次郎百首によしさらばおふるひつじの「かじけ」つゝ云々などよめり
  ○かまくる 日本紀皇極巻に感を「かまけ」とよめり続日本紀宜命に感天又万葉十六にこらのゝこらや「蚊間毛」而をらむなどのみありて「かまくる」とはみえされどもこゝの活ことばなり
  ○さぐる 拾遺神樂哥に「さげ」はきて催馬楽にみや人の「さぐる」ふくろを云々などあり
  ○しらくる うつほ物語國譲の巻にかしらのおほく「しらくる」は忠見集にいたゞくかみの「しらくる」までに
  〇しらぐる うつほ物語吹上の巻上によね「しらげ」たり云々金葉集九によね「しらげ」侍るなりとなどあり
  ○すぐる 古今集物名に波のを「すげ」て風ぞひきける六帖五の下に「すげ」てひくらむ枕草紙にくつなどの緒「すげ」させ
  ○すゝくる 源氏野分に「すゝけ」たるしべなどもうちまじるかし散木寄歌集に雪きえぬふじのたかねはよとゝもにたつけふりにも「すすけ」ざりけり 丹後守為忠家百首に雪きえぬみやまかたその「すゝくる」はやくすみがまのけふりなりけり(34コマ)
  ○のくる 住吉物語に遠く「のけ」てとあり
  ○はぐる 萬葉集二につらをとり「波氣」またつら「作留《ハグル》」わざを云々などあり
  ○はるくる うつほ物語俊蔭下にきこえ「はるけむ」とあり猶源氏ものかたりなどに多し
  ○ひしくる 源氏あげまきにむねも「ひしけ」ておぼゆ狭衣二にむねも「ひしけ」けるとあり
  ○ひたゝくる 源氏須磨に「ひたゝけ」たらむすまひは又若菜にあまり「ひたゝけ」てたのもしげなきは栄花ものがたり初花に内の御使え「ひたゝけ」てまゐらず云々などあり
  ○ほくる 源氏明石にいとゞ「ほけ」られて云々など猶あり
  ○ほろゝくる 源氏蛍にみちをかくし「ほろゝげ」てといへり
  ○むくる 万葉五にからくにを「武氣」たいらげなどなほあり
  ○やくる 万葉一におもひぞ「所焼《ヤクル》」とよめり
  ○わらくる うつほ物語吹上につきの布の「わらけ」たる
  ○わゝくる 万葉五に「和和気」さがれるとよめり
  ○古事記中巻歌にたち「波氣」ましを万葉十四にあをねし「奈久流」猶下にもかくありこれらは「はかせ」「なかしむる」の約《ツヾマ》りたるにてこゝの活ことばにはあらず又「まけ」給ふなとあるも「まからせ」源氏手習に「いけ」はてゝ見まほしう云々とあるも「いかせ」の(35コマ)つゞまりたるにてみなこゝのはたらきにはあらずさてかく約たるがやがてひとつの活こと葉となれるもことばのつねにていと多かれどこは「はく」「はくる」「はくれ」「なく」「なくれ」なけ」「まく」「まくる」「まくれ」「いく」「いくる」「いくれ」などは活くべくもおもはれず又しかいひて「はかする」こと「なかしむる」こと「まかする」こと「いかする」こととはきこえがたくいさゝかことなればこゝのはたらき詞にはあげざるなり他行《ホカノクダリ》にもこのたぐひこれかれあり其ところどころにいふべし
 左行之圖 并受るてにをはの圖
四         ず             めり     かな    
段 押《オス》   で    て  つゝ    らむ     まで     ば
の      (さ)じ (し)けり き  (す)べき     に   (せ)ど
活 指《サス》   ぬ    けむ なば    らし     を      ども
          む    つる ぬる    と      より
          まし   し  しか    とも
 
變         ず             めり     かな    
格         で    て  つゝ    らむ     まで     ば
の 為《スル》(せ) じ (し)けり き  (す)べき (する)に  (すれ)ど
活         ぬ    けむ なば    らし     を      ども
          む    つる ぬる    と      より
          まし   し  しか    とも
 
下         ず             めり     かな
二 合《アハスル》 で    て  つゝ    らむ  せ  まで     ば
段      (せ)じ    けり き  (す)べき (する)に  (すれ)ど
(ノ)       ぬ    けむ なば    らし     を      ども
活 痩《ヤスル》  む    つる ぬる    と      より
          まし   し  しか    とも
○此行には一段の活中二段の活なし但し古事記上巻に「根許士尓許士」而また万葉八に伊「許自」而うゑしなどあるはすべ(36コマ)て第二の書より「て」と受るは圖のごとく四段の活中二段の活なるを四段のはたらきならば「こさず」「こざむ」「こぜ」なといふ例なるをさはいふべくもあらず「こじず」「こじむ」「こずれ」なとはいはるへければまさしく中二段のはたらきこと葉とおもはるれど外に「こずる」「こずれ」など活きたること見えず又この行に外に中二段の活詞一(ツ)もなけれはしばらくのぞきおく也
○變格この活こと葉は下に出せり活ざま受るてにをはなど圖のことし但し「し」「しか」などのてにをはを受るは「し」より受る格なるをさはいはず「せし」「せしか」など「せ」よりのみうくるも外とは異なりすべて圖に出せるてにをはは上にもいへるごとく五つにわかれて相まじはることさらになきを右のごとく「し」「しか」のてにをはのみ他にうつれり〔加〕行の變格にもこのてにをはをこゝのごとく用ひたるなどすべて〔加〕行の變格とここの變絡とよく似たりこゝなるは第四の音にはたらきたるを〔加〕行なるは第五の音に活きたるのみ異にて其外は全くおなしさて下知には「せ」に「よ」もしをそへて「せよ」といふ例なり
〔四段の活詞〕
 あかす       ○あく《こ》がらす     あそばす ○あはたす
○あふす       ○あます         ○あむす  ○あやす(37コマ)
○あゆがす      あらはす   いかす   ○いそがす
 いたす       いだす    います    うごかす
 うつす       うつろはす ○うながす  ○うらがす
 うるほす      おす     おかす   ○おくらす
 おくらかす     おこす    おとす   ○おどす
 おどろかす    ○おびやす  ○おびやかす ○おほす
 おぼす       おぼらす   おもほす   おもほしめす
○およぼす      おろす    かす     かくす
 かざす      ○かたす    かはす    かへす
○かよはす      からす   ○かわかす  ○きこす
 きこしめ《を》す 〇きざす   〇きやす   ○きらす
 くたす       くだす    くづす    くつかへす
 くやす      ○くゆらかす  くらす   ○くるへかす
○くるほす     ○くろます   けす     けがす
 こす        こがす    こゝろざす ○こなす
 こぼす      ○こほめかす 〇こやす   ○こらす
 ころす       さす    ○さがす   ○さすらはす
 さとす       さます    さらす   ○しゝこらかす
 しめす       しるす    しろしめす ○すかす
 すぐす      ○すべす    すます    すます(38コマ)
○そす        そゝのかす  たゞす   ○たゞす
 たてまだす     たふす    ためす   ○たらはす
 ちらす       つかはす   つくす    つひやす
○つぶす       てらす   ○てらす   ○てらはす
 ときめかす     とざす    とゞろか《こ》す とほす
 ともす       とよもす   なす     なす
 なす        ながす    なごす    なびかす
 なほす      ○なやす    ならす    ならす
○ならはす      にがす   ○にほはす   ぬらす
 ねざす       ねやす    のこす    はげます
 はたす       はげす   ○はふらす  ○はふらかす
 はやす      ○はやす    はらす   ○はらゝかす
○はるす      ○はるかす   ひたす   ○ひたす
 ひゞかす     〇ひゞらかす ○ひやす    ふす
 ふるす      ○ふらす    ほす    ○ほころばす
 ほどこす      ほのめかす  ほゝかす   ほろぼす
 ます        まぎらはす  まします   まだす
 まと《つ》はす   まどはす  ○まどはかす  まはす
○まろか《ば》す   まを《う》す みそなはす  みだす
 むす        めす     めぐらす   もてなす(39コマ)
 もどす       もとほす  ○もどろかす 〇もやす
 もよほす      もらす    やつす    やどす
○やはす       ゆらかす   ゆるす   ○ゆるがす
○よこす       よさす   ○わかす    わたす
 ゑはす       をす    ○をやす
   ○あくがらす 蜻蛉日記にかくのみ「あくがらし」はつるは源氏若菜に身をさしもあるまじきさまに「あこがらし」給ふと 散木寄歌集にこゝろをそらに「あくがらし」つる千載集春に「あくがらし」けれなどあり
   ○あはたす 鎮火祭祝詞に「あはたし」給ひつと申給ふとあるのみ也
   ○あふす 源氏玉蔓におとじ「あふさず」云々とあり又萬葉によもの人をも「あふさはず」とよめるも「あふさす」の延はりたること葉なり
   ○あます 古事記下巻哥につくやたまがきつき「阿麻斯」云々
   ○あむす 万葉十六にきつに「安牟佐武」とあり
   ○あやす うつほ物語俊蔭巻に血をさし「あやし」てまた梅花笠巻につまもとより血をさし「あやし」てなどいへり
   ○あゆがす 拾遺集物名におし「あゆがすな」鼠とるへく又赤染衝門家集に女院の姫君ときこえさせしころいしなとりのいしめすをまゐらすとてすへらきのしりへの庭の(40コマ)いしぞこはひろふこゝろあり「あゆがさで」とれなどあり
   ○いそがす 源氏桐壺に「いそがせ」ばまた浮舟にたゝ「いそがし」に「いそがし」いづればなどありさて右のごとく「せば」と第四の音より「ば」のてにをはをうけたるは四段の活はすでに然るうへをいふ詞下二段の活はいまだ然らざるをかねていふことばなり何れの行もみなしかりこゝも已《スデ》にいそがしたるうへにていへるなればこゝのはたらきなることしらるこれらもいさゝかまぎらはしけれはついでにいへるなり
   ○うながす うつほ物語たづの村鳥の巻に御くるましづかに「うながし」とゞめて云々惠慶ほうし集に駒「うながさぬ」
   ○うらがす 出雲風土記に乗レ船而|率2巡《ヰテメグリ》八十嶋(ヲ)1「宇良加志」給(ヘ)鞆《トモ》云々
   ○おくらす 古今集別に人を心に「おくらさむ」やはとよめり此活也
   ○おどす 枕草紙にうちねふりて「おどす」とてとありすへて「と」のてにをははきるゝ詞より受る例なれば下二段の活ことばともいふべけれど四段の活の第三の音は切るゝとつゞくとをかねたること上にもいひ圖をみてもしるべきなりさてかく「おどすと」は下二段の活ことばにもいひこゝの活にもいへるをこゝの活詞とさためて挙たるは凡てこの行の下二段の活こと葉は他に然さするをいひ四段の活は物をしかするをいひて「おどす」も物をしかするかたなれはなり(41コマ)
   ○おびやす 字鏡に※[立心偏+脅]又※[立心偏+却]「於比也須」とあるこれのみにて外になしもしは加の字の脱《オチ》たるにはあらざるか
   ○おびやかす 源氏東屋に「おびやかし」たればとあり
   ○おほす 万葉十八にまき「於保之」同二十になでつゝ「於保佐牟」またきみが「於保世流」六帖二又六になでゝ「おほし」ゝうつほ物がたりたづの村鳥巻になで「おほす」松のはやしに云々なと猶多しさてかく「おほせる」など凡て第四の音より「る」「り」「れ」のてにをはをうくるは四段の活詞にかぎれり餘の三種のはたらきことはにはこの例なし
   ○およぼす うつほ物語俊蔭巻に「およぼさむ」とあり
   ○かたす 日本紀神代巻に鍛作《「カタシ」テ》新鈎1云々三代實録十八に改2鐃益神寶1為2貞観永宝1常乃鋳銭司路遠妨多爾依天「加2太之」於山城国葛野郡1天令2鋳作1云々と見えたり
   ○かよはす 後撰集にせうそこ「かよはし」侍りけるに云々又ふみだにも「かよはす」かたなく云々またふちながら人「かよはさじ」云々金葉集別にふみ「かよはさむ」住よし物がたりに「かよはす」ほどになど猶いとおほしかく「かよはすかた」なく「かよはすほど」になど第三の音より下へつゞけいへるは四段の活詞の例也又「じ」「む」のてにをはを第一の音よりうくるは四段の活こと葉なること圖を見てもしるべきなりさて右のごとく(42コマ)くだ/\しきまでいへるはこの詞此行の下二段の活に「かよはす」「かよはする」「かよはすれ」「かよはせ」などもいふべくおもはるれどしかいへること一つもなし然るを今の人ともすればあやまること多ければぞかしすべて此行にかくまぎらはしきことばこれかれ猶多しよくわきまへおくへきこと也
   ○かわかす 蜻蛉日記にわが軸はひくとぬらしつあやめくさ人のたもとにかけて「かわかせ」とよめり此こと葉も下二段の活のやうなれど凡て第四の音をそのまゝにて下知の詞としたるは四段の活こと葉の例なり下二段の活ならば「かわかせよ」と「よ」もしをそへていふ格なること上にいへるがことし
   ○きこす 古事記下巻哥に大君しよしと「伎許佐婆」日本紀におほろかに「枳許瑳怒」万葉十一にいさとを「寸許勢」十二にそらごともあはむと令聞《「キコセ」》二十にかくし「伎詐散婆」など猶あり
   ○きざす 好忠集に雪まに「きざす」若草のとあり
   ○きやす 枕草紙にしら山のくはむおむこれ「きやさせ」給ふなどありこゝのはたらきざまなり
   ○きらす 源氏行幸巻になどてみゆきに目を「きらし」けむとあり
   ○くゆらかす 源氏初音にじゞうを「くゆらかし」てとあり
   ○くるべかす うつほ物語俊蔭巻にまなこを車のわのごと(43コマ)く見「くるべかし」て云々とあり
   ○くるほす 古事記中巻哥に本岐「玖流本斯」とありコノハタラキなるべし
   ○くろます 神賀詞にいづべ「黒益之」云々栄花物語玉のかざりにみな「くろまし」たりとあり
   ○こなす うつほ物語俊蔭巻に木をきり「こなす」といへるこのはたらきなり
   ○こほめかす 枕草紙にふみ「こほめかし」てといへり
   ○こやす 日本紀に「許夜勢屡」万葉集五にうちなき「許夜斯」猶万葉にこれかれありさて第四の音より「る」のてにをはをうくるは四段のはたらきの格なり
   ○こらす 出雲國造神賀詞に下つ石ねにふみ凝《「コラ」》しとあり
   ○さがす うつほ物語たゞこその巻にぬす人云々「さがし」とりて云々また祭の使の巻にいひさけ「さがし」はむ源氏やとり木の巻に「さがし」出つゝ栄花うら/\の別に「さがさせ」給ふ枕草紙に「さがし」出たる紫式部日記にふるき反古ひき「さがし」云々などみえたり
   ○さすらはす 狭衣四に「さすらはし」給ひけむといへり
   ○しゝこらかす 源氏若紫に「しゝこらかし」とあり
   ○すかす 丹後守爲忠家百首仲正つらきかなあばらま(44コマ)がきのかくれなく我を「すかし」てあはぬ心はとよめりなほ源氏箒木にたれかは「すかされ」より侍らむなどもあり
   ○すへす 渡氏蓬生につき/”\しうの給ひ「すべし」てといへり
   ○そす 源氏明石巻に酒しひ「そし」なと猶あり
   ○たゞす 源氏若菜にめをさへのごひ「たゞし」て
   ○たらはす 大藏(ノ)詞に置足【波事《オキ「タラハシ」》弖】万葉集十三にあめつちにおもひ足椅《「タラハシ」》などみえたり
   ○つぶす 竹取物語にまなこをつかみ「つぶさむ」とありまた赤染葡門家集にむしのちを「つぶし」て身にはつけずともおもひそめつる色なたがへそかへしむしならぬこゝろをたにも「つぷさて」はなにゝつけてかおもひそむべき
   ○てらす 萬葉十八に「天良佐比」とあるは「てらし」を延たる也
   ○てらはす 字鏡に衒「天良波須」とありまた日本紀哥にひと「てらふ」云々と〔波〕行の四段にもはたらかしいへり
   ○なす 古事記上巻歌にいは「那佐牟」をまたいをし「那世」万葉二に枕とまきて「奈世流」君かも五にやすいし「奈佐農」又十四にいりきて「奈佐禰」十七にわをまつと「奈須」らむ妹を
   ○なやす 蜻蛉日記に「きなやし」たるものゝ色もあらぬとあり
   ○ならはす おちくぼに「ならはす」人あらば又これに「ならはせ」と云々とあり猶哥にも文にもおほしさてこのことばを(45コマ)こゝにあげたるは此行の下二段にも活きてまぎらはしきゆゑなり猶其こと下二段のところにくはしくいふぺし
   ○にほはす 万葉一に「仁寶播散麻思」乎など猶おほしこれも「ならはす」におなじ下にいふべし
   ○はふらす 古今集に身はすてつ心をだにも「はふらさじ」云々
   ○はふらかす 源氏若紫に「はふらかし」つるとあり
   ○はやす 催馬樂に藤生野かたちがはらをしめ「はやし」とあり林もこの意なり
   ○はらゝかす 古事記上巻に蹶散《クヱ「ハラヽカシ」》とあるこれなり
   ○はるす 出雲國造神賀詞に意志《オシ》「波留志」天云々
   ○はるかす 祈年祭祝詞に見霽志坐《ミ「ハルカシ」マス》いせ物がたりにおもひつめたることすこし「はるかさむ」と千載集哀傷にむねにみつおもひをだにも「はるかさで」などあり
   ○ひたす 古事記上巻に冶養を「ひたし」まつるとよめり
   ○ひゞらかす 紫式部日記におこなひがちにくち「ひゞらかし」云々又源氏物語に「ひゞらき」ともはたらかしいへり
   ○ひやす うつほ物語祭の使の巻に御馬どもいけにひきたてゝ「ひやし」云々蜻蛉日記に馬とも浦に引おろして「ひやし」なと云々夫木集安法ほうしの哥にこまひきたてゝ「ひやし」けるなどあり(46コマ)
   〇ふらす 金葉戀につゝめども涙のあめのしるければこひする名をも「ふらし」つるかなとあり
   ○ほころばす 源氏若菜にひき「ほころばし」たるに
   ○ほゝかす おちくぼ物語に「ほゝかし」給ふにやとあり
   ○まどはかす うつぼ物語藤原君巻にとしごろ「まどはかし」つるも云々
   ○まろばす 狭衣二に雪「まろばし」するとあり
   ○もどろかす 枕草紙に色々のきぬすり「もとろかし」たる云々と見えたり
   ○もやす 後撰集にいとゞなげきのめを「もやす」らむ好忠集に吹つつ「もやせ」冬のやま風
   ○やはす 万葉集二にちはやぶる人を和爲跡《「ヤハセ」ト》また二十に「夜波之」などよめり
   ○ゆるがす 蜻蛉日記にひき「ゆるがす」めれば云々枕草紙に「ゆるがせ」ば云々またひき「ゆるがし」たる云々また風のふき「ゆるがす」もなどいへりなほこれかれあり
   ○よこす 古事記下巻に讒《「ヨコシ」マツリケラク》2大日下王1曰云々字鏡に讒「与己須」萬葉集十二巻に人言之|讒《「ヨコス」》乎をきゝて催馬樂葦垣おやにまう「よこし」まうしなどあり
   ○わかす 万葉集十六にさすなべに湯「和可世」子ども云々(47コマ)蜻蛉日記にゆ「わかし」などするに丹後守爲忠家百首に盛忠おもふことありまのさとに出るゆのたえずなみだを「わかす」ころかななど見えたり
   ○をやす 日本紀欽明巻に毒害《「ヲヤシ」ソコナヒ》又仁徳巻に被蛇毒而《ヲロチニ「ヲヤサ」レテ》とも有
   ○古く「きく」を「きかす」「なげかす」を「なげかし」「まつ」を「またす」「たち」を「たゝし」「あひ」を「あはし」「かよへ」を「かよはせ」「つむ」を「つます」「ふむ」を「ふます」「わたり」を「わたらし」「のれ」を「のらせ」などこの四段のはたらきに延べていへること葉いとおほかれど今は出さずなほこのこと葉のこと別にくはしくいふべしさてこの四段のはたらきにのはゝりたるのみ貴ふかたにいへる多し他《ホカ》の行に延はりたるにはかくたふとむかたにいへる例なし右のことくふるくは四段のはたらきにかぎりたるを万葉二の御言不御問を「みこととはせず」又おなじ巻に立爲者を「たゝすれば」など「せ」より「ず」とうくるも又「すれば」といふも下二段のはたらきにて例にたがへり「みこととはさず」「たゝせば」また「たゝせれば」などよむべきところなり後世には物語書などにかく貴みていへるにはこの行の下二段の活にうつしていへりそはそのところにいふべし
   ○他行《ホカノクダリ》にはまぎるゝ方なきを此行にては四段のはたらき詞と下二段の活こと葉とたがひにまぎらはしげなるこれかれ(48コマ)ある中に万葉十一にこひぞ「晩師之」雨のふる日を拾遺集にいかで「すぐしゝ」むかしなるらむ六帖二また六になでゝ「おほしゝ」順集に雨にぬれじと君や「かくしゝ」兼盛集によろづよの山に「根ざしし」はじめより重之集にたれゆゑにかはわれは「わたしゝ」清正集にいそのかみむかし「かざしゝ」仲文集に今はとて「かへしゝ」よりもふぢころも竹取ものがたりに「つかはしゝ」人は云々またかたときのほどゝて「くだしゝ」を云々また「つかはしゝ」人は云々またかたときのほどとて「くだしゝ」を云々また「つかはしゝ」人やう/\かへりてうつほ物がたりさがの院の巻になやみ給ふことあらむと「まうしし」かば同くたづのむら鳥の巻に御こと「あそばしゝ」に同巻にてまさぐりに「かきならしゝ」をはつ秋の巻に心に「おぼしゝ」ことなれば云々蜻蛉日記にたはふれにもまめやかにも「ほのめかしゝ」に云々源氏物語須磨巻に春宮の御ことをゆゝしうのみ「おぼしゝ」に云々同藤末葉巻にいかゞ「もらしゝ」関のあらがき同まぼろしの巻にとざまかうざまにおもひ「めぐらしゝ」に云々同若菜巻にことぞぎつゝこそ「まぎらはしゝ」か云々同玉かづらの巻にたづねもきこえで「すぐしゝ」ほどに云々同橋姫巻にかのふるびとの「ほのめかしゝ」すぢなど云々同椎本巻に「つかはしゝ」を枕草紙に「まぎらはしゝ」かば栄花物がたり衣の珠の巻にあかし「くらしゝ」ほどに云々(49コマ)狭衣一の巻に二の宮のことを「ほのめかしゝ」は同四の巻哥にひきつれてけふは「かざしゝ」あふひさへなど猶いと多しこれらの「しし」を今は「せし」ともいふべくおもはるれどしからずそのゆゑはすべて圖にしるせるごとくいつれの行にても四殴のはたらき詞は第二の音「き」「し」「ち」「ひ」「み」「り」より過去の「し」をうくるさだまりなりさればこゝに引たること葉みなこの行の四段のはたらき詞なれば第二の音「し」よりうけて「しし」といふべき例なり第四の音「え」「け」「せ」「て」「ね」「へ」「め」「え」「れ」「ゑ」よりうくるは下二段のはたらき詞の例なれば「せし」といひてはこの行の下二段のはたらきざまになりて四段の活こと葉の例に違へりさてかくこの格にはづれて用ひ誤ることいにしへはさらにあることなし然るを千載集のうたのはし書に「申せし」とありこれもうつし誤りたるものと見えたり凡て「まをしし」は「申し」とのみおほくかきて「申しし」とはかゝざればその「申し」とありしをふと書誤れるなるべしまた竹取物語にわび哥などかきて「つかはすれとも」云々とあり「つかはす」はこの四段の活詞なれは「つかはせども」といふ定まりなり「つかはすれどもと」いひては下二段の活なること圖を見てもしるべしかく下二段にはたらかしたること新古今のころまて例なければこれもうつし誤りなどなるへし然るを今世の人此|差別《ケヂメ》を弁(50コマ)へしらざればみなあやまれりされは凡ての例圖のさまなどよく見てこゝろ得おくべきことなりかし
 
〔變格の活詞〕
 えむずる   ○おはする   ○かれする    ぐする
 けいする    ごらむずる   さびする   ○しにする
 する      せいする    そうする   ○たえする
○つきする    ねむずる   ○はえする    ひする
○ふりする    ほりする    まひする    めいずる
 ものする    ろむずる
   ○右に挙たる外なほ多かるべしさてこのことはのさま一やうならずさま/”\なる中に「する」「おはする」この二つのみ正しくここの活詞にて其外は爲《「スル」》といふことばをそへていへるがやがて一つの詞のごとくになれるなり
   ○おはする 竹取物語に竹の中に「おはする」にて云々また「おはし」ける落窪物語に「おはせまし」かば又「おはせで」住吉物語に云々やは「おはする」又盛に「おほせじ」源氏浮舟巻にかしこには「おはせむ」とありつれど栄花物語月宴に「おはすれ」ど又「おはせじ」など猶多しまた源氏乙女巻湖月抄に大宮の御世の残りすくなげなるを「おはさず」なりなむ後も云々とある(51コマ)は誤りなり一本に「おはせず」とあるぞ凡ての例にもかなひてよき
   ○かれする 万葉集十六に枯爲禮《「カレスレ」》とあり
   ○しにする 後撰集物名に「しにせぬ」拾遺集戀にあはぬ「しにせむ」又「しにせぬ」身落くほに「しにせぬ」なと見えたり
   ○たえする 万葉十四にたまもこそひけば「多延須禮」とありまた清正集にねやは「たえする」ほとゝぎすなどよめり
   ○つきする 源氏須磨巻に「つきす」べくも同椿姫に「つきす」まじく栄花物語鳥辺野巻に「つきす」まじう濱松中納言物語に「つきす」べくもあらずなどいへりすべて「まじ」といふ辞《テニヲハ》は切るゝこと葉よりうくる例なり
   ○はえする 萬葉十四に柳こそきれば「伴要須禮」とあり
   ○ふりする 拾遺集戀にこひしきことの「ふりせざる」らむ
 
〔下二段の活詞〕【此「する」を俗には「せる」といふ例也【但しこゝの詞には然いはざるもまじれり】】
 あする    ○あはする  ○いまする   うする
○おこする    おほする   きする    きかする
 きこえさする ○くはする   興ぜさする  ごらむぜさする
○しうする    すまする  ○せさする  ○とらする
○ならはする   にする   ○にほはする  のする
 のたまはする  はする   ○はしらする  ふする(52コマ)
○まずる    ○まかする  ○まゐらする ○みする
○むする     やする    よする
   ○右に挙たる外「いはする」「おもはする」「とはする」「またする」「もたする」「よまする」「をらする」など他に然さする詞猶いと多しこと/\くは出さずさてこれを今俗には此行の四段の活にいへどみなこゝの活なりオモひまがふベからずまた右の他に然さする詞をたふとむかたにもいへりそはすべて貴人は何事も人におほせて物し給ふなれはおのづからたふとむかたにうつれるなるべしさてそれをもとにてみつからものしたまふをもやがてかくいへるもおほしまた「のたまふ」「きこゆる」を今ひときは尊みて「のたまはする」「きこえさする」といひ又「興じたまふ」を「興ぜさせ給ふ」といひまた「御覧に入奉る」をも「御覧する」をもともに「御覧ぜさする」といふたぐひおほしみなこゝの活にて尊みていへることばなり古くはこの行四段の活に延はりたる詞に尊みていへるよしありそのよしはその所にいへり
   ○凡て他に然さするはこゝの活き物を然するは此行の四段の活なり後拾遺春に梅の香をさくらの花に「にほはせ」て柳が枝にさかせてしかな源氏紅葉賀に手本かきて「ならはせ」などしつゝ云々などいへる後拾遺なるは櫻の花に梅のにほひをあらしむるをいひ源氏なるは源氏の君の紫上に手跡をな(53コマ)らはしめ給ふをいへるにてともに他に然さするかたなればこゝの活の詞をもちひまた古今集秋にふぢばかまくる秋ごとに野辺を「にほはす」源氏紅葉賀にをとこ君はなどかさしもと「ならはい」給ふ御こゝろのへだてどもなるべしなどあるは藤はかまの野をにほはすをいひ源氏君の葵上を然ならはし給ふをいへるにて物を然するなれば四段の活のかたを用ひたるなりこの差別《ケヂメ》いとまぎらはしよくせずはたがひぬべしかく二(タ)かたにはたらきてまぎらはしげなる右に挙たるニ(ツ)の外なほあるべしその外に「ふす」と「ふする」とあれどこは自他をわかちてまぎらはしきことなしなほ自他のこと葉のことは別にくはしくいふべし
   ○上に挙たること葉の中に此行の四段にもはたらくごとくにてまぎらはしげなるはその證を次々に出せりこのけぢめいにしへはさだかなりしにやひとつもたがへることなきを今はまぎらはしくてともすれはあやまること多しそはいかにとなれば此下二段のはたらき詞を今俗言にはこの行の四段のはたらきにいふによりて誤れるものなりよくわきまへおくべし
   ○あはする、萬葉集十九に「安淡勢」やりまたあらき風浪に「安波世受」拾遺集に歌合の「あはせず」なりにけるに伊勢物語におやの「あはすれ」どもきかで竹取物語にをとこ「あはせざ」(54コマ)らむやはと云々落窪に男「あはせじ」と源氏箒木にあまたみ「あはせむ」の心ならねど又夕顔巻にわれなりけりとおもひ「あはせば」云々順集に風さむみなくかりがねに「あはすれ」ば信明集に夢ならば「あはする」人もありもしなましなど猶いとおほしこの詞「あはさむ」「あはさず」」「あはし」なと四段にも活くごとくおもはるれど然はたらきたることは一(ツ)もなくみな右のごとくいへりこの源氏の「あはせば」もゆくさきの事をいふなれば四段の活こと葉のかたならは「あはさば」といふ例なり
   ○いまする いせ物語にかゝる道はいかでか「いまする」といふをうつボ物語俊蔭巻にわが子の「いませム」かたには云々源氏浮舟に右大将の宇治へ「いまする」こと猶たえはてずや枕草紙にまことぞをこなりとてかくわらひ「いまする」がはづかしなどのたまはする程に安法々師集にかムの君のこのかはらの院にこむとちぎりて「いませざ」りけるにいひやるなどありさて此ことばこの行の四段にのみ活く詞とおもはれしに右の如くあればこゝの活にも用ふる詞と見えたりされどまれにてこれらの外見あたらず意はおなじことゝきこえたりかくひとかたに活きておなし意なる詞猶これかれ例あり
   ○おこする 万葉十八に「於許世牟」あまは又十九に「於己勢」多流古今集に「おこせ」たりけるふみどもを云々後撰集にふみなど(56コマ)「おこする」男云々伊勢物語にとかきおきてかしこより人「おこせば」これをやれとていぬ蜻蛉日記にこれをはじめにて又々も「おこすれ」ど源氏榊にいせまでたれかおもひ「おこせむ」馬内侍集にやすのぶ文「おこすれ」ど云々など猶いとおほしこれらも四段にはたらかしたるは一(ツ)もなし此人「おこせば」又々も「おこすれど」文「おこすれば」なども四段の活詞ならば人「おこさば」又々も「おこせど」ふみ「おこせば」といふが定まり也又「む」「たり」「たる」などのてにをはを第四の音より受るも下二段の活詞の例也
   ○きかする 万葉十八にきみに「きか勢牟」後撰集に聲になきいでゝ君に「きかせむ」またけぢかき聲をわれに「きかせ」よ大和物語にこゑを「きかせむ」源氏箒木にとき「きかせむ」などこれも猶いと多しみなかくありて「きかさむ」「きかさず」「きかし」などはいはず
   ○くはする 拾遺集につるに「くはせ」てすはまにたてりとありこれも四段の活詞ならば「くはして」といふ例なりさてかく他にしかさするは上にもいへるごとく凡てみなこゝのはたらき詞なり
   ○しらする 万葉二十に「志良世牟」古今集戀にくるしきものと人に「しらせむ」拾遺集にきみに「しらせむ」後拾遺集秋に「しらする」ものは蜻蛉日記に杉たてりともえこそ「しらせね」源氏物語總角に桜こそおもひ「しらすれ」枕草紙につげ(57コマ)「しらする」ならむとなどいと多しこれも四段のはたらきにもいふべくおもはるれどしかいへる例なし
   ○せさする 物語書にその人をたふとみて「せさする」といふ事いとおほしこゝの活こと葉なり
   ○とらする 大和ものかたりに「とらせ」ざらむものは源氏夕※[白+ハ]に「とらせ」たればとあり
   ○ならはする 源氏紅葉賀にてほむかきて「ならはせ」など云々
   ○にほはする 後拾遺集春に梅か香をさくらの花に「にほはせ」て柳が枝にさかせてしかな源氏若菜巻にやへ桜をえもいはす「にほはせ」給へりなどあり
   ○はしらする 竹取物語にあゆみとくする馬を「はしらせむ」伊勢物語に瀧おとし水「はしらせ」など云々などいへり
   ○まずる 源氏宿木にうち「まず」まじくとあり「まぜ」とはつねにおほくいへり
   ○まかする 古今集賀にあかぬこゝろに「まかせ」はてゝむ後撰集に春さく花を風に「まかせじ」また風にしもなにか「まかせむ」又吹風に「まかする」ふねや源氏竹川に心ひとつにいかゞ「まかする」栄花物語にこがらしの風に「まかする」もみぢだに枕草紙にむげにこゝろに「まかする」なめりとなど猶いとおほしこれも「まかさむ」「まかさず」「まかし」「まかす」云々とつづけいふべくもおも(58コマ)はるれどしか四段に活きたることひとつもなし
   ○まゐらする 源氏桐壷にいそぎ「まゐらせ」てなど猶おほし
   ○むする 和名妙に※[口+更]咽「無須」源氏あかしの巻におもひ「むせ」たるもなど見えたり
   ○古く「ませ」奉るなどあるは「まさせ」のつゝまりたるにてこゝの活詞にあらずそのよし〔加〕行の下二段の末にいへるかごとしまた萬葉十五にひとくにに君を「伊麻勢弖」とあるも同じ
 
 
 詞八衢下巻(2コマ)
こと葉のはたらきといふことは。歌よむにも。文かくにも。つねに書見ることに。ふかくこゝろにとゞめて。しかいふべきことは。しかいふべかりけりと。よくこゝろえたる人は。まどふべきふしもあらさるべけれど。おほろかに見すくし。或はいま(3コマ)だひろくもみしらぬ人の。何くれのことよみいで。かゝまほしとおもはむに。さしあたりてはおもひもまどひ又は何となくもてひかむることもあへかめれは。とて。春庭。このひとゝせふたとせ。これかれの書とも人にとき聞せなとするついでに。これそしるへと。引いつへき詞とも。つみいておきたるうへに。猶よく考へ正して。これはそのはたらき。これはそれとはことなりなど。おもひさためて。かの哥よみ。文かく人の。たやすくさとりつへうものしたるなり。猶ひきもらし。かむかへおよ(4コマ)はぬもあらむは。このやちまたのすぢ/\になぞらへて。わきまへてよかし。
                本居大平
 
    多行之圖 并受るてにをはの圖
四段 打《ウツ》    ず    て  つゝ    めり
            で    けり き     らむ      ば
の活 待《マツ》 (た)じ (ち)けむ なば (つ)べき   (て)ど
            ぬ    つる ぬる    らし      ども
            む    し  しか    と
            まし            とも
 
中二 落《オツル》   ず    て  つゝ    めり      かな
(ノ)         で    けり き     らん      まで   ば
段活 閉《トヅル》(ち)じ  けん なば (つ)べき (つ《チ》る)に(つれ)ど
            ぬ    つる ぬる    らし      を   ども
            む    し  しか    と         より
            まし            とも
 
下二 捨《スツル》   ず    て  つゝ    めり      かな
            で    けり き     らん      まで  ば
段(ノ)活    (て)じ  けむ なば (つ)べき (つ《テ》る)に(つれ)ど
   撫《ナヅル》   ぬ    つる ぬる    らし      を   ども
            む    し  しか    と         より
            まし            とも
 
  ○此行には一段の活詞なし(5コマ)
〔四段の活詞〕
 あかつ     あやまつ    うつ      うがつ
 かつ      かこつ     くだつ     けつ
 こぼつ     すだち     そだつ     た《立》つ
 たつ《断》   たもつ     はなつ    ○ひつ
 ひだつ     ひとりごつ   まつ      まつりごつ
○みつ      もつ      わかつ
   ○ひつ 古今集夏にわがころもでの「ひつ」をからなむ 六帖五に袖「ひつ」までに 後撰集戀にそでのみそ「ひつ」金葉集春に池に「ひつ」松の云々などありさて此ことばも此行の中二段にも活ておなし意なりこの例なほこれかれあり
   ○みつ 古今集に汐「みて」ば入ぬる礒の後撰集に汐「みたぬ」海ときけばや拾遺集戀にしほ「みて」るほどに行かふ又「みつ」涙かな後拾遺集冬に朝「みつ」汐にうつぼ物語藤原君の巷にねがひ「みたじや」はと云々又吹上巻に秋「みたむ」とて云々また同巻の哥にしほの「みつ」かな源氏物語眞木柱にむねに「みつ」こゝちして云々丹後守為忠家百首に盛忠いかなれば「みたぬ」こよひの月影の云々など猶いと多しさてかくおほく出せるは此詞中二段に「みち」「みつ」「みつる」「みつれ」とも活くごとくおもはるゝにしか活きたる一(ツ)も見あたらず皆右のごとくこゝのはたらき(6コマ)にいへればなり又寛喜女御入内屏風にさなへを家隆卿うゑ「みつる」たのものさなへ水みちてにごりなき世のかげぞみえけるとある「みつる」は「みたする」にて意ことなりいはゆる自他のわかちありよくわきまふべし
〔中二段の活詞〕この「つる」を俗言には「ちる」といふ例也
○いさつる   おつる    おづ《懼》る    くつる
○しこづる  ○そほづる   とづる       はづる
○ひつる   ○もみづる   よづる      ○をつる
   ○いさつる 古事記上巻に啼伊佐知伎《ナキ「イサチ」キ》云々又下に哭伊佐知流《ナキ「イサチル」》とありこは「いさつる」といふぺき例なれば然出せり「ちる」といひては俗言の例なり続日本紀宣命に荒備流《「アラビル」》とあるも俗言の例なりこの外かくいへる例なし
   ○しこづる 日本紀孝徳巻に※[言+替]《「シコ」ヂテ》2倉山田大臣於皇太子1曰云々続日本紀宜命に讒治《「シコヂ」》まをし給へるに云々字鏡に※[言+替]ハ讒也|志己豆《「シコヅ」》とありさてかく「ぢ」「づ」とのみありて外のはたらきみえざれども詞のさまこゝのはたらきなりまた四段のはたらきには濁音一(ツ)もなくこのはたらきには濁音のかた多ければなり
   ○そほづる 堀河百首雜に袂「そほちぬ」拾遺集戀に「そほづる」
   ○ひつる 拾遺集戀にさをしかのつめたに「ひち」ぬ山川の順集(7コマ)におりたてばうらまで「ひつる」袂ゆゑ蜻蛉日記に袖「ひつる」時をだにこそなげきしか 源氏総角にかく袖「ひつる」など堀河二郎に袖は「ひつる」も此詞四段にもはたらきておなし意なり
   ○もみづる 萬葉十に山の将黄變《「モミヂ」ム》 古今集冬つひに「もみぢ」ぬ松も見えけれ 新古今冬にこがらしの風に「もみぢ」てなと猶あり
   ○をつる 出雲国造神賀詞に彌乎知爾御袁知坐《イヤ「ヲチ」ニミ「ヲチ」マシ》云々万葉集十七にたはなれも乎知母《「コチモ」》かやすき同廿にゆめ花ちるないや乎知《「ヲチ」》にさけまた後の哥に郭公「をち」かへりなどいへるもこれなりさてかくのみありて「つ」「つる」「つれ」といへること見あたらざれどもこのはたらきなるべし
〔下二段の活詞〕此「つる」を俗言には「てる」といふ例なり
 あつる  ○あわつる    いづる     ○うつ《棄》る
 かなづる  くはだつる   すつる      そだつる
 たつる   なづる     ひいづる     へだつる
 まうづる ○ゆづる
   ○あわつる 字鏡に惶急|阿和豆《「アワツ」》とあり「あわて」といへるは多し
   ○うつる 古事記上巻にぬぎ宇弖《「ウテ」》又棄を「うつる」とよめる多し
   ○ゆづる 字鏡に※[火+蝶の旁]ハ以v※[草冠/采]ヲ入v湯云々|奈由豆《ナ「ユヅ」》とあり又栄花物語本雫巻に御風にやとて「ゆで」させたまひて云々など猶あり
   ○古事記上巻にとり「しで」また古今集春にしらくもの道ゆ(8コマ)きぶりにことや「つて」まし土佐日記に事を「ひてゝ」さむさもしらぬまたかつら川袖を「ひて」ゝも云々夫木集に野川の水に枝「ひて」ゝ此外「みて」ゝなといへる「しで」は「しだらせ」「つて」は「つたへひて」は「ひたしみて」は「みたせ」を約めていへるのみにて「つ」「つる」「つれ」など活かざればこゝのはたらき詞にはあらざるなり此こと上にもいへりこのうち「みて」は家隆卿の哥にうゑ「みつる」たのものさなへ云々など「みつる」ともあればこゝの活詞ともおもはるれど猶然にはあらざるべし
 
 奈行之圖 并受るてにをはの圖
            ず           めり
變格 徃《イヌル》   で    て      らむ     かな     ば
         (な)じ (に)けり  (ぬ)べき (ぬる)まで (ぬれ)ど
の活 死《シヌル》   ぬ    けむ     らし     に  (ね) ども
            む    つる     と      を
            まし   し      とも     より
 
          ず            めり     
一段 似《ニル》  で    て  つゝ   らむ     かな     ば
       (に)じ    けり き (にる)べき    まで (にれ)ど
の活 煮《ニル》  ぬ    けむ なば   らし     に      ども
          む    つる ぬる   と      を
          まし   し  しか   とも     より
 
         ず          めり     
下二 兼《カヌル》で   て  つゝ  らむ       かな       ば
      (ね)じ   けり き  (ぬ)べき (ぬ《ヌ》る)まで(ぬれ)ど
段ノ活束《ツカヌル》ぬ  けむ なば  らし        に       ども
          む  つる ぬる  と         を
          まし し  しか  とも        より
 
   ○此行には四段の活中二段の活なし(9コマ)
   ○変格の活詞は圖の上に記《シル》せる徃《「イヌル」》死《「シヌル」》の詞ふたつのみなり活ざまは大低四段のはたらきのごとくにて切るゝとつゞくとの詞二(ツ)にわかれ「こそ」の結び二(ツ)あり下知の詞は「ね」といふかたなり
〔一段の活詞〕
 似《にる》    煮《にる》
〔下二段の活詞〕此「ぬる」を俗言には「ねる」といふ例なり
 かねる     かさぬる   ○かたぬる  ○たがぬる
○たゝねる    たづねる    つかねる  ○つぼぬる
 つらぬる    ぬる     ○はぬる   ○ふさぬる
○ゆだぬる   ○わがぬる
  ○かたぬる 万葉十八にとしのうちの許登|可多禰《「カタネ」》もちとあり
  ○たがぬる 万葉五にたつかつえこしに多何禰提《「タカネ」テ》とよめり
  ○たゝぬる 万葉十五にきみがゆく道のながてをくり多々祢《「タヽネ」》云云といへり
  ○つぼぬる 蜻蛉日記におのがじゝひき「つぼね」などしつゝ云々とあり
  ○はぬる 古事記下巻に須岐婆奴流《スキ「ハヌル」》母《モ》能 また万葉集二に奥津かいたくな波祢《「ハネ」》そ邉津かいいたくな「はね」そとあり
  ○ふさぬる 日本紀用明巻に※[手偏+總の旁]2攝万機1をよろづのまつりごと(10コマ)を「ふさね」かはりてと訓り 続日本紀宣命に萬政攝以をよろづのまつりことを「ふさね」もちてとよめり 散木寄歌集釈教のうたのはし書に大かた「ふさね」てかの国たへなることをなどあり
  ○ゆだねる 日本紀に付を「ゆだぬ」とよめり
  〇わがぬる 大和ものがたりにかい「わがね」てつゝみたりまた枕草紙に「わがね」かけたらむ云々なといへり
   波行之圖 並うくるてにをはの圖
          ず             めり    
四段 逢《アフ》  で    て  つゝ    らむ かな    ば
       (は)じ (ひ)けり き  (ふ)べき まで (へ)ど
の活 問《トフ》  ぬ    けむ なば    らし に     ども
          む    つる ぬる    と  を
          まし   し  しか    とも より
 
          ず    て  つゝ    めり
一段 干《ヒル》  で    けり き     らむ  かな    ば
       (ひ)じ    けむ なば (ひる)べき まで (ひれ)ど
の活 噴《ヒル》  ぬ    つる ぬる    らし  に     ども
          む    し  しか    と   を
          まし            とも  より
 
          ず    て  つゝ    めり       かな
中二 戀《コフル》 で    けり き     らむ       まで     ば
        (ひ)じ   けむ なば (ふ)べき (ふ《ヒ》る)に (ふれ)ど
段ノ活侘《ワブル》 ぬ    つる ぬる    らし       を      ども
          む    し  しか    と        より
          まし            とも
 
          ず    て  つゝ    めり       かな
下二 加《クハフル》で    けり き     らむ       まで     ば
        (へ)じ   けむ なば (ふ)べき (ふ《ヘ》る)に (ふれ)ど
段ノ活辨《ワキマフル》ぬ   つる ぬる    らし       を      ども
          む    し  しか    と        より
          まし            とも(11コマ)
〔四段の活詞〕
 あふ    ○あがふ     あきなふ  ○あぎとふ
 あげつらふ  あざわらふ   あそぶ   ○あたふ
○あたなふ   あつかふ   ○あともふ  ○あなゝふ
 あへしらふ ○あまなふ    あらふ    あらがふ
 あらそふ   いふ      いこふ   ○いごのふ
 いつかふ   いざなふ    いさよふ   いとふ
 いはふ    いろふ     うかぶ    うかゞふ
○うけふ    うしなふ    うたふ    うたがふ
○うづなふ   うつろふ    うばふ   ○うるふ
 うベなふ   うやまふ    えらぶ    おふ
 おふ     おこなふ    おそふ    おとなふ
 おほふ    おもふ     およぷ    かふ
 かふ    ○かゞふ     かゝづらふ  かゞよふ
○かこふ   ○かそふ     かたらふ  ○かだふ
 かなふ    かよふ     きそふ    きほふ
 きらふ    きらふ     くふ     くらふ
○くるふ    こふ     ○ころぶ    さかふ
 さけぶ   ○さすらふ    さそふ    さまよふ
 さも《ム》らふ ○さらぼふ ○しゞまふ   したふ(12コマ)
 したがふ   しつらふ   ○しなふ   しぬぶ
○しらがふ   すふ      すくふ   すまふ
 すまふ    そふ      そこなふ  そろふ
○たぶ     たがふ     たぐふ  ○たくはふ
 たゝかふ   たゞよふ    たまふ   ためらふ
 たゆたふ   たらふ     ちかふ   ちがふ
 ちりぼふ   つかふ     つがふ   つきじろふ
 つくなふ   つくろふ   ○つたふ   つどふ
 つみなふ  ○てらふ     とふ    とぶ
 とこふ    とゝのふ    ともなふ  なぞ《ズ》らふ
 なづさふ   ならふ     ならぶ   にぎはふ
 になふ    にほふ    ○によふ   ぬふ
 ねがふ   ○ねぎらふ    ねらふ   のごふ
 のたまふ  ○のろふ     はふ    はからふ
 はこぶ    はぢろふ    はらふ   はらばふ
 ひこづ《シ》らふ ひり《ロ》ふ ふさふ ○ふればふ
○ふるふ    ふるまふ    へつらふ  まふ
 まがふ    まかなふ    まじなふ  まじらふ
 まつらふ   まと《ツ》ふ  まどふ.  まな《ネ》ぶ
 まひなふ   まよふ     まろぶ  〇みそなふ(13コマ)
 むかふ    むすぶ     むせぶ  ○もこよふ
○もとふ   ○もらふ     やしなふ  やすらふ
○やとふ    やらふ     ゆふ   ○ゆるぶ
 よぶ     よそふ     よばふ  ○よろふ
 よろこぶ  ○よろぼふ    わづらふ  わらふ
 ゐやまふ   ゑふ
   ○あがふ 万葉集十七に安賀布《「アガフ」》いのちも 字鏡に安賀布《「アガフ」》なとあり
   ○あぎとふ 古事記中巻に始為阿藝登比《ハシメテ「アキトヒ」シタマヒキ》 蜻蛉日記にあなかま/\とたゞてをかきおもてをそこらの人の「あぎとふ」やうにすれば云々などあり
   ○あたふ 日本紀神代巻に「あたはぬ」かもよとあり
   ○あたなふ 日本紀神代巻に奸賊《「アタナフ」》とあり
   ○あともふ 万葉二に御軍乎|安騰毛比《「アトモヒ」》賜また九に阿騰母比《「アトモヒ」》たてゝなどなほあり
   ○あなゝふ 續日本紀宣命に阿奈奈比《「アナヽヒ」》奉とあり
   ○あまなふ 日本紀仁徳巻舒明巻に不和を「あまなはす」とよめりまた應神巻に欲和を「あまなへ」たまはむとすとよめりかくてはこの行下二段のはたらきの格なり
   ○いごのふ 古事記中巻にえゝしやこしやこは伊碁能布《「イゴノフ」》(14コマ)ぞとあり
   ○いさかふ 大和ものがたりに「いさかふ」なり 落窪ものがたりに「いさかひ」てなどあり
   ○うけふ 古事記上巻に宇氣布《「ウケフ」》ときに 伊勢ものかたりにつみもなき人を「うけへ」ばなどあり
   ○うつなふ 萬葉十八に神あひ宇豆奈比《「ウヅナヒ」》 続日本紀宣命に相|宇豆奈比《「ウツナヒ」》奉などなほあり
   ○うるふ 拾遺集「うるひ」にけりと 丹後守為忠家百首に忠盛りこけのころもの「うるひ」ぬるかなとあり
   ○かゞふ 万葉九に加賀布《「カヾフ」》※[女+曜の旁]歌《カヾヒ》とあり
   ○かこふ 金葉集雜に「かこふ」垣柴の 好忠集に「かこはね」ど蓬のまがき 堀川百首雜に「かこひ」なき柴の庵 丹後守為忠家百首に仲正「かこひ」てさけるかきつはたぞもなどあり
   ○かそふ 古事記中巻に掠2取《「カソヒ」トリテ》其母王《ソノハヽノミコヲモ》1続日本紀宣命に高御座(ノ)次乎|加蘇毘《「カソヒ」》奪また皇位乎「掠」天などありまた日本紀継體巻に捉を「かすひ」ともよめり
   ○かだふ 万葉十八にひと加多波牟《「カタハム」》かも 後撰集春に山風の花の香「かだふ」ふもとには云々などあり
   ○くるふ 万葉四に久流比《「クルヒ」》に久流比《「クルヒ」》おもほゆるかもとよめり
   ○ころぶ 日本紀神代巻に發2稜威之|※[口+責]譲《「コロビ」ヲ》1又神武紀に誥※[口+責]之《タケビ「コロビ」(15コマ)テ》また万葉十一にはゝに所※[口+責]《「コロバ」エ》物おもふわれを又十四にねなへこゆゑにははに詐呂波要《「コロバエ」》などもありさて此詞中二段の活かともおもはるれどしからず其故はすぺて中二段の活詞の其弟一の音より〔良〕行の下二段の活に「ころげれ」などいふ例なしかくいふはみな四段の活よりなればなり「ころばえ」は「ころばれ」なり
   ○さすらふ 大祓詞に佐須良比《「サスラヒ」》うらなひてむ 源氏物かたり総角にあるまじきさまに「さすらふ」たぐひ 金葉集戀にゆき「さすらひ」てなどあり此飼此行の下二段のはたらきにもいひておなしき意ときこえたり
   ○さらぼふ 源氏明石におこなひ「さらぼひ」散木寄歌集に山陰にやせ「さらぼへる」いぬさくらおひはなたれてひく人もなし
   ○しゞまふ 古事記下巻に匍匐進赴《ハヒシヾマヒテ》云々 続日本紀宣命に進退《シヾマヒ》はらばひなどあり
   ○しなふ 万葉三にまきのはの之奈布《「シナフ」》せの山また十三に春山の四奈比《「シナヒ」》さかえて又二十にたち「之奈布」きみがすがたを又好忠集に尾羽ぞ「しなへる」などみえたり又〔也〕行の下二段の活に「しなゆ」「しなゆる」「しなゆれ」「しなえ」といふことはありこれこゝの詞と今はおなじ意と聞ゆれどかく行も活も異にておなじ意なる例なければ異なる意あるにやこはついでにおどろかしおくのみなり(16コマ)
   ○しらがふ 源氏竹川巻に見え「しらがひ」また總角巻に見え「しらがふ」などあり
   ○たぶ 續日本紀宣命に多婆受《「タバズ」》とありまた後に「たうび」「たうべ」などいへるは「たび」「たべ」を音便にいへるなり
   ○たくはふ 万葉十九に多久波比《「タクハヒ」》おきてとありさて外に活きたること見えざれば中二段の活かたしかにさだめがたけれどこゝのはたらきのさまに似たれは先こゝに出せり又おもふにこの詞常に用ふる下二段の活と意おなじことゝ聞ゆれば「たくはへ」といふべきを第二の音にうつして右のごとくいへるにて「うれへ」を「うれひ」「あぢはへ」を「あぢはひ」「たとへ」を「たとひ」「おしなべ」を「おしなみ」などいへるも此例にやなほこの中二段の活の「うれふる」といふこと葉のところにいへることあり考へ合すべし「あぢはひ」「たとひ」「おしなみ」などもまれ/\にあるのみにてこの外四段のはたらきざまにいへる例なし
   ○つたふ 公忠集によゝに「つたへる」くれ竹のとあり
   ○てらふ 日本紀哥に山のへのこしまこゆゑに人|涅羅賦《テラフ》馬のやつけはをしけくもなし又字鏡に「てらはす」ともあり
   ○なぞらふ 後撰集春に身に「なぞらへる」 源氏さわらびの巻に「なずらふ」人世にありなんや又みをつくしに「なずらはざらむ」又行幸に「なずらひ」ても見え給はざりけりなど猶あり(17コマ)さてかく四段にはたらきては他のものゝこれになずらふをいひこの行下二段に「なずらふ」「なずらふる」「なずらふれ」「なずらへ」と活きては他のものにこれをなずらふることにて意ことなりなほかくおなじ行ながらはたらきのことなるにて自他をわかつこといとおほかれどこはいさゝかまぎらはしげなればついでにわきまへおくなり
   ○によふ 落くぼ窪に「によひ」をるとあり
   ○ねぎらふ 日本紀雄略巻に勞《ネギラフ》レ軍ヲとあり
   ○のろふ 霊異記に咒を「のろふ」 伊勢物語にあまのさかてをうちてなむ「のろひ」をるなろ 枕草紙にうちつる人を「のろひ」まが/\しくなど見えたり
   ○ふればふ 源氏初音に「ふればひ」ぬべきしるしやあるとまた夫木集に西行法師しづがかきねに「ふればひ」てなどありこゝのはたらきざまなり 萬葉二にながれ「ふらばへ」とあるは「ふれ《觸》」を延へていへるなり
   ○ふるふ 舊事記にゆら/\と布瑠部《「フルヘ」》とあり
   ○みそなふ 新古今集に神もほとけもわれを「みそなへ」などなほあり
   ○もこよふ 古事記上巻に委蛇《「モコヨヒキ」》又日本紀おなじ 源氏葵に「もこよふ」ことゝ云々 うつほ楼上の巻ににげてたふれ(18コマ)「もこよひ」つゝいけばなどあり  
   ○もとふ 日本記神武巻歌にかむかぜの云々いはひ茂登倍塵《「モトヘル」》云々古事記には「もとへり」とありすべて第四の音より「り」「る」の辞をうくるはこゝのはたらきの格なり
   ○もらふ 字鏡に※[食+胡]寄食也|毛良比《「モラヒ」》波无と見えたり
   ○やとふ 續日本後紀長哥にふみしるす博士《ハカセ》不雇須《「ヤトハズ」》とあり
   ○ゆるぶ 源氏紅葉賀にこゝろ「ゆるび」なきとあり
   ○よろふ 万葉一にとり與呂布《「ヨロフ」》とあり
   ○よろぼふ 源氏夕顔にうち「よろぼひ」とあり
   ○古く「なげき」を「なげかひ」「つげ」を「つがへ」「まをし」を「まをさひ」「きこしめせ」を「きこしめさへ」「まち」を「またひ」「ゑみ」を「ゑまひ」「ぬすまむ」を「ぬすまはむ」「わたる」を「わたらふ」「のれ」を「のらへ」など延へていへることなほいとおほしその中にこの四殴にはたらきたるもおほかれどはぶきていださずまたたゞ某《ソノ》詞をのべたるのみにてはたらかぬさまなるも多しまた二重にのべていへるもあり 古事記中巻にはひ「もとほろふ」したゞみの云々とあるは「もとほ」を「もとほる」といひまたそれをのべてかくいひ日本紀雄略巻に中津枝におち「ふらばへ」また万葉二に下つ瀬になかれ「ふらばへ」などあるは「ふれ」を「ふらへ」とのべまたそれを「ふらばへ」といへるなりこの類(19コマ)も猶ありなぞらへしるべし
 
〔一段の活詞〕
 ひる《干》     ○ひる《噴》
   ○ひる 和名抄に※[口+壹か雷/疋]和名|波奈比流《ハナ「ヒル」》噴レ鼻ヲ也 古今集にはなも「ひ」ぬかななどなほありまた※[竹冠/其+皮]《ヒル》はものに見えざれども噴とおなし詞なるべし
 
〔中二段の活詞〕 この「ふる」を俗言には「ひる」といふ例なり
○あからぶる       あらぶる    ○いなぶる    ○うとぶる
○うれふる        おふる      おきなぶる    おとなぶる
○おらぶる        かぶる      かぶる      くしぶる
 こふる        ○こぶる      ことさらぶる   さぶる
○しふ《強》る     ○しふる     ○しのぶる    ○すさぶる
○たけぶる       ○ともしぶる   ○にぎぶる    ○ねぶる
 のぶる         ほころぶる   ○ほとぶる     ほろぶる
○まなぶる       ○むつぶる     もちふる     わぶる
 わかぶる       ○ゐやぶる     をさなぶる
   ○右に挙たる外何「ぶる」といふことなほあるべし
   ○あからぶる 出雲国造神賀詞に赤玉能御|阿加良毘《「アカラビ」》坐とあ(20コマ)り此詞〔麻〕行にては四段の活なれどもこの行にうつりてはこゝの活きときこえたり此類なほこれかれあり
   ○いなぶる 源氏末摘花に「いなびぬ」御こゝろにて また若菜にかたく「いなぶる」を又総角にえきこえ「いなび」でなどなほあり
   ○うとぶる 祝詞に疎夫留《「ウトブル」》また疎備《「ウトビ」》などありこれも〔麻〕行にては四段のはたらきなり
   ○うれふる 三代實録に憂禮比《「ウレヒ」》とありさてこの詞はつねに此行の下二段の活にのみ用ひたるを右のごとくあるは四段の活の格なりされどこの外にはたらきたること見えざればいづれともたしかには定めがたけれど四段の活ならば「うれはむ」「うれはぬ」「うれはじ」なといふ定まりなるをさはいふべくもおほえずこゝの活にては「うれひむ」「うれひぬ」「うれひじ」といふ格なりかくはいふべきさまなればこゝに出せるなり但しおなじ意にて二(タ)かたに活く詞の例四殴の活と中二段の活又四段の活と下二段の活などにはこれかれあれど中二段と下二段とにはたらきて同じ意なるは例なし猶此行四段の活こと葉の「たくはふ」といふ下にいへる事ありひらき見るべし
   ○おらぶる 万葉九にさけげ於良妣《「オラビ」》日本紀崇神巻に叫哭《「オラビ」ナク》又雄略巻に呼※[口+虎]《ヨバヒ「オラビ」テ》などあるのみにて外にはたらかざれば四段の活きかともおもへど猶こゝのはたらきのなるべし(21コマ)
   ○こぶる 字鏡に媚(ハ)古夫《「コブ」》 霊異記に媚(ハ)「こび」と見え 古事記上巻に媚附《「コビ」ツキテ》云々とありこの外に活きたること見えざれどもこゝのはたらきこと葉ときこえたり漢籍読《カラブミヨミ》には「こびむ」とこゝのはたらきざまにいへり
   ○しふる 万葉三にいなといへど強流志斐能我強《「シフル」シヒノガ「シヒ」ガタリ》云々また六帖四に人をも「しひじ」などあり
   ○しふる 和名妙に聾和名|美々之比《ミヽ「シヒ」》又盲和名|米之比《メ「シヒ」》 古事記にもありこれも外に活たることみえざれども此活詞なるべし
   ○しのぶる 源氏箒木にたづねまどはさむともかくれ「しのびず」云々若紫に「しのびさせ」玉へるに云々浮ふねに「しのびさせ」たまふけしき見奉れば云々 栄花物語うら/\のわかれの巻に「しのびさせ」給ふなどあり「させ」といふこと葉を第二の音よりうくるは中二段のはたらきにかぎれりなほ「しのぶる」「しのぶれ」といふはつねに多しまた万葉十一に不竊隠を古き点にしのびずてとよめりさて此詞四段にも活きて意は全くおなじ
   ○すさぶる 源氏朝顔にのたまひ「すさぶる」もとあり此詞も〔麻〕行にては四段の活ことばなり此行にうつりてはこゝの活とせり
   ○たけぶる 古事記上巻に建而【訓建云「多祁夫」】 万葉集十一におもひ多鶏備《「タケビ」》てなどありまた日本紀雄略巻に叱を「たけはしめ」又「たけびしめ」とも訓点ありこの外に活きたる事物に見えざれ(22コマ)ば四段の活かこゝの活かさだめがたしされど先しばらくこゝに出しおきつ又おもふに凡て「しめ」といふ辞《テニヲハ》を第一の音より受るは四段のはたらきの格第二の音よりうくるはこゝの格なれば「たけばしめ」と第一の音よりしめといひてはすべて四段のはたらき詞「たけびしめ」と第二の音よりいひてはこゝの活こと葉なりかく二(タ)やうによみたれは四段にも中二段にもはたらく詞にや
   ○ともしぶる 万葉十七におとのみも名のみもきゝて登母之夫流《「トモシブル」》がねとありこれも〔麻〕行にては四段のはたらきことばなり
   ○にぎぷる 万葉一に柔備《「ニギビ」》にし云々とありこの詞もほかにみへざれどもこゝの活なるべし
   ○ねぶる 物語書に「ねび」とゝのひなどあるをいふこの詞もかくのみありてほかにはたらきたること見えざれどこゝのはたらきこと葉ときこえたり
   ○ほとぶる 伊勢物語にかれいひのうへになみだおとして「ほとび」にけりとありこゝの活さまなり俗言にも「ほとびる」といへり
   ○まなぶる 千載集序にこの歌のみちを「まなふる」ことをきくに云々とありてまた下にふみのみちを「まなびず」といへりこゝのはたらきさまなりこの詞四段の活にのみ用ひてかくいへるは外に見あたらず意はおなじことゝきこえたり
   ○むつぶる 六帖三に淀を「むつぶる」水鳥の云々 源氏蓬生に(23コマ)例はさしも「むつびぬ」を また夕がほにしたしくおもひ「むつぶる」すじはなどあり
   ○ゐやぶる 続日本紀宣命に為夜備末都利《「イヤビ」マツリ》 日本紀継體巻に礼《「イヤビ」タマヒテ》v賢また跪礼《「ヰヤビ」テ》などありさて日本紀孝昭巻に礼《「イヤブ」コト》レ神ヲと第三の音より下へつゞけてよめるは四殴の活の格なりされどこの詞のさま四段のはたらき詞のごとくにはあらずこゝの活詞のさまにおもはるればこゝに出せり猶よく考ふべし
   ○「うれしび」「かなしび」「くやしび」「たふとび」「めぐび」などあるも〔麻〕行にては四段のはたらき詞なれどこの行にうつりてはこゝのはたらきなるべし
 
〔下二段の活詞〕 此「ふる」を俗言に「へる」といふ例なり
○あふる     あがまふる   あたふる    あつらふる
○あまなふる   いらふる   ○うらふる   ○おくまふる
 おさふる    おとろふる   かふる    ○かゝふる
 かぞふる    かずまふる   かなふる   ○かまふる
 かむがふる   くぶる     くはふる    くらぶる
○こしらふる   こたふる    さふる     さきはふる
 さすらふる  ○したがふる   しらぶる   ○すぶる
 そふる     そろふる   ○たふる     たがふる
○たぐふる    たくはふる   たゝふる    たづさふる(24コマ)
 たとふる    たまふる    ちがふる    つかふる
 つたふる    つどふる    とゝのふる   となふる
 とらふる   ○なぶる     ながらふる   なず《ソ》らふる
 なぞふる    ならぶる    のぶる    ○はふる
○はらふる   ○ひかふる    ふまふる    ふすぶる
 ほころぶる   まがふる    まじふる    よそふる
 わきまふる   をふる
   ○あふる 蜻蛉日記にかみ/\とのぼりくだりは「あふれ」ともまださかゆかぬこゝちこそすれ又こと葉がき「あふ」べくもあらず 源氏葵にこゝろもえおさめ「あふ」まじく 眞木柱に人の見「あふる」ほども「なう」 浮舟にはゞかり「あふ」まじくなむ 狭衣三に人めもえつゝみ「あふ」まじく 猶栄花物がたりにもあり又 詔詞解に敢【末之時止】為弖を「あふましゞとして」とよまれたりすべて「まし」のてにをはは切るゝ詞より受る例なりさて「あへ」とは常におほくいへり
   ○あまなふる 日本紀應神巻に欲和を「あまなへ」たまはむとすとよめり こゝの活さまなり又仁徳巻に不和を「あまなはず」とよめるは四段のはたらきざまなり
   ○うらふる 古事記上巻にふとまにゝ卜相而《「ウラヘ」テ》とあり「うらふ」「うらふる」「うらふれ」などいへること見えざれどもかくはたらく詞の格也
   ○おくまふる 万葉十一に奥間経而《「オクマヘ」テ》わがもふいもとありこれも(25コマ)ほかに見えざれともこのはたらきの例なり
   ○かゝふる 竹取物語に「かゝへ」奉れり 蜻蛉日記にやがてのりて「かゝへ」てものしぬ 栄花物語楚王の夢の巻になく/\「かゝへ」まつらせ給へりなどのみありて「かゝふ」「かゝふる」「かゝふれ」といへる見あたらざれどもかくはたらく例なり又〔也〕行下二段の活にて「かゝゆ」「かかゆる」「かゝゆれ」「かゝえ」といふこと葉かともおもへどすべて物をしかするは多くこゝの活詞にいひものゝおのづからしかるは〔也〕行のかたにいへば猶こゝのはたらきこと葉なるべし
   ○かまふる 栄花物語月宴におぼし「かまふ」と云々又「かまふる」つみに云々など猶おほし
   ○こしらふる 日本紀に慰喩《「コシラフル」》とありまた「こしらへ」といへるは物語書におほしこれも〔也〕行にはあらざるべし
   ○したがふる 竹取物がたりにこゝろにも「したがへず」とあり
   ○すぶる 玉葉集夏に夕されば浪こす池のはちす葉に玉ゆり「すぶる」風のすゞしさとよめり「すべ」といへるはつねのこと也
   ○たふる 源氏物語桐壷にえ「たふ」まじうとあり「たへ」とは常に多し
   ○たぐふる 敦忠集にわがひとつ「たぐふる」風を云々「たぐヘ」といへるはつねの事なり
   ○なぶる 蜻蛉日記にさきにやけにしにくところこたひはおし「なぶる」なりけり これも「なべ」といへるはおほしまたうつぼもの(26コマ)語菊宴哥にうゑ「なむる」人ぞしるべき花の色は云々とあるも「なぶる」なりこの行と〔麻〕行とかよふはつねのことなれば「なむる」とかけるのみにて〔麻〕行の下二段のはたらきにはあらさるべし
   ○はふる 万葉十八にした波布流《「ハフル」》こゝろしなくは云々 新古今夏にしめ「はふる」までとありこれも「はへ」といふはつねなり
   ○はらふる 万葉十七に中臣のふとのりとごといひ浪良倍《「ハラヘ」》 伊勢物語に「はらへ」けるまゝに 六帖に「はらふる」ことを又「はらふれ」ば又いとつけて「はらへむ」云々 後撰集夏に夏「はらへ」する 拾遺集夏に「はらふる」ことを 又哀傷にふちころも「はらへ」てすつる 後拾遺集雑に「はらへ」つるかな 兼盛集に川風は「はらふる」こともなど猶おほしさて此こと葉をかくおほく出せるはふるくは「祓」もたゞ四段のはたらきにのみ用ひたるを中昔より「祓」にかぎりて四段の活にいはずみなこゝの活にのみいひていにしへ今のたがひあればなり
   ○ひかふる 古今集秋詞書に紅葉のちるこのもとに馬を「ひかへ」てとあり猶ほかにもかくのみありて外にはたらきたる事みえざれば〔也〕行の下二段の活かともおもへど猶しかにはあらじそのよし「かゝふる」のところにいへるかごとし
   ○万葉二十にちはやぶる神をことむけ麻都呂倍奴《「マツロヘヌ」》人をもやはし云々とあるはこゝの活ざまなりされど此詞此行四段のはたらきにのみもちひてこゝの活にいへるは外に例なく又かく活く詞の(27コマ)さまとも見えざればこゝのはたらき詞のつらには出さず
   ○万葉十五にたましひはあしたゆふべに多麻布禮抒《「タマフレド」》 狭衣にきぬのすそをおの/\「ふまへ」つゝ 枕草紙にしろき色紙の「むすべ」たるうへにひきわたしたるすみのなどあるは外にはたらかざればこゝの活こと葉にあらず 「たまふれ」は「たまへ」「ふまへ」は「ふみ」を延ていひ「むすべ」は「むすばれ」をつゞめていへるなり猶このこと〔加〕行下二段の活の末にいへり
 
 麻行之圖 并受るてにをはの圖
 
          ず             めり    
四段 住《スム》  で    て  つゝ    らむ かな    ば
       (ま)じ (み)けり き  (む)べき まで (め)ど
の活 読《ヨム》  ぬ    けむ なば    らし に     ども
          む    つる ぬる    と  を
          まし   し  しか    とも より
 
          ず    て  つゝ    めり
一段        で    けり き     らむ  かな    ば
   見《ミル》(み)じ   けむ なば (みる)べき まで (みれ)ど
の活        ぬ    つる ぬる    らし  に     ども
          む    し  しか    と   を
          まし            とも  より
 
          ず    て  つゝ    めり       かな
中二 恨《ウラムル》 で    けり き     らむ       まで     ば
        (み)じ   けむ なば (む)べき (む《ミ》る)に (むれ)ど
段ノ活試《コヽロムル》ぬ    つる ぬる    らし       を      ども
          む    し  しか    と        より
          まし            とも
 
          ず    て  つゝ    めり       かな
下二 聚《アツムル》で    けり き     らむ       まで     ば
        (め)じ   けむ なば (む)べき (む《メ》る)に (むれ)ど
段ノ活責《セムル》ぬ   つる ぬる    らし       を      ども
          む    し  しか    と        より
          まし(28コマ)
〔四段の活詞〕
 あむ       あかむ    あからむ   ○あさむ
○あたむ      あはれむ   あやしむ    あやぶむ
 あゆむ      あをむ    いむ      いかしむ
 いさむ      いそしむ   いたむ     いつくしむ
 いどむ      いとなむ   いとほしむ  ○いばむ
 うむ       うむ     うづむ     うつくしむ
 うとむ     ○うべなむ   うむかしむ   うらやむ
○うるはしむ    うれしむ  ○おいばむ    おむかしむ
 かむ      ○かむ    ○かいまむ    かゞむ
 かく《コ》む   かしこむ   かすむ    〇かだむ
○かたじけなむ   かなしむ  ○きざむ     きばむ
 くむ       くむ     くゝむ     くやむ
 くるしむ    ○くろむ    けしきばむ   こむ
○ことなしむ    このむ    さいなむ    しむ
 しがらむ    ○しゞかむ   しづむ    ○しぼむ
○しほじむ     しらむ   ○しろむ     しわむ
 すむ       すむ     すくむ     すさむ
 すゝむ      すゞむ    そむ      そねむ
 たむ       たくむ    たしなむ    たゝむ(29コマ)
 たのむ      たのしむ   たゆむ     たわむ
 ちゞむ      つむ     つむ      つかむ
 つゝしむ    ○つぼむ    とむ     ○ともしむ
 とよむ      なぐさむ   なごむ     なづむ
 なへばむ     なやむ    なればむ   ○にがむ
 にくむ     ○にごむ   ○にば《フ》む  にらむ
 ねすむ      ぬるむ    ねたむ     のむ
 のむ       のぞむ    はむ      はぐゝむ
○はづかしむ    はげむ    はさむ     はらむ
 ひがむ      ひそむ   ○ひるむ     ふむ
 ふくむ     ○ふくだむ   ほとりばむ   まどろむ
○みつわくむ    むしばむ   もむ      やむ
 やむ      ○やくさむ  ○やさかむ    やすむ
 ゆがむ      ゆるむ    よむ      よどむ
○よゝむ      ゑむ     をがむ     をしむ
 をろがむ
   ○何ばむといふこと猶あるべしみなこゝのはたらきなり
   ○あさむ 源氏若菜にめで「あさみ」 うつほ物語俊蔭に天下の人いひ「あざみ」て 鋏衣に「あさみ」さわがせ給ふ 濱松中納言ものがたりにおどろき「あさむ」などあり(30コマ)
   ○あたむ 万葉二に敵見有《「アタミ」タル》とあり此外にはたらきたること見えざれどもこゝの活なるべし中二段のはたらきにはあらじ  
   ○いばむ 日本紀神武巻屯聚居之【屯聚居此云「怡皮※[さんずい+彌]萎」】又欽明巻に充満《「イバメ」リ》などあり
   ○うべなむ 続日本紀宣命に天地乃|字倍奈彌《「ウヘナミ」》由流【之天】とあるのみなりりこゝのはたらきなるべし
   ○うるはしむ 伊勢物がたりにわがせしがごと「うるはしみ」せよとありこれも上におなじ
   〇おいばむ 枕草紙に「おいばみ」とあり
   ○かむ 和名抄に※[手偏+弟]俗云波奈|加無《「カム」》 源氏あげまきにはなしば/\うち「かみて」なとあり
   ○かいまむ 伊勢物かたりに「かいまみ」てけり 大和ものがたりに「かいまめ」ばなどいへり
   ○かだむ 霊異記 ※[女/女+干]を可陀彌《「カダミ」》 日本紀また續日本紀宣命に※[女/女+干]《「タクム」》とあり
   ○かたじけなむ 続日本紀宣命に 辱弥《「カタシケナミ」》とあり
   ○きざむ 好忠集に朝なに「きざむ」松の葉をとよめり
   ○くろむ 狭衣に「くろみ」わたりとあり
   ○ことなしむ 古今集に「ことなしむ」ともしるしあらめやまた源氏ものがたりに「ことなしみ」になどもあり(31コマ)
   ○しゞかむ 源氏行幸に御手はむかしだにありしをいとわりなく「しゞかみ」たる 枕草紙に「しゞかみ」たるかみになどあり
   ○しぼむ 蔓葉十八に之保美《「シボミ」》かれゆく
   ○しほじむ 源氏明石にこゝら「しほじむ」身となりて又薄雲に「しほじま」ざらましかば又夕顔に「しほじみ」云々 濱松中納言物がたりにこのかたに「しほじみ」たる人はなど見えたり
   ○しろむ 枕草紙にいみしう「しろみ」かれてとあり
   ○しわむ 万葉九にわかゝりしはだも皺奴《「シワミ」ヌ》 字鏡に※[面+乍]を於毛氏|志和牟《「シワム」》などあり
○たむ 万葉集三におきつしま※[手偏+旁]回舟《コギ「タム」フネ》はまたむこのうらを※[手偏+旁]轉小舟《コギ「タム」ヲフネ》また十六にやらのさき多未弖《タミテ》こぎくとなどあり又拾遺物名にした「たみ」てこそ物はいひけれとあるもおなじこと葉ときこえたりさて此詞中二段にもはたらきて同し意也
   ○つぼむ 今撰和歌集に為真入道立枝に「つぼむ」花なかりぜばとあり
   ○ともしむ 万葉集十七にはなたちばなを等毛之美《「トモシミ」》しなど猶あり
   ○にがむ 源氏物語箒木に「にがみ」たまふ 狭衣に「にがみ」かゝりなどいへり
   ○にごむ 日本紀崇神巻に和享《「ニコミ」テ》とあり(32コマ)
   ○にば《ブ》む 源氏葵に「にばめる」御ぞ 栄花ものかたり鶴のはやしにみな「にぶみ」たり
   ○はづかしむ 續日本紀宣命に愧美《「ハツカシミミ」》とあり
   ○ひるむ 和名鈔に痿痺俗云|比留無夜末比《「ヒルム」ヤマヒ》此活詞と聞ゆ
   ○ふくだむ 源氏物語紅葉の賀にうち「ふくだみ」たまへるびむぐきなど猶あり
   ○みつわぐむ 源氏夕顔に「みつわぐみ」てすみはへるなり 後撰集雑にしら川の「みつわぐむ」までおいにけるかななどあり
   ○やくさむ 古事記上巻にわが御子たち不平《「ヤクサミ」》ますらし日本紀神代巻に挙體|不平《「ヤクサミ」タマフ》など猶あり
   ○やさかむ 古事記下巻に痩萎《「ヤサカミ」カジケテ》とあり
   ○よゝむ 万葉集四に老舌出て與余牟《「ヨヨム」》ともとありこのはたらきのさまなり
   ○「なみ」居 なみ立(テ)るなどいへるは「ならび」にてこゝの活ことばにはあらずまた万葉七にことしの夏のかげに将比疑《「ナミム」カ》とありさては此行中二段のはたらきざまなれどしかはたらくこと葉のさまにあらざればこは誤字なるべし
 
〔一段の活詞〕
 み《見》る(33コマ)
〔中二段の活詞〕 この「むる」を俗言には「みる」といへり
○あむ《浴》る    ○うしろむる  ○うとむる    うらむる
 こゝろむる     ○たむる
   ○あむる 古今集につくしへゆ「あみむ」とて云々枕草紙にねおきて「あむる」ゆは云々など猶あり
   ○うしろむる 狭衣に「うしろむる」人なからむよりはとあり「うしろ」みといへるはおほし
   ○うとむる 涼氏竹川にきこえ「うとむる」とありさてこの詞この四段にも〔波〕行の中二段にもはたらきてみなおなし意也
   ○たむる 万葉六にこき「多武流」うらのこと/”\また二十にをかのさき伊|多牟流《「タムル」》ことになとあり右の外に「たみむ」「たみず」「たみじ」「ためむ」「ためず」「ためじ」などはたらきたることみえざればこゝのはたらきかこの下二段の活かいづれとたしかにさだめかたけれどこゝのかたなるべし
 
〔下二段の活詞〕此「むる」を俗言には「める」といへり
 あかむる    あがむる    あきらむる   あたゝむる
 あつむる    あはむる   ○あやむる    あらたむる
 いさむる    いましむる   うかむる    うづむる
○えしむる   ○おとしむる   かゞむる    かすむる(34コマ)
 かたむる   ○からむる    かろむる   ○きたむる
 きはむる    きよむる    くるしむる   こむる
 さむる     さだむる    しむる     しむる
○しゞむる    したゝむる  ○しづむる    しづむる
○しなむる    すゝむる    せむる     ○せたむる
 そむる    ○そばむる   ○たふとむる   ○たむる
 たむる     たしなむる   たのむる    ○たゆむる
 たわむる    ちりばむる   つとむる    とむる
 とがむる    とぢむる    とゞむる   ○ともしむる
 とよむる    なむる     ながむる    なぐさむる
 なごむる    なだむる    のどむる   ○はむる
 はじむる    はしたなむる  はやむる   ○ひむる
 ひがむる    ひそむる    ひろむる    ふよむる
 ほむる    ○みしむる    やむる    ○やすむる
 ゆがむる    をさる
   ○何「しむる」といふこと猶おほしみなこゝのはたらきなり
   ○あやむる.堀川百首にうつりかにつゝまぬ袖も人そ「あやむる」散木寄歌集にこひすとも身のけしきたにかはらずはいはぬに人は「あやめ」ましやは濱松中納言物語にすゝめいれたてまつりてしをおぼし「あやめ」て人つけ給へりけるなめりなどあり(35コマ)
   ○えしむる 蔓葉二十にわれに依志米《「エシメ」》しとあり
   ○おとしむる 源氏桐壷に「おとしめ」そねみ云々なほあり
   ○からむる 伊勢ものがたりに「からめ」られにけり 落窪物かたりに「からむる」やうになとあり
   ○きたむる 續日本紀宣命に支多米《「キタメ」》たまふべく 日本紀皇極巻歌にとこよのかみをうち岐多麻須母《「キタマス」モ》とあり此「ます」は「む」の延はりたるなり
   ○しゞむる 源氏行幸にひき「しゞめ」給ひて 浮ふねにこゑひき「しゞめ」かしこまりてなどいへり
   ○しつむる 拾遺集雜に「しづめじ」と云々とあり
   ○しなむる 日本紀崇神巻匿を「しなめ」てとよめり
   ○せたむる 狭衣におのが身をとざまかうざまに「せため」云々又母しろまた「ぜため」によりきたるなど見えたり
   ○そばむる 源氏桐壺にあいなくめを「そばめ」つゝまた 竹川に「そはめ」られともあり
   ○たふとむる 新古今集序に耳を「たふとぶる」あまりとありこの「ぶる」は「むる」といふにおなじ
   〇たむる 六帖に真弓「たむれ」どゝあり 後拾遺集雜に君にこそ思ひ「ため」たる云々こは溜に弓を「たむる」をかねたり
   ○たゆむる 源氏紅葉賀に「たゆめ」きこゆとあり(36コマ)
   ○ともしむる 万葉十に今だにも乏牟《「トモシム」》べしや又十一に目莫令乏《メナ「トモシメソ」》
   ○はむる 万葉十七にうち渡米底《「ハメ」テ》とありまた伊勢物語にきつに「はめ」なでとある「はめ」は「はまぜ」の約りたる也されどもとは同じ詞也
   ○ひむる 源氏繪合にいたく「ひめ」てとありこゝのはたらきざま也
   ○ふかむる 万葉二に深目手《「フカメ」テ》もへど 古今集になにゝ「ふかめ」ておもひそめけむなどあり
   ○見しむる 万葉十七に見之米《「ミシメ」》とあり
   ○蜻蛉日記にさればこそいのちも「つゝしむれ」とあるは「つゝしめ」の延はりたるにてこゝの活詞にあらずこの事上にもいへり
 
也行之圖 并受るてにをはの圖
 
               ず           めり       
中二  老《オユル》    で  て  つゝ    らん        かな     ば
           (い)じ  けり き  (ゆ)べき (ゆ《イ》る)まで (ゆれ)ど
段ノ活 報《ムクユル》   ぬ  けむ なば    らし        に      ども
              む  つる ぬる    と         を
              まし し  しか    とも        より
 
              ず            めり
下二  癒《イユル》    で  て  つゝ     らん        かな     ば
           (え)じ  けり き   (ゆ)べき (ゆ《エ》る)まで (ゆれ)ど
段ノ活 栄《サカユル》   ぬ  けむ なば     らし        に      ども
              む  つる ぬる     と         を
              まし し  しか     とも        より
   ○此行には四段の活一段の活なし
〔中二段の活詞〕この「ゆる」を俗言には「いる」といふ例なり
○おゆる     くゆる    ○こゆる    ○むくゆる
   ○おゆる 源氏手習にとしの「おゆる」まゝにはとあり(37コマ)
   ○こゆる 万葉五にうち許伊《「コイ」》ふしてなど猶あり外に「こゆ」「こゆる」「こゆれ」なと活きたる事みえざれどもかくはたらく詞の例なり又「こう」「こうる」「こうれ」と活きて〔阿〕行のこと葉かともおもふべけれど「こやる」「こやす」など「や」より外の行にうつりてはたらけはこの行の詞なることあきらけし
   ○むくゆる うつほ物がたり俊蔭に「むくいむ」とあり
 
〔下二段の活詞〕此「ゆる」を俗言には「える」といふ例なり
○あゆる    ○あゆる    ○あゆる    ○あまゆる
 いゆる    ○いばゆる   ○おぴゆる    おぼゆる
 おもほゆる   きゆる     きこゆる   ○くゆる
 こゆる     こゆる     さゆる     さかゆる
○しなゆる    そびゆる    たゆる    ○つひゆる
○はゆる    ○ひゆる    ○ほゆる     まみゆる
 みゆる     もゆる    ○わかゆる   ○をゆる
   ○あゆる うつほ物がたり藏びらきに松風をはらめる君もえてしかなうまれたる子の「あえ」ものにせむかへし秋風を「あゆ」とやしれる君か子は千年をまつの野分とそきく後撰集にきみか代はつるのこほりに「あえ」てきね 金葉集連哥になにゝ「あゆる」を「あゆ」といふらむなどあり(38コマ)
   ○あゆる 万葉八に玉にぬくさ月をちかみ「安要《「アエ」》」奴がに花咲にけり云々また十に秋つけは水草の花の阿要《「アエ」》奴がに云々又十八に安由流實《「アユルミ」》は玉にぬきつゝ云々など見えたり
   ○あゆる おちくぼに血「あゆ」ばかり 枕草紙にあせ「あゆる」こゝちぞしけるなどなっっほあり
   ○あまゆる 源氏竹川に「あまえ」て 寄生に「あまえ」てまた栄花物がたりにもありみな「あまえ」てとのみありて外に活きたること見あたらざれば〔波〕行下二段の活かとも思へど俗言に「あまやかす」といふこと葉もあればなほこゝのはたらきなるべし
   ○いばゆる 和名妙に※[口+斯]和名|以波由《「イバユ」》源氏総角に馬どもの「いばゆる」 後拾遺集に駒っぞ「いばゆる」など猶おほしこのこと葉をちかき世には「いばひ」「いばふ」など〔波〕行の四段のはたらきにいへど新古今のころまでしかいへることなし
   〇おぴゆる 万葉集二に※[立心偏+協の旁]流《「オビユル」》までに 源氏物がたり箒木にやと「おびゆれ」ど若菜に「おぴえ」さわぎてなどあり
   ○くゆる 万葉十四にみこしのさきの伊波「久叡」の君が「久由」べき
   ○しなゆる 万葉二に夏草のおもひ之奈要《「シナエ」》て十また十九に「之奈要」うらぶれなとありさてこの詞のこと〔波〕行の四段のはたらき「しなふ」の所にいへることありひらきみるぺし
   ○つひゆる 字鏡に瘠|豆比由《「ツヒユ」》とあり(39コマ)
   ○はゆる 万葉二にかるれば「波由流」とよめり
   ○ひゆる 拾遺集に身は「ひえ」にけるとあり
   ○ほゆる 霊異記に喚吠を「保由」と訓注あり
   〇わかゆる 出雲国造神賀詞に御若叡坐《ミ「ワカエ」マシ》 忠岑集にをる菊のしづくをおほみ「わかゆ」てふ 忠見集に人の「わかゆる」菊のうへに 赤染衝門家集に露に「わかゆる」など見えたり
   ○をゆる 古事記中巻に御軍皆「遠延」而 日本紀に瘁※[やまいだれ+莫]などの字をしかよめりさて外に活きたること見えされば〔阿〕行かとも思ふぺけれど 日本紀に「をやす」と「や」よりはたらけば此行なることしるし
 
   羅行之圖 並受るてにをはの圖
 
           ず              めり  
四段 去《サル》   で     て  つゝ    らむ        かな     ば
        (ら)じ  (り)けり き  (る)べき        まで  (れ)ど
の活 釣《ツル》   ぬ     けむ なば    らし        に      ども
           む     つる ぬる    と         を
           まし    し  しか    とも        より
            
           ず               めり
中二  下《オルヽ》 で      て  つゝ    らん        かな     ば
        (り)じ      けり き  (る)べき (る《リ》ヽ)まで (るれ)ど
段ノ活 舊《フルヽ》 ぬ      けむ なば    らし        に      ども
           む      つる ぬる    と         を
           まし     し  しか    とも        より
   ○此行には一段の活詞なし(40コマ)
〔四段の活詞〕
 ある      あかる     あがる     あさる
○あざる     あざける    あたる    ○あたゝまる
 あつまる    あなづる   ○あなくる   ○あぶる
 あまる     あもる    ○あやかる    あらたまる
 いる      いる      いかる     いきどふる
○いざる     いたる     いたはる   ○いつがる
 いつはる    いのる     いまはる    いろどる
 うる      うけばる    うごなはる  ○うずゝまる
○うまはる    える      おる     ○おきのる
 おくる    ○おくまる    おこる     おごる
 おこたる   ○おそる    ○おそなはる   おとる
○おほどる   ○おもねる    かる      かる
 かる      かゝる     かゞふる    かゞまる
 かぎる    ○かくる     かける    ○かげる
 かざる     かさなる    かしこまる   かたる
 かたまる    かたよる   ○かなぐる    かはる
 かへる     かをる     きる      きる
 きしる     きたる     きよまはる   くる
 くる      くゝる     くゞる     くゞまる(41コマ)
○くさる     くだる     くつがへる  ○くねる
 くば《マ》る  くはゝる    くびる     くもる
 くゆる    ○くらがる    けづる     こる
○こぞる     ことわる    こほる     こもる
○こやる     さる      さかる     さかのぼる
 さがる     さぐる    ○さくじる    さだまる
 さづかる    さとる     さへづる    さや《ハ》る
 しる      しきる     しげる    ○しゞまる
 しだる     したゞる   ○しばる     しほる
○しまる     しめる    ○しをる     する
○すぐる    ○すゝる     すゝたる   ○すぢる
 すべる     すわる     せまる     そる
 そしる    ○そゝる     そゝくる    そはる
 そまる     たる      たる      たぎる
 たぐる     たすくる    たゝる    ○たゝなはる
 たづさはる   たどる     たばる     たばかる
 たばしる    たまる     たもとほる   ちる
 ちぎる     つる      つくる     つゞる
○つゞしる    つゝまる    つのる    ○つはる
 つもる     つよる     つらなる    てる(42コマ)
 とる      とゞこほる   となる     とほる
 とまる     なる      なる     ○なづさはる
 なのる    ○なぶる     なほる     なまる
 にぎる     にごる    ○にじる    ○にぷる
 ぬる      ねる     ○ねぶる     ねむる
 のる      のる      のる      のこる
○のそこる    のどまる    のゝしる    のばゝる
 のぼる     はる      はいる     はかる
 はしる     はじまる    はたる     ○はなる
 はゞかる   ○はびこる    はふる      はぶかる
 はやる    ○ひる      ひかる    ○ひたる
 ひねる     ひろまる    ふる      ふる
○ふる      ふける     ふたがる   ○へなる
 ほる      ほる      ほこる    〇ほそる
○ほどこる    ほとばしる  ○ほぴこる    ほふる
○まる      まかる    ○まくる     まさる
 まさぐる    まじる     まじはる    まじこる
 まつはる   ○まなかる    まはる     まもる
 まゐる     みだる     みのる    ○むかる
 むさぼる    むつかる    めぐる     もる(43コマ)
 もる      もる     ○もぢる     もどる
 もとほる    やる      やる     ○やすまる
 やどる     やぶる    ○ゆる     ○ゆする
 ゆづる     ゆまはる    よる      よる
○よきる     よこぎる    よこなまる   よこほる
 よばゝる    よわる     わる      わかる
 わしる    ○わする     わたる    ○わだかまる
 ゑる      をる      をる     ○をこづる
○をぜる     をどる     をはる     をゝる
   ○この外「あはれがる」「からがる」「くるしがる」「こひしがる」などいへるたぐひおほしみなこゝのはたらきなり
   ○右に挙たること葉の中に有居の二(ッ)いさゝかことなりすべて用段の活の第三の音「く」「す」「つ」「ふ」「む」「る」は圖にもしるせるごとく切るゝ詞と続くこと葉とをかねたれば「あると」「あるとも」「をると」「をるとも」といふべき格なるにこの二(ッ)のこと葉のみ「ありと」「ありとも」「をりと」「をりとも」といひ又切るることばにも「あり」「をり」といふ例なりその外「めり」「らむ」「べき」「らし」などのてにをはをうくるはすぺてにことなることなし
   ○あざる 万葉五にたち阿射里《「アザリ」》われこひのめど云々
   ○あたゝまる 栄花もの語鶴林に「あたゝまらせ」たまひてと(44コマ)ありこのはたらきざまなり
   ○あなくる 日本紀舒明巻に入2畝傍山ニ1因以|探《「アナクル」》レ山ヲ欽明巻に考《カムカヘ》2竅《「アナクリ」テ》古今ヲ1又字鏡に覈「阿奈久留」 栄花物語うら/\の別に帯刀や瀧口やなどいふものどもよるひるさふらひ関をかためなとしていとうたてあり世にはおほ「あなくり」といひつくるもいとゆゝしなどあり
   ○あぶる 字鏡に焚「阿夫留」 後撰集物名に衣「あぶらむ」
   ○あやかる 拾遺集に「あやかり」やすき云々とあり
   ○いさる 万葉十五に「伊射流」火波とあり
   ○いつがる 万葉九に「伊都我里」ませばとあり
   ○うごなはる  大祓詞に集侍《「ウコナハレル」》續日本紀に末為《マヰ》「宇古那波禮留」
   ○うずゝまる 古事記下巻に庭すゞめ宇受須麻埋葦弖《「ウズヽマリ」ヰテ》とあり
   ○うまはる 日本紀允恭巻に蕃息《「ウマハリ」テ》仁賢巻に殖皇極巻に不《ズ》2蕃息《ウマハラ》1などあり
   ○おぎのる 字鏡に※[貝+余]「於支乃利」 土佐日記に「おぎのり」わざをししてなどあり
   ○おくまる 源氏若紫に「おくまり」たる橋姫に「おくまり」云々
   ○おそる 續日本紀宣命に懼理《オソリ》とありさて此詞中昔よりは此下二段の活きにのみいへるを古くはかく四段の活にも用ひたり此例|隠《「カクリ」》觸《「フリ」》忘《「ワスリ」》などあり(45コマ)
   ○おそなはる うつほ俊陰に夕の「おそなはる」ほどだに云々
   ○おほどる 万葉十六にふちの木にはひ「於保登禮流」とあり又源氏東屋に「おほとれたる」とあるはおなし詞と聞へたれど「たる」といふてにをはを第四の音「れ」よりうけたるはこの下二段の例にてはたらき異なり手習巻にもかくあり
   ○おもねる 日本紀神武巻に佞媚を「おもねり」とよめり
   ○かくる 古事記上巻哥に青山に日が「迦久良婆」下巻にみやま「賀久里」 万葉十五にやそしま「我久里」など猶あり此詞も上にいへるごとく中昔よりはこの下二段のはたらきにのみ用ひたり
   ○かげる 古事記下巻にゆふ日の日|賀気流美夜《「カゲル」ミヤ》云々祝詞にもありまた新古今集夏に野もせのくさの「かけろひ」てすゞしくくもるとあるは「かげり」を延たるなり
   ○かなぐる 源氏箒木にひき「かなぐらめ」などあり
   ○くさる 字鏡に※[食+歳]ハ伊比久佐禮利《イヒ「クサレリ」》と見えたり
   ○くねる 古今集序にをみなへしの一時を「くねる」にも云々また蜻蛉日記にすこしは「くねり」てかきつなとあり
   ○くらがる 竹取ものがたりにせおひ「くらがり」てとあり
   ○こぞる 栄花物かたり月宴に世「こぞり」てなど猶あり
   ○こやる 古事記中巻歌にあつさ弓|許夜流許夜理母《「コヤルコヤリ」モ》とよめり又古今集によこほり「ふせる」佐夜中山を奥義妙に(46コマ)よこほり「くやる」とある本あるよしいへり
   ○さくじる おちくほ物がたり又狭衣四に「さくじり」とあり
   ○しゞまる 栄花物語玉飾にわが命も「しゞまる」やうに云々
   ○しばる うつぼ藤原君に大きなる木に「しばり」つけたりと云り
   ○しまる 古事記下巻哥にやふ士麻理斯麻理《「ジマリシマリ」》もとほしと有り
   ○しをる 伊勢物語に女をまかでさせくらにこめて「しをり」たまうければとありまた源氏をと女に淺みとりとやいひ「しをる」べき
   ○すぐる うつほ物語吹上下にえらぴ「すぐり」たる上手また源氏桐壷にえりとゝのへ「すぐり」てなどあり
   ○すゝる うつぼ物語あて宮に水も「すゝらで」 源氏真木柱に鼻「すゝり」あへりなとあり又万葉五にかすゆ酒うち「須々呂比」弖ともいへり「須須呂比」は「すゝり」なり
   ○すゝたる 拾遺集戀に「すゝたれど」堀川百首夏に「すゝたれる」やトにふすぷる云々同二郎百首に「すゝたり」ぬべしなどあり此堀川百首の初句を一本に「すゝたるゝ」とありさてはこの下二段のはたらきざまなり
   ○すぢる 宇冶拾遺物語に翁のびあがりかゝまりて云々 「すぢり」もぢりゑひこゑを出して一庭をはしり舞ふ
   ○せまる うつぼ藤原君に「せまり」しれたる大学(ノ)介とあり
   ○そゝる 万葉集十七あま曽々理《「ソヽリ」》高きたち山 神楽哥に(47コマ)ゆすりあけよ「曾々利」あげよなど見えたり
   ○そゝくる おちくほ物語にちりはらひ「そゝくり」て蜻蛉日記七にくすだませむなどいひて「そゝくり」ゐたるほどに栄花物語楚王夢に「そそくり」ふせたてまつり云々などいへり
   ○たゝなはる 万葉一に疊有《「タヽナハル」》 枕草紙に髪のうち「たゝなはり」て狭衣四に「たゝなはり」ゐてなどあり
   ○つゞしる 字鏡に※[酉+音]ハ左加奈「豆々志留」とみえたり また源氏箒木に「つゞしり」うたふ又万葉集五にかたしほを取「都豆之呂比」とも延ていへり
   ○つはる 字鏡に※[月+某](ハ)孕始兆也 「豆波利」乃登支 和名鈔に擇食は「豆波利」 おちくほ物語にいつしかと「つはり」給へば 金葉九にはがくれに「つはる」と見えしほどもなくなどあり
   ○なづさはる 神楽哥に見てぐらにならましものをすへ神のみてにとられて「なつさはる」ぺくとあり古本又拾遺には結句を「なづさはまし」をとぜりさては〔波〕行の四殴の活詞となる也
   ○なぶる 万葉十五に人「奈夫理」のみこのみてあるらむとあり
   ○にじる 字鏡に※[足+翕](ハ)不弥「尓志留」と見えたり
   ○にぶる 日本紀天智巻に鋭《トイサキ》鈍《「ニブリ」》力※[力+曷](ク)とあり
   ○ねぶる 字鏡に※[舌+膽の旁]ハ「禰夫留」とあり
   ○のぞこる 日本紀斉明巻に病|自※[益+蜀]消《「ノゾコリ」ヌ》とあり(48コマ)
   ○はなる 万葉二十に波奈利蘇《「ハナリ」ソ》のはゝをはなれてとありかく四段にも活くと見えたりこれも中昔よりはこの下二段のはたらきにのみいへり
   ○はぴこる 日本紀顕宗巻に被を「はびこれり」またほどこれりともよめり  
   ○ひる 和名抄に痢(ハ)久曾比理《クソ「ヒリ」》乃夜万比又放屁(ハ)倍比流《ヘ「ヒル」》
   ○ひたる 拾遺集に松の海にひたりたるところを 狭衣三に白かねの波よせて「ひたれる」松のふかみとりの云々 堀川百首夏にさみだれは日数ふれどもわたのぺの大江の岸は「ひたらざり」けりなどあり
   ○ふる 万葉二十にいそに布理《「フリ」》古事記下巻にこふこそはやすくはだ布禮(觸)《「フレ」》などありさてかく「こそ」のむすひに「ふれ」といへるはこゝのはたらきの格なりこれも中昔よりは下二段の活にのみ用ひたり下二段の活にては「こそ」の結ひは「ふるれ」といふが定りなりこのけぢめまかひやすしよく考へ辨ふべし
   ○へなる 万葉十五に山川をなかに敝奈里※[氏/一]《「ヘナリ」テ》など猶あり
   ○ほそる 栄花物語花山に「ほそらせ」給ふとあるは此活ざま也
   ○ほどこる 日本紀顕宗巻に被を「ほどこれり」とよめり
   ○ほびこる 万葉十八に雲|保妣許里弖《「ホヒコリ」テ》とあり
   ○まる 古事記上巻に尿《クソ》麻理《「マリ」》ちらしき 万葉十六に尿遠ク麻(49コマ)礼《「マレ」》竹取物語につばくらめの「まり」おけるふるくそを云々
   ○まくる 枕草紙に袖かい「まくり」とあり
   ○まながる 古事記上巻にたゝき麻都賀理《「マナガリ」》とあり
   ○むかる 万葉二十に敝牟加流《ヘ「ムカル」》ふねとよめり
   ○もぢる 宇治拾遺物語にのぴあがりかゞまりてまふへきかぎりすぢり「もぢり」云々とあり
   ○やすまる 続日本紀宣命に息安麻流倍伎《「ヤスマル」ベキ》又|休息安【麻利《「ヤスマリ」》弖】
   ○ゆる 住吉物かたりに土もうち「ゆり」たりけるとあり
   ○ゆする 神楽哥に由須利《「ユスリ」》あげよそゝりあげよ猶あり
   ○よきる 源氏若紫に「よきり」おはしましけるとあり
   ○わする 日本紀神代哥におきつ鳥かもつく嶋にわがゐねしいもは和素※[しんにょう+羅]珥《「ワスラジ」》よのこと/\も 万葉二十に和須良牟《「ワスラム」》砥なとありさてかく第一の音「ら」より「じ」「む」のてにをはを受るは圖のことく四段のはたらきにかぎれりこの詞も中昔より下二段の活きにのみいへり古事記には妹は「わすれし」世のこと/\にとありかくては下二段の活なり
   ○わたかまる 枕草紙に「わだかまり」とあり
   ○をこづる 日本紀に誘聚《「ヲコツリ」アツメ》源氏若菜に「をこづり」とらむの心にて濱松中納言物がたりに「をこづり」などありさて此假字は日本紀に「わかつる」とも訓たればこゝに出しつ(50コマ)
   ○をぜる 日本紀神武巻に望見《「ヲゼリ」》また|睨《「ヲゼル」》などよめり「お」「を」定めがたし暫(ク)日本紀の僻字づけによりてこゝに出せり
   ○万葉十三にたち花の末技を須具里《「スグリ」》また十四にをさぎ「ねらはり」十五に羽具久毛流《「ハグクモル」》又宣命に「つゝしまり」などあるは「すぎ」「ねらひ」「はぐゝむ」「つゝしみ」を延たるのみにてこゝの活こと葉はあらず此万葉十三の歌同し巻上にも出たりそこには橘のほつえを過而とあり此例上にもこれかれあり其処々にいへるがごとし
   ○すべて四段の活の第四の音より「さけらむ」「さけり」「さける」「さけれ」「おもへらむ」「おもへり」「おもへる」「おもへれ」「たてらむ」「たてり」「たてる」「たてれ」など「ら」「り」「る」「れ」とうくるは全てこゝのはたらきざまなりされど活こと葉よりうくるてにをはのはたらきたるなれはこゝの活こと葉の列《ツラ》にあらず此よし上巻のはじめにもいへりさてこれを万葉に咲有立有思有など有の字をそへてかゝれてその意なれはうくるてにをはも上にいへるごとく「ありと」「ありとも」といふにおなじ
 
〔中二段の活詞〕この「るゝ」を俗言には「りる」といふ例なり
 おるゝ     こるゝ    ふるゝ    ゆるゝ
   ふるゝ 古今集戀にわが身「ふるれ」はおきどころなし 後撰集雜に「ふるゝ」身はなみたの中に云々 蜻蛉日記に二人の御心のうち(51コマ)「ふりず」かなしなどあり
 
〔下二段の活詞〕此「るゝ」を俗言には「れる」といふ例なり
 あるゝ    ○あがるゝ    あきるゝ    あく《コ》かるゝ
○あざるゝ    あばるゝ    あふるゝ    あらはるゝ
 いるゝ     いとはるゝ   いらるゝ    うかるゝ
 うたるゝ    うばゝるゝ   うまるゝ    うもるゝ
 おかるゝ    おくるゝ    おそるゝ    おそはるゝ
 おとつるゝ  ○おびるゝ    おぼるゝ    おほどるゝ
 おぼゝるゝ   おもはるゝ   かるゝ     かくるゝ
○かくるゝ   ○かぶるゝ    かこたるゝ   きるゝ
 きらるゝ    くるゝ    ○くるゝ     くづるゝ
 くづをるゝ   けおさるゝ   けがるゝ     けたるゝ
 けどらるゝ   こかるゝ    こぼるゝ     さるゝ
 さそはるゝ   しるゝ     しるゝ     しぐるゝ
○しづるゝ    しのばるゝ   しほたるゝ   しらるゝ
 しをるゝ    すかさるゝ   すぐるゝ    すたるゝ
○すみやかるゝ  せかるゝ   ○そるゝ    〇そほるゝ
 たるゝ     たかるゝ   ○たゞるゝ    たとらるゝ
 たはるゝ    たはふるゝ   たふるゝ    つるゝ(52コマ)
 つかるゝ    つぶるゝ    なるゝ     ながるゝ
 ながめらるゝ  にくまるゝ   ぬるゝ     ねらるゝ
 のがるゝ    はるゝ     はつるゝ    はなるゝ
 はふるゝ    ひかるゝ    ひたるゝ    ふるゝ
 ふくるゝ    ほるゝ     まぎるゝ    またるゝ
 まどはるゝ   まぬかるゝ  ○まみるゝ    みだるゝ
○むるゝ     むつるゝ    むすぼるゝ   むすぼゝるゝ
 めかるゝ    めさるゝ    めなるゝ    もるゝ
 もよほさるゝ ○やるゝ     やつるゝ    やぶるゝ
 ゆるさるゝ   よるゝ     よらるゝ    わるゝ
 わかるゝ    わするゝ    わすらるゝ  ○わろびるゝ
 をるゝ     をくるゝ
   ○右に擧たる外四殴の活こと葉の其第一の音より「おどろく」をおどろ「かるゝ」「くらす」をくら「さるゝ」「くむ」をく「まるゝ」など活かし又一段の活詞中二段の活詞のその第二の音より「き《着》る」を「きらるゝ」「見る」を「見らるゝ」「おくる」をお「きらるゝ」「こふる」をこ「ひらるゝ」なとはたらかし下二段の活詞のその第四の音より「うくる」をう「けらるゝ」「いづる」をい「てらるゝ」「とがむる」をとが「めらるゝ」など「るゝ」「らるゝ」とはたらかしたるたぐひ猶いと多しこと/\くは出さすみなこゝのはたらきこと葉なり(53コマ)
   ○あがるゝ 源氏物語箒木に「あがるゝ」所にて 空蝉巻に「あかるゝ」けはひなど猶あり
   ○あざるゝ 字鏡に※[肉+習]魚肉爛也「阿佐礼」太利とあり
   ○おびるゝ 物かたり文にね「おびれ」なとあるのみにて外にはたらきたる事見あたらされども此はたらきなるへし
   ○おほどるゝ 源氏東屋に「おほどれ」たる云々又手習に髪のすそのにはかに「おほどれ」たるなどあり
   ○かぐるゝ 万葉九に舟こぐごとくより香具禮《「カクレ」》とある外にみえざれともこの活こと葉なるべし
   ○かぶるゝ 和名抄に漆瘡和名宇流之「加不礼」とあり
   ○くるゝ 神楽哥に山人のわれに「くれ」たるやまつゑぞこれ猶もの語書などにも見えたり
   ○しづるゝ 散木寄歌集に雪をおもみしたれるみさのえだなればさはる小笠に「しづれ」おつなり 同長哥にくたるみなわはしろたへの雪の「しづれ」とあやまたれ丹後守為忠家百首に仲正朝またき松のうは葉の雪は見む日かけさしこは「しづれ」もぞするなとありまた綺語抄におくやまの「しづり」のしたのそてなれやおもひのほかにぬれねとおもへば 四條大納言哥枕に木にふりたる雪のおつるをいふなりとありこれもおなしこと葉と聞えたるを「しづり」とては四段のはたらき(54コマ)ざまなりかくも活くこと葉にや外に見あたらず
   ○すみやかるゝ 詞花集戀にいつしかとのみ「すみやかれ」つゝとあり速に炭焼をかねたり
   ○そるゝ 夫木集鷹の哥に「それ」ぬれはとよめり
   ○そぼるゝ 狭衣一にわらひ「そほるゝ」けはひとありまた今撰和哥集に為真人道うくひすの梅のはな笠ちりねればふる春雨に「そほれ」てぞなくともよめり
   ○たかるゝ 古事記上巻に宇土「多加礼」とあり俗言には「たかり」と四段のはたらき詞にいへり
   ○たゞるゝ 古事記上巻に血爛をちあえ「たゞれ」たりとよめり
   ○はふるゝ 源氏夕顏に「はふれ」ぬべきとあり
   ○まみるゝ 日本紀神代巻に血染を「まみれ」たりとよめりまた千載集に「まみれ」て云々などあり
   ○むるゝ 丹後守為忠家百首に為盛いそぎつゝこまうち「むるゝ」たそかれにとありむれるとはつねにおほくいへり
   ○やるゝ 神樂哥に袖こそ「やれ」め云々
   ○わろびるゝ 物語書に「わろひれ」といへるのみにて外に活きたる事見あたらざれどもこのはたらきなるべし(55コマ)
    和行之圖 并受るてにをはの圖
 
           ず              めり  
一段         で     て  つゝ    らむ        かな     ば
   居《ヰル》(ゐ)じ     けり き (ゐる)べき        まで (ゐれ)ど
の活         ぬ     けむ なば    らし        に      ども
           む     つる ぬる    と         を
           まし    し  しか    とも        より
            
           ず               めり
中二         で      て  つゝ    らん        かな     ば
  率《ヒキウル》(ゐ)じ     けり き  (う)べき    (うる)まで (うれ)ど
段ノ活        ぬ      けむ なば    らし        に      ども
           む      つる ぬる    と         を
           まし     し  しか    とも        より
 
           ず               めり
下二 飢《ウヽル》  で      て  つゝ    らん        かな     ば
        (ゑ)じ     けり き   (う)べき    (うる)まで (うれ)ど
段ノ活 植《ウヽル》 ぬ      けむ なば    らし        に      ども
           む      つる ぬる    と         を
           まし     し  しか    とも        より
 
   ○この行には四段のはたらき詞なし
 
〔一段の活詞〕
  ゐ《居》る
   ○和名妙に※[舟+鑁の旁](ハ)俗云「為流船」著レ沙不行也又※[歯+所](ハ)此間云波「井流」齒傷レ酢也などあるは同きかまた同言にて異なるかまたは〔羅〕行の四段の活こと葉にて「ゐらむ」「ゐり」「ゐる」「ゐれ」と活く詞か外にはたらきたる事見えざればいづれともさためがたし
 
〔中二段の活詞親〕この「うる」を俗言には「ゐる」といふ例なり
○うる     ○つきうる    ひきうる
   ○うる 物語書にゐて奉るなどいへることおほしこれなり外(56コマ)に「う」「うる」「うれ」など活きたる事見えざれどもこの活と見えたりさてこれを「ひきうる」の「ひき」をはぶきたる詞とおもふは違へり「ひきうる」は此詞に「ひき」といふ事をそへていへるなり
   ○つきうる 日水紀崇神巻に急居此(ヲ)云2「菟岐子」1とあり物かたり文に「ついゐ」給ふなどいへること多しおなじ詞なり
 
〔下二段の詞詞〕この「うる」を俗言には「ゑる」といふ例也
○うゝ《飢》る    ○うゝ《植》る    ○くう《蹴》る    ○すう《居》る
○ひうる
   ○うゝる 字鏡に※[食+幾](ハ)伊比尓《イヒニ》宇々《「ウヽ」》とあり猶「うゑ」といへる多し
   ○うゝる 伊勢物語にわすれ草「うゝ」とだにきく物ならは猶多し
   ○くうる 古事記上巻に蹶散《「クヱ」ハラヽカシ》又|蹶離《「クヱ」ハナチ》 日本紀に※[就/足]散此ヲ云2「倶穢」簸邏々筒須1なとありさて和名抄に蹴鞠世間云末利「古由」とありおなじ詞なるをかくいひては〔也〕行の下二段のはたらきにて假字も異なりこのころはやく誤りたるにや
   ○すうる 経衡集にいかなれば大内山のみちにさへ今はなこその關を「すう」らむとあり「すゑ」といへるは多し
   ○ひうる 古事記中巻にこきた斐恵泥《「ヒヱネ」》とありこの詞外に活きたる事物に見えされども第四の音より「ね」とうくるは下二段の活のさたまりなり和名妙に竹刀(ハ)阿乎「比衣」とあるは本はひと(57コマ)つことのうつりたるとおもはるゝに假字のちかひたるはもとよりことなるにや
〔安〕行よりはしめて右に擧たること葉とも猶さま/”\にはたらきてかぎりなくおぼゆれとたゞおもひ出るにしたがひてものしつるなればもれたる猶多かるべしそはこれらにならひてしるべきなり
 
  文化三年春三月
 
 明治十七年十月廿一日飜刻御届
 明治十七年十一月七日出版        定價金三十銭
 
     編集人     本居大人
              住所不明
        原版人不詳
   隨時書房梓
(58コマ)
    翻刻出版人   東京府平民 柳河梅次郎 日本橋區本町二丁目十番地
     同      東京府平民 大倉孫兵衛 日本橋區通一丁目十九番地
     同      東京府士族 神戸甲子二郎 京橋區弓町十番地
     同      三重縣平民 伊藤鉞次郎 日本橋區通三丁目十番地柳河多津方
     同      東京府平民 小川伊兵衛 京橋區弓町三番地
 
 
世にありとありて人のもてあそふわさ。大かた人の心を楽しましめさるはなくなむあるへけれと。それが中に歌よむわさなむ。物よりことにまさりてはあるへき。さるはよろこはしとも。うれはしとも。思ふ心をのへつらねよみ出たらむ。その言葉のよろしからむを。人のきゝめてゝ。おむかしともよろしともいはむに。わかこゝろなくさみて。楽しとおもふへきわさなり。かくいふは古事記日本紀に見えて。神世上古の哥のもとつむねなれと。今の世とてもこれにことなる事なかるへし。そも/\藤原奈良の御代を経て。寛平延喜のころほひより。大やけわたくしいよ/\さかりにいみしきもてあそひくさとなりて。花紅葉鳥虫のいろ音につけ。月雪霞のをりふしにもよほされ。高きみしかきみやひをかはすくさはひとなむなりもてゆきて。事ひろくなるまゝに。なにくれの題をまうけて。おのか身にあつからぬ事をも。そのをりふしにつきなきことをも。戀にまれ旅にまれ。海川野山の名ところによそへ。こまもろこしのふることを引いてゝ。世にいひふるさぬめつらしき心はへをとはけみ。あるはしらへ高くつゝけからおかしやかにと。きそひつゝ。学ひえたるいたりのほとも。よみ得たる力のきはも。とり/\に見えしられて。そのよき哥はよき哥と見さためて。同し学友たちはさらなり。又さらぬよそ/\にても。こはおもしろととり見つゝ。或は遠きさかひにもうつしつたへて。もてはやすめるに。思ひほこるとはなけれと。いとこゝろよく楽しからしやは。これなむやかて。上古中昔の人の。心詞のめてたきに。神も人も心をうこかしけむためしおほえて。言霊ちはふ道いちしるしとはいふへかりける。今もむかしも心を種の道なれは。いかて世に秀たるをと。心をくたき。思ひをこらして。よみとゝのへたらむは。おほろけならぬしわさなれは。一首にてもよくよみえたらむは。かへす/\もその楽しさ浅からめやは。また家集にまれ何にまれ摺巻にあらはして。世にひろくなりなむ後は。未の世久しく傳はりて。千代にくちせぬ詞の玉そと思はむには。尊くさへなむあるへき。大かた
 
 
 
 
難波舊地考  荒木田久老  
入力底本、萬葉集古註釈集成近世編1第7巻、1991.10.25、日本図書センター。
入力者注、漢文の送りがなは小書きですが普通の大きさにしました。割り注、小書きの字は()でくくりました。返り点は12vで示しました。句点は白ごまです。旧字体異体字誤字等は適宜新字体等にしました。
 
表紙題箋  難波舊地考   全
(377)ことしやよひのころ五十槻園大人都に旅やとりしたまふよしをおとろかしたまへしかば年ころしたひまつれるがあまり此あたりにもむかへまつらまほしくて奈良柴のしば/\きこへならしゝによりわか萩の屋の花さけるころこゝにおはしましてなにくれとふる意をあらひきぬのときさとし玉へるか中に此難波の高津長柄のふりしあともなゆ竹のよにいひもてはやせる(378)あたりならさる事を浪間に生るふかミるの深くもかうかへたまひぬめるを是はしことなることをこのミてあらたにまうけたらむやうに思ひて釣する糸のうけひきかたきあたりもあらむとて口とちたまへるをいにしへの文にたゝしてときあかしたまふのミかはその所をさへ見さぐりての考にしあればなにはの里/\しらさる輩はとまれかくまれたれか是を落椎の志斐(379)言とせむとてそのよしをかきあらはしたまひねとすゝめしによりて書つゝりたまひしを見れはやかてつまきとはなりぬかゝるふミをいたつらにやぬちにひめおきたらむはあたらしきわさにをとてうるはしくすなる友とちはかりて板にゑらせるは國さかりをるおなしまなひの人/\にもおくらむかためそ
若山 ※[非/木]
(381)槻の落葉 高津宮・長柄宮・長柄橋 舊地考
                從四位下荒木田神主久老  著
仁徳紀ニ曰、元年春正月丁丑ノ朔己卯、大鷦鷯ノ尊即タマフ2天皇ノ位ニ1、都ス2難波ニ1、是ヲ曰フ2高津ノ宮ト1、
同曰、十一年冬十月、堀リテ2宮ノ北ノ之郊ヌ原ヲ1、引テ2南ノ水《カハ》ヲ1以テ入ル2西ノ海ニ1、因テ以号テ2其水ヲ1曰フ2堀江ト1、
同曰、十四年冬十一月為《ツクル》2橋ヲ於猪甘津《ヰカヒツ》ニ1、即チ号テ2其處ヲ1曰フ2小橋《ヲハシ》ト1也、
古事記(仁徳ノ條)曰、堀リテ2難波《ナニハ》之《ノ》堀江ヲ1通v海ニ、又堀2小椅江《ヲバシエ》ヲ1、又定ム2墨《スミ》ノ江《エ》之《ノ》津ヲ1
(382)孝徳紀ニ曰、大化元年冬十二月乙未ノ朔癸卯、天皇遷ス2都ヲ難波ノ長柄豊崎《ナカエトヨサキ》ニ1、
同曰、白雉元年春正月辛丑ノ朔、車駕幸シテ2味經宮《アヂフノミヤ》ニ1、觀タマフ2賀正ノ禮ヲ1、(味經此ニ云フ2阿膩(貝偏)賦《アヂフ》ト1)、是日車駕還タマフv宮ニ、
同曰、冬十月為メニv入ガ2宮地ニ1所ルv壊|丘墓《ハカ》ハ、及被v遷人ニハ者、賜v物各有リv差、
同曰、冬十二月晦、於《ニ》2味經ノ宮ニ1、請テ2二千一百餘ノ僧尼ヲ1、使v讀2一切經ヲ1、(畧)於v是天皇從《ヨリ》2於|大郡《オホクニ》1遷テ居マス2新宮ニ1、号ヲ曰フ2難波長柄豊碕《ナニハナガエトヨザキ》ノ宮ト1、
聖武紀ニ曰、天平十六年閏正月乙丑ノ朔、詔テ喚2(383)會テ百官ヲ於|朝堂《ミカド》ニ1、問テ曰、恭仁《クニ》難波《ナニハ》ノ二京、何レヲ定テ為ムv都ト、各言ヘv其志ヲ1、(畧)同二月甲寅、運《ウツス》2恭仁《クニ》ノ宮ノ高御座、并ニ大楯ヲ於難波ノ宮ニ1、乙卯|恭仁《クニ》ノ百姓、情ニ願フv遷ムト2難波ノ宮ニ1者ハ恣ニ聽スv之ヲ、庚申左大臣宣テv勅ヲ云、今以テ2難波ノ宮ヲ1、定テ為2皇都ト1、三月甲戌、石上榎井ノ二氏、樹ツ2大楯槍ヲ於難波ノ宮ノ中ノ外門ニ1
萬葉集巻ノ六、神亀二年冬十月幸2于難波ノ宮ニ1時、笠ノ朝臣金村カ作ル歌ニ曰、續麻成《ウミヲナス》、長柄宮尓《ナガエノミヤニ》、真木柱《マキバシラ》、大高敷而《フトタカシキテ》、食國乎《ヲスクニヲ》、収賜者《ヲサメタマヘバ》、奥鳥《オキツトリ》、味經原尓《アヂフノハラニ》、物部乃《モノヽフノ》、八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》、廬為而《イホリシテ》、都成有《ミヤコナシタリ》、(畧)、
(384)同、天平十六年、難波ノ宮ニテ作ル歌ニ曰、安見知之《ヤスミシヽ》、吾大王乃《ワゴオホキミノ》、在通《アリカヨフ》、名庭乃宮者《ナニハノミヤハ》、不知魚取《イサナトリ》、海片就而《ウミカタツキテ》、玉拾《タマヒロフ》、濱邉乎近美《ハマビヲチカミ》、(畧)、御食向《ミケムカフ》、味原宮者《アヂフノミヤハ》雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》、
日本後紀ニ曰、弘仁三年遣テv使ヲ、造2摂津ノ國長柄ノ橋ヲ1、
文コ録ニ曰、仁壽三年九月戊子ノ朔戊辰、摂津ノ國奏言、長柄《ナカエ》三國《ミクニ》ノ両河、頃年橋梁斷絶、人馬不v通、請フ准ヘテ2堀江ノ川ニ1、置テ2二隻ノ船ヲ1以テ通ム2※[さんずい+斎]渡ヲ1、許スv之ヲ、
(385)(久老)ことし寛政十一己未年八月の末、若山※[非/木]ぬしにむかへられて、難波に下り來て、おもハずもあまたの月日を經て、こゝに旅やとりせる間《ホト》、例のいにしへしのふ心の癖のやまねば、かの高津ノ宮の御跡、長柄ノ宮の御跡、長柄の橋のありし所など、慥にしらまほしくて、この郷人にしば/\尋ね問へど、芦づゝの世々を隔し事なれバ、難波小ぶねにさす棹の、さしてそこぞと、をしふる人しもなく、堀江のうきの、うきたる事のミいへるがいぶかしさに、古き書ども何くれと取出て、おろかなる心のかぎり、をろ/\考見るに、いさゝか思ひ得る(386)事のあれば、猶郷人の言につきて、試にいふにこそ、
そも/\高津ノ宮の御跡は、或人の考に、今の大城の所やそならむといへり、さるハ仁コ紀に見えたる、菟餓野《ツガヌ》は、今|天満《テンマ》といふ邊の古名なれば、天皇のそこの牡鹿《シカ》の聲を聞《きか》して、可憐情《アハレトオモホスミコヽロ》を起し給ふよし、彼紀に見えたるは、大宮所のその野に遠からぬあたりと知らるれバ也、といへり、又堀リテ2宮ノ北|之《ノ》郊ヌ原ヲ1引ク2南ノ水ヲ1といへるは、則今の大川也、といへり、この説あたれるに似たれど、堀川ノ院このかたの、古圖どものあなるを、こゝかしこより借求めて見るに、今の大城の所は、何れの圖にも、石山とありて、宮地のあとゝ(387)いふべき處にはあらず、又今の大川を、堀江ぞといふもあたらず、四百年前の圖を見るに、大和川ハ東南より大城の北に流れ、今の大川にて、淀川の末と合て、西に流て海に入れり、仁徳大后の御哥に、免藝泥赴《ツギネフ》、椰莽之呂餓波烏《ヤマシロガハヲ》、箇破能朋利《カハノボリ》とあるを、大和川、山城川、両河の落合ふ所より、山城川のかたへ、のぼりましゝなれバ、かくはみよミましゝなるべし、さらずは、殊更に、山城川とはの給ふまじくやとおほゆる、しからバ今の大城の北の大川は、もとより両河の落合ふ入江にして、仁徳の御時、新に堀《ホラ》しゝ、堀江にてはあらずがし、(以下頭注)仁徳紀に引2南水ヲ1とあるハ、百済川狹山川の水をいふ也、今の大川を堀江としてハ、大和川ハ東より流れ、山城川ハ北より流るれバ、南水を引とはいふべきにあらず、又堀2宮北之郊原1とあるも、今の大川にては、其已前大和川の落る所なし、(388)かにかくに、堀江を今の大川といふは、あたらず、よく/\地理につきて可v考也、(頭注終わり)
長柄の宮の御跡は、天満《テンマ》の北東に、南|長柄《ナガラ》、北長柄といふ村ありて、その北長柄の村の西に、本庄といふ村あり、そこにいさゝか森ありて、神祠《ミヤシロ》の存《ノコ》れるは、大宮所の御跡といひ、また或《アル》識者《モノシリビト》ぼ考には、今の崇禅寺|濱《バマ》といふ地、その御跡なりといへり、(己)したしく其地を見るに、本庄といふ村も、崇禅寺濱といふ所も、彼長柄村よりは一段《ヒトキダ》ひきくて上古《イニシヘ》山城川の流れ出たる、河尻の洲濱なるべきが、今村里となれる地と見ゆれば、是も大宮所の跡ならずがし、又|味經原《アヂフノハラ》は島下ノ郡別府味舌二村の古名と摂津志にいへれど、長柄ノ宮味經ノ原ハ、(389)相接《アヒツヾケ》る地にあらでは、萬葉集巻ノ六、金村カ作ル歌に、長柄宮尓《ナガエノミヤニ》、真木柱《マキハシラ》、大高敷而《フトタカシキテ》、(畧)、味經原仁《アヂフノハラニ》、物部乃《モノヽフノ》、八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》、廬為而《イホリシテ》、(畧)、といへるに協《カナ》ハず、是ハ味舌の名によりて、例の並河氏の、押當の強言《シヒゴト》とおぼゆれバ、とるにたらず、故《カレ》おほくの古圖に就て考るに、天王寺の北東、味原《アヂハラ》(山小橋《ヤマヲバセ》の旧名といへり、)の南に、高津といふ所見えたり、是|即《ヤガテ》今の東高津村なり、こゝをしも、高津といへるは、西に三津《ミツ》の江ありて、大江の岸よりしていと高く、(大江の岸といふは、今の上町の西、東横堀の東にて、上古ハ墨江《スミノエ》までつゞきたる岸と見えたり、今の船場《センバ》といへる地ハ、中古までも、遠浅の海なりし事、古圖にて知られ、郷人もしかいへり、按に船場《センバ》ハ瀬庭にて、汐瀬《シホゼ》の場《ニハ》をいふなるべし、)東に猪甘津《井カヒヅ》ありて、猪飼《井カヒ》の岡より西は高し、東西の津の間《ナカラ》に有て、その地の(390)いたく高けれバ、高津《タカヅ》の号《ナ》はおふしけむ、しからバ、仁徳の御宮所ハ、此地なるべくおもへるに、或人ノ云この高津村の邊に、やゝ高き岡ありて、そを御面山といふといへり、(今ハ桃を多く殖たれバ、桃谷といふといへり、)是や高津の宮の御遺跡《オホミアト》なるべきに决《キハマ》れり、(又或人は、その邊に、御殿|田《ダ》といふ字《アザナ》の残れりといへり、)同紀に、堀テ2宮ノ北之郊ヌ原ヲ1引テ2南ノ水ヲ1以テ入2西ノ海ニ1、因テ以号テ2其水ヲ1曰フ2堀江ト1、とあるハ、この大宮所の御跡といふ地《トコロ》の北に、小谷とて、今もその跡|遺《ノコ》りて、谷町の南、寺町の北を經て、西ノ海に通《トホ》れり、是又古圖に就て考るに、百済《クダラ》川(河内ノ國より出て、石川と狹山川の間に流るゝ川也、)狹山《サヤマ》川(狹山ノ池の末流なり、)の二ノ流天王寺の東、猪甘《井カヒ》の岡の南に合て、この小谷を流れて、西の海に入れりと見ゆれバ、紀にいふ所(391)によく協《カナ》へり、かくては、此御宮所と、菟餓野《ツガヌ》の、(今の天満《テンマ》といへば、)いと放《サカ》りて、そこの牡鹿《シカ》の聲の聞ゆべきにあらずといふべけれど、彼|都賀野《ツガヌ》を、今の天満といふも、いとうきたる言にて、信《ウケ》がたし、彼|地《トコロ》は、四方《ヨモ》に海川の廻《モトホ》りて、河洲《カハス》の地《トコロ》と見ゆれバ、上古《イニシヘ》といへども、鹿の住へき地《トコロ》にあらず、是はた所の違へるならんとおもへりしに、或人のいふにハ、今|高津《カウヅノ》宮とて、仁徳帝を祠れる御社のあなる、その近きあたりに、菟餓野《ツガヌ》の旧名|遺《ノコ》れりといへり(以下頭注)今のかう津の宮は、孝徳紀に見えたる、蝦蟇《カハツノ》行宮ならんといへり、さも有べし、(頭注終わり)、是あたれるに似たり、かくさだめおきて、長柄豊崎《ナガエトヨサキノ》宮の御跡を考るに、まづ長柄の二字を中古|奈賀良《ナガラ》と訓《ヨミ》来れるは、ひが訓《ヨミ》にて、奈賀江《ナガエ》と訓《ヨム》べき也、さるハ(392)(以下頭注)若山※[非/木]云、延喜式祈年祭祝詞の、座摩の條に見えたる、津長井と申神の御名も、長江の津なるべし、といへり、是もよしありて聞ゆ、播磨の国明石郡葛江を、万葉六の哥に、藤井ともよミたれバ、江と井とは相通ふ言なり、(頭注終わり)、古事記に、葛木長江曽都毘古《カツラキナガエノソツヒコ》とある長江ハ、大和ノ國葛上郡の地名なり、天武紀には、幸シテ2于朝嬬ニ1、(これも葛上郡の地名にて、仁徳紀の哥に、あさづまの、ひがのをさか、といへるハ、これなり、)以テ看ル2大山以下ノ之馬ヲ於長柄杜《ナガエノモリニ》1、と見え、延喜式神名帳には、葛上郡|長柄《ナガエ》ノ神社と載られたり、是等を相照らして、柄《エ》ハ、元来《モト》江《エ》の假字《カナ》なるを知るべし、さてこゝの長江《ナガエ》といふは、百済《クダラ》狹山《サヤマ》両河の合て、西の海に入とある、堀江《ホリエ》の長きをいふ名にや、(和名抄西成ノ郡に、長源といふ郷名の見えたる、源ハ誤字なるべしと、摂津志にもいひ、又国人もしかいへば、もしくは江の誤にて、堀江の旧名にはあらぬにや、北條九代記に、長江ノ庄、倉橋ノ庄、と見え、今も北堀江に、長江堤の遺跡《アト》もありといへり(以下頭注、長江堤といふは、北堀江阿弥陀池の北、人家の庭に、徃古の遺跡ありと、真嶋林圭いへり、其地理を考るに、彼小谷より西に落る水、決てこゝに流れたるなるべし、)、古圖に長洲川といへるハ、此長江にやあらん、)又按に、仁徳紀に、為ル2橋ヲ於|猪甘津《井ガヒツ》ニ1、即チ号テ2其處ヲ1曰フ小橋ト1也、といへるハ、今猶|味原《アヂハラ》の東南、彼高津よりは北にありて、東小橋《ヒガシヲバセ》、西小橋《ニシヲバセ》とて、其名(393)|存(ノコ)れり、古事記に、堀ル2小椅江《ヲハシエ》ヲ1、とあるは、即この猪甘津の江なれば、大和川も其所《ソコ》にて、百済川狹山川に合て、一流は上古の堀江を西に流れ、一流は今の猪飼村と、猪甘ノ岡の間を經て、北に流れて、山城川と合て、海に入れりとおもハるれバ、(今も故大和川とて、水道のこれり、)その江の長きをもて、名におふしゝにもやあらむ、(又公任卿の哥に、長良江とよめるも有といふハ、已にその比は、となへ誤りしにや、それもし古言ならバ、長は假字にて、流江《ナカラエ》にやあらん、南水の流を堀し江なれハなり、故レ省《ハフ》きては、奈賀江《ナガエ》といひ、延《ノバヘ》ては、奈賀良江《ナガラエ》ともいふ歟、長といふ言も、もと流と、同意の言なるをや、)さて孝徳紀に、白雉元年春正月、幸2味經《アヂフ》ノ宮ニ1觀タマフ2賀正ノ禮ヲ1、とある味經《アヂフ》ハ、今の味原《アヂハラ》にて、(原は、蓬原《ヨモキフ》、淺茅原《アサチフ》の例にて、不《フ》とと訓べけれバ、味原は即|味經《アヂフ》なり、既に万葉集には、味原《アヂフ》宮とあり、)彼高津ノ宮の御跡よりハ、小谷を(上古の堀江の遺跡なり、)北に隔て其名|存《ノコ》れり、こゝに觀タマフ2賀正禮ヲ1と(394)あるもて按に、まづ大極殿の如きを、味經《アヂフ》に造らして、其処《ソコ》に出御ありて、賀正の禮をやうけ給ひけむ、猶常安殿の如きは、仁徳皇后の御跡高津の宮に、ありつるにやあらん、同紀同年冬十二月、從《ヨリ》2大郡《オホクニ》1遷テ居《オマシマス》2新宮ニ1、とある大郡《オホクニ》ハ、(東生郡の旧名といへり、)即チ高津《タカツ》ノ宮をいふと、摂津志にも見え、郷人もしか傳へたり、さて此新宮ハ、彼味經ノ宮に造加られしなるべし、それをしも、難波長柄豊崎《ナニハナガエトヨサキ》宮、と号られたるは、堀江《ホリエ》或は小椅江《ヲハシエ》の長江《ナガエ》に属《ツキ》て、(長柄の柄《エ》ハ、江《エ》の假字なること、上にいふがごとし、)猪甘津《井カヒツ》の崎なれバ、長柄豊崎《ナガエトヨサキ》ノ宮とは、名におふしけむ、故《カレ》この旧地ハ今の味原《アヂハラ》小橋《ヲバセ》のあたりに有へきに必《キハマ》れり、(上にいふ御殿田といふは、味原小橋の邊にはあらぬにや、若しからバ、それぞこの御宮所の跡なるべき、)(以下頭注、再按に、摂津風土記(釈紀所引)に、長楽豊前宮と書ると、公任卿の哥といへる、ながら江とよめるを、併考るに、もと長柄ハ流れ江なるを、それを省て、長江ともいひ、また長良ともいへるにやあらん、猶古書に考て正すべきなり、)(395)聖武紀に、天平十六年、以テ2難波ノ宮ヲ1為2皇都ト1、といへるは、此難波豊崎ノ宮に、再《フタヽヒ》皇居なりし事と見えて、(孝徳天皇の、初め高津の宮に大座しにおなし、)上に所v引、萬葉集金村ノ歌に、忍照《オシテル》、難波乃國者《ナニハノクニハ》、葦垣乃《アシカキノ》、古郷跡《フリヌルサトト》、人皆之《ヒトミナノ》、念息而《オモヒヤミテ》、都禮母無《ツレモナク》、有之間尓《アリシアヒダニ》、といへるハ、この大宮所の、しまらく荒はてゝ、故郷《フルサト》となりぬるをいひ、長柄宮爾《ナガエノミヤニ》、真木柱《マキハシラ》、大高敷而《フトタカシキテ》、といへるは、この御ときまで、豊崎ノ宮の遺《ノコ》れりしを、再ヒ修造《ツク》らして皇居なりしをいへるなり、さて次の句に、味經原尓《アヂフノハラニ》、物部乃《モノヽフノ》、八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》、廬為而《イホリシテ》、都成有《ミヤコナシタリ》、とあれば、長柄《ナガラ》味經《アヂフ》は、相接《アヒツヽキ》たる地にあらでハ協ハず、この哥にていよゝ長柄《ナガエ》ノ宮ハ、味原《アヂハラ》小橋《ヲバセ》の邊なるを、おもひ明らむへき也、(396)また長柄橋の遺跡《アト》ハ郷人の言に、長柄村の東に、橋寺といふ村あり、これその旧地といひ、いにしへの橋柱も、彼所《ソコ》に有《アリ》といへり、又彼橋柱ハ、この長柄村橋寺村の間、こゝかしこより、堀出せり、その所凡壹里(今の里数を云)許が間なり、しかばかり長き橋の有べきにもあらねば、元来《モト》その地ハ洲濱《スハマ》にて、こなたかなたの嶋《シマ》/\に、あまた架《ワタ》せる橋を、なべて長柄の橋とハいへるなるべしといへり、これミなうきたる言にして、すべて信《ウケ》がたし、日本後紀文徳實録にいふ所、一ツの橋なる事いちしろきをや、按に、これも長江《ナガエ》に架《ワタ》せる橋にして、猪甘津の小橋《ヲバシ》ハ、即この長柄《ナガエ》の橋なるべく、小椅江《ヲバシエ》は、(397)即この長柄《ナガエ》なるべし、(小橋の小《ヲ》ハ小國《ヲクニ》小田《ヲタ》などいふ小《ヲ》にて、褒言の添辞なり、)さるを柄《エ》を江《エ》の假字に用たる、旧證ある事をおもハず、長良《ナガラ》とのミ訓ミ来れる、中古の言にひかされ、且《カツ》長良《ナガラ》村の名にかゝづらひて、郷人のあらぬ地《トコロ》をまさぐりをるこそ、いとをこなれ、古昔《イニシヘ》の哥に、ひとつも長柄川とよめるなきは、もと長江なれば、(流江《ナガラエ》にても、)川とはいふましき故もやあるらん、(契冲が川社に、文徳實録に、長柄三國ノ両河とあるを證として、長柄川とも哥によむまじきにあらずといへるハ、ふかくも考ざるひが言なり、おのれもその言にひかされて、初めこの難波に下れるをりの哥に、長柄川とよみつるを、今おもへば非也《アラザリ》けり、すべてふる言ハミだりならぬものぞかし、)うれたきやこれの郷人の、その國に産ながら、さしも名高くたふとき、高津の宮長柄の宮の御跡所を、(398)いづくぞと考定むる人しもなく、かへりては益《ヤウ》なき外國《ヒトクニ》の地理等を、穿鑿《アナグリ》をる輩もありと聞けるは、いかなるたぶれこゝろぞや、(己)たま/\こゝに旅やとりして、あやにくにいにしへしのぶ心の癖に、をこかましくもかゝる考するは、所v謂匠に代るあやまちあるべかめれと、等閑《ナホザリ》に思ひをる輩を、いさゝかおどろかさむとてなむ、伊勢の濱荻よしやあしやは、難波をのこの目には、よくわきまへ知べきものを、
 
(399)代々にかきをける文のかす/\八百かゆく濱のまさこよりもおほかめるをひろく見とのミ見んはやうなきわさにこそ吾五十槻の大人こたミなに波に下り來まして己か輩まてにふる言ををしへ給ふ日ま/\あかりたる世のミやこの御あとゆかしとてふかくかうかへ給ひそこハ長柄こゝハほり江とさだしかきしるし給へるかミのひら十まりになれりしを若山のぬし遷ろほひ行なむを(400)あたらしミてやかてそのはしに言そへておのれにしめし給ひ梓にしてんやときこえこたれぬるにおのれもひろくのミもの見る人をともしミおもひしいきたなき夢のさむるこゝちして猶同しこゝろの人/\にもかゝるまごとをしらしめんとつひに板にゑれることにハなりにたり
寛政十一己未年極月  長富七五三翔
(401)  寛政十二庚申年
敦賀屋九兵衛
柏原屋清右衛門
塩屋忠兵衛
 大坂書林              河内屋喜兵衛
山口屋又一
丹波屋傳兵衛
 
柿本人麻呂事蹟考辨  岡熊臣
入力底本、萬葉集古註釈集成近世編2第17巻、1991.10.25、日本図書センター。
入力者注、漢文の送りがななどの小字は()に入れました。割り注、小書きの字は【】でくくりました。返り点は1、2、v(一字の返り点)u(上点)c(中点)d(下点)で示しました。旧字体異体字誤字等は適宜新字体等にしました。
 
(序文跋文は現在の私の能力ではすらすらと読めませんので後回しにします)
石州津和野藩布施久興
 
柿本人麻呂事蹟考辨
石見  岡真人熊臣 著
此書ハ前ニ京師ノ僧大典ノ所著事蹟考ト云一巻ヲ辨ヘタルナリサテ今見ム人ニ其異見ヲシラセム為ニ彼考ノ全文ヲモ抄出シテソノ誤レル趣ヲ委ニ論ヒ直セリサレド本文ヲ彼考ノ隨ニ引出テハ紛ラハシキコト多ケレバ姑ク此書ニハ標目ノ段々ニ其當ル文段ヲ句断シテ引ツ故ニ考ノ元書トハ文段ノ前後シタル處多シ【サレド全文ハ殘スコトナク引出タリサテ其前後ノタガヒアル処々ハ皆丁附ヲモテ元書ノ次第ヲモ知セタリ又本ヨリ考ニモ諸説ヲ辨へタルコト多シ其ハ説ヨロシキハ皆今辨ヘズ其ハ考ノ隨ニ信ヒテヨサテ又標目ヲ
系譜 生誕 官位 沒處 妻妾附作歌 年齢 墳墓附祠廟 祭祀附影像 高角地【人麻呂肖像附戸田地】並海邊畧圖 贈位 高角祠碑文評
ト凡テ十一條ニ次出タルコトハ見者ノ便ヨカラシメム為ナリ又此書ハコトニ文辭ヲモツクロハズ唯アリニ聞エ易クトノミ記セルハ姑ク意アリテノシワザナルヲ世ノ物識人等勿アヤシメソ】
 
系譜
【事蹟考【一丁ノ表裏】ニ云 人麻呂の事跡タシカナルコト知ガタシ日本紀ノ中ニ其名ヲノセズ倭歌ノミニシテ它ノ事業ナカリシナナルベシ按ニ 天武紀ニ白鳳十年十二月癸巳柿本猿等並十人授小錦下位同十三年十一月大三輪君柿本等五十二氏賜朝臣姓トアリ 元明紀ニ柿本朝臣佐留アリ【コレ上ノ猿ト同人ナルベシ】聖武紀ニ柿本朝臣建石柿本朝臣濱名柿本朝臣市守柿本小玉等アリ姓氏録太和皇別十八氏ノ中ニ柿本朝臣 孝照天皇之王子 天足彦國押人命之後也 敏達天皇御世依家門有柿樹為柿本臣氏コノ姓氏録ハ 嵯峨天皇弘仁四年【序ニハ弘仁六年七月二十日トアリ】萬多等親王及五臣奉勅ノ撰ニシテ海内姓氏ノ系属ヲ具列ス同姓ノ者ナレドモ所出ヲ異ニスレバ再三別出ス然ルニ柿本氏ハ右ニ出ルノ三ナレバ 人麻呂モソノ同族タルコト知ルベシ】
辨云新撰姓氏録大和皇別云柿本臣(ハ)大春(ノ)臣同祖 天足彦國押人命之後也 敏達天皇御世依3家門有2柿樹1為2柿本臣(ノ)氏トアリ押人(ノ)命ハ 孝照天皇ノ皇子ナリサテ 天武天皇紀ニ白鳳十三年云云同十三年十一月柿本臣等云云【此氏ノコトハ予ガ著セル日本書紀ノ傳 天武天皇紀ノ解ニ委ク云ヘリ見ルベシ】 元明天皇紀 聖武天皇紀等ニモ柿本氏ノ人ハ数多見エタルコト考ニ云ヘル如シサレバ 人麻呂モ此氏族ナル事ハ論ナシ系譜ノコトハ考ノ説モ違フコトナシサテ國史ニ其傳ノ漏タル事ヲ和歌ノミニシテ他ノ事業ナカリシ故ナルベシト云ヘルハ非ナリ其辨下ニ云ヘリ唯國史ニ漏タルハ位高カラヌ人ナル故ナリ又他氏ニハ人麻呂ト云人モアレドモ 柿本朝臣人麻呂ハ續日本紀ニ所見ナシ實ニ萬葉集ノ外ニハ見エサル人ナリ 
 
生誕
【【一丁裏ヨリ二丁表ニ至】古来相傳う 人麻呂ハ石見國ノ人也トイフ右姓氏録ニテ見レバ柿本ハ太和國ノ望ナリ人麻呂モ石見ヨリ太和ヘ出仕シテ其ヨリ太和ノ人トナリタルト見ユ【此説下ニイタス】元来ハ太和柿本氏ノ系属ニテ石見ニ生レタル人ニヤ又ハ孩提ニテ石見ヘ流落セルヤ又ハ石見ノ人氏ニテ縁由アリテ太和ノ柿本氏ヲ冒セルヤ其事シルベカラズ然レドモ右姓氏録ニ載柿本氏ノ外トハ謂ベカラズ萬葉集ニモ柿本朝臣人麻呂トアレバ 天武十三年賜朝臣姓ノ文ニ符合ス○【五丁表ヨリ七丁表ニ至】人丸秘密抄(ニ)曰石見國美濃郡戸田(ノ)郷小野ト云処ニ語家命トイフ氏アリアル時後園柿樹ノ下ニ神童マシマス立寄トヘバ答テ曰ワレハ父モナク母モナシ風月ノ主トシテ敷島ノ道ヲシルト夫婦ヨロコビテコレヲ撫育シ後ニ 人丸トナリテ出仕シ和哥ニテ才徳ヲアラハシタマヘリト此説怪談ニチカシ此ニ附テイロ々々ノ説アレドモ賤陋虚妄ノ所見ニシテ却テ先賢ヲ誣辱ストイフベシ混沌ステニ分テ後ハ聖賢トイヘドモ父母ノ遺躰ヲウケザルコトナシ然ラサレバ五行ノ妖精ニシテ人情ノ近クベキニアラズ或ハ生誕沒地ノサダカナラズ暗然タル所ヲモテ神徳ノ高キヲシルベシナドヽ附會欺罔ノ説ヲナス彼八幡春日多武等ノ大神生没ノシレタルハ神徳ヒキシトイフベキヤ人ノ形ヲ受来モノ誰カ父母ナカラム誰カ生死ナカラム況テ咏哥ハ情感ノ動ク上ヨリノモノナレバ無精ノ処ヨリ化生セラルヽ道理ナシ妻死泣血等ノ哥ニテモ 人麻呂ノ情性知ヌベシ】
辨云此上ニモ云ハヾ論ベキコト多カレド総テ要ナキコトハ辨ヘズ全書ノ中此意ヲ得テ見ヨ
【然ルニ語家ノ家今ニアリテ其処ヲ柿本ト名ク 人麻呂ノ小社アリテ語家世々コレヲ守ル語家《カタラヒ》ハカタラフ家ト云義ニテ 人麻呂ノ寄託セラレシヨリノ稱ナリ本姓ハ綾部野《アヤヘノ》氏ナルヨシナリ然モカタラヒ代々ノ通名ニシテ寛保二年ノ頃マデ三十八代血脉相続スシカモスグレテ長壽ナル者多シ先祖ヨリノ譜諜故實ノ書物アリ享保十年八月二十五日ニ梅樹ノ下ヨリ奇物ヲ掘出シ神殿鳴動ノコトアリ此梅樹古ヨリアリシガ今ハ枯テ蘖《ヒコバヘ》アリ又 人麻呂出現セラレシトイフ柿樹アリ其實細ク長シテ末の尖黒ク筆ニ墨ヲソメタルガ如シ因テ筆柿ト名ヅク實アレドモ核ナク老木ニナレバ他ノ柿樹ニツギトム然モ此処ト高角社ノ別當真福寺ノ庭トニ二本アルノミニテ他處ニ接樹トナセバ皆常ノ柿ニ変ズコノコト石見金丸氏筆柿ノ記ニ委クシルセリコレニヨリテ見レバ語家ガコト縁由ナキニアラジモシハ 人麻呂孩提ニテ父母ニ離レ語家ニヤシナハレタル者ナルヤ事實ノシレザルコト惜ムベシ又敦光ノ讃ニ和歌之仙稟性于天一本ニ性ヲ姓ニ作ル然レバ語家ノ説ニ同シテ氏族ナキコトヲ稱スト見ユ然ドモ稟性トアレバ姓ノ字トナスハ誤ナルベシ】
辨云當國美濃(ノ)郡戸田(ノ)郷小野トイフ處ニ語家《カタラヒ》ト云フ民アリ本姓|綾部《アヤベ》氏ナリトイフコトモ考ニ云ヘル如シサレド綾部野ト云ヘル野ハ手爾波《テニハ》ノ之《ノ》ナリ姓ノ字ニ非ズサテ此家今ニ至リテハ相承テ既ニ四十餘世然モ其人(ノ)代々生質魯鈍ニシテ世事ニ狡黠ナルモノナシ且冨ルコトナク貧ナリト云ヘドモ田宅ヲ失ヒ飢※[食+曷]ニ逮フホトノ事モナシワヅカニ祠ニ奉シ田畠ヲ耕耘シテ其日ヲ過スニ足ノミトゾサテ今熊臣熟考ルニモシクハ 人麻呂ノ父京ノ人ニテ大和ノ柿本氏ノ人ナルガ此國ノ府官ノ屬ナドニテ下ラレシガ在任ノ間ニ此国ノ女ニ聘テ男子ヲ生セタルニ任終リテ帰京シタルナドノ孤獨ナリシヲ綾部氏母ノ由縁ナドアリテ養育シ又ハ寄托アリテ扶助セシナドナルベシサル類上世例多キ事ナリ然ラバ語家ト云|稱《ナ》モ 人麻呂ヲカタラヒタルニハ非ズシテ 人麻呂ノ父ノ綾部氏ヲ頼語《カタラヒ》テ孤ヲ預ケ置レシヨリノ名ニモアルベシサル故ニ本姓綾部氏ナルガ語家《カタラヒ》ハ世々ノ通稱トナレルニヤ又上代國々ニ語部トイフモノ有シカバ【大嘗会ノ語部トハ別ナルベシ】※[人偏+尚]クハ語部ナル綾部氏ニハアラズヤトイフ人モアリ左ニ右ニ語家 人麻呂ニ由縁ナキモノニハアラジ享保十年八月廿五日語家ガ宅邊梅樹ノ下ヨリ奇キ壷ノ如キ陶器ヲ掘出シタルコト考ニ云ル如ク即里長ヨリ訴ヘテ國守ノ聽ニ達シケルニ命有テ本ノ如ク土ヲ封シ埋斂セシトゾ又宅ノ庭ニ古墓アリ語家ガ先祖ノ塚トイフコレ疑クハ 人麻呂母族ナドノ墓ニモヤアラム又語家先祖ヨリ傳タル書巻アリ与モ一見セシガ 人麻呂生誕已来ノ傳記タシカナル事ハナク却テ近代好事ノ者ノ所為トオボシキ事ノミ多ケレバ更ニ據トナシガタシ
 
官位
【【十丁裏ヨリ十二丁表ニ至】人麻呂在石見臨死時云々トアリ延喜式ニ六位已下曰死壬生忠峯長哥ニモアハレイニシヘアリキテフ 人麻呂コソハウレシケレ身ハ下ナガラ言ノハヲ天ツソラマデキコエアゲシトアレバ六位已上ニ隆ラヌ人ナリ敦光ノ讚紀淑則古今集ノ序ニモ柿本太夫ト稱セシハ六位ニテノ稱呼ナルベシ古今假名序ニハオホキミツノ位 柿本人麻呂トアリ宗祇ガ説ニ 人丸位ノコト公卿補任ニ見エズ入道亜相為家卿ノ説ニコレハ正六位ノコトナリ陸奥ヲムツノクトモミツノクトモイフガ如クミム相通ナリト又一書ニ 人丸没後ニ 朝廷ヨリ正三位ヲ贈ラル古今ノ序ニハ贈位ニテ書タルナリト右ノ二説各其裡アリ詞林采葉ニ石見風土記ヲ引テ 天武帝四年三月九日叙三位兼播磨守ト云リ 天武四年ノ時ハ 人麻呂十歳バカリニ當テ從石見國別妻上来ヨリモ十年余已前ナレバ一向アタラズモシハ 文武ヲ誤テ 天武トカケルカ 文武四年ナレバ 人麻呂三十歳バカリニアタル然ドモ當時ノ例格ニテ考ルニタトヘ 人麻呂清門ノ人タリトモタヤスク三位ニ進ムベキニアラズ風土記ノ説信ズルニタラズ】
辨云薨卒死ナドイフ定ハモト今ノ法ニテ延喜式ヨリハ遐ニ已前ヨリノ事ナリ又古今集ノ序ハ淑望ナリ淑則ニハアラジ又風土記ノ説ヲ信ズルニ不足ト云ヘルハサルコトナルヲ上ニ此二説各其裡アリト云ヘルハ風土記ノ説ヲモ其裡アリト云ルゴトキコユルハイカヾ
【又 人麻呂石見権守ニ任ズ或ハ石見介ニテ終ラレシナドノ説アレドモ憑據ナシ高角山ハ海上ヘサシイデヽ嶋ニモ同ク後ニ崩テ海トナル程ノ處ナレバ石見守護職ノヲルベキ處ニアラジソノ上カモヤマヤイハミノヤノ歌ヲ見ルニワビシキ獨居ノ躰ナルコト思ベシ】
辨云岡部翁曰契沖僧ノ説ニ萬葉集第二 日並知皇子尊薨時 人麻呂ノ奉傷歌ハ 持統天皇朱鳥三年四月ナリ是ヨリ前ニ石見國ヨリ別妻上京ノ歌アリ藤原(ノ)宮トイフ下ニアリテ歌詞ニ黄楓葉ノチリノマガヒニトアレバ朱鳥元年二年ノ間ノ九月頃ナルベシ 天武ノ朝ニ石見屬官ナドニテ下ラレタルニヤ大寶ノ頃ハ京ニアリテ其後又石見ヘ下リテ死タレバ 持統 文武両朝ノ人ナルコト論ナシ同巻藤原(ノ)宮ノ標下ニ 柿本朝臣人麻呂在2石見國1臨v死時自傷作歌又 柿本(ノ)朝臣人麻呂死(スル)時妻|依羅娘女《ヨサミノラツメ》作歌トアル此二處ニ死トカケレバ六位バカリノ人ナルコト知ベシ今ノ法云々六位已下曰死ナリスベテコレマデノ説考ノ趣モ專違フコトナシ又同巻ニ 高市皇子殯宮ノ歌ノ返歌ニ舎人ハ迷フトアレバ其頃ハ舎人ニテ其後石見ニ任セラレタルラナルベシ【上説百人一首ノ解ニ出タリ此説ヨロシ萬葉考別記ノ説ハ小異ナリ下ニ論ズベシ】又古今集ノ序文ハ正六位ノ通音ヲ以テ記セリト宗祇ガ説然モアルベシ又教子《ヲシヘコ》ナル三好(ノ)義英ガ云通音ニテ記サレタリトノ説一ワタリハサル事ナガラ事モアルベキニ六位ヲ三位トシルサンコトハイカニトモ有ベキコトナラズサレバ本ハコノ位ノ數ノ字ハ真名ヲ草書シタルヨリ紛レタルニハアラスカ數オ字ハオノヅカラ真名ニモ書ベク又草書スベキハ本ヨリナリ云云々《カクナム》ナトヤウニ草書ハイトヨク似タリト云ヘリ此考シカルベシ忠岑ノ歌ノ趣ナドヲ思フニモ高位ノ人ニハアラサリシナリ石見國ノ屬官バカリノ人ナラバ五位ニハ至ラヌナルベシ抑上代ノ六位ハ後世ノ六位トハ大ニ異ナリ今時ノ位階ニ比擬セバ凡三位バカリニモ當ルベシ 人麻呂タトヒ蔭子ノ出身ニモセヨ石見ヨリ起リテ六位ニ昇リ國府ノ官人ニモ任セラレタルハ高行異才アラズシテハ得難キコトナリ必後世ノ格ト同ク思フベカラズ時代ノ趣ヲ可考コトナリ且古代ノ官途正六位(ノ)上ヲ難處トセリ此階ヲ越レバ五位トナル此故ニコトヽアルヲリ位階ヲ加ヘラルヽコトアリテモ正六位上ニハ物ヲ給ヒテ昇進ノ代リトセラルヽコト例ナリ五位ニ昇ルコトハ誠ニ殊ナル勲功ナクテハナラヌコト古ノ國史ヲ見テシルベシ如此ナルユヱニ 人麻呂モ正六位上ニテ終ラレケムコト思フベシ又岡部翁モ云ヘル如ク 人麻呂ハ殊ニ勇武ヲ備ヘ學才アリシ人ト見ユルナリソノ証ハ作リ給ヘル歌ノ躰誠ニ其長歌ハ雲風ニ乘テ御空行龍ノ如ク詞ハ大海原ニ八百潮ノ涌ガ如シ短歌ノ詞ハ葛城襲彦ガ真弓ヲ引鳴サムガ如シ深キ悲ヲ云時ハ千早振武士ヲモ泣シムベシイツモ神世ノ古事ヲホノカニ詠イデヽ其意バヘニ忠心ノ操サヘ顯レタリ其上両度マデ 皇太子ノ舎人ニ補セラレタルヲ以テ武藝練習セラレタルコト可推量ナリ不幸ニシテ二度マデ 儲宮ノ薨逝ニ遭テ時ヲ失ナハレシ事ヤ思フニ如此事トモ官位昇進ノ碍リトハナリケルナルベシ然ルニ考ノ初ニ國史ニ傳ノ無コトヲ論テ和歌ノミニシテ外ノ事業ナカリシ人ナルベシト云ヘルハ未シキ論ナリ又石見(ノ)権(ノ)守ニ任ズ或ハ石見(ノ)介ニテ終ラレシナドノ説ヲ慥ナル据証ナシトテ一向ニハスツマジキコト上ニ辨フル如シ但シサルサマニ官名ナドヲサダカニハ云ヒガタキコトナルベシ又高角山ト云ヘルハ鴨山ノコトナルベキヲ此山ノ岩根シマケルト詠タマヒシヲ以テ必此處ニ居住ノ事ナラデハ合ハヌヤウニ意得サテ其處ハ後ニ津浪ニ崩レタルホドノ處ニテ嶋ニモ同キ地ナルベケレバ國守ナドノ居ベキ処ニアラズト思ヘルハ最カタクナニ殊ニ上世ノサマヲワキマヘヌ説ナリ國守ハ本ヨリ府ニ居モノナルヲヤサレドモ又イカナル事ニヨリテ鴨山ノアタリニテ身マカルマジキニモアラズ此事次ノ没處ノ條ニ論辨アリ見ルベシ又鴨山ヤ石見野ヤノ歌ヲ見ルニワビシキ獨居ノ躰ナルコト思フベシト云ヘルハ殊ニ歌ヲモ得シラヌ鄙論ナリ又此辞世トイフ歌モ本ヨリ 人麻呂ノ作ナラヌコトハイフモ今更ナレドヨシ姑ク 人麻呂ノ自作トシテアラムニモ是等ノ歌ニ獨居ワビ住ノ意ノ見エタルコトナシ
 
没處
【【八丁表ヨリ九丁表ニ至】按ズルニ 人麻呂石見ノ高角山ニ終ラルヽコト其事跡アキラカニシテ諸書ニ載タリ然ドモ添郡哥塚ノコト清輔筆記ニモ著ルレバコレマタ後世ノ附會ニアラズ然レバ上ニ論ズル如ク 人麻呂都ヘノボリ都人トナリ妻子モ都ニアリテ 人麻呂没後ニ遺骸ヲ太和ヘ返シ葬ルナラム霊亀三年稲名真人越後ニテ卒シ火浴シテ太和葛下郡ヘ返シ葬リ近来其墓アバケテ墓誌世ニ出タリ又萬葉ニ土形ノ娘子火葬泊瀬山時ト出雲娘子火葬吉野時トノ 人麻呂ノ哥アリ 人麻呂モ火浴シテ泊瀬ニ皈シ葬リタルコトモアルベキナリ但寂蓮ノ題ニ柿本明神トアリ此墓ノ処ニ 人麻呂ノ祠アルコトヲキカズモシハ道春社トイヘルガ 人麻呂ノコトナリヤイブカシ】
辨云石見國ナルコト論ナシ然ルヲ高角ノ地ト云ニツキ論ベキコトアリ先萬葉集ニ 人麻呂在石見國臨死時自傷作歌トアルコノ在ノ字ハモト京人ナルガ石見ニ於テ歿ニ臨マレシ時トイフ意ナリ等閑ニ見過スコトナカレサテ府務ノ官人ナラバ國府ニテ死スベキコトナリ然ルヲ其歌ニ鴨山ノ岩根シマケルトアレバ必其鴨山ノ邊ニテ死給ヘルハウタガヒナシサレバ先其鴨山ノ地ヲ論ズベシ或人云上代高角浦鴨山鴨嶌ナド云ヒシハ北國通路ノ大湊ニテヨロシキ船ツキナリシヨシナレバ國府ノ官人ナド海路ヨリ徃来スルハ難波津ヨリ發船シ長門ノ海ヲ北ヘ旋テ此湊ヨリ上陸セシニテモアルベシ
【長門國大津郡向津浦 人麻呂社縁起ニ云【コハイト近キ享保年間ニシルシタルナリ】和銅三年多々良濱ヲ出西海ノ波濤ニ漂ヒ長門國大津郡奥ノ入江ニ着等給フ此処ノ絶景他ニ異ナリトテ三年ノ春秋ヲ送リタマヒヌ朝ナ夕ナ向津ノ眺望ニ 向津ノオクノ入江ノ漣ニ海苔カクアマノ袖ハス(ママ「ヌ」か)レツヽサテ年老テ後石見國高角ニテ終焉(ニ)ナムナムトシテ自悼テ哥ヲヨム云々下畧今按ズルニスベテ此縁起ニイヘル 人麻呂讒言ニアヒテ左遷トイヒ又異國ヨリ鬼神渡リテ調伏ノ為ニ筑紫ニ下リタマヘルナド云ルハ例ノ跡ナシ言ナレド 人麻呂ノ此処ニ泊タマヘルト云ハ※[人偏+尚]クハ據アルコトニヤ又又向津ノ奥ノ入江ノ哥モイカニゾヤアレド然傳説モ舊キコトニテ宗祇法師ガ長門(ノ)國向津ニテ 人麻呂ノ詠ゼシ蹤ヲナガメテ向津ノ海海苔カク蜑ノ袖ニマタ思ハズ濡ス我旅衣トカキオキツル色紙今モ彼社坊大願寺ニアリトゾサレド猶コノ宗祇ガトイフ物モイカニアラム此事ハ長門藩安部行貞ノ記セルモノアリト我徒同藩ノ永安尚古ガイヒオコセタリ】
※[人偏+尚]然ラバ 人麻呂モ府ノ属カ又ハ臨時ノ詔使ナドニテ帰京ノ時節此高角湊鴨山ノアリシアタリヨリ船出ソ給ハムトスル間ニ俄ニ病ニ羅リテノ事ニヤト云ヘリ又一説ニハ鴨山トイフハ古代ノ葬地ニテ府ノ官人ナドモ在國ノ間ニ死タルハ此處ニ葬リシニヤト云ヘリ今按ズルニ此後説は 孝徳ノ御世ノ制ヨリ墓處ハ諸國トモニ宜(ク)d定2一所1而収埋u不v得3汚穢散2埋處タトアルヲ思テ歌ノシマケルトイフ詞ヲ葬ト見シヨリ此説ヲナセリ然レドモ此説ノ如クニテハ鴨山ノ岩根シマケルト作タマヘルハ國府ニテ病タマヘルホドノ作ニテ我身死タラバ鴨山ニ葬ラレムト兼テ宣ヘルト見ザレハ合ヒカダシサテハ鴨山ノ地高角ニテハ少シカヾナリ國府ヨリ高角ノ地今道十余里ヲ隔テ葬地アラムコトモイカニゾヤ宜定一所トハアレドモ一國中必一所ト云ニハアラジ凡便宜ノ地方ニコソ定メラレケメサレバ此御歌ハ鴨山ノアタリニテノ作ナラデハ解難シ又一説ニ風土記【是ハ上代ノ實ノ風土記ニ非ス後人ノ集録セ モノナルベシ】ニ拠バ鴨山ハ美濃郡益田城山ヲイフ或ハ那賀郡濱田城山ヲ云トモイヘリト今又按ズルニ益田城山トイフコト更ニ※[手偏+處]ナシ又濱田城山トイハヾ上代國府ノアタリ近キ地ニシテコトニ石川トイフモ彼城山ノ麓ヲ流ルヽ川ノコトナドイフ人モアレバ少シ似ツカハシサレドモ今古現ニ 人麻呂ノ祠ノ存在スルヲ以モ高角ノ地トスルコト動クベカラズ【今濱田城山ノ傍ニ住吉ノ祠アリ其境内ニ 人麻呂ノ小祠アリ何ノ世ヨリアリキタレルヤシラズ】熊臣今右等ノ諸説ヲ合テ尚熟考ルニ上ニ或人モ云ヘル如ク今ノ高角ノ地古代ハヨロシキ船着ニテ湊口ニ鴨島トテ一ツノ嶋アリテ其處ニ家居数百軒アリ其山ヲ鴨山ト云梵刹ナドモアリテ中ニモ前濱後濱ト云フニ千福万福トテ二大寺アリ【彼万福寺ハ萬壽大變ノ後益田郷ニ移建テ今ニ存シ千福寺ハ遂ニ廃レテ今空ク古高角ノ海辺ニ千福寺渡トイフ川ノ名ニノミ殘レリ是即ソノ跡ナリトイヘリ】其外青樓花街軒ヲ並テ最繁華ノ地ニテ北洋徃還ノ泊船日夜ツドヒテ大ナル湊ナリシガ 後一条帝ノ御宇萬壽三年丙寅五月津濤ノ為ニユリ崩サレテ鴨山ナクナリシカバ船入ノ便モ悪クナリテ遂ニ今ノ如キ地トハナレリシナルベシ今現ニ古高角浦ノ川底海岸ノ沙中ナドニ礎石或ハ石塔五輪ナドノ多ク埋レテアルガ皆古代ノモノナルニテ知ルヘシ【此処ノ近村久代村大喜庵ト云ニ画師雪舟ノ墓アリ是墓石ハ海中ヨリ拾ヒ出タル古石ナリト云此辺ニテハ右ノ外ニモ古キ埋石ヲ得テ墓ナドニ立ル者間多キナリ又井ヲ掘ニ地底ニ大木ノ横タハレルガ有テ井ノ調ハサリシコトナドモアリシトゾ】サテ此事ハ古老ノ傳フル處ニシテ縁起ノ説ニモ符合セリサレバ上代ニハ此高角ノ地ニ遊女ナドモ有テ國府ノ官人ナドモヲリフシハ逍遙モシ遊女ナドハ船路ヨリ府ニモ通ヒナドモセシナルヘシ故ニ 人麻呂ノ忍妻モ此處ニ住シニヤ陸路十餘里ヲ隔ツレドモ海上ハ船ノ徃還順風半日ニ不過況ヤ常ニ繁華ノ地ナラバ私妻アラムコト異ニ不足又 人麻呂ノ此地ニ病シタマヘルハ郷里ノ近地ナレハ母族ノ由縁ナド有シカ又ハ班田墾地ナドノ政事ニテ此地逗留ノ間カ猶云ハヾ 人麻呂不ノ屬官ナガラモ古モシ上文ノ如キ地ニテ海船ノ出入多クバヲリニハ官船ナドモ出入スベケレバサルスチニツキテ鑑務ノ事ナドモ多カルベケレバソノ官ニテ即高角ニ居賜ヒケムコトモ又知ルベカラズ必此類ノコトナルヘシ故ニ哥ノ意モ予ヲ以テ見レバ鴨山邇キアタリニテソノ病今々トナリ給ヘルマヽニ直ニ其山ヲ枕ニ巻テト作セ給ヘルナリ此君ノ御心イツモカク高大ナルハ御生質ニテ萬世歌聖ト仰奉ル所以ナリ必シモ常ニ葬スル山ナラズトモ今死スベキ際ニ其地ノ山ヲ作タマヘルコト何カアラム且此高角ノ地妻女ノ由縁ナトモ有ケルニヤト思ハル【其由尚下文ニ論フコトアリ】此故ニ今予ガ此書ニハ舊説ニ従ヒテ 人麻呂ノ沒處鴨山ノ地ハ今ノ高角ト定テ生涯ノ大概ヲ辨フルモノナリ【伴蒿蹊ガ閑田次筆ニモ高角湊ノ古代繁華ナリシヨシ記セリ近年松崎碑文ニモコノ事ヲ記サレテ古老ノ傳説今ハ凡治定ノ趣ニナリヌレバ予カ説モトヨリ真意ニ非サルナリ】然ルヲ 人麻呂ハ 元明天皇以後致仕シテ石見ニ下リ高角山ニ隠棲シワビシキ獨身ノ病床ニ臥シ山間ノ月ヲ吟ジテ世ヲ終ラレシトヤウニ記シタルハ甚キ謬説ナリ其ハ彼ノ辭世ノ歌ト云ヲ真ノ 人麻呂ノ哥ト思ヒタルニヤ【此コト上ノ官位ノ条ニモイヘリ合セ見ヨ】此辞世ト云歌ハ極テ後人ノ附會ニテ云ニモ不足モノナリ上句ハ従2石見別v妻上来時ノ長歌ノ反歌ナリ下句ハキハメテ後人ノ口調《クチツキ》ナリ且 人麻呂致仕シテ石見ニ隠棲セラレバ必妻ヲ京ニ殘サルベキニ非ズ其上妻ノ歌ニ今日今日ト待ヨシナレバ必客中ニテ病死アリシコト論ナキヲヤ又俗説ニ 人麻呂殿上ニテ和歌ノ讒言ニ遭テ流竄ノ身トナリタマヘルナドイフモノハ無稽ノ甚キ殊ニ神聖ヲ涜シ奉ル罪口舌ニ掛ルモ恐アリ【此条次ノ条ト通考スヘシ】
 
妻妾 附作歌
【二丁表ヨリ四丁裏ニ至】萬葉集第二巻ニ 柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時ノ歌二首并ニ短哥アリ其短哥ハ「云々 「云々】
辨云コレラノ歌ハ下ニ挙テ云レバ此處ニハ略ケリ下効之
【次ニ妻依羅娘子與 人麻呂相別哥アリ「云々萬葉集ノ次第ニテ按レバ 持統天皇朱鳥ノ初ノ頃ナルベシ 【天武十四年次朱鳥元年ナリ】 人麻呂入京ノ後 輕皇子 【文武天皇ノコトナリ】 【長皇子 新田部皇子 高市皇子 忍坂部皇子 泊瀬部皇子等ト和哥ノ交アリ】
辨云交ト云ヘルハイカニゾヤ西戎《モロコシ》ニ隠者賢者ナド云ヘル者ドモノ無躰ニ高ブリ驕ルヲ彼國ニテハ徳ヲ貴ムトカ云テサル無位下賤ノ者ドモヽ其國ニテハ高貴ノ者ドモニモ同等ナルホドヨリモコエテ立フルマヒスベテ貴賤ノ際モタチガタキ事アルソレラヲ思ヒテ云ルニヤ六位バカリノ人ノイカデ皇子達ニ交ナド云ベキコトノアルベキヤ甚キ云ヒ過シナリ
【又紀伊伊勢雷岳吉野ノ行幸ニ陪従セル哥アリ又近江石見筑紫ノ諸國ヲ遊歴セル詠アリ皆萬葉集ニ見ユ 持統三年ノ頃ニ悼 草壁皇子哥アリ同十年丙申七月 高市皇子殯宮之時ノ哥アリ其次ニ 人麻呂妻死ノ後泣血哀慟作哥ヲノス歌中ニカタミオケルミドリゴノコヒナクト云辭アレバ此妻ニ子アリシナリ又短歌ニ「云々此妻ハ上ノ依羅ニハ非ズシテ都ニテ聘シ女ナルベシ 文武天皇四年 明日皇女殯宮時(ノ)哥アリ其末ニ 人麻呂在石見國臨死時自傷作歌ト 人麻呂死時妻依羅娘子作哥トヲ載ス 人麻呂ノ哥「云々依羅娘子ガ哥「云々「云々【鴨山ハ高角山ノ一名又カモ島トイフイシカハヽ高角川ナリ今舟渡アリ】次ニ丹日真人擬 人麻呂之意報哥アリ「云々右ノ歌意ニテ按ズルニ 人麻呂都ヲ出テ石見ヘ下リ高角山ニテ終ラレ依羅ハ都ニアリシト見ユ然レバ上ノ妻死ノ後ニ依羅ヲ都ヘ召取ト見エタリカク見ザレバ萬葉ノ前後紛乱ス敦光ノ讚ニモ仕 持統 文武之両朝【全文下ニイダス】トアレバ 元明以後ハ致仕セラレシト見エタリ【元明ノ和銅元年ヨリ人丸死ケル聖武ノ神亀元年マデ十二年ノ間ナリ】何故ニ石見ヘクダリ高角山ニ獨スミテ終ラレシニヤ其縁由シルベカラズ又辞世ノ哥アリ「云々此哥ハ万葉集ニノセズ 人丸家集ニ出テ世ニアマネク知モノナリ】
辨云此處ノ非説ドモノ辨ハ前ノ歿處ノ條ニ委ク云ヘリ併考テシルベキナリ 人麻呂妻妾ノコト岡部翁ノ萬葉考別記ニ委ク論ラハレタリ然ルヲ予亦少カ論ベシ抑初ニ別妻上京セラレシハ契冲ノ説ノ如ク朱鳥ノ初トシテ其時ノ上京ハ妻ハ高角ニ居リ人麻呂ハ國府ヨリ立テ陸路ヲ出雲ヘ出テ上リ給ヘルナリ萬葉集二巻 柿本(ノ)朝臣人麻呂従2石見國1別v妻上(リ)来(ル)時作(ル)歌二首并短歌
石見乃海《イハミノミ》。角乃浦回乎《ツヌノウラワヲ》。浦無等《ウラナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。滷無等《カタナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。能咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者無友《ウラハナケトモ》。縦畫屋師《ヨシヱヤシ》。滷者無鞆《カタハナケトモ》。鯨魚取《イサナトリ》。海邊乎指而《ウナヒヲサシテ》。和多豆乃《ワタヅノ》。荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》。香青生《カアヲナル》。玉藻息津藻《タマモオキツモ》。朝羽振《アサハフル》。風社依米《カセコソヨラメ》。夕羽振《ユフハフル》。浪社來縁《ナミコソキヨレ》。浪之共《ナミノムタ》。彼縁此依《カヨリカクヨリ》。玉藻成《タマモナス》。依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》。露霜乃《ツユシモノ》。置而之来者《オキテシクレバ》。此道乃《コノミチノ》。八十隈毎《ヤソクマゴトニ》。萬段《ヨロヅタビ》。顧為騰《カヘリミスレド》。弥遠爾《イヤトホニ》。里者放奴《サトハサカリヌ》。益高尓《イヤタカニ》。山毛越来奴《ヤマモコエキヌ》。夏草之《ナツクサノ》。念思奈要而《オモヒシナエテ》。志怒布良武《シヌブラム》。妹之門將見《イモガカドミム》。靡此山《ナビケコノヤマ》。
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石見乃也《イハミノヤ》。高角山之《タカツヌヤマノ》。木際従《コノマヨリ》。我振袖乎《ワガフルソデヲ》。妹見都良武香《イモミツラムカ》。
小竹之葉者《サヽノハハ》。三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》。亂友《サワケドモ》。吾者妹思《ワレハイモオモフ》。別来禮婆《ワカレキツレバ》。
今按ズルニ此歌ハ國府ヨリ立テ上京シ給ヘル日ノ作ナリサテ古ノ國府ハ今那賀郡濱田城下ヨリ東北一里餘ノ地ナリ【今上コウ下コウト云蓋國府ノ訛ナリ】角浦ハ和名抄ニ那賀郡|津農《ツヌ》トアリ今|都農津《ツノヅ》ト云地ナリゲニモ此海辺ノサマヨ浦モナシ滷モナシトイ云フベキサマナリサレバ 人麻呂此処ノ浦曲ノ状ヲ覧テ彼ノ高角湊ノイカニナド思シツヾケタマヘルアハレナリ和多豆乃トアル句岡部翁ノ考ニモ爾岐多豆乃ト訓テ論アレトモ皆非ナリ予先ニ考ヲ見テ即那賀郡渡津ノコトヽシテ此句ヲ四言ノ句トス其後畧解ヲ見ルニ鈴屋翁既ク此説アリ渡津村ハ國府ヨリ五里バカリ江ノ川ヲ渡リテ即海辺ナリ此磯コトニ荒磯ナリ【今此村ノ並ニ塩田ト云村アリ其浦辺ヲ荒磯ト云ヨシ郷田ヨリ出雲堺マデノ海辺ノ地名ヲ記タルモノニ見エタリサラバ哥ニ荒磯乃上トアルモ即地名ニテ今ニ其名ヲ存セルナルベシ但シカヽル事ニハ後人ノ附會多ケレバ此哥ニヨリテ 其名ヲ設タルモ知ルベカラスサレド今世ハ專地名ニテ有ナリ】玉藻成依寝シ妹トイフ句ヨリ皆高角(ノ)里ニ殘シ置レタル妻ヲ思ヒヤリ給ヘルニテ誠ニ其アタリノ海辺ヨリハ如斯モ思シツヾケタマフヘキ地ノ形勢ナリ風コソヨラメ浪コソ来ヨレト作セ給ヘルヲ見レバ此婦ヲリフシハ舟ニ乗テ来シコトナドアリシニヤ然ル故ニ殊ニ風波ヲ見テ感有シナルベシ又反歌ニ高角山ノ木際ヨリトハ 人麻呂ノ道ニ出テ舊タマフ御衣手ヲ妹ハ高角山ニ登リテ見送リツラムカト作セ給ヘルナリ此地高角ヲ距コト行程十五六里バカリナルヲ如此山ダニ靡カバウチ見ワタシモスベキ状ニ思シケムシカモ打アテヽ靡ケト宣ヒカケシ御心ザマノ雄々シキ位モアラハレテイト畏シ又一首ハ
角障經《ツヌサハフ》。石見之海之《イハミノウミノ》。言佐敝久《コトサヘク》。辛乃埼有《カラノサキナル》。伊久里尓曽《イクリニソ》。深海松生流《フカミルオフル》。荒礒尓曽《アリソニソ》。玉藻者生流《タマモハオフル》。玉藻成《タマモナス》。靡寐之兒乎《ナヒキネシコヲ》。深海松乃《フカミルノ》。深目手思騰《フカメテモヘド》。左宿夜者《サヌルヨハ》。幾毛不有《イクラモアラズ》。延都多乃《ハフツタノ》。別之來者《ワカレシクレハ》。肝向《キモムカフ》。心乎痛《コヽロヲイタミ》。念乍《オモヒツヽ》。顧為騰《カヘリミスレト》。大舟之《オホフネノ》。渡乃山之《ワタリノヤマノ》。黄葉乃《モミヂバノ》。散之亂尓《チリノマガヒニ》。妹袖《イモカソテ》。清尓毛不見《サヤニモミエス》。嬬隠有《ツマコモル》。屋上乃山乃《ヤカミノヤマノ》。自雲間《クモマヨリ》。渡相月乃《ワタラフツキノ》。雖惜《ヲシケドモ》。隠比來者《カクロヒクレバ》。天傳《アマツタフ》。入日刺奴醴《イリヒサシヌレ》。丈夫跡《マスラヲト》。念有吾毛《オモヘルワレモ》。敷妙乃《シキタヘノ》。衣袖者《コロモノソテハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
反歌
青駒之《アヲコマノ》。足掻乎速《アカキヲハヤミ》。雲居曽《クモヰニソ》。妹之當乎《イモカアタリヲ》。過而來計類《スキテキニケル》。
秋山尓《アキヤマニ》。落黄葉《オツルモミチバ》。須臾者《シハラクハ》。勿散亂曽《チリナミタリソ》。妹之當將見《イモカアタリミム》。
今按ズルニ岡部翁云此度ノ上京ハ朝集使ニテ假ニ上リ給ヘルナルベシ其ハ十一月一日ノ官會ニ遇ナレバ石見ナドヨリハ九月ノ末十月ノ初頃ニ立ベシト此説可然ナリ辛崎ハ石見名所集【濱田藩松平新清ト云人ノ撰ナリ】ニ邇摩郡宅野トアリ【此海辺ニ近ク今唐嶋ト云アリ樹木モアリテ官林ナリトゾ又其処ニ孟磯ト云地モアリモシコレニ依バ哥ナルモ上ト同ク地名トモスベクヤ又其東ニ遠カラズ長ク海ヘ突出タル地ヲ大浦ノ崎ト云フ下ノ海辺畧圖ト合セ見ルベシ】此説モシ據アラバ歌ノサマニ能カナヘリ其ハイカニト云ニ前ノ一首ハ府ヲ立シ日ノ朝ノ作ナリ此一首ハ其日ノ夕昏ノ作ナルベシ渡ノ山八上山ヲ岡部翁ハ邑智郡渡(リ)村矢上村ナリト定メラレタリ今熊臣考ルニ必邑智郡ニハ非ジ 人麻呂ノ歸京此度ハ朝集使ニモセヨ任限ノ帰京ニモセヨ國府ヲ立テ邇摩郡安濃郡ヲ歴テ出雲路ノ方ヘイデヽ上リ給ヘルナリ渡村矢上村ナド云地ハ今邑智郡ニアレドモソハ安藝備後ノ方ヘイヅル道ニテ古代ノ驛路ニ非ズ官人ハ間道ヲ經ベキニアラズ必驛路ヲ通ルベシ今那賀郡|江《ゴウ》ノ河近辺ニ八神村アリ若クハ此アタリヲ作給ヘルカ故古代ノ驛路ヲ考ルニ出雲國ヨリ入来テ波禰《ハネ》託濃《タクノ》樟道《クスミチ》江東江西|伊甘《イカム》トアレバ 人麻呂モ府ヨリ此驛路ヲ過タマハムニマヅ伊甘ハ國府ノ近辺ニ式内伊甘(ノ)神社アリ此アタリナルベシ角(ノ)浦モ其アタリ遠カラズ江西ハ江ノ川ノ西ナレバ今ノ郷田《コウタ》村ノアタリナラム江東ハ川ノ東ナレバ今ノ大田村【此二村ノ名は供ニ江西江東ノ訛轉ニテハナキカ】渡津村ノアタリナルベシ八神村モ此アタリ遠カラズサテ樟道ト云名今モ有カシラズサレドモ是必江ノ川ヨリ託農マデノ間ナルコト知ベシ思フニ今|福光《フクミツ》ト云處若クハ樟道ノ訛轉ニテハナキカ玖須美知《クスミチ》布玖美都《フクミツ》音ノ近ク似タルナリ【教子水津虎臣云樟道ハ仁万村ノコナタ馬路村トノ間ニ今|神子路《カムコオチ》村ト云アリ其処ノ濱路ヲ歩メバ琴ヲヒク音ノスルニヨリテ俗ニ琴ノ濱トモ鳴《ナル》濱トモイフ其間凡二十町可モヤアラムコハ己徃来シテシル処ナリサテウガチタル説ナガラ神子路ハ若ハクヌシキ道ニテハナキカ試ニセメテイフナリトイヘリ】且此アタリ土人言語常ニナマリ多ケレバ音ノ轉ゼルモ知ルベカラズ託農《タクノ》波禰《ハネ》トモニ今現ニ其地名アリテイヅレモ海辺ナリ羽根《ハネ》(ノ)驛ヨリ出雲ヘ通フ道古モ今ト同ジカリシニヤ其ハ不知サテ試ニ云ハヾ渡山ハ彼江ノ川(ノ)東岸ヲ過テ渡津塩田ナド云地アリテソレヨリ淺利村ヘ越ル間ノ山坂ヲ今淺利中山ト云※[人偏+尚]コレヲ作給ヘルカイカニト云ニ江ノ川最大ナル川ナレバ是ヲ渡リタル状ヲ以テ渡(リ)津ト名ヅケサテ其ヲ歌ニハ和多豆乃ト作セタマヒヤガテ其處ノ山ナレバ渡リノ山トモ作給ヘルニヤ上文ニ云ヘル辛崎モシ宅農ノアタリナラバ殊ニ顧タル状ナレバ渡ノ山ニ黄楓ノ散ト云八神山ニ傾ク月ヲ云ヘル譬喩ナガラ能地理ニ合ヒタリ雖然マタ歌ハ遥ニ見ヤリテモ作ベケレバ必又過ル道ナラズトモアルベシサテ上ノ哥ドモノ意ヲ考ルニ此妻必オシ晴タル夫婦ニハ非ズシテ里隔タル私妻ナリ此女高角ニ住シコト上ノ反哥ニテ論ナシ國府ヨリ遥ノ里程ヲ歴テ恐妻アラムコト如何ニト云人モアルベケレドモ其ハ上文ニモ論ゼシ如ク舟ニテ徃来セバ私妻ハアルマジキニ非ズ且数度モ會給ハヌ状ナレバ道程ノ遠カラムモ推量ルベシ或説ニ此女ヲ依羅娘子ナリトスルハ萬葉集ノ此次ニ依羅娘子與 人麻呂相別歌一首
勿念跡《ナモヒソト》。君者雖言《キミハイヘドモ》。相時《アハムトキ》。何時跡知而加《イツトシリテカ》。吾不戀有牟《ワガコヒザラム》。
ト云歌ヲ載タレバ據ナキニモ非ズ岡部翁ハ此娘子ハ京ニ殘居ルホド 人麻呂假ニ朝集使ニ上リテ會タルガ又別レ下ル時ノ哥ナリト云レタリ今按ズルニ此説イカニゾヤ思フニ上ノ長歌ニ作レタル高角ナル女ノ哥トセムカ然ラバ依羅娘子モト高角ノ人ニテ初ヨリ 人麻呂の相識ル女ニヤ 【姓氏録依羅宿祢山城 皇別ニアリ然レドモ此娘子石見國ニ居住スルコトイカナル所由カアルベキ一向ナシトハ云ヒ難キコトナリ 人麻呂ノ類ニモヤアラム】サテ此勿念跡ト云歌ヲ作シハ 人麻呂石見ノ任満【此石見ヨリ妻ニ別テ上京セルハ任満テノ上京ナリヤ又ハ外ニ事アリテ石見ニ下リ居タルニヤ又ハ 人麻呂始テ出京【此論モアルコトナリ】ノ時ナリヤ今慥ニハ定メガタキコトナリ】テ帰京ノ時ニ作シナルベシ然ラズハタトヒ岡部翁ノ説ノ如ク京ニ殘居本妻ノ歌トシテモ相時何時跡知而加トハイフマジキナリ任ハ限アル歳月ナレバ是必京ノ本妻ノ作ニハアラジ因テ熟考ルニ初ニ依羅石見國高角邊ニ住シ人ニテ 人麻呂在國ノ間ニ私通シ 人麻呂朝集使ニテ假ニ上京ノ時ニハ上ノ二首ノ長哥ヲ作タマヒ 人麻呂任終テ永キ別ノ帰京ナレバ此勿念跡ノ哥ヲバ依羅ノ石見ニ殘居テ作作ナルベシ【但シ萬葉集ニ上ノ長哥ノ下ニヤガテ此哥ヲ次第タルト長哥ノ歎ノ甚ク切ナルトヲ以テ見レバ共ニ任満テ永別ノ時ノナルモシルベカラズ此論モアルベキナリ】然ルヲ 人麻呂京ニ帰テ後嫡妻ハ死レケル【任國ノ間ハ嫡妻ノ京ニ殘居シコトハ論ナシ】故ニ初石見ニテ通シ女ナレバ依羅ヲ京ヘ召上セテ後妻トナシタルガ其後再度 人麻呂石見ニ下リテ病死セシ時ハ依羅又京ニ殘留テ今日今日ト我待君ハノ歌ヲバ作シナルベシ又同巻挽哥ニ 人麻呂妻死之後哀慟作歌トテ長哥二首アル始ノ一首ハ 人麻呂年弱キ時京ニ在シホド忍テ通シ女ノ死セルナリ次ノ一首ハ右ニイヘル 人麻呂石見ヨリ帰京ノ後ニ本妻ノ死セルナリサレバ岡部翁端書ヲ改テ 柿本朝臣人麻呂所竊通娘子死之時悲傷作歌トセラレタルハサル事ナリ其一首
天飛也《アマトブヤ》。輕路者《カルノミチハ》。吾妹児之《ワキモコガ》。里尓思有者《サトニシアレバ》。懃《ネモコロニ》。欲見騰《ミマクホシケド》。不巳行者《ヤマズカバ》。人目乎多見《ヒトメヲオホミ》。真根久徃者《マネクカバ》。人應知見《ヒトシリヌベミ》。狭根葛《サネカヅラ》。後毛將相等《ノチモアハムト》。大船之《オホフネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。玉蜻《カギロヒノ》。磐垣淵之《イハカキフチノ》。隠耳《コモリノミ》。戀管在爾《コヒツヽアルニ》。度日乃《ワタルヒノ》。晩去之如《クレヌルガゴト》。照月乃《テルツキノ》。雲隠如《クモカクルゴト》。奥津藻之《オキツモノ》。名延之妹者《ナビキシイモハ》。黄葉乃《モミヂバノ》。過伊去等《スギテイニシト》。玉梓之《タマヅサノ》。使之言者《ツカヒノイヘバ》。梓弓《アヅサユミ》。聲尓聞而《オトニキテ》。將言為便《イハムスベ》。世武為便不知《セムスベシラニ》。聲耳乎《オトノミヲ》。聞而有不得者《キヽテアリエネバ》。吾戀《ワカコフル》。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》。遣悶流《ナクサモル》。情毛有八等《コヽロモアレヤト》。吾妹子之《ワギモコガ》。不止出見之《ヤマズイデミシ》。軽市爾《カルノイチニ》。吾立聞者《ワガタチキケバ》。玉手次《タマダスキ》。畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》。喧鳥之《ナクトリノ》。音母不得聞《オトモキコエズ》。玉鉾《タマボコノ》。道行人毛《ミチユクヒトモ》。獨谷《ヒトリダニ》。似之不去者《ニテシユカネバ》。為便乎無見《スベヲナミ》。妹之名喚而《イモガナヨビテ》。袖曽振鶴《ソデソフリツル》。
短歌二首
秋山之《アキヤマノ》。黄葉乎茂《モミヂヲシゲミ》。迷流《マドハセル》。妹乎將求《イモヲモトメム》。山道不知母《ヤマヂシラズモ》。
黄葉之《モミヂハノ》。落去奈倍爾《チリヌルナヘニ》。玉梓之《タマヅサノ》。使乎見者《ツカヒヲミレバ》。相日所念《アヘルヒオモホユ》。
岡部翁ハ此忍妻ヲ悲メル哥ドモハ石見任國ヨリハ遥ニ前ナリト云レツルハ實ニ然ルコトヽ思ハルヽナリ其次ナルハ是モ端詞ヲ改テ 柿本朝臣人麻呂妻之死後悲傷作歌トセラル
打蝉等《ウツソミト》。念之時爾《オモヒシトキニ》。取持而《タツサヘテ》。吾二人見之《ワガフタリミシ》。趨出之《ハシリテノ》。堤尓立有《ツヽミニタテル》。槻木之《ツキノキノ》。巳知棋智乃枝之《コチゴチノエノ》。春葉之《ハルノハノ》。茂之如久《シケミカコトク》。念有之《オモヘリシ》。妹者雖有《イモニハアレト》。憑有之《タノメリシ》。兒等爾者雖有《コラニハアレト》。世間乎《ヨノナカヲ》。背之不得者《ソムキシエネバ》。蜻火之《カキロヒノ》。燎流荒野爾《モユルアラヌニ》。白妙之《シロタヘノ》。天領巾隠《アマヒレカクリ》。鳥自物《トリシモノ》。朝立伊麻之※[氏/一]《アサタチイマシテ》。入日成《イリヒナス》。隠去之鹿歯《カクレニシカハ》吾妹子之《ワキモコガ》形見爾置有《カタミニオケル》。若児乃《ミドリコノ》。乞泣毎《コヒナクゴトニ》。取與《トリアタフ》。物之無者《モノシナケレバ》。烏穂自物《ヲトコシモノ》。腋挟持《ワキハサミモチ》。吾妹子与《ワキモコト》。二人吾宿之《フタリワガネシ》。枕付《マクラツク》。嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》。晝羽裳《ヒルハモ》。浦不樂晩之《ウレフレクラシ》。夜者裳《ヨルハモ》。氣衝明之《イキツキアカシ》。嘆友《ナゲヽトモ》。世武為便不知爾《セムスベシラニ》。戀友《コフレドモ》。相因乎無見《アフヨシヲナミ》。大鳥《オホトリノ》。羽易乃山爾《ハカヘノヤマニ》。吾戀流《ワカコフル》。妹者伊座等《イモハイマスト》。人之云者《ヒトノイヘバ》。石根左久見手《イハネサクミテ》。名積来之《ナツミコシ》。吉雲曽無寸《ヨケクモゾナキ》。打蝉趾《ウツセミト》。念之妹之《オモヒシイモガ》。珠蜻《カキロヒノ》。髣髴谷裳《ホノカニタニモ》。不見思者《ミエヌオモヘバ》。
短哥二首
去歳見而之《コゾミテシ》。秋乃月夜者《アキノツクヨハ》。雖照《テラセレト》。相見妹者《アヒミシイモハ》。彌年放《イヤトシサカル》。
衾道乎《フスマヂヲ》。引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》。妹乎置而《イモヲオキテ》。山徑徃者《ヤマヂヲユケバ》。生跡毛無《イケリトモナシ》。
今按ズルニ此哥ハ岡部翁ノ云レシ如ク正シク本妻ノ死ヲ悲メルナリ此妻ニ子アリシヨシナルニ其稚児イカニナリヌルニカ今知ガタシサテ後依羅ヲバ娶リ給ヘルナルベシ但シ依羅モ私聘ナリシヤ其ハ不可辨トイヘドモ再度下向ノ時京ニ殘居シ状ナレバ後ノ本妻ニテモアリヌベシ任國ニ妻ヲ携フルコトモアリシカドモ大概ハ不携徃コトナリサテ同巻同部右ノ哥ノ上ニ載タル 日並知皇子尊殯宮之時歌一首並短哥【朱鳥三年四月ナリ】獻 泊瀬部皇女歌一首并短哥 明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時歌一首并短歌【文武四年四月ナリ】 高市皇子尊城上殯宮之時歌一首并短歌【持統十年七月ナリ】吉備津釆女死時歌一首并短哥讃岐狹岑島視石中死人歌一首并短哥同三巻雑哥ニ載タル 天皇御遊雷岳之時歌一首 長皇子遊猟路池之時歌一首並短哥羇旅歌八首獻 新田部皇子歌并短哥従近江國上来至宇治河辺作哥一首下筑紫國時海路作哥二首此外挽歌ニモ見香具山屍悲慟作歌一首土方娘子火葬泊瀬山時哥一首溺死出雲娘子火葬吉野時二首是等皆従石見國別妻上来テヨリ後ノコトナリ何モ年序ノ知ベキ哥少ナケレバ詳ニ明メ難シトイヘドモ其大畧ハ推考ベシカクテ 柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作哥トテ
鴨山之《カモヤマノ》。磐根之巻有《イハネシマケル》。吾乎鴨《ワレヲカモ》。不知等《シラズト》。妹之《イモカ》。待乍將有《マチツヽアラム》。
其次ニ 柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作哥二首
且今日且今日《ケフケフト》。吾待君者《ワカマツキミハ》。石水之《イシカハノ》。貝爾交而《カヒニマシリテ》。有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
直相者《タヾニアハヾ》。相不勝《アヒモカネテム》。石川爾《イシカハニ》。雲立渡禮《クモタチワタレ》。見乍將偲《ミツヽシヌハム》。
今按ズルニ此哥ドモノ意ニテモ 人麻呂ハ致仕隠棲ノ人ナラズ在官ノ人ナルコトヲ可察ナリ任ハ限アル年月ナレバ今日今日ト帰京ヲ待ベキナリ石川ハ今高角川大渡ト云川ナリト古来ノ傳説ナリ堺ハルカナル石川ヘ雲ナリトモ立渡レサラバ其雲ヲナリトモ彼處ニテ失シ人ノ形見ト見テ慰ントイヘリ雲ハ亡人ノ烟トナリテ立登リタルヨリ思寄タルナリ遙々ト京ヨリ思ヒオコセタル状ノ殊ニアハレナリ是ヲ以モ此娘子昔日高角ニ住シ人ナルベキコト思フベシ如是見ザレバ石川ヲ誦ルコト詮ナシ其次ニ丹比(ノ)真人【名闕】擬 人麻呂之意報歌アリ
荒浪爾《アラナミニ》。縁来玉乎《ヨリクルタマヲ》。枕爾置《マクラニオキ》。吾此間有跡《ワレコヽナリト》。誰將告《タレカツケナム》。
天離《アマサカル》。夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》。君乎置而《キミヲオキテ》。念乍有者《モヒツヽアレバ》。生刀毛無《イケリトモナシ》。
略解ニ千蔭云是ハ依羅娘子ガ意ニ擬テ作レリト見ユトアリ此後ノ唱和ニテイヨイヨ依羅ハ京ニ殘居シコト明著ナリ岡部翁考ノ別記ニ 人麻呂ノ妻妾前後四人カト云レシガ今予ガ説ニテハ三人ト為ベシソハイヅレニシテモ宜シソモ々々上件ノ如キ考ナリテ予ハ今 人麻呂ノ石見在國ヲ二度ト定シモノナリ岡部翁ハ在國ヲ唯一度トセラレタル故ニ予カ説ト少異ナル所アリソハ上文ニモ種々イヘル如ク初度ハ府ノ属官ニテ下リ其時ノ上京ハ朝集使ナドナルベクサテ此國ノ任終テ後在京ノ官ニモ年序ヲ経テ筑紫ニモ下リ且従駕遊歴亡妻吊悲ノ哥皆此間ノコトニシテサテ後ニ再度石見ニ下向アリシハ臨時ノ詔使ナドニテ下ラレシカ又ハ後度モ國務ノ在官カソハイヅレニシテモ在國ハ二度ナルベシコトニ國府ニテ死ズシテ高角里ニテ病死セルモカタガタ疑アルニヨリ上文ニ云ヘル如 人麻呂後度ノ下向ニハ後妻依羅ガ舊里ト云ヒ且ハ本此辺ニテ出生セラレ戸田村語家ガ許ニテ成長シ給ヘルガ故ニ御身親キ由縁ナドモアリテヤ此高角ノ辺ニハ旅居シ給ヒ又ハ病ヲモ※[羊+良]ヒタマヒケム譬此度モ府ノ在官ニテモ又ハ班田受田墾地ナドノ政務ニ依テ在國シ此邊逗留ノ間ナリトモイヅレ决テサルベキ趣アリテノ事ナルベシカクテコノ高角鴨山ノアタリニテ疾病イマイマトナラセ給ヒテ今此鴨山ノ石ヲ枕ニシテ死ナム我身ヲ今日ヤ帰ル明日ヤ来ルト京ナル妻ハ不知シテ待ラムト誦セ給ヘルハ悲シトモ悲シヤ 此君平生ハ千里ノ空ヲモウチ見渡シイブセキ山嶽ヲバ掻靡ケヨトモ思シツル大キク高ク雄々シク畏キ御心ナルヲ今如此ナル時節ノ御哥ヨ推量奉ラル々ゾカシ此等ノ御歌ニテ考レバヤガテ遠カラヌホドニ帰京セラルベキ間ノ事ナルベシ穴可志古
 
年齢
【【九丁表ヨリ十丁裏ニ至】古今集序ニ奈良ノ朝 柿本人磨呂トアリ万葉ニ載ル 人麻呂ノ哥多ク藤原ノ朝ニアタル敦光讃ニ仕 持統 文武之聖朝トアレバ奈良ノ朝ニ仕ヘラレシコトハアルマジ但シ奈良ノ朝マデモ在セシ人ナレバ大概ニテイヘルナラム古人モ皆此序ノ稱ヲウタガハレシナリ【文武ノ次 元明和銅三年始テ奈良ヲ都トナス此ヨリ 元正 聖武 孝謙 廃帝 稱徳 光仁ヲ奈良七代トイフ】 人麻呂死去ノ年本朝通紀【長井定宗著】ニハ 聖武天皇天平元年ト記シ國史實録【林道春著】ニハ 聖武神亀元年甲子三月ト記ス各ソノ拠アレドモ神亀元年ヲ正トス因テ享保八年一千年ノ正忌トテ 宣明位記ヲ賜シナリ拾芥抄ニ 人麻呂ハ 天智天皇之時之人也トカ三ニ載ル従石見國別妻上来時哥コレ朱鳥元年二年頃ニシテ 草壁皇子薨時ノ哥ハ朱鳥三年己丑ノ事ナリ然ラバ 天智天皇ノ時ニ生シトシテ弱冠内外ニアタル其ヨリ神亀元年ニ終ラルレバ歳六十内外ナルベシコノ外生齢ニモ異説アレドモ妄誕ニシテトルニタラズ○高角ノ社ニハ八月朔日ヲ 人麻呂ノ生日トナシ三月十八日ヲ 人麻呂ノ忌日トナス生日ノコトハ事實ヲシラズ三月十八日ヲ忌日トスルコト徹書記清岩茶話ニ曰三月十八日人丸ノ忌日ニテ昔ハ和哥所ニテ毎月十八日ニ哥ノ會有シト是ソノ證拠也】
辨云岡部翁云 人麻呂ハ 岡本宮【舒明天皇】ノ頃ニヤ生レツラム 藤原宮ノ和銅ノ初ツ頃ニ身死リシト見エタリ萬葉集二巻挽哥ノ 但馬皇女薨後云々【此 皇女和銅元年六月薨】ノ下ニ數首アリテ後此人在石見國臨死云々ト載セ其次ニ和銅四年ト載テ他人ノ哥アリ【同三年奈良ヘ京ウツサレタリ】スベテ 此人ノ哥ノ載タル次序モ凡和銅ノ始マデナリ齢ハマヅ朱鳥三年四月 日並知皇子尊殯宮ノ時 此人ノ奉悼哥巻二ニアリ蔭子ノ出身ハ廿一ノ年ヨリナルト此哥ノヤウトヲ思フニ此時弱クトモ廿四五ニヤアリツラム假ニ如此定置テ 藤原宮ノ和銅二年マデヲ数フルニ五十ニ至ラデ死シナルベシ 此人ノ哥多カレドモ老タリトキコユル言ノ無ニテモ知ラル【已上考ノ別記ノ説ヲ摘畧ス尚委クハ彼書ヲ見ルベシ又上ノ官位條ニ挙タル同翁ノ百人一首解ノ説ハ小異アリ予ハ前説ニ従フモノナリ朱鳥ノ始既ニ石見ニ任シテ居ツレバ年廿四五ヨリ内ニハアラジ年月タシカニ可知哥ノ見エタルコソ朱鳥三年ナレ従石見國別妻上来ノ哥ナドハ實ハ何年頃トモ定メカタキモノヲヤ】今按ルニ 人麻呂年齢ノコトハ岡部翁ノ説可然ナリ俗説ノ如ク 人麻呂モシ七十餘マデモ長生セラレバ老後ノ哥モ有ベキニ老年ノ作ト思シキハ絶テナケレバ必和銅ノ頃ニ死給ヘルナラム朱鳥元年ヲ廿八九トシテモ五十有餘ニスギズ但古今集序ニ 奈良朝 柿本人麻呂トアリ 元明天皇和銅年間ニ死レタリトスル時ハ 奈良朝ト云ムモ可ナリ岡部翁萬葉集|寧樂《ナラノ》宮ノ標ヲ和銅元年ノ處ヘ入ラレシ心バヘヲ併考テ辨フベキコトナリ然ルヲ古人多ク此序ヲ疑ヒタルハ萬葉ニ載ル歌多ク藤原朝ニアタリ且在石見國臨死ト云哥モ藤原宮トアル下ニ叙タル故ヲ以テナリ又敦光(ノ)讚ニ云々大概ニテ云ヘルナラムト考ニ云ルハ謬ナリ敦光ノ讚ハ其ムネト仕ヘ奉ラレシ時ヲイヘルナルベシ其ハ 新田高市皇子ト聯句ニイヘルニテモ知ルベシ但 奈良朝マデモ在セシ人ナレバト云ルハ例ノ 元明已後ハ致仕セラレシト見ユトイヘルト同意ニテ非説ナリ 人麻呂死期マデモ隠棲ナラヌヨシハ上ニ委ニ論ヘルガ如シサレド没年ノコトハ所詮國史ニ載ザレバ慥ナルコトハ定ムベカラズ又 人丸講抄ト云書ニ 人麻呂卒去歳四十二ト書シハイカナル據アリテ書シニヤ此外古来諸説多ケレドモ皆拠トナシ難シ唯岡部翁ノ別記ノ説ノミ稍當レルニ邇シ大凡五十許ノ享齢ト見ユ又没日ノ事ヲ神亀元年三月十八日トセル【高角社ニ十八日トスルコトハ此社説ハ其カミ 人麻呂没死ノ始ヨリ鴨山ニ祭リタル隨ニテ萬壽大変ノ後松崎ニテモ同シ月日ニテ祭リシナルベベケレバ今モヤガテ古ヨリ祭リ傳ヘシマヽナルベシサラバ是實ニ正キニテモアルベシ没日トシテ祭ムニ日ヲ改ムベキニアラザレバナリ】林氏ノ説清岩茶話ノ説共ニ本拠ヲシラネド 朝廷ニモ三月十八日ノ忌日又神亀元年ノ説ヲ用ヒサセ給フコトヽ見エタリ長井氏ノ天平元年トイヘルモ本拠タシカナラズ
 
墳墓 附祠廟
【【七丁表ヨリ八丁裏ニ至】石見國高津【高角ノ化轉ナリ】ニ 柿本大明神ノ祠アリ今茲碑ヲ立テ余ニ銘文ヲコハル其事文中ニツブサニ載ス又播州明石ニ祠アリ林学士ノ碑文アリ未知何世何人之所建ト云リ増鏡ニ 人麻呂ノ廟播磨大倉谷ノ側ニ在トアリ明石ノ祠ハコレヲウツシタルニヤ又保能々々トノ哥アルユヱノ趣向ナルベシ又太和添上郡泊瀬ノ辺ニ 人麻呂ノ墓アリ土人コレヲ哥塚ト云近世百拙禅師碣文ヲ撰ス其中家隆講式ノ石上寺旁建一草堂以葬焉身埋龍門名寶鳳闕ノ語ヲ引タリ顕昭法師ノ 人丸勘文ニ曰藤原清輔【後二条院御代ノ人袋草紙ヲ撰ス顕昭ノ兄ナリ】曰嘗過太和聞古老言添郡石上寺傍有祠號春道社祠辺寺號柿本寺是 人麻呂所建也祠前小塚名 人麻呂墓清輔徃観之所謂柿本寺礎石僅存 人麻呂塚高四尺計因建率塔婆勒曰 柿本朝臣人麻呂墓顕昭按 人麻呂没于石見豈移其遺骸於太和耶如平惟仲卒于宰府移其屍于洛東白河【顕昭勘文予未原文ヲミズ今水戸ノ日本史ニ引クトコロヲウツス】鴨長明無名抄ニモ 人麻呂ノ墓和州泊瀬ノ旁ニ在于俗其地ヲ歌墳ト呼トアリ又玉葉集ニ 人麻呂ノ墓ニ卒塔婆ヲ建ルトテ書附ハベル清輔朝臣「世ヲ歴テモ逢ベカリケル契コソ苔ノ下ニモ朽セザリケレ同シ墓タツネケルニ 柿本明神ニ詣テ讀侍リケル寂蓮法師「舊キ跡ヲ苔ノ下マデ尋スハ殘レル柿ノ本ヲ見マジヤ】
辨云 人麻呂臨死ノ時ノ御歌ニヨリテ鴨山ニ廟ヲ建テ奉祀セシハ實ニサルコトナリ然レドモ此處御墓ニテハナシ古来相傳テ 人麻呂自作ノ木像ヲ安置セシトイヘバ骸骨ヲ埋葬シタル地ニ非ズ是ハ初ヨリ御靈ヲ留祭タル御祠ナリ考ニ云ルガ如ク添上郡櫟本村トイフニ柿本寺ト云寺アリ其処ノ田中ニ今モ有哥塚ト云モノ是真ノ御墓所ナルヘシ其故ハ 此君本太和ノ柿本氏ノ同族ナルコト論ナケレバ石見ニテ死去ノ後其遺骸ヲ此処ニ移シ葬シナルベシ【大和名所図會ニ載ルトコロ葛下郡柿本村ニ現影寺ト云禅寺アリ寺内ニ哥塚トイフ有テ 人麻呂ノ墓ナリト云傍ニ碑石アリテ林氏ノ撰記ノ文ヲ鐫タルヨシ載セタリ其畧ニ曰云々大和國添郡初瀬石上之邊柿本寺有 柿本太夫人麻呂之墳世移時替墓跡湮滅曽聞藤清輔云々和州郡山城主日州太守源君信之一日語予曰其領内葛下郡柿本村有 人麻呂之墳土人傳稱 人麻呂生于茲故後人建墓也蓋自歌墳所移葬乎今已荒廃僅存舊礎是以修其寺院建小石欲?不朽也請記其事 太守初鎮播州明石城浦畔以有 人麻呂祠堂建碑請詞於我先人弘文学士詳記履歴今又修其墳墓可謂能知 人麻呂者也自然之好因不亦奇乎嚮雖有清輔長明然不遇太守起廢之擧則誰問其跡尋其風哉明石不遠朝霧接影 人麻呂之宵息于此遊于彼長済千歳之美也亦是太守追遠之一端乎其於事業者民徳帰厚者可以期焉乃誌于碍陰為後證天和元年辛酉十月中旬整宇林?直民甫識トアリ是ニ蓋自哥塚所移葬乎トアリサレド是柿本村ノモ古ヨリ言傳タルコトナラバ其本末ハ今實ニハ定メガタキコトカサテ此藩君ノ碑ヲ二處マデ建給ヒシハイトイト有難キ御志ナリケリ侯家今ハ信濃國小縣郡上田城ニ世居シ給フトゾ】但柿本寺ヲ 人麻呂ノ建シトイフコトハイカニアラム【人麻呂ノ為ニトテ親族ナドノ立シニモ有ベシ】サレド亡妻ナドノ爲ニトテ建ラレケムモ知ベカラズ此處ニモ今小社アリ是ヲ 人麻呂之社ト云サテ柿本寺ハイト小庵ナリ又楢葉和歌集ニ 柿本ノマウチ君ノ石上ノ墓處ニテ人々歌誦侍リケルニ前権僧正範玄 「吉野山櫻ヲ雲ト見シ人ノ名ヲバ苔ニモ埋マザリケリ又考ニ月正寺ノ祠ノコト微朗ト明石浦トイフ哥ニツキテノ趣向ナルベシトアリサレド此哥ハ 人麻呂ノ作ニアラズ【人麻呂ノ哥トテ代々ノ撰集諸書ニ出ルモノオホシ此人ノ哥ハ万葉集ノ外ハ真ナルモノヲサヲサナシ熊臣別ニ 人麻呂一世ノ哥ヲ集テ一巻トセリ且論辨註解ヲ加フルモノアリ】此明石(ノ)祠廟碑文ニモ其祭リ始シ所由ハ詳ナラズ此他ニモ 人麻呂ヲ祭ル祠諸國諸處ニ多ケレドモ皆後ニ祭リタルナラム高角祠ハ上代ノ鴨山ノ祠廟ヲ移シ建タルナレバ最古跡ナリ戸田郷語家ガ祭ル所ノ祠モ亦殊ナル古蹟ニシテ何世ニ祭リ初シト云コトヲシラネド是必 人麻呂死去ノ時ヨリ祭レルモノナルベシ其ハイカニトイフニ語家ガ傳説ノ如ク 人麻呂孩提ノ時養育セラレ給ヒシ由縁ナド有ケル故ニ 人麻呂在國ノ間ニ身死タマヘバ殊更ニ此家ニ其御霊ヲ祭祀ムコト宜ナルコトナリ
 
祭祀 附影像
【【十二丁表ヨリ十四丁裏ニ至ル】粟田讃岐守藤原兼房和哥ヲ好ミ常ニ 人麻呂ヲ念ジケルニアル夜ノ夢ニ梅花チリミチテ霊ノ如クナルニ一人年高ガ直衣ニ薄色ノ指貫紅ノ下ノ袴ヲキ烏帽子ヲシテ左手ニ紙右手ニ筆ヲモチテ沈吟スル有様ナリ誰人ニカト思フニ此人云ヤウ我ハ人丸ナリ君カ深志ニ感テ形ヲアラハスト夢サメテ其圖ヲ画セテ常ニ拜ミケルガ其験ニヤ先ヨリモヨキ哥ヨマレケリ終ニ 白河上皇ヘ獻シ鳥羽ノ宝庫ニ納ラルヽソノ後修理太夫顕季奏請シテ画師信茂ニ寫サシメ大學頭敦光ニ讚ヲコヒ神祇伯顯仲ニ書セテ影供ヲ設ケ哥席ヲ開キ明石朝霧ノ哥ヲ高吟シテ宴ヲ終ケルトナリコノ事古今著聞集並ニ十訓抄ニ委ク載タリ敦光ノ讚ハ續本朝文粹ニ出ス其文ニ曰太夫姓柿本名 人麻呂蓋上世之歌人也仕 持統文武之聖朝遇 新田高市之皇子吉野山之春風従仙駕而獻壽明石浦之秋霧思扁舟而綴詞誠是六義之秀逸萬代之美談者歟方今爲重幽玄之古篇聊傳後素之新様因有所感乃作讚焉其辭曰和歌之仙稟性于天其才卓爾其鋒森然三十一字詞華露鮮四百餘歳来葉風傳斯道宗匠我朝先賢※[さんずい+(日+工)]而不緇鑚之彌堅鳳毛少彙鱗角猶專既謂獨歩誰敢比肩○又一説ニ 後鳥羽院ノ御宇信實朝臣ニ 人丸ノ像ヲ画カヽセタマフニモトヨリ繪形モナカリシユヱニ信實斎居シテ深ク念ジケレバ神影忽現ジタマフ其ヲ寫テ奉リケレバ叡感カギリナク月次影供ノ御會アリテ阿波(ノ)國里ノ蜑ト云フ処ヲソノ料ニアテラル因テ里蜑ノ尊影ト稱ス一書ニ云 鳥羽院承久元年六月俊頼朝臣上首トシテ 人丸ノ影供行ハル里ノ蜑影供料タリ其後中絶セシヲ 光明院ノ御宇再ビ行ハル日野資宣卿上首タリ一座一首通題初秋風資宣卿ノ哥 「里ノ蜑ノモシホノ煙タチカヘリ昔ニナビク秋ノ初風右ノ事筆枕記ニアゲテ曰コレ兼房ノコトヽ同事ニシテ 鳥羽ヲ 後鳥羽トアヤマリ信茂ヲ信實トアヤマリタルモノナラムト右ノ圖像ハ今ニ傳ハリテ世ニウツセルモノ多シ又頓阿法師住吉ノ祠ヘ 人丸ノ像三百體奉納アリシ杉ノ白木ニテ長五寸五分コノ像モ徃々ニ傳ハリ存ス○拾遺集ニ 人麻呂在唐ノ哥ヲノス此天平八年新羅使筑紫ニテヨメル哥ナリ袋草紙ニ遣唐使大伴佐手麻呂ノ記ヲ引テ曰山城史上道人麻呂副使陸奥介玉手人麻呂勝宝元年四月進發二年九月皈着紀伊【コノ使続日本紀ニハ見エズ】拾遺ニ此同名ト新羅使ノ哥トヲ誤リ混シタルナリ世俗此誤リヲウケテ柿本人麻呂入唐アリシトイフ大ナル謬ナリ又 人麻呂家集ニ載ル三百餘首ノ中モ他作贋作ナルモノ多シトカヤ顕昭勘文ニコレヲ辨ゼリ】
辨云 人麻呂ヲ尊祭供養スルコト何世ヨリ始マルヤ慥ニハ知ベカラザルナリ既ク古今集序ニモ 人麻呂赤人ノ和歌ニ聖ナル事ヲ擧記サレタレバ當時ヨリ尊奉シコト論ナシ然ドモ普ク天下ノ貴賤祠廟ヲ建影像ヲ設テ拜祀ル事ハ稍後ノコトナルベシサテ上ニ所引十訓抄ニモ本文ハ猶少シ委シケレド事蹟ニハ違ヒナケレバ又辨ゼズサテ又高角社ニ奉祭トコロノ尊像一躯上ニ云ヘル如ク 人麻呂自作ノ御像ニテ初鴨山ニ祠シ御像ナリト古来ノ傳説ナリ或ハ又僧行基ノ作ト云孰カ正シカルベキ考ニモ高角山 人丸寺ハ行基僧ノ開基ナルヨシイヘリ【行基法師ハ続日本紀 聖武天皇紀天平三年八月癸未詔曰此年隨逐行基法師優婆塞優婆夷等如法修行者男年六十一已上女年五十五以上咸聴入道自餘持鉢行路者仰所由司厳加捉搦云々ト見エテ其後天平勝宝元年二月丁酉大僧正行基和尚遷化云々ト見ユ尚可考コトアリ】又戸田社ニモ徃古ヨリ 人麻呂童形ノ像并ニ語家老夫婦ノ像外ニモ木像数多アリシヲ先年予モ拜奉レリ按スルニ是 人麻呂幼稚ノ時ノ像ト語家老夫婦ノ像外ハ實父母ナドノ像ニモヤアラム是亦 人麻呂御病中イサヽカ御快カリシホドノ手スサビナリト云ヒ傳タリ【此コトオ亦真偽ハ定メガタシ】何モ白木ノ荒木造リナリ然ルニ去文化十四乙丑正月八日戸田社焼亡シテ彼木像|悉《コト/\ク》焼損セリ可惜コトナリヨリテ本藩大嶋常一ニ命アリテ木像大小八躯新ニ彫刻セラレテ戸田社ニ納め給ヘリサルニテモ高角祠ノ尊像コソ實ニ千載傳真ノ物ニテ最モ尊クコソ坐ケレサテ尚云ヒタキ事アレドモ意アリテ略ケリ○予先ニ金丸氏【此人字仲衛名常備ト云津藩中別駕ナリシ哥学ヲモ好ミタル人ニテ宝暦明和ノ頃マデ在シ人ナリ初名常昭ト云リ】筆柿記ト云モノ有コトヲキク雖然妄ニ秘シテ見ルコトヲ得ズ今年文政六癸未二月本藩牧村光清ヨリ此記ヲ借得テ看ニ寛保二年壬戌2月自序アリ年来勞テ集録セルヨシ實ニ衆説ヲ評論タルコト勉タリトイフベシ顧フニ此事蹟考は此記ヨリ抄出シテ雜ルニ自己ノ見解ヲ以シ傍岡部翁ノ萬葉考ヲモ竊ニ取テ著シタルモノナリケリ惜ムベシカヽル筆記ノアリナガラ徒ニ秘テ事跡考ノ如キ書ヲ印行セシコトヤ先ニ此書ノ世間ニ出タリセバ如此濡衣ヲバ着セ奉ルマジキモノヲ可痛歎哉予ガ此辨は本ヨリ彼筆記ニ拠ナシ今又併取処ナシトイヘドモ下文ニ山口剛翁ノ跋ヲ引テ猶イサヽカ論フベシ
 
高角地【附 人麻呂肖像戸田社】並海邊畧圖
【【十四丁裏ヨリ十六丁表ニ至】徹書記清岩茶話ニ曰高津ノ山ガメグル処ハタケ中ニ宝形造リノ堂ニ 人丸ノ木像ヲ安置シタリカタ手ニハ筆ヲトリカタ手ニハ紙ヲモチ給ヘリ一年大雨ノ降シニ其アタリマデ水出テ海ノ潮モミチテ海ニナリテ此堂モ潮ガナミニ引レテイヅクトモナク行方シラズウセケリ水引タリシ後地下ノ者其跡ニ畠ヲツクラムトテスキクワナドニテ堀タレバ何ヤラムアタル樣ニ覚エシホドニ堀出シテ見タレバ此 人丸ナリ筆モオトサズ藻クヅノ中ニマシマシタリタヾゴトニアラズトテヤガテ彩色シ奉テ本ノ樣ニ堂ヲタテヽ安置シ奉リケリ此事ツタヘテ二三箇國ノ者ドモ皆々是ヘ参リタル由人ノ語ルヲ承ル此高津ハ 人丸ノ住給ヒシ所ナリ萬葉ニ「石見ノヤ高津ノ山ノ木間ヨリ我フル袖ヲイモミツラムカト云哥ハコヽニテ讀給ヒシナリ是ニテ死去アリケルナリ辞世ノ哥モ上句同物ナリ「石見ノヤ高津ノ山ノ木間ヨリ此世ノ月ヲ見ハテツル哉トアリ云々○柿本明神縁起ニ曰高津ノ津ニ昔ハ鴨島ト云ヘル大ナル嶋山アリテ 人丸モ是ニオハセシナリ 後一条帝ノ御宇万壽三年丙寅五月海上ニ高浪起テ彼島山ヲユリコボチ海中ニ沒セリ 人丸御廟ニ二穗ノ松トテ名木アリケルガ此浪ニ根ヲ絶ケリ其後其松枝ニ心神像ヲカケテ近キ濱ニウチヨセタリ因テソノ処ニ再ビ社ヲ建立スコレヲ松崎ト云ト茶話ノ説ト相違アリ何ニテモ道理ニ害ナケレバ予ガ碑文ニハ縁起ノ説ニシタガフ】
辨云熊臣年来古老ニ尋トヒ諸書ヲ参考地理ヲ審量スルニ茶話ノ説ハ何頃ノコトニヤ必萬壽三年ノ変ト同事トモ定メガタシ※[人偏+尚]萬壽後ニモマタカヽル洪水ノ害モ有シニヤソモソモ亦同事ノ傳訛ニヤ洪水津浪ナドニテ海邊ノ殃難ニ遭シコト是耳ナラズ古今例多キコトナリサテ茶話ノ説ハコトニ稚キコト多シ辭世ノ歌ト云ヲモ例ノ實ト心得テヤアリケム且我振袖ノ哥ヲモ此處ニテノ作ト思ヘルハ萬葉集ニ反哥ニテ有ヲダニシラヌサマニテ大ナル誤ナリ又縁起ノ説ハ 人麻呂モ坐シナリト云ハ唯假初ニ宿リタマフト見テモアルベシヤ又松崎ノ地ハ萬壽三年鴨山ノ御廟廢テ後ヤガテ再興シテヨリ六百餘年ノ間此処ニ鎮坐ケルニ過シ延寶年間ニ至リ尚洪波ノ殃有ムコトヲ恐レ給ヒテ 本藩守君ノ御心トシテ今ノ社地ニ※[ソウニョウ+多]タマヘリ又ムカシ鴨山ノ有ツル跡ハ今ハ渺々タル滄海ト成ヌ彼松崎ノ舊地ニハ近年天満宮ノ小祠ヲ崇奉レリ文化ノ初コロ此里人斎藤某石碑ヲ建テ芝山持豐中納言ノ歌文ヲ鐫タリ又去文政三庚辰ノ秋當郡持石浦海岸ヨリ槻樹大サ十圍計ナルガ根ナガラ横サマニ砂中ニ埋レタルヲ堀出セリ其中心ノ腐朽ザル処ヲ材木トナシ今度戸田社ノ本殿ノ地覆ニ用ヒラルスベテ此辺ヨリ時々埋木ノ出ルコト昔ヨリノコトナリ思フニ是彼鴨島ノ樹木ドモノウチ寄タルガ埋レタルナリトイヒ傳ルコト實ナルベシ其木悉ク枝根ナガラ横サマニ埋テアリトゾ杉檜槻ノ類ノミアリ餘木ハ咸腐テ性ヲ不存トイヘリ又思フニ今吹上濱ノ西ニ続テ海辺ニ岩石多キ荒磯アリ土人云此處ヨリ鴨島ヘ地續ニテアリシヨシナリトイカニモ此アタリ山岸ノ崩レ殘レル状見エテサルベキオモカゲアリ※[人偏+尚]譬地続ニテモ多ク干瀉ニテコノアリシナラメ嶋ト云ルニテモ推量ラル【此処ヨリ東ノ方海底ニ荒キ岩瀬アリテ昔ノ鴨嶋ノ跡ナリト里老ノ傳説ナリトゾ】實ニ今世ニテモ然嶌山アラバイトヨロシキ湊泊ナルベシサテ又今此邊ノ磯近キ松原ヲ俗ニ長者ガ原ト云ハ徃古長者ノ住シ跡トゾサルハ國俗山野ニ廣大ナル家趾ノアルヲバ何処ニモ長者屋舗又ハ長者原長者臺ナド云號多シ何モ皆數百年ノ廢趾ニテ誰人ノ趾トモ知ラレヌヲ云傳ヘタル趣ナリサレバ此處ノ長者原モ昔此湊ノ繁華ナリシ時ニサル冨者ノ住ツル跡ナル由ニ云傳ヘタルナルベシ又美濃郡上波田村神主田中弾正ガ書タル石見國神社私考ト云物ニ戸田村ニ柿本塚トテ古キ塚ノアルヲ先年 津和野侯【源滋(サンズイナシ)親君】ノ命ニテ誠ニ掘テ見シニ内ニ石墻十間可モ構ヘタルナリ故ニ祟リ有ラムコトヲ恐ミテ掘發ズシテ本ノ如ク封シ置ツル由記セリ予数年彼地ニ徃來シコトニ由縁モアリテ詳ニ聞糺セシコトモアレドモ今ハサル大塚ナド知レル人 更ニナシ幾許ノ年序經タルコトニモアラザルニ如何ナルコトニカ猶追継テモ尋聞ベキコトナリ然レドモ今按スルニ※[人偏+尚]カヽル大塚ノ實ニ在ムニモ此ハ更ニ 人麿ノ頃ノ墓ニテハ有ベカラズ猶イト上古ノ墓ニテコソ有ベケレ 孝徳天皇以後ハ國造郡司ト云ヘトモ然大キナル塚墓ハ造ルベキニ非ズ柿本塚ト云名モイカナラム此※[人偏+尚]古ヨリノ※[のぎへん+爾]ナラバ 天足彦國押人命ノ御裔ナドノ此國ニ下リテ住坐ルガ勢強大ナリシ世ニ造ラレタル墓ナドニモヤアラム其ハイカニト云ニ此村ニ小野ト云古名ノ【高角社縁起ナドニモ云ヘル今此村ニ柿本ト云処アリト 云ハ 人麻呂ノ事跡ニ附テ後ノ附會ノ説ナルベシ】アリシモ小野氏柿本氏同祖ナレハカタガタ縁アルベキ由アリ此後ニモ慥ナルコト正シ得タラバ別ニ物ニモ記シ置ベシ外ニモ此戸田村ノ事ニハ記スベキ事ナドモアレド所詮此ニ要ナケレバ今ハ略キヌ
(改ページ)
高角社柿本人麻呂肖像            日原渡邉恒謹模
                        于時六十二歳
 (絵省略、例の右手に筆を立てて持ち、左手に紙を持って烏帽子を着て眉毛髭などの長い老人ノ風貌で上目に思索している雰囲気ノ絵)
(改ページ、見開き2頁にわたる絵図)           日原渡辺恒六十二歳圖
高角社并同地縮圖(横書き)
                          持石
 
 
                         吹上
 
                    湖水
 
               松崎
                           古高角地方
                 御旅所
 
             神楽殿
本社                           大渡リ
   碑石     神馬       神主中嶋氏
 礼楽所                         石川
           参籠所   楼門
 拝殿                         須古
 
         筆柿         真福寺
 
     ??八幡宮
            (入力者注、元の図を見ないとほとんど無意味ですし、つぶれて読めない部分もあります。)
(改ページ)
戸田社之圖         戸田村    小野  語家
             (入力者注、文字の位置関係は再現されていません。)
(改ページ)
海邉略圖
 西ハ長門堺ニ至          大丸山    長門堺   サハツボガ磯
 東ハ出雲堺ニ至                       此アタリ荒磯ナリ
               長門堺佛坂
                          飯浦
 
 
                               此アタリ荒磯ナリ
                       
                         二見
                舟見
                         小濱
        戸田社
                         宮田
                戸田
(改ページ、見開き2頁にわたる絵図)
                         村
 
                         喜網
 
                         持石
                    長者原          クワンノム岩
         高角山              吹上
高角ヨリ                  松崎         平シマ
 戸田社ヘ三里             大ワタリ    石川
 長門堺佛坂ヘ五里余         スコ  熊ノ松  中須
 濱田城下ヘ十一里余             古高角
 國分ヘ十二里余       千福寺渡
           益田       益田川
                    津田         大ハマ    高嶋
                    遠田
                    木部
         美濃郡        土田         スツ
       ――――――――――――――
         那賀郡        ?見
                    三隅市
                    新居
                               ツマ
        大麻山         周布
                    長濱
                    日肺
                    原井         セトガ嶋
(改ページ、見開き2頁にわたる絵図)
國分ヨリ                濱田城下
 雲州堺羽根ヘ十四里          淺井
 河合一宮ヘ十里余           上コウ
 銀山ヘ九里             古ノ国府□下コウ
 江ノ川ヘ四里半        式内伊井神社 國分
 都濃津ヘ二里余            波志
 濱田城下ヘ一里余           津野津
                    和木
                    カクシ
                    郷田
                   江 ノ 川
                八神  大田
                    渡津
                    塩田        荒磯
                    浅利
                後地           尾濱
                    黒松
       ――――――――――――――
         迩磨郡        福光
                        小濱 
                    湯津
                    馬路
  銀山              神子路鳴濱
   大森 □                       唐嶋
          天河内       仁万
                    宅農     孟磯
                    磯竹   大浦崎
                    静間
       ――――――――――――――
         安濃郡  河合一宮          魚津
                            和江
                    鳥井
                    刺賀
                    羽根西村
              湖             西川
                            久手
                    羽根東村
                    朝倉
                    嶋津屋
                  出雲堺
(ここで絵図終わり)
贈位
【【十六丁表裏】享保八年癸卯 人麻呂一千年ノ正忌ニアタル二月朔日吉田侍従兼左衛門佐兼雄朝臣ヲ奉幣使トシテ正一位ヲ贈ラレ宣明位記高角祠ヘ賜ハル明石祠ニモ正一位ヲ準※[のぎへん+爾]スベキ命ナリ 内裏 仙洞ヨリ石播両社ヘ御法樂ノ和哥アリ高角祠ノ別當 人丸寺真福寺ト改ル山號ハ高角山ナリコノ寺行基菩薩ノ開基ナル由ナリ】
辨云奉幣使下向ハナカリシナリ神階陳上卿中院権大納言通躬卿辨日野西藏人左少辨兼栄朝臣少納言西洞院範篤朝臣中務岡崎大輔國廣朝臣使吉田侍従兼雄朝臣十リ位記宣命大政官符散状等ノ文アレドモ最恐ケレバ略キヌ
 
高角祠碑文評
 予是ヨリ前或人ト此碑文辭ヲ評論セシコトアリ今竊ニ此処ニ附テ識者ヲ俟此碑文スナハチ事蹟考ノ末ニ載タリ
正一位柿本大明神祠碑銘並序
 京輦十刹萬年山眞如禅寺沙門顯常撰書 正四位下行少納言兼侍従大内記東宮學士菅原朝臣爲璞篆額
柿本公人麻呂之以2倭歌1擧v世莫v不v知而史軼2其名1焉【漢文ナレバ柿公之以倭哥トセバ今少シ可ナラム 人麻呂ヨ書バ公ハ朝臣トアルベシ柿本ハモト臣ノ尸ナレド 天武天皇ノ御世朝臣ノ尸ヲ賜ハレバ其後ハ朝臣ト書ベキコトナリ】公生2于石見1不v詳2自出1【自出ノ字イカヾ】説者曰戸田之民綾部氏見3一孺子(ヲ)于2柿之下1自※[のぎへん+爾]v得2敷嶋之道1神而※[毎+流ノ旁]之是爲公【戸田ノ下ニ邑カ郷カノ字有ベシ戸田ノ地名ナルコトヲ不知人見テ惑フベシ于ノ字妄埋ナリ敷嶋ハ聞エヌ書ザマナリ神而トハ省過テイカヾニキコユ】及v長官2于京1爲2太夫1【于京トハアマリナリ古持統 文武ノ御世ノ頃京ヨリ外何所ニカ官セム為大夫モ省過テイカヾナリ】嘗扈2從吉野雷岳之駕1、又與2諸皇子1遊、皆以2倭歌1見、【人麻呂ノ行状勲績必倭哥ヲ以テ顯レタルモノトハ見エズ萬葉集中哥ヲ以テ獻呈シ或ハ奉悲傷ナドノコトアレドモ歌能作レルニヨリテ賞セラレ給ヘルコト更に不見後世コソ哥聖ナド云ヒテ上下尊奉スレ 人麻呂生前ニサルコトナシ與諸皇子遊トイヘルモイカニゾヤ交遊ナドイフベキ位ノ人ニ非ルナリ此コト上ニモイヘルコトアリ合セ見ルベシ】蓋當2 持統 文武之朝1也、神龜元年甲子三月十八日卒2于高角山1、【石見在任ノコトヲ不載ハ此文ノ闕典ナリ是 人麻呂第一ノ功ナリ此文ノ如クニテハ 人麻呂ハ唯生界和歌ヲ以仕ヘタルヤウナリ甚キ誤リナリ又没年ノコトハ上ニ論アリ譬ヒ 朝廷ニ神亀元年ノ説ヲ用ヒサセタマフトモ此文ナドニハ少シハ疑ヲ存シテ書ベキ事ナリ又卒于高角山トアル于ノ字妄理ナリ卒ノ字ハコトニ不當モシ贈位ノ後ヲ以テ書バ薨トモ書ベケレドモ令ノ制三位已上曰薨五位已上曰卒六位已下曰死ナレバイカニモアタラズ】臨v終有v歌、嘆2山間之月溘焉(トシテ)為1v別云、【辞世ノコトハ上ニ論アリウキ世ノ月ヲ見果ツル哉ト云フ哥ハ必 人麻呂之作ニアラズ此十四字削去テヨロシキナリ】國人爲立2廟(ヲ)厥地1、置2人丸寺1掌v祀、【古鴨山ノ廟ハ國人ノ立タルカ 人麻呂ニ由縁アル者ノ立タルカ更ニ不可知然ルヲ推テ如此書シハイカニ】其山横2出海上民邑v之頗庶、【縁起ノ説ハ島山トアリコヽニ横出ト書シハ地続ノ山ナリトヤ茶話ノ説ハ本ヨリ地ノ山畠トアリ今定メ難シ】萬壽三年丙寅五月海騰山崩、挙皆湮没、既而一松※[サンズイ+風]2游波1、神像存2其椏1、【神像ノ字突出セリ上文ニ神像ノワケヲイフベキコトナリ此文ノ如クニテハ 人麻呂ノ死骸ナドノヤウニ聞ユ】因更作2廟(ト)與1v寺、相承六百有餘載、其地曰2松崎1、及2津和野爲1v藩而皆屬焉、【此処ノ文聞エガタシ松崎ノ地ノ津和野領ニナレルトイフ事カ其ハ何ノ用ゾヤソモソモ又寺モ何モ皆津和野ノ支配トナレルコトカソレナラバ如此イハズトモ 領主亀井侯ノ尊奉シ給フコトヲ書バ、自ラ明白ナラナラムモノヲヤ】尚恐2其濱v海有1v災也、【災ノ字ハイカニゾヤ】命遷2之(ヲ)南1、一里而遠、【命ハ藩命ニヤ少シイカヾ又一里而遠トハ唐山ノ里程ニセシニヤイカヾナリ】仍名2高角山1存v古也、【高角山ノ号上代ヨリアリ仍名存古トハイカニ】享保八年癸卯屬2公歿之一千載1、 詔贈2正一位1、使2侍従卜部兼雄奉幣1焉、改2人丸寺1爲2真福寺1、【此文ノツヾキイカニゾヤ卜部兼雄卿石見ニ下向セラレシ如クキコエテ不明白但シコハワザト下向アリシ状ニ書タルカ且云々奉幣トバカリニテハ漢文ニシテハ聞エカヌルナリ又寺号ヲ改メラレシハ奉幣ニハ預カラヌコトナリ文ノツヾキイカヾ】綾部氏世※[のぎへん+爾]2葛※[立心偏+且]刺※[月+(八+丁)]1、葛※[立心偏+且]刺※[月+(八+丁)]者謂v託也、以2公託1焉爾【綾部ヲカタラヒト云ハ 人麻呂ノ寄托スル故ト書ルハ俗説ノマヽニテイカヾ語家ノコトハ上文ニ予ガ臆見ノ説モアレドモ慥ナラズ然ルヲ推テ託ノ故ト定メタルモイカヾ又コヽノ文上ニ照應ストモ綾部氏世家于戸田邑ナドナクテハ不成語ナリサレドモ 人麻呂寄托セル故ニカタラヒト云事ナラバ是既ニ俗説ナリ俗称ナラバ書ヤウ有タシ】至v今殆四十世不v絶、多2壽考者1、亦爲v公立2小祠1奉v文、【コヽノ文モイカヾ】嘗有2靈異1、其譜存焉、其柿尚在v宅、其實繊而末黒、名爲1筆柿1、柿樹老則接生、然分2諸真福之庭1有2二株1而已、接2之它1即變爲2常種1云、由2癸卯1而幾五十歳、爲2明和九年壬辰1、於v是始立v碑勒焉、【惜哉カヽル不穿鑿ナル碑ヲ立シハナゲキテモ猶アマリアリ】乃謁2于余1、【于ノ字例ノ妄ナリ】余以爲、古有2柿本氏1、實 孝昭天皇之裔、公豈其族與、綾部氏之説不2亦異1乎、蓋空續V尹李樹之※[耳+冉]、於v古有v之、夫倭歌吾所v不v知、其於v詩寧類也與、有2遊間繊婉之風1、無2耿介盤※[石+薄]之度1、則爲v詩者不v爲也、【此處ノ文陰ニ哥道ヲサミスル意アリイトキヽ悪シ風雅ヨリ泰濃マデノ如クナラバスコシク哥ノ心バヘニモ似タルベシ後ニナリテ歌ト大ニ異ナルモノハ詩ノ衰タル故ナリモトヨリ詩―哥ト同日ノ談ニ非ズ顕常詩ヲ以テ哥ヲハカル其陋見ツベシ夫哥ハ本来教戒ノ道ニ非ズ唯人情ヲ知リ物ニ感ジテハアハレト思フ其情ノ忍ビカタキフシヲ永ク言ニ発スルモノナリ此境ニ至リテ人情豈度量アラムヤ唐戎國ハ上古ヨリ人ノ心ナマサカシク殊ニ偽リ多キ國ナル故詩モ後代ノハ更ニモイハズ朴ナリシ上古ノトイヘドモ自ラ思フ情ノ實ヲバ覆ヒ隠シテ陽ベヲカザリテ聞ヨキヤウニ作レルナリ 皇國ノ哥モ中世以来ハ古ヲ學ビテ題詠ナド云コトモ出来テ心ヲモ詞ヲモ多クハ作レルモノナガラ上世ノ人ノ實情ノマヽニヨミタル哥ノ意ヲ次々ニ習作故ニ作リゴトナガラモ誠ヲ學ベル造言ニテスナハチ人ノ心ノ實ノ趣ナルヲ詩トイフモノハ本ヨリ詐リヲ習傳テ作ルホドニイヨ/\詐リノ上ノ偽ニゾナリニケル然ルヲ世人此理ヲ不辨詩ハ其趣ノ男々シク賢気ナルヲ見テハ國ノ習モ人ノ心モ勝レルガゴト思ヒナシ哥ハ唯物ハカナク女々シキヲ見テハ詩ニハ劣リテ墓ナキアダ言ノヤウニ思フハ唯陽ベノ偽ニ惑テ深ク不辨モノナリスベテ人ノ心ハイカニ賢キモ目ニ見エヌ心ノ内ハ皆女々シク墓ナキコト多キモノニテ唐土ノ詩ノ如クイツモ男々シク賢キモノニハ非ズ賢気ニキコユルハ皆偽リノ造言ナリサラバ其真偽ヲ論ゼム先哥ハ神世ヨリ男女ノ間ノ情ヲ主ト詠テ戀ノ哥コトニ多キ是實ノ侭ナル一証ナリ後世ノトイヘドモ尚戀ノ哥ノ多キ是亦上世ノ實ヲ學ブ故ナリ然ルヲ詩ハ上代ニハ戀ノ詩モナキニハアラネドモ中世以来ハ閨怨ナド云ハアレドモ其ハ婦人ノ情ヲ設テ云ルニコソアレ男ノ戀ノ詩ハ墓々シキ書ニハヲサ/\見エズソモ/\彼土ハ殊ニ淫ナルコト甚シク世々ニ其跡多ナルヲ詩ヲ見レバ婦人ノミ戀ハシテ男子ハ戀情ハナキガ如クナリハ甚キ偽ニアラズヤソモ/\戀ハ婦人ノミナラズ貴賤賢愚トモニ直シガタキ自然ノ人情ナレバ其哥ノ多キゾ人情ノ實ノ状ナル証ナリケル此一ツヲ以テ萬事 皇國ト唐土トノ實ナルト詐リナルトヲ辨知ベシスベテ詩ニカギラズ唐土ノ道ハ言語ニコソ實々トイヒタツレ其ハ皆偽リニテ聖人賢人トイハレシ者ドモノ所為トイヘドモ唯陽ベヲ作レルコトノミ多クシテ其偽リヲ以テ人ヲモ教ヘタテムトスル故ニオノヅカラ世人ノ所為イヨ/\偽ノミ多クナリテサテ中々ニ身モ家モ國モ治リガタク乱ルヽコトノミ多ナルヲ 皇國ノ道ハ上モ下モ直キ實ノ心モテ和合シテ有ケル故ニ言痛ク教戒ルコトハセネドモ自ラ目出度治リシゾカシ尚此等ノコトハ横井千秋ノ論アリ煩多ナレバ省キツ如此詩ト哥トハ格別ナルモノナルヲ作者自ラ既ニ哥ヲ知ラザルヲ以テ説ヲナス既ニ哥ヲシラズバ又何ヲ以テカ耿介盤※[石+薄]之度ノ有ヤ無ヤ知コトヲ得ム鴨山ノ哥又所謂辞世ト云哥ナドヲ見テ或ハワビシキ独居ノ意アリトイヒ或ハ真作トシテ既ニ此文中ニノスコレラヲ以テ観レバ作者ノ歌ヲ不知トイフハ實言ニテ己ヲ欺カズ意味風調トモニ得シラヌコトヲ徴スニ足レリ又自詩ヲ知ルト云ヘドモソハ徒ニ剪彩浮華ニ近躰ヲ翫ブコトヲ知レルノミ且所謂無耿介盤※[石+薄]之度モノ即吾哥道ノ未墜地トコロナルヲヤ詩ハ漢以来全ク死物トナレリ動天人感鬼神オ云フコト吾哥ニオキテハ後世尚アルベシ近躰ノ詩ノ如キ區々タル小理詰々タル語言イカニシテ感動ノ妙処ニ至ム今ノ詩ハ唯世ノ活花ノ如シ嗟乎歌道ヲ不知則哥聖廟ノ碑文ヲ作ムコト辭譲スベキコトナリカヽル麁陋ノ見識ヲ以テ此碑ヲ撰シコト噫恥ヲ永世ニ貽ス不悲哉此文ニ 人麻呂存歿大概ノ事實ヲ記セル悉ク不穏當ソノ上哥道ヲ讚セル語少モナシイカニゾヤ】其所d以寫2憂※[立心偏+肖]1抒2驩娯1、優柔乎著c言辭之外u者、情斯同矣、所d以精思而入v微、其妙可c以動2天人1感2u鬼神1者、工斯同矣、【此処イサヽカ哥道ヲ賛美セシヤウナレドモ詩ト同軌ノ論ナラスハ實ニ云フニタラズ】何必從2吾所1v好、非(トスルコトヲ)2其異撰1爲哉、【作者ノ心ニテハイカデ 人麻呂ニ詩ヲ作ラセバヤト思ヒケム自身タトヒ哥ヲ不好人ナリトモ 人麻呂ノ廟碑ニハ如此ハ書マジキ事ナリ文章ノ美悪ハトモアレ意辞ハ辱キモノナリコトニ異撰トサヘ云ヒシハアマリ下ノ意根見エテイト聞ニクシ近世周南南郭等カ徒其外ノ儒者流哥ノコトヲ書タルモノ多クアレドモソハカヽル類ニハ非ズコトニ羅山ノ赤石廟ノ碑文ナドハ見ドコロアルモナリ】吾悲2公之意1、其於v世無v所v庸、無v所v顯、終2身(ヲ)海嶋之間1、而獨以2三十一言之藻1、憲2章百代1、上下莫v不2崇信1、至d乃比2空續V尹李樹之※[耳+冉]1、謂(テ)爲uv非2凡種1、此立言者之所d以※[立心偏+亢]2慨古昔1、沈淪下位1餘c斯不朽之心u、斯亦可v不謂v同乎、【其於世無所庸無所顕トイヘルハイカニゾヤ 人麻呂庶人ヨリ位六品ニ昇リ身國宰ニ任ゼラル何ゾヤ無所庸トイハム且吉野雷岳ノ従駕其餘ノ獻酬豈無所顕トイハムヤ上代ノ官位後世トコトナリ令ノ行ハルヽ世无位ヨリ出テ数年ノ間ニ大小初位八位七位ノ十二階ヲ歴テ諸國ノ守介ナドニ任ゼラレムコト其勲績才量推量ルベシ惜哉其事實ノツタハラザルコトヤ】吾聞、其像操(ト)2觚與簡、豈亦温柔敦厚之教、垂2乎祀典1者非邪、【法師ノ口ツキナルハ本ヨリサルモノ猶絶倒ニ堪タル説ナリ】高角之月何爲言v終彼一時也、爰述v之其詞曰、有d生2于1生c于李u、翰之濡(リ)v墨惟肖(タル)柿、※[翳の上/糸]天篤生(シテ)有2才峙1、抽v秘騁v妍紛2内美1、右手執v筆左手紙、言志永言寧異(スルヲ)v軌、月出(テ)皎(タリ)兮人與(ニ)比、所v存者神無2終始1、【此アタリスベテ論ズヘキコト多カレドサノミハトテ今ハ略キヌ識者ハモトヨリ不可俟辨ザレバ也】 明和九年歳次壬辰八月甲子朔二十六日 夫能登守源朝臣矩貞立石、【朝散ハ唐名ナリ能登守ニハ連續セズ唐名ニテ書バ能州刺吏トスベシ朝臣モ尸ナレバ唐名ニハイカヾ左ニ右ニ従五位下能登守源○○トアリテ宜キナリ又唐名ナラバ朝散大夫能州刺吏源○○トアルベシ是等ハ小児トイヘドモヨク弁ヘタルコトナルヲサモ止事ナキ人々ハイカニ心得テ書レケム不審々々スベテ此碑ハ我 藩君ノ御名ヲ※[金+雋]シタレバ猶アラハニ論ハムコトイト恐ケレバ今ハ止ナム嗚呼※[人偏+賛]偸ノ罪逃所無カラムハ唯世ノ識者ヲ俟ノミ穴可志己】
此辨書ヲヘテ後文政癸未春故金丸常昭筆柿記ヲ見得タリ其本ノ後ニ本藩前教授山口景徳ノ跋アリ天明丙午冬トアリ其略云柿大夫之云云徃歳予閲其事蹟考者謂大典文字禅碑文爾雅固其所也何其考證ノ博且覈此其状稿必有成地而然今也来此獲故金丸翁所著筆柿記而讀則自喜先見之不失凡請碑文例必有状稿尋以文之固當但其淘汰之餘拾収砂石綴以成編名以手撰不別署本名其間不可得而沒者僅表一條而已何其狡哉且其碑中併論詩歌謂倭歌有遊間繊婉之風無耿介盤※[石+薄]之度則為詩者不為也又曰所以精思而入微其妙可以動天人感鬼神者工斯同矣蓋彼知詩自居而其所知隨唐近體已浮靡虚藻已若夫古詩三百篇厚於天理發於人倫貫於道徳通於政教則固非教外別傳之所得而染指也宜哉其謂歌止於此※[日/木]其言是乎無耿介盤※[石+薄]之度者渓(旁ノミ)以能動天人感鬼神斯其心在※[足+斉]詩于歌而襲取温厚不争之名雖自※[言+委]曰不非異撰吾不諾也金丸氏之頌大夫曰配三神之徳合三天之運蓋亦有所深得於我國學者言簡旨至非徒言也一薫一※[草冠/猶]誰知烏之雌雄碑已立矣書已行矣我不能無憾於既徃之不諫云云トアリ予今此評ノ後ニ附シテ剛翁ノ見モ亦不異コトヲ示スノミ
 
 文政戊子歳八月上旬 門人栩屋義英謹手寫
  義英云此書師ノ素本ニハ事蹟考中唯其宜キ處々ノ ヲ抄出シテ取ラレ全文ヲバ挙ラレザリシヲ此度三好秀紀水津虎臣ト供ニハカリテイカデ考ノ全文ヲモ書入テバ見ム人ノ便ヨカルベキヲト其ヨシ師ニウレヘ請シケレバ悪カラヌサマニ許シ給ヘルマヽ即己自筆執テ如斯ハモノシツサレバ書躰素本トハイサヽカ変リタルニ似タレト辨ハ專カハル事無ヲ元本(ヲ)見知レル人等ノ疑ヒ思ハムコトヲ思テ今ソレラノ人々ノ為ニ聊ソノヨシヲ記置ニナム又書中画ヲ誤レル文字或ハ俗文ナガラニ書法ノミダリナル處ナドモ多カルベキヲコハ唯免毛ノ行ニマカセタル例ノ己ガオロソカナル心習ノ為業ナルヲ今ノ世ハカゲサヘ見ユル人ノ心ニソレラヲ以難ヲ師ニ令負奉ムコトイト畏ケレバ序ニカクナム
 
 柿本人麿事蹟考弁跋
薦まくら高津の里に鎮り坐す柿本御神の古事の跡はしもなにかしの禅師か考あれとそはかりこものいとみたりなるを空かそふ五十年はかりも其まゝにうち過ぬる事のいとも/\うれはしくあたらしきしわさなるを我桜舎大人早くも沖津浪高津の濱のたかはさしゆうち見わたしつゝ此御神の歌よみし給ひし大御言の葉の石見瀉の海山礒のさき/\底のいくりの落る事なく萬つたひかへり見しつゝ駅路の次/\あさち原のつはら/\に夏草の思ひ考へ笹のはのみやまもさやにさためついてゝ?るなし給へる是の書よ此御神の千年昔のふること?今の現に見さけ奉る心ちなもせらるゝなるを同し御をしへの子なるかくるすの周防国人橘菅根かはやく桜木にちりはめはやと事はかりしを堀江こく芦わけ小船障れるふしのあれはとてとく得はたさて年比にもなりぬるなりさるをこたみ同し学ひのはらから