萬葉集の鑑賞及び其批評
 
   はしがき
 
○本書は、純粹に鑑賞的態度を以て萬葉集の短歌を見ようとしたものである。初め五百四五十首を擇び、そのうち二百六十五首を前編に收め、殘りを後編に收めることにした。後編に收めるのは歌品の前編より下れりとするためではない。
○本書は、萬葉集の時代を假りに三期に分けた。各期に特徴あり變遷推移ありと思はれるからである。擧ぐる所の二百六十五首は、各期の歌風を言ふに恰例と思ふものを擇んで書いてゐるうちに到達した數であつて、初めより豫定した數ではない。恰例とすべきは多數ある。その一半を後編に讓つたに過ぎない。
〇二百六十五首中の百四十一首は、昨年末より今年四月にかけて、菊池寛氏の文藝講座に掲げたものである。多少の補正をしてここに加へた。
○各期の歌の排列は、記述の都合によつたのであつて、必しも年代順に依らない。
○最も力を致したのは人麿と赤人である。續いて家持・憶良・旅人、猶續いて東歌・防人歌等である。
小生の人麿・赤人・家持・憶良・旅人觀には異議ある人士が多いかと思ふ。大方の批判を待つ。
○本書の目的は訓詁釋義の研究にない。併し、自分が萬葉集の訓み方や解釋を考へるには、古寫本以下諸書の攻究が必要である。本書には、必要上それらの問題に觸れてゐる所もあり、從來の諸説に從ひ得ずして自分一個の考を立てた所もある。さういふ所も批判を賜はるあらば幸甚である。
○卷末へ「萬葉集雜記」「寫生雜記」を加へた。前者は萬葉集に對する小生の感想録中「歌道小見」に採録した以外のものを收めた。小生の萬葉觀を補ふに足らば幸である。後者は小生等作歌の信條を述べたものであつて、萬葉集鑑賞の心と根柢的に相通ずるものであるゆゑ彼此相補ひ得べしとして之を載せた。之は、明治三十八年以來の寫生記を年月順に駢べたものであつて、小生從來の寫生記述は概ね之に盡されてゐる。
○本書は、又、大體に於て前著「歌道小見」の主要部を廓大したものと言ひ得る。兩書を併せて見て頂けば最も幸である。
                                        大正十四年十月六日記す
   序言
 
 ここに説かうとするは、萬葉集の文學史的考察でもなく、訓詁釋義の研究でもなく、單に、萬葉集中の歌例によつて、萬葉集の一部を鑑賞しようとするに過ぎない。
 小生等は、歌の上に常に萬葉集を宗としてゐる。それは、萬葉人の歌ひ方が、常に眞實な心の集中からなされ、現れる所は緊張の聲調、高古の風格となつて、吾々をして常に頭をその前に垂れしめるからである。小生は、自ら喜んでその前に頭を垂れるといふやうな對象物が、吾々の面前に存在することを幸福と思つてゐる。本書は、その感謝の心の一部を具體的に記述するものと見てもいい。記述の前に、萬葉集に對する一般小見を簡單に書いて見る。
 小生は、歌を作《な》すほどの人は、誰でも萬葉集の心に始終すればいいと思つてゐる。萬葉集の心は、吾々が歌に入る第一歩の心であらねばならぬと共に、歌に果てんとする最終歩の心であらねばならぬと思つてゐる。それほど、萬葉集は歌の命を正しく深く豐かに盛つた歌集である。それならば、萬葉集の歌の命とする所は如何なる所にあるか。それは、第一に自己の眞實に徹してゐるといふ點にある。歌の命が、作者の眞實性と始終するといふほどのこと、作歌者の誰でも承知してゐる平凡事であるが、その平凡は、吾々が日々に浴してゐる日光の平凡にして貴重大切なるが如きものである。日光が生物の命と始終する如く、眞實は歌の總べての正しき生長と始終する。今の世は、人間が増殖して、人と人との接觸が多いために、生活精神が多方に分岐して、分岐の個々に力が薄く、力の薄い個々が一點に集まつて強大な力となることも少く、一面、社會的興味に伴ふ世間氣ともいふべきものが割合に多く發達して、個々獨自の根柢所に徹して生活するといふ風な心持が稀薄になつてゐる。歌が矢張それであつて、今の人の作す歌は、往々にして力が薄く、その上、ともすると、世間氣が多く交じつて來る。つまり、世間の流行とか嗜好とか、批評評判とかいふものを目安に置いて歌を作るから、自己内心に湧き來る眞情に直面して、專心にその眞情に即かうとする執意を疎かにする。それゆゑ、作す所の歌が底力を備へて、惻々として人を動かすほどの權威を持ち得ないのである。これは、又、一面からは今世人の過度なる理智の發達とも關聯してゐる。今世人は理智の力を以て、容易に敏速に藝術に唱へらるる主義主張の輪廓を知り得る。容易に知り得る所を目安として、早く自己の藝術をそれに當て嵌めようとするから、その間に上滑りや輕薄が伴ひ易いのである。理智の理解と眞の到達との間には時間があり、距離がある。距離と時間とを省略して到達を簡便にしようとする所に今世人の弱所があるのであつて、今の世にある多くの歌が、多く底力を缺くのは、如上の事情から、何所までも自己の眞實に即かうとする根強さを疎かにするためであらうと思はれる。さういふ弊所をもつてゐる今世人であるから、徹頭徹尾自己の眞實に始終してゐる萬葉集の歌に接して、之を親愛し、之を尊敬して、居常その薫化と保育を受けることは、吾々歌人に最も必要なことと思ふのである。元來、理想は單なる理想として考へられるよりも、それが具體的な現れとなつて示される時、鮮かに吾々の感動を刺戟する。萬葉集は、歌の根本義として吾々の希求するものの一大具現であり、特に、それが吾々上古祖先の所産であつて、その中に吾々の血液の源泉が鮮やかに見出されるのであつて、それによつて吾々の感受を常に新鮮にすることは、同時に自己の性命を新鮮に保つことになるのであつて、斯る歌集が千餘年後の吾々に貽されてあることは、大なる仕合とせねばならぬのである。
 眞實は、又、その一面が素樸率直となつて現れる。萬葉集の歌、特にそのうちの前期ともいふべき時代の歌は、如何にも素樸率直な歌が多くて、子どもの無邪氣な口つきから出る言葉や、地駄々々を踏んで泣き叫ぶ聲を聞く如き感じを與へる歌が多く、それが何れも自己の眞實に根ざしてゐるから、些の厭味を交じへないのである。この期の歌は、多く喜怒哀樂といふ如き單純な感情が歌はれ、その感情が純粹|一途《いちづ》に集中してゐるから、作者自ら知らざるに、自《おのづか》ら人生の機微に參し得てゐるといふやうな快い境涯がある。句法に繰返しの多きは、子どもの言語に繰返し多きに似、一語々々の響きにも訥々たる幼なさがある。萬葉集の中期に入ると、歌が追々藝術的に進んで來て、中に、柿本人麿、山部赤人の如き大きな歌人を出して、それらを中心として生れた當時の歌の中には、藝術としての至上境と思はれる所にまで入つてゐるものがあるのであるが、それらの歌が、何れも素樸さや率直さから離れてゐないのであつて、つまり、自己の眞實に徹して歌はれてゐるから、至上境として眞の力を持ち得るのである。この期の歌は、初期に比べると、歌の範圍が人事自然の各相に亙つて擴がり、而も、それが豐かに滿ち高く張つて、藝術の要求する崇高性嚴肅といふ如きものを持ち得て、或るものは圓融具足の相に入り、或るものは暢達流動の相となり、或るものは高邁、或るものは蒼古、或るものは明澄、或るものは沈潜の姿となつて現れてゐるのである。後期に入れば、中期の藝術的方面を更に藝術的に押し進めてゐる人々が現れると共に、萬葉の素質的方面から離れはじめるといふ現象も伴ひ、それらの人々には理智的な觀念的な歌がぼつ/\目につき、後に現れる古今集の歌風などへの橋渡しをするといふ觀があるけれども、大體に於ては、矢張、萬葉集の眞髓を捉へて中期の歌風を繼承したといふべきであつて、全篇四千五百首の歌、多くは、吾々の尊敬すべき命をもち得るに於て充分である。即ち、吾々が萬葉集を仰望するのは、單に眞實性の現れなるが故とのみでは盡して居らぬのであつて、それらの素質を押し進めて、藝術の至上所に到達せる歌の種々相から深い感銘を受けてゐるのである。これは具體的擧例によつて説くことにする。
 元來、萬葉集は、仁徳天皇御宇から淳仁天皇御宇天平寶字三年に至る四百五十年間の歌を輯めたものであるが、舒明天皇以前のものは極めて少い。舒明以後のものを三期に分ければ、舒明より天武に至る約五十年間が前期であつて、主として明日香地方に朝廷のあつた時代である。それから、持統文武兩帝約二十年間が中期であつて、主として藤原に朝廷のあつた時代であり、萬葉集としては歌の最も頂上に到達した時である。それから以後は奈良朝と言はれる時代になるのであつて、元明より淳仁に至る約五十年が後期になるのである。第一期には未だ特別な歌人と言はれる人が出て居らず、第二期に入つて前記人麿・赤人の如き代表的歌人が出て居り、第三期には山上憶良・大伴家持などの代表的歌人が出て居るが、この期の代表的歌人は、何れも人麿や赤人に比すべき歌人ではなく、却つて無名の作家、例へば、關東から西陲の守備に遣された防人《さきもり》などの歌に生き/\したものが見えて居り、狹野茅上娘子《さぬのちがみのいらつめ》の如き一少女の歌に痛切な叫びが聞かれてゐるといふ有樣である。以下歌例によつて前期中期後期の歌の大體を説かうとする。併し、これは、大きな爲事であつて、各期に於ける代表作悉くを説くことは、今ここにはなし難い。心付いたものをぼつ/\と拾つて行き、それによつて、各期の面影を髣髴させることが出來、且つ、それらを綜合して、萬葉集の性命の一端を現し得れば幸である。
 序を以て言へば、萬葉集の歌は、悉く正確には今日に傳はつて居ない。それは、奈良朝以後世々書寫を以てこの本を傳へたのであるから、筆寫の際に誤りがあるのみならず、その誤りある寫本も、平安朝末期頃を最古として、極めて僅少のものが今日に傳はつてゐるのみであつて、諸本を校合して正否を定めるに便でない。只、鎌倉時代中葉に僧仙覺が出て、十數種程の諸寫本を校合して、文字を正し訓詁を施した。それが今日萬葉集の原據となつてゐるのであるが、その仙覺本さへも正しくは今日に傳はつてゐない。徳川時代の學者の據つてゐた本は、仙覺本と他本との交錯があつて、正しい仙覺本に據つたものとは言はれない。斯樣な事情から、萬葉集中の或る歌は、今以て文字及びその訓詁の何れとも決し難いものがある。今私の説かうとするのは、それら訓詁の問題に亙らうとするものでなく、古來學者の釋義を擧げて研究を進めようとするものでもない。それらは、すべて他日にゆづる。以下述べるもののうちにも、訓詁釋義の上に問題のあるものがあるであらう。それは諸本や諸訓を考へ合せた上、小生一人の考を以て採擇した訓義であると承知して頂きたい。
 
  萬葉集前期の歌
 
 萬葉集卷十四に東歌《あづまうた》が載つてゐる。これは、當時、東國の田夫野人から生れた歌が、口唱其他によつて傳へられたものであるらしく、語法の上から見ても餘程古いものであらうと思はれる。併し、その中にも自ら新舊の別があらうし、悉くを前期中に收めるのは當否如何かと思はれるが、歌の性質から言うても、大體前期中へ入れて説くこと不可ないであらう。東歌中の或るものには、古來多少の疑をもつものがあり、學者によつては、可なりの多數を東歌と見ない人もあるが、小生は大體に於て十四卷の大部分を東歌と思ふのであつて、その中から代表的なものの一部を擧げることにする。東歌は、萬葉集中でも、特に眞摯素樸の體を具してゐる。
   (一)小草壯丁《をぐさを》と小草助壯丁《をぐさすけを》と潮舟《しほぶね》の竝《なら》べて見《み》れば小草《をぐさ》勝《か》ちめり
 これは東國の或る少女の詠んだものであらう。小草は地名で、小草壯丁《をぐさを》といふのは、小草村(?)の或る男を指すのであらう。その小草村に、又、他の一人の男があつて、それを小草助壯丁《をぐさすけを》と言つてゐる。助壯丁は好色男子の事であらうと言はれてゐるが、或人は、助丁の事であらうとも言つてゐる。助丁は、大寶令で定められた中男(十七歳より二十一歳迄の男)次丁(六十一歳以後の男)を合せた稱號であるらしい。兎に角、この歌の作者である少女に言ひ寄つた男が二人あつて、それを「小草壯丁と小草助壯丁」と言うたのである。「潮舟の」は「竝べて見れば」の枕詞である。枕詞とは、或る縁のつながりを以て、一つの詞の上につく詞であつて、多くは五音から成つてゐる。山の頭につく「足曳の」天の頭につく「久方の」などの類であつて、その枕詞がつくために音調の調節がつき、或は一種の情趣を生み出すのであるが、これは古くから傳習的に傳はつてゐるのであるから、萬葉時代には、雙方の詞の間に繋がる因縁の不明になつてゐるのが多い。それでも「腰細のすがる少女」などといふ時は、「腰細の」の枕詞が少女に對して一種の情趣を生み得てゐるのである。枕詞が出て來たゆゑ、簡單な説明を挿んだのである。この東歌一首の意は、小草壯丁《をぐさを》と小草助壯丁《をぐさすけを》と二人から自分に言ひ寄つてゐるが、この二人を比べて考へて見れば、どうも小草壯丁の方が勝つやうな心地がするといふのであつて、言ひ現し方が如何にも素樸で直接である。「勝ちめり」は勝つらしいといふほどの心持であつて、思ひ煩うた心持が有りのままに現れてゐるのみならず、その音調が如何にも子どもらしい。これほど無邪氣な心に接しては、如何なる人でも之れに抗することは出來ないのであつて、つまり、眞摯な心が何物をも服せしむるほどの力を持ち得るといふ消息の一端を窺ふべきである。「くらべて」と言はずに「ならべて」と言つてゐるのは、心の中に二人を思ひ浮べてゐるのであつで、左樣な急所が自然に適切に如實に現れてゐるのは、自己の眞實に徹せんとする心の態度から自から生れ來る現象であつて、歌に於ける寫生の極致は斯る所にある。私は、前に萬葉の特徴として、眞實を基礎として素樸率直等の諸性を擧げ、それが藝術の至上境に達しても、それらの諸性を離れることのないことを言うた。それは萬葉の歌を内面から見た言ひ方である。それを外面から言へば、表現が如何にも直接であるといふことになる。これらの歌がそれであつて、何所にも間接なまはりくどい、品をつくつた現れがない。丁度子どもの口から出る言葉は、舌がまはらぬやうであつても、何處も間接な處がない。いやなものは嫌といひ、嬉しければ聲をあげて喜ぶ。東歌の表現の直接さは殆どそれに通じて居り、萬葉全體の表現がすべてその系統に屬してゐる。この歌一首に於ても左樣な特徴は充分に窺ひ得るのであつて、幾たび誦しても口邊に微笑を催さしめるほどの天眞さをもつて居るのである。
         ○
   (二)兒毛知山《こもちやま》若楓《わかかへるで》の紅葉《もみ》づまで寢《ね》もと吾《わ》は思《も》ふ汝《な》は何《あ》どか思ふ
 兒毛知山は山名であつて所在不明である。上野國に今兒毛知山といふのがあるさうであるから、それかも知れぬ。若楓は楓の若葉である。楓の葉は蛙の手に似てゐるゆゑ、古「かへるで」といひ、後に「る」が省かれて「かへで」と呼ぶに至つた。ここでは楓の葉であつて、「若楓」は楓の若葉を言うたのであらう。「紅葉《もみ》づ」は紅葉することであつて、古は斯く動詞として用ひられ、後に名詞にも轉用せられたのである。「寢もと」は「寢むと」の意で關東方言である。「吾《わ》」は古「吾《あ》」とも言ひ、それに「れ」を添へて「われ」「あれ」などとも言ひ、今は主もに「われ」だけが殘つてゐる。「思《も》ふ」は「思《おも》ふ」の略であつて、今の人の口語にも「ともふ」といふ如き發音をする。「汝《な》」は今の「汝《なんぢ》」の意で、それに「れ」を添へて「なれ」などと言うた。(本當には「なんぢ」は「なもち」の轉用であらう。なもちは名持であつて男子の尊稱である。大名持尊などがそれである)「何《あ》どか思《も》ふ」は「何と思ふ」の意で、「あどか」は關東の訛りである。一首の意は、家の近くの兒毛知山に生えてゐる楓の若葉の赤く萌え出づる時までも、いつ迄も、お前と斯うして寢てゐたいと私は思ふ。お前は何う思ふ。といふのであつて、「寢《ね》もと吾《わ》はもふ汝《な》は何《あ》どか思《も》ふ」といふ言ひ方が如何にも率直無邪氣であつて、その口つきの子どもらしさまでが、前の歌とよく似てゐる。特に此第四五句「寢もと我《わ》は思《も》ふ」「汝《な》はあどか思《も》ふ」と二つに切つて竝べてゐる所に無邪氣な調子がよく現れてゐる。斯樣な關係を歌の調子若くは格調・聲調・節奏などと呼ぶのであつて、詳しくは各音の響き方、各句の響き方、それらを合せた一首全體の響き方の關係を指して言ふのである。それは「寢もと吾《わ》は思《も》ふ」以下各音のもつ響きを考へても、それが如何に一首の素樸な調べに調子を合せて居るかが分るであらう。斯樣な調子は決して作爲的に出來るものではない。作者に素樸な心の動きがあつて、初めて斯る格調に到達し得るのである。自然に到達するのであつて、人爲的に眞似るべきものでないのである。猶この歌について言へば、作者のゐる近傍に兒毛知山があつて、その山に楓の木が多く生えてゐたのであらう。その楓は、もう芽をふく頃であつて、紅の若葉美しく開くのに間のない頃であつたらう。さう思ふと、二人相寢てゐる心持までが餘計に具體的に想像出來るのである。萬葉人は決して自己の今の感情に縁もゆかりもない物や事がらを持ち出して歌を詠むといふことが無かつたのであつて、歌ふ所は皆直觀的に心を動かしてゐるものである。兒毛知山でも若楓でも同じくそれであるゆゑ、歌が生き/\として、作者の實感にぴたりと合ふことが出來るのである。歌が直觀的に詠まれねばならぬといふことは斯樣な處でも覺ることが出來るのである。歌の直觀から離れたのは、古今集以來題詠の盛んになつてからのことである。古今集以後の歌の墮落したのは全くこの直觀から離れたことに起因してゐるのである。猶、この歌の「若かへるでの紅葉づまで」を楓の若葉の色と解したのは、小生の一人決めであつて、諸説皆秋の紅葉と解してゐるやうである。そこは解者の自由に任せる外はない。
         ○
   (三)下毛野《しもつけぬ》安蘇《あそ》の川原《かはら》よ石《いし》踏《ふ》まず空《そら》ゆと來《き》ぬよ汝《な》が心《こころ》告《の》れ
 下野國住人の歌である。「安蘇の川原よ」は「安蘇の川原より」の意である。その川原よりお前の家を訪ねるために、川原の石を踏むのも夢心地で、宛ら、宙を飛んで來た心地である。それほどにしてお前を思うて來た。さあお前の本心を告《の》れは告げよの意である)といふのであつて、石を踏みしも覺えぬといふことを「石踏まず」と強く斷定してゐる言ひ方にも、作者の強烈な感情が現れてゐて、宛ら、作者の息づかひを聽き得る心地がする。それを更に「空ゆと來《き》ぬよ」と言つてゐるのは「空を來たやうな心地だ」と言ふべきを、それでは、もどかしかつたのであつて、その關係は「石踏まず」と言ひ切つた心と照合して解し得るのである。此歌第一句より第四句まで斯の如く強い調子で押してゐる。その勢を以て「汝が心|告《の》れ」と言ふのであるから、これには女も本心を打ち明けずには居られないであらう。それほどの威力をもち得るのは、作者の眞向きな心から來てゐるのであつて、作者の眞實を火に加へて直ちに之を熱したほどの烈しさが現れてゐる。無邪氣天眞な心の一面は、又、斯の如き強さをもち得るのである。この歌、弟四句で切り、第五句に獨立句をどしりと置いた句法、一首聲調の上から重大な響きをもち得てゐることに注意すべきである。
         ○
   (四)高麗錦《こまにしき》紐《ひも》とき放《さ》けて寢《ぬ》るが上《へ》に何《あ》ど爲《せ》ろとかも奇《あや》に愛憐《かな》しき
 高麗錦は當時舶來の錦であつて、東國人としてはハイカラであるが、これは立派な衣服といふほどの心であること、丁度、今の人が上等の品物を上等舶來などといふ類である。その立派な著物の下紐を解き放して相抱いて寢るといふのである。古は下紐を解くといふこと實際の大事であつて、夫の旅立ちの時などは、妻が夫の紐を結んで、又相見るまでは必ず解く事なしと誓うたほどである。それゆゑ、もし、何かの拍子で自然に解けたりなどしても、夫が妻に對して言ひ譯がないといふやうなことまであったのである。それほどの大事である。その下紐を解き合うて寢たら、女に對する愛憐の情も、もう滿足しさうなものであるが、それでも猶足らない心地がする。この上何と爲よとか奇《あや》しく可愛いことである。といふのが歌の意である。愛憐の心には限りがない。寸を得て尺を希ひ、尺を得れば猶其の上を希ふのが眞實であつて、その眞實があるゆゑ愛をもつ心は常住苦しいのである。それは滿足感の生む不足感である。その心持が「あど爲《せ》ろとかも奇《あや》にかなしき」と現れてゐるのは、如何にも遣る瀬なき心の眞實が躍り出てゐる心地がする。これ亦東歌の特徴をよく現してゐる歌の一例である。「何《あ》ど爲《せ》ろ」は「何と爲よ」を意味する關東語である。「あやに」は奇《くす》しく靈しき意であり、「かなしき」は愛憐の意である。
         ○
   (五)烏《からす》とふ大《おほ》をそ鳥《どり》の眞實《まさで》にも來《き》まさぬ君《きみ》を子《こ》ろ來《く》とぞ鳴《な》く
 「とふ」は「といふ」の省約であり、「大をそ鳥」は「大虚言鳥《おほうそどり》」の意、「まさで」は眞實の意、「子ろ」は子であつて、今の人が娘の事を「あの子」「この子」など言ふ如く、古も主として男が女を親しみ呼ぶ時用ひたのであるが、稀には女が男を呼んで「子」というたこともあるのであつて、ここでも男を指してゐるのである。子ろの「ろ」は添辭であつて特別の意義はない。一首の意は、鴉といふ大うそつき鳥が、本當に來もせぬ君のことを、如何にも本當に來るらしく「子ろく子ろく」と鳴く。憎らしい鳥ぢや。というて鴉に言寄《ことよ》せて「來さうなものぢや」といふ催促を男に訴へ言うてゐるのである。何うも馬鹿げた所があつて面白い。特に作者は女である。古代の女丸出しの素樸さに、今人、とても及びもつかぬ心地がする。これを「あら、いやだ」など言うて眉をしかめる女は、當世の纎弱な文明に慣らされた神經病みの女であらう。思ふに作者は、對手の男と餘程親しい間柄であらう。一面から見れば戲れに似て、その戲れの中に親しみと眞實がある。待ち切れないで男に送つた歌であらう。
         ○
   (六)稻《いね》舂《つ》けば皹《かが》る我《あ》が手《て》を今宵《こよひ》もか殿《との》の稚子《わくご》が取《と》りて嘆《なげ》かむ
 田家の娘の生活が有りのままに現れてゐる。「稻つけば」は取り入れた米を臼に舂くのである。「かがる」は「あかぎれ」の切れることである。殿の稚子《わくご》はその娘と相思の男である。稚子は、ここでは若々しく瑞《みづ》々しき男を意味する。「殿のわくご」であるから、その男は可なりの身分をもつた家の息子であらう。毎日稻を舂いて皹の切れる我がこの手を取つて、今宵も殿の稚子が嘆いて下さるであらう。といふのであつて、米を舂きながら今夜の逢瀬を想つてゐるのである。米を舂くのは辛い。まして手に皹の切れるのは、殿の稚子に對しても心が後れる。この手を取つて嘆いて下さる情が身に沁みるのである。全體が愼ましやかに、しをらしい少女の心が如何ににも適切に現れてゐる。「嘆く」は長く息づくことである。ここで「嘆く」と言うたのは、必しも皹の手をいたはつて嘆くといふ意のみではない。愛憐の情が餘つて長息となるを指すのである。猶第一句「稻つきて」と言はずして「稻つけば」と言うたために、情趣生動する趣きを思ふべきである。「稻つきて」といへば、切れる皹が靜止する。「稻つけば」といへば活動して、連續的の意が聯想せられ、從つて稻をつく動作まで連續的に想像せられるのであつて、この少女の毎日稻をついてゐる生活がよく現れるのである。斯樣な微細な相違が歌を生かしたり殺したりする。短歌は全體が三十一音であるから、一音二音も惜しんで用ひる所がなければならぬ。大ざつばの現れを以つて滿足するやうでは本當の命ある歌は生れぬのである。如上、一二音で生きるといふやうなことは、矢張り作者の眞實性に徹しさへすれば、自づとその域に至り得るのであらう。
         ○
   (七)麻苧《あさを》らを麻笥《をけ》にふすさに績《う》まずとも明日《あす》來《き》せざめやいざ爲《せ》小床《をどこ》に
 麻笥《をけ》は績んだ麻を入れ置く箱であつて、今でも信州諏訪山浦地方では麻笥《をんけ》と呼んでゐる。「ふすさ」は「澤山」の意味であり、古、普通には「ふさ」と言うた。「來せざめや」は「來らざらめや」の方言であり、「いざせ小床に」は「いざ小床に入らせ」と促す意味である。田家の夫が妻に對して、そんなにせつせ[#「せつせ」に傍点]と麻を麻笥に澤山績み入れて働かずとも、明日といふ日が又來るものを、今夜はその位にして置いて、さあ床に人つて一所に寢ようぢやないか。といふのが歌の意である。これも農家の生活が宛らに現れてゐて、樸訥な田夫の顏つきまで目に見える心地がする。農夫の生括は苦勞なものであるが、一面には暢氣《のんき》なものであつて、我々の想像の及ばぬ悠久境が拓かれてある。この歌には、その苦勞な生活と一面の悠久境が兼ね現れて、而もその兩面が渾然一如となつてゐるといふ感がある。この歌第一句より四句まで連續した勢を一旦踏み切つて、第五句の「いざせ小床に」といふ獨立句を提起してゐるために力を生じてゐるのである。歌の調子の上から注意すべき所である。
         ○
   (八)吾《あ》が面《おも》の忘《わす》れむ時《しだ》は國《くに》溢《はふ》り嶺《ね》に立《た》つ雲《くも》を見《み》つつ偲《しぬ》ばせ
 防人《さきもり》などとなつて西國へ旅する男と別れんとする女の歌であらう。「しだ」は「時」の意で關東語である。「はふり」は「溢るる」意である。遠く隔れば、相見ることも、音問を通ずることも出來ない。或は、お互に顏を忘れるといふやうな心細さまでも思はれる。その時は、この國土に溢れて山の上まで立ちのばる雲を見て、あの邊りが私のゐる方の空だと思ひ偲んで下さい。といふのであつて、遠く離れて思を寄する手《た》づきもなく、せめて雲を見てあのあたりかと心あてに思を馳せる外はない。その心細さは男の心であつて、同時に作者の心である。吾が面の忘れん時と言うてゐる心には、同時に、男の面の忘れられん時をも考へてゐるのである。それゆゑ、「國はふり嶺に立つ雲」というてゐる。自分の住める國に溢れて山の上まで立つ雲は、それが雲であると共に作者の心でもあるのである。その雲を見て偲んで下さいといふのは、同時に自分の心を偲んで下さいといふ哀れなる訴へである。雲をいふに「國溢り」といふ強い現し方をしてゐるのに作者の心の寄せ方を思ふべきである。古人は象徴などいふ詞をも、理窟をも知らないけれども、一心籠つて雲を捉ふる時、その雲が自然と作者の心の象徴になり得るのである。今人作す所の象徴歌は、往々にして理解先づ至つて故らにそれに當て嵌めようとするゆゑに、奇怪な虚假おどし歌が出來るのである。
         ○
   (九)防人《さきもり》に立《た》ちし朝《あさ》けの金門出《かなとで》に手離《たばな》れ惜《を》しみ泣《な》きし子《こ》らはも
 これも防人の歌である。第四五句實にいい。寫生が如何にも眞實に入つて要核を捉へてゐる。「朝け」は「朝明け」である。「金門《かなと》」は門《かど》の事であつて、古、門の戸に金屬を打つたのであらうといふ説もある。「子ら」の「ら」は添へたのみで意味はない。「はも」は多く追懷の感動詞に用ひられるが、時に現在に對する感動詞として用ひられることもある。
 萬葉集の歌は直情徑行的の歌が多いから、悲しいとか、嬉しいとか、悔しいとか、なつかしいとかいふ如き、所謂主觀的言語が多く使はれてゐるであらうと思ふ人が多いやうであるが、必しもさうでないことは、この歌に見ても、前掲數首の歌に見ても分るであらう。萬葉人は、屡々言ふ如く、すべて直觀的に心を動かしたものに即して歌うて居り、若くは、直觀と同じ程度の強さを以つて心に結象せらるるものを歌うて居るから、歌ふ所多く事象物象の心に觸れ來る要核を捉ふるに專らである。それゆゑ、悲しい嬉しいといふ如き詞は割合に多く用ひられずして、その主觀が自然に事象物象の中に籠つてゐる。つまり、外に現るるよりも内に充つるものが深いのであつて、突飛と思はれ大膽と思はれるほどのことを歌うても、それが何所かに重く厚い所があつて、輕薄感から免れてゐるのである。所謂主觀的言語も可なり多く用ひられてゐるが、それはせつぱつまつて、どうしても出さずに居られぬと思はれる場合に出してゐるのであつて、その用法甚だ自然で、輕薄感に陷らぬのである。主觀語の餘り多く用ひられるのは、大抵の場合輕く薄つぺらである。今人多く自己の主觀を重ずると稱して、主觀語を駢列して得たりとする色がある。輕薄な歌の多く生れる所以であらう。
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   (一〇)汝《な》が母《はは》に嘖《こ》られ吾《あ》は行《ゆ》く青雲《あをぐも》の出《い》で來《こ》吾妹子《わぎもこ》相見《あひみ》て行《ゆ》かむ
 「嘖られ」は、叱り懲らされる意である。「青雲の」は「出で」の枕詞である。これは、男が女の家へ通うて行つたのに、その母に見付けられて叱り懲らされたのである。昔「よばひ」といふ事ありて、男の女へ通ふに、家の人に發見せらるるを以つて最も恥とした。その俗、今も八丈島等に遺りて、男の苦心すること甚しい。古の戀は、今の文化人の戀の如く表向きに堂々と押し出して恥づる所なきの類でなかつたやうである。この作者も苦心したのであらうが、遂、その母に發見せられて、空しく立ち歸らねばならなかつた。「こられ吾《あ》は行く」がそれである。併し、どうも未練が殘る。そこでその女に向つて、吾妹子よ。一寸ここまで出て來い。おれは今お前の母に叱られて家に立歸るが、せめて相見るだけでも相見て行かうといふのである。如何にも素樸で直接な言ひ方である。一面には未練であり、一面には暢氣《のんき》な所もあり、大不首尾なのに對して正面に眞面目に物言つてゐる所、一種の滑稽をさへ覺えしめる。それほど田舍者の素樸さが現れてゐるのである。
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   (一一)青柳《あをやぎ》のはらろ川門《かはと》に汝《な》を待《ま》つと清水《せみど》は汲《く》まず立《た》ち所《ど》平《な》らすも
 「はらろ」は賀茂眞淵の言ひし如く、芽をはることであらう。關東人の訛りである。川門は川の水門であるが、轉じては、只、川の事にも用ひたやうである。「せみど」は清水の意の關東語であらう。
 「立ちど」は「立ち所」「平《な》らす」は地を平らにすることである。青柳の芽の張りいづる川邊で、わたしやお前を待つてゐる。實は清水汲みに言寄せて來てゐるのだが、清水汲むのも手につかず。ぢつと斯うして待つてゐるうちに、わたしの足で土を踏み平《な》らしてしまうた。といふのであつて、待ち遠くして待ちきれぬ心が内に自づから籠つてゐる。「立ち所《ど》平《な》らすも」の結句、實によく作者の待ちあぐんでゐる心と光景とを現してゐる。寫生の極致と言ふべきである。この歌恐らく女の歌であらう。我々の祖先は千餘年以前にあつて、斯樣な場合の咏嘆に「青柳のはらろ川門」といふ如き景物を持ち來して、情趣を生かすことを知つてゐた。風景畫は東洋に於て千六七百年前から獨立して居たさうである。西洋はそれより千二三百年も後れて風景畫の獨立を見た。東洋人の自然物に親しむ性情は畫にも歌にも現れてゐるやうである。以下折々に參照を望む。
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   (一二)彼《か》の子《こ》ろと寢《ね》ずやなりなむ旗薄《はたすすき》裏野《うらぬ》の山《やま》に月《つく》片寄《かたよ》るも
 東歌中秀作の一つである。「はたすすき裏野の山」は「薄の生えてゐる裏野の山」の意で、斯樣な言ひつづけ方、他にも例がある。「つく」は月であり、月夜を「つく夜」の例が多い。男が庭に立つて女を待つてゐる。待つても待つても影が見えない。そのうちに芒の生えた野つづきの山へ月が移つて傾きはじめた。もう夜も明くるに近いが、それと思ふ影も見えない。彼の子ともう寢ずになるであらう。と深き溜息を洩らしてゐるのである。その溜息が如何にも落ち付いて、沈んで、深められてゐるために「寢ずやなりなむ」は啻に今宵一夜のみでなく、永く縁が離れはせぬかと嘆いてゐると思はれるほどの力を持ち得てゐる。それほど沈潜した心持は、この歌の調子に現れてゐるのであつて、各音の持つ響きが騷がしからす、第二句で一旦詞を切つてゐるため、餘計に調子に落ちつきが出來てゐるのである。歌に現れる感情は、必ずその歌の調子――響きにまで泌み出て居らねば、本當の現れでないのである。今迄列擧した東歌の如きは、何れも作者感動の調子と、歌に現れた調子とが適切に相合致してゐる。歌を鑑賞するには、そこまで立ち入つて見て居らねば本當でないのである。そこまで立ち入ることの出來ない作者や批評家は、歌に盛られた材料や思想に重きをおいて、作つたり、鑑賞したりする。それは歌として低い程度にある間の所作である。猶、私はこの歌を男の歌として解する。それは、「彼の子ろと寢ずやなりなむ」といふ如き口ぶりや、外に出て久しく待つてゐる情態からして、さう思はれるのである。さうすると、この場合は、女が男の所へ通つて來るのである。さういふことが、この時代にあつたらしく、萬葉集中、他の歌にも、さういふ場合が見えてゐるやうであつて、眞淵などもそれを認めてゐる。信濃國北安曇郡には「池田大町女のよばひ男|後生樂《ごせうらく》寢て待ちる」といふ俚謠も遺つてゐる。井上通泰氏は「屋外の山野にて出で逢はむと契りて女を待ちかねたる趣なり」と説き、面白けれど「寢ずやなりなむ」は矢張り屋内を言ふ感じである。
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   (一三)馬棚《うませ》ごし麥《むぎ》食《は》む駒《こま》のはつはつに新膚《にひはだ》觸《ふ》れし子《こ》ろしかなしも
 「うませ」は厩の口から馬を出さぬやうに、太い丸木などを架して置くものであつて、馬を塞ぎ止めるゆゑ「うませ」といふ。或は、放牧の外圍をかこふ材を「うませ」と言うてもいい。この歌は前者の場合のやうである。「はつ/\に」は「ほんのわづかに」の意である。この歌の意は、わづかに新膚觸れしあの子が愛《かな》しい。といふのにあつて、第一二句は「はつ/\に觸れる」を言はんがための序詞《ついでことば》である。序詞とは、或る事を言はんがために、それと或る點で因縁ある他の事柄をその上に置いて、言はんとする事がらに一種の情趣をもたせるのである。この歌で言へば、馬が馬塞《うませ》越しにして麥を食むゆゑ、その口が麥に僅かに觸れるのであつて、それと「はつ/\に新膚觸れし」といふことを縁をもたせて、新肌觸れた感じに一種の情趣をもたせてゐるのである。萬葉集には、可なり多くこの序詞を使用した歌が見えて居る。併し、その序詞は、後世の序詞や掛け詞の如く、理智的に何か縁あるものを求めて來て、作者の手柄を現すといふやうな藝當的のものではない。萬葉作者の序詞として用ふるものは、現さんとするものと、直接因縁ある直觀的なものを持つて來るのが普通であつて、そのため情趣が餘計に生動し來るのである。この歌で言へば、新膚觸れた子或は作者の生活に接近して、馬が飼つてあるに相違ない。そして、それは、男の生活か女の生活に密接に關係してゐるものであるに相違ない。さうすると、この歌餘計に或る情趣を生み來つて、作者の生活その物をも想像し得て、それを背景としてこの歌を味ふことが出來るのである。「麥食む駒の」の「の」は「の如く」の意味に用ひられてゐる。序詞には、多くこの「の」が付いてゐるやうである。猶この東歌、一本に「垣越《くへご》しに麥|食《は》む駒のはつはつに相見し子らし奇《あや》に愛《かな》しも」と載つてゐる。序詞の關係相似てゐる。これも結構である。 
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   (一四)あり衣《ぎぬ》のさゑさゑしづみ家《いへ》の妹《いも》に物言《ものい》はず來《き》にて思《おも》ひ苦《ぐる》しも
 「あり衣」は織り衣であるともいひ、絹布であるといふ説もあり、或は「たま衣《ぎぬ》」と訓んで、玉をつけた衣と解するもあり、玉は單なる美稱とするもあり、よく分らないが、何れにせよ、よき衣であるらしい。さういふ衣は、著る人の動作につれて、さわ/\と音を立てる。音を立てるが、それは騷ぎつつ猶靜かな音であり、沈んだ音である。「さゑ/\しづみ」がそれであつて、「あり衣の」は、それを言はんがための枕詞である。「さゑ」は「さゐ」の訛り、「さゐ」は「騷《さゐ》」である。「しづみ」は「鎭み」「沈み」「靜み」等の意である。國もと出立の折りは、今も昔も取りこみが多い。心も身もさわ/\して落ち著きがないうちに沈ましい心持がある。それを形容するために「あり衣」を以てしてゐるのを見ても、古代人の寫生の如何に微に入つてゐるかを窺ひ得るのである。左樣な沈んだ心持で家を出たから、わが妹《いも》に言ふべきことも多く言はすに來たのであらう。それを思ひ出して「思ひ苦しも」といふ心甚だ憐れである。倉皇[#「倉皇」いずれも立心偏]として別れ、惆悵として懷ふところの心理が、眞に徹し微に徹してゐる。この歌、或は人麿作として「あり衣のさゐさゐ沈み家の妹にもの言はず來て思ひかねつも」(卷四)とも傳はり、更に「水鳥《みずとり》の立《た》たむ裝束《よそひ》に妹《いも》のらに物言《ものい》はず來《き》にて思《おも》ひかねつも」(卷十四)「水鳥《みずとり》の立《た》ちのいそぎに父母《ちちはは》にものはず(「もの言はす」の約)來《け》にて今《いま》ぞ悔《くや》しき」(卷二十)等の類歌があるのは、この歌、人情の機微に入れるゆゑ、當時關東に流行し、人麿も聞き傳へて、その手記に入れおきしが、後、人麿作としても傳はつたものであらう。民謠には、さういふ傳播が多く、傳播が民謠としての成立、若くは、その生長の一つの條件になるやうである。傳播の廣く且つ久しきは、民謠としての値多きを證するものであつて、これらの東歌も、當時關東地方で民謠的に謠はれたものであるかも知れない。
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   (一五)天《あま》の原《はら》富士《ふじ》の柴山《しばやま》木《こ》の暗《くれ》の時《とき》移《ゆつ》りなば逢《あ》はずかもあらむ
 「天の原富士の柴山」は天聳《あめそそ》り立つ富士の柴山の意であつて、非常に雄偉な感じを起させる。關東野人は果して單なる素樸者でないのである。柴山は富士山樹木帶近く住める民人より出でし名であらう。その樹木帶の中に相逢はんことを約して、男先づ樹下に立つて待つてゐるのであらう。あたりは針葉樹の木下暗である。待つ時が長くて、來る人が遲い。こんなに時が移(ゆつりは移りの訛り)り行かば、遂に逢はずになるかも知れぬと嘆くのであつて、その嘆きが天の原富士の柴山と、木の下闇の背景によつて、異常な感じに引き入れるのである。東歌中の異彩あるものであらう。「天の原」「富士の柴山」と切つて、第二句以下勢を伸して押して行く姿が、裾野の遠く押し行く姿に通ふ心地さへする。「逢はずかもあらむ」八音字餘りの調子が甚だよく据わつてゐる。この歌も樣々の解釋がある。今略す。
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   (一六)面白《おもしろ》き野《ぬ》をばな燒《や》きそ古草《ふるくさ》に新草《にひくさ》交《ま》じり生《お》ひは生《お》ふるがに
 東歌中純粹に自然物を詠めるはこの歌だけである。面白き野を燒くことなかれ。古草新草相交じはりて初春の景情をなせるを見むといふのである。「古草に新草交じり」「生ひは生ふるがに」意と調と兩つながらいい。全體の調子も初春清爽の心持に通じてゐる。結句「生ひは」「生ひば」兩訓あれど、小生は清《す》む方を取る。「生ふるがに」は「生ふるがために」等の意である。
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   (一七)足柄《あしがら》の彼面此面《をてもこのも》に刺《さ》す係蹄《わな》のか鳴《な》る間《ま》靜《しず》み兒《こ》ろ吾《あ》れ紐《ひも》解《と》く
 「をてもこのも」は「彼《か》の面《も》この面《も》」の意で關東語である。「か鳴る」は音立てることで、古義に「かしましく鳴る」と解してゐる。井上通泰氏は、今東京邊にてやかましくいふことを「がなる」といふ方言あるは其の遺れるのであらうと説けるは名説である。實は小生もそれを考へ居り、今度この稿を起して、新考を參照するに及び、既にその説あるに驚いたのである。本書は、さういふ方面へは入らない筈であるが、先を越されて、少々悔しかつたから言ふのである。足柄山のをちこちに、鳥獸を獲んがための係蹄《わな》を刺しておく、その係蹄を引く時々に音を立て、音と音との間は山野が靜まりかへつてゐる。その靜かさを序として、二人相靜まつて紐どき寢る心持を歌うたのであつて、初より「かなる間」までが「靜み」を言はんがための序詞になるのである。萬葉の序詞が直觀的であつて、歌の命に息を吹き入れてゐることは前に述べた。この序も亦作者の生活に近いものを捉へて寫生が機微に入つて居り、不安とまでならずとも、次の動搖を豫想する如き靜かさの心持をよく現してゐる。この歌、中村憲吉君は、男女山野にて相紐解いた古俗の現れならんと言うてゐる。多分さうであらう。「子ろ吾れ紐解く」の言ひ方も無邪氣で幼くていい。
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   (一八)筑波嶺《つくばね》の嶺《ね》ろに霞《かす》みゐ過《す》ぎがてに息衝《いきづ》く君《きみ》を率寢《ゐね》てやらさね
 「霞みゐ」は霞が居《ゐ》るのである。一二句は「過《す》ぎ難《がて》に」を言はんがための序である。霽れんとして霽れぬ霞と、行き過ぎんとして過ぎ難くする動作とを相通はせてゐるのである。あなたは、吾が家のあたりを行き過ぎんとして、猶躊躇して深き溜息を洩らしてゐる。それほどにして私を思うて下さるのに、何うして只このまま歸らせませう。いざ共に寢ようといふのであつて、「過ぎがてに息づく君」の寫生が會心であり、「率寢てやらさね」も直接で心地がいい。矢張り東歌の面目である。「率寢てやらさね」(やるは遣るの意。率寢は率て寢るの意)は他人に命令し希望する詞なれど、ここでは轉じて自身に命令してゐるのである。今人も、自身に龜して獨語的に「やつてやれ」「爲方がない書いてやれ」といふ如き命令の詞を出すことがある。それである。心の急なる時、語意の轉換されること例が多い。(三〇七頁「語法の超越」の項參照)この第五句解、世に異議多いかも知れない。
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   (一九)多胡《たこ》の嶺《ね》に寄《よ》せ綱《づな》延《は》へて寄《よ》すれども豈《あに》來《く》や靜《しづ》しその貌《かほ》善《よ》きに
 上野國多胡地方にある山である。一二三句は「豈《あに》來《く》や靜《しづ》し」を言はんがための序である。多胡の山へ寄せ綱をかけて引つぱるけれども中々こちらへ寄つて來ない。「豈來らんや。啻に來らざるのみならず、その状甚だ沈著なり」といふほどの意で、序と本意と心持がよく通じてゐる。出雲風土記に國引の事出で居り、山を畚にて擔ひ歩くといふ如き傳説も各所にあり、上代人には大まかな途方途轍もない想像があつて面白いのである。この作者の女に對する焦燥の心も、寄せ綱で引き寄せたいほどに思ふのであるが、その一方に、神經過敏でない、大らかな素樸さがあつて甚だ快い。眞向きに言つてゐる所に滑稽の面影さへある。「豈|來《く》や」「靜《しづ》し」「その貌善きに」調が強く、ぶつきらぼうで直接である。東歌の面目をよく現した歌であらう。「豈來や」を「あ憎《にく》や」と訓ませ、「靜し」を「沈石《しづし》」と訓ませる説もある。「靜し」は關東訛りであらう。
 以上十九首は、卷十四中の一毛に過ぎないが、東歌中の各相を諒するに都合よいかと思うて拳げたのであつて、他の東歌の何れよりも秀でてゐるといふ意味ではないのである。只、ここに擧げたものは、東歌中の秀逸であるのみならず、その中には、東歌としての特徴を押し進めて、歌としての或る頂上點に到著してゐるものがあり、それらの歌は、萬葉集中の秀逸を輯める時、必ず逸すべからざるものであらうと思ふのである。
 以上、卷十四東歌から例を取つて、萬葉集前期の歌を説いた。以下諸卷の中から前期に屬するものを擇ぶ。萬葉前期を舒明帝より天武帝に至る五十年間としたのは、舒明帝以前の歌が萬葉に少いから、暫くそれを取除いて言うたのであつて、それ以前のものが、萬葉前期に屬することは言を俟たない。ここには萬葉最古の歌である仁徳天皇皇后磐姫の御歌から初める。
   (二〇)斯《か》くばかり戀《こ》ひつつあらずは高山《たかやま》の磐根《いはね》し枕《ま》きて死《し》なましものを  卷 二
 「皇后天皇を思《しぬ》ばして詠みませる歌四首」と前書してあるうちの一首である。如何にも激しい感情が率直に現されてあつて、萬葉前期の特徴を具備してゐる。「戀ひつつあらずは」(あらずばではない)は「戀ひつつあらんよりは」の意である。「枕《ま》きて」は「枕として」の意であつて、上古は、四段活用の動詞になつてゐる。「高山の磐根し枕《ま》きて」といふのは、上古、死者は皆山に葬る習はしであつたから、死ぬると言ふことの代りに、岩を枕にするといふ詞が存在してゐたのである。「死なましものを」の「ものを」は、感じを重く強く現さんがための感動詞である。一首の意は、これほど天皇を偲《しの》んで苦しい思ひをして居らうよりも、いつそ、高山の磐根を枕にして死んだ方が増しである。迚も現在の苦しみには堪へられぬ。といふほどの御心であつて、その激越な感情が、「磐根し枕きて」の「し」「て」の如き強い響きになり、猶「死なましものを」の「ものを」といふ如き由々しき感動詞となつて現れてゐるのであつて、如何にも堪へ得ざる心の有のままなる表視であるといふ心地がする。記紀の記録によれば、磐姫皇后の御性格は非常に嚴しく激しくあらせられたやうであつて、仁徳天皇と多くの女性との關係に對して可なり心を惱まされたやうであり、終りに、山城の筒城宮に入つて天皇と別居されたのであるが、それも天皇に對する熱情の現れであつたと想像せられる。その嚴しく激しい性格が端的に歌の上に現れてゐる所、正に萬葉前期の歌を代表するものである。猶、この歌を、中村憲吉君は解して、皇后深夜閨中の御作であらうと言うてゐる。面白い見方であるから參考のために附記する。
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   (二一)秋《あき》の田《た》の穗《ほ》の上《へ》に霧《き》らふ朝霞《あさがすみ》何方《いづべ》の方《かた》に我《あ》が戀《こ》ひ止《や》まむ  卷 二
 同じく磐姫皇后の天皇を思《しぬ》び奉つた歌四首中の一首である。是等の歌は單に初期の歌と言ひ去るべきではない。初期中期末期を通じての秀品であり、藝術としての高所に人つてゐるものといふべきであらう。さういふものも初期時代に現れてゐること東歌の條で言及した。この歌第三句までは第四五句を言はんがための序である。(序詞のこと三二頁參照)「霧らふ」は地や空の水氣の朧ろに立ちこめることであつて四段活用の動詞である。霧《き》らん、霧《き》り、霧《き》る、霧《き》れ、と働き、第二段|霧《き》りの活用が名詞になつて、今日は霧《きり》といふ名詞が普通に用ひられてゐる。萬葉時代にあつて、霧霞などの語は、古今集以後の如く觀念的なものになつて居らず。春でも秋でも霧霞は存在し得たのであつて、その用法極めて自然であつた。秋の稻田の穗の上にぼうつと霧《き》らうてゐる朝霞は、晴るるが如く、晴れざるが如く、日光の徹るが如く徹らざるが如く、何れとも頼《よ》るべなき心持を伴ふ。斯の如き自然の光景の微細所を捉へて、これほど簡單な現し方をしてゐるのは驚異とすべきである。その稻田の霧を序として、何方《いづべ》のかたに吾が戀ひ止まん。といふ便なき心を現したのは、如何にも適切の感があつて、序と四五句と相合致して、天地悠久の憂ひにまで到達するを覺えしめる。これは、皇后が憂鬱の心を抱いて稻田の上に立ち動く霧を見つめて居られたに相違ない。穗の上に霧らふ朝霞は、霞であつて同時にそれが皇后の憂ひの御心の姿であつたのである。萬葉の序詞は、斯の如く何時も直觀的であるがために歌の生命を深めて居ること前に説いた所である。古今集以下になると、この序詞が全く知識的になり、觀念的になつて、直觀の意から離れるゆゑ、歌の命を薄くしてゐるのである。例へば「わが袖《そで》は干潮《しほひ》に見《み》えぬ沖《おき》の石《いし》の人《ひと》こそ知《し》らね乾《かわ》く間《ま》もなし」(千載集)に就いて見ても、人こそ知らね乾くまもないものは何であるかと考へて、第二三句の序詞を案出したと見えるのであつて、「わが袖は」とかけて何と解く。と間ふ謎解きの類に終つてゐるのである。相對比して兩者の歌の命の相違を領すべきである。「いづべの方にあが戀止まむ」は、「わが戀ひ止まん方も知られず」の意を強く言うたのであつて、何方に向いても思ひはるけん方なく、頼みとすべき術もないといふほどの果敢ない心持である。
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   (二二)一日《ひとひ》こそ人《ひと》をも待《ま》ちし長《なが》き日數《け》を斯《か》くのみ待《ま》てば有《あ》りがてなくも  卷 四
 仁徳天皇皇妹の、旅なる庶兄に贈り給うた歌である。あなたに別れて、初めの一日二日のほどこそ堪らへて居られましたが、かう長くなつては、とても堪りませぬといふのであつて、一日といふ詞は、朝から夕まで待ち通してゐる心から自ら發せられた詞であつて、單に、一日二日と數へる一日の意ではないのである。第四句は「待てば」に「斯く」が添はつて作者の心が如實になり、「のみ」が添はつて更に痛切の度を増すのであつて、「待てば」の「ば」がその勢を受けて一氣に「ありがてなくも」と押し進んでゐる。その勢如何にも直線的で烈しい。一體「有りがてなくも」は語法上よりすれば「在り得る」の意である。「ありがて」(下二段活)が「有り難い」「在り得ず」等の意であつて、それに「なく」が添はつて反對の意になるからである。それにも關らず、この句、人をして「有り得る」の意に解する餘地なからしむるは、七音の句勢が分岐せずに、直に一直線に進んで「なく」を單なる感動詞として働かせるほどの力になつてゐるからである。實際、この場合の「なく」は「無く」の意でなくて「在りがて」の語勢を強めるだけの役目を持つてゐる。集中、この他にも「草枕旅のやどりに誰《た》が夫《つま》か國忘れたる家待たなくに」(卷三)等があつて「家待たなくに」は「家人が待つのに」の意に用ひられてゐる。(三〇七頁「語法の超越」の項參照)今日の日常語にも「要らざらない」は「要らない」ことであり、「怪しからない」は「怪《け》しかる」ことであり、「負けず嫌ひ」は「負け嫌ひ」の意である。「負け嫌ひ」を「負けず嫌ひ」と言はねば調子の要求が滿足せず。調子にその要求あるは感情にその要求があるからである。歌の調子と感情の要求と合致する場合は、往々にして語法の約束をも突破することがある。それほど、調子は歌の上に大切な位置を占めてゐるのである。この歌、初句より強い調子で起《おこ》つて、結句までその勢を一途に押し進めて、その現れが甚だ端的である。初期の特徴をよく備へてゐるものとすべきであらう。猶、第三句「日數《け》」は「來經《きへ》」の約まりであると解されてゐる。幾日も幾月も經過する場合に「け長き」「け長し」などと慣用されてゐる詞である。「けのこのごろ」「朝にけに」などの「け」も經過長き意が伴つてゐる。第二句「人をも待ちし」は古來「人も待ち繼げ」の訓ありて今も從つてゐる人々がある。參照のために附記する。
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   (二三)夕《ゆふ》されば小倉《をぐら》の山《やま》に鳴《な》く鹿《しか》の今宵《こよひ》は鳴《な》かず寐《い》ねにけらしも       卷 八
 舒明天皇御製である。これとよく肖た歌で、雄略天皇御製歌が卷九に出てゐる。毎夜、小倉山に鳴く鹿が、今夜聞えないのは、もう寢てしまうたのであらう。というて、動物に對す愛憐の情が、素直《すなほ》に濃《こま》やかに現れてゐる。「夕されば」は「夕になりくれば」の意である。「されば」であつて「ざれば」ではない。「春されば」「秋されば」「夕さりて」など皆|清《す》んで訓むべきことは同じである。「けらしも」は「けり」の活用へ「らし」が添はつたのであつて、「も」は感動詞である。「らし」は今の世「さうな」などいふに近い。この歌、第四句で一旦句を切り、鹿の聲の聞えぬことを敍して、四邊の靜寂な心持を現し、更に句を起して、寐たさうなと敍して、鹿の身邊を思ひやる心が自ら現れてゐる。姿が極めて自然であつて、靜寂な境と愛憐の心が深く動いてゐる。何度讀んでも、讀む度に心の深められるのを覺える歌であつて、萬葉集中の秀作たること誰も首肯する所であらう。前期にも、實に斯ういふ傑れた歌がある。期を以つて分つといふこと、これらの歌になれば不要を感ずる。而も、歌の姿は單純率直且つ素直であつて、前期の體と合してゐる。
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   (二四)吾《あ》が背子《せこ》は假廬《かりほ》作《つく》らす草《かや》なくば小松《こまつ》が下《した》の草《かや》を苅《か》らさね  卷 一
 「中皇命《なかちひめみこ》の紀の國にいでませる時の御歌」といふ前書がある。中皇命は、徳川時代の學者からは、中大兄皇子(後に天智天皇)の御妹《おんいもうと》とされて居つたのであるが、近頃異説が出て、明白な決定がない。兎に角、天智天皇以前舒明天皇以後の皇女であつたことは確かである。昔は旅の道中、高貴なお方であつても、假屋を作つて一夜の宿としたのであつて、小家を作り、萱を葺くといふ如き煩ひが多く、隨分辛苦をせられたやうである。「吾が背子《せこ》は假庵《かりほ》つくらす」と言ふのがそれであつて、背子は、女が男を親しみ呼ぶ時の呼び詞である。背《せ》のみでもその意であり、それに「子」が添はつて更に親しみの詞になるのである。「子」は主もに男が女を親しみ呼ぶ時の詞であるが、女の男を呼ぶ時に用ひることもあり、殊に、背子など續ける時は多く男を呼ぶ詞になり、稀に男が男を親しみ呼ぶに用ひることもある。これは序を以て言うたのである。假廬は「かりいほ」であつて、旅の道中につくる小家である。「つくらす」は「作る」の音を延したのであつて、鄭重な言ひぶりが敬語になることもあるのである。「草《かや》を苅らさね」は「草《かや》を苅らせ」であつて、「せ」を延せば「さね」になり、「さね」を約めれば「せ」になるのである。つまり、これは、萱をお苅りなさい。といふ言の敬語になる。一首の意は、吾が背子は、今旅の宿りの假廬を作つておいでになるが、屋根を葺く萱が不足ならば、あの小松の下にある萱をお苅りなさい。といふのであつて、その詞つきも、心づかひも實に素樸そのものの姿である。「草《かや》なくば小松が下の草《かや》を苅らさね」と草《かや》を重ねて言うてゐるのは、稚拙にして子どもの口調に類して居り、それだけ純眞な情が籠つてゐるのである。萬葉初期の代表歌として必ず逸すべからざる好作であらう。この歌をわが師伊藤左千夫は解して、多分御兄妹のままごと遊びせられた時の御歌であらうと説いてゐる。ままごと遊びの時の歌と思はれるほど、無邪氣な心の現れてゐる歌である。
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   (二五)家《いへ》にあれば笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を草枕《くさまくら》旅《たび》にしあれば椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る  卷 二
 孝徳天皇の皇子有間皇子《ありまのみこ》が齊明天皇の時に謀叛せられたため、紀伊に送られて、藤白に自經せられた。その紀伊道中での歌である。笥《け》は筥《はこ》であつて、食を盛る器である。形が丸い。丸くないといふ議論あれど、小生にはよく分らぬ。櫛を入れる筥を櫛笥《くしげ》といひ、麻を績み入れる筥を麻笥《をけ》などいひ、各その形を具してゐるであらう。草枕は旅の枕詞である。一首の意は明瞭である。家にあれば身分相應の食器に飯を盛る。それが圖らざる旅の身となつて、笥に盛ることも出來ずに、椎の葉に盛ると言うて、忽ちにして身の上の變つた歎きを敍べられたのである。現れ方が如何にも素直で素樸で直接である。萬葉初期の歌の好例となすに足りる。前の仁徳天皇皇妹の歌は「待」を繰り返し、中皇命の歌は、「草《かや》」を繰り返してゐる。この歌には「盛《も》る」といふ詞を繰り返してゐる。同じ詞を繰り返すのは、子どもの心理に通じた現れである。萬葉初期にこの句法の多いことは、當時の歌の素樸さを現す一つの證徴である。
 大凡、萬葉の歌を説くもの、歌の直情吐露なるを言うて、その表現に主觀句の多いを想うてゐるもの多きは、萬葉の歌に徹せずして、漫然萬葉を説いてゐるからである。この歌にしても、自己境遇の變遷を歎くの心が、内に切にして、外に何等の主觀句を用ひて居らぬ。主觀句を用ひずして、却つて、主觀の深く泌み出てゐるを覺ゆるのは、これを寫生の心理に通じて考へることが出來るのである。寫生を以つて沒主觀なりとし、理智的表現なりとし、甚しきは藝術上の啓蒙運動なりなど説いてゐるものは、有間皇子のこの歌に對しても、同じく理智的であり、沒主觀であるとするであらう。さういふ淺解者は語るに足らないのである。前の中皇命の歌にしても、只「草《かや》なくば小松が下の草《かや》を苅らさね」というて、親愛の心が自ら泌み出てゐることを解し得れば、寫生道の如何なるものであるかの一端を領し得るであらう。
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   (二六)吾《あれ》はもや安見兒《やすみこ》得《え》たり人《ひと》皆《みな》の得《え》がてにすとふ安見兒《やすみこ》得《え》たり  卷 二
 これは、藤原鎌足の歌である。當時諸國司より國内の美しい女を擇んで朝廷に致して宮仕へをさせたのが采女《うねめ》であつて、その采女の中でも、特に容色秀れたるものに安見兒と名づくるものがあつた。その安見兒を鎌足が手に入れることを得た時、歡びのあまり詠んだ歌である。劈頭「吾はもや」と歡びの聲を揚げてゐる所、先以つて痛快である。ここでは「は」も「も」も「や」も感動詞である。「は」は他と區別するための助辭であつて、その意の強いために、歌の上では多く感動詞の努めをなすのである。吾といふ詞へ三つの感動詞を添へたのは、よきものを得て「僕は/\」と呼んで躍りあがる子どもの心理に似てゐるのである。特に、この句の終りをなす「や」の掛りが強く、これを受ける第二句「安見兒得たり」の「たり」が更に強いために、安見兒を得た歡びの心が非常に強い響きをなし得てゐるのである。「得がてにする」は「得難くする」の意であつて、一首の意極めて明瞭である。「安見兒得たり」を繰り返して、却つて自然を感ぜしむるほど無邪氣な歡びの滿ち滿ちた歌であつて、初期代表の作の一として逸すべからざるものである。          ○
   (二七)三輪山《みわやま》を然《し》かも隱《かく》すか雲《くも》だにも情《こころ》あらなむ隱《かく》さふべしや   卷 一
 これは「額田王《ぬかだのおほきみ》近江に下り給へる時作歌」といふ前書ある長歌の終りに添はつてある反歌であつて、本來は長歌と併せ見るべきであるが、一つの短歌として見るも妨げないやうである。額田王は、初め大海人皇子《おほあまのみこ》(後に天武天皇)と相思うて、その中に十市皇女《とをちのひめみこ》を生んで居られる。後に天智天皇も額田王に思ひを寄せられたために、御弟大海人皇子との間に確執を生ぜられたと言はれて居り、或るものは夫れを以つて壬申亂の大なる原因とまで考へてゐる。この歌は、多分、額田王が大海人皇子との間を割かれて、天智天皇の近江朝廷へ徙られる旅の道中の作であらうと想像される。三輪山は、この時奈良坂を越え行く額田王の背後に遙かに見える山であらう。懷しい人に別れ、優しい土に別れ、遙々近江の國に向ふ道中に、最後故郷の形見として殘されて見えるのがこの三輪山であらう。その三輪山さへも雲に隱れて見えなくなつた。人に離れて土に縋り、土に離れて空に縋るのが別離の人情である。その空に見えてをる山さへ雲に隱れたのであるから、額田王堪へられずなり給うたのである。それゆゑ、劈頭に「三輪山を然かも隱すか」と叫び且つ訴へてゐる。激したる情のありのままなる現れである。その一二句を受けて更に「雲だにも情《こころ》あらなむ」と訴へてゐる。切《せ》めて雲だけでも情《こころ》あれかし。と言はれる心は、人間無情、憑むところなし。と歎く心である。「あらなむ」は他に龜して願望の心を掛ける時の詞である。その第四句を受けて、更に第五句に至つて「隱さふべしや」と、雲に對する訴を繰り返してゐるのは、繰り返さずには居られない熱情の現れであつて、これも亦萬葉前期の歌の繰り返し句多きに通じてゐる。「隱さふ」は「隱す」の延音である。「隱さふべしや」は「隱すべきにあらざるに非ずや」の意であつて、反語を用ひて詞の意を重大にし、「べしや」と押す語勢が特にその勢を助けてゐる。
 猶、この歌は一首が三ケ所で切れてゐる。「三輪山を然かも隱すか」と切り、「雲だにも心あらなむ」と切り、最後に第五句で「隱さふべしや」と切つてゐる。我々の感情の激する時、口から弾き出される詞の多く斷絶するのが自然であつて、その斷絶は、心臟の鼓動と、呼吸の切逼とに伴ふのであつて、斯る歌を誦すると、作者の心臟と呼吸の音動を直接に聞く如き感を起す。それだけ歌の調子と作者の感動とが一致してゐるのであつて、これ以上に表現の直接なるを望み得ない心地がする。萬葉中、尤も直情の端的に現れ得たものの一とするに躊躇しない。歌は調子によりて活きもし、死にもするといふ消息を窺ふべきである。
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   (二八)良《よ》き人《ひと》の良《よ》しと能《よ》く見《み》て良《よ》しといひし芳野《よしぬ》よく見《み》よ良《よ》き人《ひと》能《よ》く見《み》  卷 一
 これは天武天皇の吉野に行幸せられし時の御製である。一首の意は、今わが入り行くこの吉野は、昔より良き人の良しと能く見て、良しというた芳野である。その芳野を能く見よ。と侍者に仰せられるのであつて、更に、その意を繰り返して、第五句に「よき人能く見」を重ねたのであつて、全體の調子が如何にも輕快に出來て居り、首より尾までが殆ど「良し」の繰り返しに類するところ、萬葉集中の異彩をなしてゐる歌である。この歌、作者欣快の情から生れ出てゐること、その歌の調子から領得することが出來るのであつて、輕快の情先づ現れて、それに伴ふ輕薄さを感ぜしめぬのは、衷心に動く欣快の情が純眞であるからであらう。荷田東滿《かだのあづままろ》この歌を解して、天武天皇壬申の亂平らいで後、侍臣を具して再び吉野へ行幸遊ばされた時、得意の情自ら禁ぜずして詠ませられた歌であらうと説いてゐるのは卓見であつて、この侍臣は、更に立ち入つて考へれば、恐らく、侍臣以外の額田王であるかも知れない。額田王は、實に壬申亂後再び前の相思であらせられる天武天皇に隨伴始終することが出來たのである。
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   (二九)茜根刺《あかねさ》す紫野《むらさきぬ》行《ゆ》き標野《しめぬ》行《ゆ》き野守《ぬもり》は見ずや君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る  卷 一
 これは、天智天皇の近江の國|蒲生野《がまふの》へ遊獵し給うた時、これに隨はれた額田王が、同じく扈從せられし大海人皇子に獻つた歌である。「茜根刺す」は紫の枕詞である。紫は「むらさきぐさ」と稱する草であつて、紫の花が咲くさうである。紫野は地名ではなく、その紫草の咲いてゐる野を言ふのである。標野は遊獵の地を占めて他のものの入るを禁じてある野である。第一句より第三句までは、大海人皇子扈從の動作を言うてゐるのであつて、「紫野行き標野行き」と「行き」を重ねて、その動作鮮明に爽快に眼底に映ずるを覺えしめる。左樣に、行き且つ行いて君の袖振る擧動を、野守(野の番人)に見咎められはせぬかと心配して、此歌を獻つたのであつて、君が袖振るを野守は見ずや。といふ普通の敍べ方を顛倒して四五句をなしたのであつて、顛倒の姿に却つて情の切なるが現れてゐる。「雨が降つて來た」といふ詞に切迫の意が加はる時「降つて來た。雨が」と順序を顛倒するの類である。古へ男女相思の意を現すに、多く袖を振り、領巾《ひれ》を振つたやうである。如何なる振り方をしたかを明かにしない。大海人皇子は英雄であらせられる。衆人環視の中で、遠慮を脱して盛に額田王に向つて袖を振られたであろう。その動作は、額田王に對して如何に快感を誘起せしむるものであつたかは、第一二三句の調子によつても解し得る所である。快感と威謝と二つながら動くと共に、一方には、人に見知られるといふ危惧の情が動く。野守は見ずやと言うたのは、天智天皇を初め、多くの侍臣を指してゐること明瞭である。この歌、句法の變化に富んで、却つて情趣の生動を覺えしめる。萬葉初期の歌として一異彩を持ち得てゐる。左千夫先生は、時々この歌を言はれて小生等の歌に節奏の變化なく、生動の姿乏しきを叱られた。猶、額田王は、萬葉中にあつて才氣煥發の概ある女性として注意を惹かるる御方である。而も、その歌多く生動して、些の厭味を伴はぬのは、情先づ動いて才氣これに隨ふためであらう。それが、あべこべになつて、才氣先づ動く時、歌は多く機智的になり、輕薄なものになり易い。才人の戒むべき所であらう。
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   (三〇)朝霧《あさぎり》に霑《ぬ》れにし衣《ころも》干《ほ》さすして一人《ひとり》や君《きみ》が山路《やまぢ》越《こ》ゆらむ   卷 九
 舒明天皇の紀伊國に行幸せられし時、扈從した或る人の歌である。一首の意は明瞭である。朝霧に霑れにし衣を乾すひまもなく、山路を辿る人を思ひやつたのであつて、第一句より第三句まで、實に心の籠つた寫生である。朝霧に霑れたといふ。その霑れた衣を干さずして行つたといふ。その言ひ方、心の籠り方が、自らにして愛人との別れを敍したことが想像される。思ふにこれは女性の作であらう。第四五句に至つて、上句の暢びやかな句法を受けて「一人や」と力を入れたために句法の締りを生じ、曲節を生じ、而も全體の素直な感じを傷つて居らぬあたり、言ひ知れぬ趣が現れてゐる。初期に於ける傑作の一つであらう。
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   (三一)渡津海《わたつみ》の豐旗雲《とよはたぐも》に入日《いりひ》刺《さ》し今夜《こよひ》の月夜《つくよ》清《まさや》けくこそ   卷 一
 中大兄皇子《なかのおほえのみこ》(後に天智天皇)の作であり、播磨あたりへ行啓せられた時、海濱で作られたのかと思ふ。「わたつみ」は、元來は海神のことであるが、後に轉じて海の意にも用ひられてゐる。ここでは海の意である。豐旗雲は、旗の如く打ち靡いた雲であつて、それに「豐」が付いて大きな感じを帶びる。この語恐らく中大兄皇子の造語であらう。(この語の造語なるは正岡子規が先づ言つたと記憶してゐる)海上遙かに棚曳ける豐旗雲である。それに入日が刺してゐる。これだけで、如何にも壯大雄偉の感が起る。四五句更にそれを受けて、「今夜《こよひ》の月夜《つくよ》清《まさや》けくこそ」と言うてゐる。「つくよ」は月夜であり、又、月のことでもある。「まさやけくこそ」は「清《す》み明《あ》かくこそ」「清《きよ》く照りこそ」など樣々の訓みあれど、小生は古泉千樫君の訓に從つたのである。この下二句、今宵の月夜は清明《まさや》けくこそあれ、と斷定してゐるのであつて、上句の壯んなる勢を受けて、大磐石の如く据わり得てゐるといふ感がある。一首の意は明瞭であらう。境は海濱である。海上遙かに豐旗雲が棚引き、それに夕日の光がさしてゐる。今夜の月夜の清明なること想ふべしと斷定してゐるのであつて、氣宇の広闊雄大なること、多く比を見ないほどの歌である。第三句「刺す」と言はずして「刺し」といふ中止法を用ひて、語を言ひさしにしてゐる。さういふ所がこの歌を大柄にしてゐること、作歌者の特に注意すべき所である。歌を大柄にしようとして「刺し」と用ひたのではない。大柄な氣宇が自然に斯樣な句法に到達せしめたのである。この關係は、歌の根本問題となるべきものであつて、更に深く作歌者の心を致すべき所であらうと思ふ。この歌、實に中大兄皇子の大化改新の大業を成し遂げられた高壯なる氣宇を想見せしむるに餘りあるほどの御歌であつて、或る説の如く、この歌他よりの竄入であつて、中大兄皇子御作であるまいとするが如きは、小生の取らない所である。萬葉集を通じての秀作であらう。
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   (三二)玉《たま》きはる内《うち》の大野《おほぬ》に馬《うま》列《な》めて朝《あさ》踏《ふ》ますらむその草深野《くさふかぬ》   卷 一
 舒明天皇の大和國|内野《うちぬ》に遊獵せる時、例の中皇命が間人連老《はしうどのむらじおゆ》をして天皇に獻らしめた長歌の反歌である。「玉きはる」は「内」の枕詞、「馬列めて」は「馬を列べて」であり、「朝踏ます」は「曉より鳥獸を踏み立てる」ことである。「踏み立てる」とは當時遊獵上の用語である。境は内《うち》の大野《おほぬ》である。そこに舒明天皇以下馬を乘り列べて、曉より鳥獸を踏み立て給ふらんところの、その草深き野の光景を想像したのであつて、「その草深野」と名詞止め二五音(その(二音)くさふかぬ(五音))の結句を以つて一首に堂々たる据わりを生じてゐる風姿を想見すべきである。歌は結句が重く据わらなければ一首としての力を生じ得ない。第一句より第五句に讀み進んで、その第五句の響きが、更に歌全體に反響すること、恰も、撞木が撞座にあたつて、響きが鐘全體に及ぶといふほどの力を持つて、初めて一首の風姿生動するを得るのである。萬葉に二五音の結句多く、古今集以下にそれが少いことも、兩者歌風の相違を考ふるに參考となるのである。「その」といふ代名詞は、歌の上に利いて用ひられること極めて少い。この歌の結句、その點についても參考となるのである。第二三四句、境地と句法と相待つて清爽な感を成し得るに於て充分である。初期中に於ける秀作の一つである。猶、この歌間人連老の歌とする説多けれど、小生は女性の作と思ふので、矢張り中皇命の作とする。
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   (三三)衣手《ころもで》に取《と》りとどこほり哭《な》く兒《こ》にもまされる吾《あれ》を置きて如何《いか》にせむ   卷 四
 田部忌寸櫟子《たなべのいみきいちひこ》が筑紫太宰府へ任官せられた時、別れを惜しんで或る女の詠んだ歌である。時代はよく分らないが、暫く前期中へ收めておく。作者は古來舍人吉年、或は舍人千年等と傳はつてゐるが、諸説ありて定まらず。もし舍人某が眞ならば、その舍人は氏であつて吉年・千年何れにせよ女の名であらう。これは古義の著者鹿持雅澄もさう解してゐる。衣手は袖であつて、どちらも衣服の手をとほす部分をいふ名である。(袖は衣手《そで》であつて、衣手《ころもで》と同義である)衣手《ころもで》に取りとどこほつて哭く子にも猶まさつて、離れがたくする私をあとに取り遺して、あなたは何うなさるのであらう。私もせんすべの手《た》どきが分らない。といふのであつて、あなたは何うなさるといふ心は、自分も何うしていいか分らないといふ心であつて、詞に於て一方を言ひ、情に於て雙方を言うてゐるのである。(「如何にせん」を自分だけに用ひられる詞とする説は狹い)「取りとどこほる」は、取りついて離れ難くする意であつて、左樣な場合の動作の寫生が眞に入り要に入つてゐること、前掲東歌「手離《たばな》れ惜しみ泣きし子らはも」と共に雙璧をなす觀がある。この歌、初めより終まで句勢暢達して女らしい姿と、女らしいあはれさがあり、特に「置きていかにせむ」あたりは、子どもの汚れざる如き純粹さがある。この作者、恐らく美人にして醇直な心の持主であらう。そこまで想像するのは危いのであるが、歌の心と、心の姿と、體の姿と一致すること、往々にして例證されることがあるやうである。これを宣長が男の歌と解して、第四句「我を」は「君を」の間違ひであらうと言うてゐるのは、宣長に歌の命が分らないのであつて、これほど女性心理のよく現れた歌を、何うして、さう考へたかを想像し得ない。恐らく第五句「如何にせむ」を自分の立場より言へる詞として、一般的に解したためであらう。果して、その師眞淵は「四の句の吾をは君をの誤なりといふもあれど、此歌は旅の別れの妹背の相聞の贈答にて、妹吾れを留め置きていかにしけむとよめるなり」と言うてゐる。それが本當の見方である。小生の記述は、訓詁釋義の異同を考へるを目的としないのであるが、歌の鑑賞が歌の命に觸れ得ない時、歌全體の解釋まで見當を外《そ》らして、それが訓詁の異同にまで及ぶことある一例として言及したのである。
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   (三四)畏《かしこ》きや天《あめ》の御門《みかど》を懸《か》けつれば哭《ね》のみし泣《な》かゆ朝宵《あさよひ》にして  卷二十
 藤原夫人《ふじはらのきさき》の歌である。「天《あめ》の御門《みかど》」は天皇を指す。「懸け」は「心に懸ける」のであり、「泣かゆ」は「泣かれる」の意であつて所動の詞である。夫人は天《あめ》の御門《みかど》を思ひそめ奉つたのであつて、恐らく、天武天皇夫人として未だ宮中に人らぬ間の歌であらう。「畏きや天の御門を懸けつれば」といふ。簡にして滿ちて居り、調べが高く揚つて、謙抑の心がある。左樣な由々しき句を「ば」といふ強い響きで受けて、更に句勢を下に徹らせて、第四句「哭のみし泣かゆ」と切つて居り、第五句「朝宵にして」と言うて、反響を歌全體に及ぼしてゐる。生動の状如何にも會心である。「哭のみ」「し」「泣かゆ」皆強く重い響である。それに對して、第五句結びが「にして」である。毫末の弛みがなくて、固苦しさの痕がない。戀の歌として、緊張異常であつて、而も虔ましい姿のあるのは、初めて天武天皇を戀し奉つたほどの歌であるからであらう。前掲、磐姫皇后の御歌の激越なるに比しても、その消息が窺はれ、この前の舍人某女の歌に比して見ても、それが窺はれるやうである。
 以上三十四首を以て、大體、萬葉前期の歌を終へる。次は中期である。
 
     萬葉集中期の歌
 
 萬葉集中期とは、主として藤原に都のあつた時代であつて、持統文武兩帝二十年の間を指す。この間が萬葉の歌の最も高潮に達した時であつて、その代表者は實に柿本人麿と山部赤人である。赤人は奈良朝に入つて生存した人であるが、中期に入れて説くを便とする。この二人、その他萬葉集作者の傑れた歌は、それが藝術としての最高所と思はれる所まで澄み入つてゐると共に、原始的な素樸さや率直さや無邪氣さから離れず、更にそれらの根柢をなすべき眞實性に徹して、その上に脚を立てることを過らない所にある。この事前に述べた所である。先づ人麿の歌から始める。
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   (三五)足曳《あしびき》の山川《やまがは》の湍《せ》の鳴《な》るなべに弓月《ゆづき》が嶽《たけ》に雲《くも》立《た》ちわたる   卷 七
 この歌は、柿本人麿歌集から出たものであつて、人麿歌集所載の歌は悉く人麿の作とは限らないが、これは一首の格調風姿の上から察して、恐らく人麿の作であらうと思はれるので、今日では、多くの人が左樣に信じてゐるのである。「足曳の」は山の枕詞、「山川」は山中を流るる川、「湍の鳴る」は瀬音の響くこと、「なべに」は「ままに」等と意が略ぼ等しい。本來は「竝べ」の意であつて、一の現象に竝んで他の一の現象の現るるをいふから起つた詞であるらしい。例へば、日の傾くといふことがあれば、それと竝んで蜩の鳴くといふことが起る。さういふ關係を「夕づく日傾くなべに蜩の鳴く」といふやうに連ねるのである。弓月が嶽は山の名である。この歌、山川の湍が鳴つて、弓月が嶽に雲の立ちわたる光景を「なべに」の一語で聯ねて風神靈動の概があり、一首の風韻自ら天地悠久の心に合するを覺えしめる。人麿作中最も傑出したものの一であらう。小生、先著「歌道小見」にこの歌をやや詳しく解説したので、今又筆をつけても、同じことを反復するに過ぎぬの感あるゆゑ、ここに、その一部を摘録して參照に資せんとする。
(上略)この歌について言ひましても「山川の瀬の鳴るなべに」と一氣に進んで第四句を呼び起すところに多く生動の趣きがあるのでありまして、この「なべに」といふ濁音を含んだ第一二句が、第四句二個の濁音と相待つて山川の景情生動の趣きをなしてゐる勢は、之を他の如何なる句法(例へば「なべに」の代りに「ままに」を用ひる如き)を以つてしても換へることの出來ないものでありませう。これは勿論「なべに」の持つ意味より來る力もあるのでありますが、響きから來る力と、その響きの全體の節奏に及ぼす影響が大きいのであります。(言語の響きというても意味から全く切り離して考へることの出來ないのは勿論です)殊に、第一二句弖仁波「の」の疊用を受けて「鳴るなべに」と押し進んでゆく勢を想ふべきであります。第四五句は、是に對して、更に非常の力を以て据わつてゐるのでありまして、金剛力を以て前句を受け且つ結んでゐるといふ概があります。この力も、主として調子の上に現れてゐるのでありまして、第五句二五音が、主として力の中心となつて居ります。試みに第五句を「雲ぞ立つなる」「白雲立つも」など三四音、四三音としたら何うでありませう。歌の勢が滅茶々々に碎けてしまふでありませう。歌の命が内容や材料になくて、調子にあることが分ります。この歌、實に、山河自然の景物に對して、作者の心中に動いた寂蓼威(この邊まで行けば、もう寂蓼感に入つて居りませう)が、徹底して歌の調子に現れてゐるのでありまして、斯樣な歌によつて、歌の調子を會得することは爲めになると思ひます。(下略)
 以上は主もに、調子について述べたのであるが、人麿の感動が斯く一首聲調の上に徹し得て、「山川の湍」も「雲立ちわたる」も初めて靈動の姿を成すのであつて、その聲調が、如何にも、人麿の雄偉高邁な性格に合してゐるといふ觀がある。そこまで行つて、初めて歌の個性を言ふことが出來る。今人多く歌に個性の存すべきを説くはよい。左樣な定義に當て篏めて個性を現さうとしても現れはせぬのである。歌はんとする事象に全心を集中し得て、その集中が歌の聲調にまで徹することを念じてゐれば、現るべき個性は自らにして現れるのであつて、その現れの徹底するまでには可なりの難行を嘗めて、猶且つ、貫かんとするの氣魄が伴はねばならぬのである。個性を言ふ豈容易ならんやの感がある。小生等後生者は、人麿の斯樣な歌の前に、謙遜な心を以て向ふほどの虔ましさを持つて居らねば、歌の冥利が至らないであらう。
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   (三六)み食《け》向《むか》ふ南淵山《みなぶちやま》の巖《いはほ》には降《ふ》れるはだれか消《き》えのこりたる   卷 九
 これも人麿歌集中の歌であるが、歌柄が人磨らしく、高邁雄渾の姿が他の作者では到底至り難い感があるので、同じく人麿作と推測してゐるのである。「みけ向ふ」は南淵山の枕詞、南淵山は明日香つつきの地にある山、「はだれ」は古義等に「雪」と解されてゐるが、淡雪若くは斑雪等であらう。これは、作者が明日香より遠く南淵山を望み見て、そこに消え殘れる淡雪の光を寂しみつつ詠んだのであつて、特に、巖を捉へたる所、寫生の機微に入れる心地がし、古き南畫の秀品に接する如き感がある。材料は只巖に殘る雪である。それが斯の如き氣品を生み來るのは、作者の自然に參する心が深く至り得てゐるからであつて、この邊になると、もう、堂々として藝術の高所に人り得てゐるといふ感がする。第一二三句を受けた「には」が遠く第五句の「たる」に至つて結ばれてゐる勢に、高く踏み、遠く目を目を目を※[務の力を取り下に馬]せてゐる姿が見える。「降れるはだれか」の「か」は、一面に疑ひ一面に感嘆の聲を強めたのであつて、聲調の山を成し得てゐる。非常にいい。世の論者、往々、人麿を人事的敍情詩人なりとし、赤人を自然詩人なりとするが、小生はそれに從はない。只二人の歌品に各異なる長所あることだけは確かである。それは後に時々言及する。或るものは、又、萬葉集が人事を相手にし、古今集以下が自然を相手にしたと説いてゐる。無稽尤も甚だしい。萬葉集中の秀歌を擧げて來れば、天地自然の氣息に參入した歌が非常に多い。ここに奉げた二例だけを見ても、左樣な無稽説は立ち消えになるのである。以下中期末期の歌を參照せんを望む。
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   (三七)敷妙《しきたへ》の袖《そで》易《か》へし君《きみ》玉《たま》だれの小市野《をちぬ》に過ぎぬ又《また》も逢《あ》はめやも   卷 二
 これは天智帝の皇子|河島《かはしま》皇子|殯宮《あらきのみや》の時、人麿が皇子の妃|泊瀬部《はつせべ》皇女(天武帝の皇女)に獻つた哀悼長歌の反歌である。人麿三十歳以前の作であるらしい。「敷妙の」は袖の枕詞、「袖易へし君」は袖を交《か》はした君の意であつて、つまり、袖を相交はして寐たことを言ふのである。「玉だれの」は小市(地名)の枕詞、「過ぎぬ」は死去の意である。一首の意は、泊瀬部皇女の昨日まで袖を相交はして寐ね親しんだ君が、忽ちにして小市野《をちぬ》に過ぎてしまはれた。(小市野《をちぬ》は墓所のある所である)この世で再び相見ることがあらうか。相見ることは出來ないといふ歎息の意を現して、皇女の身の上に同情を濺いだのである。劈頭、直に敷妙の袖を交はして相寐たことを敍して、同棲親愛の現實感を提示し、それが忽ちにして小市野の殯宮の主となられたことを敍して、目前世相の轉變速かなるを歎き、更にそれを押し進めて、九泉の門一たび掩へば再見するに由なきの感慨に入つて、人間の無常觀に痛切な息《いき》を吹き入れてゐるのであつて、一首の情よく人生の根柢所に潜入し得て、而も現實の熱烈な執著から離れてゐないところ、宛らに生ける人麿の命《いのち》に面接するを覺えしめる程の歌であり、人麿作中の尤も傑出せるものの一であらうと思はれる。この歌、それほどの命を持ち得てゐるのは、人麿の感慨が、よく一首聲調の上に徹し得てゐるからである。聲調に徹し得て居ないうちは、歌の表現に徹し得てゐないのであつて、これは屡々言ひ及んだ所である。歌の内容は、事件や事象である。事件や事象に息を吹き入れるものは聲調である。聲調によつて事件事象は生き或は死ぬ。一首活殺の力を有するものは常に聲調である。この消息を解せぬものが歌に盛られた事象や思想を捉へて歌の價を品隲する。それは未だ歌の命に到達するに遠いものである。人麿のこの歌の傑れてゐる所以も、一首の聲調にあるのであつて、第二句「袖易へし君」と切り、第四句「小市野《をちぬ》に過ぎぬ」と切り、更に句を起して「又も逢はめやも」と結んでゐる。この三ケ所で切れてゐる句法は、人麿の切實なる歎きの息が、自然に左樣な斷絶を成さしめたのであつて、息づかひと調べと一如になつてゐるといふ心地がする。それゆゑ、三ケ所で切れてをる句と句との間に、自《おのづか》ら無聲の歎きが籠り、その歎きの籠りが、無常世相の底に通じて、人生の究極所を思はしめるに足りるほどの力になつてゐるのである。一首の情よく無常相に潜入し得てゐるというたのは夫れを指したのである。特に「小市野に過ぎぬ」と一旦第四句で切つて、更に「又も逢はめやも」と句を起し且結んでゐる勢は、後世者なる我々の頭を垂れて肝銘すべき所であらう。「又逢はめやも」と七音にするのが普通であるのに、「又も逢はめやも」と「も」の感歎詞を入れて八音としてゐるのも、斯くせずしては居られなかつた人麿の感慨を想ふべきであつて、八音の結句、實によく一首の聲調の重きを受け、且、結び得てゐる。猶、この歌、以上説けるが如き感慨を現し得てゐながら、一首の中の何處にも主觀句を用ひてゐないことに注意すべきである。深く由由しき主觀は、圭觀句などの併列によつて容易に現されるものではない。この所、今の歌人に往々取り違へがあるやうである。要は全心を集中して寫生に專念すればいいのである。この歌、現實への執着といひ、無常相への潜入といふもの、皆事象に對する全心集中によつて、おのづから寫生の要核に入り得てゐるからであつて、直觀的の生き/\しき氣氛が我々の身邊に迫るを覺えしめるのは、全く寫生が至境に入り得てゐるためである。
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   (三八)小竹《ささ》の葉《は》はみ山《やま》もさやに騷《さわ》げども我《あ》れは妹《いも》思《おも》ふ別《わか》れ來《き》ぬれば  卷 二
 人麿が、晩年石見國の地方小吏となつて彼の國に在留してゐる時、官用を帶ぶるかして、京に上ることがあつて、彼の地で親しめる妹に別れを告げた時の長歌の反歌である。今、人麿の歩いてゐるのは、小竹《ささ》の葉のみ山もさやに(さやにはさや/\と音立ててゐる意である)騷いでゐる山道である。相思ふ妹は既に遠く、向ふべき京は青雲の果てにある。耳に笹原の風音を聞き、心に妹を思うてゐる。思ひが悠遠で、情が自《おのづか》ら寂寥である。その悠遠さも寂寥さも露《あら》はに現るる所なくして、自然に一首の間に泌み出てゐる所、藏する所、徹する所が皆深いのであつて、これ亦寫生の至境に入れるものとするに足りる。この邊の消息、前の歌と照合して了解し得べしと思ふ。この歌第三句「騷げども」ありて一首の意却りて寂しく、第四句「我は妹思ふ」ありて笹原の風が愈々生動する。現實の相關が係つて一點にある微妙さを想ふべきであり、その微妙さへの到達は、全身の集中より生れ來るものであることを考ふべきである。猶、この歌、或る學者は「小竹《ささ》が葉」と訓み、「み山もさやに亂れども」と訓んで居るが、聲調の透徹から考へて「小竹《ささ》の葉」でなければならず、歌の情を成すに於て「騷げども」でなければならぬと思ふのである。この歌、同じく人麿の傑作であつて、歌の至上境に入り得てゐるものであらうと思はれる。
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   (三九)青駒《あをごま》が足掻《あがき》を早《はや》み雲井《くもゐ》にぞ妹《いも》があたりを過《す》ぎて來《き》にける   卷 二
 石見の國から京へ上る時の他の一つの長歌についた反歌であつて、境地は前と同じである。青駒は白駒である。純白なものには青の匂ひがあるから青駒といふのであらう。我が乘る駒の足掻きの早さに、忽ちに妹が家を雲井の餘所となして過ぎ去り來つたといふのであつて、悠遠寂寥の情に於て前の歌と通じてゐる。この歌、第一二句を受くるに第三四五句の調べが如何にも高踏暢達の姿をなしてゐる。「雲井にぞ」と係つて、遠く第五句「ける」で結ぶまで、一瀉千里の勢をなして居り、それが「青駒が足掻を早み」と相待つて情意を盡し得てゐるの感がある。この歌の場合に於ては、第一句「青駒の」ではいけない。「青駒が」と高く揚るべきである。前の歌第一句は「笹の葉」であつて「笹が葉」であつてはならぬことを言うた。皆一首聲調の上に係つてゐるのであつて、斯樣な問題によつて歌の調子を解するのは有益である。この歌も、前の歌も、人麿晩年の作であつて、多分四十歳以後のものであらう。(人麿は四十六歳位で死んだ。若し夫れより長生きしたとしても五十歳を出づることなかりしと思はれる)人麿傑作の一とするに足りる。
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   (四〇)去年《こぞ》見《み》てし秋《あき》の月夜《つくよ》は照《て》らせれど相見《あひみ》し妹《いも》はいや年離《としさか》る   卷 二
 人麿が大和國で妻とした娘子との間に一子があつて、間もなくその妻が死した時の哀傷長歌についてゐる反歌である。關谷眞可禰は、この妻の死を人麿三十六歳の時としてゐる。四十歳前の作であらう。月光の永久にして人間の命の倏忽なるを悲しみ、同棲の歡びを想起して、現在の落莫を歎くの意明瞭にして解説を要しない。現し方が要核を捉へて簡潔であり、聲調がこれに伴つて玲瓏透徹の概がある。特に第一二三句を受ける第四五句が、一氣に押し進んで居然たる据わりをなし得てゐる姿を見るべきである。これは殊に「いや年さかる」の二五音(いや(二音)年さかる(五音)が大きな力をなしてゐることに注意すべきであり、前回に擧げた弓月が嶽の歌の結句二五音とも照合して考へるといい。人麿には可なり多く結句の二五音がある。これは人麿の高邁雄偉な性格から來てゐるのであつて、二五音ならざる結句も、多く重々しき据わりをもち、それが他の句々と適切に相呼應して一首堂々たる風姿をなす。これが人麿の歌の特徴である。この歌も人麿の傑作として擧げるに足りる歌である。
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   (四一)淡海《あふみ》の海《うみ》夕浪千鳥《ゆふなみちどり》汝《な》が鳴《な》けば心《こころ》もしぬに古《いにしへ》おもほゆ   卷 三
 人麿二十四歳にして近江の本居より京に上りし時の歌とするものあれど、小生は歌柄から推して、それより、ずつと後の作であらうと思つてゐる。人麿の父祖は、世々大和に居つたものであるらしいが、近江朝廷の時、人麿の父が一家を擧げて近江へ移つたとも思はれ、人麿の京へ出仕した後も、時時|衣暇《えか》田暇《でんか》等の公暇を得て近江へ歸つたらしく、さういふ時の往復に斯る歌が生れたのだらうと思はれる。恐らくは三四十歳の間に出來た作であらう。先づ「夕浪千鳥」はいかにも寂しい心持の現れた詞である。恐らく人麿の造語であらう。「心も萎《し》ぬに」は萎《しを》れる意である。淡海の海の夕浪千鳥よ。と呼びかけて、お前が鳴けば心もしぬに萎れて古が思はれる。と志賀の舊都を追懷するの意を千鳥に訴へてゐる心甚だ哀れである。一首全體の音調が「伊列音」を多く交じへて虔ましい響きに終始してゐるために自ら哀音を帶び、更に第一句切れ・第二句切れの重々しき句法を重ねて、それを第五句八音の字餘り句を以て結んでゐるために、頭負けをせざるのみならず、全體に莊重の心持が現れて、各音の持つ哀韻をして單なる感傷に終らしめてゐない。この邊の機微皆作者の主觀より生れ出づる所であつて、形を以て模すべからざるものである。その邊の消息を我々は考へて見る必要がある。秀れたものの前に叩頭の至意を致し得るのは、自己を秀れしむるの第一歩である。秀作の前に叩頭し得ざるほどの人から、何うして秀作の生れ出ることがあらう。今人自尊、往々にして古人の前に平然として嘯いてゐる。自らを重ずるのではない。自らを容易にしてゐるのである。人麿には、又第五句八音字餘りが多い。これも人麿の感動が常に莊重に働くからであつて、一首の心持に重い落ち著きと、がつしりした据わりを生ずる。この歌の第五句も亦さうである。尤も、第五句字餘りは、人麿に限らず、萬葉全體に多く見受ける所であつて、それを萬葉人の特徴と見得るのであるが、人麿には特にそれがよく現れてゐるやうである。前の第五句二五音の特徴と併せて、人麿の歌を考ふるに有益である。
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   (四二)東《ひむがし》の野《ぬ》に陽炎《かぎろひ》の立《た》つ見《み》えてかへりみすれば月《つき》傾《かたぶ》きぬ   卷 一
 人麿三十歳前二十八九歳頃の歌である。人麿は初め二十四五歳にして天武帝の皇太子|日竝知《ひなめし》皇子に仕へ、この皇子早世せられて、その御子輕皇子が後に文武天皇となられた。日竝知皇子薨後四年にして、御子輕皇子、御年十一歳にして安騎野《あきぬ》に遊獵せられた。その野は、御父日竝知皇子も曾て遊獵せられし野であるゆゑ、皇子も扈從の群臣も甚だ思ひ出多く、感慨深い遊獵であつたらしい。人麿も扈從の一人であつて、感慨を一首の長歌と數首の短歌に寄せた。その短歌の一つがこれである。古への旅は、高貴の御方と雖も、旅寢するに小家《こや》を構へ、茅を葺いて假りの宿りとせしこと前に言つた如くである。況して舍人《とねり》であつた人麿等の假りの宿りは、雨露を凌ぐにも足りぬものであつたらうと想像される。これだけの背景を置いて、此の歌を見るといい。陽炎《かぎろひ》は光の動くものであつて、ここでは東方微白を呈して夜の明けんとするを言うてゐる。一首の意明瞭である。草の枕から首をあげて見れば、東方の空に微白が動いてゐる。あたりは猶月の明りである。顧みて西方を望めば、大月將さに落ちんとして猶空の一方に懸つてゐる。境が偉で意が遙かである。之を貫くに音調の高朗を以てしてゐるから、天地清澄にして枕頭霜の結ぶあるかをさへ思はしめるに足りる。第一句より三句まで押して行つた勢を「見えて」と切り、更に第四句を起して第五句「月傾きぬ」の二五音を以て結んでゐる手法、句勢、甚だ前掲「弓月が嶽」の歌に似てゐて、これはそれに比して較や下風に立つの感あるは、弓月が嶽の歌がよく渾然一如の域に入つて居るに對し、これは上下句間に猶分岐の痕があり、それを聯ねんとした「顧みすれば」の力も猶及び難きの觀ある所にある。これは、材料が多過ぎ、境地が大き過ぎて、流石の人麿もやや持て餘したといふ所もあらうが、一面より言へば、人麿の雄偉高邁な性格が自己の長所に辷り入り過ぎようとしてゐる一端を窺ふことが出來るとも言へる。小生は人麿の傑作の最尤なるものを求める時は、この歌を加へ得ないかも知れぬ。而も猶斯る歌に多く尊敬の心を寄せるのは、境と調と相待つて高朗にして沈痛な響きをなし得てゐる所にある。序でを以て言へば、小生に歌を示す青年中、往々今度のは自信あることを告げ來るものがある。その意、しつかり見よ。といふにあると見える。人麿赤人を以てしても、生涯の傑作の尤を求むれば十指を屈するに至らないやうである。自信自信と自信を振りあげるのはよけれど、振りあげるの容易にして、振りあげた槌の輕きを致さねば幸である。現に、左樣な聲言をする人の作にいいものの見當ること稀である。
   (四三) 古《いにしへ》にありけむ人《ひと》も吾《あ》がごとか妹《いも》に戀《こ》ひつつ寢《い》ねがてにけむ   卷 四
 人麿戀歌四首中の一首である。「吾《あ》がごとか」は「吾が如くか」の意であり、「寢ねがてにけむ」は「寢ねがたくせりけむ」の意である。自分の戀の苦惱に堪へずして、それを推して人類一般の苦惱に及び、この苦しみ古來皆然りとして、自他を憐れみつつ猶自ら慰めんとする心であらう。第一句より終りまで打續いた句法の調子が高く揚り、宛ら大波のうねりつつ岸に押し寄せんとするが如き勢をもつてゐる所、矢張り人麿ならでは至り得ない所であつて、傑作中の尤とするに足りる。特に、第三句「ごとか」の「か」が遠く弟五句の「けむ」に行つて結ばれてゐる姿は、獅子の首をあげてその眼の遠きに及んでゐるに比していい。この句法、前の「青駒が足掻を早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける」「御食《みけ》向ふ南淵山の巖には零れるはだれか消えのこりたる」等に通じてゐる。これらの歌は寫生でないと思ふ人あらんも、小生は矢張り寫生歌の究極に入つてゐるものと思うてゐる。「吾がごとか妹に戀ひつつ寢ねがてにけむ」といふのは、苦惱に對する自己の寫生を押し詰めて到り得たものである。觀念歌でもない。概念歌でもない。空想歌でもない。矢張り寫生歌である。實は、小生の寫生歌に對する理想は、寫生が形似の接近から更に深入りして、遂に一點單純な至境に澄み入る所にあるのであつて、これらの歌が、その理想の一端を現し得てゐるものであるといふ感がするのである。一點の單純所に澄み入るといふことは、全心の集中より來るものであり、全心の集中は切實なる實感より來り、切實なる實感は具體的事象との接觸より來る。そこが寫生の道の生れる所である。生れる所は夫れであるけれども、到達所は遂に一點單純所への澄み入りである。さういふ點より見れば、前の「東の野に陽炎の……」(六七頁)の如きは、事象の展舒が多過ぎて、やや外面に羅列するの傾をもち、騷がしいといふほどならねど、猶、今少し深く統一出來ぬかといふ介意が生ずるのである。
「古にありけむ人も」の歌と比較して見ると分る。
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   (四四)天《あめ》の海《うみ》に雲《くも》の波《なみ》立《た》ち月《つき》の船《ふね》星《ほし》の林《はやし》に漕《こ》ぎかくる見ゆ    卷 七
 人麿集中のものであるが、歌柄より察して人麿作と思はれる歌である。これらの歌が外面的な虚《こ》假おどしな、材料羅列に過ぎぬ歌といふべきであらう。天を海と見、雲を波と見、星を林と見、月を船と見立てたのであつて、結構の行き屆いてゐる所に理智の働きが見えて、痛切な實感から離れてゐることに直ぐ想ひ至り得る歌である。歌に盛られた材料や思想で、歌を鑑賞しようとする人は、歌の外邊に彷徨して内面に潜入することを知らない人であつて、さういふ種類の人が、これらの歌を人麿の代表歌として擧げてゐるのを見受けるのは笑ふべきことである。これは人麿の惡歌である。今の世で、新しい歌として一時流行したものに、これと較や趣を同じくするものがあつた。突飛な比喩や、大膽な聯想をすれば、世間が直ぐ拍手喝采するのであつて、拍手の主は多く外面的に藝術を見るだけの人々である。突飛な譬喩惡しからず。大膽な聯想惡しくないが、只、それが深い眞實實情の根ざしから出て居らねばならぬのである。それから出發したものは、遂に外邊の羅列から脱して一點の單純所に入る。形が單純であつて内に籠るものが深いのである。これを歌の至上境といふ。人麿は男性的長所を最もよく發揮し得た人であつて、歌の姿が雄偉高邁であると共に、その長所に辷り過ぎると、雄偉が騷がしくなり、高邁が跳ねあがり過ぎるといふ缺點があるやうである。わが師伊藤左千夫は曾て人麿を論ずる時、人麿に對する不平の一として「内容の自然的發現を重んぜすして、形式に偏した格調を悦べるの風あること」を擧げた。師の見る所、小生の見る所、必しも一致しないけれども、辷り過ぎる所のあつたことは爭はれぬ所であらうと思ふ。併しながら、それは、人麿が稀に自己の弊所に入つた場合を指して言ふのであつて、長所は何處までも長所として、千載の後に光被することを認めねばならぬのである。小生は、人麿作中の尤も傑れたるものを解説しようとして、「足曳の山川の湍《せ》の鳴るなべに弓月《ゆづき》が嶽に雲立ちわたる」以下九首を擇び、弊所を現した歌の代表として、「天の海に……」の一首を擧げた。傑作の採擇を誤りはせぬかと心中に恐れを抱いてゐるのである。斯の如く明白に人麿の歌を擇び出したのは今度が初めてであるからである。以上に引きつづいて、猶立派な作が可なり多いのであるが、それらを解説してゐれば際限がないゆゑ、ここには只歌を列擧するに止どめる。讀者の自由な鑑賞をなさんことを望む。猶人麿歌集中には、前述九首と優に相伍するに足りる歌あれども、果して人麿作か否かを識り得ないゆゑ、これも末尾に附記して聊か解説をなすに止どめる。
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      天皇(持統)伊勢國に幸ませる時、都に留りてよめる
   (四五)鳴呼兒《あご》の浦《うら》に船乘《ふなの》りすらむ少女《をとめ》らが玉裳《たまも》の裾《すそ》に潮《しほ》滿《み》つらむか  卷 一
 「玉裳の裾に」と如實に想像してゐるのは、その少女が人麿と相思の間であらう。さうすると「少女ら」の「ら」は單に添へただけの詞である。
         石見國より妻に別れて上り來る時(長歌の反歌)
   (四六)石見《いはみ》のや高角山《たかつぬやま》の木《こ》のまより吾《あ》が振《ふ》る袖《そで》を妹《いも》見《み》つらむか  卷 二
       志賀津の采女《うねめ》の水死せる時(長歌の反歌二首)
   (四七)さざなみの志我津《しがつ》の子《こ》らが罷《まか》りにし川瀬《かはせ》の道《みち》を見《み》ればさぶしも   卷 二
   (四八)さざなみの大津《おほつ》の子《こ》が逢《あ》ひし日《ひ》に凡《おほ》に見《み》しかば今《いま》ぞ悔《くや》しき  卷 二
        覊旅
   (四九)玉藻《たまも》苅《か》る敏馬浦《みぬめ》を過《す》ぎ夏草《なつぐさ》の野島《ぬしま》の崎《さき》に舟《ふね》近《ちか》づきぬ  卷 三
どうもいい。矢張り立派な作である。
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   (五〇)飼飯《けひ》の海《うみ》の庭《には》よくあらし苅薦《かりごも》の亂《みだ》れ出づる見《み》ゆ海人《あま》の釣船《つりふね》  卷 三
「庭」は海面、「有らし」は「有るらし」である。「みだれ出づ見ゆ」の訓み方は取らない。
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   (五一)名細《なぐは》しき稻見《いなみ》の海《うみ》の沖《おき》つ浪《なみ》千重《ちへ》に隱《かく》りぬ大和島根《やまとしまね》は  卷 三
「名細しき」は名の細《くは》しく、よき意である。「千重にかくりぬ」あたり、矢張り人麿のいい所である。
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   (五二)大君《おほぎみ》の遠《とほ》の朝庭《みかど》と在《あ》り通《がよ》ふ島門《しまと》を見《み》れば神代《かみよ》し思《おも》ほゆ  卷 三
「遠のみかど」は九州太宰府を言ふ。「在り通ふ島門《しまと》」は、その九州へ通ふ瀬戸内海入口の島と陸との間の水門をなせる所を言ふのであらう。「神代し思ほゆ」は、日本の島々皆神の生み給ひし所なるが故ならん。堂々として大きな姿をもつてゐる歌である。
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        土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山に葬れる時
   (五三)こもりくの泊瀬《はつせ》の山《やま》の山《やま》のまにいざよふ雲《くも》は妹《いも》にかもあらむ  卷 三「こもりくの」は泊瀬の枕詞である。
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       溺死せし出雲娘子を火葬せる時
   (五四)八雲《やくも》さす出雲《いづも》の子《こ》らが黒髮《くろかみ》は吉野《よしぬ》の川《かは》の沖《おき》になづさふ   卷 三
「なづさふ」は「なづみ障ふ」にして、滯る意である。
柿本人麿歌集所出中より猶少し拔き出す。
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   (五五)卷向《まきむく》の山邊《やまべ》とよみて行《ゆ》く水《みづ》の水泡《みなわ》のごとし世《よ》の人《ひと》吾《あ》れは  卷 七
「山べとよみて行く水の水泡の如し」句が簡淨で、心が異常である。寂寥というても足らず。清肅というて足らず。卒然として愕き、喟然として嘆ぜしめるに足りる響きである。それが「世の人吾れは」と合して、人生の無常感に響き入つてゐるのであつて、一首の命甚だ由々しい。この歌の姿、矢張り人麿の姿である。何うも人麿作と思はれるが、さう幾つもずん/\決めつけて行くこと如何と思ひ、控へ帳中に記るして置いたのである。卷十一には、この他に「足引《あしびき》の山下《やました》とよみゆく水《みづ》の時《とき》ともなくも戀《こ》ひわたるかも」「高山《たかやま》の石下《いはもと》たぎちゆく水《みづ》の音《おと》には立《た》てじ戀《こ》ひて死《し》ぬとも」等もある。序を以て言ふ。日本人の祖先は現實的人生觀に居たといふ説が多い。或はさうであるかも知れぬ。併し、それを例證するために、大伴旅人の「この世にし樂《たぬ》しくあらば來む世には蟲に禽にも吾れはなりなむ」位の歌を引き出したのでは小生承知しないのである。(その歌のことは後に言及する)人麿集のこの歌に限らず。人麿赤人その他集中の傑作を檢すれば、それが如何に現實に即しつつ、人生悠久の命に參してゐるかが窺はれるのである。現實に即するの極所が悠久所に通ずる道になるのであつて、この關係、恰も寫生の極所に似てゐる。單なる歌の材料や内容を以て人生觀の如何を言ふ如きは、低級批評者のする所であると思ふ。如何。
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   (五六)ぬば玉《たま》の夜《よる》さり來《く》れば卷向《まきむく》の川音《かはと》高《たか》しも嵐《あらし》かも疾《と》き   卷 七
 「ぬば玉の」は夜の枕詞、「夜さり來れば」は、夜になり來ればである。第一二句の掛りを第四句で強く受けとめて、更に第五句を据ゑてゐる勢が恰も嵐の疾きに似てゐる。「嵐かも疾き」の五二音も跌宕非常である。人麿の歌柄である。
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   (五七)紅葉《もみぢば》の過《す》ぎにし子《こ》らと携《たづさ》はり遊《あそ》びし磯《いそ》を見《み》れば悲《かな》しも   卷 九
 紀伊國作歌四首と題せる一つであつて、之も人麿作と見ていいであらう。「紅葉の」は「過ぎにし」の枕詞、「過ぎにし」は死して過去の人となつた意である。人麿、曾て、よき子(多分妻であらう)と相携へて紀伊に遊んだことあるらしく、後年再び其地に遊んで、追懷已み難く、四首の歌を作したと思はれる。一首の意明白であり、歌柄が平坦にして滿ちてゐる。歌はそれでいいのであつて、平坦にして滿つるといふこと歌柄の至極する所である。後世者に、平坦はあるが遍滿の相がない。それゆゑ、斯樣な歌小生等に有難いのである。「携はり」はこの歌の山であらう。
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   (五八)泊瀬川《はつせがは》夕渡《ゆふわた》り來《き》て吾妹子《わぎもこ》が家《いへ》の門《かなど》に近《ちか》づきにけり   卷 九
 歌ひ方が素直で、心にも調べにも暢達の姿がある。何等の奇なきに似て、おのづから高所に坐つてゐる。斯る歌が、矢張り本當のよい歌といふのである。「夕わたり來て」と切り、「吾妹子が」と濁り、それをずん/\第五句まで押してゐる。心行くほどのよき歌である。
         ○
   (五九)天《あま》の河《がは》水隱草《みごもりぐさ》の秋風《あきかぜ》に靡《なび》かふ見《み》れば時《とき》來《きた》るらし  卷 十
 七夕《たなばた》の題ある歌であつて、高手驚くべき歌である。作者が彦星と織女星とに同情を寄せる餘り、自ら天漢の水邊に立つて、星合《ほしあひ》の時を待つてゐる心持になつてゐる所甚だ面白い。それが、眞實な感情から發してゐることは、歌が寫生的に詠まれてゐて、少しも不自然を感ぜないので分る。「水ごもり草」は水邊の水がくりに伸びてゐる草であらう。實にいい詞である。(多分造語であらう)「水ごもり草の秋風に靡かふ見れば」と言うて初秋の心持を出してゐる所も、「時來るらし」と言うて二星の相逢ふを唆示してゐる所も、所謂一隅をあげて三隅皆應ずるの概あるものであつて、外に現るるよりも内に籠るものの深いといふ感が多く、而も一首の姿が極めて自然であり、素直であつて、情を成し得てゐる。人麿あたりでなくては至り得ない作である。
         ○
   (六〇)秋山《あきやま》の紅葉《したび》が下《した》に啼《な》く鳥《とり》の聲《こゑ》だに聞《き》かば何《なに》か嘆《なげ》かむ  卷 十
 「したび」は「したび・したぶ」と活用する詞であつて、(「したぶ」は非で「したべ」と活用するとの説もある)色美しくにほふの意である。一首の意は、妹が聲だに聞かば斯く嘆かむや。といふのにあつて、妹にも逢はず、音信もない嘆きを訴へたのである。その妹の聲を序するために「秋山のしたびが下に啼く鳥の」と言うてゐるのであつて、この序詞、心に沁みて寒く、且つ美しく、作者の妹に對する心持が異常に引き緊まつて響くのである。「したびが下に」といひ「聲だに」といひ「何か嘆かむ」と結んでゐる調子の響き方と張り方を見べきである。
         ○
   (六一)卷向《まきむく》の檜原《ひばら》もいまだ雲《くも》ゐねば小松《こまつ》が木末《うれ》に沫雪《あわゆき》流《なが》る   卷 十
 當時、卷向の里に檜の木原ありしと見えて、よく、それが歌はれてゐる。「ゐねば」は今の「居ぬに」などの意であつて、萬葉時代に慣用されて一種の情趣を成してゐる詞である。「沫雪流る」は沫雪の降ることであつて、雨雪の降るを「流る」と言うたのである。「流る」は長く繼ぎ長く傳はる意より來りし詞と覺しく、水の長くつぎて流動するをも「流る」といひ、名の長くつぎ或は廣く傳はるをも名が流れるといひ、「うき名を流す」などともいひ、雨雪の天よりつぎて降り來るを「流る」とも「流らふ」とも言うたやうである。卷向の檜原には未だ雲がかからぬのに、風|疾《はや》く至つて目前の小松のうれに沫雪がふるといふのであつて、四邊の風物生動の趣がある。「小松がうれに」というて沫雪の消え且つ降りかかる光景が自ら現れてゐるのは、直觀から生れたからであつて、自然に寫生の妙所に入つてゐるのである。この歌も人麿作らしく思はれる。
         ○
   (六二)行《ゆ》けど行《ゆ》けど逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑ久方《ひさかた》の天《あめ》の露霜《つゆじも》にぬれにけるかも   卷 十一
 歌柄が甚だ人麿に類してゐる。どの邊かで逢ふことを約して、遠い夜道を行けども/\逢はなかつたのであらう。そのために、衣は露霜にぬれたというて、逢はぬ嘆きを嘆いたのである。「久方の天の露霜」といふ高い踏み方は、如何にも男性的の堂々たる姿である。露霜は白露かも知れず、或は、單に露や霜といふほどの意かも知れす。その邊詳かに分らない。思ふに、人麿少壯にして、以上の如き秀でたる戀歌を詠みて人に知られ、遂に朝廷の儀式に歌を徴せらるるに至つて、歌人としての名を驚[#左上矛]せたのかも知れない。これは、小生の據り所なき臆測である。兎に角、戀の歌の若々しき氣漲れるは、少壯時の作なる所以であらう。猶、卷四に「久方の天の露霜おきにけり家なる人も待ち戀ひぬらむ」といふ歌がある。
         ○
   (六三)健男《ますらを》の現心《うつしごころ》も吾《あれ》は無《な》し夜晝《よるひる》といはず戀《こ》ひしわたれば  卷 十一
 矢張り、單純にいつてゐる所がいいのである。單純とは、全心の一點に集中された状態である。複雜な心象も、情に統一される時最後の一點に集まる。單一無雜純粹の世界であつて、それが歌の世界である。複雜な事件や思想を盛るのが歌と思うてはいけない。斯樣な歌を讀んで、只何となくいいのは、その單純所に入り得てゐるからである。「現心《うつしごころ》」は現實の心である。「吾は無し」の「吾は」など實に生きてゐる。「今は無し」等に比べて見るといい。
         ○
   (六四)大船《おほふね》の香取《かとり》の海《うみ》に碇《いかり》下《おろ》しいかなる人《ひと》か物思《ものおも》はざらむ  卷十一
 「大船の」は香取の枕詞である。第一二三句は第四句「いかなる」にかかる序詞であるが、例の直觀的序詞であるから、恐らく、作者は香取の海に舟を浮べてゐるのであらう。一首の意は只「如何なる人か物おもはざらむ」にある。極めて簡單であるが、一首を味つて、どうも、豐かな大らかな、併し寂しく沈ましい情味が籠つてゐる。これは、全く序詞の意が下句の中へ入つて、物思ひを現實に生かすためであらう。作者は、香取の海に碇を下ろして、四方の風物に思ひを驚[#左上矛]せてゐる。それが、「碇下し」といふ言ひさしの句法になつて、大きく迫らない感じが現れ、更に「如何なる人か物思はざらむ」といふ大らかな言ひ方と待つて一種獨特の感じを釀してゐる。この場合の結句は「もの思《も》はざらむ」にあらずして「もの思《おも》はざらむ」八音でなければならないのである。この歌萬葉中にあつて、優に一異彩を放つてゐる。
         ○
   (六五)我《あ》が背子《せこ》に吾《あ》が戀《こ》ひ居《を》れば吾《あ》が宿《やど》の草《くさ》さへ思《おも》ひ末枯《うらが》れにけり   卷十一
 草さへものを思うて末枯《うらが》れたと言うて、わが思未だ成らずして、時過ぎ冬至る嘆きを歌うたのである。季節の移り變りに尤も早く感應するものは草である。その草を見つつ寄せる作者の感慨が、草と交感して、草に心ある如く詠んでゐるのであつて、これは、彼の「わが宿の萩のうれ長し秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて」(一一八頁參照)と同樣な心理である。斯る歌、往々不自然になり易いのであるが、「草さへ思ひうら枯れにけり」と正面から露骨に斷定してゐるために、主觀の力が強く出て不自然を感ぜしめず、上句「吾が」三個を重ねた主觀の強さと相待つて、痛ましい情に引き入るる程の力をもつのである。斯る歌も寫生歌の一つの現れである。
         ○
   (六六)ぬば玉《たま》の昨日《きのふ》の夕《ゆふべ》見《み》しものを今日《けふ》の朝《あした》に戀《こ》ふべきものか  卷十一
 逢うたのは昨夜である。それを、今朝はまた逢ひたくなる。かう遣る瀬なくては迚も過ごせない。と言うて、我と我が身を持て餘す心であつて、「戀ふべきものか」の結句、得も言はれぬ心理を藏して、單純至妙に人つてゐる。斯る一顆珠玉の如き光の前に立つて、解剖がましい批評言は、敢てし得ない心地がする。
         ○
   (六七)眞十鏡《まそかがみ》手《て》にとりもちて朝《あさ》なあさな見《み》れども君《きみ》は飽《あ》くこともなし  卷十一
 「まそ鏡」は「手にとりもちて」の枕詞であり、一二句が「朝な朝な見れども」の序になつてゐる。一首の意よく徹つてゐる。矢張り、單純で張つてゐる所がいいのである。「手にとりもちて」といふ直觀的現れ方がこの歌に命を吹きこんでゐる。そこを逸してはならない。人麿歌集所出のものより以上の歌を擧げて來ると、十一卷中猶拔き出さねばならぬのが可なり多い。今それを簡單に抄記する。
   (六八)思《おも》ふにしあまりにしかば鳰《にほ》どりの足《あし》霑《ぬ》れ來《こ》しを人《ひと》見《み》けむかも  卷十一
 「足ぬれ來し」といへば川を渡つたのであらう。それを人に見られはせぬかと危ぶむ心である。第一二句實によく張り得てゐる。それに對して第四五句會心に流通して情を成し得てゐる。「人見けむかも」の二五音適切である。
         ○
   (六九)高山《たかやま》の峰《みね》ゆく鹿猪《しし》の友《とも》を多《おほ》み袖《そで》振《ふ》らず來《き》ぬ忘《わす》ると思《おも》ふな  卷十一
 第一二句「友を多み」の序詞である。人目多さに袖も振らずに別れて來た。「忘ると思ふな」といふ心、眞實躍如としてゐる。「もふな」ではない「おもふな」である。
         ○
   (七〇)他人《ひと》の寢《ぬ》る熟睡《うまい》は寢《ね》ずてはしけやし君《きみ》が目《め》すらを欲《ほ》りて長息《なげ》くも  卷十一
 これは女性の歌らしい。男の通うて來るのを待ち明かすのであらう。「はしけやし」は「愛らしき」の「意」である。「すら」は、ここでは語調を強めるだけの用である。
         ○
   (七一)戀《こ》ひ死《し》なば、戀《こ》ひも死《し》ねとや玉桙《たまぼこ》の道行《みちゆ》き人《びと》に言《こと》も告げなき  卷十一
   (七二)戀《こ》ひ死《し》なば、戀《こ》ひも死《し》ねとや吾妹子《わぎもこ》がわぎへの門《かど》を過《す》ぎて行《ゆ》くらむ  卷十一
 當時斯樣な類歌行はれしかも知れぬ。前者は、せめて道行く人に傳言でもしさうなものだといふ怨みであり、(「玉桙の」は道の枕詞)後者は、吾妹子がわが家(わぎへ)の門を通り過ぎし姿を見た焦燥の心である。
         ○
   (七三)心《こころ》には千度《ちたび》おもへど人《ひと》に言《い》はず吾《あ》が戀《こ》ふ妹《いも》を見《み》むよしもがも  卷十一
   (七四)斯《か》くばかり戀《こ》ひむものぞと知《し》らませば遠《とほ》く見《み》つべくありけるものを  卷十一
   (七五)何時《いつ》はしも戀《こ》ひぬ時《とき》とはあらねども夕片設《ゆふかたま》けて戀《こ》ふは術《すべ》なし  卷十一
 「夕かたまけて」は、夕になつての意。それに、待ち設けるといふ如き意がこもつてゐる。
         ○ 
   (七六)斯《か》くのみし戀《こ》ひしわたれば玉《たま》きはる命《いのち》も知《し》らず年《とし》は經《へ》につつ  卷十一
   (七七)吾《あれ》ゆ後《のち》生《うま》れむ人《ひと》は吾《あ》が如《ごと》く戀《こ》ひする道《みち》に逢《あ》ひこすな努《ゆめ》  卷十一
「こす」は「乞す」であり、「逢ひこすなゆめ」は「ゆめ、逢はんと望む勿れ」である。
         ○
   (七八)愛《は》しきやし誰《た》が支《さ》ふれかも玉桙《たまぼこ》の道《みち》見忘《みわす》れて君《きみ》が來《き》まさぬ  卷十一
 來ないのは、誰か故障するのか。道を見忘るるまで長い間通うて來ないといふので、それを斯く簡潔に現してゐる。誰が故障するといふうちには、他に戀人生ぜしかを心配してゐる心持もあるであらう。
         ○
   (七九)磐石《いはほ》すら行《ゆ》き通《とほ》るべき丈夫《ますらを》も戀《こひ》ちふ事《こと》は後《のち》悔《く》いにけり  卷十一
   (八〇)戀《こ》ひするに死《し》にするものにあらませば我《あ》が身《み》は千度《ちたび》死《し》に反《かへ》らまし  卷十一
   (八一)なかなかに見《み》ざりしよりは相見《あひみ》ては戀《こひ》しき心《こころ》愈《いよよ》思《おも》ほゆ  卷十一
   (八二)朝影《あさかげ》に吾《あ》が身《み》はなりぬかぎろひのほのかに見《み》えて去《い》にし子《こ》ゆゑに  卷十一
 「朝影に吾が身はなりぬ」は吾が身の瘠するに用ひる當時の詞であるが、如何なる所より來りしか分らぬ。「かぎろひの」は「ほのか」の枕詞である。異訓多し。略す。
       ○
   (八三)たまさかに吾《あ》が見《み》し人を如何《いか》ならむ依縁《よし》をもちてかまた一目《ひとめ》見《み》む  卷十一
 「如何ならむ依縁《よし》をもちてか」が堪へられぬ心の如實の聲である。實にいい。聲調も心行くまで張り滿ちてゐる。人麿歌集所出中の秀品であらう。
       ○
   (八四)いで如何《いか》にねもころころに利心《とごころ》の失《う》するまで思《おも》ふ戀《こ》ふらくのゆゑ  卷十一
 「いで」は乞ふの意であるが、それが轉じて促す場合、呼びかける場合にも用ひられてゐる。ここは堪へられずして、獨語的に呼びかけたのであつて、「さあ何うすればいい」といふほどの心持が「いで」二音によつて強く響き出てゐるのである。利心の失するまで、ねもごろに思ふ心持である。「思ふ」は「もふ」と訓まずして「おもふ」と訓む方が萬葉調である。
       ○  
   (八五)妹《いも》があたり遠《とほ》くし見《み》ればあやしくも吾《あれ》はぞ戀《こ》ふる逢《あ》ふよしを無《な》み  卷十一
   (八六)戀《こ》ふること心《こころ》遣《や》りかね出《い》で行《ゆ》けば山《やま》も川《かは》をも知《し》らず來《き》にけり  卷十一
   (八七)白妙《しろたへ》の袖《そで》をはつはつ見《み》しからに斯《かか》る戀《こひ》をも吾《あれ》はするかも  卷十一
 「はつはつ」は「はつかに」である。「見しからに」を「見てしから」の訓は惡い。見しは玉ゆらで、思ひは長いのである。それを歎いて「かかる戀をも吾はするかも」と言うてゐる。四五句悉く感動詞に化せるの感がある。
          ○
   (八八)足乳根《たらちね》の母《はは》が手《て》はなれかくばかり術《すべ》なき事《こと》は未《いま》だせなくに  卷十一
   (八九)高麗錦《こまにしき》紐《ひも》とき放《さ》けて夕《ゆふべ》だに知《し》らざる命《いのち》戀《こ》ひつつかあらむ  卷十一
   (九〇)君《きみ》に戀《こ》ひうらぶれ居《を》ればあやしくも吾《あ》が下紐《したひも》の結《ゆ》ふ手《て》倦《た》ゆしも  卷十一
 三首とも女性の歌である。第一首|初々《うひ/\》しき女の心よく現れてゐる。秀作である。第二首高麗錦は舶來の錦であるが、ここは夫れほどの意に用ひたのではあるまい。(二二頁參照)男のために衣を裝うたのであらう。「紐ときさけて」は、その衣の紐を解いて男と添寢せんとして待つ心であらう。情切にして、却つて「夕をも知らざる命」と觀ずるに至るのは、刻々を惜しむ心の自らなる歎きであらう。念々無常を觀じつつ、猶「戀ひつつかあらむ」と大息する心甚だあはれである。この歌三四句ありて感慨が甚だ深い。第三首「うらぶれ」は「心《うら》さびれる」の意、「あやしくも」は自ら思惟し得ざるの意である。下紐を結はんとして、その手が倦ゆく力なきまでに心《うら》ぶれんとは自ら思惟せざりしといふのである。男を待つに、下紐を解くはよけれど、下紐を結ふはをかしいといふ説もあるが、ここでは下紐が肝要であつて、解く。結ふ。何れなるかの如きは、小生は關心せすして感心し得るのである。「下紐の」は「下紐を」説もあつて問題になり得る。聲調の上から言へば「の」にしたいのである。
          ○
   (九一)月《つき》見《み》れば國《くに》は同《おな》じぞ山《やま》隔《へな》りうつくし妹《いも》は隔《へな》りたるかも  卷十一
 「山へなり愛《うつく》し妹は隔《へな》りたるかも」と「隔《へなる》」が層々重なつて勢をなしてゐる。井上通泰氏は前の隔を「へだて」とよみ、後のを「へなる」と訓んで「月見れば國同じきを山隔てうつくし妹がへなりたるかも」としてゐるが、これは調べの上から具合がわるい。この類歌、大伴池主が家持に贈り、家持がそれに對して「足引の山は無くもが月見れば同じき里を心隔てつ」(卷十八)と返してゐる。原作に比して劣ること甚しい。原作には調べがある。家持作には意味があるのみである。猶、この歌第二句には「同じ國なり」の訓みもある。これは考へて見る餘地ありと思ふ。第五句「妹は」は「妹が」説もある。聲調よりすればこの方いいかも知れぬ。小生まだ考へが決まつてゐない。諸説を擧げたのは、その説皆聲調に關係あるからである。
         ○
   (九二)山科《やましな》の木幡《こはた》の山《やま》を馬《うま》はあれど徒歩《かち》ゆ吾《あ》が來《こ》し汝《な》を思《おも》ひかね  卷十一
 じっとして居られぬ心から徒歩で歩いてゆくのであらう。「汝をおもひかね」と勢を湛へてゐる所、よく意が籠つてゐる。別訓「汝《な》をもひかねて」よりも此の方よし。
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   (九三)遠山《とほやま》に霞《かすみ》棚引《たなび》きいや遠《とほ》に妹《いも》が目《め》見《み》ねば吾《あ》れ戀《こ》ひにけり  卷十一
 「遠山に霞棚曳き」は「いや遠に」へかかる序詞と説くことに諸説一致してゐる。それに異議なけれど、この序詞は猶、第三四五句全體へかかると思はれる。それほど意を得たる序詞である。結句「あが戀ふるかも」「あが戀ふらくも」等の訓がある。「戀ふらくも」の「も」がこの歌の場合固まり過ぎてゐる。初句から讀み下して見ると、調子の上からそれが分るであらう。原本「吾戀」二字であるから諸説が生れるのである。小生は原字に從つて「吾は戀ふらく」かとも思ひ居れど、暫く古義に從ふ。
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   (九四)水《みづ》のうへに數かく如き吾《あ》が命《いのち》を妹《いも》に逢《あ》はむと祈誓《うけ》びつるかも  卷十一
 佛典あたりから來たのであらう。それが本當の自分の息になつてゐる。「うけび」は神に誓つて祈るのである。
         ○
   (九五)香具山《かぐやま》に雲居《くもゐ》棚曳《たなび》きおほほしく相見《あひみ》し子《こ》らを後《のち》戀《こ》ひむかも  卷十一
   (九六)雲間《くもま》よりさ渡《わた》る月《つき》のおほほしく相見《あひみ》し子《こ》らを見《み》むよしもがも  卷十一
   (九七)天雲《あまぐも》の依《よ》りあひ遠《とほ》み逢《あ》はずともあだし手枕《たまくら》吾《あ》れまかめやも  卷十一
   (九八)雲《くも》だにも灼《しる》くし立《た》たば心《こころ》やり見《み》つつし居《を》らむ直《ただ》に逢《あ》ふまで  卷十一
   (九九)春日山《かすがやま》雲居《くもゐ》がくりて遠《とほ》けども家《いへ》は思《おも》はず君《きみ》をしぞ思《おも》ふ  卷十一
   (一〇〇)大野《おほぬ》らに小雨《こさめ》ふりしき木《こ》のもとに時時《ときどき》依《よ》り來《こ》あがおもふ人《ひと》  卷十一
 六首中初め二首の「おほほしく」は、もと「凡《おほ》しく」であつて、大凡にして朧ろに明かならざる意より轉じて、悒鬱等の意にも用ひられてゐる。二首の場合は「凡しく」の意であつて、それに皆序詞がついてゐる。第三首「天雲の依り合ひ」は「天地の依り合ひ」等より出し句ならん。遠い心持の形容である。第四首「心やり」は慰むる意。人を離れて土を思ひ、土を離れて雲に思ひをよせ、或は慰めるといふこと、古來よりの人情と思ぼしく、萬葉中多くそれが現れてゐる。終りの歌、第一句より三句まで「時々依り來」(來よを單に來といふこと古例なり)と言はんがための序であつて、第二句は必ず「ふりしき」と訓むべきであると思ふ。「ふりしく」「ふりしけは」皆非である。歌柄から察するといい。
         ○
   (一〇一)あが背子《せこ》が濱《はま》吹《ふ》く風《かぜ》のいや急《はや》に急《はや》ごとなさばいや逢《あ》はざらむ  卷十一
 「はやごと」は「はや事《ごと》」か「はや言《ごと》」であらう。せつかちなことを言ひ、若くは、爲《す》るのである。どうも面白い。あまり性急にするから却つて逢へないのである。「濱吹く風の」は「いや急《はや》に」の序である。
          ○
   (一〇二)袖《そで》振《ふ》るが見《み》ゆべきかぎり吾《あれ》はあれどその松《まつ》が枝《え》に隱《かく》りたるらむ  卷十一
 別れ行く妹を見迭つてゐるのであらう。遠行く妹は行きつつ猶袖を振つてゐる。その振る袖の見ゆべき限り、我は立つて見送つてゐるけれども、遂に松の木隱れになつてしまつた。といふのであつて、「その松が枝にかくりたるらむ」といふ言ひ方が、今見えずなりし瞬間を微妙に現してゐる。古代人の感情を麁大と思へば間違ふのであつて、この四五句の如き微妙さを近代人が却つて麁大に看過するかも知れない。併し、この歌の解釋は人によつて大分違つてゐる。他によき解釋あれば、何時でもそれに從ふ。
          ○
   (一〇三)足乳根《たらちね》の母《はは》が養《か》ふ蠶《こ》の眉《まゆ》ごもりこもれる妹《いも》を見《み》むよしもがも  卷十一
 「眉ごもり」は「繭ごもり」であり、第一二三句は「こもれる」と言はんための序である。序によつて、その女性の境涯から心だてまでも髣髴とするやうに思はれる。「眉ごもり、こもれる」のつづきも心持がよい。卷十二に「足乳根《たらちね》の母《はは》が養《か》ふ蠶《こ》の眉《まゆ》ごもりいぶせくもあるか妹《いも》に逢《あ》はずて」といふのがある。
          ○
   (一〇四)梓弓《あづさゆみ》引《ひ》きて許《ゆる》さずあらませばかかる戀《こひ》には遇《あ》はざらましを  卷十一
 あの時我に許さずば。と悔むまでに心が切になつてゐるのである。
          ○
   (一〇五)雷神《なるかみ》の光《ひかり》とよみて降《ふ》らずとも吾《あれ》は留《とま》らむ妹《いも》し留《とど》めば   卷十一
 雷神の光が動《とよ》むといふ。實にいい句である。その光がとよんで夕立の雨が遂に至らない。といふ。益々大した句である。その簡潔な現し方を見よ。降るかと思つたが降らない。歸らうと思へば歸り得るのであるが、お前が留めると言ふならば留らうといふのである。心が率直で大きく、子供の如き可愛らしさがあると共に、見上げる樣な丈けの高さがある。人麿歌集所出中の傑作である。十一卷から餘り多く擧げたが、擧げ初めると斯うなるのである。十二卷に移る。
          ○
   (一〇六)わが背子《せこ》が朝明《あさけ》の姿《すがた》よく見《み》ずて今日《けふ》のあひだを戀《こ》ひ暮《くら》すかも   卷十二
 朝けの姿は、曉起きに送り出した男の姿であらう。曉の暗《くら》まぎれに、男の姿をよく見ることが出來なんだのが殘り惜しい。朝別れて、その日一日を思ひ暮す心がよく現れてゐる。「今日のあひだ」も「戀ひ暮す」に對してよく生きてゐる。秀作の一つである。卷十に「朝戸出の君が姿をよく見ずて長き春日を戀ひや暮さむ」といふのがある。「長き春日」よりも「今日のあひだ」の方、作者に直接である。
     ○
   (一〇七)夜《よる》も寢《ね》ず安《やす》くもあらず白妙《しろたへ》の衣《ころも》も脱《ぬ》がじ直《ただ》に逢《あ》ふまで  卷十二
 五音で切り、七音で切り、十二音で切つて、層々相重なる句が「直《ただ》に逢《あ》ふまで」の結句によつて生きてゐる。「ただに逢ふまで」は、直接に逢ふまでの意である。句を幾つにも切つた所に焦燥の心があり、切れた句々に「も」の弖仁波を置いて、一種調子の一貫を成し得てゐる。自然に生れ出て、情を成し、姿を成し得てゐるといふ觀がある。戀歌の生けるものであらう。この歌諸訓あれど、この訓みに從ふ。
         ○
   (一〇八)愛《うつく》しと吾《あ》が思《おも》ふ妹《いも》を人皆《ひとみな》の行《ゆ》く如《ごと》見《み》めや手《て》に纏《まか》ずして  卷十二
   (一〇九)忘《わす》るやと物語《ものがた》りして意《こころ》やり過《すぐ》せど過《す》ぎずなほぞ戀《こひ》しき  卷十二      
 前の歌、妹が行歩の姿を目に見て、未だ手に纏かぬを歎くのである。行路衆庶を見る如き心で見て居られようかといふのである。弟一二句の懸り方、三四句の抑へ方、それに對する第五句呼應の状、皆鮮かである。後の歌「物語りして心やり」が眞實で甚だいい。それが「過せど過ぎず」「なほぞ戀しき」に至つて愈眞實である。我國は、古より語りつぎ言ひつぐ國であって、今日も淨瑠璃・祭文・浪花節等に「語る」といふ詞が遺つてゐる。古昔は語部《かたりべ》があつて、節奏を以つて長物語りを傳へた。この歌の「物語り」も單なる會話の意でないであらう。その方が歌が面白い。
          ○
   (一一〇)人《ひと》の見《み》る表《うへ》を結《むす》びて人《ひと》の見《み》ぬ下紐《したひも》ときて戀《こ》ふるこのごろ   卷十二
 この訓、大體井上通泰氏説による。可なり露骨であるが、心が一途《いちづ》であるから肉體感が先立たない。
          ○
   (一一一)新治《にひばり》の今《いま》作《つく》る道《みち》清《さや》かにも聞《き》きにけるかも妹《いも》がうへの事《こと》を   卷十二
 「新治」は新墾。「今作る道」は新道。第一二句は「清かにも」といはんがための序詞である。妹の上の事を清やかに聞いたといふのだから、妹にも作者にも喜ばしき事であらう。單純でよく張って居り、清々《すがすが》しい心が充ちてゐる。
          ○
   (一一二)明日香川《あすかがは》高河《たかかは》避《よ》かし越《こ》え來《こ》しをまこと今夜《こよひ》を明《あ》けず行《ゆ》かめや   卷十二
 「高河避かし越え來しを」は、水の漲れる川を避けて廻り道したのであらう。實にいい句である。こんなにして逢ひに來しからには、朝明けずして歸らんや。といふのである。
          ○
   (一一三)人言《ひとごと》を繁《しげ》みと妹《いも》に逢《あ》はずして心《こころ》のうちに戀《こ》ふるこのごろ  卷十二
 眞淵・雅澄皆人麿集中のものならんと言うてゐる。歌柄が大きく堂々としてゐる。歌品の高いものであらう。
 以上、人麿の歌、人麿歌集所出の歌を見たのみでも、萬葉の歌を言ふに、單に、素樸・率直等の詞で言ひ盡し得ない諸相に入つてゐることが分るであらう。而も、その入り得てゐる諸相が、皆原始的素質から離れて居らぬこと、是れ亦、以上諸例によつて諒し得る所であらう。萬葉集の頂上にある歌は、原始的素質を逸することなしに、歌の命を高く深く豐かに盛つてゐると序言に述べたのはそれである。次は赤人の歌に移る。
 山部赤人は人麿より少し後の人であり、聖武天皇頃まで生きてゐたのであるが、矢張り藤原期朝廷時代の人でもあり、且つ、人麿と竝んで萬葉集の最高峰を成してゐる人であるから、暫くこれを萬葉中期に入れて説くことにする。
         ○
   (一一四)田子《たご》の浦《うら》ゆうち出《い》でて見《み》ればま白《しろ》にぞ富士《ふじ》の高根《たかね》に雪《ゆき》はふりける  卷 三
 赤人の有名な富士山長歌の反歌である。田子の浦から(ゆはよりの意)汀づたひに出て見れば、富士の高嶺に眞白く雪が降ってゐるといふのであつて、何等の奇なき所が、この歌の大柄にして富士の大きな姿を現し得てゐる所以である。之について、賀茂眞淵は「大方の人一節《ひとふし》を思ひ得て本末を續くるぞ常なるを、古へ人は直《ただ》に言ひ連ねしぞ多き。そが中に赤人は殊に節あるは未だしく心低き事と思ひけん。斯くうち見るさまを其のままに言ひつづけたるなり。」と評してゐるのは甚だ意を得てゐる。平凡の如く見える所が、天地自然の心に合してゐる所であつて、この平凡は、平俗を意味する世上の平凡とは違ふ。誦すれば誦するほど、長河の海に朝する如き勢と力とを感ずる。「田子の浦ゆうち出でて見れば」と強く係つてゐる勢を受くるに「眞白にぞ」と起して、そのぞが第五句「降りける」に入つて初めて止どまつてゐる勢を思ふべきである。この句法、前の人麿の歌に三首を例擧してある。それを參照せられんことを望む。「うち出でて」を眞淵は「うち出《で》て」と訓んでゐる。それでは歌の勢を成し得ない。小生は僧契沖の訓み方に從つたのである。「眞白にぞ」を鹿持雅澄(萬葉集古義の著者)は「眞白くぞ」でなければならぬと主張してゐるが、小生は從はぬ。調子が鈍ぶるか緊《し》まるかの問題である。赤人の歌は、實は、人麿の雄偉な姿に比して、虔ましくして内に潜む方の側である。その點に於て、この歌は、赤人の歌としてやや異色あるものと言うてよい。富士山長歌の方も、その點同じである。
         ○
   (一一五)三吉野《みよしぬ》の象山《きさやま》のまの木末《こぬれ》には幾許《ここだ》もさわぐ鳥《とり》の聲《こゑ》かも   卷 六
 神龜二年聖武天皇の吉野行幸に從駕した時の長歌の反歌である。「象山《きさやま》のま」は「象山の際」であり、「こぬれ」は梢であり、「ここだ」は許多である。一首の意よく通じてゐる。境は吉野の山中で、耳に聞えるものは木末々々の鳥の聲である。一首の意至簡にして、澄み入る所が自《おのづか》ら天地の寂寥相に合してゐる。騷ぐというて却つて寂しく、鳥の聲が多いというて愈々寂しいのは、歌の姿がその寂しさに調子を合せ得るまでに至純である爲めである。試みに、第一句より第五句までを誦して見れば、それが如何に至簡な力の進行であるかが分る。直線であるから寂しく、寂しいけれども勢があり、勢があるけれども、それが人麿の如き豪宕な勢でなくて、虔ましく潜ましき勢である。これは、人麿・赤人の特徴を較ぶるに根柢的な龜照をなすものである。特に、この歌第三句まで、天仁遠波「の」を疊用して一首の勢を呼び起してゐる所が、曩の人麿の歌「足曳の山川の瀬の鳴るなべに弓月が岳に雲たちわたる」に類してゐる。兩者の比較は甚だ興味がある。今それを小著「歌道小見」より引用する。
  (上略)この歌、山河自然の風物に對してゐる境地が、前の人麿の「足曳の山川の瀬の」の歌によく肖てゐるのみならず、「み吉野の象《きさ》山のまの」と天仁遠波「の」を疊用して初句を起してゐる手法までも、よく肖てゐるのでありますが、第三句以下に至つて、全く前者と異る感動を現すに至つて居ります。これは前の人麿の歌の、第四句に至つて突然山の名を提示し來つた勢に比して「み吉野のきさ山のまの木ぬれには」と呼び起した句法が、直ちに第四句以下と相聯つて、一首を直線的に押し進めてゐるからでありまして「ここだも騷ぐ鳥の聲かも」の四三音三四音の諧調が、人麿の「弓月が嶽に雲立ちわたる」の七音二五音の語調と、自ら別趣の勢をなして居ります。人麿のあの歌は、人麿の雄渾な性格に徹して、おのづから人生の寂寥所に人つて居ります。赤人のこの歌は、赤人の沈潜した靜肅な性格に徹して、同じく人生の寂寥所に入つて居ります。入つて居る所は同じであつても、感動の相は、個性の異るがままに異つてゐるのでありまして、それが自然に歌の調子に現れるのであります。人麿の歌は、數歩を過まれば騷がしくなりませう。赤人の歌は、數歩を過まれば平板になりませう。これは皆兩者の歌の調子から來てゐる相違でありまして、調子の相違は、兩者性格の相違から來てゐること勿論であります。猶この赤人の歌で、上句を受ける第四五句に強く重々しい響きを持つた音の多いといふことが、讀者の感動を異常な所へ誘つて行く力になつてゐることを注意すべきであらうと思ひます。
 兩者比較の要を言ひ得て居るかも知れない。猶序でを以つて言へば、天地・山川・草木の自然物を歌に詠みはじめたのは古今集以來の事であつて、萬葉集時代は、主として人事間の人情を歌つてゐるものであるとする説がある。左樣の説の取るに足らぬこと、前にも言うたが、斯る傑作を見て猶諒得するといい。
           ○
   (一一六)烏玉《ぬばたま》の夜《よ》の更《ふ》けぬれば久木《ひさぎ》生《お》ふる清《きよ》き河原《かはら》に千鳥《ちどり》數鳴《しばな》く  卷 六
 前の反歌につづいた反歌第二首であつて、靜肅な感動と、その感動の現れが前の歌に通じてゐる所がある。矢張り赤人の傑作であらう。久木は今の世何と呼ぶ木か明瞭に分らぬ。「木ささげ」説もあり「くぬぎ」説もある。「しば鳴く」は「しば/\鳴く」ことである。前の歌と同じく、一讀して一首の意明瞭である。第一句より三句まで押して行く勢が既に異常であつて、一種澄み入つた世界へ誘ひ入れられる心地がする。それを第三句より第五句まで連續した句法で受けて、最後に「千鳥しば鳴く」といふ引き緊つた音で結んでゐる。暢達の姿があつて輕い滑りにならない。一首各音の持つ響きが虔ましく緊まつてゐることが、更に一首の感じに大きな影響を與へてゐる。その邊を翫味せんことを望む。猶この歌、夜半の景情を歌ひながら「久木生ふる清き川原」と明瞭に直觀的に歌つてゐるのは、月光明かな夜ででもあつたのか。そこに少しの疑がある。猶、第二句は「夜の更けゆけば」と訓む人が多い。暫く古義に從ふ。
           ○
   (一一七)百濟野《くだらぬ》の萩《はぎ》の古枝《ふるえ》に春《はる》待《ま》つと來居《きゐ》し鶯《うぐひす》鳴《な》きにけむかも   卷 八
 赤人は、曾て、冬日百濟野の道で萩の古枝にとまつて動いてゐる鶯を見た。それが、春まで赤人の頭にのこつてゐた。あゝもう春だ。あの時見た鶯も、もう囀つたことであらうと想像してゐるのであつて、小動物に對する愛憐の心が如何にも愼ましやかに現れてゐる。萩の古枝に來居し鶯は、實に、しをらしき心の現れた寫生である。それがあるために「鳴きにけむかも」が心ゆくまで生き得てゐる。一首の姿が、赤人そのものの如く虔ましく且つ靜肅である。人麿に對比して藝術に分野あるを覺るべきである。
           ○    
   (一一八)稻見野《いなみぬ》の淺茅《あさち》押《お》し竝《な》べさ寢《ぬ》る夜《よ》の氣永《けなが》くしあれば家《いへ》し偲《しぬ》ばゆ   卷 六
 聖武天皇神龜三年秋九月播磨國稻見野へ行幸の時、赤人從駕して作つた歌であつて、長歌の反歌三首中の一首である。從駕の人々皆假廬を造り、淺茅原(茅《ち》の原である。茅《ち》はツバナの穗に出る小さい禾本科植物である)を蓐として、離々たる雜草を押し靡けて寢る。斯る夜が幾夜もつづけば、故郷の家が益々偲ばれるといふのであつて、旅の情思が、「淺茅押し竝べ」といふ寫生句を中心として生々流動する觀がある。全體の姿が自然であり、安らかであり、それが「氣《け》永くしあれば」といふ八音字餘り句によつて音調の一跳躍をなして、餘勢が他の句へ及んでゐる。平坦にして凡ならざる所である。「け永く」の「け」は「來經《きへ》」の約であつて、「け永く」は經過の長い意であること前に言うた。この歌優に赤人の傑作とするに足りる。猶、卷七に「家《いへ》にして我《あれ》は戀《こ》ひむな印南野《いなみぬ》の淺茅《あさち》がうへに照《て》りし月夜《つきよ》を」の傑作があつて、赤人のこの歌の心によく響きが合つてゐる。
          ○
   (一一九)高按[#木偏]《たかくら》の三笠《みかさ》の山《やま》になく鳥《とり》の止《や》めば繼《つ》がるる戀《こひ》もするかも  卷 三
 春日山に登りて詠める長歌の反歌である。高按[#木偏]は地名であり、三笠はそこにある山名である。この歌第一二句までは例の序詞であつて、歌の本意は第四五句にある。萬葉集に序歌多けれども、この歌の如く上下微妙な即き方をしてゐる序歌は少いであらう。讀めば讀むほど津々たる滋味が湧き出るといふ心地がする。山に鳴く鳥は四十雀・小雀・山雀・鶸・目白の類であらう。木がくれに鳴く小鳥の音は、止むかと思へば繼ぎ、繼ぐかと思へば止む。この邊の寫生實に微細所を捉へてゐるのであつて、それを序として「止めばつがるる戀もするかも」が心ゆくまで生き得てゐる。斯樣な歌になれば、全く赤人の獨自壇であつて、人麿その他の作者の何人も及び得ない所である。「戀も」の「も」は感動詞であつて、斯樣な場合の情趣を生かすに微妙な力を持つて居り、「止めば繼ぐ」とやうに言はずして「繼がるる」と所動的に言うてゐる心も甚だ可憐であつて、この邊すべて赤人の特徴が遺憾なく現れてゐる。これを赤人の傑作とするに躊躇しない。
 前に言ひし如く、赤人は人麿の如き豪壯さがなくて、誰よりも深い沈潜がある。沈潜の心は幽かにして靜かな心である。それがよく現れれば、自らにして天地の寂寥に合し、惡しくすると、平板にして生氣のないものになる。以上擧げし六首の如きは、その長所を遺憾なく發揮し得たものである。赤人作中、
           ○
   (一二〇)ますらをは御獵[#旁葛]《みかり》に立《た》たし少女《をとめ》らは赤裳《あかも》裾曳《すそひ》く清《きよ》き濱《はま》びを  卷 六
の如きは、熱がやや足りなくて、寧ろ繪畫的に現れたものであり、
          ○
   (一二一)吾《あ》が宿《やど》に韓藍《からあゐ》蒔《ま》き生《お》ふし枯《か》れぬれど懲《こ》りずてまたも蒔《ま》かむとぞ思ふ  卷 三
の如きは、譬喩を以てして、何等の情趣をも伴ひ得ないものである。
 以上に引きつづいて、赤人作を猶數首擧げる。
          〇
   (一二三)島《しま》がくり吾《あ》が榜《こ》ぎ來《く》れば乏《とも》しかも倭《やまと》へのぼる眞熊野《まくまぬ》の船《ふね》  卷 六
 赤人が、西方へ旅して、播磨國辛荷島を過ぎし時の長歌の反歌第二首である。「乏し」は、もと、缺乏の意にして、轉じて、愛賞し或は羨望する等の意にも用ひられてゐる。ここでは羨望の意である。自分が乘れる樺皮纏《かにはま》きの小舟は、今島かげを榜ぎつつ遙かなる西の空に向つてゐる。故郷すでに遙かにして、向ふ所猶測り難い海上で、偶ま熊野船(熊野船は神代より名あり。熊野杉等にて造りしならむ。關東にて足柄船の如し)の東方に向ふに出逢つた。彼の船は故郷倭の方へ榜いで行くのだと、羨望の心を熊野船に寄せたのであつて、「乏しかも」が四五句全體へ掛つて、終りを「眞熊野の船」といふ名詞でどしりと据ゑた姿堂々としてゐる。
          ○
   (一二三)玉藻《たまも》苅《か》る辛荷《からに》の島《しま》に島回《あさり》する鵜《う》にしもあれや家《いへ》念《おも》はざらむ  卷 六
 前の歌と同時作、反歌の一である。舟旅の目に入るは島かげに食をあさる鵜の動作である。さういふ動作を捉へた所にも寂しい心が出てゐる。我れが、あの鵜であるならば、家を思ふの心も動かぬであらうが、鵜でなければこそ家を思ふ情に堪へないといふのであつて、「鵜にしもあれや」以下重々しい調子で据わつてゐる所甚だいい。只「鵜にしもあれや」の如き言ひ方にも赤人らしい機微があつて、自ら人麿の調子と異つてゐる。この歌「鵜にしもあれや」を鵜にてあれかしとする願望の意に解する説が多い。小生解の方赤人の作風に合せりと思ふ。併し、これは契沖解に從つたのである。島回は「しまみ」の方正しいかも知れぬ。暫く古來よりの訓みに從ふ。
          ○
   (一二四)吾《あ》れも見《み》つ人《ひと》にも告《つ》げむ葛飾《かつしか》の眞間《まま》の手兒名《てこな》が奥津城《おくつき》どころ   卷 三
 葛飾の眞間の手兒名は、今も手兒名神社ありて人の參詣するほど、人口に膾炙せるゆゑ、その説明は略す。手兒名は、もと、美人の稱なりしならんも、葛飾のこの地にては一少女專有の名の如くなれり。赤人時代にも有名な傳説であつたであらう。その手兒名の墓を見た作者の感激が、斯樣な率直な歌になつて現れたところ甚だ面白い。子どもがよき翫具などを得た時、自分にも小躍りして喜ぶと共に、これを人に示さずには居られぬものである。赤人の感激が之に類して「吾れも見つ」と言ひ「人にも告げむ」と言つてゐる。そこが甚だ自然であり、率直であつて、以下單に「葛飾の眞間の手兒名がおくつきどころ」と名詞を並べて押し通してゐる所益々面白い。赤人にして斯樣なぶつきらぼうの歌を作してゐるのは、餘程感激が至つたものと思はれる。佳作とするに足りる。長歌の反歌である。          ○
   (一二五)若《わか》の浦《うら》に潮《しほ》滿《み》ちくれば潟《かた》をなみ葦邊《あしべ》をさして鶴《たづ》啼《な》きわたる   卷 六
 潟は海邊の水淺くして洲の現れる所である。葦べは水邊の葦の生えてゐる所である。「潟を無み」が赤人流の微細味を持つてゐて、猶多少理智的に行《い》つてゐる。歌柄はいい。四五句特にいい。
          ○
   (一二六)春《はる》の野《ぬ》に菫《すみれ》つみにと來《こ》し我《われ》ぞ野《ぬ》をなつかしみ一夜《ひとよ》寢《ね》にける   卷 八
 細かくて張つて居り、細かい所から滋味が泌み出てゐる。それが赤人調の一特徴である。前の「鵜にしもあれや」「潟をなみ」「やめばつがるる」等の句法と合せ見るといい。歌柄は少し外延的である。
          ○
   (一二七)明日香川《あすかがは》川淀《かはよど》去《さ》らず立《た》つ霧《きり》の思《おも》ひ過《す》ぐべき戀《こひ》にあらなくに  卷 三
 三諸《みもろ》の神名備山《かみなびやま》に登つて明日香の古都を思ひ偲びし長歌の反歌である。第一二三句は「思ひ過ぐべき」を言はんがための序である。上下の關係矢張り赤人流の微妙調である。赤人の歌には伊列音が割合に多いかも知れぬ。數へて見たのではないが、その感じがある。内唇に息を引き緊めて出す音である。大きくはないが、心が集中する。赤人が「濱び」といふ時、人麿は「濱べ」と言ひさうな感じが二人の間にある。人麿にも「淡海のうみ夕浪千鳥|汝《な》が鳴けば心もしぬに古思ほゆ」の如きものもある。
          ○
   (一二八)吾《あ》が兄子《せこ》に見《み》せむと思《おも》ひし梅《うめ》の花《はな》それとも見《み》えず雪《ゆき》のふれれば   卷 八
 平坦であつて、寫生から生れてゐるから生きてゐるのである。
 以上、人麿・赤人につき較や詳しく説いたのは、二人を以て萬葉集の代表歌人とするからである。それならば、萬葉集の歌は、この二人によつて凡べてその精粹が代表されてゐるかと言ふと、さう言へないのである。人麿・赤人の歌に各特色ある如く、萬葉集多數の歌には、皆夫れぞれの特色があつて、その特色は、皆、作者個性の眞に徹して現れてゐる點に於いて、根強い必至性をもつてゐるのであつて、他の歌を以て換へるに足りるといふ如き輕いものでないのである。例へば、それが、一防人の歌であつても、防人として必至已むを得ざるより發せられたる聲であるから、その代りを人麿作で間に合せるといふことは出來ぬのであつて、それらの作者の中に、優に人麿・赤人らと伍するに足りる歌を作してゐるものも少くないのである。それゆゑ、萬葉を知らんとするには、矢張り萬葉全體を知らねばならぬのである。今、中期より心付いたものを順次擧例して、頂上期の歌品一斑を見ようとする。
          ○
   (一二九)春《はる》過《す》ぎて夏《なつ》來《きた》るらし白妙《しろたへ》の衣《ころも》乾《ほ》したり天《あめ》の香具山《かぐやま》   卷 一
 持統天皇の御歌である。姿が暢びやかで、自然で、自ら天地日月の運行に合すほどの大らかさがある。「夏來るらし」「衣乾したり」「天の香具山」と三ケ所で切つた句法が、自ら、春の麗かさより夏の清新に移りゆく落ち著きの心に合し兼ねて典雅靜淑なる女帝の風格を具してゐる。「春過ぎて夏來るらし」は春行いて幾ばくならず、夏の來る猶早い感であつて、若葉と言はんには猶整はず、所々落花の殘るあるを思はしむるほどの情である。この句至簡なるを以つて、輕々讀み過ぎざらんことを望む。此の頃の衣は多く白であつて、花や樹皮や埴土で染めたるは上等である。白妙の衣乾したるは、時移つて新衣をつけんとする民家の用意であらう。これを、わが師伊藤左千夫は註釋して「折節女帝端近に御出ましの時に、藤原の宮よりは東にあたる眞向うの香具山に、麓からいくらか上つた程の里などに白衣干されたるを見給ふところ、言ふまでもなく此山は此下の御井の歌などに青香來山と歌うてある位であれば、初夏の青葉の美しさも聯想せられる。青葉の間々に家里も見え、衣をほしてある家も見えるといふ光景。こなたは宮城の一端女帝の立ち給ふ所、二三の臣の少女もつき從ふさま、何と優美の好畫幅であらう。瞑目して歌境を想像すると共に、神仙境に遊ぶの思ひがするのである。(中略)此歌の如く作者其の人をまで讀者の想中に畫きうるものは稀であらう。」と言うてゐる。好畫幅と言うて足らず。進んで神仙境に遊ぶと言うた所、矢張り面白い。 
        ○
   (一三〇)※[糸+采]女《たわやめ》の袖《そで》吹《ふ》きかへす明日香風《あすかかぜ》京《みやこ》を遠《とほ》み徒《いたづ》らに吹《ふ》く  卷 一
 天智天皇の皇子|志貴皇子《しきのみこ》の歌であつて、持統天皇の八年、明日香の都から藤原の都へ遷都した後、志貴皇子が明日香にあつて、舊都の荒廢に赴くさまを嘆いて作られた歌である。「たわやめ」は「をとめ」の訓もあるが、小生はこの歌の場合「たわやめ」と訓まねば情を成し得ないと思つてゐる。撓撓《たわたわ》として打ち靡く少女の姿である。持統天皇は女帝にあらせられるゆゑ、宮中に奉仕する女官も多く、特に諸國よりは容姿美しき少女を選んで采女《うねめ》として朝廷に仕へしめた。それらの手弱女《たわやめ》たちの往き來の袖を吹き返した明日香の里の風が、時遷り世改まつて、忽ちに落莫の音をなすに至つた。その感慨を敍して「都を遠み徒らに吹く」と言うてゐる。この邊實にいい。「遠み」の「み」が内唇を引き緊める愼ましい音であつて、それにつづく「いたづらに」が簡淨にして感慨多き詞である。この邊、意と調べと、相待つて深い感慨を現してゐるのである。猶上句「袖吹きかへしし」とやうに言はずして「袖吹きかへす」と現在動詞にしたのも、少女らの姿を如實に思ひ浮べてゐる作者の胸中を想ふことが出來て大へん結構であり、第一二句「明日香風」と名詞でしっかりと止めたのも、第四句との間に沈默があつて自然と情を成し得てゐる。
        ○
   (一三一)芦邊《あしべ》ゆく鴨《かも》の羽交《はが》ひに霜《しも》ふりて寒《さむ》き夕《ゆふべ》は大和《やまと》し思《おも》ほゆ  卷 一
 同じく志貴親王の御歌であつて、文武天皇慶雲二年難波宮に行幸の時扈從して作られし歌である。「葦邊《あしべ》」は水邊の葦であり「羽がひ」は羽を背上に打ち交してゐるのである。葦べ行く鴨の翼に夕べの霜がふる。捉ふる所が要を得て、現れる所甚だ簡明である。下句それを享けてよく据わつてゐる。「は」は多きが中に特に一つを取り立てた詞であると富士谷御杖は説いてゐる。「寒き夕は」の「は」が左樣に強く響き、「大和し思ほゆ」が八音字餘りで更に重く響く。よく据わり得てゐるというたのは、それを指すのである。傑れた歌の一つである。
          ○
   (一三二)石《いは》ばしる垂水《たるみ》のうへの早蕨《さわらび》の萌《も》えいづる春《はる》になりにけるかも   卷 八
 同じく志貴親王作で、懽《よろこ》びの歌と題してある。「いはばしる」は垂水の枕詞であり、垂水は水の湧き出て落ち垂るるを言ふ。「垂水の上」の「上」は必しも上下の上でなく、「垂水のほとり」ほどの意であつて、その用例萬葉集中に多い。水の湧き垂るるほとりに早蕨の萌え出づるほどの春になつた。といふのであつて、坦々たる現れに自ら春の心が泌み出てゐて、如何にも快く心持の徹つた歌である。垂水の上の早蕨は、一見何の奇なくして、實にいい所を見てゐるのであつて、恐らく、作者の空想でなく、實際そのほとりに立つて寫生したのであらう。その寫生が斯の如く單純にいつてゐるのは、感應の心が純粹に動いたからであらう。第一句より第五句まで連續して、層々勢を成しつつ一筋に徹つてゐる句法が、その純粹な感應と相通じてゐるといふ觀がある。この歌優に萬葉集中の秀逸である。
          ○
   (一三三)三吉野《みよしぬ》の山《やま》の嵐《あらし》の寒《さむ》けくにはたや今夜《こよひ》も我《わ》が獨《ひとり》寢《ね》む   卷 一
 持統天皇の吉野行幸の時の歌であるが、誰の作か分らぬ。或は文武天皇御製とも傳へてゐるが、それが略ぼ當つてゐるのであらう。歌柄が大らかで氣品の高い所に帝王の面目が髣髴してゐる。或る人は持統天皇御作ならんとも言へど、この行幸は文武天皇の御宇の事で、持統天皇御獨身の折であるゆゑ如何はしく、その點を眞淵も言うてゐる。天武天皇御在世時代ならば「わが獨り寢む」でいい。どうも、この歌は持統天皇の大らかな暢び/\した御歌柄に通じてゐるので、持統天皇御作とすれば小生の理解に都合がいい。「はた」を眞淵は略ぼ「果して」の言に説いて居り、其他諸説あれど、契沖の「まさに」と解してゐるのがよく當つて居り、それから派生して多少異つた意にも用ひられてゐるやうである。此歌全體に意と調と暢達して居り、中へ「はたや」といふ詞が入つて一首の調べに波動を生ぜしめてゐるあたり、味はうて盡きざる情がある。
          ○
   (一三四)引馬野《ひくまぬ》に匂《にほ》ふはり原《はら》入《い》り亂《みだ》り衣《ころも》にほはせ旅《たび》のしるしに   卷 一
 持統天皇參河行幸の時|長忌寸奥麿《ながのいみきおきまろ》の作歌である。引馬野は三河國にある。「匂ふ」は色美しき意である。「はりはら」は多く榛の木原と解されてゐるが、小生は、荷田春滿の萩とする説に賛成する。「衣にほはせ」は、その野に咲ける萩の花を以つて衣を美しく染めよといふのである。「入り亂り」の一語、諸人の萩原に入り行く光景を活躍させてゐる。旅の記念に衣を花で染めるといふのであつて、一首の情思流るる如くにして、猶旅の寂しさがある。
         ○
   (一三五)あが背子《せこ》を大和《やまと》へやると小夜《さよ》ふけて曉露《あかときつゆ》に吾《あ》が立《た》ち霑《ぬ》れし  卷 二
 天武天皇の皇子大津皇子が持統天皇御代に謀叛せられた。それ前に、竊かに伊勢神宮に下りて、そこの齋宮なる御姉|大伯皇女《おほくのひめみこ》に逢はれた。その時、大伯皇女が京に歸られる御弟皇子を送つて詠まれた歌である。「あが背子」は大津皇子を指す。背子とは多く女から男を親しみ呼ぶ時の稱呼であつて、稀に男同志で相呼ぶにも用ひられる。大津皇子は大和へ歸られるのであるが、これを送る大伯皇女から見れば「大和へやる」のであつて、この邊、情がよく至つてゐる。大津皇子の別れを告げたのは夜半であつたらしい。夜ふけて弟皇子を送られてゐるうちに、地上には已に露が滿ちて皇女の裳裾や衣を霑らした。「あかとき露にあが立ちぬれし」がそれである。第五句「あが」と言うたのは「私しや」と力を入れたのであつて、心の底に籠る力が斯樣な句となつて現れたのである。特にこの第五句は「あが、立ち霑れし」の二五音である。強い据わりがあつて、猶全體に女らしい情の流露を妨げない。
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   (一三六)足曳《あしびき》の山《やま》の雫《しずく》に妹《いも》待《ま》つと吾《あ》が立《た》ち霑《ぬ》れし山《やま》の雫《しづく》に   卷 二
 前に出た大津皇子が石川郎女《いしかはのいらつめ》に贈られた歌である。山の雫は實に要を得た詞である。恐らく皇子の造語であらう。その「山の雫」を二ケ所に繰り返してゐる所、萬葉初期の幼なさに通じてゐて、全體がよく生きてゐる。一讀身邊に露の雫を聞く心地がする。
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   (一三七)總束《た》げばぬれ總束《た》がねば長《なが》き妹《いも》が髮《かみ》このごろ見《み》ぬにかかげつらむか   卷  二
 三方沙彌《みかたのさみ》が園臣生羽女《そののおみのいくはのめ》に娶《あ》ひて幾何もなく病臥した時、生羽女を思うて詠んだ歌である。「總束《た》げ」は綰《たが》ぬる意で、頭の上へ頭髮を束ねて結びあぐるのである。「ぬれ」はぬる/\と滑り落つる状である。「かかげ」は「掻きあげ」の約である。あの時逢うた生羽女は、未だ年若くして、その黒髮を綰ね上ぐればぬる/\と落ち、さればとて、綰ねあげずにしては長過ぎる程の髮であつた。といふのであつて、愛着の心が斯の如き如實の寫生となつて生動してゐるのである。この妹の髮も此頃見ざる久しい。もう今は頭上に掻き上げて美しく結うたであらうか。といふのであつて、病床にあつて、猶相見まほしくする心が自ら内に溢れてゐる。萬葉の歌は主觀句の併列などで大騷ぎするものでないことは前にも度々言及した。戀しい心が女の髮を捉へてそれに心を托してゐる。この場合の髮の寫生は、形の近似でなくて深い心持の象徴である。情の露《あら》はならざるが、歌に虔ましさのある所以である。
          ○
   (一三八)百《もも》づたふ盤余《いはれ》の池《いけ》に鳴《な》く鴨《かも》を今日《けふ》のみ見《み》てや雲隱《くもがく》りなむ   卷 三
 前に擧げた大津皇子の謀叛が顯れて、譯語田《をさだ》の舍《いへ》に死を賜つた時の悲しみの歌である。「百づたふ」は「盤《いは》」の枕詞であり、盤余《いはれ》の池は皇子居住に近い池であらう。その池に今鴨が鳴いてゐる。鳴いてゐる鴨は居常に異らずして、自分の命は目前に迫つてゐる。鴨を捉へて哀別の情を寄せてゐる所甚だ哀れである。前の歌には戀の虔しさを説いた。この歌に現れてゐるのは死の虔しさである。虔しさに徹して初めて歌の哀れさがあるのである。「今日のみ見てや」の「や」が全體に與ふる調子の波動に注意せんことを望む。皇子時に年二十四。紀には、妃山邊皇女、髮を被り徒跣して奔り、從つて殉死し、見るもの皆歔欷したとある。皇子才文武を兼ね、詩賦の事は此皇子に始まるとさへ言はれてゐる。臨終の五言詩は金烏臨西舍、鼓聲催短命、泉路無賓主、此夕離家向。であつて、是亦いと哀れである。
            ○
   (一三九)瀧《たぎ》のうへの三船《みふね》の山《やま》にゐる雲《くも》の常《つね》にあらむと我《わ》が思《おも》はなくに   卷 三
 天武天皇の皇子|弓削皇子《ゆげのみこ》の吉野で詠んだ歌である。「瀧《たぎ》」は、昔ここに吉野川の瀧つ瀬をなして流れてゐる所ありて、そこが自然に「たぎ」といふ固有名詞になつたのである。その近くに三船山がある。「たぎの上」の「上」は前と同じく「ほとり」の意である。皇子吉野に入り給ひしに、山河の形勢自ら心に沁みて、この嘆聲を發せられしならんと思はれる。目に見るものは山と川とその間を去來する白雲である。その前に立つものは、運命の上にある只一箇の人である。そこに至れば皇子の貴きを以てしても、自然の中の一存在たるに過ぎない。皇子は、そこに深き人生の姿を見て、無限の感慨を發せられたのである。山河は永久であつて、人生のみが倏忽無常である。第一二三句を序として四五句の感慨を敍ぶる心理甚だ自然なるを見るべきである。萬葉の序が直觀的であつて、歌の心を具象的に生かすことは屡々言うた。この歌もその例である。傑れた歌とするに躊躇しない。「思はなくに」の「に」は歌の上では感嘆の詞である。この歌の場合では「我がおもはなくに」と八音字餘りでは重過ぎて調をなさない。「思《も》はなくに」と訓む。
            ○
   (一四〇)隼人《はやひと》の薩摩《さつま》の瀬音《せと》を雲居《くもゐ》なす遠《とほ》くも吾《あ》れは今日《けふ》見《み》つるかも   卷 三
 長田王が筑紫に遺されし時の歌である。隼人は九州の地名であつて、その中に薩摩がある。瀬音《せと》は迫門《せと》であつて、海水の陸地に挾まれる狹小の水路である。「雲居なす」は「雲ゐの如く」である。音に聞ける薩摩の瀬戸を雲ゐの如き遠きほとりに我は今日見たと嘆じたのであつて、作者が、高所に立つて、目を天の一方に放ちつつ、國土の果てを望み見てゐる心持がよく現れてゐる。劈頭目ざす所を提示して、雲ゐなす以下連續して一氣に押してゆく句法の由々《ゆゝ》しさを見るべく、「吾れは」「今日」と語々現實の感じを引き緊めて行く力を想ふべきである。この歌、赤人の歌の如く、必しも藤原朝廷期とすべからざれど、ここに入れて説くも不可ないやうである。秀作たるを疑はぬ。
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   (一四一)小浪《さざれなみ》磯巨瀬路《いそこせぢ》なる能登湍川《のとせがは》音《おと》の清《さや》けさ水激《たぎ》つ湍《せ》ごとに  卷 三
波多少足《はたのをたり》の歌であつて、藤原期の少し後であるかも知れぬ。さざれ波が磯(磯はもと石《いそ》であつて廣く水邊の石多き所を指す。必しも海に限らない)を越す。その「越す」を巨勢《こせ》の地名に言ひかけたのであつて、言ひかけであつても、直觀的にいつてゐる所に命がある。後世の言ひかけの如く、語呂合せに類した言ひかけと違ふ。(語呂合せとは、例へば「音にのみ菊(聞く)の白露」の如き言ひかけである)その巨勢路(大和國)なる能登湍《のとせ》川の音の清《さや》けさを嘆じたのであつて、一旦弟三句を名詞で止め、更に句を起して「音のさやけさ」と切り、「激《たぎ》つ湍《せ》ごとに」と置いて、句法を倒置した所、前後の關係却つて自然であつて、曲折の状に自ら勢があり、宛かも、その川ぞひの道を行きつつ、時々急湍の迸るを見且つ聞くの感あらしむる所、川瀬の流るる調子と歌の調子と相合致してゐる如き想ひがするのである。寫生の究極は、對象と作者と全く合致する所にあるといふ消息は、斯樣な歌によつて覺ることが出來、その合致は、歌の調子にまで現れて來なければ徹して居らぬといふことも、同じく斯樣の歌によつて覺ることが出來るであらう。猶、歌には結句が尤も重大な働きをなすといふことも、この歌等によつて、よく了し得る所であらうと思ふのである。
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   (一四二)白縫《しらぬひ》筑紫《つくし》の綿《わた》は身《み》につけて未《いま》だは著《き》ねど暖《あたたけ》く見《み》ゆ  卷 三
 沙彌滿誓の歌である。此の人、僧となつて筑紫觀音寺造営に赴いたのは養老七年であつて、藤原の都時代よりも少し後である。この頃筑紫より綿を多く産したことが記録に見える。これは、彼の地で、その綿の暖かさうなのを見て作つた歌であらう。「白縫」は筑紫の枕詞である。(白縫のと五音にするは誤りなり)その筑紫の綿は、身につけて未だ著ないけれども、如何にも暖かさうに見えるといふのであつて、一首の意も調も甚だ安らかであつて、綿と作者の感じとがよく融和して生れ出たといふ感がする。一見平凡に見えるほど圓滿な相を具したよい歌である。
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   (一四三)吉野《よしぬ》なる夏實《なつみ》の川《かは》の川淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴《な》くなる山《やま》かげにして  卷 三
 前の志貴親王の御子湯原王の吉野に行かれし時の歌である。吉野なる夏實の川の青く淀める所に鴨が鳴いてゐる。そこは日もささぬ山陰の寂しい所である。深山と川と水鳥と合して寂寥の一如に歸し、一如に歸してゐる中に水と鴨とが動いてゐる。萬葉集中の秀逸である。「山かげにして」の結句が、如何によく全體に響きを反してゐるかを想ふべきである。この反響、宛らにして名鐘の餘韻である。父親王に「いは走る垂水のうへのさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」があり、御子にこの歌がある。御父子の歌幸《うたさち》羨望に値する。これも末期に入れた方が穩當であるが、暫くここに説く。
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   (一四四)庭《には》に立《た》ち麻《あさ》を苅《か》り乾《ほ》し布慕《しきしぬ》ぶ東女《あづまをとめ》を忘《わす》れ給《たま》ふな  卷 四
 養老三年藤原|宇合《うまかひ》が常陸按察使となつて東國に赴きしより六年間を彼地に過した。遷任して京に上るとき、相親しみし常陸娘子が別れを惜しんで詠んで贈つた歌である。これは寧ろ東歌に血を引いてゐると見るべき歌である。「庭に立ち麻を苅り乾し」はその少女の日常の生活である。その生活を序として「しき慕ぶ」とつづけたのであつて、「しきしぬぶ」が甚だ力強く響くのである。「しき」は「敷き」「頻《し》き」等の意であつて、間《ま》なく頻りなる心である。麻を苅り乾して敷くことを序として、「しきしぬぶ」へ言ひつづけたのである。それほどにして頻りに慕ふ所の東少女を忘れ給ふな。といふ言ひ方が甚だ率直であつて、東人の可憐を想はしめるに足りる。麻と少女と貴公子とを聯想して、情味盡きざるを覺えしめるは、歌がよく生きてゐるからである。
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   (一四五)曉《あかとき》と夜鴉《よがらす》啼《な》けどこの丘《をか》の木末《こぬれ》のうへはいまだ靜《しづ》けし   卷 七
 古歌集といふ本にあると左註した歌であつて、時代も作者も不明なれども、奈良朝以前のものであらう。眞淵も卷七は「歌もいささか古く」と言うてゐる。「あかとき」は明時《あかとき》で、夜の明くる時である。今人は「あかつき」と言うてゐる。夜のしら/\と明くる頃ほひとなつて夜鴉が啼く。光未だ滿ちずして曉の氣已に動く心である。この丘といふのは作者の立ちつつある(或は行きつつある)丘である。「この」の用法極めて適切なるに注意せよ。鴉啼いて夜將さに明けんとすれど、わが行丘の木末の上は未だ靜かであるといふのであつて、夜の色の猶木の間にあるを思はしめるのみならず、「靜けし」の一語が東方の曙光と鴉とに響いて、曉の清爽にして靜肅な氣が歌全體に瀰漫するを覺えしめる。この歌、恐らく初夏より初秋の間の作であらう。古歌集所出中の秀逸である。
         ○
   (一四六)今年《ことし》行《ゆ》く新防人《にひさきもり》が麻衣《あさごろも》肩《かた》の紕《まよ》ひは誰《たれ》か取《と》り見《み》む  卷 七
 この歌も古歌集中のものである。東國から防人に立つ男の妻か、親しき女かが、男の旅立ちを思うて詠んだ歌である。防人とは、民間より徴されて西陲の防備に從つた壯丁であつて、今の新兵二等卒といふ格で彼の地へ向つたのである。今年は新防人となつてあなたが西の國へ行く。向ふ所が※[しんにょう+向]かで歸る時が期せられない。あなたの旅衣も、長い道中で、肩が自ら擦り切れることであらう紕《まよ》ふとは布の擦り切るるをいふ)その肩の※[糸+比]ひは誰が取り見て繕つてあげるであらう。恐らくその人もないであらう。と旅の辛苦を深く思ひやつたのである。「肩の※[糸+比]ひは誰か取り見む」のあたり、文句なしに辱ない。何度誦しても誦するほど味ひの深まる思ひがある。秀れた歌とするに足りる。萬葉の秀れた作者は、何うも主觀句を矢鱈に配列しない。この歌が矢張りそれである。
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   (一四七)福《さきはひ》の如何《いか》なる人《ひと》か黒髮《くろかみ》の白《しろ》くなるまで妹《いも》が聲《こゑ》をき聞《き》く  卷 七
 「如何なる人か」の「か」は第五句「妹が聲を聞く」までへ掛つてゐる反語である。黒髮の白くなるまで妻の聲をきくといふ人が幾人あるであらう。それは如何に幸福の人であらう。併し、さういふ幸福の人は幾人もないといふ嘆聲を發した歌であつて、さうした幸福の人を羨む心も伴つてゐる。「黒髮の白くなるまで妹が聲を聞く」といふ現し方が皆現實的に痛切であつて、實感の要核から外れないゆゑに、多く敍して煩しさを伴はず、更に、第一二句から反語を以て第三四句を喚び起して聲調の大きさと緊張とを持てるところ、心姿相待つて秀れてゐる。
          ○
   (一四八)我《あ》が宿《やど》の萩《はぎ》の若末《うれ》ながし秋風《あきかぜ》の吹《ふ》きなむ時《とき》に咲《さ》かむと思《おも》ひて   卷 十
 萩の夏芽伸びて、そろ/\莟をもつ時が近づいた。その萩を見て「秋風の吹きなむときに咲かむと思ひて」と言うたのであつて、作者が萩と合致して、自ら萩の心になつて歌つてゐる所甚だ自然であつて、よい心持がするのである。斯る歌は往々不自然な氣取りになり易いのであるが、無邪氣な作者の心が「咲かむと思ひて」の如き幼ない句法となつて現れてゐるために反感を起させるやうなことなく、安らかに作者の心に同じ得るのである。この結句は、單に、幼なく無邪氣といふばかりでなく、同時に生氣あり緊張ありて、聲調より言ふも、一句よく全體に響き返すに足る力を持つてゐる。「我が宿の」など一見何でもない句が、ここでは非常に親しみを持つ句になるのは不思議である。「萩のうれ長し」と第二句に簡明直截な切り方をしてゐることも、この歌の命を考へるに大切である。それあるゆゑ、第五句がここまでぴんと響き返すのである。これを意義の上から言ふも、「萩のうれ長し」ありて第五句生き、第五句ありて「萩のうれ長し」が生きる。この邊の關係微妙であつて、すべての關係相倚つて渾然一如の命となり得てゐるのは、寫生の眞に入り、神に入れるより來るのである。
          ○
   (一四九)秋風《あきかぜ》に大和《やまと》へ越《こ》ゆる雁《かり》がねは彌遠《いやとほ》ざかる雲隱《くもがく》りつつ   卷 十
 これは歌ぶりがやや後かと思ふ。旅にして故郷の大和を思ふ人か。わが戀ふる人の籠れる大和の國を思ふ人か。秋風が吹いて雁がゆく。その雁は大和の空へ向ひつつ且つ消え且つ見える。消えるのは雲にかくれるのであり、見えるのは雲に沒せんとする纎翳である。「いや遠ざかる雲がくりつつ」の情意流動の姿を見るべきである。「雪がくりつついや遠ざかる」の順序を顛倒せるも適切である。結句各音は殊に心に沁みて響くの感がある。
        ○
   (一五〇)秋萩《あきはぎ》の枝《えだ》も撓《とをを》に露霜《つゆじも》置《お》き寒《さむ》くも時《とき》はなりにけるかも   卷 十
 どうも單純でいい。第三句で一旦言ひさして、四句以下一息に言ひ下してゐる具合至妙である。「言ひさし」の句法は多く歌柄を大らかにする。「渡津見の豐旗雲に入日さし今宵の月夜まさやけくこそ」「久方の天行く月を綱にさしわが大君は蓋《きぬがさ》にせり」「茜根刺《あかねさ》す紫野《むらさきぬ》行《ゆ》き標野《しめぬ》行き野守《ぬもり》は見ずや君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る」等を參照せんを望む。「とをを」は「撓むほどに」の意。露霜は白露《はくろ》である。將に霜に至らんとする露である。一讀して露氣襟に滲むを覺えしむる歌である。
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   (一五一)思《おも》ふにし餘《あま》りにしかば術《すべ》をなみ出《い》でてぞ行《ゆ》きしその門《かど》を見《み》に  卷十一
 第一二句一體となつて高く張り、遠く展いて第五句に至つてゐる。その姿を見べきである。「その門を見に」の「その」もよく生きてゐる。同じ卷に、人麿歌集所出の「思ふにし餘りにしかば鳰鳥の足霑れ來しを人見けむかも」があり、卷十二に「思《おも》ふにし餘りにしかばすべをなみ吾《あ》れは言《い》ひてき忌《い》むべきものを」(名を言ふを忌むなり)「思ふにし餘りにしかば門に出でて吾が反側《こいふ》すを人見けむかも」(こいふすは臥し轉ぶなり)等がある。この體、當時人口に膾炙して傳はつたのであらう。
         ○
   (一五二)相見《あひみ》ずて幾何久《いくばくひさ》もあらなくに年月《としつき》の如《ごと》思《おも》ほゆるかも  卷十一
 これは第二三句が一體となつて、首尾長河の勢をなしてゐる。矢張り大したものである。卷四、大伴坂上郎女の「相見ずていくばく久もあらなくに許多《ここだ》く吾れは戀ひつつもあるか」は、これから脱化してゐるかも知れない。坂上郎女のもいい。
         ○
   (一五三)足引《あしびき》の山鳥《やまどり》の尾《を》の一峰《ひとを》越《こ》え一目《ひとめ》見《み》し子《こ》に戀《こ》ふべきものか   卷十一
 第一二句は「一峰《ひとを》」と言はんがための序である。「を」は、丘にもいひ、山にもいふ詞である。一峰《ひとを》越し、一目見た子は、世に苟且《かりそめ》の縁《えにし》に過ぎない。その子が奇《あや》しく心に殘つて、戀ひ思はれるのは何うした事かと歎くのであつて「戀ふべきものか」と疑ひつつ歎き且つ訴ふる心が眞に入つてゐる。
         ○
   (一五四)馬《うま》の音《と》のとどともすれば松《まつ》かげに出《い》でてぞ見《み》つる蓋《けだ》し君《きみ》かと  卷十一
 「馬の音」は馬の足音であり、「とど」はその音の形容である。通《かよ》つて來る男はいつも馬に乘つて來る。もう來さうなものだと思つてゐるうちに馬の足音がする。來たかと思うて出て見るのは家近くの松蔭である。敍する所はただそれだけであるが、現れる所は待つて待ちきれない女の心である。それが虔ましく事象の内に籠つて自然に外に泌み出てゐる。寫生の至り得るは斯ういふ境である。虔ましくて生き/\として居り、生き/\として居て、生《な》までない。第五句と第四句と響き合ふ關係も實にいい。秀れた歌は結句が全體に反響する。この歌もさうである。
          ○
   (一五五)夕凝《ゆふこ》りの霜《しも》置《お》きにけり朝戸出《あさとで》に跡《あと》踐《ふ》みつけて人《ひと》に知《し》らゆな   卷十一
 「夕凝りの霜」「跡ふみつけて」實にいい。一夜寢て明け方歸る男を思ふ心が遍滿してゐる。朝戸出というても夜は未だ深いであらう。早く歸すはつらく、遲く歸せば足跡が人に知られる。「夕凝りの霜おきにけり」が作者の心に沁みてゐて、その霜の上に足跡を想像して恐れを抱く心と、男を止めて置きたい心とが、矛盾しつつ相觸るる微妙所が宛らに窺はれるのである。
 以上萬葉中期の例歌百二十一首を擧げた。選擇の當を得ぬものもあらうし、佳作の逸せられたものも多いのであるが、佳作の悉くを網羅するが初めよりの目的ではない。只小生の擧例によりて、中期の歌の、どの遍の高さにゐるものであるかを髣髴として想像し得れば足りる。或るものは人生の寂寥相・幽遠相に入り、或るものは圓融相・具足相・暢達相に入りて、而も作者個性の別が歴然と現れ、貫くに眞實性の透徹を以てしてゐる。それゆゑ、喜悲愛著の現れに不自然がなく、嘆息の聲に夾雜するものがない。藝術の至上所は要するにこの範圍を出でない。眞の品位、眞の風格もここから生れ、崇高性・嚴肅性・感壓性といふ如き高所の要求も、自らにしてその内に包含せられる。斯の如き藝術には緊張ありて弛緩がない。その現れが歌の調子にまで徹して、所謂萬葉調をなしてゐるのである。萬葉調を、眞淵は、益良雄ぶりであるといふ。それを、猶詳しく言へば、緊張せる男性ぶりと、緊張せる女性ぶりである。悲しみは悲しみに張り、喜びは喜びに張り、亢奮は亢奮に張り、沈潜は沈潜に張るから、感傷から脱し、甘さから脱することが出來るのである。小生等の萬葉を宗とするの意全く以上の點にある。これを、以下擧ぐる所の萬葉末期若干例に照合して、更にその意を明かにし得ば幸である。
 
   萬葉集末期の歌
 
 形を整ふるに急であると、生き/\した心が薄くなる。生き/\した心が薄くなると、痛切な事象に直面することを避けて、概念や觀念の上によい心持になつて遊ぶやうになる。遊びの心は形に現れて遊戲の文學になる。歌の上に文字の駄洒落などが盛になつて來るのは、この傾向の押し進められた時に起る現象であつて、歌が、そこまで行けば、もう本當の墮落である。それほどの墮落は、古今集以後の勅撰集に現れてゐるのであるが、萬葉集も、末期になると、多少その傾向が目について來るやうである。その代表は大伴家持である。家持は萬葉集中の大きな作家であるが、作物が多過ぎて心が稀薄になり、往々にして文字の遊戲を交じへるといふ所がある。多く作る心理と、良く作る心理とは古より相違があるやうである。第二の代表は山上憶良である。憶良は藤原朝期より奈良朝期へかけて活動した人であり、時代に於て家持より早く、赤人と殆ど同時の人であるが、作品は到底赤人の比でない。それゆゑ、小生は赤人を中期に説き、憶良を末期に説かうとしたのである。憶艮は眞實性に於て萬葉集中の誰れにも遜色なき所あれど、入唐して學問した知識が祟りをなして、觀念的になり、道學的になりして、純粹な歌の道が歩けなかったといふ觀がある。有名な貧窮問答歌の長歌や、令反惑情の長歌等がそれであつて、その臭ひが短歌の方にも少しづつ附著してゐる。この人は、神經が麁大であつて、多力の割合に秀作をなし得ない素質を持つてゐたとも思はれる。以下二人を中心として少しく末期の歌を述べて見る。
       ○
   (一五六)秋《あき》の野《ぬ》に咲《さ》ける秋萩《あきはぎ》秋風《あきかぜ》になびける上《うへ》に秋《あき》の露《つゆ》おけり   卷 八
 家持の歌である。各句に秋といふ文字を疊んで歌を作つて見たに過ぎぬものであつて、秋といふ文字を疊んだために、何等秋の野の情趣を現すといふことなく、却つて、文字の上の遊戲感が目立つて輕薄にさへ思はれる。歌を翫弄する端緒が斯樣なものから發せられるといふ感がする。この歌、思ふに、曩きに擧げた大海人皇子御歌「よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見」等を眞似たものであらう。大海人皇子の歌は、あれで充分生きて居つて、皇子御得意の状が宛らに輕快に現れてゐる所に命があるのであるが、家持のこの歌になれば、秋の野に對する感動が少しも利いて出て居らぬのである。文字の遊戲若くは駄洒落とは斯樣なものをいふのであつて、後世、勅撰集の歌が、左樣な遊戲系統の上に發達したのである。
          ○
   (一五七)春《はる》の苑《その》くれなゐにほふ桃《もも》の花《はな》下照《したて》る道《みち》にいで立《た》つ※[女偏+感]嬬《をとめ》  卷十九
 第一句・第二句・第五句三ケ所で切れてゐる句法が、現さんとする眞情に對して硬過ぎてゐるのみならず、その切れ句が皆名詞止めであつて、この歌の場合特に窮屈を感ぜしめる。「春の苑」も要らない句である。春など斷らずとも春といふことは現れて居る。觀念的な歌ひ方をすると、斯ういふ句が生れるのである。この歌も家持作である。
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   (一五八)夢《いめ》の逢《あ》ひは苦《くる》しかりけり驚《おどろ》きて掻《か》き探《さぐ》れども手《て》にも觸《ふ》れねば  卷 四
 同じく家持の歌である。「夢の逢ひは苦しかりけり」まではいい。「驚きて」までも眞實である。「掻き探る」「手に觸れない」に至つて眞實から離れて、歌のための歌になつてゐる。掻き探ることもあらうし、掻き探つて手に觸れないことを嘆く場合もあらうが、それは非常に感情の激した亢奮状態の時であらう。左樣な場合に、「夢の逢ひは苦しかりけり」の如き落ち著いた調子に出て居られる筈がない。一首のうち、感情の調子に矛盾がある所、眞實性と離れ居るを知り得る第一證左である。小生は前に人麿の「天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隱る見ゆ」を以て虚假おどし歌というた。家持のこの歌も矢張り虚假おどしなるに於て同じである。歌を外形から鑑賞する人々は、斯樣な虚假おどしに眩惑することがあるのであつて、現に家持のこの歌を家持の代表作として推稱し、人麿の「天の海に」の歌を人麿の代表作として推稱している人もあるのである。その點小生等の感服しかねる所である。明治三十年以後、所謂新派と稱せられた歌に、可なりこの虚假おどしがある。それを世人が推稱して大騷ぎしたこともあつて、今一場の夢となつてゐる。猶、この歌、卷十二「愛《うつく》しと吾《あ》が思《おも》ふ妹《いも》を夢《いめ》に見《み》て起《お》きて探《さぐ》るに無《な》きが不樂《さぶ》しさ」あたりから脱化したものかも知れぬ。それならば、原作の方が優つてゐる。
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   (一五九)杜鵑《ほととぎす》何《なに》の心《こころ》ぞ橘《たちばな》の珠《たま》貫《ぬ》く月《つき》し來鳴《きな》きとよむる   卷十七
   (一六〇)杜鵑《ほととぎす》棟《あふち》の枝《えだ》に行《ゆ》きてゐば花《はな》は散《ち》らむな珠《たま》と見《み》るまで   卷十七
 家持には杜鵑の歌が非常に多い。これらの歌必しも惡しとにあらねど、「何の心ぞ」「珠と見るまで」あたりに常套的の臭ありて、技巧のみで行かうとする傾向が現れてゐる。家持の歌、全體に何處が惡いといふのではなくて、新鮮感の薄い心地するは、この邊の消息から來てゐるのであらうと思はれる。
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   (一六一)藤波《ふぢなみ》のかげなる海《うみ》の底《そこ》清《きよ》み沈著《しづ》く石《いし》をも玉《たま》とぞ吾《あ》が見《み》る  卷十九
 藤の花の咲き垂れた下に海水が湛へて、その底が清いといふので甚だ心地よいが、少し心地の良過ぎる所もあるのは、整ひ過ぎるより來るのであらう。殊に、「珠とぞ吾が見る」は要らないのである。外面的の歌に屬する。
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   (一六二)燒太刀《やきだち》を礪波《となみ》の關《せき》に明日《あす》よりは守部《もりべ》遣《や》り添《そ》へ君《きみ》をとどめむ   卷十八
   (一六三)足曳《あしぴき》の石根《いはね》こごしみ菅《すが》の根《ね》を引《ひ》かば難《かた》みと標《しめ》のみぞ結《ゆ》ふ   卷 三
 是も家持である。前のは人を送る歌であり、彼のは戀の歌であり、二首とも一種の譬喩である。斯る歌、家持專有のものならねど、外面整つて内面に充溢の生氣なき憾みあるは同じである。
 併し乍ら、家持も亦萬葉時代の雰圍氣中に生存した歌人であつて、惡しきものも猶萬葉の風格を傭へて居り、良きものになると他の秀作に伍するに足りる。家持のものから秀作數首を擧げる。
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   (一六四)久方《ひさかた》の雨《あめ》のふる日《ひ》をただ一人《ひとり》山邊《やまべ》にをればいぶせかりけり   卷 四
   (一六五)わが宿《やど》の花橘《はなたちばな》は散《ち》りすぎて珠《たま》に貫《ぬ》くべく實《み》になりにけり   卷 八
   (一六六)春《はる》の花《はな》今《いま》は盛《さか》りににほふらむ折《を》りてかざさむ手力《たぢから》もがも   卷十七
   (一六七)わが宿《やど》のいささ群竹《むらたけ》吹《ふ》く風《かぜ》の音《おと》の幽《かそ》けきこの夕《ゆふべ》かも  卷十九
   (一六八)うらうらに照《て》れる春日《はるひ》に雲雀《ひばり》あがり情《こころ》かなしも獨《ひと》りし思《おも》へば  卷十九
   (一六九)足曳《あしびき》の山《やま》さへ光《ひか》り咲《さ》く花《はな》の散《ち》りぬる如《ごと》き吾《あ》が王《おほぎみ》かも  卷 三
   (一七〇)かくのみにありけるものを妹《いも》も我《あれ》も千《ち》とせの如《ごと》くたのみたりけり  卷 三
   (一七一)立山《たちやま》に降《ふ》りおける雪《ゆき》を常夏《とこなつ》に見《み》れども飽《あ》かず神隨《かむながら》ならし  卷十七
「見れども」あたりが惜しい。
  (一七二)心《こころ》ぐく思《おも》ほゆるかも春霞《はるがすみ》棚引《たなび》くときに言《こと》の通《かよ》へば  卷 四
 「心ぐく」は「くぐもり」若くは「潜《くぐ》る」などより出でて、心の中に座《そぞ》ろに思ひ居りて、表《うへ》ならぬをいふ詞であるらしい。
 山上憶良の歌を擧げる。
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   (一七三)世《よ》の中《なか》を憂《う》しと耻《やさ》しと思《おも》へども飛《と》び立《た》ちかねつ鳥《とり》にしあらねば  卷 五
   (一七四)富人《とみびと》の家《いへ》の子《こ》どもの著《き》る身《み》なみ腐《くだ》し棄《す》つらむ絹綿《きぬわた》らはも  卷 五
 貧窮問答歌及び兒等を思ふ歌の反歌であつて、長歌の意を布衍してゐる所あるゆゑ、切り離しては具合惡しき所あれど、猶憶良の面影を窺ふに足りる。前の歌、四五句憶良のが見えてゐるけれども、ども、全體が概念的であり、「憂し」「耻し」など主觀的の詞を用ひて感動が却つて生き/\としない。次の歌は、全く觀念的なものであつて、その上に道學的の臭ひがある。憶良の短所を代表する歌であらう。(ここの「はも」も過去の追懷ではない)
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   (一七五)久方《ひさかた》の天路《あまぢ》は遠《とほ》しなほなほに家に歸《かえ》りて業《なり》をしまさね  卷 五
 感情を反へさしむる長歌の反歌であるが、感動よりも道學的教訓の臭ひが勝つ。同じく憶良の弊所である。その弊所は新歸朝の新智識から來てゐるであらう。「なほ/\に」は「素直に」の意であり、「しまさね」は「爲《し》ませ」であつて「さね」は「せ」の延音である。
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   (一七六)しろ金《がね》も黄金《くがね》も玉《たま》も何《なに》せむにまされる寶《たから》子《こ》に如《し》かめやも  卷 五
 有名な歌であるが、有名なほどの良い歌ではない。矢張り觀念的な表現に終つてゐる。只全體の調子に一貫せる所あるゆゑ、多少の命を持つてゐる。これらに比べると、同じ憶良作中で有名な次の歌
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   (一七七)男子《をのこ》やも空《むな》しかるべき万代《よろづよ》に語《かた》りつぐべき名《な》は立《た》てずして  卷 六
の如きは、同じく觀念的であつても、聲調に熱と力があつて、歌全體を具象的人格化してゐるといふ觀がある。「男子やも」と力を入れて「空しかるべき」と結び、更に第一二句より起して第五句に至り、節五句直ちに一二句に響きを反してゐる所、熱と力で統率してゐるといふ概がある。この歌は、藤原八束が河邊東人を遣して憶良の病を訪はしめた時、感激して詠んだ歌である。熱や力は左樣に事象物象につき當つた時に生れるものであつて、今謂ふ所の寫生の根據も全く其所にあるのである。憶良、この時、報語已に畢り、須らくして涕を拭ひ、悲歎してこの歌を口吟すと萬葉集に記るしてある。
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   (一七八)憶良《おくら》らは今《いま》は罷《まか》らむ子《こ》泣《な》くらむそのかの母《はは》も吾《あ》を待《ま》つらむぞ  卷 三
 憶良は、漢文學の影響を受けて、道學的の教訓めかしきことを詠んだものは、概ね觀念的なものになり、生《な》まで、硬くて、力の透徹がないのであるが、この人の素質は、眞摯で無邪氣で、七十歳以後になつて、多感な好々爺であつたらしい。それゆゑ、思想的のものに手を出さずして、身邊日常事や非常事につき當つて詠んだものに、却つていいものがある。前の「男子《おのこ》やも」の歌がそれであり、ここに擧げたものもそれである。この歌は、宴を罷《まか》る時に詠んだのであつて、私《わたし》やもう退出する(まかるは退出の意)家では子が泣いてゐるであらう。その子の母も私を待つであらうと率直に言つてゐる所、如何にも心持のいい歌である。自分のことを言ふに「憶良らは」も率直であり、「そのかの母」と言うて、子を中心にしてゐる所も面白い。その率直さが、自ら聲調に現れて、憶良のこの時の氣息を聽き得る如き純粹さがある。この歌諸訓あれど、略解説を取る。
   (一七九) わが宿《やど》に盛《さか》りにさける梅《うめ》の花《はな》散《ち》るべくなりぬ見《み》む人《ひと》もがも  卷 五
 憶良の眞情が自ら歌の機微に入り得てゐる。「盛りにさける」といひて「散るべくなりぬ」といふ。それゆゑ「見む人もがも」がよく生きてゐて常套に墮ちない。同時代、大伴旅人の歌に「わが丘の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも」がある。影響し合つてゐるかも知れないが、これもよく生きてゐる。併し、同時代の次の歌
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   (一八〇)梅《うめ》の花《はな》夢《ゆめ》に語《かた》らくみやびたる花《はな》と吾《あ》れ思《も》ふ酒《さけ》に浮《うか》べこそ  卷 五
などになると、例の漢詩人的風流を氣取つて遊戲に墮ち、天眞の人を捉ふるものがない。病弊がちよいちよい顏を出してゐるのである。
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   (一八一)天飛《あまと》ぶや鳥《とり》にもがもや京《みやこ》まで送《おく》り申《まを》して飛《と》びかへるもの   卷 五
 九州にあつて、大伴旅人の京に還るを送る歌である。「送り申して飛びかへるもの」憶良の麁大にして天眞の所がよく現れてゐる。「がも」の願望の意なるは前に言うたと思ふ。その他、愛妻の九州にて死せる時の歌の如きは、慟哭の姿眠前に髣髴する。憶良は斯ういふ方面に深入りしてゐればよかつたのである。今それを次に擧げる。
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   (一八二)家《いへ》にゆきていかにか吾《あ》がせむ枕《まくら》づく嬬屋《つまや》さぶしく思《おも》ほゆべしも  卷 五
   (一八三)愛《は》しきよし斯《か》くのみからに慕《した》ひ來《こ》し妹《いも》がこころの術《すべ》もすべなさ  卷 五
   (一八四)悔《くや》しかも斯《か》く知《し》らませば青丹《あをに》よし國内《くぬち》ことごと見《み》せましものを 卷 五
   (一八五)妹《いも》が見《み》し棟《あふち》の花《はな》は散《ち》りぬべしわがなく涙《なみだ》いまだ干《ひ》なくに   卷 五
 萬葉には官能的臭ひのする歌が可なり多いが、それが單なる官能に終らずして、いつも中樞的な感動によつて統べられてゐるために藝術としての高さを持ち得る。小生は萬葉の末期に人つて一つの異例を發見した。
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   (一八六)蒸衾《むしぶすま》なごやが下《した》に臥《ふ》せれども妹《いも》とし寢《ね》ねば肌《はだ》し寒《さむ》しも  卷 四
 異例とはこの歌である。作者は藤原麿である。「蒸衾」は蒸す如き暖い蒲團である。或は、蠶より得たる絹布の布團の意かも知れぬ。「なごやが下」は、和やかに柔かき下にといふ意である。暖く柔かく立派な蒲團の中に寢てゐながら、嘆ずるところは妹と寢ない肌寒さである。一首の要求が官能に終つてゐて、中樞的に訴へる所の痛切さがない。これを、明治時代に一時歡迎せられた「湯上がりをお風邪《かぜ》召《め》すなのわが上衣|槐紫《えんじむらさき》人美しき」の類に比べれば、流石に萬葉の風尚中に生れただけの姿を保つてゐるけれども、他の萬葉諸歌の前に置くと品位やや下れるの感がある。これも末期の一つの現れであらう。
 併し乍ら、末期と雖も猶萬葉歌風全盛の時代である。中期の緊張が末期に入つて急に弛緩する筈はなく、期によつて急に黒白の相違をする筈はなく、末期の中に秀作が多くあつて、萬葉のために重きをなしてゐること勿論である。前掲赤人・湯原王・滿誓沙彌等も、本來は寧ろ末期に入るべき人であるが、萬葉の頂上期を説くために、暫く中期に於てしたに過ぎないのである。
 ここに大伴旅人の讃酒歌十三首がある。萬葉をよむものは、いろ/\の意味を以てこの歌に注意する。
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   (一八七)驗《しるし》なき物《もの》を思《おも》はずは一杯《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》を飮《の》むべくあるらし  卷 三
   (一八八)酒《さけ》の名《な》を聖《ひじり》と負《おほ》せしいにしへの大《おほ》き聖《ひじり》の言《こと》のよろしさ  卷 三
   (一八九)古《いにしへ》の七《なな》の賢《かしこ》き人《ひと》どもも欲《ほ》りするものは酒《さけ》にしあるらし  卷 三
   (一九〇)賢《さか》しみと物言《ものい》ふよりは酒《さけ》飮《の》みて醉《よ》ひ泣《な》きするしまさりたるらし  卷 三
   (一九一)言《い》はむ術《すべ》爲《せ》むすべ知《し》らに極《きはま》りて貴《たふと》きものは酒《さけ》にしあるらし  卷 三
   (一九二)中中《なかなか》に人《ひと》とあらずすは酒壺《さかつぼ》になりにてしがも酒《さけ》に染《し》みなむ  卷 三
   (一九三)あな醜《みにく》賢《さか》しらをすと酒《の》まぬ人《ひと》を能《よ》く見《み》れば猿《さる》にかも似《に》る  卷 三
   (一九四)價《あたひ》無《な》き寶《たま》といふとも一杯《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》に豈《あに》まさらめや   卷 三
   (一九五)夜光《よるひか》る玉《たま》といふとも酒《さけ》飮《の》みて情《こころ》を遣《や》るに豈《あに》如《し》かめやも  卷 三
   (一九六)世《よ》の中《なか》の遊《あそ》びの道《みち》に怜《たぬ》しきは醉《ゑ》ひ泣《な》きするにあるべかるらし  卷 三
   (一九七)この世《よ》にし樂《たぬ》しくあらば來《こ》む世《よ》には蟲《むし》に鳥《とり》にも吾《あれ》はなりなむ
  卷 三
   (一九七)生《うま》るれば遂《つひ》にも死《し》ぬるものなればこの世《よ》なる間《ま》は樂《たぬ》しくをあらな  卷 三
   (一九九)默然《もだ》居《を》りて賢《さか》しらするは酒飮《さけの》みて醉《ゑ》ひ泣《な》きするに尚《なほ》如《し》かずけり  卷 三
 小生はこれらの歌を以て、旅人が身邊の實相に直面し切れずして、世に拗ねた心から生れた歌、少くもやけくそ心が主調となつて詠まれた歌と解するのである。痛切な身邊事相に何處までも正面から對しとほすといふこと、餘程強い心の持主でもむづかしいのであつて、この點旅人も同軌にあつたと思はれる。萬葉人は如何なる場合も事象に對して正面から衝き當つてゐる。卷十六中の滑稽歌といへども概ねさうである。然るに、この讃酒歌のみは夫れらと趣を異にしてゐる。それが、この歌の、萬葉集中にあつて一異彩なりとせられて、今古諸人の注目を惹く主なる原因であらうと思はれる。萬葉人も、たまには事相から横向きして拗ねて見せること面白いのであつて、今世の如く、拗ね者多く横行してゐる時、萬葉人の拗ね方を見るのは小生等の參考になるのである。萬葉人は果して、その一途な心を以て、思ひ切つて横向きして見せてゐる。その横向きした姿に痛快な所があるのである。小生はこれらの歌に對して、當時新流行の外來思想に反抗したものと解する或る種の意見に與みしない。思想に反抗する位なことではこれほど痛快な聲は出ないのである。況や、これらの歌に現れた思想的内容を以て、日本人祖先の現實的人生觀の現れなりとする説の如きは淺膚の甚しきものである。「蟲に鳥にも吾れはなりなむ」「この世なる間は樂しくをあらな」といふのは、思ひ堪へられずして發した拗ね言《ごと》である。拗ね言を捉へて人生觀云々を説くが如きは、死ぬと言はれて、女の裾をひつぱる若旦那の驚きに等しい。この歌、恐らく旅人の太宰府在任中の歌であつて、地方在任のつらさと、都を離れた寂しさと、それに加へて、赴任匆々携ふる所の愛妻に死なれた悲しさとが、大將軍大伴旅人を驅つて、横向き状態の已むなきに置かしめたものであらう。その横向き状態に、麁大で率直で痛快なところがあるのである。旅人の歌には、すべて麁大性ありて、その點憶良とよく肖て居り、兩人九州にありて心交甚だ厚かつたのは、性格境遇相肖た所があつたからであらう。憶良の歌の麁大にして率直な所あるは前に擧げた。この十三首なども麁大な面白味が多く人を惹きつけるとも言ひ得る。別言すれば、拗ねても拗ね方が思ひ切つて大柄である。そこがこの歌の命であつて、末期の遊戲心に入らむとするものよりも萬葉の命を持ち得てゐると共に、萬葉中の秀品に伍せしめるには、丈けが足らないのである。横向き状態として頂上かも知れぬが、横向は遂に横向きであつて、歌の頂上とは言はれず。今人の横向きするものが、神經質に拗ねて、眉を寄せ、唾を飛ばし、埃を立てる姿よりも快い所があるのである。旅人は、一體酒が好きらしく、卷四には、丹生女王が「古《ふ》りにし人《ひと》の飮《の》ませる吉備《きび》の酒《さけ》病《や》まば術《すべ》なし貫簀《ぬきす》賜《たば》らむ」といふ歌を九州に在る旅人に贈つて居られる。酒に目のない旅人を飜弄《からか》はれたのである。旅人の横向きが、恰も善し好きな酒と善い具合に合體して、燒け酒三斗、痛快淋漓な十三首が生れたのであらう。歌中、竹林七賢人を言ひ、隋の夜光珠を言ひ、清酒の隱語を聖人と名づけし魏書中の古事を引き、「必我を陶家の後に葬れ。化して土となり、幸に取られて酒壺とならば實に我が心を獲む」と遺命せし呉の鄭泉の故事を引いてゐる所など、寧ろ外來新智識を振り廻して得意となつてゐる無邪氣さがあり、強ひて思想を吟味すれば、老莊の學系を引いたものに近いものとも言ひ得るが、この歌を以て直ちに老莊思想にかぶれたといへないことは、丁度、この歌を以て日本人祖先の人生觀を言ふの當らざると同じである。旅人の新智識を振り廻したことは、憶良の影響が多かつたと思はれ、卷五の「凶問に報ふる歌」の初めへ「禍故重疊し、凶問累りに集る。永く崩心の悲しみを懷ひ、獨り斷腸の泣を流す。但兩君の大助に依つて傾命纔かに繼ぐのみ。筆言を盡さざるは古今の歎ずる所」の如き文章を序してゐる所、酷だ憶良に類してゐる。只、歌の中へ七賢人を入れても、酒壺を入れても、憶良の如き不消化を演じなかつた所、甚だ多しとするに足りる。十三首の歌諸訓甚だ多い。一々擧ぐることを略す。只(一九六)の歌第三句、古義の「洽《あまね》きは」は捨て難い訓みであるが、猶宣長の訓に從ひ、「價無き寶」は小生意見によつて「價無きたま」と訓んだのである。
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   (二〇〇)世《よ》の中《なか》は空《むな》しきものと知《し》る時《とき》しいよよますます悲《かな》しかりけり   卷 五
 前述凶問に報ふる旅人の歌であつて、九州にて妻の大伴郎女死せる時、勅使をして喪を弔はしめ給ひしことがあり、その時の歌かと思はれる。この歌こそ外來思想より來れる歌である。虚無觀よりも無常觀である。外來思想であつても、この歌の如く單純によく消化されて居れば甚だいい。初めより終りまで一直線に進んで夾雜するものがなく、「知る時し」の「し」が聲調の節をなしてゐること、竹の節あつて上下勢をなす如くである。前の讃酒歌も、この歌も、皆觀念的であるが、よく熱をもつてゐるのは、痛切な實感が基礎をなしてゐるからであらう。併し、この歌などは、もう或る限界であつて、その限界を超えると、歌が型に嵌まるといふ觀もある。そこが歌の難かしい所であつて、歌心の眞實さがその命を支配すること、何時も變らぬ原則である。斯樣な限界線に立つ歌あることも、末期の一つの現れであらう。
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   (二〇一)君《きみ》がため釀《か》みし待酒《まちざけ》安《やす》の野《ぬ》にひとりや飮《の》まむ友《とも》なしにして  卷 四
 大宰大貮丹比縣守が民部卿となつて京へ還る時、旅人の詠んだ送別の歌である。「酒をかむ」は今世「かもす」と延言にして言うてゐる。(もすはむの延言である)口に噛んで作りしより起り、今も地方によりて、酒の料を口に噛んで發酵を促す所がある。(三二八頁參照)待酒は人を待つために釀す酒であつて、古事記にも見え、今信州松本平地方にその詞が遺つてゐるよし、平瀬泣崖氏記述に見えてゐる。(アララギ十六卷二號)安野は筑前にあるさうである。歌の意は明瞭である。三ケ所で句切れしてゐる所に感慨が籠り、「友なしにして」が特に無量の感を起させる。この結句、流動しつつよく据わつてゐる。
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   (二〇二)ますらをと思《おも》へる吾《あ》れや水茎《みづぐき》の水城《みづき》のうへに涙《なみだ》拭《のご》はむ  卷 六
 旅人京に還る時、遊行女婦その名兒島が別れを惜しんで「凡《おほ》ならば兎《か》も角《か》もせむを恐《かしこ》みと振《ふ》りたき袖《そで》を忍《しぬ》びてあるかも」外一首のしをらしき歌を贈つてゐる。(「凡ならば」は「普通人ならば」の意で、身分高きあなたに對して袖を振ることを忍んでゐる。と歌うたのである)旅人それに感激して詠んだ歌がこれである。「水茎の」は「水城」の枕詞、「水城」は天智天皇國防のため筑前に大堤を築かれ、それを水城《みづき》と言つたのである。「うへ」は「ほとり」の意なること度々言つた。「吾れや」と掛り「涙拭はむ」と受けて、益良夫らしい嘆きの聲をなしてゐる勢甚だいい。「涙のごはむ」というて、婦女子の態に墮ちぬのは、そこの聲調の張り方にある。兒島の歌は女らしきに張り、旅人の唱和は男らしきに張つてゐる。さういふ所を萬葉調と呼ぶのである。旅人の歌は、總體に、その子家持の歌よりも、素質に於て萬葉的率直さがある。
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   (二〇三)吾《あ》が盛《さか》りまた變《お》ちめやもほとほとに寧樂《なら》の都《みやこ》を見《み》ずかなりなむ   卷 三
   (二〇四)淺茅原《あさぢはら》つぱらつばらにもの思《おも》へば古《ふ》りにし郷《さと》し念《おも》ほゆるかも   卷 三
   (二〇五)あわ雪《ゆき》のほどろほどろに降《ふ》りしけば奈良《なら》の都《みやこ》し念《おも》ほゆるかも   卷 八
 旅人の九州にありて都を思へる歌である。三首皆情が徹つてゐて心持がいい。「をちめやも」は「初めへ返らめや」の意である。時鳥が「をちかへり啼く」などの用法もある。「ほとほと」は今言ふ「殆ど」である。次の歌「淺茅原」は「つばらつばら」の枕詞、「つばらつばら」は委曲《つまびらか》である。「淺茅原つぱらつばら」とつづける音調が身に沁みていい。歌はさういふ所に命が現れるのである。現さうとして現れるものでないゆゑ、小生等は、現れる前の根本所に工夫が要るのである。次の歌「ほどろ」は「斑《はだ》ら」である。「夜のほどろ」などの用法もありて、夜の明くるに近く、曉の光未だ至らざるほどの意に用ひ、或は月明り分明ならず、明暗伯仲といふやうな場合にも用ひるらしい。猶「斑ら」から出たと思はれる詞に「はだれ」があつて「斑雪」「泡雪」等の意に用ひられる。餘計のことであるが、よく接する詞であるから添へて言ふ。
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   (二〇六)うつくしき人《ひと》の枕《ま》きてし敷妙《しきたへ》の吾《あ》が手枕《たまくら》を枕《ま》く人《ひと》あらめや  卷 三
   (二〇七)歸《かへ》るべき時《とき》は來《き》にけり都《みやこ》にて誰《た》が袂《たもと》をか吾《あ》が枕《まくら》がむ  卷 三
   (二〇八)みやこなる荒《あ》れたる家《いへ》に一人《ひとり》寢《ね》ば旅《たび》にまさりて苦《くる》しかるべし  卷 三
   (二〇九)妹《いも》と來《こ》し敏馬《みぬめ》の崎《さき》を歸《かへ》るさにひとりし見《み》れば涙《なみだ》ぐましも  卷 三
   (二一〇)行《ゆ》くさには二人《ふたり》吾《あ》が見《み》しこの崎《さき》を一人《ひとり》過《す》ぐれば情《こころ》がなしも  卷 三
   (二一一)人《ひと》もなき空《むな》しき家《いへ》は草《くさ》まくら旅《たび》にまさりて苦《くる》しかりけり  卷 三
   (二一二〕妹《いも》として二人つくりし吾《あ》が作庭《しま》は木高《こだか》く繁《しげ》くなりにけるかも  卷 三
   (二一三)吾妹子《わぎもこ》が植《う》ゑし梅《うめ》の樹《き》見《み》るごとに心《こころ》咽《む》せつつ涙《なみだ》し流る  卷 三
 旅人の九州にありて妻を失ひし時、及び、京に召されて九州を出立せんとする時、その道中、それから京の我が家に歸りし時、その時々に妻を悲しんで詠んだ歌であつて、何れも意が切で、感情が新鮮に流通してゐる。末期の臭ひは斯ういふものには少しもない。只、旅人の歌は、總體を纏めて見ると聊か單調であり、觀念的に入らうとする傾きもあり、從つて外殼に固まりはせぬかと思はれる所もあつて、豐かな歌人とはせられないやうである。琴を藤原房前に贈つて、この琴美人の化成なりと假托し、美人の詠める歌として「如何《いか》にあらむ日《ひ》の時《とき》にかも聲《こゑ》知《し》らむ人《ひと》の膝《ひざ》の上《へ》わが枕《まくら》かむ」自身の詠める歌として「言問《ことと》はぬ木《き》にはありともうるはしき君《きみ》が手馴《たな》れの琴《こと》にしあるべし」以上二首一身兩樣の歌をなせる如き、憶良にかかる惡しき癖あるを眞似したとも思はれ、眞似なくとも、歌が遊戲に墮ち「いかにあらむ日の時にかも」の如き名句も、外殼に終つてしまふのである。ここに於て、旅人も亦、萬葉末期中に列すべき人たるを失はぬのである。
 末期の歌が中期の緊張を失ひはじめたといふのは、末期中の或るもの、特に家持を中心とした空氣中に釀された臭ひであるといふ覿が多く、大體に於て、中期から繼續して、この期に秀品の多く現れてゐることは前に述べた如くである。特に狹野茅上娘子《さぬのちがみのいらつめ》の、中臣宅守《なかとみのやかもり》が流配の時に詠んだ多くの歌の如きは、萬葉集全卷を通じての逸品であり、末期中にあつて氣を吐いてゐるといふ概がある。憶良・家持等と對照するために、今それを擧げる。
       ○
   (二一四)君《きみ》が行《ゆ》く道《みち》の長手《ながて》をくりたたね燒《や》き亡《ほろぼ》さむ天《あめ》の火《ひ》もがも  卷十五
 行く人は宅守である。さし行く先は越前の田舍である。あなたの行く道の長手(長手とは長い道のこと)は思ひやつてもやり切れない。その長い道をこちらへ繰つて繰り綰《たが》ねて、火に燒いて、燒き盡したい。といふのであつて、左樣な天火あれかしと願望する心が、いかにも激越にして痛切である。その激越な感情が「燒き亡さむ天の火もがも」といふ強い調子に出てゐるために、心と調との間に空虚がなく、非常の感じに人を引き付けることが出來るのである。これを、さきの家持の「驚きて掻き探れども」の歌と較べて、何れが眞に人り得てゐるかを覺るといい。「くりたたね」は「くりだたみ」と訓む人もあり、くり疊むの意に解する人もある。「がも」の願望の意なるは前に説いた。
          ○
   (二一五)歸《かへ》りける人《ひと》來《きた》れりと言《い》ひしかばほとほと死《し》にき君《きみ》かと思《おも》ひて  卷十五
 宅守が配所より寄せた歌に、茅上娘子の和《こた》へた歌である。何處よりか歸りける人來れりと耳に聞きしかば、若しや君かと思ひ、心昏倒して殆ど死んだといふのである。「ほとほと死にき」は非常な句である。萬葉中獨歩のものである。そして、小生は、それを寫生の究極句であると思うてゐる。
 その他、茅上娘子の宅守のために詠んだ歌悉く秀れてゐる。割愛するは惜しい。左に掲げる。
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   (二一六)足引《あしびき》の山路《やまぢ》越《こ》えむとする君《きみ》を心《こころ》に持《も》ちて安《やす》けくもなし   卷十五
   (二一七)我《わ》が背子《せこ》し蓋《けだ》し罷《まか》らば白妙《しろたへ》の袖《そで》を振《ふ》らさね見《み》つつ偲《しぬ》ばむ  卷十五
   (二一八)いのちあらば逢《あ》ふこともあらむわがゆゑに將《はた》な思《おも》ひそ命《いのち》だに經《へ》ば  卷十五
   (二一九)他國《ひとくに》は住《す》み惡《あ》しとぞ言《い》ふ急《すむ》やけく早《は》や歸《かへ》りませ戀《こ》ひ死《し》なぬ内《と》に  卷十五
   (二二〇)他國《ひとくに》に君《きみ》を座《いま》せていつまでか吾《あ》が戀《こ》ひ居《を》らむ時《とき》の知《し》らなく  卷十五
   (二二一)天地《あめつち》のそこひの限《うら》に吾《あ》がごとく君《きみ》に戀《こ》ふらむ人《ひと》は眞實《さね》あらじ  卷十五
   (二二二)白妙《しろたへ》のあが下衣《したごろも》失《うしな》はず持《も》てれ我《わ》が背子《せこ》直《ただ》に逢《あ》ふまでに  卷十五
   (二二三)逢《あ》はむ日《ひ》のかたみにせよと手弱女《たわやめ》の思《おも》ひ亂《みだ》れて縫《ぬ》へる衣《ころも》ぞ  卷十五
   (二二四)ぬば玉《たま》の夜《よる》見《み》し君《きみ》を明《あ》くるあした逢《あ》はずまにして今《いま》ぞ悔《くや》しき  卷十五
   (二二五)味眞野《あじまの》に宿《やど》れる君《きみ》が歸《かへ》り來《こ》む時《とき》の迎《むか》へをいつとか待《ま》たむ  卷十五
   (二二六)わが背子《せこ》が歸《かへ》り來《き》まさむ時《とき》のため命《いのち》のこさむ忘《わす》れ給《たま》ふな  卷十五
   (二二七)昨日《きのふ》今日《けふ》君《きみ》に逢《あ》はずて爲《す》る術《すべ》のたどきを知《し》らに音《ね》のみしぞ泣《な》く  卷十五
 どうも棄てるものなきゆゑ、殆ど皆採録した。斯ういふ傑れた女性が萬葉には居る。
         ○
   (二二八)他人《ひと》の植《う》うる田《た》は植《う》ゑまさず今更《いまさら》に國別《くにわか》れして吾《あ》れはいかにせむ  卷十五
 同じ時、茅上娘子の歌である。人は皆田を植ゑてゐる。あなたも故郷に在さば田を植ゑ給はんものをといふのであつて、年中行事の一々に接して、その時々に想ひ起すこと自然である。歌が直觀的に生れるといふ消息は斯ういふ所にもある。「國別れして」まで宅守を言うてゐるのであるが、その國別れは、同時に自分の事でもある。「吾《あれ》はいかにせむ」が不自然に響かぬのである。
          ○
   (二二九)この頃《ころ》は戀《こ》ひつつもあらむ玉《たま》くしげ夜明《よあ》けてをちより術《すべ》なかるべし  卷十五 
 同時同人の歌である。今日このごろは、ぢつと堪へて心中に戀ひつつもあらんが、この夜明けてより後(をちは遠《をち》であり、ここでは「今後永く」の意である)は術ないことであらうといふのである。一夜明ければ、宅守配所出立の日になるのであらう。
   (二三〇)たましひは朝《あした》ゆふべにたまふれど吾《あ》が胸《むね》痛《いた》し戀《こひ》のしげきに  卷十五 
 同時同人の歌である。「たまふれど」古義は鎭魂祭の祈祷《いのり》とすれど、井上通秦氏説「魂を振ひ起す祈り」の方よいであらう。四五句の響きが矢張りいい。以上三首、少々難解と思ふゆゑ釋義を添へたのである。
          ○
   (二三一)天地《あめつち》の神《かみ》も祐《たす》けよ草枕《くさまくら》旅《たび》行《ゆ》く君《きみ》が家《いへ》に到《いた》るまで   卷 四
 石川足人《いしかはのたりひと》が、太宰府より都に遷任せらるる時、或る人の餞した歌である。第五句から直ちに第一二句へ反響して痛切な情を成してゐる。上下倒置の状あるは、感情の激する時自然になされる句法である。直接な感銘を受けること第二十卷防人歌の秀れしものに似てゐる。
   (二三二)留《とど》め得《え》ぬ命《いのち》にしあれば敷妙《しきたへ》の家《いへ》ゆは出《い》でて雲隱《くもがく》りにき   卷 三
 歸化の尼僧理願の死にし時、大伴坂上郎女悲悼歌である。「家ゆは出でて雲がくりにき」が直接で簡潔でいい。
          ○
   (二三三)月夜《つきよ》好《よ》し河音《かはと》清《さや》けしいざここに行《ゆ》くも行《ゆ》かぬも遊《あそ》びてゆかむ   卷 四
 大伴旅人の九州より京へ還るを送りし時、大伴四繩の詠んだ歌である。「行くも行かぬも遊びてゆかむ」といふ心あはれである。第一二句の句法、それを受ける三句以下の句法も整つてゐる。斯ういふのは、事によると形式的になる傾きもある。
          ○
   (二三四)今《いま》よりは城《き》の山道《やまみち》は不樂《さぶ》しけむ吾《あ》が通《かよ》はむと思《おも》ひしものを  卷 四
 同じく旅人の京へ遷任せし時、葛井大成の九州に殘りゐて詠みし歌である。大成、國司廰より太宰府なる旅人を度々訪うてゐたのであらう。その途中にあるが城の山であらう。感じの現し方、要を得て甚だ簡であり、簡であるために歌に餘響がある。
          ○
   (二三五)夕闇《ゆふやみ》は道《みち》たづたづし月《つき》待《ま》ちて行《ゆ》かせ吾《あ》が背子《せこ》その間《ま》にも見《み》む  卷 四
 豐前國娘子|大宅女《おほやけめ》の歌である。夕闇は道がたど/\しい。月の出るのを待つて行き給へ。その月の出るまでの間だけでも君を見んといふのであつて、綿々の至情よく現れてゐる。斯樣の種類はややもすると甘くなるのであるが、三ケ所に句を切り「行かせ吾が背子」といふ如ききび/\した調子に押してゐるゆゑ、甘たるくない。さういふ調子に現れるのは作者主觀が甘たるくないためであらう。この歌「背子の歸り行く姿を月の光で見よう」とやうに解する人あるはわるい。
          ○
   (二三六)月《つき》よみの光《ひかり》に來《き》ませ足引《あしびき》の山《やま》を隔《へだ》てて遠《とほ》からなくに  卷 四
 或る娘子の湯原王に贈れる歌である。月讀は月を宰る神であるが、轉じて月の事に用ひる。作者は月夜の山に向つてゐる。山の向うには相思の人がゐる。月よみの光に來ませといふのも情を成し得て居り、「山を隔てて遠からなくに」も簡單で心地がいい。簡單になるのは心が集中するからである。そこが歌の命になる。
          ○
   (二三七)久方《ひさかた》の天《あめ》の露霜《つゆじも》置《お》きにけり家《いへ》なる人《ひと》も待《ま》ち戀《こ》ひぬらむ  卷  四
 前出大伴坂上郎女の歌である。これは旅中の歌であらう。「天の露霜置きにけり」に俯仰の感慨がある。下句之に對して甚だ緊密である。坂上郎女の傑作ならむ。この女性多量に戀歌を遺してゐる。何れも惡くはないが、多少づつ末期の面影がある。猶卷十一に「行けど行けど逢はぬ妹ゆゑ久方の天の露霜にぬれにけるかも」(七九頁)といふ歌もある。
          ○
   (二三八)相思《あひおも》はぬ人《ひと》を思《おも》ふは大寺《おほてら》の餓鬼《がき》のしりへに額《ぬか》づくが如《ごと》  卷 四
 笠女郎の家持に和へた歌であつて、女性として珍しい歌であるから人口に膾炙してゐる。吾は斯の如く君を思へども、君は吾を思ひ給はず。相思はぬ君を思ふは大寺の餓鬼木像の後尾を額づき拜するが如し。あゝ馬鹿らしさ。というて相手の家持に訴へたのであり、斯る訴へをする所に家持に狎れ親しんでゐる心安さもある。大した歌とは思はぬが、後世のへな/\しきよりも心持がいい。
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   (二三九)わが宿《やど》の夕陰草《ゆふかげぐさ》の白露《しらつゆ》の消《け》ぬがにもとな思ほゆるかも   卷 四
 前と同作者であつて、前の歌とはこんなに異つた歌ざまのものを作つて居る。夕陰草は夕がたの陰をなした草であつて、固有名詞ではない。「消ぬがに」は「消ぬがほどに」ぐらゐの意であり、「もとな」は「心もとない」意である。第三句までは四五句を言はんがための序であつて、直觀的である所に命があり、その序と下句と相待つて女性らしい心がよく出てゐる。但し、この下句は他にも類歌がある。
          ○
   (二四○)春日山《かすがやま》霞《かすみ》棚引《たなび》き情《こころ》ぐく照《て》れる月夜《つきよ》にひとりかも寢《ね》む   卷 四
 大伴坂上家大孃が家持に贈つた歌である。「情ぐく」は心|潜《くぐ》もりつつ我一人愛でいつくしむほどの意があるらしく、人によりて説を異にすれど、表だちて晴れがましい心ではないやうである。獨りで寢るに惜しい景情充分に現れてゐる。
 以上末期の戀歌中より數例を擧げて見たが、それらを通じて、前期の戀歌に比べれば、著しき變遷のあることに氣付き得るであらう。前期には率直性の直ちに人に迫るものがあり、末期には或る趣きをなし得てゐるといふ種類が見える。末期必しも惡しからねど、この邊が境界線であつて、その線を越すと歌があぶなくなるのである。
         ○
   (二四一)み民《たみ》吾《あ》れ生《い》ける驗《しるし》あり天地《あめつち》の榮《さか》ゆる時《とき》に遇《あ》へらく思《おも》へば  卷 六
 天平六年海犬養宿禰岡麿が聖武天皇の勅を承はつて詠んだ歌である。劈頭、堂々と踏み出して、盛世を稱ふるに足る氣位がある。第三句以下それを受けて、大きく泰かに据わつてゐるの状、所謂圓融具足して張り滿ちた姿である。第五句から上句へ響きを反してゐる調べも心行くばかりである。この響、宛らにして古今名鐘の響きである。集中の傑作に居るものであらう。第二句・第五句八音字餘りである。人麿あたりの字餘りに合せ考へるといい。
         ○
   (二四二)一《ひと》つ松《まつ》幾世《いくよ》か歴《へ》ぬる吹《ふ》く風《かぜ》の聲《こゑ》の清《す》めるは年深《としふか》みかも  卷 六
 天平十六年|活道《いくぢ》の岡に登り、一株の松の下に集つて飮宴せる時、市原王の詠まれた歌である。この歌も萬葉中の秀作である。耳に松風の聲をきき、心にその松の年深きを想ふのであつて、清く澄み、幽かに動く心が宛らに歌の上に現れてゐる。「いく代か歴ぬる」と歎き、「聲の清めるは」と掛つて、第五句「年深みかも」が深く第一二三四句へ流通してゐる。句が三所で切れて、切れた所に沈默の餘韻がある。萬葉の秀作は果して人事のみに關してゐないのである。
          ○
   (二四三)布當山《ふたぎやま》山竝《やまな》み見《み》ればよろづ代《よ》にかはるべからぬ大宮《おほみや》どころ  卷 六
 田邊福麿の、久邇新宮を讃へた長歌の反歌である。歌が大柄でがつしりして居り、何等の奇なくして自然に捉ふる所がある。「布當山山竝み見れば」の出方が已によく、それを受けた語句の勢が結尾まで押して、最後に、名詞を以て据わつてゐるあたり、堂々たるものである。
          ○
   (二四四)鹿背《かせ》の山《やま》木立《こだち》を繁《しげ》み朝《あさ》さらず來鳴《きな》きとよもす鶯《うぐひす》の聲《こゑ》  卷 六
 同じく反歌中の一である。この歌、矢張り格調がしつかりしてゐて、清新の心が動いている。繁き木立に鶯の鳴いてゐるのは、作者の空想でなくて寫生であらう。「朝さらず(毎朝の意)來嶋きとよもす」あたりが、茂き木立と相待つて如實に響く。それゆゑ歌が清新に生きる。
          ○
   (二四五)千萬《ちよろづ》の軍《いくさ》なりとも言擧《ことあ》げせず取《と》りて來《き》ぬべき男《をとこ》ぞ思《おも》ふ  卷 六
 高橋蟲麿が、藤原字合の西海節度使に遣さるるを送る長歌の反歌である。男性的の調子に首尾を一貫してゐる所、萬葉調の特徴を具備してゐる。それゆゑ、之れがよく人の口に上る。
          ○
   (二四六)大君《おほきみ》のみ言《こと》かしこみ大荒城《おほあらき》の時《とき》にはあらねど雲隱《くもがく》ります  卷 三
 長屋王、罪によつて死を賜はりし時、倉橋部女王の歎き悲しまれて詠んだ歌である。大荒城の「大」は尊稱、荒城は、天皇などには殯宮と言ひ、未だ葬らずして假りに斂めおく所を言ふ。「おほあらきの時にはあらねど雲がくります」といふ言ひ方が直接であつて、よく情が響いてゐる。末期にも斯う云ふ端的にして哀切な響きあること勿論である。
          ○
   (二四七)昔《むかし》こそ難波田舍《なにはゐなか》と言《い》はれけめ今《いま》は京《みやこ》と都《みやこ》びにけり  卷 三
 聖武天皇の藤原宇合をして難波の都を修築せしめ給ひし時、宇合の詠んだ歌である。末期にも、斯ういふ素樸樸の聲はあるのである。
 末期に於ける色々の意味の代表作を説かうとして以上を擧げた。この他、擧ぐべき歌多きこと勿論である。
 萬葉集卷二十には諸國防人の歌が多く載つてゐる。これは、天平勝寶七年のものであつて、時代より言へば末期の終りに入るべきものであるが、關東の田夫らが哀別の情窮りなくして、自然に率直に詠み出でたものである點が、東歌の系統に近いものであつて、純眞素樸の體、甚だ卷十四東歌に類してゐる。それゆゑ、これは末期中の一異彩として見るべきであつて、歌柄は寧ろ前期に屬するものとするが通常である。斯樣な對照あることによつて、家持等の弊所が餘計に明瞭にされるといふ觀もある。今少しこれを述べる。尤も、この防人歌は、防人の役人が取集めたものであつて、その役人若くは家持の手によつて、多少の改作をせられた所ありとも思はれる。それは、防人歌の前書きに「但拙劣歌何首は取載せず」といふことが書いてあるのでも大體想像がつくのである。併し、天眞子どもの如き歌に、さう手を入れることは出來さうもない。餘り手を入れたら歌の上にそれが見える筈である。防人歌は矢張り防人歌として見るに足り、原形殆ど損ぜられずして今日に遺つたのは大きな幸である。左に擧げるものは、卷二十中、「昔年の防人歌なり」と追記してあるものである。天平勝寶のものでなく、ずっと前のものである。前期時代か中期時代か分らぬ。それから述べる。
          ○
   (二四八)防人《さきもり》に行《ゆ》くは誰《た》が夫《せ》と問《と》ふ人《ひと》を見《み》るが羨《とも》しさ物思《ものも》ひもせず  卷二十
 防人に關はりなき婦女子らは平氣である。今度防人に行くのは誰れの夫かなどと人に問うてゐる。吾はその平氣な人たちが羨しいと言ふのであつて、防人の妻が、自分一人の悲しみに直面し切れずして、周圍を顧みて、他人が羨しいと言うてゐる心、女として甚だ自然である。結句「もの思ひもせず」が如何にも率直でいい。その中には自分の物思ふさまも自然に現れてゐる。
          ○
   (二四九)天地《あめつし》の神《かみ》に幣帛《ぬさ》置《お》き齋《いは》ひつついませわが背《せな》吾《あ》れをし思《も》はば  卷二十
 四五句心持が籠つてゐる。そこだけで此の歌生きてゐるのである。「齋ふ」は神に對して物忌みして身を愼しむことであつて、即がて神を祭り神を祈ることにもなるのである。
          ○
   (二五〇)小竹《ささ》が葉《は》のさやぐ霜夜《しもよ》に七重《ななへ》著《か》る衣《ころも》にませる子《こ》ろが肌《はだ》はも   卷二十
 防人歌中の秀作であらう。「小竹が葉のさやぐ」といひて霜夜が餘計に靜かになり、靜かな霜夜の氣が夜床に沁み入る感がある。「七重|著《か》る」は「七重|著《き》る」であり、著《き》る・著《け》る相通じ、それを訛りて東國で「著《か》る」と言つたのであらう。この歌第四五句あつて猶肉感に墮ちざるは、第一二句の清肅感が加はるためであつて、左樣な清肅感と共存して肉感が生きてゐる所、實によい心地がするのである。(歌(一八六)一三三頁)に比べると、二つの歌の違ひがよく分るであらう。あれは享樂的な心から生れた歌であり、これは痛切な境遇から生れた歌である。
 以上三首は所謂「昔年の防人歌」である。今一つ年所不明の防人歌がある。
          ○
   (二五一)暗《やみ》の夜《よ》の行《ゆ》く先《さき》知《し》らず行《ゆ》くわれを何時《いつ》來《き》まさむと問《と》ひし子《こ》らはも  卷二十
 矢張りいい。「暗の夜の」は「行く先知らず」の枕詞なれど、猶遠く行く人の心を象徴してゐる。行く先さへ思ひ知られぬ我を捉へて、何時歸り來まさんと問ふ女の心は幼いのであつて、その幼さをいぢらしく愛《いと》しむ心は、同時に自分の運命の果敢なさを悲しむ心である。その心持がよく現れてゐる。矢張り、結句に力があるやうである。以下天平勝寶七年の歌である。
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   (二五二)大君《おほぎみ》のみ言《こと》畏《かしこ》み出《い》で來《く》れば我《わ》ぬ取《と》りつきて言《い》ひし子《こ》なはも  卷二十
 實に單純で素樸で直接である。四五句、子どもらしくて子どもに非ず。大人にして大人の持ち得ぬものが現れてゐる。虔ましくて露《あら》はであり、辭を得て多辯でない。「出で來れば」なども無用意にして寫生のよき所に入つてゐる。「我《わ》ぬ」は「我《わ》に」などの關東訛りであらう。「子」なの「な」は親しみの呼稱である。「背な」「手兒な」などの「な」と同じである。上總國防人|物部龍《もののべのたつ》の歌である。(二八二頁「防人の歌二首」參照)
          ○
   (二五三)筑紫方《つくしへ》に舳向《へむ》かる船《ふね》の何時《いつ》しかも仕《つか》へまつりて國に舳向《へむ》かも  卷二十
 上總國防人|若麻績部羊《わかをみべのひつじ》の歌である。「舳向かる」「舳向かも」と繰返してゐる心が如何にも素樸新鮮であつて、防人の實感がよく現れてゐる。「舳向く」といふことが、今船に乘りつつある防人には最も痛切な現實相であるからである。斯ういふものは、今人到底及びも付かない。愛誦してゐると冥利がある。「仕へまつりて」なども、實に簡淨にして虔ましき心のある現れ方である。「舳向かも」は「舳向かむ」の意である。卷十四東歌「上《かみ》つ毛野《けぬ》狹野田《さぬだ》の苗《なへ》のむら苗《なへ》に言《こと》は定《さだ》めつ今《いま》は如何《いか》にせも」の「せも」と同じ用例の「も」である。
          ○
   (二五四)水鳥《みづどり》の立《た》ちの急《いそ》ぎに父母《ちちはは》に物《もの》はず來《け》にて今《いま》ぞ悔《くや》しき  卷二十
 駿河國防人|有度部牛麿《うどべのうしまろ》の歌である。集中類歌あれども、この歌はこの歌として、矢張り眞實感が充ちてゐる。(歌(一四)三三頁參照)「物はず」は「物言はず」の約である。「來《け》にて」の訓は代匠記精選本に從ふ。
           ○
   (二五五)わが妻《つま》はいたく戀《こ》ひらし飮《の》む水《みづ》に影《かげ》さへ見《み》えて世《よ》に忘《わす》られず   卷二十
 遠江國防人|若山倭部身麿《わかやまとべのみまろ》の歌である。「戀ひらし」は「戀ふらし」の訛り説が穩かであらう。口つきの幼い所があつて愛らしい。第一二句は「斯くばかり妻は戀ひしきものか」の意であつて、それを「わが妻をば我はいたく戀ひ居るさうな」と朴訥に言つてゐるのであつて、「らし」あたりに無邪氣な大らかな妙味がある。右に解すると、「わが妻は」は「わが妻をば」「わが妻には」等の意になる。これには異説多からむが、歌全體の命から斯うある方單純に心通りて防人の歌らしく思はれるのである。飮む水の中にも妻の影が見えるといふので、正直な、あはれな心があり、調べがよくそれに適つてゐる。「かげ」原文「加其」である。類聚古集「加氣」とあるに從つて訓む。
           ○
   (二五六)難波津《なにはつ》に艤《よそ》ひよそひて今日《けふ》の日《ひ》や出《い》でて罷《まか》らむ見《み》る母《はは》なしに  卷二十
 相模國防人|丸子連多麿《まろこのむらじおほまろ》の歌である。「艤ひよそひて」は、幾日も舟の準備に費したのであらう。「今日の日や」と力を入れたのは、連日の準備が成つて、彌々今日出立するといふのである。「見る母なしに」特にあはれである。
           ○
   (二五七)唐衣《からころも》裾《すそ》に取《と》りつき泣《な》く兒《こ》らを置《お》きてぞ來《き》ぬや母《おも》なしにして   卷二十
 信濃國防人|他田舍人大島《あだのとねりおほしま》の歌である。唐衣は唐制の衣服、上等舶來品である。ここは、單に衣の意に用ひたのであらう。妻が亡くなつて子どもがある。それを遺して防人に行くのであるから、哀れが殊に深い。「置きてぞ來ぬや」と力を入れ、「おもなしにして」と受けた姿に眞の力が籠つてゐる。
          ○
   (二五八)二腹《ふたほがみ》惡《あ》しけ人《ひと》なり疝病《あだゆまひ》我《わ》がするときに防人《さきもり》に差《さ》す   卷二十
 下野國防人|大伴部《おほともべの》廣成の歌である。「ふたほがみ」諸説あれど、腹若くは二腹(腹はここには心である)の意で、「ほがみ」は股上《ももがみ》の約轉即ち腹(宣長説)と解するものと、保杼上《ほとがみ》即ち陰部上の約言であつて、同じく腹(雅澄説)と解するもの其他色々ある。「惡しけ」は「惡しき」の訛り、「あだゆまひ」は「疝《あだ》やまひ」で急に腹痛を起すのである。この歌、察するに、國守郡司などの腹惡しきありて、廣成の疝病せるを知りつつ防人に差せるを憤慨したものであらう。憤慨しながら「ふたほがみ惡しけ人なり」など無邪氣な口つきで言つてゐる所が上代人の面影である。第三句以下皆率直で面白い。
          ○
   (二五九)草《くさ》まくら旅行《たびゆ》く背《せ》なが丸寢《まるね》せば家《いは》なる我《われ》は紐《ひも》解《と》かず寢《ね》む   卷二十
 武威國防人の妻|椋椅部刀自女《くらはしべのとじめ》の歌である。「まるね」は「まろね」であつて、昔の旅人は多く山野にごろ寢したのである。「いはなる」は「家なる」の意であること他にも例がある。上代婦女の面影が宛らに現れてゐて心持がいい。
   (二六○)怠《わす》らむと野《ぬ》ゆき山《やま》行《ゆ》き我《わ》れ來《く》れどわが父母《ちちはは》は忘《わす》れせぬかも  卷二十
 駿河國防人|商長首麿《あきをさのおびとまろ》の歌である。素樸の中に眞情が充ちてゐる。どうもいい。
         ○
   (二六一)道《みち》のへの荊茨《うまら》の未《うれ》に延《は》ほ豆《まめ》の纏《から》まる君《きみ》を離《はか》れか行《ゆ》かむ  卷二十
 上總國防人|丈部鳥《はせつかべのとり》の歌である。「うまら」は「うばら」、「はほ」は「はふ」、「はかれ」は「わかれ」である。第一二三句は「からまる」を言はんがための序であつて、田園囑目親炙のものを持ち來る所に作者の面目がある。萬葉の序詞の直觀的にして歌に息を吹き入れてゐる消息は前に數ば/\説いた。「離れか行かむ」は離れんとして離れ得ざる心である。
          ○
   (二六二)わが妻《つま》も繪《え》にかき取《と》らむ暇《いとま》もが旅《たび》ゆく吾《あ》れは見《み》つつしぬばむ  卷二十
 遠江國防人|物部古麿《もののべのふるまろ》の歌である。「いつまもが」は暇あれかしと願望する意である。今ならば、寫眞をもつて行きたいといふ所である。古人は生活不自由にしてよき歌が生れた。今人はそれよりも自由であつて輕い歌が生れる。さういふ所も小生等の參考になる。「わが妻も」の「も」は感嘆詞である。
          ○
   (二六三)父母《ちちはは》が頭《かしら》かき撫《な》で幸《さ》くあれて言《い》ひし言葉《ことば》ぞ忘《わす》れかねつる   卷二十
 駿河國防人|丈部稻麿《はせつかべのいなまろ》の歌である。「さくあれて」は「幸くあれと」である。今も「と」の場合に「て」を用ひる口語がある。歌は純直で、よくとほつてゐる。
   (二六四)今日《けふ》よりは顧《かへり》みなくて大君《おほぎみ》の醜《しこ》の御楯《みたて》と出《い》で立《た》つ吾《われ》は   卷二十
 下野國防人|今奉部與曾布《いままつりべのよそふ》の歌である。「醜の御楯」は醜虜を防ぐための御楯となるの意である。斯ういふ種類の歌他にもあれど、皆あはれ深い。第五句を味ふべし。
          ○
   (二六五)大君《おほぎみ》のみ言《こと》畏《かしこ》み磯《いそ》に觸《ふ》り海原《うのはら》わたる父母《ちちはは》をおきて   卷二十
 相模の國防人|丈部造人麿《はせつかべのみやつこひとまろ》の歌である。磯づたひ船をやりつつ、故郷に遠ざかる感慨の聲であらう。目に見るものは知らぬ海陸、心に思ふものは父母である。「磯に觸り」といふ寫生ありて、船の進行が動いて見え、從つて、作者の孤影望見の状まで想像に入つて來るのである。「うのはら」は「うなはら」の訛りである。猶「大君のみ言畏み」といふ詞は、萬葉中二十三箇所に用ひられて居り、その他「大君の任《まけ》のまにまに」の類が八箇所にあり「大君のみ言のまにま」「大君のみ言にされば」といふやうな詞も見えて居り、大君の御言に對して、「畏み」といふ心を恐怖の意に解されてゐること今日普通であり、小生も、勿論異議なけれど、同時に、その恐怖の反面に敬肅の心あることも考へなければならない。「大君は神にし在せば」が我々組先絶對の信仰であつたからである。神は、恐怖・肅敬・尊崇の合致した絶對的存在である。
 以上、初期三十四首、中期百二十一首、末期百十首合計二百六十五首を擧げた。それらによつて、萬葉集短歌の發育変遷の跡が大體推測し得らるれば幸である。但し、更にそれよりも小生等作歌者に必要なことは、一首々々鑑賞の爲方及びその態度である。小生の選擇せし歌例の猶遺れるもの約三百首は追つて筆を執るつもりである。
 
 
     卷末附記
 
           ○
   足曳の山川の湍《せ》の鳴るなべに弓月《ゆづき》が嶽《たけ》に雲立ちわたる  (歌三五)
 この歌は、左千夫先生在世の時極力推稱せられて、聲調論をなす時何時も引合ひに出され、小生等はそれを聽き慣れて、いつのまにか人麿作と信ずるやうになり、今日では、一般にさう信ぜられてゐるやうである。これを、最初に人麿作として世に發表したのは齋藤茂吉君である。同君よりの返書によると、初め、人麿作として書く時、可なり危惧の心があつたが、思ひ切つて書いたとのことである。それから、古い「アララギ」を調べて見ると、大正二年六月號に、同君が、この歌を人麿作として書いてある。恐らく、これが此の歌を人麿作として公に發表した初めであらうと思はれる。左千夫先生の逝かれしは、同じ年の七月三十日であるから、この雜誌は先生も目を通されたことと思ふ。
   いでいかにねもころころに利心《とごころ》の失《う》するまで念ふ戀ふらくのゆゑ  (歌八四)
 この歌の第四句「念ふ」を「おもふ」と訓むか「もふ」と訓むかについて諸氏の意見を聞いた。「おもふ」と訓むべしと書いてから、猶考ふるに、この歌、初めよりの音調が「もふ」の響きに合するところもある。念のため諸友の意見を聞かうと思つたのである。茂吉君よりは
 「失するまで念《おも》ふ」と小生は訓みたく候。但し、ほかの參考書のことは全く知らず候へども、ここは「おもふ」と一字餘した方が大きく、且つ、据わらんかと存じ申候。云々と言うて來、土屋文明君よりも略ぼ同意見を返事して來たが、多少の疑もある旨を附記されてあつた。中村憲吉君は、積極的に「念《も》ふ」説であつて
 「いでいかに……念ふ」の「念ふ」は「もふ」に訓みたい。「いでいかに」は意味の上では兎に角、一首の氣息聲調の上では、疑問的よりも自省的の嘆息なり。例へば「利心の失すろふまでに」として、直に「戀ふらくのゆゑ」と結んでもよい位だ。「おもふ」とするは、重く言ひ切りすぎる。上句「いでいかに……」等重大に強く言ひ現してゐるゆゑ「おもふ」と字餘りに重く言ふを可とすべし。とは理窟上の事のみ。以上愚考。
といふ返事である。これは問題になり得ると思ふゆゑ、暫く附記して參考の資とする。
                         (大正十四年十月)
 
 
 
 
 歌 道 小 見
 
 
       は し が き
 
○『歌道小見』は、歌に入りはじめた人にも、久しく歌の道に居る人にも、或は單に歌を鑑賞する人にも通ずるやうな歌論をなしたいと思つて、稿を起したものである。久しく歌にゐるもの必しも歌を解せず。歌の門外にゐる人が往々巨大の眼で歌を見ることがある。歌の道は、人情自然の道であつて、萬人共通の大道にあるべきである。歌の門内門外を問はず、博く教示をうけたいと希うて、この稿を起した所以である。このうちの一部に、大正十一年或る雜誌のため書いたものがある。意に滿たないで多く改め、且、大部分を補足した。
○「萬葉集の系統」は大正八年十月慶應義塾圖書館で口述したものの筆記である。そのうち歌例の説明は、昨年十月末大連南滿洲鐵道會社食堂で口述したものから採つたものがある。大正八年以後の事に言及してゐる所のあるのは、そのためである。兩所の談話その趣旨殆ど同じである。本書へは、慶應義塾の方を收めた。
○「隨見録は」雜誌アララギに書いたものであつて、萬葉集に關係あるものと、現歌壇と交渉あるものの一部を輯めた。
○「萬葉集の系統」「隨見録」を收めたのは『歌道小見』に述べた愚見を、それによつて餘計に明瞭にし得るかと思うたからである。小著の主眼は『歌道小見』にある。
                          大正十三年三月二十二日記す
 
 
 
歌の道を如何に歩むべきかといふことは、人々の性質や經歴によつて、一概に斯くあるべしと定め得るものでないでせう。ここには、只、私の好みと、私一人の信ずる所とによつて、氣の付いたところの大體を述べませう。
 
       
        古來の歌
 
 短歌は、最も古くから日本に生れた詩の一體であつて、それが長い間の流れをなして今日に傳はつてゐるのでありますから、歌の道にあるほどの人は、古來の歌の中で、少くも權威を持つてゐる歌人の歌を知る必要があります。さうでないと、往々、一人よがりの作品に甘ずるやうな結果を生じます。明治三十年代和歌革新以後にあつて、多少素質のいい作品を遺したと思はれる人の歌を見ても、この人が、どれほどまで古人の歌の前に禮拜したかといふことを思うて、その作品に、或る遺憾を感ずる場合があります。
 我々は、自分が生れる時授けられた性情の一面を歪めたり、遺却したりして生長してゐるのが普通であります。現世の環境に歪みがあり、虧缺があるからでありませう。その遺却され歪められたものが、古人の作品に接觸することによつて、覺まされたり、補はれたりすることが多いのでありまして、左樣な問題に無關心で歌を作《な》してゐる人は、自分では自分全體を投げ出してゐるつもりでも、それが、猶、一人よがりに終る場合が多いやうであります。勿論、古人の作品に接することが、自己を覺醒し補足することの全部であるとは思ひませんが、歌の道にあるものが歌の道の由來する所を温ねて、そこから啓示されるといふことは、直接で自然な道であらうと思ひます。歌に人らうとする人も歌の道に久しく居る人も、この意味で、古人の作品に常に親しむことが結構であると思ひます。それは、古人の作品を見本にして歌を作すこととは違ひます。
 
 
        萬 葉 集
 
 それならば、先づ第一に、どんな歌集に親しめばよいかといふことになります。それには、私は躊躇するところなく、萬葉集を擧げます。
 萬葉集は、我々の遠い祖先から傳はつた歌の精神を、最も素直に受け繼いで、それを、廣く、豐かに、深く透徹させて發達したものでありまして、古來の歌集中最も傑れたものであります。これを時代から言ふと、今から干五百年前頃から、四百四五十年間に亙つた作品を輯めたもので、飛鳥朝藤腹朝奈良朝(萬葉集を言ふには、舒明以後奈良朝までを斯樣に分けぬと都合が惡いやうです。藤原朝は十數年に過ぎませんが、萬葉集最盛期をなして居ますから、矢張り他と分つ方が好都合です)の作品を最も多く收めてあります。そのうち、飛鳥朝の末頃から、藤原朝を中心として、奈良朝の初期頃までがこの集の頂点を成してゐるのでありまして、その中で、特に高い位置を占めてゐるのが、柿本人麿と山部赤人であります。この二人は、古來歌聖と言はれてゐる人でありまして、日本の人は、皆その名を知つて居りますが、どんな作品を遺してゐるかといふことは知らぬ人が多いのであります。特に、その作品のうちで、どんなのが傑れた作であるかといふことは、專門の歌人も見當のついて居らぬ人が多いのでありまして、古來、左樣な問題に到達して、人麿赤人を説いた人は殆どないのであります。それほど、歌人といふものが、古人の作品に無關心であり、或は、無關心でなくとも、その作品の命にまで觸到するといふことが少なかつたのであります。元來、傑れたものを認めるのは、傑れた心の持主でなければなりません。人麿赤人の歌の高さ深さを知るのは、我々には一つの修業であつて、それが、一面には自分の心を開拓する道になるのであらうと思ひます。
 人麿赤人は、萬葉集中の傑れた作者でありますが、この二人を以つて、萬葉集を代表させるといふことは出來ません。それは、この他に猶澤山傑れた作者がありまして、それが、各、自己の本質に根ざして、立派な歌を作してゐるからでありまして、これらの作者は、決して、人麿や赤人を小さくしたり、薄くしたりしたものでありません。萬葉集の作者は、殆ど凡ての人が、皆自己の本質の上に立つて、各特徴ある歌を作してゐるのでありますから、萬葉集を知らうとするには、矢張り、萬葉集全體を知らねばならないのであります。詳しく言へば、萬葉集の初期と末期では、歌の命に可なりの相違があり、特に末期に近づけば、相違が餘計に目に付くのでありますが、それも猶總括的には以上の言が爲されるのであります。歌の數は、長歌短歌旋頭歌すべて四千五百首ほどでありまして、作者は、皇帝皇后より農夫漁人、大臣も將軍もあれば防人《さきもり》(今の守備兵二等卒といふ所です)も資人《つかひびと》(官人使役の從者です)もあり、下つては遊行婦女(昔の藝妓です)もあり、乞食もあるといふやうに、すべての階級を通じての人が、必然の衝迫から赤裸々の人間となつて歌ひあげてゐるのでありまして、この點から見れば、各作者の絶對個人的要求に徹して生れた歌集であると言ひ得ると共に、一面からは、それが、宛らに當時の民族的性情を代表してゐるといふ觀があります。近頃は、歌が民衆的でなければならぬ。普遍的でなければならぬ。言ひ換へれば、一般の人に分るやうに歌はれねばならぬといふ議論が、歌人の一部に行はれてゐるやうであります。それは議論として差支へありませんが、歌を作すものが、左樣な條件を目安において歌はうとするの愚なることは、萬葉集作者の態度と、その作品のもつ意義を考へて見れば分ります。ここには横道でありますが、序を以て言及するのであります。つまり、萬葉集は、何所までも個人的要求から生れた歌集であると共に、それが直ちに民族を代表する歌集になつてゐるのであります。之は、萬葉集の大きな特質でありまして、單に歌の上のみならず。その他の點から日本民族の血液の源泉を知らうとする人々のためにも、儔罕なる寶典であり得ると思ひます。
 
 
      萬葉集の性命
 
 萬葉集時代の人は、心が單純で、一途で、調子が大まかで、太くて強いところがあつたやうであります。それが宛らに歌に現れて居ります。單純一途であるから、原始的な強さと太さとを持つて居り、子どもの如き純粹さと自由さを持つて居ります。それが樣々の相《すがた》となつて生長して、或るものは、藝術の至上所と思はれる所にまで到達してゐるのでありますが、左樣な所に到達することが、原始的の素朴さや純粹さから離れることを意味してゐないのでありまして、その所が萬葉集の眞の力の生れる所であり、どの歌を見ても、如何にも生き/\としてゐる所であらうと思ひます。(後出「萬葉集諸相」參照)今の世の藝術(歌に限りません。猶言へば、藝術に限りません)の力の弱さ、輕さ、甘さが、如何なる所に胚胎してゐるかを考へるものの參考にならうと思ひます。
 萬葉集の作者は、平安朝以後の歌人の如く、歌を上品な遊戲品として取扱つて居りません。歌ふ所は、皆、必至已むを得ざる自己の衝迫に根ざして居ります。これは、萬葉人として當然の行き方でありまして、萬葉集のすべての歌の命は、一括して、ここにあるのだと言ひ得ると思ひます。これを内面から言へば、全心の集中であり、外面から言へば直接な表現であります。直接な表現でありますから、打てば鳴り、斬れば血が出るのでありまして、左樣な緊張した表現が、上代簡古な姿と相待つて、藝術としての氣品を持して居るのであります。全心集中から生れない歌は、生れない先きから歌でありません。さういふ歌に限つて、表現が生ぬるくなり、間接なものになり、安易輕薄なものになり、しまひには、詞の上の遊戲に陷つて、洒※[さんずい+麗]や虚假《こけ》おどしの駢列に終ります。今の世の人は、生活精神が幾つにも分岐して居ますから、歌をよむ時になつても、素直に心の集中が出來ず、その割合に、世間氣の方が多く發達して居りまして、歌の氣品を餘計に低下させるやうであります。つまり、純粹な歌の心から惠まれない時代に我々は生息してゐるやうであります。それゆゑ、我々は自分では全心を集中させたつもりでも、案外力のない一人ずましのものであるのが實際のやうであります。さういふ我々でありますから、歌に入る時から、歌に果てる時まで、萬葉集に親しむことが結構でありまして、それは、丁度、歌のお血脉を身につけてゐるやうなものであらうと思ひます。
 
 
       萬葉集の讀み方
 
 萬葉集は、近頃澤山出版されて、割合に手に入り易くなつて居ります。ポケットブックになつてゐる袖珍文庫本は、價一二圓で得られます。それで結構です。それを何回も何回も讀んでゐれば、意味の分らぬのも、自然に分つて來ます。分らぬ歌があつたら、それは暫く措いて、分るだけ讀んでゐてもいいでせう。千何百年前の歌ですから、今の人に通じない詞も可なり多いのですが、いくら分らぬといつても外國語ではありません。我々の祖先の間に用ひられた詞でありますから、自然に分るやうになりませう。どうしても、隅々まで訓《よみ》と意味とを明かにしたいと思ふ人は、註釋書に依る外ありません。註釋書を見ても不審がありますから、その場合は自分で研究するより外ありません。自分で研究するとは、古寫本以下萬葉諸本を校合して、その文字の異同を考へ、訓と意味とを考へることです。これは一生をかけても大成し難いほどの爲事になります。ここには、註釋書の主なるものを擧げます。
 仙覺律師著 萬葉集註釋(一名萬葉集抄とも又仙覺抄ともいふ)國學院大學出版部出版國文學註釋全書。古本屋にあり。價不定。仙覺は、近古萬葉集訓點の大成者であつて、その註釋も我々の參照すべきものがあります。
 北村季吟著 萬葉集拾穗抄 木版本。古本屋にあり。價不定。季吟の據本は、仙覺の新點本と異つて居りますから、訓點校合の上にも參考になります。
 僧契冲著 萬葉集代匠記 早稻田大學出版部出版。古本屋にあり。價不定。徳川初期の萬葉研究に光明を與へたもので有名です。參照を要します。
 荷田春滿著 萬葉集僻案抄 古今書院出版萬葉集叢書。價二圓九十錢、前の二人と殆ど同時代の古學者であつて、創見があり、眞淵の萬葉集研究に影響を與へてゐます。參考になります。
 賀茂眞淵著 萬葉集考その他 弘文館出版賀茂眞淵全集。古本屋にあり。價不定。徳川時代萬葉集研究の中心をなしてゐること誰も知つて居りませう。
 本居宣長著 玉の小琴その他 弘文館出版本居宣長全集。古本屋にあり。價不定。創見があります。
 富士谷御杖著 萬菓集|燈《あかし》 古今書院出版萬葉集叢書。價三圓六十錢。眞淵宣長の學系を引かぬ人であつて、萬葉集の助辭研究その他に特色があります。
 橘千蔭薯 萬葉集略解 博文館出版。價三圓。普通に行はれてゐる簡單な註釋書です。訓み方も解釋もさうよくありませんが參照にはなります。
 荒木田久老著 萬葉考槻乃落葉 古今書院出版萬葉集叢書。價不明。宣長干蔭と共に眞淵の門人で、研究の材料も広いし、説が穩健で創見があります。
 橘守部著 萬葉集檜嬬手 國書刊行會出版橘守部全集。價凡そ四十圓。古今書院出版萬葉集叢書。價二圓八十錢。宣長等とは異つた向きに古學を究めた人であるから、所説に特異な所があります。
 岸本由豆流著 萬葉集攷證 古今書院出版萬葉集叢書。近刊の筈で價は未定です。徳川末期の研究書として考證該博、所説穩當の註釋書です。
 鹿持雅澄著 萬葉集古義 図書刊行會出版。價三四十圓。徳川末期に成されたもので、註釋書として最も精細に入つてゐませう。僻説も交じってゐます。
 木村正辭著 萬葉集美夫君志 光風館出版。價五圓。明治時代に出た註釋書としては最も權威あるものです。
 その他、現今生存してゐる人の著書では、井上通泰氏の萬葉集新考(歌書珍書刊行曾出版。非賣品)佐々木信綱氏の萬葉集選釋(博文館出版價一圓八十錢)折口信夫氏の口譯萬葉集(文會堂出版。價四圓)等があります。以上は皆訓點解釋を主としたものであります。歌の價値論にまで入つて精細に説いてゐるものは、只一つ、伊藤左千夫の萬葉集新釋があるばかりです。(雜誌馬醉木及びアララギ)さういふ所まで入つてゐるものは、その外に正岡子規の「萬葉集を讀む」及び其他諸説(アルス出版竹里歌話。價二圓八十錢)長塚節の萬葉集十四卷研究及び萬葉集口占、(雜誌アララギ)萬葉集輪講(雜誌アケビ・アララギ)齋藤茂吉氏著童馬漫語(春陽堂出版價二圓三十錢)和辻哲郎氏の萬葉集の歌と古今集の歌との相違について(雜誌思想)等であらうと思ひます。この他に小生の目の屆かぬものもありませう。
 
 
       萬葉集以後の歌集
 
 萬葉集以後の歌集は、勅撰集やら何やら、非常に多數ありますが、値打ある歌集といへば、萬葉集の系統を引いたものばかりでありまして、古今集以下の勅撰集及びその系統を引いたものは、前申したやうな全心の集中がなく、從つて、その表現は多く生ぬるく、且つ間接的なものばかりでありまして、甚しいのは、專門に詞の洒※[さんずい+麗]を弄んでゐるやうなものもあります。例へば、新勅撰集の中の
   來ぬ人をまつほの浦の夕なぎに燒くや藻鹽の身もこがれつつ   藤原定家
古今集の中の
   心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花   凡河内躬恒
 といふやうなものでありまして、人を待つと、淡路島の「まつほの浦」とを言ひかけた所など、作者には得意でありませうが、詞の上の洒※[さんずい+麗]に過ぎぬのでありまして、更に藻鹽を燒くといふことと、身も焦れるといふことを言ひ通はせたのも、詞の遊戲以上に何等の眞情も現れて居らぬのでありますす。萬葉集にも、序詞《ついでことば》その他に言ひかけの句法がありますが、多く、直觀的實情を伴つて居るのでありまして、詞の遊戲とは違ひます。一首の歌を味はつて、頭の中へ、ぴんと來るか來ないかが、さういふ所で岐れるのであります。初霜か白菊か目で見て分らぬなどに至つては、全く實感の範圍から拔け出して、言語の概念を以て遊戲をしてゐるものとするより外はありません。この二つの歌で、勅撰集全體を言ひ去るのは亂暴でありますが、多くのものが、斯んな調子のものと思つても大した間違ひはなく、それほどの遊戲でなくとも、歌全體に生き/\した命のこもつたものは極めて少いのであります。さういふ歌集を人に推奬する勇氣は、私にありません。
 それで、萬葉集の系統を引いた歌集を、萬葉集につづいて讀むことが有益であります。先づ、源實朝の金槐集(國民文庫中の金槐集)非賣品。古本屋にあります。すみや書店發行の鎌倉右大臣家集(稀に古本屋にあり。)であります。徳川時代では、田安宗武(博文館出版近代名家歌選。價三圓二十錢)僧良寛(警醒社書店出版良寛和歌集。價四十錢。目黒書店出版良寛全傳。價二圓。良寛會出版良寛全集。價一圓五十錢。春陽堂出版良寛和尚詩歌集。價一圓五十錢等)平賀元義(彩雲閣出版平賀元義歌集。價六十錢。これは今殆ど得られません。春陽堂出版平賀元義歌集。價三圓二十錢。古今書院出版平賀元義歌集評釋。近刊價不明)などであります。明治になつては、正岡子規の歌(アルス出版竹の里歌全集。價二圓五十錢。同所出版子規選集。價一圓五十錢。新潮社出版花枕。價三十五錢。俳書堂出版竹乃里歌。價二十五錢。この一書は稀に古本屋にあります)伊藤左千夫の歌(春陽堂出版左千夫全集第一卷。價三圓五十錢。アルス出版左千夫選集。價一圓五十錢)長塚節の歌(春陽堂出版長塚節歌集。價二圓八十錢)は、私の常に座右に備へてゐる歌集でありまして、萬葉集を崇拜する現世人が如何なる域にまで到達したかを知らんとする人にも、いい參考になるべきであらうと思ひます。明治三十年以後革新された歌を作した人々のうち、これ以外にも、素質のいい歌を遺して逝つた人がありますが、それらの人が、更に萬葉集に禮拜する所があつたら、餘計に歌柄に品位を備へたであらうと思うて、遺憾に感じます。
 
 
      古歌集と自己の個性
 
 私が、萬葉集及びその系統を引いてゐる諸歌集に親しむことが大切であると言ふのに對して、世間往々反對の説をなすものがあります。歌は素と作者自身の感情を三十一音の韻律として現すべきものである。それであるのに、千年以上も昔の歌集を讀んで歌の道を修めよといふのは、生き/\した現代人の心を殺して、千年前の人心に屈服せしめようとするものであって、少くも現代人の個性は現れる筈がないと云ふのであります。此説一通り御尤もでありますが、人間の根本所に徹して考へた詞でありません。歌には歌の大道がある。その大道の由つて來る所に禮拜するのは、自分の今踏まんとする大道を禮拜することであり、自分の踏まんとする大道を禮拜することは、自分の個性を尊重する所以になるのであります。仏教の眞の行者は、皆、己れを空しくして釋尊の前に禮拜します。己れを空しくし、愈々空しくして、一向專念佛に仕ふる行者にして、初めて、眞の個性を發現させることが出來ます。法然、親鸞、道元、日蓮の徒皆この類でありませう。この消息に徹せずして、今人説く所の個性は、多く目前の小我でありまして、有るも無きもよく、無ければ猶よいほどの個性であります。
 之れを歌の上で言へば、正岡子規であります。子規は、歌の上で絶對に萬葉集を尊信しました。萬葉集を尊信した子規の歌が、古人に屈服して個性を滅却し了つてゐるか何うかといふことは、子規の歌集を見て分りませう。
    囚屋《ひとや》なる君をおもへば眞晝餉《まひるげ》の肴の上になみだ落ちけり
    人みなの箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺す我《われ》は
    カナリヤのさへづり高し鳥彼れも人わが如く晴れを喜ぶ
    金網の鳥籠ひろみうれしげにとぶ鳥見ればわれも樂しむ
    瓶《かめ》にさす藤の花房みじかければ疊のうへにとどかざりけり
 これらは、子規の歌集から一例を擧げたに過ぎませんが、子規の至つた所が、萬葉以外に出られなかつたと思ふ人には、よい反省にならうと思ふのであります。序を以て、子規門下、伊藤左千夫の歌を少し擧げます。
    天地の四方《よも》の寄り合ひを垣にせる九十九里の濱に玉拾ひをり
    高山も低山《ひくやま》もなき地のはては見る目のまへに天《あめ》し垂れたり
 これらの歌は、古今數千載を通じて、何人の追躡をも容さぬほどの傑作であると思ひます。同じく子規門下、長塚節の歌を少し擧げます。
    蕗の葉の雨をよろしみ立ち濡れて聽かなと思《も》へど身をいたはりぬ
    むしばみて鬼灯《ほほづき》赤き草むらに朝はうがひの水すてにけり
 二首ながら、節の末年に近い病中の作です。如何にもよく病者の神經の細かさが出て居ります。(以上子規以下の歌「はしがき」を略す)私の萬葉尊信を言ふを見て、個性滅却の言となすものも往々あるやうであります故、一言の辯解をして置くのであります。
 
 
       歌を作す第一義
 
 自己の歌をなすは、全心の集中から出ねばなりません。これは歌を作すの第一義でありまして、この一義を過つて出發したら、終生歌らしい歌を得ることは出來ません。自ら全心の集中と思ふものでも、案外、一時的發作に終るやうな感動があります。左樣な感動は、數日を經過し、十數日を經過するに及んで、心境から霧消して居ります。さういふものは、自己の根柢所に根ざした全心の集中とは言はれません。さうして見ると、歌を作す機會は、存外多くあるものではありません。心の中に輕く動いて輕く去るやうな感動は、それを何う現しても、要するに輕易な作品に墮ちてしまひます。輕易な作を數ば作して、數ば之に馴れるといふことは、歌人として恐るべき道に人つてゐるものであると思ひます。大抵歌が上手になると、この道に人り易くなります。囑目囑心のものが何でも手輕に歌に纏まりますから面白いのであります。歌の道は、決して、面白をかしく歩むべきものではありません。人麿赤人の通つた道も、實朝の通つた道も、芭蕉(これは歌人ではありませんが)の通つた道も、良寛、元義、子規等の通つた道も、肅《つつ》ましく寂しい一筋の道であります。この道を面白をかしく歩かうとするのは、風流に墮し、感傷に甘えんとする儕でありまして、墮する所愈々甚しければ、しまひには、詞の洒※[さんずい+麗]や虚假《こけ》おどしなどを喜ぶ遊戲文學になつてしまふのであります。私は、歌の道にある人人に向つて、濫作は勿論、多作をも歡めません。
 
 
       寫  生
 
 私どもの心は、多く、具體的事象との接觸によつて感動を起します。感動の對象となつて心に觸れ來る事象は、その相觸るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。左樣な接觸の状態を、そのままに歌に現すことは、同時に感動の状態をそのままに歌に現すことにもなるのでありまして、この表現の道を寫生と呼んで居ります。私の前に直接表現と言うたのも、多くこの寫生道と相伴ひます。感動の直接表現といへば、嬉しいとか、悲しいとか、寂しいとか、懷しいとか、所謂主觀的言語を以て現すことであると思ふ人が多いのでありますが、實際は多くさうでないのであります。一體、悲しいとか、嬉しいとかいふ種類の詞は、各人個々の感情生活から抽象された詞でありまして、所謂感情の概念であります。概念は一般に通じて特殊なる個々に當て嵌まりません。我々の現したいものは、個々特殊なる感情生活でありますから、概念的言語を以て緊密に表現することはむづかしいのであります。悲しいと言へば甲にも通じ乙にも通じます。併し、決して甲の特殊な悲しみをも、乙の特殊な悲しみをも現しません。歌に寫生の必要なのは、ここから生じて來ます。つまり、感情活動の直接表現を目ざすからであります。前掲の歌について一二の例を擧げれば、例へば、子規の歌「肴の上に涙落ちけり」左千夫の歌「見る目の前に天し垂れたり」といふ現し方にしても、それが單なる悲しみとか、壯大感とかいふ抽象的言語によつて成されてあつたら何うであらうと考へる時、歌に於ける寫生道の貴さが直ぐに理解されるであらうと思ふのであります。
 元來、寫生といふ詞は、上古の支那畫論から生れた詞でありまして、生を寫すといふことは、心と物と相接觸する状態を爲すものとされて居ります。それを明治時代の畫論家が誤り傳へて、單に一寸した形態をスケツチする位の意味に用ひたのであります。今でも、寫生といへば、そんな向きに思つてゐる人が多いのでありますが、森田恒友畫伯などは、明かに寫生道を以て傳神道と同じ意義に説き且つ用ひて居ります。これを歌の上に轉用したのは正岡子規であります。私どもは、歌に於ける寫生道を以つて、感情活動の直接表現をなす殆ど唯一なる道として、この道を究極せしめて行きたいと冀ふのであります。喜怒哀樂といふ如き主觀的言語については、猶少し詳しく言及しておきませう。
 
 
     主觀的言語
 
 一體、悲しいとか嬉しいとかいふ主觀的言語は、我々の日常生活の上で、何ういふ種類の人から多く聞かされるかと考へて見るに、これは男よりも女の方から多く聞かされるやうであります。その女の中でも、甘たるい女とか、愚痴の多い女とかいふ側から、餘計に多く聞かされます。尤も、これは女に限りません。男でも、甘たるい側に屬する人々、殊に藝術かぶれ、文學かぶれ、宗教かぶれなどをしてゐる男の口から、よく斯樣な主觀的言語を頻發するのに出遇ひます。斯ういふのに出遇ひますと、又かといふ感じが先立つのでありまして、又かと思ふ感じは、其の弊に堪へぬといふ感じでありまして、他方面より言へば、主觀的言語の輕率浮薄に用ひられるのを厭ふ感じであります。小生の傾向から申しますと、悲しいとか嬉しいとかいふ種額の言語は、せつぱ詰まつた或る場合に、稀に聞かされる時、身に沁みるのでありまして、左樣な言語を頻用されれば、されるほど、身に沁みる程度が薄くなつて、しまひには輕薄感さへ伴ふに至るやうであります。これは、丁度、武士がまさかの場合拔く刀に威力を感ずるが、容易に屡々拔く刀に威力を感じないと似た所があります。まさかの場合に拔く刀には、その刀の背後に、せつぱ詰まつた具體的事情が潜んで居りまして、その事情が刀を活かします。容易に拔く刀にはそれがありません。今の詩歌人は、刀を容易に拔いて振り翳すところがあるやうであります。これは虚假《こけ》おどしのつもりではないでせうが、結果は殆ど虚假おどしに等しくなつてしまふのであります。その現象が歌に出てゐるのでありまして、主觀句を歌の上に頻用することが、主觀を尊重する道である如く心得てゐる人が多いのでありますが、小生は、それを、その反對に考へてゐること上述の如くでありまして、物心相觸れた状態の核心を歌ひ現すのが、最も的確に自己の主觀を表現する道と思ふのでありまして、これを寫性道と稱してゐるのであります。主觀的言語も寫生道に伴つて多く命を持ちます。抽象的言語が具體感によつて特殊化されるからであります。丁度、刀の背後に切迫した具體的事情が潜んでゐることに似てゐます。それにしても、私は、左樣な主觀的言語の歌の上に頻用されるのを、重厚にして強みある心の現れなりと思ひません。この消息は、前に掲げた子規、左千夫、節の歌等によつて了解し得ることと思ひます。
 萬葉集は、感動を直敍したものが多く、從つて、主觀的言語を多く駢列してあると思ふ人があり、戀の歌哀傷の歌覊旅の歌などは、餘計にさういふ傾きを持つと思はれてゐるやうでありますが、必しも、さうでありません。矢張り、現れ方の虔ましいものに傑れたものが多いやうであります。人麿は、妻に別れて來た哀しみを
    笹の葉はみ山もさやにさわげども我は妹おもふ別れ來ぬれば   萬葉二
と歌ひ、阿騎の野に、日並皇子の曾遊を追懷しては
    日並《ひなめし》の皇子《みこ》の尊《みこと》の馬|竝《な》めて御獵立たししときは來《き》むかふ   萬葉一
と歌つて居り。赤人は、旅情の寂しさを
    島|隱《がく》りわが榜《こ》ぎ來れば乏《とも》しかも大和《やまと》へのぼる眞熊野《まくまの》の船  萬葉六
 と歌つて居ります。内に切な心があつて、外に虔ましい姿があります。斯ういふものが餘計に感慨を深く湛へてゐるといふ心地がいたします。
    稻|舂《つ》けば※[革+軍]《かが》るあが手を今宵もか殿《との》の若子《わくご》が取りて長息《なげ》かむ   萬葉十四
    彼の子ろと宿ずやなりなむはた芒浦野の山に月片寄るも   萬葉十四
    ことし行く新防人《にひさきもり》が麻《あさ》ごろも肩の紕《まよ》ひはたれか取り見む   萬葉七
 これらは、皆無名の男女の歌でありますが、所謂主觀語を用ひずして、哀れな心が内に籠つて居ります。「かがる」は皹《あかぎれ》の切れること「紕ひ」は著物の擦りきれさうになることです。勿論、萬葉集に主觀的言語の用ひられた歌も多くありますが、それらの歌の生きてゐるのは、寧ろ、それと相伴へる具體的事情が急迫してゐるためてあつて、その急迫の力が強く現れてゐるために、主觀語を輕薄にしないのであらうと思ひます。
 
 
       歌 の 調 子
 
 短歌に於ける表現は、單に歌の言語の持つ意味の上に現れて、それで足りてゐるとすることは出來ません。その表現しようとする感動の調子が、歌の各言語の響きや、それらの響を聯ねた全體の節奏の上に現れて、初めて歌の生命を持ち得るのであります。歌の言語の響き・節奏これを歌の調べ・調子若くは聲調・格調等と言ひます。
 我々の感動は、伸び/\と働く場合、ゆる/\と働く場合、切迫して働く場合、沈潜して働く場合といふやうに、個々の感動に皆特殊の調子があります。その調子が、宛らに歌の言語の響きや全體の節奏に現れて、初めて表現上の要求が充されるのであります。この調子の現れは、意味の現れと相軒輊するところないほど、短歌表現上の重要な要求になるのでありまして、古來よりの秀作は、皆、歌の調子が作者感動の調子と快適に合つてゐるために、永久の生命を持つほどの力となつてゐるのであります。例へば、柿本人麿歌集中にあるといふ
    あしびきの山川の瀬の鳴るなべに弓月《ゆづき》が嶽《たけ》に雲立ちわたる   萬葉七
 の歌について言ひましても「山川の瀬の鳴るなべに」と一氣に進んで第四句を呼び起すところに多く生動の趣きがあるのでありまして、この「なべに」といふ濁音を含んだ第三句が、第四句二個の濁音と相待つて、山川の景情生動の趣きをなしてゐる勢は、之を他の如何なる句法(例へば「なべに」の代りに「ままに」を用ひる如き)を以てしても換へることの出來ないものでありませう。これは勿論「なべに」の持つ意味より來る力もあるのでありますが、響きから來る力と、その響きの全體の節奏に及ばす影響が大きいのであります。(言語の響きというても意味から全く切り離して考へることの出來ないのは勿論です)殊に、第三句弖仁波「の」の疊用を受けて、「鳴るなべに」と押し進んでゆく勢を想ふべきであります。第四五句は、是に對して更に非常の力を以て据わつてゐるのでありまして、金剛力を以て前句を受け且つ結んでゐるといふ概があります。この力も、主として調子の上に現れてゐるのでありまして、第五句二五音が、主として力の中心となつて居ります。試みに、第五句を「雲ぞ立つなる」「白雲立つも」などの三四音四三音としたら何うでありませう。歌の力が滅茶々々に碎けてしまふでありませう。歌の命が内容や材料になくて、調子にあることが分ります。この歌、實に、山河自然の景物に對して、作者の心中に動いた寂寥感(この邊まで行けば、もう寂寥感に入つて居りませう)が、徹底して歌の調子に現れてゐるのでありまして、斯樣な歌によつて歌の調子を會得することは爲めになると思ひます。この歌は多分人麿の歌でありませう。(人麿歌集は皆人麿の歌と限りません)人麿の歌を今一つ擧げます。
   敷妙の袖|易《か》へし君玉だれの小市野《をちぬ》に過ぎぬ又も逢はめやも  萬葉二
 これは、天智天皇の皇子川島皇子の殯宮の時、その妃|泊瀬部《はつせべ》皇女に獻つた歌でありまして、「敷妙の」は袖の枕詞、「玉だれの」は小市野の枕詞に使はれて居ります。袖を交はして相寢たといふ實感を劈頭に持ち來たして、それが忽焉として小市野に過ぎた(過ぎるは世を去る意です)と敍し、泉門一たび掩つて再見するに由なきの憾みを述べて一首を結ぶの意が由々しいのでありますが、その由々しい心が、如何にもよく一首の聲調に現れて居ります。我々が由々しき悲しみにある時、言葉が所々に斷絶するのが自然でありまして、左樣な場合の斷絶した言葉は、流暢な雄辯よりも人の心は沁み入ります。この歌がそれでありまして、先づ「敷妙の袖易へし君」と句を切つて居ります。次に「玉だれの小市野に過ぎぬ」と再び句を切つて居ります。さうして、最後に「又も逢はめやも」と結んで居ります。斯く三ケ所に切れてゐる句と句との間に、悲しみの心が自然に深く潜むのでありまして、その潜む力が、單なる悲しみを通り越して、人生の究極に想ひ至らせるほどの力を持つて居ります。特に、第五句は、普通ならば「又逢はめやも」の七音にすべき所であります。それを「またも逢はめやも」の八音にして感情を重大にして居ります。つまり、句を三ケ所で切り、結句を八音の字餘り句にせねば、作者の主觀が滿足しなかつたのでありまして、その主觀の要求が、いかにも快適に一首聲調の上に現れてゐるといふ感がいたされます。この歌は、矢張り人麿作中の傑れたものの一であらうと思ひます。これに比べますと大伴家持(萬葉末期の作者です)の
   春の園くれなゐにほふ桃のはな下照るみちに出でたつ※[女+感]嬬《をとめ》  萬葉十九
などになりますと、第一句第三句第五句の三ケ所で切れてゐる句法が、現さんとする所の景情に對して硬《かた》過ぎまして、快適な表現と言はれぬ感がいたします。同じく三ケ所で切れても、人麿の歌とは比べものでありません。特に、切れ句が皆名詞止めでありまして、斯る景情に對して、餘計に窮屈な響きを感ぜさせられます。この歌、調子の上から言つても、斯樣な缺點を持つ上に、「春の園」などといふ、要らざる斷りがありまして、後に古今集などの歌が觀念化する萌しを見せてゐる觀があります。家持には、この他にも、さういふ觀念的な色合をもつ歌が可なりあつて、萬葉末期の一面を表してゐると思はれますから、横道でありますが、序を以て言及して置きます。
   み吉野の象山《きさやま》のまの木《こ》ぬれにはここだもさわぐ鳥の聲かも  萬葉六
 これは山部赤人の歌であります。「山のま」は「山の際」、「木ぬれ」は「木の末《うれ》」「ここだ」は「許多」の意であります。この歌山河自然の風物に對してゐる境地が、前の人麿の「足曳の山川の瀬の」の歌によく肖てゐるのみならず、「み吉野のきさ山の際《ま》の」と弖仁波「の」を疊用して初句を起してゐる手法までも、よく肖て居るのでありますが、第三句以下に至つて、全く前者と異る感動を現すに至つて居ります。これは、前の人麿の歌の、第四句に至つて突然山の名を提示し來つた勢に比して、「み吉野のきさ山のまの木《こ》ぬれには」と呼びかけた句法が、直ちに第四句以下と相聯つて、一首を直線的に押し進めてゐるからでありまして、「ここだも騷ぐ鳥の聲かも」の四三音三四音の諧調が、人麿の「弓月が嶽に雲立ちわたる」の七音二五音の諧調と.自ら別趣の勢をなして居ります。人麿のあの歌は、人麿の雄渾な性格に徹して、おのづから人生の寂寥所に入つて居ります。赤人のこの歌は、赤人の沈潜した靜肅な性格に徹して、同じく人生の寂寥所に入つて居ります。人つてゐる所は同じであつても、感動の相《すがた》は、個性の異るがままに異つてゐるのでありまして、それが自然に歌の調子に現れるのであります。人麿の歌は、數歩を過《あやま》れば騷がしくなりませう。赤人の歌は、數歩を過れば平板になりませう。これは皆兩者の歌の調子から來てゐる相違でありまして、調子の相違は、兩者性格の相違から來てゐること勿論であります。猶、この赤人の歌で、上句を受ける第四五句に重々しい響きを持つた詞の多いといふことが、讀者の感動を異常な所へ誘つて行く力になつてゐることを注意すべきであらうと思ひます。
    ぬば玉の夜の更けぬれば久木《ひさぎ》生ふる清き川原に千鳥しば鳴く  萬葉六
 これも赤人の歌で、前の歌と同時に吉野山の離宮で作つた歌でありまして、靜肅な感動と、その感動の現れが、前の歌と通じてゐる所があります。「ぬば玉の夜の更けぬれば」と押して行く勢が、既に異常でありまして、澄み入つた世界へ誘ひこまれる心地がいたします。それを三句から五句まで連續した句法でうけて、最後に「千鳥しば鳴く」と引き緊まつた音を以て結んで居ります。暢達の姿があつて、輕い滑りになりません。各音の含む響きが虔しく緊まつてゐるためでありませう。この歌、前の歌と共に、赤人の傑作であらうと思ひます。久木は櫟といふ説もあり、「木ささげ」といふ説もあつて、よく解りません。「しば鳴く」は「しば/\鳴く」の意です。夜半に歌うてゐるのに「久木生ふる清き川原」と明瞭に直觀的に歌つたのは何のためでありませう。そこに多少の疑問がないではありません。
 
 
     歌の調子 つづき
 
    春すぎて夏きたるらし白妙のころもほしたり天の香具山   萬葉一
 持統天皇の御歌として知られて居ります。弟二句と第四句で切れてゐるために、調子が落ち著いて、初夏の心持が現れて居ります。弟五句の名詞止めも、この場合よく据わつて、動かせない重みを持つて居ります。秀作であると思ひます。歌の命は、大抵第五句で定まります。第五句だけでは無論定まりませんが、少くも、第五句の調子が輕ければ、歌全體を輕くしてしまふやうであります。これは、前に擧げた歌例について見ても分ります。萬葉集には、字餘り句が多いのでありますが、それは、大抵第五句にあるやうであります。それも、第五句の調子を重くしたいといふ自然の要求から來てゐるのであらうと思ひます。
    吉野なる夏實《なつみ》の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして   萬葉三
 湯原王の御歌であります。第一句からすら/\と連續した句法を第四句で一旦踏み切つてゐるために緊まりと勢が生じ、更に、「山かげにして」といふ生動の句を据ゑて、この句一首全體に反響するほどの力になつて居ります。感嘆に値するほどの作でありませう。    よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見   萬葉一
 これは、天武天皇御製であります。古來の良き人が良しと見て良しといひし吉野である。その吉野をよく見よと言ふのでありまして、全體の調子が、いかにも快い響きを持つて居ります。これは、天武天皇が壬申亂後天下定まつて、吉野に行幸の砌、欣快禁ぜられずして皇后その他に賜はつた歌であらうといふ意に、荷田春滿が説いて居りますが、恐らく當つて居りませう。快い時に無邪氣な快い調子に現れるのが歌の命であります。但し、斯樣な種類のものは、快よすぎて輕いものになり易く、ともすれば、滑り過ぎて遊戲化するやうなことがあります。例へば、大伴家持の
    秋の野に咲ける秋萩秋風になびけるうへに秋の露おけり  萬葉八
 などになりますと、「秋」といふ詞を疊んだ遊戲でありまして、調子に乘り過ぎて歌の命を失つて居ります。秋の野に露のしとどに置いた心持は、このやうな上滑りな調子では現れません。前の御製に比して、似て非なりといふ感じがし、萬葉も末期に入つたといふ感じが致されます。
    我はもや安見兒《やすみこ》得たり人みなの得がてにすとふ安見兒得たり  萬葉二
 藤原鎌足が、采女《うねめ》安見兒を得た時の歌でありまして、人皆の得難くする美人を得た歡びが、如何にも無邪氣に現れて居ります。第一句劈頭に自ら自己を感嘆してゐる句法や、安見兒(女の名)得たりと繰り返してゐる句法が、作者の歡びその物に直面する心地がいたされます。これを他の詞で言へば、歌の意と調子と如何にもよく、しつくり合つてゐるといふことになりませう。この歌、萬葉初期を代表し得るほどの生き/\しさをもつて居ります。
    白縫《しらぬひ》筑紫の綿は身につけていまだは著ねどあたたけく見ゆ    萬葉三
    新しきまだらの衣《ころも》目につきてわれに思ほゆいまだ著ねども    萬葉七
 前の歌は滿誓沙彌の歌であり、後のは柿本人麿の歌集にある歌で、誰の歌かよく分りません。兩者、綿と摺衣《すりごろも》との相異だけで、歌の内容がよく似て居ります。前の歌は、心も調子も素直《すなほ》に徹《とほ》つて、綿其ものの暖さうな感じを歌つてゐることが分ります。後のになると、新しき斑の衣に對して「目につきて我に思ほゆ」と句を切つて居ります。特に「我に」と言うて感じを強めてゐるので、餘計に啻ならぬ表情であるといふ心地がします。それのみでありません。普通の敍述ならば「未だ著ねども目につきて我に思ほゆ」とあるべき順序が顛倒されて居ります。我々の日常の言語について考へても、感情がやや激しく働いて來る時、敍述の順序の顛倒されるのが普通であります。「降つて來たな。雨が」「來た來た。彼が」といふ如き類であります。この歌、新しき斑の衣を歌つて、斯樣に啻ならぬ感情の現れてゐるのは、材料を斑の衣に假りて戀の心を現してゐるからであります。つまり、戀の心が、この歌を第四句で切らせたり、敍述の順序を顛倒させたりして、啻ならぬ表情にしてゐるのであります。二つの歌の内容が外觀相似て、現れる所が斯樣な相違を來してゐるのは、句法聲調の相違から來てゐるのであります。歌の命が聲調によって左右されるといふことは、斯樣な例によつても解し得ると思ひます。
 以上の例は、皆萬葉集から擧げました。今一つ、源實朝の歌を擧げます。
    大海の磯もとどろに寄する波割れて碎けて裂けて散るかも
 波の※[革+堂]※[革+塔の旁]と寄せかへす景情に對して、割れてといひ、碎けてと重ね、裂けてと疊んで、その重疊の勢を「かも」といふ強い響きで結んだ力を想ひ見るべきであります。一本、第三句「よる波の」とありますが、之れは、必ず「よする波」と一旦踏み切らねば歌の勢を成さぬのでありまして、この關係は、齋藤茂吉氏が、その薯「短歌私鈔」で詳説して居ります。波の姿と、感動の姿と、そしてそれを現した歌の姿と、如何によく一致して居るかを知ることが出來ませう。
 以上諸例によつて、少しく歌の調子を説きましたが、心の相《すがた》が人々に異り、一人の心も樣々に動くのでありますから、その動きの状《さま》が、如何にして歌の調子に現れるかといふことは、到底説き盡せる筈がありません。只、それが如何なる心の動きであらうとも、調子の上に緊張して現れて居らねばならぬことは、どの歌にも通じて言ひ得る所であります。柔きものは柔きに緊張して居り、強きものは強きに緊張して居り、暢やかなるは暢やかなるに緊張して居らねばならぬのでありまして、その緊張の快適に現れてゐるのが萬葉集でありまして、左樣な歌の調子を我々は萬葉調と唱へてゐるのであります。緊張の調子が緊張の主觀から生れることは贅言に及びません。
 
 
       單 純 化
 
 歌はれる事象は、歌ふ主觀が全心的に集中されれば、されるほど單一化されてまゐります。寫生が事象の核心を捉へようとするのも、同じく單一化を目ざすことになるのでありまして、單一化は要するに全心の一點に集中する状態であります。この消息の分らぬ人々が、短歌に、複雜な事象や、若くは哲理や思想などを駢列して得意として居ります。さういふ人々は、短歌を事件的に外面的に取扱つてゐるのでありまして、短歌究極の願ひが、一點の單純所に澄み入るにあることを知らないのであります。極端な例を擧げると、古今集に紀貫之の歌があります。
    袖ひぢて掬《むす》びし水のこほれるを春立つ今日の風や解くらむ
 といふのでありまして、第一二句「袖浸ぢて掬びし」といへば、多分夏の季節でありませう。所が、第二句へ行くと、その水が凍つてゐるのでありまして、急に冬の季節へ移轉して居ります。然るに、第四五句へ行くと、更に「春立つ今日の風やとくらむ」になつてゐるのでありまして、一首中心の移轉が旋風の如くぐる/\廻つて、結局何等纏まつた感情を現して居らぬのであります。斯ういふ歌が、單純化の行はれてゐない極端例になるのでありまして、つまり、作者の主觀が、四角八面に分裂する状態が、そのままに歌の上に現れてゐるのであります。分裂の状態から生れるゆゑ、春にもなり夏にも冬にもなつて、事件的には複雜であります。外面的な求め方をしてゐる人々は斯ういふ歌を有難がるのでありますが、歌本來の命よりすれば鐚一文の値打もないのであります。萬葉集にも
    春は萌え夏はみどりにくれなゐのはだらに見ゆる秋の山かも  萬葉十
 といふのがあります。前の歌の「袖ひぢて掬びし」「春立つ今日の風」といふ如き形式的な言ひ方に比べて、率直に鮮やかに頭に來る所があり、從つて季節の變遷に多少の感慨も潜んで居りますが、矢張り羅列した傾きがあつて傑れた歌と思はれません。作者不明ですが、恐らく萬葉集末期の作でありませう。序を似て、新古今集にある西行法師の歌を一つ擧げませう。
    岩間とぢこほりも今朝は解けそめて苔の下水道もとむらむ
 これは、流石に貫之ほどの分裂をしては居りません。目ざす所は初春の景情にあります。只、歌として最も大切な結句に至つて「苔の下水道求むらむ」となつて居ります。氷が解けて苦の下水が流れはじめる。それはいい。それを「道求むらむ」といふに至つて感じが分裂するのであります。「道求むらむ」といへば、道を求むるものは水であつて、その求め方が他動的である。第四句まで、作者の立場から事象に對してゐて、水の存在の有樣を有りのままに平敍してゐると思うて居たのが、急にここで変更されて、水の立場になつて、水に意あつて道を求むることになつて居ります。これを感じの分裂と名づけます。西行法師には、子規左千夫等の力説せる如く、可なりこの種の分裂をしてゐる歌が多いのでありまして、殊勝らしい主觀(子規等は理窟といひました)を駢べたがる弊が、こんな所へも顏を出して居ります。さういふ歌を存外世間で稱讃してゐるのは、事件的に歌を取扱ふ人々の多いことを證するに足ります。この歌も矢張り貫之の歌の如く形式的概念に捉はれて居ります。「今朝は」と言つて立春を現さうとしたのが夫れです。前から擧げてゐる萬葉集の歌、實朝の歌、子規、左千夫、節の歌等には、少くも、斯樣な分裂の痕がないことを參照すべきであらうと思ひます。
 
 
      表現の苦心
 
 小生は、前に、歌を作るほどに全心の集中する機會は、さう多くないと言ひました。それゆゑ、多作や濫作はすべきものでないと言ひました。然るに、我々の心が、縱令ひ一點に集中するとしても、それを歌に現す時、その微妙な動きまでを緊密に現し果すことが容易でないのであります。ここに表現の苦心が要るのでありまして、苦心を重ねれば重ねるほど作物の少くなるのを當然といたします。今の世の中には、平等觀や自由觀が流行しまして、この流行の中に入つてゐる人々には、緊密微細な現れ方でも、粗漫蕪雜な現れ方でも、平等に見えるやうであります。大體現れてゐればいいではないかといふ口吻であります。これを作者側とすれば、今感じたものを有りのままに即座に吐き出せば、夫れが歌ではないかと言ふのであります。表現に苦心するといふやうなことは、不自由極まる無意義な爲事ではないかといふ口吻であります。如何にも無造作で自由で、そして又自然であります。小生と雖も、自分の感動が無造作に即座に現れれば甚だ有難いのでありますが、中々、そんな妙境に達しかねるのであります。自分の感動の本懷と、歌に現れた所と、意味に於て調べに於て、微細所に入つてぴたりと相合するといふことは、中々むづかしいのでありまして、そこに、いつも表現上の苦心が要るのであります。實は、その微細所に入つて、はじめて個性の特色が現れるほどのものであります。そこまで至らぬうちの個性は、割合に、誰にも共通した普汎的のものであるかもしれません。小生は、小生の平素尊敬してゐる畫家が、或る一つの畫を成すために二年餘を費してゐることを知つて居ります。さういふ苦心から生れたものも、現れる所は却つて無造作に見えます。無造作に見える所を學ぶに、無造作な態度を以てするは、淺慮者のする所であります。畫は畫として表現上の技巧が要ります。歌は歌として同じく表現上の技巧が要ります。技巧といふ詞を、無を有に見せ、醜を美に見せる技術の如く解してゐるものもありますが、小生は、自己の感動を尤も直接に尤も緊密に表硯することが、技巧の目的であると解してゐるのでありまして、技巧の上に苦心することは、自己の感動の有りのままなる表現を重ずることであると解して居ります。有りのままなる表現は、言ふに容易にして實現に容易でありません。ここに精進の苦行が必要になるのだと思ひます。尤も、この苦行の發心も、感動そのものの強さ深さと、さうして藝術に對する尊敬心と、この兩者から自らにして生れて來るのでありませう。さうすると、矢張り、前項に述べた「歌をなす第一義」にいつも立ち歸ることが必要になります。
 
 
      概念的傾向
 
 私は、前に、家持の歌(一九三頁)貫之の歌(一九六頁)西行の歌(一九七頁)について、形式的であり、觀念的であり、概念的であることに言及しました。概念的であるといふことは、特殊な一個體よりも、普汎な多數に通ずる意であつて、多數に通ずるものは、唯一の個體を生き/\と鮮やかに現すことが出來ません。それゆゑ形式的にも觀念的にもなるのであります。たとへば、立春といへば、霞が立つとか、氷が解けるとか言ふ。それが必しも惡いのではありません。併し、立春といへば、必ず、霞が立ち氷が解けねばならぬもののやうに歌の上に取扱はれて來れば、その霞と氷は段々に直觀的意味から遠ざかつて、觀念的なものになり、形式的なもの、概念的なものになつて、個性の特色を失つてしまふのであります。歌が寫生から離れれば離れるほどこの傾向を帶びて來ます。猶言へば實感に對する忠實性を失へば失ふほど、寫生から遠ざかつて、概念的に進むといふ順序になるのが多からうと思ひます。
 斯樣な歌は實感に對する熱がありまません。熱がなくて歌を作すのでありますから、所謂詞の上のこねくり(この語左千夫の用語)をして、そのこねくりの上に面白みを求めようとします。古今集以下勅撰集の多くの歌が、眞實から離れて詞の遊戲に墮ちて行つたのは、病弊全くここにあります。柿本人麿歌集中に
    天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎかくる見ゆ   萬葉七
 といふのがあります。若しこの歌が人麿の歌であるとするならば、人麿の大袈裟に騷がしい方面を代表した惡作とせずばなりますまい。人麿は技巧の達者な人でありますから、事によると、滑り過ぎて、騷がしく終るやうなことがあります。この作者恐らく人麿でありませう。天を海と見、雲を波と見、月を船と見、星を林と見ること必しも惡いのでありませんが、その結構が、あまり行き屆き過ぎて、却つて、實感から遠ざかつて理智の働きが現れて居ります。それゆゑ、折角の天の海も、雲の波も觀念化して熱のないものになり、材料や詞の騷がしさのみが目立つやうになります。斯樣な歌が、虚假《こけ》おどしの歌でありまして、道具立てや詞に人が嚇されるのであります。眞實性から離れれば、何うしても道具立てに重きを置くやうになるか、然らざれば、詞のこねくり、機智といふやうな道に進むことになります。萬葉集中、材料負けをして觀念的になるのが山上憶良であり、熱が薄くて多作するために概念的に傾いてゐるのが大伴家持であります。憶良には熱はあつても材料を消化しきれない所があつて、そこがあはれであります。家持は、概念的であつても、詞のこねくりまでに墮ちては居りません。古今集以下勅撰集の概念歌觀念歌になれば、家持あたりに比して、ずつと調子の弛るんだものでありますから、理智の色が一層濃くて、感動の姿が愈々薄れて居ります。
 併しながら、私は、概念を以て成された歌は悉く歌としての命のないものとは致しません。概念の背後に直觀の熱が直ぐ想ひ起されるほどの力を持つてゐるものは、概念が直觀化されてゐるといふ心地がして、矢張り歌として生きてゐるといふ感じがいたされます。それほどのものは、現れる所が單一で、聲調に透徹の力がありますから、材料の騷がしさや、理智の巧さが頭を擡げません。たとひ、材料用語の由々しきものがあつても、その由々しさを感ずるよりも、眞にそれ以上に主觀の勢の由々しさを感ずるために、材料用語の由々しさは氣に止まらないのであります。さういふものは、概念の歌であつても、立派に歌の命を持つてゐるものであります。例へば、源實朝の
    物言はぬ四方の毛だものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
 は概念を以て歌はれた歌でありますが、その概念が一個の生き/\した命となつて我々に迫る心地がいたされます。如何にも單純で一途《いちづ》であります。さうしで聲調に痛切な響きがあります。「あはれなるかなや」「親の子を思ふ」と八音字餘り句を重ねて重大な感じを我々に惹き起させます。それほど重大な感じの前には「すらだにも」といふ如き稀代な弖仁波の疊用すら目立たなくなるのみならず、却つて稚拙愛すべき素樸感をさへ與へます。これほどの力となつて詠み出されるといふことは、その背後に必然的に何等かの具體感が伴つてゐることが想はれるのでありまして、實は、その具體感がさながら歌の上に現れてゐるのでありませう。概念の歌であつて、單なる概念の歌でないといふ心地がいたされます。田安宗武の歌に
    學ばでもあるべくあらば生《あ》れながら聖《ひじり》にてませどそれ猶し學ぶ
 といふのがあつて、同じく概念の歌であります。それが、單純に素樸に一貫した調子で歌はれてあるために、矢張り、生き/\した命が出て居ります。八音字餘り句を第四五句へ重用したことは前の實朝の歌と似て居りますが、實朝の歌調の痛切なのに比して、こちらのは、むくつけき所があつて、それが自然に大まかな重厚さに至つてゐます。
 概念歌に於て、主觀の力のつよく働くために、形が單純になり、聲調が緊張して、歌としての命を持ち得るものがあること上述の如くでありますが、我々の主觀は、いつも具體的事象に接觸して動くのが普通でありますから、その感動に即せんとする時、具象的の歌となつて現れるのが自然であります。從つて、同一作者にして、常に多く概念的の歌が生れるといふのは、感動よりも道具立てを尊び、實感よりも趣向・言ひまはしなどに面白味をもつ時に現れる状態でありまして、つまる所は勅撰集あたりの生まぬるい概念歌の列に伍せざれば幸であります。
 
 
       比 喩 歌
 
 比喩は感動そのものに對して直接な現し方でありません。從つて、比喩の歌には熱が乏しくて理智の働く傾向があります。理智が働きますから、概念歌觀念歌になり易いことは前項で述べた所と通じてゐます。例へば、前項に述べた人麿の「天の海に」の歌(二〇一頁)なども、比喩の形を取つて理智的になつて居ります。比喩の歌の一面には、さうした道具立てに興味を持つものの生れる傾きを持って居ます。これも亦前項に述べた所と似て居ます。本來から言へば、比喩歌全體が概念歌の一部分として考へらるべきものであるかも知れません。明治時代に明星派と言はれた歌は、多く比喩によつて歌はれて居ります。この派の歌を考へるに一つの參考條件にならうと思ひます。
 萬葉集でも、譬喩歌は矢張り理智的の所が目につきます。只歌の調子が流石に萬葉時代の特色を帶びて、後世の譬喩歌と異る所があります。それを萬葉集の中に置いて見れば、色の褪めている感がいたされます。例へば
    みすず苅る信濃の眞弓引かずして弦著《をは》くるわざを知るといはなくに   石川郎女 萬葉二
    みちのくの安太多良《あだたら》まゆみ弾《はじ》きおきて撥《せ》りしめ置《き》なば弦著《つらは》かめかも 萬葉十四    
    をちこちの磯のなかなる白玉を人に知らえず見むよしもがも   萬葉七
 の類です。「弦《を》」も「弦《つら》」も弓弦です。「著《は》く」は著けること、「安太多良」は地名です。矢張り智識的で形式的の所が見えます。比喩の歌でも、單純に緊張して感情の透徹してゐるものは命を持ってゐます。只、さういふものが比喩歌には少いだけです。その關係も、前項概念歌の所で述べたことによつて盡されてゐます。ここには重ねて言ひません。萬葉集中、譬喩歌で命のあると思はれるものを三四擧げませう。
    輕の池の浦回《うらみ》もとほる鴨すらも玉藻のうへにひとり寢なくに   萬葉三
    向《むか》つ岡《を》に立てる桃の樹成りぬやと人ぞさざめきし汝《な》が心努《ゆめ》   萬葉七
    石倉《いはくら》の小野よ秋津に立ちわたる雲にしもあれや時をし待たむ   萬葉七
    苗代の子水葱《こなぎ》が華を衣に摺り馴るるまにまに何か悲しけ   萬葉十四
 第一首「もとほる」は徘徊する意。第二首「成りぬや云々」は果《み》がなつたかと人が私語したのです。努《ゆめ》汝の心を許すなよと戒めて不安がある心です。第四首「こなぎ」は水葵らしい。花が紫で水面にひそかに浮びます。「何かかなしけ」は何とも言はれぬ愛憐の心が動くのでありませう。これらは皆生きてゐる心地がいたします。
 以上は、歌全體が多く比喩を以て成されたものについて言ひました。歌の一部の比喩を以て成されたものも、それに準じて考へ得ませう。
 
 
       象  徴
 
 比喩の歌を以て象徴の歌とするものがあります。必しも違つては居りません。只比喩歌を以て高い意味の象徴となし得る場合は、比喩歌に生きた歌の少い如く少いであらうと思ひます。象徴とは、實相觀入(この語齋藤茂吉氏用ふる所)の上に、心靈の機微が自らにして現れるに至るを極致といたしませう。別言すれば、象徴の極致と寫生の極致と一致するといふことになります。さういふ域に入つた象徴歌は、露《あら》はに象徴と見えずして、象徴の意が深く内に籠ります。例へば、人麿の(一八七頁)
    あしぴきの山川の瀬の鳴るなべに弓月《ゆづき》が嶽《たけ》に雲立ちわたる
 赤人の (一九〇頁)
    み吉野の象山《きさやま》のまの木《こ》ぬれには許多《ここだ》もさわぐ鳥の聲かも
 湯原王(一九二頁)の
    吉野なる夏實《なつみ》のかはの川よどに鴨ぞ鳴くなる山かげにして
 などになると、歌ふ所の境地は山であり川であり、材料とする所は雲であり樹木であり鳥であるけれども、現れる所は、作者心靈の動きの機微であります。その機微が、露はに現れずして、自らにして、樹木や雲や鳥の中に潜んで居ります。即ち、是等の歌にあつて、樹木は樹木でなくして作者の心靈であり、雲も鳥も雲と鳥でなくして作者の心靈そのものであります。是れまでに至つて、初めて象徴が高い位置に置かれるといふ心地がいたされます。今の歌人往々にして歌を象徴化せんとして不自然にして奇怪な比喩歌を作ります。さういふものも象徴歌にはなり得ませう。高い意義をもつことは出來ません。我々の歌は、象徴を目がけるといふやうなことをせずとも、一心を集中して寫生してゐれば、入るべき時に自らにして象徴に入りませう。安易と速達を目ざす時に淺薄な比喩的象徴歌を得ます。その道を通れば、至上所に至ることは最後までむづかしからうと思ひます。
 
 
       官能的傾向
 
 明治維新以後、日本人の生活精神は、すべて物質的に開放されましたから、一般人の求めるものが、多く外面的に發達して、生活の目標を末梢神經の滿足感に置くといふ傾向を生じて來ました。これは獨り日本だけの傾向でなくて、世界全體が左樣なものを目がけて、その目標のもとに多くの文化的現象が開展されて來たといふ觀があります。求めるものが外面的なものにある時、その對象となるものは多く物質でありまして、物質は、物質として取扱はれる時、要するに有限であります。有限なものを求めるに無限な人間の慾望を以てするのでありますから、そこに爭ひを生じます。官能の滿足感と不滿足感との爭ひであります。この爭ひが行詰まりにならうとする時、物質的平等觀といふやうなものが生れて、その爭ひを解決しようといたします。物質觀の爭ひを救ふに物質觀を以てするは、火を救ふに火を以てするやうなものであるかも知れません。これは、歌の上には餘計な事で、要らぬさし出口でありますが、明治以後、舊套を脱して新しく目ざめたといふ歌人の中に、同じく現代生活精神の渦流に入つて、官能を中心とした歌を多く生み出した人々があります。與謝野晶子夫人などがその代表でありませう。夫人の歌から一二の例を擧げませう。
    湯あがりを御風召すなのわが上衣《うはぎ》臙脂紫《えんじむらさき》人美しき
 湯上りの心持は小生も嫌ひではありません。それへお風邪《かぜ》召すななど言はれて上衣を掛けられるのは具合のいい心地がいたされます。特に、その上衣がえんじ紫で、引つかけてくれるのは美人といふのでありますから、益々具合がいいのであります。小生もさういふ状態に置かれたら有難く思ひませう。從つて、湯上りにも臙脂紫にも異存はないのでありますが、然らばこの歌の前に頭が下がるか何うかといふことになれば問題が變つてまゐります。つまり、この歌が人に快感を與へるとすれば、それは皆末梢神經を刺撃するだけの意味に止どまるのでありまして、それ以上に我々の中樞神經へ沁みて來るものがないのであります。つまり、この歌のもつ意味は、物質的であり、外面的であり、官能的であるといふことにおいて、現代の生活精神と相合つてゐるといはれますが、それ以上のもの、例へば嚴肅な感じ敬虔な感じといふ如きもの、即ち我々の中樞神經にまで沁みて來るといふものは、この歌に求めることが出來ないのでありまして、從つて我々の頭がその前に下がらないのであります。これは極言すれば、當世流行の輕薄感の代表とも言はれませう。藝術に求めるものが哀れを輕薄感に止どめたら末期《まつご》でありませう。それは、丁度、人類のもつ人生觀が物質萬能に墮ちる時、人類の末期を感ぜさせられるのと似て居ます。今一つ晶子夫人の歌を擧げます。
    鎌倉やみ佛なれど釋迦牟尼は美男《びなん》におはす夏木立かな
 夫人が大佛の前に立てば、まづその美男感が頭を支配すると見える。小生も幾度か鎌倉の大佛の前に立ちましたが、未だかつて美男醜男の問題に逢着しない。美男であるか。醜男であるか。それも問題になり得るでありませうが、左樣な問題よりも異つた方面――も少し品位ある方面――で佛像などに對するのが、普通の人情でありませう。晶子夫人の感じた仏像は、美男であることは結構でありますが、只それだけでは、矢張り頭が下がりません。「美男におはす夏木立かな」は兩句の關係が羅列的であり智識的であつて俳句の發想法に似てゐます。さういふ方面はこの項では多く言及しません。以上二首の如きは、その制作當時多くの人々から感嘆されました。伊藤左千夫に
    鎌倉の大き佛は青空をみ蓋《かさ》と著《き》つつよろづ代までに
 といふのがあつて、晶子夫人の大佛の歌より三年前に歌はれて居り、それより二年前に、子規に 
    岡の上に天|凌《しの》ぎ立つ御佛のみ肩にかかる花の白雲
 といふのがあり、それより猶一年前、子規に
    火にも燒けず雨にも朽ちぬ鎌倉のはだか佛は常佛《とこほとけ》かも
 がありますが、斯樣な崇高感の伴ふものは、當時の人々に注意されなかつたのであります。一般人の生活精神の嚮ふ所が分りませう。
 私は、歌に官能の臭ひの多いことを否認するものではありまん。官能のにほひは多くても構ひません。只それらを通じて中樞的に沁みて來るもののあることを要求します。萬葉集には官能のにほひの高いものが可なり多いのでありますが、それらが、すべて中樞的に統べられて、直に人に迫るほどの力を持つで居るから、歌として高い位置におくことが出來るのであります。小生は、萬葉集中、只、一首、藤原麻呂が大伴坂上郎女《おほとものさかのうへのいらつめ》に贈つたといふ
    むしぶすまなごやがが下《した》に臥せれども妹とし寢ねば肌し寒しも   萬葉四
 といふ歌を、比較的官能的に終つてゐる歌ではないかと思つてゐます。「むしぶすま」は暖い蒲團「なごやが下」は「柔かく和《なご》やかなる下」の意です。一二句が已に官能的であり、その蒲團の中に妹を思ひながら、單に「肌し寒しも」と言うてゐるのが、遂に官能に終つてゐる所ではないかと思ふのであります。與謝野夫人の「湯上りを御風召すな」の歌などに比すれば、ずつと虔ましいのでありますが、萬葉集の中に置けば、そんな心持がいたされます。それに較べれば、東歌(東國の人民の歌)のうちの
    高麗錦《こまにしき》紐とき放《さ》けて寢《ぬ》るが上にあどせろとかもあやにかなしき   萬葉十四
 などは、同じく高麗錦の衣の紐ときさけて寢るのでありますが、それに「あどせろとかも」といふ嘆息の力が加はつて官能に終らせてゐないのであります。左樣な時「高麗錦」も「寢る」も同じく官能以上の力になつてゐるのでありませう。「あどせろとかも」は「何とせよとかも」の意で、その當時の東國人の言葉です。
    笹が葉のさやぐ霜夜に七重|著《か》るころもにませる子ろが膚はも    萬葉二十
 これは防人の歌でありまして、矢張り前二首に似通つた所があります。「はも」は主もに追懷に用ひられる感嘆詞です。「子ろが膚はも」といふ追懷に「笹が葉のさやぐ霜夜」を聯想して餘計にしみじみとした心持が出て來ます。官能だけに終つては居りません。以上、官能的の歌に關聯して、萬葉集から數例を取つて、小生の意を明かにしたに過ぎません。
 
 
       思想的傾向
 
 現代人が歌を作すからは、その歌の上に現代人のもつ思想が現れて居べきである。その點から見て、明治以後革新されたといふ歌に、多く新しき思想が取扱はれて居らぬのは缺陷であるといふ意見に接することがあります。つまり、現代の有する哲學とか、人道問題とか、勞働問題とかいふものが歌に現れて居らぬのに不足を感ずる聲であります。左樣なものが歌に現れるのはいい。ただ、それが單なる思想であつては爲方がありません。歌の領域は、個人のもつ思想感情を押し詰めて、單純なる一點に澄み入る所に拓かれてあります。單なる思想は、澄み入るまでの道程の上にあるのが普通でありまして、思想そのものの形で究極所まで澄み入るといふ場合は甚だ少からうと思ひます。それは、前に「概念的傾向」の項で言うたことと通じて居りませう。今の世に、哲理を取扱つたり、物資問題勞働間藤といふ如き所謂社會問題を取扱つてゐる歌が、多く生硬露骨蕪雜なものの多いといふことも參照になります。左樣な物に歌の新しさを感ずるのは、目の新しさであつて心の新しさでありません。萬葉集でも、山上憶良にこの傾向があります。この人は、入唐して歸朝した人ですから、當時にあつて新智識であつたらしい。盛に儒佛の思想を歌に詠んで居りますが、大抵生硬で觀念的なものであります。貧窮問答の長歌などが有名になつたのは、歌を外面から見て鑑賞する人が多かつたためでありませう。あゝいふものは憶良として傑れたものでありません。歌をして、もつと思想的であらしめよといふ希望は、歌の水平を下げよと希望するに邇いと小生は思つて居ります。
 
 
       用   語
 
 現代人が歌をなすには現代語を用ふべきであるといふ聲が、歌人の一部にあり、その中には、全然現代の口語を以て詠み出でようと試みてゐる人々もあります。一應尤もに思はれます。只、小生等が歌を作す時には、自己の感動を意義に於て、格調に於て如何にして適切に緊密に現し得るかといふことに腐心するのでありまして、その腐心の前には、現代語古代語口語といふ如き區別をおいて考へる餘裕はないのであります。現代語、古代語、苟くも日本語として許さるる範圍から適切なものを選擇しても、猶且不自由を感ずるのが普通であります。さういふ時に、範圍を狹く限つて考へることは、少くも小生には不便であります。例へば、同じ感動詞でも「かな」と言つて適切の場合と、「かも」と重々しく言つて適切な場合とあります。感動の調子に樣々の場合があるからでありまして「かも」でも猶感動の調子の現れぬ時は「かもよ」など言つて、漸く收まる場合もあり「かなや」と言つて收まる場合もあります。現代語口語と範圍を限る人々は、斯樣な場合何うするつもりでありますか。少くも、不便は小生等よりも多いであらうと思はれます。
 原始的で、一|途《づ》な古代人の用語は、自ら素樸にして純粹な響きを持つて居ります。さういふものの中で、今日まで命を持つてゐるほどのものは少くも、何千年の試練から選び出されたものであります。それを小生等が喜んで用ふることを妨げるものはない筈だと思ひます。文禄の頃の小唄に
    怨みたれども、いや味《み》のはども無《な》や、さうして、怨みも、言ふ人によりか
 といふのがありまして、「さうして」「よりか」の意が、子どもの口つきの如く無邪氣に素樸に現れて居ります。この「よりか」(依るかの意)の言ひ方は、萬葉の「思へか」「戀ふれか」などに當り、「さうして」は萬葉の「そこゆゑに」などに當つてゐる感がありまして、素樸純粹の所がよく通じて居ります。左樣に我々の心に生き得る詞であるならば、それが萬葉語であらうとも、近代語であらうとも、或は又口語であらうとも、(さうしては口語でありませう)之を我々の感情表出の具に用ふるに何の妨げがありませう。只、現代の口語は頗る蕪雜煩多でありますから、之を歌に用ふるには洗練が要ります。歌は三十一音の短詩形でありますから、一音と雖も疎漫蕪雜に響いたら歌の命を失ひます。それ丈けの用意があつて、口語を用ひることは少しも異論のないことであります。子規に
    狩びとの笛とも知らで谷川を鳴き鳴きわたる小男鹿あはれ
    うま酒三輪のくだまきあらむよりは茶をのむ友と寢て語らむに
 などがあり、左千夫の亡兒一周忌の歌に
    去年の今日泣きしが如く思ひきり泣かばよけむを胸のすべなさ
 といふのがあります。「くだまき」は口語の取り入れであり、「鳴き鳴き」も「思ひきり」も口語的發想であつて、この場合よく生きて居ると思ひます。
 萬葉集の東歌には、口語的發想と思はれるものがあつて(萬葉集全體を當時の口語歌と思つてゐる人があれば違ひます)それが、よく生きて居ります。例へば
    兒毛知山《こもちやま》若楓樹《わかかへるで》の紅葉《もみ》づまで寢《ね》もと吾《わ》は思《も》ふ汝《な》は何《あ》どか思《も》ふ   萬葉十四
の第四五句は全く口から出る言葉そのままの心地がしまして、その稚や及ぶ可らずといふ感があります。口語で歌を作すものも、これまでに純眞に行き得たら大したものでありませう。それは、只、議論だけでは爲方がありません。實際の作物にそれ丈けのものが現れてから口語歌の權威も生じませう。
 
 
       連   作
 
 我々が或る事象に對して、その感動を歌にする時、一首を以て要核を現し得て滿足する場合もあり、相關聯した數首乃至十數首を作して、初めて滿足する場合もあります。左樣な場合の教首乃至十數首は、個々が各獨立して存在すると共に、それが有機的に相聯つて、綜合的に或る心持を現します。左樣な相聯つた教首十教首を連作と言ひます。連作は明治三十年以後正岡子規によつてなされたものであつて、それに連作といふ名をつけて、積極的に連作の唱道をした人は伊藤左千夫であります。左千夫の言によれば、子規以前にも多少連作的の歌はあるが、自覺的にこれを作したのは子規であつて、その後の徒が、その心を受け繼いで連作を發表成長させたといふのでありまして、それが正しいと思ひます。(アララギ十二卷七月伊藤左千夫號所載齋藤茂吉「短歌連作論の由來」參照)つまり、子規の歌は、いつも眞實感に根ざしましたから、自然に寫生を重んずるやうになり、寫生の道に即けば、その對象から受ける感動が、時間的にも空間的にも相繼起して聯り合ふ場合が生じて來るので、それを繼起するままに、聯り合ふままに如實に現すから連作的になつて來るのであります。萬葉集に連作的のものが見えて居り、勅撰集以下にそれらしいものの無いといふことも、その消息に通じて考へられます。それは、實感と題詠との相違から來てゐるのであります。
 左千夫が、連作論をしたのは、明治三十五年であつて、それから今日まで二十年たつて居ります。その間に連作の風は汎く歌の世界に行き亙りました。それが、近頃では、連作の綜合的効果の方を主なる目的に置いて、その目的の下に個々の歌をあらしめるやうに連作して行くべきであるといふ議論まで現れて、それを實行してゐる作家もあるのであります。それまでに入れば、連作といふものは、短歌本來の性質から離れはじめるのであつて、連作に深入りしてその餘弊に踏み入るものではないかと思ひます。綜合の結果を主にすれば、個々の歌は從屬の地位に置かれます。從つて主目的のためには個體の犠牲に供せられるやうな場合も生じて來ます。個體としては存立の要なき時も、綜合の目的のために已むを得ず存在するといふやうな場合であります。已むを得ず存在するとは、熱の充實なくして存在することであり、或は又、一首としての獨立性なくして、他の間に介在することによつて存在し得ることであります。近頃の連作中、往々にして一首の獨立性なきもの、若くは、獨立しても、一首としての價値の薄いものが交じってゐるのは上述の事情に胚胎してゐるのであつて、連作の弊に入つたものであると思ひます。
 歌の價値は何所までも一首の上にあります。それが何首も相連つて綜合的に或る心持の現れるのは、偶然若くは自然の開展であつて、豫定的若くは意圖的になさるべきものでありません。意圖的になされたために、一首存在の意義が稀薄になり不確かになつたら、歌本來の性質から離れたものであると思ひます。左千夫の擧げた子規の連作の一例を掲げて參照に資します。これは、明治三十四年、子規病臥晩年の作です。
       しひて筆を取りて
    佐保神の別れかなしも來む春にふたたび逢はむ我ならなくに
    いちはつの花咲き出でて我が目には今年ばかりの春ゆかむとす
    病む我を慰めがほにひらきたる牡丹の花を見れば悲しも
    世の中は常なきものとわが愛づる山吹の花ちりにけるかも
    わかれゆく春のかたみと藤波のはなの長房繪にかけるかも
    夕顏の棚つくらむとおもへども秋待ちがてぬわがいのちかも
    くれなゐの薔薇《うばら》ふふみぬわが病いやまさるべき時のしるしに
    薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみしむかしおもほゆ
    若松の芽だちのみどり長き日を夕かたまけて熱いでにけり
    いたづきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種子《たね》を蒔かしむ
                    心弱くとこそ人の見るらめ。
                                                 (大正十三年三月)
              
 
 
         萬葉集雜記
 
 
   萬葉集に見ゆる新年歌
 
 吾人は萬葉集以後に歌らしい歌は殆ど無いと信じてゐる。萬葉集は眞情そのままを飾らず包まず其儘に歌つてゐる。それだから笑つても泣いても直に人を引付ける力を持つてゐる。これが歌の根本義ぢやないかと思つてゐる。作り笑ひや作り泣きは、笑ひ方も上手ぢや泣き方も上手ぢや。併し、只上手ぢやと云ふのみで感心する譯に行かぬ。貫之定家以下千餘年間の歌人は根本義を離れて、作り笑ひや作り泣きの練習をした。萬葉を見來つて彼等の作歌に接すれば趣味の低下實に隔世の感を起させる。彼等は眞情を離れて理窟を竝べてゐる。駄洒※[さんずい+麗]を並べてゐる。小刀で小さな所をつついてゐる。手際がすべてコセツイてゐる。氣品がない。彼等は眞情を離るると同時にズン/\趣味を下落させて行つた。定家も悟らぬ。西行も悟らぬ。古學復興などと敦圉いた契沖も悟らぬ。眞淵宣長の徒に至るまで悟らぬ。彼等は極力萬葉集の字義や句意を説いた。併し、萬葉集の精神とは全く沒交渉な氣品なき細工に歌の生命を葬り了つた。
 萬葉集二十は、歌直ちに眞情の流露である。眞情の前には拘束がない。停滯がない。遠慮がない。大膽な笑ひ方をしてゐる。大膽な泣き方をしてゐる。大膽な喜び方をしてゐる。傍若無人の調子ぢや。不羈卓犖の態度ぢや。しかも其感情は純潔である。熱烈である。直截である。豪宕偉大である。斯の眞情と氣宇氣品と雙々相據つて開國二千五百年間一望荒寥たる歌界に、燦爛たる巨火を投じて居る者が萬葉集である。
 萬葉集から新年の歌を拾つて見た。新年の公會や私宴に臨んで作つたものは隨分多いが、新年を材料として歌つたものは甚だ少い。僕はこれが萬葉集の面白い所ぢやと思ふ。古今集以下の筆法で行くと新年といへば必ずお芽出度くなくちやならぬ。家内長久で五穀豐熟で君は萬歳でなくちやならぬ。萬葉歌人とても必しも是に異議は無い。併し、萬葉歌人の趣味は活きて居る。動いて居る。鑄型の樣な押付けたものぢやない。新年でも悲しい事があれば悲しむ。元日に雪が降つて豐年の兆ぢやと思へば喜ぶ。併し、其雪が沓に著いて困り者ぢやと思へば困つた雪ぢやと歌つてゐる。新年の宴會で新年など拔きにして、雪景色ばかりを歌つてゐる所など甚だ面白い。殊に神龜四年正月に諸王群臣が毬打ちして居つて、禁衞を疎かにしたと云ふので授刀寮に禁足せられた。その時の長歌や反歌は悒憤即作斯歌と書いてある。正月早々叱られた事を歌に作つて悲しんでゐる。萬葉歌人でなくちや「大君は神にし在せば」の眞情は流露出來ぬ。「白雲もい行き憚り」富士山の絶唱を産み出した萬集歌人の根本義に立入つて天下の歌人に萬葉の研究がして貰ひ度い。
    はつ春の初子《はつね》の今日の玉ばはき手にとるからにゆらぐ玉の緒   家持
 新年の歌としてよく人に知られてゐる歌だ。天平寶字二年正月三日内裏の東屋の御垣の下に、諸王群臣を集め玉箒を賜つて肆宴せさせた時の詠である。玉箒には種々の説があるやうだが、失張り正月初子の日に一種の吉例として箒草などへ玉を著けた物をかざしたのだらう。蠶棚を掃つたなどとも見える。そんな詮議はどちらでもよい。陛下の賜つた初子の祝の玉箒を我手に取れば、その玉がゆらゆらに搖れ動くといふ感じを其儘に歌つたのぢや。意義は極めて簡單なものぢや。意義は簡單であるが歌は實に脈々として生動して居る。場所は陛下の御前である。時は陽春一月である。群臣列座賜宴の席で陛下から玉箒を下される。その玉箒を捧げ持てば白玉顆の水を凝らして搖れ動く。其感じが實に嚴肅である。心地よい事である。その嚴肅なすが/\しい感じを只其儘に全首の上に活躍させ居る作者の用意が解らねばならぬ。謹嚴な作者の品格は三十一字を通して調の上から見ても一點の緩みがない。作者の感じと調とは必ず一致すべき者である。作者の感じが雄大であれば作物の調も從つて雄大に現れる。作者の感じが野卑で調ばかりは氣高く出來るといふのは餘り明白に矛盾し過ぎる。今の新派だの舊派だのと云つて威張つてゐる先生には、斯る明白な矛盾さへ氣付かれないで游蕩自墮落の下卑た生活をしながら、下卑た品格を持ち乍ら、歌や小説ばかりは上品な立派なものを作り度いといふ手合が隨所に累々たりぢや。菫や星黨のハイカラ諸君の猛省が願はしい。話は前の歌に戻る。僕は家持自身が感じた所其儘を歌つた用意を見よと云つた。是が萬葉集二十卷を通じての根本義である。歌は感じを現すものである。理窟を並べたり輕薄な駄洒※[さんずい+麗]を竝べたりする下らぬ者ぢやない。古今集以下は下らぬ歌の共進會ぢやと云ふのは此所の事だ。「年の内に春は來にけり云々」など云つてる手合の歌は頭から歌でないと斷言するのは此點である。家持の歌は玉箒のゆら/\に動く其感じを飾らず作らず面白いと感じた儘に表してゐる。玉箒のゆれ動く感じは只面白いから面白いのだ。理窟でもない。洒※[さんずい+麗]でもない。何でもない。只感じ其物である。紛々たる御歌所振や月並者流の考は、此點に於て土臺間違つてゐる。平凡な卑俗な陳腐な臭を喜んで嗅ぎ廻つてゐる手合が明治の文學にウヂ/\してゐる間は、和歌の生命も甚だ憐れなものと云はねばならぬ。「手に取るからにゆらぐ玉の緒」と四五句に感じの中心を据ゑて一首重き事山の如しぢや。玉箒の玉は只箒草に縛つてあるのぢやなからうと思ふ。「玉の緒」の感じは、矢張り緒を貫いて吊るしてある感じぢや。ゆらぐを古義には鳴る音としてあるさうぢやが僕は矢張り搖れる感じを現したものにし度いと思ふ。これは大方の教を願ひ度い。
    水鳥の鴨の羽のいろの青馬をけふ見る人はかぎりなしといふ  家持
 白馬の節會の肆宴に連つて詠んだ歌である。青馬の色は白であるとか青であるとか説が分れてゐるやうだが矢張り青色の方であつたらしい。「水鳥の鴨の羽のいろの」は青馬といはん序詞であるが、正月七日宮廷佳例の青馬に對する感じと、鴨の羽の色の感じと、非常に清爽に調和してゐる。斯る序詞の活動によつて作者の白馬節會に對する感じがよく表れる。鎌倉大佛に對して「美男に在はす」など詠んでゐる今樣流行作者とは感じ方の品格が違ふ。詞の品ぢやない。感じの品格ぢや。作者性格の品位ぢや。
 「限りなしといふ」は命の限りなきをいふのぢや。九重の畏きみ庭に正月の青馬を拜觀する限りの人人は百年千年迄も生き得る心地がする。恐多く有難い事であると感じた其感じが、最も適切に莊重に一首の上に表れて非常に振つた歌であると思ふ。一讀直ちに九重雲深き所に侍して作つたものと首肯出來る。作者莊重の感じが調の上に直ちに影響してゐるからだ。詞が何所までもこせつかずのんぴりして全首の調子がよく重く据つてゐる。第五句の字餘りになつてゐる所など歌の調を研究する者の特に注意すべき所ぢやと思ふ。この歌をもし「けふ見る人は限りなしてふ」などしたなら甚しく輕くなつてしまふ。それなら字餘りにさへすれば調が重くなるか。さうは行かぬ。作者の感じに重い所があれば自然に求めずに重き調子を好み重き調子を用ふるに至るのだ。些細な事のやうぢやがこの本末問題が、今日の歌人に餘り度外視されてゐるから詰らぬこけ威どしの歌が新派だなど云うて、天下に歡迎されてゐるのだ。舊派でも新派でも心ある人に馬鹿にされてゐるのはこの點であると信ずる。
 この歌で今一つ見遁すべからざるものがある。第四句に「けふ」といふ詞がある。これは無意味の詞と思つては困る。非常に有力な詞ぢや。今見てゐる現在の感じを最も適切に働かしてゐるのは此詞ぢや。萬葉歌人はどうしてもえらい。家持のは未だ多くあるが略す。
    新しき年の始めに思ふどちいむれて居ればうれしくもあるか  道祖王
 天平勝寶五年正月石上朝臣宅嗣の家宴に連つて詠んだのぢや。この歌をよめば只すら/\新年のまとゐの樂しみが浮んで來る。作者は非常にこの家宴を愉快に感じたのぢやらう。全首を通じて愉快な感が最も自然によく表れてゐる。技巧にのみ沒頭する連中からは直ぐ平凡な歌と評し去られさうな歌ぢや。そこがこの歌の貴い所である。末句の重き事前のと同樣である。もとかとは感嘆詞ぢや。
    百濟野のはぎの古枝に春まつと居りしうぐひす鳴きにけんかも  山部赤人
 百濟野は大和國十市郡にあるさうぢや。一二三四句を漫然と當てどなき想像を捉へた者と解しては困る。それなら百濟野でなくとも春日野でも稻見野でも何でも構はぬ事になるが、僕には左樣に椛イに讀過する事は出來ない。これは赤人が百濟野を冬の日に過つた事がある。その時に萩の枯枝を飛びわたつて鶯が遊んで居たに相違ない。その鶯の姿が今に赤人の頭に殘つて居た。そこで春になつた時に前の鶯を想ひ出してあの鶯も春が來て鳴いた事であらうと想像したのであらう。「居りし」といふ句法が特にそれを現してゐる。左樣の意味で見れば非常に生きた歌になる。赤人の今想像してゐる對象物が動いてゐる樣に見ゆる。この歌を必しも新年歌として取るはよくないだらう。立春でなく春の漸う温くなつた時あたりヒヨツクリ思ひ出して作つたものらしい。新年あたりに一寸縁がありさうに思つたから掲げたのみだ。
    梅柳すぐらく惜しみ佐保のうちに遊びしことを宮もとどろに  作者未詳
 これは前に一寸書いた神龜四年正月諸王群臣が春日野で毬打ちして遊びすぎて、授刀寮に禁足せられた時の歌である。新年を詠んだのぢやない。新年に叱られた事を詠んだのぢや。且この歌は長歌の反歌であるかた單獨にここに掲げるのは甚だ無理であるが珍しい歌であるから書く事にする。「すぐらく惜しみ」は過ぐるを惜しみの意味である。散りすぎ、盛りすぎ、時過ぐるなど解すればよい。燈を挑げてさへ遊ぶといふ三春の行樂ぢや。梅柳の時過ぐるも僅かの内と、時の過ぐるを惜しみつつ大和の佐保の地に遊んだその時の樂しさを、思ひ出してその佐保のうちに遊ぶ事ももう出來ぬ悲しい事ぢやと云ふ事を、授刀寮の宮もとどろに、諸王群臣が嘆いて言ふとの意味ぢや。長歌と對照せねば無理ぢや。只諸王群臣が赤子の如く泣き悲しんでゐる処を其儘に泣いて歌つてゐる所が面白い。月並の宗匠には出來ぬ歌ぢや。
 新年の宴會などに歌つたものは未だ澤山ある。新年の意を詠んでゐるものも、猶多くあるが、新年の歌ばかり左樣に澤山竝べる必要もないから此稿はこれで止める。
           (明治四十一年一月一日・五日・六日「長野新聞」)
 
    此 喩 歌
 
    白縫筑紫の綿は身につけて未だは著ねどあたたかに見ゆ   滿誓沙彌
    あたらしきまだらの衣おもづきて我におもほゆ未だ著ねども   柿本人麿
 二つの歌共、形に於ては甚だよく似て居る。前のは筑紫の綿の柔かに暖かさうな感じを歌つて居り、後のは摺衣の新しく美しきつぎ/\しさを歌つて居るものと見えるのが一通りの形である。併し乍ら、今一歩深く立ち人つて詳かに二者の内容と聲調とに留意して、其感じの表れ方を比較して考へると、其間に相違の兩面を認めねばならぬ。即ち、前者が單に綿其物の感じを有りの儘に歌つて居るのに對して、後者は「新しきまだらの衣」を通して、別に他の情緒を表してゐるのである。即ち「新しきまだらの衣」は單に作者の或る感情を表すために假用された一材料であつて、其材料によつて自己意中の戀人を描いて、其の戀人を我未だ得ねども、よく我が感じに合つた懷しき少女である。何時かはこの少女と相許さねばならぬといふ意味の感想を歌つて居るものと見られる。
 之を内容の上から考へても、滿誓沙彌が觀世音寺造営の勅を奉じて筑紫に下つた時、其地の重要産物である綿のふくよかに珍らかなのに對して、夫れを主題として歌を詠むといふ事は甚だ自然の事であるし、若し又此歌が帝都で作つたものとすれば、筑紫からは毎年太宰綿廿萬屯を京庫に納めるのださうだから、その澤山な綿の立派に積み上げられた快さを主題として詠むといふ事も、是又甚だ自然の事である。所が後者は夫れとは趣を異にする。まだらの衣といふのは摺衣の事である。摺衣は其頃山藍や紫草やらで染めたもので、男女とも盛に著用して隨分珍重したものであるらしい。併し、いくら立派で珍重したものであつた所が、元之一の衣服であつて、且つ、不斷眼にも見馴れて居るものである。其摺衣を主題として、新しく我に似つかはしきを喜んでゐるのみでは、少くも作者としての働きが平凡に過ぎて居る。若し單に、摺衣の外形や色彩に現れてゐる或る感じを詠まうとなれば、別に夫れだけの働きが要る。只新しくて我に似つかはしい位な平凡な觀察にとどまる筈がない。是に於て此歌に用ひられた摺衣は、決して衣服その物の美しさを現さんとしたのでなく、その摺衣を通して或る戀人を寓意したのだといふ想像がついて來る。綿の歌と摺衣の歌との内容のみを比較しても、斯樣な判斷はついて來る。前者に對して後者は比喩歌である。比喩歌の性質として、普通としては平凡な材料であつても、熱情ある或る寓意によつて、その平凡な材料を裏面より活かし得るといふことが、一つの留意すべき特徴であらうと思ふ。序でであるから横道に入つて一寸云ひ度くなつた。比喩歌に限らず、如何なる種類の歌であつても、吾人は只新しき材料とか、珍しい著想とかいふ方面にのみ首を突込んで、よき歌を得ようと考へるのは變である。新しき材料著想は、無論歌の上に必要である。併し、いくら新しくても珍しくても、作者にそれを活かし得るの熱さや高さがあつて、始めて歌として立派なものになるのである。それと同時にいくら平凡な材料を使用しても、作者心靈の高さ熱さによって同じく立派な歌とする事が出來る。この消息が解らずして、漫然思を珍奇な材料に※[務の力を馬に]せる時、こけおどしの濫作が出來て、一種厭はしき傾向を生じて來る事と思ふ。材料や内容から見た比喩歌は前述の如くである。併し乍ら、茲所に最も重大な問題を生ずる。例は相替らず摺衣の歌にとつて云ふ。摺衣の歌が材料としては極めて平凡な、寧ろ作者の材を取るとして不自然なものであるに關らず、比喩歌として立派に成功してゐるといふのは、全く一首の用語聲調の緊張せる力による。材料が平凡すぎるから是は比喩歌に相違ないといふのは、要はそれのみとしては馬鹿げた判斷である。その平凡な材料が比喩歌として生きて來るのは、大部分否殆ど全部分用語聲調の力である。此點が比喩歌として成るか成らぬかの岐路であると思ふ。試みに綿の歌と此歌とを比較して其然る所以を述べよう。
 綿の歌は何所までも綿に對する感じそのままを正寫しようとした歌であるから、全體の句法が極めて安らかに接續されて、讀過に何等刺戟を感ずる句法に接せぬ。是は綿といふものの感じが、元來激烈のものでも、莊重のものでも、沈痛のものでも無く、只暖かに柔かな感じのものである。その暖かな柔かな感じを現すに、斯る安らかな句法や聲調は極めて相応したものであるから、讀過の際作者の感情は只綿其物の感じと調和される以外、何等他の意味に接することがない。即ち此歌が單に綿其物に對する感じを正寫したものとして、遺憾なく成効してゐる所以である。所が摺衣の歌になると決してさうでない。全體の句法が甚だ平穩でない。聲調が引緊まつてゐる。平凡な材料の摺衣をそのままに歌はうとするならば、そんなに引緊まる必要がない。そんなに濃情的な句法を用ひる必要もない。必要がないのに緊張的にいつて居り、濃情的にいつて居る所が、摺衣の歌の比喩歌として生命を得る所以である。用語から見ても、前者は筑紫の綿へ無意味な枕詞を冠してゐるに對して、是は「新しき」といふ一の副詞を冠らせてゐる。「おもづきて」といふ詞も普通の似合ふといふ意味の上に、今少し感じが加はつて見える。第四句「我に思ほゆ」の「我に」は非常に重き感じである。比喩歌として、この「我に」は非常な力を有してゐる事を見遁してはならぬ事と信ずる。更に一首聲調の上から之を見るも、前者各句間の接續は悉く弖仁波や、助動詞の接續法やですら/\と續いて來て居るに比して、此歌は「新しきまだらの衣」と切り、更に「おもづきて我に思ほゆ」と切りたる如何にも力ある緊張したる調べである。「未だ着ねども」と第五句に置いて、未だ著ざる感じに重きを加へたのも、決して偶然の句法と見るべきでない。
 斯の如く外形から云へば、句法聲調である。内面から云へば、直ちに作者心靈の高さ熱さである。此關係を疎外して句法聲調を論ずるとき、歌は造化と一般になる。比喩歌なるものが成功するや否やと云ふ事も、只一片作者熱情の如何に歸著する。
 元來我々の主觀は、圭觀その儘として言語に發表する場合もある。若くは他に或る外物を假りて發表する場合もある。汝は人非人であると云はうとする時「汝は人非人である」と單にその儘にも發表する。それが今少しく激して來ると「此畜生ツ」位な發表をする。畜生といへば牛とか馬とかいふ一つの外物である。その外物を假りて自己の主觀を活躍させる場合に、馬は馬で無く、牛は牛でも無い所の一種主觀の權化になる。一種主觀の權化となる時、この外物は其物以上の力ある詞となつて、人の口から弾き出される。是れを比喩歌にして言へば、作者熱情の活躍存してはじめて聲調も張つて來る。句法も強くなる。從つて平凡なる材料も比喩歌として充分の生命を得る譯になる。斯樣な順序に考ふ可きであらうと思ふ。
    あさりすと磯に見し花風吹きて波はよるともとらずば止まじ
    山越て遠津の濱のいはつつじ吾が來るまでにふふみてありまて
    白玉を手にはまかずて匣にのみ置けりし人ぞ玉おぼらする
    つき草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と云ふが苦しさ
    眞珠つくをちのすがはら吾が刈らず人の刈らまく惜しき菅原
    三嶋江の玉江の菰を標めしより己がとぞおもふ未だ刈らねど
    向つ尾に立てる桃の樹なりぬやと人ぞささめきし汝が心ゆめ
    石倉の小野ゆ秋津に立ちわたる雲にしもあれや時をし待たむ
 是等は比喩歌として皆面白いものであると思ふ。所が比喩歌は自己の主觀をその儘に發表せずして、形に於て間接な或る外物を假りるだけ、夫れだけ情熱を薄からしむる傾向を有してゐる。特に何等有力なる主觀の活動なくして、漫然比喩の形式のみを摸する時、月並の厭味に陷落する。世間に流行する俗謠などに留意すれば、此例はいくらも發見出來る。譬ひ月並ほどに陷落せずとも、熱情なき比喩歌は同じく熱情なき他の歌よりも、より多く馬鹿らしく感ずる場合が多い。
    みちのくの安太多良まゆみ弦はけて引かばか人の吾をことなさむ
    南淵の細川山に立つ檀《まゆみ》弓束《ゆづか》まくまで人に知らえじ
    いはがねのこごしき山に入りそめて山なつかしみ出でがてぬかも
    遠近の磯の中なる白玉を人に知らえず見んよしもがも
    紅《くれなゐ》のこぞめの衣下に著て上にとり著ばことなさんかも
 斯の如き歌は比喩歌であり乍ら熱情乏しく、從つて平凡に近い一例として見る事が出來よう。
                      (明治四十一年十二月「比牟呂」第四號)
 
   「萬葉短歌全集」の跋
 
 明治の短歌革新は與謝野鐵幹正岡子規の二人に依つて行はれた。
 しかも二人の生命とする所は彼の子規子が
 
 吾以爲らく兩者の短歌全く標準を異にす、鐵幹是ならば子規非なり。子規是ならば鐵幹非なり。鐵幹と子規とは並稱すべきものに非ず。
 
と言ひしが如く全くその根柢を異にした。
 鐵幹及び其徒には西洋文學の浪漫的部面の影響があつた。さうして夫れらを歌ふに最も應はしい古今集以後の歌風を以て生ま生ましく華やかに詠み出された。長い間東洋的に馴致された鍛錬主義苦行主義から凡ての生活が解放されようとしてゐる當時の文明開化人殊に青年子女が額に手して鐵幹及び其徒に集つたのは當然の事である。
 子規は夫れに對して寧ろ古來東洋に流るる地味にして根ざし深き血を尊重した。其實生活は積極的な鍛錬主義苦行主義である。さうして歌に於ては極力萬葉集の古精神に復歸する事を唱道した。鐵幹及び其徒の歌風の浪漫的であるのに對して是は何所迄も寫生的具象的歌風の中に自己の主觀を藏するの傾向を執つた。文明開化移入の波に押さるる青年士女が相率ゐて生活の自由解放を求むる時代に於て斯る唱道が汎い反響を齎さなかつたのは當然である。子規の門に集る徒は實に寥々十數輩に過ぎなかつた。斯の徒は新しき歌界から久しく古典派といふ別圏の者として扱はれてゐた。
 子規が萬葉集復活を唱へたのは彼の古學者と稱する徒が訓詁的の詮索に出入して理智の滿足を求むる類とは違ふ。眞に萬葉集の氣息に接して直に彼等の生命に合致しようとしたのが子規の和歌革新事業である。彼は此點に於て明治に於ける一千年來因習的歌風の打破者であり、同時に、又、古今集以後殆ど凡ての歌集に對する明瞭な排斥者であつた。是に對して彼は殆ど絶對的自信を有つてゐた。
 
 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試に此歌人に向ひて、昔より傳へられたる數十百の歌集の中にて最も善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは萬葉集なりと答へん者賀茂眞淵を始め三四人もあるべきか。其三四人の中には餘り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次に、此等歌人に向ひて、然らば我々の歌を作る手本として學ぶべきは何の集ぞと問はん時、そは萬葉集なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。萬葉以後一千年の久しき間に萬葉の眞價を認めて萬葉を模倣し萬葉調の歌を世に殘したる者實に備前の歌人平賀元義一人のみ。眞淵の如きは只々萬葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。云々。(墨汁一滴より)
 
と徳川時代に珍しき萬葉集の歸依者平賀元義を稱揚して
 
 天下の歌人擧つて古今調を學ぶ、元義笑つて顧ざるなり。天下の歌人擧つて新古今を崇拜す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義獨り萬葉を宗とす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。云々。(墨汁一滴より)
 
と言つてゐるのを見ても彼が如何に全力を集めて、寥々たる萬葉崇拜者のために氣を吐いてゐるかが窺はれると共に、子規存世中天下の歌人殆ど子規の歌あるを知らざりし歌壇當時の状態をも併せて想起せずには居られない。古往より現今に至る間世に萬葉學者は澤山ある。併し乍ら、眞に萬葉集の文學的價値を開明し深く其生命を索めて之れを以て日本短歌の唯一權威なりと斷じて積極的に世に唱道せる歌人は子規を以て唯一の人とすべきである。
 子規の門に伊藤左千夫長塚節等がある。子規の沒後節は雜誌馬醉木に萬葉集十四十六の研究其他を發表し、左千夫は雜誌馬醉木及びアララギに萬葉論及び萬葉集新釋を連載して專心子規の遺業を紹べた。萬葉集の價値批判竝に價値研究の問題に觸るれば以上の歴史は當然述べて置かねばならぬ責任を感ずる。
 我等の萬葉集に對する使命は何処迄も萬葉集の文學的價値批判及び其研究にあらねばならぬ。訓詁の學は自ら其人が存する。我々は夫れらの學徒から今日迄類ひなき資料を供給されつつある事を感謝する。夫れ等の資料を資料として我等の使命を更に精緻に押し進めて行かねばならぬ。漫然として萬葉集の歌は簡古である素樸である遒勁である全生命の叫びであるなどいふ一般論に安住してゐべきでない。萬葉集に於ける「かも」の効果に對する研究丈けでも容易な問題ではない。調の研究、結句の研究、第三句の研究、動詞中止法の研究、序詞の研究等其他すべて問題を精緻に進めれば進める程萬葉集の歌の命の精妙なる神經に接する事愈深きを致すべきである。此事業は我々の畢世の力を注いでも到底盡し得ぬ所である。殊に萬葉集の作者別分類は單に分類だけの事業でも重要な價値を有して居る。若し夫れが作者の年齢閲歴の序次に從つて編する事が出來たとしたならば萬葉集研究は茲に吾等のために一大新時期を劃した者と言ひ得る程の大事業である。
 併し乍ら夫れは非常に困難な事業である事は一度萬葉集に入つた者の齊しく知つてゐる所である。土岐君の作者別分類がどの位の程度迄研究を進めて居られるかは未だ實物を見ない私には分らぬ所である。併し乍ら、斯の如き大事業に初めて手を著けられたといふ事のみでも我が歌界のために慶賀すべき事であると信ずるのである。萬葉集時代の作者別歌集の參考となるべき書は從來必しも絶無ではない。併し乍ら、夫れ等は到底完全な類別ではない。土岐君の事業の困難であつた事を想像して深く敬意を表する所以である。
                           (大正四年十月)
 
    萬葉集より(愛誦歌)
 
 主として修辭の或る方面から萬葉集を調べて見ようと思ひ立つて今卷十迄眼を通した所である。調べれば調べる程新しい問題にぶつつかる樣である。其一二を記して見る。
    渡守《わたりもり》船渡せをと呼ぶ聲の至らねばこそ楫の音せぬ  第十卷秋雜歌七夕の中
 非常に複雜な光景を斯の如く單純に現してゐるのに敬服する。「至らねばこそ」大きな威力となつて全對を統一し、且つ、天の川の幽かな夜の光景を充分に活躍させてゐることに注意させられる。斯樣な詞や句によつて歌を統一し活躍させるといふ事は技巧の問題であると共にそれは單に伎倆《わざ》、手並《てなみ》といふやうな技術上の問題だけではない。眞に強力なる鋭敏なる主觀が働かなければ夫れ丈けの技巧を要求せず、夫れ丈けの手並を生み出さぬことである。技巧の問題を單に手際や技術として取扱ふ人には作歌動機の充實といふことが本當に分つて居ないか、然らざれば主觀の強さ鋭敏さの缺如してゐる人である。
    朝顏は朝露おひて咲くといへど夕陰にこそ咲き益りけれ  第十卷秋雜の中
 複雜な時間を單純に現してゐる。句法が暢達して心地よき迄に響きあつてゐる。前句の表現によつて、第四五の結句が如何に生動してゐるかに注意すべきである。それには殊に「咲くといへど」の句法に現れた力が大きな關係をなしてゐることに注意すべきである。此歌を朝と夕の對比と解する人があるかも知れぬが夫れは淺い解し方である。
    夕されば小椋《ヲグラ》の山に臥す鹿の今宵は鳴かず寢ねにけらしも   第九卷雜歌
 長い時間の聯鎖と響き合つて現在の靜寂に奥行を加へてゐる。「今宵は」の句自然にして千鈎より重し。第一二三句も斯樣な場合に極めて適切である。第一句より第四句まで一氣に續いて第四句切り第五句切り。
 萬葉集の作者が長い時間や複雜な事象を統一して如何に奥行ある歌を作つてゐたかを知るには茲に擧げた二三の例では勿論不足である。私は今斯樣な方面からも萬葉集を調べて見たいと思つてゐる。
    渡津美の豐旗雲に入日さし今宵の月夜清く照りこそ   卷 一
    赤根刺《あかねさす》紫野行き標野《しめの》行き野守は見ずや君が袖ふる  卷 一
 「さし」「行き」の如き中止法の句法が歌を活躍させる場合も萬葉集で注意させられる所である。此二つの歌の如きは最もいい例である。
    わが宿のけ桃の下に月夜さし下心苦《したなやま》しもうたてこの頃  卷 十
 の「月夜さし」迄は序詞であるが中止法から響く感じは矢張り前の歌に類してゐる。この歌第一二三句の序詞が如何に「下心若しもうたてこの頃」としつくり沁み合つてゐるかを思へば有難き程の歌である。
    大業山霞棚引き小夜ふけて吾が船|泊《は》てん泊《とまり》知《し》らずも  卷 九
 歌柄が大きい。こんな複雜な場合を歌ひ乍ら少しもこせつかず朗々として澄み透つた響を成してゐる。「棚引き」の中止法なる事。弖仁波の使用少き事。
    秋の野にやどる旅人打靡きいも寢《ぬ》らめやも古おもふに  卷 一
    引馬野に匂ふ榛原人り亂り衣にほはせ旅のしるしに  卷 一
    鳥總《とぶさ》立て足柄山に船木伐り樹に伐り行きつ可惜《あたら》船材《ふなき》を  卷 三
    久方の天行く月を綱に刺しわが大君は蓋《きぬがさ》にせり  卷 三
    珠藻苅る敏馬《みぬめ》を過ぎ夏草の野島の崎に船近づきぬ  卷 三
    大船に眞梶|繁貫《しじぬ》き大君のみこと畏み磯廻《いそみ》するかも  卷 三
    天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎかくる見ゆ  卷 七
    磯の上に爪木《つまき》折り焚き汝がためと吾が潜《かづ》き來し沖つ白玉  卷 七
 中止法の例歌の中から少し茲に書き拔いて見た。このうち第一の歌から第四の歌までは第三句が中止法になつてゐる。そして第一の歌から第三の歌迄は格調が特に大へん似てゐることに氣が付く。第五の「珠藻苅る敏馬《みぬめ》を過ぎ」の歌第二句が殊に六音の中止法になつてゐて、結句が「二五音」の素樸にして重々しい調子になつてゐる事は、私には非常に有難いことである。
    大船をこぎの進みに岩にふり覆《かへ》らばかへれ妹に依りてば  卷 四
    橘のもとに道踏み八衢に物をぞ思ふ人に知らえず  卷 六
    丈夫《ますらを》の弓末《ゆずゑ》振り起し借高の野べさへ清く照る月夜かも 卷 七
 これ等の中止法は皆序詞の場合であるが、序詞の研究には此中止法が大切な位置を占めてゐる觀がある。(五月二十一日夜)
                           (大正四年「詩歌」八月號)
 
     山上憶良の事ども
 
 山上憶良は六十九歳で妻を喪つてゐる。さうして妻を喪つた年に近いと思はれる頃子が生れてゐる。七十四歳の時自分の重病を悲しんだ歌に「年長く病みしわたれば、月かさね憂ひさまよひ、異事《ことごと》は死ななと思へど、五月蠅なすさわぐ子どもを、棄《うつ》てては死には知らえず、云々」とあるのを見ると棄てては死なれぬといふ子どもは、餘り成長してゐる子どもでないことが分る。或は妻の亡後即ち七十歳頃更に妻を娶つて子を生んだのではないかとさへ思はれる位である。幼兒古日を喪つたのは憶良の何年であるか。萬葉集卷五の憶良の歌は殆ど編年體に編輯されてゐるが、その終りに前掲の七十四歳重病を悲しむ歌があつて、次に古日を悲しむ歌三首が載つてゐる。その中に「夕星《ゆふづつ》の夕になれば、いざ寢よと手を携はり、父母も側《うへ》はな離《さか》り、三枝《さきぐさ》の中にを寢むと、愛《うる》はしく其者《し》が語へば」とあるのは、明に妻の生存してゐる證據である。之を編年體歌卷の順序に從つて、七十四歳頃の歌とすれば、生存してゐる妻は彼の六十九歳後に娶つた後妻である。六十九歳以後に後妻を娶つて居らぬとすれば、古日を悲しむ歌は、編年體に編輯された歌の卷尾に、只一つ餘分に取り添へたものになる。如何にして此歌だけを餘分に取り添へる必要があつたかを契沖は考へて「今按神龜年中に憶良のよまれたるを、選者類を以て此に載する歟。其故は上に憶良の妻は神龜五年死せられたるに、今の歌に、父母も表《うへ》はなさかり、三枝の中にを寢むとあればなり。神龜五年は憶良六十九歳なれば後妻を迎へらるべうもなし云々」としてゐる。前の重病を悲しむ歌と同じく哀傷の歌なるが故に、「類を似て此に載する歟」と考へたのである。これも一つの見方であるが「神龜五年は憶良六十九歳なれば後妻を迎へらるべうもなし」は常識論として穩當であるが、それが眞に憶良に當て嵌まるか否かを考へて見る餘地がある。兎に角、憶良は七十歳前後、少くも六十歳ずつと以後に子を設けてゐるのは確かである。之に依つて、彼が、古代の男としても體力の旺盛な方であつた事を推測し得るのである。又「沈痾自哀文」の中に「四支不動。首節皆疼。身體太ダ重。猶シレ負フガ2鈞石ヲ1」とある。「猶負鈞石」は病氣で體を動かすに大儀なのを言つてるのだらうと思はれるが、憶良の體が肥大して居た事を想像し得るとも取れる。四肢の動かぬのは中風症であつたかも知れぬ。或は百節骨疼むと合して僂麻質斯症であつたかも知れぬ。或は一身に兩症を兼ねてゐたかも知れぬ。中風症の人には體の肥大した人が多い。斯樣に考へて來ると、憶良は筋肉の大きい脂肪の多い體力の旺盛な人であつたかと思はれるのである。斯樣な種類の人は、大抵の場合、元氣が盛んで神經が麁大である。憶良の歌は赤人の歌の樣に神輕が微細に感情が濃やかにいつて居ない。その代り元氣が充滿してゐる。只、人麿のように渾然化成されてゐない。時勢を慷慨して詠んだ歌には特に斯樣な所が目に付く。有名な貧窮問答、令反惑情の長歌や反歌の如きが夫れである。只、斯の如きの憶良が、自分の妻や子供に對し、若くは自己の病氣等に對する時の歌は、多く渾一化成の觀がある。これは人が違ふのではない。事象に對する態度が違ふのである。歌は思想を盛る器ではない。心の態度を示す氣息である。歌の値打を定むるものは歌に現れる思想ではない。事象に封する專念一途の態度である。憶良の歌を見れば、此關係の兩端が明瞭に相對立して我々を啓發するといふ感がする。
 憶良が大寶元年に初めて遣唐少録といふ微官となつて、栗田眞人の渡唐に扈從したのは四十二歳の時である。歌人である彼が四十二歳まで歌を作らなかつたとは想像出來ない。夫れが世に傳らぬのは殘念である。彼の歌が歸朝後漢籍佛典の新智誠に累ひされて、不消化な思想的のものを歌つて、觀念的な歌ひ振りになり、道學的の歌になつてゐるのに對して、渡唐以前の歌が遺つて、夫れと對象されたらば興味多き現象であらうと思はれる。渡唐以前の歌が、貧窮問答、令反惑情の類の歌に系統を引くか。悲傷亡妻、罷宴時歌。老身重病思兒等の歌の類に系統を引くか。若くは其何れにも系統を引くかを知り得るのが興味多いと思ふのである。
 憶良は遣唐少録となつた時は無位であつた。和銅七年に正六位下から從五位下に進んでゐる。その翌々年靈龜二年に伯耆守となつた。夫から六年を經て、養老五年には、退朝の後東宮に侍せしむるといふ詔が下つてゐる。この頃までの歌も多く傳はつて居らぬのである。傳はつて居るのは、聖武天皇の神龜年間に(契沖は神龜三年としてゐる)筑前守となつて筑紫に渡つてからの歌が多いのである。萬葉集に出てゐる歌、特に憶良の家集として目さるる萬葉集卷五の歌は多く此時代の歌である。筑前には、此時丁度大伴旅人が太宰帥となつて赴任して居つた。兩人共邊土に相會して、宴席の間に羈情を慰め、不平を遣つた事が多い。そして兩者の歌が互に影響し合つた事も自然の數である。實に憶良と旅人の歌は、觀念的な點に於て、神經が太く働いてゐる點に於て、歌ひ振が較々粗い點に於て相似通つてゐる所がある。斯くして、貧窮にして志多く、※[車+感]軻にして不平多かりし老歌人は七十四歳(天平五年)若くは夫れより餘り多からざる年齢を以て筑前の客地に長逝したのである。
                    (大正六年十月「アララギ」第十卷第十號)
 
    萬 葉 集
 
 萬葉集開卷第一に
    籠《こ》もよ 御籠《みこ》持《も》ち 掘串《ふぐし》もよ 御掘串《みふぐし》持ち この丘《をか》に 菜摘《なつ》ます兒《こ》 名告らさね 虚見津《そらみつ》 大和《やまと》の國は おしなべて 吾《あれ》こそ居《を》れ 敷《し》きなべて 吾《あれ》こそ座《ま》せ 我《あ》をこそ 背《せ》とし告《の》らめ 家をも名をも 
といふ雄略天皇御製の歌あり。籠をもち掘串もちて岡の上に菜摘める少女を誘ひ給へる御歌なり。古へ女性の男性に許すときその姓(家)名を男性に告ぐるの習はしなれば、我をこそ背として汝の家をも名をも告げよと歌はせ給へるにて、天皇御自身より、我は大和を敷き竝べ知ろし召せる天皇なりと打出で給へる積極的態度まことに雄略天皇の男性的御氣稟の獨特なる現れにしてめでたしともめでたし。既に御自身の身分を打明け給へるにつぎて、直に息をもつがせぬ勢もて、「我をこそ背とし告らめ、家をも名をも」と一氣に詠み進み給へる御歌の力由々しとも由々しと申すべし。この歌さる人の如何あらんと故子規に問ひしに、子規はこの歌の優れたる所分らぬやうにては萬葉集の歌は分らぬなりと答へたる由。勿論の事なり。
 さて古の天皇は現人神と生れ給へる尊き身分に在しながら偶ま途上邂逅の少女に御歌を詠みかけさせ給へるなど平氣にてあらせりれしと見ゆ。天皇も怪み給はず人民も怪しみ奉らざりければこそ、萬葉集編者も平氣にて開卷第一に泊瀬朝倉宮御宇天皇代、天皇御製歌として載せ奉りたるなれ。今時の人より見ば怪しからんも必しも怪しむべきにあらず。古今習俗の相違なりと言はば夫れもさることなれど、夫れのみの説明にて此御歌を見すぐさんこと予の爲し得べき所にあらず。その故は、我國は神代より一家族の發達せる集團にして君民の間相藏するところなし。さる眞相が斯の如き御歌によりて一層鮮かに我等の實感に觸れ來るを覺ゆればなり。夫れ眞に相信じ相愛するところ、巨細長短皆披瀝す。披瀝して憾みとする所あるは相信じ相愛すとなす所に憾みあるなり。憾みとする所なき披瀝自在にして敢て或は扞背する所なし。我等が此御歌を拜誦して君王に對する親しみをこそ感ずれ、臣子としてのこちたさを感ぜざるは、偶ま以て國體の基調が其一斷面を斯の如き御歌に現し君民融會の情自らにして至るを覺ゆるが故なり。國體の根柢を窺はんとするもの斯の如きに著目するを忘れなば、形を解して状を解せざるの弊に陷らん。現に上古より萬葉集時代に至り斯の如く君民融會の境にありて臣民は天皇を以て皆現人神と信じ、高光る日の御子と信じたるは融會彌々深くして皇室尊崇の念彌々固かりしを證し得べし。柿本人麿は
    大君は神にし在《ま》せば天雲《あまくも》の雷《いかづち》の上に廬《いほり》せるかも
と歌ひ、置始東人《おきそめのあづまひと》は
    大君は神にし在せば天雲の五百重《いほへ》が下《した》に隱《かく》り給ひぬ
と慨きしが如き、皇室を以て神の現住となしたる、萬葉集廿卷を通じてその精神皆同じ。
 持統天皇は、その頃語部の種類なる忘斐嫗《しひのおみな》に對して
    否《いな》と言へど強《しふ》る志斐《しひ》のが強語《しひがたり》此頃聞かずて朕《あれ》戀ひにけり
といふ御歌を賜れり。志斐《しひ》は之に對し奉りて
    否と謂《いへ》ど語れ語れと詔《のら》せこそ志斐いは奏《まを》せ強語《しひがたり》と宣る
と和《こた》へ奉れり。もう聽き飽きたり。否《い》やなりといへど、強ひて聽き給へと語りつづくる志斐嫗の強ひ語りを、此頃久しく聽かずして戀ひしくなれりといふ御製の意なり。これに對し奉りて、志斐は、私こそもう語ることは否やなりと申し上ぐれども、猶陛下が語れ/\と宣らすればこそ私は物語申し上ぐるなれ。夫れを陛下は強ひ語りと仰せらるるは酷《ひど》し。と和へ奉れり。君臣の情誼和※[日+句/れっか]春の如く、畏けれども心同胞の如し。斯の如きを以て日本人の皇室に對して抱ける神人觀念と馳背すとなすものあらば、形を知りて情を知らざるの迂學者なり。
 聖武夫皇の西海節度使藤原|宇合《うまかひ》に大御酒《おほみき》賜へる御歌
    食《を》す國の 遠の朝廷《みかど》に 汝等《いましら》し 斯く退去《まか》りなば 平けく 吾《あれ》は遊ばむ 手抱《たうだ》きて 我《あれ》は御座《いま》さむ 天皇《すめら》朕《わが》 高嚴《うづ》の御手《みて》以《も》ち 掻《か》き撫《な》でぞ 勞《ね》ぎ賜ふ 打|撫《な》でそ 勞《ね》ぎ賜ふ 還り來む日 相飮まむ酒《き》ぞ 此|豐御酒《とよみき》は
      反  歌
    大夫《ますらを》の行く云《ち》ふ道ぞ凡《おほろ》かに思ひて行くな大夫《ますらを》の伴《とも》
 帝王の氣宇、王者の尊嚴、君臣の情誼、渾化巨璧となつて現るるの觀あり。食す國の遠の朝廷《みかど》はここには西海の太宰府鎭守府等なり。汝臣子等往きて西海を鎭せば、平けく吾は遊ばん拱手して吾はいまさん。と臣子信頼の御心を傾け盡し給へる、劈頭斷じ給ひて巨磐を置くよりも重し。況や句勢直ちに轉じて「すめら朕《あ》が高嚴《うづ》の御手以ち、掻き撫でぞ勞ぎ賜ふ。打撫でぞ勞ぎ賜ふ」と歌はせらる。氣象宏濶、情思深到、聲調亦博大莊重にして帝王の氣自ら磅※[石+薄]す。汝等任畢へて還り來らん日復び相會してこの豐御酒を飮まんと宣はせらるるの結句「相飮まむ酒ぞ」と斷ち、「此の豐御酒は」と累ぬるの句法、帝王の威と相待ちて重きこと磐石の如し。盛世の氣を帶べる御歌斯の如きあるを外にして何れに吾が國體の眞諦を繹ねんとすべきぞ。大凡我が國體の淵源を繹ぬるに、原據として倚るべきもの典籍に於て古事記あり、日本書紀以下六國史あり。之等の古典が我國史の經を大成するに貴重なるは論なしと雖も、之が緯を成すに於て必須缺くべからざるものは實に萬葉集なり。萬葉集に現るるもの最古も仁徳を上らず。多くは近江朝前後より藤原奈良時代の歌詠に係れり。採録する所帝王あり皇妃あり輔相あり將軍あり群臣あり庶民あり。男性女性東西南北邊陬率土の歌詠悉く之を網羅する所宛然上古に於ける一大民族歌集なり。夫れ歌詠は事を語らずして情意を語る。事を語るは條理に於てし、情意を語るは衝迫に於てす。衝迫は必至に動き、必至は眞實より生る。我朝原據諸史が多く國體の來歴を説くは條理によりて變移の徑路を明にするなり。萬葉集が上古帝王民人の情意を語るは上古帝王民人の衝迫必至の聲を傳ふるなり。歌謠は眞個僞らざる至情の聲にして、同時に宛らなる全人格の露出なり。吾人が萬葉集の歌を誦する時吾人の口は萬葉人《まんえふびと》の口に合し、萬葉人の聲に合し、萬葉人の氣息に合し、萬葉人心臟の鼓動に合するに於て、上代吾人祖先の心に合し、その全人格に合するを得るなり。情意に即いて條理を知らざるは迂なり。條理に即いて情意を知らざるは疎なり。國史を知つて萬葉集を知らざるもの、いかで我國體の眞諦に接し吾人祖先の眞の生命に觸到し得べき。
 額田女王《ぬかだのおほぎみ》の天智天皇に從ひて近江國に下り給へる時御歌あり。
    味酒《うまさけ》 三輪の山 青丹吉《あをによし》 奈良の山の 山の間《ま》ゆ い隱《かく》るまで 道の隈《くま》 い離《さか》るまでに 委曲《つばらか》に 見つつ行かむを 數々《しば/\》も 見|放《さ》かむ山を 情《こころ》なく雲の 隱《かく》さふべしや
       反  歌
    三輪山を然《し》かも隱すか雲だにも情《こころ》あらなむ隱さふべしや
 大海人皇子と相思の間にあらせらるるの状察しまつるに餘りあり。情意聲調相須つて激越人に迫るの力を具備し給ふ。歌の威力は斯の如きに感得せらる。王朝以後の歌形式に墮して眞情を疎外す。男性の歌詠猶この御歌の力に及ばざる遠し。八代集以下比々として悉く然り。萬葉集を以て叫びの聲なりとすれば、八代集以下は挨拶の聲駄洒※[さんずい+麗]の聲なり。上古吾人祖先の眞の情意に接し得べき歌集に唯一萬葉集ありて、八代集以下なき所以なり。萬葉集の我國に尊きこと之に於て彌々加はる。
 額田女王更に御歌あり。
    茜根刺《あかねさす》紫野《むらさきぬ》行き標野《しめぬ》行き野守《ぬもり》は見ずや君が袖|振《ふ》る
 天智天皇蒲生野に遊獵し給へる時、女王の大海人皇太弟に邂逅し給ひし時の御歌にして人口に膾炙する所、前の三輪山の御歌の激情的なるに比し、火の如き情熱を深藏して、愼ましく苦しく微かなる御心もて詠み給へるさま、宛ら詞句聲調の上に現る。激情的なるべきに激情の波動を傳へ、愼ましくひそかなるべきに愼ましくひそかなる波動を傳ふるに於て歌の生命はじめて活躍す。額田女王の御歌の如き萬葉集中に存するもの悉くこれ生命の波動ならざるはなし。之は額田女王の御歌に對して奉るべき評語にして同時に又萬葉集二十卷の歌すべてに推し得べきの評語なりとす。
 近時萬葉集研究の聲所在に起る。即ち數例によりて愚見の一端を披き、説を長野縣教育者諸君に待つ。
                       (大正七年「信濃教育」四月號)
 
   萬 葉 調
 
 歌の調を外形的に見る人は、萬葉調を「けるかも」調だと思ひ、古今調を「べらなり」調だと思ひ、明星調を「行きませな」調だと思つてゐる。我等は調を内向的に解するからして、萬葉調を萬葉人の氣魄の現れであると解し、古今調を大宮人の生ま温るき氣分の現れであると解し、與謝野鐵幹氏與謝野晶子氏の流行させた歌の調子を、今代に所謂新しき人々の放縱氣分の現れであると解してゐる。放縱氣分も微温氣分も意志の強さを有ち得ざるに共通して、何れも萬葉人の魄力の前に一※[口+據の旁]に吹き飛ばさるべき底のものである點に於て、古今調も明星調も、萬葉調に向つては、ひよろ/\の弱武者に過ぎぬと我々は信じてゐるのである。
 我々の萬葉調を尊信するは、萬葉人の意志の現れを、尊信するのである。強き意志の現れであるが、夫れが既に一の現れである以上、その現れは形を備へねばならぬ。形といふのでは足りない。形乃至響き乃至節奏である。萬葉集の歌の形乃至響き乃至節奏を總稱して萬葉調といふのである。さうして夫れは萬葉人の意志の現れであると共に萬葉の形である。形であると共に意志である。この兩者の分つ可らざる關係は前號に於て之を述べた。世には萬葉集の形を云爲するを以て迂なりとするものがある。形を單に外殼として見るものには夫れでいい。形が内面の現れであることを解してゐる徒には、形を言ふは即ち意志を言ふのである。目指す所の意志を言ふを知つて現るる所の形を解せざるは、形を解せざると共に意志を解せざるものである。その徒の言ふところの意志は、形なき意志にして、藝術の上にぶらつく幽靈の意志である。
 「けるかも」を用ひて萬葉の氣魄に遠いものがある。これを吾々は萬葉調と言はぬのである。附和雷同の「けるかも」がこの領分に踏みこむのは、初めより然るべきところである。吾々が歌を鑑賞する場合、未だかつて「けるかも」であるかないかなどといふ詮議立てをしたことはない。直に萬葉人の氣魄を具へてゐるか何うかを見るのである。その呪力は歌の形乃至響き乃至節奏となつて現れてゐる。そこに形乃至響き乃至節奏についての言議が生れるのである。吾々の目指す萬葉調とは斯樣な意味を以て心と形が嚴密に合致し、そして夫れが強力なる意志を以て貫かれてゐるのである。
                  (大正八年五月「アララギ」第十二卷第五號)
 
 
    萬葉集一面觀
 
 貴族的和歌民衆的和歌といふやうな分れ方をしたのは古今集以後であつて、萬葉集時代の和歌は之を一括して民族的和歌と言ふ方が當つてゐる。古今集中の民衆的和歌と見るべき大歌所の歌や東歌、例へば
    わが門の板井の清水里とはみ人し汲まねばみ草生ひにけり   大歌所御歌
    近江より朝立ちくればうねの野に田鶴ぞなくなる明けぬこの夜は   同
    しもとゆふ葛城山にふる雪のまなく時なく思ほゆるかも   同
    阿武隈に霧立ちわたり明けぬとも君をばやらじ待てば術なし   東歌
    みさぶらひみ笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり   同
    甲斐が根を根ごし山ごし吹く風を人にもがもや言づてやらむ   同
等を取り出して、之を古今集の他の一般の歌と對比すれば、古今集の一般の歌が如何に貴族的であり享樂的であつて、夫れに對して東歌の如きが如何に截然と夫れ等と種類を別にしてゐるかが明瞭に分るのである。萬葉集になると、例へば當時の風俗歌的のもの
    事しあらば小泊瀬山の石城《いはき》にも隱らばともにな思ひ吾が夫《せ》  讀人不知
    稻つけば皹《かが》るあが手を今宵もか殿の若子《わくご》がとりで歎かむ  東歌
    戀ひつつも居らむとすれど木綿間《ゆふま》山かくれし君を思ひかねつも   東歌
等に現れた女性心理の集中と、
    おくれゐて戀ひつつあらずは追ひ及《し》かむ道の隈回《くまみ》に標《しめ》結《ゆ》へわが夫   伯馬皇女
    三輪山を然かも隱すか雲だにも心あらなむ隱さふべしや   額田女王
    かくばかり戀ひつつあらずは高山の岩根し枕《ま》きて死なましものを  磐姫皇后
 等の歌に現れた女性心理の集中とに何等の差別を置いて考へられないのである。即ち皇后皇女女王であり、田舍娘田舍女房であるといふ差別を通り越して、等しく日本民族女性心理の集中であるといふ點に於て一致してゐるのである。斯の如きは萬葉集中男女貴賤凡てに通じて言ひ得べきであつて、予の萬葉集を以て一大民族歌集であるといふ意は此點にあるのである。即ち萬葉集は上古日本民族全體の全人格的生産物であつて、その間に貴賤貧富男女老若の差別がないのである。更に之を言へば、萬葉集にあつては、賤者も賤者でなくて、只全人格的活動者であり、貴者も貴者でなくて同じく只全人格的活動者である。貴賤貧富老若すべての階級を通り越して、夫れが全人格的活動たるに一致してゐることが、萬葉集をして民族的心理の精髓を盛りたる一大歌集たらしめてゐるのであつて、單に各種階級の歌を輯收してあるから民族的歌集であるといふ意ではないのである。古代研究者の或るものは、文字傳來以後の日本文化をすべて輸入文化のうちに取り込めて夫れに貴族的文化の名を附し、更に夫れを演繹して萬葉集に貴族文學の名を冠らせてゐる人がある。斯樣な形式的な外觀的な取扱ひは、取扱者の便利であればあるだけ疎大になつて眞相から遠ざかるのである。
 萬葉集の歌にあつては、單に歌と歌との間に民族的共通の心理が現れてゐるのみならず、作者の實生活に於ても貴賤の差別を撤した共通的生活の行はれてゐることを看取し得るのである。此の事はアララギ一月號にも述べて置いた。雄略天皇が菜摘の少女に戀歌をおくり給ひ、持統天皇が志斐嫗と戲れ歌の贈答をせられ、聖徳太子が龍田山の死人を悲しみ給ひしを初めとして、當時の貴族と人民との間に階級の撤せられたる交通のあつたことは集中隨所に例を擧げ得るのである。
 萬葉時代の貴族は貴族にして貴族でない所を多く持つて居たのである。夫れが古今集になると、貴族ならざるものも貴族的の享樂心理を多く持つてゐたのである。夫れ故偶ま古今集中に東歌の如きものが交じると、異樣な對照になること前述の如くである。日本の歌集に貴族文學若くは享樂文學の名を附するとすれば、夫れは古今集より初むべきである。
 近頃日本にはデモクラシーの思想が行はれて、夫れが産業上には労働者の自覺運動となり、政治上には普通選挙運動となつて現れてゐる。彼等の爲す所を見るに、列をつくり旗を立て叫喚したり怠業したりする。勞働者は一騷ぎする毎に賃金の幾分を多くして、勞働時間の幾分を減少することが出來る。賃金を増し時間を少くして得る所は多く作業の停滯である。故如何となれば、彼等の自覺なるものは多く物質觀的であつて人格的でない。資本家に對して人格的對等の自覺を呼び覺すでなくて、只賃金を値上げすることを要求する。賃金の値上げ甚だ御尤もであるが、彼等の要求が充された時彼等の人格的自覺は依然として舊の如くである。彼等は金を多く得ると共に作業を怠る。金が懷にあるうちは作業に手をつける必要を生じないのである。彼等は眞に人格的に目覺めてゐない。夫れ故に彼等は享樂的資本家に對して、汝の手を懷より出せ。これがすべての人類の神聖な天分であると叫ばない。彼等は資本家の手の懷にあるを責めつつ、自分の手をも成るべく多く懷に置かんと希ひつつある。賃金を多く得れば今迄よりも多く手を懷に入れることが出來る。勞働者の自覺運動がその手を多く懷に入れ得ることに歸著するならば、彼等の自覺運動は要するに一種の貴族化運動である。普通選擧の結構なるは天下誰も異議ない所である。只普通選擧は形式であつて内容ではない。普通選擧運動を起して旗を立て行列を作つて叫喚する人々が、普通選擧の形式を求めて内容に如何程の人格的自覺を持つてゐるかを知らない。今日の政治の積弊が普通選擧によつて救はれたら大したことである。彼等の運動が享樂的政治階級に對して同じくその仲間入を要求するに止らずんば幸である。
 大正時代にあつて民衆的自覺は往々にして民衆の貴族化を意味する。萬葉集にあつては貴族が却つて民衆的である。この對比は今の作歌者に對してよい參考になるのである。二十世紀の文明は物質觀の根柢に必要とするものを缺いた。大正の自覺運動に同じく必要とするものを缺いてゐるのは餘儀なき趨勢であるといへば夫れまでである。今日の歌人は古今集以來の貴族的和歌を打破つた新しき自覺者である。この自覺者が自己生活に求めつつあるものは何であるか。その求むる態度は縱令ひ旗行列の態度に異なるとも、萬葉人の集中態度に比して如何なる對比をなすか。物質的享樂の波は往々にして新しき歌風の上に起伏する。夫れを大正の時代精神から見て何の現象となすか。書々の進むべきは一途に只萬葉道であらねばならぬ。
                    (大正九年四月「アララギ」第十三卷第四號)
 
   雄略天皇御製長歌
 
     泊瀬朝倉宮御宇天皇代《はつせのあさくらのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》
       天皇御製歌《すめらみことのおほみうた》
    籠毛與《こもよ》 美籠母乳《みこもち》 布久思毛與《ふぐしもよ》 美夫君志持《みふぐしもち》 此岳爾《このをかに    》 菜採須兒《なつますこ》 家告閉《いへのらへ》 名告沙根《なのらさね》 虚美津《そらみつ》 山跡乃國者《やまと    のくには》 押奈戸手《おしなべて》 吾許曾居《われこそをれ》 師吉名部手《しきなべて》 吾己曾座《われこそませ》     我許曾者《われこそは》 背齒告目《せとしのらめ》 家乎毛名雄毛《いへをもなをも》
 〔文字及訓〕  ○籠毛與《こもよ》の訓仙覺點による。代匠記の籠をかたみと訓み、僻案抄のかたまと訓みし以來眞淵等の之に從ひしは取らず。五五音四七音五六音等を重ねたる古樸なる長歌の初句に三四音心地よく据れるを訓み換ふべきにあらず。籠を古言こと言ひしこと古義に詳説せり。○美籠母乳、美夫君志持の美籠をみご、美夫君志をみぶぐしと訓める考説を取らず。初四句の清濁代匠記に據る。○岳ををかと書くこと集中例多し。○菜採須兒を古來なつむすこと訓みて菜《な》摘《つ》む賤女《すこ》なり(考曰、須兒の須は志豆《しづ》を約めたる言にて賤女《しづこ》なり云々)と解きしを宣長(玉の小琴)なつますこと訓みてつますをつむの延音なりと斷じたるはいとよし。後世皆之に從へり。○家告閉《いへのらへ》は古本みな家吉閑にて仙覺點拾穗皆|家吉閑《いへきか》と訓み代匠は「家キカは、家をきかせよなり。按ずるに此集多分呉音を用ひたれば、家キケとよみて、家きけよと心得べきか。來《こ》よと云べきを、こ」とのみもよめば、きけよといはざれど、語勢しか聞ゆるなり。常にも言ひ聞かせよと云ことを、云きけよと申めり。きかとよみては事足らぬやうに侍り」と説きたるは吉閑二文字保存説中尤も進みたる説なり。僻案抄には、家吉閑名《いへきかな》、告沙禰《つげさね》とも家吉閑《いへきかむ》、名告沙禰《なのりさね》とも考へ、明治に至りて木村正辭は明瞭に吉閑をキカナと訓み、その著萬葉集字音辯證に「閑は韻鏡第二十一轉山攝の字にて漢音カヌなれば、奈行の通にてカナと轉用すべし。國名の信濃の信《しぬ》をシナ、因幡の因《いぬ》をイナ、郡名の引佐《いなさ》の引《いぬ》をイナ、雲梯《うなで》の雲《うぬ》をウナ、などにあてたると同例なり」とて「此訓は己れ始めて考へ得て云々」と言へり。按ずるに閑字を假字に用ひしこと集中に例なく記紀風土記等にも例なし。閑字の誤字なるを想像すべき第一證なり。家吉閑《いへきかな》、名告沙根《なのらさね》は初句の主格作者にあり。次句の主格對者たる少女にありて兩者の間勢一貫せず、歌全體の表現甚だ端的なる中に斯の如く曲折せる表現を局所に挿みて疑はざる如きは古歌の眞髓に徹して訓する所以にあらず。是れ閑字の誤字なるを想像すべき第二證なり。考は吉は告、閑は閇の誤寫にして家告閇《いへのらへ》なりと訓めり。古義は吉は告、閑は勢の誤字にして家告勢《いへのらせ》なり。閑勢二字草書字體相似たりとて其字形を掲げたり。古義の家告勢《いへのらせ》と訓みたるは最も古歌の心に合へれど閑勢二字の聯絡餘りに牽強に近し。或は閑は齊字草體の誤寫か。然らば家告閑は家告齊《いへのらせ》なり。(土屋甚二郎氏より神武紀に伊齊能于※[さんずい+彌]能《いせのうみの》)の用例を報じ給へり。御好意を感謝す)或は閑は穿にして穿は※[穴/牛]に近く※[穴/牛]は牢と略する例多く、※[穴/牛]の草體閑の草體に似たるを以て※[※[穴/牛]の草書]※[閑の草書]相誤りて寫したるか。然らば家告閑は家告穿《いへのらせ》なり。或は又閑は米の誤爲にして米字草體の初劃を較々大きく劃すれば、閑の草體に似たりとも考へ得べし。然らば吉閑は告米《のらめ》にして此長歌末句「背とし告らめ」に相應ずべし。暫く考の説に從へども猶考ふべし。閇は閉の古體なり。閉の假字集中にも風土記にも見ゆ。閑は閉の誤字なりとも言ひ得べし。凡そ萬葉集を訓むもの、餘りに諸寫本の誤記を説いて私に文字を改竄するものあり。この事輕擧に出づべからず。然れども古事記傳に「萬葉の書法《かきざま》は、まさしき假字の例には云がたき事あり。なほ種々《くさぐさ》あやしき書《かき》ざま多ければなり」と言ひし如く、漢字を假りて邦音を寫すこと萬葉集の如く複雜なるはなく、且原本の成るまでにも幾何人の手によりて書寫せられしかを想像すべからず。更に之を筆寫せしといふ奈良朝以後諸本は、所謂萬葉假名に親まざる後人の手によりて爲されたるものにして、原本字體亦後世慣用の漢字に異れるもの少からざること萬葉集を一見する人の知る所なり。且現存古寫本と稱するもの佐々木信綱氏發見の天治本、萬葉集抄、元暦本十四卷のほか所謂桂萬葉(卷四零本)金澤萬葉(卷二卷四零本)藍紙萬葉(卷九零本)類聚古集(十六卷)古葉略類聚鈔(零本五卷)傳壬生隆祐筆(卷九零本)神田男爵所藏本、西本願寺舊藏本萬葉集(二十卷)仙覺本(二十卷)(詳しくは佐々木信綱著「和歌史の研究」を見よ。)等何れも平安朝末期より鎌倉時代に爲されたるものにして、天暦古訓の時を距るだに少くも百五六十年を經たり。是等諸本の筆寫に誤りなしとして考ふるを當れりとするか、誤りありとして考ふるを當れりとするか。事誼甚だ分明なり。已に誤寫あるを必せりとせば、是等諸本を枚合して訓點を施さんとするもの、單に古寫本文字の外形によりて取捨選擇をなすに止まるべきにあらず。古歌の心を得、古歌の髓に徹して古歌の感情と其生命の現るる所以を了得し、その聲調よりその句法より、句意字意相待つて之を考察せざるべからず。斯の如きは今人にありて至難とする所にして定本を得るの難き、懸つて此一點にあり。猶、試みに萬葉訓點につき古寫本誤記説を強ちに否定せんとするものに現存古寫本中最古の一にして書體亦正確なる類聚古集を取つて之を示さば思ひ半に過ぐるものあるべし。たとへば卷四中臣女郎贈大伴宿禰家持歌「狼《をみ》(娘の誤)子部四《なへし》歎《さき》(咲の誤)澤《さは》二《に》生流《おふる》花勝見《はなかつみ》都毛《かつても》不知《しらぬ》戀《こひ》裳《も》楷《する》(摺の誤)香聞《かも》」の如き、一首中明瞭なる誤寫二字あり。その他兩字顛倒脱字誤字擧ぐるに遑なし。類聚古集筆者の誤りか、底本の誤りかを分つべからず。其他諸本想ふべし。是等諸本を校合して新點を施したる仙覺律師の功勞想ふべし。訓詁の事徳川時代明治時代の考究を經て今日に至るといへども猶遠く相繼ぎて將來に及ぼすべきの大事なり。少くも古點前後の有力なる寫本世に發見せられざる限り強ち誤字説を排せんこと大成の所以に非ず。只濫考を愼むべきのみ。要は古歌の生命に徹して之を考察するにあり。考の家告閇《いへのらへ》と訓み、古義の家告勢《いへのらせ》と訓みたる、猶考ふべきの餘地あらんも、古歌の生命に接近せるに於て、家吉閑《いへきかな》の類を以て比すべきにあらず。訓点の事單に古寫本の字體校合を以て終るべからざる率ね此類なり。○名告沙根《なのらさね》古來|名告沙根《なつげさね》と訓めりと見ゆ。(類聚古集卷六第四十一葉表にも余名告奈をわが名告げすなと訓めり)代匠記|名告沙根《なのらさね》と訓む。○吾許曾居《われこそをれ》、師吉名部手《しきなべて》は古來師を居の下に附けて句切とし吾許曾居師《われこそをらし》と訓めりしこと仙覺本舊點引例によりて知らる。玉の小琴「本に居師と師の字を上の句へつけて、をらじ(し?)と訓るは誤なり。ここはをらしといひては語ととのはず、をれと訓べし。又吉の字を告に誤りて、つげなべて、のりなべてなどよむも、いかが、のりなべてと云こと心得ず、こは必吉の字にてしき也」と言へる良し。○吾己曾座《われこそませ》は古來「われこそをらめ」「われこそをらし」等訓めり。眞淵宣長等「われこそをれ」と訓み、守部由豆流雅澄等「われこそませ」と訓めり。○我許曾者《われこそは》、背齒告目《せとしのらめ》、仙覺鮎以下、許の下曾の字なくして許《こそ》と訓めり。曾の字を填めしなるべし。僻案抄には曾の字を挿入して訓み、考以下之に從へり。美夫君志に依れば、紀州本飛鳥井本等皆曾の字ある由にて諸本を引證せり。此二句の訓|我許者《われこそは》、背齒告目《せなにはつげめ》(仙覺季吟契沖)我許曾者《われこそは》、背齒告目《せとしのらめ》(東滿眞淵御杖)我許曾《わをこそ》(者は曾の誤りと説く(宣長))我許曾《わをこそ》、背齒告目《せとはのらめ》(守部由豆流)我乎許曾《あをこそ》(乎を脱字とし者を曾の誤りとす)背跡齒告目《せとはのらめ》(跡を脱字とす)(雅澄)我許曾者《われこそは》、背止齒告目《せとしのらめ》(止の字脱ちたりとす)(正辭)等古來さまざまなり。佐々木信綱折口信夫二氏は二句を合して「われこそはのらめ」と訓めり。是れ正辭の「元暦校本には者の字もなくて我許背齒告目とあり、又古葉略類聚妙に一訓をのせてワレコソハツゲメとあり。この訓元暦校本の文字とあへり。こは背の訓を借てソとし齒の訓を借りてハの假字としたるなり。これも聞えたり」と言へるに合へるものにして、佐々木氏の選釋にも「我許背齒」は元暦校本によれるよし記せり。
〔字義句義] ○籠毛與《こもよ》、籠は荒籠《あらこ》、炭籠《すみこ》、食籠《けこ》など多くに通ずる籠なり。毛も與も感嘆詞なり。兩者を聯ねて毛與と用ふること神代より萬葉時代までに多し。○美籠母乳《みこもち》、美は發語なり。意味なし。語調を整ふるためにみ山、み岬、み雪、み空などいへど異れる意味を成さず。只語調の整ひて、心緩やかに重々しく響くために稱美の意尊重の意を有する場合に用ひられ易し。御名《みな》、御門《みかど》、御子《みこ》、御幸《みゆき》、御執《みと》らしの梓の弓、大御身《おほみみ》等の如し。みに意味はなきなり。凡て語の音數を多くして發音を長くするは美辭尊稱の意を爲し易し。延音も然なり。詞句の繰り返しも此理に同じ。さる感情の發露を述ぶるに適するなり。此御歌、籠もよ、み籠持ち、と詞を繰り返したるも天皇の措く能はざる感情の發露にして、御親愛の御心詞調の上に直ちに現れていとめでたし。今時の人のには親し愛《かな》しなどいふ詞のみ多く用ひられて心熟せず。眞實なる心は、いとし、かなしなどいふ抽象的なる詞を要求する前に先づ直ちに感動の對象を捉へ、其對象と自己感情との交渉に徹して表現直ちに詞調の上に徹す。これ眞《まこと》なる心の動きなり。天皇が、籠を持ち掘串《ふぐし》もちて菜摘める少女に御心動きて、籠もよ、み籠もち云云とつづけ給へる御心ばへ、よく/\伺ひ奉るべきなり。此事猶つぎ/\に詳記すべし。○布久思毛與《ふぐしもよ》、美夫君志持《みふぐしもち》、ふぐしは掘串《ほりぐし》なり。和名抄に「唐韵」ニ曰フ、※[金+讒の旁]ハ犂鐵ナリ。又土具也。」代匠記に「ふぐしは鐵ならでも木にてもするものなり。俗には土掘子の三字を用て、ふぐせと云。しとせ音相通ず云々」とあり。古義に「この具《もの》は今も土佐國などにて即フグシともホグシともいへり。豐後國にて「ふぐし」といふもの、今もありて用ふるなりと、彼國の人の語りけるよし本居氏玉勝間にもしるせり。今越ノ國にては、海人のかづきにもつものを布具世といふとぞ」とあり。○此岳爾《このをかに》、菜採須兒《なつますこ》、岳は丘《をか》なり。「周禮註ニ云、土ノ高キヲ曰v丘、和名乎加」と和名抄にある是なり。山といふほどならぬ高所なり。此岳の「此」ありて帝と丘との關係近接するに注意すべし。「籠毛與、美籠母乳、布久思毛與、美夫君志持」と少女の動作を敍べしに續きて此字極めて活動す。帝の少女に對する切實なる心より自ら出でし詞なるを知るべし。莱採須兒《なつますこ》、「採《つ》ます」は「採《つ》む」の延音なり。兒は若き女を親しみ呼ぶ詞なり。卷七「住吉《すみのえの》、小田苅爲子《をだをからすこ》、賤鴨無《やつこかもなき》、奴雖在《やつこあれど》、妹御爲《いもがみためと》、秋田苅《あきのたかるも》」の小田苅らす「子」は男に用ひられ、「よち子」などいへば男女に通じ「背子」といへば專ら男に用ひらるれど多く女をよぶに用ひらる。古義は「採《つ》ます」の延音を敬語として「すべて言を伸ぶるは長く緩かにいふ時に用ることにてその長緩なるは即尊みていふ方なれば、採須《つます》の採み賜ふといふ意なるに準へて其餘をも意得べし云々」「さて天皇よりしてさる菜採女をさして、しかあがめたまはむは、ふさはしからず思ふ人もあるべけれど中々に後の世の意なり。すべて貴賤にかかはらず」人をあがむるは上古のふりなること、集中また中昔までもなほ歌詞にその風の遺りたること往々見えたるをや云々」といひ美夫君志も之と略ぼ同説を掲げたれど、延音必しも敬稱ならざること「美籠母乳《みこもち》」の條に附言せる如し。ここには音を伸べて語調を整へたるに少女を美はしみ親しみする心の現れたるなり。卷二「秋山之《あきやまの》、黄葉乎茂《もみぢをしげみ》、迷流《まどはせる》、妹乎將求《いもをもとめむ》、山道不知母《やまぢしらずも》」の「迷流《まどはせる》」も妻を親しみ惜《あた》らしみする心の現れたるなり。卷九、見2河内大橋獨去娘子1歌の中「直獨《たゞひとり》、伊渡爲兒者《いわたらすこは》」の「伊渡爲《いわたらす》」も親しみ美はしみする心なり。親しみの詞となり稱美の詞となり敬ひの詞となり愼みの詞となる皆その所に應じてのことなり。古體の情意を解せんとするもの麁大なる一定の解釋法を以て萬に當て嵌むるを能事とすべきにあらざるなり。○家告閉《いへのらへ》、名告沙根《なのらさね》、告閑《のらへ》は「告《の》れ」の延音、告沙根《のらさね》は「告《の》らせ」の延音なり。家を告《の》れ、名を告《の》れと重ねて急促切實の心を現せるなり。新釋に「家を告げよ名を告げよと言ふうちにも次の句よりも意味が強くなつてゐる。聊か急き立てるやうな詞になつてゐる。其の心の動きを見逃してはならぬ」といひて「かかる僅かな所にも韻文の精神が現れてゐる」といへり。此心を以て萬葉を解するにあらずんば散文を解するに近接せん。考に「古への女は夫《せ》とすべき人にあらでは、家も名もあらはさぬ例なること、集中に多く見ゆ」といへり。古義は更に其意を進めて「嫂《つまどひ》するにはまづその種姓《うぢのすぢ》を問ふことにぞありける。さて古へに名を告るといへるは、ただ一わたりに某と名ばかりいふにはあらで其の種牲のよりくるところまでをあらはすといふことなり」とて數例を引けり。然らば家は單に家屋にあらずして、家柄をも含むなるべし。新釋にも「御身の家柄はと問ふのである」と解けり。○虚美津《そらみつ》、山跡乃國者《やまとのくには》「そらみつ」冠辭(又枕詞)なり。神武紀に、饒速日命《にぎはやびのみこと》乘て2天磐船《あめのいはふねに》1而翔行大虚《みそらかけゆくときに》也※[目+兒]《みて》2是郷《このくにを》1而|降之《あまくだりぬ》、故《かれ》因目之曰《なづけたり》2虚見日本國《そらみつやまとのくに》1矣《と》とある以來諸説多し。略す。「やまとの國」は日本《ひのもと》にあらず畿内の大和なり。拾穗の仙覺解を引きて「日本國は皆是わが御座所なり」とある日本は原本「和國」(一本倭國)にして(やまと)なり。代匠記惣釋には「第一の雄略天皇の御歌と第十九の孝謙天皇の御歌によませ給へるは此國の總名におかせ給ふと見えたり」とて此大和を大八洲なる日本の意に解せり。考は「さてここにやまとと宣ふは今の大和一國の事ぞ、大八洲をやまとといふ事は此御時ごろには未だなかりしなり」と斷り後世皆之に從へり。(眞淵は猶冠辭考に、日本と書初しはいつの頃よりぞや、萬葉に一二首ひのもととよめる歌もあり、藤原の都の比よりやいひけむ。と説けり)檜嬬手に「さて此御時頃未だ大八洲を指して日本《やまと》といふ事はあらざりつれども山跡を知ると詔ふ御詞の中に、總國を押竝べて所知看《しろしめす》意おのづからこもりたり。次の四句の勢ひ此に對へて知るべし」とある、此大御歌の意に尤も適へり。○押奈戸手《おしなべて》、吾許曾居《われこそをれ》、「おし」は「月押し照れり」(卷八)「押して春雨降るなべに」(卷一)等の「押し」にて汎く行き亙る意なり。「なべて」は「竝べて」より轉じて「一般に」の意なり。汎く一般に亙りて我こそ居れと詔ふにて、國のすべてを知ろしめし給ふ意現る。代匠の「おし」を「食《を》し」(?)の意に取りて、「君臨の義なるべし」と説けるは當らず。古義新釋美夫君志の「なべて」を「令靡《なびかす》」に解したるも立入り過ぎたり。「禁樹押靡《しもとおしなべ》」「四能爾押靡《しぬにおしなべ》」などの「なべ」も「竝べ」より出でて靡くる意に轉じたるなり。此歌の「なべて」と同根にこそあれ、必しも同義と解するに及ばず。○師吉名倍手《しきなべて》、吾己曾座《われこそませ》、玉の小琴の「しきは太敷座、又敷坐國などいへるしきなり」とあるに從ふべし。一般に行き亙らす意にて統治の意に轉ぜり。すべて此句の意前句に同じ。同じ心なる句を、重ねて繰り返すこと長歌の體なれど、その體は已みがたき心の動きより自然に出でたる調べなり。此二句の繰り返しざま「虚みつ山跡の國は」よりはじまりてだしぬけに露《あら》はなるに殊に力あり。天皇の勇邁なる御性質躍如たりと申すべし。天皇親ら「座《ま》せ」とのたまふこと卷六聖武天皇の節度使に御酒を賜へる大御歌「手抱而我者將御在《たうだきてわれはいまさむ》、天皇朕《すめらわが》、字頭乃御手持《うづのみてもち》、掻撫曾《かきなでぞ》、禰宜賜《ねぎたまふ》、打撫曾《うちなでぞ》、禰宜賜《ねぎたまふ》云々」等に準へ心得べし。親ら安じて「座せ」と詔ふ御心と、途上菜摘の少女に戀歌を詠みかけ給ふ御心と相反くことなき廣き御心を仰望すべし。然る御心の眞實素直なるに對し奉りて「大王は神にし在せば」と信じて疑ふ所なかりし上古臣民の心を想見して皇室と國民との情誼を窺ふべし。國體の淵源を説くもの斯る點に注目せずば形骸を捉ふるに終るべし。尊嚴にのみ構へ成して尊嚴にはならず。現人神と申し奉れども人にています。庶人に通じたる御振舞ありてこそ親しみの心もまされ。それ如何で尊嚴を傷ひ給はんや。まことの尊嚴は却りて斯の如きより生れぬべし。今の皇室を説くもの形を整ふるに急にして眞髓を逸す。上べの作りもののやうに思ひ習はさんを恐るるのみ。○我許曾者《われこそは》、背齒告目《せとしのらめ》、家乎毛名雄毛《いへをもなをも》、我をこそ背として(齒《し》は強むる助辭なり。弖仁波若くは爲《し》の動詞にあらず)家をも名をも告げよかし。の意なり。「我をこそ」の意を明瞭ならしめんために宣長守部由豆流雅澄等「我《わ》をこそ」「我《あ》をこそ」と訓ましめつと見ゆれど、(前に掲ぐ)何れも無理多く調べ小刻みになりて、歌全體の調子に應はす。「八重垣をつくる」を「八重垣つくる」「妹をば忘らじ」を「妹は忘らじ」「玉手をさしまき」を「玉手さしまき」といふ等の常なるより推して此歌の急迫せる場合弖仁波「乎《を》」を省くほどの事韻文の常也。すべて御歌の意より推し奉るべし。「告らめ」の「告れかし」の意あることも考ふるに難からず。神代記忍坂の大室なる土雲を討給はんとせし時の歌の中「久米の子が、くぶつつい、石つつい持ち、うちてし止まむ」の「うちてし止まむ」にも對他的希望の意あり。應神紀、大山守命河に墮ちて浮び流れつつ歌ひ給ひし「ちはやびと、宇治《うぢ》の渡《わたり》に、棹取《さをと》りに、速《はや》けむ人し、我《わが》もこに來む」の「我もこに來む」も「我が許所《もとどころ》に來よかし」と希ふ意なり。仁徳天皇紀、舍人鳥山をして皇后を追ひ奉らしめし時の御歌「山背《やましろ》に、い及《し》け鳥山、いしけしけ、我が思ふ妻に、い及遇《しきあ》はむかも」の結句も對他的希望の意を含めり。さて此句を「我こそ背として家をも名をも汝(少女)に告げむ」の意に釋きたるは契沖にして、御杖これに同じ、正辭亦之に從へり。特に佐々木氏折口氏は元暦校本によりて「我こそは告らめ家をも名をも」と訓み、尤も明瞭に契沖の解意に合せり。抑も此歌の中心は少女に對する「家告らへ、名告らさね」の感情にして、結句に再びこれを繰り返して「我こそは」と、力をこめ、それを受けて「背とし告らめ、家をも名をも」と結びて家と名を告ぐるを促すこそ自然にして生動の趣を備へ感動の中核を歌ひ得つる心地はすれ。已に一旦「虚見津山跡の國は云々」と御身分を打ちあけ給ひし後に、猶、我こそは身分を告げめと結句して詔ふこと蛇足にして力拔けたる觀あり。歌柄全體の勢より察せざれば訓も意も斯の如き取りちがへを生ずることあるは前段にも詳説せり。新釋の「あれこそは、背とは告らめ、家をも名をも」と訓みて契沖解に合せしは如何にぞやと思はる。
 [大意〕 籠をもち、掘串をもちて此丘に菜を摘む少女よ。我に配《あ》はんため、汝の家を告げよ。名を告げよ。斯く言ふ我は日本を統治する天皇にこそあれ。我斯く白地《あからさま》に告ぐる上は汝もはやくその家と名を告げて我に從へよかし。とのたまふなり。按ふに、此大御歌先づ初めに「籠もよ、み籠もち、ふぐしもよ、み掘串もち」と詞を繰り返し句を重ねて少女の動作をのべ給へるに親愛の心滿てる心地す。少女を見給ひて動かしませる感動が斯く直接に現るること由々しきほどの事なり。殊にその感動を劈頭に提示し來りし御勢ひの極めて自然にして直接なるを想ふべきなり。「この丘に菜つます兒」の「この」が如何に少女と帝との關係を密接ならしむる力あるかは前陳の如し。かく少女を呼びかけ給ひしに直ちに打續けて「そらみつ大和の國は、押しなべて我こそ居れ、しきなべて我こそ座せ」と打出で給ひ、直ちに御自身の身分を打明け給へる御心ばへ極めて勇邁にして帝の御性質眼前に動くを覺ゆ。「われこそ座せ」と詔ひしにつきて字句解の條に一通り記しおけれど、猶此天皇の御製記紀に現れたるを見るに、例へば吉野行幸の折虻來りて帝の御臀を※[口+替]ひ、その虻を蜻蛉の齧ひし時の御製に「猪伏すと、誰が此事、大前に申す」「大君はそを聞かして」「玉纏の、胡座に立たし」「倭文纏の、胡座に立たし」「しし待つと、朕が在せば」「さゐ待つと、朕が在せば」などの類ありて何れも帝の率直勇斷なる御性質を伺ひ奉るに足る。夫れ等と相待つて「我こそ在せ」の語勢を考ふべし。さて斯く御身分を告げ給ひしに續きて、前の、家と名を告げよと詔らせし意を更に反復してこの少女を促し給へる急迫の御心情を想見すべし。
 一首の表現大膽にして自然に、勇猛にして情探し。新釋は之につきて「作者の個性が又如何にも明かに全篇に漲つてゐる點に注意せねばならぬ。み籠や、み布久志や、丘に菜を摘む少女やと言ふかと思へば、直ちに我こそは天が下を統治するものぞと、名のり出せる其猛斷勇邁の御氣性でなければ有得べからざる事である。一轉して其吾れこそは背とは告らめと、如何にもきび/\と思ひきりて云ひ出でたる此帝ならでは決して爲し得ない事である」と言ひ、又「大熱情的大猛斷的の御性格ある雄略天皇にして、始めて此歌があるのである。詩としての形式と内容と實に美を盡し善を盡して居る」と稱揚せり。選釋が「まして優美閑雅なこの御製を誦すると、何となくかの大和ののどやかな平野に演ぜられたオペラにもせまほしき歌の場面を眼のあたり見る心地がする」と評したるは此歌の價値を表面的に定めたるものにして、優美閑雅、のどやかな平野、オペラ、などの語にて此歌を評價し得と思ふは全體の聲調にも徹し得ざる鑑賞眼なりかし。(未定稿)
                    (大正十年一月「アララギ」第十四卷第一號)
 
    「萬葉集燈」について
 
 萬葉集燈の著者富士谷御杖は、徳川時代の古學者中特殊な立場を持つ學者であつて、系統を堂上歌學から引いた成章の遺子として、その特色ある古學を繼承し、眞に精到な學殖によつて、一家の見を成した碩學である。眞淵宣長等古學大成の後にあつて、猶彼の存在の炳かである所以は、それらの學者と分たるべき獨創の領分を多く有してゐるからであつて、その萬葉研究は、寧ろ、彼の極め得た神道觀を實證敷衍するを主とするに似てゐるけれども、それ以外に拓き得てゐるところが甚だ多いのである。
 燈の自敍文は、御杖死歿の前一年(文政五年、五十五歳)に書いたものであるから、御杖の萬葉研究は燈に極まつてゐると見てよからう。從つて燈を見ることによつて、御杖の萬葉觀の究極を窺ふことが出來るといつてよいのである。御杖が萬葉研究者中の一異色である時、燈はその特色を明徴すべき唯一無二の記録といふべきである。
 燈の特徴とすべきものは、おのづから二つあるやうである。第一の特徴は、前に言うたごとく、燈の解釋は他の多くの解釋と異つて、殆ど御杖自身の人生觀ともいふべき神道上の信仰を以て、凡ての歌を解かうと企ててゐる所にある。第二の特徴は、萬葉集に現れてゐる助辭の研究が非常に微細に透徹してゐるといふ所にある。
 御杖は、我國に言靈《ことだま》の幸ひがあることを信じてゐる。言靈の幸ひとは、神意の人を幸する道であつて、人の言が御意に通ずる時、はじめて幸が生ずるのである。御杖の説くところによれば、元來人の思ふ所爲す所は、善にもあれ惡にもあれ、必ずその中を得て居らねば神意には適はない。夫れゆゑ、我が國には、古來善に善祓あり、惡に惡祓がある。祓ふところなければ、善惡共妖氣にあたる。惡言に憚るところある如く、善言にも憚るところがなければならぬ。憚るところなければ同じく妖氣にあたる。この罪を祓ふところ、憚るところに倒語の道が生れて來る。倒語は直語の反である。祓ふところなく、憚るところなき言は直語であり、罪を祓ひ得たる言は倒語である。倒語とは所思を直敍せずして、隱約の間に思ふ所の現れるやうにあらしむる「告げざま」である。この直敍せずして隱約の間に籠つてゐる詞の心を知ろしめす神靈(八重言代主神をさす)を言靈といふのであつて、言靈の幸ひは、すべてこの倒語の道にのみあると信じてゐるのが御杖の幸福觀である。この言靈説を以て萬葉集すべての歌に當て嵌めようとするが燈の解釋の目的であつて「古來註書多けれども、ただ詞のうへをのみとけり。これもと歌は詞のうへに作者の意はありと心え、おのがよむにも意を詞につくし、實情を述ぶなどいふめるは、なにのより所ぞや」と言うてゐるのは、洛中にあつて蘆庵、景樹、畿外にあつて宣長、東國にあつて眞淵等の歌學に對抗するの概があるのであつて、神道觀言靈觀人生觀に對して信條を持つてゐる御杖としては、當然の言といふべきである。御杖の所謂倒語の説は、これを萬葉集の各の歌に當て嵌むるに至つて、理解必しも至れりといふべからざるも、當れるものは、譬喩心理以上に出て、往々高き意味の象徴に合し、然らざるものは上方風の偏りを帶びて、多く附會に墮ちる。これが燈の特徴の一であつて、かの高市連黒人の歌
    何所にか船はてすらむ安禮乃崎榜ぎたみ行きし棚無小舟  卷一
を以て、旅情郷思堪へがたき心より生れ出でたりとなせるが如きは、倒語説の剴切に入つた一例とすべきであらう。
 燈の解釋は助辭に於て尤も精到である。これは父成章の脚結《あゆひ》研究を繼承してゐるのであるから、自然に他の學者の追隨を容さざる所があるのであつて、予の燈より益を受けんとするは、この點を多しとするの感がある。例へば「は」はすべて物の目立つを歎くの脚結なりといひ、この「は」の用ひざまだけでも、後世人は知つて居らぬ。と歎いてゐるなどが夫れである。又例へば「かも」は、大かた、いかさまにおしあてても理のあてられぬ事ある時の歎也。されば上古は疑の加毛《かも》とひとつなりし也。と説いてゐる如き、若くは又「けり」は、常に異る事ある時にいふ脚結なり。と説いてゐる如き、その一二片である。之れを父成章の「は」は物を引わけてことわる心也。さる故に物を思ふ詞ともなれり。と説き「かも」については、凡、かな、かもは全同心の詞なり。目にも心にもあまれることを、先「か」と疑ひて、やがて「な」又は「も」とながむる詞なり。云々。とやうに説き、「けり」は萬葉に來とかきたれど、まことは來有の心也。即ち「き」の立居なれど「き」とのみよめるに比ぶれば、例の「なり」もじ添ひて心ゆるべり。「き」は人に近く相向へるやうにいへり。「けり」は同じく言ひ定めたる詞ながら、理にかかはれるかたが重くて、みづからいへる詞となれり。云々。とやうに説いてゐるのに比べれば、到達する所におのづから差等のある一端を知るべきである。今人、助辭の使用蕪雜麁大に流れてゐる時、燈五卷は斯樣な點に於て、纎細微妙な注意を呼び起すに足るのである。これが予の見た燈の特徴の二であつて、單にこれのみでも、今日の萬葉研究者に推奬すべきものであると思ふのである。加之、助辭解説の精到は、おのづから歌の解説の精緻となるのであつて、この點に於ても、他の未だ及ばざる所に至り得てゐるものが多いやうである。
 正岡子規が、明治歌壇に初めて萬葉復活を唱へて、古今集以下の勅撰集を斥けた聲は、初め響くところが狹くて、後漸く天下に流布するに至つた。今日、萬葉集の純文學としての價値批判、及び、それを中心とする研究の盛なるは、その因一に子規にある。研究の盛なるが必しも萬葉集の心を得ると言ひ得ざるも、多岐多端の研究が萬葉集信奉者に裨益する所は、樣々の意味に於て常にあるのである。萬葉集の研究書は、矢張り徳川時代に多いのであつて、夫れらのうち、特に研究上の權威となるべきものにして、未だ活字に組まれないものが可なり多い。中には、著者の自筆原稿のまま今日まで保存されてゐるに止どまるものさへあるといふ現状である。萬葉研究の聲盛なるに似て、未だ道を盡してゐないのである。それゆゑ、それら木版本、筆寫本、自筆稿本といふやうなものは、今日まで極めて少數範圍に限られた人々の參照に資せらるるに過ぎない有樣であつて、これむしろ、盛代の奇怪事とすべきほどのことである。既にこの燈の如きも、文政五年京都書肆出雲寺文治郎等によりて起版せられたに過ぎぬのであつて、今日何人も容易に手にすることの出來ぬものである。わが友橋本福松氏の今回これを公刊することを聞いて、取敢へず予の所見をアララギに公表して、大方に紹介し、推奬するのである。
                   (大正十一年九月「アララギ」第十五巷第九號)
 
        歌人 山部赤人
 
 山部赤人は柿本人麿と竝んで名高い歌人であります。時代も恰度人麿と同じ頃でありますが、人麿より幾分後から生れて奈良朝のはじめまで生きて居ります。今から千二百年以上昔の人であります。
    み吉野《よしの》の象山《きさやま》の間《ま》の木末《こぬれ》には幾多《ここだ》もさわぐ鳥《とり》の聲《こゑ》かも
 この歌は聖武天皇の神龜二年に吉野の離宮に行幸のあつたとき、赤人も從駕《おとも》して吉野へ行つて其所で詠んだ歌であります。
 象山《きさやま》は吉野山の中の一つの山であります。「ここだ」は數多いことであります。行幸の行列が吉野山深く人つて旅宿りをなさります。山は木が茂つて只青く、谷には川が流れて只白く見えてゐます。お伴《とも》の人々が話聲を止めて暫く靜かにして居りますと、谷川の音が山一ぱいに響くやうに聞えます。山には木が茂つて居りますから鳥の鳴き聲が非常に多く聞えます。鳥の鳴き聲が多ければ多いほど山が却つで靜かに思はれます。風が吹けば山が寂しく、雲がかかれば山が深く思はれます。赤人は此の光景に對してこの歌を詠んだのでありまして、如何にも靜かな清い奥深い山川の有樣が歌に現れて居りまして、この歌をよんで見る時の舌の響きまでが此の時の赤人の心に調子を合せてゐるやうに思はれます。かういふ歌は少し位意味の分らない所があつても、何度も/\繰り返して讀んでゐると自然に赤人の心持が分つて來ます。
    ぬば玉《たま》の夜《よ》の更《ふ》けぬれば久木《ひさぎ》生ふる清《きよ》き川原《かはら》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く
 これも吉野行幸の時前の歌と共に詠んだ歌であります。日がくれて山が靜まります。夜が更けると從駕《おとも》の人々も多く眠つてしまひます。耳を澄まして聞いてゐますと千鳥の聲が聞えます。一聲二聲つづいたと思ふと又聞える。今迄氣が付かなんだのでありましたが、よく聞いてゐると千鳥の聲は引き續き引きつづいて聞えてゐます、夜が更けたのです。
                      (大正十一年「少年倶樂部」十二月號)
 
       防人の歌二首
 
    大君のみことかしこみ出でくれば我《わ》ぬ取りつきて言ひし子なはも   卷二十
 「わぬ」は「我に」の東言《あづまことば》であらう。萬葉十四卷には「わぬに戀ふなも」とにが添うてゐる。「背なのが袖」の「の」なども、大もとは弖仁波の「の」であつたかも知れない。それに又「が」がつくといふやうな轉訛は、この外にもあるであらう。「子な」のなは「大名兒」「手子奈」「妹汝根」「おきな」「おうな」「汝」「汝背《なせ》のみこと」等の「な」と共通して、親しみごころの籠つた詞であつたらうと想像される。參考書手もとになきゆゑ、以上誤り居るかも知れぬ。この歌「わぬとりつきて言ひし子なはも」が、寫生の極致に入つて、おのづから中核に滲み入るところあるのがいいのである。木地《きぢ》が露《あら》はで、木地に終らずして木地の生きてゐることを有難く思ふべきである。「大君のみこと畏み出でくれば」も、精一ぱいの運命觀から搾り出されてゐるから生きてゐるのである。この運命觀、今の入営兵士よりも、殊勝で眞面目であつたかも知れない。「出でくれば」など素樸で、上手でない所が生きてゐる。寫生であるからである。かういふ」點、歌の練達者の顧みていい所であらう。
        ○
    筑紫へに舳向《へむか》る船のいつしかも仕へまつりて國に舳向《へむか》も  卷二十
 「舳向ふ」は概念の詞ではなく切實な直觀の詞である。それを二ケ所に用ひて煩しからず、却つて素樸純直の感じが先きだつ。「仕へまつりて」など簡にして實によく要を得てゐる。實感から搾り出されてゐるからである。防人歌には、少し位選者の手入もあつたらうと思はれるが、以上の二首などは、さういふことの無かつた歌であらう。萬葉に、防人や東人其他田夫野人の儕の歌の多く收められてゐることは、稀有にして有難いことである。以後の代々の歌集には、ほんの僅少しかさういふことをしないので、民間の眞情は歌史の上へ多く顏を出さなくなつてしまつた。(十一月十八日發行所にて書く)
                 (大正十一年十二月「アララギ」第十五卷第十二號)
 
    萬葉新點其他
 
 仙覺新點は、古點次点の未だ訓を成し得なかつたものに、仙覺が新に訓を點じたものとせられてをり、仙覺自身もこれを卷一奥書に明記してゐる。然るに、新點百五十餘首を見ると、必しも仙覺を須つて訓を得るに及ばないと思はれるものが少くない。
 類聚古集の長歌を見ると、無訓歌も大抵句點を施してある。所謂新點歌に當るものも同樣である。句點の施してあるといふことは、類聚古集筆者等が、仙覺以前にあつて、その長歌を兎に角に如何樣にか訓み得てゐたといふことの推測を助ける。その上、本文の傍側に少しづつの書入れがある。例へば、卷二十新點歌「陳私拙懷一首」中「於之弖流」の右側に「字落歟」と記してあるのは「押し照る」では五音に一音不足で脱字があるのであらうと推測した證據で、それは即《やが》て、筆者などのこの長歌を如何樣にか訓み得てゐたといふ證據にもなるのである。同じ歌「見能等母之久」の右側にも「字落歟」があり「由多氣伎可母」の右側にもそれがある。七音に不足するを指したのであらう。この歌の中、又、「和其大王乃」の「和其」右側に「可考」といふ書き入れがある。萬葉時代「わご大王」というたことを知らなかつたのであらう。それが、又、一面に筆者等が此長歌の大體訓は得てゐたといふ反證にもなるのである。この種書き入れ字體は、本文の字體と全く等しくて、後人の加筆とは思はれない。同卷「追痛防人悲別之心作歌」(新點歌)にもそれがあり、「爲防人情陳思作歌」(新點歌)にもそれがあり、十六卷「戀夫君歌」(新點歌)にも「可考」の書き入れがある。それのみでない。以上新點歌の所々には、片假名の訓の書き入れがある。第十六卷乞食者詠の中「忍照八難波乃小江爾」の長歌(新點歌)で、「忍光八」の「光」に「テル」の訓が附してあり、「※[月+昔]賞毛」(時賞毛?)に「キタヒタマフ」の訓がある。十六卷「戀夫君歌」(新點歌)中「神爾毛莫負」の「莫負」に「マクナ」の訓があり、「占部座」の「座」に「スヘ」の訓があり、「龜毛莫燒曾」の「莫」に「ナ」の訓がある。その他、前出「爲防人情陳思作歌」中、「特」に「ト」の訓「大夫」の右下に「ノ」の弖仁波、「群鳥乃」の「群」に「ムラ」の訓がある。是等皆以上僅少字句にのみ訓をなし得てゐたと想像することは出來ない。以上諸例によつて、仙覺の新點歌の、それ以前にあつて已に或る訓を得てゐたものの可なり多いことは想像出來る。
 ここに、新點歌のうち、仙覺以前に明かに訓のあるものがある。卷七「近江之海湖者八十何爾加公之舟泊草結兼」(新點歌)の歌に、類聚古集は明かに「あふのうみ、みつうみはやそぢ、いづくにか、きみかふねとめ、くさむすびけむ」の訓を書いてゐる。これは、小生の推測を肯定し得る有力なる材料の一となり得るであらう。前言ふ如く、仙覺は新點のつもりでゐたであらうが、校合本以外の古次點に目が屆かないといふことがあつたのである。
         ○
 勅撰集の所どころに挾まれてある萬葉集の歌を見れば、古次點の大體の面影が窺はれる。單に訓點の上から見ても、平安朝歌人は奈良朝歌人と縁が遠かつたことが分るのである。
 萬葉の一字一訓を詮索することは、歌學者の爲事であつて、歌人の爲事でないといふ人がある。一應御尤もである。只、萬葉集は小生等の經典であつて、この經典未だ本當の正體が現れてゐないのである。一字一訓の詮索は、一歩々々その正體に近づかうとする努力に外ならない。この努力を歌學者といふ比較的機械的の仕事をする人々に委せて足れりとすることが出來るか。言ふ意は、學者の仕事を蔑にするのではない。その努力に歌人の努力が加はらねば到達の正鵠を得るに至らないといふのである。
        ○
 春滿の僻案抄を見ると、古本の訓に泥まず。獨自の古學を以て直ちに萬葉を解するといふ意のことが所々に書いてある。萬葉の表玄關から直ちに奥座敷に通るの概があつて、態度に堂々たる所のあるのが萬葉の心持に合してゐる。綜麻形乃林始乃を「三輪山の林のさきの」と訓んだ功績は岡氏の僻案抄解説文に明かである。
    引馬野ににほふ榛原入り亂り衣にほはせ旅のしるしに  卷 一
の榛原を萩原と解したのも、春滿の卓見であり、
    草枕旅ゆく君と知らませば岸の埴生ににほはさましを   卷 一
の埴生を榛生と解し、更に榛を萩と斷じてゐる所に鋭敏な考察力が見えてゐる。その他、天武天皇の「み吉野の耳我の嶺に」の長歌を、大海人皇子時代吉野遁避の時の作と斷じ、同天皇の「淑人《よきひと》の良しとよく見て良しといひし」の短歌を、壬申亂後天皇得意の時の作となし、川島皇子の「白浪の浜松が枝の手向草」の手向草を松蘿と解し、中皇命の「君が代もわが代もしらむ」の歌を有間皇子の紀伊温泉に行き給ひし時の作と解したる如き、解するの當否は別として、解者に詩人的直覺力のあつたことは明かである。萬葉の研究は多岐多端であつて、それが統一せられて最後の到達をするのは直覺の力である。この點において、春滿は萬葉研究者としての大事な資格をもつてゐた人であるやうである。
                   (大正十二年三月「アララギ」第十六卷第三號)
 
      人麿赤人六首
 
 人麿の
    足引の山川の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ちわたる   卷 七
    小竹《ささ》の葉はみ山もさやにさわげどもわれは妹思ふ別れ來ぬれば   卷 二
を見れば、人麿の雄偉跌宕な性格から澄み入つた人生の寂寥所を窺ひ得る感があり、赤人の
    み吉野の象《きさ》山のまの木ぬれにはここだも騷ぐ鳥の聲かも   卷 六
    ぬばたまの夜のふけぬれば久木《ひさぎ》生ふる清き川原に千鳥しばなく   卷 六
等を見れば、赤人の沈潜せる個性から澄み入つた寂寥相に接し得る感がある。同じく究極所に入つても、持つて生れた個性の色を失はぬ所が歌の命のある所以である。個性の長所を醇直に保つことも、更にそれを究極所まで押し進めるといふことも皆容易でない。人麿の歌は一二歩を過ると騷がしくなり、赤人の歌は一二歩を過ると平板になる。小生は、人麿の
    久方の天《あめ》ゆく月を綱《つな》にさし我がおほぎみは蓋《きぬがさ》にせり   卷 三
を、作者の斯樣な弊所を伴うた歌であると思うてゐた。然るに、近ごろ、一畏友の説によれば、人麿の皇室に捧げた尊敬心は、今人の想像し得ぬほどの程度にあるのであつて、月を天蓋にして翳すといふ想像が、眞實性を以て生れ出てゐるのである。そこが今人の思ひ及ばぬ所であり、人麿の熱情の常人に偉れたところであり、從つてこの歌の優秀な所以である。斯ういふ意味の説である。それにしても、小生には猶別の問題が遺つてゐる。暫く考へた後に愚言を述べようと思ふ。
        ○
 人麿の
    おほきみは神にしませば天雲の雷《いかづち》の上に廬《いほり》せるかも   卷 三
の歌を、小生の知人中、人麿の大袈裟歌であるとする人があり、小生も可なりまで然う思つてゐる。雷《いかづち》の岳《をか》は、飛鳥河畔の一小丘(丘とも云へぬほどの)であつて、歌ふ所の勢が地の勢と餘りに相そぐはないといふ説もある。併し、あの邊一體は、古、所謂大口の眞神が原に續いてゐるらしいのであつて、飛鳥から藤原へ續いて、可なりの森林帶があつたものと想像し得る。そこへ所謂大口の眞神(狼)なども出沒してゐたであらう。雷岳は小さいけれども、その森林中の阜丘であつて、下には明日香川の水音が聞える。斯樣な地勢を想像すると、行幸が少し由々しくなつて來るのである。其の上女帝の行幸である。供奉の情が普通と異る。これだけの事情へ、人麿の皇室尊崇の情が加はつて、この歌が生れれば自然であるが、そこに猶遺さるべき問題あることは、前の「天ゆく月を網にさし」の歌と同じである。
                   (大正十二年四月「アララギ」第十六卷第四號)
 
     萬葉集諸相
 
 萬葉の歌を原始的であり、素樸であり、端的であるとするはいい。それらの詞を以て、萬葉の歌を言ひ盡し得たと思ふは淺い。萬葉の精髓は、それらの諸要素を具へながらにして、藝術の至上所に到達してゐる所にある。萬葉人のひたすらなる心の集中が、おのづからにして深さと高さの究極を目ざしたのである。今の萬葉を説くものが、この點を遺却してゐるのは、萬葉を遺却して萬葉を説くに等しいのである。
    小竹《ささ》の葉はみ山もさやにさわげども我は妹思ふ別れ來ぬれば   人 麿
    足曳《あしびき》の山川の瀬の鳴るなべに弓月《ゆづき》が嶽に雲たちわたる  人 麿
    淡海《あふみ》の海夕浪千鳥|汝《な》が鳴けばこころもしぬに古《いにしへ》おもほゆ  人 麿
    み吉野の象山《きさやま》のまの木《こ》ぬれには幾許《ここだ》もさわぐ鳥の聲かも  赤 人
    烏玉《ぬばたま》の夜のふけぬれば久木《ひさぎ》生ふるきよき河原に千鳥しば鳴く  赤 人
    吉野なる夏實の川の川淀《かはよど》に鴨ぞ鳴くなる山かげにして   湯原王
    一つ松いく世か經ぬる吹く風の聲の清《す》めるは年深みかも   市原王
    あかときと夜鴉鳴けどこの山上《をか》の木末《こぬれ》の上はいまだ靜けし  読人不知
 これらの歌、皆、一心の集中が深い沈潜となり、それが、おのづからにして人生の寂寥相幽遠相に入つてゐるのであつて、この邊、前田夕暮氏の萬葉新古今對照觀に資するを要する所である。前田氏は萬葉集を以て土の臭ひであるといひ、原始的にして素樸な端的な藝術であると言うてゐる。(前田氏のは比喩語が多くて意の限定し難いものが多い、意の推測し得る所を要約して述べておく)それはいい。只、それが宛らに澄み入つた至上諸相を言はない。そして鉱石であり、璞であるから、手觸りが粗いなどというてゐる。手觸りの粗いといふことが、氏の作品に自ら標榜する「未成品」の意味ならば、萬葉を知らないのであつて、それを以て新古今と對照するは殆いのである。
    こもりくの泊瀬の山の山のまに猶豫《いざよ》ふ雲は妹にかもあらむ   人 麿
    もののふの八十氏河の網代木にいざよふ浪の行方知らずも   人 麿
    瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむと吾が思《も》はなくに   弓削皇子
    敷妙の袖易へし君玉だれの小市野《をちぬ》に過ぎぬ又も逢はめやも   人 麿
    ※[女+采]女《たわやめ》の袖吹きかへす明日香風|京《みやこ》をとほみいたづらに吹く  志貴皇子
     河の上《うへ》の湯津岩《ゆづいは》むらに草|生《む》さず常にもがもな常少女《とこをとめ》にて   吹黄刀自
 これらは作者經驗心理の底が深く人間の無常觀に通じてゐるものである。この相は、又前述の寂寥相幽遠相とも相通じる。
    遠くありて雲居に見ゆる妹が家《いへ》に早く至らむ歩めわが駒  讀人不知
    大葉山|霞《かすみ》棚曳き小夜ふけて吾が船|泊《は》てむ港《とまり》知らずも  讀人不知
    家にして吾は戀ひむな印南野《いなみぬ》の淺茅が上に照りし月夜を  讀人不知
    眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて榜ぐ舟|泊《とまり》知らずも  船 王
    ここにして家やもいづく白雲の棚引く山を越えて來にけり  石上卿
    ひさかたの天の露霜おきにけり家なる人も待ち戀ひぬらむ  坂上郎女
    隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも吾れは今日見つるかも  長田王
 これ亦一種の寂寥相幽遠相に通ずるものである。
    葦べゆく鴨の羽交《はが》ひに霜ふりて寒き夕は大和し思ほゆ  志貴皇子
    秋の田の穗のへに霧《き》らふ朝霞|何方《いづべ》のかたにわが戀ひ止まむ  磐姫皇后
    梓弓《あづさゆみ》爪引《つまひ》く夜音《よと》の遠音《とほと》にも君が御言を聞かくし好《よ》しも  海上女王
    吾が宿の夕影草《ゆふかげぐさ》の白露の消《け》ぬがにもとな思ほゆるかも  笠郎女
 深く潜み入つた心が、おのづから事象の微細所に觸れた歌である。斯樣な相《すがた》も、萬葉の特徴の一つである。
 萬葉には寫生の歌がないと思うてゐる人がある。或は又自然物を詠んだ歌が少いと思うてゐる人がある。斯ういふ人々は、以上、小生の列擧した歌例を仔細に見ても、その妄が解るであらう。萬葉人は實に純一な心で自然の事象に對きあつてゐるのであつて、その態度が作者を事象の微細所に澄み入らせてゐるのである。さういふ所まで解つてゐない人々が、大ざつばな鑑賞眼で、單に土臭い藝術などと言つて片付けてしまふのである。
 一體、萬葉人の生活は、今代人よりも自然物に親しかつたのであつて、自然物との交渉が萬葉人の生活の大きな部分になつてゐたことは、今代人の想像以上であると言うてもいい。さういふ生活から生れた歌が、自然物から離れてゐるといふことは想像の出來ないことである。況や、寫生といふものの對象は自然物と人事とを分かたない。萬葉に寫生がないなどといふのは論ずるに足らぬ輕卒言である。(これは前田氏を指して言ふのではない)
    百濟野の萩の古枝《ふるえ》に春待つと來ゐし鶯鳴きにけむかも   赤 人
    石《いは》ばしる垂水《たるみ》のうへの早蕨の萌えいづる春になりにけるかも  志貴皇子  
    わが宿の萩のうれ長し秋風の吹きなむときに咲かむと思ひて  讀人不知
     高座《たかくら》の三笠の山になく鳥の止めばつがるる戀もするかも  赤 人   
    さざれ浪磯|巨勢道《こせぢ》なる能登湍《のとせ》川音の清《さや》けさたぎつ瀬ごとに  少 足
    靜けくも岸には波は寄せけるかこの家|通《とほ》し聞きつつ居れば  讀人不知
    留め得ぬいのちにしあれば敷妙の家ゆは出でて雲隱りにき  坂上郎女
    かの子ろと寢ずやなりなむ旗すすき浦野の山に月かたよるも  讀人不知
    うゑ竹の本さへ響《とよ》みいでて往《い》なば何方《いづち》向きてか妹が嘆かむ  讀人不知
    面白き野をばな燒きそ古草に新草交じり生ひは生ふるがに  讀人不知
 之れらの歌に現れてゐる寫生の微妙所をも併せて考ふべきである。歌例は到底ここに擧げ切れない。
    夕されば小倉の山に鳴く鹿の今宵は鳴かず寢宿《いね》にけらしも  舒明天皇
    百師木《ももしき》の大宮人《おほみやびと》のまかり出て遊ぶ今夜《こよひ》の月の清《さや》けさ  讀人不知
    御民われ生ける驗《しるし》あり天地の榮ゆる時に遇へらく思へば  岡 麿
    白ぬひ筑紫の綿は身につけて未だは著ねどあたたかく見ゆ  漫 誓
    青丹吉奈良の京《みやこ》は咲く花の匂ふがごとくいま盛りなり  小野老
    天の原振りさけ見れば大君の御壽《みいのち》はながく天足らしたり  倭姫皇后
    春過ぎて夏來るらし白妙の衣《ころも》乾したり天の香久山  持統天皇
    渡津海《わたつみ》の豐旗雲に入日刺し今夜《こよひ》の月夜《つくよ》まさやけくこそ  中大兄皇子
 是らを何と名づくべきかを知らない。或るものは人情の具足相であり、或るものは感情の圓滿相であり、暢達相である。而も夫れらは、曩きの寂寥相といひ幽遠相といふものと其由つて來るところを異にしない。至上所にある各相は其生命が根本に於て互に相通じてゐる。其點を把捉して萬葉に向ふのでなければ、萬葉の生命には觸れ得ないのである。小生は萬葉新古今對照の資料にするつもりで、覺え書き體に萬葉の數相を説いた。遺却された他の諸相は他日の言及を期する。例歌は悉くを擧げ得ない。只その數片を示したに過ぎぬのである。(五月十六日柿蔭山房に於て)
                   (大正十二年六月「アララギ」第十六卷第六號)
 
    現歌壇と萬葉集
 
 正岡子規の唱へた萬葉集復活の聲は、子規時代に反響がなく、左千夫時代に反響がなく、最近十年漸く一般歌壇に受け入れられた觀があるが、本當には徹してをらぬといふ感が多い。
 明治維新以來、日本人の生活精神が物質的に開放せられたため、外面的な物のひろがりを求め、官能的な末梢神經の滿足を求めることにその足並をそろへて來たことは、一方世界人類の生活精神と足並をそろへて來たのであつて、自然の勢ひといふことが出來る。現今人類の生活が物質的に伸びれば伸びるほど悲慘になり、一方には資本主義の破綻を見ようとし、一方には物質萬能の平等觀が瀰漫しようとしてゐる時、この傾向が、どん底まで押しつまつて、救はれなくなる頃に、漸く顧みられるのが東洋傳統の文明であらう。さういふ省慮が日本人の生活に現れる時、萬葉集が日本人の心に本當に復活してくるのが大體の順序であらう。(東洋人の生活精神の傳統は予のたび/\いひ及んだ所で、今絮説しない。萬葉集がその傳統の一の現れであること勿論である。)この順序から見れば、萬葉復活の聲は日本歌壇には寧ろ早退ぎたのであつて、今までの萬葉復活の聲は、來るべき復活に對してその準備位に見ていいのである。或る哲學者は、昨年ドイツより書をよせて
 自我肯定の西洋文明は、今日の如く物質的生活の困窮に陷りても猶反省する所以を知らず、如何に無理をしても自我の慾望を滿足せしむべき手段を爭ひ求めんとして、眞の救濟は却つて自我の否定にあり、精神を以て物質に打克つに存することを覺らざること寧ろ痛ましく感ぜられ候。之に對する東洋或は日本の文化乃至生活基調が自己否定、自己犠牲、諦め、運命に默從して却て之に打克つ自由の境地を發見せんとすることは、實に正反對の對照に有之、到底西人の理解する能はざる境地と存じ候。云々(アララギ第十六卷一月號)
というてゐる。最近他の或る思想家はフロレンス途上より書を寄せて
 こちらに來て益々眞剣に日本を研究する人が、もつと出て來なければならぬことを感じます(中略)僕等には世界中日本ほどいい所がありません。
というてゐる。予の歌の友だちが、最近ドイツより濠洲より寄せた手紙、又皆この類である。斯樣な聲を單に或る一部の聲であるとするは、現代にある物質眩惑者の類であらう。
 歌壇の或るものは、現歌壇を萬葉に復へせとは、現代人を古代人にせよといふことであつて、文明の逆轉であるといふ。さういふ人に、佛徒が二千五百年前の釋迦に禮拜し、耶蘇教徒が二千年前のキリストの前に拜跪するのは何の爲めかと問うたら何と答へるつもりか。明治の王政復古は、復古であつて維新である。子規の萬葉復活は、復活が直に個性の透徹である。これは子規の歌を見ると明白に分かる。
 近頃、前田夕暮氏は、萬葉集を土のにほひであるといひ、原始的で素樸端的な藝術であるといひ、鉱石であり、璞であるから手ざはりの粗らい藝術であるといふ風に説明した。大體はそれでいい。ただ萬葉の精髓に徹して居らぬのを惜しむ。萬葉の歌の至上所に入つたものは、左樣な要素をそなへながら、深く人生の寂寥所に人り、幽遠所微細所に澄み入つてゐる。形は三十一字にして内に深くこもるものがある。これが東洋藝術の特徴であつて、同時に生活形式を中樞的要求によつて簡素にする東洋的精神の現れである。前田氏は十數年來歌壇の空氣に入つてゐて、萬葉の如何なるものであるかを知つてゐる筈の人である。その人にして猶解し方がこの通り一般的である。現今歌壇に取り入れられた萬葉風といふものが如何なるものであるか。その一端を窺ふべきである。更に或るものは一種の氣まぐれであり、流行の追隨者であらう。萬葉の復活はまだ/\熟しないのである。予は、今後萬葉の研究が弟二次的の深さに入る時、その中に、現今歌人の幾何が加つてゐるであらうかと想像してゐるのである。
(大正十二年六月十六日「東京日日新聞」)
    
      萬葉集諸相 つづき
 
 小生、先年夏の盛りに、長崎に用事があつて、同地土橋氏の宅に七日ばかり厄介になつてゐた。その時、平戸の小國法師が訪ねて來て、二日ばかり寢食を共にした。此坊樣が朝仏壇の前に坐つてお勤めの讀經をしてゐると、うちの幼い二人の子どもが、異樣の音聲に驚いて勝手から走つて來て、坊樣の後ろに立つた。坊さまのお勤めといふものを生れて初めて見たのであらう。一人の子どもは視線を丁度水平に置いて坊樣の頭を見てゐる。一人の小さいのは視線を上に向けて同じものを見てゐる。二つの視線の出逢つた所に丸い頭があるのである。この頭は不可思議の頭である。第一に、誰もの頭が持つところの毛髮を持たない。從つて又誰もが多く見せない頭部の凸凹面を露出してゐる。子どもは今まで經鹸したことのない頭の形状と光澤とを觀察するといふ目をして熱心に坊樣の後ろに立つてゐる。そのうちに、視線を上に向けてゐたのが、手を伸ばして不思議な對象物に觸つて見た。坊樣は驚いて後ろを振り向いた。その時、小生「坊樣が負けたな」と思つた。お勤めが終へて、朝の茶を飮む時、小生坊樣に向かつて「負けましたな」と言ふと、坊樣も「負けました」と言うて笑ひながらその頭を撫でた。
 無心な子どもの一擧手は、三十棒を何度も喰らつて修道した禅坊樣の心を驚かすに足りた。斯樣な無邪氣な心は、又、往々或る心境に達し得てゐる大人の心と共通することがある。良寛禅師などの日常生活からは、幾つも恰例が見出されるやうである。正岡子規が病中八百善の料理を食べるために虚子氏から金五圓を拜借して、その金を美しい財布に入れて、天井から釣り下げて、幾日も眺めて樂しんでゐたといふやうな心持も、失張りこの童心に通じてゐる。小生等は左樣な童心を現代の歌に求めて得ず。却つて子どもの一擧一動などによつて、有難い心持を誘ひ出されるのである。子どもを成るべく長く子どもであらしめよと冀ふのも、この尊い心持を成るべく多く保持させて、一生の生活基調から、その心持を離させたくないと思ふからであつて、子どものうちから雜誌へ投書したり、美術會へ出品などさせるのは、早く童心から別れさせて世間氣を發達させることになる場合が多いと思ふゆゑ、小生は左樣な子どもの仕ぐさに、眉を顰めることが多いのである。
 萬葉集の歌には、流石にこの童心に通じた大人の歌が多い。
    吾背子は假廬《かりほ》作らす草《かや》なくば小松が下のかやを刈さね
    小草壯子《をぐさを》と小草好色男《をぐさすけを》と潮舟の竝べて見れば乎具佐《をぐさ》勝ちめり
    見毛知山《こもちやま》若かへるでの紅葉《もみ》づまで寢《ね》もと吾《わ》は思《も》ふ汝《な》は何《あ》どか思ふ
等の歌をよむと、殆ど子供の口つきを見る如き快感を覺える。
    我はもよ安見兒《やすみこ》得たり人皆の得がてにすとふ安見兒得たり
 これは中臣鎌足の歌である。鎌足も美人安見兒を得ては、子ども心になつて喜んだのであらう。そこに一途にして強い心が現れてゐる。
 萬葉集には藝術の至上所と思はれるやうな境にまで入つた歌が多く、その或るものは人生の幽遠所寂寥所に澄み入つたと思はれるものがある。左樣なものも根ざす所は純粹無雜不二一途の童心である。童心と至上藝術とは少くも小生には別々のものとして引き離して考へることば出來ない。丁度良寛の歌と良寛の童心と引き離して考へられないやうなものである。さういふ意味で萬葉集の人麿赤人等の傑作と前掲四首の如き歌とを比較する時、別々の標準を置いて、之を鑑賞する心持はしないのである。幽遠所寂寥所に入つたものが、その物として尊い如く、童心そのままの現れは、そのままの現れとして尊いのであつて、その間に多く差別を立てたくないのである。
 今人の至り難いは、先以て童心である。偶ま詩歌人が、過つて童心を氣取つて、奇々妙々な行動を爲し、中にはそれを詳しく記述して天下耳目の前に突きつけるといふやうな種類がある。氣取りの童心は、童心ならざるものよりも、臭いだけ惡い。
 都會の子どもは、人間及び人工物との接觸が多いために、早くから大人の挨拶禮儀作法その他の擧動に習熟して幼い大人になり濟ますといふ傾きがある。その勢を助長するために所謂「子どもの讀みもの」がある。強烈な色彩の表紙畫、口畫、それ丈けでも子どもの弱點を挑發するに餘りがある。強烈な刺戟に慣れる子どもは、強烈な刺戟を人に示さうとする子どもになる。早くから人前を考へたり、試驗の成績の比較を氣にしたりする子どもは、斯ういふ所から餘計に生れて來る。さうして中學一年位の子どもが、平氣でカフエーの椅子に腰かけて、女給仕に冗談口を利くといふやうな現象を呈するのである。
 子どもから早く童心を取り去つて、その代りに小さい世間氣を植ゑこむといふやうなことは、詩歌の上の問題でなくて、人類としての大きな問題である。斯ういふ勢で人類が進んで行けば、萬葉集や良寛の出現は愚か、世の中は物質萬能、零碎砂を噛むの域に入ることであらう。小生は田舍の子どもが自然物の中で生育して、鰌を掬うたり栗を落したりする子どもらしい原始的な生活を尊重する。さうして少くも、左樣な子どもたちに、現今流行の「子どもの讀みもの」を見せたくないと思ふのである。(六月十七日)
                   (大正十二年七月「アララギ」第十六卷第七號)
 
 
   即 感 録
      ○
 當今の人の歌を爲すは、當今社會の思想感情に生育した各人の個性を表現し得ればいい。萬葉集の道を渇仰し祖道するが如きは、今の人の心を千年前の人の心に屈伏せしめようとするのであつて、時代を取違へた所爲である。斯樣な議論が今の歌人の一部に行はれてゐるやうである。これは一應御尤もである。只萬葉集は歌の道の淵源するところであつて、萬葉集を渇仰し禮拜するといふことは、歌の大道の淵源する所を渇仰し禮拜することである。丁度、教徒が教組の心を辿つて其前に禮拜すると似てゐる。教祖の心の前に自己を虚しくして拜伏し得るものにして、はじめて個性の眞髓とする所を發揮し得るのであつて、さうでない教徒の所謂個性といふものの如きは往々目前の小我であることが多い。今の個性表現説をなす歌人にして之に類するものがあるのは、道の淵源する所を知らぬに歸するのである。
      ○
 正岡子規が萬葉集を渇仰して、どんな歌を得てゐるかと考へて見るといい。子規の歌に現れた子規の個性は、歌の道の淵源する所を一途に禮拜した心から生れてゐる個性である。何うしても現れずに居られなかつたところの根柢的な個性であり、精錬せられた個性である。伊藤左千夫・長塚節の歌亦然りである。
      ○
 今の多くの人の歌に個性はあるであらう。個性の精錬がない。個性の威嚴がない。從つて永久性がない。
      ○
 今人の歌に官能の匂ひの多く現れてゐるを妨げない。只、官能は末梢的なものである。これを支配する中樞的な力が伴はねばならぬ。今人の生括、末梢的に傾いて中樞的な深みを希はない。生活が物質的に傾き外面的に傾いてゐるために、現れる歌が多く末梢的に終らうとするのである。
                           (大正十二年「塔」七月號)
 
      柿 本 人 麿
 
 人麿は、早くて四十二三歳、遲くて四十七八歳で歿したやうである。さうすると、日並皇子尊の殯宮の時の歌は二十五歳頃から三十一歳ごろの間の作であり、藤原宮御井歌を人麿作とすれば三十歳から三十五六歳の間の作であり、日本最長の長歌である高市皇子尊の城上《キノヘ》の殯宮の時の歌は三十二歳から三十七八歳の間の作である。關谷眞可禰は、近江の荒都を過ぐる時の歌を、二十三歳としてゐる。萬葉十卷七夕の歌三十八首中、最終の歌を庚辰の歳人麿作とすれば、白鳳九年、人麿十七歳頃から二十二三歳の間の作になる。小生の嘗て言及した
    久方の天ゆく月を綱に刺しわが大君は蓋にせり
は朱鳥五年長皇子獵路野遊獵の時の歌とすると、二十七歳から三十二歳頃の作になるやうである。
  〔編者曰〕 題名ハ編者ノ附シタルモノナリ。
                   (大正十二年八月「アララギ」第十六卷第八號)
 
      語法の超越
 
 萬菓東歌
   乎都久波乃、之氣吉許能麻欲、多都登利能、目由可汝乎見武、左禰射良奈久爾、
   小筑波の繁き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝《な》を見むさ寢ざらなくに
と訓むとすれば「さ寢ざらなくに」は「寢ない」の意に解するが穩當のやうである。「さ寢ざらなくに」は字義をたどつて解すれば、「寢ざることなし」であつて、つまり寢ることになる譯である。寢ることになる句法を解して、寢ざることとするのは、歌の前の句から押し來る意の勢である。單に「寢ざるに」の意を述ぶるに何故「さ寢ざらなくに」と言つたかといへば、それは「寢ざるに」を重く言はねば滿足出來なかつた作者感動の調子から來てゐるのである。古義の著者は、之を釋して、「ただ奈久爾と云ふべきを射良《ざら》奈久爾といふ類は、後世の語に、怪《け》しかると云ふべきを、怪しからぬと云ふに同じ云々」と言うてゐるのは要を得てゐる。「怪《け》しかる」にて意の足る場合「怪《け》しからぬ」と調子を強めて言はねば情が滿足しないのである。調子の要求は、往々にして意の反する所まで押し進まねば滿足出來ぬことがある。「要らないこと」を「要らざらないこと」と言ひ「負け嫌ひ」を「負けず嫌ひ」と言ひ、「己れ」「我れ」を、汝の意に用ひるなども此の類である。
    草枕旅のやどりに誰《た》が夫《つま》か國忘れたる家待たなくに   卷 三
    一日こそ人をも待ちし長き日をかくのみ待てばありがてなくも    卷 四
    河上の伊都藻の花のいつもいつも來ませ吾が夫子《せこ》不時《ときじけ》めやも  卷 四
の「家待たなくに」は「家(人)待つに」の意であり、「ありがてなくも」は「ありがてにすも」等の意であり、「時じけめやも」の「不時《ときじく》」が不斷常時の意とすれば「時じくにあれ」の意である。
    玉くしげ歸るを否み明けていなば君が名はあれどわが名し惜しも  卷 二
の四五句は表面より解すれば相手の男に對して不人情に聞えるが、眞意とする所は「君が名も吾が名も惜しい」といふのであらう。「君が名」に力を入れたのであつて、調子の要求から斯樣に現れたのである。斯ういふ例は他にもあらう。調子の要求が、文法上の約束を跳び超えずにはゐられなくなる場合である。故意に或は無知識のために跳び超えるとは違ふ。跳び超えるのが自然であり、跳び超えたために、一首の感情が生きて來る場合があるといふことを考へ得ればいいのである。
 中村憲吉君が、かつて
    春すぎて若葉しづかになりにけりこの靜けさの惜しからめやも
といふ歌を作つて、後に
    春すぎて若葉しづかになりにけりこの靜けさの過ぎざらめやも
と訂した。前者結句「惜しからぬ」の意になつて、變であるが、小生は猶それに愛著が遺つてゐる。それは矢張り文法を跳び超えた、ある感動がその句のうちに響いてゐる心地がするからである。
      ○
    蒸被《むしぶすま》柔《なご》やが下に臥せれども妹とし寢ねば肌し寒しも   卷 四
は、何時讀んで見ても、官能的の要求が先きに感受されて、中樞的な戀の心が響き足らない。「妹とし寢ねば肌し寒しも」と、肌に力を入れた所であるかも知れない。或は又、「蒸ぶすま柔やが下に」といふ如き享樂的の匂ひが結句と相待つがためであるかも知れない。萬葉の他の歌に官能的な匂ひは今つと多く現れてゐるものがあつても、この歌のやうに官能的に終らうとすることがない。例へば、
    高麗錦紐とき放《さ》けて寢《ぬ》るが上に何《あ》ど爲《せ》ろとかも奇《あや》に愛《かな》しき  卷十四
などは、官能の匂ひ多くして、猶それ以上に深く打ち入つてゐる所があるのである。
    みすず刈る信濃の眞弓引かずして弦《を》著《は》くるわざを知るといはなくに  卷 二
 萬葉の中にも理智の巧さに終ること斯樣なものもある。結句の鈍重な所は流石に時代の香氣であら
                 (大正十二年十一月「アララギ」第十六卷第十一號)
 
       萬葉集諸相 つづき
 
 萬葉集には又
    法師らが鬚の剃杭《そりくひ》に馬つなぎ痛くな引きそ法師無からかむ
    石麿《いはまろ》に吾れ物申す夏痩に良しといふものぞ鰻《むなぎ》取り食《め》せ
    痩す痩すも生けらばあらむを將《はた》や將《はた》鰻を漁《と》ると河に流るな
    佛作る眞朱《まそほ》足らずば水たまる池田の朝臣《あそ》が鼻のへを掘れ
    勝間田《かつまだ》の池は吾れ知る蓮《はちす》なし然《し》か言ふ君の鬚無きが如
    蓮葉は斯くこそあるもの意吉麿《おきまろ》が家なるものは芋《うも》の葉にあらし
といふやうな滑稽歌がある。斯樣な歌は、萬葉の歌がらを毫末も濁らせるものでないのみならず、却つて萬葉全體の心を考へる上に、或る大きさと豐かさを與へるものである。元來純粹な滑稽や戲れは淨化した心の一面として現れるものである。得道者の心が子どもの心に類してゐることも、夫れと消息を通じてゐる。落語家の上乘に入つてゐるものの居常が、割合に虔ましく眞面目であるといふことを聞いてゐる。それも同じ消息の中において考へることが出來る。
 孔子が陳蔡の野で圍まれて「絶糧、從者病、莫能與」といふ大事に遭つた時に、孔子が大分悲觀して「吾道非耶。吾何爲至於此」と言うた時に、顏回がこれを慰めて、「不容何病、不容然後見君子」と言うた。孔子が之れを聽いて初めてにこりと笑つた。さうして「有是哉、顏子之子、使爾多財、吾爲爾宰」と言うた。お前が金持ならば、おれがお前の番頭にならうと戲れたのであつて、この時孔子餘程うれしかつたものと見える。お前の番頭にならうといふやうな戲れは、却つて、せつぱ詰まつた心の中から生れるものであつて、戲れの心が淨化されてゐると共に、さやうな戲れの心によつて孔子の人物が餘計に大きく寛く懷しく思はれるのである。孔子はよく子路にからかつてゐる。子路を愛したのであらう。「道行はれずんば、桴に乘つて海に浮ばん。我に從ふもの夫れ由か」と言うたのも、子路に向つて、からかつたのであらうし、「吾豈に匏瓜ならんや。焉んぞ能く繋いで食はざらんや」と言うたのも、子路に向つて戲れられたのである。斯樣なことが、孔子の人がらを大きくこそすれ、決して性情の上に累をするものでないのである。萬葉集に諧謔の一相を具へてゐるといふことは、啻に萬葉の有する他の諸相と相背馳せざるのみならす、却つて、夫れによつて他の諸相の確實性までも附與するものである。これを更に縮めて言へば、人麿の具へた幽遠相は「妹が門見む、靡けこの山」といふ如き、子どもの地團駄を踏みつつ發する駄々言に類した歌心によつて傷けられないのみならず、却つて、それの幽遠相をも確實にするの觀あると同じ關係にあるのである。只滑稽といひ、戲れといひ、その背後には、それを生み來る心がある。その心は小生の前に説いた諸相を生み來る心と異るものではないのである。その心を思はずして、形のみを模して滑稽をなすのは滑稽に甘えるものであり、滑稽に甘えるの不可なるは、幽遠に甘え、嚴肅に甘え、素樸に甘え、無邪氣に甘えるの不可なると異る所がない。夫れについて思ふのは、子規の歌の具ふる種々相である。更に左千夫の具ふる種々相である。(左千夫のそれについては一昨年のアララギに説いた)それらの諸相を生み來る心をも同じ意味に於て我々は考へて見ていいのである。猶、それについて序でを以て考へ出すことは、茂吉の
    あかねさす晝は晝とて眼の見えぬ黒き蟋蟀《いとど》を追ひつめにけり
といふ歌である。これは必しも滑稽の歌ではない。只蟋蟀を追ひつめてゐるといふのであつて、現れる所は子供のいたづらに類する。形は子どものいたづらであつて、心はせつぱ詰まつた寂しさに居り、自分が人に追ひつめられる蟲の如き心になつてゐるのである。形の下に籠つてゐる心があはれである。それを或る意味に擴げて言ふと、滑稽歌の背後にある心を思ふことが出來、その心が他の種々相の背後にある心と異るものでないことが思はれるであらう。茂吉の歌は今思ひついたものを擧げた。他に恰例があるかも知れぬ。
                   (大正十三年二月「アララギ」第十七卷第二號)
 
      森本治吉君質問のこと
 
 今日森本君が訪うて來て、アララギの人々は、古典に生きるつもりか。自己の藝術に生きるつもりかと問うた。小生答へて言ふ。自己に生きんとするが故に古典に生きるのである。それは自己が古典を愛するからである。女を愛するものの女に生き、酒を愛するものの酒に生きるに似てゐる。萬葉人が人を愛し動物を愛し山川草木を愛する姿の中に、小生等は自己を突き詰めた姿を見出し得る心地のする間、古典は小生等の心の糧であつて、單なる慰みものではないのである。一體自己に生きるとか古典に生きるとか言つて對立して考へるのが變である。それは丁度女に生きることと、自己に生きることと對立し、或は酒に生きることと、自己に生きることと對立して考へるのが變であると同じである。自然を愛するとは自然によつて自己の愛を生かすことであり、爲事を愛するとは爲事によつて自己の愛を生かすことである。古典に生きるか云々の問ひは、只古典を見て之れを愛し之れを尊ぶことが出來るか何うかによつて定まる問題であらう。森本君肯いて更に問うた。アララギの人々は愛を自然物にのみ偏らせる傾向なきか。曰く、あり。必しも、なし。さう多く重ねて聞くこと勿れ。予の頭は地震の歌の推敲で連日疲れてゐる。今忙しいから、編輯濟んでからゆつくり來てくれ給へ。森本君即ち辭して歸つた。歸つた後甚だ相濟まぬ心地がする。そこで、山房獨語にこの筆をつづける。
 愛を自然物に寄せ、人事に寄せるといふことは少くも藝術上の根本を分つ條件にならない。人事諸相喜怒哀樂流轉極りなくして、その根柢の命とするものは禽獸蟲魚山川草木の命に通ずる。儒教に常にその思想があり、佛教には猶それがあらう。小生等の目ざすものはそんな高遠なものでないかも知れぬが、人事諸相に對して、それら諸相の根柢とする命に至らうとする希ひがある。その希ひの目ざすものは、山川草木に對して目ざすものと相通じてゐるかも知れない。左樣な意味で、人事を歌ふことと、自然物を歌ふことが、少くも藝術の根柢的區別にはなり得ないと思うてゐる。東京に震災があつて、震災の跡に彷徨してゐる人々のあはれさは、草木栄枯のあはれさに等しい。そこまで這入つて人間諸相を見ることば諸相のあはれさを少くも淺きに置くものでないと思つてゐる。本來を言へば、人間諸相といへども自然諸相の一樣式である。それを理で推さずして情で解するのが或は小生等の希ひの窮極に近いものであるかも知れない。只、小生等は實際に於て左樣な心域に徹し得ないだけである。小生等は今まで現實世相を回避して、安易な悟りや諦めに住せんとしたことがないのみならず、更に現實世相に直面してその根柢の命に達せんと希つてゐる。希ひが遠くて歩みがのろいだけは慥かである。アララギに自然物を歌ふ歌が多ければ、それは人間の命まで入れて考へらるる自然諸相のあはれさである。人事を歌ふ歌があれば、夫れは自然物の命から離し得ない人間の命を憐れむこころであらう。それを森本君が首肯すれば、自然と人事との問題は消滅するであらう。實際に於て、アララギには人事の歌が少いであらうか。小生はさういふことを顧みたことがない。或はアララギに當時流行世相の語彙が少いために、人事の歌少いやうに思ふ人があるのではあるまいか。思ふ。思はない。どちでもいい。先年歌壇の人々から、小生の歌に、人事を詠んだものが少いと言はれて、檢して見た所が、そんなことがない。それから、萬葉集に自然を詠んだ歌が少いと言ふものがあつて、檢して見ると、それ程のことがないのみならす、傑作といふ傑作が自然を詠んだものに可なり多いことを發見した。小生等は、いつも自然人事といふやうな區別を念頭に置くことなしに鑑賞する傾きがあつて、人にさう言はれて檢して見るといふやうな實際の有樣である。さういふことは時々言はれることもいいのである。
                   (大正十三年二月「アララギ」第十七卷第二號)
 
      憶良と赤人
 
       ○
 憶艮の歌は、足がしつかり地を踏みしめてゐる所はあるが、沓が泥へ食ひ入つて動きの取りにくい觀がある。併し、足をずん/\運んで、何うにか先方へ到達するだけの力がある。多力に見えて、高くも深くも澄み入らないのである。貧窮問答の長歌などは、殊にその感が多い。難きを望んで取りついたのは偉いが、純化しきれずに、ごたついてしまつたのである。この人の長歌は、大抵、事柄や思想が先きに目に立つ。そこが足どりのごたつく所であつて、そのごたつくところを外邊から鑑賞する人は、複雜であり多力であると言つて感心するし、内面的に鑑賞する人は、純化の不足を遺憾に思ふのである。佐々木信綱氏は、その著「歌學論叢」で、貧窮問答歌、好去好來歌等に現れた深い情緒と雄大なる技倆は、とても他人の作中に見出し得ないと激賞し、萬葉集中、人麿と併稱すべきは憶良であつて、赤人でないと斷じてゐる。佐々木氏が憶良を擧げて赤人をおとすのは、氏の眼が、いつも歌の外邊に彷徨してゐるからであつて、赤人の歌を貶するに、先づ赤人の歌の數を人麿憶良家持等と較べてて物言つてゐるのでも分り、人麿に比べて大作のないことを言つでゐるのでも分る。成るほど、赤人の長歌は人麿よりも形が小さい。その代り、率ね、清澄純化の域に入つてゐて、事件や思想の外邊にごたついてゐるやうなことはない。長歌の人麿に比して如何であるかを思はせても、猶、立派な獨自の境があり、少くも憶良などよりも高い位置を占めてゐることは勿論である。最も、憶良も、思想や事件に累ひされずに、情緒一貫の長歌を作してゐることもある。さういふものは、形は短くても純粹で命がある。子等を思ふ長歌などが夫れである。「瓜《うり》食めば、子ども思ほゆ、栗食めば、まして偲《しぬ》ばゆ、いづくより、生《な》り出しものぞ、目《まな》かひに、もとなかかりて、安寢《やすい》しなさぬ」如何にも純粹一途で勢の一貫がある。但、反歌になると「白金も黄金も玉も何せむにまされる寶子に如かめやも」であつて、殊に、上句憶良の癖が出て觀念的な色をつけてゐる。萬葉の歌を觀念的にし、事件的にして、萬葉末期の端緒をなしてゐるのは、主として憶良であるといふ感さへするのであつて、到底同時代の赤人と比肩すべき作者ではないのである。それについて興味あるのは佐々木氏の富士山長歌觀である。萬葉卷三にある富士山の二つの長歌中、前の赤人のは、後の無名作に比して劣れること「具眼の士の何人も心づく所なるべし」と言つてゐるのである。小生は、見方が全く違つてゐる。成るほど、赤人の富士山は事件的には賑やかでない。それだけ渾然として天地の心に合してゐる所がある。彼の長歌を惡いとは思はぬ。前者の「天地の分れし時ゆ、神さびて高く尊き」と大きく高く踏み出してゐるのに對して「なまよみの甲斐の國、うちよする駿河の國と、こちごちの國のみなかゆ」と出てゐるのを比べるだけでも、歌柄の區別が想像出來る。赤人は「渡る日の影もかくろひ、照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり、時じくぞ雪は降りける」と歌うて、日月雲雨を點じて靈山の姿を髣髴させてゐるのに對して、後者は「天空もい行き憚り、飛ぶ鳥もとびものぼらず、燃ゆる火を雪もて消ち、ふる雪を火もて消ちつつ、言ひもえず、名づけも知らに、くすしくもいます神かも、せの海と名づけてあるも、その山の包める海ぞ、富士川と人の渡るも、その山の水のたぎちぞ」とやうに歌うて、勿論甚だ結構であつて、異議を挾む所はないが、前者に比して、猶事件的に竝べてゐる傾きはある。この後の長歌、或る説の如く高橋蟲麿作であるか。他の或る説の如く赤人作であるか分らぬのであるが、少くも、この前作を後作に比べて劣つてゐること「具眼の士」の心づく所であらうとまで斷ずるのは大膽の至りである。凡そ、赤人の長歌の小形であるのは、赤人の沈潜した虔ましい人柄に胚胎してゐるのであつて、それが、いつも清澄の歌品に到達してゐるところが偉いのである。その消息が分らねば、赤人の長歌も短歌も分らないのであつて、歌格などの研究から、外邊的穿鑿をしてゐては、歌の命と縁遠くなつてしまふのである。盛《も》り澤山といふことと、調理の上等といふこととは違ふのである。
 赤人には、明澄な心境と微細鋭敏な神經とがある。これが彼を高級の歌人たらしめてゐるのであつて、憶良は此點に於て赤人の敵でない。短歌としても、憶良のよきものは貫徹の域に達しながら、猶、澄みと冴えに達し得ないところがある。
    憶良らは今は罷《まか》らむ子泣くらむそのかの母も吾《あ》を待つらむぞ
    家にありていかにか吾がせむ枕づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも
    妹が見しあふちの花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干《ひ》なくに
 の如く、思想的でも事件的でもないものに佳作がある。それを赤人に比べると、小生の言が首肯出來るであらう。「み吉野の象山《きさやま》のまの」「ぬば玉の夜のふけぬれば」等の秀作は、度々擧げてゐるから暫く擱いて、その他に例を求めても
    高※[木+安]の三笠の山になく鳥のやめば繼がるる戀もするかも
    百濟野《くだらぬ》の萩の古枝《ふるえ》に春まつと來居《きゐ》しうぐひす鳴きにけむかも
    奥《おき》つ島|荒磯《ありそ》のたま藻潮みちていかくろひなば思ほえむかも
の如き、一讀憶良と撰を異にすることが分るであらう。只、赤人の沈潜せる歌境は、あまり落ちつき過ぎて、熱を伴はぬ時平板に墮ちる。それは、丁度、人麿が調子に乘り過ぎると、騷がしくなるに似てゐて、どちらも弊とする所があるのである。
        ○
 憶良の短歌のよきものは萬葉初期の率直さがあり、惡しきものは、萬葉末期の面影がある。萬葉中期の絶頂所へ出入出來なかつたのは素質の不足であらう。或は、當時入唐の新智識に累はされた所もあらう。體が頑丈で、誠實性に富んだ面白いお爺さんであつたらしい。(大正十三年三月二十日記)
                   (大正十三年五月「アララギ」第十七卷第五號)
 
      宣長と久老
          ――萬葉考槻落葉のはじめに――
 
 縣門のうちに、伊勢から二つの大きな星を出してゐる。一は本居宣長であり、一は荒木田久老である。宣長は古事記を中心として古道を究めんとし、久老は萬葉集を中心として古意を得ようと努めた。宣長は學究的であつたから、萬葉集を學んで萬葉集の心が分らず。歌の上で眞淵に時々叱られてゐる。十七歳から堂上風な歌を詠みはじめて、三十四歳初めて縣門に入つた頃はもう可なり頭に型が出來て居り、それも江戸伊勢間を文書の往復によつて教を受けてゐるのであるから、眞淵の萬葉觀が宣長に徹しなかつたのは已むを得ない所であり、それに生來の知的性格が餘計にその方向を定めたやうである。久老は養家荒木田氏も生家度會氏も代々伊勢神宮の神主であつて、幼少より實父|正身《まさのぶ》から古學を授けられ、十九歳江戸に下つて直接眞淵の牆内に萬葉の古意を聽き得た。居つたのは足かけ三年であつたが、それが生涯に大きな基礎を据ゑ得たのであらう。それに生來豪放不羈の性質が、餘計に萬葉集その他の古代歌謠に親しませたやうである。
 宣長と久老は、古學に於て往々説が違ひ、殊に歌に於てそれが著しかつた。久老の歿前三年(享和元年五十六歳)に書いた信濃漫録を見れば、宣長が定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」を「見渡せば花も紅葉も難波潟あしのまろ屋の秋の夕ぐれ」と改めて見たのを痛撃して「上略。歌ちふものはこの風致に言外の餘情あるをめでたしとすべきを(中略)偏僻の地の人はこの風致は露辨へずして理を先にし縁語言葉のいひくさりのみ求めて自らよむにも他の歌を評するにもこの風致を忘れたるぞ多かりける。縁語言葉のいひくさりを專とせる歌は必たけみじかく餘情なくてめでたからぬものなるをや。云々」と言うてゐるのは、宣長と久老の歌道觀の相違をよく言ひ現したものであつて、少くも、久老は宣長よりも歌の分つて居たことが知られるのである。猶同所劈頭に、久老は「近ごろ宣長が顰に傚へる徒歌の風致はつゆ辨へずして只聊かの難を見出んことをむねとせり。云々」と言うてゐる。
 歌の用語についても、宣長は後世風の歌に古言を交じへ、古體の歌に後の詞の交じるを、ぬえ歌、えせ歌と言ひ嘲つたのに對して「(上略)詞は前後の調練によりて近古の差別なきを近頃なま/\のもの學びの徒この意味をも辨へず近古混雜といふ名目を立て他の言(歌?)を難ずるこそうたてけれ。云々」と言うてゐる。これも、久老の宣長より歌の分つてゐることの一證例となり得るのである。一體、歌に古體近體などの區別を立てて各體を作り分けた宣長の爲わざが智者の智慧負けした所である。この人は、根氣よく古學の穿鑿釋義に沒頭して歌道などに口や手を出さねばよかつたのである。
 歌に於て斯樣に二人の意見の相違したのは、生得の性情が相違してゐたためであらう。宣長の商家の出なるに似合はず、古學に高い見識を持したのは、學究としての天分が豐かで、始終科學者的冷靜な態度に徹し得たためであり、久老は神に仕ふる家に育つて、更にそれよりも高い氣位を以て直ちに古歌の心に觸到しようとし、その途上、宣長の歌論が癪にさはつたといふ觀がある。さりながら、宣長は縣門に入ること、久老より一年の兄であり、年齢に於て十六年の長である。宣長に對する久老の尊敬は、道の上の論難によつて傷けられてはゐないのであつて、その消息は、萬葉考槻の落葉卷頭自序文を見て明瞭である。
 萬葉考槻の落葉は、久老の一生を通じて尤も心血を濺いだものであつて、可なりの稿を續けたものと思はれるが、卷三解上下及び別記合せて三卷の外上梓するに至らなかつたので、吾人の見るを得ないのは殘念である。久老の校合に用ひた萬葉諸本は、官本水戸本をはじめ元暦萬葉集古葉略類聚鈔等に及んでゐて、當時にあつて博渉と稱すべきであり、所説多く妥當確實であつて創見がある。小生は嘗つて、或る人が、人磨の「久方の天ゆく月を綱にさしわが大君は蓋《きぬがさ》にせり」を解して御獵の歸りに夕月が出たので感興のあまり作つた歌であらう。とやうに言うてあるのを見て知言となした。然るに、槻の落葉を見ると「夕ぐれ月の出るまで御狩しあそびませるによりて、かくはよめる也。云々」とあるので、出所のあることを知つたのである。他人の説はその名を明記し、師説と雖も駁すべきを駁してゐる所に、久老の清潔な性格が見える。只豪放卓螢[#虫が牛)な詩人的性格は、彼を驅つて、專ら古歌道に參せしめたと共に、生涯の研究を虞理して世に公にするといふやうな方面を疎懶にした傾きがあるのを殘念に思ふ。これも彼の功利的でない清潔な性格の現れであらう。
 久老には、この他に、記紀の歌解、續日本後記歌解、竹取物語歌解、信濃漫録(信濃下向病床漫録。又、槻の落葉漫筆)古言清濁辨論、祝詞考追考等がある。文化元年九月歿。年五十九である。
                   (大正十三年七月「アララギ」第十七卷第七號)
 
      「はも」のこと
 
 「はも」の感嘆詞は通例過去追想の詞につくものとされてゐるやうであるが、萬葉の中に、往々異例が見える。さし當り
    出でて行きし日をかぞへつつ今日今日と吾《あ》を待たすらむ父母らはも    卷 五
    富人の家の子どもの著る身なみ腐《くだ》しすつらむ絹綿らはも   卷 五
    春《はる》の野《ぬ》に草食《くさは》む駒《こま》の口《くち》息《や》まず吾《あ》を偲《しぬ》ぶらむ家《いへ》の子《こ》ろはも  卷十四
    一根呂《ひとねろ》に言《い》はるものから青嶺《あをねろ》にいざよふ雲《くも》の依《よそ》り妻《づま》はも  卷十四
などがそれである。見えるに從つて覺えがきに書いて見るのである。
                 (大正十三年七月「アララギ」第十七卷第七號)
 
      酒をかむこと
 
    この御酒《みき》を、釀《か》みけむ人は、その鼓《つづみ》、臼に立てて、歌ひつつ、かみけれかも、舞ひつつ、かみけれかも、此のみきの、御《み》きのあやに、うたたぬしささ、 武内宿禰
 酒をかもすは酒をかむの延音であり、かむは原料なる米穀を口に噛んで醗酵させるのだと解するのが普通である。それに對して、紳を祀る酒《みき》を得るのに口で噛むのは不淨であつて如何はしいとする説もある。信州北安曇山中では、今も山葡萄の果を採つて酒を釀す時、その果を口で噛んで唾液を混ぜねば良酒を得ぬとしてゐるさうである。このこと信州下高井郡の山中にも越後の山中にもあるさうである。「かむ」は「噛む」の意から來てゐるらしい。雄鳩が雌鳩に食を哺《ふく》める時妙な聲を出す。歡びの極の敬虔な音聲であらう。所謂噛んで哺めるといふのは、歡びと敬虔と合致した動作であらう。御酒《みき》を噛むのに、願ひつつ舞ひつつする心理がそれである。親愛の心は不淨を通り越してその物を淨化する。二十年前、諏訪山浦の女が物を口移しにして小生の幼兒に與へたことがあつて、小生少からず驚いた。驚いたのは今人の心理であつて古代人の心ではない。山中の女にまだ古代人の心が遺つて居たのである。
                   (大正十三年十月「アララギ」第十七卷第十號)
 
 
      「萬葉集全卷」本に題す
 
 日本民族は神世の昔から思ふところを歌謠に現して相唱和するといふ習はしがあつて、その歌謠の今に傳はるもの、皆簡素清純で眞情が流露してゐる。その流れが子孫に擴がつて、形にも心にも自らなる發育をなし、紀元千三百年代の半ば頃になると、作歌の衝動に藝術的意識が明瞭に加はつて、所謂歌人、作家ともいふべきものが輩出し、それらの勢と相待つて、當時一般、歌の命が高さ深さ豐かさの頂上に達したかの觀がある。萬葉集は、その頂上期を中心として、前後百二三十年に亙つた歌を主として集めたものであつて、我が國千數百年間に現れた多くの歌集中、唯一最高の權威をもつて古今歌界の上に臨んでゐるものである。
 詳しく言へば、萬葉集は、仁徳天皇御宇より淳仁天皇御宇天平寶字三年まで大凡四百五十年間に亙つた歌を輯めたものであるが、舒明天皇以前三百餘年間の歌は甚だ少く、以後百餘年間の歌が多く、時に天武天皇御宇以後七八十年間の歌が最も多いのである。試みに期を以て分かてば、舒明より天武に至る五六十年が初期と言ひ得べき時期であつて、朝廷が主として明日香にあつた時代である。この時代の歌は、上古の素樸な歌風を繼承して原始的な強さと太さとを持つて居り、子どもの如き率直さと自由さとを持つて居て、萬葉集全體の素質的方面を最も顯著に現してゐる時期であつて、形から言へば繰り返しの句が多く、調子から言へば直線的で大きく、心から言へば概ね一途に無邪氣である。(舒明以前がこの範圍に入るべきこと勿論であるが、歌數少きゆゑ、假りに期を劃したのである)第二期は、天武天皇より續いて持統文武兩帝を中心とした二十年程の期間であつて、朝廷が主として藤原にあつた時代である。この期は前期の歌風に現れたる原始的素質を押し進めて、更に藝術としての崇高なる境域へ到達し得た時期であつて、年數は短いけれども、萬葉集の頂上期と稱すべき時である。この期に至つて、初めて作家・歌人とも言ふべきものが現れた。時代の大勢が自らにして生んだのであつて、巨頭に柿本人麿・山部赤人等がある。人麿赤人は、萬葉集中の巨頭なるのみならず、日本上下數千載に亙つての巨頭である。(赤人は次の期に亙れる作者なれど暫くこの期に收める)斯かる巨人を生んだのに見ても、當時一般歌風の趨勢を想見することが出來るのである。第三期は所謂奈良朝の時代であつて年數五十年程である。この期は、第二期歌風高揚の勢を繼承して更に多くの作家を輩出し、萬葉集中最も歌の多い期間と思はれるのであるが、往々にして原始的素質から離れて形骸に捉はれんとし、眞實な寫生から離れて觀念的な歌ひぶりに陷らんとする傾向も見えはじめてゐる。山上憶良・大伴家持等はこの期の代表作家であるが、これらの二人の歌にもその傾向があり、特に家持の歌の或るものは、後世古今集への橋渡しをするの觀あるものさへ見えてゐる。第三期は萬葉集中の末期と稱していい。併し乍ら、この期を通じて萬葉集中の秀逸も可なり多く現れて居り、特に狹野茅上娘子の如きは、萬葉時代の末端に出現して、女性作家のために虹の如き氣を吐いてゐるといふ有樣であつて、一概に言ひ去れないこと勿論である。之を要するに、萬葉集全體を通じて、歌の命の高揚してゐること後世比すべきものなく、作歌の心が常に一點に集中し、現れるところは緊張の聲調、至純の風格、高古の匂ひ、圓融の相となつて藝術の高所に澄み人つてゐるのであつて、世に之を萬葉調と呼ぶのである。
 集中の作者としては、上は天皇皇后諸皇族乃至群臣より田夫野人に至り、下つては遊行婦女乞食にまで及んで居り、それが皆萬葉調といふ歌風に一致しでゐるのは、當時作歌の心理が、痛切なる現實に即し、純眞なる感動に印するに於て一致してゐたためであつて、作歌心理が眞剣な態度に立つ時、階級差別の如き閾は自然に通り越して、裸々たる人間性に歸するのであらう。それほどの赤裸々な態度に立ちながら、猶且つ、天皇は天皇としての品格を歌柄の上に備へ、臣民は「大君は神にし在《ま》せば」と歌うて、天皇を現人神《あらひとがみ》と尊崇するに見ても、日本の君臣關係の根柢所を窺ひ得るのであつて、斯樣な方面から萬葉集を見ることは、國體研究者に大切な鑰を與ふるものであり、萬葉集全體が、日本民族あらゆる階級者の眞剣なる感情の表示なるに於て、日本民族祖先の心理研究を目的とする學者に裨益を與へること多大であらう。之を要するに、萬葉集二十卷は日本上古數百年に亙民族的歌集であつて、純文學としての價値は勿論、その他の方面から日本民族を研究せんとするもののためにも、儔罕なる寶典である。
 歌の數は、袋艸子に四千三百十三首とあり、代匠記に四千五百十五首とあり、古義に長歌二百六十二首短歌四千百七十三首旋頭歌六十一首合計四千四百九十六首と數へてあるのは、傳本に相違があり、類歌の見方に意見の違ひがあるからであらう。大體を四千五百首と見ていい。
 撰輯者は古來橘諸兄説あり、大伴家持續撰説あり、鎌倉時代の僧仙覺は兩人を撰者とし、徳川初期僧契沖は家持を撰者とし、その説久しく定説となりしも、今日にては家持以外猶數者の手を經たるものが合せられたものと想像する説が有力である。
 萬葉集の書き方は、所謂萬葉假名であつて、國訓を寫すに凡べて漢字を以てしてゐる。それゆゑ、後世難訓の書となり、村上天皇天暦年中源順等が勅を受けて梨壺で訓を施したものを古點といひ、後、藤原道長以下多くの人等が永年に亙り順次訓鮎を施したるを次點といひ、鎌倉時代の中葉に僧仙覺が十教種傳寫本によつて校合をし、古來訓み難しとされてゐる百五十二首に訓を施したるによつて訓點上の一段落を見るに至つた。これを新點といふ。併し、この訓點の事は、新點以後徳川時代の學者より明治大正の學者にまで遺された至難の業であつて、萬葉集中の或るものは依然として難訓として今日に遺つてゐるのである。元來萬葉集は筆寫本として後世に傳はつたのであつて、活字本若くは木版本として印行せられたのは徳川初期である。それゆゑ古來の寫本中、古きは湮滅し、或は脱離し、時代の後れたるは誤り多く、寫本によつて樣々の傳へ方をしてゐるのであつて、歌の正體を見定め難いものが可なりある。それを見定めるには、成るべく時代の古い寫本を多く輯めて校へ合せるの外ないのであるが、古寫本というても、平安朝末期より以前のものは一も現存してゐないのである。近頃佐々木信綱・橋本進吉・千田憲・武田祐吉・久船潜一・五氏が、現存古寫本その他後世の權威ある萬葉研究を網羅してその異同を明にするため十三年の歳月を費して校本萬葉集を公にするを得たのは、萬葉集訓話の學徒のために多大の貢獻をなしたものであつて、仙覺の訓點大成と併稱すべき偉功である。
 萬葉集註釋は、大體、僧仙覺著仙覺抄(一名萬葉集註釋、又一名萬葉集抄)より初まると見ていい。それから徳川時代に入つて、北村季吟の拾穗抄、下河透長流の管見、僧契沖の代匠記、荷田春滿の僻案抄、賀茂眞淵の考、本居宣長の玉の小琴、荒木田久老の槻の落葉、加藤千蔭の略解、富士谷御杖の燈、橘守部の墨繩及び檜嬬手、岸本由豆流の攷證、鹿持雅澄の古義等があり、明治に入つて木村正辭の美夫君志、伊藤左千夫の新釋、佐々木信綱氏の選釋、井上通泰氏の新考(卷十七以下續刊中)折口信夫氏の口譯萬葉集等があつて各特殊の立場を以て萬葉集研究者を裨益してゐる。その中、萬葉集全部二十卷の釋をなしたるは拾穗抄・代匠記・考・略解・古義の五つであり、代匠記・考・古義は、特に堂々たる研究と識見を具してゐる。
 萬葉集の歌風は、後、平安朝の宮廷歌人に傳らずして、當時民人の歌謠等に僅にその面影を遺すに過ぎなかつた。萬葉以後百四十年にして現れた古今集以下の勅撰集を見ればその事明瞭である。これは萬葉集の緊張せる精神が藤原氏を中心とする宮廷人の享樂的生活精神と相容れなかつたのが主因であらう。この相容れざる二潮流の對峙は、明治大正の今日まで日本の歌界に截然として現れてゐる。併し乎ら、平安朝以後明治に至る千年間大體の歌風は、平安朝期の流れを繰り返し、蒸し返したに過ぎぬと見ていい。前記萬葉集の註釋書著者の如きも、萬葉風の歌に隨喜して、その研究に從つたと思はれる人は極めて少く、寧ろ古學研究のために萬葉集の註釋に沒頭したに過ぎぬものが多いのであつて、註釋者その人の歌を見れば、萬葉集の匂ひ極めて少くして古今集新古今集の匂ひの多いのを見てもその消息を知り得るのである。只、鎌倉時代初期に源實朝があつて卓然として一人萬葉の歌風を宣揚し、徳川時代中葉に賀茂眞淵出でて、積極的に萬葉歌風復興の説をなし、その影響によつて、田安宗武・平賀元義の如き傑れたる萬葉風歌人が輩出し、これと前後して、僧良寛の如き無礙自在なる萬葉風歌人をも出したのである。明治三十年以後、和歌革新の氣運至るに及んで、正岡子規が新に萬葉歌風の復興を唱へて、自らその制作を發表し、同時に古今集以下千年間に亙る勅撰集歌風を排すること頗る直截であつた。大正時代の歌界が萬葉以後千餘年にして再び萬葉調に向はんとするの現象を呈するに至つたものは、二十餘年前子規によつて唱へられ、且つ、拓かれた道が今日に流布したのである。
 萬葉集の文字は、前述の如く、萬葉假名であつで、漢字の假り方が音訓義錯綜して容易に訓み下し難いのであつて、今人の味讀に不便である。今回藤澤古實・廣野三郎二君が、萬葉集全卷を平假名交じりの書き下しに改めて刊行するは、今日にあつて最も機宜を得たる擧であつて、それによつて、我我が容易に萬葉集に親しみ得るのは非常の便益である。訓み方を全く鹿持雅澄の萬葉集古義に從はせたのもいい。これは、悉く自家の意見によつて補訂しようとすれば、生涯を通じても猶及び難い爲事になるのである。古義は訓み方に於て、他の何れの書よりも比較的正鵠を得てゐるのであつて、先年、土岐善麿氏の編纂した作者別萬葉全集も、同じく訓み方を古義に從はせて、平假名交じり書き下しにしてゐる。これは、編纂の目的が作者別に從ふにあるのであつて、その方面より世を益すること多大である。別に小型六號活字本があつて、同じく古義に從つて平假名交じりの書き下しにしたものがある。惜むらくは、古義の説と相違があり、誤植と思はれる所もあつて、嚴密に古義に從つたと言ひ難いやうである。古義の説を渉獵して正しく古義の訓を傳へ、且つ、誤脱なく字を植ゑ了ふるといふことだけで可成りの難事である。二君は、果してこの擧のために二年餘の歳月を費した。勞多けれども世を益すること更に多大なるによつて償はるべきである。刊行に當り、集に關する梗概を述べて、讀者參照の一端に供するのである。                  (大正十四年十月「アララギ」夢十八卷弟十號)
萬葉集雜記入力終わり、2003.9.07(日)  2003.12.14(日)校正終わり
 
 
      萬葉集の系統
 
 文禄から慶長に亙つて隆達が出て、三味線小唄が發達しました。隆達節の小唄を一二擧げます。
    只おいて、霜にうたせよ、科《とが》はの、夜ふけて來たが、憎いほどに
 女は宵のうちから男を待つてゐた。そこへ男が夜ふけて來たのであります。「只おいて、霜に打たせよ」と言つたのは、可愛さ餘つて憎さの先だつ心であります。「ただ」とは強い心の調子が、強い音響となつて現れた詞であります。「只外に立たせ置いて霜に打たせよ」と劈頭に言つてゐるのであります。「霜に降られよ」「霜に遭はせよ」と言はないで「霜に打たせよ」と言つてゐるのは、強く緊張した心の現れであります。それが「只置いて」といふ強い詞と調子を合せて、一句よく女人の心の亢奮せる勢を現し得て居ります。「科《とが》はの、夜更けて來たが憎いほどに」を後まはしにして敍述を顛倒してゐる所も、自然にこの唄の勢を成し得て居ります。
    思ひよらずの會釋のふりや、恨みの言《こと》ぞはたと忘れた
 何かの事情で二人は別れてゐた。それが思ひがけなく出逢つたのであります。もう碌々よい挨拶もされないだらうと思つてゐたのに、思ひよらずの會釋であつたのでありませう。そこで「恨みの言ぞはたと忘れた」のであります。はたといふ詞がこの急速な場合の心をよく現し得て居ります。
 この隆達節頃から三味線小唄が發達して、その後に流行した弄齋節になると、ほんの少しの年を隔ててゐるのみであるが、餘程調子が變つて居ります。隆達節の小唄は、表現が多く直接で、心が緊張して居ります。弄齋節になると表現が間接になつて、緊張した心が見られません。
    よしや今宵は曇らばくもれ、とても涙で見る月を
 この唄には熱情がありません。身の上を嘆いてゐるのであらうけれど、左樣な心に住する場合、只その心を突き詰めて歌つてゐべきでありませう。この場合、月の晴れる曇るなどは何うでもいいのであります。「曇らばくもれ」「とても涙で見る月を」など言つてゐるのは、どうでもいい餘所言をいつてゐるのであつて、詰まり遊びをやつてゐるのであります。猶言へば、この歌全體が比喩であります。比喩は多くの場合表現が間接であります。間接な表現に甘じ得る心は緊張した心ではありません。遊びをやつてゐるといつたのは、それを指したのであります。斯ういふ歌は私には面白くありません。
    住めば浮世に思ひの増すに、月と入らばや山の端に
 これも月並の洒※[さんずい+麗]であります。「住めば浮世に思ひの増すに」が概敍であり、「月と入らばや」が常套の襲用であつで、詞の遊戲に過ぎない生ぬるいものになつて居ります。弄齋の例は二つ擧げて置きますが、隆達から、ほんの僅かの年月の間に斯樣な変化のあつたといふことは驚くべき事であります。そして弄齋節以後の恋慕流、投節、長唄、端唄、清元、常磐津といふやうな三味線の歌謠は、皆弄齋節歌謠の系統で通つて居ります。つまり、歌謠が墮落をしたのであります。之は、何故かと考へて見まするに、三味線唄の流行といふことが輕薄を招致したこともありませう。或は又、三味線が主で、歌の方は從屬であるから自然に輕んぜられたといふこともありませう。が、私はこの理由ばかりでないと思ひます。即ち、弄齋節以下の三味線唄は、華柳社會や遊藝社會を中心とした氛圍氣の中に局限せられて發達したので、その空氣が歌を輕薄にしたのではないかと思ふのであります。
 私は、只今隆達節と弄齋節とを比較いたしましたが、この關係が、萬葉集と古今集の關係によく似て居ますから、引例として申し上げたのであります。そこで萬葉集は如何なるものであるかと申しますと、第一の特徴は、萬葉集は民族的の歌であります。日本民族全體が赤裸々になつて膝を交へて、お互に人間としての共通した感情を有りのままに歌つて居ります。上は天皇から下は潮汲む海女、乞食までが皆左樣であります。天皇が菜を摘む少女に戀歌をよみかけていらせられる。又身分の卑い少女が身分の高い人に赤裸々な戀歌を送つてゐる。この樣に、凡ての階級のものが、此の時代の現實の問題に正面から向き合つて、一樣に緊張した心を以て歌つてゐるといふのが第一の特徴であります。卷一の最初にある雄略天皇の御歌は
    籠《こ》もよ、み籠《こ》もち、掘串《ふぐし》もよ、み掘串《ふぐし》もち、この丘に、菜摘ます子、家|告《の》らへ、名|告《の》らさね、虚《そら》みつ、大和の國は、押しなべて、吾こそ居れ、敷きなべて、吾こそ坐《ま》せ、我こそは、背とし告《の》らめ、家をも、名をも、
 と最も端的に菜摘みの少女に向つて戀の心を告げて居られます。非常に強い言ひ方で、これには少女も辟易するだらうと思ひます。「籠《こ》もよ」の「こ」は籠であります。「もよ」は感嘆詞であります。「籠をまあ」と仰しやつて、少女への愛著が籠を持つ手ぶりに及んで居ります。「ふぐし」は掘る串であります。「籠を持ち掘る串を持つて」と言うて少女の振舞を愛稱されて居るのであります。「この岡に、菜摘ます子、家|告《の》らへ、名|告《の》らさね」女が男に許す時には、自分の名と家名を告げるのが、この頃の習慣であります。其習慣によつて「家を告げよ名を告げよ」とお促しになつたのであります。目的を直に仰しやつてゐるので、極めて直接な表現であります。併し、何うも目的だけ仰しやつただけでは、あぶなさうで、不安心である。そこで遂ひ「空見つ大和の國は、おしなべて吾れこそ居れ、敷きなべて吾れこそ座《ま》せ」と仰しやつて、己れが天皇だとお名告りになつてしまひました。これは必要上已むを得なかつたのでありませう。さういふ所、却つて天眞無邪氣でありまして、ここに參れば、天皇も私どもも御同樣といふ心持がいたします。天皇を御同樣などと思ふのは失禮でありませう。多少御同樣な所を持つて居られた方が實は有難いのであります。神でありながら人であります。丁度私の小學校に居る時分、先生は大便を放られないものと本當に思ひました。それは有難い先生でありませうが、お互ひの間にはさういふ所もお見せになつた方が親しみが出る。生徒が感心いたします。我我に似たことをやつて居られると思ひまして、安心をいたしまして、餘計親しみが出て良い心持がいたします。これを直に比喩にするのは惡いのでありますが、この歌を讀みますと、親しい心持がいたします。「虚《そら》見つ大和の國は、おしなべて吾れこそ居れ、敷きなべて吾れこそ座《ま》せ」雄略天皇御自身に大分敬語を使つておいでになります。これは當然使ふべき心持で、安心して使つておいでになるのでありまして、さういふ所に日本特有の君民關係が自然に現れて居ると思ひます。國民性を考へる人の注意すべき點であると思ひます。私は五人の子を有つて居りますが、子どもに對しては、自分自身が阿父さんは斯うなさると、子どもに對して敬語を用ひて申しますが、是は親しきもので安心してゐるから、當然用ふべき敬語を安心して用ひるのであります。「押し竝べて吾れこそ居れ、敷きなべて我こそ座せ」すつかり御安心になつて、俺が天皇だと仰しやるのは、此際必要にして自然のやうであります。已に御身分をお打ち明けになつたが、未だ不安心である。そこで又「吾れこそは、背とし告らめ、家をも名をも」と繰り返して仰しやつたのであります。この歌は萬葉の最初に出て居て比較的古い歌であります。端的で天眞な心持は、隆達節などより遙に良い心持のする歌であります。
 斯ういふ天皇を戴いて居る我々祖先の臣民たちは、さういふ天皇の赤裸々な姿を見せられながら、疑ふところなく「大君は神にしませば」と歌つて居ります。この句は萬葉集の所々に見えて居ります。それを見ても、日本の君民關係がどんなものであるかが分ります。どういふ因縁で斯んな感情になつて來たものであるか知りませんが、今度の震災避難民が、命から/”\に遁れる時に、日暮里の停車場で、攝政宮殿下は御安泰か何うかといふことを訊いたさうであります。命から/”\で遁れる時に、攝政宮殿下は何うであらうと言ふ。是が日本人の本當の聲であります。御安泰といふことを聞いて、無蓋車の上に避難しながら皆萬歳を唱へたといふことを聞きました。菜摘み女に示された戀歌と「大君は神にしませば」といふ聲とは、矛盾するところなしに存在し得るのであります。斯ういふ所にも、日本の國民性が現れて居ると思ひます。一端だけを申し上げるに過ぎません。
 持統天皇は、語部《かたりべ》の老婆をからかうて
    否《いな》といへど強ふる志斐《しひ》のが強ひ語りこのごろ聞かずて朕《あれ》戀ひにけり
 といふ歌を賜つて居ります。志斐は老婆の名(氏です)であります。否《いや》だと言うてもお前は強ひ語りをする。その強ひ語りを此頃聞かないので懷しくなつたといふのであります。夫れに對して志斐嫗は
    否といへど語れ語れと告らせこそ志斐いはまをせ強ひ語りと告る
 とお答へ申して居ります。私こそ否《いや》と申し上げますが、陛下が語れ/\と仰せらるればこそ、否々ながら語り聞え上げるのでありますのに、それを強ひ語りと仰しやるのは酷《ひど》うございますと返し奉つてゐるのであります。陛下と臣下との關係が、歌の上では全く朋友の關係であります。又、常陸國の娘が藤原宇合に別れる時に
    庭に立ち麻を苅り乾ししきしぬぶ東《あづま》をとめを忘れたまふな
 と女の悲しい心を正面から率直に歌つて居ります。それが、柿本人麿になりますと、妻を思ふ長歌の終りに「妹が門《かど》見む靡けこの山」といふ強い調子に出て居ります。萬葉集の歌は、すべてこの調子で一貫して居ります。緊張した心が眞剣な態度を以て歌はれてゐますから、表現がすべて直接であります。打てば鳴り、斬れば血が出るのであります。
 そこで、今度は古今集の方の例を奉げますと、開卷第一の歌が
    年のうちに春は來にけりひと年《とせ》を去年《こぞ》とや言はむ今年とやいはむ
 といふのであります。成るほど正月にならぬうちに立春の來るといふことが古い暦にはありませう。そこで、年のうちに春が來たのでありますから、この年内を新年と言つていいか舊年といつていいか分らないといふのでありませう。斯樣なことは古人にあつても何等痛切な問題とはなり得ないでありませう。痛切な心が盛られてゐませんから、歌全體が自ら痛切な響になつてゐないのであります。
    袖ひぢて掬《むす》びし水のこはれるを春立つ今日の風や解くらむ
 袖ひぢて掬びし水といへば夏でありませう。夫れが凍るといふのだから第三句はもう冬になつてゐます。冬になつたかと思ふと「春立つ今日の風」となつて來ます。まことに眼がまはるやうであります。眼はまはつたが、つまり何を得たかといふと、何も得てゐないのであります。
 例を擧げるのはこの位にして置きますが、萬葉以後百三四十年間に、この位調子が變つて來てゐます。外形の調子のみでありません。物に對する心の調子であります。さうして、古今集以後、八代集以後、ずつと千年の間この調子で續いて來てゐます。これは何故であるか。隆達の調子が弄齋の調子になつたのは、先程申し上げたごとく色々の原因もあるが、三味線唄の發達が花柳社會に局限されたといふことが大なる原因をなして居ります。萬葉集の歌風が、僅に百三四十年の間に古今集以下の歌風に變つて來たのは何の爲めでありませう。萬葉集の歌は前に申し上げたやうに民族的の歌であります。古今集になりますと、それが官人若くは官人を中心として生きてゐる人々に局限されて來てゐます。古今集以下八代集時代の官人といへば、藤原氏が中心を成してゐます。この藤原氏が、政治的にも私人的にも、どんな生活をしてゐたかと言ふことは、今私の述べるまでもない事であります。この官人を中心として、それに調子を合はせ得る人々の歌つた歌が古今集以下の勅撰集であります。現實に苦しむことの少い一部貴族を中心とした人々の産み出した歌集でありますから、調子の現るる所、自ら生《なま》ぬるいものになつてゐるのが當然であります。三味線唄、花柳社會や遊藝社會に局限せられて歌謠の墮落を來《きた》し、萬葉就以後の和歌が貴族社會に局限せられて古今集以下の墮落を來したことは、面白い對照であると思ひます。それ故、私は、萬葉集と古今集との關係を説くために、態々、隆達節と弄齋節とを引合ひに出して、對照せしめたのであります。
 古今集以後、すべての勅撰集が、痛切な現實を經驗すること少なき貴族社會の歌集であつたため、自然に享樂的―享樂とは緊張の反對であります―でありましたが、只少し例外があります。それは、古今集中に東國野人の詠み出した東歌《あづまうた》といふものが極めて少し交じってゐます。これは貴族を中心として生活する人々と異つた種類の人達であります。この東國野人の詠んだ東歌は、古今集にあつて、鮮かに萬葉集の系統を引いてゐるといふこと、これ亦甚だ面白い對照を成してゐるものであると思ひます。
    阿武隈《あぶくま》に露立ちわたり明けぬとも君をばやらじ待てばすべなし
 夜が明けてもあなたは歸しません。待つてゐるのは辛《つら》うございますからといふのであつて、一見全く古今集の歌風でありません。
    みさぶらひみ笠とまうせ宮城野の木の下露は雨にまされり
 なども、古今集中に例のないほど直接性を帶びた歌となつて居ります。其他、神樂歌催馬樂歌にも、民人の眞剣な聲の一部が、ちよいちよい顏を出して今日に保存されて居ります。
    笹分けば袖こそ破《や》れめ刀根川の石は踏むともいざ川原より
 笹を分けて歩かば袖が破れませう。石踏むことも苦しうございませうが、川原から通つておいでなさいといふので、男を思ひやつた憐みの心持と、待つて待ちきれない心持が直接に響いて居ります。
    鬼怒川《きぬがは》の、瀬々の小菅の、やはら手枕、やはらかに、寢《ぬ》る夜はなくて、親|離《さく》る夫《つま》
 愛する夫と、やはらかに寢る夜はなくて、親が二人の間を離さうとする。その女の悲しみを直接に素直《すなほ》に訴へて居ります。傍言《わきごと》を言はずに、正面から歎き悲しんでゐる所に歌の命があるのであります。
    かたくなに、物言ふ女かな、いまし麻衣《あさぎぬ》も、わが妻《め》の如く、袂よく、著《き》よく肩よく、袵《こくび》やはらかに、縫ひ著せめかも
 どうも面白い。何所にも生温《なまぬる》いところがありません。この他に神樂歌催馬樂歌から例を擧げれば多いのでありまして、何れも、民人の現實の苦しみに即した直接な聲でありまして、明かに萬葉集の系統を引いて居ります。
 足利時代の小唄といふものも、多く民衆的に發達して居りまして、歌の風が古今集と大分違つて居ります。
    宇治の晒しに、島に洲崎に、立つ波をつけて、濱千鳥の、友呼ぶ聲、ちり/\や、ちりちり、ちり/\や、ちり/\と、友よぶところに、島かげよりも、櫓の音が、からりころり、からりころりと、漕ぎ出だいて、釣りするところに、釣つたところが、はあ、面白いとのう
 この歌は、書物によつて多少の違ひがありますが、大體斯樣であります。斯ういふ率直なものは、矢張り民衆から生れて居ります。弛緩した享樂的な氣分からは、こんな無邪氣な聲も出てまゐりません。
    深山のおろしの、小笹の霰の、さらりさら/\としたる心こそよけれ、險しき山の、九十九折《つづらをり》の、かなたへまはり、こなたへまはり、くるりくる/\としたる心は面白や
 これは愉快であります。説明は要りません。斯ういふ所から三味線小唄なども最初は系統を引いて居ります。例へば永禄時代の蛇皮線、彼の三味線のもとであります。その小唄に面白いものがあります。例へば
    わが戀は、千本小松の枯るるまで、鯛が水|乾《ひ》てほこり立つまで
 比喩でありますが、「鯛が水乾て埃たつまで」といふ程大膽な比喩をされると反抗が出來なくなります。比喩そのものに直接にして痛快な心があるからであります。隆達節なども同じくこの系統の内のものであります。それが弄齋節になつて墮落して、徳川時代の三味線唄が、花柳社會とその氛圍氣の中に育つたために、眞に詰らぬものに墮ちたのであります。併し乍ら、民族の歌謠は、花柳社曾に發達するものとは別途の發達をしてゐます。諸國民謠、馬子唄、舟唄、麦搗唄といふやうな種類でありまして、是等の唄には、現實に即した民人の痛切な心が、生き生きと現れてゐるものが澤山あります。馬子などは、夜から夜へかけて、野から野、峠から峠を通つて日を送るのでありまして、妻子にも碌碌逢はれません。顏は怖いが心は哀れであります。その哀れな心から哀れな唄が生れ出ます。船頭の生活は、船底一枚の下は地獄であつて、あの荒くれ男も、海洋に乘り出せば憐れなものであります。それが自然に哀音を含んだ船頭唄になつて居ります。麦搗唄、田植唄、草取唄等皆同じであります。その傑れたものは、矢張り萬葉集の精神を引いてゐると言ひ得るのであります。いま、伊豆南方に現に謠はれてゐる麦搗唄を例にします。
    麦ついて、夜麦搗いて、お手に肉刺《まめ》が九つ、九つのまめを見れば、親里が戀しや
 九つの肉刺といふのは多くの肉刺をいふのでありませう。嫁に行つて間もない農家の新婦の心がよく現れて居ります。清元や長唄の歌謠とは種類が違つて居ります。花柳社會や遊藝社會にも、勿論痛切な生活がありませう。併し左樣な社會に發達した歌謠は、痛切な問題の方は寧ろお留守にして、お客の遊び氣分に迎合するやうな、面白をかしい、所謂甘たるい側のもののみが多く發逢してゐるやうであります。生温いものになり、間接なものになり、駄洒※[さんずい+麗]のものになるのは爲方のないことであります。
 萬葉の精神が、民人の間に斯ういふ形式となつて殘されてゐる間、短歌の上にあつては、古今集系統のものが、一千年間保存せられました。進歩でなくて單に保存せられたのであります。その間に萬葉の風格を傳へたものが極僅か出ました。右大臣源實朝であります。實朝は新古今風の流を汲んで居りますが、萬葉集の影響をうけてからは、殊に緊張した直接な歌を遺して居ります。これは、一方から言ふと、八代集時代の貴族政治期に對する武士政治期の代表と見る事が出來ます。夫れから、徳川時代の末に賀茂眞淵が出て、萬葉集を鼓吹して、所謂益荒男ぶりの歌を唱道いたしました。彼の遺した歌に餘りいいものはありませんが、田安宗武・平賀元義などは、この機縁によつて輩出した萬葉系歌人であります。其他に僧良寛が出てゐます。是等の歌人が徳川の末葉に出たのは、行き詰まつた空氣の中に新しく生れ出た芽と見ることが出來ます。即ち徳川末期積弊打破の精神が生んだ新芽であります。
 明治になれば、今までの少數政治が、兎も角も民衆的の政治となつて、階級は少なくなり、萬機維新の時となつて、短歌の上にも、自然に改新の機運が向いて來たのであります。明治三十年前後から、落合直文氏や與謝野さんは、明瞭な旗を立てて短歌の革新を起されました。これに前後して正岡子規が出ました。この短歌革新のことは、只今も與謝野さんが申されましたから私は立ち入らない事に致しますが、特に、ここで子規のことを申し上げる必要があります。子規は、絶對に萬葉集を尊信すると共に、古今集以下を絶對に否認してゐます。これが子規の短歌革新の精神であります。この事は、明治三十一年の「日本新聞」に「歌よみに與ふるの書」といふものを十回許りに亙つて發表してゐます。子規の主張を知らうとするには是非これを讀まねばならぬのであります。これは「續子規隨筆」の中に收めてありますから、詳しくは夫れで御覧を願ひます。斯樣な譯で、子規の短歌革新は全く萬葉集に歸ることでありますから、萬葉集の系統と題する私の話には、自然に子規が最も主要な位置を占める事になりますので、これから子規に就いて較や詳しく申し上げたいと思ひます。
 萬葉集のいのちは、内面から言へば、「全心の集中」であり、外面から言へば「直接の表現」であります。「靡けこの山」も「東女を忘れ給ふな」も感情が一點に集中されて、表現が直接にぴたりと行つてゐる點に於て、古今集以後の微温的な心と、その心が間接な表現を取つてゐるものと、明らかに反對の對照をなして居ります。夫れでありますから、眞に萬葉集を尊敬するものは、古今集を絶對に排するのが自然であり、當然であります。酒を眞に愛するものは、眞に純粹なものを要します。その心は上戸ならぬ私にも分ります。萬葉集でも譬喩歌になると表現が直接でないだけ、歌の慣値が落ちて居ります。それでも、後世の生温るい譬喩よりは生き/\して居るものがあります。例へば
    あひ思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額《ぬか》づくがごとし
なども譬喩を用ひて居りますが、大膽に歌はれて割合に生き生きした所を持つて居ります。
 子規が萬葉に歸れといつたのは、古今集以後の沈滯した空氣を排ひ盡して、萬葉集の生き生きした感情と、率直さとに歸れといつたのであります。行き詰ったものは、初めから出直さねば、本來の道が歩かれません。子規は行き詰つた和歌に對して再び出直せと言つたのであります。元來、復古とは出直しをするといふ事であつて、明治維新は一つの出直し運動であります。王政復古といつても、何も昔の儘、そのままに復ることではありません。發生期・成長期のみづ/\した溌剌たる心にかへることであります。之を人間に譬へて言へば、人間一生の中、誰でも一番直接な表現をなし得るのは子供の時であります。生き生きした純一な感情を持つてゐるからであります。如何なる人の前でも、子供は嫌やな事は嫌やといふ。嬉しければ聲を擧げて歡ぶ。大人になるとさうは行かぬ。圏境に對して簡單な心になれないからであります。利害關係も考へなければならぬ。世間の體裁も氣にせねばならぬ。到底純一な無垢な子供の心になれるものではありません。けれども、その多岐な心を或る一點に集中する事に依つて、往々にして、純一な心になり得る事がある。一旦複雜多岐に人つた心を、簡單な純一な心に統一してしまふまでには鍛錬が要ります。良寛は佛道修業の鍛錬に依つて、子供のやうな心境に達する事の出來た人であります。道ばたに子供と鞠をついて、日の暮れるのを忘れるといふやうな所まで到りついた人であります。我々は凡人でありますから、中々そんな境地に到ることはむづかしいのであります。出直すといふ詞は簡單でありますが、後世者はさう簡單に出直すことの出來るものではない。純一といひ、集中といひ、直接表現といふも、之に徹するには容易な事ではありません。即ち後世者に向つて萬葉道に還れと言ふ事は、丁度大人に向つて子供に還れといふやうな具合でありまして、その間に少し覺悟が要るやうであります。近頃「悟るまで」といふ書物が出たやうであります。さうすると又引續いて「悟つてから」といふ書物が出たやうであります。こんな調子に行くと具合がいいのであります。
 是に到りますと、子規の鍛錬的な生活を解せなくては、子規の歌を解することは出來ないと思ひます。病臥七年の間動くことなく寢て暮した。終りには脊骨に穴があいて、そこへガーゼを詰め換へる度に、隣家にまで號泣の聲が聞えたと言ふ事であります。その間にあつて、客が來れば號泣を忘れて文學美術を談じ通したといふ事であります。子規の歌は此處から出發してゐます。鍛錬の至極から純一道に入り得たのであります。
 由來東洋には鍛錬道がある。東洋の文化は色々の道を取つて開かれて居ますが、何時も鍛錬道が骨子となつてゐるやうであります。儒教や佛教も一種の鍛錬道であると思ひます。鍛錬とは、生括力を統率して一方に集中させることであります。生活力を統べるといふ事は、必しも本能を抑圧することではなくて、その活力を一方に集中させることであります。集中することさへ出來れば、本能の力は強大であればある程いい筈であります。只それが強大だけに終つて、集中できず、統率が出來なければ、渾一なる力となり得ないのであります。鍛錬の工夫はここに必要を生じて來るのであります。夫れが眞に一方へ集中することになれば、儒教の所謂「一箪食一瓢飮陋巷にあつてその樂をあらためず」と言ふ境地に到り得るのでありませう。一箪食一瓢飮は誰でも有難くないのでありますが、總ての生活力が尤も重要な一點へ集中すれば、一箪食でも一瓢飮でも、そんな事は構はなくなるのであります。飮食慾を必しも抑圧するのではありません。他の重要な方面へ凡ての活力が集中するのであります。この鍛錬の工夫は儒教全體に亙つて看取することが出來ると思ひます。「寢ぬる尸せず」といふのも此の間の消息に通じてゐると思ひます。佛教の事は、私は殊によく存じませんが、鍛へ鍛へて寒巖枯木のやうな生活に入るのは、矢張り全心の集中作用ではないかと思ひます。兎に角、佛教に於ける悟りの工夫といふものは、一種の鍛錬であらうと思はれます。儒教佛教のみではありません。東洋の繪畫を解するには、矢張りこの鍛錬道を解せねば會得出來ません。芥子園畫傳に「必眼なくして視る如く、耳なくして聽く如く、一兩筆の間に旁見側出すべし。繁を刪り簡に就き、而して至簡に就けば、天趣宛然として云々」「而してこの一兩筆忽然として微に入る」と言ふのは、東洋畫に於ける鍛錬道を言ひ現して居ります。歴代名畫記に、「張(張僧※[搖の旁+系])《ちやうそうえう》呉(呉道玄)の妙は筆纔かに一二のみ。像は己に應ず。(中略)此筆周からずと雖も而も意周きなり」といふのも同じであります。その外「李成墨を惜しむこと金の如し」とか「一墨五彩を分つ」とかいふ事があります。一墨は一墨であるが、一墨にして同時に五彩であります。一墨を用ひるのは五彩を認めぬのではありません。この邊の消息が分らねば東洋の繪畫は分らないのでありませう。斯樣に鍛錬を究極させるのが、東洋文化の骨子をなしてゐるのでありますから、詩形としても、東洋のものは短いものが多いのであります。短いのは初めから短いのではありません。短い内に深いものを藏するのであります。深いものを藏してゐるから、短くて長いのであります。これは丁度佛教や儒教の心に通じて居ります。「君子言訥にして云々」と云ふのは只訥辯のことではないと思ひます。兎に角、東洋の詩形には短いものが多い。五言絶句とか、短歌俳句とか云ふものであります。芭蕉の俳句の如きは、芭蕉の鍛錬の生活を解し得ないものには到底分らないであらうと思ひます。
 屡繰りかへして申しますが、鍛錬とは生括力を無視する事ではない。自然に隨つて成長する總ての生活力を一點に集中することでありまして、寒中單衣を著たり、暑中綿入を著たりなどする不自然な鍛錬の意ではありません。この消息は儒教などの中から充分覗ふ事が出來ます。例へば、孔子は「韶を聞く、三月肉味を知らず」といはれて居ります。孔子は非常に音樂を好んでゐるので、三月肉味を知らぬ位に音樂に打込んでゐる態度に、人間自然の要求に隨順してゐる心ばへを伺ふことが出來るのであります。弟子の曾皙が「三子者の撰に異る」と言つて謙遜して志を言はなかつた時「何傷せん」と言つて孔子が催促をすると、私の願は他の皆さんの樣な堂々たるものでありません。暮春春服が出來て、冠者五六人童子六七人と共に沂といふ所の温泉に浴して、風に吹かれながら歸りたい。これが私の願であると答へてゐます。その時孔子は喟然として嘆じて「我はお前に與せん」と言うて居ります。書經の堯典には「仲春を殷《ただ》す。厥《こ》の民|析《わか》る。鳥獸は孳尾《じび》す」といふことがあります。孳は子を慈しみ育てることであります。尾は交尾であります。鳥獸の孳尾する如き心を以て仲春を殷《ただ》すといふのでありまして、儒教には禽獸蟲魚天地山川自然の心に隨順するといふ心が多く現れて居りますので、鍛錬道から見まして、私どものよい參考になると思ひます。これについて、話が長引きますが日本から手近な一つの例を引いて見ます。頼三樹三郎の門人が一昨年田端で死にまして、生前その人の話を聞いたのであります。この門人が酒※[酉+燕]の席で他人に恥ぢしめられたのを見て、三樹三郎は、恥を知らぬものは破門すると言つて、破門を言ひ渡したのであります。この破門は梁川星巖先生の仲入りで解かれましたが、斯の樣な嚴格な躾け方をする三樹三郎が、一方に於ては、家に一通の通帳を備へておきました。この通帳は島原の通帳であります。門人どもは、この通帳を持つて、線香二本づつ島原へ通ふ事を許されてゐたさうでありまして、時々、奥さんがこの通帳を調べて、お前は一本多く居過ぎたといふやうな世話を燒いたさうであります。一方に通帳を用ひさせ、一方に破門を振り翳す所が、私には面白いのであります。柳生但馬守が山中の老人から劍術を習ふ時も、老人容易に竹刀を持たせません。詰らないと思ひ乍ら水を汲んで、ぼんやりしてゐると後ろから來てぽかんと打つ。今お前には隙があつたといふ。この消息が私には面白いのであります。森鴎外先生の小説「護持院原の敵討」を讀むと妙齢の娘おりよさんが、御邸奉公をしてゐますと、或る夜突然母の急病を告げて來た男がある。おりよさんは幾人かの手を經てこの知らせが耳に人つた時、直ぐに懷に手を入れた。懷には懷劍が藏つてある。仇の知れたのが分つたのであります。鍛錬道は集中道であります。一心集中すれば、おりよの如く瞬間に懷剣に手をかける事が出來ます。鍛錬の極致は斯樣な心境に到達せしめるのであります。精神を絶對に一方に集中する心が、犠牲の心になるのであります。犠牲とは心が一方に集中するゆゑに、一切のものを擲つて、或る物に突入せねば滿足出來ない心の状態であります。之が日本に於ける武士道となり、男伊達となり、甚しきは盗賊道となり、掏兒道《すりだう》とまでなつたのでありまして、盗賊掏兒にまでも、犠牲道が及んでゐる所に、却つて、日本の國民性が現れて居ります。乃木大將が子息を討死させたのも、さうしなければ將軍には滿足出來なかつたのでありませう。
 話が再び子規に戻ります。子規は前に申した如き境遇にあつて、鍛錬の一道を通りました。子規が萬葉道を目指して「集中せる心」と「直接なる表現」を短歌の上に唱へたといふ事は、この鍛錬道から離して、考へる事は出來ぬのであります。今人は已に小兒から汚された大人である。其大人が更に子供に立ち返ると言ふことは、之を絶對に押し進める事は殆ど困難でありませう。只、鍛錬せられた者のみが集中道に入る事が出來るのであります。集中道に入つた事が僅かに大人が、小兒に返た状態であると私は思ひます。小兒に返つたけれども子供ではありません。大人の子供に返つたのであります。良寛が、佛道を修業して子供の如き境地に入つたといふのでありますが、いくら子供の如き境地に入つても、子供ではないのであります。私は、今主として鍛錬の方面のみを申して居りますが、實は、之は人間の天賦と關係して言はねば盡しては居りません。良寛子規の如き墳涯を經て來ましても、天賦ここに在らざれば如何ともすべからざるものでありまして、天賦の存する以上、生れながらにして集中道に參することの出來る人は澤山あると思ひますが、夫れでも、自己の全生活を擧げて集中道に入ること良寛の如く、子規の如くなると言ふ段になれば、矢張り鍛錬道から離して考へることが出來なくなるのであります。夫れで子規は天賦と鍛錬とによつて、萬葉道に入り得て居るといふのが穩當であります。萬葉道に入り得て居りますが、子規は子規の歌であつて、萬葉集の歌ではありません。丁度大人から子供に返つても、それは眞の子供でないと同じであります。實は眞の子供では困ります。大人が子供に返つたのは、矢張り、大人の子供である所に本當の意義があるのであります。子規の萬葉に返つたのは、萬葉に返つたのではなくて、本當の自分の面目に返つたのであります。子規が萬葉集を唱道したのを捉へて、直ちに古いものに返つたと思ふものは、此關係を無視してゐるのであります。子規の歌は、集中と直接表現に於て萬葉の生命に入つてゐるけれども、それが、凡べて近代的であり、且つ、その歌の多くが鍛錬的色調を濃くしてゐる所に子規としての特徴があります。子規の唱へた寫生と言ふことも、鍛錬道の一つの現れであります。寫生の外形を捉へて沒主觀だなどといふ人もあります。之は東洋の鍛錬道の眞諦を解せぬ人々の言であります。泣かねば悲しからず、笑はねば嬉しからずと思ふ人に寫生の意氣の分る筈はありません。
 京都にゐた愚庵和尚の弟子が、庭に熟してゐる柿を取つて來て、これを子規さんに上げたら喜ぶだらうと言ひますと、愚庵はお前それを子規さんに上げたいのかと言つた。弟子は左樣だと答へた。それなら直ぐ持つて行つて上げたらいいだらうと言ふことになりまして、弟子は汽車に乘つて、態々根岸まで柿を持參しました。その時の子規の歌の中に
    御佛にそなへし柿のあまれるを我にぞ賜《た》びし十まり五つ
    柿の實の甘きもありぬ柿の實の澁きもありぬ澁きぞうまき
といふのがあります。この「澁きぞうまき」といふやうな類は、東洋的鍛錬を經た子規獨特の領分であつて、萬葉集の領分にも斯樣な種類のものはありません。
    富士を踏みて歸りし人の物語ききつつ細き足さする我は
    人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蝿殺す我は
 「聞きつつ細き足さする我は」「庵にこもりて蠅殺す我は」皆子規一人の領分でありまして、「澁きぞうまき」の歌と共に鍛錬道から引き離して考へる事の出來ぬ歌と思ひます。
    金網《かなあみ》の鳥籠《とりかご》ひろみうれしげにとぶ鳥見れば我も樂しむ
    ひとやなる君を思へば眞晝餉《まひるげ》の肴《さかな》の上に涙落ちけり
    先《さき》がけの勲功《いさを》立てずば生きてあらじと誓へる心|生姜《いけじき》知るも   平家物語を詠ず
 これらの歌も同樣であります。生姜《いけじき》が知つてゐると斷じてゐる所、古來から斯ういふ作は全くなかつた事と思ひます。 
    瓶にさす藤の花房短ければ疊の上にとどかざりけり
の歌などは、今日多くの人が、まだ、解らなくて居るやうでありますが、子規の特徴を最も突き詰め得た作の一つであると私は信じて居ります。斯樣な譯でありまして、子規は萬葉を最も明瞭に唱道し、そして自己を最も明瞭に作物の上に現し得た人であると思ひます。時間がありませんから、例を儉約して此位に止めて置きます。猶、その頃の人々が、子規が萬葉の古語を用ひるのを笑ふに對して、明瞭な短歌用語論を成してゐます。
    名君の人を用ふるは、その材能を見て長ずる所に從ふ。歌人の語句を用ふる亦斯の如きのみ。
といふのであります。簡單にしてよく要を盡してゐると思ひます。
 夫れで明治和歌革新の緒を開かれたのは、先き程申した如く落合氏の系統を引かれた與謝野さんと、子規とであります。與謝野さんの先き程のお話に「我々は萬葉や古今集は早く突破して新古今集へ行つた」と言はれましたが、子規は新古今集や古今集を突破して萬葉集に行きましたので、雙方の立場が全く異つてゐた一端が分ると思ひます。子規は落合氏の歌に對しては、明治三十四年に「墨汁一滴」で詳しく批評して居ります。與謝野さんに對しては「鐵幹是ならば子規非なり。子規是ならば鐵幹非なり云々」と申して居ります。與謝野さんの方からは、子規の歌に對して、「何時までもかもでもあるまい」といふやうな事を「明星」に言はれて居りますし、子規の萬葉振りを「衣冠束帶で銀座を通るやうである」と冷やかされて居ります。兩者全く立場を異にしてゐるのでありますから、これは雙方とも御尤ものことと思ひます。猶、與謝野さんは、先き程、文學の上に流派を認めないと申されましたが、子規は、明かに萬葉道復活の旗を立てて歌の上に流派を立てて居ります。流派を立てた子規の歌に對して、當時の世人は、古い歌である、古典的な歌であると言つて、旗下に馳せ參ずる人が少なく、流派を立てぬと言はれる與謝野さんの方へ天下の青年が皆集りまして、明星派といふ大きな流派が世人から認められたといふことも、甚だ面白い對照であると思ひます。
                                (大正八年十月)
 
      萬葉集の系統(講演)
 
 態々上りましても、皆さんの御爲になるやうな話が出來ません。唯自分が幾分か萬葉集などに就て不斷考へて居ります、其或る部分を御話申し上げます。萬葉集の話を致しますのに小唄などを初に申し上げるのは變でありますが、話の心持の理解を容易にするかと思ひまして、先に隆達節のことを申し上げます。隆達節と云ふのは、文禄慶長の頃に亙つた三味線小唄でありまして、隆達が三味線を弾くことも歌ふことも上手なので、その弾いた三味線唄を隆達節と云ひます。隆達は日蓮宗の坊樣でありましたが、大分三味線が上手でありまして節付を致しました。其方が面白くなりまして、終に還俗致した坊樣であります。泉州堺の坊樣であります。此人の唄ひ殘したものに、幾つかの小唄があります。時間がありませんから、ほんの僅かな例を引いて申し上げたいと思ひます。
    ただ置いて、霜に打たせよ、科《とが》はの、夜ふけて來たが、にくいほどに
 「夜ふけて來たが、憎い程に」と云ふ所から考へますと、女が男を待つて居る心持でありませう。女は宵から男を待つて居たのでありませう。何時まで待つても薩張り參りません。夜ふけてもう來ないか、と思ふ頃に來たのでありませう。「夜ふけて來たが、にくい程に」さん/”\待たせて置いて、漸く夜ふけ頃に男が會ひに來た。心持の中では大分じれて居るのでありまして、先づ眞先に「唯置いて、霜に打たせよ」貴下なんかは、霜に打たせよといふのであります。「霜にふられよ」と云ふのが當り前であります。貴下は外で霜にでもおふられなさい。私は構ひません、と云ふ心持でありませうが、霜にふられよではまだ感情が滿足しない。烈しい心持は、それ丈の言ひ方では滿足出來なかつたのであります。「霜に打たせよ」鞭つ心持であります。而も其初に「ただ」と云ふ詞が付いて居る。此「ただ」と云ふのは舌端に力を入れる音であります。非常に強く響く音であります。それが頭に響く爲に、終ひの「打たせよ」が益々生きて參つたのであります。「ただ置いて、霜に打たせよ」外に置いて霜に打たせよ。「科はの、夜ふけて來たが、憎い程に」是も普通の現し方でございますれば、「夜ふけて來たが憎い程に霜に打たせよ」と云ふのが順序であります。記述すればさう云ふことになります。それを顛倒致しまして、「夜ふけて來たが、憎い程に」を終りの方に付けて居ります。私共が感情が激する時に、急速に感じを頭の中で催して居ります時には、先づ終りに來るべき文句を初に言ふのは普通のやうであります。「來たか、彼奴《きやつ》が」と言はなければ滿足しないやうであります。是も感情が激しで居る心持を現すには、顛倒するのが自然であるやうであります。で此歌は何處までも自分の感情に即しまして、自分の感情を端的に率直に現してゐる歌であらうと思ふのであります。斯う云ふ歌を聽きますれば、此作者の緊張した心の状態が、私共の頭に直接に響いて來るやうな心持が致すやうであります。三味線小唄と云ふやうなものにも樣々なものがありますが、斯樣なものは、失張り歌として生命があるものであらうと思つて居ります。隆達と云ふ人が作つたのか如何かは明瞭には無論分りません。唯隆達節と云ふ名前の下に行はれた歌は、斯樣な歌が多いのであります。然るに端的に率直に生々した感じを直に吐出して居るやうな唄は、自然に調子が緊張して居ります。緩んで居りません。今一つ申し上げます。
    思ひよらずの會釋のふりや、うらみの言《こと》ぞはたと忘れた
 と云ふ唄であります。恨みの言《こと》を忘れた時の心持であります。今まで怨みを言はう/\と思つて居つた所が、怨みごとを「はたと忘れた」。「はたと忘れた」と云ふのは、急速な喜びの心理を能く現して、其時の感情の動き方が、其儘に現れて居るやうな心持が致します。怨み事があつたから、久しく會はなかつたのでありませう。あの人に會つたらうんと怨みを言うて上げようと思つて居つた。所が、「思ひよらずの會釋の振りや」向うでも六ケ敷い顏をして居ると思つて居つたがニコ/\して居る。「思ひよらずの會釋の振りや、うらみの言ぞはたと忘れた」と云ふのは、面白い現し方と思つて居ります。こんなやうな調子が多いのであります。今一つ序に申し上げます。
    恨みたれども、いや味のほどもなや、さうして、恨みも、言ふ人によりか
 「さうして、怨みも、言ふ人によりか」此終ひが實に幼い言ひ方であります。子供の言ひ方になつて居ります。口がよく廻らないやうな言ひ方であります。「さうして、怨みも、言ふ人によりか」「よるか」と言つたのでは、普通の記事文になります。それを「よりか」と言つて居ります。此種類の現し方は萬葉集に澤山あります。強ひて幼く現さうと思つても、自然に參りません。幼い心持で言ふから其處にさう云ふ調子が出て來るのだと思ひます。怨み言を聞かされるけれども、何うも煩さく思はれない。「いや味の程も無や」といふのであります。「さうして」といふ言ひ方も氣の利かない、のろまな無邪氣な言ひ方であります。斯う云ふ歌に接すれば、直ぐ親しみが出て、其人と手を把つて話が出來るやうな心持が致します。無邪氣な心持から、斯う云ふ歌が出來たのであらうと思ひます。是等の歌は(例は其位にして置きますが)何れも感情の要點をはつきり現して居ります。要らないものを現して居りません。要點丈が極めて鮮明に現れて居ります。さうして全體の調子が緊張して居る。是は内面からして緊張して居るから、外面の方にも緊張して現れてゐること勿論であります。現し方が總て端的であります。ぐづついて居りません。廻り遠くありません。端的である。直接である。間接の現し方をして居らないと云ふことが、私には面白いことであると思つて居ります。所が是が文禄頃から始つたものであります。三味線が日本に這入りまして、ほんの僅かの年數しか經て居りません。所が是からほんの僅かの年數を經まして、弄齋節と云ふものがあります。弄齋節と云ふのは弄齋と云ふ者が歌つたのだらうと云ふ説もありますが、是は詳しい事は分りません。
 此弄齋節の唱歌になりますと、唯今申し上げましたものとはすつかり變つて居ります。是は實物を矢張り申し上げる方が早いやうでございます。
    よしや今宵は曇らばくもれ、迚も涙で見る月を
 是はどう云ふ向に御感じになりますか。先き程申しました「唯置いて」「思ひ依らず」と自然に御較べになることが出來ると思ひます。「とても涙で見る月を」何か悲しいことがあるのでありませう。先き程の作者は悲しい心があるならば、其心持を端的に現して居ります。此作者は悲しいと云ふ心持を端的に現して居りません。「迚も涙で見る月」と言つて、月に事よせて居ります。非常に悲しい心持に住して居る者に、月が晴れる曇ると云ふやうなことは、問題になつてゐまいと思ひます。それが問題になるやうでは、さう悲しいのではありません。今晩の月が晴れるか曇るかと云ふことは、さう重大な由々しい感じにはならないのであります。是は一種の趣味であります。痛切な心から出た聲でなく一種の趣味若くは遊びの心理から出た聲と云ふことが出來ようと思ひます。大變力を入れて、「曇らば曇れ」というてもそれ程の力になつて居りません。曇る晴れるはそれ程の問題でないからであらうと思ひます。今一つ申し上げます。
    住めば憂世に思ひの増すに、月と入らばや山の端に
 是も自然にお分りになることと思ひます。「月と入らばや山の端に」月は這入つても這入らなくても、さう云ふことは一種の詞の洒※[さんずい+麗]になつて居ります。少くも、痛切な衝動を伴つて居らない心持が致します。月は山の端に這入りませう。自分も月と共に入らうといふので、自殺でも仕兼ねまじき意味になつて居ります。併し、この歌を讀んで見て自殺するやうには思へません。自分が死ぬと云ふことを、「月と入らばや」と言つて居るのであります。一種の譬喩法を使つて居ります。譬喩と云ふものは、大抵の場合間接であります。議論なんかする人が、譬喩を澤山使ふものは眞意を捕捉することが出來ません。歌でもさうであります。譬喩を使ふと譬喩負けをして仕舞ひまして、眞劍な痛切な感じは這入つて來ない。苦しい時に苦しいと云ふのは直接な聲であります。比喩を餘り上手にしても、技巧が眼に立つて、却つて肝腎の要點の方がおろそかになると云ふことがあるやうであります。是は、併し、歌に對する歌と云ふものの考へ方に依つては、色々の解釋があると思ひます。それが上品で、結構だと云ふ向に御考へになる方もあらうと思ひます。是は人々の心持が皆違つて居りますから、一概に御強ひするわけに行かないことであります。けれども私の考へる所に依りますれば、隆達節から餘り年數を經て居ない弄齋節なるものは、歌の心が弛緩して面白可笑しい趣味的なものになつたものでありまして、是が益々甚しくなれば、一種の骨董いぢりになつてしまひ、遊戲半分の文學になつてしまふと云ふ心持が致します。所が、この弄齋節以下、徳川時代に主として發達致しました樣々の三味線小唄に至りますと、弄齋節よりも尚更に弛緩して居るやうであります。悉く私は見て居りませんが、大體に於てさう云ふ向に考へて居ります。例へば恋慕流し、投節、長唄、歌澤、清元、常磐津と云ふやうなものであります。私は歌澤など節は非常に好きでありますが、歌の文句を見ると惜しい心持が致します。皆先程から申しました如き、間接の現し方になつて居ります。今少し曲に相應するやうな、直接に寂しく優しい歌が出來ぬものかと感じてゐます。斯う云ふやうに三味線小唄と云ふものは、徳川時代から今日に至るまで――極端な言葉で申せば、一種の墮落をしてゐるのであります。是は原因に色々の説明が出來ようと思ひます。初の發生期の三味線小唄と云ふものは生き生きして居ります。人間の生れ出た頃は、生き生きした木の芽の如き若さを有つて居るのであります。私のやうに髯が白く成りかかつて來ると、心まで硬化して、生き生きした感情が無くなつて參ります。世の中がさうなると終ひには弊害が伴つて、新しい芽が出なければ生命がないと云ふものになるらしいのであります。發生期から段々時代を經まして、徳川時代には一種の三味線小唄と云ふものが流行した。流行と云ふものは、大抵ものを輕薄にする、上辷り致します。自然主義でありますとか、若くは人類の平等であるとか云ふ思想は、根柢には相當或る權威を有つて居るでありませうが、世間に流行する時には、輕薄に取扱はれる傾きがあるのではないかと思ひます。本當の權威のある生命の有る思想は、少數のものに保たれるものであつて、附和雷同する時にはもう生命が無くなつて居る時でないかと思ひます。三味線小唄も、さういふ關係で輕薄を招き來つたかも知れません。今一つは三味線と云ふものは曲が基であつて歌は附物、おかずであります。目的のものでありませんから、自然輕く取扱はれた傾向があるかも知れません。そんな原因もあるだらうと思ひます。けれども私は一番主なる原因としては、是が花街に發達したと云ふことであらうと思ひます。三味線は一般家庭に全く這入らないことはありませんが、主に花柳の巷に多く發達しました。遊び氣分が伴つて居ります。此中に遊ぶ主人公も對象になる女の身も、樣々の氣の毒な境遇が痛切に、潜んで居りませうが、御客を迎へる女は、男の心に甘えて歡心を買ふと言ふ氣分が先きになつて居ります。さうして社會とは隔絶しまして、一種の特殊の社會のものになつて發達致しました。民衆一般と氣脉が切れまして、或る特殊のものだけが占有すると云ふことになりますれば、大抵生き生きした生命のあつたものが、後に墮落をすると云ふことは、是は三味線小唄に限らないだらうと思ひます。御客の心に迎合するやうな甘たるい氣分が、三味線小唄の歌を輕薄にしたと云ふ、斯う言へるかも知れぬのであります。私は之を重なる原因にして居ります。その方が都合が宜いのであります。音樂學校の先生をお訪ね致しまして、この事についてお聞きしたことがあります。その先生の言はれるには、あゝ言ふ三味線の曲は、音樂とすれば高いものでない、それよりも地方の民謠には、野卑なる所を有つて居っても終ひの所が何時も緊張してゐて、寧ろ三味線小唄などよりは、進歩したものがあると云ふことでありました。これも多少參考になつた心持が致します。
 斯う云ふ向に、主に隆達節と弄齋節と比較致しましたのは、是が直に移しで萬葉集と古今集に當嵌めることが出來るからであります。丁度其儘に殆どそつくり移して、隆達節を萬葉集の上へ持つて行つては濟まないが、古今集の上に弄齋集を持つて行くのは、適當であらうと思ひます。さう云ふ向に餘程相似通つた所があると思ひましたから、三味線小唄のことを先きに申し上げましたのであります。で、一口に申しますれば、私も譬喩を以て申し上げましたが、萬葉と古今との相違は、能く隆達節と弄齋節との歌の相違に似て居ると思ふのであります。此萬葉集は内容に詳しく立ち入れば、是は大變長いことになります。仁徳天皇から淳仁天皇の間に亙つて居ります。大體四百五十年ばかりの間の歌集であります。年代からも長いのであります。まあ、其中で天武、持統、その頃から奈良朝初期までが絶頂である。萬葉全體を山脈とすれば、その主峰が人麿と赤人でありまして、奈良朝少し前に當ります。是が何萬尺と云ふ峰であらうと思ひます。斯う長い間の歌を澤山集めたのであります。而もそれには上は天皇、皇后、諸皇族、大臣さういふ方より、下は百姓は勿論今で言へば藝妓或は乞食と云ふやうな者の歌迄も網羅してあるのであります。萬葉集の中へ這入つて見ますと、上は皇室より下は田夫野人の下々に至るまで、皆丸裸になつて居ると云ふ心持が致します。是は別の言葉で申しますれば、日本民族全體が、あの萬葉集の中に集つて居て一心になつて、緊張した心持で歌つて居るといふ感じが致すのであります。萬葉集の歌は一大民族歌である。あの中にあつては、天皇も必しも天皇でありません。天皇でありませんと言へば變でありますが、天皇といふ神であると共に、人間であると云ふ氣がする歌を澤山御詠みになつて居ります。此處が本當に丸裸のどん底に立つた態度で、せつぱ詰つて、歌ひ上げなければ已まぬといふ態度、其態度から生れて來たのが萬葉集である、と言へるのでないかと思ふのであります。
 日本の國民性などと云ふものを、能く研究なさる方があります。是は古代から日本人がどう云ふ事をしたと云ふ事柄を調べるには、古事記や日本書紀以下六國史、其他原據となる史料を調ぶれば分りませう。斯う云ふものを研究して、我々祖先の仕事の輪廓を得ることが出來ませう。唯、我々祖先の一大民族が、どう云ふ感情で生活して居たか。この感情が本體であります。好きなものは止めても止りません。嫌ひなものは強ひても強ひられません。私などは煙草がどうしても止まない。好きとか嫌ひとか云ふのが其人の本物であります。我々祖先の何うしても止むに止まれない心の活動の状態を、宛らに現したのが萬葉集であります。此中へ這入りますれば、先き程申しました通り天皇、皇后、百姓、潮汲の海女、皆丸裸な態度になつて居る所が、私共に有難いのであります。國民性などを御調べになる方は、歴史的事實以外に、日本民族祖先の感情を御調べになるのが最も必要であつて、その感情の動き方を宛らに窺ふことの出來るものは、主として萬葉集であらうと思ひます。例へば「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣乾したり天の香久山」といふのが載つて居ります。持統天皇の御製で非常に結構な歌であります。持統天皇は私の今發音した通りに、口を御動かしになつたことと思ひます。持統天皇の御動かしになつた通りに、私の口が震動致します。「春過ぎて夏來るらし」是は持統天皇も「春過ぎて夏來るらし」と仰しやつたと思ひます。其主觀の中に、直接に飛込んで行くことの出來る心持が致します。是は一例であります。
 同じ萬葉と言ひましても、個人々々で個性を異に致しまして、暢んびりした人もあります。亢奮性を多く持つて居る人もある。眼を閉ぢて思ひを深くすると云ふやうな人も、個性々々が赤裸々に現れて居りまして、而も皆一致して緊張した心持、どん底に立つた心持の上に立つてゐる。一致點はそこにあつて、相違點は個性にある。さながらに個性が響いてゐる事は、古今集と御較べになると分ります。古今集の歌は、嚴密の意味で個性を持つて居りません。一體私は古今集が好きでありません。併し、古今集を頭から征服したいと思つて居りません。中には好い歌がありまして、さう云ふ歌を發見した時には宜い心持が致します。古今集に個性の現れてゐるのは東歌《あづまうた》であります。その他には多く見當りません。私は議論する事が好きでありまして、時々古今集を讀まなければならぬ必要がありますが、いつも中途で根氣が盡きてしまひます。これは後にいひますから、まあ此位にして置きます。萬葉集になりますと違ひます。私一人の事を申し上げるのであります。何方もさうであらうと思つて居りません。私に言はすればさうであります。萬葉集眞先の歌が雄略天皇の菜摘みの少女に贈られた戀歌であります。この天皇は英雄型の御方でありまして、どうも樣々な事をなさる。其個性が歌にそつくり出て御出になる。あゝ言ふ事をなさるかと思ひの外、腹は優しいのであります。亂暴とも見えることを爲さるが、御優しい心持を有つて居られるのであります。舒明天皇の
    夕されば小倉の山に鳴く鹿の今宵は鳴かず寢ねにけらしも
 如何にも鹿を憐んだ心持が出て居ります。「夕されば小倉の山に鳴く鹿の今宵は鳴かず寢ねにけらしも」寢ねにけらしも――動物と一致した心持であります。愛憐の心持を以て動物に對して居るのであります。是は或は雄略天皇の御歌であるかも知れません。(舒明天皇説の方が多いだらうと思ひますが)さう云ふ優しい心持の一面には、英雄的なことを爲さる、途中で菜摘み少女に御會ひになりまして、忽ち御心を御動かしになりまして、「籠《こ》もよ、み籠《こ》もち、掘串《ふぐし》もよ、みふぐしもち、この岡に、菜摘ます兒《こ》、家|告《の》らせ、名|告《の》らさね、虚見つ、大和の國は、おしなべて、吾れこそ居れ、しきなべて、吾れこそ座《ま》せ、吾《あ》こそは、背《せ》とし告《の》らめ、家をも名をも」非常に強い言ひ方で、是には少女も辟易するだらうと思ひます。この長歌に、如何に少女を愛されてゐるかが宛らに現れてゐます。「籠《こ》もよ」の「コ」は籠であります。「力ゴ」のことを「コ」とも申します。「籠《こ》もよ」の「もよ」は感嘆詞であります。「籠をまあ」と仰しやつて、少女への愛著が籠を持つ手ぶりにに及んでおります。「ふぐし」は掘る串であります。「籠を持ち掘る串を持つて」と言うて少女の振舞を愛賞されてゐます。「この岡に菜摘ます兒《こ》、家|告《の》らせ、名|告《の》らさね」女が男に許す時には、自分の名と家の名を告げるのが、此頃の習慣であります。其習慣によつて「家を告げよ名を告げよ」と促しになつたのであります。目的を直に仰しやつてゐるので極めて直接な表現であります。併し、何うも目的だけ仰しやつただけでは、あぶなさうで、不安心である。そこで遂ひ「虚見つ大和の國は、おしなべて吾れこそ居れ、しきなべて吾れこそ座せ」と仰しやつて、俺が天皇だと御名告りになつてしまひました。これは必要上已むを得なかつたでありませう。さういふ所、却つて天眞無邪氣でありまして、此處に參れば、天皇も私どもと御同樣と云ふ心持が致します。陛下を御同樣などと思ふのは失禮でありませう。多少御同樣な所を持つて居られた方が、實は有難いのであります。神でありながら人であります。丁度私の小學校に居る時分、先生は大便も放られないものと、本當に思ひました。それは有難い先生でありませうが、お互の間には、さう云ふ所も御見せになつた方が親しみが出來る。生徒が感心致します。我々に似たやうな事をやつて居られると思ひまして、安心をいたしまして餘計親しみが出來て、良い心持が致します。大便をおひりになりましても決して權威を冒涜致しません。此歌を讀みますと、親しい心が致します。「大和の國はおしなべて吾れこそ居れ、しきなべて吾れこそ座《ま》せ」雄略天皇は御自分に大分敬語を使つて御いでになります。當然使ふべき心持、さう云ふ歌に日本特有の君民關係が自然に現れて居ると思ひます。國民性などを考へる人の注意すべき點であると思ひます。私は五人の子供を有つて居るのでありますが、子供に對しては、自分自身が阿父さんは斯うなさると、子供に對して敬語を用ひて申しますが、是は親しきもので安心してゐるから、當然用ふべき敬語を安心して用ひるのであります。「おしなべて吾れこそ居れ、しきなべて吾れこそ座せ」すつかり御安心になつて、俺が天皇だと仰しやるのは、此際必要にして自然のやうであります。――御身分をお打明けになつたが、未だ不安心である。そこで又「吾こそは背《せ》とし告《の》らめ、家をも名をも」と繰返して仰しやつたのであります。この歌は萬葉の最初に出て居ります。比較的古い歌であります。端的で天眞な心持は、隆達節より遙に良い心持のある歌であります。前に申した「今宵は鳴かず寢ねにけらしも」と云ふやうなものに至りますれば、優しい同情の深い思ひやりのある心持が現れて居ります。此二者は相違したものでない、其根柢は一樣に緊張した、純粹な心持であります。遊びでない、遊戲でない、作者としてはどうしても現さんでは居られない、痛切な心持であります。さう云ふ點に於ては全く一致したものであらうと思ひます。是は少數の例に依つて唯申し上げるだけであります。是等の歌の讀み方で、大分異説がありまして、學者に依つて違つて居りますが、私の申し上げましたのは大體を申し上げました積りであります。
 斯う云ふ陛下を戴いて居る我々祖先の臣民達は、さう云ふ天皇の赤裸々な姿を見せられながら、疑ふところなく、「大君は神にしませば」と歌つて居ります。これは萬葉集に澤山あります。それを見ても、日本の君民關係が何んなものであるかが分ります。どう云ふ因縁でこんな感情になつて來たものであるか知れませんが、今度の震災避難民が命から/”\に遁れる時に日暮里の停車場で攝政宮は御安泰か、どうか、と云ふことを聞いたさうであります。命から/”\で遁れる時に攝政宮殿下はどうであらうと云ふ、是が日本人の本當の聲であります。御安泰と云ふことを聞いて、避難しながら、皆萬歳を唱へたと云ふことを聞きました。菜摘み女に贈られた戀歌と、「大君は神にしませば」といふ歌は、矛盾する所なしに存在し得るのであります。斯う云ふ所にも日本國民性が現れて居るのだと思ひます。一端だけを申し上げるに過ぎません。今一つ申し上げます。
 先程の持統天皇は、餘程個性の勝れた歌を有つて御いでの方であります。語部の嫗志斐某に歌を賜つて居ります。それが如何にも親しみの御心持が現れて居り、
    不聽《いな》と言へど強《し》ふる志斐《しひ》のが強語《しひがたり》このごろ聞かずて吾れ戀ひにけり
 戲れて仰しやつたのでありますが、親しみの心が却つて全面に溢れて居ります。お前は能く來て、強語《しひがた》り(志斐《しひ》は語部の一人である)厭やだ/\と言うても、語るから強ひ語りであります。強ひてまあ御聽きなさいと言ふ、その強語りを「此頃聽かずして」又戀しくなつた。伺うだ、又來て、あの強ひ語りをせぬかと仰しやるのであります。「志斐の」の「の」は、今でも女の名前には「の」の字が付きます。是は女を親しみ呼ぶ言葉であります。「子」と言ふのも同じであります。何子と言ふ女の名がよく世間にあります。「不聽《いな》といへど強ふる志斐のが強語《しひがたり》このごろ聞かずて吾れ戀ひにけり」久しくお前に聞かないので、一度聞いて見たいとからかつて仰しやつた。志斐の嫗は、負けずにそれに斯う答へて居ります。
    不聽《いな》といへど語れ語れと詔《の》らせこそ志斐いは奏《まを》せ強語《しひがたり》と告《の》る
 是は殆ど君臣でなくて、親子朋友の間柄の歌のやうであります。私こそ厭だと申すのに、語れ語れと陛下が詔《の》らせばこそ私は物語を申すのであります。それを「強ひ語り」と仰しやるのは聞えませぬと言ふのでありまして、其心持が私共に親しみが感ぜられて宜い心持が致します。直接の現し方、間接の緩んだ心持でないと云ふことが、戲れをも遊戲品にしないのであらうと思ひます。
 次は藤原鎌足の歌でありますが、鎌足も英雄で樣々なることを致して居ります。勿論善いことを致して居りませう。
    吾《あれ》はもや安見兒《やすみこ》得たり人皆の得《え》がてにすとふ安見兒得たり
 非常に良い歌であります。「吾はもや安見兒得たり人皆の得がてにすとふ安見兒得たり」人が皆得たく思ふ安見兒を得たと云ふので、どうも嬉しくて堪らなくなつたから、二度繰返して言うたのであります。以前の「唯置いて、霜に打たせよ」は舌端に力を入れずに居られず、これは安見兒といふ美人を得た喜びを繰返さねば居られなかつたと見えます。そこに感情が直接に活き/\と現れてゐます。「吾れはもや」の「はもや」は感嘆詞であります。「吾はもや安見兒得たり人皆の得がてにすとふ安見兒得たり」斯う云ふことは一面から見れば童心であります。さうかと思ひますと痛切な所がございます。何れにせよ活き/\した歌なることは慥かであります。
 次は額田王であります。例を成るべく少く致します。額田王は初め大海人皇子に召され、後に天智天皇に召されまして、天智天皇の御崩御の後に、再び天武天皇の所に行かれたのであります。是は御兄弟に大分爭ひがあつて、天智天皇には大分懺悔爲すつてゐる御歌が萬葉に出て居ります。それが天智天皇に召されて故郷の大和の國を越え、近江朝廷に仕へる時の歌であらうと思ひます。
    三輪山を然かも隱すか雲だにも情《こころ》あらなむかくさふべしや
 もう故郷の人は迚も見られないが、せめて名殘の三輪山さへも隱すのか、「雪だにも情《こころ》あらなむかくさふべしや」雲だけなりと心あれかし、隱すべきか。隱すべきではないぢやないか、と迫つた感情で御歌ひになつて居ります。言葉が三ケ所で切れて居ります。歌ではさう云ふ所が一番生命の大事な所になつて居ります。歌の調子問題になります。この歌には激した時の調子がよく出て居ります。「三輪山を然かも隱すか」で切れます。「雲だにも情あらなむ」で切れて居ります。「かくさふべしや」と結んであります。つまり三つに切つてあります。非常に激して參りますと、雄辯にならないものであります。感じが迫つて參れば、言葉の切れるのが本當であります。切れ/”\の言葉の方が、流暢な雄辨よりも雄辨であります。さう云ふ痛切に差迫つたやうな心持のものも、萬葉には多く這入つて居ります。
 若くは柿本人麿と山部赤人、是は今日で言へば横綱で日の下開山であります。この赤人、人麿は萬葉中の大力無雙であります。如何なる者も是の力を支へることが出來ないと云ふ感じのする歌を遺して居ります。例へば人麿は長歌の結句に「妹が門見む靡けこの山」と言うて居ります。まるで子供の駄々のやうなものでありますが、其所に却つて不可抗の力があります。斯う云ふ風に萬葉の歌は一面には童心である。一面には痛切である。一面には亢奮して居り、一面には親しみの心持が充ち/\て居ると云ふ如く、人間の種々相を、具現して居りますが、究極に至りますれば、總ての藝術の最後に到達すべき人生の幽かに遠く――音もしないやうな寂しい世界がある。それが一面からは嚴肅感、一面からは寂寥感であります。さう云ふ所に這入つて居るのが萬葉集の肝腎な所であると、斯う云ふやうに私は思つて居ります。例へば人麿の
    足引の山河の瀬の鳴るなべに弓月《ゆづき》が嶽に雲立ちわたる
 是も萬葉集中にある歌で、私は人麿の作と定めてゐます。「足引の山河の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ちわたる」横綱相撲が一氣に押す所であります。非常な力であります。「弓月が嶽に雲立ちわたる」まで急轉直下する勢ひであります。上句足引の山河の瀬の音とすつかり調子を合はせて居ります。足引の山河の瀬のゴウとなる非常な感じであります。その山河の瀬の鳴るなべに、弓月が嶽に雲立ちわたる――自然の姿の由々しい所に這入つたのであります。上句の「なべに」は非常の響きを以つて上、下句を連ねてゐます。さういふ所を注意して頂きたいのであります。假に「なべに」の代りに「ままに」といふ殆ど同意味の詞を用ひたら何うでありますか。歌の價値はすつかり落ちてしまひます。歌の價値は内容や材料になくて調子にあることが分ります。斯う云ふ歌は幾度か讀んで居りますと、幽かに遠い世界に行くやうに思ひます。斯う云ふものになれば、私は繪のことはよく知りませんが、例へば、ダ、ヴヰンチの藝術とか、レンブラントの畫とか云ふものに對すると、藝術の奥堂に入つてゐる點に於て、少しも違はない感じが致します。之に相竝んだ山部赤人であります。
    烏羽玉の夜の更けぬれば久木《ひさぎ》生ふる清き河原に千鳥しば鳴く
 「烏羽玉の夜の更けぬれば久木生ふる」何の木か分りません。「清き河原に千鳥しば鳴く」是等のものは、山の中に幽かに靜かな心で、這入つて居ります。「山河の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ちわたる」と比べれば、此方の方は餘程沈潜して居ります。深く心持が中に沈んで居ります。「烏羽玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く」沈んだ心持が致します。是等のものは決して甲乙を付けて考ふべきものでなからうと思ふ。斯う云ふことが、根柢に於ては先程から幾度も申す如く相通じて居るのであります。萬葉の歌は、總てのものが内に緊張して外に現れて居る爲に、生命が生き生きしてゐる。打てば鳴り、切れば血の出るものであります。是が本當の藝術だ、斯う云ふ心持が致して居るのであります。緊張々々などと云ひますれば、窮屈な感じを爲さるか知れませんが大きな緊張には、此方の滿洲の丘の盤紆《うねり》が、緩かに我々に緊張した心持を與へて居ります。萬葉の緊張の仕方は喉をしめるやうな、動きの取れない窮屈な緊張でありません。唯今申しました額田王のあの歌は、少し窮屈であります。これは場合が場合で却つて自然であります。「烏羽玉の夜の更けぬれば」と云ふ歌になりますれば、大きなものであります。引つ詰まつたものでありません。柄の大きなものであります。人麿のは勿論であります。
 萬葉には一面には滑稽な歌があります。
    勝間田《かつまた》の池は我れ知る蓮《はちす》無《な》し然《し》か言ふ君の鬚《ひげ》なきが如
 何を言ふ積りか分りません。呑氣な所がありまして、面白い所が多いのであります。是れ一種の善い意味の遊び心かも知れません。戲談であります。一面には子供の状態、呑氣な心持を有つて居るやうな所があります。此一種の遊戲と申すと、先き程申しました弄齋節の遊戲、其意味の遊戲でない。遊戲と申しましても、人の天眞を現すやうな遊戲であります。斯う云ふ歌は矢張り萬葉の中に澤山あります。丁度良寛禅師などが修行を爲さつた結果、子供のやうな心持になられまして、無邪氣な心持になられまして、子供と隱れん坊をしたり、毬をついて遊んだりして托鉢をすることを忘れました。殆ど子供の心持と同じ樣な心であります。それでは非常に弛緩した撓《た》るんだ心になつたのかと言ふと、さうではありません。さう云ふやうなことが萬葉の滑稽歌に比較になるだらうと思つて居ります。
 以上を以つて萬葉を言ひ盡したとすることは飛んだことでありまして、そんな藝當は私に出來ません。僅に一二例だけを擧げたに過ぎないのであります。斯う云ふものと、古今集の歌のどれをお取りになつて御比べになつても、二つの區別が明瞭に分ると思ひます。例へば一番初めに
    年のうちに春は來にけり一とせを去年《こぞ》とや言はむ今年《ことし》とや言はむ
 有名な歌であります。是はどう御考へになりませうか。一年の中、まだ正月にならない中に春が來ることは昔の暦にあります。「年の中に春は來にけり」であるから、「去年《こぞ》とや言はむ今年とや言はむ」は御尤もでありますが、此歌が何ういふ痛切な必要から生れたかと考へれば、それが薩張り分りません。根柢に命のないものであると云ふ風に思ひます。是こそ惡い意味の遊びで、丁度將棋を弄ぶ、花合せを弄ぶと同じほどのものと云ふ氣が致します。
    袖|湿《ひ》ぢて掬《むす》びし水の氷れるを春立つ今日の風や解くらむ
 袖ひぢて掬《むす》ぶといへば夏でありませう。「氷れるを」と言へば冬でありませう。それが「春立つ今日の風や解くらむ」で春になります。一首の中に一年中を歌つてぐる/\一廻り廻つて、何等の感じが響くか。何處にも痛切な情――が生きて出て居りません。「貧の盗みに、戀の歌」と言つて、戀から歌が生れる場合が多いのであります。戀の歌の如く痛切な生命のあるべきものでも、古今集にあつては一つとして生命あるものが見當りません。皆遊戲品であります。例は略して置きます。私は古今集だけを取立つて言ひましたが、以下八代集多く然りと言つて宜いと思ひます。極めて、どうも大ざつばで惡うございますが、時間がほんの僅か切りでありますから御免を被ります。で、此二つのものを比較致しますれば、極く簡單に申しますれば、古今集以下勅撰集は、どうしてそんなに萬葉集とは、命の全く違つたものになつて仕舞つたか。これは先程申しました三味線小唄が、花柳社會と云ふものに局限せられて、一種の墮落を生じて來たと云ふのとよく似た所があります。
 萬葉集は一大民族的歌集でありまして、陛下の御歌もあります、或は官吏の歌もありますが、是は一般社會の人民と云ふものと膝を交へて、自由に赤裸々に歌つたものであります。然るに古今以下勅撰集は一部の貴族社曾の享樂氣分から生れて居ります。一般民衆から隔絶致しまして、貴族的な享樂的な心持に住して居る一階級から生れて居ります。その中から生れるものは、文學でも何でもその心が現れて來るだらうと思ひます。一言で申せば、さう云ふことを言つて宜いと思ひます。だから萬葉集と古今集を比較すれば、萬葉集の歌は民族歌、別の言葉で申しますれば民衆的の歌である。古今集は貴族的の歌、享樂的の歌であります。萬葉集は現實の生活の苦しみから生れた歌であります。古今集は藤原氏を中心とした享樂氣分から生れた歌であります。勝手に私が決めましたやうな傾きもございませうが、大體さう云ふ心持が致します。其證據には、古今集の歌には少しばかり「東歌」が出て居りまして、この東歌のみが萬葉に似て居ります。東歌は齊東野人共の、我々祖先の百姓どもの歌であつて、それが古今集に這入つて居ります。これだけは古今集の歌とは思はれません。紀貫之は良い歌を殘して居りません。有名な方をさう云ふのは惡う御座いますが、さう思つて居りますから仕方ありません。只貫之が古今集を編まれた時に、東歌を出して下さつたと云ふことは感謝致します。之を見ると民衆が現實の苦しみに即して歌つてゐる所が、萬葉集の系統を引いてゐる心持が致します。
    阿武隈に霧立ちわたり明けぬとも君をばやらじ待てば術《すべ》なし
 阿武隈川に曉毎に霧が立ち上る。露立ちわたつて夜が明けても貴方は歸しません。貴方を歸して一人で待てば、居ても居られません。「待てばすべなし」誠に直接で、すつかり古今集でありません。古今集中東歌の類のみが斯樣であるのは、一種の皮肉に思はれます。
 又宮中で神樂歌、催馬樂歌に採録せられた歌には、民衆的のものが多くあります。此民謠を見ましては、矢張り、萬葉の系統を引いたと云ふ感じが致します。例へば、
    笹分けば袖こそ破《や》れめ刀根川《とねがは》の石は踏むともいざ川原より
 貴下が通つて來る道は笹原である。笹を分けたら袖が破れませう。刀根川には石が多くて、石を踏むのも辛《つら》うございませうが、それでも河原から通つて來て下さい。その方が少しは樂でございませう。といふのであつて、少しも間接な現し方でない。思ひやつた憐みの心持と、待つて待ち切れない心持が現れて居ります。
    きぬ川の、瀬々の小菅の、やはら手枕《たまくら》、やはらかに、寢《ぬ》る夜はなくて、親《おや》さくる夫《つま》
 優しい心持であります。きぬ川は利根川の一つの支流であります。鬼怒川の瀬々の小菅を取つて枕を作る。その柔かな手枕《たまくら》をかはして、柔かに相寢る夜はなくて、親が二人の間を離して仕舞ふ。女の悲しみの心を現して居る。是は勿論民謠でありまして、朝廷の音樂に採用された爲め今日まで遺つてゐたのであります。
    かたくなに、物言ふ女かな、いまし麻衣《あさぎぬ》も、わが妻《め》の如く、袂よく、著《き》よく肩よく、袵《こくび》やはらかに、縫ひ著せめかも
 どうも面白い。何處にも間接な所がありません。斯う云ふものは神樂歌、催馬樂歌に澤山あります。若くは風俗歌と云ふものが、同じく民衆から生れ出て居ります。雜曲と呼ばれるものもあります。是も例を略します。さう云ふものに民衆の現實生活の苦しみに即したものが多いのであります。
 足利時代の小唄といふものも、皆民衆的に發達して居りまして、古今集と大分違つて居ります。
    宇治の晒しに、島に州崎に、立つ波をつけて、浜千鳥の、友よぶ聲、ちり/\や、ちりちり、ちり/\や、ちり/\と、友呼ぶところに、島かげよりも、艫の音が、からりころり、かりりころりと、漕ぎ出《いだ》いて、釣りするところに、釣つたところが、はあ、面白いとのう
 何處にも間接な所がありません。斯う云ふ率直なるものは、矢張り民衆から生れてまゐります。貴族的の一部の弛緩した享樂的な氣分のある所からは、こんな呑氣な聲も出て居りません。
    深山《みやま》のおろしの、小笹の霰の、さらりさら/\としたる心こそよけれ、險しき山の、九十九折《つづらをり》の、かなたへまはり、こなたへまはり、くるりくる/\としたる心は面白や
 是は愉快であります。説明は要りません。斯う云ふやうな所であります。其外の例は略します。是は足利時代に發達したもので、斯う云ふ所から三味線小唄なども最初は系統を引いて居ります。例へば永禄時代の蛇皮線、後の三味線のもとであります。琉球から參つたものださうであります。その小唄に多く面白いものがあります。例へば、
    思ふまいとの鉦《かね》を、ちんからころりと打てば、罰やら、猶思はるる
 是が通例か何うか分りませんが、一寸面白い所がある。もう今迄人を思うたために、隨分後悔することが積つてゐる。以後は決して女を思ふまいと覺悟して「思ふまいとの鉦」を佛前でちんからころりと打てば、佛の罰か、猶餘計にその人が思はれるといふのであつて、割合に人間の急所を捉へて居ります。斯ういふものも矢張り萬葉の系統を引いて居ります。三味線小唄が、後に墮落して古今集流に陷つたことについては、前に申し上げておきました。萬葉風はそれに傳らずして、更に馬子歌、麦搗歌といふやうなものに傳つて居ます。是等民謠の種類は澤山あります。私も方々から材料を戴いて居りますが、中に隨分宜いものがあります。下らない三味線小唄の惡いものが影響した歌もあります。馬子などは夜明けから夜まで、野から野、峠から峠を通つて、日を暮すのでありまして、妻子にも碌樣逢はれません。顏は怖いが心は哀れであります。その哀れな心から哀れな唄が生れ出ます。船頭の生活は船底一枚下は地獄であつて、あの荒くれ男も海洋に乘出せば憐れなもの、それが自然に哀音を含んだ船頭歌になつて居ります。其他一般民謠にこの種類が多いやうであります。例へば伊豆南部の麦舂歌に、
    麦ついて、夜麦ついて、お手に肉刺《まめ》が九つ、九つのまめを見れば、親里《おやざと》が戀しや
 変を舂いて、夜麦を舂いて、自分の手に肉刺が九つ出來た。九つと云ふのは一つ二つと數へたのではありません。澤山出來たと云ふのであります。九つの肉刺を見れば、親のゐるお里が戀しくなる。是は新しく嫁した所の百姓家の御嫁さんで、夫の心もまだよく分らないし、便りなくして夜は麦を舂いてゐる。其心持がよく出て居ります。今日は民謠に就いては、初めから申し上げる積りではりません。萬葉集の系統が妙な所に引張られて參りました。三十二音の歌に傳らずして、民謠に其心持が傳つたと云ふことは是は妙な現象であります。
 三十一音の方はどうでありますかと云ふと、迚も藤原氏時代の宮人に萬葉が傳はる筈はありません。享樂氣分が盛んで、殆ど糜爛したやうな心持である。源氏物語などを我々が讀みまして感ずるは、この糜爛した感じであります。さう云ふ中に、萬葉振りのものが發達する筈がないから無論發達しません。あゝ言ふ時代に萬葉振りが發達して、ちよぼり/\顏を出すと、私には都合が惡いのであります。無くて結構であります。鎌倉時代に源實朝と云ふ人が出て居ります。是は餘程傑い人であるやうであります。師匠は定家卿であります。勅撰集一點張の人を師匠として居りながら、晩年、晩年とは言へませんが、非常に萬葉振りのものが出て居ります。一體鎌倉時代といふものが、簡素強健の氣風が滿ちて居りまして、平安朝時代と全く趣を異にしてゐます。執權が燒味噌を食らつて酒を飮むといふ意氣込であります。さういふ心持から、萬葉風の歌が生れるといふことは、自然なことであります。實朝といふ萬葉系統の歌人が出たといふことは、實朝の素質もありませうが、一面は時代の産物でありませう。平安朝時代、足利時代と、其中に挾まつた鎌倉時代と、その時代相を御較べになるだけでも、この違ひが了解出來ます。實朝が何故に萬葉風の歌を作つたかと云ふことは、それで明かに解し得るでありませう。足利時代、徳川時代になつて、萬葉風の歌は現れません。徳川の晩年になりまして、先き程申し上げました僧良寛、是が萬葉風のものを作つて居ります。是は餘程奇特な坊さんであります。それから田安宗武、之れは賀茂眞淵の萬葉風復興の主張から生れた人であります。それから平賀元義、之れも眞淵の系統を引いて居ります。斯う云ふ人々がぼつ/\出て居ります。が、是は徳川の晩年に芽が出て來たのでありまして、丁度、是は準備時代に當ります。もう一面の機運が、徳川の晩年にはぼつ/\芽を出して居ります。光圀邊りから系統を引いて居ります。眞淵宣長が尊王の本をなしたと云ふが、その前からぼつ/\芽を出して居ります。維新の夜が明けると云ふ前に、曙光がやや現れ始めたのであります。是が萬葉の方から言へば、今申しました良寛、宗武、元義などであります。斯う云ふ機運が起きて明治になつた。總てのものの夜が明けた。總てのものが民衆的になつた。政治に民衆の考が交渉して來る、立憲的になつて來ると云ふ機運であります。歌の方も今迄の眠をもう醒さなければならん時が參りました。この眠を醒した運動、運動と言つては惡いのでありますが、目を醒したものには樣々のものがあります。今日は萬葉系統だけに就て申し上げますので、其外のものには言ひ及びません。正岡子規と云ふ人が、是が明治三十年頃から、歌は萬葉に復活しなければならんと云ふ事を申して居ります。で、此子規と云ふ人が、極めて、どうも、簡單な申上げ方で惡うございますが、つまり、萬葉に復活せよ。と唱へた態度は、萬葉も良いし、勅撰集も幾分取り所があるといふ如き、生ま温るいものでありません。絶對に古今集以下を文學として生命がないと否認してゐるのであります。一途に萬葉の精神で復活しなければならん。と云ふことを唱へたのであります。で、これはどうも、どういふやうに申し上げて宜いか知れませんが、子規と云ふ人は、大體に既に皆さん御承知のことであると思ひます。その生活と云ふものは、我々の思ひやる事の出來ない程のまあ嚴肅と申しますか、悲慘と申しますか、言ひやうのない生活を爲さつた方と云ふことも御承知でありませう。七年の間寢て殆ど動くことが出來なかつた方で、脊骨に二三ケ所の孔が開きまして、ガーゼの詰め替へをする時に、泣聲が隣の家に聞えたと云ふ位であつたが、その中で歌を談じ、俳句を談ずる人があれば、痛みを忘れて話しとほしたといふ事であります。先程から現實の苦しみに即すると云ひました。一般民衆の苦しみと云ふよりも、想像の出來ない程の苦しみであります。さう云ふ中から起きた要求が、古今集ぢや迚も生ま温るくていかなかつた。丁度酒飮みが水くさい薄いものでは飮めないと同じやうに、古今集は薄くて、水が混ざつて居る。どうもこんな薄い酒は飮めない。これは酒ではない水だ。水ではない、ラムネだといふ位の程度であります。御医者樣が生きて居る筈がないと申しますが、矢張り生きて寢てゐました。これはもう佛樣が寢て居つたやうなものでありませう。さう云ふ生活から、萬葉と云ふものを唱へられた。萬葉の歌は民衆的で、現實生活の苦しみから必要已むを得ざるものとして現れて來ると云ふ意味を最も濃くして、子規が唱へましたと見ることが出來ます。遊び心から歌は生れるものでない。是も一つの慰安の道だ。さう云ふ心から文學として有難い歌は生れる筈はないと思ふのであります。私の方で若い人々の仲間があります。お百姓なども隨分あります。手を肉刺《まめ》だらけに致しまして東京に出て來る。羽織を著る餘裕もない。雪袴(たつつけ)と云ふ姿、山形縣、長野縣あたりから出て來る。二三日居て、歸れば田の草を取らなければならん。お土産に何を持つて來るかと云ふと、米を一斗信州の百姓が東京まで背負つて來て呉れた。東京は米が高いからだと言ふ。是は實に意外であります。この男私の貧しきを憐れんで、私に米一斗寄附して呉れたのでありませう。御厚意は有難うございますが、實はあまりうまくなくて食べられません。僅に宜いのと混ぜて有難く食べる。斯ういふ種類の人々から、却つて良い歌が生れるやうであります。ずぼらな生ま温るい仕事をして居る人に、緊張した生命のある歌が出來る筈はない。私共は兎もすれば遊び心持が混ざつて、純粹の酒であり得ない。純一無雜な心を以て、自分の仕事に正面から向ふ時に、初めて尊い歌も生れてまゐりませう。さう云ふ所に私共は到達して居りませんから、修行しなければならんのであります。
 之を致しますには、鍛錬が必要であります。鍛錬と云ふ事は、何も教育社會などで生徒を鍛へると言つて、寒中單衣を著よとか、――東京にはそんな事もちよい/\行はれて居ります。――あゝ云ふことをすると評判が高くなる。評判を高くするためにさう云ふ事をするのでは勿論ありません。何う云ふものか夏「ドテラ」を著よ。といふやうな不自然な事を爲さる教育家もあります。私の前に出て居りました學校で、夏暑いと言つたら十錢取る。お金を取つてそれを以て何とかの金にする。私は厭で御座いましたが、下級のものでありましたから、異議も申しませんで居りました。鍛錬といふことは、必しも左樣な不自然なものでなからうと思ひます。併し東洋の藝術の根柢に流れて居るものは、鍛錬思想であると思ひます。私は藝術や思想の研究をしたものでありませんが、何となくさう云ふ心持が致します。佛教、儒教若くは日本古來の神ながらの道も、鍛錬から離して考へられない。外に現れるものが、極めて短かい、中に潜むものが深い。生活上の總ての形式を簡素にして、中に籠るものを深くする。孔子樣は水を飮んでも樂み其中にありと言つてゐる。斯う云ふことは皆さん御承知で、私などの喙を容るべきでありませんが、何だかさう云ふ心持がすると云ふだけであります。東洋の藝術に對して、私は多くさう云ふ氣が致します。例へば畫論などでも、一墨五彩を分つと言ふ。一つの墨で蘭を畫き花を描く。一墨にして一墨に非ず五彩である。外に現はれるものは一墨であるが、内に潜むものは五彩である。斯う云ふ畫論が何時も東洋畫論の骨子をなしてゐる。或は「必眼なくして見る如く、耳なくして聽く如く、一兩筆の間に旁見側出す。繁を去り簡につき、至簡につけば天趣宛然として現る。此筆遍からずと雖も意遍きなり」と言うてゐる。皆前と同じ意であります。或は「墨を惜しむこと金の如し」とも言うてゐる。之れは墨を惜しむのでない、墨を以つて現す形を簡單にして、内に籠るものを深くするの心であります。斯ういふ心が東洋畫論の主なる根柢を爲して居ると云ふ心持が致します。日本に發達致しました武士道なども、鍛錬道たるに於て能く似て居ります。
 支那の詩に五言絶句の如き短いものがあり、日本に短歌があり、俳句なども十七音である。芭蕉と云ふ人は一生俳句に生きて居つた。何んだ十七字を一生もかかつてやつてゐたのか。と馬鹿らしく思ふ人もありませうが、その俳句が二百年經つても、三百年經つても日本人の存在する限り、有難いものとして忘れることが出來ません。神代の時、伊弉那岐尊の戀歌は「あなにやし、えをとめを」であります。極めて簡單でありますが、二千年三千年經つた今日まで、人が之を忘れません。つまらぬと思つたら忘れます。日本人は萬葉集以前から、あゝ云ふ短い詩形を持つて居ります。これは矢張り鍛錬道を離れて解することは出來ないと思ひます。外に現すよりも内に籠るものを求める、是は萬葉の一つの特徴であります。直接表現と云つて、彼も是もちよい/\心を動かすものを容易に出すといふ風な浮氣心の直接表現でありません。さういふ輕薄なおしやべりは、萬葉に多く見出すことが出來ないのであります。是は勿論萬葉人が現實の苦しみに即して歌つたといふことと開聯してゐるのでありまして、鍛錬道と離して考へる事の出來ぬ點であります。鍛錬と申しますれば先き程申しましたやうな窮屈な不自然な感じが起ります。けれども東洋の鍛錬道必しも不自然な非人情なものでありません。儒教などがそれであります。例へば孔子樣が門人達に各志を言はしめた時に、皆偉いことを述べ立てて居ります中に、一人だけ默つて居る人が居りました。お前は何うしたとお問ひになりますと、私のは皆さんのやうな立派なものでないと答へた。立派でなくてもいいから申して見よと促されました時に、初めて口を開きました。私の望みといふのは、春の暮れ方に袷が出來上つて、新しいのを着て、沂と云ふ温泉に遊びに行きたい。冠者三四人、子供五六人と湯に這人つて、風に吹かれながら歸りたい。他の者は天下國家人道を論じてゐる間に、斯ういふ答が出た。そこで夫子喟然として歎じて曰く、吾れお前に與みせん。斯樣に仰しやつた。さういふ所に孔子の人間味の自然さが見えて居ります。又孔子樣が音樂を聽いた時は、それを樂しんで三月の間美味しい食べ物が要らない。斯樣に藝術味の饒かな方であつて、乾からぴた道を墨守するやうなものでないらしい。冬、單衣を著よとか、夏、褞袍を著ようとか云ふものでないと思ひます。斯ういふ例はまだ澤山あります。今一つ長びきますが、今十五分あるやうであります。それだけにしておきます。
 頼三樹三郎と云ふ人がある。是が門人に非常に嚴格に接した人であります。澤山の門人を取らなかつた。能く破門致しました。意氣地の無いものは破門するといふのであります。其門人で、此間亡くなつた九十歳に近い方が田端に居りまして、此間亡くなりました薄井龍之と云ふ人の話であります。その人に逢つて話を致しましたが、三樹三郎の塾には、島原に通ふ通帳があつて、一人一月に一、二度、但し一回線香二本切りと、斯んな向きに定めてあつたさうであります。通帳は奥さんが預つて居て、行く必要ある時奥さんへ屆け出て、通帳を渡される。月末には奥さんが通帳を調べて、お前は何日には一本多過ぎたと云ふやうな小言を頂く。一面には破門を振りかざし、一面には通帳を具へてゐる所に人情の自然を理解してゐる所があります。この人情の自然から踏み外づしたら、乾からびて弊害ばかり伴ふ所謂變人になつて仕舞ふ。流石に儒教と云ふものが今日まで生きてゐる所以は、形ばかりの鍛錬でないと云ふ事が明かであると思ひます。非常に大雜把でありますが、日本などにも太古より鍛錬道があつたと思ひます。何も儒教、佛教からばかり影響を受けたものでありません。儒教、佛教に共通な素質が日本民族にないものならば、それらのものが日本に這入つて成長する譯はありません。斯う云ふ風に見て宜いと思ひます。弟橘姫命が、日本武尊のため海に投ずる時の歌は、
    さね刺《さ》し相模の小野に燃ゆる火の火中《ほなか》に立ちてとひし君はも
 であります。斯樣な由々しき場合の心持が、只三十一音で現して足りてゐるのであります。そしてそれが人情味の極致を現して居ります。子規は簡素な生活をしてゐて、梅干を一通り嘗めて捨てるは惜しい、幾度も嘗めて未だ酸いと申して居ります。然るに一面には、我も八百善の料理が食べたい。だん/\思案の結果、或る人から金五圓を借り受けた。その五圓を天井から吊り下げまして毎日見て居る。是で明日は八百善が食べられる。愈々明日になつたら、又惜しい、又明日にしよう、子供と同じやうな心持であります。この心と梅干の核《さね》を嘗める心とが、矛盾することなしに一致して子規の萬葉道復活の歌になつたのであります。これを鍛錬道の上において考へることは、誤つて居らぬと存じて居ります。今日世間の生活、精神の傾向と云ふものは、外に現れるものを短くして、中に潜むものを深くすると云ふやうなもので御座いません。さういふものは流行りません。世間に成りたけ現して見て呉れと云ふのであります。店飾でありませんが、成りたけ人の目に觸れるやうにする。深く中へ潜んで現れるものを簡單にすると云ふことは、今の世に流行らぬ。是は物質的文明を押し進めた一つの現象であるかも知れません。今日は世界を通じて、物質的の競爭見たいなものであります。是も結構であります。只それを支配する所の主觀の如何と云ふものを、多く問ひません。何かの主義などが唱へられても、その主義に自ら深く徹する前に、演説や宣傳の方が先きに立つ。成功をあせる、結果を何時でも考へる。結果を考へたら鍛錬道は成り立ちません。鍛錬道を最後まで押し進めれば犠牲になる。犠牲を覺悟する心と、權利思想とは兩立出來ません。是は日本だけの問題でなからうと思ひます。西洋の事は私は知りませんが、世界中がさう云ふ物質的なものの求めつくらをして居るのでないかと思ひます。其處で物質上の不平均が出來れば、物質的平等思想などを振り翳して、喧嘩するのでないかと思ひます。故森鴎外先生は物質的平等觀を推して行くならば、美術などの展覧曾を開く必要が無いと云ふことを仰しやりました。是は御尤もであります。まあ、物質萬能でも、物質平等でもいいから、世界中ずん/\それを押して押し進めて見るがいい。それがどん尻に行つて行き詰つて、動きの取れない頃、初めて顧みられるものが東洋の鍛錬道、佛教、儒教、日本古來のものでは、萬葉道といふ如きものでないかと思ひます。私はさう云ふ心持で萬葉を見て居ります。一面から言へば井戸の中の蛙でありませう。迷ひが覺めたら何時でも改めます。兎に角今日の日本へは、萬葉は行はれません。行はれるべき時機が未だ來て居ないやうであります。行はるべき時がいつか來ると思つて居ります。歌謠の上より見た萬葉の系統と、東洋思想の上から見た萬葉の系統とについて、大體を申し上げたつもりであります。
 遠國まで態々參りまして、こんな話を申し上げまして、お役にも立ちません。お赦しを願ひます。
          (大正十二年十月二十二日、大連南滿洲鐵道株式會社食堂に於て)
2003.9.21(日)午後5時8分、赤彦入力終了。  2003.12.14(日)午後1時3分校正終了
 
 
幸田露伴  
山部赤人
 
    田兒の浦ゆうち出でゝ見れば眞白にぞ不盡の高嶺に雪は零りける
 
 田兒の浦ゆのゆ文字、常の用例の「より」といふ意としては、船にて田子の浦の海上より詠みたる歌の如く聞ゆ。ゆ文字の用ゐざま、彼の「より」といふ辭とは少しゐざりたる用ゐかた有りしにや。此の田子の浦は駿河の薩※[土+垂]坂の下の曲浦彎廻せるところをいへること明らかなれども、伊豆の西海岸にも田子といふ處ありて、そこより翠瀾を隔てゝ富士を望む景色いと美しければ、其地の人は此歌の田兒の浦はそこなりと誇り稱ふるなり。赤人伊豆の國にありしこと其證あらばいざ知らず、まづは取りがたき談なり。たゞし長歌の方に、あまのはらふりさけ見ればの句もありて、此歌のさまも甚だ大きくて、何と無く近々と靈峰を仰げるよりも離れたるところより望み觀たるやうにも聞ゆれば、ゆ文字の用ゐざまの少し異樣に聞ゆるを兼ねて、伊豆の國にての詠といふ説も出來たりしなるべき歟。歌は素樸眞率、こざかしきこと無くて、如何にも不二の高根によく映りあひたり。薩※[土+垂]を下り田子にかかり、忽として秀靈ならびなき大山に見えて呀と驚嘆せるさま如實にあらはる。長歌のあめつちの分れし時ゆといへる歌ひ出しも、此山に似合はしく、壯大にして甚だよし。
 
    百磯城《もゝしき》の大宮人の飽田津に船乘りしけむ年の知らなく
 
 飽田津を饒田津の字誤といへる説あれど、強ひて飽を饒の誤とするには當らじ。又飽田津を文字の通訓によりて、あきたづといふところありとするもおもしろからず。飽は饒と意通ず。饒は飽也と古より定まりたることなれば、飽ももとより饒なり。飽田津とありて、にぎたづと訓むべきのみ。又あきたづといふところ有りとても、おほみや人のあきたづに、とつゞきては、辭のつゞき忽突にして宜しからず、にぎといふ言葉に少し意の寄せらるゝかたあればこそ、たま/\其處にありし地名を取用ゐたるなり。古人の歌は多くは眞率なりといへども、あきたづといふ地名あればとて、あきたづならば短き歌の中に何ぞ此處に好みて點せんや。
 
    明日香河川淀さらず立つ霧の思び過ぐべき戀にあらなくに
 
 古京をしのべる情、幽にして婉、川よどさらずたつ霧といへる、景に即き情に即き、情に依り景に依り、情景一時に敍したる、まことにめでたし。長歌もまた甚だよし。
 
    繩の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奥《おき》つ島|榜《こ》ぎ囘《た》む舟は釣|爲《せ》すらしも
 
 こぎたむ舟といへる言葉づかひ、釣する舟の實に即きて甚だ妙なり。これを若し、こぎゆくなどとせば一首全く廢る。こぎたむ、を、こぎめぐる、こぎまはるなどの意の如く淺はかに聞取りては甚だ宜しからず。こぎたむの「たむ」は、撓むより出たる語と云はんよりは、たゆむより出たる語とせんかた宜しかるべし。すべて海にて釣する舟は錨を下して一つ處にて釣ること稀なり。大かたは舟を潮の流れに横さまにならぬやう潮上に舟首を向はせて、扨又潮にみだりに押流されぬやう、又潮に逆らひて進むほどに強くも無く、程よく緩やかにこぐを習とす。魚ありと想はるゝ地に距たらざらむが爲なり。矯めてこぐなどとは今も言ふことなり。こゝのこぎたむは即ち其状を云へるなり。おきつしまなくばそれも心づくまじけれど、おきつ島ありて、分明に小舟のこぎたむあるが見ゆ。乃ち其舟の目に入りたるを、釣せすらしも、とは詠めるなり。草率に解しては、短き歌の情味など、くるみのまる呑みをしたると同じこととなるべし。付けて言ふ。矯めてこぎて幾尾の魚を得るまに、舟は次第に潮下に流さるゝこととなるを免れず、其の時前の地に魚ありと思ひて、前の場所に舟をこぎ行くことあり。これを今の語には「さつかへす」といふ。こぎたむを、こぎ撓む、こぎ手囘むと解する時は、この「さつかへす」といふことに紛れて、甚だ實を失ふなり、心すべし。
 
    武庫の浦を榜ぎ囘む小舟粟島を背向に見つゝともしき小舟
 
 此の歌も、こぎたむの語にて、白鴎翠瀾、玉樹丹崖の美しき景のおもはるゝなり。こぎたむ小舟、ともしき小舟と云ひたる、如何にもよろしき也。粟島をともしく見ると云はば非也、小舟をともしといふも景色よければなり。
 
    阿倍の島鵜の住む磯に寄する浪間なくこのごろ大和し念《おも》ほゆ
 
 あべのしま何國の島ならんなどと論ずるは、さるべき事にはあれど、さして要なき閑談なり。鵜のすむ磯といへるによりて、其の大なる島ならぬこと知るべきにはあらずや。鵜の栖む磯の荒涼たるに、問なく寄する浪の音のざぶり/\と他郷に在るものの心を打つ。まなくこのごろやまとしおもほゆ、といへる、有りふれたることながら、かく詠出されては、いかにも感ある歌なり。
 
    潮干なば玉藻苅り藏め家の妹が濱づと乞はば何を示さむ
 
 家をはなれて、ゐなかに在る者の情なり。
 
    秋風の寒き朝けを佐農の岡越えなむ君に衣借さましを
 
 越えなむ君にとあるが、越えなむ妹又は人とか何とかあらば物言無かるべきを、君とある故に、此歌赤人がのにはあらざるべしなど云ふも、一わたりはもつともなり。されど、君といふ語を、必ず女性ならぬものをさすとして解かでもあるべき歟。母を母君ともいひ、姉をおほい君ともいひ、遊女をきみともいひ、男性ならぬものをも君といひて然るべからずとすべきにもあらず。こゝに君といへるは、妹と云はんよりは君と云はんかた似つかはしきとおもへる女ゆゑに却つて君と云へるにや。今の習にも、下司を大將と呼び、貴みもせぬものを親父など呼ぶこともあるなり。此歌眞に赤人がのならば、此の君は妹と云はんより少し劣り下りたるきはの女にもやあるべき。たゞし是は此歌を赤人のとしての上の感なるのみ。赤人の妻なんどの歌ならばとかく論なきこと、云ふまでもなし。
 
    雎[#旁は鳥]鳩《みさご》ゐる磯囘《いそわ》に生ふる名乘藻《なのりそ》の名は告《の》らしてよ親は知るとも
      或本の歌に曰く
    雎[#旁は鳥]鳩ゐる荒磯《ありそ》に生ふる名乘藻の名のりは告らせ親は知るとも
 
 勿告藻の名につけてをかしく云做せる歌にはあれど、みさごゐるいそわなど其人の在るところの景なるべく、其人其景想ひやられておもしろし。前の秋風の歌の中の君、もしくは此歌の中の人にや。さもあらば今の人の連作とかいふものの祖ともいふべく、二首を連ね味はひ甚だおもしろし。たゞし此はよしなしごとなるべし。
 
    高※[木+安]《たかくら》の三笠の山に鳴く鳥の止めば繼がるゝ戀|喪《も》するかも
 
 第四句、古來の訓みかた、あかずおもはる。さりとて異なる讀みかたをも思ひ得ず。無益しき心まどひならん。卷十一の立者繼流、また同じく、繼流の二字、つがるゝとよめり。他によみかたも無きやうなれど、此歌の繼流は、ことにおもしろからぬごとく聞ゆ。
 
    昔者の舊き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり
 
 第一句昔者之を、いにしへのとよまむよりは、そのかみのとよまむかた宜しきやうにおもはるれど、如何にや。昔者は熟字なり、昔看の誤ならんなど言へるは非也。歌は寸辭も情を敍せずして一味に情を敍するもの、品高し。
 
    吾が屋戸に韓藍《からあゐ》蒔き生《おふ》し枯れぬれど懲りずて亦も蒔かむとぞ思ふ
 
 まかむ、の語に曲あるなり。かれ、の語にも曲あるなり。かれをたゞに枯れと解し、まかむをたゞに蒔かむとのみ聞きては、何もなき歌なり。
 
    吾も見つ人にも告げむ葛飾の眞間の手兒名が奥津城處《おくつきどころ》
    葛飾の眞間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ
 長歌反歌共に憐香惜玉の情をうたへるのみなれど、詩人的にて好し。かつしかの章、ことにめでたし。入江に身を沈めたるを云へりとするは、解き過ぎておもしろからず。さやうに解きては、水くましけむの歌は、井に身を投げたるを云へりとも解くべきか。笑ふべし。
 
    奥《おき》つ島荒磯の玉藻潮干滿ちい隱ろひなば思ほえむかも
 
 潮干滿は、今は潮干れど後に潮滿ちなばといふ意なりとする解は、物理は聞えたれど、詩趣には疎き説なり。潮干・滿にて、そこに、いかくろひなばの感動きて、おもしろき也。潮の動くにこそ玉藻は靡きて、その靡くさまに美しさはあるならん。
 
    若の浦に潮滿ち來れば潟を無み葦邊をさして鶴《たづ》鳴き渡る
 
 潮來天地青といへる詩句もよろしけれど、又別趣を捉へたる此歌もまことにめでたし。
 
    み吉野の象山《きさやま》の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《こゝだ》も騷ぐ鳥の聲かも
 
 素樸體の歌なり。たゞし一首の中におのづから山の明るく美しきさま見ゆること、古風の妙なり。
 
    ぬばたまの夜の深けぬれば久木《ひさぎ》生ふる清き河原に千鳥|數《しば》鳴く
 
 前の歌は明るき朝のさまなり。此歌は清々しき夜の和やかなるさまなり。付ていふ。此歌及び他の歌の「ひさぎ」は、楸即ち今の木さゝげなりと古より云來りたれど、古くひさぎといひしものは、楸坪などいふものも造るに足るべき大なる楸、又は今の木さゝげとは異なりたるものにはあらずやと、ひそかに疑ひおもふ節あり。されど何の據りどころもなきことなれば、人にも云はで年月經けるが、今猶其疑をいだけり。疑を同じうする人も全く世には無きこと歟。
 
    あしひきの山にも野にも御獵人《みかりびと》得物矢《さつや》手挾《たばさ》み散動《みだ》れたる見ゆ
 
 散動而有を、みだれたると古よりめり。みだれたるとはなく、よみたき也。みだれては狩はならぬものなり。前の長歌に、馬なめての句あり。なめては並べてなり、列べてなり。みだれぬなり。みだれてとは拙き語也。どよみたると讀みたし。
 
    朝なぎに楫《かぢ》の音聞ゆ御饌《みけ》つ國|野島《ぬじま》の海人《あま》の船にしあるらし
 
 古に「かぢ」といへるは今のかぢにはあらで、今の「かい」又は「ろ」と云ふものなりと昔より教へられたり。されど「かい」歟、「ろ」か、又「かい」ならば後の打かい、ねりかい、こねかい、さしかいのいづれぞ。此の歌のかぢの音の趣にては、今の競漕式短艇の「かい」の如く、一つならず左右に出張り、水掻くかいならでは歌の情浮み出でず。勵み勇みて勢よく舟こぐさまと聞く時は、感あり。
 
    沖つ浪|邊《へ》浪安けみ漁《いさ》りすと藤江の浦に船ぞ動《さわ》げる
 
 心よき歌なり。たゞし第五句、動流はさわげると讀み來りたれど、どよめるとよみたし。
 
    印南野《いなみぬ》の淺茅《あさぢ》おしなべさ宿《ぬ》る夜の日《け》長くあれば家し偲《しぬ》ばゆ
 
 第一句第二句第三句、いかにも美し。
 
    明石潟汐干の道を明日よりは下咲《したゑ》ましけむ家近づけば
 
 下咲ましけむ、いかにもおもしろし。
 
    玉藻苅る辛荷《からに》の島に島囘《しまみ》する鵜にしもあれや家念はざらむ
 
 たまも苅る辛荷の島の鵜は實なり。鵜の岩礁にある、淋しくキョトンとしたるさまを見知りたるものは、實質虚靈の互錯し一致せる此歌のをかしきに破顏せざる能はざらん。前の長歌の、こぎたむるの句と、ゆきかくるの句との相對ひたるも甚だ巧妙にて、情趣纏綿たり。
 
    島|隱《がく》り吾が榜《こ》ぎ來れば羨《とも》しかも大和へ上る眞熊野《まくまぬ》の船
 
 大和へ上る舟を羨ましとするまでの事なれど、島がくりと云起したるに感有るなり。
 
    風吹けば浪か立たむと伺候《さもらひ》に都多の細江に浦隱り居り
 
 風をおそれて風蔭の細江に居たる、其状たゞ其事を敍せるに見はれて、何とも云へぬ心のもや/\を如實に現出せり。第四句第五句如何にも好し。
 
    須磨の梅人の鹽燒衣の馴れなばか一日も君を忘れて念はむ
 
 此歌は其頃と今と時代既に隔りて、言葉づかひ我等の耳に親しからぬに過ぎたればにや、餘り宜しくは聞えかぬるなり。前の長歌にも、まづかひなどいふ今に遠き詞あれど、猶これには勝れり。
 
    丈夫《ますらを》は御※[獸偏+葛]《みかり》に立たし未通女《をとめ》等は赤裳裾引く清き濱邊を
 
 いふべきことなし。
 
    神代より芳野《よしぬ》の宮に在り通ひ高知らせるは山河をよみ
 
 吉野を讚したる長歌反歌、別にいふべきことなし。
 
    春の野に董|採《つ》みにと來し吾ぞ野をなつかしみ一夜|宿《ね》にける
 
 優美閑麗の情、餘り有るもの。第四第五句、韻趣横溢。
 
    あしひきの山櫻花日竝べて斯く咲きたらばいと戀ひめやも
 
 いふことなし。
 
    吾勢子に見せむと念ひし梅の花それとも見えず雪の零れゝば
 
 踏雪尋梅、唐の詩人の風流のみならず、花は雪に似て清く、雪は花に似て美なるところを云ひおほせたり。
 
    明日よりは春莱採まむと標《し》めし野に昨日も今日も雪は降りつゝ
 
 感傷の情、つゝの片語にひゞき出づ。驚く可し用辭の妙。
 
    百濟野の萩の古枝に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも
 
 幽想微思、何の處よりか得來りけん。擬するところ有るやうの歌にて、さて然無くともおもしろきなり。
 
    戀しけば形見にせむと吾が屋戸に植ゑし藤浪いま咲きにけり
 
 前の歌よりも此歌こそは確に擬するところありての作なるべけれ。たゞし其實は解知するところなし。藤氏の流の女などや胸の中にありたりけむ。
 
    あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鶯のこゑ
 
 遷喬の意をうたへるならん。
 
         (昭和十二年五月)
 
〔後記に、「「山部赤人」は雜誌文學の昭和十二年五月號に「山部赤人作品の批評」と題して載り、「すゝき野」に收められた。」とある。岩波書店「露伴全集第十九卷」1951.12.25初版、入力底本は1979.2.19の2版〕
 
     海と日本文學と
 
 我邦は四圍皆海にして、繁華殷富なる都市もまた海岸線に多く、從つて人口の配付も古來より海岸線に於て稠密なること疑ふべからず。されば我邦の人民の如きは、おのづから海と相離るべからざる直接間接の關係點を有すること少かるべくもあらず。此に由りて考ふるに、我が邦の文學もまたおのづから海との間に少からざる關係を有すべき理なり。例へば、潮來り汐去る面白さを詠じたる歌、または晴れたる日の親む可く、風だてる日の怖るべき海原のさまを記しゝ文、或は又浪のはてより上る日の美しさ、島山のあなたに傾き落つる月のあはれさなどを寫しゝもの、勇ましき舟子が上を傳へたる小説なんどは、我が邦の文學にいと多く見ゆべき筈ならずや。
 然るに事實はいたく之に反せり。所謂和歌といふものには海に關するもの甚だ少し。たま/\これ無きにあらずと雖も、多くは海を怖れ海を厭へるが如き思想の傾きを有するものにして、海中に立てる國の民の歌としては相應《ふさ》はしからぬものとや云はん、まことに悲しげなるもののみなり。試みに古今集以後の勅撰の歌集、または一家の歌集の類を手にして、漁夫、舟人の類を詠じたる歌を檢め見よ。其世わたりの危きを悲み憐むの意の痕を留めざるの歌は、幾干《いくばく》かあらん。又、萬里の海を我が路にして八方の風を驅使する舟人の意氣を詠じたる歌、または千尋の波の底より呑舟の大魚を獲て舷頭に獨り嘯く漁夫の興感を描ける章の如きは、幾干かあらん。和歌衰へて後の俳諧發句は、新しき酒を盛れる小き嚢なり。されど此嚢の中にも海に對する人の心を励まし勇ますに足るべき好き酒の盛られたる事は、幾度もあらずして、却つて折角の新しき嚢に、平安朝以來の海を怖るゝ古き思想の、譬へば腐りたる酒の如きものの盛られたることは少からぬやう見ゆ。小説は源氏物語字津保物語のむかしより、海とさへ云へば怖るべきもののやう描けるが多し。風に遇ひて船の破るゝこと、または思はぬかたに吹き流さるゝことなどは、好みて古來の小説家の描けることなるが、其物語は大抵皆机の上にて作者が海に對する自己の恐怖心より捻り出したる曖昧無實のものたるに過ぎず、一も眞實らしき状態を描きて海上の光景を讀者に感じ知らしむるもの無し。されば此等の物語は徒《いたづら》に其書を讀むところの子女をして海の怖るべきことを空想上に深く思ひ浸ましむるほかには、何の結果をも遺すこと無し。古來の小説少からずと雖、海員の生活、船の上の旅客の眞情等を書き現はしゝものの如きは、幾干かあらんや。予は實に或一章にすら海に關する記事のやゝ屬目を値すべきものを含める小説の名を指し示す能はざるを悲しまざることを得ず。謠曲、淨瑠璃もまた然り。作者が海に對する恐怖心の外には、海に關する記事中に於て見出し得べきものは無しと云ふも不可なきに似たり。若しも強て作者が海に對する恐怖心の外に見出し得べき何物をか尋ね得たらんには、其《そ》は海神龍王等に對する迷信ならんのみ。是《かく》の如く和歌、俳句、小説、謠曲、淨瑠璃等と海との關係を考察するに、良好の状態を呈し居らざるは、我邦文學の事實にして、如何に頑強なる愛國心を以て之を辯護せんとするも、何人も其辭無きに窮せざるを得ざるところなり。
 飜つて考ふるに、我が邦と海との地理上の關係に文學の相應せざることは、實に上述の如く太甚《はなはだ》しけれども、これに因つて直に我が邦の歌人、俳諧師、小説家、謠曲、淨瑠璃の作者等を、思想偏僻なり、眼界狹小なり、技倆拙惡なりと爲さんが如きは、甚だ酷烈にして雅量に乏しき判斷となさゞるべからず。如何となれば、其邦の文學は其邦の地理に相應して發達繁榮すべきものなるのみならず、また實に其邦の歴史に相應して發達繁榮するものなればなり。されば我邦と海との地理上の關係を考察するが如く、我邦と海との歴史上の關係をもまた考察せずんば、我邦の文學を論ずるに於て其判斷の中正を得ざるべきは勿論の事たりと云はざるべからず。我が邦と海との歴史上の關係は如何。
 我邦の文學の我が邦と海との地理上の關係に相應せざる所以は、我が邦と海との歴史上の關係を考察して其解釋を得べし。徳川氏は大船を造ることを禁じ、海外諸國と交通することを欲せざりしにあらずや。陸上の交通驛傳の諸法は甚だ整理せられしに關はらず、海上の交通舟運の利は甚だ輕視せられて、膽勇ある豪商等の經營のほかには政府も士人も殆ど指を海事に染めず、諸侯の參勤交替の如きも皆必ず其陸路を取りし如きは、最近三百年の歴史にあらずや。舟子は志州の鳥羽より豆州の下田に至る航路を以て非常の難關と思惟し、放客は中國諸港より讃州多度津に至る短距離の航海を以て大冒険の如く恐怖し、一般の人民は大罪人と舟子とのほかは海に航すべきにあらずと考へ、婦女子は海を以て龍神、海坊主、船幽靈等の巣窟と信じたりしは、徳川氏が我邦民をして壺中に遊樂せしめし政治の結果にあらずや。是の如き歴史上の状態に依りて考察する時は、我邦の文學と海との關係は地理上には相應せざるも、實に能く歴史上には相應吻合せりと云ふべし。また徳川氏以前に於ては、足利氏が京都に據りたる、桓武帝が山城の山間に都を定め玉ひたる、猶其以前に至りても大和の地に都の定められたる等は、著しく我邦の文學をして海と相遠ざからしめたりと云ふべきならずや。特《こと》に元禄以前の我邦文學は、國民の文學と云はんよりは寧ろ貴者の文學と云ふべきものなれば、其國都の海邊を離れて山間に置かるゝに至りしは、實に都府の住者たる貴者をして海に遠ざからしめ、隨つてまた我邦の文學をして海に遠ざかるに至らしめたる大原因なりと云ふべきならずや。是の如くにして奈良京都の文學著、則ち我邦の文學の父たり母たる位置に立てる文學者よりして、海といへば須磨明石若くは紀州の濱のほかは知らぬが如き知識感情を相承せしを以て、其兒孫たる文學者の今に至るまで海に關する篇什の何一つ我邦文學史を飾るに足るべきものを出《いだ》さゞるも、敢て異むに足らずとや云はん。實に海に對する我邦文學の状態の良好ならざるは、寧ろ歴史上には相應せりと云ふべきなり。海國の文學にして海に對する篇什の甚だ少きを疑ふものは、須らく先づ我が邦の歴史と海との關係を考ふべきなり。
 都の大和に在りし間、遣唐使といふものの存せしは、萬葉集をして聊か古今集よりも海に關する歌の包含を多からしめたり。古今集を讀み終つて溯つて萬葉集を讀まば、其集の作者等が彼集の作者等より海といふものに親しきことは、何人と雖も認め得るところならん。これ亦海に對しては我邦文學が我邦歴史に相應せるの一證なり。萬葉集以前は載籍甚だ乏しければ、吾人をして精細確實なる斷案を下す能はざらしむれども、古今集を抛つて萬葉集に就けるが如くに萬葉集を讀み終へて古事記日本紀等に見えたる傳説歌謠を見るときは、吾人は海國の民としてこゝに一種の愉快を感じ、我邦上古の文學は歴史上にも地理上にも能く相吻合して、我が祖先等が海に對する思想感情及び智識の決して萎縮的ならざりしことを知るなり。實に記紀には海並びに船舶に關する記事等の多きこと、平安朝以後の書史には決して其比を見る能はざる程なるが、これ明らかに我が本來の日本人、即ち歴史的の繋縛を被らざりし時代の邦人が、後世の邦人の海に對して畏怖心をのみ抱くが如くならざりしことを證するにあらずや。
 我邦の地理上の状態は、我邦の文學をして海に親ましむべき因をなせり。而るに歴史上の状態は、上世を除きては我邦の文學をして海に遠ざからしむべき因を爲しゝこと上述の如し。是の如くにして我が邦の文學は、海國の文學としては甚だ相應せざるものなりと爲さゞるを得ざるの状態を有するに至れり。然れども是《これ》實に歴史上の關係の壓迫に因るものにして、我邦人本來の性質、海洋に對して怯懦なるにあらず、また我邦古來の歌客文人の思想の偏僻、眼界の狹小、技倆の拙劣なるのみよりして是の如くなるに至れりと爲すべきにもあらざるは、歴史の繋縛を被らざりし時代の人の手に成れる記紀の中に如何ばかり海に關する記事の多き歟《か》に照らして、極めて明かなる事なりとす。
 海中に國を成せる我邦人に呑海の氣象無くんば、如何で世界に勇を稱するを得ん。地理上の状態は千古渝らず、歴史上の状態は雲煙去來す。今や我邦は山間の狹き平地に安きを倫みしが如き昔時の愚をば復びせず、また國を鎖し海を封ぜし近古の陋をば復びせず、膽勇ある我邦人は島内にのみ安居するに堪へず、海に親むことは日に月に多く成りゆけり。海國の所産たるに相應する文學は蓋し今日以後に成らん。           (明治三十三年七月)
 
入力は、露伴全集第二十四卷、岩波書店、1954.6.16(1979.4.18.2p)による。2003.11.3(月)                                         
     文藝に於ける地方色の消長
 
 一つの郷土の在る處には必ず其處に他に異なつた郷土の色、所謂ローカルカラーが存在して居る。既にローカルカラーが存在して居るとすれば、其の土地土地を寫し出さんとする文學の色彩が、土地の性質によつて異なつて來るのは必然の道理と云はねばならぬのである。尤も其の中の重なる原因には、之を寫し出さんとする作者其人の出生及び生長した土地如何による相違もあらうが、兎に角一つの作には、必ず描き出すべき郷土が著作の約束として豫め定められて居るので、其の定められた土地の色彩や空氣を充分に描き出すことが出來なかつたとすれば、それは取りも直さず作者の失敗である。何となれば人間の種々の事情は或る部分まで周圍と云ふものに制約されねばならぬものであるが、其の周圍の中には土地と云ふことが可なり重い勢力を持つて居る、即ち人間の一生が或る部分まで土地との關係を離れることが出來ぬとすれば、如實にある人問を描かんとする小説に於て、勢ひ其土地の性質、色彩、生活等と作者の筆を一致させる事は素より既定的のことなのであるからである。そして其の技巧や觀察の力がよく其の目的に適合したものが、始めて一代の佳作と認められ、其作者は才能ある作者として認められるのであるから、どうしても土地と文學との關係は相俟つて離すことの出來ぬものである。然し之が科學或は哲學になると全く違ふ。凡て夫等は普遍性のもので、別に何處と云つたローカルカラーなどを有する性質のもので無いから、甲地乙地で別に異つた色彩を發する譯は無く、若し有りとすればそれはたま/\唱導者或は研究者自身の個性を帶びて居る位ゐに過ぎぬのであつて、本來の約束に於て土地の影響を被《かうむ》るべき譯は無いのである。次に美術などになると、之はどうしても科學とは異つて何程か土地の色彩を脱却されぬ處がある。併し一方に美術は猶ほ文學に比しては著しく普遍性を帶びたもので、換言すれば萬國語をもつて作者の胸中を傳へると云ふ形になつて居る。繪畫でも彫刻でも此の萬國に共通する無言的言語によつて、他國の人にも能く理解される處の或意味を提供するのであるが、文學になつて來ると之は夫れ等よりも狹いものになる。即ち取扱ふべき材料が其土地土地に執著したものであり、之を綴り出す言語は區劃的にだけしか通ぜぬ性質のものであるから、勢ひ其土地に親しい人には能く理解されても然らざる人には興味が薄い。江戸を描寫してよく江戸の色彩の出て居るものは、江戸の者には面白いが田舍の人には充分に會得されぬだらうし、夫れと同じ理窟で信州や越後のやうな飛離れた地方色を細描した作物が、江戸人に充分な玩賞を博することの出來ぬと云ふのは自然の理である。かくて元來の約束上、文學が作者の意識すると意識せざるとに係はらず、或る程度まで其郷土色に密著した描寫を必要とする上は、京阪で成り立つた文學と江戸で成立つた文學とは其處に多大の相違を生ずべきは、之れ亦た自明の理と云はねばならぬのである。
 京阪の作者の最も振つたのは元緑時代であるが、江戸の文學の最も振つた時期は天明以後である。此の時代の約束と云ふことも文藝上の作品には見遁すことの出來ぬ一條件ではあるが、よし時代の約束が無いにしても、彼の土地に密着すべき餘儀無き前定の約束がある。即ち作者が生れた時使つた産湯の水から死ぬ時かけられる土までも、何處までも土地の力を蒙つて始終すると云ふことならば、思想も感情も凡て其土地の風氣や感情や習俗の中に陶冶されるのは免れ難いことである。從つて其作物を産み出す作者が其土地の感化や情調から脱却することは餘程六づかしいことと見ねばならぬので、其間には或る例外があるにしても、先づ大體に於て其然るを免れぬことである。即ち井原西鶴はどこまでも西鶴であり、同時にどこまでも大阪の井原西鶴たるを免れぬし、京傳はどこまでも京傳であり、同時に江戸の京傳たらざるを得ぬのであるが、殊に田舍と違つて江戸なら江戸、大阪なら大阪、凡て都會に棲む者にあつては、普通の郷土人が郷土に對する誇り以上、都會に棲む都會人だと云ふ誇りと愛著心が却々強いものである。即ち江戸に生れて江戸に育つたと云ふ誇りは江戸人に最も強烈であつて、其結果遂に江戸ッ子と云ふ氣負ひと侠氣の一郷土風を作つたほどであるから、殊に之れが作者であると、土地や時代と沒交渉な作物で無い限りは益々其誇りを作物の上に現出するやうになるは自然の道理である。そして其處に特殊性の面白味と強味も現はれると云ふものである。尤も此の郷土の色彩に執著する者も、一層より大きな作者になつたならば其の執著から脱却して、日輪の光明が十方世界に遍照して特に一處にのみ厚く其の光と温度を與へはせぬやうな状をも爲し得ることもあるであらうが、然らざる以上、江戸に生れた作者が江戸の匂を尊み江戸の匂に執著すると共に、他の色調をいやしみ他の色彩を排斥するは止むを得ざることである。たとへば京阪の作者はいつも不文明の地として丹波國と云ふものを描いて居るが、之れが丹波は國が近くて、しかも京や大阪とは異つた色を有してゐる爲、京阪と對照する場合にいつもそれを不文明な荒凉な田舍者とし、時に或は嘲笑の目的として取扱つて居る。之は江戸で云へば田舍者には何時も越後とか信州とかを捉へて來る、田舍侍の標本としては薩摩武士を捉へて來て嘲笑すると云つたやうな譯で、都會の誇りを現はす犠牲となつた此等の諸國こそ迷惑至極な話である。江戸では斯る事は殊に俗間文學の振つた天明以後の藝術に多いので、小説は勿論狂歌川柳、さう云ふものに夫れが好く現はれて來る。同じ日本の國中で排他的に文明を誇るといふことは、いかにも吝臭いことではあるが、夫れも狹い愛郷心が拔け切れぬ爲の沙汰と思へば止むを得まい。止むを得無いと云へば夫れまでであるが、然《さ》ればとて夫れを超脱して了ふことの出來ぬといふ理窟も無いので、そして其例が決して無いでも無い。例へば曲亭馬琴の如きは、江戸で生れて江戸で死んだ純粹の江戸ッ兒に相違無いが、其作物に現はれた趣味は、かの京傳や三馬の如き濃厚強烈な江戸的のものではない。之は馬琴が實際の江戸の食物や水や感情や思想にはぐゝまれるよりも、猶ほ他のものにはぐゝまれる力が強かつた爲めであつたとも云へる。即ち彼が性來理窟屋である處へ支那小説といふ牛乳で育つて、其上いろ/\な儒教的且つ考證的な學問をした結果、あのやうな妙な、融通の利かぬ固苦しい人物になり、あのやうな八釜しい道徳小説を作るに至つたもので、謂はゞ江戸作者から超脱したと云つても差支はなからう。京阪では上田秋成などは、別に之と云つて京阪ばかりの作者として見られるほどの濃い色彩が無い。其外近松、これは産地は不詳だが、大阪作者としては左程地方的色彩が濃くは無い。芭蕉に至つては、芭蕉個人の色彩は強烈に現はれて居るが、其郷國の伊賀は勿論、可成り長く棲んだ江戸や京阪地の地方的情調としても見られるものは甚だ少い。其角の江戸的なるに比しては、謂はゞたゞ單に日本的と云ふほどになつて居る。
 然るに當時の江戸文藝の特色と云へば、輕快であつて深刻が無い、氣は利いて居るけれども奥行に乏しく、淡白であつて、強烈とか執著とか云ふ人の心を深く惹き込む要素に缺けて居るものであつた。しかし斯うした傾向は、江戸の其時代に身を沒し其時代と土地に執著して居た群作者にあつては唯一の捉まへ所であり、又た作物に不用意に顯はれる作者の情調でもあつたのである。だから京橋の傳公と呼ばれた山東京傳の作物はその時代に非常に歡迎された。何となれば、京傳は其土地に生れて其土地を可愛がつて居る當時の江戸人に、其要求を滿たさせる樣な作物を供給したからである。當時の虚榮の巷であり文明の中心點であつた江戸の特色を捉へて之を巧妙に描き出すことは、毎日吉原などへ遊びに行つて居た京傳などの最も適合した技術であり、又た京傳もそれによつて世の喝采を博するとならば、それは願つたり叶つたりのことである、更に何を苦しんで群衆の趣味に遠ざかる必要があらう。かくて彼は群衆の趣味に平行した自己の趣味を從横に發揮して、以て一世の流行作者たり時代の寵兒となつたのであつた。文學では無いが、同じ時代の歌麿の如きも亦たさうである。彼は道樂者で毎晩のやうに仲の町などを廻つて居たから、あの結果が出來たのである。夫れから俳句の方で云ふなら其角である。此の人が芭蕉の高弟であることは何人《なんぴと》も知らぬ人は無い、芭蕉は嵐雪と並べて我門の雙璧とした位ゐであるに係らず、芭蕉と其角の兩者の面目を比較して見て來れば、師弟の相似ざること斯の如きものあるかと驚かしめる。夫れは外では無い、其角が蕉門の出であるのに其の詠み出だす俳句が、芭蕉の寂びなどとは違つた、豪放な滿幅の江戸趣味を現はして居らぬものは無いことで、地氣の人を移す斯の如きものあるかと三嘆せしめる。凡て江戸の色彩を具體して藝術に現はした點に於て、其角ほどに濃厚に強烈なものは少い。故に彼の俳句を讀んで見ると、何の事か今の吾人には解釋が徹底されぬ句が却々多い、それらは即ち當時の江戸に密著した句に多いので、即ち江戸趣味と云ふ特殊な情調色彩を殊に深く濃く歌つてある爲めで、そこで他人――時代ちがひ土地ちがひの他人には夫れを充分に體得することが出來ぬ傾《かたむき》が生ずるのである。其理解の棹の屆きかねるだけ夫れだけ江戸ッ兒の文藝家としての其角の價値を大きくするものとも云へるであらう。
 次には階級と云ふことがある。凡そ社會の現象は、階級が下のものになればなるほど其土地の力の中に頭を沒することになるし、夫れに反對に階級が上になるほど心の海も廣くなり、あまり土地など云ふものに執著しなくなる。江戸でも最も階級の高い處の人間になると、同じ江戸人の中に居ても餘り江戸臭くなく、寧ろ當時の江戸の色彩に染められるよりは漸く其の色彩を超えて其の情調が極めて稀薄になつて來る傾がある。即ち當時の高い教育のあつた歌學者或は國學者漢學者などになると、學問の性質のせいではあるが皆な所謂江戸的色調が薄くなつて居る。武士でも御家人小旗本以上の方になると、矢張り其の色彩と執著とが薄くなつて居るかに見える。即ち謂ふ所の江戸趣味と云ひ大阪的色調と云つた處が、夫れを作り出す者は常に中流の社會であつて、上流はいつも之を超脱してゐる有樣がある。即ち何時の世でも其の土地の文明や情調を作成するものは中流社會であるのが常態であつて、江戸の天明前後の文明を作つたものも矢張り江戸の中流社會に過ぎなかつた。又た大阪のは猶の事大阪の商人が拵へたものである。大阪の西鶴や江戸の京傳等は、丁度此の上流の人でも無ければ下流の人でも無い、恰も文明の有力圏なる中流人に接觸し、都會の色彩を作る人々と接觸した爲に、一層色濃く其の都會都會の色彩を發揮することが出來たのである。勿論同時代の江戸の通人でも、たとへば手柄岡持の如きは出羽の大名の御留守居役であつて、高級の人であるに係はらず、よく江戸色彩を帶びてゐるが、これは役柄として江戸の生粹の空氣に接觸することが出來た、即ち國家老などは川柳で煙がらるゝものとしてゐる如く田舍者に止まらざるを得ぬが、御留守居役は交際といふことを一の主要條件とするもので、そして常に江戸の舞臺に立ち江戸に住んでゐる者であるから、自然江戸の色彩に薫染される爲にあゝなつたものであらう。それで階級と云ふことも大きい一つの原因になる。
 夫れがも一つ進めば思想である。曲亭馬琴などが普通の作者に異なるのは、其の廣く讀書をしたと云ふ點にある。馬琴の作物を見るに、其作中に現はれて居る中で其時代の人物を寫して却々好く出來て居ると思はれる者は、皆な馬琴の嫌ふ人間として、惡人として描き出されて居る。例へば八犬傳中の蟇六、左母次郎の如き皆然りで、即ち思想の差から作の色合も變つて來るのである。然しそれが京傳などになるとさう甚だしく違つた思想は持つて居らぬ、寧ろ其生死した土地の色調にぴたりと合致するやうな思想を持つて居たし、格別それについて自省したり研究するやうな考へも無く、唯だ其時代を迎合して日を送つた。夫れが時代に愛され土地に喜ばれた理由である。何にせよ斯くして時代の人の飮食する處を飮食し、其時代の人の氣分や勢力の中に交《まじは》つて居ては、始めから變つた色彩の出やう筈は無いのである。が、馬琴は讀書に耽つた結果、馬琴好みの塊物が肚裏に出來て、自然に此江戸趣味から超越しかけて居る。何處にか江戸の色彩は持つて居るが、猶ほ其棲んだ都會の一人と云ふよりはやゝ大きくなつて居る。そんなもので、いつも其時代の中で大きくなつてさへ行けば自然と變つた調子を生じて來るのは免れぬ次第であるが、然し當時の一般の作者は自ら戲作者と稱して甘んじで居たほどで、唯だ其時代の人に愛されることにのみ浮き身を窶すに過ぎなかつた。そして其の藩籬の外に突出しようと云ふやうな考を持つて居る者は餘り無かつたのである。換言すれば、當時のものは唯だ群衆の嗜好のみを窺つて、それと共に諧調的ならんことのみを力めて居た。彼の外國の作者の土地と闘ひ時代に反抗する如き態度なぞ、そんな了簡かたを採る者は一人も無かつたのであるが、獨り馬琴の作を讀めば聊か違ふ。當時徳川氏は稍末期といへども中々盛んなものであつた。其の時に當りて徳川氏のみを尊ばずに、勤王の思想に傾いた思想の色を少しではあるが見せて書いて居るのは確かに違つて居る。然し彼は例外である。當時の人は殘らず遊んでばかり居るかと思はれた天明から化政度の徳川時代の文學は、氣が利いて居ても根據が無い、根柢からの是非善惡では無くて徒らに皮相極まる是非善惡を描いて居た。然し夫れも作者が群衆心理のみを追隨して居た當時の作者の實状としては、萬止むを得ざることと思ふ。
 一體から云へば、宗教の如き高尚なものですらも猶ほ土地的感情の影響を免れぬもので、そこが科學の如きものとは揆を異にして居る。宗教の如き高遠なものですら猶然うである、ましてや文學の如きものが土地の色彩を脱し、土地の感化を脱する如きは望んでも出來得べきことでは無い。況んや其頃は封建制度の昔とて交通は不便を極めて居る上に、國の安寧平靜を保つ爲に人爲の上から努めて土地の限界を嚴重にし、土地の習慣や風習を尊重して固著せしむるを社會政策の理想として居た時代であるから、其文學に強く土地の色彩の現はれたのは蓋し自然の數であらう。然し今日は交通も極めて便利に、風俗習慣でも甲乙丙丁を集めて一に歸せんとする時代であるし、政治上では中央集權で、封建制度の如き個々分立を非とする時になつて來たのであるから、段々と昔と違つた空氣色彩が出て來つゝある。尤も其の變化は今が今といふやうに直ぐ起るとは云へまいが、かう交通が開けて人の眼界と知識が廣くなつて行けば、作者も讀者も到底昔のやうに、一地方一區域の色調や空氣ばかりを出すのでは慊らなくなるは自然の理である。斯くて日本其のものさへ世界的になる時代であるから、若し文學が地氣に密接の關係を有するとすれば、一地方的の文學はやがて一國的の文學となり、一國的の文學は遂には世界的の文學に進化すると云ふやうに、段々とより大きくなる、つまり時代によつて一新されて行くのである。たとへ斯の如からざる時代でさへも、眼界の大きいものは地氣の攝化から超脱して一國の文學たるを期して居た、そして土地と諧調的になることのみを愉快として居なかつたに相違ない。然し之れから先の世は時世が全く違ふから、之れからの文學は、勿論地方的色彩情調を缺いではならぬが、單に地方的に徇ずるのみではなく、漸く日本的世界的の色彩情調を有するに至るであらう。今日猶江戸趣味などを唱へる人が無いでは無いが、最早純江戸と云ふ趣味は保存されぬので、所謂江戸趣味も何分かの水の交《まじ》つた東京趣味に過ぎぬのである。江戸趣味に取つては惜しむべきことでもあらうが、時代にとつては又た喜ぶべきことでもあらう。何れにせよ已み難い時勢の機運は、狹より廣に行くのである、進むが儘に進んで行つて、文學にも藝術にも、絶えず新色彩を作り新傾向を發展さして行きつゝあるのである。
                    (大正二年五月)
 
 入力は、露伴全集第二十五卷、岩波書店、1955.4.25(1979.5.18.2p)による。2003.11.19(水)。2004.1.11(土)校正終了。