新村出全集 第三巻 筑摩書房、1977.5.30(2p)、初版は1972.5.25、阪倉篤義編集
所収『万葉苑枯葉抄』
 
(411)  序  文
 
 この枯淡きはまる小著を、万葉学の先覚者として其の最高蜂に仰ぐべき佐佐木信綱大人に捧げて、大人がことし喜寿をことほがれるに際して、多年の親交に対する私の歓喜の表情の一端をあらはすことにしたい。
   ななそぢのななつのよはひことほぐとなぎそのうしにこのふみささぐ
 そもそも私が斯道に入るころ、家蔵本の『略解』を目撃したことを除くと、志学ほどなく、畠山健翁の「釈義」に由つて、初めて『万葉集』の巻一の歌を通読し得たことはさておき、それから一歩進んで、木村正辞先生の『書目提要』や三『辨證』や『美夫君志』の初帙などに就いて学びはじめ、更に先生創刊の『代匠記』に接して、一段の研究心を鼓吹せられた後、忘れもせぬ明治三十八年の春、東京大塚なる高等師範学校の国語学会において、相共に講壇に立つたとき、初めて知遇にあづかつて以来、ここに四十有三年になる。その折には、大人が三十四歳、小生が三十歳、その間の長年月にわたり、私が受けた万葉学上の稗益だけでさへ、逐一それを枚挙することは容易ではないから、すべて省くことにしても、私がこのやうな、私かぎりの狭い万葉学苑に散らばつた落葉をかきあつめて、籠もよ、こもよと、ひとりごちつつ自笑するに至つたのも、むろん東西両都の先進賢哲、遠近各地の同学畏友のかたたちからの、万葉研究に関して、不断の並々ならぬ協力の賜物を感銘しながらも、私は先づ佐佐木大人から受けた啓発の深さと豊けさとを忘れることは出来ない。
 殊に昭和八年、日本学術振興会の古典翻訳委員会に在りて、同博士と戮力して発起した万葉歌英訳は、万葉学(412)の専門家および門外の学者を殆ど網羅して、拮据数年の後、同十五年に完成刊行されるに至つたが、委員会は、その概説の起稿を阿部次郎君と私との両委員に嘱した。阿部君は主として万葉時代の思想的方面の説明をつとめ、私は専ら書誌学的ならびに文献学的方面の記述に意を致したのであつた。英訳本上梓ののち、私たちふたりは、日本文の原稿を整理した上で、二人が合著の形を以て、いはば万葉概説ともいふべき一書を編刊しようと約束したこともあつたが、戦時中の多難で、機を逸したまま、空しく数年をすぐるうち、阿部君の原稿は、生活社の叢書二冊に分冊してその担任した部分を公刊されて、斯学界の補益となつたこと人の周知する通りである。そこで、京都在勤の社員たる兵藤正之助君から、阿部君のベタアハアフに対する私の万葉概説の拙稿を採りあげて、同じ範囲の私の旧稿の鶏肋どもと併せて、一書にまとめて出版したら如何かとの相談が成り立ち、さてこそ此の『万葉苑枯葉』の一冊が世に送られることになつた。ありがたくもあれば、うれしくもある。生活社の厚意と兵藤君の配慮とに対して感謝の念が切である。私はただそれらの枯れつぱが燃え出すとき、静けき空に立ちのぼる烟をみあげながら、たのしい情緒の底にも、うらはづかしい心地がこみあげてくるであらうことを否めない。それも自業自得か、茫然自失か、けだし両方であらう。
 校正は畏友浜田敦学士の篤情にあまえておねがひしたことを深謝する。
               洛北痩柿舎において
                 七十三叟 新 村  出
   昭和二十三年立春後四日
 
(413)   『万葉集』総論
 
    ――序     説――     ――作歌と其の結集――
    ――集の組織と成立――     ――集 の 解 題――
    ――学史と影響  ――     ――抄訳と全訳  ――
 
 日本に於ける典型的な詩形は概して短いのであるが、吾々が今抄訳を試みた所の、日本現存最古の歌集たる『万葉集』の歌の中にも、長い詩型のものが少数存してはゐるが、最も多数は短い詩型のものである。それは普通「短歌」と呼ばれ、近世その短縮した形として発達した所の「俳句」なるものと共に、他の東西諸文化国に比類のない程、現在も日本国民の間に普及してをり、而もそれの創作が益々盛運に向ひつゝある。短歌は、古今を通じ、あらゆる階級や職業を通じて最も広く行はれ、上は皇室より下は庶民に至るまで、代々多くの優れた作家を有してをるが、之に反して長き詩形なる「長歌」は、上古に於て、殊に万葉集時代に於て、卓越した作品が現はれたにもかゝはらず、中古以後には全く衰頽し近世に至つて稍々復興の機運がないではなかつたが、上古のものと比肩するに足るべきものは遂に栄えずにしまつた。従つて短歌のみが、伝統的にいふと、最も古く且つ最も広く、終始一貫して国民詩たるの地位を保つたと云つてもよいのである。西暦紀元第八世紀以来現今に至るまで、無数の衆多作家の作品を綜合した総集と専ら個人の作品を集めた別集とが編輯せられてゐるが、短歌が少くとも量的には、それらの詞華集《アンソロヂー》の最も主要なる部分を占めたのであつた。それらの集のうちには、西暦紀元第十世紀の極初より同第十五世紀(414)の中頃近くまでの約五百有余年の間に於て、勅命によつて編せられた所の勅撰集が凡そ二十一をも算したことを特筆せねばならぬ。
 日本の歌が、日本人の思想と感情を表現するに適当であつたとは云ふものの、古今を通じて異常な発展と伸張を遂げたことは驚異すべきである。而も日本の文化が支那の文化によつて絶大な感化を受けつゝあつた諸時代においてですら、歌はその固有の形相を保ちつゝ独特な自由な発達を遂げ得て、今日に至るまで形式の大体は渝ることなく、伝統を保存しつゞけたことは、日本人の誇りとする所であつて、既に古く西暦第十四世紀初期の一愛国詩人が、
   これのみぞ人の国より伝はらで神代をうけし敷島の道
と、讃美したごとくである。之に反して、日本の本土に隣接せる朝鮮半島の民族が、日本と言語の特質を共にせる所多きにもかゝはらず、支那文化の感化を受けたことが日本よりも一層強かつたがために、固有の歌謡を十分に発展せしめることが出来なかつたばかりでなく、現に古代の歌謡を記録の上に多く留め得なかつた。かの半島とこの島国とは、支那大陸に対して地理的相異があり、元来民族的素質の差別が存在したわけであるから、両民族の間には、支那文化受入れの態度や化成力は、すでに相当の差異が認められるのは当然である。朝鮮民族が支那文化に抑圧されて、その固有文化の特色を十分発揮せずに終つたと同時に、支那文化の忠実なる保存を事としたのも、容易に諒解される所であらう。日本の歌が支那の詩によつて毫も自然なる発展を妨害されず、何ら深刻な影響を受けもせず、自由に伸張し得たことは、両民族の国民文学史を繙く者の容易に知り得る所である。
 かくて太初より自然な発展の径路をとりきたつた所の日本の歌は、日本人が支那の文化に触れてから以後三四百年、制度文物の上に少なからぬ感化を受けつゝあつたにも拘はらず、実質的にも形態的にも、支那の詩から何ら眼に見える様な影響を蒙むることなくして、西暦第七世紀の中程に至つた。これより以後一世紀間が、即ちわれわれ(415)の『万葉集』の作歌の最も旺盛な時代であつたのである。西暦第七世紀の首めより以来、万葉歌人の古き一人でも在はした聖徳太子をはじめ、皇族・貴族・官僚・学者・僧侶らが、まづ漢文を作る伎倆の卓越を示し、次いでその後半期以降に於て、漢詩を綴る優秀なる才能を現はし、それぞれ単に支那文学の幼穉なる模倣にとゞまらず、練磨の階梯を履んだ後には、それを駕御し駆使するの能力を発揮し、且つそれを咀嚼し消化し得るだけの非凡な天分を表明するに至つた。漢詩人にして同時に万葉歌人でもあつた人は、姓名の知れてをり両方の作品の残つてゐるものは、固より多いといふわけにはいかぬが、吾々は少くとも二十余人を数へることが出来る。かくの如くにして、最後の百年間における有数の歌人たちの中には、『万葉集』の上に、巧妙な漢文漢詩をも残してをる者がある。彼等の或者は支那の詩賦や伝説や風俗や自然観などに基いて詠歌を試み、又或者は極めて稀に支部の修辞法や成句を利用した者もあつた。而して支那の詩文の反映が歌の上に明瞭だと認められる若干の場合は、題材の上におけるものが最も多く、思想にわたるものは、割合に稀である。支那の文学藝術を通ほして入つた仏教的要素についても同じやうなことが云へる、いづれの場合に在つても、支那文学からの影響は、歌そのものの上には、直接に露はではない。もしも影響があつたとしたならば、各作者の漢詩文鑑賞の成果が咀嚼消化された後不知不識のうちに自然に浸透して出たものとすべきであらう。又当代の文化人が教養を受け来たつた所の支那文学の総括的感化の現はれとすべきであらう。ともかくも、歌は古来その本質に於て、その形態に於て、殊にその言語に於て、日本的なものを最も忠実に保存した。殊に其の用語は、最近の短歌革新期にまで大体に於て因襲を守りつゞけたほどであつた。永い間、日本語(ヤマトコトバ)といふことと、大和歌(ヤマトウタ)といふことが、或場合には同意語に考へられて来たほど、ともかくも日本語の純潔が保たれ来つたことはむしろ不思議といつてもよい程である。
 以上の如く、『万葉集』の歌そのものは、全く日本的であるけれども、その集の形式と組織とを立てるにあたつては、支那の詩集を参考したやうに思はれる。抑も詞華集《アンソロヂー》は、支那に於て上古より世界無比の発達を遂げた。その(416)最も古く且つ最も重要なものは、西暦紀元前第五世紀の初頃、孔子が風教に資し典礼に備ふる目的を以て、当時官民の間に行はれた所の民謡、雅歌、讃歌等三百余篇の詩を集めて、これを国民的経典となしたものであつて、それは西暦紀元第二世紀の半ばに至つて、整理されて後世に伝はり、今日普及してゐる所の『詩経』である。この書は第六世紀の初めより度々朝鮮から其の他の経典と共に日本に伝へられ、彼土の専門学者の指導をも受けて講述され、西暦第七世紀の末には我国の大学の教科書にも用ゐられた。希臘の詞華集の編者として有名なメレアゲル(Meleager)とほゞ同時代に於て、前漢末期の一古典学者の手によつて編せられた『楚辞』の如き有名な詞華集も、『万葉集』の先進歌人が作歌時代の天平初年には、帝室の文庫には既に存在してゐた。それは『万葉集』の最初の二巻の原形が成立したと考へられる時期に近いころである。然しながら『詩経』『楚辞』の如き支那の詞華集の成立よりも遥かに後世なる六朝時代に至つて、幾多の別集及び総集が第五世紀第六世紀ころに続々現はれたが、これらの詞華集の方が前記古代の二集よりも日本人に愛読され、『万葉集』に対して形式上幾分の軌範を示したやうである。又詩想上多少の感化がなかつたとは云へぬ様である。西暦第六世紀の初に、南朝の人によつて編纂された大小二つの総集があつて、共に『万葉集』の成立に対していくらかの参考となつたと考へられる。其の一つは『文選』といふ元は三十巻から成つた詩文の包括的な一大合集であつて、梁朝の皇太子(昭明太子)によつて編せられ、日本における支那文学のみならず、後世に至るまで日本文学にも多大の影響を与へ、西暦第八世紀以降にはわが国の大学に於て詩文の教科書に用ゐられた。聖徳太子も、その草せられた『憲法』の文字にも、その中の文句を採られたことがあつたが、『万葉集』の時代にも、宮廷その他に於て広く読まれた。われらの集の中にも、歌のほか、処々にそれが利用された形跡が見える。他の一つは、『玉台新詠』と題する、十巻より成る艶麗なる抒情詩集であつて、前者の如く典範的ではないが、恐くは万葉時代に私かに広く愛誦せられたと思はれる。その集は少し後れてやはり梁朝における他の一皇子の命によつて、時の著名な一詩人の編んだものである。この詩集よりも二百年近くも後に(417)出た初唐の軟派小説『遊仙窟』の如きは、日本人間にも好んで読まれ、後期万葉歌人の作品中にも、その着想をそれから取つたものがある程であるが、それと同じく軟文学に属する『玉台新詠』も亦同時代の万葉歌人に読まれた徴証が見える。
 『万葉集』よりも一世紀ほど古く、唐朝に於て編せられた一千巻より成る巨大なる詩文集なる『文館詞林』も日本に伝来し、又第十世紀の末、宋代の初に勅令によつて編せられた同く亦一千巻より成る『文苑英華』の如き、『文選』に次ぐ重要な詩文合集も存するが、それらは『万葉集』及び日本の旧時の学問界には、殆ど影響がなかつた。然しながら吾々はこの宋朝の一大総集の編纂は、それよりも半世紀ほど古くコソスタンチヌス・ケファラス(ConstantinuS Cephalas)に由つて『希臘詞華集』十五巻の浩瀚なる一集が編輯されたことを思ひ起さしめる。後世の典拠となつた此の『希臘詞華集』の包含する短詩の数は、四千以上にも上つて、『万葉集』の歌の数にも近いが、後世の発見増補にかゝるものを加へると六千首をも越えるといふことである。然し其集は元々希臘文化の衰頽期に結集された成果として止むを得ないが、理智的な教訓的な詩の方が多数を占め、純粋な抒情叙景の詩は割合に僅少である。之に反して『万葉集』の結集は、幸にして文物の燦爛期、創作力の旺盛期と殆ど同時代に出来たのであるから、成立が純粋であつて後世の作にかゝる不純雑駁な分子が加つてゐない。従つて吾々が東西に渉つて古代短詩の総詩の総集全体を対照するに方つて、『希臘詞華集』の包容する所は『万葉集』に比すれば、全体の詩的価値に於て物足らぬ憾がないでもない。
 さて『万葉集』を一つの総集として見るとき、或は如何なる詞華集を参考に供したかといふが如き上掲の問題は結局解決し得べくもないけれども、察するに、『文選』の如きは、前述せる当代の事情から推して、一の有力な参考資料となつたものと考へてよいであらう。他方から見ると、『万葉集』全部の成立よりも少しく早く、西暦七五一年に成つた『懐風藻』と名づくる、日本人の漢詩を集めた小さな総集がある。この詞華集は、僅に百二十篇の作(418)品を収め、作家の数は六十四人にも上って、亦皇族、貴族、官僚、学者、僧侶等の短詩をば、ほゞ年代の順序によつて配置し尊卑の別に由らないやうな特色を有する現存最古の私撰詩集である。これは分類式に由らない極簡単な集であつて、『文選』のやうな大きな総集を範とせず、どちらかと云ふと、寧ろ『玉台新詠』などの方に近いやうであるが、むろんこれを参考したとは思はれない。ともかくも吾々は、この一小詩集の現出によつて、吾々の『万葉集』の一応の結集完成の事業が前触れされてゐるかのやうに感ぜざるを得ない。『万葉集』の歌の配列法は、或る巻々と或る部分とに於て原則上世代的又は年代的になつてゐると認められるが、全集の首尾を通じて一貫してあるわけではなく、分類の標準は、かなり錯綜してをる。『万葉集』より以前に、二三の分類体の総集があつた。その一つは、山上憶良の編んだ『類聚歌林』といふ既に古く散逸した詞華葉である。この集は、『万葉集』の或る巻々に於て、凡そ九ケ所に参考の資を供してゐるが、この先行の集の全体の組織の詳細は今判断し得ない。その他、もう一つ『古歌集』と題するものからも、吾らの集は、かなり多くの歌を採択してゐるが、これも一つの先行の総集であつたらしい。その他『柿本人麿歌集』なるものが在つた。この大歌人の作歌を中心とした後世散逸した別集から、凡そ二百八十八首に上る多数の短歌が、『万葉集』中に採られてゐるが、この別集の形態や組織も判らない。
 要するに、『万葉集』の組織や歌の分類命名等は、その他諸般の支那制度文物の採取の場合に於けると同様に、支那の集に対しては、自主独得であつて、盲従模倣といふ様な嫌ひはなかつた。一の「集」を編むといふ思付は、支那の詩文集の先縦に従つたのは無論である。が、又書名や題詞や註文等は一に漢語漢文に由り、多くは音読を主としたことも、当時は自然な態度とせねばならぬ。すべての様式名称など、換骨奪胎の妙を有し、漢風唐風の裡に和式和様を寓したる如き概があつた。
 歌の分類は、大まかであつて、細分を試みず、「雑歌」「相聞歌」「挽歌」の三類を設けた巻々もあり、或は四季(419)の別を厳守する態度を取つた巻々もある。右の三大類別の称呼は、漢語であつて、それぞれ出典があり、而も応用の妙を得てもゐる。それらの類別は、四季の別を始めとし、後世の規準を成した。但し後世はそれらの概念を保存しつゝ名称の改修補充を見たものが多かつた。『万葉集』の巻々の中に四季の別を重要視した点は、日本の風土気候と日本人の自然観とに適応した分類法であつて、先行の支那の詩文集に、いくらかの先例がなかつたとは云へぬにしても、日本の歌集に於て永代の軌範ともなり、延いては後世の連歌俳諧の季感の源泉ともなつた位、我国独自の起源と発達に由つたものと見てよい。但し巻々の順序と分類の配置とは、後世の歌集の如く整然とせず統一を欠いてをる、これは、一つには、此集の編纂が一度に出来たものでなく、何十年かの間に数回の取纏めを経たものを綜括して、而も最後の厳重な裁定をなすに及ばなかつた結果にも由るにちがひない。
 「万葉」と云ふ名は、直訳すれば「万《マン》の葉《ハ》」の意である。この場合に「葉《ハ》」は、歌《ウタ》そのもの又は歌《ウタ》の言葉《コトバ》を象徴したものだと云ふ解釈も古くは行はれたが、今では「葉《エフ》」は「世《ヨ》」また「代《ダイ》」の意であつて、万葉は万世、万代といふ義の抱負と祝福とを示すものだといふ考へが定論となつてゐる。この熟語は、其の時代前後の支那の文献ばかりでなく、西暦紀元第八九世紀頃の日本の文献にも多くの典拠を有するのである。
 『万葉集』は、量質共に日本の最大歌集であるばかりでなく、支那の詩の総集に対して、内容は決して劣る所がなく、希臘の詞華集に対しても、純粋な抒情叙景の集としては、寧ろ優れてゐると信ずる。尚又、世界の古典文学史上においても、詞華集として最も卓越した一地位を占めると云ふことが出来る。此の集は、屡々支那の古典たる『詩経』に比せられることがあるが、両書中の各々の作品を対比すると、文藝上の価値は互に優劣あるを免れないけれども、概していふと、『万葉集』の歌は、『詩経』の詩よりも簡素純真な作に富むものが多い。そればかりでなく、『詩経』に在つては、その編纂目的といひ、また後世学者の解釈といひ、矯風や勧懲や鼓吹や諷刺や反感にわたる様な倫理的政治的社会的な意味や態度が頗る顕著であるが、之に反して『万葉集』に於ては、かゝる傾向がひとり作品の(420)上に殆んど表はれてゐないばかりでなく、集の編纂意識の上に全く之を見ることがないのを多とすべきであつた。それは六朝乃至初唐盛唐の文学精神にもおのづから一致してゐるが、『万葉集』の編纂精神は、むろんその感化に由るには非ずして、むしろ日本固有の純真自然な考方に基くものとすべきである。従つていづれの作品も至誠至純な情緒を以て一貫し、毫も浮華虚飾の趣致に陥つてゐない。至る所、明朗平和な気分がたゞよひ、集中のいづこにも険晦陰欝な心境を見出し得ない、国防に関する歌も一括して数多く載せてあるが、尽忠報国の念を誓ひ、愛別離苦の情を陳べたやうな抒情歌が最多数であつて、決して怨嗟反抗に及んだり、好戦殺伐の意気を謡つたやうな作品には出会はない、軍歌の如きは一も見当らず、戦陣を叙したやうな辞句すら纔かに例外として一二の長歌中に包含せらるるにすぎず、而もそれも極簡素な描写にとゞまつてゐる。『詩経』との対照を試みる者は、往々両書の開巻第一に配置された詩歌に思ひを向ける。『万葉集』最初の雄略天皇の御製の如きは、君主の作品として、威厳と純情との融合に於て、野趣と文致との渾化に於て、『詩経』巻首の「関雎」が、後世の寓意的な解釈によつて民謡風な自然感を歪曲されんとしてゐるのに対して、読者は藝術的逸品をさながらに味はひ得る悦びにひたる、同時に上古における君民間の親和を推知し得て、いひしれぬ感激の念に打たれる、かくの如き傑出せる作品を以て始まる所の吾々の『万葉集』は、到る所に、其時代時代、特に紀元第七八世紀にわたれる百数十年間に於ける国民精神の表現と国民文化の反映とを記録してをる。その上、啻に伝統的な生粋な国民信仰と国民感情とばかりでなく、極めて僅かながらも支那伝来の儒教思想神仙思想をも歌つてあり、仏教観念をも、亦支那を通しての印度の事物と共に歌の中に陳べてをる。然し歌謡中の最大部分は、純潔なる日本的精神と日本的感情とを率直に言表はしたものであつて、それらの点は、万葉歌人の自然描写と共に、尚後に詳説する如くである。但し、集中には、貧富懸隔の意識に基いて詠まれた長歌や、新旧思想の背馳に由つて青年の感情を警醒した長歌や、さすがに争はれぬ新代の文化思潮をほのめかした作品の載せられてあることを閑却するわけにはゆかない。然しこれらは寧ろ例外に属するの(421)であつて、全巻の基調を成せるものは、一に敦厚なる日本的精神を出でないことは、多説に及ぶまい。
 次に『万葉集』の特色として挙ぐべきは、宮廷詩と共に庶民詩に富むこと、貴族的要素と平民的要素とが並存して而も融和せること、都会的情趣と地方的風致とが相対映せることである。就中、皇室皇族に歌人の多く輩出したことが、格段の注意を惹く所であるが、而もそれは下民からも名作を出す者が少くなかつた事柄と相待ち上下一揆に出でてゐたことを慶すべきである、且又都会人のみならず、地方人の詠歌をも多数採録されて居り、優れた作品にも富めることを称すべきである。これ等の諸点は、後世の歌集には認めぬ所であつて、殊に東国方言の訛語訛音の忌憚なく表はれた歌謡の如きが、三百あまりの多数に上つて、二ケ所に纏まつて登載されてゐるのは、古代の極東の詩歌集に在つては、甚だ珍らしい現象とされねばならぬ。尤も、これらの地方詩の中には、即事即興の詩ばかりでなく、各地に流通する民謡の往々自然に変形し、又は作替へられたものが混入してもゐる様である、或は中には都会人の旅行歌や擬作歌も交つてゐるかも知れぬ。なほ此の種の民謡風なものは、地方詩のうちのみでなく、都会人の歌謡、殊に恋愛詩などの中に往々見出されることを忘れてはならない。伝説的題材を扱つて作つた簡単な譚詩風のものも集中には若干首存する。軽妙な諧謔を弄した歌も少しばかり存するのを読者は容易に見出し得よう。最後に一言すべきは、作家の中、女流歌人に富み、而も傑出せるものが上下共に少くなかつた事は、決して中古にも劣らぬ有様であつた。
 かくの如く『万葉集』は、その多様なる包容性に於ても、その収むる作品の表現性及び文化史上の価値に於ても、又その集の構成上の特色に於ても、ひとり極東の純文学史の上のみならず、世界の古典文学史上にも、優に卓越せる地位を占むべきものである。特に日本の文学史並びに文化史上より観ると、西暦第七八世紀において支那文学及び支那文化の影響極めて著しかつた時代に、而して支那の言語文章を以て綴られた勅令や法律や制度や歴史や地誌等が慣行し、且つ文学的価値の優れた詩文をも見得た時代に、「人の国より伝はらで神代をうけし」伝統的な歌謡(422)の創作力が毫も侵されずして咲く花の匂ふが如き極盛期に達したるを契機として、質に於ても量に於ても往時の日本無比なる一大歌集の編纂を見たことは、実に驚異に価する。集の外形と組成と用字とが支那風なるは、前述の如く、それは万葉時代又は天平時代の文化の当然な帰結であるが、西暦第十世紀以降国文学の発達、仮名文字の進展と共に、勅撰集及び其他の諸歌集の体裁が、全然日本風になつて来たのと、大に趣を異にする。『万葉集』以後の約百有余年に亙る第九世紀に於ては、作歌も衰へ、殊に歌の総集の全く現はれなかつた時代であつたが、漢文の勅撰国史及び勅撰総詩集のみが続々編纂されたばかりで、其の当時に於てもすでに、歌道のために慨歎の声が発せられた程である。然るに、西暦第八世紀の奈良時代に在つては日本の歌謡が、支那の詩賦と相並行して発達し、かくの如き詞華集の編纂を見たのは、日本国民の光輝であつた。それは支那歴史にあつては、恰も盛唐時代に当り、開元天宝の年代及びその以後の十数年にわたる文化史上重要な一時代であつた。即ち詩人李白、杜甫の全盛期は、吾々の万葉時代に当り、集の編纂完成も大体はこれらの二大詩人の晩年乃至没年の頃に該当すると云つて差支ない。之を英文学史に徴すれば、古代英詩の勃興初期における叙事詩 Beowulf を始め、宗教詩人の Caedmon 及び Cynewulf の時代が、丁度われらの杼情詩集の中心歌人の作歌極盛期に相当するわけである。
 
 『万葉集』の編輯が、現存二十巻の形態に大体の完成を見るに至つたのは、精確な年代を挙げることは出来ぬが、まづ西暦紀元第八世紀の後半期にあたる奈良時代の末つ方である。然し全二十巻が一度に統一的に出来たものではなく、最初は同世紀の初めつ方に編輯が着手されて未完成のまゝに遺存したものが、基礎となつて、爾来少くとも二回、新しき編纂の巻々が若干づつ追加され、且つ屡々多少の修訂が時折に施こされたことがあつたであらう。即ち約半世紀ほどの間に、多少複雑な曲折を経て二十巻にまとめられたのである。初めから一定不変の編纂方針が存したわけではなく、選歌の標準も甚だ区々であり、又前述の如く分頬も不統一な趣きがあるのは、止む(423)を得ない。最初の編纂者は、不明とすべきであるが、最終の、又は全体の統合を成したものは、名族に出でた大歌人大伴家持であらうとの説が最も有力である。彼は中年以後政治上の諸事件に巻き込まれた結果不幸の裡に世を去り、一族も次第に不振に陥りつゝ、次の西暦第九世紀の末に至つた。かやうな事情の外、もう一つは奈良朝末期より平安朝初期に至る百余年間漢詩文の隆盛と和歌の衰頽とのために、『万葉集』の完全なる最後的整理も遂げられる機会を見ずに、空しく未完成に近き集たる姿の俵で後世に伝へられたのではなからうかと思はれる。
 『万葉集』の原料となつたものには、参考資料をも加へると、『古事記』『日本紀』の如き勅撰の国史の類もあつたことが、明示されてあるが、唱和贈答等の歌をも含めた個人個人の別集の類は勿論のこと其の時折の文書類、覚書頼も確かに存した。又日記類からも採録した様であり又、伝誦に由つたものもあつた。纏まつた編纂書に拠つた場合、断片的な文書を利用した場合、新古公私さまざまの文献に基いて、編輯が試みられた形跡が、巻々処々の面に窺ひ知られるが、或る部分には、出典を附して考証を加へ所依の文献の引用と編者の意見をそへ作品の品隲にまで及んでをる。従つて、編輯の事業が未完成であつた丈に、編者の苦心を察し良心を窺ひ得る一面も存し、部分的ながらも取捨選択の径路をも知らしめる所が残つて居る点は、後世の勅撰集などに比して、興味ある特色が認められる。又歌詞の重複、相違などの不統一があちこち散見するのも一の特異な点である。
 『万葉集』の参考資料として最も重要な総集として前に挙げた『類聚歌林』があるが、それは遣唐使の随員として支那へも往き、又漢文学の造詣深き万葉歌人の先進者の一人たる山上憶良の編したものである。その書は数世紀を経た後に散佚してしまつたから其の体裁、巻数等は全く判らないが、分類的であつたと想像される。従つて此の総集は、少くとも『万葉集』の初二巻などには、参考上有力な節を示したのではないかと考へられる。その総集より二十年以上も後の西紀七五一年の皇室文書の上に、七巻の『歌林』といふ名が見えてゐる。憶良の『類聚歌林』と同一か否か判明しないが、仮りに別個のものとしても、やはり同時代に編まれた総集の一つではなかつ(424)たかと思はれる。次には、『万葉』の集の中に『古歌集』から多くの歌が採られてゐる。これも多分総集であつて、別集ではなからうと考へられる。最後に、最広義の別集とすべきか、或は一歌人が自他の作歌を集めておいた所の簡単な一種の総集とも見ることが出来ようか、其の辺頗る曖昧なる歌集が四種ある。『柿本人麿歌集』『笠金村歌集』『高橋虫麿歌集』『田辺福麿歌集』が即ちそれである。
 『万葉集』には、各々或は一群の作歌の前に作者名と題詞とがあるのを原則とする。又時にはそれらが作品の後に附註(左註)として存する。その他それらの題詞及附註(左註)として、作歌の機会や時処を首め作歌の出典や伝来等に対する所説、又は作者や作時等に関する所伝などを挙げた場合もかなり多い。その際簡短な考証的乃至懐疑的註釈が附註(左註)として書添へられた場合が屡々見受けられる。すべてこれらの題詞や附註や又年月などの文句は漢文であることは、前述の如くである。これらの漢文の外、二三の巻々には、歌に添へて送られた漢文の書簡や序文が其儘載せられ、時には漢詩が添へて録せられた。漢詩の方は例外であるが、漢文の方には、かなり長文のものが往々存する。
 『万葉集』は二十巻より成立つ。これは永く後世の勅撰歌集最多数の巻数の範となつた。分類の次第も、『万葉集』から原則的なものを採用して、後世は漸次統一化し簡単化に進んだにすぎない。歌の数は、後世の勅撰集のそれを遥に超越して、『国歌大観』といふ現今勅撰集及『万葉集』等における毎歌の番号の規準となつて普及せる索引書の算へ方に由ると、四五一六首とされてゐる。但し重複の歌や異伝の歌などを整理して数へ直すと、いくらか減少するわけであるが、普通は約四五〇〇首と云ひならはしてゐる。歌の作者として名の確かめ得られるのは約四五〇人である。
 『万葉集』の詩形は、大体五音節又は七音節を原則とせる一句を、種々に一定の句又はそれ以上の多数に重畳させて韻律を構成する。集中に最も普通なるは、後世永く普遍化して、今日も亦一般に行はれ定型となつて普及してゐ(425)る所の形式であつて、「短歌《タンカ》」すなはち短い歌である。此の集の歌の全数の九十パーセソト以上にも上る程の多数である。原則上、五・七・五・七・七の音節の五句より成る。このほか、「長歌《チヤウカ》」といつて、五・七より始まつて幾多の五・七を連続させて、最末には、五・七・七を以て結ぶ所の多少長い詩形がある。その種の歌の数は約二六〇ほどにすぎない。然しこの長い歌の多数の存在、而もその絶後的なる傑作の存在が、『万葉集』の大なる特色を成してゐる。但し集中には長き歌と云つても、句数の最も多いのでも、百五十を越えない程度である。これらの長歌の大作傑作を遺した随一の万葉歌人は、柿本人麿であつた。彼は集中の先進大歌人の一人であつて、古今の歌人中の最高蜂に位し、従つて「歌聖」としても尊崇されてゐる。彼には短歌にも不朽の名歌が多く残つてゐるが、特に長歌の傑作を多く伝へてゐるのでも名高い。長歌には、普通「反歌《ハンカ》」と称して、本歌の補充、概括、帰結、敷衍などを成す所の「短歌《タンカ》」、すなはち附属的な短い歌が、一つ又は二つ三つ伴ふを常とする。時には数首伴ふことがある。「反歌《ハンカ》」といふ名称は、支那の古典中の用語を応用したもので、要するに、反覆の意に外ならない。但し、この反覆は、文句の反覆としては、日本の古い歌にも全く無かつたのではなく、根本は固有の発達に基くとも考へられるが、然し後期の万葉歌人にして同時代の詩人兼学者でもあつた石上宅嗣の作中に、支那由来の其の種の附属的な反覆の文句が見出される所から察すると、長歌における反歌の形式は、或は漢詩の影響によつて、典型化されるやうになつたのかも知れない。集中の第三の詩形として、「旋頭歌《セドウカ》」といふのがある。五・七・七の三句を二回くりかへすものでその名称は、多分日本人の命名であらう。この種の歌は、わづか六十余首しかなく、後世には殆ど行はれなくなつてしまつた。なほ此の集の中には「仏足石歌体」といつて、普通の短歌の末に更に七音節を附加した所の、五・七・五・七・七・七の形式のものが唯二首存する。この仏足石歌といふのは、奈良の薬師寺に立る仏足跡を刻した石の傍に立てられた石に主に仏陀足跡の礼讃に関する歌二十一首を勒したものである。又集中には、歌の贈答唱和が多く、日本の中世以来盛んに行はれた「連歌《レンガ》」の短い形のものが、(426)古代を承けて、一首見えてゐることも亦見逃がしてならぬ。
 日本の詩の韻律は、前記の如く五又は七を規準とする音節の組合せに由つて構成され、音の強弱高低、長短の組合せ方を全く採らず、又毫もそれを加味しない、従つて韻を履むことと押韻法に依らないのを原則にしたのは、日本の国語の音韻法に基く必然的な結果である。日本語は少くとも歴史以後我々の知れる大和標準語にあつては、その語音節の組織が、個々の母音に終る単純なるいはゆる開音節《オープン・シラブル》を以て大体一貫し、且つ音節の強弱長短の差別顕著ならざるが如き音調法に依るが故に、支那及び欧州などに於ける一般の詩の韻律の如く、押韻法及び強調法を以て韻律を形作ることが出来ず、東西諸民族に於て押韻法及強調法と併用することもある所の音数法をば、律動の基礎とせざるを得なかつた。唯、例へば西欧でアングロサキソソ等の古詩に於ても多く見受けられる頭声法《アリテレーシヨン》は、『万葉集』の歌をはじめ、日本の古今の歌謡に於て、意識的無意識的に屡々併用され、音感上相当な副効果を収めてゐることは、吾々の注意を漏れてはならない。尤もこの頭声法は支部の詞句に於ても、双声法として、古来行はれてゐる。
 日本の詩の修辞法の特色として、吾々は、他国には殆んど類例を見ない所の枕詞及び懸詞の存在を指示しなければならない。それらは共に音韻と意味との全部なり一部分なりの一致か類似かに基く微妙な聯想を利用したものである。懸詞は、単に同音異義的《ホモフオーニツク》な語を利用した特殊の修辞法であつて、枕詞と共に、日本の歌句の構成上重要なる役目を演ずる。而して、枕詞の方は、音声的または意義的に接後の主要語を様々に修飾する所の巧妙なる聯想法であつて、日本の歌の技巧として太古原始時代よりして、万葉時代に至るまで、すでに因襲化してゐたものが多かつた。中には、語源が不明になつてしまつて、聯想が呼びかへされない様な枕詞もある。又両様多様に聯想される枕詞もある。いづれにしても、往々当該環境には現前せざる間接な事物の連想を喚起し、時に岐路迷路に導くやうな副作用を営むがために、慣れぬ読者の理解を妨げる場合がないとは云へぬ。然し、その聯想が自然に進んで好い効(427)果をもたらすことが少くない。希螂では、ホーマーの叙事詩などにも、形容を示す修飾語(又エピセット)の類に、類例を見出さないこともないが、吾々の枕詞は、もつと自由にして奔放で飛躍的だといふべきである。而して其の形態は、常に形容詞のみにとゞまらず、連体形の動詞より成る一の連語が次ぎなる主要語を修飾する場合も多いのである。又それは所属格の名詞もあれば、目的格の名詞もある様に、種々多様である。而して転義応用がかなり自由である。クサマクラ(草枕)の語からして、タビ(旅)につゞくのは、古代の山野の旅行を想ふときは、極めて自然である。アヅサユミ(梓弓=樺属の樹木にて作つた弓)が、ハル(張る=弦を張る)といふ語より、その同音語《ホモニム》たるハル(春)に転じて、春の語の枕詞となるのは、幾分か語原上の連絡もあつて、英語の spring の本義と転義との間の関係を想起せば多少理解を助けるものがあらう。朝暾の形容に便はれるアカネサスと云ふ枕詞は、ヒ(日)、ヒル(昼)の語に連なり、又ムラサキ(紫)に繋り、更に紅顔を連想せしめて少年の義なるキミなどの形容語となる。白色(シロ・シラ)のタクツヌ(栲綱)から、シラギ(新羅)といふ古代朝鮮半島の国名に連絡するが如きは、部分的同音語を利用したものである。かゝる修辞法は、第八世紀頃には、半ば固定して唯伝襲してゐたに過ぎぬものもあつたが、然し何処かに新鮮溌剌たる生気を保つてゐて、作歌の上にも鑑賞の上にも、かなりの効果を挙げてゐたものもあつた様である。又新作の自由もいくらか利いたらしく思はれる。次には、枕詞よりは、より長くより自由にして、異曲同工なる修辞法に、序詞といふものがある。主に一種の隠喩法《メタフオール》を以て、後続する文句を修飾するのである。それは五音節以上であつて、長短如何にかゝはらず、次の語句に現はされる所の主要なる思想を副的に修飾する。一例を挙げるとマトカタといふ海浦の讃美に於て、マトが弓矢の「的《マト》」と同音語である所から、その地名の前に、武夫の射的に向つた所の形容をば、その場合何等直接の関係なきにも拘はらず、長い文句を附け添へた。上の文の文句と下の方の文句との間に、事実上又は論理的因果的の連絡はない。従つて慣れざる読者には、初めは不自然にも感ぜられ、裏切られたやうな錯覚に陥り迷宮に履み込んだ思ひが起らぬでもないであらう。然しこの聯想(428)の急転性また暗躍性少くとも不即不離性は、日本詩歌の一大特質ともいひ得るのであつて、近世の俳諧の付味の妙趣は、遠くこの辺に淵源するものかと思はれる。日本詩の心理的根拠や歴史的説明は、こゝまで追究されねばならぬものと考へられる。この序詞の中にも、簡単な場合のは、かなり同音語《ホモニム》を利用したものがあつて、さうなると枕詞の場合と同じ趣のものが往々存するのである。然し、歌の内容の根幹部主要部を表現するに先だちて、却てその枝葉部修飾部を高揚して副効果を収めようとする序詞法は、『万葉集』の歌の修辞法の一大特質となつてゐる。これらは集中随所に優秀なる名句が存してゐるが、或程度までは枕詞及び懸詞に比して、英訳上の結果も、いくらか有効だと思はれる。而してこれらの二つは、翻訳しては、全部か若しくは大部分かは無意義に失するを免れない。
 序詞の特徴は、上記の如く寧ろ隠喩法に由るのであるが、その現前に存せざる蔭の事象を冒頭に点出し来たつて詩的仮象を呼起しつゝ意想外の心境に吾々を置いた後、軽く本来の情念に落着させる妙味は、一般に日本文学の真諦を会得する上においても亦知つておかなければならぬ所である。上なる文句と下なる文句との間の因果的関係や事実上の連絡がない所が、隠約なる比喩の妙用である。但し集中にも「如く」などの助辞を以て明らさまに譬喩を以てする明喩法もないではないが、序詞法の妙趣はむしろこれに存せずしてかれにあることは言を待たない。
 枕詞と序詞との限界は決して判明してゐるわけではない。音声上の類似あるひは意義上の関聯に由つて、歌の韻律調整のために、同一径路を辿つて進展し来たつた所の特殊な修辞法である点において、枕詞も序詞も元来共通性を有するものであるから、二者が或る場合に区別し難いことがあるのは止むを得ない。枕詞は五音節一句なるを原則とするが、序詞はそれよりも長くして而も枕詞と類似の制約下に成立てる二句以上の詞句に対して云ふものと見ることが出来る。
 日本の歌の韻律及び句法が、支那の詩のそれらから何等かの影響を受けたか、例へば当代の日本が文化上の感化(429)を受くること多かつた六朝乃至初唐の詩からの影響が、西紀第七八世紀の日本の歌の上に、本質的なり末梢的なり、いくらか被むらされたかといふが如き疑問は、全然日本の万葉学者に提出されずにゐるといふ次第ではないが、未解決の侭に残されてゐる。言語殊に語法と音韻法とに於て支那語とは根本的に相異する吾々の国語は、枕詞、懸詞、序詞のごとき日本独特の修辞法を発生進展せしめたのが自然な径路であつて、日本の歌が、韻律法や句法に於て、支那の詩より何らかの感化を受けた点があらうとは期待されない。用語に至つては、『万葉集』中にも、純粋の支那語や仏教的な支那語をば、日本化して歌の中に採入れたことも、全体から見ると例外にすぎぬほど極めて稀有である。いはゆるヤマトコトバの純潔が、韻文の中に完全に保たれたことは云ふまでもない。支那風の詩想は、儒仏道の三教により、或は自然の観察法の影響により、幾分の表現を日本の歌の中に見たことがあつたとしても、和歌の対律法や句法の上に於ける漢詩文の影響の有無に至つては推定し難いのである。例へば長歌に見られる対句の重畳法の如きが支那詩文からの影響によつて盛んに成り来たつたものか否かといふことは容易に断定出来まいと思ふ。『万葉集』に於ける対句の習慣は遠く祝詞以来の日本固有の成句法の伝統を汲むものと考へるのが寧ろ至当である。対句の使用は、先住隣接のアイヌ民族の「ユーカラ」と称する原始的な長篇叙事詩に於ても、既に普通である。
 『万葉集』の本文の歌詞を表記する文字は、その他一切の部分とおなじく支那文字そのまゝである。其後一世紀余を経て発展した「仮名《カナ》」と称する日本の音標文字《フオノグラム》は、此の時代には未だ萌芽の初期を出でなかつたから、支那文字の原形をば、一方には単に音符として借用して表音的《フオノグラフイツク》な価値をもたせ、他方には支那字本来の意味の侭に表意的《イデオグラフイツク》に利用し或は前者のみを以て綴り、或は前者と後者とを適当に按配して歌詞を綴つた。その音標文字《フオノグラム》は、むろん音節《シラビツク》式であるが、後世それから「仮名」が発生するに至つた。またそれを後の人が「万葉仮名」と呼ぶことになつたのも、それが此の集に多く用ゐられたからである。以上の二種の用法の外に、支那文字を謎の如く駆使して(430)遊戯的な組合はせに用ゐた様な余裕ある実例も少し存する。この最後の場合をはじめ、主として表意的な漢字の用法の不明から、『万葉』の歌詞には、往々読み難き文字や読み方に種々の異説を容れ得べき文字等が残つてゐるばかりでなく、稀には未だ全く読み解き得ざる文字も存する。かういふ難関は、第十世紀以後一千年間に漸次打開されては来たけれども、今尚ほ専門の学者にも訓義一足せざる文字や読み解けがたき文字が往々残つてゐるのである。ともかくも、『万葉集』には、これらの日本的に使用した文字組織の本文と、それに付随する純支那風の文章文句とが並存するのである。
 終に臨んで原本各巻の特徴と年代とを概観して集の体裁と成立由来との一般を示すことにしよう。二十巻の中、巻一及び巻二の両巻は、撰集の勅を受けて編纂されたものではないかと云はれてゐる位、作品も最も厳選され且つ体裁も整備されてゐる。巻一は、雄略天皇の御代から奈良朝の初めの七一二年ころまでの作品を収め、長歌が十六首ある。巻二は、仁徳天皇の御代の歌と伝へられてゐるものを始め、七一五年までの作品を収め、長歌が十九首ある。両巻とも配列の順序は大体年代順であり、巻一には行幸の時に詠まれた作品の多いのが目立つ。作者としては、両巻を通じて、歌聖柿本人麿のものが最も多い。概して云ふと、これら二巻の歌は、他の諸巻に比すると、数こそ少いが、歌品としては、「古き大宮風」の代表作を集めたものとして注意されねばならぬ。巻三は、推古天皇の御代から、藤原奈良の盛時、天平の第十六年、西紀七四四年までの作品を収めたもの。作者としては、前二巻が皇族の作を多分に含んでゐたに対して、臣下の作が多くあらはれて来た。今まで名が見えなかつた山部赤人が現はれ来り、大伴旅人、家持の父子をはじめ、大伴家関係の人々の名が多く見えてゐるのが目につく。巻四は第四世紀に当る仁徳天皇の御代の歌と云はれるものを始め、大体天智天皇の近江朝のころから天平初期までの作が集められてゐると見てよい。やはり(431)年代順になつてゐるが、奈良朝以前の作は少く、以後の作は、大伴旅人の周囲の人々の作と、若き家持自身がその恋人たちと贈答したものとで占められてゐる。巻五は、大伴旅人とその交友との贈答歌を集めたものに、山上憶良の作が加はつたもので西紀七二八年から七三三年までの作を含む、幾多重要な長歌や長文の漢詩文も存する。巻六は西紀七二三年から七四四年までで、時代と作者の点から云ふと、巻四や巻八と似てゐる。長歌が二十七首の多きに上り、覊旅の歌殊に行幸の歌の多いこと、宴席の歌が現はれてゐる事が注目される。巻七は巻十、十一、十二などと同じく作者名の記されてゐない巻である。大体、女帝持統天皇の御代から同元正天皇の御代ころ迄の作が集められてゐる様である。又『人麿歌集』よりの歌が多数収められてゐる。又旋頭歌が二十六首も出てゐる。巻八は、作者と時代共に巻四と似通つてゐる。舒明天皇御製とある歌が最も古く、七四三乃至七四五年作とあるのが、年代の推知されるものにては最も新しい。而してその分類法を見ると、雑歌と相聞歌とを各々四季に分けた体裁なのが、後の勅撰集のそれの先駆をなしてゐることが重要である。巻九は雄略天皇の御製と伝へられてをるものを除き大体舒明天皇から七四四年ころまでの作と見てよい。作品の主なものは、人麿や虫麿等の別集より採り、長歌も二十二首に上る。伝説を詠み込んだ歌が多いのに気づく。巻十は、巻七と同様に作者不明の歌のみが集まつてをり、時代も大体同じ様であるが、この巻の方に新しい作が多いと見られる。織細幽麗な作も少くなく、自然界の詠歌でも庭園の景を詠んだやうな新傾向がうかゞはれる。巻十一、十二の両巻は、大体に於て藤原宮時代を中心として、奈良朝の初に至る時代における同種類の作品を集めたもので、巻七及び巻十と共に作者不明歌の集であるが、民謡風な性質の作品が多く、単純にして野趣に富む佳作にも富む。巻十三は、作者未詳の長歌六十七首の多数を収録せる点が異彩を成す。此の巻は古事記日本紀時代から万葉時代への過渡期の作品と見るべきものが相当に多いと同時に、一面新しい歌も交つてをるから、この巻の歌の年代を定めることは困難である。巻十四は、東国人の歌、東国人の生活を詠める歌を集め、蒐集時代も、各歌の作者と共に不明で(432)あるが、方言訛言が混入し、色彩も技巧も特異な点が多い。巻十五は、七三六年の朝鮮への使節一行の海路の旅を詠んだ一群の作品と、奈良の宮廷に奉仕せる中臣宅守および狭野茅上娘子の七四〇年頃における熱烈なる恋愛歌六十三首とを輯録してある。巻十六は、伝説歌、滑稽歌を集めた所等に異常な特色が認められる。歌の時代は、文武天皇の御代ころから天平時代までに亙ると思はれる。『万葉集』は以上の十六巻を、大伴家持の手によつて一応取りまとめられたのではないかと云ふ学説がある。又それら諸巻のうち、特に巻十四の編輯整理は、七七一年以後であると説く学者もある。いづれもいまだ不抜の定論に達してゐるとはいひがたい。ともかくも、巻十六以上と最後の四巻との間に、境界をつけ得ることは疑はれないのである。
 巻十七から巻二十までは、大伴家持が自作及びその周囲の人々の作品をば、得るまゝに書きとめた手記の類に外ならない。いづれも奈良朝の盛時天平時代の作歌であるが、その中にも、巻十七は七三〇年から七四八年までの作の採録である。巻十八は七四八年の初から七五〇年の初まで、巻十九は七五〇年初から七五三年初までの作品を主とする。長歌が三巻を通じて四十七首もあるが、その中には文藝上及び文化史上に重要な作品も存する。殊に注意すべきは、家持の作が最も多く、殊に十九巻の如きは、実にその三分の二を占めて居る有様である。前後の三巻の如く、贈答宴会の儀式的な詠歌もあるにはあるが、純粋な創作衝動によつて生まれたものが多く、彼れの傑作の大部分が、この巻に収められてゐることは、彼れの作家生活を考察する上に於て参考となるであらう。巻二十は、七五三年より七五九年の春までの作を録し、宴席の歌が特に多いのに目がとまる。更に此の巻には、国防のため日本の西辺に出張して防衛の任に服した勇敢なる東国の武士及び其の家族の愛国心や感傷の情緒を表はした歌が、作者の姓名国郡及び身分等と共に記載されてゐる。これらの歌は巻十四における無名東国人の作品の一群と相照応して、読者の興味をそゝる所が多大である。上記の七五九年といふデートは家持が因幡の国守として詠じた作のそれであるが、『万葉集』中に於て年代が現はされてゐる所の最終のデートであつて、比の集の総括的な編輯年代を察知す(433)るについて緊要な目安となつてある。
 『万葉集』は、その編輯以後、次の世紀を通じて、前後百数十年間、殆んど検討もされずにゐたが、その間に於てでも全く顧みられなかつたのではない。又未だその研究の進まなかつた近世以前に於ても、宮廷および公家又将軍家等においても、相当の尊重と関心とが繋がれ、その結果として、名筆によつて美はしく書かれた零本と断簡が残つてをり、それらは古来非常に珍重されてゐる。桂本と称する皇室の御物に属する西紀第十一世紀の中葉の古鈔零簡、元暦本と称する西紀一一八四年の校合書写零本、西本願寺本と称する第十三世紀の古写完本の如きは、現存中最も有名且つ重要なものとなつてをる。
 又代々の勅撰集の中にも、相引きつゞいて歌が『万葉集』から採択されたが、それは不完全な選択や抄出や誤謬誤伝もないではなかつた。集中の歌人中より人麿と赤人と家持とが択ばれ、彼等三人の別集が、精粋の形に於てではないが、抄録されて各々一書を成した。就中、人麿赤人の名は、中古以降、並び称せられ、三十六歌仙の中に在つて世人に尊重されてゐた。然し万葉歌人の作歌精神は全く啓示されずに居たのである。この集のことが、その編輯以後最初に注目されたのは、第九世紀の後半期のことであつて、其の時の天皇から勅問を受けて奉答した歌が一首、『古今集』の中に残つてゐる程である。少し後れて八九三年及び九一三年のデートのある『新撰万葉集』と題した簡単なる短歌集が万葉仮名を以て書かれて二冊存する。九〇五年に編せしめた最初の勅撰集たる『古今集』も、やはり『万葉集』を継続したと称せらるゝものであつた。然し『万葉集』の歌詞を読み易くするやうに学者及び歌人が、第一の手を着けたのは、この集が編輯を完了したと考へられる時代よりは、二世紀近くも後なる九五一年であつた。それもやはり時の天皇の勅命であつて、その時の指導者は、当代の詩歌人にして国語辞書の編纂者でもあつた源順《ミナモトノシタガフ》であつた。文学史家は彼を以て万葉学者の最初の人とする。彼れの時代の前後よりして、三四世紀の間、『万葉集』の書写や校合や抄録や選抜や類聚などの初歩の事業を始めとして、其の編纂時代に関す(434)る粗笨な研究などは、行はれては居たけれども、第十三世紀の中葉に至つて、東国生れの仙覚といふ一僧侶が関東の地に於て、根本的な校勘を試み、且つその註釈書十巻を作るに及んで、此の集の真の研究は初めて其の緒に就いたと云ふべきであつた。降つて十五、十六世紀の頃に至つては、『万葉集』といふ名が、当代の教養ある一般の人々に対して異常な威力と光輝とを有つやうになつたが、併し校勘や研究の方面に対して特筆すべき業績もなかつた。たゞ新しい文藝界に在つて、「連歌師」が『万葉集』を尊重し、殊にその巨擘たる宗祇、宗長の如きが、その註釈に指を染めたことがあつたのを注意すべきである。
 第十七世紀の新時代に入つて、近世日本における古典研究の曙光を見るに至つてから、『万葉集』本文の最初の出版が活版によつて成された。而してその第三回の出版は、それより以前の活版本を複製した整版で、一六四三年の刊行である。この本は、後にも出て来るやうに後世一般の典拠本となつて現代に及んでゐる重要な画期的な版本である。
 『万葉』の厳重なる意義での文献学的考証は、第十七世紀の極末に、大阪の学僧契沖によつて起され、彼によつて後世の万葉学の学問的基礎が築かれたのであつた。これは近世日本の学問の奨励者として最も功績のあつた将軍家の一族、水戸の藩主徳川光圀の命によつて着手したものであつて、その成果は『万葉代匠記』と呼ばれた。この書は二世紀の間、写本の侭弘布せられ普く学者が研究の重要資料となつてゐたものである。契沖は仏教学者として梵語学に通じたばかりでなく、支那文学の造詣も深く、それらの素養を具へてゐたから、日本古典の研究に対して根本知識を把握し、近世国語学の開祖たると同時に、万葉学の肇基者となつた。 彼の歿後六十年を経て、純粋なる国学者、賀茂真淵が、江戸に於て更に『万葉集』の新研究を努め、註釈のほか、一歩を進めて巻々の編輯年代や巻々の原形の順序を推考したが、万葉精神の発揚に偉大な功績を遺し、爾後の万葉学者を啓発する所が絶大であつた。その門下には幾多の有数なる万葉学者が輩出した。真淵は、加之、(435)万葉歌の非凡なる鑑賞力を有し、又自ら万葉歌風の宣揚者として範を垂れて、亦門人から万葉調歌人の出藍者を生んだこと後説の如くである。
 真淵の門下の万葉学者の一人には、その註釈書として古くは最も簡便な『万葉集略解』を出版しこの集の知識を普及するに多大の効果を収めた江戸の学者橘千蔭もあつた。然し、かゝる普及本ではなく、近年に至るまでの最大の註釈書及研究書として知られ、今尚多くの学者が敬重してゐるのは、南国土佐の国学者|鹿持雅澄《カモチマサズミ》の大著『万葉集古義』百四十一冊である。一八九一年、帝室の庇護によつて立派な出版を見た以来、二三回の縮刷本が続出した。丁度この本が非常な努力を以て作られつゝあつた年代に東国に生れた万葉学者木村|正辞《マサコト》は過去における最大の万葉|書誌学者《ビブリオグラフアー》であり、最大の異本蒐集家校勘学者であつた。文字音韻に関する特殊の考証を試み、未完成ながらも旧時に於ては最も精密な考証的註釈書を遺してをる。書誌及び研究法に関する部分が今尚有益な参考資料たるのみならず、解釈にも非常な苦心の跡を留めて、後人を益する幾多の卓説が存する。然し『万葉集』校勘の基礎に関する事業は、此の老学者が歿せし一九一三年の前年に起つて、多大な困難と災厄とに打勝つて十三ケ年を経て、佐佐木信綱及び其二三の協力者によつて一九二四年に最初の出版を見るに至つた『校本万葉集』二十五册(再版本十冊)の編纂及び印刷を以て、画期的に一段落を告げた。この事業は、将来に於て期待されねばならぬ「定本万葉集」の編纂の前提であると共に更に大に増訂せらるべきものと見られて居る。この浩瀚なる大冊は、上記の一六四三年版の標準的版本を底本として、皇室の御蔵本の紀元一〇五〇年頃の古写零本をはじめ二十種の稀覯古鈔本古版本を以て精密に校合を加へ、且つ古本|輯影《フアクシミル》を添へて出版したものである。木村正辞の註釈書が其の第一冊を刊行された第二十世紀の劈頭より以来現在に至るまでの約四十年間、『万葉集』に関しては、古写本の新発見と複製旧註釈書の飜刻縮刷等のことから大小註釈書評釈書の著述・伝記・地誌・博物誌、乃至索引類の出版、あらゆる方面からの研究論文、独創的なもの、啓蒙的なもの、また考証的なもの、文化史風なも(436)の、千種万様にして汗牛充棟も啻ならざる盛況であつて、その詳細は、一九三〇年以降に於て爾後毎年公刊の「万葉集研究年報」に於て知ることが出来る。これらの重要な業績に対しては、今この『英訳万葉集』の原歌検討の担任者数名も、既に相当の関係を有ち来つたのである。
 
 『万葉集』は、ひとり和歌史料の源泉、文化史料の宝庫を、後世の学者に供するにとゞまらず、最近代歌人の創作に対しては、たえず構想詩藻の指針ともなつてゐる。『万葉』の歌は中古よりすでに模倣者を生じ、中古の末期をなす第十二世紀頃に在つては、その傾向が稍進んだ。然しそれらの追従者は単なる皮相の模倣者であつて、この種の歌作は後代いつも絶えなかつた。然るに第十三世紀の初に至つて、東国鎌倉に於て、青年歌人たりし不幸なる将軍実朝が、初めて其の万葉歌風をその作品の或るものに於て発揚したのは、特筆されねばならぬ。しかし近世此の集の研究が大に興隆したにも拘はらず、万葉研究家の歌作必ずしも万葉歌風ではなかつた。また万葉調の歌人は十八世紀中葉以後屡々現はれた。先づ吾々はすでに賀茂真淵に於てその早き優れた例を見出したが、彼れの門流中からは、江戸(東京)の田安宗武侯と楫取魚彦《カトリナヒコ》との如き卓抜な万葉調歌人が推される。十九世紀に入つてからは、北陸や関西にも同様な例が現はれ、例へば僧良寛、平賀元義、橘|曙覧《アケミ》の如き傑出した万葉風歌人が指を屈せられる。明治以後になつては、姑く之を古人に求むるならば、前世紀の末葉から現世紀の初頭に亙る頃、和歌及び俳句の革新家として不朽の功業を遺した正岡子規が第一に挙げられる。又その門人に伊藤|左千夫《サチヲ》と左千夫の門人たる島木赤彦とが、共に万葉調の歌を作つた歌人として有名である。これら師弟三家には、それぞれ万葉歌風の鑑賞と宣揚とに関する名著が存し、先輩諸家の協心勠力と相俟つて新進歌人の和歌革新の業に向つて多大の影響を与へたことは、和歌史上に銘記されねばならない。
 最後に、『万葉集』の一部分の翻訳及び紹介は、十九世紀の中葉以後に始る。この書のことは、すでに同世紀の(437)初期より欧州人の眼に触れた筈であり七四九年、北地より黄金の貢献されたについて昭代を讃美した長歌の反歌一首の如きは、一八三四年東洋学者 Klaproth に由つて仏訳されたこともあつた位で、其の中葉の頃には、『万葉集』の一版本が和蘭に舶載せられて『Siebold 舶載書目』には登録されてゐた。然しその翻訳が、よしや一小部分若干首づつであつたにしろ、続々行はれるやうになつたのは、一八七〇年代以降である。それは日欧交通が完全に行はれるやうになつてから数年の後のことに属する。第一の訳は、仏国の日本学者 Leon de Rosnyにより、一八七一年において僅か九首だけが日本の詩歌集《アンソロヂー》のうちに於て試みられた。次には翌一八七二年墺国の東洋学者 August Pfizmaierが集の巻三の半分と巻四の大部分とを二百余首訳出して、維納の学士院の紀要に公にしたのが、有名であるが、訳文としては二者共に適正であるとは云へない。かくて一八八〇年に至つて、英国の日本学者の先駆として著名であり、一時東京帝国大学の教授として、我国及び欧米の学界に貢献する所の多大であつた Basil Hall Chamberlainの The Classical Poetry of the lapanese の中には、数十首の英訳を収めてあるが、これ以後『万葉集』の歌の価値と良訳とは、段々西洋諸国に知られるやうになつた。一八九四年には、曽て長く同様に東京帝国大学の教授であつた前独国ハンブルヒ大学教授 Karl Adolph Florenzの万葉歌三十首の独訳が、Dichtergrusse aus dem fernen Osten にあらはれた。一八九九年には William George Astonが、一九〇四年にはフロレンツが、各々その『日本文学史』に、『万葉集』の紹介と歌若干首づつの英訳或は独訳とを載せた。又一九〇六年には日本古詩の紹介者として著名なる Frederick Victor DickinSの Primitive and Medieval Japanese TextS の第一冊中に、一九一〇年 Michel Revon は Anthologie de la Litterrature des Origines au 20e siecle の中に、それぞれ若干首づつの英訳又は仏訳を載せた。後者には著名なる長歌五首を収めたのが注目される。一九一九年及び一九二一年における Arthur Waley の英訳は、合せて短歌九十首にも上り、量において多数であるのみならず、訳文も段々洗煉されて、内外に好評である。尋いで一九二七年(438)にハンブルヒ大学で出たフロレンツ教授の門下の一人 Alfred Lorenzen の歌聖人麿の歌の研究及び独訳の如く、西人未曽有の著述も挙げておくべきである。又最近日本に在つて『古今集』の新訳を試み俗謡の翻訳に力を尽した仏国のジョルジュ・ボノー(Georges Bonneau)博士が一九三三年それらの歌謡との参照上標本的に万葉歌十四首を訳した際に示した秀でた手際も付記しておかねばならぬ。元来仏語の性質がよく日本の歌謡の詞句韻律に適応してをることも、好果を挙げた一因であらう。
 吾々は、序でに二三日本人の試みた欧訳の存在を一瞥することを忘れてはなるまい。例へば前世紀の末のものではあるが、而もそれが単なる翻訳と紹介とのみではなく、研究論文として一個まとまつた論著として、一八九八年に Leipzig 大学の学位論文であつた所の岡崎遠光の小冊子及びその翌年に公刊された所の同じ学徒の『日本国民文学史』中の「万葉集の部」、これらの二つの独訳があつたことを葬り去つてはならない。この四十年前の率先者とはちがつて、現に吾々の周囲には、尚ほ二人の知名の英語学者が公にした万葉歌の英訳が存する。其一は、一九三五年に刊行の岡田哲蔵の『万葉歌三百首』であり、其二は一九三六年に刊行の宮森麻太郎の著 Masterpiece of Japanese Poetry Ancient and Modern の中の万葉歌若干首である。
 以上内外人の欧訳は、いづれも『万葉集』の歌の総数より云へば、一割にも足らず、最も多くとも三百程にしか上らない数量であつて、選択の標準も訳文の都合や訳者の便宜乃至は西人の趣好知識等に偏するを免れなかつた。況んや所依の底本の選定、語句の訓訳と解釈、諸説の対照検討、訳語の適否、すべてそれらの諸点については、当然完備の域には遠からざるを得なかつた。然るに、蘭国の日本語学者として知られるピアソン(Dr.Jan Lodewijk Pierson Jr・)は空前の用意と努力とを以て、『万葉集』の全訳を企て、西紀一九二九年初めて本集第一巻の出版を終り、一九三六年を以てその第四巻の公刊に及んだ。殊に国語学上よりの見方に重きを置き、本文の文字及び字音の検討、読方及び発音の吟味、語義及び語法の考究、異訓異説の対照、諸般の用意頗る周到であつて、一般(439)的な概括論より特殊的な細論に至るまで、西人としては出来る限りの精緻を期したやうである。吾々は訳者が向後益々万難を排して邁進し、以て二十巻四千五百余首の訳出を完了せんことを祈る者である。吾々は、この半世紀あまりの歳月の間に、欧州諸国に於ける先覚の日本学者が、相嗣いで此の最大古典の一つを、日本のために、かつは世界のために、翻訳し紹介したる労を多とし、吾々は吾々自身の経験によつてもそれら先進の内外学者の尽瘁に対して深厚の敬意を表せねばならない。(『英訳万葉集』原稿、昭和拾三年四月初稿、同七月修訂)
 
(440)    『万葉図録』の自讃
 
 紀元二千六百年を慶祝する意を以て、『万葉図録』を出版してみたいと云ふ考案を、大阪の靖文社の南方靖一郎氏と、大和宇陀の雅友木水彌三郎氏と、それら両君から披瀝されて、それは大に面白いがと、私が頗る乗気になつたのは、昨年の早春のころのことであつた。然しそれは元より万葉学者でもない一老骨の能くする仕事ではないわけであるから、先づ第一に東京の佐佐木信綱博士にお願する外はない、そして幸に博士が主に其の編纂に任じて下さるやうになつたならば、私は及ばずながら、博士に協力して、自分の出来るかぎりの心根を傾注して、両君の念願を達成せしめるやうに最善の方法を尽したい。かやうに私は応へたのであつた。そこで両君は、詩趣豊かな想案を作つて、私に内示し、一応私の批評をも求めた後、相共に上京して博士の高教を乞ふことになつた。博士は、之より先き既に夙く独自に『万葉図録』の腹案を立てて居られたらしかつたが、両君の情熱と芸術良心とを諒せられてか、其の懇請に応じて、両君の試案を検討した後、『図録』の編纂を指導することを直に快諾されたのであつた。私も両君のために大に悦び、やがて計画の大綱と細目との立案も成つた。分担者と助力者との決定も済んだ。爾来東西諸地に於て、関係者同志が度々の折衝切瑳を重ねつゝ、夏を送り冬を迎へ、いつしか春もめぐり来るやうになつた。それらの間に、浪華の南方氏は、東京に於ては久松博士より同情と奨励を与へられ、京都に於ては沢瀉博士より配慮と注意を被むり、感激啻ならぬものがあつた。また大和の木水氏は、安騎野に近き松山の町に住ひ、公余の全力を挙げて、遠く竹柏園主の示教を奉じつゝ、文献の採択やら、地理の考察やら、品物の選定やら、『図録』の(441)資材に従事して、いもねられぬ有様に見えることが多かつた。木水氏に対しては、歌聖人麿の愛護もあれかしと私かに祈つたのであつたが、南方氏に対しては、その清文社書房が在る夕陽ケ丘の地が、偶々円珠庵の立てる東高津とも程遠からぬ関係から考へて、契沖阿闇梨も照覧を賜はるべしと冀ひ、私はひたすら兄弟両君を激励して措かなかつた。一方私としては、毎月一回、どうかすると二度、公務東上の折々ごとに、佐佐木氏に進行の状況を報告し且つ注意される事項を伝承しなどしつゝ、絶えず自他の鞭達に務めたのであつたが、種々の事情よりして、遂に当初の計画を変更することになつた。初めは刊行の期限を当年の紀元節としてあつたのを、此の十一月の祝典の頃までに延期せねばならなくなり、且つ諸篇目のうち、先づ「文献篇」と「地理篇」とを刊行し、爾余の若干篇は、追つてこれを続刊することに改め、全力を右二篇の編輯に委ねるの止むなきに至つた。誠に遺憾ではあつたが、材料の選択と写真の撮影とに手間取つたやうな都合を始めとし、用紙の質量の統制やら、写真の検閲制度やら、それやこれや予期以上また予期以外の新事態に直面した結果にほかならなかつた。然しながら、頁数より云へは、最初予定の分量を超過したのみでなく、採録した資料も立案当時の計画に比して大に増加してゐるといふ有様に見て、私たちは自ら慰めてもゐるのである。
 風景の撮影に関しては、殆ど全部と申してもよい程に芸術写真に練達せる東京の鳥山悌成翁を煩はした。翁が克く寒暑を冒して、文字のまゝなる東奔西走の辛労を敢てせられたことにつきて感激措く能はざるものがある。四方の河川湖海や山岳丘陵、或は荊棘を分け、或は泥泥濘に塗みれ、且つ季節や雲霧の表現にも意を配られ、及ぶべき丈、今様を回避して古態を発揮せんと力められたるが如き苦心など一々列挙に遑なき程である。加ふるに、西摂の道友たる辰馬酔郎氏の卓技に成れる写真若干を以て之を補ひ得たるは、私たちの大に多とせねばならぬ所である。その外、鳥山翁を介して、諸方から好箇の写真を恵与せられ、それによりて『図録』の光彩を富ますことを得たのは、私どもの感銘に堪へぬ所である。目次下に尊名を録して記念とし、こゝには一々記載することを省略したことを容(442)るされたい。
 「文献篇」の写真および解説に関しては、一に佐佐木博士指導の下にて文学士鳥山榛名君が東京に在つて努力されたことを深謝する。而して「地理篇」の写真と絵画については、木水氏考覈厳選を尽くし、且つそれぞれ簡単な説明を与へたのに対して、更に私が取捨校定する所あつた。絵画からの補充は、同氏の博渉によつて趣致を増したものが少くないやうに感ずる。かく申しても強ち自画自讃ではないと思ふ。京都に在つては材料の利用等に関して、京都帝国大学文学部学生の森田美明君を煩はしたことを忘れてはならない。其他、東西各地の公私幾多の諸名宝諸名家より本書の資料の撮影及び利用等につき、格段の厚志に浴したことを深謝する。実は一々尊名を掲げて謝意を表すべき筈であるが、或は煩雑に陥り却て失儀を生ぜんことを憂へ恐縮ながら、省略に付したことを諒とせられたい。最後に付記すべきは、各地憲兵隊の検閲官が『万葉図録』の古典精神を理解されて速に承認を寛宥せられたことである。一言謝意を表する。
 扉と背との題簽は、狩野君山博士の揮毫によつて、『図録』に一段の光輝を与へ得たことを感佩する。東京帝室博物館の秋山光夫学士よりの装幀意匠に関する配慮を完全に実現させることの出来なかつたのは、編者と発行者との均しく遺憾とする所である。然り而して万葉染色考に造詣深き上村六郎氏が病牀親しく私どもの為に南方氏に対して意匠上指導せられた限りなき芳情と、和紙研究家として著名なる寿岳文章氏が急遽の嘱を容れ忙中特に装幀用紙の採選につきて便宜を供せられた寛厚とに対しては私どもは恐悚の念を十分に現はしがたきを覚える。本書刊行に当つて、大阪の柳原書店、製版印刷と用紙配分とにつきては、京都の尚美社主人鈴木直樹氏が、発行者に与へられた多大の好意は、亦私たちに於て十分認識せねばならぬ。
 終に臨みて書添へておきたいのは、発行者が、斯の佳節に方り斯道の為に、幾多の犠牲を忍んで、敢然斯る雅麗なる大冊の出版に邁進した事であるが、私一個にとりては、此の春、曽て微力を添へた『英訳万葉集』の刊行を見(443)て感喜した上、同じ年の秋、付驥して『万葉図録』の出版を慶するの機に遭つて、たゞ言語に尽くされぬ愉悦の情に充たされるばかりである。回顧すれば、昨年四月八日、英訳本竟宴の翌日、春雨のなほそぼふる朝た、竹柏園の万葉蔵の前に於て、私どもが木水氏の試案を中心に検討を重ねてから、菊花かをる今秋今日に至るまでの間に、冬相閲みした感奮と辛苦と憂悶と焦慮と歓喜とは、私たちの終生忘るべからざるものとなるに違ひない。(昭和十五年十一月三日、紀元二千六百年奉祝の佳節を近く迎へるに当りて)
    (昭和十五年十一月『万葉図録』跋語)
          (『あけぼの』に収録)
 
(444)    海外の万葉研究
        ――附ピアソンの万葉英訳其の他――
 
 海外において、或は外人によつて、『万葉集』がいかに知られたか、或は飜訳されたか、といふやうな、日本文学の外延に関する問題に関しては、最初佐佐木信綱氏が大正初年ころ「外人の万葉集飜訳」と題した一文に於て報告したことがあり、それが大正四年刊行の『和歌史の研究』に収められた。その報告の資料のうちには、私のささやかな取調べも編入されてゐるが、佐佐木氏の文中最も重要なものは、墺国の東洋学者アウゲスト・プフィッツマイエルの『万葉集』の独文抄訳のことであつた。その後、大正十年私は在英中『万葉集』の欧訳について新しい二つの事柄の報道を雑誌「心の花」十一月号に寄せたが、それは大正十三年刊行の拙著『典籍叢談』に収めてある。その文には、古くは仏国の日本学者レオン・ド・ローニーの万葉歌仏訳のこと及び新しくは英国の東洋学者アーサー・ウェーレtの英訳のことを録しておいた。帝室博物館の秋山光夫氏は、その外遊中ロンドン及び瑞都ストックホルムの図書館で目睹した『万葉集』の刊本各一種に関して、昭和七年四月号の「心の花」に於て、「海外に於ける万葉集」と題した報告を示した。ロンドンのは、大英博物館に寄贈されてあつた寛永刊本二十巻の合綴二冊本であつて、日本の蔵書家の印記や英国王室の印章もある所の善本である。明治十七年サトウの購入したもので書入のある本である。他のストックホルムの瑞典王室文庫本は、明治十二年来朝した有名な探検家ノルデンスキョルドの将来本であつて、後年前記の仏人ローニーが編輯した『ノ氏将来目録』に著録されてある本である。(445)『仙覚抄』たる『万葉集註釈』二十巻である。以上が秋山氏の報告である。
 これら三人の報告以外にもなほ無いことはないのであらうが、未だ見聞に入らない。又海外といつても、手近の支那に於ては如何であらうか。露国や米国に於ては如何であらうか、材料が未だ整はないから、これら日本と縁の近い三国における訳歌については、紹介を他日に期しようと思ふ。いづれにせよ、本稿は主として書誌的の報道にとどまり、訳歌の適否などの批判には殆ど触れないつもりである。又海外における『万葉』の研究に対しては、今日は固より多くを期待し得ないわけであるから、単純な書誌学的紹介に終始しても差支ない筈である。
 
 姑く慶長前後の吾利支丹時代に遡つて回顧すると、慶長八年の長崎版『日葡辞典』にしても、翌年の同じく『日本文典』にしても、『万葉集』の名も歌も未だ見出されず、『古今集』の名は両書に散見して居るが、これは時代上当に然るべき所である。此ロドリゲースの『大文典』には、ウタを説くことがかなり詳かであつて、むろん連歌や狂歌にも及び、小唄にも亙つてをるけれど、例歌の大部分は『古今集』から取り、長歌の一つ挙げたのも『古今集』巻十九の伊勢の作によつてゐるばかりである。『拾遺集』から一首を録してあるが、『万葉』からは一つも見かけない。ロドリゲースの『文典』には、仮名を説く所また精しいが、未だ万葉仮名といふ名目を掲げてないのは、この名称の現出は徳川初期以降であるがためであらう。万葉書き・万葉仮名などの名目は、その最古の出典は未だ究めないが、元禄時代に至つて漸く普及したのではなからうかと思ふ。
 『書言字考』には万葉体といふ名が見え、『和漢三才図会』に至つて万葉仮名といふ用語が出てゐる。これ以前の通俗字書たとへば節用集類の慶長時代の版本には未だそれを見及ばないのである。従つてその名目が吉利支丹の語学書に載せられてないのも了解されよう。
 下つて蘭学時代になつても、元禄のケンペル、安永のトゥンベルグ、いづれも自然科学者として多少日本の人文(446)にも歴史にも渉つたに過ぎないのだから、一般に日本の文学殊に歌集のたぐひに眼を注ぐに至らなかつたのも当然である。蘭人にしては、安永天明の交に再度渡来して長崎商館に在任したイサーク・ティッチング即ち和俗イサアカ・チッシンギなどと云つた甲比丹《カピタン》の著述の中に初めて『万葉集』の書名が出てくるのである。此の人の事蹟については、私の『南蠻広記』所収の「天明時代の海外知識」に詳にしておいたから茲には略すが、彼が文化十二年巴里に客死した後数年、文政年間に初め仏文にて刊行し次いで英訳され更に蘭訳された所の『日本風俗志』の「婚礼篇」を見ると、上流の武家で嫁入道具に持参する書物の目録のうちに、『伊勢』『源氏』『狭衣』『栄華』などの物語や『徒然草』や『湖月抄』や『女四書』やの外、歌集には『百人一首』や『十三代集』や『二十一代集』やなどと共に『万葉集』の名も載つてゐるが、そこに註した説明は長崎の通詞の誤解からであらうが間違つてゐる。とにかく西人の文献上にあらはれてゐるのでは、この書が最も古いやうである。同人の仏訳『日本王代一覧』には、順徳院の建保元年十一月の条に、定家が実朝に『万葉集』を贈つたといふ記事の訳文がある。これには訳者自身の註釈は加へてない。以上二件とも、西洋の文献上の所見での初出といふだけであつて、本集の紹介の何のといふ程度には達してゐない。
 『万葉集』の欧州へ舶載されたのは、多分独人シーボルトに由つてのことであらうと思はれる。シーボルトの渡来は、文政六年であつて帰西は天保元年である。同国人にして亦蘭国で業績を遺したホフマンがライデンに於てシーボルト舶載の『日本書目』を編輯印行したが、国書五九四部中、その第三八七号に於て『万葉集』三十冊を著録してをる。『書目』の刊行は、弘化二年のことであるが、書物の舶載は前記の如く天保元年であるから、『万葉集』の欧渡は此の一八三〇年にあることが知られるのである。明治二十九年ライデン大学陳列館長セリュリエルが編刊した『同大学図書館所蔵日本書目』を見ると、その第六九八号に『万葉集』二十巻三十冊が著録されてゐる。これはホフマンの『書目』に見はれてゐる所のそれであらう。一六八八年の京都版だとあ(447)る。元禄元年の版本である。昨年三たび同大学を音づれたにも拘はらず此の本を目睹することを失念したのは遺憾である。シーボルトもホフマンも共に『万葉集』について格段特別の紹介を試みなかつたが、シーボルトの方は、渡来二年後に於て拉丁文を以て「日本語学提要」を作つてそれをバタビヤの学芸雑誌に発表し、その中に万葉仮名のことを略説したに因んで『万葉集』について一言した。万葉仮名のこと及び『万葉集』の書名くらゐは、この時代以後の和蘭系統の日本研究家乃至日本紹介者は、その著述に載せるのを常とした。いづれも文政末年より幕末明初にわたる四十年ほどの間に日本志乃至日本語学書等を通覧すると直に見られる。今一々その出典を列挙するの煩を省く。日本に渡来しなかつたクラプロートでもホフマンでもローニーでも皆然り。
 独国の有名な東洋学者クラプロートが巴里に在つて一八二九年正月の仏文の「亜細亜学会雑誌」に載せた論文に、「日本漢字使用考」といふものがあるが、それにも万葉仮名と『万葉集』とのことが出てゐる。これは別段の特異な点もないが、それに反して、ティッチングの仏訳本『日本王代一覧』に彼が校訂付註したのを天保五年出版した本を見ると、聖武天皇の天平二十一年五月陸奥国より黄金を貢献したといふ本文の記事について、クラプロートは、『万葉集』巻十八にある越中守大伴家持の賀ぎ奉つた長歌の反歌三首のうち最後の第四〇九七号の一首をローマ字で綴りそれに仏訳を施こした。「橘諸兄の編した古歌の集より」となして、家持の長歌及他の二首の反歌はこれを顧みずに「すめろぎの御代栄えむと吾妻なるみちのく山に黄金花さく」の主要な一首だけを採つて仏訳したのである。句切りや読方は頗るたどたどしい所もあるが、大意をつかんで訳したのは、面白い。これは万葉学史上に特筆すべきである。
 次に墺国のプフィッツマイエルは、雑駁ながら日本の言語文学に関して幾多の小著述があるが、後には墺都ヴィーン学士院会員に推されて、一八八七年八十歳を以て終るまで、絶えず学士院の会報及び紀要の上に発表をしてをる。独国出身で和蘭系統に属するホフマンと同時代の学者であるが日本学に於てはホフマンより少し後輩(448)である。更に其の後輩たる仏のローニーと伴せて、幕末明治初期に当る時代の欧州大陸に於ける日本研究の先進三家と云はれようが、日本に渡来せずしてあの位の仕事をしたのを多とすべきであらう。英国のサトー、アストン、チャンバレンに比すると孰れもよほど見劣りがするが、殊に此のプフィッツマイエルは墺都の「学士院紀要」第二十一巻に於て、明治五年『万葉集』の長短歌併せて二百十六首を独訳したのを特筆すべきである。巻四の「相聞歌」から凡そ百四五十首を取り巻三の「挽歌」から凡そ七十首を選んである。巻一巻二は訳出に困難であると自白してをる。原文に片仮名を振つて、其の下にローマ綴りで読み方を付け、其の次に訳を施こしてあるが、誤訳が多いばかりでなく、無智の誤解やごまかしが少くない。偶々交る名歌もさんざんであるが、歌の選定などはむろん出来なかつた様子である。
 その後二年経つて明治七年に発表した日本語の古代様《アルハイスメン》に関する小論文の中に『万葉集』を読むにあたつて辞書なきを慨いてゐたところが、ホフマンから『尚古仮字格』を借りて之に由つて学んだといふことや、それには『書言字考』になき語があるといふことを述べ、更に『和歌呉竹集』をホフマンから借用して日本の古言を勉強したなどと云ふことが録してあるから、日本の蘭学者の苦心にも劣らない苦労を甞めたことが察せられるのである。プフィッツマイエルの使つた『万葉集』は三十一巻より成るとあるが、その本は墺国から東亜方面へ派遣された探検団の将来して墺国王室文庫に備付けられた多数の日本書の中のものであつたと云ふ。或は少し以前だが一八五七年乃至一八五九年即ち安政年間に派遣された墺艦ナヴァール号の舶載であるかも知れないが、日墺修交の開始は明治二年乃至四年の事であるから、むしろ明治初年の舶載とする方がよいかも知れない。尚後考を待つとしよう。いづれにしても、訳者は『万葉集』の解釈に困じて『古言梯』を使つたと序言に自白してあるが、若し彼がそれ以後専心この方面に精進していつたならば、もう少し方法が講ぜられもし、より良き成功を収められさうなものだつたと惜まれる。然し彼は万葉翻訳の年には既に六十五歳であつたことを見逃がしては気の毒である。
(449) それに比べると、彼よりも一年早く『万葉』の歌を仏訳したレオン・ド・ローニーの方は、その書を出版した明治四年には年齢尚ほ三十五歳の壮年であつたのである。この人は明治元年から同四十年まで約四十年も巴里の東洋語学校の教授として日本語を教へ、日本人にも知己が多かつた様である。その『日本文典』は今も好書家の珍重する所となつてゐるが、『万葉』の歌を載録してある訳詩集の方が稀覯本として愛書趣味に適すること数倍である。彼は自ら羅尼などと漢字をあて自著の書名その他にもよく漢字をつかふ癖がある。即ちこのアントロジーにも『詩歌撰集』と題してゐる。序説に文学史略を述べた後、本文の第一に『万葉集』を置いて、集中から九首を選んで平仮名に書きあらはしローマ字で読方を出して仏訳と註解とを付けた。家持の新年賀詞を首めとして、人麿が巻三の巻頭に詠じてゐる歌や、巻二の一五九号、持統天皇が天武天皇の崩御のをりの御作歌を反歌とも訳出して而も『懐風藻』を引用してゐる。合計八種長短あはせて九首出してある。主として安政三年版の『万葉集略解』に由つてゐると巻首に述べてゐるが、書目には『略解』の外江戸版の『古万葉集』二十巻と『万葉用字格』一巻と『万葉楢の落葉』五巻とを録してある。シーボルト蒐集本の三十巻のほか、『略解』はローニー自身の蒐集によるとことわつてゐる。『万葉』に続いて『百人一首』が紹介された後、端歌都々逸などの俗歌等が訳述され、更に詩の平仄だの歌の六義だのが説かれ、訳者の博識振りが発揮されてゐる。書目と索引との後に、付録として七十二首の石版摺りで素盞鳴尊及び王仁の歌と『万葉集』の歌九首と、『百人一首』との原文が印刷されてゐる。『万葉』の歌は、前記紹介の分と出入あつて一致してはゐない。我国においての所蔵者を知らないが、往年自分の英京で抄したノートは簡略にすぎて十分要を尽くし得ない憾みがある。然しプフィッツマイエルの訳よりも勝れてをり且つ書物として趣味が深い。ただ歌数の少いのを惜む。とにかく明治四年の古い頃に、万葉歌を第一に取扱つた此の日本詞華集に対して私たちは敬重の念をもたねばならぬと思ふ。
 その翌々年の明治六年に、今村和郎といふ人が、巴里に在つて開かれた東洋学者万国大会の報告、それ(450)は翌明治七年出版されたが、その報告に於て『万葉集』の歌を五首訳出して原文の模製《フアクシミール》を五枚添へてローマ字読みを付けてゐる。これはウェンクステルンの『大日本書史』第一巻に掲げてあるのを知つてゐるだけで、現本は未見であるのみならず、一八七〇年代に於て巴里で日本研究についての小発表をした今村氏の経歴についても、未だ見聞する所がないから詳述することが出来ない。
 十年後になるが、やはり日本人で巴里に在つて『万葉集』の歌若干首を仏訳した松波正信といふ人がある。これも私はその閲歴を未調であり、それの載つてゐる「巴里極東研究紀要」をも見ないから、詳かに紹介することは出来ない。この「紀要」はローニーの編輯にかかり、万葉歌は明治十八年乃至二十一年に亙る諸巻諸号の分に載つてゐる筈である。やはり『大日本書史』第一巻に示されてゐる。然し時代から云ふと少し後れてをり、チャンバレンの『日本古歌抄』が現はれた一八八〇年から数年後のことになる。ただローニーとの関係がいささか注目すべきである。
 日本人の万葉欧訳には、チャンバレソより十八年おくれ、独逸のフローレソツよりも四年おくれて、岡崎遠光が独逸ライブチッヒ大学での学位論文としての万葉訳抄竝に研究がある。それは明治三十一年であつたが、岡崎氏は東京帝国大学の文科に選科生として国文学を修めて明治二十三年より二十七年に及んだ人で現存の先進者にも知つてゐる人が多いやうである。日本文典の著述もあつて明治三十年前後の斯界には知られてゐたが、後には別の方面に進み、近年他界したと聞き及んだが、詳細を知らない。明治二十八九年ライプチッヒ大学に修学して学位を受け当時の我国の新聞紙にも伝へられた。論文は序文が一頁余のほか、本文六十七頁より成り、純然たる万葉研究の単行書である。目次を見ると左の如くである。
   一、序  説
   二、万葉集の編者
(451)   三、本書の沿革
   四、万葉集の価値
   五、万葉集に見はれた文献学的事実
   六、万葉集に見はれた歴史的事実
   七、万葉地理
   八、万葉集中に示された風俗習慣
     (二 装髪――二、衣粧――三、家具及び装飾――四、社会関係――五、家族組織)
   九、作歌概観
   十、東人と東歌
   十一、時代主潮
   十二、結  語
 第五章の「万葉言語考」の如きは、創見異説に富み、第九章の「万葉歌概観」の如きは、先輩の諸説を簡約して紹介し、故人外山正一氏の所説をも挙げて甚だ面白い。卓見も多く訳出も傑れてゐる。フローレンツ氏の訳文をも引用した所もあるが、自身の訳詩も韻律的にも巧みに出来てゐる。日本人のものではあるが、欧文で著はされた万葉研究では空前である。翻訳や紹介の簡単なものではなかつたのを称すべきである。ここには詳細に紹介し批評する暇のないのが遺憾である。岡崎氏の独訳と研究は、プフィツツマイエル以後二十五年に出たのであり而も邦人のことであるから、立派な業績であるのも当然とも云はれようし、チャンバレンやフローレンツの訳の後であるからさまでの功名を録せられない様であるけれども、氏はその翌年の明治三十二年に『日本国民文学史』を独文にて著はし、やはりライプチッヒから出版した。同大学教授にして支那学者であつたアウグスト・コンラーディ(452)に捧げてある。菊判僅に百五十頁あまりの小文学史であるが、フローレンツ氏の『日本文学史』より数年先だち、アストンのそれと同年に現はれたのである。第二章の中に於て、第二一頁以後の十一頁を万葉研究と紹介とに費してゐる。むろん前記の単行小冊子と併せ読むべきものであるが、英文の反省雑誌たる「オリエント」の誌上に於て、明治三十二三年『万葉集』英訳が示されてをる。これは、私の未調の所であるから、以上の独訳との関係を明示することは出来ない。これらの三著によつて、岡崎氏の万葉学上の功業は永く残る筈である。
 日本人の欧文による万葉紹介の序でに一言しておきたいのは、以上三人のほか、故人藤代禎輔氏が、壮時フローレンツ氏の業を助けたことがあつたのを、当時を知る人は想起するであらう。時期は不明であるが、藤代氏が『万葉集』全部の独訳を企てたこと及び第五巻の分が生前既に完成して其の架蔵に存したといふ噂を聞いた。私はそれを「芸文」第十八年昭和二年の六七月号の故人の追憶記中に録しておいた。なほ後聞を待つてゐるが、その後精確な報道に接しない。
 『万葉集』の英訳が最も後れたのは聊か不思議の感がある。仏訳が最初で独訳これに次ぎ、更に八年おくれた明治十三年に現はれたのが、チャンバレン氏の名著『日本人の古歌』と題し、万葉歌の訳を主とした著作である。チャンバレン氏は、明治六年渡来後数年の間に日本の言語文章を研究し、初めて明治十年枕詞の研究を著はし、次年『狂言記』の言葉の研究や『大和物語』の訳を著はしたが、明治十三年一時帰国した際、在留六七ケ年の業績を一書に公にしたのが、上記の『日本人の古歌』一冊であり、その後の重版改版もあり有名であつた本である。更に有名な『古事記』の訳註のあらはれた明治十六年よりも三年古いのである。サトウが祝詞を英訳した年の翌年にあたり、アストンが『日本紀』を訳したよりも十六年以前である。『万葉集』のすぐれたことを世界に知らしめたのは、それよりも古い仏訳や独訳によつたのではなくして、むしろチャンバレン氏の本書に由ると考へるのが至当であらう。本書は『万葉』の歌と『古今』の歌と謡曲とを英訳し、それに序説と註解(453)とを施こしたものであるが、『万葉』の歌だけで全体の三分の一くらゐの分量を占めてゐる程、それに重きをおいてある。歌数はざつと六十六首あるが、それをバラッド・恋歌《ラブソング》・挽歌《エレヂイ》・雑歌などと分類して、著名な長短歌を律語で訳出してある。古伝説を詠じた鄙歌《バラツド》などの材料の吟味なども当時にあつては一通りを尽してある位整つてゐる。浦島を詠じたもの、菟原処女を詠じたもの等がそれである。後者については、訳者がこれより先き二三年前に訳した『大和物語』の一節を引いてもゐる。
 何しろそれ以前の西洋人とちがつて、日本に渡来して国語国文を研鑽して後年ああいふ功績をのこし業績をあげた学者だけあつて傑出した翻訳をすることも出来たわけである。真淵の『万葉考』に拠つて本集の成立史を一言してもゐるが註釈書には触れてゐない。チャソバレソ氏が進んで全訳を試みそしてそれを仕遂げておいてくれたならば『万葉集』の世界的価値が更に幾段か進み得たであらうと思ふ。
 英訳としては、明治二十九年チャソバレン氏以後十六年経つて、それより二年前に独逸の日本学者フローレンツ氏が来朝後に著はした『極東歌みやげ』をアーサー・ロイド氏が英訳したものが現はれた。これは重訳ではあるが、独文の原書と同じ体裁をした縮緬紙模様摺の美本で一頃洋人好みの日本土産の本として珍重された種類の本である。これにも『万葉』が最も多く訳出されて長短併せて其数三十一首に上つてゐる。原書は明治二十七年の刊行で、訳者が東京帝国大学に来聘されてから間もない頃の業である。藤代氏の助力が多きに居ると当時仄聞したが、それらのことを同氏の生前に確かめておけばよかつたと今更思はないでもない。
 英訳としては、ロイドの重訳から更に三年経て、アストソの名著たる『日本文学史』のうちに見える万葉歌が挙げられねばならぬ。明治三十二年の出版で、後年芝野六助氏の和訳本も出来たくらゐ内外の人々に喧伝されてゐる文学史である。第二編の第二章は「日本詩汎論」と「万葉集」であるが、その大部分十数頁が『万葉集』のことである。長歌の名篇が八篇、短歌が約四十首ある。『略解』と『古義』とが典拠となつてゐる。訳歌の巧(454)妙さは定評がある。アストソの次には、上記の岡崎遠光氏の独訳を英訳したものがあった。これは英文反省雑誌「オリエント」の所載を未だ見ないから紹介が出来かねる。それよりも挙げておきたいのは、『忠臣蔵』や『竹取物語』の訳者として名高いディッケンスが明治三十九年に出版した『上代中古日本詞華集』のうちにみえる万葉歌若干首と、同じ人が翌々年「日本亜細亜協会雑誌」に著はした「上代日本詩の枕詞」に見えた万葉研究の一面とである。更に下って「日本雑誌《ジヤパン・マガジン》」第四巻にイングラム・ブライヤン氏が訳出した万葉歌若干等々があるが、索出の暇も乏しく掲載の煩も厭はしくここでは其の題目を記るしておくにとどめる。このブライヤン氏が後年英国の「家庭大学文庫」の中に編入して著はした『日本文学』と題した小本の中に『万葉』のことも見えてゐるが、かういふ程度のものは他にも沢山あらうと思はれる。
 英訳として近年のもので傑出してゐるのはアーサー・ウェーレー氏が、一九一九年ロンドンの「王立亜細亜協会雑誌」に著はした万葉短歌五十四首であらう。『源氏物語』の英訳者として名高くなった其人の業である。「日本の詩」と題した一篇の中であるが、同氏はその翌々年の大正十年に同じ雑誌上にやはり万葉短歌三十六首を訳出した。氏は、『国歌大観』によって歌の番号を標出して参照の便に供した。それに次いで、英訳としてのみならず、全訳の計画を立て実現の端緒を見せた所の蘭人ピアソン氏の事業を特筆しなければならない。ウェーレー氏も系統上元来英人ではなく欧大陸の匈牙利あたりの血脈を引いてゐると聞いたが、ピアソソ氏は和蘭人で一度は来朝したこともある大の日本びいきである。今は蘭国ユトレヒト大学の教授職にあつて日本学を講じてゐる。昨年ハーグで一度会つたことがあるが、『万葉全訳』の第三巻以後は不景気で当分出しかねるとの話であつた。昭和四年『万葉集』第一巻の英訳本を著はし、一昨昭和六年その第二巻を刊行した。前途遼遠の嘆があるが、訳者の労に対しては吾々日本人は感激の念を現はさねはなるまい。訳本第一巻には首に約七十頁にわたる序説を掲げて『万葉集』概観を尽くし、木集の経緯を示し、万葉仮名等の文字標記法および日本語の音韻表を付載(455)した。歌の解釈は主として『古義』に拠つてをり、巻末には内外直接間接の参考文献を掲げてをる。『万葉集』に関する欧州文献書目は殊に貧弱の憾みがある。
 英訳は大体そのくらゐにして、前に記述の序でに挙げたフローレンツ氏の独訳について筆をつづけよう。フローレンツの『極東歌みやげ』の出た明治二十七年から九年ほど経てから、『東方文学叢書』第十巻として、その『日本文学史』が刊行された。上冊が明治三十七年、下冊がその翌年である。上冊のうち「上古の部」の第二章に於て、『万葉』のことが詳説されてゐる。分量でいふと五十頁ほど。アストンの『日本文学史』よりも遥に精しく、岡崎氏の研究に次ぐものである。概観とはいひながら、かなり周到に説かれてゐる。
   万葉作歌の年代
   書名、編者、編纂の年代
   歌の種類と各巻の順序
   書方(万葉書き)、各本の伝来
   特点、作歌隆盛の原因
   万葉歌人とその作歌
   人麿の歌、赤人の歌、憶良の歌、家持の歌、挽歌、自然、宮廷、仏教、恋愛、諧謔
 目次によつて毎節の標題の要を摘むと右の如くであるが、訳歌の数は長短あはせて百ほどもあらうか。やはり原文は示さず訳文のみを挙げてある。但し訳者が前者の『極東歌みやげ』中の訳歌の数よりも数倍多い。訳の適否優劣如何といふ点を問題にして、前記数人の訳歌ぶりを検討することは、今直に出来かねる。茲には最初ことわつておいた通り主として書志的紹介にとどめるつもりである。独訳のものの最後に挙げたいのは、フローレンツ氏の教を受けた少壮学徒の一人ではないかと思ふが、同博士が其地大学の教授たる北独逸の商港ハソブルグから、ロレン(456)ツェンといふ人が、『万葉集』中より人麻呂の歌を何首か抄出してローマ字で綴つて訳を施こした著述が昭和二年刊行されてゐることである。つい未だ取寄せて見てないのは遺憾である。『万葉』一歌人の専抄としては、欧訳の分では、或はこれが最初でなからうかと思ふ。
 万葉歌の欧訳中、最も古かつたレコードを作つてゐるのは、仏訳であつたこと上記の如くであるが、仏人が後年の試みとしては、明治末年に現はれたミシェル・ルヴォン氏の訳抄が、最も注目されるのである。ルヴォン氏は、丁度フローレンツ氏が東京の文科大学に独文独語の教授を勤めてゐた同じ年代に、法科大学に仏法を講じ、帰国後巴里に在つてソルポンヌ大学の教授に任ぜられて、日本の文物について講述すること多年であるが、明治四十三年にパラス叢書とでもいふやうな小さな叢書の一巻として、厚みはあるが小形本でいはゆる十六折本で、『日本文学古今詞華集』とも申すべき題名の書に、十数頁にわたつて『万葉集』を取扱つてゐる。最初の一二頁には、細字で総説を付け、以下の十余頁に、人麻呂・赤人・憶艮・旅人・家持の五歌人の代表的長歌各一篇を訳出して註解を付してある。解釈は『古義』によつたやうである。
 
 以上が私の一見し又私が単に題目を知るにとどまる所の欧人の『万葉集』の研究飜訳乃至紹介であり、且つ日本人が欧文を以て翻訳し或は欧人を補助した業績である。この外にも調査を進めたら漸次知れてくるものもあらうが、主要なものは逸してないつもりであるが、遺漏もないことはあるまいと思ふ。零細なものは故意に省いたものもあり又調査を控へた場合もある。つまり網羅あますところなからしめんが為の書志ではないからである。伊大利語への訳もありさうで未だ見当らぬ。露国の文献は、調査が及ばなかつたのを遺憾とする。最近レニングラード大学のコンラド教授の門下のうちに『万葉』の研究者があり何等かの企図が発表されたと聞き、又すでに成果の現はれたものもあるとのことであるが、その文献を手に入れないうちに、本稿を終らねばならなくなつた。米国人の書いた(457)ものの中にも末端のものや孫引きのたぐひは探せば見つかるであらうが、敢て見聞を博くするに至らなかつた。隣邦支那に『万葉集』の名が伝はつたのは、永禄年間の鄭舜功の『日本一鑑』であつたかと記憶してゐる。さすれば明の嘉靖年間の末で、西暦なら一五六〇年代、今から三百七十余年前にもなる。前清時代の末から今日までの半世紀の間、何か『万葉』について書いた支那人はないものかと思ふが、これも詮索を進めずに仕舞つた。すべての遺漏は他日何らかの紙面に補ひたいと思つてゐる。付録に、欧文を以てせる『万葉』の研究飜訳または紹介の年表を作つておかう。また英仏独三国語への訳述の書目をも添へておかう。最後には、以上の原稿中の人名書名等の原語を掲げておく要がある。
 
      補  遺
 
 東洋文庫所蔵の巴里一八七三年開催「第一回東洋学者総会報告」第一巻二七三至二七九頁を見ると、万葉歌長短合はせて八首、五題分を今村和郎がローマ字書きに仏訳を施こしたものがある。詳解はなく、序言も極々簡単である。訳者の自筆とおぼしき右五題分八首をファクシミル(模版)にしてある。今村和郎は経歴の詳細を知らぬが、明治初年巴里にゐて、東洋語学校に奉職して専らローニーを輔けて居つた人らしい。土佐人であるとのこと。一八七三年エミール・ビュルヌーフ(東洋語学校学生)と共に、巴里の東亜研究会を起した。初めに挙げた第一回東洋学者総会の節には、報告によると日本の歴史的民俗などのことについて度々弁じてをる。そのをりには、ベルリンよりは、教授シュタインタール、ヴィーンよりは、学士院会員プフィッツマイエルも出席して、日本の事について述べてもゐる。
 今村等の立てた東亜研究会の紀要は、これ亦東洋文庫に所蔵されるのを見ると、ローニーの刊行で、第四巻の一(458)八八五年度と一八八八年度との二巻を見ると、三号に亙つて、松波正信が『万葉集』巻一から六十三首を抜萃して、ローマ字書き仏訳を施こしてある。簡単な註も処々にみえる。「マンヨーシウリャクカイ(略解)を使つた」とある。松波といふ人のことも明かでない。ただ日本の学者とか文人とか出てをるだけである。
 
      欧文歌人万葉研究年表
 
〇一七七九和蘭|甲比丹イサーク・チチング初て来朝し、一七八三年日本を最後に去る。後年出版の著述中に『万葉集』の名を載す。
〇一八一五チチング巴里に歿す。
〇一八二〇チチングの遺著の一たる『日本誌』仏文にて刊行、「婿礼篇」中に嫁入持参品目の中に『万葉集』の名を挙ぐ。
〇一八二二チチング『日本誌』英訳本刊行。
〇一八二三チチング『日本誌』蘭訳本刊行、○本年独人シーボルト蘭医として来朝滞留七年に及ぶ。
〇一八二六在朝中のシーボルトの「日本言語綱要」爪哇の「バタビヤ学芸会雑誌」上に刊行、万葉仮名の称呼とその説明より『万葉集』の書名を掲ぐ、泣丁文。
〇一八二九独人クラプロート巴里の亜細亜協会の雑誌に於て、「日本における漢字使用考」を掲げ、また万葉仮名の称呼より『万葉集』のことに及ぶ、仏文。
〇一八三三)長崎蘭館随員フィッスル『日本誌』を刊し、亦万葉仮名の称呼を載す。
〇一八三四)独人クラプロート巴里に在つて、チチングの遺著たる『日本王代一覧』仏訳を校訂付註刊行し、(459)その中の付註に、『万葉集』中の大伴家持の短歌一首を仏訳す、別にチチングの仏訳本文中にも藤原定家『万葉集』を源実朝に献ずるの事あり。
〇一八四五是より先き一八三〇年蘭国に帰還せしシーボルトの舶載せる『日本書籍目録』を、在蘭国の独人ホフマン編纂刊行す、中に『万葉集』三十冊を著録せり。
〇一八五六仏人ローニーの『日本文典』初刊、万葉仮名の表あり。
〇一八五七長崎商館長ドンケル・クルチウスの『日本語法稿本』刊本、万葉仮名と『万葉集』の名出ず、蘭文。
〇一八六七独人ホフマン蘭国に在て『日本文典』を編刊す、万葉仮名と『万葉集』の名あり、蘭文。
〇一八七一仏人ローニー『詩歌撰葉』を著はし万葉歌九首の仏訳を収む、『略解』等の書名の引用あり。
〇一八七二墺人プフィッツマイエル「維納学士院紀要」の一巻として『万葉集』巻三の半分と巻四の大部分とを独訳して二百有余首に及ぶ。万葉書きに片仮名を振りてローマ綴を付す。
〇一八七三巴里在留の邦人今村和郎東洋学会万国総会の報告書中に万葉歌八首を仏訳し原書の模製を示す。
〇一八七四墺人プフィッツマイエル「維納学士院会報」に於て日本の古語の難解なるを説き万葉歌に及ぶ。
〇一八七九芬人ノルデンスキヨールド瑞典探険隊を率ゐて帰西の途来朝して日本の書籍を舶載し還れる中に仙覚の『万葉集註釈』二十巻あり、瑞典王立図書館に蔵す、〇一八八三仏人ローニー編輯の同館所蔵『日本書籍誌』に著録す。
〇一八八〇英人チャンバレソ在留既に七年、是歳賜暇帰国して『日本古歌抄』を刊す、万葉歌数十首の英訳を収む。
〇一八八四在日本英国公使館のサトー暹羅領事転任につき帰英のをり、『万葉集』の寛永刊本を大英博物(460)館に贈る、吉利支丹版の『落葉集』と共になるべし。
〇一八八五在巴里の邦人松波正信「東亜研究協会紀要」に万葉歌若干首を仏訳す、一八八八年に至る。
〇一八九四在日本独人フローレンツ東京文科大学教師たり、『極東歌みやげ』を刊し万葉歌三十首の独訳を収む。
〇一八九六蘭国ライデン大学のセリュリエル編『同大学図書館所蔵日本書籍目録』に『万葉集』二十巻あり、シーボルトの舶載本なるべし。
〇一八九六在東京英人ロイド独人フロ−レンツ前々年著『極東歌みやげ』を英訳す。
〇一八九八独国ライプチッヒ大学留学の邦人岡崎遠光、同大学学位論文として『万葉集の研究』を提出して通過す。
〇一八九九岡崎遠光『日本国民文学史』刊行、中に『万葉集の研究』あり。
〇一八九九英人アストン『日本文学史』を著はす、万葉歌の英訳及び所説あり。
〇一九〇〇岡崎遠光の独文所刊『万葉研究』、英訳せられて日本の英文反省雑誌たる「オリエント」に掲載せらる。
〇一九〇四独人フロ−レンツ『日本文学史』上巻を刊す、『万葉』の研究と独訳と注目せらる。
〇一九〇六英人ディツケンス『日本上代中古詩文書』の上巻に万葉歌の英訳を収む。
〇一九〇八ディツケンス「日本亜細亜協会雑誌」に枕詞の研究を発表す、万葉歌のことあり。
〇一九一〇仏人ルヴォン『日本文学古今詞華集』を著はし『万葉』著名の長歌五首の仏訳を収む。
〇一九一三山口茂一、露文小冊子『日本詩歌考』に於て『万葉集』のこと略述あり。
(461)〇一九一四英人イングラム・プライヤン「日本雑誌《ジヤパン・マガジン》」〕に万葉歌若干首を英訳す。
△一九一五佐佐木信綱著『和歌史の研究』刊行、中に先是一誌上に著はせる小文「外人の万葉飜訳」を収む。
〇一九一九英人ウェーレー「英国王立亜細亜協会雑誌」に、「日本の詩」と題して万葉短歌五十四首を英訳す。
〇一九一二英人ウェーレー「英国王立亜細亜協会雑誌」に、「万葉集及び梁塵秘抄よりの歌」と題して万葉短歌三十六首を英訳す。
△一九一二在英新村出「『万葉集』の欧訳」の一文を「心の花」十一月に寄送す。
〇一九二七独人ロレンツェン『人麿歌選』の独訳を刊行す。
〇一九二九蘭人ピアソソ『万葉集』二十巻の全英訳を企て本年その第一巻の訳本に総説を付して刊行す。
〇一九二二ピアソン『万葉集全英訳』第二巻刊行。
△一九三二四月、秋山光夫「海外に於ける万葉集」と題する一文を「心の花」に寄す。
 
     欧文万葉訳述研究書目略(年表参照)
        其一――英訳
 
○チャンバレン。『日本古歌』中
○フローレンツ・ロイド。『極東歌みやげ』中
(462)○岡崎遠光。『万葉研究』
○アストン。『日本文学史』中
○ディッケンス。『日本上代中古文学抄』中
○同。「日本上代歌枕詞考」中
○ブライヤン。「万葉集」
○ウェーレー。「日本の詩」のうち
○同。「万葉集及梁塵秘抄の歌」若干のうち
○ピアソン。『万葉集』巻一全訳
○同。『同』巻二全訳
 
        其二――独訳
 
○プフィッツマイエル。『万葉集』巻三巻四抄
○フローレンツ。『極東歌みやげ』
○岡崎遠光。『万葉研究』
○同。『日本国民文学史』中
○フローレンツ。『日本文学史』中
○ロレンツェン。『万葉集』中『人麿歌選』
 
        其三――仏訳
 
(463)○クラプロート。『万葉集』巻十八「大伴家持歌一首」
○ローニー。『詩歌撰集』中
○今村和郎。「巴里東洋学者万国総会報告」中
○松波正信。「同東亜研究会紀要」
○ルヴォン。『日本文学古今詞華集』
 
     万葉研究人名録
 
W.G.Aston          Matsunami Masanobu(松波正信)
J.Ingram Bryan       A.E.Nordenskjold
B.H.Chamberlain       Okasaki Tomitsu(岡崎遠光)
J.H.Donker Curtius      A.Pfizmaier
F.V.Dickins         J.L.Pierson Jnr.
J.F.Van Overmeer Fisscher  M.Revon
K.A.Florenz          L.de Rosny
J.J.Hoffmann        [E.M.Satow]
Imamura Warau(今村和郎)  [P.F.Siebold]
J.P.Klaproth         [Isaac Titsingh〕
A.Lloyd             A.Waley
(464)Lorenzen         
               (昭和八年春『万葉講座』第二巻「研究方法篇」)
 
     付、ピアソンの万葉英訳その他  
 
 本年七月、私がオランダでユトレヒト大学の日本学教授ピアソン氏に会つて、数年来氏が英文全訳を企て既に最初の二巻を出し将に第三巻に及ばんとしてゐる所の『万葉集』について語りあつた後、程なく帰朝して聞くと、いはゆる西本願寺本とて、『校本万葉集』の重要な材料の一となつた古写本全二十巻が、複製されて広く万葉学者が研究の資に供せんとし、且つ古書趣味の士が愛賞の料ともならうとしてゐる。これを知つて私は、こよなき悦びを覚えるのである。『万葉』の古写本として、全二十巻打揃つて完全に保有されてゐるのは、この西本願寺本が最初のものであるが、往年その文庫より出でて、佐佐木博士の手によつて学界に顕はれるやうになつた来歴や逸事を直接に知つてゐる私にとつては、それが元本の体裁を模して、例へば外形のみならず、仮名の字体、校合を加へた色合、そのほか微細な点に至るまで忠実に模製したところの影印本が今将に出でんとするのを見ると、更に一倍の喜悦を感ぜざるを得ないわけである。本邦学界はいふまでもなく、遠く欧米諸国にあつても、前述のピアソン氏なり、ドイツではハンブルグ大学の教授フローレンツ博士なり、ますますかういふ新文献の西漸によつて、古写本『万葉集』の面影に親しむたづきを得るに違ひないと、帰朝早々感想がいささか異国に逸れてもいつたのである。
        (原題「西本願寺本万葉集」、昭和七年十二月「心の花」)
 
(465)     『全独訳万葉集』の前駆
          ――付F博士と万葉の生嚼――
 
 正月号「心の花」に大要を発表された『独訳万葉集』の盛挙に対しては、私ども遠い有縁の者も同慶の至りに堪へない。詳細は佐佐木博士の文によつて知られる通りであるが、その中に古く独逸フローレンツ老博士が万葉全訳の企図を高弟たりし故藤代禎輔博士が之に応じての独訳未定稿本との経緯に関する私の報告が要約されて載録されてゐる。私の文意語意の不十分なりし為か、右両氏翻訳につきて重要な点が少々真相を誤るの憂がないでもない。そこで今その不備を補足しておく方が、後世の万葉学史に対して忠実な道だと思ふので、本誌の余白を拝借してそれを補訂し、且つ私がつい失念してゐた所の藤代氏の手記を転載させて戴かうと思ふ次第である。
 先づ私が懺悔せねばならぬのは、昭和八年春に発表された拙稿「海外の万葉研究」の中に、フローレンツ藤代両博士の訳業のことを、簡単に報道しておきながら、どうしたものか藤代氏の遺稿集たる『鵝筆餘滴』のうちに、「F先生と万葉の生嚼」といふ詳細な自記が存したのを見逃をしてしまつた粗漏さである。実は旧臘昨夕来訪された成瀬清博士から、そのことを聞いて今日それを一閲して一驚した。それならば今夏今秋佐佐木博士に対しても、もつと早く、もつと確実に、もつと精細に、両F博士『万葉』独訳の始末を報告し得たものをと、甚だ慚愧に堪へなかつたのである。
 藤代氏の自記に従へば、その独訳は全部が『略解』の所説に拠つたのではなかつたので、少くとも其の或部分は、(466)大学に於る木村正辞博士の講義に負うてゐるのである。これは、私の大した誤解であつた。従つてそれに基いて発表された「心の花」正月号の其の条の誤報は訂正されねばならぬ。殊に現存して現に成瀬氏から預つて私の手許にある藤代氏の訳稿は、第五巻の分であつて、而もそれは確かに木村博士の講義に負うてゐる所が多かるべき部分なのである。
 今年四月十八日は、故人藤代博士の十三回忌に相当するから、若し独逸文化研究所に於て、幸に理事たる成瀬氏の提案を容れて、その訳稿を印刷に付して、故人の手蹟一二頁を添へるなり何なりして記念として発行することが出来たならば、誠に結構なことである。以て故人の英霊を慰むることにもなり、発企したフロ−レンツ博士の宿望の一部を満足せしむることになるであらう。巻五訳稿の始末は、『鵝筆餘滴』の文章によつて詳細にうかがはれるから、読者は下文の転載によつて私の紹介の不備を補はれたい。最初の訳業が全く藤代氏に由るのであつて、藤代氏は単なる助言者などではなかつたこと、――その点は私の報道の誤記だと思はれる――又翻訳の年月、よしやその間断続があつたにもせよかなりの長年に亙つてゐること、未完成ではあるが、稿本の紛失は救はれたこと、等々の事どもが、上記の重要なる正誤と共に、銘記されねばならぬのである。
 訳者藤代氏は千葉県下総の人、明治元年七月生、昭和二年四月逝、行年六十。フローレンツ氏を一八七〇年の生れだとすると、藤代氏の方が二年の年長になるわけであるが、果して然るか。藤代氏が木村正辞翁の『万葉』の講義を聴問したのを、明治二十四年の秋からだとすると、藤代氏は二十四歳で翁が六十五歳のときにあたる。明治二十二年四月来任就職のフローレンツは二十歳では少し若すぎるやうに思ふが果して如何。(昭和十三年十二月三十日稿)
 
  附、「F先生と万葉の生嚼」
 
(467)   僕が大学の課程を卒へて関係教官自署連名の卒業証書を頂戴したのは明治二十四年だつた。卒業すると今迄専攻科目の受持だつた独逸人のF先生が、今迄は君の教師だつたが是から君が先生となつて日本文学の研究を手伝つて呉れとお出でなすつた。扨何を教へるのかと聞くと万葉集を説明して貰ひたいと云ふ話だ。此註文には僕も少からず面喰らつた。文科大学を卒業した日本人が万葉集を知らないと云ふことは外国人には合点の行かない話だ。けれども事実僕は万葉集と云ふ貴重な国宝的歌集を夫れ迄手に触れたこともない。高等学校時代修身課で論語の講釈を国宝的老儒から授けられた僕は「知らざるを知らずとせよ是れ知るなり」とか云ふ名言を金科玉条の一としてゐたから、「万葉集を見たこともないから、無論読んだこともありません。けれども次の学年から木村正辞先生が万葉集の講義を開始せられる相ですからまだ大学院に籍を列して居るので其講義を聞くことは造作なく出来るから、其受売でも宜けれはお引受しませう」と答へた。するとF先生は夫れで結構だから是非頼む、毎週二回宛来いと云はれた。今は絶体絶命だ。万葉集略解の活版本を仕入れて木村先生の講義に出席した。講義を聴けば日本語なら誰にでも説明が出来る。けれども白紙を前に展べ鉛筆を片手に持つて僕の不束な独逸語反訳を一言一句書留めようとする先生を前に控へては二進も三進も行かない。前以て木村先生の講義を独逸語に訳して置けば宜かつたのだが、大学院研究題目に関する参考書を一生懸命渉猟つて居たので迚も其余裕はない。行当りバツタリで遣り始めた。教室で筆記した説明を即席に口訳するのだから一句を口に出す迄も可成時間が懸る。第二句に移るにも容易な事でない。夫れでも先生は根気よく鉛筆を握つて今や遅しと待構へて居られる。焦心れば焦心る程渋滞するので顔から火の出る様な想をした。それでも一の巻二の巻はドウやら片附けた。所が講義が急に五の巻へ飛んだ。山上憶良の歌には漢文の長い序がある。此処に至つてハタと行詰つた。所が先方も中々如才ない。今度は日本書紀の翻訳を手伝つて貰ひたいから、万葉の方は自宅で暇のある限り翻訳して持つて来いと云ふ話だ。一難去つて一(468)難又来るで、日本書紀もお初にお目に懸る古典だ。今度は図書館に閉ぢ籠つて書紀の研究に憂身を窶した。けれども此方は先生が前に他の人の手伝で翻訳事業が大分進行して居たから、僕が一言云ふと先生の方から二言も三言も継いで呉れたので割合に楽だつた。が万葉の方は自宅でも中々捗が行かない。暑中休暇に向鉢巻で大馬力を掛けて進行させた。所が明治三十三年九月に西洋に出掛ることになつたので、出発前の暑中休暇に全部片附けようと云ふ大勇猛心を起した。
 三度の食事と一二時間海水浴をする外は、朝から晩まで一心不乱にペンを走らせた。其で万葉二十巻の内十九巻を全部訳了し十二の巻の一部分を残した丈けで日本を離れることになつた。
 不在中先生の門下生で二人程日本文学研究の助手を勤めた人があると聞いたから、万葉十二の巻も翻訳が済んで居る事と思つた所が千九百十四年大戦の勃発した年に先生は帰国せられる事になつて出発前に万葉集翻訳未了の分を遣つて呉れないかと云ふ手紙が来た。そこで僕も考へた。明治三十二年から約十五年間万葉集には全く絶縁して居た。前の草稿が手許にあれば短歌ばかりの十二の巻を訳することは造作ないが、専門以外の片手間仕事でもあるし、其頃は記憶力に於て容易に人に後れを取らぬ自信があつたから、全部書き放しの儘先生に渡し、手控へとては毫も持つて居ない。元来試験勉強式に無理やり詰込んだ付焼刃の万葉学問だから、折角十年問叩き込んだ知識も本来空に帰した。けれども昔取つた杵柄で遣れないことも無からうと、お引受けをすると返事を出した。先生から最後に受取つたワルシヤワ発の端書に今二時間で独逸国境を通過すると書いてあつた。其日付は七月十八日であつた。其後二週間と経たない内に大戦争の火蓋は切つて落された。此調子なら急ぐに及ぶまいと油断は大敵、昨年欧米派遣を命ぜられて、戦後の独逸へも行くことになつた。此際彼翻訳を完成して携帯すれば一番好いみやげである。けれども遺憾千万ながらそれは出来なかつた。
(469) 戦争中に二三の方面から先生の荷物は途中で抑留せられて、万葉集の独逸訳も再び先生の手に返るかどうか覚束ないと云ふ噂が伝はつた。先生が日本に居られる頃日本に関する研究材料は金庫の中に保管せられたことを考へると、彼の万葉集翻訳も手荷物として携帯された事と僕は信じてゐたが、若し噂通りになれば、僕が十年間の苦辛も水泡に帰する訳で、然も此方に草稿は残つて居らず、遣直しは全然不可能であるから、僕も少からず恐慌を来した。所が今度漢堡で先生のお宅に到着した際、先づ十二の巻を持参しなかつたお詫を述べ、それから全部とは云はないが初めの五の巻丈タイピスト謄本を打たせて戴きたいと申出たら、俺が写して遣ると云はれたので噂が事実でなかつた事が分つた。のみならず先生は大学で万葉集十三の巻を講じて居られるし、其後日本で出版せられた万葉集に関する著書を全部送つて呉れと云ふ御依頼も受けた次第だ。これで僕の約束も是非果さなければならぬ事になつた。
 万葉集の翻訳を自身携帯せられたか如何か聞き洩したが、船で廻した荷物は埃及の亜歴山港で抑留された相だ。倫敦の日本大使館に再三解放に就いて交渉して見たが更に要領を得なかつた。前に日本駐在の英国公使で日本文学通のサトウ氏に頼んだら直ぐに解放の手続を取つて呉れた。仏国に続いて独逸人が最敵視する英国人のサトウ氏が斯く敏活に肝煎つて呉れるのに、日本の、最高学府に二十五年も奉職した自分が再三の懇願を有耶無耶に葬らうとする日本の外交官は何と云ふ腑甲斐ないことだと大に憤慨された。之に対して僕は一言の弁解も出来なかつた。無能無力な外交官を有する国民は殃なるかな。
 僕の知れる限りでは日本人は筆無性といふ点で世界に傑出して居るらしい。僕自身が御多分に洩れない方で、毎々其為に良心の叱責に悩まされて居る方であるが、F先生も日本に二十五年以上滞在せられた為か、僕に劣らぬ筆不性である。万葉集第五巻の独訳を写して日本へ送ると云はれたのは一昨年の十月であつた。僕も頗る心許なく思つたけれど、折角写して遣ると云はれるものを兎や角抗弁する筋合がないから、宜敷お頼み(470)して一先独逸を引上げた。亜米利加経由帰朝の予定が実現されたら此約束が果して履行されたかどうか問題である。所が都合により亜米利加経由の旅程を変更し印度洋を逆戻りすることに決してから、昨年一月末再度独逸漢堡の先生方に御厄介になった。万葉集の独訳第五巻の写しは未だ着手せられて居らない。そこで原稿を借りて自分で大要を写取ることにした。先生も一部分手伝はれて此巻だけは持帰つた。何故特に万葉集第五巻に執着が強いかと云ふと、前にも述べた通り憶良の歌の序文が漢籍仏典の典故多く雑へた四六文で、当時頭を悩ました部分であり、自分でも其独訳に多少成功した様な気がして居る。けれども如何な工合に遣つて退けたか毫も思出せない。今から再度試みても迚も当時程力の籠つた翻訳は出来相に思はれない。其頃の根気と情熱は今の自分に望まれないと思つたからである。
 かう云ふ風に述べ立てると、何だか僕が先生の悪口を云ふ様に聞えるかも知れぬが、唯有の侭の事実を語つたので、悪気は毫も無いのである。実際僕が幾分日本の古典に親む機会を得たのは全く先生のお蔭である。是は僕が先生に対して感謝措かざる所である。それから先生の万葉集研究の態度に就いて大に敬服して居る事は、第十六の巻が面白いと云ふので一夏日光に避暑せられた折り、此巻の原文を羅馬字に書直されたものを一冊、其巻中の歌の単語連語の日独対訳表を一冊、夫れから歌の独訳全部を集めた一冊と、三通り丁寧に浄書したのを示された事がある。而して此一巻は日本の風俗史研究の上に好材料であると云はれたことを記憶して居る。其研究心の旺盛と、研究法の秩序あり遺漏なき遣口は流石学術研究の本場たる独逸学者であると思つた。今度滞独中前後二回八日間程先生と寝食を共にしたが、六十歳に垂んとする先生が一心不乱に日本文学研究に没頭する様を見て僕も大に昨の非なるを悟つた。先生の研究室から出る紀要に何か寄稿せよと云ふ御依頼を受けながら、まだ其約束を果さないのは、止むを得ざる事情からとは云ひながら、甚心苦しい次第である。万葉に関する研究が一番先生に歓迎せられることと思ふが万葉の生嚼では遥々欧羅巴まで恥を(471)曝すことになる。唯生嚼で終らせたくないと云ふ意志を表示して自分自身を鞭撻する便にもと思ひ、此拙文を書いて見た。広い世の中に一人でも僕に共鳴して呉れる人があつたら望外の喜である。(大正十二年七月二十四日夜)
               (昭和十四年二月「心の花」)
 
(472)   万葉植物一つ二つ
 
 自分は『万葉集』の専門研究者でない。『万葉集』中の植物の研究について述べるのであるが元来国語を中心とする言語学者、言語学的な国語学者であるから植物名の研究も『万葉集』に依る語源的研究にまつものである。奈良に万葉植物園の計画がある。これは佐佐木信綱先生が主となり自分もその賛成者の一人である。
 近来に於ける万葉植物の研究熱は盛んになつて「奈良名所旧蹟」――万葉特別号の大矢(透)博士の万葉植物の研究発表、白井博士の研究がある。
 井上通泰博士の『万葉集新考』により表として摘出されて居る、植物数は凡百六十(一六二、この二は異名がある)。なほ確定出来ないものもある。従つて約一百六十で草竹木に分れる。草が九〇、木が七〇足らず、松梅の如きわかり切つたもの、全く別名のもの、変化したもの、全く知られないもの等もある。
 朝顔――木槿(之が通説である)、一説には山上憶良の秋の七草に朝顔の名がある。其の他に木槿を木と一所にして居るのはききやうで、ききやうの名が現はれてゐないのは之を木槿の名で呼んだのであらうと云ふ。
 植物名考証に役立つ書籍は種々の万葉註釈書は勿論『万葉集選釈』(佐佐木博士)の(目録)「名物集」、出版されないもので図書館などにあるもの。
 『万葉集古義』――「万葉集品物解」「万葉集品物図絵」(日本古典全集、帝国図書館)
 『万葉古今動植正名』(山本章夫――渓愚、明治三十六年死)(章夫は本草学者山本亡羊の四男)
(473) 普通の国語学者と異り本草学者であつたから唯その名ばかりでなく実物にあてはめて当時に於ては甚だ進んだものをなしてゐる。漢名との対照は古来の学者の多くのなした所である。山本氏は漢学をもよくやつてゐたのである。漢名に対しての適否についても可成り精確な上に自然科学的にも相当具備してゐるから信用するに足る。但し国語学的には浅いので国語の語原学的には欠点がある。大正十五年著者の継嗣の出版したもの、或は手に入り難いかも知れない。
 『万葉品類抄』――版本(荒木田嗣興――文政の頃)
 『万葉動植考』(伊藤多羅)――三冊
 『万葉集草木考』(亀井交山)大阪府図書館にあるが九冊で草の部だけ、木の部がない――絵、十分なる解説はない。
 なほ「朝顔」とか「萩」「榛」とかの特殊名称についての単行本もある。
 大伴家持――越中に旅して雄神川にて「葦付」をとる少女を見て詠んだ歌がある。――その水草の葦付を考証した「アシツキ考」がある。
 以上で序説を終り、以下本論に移ると、第一には、むろ。この木が何物であるかについては已に定論がある。併し私の趣味研究としては宗教的の考察をも加へて比較言語学的に或は和歌史の上から興味あるものである。
 この名は『万葉集』に七首ばかりある。
 巻三挽歌、天平二年十二月太宰帥大伴旅人卿夫人に死別れて帰京の途船で備後の鞆の津を過ぎたとき夫人を想ひ出して歌つたものである。国歌大観本、七の四四六、四四七、四四八参照。その中四四六には「天木香樹」とあり他の二つは「榁木」としてある。「室木」は宛字であらうと思ふ、ムロ――室、問題なのは「天木香樹」である。昨年或書からヒントを得た。契沖は流石に僅ではあるが註釈を加へてゐる。他にはない。
 巻十六の三八三〇歌に、玉掃、鎌、天木香、棗を詠み込んだ歌がある。本文の方には「室之樹」としてある。
(474) 巻十五の三六〇〇、三六〇一に新羅に遣はされた使が鞆ノ津付近にて「牟漏能木」、巻十一の二四八八「回香瀧」とある。最も人を迷はせる不可解なものである。或人は「瀧」は「樹」の誤写であるとする。考証してはゐないが契沖のこの説は※[木+龍]を和字として解釈がつくと思ふ。
 以上の七首に「むろ」の名がある。『拾遺集』にもあるが之は『万葉』の焼き直しで新しいものはない。其の以後のものも同様、『古今和歌集』にも二首ある。
 実朝の『金塊和歌集』に見えるのは、単に万葉趣味から来たらしい。但し鎌倉や金沢附近にもあつたらしいが、清新昧がなく『万葉集』に捉はれてゐるらしい。
 その他の文学にはないが紀行文にはある。木下長嘯子の『九州のみちの記』(天正二十年の旅)にある。備後鞆津で旅人卿の「むろの木」を見に行つたが見当らないことが出てある。『群書類従』の「紀行」中に出てある。足利時代の他の旅行記にも鞆の津にて詠んでゐる。古書には榁、※[木+賣]、※[木+慈]、※[木+総の旁]の字を当ててゐる。古来最も多いのは※[木+聖]《テイ》の字である――『和名抄』、『三代実録』、三善清行の『十ニケ条意見書』、大和宇陀郡の「※[木+聖]生《ムロフ》」(女人高野)、最も古くは法隆寺の『資財帳』(『法隆寺縁起資財帳』)の中に「※[木+聖]※[草冠/呂]」(仏体仏具を入れるもの)が八十二あると書いてある。之等の宛て方は半は其で半誤であることになる。支那の書では『詩経』『左伝』これ等に出るが、支那では赤い色の幹の「河柳」であるとしてゐる。現代では「西湖柳」「御柳」(如柳とするは誤)といふ。宮庭に植ゑたことがなか《(ママ)》つたといふので御柳といふのである。
 夏の始めに花を開く、優美ななよなよとした木である。室内に盆栽として置くによい。支那美人を聯想させる。先年ケンブリッヂ大学で之を見て懐しく思つた。支那の御柳は元来輸入植物である。「※[木+聖]柳科として居る(支那)。伊藤東涯の『紹述文集』に「御柳」を輸入したことがある。故に『万葉集』の「むろ」に※[木+聖]を宛てたのは当つてゐない。
(475) 「※[木+聖]柏《テイハク》」、柏《カシハ》――栢《カヘデ》、※[木+聖]柳科と松柏科と混同流用して居る。※[木+聖](御柳)の様な柏の意味。
 支那でも其の半は元来の※[木+聖]で半は所謂「むろ」の※[木+聖]である。徳川時代には「鼠刺《ネズミサシ》」と呼んでゐる。葉が少く尖つてトゲトゲしてゐるから斯く呼んだ。土地によつては「杜松《トシヨウ》と云つてゐる。或は訛つてボロン、ベボー、メボー等呼んでゐる。尚この木の枝を焚くと芳香があり蚊遣りになる。古来|榧《カヤ》が蚊遣として最上とされてゐるが、之と共に用ひられてゐる。また海岸の砂地をはつて居る。
 柏槙《ビヤクシン》(むろの木或はその類似の木)、徳川時代から薬草とされて居る。正しくは「柏|子仁《シニン》」「柏心」で之に立つて居るのと、はつて居るのとあるので、「たちむろ」「はひむろ」といふ。『万葉集』のは後者であらう。徳川時代の学者の意見を綜合すると以上の如くである。
 「むろ」はラテン名ではjuniperus’juniper(英)、jenever(蘭)である。オランダ人など之から取つた酒をginと称する。幕末長崎あたりで之を飲んだなど云ふことがよくある。
 『大日本老樹名木誌』によると、九州四国あたりには今も古い木がある。
 西洋ではこのジュニペルスの名はホーマーなどの詩にも出てゐる。語源的意味は「若返らせるもの」「若き命を注ぎ込むもの」の意である。ギリシャではケドロス(煙木、燃木)と云ひ、東洋の香木と同じ意味である。民間信仰では魔除けに用ひる。北欧の民族の伝説にもある。オデッセイが或島に上陸して洞穴に入つたときもケドロスが香高々と薫ゆつてゐたといふ。
 印度では宗教上に大いに関係がある。
 之等の関係から日本でも「むろの木」を以て仏体を造る。叡山にもこの木があつて伝教大師がここに寺を開いたと云ふ。弘法大師にも同じ伝説がある。之は純日本の民間信仰か伝来のものかは軽々には断じ難い。
 「天木香樹」と云ふのは『香薬抄』或は『香字抄』『薬字抄』の中に、天木香は焚語で底婆※[草冠/必]刹《テーバープリ】(利の誤り)叉香で(476)あるとして居る。
 日本の林学者は「和白檀」と称して居る。
 旅人が常世とか幽冥界の事を聯想したことに対しても深昧を増す。これについての考証もあるが略する。
 唯契沖の僅かの註釈に見える如く彼は仏典の方から明らかにではなくともほのかに天木香の事を知つてゐたらしい。
 回香※[木+龍]、回香龍(蛇)の木の意味で作つたのであらうか、『万葉集』には妙な不可思議な字もある。回の字については茴香といふ草の名もあるが確信を以て断言し兼ねる。唯回教が次第に東に進んで印度支那にまで蔓延したからその方に関係してゐると思ふ。回※[糸+乞]とか回※[骨+鳥]の名と同じ様に。以上仮定説を御参考までに。
 
 『万葉集』巻十九、二十にある「知智《チチ》」については幾多の説がある。真淵に到つて見る可きものがある。即「公孫樹《イテフ》」の事で、はゝそばのはは〔二字傍点〕、ちゝのみのちゝ〔二字傍点〕と同じく枕詞として用ひられたものであるといふ。谷川士清も『和訓栞』では之に準拠してゐる。先にあげた『万葉集品物図絵』にも「公孫樹」の葉を出してゐる。
 白井博士も公孫樹説に賛成し、大矢博士も同じ。他の説ではちゝのみ=「橡《トチ》の実《ミ》」であるとしてゐるのもある。或は「天仙果《イチヂク》」(いぬびは)――今日の無花果(南蠻天仙果)の来ない前――で、白い汁を出すからちゝのみと云ふといひ、或はイチヂクのイを略してチヾクの訛つたものともいふ。また「松の実」であるともいふ。これら諸説中にては、イチヂク説が有力である。
 自分の趣味から云ふと公孫樹を愛する。また徳川時代にも俳句などに詠んでゐる。併し古代人には無識であつたか無関心であつたか万葉歌人には知られなかつたと思ふ。鎌倉までの文献にはない。南北朝の頃から僅かに出て来る。義堂の詩集に見えるのが古い。其以後字引や歌や武家の紋様などにも現はれてくる。徳川時代には盛に書いて(477)ある。『老樹名木誌』や諸国の伝説では八幡太郎義家が植ゑたもの、或は鞭をさして置いたものから芽を出したとか、法然上人が植ゑたものなどといふのがあるが、之等の伝説を事実の考証に直ちに用ひることは不可である。
 文献上の考証に依れば恐らくは鎌倉時代に実として支那の大陸から輸入されて之を蒔き段々大きくなつて南北朝時代から現はれて来たのであると思ふ。宋金の時代に色々の木の実を輸入した事もあるので恐らくこの頃の輸入であらう。先史時代の存在から次第に文化的に拡がつて北宋の末南宋の頃から現はれてゐる。蘇東披、黄山谷、陸放翁、梅尭臣等の詩に見える。故に宋へ行つた禅僧等がもたらしたのであらうと思ふ。「いてふ」の語源については貝原益軒が、「一葉《イチエフ》」から変化したのであらうといふのは、いてふの葉の形から受ける感じ、及びその本質から言つて適してゐないと思ふ。古くは「いちやう」と書いてあるので、大槻文彦先生の説のごとく、「鴨脚」(やちやう)といふ宋時代の音から転じたのであらうと思ふ。
 結論すれば古代にはこの木はない。且つ名称的に用ひられてゐないのであるから、枕詞にあるのを以て公孫樹であるとするのはいけないと思ふ。
 なほお話したいものも一二あつたのであるが自分の趣味本位にはてしなく述べて『万葉集』研究には益しなかつたであらうと思ふ。たゞ『万葉』の研究がどの程度にまで深く進み得るかの御参考までになれば幸である。
 私は凡そ二十幾年前飯田町時代の国学院大学に出たこともありますがまた二十年後にこの壇上にて皆様にお話し出来る事を光栄に存じます。枝葉の問題にばかり走つた事をお詫び申します。
                   (国学院大学に於ける講演)
 
(478)  『万葉集』に現はれたる桑と柘 
        ――扶桑の名に因みて――
 
 只今発起人の一人として杉博士より縷々扶桑珠宝刊行会に因んでの御話がございましたから、時間も乏しき折から殊更に讃辞めいたことを申上げることを略しまして、直ちに講演に移る心算であります。
 要するに多年佐佐木博士があゝいふ有益な出版物をなされましたに就きまして、私共文献のことを研究して居ります者が非常な余沢を蒙つて居るのであります。殊に私は言語のことを研究いたして居る関係上かゝる有益な出版物の三十八種御完成になりましたに就て御礼を申上げたい考で、今度の刊行物の扶桑といふ名に因んで万葉植物としての桑と柘といふことに就て申さして戴きたいと思ふのであります。
 一昨年来佐佐木博士は奈良に万葉植物園といふものを御経営になられまして、私も微力ながら其の賛成者の一人になつて居る関係上、万葉植物名を折にふれまして研究いたしたことがある。或る場合に於てはそれを雑誌講演等で発表したこともあるのでありますが、今回は扶桑珠宝といふ、扶桑といふ名に因んで、桑と日本文学、殊に和歌等の韻文との交渉を捉へて御話して見たいと思ふのであります。
 時間も凡そ三十分位で御話し尽し得たいと存じて居りますから、聊か調べましたことのほんの一端外申上げられないのは遺憾といたしまするが、他日何等かの学術雑誌で補ひまして、或は皆様の御目にふれることがあらうかと存じます。
(479) 申す迄もなく桑は我が扶桑国たる日本よりも支那に於て文学上の作品に多々現はれて居るのであります。『万葉集』と並び称される所の『詩経』に於きましては桑を取扱つてある所の詩が非常に多いのでございます。『詩経』は詩の数が凡そ三百有余篇ございますが、其の中桑のことを詠んでありますのが二十有余種ございます。繰返される文句を省き、違つた文句を捉へて見まして約三十ばかりあるのであります。其の外の書物にもあちこち多々現はれて居ります。又色々の故事、様々の伝説等に於きましても桑のことは非常に多く現はれて居ります。
 それに反して我が日本、殊に『万葉集』に於きましては其の数極めて寥々たるものであります。偶々あるものを見ました所が「たらちねの母がかふこの繭ごもり」といふやうな比喩的文句であります。繭の中に子が籠つて居る。其の事を比喩的に使つてある文句であります。それが二つ三つばかり、長歌も加へますと四つ五つばかりになります。其の他、養蚕に関係したものを加へますと尚二つ三つばかりを加へることが出来るのでありますが。『万葉集』の中で、桑の歌として最も秀でて居る、学者が度々研究して居る、色々の伝説学者が研究の対照として居りますのは巻の三に見えて居る吉野の川に於ける所の柘の枝の歌であります。柘枝の歌は三首あります。尤も最初の一首は柘枝に関係のない歌で、或は混つて入つたか、或は間接に縁故のあるものであるが故に編輯者に依つてそれに加へられたか、どちらかでありまして、柘枝を詠んだものではないのであります。其の他巻の十の短長歌の詠み人知らずの歌に柘枝を詠んだ歌があります。最初の短歌二首は伝説を取扱つたもので、第三の長歌、巻の十の短長歌は事実を詠じたものであるのであります。
 柘の枝の伝説は御存知のお方もあるでありませうが、漁夫が吉野川に簗をうつて魚を――多分鮎でありましたらうが、其の魚をとらへようとして居つた所が、川上から柘の木の枝が流れて来て簗にかゝつた。それで漁夫が其の柘の枝をとつて家へ帰つた所が、それが美人になつた。其の美人と目出度婚礼して同棲して居つたが、やがて、恰度『竹取物語』に於けるかぐや姫が天からお迎へに来て、心ならずも天に去つてしまつたと同じやうに、其の美人(480)は天に招かれて去つてしまつたといふのであります。それのやゝ詳しいことは『続日本後紀』の中にありますが、嘉祥二年仁明天皇の御四十になられたお祝に興福寺の坊さん達が、余りうまくありませぬけれども、長つたらしい御祝ひの歌を献上しました。其の中の半分は浦島のことを書いてありますが、後半分は柘の枝の伝説を書いてあるのであります。『懐風藻』――今日展覧会に陳列されてありますが、故小中村博士の旧蔵で、只今帝国大学の所蔵になつて居る古抄本でございますが、其の『懐風藻』に吉野に詩家詩人共が御臨幸に扈従をして参つた際に詠んだ所の詩が約十五六ございます。其の中の数種はやはり柘の木の伝説を詠んで居ります。之を文献的に申しますと、第一に『懐風藻』、第二に『万葉集』、第三に『続日本後紀』、是だけでありますから、奈良朝から平安朝の初期迄は此の伝説が吉野奈良辺に行はれたものと見えますが、それからは段々すたれてしまつて、徳川時代になつて建部綾足が『本朝水滸伝』といふものに題材に使つて居る位のもので、柘の枝の伝説をとつたものは殆んどない。桑のことはありますけれども、柘のことに就ての歌はないのであります。私の管見の及ぶ所では明治以後の歌人で柘の木のことを詠みましたのは折口信夫君が九州で詠まれた歌が一首あるだけではないかと思ひます。桑に就て詠んだものは明治以後、例へば信州出身の、もう故人になられましたが、島木赤彦君の歌に十七首余りもあつて、推称すべき所の歌のあるのを見まするが、柘に就きましては折口君の歌が一首あるだけではないかと思ひます。
 時間の制限上多少急いで居りますために順序を失するやうなことがございましたが、此の柘の木の伝説は伝説学者或は神話学者が言ふ所の神婚伝説――神と人とが結婚する所の伝説――の系統に属するものでありまして、日本には類例は余り多くない。『古事記』の上の巻の末でありますか中の巻の初めでありますか、兎に角神武天皇時代のことを掲載しました所に、今度は柘の木の伝説と反対になりますが、或る婦人が河の辺で遊んで居つた所が上流から矢が一つ流れて来た。それは丹い、丹を塗つた所の矢であつた。それを少女が拾つて自分の家へ持つて行つた所が、それが美しい男に変化して、其の男と相結婚したといふやうなことが出て居るのであります。是は、今全文は(481)逸してしまひましたが、『山城風土記』にも断片的ながら記載されて居るのでありますが、其の丹塗矢の古事と『万葉』の歌に現はれて居ります吉野川の柘の枝の伝説と同系統に属するのであります。ギリシャあたりの神話に徴しますと他の神話伝説に較べて神婚伝説は日本には比較的少いのであります。矢を恋愛の仲立ちに使ふ。或は弓を恋愛の仲立ちに使ふといふやうなことは原始時代の想像として、或は詩人、文学者の技巧として用ひられ勝でありました。例の、下品な方へ使はれがちでありますが、ギリシャの神話、ローマの伝説に現はれて来ます所のエロス、ローマではキューピットと言つて居る、アモールとも言つて居る、彼のエロスの如きは文学或は絵画彫刻等に於きましては幼い可愛らしい羽根の生えた童子に表現されて居ります。其の表徴は弓矢でありまして、其の弓矢を受けては如何なる人でも、如何なる神でも其の愛に犯されぬものはないとさへ言はれて居る。男女の仲立ちとして、或は一方から異性へ持つ所の考は弓或は矢に依つて表現されるといふことは上代人の感情としてありさうなことであります。丹塗矢の故事と並称される吉野川の柘の枝の伝説も亦、柘といふ木が『三代実録』『延喜式』等に現はれて居る如く古来梓矢、柘矢、真弓矢等といふやうに矢に使はれたといふ事実を背景にして居ると申してよからうと思ふのであります。
 此の柘といふ植物は山桑と是迄の品物《ヒンプツ》研究者、本草学者等は申して居りますが、只今の植物分類学上の分類に依りますと、毛桑――葉の両面に毛が沢山生えて居る。其の形はハート形であるといふやうな所から毛桑とも、菩提樹――菩提樹の形をしたものであるといふやうな名前もついて居ります。学名はモーリス・チリヱホリヤ――東京の植物園の有名な分類学者である牧野富太郎氏が命名されたのであります。此のチリヱホリヤといふ桑の一種は日本には余り類のないのでありまして、分布区域を探つて見ますと、中国四国の一部分、近畿では大和から紀伊にかけて、恐らくは吉野辺にも昔はあつたらうと思はれる。今日あるかどうかを先頃から急いで調べて見ましたけれども、未だ確実な報告に接しませぬ。『三代実録』には、或年に備中備後から柘の木の弓を百挺献納したといふこと(482)が出て居ります。『延喜式』の「兵庫寮」の所に又柘の弓を使ふといふことが見えて居ります。『三代実録』に備中備後とありますので、備中備後の植物を調べて見ますと、今日彼の辺に毛桑、即ち今日学名をモーリス・チリヱホリヤと言つて居る所の桑の一種が現はれて居ります。『出雲風土記』――『万葉集』の編成せられる少し前でありますが、天平五年と銘記してあります『出雲風土記』に、備中備後の裏になります三郡、郡の名は略しますが、此の三郡に柘の木が産出せられるといふことが見えて居ります。是が古文献に見えて居る所と今日植物分布学上の調が符節を合する如く合ひます。それから『万葉』十の巻にあります長歌は生駒山の麓の甘南備山にある所の桑を詠んだものであります。「丈夫の出立向ふ故郷の甘南備山に明くれば柘の小枝にゆふされば小松がうれに里人の聞きこふるまで山彦の答するまでほとゝぎすつまこひすらしさよなかに鳴く」といふ簡単な歌でありますが、「甘南備山に明くれば柘の小枝に……」といふ、私の方の同僚の植物学者に一昨日でありましたか一寸訊いて見たのでありましたが、未だ生駒山に此の柘の木即ちモーリス・チリヱホリヤといふ樹木が発見されたことは知らぬけれども、紀州葛城山が南にいつて高野山に接続して居りますが、高野山と葛城山の麓に既に発見せられて居る以上は、恐くは其の北の方の生駒山の麓にもあるといふことはありさうだと私は考へられるといふことを聞きまして、『万葉集』に見えて居る此の柘の木の歌が早晩植物分類学の発見に依つて裏書きされるであらうといふことを思ふのであります。吉野にはどうであるかといふことを聞いて見たのでありますが、彼の辺は大分探し抜いたけれども此の柘なる木は発見せられない。然しながらあつてもいゝものだといふことでありました。御承知の通り吉野は離宮がありまして天武帝以来奈良朝大抵の天皇皇后の行幸啓になつて、人麻呂以来の名家が長歌となく短歌となく盛んに詠まれて居るのでありますが、彼の吉野川の流域は今日も桑の産地でありまして、養蚕の最も盛んな所になつて居るのでありまするが、是は普通の桑の産地でありまして、此の弓に便ふ所の柘、即ち毛桑の産出を未だ報告せられて居らないわけであります。
(483) 支那では柘を「シャ」と言ひます。――日本では支那の文字を借りました時に支那の植物を見て其の文字を借りたわけではありませぬから往々にして喰違つて居ることがあります。例へば木偏に春といふ字を書いた椿、あれは支那では「ツバキ」でない。又木偏に會といふ字を書きました檜、あれも支那の檜は日本の檜と違ふ。今度の『万葉学論纂』の末の方に私の小論文が掲載されて居りますが、あれは『万葉集』の※[木+聖]を取扱ひましたものでありますが、支那ではあの木偏に聖を書きました字を和音テイと言ひ、植物分類上から申しましても科の違ふもので、日本では、※[木+聖]といふものは松柏科であります。唯葉の※[女+單]娟婀娜る様子が似て居る所から日本では※[木+聖]の字を「ムロ」と読んでしまつて『万葉』其の他に使つて居ります。と同じやうに、柘《シヤ》といふ木は桑の科の一種でありますけれども、桑の属ではないのであります。仙覚は柘といふのは針のある木といたしてございますが、是は支那の宋あたりの本草書にさう書いてありますからさういふ意味の説明を与へたのであつて、実物を調べてさうしてさういふ解釈をしたのではないのであります。仙覚の『万葉集』を見まして後に仙覚の説を捧じて居る者がありますが、是は断じて間違ひであります。支那の柘は「モーリス」ではない。学名はモーリス属とは全然ちがつてをるものなのでありまして、斯ういふ風に尖つて三つ葉のやうになつて居るものでありまして棘が生えて居る。是は日本にはないといふことを植物分類学者は言つて居る。朝鮮の西南の済州島にあるけれども、日本内地には断じてない。絶対的に否定されて居るのであります。多少之に似た植物である所から此の字をあてた。此の字をあてたことはいゝのでありますが、本草書に依つて針のある木だと仙寛が申したことは取消さなけれはならないのであります。
 さて桑といふ樹木は洵にお目出度い樹木でありまして、桃の木と併せて生命を延ばす、病魔を退散させる、邪気を払ふといふやうなことに昔から考へられて居ります。昨今民間療法で民間薬物が色々用ひられて居ります。桑茶などといふものが広告などにもよく出て居りますが、山桑の茶を何時頃から日本で用ひたかと言ひますと、栄西禅師――建仁寺の創始者であり、同時に日本へ禅宗をひろめた栄西禅師が実朝公のために『喫茶養生記』といふもの(484)を書きましたが、建長五年頃であつたかと思ひますが、其の末の方に桑茶のことが書いてある。のみならず、桑は魔を払ふ、邪気を払ふ、桑の木の下に居ると鬼が来ないといふやうなことが明記されて居ります。又昔から桑の箸で物を食べると中風をしないとか、桑の杖を使ふと中気に罹らないとか、様々のことが伝説されて居る。のみならず、本草書あたりを見ますと、桑の枝、桑の葉、桑の実、桑の根、桑の皮……色々な所に桑のことを説いてあるのがある。桃の木と桑の木といふものは両々相対して居る。支那の古伝説に依れば、――是は私の臆説に過ぎないかも知れませぬが、支那では、東の方に桑の木のいゝのがある。宋とか魯とか、今日の山東省、河南省の南部、江蘇省の北部といふやうな中部地方から東の方に桑のいゝのがある。日本でも魯桑といふ名前がついて居る程であります。それから支那の中辺から西の方、四川省あたりには桃のいゝ木がある。更に西北の、崑崙地方に参りますと、是亦神話伝説の領域でありますが、西王母といふものがあつて、それが桃を持つて居る。それを食べると三千年の齢を保つといふやうなことを言つて居る。支那では東の桑、西に桃、桑と桃と両々相対して居るのであります。日本の古い神話伝説等に於きましても桑と桃とは同じやうに考へられて居る。桃太郎の話でもさうでありますが、『古事記』『日本紀』に出て居ります伊邪那岐命が伊邪那美命に追はれて逃げて来られる時に黄泉比良坂で雷神が追馳けて来た。其の時に其の坂の麓にあつた所の三本の桃の木から三つ桃をとつて投げつけた所が其の鬼が撃退せられたといふことがある。其の桃に関する伝説が桑の方に移りまして桑もやはり邪気を退治する。雷を退治する。人間の病魔を退散させるといふやうなことになつて居ります。夏雷が鳴る時に桑ばら桑ばらと言つて呪文を唱へるといふやうなことは徳川時代の中程から民間伝説になつて居りますが、其の由来する所は極めて遠いのであります。奥州の伝説などに於ては、或る男が桃の実を播いて、桃の木を伝つて天へ上つて、雷に会つて桑の木の上へ落ちて来た所が、雷様が天上から彼の男は可愛い男だから彼の上へ落ちてやるなと言はれて、それから雷様は桑の木に落ちないといふことでありまして、桑と桃とは極めて密接な関係になつて居ります。徳川時代の民間療法(485)で痘瘡に罹つた所の子供は風呂をつかはせる時に桑の枝一本と桃の枝一本と入れて風呂を沸かせて、それで風呂をつかはせると痘瘡が治るといふことが馬琴の書いた『燕石雑志』に見えて居る。さういふ風に桑と桃とは支那の古伝説が日本の方へも伝つてやはり近代迄来て居るやうなわけであります。支那では文学故事等にも桑のことは多いのでありますが、日本には甚だ少い。文学にも『夫木集』に十四五あります。其の中には一二読むに足るものがありますが、唯支那の故事を歌の文句に直したやうなものでありますが、それに反して伝説の方は今日尚民間に、或は奥州の伝説、関東の伝説、関西の伝説、盛んに行はれて居るのであります。
 尚申上げたいこともありますが、時間の制限上此の位の所で止めておきますが、要するに佐佐木先生の過去何年かの間に於ける非常な御努力に依つて三十八種の善本良書を御作り下さつて我々文献学界を裨益せられたのでありますが、今後病魔をお退けになり、御齢を更に二十三十と御延し下さつて、何年かの後には第二の扶桑刊行会のやうなものが出来れば我々学徒は一層幸せであるといふやうなことを思ふ余りに桑に因んで斯ういふやうな御伽噺めいたことをお話して皆様の御清聴を汚したのであります。
 三十八種といふことでありますから、恰度私の詰も、自分の時計も三十八分といふことになつて居ります。何故に三十八種といふことに御限りになつたかといふことを先日先生に御訊きしました所、別段意味はないのだ、偶然のことだといふことでありました。私はそれでは三月八日といふ日を御選びになつたのは三十八種と縁故があるのですかと伺つた所が、さうぢやない、それは偶然だと言つて御笑ひになつたことがありましたが、私は彼の先生からは二三分づつ割愛して戴いて三十八分で終らうといふ覚悟を持つて出たわけであります。
 四十といふ数のいゝ所でなさらなかつたのは或は将来あることを期されたのであつて、或はもう一種お殖えになつたならば三十九にもなるかも知れない。或は続々と、四十五十と倍加していかれんことを希望する次第であります。  
            (扶桑珠宝刊行会に於ける講演)
 
 
(486)     越中能登の万葉歌蹟
 
 谷村秋村翁の憶出について何か私にも書くやうにといふ再三のお言葉で大に恐縮してをる。書くべき憶出のたねが多すぎて却て困るのも書きにくい原因の一つである。その人格、その性情、その趣味、その感銘、すべて諸家の筆によつて尽されてゐると思ふ。別段自分には書き加へ様もないわけである。年月が経つにつけて、折にふれ事にあたつて、あゝ、翁が在世ならばなあ、と心さみしく感ずることが、ますます多い。書物につき、人物伝につき、殊に加越能地方の旧事などにつき、教示を受けたり、配慮を得たいことどもが、今なほ甚だ多いのである。翁の在世中には、さういふ方面、就中、郷土や古書などのことに関して尋ねた場合には、自身での探究や抄録、その地方博雅の士からの知識の伝達、常に過重な取計ひにあづかつて、私は大に恐悚感激するばかりであつた。
 博覧と博聞と博渉とを喜んで飽くことを知らなかつた故人は、こちらから供した幾分かの新知の資料に接したりする時には、よくそれを享受してくれ、共鳴してくれて、こちらも大に心がはずみ、知らせがひがあつたのを喜ぶことが常であつた。それやこれやのことを書いてゆくと、尽くる期を知るまいから、私は丁度をととしの夏、島尾の海浜に翁を尋ねて二三日清遊を共にした思出を綴つて、自分の心ゆかせとするにとゞめようと思ふ。
 日記をくつてみると、かう書いてある。極めて簡潔な記事と叙景抒情とに過ぎないが、自分一個には無量の情緒がこもつてゐるつもりである。
   八月十四日、あさ七時十二分にや、高岡につく。谷村氏父子に出迎へられて、島尾遊園地内なる延対寺別館(487)松月亭といふに入る。いにしへの松田江のうちなりといへり。
 その時は、私は前晩珍らしくも夜行寝台車にて東京を発して、朝まだき、芭蕉の『奥の細道』に記るしてある黒部四十八が瀬などと云つた辺を過ぎ、季節も大抵おなじ季節であるから、先づ「早稲の香や分入る右は有磯海」とある詩興にひたりきつて高岡に着いたのであつた。用意周到な秋村翁は、富山石川二県の分県地図を私のために求めておいて、島尾への汽車中から、地図にも就きて『万葉』の歌蹟を点々と説明してくれた。わたくしは前夜の紀行を、序でにこゝに書いておいて徐ろに筆をすすめたい。
   十三日夜越路の旅に出づ。午後八時五十五分上野発。夜中北信北越に虫の声らしきものを車中にて聞く。薄月夜なれば、寝台車中より窓を通して薄明るく、はや夏の夜のあけぬるにやと、いくたびもあざむかれけり。あとにて、こよひは満月なりときけり。
 私が提携していつた岩波文庫本の『奥の細道』の表紙を見ると「八月なかば、東京より北越にぬけ、直江津より越中の海べを旅せしときも、再びこれをたづさへゆきぬ」といふ識語があつて、北の越路行は私にとつて、忘れがたい旅路であつたのである。越中能登の万葉歌蹟の一斑をば、秋村大人の東道によつて究めたいと云ふのが、私の旅行の主要な目的であつた。高岡駅で芭蕉に別れて家持に乗りかへた私は、秋村翁から伏木や二上山を指示されて、越中万葉学の初歩を授り、突如『義経記』中の史興に引入れられなどして、やがて島尾の松月亭に請じ導かれた。久しぶりにて、うれしくも一族の人々にも逢ひ、有磯海に対しつゝ、家持の麻都太要(松田江)の歌を黙想した。午後には、自動車を駆つて、こゝを中心に南北の万葉歌蹟を探尋したのであつたが、それには秋村翁はこの付近の史蹟に精通せる島畑貫通氏を招いて、私の東道としてくれられた。又金沢からは太田南畝翁の来遊を求められ、南畝翁は特に貴重な富田景周先生所編の『三州大地図』を携へ来つて、私の参照に資せられた。これかれ感謝に堪へない。島畑氏は、先づ前年自著の『大伴家持卿と氷見地方の万葉遺蹟』と題する謄写版刷りの冊子を私に贈り、且(488)つ種々懇切な嚮導を与へられた。帰洛の直後、私はその冊子の表紙裏に当時経過の始終を録しておいたから、今それを其侭抄することにする。
   昭和十年八月十二日東京にて万葉集英訳委員会ありし翌夜上野を発し翌十四日あさ越中氷見郡島尾の遊園地なりし小亭に避暑中なりし谷村秋村翁に迎へられ同日午後此の本の著者島畑氏の東道を得て南は古国府の迹を究め北は阿尾の古城址の近くまでを探りぬ。一に自動車の便によりたるなれば、纔かに名勝地を一瞥せしのみなり。一過せし処々は、渋渓のツママの古碑の立てる海岸(雨晴《あまばらし》に在り)をはじめ、布勢の海の遺迹なる十二町潟(鬼蓮《おにばす》浮べり)をあちこちして、布勢神社及御影社(これには家持卿を祭るといへり)の麓を往返通過して、途すがら朝日貝塚・朝日山・上日寺の名木公孫樹と古図とを目睹す。途中絶えず地形古今の変遷と地名折々の転変とを説かれ指顧に遑なかりしも、概ねは本書に詳かにせるが如し。翌日能登の旅路に就きしときは、此本はしばし行李に収めおきしが、十六日羽咋の一の宮気多神社を拝して、これを最後として帰途に上りし折、金沢より再び乗車後しばしして越前若狭を経て近江路に入れるころ読み了りぬ。時に驟雨して涼気いふべからざりけり。
 これが当時即事の自記であるが、爾来『万葉集』の巻十七八九の諸巻の歌を読み味はふ毎に、其折の実蹟見学の印象をよびおこし、秋村翁のおもかげを偲ばざるを得ない。松田江に一泊した夜は「月夜なり、すゞし」といふことが日記に録してある。翌八月十五日の条には、
   あさ五時起床、松の葉末の白露うつくし、海岸に出づ。朝もやありて立山をほのかに遠望したるのみ。物足らず、白きテープの切れの如き藻屑漂ひ寄れるを採る。誰も名を知らず。(能登の和倉にて船人にきけばササモといへり、机島にて多くみうけたり)
と記るしてあるが、その白いテープのやうなササモといふのは、秋村翁も拾つて、海岸に立つて互にその名を尋ね(489)探りなどした記憶がある。立山の峰々を指さし示されたが、その山についての話も、私にとつて興味の中心になつた。私の拙劣な歌が数首出来た。恥かしいが、記念に抄録しておかう。
   朝なぎや白きササモのうちよする松田江の浦にいにしへ思ほゆ
   たぐつぬの白きササモのうちよする浜辺に立てばうまごしぬばゆ
   松田江の松の葉末にひとつひとつ白露おきて朝日さしたり
   松田江の松の朝露をめでにつつ立山見むと浦廻にゆくも
   朝もやゆほのぼの見ゆる立山を氷見の浜辺に仰ぎて立つも
   麻都太要に打出でて見れば朝もやゆほのぼの見え来わが立山は
 今こゝに筆にしてゆく間にも、少々改修したい文字もあるが、帰家後の覚書きのまゝ無秩序に書き列ねた。
 さてそれから能登に私をつれてゆくのに、秋村翁が自動車で険岨な山越えをしようといふのを、私は懇ろに願ひ下げて、やつと一同汽車で遥々迂回することになつた。そこにも翁の気象と私の性質とがよく対映してはゝゑましくもなる。日記はかう書きつゞけてある。
   高岡津幡を経て七尾にゆく。古国府のあとをさぐる。国分寺址の礎石を田のくろに見る。馬上に孫をのせて、国分寺址を談る老農に出あへり。七尾、和倉、机島、唐島。夜は月よし。
   八月十六日、あさ和倉の温泉を出でて、羽咋に下車、一の宮気多神社に参拝、老樹のタビ〔二字右・〕の木(タブなり、即ち『万葉』のツママに擬定す)をめづ。社のうしろに、タブ、ツバキの老樹多し。きのふ唐島にても全島の森、殆どこの二樹より成るかの観ありけり。
 かう抄録してゆくと、それからそれへと秋村翁の面影がつきまとふ。十五日には、図書館の中田邦造君も、金沢から来会された。実は私の能登旅行は、すでに昭和六七年ごろからの希望であつて、中田君もこの数年問多大の期(490)待をかけてゐてくれられたのであつた。而もこの昭和十年の春には、『和名類聚抄』のことを御前で進講するの光栄を負荷した因縁のため、その夏の能登行は私にとつて無上の欣幸であつた。秋村大人をはじめ、太田中田の両氏にも感謝してゐる所である。この行、越中守たる大伴家持と、能登守たる源順と、これら平素敬慕してゐた古人の遺蹟を探尋して、向後の研究や興趣に少からぬ寄与を得たことは、感銘の大なるものがある。且つ能登にては、平教経だの上杉謙信だのといふ幼年以来おなじみの古史上の人物を想起する機会を得たばかりでなく、佐渡が島と共に、こゝ能登の邑知潟に飛翔する数羽の桃花鳥を遠望することが出来たのは嬉しかつた。この喜びは、その後いつも人々に語りあふのであるが、むかしのツキ、後世のトキ、あの品のいゝツキ毛やトキ色の色彩の原名たるその鳥を目撃した喜びは、ついその後秋村翁に語る閑がなくて了つたのではあるまいか。残念である。
 それに反して、松田江の浦の暁に互に拾ひあひて、その名を詮議した藻については、帰洛した後、私は小野蘭山の『本草啓蒙』巻十五、「水草の部」にみゆる海藻の一種の諸方言を列挙して、翁に書送つたのであつた。能登ではカモメノオビ、鴎の帯と、蘭山時代には呼んだのだが、それに当るらしい。机島で船人に秋村翁がたづねたら、ササモと答へたのを聞いたが、これも方言古今の変であらう。伊勢でモシホグサ、豊前ではハマユフ、或地方ではカナクヅ、即ちカンナクヅと呼ぶ。細い飽屑ではある。リウグウノヲトヒメノモトユヒノキリハヅシといふ山鳥の尾の長々しい名も付いてある。龍宮の乙姫の元結の切り外し。面白い名である。秋村翁と私とは、どちらからとなく、初め島尾の海浜では、白いテープと名づけておいたのであつた。たゞにこの海藻のことばかりではなかつた。越中渋渓海岸のツママの樹についても、同じ様であつた。又能登机島から唐島へ、唐島から和倉へと、吾々が往返した際にも、私のために、アユの風と今でも土地でいふかと、率先して舟夫にたづねて確めてくれられた様な周到ぶりもある。
 満二年の後、夏のまさかりに至つて、偶々憶出のあまりに日誌をくりひらきなどして、其時を偲ぶと、今の寂し(491)さがしみじみと感ぜられる。かういふ追懐に耽れば筆のとめどがなく、情緒は綿々として尺くるを知らない。
 今しもこれを書くわが中庭の葉蔭には、草雲雀が鳴きしきる。
        (原題「秋村翁を憶ふ」、昭和十二年十二月『秋村翁追懐録』)
           (『ちぎれ雲』に「越中より能登へ」と改題し収録)
 
(493) 未載篇
 
  『万葉図録』解説後語
 
 解説は印刷の都合と参照の便宜とにより、別冊として刊行することになつたが、今余白を利用して若干蛇足を加へておくと、「文献篇」は、鳥山氏専らこれに当り、佐佐木博士の厳密なる検閲を経たこと、「地理篇」は木水氏単りこれを負ひて、予一応の校定を施したこと、別に予が「図録跋語」に記るしておいた所でも知られよう。前者は簡潔を旨として記るされ、後者は周到を期して書かれ、いづれも並々ならぬ努力と苦心とが現はれてゐることは、読者のたやすく首肯かれる所であらうし、筆者両氏の労に対しては、誰しも深甚なる感謝の念を懐かれるに違ひない。一が謹直敬虔なる筆致に依り、他が豊麗優雅なる情趣を浮立たせ、均しくそれぞれ実物と現地とに人を力づよく引きつけてをることも亦確かである。殊に私が地理誌董督の責任上より更に一語を挟むことが容るされるならば、地誌はおのづから抒情的に傾き、書誌は叙述的に進むのは、対象たる自然の景物史蹟と、対象たる人工の書物筆蹟との相違上、当然趨向を異にするわけであるのみならず、地理上の考証は、書誌上の検校に比して、疑問とすべきものが頗る多く、論議の定めがたきものが往々存するのであるが、万葉学者ならぬ私としては、万葉地理に関する幾多の異説に対して、敢て裁断を下すことが出来ず、一に木水氏の中正妥当なる見解を敬重するにとどめざるを得(494)なかつた。況んや現地の踏査の如きに至つては、私の全く能くせざる所であつたから、同氏が多年万葉歌蹟に富める大和に住して同地方の地理に通暁せるに信頼するの外なかつた。ただ遺憾であつたのは、東西地を異にし、相互時乏しく、佐佐木博士の裁定を乞ふの余裕もなくなつたことである。既にして佳辰期迫り、私の武断を以て筆者を促励すること愈々急であつたがために、解説の内容行文共に暢達意の如くならしめなかつたことをひそかに木水氏のために惜むのである。切に読者および筆者の寛恕を望み、且つ専門家諸賢の高教を吝まざらんことを願ふ。
 聞く所によれば、本書どもの出版成就の為に、木水南方両氏兄弟の母堂が朝夕神前に祈願をこめられた由。私はそれを知りて感涙にむせんだと同時に、他方鳥山氏父子両所が各々実写と書誌とに尽瘁された跡を偲んで、それぞれ親子の情の濃やかさに感激しつゝ、今更ながらも憶良の名歌を吟誦することを禁じ得なかつた。
 『図録』は、当月十八日、寧楽に御滞留の高松宮同妃両殿下に佐佐木博士から献上せらるるの好機を得たと承つたが、同日橿原神宮の聖域に開設された国史館の万葉室に初て出陳せられた。而も翌十九日には、同宮殿下の神宮御参拝があり、そのおあとに両殿下で万葉室にも成らせられた。説明申上げた佐佐木氏の歌の一首に言ふ。
   新《あら》た代と息吹《いぶき》新たに万葉《よろづは》のにほふ巻々みそなはします
 なほ『図録』の跋語に書洩らしたこと一二を録しておきたい。その表装の色目は黒紫《くろむらさき》とよばるるものにして、見返へしは赤土《あかはに》色であり、箱貼は黄橡《きつるばみ》色であり、共に上代の匂ひ高く品位の勝れた色合ひであること、見返しの用紙は越中八尾の手漉和紙であるといふこと、最後に「文献篇」の写真の大部分は、この方面に卓技を有する東京の半七製版印刷所の手に成つたこと、等である。(新甞祭の日しるす)
   (昭和十五年十二月『万葉図録』「文献篇」「地理篇」解説)
                    (『あけぼの』に収録)
(495)   『万葉集独訳』題言
 
 今般藤代博士の十三回忌に際し、故人を追慕する意を表はし、且つ日独文化交渉の因縁を記念する一助として、博士壮年期の余力を傾注された『万葉集』独訳の大業の一部が独乙文化研究所に於て印行されることになつたのは、われらの如く独乙の学問に親しみ、故人の遺風を仰げる学徒にとつては、この上もない慶幸と致さねばならぬ。博士が『万葉集』翻訳の由来と其の成果とに関しては、遺稿たる『鵝筆餘滴』の中に自記され、述懐されてある所によつて知られるが、特に其の第五の巻の訳稿に対しては、博士の執着の甚だ強きものがあつて、それは大正九年の十月旧師フローレンツ先生をハンブルクに訪はれたとき、先生のお手伝ひをも煩はして、自身が三十年前の旧稿を筆写して持ち帰られた事実によつても其の一端を窺ひ知ることが出来るのである。由来『万葉集』巻五は、その編輯の径路に於て、その作品の特徴に於て、その題詞が漢籍仏典よりの典故を雑へた四六文の多き点に於て、二十巻中に異彩をなせる一巻であつて、従つて同巻の翻訳は博士が当時頭を悩した部分であると共に、晩年自ら認めて、「其独訳に多少成功した様な気がして居る。今から再度試みても迚も当時程力の籠つた翻訳は出来相に思はれない。其頃の根気と情熱は今の自分に望まれないと思つたからである。」と告白された重要な部分なのである。此の博士苦心の結晶とも謂ふべき遺篇が、今春博士終焉の地たる京都に於て出版される様になつたのは、追善の業として誠に結構な事と申さねばならぬ。况んや当初博士の助力に由つて其の日本学の功を収むること多かりしと同時に、博士の独逸学の育成に寄与すること甚だ深かりし故文学博士フローレンツ先生に対して、先生の懿徳を景仰(496)するにつけても、此の訳稿の印行が、大なる記念たるべきに於てをや。
                    (昭和十四年四月)
 
(497)   鴨川考
 
 この七月の末か、東方学術協会の夏期講演のをり、「鴨川の今昔」と題する小話を割当てられたことがあつた。そのとき唯一言、『万葉集』の鴨川は、ざんねんながら諸家の所説に相違して、京都の賀茂川ではなくして、山城は山城でも相楽郡の方の川、木津川また泉川の一部分名なる鴨川であることを言挙げしたのであつた。
 それから程なく、沢瀉博士その他によつて、万葉学会が組織せられ、本誌が発行されるやうになつたとき、私も入会し、そのしるしに本考を寄せませうと申出して、すでに予告にさへあづかつたのであつた。
 その歌は、『万葉集』巻十一の二四三一番、「古今相聞往来歌類之上」、「寄物陳思」歌のうちの一つである。
   鴨川の後瀬静けく後も相はむ妹には我は今ならずとも
とあつて、後世には「寄河恋」とも註せられた。今一々古来の註釈を引いて考証するの煩を省くが、近年も極めてむざうさに、何らの疑問を挟まずに、端的に京都の賀茂川だと断じてしまつてある。例へば、鴻巣氏の『全釈』にしても、武田氏の『全註釈』にしても、佐佐木氏の『評釈』にしても、極あつさり片づけてしまつた。奥野氏の『万葉山代志考』にても同様であつたか。また京都と奈良とを知悉せる春日氏の『総釈』にてすら、京都に味方してある。
 藤原為家の作に、この歌を取つた一首の次の歌があるが、これらで見ても古来、何となく京都の歌人や学者殆どすべてが、東西の万葉学者の多くが、一も二もなく直に京都の賀茂川に引きつけてしまつたのは、速断である。為(498)家の歌は、
   かも川ののちせしづけみさでさして鮎ふすふちをねるは誰子ぞ
奈良の都の方へも引きつけられさうにみえるが、これも寧ろ京都のつもりではないかと察せられる。 歌書に反して、地誌および史籍の方では、『万葉』の此歌を相楽郡の賀茂郷の方に引きつけてゐるのである。それは『続日本紀』巻十五、聖武天皇天平十五年八月丁卯朔、「幸鴨川、改名為宮川」とある簡明な文句によつて、時代が『万葉』の其歌とぴつたり正に合ふからである。例へば佐伯氏の六国史本の頭注にも、享保の『山城志』を引用して、「木津川すなはち古来著名な泉川、上古名高い山城川をさす」と解釈してある。但、そこには、惜しいかな、『万葉』の歌が結びつけてないけれども、常識から考へて見ても、万葉時代の鴨川が奈良に近い鴨川、すなはち同時代に改名された宮川、同地方の岡田の鴨神社の縁によつて改称された所の宮川、その旧名たる鴨川をさすものと考へなければならぬ。恭仁京、瓶原宮のこと、その『万葉』の歌などを思ひあはせると、先づ第一にそこの鴨川をおもひ起さねばならぬ道理である。好評ある『山城志』の巻十、「相楽郡」下の「山川部」なる木津川の条下のほか、「関梁の部」の加茂渡の条および「神廟の部」の岡田鴨神社の条をも参照したあと、更に「文苑部」の出水《イヅミ》(泉河、鴨川、木津川)の条下を通読してゆくと『万葉』の鴨河の後瀬の歌が引かれてをるのに注意されるであらう。
 かくの如く、何でもない常識だと、門外人には思はれるのであるが、つい平安京の鴨川に引かれてしまつて、何の疑も起さずに奈良の近所の鴨川を忘れてしまつたのである。『釈日本紀』に抄出してある『山城国風土記』に見える京都の賀茂河も、岡田駅の相楽鴨河と縁はあり、けだしその名称は平安以前にも遡り得るのであらうけれども、奈良朝の歌人また大和の歌人からすれば、先づ第一に近き宮川(泉川、木津川)の天平時代の旧名、よしんば改称以後にも及んで、岡田の鴨河をさしたものとする方が、妥当であらうと信ずる。
(499) 近年編纂された『京都市史』にも、『万葉』の鴨河については一言もしてないのは、平安京の同名河川とは没交渉だと認定した為であらう。半世紀前の名著ときこえた吾田東伍氏の『地名辞書』にも、相楽郡に鴨河を載せ、愛宕郡の賀茂川に『万葉』及び『続紀』の鴨河を結びつけなかつたのは正しい見方だとおもふ。
 以上が私の常識的な見解であるが、むろん之を近きに求めずして遠きに求めて当る場合が決してないとは云へない。近い相楽郡のカモガハからでなく、遠い愛宕郡のカモガハに即する所の俗謡が奈良の歌人に伝へられて採録され得たことを推定することも可能ではあらうが、プロバビリテはいづれに存するであらうか。(昭和辛卯の新嘗祭の夜)
                (昭和二十七年一月「万葉」)
 
(500)   潤和川と潤井川
 
 題名を詳記するならば、「『万葉集』に見えたる潤和川および閏八河と駿河の潤井川と」などと書くべきである。更に細記するとせば、「富士山麓の」ともしたい。富士の西南裾野から流れて後世の田子浦に注ぐところの著名な潤井川が、『万葉』巻十一の二四七八の閏和川、および二七五四の閏八河、いづれも「古今相聞往来歌類之上」のうち、「寄物陳思」の二歌のそれと同一ではなからうかといふ考説を、今この檜木舞台に演出したく思ひ立つたのである。
 ただし、今ここに細論を試みる余裕はなく、又最終的な結論に達したといふ自信をも抱かず、いはば中間的な報道にすぎぬ程度ながら、最近の万葉註釈書が、みな文献の考証も、実地の探究も、甚だ不完全なまゝ、急行列車で素通りするやうな勢で、深き考察をつくすことなく、一つには富士山や田子浦のやうな名勝でもないがため、二つには二首ともに名歌でもないがため、あまりにも等閑に付し去る傾向があるに対して、駿河にそだち、少壮時には、その河辺にあそび、その源流を知り、又その清流を掬しなどした自分としては、愛郷心にもそゝられて、昭和十一年の夏このかた潤井川考をものすつもりで、古今の文献資料を普くあつめて、現在に至つた。なほ尽くさぬ参考資料の渉猟も少くなく、況んや類名現地の踏査ないし探勝はもはや全く企て及ばなくなつた以上は、先づこの冬籠り期間に、所論の端緒だけなりとひらいておきたいと思つて筆を執るに至つたのである。
 尤も今私が問題にのぼせた富士郡の澗井川(また潤川ともかく)は、大和その他の近畿地方の名川でも大河でもな(507)く、越中や筑前などの確かな万葉歌蹟のある地方ともちがひ、歌蹟や史蹟が少々散在するばかりの東国地方に僻在する川名であるが故に、従来一般の地誌学者にも、万葉学者にも、殊には万葉地名研究家にも、さまでの注意をひかず、同情心をも趣味心をもひきつけず、万葉学者としては、『古義』の鹿持雅澄、地誌学者としては、『大日本地名辞書』の吉田東伍、前者は幕末、後者は明治中期にあたり、漸く近世の潤井川を『万葉』の潤和川に擬定せんとしたのである。昭和時代の地誌は、概ね吉田博士に順つたばかりで、特に歴史地理学的新研究を進めなかつたが、万葉学者の方は、近年の井上、佐佐木、武田の三博士とも、また鴻巣氏も、或は否定、或は懐疑、或は躊躇、いづれも、深広な考究を進めずにしまつた。井上博士の如き、郷土心のためとも思はれるが、その『新考』においては、播州明石郡の伊川谷村の大字なる潤和(ジユンナ)に参照されたにすぎない。惜むべきである。古風土記に見えぬのは是非もないが、伊川谷村また潤和の地名史的考証が欠けてゐる。古い出典も挙がつてゐないし、又その訓読音読の推移の跡もわからない。
 若しウルヒなどといふ地名を広く索めるとなると、後世の郷名としても『和名抄』の郷名に、上総国に三ケ所を見出し得るし、その他にも、潤の字、又ウルとかウレとかの音を頭にいただく地名は、あちこちに散見するが、一往の参照にとどめて、ここでは、敢て一々追究せずにすすむとしよう。
 駿河の国にもどつて、富士の裾野の古地名を探ると、『和名抄』の郷名に、古家郷〔三字右○〕といふのが存し、それがフルイヘ又フルイとよまれ、尚ほフルヤともよみ得られる。そのフルイがウルイ(うるゐ)となつたのだといふ説は、吉田氏の辞書にも採られ、今の田子浦村に擬定してある。これは幕末以来、わが駿河国には、地誌の編纂が、府中(静岡)を中心として、江戸より駐在の旗下の士や小諸侯および土地内外の好学の徒によつて割合に多かつたがために、古家郷のことにしても潤井川の当代にしても、相当の研究が出来てゐた。従つて或程度まで私たちの考証の手引には恩沢を被むつてゐる。然れば、それらの新旧両地名の合一性を指示したのは、かなり古く、寛政九年序跋(502)の『東海道名所図会』にも利用せられてをる。今一々拠所の年代伝統を詳説しないが、とにかく、潤井川の名を古家(フルイ)川に出づるものとする考案は、天明寛政年代までは遡るわけである。さうすると、それに由れば、『万葉』の潤和川に基づくといふ考は自然消滅せねはならぬ。音韻史的には、フルイヘからフルイに、フルイがウルイ(うるゐ)に変ずることは不可能ではないといふ丈であつて、古家郷が果して、今のこの川の下流域に在りしや否やについての疑問がのこる。即ち未だ確定的な決論がつきにくい憾みがある以上、姑くフルイの語源考を留保しておかねばなるまいと思ふ。
 然るに、流布本の『東海道名所記』、寛政よりも約百五十年ほど古い万治元年の作とあるこの名著には、鵜かひ川と出てをり、それに由つてか、元禄二年版の『一目玉鉾』にも亦おなじである。これらは大抵その川の下流をさしてをると想はれるが、これは「うるひ」の「る」の平仮名を、今は変体仮名にされた所の、「か」の別字「〓〔変体仮名のか、可の草体〕」にまぎらかして、ウルヒをウカヒとよみ、更にそれに由つて鵜の漢字を充てたものと推知される。これら二つの俗書はさておき、元禄期の貝原益軒の『吾妻路の記』や、寛政期の大田萄山の『改元紀行』などには、「うるい川」と出てゐるから、上記の俗本は衍りだとしてよろしいと信ずる。宝永年間の『東海道駅路の鈴』にも、やはり同じである。これら諸書みな、この川の本源を大宮いまの富士宮市の浅間神社の御手洗より涌出ると、極大体のところを略記してをる。自身が実地観察の結果ではないが、東海道の旅行く人々が、この川を知り、伝聞によつてその水源を知つてゐて、その紀行文に記載したことも首肯される。尤も何の川でも下流は濁りがちであるわけだから、下流に沼川の濁水をも加へ加へて、上流の清流や名川としては特筆はされずにしまつたのだ。ただこの小川が、とにかく旅人にしばしば注目されたことは事実であつた。
 なほ『古義』の引用者は、現行合刊流布十冊本のうち、第五冊の巻十一中下の二巻のほか、第九冊なる『枕詞解』巻一のみならず、殊に同冊の『名所考』巻一の此の川に関する細説を見のがしてはならないのである。既刊諸書の(503)うち、私の眼に触れたものでは、右の細説における鹿持の所説が、最も精緻なのではなからうかと思ふ。惜むらくは、駿河の地誌家には、一の万葉学者なく(その点西隣の遠江とは格段の相違がある)、潤和川とウルヰ川との関係を不問に付してしまつた。その遠州の真淵翁が、この川に対して殆ど無関心といつてもよい程であつたのもいささか不思議である。『岡部日記』を検してみても、前後共にこの川に目もくれなかつた。従つて私は「遠江歌考」の如きものを、駿河歌に対して作つてみたいとの念願は、今なほ止まないが、力の及ばぬことを嘆くばかりである。かういふ意味で鹿持翁に対して先づ感謝したい心持が切に動かざるを得ない。
 感情が先立つては、学問の障りにもなるが、しかし、今の潤井川の上流、源流の一つにもなる浅間神社の御手洗川、吉原の今泉といふ地の清泉、更に遠く上つて白糸の瀧などを、少壮時に勝覧し遊寓したのが、先入主となつた自分が、老後ますます山を楽み水を愛するあまり、前回には「鴨川考」を寄せ、今回は「潤和川考」を著はすに至つたのも、愛郷心にそそのかされての邪道かも知れないと、慎みつつ、考証を益々随筆風に進めてゆくことを諒察されたい。「鴨川考」の根拠はあれだけであつて、極めて簡単に決論がつくと信じたが、ただあの折には、所蔵本の奥野健治氏の『万葉山代志考』の如き先進の良著を書庫に見出し得ず、昨年の夏における「鴨川の今昔」に関する拙講の余稿を綴つて寄せた不行届さは、沢瀉博士にもおわびしたが、わざわざ釈明にも及ぶほどの要もあるまいとの事で、その侭になつた。
 『平家』や『盛衰記』『吾妻鏡』等にはこの川は全く出ても来ず、もしやとすがつた『曽我物語』にも現はれず、『海道記』や『東関紀行』にも失望した。『更科』はとてもだつたが、『十六夜』をも恨みはてた。中世の紀行軍記の諸篇には未だ十分に目が届かず、わづかに続類従本の『春能深山路《はるのみやまぢ》』、弘安三年十一月二十四日の条に、文献上はじめてわが「うるひ川〔四字右・〕」が記るされてあつたのを見て、この紀行文の書誌学的吟味は後まはしにして、一往喜ばずにはをられなかつた。富士川を東へ渡り越す前後の文を抄出すると、
(504)   あまたせ(瀬)ながれわかれたる中に家せう/\あり、せきの島とぞいふなる、又少宿あり、田子のすくとぞ申める、宿のはしに川あり、うるひ川〔四字右・〕、これは浅間大明神ほうでんの下より出たるみたらしのすゑとかや、かつらぎの神ならで、はしわたらさしされば(?)、舟にてぞわたる、とものものどもわたるをまつほど、よしわら(吉原)とて少し家のあるにたち入て、あまり寒ければ、しばをりくべて、つく/”\と、ふじの山みやりてぞゐたる。
後文にも参照すべき所があり、この辺の地勢の変動、地名の変遷をも知るに足る資料が、これ以前の文献と考へ合はされるものが存する。殊に三島神社の御手洗川のこともいささか出てくる。かの有名な俚謡(「富士の白雪朝日にとける、云々」)は見らるべくもないが、とにかく浅間神社のそれと併せて考へ合はせておくべきである。この日記の作者の姓名は明かでないが、京都の歌文の才に富む鎌倉末期の一公卿の手に成つたものと思はれる。
 かうなると、光行でも親行でもまた阿仏にしても、筆にこそせね、右の文とおなじやうな観察と少くとも一顧を与へた筈で、まんざら無関心で通りはしなかつたと推察されて少々うれしい。かくて『更科』の乙女を憾み、西行には大磯を羨みなどして能因や実方から、はては赤人黒人にも及びもして、潤和熱といふべきものにでもかかつた様な心地だ。
 富士大宮市には、曽官一念画伯が住はれ、しかも潤和川べに家があり、画筆をその水流で朝夕に洗はれるさうで、すでに随筆の『裾野』などにおいて簡単な描写が示されてをる。小島烏水の裾野の紀行にはこのみたらしの水に極少し触れた。流域の地図の詳細は、旧陸地測量部の五万分一の駿河大官と吉原との二図で足りる。長さ七里ほど、約二〇キロと地誌に記るされる川なのである。
 上記の万葉古歌二首は、地方の民謡が本体であつて、ウルワとウルヤ又はウルハとあるのも同源に違ひない。ハとワ、ワとヤとの各二音の相通ないし転換は説明し得る。アサカシハとアキカシハこのアサからアキへの変化はむ(505)ろん音韻変化ではなく、一方が朝、他方が秋、同趣の歌意から分化しただけのもの、一方が朝時に閑し、他方が秋季に関して、口誦されたものではあるまいか。柏、正しくは※[木+解](カシハ)、西洋のオーク、Quercus dentata、TH. で、カシハ餅にするそれである。「仁徳紀」にもみえた磐之姫皇后のお歌にも見えたカシハとの異同は別として、神事に縁がある木の葉であらうし、且つ他方には恋愛にも関係ありげである。ここでは富士浅間に因みがありげに感ずる。折口博士などに、非凡な着想が聞けないであらうか。先般出逢つた柳田翁に、民俗学的説明を求めればよかつたのに、ざんねんだ。ともかくも、地名考をも含めて、広く万葉学者の高教を仰ぎたい。(昭二七、一一、一四)          (昭和二十八年一月「万葉」)
 
 
(506)   潤和川再考
 
 去年正月号の本誌上に、『万葉』の潤和川(また閏八川)が、いまの富士山麓の潤井川にあたりはしまいか、といふ論考を出した後、補充また多少補強したい所もあつたが、一年あまりも経つてしまつた。このほど沢瀉博士の寛容によつて、再び拙考を追補することが出来るのを、うれしく思ふのである。去年五月中旬、東京からの帰洛の途、東海道線を西下して、富士山麓を空しく通過しつゝ、その潤井川、すなはち今の田子浦あたりで、その下流をわたり越して、その源流を探勝し、その流域をべつけんする機会を放棄した無念さ未練さを胸にいだき、霞にまぎれた霊峰をほのみて満足したことがあつた。東京で求めた『斎藤茂吉全集』の第八巻に、特にめざした其の「ドナウ紀行」その他を敬読しながら故人を偲びもした。その折の感想を、この二月の翁の一周忌に際して、
   五月富士ながめつつ来し旅路にてドナウ紀行をよみてしぬびし
の一首ほか二首を手向けた。
 閑話休題、さて今のウル井川、昔も大した変動はなかつたらうと推定される其の川の源流は、むろん富士大宮の浅間神社の御手洗川のみではなくして、やゝ複雑とも見えるが、中世近世の紀行文などには、唯一の源流らしく書いてあるのは、推定また臆断にすぎぬ。この川の上流なる富士宮市の泉と称する川沿ひの地に住する曽宮一念画伯よりの報告および略図によると、御手洗川も一つの源泉には相違ないが、唯一の源流ではないやうにみえるから、この事実を一往たしかめておくのである。又私が初め想像した白糸の瀧も、この川に落ち込むかと推定したが、そ(507)れは曽宮氏に従ひ又地図によつて考へても、さうでなく富士川へ注流することになる小川であつて、ウル井川とは全く流派を異にするのであることをも一言ことわつておきたい。昔々、明治三十三年の夏、相共に若かりし頃の辻善之助博士とふたりで偶然当時の富士郡長(加藤秀寿翁)に招かれて、この御手洗川の源泉のほとりで、神社か小学校かで一場の小話をした思出があるばかりでなく、中古には駿河国守の平兼盛、すなはち三十六歌仙の一人たる名流歌人が、この御手洗川で詠んだ一首も歌仙家集や勅撰集に見えてをり、ほかに尚ほ三四首ほど関係歌が残つてをるのが、更に私をして情緒的に綿々として私の心を強くひきつけるのである。但し、私はそんなことを以て、万葉時代の川名の考証を強化しようとは思つてはゐない。『万葉』のウルワが、今のウル井の根源だとなれば、うれしいといふ丈にとゞまるのである。
 駿河守平兼盛は、一条帝の正暦元年の卒去、『拾遺集』に三十七首を載せられ、『後拾遺』および『詞花』や『読後撰』等の分を加へて八十三首を勅撰集中に有し、『百人一首』第四十歌に「忍ぶれど色に出にけり云々」の恋歌を以て著聞せる歌人で、天暦天徳時代の歌人である。同第四十二歌の清原元輔(肥後守、永詐二年、兼盛と同年に卒)の「末の松山」の名歌等の如く、歌枕でよんだのではなく、国守として現実に根ざして詠んだ歌である。
 さて兼盛の御手洗川の歌は、勅撰集には載らず家集に出てゐる。詞書が用をなす、
    駿河に富士といふ所の池には色々なる玉なん涌くといふ、それ臨時の祭りしける日よみてうたはする
   仕ふべき数にを取らむ浅間なる御手洗川の底にわく玉
当時の国府いまの静岡から国守兼盛が出張して臨時の祭祀のために、富士宮市(大宮)の浅間神社の涌玉の御手洗川に即してよんだもの。この歌のあとに宇土浜や田子浦や清見関や横走関(駿東郡足柄村)などが、詠まれ、伊豆(三島)のことも出てくる。後世また現代に聞こえてゐる潤井川を暗示する何等のヒントはあらはれてゐない。
(508) かくて程経て、約三百年後の弘安三年の『飛鳥井雅有日記』の御手洗川ならびにウルヒ川に及んでくるのである。この日記の書誌は、佐佐木信綱博士の「竹柏園蔵書志」また同博士の著、『国文学の文献学的研究』にもみえ続類従本の『春能深山路』から前出の拙考に引抄した八行ほどの文章を、その後、駿遠の風土の地理に通じた鎌倉の関口泰から、あの引用文第五行目の「神ならで、はし〔右・〕わたらさしされば」とあつた十四字を、「神ならではえ〔右・〕わたさじ、されば」と読む案を書きよこし且つ、宗良親王の岳麓通過の紀行歌文集(『李花集』の如き)を参考したらば如何と、加勢しても来たし、且つ自身も探究に出かける機会もあらうなどと、老山岳家が昔執つたキネヅカならぬピッケルとでもいふべき余勇を示して来て、声援奨励してよこしたが、未だ文献の渉猟すらつくせぬ老いの身にしては、とても手も足も出ずにしまつた。
 自分の想像する所、『万葉』の大和びと、又奈良びとには、存外に、東国の山川勝地や歌枕は風聞されてゐたものと想定され、十四と二十との両巻のほか、名山となく、無名の小川ともなく、民謡その他の国風の中にまぎれこんで残つてもゐると見られようし、すでに富士川以西(以南)の山海汀浦にもすでに擬定存疑の地名も散見せること、万葉学者、地名論者の均しく知つてゐる如くである。向後、ウルワ(ウルハ又ウルヤ)川のことも、語史学ないし音韻史学の上から、追究をすすめてもゆくべきである。
 閏八河をウルヤガハと訓ずべきか、ウルハガハと訓ずべきかの論につきては、古代におけるヤ音ワ音の相通例、又は変遷例をひろく考究する必要があり、今直ちに私は決しかねる。万葉歌の用字式の上から、或はウルヤと音ずべきがより適当であるにしても、片仮名「ハ」の字源たる「八」の文字のことでもあり、一往は音読に傾かれるが、本集における此の字の用字例の多数決からいふと、ハとよまずに、むしろヤとよむ方がよいのかもしれぬ。しかし通音或は仮名遣の一貫論を固守するとなると、ヤとよんで、ワヤ通音また転変に解決の一路を見出すべきかもしれない。これらの論断については、他日の事にゆづらうが、西欧言語史学上のラウトゲゼッツ的な論になると、事容(509)易に片づくまいとおもふ、橋本博士等の音韻論と共に。
 更に論が同じ方向に転ずべきだが、ハ行音(上代のP音が、F音に転じ了つた時代、ないし過渡時代、FH変遷時代などは極めて複雑)がワ行音に転じた時代も亦その過渡期は(地方的にも歴史的にも)複雑を極めたわけだから、ウルハとウルワとの関係も、往時の国語学者が考へた如く、そんなに確定的に判然たるものではなく、漸次的に複雑微妙であつた筈である。
 そこで端的に語源論に入つて一往拙考を要結するならば、ウルハ、ウルワ、次にウルヒ、ウルヰ、その根源は、けだし第一には美麗の義であり、伝来の『新撰字鏡』両本にも宇留和志と其仮名が施こしてあるのでも古来、顧慮されてをるが如く、その外、ハ行音が夙にワ行音に、逐次漸進的に転変し来たりし形跡を物語つてゐるのである。閏の字および潤の字の字義も、ウルホフ、ウルフ等、根本はウルハシと同致であらう。転義や末義においては、語感的にはもはや連想群から分裂し了つたにしても、古く遡れば融会する所があつたと推察される。
 最後に、富士山麓の古代交通路史、及び山麓の沼沢地帯の変遷史などについても、また富士登山史、殊に登口史、大宮浅間神社の源始などの歴史地理についても、精査してみたいと空想しつつ今日に至つた。
 最後に付記すべきは、前稿第二頁上段にて井上通泰博士の播州明石郡伊川谷村の大字だと称せられた潤和(ジュン)の説に関して、「奈良文化」第二十八冊に、正宗敦夫氏の「潤和川辺」の一文と、更に重要な土屋文明氏の『万葉紀行』中における「潤和川」の広汎かつ精深なる一長文、実地踏査と文献考証とを兼ねて、見逃がすべからざりし参考論文と、これら二篇を見おとして居たことを遺憾とする。播州説にしても、先行の駿州説にしても、共に未だ論決を見ざる所のものにして、いづれも各論者自身が一往新たに提出した考案にすぎず、切瑳の一過程にとどまるものだとおもふ。(昭和甲午如月念五)
 
(510) 〔追記〕 ウルワ及ウルハ川と同じ巻の第十一の二六九六の歌の師歯迫山(シハセヤマ)をも巻十四の三三五五の之婆山(富士の芝山)と同じだと考定する一説も存するが、私は未だ広くも深くも研究してゐない。    (昭和二十九年四月「万葉」)
 
 
(511)   万葉学を修めて
 
 私が中学時代、明治二十一年乃至二十五年ころには、まだ国文学は正科になかつた時代だつたから、田舎の中学では尚更で、十五代将軍の慶喜公の家庭で、初めて千蔭の『万葉集略解』の、あの黄色い模様の表紙の原刊本を本箱から出して拝見した時の喜びは、今でも忘れられぬ程で、明治二十四年、私の五年生のころ、「早稲田文学」の「講義録」に、畠山健翁の「万葉集釈義」と題した、連載もので通しペイジの、初学者への啓蒙的なのが、最初の手引草であつた。尤も、それよりも数年前、明治二十一年ころ、大八州学会から、木村正辞先生の『美夫君志』の講義録が出たことがあつたが、それは後に知つたのであつた。畠山翁は、本集文字の用法を、予め指示されて、「出デ」に、山上復有山の五字を戯書した異様の一例を示されたが、偶々自分の名前であつたので、忽ち『万葉』に親しみを感じ、この五字を印刻させて、むやみに押して楽しんだ幼稚振りも、今尚なつかしい。とにかく翁の「釈義」は、本集の巻一だけで了つたので、今もその一冊を綴ぢて原形の侭保存して貴重本として居るが、而も東京専門学校の出版と銘を打ち、坪内雄蔵を編者とした極初期の雑誌で、その上、その再版本の雑誌であるだけ一層珍しいわけだ。
 とにかく、私の万葉学の修業は、そこから始まつたので、その一八九一年、明治二十四年から、沢瀉久孝翁の『注釈』巻第一の出始めた昭和三十二年十一月に至るまで、その間、正に六十有六年、畠山翁には、東京高師の同僚教授として、木村正辞先生には、初期の国語調査会の補助委員として、再び請益の幸機を得たりしたけ(512)れども、むろん作歌の道においても、研究の筋においても、『万葉』の学には、全体にも、部分にも、博通深到することなく、恒に最近の半世紀間、先進講師友よりの啓発を受け、私淑に接しつつ、『万葉』の学堂に昇つたばかりに過ぎない。その間に在つて、斯道の専門家に親灸して、学恩学益を受けたことは、無限であつたが、就中、佐佐木信綱大人をはじめ、故友武田祐吉博士、万葉英訳の修行期における故人斎藤茂吉博士等々、土屋文明氏の近著など、列挙にいとまがない。
 追憶の閑話、述懐の感想、それらはさておき、最近までの文献校勘学、それにつきては、佐佐木米寿翁の『校本万葉集』の偉業を第一に推さなければならぬことは当然であるが、沢瀉氏の今般の『注釈』は、晩年畢生の労苦を捧げた所の、斯学無比空前の偉大な業績たることは、衆人の熟知せる如くであつて、殊に著者を敬愛せる親友の一人としては、伊勢の大神を首め、四方八方の文神の冥護に依つて、今将に四分の一だけの、五巻の刊行を完了せんとする際、吾々の平安京の東北の名山に、鎮護国家の大任を自覚された大師に対しても、冥加あらせたまへと祈願してやまないのである。
 惟ふに、今回頒布されんとする第五巻は、古来その特色の濃厚を以て著聞し、筆者が東大卒業のころ、先輩芳賀矢一氏の所説このかた、その根原資料への遡源追究、その所依思想の多岐性の剖析、歌体の異相多様など、諸学者の夙に着眼し来たりし所であつて、著者久孝博士も、在学進学ないし琢磨切磋の時代において、早くも之が論究を尽くされた経歴を追憶してみると、本巻に関する造詣と蘊蓄とを、十二分に発揮されてあるべきことを、私かに期待しつつ、わが老いらくの為楽の随一とする次第なのである。
 憶良旅人の時代に、すでに伏流し闇流した所の、老荘思想、社会思想なども、特にこの第五巻には現はれ、内外思想の交流の一端が隠見せるさま、すでに英訳万葉の際にも、諸学者の指摘して、その微妙さに興味が集注したことも回顧されるが、けだし今般の本書によつて、愈々よく明かにされるに違ひないと私は信じたい。
(513) 細かい個人的な点を付記するならば、私の愛誦する歌も、割合に本巻中に多い様に思ふ。現にこの春、梅の花の歌を詮索したとき、著者の教示をも受けたのみならず、樹木を愛するに一層の情熱を有する私としては、別巻における大伴旅人卿の天木香樹、ムロノキ、即ち、ネズミモチ、をはじめ、此の巻における梅の木につきては、格段深い因縁や愛執を感ずるのであり、且つ私が旅人卿と同じ哀愁の情緒をおぼゆること深いからでもある。烏梅の二字を故大槻文彦博士が、邦語ウメの語源考に取られたやうな新説も見えたが、万葉学上ではそこまで触れられる必要はなかつたであらう。本巻に散見せる所の倫理観などについても、いろいろ見解の相異もあらうけれども、私は「久方の天路は遠し尚々に家に帰りて業をしまさに」の、平凡な思想を、常に支持して、この一首をも尊信してをる。この初夏、六月七日、熱海において門下数百人より頌寿慶賀を受けられた佐佐木米寿翁の述懐の筆に、山上憶良の「沈痾自哀」の漢文と和歌とに対して感傷の情をもらされたことも、お互ひさまの老情の常であつたが、いよいよ老来かくしやくにおはすことは、斯学上からも欣懐のいたりである。
 とにかく、人生観、生死観、愛国愛児、貧窮問答、神話民話、第二十巻と正に反照して、人間的、現世的と同時に超現世的なる思想の交流交錯がみえて、名詮自性の「雑歌」の百十三首、相聞の作がないので、単純と寂寥に傾くの嘆はあるにしても、人情味は至つて濃厚な、此の一巻がいましも世に送られるのは誠にありがたいことである。
  (昭和三十四年十月『万葉集注釈』第五巻付録)
 
(514)   羽衣伝説拾遺
 
 これまで本誌上に採録せられたる羽衣伝説の外に、純然たる白鳥処女式の一伝説の書洩らされたるあり。そは『帝王編年記』に見えたる近江国与胡の湖における伝説にして、古風土記の逸文と称せらる。『帝王編年記』元正天皇養老七年の条を見るに古老伝とて左の記事あり。今和訳して之を示さむ。
   近江国|伊香《イカゴ》郡|与胡《ヨコ》郷伊香小江は郷の南に在り。天の八女《ヤヲトメ》倶に白鳥となり、天より降りて江の南の津に浴す〔十九字右○〕。時に伊香刀美《イカトミ》西の山に在りて遥に白鳥の形の奇異なる〔九字右○〕を見て、若しこは神人ならむかと疑ひて、往いて之を見るに、実に神人なりき。是に於て伊香刀美愛でゝ、還り去ることを得ず。竊に白犬〔二字傍点〕を遣りて天の羽衣を盗み取りて弟《イロト》の衣を隠くしければ、天女乃ち知りて、その兄《イロネ》七人天上に飛昇りき。その弟《イロト》一人飛去ることを得ずて、天路永く塞りて、即ち地名となれり。天女の浴みし浦は今神浦といふ是れなり。伊香刀美天女の弟女と共に室家を為り、此処に居て遂に男女を生めり。男二人、女二人〔六字傍点〕あり。兄の名は意美志留《オミシル》、弟の名は那志等美《ナシトミ》、女の名は伊是理比※[口+羊]《イセリヒメ》、次の名は奈是理比売《ナセリヒメ》といふ。此は伊香連の先祖なり。後に母天の羽衣を捜取り、着て天に昇りき。伊香刀美独り空床を守りて※[口+金]詠断えず。
 これ丹後、駿河及び琉球の羽衣伝説に比するに、その天女が白鳥なることを明言せる点に於て、正に一歩を進めたるものなり。尚ほ『常陸風土記』にも白鳥処女式と見らるべき一小話あり。同書「香島郡」の条に「郡北三十里白鳥里、古老曰、伊久米天皇之世、有白鳥、自天飛来、化為童女、夕上朝下、摘石造池、為其築堤徒積日月築之、(515)築壊不得作成、童女等唱曰、志漏止利乃《シロトリノ》、芳我都都弥乎《ハガツツミヲ》、都都牟止母《ツツムトモ》、安良布麻目右疑《アラフマモウキ》、波古叡、斯□□唱歌昇天、不復降来、由此其所号白鳥郷」とあるこれなり。白鳥に関する記事は本邦古代の史実及び伝説に見ゆること少しとせず。日本武尊の薨じて白鳥となりたまひし故事、白鳥が餅に化し、更に芋草数千許に変ぜし説話、「白鵠の〔三字傍点〕生御調《イキミツギ》」、「獲白鳥養之」、などをはじめ、『万葉集』には「白鳥の」と枕詞によみたる例も見えたり、記して参考に資す。
 さてかの近江の羽衣伝説は後代に至りて種々の付会を得たり。『菅章長朗詠抄』に、
   昔余吾の海に天人下り、羽衣をれうしに盗まれ、心ならずれう師の妻となり、年月を経て、羽衣を取得て天上し、再び人界に下りてれふ師と共に天上す。女は織女〔二字右・〕となり男は牽牛〔二字右・〕となる。其再び天へ上るの時、梶の木の上より糸をおろし、是に取付て登る故に、二星の手向に梶の葉を用ひ、願ひの糸とて五色の糸を用ふ、云々。
とある由馬琴いへり。こは羽衣伝説に七夕伝説を付会したるものにして、なほ同じ例は『雑和集』にも見えたり。即ち左の如し。
   昔近江国余湖のうみに、織女〔二字右・〕の下りて水あみけるに、きりはた大夫〔六字傍点〕と云男行逢て、ぬぎ置る天の衣をとりたりければ、たなばた〔四字右・〕へ帰り登らで、やがて其男の妻になりて居給ひけり。子共生て〔四字傍点〕、年頃になりけれども、天上へ登らん志失ずして、常はねをのみなきけるに、此男ものへ罷りたる間に、其子父の隠し置たる天衣を取て与へければ、母喜でそれを着て、飛上りにけり。此子に契りけること、吾はかゝる身にあれば、をぼろにては逢ふまじ、七月七日〔四字右・〕毎に下りて、此湖の水をあぶべし、其日にならば相待べしとて、別の涙を出し流しける。偖其子孫今まで有となん申伝へたる。
 伊香郡川並村に羽衣天神祠〔五字傍点〕あるよし『地名辞書』に見ゆ。同村には又天満天神社あり、菅丞相の霊をまつれり。
(516) 『近江輿地志』にその縁起を載す。その縁起にいはく、
   昔この郷の首長、桐畑太夫一日湖上舟遊の帰るさ羽衣を得、天女の之を要むるをも聴かず、終に家に伴ひ帰りて、妻とす。後一男子〔三字傍点〕を生む。天姿端正、夫婦之を愛撫す。一日羽衣を虫干したることあり。妻間を窺ひて之を得んとせるに、童児来りて天衣をとり将に之を被らむとす。大夫之を見、童を携へて奥に入りぬ。その間に妻は羽衣を着し、飛行して虚空に昇る。さすが三年〔二字傍点〕の契り、愛憐はなれがたく、大夫幼児共に手を挙げて泣悲むこと限りなし。後菅原是善公この余湖の湖水に遊びて、「よごのうみきつゝなれけんをとめ子が天の羽衣ほしつらんやは」と詠じ、又桐畑の家に泊してかの童の威猛を知り、養ひて子とす。これ即ち菅公なり、云々。
とあり。これ羽衣伝説を菅公の誕生に牽強したるものにして、偉人の出所に関する是種の説話は類例極めて多かり。
 又『決海温故録』には、余吾湖の羽衣伝説に関して左の民談を載せたり。
   民談に、此入江水清潔にして極て勝景なれば、或時天女降て羽衣をぬぎ、翫水しけるを、余古の某彼羽衣を取て家に帰る。天女衣なくては天上すること能はず。彼者所望すれども与へず、詮方なく夫婦となり、止りて一人の男子〔五字傍点〕を生ず。既にして天女羽衣のあり所を知り頓て取収めて男子に云て曰く、我は天に帰るなり、逢はむと思ふ心あらば、鼬鼠の皮を千枚重ねて焼きて其上に瓢を植うれば即時にその蔓天に上らむ〔五鼬鼠の〜傍点〕。この蔓に取付きて伝ひ上るべしといひ置きて天に帰れり。某これを聞き大に驚き教に任せて右の術をして忽ち瓢生して天へはひ上る。幼児これに伝ひ上りて天上すといへり。
 以上大同小異の諸伝説みな余呉湖における羽衣伝説なれども、『帝王編年記』に見えたる所を、最古純粋のものとなすべし。これ恐くは本邦に於ける白鳥処女式の最も純粋に保存せられたる説話なるべきなり。既に本誌の諸家が述べられたる如くこの伝説は広く東西諸国にあらはれたると共に、日本に於ても各地方に普及せるものたるは疑(517)ふべからず。比沼山、三保松原、吉野宮、白鳥里さては余呉湖のをはじめとして、古書に口碑にその例少からざるべし。また一地方の同式伝説にも多少の変遷と相違とを見ることは、既に近江のにて吾人の知りたる所なれど、吾人はわが駿河に於ても亦二三の異聞を挙ぐるに苦まざるなり。即ち『竹取物語』、都良香の「富士山記」、『海道記』等に散見せる所となれり。『海道記』には、
   昔稲河大夫〔四字傍点〕といふ人、天人の浜松の下に楽をしらべて舞けるをみて、まなびて舞けり。又人のみるをみて鳥のごとくに飛で雲に隠にけり〔十四字右○〕。其跡をみれば一の面形を落せり〔八字傍点〕。大夫これを取て寺の宝物とす。よつて其寺に舞楽をしらべて法会を始行す、云々。
とあり、『東海道名所図会』に風土記を引きて羽衣を羽車〔二字右○〕の誤なりとせるは一異説として存すべけれど、吾人は羽車と解釈するかたの却て不自然なるを覚ゆ。
 
   参照 羽衣伝説の研究        高木敏雄
      羽衣伝説数種         上田 敏
      琉球にあらはれたる羽衣伝説  岡倉由三郎
      銘苅子            同
                       (明治三十三年八月「帝国文学」)
                       (『新村出選集(二)』に収録)
 
          2006.7.20(木)  入力終了