坑夫

三四郎　　　　　　　

それから　　　　　　

門　　　　　　　　　

　

　　　　 　 　　　坑夫

明治四一、一、一−四一、四、六

　

　さつきから松原を通つてるんだが、松原と云ふものは繪で見たよりも餘つ程長いもんだ。何時《いつ》迄行つても松ばかり生えて居て一向《いつかう》要領を得ない。此方《こつち》がいくら歩行《あるい》たつて松の方で發展して呉れなければ駄目な事だ。いつそ始めから突つ立つた儘松と睨《にら》めつ子をしてゐる方が�揩ｵだ。

　東京を立つたのは昨夕《ゆうべ》の九時頃で、夜通し無茶苦茶に北の方へ歩いて來たら草臥《くたび》れて眠くなつた。泊る宿もなし金もないから暗闇《くらやみ》の神樂堂《かぐらだう》へ上《あが》つて一寸寐た。何でも八幡樣らしい。寒くて目が覺めたら、まだ夜は明け離れて居なかつた。夫《それ》からのべつ平押《ひらお》しに此處迄遣つて來た樣なものゝ、かう矢鱈に松ばかり並んで居ては歩く精《せい》がない。

　足は大分《だいぶ》重くなつて居る。膨《ふく》ら脛《はぎ》に小さい鐵の才槌《さいづち》を縛り附けた樣に足掻《あがき》に骨が折れる。袷の尻は無論｜端折《はしを》つてある。其の上｜洋袴下《ズボンした》さへ穿《は》いて居ないのだから不斷なら競走でもできる。が、かう松ばかりぢや所詮｜敵《かな》はない。

　掛茶屋がある。葭簀《よしず》の影から見ると粘土《ねばつち》のへつゝい〔四字傍点〕に、錆《さび》た茶釜が掛かつて居る。床几《しやうぎ》が二尺｜許《ばか》り徃來へ食《は》み出した上から、二三足｜草鞋《わらぢ》がぶら下がつて、袢天《はんてん》だか、どてら〔三字傍点〕だか分らない着物を着た男が脊中を此方《こちら》へ向けて腰を掛けてゐる。

　休まうかな、廢《よ》さうかなと、通り掛りに横目で覗き込んで見たら、例の袢天《はんてん》とどてら〔三字傍点〕の中《ちゆう》を行く男が突然｜此方《こつち》を向いた。烟草の脂《やに》で黒くなつた齒を、厚い唇の間から出して笑つてゐる。是はと少し氣味が惡くなり掛ける途端に、向ふの顔は急に眞面目になつた。今迄茶店の婆さんと去る面白い話をして居て、何の氣もつかずに、つい其の儘の顔を徃來へ向けた時に、不圖自分の面相に出《で》つ喰《くは》したものと見える。ともかく向ふが眞面目になつたので漸く安心した。安心したと思ふ間《ま》もなく又氣味が惡くなつた。男は眞面目になつた顔を眞面目な場所に据ゑた儘、白眼《しろめ》の運動が氣に掛かる程の勢ひで自分の口から鼻、鼻から額とぢり／＼頭の上へ登つて行く。鳥打帽の廂《ひさし》を跨《また》いで、腦天迄屆いたと思ふ頃又白眼がぢり／＼下へ降《さが》つて來た。今度は顔を素通りにして胸から臍《へそ》のあたり迄來ると一寸留まつた。臍《へそ》の所には蟇口《がまぐち》がある。三十二錢這入つてゐる。白い眼は久留米絣《くるめがすり》の上から此の蟇口を覘《ねら》つた儘、木綿の兵兒帶《へこおび》を乘り越してやつと股倉《またぐら》へ出た。股倉から下にあるものは空脛《からすね》許《ばか》りだ。いくら見たつて、見られる樣なものは食ツ附いちや居ない。たゞ不斷より少々重たくなつてゐる。白い眼は其の重たくなつてゐる所を、わざつと、ぢり／＼見て、とう／＼親指の痕が黒くついた俎下駄《まないたげた》の臺迄｜降《くだ》つて行つた。

　かう書くと、何だか、長く一所《ひとところ》に立つてゐて、さあ御覽下さいと云はない許《ばか》りに振舞つた樣に思はれるがさうぢやない。實は白い眼の運動が始まるや否や急に茶店へ休むのが厭になつたから、すた／＼歩き出した積《つもり》である。にも拘《かゝは》らず、此の積《つもり》が少々｜覺束《おぼつか》なかつたと見えて、自分が親指にまむしを拵へて、俎下駄を捩《ねぢ》る間際には、もう白い眼の運動は濟んでゐた。殘念ながら向ふは早いものである。ぢり／＼見るんだから定めし手間が掛かるだらうと思つたら大間違ひ。ぢり／＼には相違ない、何處迄も落附いてゐる。がそれで滅法《めつぽふ》早い。茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持つてる眼があるものだと思つた位である。夫《それ》にしても、あゝ緩《ゆつ》くり見られないうちに、早く向き直る工夫はなかつたもんだらうか。さんざつ腹《ぱら》冷《ひや》かされて、さあ御歸り、用はないからと云ふ段になつて、もう御免｜蒙《かうぶ》りますと立ち上つた樣なものだ。此方《こつち》は馬鹿氣て居る。彼方《あつち》は得意である。

　歩き出してから五六間の間は變に腹が立つた。然し不愉快は五六間ですぐ消えて仕舞つた。と思ふと又足が重くなつた。――此の足だもの。何しろ鐵の才槌《さいづち》を雙方の足へ縛り附けて歩いてるんだから、敏活の行動は出來ない筈だ。あの白い眼にぢり／＼遣られたのも、滿更《まんざら》持前の半間《はんま》から許《ばか》り來たとも云へまい。かう思ひ直して見ると下らない。

　其の上こんな事を氣にして居られる身分ぢやない。一旦飛び出したからは、もうどうあつても家《うち》へ戻る了簡《れうけん》はない。東京にさへ居り切れない身體《からだ》だ。たとひ田舍でも落ち付く氣はない。休むと後《うしろ》から追つ掛けられる。昨日《きのふ》迄のいさくさが頭の中を切つて廻つた日にはどんな田舍だつて遣り切れない。だから只歩くのである。けれども別段に目的《めあて》もない歩き方だから、顔の先一間四方がぼうとして何だか燒き損《そく》なつた寫眞の樣に曇つてゐる。しかも此の曇つたものが、いつ晴れると云ふ的《あて》もなく、只漠然と際限もなく行手に廣がつてゐる。苟《いやし》くも自分が生きてゐる間は五十年でも六十年でも、いくら歩いても走《かけ》ても依然として廣がつてゐるに違ひない。あゝ、詰らない。歩くのは居たゝまれないから歩くので、此のぼんやりした前途を拔出す爲に歩くのではない。拔け出さうとしたつて拔け出せないのは知れ切つてゐる。

　東京を立つた昨夜《ゆうべ》の九時から、かう諦《あきらめ》はつけては居るが、さて歩き出して見ると、歩きながら氣が氣でない。足も重い、松が厭《あ》きる程行列してゐる。然し足よりも松よりも腹の中が一番苦しい。何の爲に歩いて居るんだか分らなくつて、しかも歩かなくつては一刻も生きて居られない程の苦痛は滅多にない。

　のみならず歩けば歩く程到底拔ける事のできない曇つた世界の中へ段々深く｜潜《もぐ》り込んで行く樣な氣がする。振り返ると日の照つてゐる東京はもう代《よ》が違つて居る。手を出しても足を伸ばしても、此の世では屆かない。丸《まる》で娑婆《しやば》が違ふ。其の癖暖かな朗かな東京は、依然として眼先にあり／＼と寫つて居る。おういと日蔭から呼びたくなる位明かに見える。と同時に足の向いてる先は漠々《ばく／＼》たるものだ。此の漠々のうちへ――命のあらん限り廣がつてゐる此漠々のうちへ――自分はふら／＼迷ひ込むのだから心細い。

　此曇つた世界が曇つたなりはびこつて、定業《ぢやうごふ》の盡きる迄行く手を塞《ふさ》いで居てはたまらない。留まつた片足を不安の念に驅られて一歩前へ出すと、一歩不安の中へ踏み込んだ譯になる。不安に追ひ懸けられ、不安に引つ張られて、已《やむ》を得ず動いては、いくら歩いてもいくら歩いても埓《らち》が明《あ》く筈がない。生涯片付かない不安の中を歩いて行くんだ。とてもの事に曇つたものが、一層《いつそ》段々暗くなつて呉れゝばいゝ。暗くなつた所を又暗い方へと踏み出して行つたら、遠からず世界が闇になつて、自分の眼で自分の身體《からだ》が見えなくなるだらう。さうなれば氣樂なものだ。

　意地の惡い事に自分の行く路は明るくもなつて呉れず、と云つて暗くもなつて呉れない。どこ迄も半陰半晴の姿で、どこ迄も片付かぬ不安が立て罩《こ》めて居る。是では生甲斐がない、去ればと云つて死に切れない。何でも人の居ない所へ行つて、たつた一人で住んで居たい。それが出來なければ一層《いつそ》の事……

　不思議な事に一層《いつそ》の事と觀念して見たが別にどきんともしなかつた。今迄東京に居た時分｜一層《いつそ》の事と無分別を起しかけた事も度々あるが、其の度々にどきんとしない事はなかつた。後《あと》からぞつ〔二字傍点〕として、まあ善かつたと思はない事もなかつた。所が今度は天《てん》からどきん〔三字傍点〕もぞつ〔二字傍点〕ともしない。どきん〔三字傍点〕とでもぞつ〔二字傍点〕とでも勝手にするが善《い》いと云ふ位に、不安の念が胸一杯に廣がつてゐたんだらう。其上｜一層《いつそ》の事を斷行するのが今が今ではないと云ふ安心がどこかにあるらしい。明日《あした》になるか明後日《あさつて》になるか、ことに由つたら一週間も掛るか、まかり間違へば無期限に延ばしても差支ないと高《たか》を括《くゝ》つてゐたせゐかも知れない。華嚴《けごん》の瀑《たき》にしても淺間《あさま》の噴火口《ふんくわこう》にしても道程《みちのり》はまだ大分《だいぶ》ある位は知らぬ間《ま》に感じてゐたんだらう。行き着いて愈《いよ／＼》とならなければ誰がどきん〔三字傍点〕とするものぢやない。從つて一層《いつそ》の事を斷行して見《み》樣《やう》と云ふ氣にもなる。此の一面に曇つた世界が苦痛であつて、此の苦痛をどきん〔三字傍点〕としない程度に於て免れる望があると思へば重い足も前に出し甲斐がある。先づ此の位の決心であつたらしい。然し是れはあとから考へた心理?態の解剖である。其の當時はたゞ暗い所へ出ればいゝ。何でも暗い所へ行かなければならないと、只管《ひたすら》暗い所を目的《めあて》に歩き出した許《ばか》りである。今考へると馬鹿々々しいが、ある場合になると吾々は死を目的にして進むのを責《せめ》てもの慰藉《ゐしや》と心得る樣になつて來る。但し目指す死は必ず遠方になければならないと云ふ事も事實だらうと思ふ。少くとも自分はさう考へる。あまり近過ぎると慰藉になりかねるのは死と云ふ因果である。

　只暗い所へ行きたい、行かなくつちやならないと思ひながら、雲を攫《つか》む樣な料簡《れうけん》で歩いて來ると、後《うしろ》からおい／＼い呼ぶものがある。どんなに魂がうろついてる時でも呼ばれて見ると性根《しやうね》があるのは不思議なものだ。自分は何の氣もなく振り向いた。應ずる爲と云ふ意識さへ持たなかつたのは事實である。然し振り向いて見て始めて氣が付いた。自分は先《さ》つきの茶店から未《ま》だ二十間とは離れて居ない。其の茶店の前の徃來へ、例の袢天《はんてん》とどてら〔三字傍点〕の合《あひ》の子《こ》が出て、脂《やに》だらけの齒をあらはに曝《さら》しながら頻に自分を呼んでゐる。

　昨夕《ゆうべ》東京を立つてから、まだ人間に口を利いた事がない。人から言葉を掛けられ樣《やう》抔《など》とは夢にも豫期して居なかつた。言葉を掛けられる資格｜抔《など》は丸《まる》で無いものと自信し切つて居た。所へ突然呼び懸けられたのだから――粗末な齒並《はなら》びだが向き出しに笑顔《ゑがほ》を見せてしきりに手招きをして居るのだから、ぼんやり振り返つた時の心持が、自然と判然《はつきり》すると共に、自分の足は何時《いつ》の間《ま》にか、其の男の方へ動き出した。

　實を云ふと此の男の顔も服裝《なり》も動作もあんまり氣に入つちや居ない。ことにさつき白い眼でぢろ／＼やられた時なぞは、何となく嫌惡《けんを》の念が胸の裡《うち》に萌《きざ》し掛けた位である。夫《そ》れがものゝ二十間とも歩かないうちに以前の感情は何處かへ消えて仕舞つて、打つて變つた一種の温味《あたゝかみ》を帶びた心持で後歸《あとがへ》りをしたのは何故《なぜ》だか分らない。自分は暗い所へ行かなければならないと思つて居た。だから茶店の方へ逆戻りをし始めると自分の目的とは反對の見當《けんたう》に取つて返す事になる。暗い所から一歩《ひとあし》立ち退《の》いた意味になる。所が此｜立退《たちのき》が何となく嬉しかつた。其の後《のち》色々經驗をして見たが、こんな矛盾は到る所に轉《ころ》がつてゐる。決して自分ばかりぢやあるまいと思ふ。近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考へて居る。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらへるのと云つて得意がつてゐる。讀者もあの性格がかうだの、あゝだのと分つた樣な事を云つてるが、ありや、みんな嘘をかいて樂しんだり、嘘を讀んで嬉しがつてるんだらう。本當の事を云ふと性格なんて纒つたものはありやしない。本當の事が小説家｜抔《など》にかけるものぢやなし、書いたつて、小説になる氣づかひはあるまい。本當の人間は妙に纒めにくいものだ。神さまでも手古《てこ》ずる位纒まらない物體だ。然し自分｜丈《だけ》がどうあつても纒まらなく出來上つてるから、他人《ひと》も自分同樣｜締《しま》りのない人間に違ないと早合點をして居るのかも知れない。夫《それ》では失禮に當る。

　兎に角引き返して目倉縞《めくらじま》の傍《そば》迄《まで》行くと、どてら〔三字傍点〕は左《さ》も馴れ／＼しい聲で

　「若い衆《しゆ》さん」

と云ひながら、大きな顎を心持襟の中へ引きながら自分の額のあたりを見詰めて居る。自分は好《いゝ》加減な所で、茶色の足を二本立てた儘、

　「何か用ですか」

と叮嚀に聞いた。是れが平生ならこんなどてら〔三字傍点〕から若い衆《しゆ》さんなんて云はれて快よく返辭をする自分ぢやない。返辭をするにしてもうん〔二字傍点〕とか何だ〔二字傍点〕とかで濟したらうと思ふ。所が此の時に限つて、人相のよくないどてら〔三字傍点〕と自分とは全く同等の人間の樣な氣持がした。別に利害の關係からしてわざと腰を低く出たんぢや、決してない。するとどてら〔三字傍点〕の方でも自分を同程度の人間と見做《みな》した樣な語氣で、

　「御前さん、働く了簡《れうけん》はないかね」

と云つた。自分は今が今迄暗い所へ行くより外に用のない身と覺悟して居たんだから、藪から棒に働く了簡はないかねと聞かれた時には、何と答へて善《い》いか、薩張《さつぱ》り譯が分らずに、空脛《からすね》を突つ張つた儘、馬鹿見た樣な口を開けて、ぼんやり相手を眺めて居た。

　「御前さん、働く了簡はないかね。どうせ働かなくつちやならないんだらう」

とどてら〔三字傍点〕が又問ひ返した。問ひ返された時分には此方《こつち》の腹も、どうか、かうか、受け答の出來る位に眼前の事況《じきやう》を會得《ゑとく》する樣になつた。

　「働いても善《い》いですが」

　是は自分の答である。然し此答が苟《いやし》くも口に出て來る程に、自分の頭が間に合せの工面にせよ、やつと片附いたと云ふものは、單純ながら一順の過程を通つて居る。

　自分は何處へ行くんだか分らないが、なにしろ人の居ない所へ行く氣でゐた。のに振り向いてどてら〔三字傍点〕の方へあるき出したのだから、歩き出しながら何となく自分に對して憫然な感がある。と云ふものはいくらどてら〔三字傍点〕でも人間である。人間の居ない方へ行くべきものが、人間の方へ引き戻されたんだから、事程左樣《ことほどさやう》に人間の引力が強いと云ふ事を證據立てると同時に、自分の所志にもう背《そむ》かねばならぬ程に自分は薄弱なものであつたと云ふ事をも證據立てゝ居る。手短に云ふと、自分は暗い所へ行く氣でゐるんだが、實の所は已《やむ》を得ず行くんで、何か引つかゝりが出來れば、得たり賢しと普通の娑婆《しやば》に留まる了簡《れうけん》なんだらうと思はれる。幸ひに、どてら〔三字傍点〕が向ふから引つかゝつて呉れたんで、何の氣なしに足が後向きに歩き出して仕舞つたのだ。云はゞ自分の大目的に申し譯のない裏切りを一寸して見た譯になる。だからどてら〔三字傍点〕が働く氣はないかねと出て呉れずに、御前さん野《の》にするかね、夫《それ》とも山《やま》にするかねとでも切り出したら、しばらく安心して忘れかけた目的を、ぎよつと思ひ出させられて、急に暗い所や、人の居ない所が怖《こは》くなつてぞつとしたに違ない。夫《それ》ほどの娑婆氣《しやばけ》が、戻り掛ける途端にもう萌《きざ》して居たのである。さうしてどてら〔三字傍点〕に呼ばれゝば呼ばれる程、どてら〔三字傍点〕の方へ近寄れば近寄る程、此の娑婆氣《しやばけ》は一歩毎に�搨ｷしたものと見える。最後に空脛《からすね》を二本、棒の樣にどてら〔三字傍点〕の眞向ふに突つ立てた時は、此の娑婆氣《しやばけ》が最高潮に達した瞬間である。其の瞬間に働く氣はないかねと來た。御粗末などてら〔三字傍点〕だが非常に旨く自分の心理?態を利用した勸誘である。だし拔けの質問に一時はぼんやりした樣なものゝ、ぼんやりから覺めて見れば、自分はいつか娑婆《しやば》の人間になつてゐる。娑婆の人間である以上は食はなければならない。食ふには働かなくつちや駄目だ。

　「働いても、いゝですが」

　答は何の苦もなく自分の口から滑り出して仕舞つた。するとどてら〔三字傍点〕は左樣《さう》だらう其の筈さと云ふ樣な顔附きをした。自分は不思議にも此の顔附きを尤もだと首肯《しゆこう》した。

　「働いても、いゝですが、全體どんな事をするんですか」

と自分はこゝで再び聞き直して見た。

　「大變｜儲《まう》かるんだが、やつて見る氣はあるかい。儲かる事は受合《うけあひ》なんだ」

　どてら〔三字傍点〕は上機嫌の體《てい》で、にこ／＼笑ひながら、自分の返事を待つてゐる。どうせどてら〔三字傍点〕の笑ふんだから、愛嬌《あいけう》にもなんにもなつちや居ない。元來笑ふ丈《だけ》損になる樣にでき上がつてる顔だ。所が其笑ひ方が妙になつかしく思はれて

　「えゝ遣つて見ませう」

と受けて仕舞つた。

　「遣つて見る？　そいつあ結構だ。君｜儲《まう》かるよ」

　「そんなに儲けなくつても、いゝですが……」

　「え？」

　どてら〔三字傍点〕は此時妙な聲を出した。

　「全體どんな仕事なんですか」

　「遣るなら話すが、遣るだらうね、お前さん。話した後で厭だなんて云はれちや困るが。屹度《きつと》遣るだらうね」

　どてら〔三字傍点〕は無暗に念を押す。自分はそこで、

　「遣る氣です」

と答へた。然し此の答は前の樣に自然天然には出なかつた。云はゞいきみ〔三字傍点〕出した答である。大抵の事なら遣つて退《の》けるが、萬一の場合には逃げを張る氣と見えた。だから遣りますと云はずにやる氣です〔三字傍点〕と云つたんだらう。――かう自分の事を人の事の樣に書くのは何となく變だが、元來人間は締りのないものだから、はつきりした事はいくら自分の身の上だつて、斯うだとは云ひ切れない。況《ま》して過去の事になると自分も人も區別はありやしない。凡《すべ》てがだらう〔三字傍点〕に變化して仕舞ふ。無責任だと云はれるかも知れないが本當だから仕方がない。これからさきも危《あや》しい所はいつでも此の式で行く積りだ。

　そこでどてら〔三字傍点〕は略《ほゞ》話が纒つたものと呑み込んで

　「ぢや、まあ御這入り。緩《ゆつ》くり御茶でも呑んで話すから」

と云ふ。別に異存もないから、茶店に這入つてどてら〔三字傍点〕の隣りに腰を卸したら、口のゆがんだ四十｜許《ばか》りの神さんが妙な臭ひのする茶を汲んで出した。茶を飲んだら、急に思ひ出した樣に腹が減つて來た。減つて來たのか、減つてゐたのに氣が附いたのか分らない。蟇口には三十二錢這入つてゐる、何か食はうかしらと考へてゐると

　「君、烟草を呑むかい」

と、どてら〔三字傍点〕が「朝日」の袋を横から差し出した。中々御世辭がいゝ。袋の角が裂けてるのは仕方がないが、何だか薄穢《うすぎた》なく垢《あか》づいた上に、びしやりと押し潰されて、中にある烟草がかたまつて、一本になつてる樣に思はれる。袖のないどてら〔三字傍点〕だから、入れ所に窮して腹掛《はらがけ》の隱しへでも捩《ね》ぢ込んで置くものと見える。

　「難有《ありがた》う、澤山です」

と斷ると、どてら〔三字傍点〕は別に失望の體《てい》もなく、自分でかたまつたうちの一本を、爪垢《つめあか》のたまつた指先で引つ張り出した。果《はた》せる哉《かな》烟草は皺だらけになつて、太刀《たち》の樣に反《そ》つて居る。それでも破けた所もないと見えて、すぱ／＼吸ふと鼻から煙《けむ》が出る。際どい所で烟草の用を足してゐるから不思議だ。

　「御前さん、幾年《いくつ》になんなさる」

　どてら〔三字傍点〕は自分の事を御前さんと云つたり君と云つたりする樣だが、何で區別するんだか要領を得ない。今迄の所で察して見ると、儲《まう》かるときには君になつて、不斷の時には御前さんに復する樣にも見える。何でも儲かる事が大分《だいぶん》氣になつてゐるらしい。

　「十九です」

と答へた。實際其の時は十九に違なかつたのである。

　「まだ若いんだね」

と口のゆがんだ神さんが、後向《うしろむき》になつて盆を拭きながら云つた。後向きだから、どんな顔附きをして居るか見えない。獨り言だかどてら〔三字傍点〕に話しかけてるんだか、夫《それ》とも自分を相手にする氣なんだか分らなかつた。するとどてら〔三字傍点〕は、さも調子づいた樣子で、

　「さうさ、十九ぢや若いもんだ。働き盛りだ」

と、どうしても働かなくつちやならない樣な語氣である。自分はだまつて床几《しやうぎ》を離れた。

　正面に駄菓子を載せる臺があつて、縁《ふち》の毀《と》れた菓子箱の傍《そば》に、大きな皿がある。上に青い布巾《ふきん》がかゝつて居る下から、丸い揚饅頭《あげまんぢゆう》が食《は》み出してゐる。自分は此饅頭が喰ひたくなつたから、腰を浮かして菓子臺の前まで來たのだが、傍《そば》へ來て、つら／＼饅頭の皿を覗き込んで見ると、恐ろしい蠅だ。しかもそれが皿の前で自分が留まるや否や足音にパツと四方に散つたんで、おやと思ひながら、氣を落ち附けて少しく揚饅頭を物色してゐると、散らばつた蠅は、もう大風が通り越したから大丈夫だよと申し合せた樣に、再びぱつと饅頭の上へ飛び着いて來た。黄色《きいろ》い油切つた皮の上に、黒いぽち／＼が出鱈目《でたらめ》にできる。手を出さうかなと思ふ矢先へ以て來て、急に黒い斑點《はんてん》が、晴夜《せいや》の星宿《せいしゆく》の如く、縱横に行列するんだから、少し辟易《へきえき》して仕舞つて、ぼんやり皿を見下《みおろ》して居た。

　「御饅頭を上がんなさるかね。まだ新しい。一昨日《をとゝひ》揚げた許《ばか》りだから」

　かみさんは、何時《いつ》の間《ま》にか盆を拭いて仕舞つて、菓子臺の向側《むかふがは》に立つて居る。自分は不意と眼を上げて神さんを見た。すると神さんは何と思つたか、いきなり、節太《ふしぶと》の手を皿の上に翳《かざ》して、

　「まあ、大變な蠅だ事」

と云ひながら、翳した手を竪に切つて、二三度左右へ振つた。

　「上がるんなら取つて上げ樣《やう》」

　神さんは忽ち棚の上から木皿を一枚卸して、長い竹の箸で、饅頭をぽん／＼／＼と七つ程挾み込んで、

　「此方《こつち》がいゝでせう」

と木皿を、自分の腰を掛けて居た床几《しやうぎ》の上へ持つて行つた。自分は仕方がないから又｜故《もと》の席へ歸つて、木皿の隣へ腰を掛けた。見ると、もう蠅が飛んで來てゐる。自分は蠅と饅頭と木皿を眺めながら、どてら〔三字傍点〕に向つて

　「一つどうです」

と云つて見た。是はあながち「朝日」の御禮の爲｜許《ばか》りではない。幾分かはどてら〔三字傍点〕が一昨日《をとゝひ》揚げた蠅だらけの饅頭を食ふだらうか食はないだらうか試して見る腹もあつたらしい。するとどてら〔三字傍点〕は

　「や、濟まない」

と云ひながら、何の苦もなく一番上の奴を取つて頬張《ほゝば》つちまつた。唇の厚い口をもごつかせてゐる所を觀察すると、滿更《まんざら》でもなさゝうに見えた。そこで自分も思ひ切つて、此方《こちら》側の下から、比較的奇麗なのを摘《つま》み出して、あんぐり遣つた。油の味が舌の上へ流れ出したと思ふ間もなく、其の中から苦《にが》い餡《あん》が卒然として味覺を冒して來た。然し此際だから別に仕損《しま》つたとも思はなかつた。難なく餡も皮も油もぐいと胃の腑へ呑み下《くだ》して仕舞つたら、自然と手が又木皿の方へ出たから不思議なものだ。どてら〔三字傍点〕は此の時もう第二の饅頭を平らげて、第三に移つてゐる。自分に比較すると大變速力が早い。さうして食つてる間は口を利かない。働く事も儲《まう》かる事も丸《まる》で忘れてゐるらしい。從つて七つの饅頭は呼吸《いき》を二三度するうちに無くなつて仕舞つた。しかも自分はたつた二つしか食はない。殘る五つは瞬く間《ま》にどてら〔三字傍点〕の爲にしてやられたのである。

　如何に逡巡《しりごみ》をする程の汚《きた》ならしいものでも、一度皮切りをやると、あとは夫《それ》程《ほど》神經に障らずに食へるものだ。是れはあとで山へ行つてしみ／”＼經驗した事で、今では何でもない陳腐《ちんぷ》の眞理になつて仕舞つたが、其の時は饅頭を食ひながら少々呆れた位｜後《あと》が食ひ度くなつた。それに腹は減つてゐる。其の上相手がどてら〔三字傍点〕である。此どてら〔三字傍点〕が事もなげに、砂のついた饅頭をぱくつく所を見ると、多少は競爭の氣味にもなつて、神經などは有つても役に立たない、起すだけが損だと云ふ心持になる。そこで自分はとう／＼神さんにたのんで饅頭の御代《おかは》りを貰つた。

　今度は　「一つ、どうです」とも何とも云はずに、木皿が床几《しやうぎ》の上に乘るや否や、自分の方で先づ一つ頬張つた。するとどてら〔三字傍点〕も、「や、濟まない」とも何とも云はずに、だまつて一つ頬張つた。次に自分が又一つ頬張る。次にどてら〔三字傍点〕が又一つ頬張る。互違《たがひちがひ》に頬張りつ子をして六つ目迄來た時、たつた一つ殘つた。是が幸ひ自分の番に當つて居るので、どてら〔三字傍点〕が手を出さないうちに、自分が頬張つて仕舞つた。それから又御代りを貰つた。

　「君｜大分《だいぶ》遣るね」

とどてら〔三字傍点〕が云つた。自分は大分遣る氣も何もなかつたが、云はれて見ると大分遣るに違ない。然し是は初手《しよて》にどてら〔三字傍点〕の方で自分の食ひ度くないものを、むしや／＼食つて見せて、自分の食慾を誘致した結果が與《あづか》つて力ある樣だ。所がどてら〔三字傍点〕の方では全然｜此方《こつち》の責任で大分《だいぶ》遣つてる樣な口氣《こうき》であつた。だから自分は何だかどてら〔三字傍点〕に對して辯解して見たい氣がしたが、辯解する言葉が一寸出て來なかつた。只雲を攫《つか》む樣にどてら〔三字傍点〕にも責任があるんだらうと思ふ丈《だけ》で、どこが責任なんだか分らなかつたから黙つて居た。すると

　「君、揚饅頭が餘つ程好きと見えるね」

と今度は云つた。饅頭にも寄り切りで、一昨日《おとゝひ》揚げた砂だらけの蠅だらけの饅頭が好きな譯はない。と云つて現に三皿迄代へて食ふものを嫌《きらひ》だとは無論云はれない。だから今度も黙つて居た。そこへ茶店の神さんが突然口を出した。――

　「うちの御饅《おまん》は名代の御饅《おまん》だから、みんなが旨がつて食べるだよ」

　神さんの言葉を聞いた時自分は何だか馬鹿にされてる樣な氣がした。そこで益《ます／＼》黙つて仕舞つた。黙つて聞いてると、

　「旨い事此上なしだ」

とどてら〔三字傍点〕が云つてる。本當なんだか御世辭なんだか一寸｜見當《けんたう》が附かなかつた。兎に角饅頭はどうでも構はないから、肝心の勞働問題を聞糾《きゝたゞ》して見《み》樣《やう》と思つて、

　「先刻《さつき》の御話ですがね。實は僕も色々の事情があつて、働いて飯を食はなくつちやならない身分なんですが、一體どんな事をやるんですか」

と此方《こつち》から口を切つて見た。どてら〔三字傍点〕は正面の菓子臺を眺めてゐたが、此時急に顔｜丈《だけ》自分の方へ向けて

　「君、儲《まう》かるんだぜ。嘘ぢやない、本當に儲《まう》かる話なんだから是非遣り給へ」

と、又ぞろ自分を君｜呼《よば》はりにして、頻りに儲けさせたがつてゐる。此方《こつち》へ向き直つて、自分を誘ひ出さうと力《つと》める顔附きを見ると、頬骨の下が自然《じねん》と落ち込んで、落ち込んだ肉が再び顎の枠で角《かく》張つてゐる。そこへ表から射し込む日の加減で、小鼻の下から弓形《ゆみなり》に出來上つた皺が深く映つてゐる。此の樣子を見た自分は何となく儲けるのが恐ろしくなつた。

　「僕はそんなに儲けなくつても、いゝです。然し働く事は働くです。神聖な勞働なら何でもやるです」

　どてら〔三字傍点〕の頬の邊《あたり》には、はてなと云ふ景色《けしき》が一寸見えたが、やがて、かの弓形《ゆみなり》の皺を左右に開いて、脂《やに》だらけの齒を遠慮なく剥《む》き出して、さうして一種特別な笑ひ方をした。あとから考へるとどてら〔三字傍点〕には神聖な勞働と云ふ意味が通じなかつたらしい。苟《いやしく》も人間たるものが金儲《かねまうけ》の意味さへ知らないで、小六《こむ》づかしい口巧者《くちかうしや》な事を云ふから、氣の毒だと云ふのでどてら〔三字傍点〕は笑つたのである。自分は今が今迄死ぬ氣でゐた。死なゝい迄も人間の居ない所へ行く氣でゐた。それが出來損つたから、生きる爲に働く氣になつた迄である。儲かるとか儲からないとか云ふ問題は、てんで頭の中にはない。今ない許《ばか》りぢやない、東京にゐて親の厄介になつてる時分からなかつた。どころぢやない儲主義《まうけしゆぎ》は大いに輕蔑してゐた。日本中どこへ行つても其の位な考へは誰にもあるだらう位に信じてゐた。だからどてら〔三字傍点〕がさつきから儲かる／＼と云ふのを聞くたんびに何の爲だらうと不思議に思つてゐた。無論癪には障らない。癪に障る樣な身分でもなし、境遇でもないから、一向《いつかう》平氣ではゐたが、是が人間に對する至大の甘言で、勸誘の方法として、尤も利目《きゝめ》のあるものだとは夢にも想ひ至らなかつた。そこで、どてら〔三字傍点〕から笑はれちまつた。笑はれてさへ一向通じなかつた。今考へると馬鹿々々しい。

　一種特別な笑ひ方をしたどてら〔三字傍点〕は、其の笑ひの収まりかけに、

　「お前さん、全體今迄働いた事があんなさるのかね」

と少し眞面目な調子で聞いた。働くにも働かないにも、昨日《きのふ》自宅《うち》を逃げ出した許《ばか》りである。自分の經驗で働いた試しは撃劔の稽古と野球の練習位なもので、稼《かせ》いで食つた事はまだ一日もない。

　「働いた事はないです。然し是から働かなくつちあならない身分です」

　「さうだらう。働いた事がなくつちや……ぢや、君、まだ儲けた事もないんだね」

と當り前の事を聞いた。自分は返事をする必要がないから、黙つてると、茶店のかみさんが、菓子臺の後《うしろ》から、

　「働くからにや、儲けなくつちやあね」

と云ひながら、立ち上がつた。どてら〔三字傍点〕が、

　「全くだ。儲けやうつたつて、今時さう儲け口が轉がつてるもんぢやない」

と幾分か自分に對して恩に被《き》せる樣に答へるのを、

　「さうさ」

と幾分かさげすむ樣に聞き流して、裏へ出て行つた。此さうさ〔三字傍点〕が妙に氣になつて、ことによると、まだ其の後《あと》があるかも知れないと思つた所爲《せゐ》か、何氣なく後姿《うしろかげ》を見送つてゐると、大きな黒松の根方《ねがた》の所へ行つて、立小便《たちせうべん》をし始めたから、急に顔を背《そむ》けて、どてら〔三字傍点〕の方を向いた。どてら〔三字傍点〕はすぐ、

　「私《わたし》だから、お前さん、見ず知らずの他人にこんな旨い話をするんだ。是が外のものだつたら、受合つてたゞぢや話しつこない旨い口なんだからね」

と又恩に被《き》せる。自分は、面倒くさいから大人《おとな》しく、

　「難有《ありがた》いです」

と四角張つて答へて置いた。

　「實はかう云ふ口なんだがね」

と、どてら〔三字傍点〕が、すぐに云ふ。自分は黙つて聞いてゐた。

　「實はかう云ふ口なんだがね。銅山《やま》へ行つて仕事をするんだが、私《わたし》が周旋さへすれば、すぐ坑夫になれる。すぐ坑夫になれりや大したもんぢやないか」

　自分は何か返事を促《うなが》される樣な氣がしたけれども、どうもどてら〔三字傍点〕の調子に載《の》せられて、さうですとは答へる譯に行かなかつた。坑夫と云へば鉱山の穴の中で働く勞働者に違ない。世の中に勞働者の種類は大分《だいぶん》あるだらうが、其のうちで尤も苦しくつて、尤も下等なものが坑夫だと許《ばかり》考へてゐた矢先へ、すぐ坑夫になれりや大したものだと云はれたのだから、調子を合す所《どころ》の騷ぎぢやない、おやと思ふ位内心では少からず驚いた。坑夫の下にはまだ／＼坑夫より下等な種屬があると云ふのは、大晦日《おほみそか》の後《あと》にまだ澤山日が餘つてると云ふのと同じ事で、自分には殆ど想像がつかなかつた。實を云ふとどてら〔三字傍点〕がこんな事を饒舌《しやべ》るのは、自分を若年《じやくねん》と侮《あなど》つて、好い加減に人を瞞《だま》すのではないかと考へた。所が相手は存外眞面目である。

　「何しろ、取附《とつつけ》からすぐに坑夫なんだからね。坑夫なら樂なもんさ。忽ちのうちに金がうんと溜つちまつて、好な事が出來らあね。なに銀行もあるんだから、預け樣《やう》と思やあ、いつでも預けられるしさ。ねえ、御かみさん、初めつから坑夫になれりや、結構なもんだね」

とかみさんの方へ話の向《むき》を持つて行くとかみさんは、さつき裏で、立ちながら用を足した儘の顔をして、

　「さうとも、今からすぐ坑夫になつて置きあ四五年立つうちにや、唸《うな》る程溜る許《ばか》りだ。――何しろ十九だ。――働き盛りだ。――今のうち儲けなくつちや損だ」

と一句、一句｜間《あひだ》を置いて獨り言の樣に述べてゐる。

　要するに此のかみさんも是非坑夫になれと云はぬ許《ばか》りの口占《くちうら》で、全然どてら〔三字傍点〕と同意見を持つてゐる樣に思はれた。無論｜夫《それ》でよろしい。又｜夫《それ》でなくつても一向《いつかう》構はない。妙な事に此の時程｜大人《おとな》しい氣分になれた事は自分が生れて以來始めてゞあつた。相手がどんな間違を主張しても自分は只はい／＼と云つて聞いて居たらうと思ふ。實を云ふと過去一年間に於て仕出《しで》かした不都合やら義理やら人情やら煩悶やらが破裂して大衝突を引き起した結果、あてどもなく茲所《こゝ》迄落ちて來たのだから、昨日《きのふ》迄の自分の事を考へると、どうしたつて、こんなに温和《おとな》しくなれる譯がないのだが、實際此の時は人に逆《さから》ふ樣な氣分は藥にしたくつても出て來なかつた。さうして又それを矛盾とも不思議とも考へなかつた。恐らく考へる餘裕がなかつたんだらう。人間のうちで纒つたものは身體｜丈《だけ》である。身體が纒つてるもんだから、心も同樣に片附いたものだと思つて、昨日《きのふ》と今日《けふ》と丸《まる》で反對の事をしながらも、矢張り故《もと》の通りの自分だと平氣で濟ましてゐるものが大分《だいぶ》ある。のみならず一旦責任問題が持ち上がつて、自分の反覆《はんぷく》を詰《なじ》られた時ですら、いや私の心は記憶がある許《ばか》りで、實はばら／＼なんですからと答へるものがないのは何故《なぜ》だらう。かう云ふ矛盾を?《しば／＼》經驗した自分ですら、無理と思ひながらも、聊《いさゝ》か責任を感ずる樣だ。して見ると人間は中々｜重寶《ちようはう》に社會の犧牲になる樣に出來上つたものだ。

　同時に自分のばら／＼な魂がふら／＼不規則に活動する現?を目撃して、自分を他人扱ひに觀察した贔屓目《ひいきめ》なしの眞相から割り出して考へると、人間程｜的《あて》にならないものはない。約束とか契《ちかひ》とか云ふものは自分の魂を自覺した人にはとても出來ない話だ。又其の約束を楯《たて》にとつて相手をぎゆ／＼押し附けるなんて蠻行は野暮《やぼ》の至りである。大抵の約束を實行する場合を、よく注意して調べて見ると、どこかに無理があるにも拘らず、其の無理を強《しひ》て壓《お》しかくして、知らぬ顔で遣つて退《の》ける迄である。決して魂の自由行動ぢやない。はやくから、こゝに氣が附いたなら、無暗に人を恨んだり、悶えたり、苦しまぎれに自宅《うち》を飛び出したりしなくつても濟んだかも知れない。たとひ飛び出しても此の茶店迄來て、どてら〔三字傍点〕と神さんに對する自分の態度が、昨日《きのふ》迄の自分とは打つて變つた所を、他人扱ひに落ち着き拂つて比較する丈《だけ》の餘裕があつたら、少しは悟れたらう。

　惜しい事に當時の自分には自分に對する研究心と云ふものが丸《まる》でなかつた。只｜口惜《くや》しくつて、苦しくつて、悲しくつて、腹立たしくつて、さうして氣の毒で、濟まなくつて、世の中が厭になつて、人間が棄て切れないで、居ても立つても、居たゝまれないで、無茶苦茶に歩いて、どてら〔三字傍点〕に引つ掛つて、揚饅頭を喰つた許《ばか》りである。昨日は昨日、今日は今日、一時間前は一時間前、三十分後は三十分後、只眼前の心より外に心と云ふものが丸でなくなつちまつて、平生から繋續《つなぎ》の取れない魂がいとゞふわつき出して、實際あるんだか、ないんだか頗る明暸でない上に、過去一年間の大きな記憶が、悲劇の夢の樣に、朦朧と一團の妖氛《えうふん》となつて、虚空《こくう》遙に際限もなく立て罩《こ》めてる樣な心持ちであつた。

　そこで平生の自分なら、何故《なぜ》坑夫になれば結構なんだとか、どうして坑夫より下等なものがあるんだとか、自分は儲《まう》ける事｜許《ばかり》を目的に働く人間ぢやないとか、儲けさへすりや何處がいゝんだとか、何とか蚊とか理窟を捏《こ》ねて、出來る丈《だけ》自己を主張しなければ勘辯《かんべん》しない所を、只《たゞ》大人《おとな》しく控へて居た。口｜丈《だけ》大人しいのではない、腹の中から丸《まる》で抵抗する氣が出なかつたのである。

　何でも此の時の自分は、單に働けばいゝと云ふ事｜丈《だけ》を考へて居たらしい。苟《いや》しくも働きさへすれば、――苟《いや》しくも此のふわ／＼の魂が五體のうちに、うろつきながらも居られさへすれば、――要するに死に切れないものを、強《しひ》て殺して仕舞ふほどの無理を冒さない以上は、坑夫以上だらうが、坑夫以下だらうが、儲からうが、儲かるまいが、頓《とん》と問題にならなかつたものと見える。只《たゞ》働く口さへ出來れば夫《それ》で結構であるから、働き方の等級や、性質や、結果に就て、如何に自分の意見と相容れぬ法螺《ほら》を吹かれても、又其の法螺が、單に自分を誘致《いうち》する爲にする打算的の法螺であつても、又其の法螺に乘る以上は理知の人間として自分の人格に尠《すくな》からぬ汚點を貽《のこ》す恐れがあつても、丸《まる》で氣にならなかつたんだらう。こんな時には複雜な人間が非情に單純になるもんだ。

　其の上坑夫と聞いた時、何となく嬉しい心持がした。自分は第一に死ぬかも知れないと云ふ決心で自宅《うち》を飛出したのである。夫《そ》れが第二には死なゝくつても好いから人の居ない所へ行きたいと移つて來た。それが又｜何時《いつ》の間《ま》にか移つて、第三にはともかくも働かうと變化しちまつた。所で、さて働くとなると、並《なみ》の働き方よりも第二に近い方がいゝ、一歩進めて云へば第一に縁故のある方が望ましい。第一、第二、第三と知らぬ間《あひだ》に心變りがした樣なものゝ、變りつゝ進んで來た、心の?態は、有耶無耶《うやむや》の間に縁を引いて、擦《ず》れ落ちながらも、振り返つて、故《もと》の所を慕ひつゝ押されて行くのである。單に働くと云ふ決心が、第二を振り切る程｜突飛《とつぴ》でもなかつたし、第一と交渉を絶《た》つ程遠くにも居なかつたと見える。働きながら、人の居ない所にゐて、尤も死に近い?態で作業が出來れば、最後の決心は意の如くに運びながら、幾分か當初の目的にも叶《かな》ふ譯になる。坑夫と云へば名前の示す如く、坑《あな》の中で、日の目を見ない家業である。娑婆《しやば》に居ながら、娑婆から下へ潜《もぐ》り込んで、暗い所で、鑛塊《あらがね》土塊《つちくれ》を相手に、浮世の聲を聞かないで濟む。定めて陰氣だらう。そこが今の自分には何よりだ。世の中に人間はごて／＼ゐるが、自分｜程《ほど》坑夫に適したものは決してないに違ない。坑夫は自分に取つて天職である。――と茲所《こゝ》迄《まで》明暸には無論考へなかつたが、只《たゞ》坑夫と聞いた時、何となく陰氣な心持ちがして、其の陰氣が又何となく嬉しかつた。今思ひ出して見ると、矢つ張りどうあつても他人《ひと》の事としか受け取れない。

　そこで自分はどてら〔三字傍点〕に向つてかう云つた。

　「僕は一生懸命に働く積《つもり》ですが、坑夫にして呉れるでせうか」

　するとどてら〔三字傍点〕は中々｜鷹揚《おうやう》な態度で、

　「すぐ坑夫になるのは中々｜六《む》づかしいんだが、私《わたし》が周旋さへすりや屹度《きつと》出來る」

と云ふから自分もそんなものかなと考へて、暫く黙つてゐると、茶店のかみさんが又口を出した。

　「長藏《ちやうざう》さんが口を利きさへすりや、坑夫は受合《うけあひ》だ」

　自分は此の時始めてどてら〔三字傍点〕の名前が長藏《ちやうざう》だと云ふ事を知つた。夫《それ》から一所に汽車に乘つたり、下りたりする時に、自分も此男を捕《つらま》へて二三度長藏さんと呼んだ事がある。然し長藏とはどう書くのか今以て知らない。こゝに書いたのは勿論｜當字《あてじ》である。始めて家庭を飛出した鼻をいきなり引つ張つて、思ひも寄らない見當《けんたう》に向けた、云はば自分の生活?態に一轉化を與へた人の名前を口で覺えて居ながら、筆に書けないのは異《い》な事だ。

　偖《さて》此の長藏さんと、茶店のかみさんが屹度《きつと》坑夫になれると受合ふから、自分もなれるんだらうと思つて、

　「ぢや、どうか何分願ひます」

と頼んだ。然し此の茶店に腰を掛けてゐるものが、どうして、何處へ行つて、どんな手續で坑夫になるんだか其の邊《へん》は薩張《さつぱ》り分らなかつた。

　何しろ先方で此の位勸めるものだから、何分願ひますと云つたら、長藏さんがどうかするに違ないと思つて、あとは聞かずに黙つてゐた。すると長藏さんは、勢ひよくどてら〔三字傍点〕の尻を床几《しやうぎ》から立てゝ、

　「それぢや是から、すぐに出掛け樣《やう》。御前さん、支度はいゝかい。忘れものゝない樣によく氣をつけて」

と云つた。自分はうちを出る時、着のみ着の儘で出たのだから、身體《からだ》より外に忘れ物のある筈がない。そこで、

　「何にも無いです」

と立ち上がつたが、神さんと顔を見合せて氣が附いた。肝心の揚饅頭《あげまんぢゆう》の代を忘れてゐる。長藏さんは平氣な面《つら》をして、もう半分程｜葭簀《よしず》の外に出て徃來を眺めてゐた。自分は懷中から三十二錢入りの蟇口《がまぐち》を出して饅頭三皿の代を拂つて、序《ついで》だから茶代として五錢やつた。饅頭の代はとう／＼忘れちまつて思ひ出せない。たゞ其の時かみさんが、

　「坑夫になつて、うんと溜めて歸りに又《また》御寄」

と云つたのを記憶してゐる。其の後《のち》坑夫はやめたが、遂に此の茶店へは寄る機會がなかつた。それから長藏さんに尾《つ》いて、例の飽き／＼した松原へ出て、一本筋を足の甲｜迄《まで》埃を上げて、やつて來ると、さつきの長たらしいのに引き易へて今度は存外早く片附いちまつた。何時《いつ》の間《ま》にやら松がなくなつたら、板橋街道の樣な希知《けち》な宿《しゆく》の入口に出て來た。矢ツ張り板橋街道の樣に我多馬車《がたばしや》が通る。一足先へ出た長藏さんが、振り返つて、

　「御前さん馬車へ乘るかい」

と聞くから、

　「乘つても好いです」

と答へた。さうしたら今度は

　「乘らなくつても可《い》いかい」

と反對の事を尋ねた。自分は

　「乘らなくつても可いです」

と答へた。長藏さんは三度目に

　「どうするね」

と云つたから、

　「どうでも可いです」

と答へた。其の内に馬車は遠くへ行つて仕舞つた。

　「ぢや、歩く事にしやう」

と長藏さんは歩き出した。自分も歩き出した。向ふを見ると、今通つた馬車の埃が日光にまぶれて、徃來が濁つた樣に黄色く見える。そのうちに人通りが段々多くなる。町並がしだいに立派になる。仕舞には牛込の神樂坂《かぐらざか》位な繁昌する所へ出た。こゝいらの店付《みせつき》や人の樣子や、衣服は全く東京と同じ事であつた。長藏さんの樣なのは殆ど見當らない。自分は長藏さんに、

　「此所は何と云ふ所です」

と聞いたら、長藏さんは、

　「此所？　此所を知らないのかい」

と驚いた樣子であつたが、笑ひもせずすぐ�ﾍへて呉れた。それで所の名は分つたがこゝにはわざと云はない。自分が此の繁華な町の名を知らなかつたのを餘程不思議に感じたと見えて、長藏さんは、

　「お前さん、一體生れは何處だい」

と聞き出した。考へると、今迄長藏さんが自分の過去や經歴について、ついぞ一《ひ》と口《くち》も自分に聞いた事がなかつたのは、人を周旋する男の所爲《しよゐ》としては、少しく無頓着《むとんぢやく》過ぎる樣にも思はれたが、此の男は全くそんな事に冷淡な性《たち》であつた事が後《あと》で分つた。此の時の質問は全く自分の無知に驚いた結果から出た好奇心に過ぎなかつた。其の證據には自分が、

　「東京です」

と答へたら、

　「さうかい」

と云つたなり、あとは何にも聞かずに、自分を引つ張る樣にして、ある横町を曲つた。

　實を云ふと自分は相當の地位を有《も》つたものゝ子である。込み入つた事情があつて、耐《こら》へ切れずに生家《うち》を飛び出した樣なものゝ、あながち親に對する不平や面當《つらあて》許《ばか》りの無分別《むふんべつ》ぢやない。何となく世間が厭になつた結果として、わが生家《うち》迄面白くなくなつたと思つたら、もう親の顔も親類の顔も我慢にも見てゐられなくなつてゐた。是は大變だと氣がついて、根氣に心を取り直さうとしたが、遅かつた。踏み答《こた》へて見《み》樣《やう》と百方に焦慮《あせ》れば焦慮《あせ》る程厭になる。揚句《あげく》の果《はて》は踏張《ふんばり》の栓《せん》が一度にどつと拔けて、堪忍の陣立が總崩れとなつた。其の晩にとう／＼生家《うち》を飛び出して仕舞つたのである。

　事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がゐる。さうして其少女の傍《そば》に又一人の少女がゐる。此の二人の少女の周圍《まはり》に親がある。親類がある。世間が萬遍なく取り捲いてゐる。所が第一の少女が自分に對して丸くなつたり、四角になつたりする。すると何かの因縁で自分も丸くなつたり四角になつたりしなくつちやならなくなる。然し自分はさう丸くなつたり四角になつたりしては、第二の少女に對して濟まない約束を以て生れて來た人間である。自分は年の若い割には自分の立場をよく辨別《わきま》へて居た。が濟まないと思へば思ふ程丸くなつたり四角になつたりする。仕舞には形態ばかりぢやない組織｜迄《まで》變る樣になつて來た。夫《それ》を第二の少女が恨《うら》めしさうに見てゐる。親も親類も見てゐる。世間も見てゐる。自分は自分の心が伸びたり縮んだり、曲つたりくねつたりする所を、どうかして隱さうと力《つと》めたが、何しろ第一の少女の方で少しも已《や》めて呉れないで、無暗に伸びて見せたり、縮んで見せたりするもんだから、隱し終《おほ》せる段ぢやない。親にも親類にも目附《めつ》かつて仕舞つた。怪《け》しからんと云ふ事になつた。怪しかるとは自分でも思つて居なかつたが、段々聞き糾《たゞ》して見ると、怪しからん意味が大分《だいぶ》違つてる。そこで色々辯解して見たが中々聞いて呉れない。親の癖に自分の云ふ事をちつとも信用しないのが第一不都合だと思ふと同時に、第一の少女の傍《そば》に居たら、此の先どうなるか分らない、ことに因ると實際辯解の出來ない樣な怪しからん事が出來《しゆつたい》するかも知れないと考へ出した。がどうしても離れる事が出來ない。しかも第二の少女に對しては氣の毒である、濟まん事になつたと云ふ念が日々《にち／＼》烈しくなる。――こんな具合で三方四方から、兩立しない感情が攻め寄せて來て、五色の絲のこんがらかつた樣に、此方《こつち》を引くと、彼方《あつち》の筋が詰る、彼方《あつち》をゆるめると此方《こつち》が釣れると云ふ按排《あんばい》で、亂れた頭はどうあつても解《ほど》けない。色々に工夫を積んで自分に愛想《あいそ》の盡きる程ひねくつて見たが、到底思ふ樣に纒まらないと云ふ一點張《いつてんばり》に落ちて來た時に――やつと氣がついた。つまり自分が苦しんでるんだから、自分で苦《くるし》みを留めるより外に道はない譯だ。今迄は自分で苦しみながら、自分以外の人を動かして、どうにか自分に都合のいゝ樣な解決があるだらうと、只管《ひたすら》に外のみを當《あて》にしてゐた。つまり徃來で人と行き合つた時、此方《こつち》は突ツ立つた儘、向ふが泥濘《ぬかるみ》へ避《よ》けて呉れる工面ばかりしてゐたのだ。此方《こつち》が動かない今の儘の此方《こつち》で、夫《それ》で相手の方｜丈《だけ》を思ふ通りに動かさうと云ふ出來ない相談を持ち懸けてゐたのだ。自分が鏡の前に立ちながら、鏡に寫る自分の影を氣にしたつて、どうなるもんぢやない。世間の掟《おきて》といふ鏡が容易に動かせないとすると、自分の方で鏡の前を立ち去るのが何よりの上分別である。

　そこで自分は此の入り組んだ關係の中から、自分｜丈《だけ》をふいと煙《けむ》にして仕舞はうと決心した。然し本當に煙《けむ》にするには自殺するより外に致し方がない。そこで度々自殺をしかけて見た。所が仕掛けるたんびにどきんとして已《や》めて仕舞つた。自殺はいくら稽古をしても上手にならないものだと云ふ事を漸く悟つた。自殺が急に出來なければ自滅するのが好からうとなつた。然し自分は前に云ふ通り相當の身分のある親を持つて朝夕《あさゆふ》に事を缺かぬ身分であるから生家《うち》に居ては自滅しやうがない。どうしても逃亡《かけおち》が必要である。

　逃亡《かけおち》をしても此關係を忘れる事は出來まいとも考へた。又忘れる事が出來るだらうとも考へた。要するに、して見なければ分らないと考へた。たとひ煩悶が逃亡《かけおち》に附き纒つて來るにしても夫《それ》は自分の事である。あとに殘つた人は自分の逃亡《かけおち》の爲に助かるに違ひないと考へた。のみならず逃亡《かけおち》をしたつて、何時《いつ》迄《まで》も逃亡《かけお》ちてゐる譯ぢやない。急に自滅がしにくいから、まづ其一着として逃亡《かけお》ちて見るんである。だから逃亡《かけお》ちて見ても矢張《やつぱ》り過去に追はれて苦しい樣なら、其の時｜徐《おもむろ》に自滅の計《はかりごと》を廻《めぐ》らしても遅くはない。それでも駄目と極まれば其時こそ屹度《きつと》自殺して見せる。――かう書くと自分は如何にも下らない人間になつて仕舞ふが、事實を露骨に云ふと是｜丈《だけ》の事に過ぎないんだから仕方がない。又かう書けばこそ下らなくなるが、其の當時のぼんやりした意氣込を、ぼんやりした意氣込の儘に叙したなら、是でも小説の主人公になる資格は十分あるんだらうと考へる。

　それでなくつても實際其の當時の、二人の少女の有樣やら、日毎に變る局面の轉換やら、自分の心配やら、煩悶やら、親の意見や親類の忠告やら、何やら蚊やらを、そつくり其の儘書き立てたら、大分《だいぶん》面白い續きものができるんだが、そんな筆もなし時もないから、まあ已《や》めにして、折角の坑夫事件｜丈《だ》けを話す事にする。

　兎に角かう云ふ譯で自分は愈《いよ／＼》となつて出奔《しゆつぽん》したんだから、固《もと》より生きながら葬《はうぶ》られる覺悟でもあり、又｜自《みづか》ら葬《はうぶ》つて仕舞ふ了簡《れうけん》でもあつたが、遉《さすが》に親の名前や過去の歴史はいくら棄鉢《すてばち》になつても長藏さんには話し度くなかつた。長藏さん許《ばか》りぢやない、凡《すべ》ての人間に話し度くなかつた。凡ての人間は愚か、自分にさへ出來る事なら語り度くない程｜情《なさけ》ない心持でひよろ／＼してゐた。だから長藏さんが人を周旋する男にも似合はず、自分の身元に就て一言《いちごん》も聞き糺《たゞ》さなかつたのは、變と思ひながらも、内々嬉しかつた。本當を云ふと、當時の自分はまだ嘘《うそ》を突《つ》く事を能く練習して居なかつたし、誤魔化《ごまか》すと云ふ事は大變な惡事の樣に考へてゐたんだから、聞かれたら定めし困つたらうと思ふ。

　そこで長藏さんに尾《つ》いて、横町を曲つて行くと、一二丁行つたか行かないうちに町並が急に疎《まばら》になつて、所々は田圃《たんぼ》の片割れが細く透いて見える。表はあんなに繁昌しても、繁昌は横幅｜丈《だけ》であるなと氣が附いたら、又急に横町を曲らせられて、又賑かな所へ出された。その突當りが停車場《ステーシヨン》であつた。汽車に乘らなくつては坑夫になる手續きが濟まないんだと云ふ事を此時｜漸《やうや》く知つた。實は鑛山の出張所でも此の町にあつて、まづそこへ連れて行かれて、其處から又役人が山へでも護送してくれるんだらうと思つてゐた。

　そこで停車場《ステーシヨン》へ這入る五六間手前になつてから、

　「長藏さん、汽車に乘るんですか」

と後《うしろ》から、呼び掛けながら聞いて見た。自分が此の男を長藏さんと云つたのは此の時が始めてゞある。長藏さんは一寸振り返つたが、あかの他人から名前を呼ばれたのを不審がる樣子もなく、すぐ、

　「あゝ、乘るんだよ」

と答へたなり、停車場《ステーシヨン》に這入つた。

　自分は停車場《ステーシヨン》の入口に立つて考へ出した。あの男は一體自分と一所に汽車へ乘つて先方《さき》迄行く氣なんだらうか、夫《それ》にしては餘り親切過ぎる。なんぼなんでも見ず知らずの自分にかう叮嚀な世話を燒くのは可笑《をか》しい。ことによると彼奴《あいつ》は詐欺師《かたり》かも知れない。自分は下らん事に今更の如くはつと氣が附いて急に汽車へ乘るのが厭になつて來た。一層《いつそ》の事又｜停車場《ステーシヨン》を飛び出さうかしらと思つて、今迄プラツトフオームの方を向いて居た足を、入口の見當《けんたう》に向け易へた。然しまだ歩き出す程の決心も附かなかつたと見えて、茫然として、停車場《ステーシヨン》前の茶屋の赤い暖簾《のれん》を眺めて居ると、いきなり大きな聲を出して遠くから呼びとめられた。自分は此聲を聞くと共に、其所有者は長藏さんであつて、松原以來の聲であると云ふ事を悟つた。振り返ると、長藏さんは遠方から顔｜丈《だけ》斜《はす》に出して、頻りに此方《こちら》を見て、首を竪に振つてゐる。何でも身體《からだ》は便所の塀にかくれてゐるらしい。折角呼ぶものだからと思つて、自分は長藏さんの顔を目的《めあて》に歩いて行くと、

　「御前さん、汽車へ乘る前に一寸用を足したら善からう」

と云ふ。自分は夫《それ》には及ばんから、一應辭退して見たが、中々承知しさうもないから、そこで長藏さんと相並んで、きたない話だが、小便を垂れた。其の時自分の考へは又變つた。自分は身體より外に何にも持つて居ない。取られ樣にも瞞《かた》られ樣にも、名誉も財産もないんだから初手《しよて》から見込の立たない代物《しろもの》である。昨日《きのふ》の自分と今日の自分とを混同して、長藏さんを恐ろしがつたのは、免職になりながら俸給の差《さ》し押《おさへ》を苦にする樣なものであつた。長藏さんは�ﾍ育のある男ではあるまいが、自分の風體《ふうてい》を見て一目《いちもく》騙《かた》るべからずと看破するには�ﾍ育も何も要つたものではない。だからことによると、自分を坑夫に周旋して、あとから周旋料でも取るんだらうと思ひ出した。夫《そ》れなら夫《そ》れで構はない。給料のうちを幾分か遣れば濟む事だ抔《など》と考へながら用を足した。――實は自分が此《これ》丈《だけ》の結論に到着する爲には、僅かの時間内だが是程の手數《てすう》と推論とを要したのである。此位骨を折つてすら、まだ長藏さんのポン引《び》きなる事を所謂《いはゆる》ポン引《び》きなる純粹の意味に於て會得《ゑとく》する事が出來なかつたのは、年が十九だつたからである。

　年の若いのは實に損なもので、こんなにポン引《び》きの近所迄どうか、かうか、漕ぎ附けながら、夫《それ》でも、もしや好意づくの世話ずきから起つた親切ぢやあるまいかと思つて、飛んだ氣兼をしたのは可笑《をか》しかつた。

　實は二人して、用を足して、のそ／＼三等待合所の入口迄來た時、自分は比較的威儀を正して長藏さんに、こんな事を云つたんである。

　「あなたに、わざ／＼先方《さき》迄連れて行つて頂いては恐縮ですから、もう是れで澤山です」

　すると長藏さんは返事もせずに變な顔をして、黙つて自分の方を見て居るから、是は禮の云ひ樣がわるいのかとも思つて、

　「色々御世話になつて難有《ありがた》いです。是から先はもう僕一人で遣りますから、どうか御構ひなく」

と云つて、頻に頭を下げた。すると、

　「一人で遣れるものかね」

と長藏さんが云つた。此の時｜丈《だけ》は御前さんを省いた樣である。

　「なに遣れます」

と答へたら、

　「どうして」

と聞き返されたんで、少し面喰《めんくら》つたが、

　「今貴方に伺つて置けば、先へ行つて貴方の名前を云つて、どうかしますから」

ともぢ／＼述べ立てると、

　「御前さん、私《わたし》の名前位で、すぐ坑夫になれると思つてるのは大間違ひだよ。坑夫なんて、そんなに容易になれるもんぢやないよ」

と跳附《はねつ》けられちまつた。仕方がないから

　「でも御氣の毒ですから」

と言譯｜旁《かた／”＼》挨拶をすると、

　「なに遠慮しないでもいゝ、先方《さき》迄送つてあげるから心配しないがいゝ。――袖《そで》摩《す》り合ふも何とかの因縁だ。ハヽヽヽヽ」

と笑つた。そこで自分は最後に、

　「どうも濟みません」

と禮を述べて置いた。

　夫《それ》から二人でベンチへ隣り合せに腰を掛けてゐると、段々｜停車場《ステーシヨン》へ人が寄つてくる。大抵は田舍者である。中には長藏さんの樣な袢天《はんてん》兼《けん》どてら〔三字傍点〕を着た上に、天秤棒《てんびんぼう》さへ荷《かつ》いだのがある。さうかと思ふと光澤《つや》のある前掛を締めて、中折帽を妙に凹《へこ》ました江戸ツ子流の商人《あきうど》もある。其他の何やら蚊やらでベンチの四方が足音と人聲でざわついて來た時に、切符口の戸がかたりと開《あ》いた。待ち兼ねた連中は急いで立ち上がつて、みんな鐵網《かなあみ》の前へ集つてくる。此の時長藏さんの態度は落ちつき拂つたものであつた。例の太刀《たち》の如く反《そ》つ繰返《くりかへ》つた　「朝日」を厚い唇の間に啣《くは》へながら、あの角張《かどば》つた顔を三《さん》が二《に》程自分の方へ向けて、

　「御前さん、汽車賃を持つて居なさるかい」

と聞いた。又自分の未熟な所を發表する樣だが、實を云ふと汽車賃の事は今が今迄自分の考へには毫も上らなかつたのである。汽車に乘るんだなと思ひながら、幾何《いくら》金を拂ふものか、又金を拂ふ必要があるものか、頓《とん》と思ひ至らなかつたのは愚《ぐ》の至《いたり》である。愚《ぐ》はどこ迄も承認するが此の質問に出逢ふ迄は無賃《たゞ》で乘れるかの如き心持で平氣でゐたのは事實である。よく分らないけれども、何でも自分の腹の底には、長藏さんにさへ食つ附いてさへ居れば、どうか爲《し》て呉れるんだらうと云ふ依頼心が妙に潜《ひそ》んでゐたんだらう。但し自分ぢや決してさう思つて居なかつた。今でもさうだとは自分の事ながら申しにくい。けれども、斯う云ふ安心がないとすれば、いくら馬鹿だつて、十九だつて、停車場《ステーシヨン》へ來て汽車賃の汽〔傍点〕の字も考へずに居られるもんぢやない。其の癖こんなに依頼して居る長藏さんに對して、もう御世話にならなくつても、好う御座いますの、是から一人で行きますのと平《ひら》に同行を斷つたのは、どう云ふ了簡《れうけん》だらう。自分は斯う云ふ場合に度々《たび／＼》出逢つてから、仕舞には自分で一つの理論を立てた。――病氣に潜伏期がある如く、吾々の思想や、感情にも潜伏期がある。此の潜伏期の間には自分で其の思想を有《も》ちながら、其の感情に制せられながら、ちつとも自覺しない。又此の思想や感情が外界の因縁で意識の表面へ出て來る機會がないと、生涯其の思想や感情の支配を受けながら、自分は決してそんな影響を蒙《かうぶ》つた覺《おぼえ》がないと主張する。其の證據は此の通りと、どし／＼反對の行爲言動をして見せる。が其の行爲言動が、傍《はた》から見ると矛盾になつてゐる。自分でもはてなと思ふ事がある。はてなと氣が附かないでも飛んだ苦しみを受ける場合が起つてくる。自分が前に云つた少女に苦しめられたのも、元はと云へば、矢つ張り此の潜伏者を自覺し得なかつたからである。此の正體の知れないものが、少しも自分の心を冒さない先に、劇藥でも注射して、悉《こと／”＼》く殺し盡す事が出來たなら、人間幾多の矛盾や、世上幾多の不幸は起らずに濟んだらうに。所がさう思ふ樣に行かんのは、人にも自分にも氣の毒の至りである。

　それで、自分が長藏さんから「御前さん汽車賃を持つて居なさるか」と問はれた時に、自分ははつと思つて、少からず狼狽《うろた》へた。三十二錢のうちで饅頭の代と茶代を引くと何にもありやしない。汽車賃もない癖に、坑夫にならうなんて呑込顔《のみこみがほ》に受合つたんだから、自分は少し圖迂々々《づう／＼》しい人間であつたんだと氣がついたら、急に頬邊《ほつぺた》が熱くなつた。其の時分の事を考へると自分ながら可愛らしい。是れが今だつたら、たとひ電車の中で借金の催促をされ樣とも、只困る丈《だけ》で、けつして赤面はしない。ましてぽん引《び》きの長藏さん抔《など》に對して、神聖なる羞耻の血色を見せるなんて勿體《もつたい》ない事は、夢にも遣る氣遣ひはありやしない。

　自分はどう云ふものか、長藏さんに對して汽車賃はありますと答へたかつた。然し實際がないんだから嘘を吐《つ》く譯には行かない。嘘を吐きつ放《ぱなし》にして濟ませられるなら、思ひ切つて、嘘を吐く事にしたらうが、とにかく今切符を買ふと云ふ間際で、吐けばすぐ露現《ろけん》して仕舞ふんだから始末がわるい。と云つて汽車賃はありませんと答へるのが如何にも苦痛である。どうも子供だから、しかも滿更《まんざら》の子供でなくつて、少し大きくなりかけた、色氣の附いた、煩悶をしてゐる、つまらん常識がある樣な、ない樣な子供だから、猶々不都合だつた。そこで汽車賃はありますとも、ありませんとも云ひにくかつたもんだから、

　「少しあります」

と答へた。それも響の物に應ずる如く、停滯なく出ればよかつたが、何しろ勿體《もつたい》なくも頬邊《ほつぺた》を赤くしたあとで、甚だ恐縮の態度で出したんだから、馬鹿である。

　「少しつて、御前さん、若干《いくら》持つてるい」

と長藏さんが聞き返した。長藏さんは自分が頬邊《ほつぺた》を赤くしても、恐縮しても、丸《まる》で頓着しない。たゞいくら持つてるか聞きたい樣子であつた。所が生憎《あいにく》肝心の自分にはいくらあるか判然しない。何しろ〆《しめ》て三十二錢のうち、饅頭を三皿食つて、茶代を五錢やつたんだから、殘る所は澤山ぢやない。あつても無くつても同じ位なものだ。

　「ほんの僅かです。とても足りさうもないです」

と正直な所を云ふと、

　「足りない所は、私《わたし》が足して上げるから、構はない。何しろ有る丈《だけ》御出し」

と、思つたよりは平氣である。自分は此の際一錢銅や二錢銅を勘定するのは、如何にも體裁《ていさい》がわるいと考へた上に、有るものを無いと隱す樣に取られては厭だから、懷から例の蟇口を取り出して、蟇口ごと長藏さんに渡した。此の蟇口は鰐《わに》の皮で拵へた頗る上等なもので、親父から貰ふ時も、是れは高價な品であると云ふ講釋を篤《とく》と聽かされた贅澤物である。長藏さんは蟇口を受け取つて、ちよつと眺めて居たが、

　「ふゝん、安くないね」

と云つたなり中味も改めずに腹掛の隱しへ入れちまつた。中味を改めない所はよかつたが、

　「ぢや、私《わたし》が切符を買つて來て上げるから、ちやんと茲處《こゝ》に待つて居なくつちや、いけない。はぐれると、坑夫になれないんだからね」

と念を押して、ベンチを離れて切符口の方へすた／＼行つて仕舞つた。見てゐると人込の中へ這入つたなり振り返りもしないで切符を買ふ番のくるのを待つてゐる。さつき松原の掛茶屋を出てから、今先方《いまさきがた》迄《まで》の長藏さんは始終自分の傍《そば》に食つ附いて居て、たまに離れると便所からでも顔を出して呼ぶ位であつたのに、蟇口を受け取つて、切符を買ふ時は丸《まる》で自分を忘れて居る樣に見受けられた。あんまり人が多くつて、此方《こつち》へ眼をつける暇がなかつたんだらう。之に反して自分は一生懸命に長藏さんの後姿を見守つて、札を買ふ順番が一人々々に廻つて來るたんびに長藏さんが段々切符口へ近附いて行くのを、遠くから妙な神經を起して眺めてゐた。蟇口は立派だが中を開けられたら銅貨が出る許《ばか》りだ。開けて見て、何だ是つぱかりしか持つてゐないのかと長藏さんが驚くに違ない。どうも氣の毒である。いくら足し前をするんだらう抔《など》と入らざる事を苦《く》に病《や》んで居ると、やがて長藏さんは平生の顔附きで歸つて來た。

　「さあ、是れが御前さんの分だ」

と云ひながら赤い切符を一枚くれたぎりいくら不足だとも何とも云はない。極りが惡かつたから、自分も只

　「難有《ありがた》う」

と受取つたぎり賃錢の事は口へ出さなかつた。蟇口の事もそれなりにして置いた。長藏さんの方でも蟇口の事はそれつきり云はなかつた。從つて蟇口はつひに長藏さんに遣つた事になる。

　それから、とう／＼二人して汽車へ乘つた。汽車の中では別に是と云ふ出來事もなかつた。只自分の隣りに腫物《できもの》だらけの、腐爛目《たゞれめ》の、痘痕《あばた》のある男が乘つたので、急に心持が惡くなつて向ふ側へ席を移した。どうも當時の?態を今からよく考へて見ると餘つ程｜可笑《をか》しい。生家《うち》を逃亡《かけお》ちて、坑夫に迄、なり下《さが》る決心なんだから、大抵の事に辟易《へきえき》しさうもないもんだが矢張《やつぱ》り醜《きた》ないものゝ傍《そば》へは寄りつき度くなかつた。あの按排《あんばい》では自殺の一日前でも、腐爛目《たゞれめ》の隣を逃げ出したに違ない。それなら萬事かう几帳面《きちやうめん》に段落を附けるかと思ふと、さうでないから困る。第一長藏さんや茶店のかみさんに逢つた時なんぞは平生の自分にも似ず、?《ぐう》の音《ね》も出さずに心《しん》から大人《おとな》しくしてゐた。議論も主張も氣慨《きがい》も何もあつたもんぢやありやしない。尤も是れは大分《だいぶ》餓《ひも》じい時であつたから、少しは差引いて勘定を立《たて》るのが至當だが、決して空腹の爲ばかりとは思へない。どうも矛盾――又矛盾が出たから廢《よ》さう。

　自分は自分の生活中尤も色彩の多い當時の冒險を暇さへあれば考へ出して見る癖がある。考へ出す度に、昔の自分の事だから遠慮なく嚴密なる解剖の刀を揮《ふる》つて、縱横《たてよこ》十文字に自分の心緒《しんしよ》を切りさいなんで見るが、其の結果はいつも千遍一律で、要するに分らないとなる。昔《むか》しだから忘れちまつたんだ抔《など》と云つては不可《いけ》ない。此の位切實な經驗は自分の生涯中に二度とありやしない。二十《はたち》以下の無分別から出た無茶だから、其の筋道が入り亂れて要領を得んのだと評しては猶｜不可《いけ》ない。經驗の當時こそ入り亂れて滅多矢鱈《めつたやたら》に盲動するが、其の盲動に立ち至る迄の經過は、落ち着いた今日《こんにち》の頭腦の批判を待たなければとても分らないものだ。此の鑛山｜行《ゆき》だつて、昔の夢の今日《こんにち》だから、此の位人に解る樣に書く事が出來る。色氣がなくなつたから、あらひざらひ書き立てる勇氣があると云ふ許《ばか》りぢやない。其時の自分を今の眼の前に引擦《ひきず》り出して、根掘り葉掘り研究する餘裕がなければ、たとひ是程にだつて到底書けるものぢやない。俗人は其の時其の場合に書いた經驗が一番正しいと思ふが、大間違である。刻下《こくか》の事情と云ふものは、轉瞬《てんしゆん》の客氣《かくき》に驅られて、飛んでもない誤謬を傳へ勝ちのものである。自分の鑛山行｜抔《など》も其の時其の儘の心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、氣取つた、僞りの多いものが出來上つたらう。到底、かうやつて人の前へ御覽下さいと出された義理ぢやない。

　自分が腐爛目《たゞれめ》の難を避けて、向ふ側に席を移すと、長藏さんは一目一寸自分と腐爛目《たゞれめ》を見たなりで、矢張り元の所へ腰を掛けた儘動かなかつた。長藏さんの神經が自分より餘程剛健なのには少からず驚嘆した。のみならず、平氣な顔で腐爛目《たゞれめ》と話し出したに至つて、少しく愛想《あいそ》が盡きた。

　「又山行きかね」

　「あゝ又一人連れて行くんだ」

　「あれかい」

と腐爛目《たゞれめ》は自分の方を見た。長藏さんは此の時何か返事をしかけたんだらうが不圖自分と顔を見合せたものだから、其の儘厚い唇を閉じて横を向いて仕舞つた。其の顔について廻つて、腐爛目《たゞれめ》は、

　「又｜大分《だいぶん》儲かるね」

と云つた。自分は此言葉を聞くや否や忽ち窓の外へ顔を出した。さうして窓から唾液《つばき》をした。すると其｜唾液《つばき》が汽車の風で自分の顔へ飛んで來た。何だか不愉快だつた。前の腰掛で知らない男が二人辯じてゐる。

　「泥棒が這入るとするぜ」

　「こそ／＼がかい」

　「なに強盗がよ。それで以て、拔身か何かで威嚇《おど》した時によ」

　「うん、それで」

　「それで、主人《あるじ》が、泥棒だからつてんで贋錢《にせがね》を遣つて歸したとするんだ」

　「うんそれから」

　「後《あと》で泥棒が贋錢《にせがね》と氣がついて、あすこの亭主は贋錢使《にせがねつかひ》だ／＼つて方々振れて歩くんだ。常公《つねこう》の前《めえ》だが、何方《どつち》が罪が重いと思ふ」

　「何方《どつち》たあ」

　「其の亭主と泥棒がよ」

　「さうさなあ」

と相手は解決に苦しんでゐる。自分は眠《ねぶ》くなつたから、窓の所へ頭を持たしてうと／＼した。

　寐ると急に時間が無くなつちまう。だから時間の經過が苦痛になるものは寐るに限る。死んでも恐らく同じ事だらう。然し死ぬのは、やさしい樣で中々容易でない。先づ凡人は死ぬ代りに睡眠で間に合せて置く方が輕便である。柔道をやる人が、時々朋友に咽喉《のど》を締めて貰ふ事がある。夏の日永《ひなが》のだるい時｜抔《など》は、絶息した儘五分も道場に死んで居て、それから活《くわつ》を入れさせると、生れ代る樣な好い氣分になる――但し人の話だが。――自分は、もしや死につきりに死んぢまやしないかと云ふ神經の爲に、ついぞ此の荒療治《あられうぢ》を頼んだ事がない。睡眠は是程の効驗もあるまいが、其代り生き戻り損《そこな》ふ危險も伴《ともな》つてゐないから、心配のあるもの、煩悶の多いもの、苦痛に堪へぬもの、ことに自滅の一着として、生きながら坑夫になるものに取つては、至大なる自然の賚《たまもの》である。其の自然の賚《たまもの》が偶然にも今自分の頭の上に落ちて來た。難有《ありがた》いと禮を云ふ閑《ひま》もないふちに、うつとりとしちまつて、生きてゐる以上は是非共其の經過を自覺しなければならない時間を、丸潰しに潰してゐた。所が眼が覺めた。後から考へて見たら、汽車の動いてる最中に寐込んだもんだから、汽車の留つた爲に、眠《ねぶ》りが調子を失つて何處かへ飛んで行つたのである。自分は眠《ねぶ》つて居ると、時間の經過｜丈《だけ》は忘れてゐるが、空間の運動には依然として反應を呈する能力がある樣だ。だから本當に煩悶を忘れる爲には矢張り本當に死なゝくつては駄目だ。但し煩悶がなくなつた時分には、又生き返り度くなるに極つてるから、正直に理想を云ふと、死んだり生きたり互違にするのが一番よろしい。――こんな事をかくと、何だか剽輕《へうきん》な冗談を云つてる樣だが決してそんな浮いた了見《れうけん》ぢやない。本氣に眞面目を話してる積《つもり》である。其の證據には此の理想は只今過去を回想して、面白半分興に乘じて、好い加減に附け加へたんぢやない。實際汽車が留つて、不意に眼が覺めた時、この通りに出て來たのである。馬鹿氣た感じだから滑稽の樣に思はれるけれども其の時は正直にこんな馬鹿氣た感じが起つたんだから仕方がない。此の感じが滑稽に近ければ近い程、自分は當時の自分を可愛想《かはいさう》に思ふのである。こんな常識をはづれた希望を、眞面目に抱《いだ》かねばならぬ程、其の時の自分は情《なさけ》ない境遇に居つたんだと云ふ事が判然するからである。

　自分が不圖眼を開けると、汽車はもう留つてゐた。汽車が留まつたなと云ふ考へよりも、自分は汽車に乘つて居たんだなと云ふ考へが第一に起つた。起つたと思ふが早いか、長藏さんが居るんだ、坑夫になるんだ、汽車賃がなかつたんだ、生家《うち》を出奔《しゆつぽん》したんだ、何《ど》うしたんだ、かうしたんだと丸《まる》で十二三のたんだ〔三字傍点〕がむら／＼と塊《かた》まつて、頭の底から一度に湧いて來た。其の速い事と云つたら、言語《ごんご》に絶すると云はうか、電光石火と評しやうか、實に恐ろしい位だつた。ある人が、溺れかゝつた其の刹那《せつな》に、自分の過去の一生を、細大《さいだい》漏らさずあり／＼と、眼の前に見た事があると云ふ話を其の後《のち》聞いたが、自分の此の時の經驗に因つて考へると、これは決して嘘ぢやなからうと思ふ。要するに其の位早く、自分は自分の實世界に於ける立場と境遇とを自覺したのである。自覺すると同時に、急に厭な心持になつた。只厭では、とても形容が出來ないんだが、去ればと云つて、別に叙述し樣もない心持ちだからたゞの厭でとめて置く。自分と同じ樣な心持ちを經驗した人ならば、只是｜丈《だけ》で、成程あれだなと、直《すぐ》勘《かん》づくだらう。又經驗した事がないならば、それこそ幸福だ、決して知るに及ばない。

　其の内同じ車室に乘つてゐたものが二三人立ち上がる。外からも二三人這入つて來る。何處へ陣取らうかと云ふ眼附できよろ／＼するのと、忘れものはないかと云ふ顔附きでうろ／＼するのと、それから何の用もないのに姿勢を更《か》へて窓へ首を出したり、欠伸《あくび》をしたりするのと、が一度に合併して、凡《すべ》て動搖の?態に世の中を崩し始めて來た、自分は自分の周圍のものが、悉《こと／”＼》く活動しかけるのを自覺してゐた。自覺すると共に、自分は普通の人間と違つて、みんなが活動する時分でさへ、他《ひと》に釣り込まれて氣分が動いて來ない樣な仲間｜外《はづ》れだと考へた。袖が觸《す》れ違つて、膝を突き合せてゐながらも、魂｜丈《だけ》は丸《まる》で縁も由緒《ゆかり》もない、他界から迷ひ込んだ幽靈の樣な氣持であつた。今迄は、どうか、かうか、人並に調子を取つて來たのが汽車が留まるや否や、世間は急に陽氣になつて上へ騰《あが》る。自分は急に陰氣になつて下へ降《さが》る、到底｜交際《つきあひ》は出來ないんだと思ふと、脊中と胸の厚さがしゆうと減つて、臓腑が薄つ片《ぺら》な一枚の紙の樣に壓《お》しつけられる。途端に魂｜丈《だけ》が地面の下へ拔け出しちまつた。洵《まこと》に申譯のない、御恥づかしい心持ちをふらつかせて、凹《へこ》んでゐた。

　所へ長藏さんが、立つて來て、

　「御前さん、まだ眼が覺めないかね。此處から降りるんだよ」

と注意して呉れた。それで漸く成程と氣が附いて立ち上つた。魂が地の底へ拔け出して行く途中でも、手足に血が通《かよ》つてるうちは、呼ぶと返つて來るから可笑《をか》しなものだ。然し是れがもう少し烈しくなると、中々思ふ樣に魂が身體《からだ》に寄りついて呉れない。其の後《ご》臺灣沖で難船した時｜抔《など》は、殆ど魂に愛想《あいそ》を盡かされて、非常な難義をした事がある。何《なに》にでも上には上があるもんだ。是れが行き留りだの、突き當りだのと思つて、安心してかゝると、飛んだ目に逢ふ。然し此の時は此の心持が自分に取つて尤も新しくて、しかも甚だ苦《にが》い經驗であつた。

　長藏さんのどてら〔三字傍点〕の尻を嗅《か》ぎながら改札場から表へ出ると、大きな宿《しゆく》の通りへ出た。一本筋の通りだが存外廣い、許《ばか》りではない、心持の判然《はつきり》する程眞直である。自分は此の廣い徃還《わうくわん》の眞中に立つて遙か向ふの宿外《しゆくはづれ》を見下《みおろ》した。其の時一種妙な心持になつた。此の心持ちも自分の生涯中にあつて新らしいものであるから、序《ついで》に此處に書いて置く。自分は肺の底が拔けて魂が逃げ出しさうな所を、漸く呼びとめて、多少人間らしい了簡《れうけん》になつて、宿《しゆく》の中へ顔を出した許《ばか》りであるから、魂が吸《ひ》く息につれて、やつと胎内に舞ひ戻つた丈《だけ》で、まだふわ／＼してゐる。少しも落ち附いてゐない。だから此の世にゐても、此の汽車から降りても、此の停車場《ステーシヨン》から出ても、又此の宿《しゆく》の眞中に立つても、云はゞ魂がいや／＼ながら、義理に働いてくれた樣なもので、決して本氣の沙汰で、自分の仕事として引き受けた專門の職責とは心得られなかつた位、鈍《にぶ》い意識の所有者であつた。そこで、ふらついてゐる、氣の遠くなつてゐる、凡《すべ》てに興味を失つた、かなつぼ眼《まなこ》を開《ひら》いて見ると、今迄は汽車の箱に詰め込まれて、上下四方とも四角に仕切られてゐた眼界が、はつと云ふ間《ま》に、一本筋の徃還を沿うて、十丁｜許《ばか》り飛んで行つた。しかも其の突當りに滴《したゝ》る程の山が、自分の眼を遮《さへぎ》りながらも、邪魔にならぬ距離を有《たも》つて、どろんとしたわが眸《ひとみ》を翠《みどり》の裡《うち》に吸寄せてゐる。――そこで何んとなく今云つた樣な心持になつちまつたのである。

　第一には大道《だいどう》砥《と》の如しと、成語にもなつてる位で、平たい眞直な道は蟠《わだか》まりのない爽《さはやか》なものである。もつと分り安く云ふと、眼を迷附《まごつ》かせない。心配せずに此方《こつち》へ御出《おいで》と誘ふ樣に出來上つてるから、少しも遠慮や氣兼をする必要がない。許《ばか》りぢやない。御出《おいで》と云ふから一本筋の後《あと》を喰ツ附いて行くと、何處迄も行ける。奇體な事に眼が横町へ曲り度くない。道が眞直に續いてゐればゐる程、眼も眞直に行かなくつては、窮屈で且《かつ》不愉快である。一本の大道は眼の自由行動と平行して成り上つたものと自分は堅く信じてゐる。夫《そ》れから左右の家並《いへなみ》を見ると、――是は瓦葺《かはらぶき》も藁葺《わらぶき》もあるんだが――瓦葺だらうが、藁葺だらうが、そんな差別はない。遠くへ行けば行く程次第々々に屋根が低くなつて、何百軒とある家が、一本の針金で勾配《こうばい》を纒められる爲に向ふのはづれから此方《こつち》迄突き通されてる樣に、行儀よく、斜《はす》に一筋を引つ張つて、何處迄も進んでゐる。さうして進めば進む程、地面に近寄つてくる。自分の立つてゐる左右の二階屋｜抔《など》は――宿屋の樣に覺えてゐるが――見上げる程の高さであるのに、宿外《しゆくはづ》れの軒を透《すか》して見ると、指の股に這入ると思はれる位低い。其途中に暖簾《のれん》が風に動いてゐたり、腰障子に大きな蛤《はまぐり》がかいてあつたりして、多少の變化は無論あるけれども、軒並《のきなみ》丈《だけ》を遠く迄追つ掛けて行くと、一里が半秒《はんセコンド》で眼の中に飛び込んで來る。夫《それ》程《ほど》明瞭である。

　前に云つた通り自分の魂は二日醉《ふつかゑひ》の體《てい》たらくで、何處迄もとろんとしてゐた。所へ停車場《ステーシヨン》を出るや否や斷りなしに此の明瞭な――盲目《めくら》にさへ明瞭な此｜景色《けしき》にばつたり打《ぶ》つかつたのである。魂の方では驚かなくつちやならない。又實際驚いた。驚いたには違ひないが、今迄あやふやに不精々々に徘徊して居た惰性を一變して屹となるには、多少の時間がかゝる。自分の前《さき》に云つた一種妙な心持ちと云ふのは、魂が寝返りを打たないさき、景色が如何にも明瞭であるなと心附いたあと、――其の際どい中間《ちゆうかん》に起つた心持ちである。此の景色は斯樣《かやう》に暢達《のび／＼》して、斯樣に明白で、今迄の自分の情緒《じやうしよ》とは、丸《まる》で似つかない、景氣のいゝものであつたが、自身の魂がおやと思つて、本氣に此の外界《げかい》に對《むか》ひ出したが最後、いくら明かでも、いくら暢《のん》びりしてゐても、全く實世界の事實となつて仕舞ふ。實世界の事實となると如何《いか》な御光《ごくわう》でも難有味《ありがたみ》が薄くなる。仕合せな事に、自分は自分の魂が、ある特殊の?態に居た爲――明かな外界を明かなりと感受する程の能力は持ちながら、是れは實感であると自覺する程作用が鋭くなかつた爲――此の眞直な道、此の眞直な軒を、事實に等しい明かな夢と見たのである。此の世でなければ見る事の出來ない明瞭な程度と、これに伴《ともな》ふ爽凉《はつきり》した快感を以て、他界の幻影《まぼろし》に接したと同樣の心持になつたのである。自分は大きな徃來の眞中に立つてゐる。其徃來は飽迄も長くつて、飽《あく》迄《まで》も一本筋に通つて居る。歩いて行けば其《その》外《はづれ》迄行かれる。慥《たしか》に此｜宿《しゆく》を通り拔ける事はできる。左右の家は觸《さは》れば觸《さは》る事が出來る。二階へ上《のぼ》れば上《のぼ》る事が出來る。出來ると云ふ事はちやんと心得てゐながらも、出來ると云ふ觀念を全く遺失して、單に切實なる感能の印象｜丈《だけ》を眸《ひとみ》のなかに受けながら立つてゐた。

　自分は學者でないから、かう云ふ心持ちは何と云ふんだか分らない。殘念な事に名前を知らないのでついかう長くかいて仕舞つた。學問のある人から見たら、そんな事をと笑はれるかも知れないが仕方がない。其の後《のち》是れに似た心持は時々經驗した事がある。然し此の時程強く起つた事は曾《かつ》てない。だから、ひよつとすると何かの參考になりはすまいかと思つて、わざ／＼此處に書いたのである。但し此心持ちは起ると忽ち消えて仕舞つた。

　見ると日はもう傾《かたぶ》きかけてゐる。初夏《しよか》の日永の頃だから、日差《ひざし》から判斷して見ると、まだ四時過ぎ、恐らく五時にはなるまい。山に近い所爲《せゐ》か、天氣は思つた程よくないが、現に日が出てゐる位だから惡いとは云はれない。自分は斜《はす》かけに、長い一筋の町を照らす太陽を眺めた時、あれが西の方だと思つた。東京を出て北へ北へと走つた積《つもり》だが、汽車から降りて見ると、丸《まる》で方角がわからなくなつてゐた。此の町を眞直に町の通つてるなりに、下《くだ》ると、突き當りが山で、其の山は方角から推すと、矢張り北であるから、自分と長藏さんは相變らず、北の方へ行くんだと思つた。

　其の山は距離から云ふと大分《だいぶん》ある樣に思はれた。高さも決して低くはない。色は眞蒼《まつさを》で、横から日の差す所｜丈《だけ》が光る所爲《せゐ》か、陰の方は蒼い底が黒ずんで見えた。尤も是れは日の加減と云ふよりも杉檜の多い爲かも知れない。ともかくも蓊欝《こんもり》として、奧深い樣子であつた。自分は傾《かたぶ》きかけた太陽から、眼を移して此の蒼い山を眺めた時、あの山は一本立だらうか、又は續きが奧の方にあるんだらうかと考へた。長藏さんと並んで、段々山の方へ歩いて行くと、どうあつても、向ふに見える山の奧の又其の奧が果しもなく續いてゐて、さうして其山々は悉《こと／”＼》く北へ北へと連なつてゐるとしか思はれなかつた。是れは自分達が山の方へ歩いて行くけれど、只行く丈《だけ》で中々麓へ足が屆かないから、山の方で奧へ／＼と引き込んでいく樣な氣がする結果とも云はれるし。日が段々｜傾《かたぶ》いて陰の方は蒼い山の上皮《うはかは》と、蒼い空の下層《したがは》とが、雙方で本分を忘れて、好い加減に他《ひと》の領分を犯《をか》し合つてるんで、眺める自分の眼にも、山と空の區劃が判然しないものだから、山から空へ眼が移る時、つい山を離れたと云ふ意識を忘却して、矢張り山の續きとして空を見るからだとも云はれる。さうして其の空は大變廣い。さうして際限なく北へ延びてゐる。さうして自分と長藏さんは北へ行くんである。

　自分は昨夕《ゆうべ》東京を出て、千住《せんぢゆ》の大橋迄來て、袷の尻を端折《はしよ》つたなり、松原へかゝつても、茶店へ腰を掛けても、汽車へ乘つても、空脛《からすね》の儘で押し通して來た。それでも暑い位であつた。所が此の町へ這入つてから何だか空脛では寒い氣持がする。寒いと云ふよりも淋しいんだらう。長藏さんと黙つて足｜丈《だけ》を動かしてゐると、丸《まる》で秋の中を通り拔けてる樣である。そこで自分は又空腹になつた。度々空腹になつた事｜許《ばか》りを書くのは如何《いかゞ》はしい事で、且《かつ》此の際空腹になつては、どうも詩的でないが、致し方がない。實際自分は空腹になつた。家《うち》を出てから、只歩く丈《だけ》で、人間の食ふものを食はないから、忽ち空腹になつちまふ。どんなに氣分がわるくつても、煩悶があつても、魂が逃げ出しさうでも、腹｜丈《だけ》は十分減るものである。いや、さう云ふよりも、魂を落附ける爲には飯を供へなくつちや不可《いけ》ないと云ひ換へるのが適當かも知れない。品《ひん》の惡い話だが、自分は長藏さんと並んで徃來の眞中を歩きながら、左右に眼をくばつて、兩側の飲食店を覗き込む樣にして長い町を下《くだ》つて行つた。所が此の町には飲食店が大分《だいぶん》ある。旅屋《はたごや》とか料理屋とか云ふ上等なものは駄目としても、自分と長藏さんが這入つて然るべきやたいち〔四字傍点〕流《りう》のがあすこにも此處にも見える。然し長藏さんは毫も支度をしさうにない。最前の我多馬車《がたばしや》の時の樣に「御前さん夕食《ゆふめし》を食ふかね」とも聞いて呉れない。其の癖自分と同じ樣に、きよろ／＼兩側に眼を配《くば》つて何だか發見したい樣な氣色《けしき》があり／＼と見える。自分は今に長藏さんが恰好《かつかう》な所を見附けて、晩食《ばんめし》をしたゝめに自分を連れ込む事と自信して、氣を永く辛抱しながら、長い町を北へ北へと下《くだ》つて行つた。

　自分は空腹を自白したが、倒れる程ひもじくは無かつた。胃の中にはまだ先刻《さつき》の饅頭が多少殘つてる樣にも感ぜられた。だから歩けば歩かれる。たゞ汽車を下りるや否や滅《め》り込みさうな精神が、眞直な徃來の眞中に抛《はふ》り出されて、おやと眼を覺したら、山里の空氣がひやりと、夕日の間から皮膚を冒して來たんで、心機一轉の結果として茲《こゝ》に何か食つて見たくなつたんである。從つて食はなければ食はないでも濟む。長藏さん何か食はして呉れませんかと云ふ程苦しくもなかつた。然し何だか口が淋《さび》しいと見えて、しきりに繩暖簾《なはのれん》や、お※［者／火］〆《にしめ》や、御中食所《おちゆうじきどころ》が氣にかゝる。相手の長藏さんが又申し合せた樣に右左と覗き込むので、此方《こつち》は益《ます／＼》食意地《くひいぢ》が張つてくる。自分は此の長い町を通りながら、自分等に適當と思ふ程度の一膳《いちぜん》めし屋を遂に九軒迄勘定した。數へて九軒目に至つたら、左《さ》しもに長い宿《しゆく》はとう／＼御仕舞になり掛けて、もう一町も行けば宿外《しゆくはづ》れへ出拔《でぬ》けさうである。甚だ心細かつた。時に不圖《ふと》右側を見ると、又酒めしと云ふ看板に逢着した。すると自分の心のうちに是れが最後だなと云ふ感じが起つた。それが爲か煤《すゝ》けた軒の腰障子に、肉太に認《したゝ》めた酒めし、御肴〔五字傍点〕と云ふ文字が尤も劇烈な印象を以て自分の頭に映じて來た。其映じた文字がいまだに消えない。酒の字でも、めし〔二字傍点〕の字でも、御肴《おんさかな》の字でもあり／＼見える。此の樣子では、いくら耄碌《まうろく》しても此の五字｜丈《だけ》は、そつくり其の儘、紙の上に書く事が出來るだらう。

　自分が最後の酒、めし、御肴《おんさかな》をしみ／”＼見てゐると、不思議な事に長藏さんも一生懸命に腰障子の方に眼をつけてゐる。自分は流石《さすが》頑強の長藏さんも今度こそ食ひに這入るに違なからうと思つた。所が這入らない。其の代りぴたりと留つた。見ると腰障子の奧の方では何だか赤いものが動いてゐる。長藏さんの顔色を窺ふと、何でも此の赤いものを見詰めてゐるらしい。此の赤いものは無論人間である。が長藏さんが何故《なぜ》立ち留つて此の赤い人間を覗き込むのか、頓《とん》と自分には分らなかつた。人間には違ないが、只薄暗く赤い許《ばか》りで、顔附｜抔《など》は無論判然しやしない。がと思つて、自分も不審かた／”＼立ち留つてゐると、やがて障子の奧から赤毛布《あかげつと》が飛び出した。いくら山里でも五月の空に毛布《けつと》は無用だらうと云ふ人があるかも知れないが、實際此の男は赤毛布《あかげつと》で身を堅めて居た。其の代り下には手織の單衣《ひとへもの》一枚｜丈《だけ》しきや着てゐないんだから、つまり〆《しめ》て見ると自分と大した相違はない事になる。尤も單衣《ひとへもの》一枚で凌《しの》いでると云ふ事は、あとからの發見で、障子の影から飛び出した時には只赤い許《ばか》りであつた。

　すると長藏さんは、いきなり、此の赤い男の側《そば》へつか／＼遣つて行つて、

　「お前さん、働く氣はないかね」

と云つた。自分が長藏さんに捕《つか》まつた時に聞かされた、第一の質問は矢張り「働く氣はないかね」であつたから、自分はおや又働かせる氣かなと思つて、少からぬ興味の念に驅られながら二人を見物してゐた。其の時此の長藏さんは、誰を見ても手頃な若い衆《しゆ》とさへ鑑定すれば、働く氣はないかねと持ち掛ける男だと云ふ事を判然《はんぜん》と覺《さと》つた。つまり長藏さんは働かせる事を商賣にするんで、決して自分一人を非常な適任者と認めて、それで坑夫に推擧した譯ではなかつた。大方どこで、どんな人に、幾人《いくたり》逢はうとも、版行《はんかう》で押した樣な口調で御前さん働く氣はないかねを根氣よく繰返し得る男なんだらう。考へると、よくこんな商賣を厭きもせず、長《なが》の歳月《としつき》遣《や》られたものだ。長藏さんだつて、天性御前さん働く氣はないかねに適した譯でもあるまい。矢つ張り何かの事情｜已《やむ》を得ず御前さんを復習してゐるんだらう。かう思へば、まことに罪のない男である。要するに藝がないから外の事は出來ないんだが、外の事が出來ないんだと意識して煩悶する氣色《けしき》もなく、自分でなくつちや御前さん〔四字傍点〕をやり得る人間は天下廣しと雖も二人と有るまいと云ふ程の平氣な顔で、やつてゐる。

　其の當時自分に是《これ》丈《だけ》の長藏觀《ちやうざうくわん》があつたら大分《だいぶ》面白かつたらうが、何しろ魂に逃げだされ損なつてゐる最中だつたから、中々そんな餘裕は出て來なかつた。此の長藏觀は當時の自分を他人と見做《みな》して、若い時の回想を紙の上に寫す只今、始めて序《じよ》の節《せつ》に浮かんだのである。だから矢ツ張り紙の上｜丈《だけ》で消えてなくなるんだらう。然し其の時其の砌《みぎ》りの長藏觀と比較して見ると大分違つてる樣だ。――

　自分は長藏さんと赤毛布《あかげつと》の立談《たちばなし》を聞きながら、自分は長藏さんから毫も人格を認められてゐなかつたと云ふ事を見出した。――尤も人格は此際少し可笑《をか》しい。苟《いやし》くも東京を出奔《しゆつぽん》して坑夫に迄なり下がるものが人格を云々するのは變挺《へんてこ》な矛盾である。夫《それ》は自分も承知してゐる。現に今筆を執つて人格と書き出したら、何となく馬鹿氣てゐて、思はず噴き出しさうになつた位である。自分の過去を顧みて噴き出しさうになる今の身分を、昔と比《くら》べて見ると實に結構の至りであるが、其の時は中々噴き出す所《どころ》の騷ぎではなかつた。――長藏さんは明かに自分の人格を認めてゐなかつた。

　と云ふのは、彼れは此の酒、めし、御肴《おんさかな》の裏から飛び出した若い男を捕《つら》まへて、第二世の自分である如く、全く同じ調子と、同じ態度と、同じ言語と、もつと立ち入つて云へば、同じ熱心の程度を以て、同じく坑夫になれと勸誘してゐる。それを自分は何故《なぜ》だか少々｜怪《け》しからん樣に考へた。其の意味を今から説明して見ると、ざつとこんな譯なんだらう。――

　坑夫は長藏さんの云ふ如く頗る結構な家業だとは、常識を質に入れた當時の自分にも尤もと思ひ樣がなかつた。先《まづ》牛から馬、馬から坑夫といふ位の順だから、坑夫になるのは不名誉だと心得てゐた。自慢にやならないと覺《さと》つてゐた。だから坑夫の候補者が自分ばかりと思《おもひ》の外《ほか》突然居酒屋の入口から赤毛布《あかげつと》になつて、あらはれ樣とも別段神經を惱ます程の大事件ぢやない位は分りきつてる。然し此の赤毛布《あかげつと》の取扱方が全然自分と同樣であると、同樣であると云ふ點に不平があるよりも、自分は全然｜赤毛布《あかげつと》と一般な人間であると云ふ氣になつちまう。取扱方の同樣なのを延《ひ》き伸ばして行くと、つまり取り扱はれるものが同樣だからと云ふ妙な結論に到着してくる。自分はふら／＼と其處へ到着してゐたと見える。長藏さんが働かないかと談判してゐるのは赤毛布《あかげつと》で、赤毛布《あかげつと》は即はち自分である。何だか他人《ひと》が赤毛布《あかげつと》を着て立つてる樣には思はれない。自分の魂が、自分を置き去りにして、赤毛布《あかげつと》の中に飛び込んで、さうして長藏さんから坑夫になれと談じつけられてゐる。そこで、どうも情《なさけ》なくなつちまつた。自分が直接に長藏さんと應對してゐる間は、人格も何も忘れてゐるんだが、自分が赤毛布《あかげつと》になつて、君｜儲《まう》かるんだぜと説得されてゐる體裁《ていさい》を、自分が傍《わき》へ立つて見た日には方《かた》なしである。自分は果してこんなものかと、少しく興を醒まして赤毛布《あかげつと》を、つら／＼觀察してゐた。

　所が不思議にも此の赤毛布《あかげつと》が又自分と同じ樣な返事をする。被《かぶ》つてる赤毛布《あかげつと》ばかりぢやない、心底《しんそこ》から、此の若い男は自分と同じ人間だつた。そこで自分はつく／”＼詰まらないなと感じた。其の上もう一つ詰らない事が重なつたのは、長藏さんが、にく／＼しい程公平で、自分の方が赤毛布《あかげつと》よりも坑夫に適してゐると云ふ所を少しも見せない。全く器械的にやつてゐる。先口《せんくち》だから、もう少し此方《こつち》を贔屓《ひいき》にしたら好からうと思ふ位であつた。――是れで見ると人間の虚榮心はどこ迄も拔けないものだ。窮して坑夫になるとか、ならないとか云ふ切齒《せつぱ》詰つた時でさへ自分は是れ程の虚榮心を有《も》つてゐた。泥棒に義理があつたり、乞食に禮式があるのも全く此の格なんだらう。――然し此の虚榮心の方は、自分即ち赤毛布《あかげつと》であると云ふことを自覺して、大《おほい》に詰らなくなつたよりも、餘程詰らなさ加減が少かつた。

　自分が大《おほい》に詰らなくなつて、ぼんやり立つてゐると、二人《ふたり》の談判は見る間《ま》に片附いて仕舞つた。是れは必ずしも長藏さんが事程左樣《ことほどさやう》に上手だからと云ふ譯ではない。赤毛布《あかげつと》の方が事程左樣に馬鹿だつたからである。自分は此の男を一概に馬鹿と云ふが、あながち、自分に比較して輕蔑する氣ぢや決してない。自分の當時は、長藏さんの話をはい／＼聞く點に於て、すぐ坑夫にならうと承知する點に於て、其の他色々の點に於て、全く此の若い男と同等即ち馬鹿であつたのである。もし強《し》ひて違ふ所を詮議したら赤毛布《あかげつと》を被《かぶ》つてるのと絣を着てゐるとの差違《ちがひ》位なものだらう。だから馬鹿と云ふのは、自分と同じく氣の毒な人と云ふ意味で、馬鹿のうちに少し位は同情の意を寓した積《つもり》である。

　で、馬鹿が二人長藏さんに尾《つ》いて一所に銅山迄引つ張られる事になつた。然るに自分が赤毛布《あかげつと》と肩を並べて歩き出した時、不圖氣が附いて見ると、さつきの詰まらない心持ちがもう消えてゐた。どうも人間の了見《れうけん》程出たり引つ込んだりするものはない。有るんだなと安心してゐると、既にない。ないから大丈夫と思つてると、いや有る。有る樣で、ない樣で其の正體はどこ迄行つても捕まらない。其の後《のち》去る温泉場で退屈だから、宿の本を借りて讀んで見たら色々下らない御經の文句が並べてあつたなかに、心は三世にわたつて不可得《ふかとく》なりとあつた。三世にわたるなんてえのは、大袈裟な法螺《ほら》だらうが、不可得《ふかとく》と云ふのは、こんな事を云ふんぢやなからうかと思ふ。尤もある人が自分の話を聞いて、いや夫《それ》は念《ねん》と云ふもので心《こゝろ》ぢやないと反對した事がある。自分は孰《いづ》れでも御隨意だから黙つてゐた。こんな議論は全く餘計な事だが、何故《なぜ》云ひ度くなるかといふと、世間には大變利口な人物でありながら、全く人間の心を解してゐないものが大分《だいぶん》ある。心は固形體だから、去年も今年も蟲さへ食はなければ大抵同じもんだらう位に考へてゐるには弱らせられる。さうして、さう云ふ呑氣《のんき》な料簡で、人を自由に取り扱ふの、�ﾍ育するの、思ふ樣にして見せるのと騷いでゐるから驚いちまふ。水だつて流れりや返つて來やしない。愚圖々々して居りや蒸發しちまふ。

　兎に角此の際は、赤毛布《あかげつと》と並んで歩き出した時、もう先刻《さつき》の詰らない考へが蒸發してゐたと云ふ事｜丈《だけ》を記憶して置いて貰へばいゝ。――さうして吾ながら驚いたのは、どうも赤毛布《あかげつと》と並んで歩くのが愉快になつて來た。尤も此の男は茨城《いばらき》か何かの田舍もので、鼻から逃げる妙な發音をする。芋《いも》の事を芋《えも》と訓じたのは是から先《さ》きの逸話に屬するが、歩き出したてから、あんまり難有《ありがた》い音聲ではなかつた。其の上顔が人並《ひとなみ》に出來てゐなかつた。此の男に比べると角張《かくば》つた顎の、厚唇《あつくちびる》の長藏さん抔《など》は威風堂々たるものである。のみならず茨城《いばらき》の田舍を突つ走つたのみで、未《いま》だ曾《かつ》て東京の地を踏んだことがない。さうして、赤い毛布《けつと》が妙に臭い。それにも拘らず自分は此の山里で、銅山行きの味方を得た樣な心持ちがして嬉しかつた。自分はどうせ捨てる身だけれども、一人で捨てるより道伴《みちづれ》があつて欲《ほし》い。一人で零落《おちぶ》れるのは二人で零落《おちぶ》れるのよりも淋しいもんだ。さう明らさまに申しては失禮に當るが、自分は此男に就て何一つ好いてる所はなかつたけれども、只一所に零落《おちぶ》れてくれると云ふ點｜丈《だけ》が難有《ありがた》いので夫《そ》れが爲大いに愉快を感じた。それで歩き出すや否や、少し話もし掛けて見た位に、近しい仲となつて仕舞つた。是れから推して考へると、川で死ぬ時は、屹度《きつと》船頭の一人や二人を引き擦《ず》り込みたくなるに相違ない。もし死んでから地獄へでも行く樣《やう》な事があつたなら、人の居ない地獄よりも、必ず鬼の居る地獄を擇《えら》ぶだらう。

　さう云ふ譯で、忽ち赤毛布《あかげつと》が好きになつて、約一二町も歩いて來たら、又空腹を覺え出した。よく空腹を覺える樣だが、是れは前段の續きで決して新しい空腹ではない。順序を云ふと、第一に精神が稀薄になつて、尤も刻下感《こくかかん》に乏しい時に汽車を下りたんで、次に眞直な徃來を眞直に突き當りの山迄｜見下《みおろ》したもんだから漸く正氣づいたのは前《まへ》申した通りである。それが機縁になつて、今度は食氣《くひけ》が附いて、それから人格を認められてゐない事を認識して、甚だ詰らなくなつて、詰らなくなつたと思つたら坑夫の同類が出來て、少しく頽勢を挽回したと云ふ次第になる。だに因つて又空腹に立ち戻つたと説明したら善く呑み込めるだらう。偖《さて》空腹にはなつたが、最後の一膳飯屋《いちぜんめしや》はもう通り越してゐる。宿《しゆく》は既に盡きかゝつた。行く手は暗い山道である。到底願は叶《かな》ひさうもない。それに赤毛布《あかげつと》は今食つた許《ばか》りの腹だから、勇ましくどん／＼歩く。どうも、降參しちまつた。そこで思ひ切つて、最後の手段として長藏さんに話しかけて見た。

　「長藏さん、是からあの山を越すんですか」

　「あの取附《とつつき》の山かい。あれを越しちや大變だ。是れから左へ切れるんさ」

と云つたなり又すた／＼歩いて行く。どうも是非に及ばない。

　「まだ餘ツ程あるんですか、僕は少し腹が減つたんだが」

と、とう／＼空腹の由を自白した。すると長藏さんは

　「さうかい。芋でも食ふべい」

と、云ひながら、すぐさま、左側の芋屋へ飛び込んだ。よく約束した樣に、そこん所《とこ》に芋屋があつたもんだ。之を大袈裟に云へば天佑である。今でも此の時の上出來に行つた有樣を回顧すると、可笑《をか》しい許《ばかり》ぢやない、嬉しい。尤も東京の芋屋の樣に奇麗ぢやなかつた。殆ど名?しがたい位に眞黒になつた芋屋で、芋屋と云へば芋屋だが、芋專門ぢやない。と云つて芋の外に何を賣つてるんだつたか、今は忘れちまつた。食ふ方に氣を取られ過ぎた所爲《せゐ》かとも思ふ。

　やがて長藏さんは兩手に芋を載せて、眞黒な家《うち》から、のそりと出て來た。入れ物がないもんだから、兩手を前へ出して、

　「さあ、食つた」

と云ふ。自分は眼前に芋を突き附けられながら、たゞ

　「難有《ありがた》う」

と禮を述べて、芋を眺めてゐた。どの芋にしやうかと考へた譯ではない。そんな選擇を許す樣な芋ではなかつた。赤くつて、黒くつて、瘠せてゐて、濕つぽさうで、夫《それ》で所々皮が剥げて、剥げた中から緑青《ろくしやう》を吹いた樣な味《み》が出てゐる。どれに打《ぶ》つかつたつて大同小異である。そんなら一目《いちもく》慘澹《さんたん》たる此芋の光景に辟易《へきえき》して、手を出さなかつたかと云ふと、さうでもない。自分の胃の?況から察すると、芋《いも》中《ちゆう》のヽヽとも云はるべき此の御薩《おさつ》を快よく賞翫する食欲は十分有つた樣に思ふ。然し「さあ、食つた」と突き附けられた時は、何だかおびえ〔三字傍点〕た樣な氣分で、おいきたと手を出し損《そく》なつた。是れは大方「さあ、食つた」の云ひ方が惡かつたんだらう。

　自分が芋を取らないのを見て、長藏さんは、少々もどかしいと云ふ眼附で、再び

　「さあ」

と、例の顎で芋を指《さ》しながら、前へ出した手頸を、食へと云ふ相圖に一寸動かした。よく考へて見ると、兩手が芋で塞《ふさが》つてるんで、自分がどうかして遣らないと、長藏さんは、いくら芋が食ひ度くても、口へ持つて行く事ができないんであつた。じれたのも尤もである。そこで自分は漸く氣がついて、二の腕で、變な曲線を描《ゑが》いて、右の手を芋迄持つて行かうとすると、持つて行く途中で、芋の方が一本ころ／＼と徃來の中へ落ちた。是はすぐさま赤毛布《あかげつと》が拾つた。拾つたと思つたら、

　「此｜芋《えも》は好《えゝ》芋《えも》だ。おれが貰はう」

と云つた。夫《それ》で此の男は芋《いも》を芋《えも》と發音すると云ふ事が分つた。

　自分は此時長藏さんから、最初に三本、あとから一本｜締《しめ》て五本、前後二回に受取つたと記憶してゐる。さうしてそれを懷かしげに食ひながら、愈《いよ／＼》宿外《しゆくはづ》れ迄來ると又｜一事件《ひとじけん》起つた。

　宿《しゆく》の外《はづ》れには橋がある。橋の下は谷川で、青い水が流れてゐる。自分はもう町が盡きるんだなとは思ひながら、つい芋に心を奪はれて、橋の上へ乘つかゝる迄は川があるとも氣がつかなかつた。所が急に水の音がするんで、おやと思ふと橋へ出てゐる。川がある。水が流れてゐる。――何だか馬鹿氣た話だが、事實に尤も近い叙述をやらうとすると、まあ、かう書くのが一番適切だらう、かう書いて置く。決して小説家の弄《もてあそ》ぶ樣な法螺《ほら》七分の形容ではない。是が形容でないとすると其の時の自分が如何に芋を旨《うま》がつたのかゞおのづから分明《ぶんみやう》になる。偖《さて》水音に驚いて、欄干から下を見ると、音のするのは尤もで、川の中に大きな石が大分《だいぶん》ある。さうして其の形?《かつかう》が如何にも不作法にでき上つて、恰も水の通り道の邪魔になる樣に寢たり、突つ立つたりしてゐる。それへ水がやけに打《ぶ》つかる。しかも其の水には勾配《こうばい》がついてゐる。山から落ちた勢ひを濟《な》し崩《くづ》しに持ち越して、追つ懸けられる樣に跳《をど》つて來る。だから川と云ふ樣なものゝ、實は幅の廣い瀑《たき》を月賦に引き延ばした位なものである。從つて水の少い割には大變烈しい。鼻《はな》つ端《ぱし》の強い江戸ツ子の樣に無暗矢鱈に突つかゝつて來る。さうして白い泡を噴いたり、青い飴の樣になつたり、曲つたり、くねつたりして下《しも》へ流れて行く。どうも非常に八釜《やかま》しい。時に日は段々暮れてくる。仰向いて見たが、日向《ひなた》は何處にも見えない。只日の落ちた方角がぽうつと明るくなつて、其の明かるい空を脊負《しよ》つてる山｜丈《だけ》が目立つて蒼黒くなつて來た。時は五月だけれども寒いもんだ。此の水音｜丈《だけ》でも夏とは思はれない。況《ま》して入日《いりひ》を脊中から浴びて、正面は陰になつた山の色と來たら、――ありや全體何と云ふ色だらう。只形容する丈《だけ》なら紫でも黒でも蒼でも構はないんだが、あの色の氣持を書かうとすると駄目だ。何でもあの山が、今に動き出して、自分の頭の上へ來て、どつと壓《お》つ被《かぶ》さるんぢやあるまいかと感じた。それで寒いんだらう。實際今から一時間か二時間のうちには、自分の左右前後四方八方｜悉《こと／”＼》く、あの山の樣な氣味のわるい色になつて、自分も長藏さんも茨城縣《いばらきけん》も、全く世界｜一色《いつしき》の内に裹《つゝ》まれて仕舞ふに違ないと云ふ事を、夫《それ》とはなく意識して、一二時間後に起る全體の色を、一二時間前に、入日《いりひ》の方《かた》の局部の色として認めたから、局部から全體を唆《そゝの》かされて、今にあの山の色が廣がるんだなと、どつかで蟲が知らせた爲に、山の方が動き出して頭の上へ壓《お》つ被《かぶ》さるんぢやあるまいかと云ふ氣を起したんだなと――自分は今机の前で解剖して見た。閑《ひま》があると兎角餘計な事がしたくなつて困る。其の時は只寒い許《ばか》りであつた。傍《そば》に居る茨城縣の毛布《けつと》が羨ましくなつて來た位であつた。

　すると橋の向ふから――向《むかふ》たつて突き當りが山で、左右が林だから、人家なんぞは一軒もありやしない。――實際自分はかう突然人家が盡きて仕舞はうとは、自分が自分の足で橋板を踏む迄も思ひも寄らなかつたのである。――其｜淋《さむ》しい山の方から、小僧が一人やつて來た。年は十三四位で、冷飯草履《ひやめしざうり》を穿《は》いて居る。顔は始めのうちはよく分らなかつたが、何しろ薄暗い林の中を、少し明るく通り拔けてる石ころ路を、たつた一人して此方《こつち》へひよこ／＼歩いて來る。どこから、どうして現れたんだか分らない。木下闇《こしたやみ》の一本路が一二丁先で、ぐるりと廻り込んで、先が見えないから、不意に姿を出したり、隱したりする樣な仕掛《しかけ》に出來てるのかも知れないが、何しろ時が時、場所が場所だから、一寸驚いた。自分は四本目の芋を口へ宛《あて》がつたなり、顎を動かす事を忘れて、此の小僧を少時《しばらく》の間《あひだ》眺めてゐた。尤も少時《しばらく》と云つたつて、僅か二十秒位なものである。芋は夫《そ》れからすぐに食ひ始めたに違ひない。

　小僧の方では、自分等を見て、驚いたか驚かないか、其の邊はしかと確められないが、何しろ遠慮なく近附いて來た。五六間の此方《こつち》から見ると頭の丸い、顔の丸い、鼻の丸い、いづれも丸く出來上つた小僧である。品質から云ふと赤毛布《あかげつと》よりもずつと上製である。自分等が三人並んで橋向ふの小路《こみち》を塞いでゐるのを、頓《とん》と苦にならない樣子で通り拔け樣とする。頗る平氣な態度であつた。すると長藏さんが、又、

　「おい、小僧さん」

と呼び留めた。小僧は臆した氣色《けしき》もなく

　「なんだ」

と答へた。ぴたりと踏み留つた。其の度胸には自分も少々驚いた。さすが此の日暮に山から一人で降りて來るがものはある。自分｜抔《など》が此の小僧の年輩の頃は夜青山の墓地を拔けるのが聊《いさゝ》か苦になつたものだ。中々えらいと感心してゐると、長藏さんは、

　「芋を食はないかね」

と云ひながら、食ひ殘しを、氣前よく、二本、小僧の鼻の前《さき》に出した。すると小僧は忽ち二本とも引つたくる樣に受け取つて、難有《ありがた》うとも何とも云はず、すぐ其の一本を食ひ始めた。此の手つ取り早い行動を熟視した自分は、成程山から一人で下りてくる丈《だけ》あつて自分とは少々譯が違ふなと、又感心しちまつた。夫《それ》とも知らぬ小僧は無我無心に芋を食つてゐる。しかも頬張つた奴を、唾液《つばき》も交《ま》ぜずに、無暗に呑み下《くだ》すので、咽喉《のど》が、ぐい／＼と鳴る樣に思はれた。もう少し落ち附いて食ふ方が樂だらうと心配するにも拘らず、當人は、傍《はた》で見る程苦しくはないと云はんばかりにぐい／＼食ふ。芋だから無論堅いもんぢやない。いくら鵜呑《うのみ》にしたつて咽喉に傷の出來つ子はあるまいが、其の代り咽喉が一杯に塞がつて、芋が食道を通り越す迄は呼息《いき》の詰る恐れがある。夫《それ》を小僧は一向《いつかう》苦にしない。今咽喉がぐいと動いたかと思ふと、又ぐいと動く。後《あと》の芋が、前《さき》の芋を追つ懸けてぐい／＼胃の腑に落ち込んで行く樣だ。二本の芋は、隨分大きな奴だつたが、之れが爲忽ち見る間《ま》に無くなつて仕舞つた。さうして、小僧は遂に何等の異?もなかつた。自分等三人は何にも云はずに、三方から、此の小僧の芋を食ふ所を見て居たが、三人共、食つて仕舞ふ迄、一句も言葉を交《か》はさなかつた。自分は腹の中《うち》で少しは可笑《をか》しいと思つた。然し何となく憐れだつた。是れは單に同情の念ばかりではない。自分が空腹になつて、長藏さんに芋をねだつたのは、つい、今しがたで、餓《ひも》じい記憶は氣の毒な程近くにあるのに、此の小僧の食ひ方は、自分より二三層倍｜餓《ひも》じさうに見えたからである。そこへ持つて來て、長藏さんが、

　「旨《う》まかつたか」

と聞いた。自分は芋へ手を出さない先から難有《ありがた》うと禮を述べた位だから、食つたあとの小僧は無論何とか云ふだらうと思つて居たら、小僧は生憎《あやにく》何とも云はない。黙つて立つてゐる。さうして暮れかゝる山の方を見た。後から分つたが此小僧は全く野生で、丸《まる》で禮を云ふ事を知らないんだつた。それが分つてからは左程《さほど》にも思はなかつたが、此の時は何だ顔に似合はない無愛嬌な奴だなと思つた。然し其の丸い顔を半分｜傾《かたぶ》けて、高い山の黒ずんで行く天邊《てつぺん》を妙に眺めた時は、又｜可愛想《かはいさう》になつた。夫《それ》から又少し物騷になつた。何故《なぜ》物騷になつたんだかは一寸疑問である。小さい小僧と、高い山と、夕暮と山の宿《しゆく》とが、何か深い因縁で互に持ち合つてるのかも知れない。詩だの文章だのと云ふものは、あんまり讀んだ事がないが、恐らくこんな因縁に勿體《もつたい》をつけて書くもんぢやないかしら。さうすると妙な所で詩を拾つたり、文章に打《ぶ》つかつたりするもんだ。自分は此｜永年《ながねん》方々を流浪してあるいて、折々こんな因縁に出つ食はして我ながら變に感じた事が時々ある。――然しそれも落ちついて考へると、大概解けるに違ない。此の小僧なんか矢つ張り子供の時に聞いた、山から小僧が飛んで來たが化《ば》け損《そく》なつた所位だらう。それ以上は餘計な事だから考へずに置く。何しろ小僧は妙な顔をして、黒い山の天邊《てつぺん》を眺めてゐた。

　すると長藏さんが又聞き出した。

　「御前、何處へ行くかね」

　小僧は忽ち黒い山から眼を離して、

　「何處へも行きあしねえ」

と答へた。顔に似合はず頗る無愛想《ぶあいさう》である。長藏さんは平氣なもんで、

　「ぢや何處へ歸るかね」

と、聞き直した。小僧も平氣なもんで、

　「何處へも歸りやしねえ」

と云つてる。自分は此の問答を聞きながら、益《ます／＼》物騷な感じがした。此の小僧は宿無《やどなし》に違ないんだが、こんなに小さい、こんなに淋しい、さうして、こんなに度胸の据つた宿無を、今迄曾て想像した事がないものだから、宿無とは知りながら、只の宿無に附屬する憐れとか氣の毒とかの念慮よりも、物騷の方が自然勢力を得た次第である。尤も長藏さんにはそんな感じは少しも起らなかつたらしい。長藏さんは、此小僧が宿無か宿無でないかを突き留めさへすれば、それで澤山だつたんだらう。どこへも行かない、又どこへも歸らない小僧に向つて、

　「ぢや、おいらと一所に御出《おいで》。御金を儲けさしてやるから」

と云ふと、小僧は考へもせず、すぐ、

　「うん」

と承知した。赤毛布《あかげつと》と云ひ、小僧と云ひ、實に面白い樣に早く話が纒まつて仕舞ふには驚いた。人間も此位簡單に出來て居たら、御互に世話はなからう。然しさう云ふ自分が此の赤毛布《あかげつと》にも此の小僧にも遜《ゆづ》らない尤も世話のかゝらない一人であつたんだから妙なもんだ。自分は此の小僧の安受合《やすうけあひ》を見て、少からず驚くと共に、天下には自分の樣に右へでも左へでも誘はれ次第、好い加減に、ふわつきながら、流れて行くものが大分《だいぶん》あるんだと云ふ事に氣が附いた。東京に居るときは、目眩《めまぐるし》い程人が動いてゐても、動きながら、みんな根が生えてるんで、たま／＼根《ね》が拔けて動き出したのは、天下廣しと雖も、自分｜丈《だけ》であらう位で、千住から尻を端折《はしよ》つて歩き出した。だから心細さも人一倍であつたが、此の宿《しゆく》で、はからずも赤毛布《あかげつと》を手に入れた。赤毛布を手に入れてから、二十分と立たないうちに又此の小僧を手に入れた。さうして二人とも自分よりは遙に根《ね》が拔けてゐる。かう續々同志が出來てくると、行く先は山だらうが、河だらうが、あまり苦にはならない。自分は幸か不幸か、中以上の家庭に生れて、昨日《きのふ》の午後九時迄は申し分《ぶん》のない坊ちやんとして生活してゐた。煩悶も坊ちやんとしての煩悶であつたのは勿論だが、煩悶の極《きよく》試みた此の驅落《かけおち》も、矢つ張り坊ちやんとしての驅落であつた。去ればこそ、此の驅落に對して、不相當に勿體《もつたい》ぶつた意味をつけて、難有《ありがた》がらない迄も、一生の大事件の樣に考へてゐた。生死《しやうし》の分れ路の樣に考へてゐた。と云ふものは坊ちやんの眼で見渡した世の中には、驅落をしたものは一人もない。――たまにあれば新聞にある許《ばか》りである。所が新聞では驅落が平面になつて、一枚の紙に浮いて出る丈《だけ》で、云はゞあぶり出しの驅落だから、食べたつて身にはならない。恰も別世界から、電話がかゝつた樣なもので、はあ、はあ、と聞いてる分の事である。だから本當の意味で切實な驅落をするのは自分｜丈《だけ》だと云ふ難有味《ありがたみ》がつけ加はつてくる。尤も自分はたゞ煩悶して、たゞ驅落をした迄で、詩とか美文とか云ふものを、あんまり讀んだ事がないから、自分の境遇の苦しさ悲しさを一部の小説と見立てゝ、それから自分で此の小説の中を縱横《じゆうわう》に飛び廻つて、大いに苦しがつたり又大いに悲しがつたりして、さうして同時に自分の慘?を局外から自分と觀察して、どうも詩的だ抔《など》と感心する程なませた考へは少しもなかつた。自分が自分の驅落に不相當な難有味《ありがたみ》を附けたと云ふのは、自分の不經驗からして、左程《さほど》大袈裟に考へないでも濟む事を、さも仰山《ぎやうさん》に買ひ被つて、獨りでどぎまぎしてゐた事實を指《さ》すのである。然るに此のどぎまぎが赤毛布《あかげつと》に逢ひ、小僧に逢つて、兩人《ふたり》の平然たる態度を見ると共に、何時《いつ》の間《ま》にやら薄らいだのは、矢張《やつぱり》經驗の賜である。白?すると當時の赤毛布《あかげつと》でも當時の小僧でも、當時の自分より餘つ程偉かつた樣だ。

　かう手もなく赤毛布《あかげつと》がかゝる。小僧がかゝる。さう云ふ自分も、たわいもなく攻め落された事實を綜合して考へて見ると、成程長藏さんの商賣も、滿更《まんざら》待ち草臥《くたびれ》の骨折損になる譯でもなかつた。坑夫になれますよ、はあ、なれますか、ぢやなりませうと二つ返事で承知する馬鹿は、天下廣しと雖も、尻端折《しりはしより》で夜逃をした自分位と思つてゐた。從つて長藏さんの樣な氣樂な商賣は日本にたつた一人あれば澤山で、しかも其の一人が、まぐれ當りに自分に廻《めぐ》り合せると云ふ運勢を以て生れて來なくつちや、とても商賣にならない筈だ。だから大川端《おおかはばた》で眼の下三尺の鯉を釣るよりも餘つ程の根氣仕事だと、始めから腰を据ゑてかゝるのが當然なんだが、長藏さんは頓《とん》とそんな自覺は無用だと云はぬ許《ばか》りの顔をして、是れが世間尤も普通の商賣であると社會から公認された樣な態度で、わるびれずに徃來の男を捉《つら》まへる。すると其の捉《つら》まへられた男が、不思議な事に、一も二もなく、すぐにうんと云ふ。何となく是れが世間尤も普通の商賣ぢやあるまいかと疑念を起す樣に成功する。これ程成功する商賣なら、日本に一人ぢや迚《とて》も間に合はない、幾人《いくたり》あつても差支ないと云ふ氣になる。――當人は無論さう思つてるんだらう。自分もさう思つた。

　此の呑氣《のんき》な長藏さんと、更に呑氣な小僧に赤毛布《あかげつと》と、それから見樣《みやう》見眞似で、大いに呑氣になりかけた自分と、都合四人で橋向ふの小路《こみち》を左へ切れた。是から川に沿つて登りになるんだから、氣を附けるが好いと云ふ注意を受けた。自分は今芋を食つた許《ばかり》だから、もう空腹ぢやない。足は昨夕《ゆうべ》から歩き續けで草臥《くたび》れてはゐるが、あるけばまだ歩ける。そこで注意の通り、成るべく氣を附けて、長藏さんと赤毛布《あかげつと》の後《あと》を跟《つ》けて行つた。路があまり廣くないので四人《よつたり》は一行《いちぎやう》に並べない。だから後を跟《つ》ける事にした。小僧は小さいから是れも一足｜後《おく》れて、自分と摺々《すれ／＼》位になつて食つ附いてくる。

　自分は腹が重いのと、足が重いのとの兩方で、口を利くのが厭になつた。長藏さんも橋を渡つてから以後｜頓《とん》と御前さんを使はなくなつた。赤毛布《あかげつと》はさつき一膳飯屋の前で談判をした時から、餘り多辯ではなかつたが、どう云ふものかこゝに至つて益《ます／＼》無口となつちまつた。小僧の無口は更に甚だしかつた。穿《は》いてゐる冷飯草履《ひやめしざうり》がぴちや／＼鳴る許《ばか》りである。

　かう、みんな黙つて仕舞うと、山路は靜かなものである。ことに夜だから猶《なほ》淋《さび》しい。夜と云つたつて、まだ日が落ちた許《ばか》りだから、歩いてる道｜丈《だけ》はどうか、かうか分る。左手を落ちて行く水が、氣の所爲《せゐ》か、少しづゝ光つて見える。尤もきら／＼光るんぢやない。なんだか、どす黒く動く所が光る樣に見える丈《だけ》だ。岩にあたつて碎ける所は比較的｜判然《はつきり》と白くなつてゐる。さうして其の聲がさあ／＼と絶え間なくする。中々｜八釜《やかま》しい。それで中々｜淋《さび》しい。

　其の中《うち》細い道が少し宛《づゝ》、上《のぼ》りになる樣な氣持がしだした。上《のぼ》り丈《だけ》なら此の位な事はさう骨は折れないんだが、路が何だか凸凹《でこぼこ》する。岩の根が川の底から續いて來て、急に地面の上へ出たり、引つ込んだりするんだらう。此の凸凹《でこぼこ》に下駄を突つ掛ける。烈しいときは内臓が飛び上がる樣になる。大分《だいぶ》難義になつて來た。長藏さんと赤毛布《あかげつと》は山路に馴れてゐると見えて、よくも見えない木下闇《こしたやみ》を、すた／＼調子よくあるいて行く。是れは仕方がないが、小僧が――此の小僧は實際物騷である。冷飯草履《ひやめしざうり》をぴしや／＼云はして、暗い凸凹《でこぼこ》を平氣に飛び越して行く。しかも全く無言である。晝間なら左程《さほど》にも思はないんだが、此の際だから、薄暗い中でぴしやり／＼と草履の尻の鳴るのが氣になる。何だか蝙蝠《かうもり》と一所に歩いてる樣だ。

　其のうち路が段々登りになる。川はいつしか遠くなる。呼息《いき》が切れる。凸凹《でこぼこ》は益《ます／＼》烈しくなる。耳がぐわあんと鳴つて來た。是れが驅落《かけおち》でなくつて、遠足なら、よほど前から、何とか文句をならべるんだが、根が自殺の仕損ひから起つた自滅の第一着なんだから、苦しくつても、辛《つら》くつても、誰に難題を持ち掛ける譯にも行かない。相手は誰だと云へば、自分より外に誰も居やしない。よし居たつて、こだわる丈《だけ》の勇氣はない。其の上｜先方《さき》は相手になつてくれない程平氣である。すた／＼歩いて行く。口さへ利かない。丸《まる》で取附端《とつつきは》がない。已《やむ》を得ず呼吸《いき》を切らして、耳をぐわあんと鳴らして、黙つて後《あと》から神妙《しんべう》に尾《つ》いて行く。神妙《しんべう》と云ふ字は子供の時から覺えてゐたんだが、神妙《しんべう》の意味を悟つたのは此の時が始めてゞある。尤も是れが悟り始めの悟り仕舞だと笑ひ話にもなるが、一度悟り出したら、其の悟りが大分《だいぶ》長い事續いて、つひに鑛山の中で絶高頂に達して仕舞つた。神妙《しんべう》の極に達すると、出るべき涙さへ遠慮して出ない樣になる。涙がこぼれる程だと譬に云ふが、涙が出る位なら安心なものだ。涙が出るうちは笑ふ事も出來るに極つてる。

　不思議な事に是程｜神妙《しんべう》にあてられたものが、今はけろりとして、一切《いつさい》神妙氣《しんべうげ》を出さないのみか、人からは横着者の樣に思はれてゐる。其時御世話になつた長藏さんから見たら、定めし�搨ｷした野郎だと思ふ事だらう。が又今の朋友から評すると、昔は氣の毒だつたと云つて呉れるかも知れない。�搨ｷしたにしても氣の毒だつたにしても構はない。昔は神妙《しんべう》で今は横着なのが天然自然の?態である。人間はかうできてるんだから致し方がない。夏になつても冬の心を忘れずに、ぶる／＼悸《ふる》へて居ろつたつて出來ない相談である。病氣で熱の出た時、牛肉を食はなかつたから、もう生涯ロースの鍋へ箸を着けちやならんぞと云ふ命令はどんな御大名だつて無理だ。咽喉元《のどもと》過ぐれば熱さを忘れると云つて、よく、忘れては怪《け》しからん樣に持ち掛けてくるが、あれは忘れる方が當り前で、忘れない方が嘘である。かう云ふと詭辯《きべん》の樣に聞えるが、詭辯《きべん》でもなんでもない。正直正銘《しやうぢきしやうめい》の所を云ふんである。一體人間は、自分を四角張つた不變體《ふへんたい》の樣に思ひ込み過ぎて困る樣に思ふ。周圍の?況なんて事を眼中に置かないで、平押《ひらおし》に他人《ひと》を壓《お》し附けたがる事が大分《だいぶん》ある。他人《ひと》なら理窟も立つが、自分で自分をきゆ／＼云ふ目に逢はせて嬉しがつてるのは聞えない樣だ。さう一本調子にしやうとすると、立體世界を逃げて、平面國へでも行かなければならない始末が出來てくる。無暗に他人《ひと》の不信とか不義とか變心とかを咎めて、萬事萬端向ふがわるい樣に噪《さわ》ぎ立てるのは、みんな平面國に籍を置いて、活版に印刷した心を睨んで、旗を揚げる人達である。御孃さん、坊つちやん、學者、世間見ず、御大名、にはこんなのが多くて、話が分り惡《にく》くつて、困るもんだ。自分もあの時｜驅落《かけおち》をしずに、可愛らしい坊ちやんとして大人《おとな》しく成人したなら、――自分の心の始終動いてゐるのも知らずに、動かないもんだ、變らないもんだ、變つちや大變だ、罪惡だ抔《など》とくよ／＼思つて、年を取つたら――只學問をして、月給をもらつて、平和な家庭と、尋常な友達に滿足して、内省の工夫を必要と感ずるに至らなかつたら、又内省ができる程の心機轉換の活作用《くわつさよう》に見參《げんざん》しなかつたならば――あらゆる苦痛と、あらゆる窮迫と、あらゆる流轉《るてん》と、あらゆる漂泊と、困憊《こんぱい》と、懊惱《あうなう》と、得喪と、利害とより得た此の經驗と、最後に此の經驗を尤も公明に解剖して、解剖したる一々を、一々に批判し去る能力がなかつたなら――難有《ありがた》い事に自分は此の至大なる賚《たまもの》を有《も》つてゐる、――凡《すべ》て是等がなかつたならば、自分はこんな思ひ切つた事を云やしない。いくら思ひ切つた事を云つたつて自慢にやならない。たゞ此の通りだから此の通りだと云ふ迄である。其代り昔《むか》し神妙《しんべう》なものが、今横着になる位だから、今の横着がいつ何時《なんどき》又｜神妙《しんべう》にならんとは限らない。――拔けさうな足を棒の樣に立てゝ聞くと、ぐわんと鳴つてる耳の中へ、遠くからさあ／＼水音が這入つてくる。自分は益《ます／＼》神妙《しんべう》になつた。

　此の?態で大分《だいぶ》來た。何里だか見當のつかない程來た。夜道だから平生よりは、只でさへ長く思はれる上へ持つてきて、凸凹《でこぼこ》の登りを膨《ふくら》つ脛《ぱぎ》が腫れて、膝頭の骨と骨が擦《す》れ合つて、股《もゝ》が地面《じびた》へ落ちさうに歩くんだから、長いの、長くないのつて――夫《そ》れでも、生きてる證據には、どうか、かうか、長藏さんの尻を五六間と離れずに、遣つて來た。是はたゞ神妙《しんべう》に自己を沒却した諦《あきらめ》の體《てい》たらくから生じた結果ではない。五六間以上｜後《おく》れると、長藏さんが、振り返つて五六歩｜宛《づゝ》は待合してくれるから、仕方なしに追ひ附くと、追ひ附かない先に向ふは又歩き出すんで、已《やむ》を得ずだら／＼、ちび／＼に自己を奮興《ふんこう》させた成行《なりゆき》に過ぎない。夫《それ》にしても長藏さんは、よく後《うしろ》が見えたもんだ。ことに夜中《やちゆう》である。右も左も黒い木が空を見事に突つ切つて、頭の上は細く上迄｜開《あ》いてゐるなと、仰向いた時、始めて勘づく位な暗い路である。星明りと云ふけれど、あまり便《たより》にやならない。提燈《ちやうちん》なんか無論持ち合せ樣《やう》筈がない。自分の方から云ふと、先へ行く赤毛布《あかげつと》が目標《めあて》である。夜だから赤くは見えないが、何だか赤毛布《あかげつと》らしく思はれる。明るいうちから、あの毛布《けつと》、あの毛布《けつと》と御題目の樣に見詰めて覘《ねらひ》を附けて來たせいで、日が暮れて、突然の眼には毛布《けつと》だか何だか分らない所を、自分｜丈《だけ》にはちやんと赤毛布《あかげつと》に見えるんだらう。信心の功�ｺ《くどく》なんてえのは大方こんな所から出るに違ない。自分はかう云ふ譯で、どうにか目標《めじるし》丈《だけ》は附けて置いた樣なものゝ、長藏さんに至つては、どの位あとから自分が跟《つ》いてくるか分り樣がない。所をちやんと五六間以上になると留まつて呉れる。留まつてくれるんだか、留まる方が向ふの勝手なんだか、判然しないが、兎に角留まることは慥《たしか》だつた。到底｜素人《しろうと》にやできない藝である。自分は苦しいうちにも、是れが長藏さんの商賣に必要な藝で、長藏さんは此の藝を長い間練習して、此れ迄に仕上げたんだなと、少からず感心した。赤毛布《あかげつと》は長藏さんと並んでゐるんだから、長藏さんさへ留まれば屹度《きつと》とまる。長藏さんが歩き出せば必ず歩き出す。丸《まる》で人形の樣に活動する男であつた。やゝともすると後《おく》れ勝ちの自分よりは此の赤毛布《あかげつと》の方が遙に取り扱ひ易かつたに違ない。小僧は――例の小僧は消えて無くなつちまつた。始めのうちこそ小僧だから後《あと》になるんだらうと思つて、草臥《くたび》れたら勵ましてやらう位の了簡《れうけん》があつたんだが、かの冷飯草履《ひやめしざうり》をぴしやり／＼と鳴らしながら凸凹路《でこぼこみち》を飛び跳ねて進行する有樣を目撃してから、こりや敵《かな》はないと覺悟をしたのは、餘程《よつぽど》前《まへ》の事である。それでも暫らくの間はぴしやり／＼が自分の袖と擦れ／＼位になつて、登つて來たが、今ぢやもう自分の近所には影さへなくなつた。並んで歩くうちは、あまり小僧の癖に活?《くわつぱつ》にあるくんで――活?｜丈《だけ》ならいゝが、活?の上に非常に沈黙なんで――、隨分物騷な心持ちだつた。もし笑ふなら、極めて小さくつて、非常に活?で、さうして口を利かない動物を想像して見ると分る。滅多にありやしない。こんな動物と一所に夜｜山越《やまごえ》をしたとすると、誰だつて物騷な氣持になる。自分は此の時此の小僧の事を今考へても、妙な感じが出て來る。さつき蝙蝠《かうもり》の樣だと云つたが、全く蝙蝠だ。長藏さんと赤毛布《あかげつと》がゐたから、好《よ》い樣なものゝ、蝙蝠とたつた二人《ふたり》限《ぎり》だつたら――正直な所降參する。

　すると長藏さんが、暗闇《くらやみ》の中で急に、

　「おゝい」

と聲を揚げた。淋《さむ》しい夜道で、急に人聲を聞いた人があるかないか知らないが、聞いて見ると一寸｜異《い》な感じのするものだ。それも普通の話し聲なら、まだ好いが、おゝい〔三字傍点〕と人を呼ぶ奴は氣味がよくない。山路で、黒闇《くらやみ》で、人つ子一人通らなくつて、御負《おまけ》に蝙蝠《かうもり》なんぞと道伴《みちづれ》になつて、いとゞ物騷な虚に乘じて、長藏さんが事ありげに聲を揚げたんである。事のあるべき筈でない時で、しかも事がありかねまじき場所でおゝい〔三字傍点〕と來たんだから、突然と豫期が合體して、自分の頭に妙な響を與へた。此の聲が自分を呼んだんなら、何か起つたなとびくんとする丈《だけ》で濟むんだが、五六間｜後《うしろ》から行く自分の注意を惹く爲とは受取れない程大きかつた。且《かつ》聲の傳はつて行く方角が違ふ。此方《こつち》を向いた聲ぢやない。おゝい〔三字傍点〕と右左《みぎひだ》りに當つたが、立ち木に遮《さへぎ》られて、細い道を向ふの方へ遠く逃げのびて、遙《はるか》の先でおゝい〔三字傍点〕と云ふ反響があつた。反響は慥《たしか》にあつたが、返事はない樣だ。すると長藏さんは、前より一層大きな聲を出して、

　「小僧やあ」

と呼んだ。今考へると、名前も知らないで、小僧やあと呼ぶなんて少しとぼけてゐるが其の時は中々とぼけちやゐなかつた。自分は此の聲を聞くと同時に蝙蝠《かうもり》が隱れたんだなと氣がついた。先へ行つたと思ふのが當り前で、まかり間違つても逃げたと鑑定をつけべき筈だのに、隱れたんだとすぐ胸先《むなさき》へ浮んで來たのは、餘《よ》つ程《ぽど》蝙蝠に祟《たゝ》られてゐたに違ない。此の祟《たゝり》は翌朝《あした》になつて太陽が出たらすつかり消えて仕舞つて、自分で自分を何て馬鹿だらうと思つた位だが、實際小僧やあの呼び聲を聞いた時は、一寸｜烈敷《はげし》く來た。

　所が又反響が例の如く向ふへ延びて、突き當りがないもんだから、人魂《ひとだま》の尻尾《しつぽ》の樣に、幽《かす》かに消えて、其の反動か、有らん限りの木も山も谷もしんと靜まつた時、――何とも返事がない。此の反響が心細く繼續《つなが》りながら消えて行く間、消えてから、凡《すべ》ての世界がしんと靜まり返る迄、長藏さんと赤毛布《あかげつと》と自分と三人が、暗闇《くらやみ》に鼻を突き合せて黙つて立つてゐた。あんまり好い心持ぢやなかつた。やがて、長藏さんが、

　「少し急いだら、追つ附くべえ。御前さん好いかね」

と云つた。無論好くはないが、仕方がないから承知をして、急ぎ出した。元來此の場に臨んで急ぐなんて生意氣な事が出來る筈がないんだが、そこが妙なもので、急ぐ氣も、急ぐ力もない癖に受合つちまつた。定めし變な顔をして受合つたんだらうが、受合つたら急げても、急げないでも無茶苦茶に急いで仕舞つた。此の間はどこをどんな具合に通つたか、まあ斷然知らないと云つた方が穩當だらう。やがて長藏さんがぴたりと留つたんで、不圖氣がついた。すると一《ひと》つ家《や》の前へ出て居る。ランプが點《つ》いてゐる。ランプの灯《ひ》が徃來へ映つてゐる。はつと嬉しかつた。赤毛布《あかげつと》があり／＼見える。さうして小僧もゐる。小僧の影が徃來を横に切つて向ふの谷へ折れ込んでゐる。小僧にしては長い影だ。

　自分はこんな所に人の住む家があらうとは丸《まる》で思ひがけなかつたし、其の上眼がくらんで、耳が鳴つて、夢中に急いで、どこ迄急ぐんだかあても希望もなく遣つて來て、ぴたりと留まるや否や、ランプの灯《ひ》がまぶしい樣に眼に這入つて來たんだから、驚いた。驚くと共にランプの灯《ひ》は人間らしいものだとつく／”＼感心した。ランプがこんなに難有《ありがた》かつた事は今日《こんにち》迄《まで》まだ曾てない。後《あと》から聞いたら小僧は此のランプの灯《ひ》迄《まで》拔《ぬ》け掛《がけ》をして、そこで自分達を待つてたんださうだ。おゝい〔三字傍点〕と云ふ聲も小僧やあ〔四字傍点〕と云ふ聲も聞えたんだが返事をしなかつたと云ふ話しだ。偉い奴だ。

　同勢《どうぜい》は是れで漸く揃つたが、此の先どうなる事だらうと思ひながら、相變らず神妙《しんべう》にしてゐると、長藏さんは自分達を路傍《みちばた》に置きつ放しにして、一人で家《うち》の中へ這入つて行つた。仕方がないから家《うち》と云ふが、實の所は、家《うち》ぢや勿體《もつたい》ない。牛さへゐれば牛小屋で馬さへ嘶《な》けば馬小屋だ。何でも草鞋《わらぢ》を賣る所らしい。壁と草鞋とランプの外に何にもないから、自分はさう鑑定した。間口《まぐち》は一間ばかりで、入口の雨戸が半分程｜閉《た》てゝある。殘る半分は夜つぴて明けて置くんぢやないかしら。ことによると、敷居の溝に食ひ込んだなり動かないのかも知れない。屋根は無論｜藁葺《わらぶき》で、其の藁が古くなつて、雨に腐《ふ》やけた所爲《せゐ》か、崩れかゝつて漠然としてゐる。夜と屋根の繼目《つぎめ》が分らない程、ぶくついて見える。其の中へ長藏さんは這入つて行つた。なんだか穴の中へでも潜《もぐ》り込んで行つた樣な心持だつた。さうして話してゐる。三人は表に待つてゐる。自分の顔は見えないが、赤毛布《あかげつと》と小僧の顔は、小屋の中から斜《はす》に差してくるランプの灯《ひ》でよく見える。赤毛布《あかげつと》は依然として、散漫《さんまん》なものである。此男はたとひ地震がゆつて、梁《はり》が落ちて來ても、親の死目に逢ふか、逢はないかと云ふ大事な場合でも、いつでも、こんな顔をしてゐるに違ない。小僧は空を見てゐる。まだ物騷だ。

　所へ長藏さんがあらはれた。然し徃來へは出て來ない。敷居の上へ足を乘せて、此方《こつち》を向いて立つた股倉《またぐら》から、ランプの灯《ひ》丈《だけ》が細長く出て來る。ランプの位置がいつの間《ま》にか低くなつたと見える。長藏さんの顔は無論よく分らない。

　「御前さん、是れから山越をするのは大變だから、今夜は此處へ泊《とま》つて行かう。みんな這入るがいゝ」

　自分は此の言葉を聞くと等しく、今迄の神妙《しんべう》が急に破裂して、身體《からだ》がぐたりとなつた。此の牛小屋で一夜を明《あか》す事が、夫《それ》程《ほど》の慰藉を自分に與へ樣とは、牛小屋を見た今が今迄、頓《とん》と氣がつかなかつた。矢張り神妙《しんべう》の結果泊る所が見附かつても、泊《とま》る氣が起らなかつたんだらう。かうなると人間程｜御《ぎよ》し易いものはない。無理でも何でもはい／＼畏《かしこ》まつて聞いて、さうして少しも不平を起さないのみか大《おほい》に嬉しがる。當時を思ひ出す度に、自分は尤も順良な又尤も勵精な人間であつたなと云ふ自信が伴《ともな》つてくる。兵隊はあゝでなくつちや不可《いけ》ない抔《など》と考へる事さへある。同時に、もし人間が物の用を無視し得るならば、かねて物の用をも忘れ得るものだと云ふ事も悟つた。――かう書いて見たが、讀み直すと何だか六づかしくつて解らない。實を云ふと、もつとずつとやさしいんだが、短く詰めるものだからこんなに六づかしくなつちまつた。例へば酒を飲む權利はないと自信して、酒の�ｺを、あれどもなきが如くに見做《みな》す事さへ出來れば、�ｺ利が前に並んでも、酒は飲むものだとさへ氣がつかずに居る位な所である。御互が泥棒にならずに濟むのも、つまりを云へば幼少の時から、人工的に此種の境界《きやうがい》に馴らされてゐるからの事だらう。が一方から云ふと、こんな境界は人性の一部分を麻痺《まひ》さした結果として出來上るもんだから、圖に乘つてきゆ／＼押して行くと、人間がみんな馬鹿になつちまふ。まあ泥棒さへしなければ好いとして、その他の精神器械は殘らず相應に働く事ができる樣にしてやるのが何よりの功�ｺ《くどく》だと愚考する。自分が當時の自分の儘で、のべつに今日《こんにち》迄《まで》生きてゐたならば、如何に順良だつて、如何に勵精だつて、馬鹿に違ない。だれの眼から見たつて馬鹿以上の不具《かたは》だらう。人間であるからは、たまには怒《おこ》るがいゝ。反抗するがいゝ。怒る樣に、反抗する樣に出來てるものを、無理に怒らなかつたり、反抗しなかつたりするのは、自分で自分を馬鹿に�ﾍ育して嬉しがるんだ。第一身體の毒である。それを迷惑だと云ふなら、怒らせない樣に、反抗させない樣に、御膳立《おぜんだて》をするが至當ぢやないか。

　自分は當時種々の?況で、萬事長藏さんの云ふ通りはい／＼云つてゐたし、又そのはい／＼を自然と思ひもするが、其の代り、今の樣な身分に居るからは、たとひ百の長藏さんが、七日七晩《なぬかなゝばん》引つ張りつゞけに引つ張つたつて一寸《ちよつと》も動きやしない。今の自分には此の方が自然だからである。さうしてかう變るのが人間たる所だと思つてる。分りやすい樣に長藏さんを引合《ひきあひ》に出したが、よく調べて見ると、人間の性格は一時間ごとに變つて居る。變るのが當然で、變るうちには矛盾が出て來る筈だから、つまり人間の性格には矛盾が多いと云ふ意味になる。矛盾だらけの仕舞は、性格があつてもなくつても同じ事に歸着する。嘘だと思ふなら、試驗して見るがいゝ。他人《ひと》を試驗するなんて罪な事をしないで、先づ吾身で吾身を試驗して見るがいゝ。坑夫に迄｜零落《おちぶ》れないでも分る事だ。神さまなんかに聞いて見たつて、以上｜分《わかり》ツ子《こ》ない。此の理窟がわかる神さまは自分の腹のなかにゐるばかりだ。抔《など》と、學問もない癖に、學者めいた事を云つては濟まない。こんな景氣のいゝタンカ〔三字傍点〕を切る所存は毛頭なかつたんだが、實を云ふと斯う云ふ仔細《しさい》である。自分はよく人から、君は矛盾の多い男で困る／＼と苦情を持ち込まれた事がある。苦情を持ち込まれるたんびに苦《にが》い顔をして謝罪《あやま》つてゐた。自分ながら、どうも困つたもんだ、是ぢや普通の人間として通用しかねる、何とかして改良しなくつちや信用を落して路頭に迷ふ樣な仕儀になると、ひそかに心配してゐたが、色々の境遇に身を置いて、前に述べた通りの試驗をして見ると、改良も何も入つたものぢやない。是れが自分の本色なんで、人間らしい所は外にありやしない。それから人も試驗して見た。所が矢つ張り自分と同じ樣に出來てゐる。苦情を持ち込んでくるものが、みんな苦情を持ち込まれてしかるべき人間なんだから可笑《をか》しくなる。要するに御腹《おなか》が減つて飯が食ひ度くなつて、御腹《おなか》が張ると眠くなつて、窮《きゆう》して濫《らん》して、達して道を行《おこな》つて、惚れて一所になつて、愛想《あいそ》が盡きて夫婦別れをする迄の事だから、悉《こと／”＼》く臨機應變の沙汰である。人間の特色はこれより外にありやしない。と、かう感服してゐるんだから、一寸言つて見た迄である。然し世の中には學者だの坊主だの�ﾍ育家だのと云ふ六づかしい仲間が大分《だいぶ》居て、それ／”＼專門に研究してゐる事だから、自分｜丈《だけ》、譯の分つた樣に辯じ立てゝは善くない。

　そこで元氣のいゝ今の氣?をやめて、再びもとの神妙《しんべう》な態度に復して、山の中の話をする。長藏さんが敷居の上に立つて、徃來を向きながら、此處へ泊《とま》つて行かうと云ひ出した時、こんな破屋《あばらや》でも泊る事が出來るんだつたと、始めて意識したよりも、凡《すべ》ての家と云ふものが元來泊る爲に建てゝあるんだなと、漸く氣が附いた位、泊る事は豫期してゐなかつた。それでゐて身體は蒟蒻《こんにやく》の樣に疲れ切つてる。平生《いつも》なら泊りたい、泊りたいで凡《すべ》ての内臓が張切《はちき》れさうになる筈だのに、沒自我《ぼつじが》の坑夫《かうふ》行《ゆき》、即ち自滅の前座としての墮落と諦めを附けた上の疲勞だから、いくら身體に泊る必要があつても、身體の方から魂へ宛てゝ宿泊の件を請求してゐなかつた。所へ泊ると命令が天から逆に魂が下つたんで、魂は一寸まごついたかたちで、取り敢ず手足に報告すると、手足の方では非常に嬉しがつたから、魂も成程｜難有《ありがた》いと、始めて長藏さんの好意を感謝した。と云ふ譯になる。何となく落語じみて巫山戯《ふざけ》てゐるが、實際此の時の心の?態は、かう譬《たとへ》を借りて來ないと説明ができない。

　自分は長藏さんの言葉を聞くや否や、急に神經が弛《ゆる》んで、立ち切れない足を引き摺つて、第一番に戸口の方に近寄つた。赤毛布《あかげつと》はのそ／＼這入つてくる。小僧は飛んで來た。飛んだんぢやあるまいが、草履の尻が勢よく踵《かゝと》へあたるんで、ぴしや／＼云ふ音が飛ぶ樣に思はれた。

　這入つて見るとぷんと臭つた。何の臭だか更に分らない。小僧が鼻をぴくつかせたので、小僧も此の臭に感じたなと氣が附いた。長藏さんと赤毛布《あかげつと》は丸《まる》で無頓着であつた。土間から上へあがる段になつて、雜巾《ざふきん》でもと思つたが、小僧は委細構はず、草履を脱いで上がつちまつた。小僧の草履は尻が無いんだから、半分｜裸足《はだし》である。ひどい奴だと眺めてゐると、長藏さんが、

　「御前さんも下駄だから、御上り」

と注意した。夫《それ》で氣味がわるいが、ほこりも拂はず上がつた。疊の上へ一足掛けて見るとぶくつとした。小僧は其の上へころりと轉がつてゐる。自分は尻｜丈《だけ》卸して、障子――障子は二枚あつた――其の障子の影へ胡坐《あぐら》をかいた。此の障子は入口に立てゝあるから、振り向くと、長藏さんと赤毛布《あかげつと》が草鞋《わらぢ》を脱いでゐる。二人共腰から手拭を出して、ばた／＼足をはたいてゐる。さうして、すぐ上がつて來た。足を洗ふのが面倒だと見える。所へ主人が次の間《ま》から茶と烟草盆を持つて來た。

　主人だの、次の間だの、茶だの、烟草盆だの、と云ふと頗る尋常に聞えるが、其の實｜名《な》ばかりで、一々説明すると、大變な誤解をしてゐたんだねと呆《あき》れ返《かへ》るもの許《ばか》りである。がとにかく主人が次の間から、茶と烟草盆を持つて來たには違ひない。さうして長藏さんと談話《はなし》をし始めた。談話《はなし》の筋は忘れたが、其の樣子から察すると、二人はもとからの知合で、御互の間には貸や借があるらしい。何でも馬の事をしきりに云つてた。自分だの、赤毛布《あかげつと》だの、小僧などの事は丸《まる》で聞きもしない。まるで眼中にない譯でもあるまいが、さつき長藏さんが一人で談判に這入つた時に、殘らず聞いて仕舞つたんだらう。それとも長藏さんはたび／＼こんな呑氣屋《のんきや》を銅山《やま》へ連れて行くんで、自然其の徃き還りには此の主人の厄介になりつけてるから、別段氣にも留めないのかも知れない。

　自分は、長藏さんと主人との話を聞きながら、居眠《ゐねむり》を始めた。いつから始めたか知らない。馬を賣損《うりそこな》つて、どうとかしたと云ふ所から、段々｜判然《はつきり》しなくなつて、自然《じねん》と長藏さんが消える。赤毛布《あかげつと》が消える。小僧が消える。主人と茶と烟草盆が消えて、破屋《あばらや》迄も消えた時、こくりと眠《ねむり》が覺めた。氣がつくと頭が胸の上へ落ちてゐる。はつと思つて、擡《もちや》げると甚だ重い。主人は矢《や》つ張《ぱり》馬の話をしてゐる。まだ馬かと思つてるうちに、又氣が遠くなつた。氣が遠くなつたのを、遠いまゝにして打遣《うつちや》つて置くと、忽然ぱつと眼があいた。薄暗い部屋の中《うち》に、影の樣な長藏さんと亭主が膝を突き合せてゐる。丁度、借がどうとかしてハヽヽヽと亭主が笑つた所だつた。此亭主は額が長くつて、斜《はす》に頭の天邊《てつぺん》迄｜引込《ひつこ》んでるから、横から見ると切通《きりどほ》しの坂位な勾配《こうばい》がある。さうして上になればなる程毛が生えてゐる。其の毛は五分《ごぶ》位なのと一寸《いつすん》位なのとが交つて、不規則にしかも疎《まばら》にもぢや／＼してゐる。自分が居眠《ゐねぶ》りからはつと驚いて、急に眼を開けると、第一に此頭が眸の底に映つた。ランプが煤《すゝ》だらけで暗いものだから、此頭も煤だらけになつて映つて來た。其の癖距離は近い。だから映つた影は明瞭である。自分は此の明瞭で且《か》つ朦朧《もうろう》なる亭主の頭を居眠《ゐねぶ》りの不知覺から我に返る咄嗟《とつさ》に不圖《ふと》見たんである。此の時はあまり好い心持ではなかつた。それが爲、居眠《ゐねぶ》りもしばらく見合せる樣な氣になつて、部屋中《へやぢゆう》を見廻すと、向ふの隅に小僧が倒れてゐる。こちらの横に茨城縣《いばらきけん》が長く伸びてゐる。毛布《けつと》の下から大きな足が見える。突當りが壁で、壁の隅に穴が開《あ》いて、穴の奧が眞黒である。上は一面の屋根裏で、寒い程黒くなつてる所へ、油烟とともにランプの灯《ひ》があたるから、よく見て居ると、藁葺の裏側が震へる樣に思はれた。

　それから又眠くなつた。又頭が落ちる。重いから上げると又落ちる。始めのうちは、上げた頭が落ちながら段々うつとりして、うつとりの極、胸の上へがくりと落ちるや否や、一足飛《いつそくとび》に正氣へ立ち戻つたが、三回四回と重なるにつけて、眼｜丈《だけ》開《あ》けても氣は判然《はつきり》しない。ぼんやりと世界に歸つて、又ぞろすぐと不覺に陷《おちい》つちまふ。夫《それ》から例の如く首が落ちる。微《かすか》に生きてる樣な氣になる。かと思ふと又｜一切空《いつさいくう》に這入る。仕舞には、とう／＼、いくら首がのめつて來ても、動じなくなつた。或はのめつたなり、頭の重みで横に打《ぶ》つ倒れちまつたのかも知れない。兎に角安々と夜明｜迄《まで》寐て、眼が覺めた時は、もう居眠《ゐねぶ》りはしてゐなかつた。通例の如く身體全體を疊の上に附けて長くなつてゐた。さうして涎《よだれ》を垂れてゐる。――自分は馬の話を聞いて居眠《ゐねぶ》りを始めて、眼をあけて借金の話を聞いて、又｜居眠《ゐねぶ》りの續を復習してゐるうちに、とう／＼居眠《ゐねぶ》りを本式に崩して長くなつたぎり、魂の音沙汰を聞かなかつたんだから、眼が覺めて、夜が明けて、世の中が土臺から陰と陽に引ツ繰り返つてるのを見るや否や、眼をあいて涎《よだれ》を垂れて、横になつた儘、ぢつとしてゐた。自覺があつて死んでたらこんなだらう。生きてるけれども動く氣にならなかつた。昨夜《ゆうべ》の事は一から十迄よく覺えてゐる。然し昨夜《ゆうべ》の一から十迄が自然と延びて今日迄持ち越したとは受け取れない。自分の經驗は凡《すべ》てが新しくつて、かつ痛切であるが、其の新しい痛切の事々物々が何だか遠方にある。遠方にあると云ふよりも、昨夜《ゆうべ》と今日の間に厚い仕切りが出來て、截然《せつぜん》と區別がついた樣だ。太陽が出ると引き込む丈《だけ》の差で、かう心に連續がなくなつては不思議な位自分で自分が當《あて》にならなくなる。要するに人世は夢の樣なもんだ。と一寸考へたもんだから、涎《よだれ》も拭かずに沈んでゐると、長藏さんが、うゝんと伸《のび》をして、寐たまゝ握り拳を耳の上迄持ち上げた。握り拳がぬつと眞直に疊の上を擦《こす》つて、腕のあり丈《たけ》出た所で、勢《せい》がゆるんで、ぐにやりとした。又寐るかと思つたら、今度は右の手を下へさげて、凹《くぼ》んだ頬つぺたをぼり／＼掻き出した。起きてるのかも知れない。其のうち、むにや／＼何か云ふんで、矢つ張り眼が覺めてゐないなと氣が附いた時、小僧がむくりと飛び起きた。是は眞正の意味に於て飛起きたんだから、どしんと音がして、根太《ねだ》が拔けさうに響いた。すると、さすが長藏さんだけあつて、むにや／＼を已《や》めて、すぐ疊に附いた方の肩を、肘の高さ迄上げた。眼をぱちつかせてゐる。

　かうなると、自分も何時《いつ》迄《まで》沈んで居たつて際限がないから、起き上つた。長藏さんも全く起きた。小僧は立ち上がつた。寐てゐるものは赤毛布《あかげつと》ばかりである。是は又｜呑氣《のんき》なもんで、依然として毛布《けつと》から大きな足を出してぐう／＼鼾聲《いびき》をかいて寐てゐる。それを長藏さんが起す。――

　「御前さん。おい御前さん。もう起きないと御午《おひる》迄《まで》に銅山《やま》へ行きつけないよ」

　御前さんが三四返繰返されたが、毛布《けつと》はよく寐てゐる。仕方がないから長藏さんは毛布《けつと》の肩へ手を懸けて、

　「おい、おい」

と搖《ゆす》り始めたんで、已《やむ》を得ず、毛布《けつと》の方でも「おい」と同じ樣な返事をして、中途｜半端《はんぱ》に立ち上つた。是でみんな起きた樣なものゝ、自分は顔も洗はず、飯も食はず、どうして好いか迷つてると、長藏さんが、

　「ぢや、そろ／＼出掛けやう」

と云つて、眞先に土間へ降りかけたには驚いた。小僧がつゞいて降りる。毛布《けつと》も不得要領に土間へ大きな足をぶら下げた。かうなると自分も何とか片をつけなくつちやならないから、一番あとから下駄を突掛《つツか》けて、長藏さんと赤毛布《あかげつと》が草鞋《わらぢ》の紐を結ぶのを、不景氣な懷手をして待つてゐた。

　土間へ下りた以上は、顔を洗はないのかの、朝飯《あさめし》を食はないのかのと、當然の事を聞くのが、さも贅澤の沙汰の樣に思はれて、頓《とん》と質問して見る氣にならない。習慣の結果、必要とまで見做《みな》されてゐるものが、急に餘計な事になつちまふのは可笑《をか》しい樣だが、其《その》後《のち》此の?倒事件を布衍《ふえん》して考へて見たら、こんな、例は澤山ある。つまり世の中では大勢のやつてる事が當然になつて、一人｜丈《だけ》でやる事が餘計の樣に思はれるんだから、當然にならうと思つたら味方を大勢｜拵《こしら》へて、左《さ》も當然であるかの容子で不當な事を遣るに限る。遣つては見ないが屹度《きつと》成功するだらう。相手が長藏さんと赤毛布《あかげつと》でさへ自分には是れ程の變化を來たしたんでも分る。

　すると長藏さんは草鞋《わらぢ》の紐を結んで、足元に用がなくなつたもんだから、ふいと顔を上げた。さうして自分を見た。さうして、こんな事を云ふ。

　「御前さん、飯は食はなくつても好いだらうね」

　飯を食はなくつて好い法はないが、わるいと云つたつて、始まり樣がないから、自分はたゞ、

　「好いです」

と答へて置いた。すると長藏さんは、

　「食ひたいかね」

と云つて、にや／＼と笑つた。是れは自分の顔に飯が食ひたい樣な根性が幾分かあらはれた爲か、又は十九年來の豫期に反した起きたなり飯拔きの出立《しゆつたつ》に、自然不平の色が出てゐた爲だらう。それでなければ草鞋《わらぢ》の紐を結んで仕舞つてから、こんな事を聞く譯がない。現に長藏さんは、赤毛布《あかげつと》にも小僧にも此の質問を呈出しなかつたんでも分る。今考へると、一寸｜兩人《ふたり》にも同じ事を聞いて見れば善かつた樣な氣もする。朝飯を食はないで五里十里と歩き出すものは宿無しか、又は準宿無しでなくつちやならない。目が醒めて、夜が明けてるのに、汁の煙《けむ》も、漬物の香《にほひ》も、一向《いつかう》連想に乘つて來ないからは、行きなり放題に、今日は今日の命を取り留めて、其の日其の日の魂の供養《くやう》をする呑氣屋《のんきや》で、世の中にあしたと云ふものがないのを當り前と考へる程に不幸な又｜幸《さいはひ》な人間である。自分は十九年來始めて、斯う云ふ人間と一つ所《とこ》に泊つて、是れから又一所に歩き出すんだなと思つた。赤毛布《あかげつと》と小僧の顔色を伺つて見ると少しも朝飯を豫期してゐる樣子がないんで、雙方共朝飯を食ひ慣《つ》けてゐない一種の人類だと勘づいて見ると、自分の運命は坑夫にならない先から、もう、坑夫以下に摺《ず》り落ちてゐたと云ふ事が分つた。然し分つたと云ふ許《ばか》りで別に悲しくもなかつた。涙は無論出なかつた。たゞ長藏さんが、此の朝飯の經驗に乏しい人間に向つて、「御前さん達も飯が食ひたいかね」と尋ねて呉れなかつたのを、今では殘念に思つてる。食つた事が少いから、今迄の習慣性で、「食はないでも好い」と答へるか、それとも、たまさかに有りつけるかも知れないと云ふ意外の望に奬勵されて「食ひたい」と答へるか。――つまらん事だが何方《どつち》か聞いて見たい。

　長藏さんは土間へ立つて、一寸｜後《うし》ろを振り返つたが、

　「熊《くま》さん、ぢや行つてくる。色々御世話樣」

と輕く力足《ちからあし》を二三度踏んだ。熊さんは無論亭主の名であるが、まだ奧で寐てゐる。覗いて見ると、昨夕《ゆうべ》うつゝに氣味をわるくした、もぢや／＼の頭が布團の下から出てゐる。此の亭主は敷蒲團を上へ掛けて寐る流儀と見える。長藏さんが、此もぢや／＼の頭に話しかけると、頭は、むくりと疊を離れた。さうして熊さんの顔が出た。此顔は昨夜《ゆうべ》見た程妙でもなかつた。然し額がさかに瘠《こ》けて、腦天迄長くなつてる事は、今朝でも爭はれない。熊さんは床の中から、

　「いや、何にも御構《おかまひ》申さなかつた」

と云つた。成程何にも構はない。自分｜丈《だけ》布團をかけてゐる。

　「寒かなかつたかね」

とも云つた。氣樂なもんだ。長藏さんは

　「いゝえ。なあに」

と受けて、土間から片足踏み出した時、後《うしろ》から、熊さんが欠伸交《あくびまじ》りに、

　「ぢや、又歸りに御寄り」

と云つた。

　夫《そ》れから長藏さんが徃來へ出る。自分も一足｜後《おく》れて、小僧と赤毛布《あかげつと》の尻を追つ懸けて出た。みんな大急ぎに急ぐ。かう云ふ道中には慣れ切つたもの許《ばか》りと見える。何でも長藏さんの云ふ所によると、是れから山越をするんだが、午《ひる》迄《まで》には銅山《やま》へ着かなくつちやならないから急ぐんださうだ。何故《なぜ》午迄に着かなくつちやならないんだか、譯が分らないが、聞いて見る勇氣がなかつたから、黙つて食つ附いて行つた。すると成程｜登《のぼり》になつて來た。昨夕《ゆうべ》あれ程登つた積《つもり》だのに、まだ登るんだから嘘の樣でもあるが實際見渡して見ると四方《しはう》は山ばかりだ。山の中に山があつて、其山の中に又山があるんだから馬鹿々々しい程奧へ這入る譯になる。この模樣では銅山《どうざん》のある所は、定めし淋しいだらう。呼息《いき》を急《せ》いて登りながらも心細かつた。此處迄來る以上は、都へ歸るのは大變だと思ふと、何の醉興で來たんだか淺間《あさま》しくなる。と云つて都に居り度くないから出奔したんだから、おいそれと歸りにくい所へ這入つて、親《おや》親類《しんるい》の目に懸からない樣に、朽果《くちは》てゝ仕舞ふのは寧ろ本望である。自分は高い坂へ來ると、呼息《いき》を繼《つ》ぎながら、一寸留つては四方《しはう》の山を見廻した。すると其の山がどれも是も、黒ずんで、凄い程木を被《かぶ》つてゐる上に、雲がかゝつて見る間《ま》に、遠くなつて仕舞ふ。遠くなると云ふより、薄くなると云ふ方が適當かも知れない。薄くなつた揚句は、次第々々に、深い奧へ引き込んで、今迄は影の樣に映つてたものが、影さへ見せなくなる。さうかと思ふと、雲の方で山の鼻面《はなづら》を通り越して動いて行く。しきりに白いものが、捲き返してゐるうちに、薄く山の影が出てくる。其の影の端が段々濃くなつて、木の色が明かになる頃は先刻《さつき》の雲がもう隣りの峰へ流れてゐる。すると又｜後《あと》からすぐに別の雲が來て、折角見え出した山の色をぼうとさせる。仕舞には、どこにどんな山があるか一向《いつかう》見當が附かなくなる。立ちながら眺めると、木も山も谷も滅茶々々になつて浮き出して來る。頭の上の空さへ、際限もない高い所から手の屆く邊《あたり》まで落ちかゝつた。長藏さんは、

　「こりや、雨だね」

と、歩きながら獨言《ひとりごと》を云つた。誰も答へたものはない。四人《よつたり》とも雲の中を、雲に吹かれる樣な、取り捲かれる樣な、又｜埋《うづ》められる樣な有樣で登つて行つた。自分には此の雲が非常に嬉しかつた。此の雲のお蔭で自分は世の中から隱したい身體《からだ》を十分に隱すことが出來た。さうして、さのみ苦しい思ひもしずに其の中を歩いて行ける。手足は自由に働いて、閉ぢ籠められた樣な窮屈も覺えない上に、人目にかゝらん�ｺは十分ある。生きながら葬《はうぶ》られると云ふのは全く此の事である。それが、その時の自分には唯一の理想であつた。だから此の雲は全く難有《ありがた》い。難有《ありがた》いといふ感謝の念よりも、雲に埋《うづ》められ出してから、まあ安心だと、ほつと一息した。今考へると何が安心だか分りやしない。全くの氣違だと云はれても仕方がない。仕方がないが、斯う云ふ自分が、時と場合によれば、翌《あす》が日にも、亦《また》雲が戀しくならんとも限らない。それを思ふと何だか變だ。吾が身で吾が身が保證出來ない樣な、又吾が身が吾が身でない樣な氣持がする。

　然し此の時の雲は全く嬉しかつた。四人《よつたり》が離れたり、かたまつたり、隔てられたり、包まれたりして雲の中を歩いて行つた時の景色《けしき》は未《いま》だに忘れられない。小僧が雲から出たり這入つたりする。茨城《いばらき》の毛布《けつと》が赤くなつたり白くなつたりする。長藏さんの、どてら〔三字傍点〕が、わづか五六間の距離で濃くなつたり薄くなつたりする。さうして誰も口を利かない。さうして、無暗に急ぐ。世界から切り離された四つの影が、後《あと》になり先になり、殖《ふえ》もせず減《へり》もせず、四つの儘、引かれて合ふ樣に、彈《はじ》かれて離れる樣に、又どうしても四つでなくてはならない樣に、雲の中をひたすら歩いた時の景色《けしき》は未《いま》だに忘れられない。

　自分は雲に埋《うづ》まつてゐる。殘る三人も埋《うづ》まつてゐる。天下が雲になつたんだから、世の中は自分共にたつた四人《よつたり》である。さうして其の三人が三人ながら、宿無《やどなし》である。顔も洗はず朝飯も食はずに、雲の中を迷つて歩く連中である。此の連中と道伴《みちづれ》になつて登り一里、降り二里を足の續く限り雲に吹かれて來たら、雨になつた。時計がないんで何時《なんじ》だか分らない。空模樣で判斷すると、朝とも云はれるし、午過《ひるすぎ》とも云はれるし、又夕方と云つても差支ない。自分の精神と同じ樣に世界もぼんやりしてゐるが、只一寸眼に附いたのは、雨の間から微《かす》かに見える山の色であつた。其色が今迄のとは打つて變つてゐる。何時《いつ》の間《ま》にか木が拔けて、空坊主《からばうず》になつたり、ところ斑《まだら》の禿頭《はげあたま》と化けちまつたんで、丹砂《たんしや》の樣に赤く見える。今迄の雲で自分と世間を一筆《ひとふで》に抹殺して、此處迄ふらつきながら、手足｜丈《だけ》を急がして來た許《ばか》りだから、此の赤い山が不圖眼に入るや否や、自分ははつと雲から醒めた氣分になつた。色彩の刺激が、自分にかう強く應《こた》へ樣《やう》とは思ひ掛けなかつた。――實を云ふと自分は色盲ぢやないかと思ふ位、色には無頓着な性質《たち》である。――そこで此の赤い山が、比較的烈しく自分の視神經を冒すと同時に、自分は愈《いよ／＼》銅山に近づいたなと思つた。蟲が知らせたと云へば、蟲が知らせたとも云へるが、實は此山の色を見て、すぐ銅《あかゞね》を連想したんだらう。兎に角、自分が愈《いよ／＼》到着したなと直覺的に――世の中で直覺的と云ふのは大概此の位なものだと思ふが――所謂《いはゆる》直覺的に事實を感得した時に、長藏さんが、

　「やつと、着いた」

と自分が言ひたい樣な事を云つた。それから十五分程したら町へ出た。山の中の山を越えて、雲の中の雲を通り拔けて、突然新しい町へ出たんだから、眼を擦《こす》つて視覺を慥《たしか》めたい位驚いた。それも昔の宿《しゆく》とか里とか云ふ舊幕時代に縁のある樣な町なら、まだしもだが、新しい銀行があつたり、新しい郵便局があつたり、新しい料理屋があつたり、凡《すべ》てが苔の生えない、新しづくめの上に、白粉《おしろい》をつけた新しい女迄ゐるんだから、全く夢の樣な氣持で、不審が顔に出る暇《いとま》もないうちに通り越しちまつた。すると橋へ出た。長藏さんは橋の上へ立つて、一寸水の色を見たが、

　「是れが入口だよ。愈《いよ／＼》着いたんだから、其の積《つもり》でゐなくつちや、不可《いけ》ない」

と注意を與へた。然し自分には、どんな積《つもり》でゐなくつちや不可《いけ》ないんだか、些《ちつ》とも分らなかつたから、黙つて橋の上へ立つて、入口から奧の方を見てゐた。左が山である。右も山である。さうして、所々に家《うち》が見える。矢つ張り木造の色が新しい。中には白壁だか、ペンキ塗だか分らないのがある。是も新しい。古ぼけて禿げてるのは山ばかりだつた。何だか又現實世界に引き摺り込まれる樣な氣がして、少しく失望した。長藏さんは自分が黙つて橋の向《むかふ》を覗き込んでるのを見て、

　「好いかね、御前さん、大丈夫かい」

と又聞き直したから、自分は、

　「好いです」

と明瞭に答へたが、内心あまり好くはなかつた。何故《なぜ》だかしらないが、長藏さんは只自分に丈《だけ》懸念《けねん》がある樣子であつた。赤毛布《あかげつと》と小僧には「好いかね」とも「大丈夫かい」とも聞かなかつた。頭から此の兩人《ふたり》は過去の因果で、坑夫になつて、銅山のうちに天命を終るべきものと認定してゐる樣な氣色《けしき》があり／＼と見えた。して見ると不信用なのは自分｜丈《だけ》で、大分《だいぶ》長藏さんから此奴《こいつ》は危《あぶ》ないなと睨まれてゐたのかも知れない。好い面《つら》の皮だ。

　それから四人揃つて、橋を渡つて行くと、右手に見える家《うち》には中々立派なのがある。其の中《うち》で一番いかめしい奴を指《さ》して、あれが所長の家《うち》だと長藏さんが�ﾍへて呉れた。序《ついで》に左の方を見乍ら

　「此方《こつち》がシキ〔二字傍点〕だよ、御前さん、好いかね」

と云ふ。自分はシキ〔二字傍点〕と云ふ言葉を此の時始めて聞いた。餘つ程聞き返さうかと思つたが、大方これがシキ〔二字傍点〕なんだらうと思つて黙つてゐた。あとから自分も此シキ〔二字傍点〕と云ふ言葉を明瞭に理解しなければならない身分になつたが、矢つ張始めにぼんやり考へ附いた定義とさした違もなかつた。そのうち左へ折れて愈《いよ／＼》シキ〔二字傍点〕の方へ這入る事になつた。鐵軌《レール》に付いて段々｜上《のぼ》つて行くと、其處此處に粗末な小《ちひ》さい家《うち》が澤山ある。是れは坑夫の住んでる所だと聞いて、自分も今日から、こんな所で暮すのかと思つたが、それは間違であつた。此の小屋はどれも六疊と三疊｜二間《ふたま》で、みんな坑夫の住んでる所には違ないが、家族のあるものに限つて貸してくれる規定であるから、自分の樣な一人ものは這入り度くたつて這入れないんだつた。かう云ふ小屋の間を縫つて、飽きずに上《のぼ》つて行くと、今度は石崖の下に細長い横幅ばかりの長屋が見える。さうして、其の長屋が澤山ある。始めは僅か二三軒かと思つたら、登るに從つて續々あらはれて來た。大きさも長さも似たもんで、みんな崖下にあるんだから位地にも變りはないが、向《むき》丈《だけ》は各々《めい／＼》違つてる。山坂を利用して、なけなしの地面へ建てることだから、東だとか西だとか贅澤は言つてゐられない。やつとの思ひで、ならした地面へ否應《いやおう》なしに、方角のお構《かまひ》なく建てゝ仕舞つたんだから不規則なものだ。それに、第一、登つて行く道がくねつてる。あの長屋の右を歩いてるなと思ふと、いつの間《ま》にか其の長屋の前へ出て來る。あれは、すぐ頭の上だがと心待ちに待つてゐると、急に路が外《そ》れて遠くへ持つてかれて仕舞ふ。丸《まる》で見當が附かない。其の上此の細長い家《うち》から顔が出てゐる。家《うち》から顔が出てゐるのが珍らしい事もないんだが、其の顔がたゞの顔ぢやない。どれも、これも、出來てゐない上に、色が惡い。その惡さ加減が又、尋常でない。青くつて、黒くつて、しかも茶色で、到底都會に居ては想像のつかない色だから困る。病院の患者｜抔《など》とは丸《まる》で比較にならない。自分が山路を登りながら、始めて此の顔を見た時は、シキ〔二字傍点〕と云ふ意味をよく了解しない癖に、成程シキ〔二字傍点〕だなと感じた。然しいくらシキ〔二字傍点〕でも、かう云ふ顔は澤山あるまいと思つて、登つて行くと、長屋を通るたんびに顔が出て居て、其顔がみんな同じである。仕舞にはシキ〔二字傍点〕とは恐ろしい所だと思ふ迄、いやな顔を澤山見せられて、又自分の顔を澤山見られて――長屋から出てゐる顔は屹度《きつと》自分等を見てゐた。一種｜獰惡《だうあく》な眼附で見てゐた。――とう／＼午後の一時に飯場《はんば》へ着いた。

　何故《なぜ》飯場《はんば》と云ふんだか分らない。焚き出しをするから、さう云ふ名を附けたものかも知れない。自分は其の後《ご》飯場の意味をある坑夫に尋ねて、箆棒《べらぼう》め、飯場《はんば》たあ飯場でえ、何を云つてるんでえ、とひどく劔突《けんつく》を食《くら》つた事がある。凡《すべ》て此の社會に通用する術語は、シキ〔二字傍点〕でも飯場〔二字傍点〕でもジヤンボー〔五字傍点〕でも、みんな偶然に成立して、偶然に通用してゐるんだから、滅多に意味なんか聞くと、すぐ怒られる。意味なんか聞く閑もなし、答へる閑もなし、調べるのは大馬鹿となつてるんだから至極簡單で且つ全く實際的なものである。

　さう云ふ譯で飯場《はんば》の意味は今以て分らないが、兎に角崖の下に散在してゐる長屋を指《さ》すものと思へばいゝ。其の長屋へ漸く到着した。多くある長屋のうちで、何故《なぜ》此の飯場を選んだかは、長藏さんの一人極《ひとりぎめ》だから、自分には説明しにくい。が、此の飯場は長藏さんの專門御得意の取引先と云ふ譯でもなかつたらしい。長藏さんは自分を此の飯場へ押しつけるや否や、何時《いつ》の間《ま》にか、赤毛布《あかげつと》と小僧を連れて外《ほか》の飯場へ出て行つて仕舞つた。それで二人は外《ほか》の飯場の飯《めし》を食ふ樣になつたんだなと後《あと》から氣が附いた。二人の消息は其《その》後《のち》一向《いつかう》聞かなかつた。銅山《やま》のなかでもついぞ顔を合せた事がない。考へると、妙なものだ。一膳めし屋から突然飛び出した赤い毛布《けつと》と、夕方の山から降つて來た小僧と落ち合つて、夏の夜《よ》を後《あと》になり先になつて、崩れさうな藁屋根の下で一所に寐た明日《あくるひ》は、雲の中を半日かゝつて、目指す飯場《はんば》へ漸く着いたと思ふと、赤毛布《あかげつと》も小僧もふいと消えてなくなつちまふ。是れでは小説にならない。然し世の中には纒まりさうで、纒らない、云はゞでき損《そこな》ひの小説めいた事が大分《だいぶん》ある。長い年月を隔てゝ振り返つて見ると、却つて此のだらしなく尾を蒼穹《さうきゆう》の奧に隱して仕舞つた經歴の方が興味の多いやうに思はれる。振り返つて思ひ出す程の過去は、みんな夢で、その夢らしい所に追懷の趣《おもむき》があるんだから、過去の事實それ自身に何處かぼんやりした、曖昧な點がないと此の夢幻の趣を助ける事が出來ない。從つて十分に發展して來て因果の豫期を滿足させる事柄よりも、此｜赤毛布流《あかげつとりう》に、頭も尻も秘密の中《うち》に流れ込んで只途中｜丈《だけ》が眼の前に浮んでくる一夜《いちや》半日《はんにち》の畫《ゑ》の方が面白い。小説になりさうで、丸《まる》で小説にならない所が、世間臭くなくつて好い心持だ。只に赤毛布《あかげつと》ばかりぢやない。小僧もさうである。長藏さんもさうである。松原の茶店の神さんもさうである。もつと大きく云へば此一篇の「坑夫」そのものが矢張さうである。纒まりのつかない事實を事實の儘に記《しる》す丈《だけ》である。小説の樣に拵へたものぢやないから、小説の樣に面白くはない。其の代り小説よりも神秘的である。凡《すべ》て運命が脚色した自然の事實は、人間の構想で作り上げた小説よりも無法則である。だから神秘である。と自分は常に思つてゐる。

　赤毛布《あかげつと》と小僧が連れて行かれたのは後《あと》の事だが、自分等が飯場《はんば》に到着した時は無論二人とも一所あつた。此處で長藏さんが愈《いよ／＼》坑夫志願の談判を始めた。談判と云ふと面倒な樣だが、其實極めて簡單なものであつた。たゞ、此の男は坑夫になりたいと云ふから、どうか使つてくれと云つた許《ばか》りである。自分の姓名も出生地《しゆつしやうち》も身元も閲歴も何にも話さなかつた。勿論話し度くつたつて、知らないんだから、話せ樣もないんだが、かう迄手つ取り早く片附ける了簡《れうけん》とは思はなかつた。自分は中學校へ入學した時の經驗から、いくら坑夫だつて、それ相應の手續がなくつちや採用されないもんだと許《ばか》り思つてゐた。大方身元引受人とか保證人とか云ふものが證文へ判でも捺《お》すんだらう、その時は長藏さんにでも頼んで見《み》樣《やう》位にまで、先廻りをして考へてゐた。所が案に相違して、談判を持ち込まれた飯場頭《はんばがしら》は――飯場頭だか何だか其の時は無論知らなかつた。眉毛《まゆげ》の太くつて蒼髯《あをひげ》の痕《あと》の濃い逞《たくま》しい四十｜恰好《がつかう》の男だつた。――其の男が長藏さんの話を一通り聞くや否や、

　「さうかい、夫《それ》ぢや置いて御出《おいで》」

と左《さ》も無雜作に云つちまつた。丁度炭屋が土釜《どがま》を臺所へ擔ぎ込んだ時の樣に思はれた。人間が遙々《はる／”＼》山越《やまごえ》をして坑夫になりに來たんだとは認めてゐない。そこで自分は少々腹の中《うち》で此｜飯場頭《はんばがしら》を恨んだが、是れは自分の間違であつた。其譯は今｜直《すぐ》に分る。

　飯場頭《はんばがしら》と云ふのは一《ひとつ》の飯場を預かる坑夫の隊長で、此の長屋の組合に這入る坑夫は、萬事此人の了簡《れうけん》次第でどうでもなる。だから甚だ勢力がある。此の飯場頭と一分時間《いつぷんじかん》に談判を結了した長藏さんは、

　「ぢや、よろしくお頼みまうします」

と云つたなり、赤毛布《あかげつと》と小僧を連れて出て行つた。又歸つてくる事と思つたが、其の後《ご》一向《いつかう》影も形も見せないんで、全く、置去《おきざり》にされたと云ふ事が分つた。考へるとひどい男だ。此處迄引つ張つて來るときには、何の蚊のと、世話らしい言葉を掛けたのに、いざとなると通り一片の挨拶もしない。それにしてもぽん引〔三字傍点〕の手數料はいつ何時《なんどき》何處で取つたものか、是は今以て分らない。

　かう云ふ次第で飯場頭《はんばがしら》からは、土釜《どがま》の炭俵の如く認定される、長藏さんからは小包の樣に抛《な》げ込まれる。少しも人間らしい心持がしないんで、大いに悄然《せうぜん》としてゐると、出て行く三人の後姿を見送つた飯場頭は突然自分の方を向いた。其の顔附きが變つてゐる。人を炭俵の樣に取扱ふ男とは、どうしても受取れない。全く東京邊で朝晩出逢ふ、萬事を心得た苦勞人《くらうにん》の顔である。

　「あなたは生れ落ちてからの勞働者とも見えない樣だが……」

　飯場掛《はんばがゝり》の言葉を此處迄聞いた時、自分は急に泣き度くなつた。散ざつぱらお前さん〔四字傍点〕で、厭になる程遣られた揚句《あげく》の果《はて》、もう到底御前さん以上には浮ばれないものと覺悟をしてゐた矢先に、突然あなた〔三字傍点〕の昔に歸つたから、思ひがけない所で自己を認められた嬉しさと、なつかしさと、夫《それ》から過去の記憶――自分はつい一昨日《をとゝひ》迄は立派にあなた〔三字傍点〕で通つて來た――それや是やが寄つて、たかつて胸の中《なか》へ込み上げて來た上に、相手の調子が如何にも鄭寧で親切だから――つい泣きたくなつた。自分は其の後《ご》色々な目に逢つて、幾度となく泣きたくなつた事はあるが、擦《す》れ枯《から》しの今日《こんにち》から見れば、大抵は泣くに當らない事が多い。然し此の時頭の中にたまつた涙は、今が今でも、同じ羽目になれば、出かねまいと思ふ。苦しい、つらい、口惜《くちを》しい、心細い涙は經驗で消す事が出來る。難有涙《ありがたなみだ》もこぼさずに濟む。たゞ墮落した自己が、依然として昔の自己であると他《ひと》から認識された時の嬉し涙は死ぬ迄附いて廻るものに違ない。人間はかやうに手前勘《てまへかん》の強いものである。此の涙を感謝の涙と誤解して、得意がるのは、自分の爲に書生を置いて、書生の爲に置いてやつた樣な心持になつてると同じ事ぢやないかしら。

　かう云ふ譯で、飯場掛《はんばがゝ》りの言葉を一行ばかり聞くと、急に泣きたくなつたが、實は泣かなかつた。悄然《せうぜん》とはしてゐたが、氣は張つてゐる。何處からか知らないが、抵抗心が出て來た。たゞ思ふ樣に口が利けないから、黙つて向ふの云ふ事を聞いてゐた。すると飯場掛りは嬉しい程親切な口調で、かう云つた。――

　「……まあどうして、斯《こ》んな所へ御出《おいで》なすつたんだか、今の男が連れて來る位だから大概｜私《わたし》にも樣子は知れてはゐるが――どうです、もう一遍考へて見ちやあ。屹度｜取《と》ツ附《つけ》坑夫になれて、金がうんと儲かるてえ樣な旨い話でもしたんでせう。それがさ、實際遣つて見ると到底《たうてい》話の十が一にも行かないんだから詰らないです。第一坑夫と一口に云ひますがね。中々たゞの人に出來る仕事ぢやない、ことにあなたの樣に學校へ行つて�ﾍ育なんか受けたものは、どうしたつて勤まりつ子ありませんよ。……」

　飯場頭《はんばがしら》は此處迄來て、昵《ぢつ》と自分の顔を見た。何とか云はなくつちやならない。幸ひ此の時はもう泣きたい所を通り越して、口が利ける樣になつてゐた。そこで自分はかう云つた。――

　「僕は――僕は――そんなに金なんか欲しかないです。何も儲ける爲にやつて來た譯ぢやないんですから、――夫《そり》や知つてるです、僕だつて知つてるです……」

と、此の時知つてるですを二遍繰り返した事を今だに記憶してゐる。甚だ穩かならぬ生意氣な、ものゝ云ひ樣だつた。若いうちは、たつた今迄｜悄氣《しよげ》てゐても、相手次第ですぐ附け上つちまう。まことに赤面の至りである。然も其の知つてるですが、何を知つてるのかと思ふと、今自分を連れて來た男、即ち長藏さんは、一種の周旋屋であつて、凡《すべ》ての周旋屋に共通な法螺吹《ほらふ》きであると云ふ眞相をよく自覺して居ると云ふ意味なんだから、いくら知つてたつて自慢にならないのは無論である。それを念入に、瞞着《だまさ》れて來たんぢやない、萬事承知の上の坑夫志願だ抔《など》と説明して見たつて今更どうなるものぢやない。所が年が若いと虚榮心の強いもので――今でも弱いとは云はないが――しきりに辯解に取り掛つたのは實に冷汗の出る程の愚《ぐ》であつた。幸ひ相手が、かう云ふ家業に似合はぬ篤實な男で、かつ自分の不經驗を氣の毒に思ふの餘り、此の生意氣を生意氣と知りながら大目に見て呉れたもんだから、打《ど》やされずに濟んだ。まことに難有《ありがた》い。此の飯場《はんば》に住み込んだあとで、頭《かしら》の勢力の廣大なるに驚くにつれて、僕は知つてるです〔八字傍点〕を思ひ出しては獨り赧《あか》い顔をしてゐた。序《ついで》に云ふが此の頭《かしら》の名は原《はら》駒吉《こまきち》である。今以て自分は好い名だと思つてる。

　原《はら》さんは別に厭な顔附きもせずに、黙つて自分の言譯を聞いて居たが、やがて頭《あたま》を振り出した。其の頭は大きな五分刈で額の所が面摺《めんずれ》の樣に拔き上がつてゐる。

　「そりや物數奇《ものずき》と云ふもんでさあ。折角來たから是非遣るつたつて、何も家《うち》を出る時から坑夫になると思ひ詰めた譯でもないんでせう。云はゞ一時《いちじ》の出來心なんだからね。遣つて見りや、すぐ厭になつちまうな眼に見えてるんだから、廢《よ》すが好うがせう。現に書生さんで此處へ來て十日と辛抱したものあ、有りやしませんぜ。え？　そりや來る。幾人《いくたり》も來る。來る事は來るが、みんな驚いて逃げ出しちまいまさあ。全く普通《なみ》のものゝ出來る業《わざ》ぢやありませんよ。惡い事は云はないから御歸んなさい。なに坑夫をしなくつたつて、口過《くちすぎ》丈《だけ》なら骨は折れませんやあ」

　原さんは茲《こゝ》に至つて、胡坐《あぐら》を崩して尻を宙に上げかけた。自分はどうしても落第しさうな按排《あんばい》である。大いに困つた。困つた結果、坑夫と云ふ事から氣を離して、自分｜丈《だけ》を檢査して見ると、――何だか急に寒くなつた。袷はさつきの雨で濡れてゐる。洋袴下《ずぼんした》は穿《は》いてゐない。東京の五月も此山の奧へ來ると丸《まる》で二月か三月の氣候である。坂を登つてゐる間こそ體温で左程《さほど》にも思はなかつた。原さんに拒絶される迄は氣が張つてゐたから、好かつた。然し飯場《はんば》へ來て休息した上に、坑夫になる見込が殆ど切れたとなると、情《なさけ》ないのが寒いのと合併して急に顫へ出した。其の時の自分の顔色は定めし見るに堪へん程醜いもんだつたらう。此の時自分は又何となく、今しがた自分を置去《おきざり》にして、挨拶もしずに出て行つた長藏さんが戀しくなつた。長藏さんがゐたら、何とか盡力して坑夫にしてくれるだらう。よし坑夫にしてくれない迄も、どうにか片をつけて呉れるだらう。汽車賃を出して呉れた位だから、方角のわかる所迄位は送り出して呉れさうなものだ。蟇口を長藏さんに取られてから、懷中《ふところ》には一文もない。歸るにしても、歸る途中で腹が減つて山の中で行倒《ゆきだふれ》になる迄だ。いつその事今から長藏さんを追掛けて見《み》樣《やう》か。飯場々々を探して歩いたら逢へない事もないだらう。逢つて是々だと泣き附いたら、今迄の交際《つきあひ》もある事だから、好い智慧を貸してくれまいものでもない。然し別れ際に挨拶さへしない男だから、ひよつとすると……自分は原さんの前で實はこんな閑《ひま》な事を、非常に忙しく、ぐる／＼考へてゐた。好《すき》な原さんが前にゐるのに、あんまり下さらない、しかも消えてなくなつた長藏さん許《ばか》りを相談相手の樣に思ひ込んだのは、どう云ふ理由《わけ》だらう。こんな事はよくあるもんだから、いざと云ふ場合に、敵は敵、味方は味方と板行《はんかう》で押した樣に考へないで、敵のうちで味方を探したり、味方のうちで敵を見露《みあら》はしたり、片方《かたつぽ》づかない樣に心を自由に活動させなくつてはいけない。

　弱輩《じやくはい》な自分には此の機合《きあひ》がまだ呑み込めなかつたもんだから、原さんの前に立つて顫へながら、へどもどしてゐると、原さんも氣の毒になつたと見えて、

　「あなたさへ歸る氣なら、及ばずながら相談にならうぢやありませんか」

と向ふから口を掛けて呉れた。かう切つて出られた時に、自分ははつと有難く感じた。ばかりなら當り前だがはつと氣が附いた。――自分の相談相手は自分の志望を拒絶する此原さんを除いて、外にないんだと氣が附いた。氣がつくと同時に又口が利けなくなつた。是非坑夫にして呉れとも、歸るから旅費を貸してくれとも言ひかねて、矢つ張り立ちすくんでゐた。氣が附いても何にもならない、たゞ右の手で拳骨を拵へて寒い鼻の下を擦《こす》つた樣に記憶してゐる。自分は其の前｜寄席《よせ》へ行つて、よく噺家《はなしか》がこんな手眞似《てつき》をするのを見た事があるが、自分で其の通りを實行したのは、是れが始めてゞある。此の手眞似《てつき》を見てゐた原さんが、今度はかう云つた。

　「失禮ながら旅費のことなら、心配しなくつても好ござんす。どうかして上げますから」

　旅費は無論ない。一厘たりとも金氣《かなけ》は肌に着いてゐない。のたれ死《じに》を覺悟の前でも、金は持つてる方が心丈夫だ。況《ま》して慢性の自滅で滿足する今の自分には、たとひ白銅一箇の草鞋錢《わらぢせん》でも大切である。歸ると事がきまりさへすれば、頭を地に摺り附けても、原さんから旅費を惠んで貰つたらう。實際かうなると廉耻《れんち》も品格もあつたもんぢやない。どんな不體裁《ふていさい》な貰ひ方でもする。――大抵の人がさうなるだらう。又さうなつて然るべきである。――然し決して褒められた始末ぢやない。自分がこんな事を露骨にかくのは、たゞ人間の正體を、事實なりに書くんで、書いて得意がるのとは譯が違ふ。人間の生地《きぢ》は是だから、是で差支ない抔《など》と主張するのは、練羊羹の生地《きぢ》は小豆《あづき》だから、羊羹の代りに生小豆《なまあづき》を?んでれば差支ないと結論するのと同じ事だ。自分は此の時の有樣を思ひ出す度に、なんで、あんな、さもしい料簡になつたものかと、吾ながら愛想《あいそ》が盡きる。斯う云ふ下卑《げび》た料簡を起さずに、一生を暮す事のできる人は、經驗の足りない人かも知れないが、幸な人である。又自分等よりも遙に高尚な人である。生小豆《なまあづき》のまづさ加減を知らないで、生涯練羊羹ばかり味はつてる結構な人である。

　自分は、も少しの事で、手を合せて、見ず知らずの飯場頭《はんばがしら》から僅かの合力《がふりき》を仰ぐ所であつた。それをやつとの事で喰ひ止めたのは、折角の好意で調《とゝの》へてくれる金も、二三日《にさんち》木賃宿で夜露を凌《しの》げば、すぐ無くなつて、無くなつた曉には、又｜當途《あてど》もなく流れ出さなければならないと、冥々のうちに自覺したからである。自分は屑《いさぎ》よく涙金《なみだきん》を斷つた。斷つた表向は律義にも見える。自分もさう考へるが、よく／＼詮索《せんさく》すると、慾の天秤《てんびん》に懸けた、利害の判斷から出てゐる事は慥《たしか》である。其證據には補助を斷《ことわ》ると同時に、自分は、こんな事を言ひ出した。

　「其の代り坑夫に使つて下さい。折角來たんだから、僕はどうしても遣つて見る氣なんですから」

　「隨分｜醉興《すゐきよう》ですね」

と原さんは首を傾《かし》げて、自分を見つめてゐたが、やがて溜息の樣な聲を出して、

　「ぢや、どうしても歸る氣はないんですね」

と云つた。

　「歸るつたつて、歸る所がないんです」

　「だつて……」

　「家《うち》なんかないんです。坑夫になれなければ乞食《こじき》でもするより仕方がないです」

　こんな押問答を二三度重ねてゐる中に、口を利くのが大變｜樂《らく》になつて來た。是れは思ひ切つて、無理な言葉を、出惡《でにく》いと知りながら、我慢して使つた結果、おのづと拍子に乘つて來た勢ひに違ないんだから、まあ器械的の變化と見傚《みな》しても差支なからうが、妙なもので、其器械的の變化が、逆戻りに自分の精神に影響を及ぼして來た。自分の言ひたい事が何の苦もなく口を出るに連れて――ある人はある場合に、自分の言ひ度くない事迄も調子づいてべら／＼饒舌《しやべ》る。舌はかほどに器械的なものである。――此の器械が使用の結果加速度の効力を得るに連れて、自分は段々大膽になつて來た。

　いや、大膽になつたから饒舌《しやべ》れたんだらう、君の云ふ事は?倒《あべこべ》ぢやないかと遣り込める氣なら、さうして置いてもいゝ。いゝが、夫《それ》はあまり陳腐《ちんぷ》で且《かつ》時々嘘になる。嘘と陳腐で滿足しないものは自分の言分を尤もと首肯《うなづ》くだらう。

　自分は大膽になつた。大膽になるに連れて、どうしても坑夫に住み込んで遣らうと決心した。また饒舌《しやべ》つて居れば必ず坑夫になれるに違ないと自覺して來た。一昨日《をとゝひ》家《うち》を飛び出す間際迄は、夢にも坑夫にならうと云ふ分別は出なかつた。ばかりではない、坑夫になる爲の驅落《かけおち》と事が極まつてゐたならば、何となく恥づかしくなつて、まあ一週間よく考へた上にと、出奔《しゆつぽん》の時期を曖昧に延ばしたかもしれない。逃亡はする。逃亡はするが、紳士の逃亡で、人だか土塊《つち呉れ》だか分らない坑掘《あなほり》になり下《さが》る目的の逃亡とは、何不足なく生育《そだ》つた自分の頭には影さへ射さなかつたらう。所が原さんの前で寒い奧齒を?みしめながら、せう事なしの押問答をしてゐるうちに、自分はどうあつても坑夫になるべき運命、否《いな》天職を帶びてる樣な氣がし出した。此の山と此の雲と此の雨を凌《しの》いで來たからには、是非共坑夫にならなければ濟まない。萬一採用されない曉には自分に對して面目がない。――讀者は笑ふだらう。然し自分は當時の心情を眞面目に書いてるんだから、人が見て可笑《をか》しければ可笑《をか》しい程、其の時の自分に對して氣の毒になる。

　妙な意地だか、負惜《まけをし》みだか、それとも行倒れになるのが怖《こは》くつて、歸り切れなかつた爲だか、――其の邊は自分にも曖昧だが、兎に角自分は、尤も熱心な語調で原さんを口説《くど》いた。

　「……左樣《さう》云はずに使つて下さい。實際僕が不適當なら仕方がないが、まだ遣つて見ない事なんだから――折角山を越して遠方をわざ／＼來た甲斐に、一日《いちんち》でも二日《ふつか》でも、いゝですから、まあ試しだと思つて使つて下さい。其の上で、到底役に立たないと事が極まれば歸ります。屹度《きつと》歸ります。僕だつて、それだけの仕事が出來ないのに、押《おし》を強く御厄介になつてる氣はないんですから。僕は十九です。まだ若いです。働き盛りです……」

と昨日《きのふ》茶店の神さんが云つた通りを其儘圖に乘つて述べ立てた。後から考へると、是れは寧ろ人が自分を評する言葉で、自分が自分を吹聽する文句ではなかつた。そこで原さんは少し笑ひ出した。

　「夫《それ》程《ほど》お望みなら仕方がない。何も御縁だ。まあやつて御覽なさるが好い。其の代り苦しいですよ」

と原さんは何氣なく裏の赤い山を覗く樣に見上げた。大方天氣模樣でも見たんだらう。自分も原さんと一所に山の方へ眼を移した。雨は上がつたが、暗く曇つてゐる。薄氣味の惡い程怪しい山の中の空合《そらあひ》だ。此の一瞬時に、自分の願が叶《かな》つて、自分はまづ山の中の人となつた。此の時「其の代り苦しいですよ」と云つた原さんの言葉が、妙に氣に掛り出した。人は、漸くの思ひで刻下《こくか》の志を遂げると、すぐ反動が來て、却つて志を遂げた事が急に恨めしくなる場合がある。自分が望み通り此處へ落ち附ける口頭の辭令を受け取つた時の感じは聊《いさゝ》か之に類してゐる。

　「ぢやね」――原さんは語調を改めて話し出した。――「ぢやね。何しろ明日《あした》の朝シキ〔二字傍点〕へ這入つて御覽なさい。案内を一人附けて上げるから。――それからと――さうだ、其の前に話して置かなくつちやなりませんがね。一口に坑夫と云ふと、譯もない仕事の樣に思はれませうが、中々｜外《そと》で聞いてる樣な生容易《なまやさし》い業《わざ》ぢやないんで。まあ取つ附けから坑夫になるなあ」と云つて自分の顔を眺めて居たが、やがて、

　「其の體格ぢや、ちつと六づかしいかも知れませんね。坑夫でなくつても、好うがすかい」

と氣の毒さうに聞いた。坑夫になる迄には相當の階級と練習を積まなくつちやならないと云ふ事が茲《こゝ》で始めて分つた。成程長藏さんが坑夫々々と、さも名誉らしく坑夫を振り廻した筈だ。

　「坑夫の外に何かあるんですか。こゝに居るものは、みんな坑夫ぢやないんですか」

と念の爲に聞いて見た。すると原さんは、自分を馬鹿にした樣子もなく、すぐ其の所以《わけ》を説明して呉れた。

　「銅山《やま》にはね、一萬人も這入つてゝね。それが掘子《ほりこ》に、シチウ〔三字傍点〕に、山市《やまいち》に、坑夫と、かう四つに分れてるんでさあ。掘子《ほりこ》つてえな、一人前の坑夫に使へねえ奴がなるんで、まあ坑夫の下働《したばたらき》ですね。シチウ〔三字傍点〕は早く云ふとシキ〔二字傍点〕の内《なか》の大工見た樣なものかね。夫《それ》から山市《やまいち》だが、こいつは、たゞ石塊《いしつころ》をこつ／＼缺いてる丈《だけ》で、重に子供――さつきも一人來たでせう。あゝ云ふのが當分坑夫の見習にやる仕事さね。まあざつと、こんなものですよ。それで坑夫となると請負仕事だから、間《ま》が好いと日に一圓にも二圓にも當る事もあるが、掘子《ほりこ》は日當で年《ねん》が年中《ねんぢゆう》三十五錢で辛抱しなければならない。しかも其のうち五分《ごぶ》は親方が取つちまつて、病氣でもしやうもんなら手當が半分だから十七錢五厘ですね。それで蒲團の損料が一枚三錢――寒いときは是非二枚要るから、都合で六錢と、それに飯代が一日十四錢五厘、御菜《おさい》は別ですよ。――どうです。もし坑夫にいけなかつたら、掘子にでもなる氣はありますかね」

　實の所はなりますと勢ひよく出る元氣はなかつたが、此處迄來れば、今更どうしたつて否《いや》だと斷られた義理のもんぢやない。そこで、出來る丈《だけ》景氣よく、

　「なります」

と答へてしまつた。原さんには此の答が斷然たる決心の樣に受けとれたか、それとも、瘠我慢《やせがまん》の附景氣《つけげいき》の如く響いたか、其邊は確《しか》と分らないが、何しろ此の一言《いちごん》を聞いた原さんは、機嫌よく、

　「ぢやまあ、御上がんなさい。さうして、あした人を附けて上げるから、まあシキ〔二字傍点〕へ這入つて御覽なさるがいゝ。何しろ一萬人も居て、こんなに組々に分れてゐるんだから、飯場《はんば》を一つでも預かつてると、毎日々々何だ蚊だつて、うるさい事ばかりでね。折角頼むから置いてやる、すぐ逃げる。――一日《いちんち》に二三人は屹度《きつと》逃げますよ。さうかと云つて、大人《おとな》しくしてゐるかと思ふと、病氣になつて、死んぢまう奴が出て來て――どうも始末に行かねえもんでさあ。葬《ともら》ひ許《ばか》りでも日に五六組無い事あ、滅多にないからね。まあ遣る氣なら本氣に遣つて御覽なさい。腰を掛けてちや、足が草臥《くたび》れるだらう。此方《こつち》へ御上り」

　此の逐一《ちくいち》を聞いてゐた自分はたとひ、掘子《ほりこ》だらうが、山市《やまいち》だらうが一生懸命に働かなくつちあ、原さんに對して濟まない仕儀になつて來た。そこで心のうちに、原さんの迷惑になる樣な不都合は決して爲《し》まいと極めた。何しろ年が十九だから正直なものだつた。

　そこで原さんの云ふ通り、足を拭いて尻を卸してゐるうちに、奧の方から婆さんが出て來て、――此の婆さんの出樣が甚だ突然で、一寸驚いたが、

　「此方《こつち》へ御出《おいで》なさい」

と云ふから、好加減《いゝかげん》に御辭儀をして、後《あと》から尾《つ》いて行つた。小作《こづくり》な婆さんで、後姿の華奢《きやしや》な割合には、ぴん／＼跳ねる樣に活?な歩き方をする。幅の狹い茶色の帶をちよつきり結《むすび》にむすんで、なけなしの髪を頸窩《ぼんのくぼ》へ片附けて其｜心棒《しんぼう》に鉛色の簪《かんざし》を刺してゐる。さうして襷掛《たすきがけ》であつた。何でも臺所か――臺所がなければ、――奧の方で、用事の眞つ最中に、案内の爲呼び出されたから、かう急がしさうに尻を振るんだらう。夫《それ》とも山育《やまそだち》だからかしら。いや、飯場《はんば》だから優長《いうちやう》にしちやゐられない所以《せゐ》だらう。して見ると、今日から飯場の飯を食ひ出す以上は自分だつて安閑としちやゐられない。萬事此の婆さんの型で行かなくつちやなるまい。――なるまい。――と力を入れて、うんと思つたら、流石《さすが》に草臥《くたび》れた手足が急になるまい〔四字傍点〕で充滿して、頭と胸の組織が一寸變つた樣な氣分になつた。其の勢ひで廣い階子段《はしごだん》を、案内に應じて、すとん／＼と景氣よく登つて行つた。が自分の頭が階子段《はしごだん》から、ぬつと一尺｜許《ばか》り出るや否や、此の決心が、ぐうと退避《たじろ》いだ。

　胸から上を階子段《はしごだん》の上へ出して、二階を見渡すと驚いた。疊數《たゝみかず》は何十枚だか知らないが遙の突き當り迄敷き詰めてあつて、其の間には一重《ひとへ》の仕切りさへ見えない。丁度柔道の道場か、浪花節の席亭の樣な恰好《かつかう》で、しかも廣さは倍も三倍もある。だから、唯《たゞ》駄々《だゞ》ツ廣《ぴろ》い感じ許《ばか》りで、疊の上でも丸《まる》で野原へ出たとしきあ思へない。夫《それ》丈《だけ》でも驚く價値《ねうち》は十分あるが、其の廣い原の中に大きな圍炉裏《ゐろり》が二つ切つてある、そこへ人間が約十四五人｜宛《づゞ》かたまつてゐる。自分の決心が退避《たじろ》いだと云ふのは、卑怯な話だが、全く此の人間にあつたらしい。平生から強がつて居たには居たが、若輩《じやくはい》の事だから、見ず知らずの多勢の席へ滅多に首を出した事はない。晴の場所となると、只でさへもじ／＼する。所へもつて來て、突然坑夫の團體に生擒《いけど》られたんだから、此の黒い塊《かたまり》を見るが早いか、聊か辟易《ひるん》ぢまつた。それも、たゞの人間ならいゝ。と云つちや意味がよく通じない。――たゞの人間が、坑夫になつてるなら差支ない。所が自分の胸から上が、階子段《はしごだん》を出ると、等しく、此の塊《かたまり》の各部分が、申し合せた樣に、此方《こつち》を向いた。其の顔が――實は其の顔で全く畏縮して仕舞つた。と云ふのは其の顔がたゞの顔ぢやない。たゞの人間の顔ぢやない。純然たる坑夫の顔であつた。さう云ふより別に形容し樣がない。坑夫の顔はどんなだらうと云ふ好奇心のあるものは、行つて見るより外に致し方がない。夫《そ》れでも是非説明して見ろと云ふなら、ざつと話すが、――頬骨が段々高く聳えてくる。顎が競《せ》り出す。同時に左右に突つ張る。眼が壺の樣に引ツ込んで、眼球《めだま》を遠慮なく、奧の方へ吸ひ附けちまふ。小鼻が落ちる。――要するに肉と云ふ肉がみんな退却して、骨と云ふ骨が悉《こと／”＼》く吶喊《とつかん》展開《てんかい》するとでも評したら好からう。顔の骨だか、骨の顔だか分らない位に、稜々《りよう／＼》たるものである。劇しい勞役の結果早く年を取るんだとも解釋は出來るが、たゞ天然自然に年を取つたつて、あゝなるもんぢやない。丸味とか、温味《あたゝかみ》とか、優味《やさしみ》とか云ふものは藥にしたくつても、探し出せない。まあ一口に云ふと獰猛《だうまう》だ。不思議にも此の獰猛《だうまう》な相《さう》が一列一體の共有性になつて居ると見えて、圍炉裏《ゐろり》の傍《はた》の黒いものが等しく自分の方を向くと、またゝく間《ま》に獰猛《だうまう》な顔が十四五揃つた。向ふの圍炉裏《ゐろり》を取捲《とりま》いてる連中も同じ顔に違ひない。さつき坂を上がつてくるとき、長屋の窓から自分を見下《みおろ》してゐた顔も全く是である。して見ると組々の長屋に住んでゐる總勢一萬人の顔は悉《こと／”＼》く獰猛なんだらう。自分は全く退避《ひる》んだ。

　此の時婆さんが後《うしろ》を振り返つて、

　「此方《こつち》へ御出でなさい」

と、もどかしさうに云ふから、度胸を据ゑて、獰猛の方へ近づいて行つた。漸く圍炉裏《ゐろり》の傍《はた》迄來ると、婆さんが、今度は、

　「まあ此處へ御坐んなさい」

と差しづをしたが、唯《たゞ》好加減《いゝかげん》な所へ坐れと云ふ丈《だけ》で、別に設けの席も何もないんだから、自分は黒い塊《かたま》りを避《さ》けて、たつた一人疊の上へ坐つた。此の間獰猛な眼は、始終自分に喰つ附いてゐる。遠慮も何もありやしない。さうして誰も口を利くものがない。取附端《とりつきは》を見出《みいだ》す迄は、團體の中へ交り込む譯にも行かず、ぽつねんと獨り坊ツちで離れてゐるのは、獰猛の目標《めじるし》となる許《ばかり》だし、大いに困つた。婆さんは、自分を紹介する段ぢやない、器械的に「此處へ坐れ」と云つたなり、ちよつ切り結びの尻を振り立てゝ階子段《はしごだん》を降りて行つて仕舞つた。廣い寄席《よせ》の眞中にたつた一人取り殘されて、樂屋の出方《でかた》一同から、冷かされてる樣なものだ、手持無沙汰は無論である。殊更《ことさら》今の自分に取つては心細い。のみならず袷一枚で甚だ寒い。寒いのは、此の五月の空に、かん／＼炭を燒《た》いて獰猛共が圍炉裏へあたつてるんでも分る。自分は仕方がないからてれ〔二字傍点〕隱《かく》しに襯衣《しやつ》の釦《ぼたん》をはづして腋の下へ手を入れたり、膝を立てゝ、足の親指を抓《つね》つて見たり、或は腿《もゝ》の所を兩手で揉んで見たり、色々遣つてゐた。かう云ふ時に、落付いた顔をして――顔ばかりぢや不可《いけ》ない、心《しん》から落ち付いて、平氣で坐つてる修業をして置かないと、大きな損だ。然し、十九や、そこいらでは到底｜覺束《おぼつか》ない藝だから、自分は已《やむ》を得ず。前記の通り色々馬鹿な眞似をしてゐると、突然、

　「おい」

と呼んだものがある。自分は此の時丁度下を向いて鳴海絞《なるみしぼり》の兵兒帶《へこおび》を締め直してゐたが、此の聲を聞くや否や、電氣仕掛の顔の樣に、首筋が急に釣つた。見ると先《さつ》きの顔揃《かほぞろひ》で、眼がみんな此方《こつち》を向いて、光つてる。「おい」と云ふ聲は、どの顔から出たものか分らないが、どの顔から出たにしても大した變りはない。どの顔も獰猛で、よく見ると其の獰猛のうちに、輕侮《あなどり》と、嘲弄《あざけり》と、好奇の念が判然と彫り附けてあつたのは、首を上げる途端に發明した事實で、發明するや否や、非常に不愉快に感じた事實である。自分は仕方がないから、首を上げた儘、「おい」の聲がもう一遍出るのを待つてゐた。此の間が約何秒かゝつたか知らないが、兎に角豫期の?態で一定の姿勢に居つたものらしい。すると、いきなり、

　「やに澄《す》ますねえ」

と云つたものがある。此の聲はさつきの「おい」よりも少し皺枯《しやが》れてゐたから、大方別人だらうと鑑定した。然し返答をするべき性質《たち》の言葉でないから――字で書くと普通のねえ〔二字傍点〕の樣に見えるが、實はなよ〔二字傍点〕の命令を倶利加羅流《くりからりう》に崩したんだから、甚だ下等である。――それで矢つ張り黙つてた。たゞ内心では大いに驚いた。自分が此處へ來て言葉を交したものは原さんと婆さん丈《だ》けであるが、婆さんは女だから別として、原さんは思つたよりも叮嚀であつた。所が原さんは飯場頭《はんばがしら》である。頭《かしら》ですら是れだから、平《ひら》の坑夫は無論さう野卑《ぞんざい》ぢやあるまいと思ひ込んでゐた。だから、此の惡口《あくたい》が藪から棒に飛んで來た時には、こいつはと退避《ひる》む前に、まづおやつと毒氣を拔かれた。此處で一層《いつそ》の事｜毒突返《どくづきかへ》したなら、袋叩きに逢ふか、又は平等の交際が出來るか、どつちか早く片が附いたかも知れないが、自分は何にも口答へをしなかつた。もと／＼東京生れだから、此の際何とか受ける位は心得てゐたんだらう。それにも拘はらず、兄《あにい》に類似した言語は無論、尋常の竹箆返《しつぺいがへ》しさへ控へたのは、――相手にならないと先方《さき》を輕蔑した爲だらうか――或は怖《こは》くつて何とも云ふ度胸がなかつたんだらうか。自分は前の方だと云ひたい。然し事實はどうも後《あと》の方らしい。兎も角も兩方｜交《まじ》つてたと云ふのが一番｜穩《おだやか》の樣に思はれる。世の中には輕蔑しながらも怖《こは》いものが澤山《いくら》もある。矛盾にやならない。

　それは何方《どつち》にしたつて構はないが、自分が此の惡口《あくたい》を聞いたなり、大人《おとな》しく聞き流す料簡と見て取つた坑夫共は、面白さうにどつと笑つた。此方《こつち》が大人《おと》なしければ大人《おと》なしい程、此の笑は高く響いたに違ない。銅山《やま》を出れば、世間が相手にして呉れない返報に、たま／＼普通の人間が銅山《やま》の中へ迷ひ込んで來たのを、是《これ》幸《さいは》ひと嘲弄するのである。自分から云へば、此の坑夫共が社會に對する恨みを、吾身一人で引き受けた譯になる。銅山《やま》へ這入る迄は、自分こそ社會に立てない身體だと思ひ詰めてゐた。そこで飯場《はんば》へ上《あが》つて見ると、自分の樣な人間は仲間にしてやらないと云はん許《ばか》りの取扱ひである。自分は普通の社會と坑夫の社會の間に立つて、立派に板挾みとなつた。だから此の十四五人の笑ひ聲が、ほてる程自分の顔の正面に起つた時は、悲しいと云ふよりは、恥づかしいと云ふよりは、手持無沙汰と云ふよりは、情《なさけ》ない程不人情な奴が揃つてると思つた。無�ﾍ育は始めから知れてゐる。�ﾍ育がなければ豫期出來ない程の無理な注文はしない積《つもり》だが、なんぼ坑夫だつて、親の胎内から持つて生れた儘の、人間らしい所はあるだらう位に心得てゐたんだから、此の寸法に合はない笑聲を聞くや否や、畜生奴《ちくしやうめ》と思つた。俗語に云ふ怒《おこ》つた時の畜生奴ぢやない。人間と受取れない意味の畜生奴である。今では經驗の結果、人間と畜生の距離が大分《だいぶん》詰つてるから、此の位の事をと、鈍い神經の方で相手にしないかも知れないが、何しろ十九年しか、使つてゐない新しい柔かい頭へ此のわる笑がじんと來たんだから、切《せつ》なかつた。自分ながら思ひ出す度に、まことに痛はしい樣な、いぢらしい樣な、其の時の神經系統を其の儘眞綿に包《くる》んで大事に仕舞つて置いてやりたい樣な氣がする。

　此惡意に充ちた笑が漸く下火になると、

　「御前《おめえ》は何處だ」

と云ふ質問が出た。此の質問を掛けたものは、自分から一番近い所に坐つてゐたから、聲の出所《でどころ》は判然《はつきり》分つた。淺黄色の手拭染みた三尺帶を腰骨の上へ引き廻して、後向《うしろむ》きの胡坐《あぐら》の儘、斜《はす》に顔｜丈《だけ》此方《こつち》へ見せてゐる。其片眼は生れ附きの赤んべんで、御負《おまけ》に結膜《けつまく》が一面に充血してゐる。

　「僕は東京です」

と答へたら、赤んべんが、肉のない頬を凹《へこ》まして、愚弄の笑ひを洩らしながら、三軒置いて隣りの坑夫を一寸《ちよいと》顎でしやくつた。すると此の相圖を受けた、願人坊主《ぐわんにんばうず》が、入れ替つてこんな事を云つた、

　「僕だなんて――書生《しよせ》ツ坊《ぼ》だな。大方女郎買でも仕損《しくじ》つたんだらう。太え奴だ。全體《ぜんてえ》此頃の書生《しよせ》ツ坊《ぼ》の風儀が惡くつて不可《いけ》ねえ。そんな奴に辛抱が出來るもんか、早く歸《けえ》れ。そんな瘠つこけた腕で出來る稼業ぢやねえ」

　自分はだまつてゐた。あんまり黙つてゐたので張合《はりあひ》が拔けた所爲《せゐ》か、わい／＼冷かすのが少し靜まつた。其の時一人の坑夫――是れは尋常な顔である。世間へ出しても普通に通用する位に眼鼻立が調《とゝの》つてゐた。自分は、冷かされながら、眼を上げて、黒い塊《かたまり》を見る度に、人數《にんず》やら、着物やら、獰猛の度合やらを段々腹に疊み込んでゐたが、最初は總體の顔が總體に骨と眼で出來た上に獣慾の脂《あぶら》が浮いてゐる所ばかり眼に着いて、どれも、これも差別がない樣に思はれた。それが三度四度と重なるにつけて、四人五人と人相の區別が出來るに連れて、此の坑夫｜丈《だけ》が一際《ひときは》目立つて見える樣になつた。年はまだ三十にはなるまい。體格は倔強《くつきやう》である。眉毛《まみえ》と鼻の根と落ち合ふ所が、一段奧へ引つ込んで、始終鼻眼鏡で壓《お》し附けてる樣に見える。其處に疳癪が拘泥してゐさうだが、之が爲に獰猛の度は却つて減ずると云つても好い樣な特徴であつた。――此坑夫が始めて此時口を利いた。――

　「何故｜斯《こ》んな所へ來た。來たつて仕方がないぜ。儲《まう》かる所ぢやない。こゝに居る奴あ、みんな食詰《くひつめ》もの許《ばか》りだ。早く歸るが好からう。歸つて新聞配達でもするがいゝ。おれも元は是で學校へも通《かよ》つたもんだが、放蕩の結果とう／＼、シキ〔二字傍点〕の飯を食ふ樣になつちまつた。おれの樣になつたが最後もう駄目だ。歸らうたつて、歸れなくなる。だから今のうちに東京へ歸つて新聞配達をしろ。書生はとても一月《ひとつき》と辛抱は出來ないよ。惡い事は云はねえから歸れ。分つたらう」

　是れは比較的眞面目な忠告であつた。此の忠告の最中は、さすがの獰惡派《だうあくは》も大人《おとな》しく交《まぜ》つ返しもせずに聞いてゐた。其の惰性で忠告が濟んだあとも、一時は靜であつた。尤も是れは此の坑夫に多少の勢力があるんで、其の勢力に對しての遠慮かも知れないと勘づいた。其の時自分は何となく心の底で愉快だつた。此の坑夫だつて、外《ほか》の坑夫だつて、人相にこそ少しの變化はあれ、矢つ張り一つ穴でこつ／＼鑛塊《あらがね》を缺いてゐる分の事だらう。さう藝に巧拙のある筈はない。して見ると、此の男の勢力は全く字が讀めて、物が解つて、分別があつて――一口に云ふと�ﾍ育を受けた所爲《せゐ》に違ない。自分は今こんなに馬鹿にされてゐる。殆ど最下等の勞働者にさへ齒《よはひ》されない人非人《にんぴにん》として、多勢《たぜい》の侮辱を受けてゐる。然し一度此の社會に首を突込《つつこ》んで、獰猛組の一人となりすましたら、一月二月と暮して行くうちには、此の男位の勢力を得る事は出來るかも知れない。出來るだらう。出來るに極つてると迄感じた。だから、いくら誰が何と云つても歸るまい、屹度《きつと》此の社會で一人前以上になつて成功して見せる。――隨分思ひ切つて詰らない考へを起したもんだが、今から見ても、多少論理には叶《かな》つてゐる樣だ。そこで此の坑夫の忠告には謹んで耳を傾《かたぶ》けてゐたが、別段先方の注文通りに、では歸りませうと云ふ返事もしなかつた。そのうち一旦靜まりかけた愚弄の舌が又動き出した。

　「居る氣なら置いてやるが、此處にや、夫々《それ／＼》掟《おきて》があるから呑み込んで置かなくつちや迷惑だぜ」

と一人が云ふから、

　「どんな掟《おきて》ですか」

と聞くと、

　「馬鹿だなあ。親分もあり兄弟分《きやうでえぶん》もあるぢやねえか」

と、大變な大きな聲を出した。

　「親分たどんなもんですか」

と質問して見た。實はあまり我味々々《がみ／＼》云ふから、黙つて居《ゐ》樣《やう》かしらんとも思つたけれども、萬一掟を破つて、あとで苛《ひど》い目に逢ふのが怖《こは》いから、まあ聞いて見た。すると他《ほか》の坑夫が、すぐ、返事をした。

　「仕樣のねえ奴だな。親分を知らねえのか。親分も兄弟分《きやうでえぶん》も知らねえで、坑夫にならうなんて料簡｜違《ちげ》えだ。早く歸《けえ》れ」

　「親分も兄弟分《きやうでえぶん》も居るから、だから、儲けやうたつて、さう旨かあ行かねえ。歸《けえ》れ」

　「儲かるもんか歸《けえ》るが好い」

　「歸《けえ》れ」

　「歸《けえ》れ」

　頻りに歸《かへ》れと云ふ。しかも實際自分の爲を思つて歸れと云ふんぢやない。仲間入をさせて遣らないから出て行けと云ふんである。嘸《さぞ》儲けたいだらうが、さうは問屋で卸さない、こちとら丈《だけ》で儲ける仕事なんだから、諦めて早く歸れと云ふんである。從つて何處へ歸れとも云はない。川の底でも、穴の中でも構はない勝手な所へ歸れと云ふんである。自分は黙つてゐた。

　此の形勢が此の儘で續いたら、どんな事にたち至つたか思ひ遣られる。敵は此の圍炉裏の周圍《まはり》許《ばかり》にや居ない。さつき一寸話した通り、向ふの方にも大きな輪になつて、黒く塊《かたま》つてゐる。こつちの團體｜丈《だけ》ですら持ち扱つてゐる所へ、彼方《あつち》の群勢《ぐんぜい》が加勢したら大事《だいじ》である。自分は愚弄されながらも、時々横目を使つて、未來の敵――かうなると、どれもこれも人間でさへあれば、敵と認定して仕舞ふ。――遠方には居るが、そろ／＼押し寄せて來さうな未來の敵を、見てゐた。斯樣《かやう》に自分の心が、左右前後と離《はな》れ離《ばな》れになつて、しかも獨立ができないものだから、物の後《あと》を追掛《おつか》け、追ん廻はしてゐる程｜辛《つら》い事はない。なんでも敵に逢つたら敵を呑むに限る。呑む事が出來なければ呑まれて仕舞ふが好い。もし兩方共困難ならぷつりと縁を截《き》つて、獨立自尊の態度で敵を見てゐるがいゝ。敵と融合する事も出來ず、敵の勢力範圍外に心を持つてく事も出來ず、しかも敵の尻を嗅がなければならないとなると、甚だしき損となる。從つて尤も下等である。自分はかう云ふ場合にたび／＼遭遇して、色々な活路を研究して見たが、研究した程に、心が云ふ事を聞かない。だから茲《こゝ》に申す三策は、みんな釋迦の空説法《からぜつぽふ》である。もし講釋をしないでも知れ切つてる陳説《ちんせつ》なら、猶更《なほさら》言ふ丈《だけ》が野暮《やぼ》になる。どうも正式の學問をしないと、かう云ふ所へ來て、取捨の區別が附かなくつて困る。

　自分が四方八方に氣を配つて、自分の存在を最高度に縮小して恐れ入つてゐると、

　「御膳《ごぜん》を御上がんなさい」

と云ふ婆さんの聲が聞えた。何時《いつ》の間《ま》に婆さんが上がつて來たんだか、自分の魂が鳩の卵の樣に小さくなつて、萎縮した眞最中だつたから、御膳《ごぜん》の聲が耳に入る迄は丸《まる》で氣が附かなかつた。見ると剥げた御膳《おぜん》の上に縁《ふち》の缺けた茶碗が伏せてある。小《ち》さい飯櫃も乘つてゐる。箸は赤と黄に塗り分けてあるが、黄色い方の漆が半分程落ちて木地《きぢ》が全く出てゐる。御菜には糸蒟蒻《いとごんにやく》が一皿附いてゐた。自分は伏目になつて此御膳の光景を見渡した時、大いに食ひたくなつた。實は今朝から水一滴も口へ入れてゐない。胃は全く空《から》である。もし空《から》でなければ、昨日《きのふ》食つた揚饅頭と薩摩芋がある許《ばか》りである。飯の氣《け》を離れる事約二晝夜になるんだから、如何に魂が萎縮してゐる此の際でも、御櫃《おはち》の影を見るや否や食慾は猛然として咽喉元《のどもと》迄詰め寄せて來た。そこで、冷かしも、交《ま》ぜつ返しも氣に掛ける暇《いとま》なく、見榮《みえ》も糸瓜《へちま》も棒に振つて、いきなり、お櫃《はち》からしやくつて茶碗へ一杯盛り上げた。其の手數《てかず》さへ面倒な位待ち遠しい程であつたが、例の剥箸《はげばし》を取り上げて、茶碗から飯をすくひ出さうとする段になつて――おやと驚いた。些《ちつ》ともすくへない。指の股に力を入れて箸をうんと底迄突つ込んで、今度こそはと、持上げて見たが、矢張《やつぱ》り駄目だ。飯はつる／＼と箸の先から落ちて、決して茶碗の縁《ふち》を離れ樣としない。十九年來未だ曾てない經驗だから、あまりの不思議に、此の仕損《しくじり》を二三度繰り返して見た上で、はてなと箸を休めて考へた。恐らく狐に撮《つま》まれた樣な風であつたんだらう。見てゐた坑夫共は又ぞろ、どつと笑ひ出した。自分は此の聲を聞くや否や、いきなり茶碗を口へ附けた。さうして光澤《つや》のない飯を一口掻き込んだ。すると笑ひ聲よりも、坑夫よりも、空腹よりも、舌三寸の上｜丈《だけ》へ魂が宿つたと思ふ位に變な味がした。飯とは無論受取れない。全く壁土である。此の壁土が唾液《つばき》に和《と》けて、口一杯に廣がつた時の心持は云ふに云はれなかつた。

　「面《つら》あ見ろ。いゝ樣《ざま》だ」

と一人が云ふと、

　「御祭日《おさいじつ》でもねえのに、銀米《ぎんまい》の氣で居やがらあ。だから歸《けえ》れつて�ﾍ《おせ》えてやるのに」

と他《ほか》のものが云ふ。

　「南京米《ナンキンめえ》の味も知らねえで、坑夫にならうなんて、頭つから料簡｜違《ちげえ》だ」

と又一人が云つた。

　自分は嘲弄のうちに、術《じゆつ》なく此の南京米《ナンキンまい》を呑み下した。一口で已《や》め樣《やう》と思つたが、折角盛り込んだものを、食つて仕舞はないと、又冷かされるから、熊の膽《ゐ》を呑む氣になつて、茶碗に盛つた丈《だけ》は奇麗に腹の中へ入れた。全く食慾の爲ではない。昨日《きのふ》食つた揚饅頭や、ふかし芋の方が、どの位御馳走であつたか知れない。自分が南京米《ナンキンまい》の味を知つたのは、生れて是が始てゞある。

　茶碗に盛つた丈《だけ》は、かう云ふ譯で、どうにか、かうにか片附けたが、二杯目は我慢にも盛《よそ》ふ氣にならなかつたから、糸蒟蒻《いとごんにやく》丈《だけ》を食つて箸を置く事にした。此の位辛抱して無理に厭なものを口に入れてさへ、箸を置くや否や散々に嘲弄された。其の時は隨分つらい事と思つたが、其後《そのご》日に三度｜宛《づゝ》は、必ず此の南京米《ナンキンまい》に對《むか》はなくつちやならない身分となつたんで、流石《さすが》の壁土も慣れるに連れて、所謂《いはゆる》銀米と同じく、人類の食ひ得べきもの、否食つて然るべき滋味と心得る樣になつてからは、剥膳《はげぜん》に向つて逡巡《しりごみ》した當時が却つて耻づかしい氣持になつた。坑夫共の冷かしたのも萬更《まんざら》無理ではない。今となると、こんな無經驗な貴族的の坑夫が一杯の南京米《ナンキンまい》を苦に病《や》む所に廻《めぐ》り合はせて、現?を目撃したら、ことに因ると、自分でさへ、笑ふかも知れない。冷かさない迄も、善意に笑ふ丈《だけ》の價値《ねうち》は十分あると思ふ。人は色々に變化するもんだ。

　南京米《ナンキンまい》の事｜許《ばか》り書いて濟まないから、もう已《や》めにするが、此の時自分の失敗《しくじり》に對する冷評は、自然の儘にして抛《はふ》つて置いたなら、何處まで續いたか分らない。所へ急に金盥《かなだらひ》を叩き合せる樣な音がした。一度ではない。二度三度と聞いてゐるうちに、ぢや／＼ん、ぢやららんと時を句切《くぎ》つて、拍子を取りながら叩き立てゝ來る。すると今度は木唄《きやり》の聲が聞え出した。純粹の木唄《きやり》では無論ないが、自分の知つてる限りでは、まあ木唄《きやり》と云ふのが一番近い樣に思はれる。此時冷評は一時に已《や》んだ。ひつそりと靜まり返る山の空氣に、ぢや／＼ん、ぢやららんが鳴り渡る間を、一種異樣に唄ひ囃《はや》して何物か近づいて來た。

　「ジヤンボー〔五字傍点〕だ」

と一人が膝頭を打たない許《ばかり》に、大きな聲を出すと、

　「ジヤンボー〔五字傍点〕だ。ジヤンボー〔五字傍点〕だ」

と大勢口々に云ひながら、黒い塊《かたまり》がばら／＼になつて、窓の方へ立つて行つた。自分は何がジヤンボー〔五字傍点〕なんだか分らないが、みんなの注意が、自分を離れると同時に、氣分が急に暢達《のんびり》した所爲《せゐ》か、自分もジヤンボー〔五字傍点〕を見たいと云ふ餘裕が出來て、餘裕につれて元氣も出來た。つく／”＼考へるに、人間の心は水の樣なもので、押されると引き、引くと押して行く。始終手を出さない相撲《すまふ》をとつて暮らしてゐると云つても差支なからう。夫《そ》れで、みんなが立ち盡したあとから、自分も立つた。さうして矢つ張り窓の方へ歩いて行つた。黒い頭で下は塞がつてゐる上から脊伸《せえのび》をして見下《みおろ》すと、斜《はす》に曲つてる向《むかふ》の石垣の角から、紺の筒袖を着た男が二人《ふたあり》出た。あとから又二人《ふたあり》出た。是れはいづれも金盥を壓《お》しつぶして薄つ片《ぺら》にした樣なものを兩手に一枚｜宛《づゝ》持つて居る。はゝあ、あれを叩くんだと思ふ拍子に、二人は兩手をぢや／＼んと打ち合はした。其の不調和な音が切つ立つた石垣に突き當つて、後《うしろ》の禿山に響いて、まだ已《や》まないうちに、ぢやららんと又一組が後《あと》から鳴らし立てゝ現れた。たと思ふと又現れる。今度は金盥を持つてゐない。其の代り木唄《きやり》――さつきは木唄《きやり》と云つた。然し此の時、彼等の揚げた聲は、木唄《きやり》と云はんよりは寧ろ浪花節で咄喊《とつかん》する樣な稀代《きたい》な調子であつた。

　「おい金公《きんこう》は居ねぇか」

と、黒い頭の一つが怒鳴つた。後向《うしろむき》だから顔は見えない。すると、

　「うん金公《きんこう》に見せて遣れ」

とすぐ應じた者がある。此の言葉が終るか、終らない間《ま》に、五つ六つの黒い頭がずらりと此方《こつち》を向いた。自分は又何か云はれる事と覺悟して仕方なしに、今迄の態度で立つてゐると、不思議にも振り返つた眼は自分の方に着いて居ない。廣い部屋の片隅に遠く走つた樣子だから、何物がゐる事かと、自分も後《あと》を追つ懸けて、首を捻ぢ向けると、――寐てゐる。薄い布團をかけて一人寢てゐる。

　「おい金州《きんしう》」

と一人が大きな聲を出したが、寐て居るものは返事をしない。

　「おい金《きん》しう起きろやい」

と怒鳴《どなり》つける樣に呼んだが、まだ何とも返事がないので、三人｜許《ばかり》窓を離れてとう／＼迎に出掛けた。被つてる布團を手荒にめくると、細帶をした人間が見えた。同時に、

　「起きろつてば、起きろやい。好いものを見せてやるから」

と云ふ聲も聞えた。やがて横になつてた男が、二人の肩に支へられて立ち上つた。さうして此方《こつち》を向いた。其の時、其の刹那、其の顔を一目見た許《ばか》りで自分は思はず慄《ぞつ》とした。是れは只保養に寝てゐた人ではない。全くの病人である。しかも自分｜丈《だけ》で起居《たちゐ》のできない樣な重體の病人である。年は五十に近い。髯は幾日も剃《そ》らないと見えてぼう／＼と延びた儘である。如何《いか》な獰猛も、かう憔悴《やつれ》ると憐れになる。憐れになり過ぎて、逆に又｜怖《こは》くなる。自分が此の顔を一目見た時の感じは憐れの極全く怖かつた。

　病人は二人に支へられながら、釣られる樣に、利かない足を運ばして、窓の方へ近寄つてくる。此の有樣を見てゐた、窓際の多人數《たにんず》は、さも面白さうに囃《はや》し立てる。

　「よう、金《きん》しう早く來いよ。今ジヤンボー〔五字傍点〕が通る所だ。早く來て見ろよ」

　「己《おら》あジヤンボー〔五字傍点〕なんか見たかねえよ」

と病人は、無體《むたい》に引き摺られながら、氣のない聲で返事をするうちに、見たいも、見たくないもありやしない。忽ち窓の障子の角迄｜壓《お》し附けられて仕舞つた。

　ぢや／＼ん、ぢやららんとジヤンボー〔五字傍点〕は知らん顔で石垣の所へ現れてくる。行列はまだ盡きないのかと、又｜脊延《せいの》びをして見下《みおろ》した時、自分は再び慄《ぞつ》とした。金盥と金盥の間に、四角な早桶《はやをけ》が挾まつて、山道を宙に釣られて行く。上は白金巾《しろかなきん》で包んで、細い杉丸太を通した兩端《りやうたん》を、水でも一荷《いつか》頼まれた樣に、容赦なく擔いでゐる。其擔いでゐるもの迄も、此方《こつち》から見ると、例の唄を陽氣にうたつてる樣に思はれる。――自分は此の時始めてジヤンボー〔五字傍点〕の意味を理解した。生涯｜如何《いか》なる事があつても、決して忘れられない程痛切に理解した。ジヤンボー〔五字傍点〕は葬式である。坑夫、シチウ〔三字傍点〕、掘子《ほりこ》、山市《やまいち》に限つて執行される、又執行されなければならない一種の葬式である。御經の文句を浪花節に唄つて、金盥の潰れる程に音樂を入れて、一荷《いつか》の水と同じ樣に棺桶をぶらつかせて――最後に、半死半生の病人を、無理矢理に引き摺り起して、否《いや》と云ふのを抑へ附ける許《ばか》りにして迄見せてやる葬式である。まことに無邪氣の極で、又冷刻の極である。

　「金《きん》しう、どうだ、見えたか、面白いだらう」

と云つてる。病人は、

　「うん、見えたから、床《とこ》ん所迄連れてつて、寐かして呉れよ。後生《ごしやう》だから」

と頼んでゐる。さつきの二人は再び病人を中へ挾んで、

　「よつしよい／＼」

と云ひながら、刻《きざ》み足に、布團の敷いてある所迄連れて行つた。

　此の時曇つた空が、粉《こ》になつて落ちて來たかと思はれる樣な雨が降り出した。ジヤンボー〔五字傍点〕は此の雨の中を敲き立てゝて町の方へ下《くだ》つて行く。大勢は

　「又雨だ」

と云ひながら、窓を立て切つて、各々《めい／＼》圍炉裏の傍《はた》へ歸る。此の混雜紛《どさくさまぎれ》に自分も何時《いつ》の間《ま》にか獰猛の仲間入りをして、火の近所迄寄る事が出來た。是れは偶然の結果でもあり、又故意の所作《しよさ》でもあつた。と云ふものは火の氣がなくつては甚だ寒い。袷一枚では迚《とて》も凌《しの》ぎ兼ねる程の山の中だ。それに雨さへ降り出した。雨と云へば雨、霧と云へば霧と云はれる位な微《かす》かな粒であるが、四方の禿山を罩《こ》め盡した上に、筒拔《つゝぬ》けの空を塗り潰して、しとゞと落ちて來るんだから、家《うち》の中に坐つて居てさへ、糠《ぬか》よりも小さい濕り氣が、毛穴から腹の底へ沁み込む樣な心持である。火の氣がなくつては到底遣り切れるものぢやない。

　自分が好い加減な所へ席を占めて、聊《いさゝ》かながら圍炉裏のほとぼりを顔に受けてゐると、今度は存外にも度外視されて、思つたよりも調戯《からか》はれずに濟んだ。是れは此方《こつち》から進んで獰猛の仲間入りをした爲、向ふでも普通の獰猛として取扱ふべき奴だと勘辯してくれたのか、それとも先刻《さつき》のジヤンボー〔五字傍点〕で不意に氣が變つた成行《なりゆき》として、自分の事をしばらく忘れてくれたのか、又は冷笑《ひやかし》の種が盡きたか、或は毒突《どくづ》くのに飽きたんだか、――何しろ自分が席を改めてから、自分の氣は比較的樂になつた。さうして圍炉裏の傍《はた》の話は矢つ張りジヤンボー〔五字傍点〕で持ち切つてゐた。色々な聲がこんな事を云ふ。――

　「あのジヤンボー〔五字傍点〕は何處から出たんだらう」

　「何處から出たつて御《お》ジヤンボー〔五字傍点〕だ」

　「ことによると黒市組《くろいちぐみ》かも知れねえ。見當がさうだ」

　「全體《ぜんてえ》ジヤンボー〔五字傍点〕になつたら何處へ行くもんだらう」

　「御寺よ。極つてらあ」

　「馬鹿にするねえ。御寺の先を聞いてるんだあな」

　「さうよ、そりや寺《てら》限《ぎり》で留《とま》りつ子《こ》ねえ譯だ。何處《どつか》へ行くに違《ちげ》えねえ」

　「だからよ。其行く先はどんな所《とこ》だらうてえんだ。矢張《やつぱし》こんな所《ところ》かしら」

　「そりや、人間の魂の行く所だもの、大抵は似た所に違《ちげ》えねえ」

　「己《おれ》もさう思つてる。行くとなりや、どうも外《ほか》へ行く譯がねえからな」

　「いくら地獄だつて極樂だつて、矢つ張り飯は食ふんだらう」

　「女もゐるだらうか」

　「女のゐねえ國が世界にあるもんか」

　ざつと、こんな談話だから、聞いてゐると滅茶々々である。それで始めのうちは冗談だと思つた。笑つても差支ないものと心得て、口の端《はた》をむづゝかせながら、一寸樣子を見渡した位であつた。所が笑ひたいのは自分｜丈《だけ》で、圍炉裏を取り捲いてゐる顔はいづれも、彫りつ附た樣に堅くなつてゐる。彼等は眞劔の眞面目で未來と云ふ大問題を論じてゐたんである。實に嘘としか受け取れない程の熱心が、各々《めい／＼》の眉の間に見えた。自分は此の時、此の有樣を一瞥《いちべつ》して、さつきの笑ひたかつた念慮を忽ちのうちに一變した。こんな向ふ見ずの無鐵砲な人間が――カンテラ〔四字傍点〕を提《さ》げて、シキ〔二字傍点〕の中へ下りれば、もう二度と日の目を見ない料簡でゐる人間が――人間の器械で、器械の獣《けだもの》とも云ふべき此の獰猛組が、かほどに未來の事を氣にしてゐ樣《やう》とは、まことに豫想外であつた。して見ると、世間には、未來の保證をして呉れる宗�ﾍといふものが入用《いりよう》の筈だ。實際自分が眼を上げて、圍炉裏のぐるりに胡坐《あぐら》をかいて並んだ連中を見渡した時には、遠慮に畏縮が手傳つて、七分方《しちぶがた》でき上つた笑ひを急に崩したと云ふ自覺は無論なかつた。只｜寄席《よせ》を聞いてる積《つもり》で眼を開けて見たら鼻の先に毘沙門樣《びしやもんさま》が大勢居て、是はと威儀を正さなければならない氣持であつた。一口に云ふと、自分は此の時始めて、眞面目な宗�ﾍ心の種を見て、半獣半人の前にも嚴格の念を起したんだらう。其の癖自分は未だに宗�ﾍ心と云ふものを持つてゐない。

　此時さつきの病人が、向ふの隅でううんと唸り出した。其唸り聲には無論特別の意味はない。單に普通の病人の唸り聲に過ぎんのだが、ジヤンボー〔五字傍点〕の未來に屈託してゐる連中には、一種のあやしい響の樣に思はれたんだらう。みんな眼と眼を見合した。

　「金公《きんこう》苦しいのか」

と一人が大きな聲で聞いた。病人は、たゞ、

　「ううん」

と云ふ。唸つてるのか、返事をしてゐるのか判然しない。すると又一人の坑夫が、

　「そんなに嚊《かゝあ》の事ばかり氣にするなよ。どうせ取られちまつたんだ。今更唸つたつてどうなるもんか。質に入れた嚊《かゝあ》だ。受出さなけりや流れるなあ當り前《めえ》だ」

と、矢つ張り圍炉裏の傍《そば》へ坐つた儘、大きな聲で慰めてゐる。慰めてるんだか、惡口《あくたい》を吐《つ》いてゐるんだか疑はしい位である。坑夫から云ふと、何方《どつち》も同じ事なんだらう。病人はたゞううんと挨拶――挨拶にもならない聲を微《かす》かに出す許《ばか》りであつた。そこで大勢は懸合《かけあひ》にならない慰藉を已《や》めて、圍炉裏の周圍《まはり》丈《だけ》で舌の用を辯じてゐた。然し話題はまだ金さんを離れない。

　「なあに、病氣せへしなけりや、金公だつて嚊《かゝあ》を取られずに濟むんだあな。元を云やあ、矢つ張り自分が惡いからよ」

と一人が、金さんの病氣をさも罪惡の樣に評するや否や、

　「全くだ。自分が病氣をして金を借りて、其の金が返せねえから、嚊《かゝあ》を抵當に取られちまつたんだから、正直の所｜文句《もんく》の附け樣《やう》がねえ」

と賛成したものがある。

　「若干《いくら》で抵當に入れたんだ」

と聞くと、向側《むかふがは》から、

　「五兩だ」

と誰だか、簡潔に�ﾍへた。

　「それで市《いち》の野郎が長屋へ下がつて、金《きん》しうと入れ代つた譯か。ハヽヽヽ」

　自分は圍炉裏の側《そば》に坐つてるのが苦痛であつた。脊中の方がぞく／＼する程寒いのに、腋の下から汗が出る。

　「金しうも早く癒つて、嚊《かゝあ》を受け出したら好からう」

　「又、市《いち》と入れ代りか。世話あねえ」

　「夫《それ》よりか、うんと稼いで、もつと價《ね》に踏める抵當でも取つた方が、氣が利いてらあ」

　「違《ちげえ》ねえ」

と一人が云ひ出すのを相圖に、みんなどつと笑つた。自分は此笑の中に包まれながら、どうしても笑ひ切れずに下を向いて仕舞つた。見ると膝を並べて畏まつてゐた。馬鹿らしいと氣が附いて、胡坐《あぐら》に組み直して見た。然し腹の中は決《けつ》して胡坐《あぐら》をかく程悠長ではなかつた。

　其の内段々日暮に近くなつて來る。時間が移る許《ばか》りぢやない、天氣の具合と、山が圍《かこ》んでる所爲《せゐ》で早く暗くなる。黙つて聞いてゐると、雨垂の音もしない樣だから、ことによると、雨はもう歇《や》んだのかも知れない。然し此の暗さでは、矢つ張り降つてると云ふ方が當るだらう。窓は固《もとよ》り締め切つてある。戸外《そと》の模樣は分り樣がない。然し暗くつて濕《しめ》ツぽい空氣が障子の紙を透《こ》して、一面に圍炉裏の周圍《まはり》を襲つて來た。並んでゐる十四五人の顔が次第々々に漠然《ぼんやり》する。同時に圍炉裏の眞中《まんなか》に山の樣にくべた炭の色が、ほてり返つて、少し宛《づゝ》赤く浮き出す樣に思はれた。丸《まる》で、自分は坑《あな》の底へ滅入込《めいりこ》んで行く、火は之に反して坑《あな》から段々｜競《せ》り上がつて來る、――ざつと、そんな氣分がした。時にぱつと部屋｜中《ぢゆう》が明るくなつた。見ると電氣燈が點《つ》いた。

　「飯でも食ふべえ」

と一人が云ふと、みんな忘れものを思ひ出した樣に、

　「飯を食つて、又交替か」

　「今日は少し寒いぞ」

　「雨はまだ降つてるのか」

　「どうだか、表へ出て仰向《あふぬ》いて見な」

抔《など》と、口々に罵り乍ら、立つて、階下段《はしごだん》を下りて行つた。自分は廣い部屋にたつた一人殘された。自分の外《ほか》にゐるものは病人の金《きん》さん許《ばか》りである。此の金さんが矢つ張り微《かすか》な聲を出して唸つてる樣だ。自分は圍炉裏の前に手を翳《かざ》して胡坐《あぐら》を組みながら、横を向いて、金さんの方を見た。頭は出てゐない。足も引つ込ましてゐる。金さんの身體は一枚の布團の中で、小さく平つたくなつてゐる。氣の毒な程小さく平つたく見えた。其の内唸り聲も、どうにか、かうにか已《や》んだ樣だから、又顔の向《むき》を易へて、圍炉裏の中を見詰めた。所がなんだか金さんが氣に掛かつて堪らないから、又横を向いた。すると金さんは矢つ張り一枚の布團の中で、小さく平つたくなつてゐる。さうして、森《しん》としてゐる。生きてるのか、死んでるのか、たゞ森《しん》としてゐる。唸られるのも、あんまり氣味の好いもんぢやないが、かう靜かにしてゐられると猶《なほ》心配になる。心配の極は怖《こは》くなつて、一寸立ち懸けたが、まあ大丈夫だらう、人間はさう急に死ぬもんぢやないと、度胸を据ゑてまた尻を落ち附けた。

　所へ二三人、下からどや／＼と階下段《はしごだん》を上がつて來た。もう飯を濟ましたんだらうか、それにしては非常に早いがと、心持上がり段の方を眺めてゐると、思も寄らないものが、現れた。――黒か紺か色の判然《はつきり》しない筒服《つゝつぽう》を着てゐる。足は職人の穿《は》く樣な細い股引《もゝひき》で、色は矢張り同じ紺である。それでカンテラ〔四字傍点〕を提《さ》げてゐる。のみならず二人《ふたあり》が二人《ふたあり》とも泥だらけになつて、濡れてる。さうして、口を利かない。突つ立つた儘自分の方をぎろりと見た。丸《まる》で強盗としきあ思へない。やがて、カンテラ〔四字傍点〕を抛《はふ》り出すと、釦《ぼたん》を外《はづ》して、筒袖《つゝつぽう》を脱いだ。股引も脱いだ。壁に掛けてある廣袖を、めりやすの上から着て、尻の先に三尺帶をぐるりと回しながら、矢つ張り無言の儘、二人してずしり／＼と降りて行つた。すると又上がつて來た。今度《こんだ》のも濡れてゐる。泥だらけである。カンテラ〔四字傍点〕を抛り出す。着物を着換へる。ずしん／＼と降りて行く。と又上がつて來る。かう云ふ風に入代り、入代りして、何でも餘程來た。いづれも底の方から眼球《めだま》を光らして、一遍｜丈《だけ》は屹度《きつと》自分を見た。中には、

　「手前《てめえ》は新前《しんめえ》だな」

と云つたものもある。自分は只、

　「えゝ」

と答へて置いた。幸ひ今度はさつきの樣に無暗には冷やかされずに、まあ無難に濟んだ。上がつて來るものも、來るものも、みんな急いで降りて行くんで、調戯《からか》ふ暇がなかつたんだらう。其の代り一人に一度｜宛《づゝ》は必ず睨まれた。さうかうしてゐる内に、上がつて來るものが漸く絶えたから、自分は漸く寛容《くつろ》いだ思ひをして、圍炉裏の炭の赤くなつたのを見詰めて、色々考へ出した。勿論纒まり樣のない、且《かつ》考へれば考へる程馬鹿になる考へだが、火を見詰てゐると、炭の中にさう云ふ妄想《まうざう》がちら／＼ちら／＼燃えてくるんだから仕方がない。とう／＼自分の魂が赤い炭の中へ拔出して、火氣《くわつき》に煽られながら、無暗に踊ををどつてる樣な變な心持になつた時に、突然、

　「草臥《くたび》れたらうから、もう御休みなさい」

と云はれた。

　見ると、さつきの婆さんが、立つてゐる。矢張《やつぱり》襷掛《たすきがけ》の儘である。何時《いつ》の間《ま》に上がつて來たものか、些《ちつ》とも氣が附かなかつた。自分の魂が遠慮なく火の中を馳け廻つて、艶子《つやこ》さんになつたり、澄江《すみえ》さんになつたり、親爺《おやぢ》になつたり、金さんになつたり、――被布《ひふ》やら、廂髪《ひさしがみ》やら、赤毛布《あかげつと》やら、唸り聲やら、揚饅頭やら、華嚴《けごん》の瀧やら――幾多無數の幻影《まぼろし》が、圍炉裏の中に躍り狂つて、立ち騰《のぼ》る火の氣の裏《うち》に追ひつ追はれつ、日向《ひなた》に浮かぶ塵と思はれる迄｜夥《おびたゞ》しく出て來た最中に、はつと氣が附いたんだから、眼の前にゐる婆さんが、不思議な位變であつた。然し寐ろと云ふ注意｜丈《だけ》は明かに耳に聞えたに違ないから、自分はたゞ、

　「えゝ」

と答へた。すると婆さんは後《うし》ろの戸棚を指《さ》して、

　「布團は、あすこに這入つてるから、獨《ひとり》で出して御掛けなさい。一枚三錢づゝだ。寒いから二枚は入るでせう」

と聞くから、又

　「えゝ」

と答へたら、婆さんは、夫《それ》限《ぎり》何にも云はずに、降りて行つた。是れで、自分は寐てもいゝと云ふ許可を得たから、正式に横になつても劔突《けんつく》を食ふ恐れはあるまいと思つて、婆さんの指圖《さしづ》通り戸棚を明けて見ると、あつた。布團が澤山あつた。然しいづれも薄汚いもの許《ばか》りである。自宅《うち》で敷いてゐたのとは丸《まる》で比較にならない。自分は一番上に乘つてるのを二枚、そつと卸した。さうして、電氣燈の光で見た。地《ぢ》は淺黄《あさぎ》である。模樣は白である。其の上に垢《あか》が一面に塗り附けてあるから、六分方《ろくぶがた》色變りがして、白い所｜抔《など》は、通例なら我慢のできにくい程どろんと、化けてゐる。其の上頗る堅い。搗《つ》き立ての伸《の》し餠を、金巾《かなきん》に包んだ樣に、綿は綿でかたまつて、表布《かは》とは丸《まる》で縁故がない程の、こち／＼したものである。

　自分は此布團を疊の上へ平《ひらた》く敷いた。それから殘る一枚を平《ひらた》く掛けた。さうして、襯衣《シヤツ》丈《だけ》になつて、其の間に潜《もぐ》り込んだ。濕《しめ》つぽい中を割り込んで、兩足をうんと伸ばしたら踵《かゝと》が疊の上へ出たから、又心持引つ込ました。延ばす時も曲げる時も、不斷の樣に輕くしなやかには行かない。みしりと音がする程、關節が窮屈に硬張《こはば》つて、動きたがらない。じつとして、布團の中に膝頭を横たへてゐると、倦怠《だるい》のを通り越して重い。腿から下を切り取つて、其の代りに筋金入《すぢがねい》りの義足を附けられた樣に重い。丸《まる》で感覺のある二本の棒である。自分は冷たくつて重たい足を苦《く》に病《や》んで、頭を布團の中に突つ込んだ。せめて頭｜丈《だけ》でも暖《あつたか》にしたら、足の方でも折れ合つて呉れるだらうとの、果敢《はか》ない望みから出た窮策であつた。

　然し流石《さすが》に疲れてゐる。寒さよりも、足よりも、布團の臭ひよりも、煩悶よりも、厭世よりも――疲れてゐる。實に死ぬ方が樂《らく》な程疲れ切つてゐた。それで、横になるとすぐ――疊から足を引つ込まして、頭を布團に入れる丈《だ》けの所作《しよさ》を仕遂げたと思ふが早いか、眠《ね》て仕舞つた。ぐう／＼正體なく眠《ね》て仕舞つた。是から先《さ》きは自分の事ながら到底書けない。……

　すると、突然針で背中を刺された。夢に刺されたのか、起きてゐて、刺されたのか、感じは頗る曖昧であつた。だからそれ丈《だけ》の事ならば、針だらうが刺《とげ》だらうが、頓着《とんぢやく》はなかつたらう。正氣の針を夢の中に引摺り込んで、夢の中の刺《とげ》を前後不覺の床《とこ》の下に埋《うづ》めてしまふ分の事である。所がさうは行かなかつた。と云ふものは、刺されたなと思ひながらも、針の事を忘れる程にうつとりとなると、又一つ、ちくりと遣られた。

　今度は大きな眼を開《あ》いた。所へ又ちくりと來た。おやと驚く途端に又ちくりと刺した。是れは大變だと漸く氣が附きがけに、飛び上る程｜劇《はげ》しく股《もゝ》の邊《あたり》を遣られた。自分は此の時始めて、普通の人間に歸つた。さうして身體中《からだぢゆう》至る所がちく／＼してゐるのを發見した。そこでそつと襯衣《しやつ》の間から手を入れて、脊中を撫でゝ見ると、一面にざら／＼する。最初指先が肌に觸れた時は、てつきり劇烈な皮膚病に罹《かゝ》つたんだと思つた。所が指を肌に着けた儘、二三寸引いて見ると、何だか、ばら／＼と落ちた。是れは只事でないと忽ち跳ね起きて、襯衣《しやつ》一枚の見苦しい姿ながら圍炉裏の傍《そば》へ行つて、親指と人差指の間に押へた、米粒程のものを、檢査して見ると、異樣の蟲であつた。實は此の時分には、まだ南京蟲《ナンキンむし》を見た事がないんだから、果して是れがさうだとは斷言出來なかつたが――何だか直覺的に南京蟲《ナンキンむし》らしいと思つた。かう云ふ下卑《げび》た所に直覺の二字を濫用しては濟まんが、外《ほか》に言葉がないから、已《やむ》を得ず高尚な術語を使つた。偖《さて》其の蟲を檢査してゐるうちに、非常に惡《にく》らしくなつて來た。圍炉裏の縁《ふち》へ乘せて、ぴちりと親指の爪で壓《お》し潰したら、云ふに云はれぬ青臭い蟲であつた。此の青臭い臭氣《にほひ》を嗅ぐと、何となく好い心持になる。――自分はこんな醜い事を眞面目にかゝねばならぬ程｜狂違染《きちがひじ》みてゐた。實を云ふと、此の青臭い臭氣《にほひ》を嗅ぐ迄は、恨《うらみ》を霽《は》らした樣な氣がしなかつたのである。それだから捕《と》つては潰し、捕つては潰し、潰すたんびに親指の爪を鼻へあてがつて嗅いでゐた。すると鼻の奧へ詰つて來た。今にも涙が出さうになる。非常に情《なさけ》ない。それだのに、爪を嗅ぐと愉快である。此の時二階下で大勢が一度にどつと笑ふ聲がした。自分は急に蟲を潰すのを已《や》めた。廣間を見渡すと誰もゐない。金さん丈《だけ》が、平たくなつて靜かに寝て得る。頭も足も見えない。其の外《ほか》にたつた一人ゐた。尤も始めて氣が附いた時は人間とは思はなかつた。向ふの柱の中途から、窓の敷居へかけて、帆木綿《ほもめん》の樣なものを白く渡して、其の幅のなかに包まつてゐたから、何だか氣味が惡かつた。然しよく見ると、白い中から黒いものが斜《はす》に出てゐる。さうして夫《それ》が人間の毬栗頭《いがぐりあたま》であつた。――廣い部屋には、自分と此の二人を除いて、誰もゐない。たゞ電氣灯がかん／＼點《つ》いてゐる。大變靜かだ、と思ふと又下座敷でわつと笑つた。さつきの連中か、又は作業を濟まして歸つて來たものが、大勢寄つて巫山戯《ふざけ》散らしてゐるに違ない。自分は茫乎《ぼんやり》して布團のある所迄歸つて來た。さうして裸體《はだか》になつて、襯衣《しやつ》を振るつて、枕元にある着物を着て、帶を締めて、一番仕舞に敷いてある布團を叮嚀に疊んで戸棚へ入れた。それから後《あと》はどうして好いか分らない。時間は何時《なんじ》だか、夜《よ》は到底まだ明けさうにしない。腕組をして立つて考へてゐると、足の甲が又むづ／＼する。自分は堪《こら》へ切れずに、

　「えつ畜生」

と云ひながら二三度｜小踊《こをどり》をした。それから、右の足の甲で、左の上を擦《こす》つて、左の足の甲で右の上を擦つて、是れでもかと齒軋《はぎしり》をした。しかし表へ飛び出す譯にも行かず、寐る勇氣はなし、と云つて、下へ降りて、車座の中へ割り込んで見る元氣は固《もとよ》りない。先《さつ》き毒突《どくづ》かれた事を思ひ出すと、南京蟲《ナンキンむし》より餘つ程厭だ。夜が明ければいゝ、夜が明ければいゝと思ひながら、自分は表へ向いた窓の方へ歩いて行つた。すると其處に柱があつた。自分は立ちながら、此柱に倚《よ》つ掛つた。脊中を附けて腰を浮かして、足の裏で身體を持たしてゐると、兩足がずる／＼疊の目を滑つて段々遠くへ行つちまふ。夫《そ》れから又眞直に立つ。又ずる／＼滑る。又立つ。まづ斯《こ》んな事をしてゐた。幸ひ南京蟲《ナンキンむし》は出て來なかつた。下では時々どつと笑ふ。

　居ても立つてもと云ふのは喩《たとへ》だが、其の居ても立つてもを、實際に經驗したのは此の時である。だから坐るとも立つとも方《かた》の附かない運動をして、中途半端に紛《まぎ》らかしてゐた。所が其の運動をいつ迄根氣に遣つたものか覺えてゐない。いとゞ疲れてゐる上に、猶《なほ》手足を疲らして、いかな南京蟲《ナンキンむし》でも應《こた》へない程疲れ切つたんで、始めて寝たもんだらう。夜が明けたら、自分が摺《ず》り落ちた柱の下に、足だけ延ばして、脊を丸く蹲踞《うづくま》つてゐた。

　是れ程苦しめられた南京蟲《ナンキンむし》も、二日三日と過《た》つにつれて、段々痛くなくなつたのは妙である。其の實、一箇月｜許《ばか》りしたら、いくら南京蟲が居やうと、丸《まる》で米粒でも、ぞろ／＼轉がつてる位に思つて、夜はいつでも、ぐつすり安眠した。尤も南京蟲《ナンキンむし》の方でも日數《ひかず》を積むに從つて遠慮してくるさうである。其證據には新來《きたて》のお客には、べた一面にたかつて、夜通し苛《いぢ》めるが、少し辛抱してゐると、向ふから、愛想《あいそ》をつかして、あまり寄り附かなくなるもんだと云ふ。毎日食つてる人間の肉は自然鼻につくからだとも�ﾍへたものがあるし、いや肉の方に夫《それ》丈《だけ》の品格が出來て、シキ〔二字傍点〕臭くなるから、蟲も恐れ入るんだとも説明したものがある。さうして見ると此處の南京蟲と坑夫とは、性質《たち》が能く似てゐる。恐らく坑夫｜許《ばか》りぢやあるまい、一般の人類の傾向と、此南京蟲とは矢張り同樣の心理に支配されてるんだらう。だから此解釋は人間と蟲けらを概括する所に面白味があつて、哲學者の喜びさうな、美しいものであるが、自分の考へを云ふと全くさうぢやないらしい。蟲の方で氣兼をしたり、贅澤を云つたりするんぢやなくつて、食はれる人間の方で習慣の結果、無神經になるんだらうと思ふ。蟲は依然として食つてるが、食はれても平氣でゐるに違ない、尤も食はれて感じないのも、食はれなくつて感じないのも、趣《おもむき》こそ違へ、結果は同じ事であるから、是は實際上議論をしても、あまり役に立たない話である。

　そんな無用の辯は、どうでもいゝとして、自分が眼を開けて見たら、夜は全く明け放れてゐた。下ではもうがや／＼云つてゐる。嬉しかつた。窓から首を出して見ると、又雨だ。尤も判然《はつきり》とは降つてゐない。雲の濃いのが糸になり損《そく》なつて、なつた丈《だけ》が、細く地へ落ちる氣色《けしき》だ。だから無暗に濛々《もう／＼》とはしてゐない。次第々々に雨の方に片附いて、片附くに從つて糸の間が透いて見える。と云つても見えるものは山ばかりである。しかも草も木も至つて乏しい、潤《うるほひ》のない山である。これが夏の日に照り附けられたら、山の奧でも嘸《さぞ》暑からうと思はれる程赤く禿げてぐるりと自分を取り捲いてゐる。さうして殘らず雨に濡れてゐる。潤《うるほ》ひ氣《け》のないものが、濡れてゐるんだから、土器《かはらけ》に霧を吹いた樣に、いくら濡れても濡れ足りない。其の癖寒い氣持がする。それで自分は首を引つ込め樣としたら、一寸眼についた。――手拭を被つて、藁を腰に當てゝ、筒服《つゝつぽう》を着た男が二三人、向ふの石垣の下にあらはれた。丁度｜昨日《きのふ》ジヤンボー〔五字傍点〕の通つた路を逆に歩いて來る。遠くから見ると、如何にもしよぼ／＼して氣の毒な程憐れである。自分も今朝からあゝなるんだなと、不圖氣が附いて見ると、人事《ひとごと》とは思はれない程、向《むかふ》へ行く手拭の影――雨に濡れた手拭の影が情《なさけ》なかつた。すると雨の間から又古帽子が出て來た。其の後《あと》から又｜筒袖姿《つゝそですがた》があらはれた。何でも朝の番に當つた坑夫がシキ〔二字傍点〕へ這入る時間に相違ない。自分は漸く窓から首を引き込めた。すると、下から五六人一度にどや／＼と階下段《はしごだん》を上《あが》つて來る。來たなと思つたが仕方がないから懷手をして、柱にもたれてゐた。五六人は見る間に、同じ出立《いでたち》に着更へて下りて行つた。後《あと》から又上がつてくる。又｜筒袖《つゝそで》になつて下りて行く。とう／＼飯場《はんば》にゐる當番は悉《こと／”＼》く出拂つた樣だ。

　かう飯場中《はんばぢゆう》活動して來ると、自分も安閑としちや居られない。と云つて誰も顔を御洗ひなさいとも、御飯を御上がんなさいとも云ひに來て呉れない。いかな坊つちやんも、あまり手持無沙汰過ぎて困つちまつたから、思ひ切つて、のこ／＼下りて行つた。心は無論落附いちやゐないが、態度｜丈《だけ》は丸《まる》で宿屋へ泊つて、茶代を置いた御客の樣であつた。いくら恐縮しても自分には、是れより以外の態度が出來ないんだから全くの生息子《きむすこ》である。下りて見ると例の婆さんが、襷がけをして、草鞋《わらぢ》を一足ぶら下げて奧から驅けて來た所へ、ばつたり出逢つた。

　「顔は何處で洗ふんですか」

と聞くと、婆さんは、一寸自分を見たなりで、

　「あつち」

と云ひ捨てゝて門口《かどぐち》の方へ行つた。丸《まる》で相手にしちや居ない。自分にはあつち〔三字傍点〕の見當《けんとう》がわからなかつたが、兎に角婆さんの出て來た方角だらうと思つて、奧の方へ歩いて行つたら、大きな臺所へ出た。眞中に四斗樽《しとだる》を輪切にした樣なお櫃《はち》が据ゑてある。あの中に南京米《ナンキンまい》の炊いたのが一杯詰つてるのかと思つたら、――何しろ自分が三度々々一箇月食つても食ひ切れない程の南京米なんだから、食はない前からうんざりしちまつた。――顔を洗ふ所も見附けた。臺所を下りて長い流の前へ立つて、冷たい水で、申し譯の爲に頬邊《ほつぺた》を撫でゝ置いた。かうなると叮嚀に顔なんか洗ふのは馬鹿々々しくなる。これが一歩進むと、顔は洗はなくつても宜《い》いものと度胸が坐つてくるんだらう。昨日《きのふ》の赤毛布《あかげつと》や小僧は全くかう云ふ順序を踏んで進化したものに違ない。

　顔は漸く自力で洗つた。飯はどうなる事かと、又のそ／＼臺所へ上《あが》つた。所へ幸ひ婆さんが表から歸つて來て膳立てをしてくれた。難有《ありがた》い事に味噌汁が付いてゐたんで、こいつを南京米の上から、ざつと掛けて、ざく／＼と掻き込んだんで、今度《こんだ》は壁土の味を?み分ないで濟んだ。すると婆さんが、

　「御飯《おまんま》が濟んだら、初《はつ》さんがシキ〔二字傍点〕へ連れて行くつて待つてるから、早く御出《おいで》なさい」

と、箸も置かない先から急《せ》き立てる。實はもう一杯位食はないと身體が持つまいと思つてた所だが、かう催促されて見ると、無論御代りなんか盛《よそ》う必要はない。自分は、

　「はあ、さうですか」

と立ち上がつた。表へ出て見ると、成程上り口に一人掛けてゐる。自分の顔を見て、

　「御前《おめえ》か、シキ〔二字傍点〕へ行くなあ」

と、石でも打《ぶ》つ缺く樣な勢ひで聞いた。

　「えゝ」

と素直に答へたら、

　「ぢや、一所に來ねえ」

と云ふ。

　「此｜服裝《なり》でも好いんですか」

と叮嚀に聞き返すと、

　「不可《いけ》ねえ、不可《いけ》ねえ。そんな服裝《なり》で這入《へえ》れるもんか。此處へ親分とこから一枚《いちめえ》借りて來てやつたから、此服《こいつ》を着るがいゝ」

と云ひながら、例の筒袖を抛《はふ》り出した。

　「そいつが上だ。こいつが股引《もゝひき》だ。そら」

と又股引を抛げつけた。取りあげて見ると、じめ／＼する。所々に泥が着いてゐる。地《ぢ》は小倉らしい。自分もとう／＼此｜御仕着《おしきせ》を着る始末になつたんだなと思ひながら、絣を脱いで上下《うへした》とも紺揃になつた。一寸見ると内閣の小使の樣だが、心持から云ふと、小使を拝命した時よりも遙に不景氣であつた。是で支度は出來たものと思込んで土間へ下りると、

　「おつと待つた」

と、初さんが又勇み肌の聲を掛けた。

　「是を尻《けつ》の所へ當てるんだ」

　初さんが出して呉れたものを見ると、三斗俵坊《さんだらぼ》つちの樣な藁布團に紐をつけた變挺《へんてこ》なものだ。自分は初さんの云ふ通り、是を臀部《でんぶ》へ縛り附けた。

　「それが、アテシコ〔四字傍点〕だ。好《よ》しか。夫《それ》から鑿《のみ》だ。こいつを腰ん所へ差してと……」

　初さんの出した鑿を受け取つて見ると、長さ一尺四五寸もあらうと云ふ鐵の棒で、先が少し尖つてゐる。是を腰へ差す。

　「序《ついで》に是も差すんだ。少し重いぜ。大丈夫か。確《しつか》り受け取らねえと怪我をする」

　成程重い。こんな槌を差して能く坑《あな》の中が歩けるもんだと思ふ。

　「どうだ重いか」

　「えゝ」

　「それでも輕いうちだ。重いのになると五斤ある。――いゝか、差せたか、そこで一寸腰を振つて見な。大丈夫か。大丈夫なら是を提《さ》げるんだ」

とカンテラ〔四字傍点〕を出しかけたが、

　「待つたり。カンテラ〔四字傍点〕の前に一つ草鞋《わらぢ》を穿《は》いちまいねえ」

　草鞋の新しいのが、上り口にある。さつき婆さんが振《ぶ》ら下げてたのは、大方是れだらう。自分は素足《すあし》の上へ草鞋を穿いた。緒《を》を踵《かゝと》へ通してぐつと引くと、

　「駑癡《どぢ》だなあ。そんなに締める奴があるかい。もつと指《いび》の股を寛《ゆる》めろい」

と叱られた。叱られながら、どうにか、かうにか穿いて仕舞ふ。

　「さあ、是れで愈《いよ／＼》御仕舞だ」

と初さんは饅頭笠《まんぢゆうがさ》とカンテラ〔四字傍点〕を渡した。饅頭笠と云ふのか筍笠《たけのこがさ》といふのか知らないが、何でも懲役人の被《かぶ》る樣な笠であつた。其の笠を神妙《しんべう》に被《かぶ》る。それからカンテラ〔四字傍点〕を提《さ》げる。此のカンテラ〔四字傍点〕は提げる樣に出來てゐる。恰好《かつかう》は二合入りの石油罐とも云ふべきもので、そこへ油を注《さ》す口と、心《しん》を出す孔《あな》が開《あ》いてる上に、細長い管《くだ》が食つ附いて、其の管の先が一寸横へ曲がると、すぐ膨《ふく》らんだカツプ〔三字傍点〕になる。此のカツプ〔三字傍点〕へ親指を突つ込んで、其の親指の力で提げるんだから、指五本の代りに一本で事を濟ます甚だ實用的のものである。

　「かう、穿《は》めるんだ」

と初さんが、勝栗《かちぐり》の樣な親指を、カンテラ〔四字傍点〕の孔の中へ突込《つつこ》んだ。旨い具合にはまる。

　「そうら」

　初さんは指一本で、カンテラ〔四字傍点〕を柱時計の振子の樣に、二三度振つて見せた。中々落ちない。そこで自分も、同じ樣に、調子をとつて搖《うごか》して見たが矢つ張り落ちなかつた。

　「左樣《さう》だ。中々器用だ。ぢや行くぜ、いゝか」

　「えゝ、好ござんす」

　自分は初さんに連れられて表へ出た。所が降つてゐる。一番先へ笠へあたつた。仰向いて、空模樣を見やうとしたら、顎と、口と、鼻へぽつ／＼とあたつた。それからあとは、肩へもあたる。足へもあたる。少し歩くうちには、身體中じめ／＼して、肌へ拔けた濕氣が、皮膚の活氣で蒸し返される。然し雨の方が寒いんで、身體のほとぼりが段々｜冷《さ》めて行く樣な心持であつたが、坂へかゝると初さんが無暗に急ぎ出したんで、濡れながらも、毛穴から、雨を彈《はじ》き出す勢ひで、とう／＼シキ〔二字傍点〕の入口迄來た。

　入口はまづ汽車の隧道《トンネル》の大きいものと云つて宜しい。蒲鉾形《かまぼこなり》の天邊《てつぺん》は二間位の高さはあるだらう。中から軌道《レール》が出て來る所も汽車の隧道《トンネル》に似てゐる。是れは電車が通ふ路なんださうだ。自分は入口の前に立つて、奧の方を透かして見た。奧は暗かつた。

　「どうだ此處が地獄の入口だ。這入《はい》れるか」

と初さんが聞いた。何だか嘲弄の語氣を帶びてゐる。さつき飯場《はんば》を出て、此處まで來る途中でも、方々の長屋の窓から首を出して、

　「昨日のだ」

　「新來《しんき》だ」

と口々に罵つてゐたが、其の樣子を見ると單に山の中に閉ぢ込められて物珍らしさの好奇心とは思へなかつた。其の言葉の奧底には屹度《きつと》愚弄の意味がある。之を布衍《ふえん》して云ふと、一つには貴樣もとう／＼斯《こ》んな所へ轉げ込んで來た、いゝ氣味だ、樣《ざま》あ見ろと云ふ事になる。もう一つは御氣の毒だが來たつて駄目だよ。そんな脂《やに》つこい身體で何が勤まるものかと云ふ事にもなる。だから「昨日のだ」「新來だ」と騷ぐうちには、自分が彼等と同樣の苦痛を甞めなければならない程墮落したのを快く感ずると共に、到底此の苦痛には堪へがたい奴だとの輕蔑さへ加はつてゐる。彼等は他人《ひと》を彼等と同程度に引き摺り落して喝采するのみか、ひとたび引き摺り落したものを、もう一返《いつぺん》足の下迄蹴落して、墮落は同程度だが、墮落に堪へる力は彼等の方が却つて上だとの自信をほのめかして滿足するらしい。自分は途上《みち／＼》「昨日のだ」と聞くたんびに、懲役笠《ちようえきがさ》で顔を半分隱しながら通り拔けて、シキ〔二字傍点〕の入口迄來た。そこで初さんが又愚弄したんだから、自分は少しむつとして、

　「這入れますとも。電車さへ通《かよ》つてるぢやありませんか」

と答へた。すると初さんが、

　「なに這入《はい》れる？　豪義《がうぎ》な事を云ふない」

と云つた。こゝで「這入れません」と恐れ入つたら、「それ見ろ」と直《すぐ》こなされるに極つてる。どつちへ轉んでも駄目なんだから別に後悔もしなかつた。初さんは、いきなり、シキ〔二字傍点〕の中へ飛び込んだ。自分も續いて這入つた。這入つて見ると、思つたよりも急に暗くなる。何だか足元がおつかなくなり出したには降參した。雨が降つてゐても外は明かるいものだ。其の上｜軌道《レール》の上はとにかく、兩側は頗る泥《ぬか》つてゐる。それだのに初さんは中《ちゆう》つ腹《ぱら》でずん／＼行く。自分も負けない氣でずん／＼行く。

　「シキ〔二字傍点〕の中で大人《おとな》しくしねえと、すのこ〔三字傍点〕の中へ抛《はふ》り込まれるから、用心しなくつちあ不可《いけ》ねえ」

と云ひながら初さんは突然暗い中で立ち留つた。初さんの腰には鑿《のみ》がある。五斤の槌がある。自分は暗い中で小さくなつて、

　「はい」

と返事をした。

　「よしか、分つたか。生きて出る料簡なら生意氣にシキ〔二字傍点〕なんかへ這入らねえ方が�揩ｵだ」

　是れは向ふむきになつて、初さんが歩き出した時に、半分は獨《ひと》り言《ごと》の樣に話した言葉である。自分は少からず驚いた。坑《あな》の中は反響が強いので、初さんの言葉がわん／＼／＼と自分の耳へ跳ねつ返つて來る。果たして初さんの言ふ通りなら、飛んだ所へ這入つたもんだ。實は死ぬのも同然な職業であればこそ坑夫にならうと云ふ氣も起して見たんだが、本當に死ぬなら――こんな怖《こは》い商賣なら――殺されるんなら――すのこ〔三字傍点〕の中へ抛げ込まれるなら――すのこ〔三字傍点〕とは全體どんなもんだらうと思ひ出した。

　「すのこ〔三字傍点〕とは何《ど》んなもんですか」

　「なに？」

と初さんが後《うしろ》を振り向いた。

　「すのこ〔三字傍点〕とはどんなもんですか」

　「穴だ」

　「え？」

　「穴だよ。――鑛《あらがね》を抛《はふ》り込んで、纒めて下へ降《さ》げる穴だ。鑛《あらがね》と一所に抛り込まれて見ねえ……」

で言葉を切つて又ずん／＼行く。

　自分は一寸立ち留つた。振り返ると、入口が小さい月の樣に見える。這入るときは、是れがシキ〔二字傍点〕ならと思つた。聞いた程でもないと思つた。所が初さんに威嚇《おど》かされてから、如何《いか》な平凡な隧道《トンネル》も、大いに容子が變つて來た。懲役笠《ちようえきがさ》をたゝく冷たい雨が戀しくなつた。そこで振り返ると、入口が小さい月の樣に見える。小さい月の樣に見える程奧へ這入つたなと、振り返つて始めて氣が附いた。いくら曇つてゐても矢つ張り外が懷かしい。眞黒な天井が上から抑へ附けてるのは心持のわるいものだ。しかも此天井が段々低くなつて來る樣に感ぜられる。と思ふと、軌道《レール》を横へ切れて、右へ曲つた。だら／＼坂の下りになる。もう入口は見えない。振返つても眞暗だ。小さい月の樣な浮世の窓は遠慮なくぴしやりと閉つて、初さんと自分は段々下の方へ降りて行く。降りながら手を延ばして壁へ觸つて見ると、雨が降つた樣に濡れてゐる。

　「どうだ、尾《つ》いて來るか」

と、初さんが聞いた。

　「えゝ」

と大人《おとな》しく答へたら、

　「もう少しで地獄の三丁目へ來る」

と云つたなり、又二人とも無言になつた。此の時行く手の方《かた》に一點の燈《あかり》が見えた。暗闇《くらやみ》の中の黒猫の片眼の樣に光つてる。カンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》なら散らつく筈だが、些《ちつ》とも動かない。距離もよく分らない。方角も眞直ぢやないが、兎に角見える。もし坑《あな》の中が一本道だとすれば、此の燈《あかり》を目懸けて、初さんも自分も進んで行くに違ない。自分は何にも聞かなかつたが、大方《おほかた》是が地獄の三丁目なんだらうと思つて、這入つて行つた。すると、だら／＼坂が漸く盡きた。路は平らに向ふへ廻り込む。其の突き當りに例の燈《ひ》が點《つ》いてゐる。先《さ》つきは鼻の下に見えたが、今では眼と擦々《すれ／＼》の所まで來た。距離も間近くなつた。

　「愈《いよ／＼》三丁目へ着いた」

と、初さんが云ふ。着いて見ると、坑《あな》が四五疊程の大《おほき》さに廣がつて、其處に交番位な小屋がある。さうして其の中に電氣燈が點《つ》いてゐる。洋服を着た役人が二人程、椅子の對《むか》ひ合せに洋卓《テーブル》を隔てゝ腰を掛けてゐた。表《おもて》には第一見張所とあつた。是は坑夫の出入《でいり》だの勞働の時間だのを檢査する所だと後から聞いて、始めて分つたんだが、其の當時には何の爲の設備だか知らなかつたもんだから、六七人の坑夫が、どす黒い顔を揃へて無言の儘、見張所の前に立つてゐたのを不審に思つた。是は時間を待ち合はして交替する爲である。自分は腰に鑿《のみ》と槌を差してカンテラ〔四字傍点〕さへ提《さ》げては居るが、坑夫志願といふんで、シキ〔二字傍点〕の樣子を見に這入つた丈《だけ》だから、まだ見習にさへ採用されてゐないと云ふ譯で、待ち合はす必要もないものと見えて、すぐ此｜溜《たまり》を通り越した。其時初さんが見張所の硝子窓へ首を突つ込んで、一寸《ちよいと》役人に斷つたが、役人は別に自分の方を見向もしなかつた。其代り立つてゐた坑夫はみんな見た。然し役人の前を憚つてだらう、全く一言《ひとこと》も口を利いたものはなかつた。

　溜《たまり》を出るや否や坑《あな》の樣子が突然變つた。今迄は立つてあるいても、背延《せいの》びをしても屆きさうにもしなかつた天井が急に落ちて來て、眞直に歩くと時々頭へ觸る樣な氣持がする。是れがものゝ二寸も低からうものなら、岩へ打《ぶ》つかつて眉間《みけん》から血が出るに違ないと思ふと、松原をあるく樣に、有《あり》つ丈《たけ》の脊《せい》で、野風雜《のふうざふ》にや遣つて行けない。おつかないから、なるべく首を肩の中へ縮め込んで、初さんに食つ附いて行つた。尤もカンテラ〔四字傍点〕は先《さつ》き點《つ》けた。

　すると三尺｜許《ばか》り前に居る初さんが急に四《よつ》ん這《ば》ひになつた。おや、滑つて轉んだ。と思つて、後《うしろ》から突つ掛かりさうな所を、ぐつと足を踏ん張つた。この位にして喰ひ留めないと、坂だから、前へのめる恐がある。心持腰から上を反《そ》らす樣にして、初さんの起きるのを待ち合はしてゐると、初さんは中々起きない。矢つ張り這つてゐる。

　「何《ど》うか、爲《し》ましたか」

と後《うしろ》から聞いた。初さんは返事もしない。――はてな――怪我でもしやしないかしら――もう一遍聞いて見《み》樣《やう》か――すると初さんはのこ／＼歩き出した。

　「何ともなかつたですか」

　「這ふんだ」

　「え？」

　「這ふのだてえ事よ」

と初さんの聲は段々遠くなつて仕舞ふ。その聲で自分は不審を打つた。いくら向ふむきでも、普通なら明かに聞きとられべき距離から出るのに、急に潜《もぐ》つて仕舞ふ。聲が細いんぢやない。當り前の初さんの聲が袋のなかに閉ぢ込められた樣に曖昧になる。こりや只事ぢやないと氣が附いたから、透して見ると漸く分つた。今迄は尋常に歩けた坑《あな》が、こゝで忽ち狹くなつて、這はなくつちや拔けられなくなつてゐる。其狹い入口から、初さんの足が二本出て居る。初さんは今胴を入れた許《ばか》りである。やがて出てゐた足が一本這入つた。見てゐるうちに又一本這入つた。是で自分も四つん這ひにならなくつちや仕方がないと諦めを附けた。「這ふんだ」と初さんの�ﾍへたのもけつして無理ぢやないんだから、�ﾍへられた通り這つた。所が右にはカンテラ〔四字傍点〕を提《さ》げてゐる。左の手《て》の平《ひら》丈《だけ》を惜氣《をしげ》もなく氷の樣な泥だか岩だかへな土だか分らない上へぐしやりと突いた時は、寒さが二の腕を傳はつて肩口から心臓へ飛び込んだ樣な氣持がした。それでカンテラ〔四字傍点〕を下へ着けまいとすると、右の手が顔とすれ／＼になつて、甚だ不便である。どうしたもんだらうと、此の姿勢の儘じつとしてゐた。さうして、右の手で宙に釣つてゐるカンテラ〔四字傍点〕を見た。所へぽたりと天井からしづくが垂れた。カンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》がじいと鳴つた。油烟が顎から頬へかゝる。眼へも這入つた。それでも此の灯を見詰めてゐた。すると遠くの方でかあん、かあん、と云ふ音がする。坑夫が作業をしてゐるに違ないが、どの位距離があるんだか、どの見當にあたるんだか、一向《いつかう》分らない。東西南北のある浮世の音ぢやない。自分は此の姿勢でともかくも二三歩歩き出した。不便は無論不便だが、歩けない事はない。只時々しづくが落ちてカンテラ〔四字傍点〕のじいと鳴るのが氣にかゝる。初さんは先へ行つて仕舞つた。頼《たより》はカンテラ〔四字傍点〕一つである。其のカンテラ〔四字傍点〕がじいと鳴つて水の爲に消えさうになる。かと思ふと又明かるくなる。まあ宜《よ》かつたと安心する時分に、又ぽたりと落ちて來る。じいと鳴る。消えさうになる。非常に心細い。實は今迄も、しづくは始終垂れてゐたんだが、灯《ひ》が腰から下にあるんで、一向《いつかう》氣がつかなかつたんだらう。灯が耳の近くへ來て、じいと云ふ音が聞える樣になつてから急に神經が起《おこ》つて來た。だから這ふ方は猶《なほ》遅くなる。しかもまだ三足しか歩いちやゐない。所へ突然初さんの聲がした。

　「やい、好い加減に出て來ねえか。何を愚圖々々してゐるんだ。――早くしないと日が暮れちまうよ」

　暗いなかで初さんは慥《たしか》に日が暮れちまうと云つた。

　自分は這ひながら、咽喉佛《のどぼとけ》の角《かど》を尖らす程に顎を突き出して、初さんの方を見た。すると一間《いつけん》許《ばか》り向ふに熊の穴見た樣なものがあつて、其の穴から、初さんの顔が――顔らしいものが出てゐる。自分があまり手間取るんで、初さんが屈《こゞ》んで此方《こつち》を覗き込んでる所であつた。此の一間をどうして拔け出したか、今ぢや善く覺えてゐない。何しろできる丈《だけ》早く穴迄來て、首｜丈《だけ》出すと、もう初さんは顔を引つ込まして穴の外に立つてゐる。其の足が二本自分の鼻の先に見えた。自分はやれ嬉しやと狹い所を潜《くゞ》り拔けた。

　「何をしてゐたんだ」

　「あんまり狹いもんだから」

　「狹いんで驚いちや、シキ〔二字傍点〕へは一足《ひとあし》だつて踏《ふ》ん込《ご》めつ子はねえ。陸《をか》の樣に地面はねえ所《とこ》だ位は、どんな頓珍漢《とんちんかん》だつて知つてる筈だ」

　初さんは慥《たしか》に坑《あな》の中は陸《をか》の樣に地面のない所だと云つた。此の人は時々思ひ掛けない事を云ふから、今度も慥《たしか》にと但し書をつけて、其の確實な事を保證して置くんである。自分は何か云ひ譯をするたんびに、初さんから容赦なく遣つ附けられるんで、大抵は黙つてゐたが、此の時はつい、

　「でもカンテラ〔四字傍点〕が消えさうで、心配したもんですから」

と云つちまつた。すると初さんは、自分の鼻の先へカンテラ〔四字傍点〕を差し附けて、徐《おもむろ》に自分の顔を檢査し始めた。さうして、命令を下した。

　「消して見ねえ」

　「どうしてですか」

　「何うしてでも好いから、消して見ねえ」

　「吹くんですか」

　初さんは此時大きな聲を出して笑つた。

　自分は喫驚《びつくり》して稀有《けう》な顔をしてゐた。

　「冗談ぢやねえ。何が這入《へつ》てると思ふ。種油《たねあぶら》だよ、しづく位で消《けえ》てたまるもんか」

　自分は是でやつと安心した。

　「安心したか。ハヽヽヽ」

と初さんが又笑つた。初さんが笑ふたんびに、坑《あな》の中がみんな響き出す。其の響が収まると前よりも倍靜かになる。所へかあん、かあんと何處かで鑿《のみ》と槌を使つてる音が傳はつて來る。

　「聞えるか」

と、初さんが顋《あご》で相圖をした。

　「聞えます」

と耳を峙《そばだ》てゝゐると、忽ち催促を受けた。

　「さあ行かう。今度《こんだ》あ後《おく》れない樣に跟《つ》いて來な」

　初さんは中々機嫌がいゝ。是れは自分が一も二もなく初さんに遣られてゐる所爲《せゐ》だらうと思つた。いくら手苛《てひど》く極めつけられても、初さんの機嫌がいゝうちは結構であつた。かうなると得になる事が即ち結構といふ意味になる。自分は是れ程墮落して、おめ／＼初さんの尻を嗅いで行つたら、路が左の方に曲り込んで又｜峻《けは》しい坂になつた。

　「おい下りるよ」

と初さんが、後《うしろ》も向かず聲を掛けた。其の時自分は何となく東京の車夫を思ひ出して苦しいうちにも可笑《をか》しかつた。が初さんはそれとも氣が附かず下《お》り出した。自分も負けずに降りる。路は地面を刻んで段々になつてゐる。四五間づゝに折れてはゐるが、勘定したら愛宕樣《あたごさま》の高さ位はあるだらう。是は一生懸命になつて、一所に降りた。降りた時にほつと息を吐《つ》くと、其息が何となく苦しかつた。然し是は深い坑《あな》のなかで、空氣の流通が惡いからと許《ばか》り考へた。實は此時既に身體も冒されてゐたんである。此苦しい息で二三十間來ると又模樣が變つた。

　今度は初さんが仰向けに手を突いて、腰から先を入れる。腰から入れる樣な藝をしなければ通れない程、坑《あな》の幅も高さも逼つて來たのである。

　「斯うして拔けるんだ。好く見て置きねえ」

と初さんが云つたと思つたら、胴も頭もずる、ずると拔けて見えなくなつた。流石《さすが》熟練の功はえらいもんだと思ひながら、自分も先づ足｜丈《だけ》前へ出して、草鞋《わらぢ》で探《さぐり》を入れた。所が全く宙に浮いてる樣で足掛りが些《ちつ》ともない。何でも穴の向ふは、がつくり落《おち》か、それでなくても、餘程｜勾配《こうばい》の急な坂に違ないと見當を附けた。だから頭から先へ突つ込めばのめつて怪我をする許《ばか》り、又足を無暗に出せば引つ繰り返る丈《だけ》と覺つたから、足を棒の樣に前へ寝かして、さうして後《うしろ》へ手を突いた。所が此｜所作《しよさ》が甚だ不味《まづ》かつたので、手を突くと同時に、尻もべつたり突いて仕舞つた。ぴちやりと云つた。アテシコ〔四字傍点〕を傳はつて臀部へ少々感じがあつた。夫《それ》ほど強く尻餠を搗《つ》いたと見える。自分はしまつたと思ひながらも直《すぐ》兩足を前の方へ出した。ずるりと一尺ばかり振《ぶ》ら下げたが、まだ何處へも屆かない。仕方がないから、今度は手の方を前へ運ばせて、腰を押し出す樣に足を伸ばした。すると腿《もゝ》の所迄｜摺《ず》り落ちて、草鞋《わらぢ》の裏が漸く堅いものに乘つた。自分は念の爲此の堅いものをぴちや／＼足の裏で敲いて見た。大丈夫なら手を離して此の堅いものゝ上へ立たうと云ふ料簡であつた。

　「何で足ばかり、ばた／＼やつてるんだ。大丈夫だから、うんと踏ん張つて立ちねえな。意久地のねえ」

と、下から初さんの聲がする。自分の胴から上は叱られると同時に、穴を拔けて眞直に立つた。

　「丸で傘《からかさ》の化物の樣だよ」

と初さんが、自分の顔を見て云つた。自分は傘《からかさ》の化物とは何の意味だか分らなかつたから、別に笑ふ氣にもならなかつた。たゞ

　「左樣《さう》ですか」

と眞面目に答へた。妙な事に此の返事が面白かつたと見えて、初さんは、又大きな聲を出して笑つた。さうして、此の時から態度が變つて、前よりは幾分《いくぶん》か親切になつた。偶然の事がどんな拍子で他《ひと》の氣に入らないとも限らない。却つて、氣に入つてやらうと思つて仕出《しで》かす藝術は大抵駄目な樣だ。天巧を奪ふ樣な御世辭使は未だ曾て見た事がない。自分も我が身が可愛さに、其の後《ご》色々人の御機嫌を取つて見たが、どうも旨い結果が出て來ない。相手がいくら馬鹿でも、いつか露見するから怖《こは》いもんだ。用意をして置いた挨拶で、此の傘《からかさ》の化物に對する返事位に成功した場合は殆んどない。骨を折つて失敗するのは愚《ぐ》だと悟つたから、近頃では宿命論者の立脚地から人と交際をしてゐる。たゞ困るのは演舌《えんぜつ》と文章である。あいつは骨を折つて準備をしないと失敗する。其の代りいくら骨を折つても矢つ張り失敗する。つまりは同じ事なんだが、骨を折つた失敗は、人の氣に入らないでも、自分の弱點《ぼろ》が出ないから、まあ準備をしてからやる事にしてゐる。いつかは初さんの氣に入つた樣な演説をしたり、文章を書いて見たいが、――どうも馬鹿にされさうで不可《いけ》ないから、未だに遣らずにゐる。――それは此處には餘計な事だから、此の位で已《や》めて又初さんの話を續けて行く。

　其の時初さんは、笑ひながら、下から、自分に向つて、

　「おい、さう眞面目くさらねえで、早く下りて來ねえな。日は短《みじけ》えやな」

と云つた。坑《あな》の中でカンテラ〔四字傍点〕を點《つ》けた、初さんは慥《たしか》に日は短《みじけ》えやなと云つた。

　自分が土の段を一二間下りて、初さんの立つてる所迄行くと、初さんは、右へ曲つた。又段々が四五間續いてゐる。それを降り切ると、今度は初さんが左へ折れる。さうして又段々がある。右へ折れたり左へ折れたり稻妻の樣に歩いて、段々を――さあ何町《なんちやう》降りたか分らない。始めての道ではあるし、ことに暗い坑《あな》の中の事であるから自分には非常に長く思はれた。漸く段々を降り切つて、大分《だいぶ》浮世とは縁が遠くなつたと思つたら急に五六疊の部屋に出た。部屋と云つても坑《あな》を切り廣げたもので、上と下がすぼまつて、腹の所が膨《ふく》らんでゐるから、丸《まる》で酒甕《さかがめ》の中へでも落込んだ有樣である。あとから分つた話だが、是れは作事場《さくじば》と云ふんで、技師の鑑定で、此處には鑛脉があるとなると、そこを掘り擴げて作事場にするんである。だから通り路よりは自然廣い譯で、此の作事場を坑夫が三人一組で、請負仕事に引受ける。二週間と見積つたのが、四日で濟む事もあり、高が五日位と踏んだ作事《さくじ》に半月以上｜食《くら》ひ込む事もある。かう云ふ譯で、シキ〔二字傍点〕のなかに路ができて、路のはたに銅脈さへ見つかれば、御構《おかまひ》なくそこ丈《だけ》を掘り拔いて行くんだから、電車の通るシキ〔二字傍点〕の入口こそ、平らでもあり、又｜一條《ひとすぢ》でもあるが、下へ折れて第一見張所のあたりからは、右へも左へも條路《えだみち》ができて、方々に作事場《さくじば》が建つ。その作事を仕舞ふと、又銅脈を見附けては掘り拔いて行くんだから、シキ〔二字傍点〕の中は細い路だらけで、又暗い坑《あな》だらけである。丁度蟻が地面を縱横に拔いて歩く樣なものだらう。又は書蠹《のむし》が本を食《くら》ふと見立てゝも差し支ない。つまり人間が土の中で、銅《あかゞね》を食つて、食ひ盡すと、又｜銅《あかゞね》を探し出して食ひにゆくんで無暗に路が澤山できて仕舞つたんである。だから、いくらシキ〔二字傍点〕の中を通つても、たゞ通る丈《だけ》で作事場へ出なければ坑夫には逢はない。かあん／＼といふ音はするが、音｜丈《だけ》では極めて淋しいものである。自分は初さんに連れられて、シキ〔二字傍点〕へ這入つたが、たゞシキ〔二字傍点〕の樣子を見るのが第一の目的であつた爲か、廻り道をして作事場へは寄らなかつたと見えて、坑夫の仕事をしてゐる所は、此の段々の下へ來て、初めて見た。――稻妻形に段々を下りるときは、無暗に下りる許《ばか》りで、いくら下りても盡きないのみか、人つ子一人に逢はないものだから、甚だ心細かつたが、はじめて作事場へ出て、人間に逢つたら、大いに嬉しかつた。

　見ると丸太《まるた》の上に腰をかけてゐる。數は三人だつた。丸太は四《よ》つや丸太《まるた》で、軌道《レール》の枕木位なものだから、隨分の重さである。どうして、此處迄運んで來たか到底想像がつかない。是は天井の陷落を防ぐ爲、少し廣い所になると突つかい棒に張る爲に、シチウ〔三字傍点〕が必要な作事場へ置いて行くんださうだ。其の上に二人《ふたあり》腰を掛けて、殘る一人が屈《しやが》んで丸太へ向いてゐる。さうして三人の間には小さな木の壺がある。伏せてある。一人が此の壺を上から抑へてゐる。三人が妙な叫び聲を出した。抑へた壺を忽ち擧げた。下から賽《さい》が出た。――所へ自分と初さんが這入つた。

　三人はひとしく眼を上げて、自分と初さんを見た。カンテラ〔四字傍点〕が土の壁に突き刺してある。暗い灯《ひ》が、ぎろりと光る三人の眼球《めだま》を照らした。光つたものは實際眼球｜丈《だけ》である。坑《あな》は固《もと》より暗い。明かるくなくつちやならない灯《ひ》も暗い。どす黒く燃えて煙《けぶり》を吹いて居る所は、濁つた液體が動いてる樣に見えた。濁つた先が黒くなつて、煙《けぶり》と變化するや否や、此の煙《けぶり》が暗いものゝ中に吸ひ込まれて仕舞ふ。だから坑《あな》の中がぼうとしてゐる。さうして動いてゐる。

　カンテラ〔四字傍点〕は三人の頭の上に刺さつてゐた。だから三人のうちで比較的｜判然《はつきり》見えたのは、頭｜丈《だけ》である。所が三人共頭が黒いので、つまりは、見えないのと同じ事である。しかも三つとも集《かたま》つてゐたから、猶更《なほさら》變であつたが、自分が這入るや否や、三つの頭は忽ち離れた。其の間から、壺が見えたんである。壺の下から賽《さい》が見えたんである。壺と、賽と、三人の異《い》な叫び聲を聞いた自分は、次に三人の顔を見たんである。能くはわからない顔であつた。一人の男は頬骨の一點と、小鼻の片傍《かたわき》丈《だけ》が、灯《ひ》に映つた。次の男は額と眉の半分に光が落ちた。殘る一人は總體にぼんやりしてゐる。只自分の持つてゐた、カンテラ〔四字傍点〕を四五尺手前から眞向《まつかう》に浴びた丈《だけ》である。――三人は此の姿勢で、ぎろりと眼を据ゑた。自分の方に。

　漸く人間に逢つて、やれ嬉しやと思つた自分は、此の三對の眼球《めだま》を見るや否や、思はずぴたりと立ち留つた。

　「手前《てめえ》は……」

と云ひ掛けて、一人が言葉を切つた。殘る二人はまだ口を開《ひら》かない。自分も立ち留まつたなり、答へなかつた。――答へられなかつた。すると

　「新《しん》めえだ」

と、初さんが、威勢のいゝ返事をしてくれた。本當の所を白?すると、三人の眼球《めだま》が光つて、「手前《てめえ》は……」と聞かれた時は、初さんの傍《そば》にゐる事も忘れて、唯おやつと思つた。立すくむと云ふのはこれだらう。立ちすくんで、硬くこわ張り掛けた所へ「新めえだ」と云ふ聲がした。此の聲が自分の左の耳の、つい後《うしろ》から出て、向ふへ通り拔けた時、成程初さんが附いてたなと思ひ出した。それが爲、こわ張りかけた手足も、中途で故《もと》へ引き返した。自分は一歩｜傍《わき》へ退《の》いた。初さんに前へ出てもらふ積《つもり》であつた。初さんは注文通り出た。

　「相變らず遣つてるな」

とカンテラ〔四字傍点〕を提《さ》げた儘、上から三人の眞中に轉がつてる、壺と賽《さい》を眺めた。

　「どうだ仲間入は」

　「まあよさう。今日は案内だから」

と初さんは取り合はなかつた。やがて、四《よ》つや丸太《まるた》の上へうんとこしよと腰を卸して、

　「少し休んで行くかな」

と自分の方を見た。立ちすくむ迄恐ろしかつた、自分は急に嬉しくなつて元氣が出て來た。初さんの側《そば》へ腰をおろす。アテシコ〔四字傍点〕の利目《きゝめ》は、こゝで始めて分つた。旨い具合に尻が乘つて、柔らかに局部へ應へる。且《かつ》冷えないで、結構だ。實はさつきから、眼が少し眩《く》らんで――眩《く》らんだか、眩《く》らまないんだか、坑《あな》の中ではよく分らないが、何しろ好い氣持ではなかつたが、かう尻を掛けて落ちつくと、大きに樂《らく》になる。四人《よつたり》が色々な話をしてゐる。

　「廣本《ひろもと》へは新らしい玉《たま》が來たが知つてるか」

　「うん、知つてる」

　「まだ、買はねえか」

　「買はねえ、お前《めえ》は」

　「おれか。おれはハヽヽヽ」

と笑つた。是れは這入つて來た時、顔中ぼんやり見えた男である。今でもぼんやり見える。其の證據には、笑つても笑はなくつても、顔の輪廓が殆ど同じである。

　「隨分手廻しがいゝな」

と初さんも聊《いさゝか》か笑つてゐる。

　「シキ〔二字傍点〕へ這入《へえ》ると、何時《いつ》死ぬか分らねえからな。だれだつて、さうだらう」

と云ふ答があつた。此の時、

　「御互に死なねえうちの事だなあ」

と一人《だれか》が云つた。其の語調には妙に咏嘆《えいたん》の意が寓してあつた。自分はあまり突然の樣に感じた。

　さうしてゐるうちに、一間《いつけん》置いて隣りの男が突然自分に話しかけた。

　「御前《おめえ》は何處から來た」

　「東京です」

　「此處へ來て儲《まう》けようたつて駄目だぜ」

と他《ほか》のが、すぐ�ﾍへてくれた。自分は長藏さんに逢ふや否や儲かる／＼を何遍となく聞かせられて驚いたが、飯場《はんば》へ着くが早いか、今度は反對に、儲からない／＼で立てつゞけに責められるんで、大いに辟易《へきえき》した。然し地《ぢ》の底ではよもやそんな話も出まいと思つて此處迄降りて來たが、人に逢へば又儲からないを繰り返された。あんまり馬鹿々々しいんで何とか答辯を仕《し》樣《やう》かとも考へたが、滅多な事を云へば擲《は》り附けられる丈《だけ》だから、まあやめにして置いた。去ればと云つて返事をしなければ又遣り附けられる。そこで、かう云つた。

　「何故《なぜ》儲からないんです」

　「此の銅山《やま》には神樣がゐる。いくら金を蓄《た》めて出《で》樣《やう》としたつて駄目だ。金は必ず戻つてくる」

　「何の神樣ですか」

と聞いて見たら、

　「達磨《だるま》だ」

と云つて、四人《よつたり》ながら面白さうに笑つた。自分は黙つてゐた。すると四人《よつたり》は自分を措《お》いて頻《しきり》に達磨の話を始めた。約十分餘りも續いたらう。其の間自分は外《ほか》の事を考へてゐた。色々考へたうちに一番感じたのは、自分がこんな泥だらけの服を着て、眞暗な坑《あな》のなかに屈《しやが》んでる所を、艶子さんと澄江さんに見せたらばと云ふ問題であつた。氣の毒がるだらうか、泣くだらうか、それとも浅間《あさま》しいと云つて愛想を盡かすだらうかと疑つて見たが、是は難なく氣の毒がつて、泣くに違ないと結論して仕舞つた。それで一目《ひとめ》位は此の姿を二人に見せたい樣な氣がした。それから昨夜《ゆうべ》圍炉裏の傍《そば》で散々馬鹿にされた事を思ひ出して、あの有樣を二人に見せたらばと考へた。所が今度は正反對で、二人共｜傍《そば》にゐてくれないで仕合せだと思つた。もし見られたらと想像して眼前に、意氣地《いくぢ》のない、大いに苛《いぢ》められてゐる自分の風體《ふうてい》と、ハイカラの女を二人描き出したら、甚だ氣恥づかしくなつて腋の下から汗が出さうになつた。是で見ると、坑夫に墮落すると云ふ事實其の物は左程《さほど》苦にならぬのみか、少しは得意の氣味で、たゞ坑夫になりたての幅の利かない所｜丈《だけ》を、女に見せたくなかつた譯になる。自分の器量を下げる所は、誰にも隱したいが、ことに女には隱したい。女は自分を頼る程の弱いものだから、頼られる丈《だけ》に、自分は器量のある男だと云ふ證據を何處迄も見せたいものと思はれる。結婚｜前《まへ》の男はことに此の感じが深い樣だ。人間はいくら窮した場合でも、時々は芝居｜氣《ぎ》を出す。自分がアテシコ〔四字傍点〕を臀《しり》に敷いて、深い坑のなかで、カンテラ〔四字傍点〕を提《ひつさ》げた儘、休んだ時の考へは、全く芝居じみてゐた。ある意味から云ふと、是が苦痛の骨休めである。公然の骨休めとも云ふべき芝居は全く此處から發達したものと思ふ。自分は發達しない芝居の主人公を腹の中で演じて、落膽しながら得意がつて居た。

　所へ突然肺臓を打ち拔かれたと思ふ位の大きな音がした。其の音は自分の足の下で起つたのか、頭の上で起つたのか、尻を懸けた丸太《まるた》も、黒い天井も一度に躍り上つたから、分からない。自分の頸と手と足が一度に動いた。縁側に脛《はぎ》をぶらさげて、膝頭《ひざがしら》を丁《ちやう》と叩くと、膝から下がぴくんと跳ねる事がある。此の時自分の身體の動き方は全く是れに似てゐる。然し是れよりも倍以上劇烈に來た樣な氣がした。身體ばかりぢやない、精神が其通りである。一人芝居の眞最中でとんぼ返りを打つて、忽ち我れに歸つた。音はまだつゞいてゐる。落雷を、土中《どちゆう》に埋《うづ》めて、自由の響きを束縛した樣に、澁つて、焦《いら》つて、陰に籠《こも》つて、抑へられて、岩に中《あた》つて、包まれて、激して、跳ね返されて、出端《では》を失つて、ごうと吼《ほ》えてゐる。

　「驚いちや不可《いけ》ねえ」

と初さんが云つた。さうして立ち上がつた。自分も立ち上がつた。三人の坑夫も立ち上がつた。

　「もう少しだ。遣つちまうかな」

と、鑿《のみ》を取り上げた。初さんと自分は作事場《さくじば》を出る。所へ煙《けむ》が來た。煙硝《えんせう》の臭《にほひ》が、眼へも鼻へも口へも這入つた。噎《む》せつぽくつて苦しいから、後《うしろ》を向いたら、作事場ではかあん、かあんともう仕事を始めだした。

　「なんですか」

と苦しい中で、初さんに聞いて見た。實は先《さつき》の音が耳に應《こた》へた時、こりや坑内で大破裂が起つたに違ないから、逃げないと生命《いのち》が危ないと迄思ひ詰めた位だのに、初さんは益《ます／＼》深く這入る氣色《けしき》だから、氣味が惡いとは思つたが、何しろ自由行動のとれる身體ではなし、精神は無論獨立の氣象を具へてゐないんだから、いかに先輩だつて逃げていゝ時分には、逃げてくれるだらうと安心して、後《あと》を附けて出ると、むつとする程の煙《けむ》が向ふから吹いて來たんで、こりや迂濶《うつかり》深入は出來ないわと云ふ腹もあつて、かた／”＼後《うしろ》を向く途端に、さつきの連中がもう、煙《けむ》の中でかあん、かあん、鑛《あらがね》を叩いてゐるのが聞えたんで、それぢや矢つ張り安心なのかと、不審のあまり此の質問を起して見たんである。すると初さんは、煙《けむ》の中で、咳を二つ三つしながら、

　「驚かなくつてもいゝ。ダイナマイト〔六字傍点〕だ」

と�ﾍへてくれた。

　「大丈夫ですか」

　「大丈夫でねえかも知れねえが、シキ〔二字傍点〕へ這入つた以上、仕方がねえ。ダイナマイト〔六字傍点〕が恐ろしくつちや一日だつて、シキ〔二字傍点〕へは這入れねえんだから」

　自分は黙つてゐた。初さんは煙《けむ》の中を押し分ける樣にずん／＼潜《くゞ》つて行く。滿更《まんざら》苦しくない事もないんだらうが、一つは新參の自分に對して、景氣を見せる爲ぢやないかと思つた。それとも煙《けむ》は坑《あな》から坑へ拔け切つて、陸《をか》の上なら、大抵晴れ渡つた時分なのに、路が暗いんで何時《いつ》迄《まで》も煙《けむ》が這つてる樣に感じたり噎《む》せつぽく思つたのかも知れない。さうすると自分の方が惡くなる。

　いづれにしても苦《くるし》い所を我慢して尾《つ》いて行つた。又｜胎内潜《たいないくゞ》りの樣な穴を拔けて、三四間｜宛《づゝ》の段々を、右へ左へ折れ盡すと、路が二股《ふたまた》になつてゐる。その條路《えだみち》の突き當りで、カラカラランと云ふ音がした。深い井戸へ石片《いしころ》を抛げ込んだ時と調子は似てゐるが、普通の井戸よりも、遙に深い樣に思はれた。と云ふものは、落ちて行く間《ま》に、側《がは》へ當つて鳴る音が、冴えてゐる。許《ばか》りか、餘程長くつゞく。最後のカラランは底の底から出て、出るには餘程｜手間《てま》がかゝる。けれども一本道を、眞直に上へ拔ける丈《だけ》で、外《ほか》に逃道がないから、どんなに暇取つても、屹度《きつと》出てくる。途中で消えさうになると、壁の反響が手傳つて、底で出た丈《だけ》の響は、いかに微《かすか》な遠くであつても、洩らす所なく上迄送り出す。――ざつと斯《こ》んな音である。カラララン。カカラアン。……

　初さんが留つた。

　「聞えるか」

　「聞えます」

　「スノコ〔三字傍点〕へ鑛《あらがね》を落してる」

　「はああ……」

　「序《ついで》だからスノコ〔三字傍点〕を見せて遣らう」

と、急に思ひ附いた樣な調子で、勢ひよく初さんが、一足｜後《あと》へ引いて草鞋《わらぢ》の踵を向け直した。自分が耳の方へ氣を取られて、返事もしないうちに、初さんは右へ切れた。自分も續いて暗いなかへ這入る。

　折れた路は僅か四尺程で行き當る。所を又右へ廻り込むと、一間｜許《ばか》り先が急に薄明るく、縱にも横にも廣がつてゐる。其の中に黒い影が二つあつた。自分達が其の傍《そば》迄近附いた時、黒い影の一つが、左の足と共に、精一杯前へ出した力を後《うしろ》へ拔く拍子に、大きな箕《み》を、斜《はす》に抛げ返した。箕《み》は足掛りの板の上に落ちた。カカン、カラカランと云ふ音が遠くへ落ちて行く。一尺前は大きな穴である。廣さは疊｜二疊敷《にでふじき》位はあるだらう。箕《み》に入れたばら〔二字傍点〕の鑛《あらがね》を、掘子《ほりこ》が抛げ込んだ許《ばか》りである。突き當りの壁は突立《つツた》つてゐる。微《かすか》なカンテラ〔四字傍点〕に照らされて、色さへしつかり分らない上が、一面に濡れて、濡れた所｜丈《だけ》がきら／＼光つてゐる。

　「覗いて見ろ」

　初さんが云つた。穴の手前が三尺｜許《ばか》り板で張り詰めてある。自分は板の三分の一程迄踏み出した。

　「もつと、出ろ」

と初さんが後《うしろ》から催促する。自分は躊躇した。是れでさへ踏板が外《はづ》れゝば、何處迄落ちて行くか分らない。ましてもう一尺前へ出れば、いざと云ふ時、土の上へ飛《と》び退《の》く手間《てま》が一尺｜丈《だけ》遅くなる。一尺は何でもない樣だが、此處では平地《ひらち》の十間にも當る。自分は何分《なにぶん》にも躊躇した。

　「出ろやい。吝《けち》な野郎だな。そんな事で掘子《ほりこ》が勤まるかい」

と云はれた。是れは初さんの聲ではなかつた。黒い影の一人が云つたんだらう。自分は振り返つて見なかつた。然し依然として足は前へ出なかつた。只眼｜丈《だけ》が、露で光つた薄暗い向ふの壁を傳はつて、下の方へ、次第に落ちて行くと、約一間ばかりは、どうにか見えるが、それから先は眞暗だ。眞暗だから何處迄視線に這入るんだか分らない。たゞ深いと思へば際限もなく深い。落ちちや大變だと神經を起すと、後《うしろ》から脊中を突かれる樣な氣がする。足は依然として故《もと》の位地を持ち應《こた》へてゐた。すると、

　「おい邪魔だ。一寸《ちよつと》退《ど》きな」

と聲を掛けられたんで、振り向くと、一人の掘子《ほりこ》が重さうに俵を抱へて立つてゐる。俵の大きさは米俵の半分位しかない。然し兩手で底を受けて、幾分か腰で支へながら、うんと氣合を入れてゐる所は、全く重さうだ。自分は此の體《てい》を見て、すぐ傍《わき》へ避《よ》けた。さうして比較的安全な、板が折れても差支なく地面へ飛《と》び退《の》ける程の距離迄｜退《しりぞ》いた。掘子は、俵で眼先がつかへてるから定めし劔呑《けんのん》がるだらうと思ひの外、容赦なく重い足を運ばして前へ出る。縁《ふち》から二尺｜許《ばか》り手前迄出て、足を揃へたから、もう留まるだらうと見てゐると、又出した。餘る所は一尺しきあない。其の一尺へ又五寸程切り込んだ。さうして行儀よく右左を揃へた。さうして、うんと云つた。胸と腰が同時に前へ出た。危ない。のめつたと思ふ途端に、重い俵は、とんぼ返りを打つて、掘子の手を離れた。掘子はもとの所へ突つ立つてゐる。落ちた俵はしばらく音沙汰もない。と思ふと遠くでどさつ〔三字傍点〕と云つた。俵は底迄落切つたと見える。

　「どうだ、あの藝が出來るか」

と初さんが聞いた。自分は、

　「さうですねえ」

と首を曲げて、恐れ入つてた。すると初さんも掘子《ほりこ》もみんな笑ひ出した。自分は笑はれても全く致し方がないと思つて、依然として恐れ入つてた。其の時初さんがこんな事を云つて聞かした。

　「何になつても修業は要るもんだ。遣つて見ねえうちは、馬鹿にや出來ねえ。お前《めえ》が掘子になるにしたつて、おつかながつて、手先｜許《ばか》りで抛げ込んで見ねえ。みんな板の上へ落ちゝまつて、肝心の穴へは這入りやしねえ。さうして、鑛《あらがね》の重みで引つ張り込まれるから、却つて劔呑《けんのん》だ。あゝ思ひ切つて胸から突き出してかゝらにや……」

と云ひ掛けると、外《ほか》の男が、

　「二三度スノコ〔三字傍点〕へ落ちて見なくつちや駄目だ。ハヽヽヽ」

と笑つた。

　後戻《あともどり》をして元の路へ出て、半町程行くと、掘子《ほりこ》は右へ折れた。初さんと自分は眞直に坂を下りる。下り切ると、四五間平らな路を縫ふ樣に突き當つた所で、初さんが留まつた。

　「おい。まだ下りられるか」

と聞く。實は餘程前から下りられない。然し中途で降參したら、落第するに極つてるから、我慢に我慢を重ねて、此處迄來た樣なものゝ、内心では其の内もうどん底へ行き着くだらう位の目算はあつた。そこへ持つて來て、相手がぴたりと留まつて、一段落《いちだんらく》附けた上、偖《さて》改めて、まだ下りる氣かと正式に尋ねられると、まだ下りるべき道程《みちのり》は決して一丁や二丁でないと云ふ意味になる。――自分は暗い乍ら初さんの顔を見て考へた。御免｜蒙《かうぶ》らうかしらと考へた。かう云ふ時の出處進退は、全く相手の思はく一つで極る。如何な馬鹿でも、如何な利口でも同じ事である。だから自分の胸に相談するよりも、初さんの顔色で判斷する方が早く片が附く。つまり自分の性格よりも周圍の事情が運命を決する場合である。性格が水準以下に下落する場合である。平生築き上げたと自信してゐる性格が、滅茶苦茶に崩れる場合のうちで尤も顕著なる例である。――自分の無性格論は此處からも出てゐる。

　前《ぜん》申す通り自分は初さんの顔を見た。すると、下《お》り樣《やう》ぢやないかと云ふ親密な情合《じやうあひ》も見えない。下りなくつちや御前の爲にならないと云ふ忠告の意も見えない。是非下ろして見せると云ふ威嚇《おどし》もあらはれてゐない。下りたからうと焦《じ》らす氣色《けしき》は無論ない。たゞ下りられまいと云ふ侮辱の色で持ち切つてゐる。それは何ともなかつた。然し其の色の裏面には落第と云ふ切實な問題が潜んでゐる。此の場合に於ける落第は、名誉より、品性より、何よりも大事件である。自分は窒息しても下りなければならない。

　「下りませう」

と思ひ切つて、云つた。初さんは案に相違の樣子であつたが、

　「ぢや、下《お》り樣《やう》。其代り少し危ないよ」

と穩かに同意の意を表《へう》した。成程危ない筈だ。九十度の角度で切つ立つた、屏風の樣な穴を眞直に下りるんだから、猿の仕事である。梯子《はしご》が懸つてる。勾配《こうばい》も何にもない。此方《こちら》の壁にぴつたり食つ附いて、棒を空《くう》にぶら下げた樣に、覗くと端《さき》が見えかねる。どこ迄續いてるんだか、どこで縛りつけてあるんだか、丸《まる》で分らない。

　「ぢや、己《おれ》が先へ下りるからね。氣を附けて來給へ」

と初さんが云つた。初さんが是れ程叮嚀な言葉を使はうとは思ひも寄らなかつた。大方｜神妙《しんべう》に下りませうと出たんで、幾分《いくぶん》か憐愍《れんみん》の念を起したんだらう。やがて初さんは、ぐるりと引つ繰り返つて、正式に穴の方へ尻を向けた。さうして屈《しやが》んだ。と思ふと、足から段々這入つて行く。仕舞には顔｜丈《だけ》が殘つた。やがて其の顔も消えた。顔が出てゐる間は、多少の安心もあつたが、黒い頭の先迄が、づぼりと穴へはまつた時は、流石《さすが》に心配なのと心細いのとで、凝《じつ》としてゐられなくつて、足をつま立てる樣にして、上から見下《みおろ》した。初さんは下りて行く。黒い頭とカンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》丈《だけ》が見える。其の時自分は氣味の惡いうちにも、かう考へた。初さんの姿が見えるうちに下りて仕舞はないと、下り損なふかも知れない。面目ない事が出來《しゆつたい》する。早くするに越した分別はないと決心して、いきなり後《うし》ろ向《むき》になつて初さんの樣に、膝を地《ぢ》に附けて、手で摺《ず》り下《さが》りながら、草鞋《わらぢ》の底で段々を探つた。

　兩手で第一段目を握つて、足を好加減《いゝかげん》な所へ掛けると、脊中が海老《えび》の樣に曲つた。それから、徐々《そろ／＼》足を伸ばし出した。眞直に立つと、カンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》が胸の所へ來る。じつとしてゐると燻《えぶ》されて仕舞ふ。仕方がないから、片足下げる。手も之に應じて握り更《か》へなくつちやならない。卸さうとすると、指で提《さ》げてるカンテラ〔四字傍点〕が、飛んだ所で、始末の惡い樣に動く。滅多に振ると、着物が燒けさうになる。大事を取ると壁へ打《ぶ》つかつて灯が揉み潰されさうになる。親指へカツプ〔三字傍点〕を差し込んで、振子の樣に動かした時は、甚だ輕便な器械だと思つたが、かうなると非常に邪魔になる。其の上｜梯子《はしご》の幅は狹い。段と段の間が頗る長い。一段さがるに、普通の倍は骨が折れる。そこへもつて來て恐怖が手傳ふ。さうして握り直すたんびに、段木《だんぎ》がぬら／＼する。鼻を押しつける樣にして、乏しい灯で透かして見ると、へな土が一面に粘《つ》いてゐる。上《のぼ》り下《さが》りの草鞋《わらぢ》で踏付けたものと思はれる。自分は梯子《はしご》の途中で、首を横へ出して、下を覗いた。よせば善かつたが、つい覗いた。すると急にぐら／＼と頭が廻つて、かたく握つた手がゆるんで來た。是は死ぬかも知れない。死んぢや大變だと、?《かじ》りついたなり、いきなり眼を閉《ねむ》つた。石鹸球《しやぼんだま》の大きなのが、ぐる／＼散らついてるうちに、初さんが降りて行く。本當を云ふと、下を覗いた時にこそ、初さんの姿が見えれば見えるんで、ねぶつた眼の前に湧いて出る石鹸球《しやぼんだま》の中に、初さんが居る譯がない。然し現にゐる。さうして降りて行く。如何にも不思議であつた。今考へると、目舞《めまひ》のする前に、ちらりと初さんを見たに違ないんだが、ぐら／＼と咄癡《とつち》て、死ぬ方が怖《こは》くなつたもんだから、初さんの影は網膜に映じたなり忘れちまつたのが、段木《だんぎ》に?りついて眼を閉《ねむ》るや否や生き返つたんだらう。但しさう云ふ事が學理上あり得るものか、どうか知らない。其の當時は夢中である。坑《あな》は暗い、命は惜しい、頭は亂れてゐる。生きてるか死んでるか判然しない。そこへ初さんが降りて行く。眼の中《なか》で降りて行くんだか、足の下で降りて行くんだか滅茶苦茶であつた。が不思議な事に、眼を開けるや否や又下を見る。すると矢張り初さんが降りてゐる。しかも切つ立つた壁の向ふ側を降りてゐる樣だ。今度は二度目の所爲《せゐ》か、落ちる程｜眩暈《めまひ》もしなかつたんで、よく／＼眸《ひとみ》を据ゑて見ると、正に向ふ側を降りて行く。はてなと思つた。所へカンテラ〔四字傍点〕が又じいと鳴つた。保證つきの燈火《あかり》だが、かうなると又心細い。初さんはずん／＼行く樣だ。自分も此《こゝ》に至れば、全速力で降りるのが得策だと考へ付いた。そこでぬる／＼する段木《だんぎ》を握り更《か》へ、握り更へて漸く三間ばかり下がると、足が土の上へ落ちた。踏んで見たが矢ツ張り土だ。念の爲、手を離さずに足元の樣子を見ると、梯子《はしご》は全く盡きてゐる。踏んで居る土も幅一尺で切れてゐる。あとは筒拔《つゝぬけ》の穴だ。其代り今度は向側《むかふがは》に別の梯子が附いてゐる。手を延ばすと屆く樣に懸けてある。仕方がないから、自分は又此の梯子《はしご》へ移つた。さうして出來る丈《だけ》早く降りた。長さは前のと同樣である。すると又逆の方向に、依然として梯子が懸けてある。どうも是非に及ばない。又移つた。漸《やつ》との思ひで是れも片付けると、新しい梯子は故《もと》の如く向側《むかふがは》に懸つてゐる。殆ど際限がない。自分が六つめの梯子迄來た時は、手が怠《だる》くなつて、足が悸《ふる》へ出して、妙な息が出て來た。下を見ると初さんの姿はとくの昔に消えてゐる。見れば見る程｜眞闇《まつくら》だ。自分のカンテラ〔四字傍点〕へはじい／＼と點滴《しづく》が垂れる。草鞋《わらぢ》の中へは清水《しみづ》がしみ込んで來る。

　しばらく休んでゐたら、手が拔けさうになつた。下り出すと足を踏み外《はづ》しかねぬ。けれども下りるだけ下りなければ、のめつて逆さに頭を割る許《ばか》りだと思ふと、どうか、かうか、段々を下り切る力が、どつかゝら出て來る。あの力の出所《でどころ》は到底分らない。然し此の時は一度に出ないで、少し宛《づゝ》、腕と腹と足へ※［者／火］染《にじ》み出す樣に來たから、自分でも、ちやんと自覺してゐた。丁度試驗の前の晩徹夜をして、疲勞の結果、うつとりして急に眼が覺めると、又五六頁は讀めると同じ具合だと思ふ。かう云ふ勉強に限つて、何を讀んだか分らない癖に、とにかく讀む事は讀み通すものだが、それと同じく自分も慥《たしか》に降りたとは斷言しにくいが、何しろ降りた事は慥《たしか》である。下讀《したよみ》をする書物の内容は忘れても、頁の數は覺えてゐる如く、梯子段《はしごだん》の數｜丈《だけ》は明かに記憶してゐた。丁度十五あつた。十五下り盡しても、まだ初さんが見えないには驚いた。然し幸ひ一本道だつたから、どぎまぎしながらも、細い穴を這ひ出すと、漸く初さんが居た。しかも、例の樣に無敵な文句は並べずに、

　「どうだ苦しかつたか」

と聞いて呉れた。自分は全く苦しいんだから、

　「苦しいです」

と答へた。次に初さんが、

　「もう少しだ我慢しちや、どうだ」

と奬勵した。次に自分は、

　「又｜梯子《はしご》があるんですか」

と聞いた。すると初さんが、

　「ハヽヽヽもう梯子はないよ。大丈夫だ」

と好意的の笑《ゑみ》を洩らした。そこで自分も我慢の爲序《しついで》だと觀念して、又初さんの尻について行くと、又下りる。さうして下りるに從つて路へ水が溜つて來た。ぴちや／＼と云ふ音がする。カンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》で照らして見ると、下谷《したや》邊《へん》の溝渠《どぶ》が溢れた樣に、薄鼠になつてだぶ／＼してゐる。其泥水が又馬鹿に冷たい。指の股が切られる樣である。けれども一面の水だから、折角水を拔いた足を、又無慘にも水の中へ落さなくつちやならない。片足を揚げると、五位鷺《ごゐさぎ》の樣に其の儘で立つてゐたくなる。夫《それ》でも仕方なしに草鞋《わらぢ》の裏を着けるとぴちやりと云ふが早いか、水際から、魚《さかな》の鰭《ひれ》の樣な波が立つ。其の片側がカンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》できら／＼と光るかと思ふと、すぐ落ち附いて故《もと》に歸る。折角｜平《たひら》になつた上を又ぴちやりと踏み荒らす。魚《さかな》の鰭《ひれ》がまた光る。かう云ふ風にして、奧へ奧へと這入つて行くと、水は段々深くなる。此處を潜《くゞ》り拔けたら、乾いた所へ出られる事かと、受け合はれない行先を宛《あて》にして、ぐるりと廻ると、足の甲でとまつてた水が急に脛《すね》迄來た。此の次にはと、辛抱して、右に折れると、がつくり落ちがして膝迄｜漬《つ》かつちまふ。かうなると、動くたんびにざぶ／＼云ふ。膝で切る波が渦を捲いて流れる。其渦が段々｜股《もゝ》の方へ押し寄せてくる。全く危險だと思つた。ことによれば、何かの原因で水が出たんだから、今に坑《あな》のなかが、一杯になりやしないかと思ふと急に腰から腹の中迄が冷たくなつて來た。然るに初さんは辟易《へきえき》した體《てい》もなく、さつさと泥水を分けて行く。

　「大丈夫なんですか」

と後《うしろ》から聞いて見たが、初さんは別に返事もしずに、依然として、ざぶり／＼と水を押し分けて行く。自分の考へる所によると、いくら銅山でも水に漬《つ》かつてゐては、仕事が出來る筈がない。かうどぶ附く以上は、何か變事でもあるか、又は廢坑へでも連れ込まれたに違ひない。いづれにしても災難だと、不安の念に冒されながら、もう一遍初さんに聞かうかしらと思つてるうち、水はとう／＼腰迄來て仕舞つた。

　「まだ這入るんですか」

と、自分は堪らなくなつたから、後《うしろ》から初さんを呼び留めた。此の聲は普通の質問の聲ではない。吾身を思ふの餘り、命が口から飛び出した樣なものである。だから、いざと云ふ間際には單音《たんいん》の叫聲となつてあらはれる所を、まだ初さんの手前を憚る丈《だけ》の餘裕があるから、しばらく恐怖の質問と姿を變じた迄である。此の聲を聞きつけた時は、流石《さすが》の初さんも水の中で留まつたなり、振り返つた。カンテラ〔四字傍点〕を高く差し上げる。眸を据ゑると初さんの眉の間に八の字が寄つて來た。しかも口元は笑つてゐる。

　「どうした。降參したか」

　「いえ、此の水が……」

と自分は、腰の邊《あたり》を、物凄さうに眺めた。初さんは毫も感心しない。矢つ張りにこ／＼してゐる。出水《でみづ》の徃來を、通行人が尻をまくつて面白さうに渉る時の樣に見えた。自分も是で疑ひは晴れたが、根が臆病だから、念の爲、もう一度、

　「大丈夫でせうか」

を繰返した。此時初さんは益《ます／＼》愉快さうな顔付きだつたが、やがて眞面目になつて、

　「八番坑だ。是れがどん底だ。水《みづ》位《ぐらゐ》あるなあ當前《あたりめえ》だ。そんなに、おつかながるにや當らねえ。まあ好いから此方《こつち》へ來ねえ」

と中々承知しないから、仕方なしに、股《また》迄濡らして附いて行つた。たゞさへ暗い坑《あな》の中だから、思ひ切つた喩《たとへ》を云へば、頭から暗闇に濡れてると形容しても差支ない。其の上本當の水、しかも坑と同じ色の水に濡れるんだから、心持の惡い所が、倍惡くなる。其の上水は踝《くろぶし》から段々｜競《せ》り上がつて來る。今では腰迄｜漬《つ》かつてゐる。しかも動くたんびに、波が立つから、實際の水際以上迄が濡れてくる。さうして、濡れた所は乾かないのに、波はことによると、濡れた所よりも高く上がるから、つまりは一寸二寸と身體が腹迄冷えてくる。坑《あな》で頭から冷えて、水で腹迄冷えて、二重に冷え切つて、不知案内《ふちあんない》の所を海鼠《なまこ》の樣に附いて行つた。すると、右の方に穴があつて、洞《ほら》の樣に深く開《ひら》いてる中から、水が流れて來る。さうして其の中でかあん／＼と云ふ音がする。作事場《さくじば》に違ひない。初さんは、穴の前に立つた儘、

　「そうら。此んな底でも働いてるものがあるぜ。眞似が出來るか」

と聞いた。自分は、胸が水に浸《ひた》る迄、屈《こゞ》んで洞《ほら》の中を覗き込んだ。すると奧の方が一面に薄明るく――明るくと云ふが、締りのない、取り留めのつかない、徴《かすか》な灯《ひ》を無理に廣い間《ま》へ使つて、引つ張り足りないから、折角の光が暗闇に壓倒されて、茫然と濁つてゐる體《てい》であつた。其の中に一段と黒いものが、斜めに岩へ吸ひ附いてゐる邊《あたり》から、かあん／＼と云ふ音が出た。洞《ほら》の四面へ響いて、行き所のない苦しまぎれに、水に跳ね返つたものが、纒まつて穴の口から出て來る。水も出てくる。天井の暗い割には水の方に光がある。

　「這入《へえ》つて見るか」

と云ふ。自分はぞつと寒氣がした。

　「這入らないでも好いです」

と答へた。すると初さんが、

　「ぢや止《や》めにして置かう。然し止めるなあ今日｜丈《だけ》だよ」

と但し書を附けて、一應自分の顔を篤《とく》と見た。自分は案の定《ぢやう》釣り出された。

　「明日《あした》つから、此處で働くんでせうか。働くとすれば、何時間水に漬《つ》かつてる――漬《つ》かつてれば義務が濟むんですか」

　「さうさなあ」

と考へてゐた初さんは、

　「一晝夜に三回の交替だからな」

と説明してくれた。一晝夜に三回の交替なら一句切《ひとくぎり》八時間になる。自分は黒い水の上へ眼を落した。

　「大丈夫だ。心配しなくつてもいゝ」

　初さんは突然慰めて呉れた。氣の毒になつたんだらう。

　「だつて八時間は働かなくつちやならないんでせう」

　「そりや極まりの時間｜丈《だけ》は働かせられるのは知れ切つてらあ。だが心配しなくつてもいゝ」

　「何《ど》うしてですか」

　「好いてえ事よ」

と初さんは歩き出した。自分も黙つて歩き出した。二三歩水をざぶ／＼云はせた時、初さんは急に振り返つた。

　「新前《しんめえ》は大抵二番坑か三番坑で働くんだ。餘つ程樣子が分らなくつちや、此處迄下りちや來られねえ」

と云ひながら、にや／＼と笑つた。自分もにや／＼と笑つた。

　「安心したか」

と初さんが又聞いた。仕方がないから、

　「えゝ」

と返事をして置いた。初さんは大得意であつた。時にどぶ／＼動く水が、急に膝迄減つた。爪先で探ると段々がある。一つ、二つと勘定すると三つ目で、水は踝《くろぶし》迄落ちた。それで平らに續いてゐる。意外に早く高い所へ出たんで、非常に嬉しかつた。それから先は、とん／＼拍子に嬉しくなつて、曲れば曲る程地面が乾いて來る。仕舞にはぴちやりとも音のしない所へ出た。時に初さんが器械を見る氣があるかと尋ねたが、是れは諸方のスノコ〔三字傍点〕から落ちて來た鑛《あらがね》を聚《あつ》めて、第一坑へ揚げて、それから電車でシキ〔二字傍点〕の外へ運び出す仕掛を云ふんだと聞いて、頭から御免｜蒙《かうぶ》つた。いくら面白く運轉する器械でも、明日《あす》の自分に用のない所は見る氣にならなかつた。器械を見ないとすると是れで、まあ坑内の模樣を一應見物した譯になる。そこで案内の初さんが歸るんだと云ふ通知を與へてくれた。腰きり水に漬《つ》かるのは、如何な初さんも一度で澤山だと見えて、歸りには比較的濡れないで濟む路を通つてくれた。それでも十間程は腫《ふく》ら脛《はぎ》迄水が押し寄せた。此の十間を通るときに、樣子を知らない自分は又例の所へ來たなと感附いて、徃きに臍《へそ》の近所が氷りつきさうであつた事を思ひ出しつゝ、今か今かと冷たい足を運んで行つたが、?《いすか》の嘴《はし》と善《い》い方へばかり、食ひ違つて、行けば行くほど、水が淺くなる。足が輕くなる。遂には又乾いた路へ出て仕舞つた。初さんに、

　「もう濟んだでせうか」

と聞いて見ると、初さんは只笑つてゐた。其の時は自分も愉快だつたが、しばらくすると、例の梯子《はしご》の下へ出た。水は胸迄位我慢するが此の梯子には、――せめて歸り路｜丈《だけ》でも好いから、遁《のが》れたかつたが、矢つ張り丁度其の下へ出て來た。自分は蜀《しよく》の棧道《さんだう》と云ふ事を人から聞いて覺えてゐた。此の梯子は、棧道を逆《さかさ》に釣るして、未練なく傾斜の角度を拔きにしたものである。自分は其處へ來ると急に足が出なくなつた。突然｜脚氣《かつけ》に罹《かゝ》つた樣な心持になると、思はず、腰を後《うしろ》へ引つ張られた。引つ張られたのは初さんに引つ張られたのかと思ふ讀者もあるかもしれないが、さうぢやない。さう云ふ氣分が起つたんで、強ひて形容すれば、疝氣《せんき》に引つ張られたとでも叙したら善からう。何しろ腰が伸《の》せない。尤も是れは逆棧道《さかさんだう》の崇《たゝ》りだと一概に斷言する氣でもない、さつきから案内の初さんの方で、大分《だいぶ》御機嫌が好いので、相手の寛大な御情《おなさけ》に附け上つて、奮發の箍《たが》が次第々々に緩んだのも慥《たしか》な事實である。何しろ、歩けなくなつた。此の腰附を見てゐた初さんは、

　「どうだ歩けさうもねえな。丸《まる》で屁《へ》つぴり腰だ。ちつと休むが好い。おれは遊びに行つて來るから」

と云つたぎり、暗い所を潜《くゞ》つて、何處へか出て行つた。

　あとは云ふ迄もなく一人になる。自分はべつとりと、尻を地びたへ着けた。アテシコ〔四字傍点〕はかう云ふときに非常な便利になる。御蔭で、岩で骨が痛んだり、泥で着物が汚《よご》れたりする憂ひがない丈《だけ》、惨憺《みじめ》なうちにも、まだ嬉しい所があつた。さうして、硬く曲つた脊中を壁へ倚《も》たせた。是れより以上は横のものを竪にする氣もなかつた。たゞ其の儘の姿勢で向ふの壁を見詰めてゐた。身體が動かないから、心も働かないのか、心が居坐りだから、身體が怠けるのか、とにかく、雙方｜相《あひ》び合つて、生死《せいし》の間《あひだ》に彷徨《はうくわう》してゐたと見えて、しばらくは萬事が不明瞭であつた。始めは、どうか一尺立方でもいゝから、明かるい空氣が吸つて見たい樣な氣がしたが、段々心が昏《くら》くなる。と坑《あな》のなかの暗いのも忘れて仕舞ふ。どつちがどつちだか分らなくなつて朦朧のうちに合體《がつたい》稠和《ちうわ》して來た。然し決して寢たんぢやない。しんとして、意識が稀薄になつた迄である。然し其の稀薄な意識は、十倍の水に溶いた婆婆氣《しやばツき》であるから、いくら不透明でも正氣は失はない。丁度差し向ひの代りに、電話で話しをする位の程度――もしくは是れよりも少しく不明瞭な程度である。斯樣に水平以下に意識が沈んでくるのは、浮世の日が烈し過ぎて困る自分には――東京にも田舎にも居り終《おほ》せない自分には――煩悶の解熱劑《げねつざい》を頓服《とんぷく》しなければならない自分には――神經繊維の端《はじ》の端《はじ》迄寄つて來た過度の刺激を散らさなければならない自分には――必要であり、願望であり、理想である。長藏さんに引張られながら、道々空想に描いた坑夫生活よりも、慥《たしか》に上等の天國である。もし驅落《かけおち》が自滅の第一着なら、此の境界は自滅の――第何着か知らないが、兎に角終局地を去る事遠からざる停車場《ステーシヨン》である。自分は初さんに置いて行かれた少時《しばし》の休憩時間内に、圖らずも此の自滅の手前迄、突然釣り込まれて、――まあ、どんな心持がしたと思ふ。正直に云へば嬉しかつた。然し嬉しいと云ふ自覺は十倍の水に溶き交ぜられた正氣の中に遊離してゐるんだから、外《ほか》の婆婆氣《しやばツき》と同じく、劇烈には來ない。矢つ張り稀薄である。けれど自覺は慥《たしか》にあつた。正氣を失はないものが、嬉しいと云ふ自覺だけを取り落す譯がない。自分の精神?態は活動の區域を狹《せば》められた片輪の心的現象とは違ふ。一般の活動を悉《ほしいまゝ》にする自由の天地は故《もと》の如くに存在して、活動其の物の強度が減却して來たのみだから、平常の我と此の時の我との差はたゞ濃淡の差である。其の最も淡《うす》い生涯の中《うち》に、淡《うす》い喜びがあつた。

　もし此?態が一時間續いたら、自分は一時間の間滿足してゐたらう。一日續いたら一日の間滿足したに違ない。もし百年續いたにしても、矢張《やつぱり》嬉しかつたらう。所が――此處で又新しい心の活作用に現參《げんざん》した。

　といふのは生憎《あいにく》、此の?態が自分の希望通同じ所に留つてゐてくれなかつた。動いて來た。油の盡きかゝつたランプ〔三字傍点〕の灯《ひ》の樣に動いて來た。意識を數字であらはすと、平生十のものが、今は五になつて留まつてゐた。それがしばらくすると四になる。三になる。推して行けばいつか一度は零《れい》にならなければならない。自分は此の經過に連れて淡《うす》くなりつゝ變化する嬉しさを自覺してゐた。此の經過に連れて淡《うす》く變化する自覺の度に於て自覺してゐた。嬉しさは何處迄行つても嬉しいに違ない。だから理窟から云ふと、意識がどこ迄｜降《さが》つて行かうとも、自分は嬉しいとのみ思つて、滿足するより外に道はない筈である。所が段々と競《せ》り卸して來て、愈《いよ／＼》零《れい》に近くなつた時、突然として暗中《あんちゆう》から躍り出した。こいつは死ぬぞと云ふ考へが躍り出した。すぐに續いて、死んぢや大變だと云ふ考へが躍り出した。自分は同時に、豁《くわつ》と眼を開《あ》いた。

　足の先が切れさうである。膝から腰迄が血が通《かよ》つて氷りついてゐる。腹は水でも詰めた樣である。胸から上は人間らしい。眼を開けた時に、眼を開けない前の事を思ふと、「死ぬぞ、死んぢや大變だ」迄が順々につながつて來て、そこで、ぷつりと切れてゐる。切れた次ぎは、すぐ眼を開《あ》いた所作《しよさ》になる。つまり「死ぬぞ」で命の方向轉換をやつて、やつてからの第一所作が眼を開《あ》いた譯になるから、二つのものは全く離れてゐる。それで全く續いてゐる。續いてゐる證據には、眼を開《あ》いて、身の周圍《まはり》を見た時に、「死ぬぞ……」と云ふ聲が、まだ耳に殘つてゐた。慥《たし》かに殘つてゐた。自分は聲だの耳だのと云ふ字を使ふが、外には形容しやうがないからである。形容｜所《どころ》ではない、實際に「死ぬぞ……」と注意して呉れた人間があつたとしきや受け取れなかつた。けれども、人間は無論ゐる筈はなし。と云つて、神――神は大嫌だ。矢つ張り自分が自分の心に、あわてゝ思ひ浮べた迄であらうが、夫《それ》程《ほど》人間が死ぬのを苦に病んでゐやうとは夢にも思ひ浮べなかつた。これだから自殺｜抔《など》は出來ない筈である。かう云ふ時は、魂の段取《だんどり》が平生と違ふから、自分で自分の本能に支配されながら、丸《まる》で自覺しないものだ。氣を附けべき事と思ふ。此の例なども、解釋のしやうでは、神が助けて呉れたともなる。自分の影身《かげみ》に附き添つてゐる――まあ戀人が多い樣だが――さう云ふ人々の魂が救つたんだともなる。年の若い割に、自分が此の聲を艶子さんとも澄江さんとも解釋しなかつたのは、己惚《うぬぼれ》の強い割には感心である。自分は生れつき夫《それ》程《ほど》詩的でなかつたんだらう。

　そこへ初さんがひよつくり歸つて來た。初さんを見るが早いか、自分の意識は愈《いよ／＼》明瞭になつた。是れから例の逆棧道《さかさんだう》を登らなくつちやならない事も、明日《あした》から、鑿《のみ》と槌でかあん／＼遣らなくつちやならない事も、南京米《ナンキンまい》も、南京蟲《ナンキンむし》も、ジャンボー〔五字傍点〕も達磨《だるま》も一時に殘らず分つて仕舞ひ、さうして最後に自分の墮落が尤も明かに分つた。

　「些《ちつ》たあ氣分は好いか」

　「えゝ少しは好い樣です」

　「ぢや、そろ／＼登つて遣らう」

と云ふから、禮を云つて立つてゐると、初さんは景氣よく段木《だんぎ》を捕《つかま》へて片足｜踏《ふ》ん掛《が》けながら、

　「登りは少し骨が折れるよ。其の積《つもり》で尾《つ》いて來ねえ」

と振り返つて、注意しながら登り出した。自分は何となく寒々しい心持になつて、下から見上げると、初さんは登つて行く。猿の樣に登つて行く。そろ／＼登つて呉れる樣子も何もありやしない。早くしないと又置いてきぼりを食ふ恐れがある。自分も思ひ切つて登り出した。すると二三段足を運ぶか運ばないうちに成程と感心した。初さんの云ふ通り非常に骨が折れる。全く疲れてゐる許《ばか》りぢやない。下りる時には、胸から上が比較的前へ出るんで、幾分か脊の重みを梯子《はしご》に託する事が出來る。然し上りになると、全く反對で、稍《やゝ》ともすると、身體が後《うしろ》へ反《そ》れる。反れた重みは、兩手で持ち應《こた》へなければならないから、二の腕から肩へかけて一段毎に餘分の税がかゝる。のみならず、手《て》の平《ひら》と五本の指で、此の〆高《しめだか》を握らなければならない。それが前に云つた通りぬる／＼する。梯子を一つ片附けるのは容易の事ではない。しかも夫《それ》が十五ある。初さんは、とつくの昔に消えてなくなつた。手を離しさへすれば眞暗闇に逆落《さかおと》しになる。離すまいとすれば肩が拔ける許《ばか》りだ。自分は七番目の梯子の途中で火?の樣な息を吹きながら、つく／”＼勞働の困難を感じた。さうして熱い涙で眼が一杯になつた。

　二三度｜上瞼《うはまぶた》と下瞼《したまぶた》を打ち合して見たが、依然として、視覺はぼうつとしてゐる。五寸と離れない壁さへ慥《たしか》には分らない。手の甲で擦《こす》らうと思ふが、生憎《あやにく》兩方とも塞がつてゐる。自分は口惜《くやし》くなつた。何故《なぜ》こんな猿の眞似をする樣に零落《おちぶ》れたのかと思つた。倒れさうになる身體を、出來る丈《だけ》前の方にのめらして、梯子《はしご》に倚《もた》れる丈《だけ》倚《もた》れて考へた。休んだと註釋する方が適當かも知れない。たゞ中途で留まつたと云ひ切つても宜しい。何しろ動かなくなつた。又動けなくなつた。凝《ぢつ》として立つてゐた。カンテラ〔四字傍点〕のじいと鳴るのも、足の底へ清水《しみづ》が沁み込むのも、全く氣が附かなかつた。從つて何分《なんぷん》過《た》つたのか頓《とん》と感じに乘らない。すると又熱い涙が出て來た。心が存外｜慥《たし》かであるのに、眼｜丈《だけ》が霞んでくる。いくら瞬《まばたき》をしても駄目だ。湯の中に眸を漬《つ》けてる樣だ。くしや／＼する。焦心《じれつ》たくなる。癇が起る。奮興《ふんこう》の度が烈しくなる。さうして、身體は思ふ樣に利かない。自分は齒を食ひ締《しば》つて、兩手で握つた段木《だんぎ》を二三度搖り動かした。無論動きやしない。一層《いっそ》の事、手を離しちまはうかしらん。逆さに落ちて頭から先へ碎ける方が、早く片が附いていゝ。とむら／＼と死ぬ氣が起つた。――梯子の下では、死んぢや大變だと飛び起きたものが、梯子の途中へ來ると、急に太い短い無分別を起して、全く死ぬ氣になつたのは、自分の生涯に於ける心理推移の現象のうちで、尤も記憶すべき事實である。自分は心理學者でないから、かう云ふ變化を、どう説明したら適切であるか知らないけれども、心理學者は却つて、實際の經驗に乏しい樣にも思ふから、杜撰《づさん》ながら、一應自分の愚見｜丈《だけ》を述べて、參考にしたい。

　アテシコ〔四字傍点〕を尻に敷いて、休息した時は、始めから休息する覺悟であつた。から心に落ち附きが有る。刺激が少い。さう云ふ?態で壁へ倚《よ》りかゝつてゐると、其の?態がなだらかに進行するから、自然の勢ひとして段々氣が遠くなる。魂が沈んで行く。かう云ふ場合に於ける精神運動の方向は、いつも極まつたもので、必ず積極から出立して次第に消極に近づく徑路《けいろ》を取るのが普通である。所が其の普通の徑路を行き悉くして、もう是れがどん詰《づまり》だと云ふ間際になると、魂が割れて二樣の所作《しよさ》をする。第一は順風に帆を上げる勢ひで、此どん底迄流れ込んで仕舞ふ。すると夫《それ》限《ぎり》死ぬ。でなければ、大切《おほぎり》の手前迄行つて、急に反對の方角に飛び出してくる。消極へ向いて進んだものが、突如として、逆さまに、積極の頭へ戻る。すると、命が忽ち確實になる。自分が梯子《はしご》の下で經驗したのは此の第二に當る。だから死に近づきながら好い心持に、三途《さんづ》の此方《こちら》側迄行つたものが、順路をてく／＼引き返す手數《てすう》を省いて、急に、娑婆の眞中に出現したんである。自分は之を死を轉じて活に歸《かへ》す經驗と名づけてゐる。

　所が梯子の中途では、全く之と反對の現象に逢つた。自分は初さんの後《あと》を追つ懸けて登らなければならない。其の初さんは、とつくに見えなくなつて仕舞つた。心は焦《あせ》る、氣は揉《も》める、手は離せない。自分は猿よりも下等である。情ない。苦しい。――萬事が痛切である。自覺の強度が次第々々に劇しくなる許《ばか》りである。だから此の場合に於ける精神運動の方向は、消極より積極に向つて登り詰める?態である。偖《さ》て其の?態がいつ迄も進行して、奮興《ふんこう》の極度に達すると、矢張り二樣の作用が出る譯だが、とくに面白いと思ふのは其一つ、――即ち積極の頂點からとんぼ返りを打つて、魂が消極の末端にひよつくり現はれる奇特《きどく》である。平たく云ふと、生きてる事實が明瞭になり切つた途端に、命を棄て樣《やう》と決心する現象を云ふんである。自分は之を活上《くわつじやう》より死に入る作用と名《なづ》けてゐる。此の作用は矛盾の如く思はれるが實際から云ふと、矛盾でも何でも、魂の持前だから存外自然に行はれるものである。論より證據發奮して死ぬものは奇麗に死ぬが、いぢけて殺されるものは、どうも旨く死に切れない樣だ。人の身の上は兎に角、かう云ふ自分が好い證據である。梯子《はしご》の途中で、えゝ忌々《いま／＼》しい、死んじまへと思つた時は、手を離すのが怖《こは》くも何ともなかつた。無論例の如くどきん抔《など》とは決してしなかつた。所がいざ死なうとして、手を離しかけた時に、又妙な精神作用を承常《しようたう》した。

　自分は元來が小説的の人間ぢやないんだが、まだ年が若かつたから、今迄浮氣に自殺を計畫した時は、いつでも花々しく遣つて見せたいと云ふ念があつた。短銃《ピストル》でも九寸五分《くすんごぶ》でも立派に――つまり人が賞めてくれる樣に死んで見度いと考へてゐた。出來るならば、華嚴《けごん》の瀑《たき》迄でも出向きたい杯《なと》と思つた事もある。然しどうしても便所や物置で首を縊《くゝ》るのは下等だと斷念してゐた。其虚榮心が、此の際突然首を出した。どこから出したか分らないが、出した。詰り出す丈《だけ》の餘地があつたから出したに相違あるまいから、自分の決心は如何に眞面目であつたにしても、左程《さほど》差し逼《せま》つてはゐなかつたんだらう。然し此の位斷乎として、現に梯子段《はしごだん》から手を離しかけた、最中に首を出す位だから、相手も中々深い勢力を張つてゐたに違ない。尤も是れは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔もあるまいから、普通の人間としては別に怪しむ可き願望とも思はないが、何しろ此の際の自分には、ちと贅澤過ぎた樣だ。然し此の贅澤心の爲に、自分は發作性《ほつさせい》の急徃生を思ひとまつて、不束《ふつゝか》ながら今日迄生きてゐる。全く今はの際《きは》にも弱點を引張つてゐた御蔭である。

　話すとかうなる。――愈《いよ／＼》死んぢまへと思つて、體を心持｜後《あと》ヘ引いて、手の握をゆるめかけた時に、どうせ死ぬなら、此處で死んだつて冴えない。待て待て、出てから華嚴《けごん》の瀑《たき》へ行けと云ふ號令――號令は變だが、全く號令のやうなものが頭の中に響き渡つた。ゆるめかけた手が自然と緊《しま》つた。曇つた眼が、急に明かるくなつた。カンテラ〔四字傍点〕が燃えてゐる。仰向くと、泥で濡れた梯子段《はしごだん》が、暗い中迄續いてゐる。是非共登らなければならない。もし途中で挫折すれば犬死になる。暗い坑《あな》で、誰も人のゐない所で、日の目も見ないで、鑛《あらがね》と同じ樣にころげ落ちて、それつきり忘れられるのは――案内の初さんにさへ忘れられるのは――よし見附かつても半獣半人の坑夫共に輕蔑されるのは無念である。是非共登り切つちまはなければならない。カンテラ〔四字傍点〕は燃えてゐる。梯子《はしご》は續いてゐる。梯子の先には坑《あな》が續いてゐる。坑の先には太陽が照り渡つてゐる。廣い野がある、高い山がある。野と山を越して行けば華嚴《けごん》の瀑《たき》がある。――どうあつても登らなければならない。

　左の手を頭の上迄伸ばした。ぬらつく段木《だんぎ》を指の痕《あと》のつく程強く握つた。濡れた腰をうんと立てた。同時に右の足を一尺上げた。カンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》は暗い中を竪に動いて行く。坑《あな》は層一層《そういつそう》と明かるくなる。踏み棄てゝ去る段々は次第々々に暗い中に落ちて行く。吐く息が黒い壁へ當る。熱い息である。さうして時々は白く見えた。次には口を結んだ。すると鼻の奧が鳴つた。梯子はまだ盡きない。懸崖からは水が垂れる。ひらりとカンテラ〔四字傍点〕を翻《ひるが》へすと、崖の面《おもて》を掠《かす》めて弓形にじいと、消えかゝつて、手の運動の止まる所へ落ち附いた時に、又眞直に油煙を立てる。又翻へす。灯《ひ》は斜めに動く。梯子《はしご》の通る一尺幅を外《はづ》れて、がんがらがんの壁が眼に映《うつ》る。ぞつとする。眼が眩《くら》む。眼を閉《ねむ》つて、登る。灯も見えない、壁も見えない。たゞ暗い。手と足が動いてゐる。動く手も動く足も見えない。手障《てざはり》足障《あしざはり》丈《だけ》で生きて行く。生きて登つて行く。生きると云ふのは登る事で、登ると云ふのは生きる事であつた。それでも　――梯子はまだある。

　それから先は殆ど夢中だ。自分で登つたのか、天佑で登つたのか殆ど判然しない。たゞ登り切つて、もう一段も握る梯子がないと云ふ事を覺《さと》つた時に、坑《あな》の中へぴたりと坐つた。

　「どうした。上がつて來たか。途中で死にやしねえかと思つて、――あんまり長えから。見に行かうかと思つたが、一人ぢや氣昧がわるいからな。だけども、好く上がつて來たな。えらいや」

と待ちかねて、もぢ／＼してゐた初さんが大いに喜んで呉れた。何でも梯子《はしご》の上で餘つ程心配してゐたらしい。自分はたゞ、

　「少し氣分が惡《わ》るかつたから途中で休んでゐました」

と答へた。

　「氣分が惡い？　そいつあ困つたらう。途中つて、梯子の途中か」

　「えゝ、まあさうです」

　「ふうん。ぢや明日《あす》は作業も出來めえ」

　此の一言《いちごん》を聞いた時、自分は糞でも食《くら》へと思つた。誰が土龍《もぐらもち》の眞似なんかするものかと思つた。是れでも美しい女に惚れられたんだと思つた。坑《あな》を出れば、すぐ華嚴《けごん》の瀑《たき》迄行くんだと思つた。さうして立派に死ぬんだと思つた。最後に半時も斯《こ》んな獣《けだもの》を相手にして居られるものかと思つた。そこで、自分は初さんに向つて、簡單に、

　「宜《よ》ければ上がりませう」

と云つた。初さんは怪訝《けげん》な顏をした。

　「上がる？　元氣だなあ」

　自分は「馬鹿にするねえ、此の明盲目《あきめくら》め。人を見損《みそく》なやがつて」と云ひたかつた。然し口｜丈《だけ》は叮嚀に、一言《ひとこと》、

　「えゝ」

と返事をして置いた。初さんはまだ愚圖々々してゐる。驚いたと云ふよりも、矢張《やつぱ》り馬鹿にした愚圖《ぐづ》つき方《かた》である。

　「おい大丈夫かい。冗談ぢやねえ。頭色が惡いぜ」

　「ぢや僕が先へ行きませう」

と自分はむつとして歩き出した。

　「不可《いけ》ねえ、不可《いけ》ねえ。先へ行つちや不可《いけ》ねえ、後《あと》から尾《つ》いて來ねえ」

　「さうですか」

　「當前《あたりめえ》だあな。人つけ。誰が案内を置き去にして、先へ行く奴があるかい。何でい」

と初さんは、自分を拂ひ退《の》けない許《ばか》りにして、先へ出た。出たと思ふと急に速力を�揩ｵた。腰を折つたり、四つに這つたり、脊中を横《よこ》つ丁《ちよ》にしたり、頭｜丈《だけ》曲げたり、坑《あな》の恰好《かつかう》次第で色々に變化する。さうして非常に急ぐ。丸《まる》で土の中で生れて、銅脈の奧で�ﾍ育を受けた人間の樣である。畜生｜中《ちゆう》つ腹《ぱら》で急ぎやがるなと、此方《こつち》も負けない氣で歩き出したが、そこへ行くと、いくら氣《き》許《ばか》り張つてゐても駄目だ。五つ六つ角を曲つて、下りたり上《あが》つたり、我多《がた》つかせてゐるうちに、初さんは見えなくなつた。と思ふと、何とかして、何とか、てゝゝゝゝと云ふ歌を唄ふ。初さんの姿が見えないのに、初さんの聲｜丈《だけ》は、坑《あな》の四方へ反響して、籠《こも》つた樣に打ち返してくる。意地の惡い野郎だと思つた。始めのうちこそ、追つ附いて遣るから今に見てゐろと云ふ勢で、根《こん》限《かぎ》り這つたり屈《かゞ》んだりしたが、殘念な事には初さんの歌が段々遠くへ行つて仕舞ふ。そこで自分は追ひ附く事は一先づ斷念して、初さんのてゝゝゝゝを道案内にして進む事にした。當分は夫《それ》で大概の見當が附いたが、仕舞には其のてゝゝゝゝも怪しくなつて、とう／＼丸《まる》で聞えなくなつた時には、流石《さすが》に茫然とした。一本道なら初さんなんどを頼りにしなくつても、自力《じりき》で日の當る所迄歩いて出て見せるが、何しろ、長年《ながねん》掘荒した坑《あな》だから、丸《まる》で土蜘昧の根據地見た樣に色々な穴が、飛んでもない所に開《あ》いてゐる。滅多な穴へ這入るとまた腰きり水に漬《つか》る所か、でなければ、例の逆《きか》さの棧道へ出さうで容易に踏み込めない。

　そこで自分は暗い中に立ち留つて、カンテラ〔四字傍点〕の灯《ひ》を見詰めながら考へた。徃きには八番坑迄下りて行つたんだから歸りには是非共電車の通る所まで登らなければならない。どんな穴でも上《のぼ》りならば好いとする。其代り下りなら引返して、又出直す事にする。さうして迂路《うろ》ついてゐたら、どこかの作事場《さくじば》へ出るだらう。出たら坑夫に聞くとしやう。かう決心をして、東西南北の判然しない所を好い加減に迷《まご》ついて居た。非常に氣が急《せ》いて息が切れたが、滅茶々々に歩いた爲に足の冷たいの丈《だけ》は癒つた。然し中々出られない。何だか同じ路を徃つたり來たりする樣な案排《あんばい》で、あんまり、もどかしいものだから、壁へ頭を打《ぶ》つけて割つちまいたくなつた。どつちを割るんだと云へば無論頭を割るんだが、幾分か壁の方も割れるだらう位の疳癪が起つた。どうも歩けば歩く程天井が邪魔になる、左右の壁が邪魔になる。草鞋《わらぢ》の底で踏む段々が邪魔になる。坑《あな》總體が自分を閉ぢ込めて、いつ迄立つても出して呉れないのが尤も邪魔になる。此の邪魔ものゝ一局部へ頭を擲《たゝ》きつけて、責《せ》めて罅《ひゞ》でも入らしてやらうと――やらない迄も時々思ふのは、早く華嚴《けごん》の瀑《たき》へ行きたいからであつた。さうかうしてゐるうちに、向ふから一人の掘子《ほりこ》が來た。ばらの銅《あかゞね》をスノコ〔三字傍点〕へ運ぶ途中と見えて例の箕《み》を抱《だ》いてよち／＼カンテラ〔四字傍点〕を搖《ゆ》りながら近づいた。此の灯《ひ》を見附けた時は、嬉しくつて胸がどきりと飛び上がつた。もう大丈夫と勇んで近寄つて行くと、近寄るがものはない、向ふでも此方《こつち》へ歩いて來る。二つのカンテラ〔四字傍点〕が一間｜許《ばか》りの距離に近寄つた時、待ち受けた樣に、自分は掘子の顔を見た。すると其顏が非常な蒼《あを》ん藏《ざう》であつた。此｜坑《あな》のなかですら、只事とは受取れない蒼《あを》ん藏《ざう》である。明海《あかるみ》へ出して、青い空の下で見たら、大變な蒼《あを》ん藏《ざう》に違ない。それで口を利くのが厭になつた。こんな奴の癖に人に調戯《からか》つたり、嬲《なぶ》つたり、辱《はづか》しめたりするのかと思つたら、猶々《なほ／＼》道を聞くのが厭になつた。死んだつて一人で出て見せると云ふ氣になつた。手前共に口を聞く樣な安つぽい男ぢやないと、腹の中で慥《たしか》に申し渡して擦れ違つた。向ふは何にも知らないから、是れは無論だまつて擦れ違つた。行く先は暗くなつた。カンテラ〔四字傍点〕は一つになつた。氣は益《ます／＼》焦慮《いら》つて來た。けれども中々出ない。たゞ道は何處迄もある。右にも左にもある。自分は右にも這入つた、又左にも這入つた、又眞直にも歩いて見た。然し出られない。愈《いよ／＼》出られないのかと、少しく途方に暮れてゐる鼻の先で、かあん／＼と鳴り出した。五六歩で突き當つて、折れ込むと、小さな作事場《さくじば》があつて、一人の坑夫がしきりに槌を振り上げて鑿《のみ》を敲いてゐる。敲くたんびに鑛《あらがね》が壁から落ちて來る。其の傍《そば》に俵がある。是はさつきスノコ〔三字傍点〕へ投げ込んだ俵と同じ大きさで、もう一杯詰つてゐる。掘子《ほりこ》が來て擔いで行く許《ばか》りだ。自分は今度こそこいつに聞いて遣らうと思つた。が肝心の本人が一生懸命にかあん／＼鳴らしてゐる。おまけに顏もよく見えない。丁度いゝから少し休んで行かうと云ふ氣が起つた。幸ひ俵がある。此の上へ尻を卸せば、持つて來いの腰掛になる。自分はどさつとアテシコ〔四字傍点〕を俵の上に落した。すると突然かあん／＼が已《や》んだ。坑夫の影が急に長く高くなつた。鑿《のみ》を持つた儘である。

　「何を爲《し》やがるんでい」

　鋭い聲が穴一杯に響いた。自分の耳には敲き込まれる樣に響いた。高い影は大股に歩いて來る。

　見ると、足の長い、胸の張つた、體格の逞《たくま》しい男であつた。顔は脊の割に小さい。其輪廓が稍《やゝ》判然する所迄來て、男は留まつた。さうして自分を見下《みおろ》した。口を結んでゐる。二重瞼《ふたへまぶた》の大きな眼を見張つてゐる。鼻筋が眞直に通つてゐる。色が赭黒《あかぐろ》い。たゞの坑夫ではない。突然として云つた。

　「貴樣は新前《しんめえ》だな」

　「さうです」

　自分の腰は此の時既に俵を離れてゐた。何となく、向ふから近附いてくる坑夫が恐ろしかつた。今迄一萬餘人の坑夫を畜生の樣に輕蔑してゐたのに、――誓つて死んで仕舞はうと覺悟をしてゐたのに、――大股に歩いて來た坑夫が忽ち恐ろしくなつた。然し、

　「何でこんな所を迷子《まご》ついてるんだ」

と聞き返された時には、稍《やゝ》安心した。自分の樣子を見て、故意に俵の上へ腰を卸したんでないと見極めた語調である。

　「實は昨夕《ゆうべ》飯場《はんば》へ着いて、樣子を見に坑《あな》へ這入つた許《ばかり》です」

　「一人でか」

　「いゝえ、飯場頭《はんばがしら》から人を附けて呉れたんですが……」

　「さうだらう、一人で這入れる所ぢやねえ。どうした其の案内は」

　「先へ出ちまいました」

　「先へ出た？　手前《てめえ》を置き去りにしてか」

　「まあ、さうです」

　「太《ふて》え野郎だ。よし／＼今に己《おれ》が送り出してやるから待つてろ」

と云つたなり、又｜鑿《のみ》と槌をかあん／＼鳴らし始めた。自分は命令の通り待つてゐた。此の男に逢つたら、もう一人で出る氣がなくなつた。死んでも一人で出て見せると威張つた決心が、急に何處へか行つて仕舞つた。自分は此變化に氣が附いてゐた。それでも別に恥かしいとも思はなかつた。人に公言した事でないから構はないと思つた。其の後《ご》人に公言した爲に、遣らないでも濟む事、遣つてはならない事を毎度遣つた。人に公言すると、しないのとは大變な違があるもんだ。その内かあん／＼が已《や》んだ。坑夫は又自分の前まで來て、胡坐《あぐら》をかきながら、

　「一寸待ちねえ。一服やるから」

と、烟草入を取り出した。茶色の、皮か紙か判然しないもので、股引《もゝひき》に差し込んである上から筒袖《つゝつぽう》が被《かぶ》さつてゐた。坑夫は旨さうに腹の底迄吸つた煙《けむ》を、鼻から吹き出してゐる間《ま》に、短い羅宇《らお》の中途を、烟草入の筒でぽんと拂《はた》いた。小さい火球《ひだま》が雁首《がんくび》から勢ひよく飛び出したと思つたら、坑夫の草鞋《わらぢ》の爪先《つまさき》へ落ちてじゆうと消えた。坑夫は殼《から》になつた烟管《きせる》をぷつと吹く。羅宇《らお》の中に籠つた煙《けむ》が、一度に雁首《がんくび》から出た。坑夫は其時始めて口を利いた。

　「御前《おめえ》は何處だ。斯《こ》んな所へ全體何しに來た。身體つきは、すらりとしてゐる樣だが。今迄働いた事はねえんだらう。どうして來た」

　「實は働いた事はないんです。が少し事情があつて、來たんです。……」

と迄は云つたが、坑夫には愛想が盡きたから、もう、歸るんだとは云はなかつた。死ぬんだとは猶更《なほさら》云はなかつた。然し今迄の樣に、腹の内《なか》で畜生あつかひにして、口先｜許《ばか》り叮嚀にしてゐたのとは大分《だいぶ》ん趣《おもむき》が違ふ。自分はたゞ洗ひ攫《ざら》ひ自分の思はくを話して仕舞はない丈《だけ》で、話した丈《だけ》は眞面目に話したんである。すこしも裏表はない。腹から叮嚀に答へた。坑夫はしばらくの間黙つて雁首《がんくび》を眺めてゐた。それから又煙草を詰めた。煙《けむ》が鼻から出だした眞最中に口を開《ひら》いた。

　自分が其の時この坑夫の言葉を聞いて、第一に驚いたのは、彼の�ﾍ育である。�ﾍ育から生ずる、上品な感情である。見識である。熱誠である。最後に彼の使つた漢語である。――彼《か》れは坑夫｜抔《など》の夢にも知り樣《やう》筈がない漢語を安々と、恰も家庭の間で昨日《きのふ》迄｜常住坐臥《じやうぢゆうざぐわ》使つてゐたかの如く、使つた。自分は其の時の有樣をいまだに眼の前に浮べる事がある。彼れは大きな眼を見張つたなり、自分の顔を熟視した儘、心持頸を前の方に出して、胡坐《あぐら》の膝へ片手を逆《ぎやく》に突いて、左の肩を少し聳《そびやか》して、右の指で煙管《きせる》を握つて、薄い唇の間から奇麗な齒を時々あらはして、――こんな事を云つた。句の順序や、單語の使ひ方は、慥《たし》かな記憶を其の儘寫したものである。たゞ語聲｜丈《だけ》はどうしやうもない。――

　「龜の甲より年の功と云ふことがあるだらう。こんな賤しい商賣はしてゐるが、まあ年長者の云ふ事だから、參考に聞くがいゝ。青年は情《じやう》の時代だ。おれも覺がある。情《じやう》の時代には失敗するもんだ。君もさうだらう。己《おれ》もさうだ。誰でも左樣《さう》に極つてる。だから、察してゐる。君の事情と己《おれ》の事情とは、どの位違ふか知らないが、何しろ察してゐる。咎《とが》めやしない。同情する。深い事故《わけ》もあるだらう。聞いて相談になれる身體なら聞きもするが、シキ〔二字傍点〕から出られない人間ぢや聞いたつて、仕方なし、君も話して呉れない方がいゝ。おれも……」と云ひ掛けた時、自分は此男の眼附が多少異樣にかゞやいてゐたと云ふ事に氣がついた。何だか大變感じてゐる。之が當人の云ふ如くシキ〔二字傍点〕を出られない爲か、又は今云ひ掛けたおれも〔三字傍点〕の後へ出て來る話の爲か、一寸分り惡《にく》いが、何しろ妙な眼だつた。しかも此の眼が鋭く自分を見詰めてゐる。さうして其の鋭いうちに、懷舊《くわいきう》と云ふのか、沈吟《ちんぎん》と云ふのか、何だか、人を引き附けるなつかしみがあつた。此の黒い坑《あな》の中で、人氣《ひとけ》は此の坑夫｜丈《だけ》で、此の坑夫は今や眼｜丈《だけ》である。自分の精神の全部はたちまち此の眼球《めだま》に吸ひ附けられた。さうして彼の云ふ事を、とつくり聞いた。彼はおれも〔三字傍点〕を二遍繰り返した。

　「おれも、元は學校へ行つた。中等以上の�ﾍ育を受けた事もある。所が二十三の時に、ある女と親しくなつて――詳しい話はしないが、それが基《もと》で容易ならん罪を犯した。罪を犯して氣が附いて見ると、もう社會に容れられない身體になつてゐた。もとより醉興でした事ぢやない、已《やむ》を得ない事情から、已《やむ》を得ない罪を犯したんだが、社會は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪は決して見逃《みのが》さない。おれは正しい人間だ、曲つた事が嫌《きらひ》だから、つまりは罪を犯す樣にもなつたんだが、さて犯した以上は、どうする事も出來ない。學問も棄てなければならない。功名も抛《なげう》たなければならない。萬事が駄目だ。口惜《くや》しいけれども仕方がない。其の上制裁の手に捕《とら》へられなければならない。（故意か偶然か、彼はとくに制裁の手と云ふ言語を使用した。）然し自分が惡い覺がないのに、無暗に罪を着るなあ、どうしても己《おれ》の性質として出來ない。そこで突つ走つた。逃げられる丈《だけ》逃げて、此處迄來て、とう／＼シキ〔二字傍点〕の中へ潜《もぐ》り込んだ。それから六年といふもの、つひに日光《ひのめ》を見た事がない。毎日々々｜坑《あな》の中でかんかん敲いてゐる許《ばか》りだ。丸六年敲いた。來年になればもうシキ〔二字傍点〕を出たつて構はない、七年目だからな。然し出ない、又出られない。制裁の手には捕《つら》まらないが、出ない。かうなりや出たつて仕方がない。裟婆へ歸れたつて、娑婆でした所業は消えやしない。昔は今でも腹ん中にある。なあ君昔は今でも腹ん中にあるだらう。君はどうだ……」

と途中で、いきなり自分に質問を掛けた。

　自分は藪から棒の質問に、用意の返事を持ち合せなかつたから、はつと思つた。自分の腹ん中にあるのは、昔《むかし》處《どこ》ろではない。一二年前から一昨日《をとゝひ》迄持ち越した現在に等しい過去である。自分は一層《いつそ》の事自分の心事を此男の前に打ち明けて仕舞はうかと思つた。すると相手は、さも打ち明けさせまいと自分を遮《さへぎ》る如くに、話の續きを始めた。

　「六年此處に住んでゐるうちに人間の汚ない所は大抵｜見悉《みつく》した。でも出る氣にならない。いくら腹が立つても、いくら嘔吐《おうと》を催《もよほ》しさうでも、出る氣にならない。然し社會には、――日の當る社會には――此處よりまだ苦しい所がある。それを思ふと、辛抱も出來る。たゞ暗くつて狹《せば》い所だと思へば夫《そ》れで濟む。身體も今ぢや銅《あかゞね》臭《くさ》くなつて、一日もカンテラ〔四字傍点〕の油を嗅がなくつちや居られなくなつた。然し――然しそりやおれの事だ。君の事ぢやない。君がさうなつちや大變だ。生きてる人間が銅《あかゞね》臭《くさ》くなつちや大變だ。いや、どんな決心でどんな目的を持つて來ても駄目だ。決心も目的もたつた二三日《にさんち》で突ツつき殺されてしまふ。それが氣の毒だ。いかにも可哀想《かはいさう》だ。理想も何にもない鑿《のみ》と槌より外に使ふ術《すべ》を知らない野郎なら、それで結構だが。然し君の樣な――君は學校へ行つたらう。――何處へ行つた。――えゝ？　まあ何處でもいゝ。それに若いよ。シキ〔二字傍点〕へ抛《はふ》り込まれるには若過ぎるよ。こゝは人間の屑が抛り込まれる所だ。全く人間の墓所《はかしよ》だ。生きて葬《はうぶ》られる所だ。一度｜踏《ふ》ん込《ご》んだが最後、どんな立派な人間でも、出られつこのない陷穽《おとしあな》だ。そんな事とは知らずに、大方ポン引《びき》の言ひなり次第になつて、引張られて來たんだらう。それを君の爲に悲しむんだ。人一人を墮落させるのは大事件だ。殺しちまう方がまだ罪が浅い。墮落した奴はそれ丈《だけ》害をする。他人に迷惑を掛ける。――實はおれも其の一人《いちにん》だ。が、かうなつちや墮落してゐるより外に道はない。いくら泣いたつて、悔《くや》んだつて墮落してゐるより外に道はない。だから君は今のうち早く歸るがいゝ。君が墮落すれば、君の爲にならない許《ばか》りぢやない。――君は親があるか……」

　自分はたゞ一言《ひとこと》ある〔二字傍点〕と答へた。

　「あれば猶更《なほさら》だ。それから君は日本人だらう……」

　自分は獣つてゐた。

　「日本人なら、日本の爲になる樣な職業に就いたら宜《よ》からう。學問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ。だから早く歸るがよからう。東京なら東京へ歸るさ。さうして正當な――君に適當な――日本の損にならない樣な事をやるさ。何と云つても此處は不可《いけ》ない。旅費がなければ、おれが出してやる。だから歸れ。分つたらう。おれは山中組にゐる。山中組へ來て安《やす》さんと聞きやあすぐ分る。尋ねて來るが好い。旅費はどうでも都合してやる」

　安さんの言葉は是で終つた。坑夫の數は一萬人と聞いてゐた。其一萬人は悉《こと／”＼》く理非人情《りひにんじやう》を解しない畜類の發達した化物とのみ思ひ詰めた此の時、此の人に逢つたのは全くの小説である。夏の土用に雪が降つたよりも、坑《あな》の中で安さんに説諭された方が、餘程の奇蹟の樣に思はれた。大晦日《おほみそか》を越すとお正月が來る位は承知してゐたが、地獄で佛と云ふ諺《ことわざ》も記憶してゐたが、窮《きは》まれば通ずといふ熟語も習つた事があるが、困つた時は誰か來て助けて呉れさうなものだ位に思つて、芝居氣を起しては困つてゐた事も度々《たび／＼》あるが、――此の時は丸《まる》で違ふ。眞から一萬人を畜生と思ひ込んで、其の畜生が又｜悉《こと／”＼》く自分の敵だと考へ詰めた最強度の斷案を、忘るべからざる痛忿《つうふん》の?で、胸に燒き附けた折柄だから、猶更《なほさら》此の安さんに驚かされた。同時に安さんの訓戒が、自分の初志を一度に翻へし得る程の力を以て、自分の耳に應《こた》へた。

　しばらくは二人して黙つてゐた。安さんは一應云ふ丈《だけ》の事を云つて仕舞つたんだから、口を利かない筈であるが、自分は先方に對して、何とか返事をする義務がある。義務とかいては安さんに濟まない。心底《しんそこ》から感謝の意を表《へう》した上で、自分の考へも少し聞いてもらひたいのは山々であつたが、何分にも鼻の奧が詰つて不自由である。しかも強ひて言葉を出さうとすると、口へ出ないで鼻へ拔けさうになる。夫《そ》れを我慢すると、唇の兩端《りやうはじ》がむづ／＼して、小鼻がぴく付いて來る。やがて鼻と口を塞《せ》かれた感動が、出端《では》を失つて、眼の中にたまつて來た。睫《まつげ》が重くなる。瞼《まぶた》が熱くなる。大《おほい》に困つた。安さんも妙な顏をしてゐる。二人ともばつ〔二字傍点〕が惡くなつて、差し向ひで胡坐《あぐら》をかいた儘、黙つてゐた。其の時次の作事場《さくじば》で鑛《あらがね》を敲く音がかあん／＼鳴つた。今考へると、自分と安さんが黙然《もくねん》と顔を見合せてゐた場所は、地面の下何百尺位な深さだか、それを正確に知つて置きたかつた。都會でも、こんな奇遇は少い。銅山《やま》の中では有らう筈がない。日の照らない坑《あな》の底で、世から、人から、歴史から、太陽からも、忘れられた二人が、難有《ありがた》い誨《をしへ》を垂れて、尊《たつ》とい涙を流した舞臺があらうとは、胡坐《あぐら》をかいて、黙然《もくねん》と互に顔を見守つてゐた本人より外に知るものはあるまい。

　安さんは又煙草を呑み出した。ぷかり／＼と煙《けむ》が出た。其の煙《けむ》が濃く出ては暗がりに消え、濃く出ては暗がりに消える間に、自分は漸く聲が自由になつた。

　「難有《ありがた》いです。成程あなたの仰やる通り人間のゐる所ぢやないでせう。僕もあなたに逢ふ迄は、今日《けふ》限り銅山《やま》を出《で》樣《やう》かと思つてたんです。……」

　流石《さすが》山を出て死ぬ積《つもり》だつたとは云ひかねたから、茲處《こゝ》で一寸句を切つたら、

　「そりや猶更《なほさら》だ。早速歸るがいゝ」

と、安さんが勢ひをつけて呉れた。自分は矢つ張り黙つてゐた。すると、

　「だから旅費はおれが拵へてやるから」

と云ふ。自分は先《さつ》きから旅費々々と聞かされるのを、只善意に解釋してゐたが、左《さ》ればと云つて毫も貰ふ氣は起らなかつた。昨日《きのふ》飯場頭《はんはがしら》の合力《がふりよく》を斷つた時の料簡と同じかと云ふと、其《それ》とも違ふ。昨日は是非貰ひたかつた、地平《ぢびた》へ手を突いて迄貰ひたかつた。然し草鞋錢《わらぢせん》を貰ふよりも、坑夫になる方が得だと勘定したから、手を出して頂きたい所を、無理に斷つたんである。安さんの旅費は始めから貰ひたくない。好意を空しくすると云ふ點から見れば、貰はなければ濟まないし、坑夫を已《や》めるとすれば貰ふ方が便利だが、それにも拘らず貰ひたくなかつた。是は今から考へると、全く向ふの人格に對して、貰つては恥づべき事だ、こちらの人格が下がるといふ念から萌《きざ》したものらしい。先方が如何にも立派だから、此方《こつち》も出來る丈《だけ》立派にしたい、立派にしなければ、自分の體面を損《そこな》ふ虞《おそれ》がある。向ふの好意を享けて、相當の滿足を先方に與へるのは、此方《こちら》も悦ばしいが、受けるべき理由がないのに、濫《みだ》りに自己の利得のみを標準《めやす》に置くのは、乞食と同程度の人間である。自分は此の尊敬すべき安さんの前で、自分は乞食である、乞食以上の人物でないと云ふ事實上の證明を與へるに忍びなかつた。年が若いと馬鹿な代りに存外奇麗なものである。自分は、

　「旅費は頂きません」

と斷つた。

　此の時安さんは、煙草を二三ぶく吸《ふか》して、煙管《きせる》を筒へ入れかけてゐたが、自分の顏をひよいと見て

　「こりや失敬した」

と云つたんで、自分は非常に氣の毒になつた。もし遣るから貰つて置けとでも強ひられたなら屹度《きつと》受けたに違ない。其の後《ご》氣をつけて、人が金を貰ふ所を見てゐると、始めは一應辭退して、後では大抵｜懷《ふところ》へ入れる樣だが、是は全く此の心理?態の發達した形式に過ぎないんだらうと思ふ。幸ひ安さんがえらい男で、「こりや失敬した」と云つて呉れたんで、自分は此の形式に陷らずに濟んだのは難有《ありがた》かつた。

　安さんはすぐさま旅費の件を撤回して

　「だが東京へは歸るだらうね」

と聞き直した。自分は、死ぬ決心が少々｜鈍《にぶ》つた際だから、ことによれば、旅費｜丈《だけ》でも溜めた上、歸る事にしやうと云ふ腹もあつたんで、

　「よく考へて見ませう。いづれ其の中又御相談に參りますから」

と答へた。

　「さうか。それぢや、兎に角路の分る所迄送つてやらう」

と煙草入を股引《もゝひき》へ差し込んで、上から筒服《つゝつぽう》の胴を被せた。自分はカンテラ〔四字傍点〕を提《さ》げて腰を上げた。安さんが先へ立つ。坑《あな》は存外登り安かつた。例の段々を四五遍通り拔けて、二度程四つん這ひになつたら、可成《かなり》天井の高い、眞直に立つて歩ける樣な路へ出た。それをだら／＼と廻り込んで、右の方へ登り詰めると、突然第一見張所の手前へ出た。安さんは電気燈の見える所で留つた。

　「ぢや、是で別れ樣《やう》。あれが見張所だ。あすこの前を右へ附いて上がると、軌道《レール》の敷いてある所へ出る。それから先は一本道だ。おれはまだ時間が早いから、もう少し働いてからでなくつちやあ出られない。晩には歸る。五時過ならゐるから、暇があつたら來るがいゝ。氣を附けて行き玉へ。左樣なら」

　安さんの影は忽ち暗い中へ這入つた。振り向いて、一口《ひとくち》禮を云つた時は、もうカンテラ〔四字傍点〕が角を曲つてゐた。自分は一人でシキ〔二字傍点〕の入口を出た。ふら／＼長屋迄歸つて來る。途中で色々考へた。あの安さんと云ふ男が、順當に社會の中で伸びて行つたら、今頃は何に成つてゐるか知らないが、どうしたつて坑夫より出世してゐるに違ない。社會が安さんを殺したのか、安さんが社會に對して濟まない事をしたのか――あんな男らしい、すつきりした人が、さう無暗に亂暴を働く譯がないから、ことによると、安さんが惡いんでなくつて、社會が惡いのかも知れない。自分は若年《じやくねん》であつたから、社會とはどんなものか、其の當時明瞭に分らなかつたが、何しろ、安さんを追ひ出す樣な社會だから碌なもんぢやなからうと考へた。安さんを贔屓《ひいき》にする所爲《せゐ》か、どうも安さんが逃げなければならない罪を犯したとは思はれない。社會の方で安さんを殺したとして仕舞はなければ氣が濟まない。其の癖今云ふ通り社會とは何者だか要領を得ない。たゞ人間だと思つてゐた。其の人間が何故《なぜ》安さんの樣な好い人を殺したのか猶更《なほさら》分らなかつた。だから社會が惡いんだと斷定はして見たが、一向《いつかう》社會が憎らしくならなかつた。唯安さんが可哀想《かはいさう》であつた。出來るなら自分と代つてやりたかつた。自分は自分の勝手で、自分を殺しに此處まで來たんである。厭になれば歸つても差支ない。安さんは人間から殺されて、仕方なしに此處に生きてゐるんである。歸らうたつて、歸る所はない。どうしても安さんの方が氣の毒だ。

　安さんは墮落したと云つた。高等�ﾍ育を受けたものが坑夫になつたんだから、成程墮落に違ない。けれども其の墮落がたゞ身分の墮落ばかりでなくつて、品性の墮落も意味してゐる樣だから痛ましい。安さんも達磨《だるま》に金を注《つ》ぎ込むのかしら、坑《あな》の中で一六勝負《いちろくしようぶ》をやるのかしら、ジヤンボー〔五字傍点〕を病人に見せて調戯《からか》ふのかしら、女房を抵當に――まさか、そんな事もあるまい。昨日《きのふ》着き立ての自分を見て愚弄しないものゝないうちで、安さん丈《だけ》は暗い穴の底ながら、十分自分の人格を認めて呉れた。安さんは坑夫の仕事はしてゐるが、心《しん》迄《まで》の坑夫ぢやない。夫《そ》れでも墮落したと云つた。しかも此の墮落から生涯出る事が出來ないと云つた。墮落の底に死んで活きてるんだと云つた。それ程墮落したと自覺してゐながら、生きて働いてゐる。生きてかん／＼敲いてゐる。生きて――自分を救はうとしてゐる。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。死ぬのは弱い。……

　かう決心をして、何でも構はないから、一先《ひとまづ》坑夫になつた上として、出來る丈《だけ》急ぎ足で歸つて來ると、長屋の半丁｜許《ばかり》手前に初さんが石へ腰を掛けて待つてゐる。雨は歇《や》んだ。空はまだ曇つて居るが、濡れる氣遣《きづかひ》はない。山から風が吹いて來る。寒くても、世界の明かるいのが、非常に嬉しい。自分が嬉しさの餘り、疲れた足を擦《ず》りながら、いそ／＼近附いてくると、初さんは奇怪《けげん》な頭をして、

　「やあ出て來たな。よく路が分つたな」

と云つた。自分が案内に附けられながら、他《ひと》を置き去りにして、何とかして何とか、てゝゝゝゝと云ふ唄をうたつて、大いに焦《じら》して置いて、他《ひと》が大迷《おほまご》つきに、迷《まご》ついて、穴の角へ頭を打《ぶ》つ附《つ》けて割つて見《み》樣《やう》と迄思つた揚句《あげく》、やつとの事で安さんの御情《おなさけ》で出て來れば、「よく路が分つたな」と空とぼけてゐる。其の癖親方が怖《こは》いものだから、途中で待ち合せて、一所に連れて歸らうと云ふ目算《もくろみ》である。自分は石へ腰を掛けて薄笑ひをしてゐる此の案内の頭の上へ唾液《つばき》を吐きかけてやらうかと思つた。然し自分は死ぬのを斷念したばかりである。當分は此處に留《とゞ》まらなくつちやならない身體である。唾液《つはき》を吐きかければ、喧嘩になる丈《だけ》である。喧嘩をすれば負ける丈《だけ》である。負けた上にスノコ〔三字傍点〕の中へ打《ぶ》ち込《こま》れては折角死ぬのを斷念した甲斐がない。そこで、斯う云ふ答をした。

　「どうか、かうか出て來ました」

　すると初さんは猶更《なほさら》不思議な顏をして、

　「へえ。感心だね。一人で出て來たのか」

と聞いた。其の時自分は年の割にはうまくやつた。旨くやつたと云ふ位だから、たゞ自分の損にならないやうにと云ふ丈《だけ》で、それより以外に賞める價値《ねうち》のある所作《しよさ》ぢやないが、兎に角十九にしては、中々複雜な曲者《くせもの》だと思ふ。と云ふのは、かう聞かれた時に、安さんの名前がつい咽喉の先迄出たんである。所をとう／＼云はずに仕舞つたのが自慢なのだ。隨分くだらない自慢だが譯を話せば、こんな料簡であつた。山中組の安さんは勢力のある坑夫に違ない。此の安さんがわざ／＼第一見張所の傍《そば》迄《まで》見ず知らずの自分を親切に連れて來て呉れたと云ふ事が知れ渡れば、此の案内者は面目を失ふに極つてゐる。責任のある自分が、責任を抛《はふ》り出して、先へ坑《あな》を飛び出して仕舞つたと分る以上は――しかもそれが惡意から出たと明瞭に證據だてられる以上は、此奴《こいつ》は親方に對して濟ましちやゐられない。となると後で屹度《きつと》敵《かたき》を打つだらう。無責任が露見《ばれ》るのは痛快だが――自分は決して寛大の念に制せられたなんて耶蘇�ﾍ流《やそけうりう》の嘘はつかない。――そこ迄は痛快だが、敵打《かたきうち》は大《おほい》に迷惑する。實の所自分は此の迷惑の念に制せられた。それで、

　「えゝ、色々路を聞いて出て來ました」

と大人《おとな》しい返事をして置いた。

　初さんは半分失望した樣な、半分安心した樣な顔附をしたが、やがて石から腰を上げて、

　「親方の所へ行かう」

と又歩き出した。自分は黙つて尾《つ》いて行つた。昨日《きのふ》親方に逢つたのは飯場《はんは》だが、親方の住んでる所は別にある。長屋の横を半丁程｜上《のぼ》ると、石垣で二方の角《かど》を取つて平《なら》した地面の上に二階建がある。家は左程《さほど》見苦しくもないが、家の外《ほか》には木も庭もない。相變らず二階の窓から惡魔が首を出してゐる。入口迄來て、初さんが外から聲を掛けると、窓をがらりと開けて、飯場頭《はんばがしら》が頭を出した。米利安《めりやす》の襯衣《シヤツ》の上へどてら〔三字傍点〕を着た儘である。

　「歸《けえ》つたか。御苦勞だつた。まあ彼方《あつち》へ行つて休みねえ」

と云ふが早いか初さんは消えてなくなつた。後《あと》は二人になる。親方は窓の中から、自分は表に立つた儘、談話《はなし》をした。

　「どうです」

　「大概見て來ました」

　「何處迄降りました」

　「八番坑迄降りました」

　「八番坑迄。そりや大變だ。隨分びどかつたでせう。それで……」

と心持首を前の方へ出した。

　「それで――矢つ張り居る積《つもり》です」

　「矢つ張り」

と繰り返したなり、飯場頭《はんばがしら》は昵《ぢつ》と自分の顔を見てゐた。自分も黙つて立つてゐた。二階からは依然として首が出てゐる。おまけに二つ許《ばか》り殖えた。此の顔を見ると、厭で厭で堪らない。飯場へ歸つてから、此の顔に取り卷かれる事を思ひ出すと、ぞつとする。それでも居る氣である。どんな辛抱をしても居る氣である。然し「矢つ張り居る積《つもり》です」と斷然答へて置いて、二階の顔を不意に見上げた時には、さすがに情なかつた。こんな奴と一所に置いて呉れと、手を合せて拜まなければ始末がつかない樣になり下がつたのかと思ふと、身體も魂も塩を懸けた海鼠《なまこ》の樣にたわいなくなつた。其の時｜飯場頭《はんばがしら》は漸く口を利いた。奇麗さつばりと利いた。

　「ぢや置く事にしやう。だが規則だから、醫者に一遍見て貰つてね。健康の證明書を持つて來なくつちや不可《いけ》ない。――今日と――今日は、もう遲いから、明日《あした》の朝、行つて見て貰つたらよからう。――診察場かい。診察場は是れから南の方だ。上がつて來る時、見えたらう。あの青いペンキ塗りの家《うち》だ。ぢや今日は疲れたらうから、飯場へ歸つて緩《ゆつ》くり御休み」

と云つて窓を閉《た》てた。窓を閉《た》てる前に自分は一寸頭を下げて、飯場へ引返した。緩《ゆつ》くり御休と云つて呉れた飯場頭《はんはがしら》の親切は難有《ありがた》いが、緩《ゆつ》くり寢られる位なら、こんなに苦しみはしない。起きてゐれば獰猛組《だうまうぐみ》、寢れば南京蟲《ナンキンむし》に責められる許《ばかり》だ。たま／＼飯の葢《ふた》を取れば咽喉へ通らない壁土が出て來る。――然し居る。居ると極めた以上は、どうしても居て見せる。少くとも安さんが生きてるうちは居る。シキ〔二字傍点〕の人間がみんな南京蟲《ナンキンむし》になつても、安さんさへ生きて働いてるうちは、自分も生きて働く考へである。かう考へながら半丁程の路を降りて飯場《はんば》へ歸つて、二階へ上がつた。上がると案のじやう大勢圍爐裏の傍《そば》に待ち構へてゐる。自分はくさ／＼したが、出來る丈《だけ》何喰はぬ顔をして、邪魔にならない樣な所へ坐つた。すると始まつた。皮肉だか、冷評だか、罵詈《ばり》だか、滑稽だか、のべつに始まつた。一々覺えてゐる。生涯忘れられない程に、自分の柔らかい頭を刺激したから、よく覺えてゐる。然し一々繰返す必要はない。先づ大體｜昨日《きのふ》と同じ事と思へば好い。自分は急に安さんに逢ひたくなつた。例の夕食《ゆふめし》を我慢して二杯食つて、みんなの眼につかない樣にそつと飯場《はんば》を拔け出した。

　山中祖はジヤンボー〔五字傍点〕の通つた石垣の間を拔けて、だら／＼坂の降り際《ぎは》を、右へ上《のぼ》ると斜《はす》に頭の上に被《かぶ》さつてゐる大きな槐《ゑんじゆ》の奧にある。夕暮の門口《かどぐち》を覗いたら、一人の掘子《ほりこ》がカンテラの灯《ひ》で筒服《つゝつぽう》の掃除をしてゐた。中は存外靜かである。

　「安さんは、もうお歸りになりましたか」

と叮嚀に聞くと、掘子は顔を上げて一寸《ちよいと》自分を見た儘、奧を向いて、

　「おい、安さん、誰か尋ねて來たよ」

と呼び出しにかゝるや否や、安さんは待つてたと云はん許《ばか》りに足音をさせて出て來た。

　「やあ來たな。さあ上《あが》れ」

　見ると安さんは唐綫《たうざん》の着物に豆絞《まめしぼり》か何《な》にかの三尺を締めて立つてゐる。丸《まる》で東京の馬丁《べつたう》の樣な服裝《なり》である。是れには少し驚いた。安さんも自分の樣子を眺めて首を傾《かし》げて、

　「成程東京を走つた儘《まんま》の服裝《なり》だね。おれも昔はさう云ふ着物を着たこともあつたつけ。今ぢや是れだ」

と兩袖の裄《ゆき》を引つ張つて見せる。

　「何と見える。車引かな」

と云ふから、自分は遠慮してにや／＼笑つてゐた。安さんは、

　「ハヽヽヽ根性は是れよりまだ墮落してゐるんだ。驚いちや不可《いけ》ない」

　自分は何と答へていゝか分らないから、矢張りにや／＼笑つて立つてゐた。此の時分は手持無沙汰でさへあればにや／＼して濟ましたもんだ。そこへ行くと安さんは自分より遙か世馴れてゐる。此の體《てい》を見て、

　「さつきから來るだらうと思つて待つてゐた。さあ上《あが》れ」

と向ふから始末をつけて呉れた。此の人は世馴れた知識を應用して、世馴れない人を救《たす》ける方の側《がは》だと感心した。こいつを逆にして馬鹿にされつけてゐたから特別に感心したんだらう。そこで安さんの云ふ通り長屋へ上つて見た。部屋は矢つ張り廣いが、自分の泊つた所程でもない。電氣燈は點《つ》いてゐる。圍爐裏もある。たゞ人數《にんず》が少い、しめて五六人しかゐない。しかも、それが向ふに塊《かたま》つてるから、此方《こつち》はたつた二人である。そこで又話を始めた。

　「何時《いつ》歸る」

　「歸らない事にしました」

　安さんは馬鹿だなあと云はない許《ばか》りの顏をして呆れてゐる。

　「あなたの仰しやつた事は、よく分つてゐます。然し僕だつて、醉興に此處迄來た譯ぢやないんですから、歸るつたつて歸る所はありません」

　「ぢや矢つ張り世の中へ顔が出せない樣な事でもしたのか」

と安さんは鋭い口調で聞いた。何だか向ふの方がぎよつとしたらしい。

　「さうでもないんですが――世の中へ顏が出したくないんです」

と答へると、自分の態度と、自分の顏附と、自分の語勢を注意してゐた安さんが急に噴き出した。

　「冗談云つちや不可《いけ》ねえ。そんな醉狂があるもんか。世の中へ顔が出し度くないた何の事だ。贅澤ぢやねえか。そんな身分に一日でも好いからなつて見てえ位だ」

　「代れゝば代つて上げたいと思ひます」

と至極眞面目に云ふと、安さんは、又噴き出した。

　「どうも手の附け樣がないね。考へて御覽な。世の中へ題が出し度くないものがさ、此シキ〔二字傍点〕へ顔が出したくなれるかい」

　「些《ちつ》とも出したくはありません。仕方がないから――仕方がないんです。昨夕《ゆうべ》も今日も散々苛責《いぢめ》られました」

　安さんは又笑ひ出した。

　「太《ふて》え野郎だ。誰が苛責《いぢめ》た。年の若いものつらまへて。よし／＼おれが今に敵《かたき》を打つてやるから。其の代り歸るんだぜ」

　自分は此の時大變心丈夫になつた。猶々《なほ／＼》留《とゞ》まる氣になつた。あんな獰猛も此方《こつち》さヘ強くなりや些《ちつ》とも恐ろしかないんだ、十把一束《じつぱひとからげ》に罵倒する位の勇気が段々出てくるんだと思つた。そこで安さんに敵《かたき》は取つてくれないでも好いから、どうか歸さずに當分置いて貰へまいかと頼んだ。安さんは、あまりの馬鹿らしさに、気の毒さうな顏をして、呆れ返つてゐたが、

　「それぢや、居るさ。――何も頼むの頼まないのつて、そりや君の勝手だあね。相談するがものはないや」

　「でも、あなたが承知して下さらないと、居にくいですから」

　「折角さう云ふんなら、當分にするが可《い》い。長く居ちや不可《いけ》ない」

　自分は謹んで安さんの旨《むね》を領《りやう》した。實際自分も其の考へでゐたんだから、是は決して御交際《おつきあひ》の挨拶ではなかつた。それから色々な話をしたがシキ〔二字傍点〕の中の述懷と大した變りはなかつた。たゞ安さんの兄《あに》さんが高等官になつて長崎にゐると云ふ事を聞いて、大いに感動した。安さんの身になつても、兄《あに》さんの身になつても、定めし苦しいだらうと思ふにつけ、自分と自分の親と結びつけて考へ出したら何となく悲しくなつた。歸る時に安さんが出口迄送つて來て、相談でもあるなら何時《いつ》でも來るが好いと云つてくれた。

　表へ出ると、いつの間《ま》にか曇つた空が晴れて、細い月が出てゐる。路は存外明るい、其の代り大變寒い。袷を通して、襯衣《シヤツ》を通して、蒲鉾形《かまぼこなり》の月の光が肌迄浸み込んで來る樣だ。兩袖を胸の前へ合せて、其の中へ鼻から下を突込んで肩を出來る丈《だ》け聳《そび》やかして歩行《ある》き出した。身體はいぢけてゐるが腹の中はさつきより大分《だいぶん》豐かになつた。何の當分のうちだ。馴れゝばさう苦にする事はない。何しろ一萬餘人もかたまつて、毎日々々一所に働いて、一所に飯を食つて、一所に寢てゐるんだから、自分だつて七日も練習すれば、一人前《いちにんまへ》に墮落する事は出來るに違ない。――此時自分の頭の中には、墮落の二字が此通りに出て來た。然したゞ此場合に都合のいゝ文字として湧いて出た迄で、墮落の内容を明かに代表してゐなかつたから、別に恐ろしいとも思はなかつた。それで、比較的元氣づいて飯場《はんば》へ歸つて來た。五六間手前迄來ると、何だかわい／＼云つてゐる。外は淋《さび》しい月である。自分は家《うち》の騷ぎを聞いて、淋しい月を見上げて、暫らく立つてゐた。さうしたら、どうも這入るのが厭になつた。月を浴びて外に立つてゐるのも、つらくなつた。安さんの所へ行つて泊めてもらひたくなつた。一歩引き返して見たが、あんまりだと氣を取り直して、のそ／＼長屋へ這入つた。横手に廣い間《ま》があつて、上り口からは障子で立て切つてある。電氣燈が頭の上にあるから影は一つも差さないが、騷ぎは正に此《この》中《うち》から出る。自分は下駄を脱いで、足音のしない樣に、障子の傍《そば》を通つて、二階へ上がつた。段々を登り切つて、大きな部屋を見渡した時、ほつと一息ついた。部屋には誰もゐない。

　たゞ金《きん》さんが平たく煎餠《せんべい》の樣になつて寢てゐる。夫《そ》れから例の帆木綿《ほもめん》にくるまつて、ぶら下がつてる男もゐる。然し兩方とも極めて靜かだ。居ても居ないと同じく、部屋は漠然としてたゞ廣いものだ。自分は部屋の眞中迄來て立ちながら考へた。床を敷いて寢たものだらうか、但しは着のみ着の儘で、ごろりと横になるか、又は昨夕《ゆうべ》の通り柱へ倚《もた》れて夜を明さうか。ごろ寢は寒い、柱へ倚《よ》り懸るのは苦しい。どうかして布團を敷きたい。ことによれば今日は疲れ果てゝゐるから、南京蟲《ナンキンむし》がゐても寢られるかも知れない。それに蒲團の奇麗なのを選《よ》つたらよからう。殊更《ことさら》日によつて、南京蟲《ナンキンむし》の數が違はないとも限るまい。と色々な理窟をつけて布團を出して、そうつと潜《もぐ》り込んだ。

　此の晩の經驗を記憶の儘、こゝに書きつけては、自分がお話しにならない馬鹿だと吹聽する事になるばかりで、外に何の利益も興味もないから已《や》める。一口《ひとくち》に云ふと、昨夜《ゆうべ》と同じ樣な苦しみを、昨夜《ゆうべ》以上に受けて、寢るが早いか、すぐ飛び起きちまつた。起きた後で、あれ程｜南京蟲《ナンキンむし》に螫《さ》されながら、何故《なぜ》性懲《しやうこり》もなく又布團を引つ張り出して寢たもんだらうと後悔した。考へると、全くの自業自得で、しかも常識のあるものなら誰でも避《よ》けられる、又｜避《よ》けなければならない自業自得だから、我れながら淺ましい馬鹿だと、つく／”＼自分が厭になつて、布團の上へ胡坐《あぐら》をかいた儘、考へ込んでゐると、又猛烈にちくりと螫《さ》された。臀《しり》と股《もゝ》と膝頭が一時に飛び上がつた。自分は五位鷺《ごゐさぎ》の樣に布團の上に立つた。さうして、四圍《あたり》を見廻した。さうして泣き出した。仕方がないから、紺の兵兒帶《へこおび》を解いて、四つに折つて、裸の身體中所嫌はず、ぴしや／＼敲き始めた。それから着物を着た。さうして昨夜《ゆうべ》の柱の所へ行つた。柱に倚《よ》りかゝつた。家《うち》が戀しくなつた。父よりも母よりも、艶子さんよりも澄江さんよりも、家《うち》の六畳の間が戀しくなつた。戸棚に這入つてる更紗《さらさ》の布團と、黒天鷲絨《くろびろうど》の半襟の掛かつた中形の掻く?捲《かいまき》が戀しくなつた。三十分でも好いから、あの布團を敷いて、あの?捲を懸けて、暖《あつ》たかにして樂々寢て見たい、今頃は誰があの部屋へ寢てゐるだらうか。それとも自分が居なくなつてから後《のち》は、机を据ゑたまんま、空《がら》ん胴《どう》にしてあるかしらん。さうすると、あの布團も?捲も、疊んだなり戸棚に仕舞つてあるに違ない。勿體《もつたい》ないもんだ。父も母も澄江さんも艶子さんも南京蟲《ナンキンむし》に食はれないで仕合せだ。今頃は熟睡してゐるだらう。羨ましい。――夫《そ》れとも寢られないで、のつそつして居るかしらん。父は寢られないと疳癪を起して、夜中に灰吹をぽん／＼敲くのが癖だ。煙草を呑むんだと云ふが、煙草は假託《かこつけ》で、實は、腹立紛れに敲き附けるんぢやないかと思ふ。今頃はしきりに敲いてるかも知れない。苦々しい倅《せがれ》だと思つて敲いてるか、どうなつたらうと心配の餘り眼を覺まして敲いてるか。どつちにしても氣の毒だ。然し此方《こつち》ぢや夫《それ》程《ほと》にも思つてゐないから、先方《さき》でもさう苦にしちや居まい。母は寢られないと手水《てうづ》に起きる。中庭の小窓を明けて、手を洗つて、棧を卸すのを忘れて、翌朝《あくるあさ》よく父に叱られてゐる。昨夜《ゆうべ》も今夜も屹度《きつと》叱られるに違ない。澄江さんはぐう／＼寢てゐる――どうしても寢てゐる。自分の居る前では、丸くなつたり、四角になつたり色々な藝をして、人を釣つてるが、居なくなれば、すぐに忘れて、平生の通り御膳《ごぜん》をたべて、能く寢る女だから、是非に及ばない。あんな女は、今迄見た新聞小説には決して出て來ないから、始めは不思議に思つたが、ちゃんと證據があるんだから確かである。かう云ふ女に戀着しなければならないのは、餘ツ程の因果だ。隨分憎らしいと思ふが、憎らしいと思ひながらも矢ツ張惚れ込んでゐるらしい。不都合な事だ。今でも、あの色の白い顔が眼前《めさき》にちら／＼する。怪《け》しからない顔だ。艶子さんは起きてる。さうして泣いてるだらう。甚だ氣の毒だ。然し此方《こつち》で惚れた覺もなければ、又惚れられる樣な惡戯《いたづら》をした事がないんだから、いくら起きてゐでも、泣いて呉れても仕方がない。氣の毒がる事は、いくらでも氣の毒がるが仕方がない。構はない事にする。――そこで最後には、外の事はどうともするから、たゞ安々と樂寢がさせて貰ひたい。不斷の白い飯も蟲唾《むしづ》が走る樣に食ひたいが、それよりか南京蟲《ナンキンむし》のゐない床へ這入りたい。三十分でも好いからぐつすり寢て見たい。其の後《あと》でなら腹でも切る。……

　かう考へてゐると又夜が明けた。考へてゐる途中で何時《いつ》か寢たものと見えて眼が覺めた時は、何にも考へてゐなかつた。それからあとは、のそ／＼下へ降りて行つて、顔を洗つて、南京米《ナンンまい》を食ふ。萬事｜昨日《きのふ》の通りだから、省いて仕舞ふ。九時の例刻を待ちかねて病院へ出掛ける。病院は一昨日《をとゝひ》山を登つて來る時に見た青いペンキ塗の建物と聞いてゐるから道も家《うち》も間違へ樣《やう》がない。飯場《はんば》を出て二丁ばかり行くと、すぐ道端にある。木造ではあるが中々立派な建築で、廣さも可成《かなり》だけに、獰猛組とは丸《まる》で不釣合である。野蠻人が病氣をするんでさへ既に不思議な位だのに、病氣に罹《かゝ》つたものを治療してやる爲の器械と藥品と醫者と建物を具へ附けたんだから、世の中は妙だと云ふ感じがすぐに起る。丸《まる》で泥棒が金を出し合つて、小學校を建てゝ子弟を通學させてる樣なもんだ。文明と蒙昧の兩極端が此のペンキ塗の青い家の中で出逢つて、一方が一方へ影響を及ぼすと、蒙昧が益《ます／＼》ぴん／＼蒙昧になつてくる。下手《へた》に食ひ違つた結果が起るもんだ。と考へながら歩いて來ると、又鬼共が窓から首を出して眺めてゐる。折角の考へも此の氣味のわるい顔を見上げると忽ち崩れて仕舞ふ。あの顔のなかに安さんの樣なのが、たつた一つでもあれば、生き返る程嬉しいだらうに、どれもこれも申し合せた樣に獰猛の極致を盡してゐる。あれぢや、どうしたつて病院の必要がある筈がないと迄思つた。

　天氣｜丈《だけ》は好都合にすつかり晴れた。赤土を劈《さ》いた樣な山の壁へ日が當る。昨日《きのふ》、一昨日《をとゝひ》の雨を吸込んだ土は、東から差す日を受けて、まだ乾かない。其の上照る日をいくらでも吸ひ込んで行く。景色《けしき》は晴れがましいうちに濕《しつ》とりと調子づいて、長屋と長屋の間から、下の方の山を見ると、眞蒼《まつさを》な色が笑《ゑ》み割れさうに濃く重なつてゐる。風は全く落ちた。昨夕《ゆうべ》と今朝とでは殆ど十五度以上も違ふ樣である。道傍《みちばた》に、たつた一つ蒲公英《たんぽゝ》が咲いてゐる。勿體《もつたい》ない程奇麗な色だ。是も獰猛とは丸《まる》で釣り合ない。

　病院へ着いた。和土《たゝき》の廊下が地面と擦れ擦れに五六間續いてゐる突き當りに、診察室と云ふ札が懸つて、手前の右手に控所と書いてある。今云つた一間幅の廊下を横切つて、控所へ這入ると、下は矢張り和土《たゝき》で、ベンチが二脚程並べてある。小さい硝子窓には受附と楷書で貼り附けてある。自分は此の窓口へ行つて、自分の姓名を書いた紙片《かみきれ》を出すと、窓の中に腰を掛けてゐた二十二三の若い男が、其の紙片を受取つて、ありもしない眉《まみえ》へ八の字を寄せて、六づかしさうに篤《とく》と眺めた上、

　「こりや御前か」

と、左《さ》も横風《わうふう》に云つた。あまり好い心持ではなかつた。何の必要があつて、かう自分を輕蔑するんだか不平に堪へない。それで單に、

　「えゝ」

と出來る丈《だけ》愛嬌のない返事をした。受附は、それぢや、まだ挨拶が足りないと云はん許《ばか》りに、しばらくは自分を睨めてゐたが、こつちも夫《それ》つ切り口を結んで立つてゐたもんだから、

　「少し待つてゐろ」

と、ぴしやりと硝子戸を締めて出て行つた。草履の音がする。あんなにばた／＼云はせなくつても好さゝうなもんだと思つた。

　自分はベンチへ腰を掛けた。受附はなか／＼歸つて來ない。ぼんやりしてゐると、眼の前にジヤンボー〔五字傍点〕が出て來た。金《きん》さんがよつしよい／＼と擔がれて來る所が見える。あれでも病院が必要なのかと思つた。何の爲に藥を盛つて、患者を施療《せれう》するのか、ほとんど意義をなさない。こんな體裁《ていさい》のいゝ僞善はない。病人はいぢめる丈《だけ》いぢめる。ジヤンボー〔五字傍点〕は囃《はや》したい丈《だけ》囃す。其の代り醫者にかけてやると云ふのか。鄭重の至りである。

　「おい、彼方《あつち》へ廻れ」

と突然受附の聲がした。見ると受附は硝子窓の中に威丈高《ゐたけだか》に突立つて、自分を眼下に脾睨《へいげい》してゐる。自分は控所を出た。右へ折れて、廊下傳ひに診察場へ上がつたら、藥の臭がぷんとした。此の臭を嗅ぐと等《ひと》しく、自分も、もうやがて死ぬんだなと思ひ出した。死んで此處の土になつたら不思議なものだ。かう云ふのを運命といふんだらう。運命の二字は昔から知つてたが、たゞ字を知つてる丈《だけ》で意味は分らなかつた。意味は分つても、納得《なつとく》が六づかしかつた。西洋人が筍《たけのこ》を想像する樣に定義｜丈《だけ》を心得て滿足してゐた。けれども人間の一大事たる死と云ふ實際と、人間の獣類たる坑夫の住んでゐるシキ〔二字傍点〕とを結び附けて、二三日｜前《まへ》迄不足なく生ひ立つた坊つちやんを突然宙に釣るして、此の二つの間に置いたとすると、坊つちやんは始めて成程と首肯する。運命は不可思議な魔力で可憐な青年を弄《もてあそ》ぶもんだと云ふ事が分る。すると今迄｜只《たゞ》の山であつたものが、たゞの山でなくなる。たゞの土であつたものが唯《たゞ》の土でなくなる。青い許《ばか》りと思つた空が、青い丈《だけ》では濟まなくなる。此の病院の、此の診察場の、此の藥品の、此の臭ひ迄が夢の樣な不思議になる。元來此の椅子に腰を掛けてゐる本人からしてが、何物だか殆ど要領を得ない。本人以外の世界は明瞭に見える丈《だけ》で、どんな意味のある世界か薩張《さつぱ》り見當がつかない。自分は、診察場と藥局とをかねた此の一室の椅子に倚つて、敷物と、洋卓《テエーブル》と、藥瓶と、窓と、窓の外の山とを見廻した。尤も明瞭な視覺で見廻したが、凡《すべ》てがたゞ一幅の畫《ゑ》と見える丈《だけ》で、其の他《ほか》には何物をも認める事が出來なかつた。

　そこへ戸を開けて、醫者があらはれた。其の顔を見ると、矢つ張り坑夫の類型《タイプ》である。黒のモーニングに縞《しま》の洋袴《づぼん》を着て、襟の外へ顎を突き出して、

　「御前か、健康診斷をして貰ふのは」

と云つた。此の語勢には、馬に對しても、犬に對しても、是非腹の内《なか》で云ふべき程の敬意が籠つてゐた。

　「えゝ」

と自分は椅子を離れた。

　「職業は何だ」

　「職業つて別に何にもないんです」

　「職業がない。ぢや、今迄何をして生きてゐたのか」

　「たゞ親の厄介になつてゐました」

　「親の厄介になつてゐた。親の厄介になつて、ごろ／＼してゐたのか」

　「まあ、さうです」

　「ぢや、ごろつきだな」

　自分は答をしなかつた。

　「裸になれ」

　自分は裸になつた。醫者は聽診器で胸と脊中を一寸｜視《み》た上、いきなり自分の鼻を撮《つま》んだ。

　「息をして見ろ」

　息が口から出る。醫者は口の所へ手を宛てがつた。

　「今度《こんだ》口を塞《ふさ》ぐんだ」

　醫者は鼻の下へ手を宛てた。

　「どうでせう。坑夫になれますか」

　「駄目だ」

　「何處か惡いですか」

　「今書いてやる」

　醫者は四角な紙片《かみきれ》へ何か書いて抛《はふ》り出す樣に自分に渡した。見ると気管支炎とある。

　気管支炎と云へば肺病の下地《したぢ》である。肺病になれば助かり樣がない。成程さつき藥の臭を嗅いで死ぬんだなと蟲が知らせたのも無理はない。今度は愈《いよ／＼》死ぬ事になりさうだ。是から先二三週間もしたら、金《きん》さんの樣によつしょい／＼でジヤンボー〔五字傍点〕を見せられて、其｜揚句《あげく》には自分がとう／＼ジヤンボー〔五字傍点〕になつて、それから思ふ存分囃し立てられて、敲き立てられて、――尤も新參だから囃して呉れるものも、敲いて呉れるものも、ないかも知れないが――とゞの詰りは、――どうなる事か自分にも分らない。それは分らなくつても宜ろしい。生きて動いてゐる今ですら分らない。たゞ世界がのべつ、のつぺらぽうに續いてゐるうちに、あざやかな色が幾通りも並んでる許《ばか》りである。坑夫は世の中で、尤も穢《きた》ないものと感じてゐたが、斯樣《かやう》に萬物を色の變化と見ると、穢《きた》ないも穢《きた》なくないもある段ぢやない。どうでも構はないから、どうとも勝手にするがいゝ、自分が懷手《ふところで》をしてゐたら運命が何とか始末をつけて呉れるだらう。死んでもいゝ、生きてもいゝ。華嚴《けごん》の瀑《たき》抔《など》へ行くのは面倒になつた。東京へ歸る？　何の必要があつて歸る。どうせ二三度咳をせくうちの命だ。此處迄運命が吹き附けて呉れたもんだから、運命に吹き拂はれる迄は、此處にゐるのが、一番骨が折れなくつて、一番便利で、一番順當な譯だ。此處に居て、たゞ墮落の修業さへすれば、死ぬ迄は持てるだらう。肺病患者にほかの修業は六づかしいかも知れないが、墮落の修業なら――ふと徃きに眼に附いた蒲公英《たんぽゝ》に出逢つた。さつきは勿體《もつたい》ない程美しい色だと思つたが、今見ると何ともない。何故《なぜ》之が美しかつたんだらうと、しばらく立ち留まつて、見てゐたが、矢つ張り美しくない。それから又あるき出した。だら／＼坂を登ると、自然と顔が仰向になる。すると例の通り長屋から、坑夫が頬杖を突いて、自分を見下《みおろ》してゐる。さつき迄はあれ程厭に見えた顔が丸《まる》で土細工《つちざいく》の人形の首の樣に思はれる。醜くも、怖《こは》くも、憎らしくもない。たゞの顔である。日本一の美人の顔がたゞの顔である如く、坑夫の顔もたゞの顔である。さう云ふ自分も骨と肉で出來たたゞの人間である。意味も何もない。

　自分はかう云ふ?態で、無人《むにん》の境《さかひ》を行く樣な心持で親方の家《うち》迄やつて來た。案内を頼むと、うちから十五六の娘が、がらりと障子をあけて出た。かう云ふ娘がこんな所に居やう筈がないんだから、平生ならはつと驚く譯だが、此の時は丸《まる》で何の感じもなかつた。たゞ器械の樣に挨拶をすると、娘は片手を障子へ掛けた儘、奧を振り向いて、

　「御父《おとつ》さん。御客」

と云つた。自分は此の時、これが飯場頭《はんはがしら》の娘だなと合點《がてん》したが、たゞ合點した迄で、娘がまだ其處に立つてゐるのに、娘の事は忘れて仕舞つた。所へ親方が出て來た。

　「どうしたい」

　「行つて來ました」

　「健康診斷を貰つて來たかい。どれ」

　自分は右の手に握つてゐた診斷書を、つい忘れて、おや何處へやつたらうかと、始めて氣が附いた。

　「持つてるぢやないか」

と親方が云ふ。成程持つてゐたから、皺《しわ》を伸《の》して親方に渡した。

　「氣管支炎。病氣ぢやないか」

　「えゝ駄目です」

　「そりゃ困つたな。どうするい」

　「矢つ張り置いて下さい」

　「そいつあ、無理ぢやないか」

　「ですが、もう歸れないんだから、どうか置いて下さい。小使でも、掃除番でもいゝですから。何でもしますから」

　「何でもするつたつて、病氣ぢや仕方がないぢやないか。困つたな。然し折角だから、まあ考へて見《み》樣《やう》。明日《あした》迄には大概樣子が分るだらうから又來て見るがいゝ」

　自分は石のやうになつて、飯場《はんば》へ歸つて來た。

　其の晩は平氣で圍爐裏の側《そば》に胡坐《あぐら》をかいてゐた。坑夫共が何と云つても相手にしなかつた。相手にする料簡も出なかつた。いくら騷いでも、愚弄《からか》つても、よしんば踏んだり蹴《け》たりしても、彼等は自分と共に一枚の板に彫り附けられた一團の像の樣に思はれた。寢るときは布團は敷かなかつた。やはり圍爐裏の傍《そば》に胡坐《あぐら》をかいて居た。みんな寢着いてから、自分も其場へ假寢《うたゝね》をした。圍爐裏へ炭を繼《つ》ぐものがないので、火の氣《け》が段々弱くなつて、寒さが次第に�揩ｵて來たら、眼が覺めた。襟の所がぞく／＼する。それから起きて表へ出て空を見たら、星が一杯あつた。あの星は何しに、あんなに光つてるのだらうと思つて、又内へ這入つた。金《きん》さんは相變らず平たくなつて寢てゐる。金《きん》さんはいつジヤンボー〔五字傍点〕になるんだらう。自分と金《きん》さんとどつちが早く死ぬだらう。安さんは六年此のシキ〔二字傍点〕に這入つてると聞いたが、この先何年｜鑛《あらがね》を敲くだらう。矢つ張り仕舞には金さんの樣に平たくなつて、飯場《はんば》の片隅に寢るんだらう。さうして死ぬだらう。――自分は火のない圍爐裏の傍《はた》に坐つて、夜明迄考へつゞけてゐた。その考へはあとから、あとから、仕切《しき》りなしに出て來たが、何《いづ》れも干枯《ひから》びてゐた。涙も、情《なさけ》も、色も香《か》もなかつた。怖《こは》い事も、恐ろしい事も、未練も、心殘りもなかつた。

　夜が明けてから例の如く飯を濟まして、親方の所へ行つた。親方は元気のいゝ聲をして、

　「來たか、丁度好い口が出來た。實はあれから色々探したがどうも思はしい所がないんでね、――少し困つたんだが。とう／＼旨い口を見附《めつ》けた。飯場《はんば》の帳附《ちやうつけ》だがね。是《これ》や無ければ、なくつても濟む。現に今迄は婆さんが遣つてた位だが、折角の御頼みだから。どうだね夫《それ》ならどうか、おれの方で周旋が出來《でき》樣《やう》と思ふが」

　「はあ難有《ありがた》いです。何でも遣ります。帳附《ちやうつけ》と云ふと、どんな事をするんですか」

　「なあに譯はない。たゞ帳面をつける丈《だけ》さ。飯場《はんば》にあゝ多勢ゐる奴が、やゝ草鞋《わらぢ》だ、やゝ豆だ、ヒジキだつて、毎日色々なものを買ふからね。そいつを一々帳面へ書き込んどいて貰やあ好いんだ。なに品物は婆さんが渡すから、たゞ誰が何をいくら取つたと云ふ事が分る樣にして置いてくれゝば夫《そ》れで結構だ。さうすると此方《こつち》で其の帳面を見て勘定日に差し引いて給金を渡す樣にする。――なに力業《ちからわざ》ぢやないから、誰でも出來る仕事だが、知つての通りみんな無筆の寄合《よりあひ》だからね。君がやつて呉れると此方《こつち》も大變便利だが、どうだい帳附《ちやうつけ》は」

　「結構です、やりませう」

　「給金は少くつて、まことに御氣の毒だ。月に四圓だが。――食料を別にして」

　「それで澤山です」

と答へた。然し別段に嬉しいとも思はなかつた。漸く安心したと迄は固《もとよ》り行かなかつた。自分の鑛山に於ける地位は是でやつと極つた。

　翌日《あくるひ》から自分は臺所の片隅に陣取つて、かたの如く帳附《もやうつけ》を始めた。すると今迄あの位人を輕蔑してゐた坑夫の態度ががらりと變つて、却つて向ふから御世辭を取る樣になつた。自分も早速墮落の稽古を始めた。南京米《ナンキンまい》も食つた。南京蟲《ナンキンむし》にも食はれた。町からは毎日々々ポン引《びき》が椋鳥《むくどり》を引張つて來る。子供も毎日連れられてくる。自分は四圓の月給のうちで、菓子を買つては子供にやつた。然し其の後《のち》東京へ歸らうと思つてからは斷然｜已《や》めにした。自分は此の帳附を五箇月間無事に勤めた。さうして東京へ歸つた。――自分が坑夫に就ての經驗は是れ丈《だけ》である。さうしてみんな事實である。其の證據には小説になつてゐないんでも分る。

　　　　　　　　2006年7月5日（水）午後7時30分、修正終了

　　　　　　　　2017年12月7日（木）午前10時10分、再校正終了

　

　　　　　三四郎

明治四一、九、一−四一、一二、二九

　　　　　一

　

　うと／＼として眼が覺めると女は何時《いつ》の間《ま》にか、隣の爺《ぢい》さんと話を始めてゐる。此《この》爺さんは慥《たし》かに前の前の驛から乘つた田舍者《ゐなかもの》である。發車｜間際《まぎは》に頓狂《とんきやう》な聲を出して、馳《か》け込んで來て、いきなり肌《はだ》を跋いだと思つたら脊中《せなか》に御灸《おきう》の痕《あと》が一杯あつたので、三四郎《さんしらう》の記憶に殘つてゐる。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣りに腰を懸けた迄よく注意して見てゐた位である。

　女とは京都からの相乘《あひのり》である。乘つた時から三四郎の眼に着いた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移つて、段々《だん／＼》京大阪へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時《いつ》の間《ま》にか故郷を遠退《とほの》く樣な憐れを感じてゐた。それで此《この》女が車室に這入《はい》つて來た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。此《この》女の色は實際｜九州色《きうしういろ》であつた。

　三輸田《みわた》の御光《おみつ》さんと同じ色である。國を立つ間際《まぎは》迄は、お光《みつ》さんは、うるさい女であつた。傍《そば》を離れるのが大いに難有《ありがた》かつた。けれども、斯うして見ると、お光《みつ》さんの樣なのも決して惡くはない。

　唯《たゞ》顔立から云ふと、此《この》女の方が餘程上等である。口に締りがある。眼が判明《はつきり》してゐる。額《ひたひ》がお光《みつ》さんの樣にだゞつ廣《ぴろ》くない。何となく好い心持に出來上つてゐる。それで三四郎は五分に一度｜位《ぐらゐ》は眼を上げて女の方を見てゐた。時々は女と自分の眼が行き中《あた》る事もあつた。爺さんが女の隣へ腰を掛けた時などは、尤も注意して、出來る丈《だけ》長い間、女の樣子を見てゐた。其《その》時《とき》女はにこりと笑つて、さあ御掛けと云つて爺さんに席を讓つてゐた。夫《それ》からしばらくして、三四郎は眠くなつて寐て仕舞つたのである。

　其《その》寐てゐる間に女と爺さんは懇意になつて話を始めたものと見える。眼を開《あ》けた三四郎は黙つて二人《ふたり》の話を聞いて居た。女はこんな事を云ふ。――

　小供の玩具《おもちや》は矢張《やつぱり》廣島より京都の方が安くつて善《い》いものがある。京都で一寸《ちょつと》用があつて下りた序《ついで》に、蛸藥師《たこやくし》の傍《そば》で玩具《おもちや》を買つて來た。久し振で國へ歸つて小供に逢ふのは嬉しい。然《しか》し夫《をつと》の仕送りが途切れて、仕方なしに親の里へ歸るのだから心配だ。夫《をつと》は呉《くれ》に居て長らく海軍の職工をして居たが戰爭中は旅順《りよじゆん》の方に行つてゐた。戰爭が濟んでから一旦《いつたん》歸つて來た。間《ま》もなくあつちの方が金が儲《まう》かると云つて、又《また》大連へ出稼《でかせぎ》に行つた。始めのうちは音信《たより》もあり、月々のものも几帳面《ちやん／＼》と送つて來たから好かつたが、此《この》半歳《はんとし》許《ばかり》前から手紙も金《かね》も丸《まる》で來なくなつて仕舞つた。不實な性質《たち》ではないから、大丈夫だけれども、何時《いつ》迄も遊んで食べてゐる譯には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、里へ歸つて待つてゐる積《つもり》だ。

　爺さんは蛸藥師《たこやくし》も知らず、玩具《おもちや》にも興味がないと見えて、始めのうちは只《たゞ》はい／＼と返事｜丈《だけ》してゐたが、旅順以後急に同情を催《もよほ》して、それは大いに氣の毒だと云ひ出した。自分の子も戰爭中兵隊にとられて、とう／＼彼地《あつち》で死んで仕舞《しま》つた。一體戰爭は何の爲にするものだか解らない。後《あと》で景氣でも好くなればだが、大事な子は殺される、物價《しよしき》は高くなる。こんな馬鹿氣《はかげ》たものはない。世の好《い》い時分に出稼《でかせ》ぎなどゝ云ふものはなかつた。みんな戰爭の御蔭だ。何《なに》しろ信心が大切だ。生きて働いて居るに違ない。もう少し待つてゐれば屹度《きつと》歸つて來る。――爺さんはこんな事を云つて、頻《しき》りに女を慰めて居た。やがて汽車が留つたら、では御大事《おだいじ》にと、女に挨拶《あいさつ》をして元氣よく出て行つた。

　爺さんに續いて下《お》りたものが四人｜程《ほど》あつたが、入れ易《かは》つて、乘つたのはたつた一人《ひとり》しかない。固《もと》から込み合つた客車でもなかつたのが、急に淋《さび》しくなつた。日の暮れた所爲《せゐ》かも知れない。驛夫が屋根をどし／＼踏んで、上から灯《ひ》の點《つ》いた洋燈《らんぶ》を挿し込んで行く。三四郎は思ひ出した樣に前の停車場《ステーシヨン》で買つた辨當《べんたう》を食ひ出した。

　車が動き出して二分も立つたらうと思ふ頃《ころ》例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室の外《そと》へ出て行つた。此《この》時《とき》女の帶の色が始めて三四郎の眼に這入《はい》つた。三四郎は鮎《あゆ》の※［者／火］浸《にびた》しの頭を啣《くは》へた儘《まゝ》女の後姿《うしろすがた》を見送つてゐた。便所に行つたんだなと思ひながら頻《しき》りに食つてゐる。

　女はやがて歸つて來た。今度は正面が見えた。三四郎の辨當はもう仕舞掛《しまひがけ》である。下を向いて一生懸命に箸を突ツ込んで二口三口《ふたくちみくち》頬張《ほゝば》つたが、女は、どうもまだ元の席へ歸らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を擧げて見ると矢張《やつぱり》正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を擧げると同時に女は動き出した。只《たゞ》三四郎の横を通つて、自分の座へ歸るべき所を、すぐと前へ來て、身體《からだ》を横へ向けて、窓から首を出して、靜に外を眺め出した。風が強くあたつて、鬢《びん》がふわ／＼する所が三四郎の眼に這入《はい》つた。此《この》時《とき》三四郎は空《から》になつた辨當の折《をり》を力一杯に窓から放《はふ》り出した。女の窓と三四郎の窓は一軒置の隣であつた。夙に逆《さか》らつて抛《な》げた折《をり》の葢《ふた》が白く舞戻《まひもど》つた樣に見えた時、三四郎は飛んだ事をしたのかと氣が付いて、不途《ふと》女の顔を見た。顏は生憎《あいにく》列車の外に出てゐた。けれども女は靜かに首を引つ込めて更紗《さらさ》の手帛《はんけち》で額《ひたひ》の所を丁寧に拭き始めた。三四郎は兎《と》も角《かく》も謝《あや》まる方が安全だと考へた。

　「御免なさい」と云つた。

　女は「いゝえ」と答へた。まだ顔を拭いてゐる。三四郎は仕方なしに黙つて仕舞つた。女も黙つて仕舞つた。さうして又首を窓から出した。三四人の乗客は暗い洋燈《らんぷ》の下で、みんな寐ぼけた顔をしてゐる。口を利いてゐるものは誰もない。汽車｜丈《だけ》が凄《すさま》じい音を立てゝ行く。三四郎は眼を眠つた。

　しばらくすると「名古屋はもう直《ぢぎ》でせうか」と云ふ女の聲がした。見ると何時《いつ》の間《ま》にか向き直つて、及《およ》び腰《ごし》になつて、顔三四郎の傍《そば》迄《まで》持つて來てゐる。三四郎は驚いた。

　「さうですね」と云つたが、始めて東京へ行くんだから一向《いつかう》要領を得ない。

　「此《この》分《ぶん》では後《おく》れますでせうか」

　「後《おく》れるでせう」

　「あんたも名古屋へ御下《おおり》で……」

　「はあ、下《お》ります」

　此汽車は名古屋｜留《どま》りであつた。會話は頗る平凡であつた。只《たゞ》女が三四郎の筋向ふに腰を掛けた許《ばか》りである。それで、しばらくの間は又汽車の音｜丈《だけ》になつて仕舞ふ。

　次の驛で汽車が留まつた時、女は漸く三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内して呉れと云ひだした。一人《ひとり》では氣味が惡いからと云つて、頻《しき》りに頼む。三四郎も尤《もつと》もだと思つた。けれども、さう快《こゝろよ》く引き受ける気にもならなかつた。何《なに》しろ知らない女なんだから、頗《すこぶ》る躊躇《ちうちよ》したにはしたが、斷然｜斷《ことわ》る勇氣も出なかつたので、まあ好い加減な生返事《なまへんじ》をして居た。其うち汽車は名古屋へ着いた。

　大きな行李《こり》は新橋迄預けてあるから心配はない。三四郎は手頃なズツクの革鞄《かばん》と傘《かさ》丈《だけ》持つて改札場《かいさつば》を出た。頭には高等學校の夏帽を被《かぶ》つてゐる。然し卒業したしるしに徽章《きしやう》丈《だけ》は?《も》ぎ取つて仕舞つた。晝間見ると其處《そこ》丈《だけ》色が新しい。後《うしろ》から女が尾《つ》いて來る。三四郎は此《この》帽子に対して少々｜極《きま》りが惡かつた。けれども尾《つ》いて來るのだから仕方がない。女の方では、此《この》帽子を無論たゞの汚ない帽子と思つて居る。

　九時半に着くべき汽車が四十分程｜後《おく》れたのだから、もう十時は過《まは》つてゐる。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口の樣《やう》に賑《にぎ》やかだ。宿屋も眼の前に二三軒ある。たゞ三四郎にはちと立派過ぎる樣に思はれた。そこで電氣燈の點《つ》いてゐる三階作りの前を澄《すま》して通り越して、ぶら／＼歩行《ある》いて行つた。無論不案内の土地だから何處へ出るか分らない。只《たゞ》暗い方へ行つた。女は何とも云はずに尾《つ》いて來る。すると比較的｜淋《さび》しい横町《よこちやう》の角《かど》から二軒目に御宿《おんやど》と云ふ看板《かんばん》が見えた。之は三四郎にも女にも相應な汚ない看板であつた。三四郎は鳥渡《ちよつと》振返つて、一口《ひとくち》女にどうですと相談したが、女は結構だといふんで、思ひ切つてずつと這入《はい》つた。上《あが》り口《くち》で二人連《ふたりづれ》ではないと斷《ことわ》る筈《はず》の所を、入《い》らつしゃい、――どうぞ御上《おあが》り――御案内――梅の四番｜抔《など》とのべつに喋舌《しやべ》られたので、已《やむ》を得ず無言の儘｜二人《ふたり》共梅の四番へ通されて仕舞つた。

　下女が茶を持つてくる間二人はぼんやり向ひ合つて坐つてゐた。下女が茶を持つて來て、御風呂をと云つた時は、もう此《この》婦人は自分の連《つれ》ではないと斷《ことわ》る丈《だけ》の勇氣が出なかつた。そこで手拭をぶら下げて、御先へと挨拶をして、風呂場へ出て行つた。風呂場は廊下の突き當りで便所の隣にあつた。薄暗くつて、大分《だいぶ》不潔の樣である。三四郎は着物を脱いで、風呂桶の中へ飛び込んで、少し考へた。こいつは厄介《やくかい》だとぢやぶ／＼遣つてゐると、廊下に足音がする。誰か便所へ這入つた樣子である。やがて出て來た。手を洗ふ。それが濟んだら、ぎいと風呂場の戸を半分開けた。例の女が入口から、「ちいと流しませうか」と聞いた。三四郎は大きな聲で、

　「いえ澤山です」と斷つた。然し女は出て行かない。却《かへ》つて這入つて來た。さうして帶を解き出した。三四郎と一所に湯を使ふ氣と見える。別に恥かしい樣子も見えない。三四郎は忽ち湯槽《ゆぶね》を飛び出した。そこ／＼に身鰻《からだ》を拭いて座敷へ歸つて、座蒲團の上に坐つて、少《すくな》からず驚いてゐると、下女が宿帳を持つて來た。

　三四郎は宿帳を取り上げて、福岡縣京都郡眞崎村《ふくをかけんみやこぐんまさきむら》小川三四郎《をがはさんしらう》二十三年學生と正直に書いたが、女の所へ行つて全く困つて仕舞つた。湯から出る迄《まで》待つて居れば好かつたと思つたが、仕方がない。下女がちやんと控へてゐる。已《やむ》を得ず同縣同郡同村同姓花二十三年と出鱈目《でたらめ》を書いて渡した。さうして頻《しき》りに團扇《うちは》を使つてゐた。

　やがて女は歸つて來た。「どうも、失禮致しました」と云つてゐる。三四郎は「いゝや」と答へた。

　三四郎は革鞄《かはん》の中《なか》から帳面を取り出して日記をつけ出した。書く事も何もない。女がゐなければ書く事が澤山ある樣に思はれた。すると女は「一寸《ちよいと》出て參ります」と云つて部屋《へや》を出て行つた。三四郎は益《ます／＼》日記が書けなくなつた。何處へ行つたんだらうと考へ出した。

　そこへ下女が床《とこ》を延べに來る。廣い蒲團を一枚しか持つて來ないから、床は二つ敷かなくては不可《いけ》ないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳《かや》が狹いとか云つて埒《らち》が明かない。面倒がる樣にも見える。仕舞《しまひ》には只今《たゞいま》番頭が一寸出ましたから、歸つたら聞いて持つて參りませうと云つて、頑固に一枚の蒲團を蚊帳一杯に敷いて出て行つた。

　夫《それ》から、しばらくすると女が歸つて來た。どうも遲くなりましてと云ふ。蚊帳の影で何かしてゐるうちに、がらん／＼といふ音がした。小供に見舞《みやげ》の玩具《おもちや》が鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳の向ふで「御先《おさき》へ」と云ふ聲がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘《まゝ》で、敷居に尻を乘せて、團扇《うちは》を使つてゐた。いつそ此《この》儘《まゝ》で夜を明かして仕舞はうかとも思つた。けれども蚊がぶん／＼來る。外《そと》ではとても凌《しの》ぎ切れない。三四郎はついと立つて、革鞄《かばん》の中《なか》から、キヤラコの襯衣《しやつ》と洋袴下《ずぼんした》を出して、それを素肌《すはだ》へ着けて、其上から紺《こん》の兵兒帶《へこおび》を締めた。それから西洋手拭《タウエル》を二筋持つた儘《まゝ》蚊帳の中へ這入つた。女は蒲團の向《むかふ》の隅でまだ團扇《うちは》を動かしてゐる。

　「失禮ですが、私《わたし》は疳性《かんしやう》で他人《ひと》の蒲團に寝るのが嫌《いや》だから……少《すこ》し蚤除《のみよけ》の工夫を遣るから御免なさい」

　三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、敷いてある敷布《シート》の餘つてゐる端《はじ》を女の寐てゐる方へ向けてぐる／＼捲《ま》き出した。さうして蒲團の眞中に白い長い仕切を拵《こしら》へた。女は向《むかふ》へ寢返りを打つた。三四郎は西洋手拭《タウエル》を廣げて、これを自分の領分に二枚績きに長く敷いて、其上に細長く寢た。其晩は三四郎の手も足も此幅の狹い西洋手拭《タウエル》の外《そと》には一｜寸《すん》も出なかつた。女とは一言《ひとこと》も口を利かなかつた。女も壁を向いた儘｜凝《じつ》として動かなかつた。

　夜はやう／＼明けた。顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜《ゆうべ》は蚤《のみ》は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「えゝ、難有《ありがた》う、御蔭さまで」と云ふ樣な事を眞面目《まじめ》に答へながら、下を向いで、御猪口《おちよく》の葡萄豆《ぶだうまめ》をしきりに突《つツ》つき出した。

　勘定《かんぢやう》をして宿を出て、停車場《ステーシヨン》へ着いた時、女は始めて關西線で四日市《よつかいち》の方へ行くのだと云ふ事を三四郎に話した。三四郎の汽車は間もなく來た。時間の都合で女は少し待合はせる事となつた。改札場の際《きは》迄《まで》送つて來た女は、

　「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辭儀をした。三四郎は革鞄《かばん》と傘《かさ》を片手に持つた儘、空《あ》いた手で例の古帽子を取つて、只《たゞ》一言《ひとこと》、

　「左樣《さよ》なら」と云つた。女は其顔を凝《じつ》と眺めてゐた、が、やがて落付いた調子で、

　「あなたは餘《よ》つ程《ぽど》度胸《どきよう》のない方《かた》ですね」と云って、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へ彈《はじ》き出された樣な心持がした。車の中へ這入《はい》つたら兩方の耳が一層｜熟《ほて》り出した。しばらくは凝《じ》つと小《ちひ》さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果《はて》から果《はて》迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何處かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そつと自分の席に歸つた。乘合《のりあひ》は大分《だいぶ》居る。けれども三四郎の擧動に注意する樣なものは一人もない。只《たゞ》筋向ふに坐つた男が、自分の席に歸る三四郎を一寸《ちよつと》見た。

　三四郎は此男に見られた時、何となく極《きま》りが惡かつた。本でも讀んで氣を紛《まぎ》らかさうと思つて、革鞄《かばん》を開けて見ると、昨夜《ゆふべ》の西洋手拭《タウエル》が、上の所にぎつしり詰つてゐる。そいつを傍《わき》へ掻き寄せて、底の方から、手に障《さは》つた奴を何でも構はず引出すと、讀んでも解らないベーコンの論文集が出た。ベーコンには氣の毒な位《くらゐ》薄つぺらな粗末な假綴《かりとぢ》である。元來汽車の中で讀む了見もないものを、大きな行李《こり》に入れ損《そく》なつたから、片付ける序《ついで》に提革鞄《さげかばん》の底へ、外の二三册と一所に放《はふ》り込んで置いたのが、運惡く當選したのである。三四郎はベーコンの廿三｜頁《ページ》を開いた。他の本でも讀めさうにはない。ましてベーコン抔《なと》は無論讀む氣にならない。けれども三四郎は恭《うや／＼》しく廿三｜頁《ページ》を開いて、萬遍《まんべん》なく頁《ページ》全體を見廻してゐた。三四郎は廿三｜頁《ページ》の前で一應｜昨夜《ゆうべ》の御浚《おさらひ》をする氣である。

　元來あの女は何だらう。あんな女が世の中に居るものだらうか。女と云ふものは、あゝ落付いて平氣でゐられるものだらうか。無�ﾍ育なのだらうか、大膽なのだらうか。それとも無邪氣なのだらうか。要するに行ける所｜迄《まで》行つて見なかつたから、見當が付かない。思ひ切つてもう少し行つて見ると可《よ》かつた。けれども恐ろしい。別れ際《ぎは》にあなたは度胸のない方《かた》だと云はれた時には、喫驚《びつくり》した。二十三年の弱點が一度に露見した樣な心持であつた。親でもあゝ旨《うま》く言ひ中《あ》てるものではない。……

　三四郎は此處｜迄《まで》來て、更に悄然《しよげ》て仕舞つた。何處の馬の骨だか分らないものに、頭の上がらない位｜打《どや》された樣な氣がした。ベーコンの二十三頁に對しても甚《はなは》だ申譯がない位に感じた。

　どうも、あゝ狼狽《らうばい》しちや駄目だ。學問も大學生もあつたものぢやない。甚だ人格に關係してくる。もう少しは仕樣があつたらう。けれども相手が何時《いつ》でもあゝ出るとすると、�ﾍ育を受けた自分には、あれより外に受け樣がないとも思はれる。すると無暗《むやみ》に女に近付いてはならないと云ふ譯になる。何だか意氣地《いくぢ》がない。非常に窮屈だ。丸《まる》で不具《かたは》にでも生れたやうなものである。けれども……

　三四郎は急に氣を易《か》へて、別の世界の事を思出した。――是から東京に行く。大學に這入《はい》る。有名な學者に接觸する。趣味品性の具《そなは》つた學生と交際する。圖書館で研究をする。著作をやる。世間で喝采《かつさい》する。母が嬉しがる。と云ふ樣な未來をだらしなく考へて、大《おほい》に元氣を回復して見ると、別に二十三頁の中に顔を埋《うづ》めてゐる必要がなくなつた。そこでひよいと頭を上げた。すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を見てゐた。今度は三四郎の方でも此男を見返した。

　髭を濃く生《はや》してゐる。面長《おもなが》の瘠《やせ》ぎすの、どことなく神主《かんぬし》じみた男であつた。たゞ鼻筋が眞直に通つてゐる所｜丈《だけ》が西洋らしい。學校�ﾍ育を受けつゝある三四郎は、こんな男を見ると屹度�ﾍ師にして仕舞ふ。男は白地《しろぢ》の絣《かすり》の下に、丁重に白い襦袢《じゆばん》を重ねて、紺足袋《こんたび》を穿《は》いてゐた。此《この》服裝から推《お》して、三四郎は先方を中學校の�ﾍ師と鑑定した。大きな未來を控へてゐる自分から見ると、何だか下《くだ》らなく感ぜられる。男はもう四十だらう是より先もう發展しさうにもない。

　男はしきりに煙草《たばこ》をふかしてゐる。長い烟を鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大變《たいへん》悠長に見える。さうかと思ふと無暗《むやみ》に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸《のび》をする事がある。さも退屈さうである。隣に乘合せた人が、新聞の讀み殻《がら》を傍《そば》に置くのに借りて看《み》る氣も出さない。三四郎は自《おのづか》ら妙《めう》になつて、ベーコンの論文集を伏せて仕舞つた。外《ほか》の小説でも出して、本氣に讀んで見《み》樣《やう》とも考へたが面倒だから、已《や》めにした。それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。生僧《あいにく》前の人はぐう／＼寐てゐる。三四郎は手を延ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御明《おあ》きですか」と髭のある男に聞いた。男は平氣な顔で「明《あ》いてるでせう。御讀みなさい」と云つた。新聞を手に取つた三四郎の方は却《かへ》つて平氣でなかつた。

　開《あ》けて見ると新聞には別に見る程の事も載《の》つてゐない。一二分で通讀して仕舞つた。律義《りちぎ》に疊んで元の場所へ返しながら、一寸會釋すると、向《むかふ》でも輕く挨拶をして、

　「君は高等學校の生徒ですか」と聞いた。

　三四郎は、被《かぶ》つてゐる古帽子の徽章《きしやう》の痕《あと》が、此男の眼に映《うつ》つたのを嬉しく感じた。

　「えゝ」と答へた。

　「東京の？」と聞返した時、始めて、

　「いえ、熊本です。……然し……」と云つたなり黙つて仕舞つた。大學生だと云ひたかつたけれども、云ふ程の必要がないからと思つて遠慮した。相手も「はあ、さう」と云つたなり煙草を吹かしてゐる。何故《なぜ》熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい。此時三四郎の前に寐てゐた男が「うん、成程」と云つた。それでゐて慥《たしか》に寐てゐる。獨言《ひとりごと》でも何でもない。髭のある人は三四郎を見てにや／＼と笑つた。三四郎はそれを機會《しほ》に、

　「あなたは何方《どちら》へ」と聞いた。

　「東京」とゆつくり云つた限《ぎり》である。何だか中學校の先生らしく無くなつて來た。けれども三等へ乘つてゐる位《くらゐ》だから大したものでない事は明《あき》らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭のある男は腕組をした儘、時々下駄の前齒で、拍子《ひやうし》を取つて、床《ゆか》を鳴らしたりしてゐる。餘程退屈に見える。然し此男の退屈は話したがらない退屈である。

　汽車が豐橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きて眼を擦《こす》りながら下りて行つた。よくあんなに都合よく眼を覺ます事が出來るものだと思つた。ことによると寐ぼけて停車場《ステーシヨン》を間違へたんだらうと氣遣《きづかひ》ながら、窓から眺めてゐると、決してさうでない。無事に改札場を通過して、正氣《しやうき》の人間の樣に出て行つた。三四郎は安心して席を向ふ側へ移した。是で髭のある人と隣り合せになつた。髭のある人は入れ換つて、窓から首を出して、水蜜桃《すゐみつたう》を買つてゐる。

　やがて二人の間に果物《くだもの》を置いて、

　「食べませんか」と云つた。

　三四郎は禮を云つて、一つ食《た》べた。髭のある人は好きと見えて、無暗《むやみ》に食べた。三四郎にもつと食べろと云ふ。三四郎は又一つ食べた。二人が水蜜桃を食べてゐるうちに大分《だいぶ》親密になつて色々な話を始めた。

　其男の説によると、桃は果物《くだもの》のうちで一番仙人めいてゐる。何だか馬鹿見た樣な味がする。第一｜核子《たね》の恰好《かつかう》が無器用だ。且《か》つ穴だらけで大變面白く出來上つてゐると云ふ。三四郎は始めて聞く説だが、隨分詰らない事を云ふ人だと思つた。

　次に其男がこんな事を云ひ出した。子規《しき》は果物が大變好きだつた。且《か》ついくらでも食へる男だつた。ある時大きな樽柿《たるがき》を十六食つた事がある。それで何ともなかつた。自分｜抔《など》は到底《とても》子規の眞似《まね》は出來ない。――三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話｜丈《だけ》には興味がある樣な氣がした。もう少し子規の事でも話さうかと思つてゐると、

　「どうも好《すき》なものには自然と手が出るものでね。仕方がない。豚｜抔《など》は手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛つて動けない樣にして置いて、其鼻の先へ、御馳走を並《なら》べて置くと、動けないものだから、鼻の先が段々延びて來るさうだ。御馳走に屆く迄は延びるさうです。どうも一念｜程《ほど》恐ろしいものはない」と云つて、にや／＼笑つてゐる。眞面目《まじめ》だか冗談《じょうだん》だか、判然と區別しにくい樣な話し方である。

　「まあ御互《おたがひ》に豚でなくつて仕合せだ。さう欲しいものゝ方へ無暗に鼻が延びて行つたら、今頃は汽車にも乘れない位長くなつて困るに違ない」

　三四郎は吹き出した。けれども相手は存外靜かである。

　「實際｜危險《あぶな》い。レオナルド、ダ、?ンチと云ふ人は桃の幹に砒石《ひせき》を注射してね、其｜實《み》へも毒が回るものだらうか、どうだらうかと云ふ試驗をした事がある。所が其桃を食つて死んだ人がある。危險《あぶな》い。氣を付けないと危險《あぶな》い」と云ひながら、散々食ひ散らした水蜜桃の核子《たね》やら皮やらを、一纒《ひとまと》めに新聞に包《くる》んで、窓の外へ抛《な》げ出した。

　今度は三四郎も笑ふ氣が起らなかつた。レオナルド、ダ、?ンチと云ふ名を聞いて少しく辟易《へきえき》した上に、何だか昨夕《ゆうべ》の女の事を考へ出して、妙に不愉快になつたから、謹んで黙つて仕舞つた。けれども相手はそんな事に一向《いつかう》氣が付かないらしい。やがて、

　「東京は何處へ」と聞き出した。

　「實は始めてゞ樣子が善く分らんのですが……差し當り國の寄宿舎へでも行かうかと思つてゐます」と云ふ。

　「ぢや熊本はもう……」

　「今度卒業したのです」

　「はあ、そりや」と云つたが御目出たいとも結構だとも付けなかつた。たゞ「すると是から大學へ這入《はい》るのですね」と如何《いか》にも平凡であるかの如くに聞いた。

　三四郎は聊《いさゝ》か物足りなかつた。其《その》代《かは》り、

　「えゝ」と云ふ二字で挨拶を片付けた。

　「科《くわ》は？」と又聞かれる。

　「一部です」

　「法科ですか」

　「いゝえ文科です」

　「はあ、そりや」と又云つた。三四郎は此はあ、そりやを聞くたびに妙になる。向ふが大いに偉いか、大いに人を踏み倒してゐるか、さうでなければ大學に全く縁故も同情もない男に違ない。然しそのうちの何方《どつち》だか見當が付かないので此男に對する態度も極めて不明瞭であつた。

　濱松で二人《ふたり》とも申し合せた樣に辨當を食つた。食つて仕舞つても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四五人列車の前を往つたり來たりしてゐる。其うちの一組は夫婦と見えて、暑いのに手を組み合せてゐる。女は上《うへ》下《した》とも眞白な着物で、大變美しい。三四郎は生れてから今日《こんにち》に至るまで西洋人と云ふものを五六人しか見た事がない。其うちの二人は熊本の高等學校の�ﾍ師で、其二人のうちの一人は運惡く脊蟲《せむし》であつた。女では宣�ﾍ師を一人知つて居る。隨分｜尖《とん》がつた顔で、鱚《きす》又は?《かます》に類してゐた。だから、かう云ふ派手《はで》な奇麗な西洋人は珍らしい許《ばかり》ではない。頗《すこぶ》る上等に見える。三四郎は一生懸命に見惚《みと》れてゐた。是では威張《ゐば》るのも尤もだと思つた。自分が西洋へ行つて、こんな人の中に這入《はい》つたら定めし肩身の狹い事だらうと迄《まで》考へた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いて見たが些《ちつ》とも分らない。熊本の�ﾍ師とは丸《まる》で發音が違ふ樣だ。

　所へ例の男が首を後《うしろ》から出して、

　「まだ出さうもないのですかね」と言ひながら、今行き過ぎた、西洋の夫婦を一寸《ちよいと》見て、

　「あゝ美しい」と小聲に云つて、すぐに生欠伸《なまあくび》をした。三四郎は自分が如何にも田舍《ゐなか》ものらしいのに氣が着いて、早速首を引き込めて、着座した。男もつゞいて席に返つた。さうして、

　「どうも西洋人は美くしいですね」と云つた。

　三四郎は別段の答も出ないので只《たゞ》はあと受けて笑つて居た。すると髭の男は、

　「御互《おたがひ》は憐《あは》れだなあ」と云ひ出した。「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戰爭に勝つて、一等國になつても駄目ですね。尤《もつと》も建物を見ても、庭園を見ても、いづれも顔相應の所だが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覽なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外《ほか》に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵《こしら》へたものぢやない」と云つて又にや／＼笑つてゐる。三四郎は日露戦爭以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかつた。どうも日本人ぢやない樣な氣がする。

　「然し是からは日本も段々發展するでせう」と辯護した。すると、かの男は、すましたもので、

　「亡《ほろ》びるね」と云つた。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲《な》ぐられる。わるくすると國賊取扱にされる。三四郎は頭の中《なか》の何處の隅にも斯う云ふ思想を入れる餘裕はない樣な空氣の裡《うち》で生長した。だからことによると自分の年齡《とし》の若いのに乘じて、他《ひと》を愚弄するのではなからうかとも考へた。男は例の如くにや／＼笑つてゐる。其癖言葉つきはどこ迄も落付いてゐる。どうも見當が付かないから、相手になるのを已《や》めて黙つて仕舞つた。すると男が、かう云つた。

　「熊本より東京は廣い。東京より日本は廣い。日本より……」で一寸《ちよつと》切つたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。

　「日本より頭の中の方が廣いでせう」と云つた。「囚《とら》はれちや駄目だ。いくら日本の爲を思つたつて贔屓《ひいき》の引倒《ひきだふ》しになる許《ばかり》だ」

　此言葉を聞いた時、三四郎は眞實に熊本を出た樣な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯《ひけふ》であつたと悟つた。

　其晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分れる時迄名前を明かさなかつた。三四郎は東京へ着きさへすれば、此位の男は到る處に居るものと信じて、別に姓名を尋ね樣ともしなかつた。

　

　　　　　二

　

　三四郎が東京で驚いたものは澤山ある。第一電車のちん／＼鳴るので驚いた。それから其ちん／＼鳴る間に、非常に多くの人間が乘つたり降《お》りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤も驚いたのは、何處迄行つても東京が無くならないと云ふ事であつた。しかも何處をどう歩いても、材木が放《はふ》り出してある、石が積んである、新しい家が往來から二三間引込んで居る、古い藏が半分｜取崩《とりくづ》されて心細く前の方に殘つてゐる。凡《すべ》ての物が破壞されつゝある樣に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつゝある樣に見える。大變な動き方である。

　三四郎は全く驚いた。要するに普通の田舍者が始めて都の最中《まんなか》に立つて驚くと同じ程度に、又同じ性質に於て大《おほい》に驚いて仕舞つた。今迄の學問は此驚きを豫防する上に於て、賣藥程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚きと共に四割｜方《がた》減却した。不愉快でたまらない。

　此劇烈な活動そのものが取りも直さず現實世界だとすると、自分が今日《こんにち》迄の生活は現實世界に毫《がう》も接觸してゐない事になる。洞《ほら》が峠《たうげ》で晝寐をしたと同然である。それでは今日《けふ》限り晝寐をやめて、活動の割前が拂へるかと云ふと、それは困難である。自分は今活動の中心に立つてゐる。けれども自分はたゞ自分の左右前後に起る活動を見なければならない地位に置き易《か》へられたと云ふ迄で、學生としての生活は以前と變る譯はない。世界はかやうに動搖する。自分は此動搖を見てゐる。けれどもそれに加はる事は出來ない。自分の世界と、現實の世界は一つ平面に並《なら》んで居りながら、どこも接觸してゐない。さうして現實の世界は、かやうに動搖して、自分を置き去《ざ》りにして行つて仕舞ふ。甚だ不安である。

　三四郎は東京の眞中《まんなか》に立つて電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、かう感じた。けれども學生生活の裏面に横《よこ》たはる思想界の活動には毫も氣が付かなかつた。――明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰返してゐる。

　三四郎が動く東京の眞中に閉ぢ込められて、一人で欝《ふさ》ぎ込んでゐるうちに、國元の母から手紙が來た。東京で受取つた最初のものである。見ると色々書いてある。まづ今年は豐作で目出度いと云ふ所から始まつて、身體を大事にしなくつては不可《いけ》ないと云ふ注意があつて、東京のものはみんな利口で人が惡いから用心しろと書いて、學資は毎月《まいげつ》月末に屆く樣にするから安心しろとあつて、勝田の政さんの從弟《いとこ》に當る人が大學校を卒業して、理科大學とかに出てゐるさうだから、尋ねて行つて、萬事よろしく頼むがいゝで結んである。肝心の名前を忘れたと見えて、欄外と云ふ樣な處に野々宮宗八《のゝみやそうはち》どのとかいてあつた。此欄外には其外二三件ある。作《さく》の青馬《あを》が急病で死んだんで、作《さく》は大弱りでゐる。三輪田《みわた》のお光《みつ》さんが鮎《あゆ》をくれたけれども東京へ送ると途中で腐つて仕舞ふから、家内《うち》で食べて仕舞つた。等である。

　三四郎は此手紙を見て、何だか古ぼけた昔から屆いた樣な氣がした。母には濟まないが、こんなものを讀んでゐる暇《ひま》はないと迄考へた。それにも拘《かゝは》らず繰返して二｜返《へん》讀んだ。要するに自分がもし現實世界と接觸してゐるならば、今の所母より外にないのだらう。其母は古い人で古い田舍に居る。其外には汽車の中で乘合した女がゐる。あれは現實世界の稻妻である。接觸したと云ふには、あまりに短くつて且《かつ》あまりに鋭《するど》過ぎた。――三四郎は母の云ひ付け通り野々宮宗八を尋ねる事にした。

　あくる日は平生《へいぜい》よりも暑い日であつた。休暇中だから理科大學を尋ねても野々宮君は居るまいと思つたが、母が宿所を知らせて來ないから、聞き合せ旁《かた／”＼》行つて見《み》樣《やう》と云ふ氣になつて、午後四時頃、高等學校の横を通つて彌生町《やよひちやう》の門から這入《はい》つた。往來は埃《ほこり》が二寸も積《つも》つてゐて、其上に下駄の齒や、靴の底や、草鞋《わらぢ》の裏が奇麗に出來上つてる。車の輪と自轉車の痕《あと》は幾筋だか分らない。むつとする程堪らない路だつたが、構内へ這入ると流石《さすが》に樹の多い丈《だけ》に氣分が晴々《せい／＼》した。取付《とつつき》の戸をあたつて見たら錠《ぢやう》が下りてゐる。裏へ廻つても駄目であつた。仕舞に横へ出た。念の爲と思つて推《お》して見たら、旨《うま》い具合《ぐあひ》に開《あ》いた。廊下の四つ角に小使が一人居眠りをしてゐた。來意を通じると、しばらくの間は、正氣を回復する爲に、上野の森を眺めてゐたが、突然「御出《おいで》かも知れません」と云つて奧へ這入つて行つた。頗る閑靜である。やがて又出て來た。

　「御出《おいで》でやす。御這入《おはい》んなさい」と友達見た樣に云ふ。小使に食《く》つ付《つ》いて行くと四つ角を曲つて和土《たゝき》の廊下を下へ降りた。世界が急に暗くなる。炎天で眼が眩《くら》んだ時の樣であつたが少時《しばらく》すると瞳が漸く落付いて、四邊《あたり》が見える樣になつた。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があつて、其戸が明け放してある。其處から顔が出た。額《ひたひ》の廣い眼の大きな佛�ﾍに縁のある相《さう》である。縮《ちゞみ》の襯衣《しやつ》の上へ脊廣《せびろ》を着てゐるが、脊廣は所々に染《しみ》がある。脊《せい》は頗る高い。瘠《や》せてゐる所が暑さに釣り合つてゐる。頭と脊中を一直線に前の方へ延ばして御辞儀をした。

　「此方《こつち》へ」と云つた儘、顔を室《へや》の中へ入れて仕舞つた。三四郎は戸の前迄來て室《へや》の中を覗いた。すると野々宮君はもう椅子へ腰を掛けてゐる。もう一｜遍《ぺん》「此方《こつち》へ」と云つた。此方《こつち》へと云ふ所に臺がある。四角な棒を四本立てゝ、其上を板で張つたものである。三四郎は臺の上へ腰を掛けて初対面の挨拶をする。それから何分｜宜敷《よろし》く願ひますと云つた。野々宮君は只《たゞ》はあ、はあと云つて聞いてゐる。其樣子が幾分か汽車の中で水蜜桃を食つた男に似てゐる。一通り口上を述べた三四郎はもう何も云ふ事がなくなつて仕舞つた。野々宮君もはあ、はあ云はなくなつた。

　部屋の中を見廻すと眞中に大きな長い樫《かし》の机《テーブル》が置いてある。其上には何だか込入つた、太い針線《はりがね》だらけの器械が乘つかつて、其｜傍《わき》に大きな硝子《ガラス》の鉢に水が入れてある。其外にやすり〔三字傍点〕と小刀《ナイフ》と襟飾《えりかざり》が一つ落ちてゐる。最後に向《むかふ》の隅を見ると、三尺｜位《ぐらゐ》の花崗石《みかげいし》の臺の上に、福神漬の罐程な複雜な器械が乘せてある。三四郎は此罐の横腹《よこつぱら》に開《あ》いてゐる二つの穴に眼をつけた。穴が蟒蛇《うはゞみ》の眼玉の樣に光つてゐる。野々宮君は笑ひながら光るでせうと云つた。さうして、斯う云ふ説明をして呉れた。

　「晝間のうちに、あんな準備《したく》をして置いて、夜になつて、交通其他の活動が鈍《にぶ》くなる頃に、此靜な暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの眼玉の樣なものを覗くのです。さうして光線の壓力を試驗する。此年《ことし》の正月頃から取り掛つたが、裝置が中々面倒なのでまだ思ふ樣な結果が出て來ません。夏は比較的｜堪《こら》へ易《やす》いが、寒夜になると、大變｜凌《しの》ぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷《つめ》たくて遣り切れない。……」

　三四郎は大《おほい》に驚いた。驚くと共に光線にどんな壓力があつて、其壓力がどんな役に立つんだか、全く要領を得るに苦しんだ。

　其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覽なさい」と勸めた。三四郎は面白半分、石の臺の二三間手前にある望遠鏡の側《そば》へ行つて右の眼をあてがつたが、何にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「一向《いつかう》見えません」と答へると、「うんまだ葢《ふた》が取らずにあつた」と云ひながら、椅子を立つて望遠鏡の先に被《かぶ》せてあるものを除《の》けて呉れた。

　見ると、たゞ輪廓のぼんやりした明《あか》るいなかに、物差《ものさし》の度盛《どもり》がある。下に2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と云ふと、「今に動きます」と云ひながら向《むかふ》へ廻つて何かしてゐる樣であつた。

　やがて度盛《どもり》が明るい中《なか》で動き出した。2が消えた。あとから3が出る。其あとから4が出る。5が出る。とう／＼10迄《まで》出た。すると度盛がまた逆に動き出した。10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1迄《まで》來て留つた。野々宮君は又「どうです」と云ふ。三四郎は驚いて、望遠鏡から眼を放して仕舞つた。度盛の意味を聞く氣にもならない。

　丁寧に禮を述べて穴倉を上つて、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかん／＼してゐる。暑いけれども深い呼息《いき》をした。西の方へ傾いた日が斜めに廣い坂を照して、坂の上の兩側にある工科の建築の硝子窓が燃える樣に輝いてゐる。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果《はて》から燒ける火の?が、薄赤く吹き返して來て、三四郎の頭の上迄｜熱《ほて》つてゐる樣に思はれた。横に照り付ける日を半分脊中に受けて、三四郎は左《ひだ》りの森の中へ這入《はい》つた。其森も同じ夕日を半分脊中に受けてゐる。黒ずんだ蒼い葉と其の間は染めた樣に赤い。太い欅《けやき》の幹で日暮《ひぐら》しが鳴いてゐる。三四郎は池の傍《そば》へ來てしやがんだ。

　非常に靜かである。電車の音もしない。赤門《あかもん》の前を通る筈の電車は、大學の抗議で小石川を廻る事になつたと國にゐる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端《はた》にしやがみながら、不圖《ふと》此事件を思ひ出した。電車さへ通さないと云ふ大學は餘程社會と離れてゐる。

　たま／＼其中に這入《はい》つて見ると、穴倉の下で半年｜餘《あま》りも光線の壓力の試驗してゐる野々宮君の樣な人もゐる。野々宮君は頗る質素な服裝《なり》をして、外で逢へば電燈會社の技手｜位《くらゐ》な格である。それで穴倉の底を根據地として欣然とたゆまずに研究を專念に遣つてゐるから偉い。然し望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたつて現實世界と交渉のないのは明《あきら》かである。野々宮君は生涯現實世界と接觸する氣がないのかも知れない。要するに此靜かな空氣を呼吸するから、自《おのづか》らあゝ云ふ氣分にもなれるのだらう。自分もいつそのこと氣を散らさずに、活《い》きた世の中と關係のない生涯を送つて見樣かしらん。

　三四郎が凝《じつ》として池の面《おもて》を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、其｜又《また》底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且《か》つ遙《はるか》な心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲の樣な淋《さび》しさが一面に廣がつて來た。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人《ひとり》で坐つて居るかと思はれる程な寂寞を覺えた。熊本の高等學校に居る時分も是より靜な龍田山《たつたやま》に上つたり、月見草ばかり生えてゐる運動場に寐たりして、全く世の中を忘れた氣になつた事は幾度となくある、けれども此孤獨の感じは今始めて起《おこ》つた。

　活動の劇しい東京を見たためだらうか。或は――三四郎は此の時赤くなつた。汽車で乘り合はした女の事を思ひ出したからである。――現實世界はどうも自分に必要らしい。けれども現實世界は危《あぶ》なくて近寄れない氣がする。三四郎は早く下宿に歸つて母に手紙を書いてやらうと思つた。

　不圖《ふと》眼を上げると、左手の岡の上に女が二人《ふたり》立つてゐる。女のすぐ下が池で、池の向ふ側が高い崖の木立《こだち》で、其｜後《うしろ》が派手《はで》な赤煉瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡《すべ》ての向ふから横に光を透《とほ》してくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低い陰から見ると岡の上は大變明るい。女の一人はまぼしいと見えて、團扇《うちは》を額《ひたひ》の所に翳《かざ》してゐる。顏はよく分らない。けれども着物の色、帶の色は鮮《あざや》かに分つた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履《ざうり》を穿《は》いてゐる事も分つた。もう一人は眞白である。是は團扇《うちは》も何も持つて居ない。只《たゞ》額に少し雛を寄せて、對岸《むかふぎし》から生《お》ひ被《かぶ》さりさうに、高く池の面《おもて》に枝を伸《のば》した古木《こぼく》の奧を眺めてゐた。團扇《うちは》を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩《ひとあし》土堤《どて》の縁《ふち》から退《さ》がつてゐる。三四郎が見ると、二人の姿が筋違《すぢかひ》に見える。

　此時三四郎の受けた感じは只《たゞ》奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舍者《ゐなかもの》だから、此《この》色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口にも云へず、筆にも書けない。たゞ白い方が看護婦だと思つた許《ばか》りである。

　三四郎は又｜見惚《みと》れてゐた。すると白い方が動き出した。用事のある樣な動き方ではなかつた。自分の足が何時《いつ》の間《ま》にか動いたといふ風であつた。見ると團扇《うちは》を持つた女も何時《いつ》の間《ま》にか又動いてゐる。二人は申し合せた樣に用のない歩き方をして、坂を下りて來る。三四郎は矢つ張り見てゐた。

　坂の下に石橋がある。渡らなければ眞直に理科大學の方へ出る。渡れば水際《みづぎは》を傳《つた》つて此方《こつち》へ來る。二人は石橋を渡つた。

　團扁《うちは》はもう翳《かざ》して居ない。左の手に白い小さな花を持つて、それを嗅《か》ぎながら來る。嗅ぎながら、鼻の下に宛《あ》てがつた花を見ながら、歩くので、眼は伏せてゐる。それで三四郎から一間｜許《ばかり》の所へ來てひよいと留つた。

　「是は何でせう」と云つて、仰向いた。頭の上には大きな椎《しひ》の木が、日の目の洩らない程厚い葉を茂らして、丸い形に、水際《みづぎは》迄《まで》張り出してゐた。

　「是は椎《しひ》」と看護婦が云つた。丸《まる》で子供に物を�ﾍへる樣であつた。

　「さう。實《み》は生《な》つてゐないの」と云ひながら、仰向《あふむ》いた顔を元へ戻す、其｜拍子《ひやうし》に三四郎を一目見た。三四郎は慥《たしか》に女の黒眼の動く刹那を意識した。其時色彩の感じは悉《こと／”＼》く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸《どきよう》のない方《かた》ですね」と云はれた時の感じと何處か似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。

　二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若い方が今迄嗅いで居た白い花を三四郎の前へ落して行つた。三四郎は二人の後姿《うしろすがた》を凝《じつ》と見詰めて居た。看護婦は先へ行く。若い方が後《あと》から行く。華やかな色の中に、白い薄《すゝき》を染拔いた帶が見える。頭にも眞白な薔薇《ばら》を一つ挿してゐる。其薔薇が椎の木蔭《こかげ》の下の、黒い髪の中で際立《きはだ》つて光つてゐた。

　三四郎は茫然《ぼんやり》してゐた。やがて、小さな聲で「矛盾《むじゆん》だ」と云つた。大學の空氣とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未來に對する自分の方針が二途《ふたみち》に矛盾してゐるのか、又は非常に嬉しいものに對して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、――この田舍出の青年には、凡《すべ》て解らなかつた。たゞ何だか矛盾であつた。

　三四郎は女の落して行つた花を拾つた。さうして嗅いで見た。けれども別段の香《にほひ》もなかつた。三四郎は此花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いてゐる。すると突然向ふで自分の名を呼んだものがある。

　三四郎は花から眼を放《はな》した。見ると野々宮君が石橋の向ふに長く立つてゐる。

　「君まだ居たんですか」と云ふ。三四郎は答をする前に、立つてのそ／＼歩いて行つた。石橋の上迄來て、

　「えゝ」と云つた。何となく間《ま》が拔けてゐる。けれども野々宮君は、少しも驚かない。

　「涼しいですか」と聞いた。三四郎は又

　「えゝ」と云つた。

　野々宮君は少時《しばらく》池の水を眺めてゐたが、右の手を隱袋《ぽつけつと》へ入れて何か探し出した。隱袋《ぽつけつと》から半分封筒が食《は》み出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物を探し宛《あ》てなかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下げた。さうして、かう云つた。

　「今日は少し裝置が狂つたので晩の實驗は已《や》めだ。是から本郷の方を散歩して歸らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」

　三四郎は快く應じた。二人で坂を上がつて、岡の上へ出た。野々宮君はさつき女の立つてゐた邊《あた》りで一寸《ちよつと》留つて、向ふの青い木立の間から見える赤い建物と、崖の高い割に、水の落ちた池を一面に見渡して、

　「一寸好い景色でせう。あの建築《ビルヂング》の角度《アングル》の所｜丈《だけ》が少し出てゐる。木の間から。ね。好いでせう。君氣が付いてゐますか。あの建物は中々｜旨《うま》く出來てゐますよ。工科もよく出來てるが此方が旨いですね」

　三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚いた。實を云ふと自分には何方《どつち》が好いか丸《まる》で分らないのである。そこで今度は三四郎の方が、はあ、はあと云ひ出した。

　「それから、此《この》木と水の｜感じ《エフフエクト》がね。――大したものぢやないが、何しろ東京の眞中にあるんだから――靜かでせう。かう云ふ所でないと學問をやるには不可《いけ》ませんね。近頃は東京があまり八釜間敷《やかましく》なり過ぎて困る。是が御殿《ごてん》」とあるき出しながら、左手《ゆんで》の建物を指して見せる。「�ﾍ授會を遣《や》る所です。うむなに、僕なんか出ないで好いのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば濟むのです。近頃の學問は非常な勢ひで動いてゐるので、少し油斷すると、すぐ取殘されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談《じようだん》をしてゐる樣だが、是でも遣つてゐる當人の頭の中は劇烈に働いてゐるんですよ。電車より餘程《よつぽど》烈しく働いてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光が乏しい。

　青い空の靜まり返つた、上皮に、白い薄雲が刷毛先《はけさき》で掻き拂つた痕の樣に、筋違《すぢかひ》に長く浮いてゐる。

　「あれを知つてますか」と云ふ。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。

　「あれは、みんな雪の粉《こ》ですよ。かうやつて下から見ると、些《ちつ》とも動いて居ない。然しあれで地上に起る颶風《ぐふう》以上の速力で動いてゐるんですよ。――君ラスキンを讀みましたか」

　三四郎は憮然《ぶぜん》として讀まないと答へた。野々宮君はたゞ

　「さうですか」と云つた許《ばか》りである。しばらくしてから、

　「此《この》空を寫生したら面白いですね。――原口《はらぐち》にでも話してやらうかしら」と云つた。三四郎は無論原口と云ふ畫工の名前を知らなかつた。

　二人はベルツの銅像の前から枳殻寺《からたちでら》の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、此銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱つた。表は大變｜賑《にぎや》かである。電車がしきりなしに通る。

　「君電車は煩《うる》さくはないですか」と又聞かれた。三四郎は煩《うる》さいより凄《すさま》じい位《くらゐ》である。然したゞ「えゝ」と答へて置いた。すると野々宮君は「僕もうるさい」と云つた。然し一向｜煩《うる》さい樣にも見えなかつた。

　「僕は車掌に�ﾍはらないと、一人で乘換が自由に出來ない。此二三年來｜無暗《むやみ》に殖《ふ》えたのでね。便利になつて却《かへ》つて困る。僕の學問と同じ事だ」と云つて笑つた。

　學期の始まり際《ぎは》なので新しい高等學校の帽子を被《かぶ》つた生徒が大分《だいぶ》通る。野々宮君は愉快さうに、此《この》連中を見てゐる。

　「大分《だいぶ》新しいのが來ましたね」と云ふ。「若い人は活氣があつて好い。時に君は幾歳《いくつ》ですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いた通りを答へた。すると、

　「それぢや僕より七つ許《ばか》り若い。七年もあると、人間は大抵の事が出來る。然し月日《つきひ》は立易《たちやす》いものでね。七年位｜直《ぢき》ですよ」と云ふ。どつちが本當なんだか、三四郎には解らなかつた。

　四角近《よつかどぢか》くへ來ると左石に本屋と雜誌屋が澤山ある。そのうちの二三軒には人が黒山の樣にたかつてゐる、さうして雜誌を讀んでゐる。さうして買はずに行つて仕舞ふ。野々宮君は、

　「みんな狡猾《ずる》いなあ」と云つて笑つてゐる。尤《もつと》も當人も一寸《ちよいと》太陽《たいやう》を開けて見た。

　四角へ出ると、左手の此方側《こちらがは》に西洋小間物屋があつて、向側《むかふがは》に日本小間物屋がある。其間を電車がぐるつと曲つて、非常な勢で通る。ベルがちん／＼ちん／＼云ふ。渡りにくい程｜雜沓《ざつたふ》する。野々宮君は、向ふの小間物屋を指して、

　「あすこで一寸《ちよいと》買物をしますからね」と云つて、ちりん／＼と鳴る間を驅拔けた。三四郎も食つ付いて、向ふへ渡つた。野々宮君は早速店へ這入つた。表に待つてゐた三四郎が、氣が付いて見ると、店先の硝子張《ガラスばり》の棚に櫛《くし》だの花簪《はなかんざし》だのが列《なら》べてある。三四郎は妙に思つた。野々宮君が何を買つてゐるのかしらと、不審を起して、店の中へ這入つて見ると、蝉の羽根の樣なリボンをぶら下げて、

　「どうですか」と聞かれた。三四郎は此時自分も何か買つて、鮎《あゆ》の御禮に三輪田《みわた》のお光《みつ》さんに送つてやらうかと思つた。けれども御光《おみつ》さんが、それを貰つて、鮎の御禮と思はずに、屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ひないと考へたから已《や》めにした。

　それから眞砂町《まさごちやう》で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番｜旨《うま》い家《うち》ださうだ。けれども三四郎にはたゞ西洋料理の味がする丈《だけ》であつた。然し食べる事はみんな食べた。

　西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分《おひわけ》に歸る所を丁寧にもとの四角迄出て、左へ折れた。下駄を買はうと思つて、下駄屋を覗き込んだら、白熱瓦斯の下に、眞白に塗り立てた娘が、石膏《せきこう》の化物《ばけもの》の樣に坐つてゐたので、急に厭《いや》になつて已《や》めた。それからうちへ歸る間、大學の池の縁《ふち》で逢つた女の、顏の色ばかり考へてゐた。――其色は薄く餠を焦《こが》した樣な狐色《きつねいろ》であつた。さうして肌理《きめ》が非常に細《こま》かであつた。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくつては駄目だと斷定した。

　

　　　　　三

　

　學年は九月十一日に始まつた。三四郎は正直に午前十時半頃學校へ行つて見たが、玄關前の掲示場に講義の時間割がある許《ばかり》で學生は一人も居ない。自分の聽くべき分｜丈《だけ》を手帳に書き留めて、それから事務室へ寄つたら、流石《さすが》に事務員｜丈《だけ》は出て居た。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云つてゐる。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がない樣《やう》ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答へた。三四郎は成る程と思つて事務室を出た。裏へ廻つて、大きな欅《けやき》の下から高い空を覗《のぞ》いたら、普通の空よりも明《あきら》かに見えた。熊笹の中を水際《みづぎは》へ下りて、例の椎《しひ》の木の所｜迄《まで》來て、又しやがんだ。あの女がもう一｜遍《ぺん》通れば可《い》い位《くらゐ》に考へて、度々《たび／＼》岡の上を眺めたが、岡の上には人影もしなかつた。三四郎はそれが當然だと考へた。けれども矢張《やはり》しやがんでゐた。すると午砲《どん》が鳴つたんで驚いて下宿へ歸つた。

　翌日は正《しやう》八時に學校へ行つた。正門《せいもん》を這入ると、取突《とつつき》の大通りの左右に植ゑてある銀杏《いてふ》の並木《なみき》が眼に付いた。銀杏《いてふ》が向ふの方で盡きるあたりから、だら／＼坂《ざか》に下《さ》がつて、正門の際《きは》に立つた三四郎から見ると、坂の向ふにある理科大學は二階の一部しか出てゐない。其屋根の後《うし》ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いてゐる。日は正面にある。三四郎は此《この》奧行のある景色を愉快に感じた。

　銀杏《いてふ》の並木《なみき》が此方《こちら》側で盡きる右手には法文科大學がある。左手には少し退《さ》がつて博物の�ﾍ室がある。建築は双方共に同じで、細長い窓の上に、三角に尖つた屋根が突き出してゐる。其三角の縁《ふち》に當る赤煉瓦と黒い屋根の接目《つぎめ》の所が細い石の直線で出來てゐる。さうして其石の色が少し蒼味《あをみ》を帶びて、すぐ下にくる派手な赤煉瓦に一種の趣《おもむき》を添へてゐる。さうして此《この》長い窓と、高い三角が横にいくつも續いてゐる。三四郎は此間《このあひだ》野々宮君の説を聞いてから以來、急に此建物を難有《ありがた》く思つて居たが、今朝は、此意見が野々宮君の意見でなくつて、初手《しよて》から自分の持説である樣な氣がし出した。ことに博物室が法文科と一直線に並《なら》んでゐないで、少し奧へ引つ込んでゐる所が不規則で妙だと思つた。こんど野々宮君に逢つたら自分の發明として此説を持ち出さうと考へた。

　法文科の右のはづれから半町程前へ突出してゐる圖書館にも感服した。よく分らないが何でも同じ建築だらうと考へられる。其赤い壁に添《つ》けて、大きな棕櫚《しゆろ》の木を五六本植ゑた所《ところ》が大いに好い。左《ひだ》り手のずつと奧にある工科大學は封建時代《ほうけんじだい》の西洋の御城《おしろ》から割出した樣に見えた。眞四角《まつしかく》に出來上つてゐる。窓も四角である。只｜四隅《よすみ》と入口が丸い。是は櫓《やぐら》を形取《かたど》つたんだらう。御城｜丈《だけ》に堅牢《しつかり》してゐる。法文科見た樣に倒れさうでない。何だか脊《せい》の低い相撲取《すまふとり》に似て居る。

　三四郎は見渡す限り見渡して、此《この》外《ほか》にもまだ眼に入らない建物が澤山ある事を勘定に入れて、何處となく雄大な感じを起した。「學問の府はかうなくつてはならない。かう云ふ構《かまへ》があればこそ研究も出來る。えらいものだ」――三四郎は大學者になつた樣な心持がした。

　けれども�ﾍ室へ這入つて見たら、鐘は鳴つても先生は來なかつた。其《その》代《かは》り學生も出て來ない。次の時間も其通りであつた。三四郎は疳癪《かんしやく》を起《おこ》して�ﾍ場を出た。さうして念の爲めに池の周圍《まはり》を二遍｜許《ばか》り廻つて下宿へ歸つた。

　夫《それ》から約｜十日《とをか》許《ばかり》立つてから、漸く講義が始まつた。三四郎が始めて�ﾍ室へ這入《はい》つて、外《ほか》の學生と一所に先生の來るのを待つてゐた時の心持は實に殊勝なものであつた。神主《かんぬし》が裝束を着けて、是から祭典でも行《おこな》はうとする間際《まぎは》には、かう云ふ氣分がするだらうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。實際學問の威嚴に打たれたに違ない。それのみならず先生が號鐘《ベル》が鳴つて十五分立つても出て來ないので益《ます／＼》豫期から生ずる敬畏の念を�揩ｵた。そのうち人品《じんぴん》のいゝ御爺《おぢい》さんの西洋人が戸を開《あ》けて這入《はい》つて來て、流暢《りうちやう》な英語で講義を始めた。三四郎は其時answer《アソサー》と云ふ字はアングロ、サクソン語のand-swaru《アソド・スワル》から出たんだと云ふ事を覚えた。それからスコツトの通《かよ》つた小學校の村の名を覚えた。いづれも大切に筆記帳に記《しる》して置いた。其次には文學論の講義に出た。此先生は�ﾍ室に這入つて、一寸｜黒板《ボールド》を眺めてゐたが、黒板《ボールド》の上に書いてあるGeschehen《ゲシエーヘン》と云ふ字とNachbild《ナハビルド》と云ふ字を見て、はあ獨逸語《ドイツご》かと云つて、笑ひながらさつさと消して仕舞つた。三四郎は之が爲めに獨逸語《ドイツご》に對する敬意を少し失つた樣に感じた。先生は、それから古來文學者が文學に対して下した定義を凡《およ》そ二十｜許《ばか》り列《なら》べた。三四郎は是も大事に手帳に筆記して置いた。午後は大�ﾍ室に出た。其�ﾍ室には約七八十人程の聽講者が居た。從つて先生も演説口調であつた。砲聲一發｜浦賀《うらが》の夢を破つてと云ふ冒頭であつたから、三四郎は面白がつて聞いてゐると、仕舞には獨逸の哲學者の名が澤山出て來て甚だ解《げ》しにくゝなつた。机の上を見ると、落第と云ふ字が美事に彫つてある。餘程｜閑《ひま》に任《まか》せて仕上げたものと見えて、堅い樫《かし》の板を奇麗に切り込んだ手際《てぎは》は素人《しろうと》とは思はれない。深刻の出來である。隣の男は感心に根氣よく筆記をつゞけてゐる。覗いて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチに書いてゐたのである。三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。畫《ゑ》は旨く出來てゐるが、傍《そば》に久方《ひさかた》の雲井の空の子規《ほとゝぎす》と書いてあるのは、何の事だか判じかねた。

　講義が終つてから、三四郎は何となく疲弊した樣な氣味で、二階の窓から頬杖《ほゝづゑ》を突いて、正門内《せいもんない》の庭を見下《みおろ》してゐた。只《たゞ》大きな松や櫻を植ゑて其間に砂利《じやり》を敷いた廣い道を付けた許《ばかり》であるが、手を入れ過ぎてゐない丈《だけ》に、見てゐて心持が好い。野々宮君の話によると此處は昔はかう寄麗ではなかつた。野々宮君の先生の何とか云ふ人が、學生の時分馬に乘つて、此處を乘り廻すうちに、馬が云ふ事を聞かないで、意地を惡くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引つかゝる。下駄の齒が鐙《あぶみ》に挾《はさ》まる。先生は大變困つてゐると、正門前の喜多床《きたどこ》と云ふ髪結床《かみゆひどこ》の職人が大勢出て來て、面白がつて笑つてゐたさうである。其時分には有志のものが醵金《きよきん》して構内に厩《うまや》をこしらへて、三頭の馬と、馬の先生とを飼つて置いた。所が先生が大變な酒呑《さけのみ》で、とう／＼三頭のうちの一番好い白い馬を賣つて飲んで仕舞つた。それはナポレオン三世時代の老馬であつたさうだ。まさかナポレオン三世時代でも無からう。然し呑氣《のんき》な時代もあつたものだと考へてゐると、さつきポンチ畫《ゑ》をかいた男が來て、

　「大學の講義は詰《つま》らんなあ」と云つた。三四郎は好加減《いゝかげん》な返事をした。實は詰るか詰らないか、三四郎には些《ちつ》とも判斷が出來ないのである。然し此時から此男と口を利く樣になつた。

　其日は何となく氣が欝《うつ》して、面白くなかつたので、池の周圍《まはり》を回る事は見合せて家《うち》へ歸つた。晩食後筆記を繰返して讀んで見たが、別に愉快にも不愉快にもならなかつた。母に言文一致の手紙をかいた。――學校は始まつた。是から毎日出る。學校は大變廣い好い場折で、建物も大變美しい。眞中《まんなか》に池がある。池の周圍《まはり》を散歩するのが樂《たのし》みだ。電車には近頃漸く乘馴れた。何か買つて上げたいが、何が好いか分らないから、買つて上げない。欲しければ其方《そつち》から云つて來て呉れ。今年の米は今に價《ね》が出るから、賣らずに置く方が得《とく》だらう。三輪田の御光さんにはあまり愛想《あいそ》を善くしない方が好からう。東京へ來て見ると人はいくらでもゐる。男も多いが女も多い。と云ふ樣な事をごた／＼並《なら》べたものであつた。

　手紙を書いて、英語の本を六七頁讀んだら厭《いや》になつた。こんな本を一册｜位《ぐらゐ》讀んでも駄目だと思ひ出した。床を取つて寐る事にしたが、寐つかれない。不眠症《ふみんしやう》になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔《など》と考へてゐるうちに寐て仕舞つた。

　翌日《あくるひ》も例刻に學校へ行つて講義を聞いた。講義の間に今年の卒業生が何處其處《どこそこ》へ幾何《いくら》で賣れたと云ふ話を耳にした。誰と誰がまだ殘つてゐて、それがある官立學校の地位を競爭してゐる噂だ抔《など》と話してゐるものがあつた。三四郎は漠然と、未來が遠くから眼前に押し寄せる樣な鈍《にぶ》い壓迫を感じたが、それはすぐ忘れて仕舞つた。寧《むし》ろ昇之助《しようのすけ》が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた。そこで廊下で熊本出の同級生を捕まへて、昇之助《しようのすけ》とは何だと聞いたら、寄席《よせ》へ出る娘義太夫だと�ﾍへて呉れた。夫《それ》から寄席《よせ》の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事｜迄《まで》云つて聞かせた上、今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れた。よく知つてると思つたら、此男は昨夜《ゆうべ》始めて、寄席《よせ》へ這入つたのださうだ。三四郎は何だか寄席へ行つて昇之助が見度《みた》くなつた。

　晝飯《ひるめし》を食ひに下宿へ歸らうと思つたら、昨日《きのふ》ポンチ畫《ゑ》をかいた男が來て、おい／＼と云ひながら、本郷の通りの淀見軒《よどみけん》と云ふ所に引つ張つて行つて、ライスカレーを食はした。淀見軒《よどみけん》と云ふ所は店で果物を賣つてゐる。新らしい普請《ふしん》であつた。ポンチ畫をかいた男は此建築の表を指《ゆびさ》して、是がヌーボー式だと�ﾍへた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものと始めて悟つた。歸り路《みち》に青木堂《あをきだう》も�ﾍはつた。矢張り大學生のよく行く所ださうである。赤門を這入つて、二人で池の周圍《まはり》を散歩した。其時ポンチ畫の男は、死んだ小泉八雲《こいづみやくも》先生は�ﾍ員控室へ這入るのが嫌《きらひ》で講義が濟むといつでも此｜周圍《まはり》をぐる／＼廻つてあるいたんだと、恰も小泉先生に�ﾍはつた樣な事を云つた。何故《なぜ》控室へ這入らなかつたのだらうかと三四郎が尋ねたら、

　「そりや當り前ださ。第一彼等の講義を聞いても解るぢやないか。話せるものは一人もゐやしない」と手痛《てひど》い事を平氣で云つたには三四郎も驚いた。此男は佐々木與次郎《さゝきよじらう》と云つて、専門學校を卒業して、ことし又《また》選科へ這入つたのださうだ。東片町《ひがしかたまち》の五番地の廣田《ひろた》と云ふうちに居るから、遊びに來いと云ふ。下宿かと聞くと、なに高等學校の先生の家《うち》だと答へた。

　それから當分の間《あひだ》三四郎は毎日學校へ通つて、律義《りちぎ》に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻課目に丸《まる》で縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。然し大抵は二度か三度で已《や》めで仕舞つた。一ケ月と續いたのは少しも無かつた。それでも平均一週に約四十時間｜程《ほど》になる。如何《いか》な勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる。三四郎は斷えず一種の壓迫を感じてゐた。然るに物足りない。三四郎は樂まなくなつた。

　或日佐々木與次郎に逢つて其話をすると、與次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云つたが、「下宿屋のまづい飯《めし》を一日に十｜返《ぺん》食つたら物足りる樣になるか考へて見ろ」といきなり警句でもつて三四郎を打《どや》しつけた。三四郎はすぐさま恐れ入つて、「どうしたら善からう」と相談をかけた。

　「電車に乘るがいゝ」と與次郎が云つた。三四郎は何か寓意《ぐうい》でもある事と思つて、しばらく考へて見たが、別に是と云ふ思案も浮かばないので、

　「本當の電車か」と聞き直した。其時與次郎はげら／＼笑つて、

　「電車に乘つて、東京を十五六｜返《ぺん》乘回《のりまは》してゐるうちには自《おのづか》ら物足りる樣になるさ」と云ふ。

　「何故《なぜ》」

　「何故《なぜ》つて、さう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちや、助からない。外へ出て風を入れるさ。其上に物足りる工夫《くふう》はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩で且《かつ》尤も輕便だ」

　其日の夕方、與次郎は三四郎を拉《らつ》して、四丁目から電車に乘つて、新橋へ行つて、新橋から又引き返して、日本橋へ來て、そこで下りて、

　「どうだ」と聞いた。

　次に大通から細い横町へ曲《まが》つて、平《ひら》の家《や》と云ふ看板のある料理屋へ上がつて、晩飯を食つて酒を呑んだ。其處の下女はみんな京都辯《きやうとべん》を使ふ。甚だ纒綿《てんめん》してゐる。表へ出た與次郎は赤い顔をして、又

　「どうだ」と聞いた。

　次に本場の寄席《よせ》へ連れて行つてやると云つて、又細い横町へ這入つて、木原店《きはらだな》と云ふ寄席《よせ》へ上つた。此處《こゝ》で小《こ》さんといふ落語家《はなしか》を聞いた。十時｜過《すぎ》通りへ出た與次郎は、又

　「どうだ」と聞いた。

　三四郎は物足りたとは答へなかつた。然し滿更《まんざら》物足りない心持もしなかつた。すると與次郎は大《おほい》に小《こ》さん論を始めた。

　小《こ》さんは天才である。あんな藝術家は滅多に出るものぢやない。何時《いつ》でも聞けると思ふから安つぽい感じがして、甚だ氣の毒だ。實は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大變な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後《おく》れても同樣だ。――圓遊《ゑんいう》も旨い。然し小さんとは趣《おもむき》が違つてゐる。圓遊《ゑんいう》の扮《ふん》した太鼓持《たいこもち》は、太鼓持になつた圓遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。圓遊の演ずる人物から圓遊を隱《かく》せば、人物が丸《まる》で消滅して仕舞ふ。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隱したつて、人物は活??地《くわつぱつはつち》に躍動する許《ばか》りだ。そこがえらい。

　與次郎はこんな事を云つて、又

　「どうだ」と聞いた。實を云ふと三四郎には小さんの味《あぢは》ひが善く分らなかつた。其《その》上《うへ》圓遊なるものは未《いま》だ甞《かつ》て聞いた事がない。從つて與次郎の説の當否は判定しにくい。然し其比較のほとんど文學的と云ひ得る程に要領を得たには感服した。

　高等學校の前で分れる時、三四郎は、

　「難有《ありがた》う、大いに物足りた」と禮を述べた。すると與次郎は、

　「是から先は圖書館でなくつちや物足りない」と云つて片町の方へ曲がつて仕舞つた。此一言で三四郎は始めて圖書館に這入る事を知つた。

　其翌日から三四郎は四十時間の講義を殆ど半分に減《へら》して仕舞つた。さうして圖書館に這入つた。廣く、長く、天井が高く、左右に窓の澤山ある建物《たてもの》であつた。書庫は入口しか見えない。此方《こつち》の正面から覗くと奧には、書物がいくらでも備へ付けてある樣に思はれる。立つて見てゐると、書庫の中から、厚い本を二三册｜抱《かゝ》へて、出口へ來て左へ折れて行くものがある。職員閲覽室へ行く人である。中には必要の本を書棚から取り卸《おろ》して、胸一杯にひろげて、立ちながら調べてゐる人もある。三四郎は羨やましくなつた。奧迄行つて二階へ上《のぼ》つて、それから三階へ上《のぼ》つて、本郷より高い所で、生きたものを近付《ちかづ》けずに、紙の臭《にほひ》を嗅《か》ぎながら、――讀んで見たい。けれども何を讀むかに至つては、別に判然した考がない。讀んで見なければ分らないが、何かあの奧に澤山ありさうに思ふ。

　三四郎は一年生だから書庫へ這入る権利がない。仕方なしに、大きな箱入りの札目録《ふだもくろく》を、こゞんで一枚々々調べて行くと、いくら捲《めく》つても後から新しい本の名が出て來る。仕舞に肩が痛くなつた。顏を上げて、中休みに、館内を見廻すと、流石《さすが》に圖書館｜丈《だけ》あつて靜かなものである。しかも人が澤山ゐる。さうして向ふの果《はづれ》にゐる人の頭が黒く見える。眼口は判然しない。高い窓の外から折々に樹が見える。空も少し見える。遠くから町の音がする。三四郎は立ちながら、學者の生活は靜かで深いものだと考へた。それで其日は其儘歸つた。

　次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し借り損《そく》なつたので、すぐ返した。後から借りた本は六《む》づかし過ぎて讀めなかつたから又《また》返した。三四郎はかう云ふ風にして毎日本を八九册｜宛《づゝ》は必ず借りた。尤も會《たま》には少し讀んだのもある。三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、屹度誰か一度は眼を通して居ると云ふ事實を發見した時であつた。それは書中｜此處彼處《こゝかしこ》に見える鉛筆の痕《あと》で慥《たし》かである。ある時三四郎は念の爲め、アフラ、ベーンと云ふ作家の小説を借りて見た。開《あ》ける迄は、よもやと思つたが、見ると矢張《やは》り鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。此時三四郎はこれは到底｜遣《や》り切れないと思つた。所へ窓の外を樂隊が通つたんで、つい散歩に出る氣になつて、通りへ出て、とう／＼青木堂へ這入つた。

　這入つて見ると客が二組あつて、いづれも學生であつたが、向ふの隅にたつた一人《ひとり》離れて茶を飲んでゐた男がある。三四郎が不圖其横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃を澤山食つた人の樣である。向ふは氣がつかない。茶を一口飲んでは煙草を一吸《ひとすひ》すつて、大變｜悠然《ゆつくり》構へてゐる。今日は白地の浴衣《ゆかた》を已めて、背廣を着てゐる。然し決して立派なものぢやない。光線の壓力の野々宮君より白襯衣《しろしやつ》丈《だけ》が�掾sま》しな位なものである。三四郎は樣子を見てゐるうちに慥《たし》かに水蜜桃だと物色した。大學の講義を聞いてから以來、汽車の中で此男の話した事が何だか急に意義のある樣に思はれ出した所なので、三四郎は傍へ行つて挨拶を仕《し》樣《やう》かと思つた。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは、煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでゐる。手の出し樣がない。

　三四郎は凝《じつ》と其横顔を眺めてゐたが、突然｜手杯《コツブ》にある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。さうして圖書館に歸つた。

　其日は葡萄酒の景氣と、一種の精神作用とで、例になく面白い勉強が出來たので、三四郎は大いに嬉しく思つた。二時間程｜讀書三昧《どくしよざんまい》に入つた後《のち》、漸く氣が付いて、そろ／＼歸る支度をしながら、一所に借りた書物のうち、まだ開けて見なかつた、最後の一册を何氣《なにげ》なく引《ひ》つぺがして見ると、本の見返しの空《あ》いた所に、亂暴にも、鉛筆で一杯何か書いてある。

　「ヘーゲルの伯林大學《ベルリンだいがく》に哲學を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲學を賣るの意なし。彼《かれ》の講義は眞《しん》を説くの講義にあらず、眞《しん》を體せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。眞《しん》と人と合《がつ》して醇化《じゆんくわ》一致《いつち》せる時、其説く所、云ふ所は、講義の爲めの講義にあらずして、道の爲めの講義となる。哲學の講義は茲《こゝ》に至つて始めて聞くべし。徒《いたづら》に眞《しん》を舌頭に轉ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空しき筆記を殘すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余｜今《いま》試驗の爲め、即ち?麭《ぱん》の爲めに、恨を呑み涙を呑んで此書を讀む。岑々《しん／＼》たる頭《かしら》を抑へて未來永劫《みらいえいごふ》に試驗制度を呪詛《じゆそ》する事を記憶せよ」

とある。署名は無論ない。三四郎は覺えず微笑した。けれども何處か啓發された樣な氣がした。哲學ばかりぢやない、文學も此通りだらうと考へながら、頁をはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」餘程ヘーゲルの好きな男と見える。

　「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林《べルリン》に集まれる學生は、此講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯《たゞ》哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上《むじやう》普遍《ふへん》の眞《しん》を傳ふると聞いて、向上《かうじやう》求道《ぐだう》の念に切なるがため、壇下に、わが不穩底《ふをんてい》の疑義を解釋せんと欲したる清淨心《しやうじやうしん》の發現《はつげん》に外ならず。此故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未來を決定《けつぢやう》し得たり。自己の運命を改造し得たり。のつぺらぼう〔六字傍点〕に講義を聽いて、のつべらぼう〔六字傍点〕に卒業し去る公等《こうら》日本の大學生と同じ事と思ふは、天下の己惚《うぬぼれ》なり。公等《こうら》はタイプ、ライターに過ぎず。しかも慾張つたるタイプ、ライターなり。公等《こうら》のなす所、思ふ所、云ふ所、遂に切實なる社會の活氣運《くわつきうん》に關せず。死に至る迄のつぺらぼう〔六字傍点〕なるかな。死に至る迄のつぺらぼう〔六字傍点〕》なるかな」

と、のつべらぼう〔六字傍点〕を二遍｜繰返《くりかへ》してゐる。三四郎は黙然《もくねん》として考へ込んでゐた。すると、後《うしろ》から一寸《ちよいと》肩を叩いたものがある。例の與次郎であつた。與次郎を圖書館で見掛けるのは珍らしい。彼は講義は駄目だが、圖書館は大切だと主張する男である。けれども主張通りに這入る事も少《すくな》い男である。

　「おい、野々宮宗八さんが、君を探《さが》してゐた」と云ふ。

與次郎が野々宮君を知らうとは思ひがけなかつたから、念の爲め理科大學の野々宮さんかと聞き直すと、うんと云ふ答を得た。早速本を置いて入口の新聞を閲覽する所迄出て行つたが、野々宮君が居ない。玄關迄出て見たが矢つ張り居ない。石階《いしだん》を下りて、首を延ばして其邊を見廻したが影も形も見えない。已《やむ》を得ず引き返した。元の席へ來て見ると、與次郎が、例のヘーゲル論を指して、小さな聲で、

　「大分《だいぶ》振《ふる》つてる。昔の卒業生に違ない。昔の奴は亂暴だが、どこか面白い所がある。實際此通りだ」とにや／＼してゐる。大分《だいぶ》氣に入つたらしい。三四郎は

　「野々宮さんは居らんぜ」と云ふ。

　「先刻《さつき》入口に居たがな」

　「何か用がある樣だつたか」

　「ある樣でもあつた」

　二人は一所に圖書館を出た。其時與次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓してゐる廣田先生の、元の弟子でよく來る。大變な學問好きで、研究も大分《だいぶ》ある。其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる。

　三四郎は又、野々宮君の先生で、昔《むか》し正門内で馬に苦しめられた人の話を思ひ出して、或はそれが廣田先生ではなからうかと考へ出した。與次郎に其事を話すと、與次郎は、ことによると、家《うち》の先生だ、そんな事を遣《や》りかねない人だと云つて笑つてゐた。

　其翌日は丁度日曜なので、學校では野々宮君に逢ふ譯に行かない。然し昨日《きのふ》自分を探《さが》してゐた事が氣掛《きがゝり》になる。幸ひまだ新宅を訪問した事がないから此方《こつち》から行つて用事を聞いて來《き》樣《やう》と云ふ氣になつた。

　思ひ立つたのは朝であつたが、新聞を讀んで愚圖々々してゐるうちに午《ひる》になる。午飯《ひる》を食べたから、出掛《でかけ》樣《やう》とすると、久し振に熊本出の友人が來る。漸くそれを歸したのは彼是四時過ぎである。ちと遲くなつたが、豫定の通り出た。

　野々宮の家は頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場《ステーシヨン》の近邊《きんぺん》と聞いてゐるから、探《さが》すに不便はない。實云ふと三四郎はかの平野家｜行《ゆき》以來飛んだ失敗をしてゐる。神田の高等商業學校へ行く積《つもり》で、本郷四丁目から乘つた所が、乘り越して九段迄來て、序《ついで》に飯田橋迄持つて行かれて、其處で漸く外濠線《そとぼりせん》へ乘り換へて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を數寄屋橋《すきやばし》の方へ向いて急いで行つた事がある。それより以來電車は兎角物騷な感じがしてならないのだが、甲武線《かふぶせん》は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乘つた。

　大久保の停車場《ステーシヨン》を下りて、仲百人《なかひやくにん》の通りを戸山學校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れると、ほとんど三尺｜許《ばか》りの細い路になる。それを爪先｜上《あが》りにだら／＼と上《のぼ》ると、疎《まばら》な孟宗藪《まうそうやぶ》がある。其藪の手前と先に一軒づゝ人が住んでゐる。野々宮の家は其手前の分であつた。小さな門が路の向《むき》に丸《まる》で關係のない樣な位置に筋違《すぢかひ》に立つてゐた。這入ると、家《うち》が又｜見當違《けんたうちがひ》の所にあつた。門も入口も全く後から付けたものらしい。

　臺所の傍《わき》に立派な生垣《いけがき》があつて、庭の方には却《かへ》つて仕切りも何にもない。只大きな萩が人の脊《せい》より高く延びて、座敷の椽側《えんがは》を少し隱してゐる許《ばかり》である。野々宮君は此｜椽側《えんがは》に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雜誌を讀んでゐた。三四郎の這入つて來たのを見て、

　「此方《こつち》へ」と云つた。丸で理科大學の穴倉の中と同じ挨拶である。庭から這入るべきのか、玄關から廻るべきのか、三四郎は少しく躊躇してゐた。すると又

　「此方《こつち》へ」と催促するので、思ひ切つて庭から上《あが》る事にした。座敷は即ち書齋で、廣さは八疊で、割合に西洋の書物が澤山ある。野々宮君は椅子を離れて坐つた。三四郎は閑靜な所だとか、割合に御茶の水迄早く出られるとか、望遠鏡の試驗はどうなりましたとか、――締りのない當座の話しをやつたあと、

　「昨日《きのふ》私《わたくし》を探して御出《おいで》だつたさうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し氣の毒さうな顔をして、

　「何《なに》實は何でもないですよ」と云つた。三四郎はたゞ「はあ」と云つた。

　「それでわざ／＼來て呉れたんですか」

　「なに、さう云ふ譯でもありません」

　「實は御國の御母《おつか》さんがね、倅《せがれ》が色々御世話になるからと云つて、結構なものを送つて下さつたから、一寸あなたにも御禮を云はうと思つて……」

　「はあ、さうですか。何か送つて來ましたか」

　「えゝ赤い魚《さかな》の粕漬《かすづけ》なんですがね」

　「ぢやひめいち〔四字傍点〕でせう」

　三四郎は詰らんものを送つたものだと思つた。しかし野々宮君はかのひめいち〔四字傍点〕に就いて色々な事を質問した。三四郎は特に食ふ時の心得を説明した。粕共《かすごと》燒いて、いざ皿へ轉《うつ》すと云ふ時に、粕を取らないと味が拔けると云つて�ﾍへてやつた。

　二人がひめいち〔四字傍点〕に就て問答をしてゐるうちに、日が暮れた。三四郎はもう歸らうと思つて挨拶をしかける所へ、どこからか電報が來た。野々宮君は封を切つて、電報を讀んだが、口のうちで、「困つたな」と云つた。

　三四郎は澄《すま》してゐる譯にも行かず、と云つて無暗《むやみ》に立入つた事を聞く氣にもならなかつたので、たゞ、

　「何か出來ましたか」と棒の樣に聞いた。すると野々宮君は、

　「なに大した事でもないのです」と云つて、手に持つた電報を、三四郎に見せて呉れた。すぐ來てくれとある。

　「何處かへ御出《おいで》になるのですか」

　「えゝ、妹が此間から病氣をして、大學の病院に這入つてゐるんですが、其奴《そいつ》がすぐ來てくれと云ふんです」と一向《いつかう》騷ぐ氣色《けしき》もない。三四郎の方は却《かへ》つて驚いた。野々宮君の妹と、妹の病氣と、大學の病院を一所に纒《まと》めて、それに池の周圍《まはり》で逢つた女を加へて、それを一どきに掻き廻して、驚いてゐる。

　「ぢや餘程御惡いんですな」

　「なに左樣《さう》ぢやないんでせう。實は母が看病に行つてるんですが、――もし病氣の爲なら、電車へ乘つて驅けて來た方が早い譯ですからね。――なに妹の惡戯《いたづら》でせう。馬鹿だから、よくこんな眞似をします。此處へ越してからまだ一遍も行《い》かないものだから、今日の日曜には來ると思つて待つてゞもゐたのでせう、それで」と云つて首を横に曲《ま》げて考へた。

　「然し御出《おいで》になつた方が可《い》いでせう。もし惡いと不可《いけ》ません」

　「左樣《さやう》。四五日《しごんち》行《い》かないうちにさう急に變る譯もなさゝうですが、まあ行つて見るか」

　「御出《おいで》になるに若《し》くはないでせう」

　野々宮は行く事にした。行くと極めたに就ては、三四郎に依頼《たのみ》があると云ひ出した。萬一病氣の爲めの電報とすると、今夜は歸れない。すると留守《るす》が下女｜一人《ひとり》になる。下女が非常に臆病で、近所が殊《こと》の外《ほか》物騷である。來合せたのが丁度｜幸《さいはひ》だから、明日《あす》の課業に差支がなければ泊《とま》つて呉れまいか、尤も只の電報ならば直《すぐ》歸つてくる。前から分つてゐれば、例の佐々木でも頼む筈だつたが、今からではとても間に合はない。たつた一晩の事ではあるし、病院へ泊るか、泊らないか、まだ分らない先から、關係もない人に、迷惑を掛けるのは我儘過ぎて、強《し》ひてとは云ひかねるが、――無論野々宮はかう流暢《りうちやう》には頼まなかつたが、相手の三四郎が、さう流暢《りうちやう》に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知して仕舞つた。

　下女が御飯《ごはん》はと云ふのを、「食はない」と云つた儘、三四郎に「失敬だが、君｜一人《ひとり》で、後《あと》で食つて下さい」と夕飯迄｜置《お》き去《ざ》りにして、出て行つた。行つたと思つたら暗い萩の間から大きな聲を出して、

　「僕の書齋にある本は何でも讀んで可《い》いです。別に面白いものもないが、何か御覽なさい。小説も少しはある」

と云つた儘消えてなくなつた。椽側《えんがは》迄見送つて三四郎が禮を述べた時は、三坪程な孟宗藪《まうそうやぶ》の竹が、疎《まばら》な丈《だけ》に一本｜宛《づゝ》まだ見えた。

　間もなく三四郎は八疊敷の書齋の眞中《まんなか》で小さい膳を控へて、晩食《ばんめし》を食つた。膳の上を見ると、主人の言葉に違《たが》はず、かのひめいち〔四字傍点〕が附いてゐる。久し振で故郷《ふるさと》の香《にほひ》を嗅《か》いだ樣で嬉しかつたが、飯は其割に旨くなかつた。御給仕に出た下女の顔を見ると、是も主人の言つた通り、臆病に出來た眼鼻であつた。

　飯が濟むと下女は臺所へ下《さが》る。三四郎は一人になる。一人になつて落付くと、野々宮君の妹の事が急に心配になつて來た。危篤な樣な氣がする。野々宮君の驅付け方が遅い樣な氣がする。さうして妹が此間見た女の樣な氣がして堪《た》まらない。三四郎はもう一遍、女の顔付と眼付と、服裝とを、あの時あの儘に、繰返して、それを病院の寢臺《ねだい》の上に乘せて、其｜傍《そば》に野々宮君を立たして、二三の會話をさせたが、兄では物足らないので、何時《いつ》の間《ま》にか、自分が代理になつて、色々親切に介抱《かいはう》してゐた。所へ汽車が轟《ぐわう》と鳴つて孟宗藪のすぐ下を通つた。根太《ねだ》の具合《ぐあひ》か、土質《どしつ》の所爲《せゐ》か座敷が少し震へる樣である。

　三四郎は看病をやめて、座敷を見廻した。いか樣《さま》古い建物と思はれで、柱に寂《さび》がある。其《その》代《かは》り唐紙の立附《たてつけ》が惡い。天井は寢黒だ。洋燈《ランプ》許《ばかり》が當世に光つてゐる。野々宮君の樣な新式な學者が、物數奇《ものずき》にこんな家《うち》を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。物數寄《ものずき》ならば當人の隨意だが、もし必要に逼《せま》られて、郊外に自《みづか》らを放逐したとすると、甚だ氣の毒である。聞く所によると、あれ丈《だけ》の學者で、月にたつた五十五圓しか、大學から貰つてゐないさうだ。だから已《やむ》を得ず私立學校へ�ﾍへに行くのだらう。それで妹に入院されては堪るまい。大久保へ越したのも、或はそんな經濟上の都合かも知れない。……

　宵の口ではあるが、場所が場所｜丈《だけ》にしんとしてゐる。庭の先で蟲の音《ね》がする。獨りで坐つてゐると、淋《さみ》しい秋の初《はじめ》である。其時遠い所で誰か、

　「あゝあゝ、もう少しの間だ」

と云ふ聲がした。方角は家の裏手の樣にも思へるが、遠いので確《しつ》かりとは分らなかつた。又方角を聞き分ける暇もないうちに濟んで仕舞つた。けれども三四郎の耳には明《あきら》かに此一句が、凡《すべ》てに捨てられた人の、凡《すべ》てから返事を豫期しない、眞實の獨白《ひとりごと》と聞えた。三四郎は氣味が惡くなつた。所へ又汽車が遠くから響いて來た。其音が次第に近付いて孟宗藪の下を通るときには、前の列車より倍も高い音を立てゝ過ぎ去つた。座敷の微震《びしん》がやむ迄は茫然としてゐた三四郎は、石火《せきくわ》の如く、先刻《きつき》の嘆聲と今の列車の響とを、一種の因果《いんぐわ》で結び付けた。さうして、ぎくんと飛び上がつた。其因果は恐るべきものである。

　三四郎は此時｜凝《じつ》と座に着いてゐる事の極めて困難なのを發見した。脊筋《せすぢ》から足の裏迄が疑惧《ぎぐ》の刺激でむづ／＼する。立つて便所に行つた。窓から外を覗くと、一面の星月夜《ほしづきよ》で、土手下の汽車道は死んだ樣に靜である。それでも竹格子の間から鼻を出す位《くらゐ》にして、暗い所を眺めてゐた。

　すると停車場《ステーシヨン》の方から提灯《ちやうちん》を點《つ》けた男が鐵軌《レール》の上を傳《つた》つて此方《こつち》へ來る。話し聲で判じると三四人らしい。提灯《ちやうちん》の影は踏切りから土手下へ隱れて、孟宗藪の下を通る時は、話し聲｜丈《だけ》になつた。けれども、其言葉は手に取る樣に聞えた。

　「もう少し先だ」

　足音は向ふへ遠退《とほの》いて行く。三四郎は庭先へ廻つて下駄を突つ掛けた儘《まゝ》孟宗藪の所から、一間餘の土手を這ひ下りて、提灯《ちやうちん》のあとを追掛《おつか》けて行つた。

　五六間行くか行かないうちに、又一人土手から飛び下りたものがある。――

　「轢死《れきし》ぢやないですか」

　三四郎は何か答へやうとしたが一寸聲が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奧に住んでゐる家《いへ》の主人《あるじ》だらうと、後《あと》を跟《つ》けながら考へた。半町程くると提灯《ちやうちん》が留つてゐる。人も留つてゐる。人は灯《ひ》を翳《かざ》した儘黙つてゐる。三四郎は無言で灯《ひ》の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上迄美事に引き千切《ちぎ》つて、斜掛《はすかけ》の胴を置き去りにして行つたのである。顔は無創《むきず》である。若い女だ。

　三四郎は其時の心持を未《いま》だに覺えてゐる。すぐ歸らうとして、踵《かゝと》を回《めぐ》らしかけたが、足がすくんで殆《ほと》んど動けなかつた。土手を這ひ上つて、座敷へ戻つたら、動悸《どうき》が打ち出した。水を貰はうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何にも知らないらしい。しばらくすると、奧の家《うち》で、何だか騷ぎ出した。三四郎は主人が歸つたんだなと覺《さと》つた。やがて土手の下ががや／＼する。それが濟むと又靜になる。殆《ほと》んど堪《た》へ難い程の靜かさであつた。

　三四郎の眼の前には、あり／＼と先刻《きつき》の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない聲と、其二つの奧に潜《ひそ》んで居るべき筈の無殘な運命とを、繼合《つぎあ》はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫《ぢやうぶ》さうな命の根が、知らぬ間《ま》に、ゆるんで、何時《いつ》でも暗闇《くらやみ》へ浮き出して行きさうに思はれる。三四郎は慾も得も入《い》らない程《ほど》怖《こは》かつた。たゞ轟と云ふ一瞬間である。其前迄は慥《たしか》に生きてゐたに違ない。

　三四郎は此時｜不圖《ふと》汽車で水蜜桃を呉れた男が、危《あぶ》ない／＼、氣を付けないと危《あぶ》ない、と云つた事を思ひ出した。危《あぶ》ない／＼と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまり危《あぶ》ない／＼と云ひ得る程に、自分は危《あぶ》なくない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世の中にゐて、世の中を傍觀してゐる人は此處に面白味があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは煙草を吸ひ、煙草を吸つては茶を呑んで、凝《じつ》と正面を見てゐた樣子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分で旨いと感心した。のみならず自分も批評家としで、未來に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄《すご》い死顔を見るとこんな氣も起る。

　三四郎は室の隅にある洋机《テーブル》と、洋机《テーブル》の前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、其本箱の中に行儀よく並《なら》べてある洋書を見廻して、此靜な書齋の主人《あるじ》は、あの批評家と同《おなじ》く無事で幸福であると思つた。――光線の壓力を研究する爲に、女を轢死《れきし》させる事はあるまい。主人《あるじ》の妹は病氣である。けれども兄の作つた病氣ではない。自《みづか》ら罹《かゝ》つた病氣である。抔《など》と夫《それ》から夫《それ》へと頭が移つて行くうちに、十一時になつた。中野行の電車はもう來ない。或は病氣がわるいので歸らないのかしらと、又心配になる。所へ野々宮から電報が來た。妹無事、明日《あす》朝《あさ》歸るとあつた。

　安心して床に這入つたが、三四郎の夢は頗《すこぶ》る危險であつた。――轢死を企《くはだ》てた女は、野々宮に關係のある女で、野々宮はそれと知つて家《うち》へ歸つて來ない。只《たゞ》三四郎を安心させる爲に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは僞《いつはり》で、今夜轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池の端《はた》で逢つた女である。……

　三四郎は明日《あくるひ》例になく早く起きた。

　寐慣《ねつけ》ない所に寐た床のあとを眺めて、煙草を一本｜吸《の》んだが、昨夜《ゆうべ》の事は、凡《すべ》て夢の樣《やう》である。椽側《えんがは》へ出て、低い廂《ひさし》の外《そと》にある空を仰ぐと、今日は好い天氣だ。世界が今｜朗《ほが》らかに成つた許《ばか》りの色をしてゐる。飯を濟まして茶を飲んで、椽側《えんがは》に椅子《いす》を持ち出して新聞を讀んでゐると、約束通り野々宮君が歸つて來た。

　「昨夜《ゆうべ》、そこに轢死があつたさうですね」と云ふ。停車場《ステーシヨン》か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の經驗を殘らず話した。

　「それは珍らしい。滅多《めつた》に逢へない事だ。僕も家に居《を》れば好かつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」

　「もう駄目でせう」と一口答へたが、野々宮君の呑氣《のんき》なのには驚いた。三四郎は此無神經を全く夜と晝の差別から起るものと斷定した。光線の壓力を試驗する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸《まる》で氣が付かなかつた。年が若いからだらう。

　三四郎は話を轉じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果《はた》して自分の推測通り病人に異?はなかつた。只《たゞ》五六日《ごろくんち》以來行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈｜紛《まぎ》れに兄を釣り寄せたのである。今日は日曜だのに來て呉れないのは苛《ひど》いと云つて怒《おこ》つてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本當に馬鹿だと思つてゐるらしい。此｜忙《いそが》しいものに大切な時間を浪費させるのは愚《ぐ》だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆ど解らなかつた。わざ／＼電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩や二晩を潰《つぶ》したつて惜しくはない筈である。さう云ふ人に逢つて過ごす時間が、本當の時間で、穴倉で光線の試驗をして暮す月日は寧ろ人生に遠い閑生涯と言ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の爲めに勉強の妨害をされるのを却《かへ》つて嬉しく思ふだらう。位に感じたが、其時は轢死の事を忘れてゐた。

　野々宮君は昨夜《ゆうべ》よく寐られなかつたものだから茫然《ぼんやり》して不可《いけ》ないと云ひ出した。今日《けふ》は幸ひ午《ひる》から早稻田《わせだ》の學校へ行く日で、大學の方は休みだから、それ迄寐やうと云つてゐる。「大分《だいぶ》遅く迄起きてゐたんですか」と三四郎が聞くと、實は偶然高等學校で�ﾍはつた、もとの先生の廣田といふ人が妹の見舞に來て呉れて、みんなで話をしてゐるうちに、電車の時間に後れて、つい泊《とま》る事にした。廣田のうちへ泊《とま》るべきのを、又妹が駄々《だゞ》を捏《こ》ねて、是非病院に泊《とま》れと云つて聞かないから、已《やむ》を得ず狹い所へ寐たら、何だか苦しくつて寐つかれなかつた。どうも妹は愚物《ぐぶつ》だ。と又妹を攻撃する。三四郎は可笑《をかし》くなつた。少し妹の爲に辯護しやうかと思つたが、何だか言ひ惡《にく》いので已《や》めにした。

　其《その》代《かは》り廣田さんの事を聞いた。三四郎は廣田さんの名前を是れで三四遍耳にしてゐる。さうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに廣田さんの名を付けてゐる。それから正門内で意地の惡い馬に苦しめられて、喜多床《きたどこ》の職人に笑はれたのも矢張り廣田先生にしてある。所が今承はつて見ると、馬の件《けん》は果して廣田先生であつた。それで水蜜桃も必ず同先生に違ないと極めた。考へると、少し無理の樣でもある。

　歸るときに、序《ついで》だから、午前中に屆けて貰ひたいと云つて、袷を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大《おほい》に嬉しかつた。

　三四郎は新らしい四角な帽子を被つてゐる。此帽子を被つて病院に行けるのが一寸《ちよつと》得意である。冴々《さえ／”＼》しい顔をして野々宮君の家を出た。

　御茶の水で電車を降りて、すぐ俥《くるま》に乘つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作《しよさ》である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の號鐘《ベル》が鳴り出した。いつもなら手帳《ノート》と印氣壺《いんきつぼ》を持つて、八番の�ﾍ室に這入る時分である。一二時間の講義｜位《ぐらゐ》聽き損《そく》なつても構はないと云ふ氣で、眞直に青山内科《あをやまないくわ》の玄關迄乘り付けた。

　上《あが》り口《ぐち》を奧へ、二つ目の角を右へ切れて、突當りを左へ曲《まが》ると東側の部屋だと�ﾍ《をそ》はつた通り歩いて行くと、果《はた》してあつた。黒塗の札に野々宮よし子と假名でかいて、戸口に懸けてある。三四郎は此名前を讀んだ儘、しばらく戸口の所で佇《たゝず》んでゐた。田舍者《ゐなかもの》だから敲《のつく》するなぞと云ふ氣の利いた事はやらない。「此《この》中《なか》にゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」

　三四郎は斯う思つて立つてゐた。戸を開けて顔が見度くもあるし、見て失望するのが厭でもある。自分の頭の中に往來する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る。

　後《うし》ろから看護婦が草履の音を立てゝ近付いて來た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程開けた。さうして中にゐる女と顔を見合せた。（片手に｜握り《ハンドル》を把《も》つた儘）

　眼の大きな、鼻の細い、眉の薄い、鉢が開いたと思ふ位に、額《ひたひ》が廣くつて顎《あご》が削《こ》けた女であつた。造作《ざうさく》は夫《それ》丈《だけ》である。けれども三四郎は、かう云ふ顔だちから出る、此時にひらめいた咄嗟《とつさ》の表情を生れて始めて見た。蒼白《あをじろ》い額の後《うしろ》に、自然の儘に垂れた濃い髪が、肩迄見える。それへ東窓を洩《も》れる朝日の光が、後《うしろ》から射すので、髪と日光《ひ》の觸れ合ふ境の所が董色《すみれいろ》に燃えて、活《い》きた暈《つきかさ》を脊負《しよ》つてる。それでゐて、顔も額も甚だ暗い。暗くて蒼白い。其｜中《なか》に遠い心持のする眼がある。高い雲が空の奧にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞ崩《なだ》れる樣に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。

　三四郎は此《この》表情のうちに嬾《ものう》い憂欝と、隱さゞる快活との統一を見出した。其《その》統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大發見である。三四郎は｜握り《ハンドル》を把《も》つた儘、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出した儘此刹那の感に自己《みづから》を放下《はうげ》し去つた。

　「御這入りなさい」

　女は三四郎を待設《まちまう》けた樣に云ふ。其調子には初對面の女には見出《みいだ》す事の出來ない、安らかな音色《ねいろ》があつた。純粹の子供か、あらゆる男兒に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々《なれ／＼》しいのとは違ふ。初《はじめ》から舊《ふる》い相識《しりあひ》なのである。同時に女は肉の豊《ゆたか》でない頬を動かしてにこりと笑つた。蒼白いうちに、なつかしい暖味《あたゝかみ》が出來た。三四郎の足は自然と部屋の内《うち》へ這入つた。其時青年の頭の裡《うち》には遠い故郷《ふるさと》にある母の影が閃《ひら》めいた。

　戸の後《うしろ》へ廻つて、始めて正面に向いた時五十あまりの婦人が三四郎に挨拶《あいさつ》をした。此《この》婦人は三四郎の身體《からだ》がまだ扉《とびら》の影を出ない前から席を立つて待つてゐたものと見える。

　「小川さんですか」と向ふから尋ねて呉れた。顔は野々宮君に似てゐる。娘にも似てゐる。然したゞ似てゐるといふ丈《だけ》である。頼まれた風呂敷包を出すと、受取つて、禮を述べて、

　「どうぞ」と云ひながら椅子をすゝめた儘、自分は寢臺《ベツド》の向ふ側へ回《まは》つた。

　寢臺《ベツド》の上に敷いた蒲團を見ると眞白である。上へ掛けるものも眞白である。それを半分程｜斜《はす》に捲《は》ぐつて、裾の方が厚く見える所を、避《よ》ける樣に、女は窓を背にして腰を掛けた。足は床《ゆか》に屆かない。手に編針《あみばり》を持つてゐる。毛糸のたま〔二字傍点〕が寢臺《ベツド》の下に轉がつた。女の手から長い赤い糸が筋を引いてゐる。三四郎は寢臺《ベツド》の下から、毛糸のたま〔二字傍点〕を取出してやらうかと思つた、けれども、女が毛糸には丸で無頓着でゐるので控へた。

　御母《おつか》さんが向側から、しきりに昨夜《ゆうべ》の禮を述べる。御忙しい折を抔《など》と云ふ。三四郎は、いゝえ、どうせ遊んでゐますからと云ふ。二人が話をしてゐる間、よし子は黙つてゐた。二人の話が切れた時、突然、

　「昨夜《ゆうべ》の轢死を御覽になつて」と聞いた。見ると部屋の隅に新聞がある。三四郎が、

　「えゝ」と云ふ。

　「怖《こは》かつたでせう」と云ひながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。兄に似て頸《くび》の長い女である。三四郎は怖いとも怖くないとも答へずに、女の頸の曲《まが》り具合《ぐあひ》を眺めてゐた。半分は質問があまり單純なので、答へに窮したのである。半分は答へるのを忘れたのである。女は氣が付いたと見えて、すぐ首を眞直にした。さうして蒼白い額の奧を少し紅《あか》くした。三四郎はもう歸るべき時間だと考へた。

　挨拶をして、部屋を出て、玄關正面へ來て、向《むかふ》を見ると、長い廊下の果《はづれ》が四角に切れて、ばつと明るく、表の緑が映《うつ》る上《あが》り口《ぐち》に、池の女が立つてゐる。はつと驚いた三四郎の足は、早速《さそく》の歩調に狂《くるひ》が出來た。其時透明な空氣の畫布《カン?ス》の中《なか》に暗く描《ゑが》かれた女の影は一歩《ひとあし》前《まへ》へ動いた。三四郎も誘はれた樣に前へ動いた。二人は一筋道の廊下の何處かで擦れ違はねばならぬ運命を以て互ひに近付いて來た。すると女が振り返つた。明るい表の空氣のなかには、初秋《はつあき》の緑が浮いてゐる許《ばかり》である。振り返つた女の眼に應じて、四角のなかに、現はれたものもなければ、これを待ち受けてゐたものもない。三四郎は其間に女の姿勢と服裝を頭のなかへ入れた。

　着物の色は何と云ふ名か分らない。大學の池の水へ、曇つた常磐木《ときはぎ》の影が映る時の樣である。それを鮮《あざ》やかな縞《しま》が、上から下へ貫《つらぬ》いてゐる。さうして其縞が貫《つら》ぬきながら波を打つて、互に寄つたり離れたり、重《かさ》なつて太くなつたり、割れて二筋になつたりする。不規則だけれども亂れない上から三分一の所を、廣い帶で横に仕切つた。帶の感じには暖味《あたゝかみ》がある。黄を含んでゐるためだらう。

　後《うしろ》を振り向いた時、右の肩が、後《あと》へ引けて、左の手が腰に添つた儘《まゝ》前へ出た。半帛《はんけち》を持つてゐる。其｜半帛《はんけち》の指に餘つた所が、さらりと開いてゐる。絹の爲だらう。――腰から下は正しい姿勢にある。

　女はやがて元の通りに向き直つた。眼を伏せて二足｜許《ばかり》三四郎に近付いた時、突然首を少し後《うしろ》に引いて、まともに男を見た。二重瞼《ふたへまぶち》の切長の落付いた恰好である。目立つて黒い眉毛の下に活きてゐる。同時に奇麗な齒があらはれた。此齒と此顔色とは三四郎に取つて忘るべからざる對照であつた。

　今日は白いものを薄く塗つてゐる。けれども本來の地《ぢ》を隱す程に無趣味ではなかつた。濃《こまや》かな肉が、程よく色づいて、強い日光《ひ》に負《め》げない樣に見える上を、極めて薄く粉《こ》が吹いてゐる。てら／＼照《ひか》る顏ではない。

　肉は頬と云はず顎と云はずきちりと締《しま》つてゐる。骨の上に餘つたものは澤山《たんと》ない位である。それでゐて、顔全體が柔《やはら》かい。肉が柔かいのではない骨そのものが柔かい樣に思はれる。奧行の長い感じを起させる顔である。

　女は腰を曲《かゞ》めた。三四郎は知らぬ人に禮をされて驚いたと云ふよりも、寧《むし》ろ禮の仕方の巧《たくみ》なのに驚いた。腰から上が、風に乘る紙の樣にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄來て苦《く》もなく確然《はつきり》と留つた。無論習つて覺えたものではない。

　「一寸《ちょつと》伺ひますが……」と云ふ聲が白い齒の間から出た。きりゝとしてゐる。然し鷹揚《おうやう》である。たゞ夏のさかりに椎《しひ》の實《み》が生《な》つてゐるかと人に聞きさうには思はれなかつた。三四郎はそんな事に氣のつく餘裕はない。

　「はあ」と云つて立ち留つた。

　「十五號室はどの邊《へん》になりませう」

　十五號は三四郎が今出て來た室《へや》である。

　「野々宮さんの室ですか」

　今度は女の方が「はあ」と云ふ。

　「野々宮さんの部屋はね、其角を曲《まが》つて突き當つて、又左へ曲がつて、二番目の右側です」

　「其角を……」と云ひながら女は細い指を前へ出した。

　「えゝ、つい其先の角です」

　「どうも難有《ありがた》う」

　女は行き過ぎた。三四郎は立つたまゝ、女の後姿《うしろすがた》を見守つてゐる。女は角へ來た。曲がらうとする途端に振り返つた。三四郎は赤面する許《ばか》りに狼狽した。女はにこりと笑つて、此角ですかと云ふ樣な相圖を顏でした。三四郎は思はず首肯《うなづ》いた。女の影は右へ切れて白い壁の中へ隱れた。

　三四郎はぶらりと玄關を出た。醫科大學生と間違へて室《へや》の番號を聞いたのかしらんと思つて、五六歩あるいたが、急に氣が付いた。女に十五號を聞かれた時、もう一｜返《ぺん》よし子の室へ後戻《あともど》りをして、案内すればよかつた。殘念な事をした。

　三四郎は今更《いまさら》取つて歸す勇氣は出なかつた。已《やむ》を得ず又五六歩あるいたが、今度はぴたりと留つた。三四郎の頭の中に、女の結んでゐたリボンの色が映つた。其リボンの色も質も、慥に野々宮君が兼安《かねやす》で買つたものと同じであると考へ出した時、三四郎は急に足が重くなつた。圖書館の横をのたくる樣に正門の方へ出ると、どこから來たか與次郎が突然聲掛けた。

　「おい何故《なぜ》休んだ。今日は伊大利人《イタリーじん》がマカロニーを如何にして食ふかと云ふ講義を聞いた」と云ひながら、傍へ寄つて來て三四郎の肩を叩いた。

　二人《ふたり》は少し一所にあるいた。正門の傍へ來た時、三四郎は、

　「君、今頃でも薄いリボンを掛けるものかな。あれは極暑《ごくしよ》に限るんぢやないか」と聞いた。與次郎はアハヽヽと笑つて、

　「○○�ﾍ授に聞くがいゝ。何でも知つてる男だから」

と云つて取合はなかつた。

　正門の所で三四郎は具合が惡いから今日は學校を休むと云ひ出した。與次郎は一所に跟《つ》いて來て損をしたと云はぬ許《ばかり》に�ﾍ室の方へ歸つて行つた。

　

　　　　　四

　

　三四郎の魂《たましひ》がふわつき出した。講義を聽いてゐると、遠方に聞える。わるくすると肝要な事を書き落す。甚だしい時は他人《ひと》の耳を損料で借りてゐる樣な氣がする。三四郎は馬鹿々々しくて堪らない。仕方なしに、與次郎に向つて、どうも近頃は講義が面白くないと言ひ出した。與次郎の答はいつも同じ事であつた。――

　「講義が面白い譯がない。君は田舍者《ゐなかもの》だから、今に偉い事になると思つて、今日《こんにち》迄｜辛抱《しんばう》して聞いてゐたんだらう。愚《ぐ》の至りだ。彼等の講義は開闢《かいびやく》以來こんなものだ。今更失望したつて仕方がないや」

　「さう云ふ譯でもないが……」と三四郎は辯解する。與次郎のへら／＼調《てう》と、三四郎の重苦しい口の利き樣が、不釣合で甚だ可笑《をか》しい。

　かう云ふ問答を二三度繰返してゐるうちに、いつの間《ま》にか半月｜許《ばか》り經過《たつ》た。三四郎の耳は漸々《ぜん／＼》借りものでない樣になつて來た。すると今度は與次郎の方から、三四郎に向つて、

　「どうも妙な顔だな。如何にも生活に疲れてゐる樣な顏だ。世紀末《せいきまつ》の顔だ」と批評し出した。三四郎は、此批評に對しても依然として、

　「さう云ふ譯でもないが……」を繰返してゐた。三四郎は世紀末｜抔《など》と云ふ言葉を聞いて嬉しがる程に、まだ人工的の空氣に觸れてゐなかつた。またこれを興味ある玩具《おもちや》として使用し得る程に、ある社會の消息に通じてゐなかつた。たゞ生活に疲れてゐるといふ句が少し氣に入つた。成程疲れ出した樣でもある。三四郎は下痢の爲め許《ばか》りとは思はなかつた。けれども大いに疲れた顏を標榜《へうばう》するほど、人生觀のハイカラでもなかつた。それで此會話はそれぎり發展しずに濟んだ。

　そのうち秋は高くなる。食慾は進む。二十三の青年が到底人生に疲れてゐる事が出來ない時節が來た。三四郎は能《よ》く出る。大學の池の周圍《まはり》も大分廻つて見たが、別段の變《へん》もない。病院の前も何遍となく往復したが普通の人間に逢ふ許《ばかり》である。文理科大學の穴倉へ行つて野々宮君に聞いて見たら、妹はもう病院を出たと云ふ。玄關で逢つた女の事を話さうと思つたが、先方《さき》が忙《いそが》しさうなので、つい遠慮して已《や》めて仕舞つた。今度大久保へ行つて緩《ゆつ》くり話せば、名前も素性《すじやう》も大抵は解る事だから、焦《せ》かずに引き取つた。さうして、ふわ／＼して諸方《はう／”＼》歩いてゐる。田端《たばた》だの、道灌山《だうくわんやま》だの、染井《そめゐ》の墓地だの、巣鴨《すがも》の監獄だの、護國寺《ごこくじ》だの、――三四郎は新井《あらゐ》の藥師《やくし》迄も行つた。新井《あらゐ》の藥師《やくし》の歸りに、大久保へ出て野々宮君の家《うち》へ廻らうと思つたら、落合《おちあひ》の火葬場《やきば》の邊《へん》で途《みち》を間違へて、高田へ出たので、目白から汽車へ乘つて歸つた。汽車の中で見舞《みやげ》に買つた栗を一人で散々《さん／”＼》食つた。其餘りは翌日《あくるひ》與次郎が來て、みんな平《たひら》げた。

　三四郎はふわ／＼すればする程愉快になつて來た。初めのうちは餘り講義に念を入れ過ぎたので、耳が遠くなつて筆記に困つたが、近頃は大抵に聽いてゐるから何ともない。講義中に色々な事を考へる。少し位《ぐらゐ》落しても惜しい氣も起らない。よく顧察して見ると與次郎始めみんな同じ事である。三四郎は此位で好いものだらうと思ひ出した。

　三四郎が色々考へるうちに、時々例のリボンが出て來る。さうすると氣掛《きがゝ》りになる。甚だ不愉快になる。すぐ大久保へ出掛けて見たくなる。然し想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくすると紛《まぎ》れて仕舞ふ。だから大體は呑氣《のんき》である。それで夢を見てゐる。大久保へは中々行かない。

　ある日の午彼三四郎は例の如くぶら付いて、團子坂の上から、左へ折れて千駄木林町《せんだぎはやしちやう》の廣い通へ出た。秋晴と云つて、此頃は東京の空も田舍《ゐなか》の樣に深く見える。かう云ふ空の下に生きてゐると思ふ丈《だけ》でも頭は明確《はつきり》する。其上、野へ出れば申し分《ぶん》はない。氣が暢《の》び／＼して魂が大空程の大きさになる。それで居て身體《からだ》總體《そうたい》が緊《しま》つて來る。だらしのない春の長閑《のどか》さとは違ふ。三四郎は左右の生垣《いけがき》を眺めながら、生れて始めての東京の秋を嗅《か》ぎつゝ遣《や》つて來た。

　坂下では菊人形《きくにんぎやう》が二三日前開業したばかりである。坂を曲がる時は幟《のぼり》さへ見えた。今はたゞ聲｜丈《だけ》聞える、どんちやん／＼遠くから囃《はや》してゐる。其｜囃《はやし》の音が、下の方から次第に浮き上がつて來て、澄み切つた秋の空氣のなかへ廣がり盡くすと、遂には極めて稀薄な波になる。其｜又《また》餘波が三四郎の鼓膜の側《そば》迄來て自然に留る。騷がしいといふよりは却《かへ》つて好い心持である。

　時に突然左の横町から二人あらはれた。その一人《ひとり》が三四郎を見て、「おい」と云ふ。

　與次郎の聲は今日に限つて、几帳面である。其代り連《つれ》がある。三四郎は其｜連《つれ》を見たとき、果《はた》して日頃の推察通り、青木堂で茶を飲んでゐた人が、廣田さんであると云ふ事を悟つた。此人とは水蜜桃以來妙な關係がある。ことに青木堂で茶を飲んで煙草を呑んで、自分を圖書館に走らしてよりこのかた、一層よく記憶に染《し》みてゐる。いつ見ても神主《かんぬし》の樣な顏に西洋人の鼻を付けてゐる。今日も此間の夏服で、別段｜寒《さむ》さうな樣子もない。

　三四郎は何とか云つて、挨拶をしやうと思つたが、あまり時間が經つてゐるので、どう口を利いていゝか分らない。たゞ帽子を取つて禮をした。與次郎に對しては、あまり丁寧過ぎる。廣田に對しては、少し簡略すぎる。三四郎は何方《とつち》付かずの中間《ちゆうかん》に出た。すると與次郎が、すぐ、

　「此男は私《わたし》の同級生です。熊本の高等學校から始めて東京へ出て來た――」と聽かれもしない先から田舍《ゐなか》ものを吹聽《ふいちやう》して置いて、それから三四郎の方を向いて、

　「是が廣田先生。高等學校の……」と譯もなく双方を紹介して仕舞つた。

　此時廣田先生は「知つてる、／＼」と二遍繰返して云つたので、與次郎は妙な額をしてゐる。然し何故《なぜ》知つてるんですか抔《など》と面倒な事は聞かなかつた。たゞちに、

　「君、此｜邊《へん》に貸家はないか。廣くて、寄麗な、書生部屋のある」と尋ねだした。

　「貸家はと……ある」

　「どの邊《へん》だ。汚なくつちや不可《いけ》ないぜ」

　「いや寄麗なのがある。大きな石の門が立つてゐるのがある」

　「そりや旨い。どこだ。先生、石の門は可《い》いですな。是非それに仕樣ぢやありませんか」と與次郎は大いに進んでゐる。

　「石の門は不可《いか》ん」と先生が云ふ。

　「不可《いか》ん？　そりや困る。何故《なぜ》不可《いかん》です」

　「何故《なぜ》でも不可《いか》ん」

　「石の門は可いがな。新しい男爵の樣で可いぢやないですか、先生」

　與次郎は眞面目である。廣田先生はにや／＼笑つてゐる。とう／＼眞面目の方が勝つて、兎も角も見る事に相談が出來て、三四郎が案内をした。

　横町《よこちやう》を後《あと》へ引き返して、裏通りへ出ると、半町ばかり北へ來た折に、突き當りと思はれる樣な小路《こうぢ》がある。其｜小路《こうぢ》の中へ三四郎は二人《ふたり》を連れ込んだ。眞直に行くと植木屋の庭へ出て仕舞ふ。三人は入口の五六間手前で留つた。右手に可なり大きな御影《みかげ》の柱が二本立つてゐる。扉《とびら》は鐵である。三四郎が是だと云ふ。成程貸家札が付いてゐる。

　「こりや恐ろしいもんだ」と云ひながら、與次郎は鐵の扉をうんと推したが、錠《ぢやう》が卸《お》りてゐる。「一寸《ちよつと》御待ちなさい聞いてくる」と云ふや否や、與次郎は植木屋の奧の方へ驅け込んで行つた。廣田と三四郎は取り殘された樣なものである。二人で話を始めた。

　「東京は如何《どう》です」

　「えゝ……」

　「廣い許《ばかり》で汚ない所でせう」

　「えゝ……」

　「富士山に比較する樣なものは何にもないでせう」

　三四郎は富士山の事を丸《まる》で忘れてゐた。廣田先生の注意によつて、汽車の窓から始めて眺めた富士は、考へ出すと、成程崇高なものである。たゞ今自分の頭の中にごた／＼してゐる世相とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象を何時《いつ》の間《ま》にか取り落してゐたのを恥づかしく思つた。すると、

　「君、不二山《ふじさん》を翻譯《ほんやく》して見た事がありますか」と意外な質問を放たれた。

　「翻譯とは……」

　「自然を翻譯すると、みんな人間に化《ば》けて仕舞ふから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壯だとか」

　三四郎は翻譯の意味を了《れう》した。

　「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻譯する事の出來ない輩《もの》には、自然が毫も人格上の感化を與へてゐない」

　三四郎はまだあとが有るかと思つて、黙つて聞いてゐた。所が廣田さんは夫《それ》で已《や》めて仕舞つた。植木屋の奧の方を覗いて、

　「佐々木は何をしてゐるのか知ら。遲いな」と獨り言の樣に云ふ。

　「見て來ませうか」と三四郎が聞いた。

　「なに、見に行つたつて、それで出て來る樣な男ぢやない。それより此處に待つてる方が手間《てま》が掛らないでいゝ」と云つて枳殻《からたち》の垣根の下に跼《しや》がんで、小石を拾つて、土の上へ何か描《か》き出した。呑氣《のんき》な事である。與次郎の呑氣とは方角が反對で、程度が略《ほゞ》相似てゐる。

　所へ植込の松の向《むかふ》から、與次郎が大きな聲を出した。

　「先生々々」

　先生は依然として、何か描《か》いてゐる。どうも燈明臺《とうみやうだい》の樣である。返事をしないので、與次郎は仕方なしに出て來た。

　「先生｜一寸《ちよつと》見て御覽なさい。好い家《ぅち》だ。この植木屋で持つてるんです。門を開けさせても好いが、裏から廻つた方が早い」

　三人は裏から廻つた。雨戸を明けて、一間々々《ひとま／＼》見て歩いた。中流の人が住んで恥づかしくない樣に出來てゐる。家賃が四十圓で、敷金が三ケ月分だと云ふ。三人はまた表へ出た。

　「何で、あんな立沢な家《うち》を見るのだ」と廣田さんが云ふ。

　「何で見るつて、たゞ見る丈《だけ》だから好いぢやありませんか」と與次郎は云ふ。

　「借りもしないのに……」

　「なに借りる積《つもり》で居たんです。所が家賃をどうしても二十五圓にしやうと云はない……」

　廣田先生は「當り前さ」と云つた限《ぎり》である。すると與次郎が石の門の歴史を話し出した。此間迄ある出入《でい》りの屋敷の入口にあつたのを、改築のとき貰つて來て、直《すぐ》あすこへ立てたのだと云ふ。與次郎｜丈《だけ》に妙な事を研究して來た。

　それから三人は元の大通りへ出て、動坂から田端の谷へ下りたが、下りた時分には三人ともたゞ歩いてゐる。貸家の事はみんな忘れて仕舞つた。ひとり與次郎が時々石の門の事を云ふ。麹町からあれを千駄木迄引いてくるのに、手間が五圓程かゝつた抔《など》と云ふ。あの植木屋は大分《だいぶ》金持らしい抔《など》とも云ふ。あすこへ四十圓の貸家を建てゝ、全體誰が借りるだらう抔《など》と餘計なこと迄云ふ。遂には、今に借手がなくつて屹度家賃を下げるに違ないから、其時もう一遍談判して是非借りやうぢやありませんかと云ふ結論であつた。廣田先生は別に、さういふ料簡もないと見えて、かう云つた。

　「君が、あんまり餘計な話ばかりしてゐるものだから、時間が掛つて仕方がない。好加減《いゝかげん》にして出て來るものだ」

　「餘程長くかゝりましたか。何か畫《ゑ》をかいてゐましたね。先生も隨分｜呑氣《のんき》だな」

　「何方《どつち》が呑氣か分りやしない」

　「ありや何の畫です」

　先生は黙つてゐる。其時三四郎が眞面目な顔をして、

　「燈臺ぢやないですか」と聞いた。畫手《かきて》と與次郎は笑ひ出した。

　「燈臺は奇拔だな。ぢや野々宮宗八さんを畫《か》いて入《い》らしつたんですね」

　「何故《なぜ》」

　「野々宮さんは外國ぢや光つてるが、日本ぢや眞暗《まつくら》だから。――誰も丸で知らない。それで僅ばかりの月給を貰つて、穴倉へ立籠《たてこも》つて、――實に割に合はない商賣だ。野々宮さんの顔を見る度に氣の毒になつて堪らない」

　「君なぞは自分の坐つてゐる周圍方二尺位の所をぼんやり照らす丈《だけ》だから、丸行燈《まるあんどう》の樣なものだ」

　丸行燈《まるあんどう》に比較された與次郎は、突然三四郎の方を向いて、

　「小川君、君は明治何年生れかな」と聞いた。三四郎は單簡《たんかん》に、

　「僕は二十三だ」と答へた。

　「そんなものだらう。――先生僕は、丸行燈《まるあんどう》だの、雁首《がんくび》だのつて云ふものが、どうも嫌ひですがね。明治十五年以後に生れた所爲《せゐ》かも知れないが、何だか舊式で厭な心持がする。君はどうだ」と又三四郎の方を向く。三四郎は、

　「僕は別段嫌ひでもない」と云つた。

　「尤も君は九州の田舍から出た許《ばか》りだから、明治元年位の頭と同じなんだらう」

　三四郎も廣田も是に對して別段の挨拶をしなかつた。少し行くと古い寺の隣の杉林を切り倒して、奇麗に地平《ぢならし》をした上に、青ペンキ塗の西洋館を建てゝゐる。廣田先生は寺とペンキ塗を等分に見てゐた。

　「時代錯誤《アナクロニズム》だ。日本の物質界も精神界も此通りだ。君、九段の燈明臺《とうみやうだい》を知つてゐるだらう」と又｜燈明臺《とうみやうだい》が出た。「あれは古いもので、江戸名所圖會《えどめいしよづゑ》に出てゐる」

　「先生冗談云つちや不可《いけ》ません。なんぼ九段の燈明臺《とうみやうだい》が舊《ふる》いたつて、江戸名所圖會《えどめいしよづゑ》に出ちや大變だ」

　廣田先生は笑ひ出した。實は東京名所と云ふ錦繪《にしきゑ》の間違だと云ふ事が解つた。先生の説によると、こんなに古い燈臺が、まだ殘つてゐる傍《そば》に、偕行社《かいかうしや》と云ふ新式の煉瓦作《れんぐわづく》りが出來た。二つ並《なら》べて見ると實に馬鹿氣てゐる。けれども誰も氣が付かない、平氣でゐる。是が日本の社會を代表してゐるんだと云ふ。

　與次郎も三四郎も成程と云つた儘、御寺の前を通り越して、五六町來ると、大きな黒い門がある。與次郎が、此處を拔けて道灌山《だうくわんやま》へ出《で》樣《やう》と云ひ出した。拔けても可《い》いのかと念を押すと、なに是は佐竹《さたけ》の下屋敷《しもやしき》で、誰でも通れるんだから構はないと主張するので、二人共其氣になつて門を潜《くゞ》つて、藪の下を通つて古い池の傍《そば》迄來ると、番人が出て來て、大變に三人を叱り付けた。其時與次郎はへい／＼と云つて番人に詫《あやま》つた。

　それから谷中《やなか》へ出て、根津《ねづ》を廻つて、夕方に本郷の下宿へ歸つた。三四郎は近來にない氣樂な半日を暮した樣に感じた。

　翌日學校へ出て見ると與次郎が居ない。午《ひる》から來るかと思つたが來ない。圖書館へも這入つたが矢《や》つ張《ぱ》り見當らなかつた。五時から六時｜迄《まで》純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記をするには暗過《くらす》ぎる。電燈が點《つ》くには早過ぎる。細長い窓の外に見える大きな欅《けやき》の枝の奧が、次第に黒くなる時分だから、室《へや》の中は講師の顔も聽講生の顔も等しくぼんやりしてゐる。從つて暗闇《くらやみ》で饅頭を食ふ樣に、何となく神秘的《しんぴてき》である。三四郎は講義が解らない所が妙だと思つた。頬杖を突いて聽いてゐると、神經が鈍《にぶ》くなつて、氣が遠くなる。これでこそ講義の價値がある樣な心持がする。所へ電燈がぱつと點《つ》いて、萬事が稍《やゝ》明瞭になつた。すると急に下宿へ歸つて飯が食ひたくなつた。先生もみんなの心を察して、好い加減に講義を切り上げて呉れた。三四郎は早足で追分《おひわけ》迄歸つてくる。

　着物を脱《ぬ》ぎ換《か》へて膳に向ふと、膳の上に、茶碗蒸《ちやわんむし》と一所に手紙が一本載せてある。其｜上封《うはふう》を見たとき、三四郎はすぐ母から來たものだと悟つた。濟まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れてゐた。昨日《きのふ》から今日《けふ》へ掛けては時代錯誤《アナクロニズム》だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向頭の中へ出て來なかつた。三四郎は夫《それ》で滿足である。母の手紙はあとで緩《ゆつ》くり覽《み》る事として、取《と》り敢《あへ》ず食事を濟まして、煙草を吹かした。其｜姻《けむ》を見ると先刻《さつき》の講義を思ひ出す。

　そこへ與次郎がふらりと現れた。どうして學校を休んだかと聞くと、貸家探しで學校｜所《どころ》ぢやないさうである。

　「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、

　「急ぐつて先月中に越す筈の所を明後日《あさつて》の天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中《あしたぢゆう》に探さなければならない。どこか心當りはないか」と云ふ。

　こんなに忙《いそが》しがる癖に、昨日《きのふ》は散歩だか、貸家探しだか分らない樣にぶら／＼潰してゐた。三四郎には殆んど合點《がてん》が行かない。與次郎は之を解釋して、それは先生が一所だからさと云つた。「元來先生が家を探すなんて間違つてゐる。決して探した事のない男なんだが、昨日はどうかしてゐたに違ひない。御蔭で佐竹《さたけ》の邸《やしき》で苛《ひど》い目に叱られて好《い》い面《つら》の皮だ。――君何處かないか」と急に催促する。與次郎が來たのは全くそれが目的らしい。能く／＼原因を聞いて見ると、今の持主が高利貸で、家賃を無暗に上げるのが、業腹《ごふはら》だと云ふので、與次郎が此方《こつち》から立退《たちのき》を宣告したのださうだ。それでは與次郎に責任がある譯だ。

　「今日は大久保迄行つて見たが、矢つ張りない。――大久保と云へば、序《ついで》に宗八さんの所に寄つて、よし子さんに逢つて來た。可哀《かはい》さうにまだ色光澤《いろつや》が惡い。――辣薑性《らつきやうせい》の美人――御母《おつか》さんが君に宜しく云つて呉れつてことだ。しかし其《その》後《ご》はあの邊《ヘん》も穩かな樣だ。轢死もあれぎりないさうだ」

　與次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生から締《しま》りのない上に、今日は家探《やさが》しで少し焦《せ》き込んでゐる。話が一段落つくと、相《あひ》の手《て》の樣に、何處かないか／＼と聞く。仕舞には三四郎も笑ひ出した。

　そのうち與次郎の尻が次第に落ち付いて來て、燈火親しむべし抔《など》といふ漢語さへ借用して嬉しがる樣になつた。話題は端《はし》なく廣田先生の上に落ちた。

　「君の所の先生の名は何と云ふのか」

　「名は萇《ちやう》」と指で書いて見せて、「艸冠《くさかんむり》が餘計だ。字引にあるか知らん。妙な名を付けたものだね」と云ふ。

　「高等學校の先生か」

　「昔から今日《こんにち》に至る迄高等學校の先生。えらいものだ。十年一日の如しと云ふが、もう十二三年になるだらう」

　「子供は居るのか」

　「子供どころか、まだ獨身《ひとりみ》だ」

　三四郎は少し驚いた。あの年迄｜一人《ひり》で居られるものかとも疑つた。

　「何故《なぜ》奧さんを貰はないのだらう」

　「そこが先生の先生たる所で、あれで大變な理論家なんだ。細君を貰つて見ない先から、細君はいかんものと理論で極《きま》つてゐるんださうだ。愚だよ。だから始終矛盾ばかりしてゐる。先生、東京｜程《ほど》汚ない所はない樣に云ふ。それで石の門を見ると恐れを作《な》して、不可《いか》ん／＼とか、立派過ぎるとかいふだらう」

　「ぢや細君も試みに持つて見たら好からう」

　「大《おほい》に佳《よ》しとか何《なん》とか言ふかも知れない」

　「先生は東京が汚ないとか、日本人が醜《みにく》いとか云ふが、洋行でもした事があるのか」

　「なにするもんか。あゝ云ふ人なんだ。萬事頭の方が事實より發達してゐるんだからあゝなるんだね。其代り西洋は寫眞で研究してゐる。巴理《パリ》の凱旋門《がいせんもん》だの、倫敦《ロンドン》の議事堂だの澤山持つてゐる。あの寫眞で日本を律《りつ》するんだから堪らない。汚ない譯さ。それで自分の住んでる所は、いくら汚なくつても存外平氣だから不思議だ」

　「三等汽車へ乘つて居つたぞ」

　「汚ない／＼つて不平を云やしないか」

　「いや別に不平も云はなかつた」

　「然し先生は哲學者だね」

　「學校で哲學でも�ﾍへてゐるのか」

　「いや學校ぢや英語｜丈《だけ》しか受持つてゐないがね、あの人間が、自《おのづ》から哲學に出來上つてゐるから面白い」

　「著述でもあるのか」

　「何《な》にもない。時々論文を書く事はあるが、ちつとも反響がない。あれぢや駄目だ。丸《まる》で世間が知らないんだから仕樣がない。先生、僕の事を丸行燈《まるあんどう》だといつたが、夫子《ふうし》自身は偉大な暗闇《くらやみ》だ」

　「どうかして、世の中へ出たら好さゝうなものだな」

　「出たら好さゝうなものだつて、――先生、自分ぢや何《なん》にも遣らない人だからね。第一僕が居なけりや三度の飯さへ食へない人なんだ」

　三四郎は眞逆《まさか》と云はぬ許《ばかり》に笑ひ出した。

　「嘘ぢやない。氣の毒な程｜何《なん》にも遣らないんでね。何《なん》でも、僕が下女に命じて、先生の氣に入る樣《やう》に始末を付けるんだが――そんな瑣末《さまつ》な事は兎に角、是から大《おほい》に活動して、先生を一つ大學�ﾍ授にして遣らうと思ふ」

　與次郎は眞面目である。三四郎は其｜大言《たいげん》に驚いた。驚いても構はない。驚いた儘に進行して、仕舞《しまひ》に、

　「引越《ひつこし》をする時は是非｜手傳《てつだひ》に來て呉れ」と頼んだ。丸で約束の出來た家がとうからある如き口吻《こうふん》である。

　與次郎の歸つたのは彼是《かれこれ》十時近くである。一人で坐つて居ると、何處となく肌寒《はださむ》の感じがする。不圖《ふと》氣が付いたら、机の前の窓がまだ閉《た》てずにあつた。障子を明けると月夜だ。目に觸れるたびに不愉快な檜《ひのき》に、蒼《あを》い光《ひか》りが射《さ》して、黒い影の縁《ふち》が少し烟《けむ》つて見える。檜に秋が來たのは珍らしいと思ひながら、雨戸を閉《た》てた。

　三四郎はすぐ床へ這入つた。三四郎は勉強家といふより寧ろ?徊家《ていくわいか》なので、割合《わりあひ》書物を讀まない。其代りある掬《きく》すべき情景に逢ふと、何遍もこれを頭の中《なか》で新《あらた》にして喜んでゐる。其方が命に奧行がある樣な氣がする。今日も、何時《いつ》もなら、神秘的講義の最中に、ぱつと電燈が點《つ》く折などを繰返して嬉しがる筈だが、母の手紙があるので、まづ、それから片付《かたづけ》始めた。

　手紙には新藏が蜂蜜《はちみつ》を呉れたから、燒酎《せうちう》を混《ま》ぜて、毎晩｜盃《さかづき》に一杯づゝ飲んでゐるとある。新藏は家《うち》の小作人《こさくにん》で、毎年《まいねん》冬になると年貢米《ねんぐまい》を二十俵づゝ持つてくる。至つて正直ものだが、疳癪《かんしやく》が強いので、時々女房を薪《まき》で擲《なぐ》る事がある。――三四郎は床の中で新藏が蜂を飼ひ出した昔の事迄思ひ浮べた。それは五年程前である。裏の椎《しひ》の木に蜜蜂が二三百疋ぶら下がつてゐたのを見付けてすぐ籾漏斗《もみじやうご》に酒を吹きかけて、悉《こと／＼》く生捕《いけどり》にした。それから之を箱へ入れて、出入《ではい》りの出來る樣な穴を開けて、日當りの好い石の上に据ゑてやつた。すると蜂が段々｜殖《ふ》えて來る。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。又足りなくなる。三つにする。と云ふ風に殖《ふや》して行つた結果、今では何でも六箱《むはこ》か七箱《なゝはこ》ある。其うちの一箱を年に一度づゝ石から卸《おろ》して蜂の爲に蜜を切り取ると云つてゐた。毎年《まいとし》夏休みに歸るたびに蜜を上げませうと云はない事はないが、ついに持つて來た例《ためし》がなかつた。が今年は物覺《ものおぼえ》が急に善くなつて、年來の約束を履行《りかう》したものであらう。

　平太郎が親爺《おやぢ》の石塔を建てたから見に來て呉れろと頼みにきたとある。行つて見ると、木も草も生えてゐない庭の赤土の眞中に、御影石《みかげいし》で出來てゐたさうである。平太郎は其｜御影石《みかげいし》が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのに幾日《いくか》とか掛《かゝ》つて、それから石屋に頼んだら十圓取られた。百姓や何かには分らないが、貴所《あなた》のとこの若旦那は大學校へ這入つてゐる位だから、石の善惡《よしあし》は屹度《きつと》分《わか》る。今度手紙の序《ついで》に聞いて見て呉れ、さうして十圓も掛けて親爺《おやぢ》の爲に拵《こしら》へてやつた石塔を賞《ほ》めて貰つてくれと云ふんださうだ。――三四郎は獨りでくす／＼笑ひ出した。千駄木の石門《せきもん》より餘程烈しい。

　大學の制服を着た寫真を寄こせとある。三四郎は何時《いつ》か撮《と》つて遣らうと思ひながら、次へ移ると、案の如く三輪田《みわた》の御光《おみつ》さんが出て來た。――此間｜御光《おみつ》さんの御母《おつか》さんが來て、三四郎さんも近々大學を卒業なさる事だが、卒業したら宅《うち》の娘を貰つて呉れまいかと云ふ相談であつた。御光さんは器量もよし氣質《きだて》も優しいし、家《うち》に田地《でんぢ》も大分《だいぶ》あるし、其上｜家《うち》と家《うち》との今迄の關係もある事だから、さうしたら双方共都合が好いだらうと書いて、そのあとへ但書《たゞしがき》が付けてある。――御光さんも嬉しがるだらう。――東京のものは氣心が知れないから私《わたし》はいやぢや。

　三四郎は手紙を卷返して、封に入れて、枕元へ置いた儘《まゝ》眼を眠《ねむ》つた。鼠が急に天井で暴《あば》れ出したが、やがて靜まつた。

　三四郎には三つの世界が出來た。一つは遠くにある。與次郎の所謂《いはゆる》明治十五年以前の香《か》がする。凡《すべ》てが平穩である代《かは》りに凡《すべ》てが寐坊氣《ねぼけ》てゐる。尤も歸るに世話は入らない。戻らうとすれば、すぐに戻れる。たゞいざとならない以上は戻る氣がしない。云はゞ立退場《たちのきば》の樣なものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、此《この》立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さへ此處に葬つたかと思ふと、急に勿體《もつたい》なくなる。そこで手紙が來た時｜丈《だけ》は、暫く此《この》世界に?徊《ていくわい》して舊歡《きうくわん》を温《あたゝ》める。

　第二の世界のうちには、苔《こけ》の生《は》えた煉瓦造《れんぐわづく》りがある。片隅から片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよく分らない程に廣い閲覽室がある。梯子《はしご》を掛けなければ、手の屆きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺《てず》れ、指の垢《あか》、で黒くなつてゐる。金文字で光つてゐる。羊皮《やうひ》、牛皮《ぎうひ》、二百年前の紙、それから凡《すべ》ての上に積つた塵《ちり》がある。此塵は二三十年かゝつて漸く積つた貴《たつと》い塵である。靜かな月日に打ち勝つ程の靜かな塵である。

　第二の世界に動く人の影を見ると、大抵｜不精《ぶしやう》な髭を生《は》やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは俯向《うつむ》いて歩いてゐる。服裝《なり》は必ず穢《きた》ない。生計《くらし》は屹度貧乏である。さうして晏如《あんじよ》としてゐる。電車に取り卷かれながら、太平の空氣を、通天《つうてん》に呼吸して憚《はゞか》らない。このなかに入《い》るものは、現世《げんせ》を知らないから不幸で、火宅《くわたく》を逃れるから幸である。廣田先生は此《この》内《うち》にゐる。野々宮君も此内にゐる。三四郎は此内の空氣を略《ほゞ》解《かい》し得た所にゐる。出れば出られる。然し折角｜解《げ》し掛けた趣味を思ひ切つて捨てるのも殘念だ。

　第三の世界は燦《さん》として春の如く盪《うご》いてゐる。電燈がある。銀匙《ぎんさじ》がある。歡聲がある。笑語《せうご》がある。泡立《あわだ》つ三鞭《シヤンパン》の盃《さかづき》がある。さうして凡《すべ》ての上の冠《かんむり》として美しい女性《によしやう》がある。三四郎はその女性《によしやう》の一人に口を利いた。一人を二遍見た。此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。此世界は鼻の先にある。たゞ近づき難い。近づき難い點に於て、天外《てんぐわい》の稻妻と一般である。三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに缺陷が出來る樣な氣がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有《いう》してゐるらしい。それにも拘《かゝ》はらず、圓滿の發達を冀《こひねが》ふべき筈の此世界が却《かへ》つて自《みづか》らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞《ふさ》いでゐる。三四郎にはこれが不思議であつた。

　三四郎は床のなかで、此三つの世界を並《なら》べて、互に比較して見た。次に此三つの世界を掻き混《ま》ぜて、其中から一つの結果を得た。――要するに、國から母を呼び寄せて、美しい細君を迎へて、さうして身を學問に委《ゆだ》ねるに越した事はない。

　結果は頗《すこぶ》る平凡である。けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の勞力を打算して、結論の價値を上下《しやうか》しやすい思索家自身から見ると、夫《それ》程《ほど》平凡ではなかつた。

　たゞかうすると廣い第三の世界を眇《べう》たる一個の細君で代表させる事になる。美しい女性《によしやう》は澤山ある。美しい女性《によしやう》を翻譯《ほんやく》すると色々になる。――三四郎は廣田先生にならつて、翻譯と云ふ字を使つて見た。――苟《いやしく》も人格上の言葉に翻譯《ほんやく》の出來る限りは、其翻譯から生ずる感化の範圍を廣くして、自己の個性を完からしむる爲に、なるべく多くの美しい女性《によしやう》に接觸しなければならない。細君一人を知つて甘んずるのは、進んで自己の發達を不完全にする樣なものである。

　三四郎は論理を此處迄延長して見て、少し廣田さんにかぶれたなと思つた。實際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである。

　翌日學校へ出ると講義は例によつて詰《つま》らないが、室内の空氣は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終《おほ》せて、さも偉人の樣な態度を以て、追分《おひわけ》の交番の前迄來ると、ばつたり與次郎に出逢つた。

　「アハヽヽ。アハヽヽ」

　偉人の態度は是が爲に全く崩《くづ》れた。交番の巡査さへ薄笑《うすわら》ひをしてゐる。

　「なんだ」

　「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいゝ。丸で浪漫的《ロマンチツク》アイロニーだ」

　三四郎には此《この》洋語の意味がよく分らなかつた。仕方がないから、

　「家はあつたか」と聞いた。

　「その事で今君の所へ行つたんだ――明日《あす》愈《いよ／＼》引越《ひつこ》す。手傳に來て呉れ」

　「何處へ越す」

　「西片町《にしかたまち》十番地への三號。九時迄に向《むかふ》へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三號だよ。失敬」

　與次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ歸つた。其晩取つて返して、圖書館で浪漫的《ロマンチツク》アイロニーと云ふ句を調べて見たら、獨逸《ドイツ》のシユレーゲルが唱《とな》へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら／＼ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して下宿へ歸つて、すぐ寐た。

　翌日《あくるひ》は約束だから、天長節にも拘らず、例刻に起きて、學校へ行く積《つもり》で西片町十番地へ這入つて、への三號を調《しら》べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。

　玄關の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと鉤《かぎ》の手《て》に座敷がある。座敷の後《うしろ》が茶《ちや》の間《ま》で、茶の間の向ふが勝手、下女部屋と順に並《なら》んでゐる。外《ほか》に二階がある。但《たゞし》何疊だか分らない。

　三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何《なに》と云つて、取つて捨てべきものも見當らない。強ひて捨てれば疊《たゝみ》建具《たてぐ》位《ぐらゐ》なものだと考へながら、雨戸｜丈《だけ》を明けて、座敷の椽側《えんがは》へ腰を掛けて庭を眺めて居た。

　大きな百日紅《ひやくじつこう》がある。然し是は根が隣にあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、此方《こつち》の領分を冒《をか》してゐる丈《だけ》である。大きな櫻がある。是は慥《たしか》に垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往來へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊《かんぎく》と見えて、一向咲いて居ない。此外には何《なん》にもない。氣の毒な樣な庭である。たゞ土｜丈《だけ》は平《たひ》らで、肌理《きめ》が細《しこま》かで甚だ美しい。三四郎は土を見てゐた。實際土を見る樣に出來た庭である。

　そのうち高等學校で天長節の式の始まる號鐘《ベル》が鳴り出した。三四郎は號鐘《ベル》を聞きながら九時が來たんだらうと考へた。何もしないでゐても惡いから、櫻の枯葉でも掃かうかしらんと漸く氣が付いた時、又｜箒《はうき》がないといふ事を考へ出した。また椽側《えんがは》へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと明いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。

　二方は生垣で仕切つてある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎は此《この》挾い圍《かこひ》の中に立つた池の女を見るや否や、忽ち悟つた。――花は必ず剪《き》つて、瓶裏《へいり》に眺むべきものである。

　此時三四郎の腰は椽側《えんがは》を離れた。女は折戸を離れた。

　「失禮で御座いますが……」

　女は此句を冒頭に置いて會釋《ゑしやく》した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顔は決して下げない。會釋しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉《のど》が正面から見ると長く延びた。同時に其眼が三四郎の眸《ひとみ》に映つた。

　二三目前三四郎は美學の�ﾍ師からグルーズの畫《ゑ》を見せてもらつた。其時美學の�ﾍ師が、此人の畫《か》いた女の肖像は悉《こと／”＼》く※［オに濁点］ラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。※［オに濁点］ラプチユアス！池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正《まさ》しく官能《くわんのう》に訴へてゐる。けれども官能の骨を透《とほ》して髓に徹する訴へ方である。甘いものに堪へ得る程度を超えて、烈しい刺激と變ずる訴へ方である。甘いと云はんよりは苦痛である。卑《いや》しく媚《こ》びるのとは無論違ふ。見られるものゝ方が是非｜媚《こび》たくなる程に殘酷な眼付である。しかも此女にグルーズの畫《ゑ》と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。

　「廣田さんの御移轉《おこし》になるのは、此方《こちら》で御座いませうか」

　「はあ、此處です」

　女の聲と調子に較べると、三四郎の答は頗るぶつきら棒である。三四郎も氣が付いてゐる。けれども外に云ひ樣がなかつた。

　「まだ御移りにならないんで御座いますか」女の言葉は明確《はつきり》してゐる。普通の樣に後《あと》を濁さない。

　「まだ來ません。もう來るでせう」

　女はしばし逡巡《ためら》つた。手に大きな籃《バスケツト》を提げてゐる。女の着物は例によつて、分らない。たゞ何時《いつ》もの樣に光らない丈《だけ》が眼についた。地《ぢ》が何だかぶつ／＼してゐる。夫《それ》に縞だか模樣だかある。その模樣が如何にも出鱈目《でたらめ》である。

　上から櫻の葉が時々落ちて來る。其一つが籃《バスケツト》の葢《ふた》の上に乘つた。乘つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包んだ。女は秋の中に立つてゐる。

　「あなたは……」

　風が隣へ越した時分、女が三四郎に聞いた。

　「掃除に頼まれて來たのです」と云つたが、現に腰を掛けてぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑《をか》しくなつた。すると女も笑ひながら、

　「ぢや私《わたくし》も少し御待申しませうか」と云つた。其《その》云ひ方が三四郎に許諾《きよだく》を求める樣に聞えたので、三四郎は大《おほい》に愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郎の料簡では、「あゝ、御待ちなさい」を略した積である。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郎は仕方がないから、

　「あなたは……」と向《むかふ》で聞いた樣な事を此方《こつち》からも聞いた。すると、女は籃《バスケツト》を椽《えん》の上へ置いて、帶の間から、一枚の名刺を出して、三四郎に呉れた。

　名刺には里見美禰子《さとみみねこ》とあつた。本郷眞砂町だから谷を越すとすぐ向《むかふ》である。三四郎が此名刺を眺めてゐる間に、女は椽《えん》に腰を卸《おろ》した。

　「あなたには御目に掛りましたな」と名刺を袂《たもと》へ入れた三四郎が顔を擧げた。

　「はあ。いつか病院で…‥」と云つて女も此方《こつち》を向いた。

　「まだある」

　「それから池の端《はた》で……」と女はすぐ云つた。能く覺えてゐる。三四郎はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、

　「どうも失禮致しました」と句切りをつけたので、三四郎は、

　「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。兩人《ふたり》は櫻の枝を見てゐた。梢に蟲の食つた樣な葉が僅ばかり殘つてゐる。引越《ひつこし》の荷物は中々｜遣《や》つて來ない。

　「何か先生に御用なんですか」

　三四郎は突然かう聞いた。高い櫻の枯枝を餘念なく眺めて居た女は、急に三四郎の方を振り向く。あら喫驚《びつくり》した、苛《ひど》いわ、といふ顔付であつた。然し答は尋常である。

　「私《わたくし》も御手傳に頼まれました」

　三四郎は此時始めて氣が付いて見ると、女の腰を掛けてゐる椽《えん》に砂が一杯たまつてゐる。

　「砂で大變だ。着物が汚れます」

　「えゝ」と左右を眺めた限《ぎり》である。腰を上げない。しばらく椽《えん》を見廻した眼を、三四郎に移すや否や、

　「掃除はもうなすつたんですか」と聞いた。笑つてゐる。三四郎は其笑ひの中に馴易《なれやす》いあるものを認めた。

　「まだ遣らんです」

　「御手傳をして、一所に始めませうか」

　三四郎はすぐに立つた。女は動かない。腰を掛けた儘、箒《はうき》やハタキの在家《ありか》を聞く。三四郎は、たゞ空手《てぶら》で來たのだから、どこにもない、何なら通りへ行つて買つて來やうかと聞くと、それは徒費《むだ》だから、隣で借りる方が好からうと云ふ。三四郎はすぐ隣へ行つた。早速｜箒《はうき》とハタキと、それから馬尻《ばけつ》と雜巾《ざふきん》迄借りて急いで歸つてくると、女は依然として故《もと》の所へ腰をかけて、高い櫻の枝を眺めてゐた。

　「あつて……」と一口云つた丈《だけ》である。

　三四郎は箒《はうき》を肩へ擔《かつ》いで、馬尻《ばけつ》を右の手へぶら下げて「えゝありました」と當り前の事を答へた。

　女は白足袋の儘砂だらけの椽側《えんがは》へ上がつた。あるくと細い足の痕《あと》が出來る。袂《たもと》から白い前垂《まへだれ》を出して帶の上から締めた。其前垂の縁《ふち》がレースの樣に縢《かゞ》つてある。掃除をするには勿體ない程奇麗な色である。女は箒《はうき》を取つた。

　「一旦《いつたん》掃き出しませう」と云ひながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へ擔《かつ》いだ。奇麗な手が二の腕迄出た。擔《かつ》いだ袂の端《はじ》からは美しい襦袢《じゆばん》の袖が見える。茫然として立つてゐた三四郎は、突然｜馬尻《ばけつ》を鳴らして勝手口へ廻つた。

　美禰子が掃くあとを、三四郎が雜巾を掛ける。三四郎が疊を敲《たゝ》く間に、美禰子が障子をはたく。どうかかうか掃除が一通り濟んだ時は二人共《ふたりとも》大分《だいぶ》親しくなつた。

　三四郎が馬尻《ばけつ》の水を取り換《かへ》に臺所へ行つたあとで、美禰子がハタキと箒《はうき》を持つて二階へ上《のぼ》つた。

　「一寸來て下さい」と上から三四郎を呼ぶ。

　「何ですか」と馬尻《ばけつ》を提《さ》げた三四郎が梯子段の下から云ふ。女は暗い所に立つてゐる。前垂だけが眞白だ。三四郎は馬尻《ばけつ》を提げた儘二三段｜上《のぼ》つた。女は凝《じつ》としてゐる。三四郎は又二段｜上《のぼ》つた。薄暗い所で美禰子の顏と三四郎の顏が一尺｜許《ばか》りの距離に來た。

　「何ですか」

　「何だか暗くつて分らないの」

　「何故《なぜ》」

　「何故でも」

　三四郎は追窮する氣がなくなつた。美禰子の傍《そば》を擦《す》り拔けて上へ出た。馬尻《ばけつ》を暗い椽側《えんがは》へ置いて戸を開《あ》ける。成程｜棧《さん》の具合が善く分らない。そのうち美禰子も上がつて來た。

　「まだ開からなくつて」

　美禰子は反對の側《がは》へ行つた。

　「此方《こつち》です」

　三四郎はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が觸れる所で、馬尻《ばけつ》に蹴爪《けつま》づいた。大きな音がする。漸くの事で戸を一枚明けると、強い日がまともに射し込んだ。眩《まぼ》しい位である。二人は顔を見合せて思はず笑ひ出した。

　裏の窓も開ける。窓には竹の格子が付いてゐる。家主《やぬし》の庭が見える。鷄《にはとり》を飼つてゐる。美禰子は例の如く掃き出した。三四郎は四《よ》つ這《ばひ》になつて、後《あと》から拭き出した。美禰子は箒を兩手で持つた儘、三四郎の姿を見て、

　「まあ」と云つた。

　やがて、箒を疊の上へ抛《な》げ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘｜外面《そと》を眺めてゐる。そのうち三四郎も拭き終つた。濡れ雜巾を馬尻《ばけつ》の中へぼちやんと擲《たゝ》き込んで、美禰子の傍《そば》へ來て並《なら》んだ。

　「何を見てゐるんです」

　「中《あ》てゝ御覽なさい」

　「鷄《とり》ですか」

　「いゝえ」

　「あの大きな木ですか」

　「いゝえ」

　「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」

　「私《わたくし》先刻《さつき》からあの白い雲を見て居りますの」

　成程白い雲が大きな空を渡つてゐる。空は限りなく晴れて、どこ迄も青く澄んでゐる上を、綿の光つた樣な濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端《はし》が吹き散らされると、青い地《ぢ》が透《す》いて見える程に薄くなる。あるひは吹き散らされながら、塊《かた》まつて、白く柔かな針を集めた樣に、さゝくれ立つ。美禰子は其｜塊を《かたまり》指さして云つた。

　「駝鳥《だてう》の襟卷《ボーア》に似てゐるでせう」

　三四郎はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、

　「まあ」と云つたが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。其時三四郎は、

　「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉《こ》で、下から見てあの位に動く以上は、颶風《ぐふう》以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを�ﾍへた。美禰子は、

　「あらさう」と云ひながら三四郎を見たが、

　「雪ぢや詰まらないわね」と否定を許さぬ樣な調子であつた。

　「何故《なぜ》です」

　「何故でも、雲は雲でなくつちや不可《いけ》ないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐《かひ》がないぢやありませんか」

　「さうですか」

　「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」

　「あなたは高い所を見るのが好《すき》の樣ですな」

　「えゝ」

　美禰子は竹の格子の中から、まだ空を眺めてゐる。白い雲はあとから、あとから、飛んで來る。

　所へ遠くから荷車の音が聞える。今靜かな横町《よこちやう》を曲つて、此方《こつち》へ近付いて來るのが地響でよく分る。三四郎は「來た」と云つた。美禰子は「早いのね」と云つた儘｜凝《じつ》としてゐる。車の音の動くのが、白い雲の動くのに關係でもある樣に耳を澄してゐる。車は落付いた秋の中を容赦なく近付いて來る。やがて門の前へ來て留つた。

　三四郎は美禰子を捨てゝ二階を驅け降りた。三四郎が玄關へ出るのと、與次郎が門を這入るのとが同時同刻であつた。

　「早いな」と與次郎が先《ま》づ聲を掛けた。

　「遲いな」と三四郎が應《こた》へた。美禰子とは反對である。

　「遲いつて、荷物を一度に出したんだから仕方がない。それに僕一人だから。餘《あと》は下女と車屋｜許《ばかり》でどうする事も出來ない」

　「先生は」

　「先生は學校」

　二人が話を始めてゐるうちに、車屋が荷物を卸《おろ》し始めた。下女も這入つて來た。臺所の方を下女と車屋に頼んで、與次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物が澤山ある。並《なら》べるのは一仕事だ。

　「里見の御孃さんほ、まだ來てゐないか」

　「來てゐる」

　「何處に」

　「二階にゐる」

　「二階に何をしてゐる」

　「何をしてゐるか、二階にゐる」

　「冗談《じようだん》ぢやない」

　與次郎は本を一册持つた儘、廊下傳ひに階子段の下迄行つて、例の通りの聲で、

　「里見さん、里見さん。書物を片付けるから、一寸《ちよつと》手傳つて下さい」と云ふ。

　「たゞ今參ります」

　箒《はうき》とハタキを持つて、美禰子は靜かに降《お》りて來た。

　「何をして居たんです」と下から與次郎が焦《せ》き立てる樣に聞く。

　「二階の御掃除」と上から返事があつた。

　降《お》りるのを待ち兼ねて、與次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて來た。車力《しやりき》の卸《おろ》した書物が一杯積んである。三四郎が其中へ、向ふむきに跼《しや》がんで、しきりに何か讀み始めてゐる。

　「まあ大變ね。是をどうするの」と美禰子が云つた時、三四郎は跼《しや》がみながら振り返つた。にや／＼笑つてゐる。

　「大變も何もありやしない。これを室《へや》の中へ入れて、片付けるんです。今に先生も歸つて來て手傳ふ筈だから譯はない。――君、跼《しや》がんで本なんぞ讀み出しちや困る。後《あと》で借りて行つて緩《ゆつ》くり讀むがいゝ」と與次郎が小言《こごと》を言ふ。

　美禰子と三四郎が戸口で本を揃へると、それを與次郎が受取つて室《へや》の中の書棚へ並《なら》べるといふ役割が出來た。

　「さう亂暴に、出しちや困る。まだ此續きが一册ある筈だ」と與次郎が青い平《ひら》たい本を振り廻す。

　「だつて無いんですもの」

　「なに無い事があるものか」

　「有つた、有つた」と三四郎が云ふ。

　「どら、拝見」と美禰子が顏を寄せて來る。「ヒストリー、オフ、インテレクチユアル、デ?ロツプメント。あら有つたのね」

　「あら有つたも無いもんだ。早く御出しなさい」

　三人は約三十分｜許《ばかり》根氣に働いた。仕舞にはさすがの與次郎もあまり焦《せ》つ付かなくなつた。見ると書棚の方を向いて胡坐《あぐら》をかいて黙つてゐる。美禰子は三四郎の肩を一寸《ちよつと》突つ付いた。三四郎は笑ひながら、

　「おい如何《どう》した」と聞く。

　「うん。先生もまあ、斯んなに入《い》りもしない本を集めて如何《どう》する氣かなあ。全く人泣かせだ。今之を賣つて株でも買つて置くと儲《まう》かるんだが、仕方がない」と嘆息した儘、矢張り壁を向いて胡坐《あぐら》をかいてゐる。

　三四郎と美禰子は顔を見合せて笑つた。肝心《かんじん》の主腦《しゆなう》が動かないので、二人共書物を揃へるのを控へてゐる。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな畫帖《ぐわでふ》を膝の上に開いた。勝手の方では臨時雇の車夫と下女がしきりに論判してゐる。大變騷々しい。

　「一寸御覽なさい」と美禰子が小さな聲で云ふ。三四郎は及び腰になつて、畫帖の上へ顔を出した。美禰子の髪《あたま》で香水の匂《にほひ》がする。

　畫《ゑ》はマーメイドの圖である。裸體の女の腰から下が魚《さかな》になつて、魚《さかな》の胴が、ぐるりと腰を廻つて、向ふ側に尾だけ出てゐる。女は長い髪を櫛《くし》で梳《す》きながら、梳《す》き餘つたのを手に受けながら、此方《こつち》を向いてゐる。背景は廣い海である。

　「人魚《マーメイド》」

　「人魚《マーメイド》」

　頭を擦《す》り付けた二人は同じ事をさゝやいた。此時｜胡坐《あぐら》をかいてゐた與次郎が何と思つたか、

　「何だ、何を見てゐるんだ」と云ひながら廊下へ出て來た。三人は首を鳩《あつ》めて畫帖を一枚毎に繰《く》つて行つた。色々な批評が出る。みんな好《いゝ》加減である。

　所へ廣田先生がフロツクコートで天長節の式から歸つて來た。三人は挨拶をするときに畫帖を伏せて仕舞つた。先生が書物｜丈《だけ》早く片付《かたづけ》樣《やう》といふので、三人が又｜根氣《こんき》に遣り始めた。今度は主人公がゐるので、さう油を賣る事も出來なかつたと見えて、一時間後には、どうか、かうか廊下の書物が書棚の中へ詰つて仕舞つた。四人は立ち並んで奇麗に片付いた書物を一應眺めた。

　「あとの整理は明日《あした》だ」と與次郎が云つた。是で我慢なさいと云はぬ許《ばかり》である。

　「大分《だいぶ》御集めになりましたね」と美禰子が云ふ。

　「先生｜是《これ》丈《だけ》みんな御讀みになつたですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎は實際参考の爲め、この事實を確めて置く必要があつたと見える。

　「みんな讀めるものか、佐々木なら讀むかもしれないが」

　與次郎は頭を掻いてゐる。三四郎は眞面目になつて、實は此間から大學の圖書館で、少し宛《づゝ》本を借りて讀むが、どんな本を借りても、必ず誰か目を通してゐる。試《ため》しにアフラ、ベーンといふ人の小説を借りて見たが、矢つ張りだれか讀んだ痕《あと》があるので、讀書範圍の際限が知りたくなつたから聞いて見たと云ふ。

　「アフラ、ベーンなら僕も讀んだ」

　廣田先生の此｜一言《いちごん》には三四郎も驚いた。

　「驚いたな。先生は何でも人の讀まないものを讀む癖がある」と與次郎が云つた。

　廣田は笑つて座敷の方へ行く。着物を着換へる爲だらう。美禰子も尾《つ》いて出た。あとで與次郎が三四郎にかう云つた。

　「あれだから偉大な暗闇《くらやみ》だ。何でも讀んでゐる。けれども些《ちつ》とも光らない。もう少し流行《はや》るものを讀んでもう少し出姿婆《でしやば》つて呉れると可《い》いがな」

　與次郎の言葉は決して冷評ではなかつた。三四郎は黙つて本箱を眺めてゐた。すると座敷から美禰子の聲が聞えた。

　「御馳走を上げるから御二人《おふたり》とも入《い》らつしゃい」

　二人が書齋から廊下傳ひに、座敷へ來て見ると、座敷の眞中に美禰子の持つて來た籃《バスケツト》が据ゑである。葢《ふた》が取つてある。中にサンドヰツチが澤山｜這入《はい》つてゐる。美禰子は其｜側《そば》に坐つて、籃《かご》の中のものを小皿へ取り分けてゐる。與次郎と美禰子の問答が始まつた。

　「能く忘れずに持つて來ましたね」

　「だつて、わざ／＼御注文ですもの」

　「其｜籃《かご》も買つて來たんですか」

　「いゝえ」

　「家《うち》にあつたんですか」

　「えゝ」

　「大變大きなものですね。車夫でも連れて來たんですか。序《ついで》に、少しの間置いて働かせれば可いのに」

　「車夫は今日は使に出ました。女だつて此《この》位《くらゐ》なものは持てますわ」

　「あなただから持つんです。外の御孃さんなら、まあ已《や》めますね」

　「さうでせうか。夫《それ》なら私も已《や》めれば可《よ》かつた」

　美禰子は食物《くひもの》を小皿へ取りながら、與次郎と應對してゐる。言葉に少しも淀《よど》みがない。しかも緩《ゆつ》くり落付いてゐる。殆んど與次郎の顔を見ない位《くらゐ》である。三四郎は敬服した。

　臺所から下女が茶を持つてくる。籃《かご》を取り卷いた連中《れんぢゆう》は、サンドヰツチを食ひ出した。少しの間は靜であつたが、思ひ出した樣に與次郎が又廣田先生に話しかけた。

　「先生、序《ついで》だから一寸聞いて置きますが先刻《さつき》の何とかべーンですね」

　「アフラ、ベーンか」

　「全體何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」

　「英國の閏秀作家《けいしうさくか》だ。十七世紀の」

　「十七世紀は古過ぎる。雜誌の材料にやなりませんね」

　「古い。然し職業として小説に從事した始めでの女だから、それで有名だ」

　「有名ぢや困るな。もう少し伺つて置かう。どんなものを書いたんですか」

　「僕はオルノーコと云ふ小説を讀んだ丈《だけ》だが、小川さん、さういぶ名の小説が全集のうちにあつたでせう」

　三四郎は奇麗に忘れてゐる。先生に其｜梗概《かうがい》を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英國の船長に瞞《だま》されて、奴隷《どれい》に賣られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の實見譚《じつけんだん》だとして後世《こうせい》に信ぜられてゐるといふ話しである。

　「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちやあ」と與次郎は又美禰子の方へ向つた。

　「書いても可《よ》ござんすけれども、私にはそんな實見譚《じつけんだん》がないんですもの」

　「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可《い》いぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」

　「口の惡い」と美禰子は三四郎を辯護する樣に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

　「書いても可《よ》くつて」と聞いた。其眼を見た時に、三四郎は今朝｜籃《かご》を提げて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出した。自《おのづか》ら醉つた心地《こゝち》である。けれども醉つて竦《すく》んだ心地である。どうぞ願ひます抔《など》とは無論云ひ得なかつた。

　廣田先生は例に依つて煙草を呑み出した。與次郎は之を評して鼻から哲學の烟《けむり》を吐くと云つた。成程｜烟《けむ》の出方《でかた》が少し違ふ。悠然として太く逞《たくま》しい棒が二本穴を拔けて來る。與次郎は其｜烟柱《えんちゆう》を眺めて、半分｜脊《せ》を唐紙に持《も》たした儘《まゝ》黙つてゐる。三四郎の眼はぼんやり庭の上にある。引越《ひつこし》ではない。丸《まる》で小集の體《てい》に見える。談話も從つて氣樂なものである。たゞ美禰子｜丈《だけ》が廣田先生の蔭で、先生がさつき脱ぎ棄てた洋服を疊み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所爲《しよゐ》と見える。

　「今のオルノーコの話だが、君は疎忽《そゝつか》しいから間違へると不可《いけ》ないから序《ついで》に云ふがね」と先生の烟《けむ》が一寸《ちよつと》途切れた。

　「へえ、伺つて置きます」と與次郎が凡帳面《きちやうめん》に云ふ。

　「あの小説が出てから、サヾ−ンといふ人が其話を脚本に仕組んだのが別にある。矢張り同じ名でね。それを一所にしちや不可《いけ》ない」

　「へえ、一所にしやしません」

　洋服を疊んで居た美禰子は一寸與次郎の顔を見た。

　「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's 《ピチーズ》　akin《アキン》　to《ツー》　love《ラツヴ》といふ句だが……」それ丈《だけ》で又哲學の烟《けむり》を熾《さかん》に吹き出した。

　「日本にもありさうな句ですな」と今度は三四郎が云つた。外《ほか》のものも、みんな有りさうだと云ひ出した。けれども誰にも思ひ出せない。では一つ譯して見たら好からうといふ事になつて、四人が色々に試みたが一向纒まらない。仕舞に與次郎が、

　「これは、どうしても俗謠《ぞくえう》で行かなくつちや駄目ですよ。句の趣《おもむき》が俗謠だもの」と與次郎らしい意見を提出した。

　そこで三人が全然｜翻譯權《ほんやくけん》を與次郎に委任する事にした。與次郎はしばらく考へてゐたが、

　「少し無理ですがね、かう云ふなどうでせう。可哀想《かはいさう》だた惚《ほ》れたつて事よ」

　「不可《いか》ん、不可《いか》ん、下劣《げれつ》の極《きよく》だ」と先生が忽《たちま》ち苦《にが》い顔をした。その云ひ方が如何にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひ出した。此笑ひ聲まだ止まないうちに、庭の木戸がぎいと開《あ》いて、野々宮さんが這入つて來た。

　「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは椽側《えんがは》の正面の所迄來て、部屋のなかにゐる四人を覗く樣に見渡した。

　「まだ片付きませんよ」と與次郎が早速云ふ。

　「少し手傳つて頂きませうか」と美禰子が與次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや／＼笑ひながら、

　「大分《だいぶ》賑やかな樣ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向《うしろむき》に椽側《えんがは》へ腰を掛けた。

　「今僕が翻譯をして先生に叱られた所です」

　「翻譯を？　どんな翻譯ですか」

　「なに詰らない――可哀想《かはいさう》だた惚《ほ》れたつて事よと云ふんです」

　「へえ」と云つた野々宮君は椽側《えんがは》で筋達《すぢかひ》に向き直つた。「一體そりや何ですか。僕にや意味が分らない」

　「誰にだつて分らんさ」と今度は先生が云つた。

　「いや、少し言葉をつめ過ぎたから――當り前に延ばすと、斯うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」

　「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」

　「Pity's《ピチーズ》 akin《アキン》 to《ツー》　love《ラツヴ》」と美禰子が繰《く》り返《かへ》した。美しい奇麗な發音であつた。

　野々宮さんは、椽側《えんがは》から立つて、二三歩庭の方へ歩き出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に留つた。

　「成程｜旨《うま》い譯だ」

　三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた。

　美禰子は臺所へ立つて、茶碗を洗つて、新しい茶を注《つ》いで、椽側《えんがは》の端《はた》迄持つて出る。

　「御茶を」と云つた儘、其處へ坐つた。「よし子さんは、どうなすつて」と聞く。

　「えゝ、身體《からだ》の方はもう回復しましたが」と又腰を掛けて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた。

　「先生、折角大久保へ越したが、又｜此方《こつち》の方へ出なければならない樣になりさうです」

　「何故《なぜ》」

　「妹《いもと》が學校へ行き歸りに、戸山の原を通るのが厭だといひ出しましてね。それに僕が夜《よる》實驗をやるものですから、遲く迄待つてゐるのが淋《さむ》しくつて不可《いけ》ないんださうです。尤も今のうちは母が居《ゐ》るから構ひませんが、もう少しして、母が國へ歸ると、あとは下女｜丈《だけ》になるものですからね。臆病もの二人では到底｜辛抱《しんばう》し切れないのでせう。――實に厄介だな」と冗談半分の嘆聲を洩らしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客《ゐさふらふ》に置いて呉れませんか」と美禰子の顔を見た。

　「何時《いつ》でも置いて上げますわ」

　「何方《どつち》です。宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」と與次郎が口を出した。

　「何方《どちら》でも」

　三四郎｜丈《だけ》黙つてゐた。廣田先生は少し眞面目になつて、

　「さうして君はどうする氣なんだ」

　「妹《いもと》の始末さへ付けば、當分下宿しても可いです。それでなければ、又何處かへ引越さなければならない。一層《いつそ》學校の寄宿舎へでも入れ樣かと思ふんですがね。何しろ子供だから、僕が始終行けるか、向ふが始終來られる所でないと困るんです」

　「それぢや里見さんの所に限る」と與次郎が又注意を與へた。廣田さんは與次郎を相手にしない樣子で、

　「僕の所の二階へ置いて遣つても好いが、何しろ佐々木の樣なものがゐるから」と云ふ。

　「先生、二階へは是非佐々木を置いてやつて下さい」

と與次郎自身が依頼した。野々宮君は笑ひながら、

　「まあ、どうかしませう。――身長《なり》ばかり大きくつて馬鹿だから實に弱る。あれで團子坂《だんござか》の菊人形《きくにんぎやう》が見たいから、連れて行けなんて云ふんだから」

　「連れて行つて御上なされば可《い》いのに。私《わたくし》だつて見たいわ」

　「ぢや一所に行きませうか」

　「えゝ是非。小川さんも入らつしやい」

　「えゝ行きませう」

　「佐々木さんも」

　「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動寫眞を見に行きます」

　「菊人形は可《い》いよ」と今度は廣田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外國にもないだらう。人工的によく斯んなものを拵へたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出來て居たら、恐らく團子坂《だんこざか》へ行くものは一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家《うち》でも四五人は必ずゐる。團子坂へ出掛けるには當らない」

　「先生一流の論理だ」と與次郎が評した。

　「昔�ﾍ場で�ﾍ《をそ》はる時にも、よく、あれで遣られたものだ」と野々宮君が云つた。

　「ぢや先生も入らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は黙つてゐる。みんな笑ひ出した。

　臺所から婆さんが「どなたか一寸《ちよいと》」と云ふ。與次郎は「おい」とすぐ立つた。三四郎は矢張り坐つてゐた。

　「どれ僕も失禮しやうか」と野々宮さんが腰を上げる。

　「あらもう御歸り。隨分ね」と美禰子が云ふ。

　「此間のものはもう少し待つて呉れ玉へ」と廣田先生が云ふのを、「えゝ、宜《よ》うござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出て行つた。其影が折戸の外へ隱れると、美禰子は急に思ひ出した樣に「さう／＼」と云ひながら、庭先に脱いであつた下駄を穿《は》いて、野々宮の後《あと》を追掛けた。表で何か話してゐる。

　三四郎は歎つて坐つてゐた。

　

　　　　　五

　

　門を這入ると、此間の萩が、人の丈《たけ》より高く茂つて、株の根に黒い影が出來てゐる。此黒い影が地の上を這つて、奧の方へ行くと、見えなくなる。葉と葉の重《かさ》なる裏迄｜上《のぼ》つて來る樣にも思はれる。夫《それ》程《ほど》表には濃い日が當つてゐる。手洗水《てあらひみづ》の傍に南天《なんてん》がある。是も普通よりは脊《せ》が高い。三本寄つてひよろ／＼してゐる。葉は便所の窓の上にある。

　萩と南天の間に椽側《えんがは》が少し見える。椽側《えんがは》は南天を基點として斜《はす》に向ふへ走つてゐる。萩の影になつた所は、一番遠いはづれになる。それで萩は一番手前にある。よし子は此萩の影にゐた。椽側《えんがは》に腰を掛けて。

　三四郎は萩とすれ／＼に立つた。よし子は椽《えん》から腰を上げた。足は平《ひら》たい石の上にある。三四郎は今更《いまさら》その脊《せ》の高いのに驚いた。

　「御這入《おはい》りなさい」

　依然として三四郎を待ち設けた樣な言葉遣《ことばづかひ》である。三四郎は病院の當時を思出した。萩を通り越して椽鼻《えんばな》迄來た。

　「御掛けなさい」

　三四郎は靴を穿《は》いてゐる。命《めい》の如く腰を掛けた。よし子は座布團を取つて來た。

　「御敷《おし》きなさい」

　三四郎は布團を敷いた。門を這入つてから、三四郎はまだ一言《ひとこと》も口を開《ひら》かない。此單純な少女は唯自分の思ふ通りを三四郎に云ふが、三四郎からは毫も返事を求めてゐない樣に思はれる。三四郎は無邪氣なる女王の前に出た心持がした。命を聽く丈《だけ》である。御世辭を使ふ必要がない。一言《ひとこと》でも先方の意を迎へる樣な事をいへば、急に卑しくなる。?《おし》の奴隷《どれい》の如く、さきの云ふが儘に振舞つてゐれば愉快である。三四郎は子供の樣なよし子から子供扱ひにされながら、少しもわが自尊心を傷《きずつ》けたとは感じ得なかつた。

　「兄ですか」とよし子は其次に聞いた。

　野々宮を尋ねて來た譯でもない。尋ねない譯でもない。何で來たか三四郎にも實《じつ》は分らないのである。

　「野々宮さんはまだ學校ですか」

　「えゝ、何時《いつ》でも夜《よる》遲くでなくつちや歸りません」

　是は三四郎も知つてる事である。三四郎は挨拶に窮《きゆう》した。見ると椽側《えんがは》に繪《ゑ》の具函《ぐばこ》がある。描《か》きかけた水彩がある。

　「畫《ゑ》を御習ひですか」

　「えゝ、好きだから描《か》きます」

　「先生は誰ですか」

　「先生に習ふ程｜上手《じやうず》ぢやないの」

　「一寸《ちよつと》拜見」

　「是？　是まだ出來てゐないの」と描《か》き掛《かけ》を三四郎の方へ出す。成程自分のうちの庭が描《か》き掛けてある。空と、前の家の柿の木と、這入り口の萩｜丈《だけ》が出來てゐる。中にも柿の木は甚だ赤く出來てゐる。

　「中々旨い」と三四郎が畫を眺めながら云ふ。

　「是が？」とよし子は少し驚いた。本當に驚いたのである。三四郎の樣なわざとらしい調子は少しもなかつた。

　三四郎は今更自分の言葉を冗談《じようだん》にする事も出來ず、又｜眞面目《まじめ》にする事も出來なくなつた。何方《どつち》にしても、よし子から輕蔑されさうである。三四郎は畫を眺めながら、腹のなかで赤面した。

　椽側《えんがは》から座敷を見廻すと、しんと靜かである。茶の間は無論、臺所にも人はゐない樣である。

　「御母《おつか》さんはもう御國へ御歸りになつたんですか」

　「まだ歸りません。近いうちに立つ筈ですけれど」

　「今、入《いら》つしやるんですか」

　「今｜一寸《ちよつと》買物に出ました」

　「あなたが里見さんの所へ御移りになると云ふのは本當ですか」

　「何《ど》うして」

　「何うしてつて！此間廣田先生の所でそんな話がありましたから」

　「まだ極《きま》りません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」

　三四郎は少《すこ》しく要領を得た。

　「野々宮さんは元から里見さんと御懇意なんですか」

　「えゝ。御友達なの」

　男と女の友達といふ意味かしらと思つたが、何だか可笑《をか》しい。けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた。

　「廣田先生は野々宮さんの元の先生ださうですね」

　「えゝ」

　話しは「えゝ」で塞《つか》へた。

　「あなたは里見さんの所へ入らつしやる方が可《い》いんですか」

　「私《わたくし》？　さうね。でも美禰子さんの御兄《おあに》いさんに御氣の毒ですから」

　「美禰子さんの兄《にい》さんがあるんですか」

　「えゝ。宅《うち》の兄と同年の卒業なんです」

　「矢つ張り理學士ですか」

　「いゝえ、科は違ひます。法學士です。其｜又《また》上の兄さんが廣田先生の御友達だつたのですけれども、早く御亡《おな》くなりになつて、今では恭助《きようすけ》さん丈《だけ》なんです」

　「御父《おとつ》さんや御母《おつか》さんは」

　よし子は少し笑ひながら、

　「ないわ」と云つた。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であると云はぬ許《ばかり》である。餘程早く死んだものと見える。よし子の記憶には丸《まる》でないのだらう。

　「さう云ふ關係で美禰子さんは廣田先生のうちへ出入《でいり》をなさるんですね」

　「えゝ。死んだ兄さんが廣田先生とは大變｜仲善《なかよし》だつたさうです。それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやるんでせう」

　「此方《こちら》へも來ますか」

　よし子は何時《いつ》の間《ま》にか、水彩畫の續きを描《か》き始めた。三四郎が傍《そば》にゐるのが丸《まる》で苦《く》になつてゐない。それでゐて、能く返事をする。

　「美禰子さん？」と聞きながら、柿の木の下にある藁葺屋根《わらぶきやね》に影をつけたが、

　「少し黒過ぎますね」と畫を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、

　「えゝ、少《すこ》し黒過ぎます」と答へた。すると、よし子は畫筆《ゑふで》に水を含ませて、黒い所を洗ひながら、

　「入らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした。

　「度々《たび／＼》？」

　「えゝ度々《たび／＼》」とよし子は依然として畫紙《ぐわし》に向つてゐる。三四郎は、よし子が畫のつゞきを描《か》き出してから、問答が大變｜樂《らく》になつた。

　しばらく無言の儘、畫の中を覗いてゐると、よし子は丹念に藁葺屋根《わらぶきやね》の黒い影を洗つてゐたが、あまり水が多過ぎたのと、筆の使ひ方が中々｜不慣《ふなれ》なので、黒いものが勝手に四方へ浮き出して、折角赤く出來た柿が、蔭干《かげぼし》の澁柿《しぶかき》の樣な色になつた。よし子は畫筆の手を休めて、兩手を伸ばして、首をあとへ引いて、ワツトマンを成るべく遠くから眺めてゐたが、仕舞に、小《ちひさ》な聲で、

　「もう駄目ね」と云ふ。實際駄目なのだから、仕方がない。三四郎は氣の毒になつた。

　「もう御廢《およ》しなさい。さうして、又《また》新しく御描きなさい」

　よし子は顔を畫に向けた儘、尻眼に三四郎を見た。大きな潤《うるほひ》のある眼である。三四郎は益《ます／＼》氣の毒になつた。すると女が急に笑ひ出した。

　「馬鹿ね。二時間｜許《ばか》り損をして」と云ひながら、折角｜描《か》いた水彩の上へ、横縱に二三本太い棒を引いて、繪《ゑ》の具函《ぐばこ》の葢《ふた》をぱたりと伏せた。

　「もう廢《よ》しませう。座敷へ御這入りなさい。御茶を上げますから」と云ひながら、自分は上へあがつた。三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、矢張り椽側《えんがは》に腰を掛けてゐた。腹の中《なか》では、今になつて、茶を遣《や》るといふ女を非常に面白いと思つてゐた。三四郎に度外《どはづ》れの女を面白がる積《つもり》は少しもないのだが、突然御茶を上げますと云はれた時には、一種の愉快を感ぜぬ譯に行《ゆ》かなかつたのである。其感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかつた。

　茶の間で話し聲がする。下女は居たに違ない。やがて襖《ふすま》を開いて、茶器を持つて、よし子があらはれた。其顔を正面から見たときに、三四郎は又、女性｜中《ちゆう》の尤も女性的な顔であると思つた。

　よし子は茶を汲《く》んで椽側《えんがは》へ出して、自分は座敷の疊の上へ坐つた。三四郎はもう歸らうと思つてゐたが、此女の傍《そば》にゐると、歸らないでも構はない樣な氣がする。病院では曾《かつ》て此女の顔を眺め過ぎて、少し赤面させた爲めに、早速引き取つたが、今日は何ともない。茶を出したのを幸ひに椽側《えんがは》と座敷で又談話を始めた。色々話してゐるうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞き出した。それは、自分の兄の野々宮が好《すき》か嫌《いや》かと云ふ質問であつた。一寸《ちよつと》聞くと丸《まる》で頑是《ぐわんぜ》ない子供の云ひさうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあつた。研究心の強い學問好きの人は、萬事を研究する氣で見るから、情愛が薄くなる譯である。人情で物をみると、凡《すべ》てが好き嫌ひの二つになる。研究する氣なぞが起るものではない。自分の兄は理學者だものだから、自分を研究して不可《いけ》ない。自分を研究すればする程、自分を可愛がる度《ど》は減るのだから、妹《いもうと》に對して不親切になる。けれども、あの位《くらゐ》研究｜好《ずき》の兄が、この位自分を可愛がつて呉れるのだから、それを思ふと、兄は日本中で一番好い人に違ないと云ふ結論であつた。

　三四郎は此説を聞いて、大いに尤もな樣な、又｜何處《どこ》か拔けてゐる樣な氣がしたが、偖《さて》何處が拔けてゐるんだか、頭がぼんやりして、一寸《ちよつと》分らなかつた。それで表向《おもてむき》此説に對しては別段の批評を加へなかつた。たゞ腹の中《なか》で、これしきの女の云ふ事を、明瞭に批評し得ないのは、男兒《だんじ》として腑甲斐《ふがひ》ない事だと、いたく赤面した。同時に、東京の女學生は決して馬鹿に出來ないものだと云ふ事を悟つた。

　三四郎はよし子に對する敬愛の念を抱《いだ》いて下宿へ歸つた。端書が來てゐる。「明日《みやうにち》午後一時頃から菊人形を見に參りますから、廣田先生のうち迄《まで》入らつしゃい。美禰子」

　其字が、野々宮さんの隱袋《ポツケツト》から半分｜食《は》み出してゐた封筒の上書《うはがき》に似てゐるので、三四郎は何遍も讀み直して見た。

　翌日は日曜である。三四郎は午飯《ひるめし》を濟ましてすぐ西片町へ來た。新調の制服を着て、光つた靴を穿《は》いてゐる。靜かな横町《よこちやう》を廣田先生の前｜迄《まで》來ると、人聲がする。

　先生の家は門を這入ると、左《ひだ》り手がすぐ庭で、木戸をあければ玄關へかゝらずに、座敷の椽《えん》へ出られる。三四郎は要目垣《かなめがき》の間に見える棧《さん》を外《はづ》さうとして、ふと、庭のなかの話し聲を耳にした。話しは野々宮と美禰子の間に起りつゝある。

　「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬ許《ばか》りだ」是は男の聲である。

　「死んでも、其方が可《い》いと思ひます」是は女の答である。

　「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈《だけ》の價値は充分ある」

　「殘酷な事を仰しやる」

　三四郎は此處で木戸を開《あ》けた。庭の眞中《まんなか》に立つてゐた會話の主《ぬし》は二人とも此方《こつち》を見た。野々宮はたゞ「やあ」と平凡に云つて、頭を首肯《うなづ》かせた丈《だけ》である。頭に新しい茶の中折帽を被つてゐる。美禰子は、すぐ、

　「端書は何時《いつ》頃着きましたか」と聞いた。二人の今迄遣つてゐた會話はこれで中絶した。

　椽側《えんがは》には主人が洋服を着て腰を掛けて、相變らず哲學を吹いてゐる。是は西洋の雜誌を手にしてゐた。側《そば》によし子がゐる。兩手を後《うしろ》へ突いて、身體を空《くう》に持たせながら、伸《のば》した足に穿《は》いた厚い草履を眺めてゐた。――三四郎はみんなから待ち受けられてゐたと見える。

　主人は雜誌を抛《な》げ出した。

　「では行くかな。とう／＼引張《ひつぱ》り出された」

　「御苦勞樣」と野々宮さんが言つた。女は二人で顔を見合せて、他《ひと》に知れない樣な笑《わらひ》を洩らした。庭を出るとき、女が二人つゞいた。

　「脊《せい》が高いのね」と美禰子が後《あと》から言つた。

　「のつぼ」とよし子が一言《ひとこと》答へた。門の側《わき》で並《なら》んだ時、「だから、なり丈《たけ》草履を穿《は》くの」と辯解をした。三四郎もつゞいて庭を出《で》樣《やう》とすると、二階の障子ががらりと開《あ》いた。與次郎が手欄《てすり》の所迄出て來た。

　「行くのか」と聞く。

　「うん、君は」

　「行かない。菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」

　「一所に行かう。家《うち》に居たつて仕樣《しやう》がないぢやないか」

　「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々それ所ぢやない」

　三四郎は呆《あき》れ返《かへ》つた樣な笑ひ方をして、四人《よにん》の後《あと》を追掛けた。四人は細い横町《よこちやう》を三分の二程廣い通の方へ遠ざかつた所である。此一團の影を高い空氣の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本當時のそれよりも、ずつと意味の深いものになりつゝあると感じた。曾《かつ》て考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正《まさ》に此《この》一團の影で代表されてゐる。影の半分は薄黒い。半分は花野の如く明《あきら》かである。さうして三四郎の頭のなかでは此兩方が渾然《こんぜん》として調和されてゐる。のみならず、自分も何時《いつ》の間《ま》にか、自然と此｜經緯《よこたて》のなかに織り込まれてゐる。たゞそのうちの何處かに落ち付かない所がある。それが不安である。歩きながら考へると、今さき庭のうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄《だんぺい》が近因である。三四郎は此不安の念を驅《か》る爲めに、二人の談柄《だんぺい》を再び剔抉出《ほじくりだ》して見たい氣がした。

　四人《よにん》は既に曲り角へ來た。四人とも足を留めて、振り返つた。美禰子は額《ひたひ》に手を翳《かざ》してゐる。

　三四郎は一分かゝらぬうちに追付いた。追付いても誰も何とも云はない。唯《たゞ》歩き出した丈《だけ》である。しばらくすると、美禰子が、

　「野々宮さんは、理學者だから、なほそんな事を仰しやるんでせう」と云ひ出した。話しの續きらしい。

　「なに理學を遣らなくつても同じ事です。高く飛ばうと云ふには、飛べる丈《だけ》の裝置を考へた上でなければ出來ないに極《きま》つてゐる。頭の方が先に要《い》るに違ないぢやありませんか」

　「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかも知れません」

　「我慢しなければ、死ぬ許《ばかり》ですもの」

　「さうすると安全で地面の上に立つてゐるのが一番好い事になりますね。何だか詰《つま》らない樣《やう》だ」

　野々宮さんは返事を已《や》めて、廣田先生の方を向いたが、

　「女には詩人が多いですね」と笑ひながら云つた。すると廣田先生が、

　「男子の弊《へい》は却《かへ》つて純粹の詩人になり切れない所にあるだらう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙つた。よし子と美禰子は何か御互《おたがひ》の話を始める。三四郎は漸く質問の機會を得た。

　「今のは何の御話しなんですか」

　「なに空中飛行器の事です」と野々宮さんが無造作に云つた。三四郎は落語のおち〔二字傍点〕を聞く樣な氣がした。

　それからは別段の會詰も出なかつた。又長い會話が出來かねる程、人がぞろ／＼歩く所へ來た。大觀音《おほぐわんのん》の前に乞食《こじき》が居る。額《ひたひ》を地《ぢ》に擦《す》り付けて、大きな聲をのべつに出して、哀願を逞《たくま》しうしてゐる。時々顔を上げると、額の所｜丈《だけ》が砂で白くなつてゐる。誰も顧《かへり》みるものがない。五人も平氣で行過ぎた。五六間も來た時に、廣田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。

　「君あの乞食に錢《ぜに》を遣《や》りましたか」

　「いゝえ」と三四郎が後《あと》を見ると、例の乞食は、白い額の下で兩手を合せて、相變らず大きな聲を出してゐる。

　「遣る氣にならないわね」とよし子がすぐに云つた。

　「何故《なぜ》」とよし子の兄は妹を見た。窘《たしな》める程に強い言葉でもなかつた。野々宮の顏付は寧ろ冷靜である。

　「あゝ始終｜焦《せ》つ着《つ》いて居ちや、焦《せ》つ着《つ》き榮《ばえ》がしないから駄目ですよ」と美禰子が評した。

　「いえ場所が惡いからだ」と今度は廣田先生が云つた。「あまり人通りが多過ぎるから不可《いけ》ない。山の上の淋《さび》しい所で、あゝいふ男に逢つたら、誰でも遣る氣になるんだよ」

　「其代り一日待つてゐても、誰も通らないかも知れない」と野々宮はくす／＼笑ひ出した。

　三四郎は四人《よにん》の乞食《こじき》に對する批評を聞いて、自分が今日《こんにち》迄《まで》養成した�ｺ義上の觀念を幾分か傷《きずつ》けられる樣な氣がした。けれども自分が乞食の前を通るとき、一錢も投げてやる料簡が起らなかつたのみならず、實を云へば、寧ろ不愉快な感じが募《つの》つた事實を反省して見ると、自分よりも是等｜四人《よにん》の方が却《かへ》つて己《おの》れに誠であると思ひ付いた。又彼等は己《おの》れに誠であり得る程な廣い天地の下に呼吸する都會人種《とくわいじんしゆ》であるといふ事を悟つた。

　行くに從つて人が多くなる。しばらくすると一人の迷子《まひご》に出逢《であ》つた。七つ許《ばか》りの女の子である。泣きながら、人の袖の下を右へ行つたり、左りへ行つたりうろ／＼してゐる。御婆さん、御婆さんと無暗に云ふ。是には往來の人もみんな心を動かしてゐる樣に見える。立ち留《どま》るものもある。可哀想だといふものもある。然し誰も手を付けない。子供は凡《すべ》ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き號《さけ》んで御婆さんを探してゐる。不可思議の現象である。

　「これも場所が惡い所爲《せゐ》ぢやないか」と野々宮君が子供の影を見送りながら云つた。

　「今に巡査が始末をつけるに極《きま》つてゐるから、みんな責任を逃《のが》れるんだね」と廣田先生が説明した。

　「私《わたし》の傍《そば》迄《まで》來れば交番｜迄《まで》送つてやるわ」とよし子が云ふ。

　「ぢや、追掛《おつか》けて行つて、連れて行くが好い」と兄が注意した。

　「追掛《おつか》けるのは厭」

　「何故《なぜ》」

　「何故《なぜ》つて――こんなに大勢《おほぜい》人がゐるんですもの。私《わたし》に限つた事はないわ」

　「矢張《やつば》り責任を逃《のが》れるんだ」と廣田がいふ。

　「矢張《やつぱり》場所が惡いんだ」と野々宮がいふ。男は二人で笑つた。團子坂の上｜迄《まで》來ると、交番の前へ人が黒山の樣に集《たか》つてゐる。迷子《まひご》はとう／＼巡査の手に渡つたのである。

　「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧《かへり》みて云つた。よし子は「まあ可《よ》かつた」といふ。

　坂の上から見ると、坂は曲《まが》つてゐる。刀の切先《きつさき》の樣である。幅は無論狹い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分｜遮《さへぎ》つてゐる。其｜後《うしろ》には又高い幟《のぼり》が何本となく立てゝある。人は急に谷底へ落ち込む樣に思はれる。其落ち込むものが、這ひ上がるものと入り亂れて、路一杯に塞《ふさ》がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅をつくして異樣に動く。見てゐると眼が疲れるほど不規則に蠢《うごめ》いてゐる。廣田先生は此坂の上に立つて、

　「是は大變だ」と、さも歸りたさうである。四人はあとから先生を押す樣にして、谷へ這入つた。其谷が途中からだら／＼と向《むかふ》へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛《よしずがけ》の小屋を、狹い南側から高く構へたので、空さへ存外窮屈に見える。往來は暗くなる迄込み合つてゐる。其中で木戸番が出來る丈《だけ》大きな聲を出す。「人間から出る聲ぢやない。菊人形から出る聲だ」と廣田先生が評した。それ程彼等の聲は尋常を離れてゐる。

　一行は左《ひだ》りの小屋へ這入つた。曾我《そが》の討人《うちいり》がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着てゐる。但し顔や手足は悉《こと／”＼》く木彫《きぼり》である。其次は雪が降つてゐる。苦い女が癪《しやく》を起してゐる。是も人形の心《しん》に、菊を一面に這はせて、花と葉が平《たひら》に隙間《すきま》なく衣裝《いしやう》の恰好となる樣に作つたものである。

　よし子は餘念なく眺めてゐる。廣田先生と野々宮はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎は、外《ほか》の見物に隔《へだ》てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にゐる。見物は概して町家《ちやうか》のものである。�ﾍ育のありさうなものは極《きは》めて少《すくな》い。美禰子は其間に立つて、振り返つた。首を延ばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄《てすり》から出して、菊の根を指《さ》しながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又｜向《むかふ》をむいた。見物に押されて、さつさと出口の方へ行く。三四郎は群集《ぐんじゆ》を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後《あと》を追つて行つた。

　漸くの事で、美禰子の傍《そば》迄《まで》來て、

　「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹《あをだけ》の手欄《てすり》に手を突いて、心持首を戻《もど》して、三四郎を見た。何とも云はない。手欄《てすり》のなかは養老の瀧である。丸い顔の、腰に斧《をの》を指した男が、瓢箪《へうたん》を持つて、瀧壺《たきつぼ》の側《そば》に跼《かゞ》んでゐる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆んど氣が付かなかつた。

　「どうかしましたか」と思はず云つた。美禰子はまだ何とも答へない。黒い眼を左《さ》も物憂《ものう》さうに三四郎の額《ひたひ》の上に据ゑた。其時三四郎は美禰子の二重瞼《ふたへまぶた》に不可思議なある意味を認めた。其意味のうちには、靈《れい》の疲れがある。肉の弛《ゆる》みがある。苦痛に近き訴へがある。三四郎は、美禰子の答へを豫期しつゝある今の場合を忘れて、此｜眸《ひとみ》と此｜瞼《まぶた》の間に凡《すべ》てを遺却《ゐきやく》した。すると、美禰子は云つた。

　「もう出ませう」

　眸《ひとみ》と瞼《まぶた》の距離が次第に近づく樣に見えた。近づくに從つて三四郎の心には女の爲に出なければ濟まない氣が萌《きざ》して來た。それが頂點に達した頃、女は首を投げる樣に向ふをむいた。手を青竹の手欄《てすり》から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐ後《あと》から跟《つ》いて出た。

　二人が表《おも》てゞ並《なら》んだ時、美禰子は俯向《うつむ》いて右の手を額《ひたひ》に當てた。周圍は人が渦《うづ》を捲《ま》いてゐる。三四郎は女の耳へ口を寄せた。

　「どうかしましたか」

　女は人込の中を谷中《やなか》の方へ歩き出した。三四郎も無論一所に歩き出した。半町《はんちやう》ばかり來た時、女は人の中で留つた。

　「此處は何處でせう」

　「此方《こつち》へ行くと谷中《やなか》の天王寺《てんのうじ》の方へ出て仕舞ひます。歸り路とは丸《まる》で反對です」

　「さう。私《わたくし》心持が惡くつて……」

　三四郎は往來の眞中で扶《たすけ》なき苦痛を感じた。立つて考へてゐた。

　「何處か靜かな所はないでせうか」と女が聞いた。

　谷中《やなか》と千駄木《せんだぎ》が谷で出逢ふと、一番低い所に小川が流れてゐる。此《この》小川を沿うて、町を左《ひだ》りへ切れるとすぐ野に出る。河は眞直に北へ通《かよ》つてゐる。三四郎は東京へ來てから何遍｜此《この》小川の向側を歩いて、何遍｜此方側《こつちがは》を歩いたか善く覺えてゐる。美禰子の立つてゐる所は、此《この》小川が、丁度｜谷中《やなか》の町を横切つて根津《ねづ》へ拔ける石橋の傍である。

　「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。

　「歩きます」

　二人はすぐ石橋を渡つて、左へ折れた。人の家の路次の樣な所を十間程行き盡して、門の手前から板橋を此方側《こちらがは》へ渡り返して、しばらく河の縁《ふち》を上《のぼ》ると、もう人は通らない。廣い野である。

　三四郎は此靜かな秋のなかへ出たら、急に饒舌《しやべ》り出した。

　「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢ゐた所爲《せゐ》でせう。あの人形を見てゐる連中のうちには隨分下等なのがゐた樣《やう》だから――何か失禮でもしましたか」

　女は黙つてゐる。やがて河の流れから、眼を上げて、三四郎を見た。二重瞼《ふたへまぶた》にはつきりと張りがあつた。三四郎は其眼付で半ば安心した。

　「難有《ありがた》う。大分《だいぶ》好くなりました」と云ふ。

　「休みませうか」

　「えゝ」

　「もう少し歩けますか」

　「えゝ」

　「歩ければ、もう少しお歩きなさい。此處は汚ない。彼處《あすこ》迄《まで》行くと丁度休むに好い場所があるから」

　「えゝ」

　一丁｜許《ばかり》來た。又橋がある。一尺に足らない古板を造作《ざうさ》なく渡した上を、三四郎は大股《おほまた》に歩いた。女もつゞいて通つた。待ち合せた三四郎の眼には、女の足が常の大地《だいち》を踏むと同じ樣に輕く見えた。此女は素直な足を眞直に前へ運《はこ》ぶ。わざと女らしく甘へた歩き方をしない。從つて無暗に此方《こつち》から手を貸す譯に行かない。

　向ふに藁屋根《わらやね》がある。屋根の下が一面に赤い。近寄つて見ると、唐辛子《たうがらし》を干《ほ》したのであつた。女は此赤いものが、唐辛子《たうがらし》であると見分けのつく處｜迄《まで》來て留つた。

　「美くしい事」と云ひながら、草の上に腰を卸《おろ》した。草は小川の椽《ふち》に僅かな幅を生えて居るのみである。夫《それ》すら夏の半《なかば》の樣に青くはない。美禰子は派手《はで》な着物の汚《よご》れるのを丸《まる》で苦にしてゐない。

　「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促《うなか》す樣に云つて見た。

　「難有《ありがた》う。是で澤山」

　「矢つ張り心持が惡いですか」

　「あんまり疲れたから」

　三四郎もとう／＼汚ない草の上に坐つた。美禰子と三四郎の間は四尺｜許《ばかり》離れてゐる。二人《ふたり》の足の下には小さな河が流れてゐる。秋になつて水が落ちたから淺い。角《かど》の出た石の上に鶺鴒《せきれい》が一羽とまつた位《くらゐ》である。三四郎は水の中を眺めてゐた。水が次第に濁《にご》つて來る。見ると河上で百姓が大根を洗つてゐた。美禰子の視線は遠くの向ふにある。向ふは廣い畠で、畠の先が森で森の上が空になる。空の色が段々變つて來る。

　たゞ單調《たんてう》に澄んでゐたものゝ中《うち》に、色が幾通りも出來てきた。透《す》き徹《とほ》る藍《あゐ》の地《ぢ》が消える樣に次第に薄くなる。其上に白い雲が鈍《にぶ》く重《かさ》なりかゝる。重なつたものが溶《と》けて流れ出す。何處で地《ぢ》が盡きて、何處で雲が始まるか分らない程に嬾《ものう》い上を、心持｜黄《き》な色がふうと一面にかゝつてゐる。

　「空の色が濁りました」と美禰子が云つた。

　三四郎は流れから眼を放して、上を見た。かう云ふ空の模樣を見たのは始めてゞはない。けれども空が濁つたといふ言葉を聞いたのは此時が始めてゞある。氣が付いて見ると、濁つたと形容するより外に形容のしかたのない色であつた。三四郎が何か答へやうとする前に、女は又言つた。

　「重《おも》い事。大理石《マーブル》の樣《やう》に見えます」

　美禰子は二重瞼《ふたへまぶた》を細くして高い所を眺めてゐた。それから、その細くなつた儘の眼を靜かに三四郎の方に向けた。さうして、

　「大理石《マーブル》の樣に見えるでせう」と聞いた。三四郎は、

　「えゝ、大理石《マーブル》の樣に見えます」と答へるより外はなかつた。女はそれで黙つた。しばらくしてから、今度は三四郎が云つた。

　「かう云ふ空の下にゐると、心が重くなるが氣は輕くなる」

　「どう云ふ譯ですか」と美禰子が問ひ返した。

　三四郎には、どう云ふ譯もなかつた。返事はせずに、又かう云つた。

　「安心して夢を見てゐる樣な空模樣だ」

　「動く樣で、なか／＼動きませんね」と美禰子は又遠くの雲を眺め出した。

　菊人形で客を呼ぶ聲が、折々二人の坐つてゐる所｜迄《まで》聞える。

　「隨分大きな聲ね」

　「朝から晩迄あゝ云ふ聲を出してゐるんでせうか。豪《えら》いもんだな」と云つたが、三四郎は急に置き去りにした三人の事を思ひ出した。何か云はうとしてゐるうちに、美禰子は答へた。

　「商賣ですもの、丁度｜大觀音《おほぐわんのん》の乞食と同じ事なんですよ」

　「場所が惡くはないですか」

　三四郎は珍らしく冗談を云つて、さうして一人で面白さうに笑つた。乞食に就《つい》て下《くだ》した廣田の言葉を餘程《よほど》可笑《をか》しく受けたからである。

　「廣田先生は、よく、あゝ云ふ事を仰《おつし》やる方《かた》なんですよ」と極《きは》めて輕く獨り言の樣に云つたあとで、急に調子を更《か》へて、

　「かう云ふ所に、かうして坐つてゐたら、大丈夫｜及第《きふだい》よ」と比較的｜活?《くわつぱつ》に付け加へた。さうして、今度は自分の方で面白さうに笑つた。

　「成程野々宮さんの云つた通り、何時《いつ》迄待つてゐても誰も通りさうもありませんね」

　「丁度好いぢやありませんか」と早口に云つたが、後《あと》で「御貰《おもらひ》をしない乞食なんだから」と結んだ。是は前句の解釋の爲めに付けた樣に聞えた。

　所へ知らん人が突然あらはれた。唐辛子《たうがらし》の干《ほ》してある家の影から出て、何時《いつ》の間《ま》にか河を向《むかふ》へ渡つたものと見える。二人の坐つてゐる方へ段々近付いて來る。洋服を着て髯を生やして、年輩から云ふと廣田先生｜位《くらゐ》な男である。此男が二人の前へ來た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子を睨《にら》め付けた。其眼のうちには明《あきら》かに憎惡の色がある。三四郎は凝《じつ》と坐つてゐにくい程な束縛を感じた。男はやがて行過ぎた。其｜後影《うしろかげ》を見送りながら、三四郎は、

　「廣田先生や野々宮さんは嘸《さぞ》後《あと》で僕等を探したでせう」と始めて氣が付いた樣に云つた。美禰子は寧《むし》ろ冷《ひやゝ》かである。

　「なに大丈夫よ。大きな迷子《まひご》ですもの」

　「迷子《まひご》だから探したでせう」と三四郎は矢張《やは》り前説を主張した。すると美禰子は、なほ冷《ひや》やかな調子で、

　「責任を逃《のが》れたがる人だから、丁度好いでせう」

　「誰が？　廣田先生がですか」

　美禰子は答へなかつた。

　「野々宮さんがですか」

　美禰子は矢つ張り答へなかつた。

　「もう氣分は宜くなりましたか。宜くなつたら、そろ／＼歸りませうか」

　美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸《おろ》した。其時三四郎は此女にはとても叶《かな》はない樣な氣が何處かでした。同時に自分の腹を見拔かれたといふ自覺に伴《ともな》ふ一種の屈辱をかすかに感じた。

　「迷子《まひご》」

　女は三四郎を見た儘で此｜一言《ひとこと》を繰返した。三四郎は答へなかつた。

　「迷子《まひご》の英譯を知つて入らしつて」

　三四郎は知るとも、知らぬとも云ひ得ぬ程に、此《この》問を豫期してゐなかつた。

　「�ﾍへて上げませうか」

　「えゝ」

　「迷へる子《ストレイ　シープ》――解つて？」

　三四郎は斯う云ふ場合になると挨拶に困る男である。咄嗟《とつさ》の機《き》が過ぎて、頭が冷《ひやゝ》かに働き出した時、過去を顧みて、あゝ云へば好かつた、斯うすれば好かつたと後悔する。と云つて、此《この》後悔を豫期して、無理に應急の返事を、左《さ》も自然らしく得意に吐き散らす程に輕薄ではなかつた。だから只《たゞ》黙つてゐる。さうして黙つてゐる事が如何《いか》にも半間《はんま》であると自覺してゐる。

　迷へる子《ストレイ　シープ》といふ言葉は解つた樣でもある。又《また》解らない樣でもある。解る解らないは此言葉の意味よりも、寧ろ此言葉を使つた女の意味である。三四郎はいたづらに女の顔を眺めて黙つてゐた。すると女は急に眞面目になつた。

　「私《わたくし》そんなに生意氣に見えますか」

　其調子には辯解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今迄は霧の中にゐた。霧が晴れゝば好いと思つてゐた。此言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て來た。晴れたのが恨《うら》めしい氣がする。

　三四郎は美禰子の態度を故《もと》の樣《やう》な、――二人の頭の上に廣がつてゐる、澄むとも濁るとも片付かない空の樣な、――意味のあるものにしたかつた。けれども、それは女の機嫌を取るための挨拶｜位《ぐらゐ》で戻《もど》せるものではないと思つた。女は卒然として、

　「ぢや、もう歸りませう」と云つた。厭味のある言ひ方ではなかつた。たゞ三四郎にとつて自分は興味のないものと諦《あきら》める樣《やう》に靜かな口調《くてう》であつた。

　空は又變つて來た。風が遠くから吹いてくる。廣い畠の上には日が限《かぎ》つて、見てゐると、寒い程｜淋《さび》しい。草からあがる地意氣《ぢいき》で身體は冷えてゐた。氣が付けば、こんな所に、よく今迄べつとり坐つて居られたものだと思ふ。自分一人なら、とうに何處かへ行つて仕舞つたに違ない。美禰子も――美禰子はこんな所へ坐る女かも知れない。

　「少し寒くなつた樣ですから、兎に角立ちませう。冷えると毒だ。然し氣分はもう悉皆《すつかり》直りましたか」

　「えゝ、悉皆《すつかり》直りました」と明《あきら》かに答へたが、俄《にはか》に立ち上がつた。立ち上がる時、小《ちひ》さな聲で、獨り言の樣に、

　「迷へる子《ストレイ　シープ》」と長く引つ張つて云つた。三四郎は無論答へなかつた。

　美禰子ほ、さつき洋服を着た男の出て來た方角を指《さ》して、道があるなら、あの唐辛子《たうがらし》の傍《そば》を通つて行きたいといふ。二人は、その見當へ歩いて行つた。藁葺《わらぶき》の後《うしろ》に果《はた》して細い三尺程の路があつた。其路を半分程來た所で三四郎は聞いた。

　「よし子さんは、あなたの所へ來る事に極《きま》つたんですか」

　女は片頬《かたほゝ》で笑つた。さうして問返《とひかへ》した。

　「何故《なぜ》御聞きになるの」

　三四郎が何か云はうとすると、足の前に泥濘《ぬかるみ》があつた。四尺｜許《ばか》りの所、土が凹《へこ》んで水がぴた／＼に溜つてゐる。其｜眞中《まんなか》に足掛りの爲に手頃な石を置いたものがある。三四郎は石の扶《たすけ》を藉《か》らずに、すぐに向《むかふ》へ飛んだ。さうして美禰子を振り返つて見た。美禰子は右の足を泥濘《ぬかるみ》の眞中《まんなか》にある石の上へ乘せた。石の据《すわ》りがあまり善くない。足へ力を入れて、肩を搖《ゆす》つて調子を取つてゐる。三四郎は此方側《こちらがは》から手を出した。

　「御捕《おつか》まりなさい」

　「いえ大丈夫」と女は笑つてゐる。手を出してゐる間は、調子を取る丈《だけ》で渡らない。三四郎は手を引込《ひつこ》めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、身體の重みを託《たく》して、左の足でひらりと此方側《こちらがは》へ渡つた。あまりに下駄を汚《よご》すまいと念を入れ過ぎた爲め、力が餘つて、腰が浮いた。のめりさうに胸が前へ出る。其｜勢《いきほひ》で美禰子の兩手が三四郎の兩腕の上へ落ちた。

　「迷へる子《ストレイ　シープ》」と美禰子が口の内で云つた。三四郎は其｜呼吸《いき》を感ずる事が出來た。

　

　　　　　六

　

　號鐘《ベル》が鳴つて、講師は�ﾍ室から出て行つた。三四郎は印氣《いんき》の着いた洋筆《ペン》を振つて、帳面《ノート》を伏せ樣とした。すると隣りにゐた與次郎が聲を掛けた。

　「おい一寸《ちよつと》借せ。書き落した所がある」

　與次郎は三四郎の帳面《ノート》を引き寄せて上から覗き込んだ。stray《ストレイ》 sheep《シープ》といふ字が無暗《むやみ》にかいてある。

　「何だこれは」

　「講義を筆記するのが厭になつたから、いたづらを書いてゐた」

　「さう不勉強でほ不可《いか》ん。カントの超絶唯心論《てうぜつゆゐしんろん》がバークレーの超絶實在論《てうぜつじつざいろん》にどうだとか云つたな」

　「どうだとか云つた」

　「聞いてゐなかつたのか」

　「いゝや」

　「全然《まるで》stray《ストレイ》 sheep《シープ》だ。仕方がない」

　與次郎は自分の帳面《ノート》を抱《かゝ》へて立ち上がつた。机の前を離れながら、三四郎に、

　「おい一寸《ちよつと》來い」と云ふ。三四郎は與次郎に跟《つ》いて�ﾍ室を出た。階子段を降《お》りて、玄關前の草原へ來た。大きな櫻がある。二人は其下に坐つた。

　此處《こゝ》は夏の初めになると苜蓿《うまごやし》が一面に生える。與次郎が入學願書を持つて事務へ來た時に、此櫻の下に二人の學生が寐轉《ねころ》んでゐた。其一人が一人に向つて、口答試驗を都々逸《どゞいつ》で負けて置いて呉れると、いくらでも唄《うた》つて見せるがなと云ふと、一人が小聲で、粹《すゐ》な捌《さば》きの博士の前で、戀の試驗がして見たいと唄《うた》つてゐた。其時から與次郎は此櫻の木の下が好《すき》になつて、何か事があると、三四郎を此處へ引張り出す。三四郎は其歴史を與次郎から聞いた時に、成程與次郎は俗謠《ぞくえう》でpity's《ピチーズ》　love《ラツブ》を譯す筈《はず》だと思つた。今日は然し與次郎が事《こと》の外《ほか》眞面目である。草の上に胡坐《あぐら》をかくや否や、懷中から、文藝時評といふ雜誌を出して開《あ》けた儘の一頁を逆《さか》に三四郎の方へ向けた。

　「どうだ」と云ふ。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇《くらやみ》」とある。下には零餘子《れいよし》と雅號を使つてゐる。偉大なる暗闇《くらやみ》とは與次郎がいつでも廣田先生を許する語で、三四郎も二三度聞かされたものである。然し零餘子《れいよし》は全く知らん名である。どうだと云はれた時に、三四郎は、返事をする前提として一先づ與次郎の顏を見た。すると與次郎は何にも云はずに其《その》扁平な顏を前へ出して、右の人指《ひとさ》し指《ゆび》の先で、自分の鼻の頭を抑へて凝《じっ》としてゐる。向ふに立つてゐた一人の學生が、此樣子を見てにや／＼笑ひ出した。それに氣が付いた與次郎は漸く指を鼻から放した。

　「己《おれ》が書いたんだ」と云ふ。三四郎は成程さうかと悟つた。

　「僕等が菊細工を見に行く時書いてゐたのは、是か」

　「いや、ありや、たつた二三日前《にさんちまへ》ぢやないか。さう早く活版になつて堪るものか。あれは來月出る。これは、ずつと前に書いたものだ。何を書いたものか標題で解るだらう」

　「廣田先生の事か」

　「うん。かうして輿論《よろん》を喚起《くわんき》して置いてね。さうして、先生が大學へ這入《はい》れる下地《したぢ》を作る……」

　「其雜誌はそんなに勢力のある雜誌か」

　三四郎は雜誌の名前さへ知らなかつた。

　「いや無勢力だから、實は困る」と與次郎は答へた。三四郎は微笑《わら》はざるを得なかつた。

　「何部位賣れるのか」

　與次郎は何部賣れるとも云はない。

　「まあ好《い》いさ。書かんより�掾sま》しだ」と辯解してゐる。

　段々聞いて見ると、與次郎は從來から此雜誌に關係があつて、閑暇《ひま》さへあれば殆ど毎號筆を執つてゐるが、其代り雅名も毎號變へるから、二三の同人《どうじん》の外《ほか》、誰も知らないんだと云ふ。成る程さうだらう。三四郎は今始めて與次郎と文壇との交渉を聞いた位のものである。然し與次郎が何の爲に、遊戯《いたづら》に等《ひと》しい匿名《とくめい》を用ひて、彼の所謂大論文をひそかに公《おほや》けにしつゝあるか、其處が三四郎には分らなかつた。

　幾分か小遣取《こづかひとり》の積《つもり》で、遣《や》つてゐる仕事かと不遠慮《ぶゑんりよ》に尋ねた時、與次郎は眼を丸くした。

　「君は九州の田舍から出た許《ばかり》だから、中央文壇の趨勢《すうせい》を知らない爲に、そんな呑氣《のんき》な事を云ふのだらう。今の思想界の中心に居て、その動搖のはげしい有樣を目撃しながら、考へのあるものが知らん顏をしてゐられるものか。實際｜今日《こんにち》の文權は全く吾々青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云へる丈《だけ》云はなけりや損ぢやないか。文壇は急轉直下の勢《いきほひ》で目覚しい革命を受けてゐる。凡《すべ》てが悉《こと／”＼》く搖《うご》いて、新氣運に向つて行くんだから、取り殘されちや大變だ。進んで自分から此《この》氣運を拵《こしら》へ上げなくちや、生きてる甲斐はない。文學々々つて安つぼい樣に云ふが、そりや大學なんかで聞く文學の事だ。新しい吾々の所謂文學は、人生そのものゝ大反射だ。文學の新氣運は日本全社會の活動に影響しなければならない。又｜現《げん》にしつゝある。彼等が晝寐をして夢を見てゐる間《ま》に、何時《いつ》か影響しつゝある。恐ろしいものだ。……」

　三四郎は黙つて聞いてゐた。少し法螺《ほら》の樣な氣がする。然し法螺《ほら》でも與次郎は中々熱心に吹いてゐる。すくなくとも當人｜丈《だけ》は至極眞面目らしく見える。三四郎は大分《だいぶ》動かされた。

　「さう云ふ精神でやつてゐるのか。では君は原稿料なんか、どうでも構はんのだつたな」

　「いや、原稿料は取るよ。取れる丈《だけ》取る。然し雜誌が賣れないから中々｜寄《よ》こさない。どうかして、もう少し賣れる工夫をしないと不可《いけ》ない。何か好《い》い趣向はないだらうか」と今度は三四郎に相談を掛けた。話が急に實際問題に落ちて仕舞つた。三四郎は妙な心持がする。與次郎は平氣である。號鐘《ベル》が烈しく鳴り出した。

　「兎も角此雜誌を一部君にやるから讀んで見てくれ。偉大なる暗闇《くらやみ》と云ふ題が面白いだらう。此題なら人が驚ろくに極つてゐる。――驚ろかせないと讀まないから駄目だ」

　二人は玄關を上《のぼ》つて、�ﾍ室へ這入つて、机に着いた。やがて先生が來る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇《くらやみ》」が氣にかゝるので、帳面《ノート》の傍《わき》に文藝時評を開《あ》けた儘、筆記の相間々々《あひま／＼》に先生に知れない樣に讀み出した。先生は幸ひ近眼《きんがん》である。のみならず自己の講義のうちに全然｜埋没《まいぼつ》してゐる。三四郎の不心得には丸《まる》で關係しない。三四郎は好い氣になつて、此方《こつち》を筆記したり、彼方《あつち》を讀んだりして行つたが、もと／＼二人でする事を一人で兼ねる無理な藝だから仕舞には「偉大なる暗闇《くらやみ》」も講義の筆記も双方ともに關係が解らなくなつた。たゞ與次郎の文章が一句｜丈《だけ》判然《はつきり》頭に這入つた。

　「自然は寶石を作るに幾年の星霜を費《つひ》やしたか。又此寶石が採掘の運に逢ふ迄に、幾年の星霜を靜かに輝やいてゐたか」といふ句である。其他は不得要領《ふとくえうりやう》に終つた。其代り此時間にはstray《ストレイ》 sheep《シープ》といふ字を一つも書かずに濟んだ。

　講義が終るや否や、與次郎は三四郎に向つて、

　「どうだ」と聞いた。實はまだ善く讀まないと答へると、時間の經濟を知らない男だといつて非難した。是非讀めといふ。三四郎は家《うち》へ歸つて是非讀むと約束した。やがて午《ひる》になつた。二人は連れ立つて門を出た。

　「今晩出席するだらうな」と與次郎が西片町へ這入る横町《よこちやう》の角《かど》で立ち留つた。今夜は同級生の懇親會がある。三四郎は忘れてゐた。漸く思ひ出して、行く積りだと答へると、與次郎は、

　「出る前に一寸《ちよつと》誘つて呉れ。君に話す事がある」と云ふ。耳の後《うしろ》へ洋筆軸《ペンぢく》を挾んでゐる。何となく得意である。三四郎は承知した。

　下宿へ歸つて、湯に入《はい》つて、好《い》い心持になつて上がつて見ると、机の上に繪端書がある。小川を描いて、草をもぢや／＼生《は》やして、其｜縁《ふち》に羊を二匹寐かして、其向ふ側に大きな男が洋杖《ステツキ》を持つて立つてゐる所を寫したものである。男の顔が甚だ獰猛《だうまう》に出來てゐる。全く西洋の繪にある惡魔《デ?ル》を模《も》したもので、念の爲め、傍にちやんとデ?ルと假名《かな》が振つてある。表《おもて》は三四郎の宛名《あてな》の下に、迷へる子と小さく書いた計《ばかり》である。三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた。のみならず、端書の裏に、迷へる子を二匹書いて、其一匹を暗に自分に見立てゝ呉れたのを甚だ嬉しく思つた。迷へる子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとより這入つてゐたのである。それが美禰子の思《おも》はくであつたと見える。美禰子の使つたstray《ストレイ》 sheep《シープ》の意味が是で漸く判然《はんぜん》した。

　與次郎に約束した「偉大なる暗闇《くらやみ》」を讀まうと思ふが、一寸《ちよつと》讀む氣にならない。しきりに繪端書を眺めて考へた。イソツプにもない樣な滑稽趣味がある。無邪氣にも見える。洒落《しやらく》でもある。さうして凡《すべ》ての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。

　手際から云つても敬服の至りである。諸事明瞭に出來上つてゐる。よし子の描《か》いた柿の木の比ではない。――と三四郎には思はれた。

　しばらくしてから、三四郎は漸く「偉大なる暗闇《くらやみ》」を讀み出した。實はふわ／＼して讀み出したのであるが、二三頁來ると、次第に釣り込まれる樣に氣が乘つてきて、知らず／＼の間《ま》に、五頁六頁と進んで、ついに廿七頁の長論文を苦《く》もなく片付けた。最後の一句を讀了した時、始めて是で仕舞だなと氣が付いた。眼を雜誌から離して、あゝ讀んだなと思った。

　然し次の瞬間に、何を讀んだかと考へて見ると、何にもない。可笑《をか》しい位何にもない。たゞ大いに且《か》つ熾《さかん》に讀んだ氣がする。三四郎は與次郎の技倆《ぎりやう》に感服した。

　論文は現今の文學者の攻撃に始まつて、廣田先生の讃辭《さんじ》に終つてゐる。ことに大學文科の西洋人を手痛《ていた》く罵倒してゐる。早く適當の日本人を招聘《せうへい》して、大學相當の講義を開かなくつては、學問の最高府たる大學も昔の寺小屋同然の有樣になつて、煉瓦石のミイラと撰《えら》ぶ所がない樣になる。尤《もつと》も人がなければ仕方がないが、こゝに廣田先生がある。先生は十年一日の如く高等學校に�ﾍ鞭を執つて薄給と無名に甘んじて居る。然し眞正の學者である。學海の新氣蓮に貢獻《こうけん》して、日本の活社會と交渉《かうせふ》のある�ﾍ授を擔任《たんにん》すべき人物である。――煎じ詰ると是《これ》丈《だけ》であるが、其｜是《これ》丈《だけ》が、非常に尤もらしい口吻《こうふん》と燦爛《さんらん》たる警句とによつて前後二十七頁に延長してゐる。

　その中には「禿《はげ》を自慢にするものは老人に限る」とか「?ーナスは波から生《うま》れたが、活眼の士は大學から生れない」とか「博士を學界の名産と心得るのは、海月《くらげ》を田子《たご》の浦《うら》の名産と考へる樣なものだ」とか色々面白い句が澤山ある。然しそれより外に何にもない。殊に妙なのは、廣田先生を偉大なる暗闇に喩《たと》へた序《ついで》に、他《ほか》の學者を丸行燈《まるあんどう》に比較して、たか／”＼方二尺位の所をぼんやり照すに過ぎない抔《など》と、自分が廣田から云はれた通りを書いてゐる。さうして、丸行燈《まるあんどう》だの雁首《がんくび》抔《など》は凡《すべ》て舊時代の遣物で吾々青年には全く無用であると、此間の通りわざ／”＼斷つてある。

　能く考へて見ると、與次郎の論文には活氣がある。如何にも自分一人で新日本を代表してゐる樣であるから、讀んでゐるうちは、つい其氣になる。けれども全く實《み》がない。根據地のない戦爭の樣なものである。のみならず惡く解釋すると、政略的の意味もあるかも知れない書方である。田舍者《ゐなかもの》の三四郎にはてつきり其處と氣取《けど》る事は出來なかつたが、たゞ讀んだあとで、自分の心を探つて見て何處かに不滿足がある樣に覺えた。また美禰子の繪端書を取つて、二匹の羊と例の惡魔《デ?ル》を眺め出した。すると此方《こつち》のほうは萬事が快感である。此快感につれて前の不滿足は益《ます／＼》著るしくなつた。それで論文の事はそれぎり考へなくなつた。美禰子に返事を遣《や》らうと思ふ。不幸にして繪がかけない。文章にしやうと思ふ。文章なら此繪端書に匹敵《ひつてき》する文句でなくつては不可《いけ》ない。それは容易に思ひ付けない。愚圖々々してゐるうちに四時過になつた。

　袴を着《つ》けて、與次郎を誘ひに、西片町へ行く。勝手口から這入ると、茶の間に、廣田先生が小さな食卓を控へて、晩食《ばんめし》を食つてゐた。傍《そば》に與次郎が畏まつて御給仕をしてゐる。

　「先生｜何《ど》うですか」と聞いてゐる。

　先生は何か硬《かた》いものを頬張つたらしい。食卓の上を見ると、袂時計《たもとどけい》程な大きさの、赤くつて黒くつて、焦《こ》げたものが十《とを》ばかり皿の中に並《なら》んでゐる。

　三四郎は座に着《つ》いた。禮をする。先生は口をもが／＼させる。

　「おい君も一つ食つて見ろ」と與次郎が箸で皿のものを撮《つま》んで出した。掌《てのひら》へ載せて見ると、馬鹿貝《ばかがひ》の剥身《むきみ》の干《ほ》したのをつけ燒にしたのである。

　「妙なものを食ふな」と聞くと、

　「妙なものつて、旨いぜ食つて見ろ。是はね、僕がわざ／＼先生に見舞《みやげ》に買つて來たんだ。先生はまだ、これを食つた事がないと仰しやる」

　「何處から」

　「日本橋から」

　三四郎は可笑《をか》しくなつた。かう云ふ所になると、さつきの論文の調子とは少し違ふ。

　「先生、どうです」

　「硬《かた》いね」

　「硬《かた》いけれども旨いでせう。よく?まなくつちや不可《いけ》ません。?むと味が出る」

　「味が出る迄?んでゐちや、齒が疲れて仕舞ふ。何でこんな古風なものを買つて來たものかな」

　「不可《いけ》ませんか。こりや、ことによると先生には駄目かも知れない。里見の美禰子さんなら可《い》いだらう」

　「何故《なぜ》」と三四郎が聞いた。

　「あゝ落ち付いてゐりや味の出る迄｜屹度《きつと》?んでるに違ない」

　「あの女は落ち付いて居て、亂暴だ」と廣田が云つた。

　「えゝ亂暴です。イブセンの女の樣な所がある」

　「イブセンの女は露骨《ろこつ》だが、あの女は心《しん》が亂暴だ。尤も亂暴と云つても、普通の亂暴とは意味が違ふが。野々宮の妹の方が、一寸見ると亂暴の樣で、矢つ張り女らしい。妙なものだね」

　「里見のは亂暴の内訌《ないこう》ですか」

　三四郎は黙つて二人の批評を聞いてゐた。何方《どつち》の批評も腑《ふ》に落ちない。亂暴といふ言葉が、どうして美禰子の上に使へるか、それからが第一不思議であつた。

　與次郎はやがて、袴を穿《は》いて、改まつて出て來て、

　「一寸行つて參ります」と云ふ。先生は黙つて茶を飲んでゐる。二人《ふたり》は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二三間來ると、三四郎はすぐ話しかけた。

　「先生ほ里見の御孃さんを亂暴だと云つたね」

　「うん。先生は勝手な事をいふ人だから、時と場合によると何でも云ふ。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女に於ける知識は恐らく零《れい》だらう。ラツヴをした事がないものに女が分るものか」

　「先生はそれで可《い》いとして、君は先生の説に賛成したぢやないか」

　「うん亂暴だと云つた。何故《なぜ》」

　「何う云ふ所を亂暴と云ふのか」

　「何う云ふ所も、斯う云ふ所もありやしない。現代の女性《によしやう》はみんな亂暴に極つてる。あの女ばかりぢやない」

　「君はあの人をイブセンの人物に似てゐると云つたぢやないか」

　「云つた」

　「イブセンの誰に似て居る積《つもり》なのか」

　「誰つて……似てゐるよ」

　三四郎は無論｜納得《なつとく》しない。然し追窮もしない。黙つて一間｜許《ばかり》歩いた。すると突然與次郎がかう云つた。

　「イブセンの人物に似てゐるのは里見の御孃さん許《ばかり》ぢやない。今の一般の女性《によしやう》はみんな似てゐる。女性《によしやう》ばかりぢやない。苟《いやし》くも新しい空氣に觸れた男はみんなイブセンの人物に似た所がある。たゞ男も女もイブセンの樣に自由行動を取らない丈《だけ》だ。腹のなかでは大抵かぶれてゐる」

　「僕はあんまり、かぶれてゐない」

　「ゐないと自《みづか》ら欺いてゐるのだ。――どんな社會だつて陷缺《かんけつ》のない社會はあるまい」

　「それは無いだらう」

　「無いとすれば、その中に生息してゐる動物は何處かに不足を感じる譯だ。イブセンの人物は、現代社會制度の陷缺《かんけつ》を尤も明《あきら》かに感じたものだ。吾々も追々あゝ成つて來る」

　「君はさう思ふか」

　「僕ばかりぢやない。具眼の士はみんなさう思つてゐる」

　「君の家《うち》の先生もそんな考へか」

　「うちの先生？　先生は解らない」

　「だつて、先刻《さつき》里見さんを評して、落ち付いてゐて乱暴だと云つたぢやないか。それを解釋して見ると、周圍に調和して行けるから、落ち付いてゐられるので、何處かに不足があるから、底の方が亂暴だと云ふ意味ちやないのか」

　「成程。――先生は偉い所があるよ。あゝいふ所へ行くと矢つ張り偉い」

と與次郎は急に廣田先生を賞め出した。三四郎は美禰子の性格に就てもう少し議論の歩を進めたかつたのだが、與次郎の此一言で全くはぐらかされて仕舞つた。すると與次郎が云つた。

　「實は今日君に用があると云つたのはね。――うん、夫《それ》より前に、君あの偉大なる暗闇《くらやみ》を讀んだか。あれを讀んで置かないと僕の用事が頭へ這入《はい》り惡《にく》い」

　「今日あれから家《うち》へ歸つて讀んだ」

　「どうだ」

　「先生は何と云つた」

　「先生は讀むものかね。丸《まる》で知りやしない」

　「さうさな。面白い事は面白いが、――何だか腹の足《たし》にならない麥酒《ビール》を飲んだ樣だね」

　「それで澤山だ。讀んで景氣が付きさへすれば可《い》い。だから匿名《とくめい》にしてある。どうせ今は準備時代だ。かうして置いて、丁度宜い時分に、本名を名乘つて出る。――夫《それ》は夫《それ》として、先刻《さつき》の用事を話して置かう」

　與次郎の用事といふのは斯うである。――今夜の會で自分達の科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎も一所に慨嘆しなくつては不可《いけ》ないんださうだ。不振は事實であるから外のものも慨嘆するに極つてゐる。それから、大勢一所に挽回策《ばんくわいさく》を講ずる事となる。何しろ適當な日本人を一人大學へ入れるのが急務だと云ひ出す。みんなが賛成する。當然だから賛成するのは無論だ。次に誰が好からうといふ相談に移る。其時廣田先生の名を持ち出す。其時三四郎は與次郎に口を添へて極力先生を賞賛しろと云ふ話である。さうしないと、與次郎が廣田の食客《ゐさふらふ》だといふ事を知つてゐるものが疑を起さないとも限らない。自分は現に食客《ゐさふらふ》なんだから、どう思はれても構はないが、萬一｜煩《わづら》ひが廣田先生に及ぶ樣では濟まん事になる。尤も外に同志が三四人はゐるから、大丈夫だが、一人でも味方は多い方が便利だから、三四郎も成るべく饒舌《しやべ》るに若《し》くはないとの意見である。偖《さて》愈《いよ／＼》衆議一決の曉《あかつき》は、總代を選んで學長の所へ行く、又總長の所へ行く。尤も今夜中に其處迄は運ばないかも知れない。又運ぶ必要もない。其邊は臨機應變である。……

　與次郎は頗る能辯である。惜しい事に其能辯がつる／＼してゐるので重みがない。ある所へ行くと冗談を眞面目に講釋してゐるかと疑はれる。けれども本來が性質《たち》の好い運動だから、三四郎も大體の上に於て賛成の意を表した。たゞ其方法が少しく細工《さいく》に落ちて面白くないと云つた。其時與次郎は往來の眞中へ立ち留つた。二人は丁度｜森川町《もりかはちやう》の神社の鳥居の前にゐる。

　「細工《さいく》に落《お》ちると云ふが、僕のやる事は自然の手順が狂はない樣にあらかじめ人力で裝置する丈だ。自然に背いた没分曉《ぼつぶんげう》の事を企てるのとは質《たち》が違ふ。細工だつて構はん。細工が惡いのではない。惡い細工が惡いのだ」

　三四郎はぐうの音《ね》も出なかつた。何だか文句がある樣だけれども、口へ出て來ない。與次郎の言草のうちで、自分がまだ考へてゐなかつた部分｜丈《だけ》が判然《はつきり》頭へ映つてゐる。三四郎は寧ろ其方に感服した。

　「それもさうだ」と頗る曖昧な返事をして、又肩を並《なら》べて歩き出した。正門を這入ると、急に眼の前が廣くなる。大きな建物が所々に黒く立つてゐる。其屋根が判然《はつきり》盡きる所から明かな空になる。星が夥《おびたゞ》しく多い。

　「うつくしい空だ」と三四郎が云つた。與次郎も空を見ながら、一間｜許《ばかり》歩いた。突然、

　「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎は又さつきの話しの續きかと思つて「なんだ」と答へた。

　「君、かう云ふ空を見て何んな感じを起す」

　與次郎に似合はぬ事を云つた。無限とか永久とかいふ持ち合せの答へはいくらでもあるが、そんな事を云ふと與次郎に笑はれると思つて三四郎は黙つてゐた。

　「詰らんなあ我々は。あしたから、斯んな運動をするのはもう已《や》めにしやうか知ら。偉大なる暗闇《くらやみ》を書いても何の役にも立ちさうにもない」

　「何故《なぜ》急にそんな事を云ひ出したのか」

　「此空を見ると、さう云ふ考へになる。――君、女に惚《ほ》れた事があるか」

　三四郎は即答が出來なかつた。

　「女は恐ろしいものだよ」と與次郎が云つた。

　「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」と三四郎も云つた。すると與次郎が大きな聲で笑ひ出した。靜かな夜の中で大變高く聞える。

　「知りもしない癖に。知りもしない癖に」

　三四郎は憮然《ぶぜん》としてゐた。

　「明日《あす》も好い天氣だ。運動會は仕合せだ。奇麗な女が澤山來る是非見にくるがいゝ」

　暗い中を二人は學生集會所の前迄來た。中には電燈が輝いてゐる。

　木造の廊下を回《まは》つて、部屋へ這入ると、早々《さう／＼》來たものは、もう塊《かた》まつてゐる。其｜塊《かたま》りが大《おほき》いのと小さいのと合せて三つ程ある。中には無言で備付の雜誌や新聞を見ながら、わざと列を離れてゐるのもある。話は方々に聞える。話の數は塊《かた》まりの數より多い樣に思はれる。然し割合に落付いて靜かである。煙草の烟《けむり》の方が猛烈に立ち上《のぼ》る。

　其中だん／＼寄つて來る。黒い影が闇の中から吹き曝《さら》しの廊下の上へ、ぽつりと現はれると、それが一人々々に明るくなつて、部屋の中へ這入つて來る。時には五六人續けて、明るくなる事もある。やがて人數は略《ほゞ》揃つた。

　與次郎は、さつきから、煙草の烟《けむ》りの中を、しきりに彼方此方《あちこち》と往來してゐた。行く所で何か小聲に話してゐる。三四郎は、そろ／＼運動を始めたなと思つて眺めて居た。

　しばらくすると幹事が大きな聲で、みんなに席へ着けと云ふ。食卓は無論前から用意が出來てゐた。みんな、ごた／＼に席へ着いた。順序も何もない。食事は始まつた。

　三四郎は熊本で赤酒《あかざけ》許《ばか》り飲んでゐた。赤酒《あかざけ》といふのは、所で出來る下等な酒である。熊本の學生はみんな赤酒を呑む。それが當然と心得てゐる。たま／＼飲食店へ上がれば牛肉屋である。其牛肉屋の牛が馬肉《ばにく》かも知れないといふ嫌疑がある。學生は皿に盛つた肉を手攫《てづか》みにして、座敷の壁へ抛《たゝ》き付ける。落ちれば牛肉で、貼付《ひつつ》けば馬肉だといふ。丸《まる》で呪《まじなひ》見た樣な事をしてゐた。其三四郎に取つて、かう云ふ紳士的な學生｜親睦會《しんぼくくわい》は珍らしい。悦《よろこ》んで肉刀《ナイフ》と肉叉《フオーク》を動かしてゐた。其間には麥酒《ビール》をさかんに飲んだ。

　「學生集會所の料理は不味《まづ》いですね」と三四郎の隣に坐つた男が話しかけた。此男は頭を坊主に刈つて、金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を掛けた大人《おとな》しい學生であつた。

　「さうですな」と三四郎は生返事《なまへんじ》をした。相手が與次郎なら、僕の樣な田舍者《ゐなかもの》には非常に旨いと正直な所をいふ筈であつたが、其正直が却《かへ》つて皮肉に聞えると惡いと思つて已《や》めにした。すると其男が、

　「君は何處の高等學校ですか」と聞き出した。

　「熊本です」

　「熊本ですか。熊本には僕の從弟《いとこ》も居たが、隨分ひどい所ださうですね」

　「野蠻《やばん》な所です」

　二人が話してゐると、向ふの方で、急に高い聲がし出した。見ると與次郎が隣席の二三人を相手に、しきりに何か辯じてゐる。時々ダーター、フアブラと云ふ。何の事だか分らない。然し與次郎の相手は、此言葉を聞くたびに笑ひ出す。與次郎は益《ます／＼》得意になつて、ダーター、フアブラ我々新時代の青年は……とやつてゐる。三四郎の筋向《すぢむかふ》に坐つてゐた色の白い品《ひん》の好《い》い學生が、しばらく肉刀《ナイフ》の手を休《や》めて、與次郎の連中を眺めてゐたが、やがて笑ひながらIl a le diable au corps《イルアルデイアブルオーコール》（惡魔が乘り移つてゐる）と冗談年分に佛蘭西語《フランスご》を使つた。向ふの連中には全く聞えなかつたと見えて、此時｜麥酒《ビール》の洋盃《コツプ》が四つ許《ばか》り一度に高く上がつた。得意さうに祝盃を學げてゐる。

　「あの人は大變賑やかな人ですね」と三四郎の隣の金縁眼鏡を掛けた學生が云つた。

　「えゝ。よく饒舌《しやべ》ります」

　「僕はいつか、あの人に淀見軒《よどみけん》でライスカレーを御馳走になつた。丸《まる》で知らないのに、突然來て、君淀見軒へ行かうつて、とう／＼引張つて行つて……」

　學生はハヽヽと笑つた。三四郎は、淀見軒で與次郎からライスカレーを御馳走になつたものは自分ばかりではないんだなと悟つた。

　やがて珈琲《コーヒー》が出る。一人が椅子を離れて立つた。與次郎が烈しく手を敲《たゝ》くと、他《ほか》のものも忽ち調子を合せた。

　立つたものは、新しい黒の制服を着て、鼻の下にもう髭を生《は》やしてゐる。脊《せい》が頗る高い。立つには恰好《かつかう》の好い男である。演説めいた事を始めた。

　我々が今夜｜此處《こゝ》へ寄つて、懇親の爲に、一夕《いつせき》の歡をつくすのは、それ自身に於て愉快な事であるが、此懇親が單に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じ得ると偶然ながら氣が付いたら自分は立ちたくなつた。此《この》會合は麥酒《ビ−ル》に始まつて珈琲《コーヒー》に終つてゐる。全く普通の會合である。然し此｜麥酒《ビール》を飲んで珈琲《コーヒー》を飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかも其｜麥酒《ビール》を飲み始めてから珈琲《コーヒー》を飲み終る迄の間に既に自己の蓮命の膨脹《ばうちやう》を自覺し得た。

　政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは單に是等の表面にあらはれ易い事實の爲めに專有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際會したと信ずる。

　吾々は舊き日本の壓迫に堪へ得ぬ青年である。同時に新しき西洋の壓迫にも堪へ得ぬ青年であるといふ事を、世間に發表せねば居られぬ?況の下《もと》に生きて居る。新しき西洋の壓迫は社會の上に於ても文藝の上に於ても、我等新時代の青年に取つては舊《ふる》き日本の壓迫と同じく、苦痛である。

　我々は西洋の文藝を研究する者である。然し研究は何處迄も研究である。その文藝のもとに屈從するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文藝に囚《とら》はれんが爲に、これを研究するのではない。囚《とら》はれたる心を解脱《げだつ》せしめんが爲に、これを研究してゐるのである。此方便に合せざる文藝は如何なる威壓の下《もと》に強ひらるゝとも學ぶ事を敢《あへ》てせざるの自信と決心とを有して居る。

　我々は此自信と決心とを有するの點に於て普通の人間とは異つてゐる。文藝は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に觸れた社會の原動力である。我々は此意味に於て文藝を研究し、此意味に於て如上《じよじやう》の自信と決心とを有し、此意味に於て今夕《こんせき》の會合に一般以上の重大なる影響を想見《さうけん》するのである。

　社會は烈しく搖《うご》きつゝある。社會の産物たる文藝もまた搖《うご》きつゝある。搖《うご》く勢《いきほひ》に乘じて、我々の理想通りに文藝を導くためには、零碎なる個人を團結して、自己の運命を充實し發展し膨脹しなくてはならぬ。今夕《こんせき》の麥酒《ビール》と珈琲《コーヒー》は、かゝる隱《かく》れたる目的を、一歩前に進めた點に於て、普通の麦酒《ビール》と珈琲《コーヒー》よりも百倍以上の價ある貴《たつと》き麥酒《ビール》と珈琲《コーヒー》である。

　演説の意味はざつと斯んなものである。演説が濟んだ時、席に在つた學生は悉《こと／”＼》く喝采《かつさい》した。三四郎は尤も熱心なる喝采者《かつさいしや》の一人であつた。すると與次郎が突然立つた。

　「ダーターフアブラ、沙翁《シエクスピヤ》の使つた字數が何萬字だの、イブセンの白髪《しらが》の數《かず》が何千本だのと云つてたつて仕方がない。尤もそんな馬鹿げた講義を聞いたつて囚《とら》はれる氣遣《きづかひ》はないから大丈夫だが、大學に氣の毒で不可《いけ》ない。どうしても新時代の青年を滿足させる樣な人間を引張《ひつぱ》つて來なくつちや。西洋人ぢや駄目だ。第一幅が利かない。……」

　滿堂は又｜悉《こと／”＼》く喝采した。さうして悉く笑つた。與次郎の隣にゐたものが、

　「ダーターフアブラの爲に祝盃を擧げやう」と云ひ出した。さつき演説をした學生がすぐに賛成した。生憎《あいにく》麥酒《ビール》がみな空《から》である。よろしいと云つて與次郎はすぐ臺所の方へ驅けて行つた。給仕が酒を持つて出る。祝盃を擧げるや否や、

　「もう一つ。今度は偉大なる暗闇《くらやみ》の爲に」と云つたものがある。與次郎の周圍にゐたものは聲を合して、アハヽと笑つた。與次郎は頭を掻いてゐる。

　散會の時刻が來て、若い男がみな暗い夜《よる》の中《なか》に散つた時に、三四郎が與次郎に聞いた。

　「ダーターフアブラとは何《なん》の事だ」

　「希臘語《ギリシヤご》だ」

　與次郎はそれより外に答へなかつた。三四郎も夫《それ》より外に聞かなかつた。二人は美しい空を戴《いたゞ》いて家に歸つた。

　あくる日は豫想の如く好天氣である。今年《ことし》は例年より氣候がずつと緩《ゆる》んでゐる。殊更《ことさら》今日は暖かい。三四郎は朝のうち湯に行つた。閑人《ひまじん》の少ない世の中だから、午前は頗る空《す》いてゐる。三四郎は板の間に懸けてある三越呉服店の看板を見た。奇麗な女が畫《か》いてある。其女の顔が何處か美禰子に似てゐる。能く見ると目付が違つてゐる。齒並《はならび》が分らない。美禰子の顔で尤も三四郎を驚かしたものは眼付《めつき》と齒並《はならび》である。與次郎の説によると、あの女は反《そ》つ齒《ぱ》の氣味だから、あゝ始終齒が出るんださうだが、三四郎には決してさうは思へない。

　三四郎は湯に浸《つか》つてこんな事を考へてゐたので、身體の方はあまり洗はずに出た。昨夕《ゆうべ》から急に新時代の青年といふ自覺が強くなつたけれども、強いのは自覺｜丈《だけ》で、身體の方は元の儘である。休になると他《ほか》のものよりずつと樂にしてゐる。今日《けふ》は午《ひる》から大學の陸上運動會を見に行く氣である。

　三四郎は元來あまり運動好きではない。國に居るとき兎狩《うさぎがり》を二三度した事がある。それから高等學校の端艇競漕《ボートきやうさう》のときに旗振《はたふり》の役を勤めた事がある。其時青と赤と間違へて振つて大變苦情が出た。尤も決勝の鐵砲を打つ掛りの�ﾍ授が鐵砲を打ち損《そく》なつた。打つには打つたが音がしなかつた。これが三四郎の狼狽《あわて》た原因である。それより以來三四郎は運動會へ近づかなかつた。然し今日は上京以來始めての競技會だから是非行つて見る積《つもり》である。與次郎も是非行つて見ろと勸めた。與次郎の云ふ所によると競技より女の方が見に行く價値《かち》があるのださうだ。女のうちには野々宮さんの妹がゐるだらう。野々宮さんの妹と一所に美禰子もゐるだらう。其處へ行つて、今日《こんち》はとか何とか挨拶をして見たい。

　午過《ひるすぎ》になつたから出掛けた。會場の入口は運動場の南の隅にある。大きな日の丸と英吉利《イギリス》の國旗が交叉《かうさ》してある。日の丸は合點が行くが、英吉利《イギリス》の國旗は何の爲だか解らない。三四郎は日英同盟の所爲《せゐ》かとも考へた。けれども日英同盟と大學の陸上運動會とはどう云ふ關係があるか、頓《とん》と見當が付かなかつた。

　運動場は長方形の芝生《しばふ》である。秋が深いので芝の色が大分《だいぶ》褪《さ》めてゐる。競技を看る所は西側にある。後《うしろ》に大きな築山を一杯に控へて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追ひ込む仕掛になつてゐる。狹い割に見物人が多いので甚だ窮屈である。幸ひ日和《ひより》が好《い》いので寒くはない。然し外套を着てゐるものが大分《だいぶ》ある。其代り傘《かさ》をさして來た女もある。

　三四郎が失望したのは婦人席が別になつてゐて、普通の人間には近寄れない事であつた。それからフロツクコートや何か着た偉さうな男が澤山集つて、自分が存外｜幅《はゞ》の利《き》かない樣に見えた事であつた。新時代の青年を以て自《みづ》から居る三四郎は少し小さくなつてゐた。それでも人と人の間から婦人席の方を見渡す事は忘れなかつた。横からだから能く見えないが、此處は流石《さすが》に寄麗である。悉《こと／”＼》く着飾つてゐる。其上遠距離だから顔がみんな美しい。その代り誰が目立つて美しいといふ事もない。只《たゞ》總體が總體として美しい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかつた。そこで三四郎は又失望した。然し注意したら、何處かにゐるだらうと思つて、能く見渡すと、果して前列の一番柵に近い所に二人｜並《なら》んでゐた。

　三四郎は目の着け所が漸く解つたので、先づ一段落《いちだんらく》告げた樣な氣で、安心してゐると、忽ち五六人の男が眼の前に飛んで出た。二百メートルの競走が濟んだのである。決勝點は美禰子とよし子が坐つてゐる眞正面で、しかも鼻の先《さき》だから、二人を見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共是等の壯漢が這入つて來る。五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸《いき》を喘《はず》ませてゐる樣に見える。三四郎は是等の學生の態度と自分の態度とを比べて見て、其相違に驚いた。どうして、あゝ無分別《むふんべつ》に走《か》ける氣になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉《こ／”＼》く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別《むふんべつ》に走《か》けて見たくなつた。一番に到着したものが、紫の猿股《きるまた》を穿《は》いて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜《ゆうべ》の親陸會で演説をした學生に似てゐる。あゝ脊《せい》が高くては一番になる筈である。計測掛《けいそくがゝり》が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終つて、餘りの白墨を向《むかふ》へ抛《な》げて、此方《こつち》をむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時《いつ》になく眞黒なフロツクを着て、胸に掛員の徽章《きしやう》を付けて、大分《だいぶ》人品《じんぴん》が宜《い》い。半帛《ハンケチ》を出して洋服の袖を二三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切つて來た。丁度美禰子とよし子の坐つてゐる眞前《まんまへ》の所へ出た。低い柵の向側から首を婦人席の中へ延ばして、何か云つてゐる。美禰子は立つた。野々宮さんの所｜迄《まで》歩いて行く。柵の向ふと此方《こちら》で話しを始めた樣に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうな笑に充ちた顏である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守つてゐた。すると、よし子が立つた。又柵の側《そば》へ寄つて行く。二人が三人になつた。芝生の中では砲丸抛《はうぐわんなげ》が始《はじま》つた。

　砲丸抛程腕の力の要《い》るものほなからう。力の要る割に是程面白くないものも澤山《たんと》ない。たゞ文字通り砲丸を抛《な》げるのである。藝でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、一寸《ちよつと》此樣子を見て笑つてゐた。けれども見物の邪魔になると惡いと思つたのであらう。柵を離れて芝生の中へ引き取つた。二人の女も元の席へ復した。砲丸は時々｜抛《な》げられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎には分らない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。それでも我慢して立つてゐた。漸くの事で片が付いたと見えて、野々宮さんは又黒板へ十一メートル三八と書いた。

　それから又競走があつて、長飛《ながとび》があつて、其次には槌抱《つちな》げが始まつた。三四郎ほ此｜槌抛《つちなげ》に至つて、とう／＼辛抱《しんばう》が仕切れなくなつた。運動會は各自《めい／＼》勝手に開くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女は悉《こと／”＼》く間違つてゐると迄思ひ込んで、會場を拔け出して、裏の築山《つきやま》の所｜迄《まで》來た。幕が張つてあつて通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少し來ると、會場から逃げた人がちらほら歩いてゐる。盛裝した婦人も見える。三四郎は又右へ折れて、爪先上《つまさきのぼ》りを岡の頂點《てつぺん》迄來た。路は頂點《てつぺん》で盡きてゐる。大きな石がある。三四郎は其上へ腰を掛けて、高い崖の下にある池を眺めた。下の運動會場でわあといふ多勢《おほぜい》の聲がする。

　三四郎ほおよそ五分｜許《ばかり》石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く氣になつたので腰を上げて、立ちながら靴の踵《かゝと》を向け直すと、岡の上《のぼ》り際《ぎは》の、薄く色づいた紅葉《もみぢ》の間に、先刻《さつき》の女の影が見えた。並《なら》んで岡の裾を通る。

　三四郎は上から、二人を見下《みおろ》してゐた。二人は枝の隙《すき》から明《あきら》かな日向《ひなた》へ出て來た。黙つてゐると、前を通り拔けて仕舞ふ。三四郎は聲を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾の方ヘ下《お》りた。下《お》り出すと好い具合に女の一人が此方《こつち》を向いて呉れた。三四郎はそれで留つた。實は此方《こちら》からあまり御機嫌を取りたくない。運動會が少し癪に障《さは》つてゐる。

　「あんな所に……」とよし子が云ひ出した。驚いて笑つてゐる。この女はどんな陳腐《ちんぷ》なものを見ても珍らしさうな眼付をする樣に思はれる。其代り、如何《いか》な珍らしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた樣な眼付で迎へるかと想像される。だから此女に逢ふと重苦しい所が少しもなくつて、しかも落付いた感じが起る。三四郎は立つた儘、これは全く、この大きな、常に濡れてゐる、黒い眸《ひとみ》の御蔭だと考へた。

　美禰子も留つた。三四郎を見た。然し其眼は此時に限つて何物をも訴へてゐなかつた。丸《まる》で高い木を眺める樣な眼であつた。三四郎は心の裡《うち》で、火の消えた洋燈《ランプ》を見る心持がした。元の所に立ちすくんでゐる。美禰子も動かない。

　「何故《なぜ》競技を御覽にならないの」とよし子が下から聞いた。

　「今迄見てゐたんですが、詰《つま》らないから已《や》めて來たのです」

　よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、

　「夫《それ》より、あなた方こそ何故出て來たんです。大變熱心に見て居たぢやありませんか」と當《あ》てた樣な當《あ》てない樣な事を大きな聲で云つた。美禰子は此時始めて、少し笑つた。三四郎には其笑ひの意味が能く分らない。二歩ばかり女の方に近付いた。

　「もう宅《うち》へ歸るんですか」

　女は二人とも答へなかつた。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付いた。

　「何處かへ行くんですか」

　「えゝ、一寸」と美禰子が小さな聲で云ふ。よく聞えない。三四郎はとう／＼女の前｜迄《まで》下りで來た。しかし何處へ行くとも追窮もしないで立つてゐる。會場の方で喝采《かつさい》の聲が聞える。

　「高飛《たかとび》よ」とよし子が云ふ。「今度は何《なん》メートルになつたでせう」

　美禰子は輕く笑つた許《ばかり》である。三四郎も黙つてゐる。三四郎は高飛に口を出すのを屑《いさぎよ》しとしない積である。すると美禰子が聞いた。

　「此上には何か面白いものが有つて？」

　此上には石があつて、崖がある許《ばか》りである。面白いものがあり樣《やう》筈《はず》がない。

　「何にもないです」

　「さう」と疑《うたがひ》を殘した樣に云つた。

　「一寸《ちよいと》上がつて見ませうか」とよし子が、快《こゝろよ》く云ふ。

　「あなた、まだ此處を御存じないの」と相手の女は落ち付いて出た。

　「宜《い》いから入《いら》つしやいよ」

　よし子は先へ上《のぼ》る。二人は又｜跟《つ》いて行つた。よし子は足を芝生の端《はし》迄《まで》出して、振り向きながら、

　「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使つた。「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」

　美禰子と三四郎は聲を出して笑つた。其《その》癖《くせ》三四郎はサツフオーがどんな所から飛び込んだか能く分らなかつた。

　「あなたも飛び込んで御覽なさい」と美禰子が云ふ。

　「私《わたくし》？　飛び込みませうか。でも餘《あん》まり水が汚ないわね」と云ひながら、此方《こつち》へ歸つて來た。

　やがて女二人の間に用談が始まつた。

　「あなた、入らしつて」と美禰子がいふ。

　「えゝ。あなたは」とよし子がいふ。

　「何《ど》うしませう」

　「どうでも。なんなら私《わたし》一寸《ちよつと》行つてくるから、此處に待つて入らつしゃい」

　「さうね」

　中々片付かない。三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序《ついで》だから、一寸禮に行つてくるんだと云ふ。美禰子は此夏自分の親戚が入院してゐた時｜近付《ちかづき》になつた看護婦を訪ねれば訪ねるのだが、是は必要でも何でもないのださうだ。

　よし子は、素直《すなほ》に氣の輕い女だから、仕舞に、すぐ歸つて來ますと云ひ捨てゝ、早足に一人丘を下りて行つた。止める程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないので、二人は自然｜後《あと》に遺《のこ》る譯になつた。二人の消極な態度から云へば、遺るといふより、遺されたかたちにもなる。

　三四郎は又石に腰を掛けた。女は立つてゐる。秋の日は鏡の樣に濁つた池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはたゞ二本の樹が生えてゐる。青い松と薄い紅葉《もみぢ》が具合よく枝を交《かは》し合つて、箱庭《はこには》の趣《おもむき》がある。島を越して向側《むかふがは》の突き當りが蓊欝《こんもり》とどす黒く光つてゐる。女は丘の上から其暗い木蔭《こかげ》を指《ゆびさ》した。

　「あの木を知つて入らしつて」といふ。

　「あれは椎《しひ》」

　女は笑ひ出した。

　「能く覺えて入らつしやる事」

　「あの時の看護婦ですか、あなたが今｜訪《たづ》ねやうと云つたのは」

　「えゝ」

　「よし子さんの看護婦とは違ふんですか」

　「違ひます。是は椎――といつた看護婦です」

　今度は三四郎が笑ひ出した。

　「彼處《あすこ》ですね。あなたがあの看護婦と一所に團扇《うちは》を持つて立つてゐたのは」

　二人のゐる所は高く池の中に突き出してゐる。此丘とは丸《まる》で縁のない小山が一段低く、右側を走つてゐる。大きな松と御殿の一角《ひとかど》と、運動會の幕の一部と、なだらな芝生《しばふ》が見える。

　「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とう／＼堪《こら》え切れないで出て來たの。――あなたは又何であんな所に跼《しや》がんで入らしつたんです」

　「熱いからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼處《あすこ》へ來てぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」

　「野々宮さんに御逢ひになつてから、心細く御成《おなり》になつたの」

　「いゝえ、左《さ》う云ふ譯ぢやない」と云ひ掛けて、美禰子の顏を見たが、急に話頭を轉じた。

　「野々宮さんと云へば、今日は大變働いてゐますね」

　「えゝ、珍らしくフロツクコートを御着になつて――隨分御迷惑でせう。朝から晩迄ですから」

　「だつて大分《だいぶ》得意の樣ぢや在りませんか」

　「誰が、野々宮さんが。――あなたも隨分ね」

　「何故《なぜ》ですか」

　「だつて、眞逆《まさか》運動會の計測掛になつて得意になる樣な方《かた》でもないでせう」

　三四郎は又話頭を轉じた。

　「先刻《さつき》あなたの所へ來て何か話してゐましたね」

　「會場で？」

　「えゝ、運動場の柵の所で」と云つたが、三四郎は此《この》問を急に撤回《てつくわい》したくなつた。女は「えゝ」と云つた儘男の顏を凝《じっ》と見てゐる。少し下唇《したくちびる》を反《そ》らして笑ひ掛けてゐる。三四郎は堪らなくなつた。何か云つて紛《まぎ》らかさうとした時に、女は口を開いた。

　「あなたは未《ま》だ此間の繪端書の返事を下さらないのね」

　三四郎は迷付《まごつ》きながら「上げます」と答へた。女は呉れとも何とも云はない。

　「あなた、原口さんといふ畫工《ゑかき》を御存じ？」と聞き直した。

　「知りません」

　「さう」

　「何《ど》うかしましたか」

　「なに、その原口さんが、今日見に來て入らしつてね。みんなを寫生してゐるから、私達も用心しないと、ポンチに畫《か》かれるからつて、野々宮さんがわざ／＼注意して下すつたんです」

　美禰子は傍《そば》へ來て腰を掛けた。三四郎は自分が如何にも愚物《ぐぶつ》の樣な氣がした。

　「よし子さんは兄さんと一所に歸らないんですか」

　「一所に歸らうつたつて歸れないわ。よし子さんは、昨日《きのふ》から私の家《うち》にゐるんですもの」

　三四郎は其時始めて美禰子から野々宮の御母《おつか》さんが國へ歸つたと云ふ事を聞いた。御母《おつか》さんが歸ると同時に、大久保を引拂つて、野々宮さんは下宿をする、よし子は當分美禰子の宅《うち》から學校へ通ふ事に、相談が極つたんださうである。

　三四郎は寧ろ野々宮さんの氣樂なのに驚いた。さう容易《たやす》く下宿生括に戻《もど》る位《くらゐ》なら、始めから家を持たない方が善からう。第一鍋、釜、手桶｜抔《なと》といふ世帶道具《しよたいだうぐ》の始末はどう付けたらうと餘計な事｜迄《まで》考へたが、口に出して云ふ程の事でもないから、別段の批評は加へなかつた。其上、野々宮さんが一家《いつか》の主人《あるじ》から、後戻《あともど》りをして、再び純書生と同樣な生活?態に復するのは、取りも直さず家族制度から一歩遠退いたと同じ事で、自分に取つては、目前の迷惑を少し長距離へ引き移した樣な好都合にもなる。其代りよし子が美禰子の家へ同居して仕舞つた。此｜兄妹《きやうだい》は絶えず往來してゐないと治《をさま》らない樣に出來上つてゐる。絶えず往來してゐるうちには野々宮さんと美禰子との關係も次第々々に移つて來る。すると野々宮さんが又いつ何時《なんどき》下宿生活を永久に已《や》める時機が來ないとも限らない。

　三四郎は頭の中に、かう云ふ疑《うたがひ》ある未來を、描《ゑが》きながら、美禰子と應對をしてゐる。一向に氣が乘らない。それを外部の態度｜丈《だけ》でも普通の如く繕《つくろ》はうとすると苦痛になつて來る。其處へ旨い具合によし子が歸つて來て呉れた。女同志の間には、もう一遍競技を見に行かうかと云ふ相談があつたが、短くなりかけた秋の日が大分《だいぶ》回《まは》つたのと、回るに連れて、廣い戸外の肌寒《はださむ》が漸く�揩ｵてくるので、歸る事に話が極る。

　三四郎も女連《をんなれん》に別れて下宿へ戻らうと思つたが、三人が話しながら、ずる／＼べつたりに歩き出したものだから、際立《きはだ》つた挨拶をする機會がない。二人は自分を引張つて行く樣に見える。自分も亦引つ張られて行きたい樣な氣がする。それで二人に食つ付いて池の端《はた》を圖書館の横から、方角違ひの赤門の方へ向いて來た。其時三四郎は、よし子に向つて、

　「御兄《おあに》いさんは下宿をなすつたさうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、

　「えゝ。とう／＼。他《ひと》を美禰子さんの所へ押し付けて置いて。苛《ひど》いでせう」と同意を求める樣に云つた。三四郎は何か返事をしやうとした。其前に美禰子が口を開《ひら》いた。

　「宗八《そうはち》さんの樣な方は、我々の考へぢや分りませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」と大いに野々宮さんを賞め出した。よし子は黙つて聞いてゐる。

　學問をする人が煩瑣《うるさ》い俗用を避けて、成るべく單純な生活に我慢するのは、みんな研究の爲｜已《やむ》を得ないんだから仕方がない。野々宮の樣な外國に迄聞える程の仕事をする人が、普通の學生同樣な下宿に這入つてゐるのも必竟《ひつきやう》野々宮が偉いからの事で、下宿が汚なければ汚ない程尊敬しなくつてはならない。――美禰子の野々宮に對する讃辭のつゞきは、ざつと斯うである。

　三四郎は赤門の所で二人に別れた。追分の方へ足を向けながら考へ出した。――成程美禰子の云つた通りである。自分と野々宮を比較して見ると大分《だいぶ》段が違ふ。自分は田舍から出て大學へ這入つた許《ばか》りである。學問といふ學問もなければ、見識と云ふ見識もない。自分が、野々宮に對する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは當然である。さう云へば何だか、あの女から馬鹿にされてゐる樣でもある。先刻《さつき》、運動會はつまらないから、此處にゐると、丘の上で答へた時に、美禰子は眞面目な顏をして、此上には何か面白いものがありますかと聞いた。あの時は氣が付かなかつたが、今解釋して見ると、故意に自分を愚弄した言葉かも知れない。――三四郎は氣が付いて、今日迄美禰子の自分に對する態度や言語を一々繰返して見ると、どれも是もみんな惡い意味が付けられる。三四郎は往來の眞中で眞赤《まつか》になつて俯向《うつむ》いた。不圖《ふと》、顏を上げると向ふから、與次郎と昨夕《ゆうべ》の會で演説をした學生が並《なら》んで來た。與次郎は首を竪《たて》に振つたぎり黙つてゐる。學生は帽子を脱《と》つて禮をしながら、

　「昨夜は。何うですか。囚《とら》はれちや不可《いけ》ませんよ」

と笑つて行き過ぎた。

　

　　　　　七

　

　裏から回《まは》つて婆さんに聞くと、婆さんが小さな聲で、與次郎さんは昨日《きのふ》から御歸りなさらないと云ふ。三四郎は勝手口に立つて考へた。婆さんは氣を利かして、まあ御這入りなさい。先生は書齋に御出《おいで》ですからと云ひながら、手を休めずに、膳椀《ぜんわん》を洗つてゐる。今｜晩食《ゆふめし》が濟んだ許《ばかり》の所らしい。

　三四郎は茶の間を通り拔けて、廊下傳ひに書齋の入口迄來た。戸が開《あ》いてゐる。中から「おい」と人を呼ぶ聲がする。三四郎は敷居のうちへ這入《はい》つた。先生は机に向つてゐる。机の上には何があるか分らない。高い脊《せ》が研究を隱してゐる。三四郎は入口に近く坐つて、

　「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顏を後《うしろ》へ捩ぢ向けた。髭の影が不明瞭にもぢや／＼してゐる。寫眞版で見た誰かの肖像に似てゐる。

　「やあ、與次郎かと思つたら、君ですか、失敬した」と云つて、席を立つた。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いてゐた。與次郎の話に、うちの先生は時々何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、他《ほか》の者が讀んでも些《ちつ》とも分らない。生きてゐるうちに、大著述にでも纒められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古《ほご》が積《たま》る許《ばかり》だ。實に詰らない。と嘆息してゐた事がある。三四郎は廣田の机の上を見て、すぐ與次郎の話を思ひ出した。

　「御邪魔なら歸ります。別段の用事でもありません」

　「いや、歸つてもらふ程邪魔でもありません。此方《こつち》の用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質《たち》のものを遣つてゐたんぢやない」

　三四郎は一寸挨拶が出來なかつた。然し腹のうちでは、此人の樣な氣分になれたら、勉強も樂に出來て好からうと思つた。しばらくしてから、斯う云つた。

　「實は佐々木君の所へ來たんですが、居なかつたものですから……」

　「あゝ。與次郎は何でも昨夜《ゆうべ》から歸らない樣だ。時々｜漂泊《へうはく》して困る」

　「何か急に用事でも出來たんですか」

　「用事は決して出來る男ぢやない。たゞ用事を拵《こしら》へる男でね。あゝ云ふ馬鹿は少《すくな》い」

　三四郎は仕方がないから、

　「中々氣樂ですな」と云つた。

　「氣樂なら好いけれども。與次郎のは氣樂なのぢやない。氣が移るので――例へば田の中を流れてゐる小川の樣なものと思つてゐれば間違はない。淺くて狹い。しかし水｜丈《だけ》は始終變つてゐる。だから、する事が、ちつとも締《しま》りがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思ひ出した樣に、先生松を一鉢御買ひなさいなんて妙な事を云ふ。さうして買ふとも何とも云はないうちに値切つて買つて仕舞ふ。其代り縁日ものを買ふ事なんぞは上手《じやうず》でね。あいつに買はせると大變安く買へる。さうかと思ふと、夏になつてみんなが家《うち》を留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸を閉《た》てゝ錠《ぢやう》を卸《おろ》して仕舞ふ。歸つて見ると、松が温氣《うんき》で蒸《む》れて眞赤になつてゐる。萬事さう云ふ風で洵《まこと》に困る」

　實を云ふと三四郎は此間與次郎に二十圓借した。二週間後には文藝時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄｜立替《たてか》へてくれろと云ふ。事理《わけ》を聞いて見ると、氣の毒であつたから、國から送つて來た許《ばか》りの爲替《かはせ》を五圓引いて、餘《あまり》は悉《こと／”＼》く貸して仕舞つた。まだ返す期限ではないが、廣田の話を聞いて見ると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反對に、

　「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の爲に中々盡力してゐます」と云ふと、先生は眞面目になつて、

　「どんな盡力をしてゐるんですか」と聞き出した。所が「偉大なる暗闇《くらやみ》」其他｜凡《すべ》て廣田先生に關する與次郎の所爲《しよゐ》は、先生に話してはならないと、當人から封じられてゐる。やり掛けた途中でそんな事が知れると先生に叱られるに極つてるから黙つて居るべきだといふ。話して可《い》い時には己《おれ》が話すと明言してゐるんだから仕方がない。三四郎は話を外《そ》らして仕舞つた。

　三四郎が廣田の家《うち》へ來るには色々な意味がある。一つは、此人の生活其他が普通のものと變つてゐる。ことに自分の性情とは全く容《い》れない樣な所がある。そこで三四郎は何うしたらあゝなるだらうと云ふ好寄心から參考の爲め研究に來る。次に此人の前に出ると呑氣《のんき》になる。世の中の競爭が餘り苦にならない。野々宮さんも廣田先生と同じく世外《せぐわい》の趣《おもむき》はあるが、世外《せぐわい》の功名心の爲めに、流俗《りうぞく》の嗜慾《しよく》を遠ざけてゐるかの樣に思はれる。だから野々宮さんを相手に二人限《ふたりぎり》で話《はなし》してゐると、自分も早く一人前の仕事をして、學海《がくかい》に貢獻《こうけん》しなくては濟まない樣な氣が起《おこ》る。焦慮《いらつ》いて堪らない。そこへ行くと廣田先生は太平である。先生は高等學校でたゞ語學を�ﾍへる丈《だけ》で、外に何の藝もない――と云つては失禮だが、外に何等の研究も公《おほや》けにしない。しかも泰然と取り澄ましてゐる。其處に、此｜暢氣《のんき》の源《みなもと》は伏在してゐるのだらうと思ふ。三四郎は近頃女に囚《とらは》れた。戀人に囚《とら》はれたのなら、却《かへ》つて面白いが、惚れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、怖《こは》がつて可《い》いんだか、蔑《さげす》んで可《い》いんだか、廢《よ》すべきだか、續けべきだか澤の分らない囚はれ方である。三四郎は忌々敷《いま／＼しく》なつた。さう云ふ時は廣田さんに限る。卅分程先生と相對してゐると心持が悠揚《いうやう》になる。女の一人《ひとり》や二人《ふたり》どうなつても構はないと思ふ。實を云ふと、三四郎が今夜出掛けて來たのは七分｜方《がた》此意味である。

　訪問理由の第三は大分《だいぶ》矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子の傍に野々宮さんを置くと猶《なほ》苦しんで來る。其野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へ來ると、野々宮さんと美禰子との關係が自《おのづか》ら明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然《はんぜん》極める事が出來る。其癖二人の事を未だ曾て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした。

　「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」

　「えゝ、下宿したさうです」

　「家《うち》を持つたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんは能く……」

　「えゝ、そんな事には一向《いつかう》無頓着な方でね。あの服裝を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り學問にかけると非常に神輕質だ」

　「當分あゝ遣《や》つて御出《おいで》の積《つもり》なんでせうか」

　「分らない。又｜突然《とつぜん》家を持つかも知れない」

　「奧さんでも御貰になる御考へはないんでせうか」

　「あるかも知れない。佳《い》いのを周旋して遣《や》り玉へ」

　三四郎は苦笑《にがわらひ》をして、餘計な事を云つたと思つた。すると廣田さんが、

　「君はどうです」と聞いた。

　「私は……」

　「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大變だ」

　「國のものは勸《すゝ》めますが」

　「國の誰が」

　「母です」

　「御母《おつか》さんの云ふ通り持つ氣になりますか」

　「中々なりません」

　廣田さんは髭の下から齒を出して笑つた。割合に奇麗な齒を持つてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。けれども其なつかしさは美禰子を離れてゐる。野々宮を離れてゐる。三四郎の眼前の利害には超絶《てうぜつ》したなつかしさであつた。三四郎は是で、野々宮｜抔《など》の事を聞くのが恥づかしい氣がし出して、質問を已《や》めて仕舞つた。すると廣田先生が又話し出した。――

　「御母《おつか》さんの云ふ事は成《なる》べく聞いて上げるが可《よ》い。近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可《いけ》ない。吾々の書生をして居る頃には、する事爲す事一として他《ひと》を離れた事はなかつた。凡《すべ》てが、君とか、親とか、國とか、社會とか、みんな他《ひと》本位であつた。それを一口にいふと�ﾍ育を受けるものが悉《こと／”＼》く僞善家であつた。其僞善が社會の變化で、とう／＼張り通せなくなつた結果、漸々《ぜん／＼》自己本位を思想行爲の上に輸入すると、今度は我意識が非常に發展し過ぎて仕舞つた。昔《むか》しの僞善家に對して、今は露惡家《ろあくか》許《ばか》りの?態にある。――君、露惡家《ろあくか》といふ言葉を聞いた事がありますか」

　「いゝえ」

　「今僕が即席に作つた言葉だ。君も其｜露惡家《ろあくか》の一人《いちにん》――だかどうだか、まあ多分さうだらう。與次郎の如きに至ると其｜最《さい》たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露惡家《ろあくか》で、それから野々宮の妹《いもうと》ね。あれはまた、あれなりに露惡家だから面白い。昔は殿樣と親父《おやぢ》丈《だけ》が露惡家で濟んでゐたが、今日《こんにち》では各自《めい／＼》同等の權利で露惡家になりたがる。尤も惡い事でも何でもない。臭いものゝ葢《ふた》を除《と》れば肥桶《こえたご》で、美事な形式を剥ぐと大抵は露惡になるのは知れ切つてゐる。形式｜丈《だけ》美事だつて面倒な許《ばかり》だから、みんな節約して木地《きぢ》丈《だけ》で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫《てんしうらんまん》としてゐる。所が此｜爛漫《らんまん》が度を越すと、露惡家同志が御互に不便を感じて來る。其不便が段々｜高《かう》じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に歸參する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮《くら》して行くものと思へば差支《さしつかへ》ない。さうして行くうちに進歩する。英國を見給へ。此兩主義が昔からうまく平衡《へいかう》が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。氣の毒なものだ。自分｜丈《だけ》は得意の樣だが、傍《はた》から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる。……」

　三四郎は内心感心した樣なものゝ、話が外《そ》れて飛んだ所へ曲《ま》がつて、曲《まが》りなりに太くなつて行くので、少し驚いてゐた。すると廣田さんも漸く氣が付いた。

　「一體何を話してゐたのかな」

　「結婚の事です」

　「結婚？」

　「えゝ、私が母の云ふ事を聞いて……」

　「うん。左《さ》う／＼。なるべく御母《おつか》さんの言ふ事を聞かなければ不可《いけ》ない」と云つてにこ／＼してゐる。丸《まる》で子供に對する樣である。三四郎は別に腹も立たなかつた。

　「我々が露惡家なのは、可《い》いですが、先生時代の人が僞善家なのは、どういふ意味ですか」

　「君、人から親切にされて愉快ですか」

　「えゝ、まあ愉快です」

　「屹度《きつと》？　僕はさうでない、大變親切にされて不愉快な事がある」

　「どんな場合ですか」

　「形式｜丈《だけ》は親切に適《かな》つてゐる。然し親切自身が目的でない場合」

　「そんな場合があるでせうか」

　「君、元日に御目出度《おめでたう》と云はれて、実際御目出たい氣がしますか」

　「そりや……」

　「しないだらう。それと同じく腹を抱《かゝ》へて笑ふだの、轉《ころ》げかへつて笑ふだのと云ふ奴に、一人だつて實際笑つてる奴はない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が學校で�ﾍ師をしてゐる樣なものでね。實際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だらう。之に反して與次郎の如きは露惡黨の領袖《りやうしう》だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末に了《を》へぬいたづらものだが、惡気《にくげ》がない。可愛らしい所がある。丁度｜亞米利加人《アメリカじん》の金銀に對して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行爲｜程《ほど》正直なものはなくつて、正直程厭味のないものは無いんだから、萬事正直に出られない樣な我々時代の小六《こむ》づかしい�ﾍ育を受けたものはみんな気障《きざ》だ」

　此處迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大體にわたつての理窟ではない。實際に交渉のある或格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に對する素振《そぶり》をもう一遍考へて見た。所が氣障《きざ》か氣障《きざ》でないか殆んど判斷が出來ない。三四郎は自分の感受性が人一倍｜鈍《にぶ》いのではなからうかと疑ひ出した。

　其時廣田さんは急にうんと云つて、何か思ひ出した樣である。

　「うん、まだある。此二十世紀になつてから妙なのが流行《はや》る。利他本位の内容を利己本位で充たすと云ふ六《む》づかしい遣口《やりくち》なんだが、君そんな人に出違つたですか」

　「何《ど》んなのです」

　「外の言葉で云ふと、僞善を行《おこな》ふに露惡を以《もつ》てする。まだ分らないだらうな。ちと説明し方《かた》が惡い樣だ。――昔の僞善家はね、何でも人に善く思はれたいが先に立つんでせう。所が其反對で、人の感觸を害する爲めに、わざ／＼僞善をやる。横から見ても縱《たて》から見ても、相手には僞善としか思はれない樣に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。僞善を僞善其儘で先方に通用させ樣とする正直な所が露惡家《ろあくか》の特色で、しかも表面上の行爲言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一體といふ樣な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近來｜大分《だいぶ》殖《ふ》えて來た樣だ。極《きは》めて神經の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露惡家にならうとすると、これが一番好い方法になる。血を出さなければ人が殺せないといふのは隨分野蠻な話だからな君、段々｜流行《はや》らなくなる」

　廣田先生の話し方は、丁度案内者が古戦場を説明する樣なもので、実際を遠くから眺めた地位に自らを置いてゐる。それが頗る樂天《らくてん》の趣《おもむき》がある。恰《あたか》も�ﾍ場で講義を聞くと一般の感を起させる。然し三四郎には應《こた》へた。念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用出來るからである。三四郎は頭の中に此標準を置いて、美禰子の凡《すべ》てを測《はか》つて見た。然し測《はか》り切れない所が大變ある。先生は口を閉《と》ぢて、例の如く鼻から哲學の烟《けむり》を吐《は》き始めた。

　所へ玄關に足音がした。案内も乞はずに廊下傳ひに這入つて來る。忽ち與次郎が書齋の入口に坐つて、

　「原口さんが御出《おいで》になりました」と云ふ。只今歸りましたといふ挨拶を省《はぶ》いてゐる。わざと省いたのかも知れない。三四郎には存在《ぞんざい》な目禮をした許《ばかり》ですぐに出て行つた。

　與次郎と敷居際《しきゐぎは》で擦《す》れ違つて、原口さんが這入つて來た。原口さんは佛蘭西式《フランスしき》の髭を生やして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。廣田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる。

　「やあ、暫く。今迄佐々木が宅《うち》へ來てゐてね。一所に飯《めし》を食つたり何かして――それから、とう／＼引つ張り出されて……と大分《だいぶ》樂天的な口調である。傍《そば》にゐると自然陽氣になる樣な聲を出す。三四郎は原口と云ふ名前を聞いた時から、大方《おほかた》あの畫工《ゑかき》だらうと思つてゐた。夫《それ》にしても與次郎は交際家だ。大抵な先輩とはみんな知合になつてゐるから豪《えら》いと感心して硬くなつた。三四郎は年長者の前へ出ると硬くなる。九州流の�ﾍ育を受けた結果だと自分では解釋してゐる。

　やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧に頭を下げた。向ふは輕く會釋《ゑしやく》した。三四郎はそれから黙つて二人の談話を承《うけたま》はつてゐた。

　原口さんは先づ用談から片付けると云つて、近いうちに會をするから出て呉れと頼んでゐる。會員と名のつく程の立派なものは拵《こしら》へない積《つもり》だが、通知を出すものは、文學者とか藝術家とか、大學の�ﾍ授とか、僅かな人數に限つて置くから差支はない。しかも大抵｜知《し》り合《あひ》の間だから、形式は全く不必要である。目的はたゞ大勢寄つて晩餐《ばんさん》を食ふ。それから文藝上有益な談話を交換する。そんなものである。

　廣田先生は一口「出やう」と云つた。用事は夫《それ》で濟んで仕舞つた。用事は夫で濟んで仕舞つたが、それから後《あと》の原口さんと廣田先生の會話が頗る面白かつた。

　廣田先生が「君近頃何をしてゐるかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を云ふ。

　「矢つ張り一中節《いつちゆうぶし》を稽古してゐる。もう五つ程上げた。花紅葉吉原八景《はなもみぢよしはらはつけい》だの、小稻半兵衛唐崎心中《こいなはんべゑからさきしんぢゆう》だのつて中々面白いのがあるよ。君も少し遣つて見ないか。尤もありや、餘り大きな聲を出しちや不可《いけ》ないんだつてね。本來が四疊半《よでふはん》の座敷に限つたものださうだ。所が僕が此通り大きな聲だらう。それに節廻しがあれで中々込み入つてゐるんで、何《ど》うしても旨く不可《いか》ん。今度《こんだ》一つ遣るから聞いて呉れ玉へ」

　廣田先生は笑つてゐた。すると原口さんは續《つゞき》をかう云ふ風に述べた。

　「それでも僕はまだ可《い》いんだが、里見恭助《さとみきようすけ》と來たら、丸《まる》で片無《かたな》しだからね。どう云ふものか知らん。妹はあんなに器用だのに。此間はとう／＼降參して、もう唄《うた》は止《や》める、其代り何か樂器を習はうと云ひ出した所が、馬鹿囃《ばかばやし》を御習ひなさらないかと勸めたものが有つてね。大笑ひさ」

　「そりゃ本當かい」

　「本當とも。現に里見が僕に、君が遣るなら遣つても好いと云つた位だもの。あれで馬鹿囃《ばかばやし》には八通《やとほ》り囃《はや》しかたがあるんださうだ」

　「君、遣つちや何うだ。あれなら普通の人間にでも出來さうだ」

　「いや馬鹿囃《ばかばやし》は厭《いや》だ。それよりか鼓《つゞみ》が打つて見たくつてね。何故《なぜ》だか鼓の音を聞いてゐると、全く二十世紀の氣がしなくなるから可《い》い。どうして今の世にあゝ間《ま》が拔《ぬ》けてゐられるだらうと思ふと、それ丈《だけ》で大變な藥になる。いくら僕が呑氣《のんき》でも、鼓の音の樣な畫《ゑ》はとても描《か》けないから」

　「描《か》かうともしないんぢやないか」

　「描《か》けないんだもの。今の東京にゐるものに悠揚《おほやう》な畫が出來るものか。尤も畫にも限るまいけれども。――畫と云へば、此間大學の運動會へ行つて、里見と野々宮さんの妹のカリカチユアーを描《か》いて遣らうと思つたら、とう／＼逃げられて仕舞つた。こんだ一つ本當の肖像畫を描《か》いて展覽會にでも出さうかと思つて」

　「誰の」

　「里見の妹の。どうも普通の日本の女の額は歌麿式《うたまろしき》や何かばかりで、西洋の畫布《カン?ス》には移《うつり》が惡くつて不可《いけ》ないが、あの女や野々宮さんは可《い》い。兩方共に畫になる。あの女が團扇《うちは》を翳《かざ》して、木立《こだち》を後《うしろ》に、明るい方を向いてゐる所を等身《ライフサイズ》に寫して見《み》樣《みやう》かしらと思つてる。西洋の扇は厭味《いやみ》で不可《いけ》ないが、日本の團扇《うちは》は新しくつて面白いだらう。兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁にでも行かれやうものなら、さう此方《こつち》の自由に行かなくなるかも知れないから」

　三四郎は多大な興味を以て原口の話を聞いてゐた。ことに美禰子が團扇《うちは》を翳《かざ》してゐる構圖は非常な感動を三四郎に與へた。不思議の因縁《いんねん》が二人の間に存在してゐるのではないかと思ふ程であつた。すると廣田先生が、「そんな圖はさう面白い事もないぢやないか」と無遠慮な事を云ひ出した。

　「でも當人の希望なんだもの。團扇《うちは》を翳《かざ》してゐる所は、どうでせうと云ふから、頗る妙でせうと云つて承知したのさ。何わるい圖どりではないよ。描《か》き樣にも因《よ》るが」

　「あんまり美しく描《か》くと、結婚の申込が多くなつて困るぜ」

　「ハヽヽぢや中位《ちゆうぐらゐ》に描《か》いて置かう。結婚と云へば、あの女も、もう嫁に行く時期だね。どうだらう、何處か好い口はないだらうか。里見にも頼まれてゐるんだが」

　「君貰つちや何うだ」

　「僕か。僕で可《よ》ければ貰ふが、どうもあの女には信用がなくつてね」

　「何故《なぜ》」

　「原口さんは洋行する時には大變な氣込で、わざ／＼鰹節《かつぶし》を買ひ込んで、是で巴里《パリー》の下宿に籠城するなんて大威張《おほゐばり》だつたが、巴里《パリー》へ着くや否や、忽ち豹變《へうへん》したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方｜兄《あにき》からでも聞いたんだらう」

　「あの女は自分の行きたい所でなくつちや行きつこない。勸めたつて駄目だ。好《すき》な人がある迄獨身で置くがいゝ」

　「全く西洋流だね。尤もこれからの女はみんな左《さ》うなるんだから、それも可《よ》からう」

　夫《それ》から二人の間に長い繪畫談があつた。三四郎は廣田先生の西洋の畫工の名を澤山知つてゐるのに驚いた。歸るとき勝手口で下駄を探してゐると、先生が階子段の下へ來て「おい佐々木｜一寸《ちよつと》降《お》りて來い」と云つてゐた。

　戸外《そと》は寒い。空は高く晴れて、何處から露が降るかと思ふ位である。手が着物に觸《さは》ると、觸《さは》つた所だけが冷《ひや》りとする。人通りの少い小路《こうぢ》を二三度折れたり曲つたりして行くうちに、突然｜辻占屋《つじうらや》に逢つた。大きな丸い提灯《ちやうちん》を點《つ》けて、腰から下を眞赤《まつか》にしてゐる。三四郎は辻占《つじうら》が買つて見たくなつた。然し敢《あへ》て買はなかつた。杉垣に羽織の肩が觸《さは》る程に、赤い提灯を避《よ》けて通した。しばらくして、暗い所を斜《はす》に拔けると、追分《おひわけ》の通へ出た。角に蕎麥屋《そばや》がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾《のれん》を潜《くゞ》つた。少し酒を飲む爲である。

　高等學校の生徒が三人ゐる。近頃學校の先生が午《ひる》の辨當《べんたう》に蕎麥《そば》を食ふものが多くなつたと話してゐる。蕎麥屋の擔夫《かつぎ》が午砲《どん》が鳴ると、蒸籠《せいろ》や種《たね》ものを山の樣に肩へ載《の》せて、急いで校門を這入つてくる。此處の蕎麥屋《そばや》はあれで大分《だいぶ》儲《まう》かるだらうと話してゐる。何とかいふ先生は夏でも釜揚饂飩《かまあげうどん》を食ふが、どう云ふものだらうと云つてゐる。大方｜胃《ゐ》が惡いんだらうと云つてゐる。其外色々の事を云つてゐる。�ﾍ師の名は大抵｜呼《よ》び棄《ずて》にする。中に一人廣田さんと云つたものがある。それから何故《なぜ》廣田さんは獨身でゐるかといふ議論を始めた。廣田さんの所へ行くと女の裸體畫《らたいぐわ》が懸《か》けてあるから、女が嫌ひなんぢやなからうと云ふ説である。尤も其裸體畫は西洋人だから當《あて》にならない。日本の女は嫌ひかも知れないといふ説である。いや失戀の結果に違ひないと云ふ説も出た。失戀してあんな變人《へんじん》になつたのかと質問したものもあつた。然し若い美人が出入《しゆつにふ》するといふ噂があるが本當かと聞き糺《たゞ》したものもあつた。

　段々聞いてゐるうちに、要するに廣田先生は偉い人だといふ事になつた。何故《なぜ》偉いか三四郎にも能く解らないが、兎に角此三人は三人ながら與次郎の書いた「偉大なる暗闇《くらやみ》」を讀んでゐる。現《げん》にあれを讀んでから、急に廣田さんが好になつたと云つてゐる。時々は「偉大なる暗闇《くらやみ》」のなかにある警句｜抔《など》を引用して來る。さうして盛んに與次郎の文章を賞めてゐる。零餘子《れいよし》とは誰だらうと不思議がつてゐる。何しろ餘程よく廣田さんを知つてゐる男に相違ないといふ事には三人共同意した。

　三四郎は傍《そば》に居て成程と感心した。與次郎が「偉大なる暗闇《くらやみ》を書く筈である。文藝時評の賣れ高の少いのは當人の自白した通であるのに、麗々しく彼《かれ》の所謂《いはゆる》大論文を掲《かゝ》げて得意がるのほ、虚榮心の滿足以外に何の爲になるだらうと疑つてゐたが、是れで見ると活版の勢力は矢張り大したものである。與次郎の主張する通り、一言《いちごん》でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所から揚《あが》り、又こんな所から落ちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしくなつて、三四郎は蕎麥屋を出た。

　下宿へ歸ると、酒はもう醒《さ》めて仕舞つた。何だか詰らなくつて不可《いけ》ない。机の前に坐つて、ぼんやりしてゐると、下女が下から湯沸《ゆわかし》に熱い湯を入れて持つて來た序《ついで》に、封書を一通置いて行つた。又母の手紙である。三四郎はすぐ封を切つた。今日は母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい。

　手紙は可なり長いものであつたが、別段の事も書いてない。ことに三輸田《みわた》の御光《おみつ》さんについては一口も述べてないので大いに難有《ありがた》かつた。けれども中に妙な助言がある。

　御前は子供の時から度胸《どきよう》がなくつて不可《いけ》ない。度胸の惡いのは大變な損で、試瞼の時なぞにはどの位《くらゐ》困るか知れない。興津《おきつ》の高さんは、あんなに學問が出來て、中學校の先生をしてゐるが、檢定試驗を受けるたびに、身體《からだ》が顫《ふる》へて、うまく答案が出來ないんで、氣の毒な事に未だに月給が上がらずにゐる。友達の醫學士とかに頼んで顫《ふる》への留る丸藥《ぐわんやく》を拵へて貰つて、試驗前に飲んで出たが矢つ張り顫へたさうである。御前のはぶる／＼顫へる程でもない樣だから、平生から治藥《ぢやく》に度胸の据《すわ》る藥を東京の醫者に拵へて貰つて飲んで見ろ。癒《なほ》らない事もなからうと云ふのである。

　三四郎は馬鹿々々しいと思つた。けれども馬鹿々々しいうちに大いなる慰藉《ゐしや》を見出《みいだ》した。母は本當に親切なものであると、つく／＼感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母に遣つた。其｜中《なか》には東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。

　

　　　　　八

　

　三四郎が與次郎に金を貸した?末《てんまつ》は、斯うである。

　此間の晩九時頃になつて、與次郎が雨の中を突然遣つて來て、冒頭《あたま》から大いに弱つたと云ふ。見ると、例《いつ》になく顔の色が惡い。始は秋雨《あきさめ》に濡れた冷たい空氣に吹かれ過ぎたからの事と思つてゐたが、座に就いて見ると、惡いのは顏色ばかりではない。珍らしく銷沈《せうちん》してゐる。三四郎が「具合でも好くないのか」と尋ねると、與次郎は鹿の樣な眼を二度程ぱちつかせて、かう答へた。

　「實は金を失《な》くなしてね。困つちまつた」

　そこで、一寸《ちょつと》心配さうな顏をして、煙草の烟《けむり》を二三本鼻から吐いた。三四郎は黙つて待つてゐる譯にも行《ゆ》かない。どう云ふ種類の金を、どこで失《な》くなしたのかと段々聞いて見ると、すぐ解つた。與次郎は煙草の烟の、二三本鼻から出切る間｜丈《だけ》控へてゐたばかりで、その後《あと》は、一部始終を譯もなくすら／＼と話して仕舞つた。

　與次郎の失《な》くした金は、額《たか》で二十圓、但し人のものである。去年廣田先生が此前の家《いへ》を借りる時分に、三ケ月の敷金に窮して、足りない所を一時野々宮さんから用達《ようだ》つて貰つた事がある。然るに其金は野々宮さんが、妹《いもと》に?イオリンを買つて遣らなくてはならないとかで、わざ／”＼國元の親父《おやぢ》さんから送らせたものださうだ。それだから今日が今日必要といふ程でない代りに、延びれば延びる程よし子が困る。よし子は現《げん》に今でも?イオリンを買はずに濟ましてゐる。廣田先生が返さないからである。先生だつて返せればとうに返すんだらうが、月々餘裕が一｜文《もん》も出ない上に、月給以外に決して稼がない男だから、つい夫《それ》なりにしてあつた。所が此夏高等學校の受驗生の答案調を引き受けた時の手當が六十圓此頃になつて漸く受け取れた。それで漸く義理を濟ます事になつて、與次郎が其使ひを云ひ付かつた。

　「その金を失《な》くなしたんだから濟まない」と與次郎が云つてゐる。実際濟まない樣な顏付でもある。何處へ落したんだと聞くと、なに落したんぢやない。馬券《ばけん》を何枚とか買つて、みんな無くなして仕舞つたのだと云ふ。三四郎も是には呆《あき》れ返つた。あまり無分別《むふんべつ》の度を通り越してゐるので意見をする氣にもならない。其上本人が悄然《せうぜん》としてゐる。是を平常《いつも》の活??地《くわつぱつはつち》と比べると與次郎なるものが二人居るとしか思はれない。其對照が烈し過ぎる。だから可笑《をかし》いのと氣の毒なのとが一所になつて三四郎を襲つて來た。三四郎は笑ひ出した。すると與次郎も笑ひ出した。

　「まあ可《いゝ》や、どうかなるだらう」と云ふ。

　「先生はまだ知らないのか」と聞くと、

　「まだ知らない」

　「野々宮さんは」

　「無論、まだ知らない」

　「金は何時《いつ》受取つたのか」

　「金は此｜月始《つきはじま》りだから、今日で丁度二週間程になる」

　「馬券を買つたのは」

　「受取つた明《あく》る日だ」

　「夫《それ》から今日迄其儘にして置いたのか」

　「色々奔走したが出來ないんだから仕方がない。已《やむ》を得なけれぼ今月末迄此儘にして置かう」

　「今月末になれば出來る見込みでもあるのか」

　「文藝時評社から、どうかなるだらう」

　三四郎は立つて、机の抽出を開《あ》けた。昨日《きのふ》母から來たばかりの手紙の中を覗いて、

　「金は此處にある。今月は國から早く送つて來た」

と云つた。與次郎は、

　「難有《ありがた》い。親愛なる小川君」と急に元氣の好い聲で落語家《らくごか》の樣な事を云つた。

　二人は十時｜過《すぎ》雨を冒して、追分の通りへ出て、角の蕎麥屋《そばや》へ這入つた。三四郎が蕎麥屋で酒を飲む事を覺えたのは此時である。其晩は二人共愉快に飲んだ。勘定は與次郎が拂つた。與次郎は中々人に拂はせない男である。

　夫《それ》から今日《こんにち》に至る迄與次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の拂《はらひ》を氣にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れゝば可《い》いがと思つて、日を過《すご》すうちに晦日近《みそかぢか》くなつた。もう一日二日しか餘つてゐない。間違つたら下宿の勘定を延ばして置かう抔《など》といふ考へはまだ三四郎の頭に上《のぼ》らない。必ず餘次郎が持つて來て呉れる――と迄は無論彼を信用してゐないのだが、まあどうか工面して見《み》樣《やう》位の親切氣はあるだらうと考へてゐる。廣田先生の評によると與次郎の頭は淺瀬の水の樣に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許《ばかり》で責任を忘れる樣では困る。まさかそれ程の事もあるまい。

　三四郎は二階の窓から往來を眺めてゐた。すると向《むかふ》から與次郎が足早にやつて來た。窓の下迄來て仰向いて、三四郎の顏を見上げて、「おい、居《を》るか」と云ふ。三四郎は上から、與次郎を見下《みおろ》して、「うん、居《を》る」と云ふ。此馬鹿見た樣な挨拶が上下《うへした》で一句交換されると、三四郎は部屋の中へ首を引込める。與次郎は階子段をとん／＼上がつて來た。

　「待つてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分《だいぶ》奔走した。馬鹿氣《ばかげ》てゐる」

　「文藝時評から原稿料を呉れたか」

　「原稿料つて、原稿料はみんな取つて仕舞つた」

　「だつて此間は月末に取る樣に云つてゐたぢやないか」

　「さうかな、夫《それ》は聞違だらう。もう一文も取るのはない」

　「可笑《をか》しいな。だつて君は慥《たしか》に左《さ》う云つたぜ」

　「なに、前借をしやうと云つたのだ。所が中々貸さない。僕に貸すと返さないと思つてゐる。怪しからん。僅か二十圓｜許《ばかり》の金だのに。いくら偉大なる暗闇《くらやみ》を書いて遣つても信用しない。詰らない。厭になつちまつた」

　「ぢや金は出來ないのか」

　「いや外《ほか》で拵へたよ。君が困るだらうと思つて」

　「さうか。それは氣の毒だ」

　「所が困つた事が出來た。金は此處にはない。君が取りに行かなくつちや」

　「何處へ」

　「實は文藝時評が可《い》けないから、原口だの何だの二三軒歩いたが、何處も月末で都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて――里見といふのは知らないかね。里見恭助。法學士だ。美禰子さんの兄さんだ。あすこへ行つた所が、今度は留守で矢つ張り要領を得ない。其うち腹が減つて歩くのが面倒になつたから、とう／＼美禰子さんに逢つて話しをした」

　「野々宮さんの妹《いもうと》が居やしないか」

　「なに午《ひる》少し過ぎだから學校に行つてる時分だ。それに應接間だから居たつて構やしない」

　「さうか」

　「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云ふんだがね」

　「あの女は自分の金があるのかい」

　「そりや、何うだか知らない。然し兎に角大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女で、年の行《い》かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質《たち》なんだから、引き受けさへすれぼ、安心だ。心配しないでも可《い》い。宜しく願つて置けば構はない。所が一番仕舞になつて、御金は此處にありますが、あなたには渡せませんと云ふんだから、驚いたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる。厭になつちまつた。ぢや小川を遣《よこ》しますかなと又聞いたら、え、小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするが可《い》い。君取りに行けるかい」

　「取りに行かなければ、國へ電報でも掛けるんだな」

　「電報はよさう。馬鹿氣てゐる。いくら君だつて借に行けるだらう」

　「行ける」

　是で漸く二十圓の埒《らち》が明いた。それが濟むと、與次郎はすぐ廣田先生に關する事件の報告を始めた。

　運動は着々｜歩《ほ》を進めつゝある。暇さへあれば下宿へ出掛けて行つて、一人一人に相談する。相談は一人一人に限る。大勢寄ると、各自《めい／＼》が自分の存在を主張しやうとして、稍《やゝ》ともすれば異《い》を樹《た》てる。それでなければ、自分の存在を閑却された心持になつて、初手《しよて》から冷淡に構へる。相談はどうしても一人一人に限る。其代り暇《ひま》は要る。金も要る。それを苦にしてゐては運動は出來ない。それから相談中には廣田先生の名前を餘り出さない事にする。我々の爲の相談でなくつて、廣田先生の爲の相談だと思はれると、事が纒《まと》まらなくなる。

　與次郎は此方法で運動の歩《ほ》を進めてゐるのださうだ。それで今日《こんにち》迄の所は旨く行つた。西洋人｜許《ばかり》では不可《いけ》ないから、是非共日本人を入れて貰はうといふ所｜迄《まで》話は來た。是から先はもう一遍寄つて、委員を選んで、學長なり、總長なりに、我々の希望を述べに遣《や》る許《ばかり》である。尤も會合｜丈《だけ》はほんの形式だから略しても可《い》い。委員になるべき學生も大體は知れてゐる。みんな廣田先生に同情を持つてゐる連中《れんぢゆう》だから、談判の模樣によつては、此方《こつち》から先生の名を當局者へ持ち出すかも知れない。……

　聞いてゐると、與次郎一人で天下が自由になる樣に思はれる。三四郎は尠からず與次郎の手腕に感服した。與次郎は又此間の晩、原口さんを先生の所へ連れて來た事に就いて、辯じ出した。

　「あの晩、原口さんが、先生に文藝家の會をやるから出ろと、勸めてゐたらう」と云ふ。三四郎は無論覺えてゐる。與次郎の話によると、實はあれも自身の發起《ほつき》に係《かゝ》るものださうだ。其理由は色々あるが、まづ第一に手近な所を云へば、あの會員のうちには、大學の文科で有力な�ﾍ授がゐる。其男と廣田先生を接觸させるのは、此際先生に取つて、大變な便利である。先生は變人《へんじん》だから、求めて誰とも交際しない。然し此方《こつち》で相當の機會を作つて、接觸させれば、變人《へんじん》なりに附合つて行く。……

　「左《さ》う云ふ意味があるのか、些《ちつ》とも知らなかつた。それで君が發起人だと云ふんだが、會をやる時、君の名前で通知を出して、さう云ふ偉い人達がみんな寄つて來るのかな」

　與次郎は、しばらく眞面目に、三四郎を見てゐたが、やがて苦笑《にがわら》ひをして傍《わき》を向いた。

　「馬鹿云つちや不可《いけ》ない。發起人つて、表向《おもてむき》の發起人ぢやない。たゞ僕がさう云ふ會を企《くはだ》てたのだ。つまり僕が原口さんを勸めて、萬事原口さんが周旋する樣に拵《こしら》へたのだ」

　「さうか」

　「さうかは田臭《でんしう》だね。時に君もあの會へ出るが可《い》い。もう近いうちに有る筈だから」

　「そんな偉い人ばかり出る所へ行つたつて仕方がない。僕は廢《よ》さう」

　「又｜田臭《でんしう》を放《はな》つた。偉い人も偉くない人も社會へ頭を出した順序が違ふ丈《だけ》だ。なにあんな連中、博士とか學士とか云つたつて、會つて話して見ると何でもないものだよ。第一｜向《むかふ》がさう偉いとも何とも思つてやしない。是非出て置くが可《い》い。君の將來の爲だから」

　「何處であるのか」

　「多分上野の精養軒になるだらう」

　「僕はあんな所へ這入つた事がない。高い會費を取るんだらう」

　「まあ二圓位だらう。なに會費なんか、心配しなくつても可《い》い。無ければ僕が出して置くから」

　三四郎は忽《たちま》ちさきの二十圓の件を思ひ出した。けれども不思議に可笑《をか》しくならなかつた。與次郎は其上銀座の何處とかへ天麩羅《てんぷら》を食ひに行かうと云ひ出した。金はあると云ふ。不思議な男である。云ひなり次第になる三四郎も是は斷《ことわ》つた。其代り一所に散歩に出た。歸りに岡野《をかの》へ寄つて、與次郎は栗饅頭を澤山買つた。これを先生に見舞《みやげ》に持つて行くんだと云つて、袋を抱《かゝ》へて歸つていつた。

　三四郎は其晩與次郎の性格を考へた。永く東京に居るとあんなになるものかと思つた。それから里見へ金を借りに行く事を考へた。美禰子の所へ行く用事が出來たのは嬉しい樣な氣がする。然し頭を下げて金を借りるのは難有《ありがた》くない。三四郎は生れてから今日《こんにち》に至る迄、人に金を借りた經驗のない男である。其上貸すと云ふ當人が娘である。獨立した人間ではない。たとひ金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内證《ないしよう》の金を借りたとなると、借りる自分は兎に角、あとで、貸した人の迷惑になるかも知れない。或はあの女の事だから、迷惑にならない樣に始《はじめ》から出來てゐるかとも思へる。何しろ逢つて見やう。逢つた上で、借りるのが面白くない樣子だつたら、斷つて、少時《しばらく》下宿の拂《はらひ》を延ばして置いて、國から取り寄せれば事は濟む。――當用は此處迄考へて句切りを付けた。あとは散漫《さんまん》に美禰子の事が頭に浮《うか》んで來る。美禰子の顔や手や、襟や、帶や、着物やらを、想像に任せて、乘《か》けたり除《わ》つたりしてゐた。ことに明日《あした》逢ふ時に、どんな態度で、どんな事を云ふだらうと其光景が十通《ととほ》りにも廿通《にじつとほ》りにもなつて、色々に出て來る。三四郎は本來から斯んな男である。用談があつて人と會見の約束などをする時には、先方が何う出るだらうといふ事｜許《ばか》り想像する。自分が、こんな顏をして、こんな事を、こんな聲で云つて遣らう抔《など》とは決して考へない。しかも會見が濟むと後《あと》から屹度｜其《その》方《はう》を考へる。さうして後悔する。

　ことに今夜は自分の方を想像する餘地がない。三四郎は此間から美禰子を疑つてゐる。然し疑ふばかりで一向《いつかう》埒《らち》が明かない。さうかと云つて面と向《むか》つて、聞き糺《たゞ》すべき事件は一つもないのだから、一刀兩斷の解決｜抔《など》は思ひも寄らぬ事である。もし三四郎の安心の爲に解決が必要なら、それはたゞ美禰子に接觸する機會を利用して、先方の樣子から、好い加減に最後の判決を自分に與へて仕舞ふ丈《だけ》である。明日《あした》の會見は此判決に缺くべからざる材料である。だから、色々に向《むかふ》を想像して見る。しかし、どう相像しても、自分に都合の好い光景ばかり出て來る。それでゐて、實際は甚だ疑はしい。丁度汚ない所を奇麗な寫眞に取つて眺めてゐる樣な氣がする。寫眞は寫眞として何處迄も本當に違ないが、實物の汚ない事も爭《あらそ》はれないと一般で、同じでなければならぬ筈の二つが決して一致しない。

　最後に嬉しい事を思ひ付いた。美禰子は與次郎に金を貸すと云つた。けれども與次郎には渡さないと云つた。實際與次郎は金錢の上に於ては、信用し惡《にく》い男かも知れない。然し其意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑はしい。もし其意味でないとすると、自分には甚だ頼母《たのも》しい事になる。たゞ金を貸して呉れる丈《だけ》でも充分の好意である。自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは――　三四郎は此處迄｜己惚《おのぼれ》て見たが、忽ち、

　「矢つ張り愚弄ぢやないか」と考へ出して、急に赤くなつた。もし、ある人があつて、其女は何の爲に君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎は恐らく答へ得なかつたらう。強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は愚弄其物に興味を有《も》つてゐる女だからと迄は答へたかも知れない。自分の己惚《おのぼれ》を罰する爲とは全く考へ得なかつたに違ひない。――三四郎は美禰子の爲に己惚《おのぼれ》しめられたんだと信じてゐる。

　翌日は幸ひ�ﾍ師が二人缺席して、午からの授業が休みになつた。下宿へ歸るのも面倒だから、途中で一｜品料理《ぴんれうり》の腹を拵《こしら》へて、美禰子の家へ行つた。前を通つた事は何遍でもある。けれども這入るのは始めてゞある。瓦葺《かはらぶき》の門の柱に里見恭助といふ標札が出てゐる。三四郎は此處を通る度に、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだ逢つた事がない。門は締《しま》つてゐる。潜《くゞ》りから這入ると玄關迄の距離は存外短い。長方形の御影石《みかげいし》が飛び／＼に敷いてある。玄關は細い奇麗な格子で閉《た》て切つてある。電鈴《ベル》を押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら氣恥かしい樣な妙な心持がした。他《ひと》の玄關で、妙齡の女の在否を尋ねた事はまだない。甚だ尋ね惡《にく》い氣がする。下女の方は案外眞面目である。しかも恭《うや／＼》しい。一旦奧へ這入って、又出て來て、丁寧に御辭儀をして、どうぞと云ふから尾《つ》いて上がると應接間へ通した。重い窓掛の懸ってゐる西洋室である。少し暗い。

　下女は又、「暫らく、どうか……」と挨拶をして出て行つた。三四郎は靜かな室の中に席を占めた。正面に壁を切り拔いた小さい暖爐《だんろ》がある。其上が横に長い鏡になつてゐて前に?燭立《らふそくたて》が二本ある。三四郎は左右の?燭立《らふそくたて》の眞中に自分の顔を寫して見て、又坐つた。

　すると奧の方で?イオリンの音《おと》がした。それが何處からか、風が持つて來て捨てゝ行つた樣に、すぐ消えて仕舞つた。三四郎は惜い氣がする。厚く張つた椅子の脊に倚りかゝつて、もう少し遣れば可《い》いがと思つて耳を澄ましてゐたが、音は夫《それ》限《ぎり》で已《や》んだ。約一分も立つうちに、三四郎は?イオリンの事を忘れた。向ふにある鏡と?燭立《らふそくたて》を眺めてゐる。妙に西洋の臭ひがする。それから加徒力《カソリツク》の連想がある。何故《なぜ》加徒力《カソリツク》だか三四郎にも解らない。其時?イオリンが又鳴つた。今度は高い音《ね》と低い音《ね》が二三度急に續いて響いた。それでばつたり消えて仕舞つた。三四郎は全く西洋の音樂を知らない。然し今の音は、決して、纒《まとま》つたものゝ一部分を彈いたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈《だけ》である。その無作法にたゞ鳴らした所が三四郎の情緒《じやうしよ》によく合つた。不意に天から二三粒落ちて來た、出鱈目《でたらめ》の雹《へう》の樣である。

　三四郎が半ば感覺を失つた眼を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子が何時《いつ》の間《ま》にか立つてゐる。下女が閉《た》てたと思つた戸が開《あ》いてゐる。戸の後《うしろ》に掛けてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明《あきら》かに寫つてゐる。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた。

　「入らつしゃい」

　女の聲は後《うしろ》で聞えた。三四郎は振り向かなければならなかつた。女と男は直《ぢか》に顔を見合せた。其時女は廂《ひさし》の廣い髪を一寸前に動かして禮をした。禮をするには及ばない位に親しい態度であつた。男の方は却《かへ》つて椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬ風をして、向ふへ廻つて、鏡を脊《せ》に、三四郎の正面に腰を卸《おろ》した。

　「とう／＼入らしつた」

　同じ樣な親しい調子である。三四郎には此一言が非常に嬉しく聞えた。女は光る絹を着てゐる。先刻《さつき》から大分《だいぶ》待たしたところを以て見ると、應接間へ出る爲にわざ／＼奇麗なのに着換へたのかも知れない。それで端然と坐つてゐる。眼と口に笑《ゑみ》を帶びて無言《むごん》の儘三四郎を見守つた姿に、男は寧ろ甘い苦しみを感じた。凝《じつ》として見らるゝに堪へない心の起つたのは、其癖女の腰を卸《おろ》すや否《いな》やである。三四郎はすぐ口を開いた。殆んど發作《ほつさ》に近い。

　「佐々木が」

　「佐々木さんが、あなたの所へ入らしつたでせう」と云つて例の白い齒を露《あらは》した。女の後《うしろ》には前《さき》の?燭立が暖爐臺《マントルピース》の左右に並《なら》んでゐる。金《きん》で細工をした妙な形の臺である。是を?燭立と見たのは三四郎の臆斷《おくだん》で、實は何だか分らない。此不可思議の?燭立の後《うしろ》に明《あき》らかな鏡がある。光線は厚い窓掛に遮《さへぎ》られて、充分に這入らない。其上天氣は曇つてゐる。三四郎は此間に美禰子の白い齒を見た。

　「佐々木が來ました」

　「何と云つて入らつしゃいました」

　「僕にあなたの所へ行けと云つて來ました」

　「左《さ》うでせう。――夫《それ》で入らしつたの」とわざ／＼聞いた。

　「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左《さ》うです」と答へた。女は全く齒を隱した。靜かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面《そと》を眺め出した。

　「曇りましたね。寒いでせう、戸外《そと》は」

　「いゝえ、存外暖かい。風は丸《まる》でありません」

　「さう」と云ひながら席へ歸つて來た。

　「實は佐々木が金を……」と三四郎から云ひ出した。

　「分つてるの」と中途でとめた。三四郎も黙つた。すると

　「何うして御失《おな》くしになつたの」と聞いた。

　「馬券を買つたのです」

　女は「まあ」と云つた。まあと云つた割に顔は驚いてゐない。却《かへ》つて笑つてゐる。すこし經《た》つて、「惡い方《かた》ね」と附け加へた。三四郎は答へずにゐた。

　「馬券で中《あて》るのは、人の心を中《あて》るより六《む》づかしいぢやありませんか。あなたは索引の附いてゐる人の心さへ中《あ》てて見《み》樣《やう》となさらない呑氣《のんき》な方《かた》だのに」

　「僕が馬券を買つたんぢやありません」

　「あら。誰が買つたの」

　「佐々木が買つたのです」

　女は急に笑ひ出した。三四郎も可笑《をか》しくなつた。

　「ぢや、あなたが御金が御入用《おいりよう》ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」

　「要る事は僕が要るのです」

　「本當に？」

　「本當に」

　「だつて夫《それ》ぢや可笑《をかし》いわね」

　「だから借りなくつても可《い》いんです」

　「何故《なぜ》。御厭《おいや》なの？」

　「厭ぢやないが、御兄《おあに》いさんに黙つて、あなたから借りちや、好くないからです」

　「何ういふ譯で？　でも兄は承知してゐるんですもの」

　「左《さ》うですか。ぢや借りても好い。――然し借りないでも好い。家《うち》へさう云つて遣りさへすれば、一週間位すると來ますから」

　「御迷惑なら、強ひて……」

　美禰子は急に冷淡になつた。今迄｜傍《そば》にゐたものが一町｜許《ばかり》遠退《とほの》いた氣がする。三四郎は借りて置けば可《よ》かつたと思つた。けれども、もう仕方がない。?燭立を見て澄してゐる。三四郎は自分から進んで、他《ひと》の機嫌を取つた事のない男である。女も遠ざかつたぎり近付いて來ない。しばらくすると又立ち上がつた。窓から戸外《そと》をすかして見て、

　「降りさうもありませんね」と云ふ。三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた。

　「降らなければ、私《わたくし》一寸《ちよつと》出て來やうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は歸つてくれといふ意味に解釋した。光る絹を着換たのも自分の爲ではなかつた。

　「もう歸りませう」と立ち上がつた。美禰子は玄關迄送つて來た。沓脱《くつぬぎ》へ下りて、靴を穿《は》いてゐると、上から美禰子が、

　「其處迄御一所に出ませう。可《い》いでせう」と云つた。三四郎は靴の紐を結びながら、「えゝ、何うでも」と答へた。女は何時《いつ》の間《ま》にか、和土《たゝき》の上へ下りた。下りながら三四郎の耳の傍《そば》へ口を持つて來て、「怒つて入らつしやるの」と私語《さゝや》いた。所へ下女が周章《あわて》ながら、送りに出て來た。

　二人は半町程無言の儘連れ立《だ》つて來た。其間三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる。此女は我儘に育つたに違ない。それから家庭にゐて、普通の女性《によしやう》以上の自由を有して、萬事意の如く振舞ふに違ない。かうして、誰の許諾《きよだく》も經ずに、自分と一所に、往來を歩くのでも分る。年寄の親がなくつて、若い兄が放任主義だから、斯うも出來るのだらうが、是が田舍《ゐなか》であつたら嘸《さぞ》困ることだらう。此女に三輪田の御光《おみつ》さんの樣な生活を送れと云つたら、何うする氣かしらん。東京は田舍と違つて、萬事が明け放しだから、此方《こちら》の女は、大抵斯うなのかも分らないが、遠くから想像して見ると、もう少しは舊式の樣でもある。すると與次郎が美禰子をイブセン流《りう》と評したのも成程と思ひ當《あた》る。但し俗禮に拘はらない所｜丈《だけ》がイブセン流《りう》なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其處は分らない。

　そのうち本郷の通へ出た。一所に歩いてゐる二人は、一所に歩いてゐながら、相手が何處へ行くのだか、全く知らない。今迄に横町を三つ許《ばかり》曲つた。曲るたびに、二人の足は申し合せた樣に無言の儘同じ方角へ曲つた。本郷の通りを四丁目の角へ來る途中で、女が聞いた。

　「何處へ入らつしやるの」

　「あなたは何處へ行くんです」

　二人は一寸顔を見合せた。三四郎は至極眞面目である。女は堪《こら》へ切れずに又白い齒を露《あら》はした。

　「一所に入らつしゃい」

　二人は四丁目の角を切《き》り通《どほ》しの方へ折れた。三十間程行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子は其前に留つた。帶の間から薄い帳面と、印形《いんぎやう》を出して、

　「御願ひ」と云つた。

　「何ですか」

　「是で御金を取つて頂戴」

　三四郎は手を出して、帳面を受取つた。眞中に小口當座預金通帳《こぐちたうざあづかりきんかよひちやう》とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形《いんぎやう》を持つた儘、女の顔を見て立つた。

　「三十圓」と女が金高を云つた。恰も毎日銀行へ金を取りに行き慣《つ》けた者に對する口振《くちぶり》である。幸ひ、三四郎は國にゐる時分、かう云ふ帳面を持つて度々豐津迄出掛けた事がある。すぐ石段を上《のぼ》つて、戸を開けて、銀行の中へ這入つた。帳面と印形《いんぎやう》を掛《かゝり》のものに渡して、必要の金額を受取つて出て見ると、美禰子は待つてゐない。もう切通《きりどほ》しの方へ二十間｜許《ばかり》歩き出してゐる。三四郎は急いで追付いた。すぐ受取つたものを渡さうとして、隱袋《ポツケツト》へ手を入れると、美禰子が、

　「丹青會《たんせいくわい》の展覽會を御覽になつて」と聞いた。

　「まだ覽《み》ません」

　「招待券を二枚貰つたんですけれども、つい閑《ひま》がなかつたものだから、まだ行かずにゐたんですが行つて見ませうか」

　「行つても可《い》いです」

　「行きませう。もうぢき閉會になりますから。私、一遍は見て置かないと原口さんに濟まないのです」

　「原口さんが招待券を呉れたんですか」

　「えゝ。あなた原口さんを御存《ごぞんじ》なの？」

　「廣田先生の所で一度會ひました」

　「面白い方でせう。馬鹿囃《ばかばやし》を稽古なさるんですつて」

　「此間は鼓を稽《なら》ひたいと云つてゐました。夫《それ》から――」

　「夫《それ》から？」

　「夫《それ》から、あなたの肖像を描《か》くとか云つてゐました。本當ですか」

　「えゝ、高等モデルなの」と云つた。男は是より以上に氣の利いた事が云へない性質《たち》である。それで黙つて仕舞つた。女は何とか云つて貰ひたかつたらしい。

　三四郎は又｜隱袋《かくし》へ手を入れた。銀行の通帳《かよひちやう》と印形《いんぎやう》を出して、女に渡した。金は帳面の間に挾んで置いた筈である。然るに女が、

　「御金は」と云つた。見ると、間にはない。三四郎は又｜衣嚢《ポツケツト》を探《さぐ》つた。中から手摺《てずれ》のした札を攫《つか》み出した。女は手を出さない。

　「預かつて置いて頂戴」と云つた。三四郎は聊《いさゝ》か迷惑の樣な氣がした。然しこんな時に爭ふ事を好まぬ男である。其上往來だから猶更遠慮をした。折角握つた札を又元の所へ収めて、妙な女だと思つた。

　學生が多く通る。擦《す》れ違ふ時に屹度二人を見る。中には遠くから眼を付けて來るものもある。三四郎は池の端《はた》へ出る迄の路を頗る長く感じた。それでも電車に乘る氣にはならない。二人共のそ／＼歩いてゐる。會場へ着いたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出てゐる。丹青會《たんせいくわい》と云ふ字も、字の周圍《まはり》についてゐる圖案も、三四郎の眼には悉《こと／”＼》く新しい。然し熊本では見る事の出來ない意味で新しいので、寧ろ一種異樣の感がある。中は猶更である。三四郎の眼には唯油繪と水彩畫の区別が判然と映ずる位のものに過ぎない。

　それでも好惡《かうを》はある。買つてもいゝと思ふのもある。然し巧拙は全く分らない。從つて鑑別力のないものと、初手《しよて》から諦らめた三四郎は、一向《いつかう》口を開かない。

　美禰子が是は何うですかと云ふと、左《さ》うですなといふ。是は面白いぢやありませんかと云ふと、面白さうですなといふ。丸《まる》で張合がない。話しの出來ない馬鹿か、此方《こつち》を相手にしない偉い男か、何方《どつち》かに見える。馬鹿とすれば衒《てら》はない所に愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならない所が惡《にく》らしい。

　長い間外國を旅行して歩いた兄妹《きやうだい》の畫《ゑ》が澤山ある。双方共同じ姓で、しかも一つ所に並《なら》べて掛けてある。美禰子は其一枚の前に留まつた。

　「?ニスでせう」

　是は三四郎にも解つた。何だか?ニスらしい。畫舫《ゴンドラ》にでも乘つて見たい心持がする。三四郎は高等學校に居る時分｜畫舫《ゴンドラ》といふ字を覺えた。それから此字が好《すき》になつた。畫舫《ゴンドラ》といふと、女と一所に乘らなければ濟まない樣な氣がする。黙つて蒼い水と、水の左右の高い家と、倒《さか》さに映る家の影と、影の中にちら／＼する赤い片《きれ》とを眺めてゐた。すると、

　「兄《あに》さんの方が餘程旨い樣ですね」と美禰子が云つた。三四郎には此意味が通じなかつた。

　「兄《あに》さんとは……」

　「此｜畫《ゑ》は兄《あに》さんの方でせう」

　「誰の？」

　美禰子は不思謠さうな顏をして、三四郎を見た。

　「だつて、彼方《あつち》の方が妹さんので、此方《こつち》の方が兄《あに》さんのぢやありませんか」

　三四郎は一歩退いて、今通つて來た路の片側を振返つて見た。同じ樣に外國の景色を描《か》いたものが幾點となく掛つてゐる。

　「違ふんですか」

　「一人と思つて入らしつたの」

　「えゝ」と云つて、呆《ぼん》やりしてゐる。やがて二人が顏を見合した。さうして一度に笑ひ出した。美禰子は、驚いた樣に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落した小聲になつて、

　「隨分ね」と云ひながら、一間ばかり、ずん／＼先へ行つて仕舞つた。三四郎は立ち留つた儘、もう一遍?ニスの掘割《ほりわり》を眺め出した。先へ拔けた女は、此時振返つた。三四郎は自分の方を見てゐない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向《むかふ》から三四郎の横顔を熟視してゐた。

　「里見さん」

　出《だ》し拔《ぬけ》に誰か大きな聲で呼んだ者がある。

　美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間｜許《ばかり》離れて、原口さんが立つてゐる。原口さんの後《うしろ》に、少し重なり合つて、野々宮さんが立つてゐる。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍《そば》へ來た。人に目立ぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語《さゝや》いた。三四郎には何を云つたのか、少しも分らない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人《ふたり》の方へ引き返して行つた。もう挨拶をしてゐる。野々宮は三四郎に向つて、

　「妙な連《つれ》と來ましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、

　「似合ふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後《うしろ》を向いた。後《うしろ》には疊一枚程の大きな畫《ゑ》がある。其畫は肖像畫である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から區別の出來ない程光線を受けてゐない中に、顏ばかり白い。顔は瘠て、頬の肉が落ちてゐる。

　「模寫ですね」と野々宮さんが原口さんに云つた。原口は今しきりに美禰子に何か話してゐる。――もう閉會である。來觀者も大分《だいぶ》減つた。開會の初めには毎日事務所へ來てゐたが、此頃は滅多に顏を出さない。今日は久し振りに、此方《こつち》へ用があつて、野々宮さんを引張つて來た所だ。うまく出《で》つ食《く》はしたものだ。此會を仕舞ふと、すぐ來年の準備にかゝらなければならないから、非常に忙がしい。何時《いつ》もは花の時分に開くのだが、來年は少し會員の都合で早くする積《つもり》だから、丁度會を二つ續けて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それ迄に是非美禰子の肖像を描《か》き上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日《おほみそか》でも描《か》かして呉れ。

　「其代り此處《こゝ》ん所へ掛ける積です」

　原口さんは此時始めて、黒い畫の方を向いた。野々宮さんは其間ぽかんとして同じ畫を眺めてゐた。

　「どうです。?ラスケスは。尤も模寫ですがね。しかも餘り上出來《じやうでき》ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも云ふ必要がなくなつた。

　「どなたが御寫しになつたの」と女が聞いた。

　「三井です。三井はもつと旨いんですがね。此畫はあまり感服出來ない」と一二歩退がつて見た。「どうも、原畫が技巧の極點に達した人のものだから、旨く行かないね」

　原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げた所を見てゐた。

　「もう、皆《みんな》見たんですか」と畫工が美禰子に聞いた。原口は美禰子に許《ばかり》話しかける。

　「まだ」

　「どうです。もう廢《よ》して、一所に出ちや。精養軒《せいやうけん》で御茶でも上げます。なに私《わたし》は用があるから、どうせ一寸《ちよつと》行かなければならない。――會の事でね、マネジヤーに相談して置きたい事がある。懇意の男だから。――今丁度御茶に好い時分です。もう少しするとね、御茶には遅し晩餐《ヂンナー》には早し、中途半端になる。どうです。一所に入らつしやいな」

　美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでも可《い》い顏をしてゐる。野々宮は立つた儘關係しない。

　「折角來たものだから、皆《みんな》見て行きませう。ねえ、小川さん」

　三四郎はえゝと云つた。

　「ぢや、斯うなさい。此奧の別室にね。深見《ふかみ》さんの遺畫があるから、それ丈《だけ》見て、歸りに精養軒へ入らつしやい。先へ行つて待つてゐますから」

　「難有《ありがた》う」

　「深見さんの水彩は普通の水彩の積《つもり》で見ちや不可《いけ》ませんよ。何處迄も深見さんの水彩なんだから。實物を見る氣にならないで、深見さんの氣韻《きゐん》を見る氣になつてゐると、中々面白い所が出て來ます」と注意して、原口は野々宮と出て行つた。美禰子は禮を云つて其｜後影《うしろかげ》を見送つた。二人は振り返らなかつた。

　女は歩を回《めぐ》らして、別室へ入《はい》つた。男は一足｜後《あと》から續いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列に懸つてゐる深見先生の遺畫を見ると、成程原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、其水彩の色が、どれも是も薄くて、數が少くつて、對照に乏しくつて、日向《ひなた》へでも出さないと引き立たないと思ふ程地味に描《か》いてあるといふ事である。其代り筆が些《ちつ》とも滯つてゐない。殆んど一氣呵成《いつきかせい》に仕上げた趣《おもむき》がある。繪の具の下に鉛筆の輪廓が明《あきら》かに透《す》いて見えるのでも、洒落《しやらく》な畫風がわかる。人間｜抔《など》になると、細くて長くて、丸で殻竿《からさを》の樣である。こゝにも?ニスが一枚ある。

　「是も?ニスですね」と女が寄つて來た。

　「えゝ」と云つたが、?ニスで急に思ひ出した。

　「さつき何を云つたんですか」

　女は「さつき？」と聞き返した。

　「さつき、僕が立つて、彼方《あつち》の?ニスを見てゐる時です」

　女は又眞白な齒を露はした。けれども何とも云はない。

　「用でなければ聞かなくつても可《い》いです」

　「用ぢやないのよ」

　三四郎はまだ變な顔をしてゐる。曇つた秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなつてくる。觀覽人は極めて少い。別室の中《うち》には、只｜男女《なんによ》二人の影があるのみである。女は畫《ゑ》を離れて、三四郎の眞正面に立つた。

　「野々宮さん。ね、ね」

　「野々宮さん……」

　「解つたでせう」

　美禰子の意味は、大濤《おほなみ》の崩れる如く一度に三四郎の胸を浸《ひた》した。

　「野々宮さんを愚弄したのですか」

　「何《な》んで？」

　女の語氣は全く無邪氣である。三四郎は忽然として、後《あと》を云ふ勇氣がなくなつた。無言の儘二三歩動き出した。女は縋《すが》る樣《やう》に付いて來た。

　「あなたを愚弄したんぢや無いのよ」

　三四郎は又立ち留つた。三四郎は脊《せい》の高い男である。上から美禰子を見下《みおろ》した。

　「それで宜《い》いです」

　「何故《なぜ》惡いの？」

　「だから可《い》いです」

　女は顔を背《そむ》けた。二人共戸口の方へ歩いて來た。戸口を出る拍子《ひやうし》に互の肩が觸れた。男は急に汽車で乘り合はした女を思ひ出した。美禰子の肉に觸《ふ》れた所が、夢に疼《うづ》く樣な心持がした。

　「本當に宜《い》いの？」と美禰子が小《ち》さい聲で聞いた。向《むかふ》から二三人｜連《づれ》の觀覽者が來る。

　「兎も角出ませう」と三四郎が云つた。下足を受取つて、出ると戸外《そと》は雨だ。

　「精養軒へ行きますか」

　美禰子は答へなかつた。雨の中を濡れながら、博物館前の廣い原の中に立つた。幸ひ雨は今降り出した許《ばかり》である。其上烈しくはない。女は雨の中に立つて、見廻しながら、向ふの森を指した。

　「あの樹の蔭へ這入《はい》りませう」

　少し待てば歇《や》みさうである。二人は大きな杉の下に這入《はい》つた。雨を防ぐには都合の好くない樹である。けれども二人とも動かない。濡れても立つてゐる。二人共寒くなつた。女が「小川さん」と云ふ。男は八の字を寄せて、空を見てゐた顔を女の方へ向けた。

　「惡くつて？　先刻《さつき》のこと」

　「可《い》いです」

　「だつて」と云ひながら、寄つて來た。「私《わたくし》、何故《なぜ》だか、あゝ爲《し》たかつたんですもの。野々宮さんに失禮する積《つもり》ぢやないんですけれども」

　女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。

三四郎は其瞳の中に言葉よりも深き訴《うつたへ》を認めた。――必竟あなたの爲にした事ぢやありませんかと、二重瞼《ふたへまぶた》の奧で訴へてゐる。三四郎は、もう一遍、

　「だから、可《い》いです」と答へた。

　雨は段々濃くなつた。雫《しづく》の落ちない場所は僅かしかない。二人は段々一つ所へ塊《かた》まつて來た。肩と肩と擦《す》れ合ふ位にして立ち竦《すく》んでゐた。雨の音の中で、美禰子が、

　「さつきの御金を御遣ひなさい」と云つた。

　「借りませう。要る丈《だけ》」と答へた。

　「みんな、御遣ひなさい」と云つた。

　

　　　　　九

　

　與次郎が勸めるので、三四郎はとう／＼精養軒の會へ出た。其時三四郎は黒い紬《つむぎ》の羽織を着た。此羽織は、三輸田のお光《みつ》さんの御母《おつか》さんが織つて呉れたのを、紋付に染めて、お光さんが縫ひ上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包が屆いた時、一應着て見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた。それを與次郎が、勿體ないから是非着ろ／＼と云ふ。三四郎が着なければ、自分が持つて行つて着さうな勢ひであつたから、つい着る氣になつた。着て見ると惡くはない樣だ。

　三四郎は此｜出立《いでたち》で、與次郎と二人で精養軒の玄關に立つてゐた。與次郎の説によると、御客は斯うして迎へべきものださうだ。三四郎はそんな事とは知らなかつた。第一自分が御客の積《つもり》でゐた。かうなると、紬《つむぎ》の羽織では何だか安つぽい受附の氣がする。制服を着て來れば善かつたと思つた。其うち會員が段々來る。與次郎は來る人を捕《つら》まへて屹度何とか話しをする。悉《こと／”＼》く舊知の樣にあしらつてゐる。御客が帽子と外套を給仕に渡して、廣い階子段の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向つて、今のは誰某《だれそれがし》だと�ﾍへて呉れる。三四郎は御蔭で知名な人の顔を大分《だいぶ》覺えた。

　其内御客は略《ほゞ》集つた。約三十人足らずである。廣田先生もゐる。野々宮さんもゐる。――是は理學者だけれども、畫《ゑ》や文學が好だからと云ふので、原口さんが、無理に引つ張り出したのださうだ。原口さんは無論ゐる。一番先へ來て、世話を燒いたり、愛嬌を振り蒔いたり、佛蘭西式《フランスしき》の髯を撮《つま》んで見たり、萬事忙しさうである。

　やがて着席となつた。各自《めい／＼》勝手な所へ坐る。讓るものもなければ、爭ふものもない。其内でも廣田先生はのろいにも似合はず一番に腰を卸《おろ》して仕舞つた。たゞ與次郎と三四郎丈が一所になつて、入口に近く座を占めた。其他は悉《こと／”＼》く偶然の向ひ合せ、隣同志であつた。

　野々宮さんと廣田先生の間に縞《しま》の羽織を着た批評家が坐つた。向ふには庄司と云ふ博士が座に着いた。是は與次郎の所謂文科で有力な�ﾍ授である。フロツクを着た品格のある男であつた。髪を普通の倍以上長くしてゐる。それが電燈の光で、黒く渦《うづ》を捲《ま》いて見える。廣田先生の坊主頭と較べると大分《だいぶ》相違がある。原口さんは大分《だいぶ》離れて席を取つた。彼方《あちら》の角だから、遠く三四郎と眞向ひになる。折襟に、幅の廣い黒繻子《くろじゆす》を結んだ先がばつと開いて胸一杯になつてゐる。與次郎が、佛蘭西《フランス》の畫工《アーチスト》は、みんなあゝ云ふ襟飾《えりかざり》を着けるものだと�ﾍへて呉れた。三四郎は肉汁《ソツプ》を吸ひながら、丸《まる》で兵兒帶《へこおび》の結目《むすびめ》の樣だと考へた。其うち談話が段々始まつた。與次郎は麥酒《ビール》を飲む。何時《いつ》もの樣に口を利かない。流石《さすが》の男も今日は少々謹んでゐると見える。三四郎が、小さな聲で、

　「些《ち》と、ダーター、フアブラを遣《や》らないか」と云ふと、「今日は不可《いけ》ない」と答へたが、すぐ横を向いて、隣の男と話を始めた。あなたの、あの論文を拜見して、大《おほい》に利益を得ましたとか何とか禮を述べてゐる。所が其論文は、彼が自分の前で、盛んに罵倒したものだから三四郎には頗る不思議の思ひがある。與次郎は又｜此方《こつち》を向いた。

　「其羽織は中々立派だ。能く似合ふ」と白い紋を殊更注意して眺めてゐる。其時向ふの端《はじ》から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元來が大きな聲の人だから遠くで應對するには都合が好い。今迄向ひ合せに言葉を換《かは》してゐた廣田先生と庄司《しやうじ》といふ�ﾍ授は、二人の應答を途中で遮《さへぎ》る事を恐れて、談話をやめた。其他の人もみんな黙つた。會の中心點が始めて出來上つた。

　「野々宮さん光線の壓力の試驗はもう濟みましたか」

　「いや、まだ中々だ」

　「隨分手數が掛かるもんだね。我々の職業も根氣仕事だが、君の方はもつと劇しい樣だ」

　「畫《ゑ》はインスピレーシヨンで直ぐ描《か》けるから可《い》いが、物理の實驗はさう旨くは不可《いか》ない」

　「インスピレーシヨンには辟易《へきえき》する。此夏ある所を通つたら婆さんが二人で問答をしてゐた。聞いて見ると梅雨《つゆ》はもう明けたんだらうか、どうだらうかといふ研究なんだが、一人の婆さんが、昔は雷《かみなり》さへ鳴れば梅雨《つゆ》は明けるに極まつてゐたが、近頃ぢや左《さ》うは不可《いか》ないと不平《こぼ》してゐる。すると一人が何うして／＼、雷《かみなり》位《ぐらゐ》で明ける事ぢやありやしないと憤慨してゐた。――畫も其通り今の畫はインスピレーシヨン位で描《か》ける事ぢやありやしない。ねえ田村さん、小説だつて、左《さ》うだらう」

　隣りに田村といふ小説家が坐つて居た。此男が自分のインスピレーシヨンは原稿の催促以外に何にもないと答へたので、大笑ひになつた。田村は、それから改たまつて、野々宮さんに、光線に壓力があるものか、あれば、どうして試驗するかと聞き出した。野々宮さんの答は面白かつた。――

　雲母《マイカ》か何かで、十六武藏《じふろくむさし》位の大きさの薄い圓盤を作つて、水晶の糸で釣《つる》して、眞空の中《うち》に置いて、此圓盤の面へ弧光燈《ア−クとう》の光を直角にあてると、此圓盤が光に壓されて動く。と云ふのである。

　一座は耳を傾けて聞いてゐた。中にも三四郎は腹の中で、あの福神漬《ふくじんづけ》の罐《くわん》のなかに、そんな裝置がしてあるのだらうと、上京の際、望遠鏡で驚かされた昔を思ひ出した。

　「君、水晶の糸があるのか」と小さな聲で與次郎に聞いて見た。與次郎は頭を振つてゐる。

　「野々営さん、水晶の糸がありますか」

　「えゝ、水晶の粉《こ》をね。酸水素吹管の?《ほのほ》で溶《と》かして置いて、兩方の手で、左右へ引つ張ると細い糸が出來るのです」

　三四郎は「左《さ》うですか」と云つたぎり、引つ込んだ。今度は野々宮さんの隣にゐる縞の羽織の批評家が口を出した。

　「我々はさう云ふ方面へ掛けると、全然無學なんですが、始めは何《ど》うして氣が付いたものでせうな」

　「理論上はマクスエル以來豫想されてゐたのですが、それをレベデフといふ人が始めて實驗で證明したのです。近頃あの彗星《すゐせい》の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出るたびに何時《いつ》でも反對の方角に靡《なび》くのは光の壓力で吹き飛ばされるんぢやなからうかと思ひ付いた人もある位です」

　批評家は大分《だいぶ》感心したらしい。

　「思ひ付きも面白いが、第一大きくて可《い》いですね」と云つた。

　「大きい許《ばかり》ぢやない、罪がなくつて愉快だ」と廣田先生が云った。

　「それで其思ひ付《つき》が外《はづ》れたら猶罪がなくつて可《い》い」と原口さんが笑ってゐる。

　「否《いや》、どうも中《あた》つてゐるらしい。光線の壓力は半徑の二乘に比例するが、引力の方は半徑の三乘に比例するんだから、物が小さくなればなる程引力の方が負けて、光線の壓力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片《パーチクル》から出來てゐるとすれば、どうしても太陽とは反對の方へ吹き飛ばされる澤だ」

　野々宮は、つい眞面目になつた。すると原口が例の調子で、

　「罪がない代りに、大變計算が面倒になつて來た。矢つ張一利一害だ」と云つた。此一言で、人々は元の通り麥酒《ビール》の氣分に復した。廣田先生が、斯んな事を云ふ。

　「どうも物理學者は自然派《しぜんは》ぢや駄目の樣だね」

　物理學者と自然派の二字は少からず滿場の興味を刺激した。

　「それは何《ど》う云ふ意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出した。廣田先生は説明しなければならなくなつた。

　「だつて、光線の壓力を試驗する爲に、眼｜丈《だけ》明けて、自然を觀察してゐたつて、駄目だからさ。自然の獻立《こんだて》のうちに、光線の壓力といふ事實は印刷されてゐない樣ぢやないか。だから人巧的に、水晶の糸だの、眞空だの、雲母《マイカ》だのと云ふ裝置をして、其壓力が物理學者の眼に見えるやうに仕掛けるのだらう。だから自然派ぢやないよ」

　「然し浪漫派《ローマンは》でもないだらう」と原口さんが交《ま》ぜ返した。

　「いや浪漫派《ローマンは》だ」と廣田先生が勿體《もつたい》らしく辯解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界に於ては見出せない樣な位地關係に置く所が全く浪漫派《ローマンは》ぢやないか」

　「然し、一旦さういふ位地關係に置いた以上は、光線固有の壓力を觀察する丈だから、それからあとは自然派でせう」と野々宮さんが云つた。

　「すると、物理學者は浪漫的自然派《ローマンてきしぜんは》ですね。文學の方で云ふと、イブセンの樣なものぢやないか」と筋向ふの博士が比較を持ち出した。

　「左樣、イブセンの劇は野々宮君と同じ位な裝置があるが、其裝置の下に働く人物は、光線の樣に自然の法則に從つてゐるか疑はしい」是は縞《しま》の羽織の批評家の言葉であつた。

　「左《さ》うかも知れないが、斯う云ふ事は人間の研究上記憶して置く可き事だと思ふ。――即ち、ある?況の下《もと》に置かれた人間は、反對の方向に働き得る能力と權利とを有してゐる。と云ふ事なんだが。――所が妙な習慣で、人間も光線も同じ樣に器械的の法則に從つて活動すると思ふものだから、時々飛んだ間違が出來る。怒らせやうと思つて裝置をすると、笑つたり、笑はせやうと目論《もくろ》んで掛《かゝ》ると、怒つたり、丸《まる》で反對だ。然しどちらにしても人間に違ない」と廣田先生が又問題を大きくして仕舞つた。

　「ぢや、ある?況の下《もと》に、ある人間が、どんな所作をしても自然だと云ふ事になりますね」と向《むかふ》の小説家が質問した。廣田先生は、すぐ、

　「えゝ、えゝ。どんな人間を、どう描《か》いても世界に一人位はゐる樣ぢやないですか」と答へた。「實際人間たる吾々は、人間らしからざる行爲動作を、何《ど》うしたつて想像出來るものぢやない。たゞ下手《へた》に書くから人間と思はれないのぢやないですか」

　小説家は夫《それ》で黙つた。今度は博士が又口を利いた。

　「物理學者でも、ガリレオが寺院の釣《つ》り洋燈《らんぷ》の一振動の時間が、振動の大小に拘はらず同じである事に氣が付いたり、ニユートンが林檎《りんご》が引力《いんりよく》で落ちるのを發見したりするのは、始めから自然派ですね」

　「さう云ふ自然派なら、文學の方でも結構でせう。原口さん、畫《ゑ》の方でも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。

　「あるとも。恐るべきクールベエと云ふ奴がゐる。vérite vraie《?リテヴレイ》．何でも事實でなければ承知しない。然しさう猖獗《しやうけつ》を極めてゐるものぢやない。たゞ一波として存在を認められる丈《だけ》さ。又｜左《さ》うでなくつちや困るからね。小説だつて同じ事だらう、ねえ君。矢つ張りモローや、シヤ?ンヌの樣なのもゐる筈だらうぢやないか」

　「居る筈だ」と隣の小説家が答へた。

　食後には卓上演説も何もなかつた。たゞ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の惡口を云つてゐた。あんな銅像を無暗に立てられてほ、東京市民が迷惑する。それより、美くしい藝者の銅像でも拵《こし》らへる方が氣が利いてゐるといふ説であつた。與次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲の惡い人が作つたんだと�ﾍへた。

　會が濟んで、外へ出ると好い月であつた。今夜の廣田先生は庄司博士に善い印象を與へたらうかと與次郎が聞いた。三四郎は與へたらうと答へた。與次郎は共同水道栓《きようどうすゐだうせん》の傍《そば》に立つて、此夏、夜散歩に來て、あまり暑いから此處で水を浴びてゐたら、巡査に見付かつて、擂鉢山《すりばちやま》へ駈け上がつたと話した。二人は擂鉢山《すりばちやま》の上で月を見て歸つた。

　歸り路《みち》に與次郎が三四郎に向つて、突然借金の言譯をし出した。月の冴《さ》えた比較的寒い晩である。三四郎は殆んど金の事などは考へてゐなかつた。言譯を聞くのでさへ本氣ではない。どうせ返す事はあるまいと思つてゐる。與次郎も決して返すとは云はない。たゞ返せない事情を色々に話す。其話し方《かた》のはうが三四郎には餘程面白い。――自分の知つてる去る男が、失戀の結果、世の中が厭になつて、とう／＼自殺を仕樣と決心したが、海もいや河もいや、噴火口《ふんくわこう》は猶《なほ》いや、首を縊《くゝ》るのは尤もいやと云ふ譯で、已《やむ》を得ず短銃《ピストル》を買つて來た。買つて來て、まだ目的を遂行《すゐかう》しないうちに、友達が金を借りに來た。金はないと斷つたが、是非どうかして呉れと訴へるので、仕方なしに、大事の短銃《ピストル》を借して遣つた。友達はそれを質《しち》に入れて一時を凌《しの》いだ。都合がついて、質《しち》を受出して返しに來た時は、肝心《かんじん》の短銃《ピストル》の主《ぬし》はもう死ぬ氣がなくなつて居た。だから此男の命は金を借りに來られた爲に助かつたと同じ事である。

　「さう云ふ事もあるからなあ」と與次郎が云つた。三四郎には只《たゞ》可笑《をか》しい丈《だけ》である。其外には何等の意味もない。高い月を仰いで大きな聲を出して笑つた。金を返されないでも愉快である。與次郎は、

　「笑つちや不可《いか》ん」と注意した。三四郎は猶｜可笑《をか》しくなつた。

　「笑はないで、よく考へて見ろ。己が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りる事が出來たんだらう」

　三四郎は笑ふのを已《や》めた。

　「それで？」

　「それ丈《だけ》で澤山ぢやないか。――君、あの女を愛してゐるんだらう」

　與次郎は善く知つてゐる。三四郎はふんと云つて、又高い月を見た。月の側《そば》に白い雲が出た。

　「君、あの女には、もう返したのか」

　「いゝや」

　「何時《いつ》迄も借りて置いてやれ」

　暢氣《のんき》な事を云ふ。三四郎は何とも答へなかつた。しかし何時《いつ》迄も借りて置く氣は無論無かつた。實は必要な二十圓を下宿へ拂つて、殘りの十圓を其｜翌日《あくるひ》すぐ里見の家《うち》へ屆けやうと思つたが、今返しては却《かへ》つて、好意に背《そむ》いて、よくないと考へ直して、折角門内に這入《はい》られる機會を犧牲《ぎせい》にして迄も引き返した。其時何かの拍子《ひやうし》で、氣が緩《ゆる》んで、其十圓をくづして仕舞つた。實は今夜の會費も其内から出てゐる。自分の許《ばかり》ではない。與次郎のもその内から出てゐる。あとには、漸く二三圓殘つてゐる。三四郎は夫《それ》で冬襯衣《ふゆツヤツ》を買はうと思つた。

　要は與次郎が到底返しさうもないから、三四郎は思ひ切つて、此間《このあひだ》國元へ三十圓の不足を請求した。充分な學資を月々貰つてゐながら、たゞ不足だからと云つて請求する譯には行かない。三四郎はあまり嘘《うそ》を吐《つ》いた事のない男だから、請求の理由に至つて困却した。仕方がないからたゞ友達が金を失《な》くして弱つてゐたから、つい気の毒になつて貸してやつた。其結果として、今度は此方《こつち》が弱る樣になつた。どうか送つて呉れと書いた。

　直《すぐ》返事を出して呉れゝば、もう屆く時分であるのにまだ來ない。今夜あたりは殊によると來てゐるかも知れぬ位に考へて、下宿へ歸つて見ると、果《はた》して、母の手蹟《て》で書いた封筒がちやんと机の上に乘つてゐる。不思議な事に、何時《いつ》も必ず書留で來るのが、今日《けふ》は三錢切手一枚で濟ましてある。開いて見ると、中は例《いつ》になく短い。母としては不親切な位、用事｜丈《だけ》で申し納めて仕舞つた。依頼の金は野々宮さんの方へ送つたから、野々宮さんから受取れといふ差圖《さしづ》に過ぎない。三四郎は床を取つて寐た。

　翌日も其翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かなかつた。野々宮さんの方でも何とも云つて來なかつた。さうしてゐる内に一週間程｜經《た》つた。仕舞に野々宮さんから、下宿の下女を使ひに手紙を寄こした。御母《おつか》さんから頼まれものがあるから、一寸來て呉れろとある。三四郎は講義の隙《すき》を見て、又理科大學の穴倉へ降《お》りて行つた。其處で立談《たちばなし》の間に事を濟ませやうと思つた所が、左《さ》う旨くは行かなかつた。此夏は野々宮さん丈《だけ》で專領《せんりやう》してゐた部屋に髭《ひげ》の生えた人が二三人ゐる。制服を着た學生も二三人ゐる。それが、みんな熱心に、靜肅に、頭の上の日の當《あた》る世界を餘所《よそ》にして、研究を遣つてゐる。其内で野々宮さんは尤も多忙に見えた。部屋の入口に顏を出した三四郎を一寸見て、無言の儘近寄つて來た。

　「國から、金が屆いたから、取りに來て呉れ玉へ。今此處に持つてゐないから。それからまだ外に話す事もある」

　三四郎ははあと答へた。今夜でも好いかと尋ねた。野々宮は少しく考へてゐたが、仕舞《しまひ》に思ひ切つて宜《よろ》しいと云つた。三四郎は夫《それ》で穴倉を出た。出ながら、流石《さすが》に理學者は根氣の能《い》いものだと感心した。此夏見た福神漬《ふくじんづけ》の罐《くわん》と、望遠鏡が依然として故《もと》の通りの位置に備へ付けてあつた。

　次の講義の時間に與次郎に逢つて是々だと話すと、與次郎は馬鹿だと云はない許《ばかり》に三四郎を眺めて、

　「だから何時《いつ》迄も借りて置いてやれと云つたのに。餘計な事をして年寄には心配を掛ける。宗八さんには御談義をされる。是位｜愚《ぐ》な事はない」と丸《まる》で自分から事が起つたとは認めてゐない申分《まをしぶん》である。三四郎も此間題に關しては、もう與次郎の責任を忘れて仕舞つた。從つて與次郎の頭に掛つて來ない返事をした。

　「何時《いつ》迄も借りて置くのは、厭だから、家《うち》へさう云つて遣つたんだ」

　「君は厭でも、向ふでは喜ぶよ」

　「何故《なぜ》」

　此｜何放《なぜ》が三四郎自身には幾分か虚僞《きよぎ》の響らしく聞えた。然し相手には何等の影響も與へなかつたらしい。

　「當り前ぢやないか。僕を人にしたつて、同じ事だ。僕に金が餘つてゐるとするぜ。左《さ》うすれば、其金を君から返して貰ふよりも、君に貸して置く方が善《い》い心持だ。人間はね、自分が困らない程度内で、成る可く人に親切がして見たいものだ」

　三四郎は返事をしないで、講義を筆記し始めた。二三行書き出すと、與次郎が又、耳の傍《そば》へ口を持つて來た。

　「おれだつて、金のある時は度々人に貸した事がある。然し誰も決して返したものがない。夫《それ》だからおれは比通り愉快だ」

　三四郎は眞逆《まさか》、左《さ》うかとも云へなかつた。薄笑ひをした丈《だけ》で、又｜洋筆《ペン》を走らし始めた。與次郎も夫《それ》からは落付いて、時間の終る迄口を利かなかつた。

　號鐘《ベル》が鳴つて、二人肩を並《なら》べて�ﾍ場を出るとき、與次郎が、突然聞いた。

　「あの女は君に惚れてゐるのか」

　二人の後《あと》から續々聽講生が出て來る。三四郎は已《や》むを得ず無言の儘階子段を降りて横手の玄關から、圖書館｜傍《わき》の空地《あきち》へ出て、始めて與次郎を顧みた。

　「能《よ》く分らない」

　與次郎は暫らく三四郎を見てゐた。

　「左《さ》う云ふ事もある。然し能《よ》く分つたとして、君、あの女の夫《ハスバンド》になれるか」

　三四郎は未《いま》だ曾《かつ》て此間題を考へた事がなかつた。美禰子に愛せられるといふ事實其物が、彼《かの》女《をんな》の夫《ハスバンド》たる唯一《ゆゐいつ》の資格の樣な氣がしてゐた。云はれて見ると、成程疑問である。三四郎は首を傾けた。

　「野々宮さんならなれる」と與次郎が云つた。

　「野々宮さんと、あの人とは何か今迄に關係があるのか」

　三四郎の顏は彫《ほ》り付けた樣に眞面目であつた。與次郎は一口、

　「知らん」と云つた。三四郎は黙つてゐる。

　「まあ野々宮さんの所へ行つて、御談義を聞いて來い」と云ひ棄てゝ、相手は他の方へ行き掛けた。三四郎は愚劣の看板の如く突立《つツた》つた。與次郎は五六歩行つたが、又笑ひながら歸つて來た。

　「君、いつそ、よし子さんを貰はないか」と云ひながら、三四郎を引つ張つて、池の方へ連れて行つた。歩きながら、あれなら好い、あれなら好いと、二度程繰返した。其内又｜號鐘《ベル》が鳴つた。

　三四郎は其夕方野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過ぎるので、散歩かた／”＼四丁目迄來て、襯衣《シヤツ》を買ひに大きな唐物屋《たうぶつや》へ入《はい》つた。小僧が奧から色々持つて來たのを撫《な》でゝ見たり、廣げて見たりして、容易に買はない。譯もなく鷹揚《おうやう》に構へてゐると、偶然美禰子とよし子が連れ立つて香水を買ひに來た。あらと云つて挨拶をした後で、美禰子が、

　「先達《せんだつ》ては難有《ありがた》う」と禮を述べた。三四郎には此御禮の意味が明らかに解つた。美禰子から金を借りた翌日《あくるひ》もう一｜遍《ぺん》訪問して餘分をすぐに返すべき所を、一先《ひとまづ》見合せた代りに、二日ばかり待つて、三四郎は丁寧な禮?を美禰子に送つた。

　手紙の文句は、書いた人の、書いた當時の氣分を素直《すなほ》に表はしたものではあるが、無論書き過ぎてゐる。三四郎は出來る丈《だけ》の言葉を層々と排列して感謝の意を熱烈に致した。普通のものから見れば殆ど借金の禮?とは思はれない位に、湯氣の立つたものである。然し感謝以外には、何にも書いてない。夫《それ》だから、自然の勢《いきほひ》、感謝が感謝以上になつたのでもある。三四郎は此手紙を郵函《ポスト》に入れるとき、時を移さぬ美禰子の返事を豫期してゐた。所が折角の封書はたゞ行つた儘である。夫《それ》から美禰子に逢ふ機會は今日《けふ》迄なかつた。三四郡はこの微弱なる「此間は難有《ありがた》う」といふ反響に對して、確乎《はつきり》した返事をする勇氣も出なかつた。大《おほき》な襯衣《シヤツ》を兩手で眼の先へ廣げて眺めながら、よし子が居るからあゝ冷淡なんだらうかと考へた。それから此｜襯衣《ツヤツ》も此女の金で買うんだなと考へた。小僧はどれになさいますと催促《さいそく》した。

　二人の女は笑ひながら側《そば》へ來て、一所《いつしよ》に襯衣《シヤツ》を見て呉れた。仕舞に、よし子が「是になさい」と云つた。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。一向《いつかう》分らない。ヘリオトロープと書いてある罎《びん》を持つて、好加減《いゝかげん》に、是はどうですと云ふと、美禰子が、「それに爲《し》ませう」とすぐ極めた。三四郎は氣の毒な位であつた。

　表へ出て分れやうとすると、女の方が互に御辭儀を始めた。よし子が「ぢや行つて來てよ」と云ふと、美禰子が、「御早く……」と云つてゐる。聞いて見て、妹《いもと》が兄の下宿へ行く所だといふ事が解つた。三四郎は又奇麗な女と二人連《ふたりづれ》で追分の方へ歩くべき宵となつた。日はまだ全く落ちてゐない。

　三四郎はよし子と一所に歩くよりは、よし子と一所に野々宮の下宿で落ち合はねばならぬ機會を聊《いさゝ》か迷惑に感じた。いつその事今夜は家《うち》へ歸つて、又出直さうかと考へた。然し、與次郎の所謂《いはゆる》御談義を聞くには、よし子が傍《そば》に居て呉れる方が便利かも知れない。まさか人の前で、母から、斯ういふ依頼があつたと、遠慮なしの注意を與へる譯はなからう。ことに依ると、たゞ金を受取る丈《だけ》で濟むかも解らない。――三四郎は腹の中《なか》で、一寸｜狡《ずる》い決心をした。

　「僕も野々宮さんの所へ行く所です」

　「さう、御遊びに？」

　「いえ、少し用があるんです。あなたは遊びですか」

　「いゝえ、私も御用なの」

　兩方が同じ樣な事を聞いて、同じ樣な答を得た。しかし兩方共迷惑を感じてゐる氣色《けしき》が更にない。三四郎は念の爲め、邪魔ぢやないかと尋ねて見た。些《ちつ》とも邪魔にはならないさうである。女は言葉で邪魔を否定した許《ばかり》ではない。顔では寧ろ何故《なぜ》そんな事を質問するかと驚いてゐる。三四郎は店先の瓦斯《ガス》の光で、女の黒い眼のなかに、其驚きを認めたと思つた。事實としては、たゞ大きく黒く見えた許《ばかり》である。

　「?イオリンを買ひましたか」

　「何《ど》うして御存じ」

　三四郎は返答に窮した。女は頓着《とんぢやく》なく、すぐ、斯う云つた。

　「いくら兄さんに左《さ》う云つても、たゞ買つてやる、買つてやると云ふ許《ばかり》で、些《ちつ》とも買つて呉れなかつたんですの」

　三四郎は腹の中で、野々宮よりも廣田よりも、寧ろ與次郎を非難した。

　二人は追分の通りを細い露路《ろぢ》に折れた。折れると中に家が澤山ある。暗い路を戸毎《こごと》の軒燈が照らしてゐる。其軒燈の一つの前に留つた。野々宮は此奧にゐる。

　三四郎の下宿とは殆んど一丁程の距離である。野々宮が此處へ移つてから、三四郎は二三度訪問した事がある。野々宮の部屋は廣い廊下を突き當つて、二段ばかり眞直に上《のぼ》ると、左手に離れた二間《ふたま》である。南向《みなみむき》に餘處《よそ》の廣い庭を殆んど椽《えん》の下に控へて、晝も夜も至極靜である。此｜離座敷《はなれざしき》に立《た》て籠《こも》つた野々宮さんを見た時成程家を畳んで下宿をするのも惡い思付ではなかつたと、始めて來た時から、感心した位、居心地の好い所である。其時野々宮さんは廊下へ下《お》りて、下から自分の部屋の軒を見上げて、一寸見給へ藁葺《わらぶき》だと云つた。成程珍らしく屋根に瓦を置いてなかつた。

　今日は夜だから、屋根は無論見えないが、部屋の中には電燈が點《つ》いてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺《わらぶき》を思ひ出した。さうして可笑《をか》しくなった。

　「妙な御客が落ち合つたな。入口で逢つたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる。妹は然らざる旨を説明してゐる。序に三四郎の樣な襯衣《ツヤツ》を買つたら好からうと助言してゐる。夫《それ》から、此間の?イオリンは和製で音《ね》が惡くつて不可《いけ》ない。買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良《い》いのと買ひ易へて呉れと頼んでゐる。切《せ》めて美禰子さん位のなら我慢すると云つてゐる。其外似たり寄つたりの駄々をしきりに捏《こね》てゐる。野々宮さんは別段｜怖《こは》い顔もせず、と云つて、優しい言葉も掛けず、たゞ左《さ》うか／＼と聞いてゐる。

　三四郎は此《この》間《あひだ》何にも云はずにゐた。よし子は愚《ぐ》な事ばかり述べる。且つ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない。兄との應對を傍《そば》にゐて聞いてゐると、廣い日當《ひあたり》の好い畠へ出た樣な心持がする。三四郎は來るべき御談義の事を丸《まる》で忘れて仕舞つた。其時突然驚かされた。

　「あゝ、私《わたし》忘れてゐた。美禰子さんの御言傳《おことづて》があつてよ」

　「左《さ》うか」

　「嬉しいでせう。嬉しくなくつて？」

　野々宮さんは痒《かゆ》い樣な顔をした。さうして、三四郎の方を向いた。

　「僕の妹は馬鹿ですね」と云つた。三四郎は仕方なしに、たゞ笑つてゐた。

　「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」

　三四郎は又笑つてゐた。腹の中《なか》ではもう笑ふのが厭になつた。

　「美禰子さんがね、兄さんに文藝協合の演藝會に連れて行つて頂戴つて」

　「里見さんと一所に行つたら宜からう」

　「御用が有るんですつて」

　「御前も行くのか」

　「無論だわ」

　野々宮さんは行くとも行かないとも答へなかつた。又三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは、眞面目の用があるんだのに、あんな呑氣《のんき》許《ばか》り云つてゐて困ると話した。聞いて見ると、學者｜丈《だけ》あつて、存外《ぞんぐわい》淡泊である。よし子に縁談の口がある。國へさう云つてやつたら、兩親も異存はないと返事をして來た。夫《それ》に就て本人の意見をよく確める必要が起つたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて歸らうとした。そこで、

　「母からあなたに御面倒を願つたさうで」と切り出した。野々宮さんは、

　「何、大して面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出《ひきだし》から、預かつたものを出して、三四郎に渡した。

　「御母《ねつか》さんが心配して、長い手紙を書いて寄こしましたよ。三四郎は餘儀ない事情で月々の學資を友達に貸したと云ふが、いくら友達だつて、さう無暗に金を借りるものぢやあるまいし、よし借りたつて返す筈だらうつて。田舍《ゐなか》のものは正直だから、さう思ふのも無理はない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸方《かしかた》が大袈裟《おほげさ》だ。親から月々學資を送つて貰ふ身分でゐながら、一度に二十圓の三十圓のと、人に用立てるなんて、如何にも無分別《むふんべつ》だとあるんですがね――何だか僕に責任が有る樣に書いてあるから困る。……」

　野々宮さんは三四郎を見て、にや／＼笑つてゐる。三四郎は眞面目に、「御氣の毒です」といつた許《ばかり》である。野々宮さんは、若いものを、極め付ける積《つもり》で云つたんで無いと見えて、少し調子を變へた。

　「なに、心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから。たゞ御母《おつか》さんは、田舍《ゐなか》の相場で、金の價値を付けるから、三十圓が大變重くなるんだね。何でも三十圓あると、四人の家族が半年《はんねん》食つて行けると書いてあつたが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな聲を出して笑つた。三四郎にも馬鹿氣てゐる所が頗る可笑《をか》しいんだが、母の言條《いひでう》が、全く事實を離れた作り話でないのだから、其處に氣が付いた時には、成程｜輕率《けいそつ》な事をして惡かつたと少しく後悔した。

　「さうすると、月に五圓の割だから、一人前《ひとりまへ》一圓二十五錢に當る。それを三十日に割り付けると、四錢ばかりだが――いくら田舍でも少し安過ぎる樣だな」と野々宮さんが計算を立てた。

　「何を食べたら、その位で生きてゐられるでせう」とよし子が眞面目に聞き出した。三四郎も後悔する暇《ひま》がなくなつて、自分の知つてゐる田舍生活の有樣を色々話して聞かした。其中には宮籠《みやごもり》といふ慣例もあつた。三四郎の家《うち》では、年に一度づゝ村全體へ十圓寄附する事になつてゐる。其時には六十｜戸《こ》から一人づゝ出て、其六十人が、仕事を休んで、村の御宮へ寄つて、朝から晩迄、酒を飲みつゞけに飲んで、御馳走を食ひつゞけに食ふんだといふ。

　「それで十圓」とよし子が驚いてゐた。御談義は是で何處かへ行つたらしい。それから少し雜談をして一段落付いた時に、野々宮さんが改めて、斯う云つた。

　「何しろ、御母《おつか》さんの方ではね。僕が一應事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡して呉れろ。さうして面倒でも其事情を知らせて貰ひたいといふんだが、金は事情も何にも聞かないうちに、もう渡して仕舞つたしと、――何《ど》うするかね。君｜慥《たし》か佐々木に貸したんですね」

　三四郎は美禰子から洩れて、よし子に傳はつて、それが野々宮さんに知れてゐるんだと判じた。然し其金が巡り巡つて?イオリンに變形したものとは兄妹《きやうだい》とも氣が付かないから一種妙な感じがした。たゞ「左《さ》うです」と答へて置いた。

　「佐々木が馬券を買つて、自分の金を失《な》くなしたんだつてね」

　「えゝ」

　よし子は又大きな聲を出して笑つた。

　「ぢや、好加減《いゝかげん》に御母《おつか》さんの所へさう云つて上げやう。然し今度から、そんな金はもう貸さない事に爲《し》たら好いでせう」

　三四郎は貸さない事にする旨を答へて、挨拶をして、立ち掛けると、よし子も、もう歸らうと云ひ出した。

　「先刻《さつき》の話をしなくつちや」と兄が注意した。

　「能《よ》くつてよ」と妹が拒絶した。

　「能《よ》くはないよ」

　「能《よ》くつてよ。知らないわ」

　兄は妹の顔を見て黙つてゐる。妹は、また斯う云つた。

　「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかつて、聞いたつて。好《すき》でも嫌《きらひ》でもないんだから、何にも云ひ樣はありやしないわ。だから知らないわ」

　三四郎は知らないわの本意を漸く會得《ゑとく》した。兄妹《きやうだい》を其儘にして急いで表へ出た。

　人の通らない軒燈ばかり明かな露路《ろぢ》を拔けて表へ出ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ當《あた》る。時を切つて、自分の下宿の方から吹いてくる。其時三四郎は考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄連れて行つて遣るだらう。

　下宿の二階へ上つて、自分の室へ這入つて、坐つて見ると、矢つ張り風の音がする。三四郎は斯う云ふ風の音を聞く度に、運命といふ字を思ひ出す。ごうと鳴つて來る度に竦《すく》みたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない。考へると、上京以來自分の運命は大概與次郎の爲に製《こし》らへられてゐる。しかも多少の程度に於て、和氣靄然《わきあいぜん》たる飜弄《ほんろう》を受ける樣に製《こし》らへられてゐる。與次郎は愛すべき惡戯《いたづら》ものである。向後《かうご》も此愛すべき惡戯《いたづら》ものゝ爲に、自分の蓮命を握られてゐさうに思ふ。風がしきりに吹く。慥《たしか》に與次郎以上の風である。

　三四郎は母から來た三十圓を枕元へ置いて寐た。此三十圓も運命の飜弄《ほんろう》が産んだものである。此三十圓が是から先どんな働きをするか、丸《まる》で分らない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受取る時に、又｜一煽《ひとあふ》り來るに極つてゐる。三四郎は成るべく大きく來れば好いと思つた。

　三四郎は夫《それ》なり寐付いた。運命も與次郎も手を下《くだ》し樣のない位すこやかな眼《ねむり》に入つた。すると年鐘《はんしよう》の音で眼が覺めた。何處かで人聲がする。東京の火事は是で二｜返目《へんめ》である。三四郎は寐卷の上へ羽織を引掛けて、窓を明けた。風は大分《だいぶ》落ちてゐる。向ふの二階屋が風の鳴るなかに、眞黒に見える。家が黒い程、家の後《うしろ》の空は赤かつた。

　三四郎は寒いのを我慢して、しばらく此赤いものを見詰めてゐた。其時三四郎の頭には運命があり／＼と赤く映つた。三四郎は又暖かい布團《ふとん》のなかに潜《もぐ》り込んだ。さうして、赤い運命のなかで狂《くる》ひ回《まは》る多くの人の身の上を忘れた。

　夜が明ければ常の人である。制服を着けて、帳面《ノート》を持つて、學校へ出た。たゞ三十圓を壞《ふところ》にする事だけは忘れなかつた。生憎《あいにく》時間割の都合が惡い。三時迄ぎつしり詰《つま》つてゐる。三時過に行けば、よし子も學校から歸つて來てゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふ兄も在宅《うち》かも知れない。人がゐては、金を返すのが、全く駄目の樣な氣がする。

　又與次郎が話し掛けた。

　「昨夜《ゆうべ》は御談義を聞いたか」

　「なに御談義といふ程でもない」

　「左《さ》うだらう、野々宮さんは、あれで理由《わけ》の解つた人だからな」と云つて何處《どこか》へ行つて仕舞つた。二時間｜後《ご》の講義のときに又出逢つた。

　「廣田先生のことは大丈夫｜旨《うま》く行きさうだ」と云ふ。どこ迄事が運んだかと聞いて見ると、

　「いや心配しないでも好い。いづれ緩《ゆつ》くり話す。先生が君がしばらく來ないと云つて、聞いてゐたぜ。時々行くが好い。先生は一人ものだからな。吾々が慰めて遣らんと、不可《いか》ん。今度《こんだ》何か買つて來い」と云ひつ放《ぱな》して、それなり消えて仕舞つた。すると、次の時間に又何處からか現れた。今度《こんど》は何と思つたか、講義の最中に、突然、

　「金《かね》受取りたりや」と電報の樣なものを白紙《しらかみ》へ書いて出した。三四郎は返事を書かうと思つて、�ﾍ師の方を見ると、�ﾍ師がちゃんと此方《こつち》を見てゐる。白紙《しらかみ》を丸めて足の下へ抛《な》げた。講義が終るのを待つて、始めて返事をした。

　「金《かね》は受取つた、此處にある」

　「左《さ》うか夫《それ》は好かつた。返す積《つも》りか」

　「無論返すさ」

　「それが好からう。早く返すが好い」

　「今日返さうと思ふ」

　「うん午過《ひるすぎ》遅くならゐるかもしれない」

　「何處かへ行くのか」

　「行くとも、毎日々々｜畫《ゑ》に描《か》かれに行く。もう餘程《よつぽど》出來たらう」

　「原口さんの所か」

　「うん」

　三四郎は餘次郎から原口さんの宿所《しゆくしよ》を聞き取つた。

　

　　　　　十

　

　廣田先生が病氣だと云ふから、三四郎が見舞に來た。門を這入ると、玄關に靴が一｜足《そく》揃へてある。醫者かも知れないと思つた。いつもの通り勝手口へ回《まは》ると誰もゐない。のそ／＼上り込んで茶の間へ來ると、座敷で話し聲がする。三四郎はしばらく佇《たゝず》んでゐた。手に可なり大きな風呂敷包を提《さ》げてゐる。中には樽柿《たるがき》が一杯｜入《はい》つてゐる。今度來る時は、何か買つてこいと、與次郎の注意があつたから、追分の通で買つて來た。すると座敷のうちで、突然どたりばたりと云ふ音がした。誰か組打《くみうち》を始めたらしい。三四郎は必定《ひつぢやう》喧嘩と思ひ込んだ。風呂敷包を提《さ》げた儘、仕切りの唐紙を鋭どく一尺｜許《ばかり》明けて屹《きつ》と覗き込んだ。廣田先生が茶の袴を穿《は》いた大きな男に組み敷かれてゐる。先生は俯伏《うつぶし》の顔を際《きは》どく疊から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑ひながら、

　「やあ、御出《おいで》」と云つた。上の男は一寸振り返つた儘である。

　「先生、失禮ですが、起きて御覽なさい」と云ふ。何でも先生の手を逆《ぎやく》に取つて、肘《ひぢ》の關節《つがひ》を表から、膝頭《ひざがしら》で壓《お》さへてゐるらしい。先生は下から、到底起きられない旨を答へた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てゝ、袴の襞《ひだ》を正しく、居住居《ゐずまひ》を直した。見れば立派な男である。先生もすぐ起き直つた。

　「成程」と云つてゐる。

　「あの流《りう》で行くと、無理に逆《さか》らつたら、腕を折る恐れがあるから、危険です」

　三四郎は此間答で、始めて、此兩人の今何をしてゐたかを悟《さと》つた。

　「御病氣ださうですが、もう宜しいんですか」

　「えゝ、もう宜しい」

　三四郎は風呂�ﾍ包を解いて、中にあるものを、二人の間に廣げた。

　「柿を買つて來ました」

　廣田先生は書齋へ行つて、小刀《ナイフ》を取つて來る。三四郎は臺所から庖丁を持つて來た。三人で柿を食ひ出した。食ひながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中學の話を始めた。生活難の事、紛擾《ふんぜう》の事、一つ所に長く留《とま》つてゐられぬ事、學科以外に柔術の�ﾍ師をした事、ある�ﾍ師は、下駄の臺を買つて、鼻緒《はなを》は古いのを、着《す》げ更《か》へて、用ひられる丈《だけ》用ひる位にしてゐる事、今度辭職した以上は、容易に口が見付かりさうもない事、已《やむ》を得ず、それ迄妻を國元へ預けた事――中々盡きさうもない。

　三四郎は柿の核《たね》を吐き出しながら、此男の顔を見てゐて、情なくなつた。今の自分と、此男と比較して見ると、丸《まる》で人種が違ふ樣な氣がする。此男の言葉のうちには、もう一｜遍《ぺん》學生生活がして見たい。學生生活｜程《ほど》氣樂なものはないと云ふ文句が何度も繰返された。三四郎は此文句を聞くたびに、自分の壽命も僅か二三年の間なのか知らんと、盆槍《ぼんやり》考へ始めた。與次郎と蕎麥《そば》などを食ふ時の樣に、氣が冴《さ》えない。

　廣田先生は又立つて書齋に入つた。歸つた時は、手に一｜卷《くわん》の書物を持つてゐた。表紙が赤黒くつて、切り口の埃《ほこり》で汚れたものである。

　「是が此間《このあひだ》話したハイドリオタフヒア。退屈なら見てゐ玉へ」

　三四郎は禮を述べて書物を受け取つた。

　「寂寞《じやくまく》の罌粟花《けし》を散らすや頻《しきり》なり。人の記念に對しては、永劫《えいごふ》に價《あたひ》すると否《いな》とを問ふ事なし」といふ句が眼に付いた。先生は安心して柔術の學士と談話をつゞける。――中學�ﾍ師｜抔《など》の生活?態を聞いて見ると、みな氣の毒なもの許《ばかり》の樣だが、眞に氣の毒と思ふのは當人|丈《だけ》である。なぜといふと、現代人は事實を好むが、事實に伴ふ情操は切棄てる習慣である。切棄てなければならない程世間が切迫してゐるのだから仕方がない。其證據には新聞を見ると分る。新聞の社會記事は十の九｜迄《まで》悲劇である。けれども我々は此悲劇を悲劇として味はう餘裕がない。たゞ事實の報道として讀む丈《だけ》である。自分の取る新聞｜抔《など》は、死人十何人と題して、一日に變死した人間の年齡、戸籍、死因を六號活字で一行づゝに書く事がある。簡潔明瞭の極である。又｜泥棒《どろぼう》早見《はやみ》と云ふ欄があって、何處へどんな泥棒が入《はい》つたか、一目《ひとめ》に分る樣に泥棒がかたまつてゐる。是も至極便利である。すべてが、この調子と思はなくつちや不可《いけ》ない。辭職もその通り。當人には悲劇に近い出來事かも知れないが、他人には夫《それ》程《ほど》痛切な感じを與へないと覺悟しなければなるまい。其｜積《つもり》で運動したら好からう。

　「だつて先生位餘裕があるなら、少しは痛切に感じても善さゝうなものだが」と柔術の男が眞面目な顔をして云つた。此時は廣田先生も三四郎も、さう云つた當人も一度に笑つた。此男が中々歸りさうもないので三四郎は、書物を借りて、勝手から表へ出た。

　「朽ちざる墓に眠り、傳はる事に生き、知らるゝ名に殘り、しからずば滄桑《さうさう》の變《へん》に任せて、後《のち》の世に存せんと思ふ事、昔より人の願なり。此願のかなへるとき、人は天國にあり。去《さ》れども眞《まこと》なる信仰の�ﾍ法より視れば、此願も此満足も無きが如くに果敢《はか》なきものなり。生きるとは、再《ふたゝび》の我に歸るの意にして、再《ふたゝび》の我に歸るとは、願にもあらず、望にもあらず、氣高《けだか》き信者の見たる明白《あからさま》なる事實なれば、聖徒イノセントの墓地に横はるは猶｜埃及《エヂプト》の砂中《さちゆう》に埋《うづ》まるが如し。常住《じやうぢゆう》の吾身を觀じ悦べば、六尺の狹きもアドリエーナスの大廟《たいべう》と異《こと》なる所あらず。成るが儘に成るとのみ覺悟せよ」

　是はハイドリオタフヒアの末節である。三四郎はぶら／＼白山《はくさん》の方へ歩きながら、往來《わうらい》のなかで、此一節を讀んだ。廣田先生から聞く所によると、此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文であるさうだ。廣田先生は其話をした時に、笑ひながら、尤も是は私《わたし》の説ぢやないよと斷られた。成程三四郎にも何處が名文だか能く解らない。只《たゞ》句切りが惡くつて、字遣《じづかひ》が異樣で、言葉の運び方が重苦しくつて、丸《まる》で古い御寺を見る樣な心持がした丈《だけ》である。此一節｜丈《だけ》讀むにも道程《みちのり》にすると、三四町も掛つた。しかも判然《はつきり》とはしない。

　贏《か》ち得た所は物寂《ものさ》びてゐる。奈良の大佛の鐘を撞《つ》いて、其｜餘波《なごり》の響が、東京にゐる自分の耳に微《かすか》に屆いたと同じ事である。三四郎は此一節の齎《もたら》す意味よりも、其意味の上に這ひかゝる情緒《じやうしよ》の影を嬉しがつた。三四郎は切實に生死の問題を考へた事のない男である。考へるには、青春の血が、あまりに暖か過ぎる。眼の前には眉を焦《こが》す程な大きな火が燃えてゐる。其感じが、眞の自分である。三四郎は是から曙町《あけぼのちやう》の原口の所へ行く。

　子供の葬式が來た。羽織を着た男がたつた二人着いてゐる。小さい棺《くわん》は眞白な布《ぬの》で卷いてある。其｜傍《そば》に奇麗な風車を結《ゆ》ひ付けた。車がしきりに回《まは》る。車の羽瓣《はね》が五｜色《しき》に塗つてある。それが一｜色《しき》になつて回《まは》る。白い棺は奇麗な風車を斷間《たえま》なく搖《うご》かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美しい葬《とむらひ》だと思つた。

　三四郎は他《ひと》の文章と、他《ひと》の葬式を餘處《よそ》から見た。もし誰か來て、序《ついで》に美禰子を餘處《よそ》から見ろと注意したら、三四郎は驚ろいたに違ひない。三四郎は美禰子を餘處《よそ》から見る事が出來ない樣な眼になつてゐる。第一｜餘處《よそ》も餘處《よそ》でないもそんな區別は丸《まる》で意識してゐない。たゞ事實として、他《ひと》の死に對しては、美しい穩やかな味《あぢはひ》があると共に、生きてゐる美禰子に對しては、美しい享樂の底に、一種の苦悶がある。三四郎は此苦悶を拂はうとして、眞直に進んで行く。進んで行けば苦悶が除《と》れる樣に思ふ。苦悶を除《と》る爲めに一歩《ひとあし》傍《わき》へ退《の》く事は夢にも案じ得ない。これを案じ得ない三四郎は、現に遠くから、寂滅《じやくめつ》の會《ゑ》を文字の上に眺めて、夭折《えうせつ》の憐れを、三尺の外《そと》に感じたのである。しかも、悲しい筈の所を、快く眺めて、美しく感じたのである。

　曙町へ曲《まが》ると大きな松がある。此松を目標《めじるし》に來いと�ﾍはつた。松の下へ來ると、家《いへ》が違つてゐる。向ふを見ると又松がある。其先にも松がある。松が澤山ある。三四郎は好い所だと思つた。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣《いけがき》に奇麗な門がある。果《はた》して原口といふ標札が出てゐた。其標札は木理《もくめ》の込んだ黒つぼい板に、緑の油で名前を派手《はで》に書いたものである。字だか模樣だか分らない位｜凝《こ》つてゐる。門から玄關迄はからりとして何にもない。左右に芝が植ゑてある。

　玄關には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左《みぎひだり》で色が違ふ。それで能く覺えてゐる。今仕事中だが、可《よ》ければ上《あが》れと云ふ小女《こをんな》の取次に尾《つ》いて、畫室へ這入つた。廣い部屋である。細長く南北《みなみきた》に延びた床《ゆか》の上は、畫家らしく、取り亂れてゐる。先づ一部分には絨毯《じゆうたん》が敷いてある。それが部屋の大きさに較べると、丸《まる》で釣り合が取れないから、敷物として敷いたといふよりは、色の好い、模樣の雅《が》な織物として放《はふ》りだした樣に見える。離れて向《むかふ》に置いた大きな虎の皮も其通り、坐る爲の、設《まう》けの座とは受け取れない。絨毯《じゆうたん》とは不調和な位置に筋違《すぢかひ》に尾を長く曳いてゐる。砂を錬《ね》り固めた樣な大きな甕《かめ》がある。其中から矢が二本出てゐる。鼠色の羽根と羽根の間が金箔《きんぱく》で強く光る。其｜傍《そば》に鎧《よろひ》もあつた。三四郎は卯《う》の花《はな》縅《おど》しと云ふのだらうと思つた。向ふ側の隅にぱつと眼を射るものがある。紫の裾模樣の小袖に金糸《きんし》の刺?《ぬひ》が見える。袖から袖へ幔幕《まんまく》の綱を通して、虫干の時の樣に釣るした。袖は丸くて短い。是が元禄《げんろく》かと三四郎も氣が付いた。其外には畫《ゑ》が澤山ある。壁に掛けたの許《ばかり》でも大小合せると餘程になる。額縁を附けない下畫《したゑ》といふ樣なものは、重ねて卷いた端《はじ》が、卷き崩れて、小口をしだらなく露《あら》はした。

　描《ゑが》かれつゝある人の肖像は、此｜彩色《いろどり》の眼を亂す間にある。描《ゑが》かれつゝある人は、突き當りの正面に團扇《うちは》を翳《かざ》して立つた。描《ゑが》く男は丸い脊《せ》をぐるりと返して、調色板《パレツト》を持つた儘、三四郎に向つた。口に太い烟管《パイプ》を啣《くは》へてゐる。

　「遣つて來たね」と云つて烟管《パイプ》を口から取つて、小さい丸卓《まるテーブル》の上に置いた。燐寸《マツチ》と灰皿が載つてゐる。椅子もある。

　「掛け給へ。――あれだ」と云つて、描《か》き掛けた畫布《カン?ス》の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はたゞ、

　「成程大きなものですな」と云つた。原口さんは、耳にも留めない風で、

　「うん、中々」と獨言《ひとりごと》の樣に、髪の毛と、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女の翳《かざ》した團扇《うちは》の陰で、白い齒がかすかに光つた。

　それから二三分は全く靜かになつた。部屋は煖爐《だんろ》で温めてある。今日《けふ》は外面《そと》でも、さう寒くはない。風は死に盡した。枯れた樹が音なく冬の日に包まれて立つてゐる。三四郎は畫室へ導かれた時、霞の中へ這入つた樣な氣がした。丸卓《まるテーブル》に肱《ひぢ》を持たして、此靜かさの夜に勝《まさ》る境に、憚《はゞか》りなき精神《こゝろ》を溺《おぼ》れしめた。此靜さのうちに、美禰子がゐる。美禰子の影が次第に出來上りつゝある。肥《ふと》つた畫工の畫筆《ブラツシ》丈《だけ》が動く。夫《それ》も眼に動く丈《だけ》で、耳には靜である。肥つた畫工も動く事がある。然し足音はしない。

　靜なものに封じ込められた美禰子は全く動かない。團扇《うちは》を翳《かざ》して立つた姿其儘が既に畫《ゑ》である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を寫してゐるのではない。不可思議に奧行《おくゆき》のある畫から、精出してへ其奧行｜丈《だけ》を落して、普通の畫に美禰子を描《か》き直してゐるのである。にも拘《かゝは》らず第二の美禰子は、この靜さのうちに、次第と第一に近づいて來る。三四郎には、此二人の美禰子の間《あひだ》に、時計の音に觸れない、靜かな長い時間が含まれてゐる樣に思はれた。其時間が畫家の意識にさへ上《のぼ》らない程｜柔順《おとな》しく經《た》つに從つて、第二の美禰子が漸く追付いて來る。もう少しで双方がぴたりと出合つて一つに収まると云ふ所で、時の流れが急に向《むき》を換へて永久の中《なか》に注《そゝ》いで仕舞ふ。原口さんの畫筆《ブラツシ》は夫《それ》より先には進めない。三四郎は其處迄｜跟《つ》いて行つて、氣が付いて、不圖《ふと》美禰子を見た。美禰子は依然として動かずに居る。三四郎の頭は此靜かな空氣のうちで覺えず動いてゐた。醉つた心持である。すると突然原口さんが笑ひ出した。

　「又苦しくなつた樣ですね」

　女は何にも云はずに、すぐ姿勢を崩して、傍《そば》に置いた安樂椅子へ落ちる樣にとんと腰を卸《おろ》した。其時白い齒が又光つた。さうして動く時の袖と共に三四郎を見た。其眼は流星の樣に三四郎の眉間《みけん》を通り越して行つた。

　原口さんは丸卓《まるテーブル》の傍《そば》迄《まで》來て、三四郎に、

　「何《ど》うです」と云ひながら、燐寸《マツチ》を擦《す》つて先刻《さつき》の烟管《パイプ》に火を付けて、再び口に啣《くは》へた。大きな木の雁首《がんくび》を指で抑へて、二吹《ふたふき》許《ばか》り濃い烟を髭の中から出したが、やがて又丸い脊中を向けて畫に近付いた。勝手な所を自由に塗つてゐる。

　繪は無論仕上つてゐないものだらう。けれども何處《どこ》も彼處《かしこ》も萬遍《まんべん》なく繪の具が塗つてあるから、素人《しろうと》の三四郎が見ると、中々立派である。旨いか無味《まづ》いか無論分らない。技巧の批評の出來ない三四郎には、たゞ技巧の齎《もたら》す感じ丈《だけ》がある。それすら、經驗がないから、頗る正鵠《せいこう》を失してゐるらしい。藝術の影響に全然｜無頓着《むとんぢやく》な人間でないと自らを證據立てる丈《だけ》でも三四郎は風流人である。

　三四郎が見ると、此畫は一體にぱつとしてゐる。何だか一面に粉《こ》が吹いて、光澤《つや》のない日光《ひ》に當つた樣に思はれる。影の所でも黒くはない。寧ろ薄い紫が射してゐる。三四郎は此畫を見て、何となく輕快な感じがした。浮いた調子は猪牙船《ちよきぶね》に乘つた心持がある。それでも何處か落ち付いてゐる。劔呑《けんのん》でない。苦《にが》つた所、澁《しぶ》つた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい畫だと思つた。すると原口さんは無雜作に畫筆《ブラツシ》を使ひながら、こんな事を云ふ。

　「小川さん面白い話がある。僕の知つた男にね、細君が厭になつて離縁を請求したものがある。所が細君が承知をしないで、私は縁あつて、此｜家《うち》へ方付《かたづ》いたものですから、假令《たとひ》あなたが御厭《おいや》でも私は決して出て參りません」

　原口さんは其處で一寸畫を離れて、畫筆《ブラツシ》の結果を眺めてゐたが、今度は、美禰子に向つて、

　「里見さん。あなたが單衣《ひとへもの》を着て呉れないものだから、着物が描《か》き惡《にく》くつて困る。丸《まる》で好加減にやるんだから、少し大膽過ぎますね」

　「御氣の毒さま」と美禰子が云つた。

　原口さんは返事もせずに又畫面へ近寄つた。「それでね、細君の御尻《おしり》が離縁するには餘り重くあつたものだから、友人が細君に向つて、斯う云つたんだとさ。出るのが厭なら、出ないでも好い。何時《いつ》迄も家《うち》にゐるが好い。其代り己《おれ》の方が出るから。――里見さん一寸立つて見て下さい。團扇は何うでも好い。たゞ立てば。さう。難有《ありがた》う。――細君が、私が家《うち》に居つても、貴方《あなた》が出て御仕舞になれば、後《あと》が困るぢやありませんかと云ふと、何｜構《かま》はないさ、御前は勝手に入夫《にふふ》でもしたら宜からうと答へたんだつて」

　「それから、何うなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思つたものか、まだ後《あと》をつけた。

　「何うもならないのさ。だから結婚は考へ物だよ。離合聚散《りがふしうさん》、共に自由にならない。廣田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序《ついで》に僕を見給へ。みんな結婚をしてゐない。女が偉くなると、かう云ふ獨身ものが澤山出來て來る。だから社會の原則は、獨身ものが、出來得ない程度内に於て、女が偉くならなくつちや駄目だね」

　「でも兄は近々結婚致しますよ」

　「おや、左《さ》うですか。すると貴方《あなた》は何うなります」

　「存じません」

　三四郎は美磯子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた。原口さん丈《だけ》は畫《ゑ》に向いてゐる。「存じません。存じません――ぢや」と畫筆《ブラツシ》を動かした。

　三四郎は此機會を利用して、丸卓《まるテーブル》の側《わき》を離れて、美禰子の傍《そば》へ近寄つた。美禰子は椅子の脊に、油氣のない頭を、無雜作に持たせて、疲れた人の、身繕《みづくろひ》に心なき放擲《なげやり》の姿である。明らさまに襦袢《じゆばん》の襟から咽喉頸《のどくび》が出てゐる。椅子には脱ぎ捨てた羽織を掛けた。廂髪《ひさしがみ》の上に寄麗な裏が見える。

　三四郎は懷に三十圓入れてゐる。此三十圓が二人の間にある、説明しにくいものを代表してゐる。――と三四郎は信じた。返さうと思つて、返さなかつたのも是が爲である。思ひ切つて、今返さうとするのも是が爲である。返すと用がなくなつて、遠ざかるか、用がなくなつても、一層近付いて來るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帶びてゐる。

　「里見さん」と云つた。

　「なに」と答へた。仰向いて下から三四郎を見た。顏を故《もと》の如くに落ち付けてゐる。眼｜丈《だけ》は動いた。それも三四郎の眞正面で穩《おだや》かに留つた。三四郎は女を多少疲れてゐると判じた。

　「丁度｜序《ついで》だから、此處で返しませう」と云ひながら、釦《ボタン》を一つ外《はづ》して、内懷《うちぶところ》へ手を入れた。

　女は又、

　「なに」と繰り返した。故《もと》の通り、刺激のない調子である。内懷《うちぶところ》へ手を入れながら、三四郎は何うしやうと考へた。やがて思ひ切つた。

　「此間《このあひだ》の金《かね》です」

　「今下すつても仕方がないわ」

　女は下から見上げた儘である。手も出さない。身體も動かさない。顏も元の所に落ち付けてゐる。男は女の返事さへ能くは解《げ》し兼ねた。其時、

　「もう少しだから、何うです」と云ふ聲が後《うしろ》で聞えた。見ると、原口さんが此方《こつち》を向いて立つてゐる。畫筆《ブラツシ》を指の股《また》に挾んだまゝ、三角に刈り込んだ髯の先を引つ張つて笑つた。美禰子は兩手を椅子の肘に掛けて、腰を卸《おろ》したなり、頭と脊を眞直に延ばした。三四郎は小さな聲で、

　「まだ餘程掛りますか」と聞いた。

　「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな聲で答へた。三四郎は又｜丸卓《まるテーブル》に歸つた。女はもう描《ゑが》かるべき姿勢を取つた。原口さんは又｜烟管《パイプ》を點《つ》けた。畫筆《ブラツシ》は又動き出す。脊を向けながら、原口さんが斯う云つた。

　「小川さん。里見さんの眼を見て御覽」

　三四郎は云はれた通りにした。美禰子は突然｜額《ひたひ》から團扇《うちは》を放して、靜かな姿勢を崩した。横を向いて硝子越《ガラスごし》に庭を眺めてゐる。

　「不可《いけ》ない。横を向いてしまつちや、不可《いけ》ない。今｜描《か》き出した許《ばかり》だのに」

　「何故《なぜ》餘計な事を仰しやる」と女は正面に歸つた。原口さんは辯解をする。

　「冷《ひや》かしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」

　「何を」

　「是から話すから、まあ元の通りの姿勢に復して下さい。さう。もう少し肱を前へ出して。夫《それ》で小川さん、僕の描《か》いた眼が、實物の表情通り出來てゐるかね」

　「何うも能《よ》く分らんですが。一體斯うやつて、毎日々々｜描《か》いてゐるのに、描《か》かれる人の眼の表情が何時《いつ》も變らずにゐるものでせうか」

　「それは變るだらう。本人が變るばかりぢやない、畫工《ゑかき》の方の氣分も毎日變るんだから、本當を云ふと、宵像畫が何枚でも出來上がらなくつちやならない譯だが、さうは行かない。又たつた一枚で可なり纒まつたものが出來るから不思議だ。何故《なぜ》と云つて見給へ……」

　原口さんは此間始終筆を使つてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機關が一度に働くのを目撃して恐れ入つた。

　「かう遣つて毎日｜描《か》いてゐると、毎日の量が積《つも》り積《つも》つて、しばらくする内に、描《か》いてゐる畫《ゑ》に一定の氣分が出來てくる。だから、たとひ外《ほか》の氣分で戸外《そと》から歸つて來ても、畫室へ這入つて、畫に向ひさへすれば、ぢきに一種一定の氣分になれる。つまり畫の中の氣分が、此方《こつち》へ乘り移るのだね。里見さんだつて同じ事だ。自然の儘に放《はふ》つて置けば色々の刺激で色々の表情になるに極つてゐるんだが、それが實際畫の上へ大した影響を及ぼさないのは、あゝ云ふ姿勢や、斯う云ふ亂雜な鼓《つゞみ》だとか、鎧《よろひ》だとか、虎の皮だとかいふ周圍《まはり》のものが、自然に一種一定の表情を引き起す樣になつて來て、其習慣が次第に他の表情を壓迫する程強くなるから、まあ大抵なら、此｜眼付《めつき》を此儘で仕上げて行けば好いんだね。それに表情と云つたつて……」

　原口さんは突然黙つた。何處か六づかしい所へ來たと見える。二歩《ふたあし》許《ばかり》立ち退《の》いて、美禰子と畫を頻に見較べてゐる。

　「里見さん、何《どう》かしましたか」と聞いた。

　「いゝえ」

　此答は美禰子の口から出たとは思へなかつた。美禰子はそれ程靜かに姿勢を崩さずにゐる。

　「それに表情と云つたつて」と原口さんが又始めた。

　「畫工《ゑかき》はね、心を描《か》くんぢやない。心が外へ見世《みせ》を出してゐる所を描《か》くんだから、見世《みせ》さへ手落なく觀察すれば、身代《しんだい》は自《おのづか》ら分るものと、まあ、さうして置くんだね。見世《みせ》で窺《うかゞ》へない身代《しんだい》は畫工《ゑかき》の擔任區域以外と諦めべきものだよ。だから我々は肉ばかり描《か》いてゐる。どんな肉を描《か》いたつて、靈が籠《こも》らなければ、死肉だから、畫として通用しない丈《だけ》だ。そこで此《この》里見さんの眼もね。里見さんの心を寫す積《つもり》で描《か》いてゐるんぢやない。たゞ眼として描《か》いてゐる。此眼が気に入つたから描《か》いてゐる。此眼の恰好《かつかう》だの、二重瞼《ふたへまぶた》の影だの、眸《ひとみ》の深さだの、何でも僕に見える所｜丈《だけ》を殘りなく描《か》いて行く。すると偶然の結果として、一種の表情が出て來る。もし出て來なければ、僕の色の出し具合が惡かつたか、恰好の取り方が間違つてゐたか、何方《どつち》かになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだから仕方がない」

　原口さんは、此時又｜二歩《ふたあし》ばかり後《あと》へ退《さが》つて、美禰子と畫とを見較べた。

　「何うも、今日は何うかしてゐるね。疲れたんでせう。疲れたら、もう廢《よ》しませう。――疲れましたか」

　「いゝえ」

　原口さんは又｜畫《ゑ》へ近寄つた。

　「それで、僕が何故《なぜ》里見さんの眼を選んだかと云ふとね。まあ話すから聞き給へ。西洋畫の女の顔を見ると、誰の描《か》いた美人でも、屹度《きつと》大きな眼をしてゐる。可笑《をか》しい位大きな眼ばかりだ。所が日本では觀音樣を始めとして、お多福《たふく》、能《のう》の面《めん》、もつとも著《いちじる》しいのは浮世繪にあらはれた美人、悉《こと／”＼》く細い。みんな象に似てゐる。何故《なぜ》東西で美の標準がこれ程違ふかと思ふと、一寸不思議だらう。所が實は何でもない。西洋には眼の大きい奴ばかりゐるから、大きい眼のうちで、美的淘汰が行はれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーといふ男は、日本人の眼は、あれで何うして開《あ》けるだらうなんて冷かしてゐる。――そら、さう云ふ國柄《くにがら》だから、どうしたつて材料の寡《すく》ない大きな眼に對する審美眼が發達しやうがない。そこで選擇の自由の利く細い眼のうちで、理想が出來て仕舞つたのが、歌麿《うたまろ》になつたり、祐信《すけのぶ》になつたりして珍重がられてゐる。然しいくら日本的でも、西洋畫には、あゝ細いのは盲目《めくら》を描《か》いた樣で見共《みとも》なくつて不可《いけ》ない。と云つて、ラフアエルの聖母《マドンナ》の樣なのは、天《てん》でありやしないし、有つた所が日本人とは云はれないから、其所で里見さんを煩《わづら》はす事になつたのさ。里見さんもう少しですよ」

　答はなかつた。美禰子は凝《じつ》としてゐる。

　三四郎は此畫家の話を甚だ面白く感じた。とくに話｜丈《だけ》聽きに來たのならば猶幾倍の興味を添へたらうにと思つた。三四郎の注意の焦點は、今、原口さんの話の上にもない、原口さんの畫の上にもない。無論｜向《むかふ》に立つてゐる美禰子に集まつてゐる。三四郎は畫家の話に耳を傾けながら、眼｜丈《だけ》は遂に美禰子を離れなかつた。彼の眼に映じた女の姿勢は、自然の經過を、尤も美しい刹那に、捕虜《とりこ》にして動けなくした樣である。變らない所に、永い慰藉がある。然るに原口さんが突然首を捩《ひね》つて、女に何うかしましたかと聞いた。其時三四郎は、少し恐ろしくなつた位である。移り易い美さを、移さずに据ゑて置く手段が、もう盡きたと畫家から注意された樣に聞えたからである。

　成程さう思つて見ると、何うかしてゐるらしくもある。色光澤《いろつや》が好くない、眼尻に堪《た》へ難い嬾《ものう》さが見える。三四郎は此活人畫から受ける安慰の念を失つた。同時にもしや自分が此變化の原因ではなからうかと考へ付いた。忽ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲つて來た。移り行く美を果敢《はか》なむと云ふ共通性の情緒《じやうしよ》は丸《まる》で影を潜《ひそ》めて仕舞つた。――自分はそれ程の影響を此女の上に有して居る。――三四郎は此自覺のもとに一切の己《おの》れを意識した。けれどもその影響が自分に取つて、利益か不利益かは未決の問題である。

　其時原口さんが、とう／＼筆を擱《お》いて、

　「もう廢《よ》さう。今日は何うしても駄目だ」と云ひ出した。美禰子は持つてゐた團扇《うちは》を、立ちながら床《ゆか》の上に落した。椅子に掛けた羽織を取つて着ながら、此方《こちら》へ寄つて來た。

　「今日は疲れてゐますね」

　「私？」と羽織の裄《ゆき》を揃へて、紐を結んだ。

　「いや實は僕も疲れた。また明日《あした》元氣の好い時に遣りませう。まあ御茶でも飲んで緩《ゆつくり》なさい」

　夕暮には、まだ間《ま》があつた。けれども美禰子は少し用があるから歸るといふ。三四郎も留められたが、わざと斷つて、美禰子と一所に表へ出た。日本の社會?態で、かう云ふ機會を、隨意に造る事は、三四郎に取つて困難である。三四郎は成るべく此機會を長く引延ばして利用しやうと試みた。それで比較的人の通らない、閑靜な曙町《あけぼのちやう》を一廻り散歩しやうぢや無いかと女を誘《いざな》つて見た。所が相手は案外にも應じなかつた。一直線に生垣の間を横切つて、大通へ出た。三四郎は、並《なら》んで歩きながら、

　「原口さんも左《さ》う云つてゐたが、本當に何うかしたんですか」と聞いた。

　「私？」と美禰子が又云つた。原口さんに答へたと同じ事である。三四郎が美禰子を知つてから、美禰子はかつて、長い言葉を使つた事がない。大抵の應對は一句か二句で濟ましてゐる。しかも甚だ簡單なものに過ぎない。それでゐて、三四郎の耳には一種の深い響を與へる。殆ど他《ほか》の人からは、聞き得る事の出來ない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がつた。

　「私？」と云つた時、女は顔を半分程三四郎の方へ向けた。さうして二重瞼《ふたへまぶた》の切れ目から男を見た。其眼には暈《かさ》が被《かゝ》つてゐる樣に思はれた。何時《いつ》になく感じが生温《なまぬる》く來た。頬の色も少し蒼い。

　「色が少し惡い樣です」

　「左《さ》うですか」

　二人は五六歩無言であるいた。三四郎は何うともして、二人の間に掛つた薄い幕の樣なものを裂き破りたくなつた。然し何と云つたら破れるか、丸《まる》で分別《ふんべつ》が出なかつた。小説などにある甘い言葉は遣ひたくない。趣味の上から云つても、社交上若い男女《なんによ》の習慣としても、遣ひ度くない。三四郎は事實上不可能の事を望んでゐる。望んでゐる許《ばかり》ではない。歩きながら工夫してゐる。

　やがて、女の方から口を利き出した。

　「今日何か原口さんに御用が御有りだつたの」

　「いゝえ、用事は無かつたです」

　「ぢや、たゞ遊びに入らしつたの」

　「いゝえ、遊びに行つたんぢやありません」

　「ぢや、何んで入らしつたの」

　三四郎は此瞬間を捕へた。

　「あなたに會ひに行つたんです」

　三四郎は是で云へる丈《だけ》の事を悉《こと／”＼》く云つた積《つもり》である。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、例《いつも》の如く男を醉はせる調子で、

　「御金は、彼所《あすこ》ぢや頂けないのよ」と云つた。三四郎は落膽《がつかり》した。

　二人は又無言で五六間來た。三四郎は突然口を開《ひら》いた。

　「本當は金を返しに行つたのぢやありません」

　美禰子はしばらく返事をしなかつた。やがて、靜かに云つた。

　「御金は私も要りません。持つて入らつしゃい」

　三四郎は堪へられなくなつた。急に、

　「たゞ、あなたに會ひたいから行つたのです」と云つて、横に女の顔を覗き込んだ。女は三四郎を見なかつた。其時三四郎の耳に、女の口を洩れた微《かす》かな溜息《ためいき》が聞えた。

　「御金は……」

　「金なんぞ……」

　二人の會話は双方共意味を成さないで、途中で切れた。それなりで、又｜小半町《こはんちやう》程來た。今度は女から話し掛けた。

　「原口さんの畫《ゑ》を御覽になつて、どう御思ひなすつて」

　答へ方が色々あるので、三四郎は返事をせずに少しの間《あひだ》歩いた。

　「餘《あんま》り出來方が早いので御驚ろきなさりやしなくつて」

　「えゝ」と云つたが、實は始めて氣が付いた。考へると、原口が廣田先生の所へ來て、美禰子の肖像を描《か》く意志を洩らしてから、まだ一ケ月位にしかならない。展覽會で直接に美禰子に依頼してゐたのは、夫《それ》より後《のち》の事である。三四郎は畫の道に暗いから、あんな大きな額が、何の位な速度で仕上られるものか、殆んど想像の外《ほか》にあつたが、美禰子から注意されて見ると、餘り早く出來過ぎてゐる樣に思はれる。

　「何時《いつ》から取掛つたんです」

　「本當に取り掛つたのは、つい此間ですけれども、其前から少し宛｜描《か》いて頂いてゐたんです」

　「其前つて、何時《いつ》頃からですか」

　「あの服裝《なり》で分るでせう」

　三四郎は突然として、始めて池の周圍《まはり》で美禰子に逢つた暑い昔を思ひ出した。 　「そら、あなた、椎の木の下に跼《しや》がんでゐらしつたぢやありませんか」

　「あなたは團扇《うちは》を翳《かざ》して、高い所に立つてゐた」

　「あの畫の通りでせう」

　「えゝ。あの通りです」

　二人は顏を見合はした。もう少しで白山の坂の上へ出る。

　向《むかふ》から車が走《か》けて來た。黒い帽子を被つて、金縁《きんぶち》の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光澤《いろつや》の好い男が乘つてゐる。此車が三四郎の眼に這入つた時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見詰めてゐるらしく思はれた。二三間先へ來ると、車を急に留めた。前掛を器用に跳《は》ね退《の》けて、蹴込《けこ》みから飛び下りた所を見ると、脊のすらりと高い細面《ほそおもて》の立派な人であつた。髭を奇麗に剃つてゐる。それでゐて、全く男らしい。

　「今迄待つてゐたけれども、餘《あんま》り遲いから迎へに來た」と美禰子の眞前《まんまへ》に立つた。見下《みおろ》して笑つてゐる。

　「さう、難有《ありがた》う」と美禰子も笑つて、男の顔を見返したが、其眼をすぐ三四郎の方へ向けた。

　「何誰《どなた》」と男が聞いた。

　「大擧の小川さん」と美禰子が答へた。

　男は輕く帽子を取つて、向ふから挨拶をした。

　「早く行かう。兄さんも待つてゐる」

　好い具合に三四郎は追分《おひわけ》へ曲るべき横町の角に立つてゐた。金はとう／＼返さずに分れた。

　

　　　　　十一

　

　此頃與次郎が學校で文藝協會の切符を賣つて回つてゐる。二三日掛かつて、知つたものへは略《ほゞ》賣付けた樣子である。與次郎はそれから知らないものを捕《つら》まへる事にした。大抵は廊下で捕《つら》まへる。すると中々放さない。どうか、斯うか買はせて仕舞ふ。時には談判中に號鐘《ベル》が鳴つて取り逃す事もある。與次郎は之を時利あらずと號してゐる。時には相手が笑つてゐて、何時《いつ》迄も要領を得ない事がある。與次郎は之を人利あらずと號してゐる。或時便所から出て來た�ﾍ授を捕《つら》まへた。其�ﾍ授は手帛《ハンケチ》で手を拭きながら、今一寸と云つた儘急いで圖書館へ這入つて仕舞つた。夫《それ》ぎり決して出て來ない。與次郎は之を――何とも號しなかつた。後影《うしろかげ》を見送つて、あれは腸加答兒《ちやうカタル》に違ひないと三四郎に�ﾍへて呉れた。

　與次郎に切符の販賣方を何枚｜託《たの》まれたのかと聞くと、何枚でも賣れる丈《だけ》託《たの》まれたのだと云ふ。餘り賣れ過ぎて演藝場に這入り切れない恐れはないかと聞くと、少しは有ると云ふ。それでは賣つた後《あと》で困るだらうと念を推すと、何大丈夫だ、中には義理で買ふものもあるし、事故で來ないのもあるし、それから腸加答兒《ちやうカタル》も少しは出來るだらうと云つて、澄《す》ましてゐる。

　與次郎が切符を賣る所を見てゐると、引《ひ》き易《かへ》に金を渡すものからは無論即座に受け取るが、さうでない學生には只切符｜丈《だけ》渡してゐる。氣の小《ち》さい三四郎が見ると、心配になる位渡して歩く。あとから思ふ通り金が寄るかと聞いて見ると、無論寄らないといふ答だ。几帳面《きちやうめん》に僅か賣るよりも、だらしなく澤山賣る方が、大體の上に於て利益だから斯うすると云つてゐる。與次郎は之をタイムス社が日本で百科全書を賣つた方法に比較してゐる。比較｜丈《だけ》は立派に聞えたが、三四郎は何だか心元なく思つた。そこで一應與次郎に注意した時に、與次郎の返事は面白かつた。

　「相手は東京帝国大學學生だよ」

　「いくら學生だつて、君の樣に金に掛けると呑氣《のんき》なのが多いだらう」

　「なに善意に拂はないのは、文藝協會の方でも八釜敷《やかましく》は云はない筈だ。何うせ幾何《いくら》切符が賣れたつて、とゞの詰りは協會の借金になる事は明《あきら》かだから」

　三四郎は念の爲、それは君の意見か、協會の意見かと糺《たゞ》して見た。與次郎は、無論僕の意見であつて、協會の意見であると都合のいゝ事を答へた。

　與次郎の説を聞くと、今度の演藝會を見ないものは、丸《まる》で馬鹿の樣な氣がする。馬鹿の樣な氣がする迄與次郎は講釋をする。それが切符を賣る爲めだか、實際演藝會を信仰してゐる爲だか、或はたゞ自分の景氣を付け、かねて相手の景氣をつけ、次《つ》いでは演藝會の景氣をつけて、世上一般の空氣を出來る丈《だけ》賑やかにする爲だか、そこの所が一寸｜明晰《めいせき》に區別が立たないものだから、相手は馬鹿の樣な氣がするにも拘《かゝは》らず、あまり與次郎の感化を蒙らない。

　與次郎は第一に會員の練習に骨を折つてゐる話をする。話通りに聞いてゐると、會員の多數は、練習の結果として、當日前に役に立たなくなりさうだ。それから背景の話をする。其背景が大したもので、東京にゐる有爲の青年畫家を悉《こと／”＼》く引き上げて、悉《こと／”＼》く應分の技倆を振《ふる》はした樣な事になる。次に服裝の話をする。其服裝が頭から足の先迄｜故實《こじつ》づくめに出來上つてゐる。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんな面白い。其外｜幾何《いくら》でもある。

　與次郎は廣田先生と原口さんに招待券を送つたと云つてゐる。野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買はせたと云つてゐる。萬事が好都合だと云つてゐる。三四郎は與次郎の爲に演藝會萬歳を唱《とな》へた。

　萬歳を唱《とな》へた晩、與次郎が三四郎の下宿へ來た。晝間とは打つて變つてゐる。堅くなつて火鉢の傍《そば》へ坐つて寒い寒いと云ふ。其顔がたゞ寒いのでは無いらしい。始めは火鉢へ乘り掛《かゝ》る樣に手を翳《かざ》してゐたが、やがて懷手《ふところで》になつた。三四郎は與次郎の顔を陽氣にする爲に、机の上の洋燈《ランプ》を端《はじ》から端《はじ》へ移した。所が與次郎は顎をがつくり落して、大きな坊主頭｜丈《だけ》を黒く灯《ひ》に照してゐる。一向《いつかう》冴えない。何うかしたかと聞いた時に、首を擧げて洋燈《ランプ》を見た。

　「此｜家《うち》ではまだ電気を引かないのか」と顏付には全く縁のない事を聞いた。

　「まだ引かない。其内電氣にする積《つもり》ださうだ。洋燈《ランプ》は暗くて不可《いか》んね」と答へてゐると、急に、洋燈《ランプ》の事は忘れたと見えて、

　「おい、小川、大變な事が出來て仕舞つた」と云ひ出した。

　一應｜理由《わけ》を聞いて見る。與次郎は懷《ふところ》から皺《しわ》だらけの新聞を出した。二枚重なつてゐる。其一枚を剥《はが》して、新しく疊み直して、此所を讀んで見ろと差し付けた。讀む所を指の頭で抑へてゐる。三四郎は眼を洋燈《ランプ》の傍へ寄せた。見出《みだし》に大學の純文科とある。

　大學の外國文學科は從來西洋人の擔當で、當事者は一切の授業を外國�ﾍ師に依頼してゐたが、時勢の進歩と多數學生の希望に促《うなが》されて、今度｜愈《いよ／＼》本邦人の講義も必須課目《ひつすくわもく》として認めるに至つた。そこで此間中《このあひだぢゆう》から適當の人物を人選中《にんせんちゆう》であつたが、漸く某氏に決定して、近々發表になるさうだ。某氏は近き過去に於て、海外留學の命を受けた事のある秀才だから至極適任だらうと云ふ内容である。

　「廣田先生ぢや無かつたんだな」と三四郎が與次郎を顧みた。與次郎は矢つ張り新聞の上を見てゐる。

　「是は慥《たしか》なのか」と三四郎が又聞いた。

　「何うも」と首を曲げたが、「大抵大丈夫だらうと思つてゐたんだがな。遣《や》り損《そく》なつた。尤も此男が大分《だいぶ》運動をしてゐると云ふ話は聞いた事もあるが」と云ふ。

　「然し是《これ》丈《だけ》ぢや、まだ風説ぢやないか。愈《いよ／＼》發表になつて見なければ分らないのだから」

　「いや、それ丈《だけ》なら無論構はない。先生の關係した事ぢやないから、然し」と云つて、又殘りの新聞を疊み直して、標題《みだし》を指の頭で抑へて、三四郎の眼の下へ出した。

　今度の新聞にも略《ほゞ》同樣の事が載つてゐる。そこ丈《だけ》は別段に新しい印象を起しやうもないが、其｜後《あと》へ來て、三四郎は驚かされた。廣田先生が大變な不�ｺ義漢の樣に書いてある。十年間語學の�ﾍ師をして、世間には杳《えう》として聞えない凡材《ぼんざい》の癖に、大學で本邦人の外國文學講師を入れると聞くや否や、急に狐鼠々々《こそ／＼》運動を始めて、自分の評判記を學生間に流布《るふ》した。のみならず其門下生をして「偉大なる暗闇《くらやみ》」などゝ云ふ論文を小雜誌に草《さう》せしめた。此論文は零餘子《れいよし》なる匿名《とくめい》の下《もと》にあらはれたが、實は廣田の家《いへ》に出入《しゆつにふ》する文科大學生小川三四郎なるものゝ筆である事｜迄《まで》分つてゐる。と、とう／＼三四郎の名前が出て來た。

　三四郎は妙な顔をして與次郎を見た。與次郎は前から三四郎の顏を見てゐる。二人共しばらく黙つてゐた。やがて、三四郎が、

　「困るなあ」と云つた。少し與次郎を恨んでゐる。與次郎は、そこは餘《あまり》構つてゐない。

　「君、これを何う思ふ」と云ふ。

　「何う思ふとは」

　「投書を其儘出したに違ない。決して社の方で調べたものぢやない。文藝時評の六號活字の投書に斯んなのが、いくらでも來る。六號活字は殆んど罪惡のかたまりだ。よく／＼探《さぐ》つて見ると嘘が多い。目に見えた嘘を吐《つ》いてゐるのもある。何故《なぜ》そんな愚《ぐ》な事をやるかと云ふとね、君。みんな利害問題が動機になつてゐるらしい。それで僕が六號活字を受持つてゐる時には、性質《たち》の好くないのは、大抵屑籠へ放《はふ》り込んだ。此記事も全くそれだね。反對運動の結果だ」

　「何故、君の名が出ないで、僕の名が出たものだらうな」

　與次郎は「左《さ》うさ」と云つてゐる。しばらくしてから、

　「矢張《やつぱ》り何だらう。君は本科生で僕は選科生だからだらう」と説明した。けれども三四郎には、是が説明にも何にもならなかつた。三四郎は依然として迷惑である。

　「全體僕が零餘子《れいよし》なんて稀知《けち》な號を使はずに、堂々と佐々木與次郎と署名して置けば好かつた。實際あの論文は佐々木與次郎以外に書ける者は一人もないんだからなあ」

　與次郎は眞面目である。三四郎に「偉大なる暗闇」の著作権を奪はれて、却つて迷惑してゐるのかも知れない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。

　「君、先生に話したか」と聞いた。

　「さあ、其處だ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だつて、僕だつて、どちらだつて構はないが、事《こと》先生の人格に關係してくる以上は、話さずにはゐられない。あゝ云ふ先生だから、一向知りません、何か間違でせう、偉大なる暗闇といふ論文は雜誌に出ましたが、匿名です、先生の崇拜者が書いたものですから御安心なさい位に云つて置けば、さうかで直《すぐ》濟んで仕舞ふ譯だが、此際｜左《さ》うは不可《いか》ん。どうしたつて僕が責任を明かにしなくつちや。事が旨く行つて、知らん顔をしてゐるのは、心持が好いが、遣《や》り損《そく》なつて黙つてゐるのは不愉快で堪らない。第一自分が事を起して置いて、あゝ云ふ善良な人を迷惑な?態に陷らして、それで平氣に見物がして居られるものぢやない。正邪曲直なんて六づかしい問題は別として、たゞ気の毒で、痛《いた》はしくつて不可《いけ》ない」

　三四郎は始めて與次郎を感心な男だと思つた。

　「先生は新聞を讀んだんだらうか」

　「家《うち》へ來る新聞にやない。だから僕も知らなかつた。然し先生は學校へ行つて色々な新聞を見るからね。よし先生が見なくつても誰か話すだらう」

　「すると、もう知つてるな」

　「無論知つてるだらう」

　「君には何とも云はないか」

　「云はない。尤も碌《ろく》に話をする暇《ひま》もないんだから、云はない筈だが。此間から演藝會の事で始終奔走してゐるものだから――あゝ演藝會も、もう厭になつた。已《や》めて仕舞はうかしらん。御白粉《おしろい》を附けて、芝居なんかやつたつて、何が面白いものか」

　「先生に話したら、君、叱られるだらう」

　「叱られるだらう。叱られるのは仕方がないが、如何にも気の毒でね。餘計な事をして迷惑を掛けてるんだから。――先生は道樂のない人でね。酒は飲まず、煙草は」と云ひかけたが途中で已《や》めて仕舞つた。先生の哲學を鼻から烟《けむ》にして吹き出す量は月に積《つも》ると、莫大なものである。

　「煙草｜丈《だ》けは可なり呑むが、其外に何にも無いぜ。釣をするぢやなし、碁を打つぢやなし、家庭の樂みがあるぢやなし。あれが一番｜不可《いけ》ない。子供でもあると可《い》いんだけれども。實に枯淡だからなあ」

　與次郎は夫《それ》で腕組をした。

　「たまに、慰め樣と思つて、少し奔走すると、斯んな事になるし。君も先生の所へ行つて遣れ」

　「行つて遣る所ぢやない。僕にも多少責任があるから、謝罪《あやま》つて來る」

　「君は謝罪《あやま》る必要はない」

　「ぢや辯解して來る」

　與次郎は夫《それ》で歸つた。三四郎は床に這入つてから度々《たび／＼》寐返りを打つた。國にゐる方が寐易い心持がする。僞《いつ》はりの記事――廣田先生――美禰子――美禰子を迎へに來て連れて行つた立派な男――色々の刺激がある。

　夜中からぐつすり寐た。何時《いつ》もの樣に起きるのが、ひどく辛かつた。顔を洗ふ所で、同じ文科の學生に逢つた。顏｜丈《だけ》は互に見知り合ひである。失敬と云ふ挨拶のうちに、此男は例の記事を讀んで居るらしく推《すゐ》した。然し先方では無論｜話頭《わとう》を避けた。三四郎も辯解を試みなかつた。

　暖かい汁の香《か》を嗅《か》いでゐる時に、又｜故里《ふるさと》の母からの書信に接した。又例の如く長かりさうだ。洋服を着換へるのが面倒だから、着たまゝの上へ袴を穿《は》いて、懷へ手紙を入れて、出る。戸外《そと》は薄い霜で光つた。

　通りへ出ると、殆んど學生｜許《ばかり》歩いてゐる。それが、みな同じ方向へ行く。悉《こと／”＼》く急いで行く。寒い往來は若い男の活氣で一杯になる。其｜中《なか》に霜降の外套を着た廣田先生の長い影が見えた。此青年の隊伍に紛れ込んだ先生は、歩調に於て既に時代錯誤《アナクロニズム》である。左右前後に比較すると頗る緩慢に見える。先生の影は校門のうちに隱れた。門内に大きな松がある。巨人の傘《からかさ》の樣に枝を擴げて玄關を塞《ふさ》いでゐる。三四郎の足が門前｜迄《まで》來た時は先生の影が、既に消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計臺｜許《ばかり》であつた。此時計臺の時計は常に狂つてゐる。もしくは留まつてゐる。

　門内を一寸｜覗込《のぞきこ》んだ三四郎は、口の内で「ハイドリオタフヒア」と云ふ字を二度繰返した。此字は三四郎の覺えた外國語のうちで、尤も長い、又尤も六づかしい言葉の一つであつた。意味はまだ分らない。廣田先生に聞いて見る積《つもり》でゐる。かつて與次郎に尋ねたら、恐らくダーターフアブラの類《たぐひ》だらうと云つてゐた。けれども三四郎から見ると二つの間には大變な違がある。ダーターフアブラは躍るべき性質のものと思へる。ハイドリオタフヒアは覺えるのにさへ暇が入る。二返繰り返すと歩調が自《おのづ》から緩慢になる。廣田先生の使ふために古人が作つて置いた樣な音《おん》がする。

　學校へ行つたら、「偉大なる暗闇」の作者として、衆人の注意を一身に集めてゐる氣色《きしよく》がした。戸外《そと》へ出《で》樣《やう》としたが、戸外《そと》は存外寒いから廊下にゐた。さうして講義の間《あひだ》に懷から母の手紙を出して讀んだ。

　此冬休みには歸つて來いと、丸《まる》で熊本にゐた當時と同樣な命令がある。實は熊本にゐた時分にこんな事があつた。學校が休みになるか、ならないのに、歸れと云ふ電報が掛かつた。母の病氣に違ないと思ひ込んで、驚いて飛んで歸ると、母の方では此方《こつち》に變がなくつて、まあ結構だつたと云はぬ許《ばか》りに喜んでゐる。譯を聞くと、何時《いつ》迄待つてゐても歸らないから、御稻荷樣《おいなりさま》へ伺《うかゞひ》を立てたら、こりや、もう熊本を立つてゐるといふ御託宣《ごたくせん》であつたので、途中で何うかしはせぬだらうかと非常に心配してゐたのだと云ふ。三四郎は其當時を思ひ出して、今度も亦｜伺《うかゞひ》を立てられる事かと思つた。然し手紙には御稲荷樣《おいなりさま》の事は書いてない。たゞ三輪田《みわた》の御光《おみつ》さんも待つてゐると割註《わりちゆう》見た樣なものが付いてゐる。御光《おみつ》さんは豐津《とよつ》の女學校をやめて、家《うち》へ歸つたさうだ。又｜御光《おみつ》さんに縫つて貰つた綿入が小包で來るさうだ。大工の角三《かくざう》が山で賭博《ばくち》を打つて九十八圓取られたさうだ。――其｜?末《てんまつ》が委しく書いてある。面倒だから好い加減に讀んだ。何でも山を買ひたいといふ男が三人｜連《づれ》で入り込んで來たのを、角三《かくざう》が案内をして、山を廻つてあるいてる間《あひだ》に取られて仕舞つたのださうだ。角三《かくざう》はうちへ歸つて、女房に何時《いつ》の間《ま》に取られたか分らないと辯解した。すると、女房が夫《それ》ぢや御前さん眠り藥でも嗅がされたんだらうと云つたら、角三《かくざう》が、うんさう云へば何だか嗅いだ樣だと答へたさうだ。けれども村のものはみんな賭博《ばくち》をして卷き上《あげ》られたと評判してゐる。田舍《ゐなか》でも斯うだから、東京にゐる御前なぞは、本當によく氣を付けなくては不可《いけ》ないと云ふ訓誡が付いてゐる。

　長い手紙を卷き収めてゐると、與次郎が傍《そば》へ來て、「やあ女の手紙だな」と云つた。昨夕《ゆぅべ》よりは冗談をいふ丈《だけ》元氣が可《い》い。三四郎は、

　「なに母からだ」と、少し詰らなさうに答へて、封筒ごと懷へ入れた。

　「里見の御孃さんからぢやないのか」

　「いゝや」

　「君、里見の御孃さんの事を聞いたか」

　「何を」と問ひ返してゐる所へ、一人の學生が、與次郎に、演藝會の切符を欲しいといふ人が階下《した》に待つてゐると�ﾍへに來てくれた。與次郎はすぐ降《お》りて行つた。

　與次郎は夫《それ》なり消えてなくなつた。いくら捕《つら》まへやうと思つても出て來ない。三四郎は已《やむ》を得ず精出して講義を筆記してゐた。講義が濟んでから、昨夕《ゆうべ》の約束通り廣田先生の家《うち》へ寄る。相變らず靜である。先生は茶の間に長くなつて寐てゐた。婆さんに、どうか爲《な》すつたのかと聞くと、左《さ》うぢや無いのでせう、昨夕《ゆうべ》餘り遲くなつたので、眠いと云つて、先刻《さつき》御歸りになると、すぐ横に御成りなすつたのだと云ふ。長い身?《からだ》の上に小夜着《こよぎ》が掛けてある。三四郎は小さな聲で、又婆さんに、どうして、さう遲くなつたのかと聞いた。なに何時《いつ》でも遲いのだが、昨夕《ゆうべ》のは勉強ぢやなくつて、佐々木さんと久しく御話をして御出《おいで》だつたのだといふ答である。勉強が佐々木に代つたから、晝寐をする説明にはならないが、與次郎が、昨夕《ゆうべ》先生に例の話をした事｜丈《だけ》は是で明瞭になつた。序に與次郎が、どう叱られたか聞いて置きたいのだが、それは婆さんが知らう筈がないし、肝心の與次郎は學校で取り逃して仕舞つたから仕方がない。今日の元氣の好い所を見ると、大した事件には成らずに濟んだのだらう。尤も與次郎の心理現象は到底三四郎には解らないのだから、實際どんな事があつたか想像は出來ない。

　三四郎は長火鉢の前へ坐つた。鐵瓶がちん／＼鳴つてゐる。婆さんは遠慮をして下女部屋へ引取つた。三四郎は胡坐《あぐら》をかいて、鐵瓶に手を翳《かざ》して、先生の起きるのを待つてゐる。先生は熟睡してゐる。三四郎は靜かで好い心持になつた。爪で鐵瓶を敲《たゝ》いて見た。熱い湯を茶碗に注《つ》いでふう／＼吹いて飲んだ。先生は向《むかふ》をむいて寐てゐる。二三日｜前《まへ》に頭を刈つたと見えて、髪が甚だ短い。髭の端《はじ》が濃く出てゐる。鼻も向ふを向いてゐる。鼻の穴がすう／＼云ふ。安眠だ。

　三四郎は返さうと思つて、持つて來たハイドリオタフヒアを出して讀み始めた。ぽつ／＼拾ひ讀をする。中々解らない。墓の中に花を投げる事が書いてある。羅馬人《ローマじん》は薔薇《ばら》を affect《アツフエクト》 すると書いてある。何の意味だか能く知らないが、大方｜好《この》むとでも譯するんだらうと思つた。希臘人《ギリシヤじん》は Amaranth《アマランス》 を用ひると書いてある。是も明瞭でない。然し花の名には違ひない。夫《それ》から少し先へ行くと、丸《まる》で解らなくなつた。頁《ページ》から眼を離して先生を見た。まだ寐てゐる。何で斯んな六づかしい書物を自分に貸したものだらうと思つた。それから、此六づかしい書物が、何故《なぜ》解らないながらも、自分の興味を惹くのだらうと思つた。最後に廣田先生は畢竟《ひつきやう》ハイドリオタフヒアだと思つた。

　さうすると、廣田先生がむくりと起きた。首｜丈《だけ》持上げて、三四郎を見た。

　「何時《いつ》來たの」と聞いた。三四郎はもつと寐て御出《おいで》なさいと勸めた。實際退屈ではなかつたのである。先生は、

　「いや起きる」と云つて起きた。それから例の如く哲學の烟を吹き始めた。烟が沈黙の間に、棒になつて出る。

　「有難う。書物を返します」

　「あゝ。――讀んだの」

　「讀んだけれどもよく解らんです。第一標題が解らんです」

　「ハイドリオタフヒア」

　「何の事ですか」

　「何の事か僕にも分らない。兎に角｜希臘語《ギリシヤご》らしいね」

　三四郎はあとを尋ねる勇氣が拔けて仕舞つた。先生は欠《あくび》を一つした。

　「あゝ眠かつた。好い心持に寐た。面白い夢を見てね」

　先生は女の夢だと云つてゐる。それを話すのかと思つたら、湯に行かないかと云ひ出した。二人は手拭を提《さ》げて出掛けた。

　湯から上つて、二人が板の間に据ゑてある器械の上に乘つて、身長《たけ》を測《はか》つて見た。廣田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。

　「まだ延びるかも知れない」と廣田先生が三四郎に云つた。

　「もう駄目です。三年來この通りです」と三四郎が答へた。

　「左《さ》うかな」と先生が云つた。自分を餘程《よつぽど》子供の樣に考へてゐるのだと三四郎は思つた。家《うち》へ歸つた時、先生が、用が無ければ話して行つても構はないと、書齋の戸を開けて、自分が先へ這入《はい》つた。三四郎は兎に角、例の用事を片付ける義務があるから、續いて這入つた。

　「佐々木は、まだ歸らない樣ですな」

　「今日は遲くなるとか云つて斷わつてゐた。此間から演藝會の事で大分奔走してゐる樣だが、世話好きなんだか、驅《か》け回《まは》る事が好きなんだか、一向要領を得ない男だ」

　「親切なんですよ」

　「目的｜丈《だけ》は親切な所も少《すこし》あるんだが、何しろ、頭の出來が甚だ不親切だものだから、碌な事は仕出《しで》かさない。一寸見ると、要領を得てゐる。寧ろ得過ぎてゐる。けれども終局へ行くと、何の爲めに要領を得て來たのだか、丸《まる》で滅茶苦茶になつて仕舞ふ。いくら云つても直さないから放《はふ》つて置く。あれは惡戯《いたづら》をしに世の中へ生れて來た男だね」

　三四郎は何とか辯護の道がありさうなものだと思つたが、現に結果の惡い實例があるんだから、仕樣がない。話を轉じた。

　「あの新聞の記事を御覽でしたか」

　「えゝ、見た」

　「新聞に出る迄は些《ちつ》とも御存じなかつたのですか」

　「いゝえ」

　「御驚きなすつたでせう」

　「驚くつて――夫《そ》れは全く驚かない事もない。けれども世の中の事はみんな、彼《あ》んなものだと思つてるから、若い人｜程《ほど》正直に驚きはしない」

　「御迷惑でせう」

　「迷惑でない事もない。けれども僕位世の中に住み古《ふ》るした年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事實だと思ひ込む人｜許《ばかり》もないから、矢つ張若い人程正直に迷惑とは感じない。與次郎は社員に知つたものがあるから、其男に頼んで眞相を書いて貰ふの、あの投書の出所《でどころ》を探して制裁を加へるの、自分の雜誌で充分｜反駁《はんばく》を致しますのと、善後策の了見《れうけん》で下らない事を色々云ふが、そんな手數《てかず》をするならば、始から餘計な事を起さない方が、いくら好いか分りやしない」

　「全く先生の爲を思つたからです。惡氣《わるぎ》ぢやないです」

　「惡氣《わるぎ》で遣られて堪るものか。第一僕の爲めに運動をするものがさ、僕の意向も聞かないで、勝手な方法を講じたり勝手な方針を立てた日には、最初から僕の存在を愚弄してゐると同じ事ぢやないか。存在を無視されてゐる方が、どの位體面を保つに都合が好いか知れやしない」

　三四郎は仕方なしに黙つてゐた。

　「さうして、偉大なる暗闇なんて愚《ぐ》にも付かないものを書いて。――新聞には君が書いたとしてあるが實際は佐々木が書いたんだつてね」

　「左《さ》うです」

　「昨夜《ゆうべ》佐々木が自白した。君こそ迷惑だらう。あんな馬鹿な文章は佐々木より外に書くものはありやしない。僕も讀んで見た。實質もなければ、品位もない、丸《まる》で救世軍の太鼓の樣なものだ。讀者の惡感情を引き起す爲めに、書いてるとしか思はれやしない。徹頭徹尾｜故意《こい》だけで成り立つてゐる。常識のあるものが見れば、何うしても爲にする所があつて起稿したものだと判定がつく。あれぢや僕が門下生に書かしたと云はれる筈だ。あれを讀んだ時には、成程新聞の記事は尤もだと思つた」

　廣田先生は夫《それ》で話を切つた。鼻から例によつて烟を吐く。與次郎は此烟の出方で、先生の氣分を窺ふ事が出來ると云つてゐる。濃く眞直に迸《ほとば》しる時は、哲學の絶高頂に達した際で、緩《ゆる》く崩れる時は、心氣平穩、ことによると冷かされる恐れがある。烟が、鼻の下に低徊して、髭に未練がある樣に見える時は、冥想に入る。もしくは詩的感興がある。尤も恐るべきは孔の先の渦である。渦が出ると、大變に叱られる。與次郎の云ふ事だから、三四郎は無論｜當《あて》にはしない。然し此際だから氣を付けて烟りの形?《かたち》を眺めてゐた。すると與次郎の云つた樣な判然たる烟は些《ちつ》とも出て來ない。其代り出るものは、大抵な資格をみんな具へてゐる。

　三四郎が何時《いっ》迄立つても、恐れ入つた樣に控へてゐるので、先生は又話し始めた。

　「濟んだ事は、もう已《や》めやう。佐々木も昨夜《ゆうべ》悉《こと／”＼》く詫《あや》まつて仕舞つたから、今日あたりは又｜晴々《せい／＼》して例の如く飛んで歩いてゐるだらう。いくら蔭で不心得を責めたつて、當人が平氣で切符なんぞ賣つて歩いて居ては仕方がない。夫《それ》よりもつと面白い話を仕樣」

　「えゝ」

　「僕がさつき晝寐をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再會したと云ふ小説染みた御話だが、其方が、新聞の記事より聞いてゐても愉快だよ」

　「えゝ。何んな女ですか」

　「十二三の寄麗な女だ。顏に黒子《ほくろ》がある」

　三四郎は十二三と聞いて少し失望した。

　「何時《いつ》頃御逢ひになつたのですか」

　「二十年｜許《ばかり》前」

　三四郎は又驚いた。

　「善く其女と云ふ事が分りましたね」

　「夢だよ。夢だから分るさ。さうして夢だから不思議で好い。僕が何でも大きな森の中を歩いて居る。あの色の褪《さ》めた夏の洋服を着てね、あの古い帽子を被《かぶ》つて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡《すべ》て宇宙の法則は變らないが、法則に支配される凡《すべ》て宇宙のものは必ず變る。すると其法則は、物の外《ほか》に存在してゐなくてはならない。――覺めて見ると詰らないが夢の中だから眞面目にそんな事を考へて森の下を通つて行くと、突然其女に逢つた。行き逢つたのではない。向《むかふ》は凝《じつ》と立つてゐた。見ると、昔の通りの顏をしてゐる。昔の通りの服裝《なり》をしてゐる。髪も昔の髪である。黒子《ほくろ》も無論あつた。つまり二十年｜前《まへ》見た時と少しも變らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少しも變らないといふと、其女は僕に大變年を御取りなすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何うして、さう變らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此｜服裝《なり》の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ。それは何時《いつ》の事かと聞くと、二十年｜前《まへ》、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故《なぜ》斯う年を取つたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと�ﾍへて呉れた。其時僕が女に、あなたは畫《ゑ》だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」

　「それから何うしました」と三四郎が聞いた。

　「それから君が來たのさ」と云ふ。

　「二十年｜前《まへ》に逢つたと云ふのは夢ぢやない、本當の事實なんですか」

　「本當の事實なんだから面白い」

　「何處で御逢ひになつたんですか」

　先生の鼻は又烟を吹き出した。其烟を眺めて、當分黙つてゐる。やがて斯う云つた。

　「憲法發布は明治二十二年だつたね。其時森文部大臣が殺された。君は覺えてゐまい。幾年《いくつ》かな君は。さう、それぢや、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等學校の生徒であつた。大臣の葬式に參列するのだと云つて、大勢《おほぜい》鐵砲を擔《かつ》いで出た。墓地へ行くのだと思つたら、さうではない。體操の�ﾍ師が竹橋｜内《うち》へ引張つて行つて、路傍《みちばた》へ整列さした。我々は其處へ立つたなり、大臣の柩《ひつぎ》を送る事になつた。名は送るのだけれども、實は見物したのも同然だつた。其日は寒い日でね、今でも覺えてゐる。動かずに立つてゐると、靴の下で足が痛む。隣の男が僕の鼻を見ては赤い赤いと云つた。やがて行列が來た。何でも長いものだつた。寒い眼の前を靜かな馬車や俥が何臺となく通る。其｜中《うち》に今話した小さな娘がゐた。今、其時の模樣を思ひ出さうとしても、ぼうとして辿《とて》も明瞭に浮《うか》んで來ない。たゞこの女｜丈《だけ》は覺えてゐる。夫《それ》も年を經つに從つて段々薄らいで來た、今では思ひ出す事も滅多にない。今日夢を見る前迄は、丸《まる》で忘れてゐた、けれども其當時は頭の中へ燒き付けられた樣に熱い印象を持つてゐた。――妙なものだ」

　「それから其の女には丸《まる》で逢はないんですか」

　「丸《まる》で逢はない」

　「ぢや、何處の誰だか全く分らないんですか」

　「無論分らない」

　「尋ねて見なかつたですか」

　「いゝや」

　「先生は夫《それ》で……」と云つたが急に痞《つか》へた。

　「夫《それ》で？」

　「夫《それ》で結婚をなさらないんですか」

　先生は笑ひ出した。

　「それ程｜浪漫的《ロマンチツク》な人間ぢやない。僕は君よりも遙《はるか》に散文的に出來てゐる」

　「然し、もし其女が來たら御貰ひになつたでせう」

　「さうさね」と一度考へた上で、「貰つたらうね」と云つた。三四郎は氣の毒な樣な顏をしてゐる。すると先生が又話出した。

　「その爲に獨身を餘儀なくされたといふと、僕が其女の爲に不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生れ付いて、結婚の出來ない不具もあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐる者がある」

　「そんなに結婚を妨《さまた》げる事情が世の中に澤山あるでせうか」

　先生は烟の間から、凝《じっ》と三四郎を見てゐた。

　「ハムレツトは結婚したく無かつたんだらう。ハムレツトは一人しか居ないかも知れないが、あれに似た人は澤山ゐる」

　「例へばどんな人です」

　「例へば」と云つて、先生は黙つた。烟がしきりに出る。「例へば、こゝに一人の男がゐる。父は早く死んで、母一人を頼《たより》に育つたとする。其母が又病氣に罹つて、愈《いよ／＼》息を引き取るといふ、間際に、自分が死んだら誰某《だれそれがし》の世話になれといふ。子供が會つた事もない、知りもしない人を指名する。理由《わけ》を聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと實は誰某《だれそれがし》が御前の本當の御父《おとつさん》だと微《かす》かな聲で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子がゐるとする。すると、其子が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」

　「そんな人は滅多にないでせう」

　「滅多には無いだらうが、居る事はゐる」

　「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」

　先生はハヽヽヽと笑つた。

　「君は慥《たし》か御母《おつか》さんが居たね」

　「えゝ」

　「御父《おとつ》さんは」

　「死にました」

　「僕の母は憲法發布の翌年《よくねん》に死んだ」

　

　　　　　十二

　

　演藝會は比較的寒い時に開かれた。年は漸く押し詰つて來る。人は二十日《はつか》足らずの眼の先に春を控えた。市《いち》に生きるものは、忙しからんとしてゐる。越年《をつねん》の計《はかりごと》は貧者の頭《かうべ》に落ちた。演藝會は此｜間《あひだ》に在つて、凡《すべ》ての長閑《のどか》なるものと、餘裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎へた。

　それが、幾何《いくら》でもゐる。大抵は若い男女《なんによ》である。一日目《いちじつめ》に與次郎が、三四郎に向つて大成功と叫んだ。三四郎は二日目《ふつかめ》の切符を持つてゐた。與次郎が廣田先生を誘《さそ》つて行けと云ふ。切符が違ふだらうと聞けば、無論違ふと云ふ。然し一人で放《はふ》つて置くと、決して行く気遣《きづかひ》がないから、君が寄つて引張り出すのだと理由《わけ》を説明して聞かせた。三四郎は承知した。

　夕刻に行つて見ると、先生は明るい洋燈《ランプ》の下に大きな本を擴《ひろ》げてゐた。

　「御出《おいで》になりませんか」と聞くと、先生は少し笑ひながら、無言の儘首を横に振つた。子供の樣な所作をする。然し三四郎には、それが學者らしく思はれた。口を利かない所が床《ゆか》しく思はれたのだらう。三四郎は中腰になつて、ぼんやりしてゐた。先生は斷わつたのが気の毒になつた。

　「君行くなら、一所に出樣。僕も散歩ながら、其所迄行くから」

　先生は黒い廻套《まはし》を着て出た。懷手《ふところで》らしいが分らない。空が低く垂れてゐる。星の見えない寒さである。

　「雨になるかも知れない」

　「降ると困るでせう」

　「出入《ではい》りにね。日本の芝居小屋は下足があるから、天気の好い時ですら大變な不便だ。それで小屋の中は、空氣が通はなくつて、煙草が烟つて、頭痛がして、――よく、みんな、彼《あれ》で我慢が出來るものだ」

　「ですけれども、眞逆《まさか》戸外で遣る譯にも行かないからでせう」

　「御神樂《おかぐら》は何時《いつ》でも外で遣つてゐる。寒い時でも外で遣る」

　三四郎は、こりや議論にならないと思つて、答を見合せて仕舞つた。

　「僕は戸外が好い。暑くも寒くもない、奇麗な空の下で、美しい空氣を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空氣の樣な、純粹で單簡《たんかん》な芝居が出來さうなものだ」

　「先生の御覽になつた夢でも、芝居にしたらそんなものが出來るでせう」

　「君｜希臘《ギリシヤ》の芝居を知つてゐるか」

　「能く知りません。慥《たし》か戸外で遣つたんですね」

　「戸外。眞晝間《まつぴるま》。嘸《さぞ》好い心持だつたらうと思ふ。席は天然《てんねん》の石だ。堂々としてゐる。與次郎の樣なものは、さう云ふ所へ連れて行つて、少し見せてやると好い」

　又與次郎の惡口が出た。其與次郎は今頃窮屈な會場のなかで、一生懸命に、奔走し且《か》つ斡旋《あつせん》して大得意なのだから面白い。もし先生を連れて行かなからうものなら、先生｜果《はた》して來ない。會《たま》には斯う云ふ所へ來て見るのが、先生の爲には何《ど》の位好いか分らないのだのに、いくら僕が云つても聞かない。困つたものだなあ。と嘆息するに極つてゐるから猶《なほ》面白い。

　先生は夫《それ》から希臘《ギリシヤ》の劇場の構造を委《くは》しく話して呉れた。三四郎は此時先生から、Theatron《テアトロン》、Orchêstra《オルケストラ》、Skênê《スケーネ》、Proskênion《プロスケニオン》などゝ云ふ字の講釋を聞いた。何とか云ふ獨逸人《ドイツじん》の説によると亞典《アテン》の劇場は一萬七千人を容《い》れる席があつたと云ふ事も聞いた。それは小さい方である。尤も大きいのは、五萬人を容《い》れたと云ふ事も聞いた。入場券は象牙《ざうげ》と鉛《なまり》と二通りあつて、何《いづ》れも賞牌《メダル》見たやうな恰好で、表に模樣が打ち出してあつたり、彫刻が施《ほどこ》してあると云ふ事も聞いた。先生は其入場券の價《あたひ》迄知つてゐた。一日｜丈《だけ》の小芝居は十二錢で、三日續《みつかつゞき》の大芝居は三十五錢だと云つた。三四郎がへえ、へえと感心してゐるうちに、演藝會場の前へ出た。

　盛んに電燈が點《つ》いてゐる。入場者は續々《ぞく／＼》寄つて來る。與次郎の云つたよりも以上の景氣である。

　「どうです、折角だから御這入《おはいり》になりませんか」

　「いや這入らない」

　先生は又暗い方へ向いて行つた。

　三四郎は、しばらく先生の後影《うしろかげ》を見送つてゐたが、あとから、車で乘り付ける人が、下足札を受け取る手間《てま》も惜しさうに、急いで這入つて行くのを見て、自分も足早に入場した。前へ押されたと同じ事である。

　入口に四五人｜用《よう》のない人が立つてゐる。そのうちの袴を着けた男が入場券を受け取つた。其男の肩の上から場内を覗いて見ると、中は急に廣くなつてゐる。且《か》つ甚だ明るい。三四郎は眉に手を加へない許《ばかり》にして、導かれた席に着いた。狹い所に割り込みながら、四方を見廻すと、人間の持つて來た色で眼がちら／＼する。自分の眼を動かすから許《ばかり》ではない。無數の人間に附着した色が、廣い空間で、絶えず各自《めい／＼》に、且《か》つ勝手に、動くからである。

　舞臺ではもう始まつてゐる。出て來る人物が、みんな冠《かんむり》を被《かむ》つて、沓《くつ》を穿《は》いて居た。そこへ長い輿《こし》を擔《かつ》いで來た。それを舞臺の眞中《まんなか》で留めたものがある。輿《こし》を卸《おろ》すと、中《なか》から又一人あらはれた。其男が刀を拔いて、輿《こし》を突き返したのと斬り合を始めた。――三四郎には何のことか丸《まる》で分らない。尤も與次郎から梗概を聞いた事はある。けれども好加減に聞いてゐた。見れば分るだらうと考へて、うん成程と云つてゐた。所が見れば毫も其意を得ない。三四郎の記憶にはたゞ入鹿《いるか》の大臣《おとゞ》といふ名前が殘つてゐる。三四郎はどれが入鹿《いるか》だらうかと考へた。それは到底見込が付かない。そこで舞臺全體を入鹿《いるか》の積《つもり》で眺めてゐた。すると冠《かんむり》でも、沓《くつ》でも、筒袖の衣服《きもの》でも、使ふ言葉でも、何となく入鹿《いるか》臭くなつて來た。實を云ふと三四郎には確然たる入鹿《いるか》の觀念がない。日本歴史を習つたのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿《いるか》の事もつい忘れて仕舞つた。推古天皇の時の樣でもある。欽明天皇の御代《みよ》でも差支ない氣がする。應神天皇や聖武天皇では決してないと思ふ。三四郎はたゞ入鹿《いるか》じみた心持を持つてゐる丈《だけ》である。芝居を見るには夫《それ》で澤山だと考へて、唐《から》めいた裝束《しやうぞく》や背景を眺めてゐた。然し筋はちつとも解らなかつた。其うち幕になつた。

　幕になる少し前に、隣りの男が、其の又隣りの男に、登場人物の聲が、六疊數で、親子｜差向《さしむかひ》の談話の樣だ。丸《まる》で訓練がないと非難してゐた。そつち隣りの男は登場人物の腰が据《すわ》らない。悉《こと／”＼》くひよろ／＼してゐると訴へてゐた。二人は登場人物の本名《はんみやう》をみんな暗《そら》んじてゐる。三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いてゐた。二人共立派な服裝《なり》をしてゐる。大方有名な人だらうと思つた。けれどももし與次郎に此談話を聞かせたら定めし反對するだらうと思つた。其時｜後《うしろ》の方で旨い／＼中々旨いと大きな聲を出したものがある。隣の男は二人とも後《うしろ》を振返つた。それぎり話を已《やめ》て仕舞つた。そこで幕が下りた。

　彼處《あすこ》、比處に席を立つものがある。花道から出口へ掛けて、人の影が頗る忙《いそが》しい。三四郎は中腰になつて、四方《しはう》をぐるりと見廻した。來てゐる筈の人は何處にも見えない。本當を云ふと演藝中にも出來る丈《だけ》は氣を付けてゐた。それで知れないから、幕になつたらばと内々心當にしてゐたのである。三四郎は少し失望した。已《やむ》を得ず眼を正面に歸した。

　隣の連中は餘程世間が廣い男達と見えて、右左を顧みて、彼處《あすこ》には誰がゐる。此處には誰がゐると頻に知名の人の名を口にする。中には離れながら、互に挨拶をしたのも一二｜人《にん》ある。三四郎は御蔭で此等知名な人の細君を少し覺えた。其中には新婚した許《ばかり》のものもあつた。是は隣の一｜人《にん》にも珍らしかつたと見えて、其男はわざ／＼眼鏡を拭き直して、成程々々と云つて見てゐた。

　すると、幕の下《お》りた舞臺の前を、向ふの端《はじ》から此方《こつち》へ向けて、小走《こばしり》に與次郎が走《か》けて來た。三分の二程の所で留つた。少し及び腰になつて、土間の中を覗き込みながら、何か話してゐる。三四郎はそれを見當に覘《ねら》ひを付けた。―― 舞臺の端《はじ》に立つた與次郎から一直線に二三間隔てゝ美禰子の横顔が見えた。

　其｜傍《そば》にゐる男は脊中を三四郎に向けてゐる。三四郎は心のうちに、此男が何かの拍子に、どうかして此方《こつち》を向いて呉れゝば好いと念じてゐた。旨い具合に其男は立つた。坐り疲《くた》びれたと見えて、枡《ます》の仕切に腰を掛けて、場内を見廻し始めた。其時三四郎は明らかに野々宮さんの廣い額と大きな眼を認める事が出來た。野々宮さんが立つと共に、美禰子の後《うしろ》にゐたよし子の姿も見えた。三四郎は此三人の外に、まだ連《つれ》が居るか居ないかを確めやうとした。けれども遠くから見ると、たゞ人がぎつしり詰つてゐる丈《だけ》で、連《つれ》と云ヘば土間全體が連《つれ》と見える迄だから仕方がない。美禰子と與次郎の間《あひだ》には、時々談話が交換されつゝあるらしい。野々宮さんも折々口を出すと思はれる。

　すると突然原口さんが幕の間から出て來た。與次郎と並《なら》んでしきりに土間の中を覗き込む。口は無論動かしてゐるのだらう。野々宮さんは相圖の樣な首を竪《たて》に振つた。其時原口さんは後《うしろ》から、平手で、與次郎の脊中を叩いた。與次郎はくるりと引つ繰り返つて、幕の裾を潜《もぐ》つて何處かへ消え失せた。原口さんは、舞臺を降りて、人と人との間を傳はつて、野々宮さんの傍《そば》迄《まで》來た。野々宮さんは、腰を立てゝ原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛込んだ。美禰子とよし子のゐる邊《あたり》で見えなくなつた。

　此｜連中《れんぢゆう》の一擧一動を演藝以上の興味を以て注意してゐた三四郎は、此時急に原口流の所作が羨ましくなつた。あゝ云ふ便利な方法で人の傍《そば》へ寄る事が出來やうとは毫も思ひ付かなかつた。自分も一つ眞似て見樣かしらと思つた。然し眞似ると云ふ自覺が、既に實行の勇氣を挫《くじ》いた上に、もう入《はい》る席は、いくら詰めても、六づかしからうといふ遠慮が手傳つて、三四郎の尻は依然として、故《もと》の席を去り得なかつた。

　其うち幕が開《あ》いて、ハムレツトが始まつた。三四郎は廣田先生のうちで西洋の何とかいふ名優の扮《ふん》したハムレツトの寫眞を見た事がある。今三四郎の眼の前にあらはれたハムレツトは、是と略《ほゞ》同樣の服裝をしてゐる。服裝ばかりではない。顏迄似てゐる。兩方共｜八《はち》の字《じ》を寄せてゐる。

　此ハムレツトは動作が全く輕快で、心持が好い。舞臺の上に大《おほい》に動いて、又大いに動かせる。能掛《のうがゝ》りの入鹿《いるか》とは大變｜趣《おもむき》を異《こと》にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞臺の眞中に立つて、手を擴げて見たり、空を睨んで見たりするときは、觀客の眼中に外のものは一切｜入《い》り込む餘地のない位強烈な刺激を與へる。

　其代り臺詞《せりふ》は日本語である。西洋語を日本語に譯した日本語である。口調《くてう》には抑揚がある。節奏《せつそう》もある。ある所は能辯過ぎると思はれる位流暢に出る。文章も立派である。それでゐて、氣が乘らない。三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝば好いと思つた。御母《おつか》さん、それぢや御父《おとつ》さんに濟まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔《など》を引合《ひきあひ》に出して、呑氣《のんき》に遣つて仕舞ふ。それでゐて顏付は親子とも泣き出しさうである。然し三四郎は此矛盾をたゞ朧氣《おぼろげ》に感じたのみである。決して詰らないと思ひ切る程の勇氣は出なかつた。

　從つて、ハムレツトに飽きた時は、美禰子の方を見てゐた。美禰子が人の影に隱れて見えなくなる時は、ハムレツトを見てゐた。

　ハムレツトがオフエリヤに向つて、尼寺《あまでら》へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ來た時、三四郎は不圖《ふと》廣田先生のことを考へ出した。廣田先生は云つた。――ハムレツトの樣なものに結婚が出來るか。――成程本で讀むと左《さ》うらしい。けれども、芝居では結婚しても好ささうである。能く思案して見ると、尼寺へ行けとの云ひ方が惡いのだらう。其證據には尼寺へ行けと云はれたオフエリヤが些《ちつ》とも氣の毒にならない。

　幕が又｜下《お》りた。美禰子とよし子が席を立つた。三四郎もつゞいて立つた。廊下迄來て見ると、二人は廊下の中程で、男と話をしてゐる。男は廊下から出入《ではい》りの出來る左側の席の戸口に半分｜身體《からだ》を出した。男の横額を見た時、三四郎は後《あと》へ引き返した。席へ返らずに下足を取つて表へ出た。

　本來は暗い夜《よ》である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちてゐるやうに思ふ。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に歸つた。

　夜半《やはん》から降り出した。三四郎は床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱にして、其｜周圍《まはり》にぐる／＼?徊《ていくわい》した。廣田先生も起きてゐるかも知れない。先生はどんな柱を抱いてゐるだらう。與次郎は偉大なる暗闇の中に正體《しやうたい》なく埋《うま》つてゐるに違ない。……

　明日《あくるひ》は少し熱がする。頭が重いから寐てゐた。午飯《ひるめし》は床《とこ》の上に起き直つて食つた。又｜一寐入《ひとねいり》すると今度は汗が出た。氣がうとくなる。そこへ威勢よく與次郎が這入つて來た。昨夕《ゆうべ》も見えず、今朝も講義に出ない樣《やう》だから何うしたかと思つて訪ねたと云ふ。三四郎は禮を述べた。

　「なに、昨夕《ゆうべ》は行つたんだ。行つたんだ。君が舞臺の上に出て來て、美禰子さんと、遠くで話をしてゐたのも、ちやんと知つてゐる」

　三四郎は少し醉つた樣な心持である。口を利き出すと、つる／＼と出る。與次郎は手を出して、三四郎の額を抑へた。

　「大分《だいぶ》熱がある。藥を飲まなくつちや不可《いけ》ない。風邪《かぜ》を引いたんだ」

　「演藝場があまり暑過ぎて、明る過ぎて、さうして外へ出ると、急に寒過ぎて、暗過ぎるからだ。あれは可《よ》くない」

　「可《い》けないたつて、仕方がないぢやないか」

　「仕方がないつたつて、可《い》けない」

　三四郎の言葉は段々短くなる、與次郎が好加減《いゝかげん》にあしらつてゐるうちに、すう／＼寐て仕舞つた。一時間程して又眼を開《あ》けた。與次郎を見て、

　「君、其處にゐるのか」と云ふ。今度は平生《へいぜい》の三四郎の樣である。氣分はどうかと聞くと、頭が重いと答へた丈《だけ》である。

　「風邪《かぜ》だらう」

　「風邪《かぜ》だらう」

　兩方で同じ事を云つた。しばらくしてから、三四郎が與次郎に聞いた。

　「君、此間《このあひだ》美禰子さんの事を知つてるかと僕に尋ねたね」

　「美禰子さんの事を？　何處で？」

　「學校で」

　「學校で？　何時《いつ》」

　與次郎はまだ思出《おもひだ》せない樣子である。三四郎は已《やむ》を得ず、其前後の當時を詳しく説明した。與次郎は、

　「成程そんな事が有つたかも知れない」と云つてゐる。三四郎は隨分無責任だと思つた。與次郎も少し氣の毒になつて、考へ出さうとした。やがて斯う云つた。

　「ぢや、何《なん》ぢやないか。美禰子さんが嫁に行くと云ふ話ぢやないか」

　「極《きま》つたのか」

　「極《きま》つた樣に聞いたが、能《よ》く分らない」

　「野々宮さんの所か」

　「いや、野々宮さんぢやない」

　「ぢや……」と云ひ掛けて已《や》めた。

　「君、知つてるのか」

　「知らない」と云ひ切つた。すると與次郎が少し前へ乘り出して來た。

　「何うも能《よ》く分らない。不思議な事があるんだが。もう少し立たないと、何うなるんだか見當が付かない」

　三四郎は、其不思議な事を、すぐ話せば好いと思ふのに、與次郎は平氣なもので、一人で呑み込んで、一人で不思議がつてゐる。三四郎は少時《しばらく》我慢してゐたが、とう／＼焦《じ》れつたくなつて、與次郎に、美禰子に關する凡《すべ》ての事實を隱さずに話して呉れと請求した。與次郎は笑ひ出した。さうして慰藉《ゐしや》の爲か何だか、飛んだ所へ話頭を持つて行つて仕舞つた。

　「馬鹿だなあ、あんな女を思つて。思つたつて仕方がないよ。第一、君と同年《おないどし》位ぢやないか。同年《おないどし》位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋《やほや》お七《しち》時代の戀だ」

　三四郎は黙つてゐた。けれども與次郎の意味は能く分らなかつた。

　「何故《なぜ》と云ふに。廿《はたち》前後《ぜんご》の同じ年の男女《なんによ》を二人｜並《なら》べて見ろ。女の方が萬事｜上手《うはて》だあね。男は馬鹿にされる許《ばかり》だ。女だつて、自分の輕蔑する男の所へ嫁に行く氣は出ないやね。尤も自分が世界で一番偉いと思つてる女は例外だ。輕蔑する所へ行かなければ獨身で暮すより外に方法はないんだから。よく金持の娘や何かにそんなのがあるぢやないか、望んで嫁に來て置きながら、亭主を輕蔑してゐるのが。美禰子さんは夫《それ》よりずつと偉い。其｜代《かは》り、夫《をつと》として尊敬の出來ない人の所へは始から行く氣はないんだから、相手になるものは其氣で居なくつちや不可《いけ》ない。さう云ふ點で君だの僕だのは、あの女の夫《をつと》になる資格はないんだよ」

　三四郎はとう／＼與次郎と一所《いつしよ》にされて仕舞つた。然し依然として黙つてゐた。

　「そりや君だつて、僕だつて、あの女より遙に偉いさ。御互に是でも、なあ。けれども、もう五六年｜經《た》たなくつちや、其偉さ加減が彼《か》の女《をんな》の眼に映つて來ない。しかして、かの女《をんな》は五六年｜凝《じつ》としてゐる氣遣《きづかひ》はない。從つて、君があの女と結婚する事は風馬牛《ふうばぎう》だ」

　與次郎は風馬牛と云ふ熟字を妙な折へ使つた。さうして一人で笑つてゐる。

　「なに、もう五六年もすると、あれより、ずつと上等なのが、あらはれて來るよ。日本ぢや今《いま》女の方が餘つてゐるんだから。風邪《かぜ》なんか引いて熱を出したつて始まらない。――なに世の中は廣いから、心配するがものはない。實は僕にも色々あるんだが、僕の方であんまり煩《うるさ》いから、御用で長崎へ出張すると云つてね」

　「何だ、それは」

　「何だつて、僕の關係した女さ」

　三四郎は驚いた。

　「なに、女だつて、君なんぞの曾《かつ》て近寄つた事のない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌《ばいきん》の試驗に出張するから當分駄目だつて斷つちまつた。所が其女が林檎を持つて停車場《ステーシヨン》まで送りに行くと云ひ出したんで、僕は弱つたね」

　三四郎は益《ます／＼》驚いた。驚きながら聞いた。

　「それで、何うした」

　「何うしたか知らない。林檎を持つて、停車場《ステーシヨン》に待つてゐたんだらう」 　「苛《ひど》い男だ。よく、そんな惡い事が出來るね」

　「惡い事で、可哀想《かはいさう》な事だとは知つてるけれども、仕方がない。始めから次第々々に、そこ迄運命に持つて行かれるんだから。實はとうの前《さき》から僕が醫科の學生になつてゐたんだからなあ」

　「なんで、そんな餘計な嘘を吐《つ》くんだ」

　「そりや、又それ／”＼事情のある事なのさ。それで、女が病氣の時に、診斷を頼まれて困つた事もある」

　三四郎は可笑《をか》しくなつた。

　「其時は舌を見て、胸を叩いて、好い加減に胡魔化《ごまくわ》したが、其次に病院へ行つて、見て貰ひたいが好いかと聞かれたには閉口した」

　三四郎はとう／＼笑ひ出した。與次郎は、

　「さう云ふ事も澤山あるから、まあ安心するが好からう」と云つた。何《なん》の事だか分らない。然し愉快になつた。

　與次郎は其時始めて、美禰子に關する不思議を説明した。與次郎の云ふ所によると、よし子にも結婚の話しがある。それから美禰子にもある。それ丈《だけ》ならば好いが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのださうだ。

　三四郎も少し馬鹿にされた樣な氣がした。然しよし子の結婚｜丈《だけ》は慥《たしか》である。現に自分が其話しを傍《そば》で聞いてゐた。ことによると其話しを美禰子のと取違へたのかも知れない。けれども美禰子の結婚も、全く嘘ではないらしい。三四郎は判然《はつきり》した所が知りたくなつた。序《ついで》だから、與次郎に�ﾍへて呉れと頼んだ。與次郎は譯なく承知した。よし子を見舞に來る樣にしてやるから、直《ぢか》に聞いて見ろといふ。旨《うま》い事を考へた。

　「だから、藥を飲んで、待つて居なくつては不可《いけ》ない」

　「病氣が癒つても、寐て待つてゐる」

　二人は笑つて別れた。歸りがけに與次郎が、近所の醫者に來て貰ふ手續をした。

　晩になつて、醫者が來た。三四郎は自分で醫者を迎へた覺《おぼえ》がないんだから、始めは少し狼狽《らうばい》した。そのうち脈を取られたので漸《やうや》く氣が付いた。年の若い丁寧な男である。三四郎は代診《だいしん》と鑑定した。五分の後《のち》病症はインフルエンザと極つた。今夜｜頓服《とんぷく》を飲んで、成る可く風に當らない樣にしろと云ふ注意である。

　翌日《よくじつ》眼が覺めると、頭が大分《だいぶ》輕くなつてゐる。寐てゐれば、殆ど常體に近い。たゞ枕を離れると、ふら／＼する。下女が來て、大分《だいぶ》部屋の中が熱臭《ねつくさ》いと云つた。三四郎は飯も食はずに、仰向《あふむけ》に天井を眺めてゐた。時々うと／＼眠くなる。明かに熱と疲《つかれ》とに囚《とら》はれた有樣である。三四郎は、囚はれた儘、逆《さか》らはずに、寐たり覺《さめ》たりする間に、自然に從ふ一種の快感を得た。病症が輕いからだと思つた。

　四時間《よじかん》、五時間と經《た》つうちに、そろ／＼退屈を感じ出した。しきりに寐返りを打つ。外は好い天氣である。障子に當る日が、次第に影を移して行く。雀が鳴く。三四郎は今日も與次郎が遊びに來て呉れゝば好いと思つた。

　所へ下女が障子を開けて、女の御客樣だと云ふ。よし子が、さう早く來《き》やうとは待ち設けなかつた。與次郎｜丈《だけ》に敏捷な働きをした。寐た儘、開け放しの入口に眼を着けてゐると、やがて高い姿が敷居の上へあらはれた。今日は紫の袴を穿《は》いてゐる。足は兩方共廊下にある。一寸｜這入《はい》るのを躊躇した樣子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「入らつしやい」と云つた。

　よし子は障子を閉《た》てゝ、枕元へ坐つた。六疊の座敷が、取り亂してある上に、今朝は掃除をしないから、猶《なほ》狹苦しい。女は、三四郎に、

　「寐て入らつしやい」と云つた。三四郎は又頭を枕へ着けた。自分｜丈《だけ》は穩かである。

　「臭くはないですか」と聞いた。

　「えゝ、少し」と云つたが、別段臭い顏もしなかつた。「熱が御有りなの。何《なん》なんでせう、御病氣は。御醫者は入らしつて」

　「醫者は昨夕《ゆうべ》來ました。インフルエンザださうです」

　「今朝早く佐々木さんが御出《おいで》になつて、小川が病氣だから見舞に行つて遣つて下さい。何病だか分らないが、何でも輕くはない樣だつて仰しやるものだから、私も美禰子さんも喫驚《びつくり》したの」

　與次郎が又少し法螺《はら》を吹いた。惡く云へば、よし子を釣り出した樣なものである。三四郎は人が好いから、氣の毒でならない。「どうも難有《ありかた》う」と云つて寐てゐる。よし子は風呂敷包の中から、蜜柑の籃《かご》を出した。

　「美禰子さんの御注意があつたから買つて來ました」と正直な事を云ふ。どつちの御見舞《おみやげ》だか分らない。三四郎はよし子に對して禮を述べて置いた。

　「美禰子さんも上《あが》る筈ですが、此頃少し忙《いそが》しいものですから――どうぞ宜しくつて……」

　「何か特別に忙《いそが》しいことが出來たのですか」

　「えゝ。出來たの」と云つた。大きな黒い眼が、枕に着いた三四郎の額の上に落ちてゐる。三四郎は下から、よし子の蒼白《あをしろ》い額《ひたひ》を見上げた。始めて此女に病院で逢つた昔を思ひ出した。今でも物憂《ものう》げに見える。同時に快活である。頼《たより》になるべき凡《すべ》ての慰藉《ゐしや》を三四郎の枕の上に齎《もたら》して來た。

　「蜜柑を剥《む》いて上げませうか」

　女は青い葉の間から、果物《くだもの》を取り出した。渇《かわ》いた人は、香《か》に迸《ほとば》しる甘《あま》い露を、したゝかに飲んだ。

　「美味《おいし》いでせう。美禰子さんの御見舞《おみやげ》よ」

　「もう澤山」

　女は袂から白い手帛《ハンケチ》を出して手を拭いた。

　「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」

　「あれ限《ぎ》りです」

　「美禰子さんにも縁談の口があるさうぢやありませんか」

　「えゝ、もう纒《まとま》りました」

　「誰ですか、先は」

　「私を貰ふと云つた方《かた》なの。ほゝゝ可笑《をかし》いでせう。美禰子さんの御兄《おあにい》さんの御友達よ。私近い内に又兄と一所に家《うち》を持ちますの。美禰子さんが行つて仕舞ふと、もう御厄介になつてる譯に行かないから」

　「あなたは御嫁には行かないんですか」

　「行きたい所がありさへすれば行きますわ」

　女は斯う云ひ棄てゝ心持よく笑つた。まだ行きたい所がないに極つてゐる。

　三四郎は其日から四日《よつか》程床を離れなかつた。五日目《いつかめ》に怖々《こは／”＼》ながら湯に入《はい》つて、鏡を見た。亡者《まうじや》の相がある。思ひ切つて床屋へ行つた。其｜明《あく》る日は日曜である。

　朝食後《あさめしご》、襯衣《しやつ》を重ねて、外套を着て、寒くない樣にして、美禰子の家《うち》ヘ行つた。玄關によし子が立つて、今｜沓脱《くつぬぎ》へ降《お》りやうとしてゐる。今兄の所へ行く所だと云ふ。美禰子はゐない。三四郎は一所に表へ出た。

　「もう悉皆《すつかり》好いんですか」

　「難有《ありがた》う。もう癒りました。――里見さんは何處へ行つたんですか」

　「兄さん？」

　「いゝえ、美禰子さんです」

　「美禰子さんは會堂《チヤーチ》」

　美禰子の會堂《チヤーチ》へ行く事は始めて聞いた。何處の會堂《チヤーチ》か�ﾍへて貰つて、三四郎はよし子に別れた。横町を三つ程｜曲《まが》ると、すぐ前へ出た。三四郎は全く耶蘇�ﾍ《やそけう》に縁のない男である。會堂《チヤーチ》の中は覗いて見た事もない。前へ立つて、建物を眺めた。説�ﾍの掲示を讀んだ。鐵柵の所を往つたり來たりした。ある時は寄り掛かつて見た。三四郎は兎も角もして、美禰子の出てくるのを待つ積《つもり》である。

　やがて唱歌の聲が聞えた。讃美歌といふものだらうと考へた。締切《しめき》つた高い窓のうちの出來事である。音量から察すると餘程の人數《にんずう》らしい。美禰子の聲もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌は歇《や》んだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空《そら》に美禰子の好きな雲が出た。

　かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあつた。所は廣田先生の二階であつた。田端《たばた》の小川《をがは》の縁《ふち》に坐つた事もあつた。其時も一人ではなかつた。迷羊《ストレイシープ》。迷羊《ストレイシープ》。雲が羊の形をしてゐる。

　忽然として會堂《チヤーチ》の戸が開《あ》いた。中から人が出る。人は天國から浮世へ歸る。美禰子は終りから四番目であつた。縞《しま》の吾妻《あづま》コートを着て、僻向《うつむ》いて、上《あが》り口の階段を降りて來た。寒いと見えて、肩を窄《すぼ》めて、兩手を前で重ねて、出來る丈《だけ》外界《ぐわいかい》との交渉を少くしてゐる。美禰子は此｜凡《すべ》てに揚がらざる態度を門際《もんぎは》迄持續した。其時、往來《わうらい》の忙《いそが》しさに、始めて氣が付いた樣に顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の眼に映つた。二人は説�ﾍの掲示のある所で、互に近寄つた。

　「何うなすつて」

　「今御宅迄一寸出た所です」

　「さう、ぢや入らつしやい」

　女は半《なか》ば歩《ほ》を回《めぐら》しかけた。相變らず低い下駄を穿《は》いてゐる。男はわざと會堂《チヤーチ》の垣に身を寄せた。

　「此處で御目に掛かればそれで好い。先刻《さつき》から、あなたの出て來るのを待つてゐた」

　「御這入りになれば好いのに。寒かつたでせう」

　「寒かつた」

　「御風邪《おかぜ》はもう好いの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顏色が好くない樣ね」

　男は返事をしずに、外套の隱袋《かくし》から半紙に包んだものを出した。

　「拝借した金です。永々｜難有《ありがた》う。返さう／＼と思つて、つい遲くなつた」

　美禰子は一寸三四郎の顔を見たが、其儘｜逆《さか》らはずに紙包を受け取つた。然し手に持つたなり、納《しま》はずに眺めてゐる。三四郎もそれを眺めてゐる。言葉が少しの間切れた。やがて、美禰子が云つた。

　「あなた、御不自由ぢや無くつて」

　「いゝえ、此間から其《その》積《つもり》で國から取寄せて置いたのだから、何うか取つて下さい」

　「さう。ぢや頂いて置きませう」

　女は紙包を懷《ふところ》へ入れた。其手を吾妻《あづま》コートから出した時、白い手帛《ハソケチ》を持つてゐた。鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる。手帛《ハンケチ》を嗅ぐ樣子でもある。やがて、其手を不意に延ばした。手帛《ハンケチ》が三四郎の顏の前へ來た。鋭い香《かをり》がぷんとする。

　「ヘリオトロープ」と女が靜かに云つた。三四郎は思はず顏を後《あと》へ引いた。ヘリオトロープの罎《びん》。四丁目の夕暮。迷羊《ストレイシープ》。迷羊《ストレイシープ》。空には高い日が明《あきら》かに懸《かゝ》る。

　「結婚なさるさうですね」

　美禰子は白い手帛《ハンケチ》を袂へ落した。

　「御存じなの」と云ひながら、二重瞼《ふたへまぶち》を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを氣遣ひ過ぎた眼付である。其癖眉｜丈《だけ》は明確《はつきり》落ついてゐる。三四郎の舌が上顎《うはあご》へ密着《ひつつい》て仕舞つた。

　女はやゝしばらく三四郎を眺めた後《のち》、聞兼る程の嘆息《ためいき》をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加へて云つた。

　「われは我が愆《とが》を知る。我が罪は常に我が前にあり」

　聞き取れない位な聲であつた。それを三四郎は明かに聞き取つた。三四郎と美禰子は斯樣《かやう》にして分れた。下宿へ歸つたら母からの電報が來てゐた。開《あ》けて見ると、何時《いつ》立つとある。

　

　　　　　十三

　

　原口さんの畫《ゑ》は出來上がつた。丹青會《たんせいくわい》は之を一室の正面に懸けた。さうして其前に長い腰掛を置いた。休む爲でもある。畫を見る爲でもある。休み且《か》つ味はふ爲でもある。丹青會はかうして、此大作に?徊《ていくわい》する多くの觀覽者に便利を與へた。特別の待遇である。畫が特別の出來だからと云ふ。或は人の目を惹《ひ》く題だからとも云ふ。少數のものは、あの女を描《か》いたからだと云つた。會員の一二は全く大きいからだと辯解した。大きいには違ない。幅五寸に餘る金《きん》の縁《ふち》を付けて見ると、見違へる樣に大きくなつた。

　原口さんは開會の前日檢分の爲｜一寸《ちよつと》來た。腰掛に腰を卸《おろ》して、久しい間｜烟管《パイプ》を啣《くは》へて眺めてゐた。やがて、ぬつと立つて、場内を一順丁寧に回つた。夫《それ》から又｜故《もと》の腰掛へ歸つて、第二の烟管《パイプ》を緩《ゆつ》くり吹かした。

　「森の女」の前には開會の當日から人が一杯｜集《たか》つた。折角の腰掛は無用の長物となつた。たゞ疲れたものが、畫を見ない爲に休んでゐた。それでも休みながら「森の女」の評をしてゐたものがある。

　美禰子は夫《をつと》に連れられて二日目に來た。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出た時、原口さんは「何うです」と二人を見た。夫《をつと》は「結構です」と云つて、眼鏡の奧からじつと眸《ひとみ》を凝《こ》らした。

　「此｜團扇《うちは》を翳《かざ》して立つた姿勢が好い。流石《さすが》専門家は違ひますね。能《よ》く茲所《こゝ》に氣が付いたものだ。光線が顏へあたる具合が旨い。陰と日向《ひなた》の段落が確然《かつきり》して――顏｜丈《だけ》でも非常に面白い變化がある」

　「いや皆御當人の御好みだから。僕の手柄ぢやない」

　「御蔭さまで」と美禰子が禮を述べた。

　「私も、御蔭さまで」と今度は原口さんが禮を述べた。

　夫《をつと》は細君の手柄だと聞いて左《さ》も嬉しさうである。三人のうちで一番鄭重な禮を述べたのは夫《をつと》である。

　開會後第一の土曜の午過《ひるすぎ》には大勢《おほぜい》一所に來た。――廣田先生と野々宮さんと與次郎と三四郎と。四人《よつたり》は餘所《よそ》を後廻しにして、第一に「森の女」の部屋に這入つた。與次郎が「あれだ、あれだ」と云ふ。人が澤山｜集《たか》つてゐる。三四郎は入口で一寸躊躇した。野々宮さんは超然として這入つた。

　大勢の後《うしろ》から、覗き込んだ丈《だけ》で、三四郎は退《しりぞ》いた。腰掛に倚《よ》つてみんなを待ち合はしてゐた。

　「素敵に大きなもの描《か》いたな」と與次郎が云つた。

　「佐々木に買つて貰ふ積《つもり》ださうだ」と廣田先生が云つた。

　「僕より」と云ひ掛けて、見ると、三四郎は六づかしい顏をして腰掛にもたれてゐる。與次郎は黙つて仕舞つた。

　「色の出し方が中々｜洒落《しやれ》てゐますね。寧ろ意氣な畫だ」と野々宮さんが評した。

　「少し氣が利き過ぎてゐる位だ。是ぢや皷の音《ね》の樣にぽん／＼する畫は描《か》けないと自白する筈だ」と廣田先生が評した。

　「何ですぽん／＼する畫と云ふのは」

　「皷の音の樣に間《ま》が拔けてゐて、面白い畫の事さ」

　二人は笑つた。二人は技巧の評ばかりする。與次郎が異《い》を樹《た》てた。

　「里見さんを描《か》いちや、誰が描《か》いたつて、間《ま》が拔けてる樣には描《か》けませんよ」

　野々宮さんは目録へ記號《しるし》を付ける爲に、隱袋《かくし》へ手を入れて鉛筆を探した。鉛筆がなくつて、一枚の活版摺の端書が出て來た。見ると、美禰子の結婚披露の招待?であつた。披露はとうに濟んだ。野々宮さんは廣田先生と一所にフロツクコートで出席した。三四郎は歸京の當日此招待?を下宿の机の上に見た。時期は既に過ぎてゐた。

　野々宮さんは、招待?を引き千切《ちぎ》つて床《ゆか》の上に棄てた。やがて先生と共に外《ほか》の畫の評に取り掛る。與次郎丈が三四郎の傍《そば》へ來た。

　「どうだ森の女は」

　「森の女と云ふ題が惡い」

　「ぢや、何とすれば好いんだ」

　三四郎は何とも答へなかつた。たゞ口の内で迷羊《ストレイシープ》、迷羊《ストレイシープ》と繰返した。

　　　2006年8月8日、午後4時15分、修正終了。2018年10月12（金）午後5時30分、２度目の修正終了。

　

　　　　　それから

　

　　　　　　　一

　

　誰か慌《あわ》たゞしく門前を馳けて行く足音がした時、代助《だいすけ》の頭の中には、大きな俎下駄《まないたげた》が空《くう》から、ぶら下つてゐた。けれども、其｜俎下駄《まないたげた》は、足音の遠退《とほの》くに從つて、すうと頭から拔け出して消えて仕舞つた。さうして眼が覺めた。

　枕元を見ると、八重《やへ》の椿が一輪《いちりん》疊の上に落ちてゐる。代助は昨夕《ゆうべ》床の中で慥《たし》かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬《ごむまり》を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣《あたり》が靜かな所爲《せゐ》かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋《あばら》のはづれに正しく中《あた》る血の音を確かめながら眠《ねむり》に就いた。

　ぼんやりして、少時《しばらく》、赤ん坊の頭｜程《ほど》もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した樣に、寐ながら胸の上に手を當てゝ、又心臓の鼓動を檢し始めた。寐ながら胸の脈を聽いて見るのは彼の近來の癖になつてゐる。動悸《どうき》は相變らず落ち付いて確に打つてゐた。彼は胸に手を當てた儘、此鼓動の下《もと》に、温《あたゝ》かい紅《くれなゐ》の血潮の緩く流れる樣を想像して見た。是が命であると考へた。自分は今流れる命を掌《てのひら》で抑へてゐるんだと考へた。それから、此｜掌《てのひら》に應《こた》へる、時計の針に似た響は、自分を死に誘《いざな》ふ警鐘の樣なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、――血を盛《も》る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何《いか》に自分は氣樂だらう。如何に自分は絶對に生《せい》を味はひ得るだらう。けれども――代助は覺えず悚《ぞつ》とした。彼は血潮によつて打たるゝ掛念《けねん》のない、靜かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所を鐵槌《かなづち》で一つ撲《どや》されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事實を、殆んど奇蹟の如き僥倖《げうかう》とのみ自覺し出す事さへある。

　彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から兩手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を斬つてゐる繪があつた。彼はすぐ外《ほか》の頁《ページ》へ眼を移した。其所には學校騷動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを讀んでゐたが、やがて、惓怠《だる》さうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。夫《それ》から烟草を一本｜吹《ふ》かしながら、五寸｜許《ばか》り布團を摺《ず》り出して、疊の上の椿を取つて、引つ繰り返して、鼻の先へ持つて來た。口と口髭と鼻の大部分が全く隱れた。烟りは椿の瓣《はなびら》と蕊《ずゐ》に絡《から》まつて漂《たゞよ》ふ程濃く出た。それを白い敷布の上に置くと、立ち上がつて風呂場へ行つた。

　其所で叮嚀に齒を磨いた。彼は齒並《はならび》の好いのを常に嬉しく思つてゐる。肌を脱いで綺麗に胸と脊《せ》を摩擦《まさつ》した。彼の皮膚には濃《こまや》かな一種の光澤《つや》がある。香油を塗り込んだあとを、よく拭き取つた樣に、肩を搖《うご》かしたり、腕を上げたりする度《たび》に、局所《きよくしよ》の脂肪が薄く漲《みなぎ》つて見える。かれは夫《それ》にも滿足である。次に黒い髪を分けた。油を塗《つ》けないでも面白い程自由になる。髭も髪同樣に細く且《かつ》初々《うひ／＼》しく、口の上を品よく蔽ふてゐる。代助は其ふつくらした頬を、兩手で兩三度｜撫《な》でながら、鏡の前にわが顔を映してゐた。丸《まる》で女が御白粉《おしろい》を付ける時の手付と一般であつた。實際彼は必要があれば、御白粉《おしろい》さへ付けかねぬ程に、肉體に誇《ほこり》を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢《らかん》の樣な骨骼と相好《さうがう》で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生れなくつて、まあ可《よ》かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落《おしやれ》と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は舊時代の日本を乘り超《こ》えてゐる。

　約三十分の後《のち》彼は食卓に就いた。熱い紅茶を啜《すゝ》りながら燒?麭《やきぱん》に牛酪《バタ》を付けてゐると、門野《かどの》と云ふ書生が座敷から新聞を疊んで持つて來た。四つ折りにしたのを座布團の傍《わき》へ置きながら、

　「先生、大變な事が始まりましたな」と仰山《ぎやうさん》な聲で話しかけた。此書生は代助を捕《つら》まへては、先生先生と敬語を使ふ。代助も、はじめ一二度は苦笑《くせう》して抗議を申し込んだが、えへゝゝ、だつて先生と、すぐ先生にして仕舞ふので、已《やむ》を得ず其儘にして置いたのが、いつか習慣になつて、今では、此男に限つて、平氣に先生として通してゐる。實際書生が代助の樣な主人を呼ぶには、先生以外に別段適當な名稱がないと云ふことを、書生を置いて見て、代助も始めて悟つたのである。

　「學校騷動の事ぢやないか」と代助は落付いた顔をして?麭《ぱん》を食つて居た。

　「だつて痛快ぢやありませんか」

　「校長｜排斥《はいせき》がですか」

　「えゝ、到底辭職もんででせう」と嬉しがつてゐる。

　「校長が辭職でもすれば、君は何か儲《まう》かる事《こと》でもあるんですか」

　「冗談《じようだん》云つちや不可《いけ》ません。さう損得づくで、痛快がられやしません」

　代助は矢つ張り?麭《ぱん》を食つてゐた。

　「君、あれは本當に校長が惡《にく》らしくつて排斥《はいせき》するのか、他《ほか》に損得問題があつて排斥するのか知つてますか」と云ひながら鐵瓶の湯を紅茶々碗の中へ注《さ》した。

　「知りませんな。何ですか、先生は御存じなんですか」

　「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得《とく》にならないと思つて、あんな騷動をやるもんかね。ありや方便《はうべん》だよ、君」

　「へえ、左樣《そん》なもんですかな」と門野《かどの》は稍《やゝ》眞面目な顔をした。代助はそれぎり黙つて仕舞つた。門野は是より以上｜通《つう》じない男である。是より以上は、いくら行《い》つても、へえ左樣《そん》なもんですかなで押し通して澄ましてゐる。此方《こちら》の云ふことが應《こた》へるのだか、應《こた》へないのだか丸《まる》で要領を得ない。代助は、其所が漠然として、刺激が要らなくつて好いと思つて書生に使つてゐるのである。其代り、學校へも行かず、勉強もせず、一日ごろ／＼してゐる。君、ちつと、外國語でも研究しちやどうだなどゝ云ふ事がある。すると門野は何時《いつ》でも、左樣《さう》でせうか、とか、左樣《そん》なもんでせうか、とか答へる丈《だけ》である。決して爲《し》ませうといふ事は口にしない。又かう、怠惰《なまけ》ものでは、さう判然《はつきり》した答が出來ないのである。代助の方でも、門野を�ﾍ育しに生れて來た譯でもないから、好加減《いゝかけん》にして放《はふ》つて置く。幸ひ頭と違つて、身體の方は善く動くので、代助はそこを大いに重寶がつてゐる。代助ばかりではない、從來からゐる婆さんも門野の御蔭で此頃は大變助かる樣になつた。その原因で婆さんと門野とは頗る仲が好い。主人の留守などには、よく二人で話をする。

　「先生は一體何を爲《す》る氣なんだらうね。小母《をば》さん」

　「あの位になつて入らつしやれば、何でも出來ますよ。心配するがものはない」

　「心配はせんがね。何か爲《し》たら好ささうなもんだと思ふんだが」

　「まあ奧樣でも御貰ひになつてから、緩《ゆ》つくり、御役《おやく》でも御探しなさる御積《おつも》りなんでせうよ」

　「いゝ積《つもり》だなあ。僕も、あんな風《ふう》に一日《いちんち》本を讀んだり、音樂を聞きに行つたりして暮して居たいな」

　「御前さんが？」

　「本は讀まんでも好いがね。あゝ云ふ具合に遊んで居たいね」

　「夫《それ》はみんな、前世《ぜんせ》からの約束だから仕方がない」

　「左樣《そん》なものかな」

　まづ斯う云ふ調子である。門野が代助の所へ引き移る二週間前には、此若い獨身の主人と、此｜食客《ゐさふらふ》との間に下《しも》の樣な會話があつた。

　「君は何方《どつか》の學校へ行つてるんですか」

　「もとは行きましたがな。今は廢《や》めちまいました」

　「もと、何處へ行つたんです」

　「何處つて方々行きました。然しどうも厭《あ》きつぽいもんだから」

　「ぢき厭《いや》になるんですか」

　「まあ、左樣《さう》ですな」

　「で、大して勉強する考へもないんですか」

　「えゝ、一寸有りませんな。それに近頃｜家《うち》の都合が、あんまり好くないもんですから」

　「家《うち》の婆さんは、あなたの御母《おつか》さんを知つてるんだつてね」

　「えゝ、もと、直《ぢき》近所に居たもんですから」

　「御母《おつか》さんは矢つ張り……」

　「矢つ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも近頃は不景氣で、餘《あん》まり好くない樣です」

　「好くない樣ですつて、君、一所に居るんぢやないですか」

　「一所に居ることは居ますが、つい面倒だから聞いた事もありません。何でも能くこぼしてる樣です」

　「兄《にい》さんは」

　「兄は郵便局の方へ出てゐます」

　「家《うち》は夫《それ》丈《だけ》ですか」

　「まだ弟《おとゝ》がゐます。是は銀行の――まあ小便に少し毛の生えた位な所なんでせう」

　「すると遊《あす》んでるのは、君｜許《ばか》りぢやないか」

　「まあ、左樣《そん》なもんですな」

　「それで、家《うち》にゐるときは、何をしてゐるんです」

　「まあ、大抵寐てゐますな。でなければ散歩でも爲《し》ますかな」

　「外のものが、みんな稼《かせ》いでるのに、君｜許《ばか》り寐てゐるのは苦痛ぢやないですか」

　「いえ、左樣《さう》でもありませんな」

　「家庭が餘つ程圓滿なんですか」

　「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」

　「だつて、御母《おつか》さんや兄さんから云つたら、一日も早く君に獨立して貰ひたいでせうがね」

　「左樣《さう》かも知れませんな」

　「君は飴つ程氣欒な性分と見える。それが本當の所なんですか」

　「えゝ、別に嘘を吐《つ》く料簡《れうけん》もありませんな」

　「ぢや全くの呑氣屋《のんきや》なんだね」

　「えゝ、まあ呑氣屋つて云ふもんでせうか」

　「兄さんは何歳《いくつ》になるんです」

　「斯うつと、取つて六になりますか」

　「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。兄さんの細君が出來ても、矢つ張り今の樣にしてゐる積《つもり》ですか」

　「其時に爲《な》つて見なくつちや、自分でも見當が付きませんが、何しろ、どうか爲《な》るだらうと思つてます」

　「其外に親類はないんですか」

　「叔母が一人ありますがな。こいつは今、濱で運漕業をやつてます」

　「叔母さんが？」

　「叔母が遣つてる譯でもないんでせうが、まあ叔父ですな」

　「其所へでも頼んで使つて貰つちや、どうです。運漕業なら大分《だいぶ》人が要るでせう」

　「根が怠惰《なまけ》もんですからな。大方《おほかた》斷わるだらうと思つてるんです」

　「さう自任してゐちや困る。實は君の御母《おつか》さんが、家《うち》の婆さんに頼んで、君を僕の宅《うち》へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」

　「えゝ、何だかそんな事を云つてました」

　「君自身は、一體どう云ふ氣なんです」

　「えゝ、成るべく怠けない樣にして……」

　「家《うち》へ來る方が好いんですか」

　「まあ、左樣《さう》ですな」

　「然し寐て散歩する丈《だけ》ぢや困る」

　「そりや大丈夫です。身體の方は達者ですから。風呂でも何でも汲《く》みます」

　「風呂は水道があるから汲まないでも可《い》い」

　「ぢや、掃除でもしませう」

　門野は斯う云ふ條件で代助の書生になつたのである。

　代助はやがて食事を濟まして、烟草を吹《ふ》かし出した。今迄茶箪笥の陰に、ぽつねんと膝を抱《かゝ》へて柱に倚《よ》り懸つてゐた門野は、もう好い時分だと思つて、又主人に質問を掛けた。

　「先生、今朝は心臓の具合はどうですか」

　此間《このあひだ》から代助の癖を知つてゐるので、幾分か茶化《ちやか》した調子である。

　「今日はまだ大丈夫だ」

　「何だか明日《あした》にも危《あや》しくなりさうですな。どうも先生見た樣に身體を氣にしちや、――仕舞には本當の病氣に取つ付かれるかも知れませんよ」

　「もう病氣ですよ」

　門野は只へえゝと云つた限《ぎり》、代助の光澤《つや》の好い顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると何時《いつ》でも此青年を氣の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の頭は、牛の腦味噌《なうみそ》で一杯詰まつてゐるとしか考へられないのである。話をすると、平民の通る大通りを半町位しか付いて來ない。たまに横町へでも曲ると、すぐ迷兒《まひご》になつて仕舞ふ。論理の地盤を竪《たて》に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼の神經系に至つては猶更《なほさら》粗末である。恰《あたか》も荒繩で組み立てられたるかの感が起《おこ》る。代助は此青年の生活?態を觀察して、彼は必竟《ひつきやう》何の爲に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平氣にのらくらしてゐる。しかも此のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に屬するものと心得て、中々得意に振舞《ふるま》ひたがる。其上頑強一點張りの肉體を笠に着て、却《かへ》つて主人の神經的な局所《きよくしよ》へ肉薄して來る。自分の神經は、自分に特有なる細緻《さいち》な思索力と、鋭敏な感應性に對して拂ふ租税である。高尚な�ﾍ育の彼岸《ひがん》に起る反響の苦痛である。天爵的《てんしやくてき》に貴族となつた報《むくい》に受ける不文の刑罰である。是等の犧牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に爲《な》れた。否、ある時は是等の犧牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。門野にはそんな事は丸で分らない。

　「門野《かどの》さん、郵便は來て居なかつたかね」

　「郵便ですか。斯うつと。來てゐました。端書と封書が。机の上に置きました。持つて來ますか」

　「いや、僕が彼方《あつち》へ行つても可《い》い」

　齒切れのわるい返事なので、門野はもう立つて仕舞つた。さうして端書と郵便を持つて來た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報《ごはう》、明日《あす》午前會ひたし、と薄墨の走り書の簡單｜極《きはま》るもので、表に表神保町の宿屋の名と平岡常次郎《ひらをかつねじらう》といふ差出人の姓名が、裏と同じ亂暴さ加減で書いてある。

　「もう來たのか、昨日《きのふ》着いたんだな」と獨り言の樣に云ひながら、封書の方を取り上げると、是は親爺《おやぢ》の手蹟《て》である。二三日｜前《まへ》歸つて來た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が着いたら來てくれろと書いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔《など》といふ閑文字《かんもんじ》が數行｜列《つら》ねてある。代助は封書を卷きながら、妙な顔をして、兩方｜見較《みくら》べてゐた。

　「君、電話を掛けて呉れませんか。家《うち》へ」

　「はあ、御宅へ。何て掛けます」

　「今日は約束があつて、待ち合せる人があるから上がれないつて。明日《あした》か明後日《あさつて》屹度《きつと》伺ひますからつて」

　「はあ。何方《どなた》に」

　「親爺《おやぢ》が旅行から歸つて來て、話があるから一寸來いつて云ふんだが、――何｜親爺《おやぢ》を呼び出さないでも可《い》いから、誰にでも左樣《さう》云つて呉れ給へ」

　「はあ」

　門野は無雜作に出て行つた。代助は茶の間から、座敷を通つて書齋へ歸つた。見ると、奇麗に掃除が出來てゐる。落椿《おちつばき》も何所かへ掃き出されて仕舞つた。代助は花瓶《くわへい》の右手にある組み重ねの書棚の前へ行つて、上に載せた重い寫眞帖を取り上げて、立ちながら、金《きん》の留金《とめがね》を外《はづ》して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃迄來てぴたりと手を留めた。其所には廿歳《はたち》位の女の半身がある。代助は眼を俯せて凝《じつ》と女の顔を見詰めてゐた。

　

　　　　　二

　

　着物でも着換へて、此方《こつち》から平岡の宿を訪ね樣《やう》かと思つてゐる所へ、折よく先方《むかふ》から遣つて來た。車をがら／＼と門前｜迄《まで》乘り付けて、此所だ／＼と梶棒を下《おろ》さした聲は慥《たし》かに三年｜前《ぜん》分れた時そつくりである。玄關で、取次の婆さんを捕《つら》まへて、宿へ蟇口《がまぐち》を忘れて來たから、一寸二十錢貸してくれと云つた所などは、どうしても學校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄關｜迄《まで》馳《か》け出して行つて、手を執《と》らぬ許《ばか》りに舊友を座敷へ上げた。

　「何うした。まあ緩《ゆつ》くりするが好い」

　「おや、椅子だね」と云ひながら平岡は安樂椅子へ、どさりと身體を投げ掛けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが肉に、三｜文《もん》の價値《ねうち》を置いてゐない樣な扱かひ方に見えた。それから椅子の脊に坊主頭を靠《も》たして、一寸部屋の中《うち》を見廻しながら、

　「中々、好い家《うち》だね。思つたより好い」と賞めた。代助は黙つて卷莨入《まきたばこいれ》の葢《ふた》を開けた。

　「それから、以後何うだい」

　「何うの、斯うのつて、――まあ色々話すがね」

　「もとは、よく手紙が來たから、樣子が分つたが、近頃ぢや些《ちつ》とも寄こさないもんだから」

　「いや何所《どこ》も彼所《かしこ》も御無沙汰で」と平岡は突然｜眼鏡《めがね》を外《はづ》して、脊廣の胸から皺だらけの手帛《ハンケチ》を出して、眼をばち／＼させながら拭き始めた。學校時代からの近眼である。代助は凝《じつ》と其樣子を眺めてゐた。

　「僕より君はどうだい」と云ひながら、細い蔓を耳の後《うしろ》へ絡《から》みつけに、兩手で持つて行つた。

　「僕は相變らずだよ」

　「相變らずが一番好いな。あんまり相變るものだから」

　そこで平岡は八《はち》の字《じ》を寄せて、庭の模樣を眺め出したが、不意に語調を更《か》へて、

　「やあ、櫻がある。今｜漸《やう》やく咲き掛けた所だね。餘程氣侯が違ふ」と云つた。話の具合が何だか故《もと》の樣にしんみりしない。代助も少し氣の拔けた風に、

　「向ふは大分《だいぶ》暖《あつた》かいだらう」と序《ついで》同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法外に熱した具合で、

　「うん、大分《だいぶ》暖《あつた》かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は卷莨《まきたばこ》に火を點《つ》けた。其時婆さんが漸く急須に茶を淹《い》れて持つて出た。今しがた鐵瓶に水を注《さ》して仕舞つたので、※［者／火］立《にた》てるのに暇が入《い》つて、つい遅くなつて濟みませんと言譯をしながら、洋卓《テーブ》の上へ盆を載せた。二人は婆さんの喋舌《しやべ》つてる間、紫檀の盆を見て黙つてゐた。婆さんは相手にされないので、獨りで愛想笑《あいそわら》ひをして座敷を出た。

　「ありや何だい」

　「婆さんさ。雇つたんだ。飯を食はなくつちやならないから」

　「御世辞が好いね」

　代助は赤い唇の兩端《りやうはし》を、少し弓なりに下の方へ彎《ま》げて蔑《さげす》む樣に笑つた。

　「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」

　「君の家《うち》から誰か連れて來れば好いのに。大勢ゐるだらう」

　「みんな若いの許《ばか》りでね」と代助は眞面目に答へた。平岡は此時始めて聲を出して笑つた。

　「若けりや猶《なほ》結構ぢやないか」

　「兎に角｜家《うち》の奴は好くないよ」

　「あの婆さんの外に誰かゐるのかい」

　「書生が一人ゐる」

　門野は何時《いつ》の間《ま》にか歸つて、臺所の方で婆さんと話をしてゐた。

　「それ限《ぎ》りかい」

　「それ限《ぎ》りだ。何故《なぜ》」

　「細君はまだ貰はないのかい」

　代助は心持《こゝろもち》赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。

　「妻《さい》を貰つたら、君の所へ通知位する筈ぢやないか。夫《それ》よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已《や》めた。

　代助と平岡とは中學時代からの知り合で、殊に學校を卒業して後《のち》、一年間といふものは、殆んど兄弟の樣に親しく往來した。其時分は互に凡《すべ》てを打ち明けて、互に力に爲《な》り合ふ樣なことを云ふのが、互に娯樂の尤《もつと》もなるものであつた。この娯樂が變じて實行となつた事も少なくないので、彼等は双互の爲めに口にした凡《すべ》ての言葉には、娯樂どころか、常に一種の犧牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犧牲を即座に拂へば、娯樂の性質が、忽然《こつぜん》苦痛に變ずるものであると云ふ陳腐《ちんぷ》な事實にさへ氣が付かずにゐた。一年の後《のち》平岡は結婚した。同時に、自分の勤めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰《してんづめ》になつた。代助は、出立の當時、新夫婦を新橋の停車場《ステーシヨン》に送つて、愉快さうに、直《ぢき》歸つて來給へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、當分｜辛抱《しんばう》するさと打遣《うつちや》る樣に云つたが、其眼鏡の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。家《うち》へ歸つて、一日部屋へ這入つたなり考へ込んでゐた。嫂《あによめ》を連れて音樂會へ行く筈の所を斷わつて、大いに嫂《あによめ》に氣を揉ました位である。

　平岡からは斷えず音便《たより》があつた。安着の端書、向ふで世帶《しよたい》を持つた報知、それが濟むと、支店勤務の模樣、自己將來の希望、色々あつた。手紙の來るたびに、代助は何時《いつ》も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書くときは、何時《いつ》でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが厭になつて、途中で返事を已《や》めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行爲に對して、幾分か感謝の意を表して來る場合に限つて、安々と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。

　そのうち段々手紙の遣り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又｜二月《ふたつき》、三月《みつき》に跨《また》がる樣に間を置いて來ると、今度は手紙を書かない方が、却《かへ》つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを驅逐する爲に封筒の糊を濕《しめ》す事があつた。それが半年《はんとし》ばかり續くうちに、代助の頭も胸も段々組織が變つて來る樣に感ぜられて來た。此變化に伴《ともな》つて、平岡へは手紙を書いても書かなくつても、丸《まる》で苦痛を覺えない樣になつて仕舞つた。現に代助が一戸を構へて以來、約一年｜餘《よ》と云ふものは、此春年賀?の交換のとき、序《ついで》を以て、今の任所を知らした丈《だけ》である。

　それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸《まる》で忘れる譯には行かなかつた。時々思ひ出す。さうして今頃は何うして暮してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈《だけ》で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、氣を揉《も》む勇氣も必要もなく、今日《けふ》迄《まで》過して來た所へ、二週間｜前《まへ》に突然平岡からの書信《しよしん》が屆いたのである。其手紙には近々當地を引き上げて、御地へまかり越す積《つも》りである。但し本店からの命令で、榮轉の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業｜替《がへ》をする氣になつたから、着京の上は何分宜しく頼むとあつた。此何分宜しく頼むの頼むは本當の意味の頼むか、又は單に辭令上の頼むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な變化のあつたのは爭ふべからざる事實である。代助は其時はつと思つた。

　それで、逢ふや否や此變動の一部始終を聞かうと待設《まちまう》けて居たのだが、不幸にして話が外《そ》れて容易に其所へ戻つて來ない。折を見て此方《こつち》から持ち掛けると、まあ緩《ゆ》つくり話すとか何とか云つて、中々｜将《らち》を開《あ》けない。代助は仕方なしに、仕舞に、

　「久し振りだから、其所いらで飯でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、何《いづ》れ緩《ゆつ》くりを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ上《あが》つた。

　兩人《ふたり》は其所で大分《だいぶ》飲んだ。飲む事と食ふ事は昔の通りだねと言つたのが始りで、硬《こは》い舌が段々｜弛《ゆる》んで來た。代助は面白さうに、二三日前《にさんちまへ》自分の觀に行つた、ニコライの復活祭の話をした。御祭が夜《よ》の十二時を相圖に、世の中の寐鎭まる頃を見計《みはから》つて始《はじま》る。參詣人が長い廊下を廻つて本堂へ歸つて來ると、何時《いつ》の間《ま》にか幾千本の?燭が一度に點《つ》いてゐる。法衣《ころも》を着た坊主が行列して向ふを通るときに、黒い影が、無地《むぢ》の壁へ非常に大きく映る。――平岡は頬杖を突いて、眼鏡の奧の二重瞼《ふたへまぶち》を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜《よ》の二時頃廣い御成街道《おなりかいだう》を通つて、深夜の鐵軌《レール》が、暗い中を眞直に渡つてゐる上を、たつた一人上野の森｜迄《まで》來て、さうして電燈に照らされた花の中に這入つた。

　「人氣《ひとけ》のない夜櫻は好いもんだよ」と云つた。平岡は黙つて盃を干したが、一寸氣の毒さうに口元を動かして、

　「好いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな眞似が出來る間《あひだ》はまだ氣樂なんだよ。世の中へ出ると、中々それ所ぢやない」と暗に相手の無經驗を上から見た樣な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの經驗よりも、復活祭當夜の經驗の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。其所でこんな答をした。

　「僕は所謂處世上の經驗程｜愚《ぐ》なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈《だけ》ぢやないか」

　平岡は醉つた眼を心持大きくした。

　「大分《だいぶ》考へが違つて來た樣だね。――けれども其苦痛が後《あと》から藥になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」

　「そりや不見識な青年が、流俗《りうぞく》の諺《ことわざ》に降參して、好加減《いゝかげん》な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」

　「だつて、君だつて、もう大抵世の中へ出なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」

　「世の中へは昔から出てゐるさ。ことに君と分れてから、大變世の中が廣くなつた樣な氣がする。たゞ君の出てゐる世の中とは種類が違ふ丈《だけ》だ」

　「そんな事を云つて威張つたつて、今に降參する丈《だけ》だよ」

　「無論食ふに困る樣になれば、何時《いつ》でも降參するさ。然し今日《こんにち》に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な經驗を甞《な》めるものか。印度人《インドじん》が外套を着て、冬の來た時の用心をすると同じ事だもの」

　平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃《ひら》めいた。赤い眼を据ゑてぷか／＼烟草を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、少し調子を穩やかにした。――「僕の知つたものに、丸《まる》で音樂の解らないものがある。學校の�ﾍ師をして、一軒ぢや飯が食へないもんだから、三軒も四軒も懸《か》け持《もち》をやつてゐるが、そりや氣の毒なもんで、下讀《したよみ》をするのと、�ﾍ場へ出て器械的に口を動かしてゐるより外に全く暇がない。たまの日曜｜抔《など》は骨休めとか號して一日ぐう／＼寐てゐる。だから何所に音樂會があらうと、どんな名人が外國から來《き》やうと聞きに行く機會がない。つまり樂《がく》といふ一種の美くしい世界には丸《まる》で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是《これ》程《ほど》隣れな無經驗はないと思ふ。?麭《ぱん》に關係した經驗は、切實かも知れないが、要するに劣等だよ。?麭《ぱん》を離れ水を離れた贅澤な經驗をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊つちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅澤な世界では、君よりずつと年長者の積《つも》りだ」

　平岡は卷莨《まきたばこ》の灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、

　「うん、何時《いつ》迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其重い言葉の足《あし》が、富に對する一種の呪詛《じゆそ》を引き摺《ず》つてゐる樣に聽えた。

　兩人《ふたり》は醉つて、戸外《おもて》へ出た。酒の勢で變な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも發展せずにゐる。

　「少し歩かないか」と代助が誘つた。平岡も口程忙がしくはないと見えて、生返事《なまへんじ》をしながら、一所に歩《ほ》を運んで來た。通を曲つて横町へ出て、成る可く、話の爲好《しい》い閑《しづか》な場所を選んで行くうちに、何時《いつ》か緒口《いとくち》が付いて、思ふあたりへ談柄《だんぺい》が落ちた。

　平岡の云ふ所によると、赴任の當時彼は事務見習のため、地方の經濟?況取調のため、大分《だいぶ》忙がしく働らいて見た。出來得るならば、學理的に實地の應用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫《それ》程《ほど》高くないので、已《やむ》を得ず、自分の計畫は計畫として未來の試驗用に頭の中に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時《いつ》も取り合はなかつた。六づかしい理窟｜抔《なと》を持ち出すと甚だ御機嫌が惡い。青二才《あをにさい》に何が分るものかと云ふ樣な風をする。其癖自分は實際何も分つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖いからの樣に思はれた。其所に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事も一度や二度ではない。

　けれども、時日を經過するに從つて、肝癪《かんしやく》が何時《いつ》となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周圍の空氣と融和する樣になつた。又成るべくは、融和する樣に力《つと》めた。それにつれて、支店長の自分に對する態度も段々變つて來た。時々は向ふから相談をかける事さへある。すると學校を出たての平岡でないから、先方《むかふ》に解らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない樣にして置く。

　「無暗に御世辭を使つたり、胡麻《ごま》を摺《す》るのとは違ふが」と平岡はわざ／＼斷《ことわ》つた。代助は眞面目な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。

　支店長は平岡の未來の事に就て、色々心配してくれた。近いうちに本店に歸る番に中《あた》つてゐるから、其時は一所に來給へ抔《など》と冗談半分に約束迄した。其頃は事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし勉強をする暇が自然となくなつて、又勉強が却《かへ》つて實務の妨《さまたげ》をする樣に感ぜられて來た。

　支店長が、自分に萬事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の關といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。所が此男がある藝妓《げいしや》と關係《かゝりあ》つて、何時《いつ》の間《ま》にか會計に穴を明けた。それが曝露したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして放《はふ》つて置くと、支店長に迄多少の煩《わづらひ》が及んで來さうだつたから、其所で自分が責を引いて辭職を申し出た。

　平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果《いんぐわ》を含められて、所決を促がされた樣にも聞えた。それは平岡の話しの末に「會社員なんてものは、上になればなる程旨い事が出來るものでね。實は關なんて、あれつ許《ぱかり》の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは氣の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。

　「ぢや支店長は一番旨い事をしてゐる譯だね」と代助が聞いた。

　「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁して仕舞つた。

　「それで其男の使ひ込んだ金は何うした」

　「千に足らない金だつたから、僕が出して置いた」

　「よく有つたね。君も大分《だいぶ》旨い事をしたと見える」

　平岡は苦《にが》い顔をして、ぢろりと代助を見た。

　「旨い事をしたと假定しても、皆《みんな》使つて仕舞つてゐる。生活《くらし》にさへ足りない位だ。其金は借りたんだよ」

　「さうか」と代助は落ち付き拂つて受けた。代助は何《ど》んな時でも平生の調子を矢はない男である。さうして其調子には低く明らかなうちに一種の丸味《まるみ》が出てゐる。

　「支店長から借りて埋めて置いた」

　「何故《なせ》支店長がぢかに其關とか何とか云ふ男に貸して遣らないのかな」

　平岡は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。二人は無言の儘しばらくの間《あひだ》並《なら》んで歩いて行つた。

　代助は平岡が語つたより外に、まだ何かあるに違ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄《あくまで》其眞相を研究する程の權利を有《も》つてゐないことを自覺してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、實際あまり都會化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil《ニル》admirari《アドミラリ》の域に達して仕舞つた。彼の思想は、人間の暗黒面に出逢つて喫驚《びつくり》する程の山出《やまだし》ではなかつた。彼の神經は斯樣に陳腐な秘密を嗅いで嬉しがる樣に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へぼ、困憊《こんぱい》してゐた。

　代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の中で、もう是程に進化――進化の裏面を見ると、何時《いつ》でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として舊態を改めざる三年｜前《ぜん》の初心《うぶ》と見てゐるらしい。かう云ふ御坊《おぼ》つちやんに、洗《あら》ひ浚《ざら》ひ自分の弱點を打ち明けては、徒らに馬糞《まぐそ》を投げて、御孃さまを驚ろかせると同結果に陷《おち》いり易い。餘計な事をして愛想を盡かされるよりは黙つてゐる方が安全だ。――代助には平岡の腹が斯う取れた。それで平岡が自分に返事もせずに無言で歩いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を子供視《こどもし》する程度に於て、あるひは其れ以上の程度に於て、代助は平岡を子供視し始めたのである。けれども兩人《ふたり》が十五六間過ぎて、又話を遣り出した時は、どちらにも、そんな痕迹《こんせき》は更になかつた。最初に口を切つたのは代助であつた。

　「それで、是から先《さき》何うする積《つもり》かね」

　「さあ」

　「矢つ張り今迄の經驗もあるんだから、同じ職業が可《い》いかも知れないね」

　「さあ。事情次第だが。實は緩《ゆつ》くり君に相談して見《み》樣《やう》と思つてゐたんだが。何うだらう、君の兄さんの會社の方に口はあるまいか」

　「うん、頼んで見《み》樣《やう》、二三日｜内《うち》に家《うち》へ行く用があるから。然し何うかな」

　「もし、實業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」

　「夫《それ》も好いだらう」

　兩人《ふたり》は又電車の通る通へ出た。平岡は向ふから來た電車の軒を見てゐたが、突然是に乘つて歸ると云ひ出した。代助はさうかと答へた儘、留めもしない、と云つて直《すぐ》分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄歩いて來た。そこで、

　「三千代《みちよ》さんは何うした」と聞いた。

　「難有《ありがた》う、まあ相變らずだ。君に宜しく云つてゐた。實は今日連れて來《き》やうと思つたんだけれども、何だか汽車に搖れたんで頭が惡いといふから宿屋へ置いて來た」

　電車が二人の前で留まつた。平岡は二三歩早足に行きかけたが、代助から注意されて已《や》めた。彼の乘るべき車はまだ着かなかつたのである。

　「子供は惜しい事をしたね」

　「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有《ありがた》う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好かつた」

　「其後は何うだい。まだ後《あと》は出來ないか」

　「うん、未《ま》だにも何にも、もう駄目だらう。身體があんまり好くないものだからね」

　「こんなに動く時は子供のない方が却《かへ》つて便利で可《い》いかも知れない」

　「夫《それ》もさうさ。一層《いつそ》君の樣に一人身《ひとりみ》なら、猶《なほ》の事、氣樂で可《い》いかも知れない」

　「一人身《ひとりみ》になるさ」

　「冗談云つてら――夫《それ》よりか、妻《さい》が頻りに、君はもう奧さんを持つたらうか、未《ま》だだらうかつて氣にしてゐたぜ」

　所へ電車が來た。

　

　　　　　三

　

　代助の父は長井得《ながゐとく》といつて、御維新《ごゐつしん》のとき、戰爭に出た經驗のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を已《や》めてから、實業界に這入つて、何《なに》か彼《かに》かしてゐるうちに、自然と金が貯《たま》つて、此十四五年來は大分《だいぶん》の財産家になつた。

　誠吾《せいご》と云ふ兄がある。學校を卒業してすぐ、父の關係してゐる會社へ出たので、今では其所で重要な地位を占める樣になつた。梅子《うめこ》といふ夫人に、二人の子供が出來た。兄は誠太郎《せいたらう》と云つて十五になる。妹《いもと》は縫《ぬひ》といつて三つ違である。

　誠吾の外に姉がまだ一人あるが、是はある外交官に嫁《とつ》いで、今は夫《をつと》と共に西洋にゐる。誠吾と此姉の間にもう一人、それから此姉と代助の間にも、まだ一人兄弟があつたけれども、それは二人とも早く死んで仕舞つた。母も死んで仕舞つた。

　代助の一家《いつけ》は是《これ》丈《だけ》の人數《にんず》から出來上つてゐる。そのうちで外へ出てゐるものは、西洋に行つた姉と、近頃一戸を構へた代助ばかりだから、本家《ほんけ》には大小合せて五人殘る譯になる。

　代助は月に一度は必ず本家《ほんけ》へ金を貰ひに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使つて生きてゐる。月に一度の外にも、退屈になれば出掛けて行く。さうして子供に調戯《からか》つたり、書生と五目並《ごもくならべ》をしたり、嫂《あによめ》と芝居の評をしたりして歸つて來る。

　代助は此｜嫂《あによめ》を好《す》いてゐる。此｜嫂《あによめ》は、天保調《てんぱうてう》と明治の現代調を、容赦なく繼ぎ合せた樣な一種の人物である。わざ／＼佛蘭西にゐる義妹《いもうと》に注文して、六づかしい名のつく、頗る高價な織物を取寄せて、それを四五人で裁《た》つて、帶に仕立てゝ着て見たり何かする。後《あと》で、それは日本から輸出したものだと云ふ事が分つて大笑ひになつた。三越陳列所へ行つて、それを調べて來たものは代助である。夫《それ》から西洋の音樂が好きで、よく代助に誘ひ出されて聞きに行く。さうかと思ふと易斷《うらなひ》に非常な興味を有《も》つてゐる。石龍子《せきりゆうし》と尾島某《をじまなにがし》を大いに崇拝する。代助も二三度｜御相伴《おしやうばん》に、俥《くるま》で易者の許《もと》迄《まで》食付《くつつ》いて行つた事がある。

　誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて時々｜球《たま》を投げてやる事がある。彼は妙な希望を持つた子供である。毎年《まいとし》夏の初めに、多くの燒芋屋が俄然として氷水屋に變化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、氷菓《アイスクリーム》を食ふものは誠太郎である。氷菓《アイスクリーム》がないときには、氷水で我慢する。さうして得意になつて歸つて來る。近頃では、もし相撲《すまふ》の常設館が出來たら、一番先へ這入つて見たいと云つてゐる。叔父さん誰か相撲《すまふ》を知りませんかと代助に聞いた事がある。

　縫《ぬひ》といふ娘は、何か云ふと、好くつてよ、知らないわと答へる。さうして日に何遍となくリボンを掛け易へる。近頃は?イオリンの稽古に行く。歸つて來ると、鋸《のこぎり》の目立ての樣な聲を出して御浚《おさら》ひをする。たゞし人が見てゐると決して遣らない。室《へや》を締め切つて、きい／＼云はせるのだから、親は可なり上手だと思つてゐる。代助｜丈《だけ》が時々そつと戸を明けるので、好くつてよ、知らないわと叱られる。

　兄は大抵｜不在勝《ふざいかち》である。ことに忙がしい時になると、家《うち》で食ふのは朝食《あさめし》位なもので、あとは、何うして暮してゐるのか、二人の子供には全く分らない。同程度に於て代助にも分らない。是は分らない方が好ましいので、必要のない限りは、兄の日々《にち／＼》の戸外生活に就て決して研究しないのである。

　代助は二人の子供に大變人望がある。嫂《あによめ》にも可なりある。兄には、あるんだか、ないんだか分らない。會《たま》に兄と弟《おとゝ》が顔を合せると、たゞ浮世話《うきよばなし》をする。双方とも普通の顔で、大いに平氣で遣つてゐる。陳腐に慣れ拔いた樣子である。

　代助の尤も應《こた》へるのは親爺《おやぢ》である。好い年をして、若い妾《めかけ》を持つてゐるが、それは構はない。代助から云ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾《めかけ》を置く餘裕のないものに限つて、蓄妾《ちくせふ》の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺《おやぢ》は又｜大分《だいぶ》の八釜《やかま》し屋《や》である。子供のうちは心魂に徹して困却した事がある。しかし成人の今日《こんにち》では、それにも別段｜辟易《へきえき》する必要を認めない。たゞ應《こた》へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、兩方共大した變りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔《むか》し世に處した時の心掛けでもつて、代助も遣らなくつては、嘘だといふ論理になる。尤も代助の方では、何が嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は子供の頃非常な肝癪持《かんしやくもち》で、十八九の時分｜親爺《おやぢ》と組打をした事が一二返ある位だが、成長して學校を卒業して、しばらくすると、此｜肝癪《かんしやく》がぱたりと已《や》んで仕舞つた。それから以後つひぞ怒つた試《ため》しがない。親爺《おやぢ》はこれを自分の薫育《くんいく》の効果と信じてひそかに誇つてゐる。

　實際を云ふと親爺《おやぢ》の所謂｜薫育《くんいく》は、此｜父子《ふし》の間に纒綿する暖かい情味を次第に冷却せしめた丈《だけ》である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺《おやぢ》の腹のなかでは、それが全く反對《あべこべ》に解釋されて仕舞つた。何をしやうと血肉の親子である。子が親に對する天賦《てんぷ》の情合《じやうあひ》が、子を取扱ふ方法の如何《いかん》に因つて變る筈がない。�ﾍ育の爲め、少しの無理はしやうとも、其結束は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒�ﾍの感化を受けた親爺《おやぢ》は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を與へたといふ單純な事實が、あらゆる不快苦痛に對して、永久愛情の保證になると考へた親爺《おやぢ》は、その信念をもつて、ぐん／＼押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子《むすこ》を作り上げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分《だいぶ》變つて來て、ある點から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生れ落ちるや否や、此｜親爺《おやち》が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の變移を見拔いた適宜の處置ではなかつたのである。自分の�ﾍ育が代助に及ぼした惡結果に至つては、今に至つて全く氣が付かずにゐる。

　親爺《おやぢ》は戰爭に出たのを頗る自慢にする。稍《やゝ》もすると、御前｜抔《なと》はまだ戰爭をした事がないから、度胸が据らなくつて不可《いか》んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間至上な能力であるかの如き言草《いひぐさ》である。代助はこれを聞かせられるたんびに厭な心持がする。膽力は命の遣り取りの劇《はげ》しい、親爺《おやぢ》の若い頃の樣な野蠻時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日《こんにち》から云へば、古風な弓術《きうじゆつ》撃劔《げきけん》の類《たぐひ》と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、膽力とは兩立し得ないで、しかも膽力以上に難有《ありがた》がつて然るべき能力が澤山ある樣に考へられる。御父さんから又膽力の講釋を聞いた。御父さんの樣に云ふと、世の中で石地藏が一番偉いことになつて仕舞ふ樣だねと云つて、嫂《あによめ》と笑つた事がある。

　斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ氣は心《しん》から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺《おやぢ》の使嗾《しそう》で夜中にわざ／＼青山の墓地迄出掛けた事がある。氣味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青《まつさを》な顔をして家《うち》へ歸つて來た。其折は自分でも殘念に思つた。あくる朝｜親爺《おやち》に笑はれたときは、親爺《おやぢ》が憎らしかつた。親爺《おやぢ》の云ふ所によると、彼と同時代の少年は、膽力修養の爲め、夜半《やはん》に結束して、たつた一人、御城の北一里にある劔《つるぎ》が峯《みね》の天頂《てつぺん》迄登つて、其所の辻堂で夜明《よあかし》をして、日の出を拜んで歸つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得方からして違ふと親爺《おやぢ》が批評した。

　斯んな事を眞面目に口にした、又今でも口にしかねまじき親爺《おやぢ》は氣の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌《きらひ》である。瞬間の動搖でも胸に波が打つ。あるときは書齋で凝《じつ》と坐つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて來るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷いてゐる坐蒲團も、疊も、乃至｜床板《ゆかいた》も明らかに震へる樣に思はれる。彼はこれが自分の本來だと信じてゐる。親爺《おやぢ》の如きは、神經未熟の野人か、然らずんば己《おの》れを僞《いつ》はる愚者としか代助には受け取れないのである。

　代助は今此｜親爺《おやぢ》と對坐してゐる。廂《ひさし》の長い小さな部屋なので、居ながら庭を見ると、廂《ひさし》の先で庭が仕切られた樣な感がある。少なくとも空は廣く見えない。其代り靜かで、落ち付いて、尻の据り具合が好い。

　親爺《おやぢ》は刻《きざ》み烟草《たはこ》を吹かすので、手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々灰吹をぽん／＼と叩く。それが靜かな庭へ響いて好い音がする。代助の方は金《きん》の吸口を四五本｜手焙《てあぶり》の中へ並べた。もう鼻から烟《けむ》を出すのが厭になつたので、腕組をして親爺《おやぢ》の顔を眺めてゐる。其顔には年の割に肉が多い。それでゐて頬は痩《こ》けてゐる。濃い眉の下に眼の皮が弛《たる》んで見える。髭は眞白と云はんよりは、寧ろ黄色である。さうして、話をするときに相手の膝頭と顔とを半々に見較べる癖がある。其時の眼の動かし方で、白眼が一寸ちらついて、相手に妙な心持をさせる。

　老人は今斯んな事を云つてゐる。――

　「さう人間は自分｜丈《だけ》を考へるべきではない。世の中もある。國家もある。少しは人の爲に何かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら／＼してゐて心持の好い筈はなからう。そりや、下等社會の無�ﾍ育のものなら格別だが、最高の�ﾍ育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。學んだものは、實地に應用して始めて趣味が出るものだからな」

　「左樣《さう》です」と代助は答へてゐる。親爺《おやぢ》から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減《いゝかげん》な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、親爺《おやち》の考へは、萬事中途半端に、或物を獨り勝手に斷定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、何時《いつ》の間《ま》にか利己本位に變つてゐる。言葉｜丈《だけ》は滾々《こん／＼》として、勿體らしく出るが、要するに端倪《たんげい》すべからざる空談《くうだん》である。それを基礎から打ち崩して懸かるのは大變な難事業だし、又｜必竟《ひつきやう》出來ない相談だから、始めより成るべく觸《さは》らない樣にしてゐる。所が親爺《おやぢ》の方では代助を以て無論自己の太陽系に屬すべきものと心得てゐるので、自己は飽《あく》までも代助の軌道を支配する權利があると信じて押して來る。そこで代助も已《やむ》を得ず親爺《おやぢ》といふ老太陽の周圍を、行儀よく廻轉する樣に見せてゐる。

　「それは實業が厭なら厭で好い。何も金を儲ける丈《だけ》が日本の爲になるとも限るまいから。金は取らんでも構はない。金の爲に兎や角云ふとなると、御前も心持がわるからう。金は今迄通り己《おれ》が補助して遣る。おれも、もう何時《いつ》死ぬか分らないし、死にや金を持つて行く譯にも行かないし。月々御前の生計《くらし》位どうでもしてやる。だから奮發して何か爲《す》るが好い。國民の義務としてするが好い。もう三十だらう」

　「左樣《さう》です」

　「三十になつて遊民《いうみん》として、のらくらしてゐるのは、如何にも不體裁だな」

　代助は決してのらくらして居るとは思はない。たゞ職業の爲に汚《けが》されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈《だけ》である。親爺《おやぢ》が斯んな事を云ふたびに、實は氣の毒になる。親爺《おやぢ》の幼稚な頭腦には、かく有意義に月日を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出してゐるのが、全く映らないのである。仕方がないから、眞面目な顔をして、

　「えゝ、困ります」と答へた。老人は頭から代助を小僧視してゐる上に、其返事が何時《いつ》でも幼氣《をさなげ》を失はない簡單な、世帶《しよたい》離れをした文句だものだから、馬鹿にするうちにも、どうも坊《ぼつ》ちゃんは成人しても仕樣がない、困つたものだと云ふ氣になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平氣で、冷静で、はにかまず、もぢ付かず、尋常極まつてゐるので、此奴《こいつ》は手の付け樣がないといふ氣にもなる。

　「身體は丈夫だね」

　「二三年このかた風邪を引いた事もありません」

　「頭も惡い方ぢやないだらう。學校の成蹟も可なりだつたんぢやないか」

　「まあ左樣《さう》です」

　「夫《それ》で遊んでゐるのは勿體ない。あの何とか云つたね、そら御前の所へ善《よ》く話しに來た男があるだらう。己《おれ》も一二度逢つたことがある」

　「平岡ですか」

　「さう平岡。あの人なぞは、あまり出來の可《い》い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何處かへ行つたぢやないか」

　「其代り失敗《しくじ》つて、もう歸つて來ました」

　老人は苦笑を禁じ得なかつた。

　「どうして」と聞いた。

　「詰り食ふ爲に働らくからでせう」

　老人には此意味が善く解らなかつた。

　「何か面白くない事でも遣つたのかな」と聞き返した。

　「其場合々々で當然の事を遣るんでせうけれども、其當然が矢つ張り失敗《しくじり》になるんでせう」

　「はあゝ」と氣の乘らない返事をしたが、やがて調子を易へて、説き出した。

　「若い人がよく失敗《しくじ》るといふが、全く誠實と熱心が足りないからだ。己《おれ》も多年の經驗で、此年になる迄遣つて來たが、どうしても此二つがないと成功しないね」

　「誠實と熱心があるために、却《かへ》つて遣り損ふこともあるでせう」

　「いや、先《まづ》ないな」

　親爺《おやぢ》の頭の上に、誠者天之道也《まことはてんのみちなり》と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の舊藩主に書いて嘗つたとか云つて親爺《おやぢ》は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌《きらひ》である。第一字が嫌《いや》だ。其上文句が氣に喰はない。誠は天の道なりの後《あと》へ、人の道にあらずと附け加へたい樣な心持がする。

　其｜昔《むか》し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に當つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀を脱いで其前に頭《あたま》を下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固《もと》より返せるか返せないか、分らなかつたんだから、分らないと眞直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此額を藩主に書いて貰つたんである。爾來長井は何時《いつ》でも、之を自分の居間に掛けて朝夕《てうせき》眺めてゐる。代助は此額の由來を何遍聞かされたか知れない。

　今から十五六年前に、舊藩主の家で、月々の支出が嵩《かさ》んできて、折角持ち直した經濟が又崩れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託《ゐたく》された。其時長井は自分で風呂の薪《まき》を焚いて見て、實際の消費高と帳面づらの消費高との差違から調べにかゝつたが、終日終夜この事｜丈《だけ》に精魂を打ち込んだ結果は約一ケ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計《くらし》をしてゐる。

　斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何によらず、誠實と熱心へ持つて行きたがる。

　「御前は、どう云ふものか、誠實と熱心が缺けてゐる樣だ。それぢや不可《いか》ん。だから何にも出來ないんだ」

　「誠實も熱心もあるんですが、たゞ人事上に應用出來ないんです」

　「何う云ふ譯で」

　代助は又返答に窮した。代助の考へによると、誠實だらうが、熱心だらうが、自分が出來合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鐵と觸れて火花の出る樣に、相手次第で摩擦《まさつ》の具合がうまく行けば、當事者二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が惡くつては起り樣がない。

　「御父さんは論語だの、王陽明《わうやうめい》だのといふ、金《きん》の延金《のべがね》を呑んで入らつしやるから、左樣《さう》いふ事を仰しやるんでせう」

　「金《きん》の延金《のべがね》とは」

　代助はしばらく黙つてゐたが、漸《やう》やく、

　「延金《のべかね》の儘出て來るんです」と云つた。長井は、書物癖《しよもつへき》のある、偏屈な、世慣れない若輩《じやくはい》のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。

　それから約四十分程して、老人は着物を着換へて、袴を穿《は》いて、俥《くるま》に乘つて、何處かへ出て行つた。代助も玄關迄送つて出たが、又引き返して客間の戸を開けて中へ這入つた。是は近頃になつて建て�揩ｵた西洋作りで、内部の裝飾其他の大部分は、代助の意匠《いしやう》に本《もと》づいて、專門家へ注文して出來上つたものである。ことに欄間の周圍に張つた模樣畫は、自分の知り合ひの去る畫家に頼んで、色々相談の揚句に成つたものだから、特更《ことさら》興味が深い。代助は立ちながら、畫卷物《ゑまきもの》を展開した樣な、横長《よこなが》の色彩を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前《このまへ》來て見た時よりは、痛く見劣りがする。是では頼もしくないと思ひながら、猶《なほ》局部々々に眼を付けて吟味してゐると、突然｜嫂《あによめ》が這入つて來た。

　「おや、此所に入らつしやるの」と云つたが、「一寸《ちよいと》其所《そこい》らに私《わたくし》の櫛が落ちて居なくつて」と聞いた。櫛は長椅子《ソーフア》の足の所にあつた。昨日《きのふ》縫子に貸して遣つたら、何所かへ失《な》くなして仕舞つたんで、探しに來たんださうである。兩手で頭を抑へる樣にして、櫛を束髪の根方へ押し付けて、上眼《うはめ》で代助を見ながら、

　「相變らず茫乎《ぼんやり》してるぢやありませんか」と調戯《からか》つた。

　「御父さんから御談義を聞かされちまつた」

　「また？　能く叱られるのね。御歸り匆々《そう／＼》、隨分氣が利かないわね。然し貴方もあんまり、好《よ》かないわ。些《ちつ》とも御父さんの云ふ通りになさらないんだもの」

　「御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。萬事担え目に大人《おとな》しくしてゐるんです」

　「だから猶《なほ》始末が惡いのよ。何か云ふと、へい／＼つて、さうして、些《ちつ》とも云ふ事を聞かないんだもの」

　代助は苦笑して黙つて仕舞つた。梅子は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊《せい》のすらりとした、色の淺黒い、眉の濃い、唇の薄い女である。

　「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になつて上げるから」

　代助は矢つ張り立つた儘、嫂《あによめ》の姿を見守つてゐた。

　「今日は妙な半襟《はんえり》を掛けてますね」

　「これ？」

　梅子は顎を約めて、八の字を寄せて、自分の襦袢《じゆばん》の襟を見やうとした。

　「此間《こなひだ》買つたの」

　「好い色だ」

　「まあ、そんな事は、何うでも可《い》いから、其所へ御掛けなさいよ」

　代助は嫂《あによめ》の眞正面へ腰を卸した。

　「へえ掛けました」

　「一體今日は何を叱られたんです」

　「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの國家社會の爲に盡すには驚ろいた。何でも十八の年から今日《こんにち》迄のべつに盡してるんだつてね」

　「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」

　「國家社會の爲に盡して、金が御父さん位｜儲《まう》かるなら、僕も盡しても好い」

　「だから遊んでないで、御盡しなさいな。貴方は寐てゐて御金を取らうとするから狡猾《かうくわつ》よ」

　「御金を取らうとした事は、まだ有りません」

　「取らうとしなくつても、使ふから同《おんな》じぢやありませんか」

　「兄さんが何とか云つてましたか」

　「兄さんは呆れてるから、何とも云やしません」

　「隨分猛烈だな。然し御父さんより兄さんの方が偉いですね」

　「何うして。――あら惡《にく》らしい、又あんな御世辭を使つて。貴方はそれが惡いのよ。眞面目な顔をして他《ひと》を茶化《ちやか》すから」

　「左樣《そん》なもんでせうか」

　「左樣《そん》なもんでせうかつて、他《ひと》の事ぢやあるまいし。少しや考へて御覽なさいな」

　「何うも此所へ來ると、丸《まる》で門野《かどの》と同《おんな》じ樣になつちまふから困る」

　「門野《かどの》つて何です」

　「なに宅《うち》にゐる書生ですがね。人に何か云はれると、屹度｜左樣《そん》なもんでせうか、とか、左樣《さう》でせうか、とか答へるんです」

　「あの人が？　餘つ程妙なのね」

　代助は一寸話を已《や》めて、梅子の肩越に、窓掛の間から、奇麗な空を透《す》かす樣に見てゐた。遠くに大きな樹が一本ある。薄茶色の芽を全體に吹いて、柔らかい梢の端《はじ》が天に接《つゞ》く所は、糠雨《ねかあめ》で暈《ぼか》されたかの如くに霞んでゐる。

　「好い氣候になりましたね。何所か御花見にでも行きませうか」

　「行きませう。行くから仰《おつ》しやい」

　「何を」

　「御父さまから云はれた事を」

　「云はれた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭が惡いんだから」

　「まだ空《そら》つとぼけて居らつしやる。ちゃんと知つてますよ」

　「ぢや、伺ひませうか」

　梅子は少しつんとした。

　「貴方は近頃餘つ程減らず口が達者におなりね」

　「何、姉さんが辟易する程ぢやない。――時に今日《けふ》は大變靜かですね。どうしました、子供達は」

　「子供は學校です」

　十六七の小間使が戸を開けて顔を出した。あの、旦那樣が、奧樣に一寸電話口迄と取り次いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間を出やうとすると、梅子は振り向いた。

　「あなたは、其所に居らつしやい。少し話しがあるから」

　代助には嫂《あによめ》のかう云ふ命令的の言葉が何時《いつ》でも面白く感ぜられる。御緩《ごゆつくり》と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の畫《ゑ》を眺め出した。しばらくすると、其色が壁の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球《めだま》の中から飛び出して、壁の上へ行つて、べた／＼喰つ付く樣に見えて來た。仕舞には眼球から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方《こちら》の思ひ通りに變化出來る樣になつた。代助はかくして、下手な個所々々を悉《こと／”＼》く塗り更《か》へて、とう／＼自分の想像し得る限りの尤《もつと》も美くしい色彩に包圍されて、恍惚《くわうこつ》と坐つてゐた。所へ梅子が歸つて來たので、忽ち當り前の自分に戻つて仕舞つた。

　梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は學校を卒業する前から、梅子の御蔭で寫眞實物色々な細君の候補者に接した。けれども、何づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは體裁の好い逃口上《にげこうじやう》で斷わつてゐたが、二年程｜前《まへ》からは、急に圖迂々々《づう／＼》しくなつて、屹度《きつと》相手にけちを付ける。口と顎の角度が惡いとか、眼の長さが顔の幅に比例しないとか、耳の位置が間違つてるとか、必ず妙な非難を持つて來る。それが悉《こと／”＼》く尋常な言草《いひぐさ》でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟《ひつきやう》世話を燒き過ぎるから、付け上つて、人を困らせるのだらう。當分｜打遣《うつちや》つて置いて、向ふから頼み出させるに若《し》くはない。と決心して、夫《それ》からは縁談の事をついぞ口にしなくなつた。所が本人は一向《いつかう》困つた樣子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見當が付かない態度で今日《こんにち》迄《まで》暮して來た。

　其所《そこ》へ親爺《おやち》が甚だ因縁の深いある候補者を見付けて、旅行先から歸つた。梅子は代助の來る二三日｜前《まへ》に、其話を親爺《おやぢ》から聞かされたので、今日の會談は必ずそれだらうと推《すゐ》したのである。然し代助は實際老人から結婚問題に付いては、此日｜何《なん》にも聞かなかつたのである。老人は或はそれを披露する氣で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ料簡を起した結果、故意《わざ》と話題を避けたとも取れる。

　此候補者に對して代助は一種特殊な關係を有《も》つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれども名は知らない。年齡、容貌、�ﾍ育、性質に至つては全く知らない。何故《なぜ》その女が候補者に立つたと云ふ因縁になると又能く知つて居る。

　代助の父には一人の兄があつた。直記《なほき》と云つて、父とはたつた一つ違ひの年上だが、父よりは小柄なうへに、顔付眼鼻立が非常に似てゐたものだから、知らない人には往々｜双子《ふたご》と間違へられた。其折は父も得《とく》とは云はなかつた。誠之進《せいのしん》といふ幼名で通つてゐた。

　直記と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、氣質《きだて》も本當の兄弟であつた。兩方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に食つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。讀書にも一つ燈火《ともしび》を分つた位｜親《した》しかつた。

　丁度直記の十八の秋であつた。ある時二人は城下外《じやうかはづれ》の等覺寺《とうかくじ》といふ寺へ親の使に行つた。これは藩主の菩提寺《ぼだいじ》で、そこにゐる楚水《そすゐ》といふ坊さんが、二人の親とは昵近《ぢつこん》なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は圍碁《ゐご》の招待《せうだい》か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに留められて、色々話してゐるうちに遲くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、市中は大分《だいぶ》雜沓してゐた。二人は群集のなかを急いで歸る拍子に、ある横町を曲らうとする角で、川向ひの方《はう》限《ぎ》りの某《なにがし》といふものに突き當つた。此｜某《なにがし》と二人とは、かねてから仲が惡かつた。其時｜某《なにがし》は大分《だいぶ》酒氣を帶びてゐたと見えて、二言三言《ふたことみこと》いひ爭ふうちに刀を拔いて、いきなり斬り付けた。斬り付けられた方は兄であつた。已《やむ》を得ず是も腰の物を拔いて立向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい亂暴もの丈《だけ》あつて、酩酊《めいてい》してゐるにも拘はらず、強かつた。黙つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟《おとゝ》も刀を拔いた。さうして二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。

　其頃の習慣として、侍《さむらひ》が侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覺悟で家《うち》へ歸つて來た。父も二人を並《なら》べて置いて順々に自分で介錯《かいしやく》をする氣であつた。所が母が生僧《あやにく》祭で知己《ちかづき》の家《うち》へ呼ばれて留守である。父は二人に切腹をさせる前、もう一遍母に逢はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母を迎にやつた。さうして母の來る間、二人に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成《なるべく》愚圖々々してゐた。

　母の客に行つてゐた所は、その遠縁にあたる高木といふ勢力家であつたので、大變都合が好かつた。と云ふのは、其頃は世の中の動き掛けた當時で、侍《さむらひ》の掟《おきて》も昔の樣には嚴重に行はれなかつた。殊更《ことさら》殺された相手は評判の惡い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の家へ來て、何分の沙汰が公向《おもてむき》からある迄は、當分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を諭《さと》した。

　高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された某《なにがし》の親は又、存外｜譯《わけ》の解つた人で、平生から倅《せがれ》の行跡《ぎやうせき》の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた當時も、此方《こつち》から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に處分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく一間《ひとま》の内に閉ぢ籠つて、謹愼の意を表して後《のち》、二人とも人知れず家を捨てた。

　三年の後《のち》兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は兩親を國元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、得《とく》といふ一字名になつた。其時は自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勸めて見たが應じなかつた。此養子に子供が二人あつて、男の方は京都へ出て同志社へ這入つた。其所を卒業してから、長らく亞米利加《アメリカ》に居つたさうだが、今では神戸で實業に從事して、相當の資産家になつてゐる。女の方は縣下の多額納税者の所へ嫁に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。

　「大變込み入つてるのね。私《わたし》驚いちまつた」と嫂《あによめ》が代助に云つた。

　「御父さんから何返も聞いてるぢやありませんか」

　「だつて、何時《いつ》もは御嫁の話が出ないから、好い加減に聞いてるのよ」

　「佐川にそんな娘があつたのかな。僕も些《ち》つとも知らなかつた」

　「御貰ひなさいよ」

　「賛成なんですか」

　「賛成ですとも。因縁つきぢやありませんか」

　「先祖の拵《こし》らえた因縁よりも、まだ自分の拵《こしら》えた因縁で貰ふ方が貰ひ好い樣だな」

　「おや、左樣《そん》なものがあるの」

　代助は苦笑して答へなかつた。

　

　　　　　四

　

　代助は今讀み切つた許《ばかり》の薄い洋書を机の上に開けた儘、兩肱を突いて茫乎《ぼんやり》考へた。代助の頭は最後の幕で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに寒さうな樹が立つてゐる後《うしろ》に、二つの小さな角燈《かくとう》が音もなく搖《ゆら》めいて見えた。絞首臺《かうしゆだい》は其所にある。刑人は暗い所に立つた。木履《くつ》を片足｜失《な》くなした、寒いと一人が云ふと、何を？　と一人が聞き直した。木履《くつ》を失《な》くなして寒いと前のものが同じ事を繰り返した。Mは何處にゐると誰か聞いた。此所にゐると誰か答へた。樹《き》の間《あひだ》に大きな、白い樣な、平たいものが見える。濕《しめ》つぽい風が其所から吹いて來る。海だとGが云つた。しばらくすると、宣告文を書いた紙と、宣告文を持つた、白い手――手套《てぶくろ》を穿《は》めない――を角燈が照らした。讀上げんでも可《よ》からうといふ聲がした。其聲は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう只《たつた》一人になつたとKが云つた。さうして溜息を吐《つ》いた。Sも死んで仕舞つた。Wも死んで仕舞つた。Mも死んで仕舞つた。只《たつた》一人になつて仕舞つた。……

　海から日が上つた。彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。さうして引き出した。長くなつた頸、飛び出した眼、唇の上に咲いた、怖ろしい花の樣な血の泡《あわ》に濡《ぬ》れた舌を積み込んで元の路へ引き返した。……

　代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模樣を、此所《こゝ》迄《まで》頭の中で繰り返して見て、竦《ぞつ》と肩を縮《すく》めた。斯う云ふ時に、彼が尤も痛切に感ずるのは、萬一自分がこんな場に臨んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて、無理にも殺されるんだから、如何にも殘酷である。彼は生の慾望と死の壓迫の間《あひだ》に、わが身を想像して、未練に兩方に往つたり來たりする苦悶を心に描《ゑが》き出しながら凝《じつ》と坐つてゐると、脊中一面の皮が毛穴ごとにむづ／＼して殆ど堪らなくなる。

　彼の父は十七のとき、家中《かちゆう》の一人を斬り殺して、それが爲め切腹をする覺悟をしたと自分で常に人に語つてゐる。父の考では伯父の介錯《かいしやく》を自分がして、自分の介錯《かいしやく》を祖父《ぢゞ》に頼む筈であつたさうだが、能《よ》くそんな眞似が出來るものである。父が過去を語る度に、代助は父をえらいと思ふより、不愉快な人間だと思ふ。さうでなければ嘘吐《うそつき》だと思ふ。嘘吐の方がまだ餘つ程父らしい氣がする。

　父｜許《ばかり》ではない。祖父《ぢゞ》に就ても、こんな話がある。祖父《ぢゞ》が若い時分、撃劔の同門の何とかいふ男が、あまり技藝に達してゐた所から、他《ひと》の嫉妬《ねたみ》を受けて、ある夜《よ》繩手道を城下へ歸る途中で、誰かに斬り殺された。其時第一に馳《か》け付けたものは祖父《ぢゞ》であつた。左の手に提灯を翳《かざ》して、右の手に拔身を持つて、其拔身で死骸を叩きながら、軍平《ぐんぺい》確《しつ》かりしろ、創《きず》は淺いぞと云つたさうである。

　伯父が京都で殺された時は、頭巾《づきん》を着た人間にどや／＼と、旅宿《やどや》へ踏み込まれて、伯父は二階の廂《ひさし》から飛び下りる途端、庭石に爪付《つまづ》いて倒れる所を上から、容赦《ようしや》なく遣られた爲に、顔が膾《なます》の樣になつたさうである。殺される十日程｜前《まへ》、夜中《やちゆう》、合羽《かつぱ》を着て、傘《かさ》に雪を除《よ》けながら、足駄がけで、四條から三條へ歸つた事がある。其時｜旅宿《やど》の二丁程手前で、突然｜後《うしろ》から長井直記《ながゐなほき》どのと呼び懸けられた。伯父は振り向きもせず、矢張《やは》り傘《かさ》を差した儘、旅宿《やど》の戸口迄來て、格子を開けて中へ這入つた。さうして格子をぴしやりと締めて、中《うち》から、長井直記は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。

　代助は斯んな話を聞く度に、勇ましいと云ふ氣持よりも、まづ怖《こは》い方が先に立つ。度胸を買つてやる前に、醒《なま》ぐさい臭が鼻柱を拔ける樣に應《こた》へる。

　もし死が可能であるならば、それは發作《ほつさ》の絶高頂に達した一陣にあるだらうとは、代助のかねて期待する所であつた。所が、彼は決して發作性の男でない。手も顫《ふる》へる、足も顫へる。聲の顫へる事や、心臓の飛び上がる事は始終ある。けれども、激する事は近來殆んどない。激すると云ふ心的?態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死に易くなるのは眼に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて見たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖《かいばう》するたびに、五六年前の自己と、丸《まる》で違つてゐるのに驚ろかずには居られなかつた。

　代助は机の上の書物を伏せると立ち上がつた。椽側《えんがは》の硝子戸《がらすど》を細目に開けた間から暖かい陽氣な風が吹き込んで來た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣《はなびら》をふら／＼と搖《うご》かした。日は大きな花の上に落ちてゐる。代助は曲《こゞ》んで、花の中を覗き込んだ。やがて、ひよろ長い雄蕊《ゆうずゐ》の頂《いたゞ》きから、花粉《くわふん》を取つて、雌蕊《しずゐ》の先へ持つて來て、丹念《たんねん》に塗り付けた。

　「蟻でも付きましたか」と門野が玄關の方から出て來た。袴を穿《は》いてゐる。代助は曲《こゞ》んだ儘顔を上げた。

　「もう行つて來たの」

　「えゝ、行つて來ました。何ださうです。明日《あした》御引移りになるさうです。今日是から上がらうと思つてた所だと仰しやいました」

　「誰が？　平岡が？」

　「えゝ。――どうも何ですな。大分《だいぶ》御忙がしい樣ですな。先生た餘つ程違つてますね。――蟻なら種油を御注《おつ》ぎなさい。さうして苦しがつて、穴から出て來る所を一々殺すんです。何なら殺しませうか」

　「蟻ぢやない。斯うして、天氣の好い時に、花粉を取つて、雌蕊《しずゐ》へ塗り付けて置くと、今に實が結《な》るんです。暇だから植木屋から聞いた通り、遣つてる所だ」

　「なある程。どうも重寶な世の中になりましたね。――然し盆栽は好いもんだ。奇麗で、樂しみになつて」

　代助は面倒臭《めんどくさ》いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、

　「惡戯《いたづら》も好《いゝ》加減に休《よ》すかな」と云ひながら立ち上がつて、椽側《えんがは》へ据付の、籘《と》の安樂椅子に腰を掛けた。夫《そ》れ限《ぎ》りぽかんと何か考へ込んでゐる。門野は詰らなくなつたから、自分の玄關｜傍《わき》の三疊敷へ引き取つた。障子を開けて這入らうとすると、又｜椽側《えんがは》へ呼び返された。

　「平岡が今日來ると云つたつて」

　「えゝ、來る樣な御話しでした」

　「ぢや待つてゐやう」

　代助は外出を見合せた。實は平岡の事が此間から大分《だいぶ》氣に掛つてゐる。

　平岡は此｜前《ぜん》、代助を訪問した當時、既に落ち付いてゐられない身分であつた。彼自身の代助に語つた所によると、地位の心當りが二三ケ所あるから、差し當り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ケ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居つた。が、洋服を着た儘、部屋の敷居の上に立つて、何か急《せは》しい調子で、細君を極め付けてゐた。――案内なしに廊下を傳《つた》つて、平岡の部屋の横へ出た代助には、突然ながら、たしかに左樣《さう》取れた。其時平岡は一寸振り向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快よさゝうな所は見えなかつた。部屋の内《なか》から顔を出した細君は代助を見て、蒼白い頬をぽつと赤くした。代助は何となく席に就き惡《にく》くなつた。まあ這入れと申し譯に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。何うしてゐるかと思つて一寸來て見た丈《だけ》だ。出掛けるなら一所に出《で》樣《やう》と、此方《こつち》から誘ふ樣にして表へ出て仕舞つた。

　其時平岡は、早く家を探して落ち付きたいが、あんまり忙《いそが》しいんで、何うする事も出來ない、たまに宿のものが�ﾍへてくれるかと思ふと、まだ人が立ち退かなかつたり、あるひは今壁を塗つてる最中だつたりする。などと、電車へ乘つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も氣の毒になつて、そんなら家《いへ》は、宅《うち》の書生に探させやう。なに不景氣だから、大分《だいぶ》空《あ》いてるのがある筈だ。と請合《うけあ》つて歸つた。

　夫《それ》から約束通り門野を探しに出した。出すや否や、門野はすぐ恰好なのを見付けて來た。門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵｜可《よ》からうと云ふ事で分れたさうだが、家主《いへぬし》の方へ責任もあるし、又其所が氣に入らなければ外を探す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか判然《はつきり》した所を、門野に、もう一遍確かめさしたのである。

　「君、家主《いへぬし》の方へは借りるつて、斷わつて來たんだらうね」

　「えゝ、歸りに寄つて、明日《あした》引越すからつて、云つて來ました」

　代助は椅子に腰を掛けた儘、新らしく二度の世帶を東京に持つ、夫婦の未來を考へた。平岡は三年｜前《ぜん》新橋で分れた時とは、もう大分だいぶ》變つてゐる。彼の經歴は處世の階子段を一二段で踏み外《はづ》したと同じ事である。まだ高い所へ上《のぼ》つてゐなかつた丈《だけ》が、幸《さいはひ》と云へば云ふ樣なものゝ、世間の眼に映ずる程、身體に打撲を受けてゐないのみで、其實精神?態には既に狂ひが出來て居る。始めて逢つた時、代助はすぐ左樣《さう》思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の變化を打算して見て、或は此方《こつち》の心が向《むかふ》に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其《その》後《ご》平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外《そと》へ出た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判斷に戻らなければならなくなつた。平岡は其時顔の中心に一種の神經を寄せてゐた。風が吹いても、砂が飛んでも、強い刺激を受けさうな眉と眉の繼目《つぎめ》を、憚らず、びくつかせてゐた。さうして、口にする事が、内容の如何《いかん》に關はらず、如何《いか》にも急《せは》しなく、且《かつ》切なさうに、代助の耳に響いた。代助には、平岡の凡《すへ》てが、恰《あたか》も肺の強くない人の、重苦しい葛湯《くずゆ》の中を片息《かたいき》で泳いでゐる樣に取れた。

　「あんなに、焦《あせ》つて」と、電車へ乘つて飛んで行《ゆ》く平岡の姿を見送つた代助は、口の内でつぶやいた。さうして旅宿に殘されてゐる細君の事を考へた。

　代助は此細君を捕《つら》まへて、かつて奧さんと云つた事がない。何時《いつ》でも三千代さん／＼と、結婚しない前の通りに、本名を呼んでゐる。代助は平岡に分れてから又引き返して、旅宿へ行つて、三千代さんに逢つて話しをしやうかと思つた。けれども、何だか行けなかつた。足を停《と》めて思案しても、今の自分には、行くのが惡いと云ふ意味はちつとも見出《みいだ》せなかつた。けれども、氣が咎《とが》めて行《い》かれなかつた。勇氣を出せば行《い》かれると思つた。たゞ代助には是《これ》丈《だけ》の勇氣を出すのが苦痛であつた。夫《それ》で家《うち》へ歸つた。其代り歸つても、落ち付かない樣な、物足らない樣な、妙な心持がした。ので、又｜外《そと》へ出て酒を飲んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。

　「あの時は、何うかしてゐたんだ」と代助は椅子《いす》に倚《よ》りながら、比較的冷やかな自己で、自己の影を批判した。

　「何か御用ですか」と門野が又出て來た。袴を脱いで、足袋を脱いで、團子《だんご》の樣な素足を出してゐる。代助は黙つて門野の顔を見た。門野も代助の顔を見て、一寸の間《あひだ》突立つてゐた。

　「おや、御呼になつたんぢやないのですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段｜可笑《をか》しいとも思はなかつた。

　「小母《をば》さん、御呼びになつたんぢやないとさ。何うも變だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の間の方で聞えた。夫《それ》から門野と婆さんの笑ふ聲がした。

　其時、待ち設けてゐる御客が來た。取次に出た門野は意外な顔をして這入つて來た。さうして、其顔を代助の傍《そば》迄《まで》持つて來て、先生、奧さんですと囁《さゝ》やく樣に云つた。代助は黙つて椅子を離れて座敷へ這入つた。

　平岡の細君は、色の白い割に髪の黒い、細面《ほそおもて》に眉毛《まみえ》の判然《はつきり》映る女である。一寸見ると何所となく淋《さみ》しい感じの起る所が、古版《こはん》の浮世繪に似てゐる。歸京後は色光澤《いろつや》がことに可《よ》くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は少し驚いた位である。汽車で長く搖られた疲《つか》れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、左樣《さう》ぢやない、始終斯うなんだと云はれた時は、氣の毒になつた。

　三千代は東京を出て一年目に産《さん》をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、たゞ、ぶら／＼してゐたが、何うしても、はか／”＼しく癒らないので、仕舞に醫者に見て貰つたら、能くは分らないが、ことに依ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし左樣《さう》だとすれば、心臓から動脈へ出る血が、少しづゝ、後戻《あともど》りをする難症《なんしやう》だから、根治は覺束《おぼつか》ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出來る丈《だけ》養生に手を盡した所爲《せゐ》か、一年｜許《ばか》りするうちに、好い案排《あんばい》に、元氣が減切《めつき》りよくなつた。色光澤《いろつや》も殆んど元の樣に冴々《さえ／”＼》して見える日が多いので、當人も喜こんでゐると、歸る一ケ月ばかり前《まへ》から、又血色が惡くなり出した。然し醫者の話によると、今度のは心臓の爲ではない。心臓は、夫《それ》程《ほど》丈夫にもならないが、決して前よりは惡くなつてゐない。瓣《べん》の作用に故障があるものとは、今は決して認められないといふ診斷であつた。――是は三千代が直《ぢか》に代助に話した所である。代助は其時三千代の顔を見て、矢つ張り何か心配の爲ぢやないかしらと思つた。

　三千代は美くしい線を奇麗に重ねた鮮《あざや》かな二重瞼《ふたへまぶた》を持つてゐる。眼の恰好は細長い方であるが、瞳《ひとみ》を据ゑて凝《じつ》と物を見るときに、それが何かの具合で大變大きく見える。代助は是を黒眼の働らきと判斷してゐた。三千代が細君にならない前、代助はよく、三千代の斯う云ふ眼遣《めづかひ》を見た。さうして今でも善く覺えてゐる。三千代の顔を頭の中に浮べやうとすると、顔の輪廓が、まだ出來上らないうちに、此黒い、濕《うる》んだ樣に暈《ぼか》された眼が、ぽつと出て來る。

　廊下傳ひに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。さうして奇麗な手を膝の上に疊《かさ》ねた。下にした手にも指輪を穿《は》めてゐる。上にした手にも指輪を穿《は》めてゐる。上のは細い金《きん》の枠《わく》に比較的大きな眞珠を盛《も》つた當世風《たうせいふう》のもので、三年｜前《ぜん》結婚の御祝として代助から贈られたものである。

　三千代は顔を上げた。代助は、突然例の眼を認めて、思はず瞬《またゝき》を一つした。

　汽車で着いた明日《あくるひ》平岡と一所に來る筈であつたけれども、つい氣分が惡いので、來損《きそく》なつて仕舞つて、それからは一人でなくつては來る機會がないので、つい出ずにゐたが、今日は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した樣に、此間《このあひだ》來て呉れた時は、平岡が出掛際《でかけぎは》だつたものだから、大變失禮して濟まなかつたといふ樣な詫をして、

　「待つてゐらつしやれば可《よ》かつたのに」と女らしく愛想《あいそ》をつけ加へた。けれども其調子は沈んでゐた。尤も是は此女の持調子《もちでうし》で、代助は却つて其昔を憶ひ出した。

　「だつて、大變｜忙《いそが》しさうだつたから」

　「えゝ、忙《いそが》しい事は忙《いそが》しいんですけれども――好いぢやありませんか。居らしつたつて。あんまり他人行儀ですわ」

　代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見《み》樣《やう》と思つたけれども、まづ已《や》めにした。例《いつも》なら調戯半分《からかひはんぶん》に、あなたは何か叱られて、顔を赤くしてゐましたね、どんな惡い事をしたんですか位言ひかねない間柄なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、後《あと》から其場を取り繕ふ樣に、いたましく聞えたので、冗談《じようだん》を云ひ募る元氣も一寸出なかつた。

　代助は烟草へ火を點《つ》けて、吸口を啣《くは》へた儘、椅子の脊に頭を持たせて、寛《くつ》ろいだ樣に、

　「久し振りだから、何か御馳走しませうか」と聞いた。さうして心のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉《ゐしや》になる樣に感じた。三千代は、

　「今日は澤山。さう緩《ゆつく》りしちやゐられないの」と云つて、昔の金齒を一寸見せた。

　「まあ、可《い》いでせう」

　代助は兩手を頭の後《うしろ》へ持つて行つて、指と指を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帶の間から小さな時計を出した。代助が眞珠の指輪を此女に贈《おくり》ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて遣つたのである。代助は、一つ店で別々の品物を買つた後《あと》、平岡と連れ立つて其所の敷居を跨ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。

　「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。――少し寄り道をしてゐたものだから」と獨り言の樣に説明を加へた。

　「そんなに急ぐんですか」

　「えゝ、成《な》り丈《たけ》早く歸りたいの」

　代助は頭から手を放して、烟草の灰をはたき落した。

　「三年のうちに大分《だいぶ》世帶染《しよたいじ》みちまつた。仕方がない」

　代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には何處かに苦《にか》い所があつた。

　「あら、だつて、明日《あした》引越すんぢやありませんか」

　三千代の聲は、此時急に生々《いき／＼》と聞えた。代助は引越《ひつこし》の事を丸《まる》で忘れてゐたが、相手の快よささうな調子に釣り込まれて、此方《こつち》からも他愛《たわい》なく追窮した。

　「ぢや引越してから綬《ゆつ》くり來れば可《い》いのに」

　「でも」と云つた三千代は少し挨拶に困つた色を、額の所へあらはして、一寸下を見たが、やがて頬を上げた。それが薄赤く染まつて居た。

　「實は私少し御願があつて上がつたの」

　疳《かん》の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。實は平岡が東京へ着いた時から、いつか此間題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識の下《した》で覺悟してゐたのである。

　「何ですか、遠慮なく仰しやい」

　「少し御金の工面《くめん》が出來なくつて？」

　三千代の言葉は丸《まる》で子供の樣に無邪氣であるけれども、兩方の頬は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな氣恥《きは》づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ氣の毒に思つた。

　段々聞いて見ると、明日《あした》引越をする費用や、新しく世帶《しよたい》を持つ爲めの金が入用《いりよう》なのではなかつた。支店の方を引き上げる時、向ふへ置き去りにして來た借金が三口《みくち》とかあるうちで、其一口を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ着いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ堅い約束をして來た上に、少し譯があつて、他《ほか》の樣に放《はふ》つて置けない性質《たち》のものだから、平岡も着いた明日《あくるひ》から心配して、所々《しよ／＼》奔走してゐるけれども、まだ出來さうな樣子が見えないので、已《やむ》を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに寄こしたと云ふ事が分つた。

　「支店長から借りたと云ふ奴ですか」

　「いゝえ。其《その》方《はう》は何時《いつ》迄延ばして置いても構はないんですが、此方《こつち》の方を何うかしないと困るのよ。東京で運動する方に響いて來るんだから」

　代助は成程そんな事があるのかと思つた。金高《かねだか》を聞くと五百圓と少し許《ばかり》である。代助はなんだ其位と腹の中《なか》で考へたが、實際自分は一文もない。代助は、自分が金に不自由しない樣でゐて、其《その》實《じつ》大いに不自由してゐる男だと氣が付いた。

　「何でまた、そんなに借金をしたんですか」

　「だから私考へると厭になるのよ。私も病氣をしたので、惡いには惡いけれども」

　「病氣の時の費用なんですか」

　「ぢやないのよ。藥代なんか知れたもんですわ」

　三千代は夫《それ》以上を語らなかつた。代助も夫《それ》以上を聞く勇氣がなかつた。たゞ蒼白《あをしろ》い三千代の顔を眺めて、その中《うち》に、漠然たる未來の不安を感じた。

　

　　　　　五

　

　翌日朝早く門野は荷車を三臺雇つて、新橋の停車場迄平岡の荷物を受取りに行つた。實は疾《と》うから着いて居たのだけれども、宅《うち》がまだ極らないので、今日《けふ》迄《まで》其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、何うしても半日仕事《はんにちしごと》である。早く行かなけりや、間に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。門野は例の調子で、なに譯はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出來たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の宅《うち》へ屆けた上に、萬事奇麗に片付く迄手傳をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと氣輕に引き受けて出て行つた。

　それから十一時過迄代助は讀書してゐた。が不圖《ふと》ダヌンチオと云ふ人が、自分の家《いへ》の部屋を、青色と赤色に分つて裝飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の發現は、此｜二色《ふたいろ》に外ならんと云ふ點に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音樂室とか書齋とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寢室とか、休息室とか、凡《すべ》て精神の安靜を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理學者の説を應用した、詩人の好奇心の滿足と見える。

　代助は何故《なぜ》ダヌンチオの樣な刺激を受け易い人に、奮興色《ふんこうしよく》とも見傚《みな》し得べき程強烈な赤の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稻荷《いなり》の鳥居を見ても餘り好い心持はしない。出來得るならば、自分の頭｜丈《だけ》でも可《い》いから、緑のなかに漂《たゞよ》はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覽會に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を畫《か》いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈《だけ》が好い氣特に出來てゐると思つた。つまり、自分もあゝ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。

　代助は椽側《えんがは》へ出て、庭から先にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は新芽若葉の初期である。はなやかな緑がぱつと顔に吹き付けた樣な心持ちがした。眼を醒《さま》す刺激の底に何所か沈んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、鳥打帽を被《かむ》つて、銘仙の不斷着の儘《まゝ》門を出た。

　平岡の新宅へ來て見ると、門が開《あ》いて、がらんとしてゐる丈《だけ》で、荷物の着いた樣子もなければ、平岡夫婦の來てゐる氣色《けしき》も見えない。たゞ車夫｜體《てい》の男が一人｜椽側《えんがは》に腰を懸けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、先刻《さつき》一返《いつぺん》御出《おいで》になりましたが、此｜案排《あんばい》ぢや、どうせ午過《ひるすぎ》だらうつて又御歸りになりましたといふ答である。

　「旦那と奧さんと一所に來たかい」

　「えゝ御一所です」

　「さうして一所に歸つたかい」

　「えゝ御一所に御歸りになりました」

　「荷物もそのうち着くだらう。御苦勞さま」と云つて、又通りへ出た。

　神田へ來たが、平岡の旅宿へ寄る氣はしなかつた。けれども二人の事が何だか氣に掛る。ことに細君の事が氣に掛る。ので一寸顔を出した。夫婦は膳を並《なら》べて飯を食つてゐた。下女が盆を持つて、敷居に尻を向けてゐる。其｜後《うしろ》から、聲を懸けた。

　平岡は驚ろいた樣に代助を見た。其眼が血ばしつてゐる。二三日能く眠らない所爲《せゐ》だと云ふ。三千代は仰山《ぎやうさん》なものゝ云ひ方だと云つて笑つた。代助は氣の毒にも思つたが、又安心もした。留めるのを外へ出て、飯を食つて、髪を刈つて、九段の上へ一寸寄つて、又歸りに新宅へ行つて見た。三千代は手拭を姉さん被りにして、友禪の長襦袢をさらりと出して、襷《たすき》がけで荷物の世話を燒いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も來てゐる。平岡は椽側《えんがは》で行李《こり》の紐を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し手傳はないかと云つた。門野は袴を脱いで、尻を端折《はしを》つて、重《かさ》ね箪笥《だんす》を車夫と一所に座敷へ抱《かゝ》へ込みながら、先生どうです、此｜服裝《なり》は、笑つちや不可《いけ》ませんよと云つた。

　翌日、代助が朝食《あさめし》の膳に向つて、例の如く紅茶を呑んでゐると、門野が、洗ひ立ての顔を光らして茶の間へ這入つて來た。

　「昨夕《ゆうべ》は何時《いつ》御歸りでした。つい疲れちまつて、假寐《うたゝね》をしてゐたものだから、些《ちつ》とも氣が付きませんでした。――寐てゐる所を御覽になつたんですか、先生も隨分人が惡いな。全體｜何時頃《いつごろ》なんです、御歸りになつたのは。夫《それ》迄《まで》何所へ行つて居らしつた」と平生《いつも》の調子で苦もなく饒舌《しやべ》り立てた。代助は眞面目で、

　「君、すつかり片付く迄《まで》居て呉れたんでせうね」と聞いた。

　「えゝ、すつかり片付けちまいました。其代り、何うも骨が折れましたぜ。何しろ、我々の引越と違つて、大きな物が色々あるんだから。奧さんが座敷の眞中へ立つて、茫然《ぼんやり》、斯う周圍《まはり》を見回してゐた樣子つたら、――隨分｜可笑《をかし》なもんでした」

　「少し身體の具合が惡いんだからね」

　「どうも左樣《さう》らしいですね。色が何だか可《よ》くないと思つた。平岡さんとは大違ひだ。あの人の體格は好いですね。昨夕《ゆうべ》一所に湯に入《はい》つて驚ろいた」

　代助はやがて書齋へ歸つて、手紙を二三本書いた。一本は朝鮮の統監府に居る友人｜宛《あて》で、先達《せんだつ》て送つて呉れた高麗燒《かうらいやき》の禮?である。一本は佛蘭西《フランス》に居る姉婿《あねむこ》宛で、タナグラの安いのを見付けて呉れといふ依頼である。

　晝過《ひるすぎ》散歩の出掛けに、門野の室《へや》を覗いたら又引繰り返つて、ぐう／＼寐てゐた。代助は門野の無邪氣な鼻の穴を見て羨ましくなつた。實を云ふと、自分は昨夕《ゆうべ》寐つかれないで大變難義したのである。例に依つて、枕の傍《そば》へ置いた袂時計《たもとどけい》が、大變大きな音を出す。夫《それ》が氣になつたので、手を延ばして、時計を枕の下へ押し込んだ。けれども音は依然として頭の中へ響いて來る。其音を聞きながら、つい、うと／＼する間《ま》に、凡《すべ》ての外《ほか》の意識は、全く暗窖《あんこう》の裡《うち》に降下した。が、たゞ獨り夜を縫ふミシンの針｜丈《だけ》が刻み足に頭の中を斷えず通つてゐた事を自覺してゐた。所が其音が何時《いつ》かりん／＼といふ蟲の音《ね》に變つて、奇麗な玄蹟の傍《わき》の植込みの奧で鳴いてゐる樣になつた。――代助は昨夕《ゆうべ》の夢を此所迄｜辿《たど》つて來て、睡眠と覺醒との間を繋《つな》ぐ一種の糸を發見した樣な心持がした。

　代助は、何事によらず一度氣にかゝり出すと、何處迄も氣にかゝる男であつた。しかも自分で其馬鹿氣さ加減の程度を明らかに見積る丈《だけ》の腦力があるので、自分の氣にかゝり方が猶《なほ》眼に付いてならない事があつた。三四年｜前《ぜん》、平生の自分が如何にして夢に入るかと云ふ問題を解決しやうと試みた事があつた。夜、蒲團へ這入つて、好い案排《あんばい》にうと／＼し掛けると、あゝ此所だ、斯うして眠るんだなと思つてほつとする。すると、其瞬間に眼が冴《さ》えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら此所だと思ふ。代助は殆んど毎晩の樣に此好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も繰り返した。仕舞には自分ながら辟易《へきえき》した。どうかして、此苦痛を逃《のが》れ樣と思つた。のみならず、つく／”＼自分は愚物であると考へた。自分の不明瞭な意識を、自分の明瞭な意識に訴へて、同時に回顧しやうとするのは、ジエームスの云つた通り、暗闇《くらやみ》を檢査する爲に?燭を點《とも》したり、獨樂《こま》の運動を吟味する爲に獨樂《こま》を抑へる樣なもので、生涯寐られつこない譯になる。と解つてゐるが晩になると又はつと思ふ。

　此困難は約一年｜許《ばか》りで何時《いつ》の間《ま》にか漸く遠退《とほの》いた。代助は昨夕《ゆうべ》の夢と此困難とを比較して見て、妙に感じた。正氣《しやうき》の自己の一部分を切り放して、其儘の姿として、知らぬ間《ま》に夢の中へ讓り渡す方が趣《おもむき》があると思つたからである。同時に、此作用は氣狂《きちがひ》になる時の?態と似て居はせぬかと考へ付いた。代助は今迄、自分は激昂《げきかう》しないから氣狂《きちがひ》にはなれないと信じて居たのである。

　それから二三日《にさんち》は、代助も門野も平岡の消息を聞かずに過ごした。四日目の午過《ひるすぎ》に代助は麻布のある家へ園遊會に呼ばれて行つた。御客は男女《なんによ》を合せて、大分《だいぶ》來たが、正賓《せいひん》と云ふのは、英國の國會議員とか實業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた。これは中々の美人で、日本｜抔《など》へ來るには勿體ない位な容色《きりやう》だが、何處で買つたものか、岐阜出來《ぎふでき》の繪日傘を得意に差してゐた。

　尤も其日は大變な好い天氣で、廣い芝生の上にフロツクで立つてゐると、もう夏が來たといふ感じが、肩から脊中へ掛けて著るしく起つた位、空が眞蒼《まつさを》に透《す》き通つてゐた。英國の紳士は顔をしかめて空を見て、實に美くしいと云つた。すると細君がすぐ、ラツヴレイと答へた。非常に疳《かん》の高い聲で尤も力を入れた挨拶の仕樣《しやう》であつたので、代助は英國の御世辭は、また格別のものだと思つた。

　代助も二言三言此細君から話しかけられた。が三分と經《た》たないうちに、遣り切れなくなつて、すぐ退却した。あとは、日本服を着て、わざと島田に結《い》つた令孃と、長らく紐育《ニユーヨーク》で商業に從事してゐたと云ふ某が引き受けた。此某は英語を喋舌《しやべ》る天才を以て自から任ずる男で、缺かさず英語會へ出席して、日本人と英語の會話を遣つて、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの樂みにしてゐる。何か云つては、あとでさも可笑《をか》しさうに、げら／＼笑ふ癖がある。英國人が時によると怪訝《けげん》な顔をしてゐる。代助はあれ丈《だけ》は已《や》めたら可《よ》からうと思つた。令孃も中々旨い。是は米國婦人を家庭�ﾍ師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘である。代助は、顔より言葉の方が達者だと考へながら、つく／”＼感心して聞いてゐた。

　代助が此所へ呼ばれたのは、個人的に此所の主人や、此英國人夫婦に關係があるからではない。全く自分の父と兄との社交的勢力の餘波《よは》で、招待?が廻つて來たのである。だから、萬遍なく方々へ行つて、好い加減に頭を下げて、ぶら／＼してゐた。其｜中《うち》に兄も居た。

　「やあ、來たな」と云つた儘、帽子に手も掛けない。

　「何うも、好い天氣ですね」

　「あゝ。結構だ」

　代助も脊の低い方ではないが、兄は一層高く出來てゐる。其上この五六年來次第に肥満して來たので、中々立派に見える。

　「何うです、彼方《あつち》へ行つて、ちと外國人と話でもしちや」

　「いや、眞平《まつぴら》だ」と云つて兄は苦笑ひをした。さうして大きな腹にぶら下がつてゐる金鎖を指の先で弄《いぢく》つた。

　「何うも外國人は調子が可《い》いですね。少し可《よ》すぎる位だ。あゝ賞《ほ》められると、天氣の方でも是非好くならなくつちやならなくなる」

　「そんなに天氣を賞《ほ》めてゐたのかい。へえ。少し暑過ぎるぢやないか」

　「私《わたし》にも暑過ぎる」

　誠吾と代助は申し合せた樣に、白い手巾《ハンケチ》を出して額を拭いた。兩人共《ふたりとも》重い絹帽《シルクハツト》を被つてゐる。

　兄弟は芝生の外《はづ》れの木蔭《こかげ》迄來て留つた。近所には誰もゐない。向ふの方で餘興か何か始まつてゐる。それを、誠吾は、宅《うち》にゐると同じ樣な顔をして、遠くから眺めた。

　「兄の樣になると、宅《うち》にゐても、客に來ても同じ心持ちなんだらう。斯う世の中に慣れ切つて仕舞つても、樂しみがなくつて、詰らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の樣子を見てゐた。

　「今日は御父さんは何うしました」

　「御父さんは詩の會だ」

　誠吾は相變らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少｜可笑《をか》しかつた。

　「姉さんは」

　「御客の接待掛りだ」

　また嫂《あによめ》が後で不平を云ふ事だらうと考へると、代助は又｜可笑《をか》しくなつた。

　代助は、誠吾の始終｜忙《いそが》しがつてゐる樣子を知つてゐる。又その忙《いそが》しさの過半は、斯う云ふ會合から出來上がつてゐるといふ事實も心得てゐる。さうして、別に厭な顔もせず、一口の不平も零《こぼ》さず、不規則に酒を飲んだり、物を食つたり、女を相手にしたり、してゐながら、何時《いつ》見ても疲れた態《たい》もなく、噪《さわ》ぐ氣色《けしき》もなく、物外《ぶつぐわい》に平然として、年々《ねん／＼》肥滿してくる技倆に敬服してゐる。

　誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ上つたり、晩餐に出たり、午餐に呼ばれたり、倶樂部《くらぶ》に行つたり、新橋に人を送つたり、横濱に人を迎へたり、大磯へ御機嫌伺ひに行つたり、朝から晩迄｜多勢《たぜい》の集まる所へ顔を出して、得意にも見えなければ、失意にも思はれない樣子は、斯う云ふ生活に慣れ拔いて、海月《くらげ》が海に漂ひながら、塩水を辛《から》く感じ得ない樣なものだらうと代助は考へてゐる。

　其所が代助には難有《ありがた》い。と云ふのは、誠吾は父と異《ちが》つて、甞て小六《こむ》づかしい説法｜抔《など》を代助に向つて遣つた事がない。主義だとか、主張だとか、人生觀だとか云ふ窮屈なものは、てんで、これつ許《ぱかり》も口にしないんだから、有るんだか、無いんだか、殆んど要領を得ない。其代り、此窮屈な主義だとか、主張だとか、人生觀だとかいふものを積極的に打ち壞して懸つた試《ためし》もない。實に平凡で好い。

　だが面白くはない。話し相手としては、兄よりも嫂《あによめ》の方が、代助に取つて遙かに興味がある。兄に逢ふと屹度《きつと》何うだいと云ふ。以太利《イタリー》に地震があつたぢやないかと云ふ。土耳其《トルコ》の天子が廢されたぢやないかと云ふ。其外、向ふ島の花はもう駄目になつた、横濱にある外國船の船底《ふなぞこ》に大蛇が飼つてあつた、誰が鐵道で轢《ひ》かれた、ぢやないかと云ふ。みんな新聞に出た事｜許《ばかり》である。其代り、當らず障らずの材料はいくらでも持つて居る。いつ迄｜經《た》つても種が盡きる樣子が見えない。

　さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔《など》と妙な事を聞く事がある。今日本の小説家では誰が一番偉いのかねと聞く事もある。要するに文藝には丸《まる》で無頓着で且つ驚ろくべき無識であるが、尊敬と輕蔑以上に立つて平氣で聞くんだから、代助も返事がし易い。

　斯う云ふ兄と差し向ひで話をしてゐると、刺激の乏しい代りには、灰汁《あく》がなくつて、氣樂で好い。たゞ朝から晩迄出歩いてゐるから滅多に捕《つら》まへる事が出來ない。嫂《あによめ》でも、誠太郎でも、縫子でも、兄が終日｜宅《うち》に居て、三度の食事を家族と共に缺かさず食ふと、却つて珍らしがる位である。

　だから木蔭《こかげ》に立つて、兄と肩を比《なら》べた時、代助は丁度好い機會だと思つた。

　「兄さん、貴方に少し話があるんだが。何時《いつ》か暇はありませんか」

　「暇」と繰り返した誠吾は、何にも説明せずに笑つて見せた。

　「明日《あした》の朝は何うです」

　「明日《あした》の朝は濱迄行つて來なくつちやならない」

　「午《ひる》からは」

　「午《ひる》からは、會社の方に居る事はゐるが、少し相談があるから、來ても緩《ゆつ》くり話しちやゐられない」

　「ぢや晩なら宜《よ》からう」

　「晩は帝國ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日《あした》の晩帝國ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」

　代助は口を尖《とん》がらかして、兄を凝《じつ》と見た。さうして二人で笑ひ出した。

　「そんなに急ぐなら、今日ぢや、何うだ。今日なら可《い》い。久し振りで一所に飯でも食はうか」

　代助は賛成した。所が倶樂部《くらぶ》へでも行くかと思ひの外、誠吾は鰻が可《よ》からうと云ひ出した。

　「絹帽《シルクハツト》で鰻屋へ行くのは始めてだな」と代助は逡巡《しゆんじゆん》した。

　「何構ふものか」

　二人は園遊會を辭して、車に乘つて、金杉橋の袂にある鰻屋へ上《あが》つた。

　其所は河が流れて、柳があつて、古風な家であつた。黒くなつた床柱の傍《わき》の違ひ棚に、絹帽《ンルクハツト》を引繰返しに、二つ並《なら》べて置いて見て、代助は妙だなと云つた。然し明け放した二階の間《ま》に、たつた二人で胡坐《あぐら》をかいてゐるのは、園遊會より却つて樂であつた。

　二人は好い心持に酒を飲んだ。兄は飲んで、食つて、世間話をすれば其外に用はないと云ふ態度であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を忘れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り掛つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間三千代から頼まれた金策《きんさく》の件である。

　實を云ふと、代助は今日《こんにち》迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も學校を出た時少々藝者買をし過ぎて、其尻を兄になすり付けた覺はある。其時兄は叱るかと思ひの外、さうか、困り者だな、親爺《おやぢ》には内々で置けと云つて嫂《あによめ》を通して、奇麗に借金を拂つてくれた。さうして代助には一口の小言も云はなかつた。代助は其時から、兄《あにき》に恐縮して仕舞つた。其《その》後《のち》小遣に困る事はよくあるが、困るたんびに嫂《あによめ》を痛めて事を濟ましてゐた。從つて斯う云ふ事件に關して兄との交渉は、まあ初對面の樣なものである。

　代助から見ると、誠吾は蔓《つる》のない藥罐《やくわん》と同じことで、何處から手を出して好いか分らない。然しそこが代助には興味があつた。

　代助は世間話の體《てい》にして、平岡夫婦の經歴をそろ／＼話し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ／＼と拍子を取る樣に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が金を借りに來た一段になつても、矢つ張りへえ／＼と合槌《あひづち》を打つ丈《だけ》である。代助は、仕方なしに、

　「で、私《わたし》も氣の毒だから、何うにか心配して見《み》樣《やう》つて受合つたんですがね」と云つた。

　「へえ。左樣《さう》かい」

　「何うでせう」

　「御前《おまい》金が出來るのかい」

　「私《わたし》や一文も出來やしません。借りるんです」

　「誰から」

　代助は始めから此所へ落す積《つもり》だつたんだから、判然《はつきり》した調子で、

　「貴方から借りて置かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の顔を見た。兄は矢つ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平氣に、

　「そりや、御廢《およ》しよ」と答へた。

　誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に關係がない許《ばかり》ではない、返す返さないと云ふ損得にも關係がなかつた。たゞ、そんな場合には放《はふ》つて置けば自《おのづ》から何うかなるもんだと云ふ單純な斷定であつた。

　誠吾は此斷定を證明する爲めに、色々な例を擧げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子を頼まれて宅《うち》へ置いた。所が其子が徴兵檢査で急に國へ歸らなければならなくなつたが、前以て國から送つてある學資も旅費も藤野が使ひ込んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼みに來た事がある。無論誠吾が直《ぢか》に逢つたのではないが、妻《さい》に云ひ付けて斷らした。夫《それ》でも其子は期日迄に國へ歸つて差支なく檢査を濟ましてゐる。夫《それ》から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家の敷金を、つい使つて仕舞つて、借家人が明日《あす》引越すといふ間際になつても、まだ調達《てうだつ》が出來ないとか云つて、矢つ張り藤野から泣き付いて來た事がある。然し是も斷らした。夫《それ》でも別に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ斯んな種類の例ばかりであつた。

　「そりや、姉さんが蔭へ廻つて惠んでゐるに違ない。ハヽヽヽ兄さんも餘つ程｜呑氣《のんき》だなあ」と代助は大きな聲を出して笑つた。

　「何、そんな事があるものか」

　誠吾は矢張當り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口《ちよく》を取つて口へ持つて行つた。

　

　　　　　六

　

　其日誠吾は中々金を貸して遣らうと云はなかつた。代助も三千代が氣の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言《なきごと》は、可成《なるべく》避ける樣にした。自分が三千代に對してこそ、さう云ふ心持もあるが、何《なんに》も知らない兄を、其所《そこ》迄《まで》連れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口にすれば、兄には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する樣な氣がするので、矢つ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方《あつち》へ行つたり此方《こつち》へ來たりして、飲んでゐた。飲みながらも、親爺《おやぢ》の所謂熱誠が足りないとは、此所《こゝ》の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡《およ》そ何が気障《きざ》だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、眞面目や、熱誠ほど氣障なものはないと自覺してゐる。兄には其《その》邊《へん》の消息がよく解つてゐる。だから此手で遣り損なひでもしやうものなら、生涯自分の價値を落す事になる。と氣が付いてゐた。

　代助は飲むに從つて、段々金を遠ざかつて來た。たゞ互が差し向ひであるが爲めに、旨く飲めたと云ふ自覺を、互に持ち得る樣な話をした。が茶漬《ちやづけ》を食ふ段になつて、思ひ出した樣に、金は借りなくつても好いから、平岡を何處か使つて遣つて呉れないかと頼んだ。

　「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景氣ぢや仕樣《しやう》がない」と云つて誠吾はさく／＼飯を掻き込んでゐた。

　明日《あくるひ》眼が覺めた時、代助は床の中でまづ第一番に斯う考へた。

　「兄を動かすのは、同じ仲間の實業家でなくつちや駄目だ。單に兄弟の好《よしみ》丈《だけ》では何うする事も出來ない」

　斯う考へた樣なものゝ、別に兄を不人情と思ふ氣は起らなかつた。寧ろその方が當然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに辨償して呉れた事があるんだから可笑《をか》しい。そんなら自分が今｜茲《こゝ》で平岡の爲に判を押して、連借《れんしやく》でもしたら、何うするだらう。矢つ張り彼《あ》の時の樣に奇麗に片付けて呉れるだらうか。兄は其所迄考へてゐて、斷わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して貸さないのかしらん。

　代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の爲に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、兄が其所を見拔いて金を貸さないとすると、一寸意外な連帶《れんたい》をして、兄がどんな態度に變るか、試驗して見たくもある。――其所《そこ》迄《まで》來て、代助は自分ながら、あんまり性質《たち》が能くないなと心のうちで苦笑した。

　けれども、唯《たゞ》一つ慥《たしか》な事がある。平岡は早晩借用證書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。

　斯う考へながら、代助は床を出た。門野は茶の間で、胡坐《あぐら》をかいて新聞を讀んでゐたが、髪を濡らして湯殿から歸つて來る代助を見るや否や、急に坐三昧《ゐざんまい》を直して、新聞を疊んで坐布團の傍《そば》へ押し遣りながら、

　「何うも『煤烟《ばいえん》』は大變な事になりましたな」と大きな聲で云つた。

　「君讀んでるんですか」

　「えゝ、毎朝讀んでます」

　「面白いですか」

　「面白い樣ですな。どうも」

　「何んな所が」

　「何んな所がつて、さう改たまつて聞かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一體に、斯う、現代的の不安が出てゐる樣ぢやありませんか」

　「さうして、肉の臭《にほ》ひがしやしないか」

　「しますな。大いに」

　代助は黙つて仕舞つた。

　紅茶々碗を持つた儘、書齋へ引き取つて、椅子へ腰を懸けて、茫然《ぼんやり》庭を眺めてゐると、瘤《こぶ》だらけの柘榴《ざくろ》の枯枝と、灰色の幹の根方に、暗緑と暗紅を混《ま》ぜ合はした樣な若い芽が、一面に吹き出してゐる。代助の眼には夫《それ》がぱつと映じた丈《だけ》で、すぐ刺激を失つて仕舞つた。

　代助の頭には今《いま》具體的な何物をも留《とゞ》めてゐなかつた。恰《あた》かも戸外《こぐわい》の天氣の樣に、それが靜かに凝《じつ》と働らいてゐた。が、其底には微塵《みぢん》の如き本體の分らぬものが無數に押し合つてゐた。乾酪《ちいず》の中で、いくら蟲が動いても、乾酪《ちいず》が元の位置にある間《あひだ》は、氣が付かないと同じ事で、代助も此｜微震《びしん》には殆んど自覺を有してゐなかつた。たゞ、それが生理的に反射して來る度に、椅子の上で、少し宛《づゝ》身體の位置を變へなければならなかつた。

　代助は近頃流行語の樣に人が使ふ、現代的とか不安とか云ふ言葉を、あまり口にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云はずと知れてゐると考へたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分｜丈《だけ》で信じて居たからである。

　代助は露西亞文學《ロシアぶんがく》に出て來る不安を、天候の具合と、政治の壓迫で解繹してゐた。佛蘭西文學《フランスぶんがく》に出てくる不安を、有夫姦《いうふかん》の多いためと見てゐた。ダヌンチオによつて代表される以太利文學《イタリーぶんがく》の不安を、無制限の墮落から出る自己缺損の感と判斷してゐた。だから日本の文學者が、好んで不安と云ふ側《がは》からのみ社會を描《ゑが》き出すのを、舶來の唐物の樣に見傚した。

　理智的に物を疑ふ方の不安は、學校時代に、有つたにはあつたが、ある所迄進行して、ぴたりと留《とま》つて、夫《それ》から逆戻《ぎやくもど》りをして仕舞つた。丁度天へ向つて石を抛《な》げた樣なものである。代助は今では、なまじい石｜抔《など》を抛《な》げなければ可《よ》かつたと思つてゐる。禪坊さんの所謂《いはゆる》大疑現前｜抔《など》と云ふ境界《きやうがい》は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知國《みちこく》であつた。代助は、さう眞率《しんそつ》性急に萬事を疑ふには、あまりに利口に生れ過ぎた男であつた。

　代助は門野の賞《ほ》めた「煤烟《ばいえん》」を讀んでゐる。今日は紅茶々椀の傍《そば》に新聞を置いたなり、開けて見る氣にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、贅澤の結果あゝ云ふ惡戯《いたづら》をしても無理とは思へないが、「煤烟」の主人公に至つては、そんな餘地のない程に貧しい人である。それを彼所《あすこ》迄《まで》押して行くには、全く情愛の力でなくつちや出來る筈のものでない。所が、要吉《えうきち》といふ人物にも、朋子《ともこ》といふ女にも、誠の愛で、已《や》むなく社會の外《そと》に押し流されて行く樣子が見えない。彼等を動かす内面の力は何であらうと考へると、代助は不審である。あゝいふ境遇に居て、あゝ云ふ事を斷行し得る主人公は、恐らく不安ぢやあるまい。これを斷行するに躊躇《ちうちよ》する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があつて然るべき筈だ。代助は獨りで考へるたびに、自分は特殊人《オリヂナル》だと思ふ。けれども要吉の特殊人《オリヂナル》たるに至つては、自分より遙かに上手《うはて》であると承認した。それで此間迄は好奇心に驅られて「煤烟」を讀んでゐたが、昨今になつて、あまりに、自分と要吉の間に懸隔《けんかく》がある樣に思はれ出したので、眼を通さない事がよくある。

　代助は椅子の上で、時々身を動かした。さうして、自分では飽く迄落ち付いて居ると思つてゐた。やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、例《いつも》の通り讀書に取りかゝつた。約二時間ばかりは故障なく進行したが、ある頁《ページ》の中頃まで來て急に休《や》めて頬杖を突いた。さうして、傍《そば》にあつた新聞を取つて、「煤烟」を頭んだ。呼吸《こきふ》の合はない事は同じ事である。それから外《ほか》の雜報を讀んだ。大隈伯が高等商業の紛擾《ふんぜう》に關して、大いに騷動しつゝある生徒側の味方をしてゐる。それが中々強い言葉で出てゐる。代助は斯う云ふ記事を讀むと、是は大隈伯が早稻田へ生徒を呼び寄せる爲の方便だと解繹する。代助は新聞を放《はふ》り出した。

　午過《ひるすぎ》になつてから、代助は自分が落ち付いてゐないと云ふ事を、漸く自覺し出した。腹のなかに小さな皺《しわ》が無數に出來て、其｜皺《しわ》が絶えず、相互の位地と、形?《かたち》とを變へて、一面に搖《うご》いてゐる樣な氣持がする。代助は時々斯う云ふ情調の支配を受ける事がある。さうして、此種の經驗を、今日《こんにち》迄、單なる生理上の現象としてのみ取り扱つて居つた。代助は昨日《きのふ》兄と一所に鰻を食つたのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行つて見やうかと思ひ出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる區別がなかつた。婆さんに着物を出さして、着換へやうとしてゐる所へ、甥《をひ》の誠太郎が來た。帽子を手に持つた儘、恰好《かつかう》の好《い》い圓《まる》い頭を、代助の前へ出して、腰を掛けた。

　「もう學校は引けたのかい。早過ぎるぢやないか」

　「ちつとも早かない」と云つて、笑ひながら、代助の顔を見てゐる。代助は手を敲《たゝ》いて婆さんを呼んで、

　「試太郎、チヨコレートを飲むかい」と聞いた。

　「飲む」

　代助はチヨコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯《からかひ》だした。

　「誠太郎、御前はベースボール許《ばかり》遣るもんだから、此頃手が大變大きくなつたよ。頭より手の方が大きいよ」

　誠太郎はにこ／＼して、右の手で、圓い頭をぐる／＼撫《な》でた。實際大きな手を持つてゐる。

　「叔父さんは、昨日《きのふ》御父さんから奢《おご》つて貰つたんですつてね」

　「あゝ、御馳走になつたよ。御蔭で今日は腹具合が惡くつて不可《いけ》ない」

　「又神經だ」

　「神經ぢやない本當だよ。全《まつ》たく兄さんの所爲《せゐ》だ」

　「だつて御父さんは左樣《さう》云つてましたよ」

　「何て」

　「明日《あした》學校の歸りに代助の所へ廻つて何か御馳走して貰へつて」

　「へえゝ、昨日《きのふ》の御禮にかい」

　「えゝ、今日は己《おれ》が奢《おご》つたから、明日《あした》は向ふの番だつて」

　「それで、わざ／＼遣つて來たのかい」

　「えゝ」

　「兄《あにき》の子｜丈《だけ》あつて、中々拔けないな。だから今チヨコレートを飲まして遣るから好いぢやないか」

　「チヨコレートなんぞ」

　「飲まないかい」

　「飲む事は飲むけれども」

　誠太郎の注文を能く聞いて見ると、相撲が始まつたら、回向院《ゑかうゐん》へ連れて行つて、正面の最上等の所で見物させろといふのであつた。代助は快《こゝろ》よく引き受けた。すると誠太郎は嬉しさうな顔をして、突然、

　「叔父さんはのらくらして居るけれども實際偉いんですつてね」と云つた。代助も是には一寸呆れた。仕方なしに、

　「偉いのは知れ切つてるぢやないか」と答へた。

　「だつて、僕は昨夕《ゆうべ》始めて御父さんから聞いたんですもの」と云ふ辯解があつた。

　誠太郎の云ふ所によると、昨夕《ゆうべ》兄が宅《うち》へ歸つてから、父と嫂《あによめ》と三人して、代助の合評をしたらしい。子供のいふ事だから、能く分らないが、比較的頭が可《い》いので能く斷片的に其時の言葉を覺えてゐる。父は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。兄は之に對して、あゝ遣つてゐても、あれで中々解つた所がある。當分｜放《はふ》つて置くが可《い》い。放つて置いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か遣るだらうと辯護したのださうだ。すると嫂《あによめ》がそれに賛成して、一週間｜許《ばか》り前｜占者《うらなひしや》に見てもらつたら、此人は屹度《きつと》人の上《かみ》に立つに違ないと判斷したから大丈夫だと主張したのださうだ。

　代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、占者《うらなひしや》の所へ來たら、本當に可笑《をか》しくなつた。やがて着物を着換へて、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家を訪ねた。

　平岡の家は、此十數年來の物價騰貴に伴《つ》れて、中流社會が次第々々に切り詰められて行く有樣を、住宅の上に善く代表した、尤も粗惡な見苦しき構《かま》へであつた。とくに代助には左樣《さう》見えた。

　門と玄關の間が一間《いつけん》位しかない。勝手口も其通りである。さうして裏にも、横にも同じ樣な窮屈な家が建てられてゐた。東京市の貧弱なる膨脹《ばうちやう》に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割乃至三割の高利に廻さうと目論《もくろ》んで、あたぢけなく拵へ上げた、生存競爭の記念《かたみ》であつた。

　今日《こんにち》の東京市、ことに場末の東京市には、至る所に此種の家が散點《さんてん》してゐる、のみならず、梅雨《つゆ》に入《い》つた蚤の如く、日毎に、格外の�揄ﾁ律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の發展と名づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好《さいかう》の象徴《シンボル》とした。

　彼等のあるものは、石油罐の底を繼《つ》ぎ合はせた四角な鱗《うろこ》で蔽はれてゐる。彼等の一つを借りて、夜中に柱の割れる音で眼を醒まさないものは一人もない。彼等の戸には必ず節穴がある。彼等の襖《ふすま》は必ず狂ひが出ると極つてゐる。資本を頭の中へ注《つ》ぎ込んで、月々其頭から利息を取つて生活しやうと云ふ人間は、みんな斯ういふ所を借りて立《た》て籠《こも》つてゐる。平岡も其一人であつた。

　代助は垣根の前を通るとき、先づ其屋根に眼が付いた。さうして、どす黒い瓦の色が妙に彼の心を刺激した。代助には此光のない土の板が、いくらでも水を吸ひ込む樣に思はれた。玄關前に、此間引越のときに解《ほど》いた菰包《こもづゝみ》の藁屑がまだ零《こば》れてゐた。座敷へ通ると、平岡は机の前へ坐つて、長い手紙を書き掛けてゐる所であつた。三千代は次の部屋で箪笥《たんす》の環《くわん》をかた／＼鳴らしてゐた。傍《そば》に大きな行李《こり》が開けてあつて、中から奇麗な長襦袢の袖が半分出かゝつてゐた。

　平岡が、失敬だが鳥渡《ちよつと》待つて呉れと云つた間に、代助は行李《こり》と長襦袢と、時々｜行李《こり》の中へ落ちる繊《ほそ》い手とを見てゐた。襖《ふすま》は明けた儘｜閉《た》て切る樣子もなかつた。が三千代の顔は陰になつて見えなかつた。

　やがて、平岡は筆を机の上へ抛《な》げ付ける樣にして、座《ざ》を直した。何だか込み入つた事を懸命に書いてゐたと見えて、耳を赤くしてゐた。眼も赤くしてゐた。

　「何うだい。此間は色々｜難有《ありがた》う。其後一寸禮に行かうと思つて、まだ行かない」

　平岡の言葉は言譯と云はんより寧ろ挑戰の調子を帶びてゐる樣に聞こえた。襯衣《シヤツ》も股引《もゝひき》も着けずにすぐ胡坐《あぐら》をかいた。襟を正しく合せないので、胸毛《むなげ》が少し出てゐる。

　「まだ落ち付かないだらう」と代助が聞いた。

　「落ち付く所か、此分ぢや生涯落ち付きさうもない」

と、いそがしさうに烟草を吹かし出した。

　代助は平岡が何故《なぜ》こんな態度で自分に應接するか能く心得てゐた。決して自分に中《あた》るのぢやない、つまり世間に中《あた》るんである、否｜己《おの》れに中《あた》つてゐるんだと思つて、却《かへ》つて氣の毒になつた。けれども代助の樣な神經には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ腹が立たない丈《だけ》である。

　「宅《うち》の都合は、どうだい。間取の具合は可《よ》ささうぢやないか」

　「うん、まあ、惡くつても仕方がない。氣に入つた家《うち》へ這人らうと思へば、株でも遣るより外に仕樣がなからう。此頃東京に出來る立派な家《うち》はみんな株屋が拵へるんだつて云ふぢやないか」

　「左樣《さう》かも知れない。其代り、あゝ云ふ立派な家《うち》が一軒立つと、其陰に、どの位澤山な家《うち》が潰れてゐるか知れやしない」

　「だから猶《なほ》住み好いだらう」

　平岡は斯う云つて大いに笑つた。其所へ三千代が出て來た。先達《せんだつ》てはと、輕く代助に挨拶をして、手に持つた赤いフランネルのくる／＼と卷いたのを、坐ると共に、前へ置いて、代助に見せた。

　「何ですか、それは」

　「赤《あか》ん坊《ぼ》の着物なの。拵へた儘、つい、まだ、解《ほど》かずにあつたのを、今｜行李《こり》の底を見たら有つたから、出して來たんです」と云ひながら、附紐《つけひも》を解《と》いて筒袖を左右に開いた。

　「こら」

　「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く壞して雜巾《ざふきん》にでもして仕舞へ」

　三千代は小供の着物を膝の上に乘せた儘、返事もせずしばらく俯向《うつむ》いて眺めてゐたが、

　「貴方のと同《おんな》じに拵へたのよ」と云つて夫《をつと》の方を見た。

　「是か」

　平岡は絣《かすり》の袷《あはせ》の下へ、ネルを重ねて、素肌《すはだ》に着てゐた。

　「是はもう不可《いか》ん。暑くて駄目だ」

　代助は始めて、昔の平岡を當面《まのあたり》に見た。

　「袷《あはせ》の下にネルを重ねちやもう暑い。襦袢《じゆばん》にすると可《い》い」

　「うん、面倒だから着てゐるが」

　「洗濯をするから御脱ぎなさいと云つても、中々脱がないのよ」

　「いや、もう脱ぐ、己《おれ》も少々厭になつた」

　話は死んだ小供の事をとう／＼離れて仕舞つた。さうして、來た時よりは幾分か空氣に暖味《あたゝかみ》が出來た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出した。三千代も支度をするから、緩《ゆつく》りして行つて呉れと頼《たの》む樣に留めて、次の間《ま》へ立つた。代助は其後姿を見て、どうかして金を拵へてやりたいと思つた。

　「君何所か奉公口の見當は付いたか」と聞いた。

　「うん、まあ、ある樣な無い樣なもんだ。無ければ當分遊ぶ丈《だけ》の事だ。緩《ゆつ》くり探してゐるうちには何うかなるだらう」

　云ふ事は落ち付いてゐるが、代助が聞くと却つて焦《あせ》つて探してゐる樣にしか取れない。代助は、昨日《きのふ》兄と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此｜一言《いちごん》を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構へてゐる向ふの體面を、わざと此方《こつち》から毀損《きそん》する樣な氣がしたからである。其上金の事に付いては平岡からはまだ一言《いちげん》の相談も受けた事もない。だから表向《おもてむき》挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯うして黙つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴だと惡く思はれるに極つてゐる。けれども今の代助はさう云ふ非難に對して、殆んど無感覺である。又實際自分はさう熱烈な人間ぢやないと考へてゐる。三四年｜前《ぜん》の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、墮落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年｜前《ぜん》の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回してゐた。鍍金《めつき》を金《きん》に通用させ樣《やう》とする切《せつ》ない工面《くめん》より、眞鍮を眞鍮で通して、眞鍮相當の侮蔑を我慢する方が樂である。と今は考へてゐる。

　代助が眞鍮を以て甘んずる樣になったのは、不意に大きな狂瀾《きやうらん》に捲《ま》き込まれて、驚ろきの餘り、心機一轉の結果を來《き》たしたといふ樣な、小説じみた歴史を有《も》つてゐる爲ではない。全く彼れ自身に特有な思索と觀察の力によつて、次第々々に鍍金《めつき》を自分で剥《は》がして來たに過ぎない。代助は此｜鍍金《めつき》の大半をもつて、親爺《おやぢ》が捺摺《なす》り付けたものと信じてゐる。其時分は親爺《おやぢ》が金《きん》に見えた。多くの先輩が金に見えた。相當の�ﾍ育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の鍍金《めつき》が辛《つら》かつた。早く金になりたいと焦《あせ》つて見た。所が、他《ほか》のものゝ地金《ぢがね》へ、自分の眼光がぢかに打《ぶ》つかる樣になつて以後は、それが急に馬鹿な盡力の樣に思はれ出した。

　代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間《あひだ》に、是迄變化したんだから、同じ三四年の間《あひだ》に、平岡も、かれ自身の經驗の範圍内で大分《だいぶ》變化してゐるだらう。昔《むか》しの自分なら、可成《なるベく》平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄と喧嘩をしても、父と口論をしても、平岡の爲に計つたらう、又其計つた通りを平岡の所へ來て事々しく吹聽《ふいちやう》したらうが、それを豫期するのは、矢つ張り昔の平岡で、今の彼は左程《さほど》に友達を重くは見てゐまい。

　それで肝心の話は一二言《いちにごん》で已《や》めて、あとは色々な雜談に時を過ごすうちに酒が出た。三千代が�ｺ利の尻を持つて御酌《おしやく》をした。

　平岡は醉ふに從つて、段々口が多くなつて來た。此男はいくら醉つても、中《なか》／＼平生を離れない事がある。かと思ふと、大變に元氣づいて、調子に一種の悦樂を帶びて來る。さうなると、普通の酒家《しゆか》以上に、能く辯ずる上に、時としては比較的眞面目な問題を持ち出して、相手と議論上下《しやうか》して樂し氣《げ》に見える。代助は其｜昔《むか》し、麥酒《ビール》の壜を互の間に並《なら》べて、よく平岡と戰つた事を覺えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が斯う云ふ?態に陷《おちい》つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覺であった。又酒を呑んで本音《ほんね》を吐かうか、と平岡の方からよく云ったものだ。今日《こんにち》の二人の境界《きやうがい》は其時分とは、大分《だいぶ》離れて來た。さうして、其離れて、近づく路を見出《みいだ》し惡《にく》い事實を、双方共に腹の中《なか》で心得てゐる。東京へ着いた翌日《あくるひ》、三年振りで邂逅《かいこう》した二人は、其時既に、二人ともに何時《いつ》か互の傍《そば》を立退《たちの》いてゐたことを發見した。

　所が今日《けふ》は妙である。酒に親しめば親しむ程、平岡が昔の調子を出して來た。旨い局所へ酒が回つて、刻下《こくか》の經濟や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の騷がしさやらを全然｜麻痺《まひ》して仕舞つた樣に見える。平岡の談話は一躍して高い平面に飛び上がつた。

　「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働らいてゐる。又是からも働らく積《つもり》だ。君は僕の失敗したのを見て笑ってゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に歸着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、其君は何も爲《し》ないぢやないか。君は世の中を、有《あり》の儘《まゝ》で受け取る男だ。言葉を換へて云ふと、意志を發展させる事の出來ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘《うそ》だ。人間だもの。其證據には、始終｜物足《ものた》りないに違ない。僕は僕の意志を現實社會に働き掛けて、其現實社會が、僕の意志の爲に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確證を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の價値を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈《だけ》だから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立《こんりふ》して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故《なぜ》と云つて見給へ。僕のは其不調和を外へ出した迄《まで》で、君のは内に押し込んで置く丈《だけ》の話だから、外面に押し掛けた丈《だけ》、僕の方が本當の失敗の度は少ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出來ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可《いけ》ないんだらう」

　「何笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」

　「そりや、嘘だ。ねえ三千代」

　三千代は先刻《さつき》から黙つて坐つてゐたが、夫《をつと》から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。

　「本當でせう、三千代さん」と云ひながら、代助は盃を出して、酒を受けた。

　「そりや嘘だ。おれの細君が、いくら辯護したつて、嘘だ。尤も君は人を笑つても、自分を笑つても、兩方共頭の中で遣《や》る人だから、嘘か本當か其｜邊《へん》はしかと分らないが……」

　「冗談云つちや不可《いけ》ない」

　「冗談ぢやない。全く本氣の沙汰であります。そりや昔の君はさうぢや無かつた。昔の君はさうぢや無かつたが、今の君は大分《だいぶ》違つてるよ。ねえ三千代。長井は誰が見たつて、大得意ぢやないか」

　「何だか先刻《さつき》から、傍《そば》で伺《うかゞ》つてると、貴方《あなた》の方が餘つ程御得意の樣よ」

　平岡は大きな聲を出してハヽヽと笑つた。三千代は爛�ｺ利《かんどくり》を持つて次の間へ立つた。

　平岡は膳の上の肴《さかな》を二口三口、箸で突つついて、下を向いた儘、むしや／＼云はしてゐたが、やがて、どろんとした眼を上げて、云つた。――

　「今日は久し振りに好い心持に醉つた。なあ君。――君はあんまり好い心持にならないね。何《ど》うも怪《け》しからん。僕が昔の平岡常次郎になつてるのに、君が昔の長井代助にならないのは怪《け》しからん。是非なり給へ。さうして、大いに遣つて呉れ給へ。僕も是から遣る。から君も遣つて呉れ給へ」

　代助は此言葉のうちに、今の自己を昔に返さうとする眞率《しんそつ》な又無邪氣な一種の努力を認めた。さうして、それに動かされた。けれども一方では、一昨日《をとゝひ》、食つた?麹《パン》を今返せと強請《ねだ》られる樣な氣がした。

　「君は酒を呑むと、言葉｜丈《だけ》醉拂《よつぱら》つても、頭は大抵確かな男だから、僕も云ふがね」

　「それだ。それでこそ長井君だ」

　代助は急に云ふのが厭になつた。

　「君、頭は確《たしか》かい」と聞いた。

　「確《たしか》だとも。君さへ確なら此方《こつち》は何時《いつ》でも確だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。實際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。――

　「君はさつきから、働らかない／＼と云つて、大分《だいぶ》僕を攻撃したが、僕は黙つてゐた。攻撃される通り僕は働らかない積《つもり》だから黙つてゐた」

　「何故《なぜ》働かない」

　「何故《なせ》働かないつて、そりや僕が惡いんぢやない。つまり世の中が惡いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本｜對《たい》西洋の關係が駄目だから働かないのだ。第一、日本｜程《ほど》借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる國はありやしない。此借金が君、何時《いつ》になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許《ばか》りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない國だ。それでゐて、一等國を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等國の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奧行を削《けづ》つて、一等國｜丈《だけ》の間口《まぐち》を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲慘なものだ。牛と競爭をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の壓迫を受けてゐる國民は、頭に餘裕がないから、碌《ろく》な仕事は出來ない。悉《こと／”＼》く切り詰めた�ﾍ育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神經衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日《こんにち》の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲勞してゐるんだから仕方がない。精神の困憊《こんぱい》と、身體の衰弱とは不幸にして伴《とも》なつてゐる。のみならず、道�ｺの敗退も一所に來てゐる。日本國中何所を見渡したつて、輝いてる斷面は一寸四方も無いぢやないか。悉《こと／”＼》く暗黒だ。其《その》間《あひだ》に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を爲《し》たつて、仕樣がないさ。僕は元來｜怠《なま》けものだ。いや、君と一所に往來してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景氣をつけてゐたから、君には有爲多望の樣に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社會が精神的、�ｺ義的、身體的に、大體の上に於て健全なら、僕は依然として有爲多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性《たいだせい》に打ち勝つ丈《だけ》の刺激も亦いくらでも出來て來るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の樣なら僕は寧ろ自分｜丈《だけ》になつてゐる。さうして、君の所謂｜有《あり》の儘《まゝ》の世界を、有の儘で受取つて、其《その》中《うち》僕に尤も適したものに接觸を保つて滿足する。進んで外《ほか》の人を、此方《こつち》の考へ通りにするなんて、到底出來た話ぢやありやしないもの――」

　代助は一寸息を繼《つ》いだ。さうして、一寸窮屈さうに控えてゐる三千代の方を見て、御世辭を遣《つか》つた。

　「三千代さん。どうです、私の考は。隨分｜呑氣《のんき》で宜《い》いでせう。賛成しませんか」

　「何だか厭世の樣な呑氣の樣な妙なのね。私よく分らないわ。けれども、少し胡麻化《ごまか》して入らつしやる樣よ」

　「へええ。何處《どこ》ん所《ところ》を」

　「何處《どこ》ん所《ところ》つて、ねえ貴方」と三千代は夫《をつと》を見た。平岡は股《もゝ》の上へ肱《ひぢ》を乘せて、肱《ひぢ》の上へ顎《あご》を載せて黙つてゐたが、何《なん》にも云はずに盃を代助の前に出した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。

　代助は盃へ唇を付けながら、是から先はもう云ふ必要がないと感じた。元來が平岡を自分の樣に考へ直させる爲の辯論でもなし、又平岡から意見されに來た訪問でもない。二人はいつ迄立つても、二人として離れてゐなければならない運命を有《も》つてゐるんだと、始めから心付いてゐるから、議論は能《い》い加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出來る樣な、普通の社交上の題目に談話を持つて來《き》やうと試みた。

　けれども、平岡は醉ふとしつこくなる男であつた。胸毛《むなげ》の奧｜迄《まで》赤くなつた胸を突き出して、斯う云った。

　「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た樣に局部に當つて、現實と惡闘してゐるものは、そんな事を考へる餘地がない。日本が貧弱だつて、弱蟲だつて、働らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の中が墮落したつて、世の中の墮落に氣が付かないで、其《その》中《うち》に活動するんだからね。君の樣な暇人《ひまじん》から見れば日本の貧乏や、僕等の墮落が氣になるかも知れないが、それは此社會に用のない傍觀者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る餘裕があるから、さうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」

　平岡は饒舌《しやべ》つてるうち、自然と此｜比喩《ひゆ》に打《ぶ》つかつて、大いなる味方を得た樣な心持がしたので、其所で得意に一段落をつけた。代助は仕方なしに薄笑ひをした。すると平岡はすぐ後《あと》を附加へた。

　「君は金に不自由しないから不可《いけ》ない。生活に困らないから、働らく氣にならないんだ。要するに坊ちやんだから、品《ひん》の好《い》い樣《やう》なこと許《ばつ》かり云つてゐて、――」

　代助は少々平岡が小憎らしくなつたので、突然中途で相手を遮《さへ》ぎつた。

　「働らくのも可《い》いが、働らくなら、生活以上の働でなくつちや名譽にならない。あらゆる神聖な勞力は、みんな?麭《パン》を離れてゐる」

　平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺《うかゞ》つた。さうして、

　「何故《なぜ》」と聞いた。

　「何故《なぜ》つて、生活の爲めの勞力は、勞力の爲めの勞力でないもの」

　「そんな論理學の命題見た樣《やう》なものは分らないな。もう少し實際的の人間に通じる樣な言葉で云つてくれ」

　「つまり食ふ爲めの職業は、誠實にや出來｜惡《にく》いと云ふ意味さ」

　「僕の考へとは丸で反對だね。食ふ爲めだから、猛烈に働らく氣になるんだらう」

　「猛烈には働らけるかも知れないが誠實には働らき惡《にく》いよ。食ふ爲の働らきと云ふと、つまり食ふのと、働らくのと何方《どつち》が目的だと思ふ」

　「無論食ふ方さ」

　「夫《そ》れ見給へ。食ふ方が目的で働らく方が方便なら、食ひ易い樣に、働らき方を合せて行くのが當然だらう。さうすりや、何を働らいたつて、又どう働らいたつて、構はない、只｜?麹《パン》が得られゝば好いと云ふ事に歸着して仕舞ふぢやないか。勞力の内容も方向も乃至《ないし》順序も悉《こと／＼》く他から制肘《せいちう》される以上は、其勞力は墮落の勞力だ」

　「まだ理論的だね、何うも。夫《それ》で一向《いつかう》差支ないぢやないか」

　「では極《ごく》上品な例で説明してやらう。古臭い話だが、ある本で斯んな事を讀んだ覺えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱《かゝ》へた所が、始めて、其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味《まづ》かつたんで、大變小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食はして、叱られたものだから、其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて、始終｜褒《ほ》められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の爲に働らく事は拔目《ぬけめ》のない男だらうが、自分の技藝たる料理其物のために働らく點から云へば、頗る不誠實ぢやないか、墮落料理人ぢやないか」

　「だつて左樣《さう》しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」

　「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物數寄《ものずき》にやる働らきでなくつちや、眞面目な仕事は出來るものぢやないんだよ」

　「さうすると、君の樣な身分のものてなくつちや、神聖の勞力は出來ない譯だ。ぢや益《ます／＼》遣る義務がある。なあ三千代」

　「本當ですわ」

　「何だか話が、元へ戻つちまつた。是だから議論は不可《いけ》ないよ」と云つて、代助は頭を掻いた。議論はそれで、とう／＼御仕舞になつた。

　

　　　　　七

　

　代助は風呂へ這入つた。

　「先生、何うです、御燗《おかん》は。もう少し燃《も》させませうか」と門野が突然｜入《い》り口《ぐち》から顔を出した。門野は斯う云ふ事には能く氣の付く男である。代助は、凝《じつ》と湯に浸《つか》つた儘、

　「結構」と答へた。すると、門野が、

　「ですか」と云ひ棄てゝ、茶の間の方へ引き返した。代助は門野の返事のし具合に、いたく興味を有《も》つて、獨りにや／＼と笑つた。代助には人の感じ得ない事を感じる神經がある。それが爲時々苦しい思もする。ある時、友達の御親爺《おやぢ》さんが死んで、葬式の供に立つたが、不圖《ふと》其友達が裝束を着て、青竹を突いて、柩《ひつぎ》のあとへ付いて行く姿を見て可笑《をか》しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の父から御談義を聞いてゐる最中《さいちゆう》に、何の氣もなく父の顔を見たら、急に吹き出したくなつて弱り拔いた事がある。自宅に風呂を買はない時分には、つい近所の錢湯に行つたが、其所に一人の骨骼《こつかく》の逞《たく》ましい三助《さんすけ》がゐた。是が行くたんびに、奧から飛び出して來て、流しませうと云っては脊中を擦《こす》る。代助は其奴《そいつ》に體をごし／＼遣られる度に、どうしても、埃及人《エヂプトじん》に遣られてゐる樣な氣がした。いくら思ひ返しても日本人とは思へなかつた。

　まだ不思議な事がある。此間《このあひだ》ある書物を讀んだら、ウエバーと云ふ生理學者は自分の心臓の鼓動を、�揩ｵたり、減らしたり、隨意に變化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試驗する癖のある代助は、ためしに遣つて見たくなつて、一日に二三回位｜怖々《こは／”＼》ながら試してゐるうちに、何うやら、ウエバーと同じ樣になりさうなので、急に驚ろいて已《や》めにした。

　湯のなかに、靜かに浸《つか》つてゐた代助は、何の氣なしに右の手を左の胸の上へ持つて行つたが、どん／＼と云ふ命の音を二三度聞くや否や、忽ちウエバーを思ひ出して、すぐ流しへ下りた。さうして、其所に胡坐《あぐら》をかいた儘、茫然と、自分の足を見詰めてゐた。すると其足が變になり始めた。どうも自分の胴から生えてゐるんでなくて、自分とは全く無關係のものが、其所に無作法に横《よこた》はつてゐる樣に思はれて來た。さうなると、今迄は氣が付かなかつたが、實に見るに堪えない程｜醜《みに》くいものである。毛が不揃《むら》に延びて、青い筋が所々に蔓《はびこ》つて、如何にも不思議な動物である。

　代助は又湯に這入つて、平岡の云つた通り、全く暇があり過ぎるので、こんな事迄考へるのかと思つた。湯から出て、鏡に自分の姿を寫した時、又平岡の言葉を思ひ出した。幅の厚い西洋髪剃で、顎と頬を剃る段になつて、其鋭どい刃《は》が、鏡の裏で閃《ひらめ》く色が、一種むづ痒《がゆ》い樣な氣持を起さした。是が烈敷《はげし》くなると、高い塔の上から、遙かの下を見下《みおろ》すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り終つた。

　茶の間を拔け樣《やう》とする拍子に、

　「何うも先生は旨いよ」と門野が婆さんに話してゐた。

　「何が旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。

門野は、

　「やあ、もう御上《おあが》りですか。早いですな」と答へた。此挨拶では、もう一遍、何が旨いんだと聞かれもしなくなつたので、其儘書斎へ歸つて、椅子に腰を掛けて休息してゐた。

　休息しながら、斯う頭が妙な方面に鋭どく働き出しちや、身體《からだ》の毒だから、些《ち》と放行でもしやうかと思つて見た。一つは近來持ち上つた結婚問題を避けるに都合が好《い》いとも考へた。すると又平岡の事が妙に氣に掛つて、轉地する計畫をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が氣に掛るのではない、矢つ張り三千代の事が氣にかゝるのである。代勘は其所迄押して來ても、別段不�ｺ義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。

　代助が三千代と知り合になつたのは、今から四五年｜前《まへ》の事で、代助がまだ學生の頃であつた。代助は長井家の關係から、當時交際社會の表面にあらはれて出た、若い女の顔も名も、澤山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。色合《いちあひ》から云ふと、もつと地味で、氣特から云ふと、もう少し沈んでゐた。其頃、代助の學友に菅沼と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく附合つてゐた。三千代は其｜妹《いもと》である。

　此菅沼は東京近縣のもので、學生になつた二年目の春、修業の爲と號して、國から妹《いもと》を連れて來ると同時に、今迄の下宿を引き拂つて、二人して家《いへ》を持つた。其時｜妹《いもと》は國の高等女學校を卒業した許《ばかり》で、年は慥《たしか》十八とか云ふ話であつたが、派手《はで》な半襟を掛けて、肩上《かたあげ》をしてゐた。さうして程なくある女學校へ通ひ始めた。

　菅沼の家《いへ》は谷中《やなか》の清水町《しみづちやう》で、庭のない代りに、椽側《えんがは》へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。それがまた、錆《さび》た鐵の樣に、頗る異《あや》しい色をしてゐた。其一本は殆《ほとん》ど枯れ掛かつて、上の方には丸裸の骨｜許《ばか》り殘つた所に、夕方になると烏が澤山集まつて鳴いてゐた。隣には若い畫家《ゑかき》が住んでゐた。車もあまり通らない細い横町で、至極《しごく》閑靜な住居《すまひ》であつた。

　代助は其所へ能く遊びに行つた。始めて三千代に逢つた時、三千代はたゞ御辭儀をした丈《だけ》で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して歸つて來た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持つて出る丈《だけ》であつた。其癖狭い家《うち》だから、隣の室《へや》にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話しながら、隣の室《へや》に三千代がゐて、自分の話を聽いてゐるといふ自覺を去る譯に行かなかつた。

　三千代と口を利き出したのは、どんな機會《はずみ》であつたか、今では代助の記憶に殘つてゐない。殘つて居ない程、瑣末《さまつ》な尋常の出來事から起つたのだらう。詩や小説に厭《あ》いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦《いつたん》口を利き出してからは、矢つ張り詩や小説と同じ樣に、二人はすぐ心安くなつて仕舞つた。

　平岡も、代助の樣に、よく菅沼の家《うち》へ遊びに來た。あるときは二人連れ立つて、來た事もある。さうして、代助と前後して、三千代と懇意になつた。三千代は兄と此二人に食付《くつつ》いて、時々｜池《いけ》の端《はた》抔《など》を散歩した事がある。

　四人《よつたり》は此關係で約二年足らず過ごした。すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云ふのが、田舍から遊びに出て來て、しばらく清水町《しみづちやう》に泊つてゐた。此母は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日《ごろくんち》寐起する例になつてゐたんだが、其時は歸る前日から熱が出だして、全く動けなくなつた。それが一週間の後《のち》窒扶斯《ちふす》と判明したので、すぐ大學病院へ入れた。三千代は看護の爲附添として一所に病院に移つた。病人の經過は、一時｜稍《やゝ》佳良であつたが、中途からぶり返して、とう／＼死んで仕舞つた。それ許《ばかり》ではない。窒扶斯《ちふす》が、見舞に來た兄に傳染して、是も程なく亡《な》くなつた。國にはたゞ父親が一人殘つた。

　それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て來て始末をしたので、生前に關係の深かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を連れて國へ歸る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、暇乞旁《いとまごひかた／”＼》禮を述べた。

　其年の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其《その》間《あひだ》に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連《つら》なつて貰つたのだが、身體《からだ》を動かして、三千代の方を纒めたものは代助であつた。

　結婚して間もなく二人は東京を去つた。國に居た父は思はざるある事情の爲に餘儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代は何方《どつち》かと云へば、今心細い境遇に居る。どうかして、此東京に落付いてゐられる樣にして遣りたい氣がする。代助はもう一返｜嫂《あによめ》に相談して、此間の金を調達《てうだつ》する工面をして見やうかと思つた。又三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委しく聞いて見やうかと思つた。

　けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗《あら》ひ浚《ざら》い饒舌《しやべ》り散らす女ではなし、よしんば何うして、そんな金が要る樣になつたかの事情を、詳しく聞き得たにした所で、夫婦の腹の中《なか》なんぞは容易に探られる譯のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼の本當に知りたい點は、却つて此所に在ると、自《みづ》から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故《なにゆゑ》に金が入用《いりよう》であるかと研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。實は外面の事情は聞いても聞かなくつても、三千代に金を貸して滿足させたい方であつた。けれども三千代の歡心を買ふ目的を以て、其手段として金を拵へる氣は丸《まる》でなかつた。代助は三千代に對して、それ程政略的な料簡《れうけん》を起す餘裕を有《も》つてゐなかつたのである。

　其上平岡の留守へ行き中《あ》てゝ、今日《こんにち》迄の事情を、特に經濟の點に關して丈《だけ》でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家《うち》にゐる以上は、詳しい話の出來ないのは知れ切つてゐる。出來ても、それを一から十迄｜眞《ま》に受ける譯には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見榮《みえ》を張つてゐる。見榮の入《い》らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。

　代助は、兎も角もまづ嫂《あによめ》に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覺束ないとは思つた。今迄｜嫂《あによめ》にちび／＼、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯う短兵急《たんぺいきふ》に痛め付けるのは始めてゞある。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持つてゐるから、或は出來ないとも限らない。夫《それ》で駄目なら、又高利でも借りるのだが、代助はまだ其所迄には氣が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帶責任を強ひられて、それを斷わり切れない位なら、一層《いつそ》此方《こつち》から進んで、直接に三千代を喜ばしてやる方が遙かに愉快だといふ取捨の念｜丈《だけ》は殆んど理窟を離れて、頭の中に潜《ひそ》んでゐた。

　生暖《なまあたゝ》かい風の吹く日であつた。曇つた天氣が何時《いつ》迄も無精《ぶしやう》に空に引掛つて、中々暮れさうにない四時過から家《うち》を出て、兄の宅《たく》迄電車で行つた。青山御所の少し手前迄來ると、電車の左側を父と兄が綱曳《つなびき》で急がして通つた。挨拶をする暇もないうちに擦《す》れ違つたから、向ふは元より氣が付かずに過ぎ去つた。代助は次の停留所で下りた。

　兄の家の門を這入ると、客間でピヤノの音がした。代助は一寸砂利の上に立ち留つたが、すぐ左へ切れて勝手口の方へ廻つた。其所には格子の外《そと》に、ヘクターと云ふ英國産の大きな犬が、大きな口を革紐で縛られて臥《ね》てゐた。代助の足音を聞くや否や、ヘクターは毛の長い耳を振《ふる》つて、斑《まだら》な顏を急に上げた。さうして尾を搖《うご》かした。

　入口の書生部屋を覗き込んで、數居の上に立ちながら、二言三言愛嬌を云つた後《あと》、すぐ西洋間の方へ來て、戸を明けると、嫂《あによめ》がピヤノの前に腰を掛けて兩手を動かして居た。其｜傍《そば》に縫子が袖の長い着物を着て、例の髪を肩迄掛けて立つてゐた。代助は縫子の髪を見るたんびに、ブランコに乘つた縫子の姿を思ひ出す。黒い髪と、淡紅色《ときいろ》のリボンと、それから黄色い縮緬《ちりめん》の帶が、一時に風に吹かれて空《くう》に流れる樣を、鮮《あざや》かに頭の中に刻《きざ》み込んでゐる。

　母子《おやこ》は同時に振り向いた。

　「おや」

　縫子の方は、黙つて馳《か》けて來た。さうして、代助の手をぐい／＼引張つた。代助はピヤノの傍《そば》迄來た。

　「如何なる名人が鳴らしてゐるのかと思つた」

　梅子は何にも云はずに、額に八の字を寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮《さへ》ぎつた。さうして、向ふから斯う云つた。

　「代さん、此所ん所を一寸遣つて見せて下さい」

　代助は黙つて嫂《あによめ》と入れ替《かは》つた。譜を見ながら、兩方の指をしばらく奇麗に働《はたら》かした後《あと》、

　「斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。

　それから三十分程の間、母子《おやこ》して交《かは》る／”＼樂器の前に坐つては、一つ所を復習してゐたが、やがて梅子が、

　「もう廢《よ》しませう。彼方《あつち》へ行つて、御飯でも食べませう。叔父さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗くなつてゐた。代助は先刻《さつき》から、ピヤノの音を聞いて、嫂《あによめ》や蛭《めひ》の白い手の動く樣子を見て、さうして時々は例の欄間の畫《ゑ》を眺めて、三千代の事も、金を借りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出る時、振り返つたら、紺青《こんじやう》の波が摧《くだ》けて、白く吹き返す所｜丈《だけ》が、暗い中に判然《はつきり》見えた。代助は此｜大濤《おほなみ》の上に黄金色《こがねいろ》の雲の峰を一面に描《か》かした。さうして、其雲の峰をよく見ると、眞裸《まはだか》な女性《によしやう》の五人が、髪を乱し、身を躍らして、一團となつて、暴《あ》れ狂つてゐる樣に、旨く輪廓を取らした。代助は?ルキイルを雲に見立てた積《つもり》で此圖を注文したのである。彼は此雲の峰だか、又巨大な女性《によしやう》だか、殆んど見分けの付かない、偉《ゐ》な塊《かたまり》を腦中に髣髴《はうふつ》して、ひそかに嬉しがつてゐた。が偖《さて》出來上つて、壁の中へ嵌《は》め込んでみると、想像したよりは不味《まづ》かつた。梅子と共に部屋を出た時は、此?ルキイルは殆んど見えなかつた。紺青《こんじやう》の波は固《もと》より見えなかつた。たゞ白い泡の大きな塊《かたまり》が薄白く見えた。

　居間にはもう電燈が點《つ》いてゐた。代助は其所で、梅子と共に晩食を濟ました。子供二人も卓を共にした。誠太郎に兄の部屋からマニラを一本取つて來《こ》さして、夫《それ》を吹《ふ》かしながら、雜談をした。やがて、子供は明日《あした》の下讀をする時間だと云ふので、母から注意を受けて、自分の部屋へ引き取つたので、後《あと》は差《さ》し向《むかひ》になつた。

　代助は突然例の話を持ち出すのも、變なものだと思つて、關係のない折からそろ／＼進行を始めた。先づ父と兄が綱曳《つなつぴき》で車を急がして何所へ行つたのだとか、此間は兄さんに御馳走になつたとか、あなたは何故《なぜ》麻布の園遊會へ來なかつたのだとか、御父さんの漢詩は大抵｜法螺《ほら》だとか、色々聞いたり答へたりして居るうちに、一つ新しい事實を發見した。それは外《ほか》でもない。父と兄が、近來目に立つ樣に、忙《いそが》しさうに奔走《ほんそう》し始めて、此｜四五日《しごんち》は碌々《ろく／＼》寐るひまもない位だと云ふ報知である。全體何が始つたんですと、代助は平氣な顏で聞いて見た。すると、嫂《あによめ》も普通の調子で、さうですね、何か始つたんでせう。御父さんも、兄さんも私には何にも仰しやらないから、知らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか此間の御嫁さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて來た。

　今夜も遲くなる、もし、誰と誰が來たら何とか屋へ來る樣に云つて呉れと云ふ電話を傳へた儘、書生は再び出て行つた。代助は又結婚問題に話が戻ると面倒だから、時に姉さん、些《ちつと》御願があつて來たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。

　梅子は代助の云ふ事を素直《すなほ》に聞いて居た。代助は凡《すべ》てを話すに約十分｜許《ばかり》を費やした。最後に、

　「だから思ひ切つて貸して下さい」と云つた。すると梅子は眞面目な顔をして、

　「さうね。けれども全體｜何時《いつ》返す氣なの」と思ひも寄らぬ事を問ひ返した。代助は顎《あご》の先を指で撮《つま》んだ儘、じつと嫂《あによめ》の氣色《けしき》を窺つた。梅子は益《ます／＼》眞面目な顏をして、又斯う云つた。

　「皮肉ぢやないのよ。怒つちや不可《いけ》ませんよ」

　代助は無論恕つてはゐなかつた。たゞ姉弟《きやうだい》から斯ういふ質問を受けやうと豫期してゐなかつた丈《だけ》である。今更《いまさら》返す氣だの、貰う積りだのと布衍《ふえん》すればする程馬鹿になる許《ばかり》だから、甘んじて打撃を受けてゐた丈《だけ》である。梅子は漸《やう》やく手に餘る弟《おとゝ》を取つて抑えた樣な氣がしたので、後《あと》が大變云ひ易かつた。――

　「代さん、あなたは不斷から私《わたくし》を馬鹿にして御出《おいで》なさる。――いゝえ、厭味を云ふんぢやない、本當の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」

　「困りますね、左樣《さう》眞劔に詰問《きつもん》されちや」

　「善《よ》ござんすよ。胡魔化《ごまか》さないでも。ちやんと分つてるんだから。だから正直に左樣《さう》だと云つて御仕舞なさい。左樣《さう》でないと、後《あと》が話せないから」

　代助は黙つてにや／＼笑つてゐた。

　「でせう。そら御覽なさい。けれども、それが當り前よ。ちつとも構やしません。いくら私《わたし》が威張つたつて、貴方に敵《かな》ひつこないのは無論ですもの。私《わたし》と貴方とは今迄通りの關係で、御互ひに滿足なんだから、文句はありやしません。そりや夫《それ》で好いとして、貴方は御父さんも馬鹿にして入らつしやるのね」

　代助は嫂《あによめ》の態度の眞率《しんそつ》な所が氣に入つた。それで、

　「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左《さ》も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。

　「兄さんも馬鹿にして入らつしやる」

　「兄さんですか。兄さんは大いに尊敬してゐる」

　「嘘を仰しやい。序《ついで》だから、みんな打《ぶ》ち散《ま》けて御仕舞なさい」

　「そりや、或點では馬鹿にしない事もない」

　「それ御覽なさい。あなたは一家族中｜悉《こと／”＼》く馬鹿にして入らつしやる」

　「どうも恐れ入りました」

　「そんな言譯はどうでも好いんですよ。貴方から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」

　「もう、廢《よ》さうぢやありませんか。今日は中々きびしいですね」

　「本當なのよ。夫《それ》で差支ないんですよ。喧嘩も何も起らないんだから。けれどもね、そんなに偉い貴方が、何故《なぜ》私《わたし》なんぞから、御金を借りる必要があるの。可笑《をか》しいぢやありませんか。いえ、揚足《あげあし》を取ると思ふと、腹が立つでせう。左樣《そん》なんぢやありません。それ程偉い貴方でも、御金がないと、私《わたし》見た樣なものに頭を下げなけりやならなくなる」

　「だから先《きつ》きから頭を下げてゐるんです」

　「まだ本氣で聞いてゐらつしやらないのね」

　「是が私《わたし》の本氣な所なんです」

　「ぢや、それも貴方の偉い所かも知れない。然し誰も御金を貸し手がなくつて、今の御友達を救つて上げる事が出來なかつたら、何うなさる。いくら偉くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は車屋と同《おん》なしですもの」

　代助は今迄｜嫂《あによめ》が是程適切な異見を自分に向かつて加へ得やうとは思はなかつた。實は金の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱點を冥々《めい／＼》の裡《うち》に感じてゐたのである。

　「全く車屋ですね。だから姉さんに頼むんです」

　「仕方がないのね、貴方は。あんまり、偉過ぎて。一人で御金を御取んなさいな。本當の車屋なら貸して上げない事もないけれども、貴方には厭よ。だつて餘《あんま》りぢやありませんか。月々兄さんや御父さんの厄介になつた上に、人の分《ぶん》迄《まで》自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。誰も出し度くはないぢやありませんか」

　梅子の云ふ所は實に尤《もつと》もである。然し代助は此｜尤《もつとも》を通り越して、氣が付かずにゐた。振り返つて見ると、後《うしろ》の方に姉と兄と父がかたまつてゐた。自分も後戻《あともど》りをして、世間並《せけんなみ》にならなければならないと感じた。家《うち》を出る時、嫂《あによめ》から無心を斷わられるだらうとは氣遣つた。けれども夫《それ》が爲めに、大いに働らいて、自《みづ》から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫《それ》程《ほど》重くは見てゐなかったのである。

　梅子は、此機會を利用して、色々の方面から代助を刺激しやうと力《つと》めた。所が代助には梅子の腹がよく解つてゐた。解れば解る程激する氣にならなかった。そのうち話題は金を離れて、再び結婚に戻つて來た。代助は最近の候補者に就て、此間から親爺《おやぢ》に二度程惱まされてゐる。親爺《おやぢ》の論理は何時《いつ》聞いても昔《むか》し風に甚だ義理堅いものであったが、其代り今度は左程《さほど》權柄《けんぺい》づくでもなかつた。自分の命の親に當る人の血統を受けたものと縁組をするのは結構な事であるから、貰つて呉れと云ふんである。さうすれば幾分か恩が返せると云ふんである。要するに代助から見ると、何が結構なのか、何が恩返しに當るのか、丸《まる》で筋の立たない主張であつた。尤も候補者自身に就ては、代助も格別の苦情は持つてゐなかつた。だから父の云ふ事の當否は論辯《ろんべん》の限《かぎり》にあらずとしで、貰へば貰つても構はなかつた。代助は此二三年來、凡《すべ》ての物に對して重きを置かない習慣になつた如く、結婚に對しても、あまり重きを置く必要を認めてゐなかつた。佐川の娘といふのは只寫眞で知つてゐる許《ばかり》であるが、夫《それ》丈《だけ》でも澤山な樣な氣がした。――尤も寫眞は大分《だいぶ》美くしかつた。――從つて、貰ふとなれば、左樣《さう》面倒な條件を持ち出す考も何もなかつた。たゞ、貰ひませうと云ふ確答が出なかった丈《だけ》である。

　その不明晰な態度を、父に評させると、丸《まる》で要領を得てゐない鈍物《どんぶつ》同樣の挨拶振になる。結婚を生死の間に横《よこた》はる一大要件と見傚《みな》して、あらゆる他の出來事を、これに從屬させる考への嫂《あによめ》から云はせると、不可思議になる。

　「だつて、貴方だつて、生涯一人でゐる氣でもないんでせう。さう我儘を云はないで、好い加減な所で極めて仕舞つたら何うです」と梅子は少し焦《じ》れつたさうに云つた。

　生涯一人でゐるか、或は妾《めかけ》を置いて暮すか、或は藝者と關係をつけるか、代助自身にも明瞭な計畫は丸《まる》でなかつた。只、今の彼は結婚といふものに對して、他の獨身者の樣に、あまり興味を持てなかつた事は慥《たしか》である。是は、彼の性情が、一圖《いちづ》に物に向つて集注し得ないのと、彼の頭が普通以上に鋭《する》どくつて、しかも其｜鋭《するど》さが、日本現代の社會?況のために、幻像打破《イリユージヨンだは》の方面に向つて、今日《こんにち》迄《まで》多く費やされたのと、それから最後には、比較的金錢に不自由がないので、ある種類の女を大分《だいぶ》多く知つてゐるのとの三ケ條に、歸着するのである。が代助は其所迄解剖して考へる必要は認めてゐなかつた。たゞ結婚に興味がないと云ふ、自己に明かな事實を握つて、それに應じて未來を自然に延ばして行く氣でゐた。だから、結婚を必要事件と、初手《しよて》から斷定して、何時《いつ》か之を成立させ樣と喘《あせ》る努力を、不自然であり、不合理であり、且つあまりに俗臭を帶びたものと解釋した。

　代助は固《もと》より斯んな哲理《フヒロソフヒー》を嫂《あによめ》に向つて講釋する氣はなかつた。が、段々押し詰められると、苦し紛《まぎ》れに、

　「だが、姉さん、僕は何うしても嫁を貰はなければならないのかね」と聞く事がある。代助は無論眞面目に聞く積《つもり》だけれども、嫂《あによめ》の方では呆《あき》れて仕舞ふ。さうして、自分を茶にするのだと取る。梅子は其晩代助に向つて、平生《いつも》の手續を繰り返した後《あと》で、斯んな事を云つた。

　「妙なのね、そんなに厭がるのは。――厭なんぢやないつて、口では仰しやるけれども、貰はなければ、厭なのと同《おん》なしぢやありませんか。それぢや誰か好きなのがあるんでせう。其｜方《かた》の名を仰《おつし》やい」

　代助は今迄嫁の供補者としては、たゞの一人も好いた女を頭の中に指名してゐた覺《おばえ》がなかつた。が、今斯う云はれた時、どう云ふ譯か、不意に三千代といふ名が心に浮かんだ。つゞいて、だから先刻《さつき》云つた金を貸して下さい、といふ文句が自《おのづ》から頭の中で出來上つた。――けれども代助はたゞ苦笑して嫂《あによめ》の前に坐つてゐた。

　

　　　　　八

　

　代助が嫂《あによめ》に失敗して歸つた夜は、大分《だいぶ》更《ふ》けてゐた。彼は辛うじて青山の通りで、最後の電車を捕《つら》まへた位である。それにも拘《かゝ》はらず彼の話してゐる間には、父も兄も歸つて來なかつた。尤も其間に梅子は電話口へ二返呼ばれた。然し、嫂《あによめ》の樣子に別段變つた所もないので、代助は此方《こつち》から進んで何《なん》にも聞かなかつた。

　某夜は雨催《あめもよひ》の空が、地面と同じ樣な色に見えた。停留所の赤い柱の傍《そば》に、たつた一人立つて電車を待ち合はしてゐると、遠い向ふから小さい火の玉があらはれて、それが一直線に暗い中を上下《うへした》に搖れつつ代助の方に近《ちかづ》いて來るのが非常に淋《さび》しく感ぜられた。乘り込んで見ると、誰も居なかつた。黒い着物を着た車掌と運轉手の間に鋏《はさ》まれて、一種の音に埋《うづ》まつて動いて行くと、動いてゐる車の外は眞暗《まつくら》である。代助は一人明るい中に腰を掛けて、どこ迄も電車に乘つて、終《つひ》に下りる機會が來ない迄引つ張り廻される樣な氣がした。

　神樂坂《かぐらざか》へかゝると、寂《ひつそ》りとした路が左右の二階家《にかいや》に挾《はさ》まれて、細長く前を塞《ふさ》いでゐた。中途迄｜上《のぼ》つて來たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家《や》の棟《むね》に當る事と思つて、立ち留まつて暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。戸と障子と硝子《がらす》の打ち合ふ音が、見る／＼烈しくなつて、あゝ地震だと氣が付いた時は、代助の足は立ちながら半《なか》ば疎《すく》んでゐた。其時代助は左右の二階家が坂を埋《うづ》むべく、双方から倒れて來る樣に感じた。すると、突然右側の潜《くゞ》り戸《ど》をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ／＼、大きな地震だと云つて出て來た。代助は其男の聲を聞いて漸く安心した。

　家《うち》へ着いたら、婆さんも門野も大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置し樣《やう》かと思案して見た。然し分別《ふんべつ》を凝《こ》らす迄には至らなかつた。父と兄の近來の多忙は何事だらうと推《すゐ》して見た。結婚は愚圖々々《ぐづ／＼》にして置かうと了簡《れうけん》を極めた。さうして眠に入つた。

　其｜明日《あくるひ》の新聞に始めて日糖事件《につたうじけん》なるものがあらはれた。砂糖を製造する會社の重役が、會社の金を使用して代議士の何名かを買収したと云ふ報知である。門野は例の如く重役や代議士の拘引《こういん》されるのを痛快だ々々々と評してゐたが、代助にはそれ程痛快にも思へなかつた。が、二三日《にさんち》するうちに取り調べを受けるものゝ數《かず》が大分《だいぶ》多くなつて來て、世間ではこれを大疑獄の樣に囃《はや》し立てる樣になつた。ある新聞ではこれを英國に對する檢擧と稱した。其説明には、英國大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし出したので、日本政府も英國へ對する申譯に手を下《くだ》したのだとあつた。

　日糖事件の起《おこ》る少し前、東洋汽船といふ會社は、一割二分の配當をした後《あと》の半期に、八十萬圓の缺損を報告した事があつた。それを代助は記憶して居た。其時の新聞が此報告を評して信《しん》を置くに足らんと云つた事も記憶してゐた。

　代助は自分の父と兄の關係してゐる會社に就ては何事も知らなかつた。けれども、いつ何《ど》んな事が起るまいものでもないとは常から考へてゐた。さうして、父も兄もあらゆる點に於て神聖であるとは信じてゐなかつた。もし八釜敷《やかまし》い吟味をされたなら、兩方共拘引に價する資格が出來はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、父と兄の財産が、彼等の腦力と手腕｜丈《だけ》で、誰が見ても尤《もつとも》と認める樣に、作り上げられたとは肯《うけが》はなかつた。明治の初年に横濱へ移住奬勵のため、政府が移住者に土地を與へた事がある。其時たゞ貰つた地面の御蔭で、今は非常な金滿家になつたものがある。けれども是は寧ろ天の與へた偶然である。父と兄の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人爲的に且《かつ》政略的に、暖室《むろ》を造つて、拵え上げたんだらうと代助は鑑定してゐた。

　代助は斯う云ふ考で、新聞記事に對しては別に驚ろきもしなかつた。父と兄の會社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事｜丈《だけ》が多少氣に掛つた。けれども、徒手《てぶら》で行くのが面白くないんで、其うちの事と腹の中《なか》で料簡を定めて、日々讀書に耽《ふけ》つて四五日《しごんち》過した。不思議な事に其後例の金の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて來なかつた。代助は心のうちに、あるひは三千代が又一人で返事を聞きに來る事もあるだらうと、實は心待に待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。

　仕舞にアンニユイを感じ出した。何處か遊びに行く所はあるまいかと、娯樂案内を捜《さが》して、芝居でも見やうと云ふ氣を起した。神樂坂から外濠線《そとぼりせん》へ乘つて、御茶の水迄來るうちに氣が變つて、森川町にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は學校を出ると、�ﾍ師は厭だから文學を職業とすると云ひ出して、他のものゝ留めるにも拘《かゝは》らず、危険な商賣をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未《いま》だに名聲も上らず、窮々《きゆう／＼》云つて原稿生活を持續してゐる。自分の關係のある雜誌に、何でも好いから書けと逼《せま》るので、代助は一度面白いものを寄草《きさう》した事がある。それは一ケ月の間雜誌屋の店頭に曝《さら》されたぎり、永久人間世界から何處かへ、運命の爲めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勸める。さうして、己《おれ》を見ろと云ふのが口癖であつた。けれども外の人に聞くと、寺尾ももう陷落するだらうと云ふ評判であつた。大變｜露西亞《ロンア》ものが好きで、ことに人が名前を知らない作家が好きで、なけなしの錢を工面しては新刊物を買ふのが道樂であつた。あまり気?《きえん》が高かつた時、代助が、文學者も恐露病《きようろびやう》に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦《いつたん》日露戰爭を經過したものでないと話せないと冷評《ひやかし》返した事がある。すると寺尾は眞面目な顏をして、戰爭は何時《いつ》でもするが、日露戰爭後の日本の樣に往生しちや詰らんぢやないか。矢つ張り恐露病《きようろびやう》に罹《かゝ》つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢つ張り露西亞文學を鼓吹《こすゐ》してゐた。

　玄闘から座敷へ通つて見ると、寺尾は眞中へ一貫張《いつくわんばり》の机を据ゑて、頭痛がすると云つて鉢卷をして、腕まくりで、帝國文學の原稿を書いてゐた。邪魔ならまた來ると云ふと、歸らんでもいゝ、もう今朝から五五《ごご》、二圓五十錢｜丈《だけ》稼いだからと云ふ挨拶であつた。やがて鉢卷を外《はづ》して、話を始めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中《なか》では、寺尾の事を誰も賞めないので、其對抗連動として、自分の方では他《ひと》を貶《けな》すんだらうと思つた。ちと、左樣《さう》云ふ意見を發表したら好いぢやないかと勸めると、左樣《さう》は行かないよと笑つてゐる。何故《なぜ》と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の樣に氣樂に暮せる身分なら隨分云つて見せるが――何しろ食ふんだからね。どうせ眞面目な商賣ぢやないさ。と云つた。代助は、夫《それ》で結構だ、確《しつ》かり遣り玉へと奬勵した。すると寺尾は、いや些《ちつ》とも結構ぢやない。どうかして、眞面目になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと金を貸して僕を眞面目にする了見《れうけん》はないかと聞いた。いや、君が今の樣な事をして、夫《それ》で眞面目だと思ふ樣になつたら、其時貸してやらうと調戯《からか》つて、代助は表へ出た。

　本郷の通り迄來たが倦怠《アンニユイ》の感は依然として故《もと》の通りである。何處をどう歩いても物足りない。と云つて、人の宅《うち》を訪ねる氣はもう出ない。自分を檢査して見ると、身體全體が、大きな胃病の樣な心持がした。四丁目から又電車へ乘つて、今度は傳通院前｜迄《まで》來た。車中で搖られるたびに、五尺何寸かある大きな胃嚢《ゐぶくろ》の中で、腐つたものが、波を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり宅《うち》へ歸つた。玄關で門野が、

　「先刻《さつき》御宅から御使でした。手紙は書齋の机の上に載せて置きました。受取は一寸私が書いて渡して置きました」と云つた。

　手紙は古風な?箱《じやうばこ》の中《うち》にあつた。其赤塗の表には名宛《なあて》も何も書かないで、眞鍮の環《くわん》に通した觀世撚《くわんじんより》の封じ目に黒い墨を着けてあつた。代助は机の上を一目見て、此手紙の主は嫂《あによめ》だとすぐ悟つた。嫂《あによめ》には斯う云ふ舊式な趣味があつて、それが時々思はぬ方角へ出てくる。代助は鋏の先で觀世撚《くわんじんより》の結目を突つつきながら、面倒な手數《てかず》だと思つた。

　けれども中にあつた手紙は、?箱《じやうばこ》とは正反對に簡單な、言文一致で用を濟ましてゐた。此間わざ／＼來て呉れた時は、御依頼《おたのみ》通り取り計ひかねて、御気の毒をした。後《あと》から考へて見ると、其時色々無遠慮な失禮を云つた事が氣にかゝる。どうか惡く取つて下さるな。其代り御金を上げる。尤もみんなと云ふ譯には行かない。二百圓｜丈《だけ》都合して上げる。から夫《それ》をすぐ御友達の所へ屆けて御上げなさい。是は兄さんには内所だから其｜積《つもり》でゐなくつては不可《いけ》ない。奧さんの事も宿題にするといふ約束だから、よく考へて返事をなさい。

　手紙の中に卷き込めて、二百圓の小切手が這入つてゐた。代助は、しばらく、それを眺めてゐるうちに、梅子に濟まない樣な氣がして來た。此間の晩、歸りがけに、向《むかふ》から、ぢや御金は要《い》らないのと聞いた。貸して呉れと切り込んで頼んだ時は、あゝ手痛《てきびし》く跳ね付けて置きながら、いざ斷念して歸る段になると、却つて斷わつた方から、掛念《けねん》がつて駄目を押して出た。代助はそこに女性《によしやう》の美くしさと弱さとを見た。さうして其弱さに付け入る勇氣を失つた。此美しい弱點を弄《もてあそ》ぶに堪えなかつたからである。えゝ要《い》りません、何うかなるでせうと云つて分れた。それを梅子は冷《ひやゝ》かな挨拶と思つたに違ない。其｜冷《ひやゝ》かな言葉が、梅子の平生の思ひ切つた動作の裏に、何處にか引つ掛つてゐて、とう／＼此手紙になつたのだらうと代助は判斷した。

　代物はすぐ返事を書いた。さうして出來る丈《だけ》暖かい言葉を使つて感謝の意を表した。代助が斯う云ふ氣分になる事は兄に對してもない。父に對してもない。世問一般に對しては固《もと》よりない。近來は梅子に對してもあまり起らなかつたのである。

　代助はすぐ三千代の所へ出掛け樣《やう》かと考へた。實を云ふと、二百圓は代助に取つて中途半端な額《たか》であつた。是《これ》丈《だけ》呉れるなら、一層《いつそ》思ひ切つて、此方《こつち》の強請《ねだ》つた通りにして、滿足を買へばいゝにと云ふ氣も出た。が、それは代助の頭が梅子を離れて三千代の方へ向いた時の事であつた。その上、女は如何《いか》に思ひ切つた女でも、感情上中途半端なものであると信じてゐる代助には、それが別段不平にも思へなかつた。否《いな》女の斯う云ふ態度の方が、却つて男性の斷然たる處置よりも、同情の彈力性を示してゐる點に於て、快よいものと考へてゐた。だから、もし二百圓を自分に贈つたものが、梅子でなくつて、父であつたとすれば、代助は、それを經濟的中途半端と解釋して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである。

　代助は晩食《ばんめし》も食はずに、すぐ又表へ出た。五軒町から江戸川の縁《へり》を傳つて、河を向《むかふ》へ越した時は、先刻《きつき》散歩からの歸りの樣に精神の困憊《こんぱい》を感じてゐなかった。坂を上《のぼ》つて傳通院の横へ出ると、細く高い烟突が、寺と寺の間から、汚ない烟《けむ》を、雲の多い空に吐いてゐた。代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存《せいそん》の爲に無理に吐《つ》く呼吸《いき》を見苦しいものと思つた。さうして其近くに住む平岡と、此烟突とを暗々の裏《うち》に連想せずにはゐられなかつた。斯う云ふ場合には、同情の念より美醜の念が先に立つのが、代助の常であつた。代助は此瞬間に、三千代の事を殆んど忘れて仕舞つた位、空に散る憐れな石炭の烟に刺激された。

　平岡の玄關の沓脱《くつぬぎ》には女の穿《は》く重《かさ》ね草履《ざうり》が脱ぎ棄てゝあつた。格子を開けると、奧の方から三千代が裾を鳴らして出て來た。其時｜上《あが》り口《ぐち》の二疊は殆んど暗かつた。三千代は其暗い中に坐つて挨拶をした。始めは誰が來たのか、よく分らなかつたらしかつたが、代助の聲を聞くや否や、何方《どなた》かと思つたら……と寧ろ低い聲で云つた。代助は判然《はつきり》見えない三千代の姿を、常よりは美しく眺めた。

　平岡は不在であつた。それを聞いた時、代助は話してゐ易《やす》い樣な、又話してゐ惡《にく》い樣な變な氣がした。けれども三千代の方は常の通り落ち付いてゐた。洋燈《ランプ》も點《つ》けないで、暗い室《へや》を閉《た》て切つた儘二人で坐つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も先刻《さつき》其所迄｜用達《ようたし》に出て、今歸つて夕食《ゆふめし》を濟ました許《ばか》りだと云つた。やがて平岡の話が出た。

　豫期した通り、平岡は相變らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり外へ出なくなつた。疲れたと云つて、よく宅《うち》に寐てゐる。でなければ酒を飲む。人が尋ねて來れば猶《なほ》飲む。さうして善《よ》く怒る。さかんに人を罵倒する。のださうである。

　「昔と違つて氣が荒くなつて困るわ」と云つて、三千代は暗《あん》に同情を求める樣子であつた。代助は黙つてゐた。下女が歸って來て、勝手口でがた／＼音をさせた。しばらくすると、胡麻竹《ごまだけ》の臺の着いた洋燈《ランプ》を持つて出た。襖《ふすま》を締める時、代助の顔を倫《ぬす》む樣に見て行つた。

　代助は懷から例の小切手を出した。二つに折れたのを其儘三千代の前に置いて、奧さん、と呼び掛けた。代助が三千代を奧さんと呼んだのは始めてゞあつた。

　「先達《せんだつ》て御頼《おたのみ》の金ですがね」

　三千代は何にも答へなかつた。たゞ眼を擧げて代助を見た。

　「實は、直《すぐ》にもと思つたんだけれども、此方《こつち》の都合が付かなかつたものだから、逐《つい》遲くなつたんだが、何うですか、もう始末は付きましたか」と聞いた。

　其時三千代は急に心細さうな低い聲になつた。さうして怨《ゑん》ずる樣に、

　「未《まだ》ですわ。だつて、片付く譯が無いぢやありませんか」と云つた儘、眼を?《みは》つて凝《じつ》と代助を見てゐた。代助は折れた小切手を取り上げて二つに開いた。

　「是《これ》丈《だけ》ぢや駄目ですか」

　三千代は手を伸ばして小切手を受取つた。

　「難有《ありがた》う。平岡が喜びますわ」と靜かに小切手を疊の上に置いた。

　代助は金を借りて來た由來を、極《ごく》ざつと説明して、自分は斯ういふ呑氣《のんき》な身分の樣に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出さうとすると、丸《まる》で無能力になるんだから、そこは惡く思つて呉れない樣にと言譯を付け加へた。

　「それは、私も承知してゐますわ。けれども、困つて、何うする事も出來ないものだから、つい無理を御願して」と三千代は氣の毒さうに託《わび》を述べた。代助はそこで念を押した。

　「夫《それ》丈《だけ》で、何うか始末が付きますか。もし何うしても付かなければ、もう一遍｜工面《くめん》して見るんだが」

　「もう一遍｜工面《くめん》するつて」

　「判を押して高い利のつく御金を借りるんです」

　「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消す樣に云つた。「それこそ大變よ。貴方」

　代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質《たち》の惡い金を借り始めたのが轉々して祟《たゝ》つてゐるんだと云ふ事を聞いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通つてゐたのだが、三千代が産後《さんご》心臓が惡くなつて、ぶら／＼し出すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、夫《それ》程《ほど》烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際上《つきあひじやう》已《やむ》を得ないんだらうと諦めてゐたが、仕舞にはそれが段々｜高《かう》じて、程度《はうづ》が無くなる許《ばかり》なので三千代も心配をする。すれば身體が惡くなる。なれば放蕩《はうたう》が猶《なほ》募《つの》る。不親切なんぢやない。私が惡いんですと三千代はわざ／＼斷わつた。けれども又｜淋《さび》しい顔をして、責《せ》めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸《さぞ》可《よ》かつたらうと、つく／”＼考へた事もありましたと自白した。

　代助は經濟問題の裏面に潜《ひそ》んでゐる、夫婦の關係をあらまし推察し得た樣な氣がしたので、あまり多く此方《こつち》から問ふのを控えた。歸りがけに、

　「そんなに弱つちや不可《いけ》ない。昔の樣に元氣に御成んなさい。さうして些《ちつ》と遊びに御出《おいで》なさい」と勇氣をつけた。

　「本當《ほんと》ね」と三千代は笑つた。彼等は互の昔を互の顔の上に認めた。平岡はとう／＼歸つて來なかつた。

　中二曰《なかふつか》置いて、突然平岡が來た。其日は乾いた風が朗らかな天《そら》を吹いて、蒼いものが眼に映る、常よりは暑い天氣であつた。朝の新聞に菖蒲《しやうぶ》の案内が出てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭《くんしらん》はとう／＼椽側《えんがは》で散つて仕舞つた。其代り脇差程も幅のある緑の葉が、莖を押し分けて長く延びて來た。古い葉は黒ずんだ儘、日に光つてゐる。其一枚が何かの拍子に半分から折れて、莖を去る五寸｜許《ばかり》の所で、急に鋭く下《さが》つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏を持つて椽《えん》に出た。さうして其葉を折れ込んだ手前から、剪《き》つて棄てた。時に厚い切り口が、急に※［者／火］染《にじ》む樣に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽《えん》に音がした。切口に集《あつま》つたのは緑色の濃い重い汁であつた。代助は其｜香《にほひ》を嗅がうと思つて、亂れる葉の中に鼻を突つ込んだ。椽側《えんがは》の滴《したゝり》は其儘にして置いた。立ち上がつて、袂《たもと》から手吊《ハンケチ》を出して、鋏の刃を拭いてゐる所へ、門野が平岡さんが御出《おいで》ですと報《しら》せて來たのである。代助は其時平岡の事も三千代の事も、丸《まる》で頭の中に考へてゐなかつた。只不思議な緑色の液體に支配されて、比較的世間に關係のない情調の下《もと》に動いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない樣な氣持がした。

　「此方《こつち》へ御通し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから席に導《みちび》かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着てゐた。襟も白襯衣《しろしやつ》も新らしい上に、流行の編襟飾《あみえりかざり》を掛けて、浪人とは誰にも受け取れない位、ハイカラに取り繕《つく》ろつてゐた。

　話して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても當分駄目だから、毎日斯うして遊んで歩く。それでなければ、宅《うち》に寐てゐるんだと云つて、大きな聲を出して笑つて見せた。代助もそれが可《よ》からうと答へたなり、後《あと》は當らず障らずの世間話に時間を潰してゐた。けれども自然に出る世間話といふよりも、寧ろある問題を回避する爲の世間話だから、兩方共に緊張を腹の底に感じてゐた。

　平岡は三千代の事も、金の事も口へ出さなかつた。從つて三日前《みつかまへ》代助が彼の留守宅を訪問した事に就ても何も語らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その點に觸れないで澄してゐたが、何時《いつ》迄《まで》經《た》つても、平岡の方で餘所々々《よそ／＼》しく構へてゐるので、却つて不安になつた。

　「實は二三目前《にさんちまへ》君の所へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。

　「うん。左樣《さう》だつたさうだね。其節は又｜難有《ありがた》う。御蔭さまで。――なに、君を煩はさないでも何うかなつたんだが、彼奴《あいつ》があまり心配し過ぎて、つい君に迷惑を掛けて濟まない」と冷淡な禮を云つた。それから、

　「僕も實は御禮に來た樣なものだが、本當の御禮には、いづれ當人が出るだらうから」と丸《まる》で三千代と自分を別物にした言分《いひぶん》であつた。代助はたゞ、

　「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話は是で切れた。が又兩方に共通で、しかも、兩方のあまり興味を持たない方面に摺《ず》り滑《すべ》つて行つた。すると、平岡が突然、

　「僕はことによると、もう實業は已《や》めるかも知れない。實際｜内幕《うちまく》を知れば知る程厭になる。其上｜此方《こつち》へ來て、少し運動をして見て、つく／”＼勇氣がなくなつた」と心底《しんそこ》かららしい告白をした。代助は、一口、

　「それは、左樣《さう》だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた樣子であつた。が、又あとを付けた。

　「先達《せんだつ》ても一寸話したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」

　「口があるのかい」と代助が聞き返した。

　「今、一つある。多分出來さうだ」

　來た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口があるから出《で》樣《やう》と云ふし、少し要領を缺いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、

　「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。

　平岡の歸りを玄關迄見送つた時、代助はしばらく、障子に身を寄せて、敷居の上に立つてゐた。門野も御附合《おつきあひ》に平岡の後姿を眺めてゐた。が、すぐ口を出した。

　「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの服裝《なり》ぢや、少し宅《うち》の方が御粗末《おそまつ》過ぎる樣です」

　「左樣《さう》でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。

　「全《まつ》たく、服裝《なり》丈《だけ》ぢや分らない世の中になりましたからね。何處の紳士かと思ふと、どうも變ちきりんな家《うち》へ這入つてますからね」と門野はすぐあとを付けた。

　代助は返事も爲《し》ずに書齋へ引き返した。椽側《えんがは》に垂れた君子蘭の緑の滴《したゝり》がどろ／＼になつて、干上《ひあが》り掛つてゐた。代助はわざと、書齋と座敷の仕切を立て切つて、一人｜室《へや》のうちへ這入つた。來客に接した後《あと》しばらくは、獨坐に耽《ふけ》るが代助の癖であつた。ことに今日の樣に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。

　平岡はとう／＼自分と離れて仕舞つた。逢ふたんびに、遠くにゐて應對する樣な氣がする。實を云ふと、平岡ばかりではない。誰に逢つても左《そ》んな氣がする。現代の社會は孤立した人間の集合體に過ぎなかつた。大地は自然に續いてゐるけれども、其上に家を建てたら、忽ち切《き》れ／”＼になつて仕舞つた。家の中にゐる人間も亦｜切《き》れ切《ぎ》れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釋した。

　代助と接近してゐた時分の平岡は、人に泣いて貰ふ事を喜《よろ》こぶ人であつた。今でも左樣《さう》かも知れない。が、些《ちつ》ともそんな顔をしないから、解らない。否、力《つと》めて、人の同情を斥ける樣に振舞つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社會に本來の面目だと云ふ悟りか、何方《どつち》かに歸着する。

　平岡に接近してゐた時分の代助は、人の爲に泣く事の好きな男であつた。それが次第々々に泣けなくなつた。泣かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事實は寧ろ之を逆にして、泣かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の壓迫を受けて、其重荷の下《した》に唸《うな》る、劇烈な生存競爭場裏に立つ人で、眞によく人の爲に泣き得るものに、代助は未《いま》だ曾《かつ》で出逢はなかつた。

　代助は今の平岡に對して、隔離の感よりも寧ろ嫌惡の念を催ふした。さうして向ふにも自己同樣の念が萌《きざ》してゐると判じた。昔しの代助も、時々わが胸のうちに、斯う云ふ影を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に悲しかつた。今は其悲しみも殆んど薄く剥がれて仕舞つた。だから自分で黒い影を凝《じつ》と見詰めて見る。さうして、これが眞《まこと》だと思ふ。已《やむ》を得ないと思ふ。たゞそれ丈《だけ》になつた。

　斯う云ふ意味の孤獨の底に陷《おちい》つて煩悶するには、代助の頭はあまりに判然《はつきり》し過ぎてゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の踏むべき必然の運命と考へたからである。從つて、自分と平岡の隔離は、今の自分の眼《まなこ》に訴へて見て、尋常一般の徑路《けいろ》を、ある點迄進行した結果に過ぎないと見傚《みな》した。けれども、同時に、兩人《ふたり》の間に横たはる一種の特別な事情の爲、此隔離が世間並よりも早く到着したと云ふ事を自覺せずにはゐられなかつた。それは三千代の結婚であつた。三千代を平岡に周旋したものは元來が自分であつた。それを當時に侮《くゆ》る樣な薄弱な頭腦ではなかつた。今日《こんにち》に至つて振り返つて見ても、自分の所作は、過去を照らす鮮かな名譽であつた。けれども三年經過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等｜二人《ににん》の前に突き付けた。彼等は自己の滿足と光輝を棄てゝ、其前に頭を下げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり／＼と何故《なぜ》三千代を貰つたかと思ふ樣になつた。代助は何處かしらで、何故《なぜ》三千代を周旋したかと云ふ聲を聞いた。

　代助は書齋に閉ぢ籠つて一日考へに沈んでゐた。晩食の時、門野が、

　「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些《ち》と御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙《とらびしや》ですぜ。演藝館で支那人《ちやん》の留學生が芝居を演《や》つてます。どんな事を演《や》る積《つもり》ですか、行つて御覽なすつたら何うです。支那人《ちやん》てえ奴は、臆面がないから、何でも遣る氣だから呑氣《のんき》なものだ。……」と一人で喋舌《しやべ》つた。

　

　　　　　九

　

　代助は又父から呼ばれた。代助には其用事が大抵分つてゐた。代助は不斷から成るべく父を避けて會はない樣にしてゐた。此頃になつては猶更《なほさら》奧へ寄り付かなかつた。逢ふと、叮寧《ていねい》な言葉を使つて應對してゐるにも拘《かゝ》はらず、腹の中《なか》では、父を侮辱してゐる樣な氣がしてならなかつたからである。

　代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接觸を敢てし得ぬ、現代の社會を、二十世紀の墮落と呼んでゐた。さうして、これを、近來急に膨脹《ばうちやう》した生活慾の高壓力が道義慾の崩壞を促がしたものと解釋してゐた。又これを此等新舊兩慾の衝突と見傚《みな》してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい發展を、歐洲から押し寄せた海嘯《つなみ》と心得てゐた。

　この二つの因數《フアクター》は、何處かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、歐洲の最強國と、財力に於て肩を較《なら》べる日の來る迄は、此平衡は日本に於て得られないものと代助は信じてゐた。さうして、斯《か》ゝる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めてゐた。だからこの窮地に陷《おちい》つた日本紳士の多數は、日毎に法律に觸れない程度に於て、もしくはたゞ頭の中に於て、罪惡を犯《をか》さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪惡を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。

　代助の父の場合は、一般に比べると、稍《やゝ》特殊的傾向を帶びる丈《だけ》に複雜であつた。彼は維新｜前《ぜん》の武士に固有な道義本位の�ﾍ育を受けた。此�ﾍ育は情意行爲の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事實の發展によつて證明せらるべき手近な眞《まこと》を、眼中に置かない無理なものであつた。にも拘はらず、父は習慣に囚《とら》へられて、未《いま》だに此�ﾍ育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い實業に從事した。父は實際に於て年々此生活慾の爲に腐蝕《ふしよく》されつゝ今日《こんにち》に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべき筈である。それを父は自認してゐなかつた。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し逐げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき�ﾍ育の範圍を狹《せば》める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充たして行ける譯がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ樣《やう》とすれば、之を敢てする個人は、矛盾の爲に大苦痛を受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覺｜丈《だけ》明らかで、何の爲の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭腦の鈍い劣等な人種である。代助は父に對する毎に、父は自己を隱蔽《いんぺい》する僞君子《ぎくんし》か、もしくは分別の足らない愚物か、何方《どつち》かでなくてはならない樣な氣がした。さうして、左《さ》う云ふ氣がするのが厭でならなかつた。

　と云つて、父は代助の手際で、何うする事も出來ない男であつた。代助には明らかに、それが分つてゐた。だから代助は未《いま》だ曾《かつ》て父を矛盾の極端｜迄《まで》追ひ詰めた事がなかつた。

　代助は凡《すべ》ての道�ｺの出立點は社會的事實より外にないと信じてゐた。始めから頭の中に硬張《こはば》つた道�ｺを据ゑ付けて、其道�ｺから逆に社會的事實を發展させ樣《やう》とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。從つて日本の學校でやる、講釋の倫理�ﾍ育は、無意義のものだと考へた。彼等は學校で昔《むか》し風《ふう》の道�ｺを�ﾍ授してゐる。それでなければ一般歐洲人に適切な道�ｺを呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な國民から見れば、迂遠《うゑん》の空談《くうだん》に過ぎない。此｜迂遠《うゑん》な�ﾍ育を受けたものは、他日社會を眼前に見る時、昔の講釋を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた樣な氣がする。代助に至つては、學校のみならず、現に自分の父から、尤も嚴格で、尤も通用しない�ｺ義上の�ﾍ育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。代助はそれを恨めしく思つてゐる位であつた。

　代助は此前梅子に禮を云ひに行つた時、梅子から一寸奧へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御父さんはゐるんですかと空とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、今日はちと急ぐから廢《よ》さうと歸つて來た。

　今日はわざ／＼其爲に來たのだから、否《いや》でも應《おう》でも父に逢はなければならない。相變らず、内《ない》玄關の方から廻つて座敷へ來ると、珍らしく兄の誠吾が胡坐《あぐら》をかいて、酒を呑んでゐた。梅子も傍《そば》に坐つてゐた。兄は代助を見て、

　「何うだ、一盃《いつぱい》遣《や》らないか」と、前にあつた葡萄酒の壜を持つて振つて見せた。中にはまだ餘程這入つてゐた。梅子は手を敲《たゝ》いて洋盞《コツプ》を取り寄せた。

　「當てゝ御覽なさい。どの位古いんだか」と一杯｜注《つ》いだ。

　「代助に分るものか」と云つて、誠吾は弟の唇のあたりを眺めてゐた。代助は一口飲んで盃を下へ下《おろ》した。肴の代りに薄いウエーフアーが菓子皿にあつた。

　「旨いですね」と云つた。

　「だから時代を當てゝ御覽なさいよ」

　「時代があるんですか。偉いものを買ひ込んだもんだね。歸りに一本貰つて行かう」

　「御生憎樣《おあいにくさま》、もう是《これ》限《ぎり》なの。到來物よ」と云つて梅子は椽側《えんがは》へ出て、膝の上に落ちたウエーフアーの粉《こ》を拂《はた》いた。

　「兄さん、今日は何うしたんです。大變氣樂さうですね」と代助が聞いた。

　「今日は休養だ。此間中は何うも忙《いそが》し過ぎて降參したから」と誠吾は火の消えた葉巻を口に啣《くは》えた。代助は自分の傍《そば》にあつた燐寸《まつち》を擦《す》つて遣つた。

　「代さん貴方《あなた》こそ氣樂ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側《えんがは》から歸つて來た。

　「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行つて御覽なさい。面白いから」

　「貴方もう行つたの、驚ろいた。貴方も餘つ程怠けものね」

　「怠けものは可《よ》くない。勉強の方向が違ふんだから」

　「押の強い事ばかり云つて。人の氣も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤い瞼《まぶた》をして、ぽかんと葉卷の烟《けむ》を吹いてゐた。

　「ねえ、貴方」と梅子が催促した。諏吾はうるささうに葉卷を指の股《また》へ移して、

　「今のうち澤山《たんと》勉強して貰つて置いて、今に此方《こつち》が貧乏したら、救つて貰ふ方が好いぢやないか」と云つた。梅子は、

　「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、洋盞《コツプ》を姉の前に出した。梅子も黙つて葡萄酒の壜を取り上げた。

　「兄さん、此間｜中《ぢゆう》は何だか大變｜忙《いそが》しかつたんだつてね」と代助は前へ戻って聞いた。

　「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は寐轉んで仕舞つた。

　「何か日糖事件に關係でもあつたんですか」と代助が聞いた。

　「日糖事件に關係はないが、忙《いそか》しかつた」

　兄の答は何時《いつ》でも此程度以上に明瞭になつた事がない。實は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫《それ》が本來の無頓着で、話すのが臆怯《おつくう》なためと聞える。だから代助はいつでも樂に其返事の中に這入つてゐた。

　「日糖も詰らない事になつたが、あゝなる前に何うか方法はないんでせうかね」

　「左《さ》うさなあ。實際世の中の事は、何が何うなるんだか分らないからな。――梅、今日は直木に云ひ付けて、ヘクターを少し運動させなくつちや不可《いけな》いよ。あゝ大食《おほぐひ》をして寐て許《ばかり》ゐちや毒だ」と誠吾は眠さうな瞼《まぶた》を指でしきりに擦《こす》つた。代助は、

　「愈《いよ／＼》奧へ行つて御父さんに叱られて來るかな」と云ひながら又｜洋盞《コツプ》を嫂《あによめ》の前へ出した。梅子は笑つて酒を注《つ》いだ。

　「嫁の事か」と誠吾が聞いた。

　「まあ、左《さ》うだらうと思ふんです」

　「貰つて置くがいゝ。さう老人《としより》に心配さしたつて仕樣があるものか」と云つたが、今度はもつと判然《はつきり》した語勢で、

　「氣を付けないと不可《いかん》よ。少し低氣壓が來てゐるから」と注意した。代助は立ち掛けながら、

　「まさか此間｜中《ぢゆう》の奔走からきた低氣壓ぢやありますまいね」と念を押した。兄は寐轉んだ儘、

　「何とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ樣に、何時《いつ》拘引されるか分らない身體なんだから」と云つた。

　「馬鹿な事を仰しやるなよ」と梅子が窘《たしな》めた。

　「矢つ張り僕ののらくらが持《も》ち來《き》たした低氣壓なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。

　廊下傳ひに中庭を越して、奧へ來て見ると、父は唐机の前へ坐つて、唐本を見てゐた。父は詩が好きで、閑があると折々支那人の詩集を讀んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引になる事があつた。さう云ふときは、いかに神經のふつくら出來上つた兄でも、成るべく近寄らない事にしてゐた。是非顔を合せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方《どつち》か引張つて父の前へ出る手段を取つてゐた。代助も椽側《えんがは》迄來て、そこに氣が付いたが、夫《それ》程《ほと》の必要もあるまいと思つて、座敷を一つ通り越して、父の居間に這入つた。

　父はまづ眼鏡を外《はづ》した。それを讀み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直つた。さうして、たゞ一言《ひとこと》、

　「來たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穩《おだやか》な位であつた。代助は膝の上に手を置きながら、兄が眞面目な顔をして、自分を擔《かつ》いだんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又苦い茶を飲ませられて、しばらく雜談に時を移した。今年は芍薬《しやくやく》の出が早いとか、茶摘歌《ちやつみうた》を聞いてゐると眠くなる時候だとか、何所とかに、大きな藤があつて、其花の長さが四尺足らずあるとか、話は好加減な方角へ大分《だいぶ》長く延びて行つた。代助は又其方が勝手なので、いつ迄も延ばす樣にと、後《あと》から後《あと》を付けて行つた。父も仕舞には持《も》て餘《あま》して、とう／＼、時に今日御前を呼んだのはと云ひ出した。

　代助はそれから後《あと》は、一言《ひとこと》も口を利かなくなつた。只《たゞ》謹んで親爺《おやぢ》の云ふことを聽いてゐた。父も代助から斯う云ふ態度に出られると、長い間自分一人で、講義でもする樣に、述べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰返す丈《だけ》であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を拂つて聞いてゐた。

　父の長談義のうちに、代助は二三の新しい點も認めた。その一つは、御前は一體是からさき何うする料簡なんだと云ふ眞面目な質問であつた。代助は今迄父からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外《はづ》す事に慣れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口から出任《でまか》せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父を怒らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間父の頭を�ﾍ育した上でなくつては、通じない理窟になる。代助は此大質問に應じて、自分の未來を明瞭に道破《いひやぶ》る丈《だけ》の考も何も有《も》つてゐなかつた。彼はそれが自分に取つて尤もな所だと思つてゐた。けれども父に、其通りを話して、成程と納得《なつとく》させる迄には、大變な時間がかゝる。或は生涯通じつこないかも知れない。父の氣に入る樣にするのは何でも、國家の爲とか、天下の爲とか、景氣の好い事を、しかも結婚と兩立しない樣な事を、述べて置けば濟むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する氣になつても、是ばかりは馬鹿氣てゐて、口へ出す勇氣がなかつた。そこで已《やむ》を得ないから、實は色々計畫もあるが、いづれ秩序｜立《だ》てゝ來て、御相談をする積《つもり》であると答へた。答へた後で、實に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。

　代助は次に、獨立の出來る丈《だけ》の財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答へた。すると、父が、では佐川の娘を貰つたら好からうと云ふ條件を付けた。其財産は佐川の娘が持つて來るのか、又は父が呉れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少し其點に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已《や》めた。

　次に、一層《いつそ》洋行する氣はないかと云はれた。代助は好いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢つ張り結婚が先決問題として出て來た。

　「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顏が赤くなつた。

　代助は父を怒らせる氣は少しもなかつたのである。彼の近頃の主義として、人と喧嘩をするのは、人間の墮落の一範疇《いちはんちう》になつてゐた。喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒つた人の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかと云ふ點に於て、大切なわが生命を傷《ぎずつ》ける打撃に外ならぬと心得てゐた。彼は罪惡に就ても彼れ自身に特有な考を有《も》つてゐた。けれども、それが爲に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬つたものゝ受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じてゐた。迸《ほとば》しる血の色を見て、清い心の迷亂を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫《それ》程《ほど》神經の鋭どい男であつた。だから顏の色を赤くした父を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、父の云ふ通りにしやうと云ふ氣は些《ちつ》とも起らなかつた。彼は、一方に於て、自己の腦力に、非常な尊敬を拂ふ男であつたからである。

　其時父は頗る熱した語氣で、先づ自分の年を取つてゐる事、子供の未來が心配になる事、子供に嫁を持たせるのは親の義務であると云ふ事、嫁の資格其他に就ては、本人よりも親の方が遙かに周到な注意を拂つてゐると云ふ事、他《ひと》の親切は、其當時にこそ餘計な御世話に見えるが、後《あと》になると、もう一遍うるさく干渉して貰ひたい時機が來るものであるといふ事を、非常に叮嚀に説いた。代助は愼重な態度で、聽いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾の意を表さなかつた。すると父はわざと抑へた調子で、

　「ぢや、佐川は已《や》めるさ。さうして誰でも御前の好きなのを貰つたら好いだらう。誰か貰ひたいのがあるのか」と云つた。是は嫂《あによめ》の質問と同樣であるが、代助は梅子に對する樣に、たゞ苦笑《くせう》ばかりしてはゐられなかつた。

　「別にそんな貰ひたいのもありません」と明らかな返事をした。すると父は急に肝《かん》の發した樣な聲で、

　「ぢや、少しは此方《こつち》の事も考へて呉れたら好からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然父が代助を離れて、彼自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の變化の上に注《そゝ》がれた丈《だけ》であつた。

　「貴方にそれ程御都合が好い事があるなら、もう一遍考へて見ませう」と答へた。

　父は益《ます／＼》機嫌をわるくした。代助は人と應對してゐる時、何うしても論理を離れる事の出來ない場合がある。夫《それ》が爲め、よく人から、相手を遣り込めるのを目的とする樣に受取られる。實際を云ふと、彼｜程《ほど》人を遣り込める事の嫌ひな男はないのである。

　「何も己《おれ》の都合｜許《ばかり》で、嫁を貰へと云つてやしない」と父は前の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云ふなら、參考の爲、云つて聞かせるが、御前はもう三十だらう、三十になつて、普通のものが結婚をしなければ、世間では何と思ふか大抵分るだらう。そりや今は昔と違ふから、獨身も本人の隨意だけれども、獨身の爲に親や兄弟が迷惑したり、果《はて》は自分の名譽に關係する樣な事が出來《しつたい》したりしたら何うする氣だ」

　代助はたゞ茫然として父の顔を見てゐた。父は何《ど》の點に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分らなかつたからである。しばらくして、

　「そりや私のことだから少しは道樂もしますが……」と云ひかけた。父はすぐ夫《それ》を遮《さへ》ぎつた。

　「そんな事ぢやない」

　二人は夫《それ》限《ぎ》りしばらく口を利かずにゐた。父は此沈黙を以て代助に向つて與へた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和《やは》らげて、

　「まあ、よく考へて御覽」と云つた。代助ははあと答へて、父の室《へや》を退《しり》ぞいた。座敷へ來て兄を探したが見えなかつた。嫂《あによめ》はと尋ねたら、客間だと下女が�ﾍへたので、行つて戸を明けて見ると、縫子のピヤノの先生が來てゐた。代助は先生に一寸挨拶をして、梅子を戸口迄呼び出した。

　「あなたは僕の事を何か御父さんに讒訴《ざんそ》しやしないか」

　梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、

　「まあ御這入んなさいよ。丁度好い所だから」と云つて、代助を樂器の傍《そば》迄《まで》引張つて行つた。

　

　　　　　十

　

　蟻の座敷へ上がる時候になつた。代助は大きな鉢へ水を張つて、其中に眞白な鈴蘭を莖ごと漬けた。簇《むら》がる細かい花が、濃い模樣の縁《ふち》を隱した。鉢を動かすと、花が零《こぼ》れる。代助はそれを大きな字引の上に載せた。さうして、其｜傍《そば》に枕を置いて仰向けに倒れた。黒い頭が丁度鉢の陰になつて、花から出る香《にほひ》が、好い具合に鼻に通《かよ》つた。代助は其｜香《にほひ》を嗅ぎながら假寐《うたゝね》をした。

　代助は時々尋常な外界《ぐわいかい》から法外に痛烈な刺激を受ける。それが劇しくなると、晴天から來る日光の反射にさへ堪へ難くなることがあつた。さう云ふ時には、成る可く世間との交渉を稀薄にして、朝でも午でも構はず寐る工夫をした。其手段には、極めて淡い、甘味《あまみ》の輕い、花の香《か》をよく用ひた。瞼《まぶた》を閉ぢて、瞳に落ちる光線を謝絶して、靜かに鼻の穴｜丈《だけ》で呼吸してゐるうちに、枕元の花が、次第に夢の方へ、躁《さわ》ぐ意識を吹いて行く。是が成功すると、代助の神經が生れ代つた樣に落ち付いて、世間との連絡が、前よりは比較的｜樂《らく》に取れる。

　代助は父に呼ばれてから二三日の間《あひだ》、庭の隅に咲いた薔薇の花の赤いのを見るたびに、それが點々として眼を刺してならなかつた。其時は、いつでも、手水鉢《てみづばち》の傍《そば》にある、擬寶珠《ぎぼしゆ》の葉に眼を移した。其葉には、放肆《はうし》な白い縞《しま》が、三筋か四筋、長く亂れてゐた。代助が見るたびに、擬寶珠《ぎぼしゆ》の葉は延びて行く樣に思はれた。さうして、それと共に白い縞も、自由に拘束なく、延びる樣な氣がした。柘榴《ざくろ》の花は、薔薇《ばら》よりも派手《はで》に且つ重苦しく見えた。緑の間にちらり／＼と光つて見える位、強い色を出してゐた。從つて是も代助の今の氣分には相應《うつ》らなかつた。

　彼の今の氣分は、彼に時々起る如く、總體の上に一種の暗調を帯びてゐた。だから餘りに明る過ぎるものに接すると、其矛盾に堪えがたかつた。擬寶珠《ぎぼしゆ》の葉も長く見詰めてゐると、すぐ厭になる位であつた。

　其上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ出した。其不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蠻《やばん》程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動搖を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であつた。又頭腦の人として、神に信仰を置く事の出來ぬ性質《たち》であつた。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを解脱する爲めに、神は始めて存在の權利を有するものと解釋してゐた。だから、神のある國では、人が嘘を吐《つ》くものと極めた。然し今の日本は、神にも人にも信仰のない國柄であるといふ事を發見した。さうして、彼は之を一《いつ》に日本の經濟事情に歸着せしめた。

　四五日前《しごんちぜん》、彼は掏摸《すり》と結託《けつたく》して惡事を働らいた刑事巡査の話を新聞で讀んだ。それが一人や二人ではなかつた。他の新聞の記す所によれば、もし嚴重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有樣に陷《おちい》るかも知れないさうである。代助は其記事を讀んだとき、たゞ苦笑した丈《だけ》であつた。さうして、生活の大難に對抗せねばならぬ薄給の刑事が、惡い事をするのは、實際尤もだと思つた。代助が父に逢つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同樣の氣がした。が、これはたゞ父に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌《いま》はしい暗示を受けたのを、不�ｺ義とは感じ得なかつた。それが事實となつて眼前にあらはれても、矢張り父を尤もだと肯《うけが》ふ積りだつたからである。

　代助は平岡に對しても同樣の感じを抱《いだ》いてゐた。然し平岡に取つては、それが當然な事であると許してゐた。たゞ平岡を好く氣になれない丈《だけ》であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に對しても矢張り信仰は有《も》ち得なかつた。嫂《あによめ》は實意のある女であつた。然し嫂《あによめ》は、直接生活の難關に當らない丈《だけ》、それ丈《だけ》兄よりも近付き易《やす》いのだと考へてゐた。

　代助は平生から、此位に世の中を打遣つてゐた。だから、非常な神經質であるにも拘はらず、不安の念に襲はれる事は少なかつた。さうして、自分でもそれを自覺してゐた。夫《それ》が、何う云ふ具合か急に搖《うご》き出した。代助は之を生理上の變化から起《おこ》るのだらうと察した。そこである人が北海道から採《と》つて來たと云つて呉れた鈴蘭の束を解いて、それを悉《こと／”＼》く水の中に浸《ひた》して、其下に寐たのである。

　一時間の後《のち》、代助は大きな黒い眼を開《あ》いた。其眼は、しばらくの間一つ所に留《とゞ》まつて全く動かなかつた。手も足も寐てゐた時の姿勢を少しも崩さずに、丸《まる》で死人のそれの樣であつた。其時一匹の黒い蟻が、ネルの襟を傳はつて、代助の咽喉《のど》に落ちた。代助はすぐ右の手を動かして咽喉を抑へた。さうして、額に皺を寄せて、指の股に挾んだ小さな動物を、鼻の上迄持つて來て眺めた。其時蟻はもう死んでゐた。代助は人指指《ひとさしゆび》の先に着いた黒いものを、親指の爪で向《むかふ》へ彈《はじ》いた。さうして起き上がつた。

　膝の周圍《まはり》に、まだ三四匹這つてゐたのを、薄い象牙の紙小刀《ペーパーナイフ》で打ち殺した。それから手を叩いて人を呼んだ。

　「御目醒《おめざめ》ですか」と云つて、門野が出て來た。

　「御茶でも入れて來ませうか」と聞いた。代助は、はだかつた胸を掻き合せながら、

　「君、僕の寐てゐたうちに、誰か來やしなかつたかね」と、靜かな調子で尋ねた。

　「えゝ、御出《おいで》でした。平岡の奧さんが。よく御存じですな」と門野は平氣に答へた。

　「何故《なぜ》起さなかつたんだ」

　「餘《あん》まり能く御休でしたからな」

　「だつて御客なら仕方がないぢやないか」

　代助の語勢は少し強くなつた。

　「ですがな。平岡の奧さんの方で、起さない方が好いつて、仰しやつたもんですからな」

　「それで、奧さんは歸つて仕舞つたのか」

　「なに歸つて仕舞つたと云ふ譯でもないんです。一寸神樂坂に買物があるから、それを濟まして又來るからつて、云はれるもんですからな」

　「ぢや又來るんだね」

　「さうです。實は御目覺になる迄待つてゐやうかつて、此座敷迄｜上《あが》つて來られたんですが、先生の顏を見て、あんまり善く寐てゐるもんだから、こいつは、容易に起きさうもないと思つたんでせう」

　「また出て行つたのかい」

　「えゝ、まあ左《さ》うです」

　代助は笑ひながら、兩手で寐起の顏を撫でた。さうして風呂場へ顏を洗ひに行つた。頭を濡らして、椽側《えんがは》迄歸つて來て、庭を眺めてゐると、前よりは氣分が大分《だいぶ》晴々《せい／＼》した。曇つた空を燕が二羽飛んでゐる樣が大いに愉快に見えた。

　代助は此前平岡の訪問を受けてから、心待に後から三千代の來るのを待つてゐた。けれども、平岡の言葉は遂に事實として現れて來なかつた。特別の事情があつて、三千代がわざと來ないのか、又は平岡が始めから御世辭を使つたのか、疑問であるが、それがため、代助は心の何處かに空虚を感じてゐた。然し彼は此空虚な感じを、一つの經驗として日常生活中に見出《みいだ》した迄で、其原因をどうするの、斯うするのと云ふ氣はあまりなかつた。此經驗自身の奧を覗き込むと、それ以上に暗い影がちらついてゐる樣に思つたからである。

　それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けてゐた。散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。櫻の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を此方《こちら》から向《むかふ》へ渡り、向《むかふ》から又｜此方《こちら》へ渡り返して、長い堤《どて》を縫ふ樣に歩いた。が其櫻はとくに散つて仕舞つて、今は緑陰の時節になつた。代助は時々橋の眞中に立つて、欄干に頬杖を突いて、茂る葉の中を、眞直に通つてゐる、水の光を眺め盡して見る。それから其光の細くなつた先の方に、高く聳える目白臺《めじろだい》の森を見上げて見る。けれども橋を向《むかふ》へ渡つて、小石川の坂を上《のぼ》る事はやめにして歸る樣になつた。ある時彼は大曲《おほまがり》の所で、電車を下りる平岡の影を半町程手前から認めた。彼は慥《たしか》に左樣《さう》に違ないと思つた。さうして、すぐ揚場《あげば》の方へ引き返した。

　彼は平岡の安否を氣にかけてゐた。まだ坐食《ゐぐひ》の不安な境遇に居るに違ないとは思ふけれども、或は何《ど》の方面かへ、生活の行路を切り開く手掛りが出來たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを確める爲に、平岡の後《あと》を追ふ氣にはなれなかつた。彼は平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を豫想する樣になつた。と云つて、たゞ三千代の爲にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を惡《にく》んでもゐなかつた。平岡の爲にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。

　斯んな風に、代助は空虚なるわが心の一角を抱《いだ》いて今日《こんにち》に至つた。いま先方《さきがた》門野を呼んで括《くゝ》り枕を取り寄せて、午寐《ひるね》を貪《むさ》ぼつた時は、あまりに?剌たる宇宙の刺激に堪えなくなつた頭を、出來るならば、蒼い色の付いた、深い水の中に沈めたい位に思つた。それ程彼は命を鋭く感じ過ぎた。從つて熱い頭を枕へ着けた時は、平岡も三千代も、彼に取つて殆んど存在してゐなかつた。彼は幸にして涼しい心持に寐た。けれども其穩やかな眠のうちに、誰かすうと來て、又すうと出て行つた樣な心持がした。眼を醒まして起き上がつても其感じがまだ殘つてゐて、頭から拭《ぬぐ》ひ去る事が出來なかつた。それで門野を呼んで、寐てゐる間に誰か來はしないかと聞いたのである。

　代助は兩手を額に當てゝ、高い空を面白さうに切つて廻る燕の連動を椽側《えんがは》から眺めてゐたが、やがて、それが眼《め》ま苦《ぐる》しくなつたので、室《へや》の中に這入つた。けれども、三千代が又訪ねて來ると云ふ目前の豫期が、既に氣分の平調を冒してゐるので、思索も讀書も殆んど手に着かなかつた。代助は仕舞に本棚の中から、大きな畫帖を出して來て、膝の上に廣げて、繰り始めた。けれども、それも、只指の先で順々に開《あ》けて行く丈《だけ》であつた。一つ畫《ゑ》を半分《はんぶん》とは味はつてゐられなかつた。やがてブランギンの所へ來た。代助は平生から此裝飾畫家に多大の趣味を有《も》つてゐた。彼の眼は常の如く輝《かゞやき》を帶びて、一度《ひとたび》は其上に落ちた。それは何處かの港の圖であつた。背景に船と檣《ほばしら》と帆を大きく描《か》いて、其餘つた所に、際立《きはだ》つて花やかな空の雲と、蒼黒い水の色をあらはした前に、裸體の勞働者が四五人ゐた。代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩から脊へかけて、肉塊と肉塊が落ち合つて、其間に渦の樣な谷を作つてゐる模樣を見て、其所にしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、畫帖を開《あ》けた儘、眼を放して耳を立てた。すると勝手の方で婆さんの聲がした。それから牛乳配達が空壜《あきびん》を鳴らして急ぎ足に出て行つた。宅《うち》のうちが靜かなので、鋭どい代助の聽神經には善く應《こた》へた。

　代助はぼんやり壁を見詰めてゐた。門野をもう一返呼んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか何うか尋ねやうと思つたが、あまり愚《ぐ》だから憚《はゞ》かつた。それ許《ばかり》ではない、人の細君が訪ねて來るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へた。又それ程待ち受ける位なら、此方《こちら》から何時《いつ》でも行つて話をすべきであると考へた。此矛盾の兩面を双對に見た時、代助は急に自己の没論理《ぼつろんり》に恥ぢざるを得なかつた。彼の腰は半《なか》ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横《よこた》はる色々の因數《フアクター》を自分で善く承知してゐた。さうして、今の自分に取つては、この没論理の?態が、唯一《ゆゐいつ》の事實であるから仕方ないと思つた。且、此事實と衝突する論理は、自己に無關係な命題を繋ぎ合はして出來上つた、自己の本體を蔑視する、形式に過ぎないと思つた。さう思つて又椅子へ腰を卸した。

　それから三千代の來る迄、代助はどんな風に時を過したか、殆んど知らなかつた。表に女の聲がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。彼は論理に於て尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であつた。彼が近來怒れなくなつたのは、全く頭の御蔭で、腹を立てる程自分を馬鹿にすることを、理智が許さなくなつたからである。が其他の點に於ては、尋常以上に情緒《じやうしよ》の支配を受けるべく餘儀なくされてゐた。取次に出た門野が足音を立てゝ、書齋の入口にあらはれた時、血色のいゝ代助の頬は微《かす》かに光澤《つや》を失つてゐた。門野は、

　「此方《こつち》にしますか」と甚だ簡單に代助の意向を確めた。座敷へ案内するか、書齋で逢ふかと聞くのが面倒だから、斯う詰めて仕舞つたのである。代助はうんと云つて、入口に返事を待つてゐた門野を追ひ拂ふ樣に、自分で立つて行つて、椽側《えんがは》へ首を出した。三千代は椽側《えんがは》と玄關の繼目《つぎめ》の所に、此方《こちら》を向いてためらつて居た。

　三千代の顏は此前逢つた時よりは寧ろ蒼白《あをしろ》かつた。代助に眼と顎《あご》で招かれて書齋の入口へ近寄つた時、代助は三千代の息を喘《はず》まして居ることに氣が付いた。

　「何うかしましたか」と聞いた。

　三千代は何にも答へずに室《へや》の中に這入つて來た。セルの單衣《ひとへ》の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本｜許《ばかり》提《さ》げてゐた。其百合をいきなり洋卓《テーブル》の上に投げる樣に置いて、其横にある椅子へ腰を卸した。さうして、結《ゆ》つた許《ばかり》の銀杏返《いてふがへし》を、構はず、椅子の脊に押し付けて、

　「あゝ苦しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑つた。代助は手を叩いて水を取り寄せ樣《やう》とした。三千代は黙つて洋卓《テーブル》の上を指《さ》した。其所には代助の食後の漱《うがひ》をする硝子《がらす》の洋盃《コツプ》があつた。中に水が二口《ふたくち》許《ばかり》殘つて居た。

　「寄麗なんでせう」と三千代が聞いた。

　「此奴《こいつ》は先刻《さつき》僕が飲んだんだから」と云つて、洋盃《コツプ》を取り上げたが、躊躇《ちうちよ》した。代助の坐つてゐる所から、水を棄てやうとすると、障子の外に硝子戸《がらすど》が一枚邪魔をしてゐる。門野は毎朝｜椽側《えんがは》の硝子戸を一二枚｜宛《づゝ》開けないで、元の通りに放《はふ》つて置く癖があつた。代助は席を立つて、椽《えん》へ出て、水を庭へ空《あ》けながら、門野を呼んだ。今ゐた門野は何處へ行つたか、容易に返事をしなかつた。代助は少しまごついて、又三千代の所へ歸つて來て、

　「今すぐ持つて來て上げる」と云ひながら、折角｜空《あ》けた洋盃《コツプ》を其儘｜洋卓《テーブル》の上に置いたなり、勝手の方へ出て行つた。茶の間を通ると、門野は無細工《ぶさいく》な手をして錫《すゞ》の茶壺《ちやつぼ》から玉露《ぎよくろ》を撮《つま》み出してゐた。代助の姿を見て、

　「先生、今｜直《ぢき》です」と言譯をした。

　「茶は後でも好い。水が要るんだ」と云つて、代助は自分で臺所へ出た。

　「はあ、左樣《さう》ですか。上がるんですか」と茶壺を放《はふ》り出して門野も付いて來た。二人で洋盃《コツプ》を探したが一寸見付からなかつた。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買ひに行つたといふ答であつた。

　「菓子がなければ、早く買つて置けば可《い》いのに」と代助は水道の栓《せん》を捩《ねぢ》つて湯呑に水を溢《あふ》らせながら云つた。

　「つい、小母《をば》さんに、御客さんの來る事を云つて置かなかつたものですからな」と門野は氣の毒さうに頭を掻いた。

　「ぢや、君が菓子を買ひに行けば可《い》いのに」と代助は勝手を出ながら、門野に當つた。門野はそれでも、まだ、返事をした。

　「なに菓子の外にも、まだ色々買物があるつて云ふもんですからな。足は惡し天気は好くないし、廢《よ》せば好いんですのに」

　代助は振り向きもせず、書齋へ戻つた。敷居を跨《また》いで、中へ這入るや否や三千代の顏を見ると、三千代は先刻《きつき》代助の置いて行つた洋盃《コツプ》を膝の上に兩手で持つてゐた。其｜洋盃《コツプ》の中には、代助が庭へ空《あ》けたと同じ位に水が這入つてゐた。代助は湯呑を持つた儘、茫然として、三千代の前に立つた。

　「何うしたんです」と聞いた。三千代は例《いつも》の通り落ち付いた調子で、

　「難有《ありがた》う。もう澤山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だつたから」と答へて、鈴蘭の漬《つ》けてある鉢を顧《かへり》みた。代助は此大鉢の中に水を八分目程張つて置いた。妻楊枝位な細い莖の薄青い色が、水の中に揃つてゐる間から、陶器《やきもの》の模樣が仄《ほの》かに浮いて見えた。

　「何故《なぜ》あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。

　「だつて毒ぢやないでせう」と三千代は手に持つた洋盃《コツプ》を代助の前へ出して、透かして見せた。

　「毒でないつたつて、もし二日も三日も經《た》つた水だつたら何うするんです」

　「いえ、先刻《さつき》來た時、あの傍《そば》迄《まで》顔を持つて行つて嗅いで見たの。其時、たつた今其鉢へ水を入れて、桶《をけ》から移した許《ばかり》だつて、あの方《かた》が云つたんですもの。大丈夫だわ。好い香《にほひ》ね」

　代助は黙つて椅子へ腰を卸した。果《はた》して詩の爲に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促《うな》がされて飲んだのか、追窮する勇氣も出なかつた。よし前者とした所で、詩を衒《てら》つて、小説の眞似なぞをした受賣《うけうり》の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、

　「氣分はもう好くなりましたか」と聞いた。

　三千代の頬に漸やく色が出て來た。袂から手帛《ハンケチ》を取り出して、口の邊《あたり》を拭きながら話を始めた。――大抵は傳通院前から電車へ乘つて本郷まで買物に出るんだが、人に聞いて見ると、本郷の方は神樂坂に比べて、何うしても一割か二割物が高いと云ふので、此間から一二度｜此方《こつち》の方へ出て來て見た。此前も寄る筈であつたが、つい遅くなつたので急いで歸つた。今日は其｜積《つもり》で早く宅《うち》を出た。が、御｜息《やす》み中だつたので、又通り迄行つて買物を濟まして歸り掛けに寄る事にした。所が天氣模樣が惡くなつて、藁店《わらだな》を上がり掛けるとぽつ／＼降り出した。傘《かさ》を持つて來なかつたので、濡れまいと思つて、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身體に障つて、息が苦しくなつて困つた。――

　「けれども、慣《な》れつこに爲《な》つてるんだから、驚ろきやしません」と云つて、代助を見て淋《さみ》しい笑ひ方をした。

　「心臓の方は、まだ悉皆《すつかり》善くないんですか」と代助は気の毒さうな顏で尋ねた。

　「悉皆《すつかり》善くなるなんて、生涯駄目ですわ」

　意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでゐなかつた。繊《ほそ》い指を反《そら》して穿《は》めてゐる指環を見た。それから、手帛《ハンケチ》を丸めて、又袂へ入れた。代助は眼を俯せた女の額の、髪に連なる所を眺めてゐた。

　すると、三千代は急に思ひ出した樣に、此間の小切手の禮を述べ出した。其時何だか少し頬を赤くした樣に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善く分つた。彼はそれを、貸借に關した羞恥の血潮とのみ解釋した。そこで話をすぐ他所《よそ》へ外《そら》した。

　先刻《さつき》三千代が提げて這入つて來た百合の花が、依然として洋卓《テーブル》の上に載つてゐる。甘たるい強い香《か》が二人の間に立ちつゝあつた。代助は此重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪へなかつた。けれども無斷で、取り除《の》ける程、三千代に對して思ひ切つた振舞《ふるまひ》が出來なかつた。

　「此花は何うしたんです。買つて來たんですか」と聞いた。三千代は黙つて首肯《うなづ》いた。さうして、

　「好い香《にほひ》でせう」と云つて、自分の鼻を、瓣《はなびら》の傍《そば》迄《まで》持つて來て、ふんと嗅いで見せた。代助は思はず足を眞直に踏ん張つて、身を後《うしろ》の方へ反《そ》らした。

　「さう傍《そば》で嗅いぢや不可《いけ》ない」

　「あら何故《なぜ》」

　「何故《なぜ》つて理由もないんだが、不可《いけ》ない」

　代助は少し眉をひそめた。三千代は顏をもとの位地に戻した。

　「貴方、此花、御嫌《おきらひ》なの？」

　代助は椅子の足を斜に立てゝ、身體を後《うしろ》へ伸《のば》した儘、答へをせずに、微笑して見せた。

　「ぢや、買つて來なくつても好かつたのに。詰らないわ、回《まは》り路をして。御負《おまけ》に雨に降られ損《そく》なつて、息を切らして」

　雨は本當に降つて來た。雨滴《あまだれ》が樋《とひ》に集まつて、流れる音がざあと聞えた。代助は椅子から立ち上がつた。眼の前にある百合の束を取り上げて、根元を括《くゝ》つた濡藁《ぬれわら》を?《むし》り切つた。

　「僕に呉れたのか。そんなら早く活《い》けやう」と云ひながら、すぐ先刻《きつき》の大鉢の中に投げ込んだ。莖が長すぎるので、根が水を跳ねて、飛び出しさうになる。代助は滴《したゝ》る莖を又鉢から拔いた。さうして洋卓《テーブル》の引出から西洋鋏を出して、ぷつり／＼と半分程の長さに剪《き》り詰めた。さうして、大きな花を、鈴蘭の簇《むら》がる上に浮かした。

　「さあ是で好い」と代助は鋏を洋卓《テーブル》の上に置いた。三千代は此不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然、

　「あなた、何時《いつ》から此花が御嫌《おきらひ》になつたの」と妙な質問をかけた。

　昔し三千代の兄がまだ生きてゐた時分、ある日何かのはづみに、長い百合を買つて、代助が谷中の家を訪ねた事があつた。其時彼は三千代に危《あや》しげな花瓶《はないけ》の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて來た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直つて眺めさした事があつた。三千代はそれを覺えてゐたのである。

　「貴方だつて、鼻を着けて嗅いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた樣にも思つて、仕方なしに苦笑《くせう》した。

　そのうち雨は益《ます／＼》深くなつた。家を包んで遠い音が聽えた。門野が出て來て、少し寒い樣ですな、硝子戸《がらすど》を閉めませうかと聞いた。硝子戸《がらすど》を引く間、二人は顏を揃えて庭の方を見てゐた。青い木の葉が悉《こと／”＼》く濡れて、靜かな濕《しめ》り氣が、硝子越《がらすごし》に代助の頭に吹き込んで來た。世の中の浮いてゐるものは殘らず大地の上に落ち付いた樣に見えた。代助は久し振りで吾に返つた心持がした。

　「好《い》い雨ですね」と云つた。

　「些《ちつ》とも好《よ》かないわ、私《わたし》、草履を穿《は》いて來たんですもの」

　三千代は寧ろ恨めしさうに樋《とひ》から洩る雨點《あまだれ》を眺めた。

　「歸りには車を云ひ付けて上げるから可《い》いでせう。緩《ゆつく》りなさい」

　三千代はあまり緩《ゆつく》り出來さうな樣子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、

　「貴方も相變らず呑氣《のんき》な事を仰しやるのね」と窘《たしな》めた。けれども其眼元には笑の影が泛《うか》んでゐた。

　今迄三千代の陰に隱れてぼんやりしてゐた平岡の顏が、此時明らかに代助の心の瞳に映つた。代助は急に薄暗がりから物に襲はれた樣な氣がした。三千代は矢張り、離れ難い黒い影を引き摺《ず》つて歩いてゐる女であつた。

　「平岡君は何うしました」とわざと何氣なく聞いた。すると三千代の口元が心持締つて見えた。

　「相變らずですわ」

　「まだ何《なん》にも見付《めつか》らないんですか」

　「その方はまあ安心なの。來月から新聞の方が大抵出來るらしいんです」

　「そりや好かつた。些《ちつ》とも知らなかつた。そんなら當分｜夫《それ》で好いぢやありませんか」

　「えゝ、まあ難有《ありがた》いわ」と三千代は低い聲で眞面目に云つた。代助は、其時三千代を大變可愛く感じた。引續いて、

　「彼方《あつち》の方は差當り責められる樣な事もないんですか」と聞いた。

　「彼方《あつち》の方つて――」と少し逡巡《ためら》つてゐた三千代は、急に顔を赧《あか》らめた。

　「私《わたし》、實は今日｜夫《それ》で御詫に上つたのよ」と云ひながら、一度｜俯向《うつむ》いた顏を又上げた。

　代助は少しでも氣不味《きまづ》い樣子を見せて、此上にも、女の優しい血潮を動かすに堪へなかつた。同時に、わざと向ふの意を迎へる樣な言葉を掛けて、相手を殊更《ことさら》に氣の毒がらせる結果を避けた。それで靜かに三千代の云ふ所を聽いた。

　先達《せんだつ》ての二百圓は、代助から受取るとすぐ借錢の方ヘ回す筈であつたが、新らしく家《うち》を持つた爲、色々｜入費《にふひ》が掛つたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か辨じたのが始りであつた。あとはと思つてゐると、今度は毎日の活計《くらし》に追はれ出した。自分ながら好い心持はしなかつたけれども、仕方なしに困るとは使ひ、困るとは使ひして、とう／＼荒�掾sあらまし》亡《な》くして仕舞つた。尤もさうでもしなければ、夫婦は今日《こんにち》迄《まで》斯うして暮らしては行けなかつたのである。今から考へて見ると、一層《いつそ》の事無ければ無いなりに、何うか斯うか工面も付いたかも知れないが、なまじい、手元に有つたものだから、苦し紛《まぎ》れに、急場の間に合はして仕舞つたので、肝心の證書を入れた借錢の方は、いまだに其儘にしてある。是は寧ろ平岡の惡いのではない。全く自分の過《あやまち》である。

　「私《わたし》、本當に濟まない事をしたと思つて、後悔してゐるのよ。けれども拜借するときは、決して貴方を瞞《だま》して嘘を吐《つ》く積《つもり》ぢやなかつたんだから、堪忍して頂戴」と三千代は甚だ苦しさうに言譯をした。

　「何うせ貴方に上げたんだから、何う使つたつて、誰も何とも云ふ譯はないでせう。役にさへ立てば夫《それ》で好いぢやありませんか」と代助は慰めた。さうして貴方といふ字をことさらに重く且つ緩《ゆる》く響かせた。三千代はたゞ、

　「私《わたし》、夫《それ》で漸く安心したわ」と云つた丈《だけ》であつた。

　雨が頻《しきり》なので、歸るときには約束通り車を雇つた。寒いので、セルの上へ男の羽織を着せやうとしたら、三千代は笑つて着なかつた。

　

　　　　　十一

　

　何時《いつ》の間《ま》にか、人が絽《ろ》の羽織を着て歩く樣になつた。二三曰、宅《うち》で調物《しらべもの》をして庭先より外に眺めなかつた代助は、冬帽を被つて表へ出て見て、急に暑さを感じた。自分もセルを脱がなければならないと思つて、五六町歩くうちに、袷《あはせ》を着た人に二人出逢つた。左樣《さう》かと思ふと新らしい氷屋で書生が洋盃《コツプ》を手にして、冷たさうなものを飲んで居た。代助は其時誠太郎を思ひ出した。

　近頃代助は前よりも誠太郎が好きになつた。外の人間と話してゐると、人間の皮と話す樣で齒痒《はがゆ》くつてならなかつた。けれども、顧みて自分を見ると、自分は人間中で、尤も相手を齒痒《はがゆ》がらせる樣に拵へられてゐた。是も長年生存競爭の因果に曝《さら》された罰《ばち》かと思ふと、餘り難有《ありがた》い心持はしなかつた。

　此頃誠太郎はしきりに玉乘りの稽古をしたがつてゐるが、それは、全く此間淺草の奧山へ一所に連れて行つた結果である。あの一圖《いちづ》な所はよく、嫂《あによめ》の氣性を受け繼いでゐる。然し兄の子｜丈《だけ》あつて、一圖《いちづ》なうちに、何處か逼《せま》らない鷹揚な氣象がある。誠太郎の相手をしてゐると、向ふの魂が遠慮なく此方《こつち》へ流れ込んで來るから愉快である。實際代助は、畫夜の区別なく、武裝を解いた事のない精神に、包圍されるのが苦痛であつた。

　誠太郎は此春から中學校へ行き出した。すると急に脊丈《せたけ》が延びて來る樣に思はれた。もう一二年すると聲が變る。それから先｜何《ど》んな徑路を取つて、生長するか分らないが、到底人間として、生存する爲には、人間から嫌はれると云ふ運命に到着するに違ない。其時、彼は穩やかに人の目に着かない服裝《なり》をして、乞食の如く、何物をか求めつゝ、人の市《いち》をうろついて歩くだらう。

　代助は堀端《ほりばた》へ出た。此間迄｜向《むかふ》の土手にむら躑躅《つゝじ》が、團々《だん／＼》と紅白《こうはく》の模樣を青い中《なか》に印してゐたのが、丸《まる》で跡形もなくなつて、のべつに草が生い茂つてゐる高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並《なら》んで、何處迄もつゞいてゐる。空は奇麗に晴れた。代助は電車に乘つて、宅《うち》へ行つて、嫂《あによめ》に調戯《からか》つて、誠太郎と遊ばうと思つたが、急に厭になつて、此松を見ながら、草臥《くたび》れる所迄堀端を傳《つた》つて行く氣になつた。

　新見付へ來ると、向《むかふ》から來たり、此方《こつち》から行つたりする電車が苦になり出したので、掘を横切つて、招魂社《せうこんしや》の横から番町へ出た。そこをぐる／＼回つて歩いてゐるうちに、かく目的なしに歩いてゐる事が、不意に馬鹿らしく思はれた。目的があつて歩くものは賤民《せんみん》だと、彼は平生から信じてゐたのであるけれども、此場合に限つて、其賤民の方が偉い樣な氣がした。全たく、又アンニユイに襲はれたと悟つて、歸りだした。神樂坂へかゝると、ある商店で大きな蓄音器を吹《ふ》かしてゐた。其音が甚しく金屬性の刺激を帶びてゐて、大いに代助の頭に應《こた》へた。

　家《いへ》の門を這入ると、今度は門野が、主人の留守を幸ひと、大きな聲で琵琶歌《びはうた》をうたつてゐた。夫《それ》でも代助の足音を聞いて、ぴたりと已《や》めた。

　「いや、御早うがしたな」と云つて玄關へ出て來た。代助は何にも答へずに、帽子を其所へ掛けた儘、椽側《えんがは》から書齋へ這入つた。さうして、わざ／＼障子を締め切つた。つゞいて湯呑に茶を注《つ》いで持つて來た門野が、

　「締めときますか。暑かありませんか」と聞いた。代助は袂から手帛《ハンケチ》を出して額を拭いてゐたが、矢つ張り、

　「締めて置いてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子を締めて出て行つた。代助は暗くした室《へや》のなかに、十分｜許《ばかり》ぽかんとしてゐた。

　彼は人の羨やむ程｜光澤《つや》の好い皮膚と、勞働者に見出《みいだ》しがたい樣に柔かな筋肉を有《も》つた男であつた。彼は生れて以來、まだ大病と名のつくものを經驗しなかつた位、健康に於て幸福を享けてゐた。彼はこれでこそ、生甲斐《いきがひ》があると信じてゐたのだから、彼の健康は、彼に取つて、他人の倍以上に價値を有《も》つてゐた。彼の頭は、彼の肉體と同じく確であつた。たゞ始終論理に苦しめられてゐたのは事實である。それから時々、頭の中心が、大弓《だいきう》の的《まと》の樣に、二重もしくは三重にかさなる樣に感ずる事があつた。ことに、今日《けふ》は朝から左樣《そん》な心持がした。

　代助が黙然として、自己は何の爲に此世の中に生れて來たかを考へるのは斯う云ふ時であつた。彼は今迄何遍も此大問題を捕《とら》へて、彼の眼前に据ゑ付けて見た。其動機は、單に哲學上の好奇心から來た事もあるし、又世間の現象が、餘りに複雜な色彩を以て、彼の頭を染め付けやうと焦《あせ》るから來る事もあるし、又最後には今日《こんにち》の如くアンニユイの結果として來る事もあるが、其｜都度《つど》彼は同じ結論に到着した。然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定と異《こと》ならなかつた。彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかつた。之と反對に、生れた人間に、始めてある目的が出來て來るのであつた。最初から客観的にある目的を拵《こし》らへて、それを人間に附着するのは、其人間の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから人間の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。けれども、如何《いか》な本人でも、之を隨意に作る事は出來ない。自己存在の目的は、自己存在の經過が、既にこれを天下に向つて發表したと同樣だからである。

　此根本義から出立した代助は、自己本來の活動を、自己本來の目的としてゐた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩いたり、考へたりするのは、歩行と思考の墮落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の墮落になる。從つて自己全體の活動を擧げて、これを方便《はうべん》の具《ぐ》に使用するものは、自《みづか》ら自己存在の目的を破壞したも同然である。

　だから、代助は今日《けふ》迄、自分の腦裏に願望《ぐわんまう》、嗜欲《しよく》が起るたび毎に、是等の願望《ぐわんまう》嗜欲《しよく》を逐行するのを自己の目的として存在してゐた。二個の相容れざる願望嗜欲が胸に闘ふ場合も同じ事であつた。たゞ矛盾から出る一目的の消耗《せうかう》と解釋してゐた。これを煎じ詰めると、彼は普通に所謂《いはゆる》無目的な行爲を目的として活動してゐたのである。さうして、他《た》を僞らざる點に於てそれを尤も道�ｺ的なものと心得てゐた。

　此主義を出來る丈《だけ》遂行する彼は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の爲に、こんな事をしてゐるかと考へ出す事がある。彼が番町を散歩しながら、何故《なぜ》散歩しつゝあるかと疑つたのは正に是である。

　其時彼は自分ながら、自分の活力に充實してゐない事に氣がつく。餓えたる行動は、一氣に遂行する勇氣と、興味に乏しいから、自《みづか》ら其行動の意義を中途で疑ふ樣になる。彼はこれをアンニユイと名《なづ》けてゐた。アンニユイに罹《かゝ》ると、彼は論理の迷亂を引き起すものと信じてゐた。彼の行爲の中途に於て、何の爲と云ふ、冠履?倒《くわんりてんたう》の疑を起させるのは、アンニユイに外ならなかつたからである。

　彼は立て切つた室《へや》の中で、一二度頭を抑えて振り動かして見た。彼は昔から今日《こんにち》迄の思索家の、?《しば／＼》繰り返した無意義な疑義を、又腦裏に拈定《ねんてい》するに堪えなかつた。その姿のちらりと眼前に起つた時、またかと云ふ具合に、すぐ切り棄てゝ仕舞つた。同時に彼は自己の生活力の不足を劇しく感じた。從つて行爲其物を目的として、圓滿に遂行する興味も有《も》たなかつた。彼はたゞ一人｜荒野《くわうや》の中《うち》に立つた。茫然としてゐた。

　彼は高尚な生活欲の滿足を冀《こひねが》ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の滿足を買はうとする男であつた。さうして、ある點へ來ると、此二つのものが火花を散らして切り結ぶ關門があると豫想してゐた。それで生活欲を低い程度に留《と》めて我慢してゐた。彼の室《へや》は普通の日本間であつた。是と云ふ程の大した裝飾もなかつた。彼に云はせると、額さへ氣の利いたものは掛けてなかつた。色彩として眼を惹《ひ》く程に美しいのは、本棚に並《なら》べてある洋書に集められたと云ふ位であつた。彼は今此書物の中に、茫然として坐つた。良《やゝ》あつて、これほど寐入つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周圍の物を何うかしなければならぬと、思ひながら、室《へや》の中をぐる／＼見廻した。それから、又ぽかんとして壁を眺めた。が、最後に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして口の内で云つた。

　「矢つ張り、三千代さんに逢はなくちや不可《いか》ん」

　彼は足の進まない方角へ散歩に出たのを悔ひた。もう一遍出直して、平岡の許《もと》迄《まで》行かうかと思つてゐる所へ、森川町から寺尾が來た。新らしい麥藁帽を被《かぶ》つて、閑靜な薄い羽織を着て、暑い／＼と云つて赤い顔を拭いた。

　「何だつて、今時分來たんだ」と代助は愛想《あいそ》もなく云ひ放つた。彼は寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際してゐたのである。

　「今時分が丁度訪問に好い刻限だらう。君、又晝寐をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱《だじやく》で不可《いか》ん。君は一體何の爲に生れて來たのだつたかね」と云つて、寺尾は麥藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送つた。時候はまだ夫《それ》程《ほど》暑くないのだから、此所作は頗る愛嬌を添へた。

　「何の爲に生れて來《き》やうと、餘計な御世話だ。夫《それ》より君こそ何しに來たんだ。又『此所《こゝ》十日《とをか》許《ばかり》の間《あひだ》』ぢやないか、金の相談ならもう御免だよ」と代助は遠慮なく先へ斷つた。

　「君も隨分禮義を知らない男だね」と寺尾は已《やむ》を得ず答へた。けれども別段感情を害した樣子も見えなかつた。實を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無禮とは思へなかつたのである。代助は黙つて、寺尾の顔を見てゐた。それは、空《むな》しい壁を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に與へなかつた。

　寺尾は懷から汚ない假綴《かりとぢ》の書物を出した。

　「是を譯さなけりやならないんだ」と云つた。代助は依然として黙つてゐた。

　「食ふに困らないと思つて、さう無精《ぶしやう》な顔をしなくつても好からう。もう少し判然《はんぜん》として呉れ。此方《こつち》は生死の戰《たゝかひ》だ」と云つて、寺尾は小形の本を、とん／＼と椅子の角で二返｜敲《たゝ》いた。

　「何時《いつ》迄に」

　寺尾は、書物の頁《ページ》をさら／＼と繰つて見せたが、斷然たる調子で、

　「二週間」と答へた後《あと》で、「何うでも斯うでも、夫《それ》迄《まで》に片付けなけりや、食へないんだから仕方がない」と説明した。

　「偉い勢だね」と代助は冷かした。

　「だから、本郷からわざ／＼遣つて來たんだ。なに、金は借りなくても好い。――貸せば猶《なほ》好いが――夫《それ》より少し分らない所があるから、相談しやうと思つて」

　「面倒だな。僕は今日は頭が惡くつて、そんな事は遣つてゐられないよ。好い加減に譯して置けば構はないぢやないか。どうせ原稿料は頁《ページ》で呉れるんだらう」

　「なんぼ、僕だつて、さう無責任な翻譯は出來ないだらうぢやないか。誤譯でも指摘されると後《あと》から面倒だあね」

　「仕樣がないな」と云つて、代助は矢つ張り横着な態度を維持してゐた。すると、寺尾は、

　「おい」と云つた。「冗談ぢやない、君の樣に、のらくら遊んでる人は、たまには其位な事でも、しなくつちや退屈で仕方がないだらう。なに、僕だつて、本の善く讀める人の所へ行く氣なら、わざ／＼君の所迄來やしない。けれども、左《そ》んな人は君と違つて、みんな忙《いそが》しいんだからな」と少しも辟易した樣子を見せなかつた。代助は喧嘩をするか、相談に應ずるか何方《どつち》かだと覺悟を極めた。彼の性質として、斯う云ふ相手を輕蔑する事は出來るが、怒り付ける氣は出せなかつた。

　「ぢや成るべく少しに仕樣《しやう》ぢやないか」と斷つて置いて、符號《マーク》の附けてある所｜丈《だけ》を見た。代助は其書物の梗概《かうがい》さへ聞く勇氣がなかつた。相談を受けた部分にも曖昧な所は澤山あつた。寺尾は、やがて、

　「やあ、難有《ありがた》う」と云つて本を伏せた。

　「分らない所は何《どう》する」と代助が聞いた。

　「なに何《どう》かする。――誰に聞いたつて、さう善く分りやしまい。第一時間がないから已《やむ》を得ない」と、寺尾は、誤譯よりも生活費の方が大事件である如くに天《てん》から極《き》めてゐた。

　相談が濟むと、寺尾は例によつて、文學談を持ち出した。不思議な事に、さうなると、自己の翻譯とは違つて、いつもの通り非常に熱心になつた。代助は現今の文學者の公《おほや》けにする創作のうちにも、寺尾の翻譯と同じ意味のものが澤山あるだらうと考へて、寺尾の矛盾を可笑《をか》しく思つた。けれども面倒だから、口へは出さなかつた。

　寺尾の御蔭で代助は其日とう／＼平岡へ行きはぐれて仕舞つた。

　晩食《ばんめし》の時、丸善から小包が屆いた。箸を措《お》いて開けて見ると、餘程前に外國へ注文した二三の新刊書であつた。代助はそれを腋《わき》の下に抱《かゝ》へ込んで、書齋へ歸つた。一册づゝ順々に取り上げて、暗いながら二三｜頁《ページ》、捲《はぐ》る樣に眼を通したが何處も彼の注意を惹《ひ》く樣な所はなかつた。最後の一册に至つては、其名前さへ既に忘れてゐた。何《いづ》れ其中讀む事にしやうと云ふ考で、一所に纒めた儘、立つて、本棚の上に重ねて置いた。椽側《えんがは》から外を窺うと、奇麗な空が、高い色を失ひかけて、隣の梧桐《ごとう》の一際《ひときは》濃く見える上に、薄い月が出てゐた。

　そこへ門野が大きな洋燈《ランプ》を持つて這入つて來た。それには絹縮《きぬちゞみ》の樣に、竪に溝の入つた青い笠が掛けてあつた。門野はそれを洋卓《テーブル》の上に置いて、又｜椽側《えんがは》へ出たが、出掛《でがけ》に、

　「もう、そろ／＼螢《ほたる》が出る時分ですな」と云つた。代助は可笑《をかし》な顔をして、

　「まだ出やしまい」と答へた。すると門野は例の如く、

　「左樣《さう》でしやうか」と云ふ返事をしたが、すぐ眞面目な調子で、「螢てえものは、昔は大分《だいぶ》流行《はや》つたもんだが、近來は餘り文士方が騷がない樣になりましたな。何う云ふもんでせう。螢だの烏だのつて、此頃ぢやついぞ見た事がない位なもんだ」と云つた。

　「左樣《さう》さ。何う云ふ譯だらう」と代助も空つとぼけて、眞面目な挨拶をした。すると門野は、

　「矢つ張り、電氣燈に壓倒されて、段々退却するんでせう」と云ひ終つて、自《みづ》から、えへゝゝと、洒落《しやれ》の結末をつけて、書生部屋へ歸つて行つた。代助もつゞいて玄關迄出た。門野は振返つた。

　「また御出掛ですか。よござんす。洋燈《ランプ》は私が氣を付けますから。――小母さんが先刻《さつき》から腹が痛いつて寐たんですが、何｜大《たい》した事はないでせう。御｜緩《ごゆつく》り」

　代助は門を出た。江戸川迄來ると、河の水がもう暗くなつてゐた。彼は固《もと》より平岡を訪ねる氣であつた。から何時《いつ》もの樣に川邊《かはべり》を傳はないで、すぐ橋を渡つて、金剛寺坂《こんがうじざか》を上《あが》つた。

　實を云ふと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取つた時であつた。それには、第一に着京以來御世話になつて難有《ありがた》いと云ふ禮が述べてあつた。それから、――其後色々朋友や先輩の盡力を辱《かたじけな》うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の經濟部の主任記者にならぬかとの勸誘を受けた。自分も遣つて見たい樣な氣がする。然し着京の當時君に御依頼をした事もあるから、無斷では宜しくあるまいと思つて、一應御相談をすると云ふ意味が後《あと》に書いてあつた。代助は、其當時平岡から、兄の會社に周旋してくれと依頼されたのを、其儘にして、斷わりもせず今日《こんにち》迄｜放《はふ》つて置いた。ので、其返事を促されたのだと受取つた。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過ぎると云ふ考へもあつたので、翌日出向いて行つて、色々兄の方の事情を話して當分、此方《こつち》は斷念して呉れる樣に頼んだ。平岡は其時、僕も大方｜左樣《さう》だらうと思つてゐたと云つて、妙な眼をして三千代の方を見た。

　いま一遍は、愈《いよ／＼》新聞の方が極まつたから、一晩｜緩《ゆつく》り君と飲みたい。何日《いくか》に來て呉れといふ平岡の端書が着いた時、折惡《をりあし》く差支が出來たからと云つて散歩の序《ついで》に斷わりに寄つたのである。其時平岡は座敷の眞中に引繰り返つて寐てゐた。昨夕《ゆうべ》どこかの會へ出て、飲み過ごした結果だと云つて、赤い眼をしきりに摩《こす》つた。代助を見て、突然、人間は何うしても君の樣に獨身でなけりや仕事は出來ない。僕も一人なら滿洲へでも亞米利加《アメリカ》へでも行くんだがと大いに妻帶の不便を鳴らした。三千代は次の間で、こつそり仕事をしてゐた。

　三遍目には、平岡の社へ出た留守を訪ねた。其時は用事も何もなかつた。約三十分｜許《ばか》り椽《えん》へ腰を掛けて話した。

　夫《それ》から以後は可成《なるべく》小石川の方面へ立ち回らない事にして今夜に至つたのである。代助は竹早町へ上《あが》つて、それを向ふへ突き拔けて、二三町行くと、平岡と云ふ軒燈のすぐ前へ來た。格子の外から聲を掛けると、洋燈《ランプ》を持つて下女が出た。が平岡は夫婦とも留守であつた。代助は出先も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乘つて、本郷迄來て、本郷から又神田へ乘り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、麥酒《ビール》をぐい／＼飲んだ。

　翌日眠が覺めると、依然として腦の中心から、半徑の違つた圓が、頭を二重に仕切つてゐる樣な心持がした。斯う云ふ時に代助は、頭の内側と外側が、質の異《こと》なつた切り組み細工で出來上つてゐるとしか感じ得られない癖になつてゐた。夫《それ》で能く自分で自分の頭を振つてみて、二つのものを混《ま》ぜやうと力《つと》めたものである。彼は今枕の上へ髪を着けたなり、右の手を固めて、耳の上を二三度｜敲《たゝ》いた。

　代助は斯《か》ゝる腦髄の異?を以て、かつて酒の咎《とが》に歸《き》した事はなかつた。彼は小供の時から酒に量を得た男であつた。いくら飲んでも、左程《さほど》平常を離れなかつた。のみならず、一度熟睡さへすれば、あとは身體に何の故障も認める事が出來なかつた。甞て何かのはづみに、兄と競《せ》り飲みをやつて、三合入の�ｺ利を十三本倒した事がある。其｜翌日《あくるひ》代助は平気な顏をして學校へ出た。兄は二日も頑が痛いと云つて苦《にが》り切つてゐた。さうして、これを年齡《とし》の違だと云つた。

　昨夕《ゆうべ》飲んだ麥酒《ビール》は是に比べると愚《おろか》なものだと、代助は頭を敲《たゝ》きながら考へた。幸に、代助はいくら頭が二重になつても、腦の活動に狂《くるひ》を受けた事がなかつた。時としては、たゞ頭を使ふのが臆劫《おつくふ》になつた。けれども努力さへすれば、充分複雜な仕事に堪えるといふ自信があつた。だから、斯んな異?を感じても、腦の組織の變化から、精神に惡い影響を與へるものとしては、悲觀する餘地がなかつた。始めて、こんな感覺があつた時は驚ろいた。二遍目は寧ろ新寄な經驗として喜んだ。この頃は、此經驗が、多くの場合に、精神氣力の低落に伴《ともな》ふ樣になつた。内容の充實しない行爲を敢てして、生活する時の徴候になつた。代助にはそこが不愉快だつた。

　床の上に起き上がつて、彼は又頭を振つた。朝食《あさめし》の時、門野は今朝の新聞に出てゐた蛇と鷲の戰《たゝかひ》の事を話し掛けたが、代助は應じなかつた。門野は又始まつたなと思つて、茶の間を出た。勝手の方で、

　「小母さん、さう働らいちや惡いだらう。先生の膳は僕が洗つて置くから、彼方《あつち》へ行つて休んで御出《おいで》」と婆さんを勞《いたは》つてゐた。代助は始めて婆さんの病氣の事を思ひ出した。何か優しい言葉でも掛ける所であつたが、面倒だと思つて已《や》めにした。

　食刀《ナイフ》を置くや否や、代助はすぐ紅茶々碗を持つて書齋へ這入つた。時計を見るともう九時過であつた。しばらく、庭を眺めながら、茶を啜《すゝ》り延ばしてゐると、門野が來て、

　「御宅から御迎《おむかひ》が參りました」と云つた。代助は宅《うち》から迎《むかひ》を受ける覺がなかつた。聞き返して見ても、門野は車夫がとか何とか要領を得ない事を云ふので、代助は頭を振り／＼玄關へ出て見た。すると、そこに兄の車を引く勝《かつ》と云ふのがゐた。ちやんと、護謨輪の車を玄關へ横付にして、叮嚀に御辭義をした。

　「勝、御迎《おむかへ》つて何だい」と聞くと、勝は恐縮の態度で、

　「奧樣が車を持つて、迎に行つて來いつて、御仰《おつしや》いました」

　「何か急用でも出來たのかい」

　勝は固《もと》より何事も知らなかつた。

　「御出《おいで》になれば分るからつて――」と簡潔に答へて、言葉の尻を結ばなかつた。

　代助は奧へ這入つた。婆さんを呼んで着物を出させやうと思つたが、腹の痛むものを使ふのが厭なので、自分で箪笥の抽出《ひきだし》を掻き回して、急いで身支度をして、勝の車に乘つて出た。

　其日は風が強く吹いた。勝は苦しさうに、前の方に曲《こゞ》んで馳けた。乘つてゐた代助は、二重の頭がぐる／＼回轉するほど、風に吹かれた。けれども、音も響もない車輪が美くしく動いて、意識に乏しい自分を、半睡の?態で宙に運んで行く有樣が愉快であつた。青山の家《うち》へ着く時分には、起きた頃とは違つて、氣色《きしよく》が餘程｜晴々《せい／＼》して來た。

　何か事が起つたのかと思つて、上《あが》り掛けに、書生部屋を覗いて見たら、直木と誠太郎がたつた二人で、白砂糖を振り掛けた苺《いちご》を食つてゐた。

　「やあ、御馳走だな」と云ふと、直木は、すぐ居ずまひを直して、挨拶をした。誠太郎は唇の縁《ふち》を濡らした儘、突然、

　「叔父さん、奧さんは何時《いつ》貰ふんですか」と聞いた。直木はにや／＼してゐる。代助は一寸返答に窮した。已《やむ》を得ず、

　「今日《けふ》は何故《なぜ》學校へ行かないんだ。さうして朝《あさ》つ腹《ぱら》から苺《いちご》なんぞを食つて」と調戯《からか》ふ樣に、叱る樣に云つた。

　「だって今日《けふ》は日曜ぢやありませんか」と誠太郎は眞面目になつた。

　「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。

　直木は代助の顔を見てとう／＼笑ひ出した。代助も笑つて、座敷へ來た。そこには誰も居なかつた。替え立ての疊の上に、丸い紫檀の刳拔盆《くりぬきぼん》が一つ出てゐて、中に置いた湯呑には、京都の淺井黙語《あさゐもくご》の模樣畫が染め付けてあつた。からんとした廣い座敷へ朝の緑が庭から射し込んで、凡《すべ》てが靜かに見えた。戸外《そと》の風は急に落ちた樣に思はれた。

　座敷を通り拔けて、兄の部屋の方へ來たら、人の影がした。

　「あら、だつて、夫《それ》ぢや餘《あん》まりだわ」と云ふ嫂《あによめ》の聲が聞えた。代助は中へ這入つた。中には兄と嫂《あによめ》と縫子がゐた。兄は角帶に金鎖を卷き付けて、近頃｜流行《はや》る妙な絽《ろ》の羽織を着て、此方《こちら》を向いて立つてゐた。代助の姿を見て、

　「そら來た。ね。だから一所に連れて行つて御貰ひよ」と梅子に話しかけた。代助には何の意味だか固《もと》より分らなかつた。すると、梅子が代助の方に向き直つた。

　「代さん、今日貴方、無論暇でせう」と云つた。

　「えゝ、まあ暇です」と代助は答へた。

　「ぢや、一所に歌舞伎座へ行つて頂戴」

　代助は嫂《あによめ》の此言葉を聞いて、頭の中に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども今日は平常《いつも》の樣に、嫂《あによめ》に調戯《からか》ふ勇氣がなかつた。面倒だから、平氣な顔をして、

　「えゝ宜しい、行きませう」と機嫌よく答へた。すると梅子は、

　「だつて、貴方は、最早《もう》、一遍觀たつて云ふんぢやありませんか」と聞き返した。

　「一遍だらうが、二遍だらうが、些《ちつ》とも構はない。行きませう」と代助は梅子を見て微笑した。

　「貴方も餘つ程道樂ものね」と梅子が許した。代助は益《ます／＼》滑稽を感じた。

　兄は用があると云つて、すぐ出て行つた。四時頃用が濟んだら芝居の方へ回る約束なんださうである。それ迄自分と縫子｜丈《だけ》で見てゐたら好ささうなものだが、梅子は夫《それ》が厭だと云つた。そんなら直木を連れて行けと兄から注意された時、直木は紺絣を着て、袴を穿《は》いて、六づかしく坐つてゐて不可《いけ》ないと答へた。夫《それ》で仕方がないから代助を迎ひに遣つたのだ、と、是は兄が出掛の説明であつた。代助は少々理窟に合はないと思つたが、たゞ、左樣《さう》ですかと答へた。さうして、嫂《あによめ》は幕《まく》の合間《あひま》に話し相手が欲しいのと、夫《それ》からいざと云ふ時に、色々用を云ひ付けたいものだから、わざ／＼自分を呼び寄せたに違ないと解釋した。

　梅子と縫子は長い時間を御化粧に費やした。代助は懇《こん》よく御化粧の監督者になつて、兩人《ふたり》の傍《そば》に附いてゐた。さうして時々は、面白半分の冷かしも云つた。縫子からは叔父さん隨分だわを二三度繰り返された。

　父は今朝早くから出て、家《うち》にゐなかつた。何處へ行つたのだか、嫂《あによめ》は知らないと云つた。代助は別に知りたい氣もなかつた。たゞ父のゐないのが難有《ありがた》かつた。此間の會見以後、代助は父とはたつた二度程しか顔を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に過ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辭義をして立つのを例にしてゐた。父は座敷の方へ出て來て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば逃げ仕度をすると云つて怒つた。と嫂《あによめ》は鏡の前で夏帶の尻を撫《な》でながら代助に話した。

　「ひどく、信用を落したもんだな」

　代助は斯う云つて、嫂《あによめ》と縫子の蝙蝠傘を提《さ》げて一足先へ玄關へ出た。車はそこに三挺｜并《なら》んでゐた。

　代助は風を恐れて鳥打帽を被つて居た。風は漸く歇《や》んで、強い日が雲の隙間から頭の上を照らした。先へ行く梅子と縫子は傘《かさ》を廣げた。代助は時々手の甲を額の前に翳《かざ》した。

　芝居の中では、嫂《あによめ》も縫子も非常に熱心な觀客《けんぶつ》であつた。代助は二返目の所爲《せゐ》といひ、此｜三四日《さんよつか》來の腦の?態からと云ひ、左樣《さう》一圖に舞臺ばかりに氣を取られてゐる譯にも行かなかつた。絶えず精神に重苦しい暑《あつさ》を感ずるので、?《しば／＼》團扇《うちは》を手にして、風を襟から頭へ送つてゐた。

　幕の合間に縫子が代助の方を向いて時々妙な事を聞いた。何故《なぜ》あの人は盥《たらひ》で酒を飲むんだとか、何故《なぜ》坊さんが急に大將になれるんだとか、大抵説明の出來ない質問のみであつた。梅子はそれを聞くたんびに笑つてゐた。代助は不圖《ふと》二三日前《にさんちまへ》新聞で見た、ある文學者の劇評を思ひ出した。それには、日本の脚本が、あまりに突飛な筋に富んでゐるので、樂に見物が出來ないと書いてあつた。代助は其時、役者の立場から考へて、何もそんな人に見て貰ふ必要はあるまいと思つた。作者に云ふべき小言を、役者の方へ持つてくるのは、近松の作を知るために、越路《こしぢ》の淨瑠璃《じやうるり》が聽きたいと云ふ愚物と同じ事だと云つて門野に話した。門野は依然として、左樣《そん》なもんでせうかなと云つてゐた。

　小供のうちから日本在來の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ樣に、單純なる藝術の鑑賞家であつた。さうして舞臺に於ける藝術の意味を、役者の手腕に就てのみ用ひべきものと狹義に解釋してゐた。だから梅子とは大いに話が合つた。時々顔を見合して、黒人《くろうと》の樣な批評を加へて、互に感心してゐた。けれども、大體に於て、舞臺にはもう厭《あき》が來てゐた。幕の途中でも、双眼鏡で、彼方《あつち》を見たり、此方《こつち》を見たりしてゐた。双眼鏡の向ふ所には藝者が澤山ゐた。そのあるものは、先方《むかふ》でも眼鏡の先を此方《こつち》へ向けてゐた。

　代助の右隣には自分と同年輩の男が丸髷に結《い》つた美くしい細君を連れて來てゐた。代助は其細君の横顔を見て、自分の近付《ちかづき》のある藝者によく似てゐると思つた。左隣には男連《をとこづれ》が四人《よつたり》許《ばかり》ゐた。さうして、それが、悉《こと／”＼》く博士であつた。代助は其顔を一々覺えてゐた。其又隣に、廣い所をたつた二人で專領してゐるものがあつた。その一人は、兄と同じ位な年恰好《としかつかう》で、正しい洋服を着てゐた。さうして金縁《きんぶち》の眼鏡を掛けて、物を見るときには、顎を前へ出して、心持｜仰向《あふむ》く癖があつた。代助は此男を見たとき、何所か見覺のある樣な氣がした。が、ついに思ひ出さうと力《つと》めても見なかつた。其｜伴侶《つれ》は若い女であつた。代助はまだ廿《はたち》になるまいと判定した。羽織を着ないで、普通よりは大きく廂《ひさし》を出して、多くは顎を襟元へびたりと着けて坐つてゐた。

　代助は苦しいので、何返も席を立つて、後《うしろ》の廊下へ出て、狹い空を仰いだ。兄が來たら、嫂《あによめ》と縫子を引き渡して早く歸りたい位に思つた。一遍は縫子を連れて、其所等《そこいら》をぐる／＼運動して歩いた。仕舞には些《ち》と酒でも取り寄せて飲まうかと思つた。

　兄は日暮とすれ／＼に來た。大變遅かつたぢやありませんかと云つた時、帶の間から、金時計を出して見せた。實際六時少し回つた許《ばかり》であつた。兄は例の如く、平氣な顔をして、方々見回してゐた。が、飯を食ふ時、立つて廊下へ出たぎり、中々歸つて來なかつた。しばらくして、代助が不圖《ふと》振り返つたら、一軒置いて隣りの金縁《きんぶち》の眼鏡を掛けた男の所へ這入つて、話をしてゐた。若い女にも時々話しかける樣であつた。然し女の方では笑ひ顏を一寸見せる丈《だけ》で、すぐ舞臺の方へ眞面目に向き直つた。代助は嫂《あによめ》に其人の名を聞かうと思つたが、兄は人の集る所へさへ出れば、何所へでも斯《かく》の如く平氣に這入り込む程、世間の廣い、又世間を自分の家《いへ》の樣に心得てゐる男であるから、氣にも掛けずに黙つてゐた。

　すると幕の切れ目に、兄が入口迄歸つて來て、代助一寸來いと云ひながら、代助を其金縁の男の席へ連れて行つて、愚弟だと紹介した。それから代助には、是が神戸の高木さんだと云つて引合した。金縁の紳士は、若い女を顧みて、私の姪ですと云つた。女はしとやかに御辭義をした。其時兄が、佐川さんの令孃だと口を添へた。代助は女の名を聞いたとき、旨く掛けられたと腹の中《なか》で思つた。が何事も知らぬものゝ如く裝《よそほ》つて、好加減に話してゐた。すると嫂《あによめ》が一寸自分の方を振り向いた。

　五六分して、代助は兄と共に自分の席に返つた。佐川の娘を紹介される迄は、兄の見え次第逃げる氣であつたが、今では左樣《さう》不可《いか》なくなつた。餘り現金に見えては、却つて好くない結果を引き起しさうな氣がしたので、苦しいのを我慢して坐つてゐた。兄も芝居に就ては全たく興味がなささうだつたけれども、例の如く鷹揚に構えて、黒い頭を燻《いぶ》す程、葉卷をくゆらした。時々評をすると、縫子あの幕は綺麗だらう位の所であつた。梅子は平生の好奇心にも似ず、高木に就ても、佐川の娘に就ても、何等の質問を掛けず、一言の批評も加へなかつた。代助には其澄した樣子が却つて滑稽に思はれた。彼は今日《こんにち》迄｜嫂《あによめ》の策略にかゝつた事が時々あつた。けれども、只の一返も腹を立てた事はなかつた。今度の狂言も、平生ならば、退屈紛らしの遊戯程度に解釋して、笑つて仕舞つたかも知れない。夫《それ》許《ばかり》ではない。もし自分が結婚する氣なら、却つて、此狂言を利用して、自《みづか》ら人巧的《じんかうてき》に、御目出度《おめでたい》喜劇を作り上げて、生涯自分を嘲けつて滿足する事も出來た。然し此姉迄が、今の自分を、父や兄と共謀して、漸々《ぜん／＼》窮地に誘《いざ》なつて行くかと思ふと、流石《さす》がに此所作をたゞの滑稽として、觀察する譯には行かなかつた。代助は此先、嫂《あによめ》が此事件を何う發展させる氣だらうと考へて、少々弱つた。家《うち》のものゝ中《うち》で、嫂《あによめ》が一番斯んな計畫に興味をもつてゐたからである。もし嫂《あによめ》か此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々《ぜん／＼》家族のものと疎遠にならなければならぬと云ふ恐れが、代助の頭の何處かに潜んでゐた。

　芝居の仕舞になつたのは十一時近くであつた。外へ出て見ると、風は全く歇《や》んだが、月も星も見えない靜かな晩を、電燈が少し許《ばか》り照らしてゐた。時間が遲いので茶屋では語をする暇もなかつた。三人の迎は來てゐたが、代助はつい車を誂《あつら》へて置くのを忘れた。面倒だと思つて、嫂《あによめ》の勸を斥け《しりぞ》けて、茶屋の前から電車に乘つた。數寄屋橋で乘り易え樣《やう》と思つて、黒い路の中に、待ち合はしてゐると、小供を負《おぶ》つた神さんが、退儀さうに向《むかふ》から近寄つて來た。電車は向ふ側を二三度通つた。代助と軌道《レール》の間には、土か石の積んだものが、高い土手の樣に狹まつてゐた。代助は始めて間違つた所に立つてゐる事を悟つた。

　「御神さん、電車へ乘るなら、此所ぢや不可《いけ》ない。向側《むかふがは》だ」と�ﾍへながら歩き出した。神さんは禮を云つて跟《つ》いて來た。代助は手探《てさぐり》でもする樣に、暗い所を好《いゝ》加減に歩いた。十四五間左の方へ濠際《ほりぎは》を目標《めあて》に出たら、漸く停留所の柱が見付かつた。神さんは其所で、神田橋の方へ向いて乘つた。代助はたつた一人反對の赤坂行へ這入つた。

　車の中では、眠くて寐られない樣な氣がした。搖られながらも今夜の睡眠が苦になつた。彼は大いに疲弊して、白晝の凡《すべ》てに、惰氣を催うすにも拘はらず、知られざる何物かの興奮の爲に、靜かな夜《よ》を恣《ほしいまゝ》にする事が出來ない事がよくあつた。彼の腦裏には、今日の日中に《につちゆう》、交《かは》る／”＼痕《あと》を殘した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度に散らついてゐた。さうして、それが何の色彩であるか、何の運動であるか慥《たし》かに解らなかつた。彼は眼を眠つて、家《うち》へ歸つたら、又ヰスキーの力を借りやうと覺悟した。

　彼は此取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして其所にわが安住の地を見出《みいだ》した樣な氣がした。けれども其安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかつた。たゞ、かれの心の調子全體で、それを認めた丈《だけ》であつた。從つて彼は三千代の顏や、容子や、言葉や、夫婦の關係や、病氣や、身分を一纒《ひとまとめ》にしたものを、わが情調にしつくり合ふ對象として、發見したに過ぎなかつた。

　翌日代助は但馬《たじま》にゐる友人から長い手紙を受取つた。此友人は學校を卒業すると、すぐ國へ歸つたぎり、今曰《こんにち》迄ついぞ東京へ出た事のない男であつた。當人は無論山の中で暮す氣はなかつたんだが、親の命令で已《やむ》を得ず、故郷に封じ込められて仕舞つたのである。夫《それ》でも一年｜許《ばかり》の間は、もう一返｜親父《おやぢ》を説き付けて、東京へ出る出ると云つて、うるさい程手紙を寄こしたが、此頃は漸く斷念したと見えて、大した不平がましい訴もしない樣になつた。家は所の舊家で、先祖から持ち傳へた山林を年々《ねん／＼》伐り出すのが、重な用事になつてゐるよしであつた。今度の手紙には、彼の日常生活の模樣が委しく書いてあつた。それから、一ケ月｜前《まへ》町長に擧げられて、年俸を三百圓頂戴する身分になつた事を、面白半分、殊更に眞面目な句調で吹聽《ふいちやう》して來た。卒業してすぐ中學の�ﾍ師になつても、此三倍は貰へると、自分と他の友人との比較がしてあつた。

　此友人は國へ歸つてから、約一年｜許《ばか》りして、京都在のある財産家から嫁を貰つた。それは無論親の云ひ付であつた。すると、少時《しばらく》して、直《すぐ》子供が生れた。女房の事は貰つた時より外に何も云つて來ないが、子供の生長《おひたち》には興味があると見えて、時々代助が可笑《をかし》くなる樣な報知をした。代助はそれを讀むたびに、此子供に對して、満足しつゝある友人の生活を想像した。さうして、此子供の爲に、彼の細君に對する感想が、貰つた當時に比べて、どの位變化したかを疑つた。

　友人は時々鮎の乾したのや、柿の乾したのを送つてくれた。代助は其返禮に大概は新らしい西洋の文學書を遣つた。すると其返事には、それを面白く讀んだ證據になる樣な批評が屹度《きつと》あつた。けれども、それが長くは續かなかつた。仕舞には受取つたと云ふ禮?さへ寄こさなかつた。此方《こつち》からわざ／＼問ひ合せると、書物は難有《ありがた》く頂戴した。讀んでから禮を云はうと思つて、つい遲くなつた。實はまだ讀まない。白?すると、讀む閑がないと云ふより、讀む氣がしないのである。もう一層露骨に云へば、讀んでも解らなくなつたのである。といふ返事が來た。代助は夫《それ》から書物を廢《や》めて、其代りに新らしい玩具《おもちや》を買つて送る事にした。

　代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を有《も》つてゐた此舊友が、當時とは丸《まる》で反對の思想と行勤とに支配されて、生活の音色《ねいろ》を出してゐると云ふ事實を、切に感じた。さうして、命の絃《いと》の震動から出る二人の響を審《つまびら》かに比較した。

　彼は理論家《セオリスト》として、友人の結婚を肯《うけが》つた。山の中に住んで、樹や谷を相手にしてゐるものは、親の取り極めた通りの妻を迎へて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。彼は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都會人士には、不幸を持ち來《きた》すものと斷定した。其原因を云へば、都會は人間の展覽會に過ぎないからであつた。彼は此前提から此結論に達する爲に斯う云ふ徑路《けいろ》を辿《たど》つた。

　彼は肉體と精神に於て美の類別を認める男であつた。さうして、あらゆる美の種類に接觸する機會を得るのが、都會人士の權能《けんのう》であると考へた。あらゆる美の種類に接觸して、其たび毎に、甲から乙に氣を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると斷定した。彼は是を自家《じか》の經驗に徴して爭ふべからざる眞理と信じた。その眞埋から出立して、都會的生活を送る凡《すべ》ての男女《なんによ》は、兩性間の引力《アツトラクシヨン》に於て、悉く隨縁臨機《ずゐえんりんき》に、測りがたき變化を受けつゝあるとの結論に到着した。それを引き延ばすと、既婚の一對《いつつゐ》は、双方ともに、流俗に所謂｜不義《インフイデリチ》の念に冒されて、過去から生じた不幸を、始終｜甞《な》めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も發達した、又接觸點の尤も自由な、都會人士の代表者として、藝妓《げいしや》を選んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人《なんにん》取り替えるか分らないではないか。普通の都會人は、より少なき程度に於て、みんな藝妓《げいしや》ではないか。代助は渝《かは》らざる愛を、今の世に口にするものを僞善家の第一位に置いた。

　此所迄考へた時、代助の頭の中《なか》に、突然三千代の姿が浮んだ。其時代助はこの論理中に、或｜因數《フアクター》は數へ込むのを忘れたのではなからうかと疑《うたぐ》つた。けれども、其｜因數《フアクター》は何うしても發見する事が出來なかつた。すると、自分が三千代に對する情合《じやうあひ》も、此論理によつて、たゞ現在的のものに過ぎなくなつた。彼の頭は正にこれを承認した。然し彼の心《ハート》は、慥《たし》かに左樣《さう》だと感ずる勇氣がなかつた。

　

　　　　　十二

　

　代助は嫂《あによめ》の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ間《あひだ》があつた。凡《すべ》ての娯樂には興味を失つた。讀書をしても、自己の影を黒い文字の上に認める事が出來なくなつた。落付いて考へれば、考へは蓮《はす》の糸を引く如くに出るが、出たものを纒めて見ると、人の恐ろしがるもの許《ばかり》であつた。仕舞には、斯樣に考へなければならない自分が怖くなつた。代助は蒼白く見える自分の腦髓を、ミルクセークの如く廻轉させる爲に、しばらく旅行しやうと決心した。始めは父の別莊に行く積《つもり》であつた。然し、是は東京から襲はれる點に於て、牛込に居ると大した變りはないと思つた。代助は旅行案内を買つて來て、自分の行くべき先を調べて見た。が、自分の行くべき先は天下中何處にも無い樣な氣がした。しかし、無理にも何處かへ行かうとした。それには、支度を調《とゝの》へるに若《し》くはないと極めた。代助は電車に乘つて、銀座迄來た。朗かに風の往來を渡る午後であつた。新橋の勸工場を一回《ひとまはり》して、廣い通りをぶら／＼と京橋の方へ下《くだ》つた。其時代助の眼には、向ふ側の家が、芝居の畫割《かきわり》の樣に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられてゐた。

　代助は二三の唐物屋《たうぶつや》を冷かして、入用《いりよう》の品を調《とゝの》へた。其｜中《なか》に、比較的高い香水があつた。資生堂で練齒磨を買はうとしたら、若いものが、欲しくないと云ふのに自製のものを出して、頻に勸めた。代助は顏をしかめて店を出た。紙包を腋の下に抱へた儘、銀座の外《はづ》れ迄遣つて來て、其所から大根河岸《だいこんがし》を回つて、鍛冶橋《かぢばし》を丸の内へ志《こゝろざ》した。當もなく西の方へ歩きながら、是も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた揚句、草臥《くたび》れて車をと思つたが、何處にも見當らなかつたので又電車へ乘つて歸つた。

　家《うち》の門を這入ると、玄關に誠太郎のらしい履《くつ》が叮嚀に并《なら》べてあつた。門野に聞いたら、へえ左樣《さう》です、先方《きつき》から待つて御出《おいで》ですといふ答であつた。代助はすぐ書齋へ來て見た。誠太郎は、代助の坐る大きな椅子に腰を掛けて、洋卓《テーブル》の前で、アラスカ探險記を讀んでゐた。洋卓《テーブル》の上には、蕎麥饅頭《そばまんぢゆう》と茶盆が一所に乘つてゐた。

　「誠太郎、何だい、人のゐない留守に來て、御馳走だね」と云ふと、誠太郎は、笑ひながら、先づアラスカ探險記をポツケツトへ押し込んで、席を立つた。

　「其所に居るなら、ゐても構はないよ」と云つても、聞かなかつた。

　代助は誠太郎を捕《つら》まへて、例《いつも》の樣に調戯《からか》ひ出した。誠太郎は此間代助が歌舞伎座でした欠伸《あくび》の數《かず》を知つてゐた。さうして、

　「叔父さんは何時《いつ》奧さんを貰ふの」と、又｜先達《せんだつ》てと同じ樣な質問を掛けた。

　此日誠太郎は、父の使に來たのであつた。其口上は、明日《あした》の十一時迄に一寸來て呉れと云ふのであつた。代助はさう／＼父や兄に呼び付けられるのが面倒であつた。誠太郎に向つて、半分怒つた樣に、

　「何だい、苛《ひど》いぢやないか。用も云はないで、無暗に人を呼びつけるなんて」と云つた。誠太郎は矢つ張りにや／＼してゐた。代助はそれぎり話を外《ほか》へそらして仕舞つた。新聞に出てゐる相撲の勝負が、二人の題目の重《おも》なるものであつた。

　晩食《ばんめし》を食つて行けと云ふのを學校の下調《したしらべ》があると云つて辭退して誠太郎は歸つた。歸る前に、

　「それぢや、叔父さん、明日《あした》は來ないんですか」と聞いた。代助は已《やむ》を得ず、

　「うむ。何うだか分らない。叔父さんは旅行するかも知れないからつて、歸つてさう云つて呉れ」と云つた。

　「何時《いつ》」と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日《けふ》明日《あす》のうちと答へた。誠太郎はそれで納得《なつとく》して、玄關迄出て行つたが、沓脱《くつぬぎ》へ下りながら振り返つて、突然

　「何處へ入らつしやるの」と代助を見上げた。代助は、

　「何處つて、まだ分るもんか。ぐる／＼回るんだ」と云つたので、誠太郎は又にや／＼しながら、格子を出た。

　代助は其夜すぐ立たうと思つて、グラツドストーンの中を門野に掃除さして、携帶品を少し詰め込んだ。門野は少なからざる好奇心を以て、代助の革鞄《かばん》を眺めてゐたが、

　「少し手傳ひませうか」と突立つたまゝ聞いた。代助は、

　「なに、譯はない」と斷わりながら、一旦詰め込んだ香水の壜を取り出して、封被《ふうひ》を剥いで、栓《せん》を拔いて、鼻に當てゝ嗅いで見た。門野は少し愛想《あいそ》を盡かした樣な具合で、自分の部屋へ引取つた。二三分すると又出て來て、

　「先生、車を左樣《さう》云つときますかな」と注意した。代助はグラツドストーンを前へ置いて、顏を上げた。

　「左樣《さう》、少し待つて呉れ給へ」

　庭を見ると、生垣の要目《かなめ》の頂《いたゞき》に、まだ薄明るい日足がうろついてゐた。代助は外を覗きながら、是から三十分のうちに行く先を極めやうと考へた。何でも都合のよささうな時間に出る汽車に乘つて、其汽車の持つて行く所へ降《お》りて、其所で明日《あした》迄暮らして、暮らしてゐるうちに、又新らしい運命が、自分を攫《さら》ひに來るのを待つ積《つもり》であつた。旅資は無論充分でなかつた。代助の旅裝に適した程の宿泊《とまり》を續けるとすれば、一週間も保《も》たない位であつた。けれども、さう云ふ點になると、代助は無頓着であつた。愈《いよ／＼》となれば、家《うち》から金を取り寄せる氣でゐた。それから、本來が四邊《しへん》の風氣《ふうき》を換へちのを目的とする移動だから、贅澤の方面へは重きを置かない決心であつた。興に乘れば、荷持を雇つて、一日歩いても可《い》いと覺悟した。

　彼は又旅行案内を開いて、細かい數字を丹念に調べ出したが、少しも決定の運《はこび》に近寄らないうちに、又三千代の方に頭が滑つて行つた。立つ前にもう一遍樣子を見て、それから東京を出やうと云ふ氣が起つた。グラツドストーンは今夜｜中《ぢゆう》に始末を付けて、明日《あす》の朝早く提《さ》げて行かれる樣にして置けば構はない事になつた。代助は急ぎ足で玄關迄出た。其音を聞き付けて、門野も飛び出した。代助は不斷着の儘、掛釘から帽子を取つてゐた。

　「又御出掛ですか。何か御買物ぢやありませんか。私で可《よ》ければ買つて來ませう」と門野が驚ろいた樣に云つた。

　「今夜は已《や》めだ」と云ひ放した儘、代助は外へ出た。外はもう暗かつた。美くしい空に星がぽつ／＼影を�揩ｵて行く樣に見えた。心持の好い風が袂を吹いた。けれども長い足を大きく動かした代助は、二三町も歩かないうちに額際に汗を覺えた。彼は頭から鳥打を脱《と》つた。黒い髪を夜露に打たして、時々帽子をわざと振つて歩いた。

　平岡の家の近所へ來ると、暗い人影が蝙蝠《かはほり》の如く靜かに其所、此所に動いた。粗末な板塀の隙間から、洋燈《ランプ》の灯《ひ》が往來へ映つた。三千代は其光の下で新聞を讀んでゐた。今頃新聞を讀むのかと聞いたら、二返目だと答へた。

　「そんなに閑《ひま》なんですか」と代助は座蒲團を敷居の上に移して、椽側《えんがは》へ半分身體を出しながら、障子へ倚《よ》りかゝつた。

　平岡は居なかつた。三千代は今湯から歸つた所だと云つて、團扇《うちは》さへ膝の傍《そば》に置いてゐた。平生《いつも》の頬に、心持｜暖《あたゝか》い色を出して、もう歸るでせうから緩《ゆつ》くりしてゐらつしやいと、茶の間へ茶を入れに立つた。髪は西洋風に結つてゐた。

　平岡は三千代の云つた通りには中々歸らなかつた。何時《いつ》でも斯んなに遲いのかと尋ねたら、笑ひながら、まあ左《そ》んな所でせうと答へた。代助は其笑の中に一種の淋《さみ》しさを認めて、眼を正して、三千代の顏を凝《じつ》と見た。三千代は急に團扇《うちは》を取つて袖の下を煽《あふ》いだ。

　代助は平岡の經濟の事が氣に掛つた。正面から、此頃は生活費には不自由はあるまいと尋ねて見た。三千代は左樣《さう》ですねと云つて、又前の樣な笑ひ方をした。代助がすぐ返事をしなかつたものだから、

　「貴方には、左樣《さう》見えて」と今度は向ふから聞き直した。さうして、手に持つた團扇《うちは》を放《はふ》り出して、湯から出たての奇麗な繊《ほそ》い指を、代助の前に廣げて見せた。其指には代助の贈つた指環も、他《ほか》の指環も穿《は》めてゐなかつた。自分の記念を何時《いつ》でも胸に描《ゑが》いてゐた代助には、三千代の意味がよく分つた。三千代は手を引き込めると同時に、ぽつと赤い顏をした。

　「仕方がないんだから、堪忍《かんにん》して頂戴」と云つた。代助は憐れな心持がした。

　代助は其夜九時頃平岡の家を辭した。辭する前、自分の紙入の中に有るものを出して、三千代に渡した。其時は、腹の中で多少の工夫を費やした。彼は先づ何氣なく壞中物を胸の所で開けて、中にある紙幣を、勘定もせずに攫《つか》んで、是を上げるから御使ひなさいと無雜作に三千代の前へ出した。三千代は、下女を憚かる樣な低い聲で、

　「そんな事を」と、却つて兩手をぴたりと身體へ付けて仕舞つた。代助は然し自分の手を引き込めなかつた。

　「指環を受取るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の指環だと思つて御貰ひなさい」

　代助は笑ひながら、斯う云つた。三千代はでも、餘《あんま》りだからとまだ躊躇した。代助は、平岡に知れると叱られるのかと聞いた。三千代は叱られるか、賞められるか、明らかに分らなかつたので、矢張り愚圖々々してゐた。代助は、叱られるなら、平岡に黙つてゐたら可《よ》からうと注意した。三千代はまだ手を出さなかつた。代助は無論出したものを引き込める譯に行かなかつた。已《やむ》を得ず、少し及び腰になつて、掌《てのひら》を三千代の胸の側《そば》迄《まで》持つて行つた。同時に自分の顏も一尺｜許《ばかり》の距離に近寄せて、

　「大丈夫だから、御取んなさい」と確《しつか》りした低い調子で云つた。三千代は顎を襟の中へ埋《うづ》める樣に後《あと》へ引いて、無言の儘右の手を前へ出した。紙幣は其上に落ちた。其時三千代は長い睫毛《まつげ》を二三度打ち合はした。さうして、掌《てのひら》に落ちたものを帶の間に挟んだ。

　「又來る。平岡君によろしく」と云つて、代助は表へ出た。町を横斷して小路《こうぢ》へ下《くだ》ると、あたりは暗くなつた。代助は美くしい夢を見た樣に、暗い夜《よ》を切つて歩いた。彼は三十分と立たないうちに、吾《わが》家《いへ》の門前に來た。けれども門を潜《くゞ》る氣がしなかつた。彼は高い星を戴いて、靜かな屋敷町をぐる／＼徘徊《はいくわい》した。自分では、夜半《やはん》迄歩きつゞけても疲れる事はなからうと思つた。兎角するうち、又自分の家《いへ》の前へ出た。中は靜かであつた。門野と婆さんは茶の間で世間話をしてゐたらしい。

　「大變遲うがしたな。明日《あした》は何時《なんじ》の汽車で御立ちですか」と玄關へ上るや否や問を掛けた。代助は、微笑しながら、

　「明日《あした》も御已《おや》めだ」と答へて、自分の室《へや》へ這入つた。そこには床がもう敷いてあつた。代助は先刻《さつき》栓《せん》を拔いた香水を取つて、括枕《くゝりまくら》の上に一滴垂らした。夫《それ》では何だか物足りなかつた。壜を持つた儘、立つて室《へや》の四隅《よすみ》へ行つて、そこに一二滴づゝ振りかけた。斯樣に打ち興じた後《あと》、白地の浴衣《ゆかた》に着換へて、新らしい小掻卷《こかいまき》の下に安《やすら》かな手足を横たへた。さうして薔薇の香《か》のする眠に就いた。

　眠が覺めた時は、高い日が椽《えん》に黄金色《わうごんしよく》の震動を射込んでゐた。枕元には新聞が二枚揃えてあつた。代助は、門野が何時《いつ》、雨戸を引いて、何時《いつ》新聞を持つて來たか、丸《まる》で知らなかつた。代助は長い伸《のび》を一つして起き上つた。風呂場で身體を拭いてゐると、門野が少し狼狽《うろた》へた容子で追つて來て、

　「青山から御兄《おあに》いさんが御見えになりました」と云つた。代助は今｜直《すぐ》行く旨を答へて、奇麗に身體を拭き取つた。座敷はまだ掃除が出來てゐるか、ゐないかであつたが、自分で飛び出す必要もないと思つたから、急ぎもせずに、いつもの通り、髪を分けて剃《そり》を中《あて》て、悠々と茶の間へ歸つた。そこでは流石《さすが》にゆつくりと膳につく氣も出なかつた。立ちながら紅茶を一杯｜啜《すゝ》つて、タヱルで一寸口髭を摩《こす》つて、それを、其所へ放《はふ》り出すと、すぐ客間へ出て、

　「やあ兄さん」と挨拶をした。兄は例の如く、色の濃い葉卷の、火の消えたのを、指の股に狹んで、平然として代助の新聞を讀んでゐた。代助の顔を見るや否や、

　「此｜室《へや》は大變好い香《にほひ》がする樣だが、御前の頭かい」と聞いた。

　「僕の頭の見える前からでせう」と答へて、昨夜《ゆうべ》の香水の事を話した、兄は、落ち付いて、

　「はゝあ、大分《だいぶ》洒落《しやれ》た事をやるな」と云つた。

　兄は滅多に代助の所へ來た事のない男であつた。たまに來れば必ず來なくつてならない用事を持つてゐた。さうして、用を濟ますとさつさと歸つて行つた。今日も何事か起つたに違ないと代助は考へた。さうして、それは昨日《きのふ》誠太郎を好加減に胡魔化《ごまか》して返した反響だらうと想像した。五六分雜談をしてゐるうちに、兄はとう／＼斯う云ひ出した。

　「昨夕《ゆうべ》誠太郎が歸つて來て、叔父さんは明日《あした》から旅行するつて云ふ話だから、出て來た」

　「えゝ、實は今朝六時頃から出やうと思つてね」と代助は嘘の樣な事を、至極冷靜に答へた。兄も眞面目な顔をして、

　「六時に立てる位な早起の男なら、今時分わざ／＼青山から遣つて來やしない」と云つた。改めて用事を聞いて見ると、矢張り豫想の通り肉薄の遂行に過ぎなかつた。即ち今日高木と佐川の娘を呼んで午餐《ごさん》を振舞ふ筈だから、代助にも列席しろと云ふ父の命令であつた。兄の語る所によると、昨夕《ゆうべ》誠太郎の返事を聞いて、父は大いに機嫌を惡くした。梅子は氣を揉《も》んで、代助の立たない前に逢つて、旅行を延ばさせると云ひ出した。兄はそれを留めたさうである。

　「なに彼奴《あいつ》が今夜｜中《ぢゆう》に立つものか、今頃は革鞄《かばん》の前へ坐つて考へ込んでゐる位のものだ。明日《あした》になつて見ろ、放《はふ》つて置いても遣つて來るからつて、己《おれ》が姉さんを安心させたのだよ」と誠吾は落付拂つてゐた。代助は少し忌々《いまく》しくなつたので、

　「ぢや、放《はふ》つて置いて御覽なされば好いのに」と云つた。

　「所が女と云ふものは、氣の短かいもので、御父さんに惡いからつて、今朝起きるや否や、己《おれ》をせびるんだからね」と誠吾は可笑《をかし》い樣な顏もしなかつた。寧ろ迷惑さうに代助を眺めてゐた。代助は行くとも、行かないとも決答を與へなかつた。けれども兄に對しては、誠太郎同樣に、要領を握らせないで返して仕舞ふ勇氣も出なかつた。其上午餐を斷つて、旅行するにしても、もう自分の壞中を當にする譯には行かなかつた。矢張り、兄とか嫂《あによめ》とか、もしくは父とか、いづれ反對派の誰かを痛めなければ、身動《みうごき》が取れない位地にゐた。そこで、即《つ》かず離れずに、高木と佐川の娘の評判をした。高木には十年程前に一遍逢つた限《ぎり》であつたが、妙なもので、何處かに見覺《みおぼえ》があつて、此間歌舞伎座で眼に着いた時は、はてなと思つた。これに反して、佐川の娘の方は、つい先達《せんだつ》て、寫眞を手にした許《ばかり》であるのに、實物に接しても、丸《まる》で聯想が浮ばなかつた。寫眞は奇體なもので、先づ人間を知つてゐて、その方から、寫眞の誰彼を極めるのは容易であるが、その逆の、寫眞から人間を定める方は中々六づかしい。是を哲學にすると、死から生を出すのは不可能だが、生から死に移るのは自然の順序であると云ふ眞理に歸着する。

　「私《わたし》は左樣《さう》考へた」と代助が云つた。兄は成程と答ヘたが別段感心した樣子もなかつた。葉卷の短かくなつて、口髭に火が付きさうなのを無暗に啣《くは》へ易《か》えて、

　「それで、必ずしも今日旅行する必要もないんだらう」と聞いた。

　代助はないと答へざるを得なかつた。

　「ぢや、今日｜餐《めし》を食ひに來ても好いんだらう」

　代助は又好いと答へない譯に行かなかつた。

　「ぢや、己《おれ》はこれから、一寸｜他所《わき》へ廻るから、間違のない樣に來てくれ」と相變らず多忙に見えた。代助はもう度胸を据ゑたから、何うでも構はないといふ氣で、先方に都合の好い返事を與へた。すると兄が突然、

　「一體何うなんだ。あの女を貰ふ氣はないのか。好いぢやないか貰つたつて。さう撰《え》り好《ごの》みをする程女房に重きを置くと、何だか元禄時代の色男の樣で可笑《をか》しいな。凡《すべ》てあの時代の人間は男女《なんによ》に限らず非常に窮屈な戀をした樣だが、左樣《さう》でもなかつたのかい。――まあ、どうでも好いから、成る可く年寄を怒らせない樣に遣つてくれ」と云つて歸つた。

　代助は座敷へ戻つて、しばらく、兄の警句を咀嚼《そしやく》してゐた。自分も結婚に對しては、實際兄と同意見であるとしか考へられない。だから、結婚を勸める方でも、怒らないで放《はふ》つて置くべきものだと、兄とは反對に、自分に都合の好い結論を得た。

　兄の云ふ所によると、佐川の娘は、今度久し振に叔父に連れられて、見物｜旁《かた／”＼》上京したので、叔父の商用が濟み次第又連れられて國へ歸るのださうである。父が其機會を利用して、相互の關係に、永遠の利害を結び付けやうと企てたのか、又は先達《せんだつ》ての放行先で、此機會をも自發的に拵えて歸つて來たのか、どつちにしても代助はあまり研究の餘地を認めなかつた。自分はたゞ是等の人と同じ食卓で、旨さうに午餐を味はつて見せれば、社交上の義務は其所に終るものと考へた。もしそれより以上に、何等かの發展が必要になつた場合には、其時に至つて、始めて處置を付けるより外に道はないと思案した。

　代助は婆さんを呼んで着物を出さした。面倒だと思つたが、敬意を表するために、紋付の夏羽織を着た。袴は一重のがなかつたから、家《うち》に行つて、父か兄かのを穿《は》く事に極めた。代助は神經質な割に、子供の時からの習慣で、人中へ出るのを餘り苦にしなかつた。宴會とか、招待とか、送別とかいふ機會があると、大抵は都合して出席した。だから、ある方面に知名な人の顔は大分《だいぶ》覺えてゐた。其中には伯爵とか子爵とかいふ貴公子も交つてゐた。彼は斯んな人の仲間入をして、其仲間なりの交際《つきあひ》に、損も得も感じなかつた。言語動作は何處へ出ても同じであつた。外部から見ると、其所が大變能く兄の誠吾に似てゐた。だから、よく知らない人は、此兄弟の性質を、全く同一型に屬するものと信じてゐた。

　代助が青山に着いた時は、十一時五分前であつたが、御客はまだ來てゐなかつた。兄もまだ歸らなかつた。嫂《あによめ》丈《だけ》がちやんと支度をして、座敷に坐つてゐた。代助の顏を見て、

　「あなたも、隨分亂暴ね。人を出し拔いて旅行するなんて」と、いきなり遣り込めた。梅子は場合によると、決して論理《ロジツク》を有《も》ち得ない女であつた。此場合にも、自分が代助を出し拔いた事には丸《まる》で氣が付いてゐない挨拶の仕方であつた。それが代助には愛嬌に見えた。で、直《すぐ》そこへ坐り込んで梅子の服裝の品評を始めた。父は奧にゐると聞いたが、わざと行かなかつた。強ひられたとき、

　「今に御客さんが來たら、僕が奧へ知らせに行く。其時挨拶をすれば好からう」と云つて、矢つ張り平常《へいぜい》の樣な無駄口を叩いてゐた。けれども佐川の娘に關しては、一言《いちごん》も口を切らなかつた。梅子は何とかして、話を其所へ持つて行かうとした。代助には、それが明らかに見えた。だから、猶《なほ》空とぼけて讎《かたき》を取つた。

　其うち待ち設けた御客が來たので、代助は約束通りすぐ父の所へ知らせに行つた。父は、案のじよう、

　「左樣《さう》か」とすぐ立ち上がつた丈《だけ》であつた。代助に小言を云ふ暇も何も無かつた。代助は座敷へ引き返して來て、袴を穿《は》いて、それから應接間へ出た。客と主人とはそこで悉《ことご》とく顔を合はせた。父と高木とが第一に話を始めた。梅子は重に佐川の令孃の相手になつた。そこへ兄が今朝の通りの服裝《なり》で、のつそりと這入つて來た。

　「いや、何うも遲くなりまして」と客の方に挨拶をしたが、席に就いたとき、代助を振り返つて、

　「大分《だいぶ》早かつたね」と小さな聲を掛けた。

　食堂には應接室の次の間を使つた。代助は戸の開《あ》いた間から、白い卓布《たくふ》の角の際立つた色を認めて、午餐は洋食だと心づいた。梅子は一寸席を立つて、次の入口を覗きに行つた。それは父に、食卓の準備が出來上つた旨を知らせる爲であつた。

　「では何うぞ」と父は立ち上がつた。高木も會釋して立ち上がつた。佐川の令孃も叔父に繼いで立ち上がつた。代助は其時、女の腰から下の、比較的に細く長い事を發見した。食卓では、父と高木が、眞中に向き合つた。高木の右に梅子が坐つて、父の左に令孃が席を占めた。女同志が向き合つた如く、誠吾と代助も向き合つた。代助は五味臺《クルエツト、スタンド》を中に、少し斜《なゝめ》に反《そ》れた位地から令孃の顔を眺める事になつた。代助は其頬の肉と色が、著《いち》ぢるしく後《うしろ》の窓から射す光線の影響を受けて、鼻の境に暗過ぎる影を作つた樣に思つた。其代り耳に接した方は、明らかに薄紅《うすくれなゐ》であつた。殊に小さい耳が、日の光を透《とほ》してゐるかの如くデリケートに見えた。皮膚とは反對に、令孃は黒い鳶色《とびいろ》の大きな眼を有してゐた。此二つの對照から華やかな特長を生ずる令孃の顔の形は、寧ろ丸い方であつた。

　食卓は、人數が人數だけに、左程大きくはなかつた。部屋の廣さに比例して、寧ろ小《ち》さ過ぎる位であつたが、純白な卓布を、取り集めた花で綴つて、其中に肉刀《ナイフ》と肉匙《フオーク》の色が冴えて輝いた。

　卓上の談話は重に平凡な世間話であつた。始のうちは、それさへ餘り興味が乘らない樣に見えた。父は斯う云ふ場合には、よく百分の好きな書畫骨董の話を持ち出すのを常としてゐた。さうして氣が向けば、いくらでも、藏から出して來て、客の前に陳《なら》べたものである。父の御蔭で、代助は多少｜斯《この》道《みち》に好惡《かうを》を有《も》てる樣になつてゐた。兄も同樣の原因から、畫家の名前位は心得てゐた。たゞし、此《この》方《はう》は掛物の前に立つて、はあ仇英《きうえい》だね、はあ應擧《おうきよ》だねと云ふ丈《だけ》であつた。面白い顔もしないから、面白い樣にも見えなかつた。それから眞僞の鑑定の爲に、蟲眼鏡などを振り舞はさない所は、誠吾も代助も同じ事であつた。父の樣に、こんな波は昔の人は描《か》かないものだから、法にかなつてゐない抔《など》といふ批評は、双方共に、未だ甞て如何なる畫《ぐわ》に對しても加へた事はなかつた。

　父は乾いた會話に色彩を添へるため、やがて好きな方面の問題に觸れて見た。所が一二言《いちにげん》で、高木はさう云ふ事に丸《まる》で無頓着な男であるといふ事が分つた。父は老巧の人だから、すぐ退却した。けれども双方に安全な領分に歸ると、双方共に談話の意味を感じなかつた。父は已《やむ》を得ず、高木に何《ど》んな娯樂があるかを確めた。高木は特別に娯樂を持たない由を答へた。父は萬事休すといふ體裁で、高木を誠吾と代助に託して、しばらく談話の圏外《けんぐわい》に出た。誠吾は、何の苦もなく、神戸の宿屋から、楠公神社やら、手當り次第に話題を開拓して行つた。さうして、其｜中《うち》に自然令孃の演ずべき役割を拵えた。令孃はたゞ簡單に、必要な言葉｜丈《だけ》を報じては逃げた。代助と高木とは、始め同志社を問題にした。それから亞米利加《アメリカ》の大學の?況に移つた。最後にエマーソンやホーソーンの名が出た。代助は、高木に斯う云ふ種類の知識があるといふ事を確めたけれども、たゞ確めた丈《だけ》で、それより以上に深入もしなかつた。從つて文學談は單に二三の人名と書名に終つて、少しも發展しなかつた。

　梅子は固《もと》より初から斷えず口を動かしてゐた。其努力の重《おも》なるものは、無論自分の前にゐる令孃の遠慮と沈黙を打ち崩すにあつた。令孃は禮義上から云つても、梅子の間斷なき質問に應じない譯に行かなかつた。けれども積極的に自分から梅子の心を動かさうと力《つと》めた形迹《けいせき》は殆んどなかつた。たゞ物を云ふときに、少し首を横に曲げる癖があつた。それすら代助には媚を賣るとは解釋出來なかつた。

　令孃は京都で�ﾍ育を受けた。音樂は、始めは琴を習つたが、後《のち》にはピヤノに易《か》えた。?イオリンも少し稽古したが、此方は手の使ひ方が六づかしので、まあ遣らないと同じである。芝居は滅多に行つた事がなかつた。

　「先達《せんだつ》ての歌舞伎座は如何《いかゞ》でした」と梅子が聞いた時、令孃は何とも答へなかつた。代助には夫《それ》が劇を解しないと云ふより、劇を輕蔑してゐる樣に取れた。それだのに、梅子はつゞけて、同じ問題に就いて、甲の役者は何うだの、乙の役者は何だのと評し出した。代助は又｜嫂《あによめ》が論理を踏み外《はづ》したと思つた。仕方がないから、横合から、

　「芝居は御嫌ひでも、小説は御讀みになるでせう」と聞いて芝居の話を已《や》めさした。令孃は其時始めて、一寸代助の方を見た。けれども答は案外に判然《はつきり》してゐた。

　「いえ小説も」

　令孃の答を待ち受けてゐた、主客はみんな聲を出して笑つた。高木は令孃の爲に説明の勞を取つた。その云ふ所によると、令孃の�ﾍ育を受けたミス何とか云ふ婦人の影響で、令孃はある點では殆んど清�ﾍ徒《ピユリタン》の樣に仕込まれてゐるのださうであつた。だから餘程｜時代後《じだいおく》れだと、高木は説明のあとから批評さへ付け加へた。其時は無論誰も笑はなかつた。耶蘇�ﾍ《ヤソけう》に對して、あまり好意を有《も》つてゐない父は、

　「それは結構だ」と賞めた。梅子は、さう云ふ�ﾍ育の價値を全く解する事が出來なかつた。にも拘はらず、

　「本當にね」と趣味に適《かな》はない不得要領の言葉を使つた。誠吾は梅子の言葉が、あまり重い印象を先方に與へない樣に、すぐ問題を易えた。

　「ぢや英語は御上手でせう」

　令孃はいゝえと云つて、心持顔を赤くした。

　食事が濟んでから、主客は又應接間に戻つて、話を始めたが、?燭を繼ぎ足した樣に、新らしい方へは急に火が移りさうにも見えなかつた。梅子は立つて、ピヤノの葢《ふた》を開けて、

　「何か一つ如何《いかゞ》ですか」と云ひながら令孃を顧みた。令孃は固《もと》より席を動かなかつた。

　「ぢや、代《だい》さん、皮切に何か御遣り」と今度は代助に云つた。代助は人に聞かせる程の上手でないのを自覺してゐた。けれども、そんな辯解をすると、問答が理窟臭く、しつこくなる許《ばかり》だから、

　「まあ、葢《ふた》を開けて御置なさい。今に遣るから」と答へたなり、何かなしに、無關係の事を話しつゞけてゐた。

　一時間程して客は歸つた。四人《よつたり》は肩を揃へて玄關迄出た。奧へ這入る時、

　「代助はまだ歸るんぢやなからうな」と父が云つた。代助はみんなから一足《ひとあし》後《おく》れて、鴨居の上に兩手が屆く樣な伸《のび》を一つした。それから、人のゐない應接間と食堂を少しうろ／＼して座敷へ來て見ると、兄と嫂《あによめ》が向き合つて何か話をしてゐた。

　「おい、すぐ歸つちや不可《いけ》ない。御父さんが何か用があるさうだ。奧へ御出《おいで》」と兄はわざとらしい眞面目な調子で云つた。梅子は薄笑ひをしてゐる。代助は黙つて頭を掻いた。

　代助は一人で父の室《へや》へ行く勇氣がなかつた。何とか蚊とか云つて、兄夫婦を引張つて行かうとした。それが旨く成功しないので、とう／＼其所へ坐り込んで仕舞つた。所へ小間使が來て、

　「あの、若旦那樣に一寸、奧迄入らつしやる樣に」と催促した。

　「うん、今行く」と返事をして、それから、兄夫婦に斯ういふ理窟を述べた。――自分一人で父に逢ふと、父があゝ云ふ氣象の所へ持つて來て、自分がこんな圖法螺《ずぼら》だから、殊によると大いに老人《としより》を怒らして仕舞ふかも知れない。さうすると、兄夫婦だつて、後から面倒くさい調停をしたり何かしなければならない。其方が却つて迷惑になる譯だから、骨惜《はねをしみ》をせずに今一寸一所に行つて呉れたら宜《よ》からう。

　兄は議論が嫌《きらひ》な男なので、何んだ下らないと云はぬ許《ばかり》の顔をしたが、

　「ぢや、さあ行かう」と立ち上がつた。梅子も笑ひながらすぐに立つた。三人して廊下を渡つて父の室《へや》に行つて、何事も起らなかつたかの如く着坐した。

　そこでは、梅子が如才なく、代助の過去に父の小言が飛ばない樣な手加減をした。さうして談話の潮流を、成るべく今歸つた來客の品評の方へ持つて行つた。梅子は佐川の令孃を大變｜大人《おとな》しさうな可《い》い子だと賞めた。是には父も兄も代助も同意を表した。けれども、兄は、もし亞米利加《アメリカ》のミスの�ﾍ育を受けたといふのが本當なら、もう少しは西洋流にはき／＼しさうなものだと云ふ疑《うたがひ》を立てた。代助は其疑にも賛成した。父と嫂《あによめ》は黙つてゐた。そこで代助は、あの大人《おとな》しさは、羞恥《はにか》む性質の大人《おとな》しさだから、ミスの�ﾍ育とは獨立に、日本の男女《なんによ》の社交的關係から來たものだらうと説明した。父はそれも左《さ》うだと云つた。梅子は令孃の�ﾍ育地が京都だから、あゝなんぢやないかと推察した。兄は東京だつて、御前見た樣なの許《ばかり》はゐないと云つた。此時父は嚴正な顔をして灰吹《はひふき》を叩いた。次に、容色《きりやう》だつて十人｜並《なみ》より可《い》いぢやありませんかと梅子が云つた。是には父も兄も異議はなかつた。代助も賛成の旨を告白した。四人《よつたり》は夫《それ》から高木の品評に移つた。温健の好人物と云ふ事で、其方はすぐ方付いて仕舞つた。不幸にして誰も令孃の父母《ふぼ》を知らなかつた。けれども、物堅い地味な人だと云ふ丈《だけ》は、父が三人の前で保證した。父はそれを同縣下の多額納税議員の某から確めたのださうである。最後に、佐川家の財産に就ても話が出た。其時父は、あゝ云ふのは、普通の實業家より基礎が確《しつか》りしてゐて安全だと云つた。

　令孃の資格が略《ほゞ》定まつた時、父は代助に向つて、

　「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、何うするかね位の程度ではなかつた。代助は、

　「左樣《さう》ですな」と矢つ張り※［者／火］え切らない答をした。父はじつと代助を見てゐたが、段々皺の多い額を曇らした。兄は仕方なしに、

　「まあ、もう少し善く考へて見るが可《い》い」と云つて、代助の爲に餘裕を付けて呉れた。

　

　　　　　十三

　

　四日程してから、代助は又父の命令で、高木の出立《しつたつ》を新橋迄見送つた。其日は眠い所を無理に早く起されて、寐足らない頭を風に吹かした所爲《せゐ》か、停車場《ステーシヨン》に着く頃、髪の毛の中に風邪《かぜ》を引いた樣な氣がした。待合所に這入るや否や、梅子から顔色が可《よ》くないと云ふ注意を受けた。代助は何にも答へずに、帽子を脱いで、時々濡れた頭を抑えた。仕舞には朝奇麗に分けた髪がもぢや／＼になつた。

　プラツトフオームで高木は突然代助に向つて、

　「何うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」と勸めた。代助はたゞ難有《ありがた》うと答へた丈《だけ》であつた。愈《いよ／＼》汽車の出る間際に、梅子はわざと、窓際に近寄つて、とくに令孃の名を呼んで、

　「近い内に又是非入らつしやい」と云つた。令孃は窓のなかで、叮嚀に會釋したが、窓の外へは別段の言葉も聞えなかつた。汽車を見送つて、又改札場を出た四人《よつた》りは、それぎり離れ／”＼になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は頭を抑えて應じなかつた。

　車に乘つてすぐ牛込へ歸つて、それなり書齋へ這入つて、仰向に倒れた。門野は一寸其樣子を覗きに來たが、代助の平生を知つてゐるので、言葉も掛けず、椅子に引つ掛けてある羽織｜丈《だけ》を抱へて出て行つた。

　代助は寐ながら、自分の近き未來を何うなるものだらうと考へた。斯うして打遣つて置けば、是非共嫁を貰はなければならなくなる。嫁はもう今迄に大分《だいぶ》斷つてゐる。此上斷れば、愛想《あいそ》を盡かされるか、本當に怒り出されるか、何方《どつち》かになるらしい。もし愛想《あいそ》を盡かされて、結婚勸誘をこれ限《かぎ》り斷念して貰へれば、それに越した事はないが、怒られるのは甚だ迷惑である。と云つて、進まぬものを貰ひませうと云ふのは今代人《きんだいじん》として馬鹿氣てゐる。代助は此ヂレンマの間に?徊《ていくわい》した。

　彼は父と違つて、當初からある計畫を拵らえて、自然を其計畫通りに強ひる古風な人ではなかつた。彼は自然を以て人間の拵えた凡《すべ》ての計畫よりも偉大なものと信じてゐたからである。だから父が、自分の自然に逆らつて、父の計畫通りを強ひるならば、それは、去られた妻が、離縁?を楯に夫婦の關係を證據立てやうとすると一般であると考へた。けれども、そんな理窟を、父に向つて述べる氣は、丸《まる》でなかつた。父を理攻《りぜめ》にする事は困難中の困難であつた。其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もなかつた。其結果は父の不興を招く丈《だけ》で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと撰む所はなかつた。

　彼は父と兄と嫂《あによめ》の三人の中《うち》で、父の人格に尤も疑を置いた。今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも父の唯一《ゆゐいつ》の目的ではあるまいと迄推察した。けれども父の本意が何處にあるかは、固《もと》より明かに知る機會を與へられてゐなかつた。彼は子として、父の心意を斯樣に揣摩《しま》する事を、不�ｺ義とは考へなかつた。從つて自分｜丈《だけ》が、多くの親子のうちで、尤も不幸なものであると云ふ樣な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、今日《こんにち》迄の程度より以上に、父と自分の間が隔つて來さうなのを不快に感じた。

　彼は隔離の極端として、父子絶縁の?態を想像して見た。さうして其所に一種の苦痛を認めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。寧ろそれから生ずる財源の杜絶《とぜつ》の方が恐ろしかつた。

　もし馬鈴薯《ポテトー》が金剛石《ダイヤモンド》より大切になつたら、人間はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。向後《かうご》父の怒に觸れて、萬一金錢上の關係が絶えるとすれば、彼は厭でも金剛石《ダイヤモンド》を放《はふ》り出して、馬鈴薯《ポテトー》に?《かじ》り付かなければならない。さうして其｜償《つぐなひ》には自然の愛が殘る丈《だけ》である。其愛の對象は他人の細君であつた。

　彼は寐ながら、何時《いつ》迄も考へた。けれども、彼の頭は何時《いつ》迄も何處へも到着する事が出來なかつた。彼は自分の壽命を極《き》める權利を持たぬ如く、自分の未來をも極《き》め得なかつた。同時に、自分の壽命に、大抵の見當を付け得る如く、自分の未來にも多少の影を認めた。さうして、徒らに其影を捕捉しやうと企てた。

　其時代助の腦の活動は、夕闇を驚ろかす蝙蝠《かはほり》の樣な幻像をちらり／＼と産み出すに過ぎなかつた。其｜羽搏《はゞたき》の光を追ひ掛けて寐てゐるうちに、頭が床《ゆか》から浮き上がつて、ふわ／＼する樣に思はれて來た。さうして、何時《いつ》の間《ま》にか輕い眠に陷《おちい》つた。

　すると突然誰か耳の傍《はた》で半鐘を打つた。代助は火事と云ふ意識さへまだ起らない先に眼を醒ました。けれども跳ね起きもせずに寐てゐた。彼の夢に斯んな音の出るのは殆んど普通であつた。ある時はそれが正氣に返つた後《あと》迄も響いてゐた。五六日｜前《まへ》彼は、彼の家の大いに搖れる自覺と共に眠を破つた。其時彼は明らかに、彼の下に動く疊の樣《さま》を、肩と腰と脊の一部に感じた。彼は又夢に得た心臓の鼓動を、覺めた後《あと》迄持ち傳へる事が?《しば／＼》あつた。そんな場合には聖徒《セイント》の如く、胸に手を當てゝ、眼を開けた儘、じつと天井を見詰めてゐた。

　代助は此時も半鐘の音が、じいんと耳の底で鳴り盡して仕舞ふ迄横になつて待つてゐた。それから起きた。茶の間へ來て見ると、自分の膳の上に簀垂《すだれ》が掛けて、火鉢の傍《そば》に据ゑてあつた。柱時計はもう十二時廻つてゐた。婆さんは、飯を濟ました後《あと》と見えて、下女部屋で御櫃《おはち》の上に肱《ひぢ》を突いて居眠りをしてゐた。門野は何處へ行つたか影さへ見えなかつた。

　代助は風呂場へ行つて、頭を濡らしたあと、獨り茶の間の膳に就いた。そこで、淋《さみ》しい食事を濟まして、再び書齋に戻つたが、久し振りに今日は少し書見をしやうと云ふ心組であつた。

　かねて讀み掛けてある洋書を、栞《しをり》の挾んである所で開けて見ると、前後の關係を丸《まる》で忘れてゐた。代助の記憶に取つて斯う云ふ現象は寧ろ珍らしかつた。彼は學校生活の時代から一種の讀書家であつた。卒業の後《のち》も、衣食の煩《わづらひ》なしに、購讀の利益を適意に収め得る身分を誇りにしてゐた。一｜頁《ページ》も眼を通さないで、日を送ることがあると、習慣上何となく荒廢の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に親《したし》んだ。ある時は讀書そのものが、唯一《ゆゐいつ》なる自己の本領の樣な氣がした。

　代助は今茫然として、烟草を燻《くゆ》らしながら、讀み掛けた頁《ページ》を二三枚あとへ繰《く》つて見た。そこに何《ど》んな議論があつて、それが何《ど》う續くのか、頭を拵える爲に一寸骨を折つた。其努力は艀《はしけ》から棧橋へ移る程樂ではなかつた。食ひ違つた斷面の甲に迷付《まごつ》いてゐるものが、急に乙に移るべく餘儀なくされた樣であつた。代助はそれでも辛抱して、約二時間程眼を頁《ページ》の上に曝《さら》してゐた。が仕舞にとう／＼堪え切れなくなつた。彼の讀んでゐるものは、活字の集合《あつまり》として、ある意味を以て、彼の頭に映ずるには違ないが、彼の肉や血に廻る氣色《けしき》は一向《いつかう》見えなかつた。彼は氷嚢を隔てゝ、氷に食ひ付いた時の樣に物足らなく思つた。

　彼は書物を伏せた。さうして、こんな時に書物を讀むのは無理だと考へた。同時にもう安息する事も出來なくなつたと考へた。彼の苦痛は何時《いつ》ものアンニユイではなかつた。何も爲《す》るのが慵《ものう》いと云ふのとは違つて、何か爲《し》なくてはゐられない頭の?態であつた。

　彼は立ち上がつて、茶の間へ來て、疊んである羽織を又引掛けた。さうして玄關に脱ぎ棄てた下駄を穿《は》いて馳け出す樣に門を出た。時は四時頃であつた。神樂坂を下りて、當もなく、眼に付いた第一の電車に乘つた。車掌に行先を問はれたとき、口から出任《でまか》せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣つた旅放行費の餘りが、三折《みつをり》の深底の方にまだ這入ってゐた。代助は乘車券を買つた後《あと》で、札の數《かず》を調べて見た。

　彼は其晩を赤坂のある待合で暮らした。其所で面白い話を聞いた。ある若くて美くしい女が、去《さ》る男と關係して、其種を宿《やど》した所が、愈《いよ／＼》子を生む段になつて、涙を零《こぼ》して悲しがつた。後《あと》から其譯を聞いたら、こんな年で子供を生ませられるのは情《なさけ》ないからだと答へた。此女は愛を專らにする時機が餘り短か過ぎて、親子の關係が容赦もなく、若い頭の上を襲つて來たのに、一種の無定《むぢやう》を感じたのであつた。それは無論｜堅氣《かたぎ》の女ではなかつた。代助は肉の美と、靈の愛にのみ己《おの》れを捧げて、其他を顧みぬ女の心理?態として、此話を甚だ興味あるものと思つた。

　翌日になつて、代助はとう／＼又三千代に逢ひに行つた。其時彼は腹の中《なか》で、先達《せんだつ》て置いて來た金の事を、三千代が平岡に話したらうか、話さなかつたらうか、もし話したとすれば何《ど》んな結果を夫婦の上に生じたらうか、それが氣掛りだからと云ふ口實を拵らえた。彼は此｜氣掛《きがゝり》が、自分を驅つて、凝《じつ》と落ち付かれない樣に、東西を引張回《ひつぱりまは》した揚句、遂に三千代の方に吹き付けるのだと解釋した。

　代助は家《いへ》を出る前に、昨夕《ゆうべ》着た肌着も單衣《ひとへ》も悉《こと／”＼》く改めて氣を新にした。外は寒暖計の度盛の日を逐ふて騰《あが》る頃であつた。歩いてゐると、濕つぽい梅雨《つゆ》が却つて待ち遠しい程｜熾《さか》んに日が照つた。代助は昨夕《ゆうべ》の反動で、此陽氣な空氣の中に落ちる自分の黒い影が苦になつた。廣い鍔《つば》の夏帽を被りながら、早く雨季《うき》に入《い》れば好《い》いと云ふ心持があつた。其雨季はもう二三日の眼前に逼つてゐた。彼の頭はそれを豫報するかの樣に、どんよりと重かつた。

　平岡の家《うち》の前へ來た時は、曇つた頭を厚く掩《おほ》ふ髪の根元が息切《いき》れてゐた。代助は家《いへ》に入《い》る前に先づ帽子を脱いだ。格子には締りがしてあつた。物音を目的《めあて》に裏へ回ると、三千代は下女と張物をしてゐた。物置の横へ立て掛けた張板の中途から、細い首を前へ出して、曲《こゞ》みながら、苦茶々々《くちや／＼》になつたものを丹念に引き伸ばしつゝあつた手を留《と》めて、代助を見た。一寸は何とも云はなかつた。代助も、しばらくは唯立つてゐた。漸くにして、

　「又來ました」と云つた時、三千代は濡れた手を振つて、馳け込む樣に勝手から上がつた。同時に表へ回れと眼で合圖をした。三千代は自分で沓脱《くつぬぎ》へ下りて、格子の締《しまり》を外《はづ》しながら、

　「無用心だから」と云つた。今迄日の透《とほ》る澄んだ空氣の下で、手を動かしてゐた所爲《せゐ》で、頬の所が熱《ほて》つて見えた。それが額際へ來て何時《いつ》もの樣に蒼白く變つてゐる邊《あたり》に、汗が少し※［者／火］染《にじ》み出した。代助は格子の外から、三千代の極めて薄手な皮膚を眺めて、戸の開《あ》くのを靜かに待つた。三千代は、

　「御待遠さま」と云つて、代助を誘《いざな》ふ樣に、一足横へ退《の》いた。代助は三千代とすれ／＼になつて内へ這入つた。座敷へ來て見ると、平岡の机の前に、紫の座蒲團がちやんと据ゑてあつた。代助はそれを見た時一寸厭な心持がした。土の和《な》れない庭の色が黄色に光る所に、長い草が見苦しく生えた。

　代助は又忙がしい所を、邪魔に來て濟まないといふ樣な尋常な云譯《いひわけ》を述べながら、此無趣味な庭を眺めた。其時三千代をこんな家《うち》へ入れて置くのは實際氣の毒だといふ氣が起つた。三千代は水いぢりで爪先の少しふやけた手を膝の上に重ねて、あまり退屈だから張物をしてゐた所だと云つた。三千代の退屈といふ意味は、夫《をつと》が始終外へ出てゐて、單調な留守居の時間を無聊《ぶれう》に苦しむと云ふ事であつた。代助はわざと、

　「結構な身分ですね」と冷かした。三千代は自分の荒凉《くわうりやう》な胸の中《うち》を代助に訴へる樣子もなかつた。黙つて、次の間《ま》へ立つて行つた。用箪笥の環《くわん》を響かして、赤い天鵞絨《びろうど》で張つた小《ち》さい箱を持つて出て來た。代助の前へ坐つて、それを開けた。中には昔し代助の遣つた指環がちやんと這入つてゐた。三千代は、たゞ

　「可《い》いでせう、ね」と代助に謝罪する樣に云つて、すぐ又立つて次の間へ行つた。さうして、世の中を憚《はゞ》かる樣に、記念の指環をそこ／＼に用箪笥に仕舞つて元の座に戻つた。代助は指環に就ては何事も語らなかつた。庭の方を見て、

　「そんなに閑《ひま》なら、庭の草でも取つたら、何うです」

と云つた。すると今度は三千代の方が黙つて仕舞つた。それが、少時《しばらく》續いた後《あと》で代助は又改ためて聞いた。

　「此間の事を平岡君に話したんですか」

　三千代は低い聲で、

　「いゝえ」と答へた。

　「ぢや、未《ま》だ知らないんですか」と聞き返した。

　其時三千代の説明には、語さうと思つたけれども、比頃平岡はついぞ落ち付いて宅《うち》にゐた事がないので、つい話しそびれて未《ま》だ知らせずにゐると云ふ事であつた。代助は固《もと》より三千代の説明を嘘とは思はなかつた。けれども、五分の閑《ひま》さへあれば夫《をつと》に話される事を、今日《けふ》迄《まで》それなりに爲てあるのは、三千代の腹の中に、何だか話し惡《にく》い或｜蟠《わだか》まりがあるからだと思はずにはゐられなかつた。自分は三千代を、平岡に對して、それだけ罪のある人にして仕舞つたと代助は考へた。けれども夫《それ》は左程《さほど》に代助の良心を螫《さ》すには至らなかつた。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡も此結果に對して明かに責を分《わか》たなければならないと思つたからである。

　代助は三千代に平岡の近來の模樣を尋ねて見た。三千代は例によつて多くを語る事を好まなかつた。然し平岡の妻に對する仕打が結婚當時と變つてゐるのは明かであつた。代助は夫婦が東京へ歸つた當時既にそれを見拔いた。夫《それ》から以後改まつて兩人《ふたり》の腹の中を聞いた事はないが、それが日毎に好くない方に、速度を加へて進行しつゝあるのは殆んど爭ふべからざる事實と見えた。夫婦の間に、代助と云ふ第三者が點ぜられたがために、此疎隔が起つたとすれば、代助は此方面に向つて、もつと注意深く働らいたかも知れなかつた。けれども代助は自己の悟性に訴へて、さうは信ずる事が出來なかつた。彼は此結果の一部分を三千代の病氣に歸《き》した。さうして、肉體上の關係が、夫《をつと》の精神に反響を與へたものと斷定した。又其一部分を子供の死亡に歸《き》した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩に歸した。又他の一部分を會社員としての平岡の失敗に歸した。最後に、殘りの一部分を、平岡の放埒《はうらつ》から生じた經濟事?に歸した。凡《すべ》てを概括した上で、平岡は貰ふべからざる人を貰ひ、三千代は嫁《とつ》ぐ可からざる人に嫁《とつ》いだのだと解決した。代助は心の中《うち》で痛く自分が平岡の依頼に應じて、三千代を彼の爲に周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を動かすが爲に、平岡が妻《さい》から離れたとは、何うしても思ひ得なかつた。

　同時に代助の三千代に對する愛情は、此夫婦の現在の關係を、必須條件《ひつすでうけん》として募《つの》りつゝある事もまた一方では否《いな》み切れなかつた。三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度迄進んでゐたかは、しばらく措《お》くとしても、彼は現在の三千代には決して無頓着でゐる譯には行かなかつた。彼は病氣に冒された三千代をたゞの昔の三千代よりは氣の毒に思つた。彼は小供を亡くなした三千代をたゞの昔の三千代よりは氣の毒に思つた。彼は夫《をつと》の愛を失ひつゝある三千代をたゞの昔の三千代よりは氣の毒に思つた。彼は生活難に苦しみつゝある三千代をたゞの昔の三千代よりは氣の毒に思つた。但《たゞ》し、代助は此夫婦の間を、正面から永久に引き放さうと試みる程大膽ではなかつた。彼の愛はさう逆上してはゐなかつた。

　三千代の眼《ま》のあたり、苦しんでゐるのは經濟問題であつた。平岡が自力で給し得る丈《だけ》の生活費を勝手の方へ回さない事は、三千代の口吻《こうふん》で慥《たしか》であつた。代助は此點｜丈《だけ》でもまづ何うかしなければなるまいと考へた。それで、

　「一つ私《わたし》が平岡君に逢つて、能く話して見やう」と云つた。三千代は淋《さび》しい顔をして代助を見た。旨く行けば結構だが、遣り損《そく》なへば益《ます／＼》三千代の迷惑になる許《ばかり》だとは代助も承知してゐたので、強《し》ひて左樣《さう》しやうとも主張しかねた。三千代は又立つて次の間から一封の書?を持つて來た。書?は薄青い?袋へ這入つてゐた。北海道にゐる父から三千代へ宛てたものであつた。三千代は?袋の中から長い手紙を出して、代助に見せた。

　手紙には向ふの思はしくない事や、物價の高くて活計《くらし》にくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ出たいが都合はつくまいかと云ふ事や、――凡《すべ》て隣れな事ばかり書いてあつた。代助は叮嚀に手紙を卷き返して、三千代に渡した。其時三千代は眼の中に涙を溜めてゐた。

　三千代の父はかつて多少の財産と稱へらるべき田畠の所有者であつた。日露戰爭の當時、人の勸《すゝめ》に應じて株に手を出して全く遣り損《そく》なつてから、潔《いさぎ》よく祖先の地を賣り拂つて、北海道へ渡つたのである。其《その》後《ご》の消息は、代助も今此手紙を見せられる迄｜一向《いつかう》知らなかつた。親類はあれども無きが如しだとは三千代の兄が生きてゐる時分よく代助に語つた言葉であつた。果して三千代は、父と平岡ばかりを便《たより》に生きてゐた。

　「貴方は羨ましいのね」と瞬きながら云つた。代助はそれを否定する勇氣に乏しかつた。しばらくしてから又、

　「何だつて、まだ奧さんを御貰ひなさらないの」と聞いた。代助は此問にも答へる事が出來なかつた。

　しばらく黙然《もくねん》として三千代の顔を見てゐるうちに、

、女の顔から血の色が次第に退《しり》ぞいて行つて、普通よりは眼に付く程蒼白くなつた。其時代助は三千代と差向《さしむかひ》で、より長く坐つてゐる事の危險に、始めて氣が付いた。自然の情合《じやうあひ》から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を驅つて、準繩《じゆんじよう》の埒《らつ》を踏み超えさせるのは、今二三分の裡《うち》にあつた。代助は固《もと》より夫《それ》より先へ進んでも、猶《なほ》素知らぬ顔で引返し得る、會話の方を心得てゐた。彼は西洋の小説を讀むたびに、そのうちに出て來る男女《なんによ》の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆《はうし》で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪《あやし》んでゐた。原語で讀めば兎に角、日本には譯し得ぬ趣味のものと考へてゐた。從つて彼は自分と三千代との關係を發展させる爲に、舶來の臺詞《せりふ》を用ひる意志は毫もなかつた。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危險が潜んでゐた。代助は辛うじて、今一歩と云ふ際どい所で、踏み留《とゞ》まつた。歸る時、三千代は玄關迄送つて來て、

　「淋《さむ》しくつて不可《いけ》ないから、又來て頂戴」と云つた。下女はまだ裏で張物をしてゐた。

　表へ出た代助は、ふら／＼と一丁程歩いた。好《い》い所で切り上げたといふ意識があるべき筈であるのに、彼の心にはさう云ふ滿足が些《ちつ》とも無かつた。と云つて、もつと三千代と對坐してゐて、自然の命ずるが儘に、話し盡して歸れば可《よ》かつたといふ後悔もなかつた。彼は、彼所《あすこ》で切り上げても、五分十分の後《のち》切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した。自分と三千代との現在の關係は、此前逢つた時、既に發展してゐたのだと思ひ出した。否、其前逢つた時既に、と思ひ出した。代助は二人の過去を順次に遡《さかの》ぼつて見て、いづれの斷面にも、二人の間に燃える愛の炎を見出《みいだ》さない事はなかつた。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼は其重量の爲に、足がふらついた。家《いへ》に歸つた時、門野が、

　「大變顔の色が惡い樣ですね、何うかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ行つて、蒼い額から奇麗に汗を拭き取つた。さうして、長く延び過ぎた髪を冷水に浸《ひた》した。

　それから二日程代助は全く外出しなかつた。三日目の午後、電車に乘つて、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢つて、三千代の爲に充分話をする決心であつた。給仕に名刺を渡して、埃だらけの受付に待つてゐる間、彼はしば／＼袂から手帛《ハンケチ》を出して、鼻を掩《おほ》ふた。やがて、二階の應接間へ案内された。其所は風通しの惡い、蒸し暑い、陰氣な狹い部屋であつた。代助は此所で烟草を一本｜吹《ふ》かした。編輯室と書いた戸口が始終｜開《あ》いて、人が出たり這入つたりした。代助の逢ひに來た平岡も其戸口から現はれた。先達《せんだつ》て見た夏服を着て、相變らず奇麗な襟《カラ》とカフスを掛けてゐた。忙《いそが》しさうに、

　「やあ、暫く」と云つて代助の前に立つた。代助も相手に唆《そゝの》かされた樣に立ち上がつた。二人は立ちながら一寸話をした。丁度編輯のいそがしい時で緩《ゆつ》くり何うする事も出來なかつた。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポツケツトから時計を出して見て、

　「失敬だが、もう一時間程して來てくれないか」と云つた。代助は帽子を取つて、又暗い埃だらけの階段を下りた。表へ出ると、夫《それ》でも涼しい風が吹いた。

　代助はあてもなく、其所いらを逍遙《ぶらつ》いた。さうして、愈《いよ／＼》平岡と逢つたら、どんな風に話を切り出さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下《こくか》の安慰を、少しでも與へたい爲に外ならなかつた。けれども、夫《それ》が爲に、却つて平岡の感情を害する事があるかも知れないと思つた。代助は其惡結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ豫想した。然し、其時は何《ど》んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成案はなかつた。代助は三千代と相對《あひたい》づくで、自分等二人の間をあれ以上に何うかする勇氣を有《も》たなかつたと同時に、三千代のために、何かしなくては居られなくなつたのである。だから、今日の會見は、理知の作用から出た安全の策と云ふよりも、寧ろ情《じやう》の旋風《つむじ》に捲き込まれた冒險の働きであつた。其所に平生の代助と異《こと》なる點があらはれてゐた。けれども、代助自身は夫《それ》に氣が付いてゐなかつた。一時間の後《のち》彼は又編輯宝の入口に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。

　裏通りを三四丁來た所で、平岡が先へ立つて或｜家《いへ》に這入つた。座敷の軒に釣荵《つりしのぶ》が懸つて、狹い庭が水で一面に濡れてゐた。平岡は上衣《うはぎ》を脱いで、すぐ胡坐《あぐら》をかいた。代助は左程《さほど》暑いとも思はなかつた。團扇《うちは》は手にした丈《だけ》で濟んだ。

　會話は新聞社内の有樣から始まつた。平岡は忙《いそが》しい樣《やう》で却つて樂《らく》な商賣で好《い》いと云つた。其語氣には別に負惜《まけをし》みの樣子も見えなかつた。代助は、それは無責任だからだらうと調戯《からか》つた。平岡は眞面目になつて、辯解をした。さうして、今日《こんにち》の新聞事業程競爭の烈しくて、機敏な頭を要するものはないと云ふ理由《わけ》を説明した。

　「成程たゞ筆が達者な丈《だけ》ぢや仕樣《しやう》があるまいよ」と代助は別に感服した樣子を見せなかつた。すると、平岡は斯う云つた。

　「僕は經濟方面の係りだが、單にそれ丈《だけ》でも中々面白い事實が擧がつてゐる。ちと、君の家《うち》の會社の内幕でも書いて御覽に入れやうか」

　代助は自分の平生の觀察から、斯んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては居なかつた。

　「書くのも面白いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。

　「無論嘘は書かない積《つもり》だ」

　「いえ、僕の兄の會社ばかりでなく、一列一體に筆誅《ひつちゆう》して貰ひたいと云ふ意味だ」

　平岡は此時｜邪氣《じやき》のある笑ひ方をした。さうして、

　「日糖事件｜丈《だけ》ぢや物足りないからね」と奧齒に物の挾まつた樣に云つた。代助は黙つて酒を飲んだ。話は此調子で段々はずみを失ふ樣に見えた。すると平岡は、實業界の内?に關聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戰爭の當時、大倉組に起つた逸話を代助に吹聽《ふいちやう》した。その時、大倉組は廣島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になつてゐた。それを毎日何頭かづゝ、納めて置いては、夜になると、そつと行つて偸《ぬす》み出して來た。さうして、知らぬ顔をして、翌日《あくるひ》同じ牛を又納めた。役人は毎日々々同じ牛を何遍も買つてゐた。が仕舞に氣が付いて、一遍受取つた牛には燒印を押した。所がそれを知らずに、又｜偸《ぬす》み出した。のみならず、それを平氣に翌日《あくるひ》連れて行つたので、とう／＼露見して仕舞つたのださうである。

　代助は此話を聞いた時、その實社會に觸れてゐる點に於て、現代的滑稽の標本だと思つた。平岡はそれから、幸�ｺ秋水《かうとくしうすゐ》と云ふ社會主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸�ｺ秋水の家《いへ》の前と後《うしろ》に巡査が二三人｜宛《づゝ》晝夜張番をしてゐる。一時は天幕《てんと》を張つて、其中から覗《ねら》つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後《あと》を付ける。萬一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ來たと、夫《それ》から夫《それ》へと電話が掛つて東京市中大騷ぎである。新宿警察署では秋水一人の爲に月々百圓使つてゐる。同じ仲間の飴屋《あめや》が、大道《だいだう》で飴細工を拵えてゐると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になつて仕方がない。

　是も代助の耳には、眞面目な響を與へなかつた。

　「矢つ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は先刻《さつき》の批評を繰り返しながら、代助を挑《いど》んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生《いつも》の樣に普通の世間話をする氣でないので、社會主義の事はそれなりにして置いた。先刻《さつき》平岡の呼ばうと云ふ藝者を無理に已《や》めさしたのも是が爲であつた。

　「實は君に話したい事があるんだが」と代助は遂に云ひ出した。すると、平岡は急に樣子を變へて、落ち付かない眼を代助の上に注《そゝ》いだが、卒然として、

　「そりや、僕も疾《と》うから、何うかする積《つもり》なんだけれども、今の所ぢや仕方がない。もう少し待つて呉れ玉へ。其代り君の兄さんや御父《おとつ》さんの事も、斯うして書かずにゐるんだから」と代助には意表《いヘう》な返事をした。代助は馬鹿々々しいと云ふより、寧ろ一種の憎惡を感じた。

　「君も大分《だいぶ》變つたね」と冷かに云つた。

　「君の變つた如く變つちまつた。斯う摺《す》れちや仕方がない。だから、もう少し待つて呉れ給へ」と答へて、平岡はわざとらしい笑ひ方をした。

　代助は平岡の言語の如何《いかん》に拘はらず、自分の云ふ事｜丈《だけ》は云はうと極めた。なまじい、借金の催促に來たんぢやない抔《など》と辯明すると、又平岡が其裏を行くのが癪だから、向ふの疳違《かんちがひ》は、疳違で構はないとして置いて、此方《こつち》は此方《こつち》の歩《ほ》を進める態度に出た。けれども第一に困つたのは、平岡の勝手元の都合を、三千代の訴へによつて知つたと切り出しては、三千代に迷惑が掛るかも知れない。と云つて、問題が其所に觸れなければ、忠告も助言も全く無益である。代助は仕方なしに迂回《うくわい》した。

　「君は近來斯う云ふ所へ大分《だいぶ》頻繁に出はいりをすると見えて、家《うち》のものとは、みんな御馴染だね」

　「君の樣に金回《かねまは》りが好くないから、さう豪遊も出來ないが、交際《つきあひ》だから仕方がないよ」と云つて、平岡は器用な手付をして猪口《ちよく》を口へ着けた。

　「餘計な事だが、それで家《うち》の方の經濟は、収支｜償《つぐ》なふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した。

　「うん。まあ、好い加減にやつてるさ」

　斯う云つた平岡は、急に調子を落して、極めて氣のない返事をした。代助は夫《それ》限《ぎり》食ひ込めなくなつた。已《やむ》を得ず、

　「不斷は今頃もう家《うち》へ歸つてゐるんだらう。此間僕が訪ねた時は大分《だいぶ》遲かつた樣だが」と聞いた。すると、平岡は矢張問題を回避する樣な語氣で、

　「まあ歸つたり、歸らなかつたりだ。職業が斯う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半《なか》ば自分を辯護するためらしく、曖昧に云つた。

　「三千代さんは淋《さむ》しいだらう」

　「なに大丈夫だ。彼奴《あいつ》も大分《だいぶ》變つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其｜眸《ひとみ》の内に危《あや》しい恐れを感じた。ことによると、此夫婦の關係は元に戻せないなと思つた。もし此夫婦が自然の斧《おの》で割《さ》き限《きり》に割《さ》かれるとすると、自分の運命は取り歸しの付かない未來を眼の前に控えてゐる。夫婦が離れゝば離れる程、自分と三千代はそれ丈《だけ》接近しなければならないからである。代助は即座の衝動の如くに云つた。――

　「そんな事が、あらう筈がない。いくら、變つたつて、そりや唯《たゞ》年を取つた丈《だけ》の變化だ。成るべく歸つて三千代さんに安慰を與へて遣れ」

　「君はさう思ふか」と云ひさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、たゞ、

　「思ふかつて、誰だつて左樣《さう》思はざるを得んぢやないか」と半《なか》ば口から出任《てまか》せに答へた。

　「君は三千代を三年｜前《まへ》の三千代と思つてるか。大分《だいぶ》變つたよ。あゝ、大分變つたよ」と平岡は又ぐいと飲んだ。代助は覺えず胸の動悸を感じた。

　「同《おん》なじだ、僕の見る所では全く同《おんな》じだ。少しも變つてゐやしない」

　「だつて、僕は家《うち》へ歸つても面白くないから仕方がないぢやないか」

　「そんな筈はない」

　平岡は眼を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が逼つた。けれども、罪あるものが雷火に打たれた樣な氣は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは眼の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑はなかつた。彼は平岡夫婦を三年｜前《まへ》の夫婦にして、それを便《たより》に、自分を三千代から永く振り放さうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣つた丈《だけ》であつた。自分と三千代の關係を、平岡から隱す爲の、糊塗策《ことさく》とは毫《がう》も考へてゐなかつた。代助は平岡に對して、左程《さほど》に不信な言動を敢てするには、餘りに高尚であると、優に自己を評價してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に歸つた。

　「だつて、君がさう外へ許《ばかり》出てゐれば、自然金も要る。從つて家《うち》の經濟も旨く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなる丈《だけ》ぢやないか」

　平岡は、白襯衣《しろしやつ》の袖を腕の中途迄｜捲《まく》り上げて、

　「家庭か。家庭もあまり下《くだ》さつたものぢやない。家庭を重く見るのは、君の樣な獨身者に限る樣だね」と云つた。

　此言葉を聞いたとき、代助は平岡が惡《にく》くなつた。あからさまに自分の腹の中《なか》を云ふと、そんなに家庭が嫌《きらひ》なら、嫌《きらひ》でよし、其代り細君を奪《と》つちまふぞと判然《はつきり》知らせたかつた。けれども二人の問答は、其所迄行くには、まだ中々間があつた。代助はもう一遍｜外《ほか》の方面から平岡の内部に觸れて見た。

　「君が東京へ來たてに、僕は君から説�ﾍされたね。何か遣れつて」

　「うん。さうして君の消極な哲學を聞かされて驚ろいた」

　代助は實際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に罹《かゝ》つた人間の如く行爲《アクシヨン》に渇《かわ》いてゐた。彼は行爲《アクシヨン》の結果として、富を冀《こひねが》つてゐたか、もしくは名譽、もしくは權勢を冀《こひねが》つてゐたか。夫《それ》でなければ、活動としての行爲《アクシヨン》其物を求めてゐたか。それは代助にも分らなかつた。

　「僕の樣に精神的に敗殘した人間は、已《やむ》を得ず、あゝ云ふ消極な意見も出すが。――元來意見があつて、人がそれに則《のつと》るのぢやない。人があつて、其人に適した樣な意見が出て來るのだから、僕の説は僕に通用する丈《だけ》だ。決して君の身の上を、あの説で、何うしやうの斯うしやうのと云ふ譯ぢやない。僕はあの時の君の意氣に敬服してゐる。君はあの時自分で云つた如く、全く活動の人だ。是非共活動して貰ひたい」

　「無論大いに遣る積《つもり》だ」

　平岡の答はたゞ此一句｜限《ぎり》であつた。代助は腹の中で首を傾けた。

　「新聞で遣る積《つもり》かね」

　平岡は一寸｜躊躇《ちうちよ》した。が、やがて、判然《はつきり》云ひ放つた。

　「新聞にゐるうちは、新聞で遣る積《つもり》だ」

　「大いに要領を得てゐる。僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから、返事はそれで澤山だ。然し新聞で君に面白い活動が出來るかね」

　「出來る積《つもり》だ」と平岡は簡明な挨拶をした。

　話は此所迄來ても、たゞ抽象的に進んだ丈《だけ》であつた。代助は言葉の上でこそ、要領を得たが、平岡の本體を見屆ける事は些《ちつ》とも出來なかつた。代助は何となく責任のある政府委員か辯護士を相手にしてゐる樣な氣がした。代助は此時思ひ切つた政略的な御世辭を云つた。それには軍神《ぐんしん》廣瀬中佐の例が出て來た。廣瀬中佐は日露戰爭のときに、閉塞隊《へいそくたい》に加はつて斃れたため、當時の人から偶像視《アイドルし》されて、とう／＼軍神と迄｜崇《あが》められた。けれども、四五年｜後《ご》の今日《こんにち》に至つて見ると、もう軍神廣瀬中佐の名を口にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。英雄《ヒーロー》の流行廢《はやりすたり》はこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於で、英雄《ヒーロー》とは其時代に極めて大切な人といふ事で、名前｜丈《だけ》は偉さうだけれども、本來は甚だ實際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亞《ロシア》と戰爭の最中《さいちゆう》こそ、閉塞隊《へいそくたい》は大事だらうが、平和克復《へいわこくふく》の曉には、百の廣瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人に對して現金である如く、英雄《ヒーロー》に對しても現金である。だから、斯う云ふ偶像《アイドル》にも亦常に新陳代謝や生存競爭が行はれてゐる。さう云ふ譯で、代助は英雄《ヒーロー》なぞに擔《かつ》がれたい了見は更にない。が、もし茲《こゝ》に野心があり覇氣《はき》のある快男子があるとすれば、一時的の劔の力よりも、永久的の筆の力で、英雄《ヒーロー》になつた方が長持がする。新聞は其方面の代表的事業である。

　代助は此所迄述べて見たが、元來が御世辭の上に、云ふ事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、氣が乘らなかつた。平岡は其返事に、

　「いや難有《ありがた》う」と云つた丈《だけ》であつた。別段腹を立てた樣子も見えなかつたが、些《ちつ》とも感激してゐないのは、此返事でも明かであつた。

　代助は少々平岡を低く見過ぎたのに恥ぢ入つた。實は此側から、彼の心を動かして、旨く油の乘つた所を、中途から轉がして、元の家庭へ滑り込ませるのが、代助の計畫であつた。代助は此｜迂遠《うゑん》で、又尤も困難の方法の出立點から、程遠からぬ所で、蹉跌《さてつ》して仕舞つた。

　其夜代助は平岡と遂に愚圖々々で分れた。會見の結果から云ふと、何の爲に平岡を新聞社に訪ねたのだか、自分にも分らなかつた。平岡の方から見れば、猶更《なほさら》左樣《さう》であつた。代助は必竟何しに新聞社迄出掛けて來たのか、歸る迄ついに問ひ詰めずに濟んで仕舞つた。

　代助は翌日になつて獨り書齋で、昨夕《ゆうべ》の有樣を何遍となく頭の中で繰り返した。二時間も一所に話してゐるうちに、自分が平岡に對して、比較的眞面目であつたのは、三千代を辯護した時｜丈《だけ》であつた。けれども其眞面目は、單に動機の眞面目で、口にした言葉は矢張｜好《いゝ》加減な出任《でまか》せに過ぎなかつた。嚴酷に云へば、嘘｜許《ばかり》と云つても可《よ》かつた。自分で眞面目だと信じてゐた動機でさへ、必竟は自分の未來を救ふ手段である。平岡から見れば、固《もと》より眞摯《しんし》なものとは云へなかつた。まして、其他の談話に至ると、始めから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ落し込まうと、たくらんで掛つた、打算的のものであつた。從つて平岡を何うする事も出來なかつた。

　もし思ひ切つて、三千代を引合に出して、自分の考へ通りを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もつと強い事が云へた。もつと平岡を動搖《ゆすぶ》る事が出來た。もつと彼の肺腑《はいふ》に入《い》る事が出來た。に違ない。其代り遣り損へば、三千代に迷惑がかゝつて來る。平岡と喧嘩になる。かも知れない。

　代助は知らず／＼の間に、安全にして無能力な方針を取つて、平岡に接してゐた事を腑甲斐なく思つた。もし斯う云ふ態度で平岡に當りながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡に委《ゆだ》ねて置けない程の不安があるならば、それは論理の許さぬ矛盾を、厚顔に犯してゐたと云はなければならない。

　代助は昔の人が、頭腦の不明瞭な所から、實は利己本位の立場に居りながら、自《みづか》らは固く人の爲と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、其結果遂に相手を、自分の思ふ通りに動かし得たのを羨ましく思つた。自分の頭が、その位のぼんやりさ加減であつたら、昨夕《ゆうべ》の會談にも、もう少し感激して、都合のいゝ効果を収める事が出來たかも知れない。彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だと云はれてゐた。彼の解剖によると、事實は斯うであった。――人間は熱誠を以て當つて然るべき程に、高尚な、眞摯《しんし》な、純粹な、動機や行爲を常住に有するものではない。夫《それ》よりも、ずつと下等なものである。其下等な動機や行爲を、熱誠に取り扱ふのは、無分別なる幼稚な頭腦の所有者か、然らざれば、熱誠を衒《てら》つて、己《おの》れを高くする山師に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは云へまいが、よりよく人間を解剖した結果には外ならなかつた。彼は普通自分の動機や行爲を、よく吟味《ぎんみ》して見て、其あまりに、狡黠《ずる》くつて、不眞面目で、大抵は虚僞を含んでゐるのを知つてゐるから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する氣になれなかつたのである。と、彼は斷然信じてゐた。

　此所で彼は一《いつ》のヂレンマに達した。彼は自分と三千代との關係を、直線的に自然の命ずる通り發展させるか、又は全然其反對に出でゝ、何も知らぬ昔に返るか。何方《どつち》かにしなければ生活の意義を失つたものと等しいと考へた。其他のあらゆる中途半端の方法は、僞《いつはり》に始つて、僞に終るより外に道はない。悉《こと／”＼》く社會的に安全であつて、悉く自己に對して無能無力である。と考へた。

　彼は三千代と自分の關係を、天意によつて、――彼はそれを天意としか考へ得られなかつた。――?酵《はつかう》させる事の社會的危險を承知してゐた。天意には叶《かな》ふが、人の掟《おきて》に背《そむ》く戀は、其戀の主《ぬし》の死によつて、始めて社會から認められるのが常であつた。彼は萬一の悲劇を二人の間に描《ゑが》いて、覺えず慄然《りつぜん》とした。

　彼は又反對に、三千代と永遠の隔離を想像して見た。其時は天意に從ふ代りに、自己の意志に殉《じゆん》ずる人にならなければ濟まなかつた。彼は其手段として、父や嫂《あによめ》から勸められてゐた結婚に思ひ至つた。さうして、此結婚を肯《うけが》ふ事が、凡《すべ》ての關係を新《あらた》にするものと考へた。

　

　　　　　十四

　

　自然の兒《じ》にならうか、又意志の人にならうかと代助は迷つた。彼は彼の主義として、彈力性のない硬張《こはば》つた方針の下《もと》に、寒暑にさへすぐ反應を呈する自己を、器械の樣に束縛するの愚《ぐ》を忌《い》んだ。同時に彼は、彼の生活が、一大斷案を受くべき危機に達して居る事を切《せつ》に自覺した。

　彼は結婚問題に就て、まあ能く考へて見ろと云はれて歸つたぎり、未《いま》だに、それを本氣に考へる閑《ひま》を作らなかつた。歸った時、まあ今日《けふ》も虎口を逃《のか》れて難有《ありがた》かつたと感謝したぎり、放《はふ》り出して仕舞つた。父からはまだ何とも催促されないが、此二三日は又青山へ呼び出されさうな氣がしてならなかつた。代助は固《もと》より呼び出される迄何も考へずに居る氣であつた。呼び出されたら、父の顔色と相談の上、又何とか即席に返事を拵らえる心組であつた。代助はあながち父を馬鹿にする了見ではなかつた。あらゆる返事は、斯う云ふ具合に、相手と自分を商量《しやうりやう》して、臨機に湧いて來るのが本當だと思つてゐた。

　もし、三千代に對する自分の態度が、最後の一歩前迄押し詰められた樣な氣特がなかつたなら、代助は父に對して無論さう云ふ所置を取つたらう。けれども、代助は今相手の顔色｜如何《いかん》に拘《かゝ》はらず、手に持つた賽《さい》を投げなければならなかつた。上になつた目が、平岡に都合が惡からうと、父の氣に入らなからうと、賽を投げる以上は、天の法則通りになるより外に仕方はなかつた。賽を手に持つ以上は、又賽が投げられ可く作られたる以上は、賽の目を極《き》めるものは自分以外にあらう筈はなかつた。代助は、最後の權威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。父も兄も嫂《あによめ》も平岡も、決斷の地平線上には出て來なかつた。

　彼はたゞ彼の運命に對してのみ卑怯であつた。此四五日は掌《てのひら》に載せた賽を眺め暮らした。今日もまだ握つてゐた。早く運命が戸外《そと》から來て、其手を輕く敲《はた》いて呉れゝば好いと思つた。が、一方では、まだ握つてゐられると云ふ意識が大層嬉しかつた。

　門野は時々書齋へ來た。來る度に代助は洋卓《デスク》の前に凝《じつ》としてゐた。

　「些《ちつ》と散歩にでも御出《おいで》になつたら如何《いかゞ》です。左樣《さう》御勉強ぢや身體に惡いでせう」と云つた事が一二度あつた。成程顔色が好くなかつた。夏向になつたので、門野が湯を毎日沸かして呉れた。代助は風呂場に行くたびに、長い間鏡を見た。髯の濃い男なので、少し延びると、自分には大層見苦しく見えた。觸つて、ざら／＼すると猶《なほ》不愉快だつた。

　飯は依然として、普通の如く食つた。けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、腦の屈託とで、排泄機能《はいせつきのう》に變化を起した。然し代助はそれを何とも思はなかつた。生理?態は殆んど苦にする暇《いとま》のない位、一つ事をぐる／＼回《まは》つて考へた。それが習慣になると、終局なく、ぐる／＼回《まは》つてゐる方が、埒《らつ》の外《そと》へ飛び出す努力よりも却つて樂になつた。

　代助は最後に不決斷の自己嫌惡に陷《おちい》つた。已《やむ》を得ないから、三千代と自分の關係を發展させる手段として、佐川の縁談を斷らうかと迄考へて、覺えず驚ろいた。然し三千代と自分の關係を絶つ手段として、結婚を許諾して見《み》樣《やう》かといふ氣は、ぐる／＼回轉してゐるうちに一度も出て來なかつた。

　縁談を斷る方は單獨にも何遍となく決定が出來た。たゞ斷つた後《あと》、其反動として、自分をまともに三千代の上に浴《あび》せかけねば已《や》まぬ必然の勢力が來るに違ないと考へると、其所に至つて、又恐ろしくなつた。

　代助は父からの催促を心待に待つてゐた。しかし父からは何の便《たより》もなかつた。三千代にもう一遍逢はうかと思つた。けれども、それ程の勇氣も出なかつた。

　一番仕舞に、結婚は道�ｺの形式に於て、自分と三千代を遮斷するが、道�ｺの内容に於て、何等の影響を二人の上に及ぼしさうもないと云ふ考が、段々代助の腦裏に勢力を得て來た。既に平岡に嫁《とつ》いだ三千代に對して、こんな關係が起り得るならば、此上自分に既婚者の資格を與へたからと云つて、同樣の關係が續かない譯には行かない。それを續かないと見るのはたゞ表向の沙汰で、心を束縛する事の出來ない形式は、いくら重ねても苦痛を�揩ｷ許《ばかり》である。と云ふのが代助の論法であつた。代助は縁談を斷るより外に道はなくなつた。

　斯う決心した翌日、代助は久し振りに髪を刈つて髯を剃つた。梅雨《つゆ》に入《い》つて二三日凄まじく降つた揚句なので、地面にも、木の枝にも、埃らしいものは悉《こと／”＼》くしつとりと靜まつてゐた。日の色は以前より薄かつた。雲の切れ間から、落ちて來る光線は、下界の濕《しめ》り氣《け》のために、半ば反射力を失つた樣に柔らかに見えた。代助は床屋の鏡で、わが姿を映しながら、例の如くふつくらした頬を撫でゝ、今日から愈《いよ／＼》積極的生活に入るのだと思つた。

　青山へ來て見ると、玄關に車が二臺程あつた。供待《ともまち》の車夫は蹴込《けこみ》に倚《よ》り懸つて眠つた儘、代助の通り過ぎるのを知らなかつた。座敷には梅子が新聞を膝の上へ乘せて、込み入つた庭の緑をぼんやり眺めてゐた。是もぽかんと眠むさうであつた。代助はいきなり梅子の前へ坐つた。

　「御父さんは居ますか」

　嫂《あによめ》は返事をする前に、一應代助の樣子を、試驗官の眼で見た。

　「代さん、少し瘠せた樣ぢやありませんか」と云つた。代助は又頬を撫でて、

　「そんな事も無いだらう」と打ち消した。

　「だつて、色澤《いろつや》が惡いのよ」と梅子は眼を寄せて代助の顔を覗き込んだ。

　「庭の所爲《せゐ》だ。青葉が映るんだ」と庭の植込の方を見たが、「だから貴方だつて、矢つ張り蒼いですよ」と續けた。

　「私《わたし》、此二三日具合が好くないんですもの」

　「道理でぽかんとして居ると思つた。何うかしたんですか。風邪《かぜ》ですか」

　「何だか知らないけれど生欠《なまあくび》許《ばか》り出て」

　梅子は斯う答へて、すぐ新聞を膝から卸すと、手を鳴らして、小間使を呼んだ。代助は再び父の在、不在を確めた。梅子は其問をもう忘れてゐた。聞いて見ると、玄關にあつた車は、父の客の乘つて來たものであつた。代助は長く懸《か》ゝらなければ、客の歸る迄待たうと思つた。嫂《あによめ》は判然《はつきり》しないから、風呂場へ行つて、水で顔を拭いて來ると云つて立つた。下女が好い香《にほひ》のする葛《くず》の粽《ちまき》を、深い皿に入れて持つて來た。代助は粽《ちまき》の尾をぶら下げて、頻りに嗅いで見た。

　梅子が凉しい眼付になつて風呂場から歸つた時、代助は粽《ちまき》の一つを振子《ふりこ》の樣に振りながら、今度は、

　「兄さんは何うしました」と聞いた。梅子はすぐ此陳腐な質問に答へる義務がないかの如く、しばらく椽鼻《えんばな》に立つて、庭を眺めてゐたが、

　「二三日《にさんち》の雨で、苔の色が悉皆《すつかり》出た事」と平生に似合はぬ觀察をして、故《もと》の席に返つた。さうして、

　「兄さんが何うしましたつて」と聞き直した。代助が先の質問を繰り返した時、嫂《あによめ》は尤も無頓着な調子で、

　「何うしましたつて、例の如くですわ」と答へた。

　「相變らず、留守勝ですか」

　「えゝ、えゝ、朝も晩も滅多に宅《うち》に居た事はありません」

　「姉さんは夫《それ》で淋《さむ》しくはないですか」

　「今更改まつて、そんな事を聞いたつて仕方がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ出した。調戯《からか》ふんだと思つたのか、あんまり小供｜染《じ》みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ氣色《けしき》はなかつた。代助も平生の自分を振り返つて見て、眞面目に斯んな質問を掛けた今の自分を、寧ろ奇體に思つた。今日《こんにち》迄兄と嫂《あによめ》の關係を長い間目撃してゐながら、ついぞ其所には氣が付かなかつた。嫂《あによめ》も亦代助の氣が付く程物足りない素顔は見せた事がなかつた。

　「世間の夫婦は夫《それ》で濟んで行くものかな」と獨言の樣に云つたが、別に梅子の返事を豫期する氣でもなかつたので、代助は向《むかふ》の顔も見ず、たゞ疊の上に置いてある新聞に眼を落した。すると梅子は忽ち、

　「何ですつて」と切り込む樣に云つた。代助の眼が、其調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、

　「だから、貴方が奧さんを御貰ひなすつたら、始終｜宅《うち》に許《ばかり》ゐて、たんと可愛がつて御上げなさいな」と云つた。代助は始めて相手が梅子であつて、自分が平生の代助でなかつた事を自覺した。それで成るべく不斷の調子を出さうと力《つと》めた。

　けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、其謝絶に次いで起るべき、三千代と自分の關係にばかり注《そゝ》がれてゐた。從つて、いくら平生の自分に歸つて、梅子の相手になる積《つもり》でも、梅子の豫期してゐない、變つた音色《ねいろ》が、時々會話の中に、思はず知らず出て來た。

　「代さん、貴方今日は何うかしてゐるのね」と仕舞に梅子が云つた。代助は固《もと》より嫂《あによめ》の言葉を側面へ摺《ず》らして受ける法をいくらでも心得てゐた。然るに、それを遣るのが、輕薄の樣で、又面倒な樣で、今日は厭になつた。却つて眞面目に、何處が變か�ﾍへて呉れと頼んだ。梅子は代助の問が馬鹿氣てゐるので妙な顔をした。が、代助が益《ます／＼》頼むので、では云つて上げませうと前置をして、代助の何うかしてゐる例を擧げ出した。梅子は勿論わざと眞面目を裝つてゐるものと代助を解釋した。其｜中《なか》に、

　「だつて、兄さんが留守勝で、嘸《さぞ》御淋《おさむ》しいでせうなんて、あんまり思遣りが好過ぎる事を仰しやるからさ」と云ふ言葉があつた。代助は其所へ自分を挾んだ。

　「いや、僕の知つた女に、左樣《さう》云ふのが一人あつて、實は甚だ氣の毒だから、つい他《ほか》の女の心持も聞いて見たくなつて、伺つたんで、決して冷かした積《つもり》ぢやないんです」

　「本當に？　夫《そり》や一寸《ちよいと》何てえ方なの」

　「名前は云ひ惡《にく》いんです」

　「ぢや、貴方が其旦那に忠告をして、奧さんをもつと可愛がるやうにして御上げになれば可《い》いのに」

　代助は微笑した。

　「姉さんも、さう思ひますか」

　「當り前ですわ」

　「もし其｜夫《をつと》が僕の忠告を聞かなかつたら、何うします」

　「そりや、何うも仕樣がないわ」

　「放《はふ》つて置くんですか」

　「放《はふ》つて置かなけりや、何うなさるの」

　「ぢや、其細君は夫《をつと》に對して細君の道を守る義務があるでせうか」

　「大變理責めなのね。夫《そり》や旦那の不親切の度合にも因《よ》るでせう」

　「もし、其細君に好きな人があつたら何うでず」

　「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人がある位なら、始めつから其方《そつち》へ行つたら好いぢやありませんか」

　代助は黙つて考へた。しばらくしてから、姉《ねえ》さんと云つた。梅子は其深い調子に驚ろかされて、改ためて代勤の顔を見た。代助は同じ調子で猶《なほ》云つた。

　「僕は今度の縁談を斷らうと思ふ」

　代勘の卷烟草を持つた手が少し顫へた。梅子は寧ろ表情を失つた顔付をして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の樣子に頓着なく進行した。

　「僕は今迄結婚問題に就いて、貴方に何返となく迷惑を掛けた上に、今度も亦心配して貰つてゐる。僕ももう三十だから、貴方の云ふ通り、大抵な所で、御勸め次第になつて好いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ已《や》めにしたい希望です。御父さんにも、兄さんにも濟まないが、仕方がない。何も當人が気に入らないと云ふ譯ではないが、斷るんです。此間御父さんによく考へて見ろと云はれて、大分《だいぶ》考へて見たが、矢つ張り斷る方が好い樣だから斷ります。實は今日は其用で御父さんに逢ひに來たんですが、今御客の樣だから、序《ついで》と云つては失禮だが、貴方にも御話をして置きます」

　梅子は代助の樣子が眞面目なので、何時《いつ》もの如く無駄口も入れずに聞いてゐたが、聞き終つた時、始めて自分の意見を述べた。それが極《きは》めて簡單な且つ極《きは》めて實際的な短かい句であつた。

　「でも、御父さんは屹度《きつと》御困りですよ」

　「御父さんには僕が直《ぢか》に話すから構ひません」

　「でも、話がもう此所迄進んでゐるんだから」

　「話が何所迄進んでゐやうと、僕はまだ貰ひますと云つた事はありません」

　「けれども判然《はつきり》貰はないとも仰しやらなかつたでせう」

　「それを今云ひに來た所です」

　代助と梅子は向ひ合つたなり、しばらく黙つた。

　代助の方では、もう云ふ可き事を云ひ盡くした樣な氣がした。少なくとも、是より進んで、梅子に自分を説明しやうといふ考へは丸《まる》で無かつた。梅子は語るべき事、聞くべき事を澤山持つてゐた。たゞ夫《それ》が咄嗟《とつさ》の間《あひだ》に、前の問答に繋がり好く、口へ出て來なかつたのである。

　「貴方の知らない間《ま》に、縁談が何《ど》れ程進んだのか、私《わたし》にも能く分らないけれど、誰にしたつて、貴方が、さう的確《きつぱり》御斷りなさらうとは思ひ掛けないんですもの」と梅子は漸くにして云つた。

　「何故《なぜ》です」と代助は冷かに落ち付いて聞いた。梅子は眉を動かした。

　「何故ですつて聞いたつて、理窟ぢやありませんよ」

　「理窟でなくつても構はないから話して下さい」

　「貴方の樣にさう何遍斷つたつて、詰り同《おんな》じ事ぢやありませんか」と梅子は説明した。けれども、其意味がすぐ代助の頭には響かなかつた。不可解の眼を擧げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を布衍《ふえん》しに掛かつた。

　「つまり、貴方だつて、何時《いつ》か一度は、御奧《おく》さんを貰ふ積《つもり》なんでせう。厭だつて、仕方がないぢやありませんか。其樣《さう》何時《いつ》迄も我儘を云つた日には、御父さんに濟まない丈《だけ》ですわ。だからね。何うせ誰を持つて行つても氣に入らない貴方なんだから、つまり誰を持たしたつて同《おんな》じだらうつて云ふ譯なんです。貴方には何《ど》んな人を見せでも駄目なんですよ。世の中に一人も氣に入る樣なものは生きてやしませんよ。だから、奧さんと云ふものは、始めから氣に入らないものと、諦らめて貰ふより外に仕方がないぢやありませんか。だから私達《わたしたち》が一番好いと思ふのを、黙つて貰へば、夫《それ》で何所《どこ》も彼所《かしこ》も丸く治まつちまふから、――だから、御父さんが、殊によると、今度《こんだ》は、貴方に一から十迄相談して、何か爲《な》さらないかも知れませんよ。御父さんから見れば夫《それ》が當り前ですもの。さうでも、爲《し》なくつちや、生きてる内に、貴方の奧さんの顔を見る事は出來ないぢやありませんか」

　代助は落ち付いて嫂《あによめ》の云ふ事を聽いてゐた。梅子の言葉が切れても、容易に口を動かさなかつた。若し反駁をする日には、話が段々込み入る許《ばかり》で、此方《こちら》の思ふ所は決して、梅子の耳へ通らないと考へた。けれども向ふの云《い》ひ分《ぶん》を肯《うけが》ふ氣は丸《まる》でなかつた。實際問題として、双方が困る樣になる許《ばかり》と信じたからである。それで、嫂《あによめ》に向つて、

　「貴方の仰しやる所も、一理あるが、私《わたし》にも私《わたし》の考があるから、まあ打遣つて置いて下さい」と云つた。其調子には梅子の干渉を面倒がる氣色《けしき》が自然と見えた。すると梅子は黙つてゐなかつた。

　「そりや代さんだつて、小供ぢやないから、一人前の考の御有りな事は勿論ですわ。私《わたし》なんぞの要《い》らない差出口は御迷惑でせうから、もう何《なん》にも申しますまい。然し御父さんの身になつて御覽なさい。月々の生活費は貴方の要ると云ふ丈《だけ》今でも出して入らつしやるんだから、つまり貴方は書生時代よりも餘計御父さんの厄介になつてる譯でせう。さうして置いて、世話になる事は、元より世話になるが、年を取つて一人前《いちにんまへ》になつたから、云ふ事は元の通りには聞かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか」

　梅子は少し激したと見えて猶《なほ》も云ひ募らうとしたのを、代助が遮《さへぎつ》た。

　「だつて、女房を持てば此上｜猶《なほ》御父さんの厄介に爲《な》らなくつちや爲らないでせう」

　「宜《い》いぢやありませんか、御父さんが、其《その》方《はう》が好いと仰しやるんだから」

　「ぢや、御父さんは、いくら僕の氣に入らない女房でも、是非持たせる決心なんですね」

　「だつて、貴方に好《す》いたのがあればですけれども、そんなのは日本中探して歩いたつて無いんぢやありませんか」

　「何うして、夫《それ》が分ります」

　梅子は張の強い眼を据ゑて、代助を見た。さうして、

　「貴方は丸《まる》で代言人の樣な事を仰しやるのね」と云つた。代助は蒼白くなつた額を嫂《あによめ》の傍《そば》へ寄せた。

　「姉さん、私《わたし》は好いた女があるんです」と低い聲で云ひ切つた。

　代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた。梅子も始めはそれを本氣に受けた。そつと手を廻して眞相を探つて見た抔《など》といふ滑稽もあつた。事實が分つて以後は、代助の所謂好いた女は、梅子に對して一向｜利目《きゝめ》がなくなつた。代助がそれを云ひ出しても、丸《まる》で取り合はなかつた。でなければ、茶化《ちやか》してゐた。代助の方でも夫《それ》で平氣であつた。然し此場合｜丈《だけ》は彼に取つて、全く特別であつた。顔付と云ひ、眼付と云ひ、聲の低い底に籠る力と云ひ、此所迄押し逼つて來た前後の關係と云ひ、凡《すべ》ての點から云って、梅子をはつと思はせない譯に行かなかつた。嫂《あによめ》は此短い句を、閃めく懷劔の如くに感じた。

　代助は帶の間から時計を出して見た。父の所へ來てゐる客は中々歸りさうにもなかつた。空は又曇つて來た。代助は一旦引き上げて又改ためて、父と話を付けに出直《でなほ》す方が便宜だと考へた。

　「僕は又來ます。出直して來て御父さんに御目に掛る方が好いでせう」と立ちにかゝつた。梅子は其間に回復した。梅子は飽く迄人の世話を燒く實意のある丈《だけ》に、物を中途で投げる事の出來ない女であつた。抑える樣に代助を引き留めて、女の名を聞いた。代助は固《もと》より答へなかつた。梅子は是非にと逼つた。代助は夫《それ》でも應じなかつた。すると梅子は何故《なぜ》其女を貰はないのかと聞き出した。代助は單純に貰へないから、貰はないのだと答へた。梅子は仕舞に涙を流した。他《ひと》の盡力を出し拔いたと云つて恨んだ。何故《なぜ》始から打ち明けて話さないかと云つて責めた。かと思ふと、氣の毒だと云つて同情して呉れた。けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語らなかつた。梅子はとう／＼我《が》を折つた。代助の愈《いよ／＼》歸ると云ふ間際になつて、

　「ぢや、貴方から直《ぢか》に御父さんに御話しなさるんですね。それ迄は私は黙つてゐた方が好いでせう」と聞いた。代助は黙つてゐて貰ふ方が好いか、話して貰ふ方が好いか、自分にも分らなかつた。

　「左樣《さう》ですね」と躊躇したが、「どうせ、斷りに來るんだから」と云つて嫂《あによめ》の顔を見た。

　「ぢや、若し話す方が都合が好ささうだつたら話しませう。もし又｜惡《わ》るい樣だつたら、何《なん》にも云はずに置くから、貴方が始から御話しなさい。夫《それ》が宜《い》いでせう」と梅子は親切に云つて呉れた。代助は、

　「何分宜しく」と頼んで外へ出た。角へ來て、四谷から歩く積《つもり》で、わざと、鹽町《しほちやう》行の電車に乘つた。練兵｜場《ば》の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨《つゆ》には珍らしい夕陽《せきやう》が、眞赤《まつか》になつて廣い原一面を照らしてゐた。それが向《むかふ》を行く車の輪に中《あた》つて、輪が回る度に鋼鐵《はがね》の如く光つた。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見える程、廣かつた。日は血の樣に毒々しく照つた。代助は此光景を斜めに見ながら、風を切つて電車に持つて行かれた。重い頭の中がふら／＼した。終點迄來た時は、精神が身體を冒したのか、精神の方が身體に冒されたのか、厭な心持がして早く電車を降《お》りたかつた。代助は雨の用心に持つた蝙蝠傘《かうもりがさ》を、杖の如く引き摺《ず》つて歩いた。　歩きながら、自分は今日、自ら進んで、自分の運命の半分を破壞したのも同じ事だと、心のうちに囁《つぶや》いだ。今迄は父や嫂《あによめ》を相手に、好い加減な間隔を取つて、柔らかに自我を通して來た。今度は愈《いよ／＼》本性を露《あら》はさなければ、それを通し切れなくなつた。同時に、此方面に向つて、在來の滿足を求め得る希望は少なくなつた。けれども、まだ逆戻りをする餘地はあつた。たゞ、夫《それ》には又父を胡魔化《ごまか》す必要が出て來るに違なかつた。代助は腹の中で今迄の我《われ》を冷笑した。彼は何うしても、今日の告白を以て、自己の運命の半分を破壞したものと認めたかつた。さうして、それから受ける打撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、掩《お》つ被《かぶ》さる樣《やう》に烈しく働き掛けたかつた。

　彼は此次父に逢ふときは、もう一歩も後《あと》へ引けない樣に、自分の方を拵へて置きたかつた。それで三千代と會見する前に、又父から呼び出される事を深く恐れた。彼は今日｜嫂《あによめ》に、自分の意思を父に話す話さないの自由を與へたのを悔いた。今夜にも話されゝば、明日《あした》の朝呼ばれるかも知れない。すると今夜中に三千代に逢つて己《おの》れを語つて置く必要が出來る。然し夜だから都合がよくないと思つた。

　津守《つのかみ》を下りた時、日は暮れ掛かつた。士官學校の前を眞直に濠端《ほりばた》へ出て、二三町來ると砂土原町《さどはらちやう》へ曲がるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた。彼は例の如くに宅《うち》へ歸つて、一夜《いちや》を安閑と、書齋の中で暮すに堪えなかつたのである。濠を隔てゝ高い土手の松が、眼のつゞく限り黒く並《なら》んでゐる底の方を、電車がしきりに通つた。代助は輕い箱が、軌道《レール》の上を、苦もなく滑つて行つては、又滑つて歸る迅速な手際に、輕快の感じを得た。其代り自分と同じ路を容赦なく往來《ゆきき》する外濠線《そとぼりせん》の車を、常よりは騷々敷《さう／”＼しく》惡《にく》んだ。牛込見附迄來た時、遠くの小石川の森に數點の灯影《ひかげ》を認めた。代助は夕飯《ゆふめし》を食ふ考もなく、三千代のゐる方角へ向いて歩いて行つた。

　約二十分の後《のち》、彼は安藤坂を上《あが》つて、傳通院の燒跡の前へ出た。大きな木が、左右から被《かぶ》さつてゐる間《あひだ》を左《ひだ》りへ拔けて、平岡の家《いへ》の傍《そば》迄來ると、板塀から例の如く灯《ひ》が射してゐた。代助は塀の本《もと》に身を寄せて、凝《じつ》と樣子を窺つた。しばらくは、何の音もなく、家《いへ》のうちは全く靜であつた。代助は門を潜《くゞ》つて、格子の外から、頼むと聲を掛けて見《み》樣《やう》かと思つた。すると、椽側《えんがは》に近く、ぴしやりと脛《すね》を叩く音がした。それから、人が立つて、奧へ這入つて行く氣色《けしき》であつた。やがて話聲が聞えた。何の事か善く聽き取れなかつたが、聲は慥《たしか》に、平岡と三千代であつた。話聲はしばらくで歇《や》んで仕舞つた。すると又足音が椽側《えんがは》迄近付いて、どさりと尻《しり》を卸《おろ》す音が手に取る樣に聞えた。代助は夫《それ》なり塀の傍《そば》を退《しりぞ》いた。さうして元來た道とは反對の方角に歩き出した。

　しばらくは、何處を何う歩いてゐるか夢中であつた。其《その》間《あひだ》代助の頭には今見た光景ばかりが煎り付く樣に踴《をど》つてゐた。それが、少し衰へると、今度は自己の行爲に對して、云ふべからざる汚辱の意味を感じた。彼は何の故に、斯《か》ゝる下劣な眞似をして、恰かも驚ろかされたかの如くに退却したのかを怪しんだ。彼は暗い小路《こみち》に立つて、世界が今｜夜《よる》に支配されつゝある事を私《ひそ》かに喜んだ。しかも五月雨《さみだれ》の重い空氣に鎖《とざ》されて、歩けば歩く程、窒息する樣な心持がした。神樂坂上へ出た時、急に眼がぎら／＼した。身を包む無數の人と、無數の光が頭を遠慮なく燒いた。代助は逃げる樣に藁店《わらだな》を上《あが》つた。

　家《うち》へ歸ると、門野が例の如く漫然たる顔をして、

　「大分《だいぶ》遲うがしたな。御飯はもう御濟みになりましたか」と聞いた。

　代助は飯が欲しくなかつたので、要《い》らない由を答へて、門野を追ひ歸す樣に、書齋から退ぞけた。が、二三分立たない内に、又子を鳴らして呼び出した。

　「宅《うち》から使は來やしなかつたかね」

　「いゝえ」

　代助は、

　「ぢや、宜しい」と云つた限《ぎり》であつた。門野は物足りなさうに入口に立つてゐたが、

　「先生は、何ですか、御宅へ御出《おいで》になつたんぢや無かつたんですか」

　「何故《なぜ》」と代助は六づかしい顔をした。

　「だつて、御出掛になるとき、そんな御話でしたから」

　代助は門野を相手にするのが面倒になつた。

　「宅《うち》へは行つたさ。――宅《うち》から使が來なければそれで、好いぢやないか」

　門野は不得要領に、

　「はあ左樣《さう》ですか」と云ひ放して出て行つた。代助は、父があらゆる世界に對してよりも、自分に對して、性急であるといふ事を知つてゐるので、ことによると、歸つた後《あと》から直《すぐ》使でも寄こしはしまいかと恐れて聞き糺《たゞ》したのであつた。門野が書生部屋へ引き取つたあとで、明日《あした》は是非共三千代に逢はなければならないと決心した。

　其夜代助は寐ながら、何う云ふ手段で三千代に逢はうかと云ふ問題を考へた。手紙を車夫に持たせて宅《うち》へ呼びに遣れば、來る事は來るだらうが、既に今日｜嫂《あによめ》との會談が濟んだ以上は、明日《あした》にも、兄か嫂《あによめ》の爲に、向ふから襲はれないとも限らない。又平岡のうちへ行つて逢ふ事は代助に取つて一種の苦痛があつた。代助は已《やむ》を得ず、自分にも三千代にも關係のない所で逢ふより外に道はないと思つた。

　夜牛《やはん》から強く雨が降り出した。釣つてある蚊帳が、却つて寒く見える位な音がどう／＼と家を包んだ。代助は其音の中《うち》に夜の明けるのを待つた。

　雨は翌日迄晴れなかつた。代助は濕《しめ》つぽい椽側《えんがは》に立つて、暗い空模樣を眺めて、昨夕《ゆうべ》の計畫を又變へた。彼は三千代を普通の待合｜抔《など》へ呼んで、話をするのが不愉快であつた。已《や》むなくんば、蒼い空の下と思つてゐたが、此天氣では夫《それ》も覺束なかつた。と云つて、平岡の家へ出向く氣は始めから無かつた。彼は何うしても、三千代を自分の宅《うち》へ連れて來るより外に道はないと極めた。門野が少し邪魔になるが、語のし具合では書生部屋に洩れない樣にも出來ると考へた。

　午《ひる》少し前迄は、ぼんやり雨を眺めてゐた。午飯《ひるめし》を濟ますや否や、護謨《ごむ》の合羽《かつぱ》を引き掛けて表へ出た。降る中を神樂坂下迄來て青山の宅《うち》へ電話を掛けた。明日《あす》此方《こつち》から行く積《つもり》であるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂《あによめ》が現れた。先達《せんだつ》ての事は、まだ父に話さないでゐるから、もう一遍よく考へ直して御覽なさらないかと云はれた。代助は感謝の辭と共に號鈴《ベル》を鳴らして談話を切つた。次に平岡の新聞社の番號を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出てゐると云ふ返事を得た。代助は雨を衝いて又坂を上《のぼ》つた。花屋へ這入つて、大きな白百合の花を澤山買つて、夫《それ》を提《さ》げて、宅《うち》へ歸つた。花は濡れた儘、二つの花瓶《くわへい》に分けて挿した。まだ餘つてゐるのを、此間の鉢に水を張つて置いて、莖を短かく切って、すぱ／＼放《はふ》り込んだ。それから、机に向つて、三千代へ手紙を書いた。文句は極めて短かいものであつた。たゞ至急御目に掛つて、御話ししたい事があるから來て呉れろと云ふ丈《だけ》であつた。

　代助は手を打つて、門野を呼んだ。門野は鼻を鳴らして現れた。手紙を受取りながら、

　「大變好《い》い香《にほひ》ですな」と云つた。代助は、

　「車を持つて行つて、乘せて來るんだよ」と念を押した。門野は雨の中を乘りつけの帳場迄出て行つた。

　代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩《おほ》ふ強い香《か》の中に、殘りなく自己を放擲《はうてき》した。彼は此｜嗅覺《きうかく》の刺激のうちに、三千代の過去を分明《ふんみやう》に認めた。其過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這ひ纒《まつ》はつてゐた。彼はしばらくして、

　「今日始めて自然の昔に歸るんだ」と胸の中《なか》で云つた。斯う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を總身に覺えた。何故《なぜ》もつと早く歸る事が出來なかつたのかと思つた。始から何故《なぜ》自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雜に平和な生命を見出《みいだ》した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を壓迫する道�ｺはなかつた。雲の樣な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡《すべ》てが幸《ブリス》であつた。だから凡《すべ》てが美しかつた。

　やがて、夢から覺めた。此一刻の幸《ブリス》から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭を冒して來た。彼の唇は色を失つた。彼は黙然として、我と吾手を眺めた。爪の甲の底に流れてゐる血潮が、ぶる／＼顫へる樣に思はれた。彼は立つて百合の花の傍《そば》へ行つた。唇が瓣《はなびら》に着く程近く寄つて、強い香《か》を眼の眩《ま》う迄嗅いだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香《か》に咽《む》せて、失心して室《へや》の中に倒れたかつた。彼はやがて、腕を組んで、書齋と座敷の間を往つたり來たりした。彼の胸は始終鼓勤を感じてゐた。彼は時々椅子の角や、洋卓《デスク》の前へ來て留まつた。それから又歩き出した。彼の心の動搖は、彼をして長く一所《いつしよ》に留《とゞ》まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる爲に、無暗な所に立ち留まらざるを得なかつた。

　其内に時は段々移つた。代助は斷えず置時計の針を見た。又覗く樣に、軒から外の雨を見た。雨は依然として、空から眞直に降つてゐた。空は前よりも稍《やゝ》暗くなつた。重《かさ》なる雲が一つ所で渦を捲いて、次第に地面の上へ押し寄せるかと怪しまれた。其時雨に光る車を門から中《うち》へ引き込んだ。輪の音が、雨を壓して代助の耳に響いた時、彼は蒼白い頬に微笑を洩らしながら、右の手を胸に當てた。

　三千代は玄關から、門野に連れられて、廊下傳ひに這入つて來た。銘仙の紺絣に、唐草模樣の一重帶を締めて、此前とは丸《まる》で違つた服裝《なり》をしてゐるので、一目見た代助には、新らしい感じがした。色は不斷の通り好くなかつたが、座敷の入口で、代助と顔を合せた時、眼も眉も口もぴたりと活動を中止した樣に固くなつた。敷居に立つてゐる間は、足も動けなくなつたとしか受取れなかつた。三千代は固《もと》より手紙を見た時から、何事をか豫期して來た。其豫期のうちには恐れと、喜と、心配とがあつた。車から降《お》りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は其豫期の色をもつて漲《みなぎ》つて居た。三千代の表情はそこで、はたと留まつた。代助の樣子は三千代に夫《それ》丈《だけ》の打衝《シヨツク》を豫へる程に強烈であつた。

　代助は椅子の一つを指さした。三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。代助は其｜向《むかふ》に席を占めた。二人は始めて相對した。然し良《やゝ》少時《しばらく》は二人とも、口を開かなかつた。

　「何か御用なの」と三千代は漸くにして問ふた。代助は、たゞ、

　「えゝ」と云つた。二人は夫《それ》限《ぎり》で、又しばらく雨の音を聽いた。

　「何か急な御用なの」と三千代が又尋ねた。代助は又、

　「えゝ」と云つた。双方共｜何時《いつ》もの樣に輕くは話し得なかつた。代助は酒の力を借りて、己《おの》れを語らなければならない樣な自分を恥ぢた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと兼《かね》て覺悟をして居た。けれども、改たまつて、三千代に對して見ると、始めて、一滴《いつてき》の酒精《しゆせい》が戀しくなつた。ひそかに次の間へ立つて、例《いつも》のヰスキーを洋盃《コツプ》で傾け樣《やう》かと思つたが、遂に其決心に堪えなかつた。彼は青天白日の下《もと》に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠でないと信じたからである。醉と云ふ牆壁《しやうへき》を築いて、其｜掩護《えんご》に乘じて、自己を大膽にするのは、卑怯で、殘酷で、相手に汚辱を與へる樣な氣がしてならなかつたからである。彼は社會の習慣に對しては、�ｺ義的な態度を取る事が出來なくなつた、其代り三千代に對しては一點も不�ｺ義な動機を蓄《たくは》へぬ積《つもり》であつた。否、彼をして卑吝《ひりん》に陷《おちい》らしむる餘地が丸《まる》でない程に、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己《おの》れを傾ける事が出來なかつた。二度聞かれた時に猶《なほ》躊躇した。三度目には、已《やむ》を得ず、

　「まあ、緩《ゆつ》くり話しませう」と云つて、卷烟草に火を點《つ》けた。三千代の顔は返事を延ばされる度に惡くなつた。

　雨は依然として、長く、密《みつ》に、物に音を立てゝ降つた。二人は雨の爲に、雨の持ち來《きた》す音の爲に、世間から切り離された。同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人は孤立の儘、白百合の香《か》の中に封じ込められた。

　「先刻《きつき》表へ出て、あの花を買つて來ました」と代助は自分の周圍を顧みた。三千代の眼は代助に隨《つ》いて室《へや》の中《なか》を一回《ひとまはり》した。其後で三千代は鼻から強く息を吸ひ込んだ。

　「兄さんと貴方と清水町《しみづちやう》にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて、成るべく澤山買つて來ました」と代助が云つた。

　「好《い》い香《にほひ》ですこと」と三千代は翻《ひる》がへる樣に綻《ほころ》びた大きな花瓣《はなびら》を眺めてゐたが、夫《それ》から眼を放して代助に移した時、ぼうと頬を薄赤くした。

　「あの時分の事を考へると」と半分云つて已《や》めた。

　「覺えてゐますか」

　「覺えてゐますわ」

　「貴方は派手《はで》な半襟を掛けて、銀杏返《いてふがへ》しに結《ゆ》つてゐましたね」

　「だつて、東京へ來立《きたて》だつたんですもの。ぢき已《や》めて仕舞つたわ」

　「此間百合の花を持つて來て下さつた時も、銀杏返《いてふがへ》しぢやなかつたですか」

　「あら、氣が付いて。あれは、あの時《とき》限《ぎり》なのよ」

　「あの時はあんな髷に結《ゆ》ひ度くなつたんですか」

　「えゝ、氣迷《きまぐ》れに一寸《ちよいと》結《ゆ》つて見たかつたの」

　「僕はあの髷を見て、昔を思ひ出した」

　「さう」と三千代は恥づかしさうに肯《うけが》つた。

　三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口を聞く樣になつてからの事だが、始めて國から出て來た當時の髪の風を代助から賞められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後《あと》でも、決して銀杏返《いてふがへ》しには結《ゆ》はなかつた。二人は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共口へ出しては何も語らなかつた。

　三千代の兄と云ふのは寧ろ豁達《くわつたつ》な氣性で、懸隔《かけへだ》てのない交際振《つきあひぶり》から、友達には甚《ひど》く愛されてゐた。ことに代助は其親友であつた。此兄は自分が豁達《くわつたつ》である丈《だけ》に、妹の大人《おとな》しいのを可愛がつてゐた。國から連れて來て、一所に家《うち》を持つたのも、妹を�ﾍ育しなければならないと云ふ義務の念からではなくて、全く妹の未來に對する情合《じやうあひ》と、現在自分の傍《そば》に引き着けて置きたい欲望とからであつた。彼は三千代を呼ぶ前、既に代助に向つて其旨を打ち明けた事があつた。其時代助は普通の青年の樣に、多大の好奇心を以て此計畫を迎へた。

　三千代が來てから後《のち》、兄と代助とは益《ます／＼》親しくなつた。何方《どつち》が友情の歩を進めたかは、代助自身にも分らなかつた。兄が死んだ後《あと》で、當時を振り返つて見る毎に、代助は此親密の裡《うち》に一種の意味を認めない譯に行かなかつた。兄は死ぬ時迄それを明言しなかつた。代助も敢て何事をも語らなかつた。斯くして、相互の思はくは、相互の間の秘密として葬られて仕舞つた。兄は存生中《ぞんしやうちゆう》に此意味を私《ひそか》に三千代に洩らした事があるかどうか、其所は代助も知らなかつた。代助はたゞ三千代の擧止動作と言語談話からある特別な感じを得た丈《だけ》であつた。

　代助は其頃から趣味の人として、三千代の兄に臨んでゐた。三千代の兄は其方面に於て、普通以上の感受性を持つて居なかつた。深い話になると、正直に分らないと自白して、餘計な議論を避けた。何處からかarbiter elegantiarum《アービター　エレガンシアルム》と云ふ字を見付け出して來て、それを代助の異名《いみやう》の樣に濫用したのは、其頃の事であつた。三千代は隣りの部屋で黙つて兄と代助の話を聞いてゐた。仕舞にはとう／＼arbiter elegantiarum《アービター　エレガンシアルム》と云ふ字を覺えた。ある時其意味を兄に尋ねて、驚ろかれた事があつた。

　兄は趣味に關する妹の�ﾍ育を、凡《すべ》て代助に委任した如くに見えた。代助を待つて啓發されべき妹の頭腦に、接觸の機會を出來る丈《だけ》與へる樣に力《つと》めた。代助も辭退はしなかつた。後から顧みると、自ら進んで其任に當つたと思はれる痕迹《こんせき》もあつた。三千代は固《もと》より喜んで彼の指導を受けた。三人は斯くして、巴《ともゑ》の如くに回轉しつゝ、月から月へと進んで行つた。有意識か無意識か、巴《ともゑ》の輪は回《めぐ》るに從つて次第に狭《せば》まつて來た。遂に三巴《みつどもゑ》が一所《いつしよ》に寄つて、丸い圓にならうとする少し前の所で、忽然其一つが缺けたため、殘る二つは平衡を失つた。

　代助と三千代は五年の昔を心置なく語り始めた。語るに從つて、現在の自己が遠退《とほの》いて、段々と當時の學生時代に返つて來た。二人の距離は又元の樣に近くなつた。

　「あの時兄さんが亡《な》くならないで、未《ま》だ達者でゐたら、今頃私は何うしてゐるでせう」と三千代は、其時を戀しがる樣に云つた。

　「兄さんが達者でゐたら、別の人になつて居る譯ですか」

　「別な人にはなりませんわ。貴方は？」

　「僕も同じ事です」

　三千代は其時、少し窘《たしな》める樣な調子で、

　「あら嘘」と云つた。代助は深い眼を三千代の上に据ゑて、

　「僕は、あの時も今も、少しも違つてゐやしないのです」と答へた儘、猶しばらくは眼を相手から離さなかつた。三千代は忽ち視線を外《そ》らした。さうして、半《なか》ば獨り言の樣に、

　「だつて、あの時から、もう違つてゐらしつたんですもの」と云つた。

　三千代の言葉は普通の談話としては餘りに聲が低過ぎた。代助は消えて行く影を踏《ふ》まへる如くに、すぐ其尾を捕《とら》えた。

　「違やしません。貴方にはたゞ左樣《さう》見える丈《だけ》です。左樣《さう》見えたつて仕方がないが、それは僻目《ひがめ》だ」

　代助の方は通例よりも熱心に判然《はつきり》した聲で自己を辯護する如くに云つた。三千代の聲は益《ます／＼》低かつた。

　「僻目《ひがめ》でも何でも可《よ》くつてよ」

　代助は黙つて三千代の樣子を窺《うかゞ》つた。三千代は始めから、眼を伏せてゐた。代助には其長い睫毛《まつげ》の顫へる樣《さま》が能く見えた。

　「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ。僕は夫《それ》丈《だけ》の事を貴方に話したい爲にわざ／＼貴方を呼んだのです」

　代助の言葉には、普通の愛人の用ひる樣な甘《あま》い文彩《あや》を含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡單で素朴であつた。寧ろ嚴肅の域《ゐき》に逼《せま》つてゐた。但《たゞ》、夫《それ》丈《だけ》の事を語る爲に、急用として、わざ／＼三千代を呼んだ所が、玩具《おもちや》の詩歌《しか》に類してゐた。けれども、三千代は固《もと》より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上世間の小説に出て來る青春時代の修辭には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも與へなかつたのは、事實であつた。三千代がそれに渇《かわ》いてゐなかつたのも事實であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代は顫へる睫毛《まつげ》の間から、涙を頬の上に流した。

　「僕はそれを貴方に承知して貰ひたいのです。承知して下さい」

　三千代は猶《なほ》泣いた。代助に返事をする所《どころ》ではなかつた。袂から手帛《ハンケチ》を出して顔へ當てた。濃い眉の一部分と、額と生際《はえぎは》丈《だけ》が代助の眼に殘つた。代助は椅子を三千代の方へ摺《す》り寄せた。

　「承知して下さるでせう」と耳の傍《はた》で云つた。三千代は、まだ顔を蔽つてゐた。しやくり上げながら、

　「餘《あんま》りだわ」と云ふ聲が手帛《ハンケチ》の中で聞えた。それが代助の聽覺を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遲過ぎたと云ふ事を切《せつ》に自覺した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁《とつ》ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙と涙の間をぼつ／＼綴る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。

　「僕は三四年｜前《まへ》に、貴方に左樣《さう》打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、憮然《ぶぜん》として口を閉ぢた。三千代は急に手帛《ハンケチ》を顔から離した。瞼の赤くなつた眼を突然代助の上に?《みは》つて、

　「打ち明けて下さらなくつても可《い》いから、何故《なぜ》」と云ひ掛けて、一寸｜躊躇《ちうちよ》したが、思ひ切つて、「何故棄てゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又｜手帛《ハンケチ》を顔に當てゝ又泣いた。

　「僕が惡い。勘忍して下さい」

　代助は三千代の手頸《てくび》を執《と》つて、手帛《ハンケチ》を顔から離さうとした。三千代は逆《さから》はうともしなかつた。手帛《ハンケチ》は膝の上に落ちた。三千代は其膝の上を見た儘、微《かす》かな聲で、

　「殘酷だわ」と云つた。小さい口元の肉が顫ふ樣に動いた。

　「殘酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫《それ》丈《だけ》の罰を受けてゐます」

　三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、

　「何うして」と聞いた。

　「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ獨身でゐます」

　「だつて、夫《それ》は貴方の御勝手ぢやありませんか」

　「勝手ぢやありません。貰はうと思つても、貰へないのです。それから以後、宅《うち》のものから何遍結婚を勸められたか分りません。けれども、みんな斷つて仕舞ひました。今度も亦一人斷りました。其結果僕と僕の父との間が何うなるか分りません。然し何うなつても構はない、斷るんです。貴方が僕に復讎《ふくしう》してゐる間は斷らなければならないんです」

　「復讎《ふくしう》」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに眼を働かした。「私は是でも、嫁に行つてから、今日《こんにち》迄一日も早く、貴方が御結婚なされば可《い》いと思はないで暮らした事はありません」と稍《やゝ》改たまつた物の言ひ振であつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。

　「いや僕は貴方に何所迄も復讎《ふくしう》して貰ひたいのです。それが本望なのです。今日《けふ》斯うやつて、貴方を呼んでわざ／＼自分の胸を打ち明けるのも、實は貴方から復讎《ふくしう》されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社會的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて來た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出來れば、夫《それ》で澤山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」

　三千代は涙の中で始めて笑つた。けれども一言《ひとこと》も口へは出さなかつた。代助は猶｜己《おの》れを語る隙《ひま》を得た。――

　「僕は今更こんな事を貴方に云ふのは、殘酷だと承知してゐます。それが貴方に殘酷に聞こえれば聞こえる程僕は貴方に對して成功したも同樣になるんだから仕方がない。其上僕はこんな殘酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出來なくなつた。つまり我儘です。だから詫《あやま》るんです」

　「殘酷では御座いません。だから詫《あや》まるのはもう廢《よ》して頂戴」

　三千代の調子は、此時急に判然《はつきり》した。沈んではゐたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又

　「たゞ、もう少し早く云つて下さると」と云ひ掛けて涙ぐんだ。代助は其時斯う聞いた。――

　「ぢや僕が生涯黙つてゐた方が、貴方には幸福だつたんですか」

　「左樣《さう》ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「私だつて、貴方が左樣《さう》云つて下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」

　今度は代助の方が微笑した。

　「夫《それ》ぢや構はないでせう」

　「構はないより難有《ありがた》いわ。たゞ――」

　「たゞ平岡に濟まないと云ふんでせう」

　三千代は不安らしく首肯《うなづ》いた。代助は斯う聞いた。――

　「三千代さん、正直に云つて御覽。貴方は平岡を愛してゐるんですか」

　三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼も口も固くなつた。凡《すべ》てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。

　「では、平岡は貴方を愛してゐるんですか」

　三千代は矢張り俯《う》つ向《む》いてゐた。代助は思ひ切つた判斷を、自分の質問の上に與へやうとして、既に其言葉が口迄出掛つた時、三千代は不意に顔を上げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙さへ大抵は乾いた。頬の色は固《もと》より蒼かつたが、唇は確《しか》として、動く気色《けしき》はなかつた。其間から、低く重い言葉が、繋がらない樣に、一字づゝ出た。

　「仕樣がない。覺悟を極めませう」

　代助は脊中から水を被《かぶ》つた樣に顫へた。社會から逐ひ放たるべき二人の魂は、たゞ二人｜對《むか》ひ合つて、互を穴の明く程眺めてゐた。さうして、凡《すべ》てに逆《さから》つて、互を一所《いつしよ》に持ち來たした力を互と怖れ戰《をのゝ》いた。

　しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた樣に、手を顔に當てて泣き出した。代助は三千代の泣く樣を見るに忍びなかつた。肱を突いて額を五指《ごし》の裏に隱した。二人は此態度を崩さずに、戀愛の彫刻の如く、凝《じつ》としてゐた。

　二人は斯う凝《じつ》としてゐる中《うち》に、五十年を眼《ま》のあたりに縮めた程の精神の緊張を感じた。さうして其緊張と共に、二人が相並んで存在して居ると云ふ自覺を失はなかつた。彼等は愛の刑と愛の賚《たまもの》とを同時に享《う》けて、同時に双方を切實に味はつた。

　しばらくして、三千代は手帛《ハンケチ》を取つて、涙を奇麗に拭いたが、靜かに、

　「私もう歸つてよ」と云つた。代助は、

　「御歸りなさい」と答へた。

　雨は小降になつたが、代助は固《もと》より三千代を獨り返す氣はなかつた。わざと車を雇はずに、自分で送つて出た。平岡の家迄附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を曲る迄見送つてゐた。夫《それ》から緩《ゆつ》くり歩を回《めぐ》らしながら、腹の中《なか》で、

　「萬事終る」と宣告した。

　雨は夕方｜歇《や》んで、夜《よ》に入つたら、雲がしきりに飛んだ。其《その》中《うち》洗つた樣な月が出た。代助は光を浴びる庭の濡葉を長い間｜椽側《えんがは》から眺めてゐたが、仕舞に下駄を穿《は》いて下へ降りた。固《もと》より廣い庭でない上に立木の數が存外多いので、代助の歩く積《せき》はたんと無かつた。代助は其眞中に立つて、大きな空を仰いだ。やがて、座敷から、晝間買つた百合の花を取つて來て、自分の周圍《まはり》に蒔き散らした。白い花瓣が點々として月の光に冴えた。あるものは、木下闇《こしたやみ》に仄《ほの》めいた。代助は何をするともなく其間に曲《かゞ》んでゐた。

　寐る時になつて始めて再び座敷へ上がつた。室《へや》の中は花の香《にほひ》がまだ全く拔けてゐなかつた。

　

　　　　　十五

　

　三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、餘程心の平和に接近し易くなつた。然し是は彼の豫期する通りに行つた迄で、別に意外の結果と云ふ程のものではなかつた。

　會見の翌日彼は永らく手に持つてゐた賽《さい》を思ひ切つて投げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に對して、昨日《きのふ》から一種の責任を帶びねば濟まぬ身になつたと自覺した。しかも夫《それ》は自ら進んで求めた責任に違ひなかつた。從つて、それを自分の脊に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その重みに押されるがため、却つて自然と足が前に出る樣な氣がした。彼は自ら切り開いた此運命の斷片を頭に乘せて、父と決戰すべき準備を整へた。父の後《あと》には兄がゐた、嫂《あによめ》がゐた。是等と戰つた後《あと》には平岡がゐた。是等を切り拔けても大きな社會があつた。個人の自由と情實を毫《がう》も斟酌《しんしやく》して呉れない器械の樣な社會があつた。代助には此社會が今全然暗黒に見えた。代助は凡《すべ》てと戰ふ覺悟をした。

　彼は自分で自分の勇氣と膽力に驚ろいた。彼は今日《こんにち》迄、熱烈を厭ふ、危きに近寄り得ぬ、勝負事を好まぬ、用心深い、太平《たいへい》の好紳士《かうしんし》と自分を見傚《みな》してゐた。�ｺ義上重大な意味の卑怯はまだ犯した事がないけれども、臆病と云ふ自覺はどうしても彼の心から取り去る事が出來なかつた。

　彼は通俗なある外國雜誌の購讀者であつた。其中のある號で、Mounntain 《マウンテン》Accidents《アクシデンツ》と題する一篇に遭つて、かつて心を駭《おどろ》かした。夫《それ》には高山を撃《よ》ぢ上《のぼ》る冒險者の、怪我《けが》過《あやまち》が澤山に並《なら》べてあつた。登山の途中｜雪崩《ゆきなだ》れに壓《お》されて、行《ゆ》き方《がた》知れずになつたものゝ骨が、四十年後に氷河の先へ引懸つて出た話や、四人の冒險者が懸崖の半腹にある、眞直に立つた大きな平岩を越すとき、肩から肩の上へ猿の樣に重なり合つて、最上の一人の手が岩の鼻へ掛かるや否や、岩が崩れて、腰の繩が切れて、上の三人が折り重なつて、眞逆樣《まつさかさま》に四番目の男の傍《そば》を遙かの下に落ちて行つた話などが、幾何《いくつ》となく載せてあつた間に、煉瓦の壁程急な山腹に蝙蝠《かうもり》の樣に吸ひ付いた人間を二三ケ所｜點綴《てんてつ》した挿畫《さしゑ》があつた。其時代助は其絶壁の横にある白い空間のあなたに、廣い空や、遙かの谷を想像して、怖ろしさから來る眩暈《めまひ》を、頭の中に再現せずには居られなかつた。

　代助は今道�ｺ界に於て、是等の登攀者と同一《どういつ》な地位に立つてゐると云ふ事を知つた。けれども自ら其場に臨んで見ると、怯《ひる》む氣は少しもなかつた。怯《ひる》んで猶豫する方が彼に取つては幾倍の苦痛であつた。

　彼は一日《いちじつ》も早く父に逢つて話をしたかつた。萬一の差支を恐れて、三千代が來た翌日、又電話を掛けて都合を聞き合せた。父は留守だと云ふ返事を得た。次の日又問ひ合せたら、今度は差支があると云つて斷られた。其次には此方《こちら》から知らせる迄は來るに及ばんといふ挨拶であつた。代助は命令通り控へてゐた。其間｜嫂《あによめ》からも兄からも便《たより》は一向なかつた。代助は始めは家《うち》のものが、自分に出來る丈《だ》け長い、反省再考の時間を與へる爲の策略ではあるまいかと推察して、平氣に構へてゐた。三度の食事も旨く食つた。夜も比較的安らかな夢を見た。雨の晴間には門野を連れて散歩を一二度した。然し宅《うち》からは使も手紙も來なかつた。代助は絶壁の途中で休息する時間の長過ぎるのに安からずなつた。仕舞に思ひ切つて、自分の方から青山へ出掛けて行つた。兄は例の如く留守であつた。嫂《あによめ》は代助を見て氣の毒さうな顔をした。が、例の事件に就ては何《なん》にも語らなかつた。代助の來意を聞いて、では私《わたし》が一寸奧へ行つて御父さんの御都合を伺つて來ませうと云つて立つた。梅子の態度は、父の怒《いか》りから代助を庇《かば》ふ樣にも見えた。又彼を疎外する樣にも取れた。代助は兩方の何《いづ》れだらうかと煩《わづら》つて待つてゐた。待ちながらも、何うせ覺悟の前だと何遍も口のうちで繰り返した。

　奧から梅子が出て來る迄には、大分《だいぶ》暇が掛つた。代助を見て、又氣の毒さうに、今日は御都合が惡いさうですよと云つた。代助は仕方なしに、何時《いつ》來たら宜《よ》からうかと尋ねた。固《もと》より例の樣な元氣はなく悄然《せうぜん》とした問ひ振りであつた。梅子は代助の樣子に同情の念を起した調子で、二三日中《にさんちちゆう》に屹度自分が責任を以て都合の好い時日を知らせるから今日は歸れと云つた。代助が内玄關《ないげんくわん》を出る時、梅子はわざと送つて來て、

　「今度《こんだ》こそ能く考へて入らつしやいよ」と注意した。代助は返事もせずに門を出た。

　歸る途中も不愉快で堪らなかつた。此間三千代に逢つて以後、味はう事を知つた心の平和を、父や嫂《あによめ》の態度で幾分か破壞されたと云ふ心持が路々募つた。自分は自分の思ふ通りを父に告げる、父は父の考へを遠慮なく自分に洩らす、それで衝突する、衝突の結果はどうあらうとも潔よく自分で受ける。是が代助の豫期であつた。父の仕打は彼の豫期以外に面白くないものであつた。其仕打は父の人格を反射する丈《だけ》夫《それ》丈《だけ》多く代助を不愉快にした。

　代助は途すがら、何を苦んで、父との會見を左《さ》迄《まで》に急いだものかと思ひ出した。元來が父の要求に對する自分の返事に過ぎないのだから、便宜は寧ろ、是を待ち受ける父の方にあるべき筈であつた。其父がわざとらしく自分を避ける樣にして、面會を延ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遲くなると云ふ不結果を生ずる外に何も起り樣がない。代助は自分の未來に關する主要な部分は、もう既に片付けて仕舞つた積《つもり》でゐた。彼は父から時日を指定して呼び出される迄は、宅《うち》の方の所置を其儘にして放《はふ》つて置く事に極めた。

　彼は家《いへ》に歸つた。父に對しては只薄暗い不愉快の影が頭に殘つてゐた。けれども此影は近き未來に於て必ず其暗さを�揩ｵてくるべき性質のものであつた。其他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分が是から流れて行くべき方向を示してゐた。一つは平岡と自分を是非共一所に捲き込むべき凄《すさま》じいものであつた。代助は此間《このあひだ》三千代に逢つたなりで、片片《かたかた》の方は捨てゝある。よし是から三千代の顔を見るにした所で、――また長い間見ずにゐる氣はなかつたが、――二人の向後《かうご》取るべき方針に就て云へば、當分は一歩も現在?態より踏み出す了見は持たなかつた。此點に關して、代助は我ながら明瞭な計畫を拵えてゐなかった。平岡と自分とを運び去るべき將來に就ても、彼はたゞ何時《いつ》、何事にでも用意ありと云ふ丈《だけ》であつた。無論彼は機を見て、積極的に働らき掛ける心組はあつた。けれども具體的な案は一つも準備しなかつた。あらゆる場合に於て、彼の決して仕損じまいと誓つたのは、凡《すべ》てを平岡に打ち明けると云ふ事であつた。從つて平岡と自分とで構成すべき運命の流は黒く恐ろしいものであつた。一つの心配は此恐ろしい暴風《あらし》の中から、如何にして三千代を救ひ得べきかの問題であつた。

　最後に彼の周圍を人間のあらん限り包む社會に對しては、彼は何の考も纒めなかつた。事實として、社會は制裁の權を有してゐた。けれども動機行爲の權は全く自己の天分から湧いて出るより外に道はないと信じた。かれは此點に於て、社會と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する氣であつた。

　代助は彼の小さな世界の中心に立つて、彼の世界を斯樣《かやう》に觀て、一順其關係比例を頭の中で調べた上、

　「善からう」と云つて、又家を出た。さうして一二丁歩いて、乘り付けの帳場迄來て、奇麗で早さうな奴を擇んで飛び乘つた。何處へ行く當もないのを好《いゝ》加減な町を名指《なざ》して二時間程ぐる／＼乘り廻して歸つた。

　翌日も書齋の中で前日同樣、自分の世界の中心に立つて、左右前後を一應｜隈《くま》なく見渡した後《あと》、

　「宜しい」と云つて外へ出て、用もない所を今度は足に任せてぶら／＼歩いて歸つた。

　三日目にも同じ事を繰り返した。が、今度は表へ出るや否や、すぐ江戸川を渡つて、三千代の所へ來た。三千代は二人の間に何事も起らなかつたかの樣に、

　「何故《なぜ》夫《それ》から入らつしやらなかつたの」と聞いた。代助は寧ろ其落ち付き拂つた態度に驚ろかされた。三千代はわざと平岡の机の前に据ゑてあつた蒲團を代助の前へ押し遣つて、

　「何でそんなに、そわ／＼して居らつしやるの」と無理に其上に坐らした。

　一時間ばかり話してゐるうちに、代助の頭は次第に穩《おだ》やかになつた。車へ乘つて、當もなく乘り回すより、三十分でも好いから、早く此所へ遊びに來れば可《よ》かつたと思ひ出した。歸るとき代助は、

　「又來ます。大丈夫だから安心して入らつしゃい」と三千代を慰める樣に云つた。三千代はたゞ微笑した丈《だけ》であつた。

　其夕方始めて父からの報知《しらせ》に接した。其時代助は婆さんの給仕で飯を食つてゐた。茶碗を膳の上へ置いて門野から手紙を受取つて讀むと、明朝《みやうてう》何時《なんじ》迄に御出《おいで》の事といふ文句があつた。代助は、

　「御役所風だね」と云ひながら、わざと端書を門野に見せた。門野は、

　「青山の御宅からですか」と叮嚀に眺めてゐたが、別に云ふ事がないものだから、表を引つ繰り返して、

　「何うも何ですな。昔の人は矢つ張り手蹟《て》が好い樣ですな」と御世辭を置き去りにして出て行つた。婆さんは先刻《さつき》から暦の話をしきりに爲てゐた。みづのえ〔四字傍点〕だのかのと〔三字傍点〕だの、八朔《はつさく》だの友引《ともびき》だの、爪を切る日だの普請《ふしん》をする日だのと頗る煩いものであつた。代助は固《もと》より上《うは》の空で聞いてゐた。婆さんは又門野の職の事を頼んだ。拾五圓でも宜《い》いから何方《どつか》へ出して遣つて呉れないかと云つた。代助は自分ながら、何《ど》んな返事をしたか分らない位氣にも留めなかつた。たゞ心のうちでは、門野所か、この己《おれ》が危《あや》しい位だと思つた。

　食事を終るや否や、本郷から寺尾が來た。代助は門野の顔を見て暫らく考へてゐた。門野は無雜作に、

　「斷りますか」と聞いた。代助は此間から珍らしくある會を一二回缺席した。來客も逢はないで濟むと思ふ分は兩度程謝絶した。

　代助は思ひ切つて寺尾に逢つた。寺尾は何時《いつ》もの樣に、血眼《ちまなこ》になつて、何か探してゐた。代助は其樣子を見て、例の如く皮肉で持ち切る氣にもなれなかつた。翻譯だらうが燒き直しだらうが、生きてゐるうちは何處迄も遣る覺悟だから、寺尾の方がまだ自分より社會の兒《じ》らしく見えた。自分がもし失脚して、彼と同樣の地位に置かれたら、果《はた》して何《ど》の位の仕事に堪えるだらうと思ふと、代助は自分に對して氣の毒になつた。さうして、自分が遠からず、彼よりも甚《ひど》く失脚するのは、殆んど未發《みはつ》の事實の如く確だと諦めてゐたから、彼は侮蔑の眼を以て寺尾を迎へる譯には行かなかつた。

　寺尾は、此間の翻譯を漸くの事で月末迄に片付けたら、本屋の方で、都合が惡いから秋迄出版を見合はせると云ひ出したので、すぐ勞力を金に換算する事が出來ずに、困つた結果遣つて來たのであつた。では書肆《しよし》と契約なしに手を着けたのかと聞くと、全く左樣《さう》でもないらしい。と云つて、本屋の方が丸《まる》で約束を無視した樣にも云はない。要するに曖昧であつた。たゞ困つてゐる事｜丈《だけ》は事實らしかつた。けれども斯う云ふ手違に慣れ拔いた寺尾は、別に�ｺ義問題として誰にも不滿を抱《いだ》いてゐる樣にも見えなかつた。失敬だとか怪《け》しからんと云ふのは、たゞ口の先｜許《ばかり》で、腹の中の屈托は、全然飯と肉に集注してゐるらしかつた。

　代助は氣の毒になつて、當座の經濟に幾分の補助を與へた。寺尾は感謝の意を表して歸つた。歸る前に、實は本屋からも少しは前借《まへがり》はしたんだが、それは疾《とく》の昔に使つて仕舞つたんだと自白した。寺尾の歸つたあとで、代助はあゝ云ふのも一種の人格だと思つた。たゞ斯う樂に活計《くらし》てゐたつて決して爲れる譯のものぢやない。今の所謂文壇が、あゝ云ふ人格を必要と認めて自然に産み出した程、今の文壇は悲しむべき?況の下《もと》に呻吟してゐるんではなからうかと考へて茫乎《ぼんやり》した。

　代助は其晩自分の前途をひどく氣に掛けた。もし父から物質的に供給の道を鎖《とざ》された時、彼は果して第二の寺尾になり得る決心があるだらうかを疑《うたぐ》つた。もし筆を執つて寺尾の眞似さへ出來なかつたなら、彼は當然餓死すべきである。もし筆を執らなかつたら、彼は何をする能力があるだらう。

　彼は眼を開けて時々蚊帳の外に置いてある洋燈《ランプ》を眺めた。夜中に燐寸《マツチ》を擦《す》つて烟草を吹《ふ》かした。寐返りを何遍も打つた。固《もと》より寐苦しい程暑い晩ではなかつた。雨が又ざあ／＼と降つた。代助は此雨の音で寐付くかと思ふと、又雨の音で不意に眼を覺ました。夜は半醒半睡《はんせいはんすゐ》のうちに明け離れた。

　定刻になつて、代助は出掛けた。足駄穿《あしだばき》で雨傘を提げて電車に乘つたが、一方の窓が締め切つてある上に、革紐にぶら下がつてゐる人が一杯なので、しばらくすると胸がむかついて、頭が重くなつた。睡眠不足が影響したらしく思はれるので、手を窮屈に伸ばして、自分の後《うしろ》丈《だけ》を開《あ》け放つた。雨は容赦なく襟から帽子に吹き付けた。二三分の後《のち》隣の人の迷惑さうな顔に氣が付いて、又元の通りに硝子窓《がらすまど》を上げた。硝子《がらす》の表側には、彈《はじ》けた雨の珠が溜つて、往來が多少｜歪《ゆか》んで見えた。代助は首から上を捩《ね》ぢ曲げて眼を外面《そと》に着けながら、幾たびか自分の眼を擦《こ》すつた。然し何遍｜擦《こす》つても、世界の恰好が少し變つて來たと云ふ自覺が取れなかつた。硝子《がらす》を通して斜に遠方を透かして見るときは猶｜左樣《さう》いふ感じがした。

　辯慶橋《べんけいばし》で乘り換えてからは、人もまばらに、雨も小降りになつた。頭も樂に濡れた世の中を眺める事が出來た。けれども機嫌の惡い父の顔が、色々な表情を以て彼の腦髓を刺戟した。想像の談話さへ明かに耳に響いた。

　玄關を上《あが》つて、奧へ通る前に、例の如く一應｜嫂《あによめ》に逢つた。嫂《あによめ》は、

　「欝陶《うつと》しい御天氣ぢやありませんか」と愛想《あいそ》よく自分で茶を汲んで呉れた。然し代助は飲む氣にもならなかつた。

　「御父さんが待つて御出《おいで》でせうから、一寸行つて話をして來ませう」と立ち掛けた。嫂《あによめ》は不安らしい顔をして、

　「代さん、成《な》らう事なら、年寄に心配を掛けない樣になさいよ。御父さんだつて、もう長い事はありませんから」と云つた。代助は梅子の口から、こんな陰氣な言葉を聞くのは始めてであつた。不意に穴倉へ落ちた樣な心持がした。

　父は烟草盆を前に控えて、俯向《うつむ》いてゐた。代助の足音を聞いても顔を上げなかつた。代助は父の前へ出て、叮嚀に御辭儀をした。定めて六づかしい眼付をされると思ひの外、父は存外穩かなもので、

　「降るのに御苦勞だつた」と勞《いた》はつて呉れた。

　其時始めて氣が付いて見ると、父の頬が何時《いつ》の間《ま》にかぐつと瘠《こ》けてゐた。元來が肉の多い方だつたので、此變化が代助には餘計目立つて見えた。代助は覺えず、

　「何うか爲《な》さいましたか」と聞いた。

　父は親らしい色を一寸顔に動かした丈《だけ》で、別に代助の心配を物《もの》にする樣子もなかつたが、少時《しばらく》話してゐるうちに

　「己《おれ》も大分《だいぶ》年を取つてな」と云ひ出した。其調子が何時《いつ》もの父とは全く違つてゐたので、代助は最前｜嫂《あによめ》の云った事を愈《いよ／＼》重く見なければならなくなつた。

　父は年の所爲《せゐ》で健康の衰へたのを理由として、近々實業界を退《しりぞ》く意志のある事を代助に洩らした。けれども今は日露戰爭後の商工業膨脹の反動を受けて、自分の經營にかゝる事業が不景氣の極端に達してゐる最中だから、此難關を漕ぎ拔けた上でなくては、無責任の非難を免かれる事が出來ないので、當分｜已《やむ》を得ずに辛抱してゐるより外に仕方がないのだと云ふ事情を委しく話した。代助は父の言葉を至極尤もだと思つた。

　父は普通の實業なるものゝ困難と危險と繁劇《はんけき》と、それ等から生ずる當事者の心の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大地主の、一見《いつけん》地味であつて其實自分等よりはずつと鞏固《きようこ》の基礎を有して居る事を述べた。さうして、此比較を論據として、新たに今度の結婚を成立させやうと力《つと》めた。

　「さう云ふ親類が一軒位あるのは、大變な便利で、且《か》つ此際甚だ必要ぢやないか」と云つた。代助は、父としては寧ろ露骨過ぎる此政略的結婚の申し出《いで》に對して、今更驚ろく程、始めから父を買ひ被つてはゐなかつた。最後の會見に、父が從來の假面を脱いで掛かつたのを、寧ろ快よく感じた。彼自身も、斯んな意味の結婚を敢てし得る程度の人間だと自ら見積つてゐた。

　其上父に對して何時《いつ》にない同情があつた。其顔、其聲、其代助を動かさうとする努力、凡《すべ》てに老後の憐《あは》れを認める事が出來た。代助はこれをも、父の策略とは受取り得なかつた。私は何うでも宜《よ》う御座いますから、貴方の御都合の好い樣に御極めなさいと云ひたかつた。

　けれども三千代と最後の會見を遂げた今更、父の意に叶《かな》ふ樣な當座の孝行は代助には出來かねた。彼は元來が何方《どつち》付かずの男であつた。誰の命令も文字通りに拜承した事のない代りには、誰の意見にも露《むき》に抵抗した試《ためし》がなかつた。解釋のしやうでは、策士の熊度とも取れ、優柔の生れ付とも思はれる遣口であつた。彼自身さへ、此二つの非難の何《いづ》れかを聞いた時に、左樣《さう》かも知れないと、腹の中で首を捩《ひね》らぬ譯には行かなかつた。然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く兩《ふた》つの眼が付いてゐて、双方を一時に見る便宜を有してゐたからであつた。かれは此能力の爲に、今日《こんにち》迄《まで》一圖《いちづ》に物に向つて突進する勇氣を挫《くじ》かれた。即《つ》かず離れず現?に立ち竦《すく》んでゐる事が?《しば／＼》あつた。此現?維持の外観が、思慮の缺乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判斷に本《もとづ》いて起《おこ》ると云ふ事實は、彼が犯すべからざる敢爲《かんゐ》の氣象を以て、彼の信ずる所を斷行した時に、彼自身にも始めて解つたのである。三千代の場合は、即ち其適例であつた。

　彼は三千代の前に告白した己《おの》れを、父の前で白紙にしやうとは想ひ到らなかつた。同時に父に對しては、心《しん》から氣の毒であつた。平生の代助が此際に執るべき方針は云はずして明らかであつた。三千代との關係を撤回する不便なしに、父に滿足を與へる爲の結婚を承諾するに外ならなかつた。代助は斯くして双方を調和する事が出來た。何方《どつち》付かずに眞中《まんなか》へ立つて、※［者／火］え切らずに前進する事は容易であつた。けれども、今の彼は、不斷の彼とは趣《おもむき》を異《こと》にしてゐた。再び半身を埒外《らつぐわい》に挺《ぬきん》でて、餘人と握手するのは既に遲かつた。彼は三千代に對する自己の責任を夫《それ》程《ほど》深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半《なか》ば頭の判斷から來た。半《なか》ば心の憧憬《どうけい》から來た。二つのものが大きな濤《なみ》の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ變つた樣に父の前に立つた。

　彼は平生の代助の如く、成る可く口數《くちかず》を利かずに控えてゐた。父から見れば何時《いつ》もの代助と異《こと》なる所はなかつた。代助の方では却つて父の變つてゐるのに驚ろいた。實は此間から幾度《いくたび》も會見を謝絶されたのも、自分が父の意志に背《そむ》く恐があるから父の方でわざと、延ばしたものと推《すゐ》してゐた。今日逢つたら、定めて苦《にが》い顔をされる事と覺悟を極めてゐた。ことによれば、頭から叱り飛ばされるかも知れないと思つた。代助には寧ろ其方が都合が好かつた。三分の一は、父の暴怒に對する自己の反動を、心理的に利用して、判然《きつぱり》斷らうと云ふ下心さへあつた。代助は父の樣子、父の言葉遣、父の主意、凡《すべ》てが豫期に反して、自分の決心を鈍らせる傾向に出たのを心苦しく思つた。けれども彼は此心苦しさにさへ打ち勝つべき決心を蓄へた。

　「貴方の仰しやる所は一々御尤もだと思ひますが、私には結婚を承諾する程の勇氣がありませんから、斷るより外に仕方がなからうと思ひます」ととう／＼云つて仕舞つた。其時父はたゞ代助の顔を見てゐた。良《やゝ》あつて、

　「勇氣が要るのかい」と手に持つてゐた烟管《きせる》を疊の上に放《はふ》り出した。代助は膝頭を見詰めて黙つてゐた。

　「當人が氣に入らないのかい」と父が又聞いた。代助は猶《なほ》返事をしなかつた。彼は今迄父に對して己《おの》れの四半分《しはんぶん》も打ち明けてはゐなかつた。その御蔭で父と平和の關係を漸く持續して來た。けれども三千代の事｜丈《だけ》は始めから決して隱す氣はなかつた。自分の頭の上に當然落ちかゝるべき結果を、策で避ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。從つて三千代の名は丸《まる》で口へは出さなかつた。父は最後に、

　「ぢや何でも御前の勝手にするさ」と云つて苦《にが》い顔をした。

　代助も不愉快であつた。然し仕方がないから、禮をして父の前を退《さ》がらうとした。ときに父は呼び留めて、

　「己《おれ》の方でも、もう御前の世話はせんから」と云つた。座敷へ歸つた時、梅子は待ち構へた樣に、

　「何うなすつて」と聞いた。代助は答へ樣もなかつた。

　

　　　　　十六

　

　翌日《あくるひ》眼が覺めても代助の耳の底には父の最後の言葉が鳴つてゐた。彼は前後の事情から、平生以上の重みを其内容に附帶しなければならなかつた。少なくとも、自分｜丈《だけ》では、父から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覺悟する必要があつた。代助の尤も恐るゝ時期は近づいた。父の機嫌を取り戻すには、今度の結婚を斷るにしても、あらゆる結婚に反對してはならなかつた。あらゆる結婚に反對しても、父を首肯《うなづ》かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち何《いづ》れも不可能であつた。人生に對する自家の哲學《フヒロソフヒー》の根本に觸れる問題に就いて、父を欺くのは猶更《なほさら》不可能であつた。代助は昨日《きのふ》の會見を回顧して、凡《すべ》てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を發展させながら、其因果の重みを背中に負《しよ》つて、高い絶壁の端《はじ》迄《まで》押し出された樣な心持であつた。

　彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思つた。けれども彼の頭の中には職業と云ふ文字がある丈《だけ》で、職業其物は體《たい》を具へて現はれて來なかつた。彼は今日《こんにち》迄《まで》如何なる職業にも興味を有《も》つてゐなかつた結果として、如何なる職業を想ひ浮べて見ても、只其上を上滑《うはすべ》りに滑つて行く丈《だけ》で、中に踏み込んで内部から考へる事は到底出來なかつた。彼には世間が平たい複雜な色分《いろわけ》の如くに見えた。さうして彼自身は何等の色を帶びてゐないとしか考へられなかつた。

　凡《すべ》ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に來て、そこで留まつた。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷ふ乞食《こつじき》の群《むれ》の中に見出《みいだ》した。生活の墮落は精神の自由を殺す點に於て彼の尤も苦痛とする所であつた。彼は自分の肉體に、あらゆる醜穢《しうゑ》を塗り付けた後《あと》、自分の心の?態が如何に落魄《らくはく》するだらうと考へて、ぞつと身振《みぶるひ》をした。

　此｜落魄《らくはく》のうちに、彼は三千代を引張り廻さなければならなかつた。三千代は精神的に云つて、既に平岡の所有ではなかつた。代助は死に至る迄｜彼《かの》女《をんな》に對して責任を負ふ積《つもり》であつた。けれども相當の地位を有《も》つてゐる人の不實と、零落《れいらく》の極《きよく》に達した人の親切とは、結果に於て大した差違はないと今更ながら思はれた。死ぬ迄三千代に對して責任を負ふと云ふのは、負ふ目的があるといふ迄で、負つた事實には決してなれなかつた。代助は惘然《まうぜん》として黒内障《そこひ》に罹つた人の如くに自失した。

　彼は又三千代を訪ねた。三千代は前日の如く靜に落ち着いてゐた。微笑《ほゝゑみ》と光輝《かゞやき》とに滿ちてゐた。春風《はるかぜ》はゆたかに彼《かの》女《をんな》の眉を吹いた。代助は三千代が己《おのれ》を擧げて自分に信頼してゐる事を知つた。其證據を又｜眼《ま》のあたりに見た時、彼は愛憐の情と氣の毒の念に堪えなかつた。さうして自己を惡漢の如くに呵責《かしやく》した。思ふ事は全く云ひそびれて仕舞つた。歸るとき、

　「又都合して宅《うち》へ來ませんか」と云つた。三千代はえゝと首肯《うなづ》いて微笑した。代助は身を切られる程｜酷《つら》かつた。

　代助は此間から三千代を訪問する毎に、不愉快ながら平岡の居ない時を擇《えら》まなければならなかつた。始めはそれを左程《さほど》にも思はなかつたが、近頃では不愉快と云ふよりも寧ろ、行《ゆ》き惡《にく》い度《ど》が日毎に強くなつて來た。其上留守の訪問が重なれば、下女に不審を起させる恐れがあつた。氣の所爲《せゐ》か、茶を運ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付をして、見られる樣でならなかつた。然し三千代は全く知らぬ顔をしてゐた。少なくとも上部《うはべ》丈《だけ》は平氣であつた。

　平岡との關係に就ては、無論詳しく尋ねる機會もなかつた。會《たま》に一言二言《ひとことふたこと》夫《それ》となく問を掛けて見ても、三千代は寧ろ應じなかつた。たゞ代助の顔を見れば、見てゐる其間｜丈《だけ》の嬉しさに溺れ盡すのが自然の傾向であるかの如くに思はれた。前後を取り圍む黒い雲が、今にも逼《せま》つて來はしまいかと云ふ心配は、陰ではいざ知らず、代助の前には影さへ見せなかつた。三千代は元來神經質の女であつた。昨今の態度は、何うしても此女の手際ではないと思ふと、三千代の周圍の事情が、まだ夫《それ》程《ほど》險惡に近づかない證據になるよりも、自分の責任が一層重くなつたのだと解釋せざるを得なかつた。

　「すこし又話したい事があるから來て下さい」と前よりは稍《やゝ》眞面目に云つて代助は三千代と別れた。

　中二日《なかふつか》置いて三千代が來る迄、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかつた。彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書《かいしよ》で燒き付けられてゐた。それを押し退《の》けると、物質的供給の杜絶《とぜつ》がしきりに踴《をど》り狂つた。それが影を隱すと、三千代の未來が凄じく荒れた。彼の頭には不安の旋風《つむじ》が吹き込んだ。三つのものが巴《ともゑ》の如く瞬時の休みなく回轉した。其結果として、彼の周圍が悉《こと／”＼》く回轉しだした。彼は船に乘つた人と一般であつた。回轉する頭と、回轉する世界の中に、依然として落ち付いてゐた。

　青山の宅《うち》からは何の消息もなかつた。代助は固《もと》よりそれを豫期してゐなかつた。彼は力《つと》めて門野を相手にして他愛《たわい》ない雜談に耽《ふけ》つた。門野は此暑さに自分の身體を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り口を動かした。それでも話し草臥《くたび》れると、

　「先生、將棋は何うです」抔《など》と持ち掛けた。夕方には庭に水を打つた。二人共｜跣足《はだし》になつて、手桶を一杯｜宛《づゝ》持つて、無分別に其所等《そこいら》を濡らして歩いた。門野が隣の梧桐《ごとう》の天邊《てつぺん》迄《まで》水にして御目にかけると云つて、手桶の底を振り上げる拍子に、滑つて尻持を突いた。白粉草《おしろいさう》が垣根の傍《そば》で花を着けた。手水鉢《てうづばち》の蔭に生えた秋海棠《しうかいだう》の葉が著るしく大きくなつた。梅雨《つゆ》は漸く晴れて、晝は雲の峰の世界となつた。強い日は大きな空を透き通す程燒いて、空一杯の熱を地上に射り付ける天氣となつた。

　代助は夜に入つて頭の上の星ばかり眺めてゐた。朝は書齋に這入つた。二三日は朝から蝉の聲が聞える樣になつた。風呂場へ行つて、度々《たび／＼》頭を冷した。すると門野がもう好い時分だと思つて、

　「何うも非常な暑さですな」と云つて、這入つて來た。代助は斯う云ふ上《うは》の空《そら》の生活を二日程送つた。三日目の日盛《ひざかり》に、彼は書齋の中から、ぎら／＼する空の色を見詰めて、上から吐《は》き下《おろ》す?の息を嗅いだ時に、非常に恐ろしくなつた。それは彼の精神が此猛烈なる氣候から永久の變化を受けつゝあると考へた爲であつた。

　三千代は此｜暑《あつさ》を冒して前日の約を履《ふ》んだ。代助は女の聲を聞き付けた時、自分で玄關迄飛び出した。三千代は傘《かさ》をつぼめて、風呂敷包を抱へて、格子の外に立つてゐた。不斷着の儘｜宅《うち》を出たと見えて、質素な白地の浴衣《ゆかた》の袂から手帛《はんけち》を出し掛けた所であつた。代助は其姿を一目見た時、運命が三千代の未來を切り拔いて、意地惡く自分の眼の前に持つて來た樣に感じた。われ知らず、笑ひながら、

　「馳落《かけおち》でもしさうな風ぢやありませんか」と云つた。三千代は穩かに、

　「でも買物をした序《ついで》でないと上《あが》り惡《にく》いから」と眞面目な答をして、代助の後《あと》に很《つ》いて奧迄這入つて來た。代助はすぐ團扇《うちは》を出した。照り付けられた所爲《せゐ》で三千代の頬が心持よく輝やいた。何時《いつ》もの疲れた色は何處にも見えなかつた。眼の中にも若い澤《つや》が宿つてゐた。代助は生々《いき／＼》した此美くしさに、自己の感覺を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた。が、やがて、此美くしさを冥々《めい／＼》の裡《うち》に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ出したら悲しくなつた。彼は今日も此美くしさの一部分を曇らす爲に三千代を呼んだに違なかつた。

　代助は幾度《いくたび》か己《おの》れを語る事を躊躇《ちうちよ》した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉一筋にしろ心配の爲に動かさせるのは、代助から云ふと非常な不�ｺ義であつた。もし三千代に對する義務の心が、彼の胸のうちに鋭どく働らいてゐなかつたなら、彼は夫《それ》から以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達《せんだつ》ての告白を再び同じ室《へや》のうちに繰り返して、單純なる愛の快感の下《もと》に、一切を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。

　代助は漸くにして思ひ切つた。

　「其《その》後《ご》貴方と平岡との關係は別に變りはありませんか」

　三千代は此問を受けた時でも、依然として幸福であつた。

　「あつたつて、構はないわ」

　「貴方は夫《それ》程《ほど》僕を信用してゐるんですか」

　「信用してゐなくつちや、斯うして居られないぢやありませんか」

　代助は目映《まぼ》しさうに、熱い鏡の樣な遠い空を眺めた。

　「僕には夫《それ》程《ほど》信用される資格がなささうだ」と苦笑しながら答へたが、頭の中は焙爐《ほいろ》の如く火照《ほて》つてゐた。然し三千代は氣にも掛からなかつたと見えて、何故《なぜ》とも聞き返さなかつた。たゞ簡單に、

　「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は眞面目になつた。

　「僕は白?するが、實を云ふと、平岡君より頼《たより》にならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな話して仕舞ふが」と前置をして、夫《それ》から自分と父との今日《こんにち》迄《まで》の關係を詳しく述べた上、

　「僕の身分は是から先何うなるか分らない。少なくとも當分は一人前《いちにんまへ》ぢやない。半人前にもなれない。だから」と云ひ淀《よと》んだ。

　「だから、何うなさるんです」

　「だから、僕の思ふ通り、貴方に對して責任が盡せないだらうと心配してゐるんです」

　「責任つて、何《と》んな責任なの。もつと判然《はつきり》仰しやらなくつちや解らないわ」

　代助は平生から物質的?況に重きを置くの結果、たゞ貧苦が愛人の滿足に價《あたひ》しないと云ふ事｜丈《だけ》を知つてゐた。だから富が三千代に對する責任の一つと考へたのみで、夫《それ》より外に明らかな觀念は丸《まる》で持つてゐなかつた。

　「�ｺ義上の責任ぢやない、物質上の責任です」

　「そんなものは欲しくないわ」

　「欲しくないと云つたつて、是非必要になるんです。是から先僕が貴方と何《ど》んな新らしい關係に移つて行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」

　「解決者でも何でも、今更｜左樣《そん》な事を氣にしたつて仕方がないわ」

　「口ではさうも云へるが、いざと云ふ場合になると困るのは眼に見えてゐます」

　三千代は少し色を變へた。

　「今貴方の御父樣の御話を伺つて見ると、斯うなるのは始めから解つてるぢやありませんか。貴方だつて、其位な事は疾《と》うから氣が付いて入らつしやる筈だと思ひますわ」

　代助は返事が出來なかつた。頭を抑えて、

　「少し腦が何うかしてゐるんだ」と獨り言の樣に云つた。三千代は少し涙ぐんだ。

　「もし、夫《それ》が氣になるなら、私の方は何うでも宜《よ》う御座んすから、御父樣と仲直りをなすつて、今迄通り御交際《おつきあひ》になつたら好いぢやありませんか」

　代助は急に三千代の手頸を握つてそれを振る樣に力を入れて云つた。――

　「そんな事を爲《す》る氣なら始めから心配をしやしない。たゞ氣の毒だから貴方に詫《あやま》るんです」

　「詫《あや》まるなんて」と三千代は聲を顫はしながら遮《さへぎ》つた。「私が源因《もと》で左樣《さう》なつたのに、貴方に詫《あや》まらしちや濟まないぢやありませんか」

　三千代は聲を立てゝ泣いた。代助は慰撫《なだ》める樣に、

　「ぢや我慢しますか」と聞いた。

　「我慢はしません。當り前ですもの」

　「是から先まだ變化がありますよ」

　「ある事は承知してゐます。何《ど》んな變化があつたつて構やしません。私は此間から、――此間から私は、若《もし》もの事があれば、死ぬ積《つもり》で覺悟を極めてゐるんですもの」

　代助は慄然《りつぜん》として戰《をのゝ》いた。

　「貴方に是から先｜何《どう》したら好いと云ふ希望はありませんか」と聞いた。

　「希望なんか無いわ。何でも貴方の云ふ通りになるわ」

　「漂泊――」

　「漂泊でも好いわ。死ねと仰しやれば死ぬわ」

　代助は又｜竦《ぞつ》とした。

　「此儘では」

　「此儘でも構はないわ」

　「平岡君は全く氣が付いてゐない樣ですか」

　「氣が付いてゐるかも知れません。けれども私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時《いつ》殺されたつて好いんですもの」

　「さう死ぬの殺されるのと安つぽく云ふものぢやない」

　「だつて、放《はふ》つて置いたつて、永く生きられる身體ぢやないぢやありませんか」

　代助は硬《かた》くなつて、竦《すく》むが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里《ヒステリ》の發作に襲はれた樣に思ひ切つて泣いた。

　一仕切《ひとしきり》經《た》つと、發作は次第に収まつた。後《あと》は例《いつも》の通り靜かな、しとやかな、奧行のある、美くしい女になつた。眉のあたりが殊に晴《はれ》／”＼しく見えた。其時代助は、

　「僕が自分で平岡君に逢つて解決を付けても宜《よ》う御座んすか」と聞いた。

　「そんな事が出來て」と三千代は驚ろいた樣であつた。代助は、

　「出來る積《つもり》です」と確《しつか》り答へた。

　「ぢや、何うでも」と三千代が云つた。

　「さうしませう。二人が平岡君を欺いて事をするのは可《よ》くない樣だ。無論事實を能く納得《なつとく》出來る樣に話す丈《だけ》です。さうして、僕の惡い所はちやんと詫《あや》まる覺悟です。其結果は僕の思ふ樣に行かないかも知れない。けれども何う間違つたつて、そんな無暗な事は起らない樣にする積《つもり》です。斯う中途半端にしてゐては、御互も苦痛だし、平岡君に對しても惡い。たゞ僕が思ひ切つて左樣《さう》すると、あなたが、嘸《さぞ》平岡君に面目なからうと思つてね。其所が御氣の毒なんだが、然し面目ないと云へば、僕だつて面目ないんだから。自分の所爲《しよゐ》に對しては、如何に面目なくつても、�ｺ義上の責任を負ふのが當然だとすれば、外に何等の利益がないとしても、御互の間に有つた事｜丈《だけ》は平岡君に話さなければならないでせう。其上今の場合では是からの所置を付ける大事の自白なんだから、猶更《なほさら》必要になると思ひます」

　「能く解りましたわ。何うせ間違へば死ぬ積《つもり》なんですから」

　「死ぬなんて。――よし死ぬにしたつて、是から先｜何《ど》の位｜間《あひだ》があるか――又そんな危險がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」

　三千代は又泣き出した。

　「ぢや能く詫《あやま》ります」

　代助は日の傾くのを待つて三千代を歸した。然し此前の時の樣に送つては行かなかつた。一時間程書齋の中で蝉の聲を聞いて暮した。三千代に逢つて自分の未來を打ち明けてから、氣分が薩張《さつぱ》りした。平岡へ手紙を書いて、會見の都合を聞き合せ樣として、筆を持つて見たが、急に責任の重いのが苦になつて、拜啓以後を書き續ける勇氣が出なかつた。卒然《そつぜん》、襯衣《しやつ》一枚になつて素足で庭へ飛び出した。三千代が歸る時は正體なく午睡《ひるね》をしてゐた門野が、

　「まだ早いぢやありませんか。日が當つてゐますぜ」と云ひながら、坊主頭を兩手で抑えて椽端《えんばな》にあらはれた。代助は返事もせずに、庭の隅へ潜《もぐ》り込んで竹の落葉を前の方へ掃き出した。門野も已《やむ》を得ず着物を脱いで下りて來た。

　狹い庭だけれども、土が乾いてゐるので、たつぷり濡らすには大分《だいぶん》骨が折れた。代助は腕が痛いと云つて好加減にして足を拭いて上つた。烟草を吹《ふ》いて、椽側《えんがは》に休んでゐると、門野が其姿を見て、

　「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯《からか》つた。

　晩には門野を連れて、神樂坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買つて來て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。夜は深く空は高かつた。星の色は濃く繁く光つた。

　代助は其晩わざと雨戸を引かずに寐た。無用心と云ふ恐れが彼の頭には全く無かつた。彼は洋燈《ランプ》を消して、蚊帳の中に獨り寐轉びながら、暗い所から暗い空を透かして見た。頭の中には晝の事が鮮かに輝いた。もう二三日のうちには最後の解決が出來ると思つて幾度《いくたび》か胸を躍らせた。が、そのうち大いなる空と、大いなる夢のうちに、吾知らず吸収された。

　翌日の朝彼は思ひ切つて平岡に手紙を出した。たゞ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせて貰ひたい。此方《こつち》は何時《いつ》でも差支ない。と書いた丈《だけ》だが、彼はわざとそれを封書にした。?袋の糊を濕《し》めして、赤い切手をとんと張つた時には、愈《いよ／＼》クライシスに證券を與へた樣な氣がした。彼は門野に云ひ付けて、此運命の使を郵便函に投げ込ました。手渡しにする時、少し手先が顫へたが、渡したあとでは却つて茫然として自失した。三年｜前《ぜん》三千代と平岡の間に立つて斡旋《あつせん》の勞を取つた事を追想すると丸《まる》で夢の樣であつた。

　翌日は平岡の返事を心待に待ち暮らした。其｜明《あく》る日も當にして終日｜宅《うち》にゐた。三日四日と經《た》つた。が、平岡からは何の便《たより》もなかつた。其中例月の通り、青山へ金を貰ひに行くべき日が來た。代助の懷中は甚だ手薄になつた。代助は此前父に逢つた時以後、もう宅《うち》からは補助を受けられないものと覺悟を極めてゐた。今更平氣な顔をして、のそ／＼出掛けて行く了見は丸《まる》でなかつた。何二ケ月や三ケ月は、書物か衣類を賣り拂つても何うかなると腹の中《なか》で高《たか》を括《くゝ》つて落ち付いてゐた。事の落着次第｜緩《ゆつ》くり職業を探すと云ふ分別もあつた。彼は平生から人のよく口癖にする、人間は容易な事で餓死するものぢやない、何うにかなつて行くものだと云ふ半諺《はんことわざ》の眞理を、經驗しない前から信じ出した。

　五日目に暑《あつさ》を冒して、電車へ乘つて、平岡の社迄出掛けて行つて見て、平岡は二三日出社しないと云ふ事が分つた。代助は表へ出て薄汚ない編輯局の窓を見上げながら、足を運ぶ前に、一應電話で聞き合すべき筈だつたと思つた。先達《せんだつ》ての手紙は、果して平岡の手に渡つたかどうか、夫《それ》さへ疑はしくなつた。代助はわざと新聞社宛でそれを出したからである。歸りに神田へ廻つて、買ひつけの古本屋に、賣拂ひたい不用の書物があるから、見に來てくれろと頼んだ。

　其晩は水を打つ勇氣も失《う》せて、ぼんやり、白い網襯衣《あみしやつ》を着た門野の姿を眺めてゐた。

　「先生今日は御疲ですか」と門野が馬尻《ばけつ》を鳴らしながら云つた。代助の胸は不安に壓《お》されて、明らかな返事も出なかつた。夕食《ゆふめし》のとき、飯の味は殆んどなかつた。呑み込む樣に咽喉《のど》を通して、箸を投げた。門野を呼んで、

　「君、平岡の所へ行つてね、先達《せんだつ》ての手紙は御覽になりましたか。御覽になつたら、御返事を願ひますつて、返事を聞いて來て呉れ玉へ」と頼んだ。猶《なほ》要領を得ぬ恐がありさうなので、先達《せんだつ》てこれ／＼の手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云ふ事迄説明して聞かした。

　門野を出した後《あと》で、代助は椽側《えんがは》に出て、椅子に腰を掛けた。門野の歸つた時は、洋燈《ランプ》を吹き消して、暗い中に凝《じつ》としてゐた。門野は暗がりで、

　「行つて參りました」と挨拶をした。「平岡さんは御居《おゐ》でゞした。手紙は御覽になつたさうです。明日《あした》の朝行くからといふ事です」

　「左樣《さう》かい、御苦勞さま」と代助は答へた。

　「實はもつと早く出るんだつたが、うちに病人が出來たんで遲くなつたから、宜しく云つてくれろと云はれました」

　「病人？」と代助は思はず問ひ返した。門野は暗い中で、

　「えゝ、何でも奧さんが御惡い樣です」と答へた。門野の着てゐる白地の浴衣《ゆかた》丈《だけ》がぼんやり代助の眼に入つた。夜の明りは二人の顔を照らすには餘り不充分であつた。代助は掛けてゐる籐椅子《といす》の肱掛を兩手で握つた。

　「餘程惡いのか」と強く聞いた。

　「何うですか、能く分りませんが。何でもさう輕さうでもない樣でした。然し平岡さんが明日《あした》御出《おいで》になられる位なんだから、大した事ぢやないでせう」

　代助は少し安心した。

　「何だい。病氣は」

　「つい聞き落しましたがな」

　二人の問答は夫《それ》で絶えた。門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入つた。靜かに聞いてゐると、しばらくして、洋燈《ランプ》の蓋《かさ》をホヤに打《ぶ》つける音がした。門野は灯火《あかり》を轉《つ》けたと見えた。

　代助は夜《よ》の中に猶｜凝《じつ》としてゐた。凝《じつ》としてゐながら、胸がわく／＼した。握つてゐる肱掛に、手から膏《あぶら》が出た。代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。門野のぼんやりした白地が又廊下のはづれに現はれた。

　「まだ暗闇《くらやみ》ですな。洋燈《ランプ》を點《つ》けますか」と聞いた。代助は洋燈《ランプ》を斷つて、もう一度、三千代の病氣を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の樣子やら、新聞社を休んだのは、細君の病氣の爲だか、何うだか、と云ふ點に至る迄、考へられる丈《だけ》問ひ盡した。けれども門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好《いゝ》加減な當ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には一人で黙つてゐるよりも堪《こら》へ易かつた。

　寐る前に門野が夜中《やちゆう》投函から手紙を一本出して來た。代助は暗い中《うち》でそれを受取つた儘、別に見《み》樣《やう》ともしなかつた。門野は、

　「御宅からの樣です、灯火《あかり》を持つて來ませうか」と促《うな》がす如くに注意した。

　代助は始めて洋燈《ランプ》を書齋に入れさして、其下で、?袋の封を切つた。手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであつた。――

　「此間から奧さんの事で貴方も嘸《さぞ》御迷惑なすつたらう。此方《こつち》でも御父樣始め兄さんや、私は隨分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達《せんだつ》て御出《おいで》の時、とう／＼御父さんに斷然御斷りなすつた御樣子、甚だ殘念ながら、今では仕方がないと諦らめてゐます。けれども其節御父樣は、もう御前の事は構はないから、其｜積《つもり》でゐろと御怒《おおこ》りなされた由、後で承《うけたまは》りました。其｜後《のち》あなたが御出《おいで》にならないのも、全く其爲ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを上げる日には何うかとも思ひましたが、矢張り御出《おいで》にならないので、心配してゐます。御父さんは打遣つて置けと仰《おつしや》います。兄さんは例の通り呑氣《のんき》で、困つたら其内來るだらう。其時｜親爺《おやぢ》によく詫《あやま》らせるが可《い》い。もし來ない樣だつたら、おれの方から行つてよく異見《いけん》してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう斷念してゐるんですから、其點では御迷惑になる樣な事はありますまい。尤も御父さんは未《ま》だ怒つて御出《おいで》の樣子です。私の考では當分昔の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、貴方が入らつしやらない方が却つて貴方の爲に宜《い》いかも知れません。たゞ心配になるのは月々上げる御金の事です。貴方の事だから、さう急に自分で御金を取る氣遣《きづかひ》はなからうと思ふと、差し當り御困りになるのが眼の前に見える樣で、御氣の毒で堪《たま》りません。で、私の取計らひで例月分を送つて上げるから、御受取の上は是で來月迄｜持《も》ち應《こた》へて入らつしやい。其内には御父さんの御機嫌も直るでせう。又兄さんからも、さう云つて頂く積《つもり》です。私も好い折があれば、御詫をして上げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が宜《よ》う御座います。……」

　まだ後《あと》が大分《だいぶ》あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は中に這入つてゐた小切手を引き拔いて、手紙｜丈《だけ》をもう一遍よく讀み直した上、丁寧に元の如くに卷き収めて、無言の感謝を改めて嫂《あによめ》に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の體《たい》の言文一致なのは、かねて代助の勸めた通りを用ひたのであつた。

　代助は洋燈《ランプ》の前にある封筒を、猶《なほ》つく／”＼と眺めた。古い壽命が又一ケ月延びた。晩《おそ》かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂《あによめ》の志は難有《ありがた》いにもせよ、却つて毒になる許《ばかり》であつた。たゞ平岡と事を決する前は、?麭《パン》の爲に働らく事を首《うけが》はぬ心を持つてゐたから、嫂《あによめ》の贈物が、此際糧食としてことに彼には貴《たつ》とかつた。

　其晩も蚊帳へ這入る前にふつと、洋燈《ランプ》を消した。雨戸は門野が立てに來たから、故障も云はずに、其儘にして置いた。硝子戸だから、戸越しにも空は見えた。たゞ昨夕《ゆうべ》より暗かつた。曇つたのかと思つて、わざ／＼椽側《えんがは》迄出て、透かす樣にして軒を仰ぐと、光るものが筋を引いて斜めに空を流れた。代助は又蚊帳を捲《まく》つて這入つた。寐付かれないので團扇《うちは》をはた／＼云はせた。

　家《いへ》の事は左《さ》のみ氣に掛からなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病氣と、其源因と其結果が、ひどく代助の頭を惱ました。それから平岡との會見の樣子も、樣々に想像して見た。それも一方ならず彼の腦隨を刺激した。平岡は明日《あした》の朝九時頃あんまり暑くならないうちに來るといふ傳言であつた。代助は固《もと》より、平岡に向つて何う切り出さう抔《など》と形式的の文句を考へる男ではなかつた。話す事は始めから極つてゐて、話す順序は其時の模樣次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穩かに自分の思ふ事が向ふに徹する樣にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安靜を切に冀《こひねが》つた。成るべく熟睡したいと心掛けて瞼《まぶた》を合せたが、生憎《あやにく》眼が冴えて昨夕《ゆうべ》よりは却つて寐苦しかつた。其内夏の夜がぼうと白み渡つて來た。代助は堪りかねて跳ね起きた。跣足《はだし》で庭先へ飛び下りて冷たい露を存分に踏んだ。夫《それ》から又｜椽側《えんがは》の籐椅子《といす》に倚つて、日の出を待つてゐるうちに、うと／＼した。

　門野が寐惚《ねぼ》け眼《まなこ》を擦《こす》りながら、雨戸を開けに出た時、代助ははつとして、此｜假睡《うたゝね》から覺めた。世界の半面はもう赤い日に洗はれてゐた。

　「大變御早うがすな」と門野が驚ろいて云つた。代助はすぐ風呂場へ行つて水を浴びた。朝飯《あさめし》は食はずに只紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、殆んど何が書いてあるか解らなかつた。讀むに從つて、讀んだ事が群がつて消えて行つた。たゞ時計の針ばかりが氣になつた。平岡が來る迄にはまだ二時間あまりあつた。代助は其間を何うして暮らさうかと思つた。凝《じつ》としてはゐられなかつた。けれども何をしても手に付かなかつた。責《せ》めて此二時間をぐつと寐込んで、眼を開けて見ると、自分の前に平岡が來てゐる樣にしたかつた。

　仕舞に何か用事を考へ出さうとした。不圖《ふと》机の上に乘せてあつた梅子の封筒が眼に付いた。代助は是だと思つて、強いて机の前に坐つて、嫂《あによめ》へ謝?《しやじやう》を書いた。成るべく叮嚀に書く積《つもり》であつたが、?袋へ入れて宛名迄｜認《したゝ》めて仕舞つて、時計を眺めると、たつた十五分程しか經つてゐなかつた。代助は席に着いた儘、安からぬ眼を空《くう》に据ゑて、頭の中で何か捜す樣に見えた。が、急に起《た》つた。

　「平岡が來たら、すぐ歸るからつて、少し待たして置いて呉れ」と門野に云ひ置いて表へ出た。強い日が正面から射竦《ゐすく》める樣な勢で、代助の顔を打つた。代助は歩きながら絶えず眼と眉を動かした。牛込見附を這入つて、飯田町を拔けて、九段坂下へ出て、昨日《きのふ》寄つた古本屋迄來て、

　「昨日《きのふ》不要の本を取りに來て呉れと頼んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其｜積《つもり》で」と斷つた。歸りには、暑さが餘り酷かつたので、電車で飯田橋へ回つて、それから揚場《あげば》を筋違《すぢかひ》に毘沙門前《びしやもんまへ》へ出た。

　家《うち》の前には車が一臺下りてゐた。玄關には靴が揃へてあつた。代助は門野の注意を待たないで、平岡の來てゐる事を悟つた。汗を拭いて、着物を洗ひ立ての浴衣に改めて、座敷へ出た。

　「いや、御使で」と平岡が云つた。矢張り洋服を着て、蒸される樣に扇を使つた。

　「何うも暑い所を」と代助も自《おのづ》から表立つた言葉遣をしなければならなかつた。

　二人はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の樣子を聞いて見たかつた。然しそれが何う云ふものか聞き惡《にく》かつた。其内通例の挨拶も濟んで仕舞つた。話は呼び寄せた方から、切り出すのが順當であつた。

　「三千代さんは病氣だつてね」

　「うん。夫《それ》で社の方も二三日《にさんち》休ませられた樣な譯で。つい君の所へ返事を出すのも忘れて仕舞つた」

　「そりや何うでも構はないが、三千代さんはそれ程惡いのかい」

　平岡は斷然たる答を一言葉《ひとことば》でなし得なかつた。さう急に何うの斯うのといふ心配もない樣だが、決して輕い方ではないといふ意味を手短かに述べた。

　此前暑い盛りに、神樂坂へ買物に出た序《ついで》に、代助の所へ寄つた明日《あくるひ》の朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしてゐながら、突然｜夫《をつと》の襟飾《えりかざり》を持つた儘卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度は其儘に三千代を介抱《かいはう》した。十分の後《のち》三千代はもう大丈夫だから社へ出て呉れと云ひ出した。口元には微笑の影さへ見えた。横にはなつてゐたが、心配する程の樣子もないので、もし惡い樣だつたら醫者を呼ぶ樣に、必要があつたら社へ電話を掛ける樣に云ひ置いて平岡は出勤した。其晩は遲く歸つた。三千代は心持が惡いといつて先へ寐てゐた。何《ど》んな具合かと聞いても、判然《はつきり》した返事をしなかつた。翌日朝起きで見ると三千代の色澤《いろつや》が非常に可《よ》くなかつた。平岡は寧ろ驚ろいて醫者を迎へた。醫者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血の爲だと云つた。隨分強い神經衰弱に罹つてゐると注意した。平岡は夫《それ》から社を休んだ。本人は大丈夫だから出て呉れろと頼む樣に云つたが、平岡は聞かなかつた。看護をしてから二日目の晩に、三千代が涙を流して、是非｜詫《あや》まらなければならない事があるから、代助の所へ行つて其譯を聞いて呉れろと夫《をつと》に告げた。平岡は始めて夫《それ》を聞いた時には、本當にしなかつた。腦の加減が惡いのだらうと思つて、好し／＼と氣休めを云つて慰めてゐた。三日目にも同じ願が繰り返された。其時平岡は漸やく三千代の言葉に一種の意味を認めた。すると夕方になつて、門野が代助から出した手紙の返事を聞きにわざ／＼小石川迄遣つて來た。

　「君の用事と三千代の云ふ事と何か關係があるのかい」と平岡は不思議さうに代助を見た。

　平岡の話は先刻《さつき》から深い感動を代助に與へてゐたが、突然此思はざる問に來た時、代助はぐつと詰つた。平岡の問は實に意表に、無邪氣に、代助の胸に應《こた》へた。彼は何時《いつ》になく少し赤面して俯向いた。然し再《ふたゝび》顔を上げた時は、平生の通り靜かな惡びれない態度を回復してゐた。

　「三千代さんの君に詫《あや》まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる關係があるだらう。或は同《おんな》じ事かも知れない。僕は何うしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思ふから話すんだから、今日迄の友誼《いうぎ》に免じて、快よく僕に僕の義務を果さして呉れ給へ」

　「何だい。改たまつて」と平岡は始めて眉を正した。

　「いや前置をすると言譯らしくなつて不可《いけ》ないから、僕も成る可くなら率直に云つて仕舞ひたいのだが、少し重大な事件だし、夫《それ》に習慣に反した嫌《きらひ》もあるので、若し中途で君に激されて仕舞ふと、甚だ困るから、是非仕舞迄君に聞いて貰ひたいと思つて」

　「まあ何だい。其話と云ふのは」

　好奇心と共に平岡の顔が益《ます／＼》眞面目になつた。

　「其代り、みんな話した後《あと》で、僕は何《ど》んな事を君から云はれても、矢張り大人《おとな》しく仕舞迄聞く積《つもり》だ」

　平岡は何《なん》にも云はなかつた。たゞ眼鏡の奧から大きな眼を代助の上に据ゑた。外はぎら／＼する日が照り付けて、椽側《えんがは》迄射返したが、二人は殆んど暑さを度外に置いた。

　代助は一段聲を潜めた。さうして、平岡夫婦が東京へ來てから以來、自分と三千代との關係が何《ど》んな變化を受けて、今日《こんにち》に至つたかを、詳しく語り出した。平岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。代助は凡《すべ》てを語るに約一時間餘を費やした。其間に平岡から四遍程極めて單簡《たんかん》な質問を受けた。

　「ざつと斯う云ふ經過だ」と説明の結末を付けた時、平岡はたゞ唸《うな》る樣に深い溜息を以て代助に答へた。代助は非常に酷《つら》かつた。

　「君の立場から見れば、僕は君を裏切りした樣に當る。怪《け》しからん友達だと思ふだらう。左樣《さう》思はれても一言《いちごん》もない。濟まない事になつた」

　「すると君は自分のした事を惡いと思つてるんだね」

　「無論」

　「惡いと思ひながら今日《こんにち》迄｜歩《ほ》を進めて來たんだね」と平岡は重ねて聞いた。語氣は前よりも稍《やゝ》切迫してゐた。

　「左樣《さう》だ。だから、此事に對して、君の僕等に與へやうとする制裁は潔《いさぎ》よく受ける覺悟だ。今のはたゞ事實を其儘に話した丈《だけ》で、君の處分の材料にする考だ」

　平岡は答へなかつた。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云つた。

　「僕の毀損された名譽が、回復出來る樣な手段が、世の中にあり得ると、君は思つてゐるのか」

　今度は代助の方が答へなかつた。

　「法律や社會の制裁は僕にも何にもならない」と平岡は又云つた。

　「すると君は當事者｜丈《だけ》のうちで、名譽を回復する手段があるかと聞くんだね」

　「左樣《さう》さ」

　「三千代さんの心機を一轉して、君を元より倍以上に愛させる樣にして、其上僕を蛇蝎《だかつ》の樣に惡《にく》ませさへすれば幾分か償《つぐなひ》にはなる」

　「夫《それ》が君の手際で出來るかい」

　「出來ない」と代助は云ひ切つた。

　「すると君は惡いと思つてる事を今日《こんにち》迄《まで》發展さして置いて、猶《なほ》其惡いと思ふ方針によつて、極端迄押して行かうとするのぢやないか」

　「矛盾かも知れない。然し夫《それ》は世間の掟《おきて》と定めてある夫婦關係と、自然の事實として成り上がつた夫婦關係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟《おきて》として、三千代さんの夫《をつと》たる君に詫まる。然し僕の行爲其物に對しては矛盾も何も犯してゐない積《つもり》だ」

　「ぢや」と平岡は稍《やゝ》聲を高めた。「ぢや、僕等二人は世間の掟《おきて》に叶《かな》ふ樣な夫婦關係は結べないと云ふ意見だね」

　代助は同情のある氣の毒さうな眼をして平岡を見た。平岡の險《けは》しい眉が少し解けた。

　「平岡君。世間から云へば、これは男子の面目に關はる大事件だ。だから君が自己の權利を維持する爲に、――故意に維持しやうと思はないでも、暗《あん》に其心が働らいて、自然と激して來るのは已《やむ》を得ないが、――けれども、こんな關係の起らない學校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」

　平岡は何とも云はなかつた。代助も一寸控えてゐた。烟草を一吹《ひとふき》吹いた後《あと》で、思ひ切つて、

　「君は三千代さんを愛してゐなかつた」と靜かに云つた。

　「そりや」

　「そりや餘計な事だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡《すべ》ての解決者はそれだらうと思ふ」

　「君には責任がないのか」

　「僕は三千代さんを愛してゐる」

　「他《ひと》の妻《さい》を愛する權利が君にあるか」

　「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件ぢやない人間だから、心迄所有する事は誰にも出來ない。本人以外にどんなものが出て來たつて、愛情の�搆ｸや方向を命令する譯には行かない。夫《をつと》の權利は其所迄は屆きやしない。だから細君の愛を他《ほか》へ移さない樣にするのが、却つて夫《をつと》の義務だらう」

　「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事實としても」と平岡は強いて己《おのれ》を抑える樣に云つた。拳《こぶし》を握つてゐた。代助は相手の言葉の盡きるのを待つた。

　「君は三年｜前《ぜん》の事を覺えて居るだらう」と平岡は又句を更《か》へた。

　「三年｜前《ぜん》は君が三千代さんと結婚した時だ」

　「さうだ。其時の記憶が君の頭の中《なか》に殘つてゐるか」

　代助の頭は急に三年｜前《ぜん》に飛び返つた。當時の記憶が、闇を回《めぐ》る松明《たいまつ》の如く輝いた。

　「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」

　「貰ひたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」

　「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」

　平岡は斯う云つて、しばらく冥想《めいさう》してゐた。

　「二人で、夜上野を拔けて谷中《やなか》へ下りる時だつた。雨上《あまあが》りで谷中の下は道が惡かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの橋の所迄來た時、君は僕の爲に泣いて呉れた」

　代助は黙然《もくねん》としてゐた。

　「僕は其時程朋友を難有《ありがた》いと思つた事はない。嬉しくつて其晩は少しも寐られなかつた。月のある晩だつたので、月の消える迄起きてゐた」

　「僕もあの時は愉快だつた」と代助が夢の樣に云つた。それを平岡は打ち切る勢《いきほひ》で遮《さへぎ》つた。――

　「君は何だつて、あの時僕の爲に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の爲に三千代を周旋しやうと盟《ちか》つたのだ。今日《こんにち》の樣な事を引き起す位なら、何故《なぜ》あの時、ふんと云つたなり放《はふ》つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讎《かたき》を取られる程、君に向つて惡い事をした覺がないぢやないか」

　平岡は聲を顫はした。代助の蒼い額に汗の珠が溜つた。さうして訴へる如くに云つた。

　「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」

　平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺めた。

　「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未來を犧牲にしても、君の望みを叶《かな》へるのが、友達の本分だと思つた。それが惡かつた。今《いま》位《くらゐ》頭が熟してゐれば、まだ考へ樣があつたのだが、惜しい事に若かつたものだから、餘りに自然を輕蔑し過ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の爲ばかりぢやない。實際君の爲に後悔してゐる。僕が君に對して眞《しん》に濟まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじひに遣り遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘辨して呉れ。僕は此通り自然に復讎《かたき》を取られて、君の前に手を突いて詫まつてゐる」

　代助は涙を膝の上に零《こぼ》した。平岡の眼鏡が曇つた。

　「どうも蓮命だから仕方がない」

　平岡は呻吟《うめ》く樣な聲を出した。二人は漸く顔を見合せた。

　「善後策に就て君の考があるなら聞かう」

　「僕は君の前に詫まつてゐる人間だ。此方《こつち》から先へそんな事を云ひ出す權利はない。君の考へから聞くのが順だ」と代助が云つた。

　「僕には何にもない」と平岡は頭を抑えてゐた。

　「では云ふ。三千代さんを呉れないか」と思ひ切つた調子に出た。

　平岡は頭から手を離して、肱《ひぢ》を棒の樣に洋卓《てえぶる》の上に倒した。同時に、

　「うん遣らう」と云つた。さうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。

　「遣る。遣るが、今は遣れない。僕は君の推察通り夫《それ》程《ほど》三千代を愛して居なかつたかも知れない。けれども惡《にく》んぢやゐなかつた。三千代は今病氣だ。しかも餘り輕い方ぢやない。寐てゐる病人を君に遣るのは厭だ。病氣が癒る迄君に遣れないとすれば、夫《それ》迄《まで》は僕が夫《をつと》だから、夫《をつと》として看護する責任がある」

　「僕は君に詫《あやま》つた。三千代さんも君に詫まつてゐる。君から云へば二人とも、不埒《ふらち》な奴には相違ないが、――幾何《いくら》詫まつても勘辨出來んかも知れないが、――何しろ病氣をして寐てゐるんだから」

　「夫《それ》は分つてゐる。本人の病氣に付け込んで僕が意趣晴《いしゆば》らしに、虐待《ぎやくたい》するとでも思つてるんだらうが、僕だつて、まさか」

　代助は平岡の言葉を信じた。さうして腹の中《なか》で平岡に感謝した。平岡は次に斯う云つた。

　「僕は今日《けふ》の事がある以上は、世間的の夫《をつと》の立場からして、もう君と交際する譯には行かない。今日限り絶交するから左樣《さう》思つて呉れ玉へ」

　「仕方がない」と代助は首を垂れた。

　「三千代の病氣は今云ふ通り輕い方ぢやない。此《この》先《さき》何《ど》んな變化がないとも限らない。君も心配だらう。然し絶交した以上は已《やむ》を得ない。僕の在不在に係はらず、宅《うち》へ出入《ではい》りする事｜丈《だけ》は遠慮して貰ひたい」

　「承知した」と代助はよろめく樣に云つた。其頬は益《ます／＼》蒼かつた。平岡は立ち上がつた。

　「君、もう五分｜許《ばかり》坐つて呉れ」と代助が頼んだ。平岡は席に着いた儘無言でゐた。

　「三千代さんの病氣は、急に危險な虞《おそれ》でもありさうなのかい」

　「さあ」

　「夫《それ》丈《だけ》�ﾍへて呉れないか」

　「まあ、さう心配しないでも可《い》いだらう」

　平岡は暗い調子で、地《ぢ》に息を吐く樣に答へた。代助は堪えられない思ひがした。

　「若しだね。若し萬一の事がありさうだつたら、其前にたつた一遍｜丈《だけ》で可《い》いから、逢はして呉れないか。外には決して何も頼まない。たゞ夫《それ》丈《だけ》だ。夫《それ》丈《だけ》を何うか承知して呉れ玉へ」

　平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかつた。代助は苦痛の遣り所がなくて、兩手の掌《たなごゝろ》を、垢《あか》の綯《よ》れる程｜揉《も》んだ。

　「夫《それ》はまあ其時の場合にしやう」と平岡が重さうに答へた。

　「ぢや、時々病人の樣子を聞きに遣つても可《い》いかね」

　「夫《それ》は困るよ。君と僕とは何にも關係がないんだから。僕は是から先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時｜丈《だけ》だと思つてるんだから」

　代助は電流に感じた如く椅子の上で飛び上がつた。

　「あつ。解つた。三千代さんの死骸｜丈《だけ》を僕に見せる積《つもり》なんだ。それは苛《ひど》い。それは殘酷だ」

　代助は洋卓《てえぶる》の縁《ふち》を回つて、平岡に近づいた。右の手で平岡の脊廣の肩を抑えて、前後に搖《ゆ》りながら、

　「苛《ひと》い、苛《ひど》い」と云つた。

　平岡は代助の眼のうちに狂へる恐ろしい光を見出した。肩を搖られながら、立ち上がつた。

　「左《そ》んな事があるものか」と云つて代助の手を抑えた。二人は魔《ま》に憑《つ》かれた樣な顔をして互を見た。

　「落ち付かなくつちや不可《いけ》ない」と平岡が云つた。

　「落ち付いてゐる」と代助が答へた。けれども其言葉は喘《あへ》ぐ息の間を苦しさうに洩れて出た。

　暫らくして發作の反動が來た。代助は己《おの》れを支ふる力を用ひ盡した人の樣に、又椅子に腰を卸した。さうして兩手で顔を抑えた。

　

　　　　　十七

　

　代助は夜《よ》の十時過になつて、こつそり家を出た。

　「今から何方《どちら》へ」と驚ろいた門野に、

　「何｜一寸《ちよつと》」と曖昧な答をして、寺町の通り迄來た。暑い時分の事なので、町はまだ宵の口であつた。浴衣《ゆかた》を着た人が幾人となく代助の前後を通つた。代助には夫《それ》が唯動くものとしか見えなかつた。左右の店は悉《こと／”＼》く明るかつた。代助は眩《まぼ》しさうに、電氣燈の少ない横町へ曲つた。江戸川の縁《ふち》へ出た時、暗い風が微《かす》かに吹いた。黒い櫻の葉が少し動いた。橋の上に立つて、欄干から下を見下してゐたものが二人あつた。金剛寺坂《こんがうじざか》でも誰にも逢はなかつた。岩崎家の高い石垣が左右から細い坂道を塞いでゐた。

　平岡の住んでゐる町は、猶《なほ》靜かであつた。大抵な家《うち》は灯影を洩らさなかつた。向ふから來た一臺の空車《からぐるま》の輪の音が胸を躍らす樣に響いた。代助は平岡の家の塀際迄來て留つた。身を寄せて中を窺ふと、中は暗かつた。立て切つた門の上に、軒燈が空しく標札を照らしてゐた。軒燈の硝子《がらす》に守宮《やもり》の影が斜めに映つた。

　代助は今朝も此所へ來た。午からも町内を彷徨《うろつ》いた。下女が買物にでも出る所を捕《つら》まへて、三千代の容體を聞かうと思つた。然し下女は遂に出て來なかつた。平岡の影も見えなかつた。塀の傍《そば》に寄つて耳を澄ましても、夫《それ》らしい人聲は聞えなかつた。醫者を突き留めて、詳しい樣子を探らうと思つたが、醫者らしい車は平岡の門前には留らなかつた。そのうち、強い日に射付けられた頭が、海の樣に動き始めた。立ち留まつてゐると、倒れさうになつた。歩き出すと、大地が大きな波紋を描《ゑが》いた。代助は苦しさを忍んで這ふ樣に家《うち》へ歸つた。夕食《ゆふめし》も食はずに倒れたなり動かずにゐた。其時恐るべき日は漸く落ちて、夜《よ》が次第に星の色を濃くした。代助は暗さと涼しさのうちに始めて蘇生《よみがへ》つた。さうして頭を露に打たせながら、又三千代のゐる所迄遣つて來たのである。

　代助は三千代の門前を二三度行つたり來たりした。軒燈の下へ來るたびに立ち留まつて、耳を澄ました。五分乃至十分は凝《じつ》としてゐた。しかし家《うち》の中の樣子は丸《まる》で分らなかつた。凡《すベ》てが寂《しん》としてゐた。

　代助が軒燈の下へ來て立ち留まるたびに、守宮《やもり》が軒燈の硝子《がらす》にぴたりと身體を貼り付けてゐた。黒い影は斜《はす》に映つた儘｜何時《いつ》でも動かなかつた。

　代助は守宮《やもり》に氣が付く毎に厭な心持がした。其動かない姿が妙に氣に掛つた。彼の精神は鋭さの餘りから來る迷信に陷《おちい》つた。三千代は危險だと想像した。三千代は今苦しみつゝあると想像した。三千代は今死につゝあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢ひたがつて、死に切れずに息を偸《ねす》んで生きてゐると想像した。代助は拳を固めて、割れる程平岡の門を敲《たゝ》かずにはゐられなくなつた。忽ち自分は平岡のものに指さへ觸れる權利がない人間だと云ふ事に氣が付いた。代助は恐ろしさの餘り馳け出した。靜かな小路《こうぢ》の中《うち》に、自分の足音｜丈《だけ》が高く響いた。代助は馳けながら猶《なほ》恐ろしくなつた。足を緩めた時は、非常に呼息《いき》が苦しくなつた。

　道端《みちばた》に石段があつた。代助は半ば夢中で其所へ腰を掛けたなり、額を手で抑えて、固くなつた。しばらくして、閉《ふ》さいだ眼を開けて見ると、大きな黒い門があつた。門の上から太い松が生垣の外迄枝を張つてゐた。代助は寺の這入り口に休んでゐた。

　彼は立ち上がつた。惘然《まうぜん》として又歩き出した。少し來て、再び平岡の小路へ這入つた。夢の樣に軒燈の前で立留つた。守宮《やもり》はまだ一つ所に映つてゐた。代助は深い溜息を洩らして遂に小石川を南側へ降りた。

　其晩は火の樣に、熱くて赤い旋風《つむじ》の中に、頭が永久に回轉した。代助は死力を盡して、旋風《つむじ》の中から逃《のが》れ出《で》樣《やう》と爭つた。けれども彼の頭は毫も彼の命令に應じなかつた。木の葉の如く、遲疑する樣子もなく、くるり／＼と?の風に卷かれて行つた。

　翌日《あくるひ》は又｜燬《や》け付く樣に日が高く出た。外は猛烈な光で一面にいら／＼し始めた。代助は我慢して八時過に漸く起きた。起きるや否や眼がぐらついた。平生の如く水を浴びて、書齋へ這入つて凝《じつ》と竦《すく》んだ。

　所へ門野が來て、御客さまですと知らせたなり、入口に立つて、驚ろいた樣に代助を見た。代助は返事をするのも退儀《たいぎ》であつた。客は誰だと聞き返しもせずに手で支《さゝ》へた儘の顔を、半分ばかり門野の方へ向き易へた。其時客の足音が椽側《えんがは》にして、案内も待たずに兄の誠吾が這入つて來た。

　「やあ、此方《こつち》へ」と席を勸めたのが代助にはやう／＼であつた。誠吾は席に着くや否や、扇子を出して、上布《じやうふ》の襟を開く樣に、風を送つた。此暑さに脂肪が燒けて苦しいと見えて、荒い息遣《いきづかひ》をした。

　「暑いな」と云つた。

　「御宅でも別に御變りもありませんか」と代助は、左《さ》も疲れ果てた人の如くに尋ねた。

　二人は少時《しばらく》例の通りの世間話をした。代助の調子態度は固《もと》より尋常ではなかつた。けれども兄は決して何うしたとも聞かなかつた。話の切れ目へ來た時、

　「今日は實は」と云ひながら、懷へ手を入れて、一通の手紙を取り出した。

　「實は御前に少し聞きたい事があつて來たんだがね」と封筒の裏を代助の方へ向けて、

　「此男を知つてるかい」と聞いた。其所には平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた。

　「知つてます」と代助は殆んど器械的に答へた。

　「元、御前の同級生だつて云ふが、本當か」

　「さうです」

　「此男の細君も知つてるのかい」

　「知つてゐます」

　兄は又扇を取り上げて、二三度ぱち／＼と鳴らした。それから、少し前へ乘り出す樣に、聲を一段落した。

　「此男の細君と、御前が何か關係があるのかい」

　代助は始めから萬事を隱す氣はなかつた。けれども斯う單簡《たんかん》に聞かれたときに、何うして此複雜な經過を、一言《いちげん》で答へ得るだらうと思ふと、返事は容易に口へは出なかつた。兄は封筒の中から、手紙を取り出した。それを四五寸ばかり捲き返して、

　「實は平岡と云ふ人が、斯う云ふ手紙を御父さんの所へ宛てゝ寄こしたんだがね。――讀んで見るか」と云つて、代助に渡した。代助は黙つて手紙を受取つて、讀み始めた。兄は凝《じつ》と代助の額の所を見詰めてゐた。

　手紙は細かい字で書いてあつた。一行二行と讀むうちに、讀み終つた分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺｜餘《あまり》になつても、まだ盡きる氣色《けしき》はなかつた。代助の眼はちら／＼した。頭が鐵の樣に重かつた。代助は強いても仕舞迄讀み通さなければならないと考へた。總身が名?しがたい壓迫を受けて、腋《わき》の下から汗が流れた。漸く結末へ來た時は、手に持つた手紙を卷き納める勇氣もなかつた。手紙は廣げられた儘｜洋卓《てえぶる》の上に横《よこた》はつた。

　「其所に書いてある事は本當なのかい」と兄が低い聲で聞いた。代助はたゞ、

　「本當です」と答へた。兄は打衝《シヨツク》を受けた人の樣に一寸扇の音を留《とゞ》めた。しばらくは二人とも口を聞き得なかつた。良《やゝ》あつて兄が、

　「まあ、何う云ふ了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と呆れた調子で云つた。代助は依然として、口を開かなかつた。

　「何《ど》んな女だつて、貰はうと思へば、いくらでも貰へるぢやないか」と兄がまた云つた。代助はそれでも猶《なほ》黙つてゐた。三度目に兄が斯う云つた。――

　「御前だつて滿更《まんざら》道樂をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出かす位なら、今迄折角金を使つた甲斐がないぢやないか」

　代助は今更兄に向つて、自分の立場を説明する勇氣もなかつた。彼はつい此間迄全く兄と同意見であつたのである。

　「姉さんは泣いてゐるぜ」と兄が云つた。

　「さうですか」と代助は夢の樣に答へた。

　「御父さんは怒つてゐる」

　代助は答をしなかつた。たゞ遠い所を見る眼をして、兄を眺めてゐた。

　「御前は平生から能く分らない男だつた。夫《それ》でも、いつか分る時機が来るだらうと思つて今日《こんにち》迄｜交際《つきあ》つてゐた。然し今度《こんだ》と云ふ今度《こんだ》は、全く分らない人間だと、おれも諦らめて仕舞つた。世の中に分らない人間程危險なものはない。何を爲《す》るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出來ない。御前は夫《それ》が自分の勝手だから可《よ》からうが、御父さんやおれの、社會上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名譽と云ふ觀念は有《も》つてゐるだらう」

　兄の言葉は、代助の耳を掠《かす》めて外へ零《こぼ》れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻《べんたつ》を蒙《かうむ》る程動搖してはゐなかつた。凡《すべ》てを都合よく辯解して、世間的の兄から、今更同情を得やうと云ふ芝居氣は固《もと》より起らなかつた。彼は彼の頭の中《うち》に、彼自身に正當な道を歩んだといふ自信があつた。彼は夫《それ》で滿足であつた。その滿足を理解して呉れるものは三千代｜丈《だけ》であつた。三千代以外には、父も兄も社會も人間も悉《こと／”＼》く敵であつた。彼等は赫々《かく／＼》たる炎火《えんくわ》の裡《うち》に、二人を包んで燒き殺さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此?の風に早く己《おの》れを燒き盡すのを、此上もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭を支《さゝ》へて石の樣に動かなかつた。

　「代助」と兄が呼んだ。「今日はおれは御父さんの使に來たのだ。御前は此間から家《うち》へ寄り付かない樣になつてゐる。平生なら御父さんが呼び付けて聞き糺《たゞ》す所だけれども、今日は顔を見るのが厭だから、此方《こつち》から行つて實否を確めて來いと云ふ譯で來たのだ。それで――もし本人に辯解があるなら辯解を聞くし。又辯解も何もない、平岡の云ふ所が一々根據のある事實なら、――御父さんは斯う云はれるのだ。――もう生涯代助には逢はない。何處へ行つて、何をしやうと當人の勝手だ。其代り、以來子としても取り扱はない。又親とも思つて呉れるな。――尤もの事だ。そこで今御前の話を聞いて見ると、平岡の手紙には嘘は一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない樣に見受けられる。それぢや、おれだつて、歸つて御父さんに取り成し樣がない。御父さんから云はれた通りを其儘御前に傳へて歸る丈《だけ》の事だ。好いか。御父さんの云はれる事は分つたか」

　「よく分りました」と代助は簡明に答へた。

　「貴樣は馬鹿だ」と兄が大きな聲を出した。代助は俯向いた儘顔を上げなかつた。

　「愚圖だ」と兄が又云つた。「不斷は人並《ひとなみ》以上に減らず口を敲《たゝ》く癖に、いざと云ふ場合には、丸《まる》で?《おし》の樣に黙つてゐる。さうして、陰で親の名譽に關はる樣な惡戯《いたづら》をしてゐる。今日《こんにち》迄《まで》何の爲に�ﾍ育を受けたのだ」

　兄は洋卓《てえぶる》の上の手紙を取つて自分で卷き始めた。靜かな部屋の中に、半切《はんきれ》の音がかさ／＼鳴つた。兄はそれを元の如くに封筒に約めて懷中した。

　「ぢや歸るよ」と今度は普通の調子で云つた。代助は叮嚀に挨拶をした。兄は、

　「おれも、もう逢はんから」と云ひ捨てて玄關に出た。

　兄の去つた後《あと》、代助はしばらく元の儘じつと動かずにゐた。門野が茶器を取り片付けに來た時、急に立ち上がつて、

　「門野さん。僕は一寸職業を探して來る」と云ふや否や、鳥打帽を被つて、傘《かさ》も指《さ》さずに日盛りの表へ飛び出した。

　代助は暑い中を馳けない許《ばかり》に、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から眞直に射下《いおろ》した。乾いた埃が、火の粉の樣に彼の素足を包んだ。彼はぢり／＼と焦《こげ》る心持がした。

　「焦《こげ》る／＼」と歩きながら口の内で云つた。

　飯田橋へ來て電車に乘つた。電車は眞直に走り出した。代助は車のなかで、

　「あゝ動く。世の中が動く」と傍《はた》の人に聞える樣に云つた。彼の頭は電車の速力を以て回轉し出した。回轉するに從つて火の樣に焙《ほて》つて來た。是で半日乘り續けたら燒き盡す事が出來るだらうと思つた。

　忽ち赤い郵便筒《いうびんづゝ》が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる／＼と回轉し始めた。傘屋《かさや》の看板に、赤い蝙蝠傘《かうもりがさ》を四つ重ねて高く釣るしてあつた。傘《かさ》の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる／＼と渦を捲いた。四つ角に、大きい眞赤《まつか》な風船玉を賣つてるものがあつた。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸《おつか》けて來て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺《す》れ違ふとき、又代助の頭の中に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾《のれん》が赤かつた。賣出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと續いた。仕舞には世の中が眞赤《まつか》になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり／＼と?の息を吹いて回轉した。代助は自分の頭が燒け盡きる迄電車に乘つて行かうと決心した。

　　　　　　2006年9月18日（月）12時38分、入力終了

　　　　　　2018年9月7日（金）9時37分、校正終了

　

　　　門

明治四三、三、一−四三、六、一二

　

　　　　　一

　

　宗助《そうすけ》は先刻《さつき》から縁側へ坐蒲團を持ち出して、日當りの好ささうな所へ氣樂に胡坐《あぐら》をかいて見たが、やがて手に持つてゐる雜誌を放《はふ》り出すと共に、ごろりと横になつた。秋日和《あきびより》と名のつく程の上天氣なので、往來を行く人の下駄の響が、靜かな町｜丈《だけ》に、朗らかに聞えて來る。肱枕《ひぢまくら》をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでゐる。其空が自分の寐てゐる縁側の窮屈な寸法に較べて見ると、非常に廣大である。たまの日曜に斯うして緩《ゆつ》くり空を見る丈《だけ》でも大分《だいぶ》違ふなと思ひながら、眉を寄せて、ぎら／＼する日を少時《しばらく》見詰めてゐたが、眩《まぼ》しくなつたので、今度はぐるりと寐返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫《しごと》をしてゐる。

　「おい、好い天氣だな」と話し掛けた。細君は、

　「えゝ」と云つたなりであつた。宗助も別に話がしたい譯でもなかつたと見えて、夫《それ》なり黙つて仕舞つた。しばらくすると今度は細君の方から、

　「ちつと散歩でも爲《し》て入らつしやい」と云つた。然し其時は宗助が唯うんと云ふ生返事《なまへんじ》を返した丈《だけ》であつた。

　二三分して、細君は障子の硝子《がらす》の所へ顔を寄せて、縁側に寐てゐる夫《をつと》の姿を覗いて見た。夫《をつと》はどう云ふ了見か兩膝を曲げて海老《えび》の樣に窮屈になつてゐる。さうして兩手を組み合はして、其中へ黒い頭を突つ込んでゐるから、肱《ひぢ》に挾《はさ》まれて顔がちつとも見えない。

　「貴方そんな所へ寐ると風邪《かぜ》引《ひ》いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京の樣な、東京でない樣な、現代の女學生に共通な一種の調子を持つてゐる。

　宗助は兩肱の中で大きな眼をぱち／＼させながら、

　「寐やせん、大丈夫だ」と小聲で答へた。

　夫《それ》から又靜かになつた。外を通る護謨車《ごむぐるま》のベルの音が二三度鳴つた後《あと》から、遠くで鷄の時音《とき》をつくる聲が聞えた。宗助は仕立卸しの紡績織《ばうせきおり》の脊中へ、自然《じねん》と浸み込んで來る光線の暖味《あたゝかみ》を、襯衣《しやつ》の下で貪ぼる程｜味《あぢは》ひながら、表の音を聽くともなく聽いてゐたが、急に思ひ出した樣に、障子越しの細君を呼んで、

　「御米《およね》、近來《きんらい》の近《きん》の字はどう書いたつけね」と尋ねた。細君は別に呆れた樣子もなく、若い女に特有なけたゝましい笑聲も立てず、

　「近江《おほみ》のおほ〔二字傍点〕の字ぢやなくつて」と答へた。

　「其｜近江《おほみ》のおほ〔二字傍点〕の字が分らないんだ」

　細君は立て切つた障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指《ものさし》を出して、其先で近の字を縁側へ書いて見せて、

　「斯うでしやう」と云つた限《ぎり》、物指の先を、字の留つた所へ置いたなり、澄み渡つた空を一しきり眺め入つた。宗助は細君の顔も見ずに、

　「矢つ張り左樣《さう》か」と云つたが、冗談でもなかつたと見えて、別に笑もしなかつた。細君も近の字は丸《まる》で氣にならない樣子で、

　「本當に好い御天氣だわね」と半ば獨り言の樣に云ひながら、障子を開けた儘又｜裁縫《しごと》を始めた。すると宗助は肱で挾んだ頭を少し擡《もた》げて、

　「何《ど》うも字と云ふものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。

　「何故《なぜ》」

　「何故《なぜ》つて、幾何《いくら》容易《やさし》い字でも、こりや變だと思つて疑ぐり出すと分らなくなる。此間も今日《こんにち》の今《こん》の字で大變迷つた。紙の上へちやんと書いて見て、ぢつと眺めてゐると、何だか違つた樣な氣がする。仕舞には見れば見る程｜今《こん》らしくなくなつて來る。――御前《おまい》そんな事を經驗した事はないかい」

　「まさか」

　「己《おれ》丈《だけ》かな」と宗助は頭へ手を當てた。

　「貴方何うかして入らつしやるのよ」

　「矢つ張り神經衰弱の所爲《せゐ》かも知れない」

　「左樣《さう》よ」と細君は夫《をつと》の顔を見た。夫《をつと》は漸く立ち上つた。 　針箱と糸屑の上を飛び越す樣に跨《また》いで、茶の間の襖《ふすま》を開けると、すぐ座敷である。南が玄關で塞《ふさ》がれてゐるので、突き當りの障子が、日向《ひなた》から急に這入つて來た眸《ひとみ》には、うそ寒く映つた。其所を開けると、廂《ひさし》に逼《せま》る樣な勾配《こうばい》の崖が、緑鼻《えんばな》から聳えてゐるので、朝の内は當つて然るべき筈の日も容易に影を落さない。崖には草が生えてゐる。下からして一側《ひとかは》も石で疊んでないから、何時《いつ》壞《くづ》れるか分らない虞《おそれ》があるのだけれども、不思議にまだ壞《くづ》れた事がないさうで、その爲か家主《やぬし》も長い間昔の儘にして放《はふ》つてある。尤も元は一面の竹藪だつたとかで、それを切り開く時に棍｜丈《だけ》は堀り返さずに土堤《どて》の中に埋めて置いたから、地《ぢ》は存外｜緊《しま》つてゐますからねと、町内に二十年も住んでゐる八百屋の爺《おやぢ》が勝手口でわざ／＼説明して呉れた事がある。其時宗助はだつて根が殘つてゐれば、又竹が生えて藪になりさうなものぢやないかと聞き返して見た。すると爺《おやぢ》は、それがね、あゝ切り開かれて見ると、さう甘《うま》く行くもんぢやありませんよ。然し崖｜丈《だけ》は大丈夫です。どんな事があつたつて壞《く》えつこはねえんだからと、恰も自分のものを辯護でもする樣に力《りき》んで歸つて行つた。

　崖は秋に入《い》つても別に色づく樣子もない。たゞ青い草の匂が褪《さ》めて、不揃《ぶそろ》にもぢや／＼する許《ばかり》である。薄《すゝき》だの蔦《つた》だのと云ふ洒落《しやれ》たものに至つては更に見當らない。其代り昔の名殘《なご》りの孟宗が中途に二本、上の方に三本程すつくりと立つてゐる。夫《それ》が多少黄に染まつて、幹に日の射すときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味を眺められる樣な心持がする。宗助は朝出て四時過に歸る男だから、日の詰まる此頃は、滅多に崖の上を覗く暇《ひま》を有《も》たなかつた。暗い便所から出て、手水鉢《てうづばち》の水を手に受けながら、不圖《ふと》廂《ひさし》の外を見上げた時、始めて竹の事を思ひ出した。幹の頂に濃《こま》かな葉が集まつて、丸《まる》で坊主頭の樣に見える。それが秋の目に醉つて重く下を向いて、寂《ひつ》そりと重《かさ》なつた葉が一枚も動かない。

　宗助は障子を閉《た》てゝ座敷へ歸つて、机の前へ坐つた。座敷とは云ひながら客を通すから左樣《さう》名づける迄で、實は書齋とか居間とか云ふ方が穩當である。北側に床《とこ》があるので、申譯の爲に變な軸を掛けて、其前に朱泥《しゆでい》の色をした拙《せつ》な花活《はないけ》が飾つてある。欄間には額も何もない。唯《たゞ》眞鍮の折釘｜丈《だけ》が二本光つてゐる。其他には硝子戸《がらすど》の張つた書棚が一つある。けれども中には別に是と云つて目立つ程の立派なものも這入つてゐない。

　宗助は銀金具《ぎんかなぐ》の付いた机の抽出《ひきだし》を開けて頻に中を檢《しら》べ出したが、別に何も見付け出さないうちに、はたりと締めて仕舞つた。夫《それ》から硯箱の葢《ふた》を取つて、手紙を書き始めた。一本書いて封をして、一寸考へたが、

　「おい、佐伯《さへき》のうちは中六番町《なかろくばんちやう》何番地だつたかね」と襖越《ふすまごし》に細君に聞いた。

　「二十五番地ぢやなくつて」と細君は答へたが、宗助が名宛を書き終る頃になつて、

　「手紙ぢや駄目よ、行つて能く話をして來なくつちや」と付け加へた。

　「まあ、駄目迄も手紙を一本出して置かう。夫《それ》で不可《いけ》なかつたら出掛けるとするさ」と云ひ切つたが、細君が返事をしないので、

　「ねえ、おい、夫《それ》で好いだらう」と念を押した。

　細君は惡いとも云ひ兼ねたと見えて、其上爭ひもしなかつた。宗助は郵便を持つた儘、座敷から直ぐ玄關に出た。細君は夫《をつと》の足音を聞いて始めて、座を立つたが、是は茶の間の縁傳ひに玄關に出た。

　「一寸散歩に行つて來るよ」

　「行つて入らつしやい」と細君は微笑しながら答へた。

　三十分｜許《ばかり》して格子ががらりと開《あ》いたので、御米《およね》は又｜裁縫《しごと》の手を已《や》めて、縁傳ひに玄關へ出て見ると、歸つたと思ふ宗助の代りに、高等學校の制帽を被つた、弟の小六《ころく》が這入つて來た。袴の裾が五六寸しか出ない位の長い黒羅紗《くろラシヤ》のマントの釦《ぼたん》を外《はづ》しながら、

　「暑い」と云つてゐる。

　「だつて餘《あん》まりだわ。此御天氣にそんな厚いものを着て出るなんて」

　「何、日が暮れたら寒いだらうと思つて」と小六は云譯《いひわけ》を半分しながら、嫂《あによめ》の後《あと》に跟《つ》いて、茶の間へ通つたが、縫ひ掛けてある着物へ眼を着けて、

　「相變らず精が出ますね」と云つたなり、長火鉢の前へ胡坐《あぐら》をかいた。嫂《あによめ》は裁縫《しごと》を隅の方へ押し遣つて置いて、小六の向《むかふ》へ來て、一寸鐵瓶を卸して炭を繼ぎ始めた。

　「御茶なら澤山です」と小六が云つた。

　「厭？」と女學生流に念を押した御米は、

　「ぢや御菓子は」と云つて笑ひかけた。

　「有るんですか」と小六が聞いた。

　「いゝえ、無いの」と正直に答へたが、思ひ出した樣に、「待つて頂戴、有るかも知れないわ」と云ひながら立ち上がる拍子に、横にあつた炭取を取り退《の》けて、袋戸棚《ふくろとだな》を開けた。小六は御米の後姿の、羽織が帶で高くなつた邊《あたり》を眺めてゐた。何を探すのだか中々｜手間《てま》が取れさうなので、

　「ぢや御菓子も廢《よ》しにしませう。それよりか、今日は兄さんは何うしました」と聞いた。

　「兄さんは今｜一寸《ちよいと》」と後向の儘答へて、御米は矢張り戸棚の中を探してゐる。やがてばたりと戸を締めて、

　「駄目よ。何時《いつ》の間《ま》にか兄さんがみんな食べて仕舞つた」と云ひながら、又火鉢の向《むかふ》へ歸つて來た。

　「ぢや晩に何か御馳走なさい」

　「えゝ爲《し》てよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。御米は「四時、五時、六時」と時間を勘定した。小六は黙つて嫂《あによめ》の顔を見てゐた。彼は實際｜嫂《あによめ》の御馳走には餘り興味を持ち得なかつたのである。

　「姉さん、兄さんは佐伯《さへき》へ行つて呉れたんですかね」と聞いた。

　「此間から行く行くつて云つてる事は云つてるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に歸るんでせう。歸ると草臥《くたび》れちまつて、御湯に行くのも大儀さうなんですもの。だから、さう責めるのも實際御氣の毒よ」

　「そりや兄さんも忙がしいには違なからうけれども、僕もあれが極まらないと氣掛りで落ち付いて勉強も出釆ないんだから」と云ひながら、小六は眞鍮の火箸を取つて火鉢の灰の中へ何かしきりに書き出した。御米は其動く火箸の先を見てゐた。

　「だから先刻《さつき》手紙を出して置いたのよ」と慰める樣に云つた。

　「何て」

　「そりや私《わたし》もつい見なかつたの。けれども、屹度《きつと》あの相談よ。今に兄さんが歸つて來たら聞いて御覽なさい。屹度《きつと》左樣《さう》よ」

　「もし手紙を出したのなら、其用には違ないでせう」

　「えゝ、本當に出したのよ。今兄さんが其手紙を持つて、出しに行つた所なの」

　小六はこれ以上辯解の樣な慰藉の樣な嫂《あによめ》の言葉に耳を借したくなかつた。散歩に出る閑《ひま》があるなら、手紙の代りに自分で足を運んで呉れたらよささうなものだと思ふと餘り好い心持でもなかつた。座敷へ來て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々｜頁《ページ》を剥《はぐ》つて見てゐた。

　

　　　　　二

　

　其所に氣の付かなかつた宗助は、町の角迄來て、切手と「敷島」を同じ店で買つて、郵便｜丈《だけ》はすぐ出したが、其足で又同じ道を戻るのが何だか不足だつたので、啣《くは》え烟草の烟《けむ》を秋の日に搖《ゆら》つかせながら、ぶら／＼歩いてゐるうちに、どこか遠くへ行つて、東京と云ふ所はこんな所だと云ふ印象をはつきり頭の中へ刻み付けて、さうして夫《それ》を今日の日曜の土産《みやげ》に家《うち》へ歸つて寐やうと云ふ氣になつた。彼は年來東京の空氣を吸つて生きてゐる男であるのみならず、毎日役所の行通《ゆきかよひ》には電車を利用して、賑やかな町を二度づゝは屹度《きつと》往つたり來たりする習慣になつてゐるのではあるが、身體と頭に樂《らく》がないので、何時《いつ》でも上《うは》の空《そら》で素通りをする事になつてゐるから、自分が其賑やかな町の中に活《い》きてゐると云ふ自覺は近來｜頓《とん》と起つた事がない。尤も平生は忙がしさに追はれて、別段氣にも掛からないが、七日《なのか》に一返の休日が來て、心がゆつたりと落ち付ける機會に出逢ふと、不斷の生活が急にそわ／＼した上調子《うはてうし》に見えて來る。必竟《ひつきやう》自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京といふものを見た事がないんだといふ結論に到着すると、彼は其所に何時《いつ》も妙な物淋しさを感ずるのである。

　さう云ふ時には彼は急に思ひ出した樣に町へ出る。其上懷に多少餘裕でもあると、是で一つ豪遊でもして見《み》樣《やう》かと考へる事もある。けれども彼の淋《さび》しみは、彼を思ひ切つた極端に驅《か》り去る程に、強烈の程度なものでないから、彼が其所迄猛進する前に、それも馬鹿々々しくなつて已《や》めて仕舞ふ。のみならず、斯んな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、輕擧を戒《いまし》める程度内に膨《ふく》らんでゐるので、臆劫な工夫を凝《こ》らすよりも、懷手をして、ぶらりと家《うち》へ歸る方が、つい樂になる。だから宗助の淋《さび》しみは單なる散歩か觀工場縱覽位な所で、次の日曜迄は何うか斯うか慰藉されるのである。

　此日も宗助は兎も角もと思つて電車へ乘つた。所が日曜の好天氣にも拘《かゝは》らず、平常よりは乘客が少ないので例になく乘心地が好かつた。其上乘客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠《ゆつ》たりと落付いてゐる樣に見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を爭つて席を奪ひ合ひながら、丸の内方面へ向ふ自分の運命を顧みた。出勤刻限の電車の道伴《みちづれ》程殺風景なものはない。革にぶら下がるにしても、天鷲絨《びろうど》に腰を掛けるにしても、人間的な優しい心持の起つた試《ためし》は未《いま》だ甞てない。自分も夫《それ》で澤山だと考へて、器械か何ぞと膝を突き合せ肩を並べたかの如くに、行きたい所迄同席して不意と下りて仕舞ふ丈《だけ》であつた。前の御婆さんが八つ位になる孫娘の耳の折へ口を付けて何か云つてゐるのを、傍《そば》に見てゐた三十｜恰好《がつかう》の商家の御神さんらしいのが、可愛らしがつて、年を聞いたり名を尋ねたりする所を眺めてゐると、今更ながら別の世界に來た樣な心持がした。

　頭の上には廣告が一面に枠《わく》に嵌《は》めて掛けてあつた。宗助は平生これにさへ氣が付かなかつた。何心なしに一番目のを讀んで見ると、引越は容易に出來ますと云ふ移轉會社の引札《ひきふだ》であつた。其次には經濟を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べて置いて其《その》後《あと》に瓦斯竈《ガスがま》を使へと書いて、瓦斯竈から火の出てゐる畫《ゑ》迄添へてあつた。三番目には露國文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」と云ふのと、バンカラ喜劇｜小辰《こたつ》大一座と云ふのが、赤地に白で染め拔いてあつた。

　宗助は約十分も掛かつて、凡《すべ》ての廣告を丁寧に三返程讀み直した。別に行つて見やうと思ふものも、買つて見たいと思ふものも無かつたが、たゞ是等の廣告が判然《はつきり》と自分の頭に映つて、さうして夫《それ》を一々讀み終《おほ》せた時間のあつた事と、それを悉《こと／”＼》く理解し得たと云ふ心の餘裕が、宗助には少なからぬ滿足を與へた。彼の生活は是程の餘裕にすら誇りを感ずる程に、日曜以外の出入《ではい》りには、落ち付いてゐられないものであつた。

　宗助は駿河臺下で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子の中に美しく並べてある洋書に眠が付いた。宗助はしばらく其前に立つて、赤や育や縞や模樣の上に、鮮かに叩き込んである金文字を眺めた。表題の意味は無論解るが、手に取つて、中を檢《しら》べて見やうといふ好奇心はちつとも起らなかつた。本屋の前を通ると、屹度《きつと》中へ這入つて見たくなつたり、中へ這入ると必ず何か欲しくなつたりするのは、宗助から云ふと、既にー昔《ひとむか》し前の生活である。たゞ History of Gambling《ヒストリオフガムプリング》（博奕史《ばくえきし》）と云ふのが、殊更に美裝して、一番眞中に飾られてあつたので、それが幾分か彼の頭に突飛《とつぴ》な新し味を加へた丈《だけ》であつた。

　宗助は微笑しながら、急忙《せは》しい通りを向側《むかふがは》へ渡つて、今度は時計屋の店を覗き込んだ。金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、是もたゞ美しい色や恰好として、彼の眸に映る丈《だけ》で、買ひたい了簡を誘致するには至らなかつた。其癖彼は一々絹糸で釣るした價格札《ねだんふだ》を讀んで、品物と見較べて見た。さうして實際金時計の安價なのに驚ろいた。

　蝙蝠傘屋《かうもりがさや》の前にも一寸立ち留まつた。西洋小間物を賣る店先では、禮帽《シルクハツト》の傍《わき》に懸けてあつた襟飾りに眠が付いた。自分の毎日掛けてゐるのよりも大變｜柄《がら》が好かつたので、價《ね》を聞いて見《み》樣《やう》かと思つて、半分店の中へ這入りかけたが、明日《あした》から襟飾りなどを懸け替た所が下らない事だと思ひ直すと、急に蟇口《がまぐち》の口を開けるのが厭になつて行き過ぎた。呉服店でも大分《だいぶ》立見をした。鶉御召《うづらおめし》だの、高貴織《かうきおり》だの、清凌織《せいりようおり》だの、自分の今日《こんにち》迄知らずに過ぎた名を澤山覺えた。京都の襟新《えりしん》と云ふ家《うち》の出店の前で、窓硝子へ帽子の鍔《つば》を突き付ける樣に近く寄せて、精巧に刺?《ぬひ》をした女の半襟を、いつ迄も眺めてゐた。その中《うち》に丁度細君に似合ひさうな上品なのがあつた。買つて行つて遣らうかといふ氣が一寸起るや否や、そりや五六年｜前《ぜん》の事だと云ふ考が後《あと》から出て來て、折角心持の好い思ひ付をすぐ揉《も》み消して仕舞つた。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れて又歩き出したが、それから半町程の聞は何だか詰らない樣な氣分がして、往來にも店先にも格段の注意を拂はなかつた。

　不圖氣が付いて見ると角に大きな雜誌屋があつて、其軒先には新刊の書物が大きな字で廣告してある。梯子《はしご》の樣な細長い枠《わく》へ紙を張つたり、ペンキ塗の一枚板へ模樣畫見た樣な色彩を施こしたりしてある。宗助はそれを一々讀んだ。著者の名前も作物《さくぶつ》の名前も、一度は新聞の廣告で見た樣でもあり、又全く新奇の樣でもあつた。

　此店の曲り角の影になつた所で、黒い山高帽を被つた三十位の男が地面の上へ氣樂さうに胡坐《あぐら》をかいて、えゝ御子供衆の御慰《おなぐさ》みと云ひながら、大きな護謨風船《ごむふうせん》を膨《ふく》らましてゐる。それが膨れると自然と達磨《だるま》の恰好になつて、好《いゝ》加減な所に眼口迄墨で書いてあるのに宗助は感心した。其上一度息を入れると、何時《いつ》迄も膨れてゐる。且《かつ》指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻が据《すわ》る。それが尻の穴へ楊枝の樣な細いものを突つ込むとしゆうつと一度に収縮して仕舞ふ。

　忙がしい往來の人は何人でも通るが、誰も立ち留つて見る程のものはない。山高帽の男は賑やかな町の隅に、冷やかに胡坐《あぐら》をかいて、身の周圍《まはり》に何事が起りつゝあるかを感ぜざるものゝ如くに、えゝ御子供衆の御慰みと云つては、達磨を膨らましてゐる。宗助は一錢五厘出して、其風船を一つ買つて、しゆつと縮ましてもらつて、それを袂へ入れた。奇麗な床屋へ行つて、髪を刈りたくなつたが、何處にそんな奇麗なのがあるか、一寸見付からないうちに、日が限《かぎ》つて來たので、又電車へ乘つて、宅《うち》の方へ向つた。

　宗助が電車の終點迄來て、運轉手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失ひかけて、濕つた往來に、暗い影が射《さ》し募《つの》る頃であつた。降りやうとして、鐵の柱を握つたら、急に寒い心持がした。一所に降りた人は、皆《みん》な離れ／”＼になつて、事あり氣に忙がしく歩いて行く。町のはづれを見ると、左右の家の軒から家根《やね》へかけて、仄白《ほのしろ》い烟りが大氣の中に動いてゐる樣に見える。宗助も樹の多い方角に向いて早足に歩を移した。今日の日曜も、暢《のん》びりした御天氣も、もう既に御仕舞だと思ふと、少し果敢《はか》ない樣な又｜淋《さみ》しい樣な一種の氣分が起つて來た。さうして明日《あした》から又例によつて例の如く、せつせと働らかなくてはならない身體だと考へると、今日半日の生活が急に惜しくなつて、殘る六日半《むいかはん》の非精神的な行動が、如何にも詰らなく感ぜられた。歩いてゐるうちにも、日當の惡い、窓の乏しい、大きな部屋の模樣や、隣りに坐つてゐる同僚の顔や、野中さん一寸と云ふ上官の樣子ばかりが眼に浮かんだ。

　魚勝と云ふ肴屋の前を通り越して、其五六軒先の露次とも横丁とも付かない祈を曲ると、行き當りが高い崖で、其左右に四五軒同じ構《かまへ》の貸家が並んでゐる。つい此間迄は疎《まば》らな杉垣の奧に、御家人でも住み古したと思はれる、物寂《ものさび》た家も一つ地所のうちに混《まじ》つてゐたが、崖の上の坂井《さかゐ》といふ人が此所を買つてから、忽ち萱葺《かやぶき》を壞して、杉垣を引き拔いて、今の樣な新らしい普請に建て易へて仕舞つた。宗助の家《うち》は横丁を突き當つて、一番奧の左側で、すぐの崖下だから、多少陰氣ではあるが、其代り通りからは尤《もつと》も隔つてゐる丈《だけ》に、まあ幾分か閑靜だらうと云ふので、細君と相談の上、とくに其所を擇んだのである。

　宗助は七日《なのか》に一返の日曜ももう暮れかゝつたので、早く湯にでも入《い》つて、暇があつたら髪でも刈つて、さうして緩《ゆつ》くり晩食《ばんめし》を食はうと思つて、急いで格子を開けた。臺所の方で皿小鉢の音がする。上がらうとする拍子に、小六の脱ぎ棄てた下駄の上へ、氣が付かずに足を乘せた。曲《こゞ》んで位置を調《とゝの》へてゐる所へ小六が出て來た。臺所の方で御米が、

　「誰？　兄さん？」と聞いた。宗助は、

　「やあ、來てゐたのか」と云ひながら座敷へ上つた。先刻《さつき》郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家《うち》へ歸る迄、宗助の頭には小六の小の字も閃めかなかつた。宗助は小六の顔を見た時、何となく惡い事でもした樣に極《きま》りが好くなかつた。

　「御米、御米」と細君を臺所から呼んで、

　「小六が來たから、何か御馳走でもするが好い」と云ひ付けた。細君は、忙がしさうに、臺所の障子を開け放した儘出て來て、座敷の入口に立つてゐたが、此分り切つた注意を聞くや否や、

　「えゝ今｜直《ぢき》」と云つたなり、引き返さうとしたが、又戻つて來て、

　「其代り小六さん、憚《はゞか》り樣《さま》。座敷の戸を閉《た》てて、洋燈《ランプ》を點《つ》けて頂戴。今｜私《わたし》も清《きよ》も手が放せない所だから」と依頼《たの》んだ。小六は簡單に、

　「はあ」と云つて立ち上がつた。

　勝手では清が物を刻む音がする。湯か水をざあと流しへ空《あ》ける音がする。「奧樣是は何方《どちら》へ移します」と云ふ聲がする。「姉さん、ランプの心《しん》を剪《き》る鋏《はさみ》はどこにあるんですか」と云ふ小六の聲がする。しゆうと湯が沸《たぎ》つて七輪の火へ懸つた樣子である。

　宗助は暗い座敷の中で黙然《もくねん》と手焙《てあぶり》へ手を翳《かざ》してゐた。灰の上に出た火の塊《かた》まり丈《だけ》が色づいて赤く見えた。其時裏の崖の上の家主《やぬし》の家《うち》の御孃さんがピヤノを鳴らし出した。宗助は思ひ出した樣に立ち上がつて、座敷の雨戸を引きに縁側へ出た。孟宗竹《まうそうちく》が薄黒く空の色を亂す上に、一つ二つの星が燦《きら》めいた。ピヤノの音《ね》は孟宗竹の後《うしろ》から響いた。

　

　　　　　三

　

　宗助と小六が手拭を下げて、風呂から歸つて來た時は、座敷の眞中に眞四角な食卓を据ゑて、御米の手料理が手際よく其上に並べてあつた。手焙《てあぶり》の火も出掛よりは濃い色に燃えてゐた。洋燈《らんぷ》も明るかつた。

　宗助が机の前の座蒲團を引き寄せて、其上に樂々《らく／＼》と胡坐《あぐら》を掻いた時、手拭と石鹸《しやぼん》を受取つた御米は、

　「好い御湯だつた事？」と聞いた。宗助はたゞ一言《ひとこと》、

　「うん」と答へた丈《だけ》であつたが、其樣子は素氣《そつけ》ないと云ふよりも、寧ろ湯上りで、精神が弛緩《しくわん》した氣味に見えた。

　「中々好い湯でした」と小六が御米の方を見て調子を合せた。

　「然しあゝ込んぢや溜《たま》らないよ」と宗助が机の端《はじ》へ肱を持《も》たせながら、倦怠《けた》るさうに云つた。宗助が風呂に行くのは、いつでも役所が退《ひ》けて、家《うち》へ歸つてからの事だから、丁度人の立て込む夕食前《ゆふめしまへ》の黄昏《たそがれ》である。彼は此二三ケ月間ついぞ、日の光に透かして湯の色を眺めた事がない。夫《それ》ならまだしもだが、稍《やゝ》ともすると三日も四日も丸《まる》で錢湯の數居を跨がずに過して仕舞ふ。日曜になつたら、朝早く起きて何よりも第一に奇麗な湯に首丈《くびたけ》浸《つか》つて見《み》樣《みやう》と、常は考へてゐるが、偖《さて》其日曜が來て見ると、たまに悠《ゆつ》くり寐られるのは、今日ばかりぢやないかと云ふ氣になつて、つい床のうちで愚圖々々してゐるうちに、時間が遠慮なく過ぎて、えゝ面倒だ、今日は已《や》めにして、其代り今度《こんだ》の日曜に行かうと思ひ直すのが、殆んど惰性の樣になつてゐる。

　「どうかして、朝湯に丈《だけ》は行きたいね」と宗助が云つた。

　「其癖朝湯に行ける日は、屹度《きつと》寐坊なさるのね」と細君は調戯《からか》ふ樣な口調であつた。小六は腹の中で是が兄の性來《うまれつき》の弱點であると思ひ込んでゐた。彼は自分で學校生活をしてゐるにも拘はらず、兄の日曜が、如何に兄にとつて貴《たつ》といかを會得出來なかつた。六日間の暗い精神作用を、只此一日で暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでゐる。だから遣りたい事があり過ぎて、十の二三も實行出來ない。否、其二三にしろ進んで實行にかゝると、却つてその爲に費やす時間の方が惜しくなつて來て、つい又手を引込めて、凝《じつ》としてゐるうちに日曜は何時《いつ》か暮れて仕舞ふのである。自分の氣晴しや保養や、娯樂もしくは好尚《かうしやう》に就いてゞすら、斯樣に節儉しなければならない境遇にある宗助が、小六の爲に盡さないのは、盡さないのではない、頭に盡す餘裕のないのだとは、小六から見ると、何うしても受取れなかつた。兄はたゞ手前勝手な男で、暇があればぶら／＼して細君と遊んで許《ばかり》ゐて、一向頼りにも力にもなつて呉れない、眞底は情合《じやうあひ》に薄い人だ位に考へてゐた。

　けれども、小六がさう感じ出したのは、つい近頃の事で、實を云ふと、佐伯との交渉が始まつて以來の話である。年の若い丈《だけ》、凡《すべ》てに性急な小六は、兄に頼めば今日明日《けふあす》にも方《かた》が付くものと、思ひ込んでゐたのに、何日《いつ》迄も埒《らち》が明かないのみか、まだ先方へ出掛けても呉れないので、大分《だいぶ》不平になつたのである。

　所が今日歸りを待ち受けて逢つて見ると、其所が兄弟で、別に御世辭も使はないうちに、何處か暖昧のある仕打も見えるので、つい云ひたい事も後廻しにして、一所に湯になんぞ這入つて、穩やかに打ち解けて話せる樣になつて來た。

　兄弟は寛《くつ》ろいで膳に就いた。御米も遠慮なく食卓の一隅《ひとすみ》を領《りやう》した。宗助も小六も猪口《ちよく》を二三杯づゝ干した。飯に掛《か》ゝる前に、宗助は笑ひながら、

　「うん、面白いものが有つたつけ」と云ひながら、袂から買つて來た護謨風船《ゴムふうせん》の達磨《だるま》を出して、大きく膨らませて見せた。さうして、それを椀の葢《ふた》の上へ載《の》せて、其特色を説明して聞かせた。御米も小六も面白がつて、ふわ／＼した玉を見てゐた。仕舞に小六が、ふうつと吹いたら達磨は膳の上から疊の上へ落ちた。それでも、まだ覆《かへ》らなかつた。

　「それ御覽」と宗助が云つた。

　御米は女だけに聲を出して笑つたが、御櫃《おはち》の葢《ふた》を開けて、夫《をつと》の飯を盛《よそ》ひながら、

　「兄さんも隨分｜呑氣《のんき》ね」と小六の方を向いて、半ば夫《をつと》を辯護する樣に云つた。宗助は細君から茶碗を受取つて、一言《ひとこと》の辯解もなく食事を始めた。小六も正式に箸を取り上げた。

　達磨はそれぎり話題に上《のぼ》らなかつたが、これが緒《いとくち》になつて、三人は飯の濟む迄無邪氣に長閑《のどか》な話をつゞけた。仕舞に小六が氣を換へて、

　「時に伊藤さんも飛んだ事になりましたね」と云ひ出した。宗助は五六日｜前《まへ》伊藤公暗殺の號外を見たとき、御米の働いてゐる臺所へ出て來て、「おい大變だ、伊藤さんが殺された」と云つて、手に持つた號外を御米のエプロンの上に乘せたなり書齋へ這入つたが、其語氣からいふと、寧ろ落ち付いたものであつた。

　「貴方大變だつて云ふ癖に、些《ちつ》とも大攣らしい聲ぢやなくつてよ」と御米が後《あと》から冗談半分にわざ／＼注意した位である。其後日毎の新聞に伊藤公の事が五六段づゝ出ない事はないが、宗助はそれに目を通してゐるんだか、ゐないんだか分らない程、暗殺事件に就ては平氣に見えた。夜歸つて來て、御米が飯の御給仕をするとき抔《など》に、「今日も伊藤さんの事が何か出てゐて」と聞く事があるが、其時には「うん大分《だいぶ》出てゐる」と答へる位だから、夫《をつと》の隱袋《かくし》の中に疊んである今朝の讀殻《よみがら》を、後《あと》から出して讀んで見ないと、其日の記事は分らなかつた。御米もつまりは夫《をつと》が歸宅後の會話の材料として、伊藤公を引合に出す位の所だから、宗助が進まない方向へは、たつて話を引張りたくはなかつた。それで此二人の間には、號外發行の當日以後、今夜小六がそれを云ひ出した迄は、公《おほや》けには天下を動かしつゝある問題も、格別の興味を以て迎へられてゐなかつたのである。

　「どうして、まあ殺されたんでせう」と御米は號外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事を又小六に向つて聞いた。

　「短銃《ピストル》をポン／＼連發したのが命中《めいちゆう》したんです」と小六は正直に答へた。

　「だけどさ。何うして、まあ殺されたんでせう」

　小六は要領を得ない樣な顏をしてゐる。宗助は落付いた調子で、

　「矢つ張り運命だなあ」と云つて、茶碗の茶を旨さうに飲んだ。御米はこれでも納得が出來なかつたと見えて、

　「どうして又｜滿洲《まんしう》抔《など》へ行つたんでせう」と聞いた。

　「本當にな」と宗助は腹が張つて充分物足りた樣子であつた。

　「何でも露西亞《ロシア》に秘密な用があつたんださうです」と小六が眞面目な顏をして云つた。御米は、

　「さう。でも厭ねえ。殺されちや」と云つた。

　「己《おれ》見た樣な腰辨《こしべん》は、殺されちや厭だが、伊藤さん見た樣な人は、哈爾賓《ハルピン》へ行つて殺される方が可《い》いんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利いた。

　「あら、何故《なぜ》」

　「何故つて伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。たゞ死んで御覽、斯うは行かないよ」

　「成程そんなものかも知れないな」と小六は少し感服した樣だつたが、やがて、

　「兎に角｜滿洲《まんしう》だの、哈爾賓《ハルピン》だのつて物騷な所ですね。僕は何だか危險な樣な心持がしてならない」と云つた。

　「夫《それ》や、色んな人が落ち合つてるからね」

　此時御米は妙な顏をして、斯う答へた夫《をつと》の顔を見た。宗助もそれに氣が付いたらしく、

　「さあ、もう御膳を下げたら好からう」と細君を促《うな》がして、先刻《さつき》の達磨を又疊の上から取つて、人指指《ひとさしゆび》の先へ載せながら、

　「どうも妙だよ。よく斯う調子好く出來るものだと思つてね」と云つてゐた。

　臺所から清が出て來て、食ひ散らした皿小鉢を食卓ごと引いて行つた後《あと》で、御米も茶を入れ替へるために、次の間へ立つたから、兄弟は差向ひになつた。

　「あゝ奇麗になつた。何うも食つた後は汚ないものでね」と宗助は全く食卓に未練のない?をした。勝手の方で清がしきりに笑つてゐる。

　「何がそんなに可笑《をか》しいの、清」と御米が障子越に話し掛ける聲が聞えた。清はへえと云つて猶《なほ》笑ひ出した。兄弟は何にも云はず、半《なか》ば下女の笑ひ聲に耳を傾けてゐた。

　しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を兩手に持つて、又出て來た。藤蔓《ふぢづる》の着いた大きな急須《きふす》から、胃にも頭にも應へない番茶を、湯呑程な大きな茶碗に注《つ》いで、兩人《ふたり》の前へ置いた。

　「何だつて、あんなに笑ふんだい」と夫《をつと》が聞いた。けれども御米の顔は見ずに却つて菓子皿の中を覗いてゐた。

　「貴方があんな玩具《おもちや》を買つて來て、面白さうに指の先へ乘せて入らつしやるからよ。子供もない癖に」

　宗助は意にも留めない樣に、輕く「さうか」と云つたが、後《あと》から緩《ゆつ》くり、

　「是でも元は子供が有つたんだがね」と、さも自分で自分の言葉を味はつてゐる風に付け足して、生温《なまぬる》い眼を擧げて細君を見た。御米はぴたりと黙つて仕舞つた。

　「あなた御菓子食べなくつて」と、しばらくしてから小六の方へ向いて話し掛けたが、 　「えゝ食べます」と云ふ小六の返事を聞き流して、ついと茶の間へ立つて行つた。兄弟は又差向ひになつた。

　電車の終點から歩くと二十分近くも掛る山の手の奧｜丈《だけ》あつて、まだ宵の口だけれども、四隣《あたり》は存外靜かである。時々表を通る薄齒の下駄の響が冴えて、夜寒《よさむ》が次第に�揩ｵて來る。宗助は懷手をして、

　「晝間は暖《あつ》たかいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿ぢやもう蒸汽《スチーム》を通してゐるかい」と聞いた。

　「いえ、未《まだ》です。學校ぢや餘つ程寒くならなくつちや、蒸汽《スチーム》なんか焚きやしません」

　「さうかい。夫《それ》ぢや寒いだらう」

　「えゝ。然し寒い位何うでも構はない積《つもり》ですが」と云つた儘、小六はすこし云ひ淀《よど》んでゐたが、仕舞にとう／＼思ひ切つて、

　「兄さん、佐伯の方は一體どうなるんでせう。先刻《さつき》姉さんから聞いたら、今日手紙を出して下すつたさうですが」

　「あゝ出した。二三日中に何とか云つて來るだらう。其上で又｜己《おれ》が行くとも何うとも仕《し》樣《やう》よ」

　小六は兄の平氣な態度を、心の中《うち》では飽足らず眺めた。然し宗助の樣子に何處と云つて、他《ひと》を激させる樣な鋭どい所も、自《みづか》らを庇護《かは》ふ樣な卑しい點もないので喰つて掛る勇氣は更に出なかつた。たゞ

　「ぢや今日《けふ》迄あの儘にしてあつたんですか」と單に事實を確めた。

　「うん、實は濟まないがあの儘だ。手紙も今日やつとの事で書いた位だ。何うも仕方がないよ。近頃神經衰弱でね」と眞面目に云ふ。小六は苦笑した。

　「もし駄目なら、僕は學校を已《や》めて、一層《いつそ》今のうち、滿洲か朝鮮へでも行かうかと思つてるんです」

　「滿洲か朝鮮？　ひどく又思ひ切つたもんだね。だつて、御前｜先刻《さつき》滿洲は物騷で厭だつて云つたぢやないか」

　用談はこんな所に往つたり來たりして、遂に要領を得なかつた。仕舞に宗助が、

　「まあ、好いや、さう心配しないでも、何うかなるよ。何しろ返事の來次第、己《おれ》がすぐ知らせてやる。其上で又相談するとしやう」と云つたので、談話《はなし》に區切が付いた。

　小六が歸りがけに茶の間を覗いたら、御米は何にもしずに、長火鉢に倚り掛かつてゐた。 　「姉さん、左樣なら」と聲を掛けたら、「おや御歸り」と云ひながら漸く立つて來た。

　

　　　　　四

　

　小六の苦《く》にしてゐた佐伯からは、豫期の通り二三日して返事があつたが、それは極めて簡單なもので、端書でも用の足りる所を、鄭重に封筒へ入れて三錢の切手を貼つた、叔母の自筆に過ぎなかつた。

　役所から歸つて、筒袖の仕事着を、窮屈さうに脱ぎ易へて、火鉢の前へ坐るや否や、抽出《ひきだし》から一寸程わざと餘して差し込んであつた?袋に眼が着いたので、御米の汲んで出す番茶を一口呑んだ儘、宗助はすぐ封を切つた。

　「へえ、安さんは神戸へ行つたんだつてね」と手紙を讀みながら云つた。

　「何時《いつ》？」と御米は湯呑を夫《をつと》の前に出した時の姿勢の儘で聞いた。

　「何時《いつ》とも書いてないがね。何しろ遠からぬうちには歸京仕るべく候間と書いてあるから、もうぢき歸つて來るんだらう」

　「遠からぬうちなんて、矢つ張り叔母さんね」

　宗助は御米の批評に、同意も不同意も表しなかつた。讀んだ手紙を卷き納めて、投げる樣にそこへ放《はふ》り出して、四五日目になる、ざら／＼した腮《あご》を、氣味わるさうに撫《な》で廻した。

　御米はすぐ其手紙を拾つたが、別に讀まうともしなかつた。それを膝の上へ乘せた儘、夫《をつと》の顔を見て、

　「遠からぬうちには歸京仕るべく候間、何うだつて云ふの」と聞いた。

　「何《いづ》れ歸つたら、安之助《やすのすけ》と相談して何とか御挨拶を致しますと云ふのさ」

　「遠からぬうちぢや曖昧ね。何時《いつ》歸るとも書いてなくつて」

　「いゝや」

　御米は念の爲、膝の上の手紙を始めて開いて見た。さうして夫《それ》を元の樣に畳んで、

　「一寸其?袋を」と手を夫《をつと》の方へ出した。宗助は自分と火鉢の間に挾まつてゐる青い封筒を取つて細君に渡した。御米はそれをふつと吹いて、中を膨らまして手紙を収めた。さうして臺所へ立つた。

　宗助は夫《それ》限《ぎり》手紙の事には氣を留めなかつた。今日役所で同僚が、此間｜英吉利《イギリス》から來遊したキチナー元帥に、新橋の傍《そば》で逢つたと云ふ話を思ひ出して、あゝ云ふ人間になると、世界中何處へ行つても、世間を騷がせる樣に出來てゐる樣だが、實際さういふ風に生れ付いて來たものかも知れない。自分の過去から引き摺《ず》つてきた運命や、又其續きとして、是から自分の眼前に展開されべき將來を取つて、キチナーと云ふ人のそれに比べて見ると、到底同じ人間とは思へない位懸け隔たつてゐる。

　斯う考へて宗助はしきりに烟草を吹かした。表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲つて來る樣な音がする。それが時々｜已《や》むと、已《や》んだ間は寂《しん》として、吹き荒れる時よりは猶｜淋《さび》しい。宗助は腕組をしながら、もうそろ／＼火事の牛鐘が鳴り出す時節だと思つた。

　臺所へ出て見ると、細君は七輪の火を赤くして、肴《さかな》の切身を燒いてゐた。清は流し元に曲《こゞ》んで漬物を洗つてゐた。二人とも口を利かずにせつせと自分の遣る事を遣つてゐる。宗助は障子を開けたなり、少時《しばらく》肴から垂《た》る汁《つゆ》か膏《あぶら》の音を聞いてゐたが、無言の儘又障子を閉《た》てゝ元の座へ戻つた。細君は眼さへ肴から離さなかつた。

　食事を濟まして、夫婦が火鉢を間《あひ》に向ひ合つた時、御米は又

　「佐伯の方は困るのね」と云ひ出した。

　「まあ仕方がない。安《やす》さんが神戸から歸る迄待つより外に道はあるまい」

　「其前に一寸叔母さんに逢つて話をして置いた方が好かなくつて」

　「さうさ。まあ其内何とか云つて來るだらう。夫《それ》迄《まで》打遣つて置かうよ」

　「小六さんが怒つてよ。可《よ》くつて」と御米はわざと念を押して置いて微笑した。宗助は下眼を使つて、手に持つた小楊枝を着物の襟へ差した。

　中一曰《なかいちんち》置いて、宗助は漸く佐伯からの返事を小六に知らせてやつた。其時も手紙の尻に、まあ其内何うかなるだらうと云ふ意味を、例の如く付け加へた。さうして當分は此事件に就て肩が拔けた樣に感じた。自然の經過《なりゆき》が又窮屈に眼の前に押し寄せて來る迄は、忘れてゐる方が面倒がなくつて好い位な顔をして、毎日役所へ出ては又役所から歸つて來た。歸りも遅いが、歸つてから出掛ける抔《なと》といふ億劫な事は滅多になかつた。客は殆んど來ない。用のない時は清を十時前に寐かす事さへあつた。夫婦は毎夜同じ火鉢の兩側に向き合つて、食後一時間位話をした。話の題目は彼等の生活?態に相應した程度のものであつた。けれども米屋の拂を、此｜三十日《みそか》には何うしたものだらうといふ、苦しい世帶話は、未だ甞て一度も彼等の口には上らなかつた。と云つて、小説や文學の批評は勿論の事、男と女の間を陽炎《かげろふ》の樣に飛び廻る、花やかな言葉の遣り取りは殆んど聞かれなかつた。彼等は夫《それ》程《ほど》の年輩でもないのに、もう其所を通り拔けて、日毎に地味になつて行く人の樣にも見えた。又は最初から、色彩の薄い極めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の關係を結ぶために寄り合つた樣にも見えた。

　上部《うはべ》から見ると、夫婦ともさう物に屈托《くつたく》する氣色《けしき》はなかつた。それは彼等が小六の事に關して取つた態度に就て見ても略《ほゞ》想像がつく。流石《さすが》女｜丈《だけ》に御米は一二度、

　「安さんは、まだ歸らないんでせうかね。貴方｜今度《こんだ》の日曜位に番町迄行つて御覽なさらなくつて」と注意した事があるが、宗助は、

　「うん、行つても好い」位な返事をする丈《だけ》で、其行つても好い日曜が來ると、丸《まる》で忘れた樣に濟ましてゐる。御米もそれを見て、責める樣子もない。天氣が好いと、

　「ちと散歩でもして入らつしやい」と云ふ。雨が降つたり、風が吹いたりすると、

　「今日は日曜で仕合せね」と云ふ。

　幸にして小六は其後《そのご》一度もやつて來ない。此青年は、至つて凝《こ》り性《しやう》の神經質で、斯うと思ふと何所迄も進んで來る所が、書生時代の宗助によく似てゐる代りに、不圖氣が變ると、昨日《きのふ》の事は丸《まる》で忘れた樣に引つ繰り返つて、けろりとした顔をしてゐる。其所も兄弟｜丈《だけ》あつて、昔の宗助に其儘である。それから、頭腦が比較的明瞭で、理路に感情を注《つ》ぎ込むのか、又は感情に理窟の枠《わく》を張るのか、何方《どつち》か分らないが、兎に角物に筋道を付けないと承知しないし、また一返筋道が付くと、其筋道を生かさなくつては置かない樣に熱中したがる。其上體質の割合に精力がつゞくから、若い血氣に任せて大抵の事はする。

　宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生して、自分の眼の前に活動してゐる樣な氣がしてならなかつた。時には、はら／＼する事もあつた。又｜苦々《にが／＼》しく思ふ折もあつた。さう云ふ場合には、心のうちに、當時の自分が一圖に振舞つた苦《にが》い記憶を、出來る丈｜?《しば／＼》呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据ゑ付けるのではなからうかと思つた。さうして非常に恐ろしくなつた。此奴《こいつ》も或は己《おれ》と同一の運命に陷《おちい》るために生れて來たのではなからうかと考へると、今度は大いに心掛りになつた。時によると心掛りよりは不愉快であつた。

　けれども、今日《こんにち》迄宗助は、小六に對して意見がましい事を云つた事もなければ、將來に就て注意を與へた事もなかつた。彼の弟に對する待遇｜方《はう》はたゞ普通｜凡庸《ぼんよう》のものであつた。彼の今の生活が、彼の樣な過去を有《も》つてゐる人とは思へない程に、沈んでゐる如く、彼の弟を取り扱ふ樣子にも、過去と名のつく程の經驗を有《も》つた年長者の素振《そぶり》は容易に出なかつた。

　宗助と小六の間には、まだ二人程男の子が挾まつてゐたが、何《いづ》れも早世《さうせい》して仕舞つたので、兄弟とは云ひながら、年は十《とを》許《ばか》り違つてゐる。其上宗助はある事情のために、一年の時京都へ轉學したから、朝夕《てうせき》一所に生活してゐたのは、小六の十二三の時迄である。宗助は剛情な聽かぬ氣の腕白小僧としての小六を未だに記憶してゐる。其時分は父も生きてゐたし、家《うち》の都合も惡くはなかつたので、抱車夫《かゝへしやふ》を邸内の長屋に住まはして、樂に暮してゐた。此車夫に小六よりは三つ程年下の子供があつて、始終小六の御相手をして遊んでゐた。ある夏の日盛りに、二人して、長い竿のさきへ菓子袋を括《くゝ》り付けて、大きな柿の木の下で蝉の捕りくらをしてゐるのを、宗助が見て、兼坊《けんばう》そんなに頭を日に照らし付けると霍亂《くわくらん》になるよ、さあ是を被《かぶ》れと云つて、小六の古い夏帽を出してやつた。すると、小六は自分の所有物を兄が無斷で他《ひと》に呉れてやつたのが、癪に障つたので、突然《いきなり》兼坊《けんばう》の受取つた帽子を引つたくつて、それを地面の上へ抛げつけるや否や、馳《か》け上がる樣に其上へ乘つて、くしやりと麥藁帽を踏み潰して仕舞つた。宗助は縁から跣足《はだし》で飛んで下りて、小六の頭を擲り付けた。其時から、宗助の眼には、小六が小惡《こにく》らしい小僧として映つた。

　二年の時宗助は大學を去らなければならない事になつた。東京の家《うち》へも歸《か》へれない事になつた。京都からすぐ廣島へ行つて、其所に半年《はんとし》ばかり暮らしてゐるうちに父が死んだ。母は父よりも六年程前に死んでゐた。だから後《あと》には二十五六になる妾《めかけ》と、十六になる小六が殘つた丈《だけ》であつた。

　佐伯から電報を受け取つて、久し振りに出京した宗助は、葬式を濟ました上、家《うち》の始末をつけ樣《やう》と思つて段々調べて見ると、有ると思つた財産は案外に少なくつて、却つて無い積《つもり》の借金が大分《だいぶ》あつたに驚ろかされた。叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから邸を賣るが好からうと云ふ話であつた。妾《めかけ》は相當の金を遣つてすぐ暇を出す事に極めた。小六は當分叔父の家《うち》に引き取つて世話をして貰ふ事にした。然し肝心の家屋敷はすぐ右から左へと賣れる譯には行かなかつた。仕方がないから、叔父に一時の工面を頼んで、當座の片を付けて貰つた。叔父は事業家で色々な事に手を出しては失敗する、云はゞ山氣《やまぎ》の多い男であつた。宗助が東京にゐる時分も、よく宗助の父を説き付けては、旨い事を云つて金を引き出したものである。宗助の父にも慾があつたかも知れないが、此｜傳《でん》で叔父の事業に注《つ》ぎ込んだ金高は決して少ないものではなかつた。

　父の亡くなつた此際にも、叔父の都合は元と餘り變つてゐない樣子であつたが、生前の義理もあるし、又斯う云ふ男の常として、いざと云ふ場合には比較的融通の付くものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けて呉れた。其代り宗助は自分の家屋敷の賣却方に就て一切の事を叔父に一任して仕舞つた。早く云ふと、急場の金策に對する報酬として土地家屋を提供した樣なものである。叔父は、

　「何しろ、斯う云ふものは買手を見て賣らないと損だからね」と云つた。

　道具類も積《せき》ばかり取つて、金目にならないものは、悉《こと／”＼》く賣り拂つたが、五六幅の掛物と十二三點の骨董品｜丈《だけ》は、矢張り氣長に欲しがる人を探さないと損だと云ふ叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。凡《すべ》てを差し引いて手元に殘つた有金は、約二千圓程のものであつたが、宗助は其内の幾分を、小六の學資として、使はなければならないと氣が付いた。然し月々自分の方から送るとすると、今日《こんにち》の位置が堅固でない當時、甚だ實行しにくい結果に陷《おちい》りさうなので、苦しくはあつたが、思ひ切つて、年分｜丈《だけ》を叔父に渡して、何分宜しくと頼んだ。自分が中途で失敗《しくじ》つたから、責めて弟｜丈《だけ》は物にしてやりたい氣もあるので、此千圓が盡きたあとは、又何うにか心配も出來やうし又して呉れるだらう位の不慥《ふたしか》な希望を殘して、又廣島へ歸つて行つた。

　それから半年《はんとし》ばかりして、叔父の自筆で、家《うち》はとう／＼賣れたから安心しろと云ふ手紙が來たが、幾何《いくら》に賣れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間程｜經《た》つての返事に、優に例の立替を償《つぐな》ふに足る金額だから心配しなくても好いとあつた。宗助は此返事に對して少なからず不滿を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細は何《いづ》れ御面會の節云々とあつたので、すぐにも東京へ行きたい樣な氣がして、實は斯う／＼だがと、相談半分細君に話して見ると、御米は氣の毒さうな顔をして、

　「でも、行けないんだから、仕方がないわね」と云つて、例の如く微笑した。其時宗助は始めて細君から宣告を受けた人の樣に、しばらく腕組をして考へたが、何う工夫したつて、拔ける事の出來ない樣な位地と事情の下《もと》に束縛されてゐたので、つい夫成《それなり》になつて仕舞つた。

　仕方がないから、猶三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行《はんかう》で押した樣に何《いづ》れ御面會の節を繰り返して來る丈であつた。

　「是ぢや仕樣《しやう》がないよ」と宗助は腹が立つた樣な顔をして御米を見た。三ケ月ばかりして、漸く都合が付いたので、久し振りに御米を連れて、出京しやうと思ふ矢先に、つい風邪《かぜ》を引いて寐たのが元で、腸窒扶斯《ちやうチフス》に變化したため、六十日餘りを床の上に暮らした上に、あとの三十日程は充分仕事も出來ない位衰へて仕舞つた。

　病氣が本復してから間もなく、宗助は又廣島を去つて幅岡の方へ移らなければならない身となつた。移る前に、好い機會だから一寸東京迄出たいものだと考へてゐるうちに、今度も色々の事情に制せられて、つい夫《それ》も遂行《すゐかう》せずに、矢張り下り列車の走る方《かた》に自己の運命を托した。其頃は東京の家を疊むとき、懷にして出た金は、殆んど使ひ果たしてゐた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、中々の苦闘であつた。彼は書生として京都にゐる時分、種々の口實の下《もと》に、父から臨時隨意に多額の學資を請求して、勝手次第に消費した昔をよく思ひ出して、今の身分と比較しつゝ、頻りに因果の束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれが己《おれ》の榮華の頂點だつたんだと、始めて醒めた眼に遠い霞を眺める事もあつた。愈《いよ／＼》苦しくなつた時、

　「御米、久しく放《はふ》つて置いたが、又東京へ掛合《かけあ》つて見《み》樣《やう》かな」と云ひ出した。御米は無論｜逆《さから》ひはしなかつた。たゞ下を向いて、

　「駄目よ。だつて、叔父さんに全く信用がないんですもの」と心細さうに答へた。

　「向ふぢや此方《こつち》に信用がないかも知れないが、此方《こつち》ぢや又向ふに信用がないんだ」と宗助は威張つて云ひ出したが、御米の俯目《ふしめ》になつてゐる樣子を見ると、急に勇氣が挫《くじ》ける風に見えた。こんな問答を最初は月に一二返位繰り返してゐたが、後《のち》には二月《ふたつき》に一返になり、三月《みつき》に一返になり、とう／＼、

　「好いや、小六さへ何うかしで呉れゝば。あとの事は何《いづ》れ東京へ出たら、逢つた上で話を付けらあ。ねえ御米、左《さ》うすると、爲《し》やうぢやないか」と云ひ出した。

　「それで、好ござんすとも」と御米は答へた。」

　宗助は佐伯の事をそれなり放《はふ》つて仕舞つた。單なる無心は、自分の過去に對しても、叔父に向つて云ひ出せるものでないと、宗助は考へてゐた。從つて其《その》方《はう》の談判は、始めから未《いま》だ曾《かつ》て筆にした事がなかつた。小六からは時々手紙が來たが、極めて短かい形式的のものが多かつた。宗助は父の死んだ時、東京で逢つた小六を覺えてゐる丈《だけ》だから、いまだに小六を他愛《たわい》ない小供位に想像するので、自分の代理に叔父と交渉させ樣《やう》抔《など》と云ふ氣は無論起らなかつた。

　夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪へかねて、抱き合つて暖《だん》を取る樣な具合に、御互同志を頼りとして暮らしてゐた。苦しい時には、御米が何時《いつ》でも、宗助に、

　「でも仕方がないわ」と云つた。宗助は御米に、

　「まあ我慢するさ」と云つた。

　二人の間には諦めとか、忍耐とか云ふものが斷えず動いてゐたが、未來とか希望と云ふものの影は殆んど射さない樣に見えた。彼等は餘り多く過去を語らなかつた。時としては申し合はせた樣に、それを回避する風さへあつた。御米が時として、

　「其内には又｜屹度《きつと》好い事があつてよ。さう／＼惡い事ばかり續くものぢやないから」と夫《をつと》を慰さめる樣に云ふ事があつた。すると、宗助にはそれが、眞心《まごゝろ》ある妻《さい》の口を藉りて、自分を翻弄する運命の毒舌の如くに感ぜられた。宗助はさう云ふ場合には何にも答へずにたゞ苦笑する丈《だけ》であつた。御米が夫《それ》でも氣が付かずになにか云ひ續けると、

　「我々は、そんな好い事を豫期する權利のない人間ぢやないか」と思ひ切つて投げ出して仕舞ふ。細君は漸く氣が付いて口を噤《つぐ》んで仕舞ふ。さうして二人が黙つて向き合つてゐると、何時《いつ》の間《ま》にか、自分達は自分達の拵えた、過去といふ暗い大きな窖《あな》の中に落ちてゐる。

　彼等は自業自得で、彼等の未來を塗抹《とまつ》した。だから歩いてゐる先の方には、花やかな色彩を認める事が出來ないものと諦らめて、たゞ二人手を携えて行く氣になつた。叔父の賣り拂つたと云ふ地面家作に就いても、固《もと》より多くの期待は持つてゐなかつた。時々考へ出した樣に、

　「だつて、近頃の相場なら、捨賣にしたつて、あの時叔父の拵らへて呉れた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿々々しいからね」と宗助が云ひ出すと、御米は淋《さみ》しさうに笑つて、

　「又地面？　何時《いつ》迄もあの事ばかり考へて入らつしやるのね。だつて、貴方が萬事宜しく願ひますと、叔父さんに仰しやつたんでせう」と云ふ。

　「そりや仕方がないさ。あの場合あゝでも爲《し》なければ方《はう》が付かないんだもの」と宗助が云ふ。

　「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家《うち》と地面を貰つた積《つもり》で入らつしやるかも知れなくつてよ」と御米が云ふ。

　さう云はれると、宗助も叔父の處置に一理ある樣にも思はれて、口では、

　「その積《つもり》が好くないぢやないか」と答辯する樣なものゝ、此問題は其｜都度《つど》次第々々に背景の奧に遠ざかつて行くのであつた。

　夫婦がこんな風に淋《さみ》しく睦《むつ》まじく暮らして來た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、學生時代には大變懇意であつた杉原と云ふ男に偶然出逢つた。杉原は卒業後高等文官試驗に合格して、其時既に或省に奉職してゐたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになつて、東京からわざ／＼遣つて來たのである。宗助は所の新聞で、杉原の何時《いつ》着いて、何處に泊つてゐるかを能く知つてはゐたが、失敗者としての自分に顧みて、成効者《せいかうしや》の前に頭を下げる對照を恥づかしく思つた上に、自分は在學當時の舊友に逢ふのを、特に避けたい理由を持つてゐたので、彼の旅館を訪ねる氣は毛頭なかつた。

　所が杉原の方では、妙な引掛りから、宗助の此所に燻《くす》ぶつてゐる事を聞き出して、強いて面會を希望するので、宗助も已《やむ》を得ず我《が》を折つた。宗助が福岡から東京へ移れる樣になつたのは、全く此杉原の御蔭である。杉原から手紙が來て、愈《いよ／＼》事が極まつたとき、宗助は箸を置いて、

　「御米、とう／＼東京へ行けるよ」と云つた。

　「まあ結構ね」と御米が夫《をつと》の顏を見た。

　東京に着いてから二三週間は、眼の回《まは》る樣に日が經つた。新らしく世帶を有《も》つて、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙《せは》しなさと、自分達を包む大都の空氣の、日夜劇しく震盪《しんたう》する刺戟とに驅られて、何事をも凝《じつ》と考へる閑もなく、又落ち付いて手を下《くだ》す分別も出なかつた。

　夜汽車で新橋へ着いた時は、久し振りに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯《ひ》の所爲《せゐ》か晴れやかな色には宗助の眼に映らなかつた。途中に事故があつて、着《ちやく》の時間が珍らしく三十分程後れたのを、宗助の過失でゞもあるかの樣に、待草臥《まちくたび》れた氣色《けしき》であつた。

　宗助が比時叔母から聞いた言葉は、

　「おや宗《そう》さん、少時《しばらく》御目に掛《か》ゝらないうちに、大變｜御老《おふ》けなすつた事」といふ一句であつた。御米は其折始めて叔父夫婦に紹介された。　「これが彼《あの》……」と叔母は逡巡《ためら》つて宗助の方を見た。御米は何と挨拶のしやうもないので、無言の儘｜唯《たゞ》頭を下げた。

　小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎ひに來てゐた。宗助は一眼其姿を見たとき、何時《いつ》の間《ま》にか自分を凌《しの》ぐ樣に大きくなつた、弟の發育に驚ろかされた。小六は其時中學を出て、是から高等學校へ這入らうといふ間際であつた。宗助を見て、「兄さん」とも「御歸りなさい」とも云はないで、たゞ不器用に挨拶をした。

　宗助と御米は一週ばかり宿屋｜住居《ずまひ》をして、夫《それ》から今の所に引き移つた。其時は叔父夫婦が色々世話を燒いて呉れた。細々《こま／”＼》しい臺所道具の樣なものは買ふ迄もあるまい、古いので可《よ》ければと云ふので、小人數に必要な丈《だけ》一通り取り揃えて送つて來た。其上、

　「御前も新世帶だから、嘸｜物要《ものいり》が多からう」と云つて金を六十圓呉れた。

　家《うち》を持つて彼是取り紛れてゐるうちに、早《はや》半月｜餘《よ》も經つたが、地方にゐる時分あんなに氣にしてゐた家邸の事は、ついまだ叔父に言ひ出さずにゐた。ある時御米が、

　「貴方あの事を叔父さんに仰やつて」と聞いた。宗助はそれで急に思ひ出した樣に、

　「うん、未《ま》だ云はないよ」と答へた。

　「妙ね、あれ程氣にして入らしつたのに」と御米がうす笑をした。

　「だつて、落ち付いて、そんな事を云ひ出す暇がないんだもの」と宗助が辯解した。

　又十日程經つた。すると今度《こんだ》は宗助の方から、

　「御米、あの事は未《ま》だ云はないよ。どうも云ふのが面倒で厭になつた」と云ひ出した。

　「厭なのを無理に仰やらなくつても可《い》いわ」と御米が答えた。

　「好いかい」と宗助が聞き返した。

　「好いかいつて、もと／＼貴方の事ぢやなくつて。私は先《せん》から何うでも好いんだわ」と御米が答へた。

　其時宗助は、

　「ぢや、鹿爪《しかつめ》らしく云ひ出すのも何だか妙だから、其内｜機會《をり》があつたら、聞くとしやう。なに其内聞いて見る機會《をり》が屹度《きつと》出て來るよ」と云つて延ばして仕舞つた。

　小六は何不足なく叔父の家に寐起してゐた。試驗を受けて高等學校へ這入れゝば、寄宿へ入舍しなければならないと云ふので、其相談迄既に叔父と打合せがしてある樣であつた。新らしく出京した兄からは別段學資の世話を受けない所爲《せゐ》か、自分の身の上に就いては叔父程に親しい相談も持ち込んで來なかつた。從兄弟《いとこ》の安之助とは今迄の關係上大變仲が好かつた。却つて此方が兄弟らしかつた。

　宗助は自然叔父の家《うち》に足が遠くなる樣になつた。たまに行つても、義理一遍の訪問に終る事が多いので、歸り路には何時《いつ》も詰らない氣がしてならなかつた。仕舞には時候の挨拶を濟ますと、すぐ歸りたくなる事もあつた。かう云ふ時には三十分と坐つて、世間話に時間を繋《つな》ぐのにさへ骨が折れた。向ふでも何だか氣が置けて窮屈だと云ふ風が見えた。

　「まあ可《い》いぢやありませんか」と叔母が留めてくれるのが例であるが、さうすると、猶更《なほさら》居にくい心持がした。それでも、たまには行かないと、心のうちで氣が咎《とが》める樣な不安を感ずるので、又行くやうになつた。折々は、

　「何うも小六が御厄介になりまして」と此方《こつも》から頭を下げて禮を云ふ事もあつた。けれども、それ以上は、弟の將來の學資に就ても、又自分が叔父に頼んで、留守中に賣り拂つて貰つた地所家作に就いても、口を切るのがつい面倒になつた。然し宗助が興味を有《も》たない叔父の所へ、不精無精《ふしやうぶしやう》にせよ、時たま出掛けて行くのは、單に叔父甥の血屬關係を、世間並に持ち堪《こた》へるための義務心からではなくつて、いつか機會があつたら、片を付けたい或物を胸の奧に控へてゐた結果に過ぎないのは明かであつた。

　「宗さんは何うも悉皆《すつかり》變つちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があつた。すると叔父は、

　「左《さ》うよなあ。矢つ張り、あゝ云ふ事があると、永く迄｜後《あと》へ響くものだからな」と答へて、因果は恐ろしいと云ふ風をする。叔母は重ねて、

　「本當に、怖いもんですね。元はあんな寐入《ねい》つた子《こ》ぢやなかつたが――どうも燥急《はしや》ぎ過ぎる位活?でしたからね。それが二三年見ないうちに、丸《まる》で別の人見た樣に老《ふ》けちまつて。今ぢや貴方より御爺《おぢい》さん／＼してゐますよ」と云ふ。

　「眞逆《まさか》」と叔父が又答へる。

　「いえ、頭や顔は別として、樣子がさ」と叔母が又辯解する。

　こんな會話が老夫婦の間に取り換はされたのは、宗助が出京して以來一度や二度ではなかつた。實際彼は叔父の所へ來ると、老人の眼に映る通りの人間に見えた。

　御米は何う云ふものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、曾《か》つて叔父の家《うち》の敷居を跨いだ事がない。向《むかふ》から見えれば叔父さん叔母さんと丁寧に接待するが、歸りがけに、

　「何うです、些《ち》と御出掛けなすつちや」などゝ云はれると、たゞ、

　「難有《ありがた》う」と頭を下げる丈《だけ》で、逐ぞ出掛けた試《ためし》はなかつた。流石《さすが》の宗助さへ一度は、

　「叔父さんの所へ一度行つて見ちや、何うだい」と勸めた事があるが、

　「でも」と變な顔をするので、宗助は夫《それ》限《ぎり》決して其事を云ひ出さなかつた。

　兩家族はこの?態で約一年ばかりを送つた。すると宗助よりも氣分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄腦膜炎《せきずゐなうまくえん》とかいふ劇症《げきしやう》で、二三日風邪の氣味で寐てゐたが、便所へ行つた歸りに、手を洗はうとして、柄杓《ひしやく》を持つた儘卒倒したなり、一日《いちんち》經つか經たないうちに冷たくなつて仕舞つたのである。

　「御米、叔父はとう／＼話をしずに死んで仕舞つたよ」と宗助が云つた。

　「貴方まだ、あの事を聞く積《つもり》だつたの、貴方も隨分｜執念深《しふねんぶか》いのね」と御米が云つた。

　夫《それ》から又一年ばかり經つたら、叔父の子の安之助が大學を卒業して、小六が高等學校の二年生になつた。叔母は安之助と一所に中六番町に引き移つた。

　三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行つた。そこに一月餘りも滯在してゐるうちに九月になり掛けたので、保田《ほた》から向ふへ突切《つつき》つて、上總《かづさ》の海岸を九十九里傳ひに、銚子《てうし》迄來たが、そこから思ひ出した樣に東京へ歸つた。宗助の所へ見えたのは、歸つてから、まだ二三日しか立たない、殘暑の強い午後である。眞黒に焦《こ》げた顔の中に、眼だけ光らして、見違へる樣に蠻色《ばんしよく》を帶びた彼は、比較的日の遠い座敷へ這入つたなり横になつて、兄の歸りを待ち受けてゐたが、宗助の顔を見るや否や、むつくり起き上がつて、

　「兄さん、少し御話があって來たんですが」と開き直られたので、宗助は少し驚ろいた氣味で、暑苦しい洋服さへ脱ぎ更へずに、小六の話を聞いた。

　小六の云ふ所によると、二三日｜前《まへ》彼が上總《かづさ》から歸つた晩、彼の學資は此暮｜限《かぎ》り、氣の毒ながら出して遣れないと叔母から申し渡されたのださうである。小六は父が死んで、すぐと叔父に引き取られて以來、學校へも行けるし、着物も自然《ひとりで》に出來るし、小遣も適宜に貰へるので、父の存生中《ぞんしやうちゆう》と同じ樣に、何不足なく暮らせて來た惰性から、其日其晩迄も、ついぞ學資と云ふ問題を頭に思ひ浮べた事がなかつたため、叔母の宣告を受けた時は、茫然《ぼんやり》して兎角の挨拶さへ出來なかつたのだと云ふ。

　叔母は氣の毒さうに、何故《なぜ》小六の世話が出來なくなつたかを、女｜丈《だけ》に、一時間も掛かつて委しく説明して呉れたさうである。それには叔父の亡くなつた事やら、繼いで起る經濟上の變化やら、又安之助の卒業やら、卒業後に抱えてゐる結婚問題やらが這入つてゐたのだと云ふ。

　「出來るならば、責めて高等學校を卒業する迄と思つて、今日《けふ》迄色々骨を折つたんだけれども」

　叔母は斯う云つたと小六は繰り返した。小六は其時｜不圖《ふと》兄が、先年父の葬式の時に出京して、萬事を片付けた後《あと》、廣島へ歸るとき、小六に、御前の學資は叔父さんに預けであるからと云つた事があるのを思ひ出して、叔母に始めて聞いて見ると、叔母は案外な顔をして、

　「そりや、あの時、宗《そう》さんが若干《いくら》か置いて行きなすつた事は、行きなすつたが、夫《それ》はもう有りやしないよ。叔父さんの未《ま》だ生きて御出《おいで》の時分から、御前の學資は融通して來たんだから」と答へた。

　小六は兄から自分の學資が何《ど》れ程あつて、何年分の勘定で、叔父に預けられたかを、聞いて置かなかつたから、叔母から斯う云はれて見ると、一言《ひとこと》も返し樣がなかつた。

　「御前も一人ぢやなし、兄さんもある事だから能く相談をして見たら好いだらう。其代り私《わたし》も宗さんに逢つて、篤《とつ》くり譯を話しませうから。どうも、宗さんも餘《あん》まり近頃は御出《おいで》でないし、私《わたし》も御無沙汰｜許《ばかり》してゐるのでね、つい御前の事は御話をする譯にも行かなかつたんだよ」と叔母は最後に附け加へたさうである。

　小六から一部始終を聞いた時、宗助はたゞ弟の顔を眺めて、一口、

　「困つたな」と云つた。昔の樣に赫《くわつ》と激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける氣色《けしき》もなければ、今迄自分に對して、世話にならないでも濟む人の樣に、餘所々々《よそ／＼》しく仕向けて來た弟の態度が、急に方向を轉じたのを、惡《にく》いと思ふ樣子も見えなかつた。

　自分の勝手に作り上げた美くしい未來が、半分｜壞《くづ》れかゝつたのを、さも傍《はた》の人の所爲《せゐ》ででもあるかの如く心を亂してゐる小六の歸る姿を見送つた宗助は、暗い玄關の敷居の上に立つて、格子《かうし》の外《そと》に射す夕日をしばらく眺めてゐた。

　其晩宗助は裏から大きな芭蕉の葉を二枚｜剪《き》つて來てそれを座敷の縁に敷いて、其上に御米と並んで凉《すゞ》みながら、小六の事を話した。

　「叔母さんは、此方《こつち》で、小六さんの世話をしろつて云ふ氣なんぢやなくつて」と御米が聞いた。

　「まあ、逢つて聞いて見ないうちは、何う云ふ料簡か分らないがね」と宗助が云ふと、御米は、

　「屹度《きつと》左《さ》うよ」と答へながら、暗がりで團扇《うちは》をはた／＼動かした。宗助は何も云はずに、頸を延ばして、廂《ひさし》と崖の間に細く映る空の色を眺めた。二人は其儘しばらく黙つて居たが、良《やゝ》あつて、

　「だつて夫《それ》ぢや無理ね」と御米が又云つた。

　「人間一人大學を卒業させるなんて、己《おれ》の手際ぢや到底《とても》駄目だ」と宗助は自分の能力｜丈《だけ》を明らかにした。

　會話はそこで別の題目に移つて、再び小六の上にも叔母の上にも歸つて來なかつた。それから二三日すると丁度土曜が來たので、宗助は役所の歸りに、番町の叔母の所へ寄つて見た。叔母は、

　「おや／＼、まあ御珍らしい事」と云つて、何時《いつ》もよりは愛想《あいそ》よく宗助を款待《もてな》して呉れた。其時宗助は厭なのを我慢して、此四五年來溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。叔母は固《もと》より出來る丈《だけ》は辯解しない譯に行かなかつた。

　叔母の云ふ所によると、宗助の邸宅《やしき》を賣拂つた時、叔父の手に這入つた金は、慥《たしか》には覺えてゐないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、猶四千五百圓とか四千三百圓とか餘つたさうである。所が叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行つたのだから、たとひ幾何《いくら》餘らうと、餘つた分は自分の所得と見傚《みな》して差支ない。然し宗助の邸宅《やしき》を賣つて儲けたと云はれては心持が惡いから、是は小六の名義で保管して置いて、小六の財産にして遣る。宗助はあんな事をして廢嫡《はいちやく》に迄されかゝつた奴だから、一文《いちもん》だつて取る權利はない。

　「宗《そう》さん怒つちや不可《いけ》ませんよ。たゞ叔父さんの云つた通りを話すんだから」と叔母が斷つた。宗助は黙つてあとを聞いてゐた。

　小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に變形した。さうして、まだ保險を付けないうちに、火事で燒けて仕舞つた。小六には始めから話してない事だから、其儘にして、わざと知らせずに置いた。

　「さう云ふ譯でね、まことに宗《そう》さんにも、御氣の毒だけれども、何しろ取つて返しの付かない事だから仕方がない、運だと思つて諦らめて下さい。尤も叔父さんさへ生きてゐれば、又何うともなるんでせうさ。小六一人位そりや譯はありますまいよ。よしんば、叔父さんが居なさらない、今にしたつて、此方《こつち》の都合さへ好ければ、燒けた家《うち》と同じ丈《だけ》のものを、小六に返すか、それでなくつても、當人の卒業する迄位は、何うにかして世話も出來るんですけれども」と云つて叔母は又｜外《ほか》の内幕話をして聞かせた。それは安之助の職業に就てゞあつた。

　安之助は叔父の一人息子で、此夏大學を出た許《ばかり》の青年である。家庭で暖かに育つた上に、同級の學生位より外《ほか》に交際のない男だから、世の中の事には寧ろ迂濶《うくわつ》と云つても可《い》いが、其迂濶な所に何處か鷹揚《おうやう》な趣《おもむき》を具へて實社會へ顏を出したのである。専門は工科の器械學だから、企業熟の下火になつた今日《こんにち》と雖《いへど》も、日本中に澤山ある會社に、相應の口の一つや二つあるのは、勿論であるが、親讓りの山氣《やまぎ》が何處かに潜《ひそ》んでゐるものと見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら專有の工場《こうば》を月島｜邊《へん》に建てゝ、獨立の經營をやつてゐる先輩に出逢つたのが縁となつて、其先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注《つ》ぎ込んで、一所に仕事をして見《み》樣《やう》といふ考になつた。叔母の内幕話と云つたのは其所である。

　「でね、少し有つた株をみんな其方へ廻す事にしたもんだから、今ぢや本當に一文《いちもん》なし同然な仕儀《しぎ》でゐるんですよ。それは世間から見ると、人數は少なし、家邸《いへやしき》は持つてゐるし、樂に見えるのも無理のない所でせうさ。此間も原の御母《おつか》さんが來て、まあ貴方程氣樂な方《かた》はない、何時《いつ》來て見ても萬年青《おもと》の葉ばかり丹念に洗つてゐるつてね。眞逆《まさか》左《さ》うでも無いんですけれども」と叔母が云つた。

　宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりして兎角の返事が容易に出なかつた。心のなかで、是は神經衰弱の結果、昔の樣に機敏で明快な判斷を、すぐ作り上げる頭が失《な》くなつた證據だらうと自覺した。叔母は自分の云ふ通りが、宗助に本當と受けられないのを氣にする樣に、安之助から持ち出した資本の高｜迄《まで》話した。それは五千圓程であつた。安之助は當分の間、僅かな月給と、此五千圓に對する利益配當とで暮らさなければならないのださうである。

　「其配當だつて、まだ何うなるか分りやしないんでさあね。旨く行つた所で、一割か一割五分位なものでせうし、又一つ間違へば丸《まる》で烟《けむ》にならないとも限らないんですから」と叔母が付け加へた。

　宗助は叔母の仕打に、是と云ふ目立つた阿漕《あこぎ》な所も見えないので、心の中《うち》では少なからず困つたが、小六の將來に就いて一口の掛合《かけあひ》もせずに歸るのは如何にも馬鹿々々しい氣がした。そこで今迄の問題は其所に据ゑつきりにして置いて、自分が當時小六の學資として叔父に預けて行つた千圓の所置を聞き糺《たゞ》して見ると、叔母は、

　「宗さん、あれこそ本當に小六が使つちまつたんですよ。小六が高等學校へ這入つてからでも、もう彼是《かれこれ》七百圓は掛かつてゐるんですもの」と答へた。

　宗助は序《ついで》だから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書畫や骨董品の成行《なりゆき》を確かめて見た。すると、叔母は、

　「ありあ飛んだ馬鹿な目に逢つて」と云ひかけたが、宗助の樣子を見て、

　「宗さん、何ですか、彼《あの》事《こと》はまだ御話をしなかつたんでしたかね」と聞いた。宗助がいゝえと答へると、

　「おや／＼、夫《それ》ぢや叔父さんが忘れちまつたんですよ」と云ひながら、其｜?末《てんまつ》を語つて聞かした。

　宗助が廣島へ歸ると間もなく、叔父は其｜賣捌方《うりさばきかた》を眞田《さなだ》とかいふ懇意の男に依頼した。此男は書畫骨董の道に明るいとかいふので、平生そんなものの賣買の周旋をして諸方へ出入《でいり》するさうであつたが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某《だれそれがし》が何を欲しいと云ふから、一寸拜見とか、何々氏《なに／＼し》が斯う云ふ物を希望だから、見せませうとか號して、品物を持つて行つたぎり、返して來ない。催促すると、まだ先方から戻つて參りませんからとか何とか言譯をする丈《だけ》で甞《かつ》て埒《らち》の明いた試《ためし》がなかつたが、とう／＼持ち切れなくなつたと見えて、何處かへ姿を隱して仕舞つた。

　「でもね、未《ま》だ屏風が一つ殘つてゐますよ。此間引越の時に、氣が付いて、こりや宗さんのだから、今度《こんだ》序《ついで》があつたら屆けて上げたら可《い》いだらうつて、安がさう云つてゐましたつけ」

　叔母は宗助の預けて行つた品物には丸《まる》で重きを置いてゐない樣な、ものゝ云ひ方をした。宗助も今日《けふ》迄｜放《はふ》つて置く位だから、あまり其方面には興味を有《も》ち得なかつたので、少しも良心に惱まされてゐる氣色《けしき》のない叔母の樣子を見ても、別に腹は立たなかつた。それでも、叔母が、

　「宗さん、何うせ家《うち》ぢや使つてゐないんだから、なんなら持つて御出《おいで》なすつちや何うです。此頃は彼《あゝ》いふものが、大變｜價《ね》が出たと云ふ話ぢやありませんか」と云つたときは、寶際それを持つて歸る氣になつた。

　納戸《なんど》から取り出して貰つて、明《あか》るい所で眺めると、慥《たし》かに見覺《みおぼえ》のある二枚折であつた。下に萩《はぎ》、桔梗《ききやう》、芒《すゝき》、葛《くず》、女郎花《をみなへし》を隙間なく描《か》いた上に、眞丸な月を銀で出して、其横の空《あ》いた所へ、野路《のち》や空《そら》月の中なる女郎花《をみなへし》、其一《きいち》と題してある。宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦《こ》げた邊《あたり》から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた樣《さま》から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一《はういつ》と行書で書いた落款《らくくわん》をつく／”＼と見て、父の生きてゐる當時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。

　父は正月になると、屹度《きつと》此屏風を薄暗い藏の中から出して、玄關の仕切りに立てて、其前へ紫檀の角《かく》な名刺入を置いて、年賀を受けたものである。其時は目出度いからと云ふので、客間の床には必ず虎の双幅を懸けた。是は岸駒《がんく》ぢやない岸岱《がんたい》だと父が宗助に云つて聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶してゐた。此虎の畫《ゑ》には墨が着いてゐた。虎が舌を出して谷の水を呑んでゐる鼻柱が少し汚《けが》されたのを、父は苛《ひど》く氣にして、宗助を見る度に、御前此所へ墨を塗つた事を覺えてゐるか、是は御前の小さい時分の惡戯《いたづら》だぞと云つて、可笑《をか》しい樣な恨《うら》めしい樣な一種の表情をした。

　宗助は屏風の前に畏《かしこ》まつて、自分が東京にゐた昔の事を考へながら、

　「叔母さん、ぢや此屏風は頂戴して行きませう」と云つた。

　「あゝ／＼、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げませう」と叔母は好意から申し添えた。

　宗助は然るべく叔母に頼んで、其日は夫《それ》で切り上げて歸つた。晩食《ばんめし》の後《のち》御米と一所に又縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣《ゆかた》を並べて、凉みながら、晝の詩をした。

　「安さんには、御逢ひなさらなかつたの」と御米が聞いた。

　「あゝ、安さんは土曜でも何でも夕方迄、工場《こうば》にゐるんださうだ」

　「隨分骨が折れるでせうね」

　御米は左《さ》う云つたなり、叔父や叔母の處置に就いては、一言《ひとこと》の批評も加へなかつた。

　「小六の事は何うしたものだらう」と宗助が聞くと、

　「さうね」と云ふ丈《だけ》であつた。

　「理窟を云へば、此方《こつち》にも云ひ分《ぶん》はあるが、云ひ出せば、とゞの詰りは裁判沙汰になる許《ばか》りだから、證據も何もなければ勝てる譯のものぢやなし」と宗助が極端を豫想すると、

　「裁判なんかに勝たなくたつても可《い》いわ」と御米がすぐ云つたので、宗助は苦笑《くせう》して已《や》めた。

　「つまりは己《おれ》があの時東京へ出られなかつたからの事さ」

　「さうして東京へ出られた時は、もうそんな事は何うでも可《よ》かつたんですもの」 　夫婦はこんな話をしながら、又細い空を庇《ひさし》の下から覗いて見て、明日《あした》の天氣を語り合つて蚊帳に這入つた。

　次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云つた通りを殘らず話して聞かせて、

　「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかつたのは、短兵急な御前の性質を知つてる所爲《せゐ》か、夫《それ》ともまだ小供だと思つてわざと略して仕舞つたのか、其所は己《おれ》にも分らないが、何しろ事實は今云つた通りなんだよ」と�ﾍへた。

　小六には如何に詳しい説明も腹の足しにはならなかつた。たゞ、

　「左《さ》うですか」と云つて六づかしい不滿な顔をして宗助を見た。

　「仕方がないよ。叔母さんだつて、安さんだつて、さう惡い料簡はないんだから」

　「そりや、分つてゐます」と弟は峻《けは》しい物の云ひ方をした。

　「ぢや己《おれ》が惡いつて云ふんだらう。己《おれ》は無論惡いよ。昔から今日《こんにち》迄《まで》惡い所だらけな男だもの」

　宗助は横になつて烟草を吹かしながら、是より以上は何とも語らなかつた。小六も黙つて、座敷の隅に立てゝあつた二枚折の抱一《はういつ》の屏風を眺めてゐた。

　「御前あの屏風を覺えてゐるかい」とやがて兄が聞いた。

　「えゝ」と小六が答へた。

　「一昨日《をとゝひ》佐伯から屆けて呉れた。御父さんの持つてたもので、おれの手に殘つたのは、今ぢや是だけだ。是が御前の學資になるなら、今すぐにでも遣るが、剥《は》げた屏風一枚で大學を卒業する譯にも行かずな」と宗助が云つた。さうして苦笑しながら、

　「此暑いのに、斯んなものを立てゝ置くのは、氣狂じみてゐるが、入れて置く所がないから、仕方がない」と云ふ述懷《じゆつくわい》をした。

　小六は此氣樂な樣な、愚圖の樣な、自分とは餘りに懸け隔《へだ》つてゐる兄を、何時《いつ》も物足りなくは思ふものゝ、いざといふ場合に、決して喧嘩はし得なかつた。此時も急に癇癪の角《つの》を折られた氣味で、

　「屏風は何うでも好いが、是から先《さき》僕はどうしたもんでせう」と聞き出した。

　「夫《それ》は問題だ。何しろ此年《ことし》一杯に極まれぼ好い事だから、まあよく考へるさ。おれも考へて置かう」と宗助が云つた。

　弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿は嫌《きらひ》である、學校へ出ても落付いて稽古も出來ず、下調も手に付かない樣な境遇は、到底自分には堪へられないと云ふ訴《うつたへ》を切に遣り出したが、宗助の態度は依然として變らなかつた。小六があまり癇の高い不平を並べると、

　「其位な事で夫《それ》程《ほど》不平が並べられゝば、何處へ行つたつて大丈夫だ。學校を已《や》めたつて、一向差支ない。御前の方が己《おれ》より餘つ程えらいよ」と兄が云つたので、話は夫《それ》限《ぎり》頓挫《とんざ》して、小六はとう／＼本郷へ歸つて行つた。

　宗助はそれから湯を浴びて、晩食《ばんめし》を濟まして、夜は近所の縁日へ御米と一所に出掛けた。さうして手頃な花物を二鉢買つて、夫婦して一つ宛《づゝ》持つて歸つて來た。夜露に中《あ》てた方が可《よ》からうと云ふので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。

　蚊帳の中へ這入つた時、御米は、

　「小六さんの事は何うなつて」と夫《をつと》に聞くと、

　「未《ま》だ何うもならないさ」と宗助は答へたが、十分｜許《ばかり》の後《のち》夫婦ともすや／＼寐入つた。

　翌日眠が覺めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考へる暇を有《も》たなかつた。家《うち》へ歸つて、のつそりしてゐる時ですら、此間題を確的《はつきり》眼の前に描いて明らかにそれを眺める事を憚かつた。髪の毛の中に包んである彼の腦は、其煩はしさに堪えなかつた。昔は數學が好きで、隨分込み入つた幾何《きか》の問題を、頭の中で明瞭な圖にして見る丈《だけ》の根氣があつた事を憶ひ出すと、時日の割には非常に烈しく來た此變化が自分にも恐ろしく映つた。

　それでも日に一度位は小六の姿がぼんやり頭の奧に浮いて來る事があつて、その時｜丈《だけ》は、彼奴《あいつ》の將來も何とか考へて置かなくつちやならないと云ふ氣も起つた。然しすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまい位に、自分と打ち消して仕舞ふのが常であつた。さうして、胸の筋《きん》が一本｜鉤《かぎ》に引つ掛つた樣な心を抱《いだ》いて、日を暮らしてゐた。

　其内九月も末になつて、毎晩｜天《あま》の河《がは》が濃く見へるある宵の事、空から降つた樣に安之助が遣つて來た。宗助にも御米にも思ひ掛けない程｜稀《たま》な客なので、二人とも何か用があつての訪問だらうと推《すゐ》したが、果して小六に關する件であつた。

　此間月島の工場へひよつくり小六が遣つて來て云ふには、自分の學資に就ての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今迄學問を遣つて來て、とう／＼大學へ這入《はい》れず仕舞《じまひ》になるのは如何にも殘念だから、借金でも何でもして、行ける所迄行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談を掛けるので、安之助はよく宗さんにも話して見やうと答へると、小六は忽ちそれを遮《さへ》ぎつて、兄は到底相談になつて呉れる人ぢやない、自分が大學を卒業しないから、他《ひと》も中途で已《や》めるのは當然だ位に考へてゐる。元來今度の事も元を糺《たゞ》せば兄が責任者であるのに、あの通り一向平氣なもので、他《ひと》が何を云つても取り合つて呉れない。だから、たゞ頼りにするのは君｜丈《だけ》だ。叔母さんに正式に斷わられながら、又君に依頼するのは可笑《をか》しい樣だが、君の方が叔母さんより話が分るだらうと思つて來たと云つて、中々動きさうもなかつたさうである。

　安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事では大分《だいぶ》心配して、近い中又｜家《うち》へ相談に來る筈になつてゐるんだからと慰めて、小六を歸したんだと云ふ。歸るときに、小六は袂から半紙を何枚も出して、缺席屆が入用《にふよう》だから是に判を押して呉れと請求して、僕は退學か在學か片が付く迄は勉強が出來ないから、毎日學校へ出る必要はないんだと云つたさうである。

　安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して歸つて行つたが、小六の所置に就ては、兩人の間に具體的の案は別に出なかつた。何《いづ》れ緩《ゆつ》くりみんなで寄つて極めやう、都合がよければ小六も列席するが好からうといふのが別れる時の言葉であつた。二人になつたとき、御米は宗助に、

　「何を考へて入らつしやるの」と聞いた。宗助は兩手を兵兒帶《へこおび》の間に挾んで、心持肩を高くしたなり、

　「己《おれ》ももう一返小六見た樣になつて見たい」と云つた。「此方《こつち》ぢや、向《むかふ》が己《おれ》の樣な運命に陷《おちい》るだらうと思つて心配してゐるのに、向《むかふ》ぢや兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」

　御米は茶器を引いて臺所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、又床を延べて寐た。夢の上に高い銀河《あまのがは》が涼しく懸つた。

　次の週間には、小六も來ず、佐伯からの音信《たより》もなく、宗助の家庭は又平日の無事に歸つた。夫婦は毎朝露の光る頃起きて、美しい日を廂《ひさし》の上に見た。夜は煤竹《すゝだけ》の臺を着けた洋燈《らんぷ》の兩側に、長い影を描《ゑが》いて坐つてゐた。話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音｜丈《だけ》が聞える事も稀《まれ》ではなかつた。

　夫《それ》でも夫婦は此間に小六の事を相談した。小六がもし何うしても學問を續ける氣なら無論の事、さうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れてゐるが、左《さ》うすれば又佐伯へ歸るか、或は宗助の所へ置くより外に途はない。佐伯では一旦あゝ云ひ出した樣なものゝ、頼んで見たら、當分｜宅《うち》へ置く位の事は、好意上｜爲《し》てくれまいものでもない。が、其上修業をさせるとなると、月謝小遣其他は宗助の方で擔任しなければ義理が惡い。所が夫《それ》は家計上宗助の堪える所でなかつた。月々の収支を事細かに計算して見た兩人《ふたり》は、

　「到底駄目だね」

　「何うしたつて無理ですわ」と云つた。

　未婦の坐つてゐる茶の間の次が臺所で、臺所の右に下女部屋、左に六疊が一間《ひとま》ある。下女を入れて三人の小人數《こにんず》だから、此六疊には餘り必要を感じない御米は、東向の窓側に何時《いつ》も自分の鏡臺を置いた。宗助も朝起きて顏を洗つて、飯を濟ますと、此所へ來て着物を脱ぎ更へた。

　「夫《それ》よりか、あの六疊を空《あ》けて、あすこへ來ちや不可《いけ》なくつて」と御米が云ひ出した。御米の考へでは、斯うして自分の方で部屋と食物｜丈《だけ》を分擔して、あとの所を月々｜幾何《いくら》か佐伯から助《すけ》て貰つたら、小六の望み通り大學卒業迄遣つて行かれやうと云ふのである。

　「着物は安さんの古いのや、貴方のを直して上げたら、何うかなるでせう」と御米が云ひ添へた。實は宗助にも斯んな考が、多少頭に浮かんで居た。たゞ御米に遠慮がある上に、夫《それ》程《ほど》氣が進まなかつたので、つい口へ出さなかつた迄だから、細君から斯う反對《あべこべ》に相談を掛けられて見ると、固《もと》よりそれを拒《こば》む丈《だけ》の勇氣はなかつた。

　小六に其通りを通知して、御前さへそれで差支なければ、己《おれ》がもう一遍佐伯へ行つて掛合つて見るがと、手紙で問ひ合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、傘《からかさ》に音を立てゝ遣つて來て、もう學資が出來でもした樣に嬉しがつた。

　「何、叔母さんの方ぢや、此方《こつち》で何時《いつ》迄も貴方の事を放《はふ》り出したまんま、構はずに置くもんだから、それで彼《あゝ》仰やるのよ。なに兄さんだつて、もう少し都合が好ければ、疾《と》うにも何うにか爲《し》たんですけれども、御存じの通りだから實際｜已《や》むを得なかつたんですわ。然し此方《こつち》から斯う云つて行けば、叔母さんだつて、安さんだつて、夫《それ》でも否《いや》だとは云はれないわ。屹度《きつと》出來るから安心して居らつしやい。私《わたし》受合ふわ」

　御米にかう受合つて貰つた小六は、又雨の音を頭の上に受けて本郷へ歸つて行つた。しかし中一日置いて、兄さんは未《ま》だ行かないんですかと聞きに來た。又三日｜許《ばかり》過ぎてから、今度は叔母さんの所へ行つて聞いたら、兄さんはまだ來ないさうだから、成るべく早く行く樣に勸めて呉れと催促して行つた。

　宗助が行く行くと云つて、日を暮らしてゐるうちに世の中は漸く秋になつた。その朗らかな或日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのが後《おく》れるので、此要件を手紙に認《したゝ》めて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行つて留守だと云ふ返事が來たのである。

　

　　　　　五

　

　佐伯の叔母の尋ねて來たのは、土曜の午後の二時過であつた。其日は例になく朝から雲が出て、突然と風が北に變つた樣に寒かつた。叔母は竹で編んだ丸い火桶の上へ手を翳《かざ》して、

　「何ですね、御米さん、此御部屋は夏は涼しさうで結構だが、是からはちと寒う御座んすね」と云つた。叔母は癖のある髪を、奇麗に髷《まげ》に結《い》つて、古風な丸打の羽織の紐を、胸の所で結んでゐた。酒の好きな質《たち》で、今でも少しづゝは晩酌を遣る所爲《せゐ》か、色澤《いろつや》もよく、でつぷり肥つてゐるから、年よりは餘程若く見える。御米は叔母が來るたんびに、叔母さんは若いのねと、後《あと》でよく宗助に話した。すると宗助が何時《いつ》でも、若い筈だ、あの年になる迄、子供をたつた一人しか生まないんだからと説明した。御米は實際さうかも知れないと思つた。さうして斯う云はれた後では、折々そつと六疊へ這入つて、自分の顔を鏡に映して見た。其時は何だか自分の頬が見る度に瘠《こ》けて行く樣な氣がした。御米には自分と子供とを連想して考へる程｜辛《つら》い事はなかつたのである。裏の家主の宅《うち》に、小さい子供が大勢ゐて、夫《それ》が崖の上の庭へ出て、ブランコへ乘つたり、鬼ごつこを遣つたりして騷ぐ聲が、能く聞えると、御米は何時《いつ》でも、果敢《はか》ない樣な恨めしい樣な心持になつた。今自分の前に坐つてゐる叔母は、たつた一人の男の子を生んで、その男の子が順當に育つて、立派な學士になつたればこそ、叔父が死んだ今日《こんにち》でも、何不足のない顔をして、腮《あご》などは二重《ふたへ》に見える位に豐なのである。御母さんは肥つてるから劔呑《けんのん》だ、氣を付けないと卒中で遣られるかも知れないと、安之助が始終心配するさうだけれども、御米から云はせると、心配する安之助も、心配される叔母も、共に幸福を享《う》け合つてゐるものとしか思はれなかつた。

　「安さんは」と御米が聞いた。

　「えゝ漸くね、あなた。一昨日《をとゝひ》の晩歸りましてね。夫《それ》でつい／＼御返事も後《おく》れちまつて、まことに濟みません樣な譯で」と云つたが、返事の方は夫《それ》なりにして、話は又安之助へ戻つて來た。

　「あれもね、御蔭さまで漸く學校｜丈《だけ》は卒業しましたが、是からが大事の所で、心配で御座います。――夫《それ》でも此九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、まあ幸《さいはひ》と此分で勉強さへして行つて呉れゝば、此末ともに、さう惡い事も無からうかと思つてるんですけれども、まあ若いものゝ事ですから、是から先何う變化《へんげ》るか分りやしませんよ」

　御米はたゞ結構で御座いますとか、御目出たう御座いますとか云ふ言葉を、間々《あひだ／＼》に挾んでゐた。

　「神戸へ參つたのも、全く其方の用向なので。石油發動機とか何とか云ふものを鰹船《かつをぶね》へ据ゑ付けるんだとかつてね貴方」

　御米には丸《まる》で意味が分らなかつた。分らない乍らたゞへえゝと受けてゐると、叔母はすぐ後《あと》を話した。

　「私にも何のこつたか、些《ちつ》とも分らなかつたんですが、安之助の講釋を聞いて始めて、おやさうかいと云ふ樣な譯でしてね。――尤も石油發動機は今以て分らないんですけれども」と云ひながら、大きな聲を出して笑つた。「何でも石油を焚いて、それで船を自由にする器械なんださうですが、聞いて見ると餘程重寶なものらしいんですよ。夫《それ》さへ付ければ、舟を漕ぐ手間《てま》が丸《まる》で省けるとかでね。五里も十里も沖へ出るのに、大變樂なんですとさ。所が貴方、此日本全國で鰹船の數《かず》つたら、夫《それ》こそ大したものでせう。その鰹船が一つ宛《づゝ》此器械を具へ付ける樣になつたら、莫大な利益だつて云ふんで、此頃は夢中になつて其《その》方《はう》ばつかりに掛つてゐる樣ですよ。莫大な利益は難有《ありがた》いが、さう凝《こ》つて身體でも惡くしちや詰らないぢやないかつて、此間も笑つた位で」

　叔母はしきりに鰹船《かつをぶね》と安之助の話をした。さうして大變得意の樣に見えたが、小六の事は中々云ひ出さなかつた。もう疾《とう》に歸る筈の宗助も何うしたか歸つて來なかつた。

　彼は其日役所の歸り掛けに駿河臺下迄來て、電車を下りて、酸いものを頬張つた樣な口を穿《すぼ》めて一二町歩いた後《のち》、ある齒醫者の門《かど》を潜《くゞ》つたのである。三四日｜前《ぜん》彼は御米と差向ひで、夕飯の膳に着いて、話しながら箸を取つてゐる際に、何うした拍子か、前齒を逆にぎりゝと?んでから、それが急に痛み出した。指で搖《うご》かすと、根がぐら／＼する。食事の時には湯茶が染《し》みる。口を開けて息をすると風も染みた。宗助は此朝齒を磨くために、わざと痛い所を避《よ》けて楊枝を使ひながら、口の中を鏡に照らして見たら、廣島で銀を埋《う》めた二枚の奧齒と、研いだ樣に磨り減らした不揃《ぶそろ》の前齒とが、俄かに寒く光つた。洋服に着換える時、

　「御米、己《おれ》は齒の性《しやう》が餘程《よつぽど》惡いと見えるね。斯うやると大抵動くぜ」と下齒を指で動かして見せた。御米は笑ひながら、

　「もう御年の所爲《せゐ》よ」と云つて白い襟を後へ廻つて襯衣《しやつ》へ着けた。

　宗助は其日の午後とう／＼思ひ切つて、齒醫者へ寄つたのである。應接間へ通ると、大きな洋卓《テーブル》の周圍《まはり》に天鵞絨《ビロ−ド》で張つた腰掛が并《なら》んでゐて、待ち合してゐる三四人が、うづくまる樣に腮《あご》を襟に埋《うづ》めてゐた。それが皆女であつた。奇麗な茶色の瓦斯暖爐《ガスストーヴ》には火がまだ焚いてなかつた。宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜めに見て、番の來るのを待つてゐたが、あまり退屈になつたので、洋卓《テーブル》の上に重ねてあつた雜誌に眼を着けた。一二册手に取つて見ると、いづれも婦人用のものであつた。宗助は其口繪に出てゐる女の寫眞を、何枚も繰り返して眺めた。夫《それ》から「成効」と云ふ雜誌を取り上げた。其初めに、成効の秘訣といふ樣なものが箇條書にしてあつたうちに、何でも猛進しなくつては不可《いけ》ないと云ふ一ケ條と、たゞ猛進しても不可《いけ》ない、立派な根底の上に立つて、猛進しなくつてはならないと云ふ一ケ條を讀んで、それなり雜誌を伏せた。「成效」と宗助は非常に縁の遠いものであつた。宗助は斯ういふ名の雜誌があると云ふ事さへ、今日《こんにち》迄《まで》知らなかつた。それで又珍らしくなつて、一旦伏せたのを又開けて見ると、不圖假名の交らない四角な字が二行程並んでゐた。夫《それ》には風《かぜ》碧落《へきらく》を吹《ふ》いて浮雲《ふうん》盡《つ》き、月《つき》東山《とうざん》に上《のぼ》つて玉《ぎよく》一團《いちだん》とあつた。宗助は詩とか歌とかいふものには、元から餘り興味を持たない男であつたが、どう云ふ譯か此二句を讀んだ時に大變感心した。對句《つゐく》が旨く出來たとか何とか云ふ意味ではなくつて、斯んな景色《けしき》と同じ樣な心持になれたら、人間も嘸《さぞ》嬉しからうと、ひよつと心が動いたのである。宗助は好奇心から此句の前に付いてゐる論文を讀んで見た。然し夫《それ》は丸《まる》で無關係の樣に思はれた。只此二句が雜誌を置いた後《あと》でも、しきりに彼の頭の中を徘徊《はいくわい》した。彼の生活は實際此四五年來斯ういふ景色《けしき》に出逢つた事がなかつたのである。

　其時向ふの戸が開《あ》いて、紙片《かみぎれ》を持つた書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。

　中へ這入ると、其所は應接間よりは倍も廣かつた。光線が成るべく餘計取れる樣に明るく拵らへた部屋の二側《ふたがは》に、手術用の椅子を四臺程据ゑて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人づゝ別々に療治をしてゐた。宗助は一番奧の方にある一脚に案内されて、是へと云はれるので、踏段の樣なものの上へ乘つて、椅子へ腰を卸した。書生が厚い縞入の前掛で丁寧に膝から下を包《くる》んで呉れた。

　斯う穩《おだ》やかに寐かされた時、宗助は例の齒が左程《さほど》苦になる程痛んでゐないと云ふ事を發見した。夫《それ》ばかりか、肩も脊《せな》も、腰の周りも、心安く落ち付いて、如何にも樂に調子が取れてゐる事に氣が付いた。彼はたゞ仰向いて天井から下つてゐる瓦斯管《ガスくわん》を眺めた。さうして此｜構《かまへ》と設備では、歸りがけに思つたより高い療治代を取られるかも知れないと氣遣つた。

　所へ顔の割に頭の薄くなり過ぎた肥つた男が出て來て、大變丁寧に挨拶をしたので、宗助は少し椅子の上で狼狽《あわて》た樣に首を動かした。肥つた男は一應容體を聞いて、口中を檢査して、宗助の痛いと云ふ齒を一寸｜搖《ゆす》つて見たが、

　「何うも斯う弛《ゆる》みますと、到底《とても》元の樣に緊《しま》る譯には參りますまいと思ひますが。何しろ中がエソになつて居りますから」と云つた。

　宗助は此宣告を淋《さび》しい秋の光の樣に感じた。もうそんな年なんでせうかと聞いて見たくなつたが、少し極りが惡いので、たゞ、

　「ぢや癒らないんですか」と念を押した。

　肥つた男は笑ひながら斯う云つた。――

　「まあ癒らないと申し上げるより外に仕方が御座んせんな。已《やむ》を得なければ、思ひ切つて拔いて仕舞ふんですが、今の所では、まだ夫《それ》程《ほど》でも御座いますまいから、たゞ御痛み丈《だけ》を留めて置きませう。何しろエソ――エソと申しても御分りにならないかも知れませんが、中が丸《まる》で腐つて居ります」

　宗助は、左《さ》うですかと云つて、たゞ肥つた男のなすが儘にして置いた。すると彼は器械をぐる／＼廻して、宗助の齒の根へ穴を開け始めた。さうして其中へ細長い針の樣なものを刺し通しては、其先を嗅いでゐたが、仕舞に糸程な筋を引き出して、神經が是《これ》丈《だけ》取れましたと云ひながら、それを宗助に見せて呉れた。それから藥で其穴を埋めて、明日《みやうにち》又入らつしやいと注意を與へた。

　椅子を下りるとき、身體が眞直ぐになつたので、視線の位置が天井から不圖庭先に移つたら、其所にあつた高さ五尺もあらうと云ふ大きな鉢栽《はちうゑ》の松が宗助の眼に這入つた。其根方の所を、草鞋《わらぢ》がけの植木屋が丁寧に薦《こも》で包《くる》んでゐた。段々露が凝つて霜になる時節なので、餘裕のあるものは、もう今時分から手廻しをするのだと氣が付いた。

　歸りがけに玄關脇の藥局で、粉藥《こぐすり》の儘｜含嗽劑《がんそうざい》を受取つて、それを百倍の微温湯《びをんたう》に溶解して、一日十數回使用すべき注意を受けた時、宗助は會計の請求した治療代の案外｜廉《れん》なのを喜んだ。是ならば向ふで云ふ通り四五回｜通《かよ》つた所が、さして困難でもないと思つて、靴を穿《は》かうとすると、今度は靴の底が何時《いつ》の間《ま》にか破れてゐる事に氣が付いた。

　宅《うち》へ着いた時は一足違《ひとあしちがひ》で叔母がもう歸つたあとであつた。宗助は、

　「おゝ、左《さ》うだつたか」と云ひながら、甚だ面倒さうに洋服を脱ぎ更へて、何時《いつ》もの通り火鉢の前に坐つた。御米は襯衣《しやつ》や洋袴《ずぼん》や靴足袋を一抱《ひとかゝへ》にして六疊へ這入つた。宗助はぼんやりして、烟草を吹かし始めたが、向ふの部屋で、刷毛《ブラツシ》を掛ける音がし出した時、

　「御米、佐伯の叔母さんは何とか云つて來たのかい」と聞いた。

　齒痛《しつう》が自《おのづ》から治まつたので、秋に襲はれる樣な寒い氣分は、少し輕くなつたけれども、やがて御米が隱袋《ぽつけつと》から取り出して來た粉藥《こぐすり》を、温《ぬる》ま湯に溶いて貰つて、しきりに含嗽《うがひ》を始めた。其時彼は縁側へ立つた儘、

　「何うも日が短かくなつたなあ」と云つた。

　やがて日が暮れた。晝間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口から寂《しん》としてゐた。夫婦は例の通り洋燈《らんぷ》の下《もと》に寄つた。廣い世の中で、自分達の坐つてゐる所｜丈《だけ》が明るく思はれた。さうして此明るい灯影に、宗助は御米｜丈《だけ》を、御米は又宗助｜丈《だけ》を意識して、洋燈《ランプ》の力の屆かない暗い社會は忘れてゐた。彼等は毎晩かう暮らして行く裡《うち》に、自分達の生命を見出《みいだ》してゐたのである。

　此靜かな夫婦は、安之助の神戸から土産《みやげ》に買つて來たと云ふ養老昆布《やうらうこぶ》の罐をがら／＼振つて、中から山椒《さんしよ》入りの小さく結んだ奴を撰《よ》り出しながら、緩《ゆつ》くり佐伯からの返事を語り合つた。

　「然し月謝と小遣位は都合して遣つて呉れても好ささうなもんぢやないか」

　「それが出來ないんだつて。何う見積つても兩方寄せると、十圓にはなる。十圓と云ふ纒《まとま》つた御金を、今の所月々出すのは骨が折れるつて云ふのよ」

　「夫《それ》ぢや此年《ことし》の暮迄二十何圓づゝか出して遣るのも無理ぢやないか」

　「だから、無理をしても、もう一二ケ月の所｜丈《だけ》は間に合せるから、其内に何うかして下さいと、安さんが左《さ》う云ふんだつて」

　「實際出來ないのかな」

　「夫《そ》りや私《わたし》には分らないわ。何しろ叔母さんが、左《さ》う云ふのよ」

　「鰹舟で儲けたら、其位譯なささうなもんぢやないか」

　「本當ね」

　御米は低い聲で笑つた。宗助も一寸口の端《はた》を動かしたが、話はそれで途切れて仕舞つた。しばらくしてから、

　「何しろ小六は家《うち》へ來ると極めるより外に道はあるまいよ。後《あと》は其上の事だ。今ぢや學校へは出てゐるんだね」と宗助が云つた。

　「さうでせう」と御米が答へるのを聞き流して、彼は珍らしく書齋に這入つた。一時間程して、御米がそつと襖《ふすま》を開《あ》けて覗いて見ると、机に向つて、何か讀んでゐた。

　「勉強？　もう御休みなさらなくつて」と誘はれた時、彼は振り返つて、

　「うん、もう寐よう」と答へながら立ち上つた。

　寐る時、着物を脱いで、寐巻の上に、絞《しぼ》りの兵兒帶《へこおび》をぐる／＼卷きつけながら、

　「今夜は久し振に論語を讀んだ」と云つた。

　「論語に何かあつて」と御米が聞き返したら、宗助は、

　「いや何にもない」と答へた。それから、「おい、己《おれ》の齒は矢つ張り年の所爲《せゐ》だとさ。ぐら／＼するのは到底《とても》癒らないさうだ」と云ひつゝ、黒い頭を枕の上に着けた。

　

　　　　　六

　

　小六は兎も角も都合次第下宿を引き拂つて兄の家へ移る事に相談が調《とゝの》つた。御米は六疊に置き付けた桑の鏡臺を眺めて、一寸殘り惜しい顔をしたが、

　「斯うなると少し遣場《やりば》に困るのね」と訴へる樣に宗助に告げた。實際此所を取り上げられては、御米の御化粧《おつくり》をする場所が無くなつて仕舞ふのである。宗助は何の工夫も付かずに、立ちながら、向ふの窓側《まどぎは》に据ゑてある鏡の裏を斜《はす》に眺めた。すると角度の具合で、其所に御米の襟元から片頬が映つてゐた。それが如何にも血色のわるい横顔なのに驚ろかされて、

　「御前、何うかしたのかい。大變色が惡いよ」と云ひながら、鏡から眼を放して、實際の御米の姿を見た。鬢《びん》が亂れて、襟の後《うしろ》の邊《あたり》が垢《あか》で少し汚《よご》れてゐた。御米はたゞ、

　「寒い所爲《せゐ》なんでせう」と答へて、すぐ西側に付いてゐる一間《いつけん》の戸棚を明けた。下には古い創だらけの箪笥《たんす》があつて、上には支那鞄と柳行李《やなぎごり》が二つ三つ載つてゐた。

　「こんなもの、何うしたつて片付け樣がないわね」

　「だから其儘にして置くさ」

　小六の此所へ引移つて來るのは、斯う云ふ點から見て、夫婦の何《いづ》れにも、多少迷惑であつた。だから來ると云つて約束して置きながら、今だに來ない小六に對しては、別段の催促もしなかつた。一日延びれば延びた丈《だけ》窮屈が逃げた樣な氣が何所かでした。小六にも丁度それと同じ憚《はゞかり》があつたので、居られる限《かぎり》は下宿にゐる方が便利だと胸を極《き》めたものか、つい一日／＼と引越を前《さき》へ送つてゐた。其癖彼の性質として、兄夫婦の如く、荏苒《じんぜん》の境《さかひ》に落付いてはゐられなかつたのである。

　其内薄い霜が降りて、裏の芭蕉を見事に摧《くだ》いた。朝は崖上の家主《やぬし》の庭の方で、鵯《ひよどり》が鋭どい聲を立てた。夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭《らつぱ》に交つて、圓明寺の木魚の音が聞えた。日は益《ます／＼》短かくなつた。さうして御米の顏色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、爽《さや》かにはならなかつた。夫《をつと》が役所から歸つて來て見ると、六疊で寐てゐる事が一二度あつた。何うかしたかと尋ねると、たゞ少し心持が惡いと答へる丈《だけ》であつた。醫者に見て貰へと勸めると、夫《それ》には及ばないと云つて取り合はなかつた。

　宗助は心配した。役所へ出てゐても能く御米の事が氣に掛つて、用の邪魔になるのを意識する時もあつた。所がある日歸りがけに突然電車の中で膝を拍《う》つた。その日は例になく元氣よく格子を明けて、すぐと勢《いきほひ》よく今日は何うだいと御米に聞いた。御米が何時《いつ》もの通り服や靴足袋を一纒めにして、六疊へ這入る後《あと》から追《つ》いて來て、

　「御米、御前《おまい》子供が出來たんぢやないか」と笑ひながら云つた。御米は返事もせずに僻向《うつむ》いてしきりに夫《をつと》の脊廣の挨を拂つた。刷毛《ブラツシ》の音が已《や》んでも中々六疊から出て來ないので、又行つて見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたつた一人寒さうに、鏡臺の前に坐つてゐた。はいと云つて立つたが、其聲が泣いた後の聲の樣であつた。

　其晩夫婦は火鉢に掛けた鐵瓶を、双方から手で掩《おほ》ふ樣にして差し向つた。

　「何うですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗に浮んだ。

　「ちつと、面白くしやうぢやないか。此頃は如何にも不景氣だよ」と宗助が又云つた。二人は夫《それ》から今度の日曜には一所に何所へ行かうか、此所へ行かうかと、しばらく夫《それ》許《ばかり》話し合つてゐた。夫《それ》から二人の春着の事が題目になつた。宗助の同僚の高木とか云ふ男が、細君に小袖《こそで》とかを強請《ねだ》られた時、おれは細君の虚榮心を滿足させる爲に稼いでるんぢやないと云つて跳ね付けたら、細君がそりや非道《ひど》い、實際寒くなつても着て出るものがないんだと辯解するので、寒ければ已《やむ》を得ない、夜具を着るとか、毛布《けつと》を被るとかして、當分我慢しろと云つた話を、宗助は可笑《をか》しく繰り返して御米を笑はした。御米は夫《をつと》の此樣子を見て、昔が又眼の前に戻つた樣な氣がした。

　「高木の細君は夜具でも構はないが、おれは一つ新らしい外套を拵えたいな。此間齒醫者へ行つたら、植木尾が薦《こも》で盆栽の松の根を包んでゐたので、つく／”＼左《さ》う思つた」

　「外套が欲しいつて」

　「あゝ」

　御米は夫《をつと》の顔を見て、さも氣の毒だと云ふ風に、

　「御拵《おこし》らえなさいな。月賦で」と云つた。宗助は、

　「まあ止さうよ」と急に佗しく答へた。さうして「時に小六は何時《いつ》から來る氣なんだらう」と聞いた。

　「來るのは厭なんでせう」と御米が答へた。御米には、自分が始めから小六に嫌はれてゐると云ふ自覺があつた。それでも夫《をつと》の弟だと思ふので、成るべくは反《そり》を合せて、少しでも近づける樣に／＼と、今日《こんにち》迄《まで》仕向けて來た。その爲か、今では以前と違つて、まあ普通の小舅《こじうと》位の親しみはあると信じてゐる樣なものゝ、斯んな場合になると、つい實際以上にも氣を回して、自分｜丈《だけ》が小六の來ない唯一《ゆゐいつ》の原因の樣に考へられるのであつた。

　「そりや下宿からこんな所へ移るのは好かあないだらうよ。丁度｜此方《こつち》が迷惑を感ずる通り、向ふでも窮屈を感ずる譯だから。おれだつて、小六が來ないとすれば、今のうち思ひ切つて外套を作る丈《だけ》の勇氣があるんだけれども」

　宗助は男｜丈《だけ》に思ひ切つて斯う云つて仕舞つた。けれども是《これ》丈《だけ》では御米の心を盡してゐなかつた。御米は返事もせずに、しばらく黙つてゐたが、細い腮《あご》を襟の中へ埋めた儘、上眼《うはめ》を使つて、

　「小六さんは、まだ私の事を惡《にく》んでゐらつしやるでせうか」と聞き出した。宗助が東京へ來た當座は、時々是に類似の質問を御米から受けて、其｜都度《つど》慰めるのに大分《だいぶ》骨の折れた事もあつたが、近來は全く忘れた樣に何も云はなくなつたので、宗助もつい氣に留めなかつたのである。

　「又ヒステリーが始まつたね。好いぢやないか小六なんぞが、何う思つたつて、己《おれ》さへ付いてれば」

　「論語にさう書いてあつて」

　御米は斯んな時に、斯ういふ冗談《じようだん》を云ふ女であつた。宗助は

　「うん、書いてある」と答へた。夫《それ》で二人の會話が仕舞になつた。

　翌日宗幼が眼を覺ますと、亞鉛張《とたんばり》の庇《ひさし》の上で寒い音がした。御米が襷掛《たすきがけ》の儘枕元へ來て、

　「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼は此｜點滴《てんてき》の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲團の中に温《ぬく》もつてゐたかつた。けれども血色の可《よ》くない御米の、甲斐々々しい姿を見るや否や、

　「おい」と云つて直《すく》起き上つた。

　外は濃い雨に鎖《とざ》されてゐた。崖の上の孟宗竹が時々鬣《たてがみ》を振《ふる》ふ樣に、雨を吹いて動いた。此｜佗《わ》びしい空の下へ濡れに出る宗助に取つて、力になるものは、暖かい味噌汁と暖かい飯より外になかつた。

　「又靴の中が濡れる。何うしても二足持つてゐないと困る」と云つて、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿《は》いて、洋袴《ずぼん》の裾を一寸《いつすん》許《ばかり》まくり上げた。

　午過《ひるすぎ》に歸つて來て見ると、御米は金盥《かなだらひ》の中に雜巾を浸《つ》けて、六疊の鏡臺の傍《そば》に置いてゐた。其上の所｜丈《だけ》天井の色が變つて、時々｜雫《しづく》が落ちて來た。

　「靴ばかりぢやない。家《うち》の中迄濡れるんだね」と云つて宗助は苦笑した。御米は其晩｜夫《をつと》の爲に置炬燵《おきごたつ》へ火を入れて、スコツチの靴下と縞羅紗《しまラシヤ》の洋袴《ずぼん》を乾かした。

　明《あく》る日も亦同じ樣に雨が降つた。夫婦も亦同じ樣に同じ事を繰り返した。その明《あく》る日もまだ晴れなかつた。三日目の朝になつて、宗助は眉を縮めて舌打をした。

　「何時《いつ》迄降る氣なんだ。靴がじめ／＼して我慢にも穿《は》けやしない」

　「六疊だつて困るわ、あゝ漏《も》つちや」

　夫婦は相談して、雨が晴れ次第、家根を繕つて貰ふ樣に家主《やぬし》へ掛け合ふ事にした。けれども靴の方は何とも仕樣《しやう》がなかつた。宗助はきしんで這入らないのを無理に穿《は》いて出て行つた。

　幸に《さいはひ》其日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀の鳴く小春日和《こはるびより》になつた。宗助が歸つた時、御米は例《いつも》より冴え／”＼しい顔色をして、

　「貴方、あの屏風を賣つちや不可《いけ》なくつて」と突然聞いた。抱一《はういつ》の屏風は先達《せんだつ》て佐伯から受取つた儘、元の通り書齋の隅に立てゝあつたのである。二枚折だけれども、座敷の位置と廣さから云つても、實は寧ろ邪魔な裝飾であつた。南へ廻すと、玄關からの入口を半分｜塞《ふさ》いで仕舞ふし、東へ出すと暗くなる、と云つて、殘る一方へ立てれば床の間を隱すので、宗助は、

　「折角｜親爺《おやぢ》の記念《かたみ》だと思つて、取つて來た樣なものゝ、仕樣《しやう》がないね是ぢや、場塞《ばふさ》げで」と零《こぼ》した事も一二度あつた。其｜都度《つど》御米は眞丸な縁《ふち》の燒けた銀の月と、絹地から殆んど區別出來ない樣な穂芒《ほすゝき》の色を眺めて、斯んなものを珍重する人の氣が知れないと云ふ樣な見えをした。けれども、夫《をつと》を憚つて、明白《あから》さまには何とも云ひ出さなかつた。たゞ一返

　「是でも可《い》い繪なんでせうかね」と聞いた事があつた。其時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。然しそれは自分が昔《むか》し父から聞いた覺のある、朧氣《おぼろげ》な記憶を好《いゝ》加減に繰り返すに過ぎなかつた。實際の畫《ゑ》の價値や、又抱一に就ての詳しい歴史などに至ると宗助にも其實甚だ覺束なかつたのである。

　所がそれが偶然御米のために妙な行爲の動機を構成《かたちづく》る原因となつた。過去一週間｜夫《をつと》と自分の間に起つた會話に、不圖此知識を結び付けて考へ得た彼女は一寸｜微笑《ほゝゑ》んだ。この日雨が上つて、日脚がさつと茶の間の障子に射した時、御米は不斷着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟卷とも付かない織物を纒つて外へ出た。通りを二丁目程來て、それを電車の方角へ曲つて眞直に來ると、乾物屋《かんぶつや》と?麭屋《ぱんや》の間に、古道具を賣つてゐる可なり大きな店があつた。御米はかつて其所で足の疊み込める食卓を買つた記憶がある。今火鉢に掛けてある鐵瓶も、宗助が此所から提《さ》げて歸つたものである。

　御米は手を袖にして道具屋の前に立ち留まつた。見ると相變らず新らしい鐵瓶が澤山並べてあつた。其外には時節柄とでも云ふのか火鉢が一番多く眼に着いた。然し骨董と名のつく程のものは、一つもない樣であつた。ひとり何とも知れぬ大きな龜の甲《かふ》が、眞向《まむかふ》に釣るしてあつて、其下から長い黄ばんだ拂子《ほつす》が尻尾《しつぽ》の樣に出てゐた。それから紫檀の茶棚が一つ二つ飾つてあつたが、何《いづ》れも狂《くるひ》の出さうな生《なま》なもの許《ばかり》であつた。然し御米にはそんな區別は一向映らなかつた。たゞ掛物も屏風も一つも見當らない事｜丈《だけ》確かめて、中へ這入つた。

　御米は無論｜夫《をつと》が佐伯から受取つた屏風を、幾何《いくら》かに賣り拂ふ積《つもり》でわざ／＼此所迄足を運んだのであるが、廣島以來かう云ふ事に大分《だいぶ》經驗を積んだ御蔭で、普通の細君の樣な努力も苦痛も感ぜずに、思ひ切つて亭主と口を利く事が出來た。亭主は五十恰好の色の黒い頬の瘠《こ》けた男で、鼈甲《べつかふ》の縁《ふち》を取つた馬鹿に大きな眼鏡を掛けて、新聞を讀みながら、疣《いぼ》だらけの唐金《からかね》の火鉢に手を翳《かざ》してゐた。

　「さうですな、拜見に出ても可《よ》うがす」と輕く受合つたが、別に氣の乘つた樣子もないので、御米は腹の中で少し失望した。然し自分からが既に大した望を抱《いだ》いて出て來た譯でもないので、斯う簡易に受けられると、此方《こつち》から頼む樣にしても、見て貰はなければならなかつた。

　「可《よ》うがす。ぢや後程《のちほど》伺ひませう。今小僧が一寸出て居りませんからな」

　御米は比｜存在《ぞんざい》な言葉を聞いて其儘｜宅《うち》へ歸つたが、心の中では、果して道具屋が來るか來ないか甚だ疑はしく思つた。一人で何時《いつ》もの樣に簡單な食事を濟まして、清に膳を下げさしてゐると、いきなり御免下さいと云つて、大きな聲を出して道具屋が玄關から遣つて來た。座敷へ上げて、例の屏風を見せると、成程と云つて裏だの縁《ふち》だのを撫《な》でてゐたが、

　「御拂になるなら」と少し考へて、「六圓に頂いて置きませう」と否々《いや／＼》さうに價《ね》を付けた。御米には道具屋の付けた相場が至當の樣に思はれた。けれども一應宗助に話してからでなくつては、餘り専斷過ぎると心付いた上、品物の歴史が歴史だけに、猶更《なほさら》遠慮して、何《いづ》れ歸つたら能く相談して見た上でと答へた儘、道具屋を歸さうとした。道具屋は出掛に、

　「ぢや、奧さん折角だから、もう一圓奮發しませう。夫《それ》で御拂ひ下さい」と云つた。御米は其時思ひ切つて、

　「でも、道具屋さん、ありや抱一《はういつ》ですよ」と答へて、腹の中ではひやりとした。道具屋は、平氣で、

　「抱一は近來｜流行《はや》りませんからな」と受け流したが、じろ／＼御米の姿を眺めた上、

　「ぢや猶《なほ》能く御相談なすつて」と云ひ捨てゝ歸つて行つた。

　御米は其時の模樣を詳しく話した後《あと》で、

　「賣つちや不可《いけ》なくつて」と又無邪氣に聞いた。

　宗助の頭の中には、此間から物質上の欲求が、絶えず動いてゐた。たゞ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計《くらし》を足ると諦らめる癖が付いてゐるので、毎月極つて這入るものゝ外には、臨時に不意の工面をしてまで、少しでも常以上に寛《くつ》ろいで見やうと云ふ働は出なかつた。話を聞いたとき彼は寧ろ御米の機敏な才覺に驚ろかされた。同時に果して夫《それ》丈《だけ》の必要があるかを疑つた。御米の思《おも》はくを聞いて見ると、此所で十圓足らずの金が入《はい》れば、宗助の穿《は》く新らしい靴を誂《あつ》らへた上、銘仙の一反位は買へると云ふのである。宗助は夫《それ》もさうだと思つた。けれども親から傳はつた抱一の屏風を一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙を並べて考へて見ると、此二つを交換する事が如何にも突飛《とつぴ》で且《かつ》滑稽であつた。

　「賣るなら賣つて可《い》いがね。どうせ家《うち》に在つたつて邪魔になる許《ばかり》だから。けれども己《おれ》はまだ靴は買はないでも濟むよ。此間中見た樣に、降り續けに降られると困るが、もう天氣も好くなつたから」

　「だつて又降ると困るわ」

　宗助は御米に對して永久に天氣を保證する譯にも行かなかつた。御米も降らない前に是非屏風を賣れとも云ひかねた。二人は顔を見合して笑つてゐた。やがて、

　「安過ぎるでせうか」と御米が聞いた。

　「左《さ》うさな」と宗助が答へた。

　彼は安いと云はれゝば、安い樣な氣がした。もし買手があれば、買手の出す丈《だけ》の金は幾何《いくら》でも取りたかつた。彼は新聞で、近來古書晝の入札が非常に高價になつた事を見た樣な心持がした。責《せ》めてそんなものが一幅でもあつたらと思つた。けれども夫《それ》は自分の呼吸する空氣の屆くうちには、落ちてゐないものと諦めてゐた。

　「買手にも因《よ》るだらうが、賣手にも因るんだよ。いくら名畫だつて、己《おれ》が持つてゐた分には到底さう高く賣れつこはないさ。然し七圓や八圓てえな、餘《あんま》り安い樣だね」

　宗助は抱一の屏風を辯護すると共に、道具屋をも辯護する樣な語氣を洩らした。さうしてたゞ自分｜丈《だけ》が辯護に價《あたひ》しないものゝ樣に感じた。御米も少し氣を腐らした氣味で、屏風の話は夫《それ》なりにした。

　翌日《あくるひ》宗助は役所へ出て、同僚の誰彼に此話をした。すると皆申し合せた樣に、夫《それ》は價《ね》ぢやないと云つた。けれども誰も自分が周旋して、相當の價《ね》に賣拂つてやらうと云ふものはなかつた。又どう云ふ筋を通れば、馬鹿な目に逢はないで濟むといふ手續を�ﾍへて呉れるものもなかつた。宗助は矢張《やつぱり》横町の道具屋に屏風を賣るより外に仕方がなかつた。それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てゝ置くより外に仕方がなかつた。彼は元の通りそれを座敷へ立てゝ置いた。すると道具屋が來て、あの屏風を十五圓に賣つてくれと云ひ出した。夫婦は顔を見合して微笑《ほゝゑ》んだ。もう少し賣らずに置いて見《み》樣《やう》ぢやないかと云つて、賣らずに置いた。すると道具屋が又來た。又賣らなかつた。御米は斷るのが面白くなつて來た。四度目《よたびめ》には知らない男を一人連れて來たが、其男とこそこそ相談して、とう／＼三十五圓に價《ね》を付けた。其時夫婦も立ちながら相談した。さうして遂に思ひ切つて屏風を賣り拂つた。

　

　　　　　七

　

　圓明寺の杉が焦《こ》げた樣に赭黒《あかぐろ》くなつた。天氣の好い日には、風に洗はれた空の端《は》ずれに、白い筋の嶮《けは》しく見える山が出た。年は宗助夫婦を驅つて日毎に寒い方へ吹き寄せた。朝になると缺かさず通る納豆賣《なつとううり》の聲が、瓦を鎖《とざ》す霜の色を連想せしめた。宗助は床の中で其聲を聞きながら、又冬が來たと思ひ出した。御米は臺所で、今年も去年の樣に水道の栓《せん》が氷つて呉れなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦勞をした。夜になると夫婦とも炬燵にばかり親しんだ。さうして廣島や福岡の暖かい冬を羨やんだ。

　「丸《まる》で前の本多さん見た樣ね」と御米が笑つた。前の本多さんと云ふのは、矢張り同じ構内《かまへうち》に住んで、同じ坂井の貸家を借りてゐる隱居夫婦であつた。小女《こをんな》を一人使つて、朝から晩迄ことりと音もしない樣に靜かな生計《くらし》を立てゝゐた。御米が茶の間で、たつた一人｜裁縫《しごと》をしてゐると、時々御爺さんと云ふ聲がした。それは此本多の御婆さんが夫《をつと》を呼ぶ聲であつた。門口《かどぐち》抔《など》で行き逢ふと、丁寧に時候の挨拶をして、ちと御話に入らつしやいと云ふが、遂ぞ行つた事もなければ、向ふからも來た試《ためし》がない。從つて夫婦の本多さんに關する知識は極めて乏しかつた。たゞ息子が一人あつて、それが朝鮮の統監府《とうかんふ》とかで、立派な役人になつてゐるから、月々其方の仕送《しおくり》で、氣樂に暮らして行かれるのだと云ふ事｜丈《だけ》を、出入《でいり》の商人のあるものから耳にした。

　「御爺さんは矢つ張り植木を弄《いぢ》つてゐるかい」

　「段々寒くなつたから、もう已《や》めたんでせう。縁の下に植木鉢が澤山並んでるわ」

　話は夫《それ》から前の家《うち》を離れて、家主《やぬし》の方へ移つた。是は、本多とは丸《まる》で反對で、夫婦から見ると、此上もない賑やかさうな家庭に思はれた。此頃は庭が荒れてゐるので、大勢の小供が崖の上へ出て騷ぐ事がなくなつたが、ピヤノの音は毎晩の樣にする。折々は下女か何ぞの、臺所の方で高笑をする聲さへ、宗助の茶の間迄響いて來た。

　「ありや一體何をする男なんだい」と宗助が聞いた。此問は今迄も幾度か御米に向つて繰り返されたものであつた。

　「何にもしないで遊《あす》んでるんでせう。地面や家作を持つて」と御米が答へた。此答も今迄にもう何遍か宗助に向つて繰り返されたものであつた。

　宗助は是より以上立ち入つて、坂井の事を聞いた事がなかつた。學校を已《や》めた當座は、順境にゐて得意な振舞をするものに逢ふと、今に見ろと云ふ氣も起つた。それが少時《しばら》くすると、單なる憎惡の念に變化した。所が一二年｜此方《このかた》は全く自他の差違に無頓着になつて、自分は自分の樣に生れ付いたもの、先は先の樣な運を持つて世の中へ出て來たもの、兩方共始から別種類の人間だから、たゞ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考へる樣になつてきた。たまに世間話の序《ついで》として、ありや一體何をしてゐる人だ位は聞きもするが、それより先は、�ﾍへて貰ふ努力さへ出すのが面倒だつた。御米にもこれと同じ傾きがあつた。けれども其《その》夜《よ》は珍らしく、坂井の主人は四十恰好の髯のない人であると云ふ事やら、ピヤノを彈くのは惣領《そうりやう》の娘で十二三になると云ふ事やら、又｜外《ほか》の家《うち》の小供が遊びに來ても、ブランコへ乘せて遣らないと云ふ事やらを話した。

　「何故《なぜ》外《ほか》の家《うち》の子供はブランコへ乘せないんだい」

　「詰り吝《けち》なんでせう。早く惡くなるから」

　宗助は笑ひ出した。彼は其位｜吝嗇《けち》な家主が、屋根が漏ると云へば、すぐ瓦師《かはらし》を寄《よ》こして呉れる、垣が腐つたと訴へればすぐ植木屋に手を入れさして呉れるのは矛盾だと思つたのである。

　其晩宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコもなかつた。彼は十時半頃床に入《はい》つて、萬象に疲れた人の樣に鼾《いびき》をかいた。此間から頭の具合がよくないため、寐付の惡いのを苦にしてゐた御米は、時々眼を開けて薄暗い部屋を眺めた。細い灯《ひ》が床の間の上に乘せてあつた。夫婦は夜中《よぢゆう》燈火《あかり》を點《つ》けて置く習慣が付いてゐるので、寐る時はいつでも心《しん》を細目にして洋燈《らんぷ》を此所へ上げた。

　御米は氣にする樣に枕の位置を動かした。さうして其度に、下にしてゐる方の肩の骨を、蒲團の上で滑らした。仕舞には腹這になつた儘、兩肱を突いて、しばらく夫《をつと》の方を眺めてゐた。夫《それ》から起き上つて、夜具の裾に掛けてあつた不斷着を、寐卷の上へ羽織つたなり、床の間の洋燈《らんぷ》を取り上げた。

　「貴方々々」と宗助の枕元へ來て曲《こゞ》みながら呼んだ。其時｜夫《をつと》はもう鼾《いびき》をかいてゐなかつた。けれども、元の通り深い眠から來る呼吸《いき》を續けてゐた。御米は又立ち上つて、洋燈《らんぷ》を手にした儘、間《あひ》の襖《ふすま》を開けて茶の間へ出た。暗い部屋が茫漠《ぼんやり》手元の灯《ひ》に照らされた時、御米は鈍く光る箪笥の環を認めた。夫《それ》を通り過ぎると黒く燻《くす》ぶつた臺所に、腰障子の紙｜丈《だけ》が白く見えた。御米は火の氣《け》のない眞中に、少時《しばらく》佇ずんでゐたが、やがて右手に當る下女部屋の戸を、音のしない樣にそつと引いて、中へ洋燈《らんぷ》の灯を翳《かざ》した。下女は縞も色も判然《はつきり》映らない夜具の中に、土龍《もぐら》の如く塊《かた》まつて寐てゐた。今度は左側の六疊を覗いた。がらんとして淋《さみ》しい中に、例の鏡臺が置いてあつて、鏡の表が夜中｜丈《だけ》に凄く眼に應《こた》ヘた。

　御米は家中《うちぢゆう》を一回《ひとまはり》回つた後《あと》、凡《すべ》てに異?のない事を確かめた上、又床の中へ戻つた。さうして漸く眼を眠つた。今度は好い具合に、眼葢《まぶた》のあたりに氣を遣はないで濟む樣に覺えて、少時《しばらく》するうちに、うと／＼とした。

　すると又不圖眼が開《あ》いた。何だかずしんと枕元で響いた樣な心持がする。耳を枕から離して考へると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寐てゐる座敷の縁の外へ轉がり落ちたとしか思はれなかつた。しかも今眠が覺めるすぐ前に起つた出來事で、決して夢の續ぢやないと考へた時、御米は急に氣味を惡くした。さうして傍《そば》に寐てゐる夫《をつと》の夜具の袖を引いて、今度は眞面目に宗助を起し始めた。

　宗助は夫《それ》迄《まで》全く能く寐てゐたが、急に眠が覺めると、御米が、

　「貴方一寸起きて下さい」と搖《ゆす》つてゐたので、半分は夢中に、

　「おい、好し」とすぐ蒲團の上へ起き直つた。御米は小聲で先刻《さつき》からの樣子を話した。

　「音は一遍した限《ぎり》なのかい」

　「だつて今した許《ばかり》なのよ」

　二人はそれで黙つた。たゞ凝《じつ》と外の樣子を伺つてゐた。けれども世間は森《しん》と靜であつた。いつまで耳を峙《そばだ》てゝゐても、再び物の落ちて來る氣色《けしき》はなかつた。宗助は寒いと云ひ乍ら、單衣《ひとへ》の寐卷の上へ羽織を被《かぶ》つて、縁側へ出て、雨戸を一枚繰つた。外を覗くと何にも見えない。たゞ暗い中から寒い空氣が俄かに肌に逼《せま》つて來た。宗助はすぐ戸を閉《た》てた。

　?《かきがね》を卸して座敷へ戻るや否や、また蒲團の中へ潜《もぐ》り込んだが、

　「何にも變つた事はありやしない。多分御前の夢だらう」と云つて、宗助は横になつた。御米は決して夢でないと主張した。慥《たしか》に頭の上で大きな音がしたのだと固執《こしつ》した。宗助は夜具から半分出した顏を、御米の方へ振り向けて、

　「御米、お前は神經が過敏になつて、近頃何うかしてゐるよ。もう少し頭を休めて能く寐る工夫でもしなくつちや不可《いけ》ない」と云つた。

　其時次の間の柱時計が二時を打つた。其音で二人とも一寸言葉を途切らして、黙つて見ると、夜は更に靜まり返つた樣に思はれた。二人は眠が冴えて、すぐ寐付かれさうにもなかつた。御米が、

　「でも貴方は氣樂ね。横になると十分經たないうちに、もう寐て入らつしやるんだから」と云つた。

　「寐る事は寐るが、氣が樂で寐られるんぢやない。つまり疲れるからよく寐るんだらう」と宗助が答へた。

　斯んな話をしてゐるうちに、宗助は又寐入つて仕舞つた。御米は依然として、のつそつ床の中で動いてゐた。すると表をがら／＼と烈しい音を立てゝ車が一臺通つた。近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて驚ろかされる事があつた。さうして夫《それ》を思ひ合はせると、何時《いつ》も似寄つた刻限なので、必竟《ひつきやう》は毎朝同じ車が同じ所を通るのだらうと推測した。多分牛乳を配達するためか抔《など》で、あゝ急ぐに違ないと極めてゐたから、此音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始つた如くに、心丈夫になつた。さう斯うしてゐると、何所かで鷄《とり》の聲が聞えた。又｜少時《しばらく》すると、下駄の音を高く立てゝ往來を通るものがあつた。そのうち清が下女部屋の戸を開けて厠《かはや》へ起きた模樣だつたが、やがて茶の間へ來て時計を見てゐるらしかつた。此時床の間に置いた洋燈《らんぷ》の油が減つて、短かい心《しん》に屆かなくなつたので、御米の寐てゐる所は眞暗になつてゐた。其所へ清の手にした灯火《あかり》の影が、襖の間から射し込んだ。

　「清かい」と御米が聲を掛けた。

　清は夫《それ》からすぐ起きた。三十分程經つて御米も起きた。又三十分程經つて宗助も遂に起きた。平常《いつも》は好い時分に御米が遣つて來て、

　「もう起きても可《よ》くつてよ」と云ふのが例であつた。日曜とたまの旗日《はたび》には、それが、

　「さあ最《も》う起きて頂戴」に變る丈《だけ》であつた。然し今日は昨夕《ゆうべ》の事が何となく氣にかゝるので、御米の迎に來ないうち宗助は床を離れた。さうして直《すぐ》崖下の雨戸を繰つた。

　下から覗くと、寒い竹が朝の空氣に鎖《とざ》されて凝《じつ》としてゐる後《うしろ》から、霜を破る日の色が射して、幾分か頂《いたゞき》を染めてゐた。其二尺程下の勾配《こうばい》の一番急な所に生えてゐる枯草が、妙に摺《す》り剥《む》けて、赤土の肌を生々《なま／＼》しく露出した樣子に、宗助は一寸驚ろかされた。それから一直線に降《お》りて、丁度自分の立つてゐる縁鼻の土が、霜柱を摧《くだ》いた樣に荒れてゐた。宗助は大きな犬でも上から轉がり落ちたのぢやなからうかと思つた。然し犬にしては幾何《いくら》大きいにしても、餘り勢が烈し過ぎると思つた。

　宗助は玄開から下駄を提《さ》げて來て、すぐ庭へ下りた。縁の先へ便所が折れ曲つて突き出してゐるので、いとゞ狹い崖下が、裏へ拔ける半間程の所は猶更《なほさら》狹苦しくなつてゐた。御米は掃除屋が來るたびに、此曲り角を氣にしては、

　「彼所《あすこ》がもう少し廣いと可《い》いけれども」と危險《あぶな》がるので、よく宗助から笑はれた事があつた。

　其所を通り拔けると、眞直に臺所迄細い路が付いてゐる。元は枯枝の交《まじ》つた杉垣があつて、隣の庭の仕切りになつてゐたが、此間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗に取り拂つて、今では節の多い板塀が片側を勝手口迄塞いで仕舞つた。日當りの惡い上に、樋《とひ》から雨滴《あまだれ》ばかり落ちるので、夏になると秋海棠《しうかいだう》が一杯生える。其盛りな頃は青い葉が重なり合つて、殆んど通り路がなくなる位茂つて來る。始めて越した年は、宗助も御米も此｜景色《けしき》を見て驚ろかされた位である。此秋海棠は杉垣のまだ引き拔かれない前から、何年となく地下に蔓《はびこ》つてゐたもので、古家《ふるや》の取り毀《こぼ》たれた今でも、時節が來ると昔の通り芽を吹くものと解つた時、御米は、

　「でも可愛いわね」と喜んだ。

　宗助が霜を踏んで、此記念の多い横手へ出た時、彼の眼は細長い路次の一點に落ちた。さうして彼は日の通はない寒さの中にはたと留まつた。

　彼の足元には黒塗の蒔給《まきゑ》の手文庫が放《はふ》り出してあつた。中味はわざ／＼其所へ持つて來て置いて行つた樣に、霜の上にちやんと据つてゐるが、葢《ふた》は二三尺離れて、塀の根に打ち付けられた如くに引つ繰り返つて、中を張つた千代紙の模樣が判然《はつきり》見えた。文庫の中から洩れた、手紙や書付類が、其所いらに遠慮なく散らばつてゐる中に、比較的長い一通がわざ／＼二尺｜許《ばかり》廣げられて、其先が紙屑の如く丸めてあつた。宗助は近付いて、此｜揉苦茶《もみくちや》になつた紙の下を覗いて覺えず苦笑した。下には大便が垂れてあつた。

　土の上に散らばつてゐる書類を一纒にして、文庫の中へ入れて、霜と泥に汚れた儘宗助は勝手口迄持つて來た。腰障子を開けて、清に

　「おい是を一寸其所へ置いて呉れ」と渡すと、清は妙な顔をして、不思議さうにそれを受取つた。御米は奧で座敷へ拂塵《はたき》を掛けてゐた。宗助はそれから懷手をして、玄關だの門の邊《あたり》を能く見廻つたが、何處にも平常と異《こと》なる點は認められなかつた。

　宗助は漸く家《うち》へ入《はい》つた。茶の間へ來て例の通り火鉢の前へ坐つたが、すぐ大きな聲を出して御米を呼んだ。御米は、

　「起き跋けに何處へ行つて入らしつたの」と云ひながら奧から出て來た。

　「おい昨夜《ゆうべ》枕元で大きな音がしたのは、矢つ張夢ぢやなかつたんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖の上から宅《うち》の庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回つて見たら、此文庫が落ちてゐて、中に這入つてゐた手紙なんぞが、無茶苦茶に放《はふ》り出してあつた。御負に御馳走迄置いて行つた」

　宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それには皆《みんな》坂井の名宛が書いてあつた。御米は吃驚《びつくり》して立膝の儘、

　「坂井さんぢや外に何か取られたでせうか」と聞いた。宗助は腕組をして、

　「ことに因《よ》ると、まだ何か遣られたね」と答へた。

　夫婦は兎も角もと云ふので、文庫を其所へ置いたなり朝飯の膳に着いた。然し箸を動かす間《ま》も泥棒の話は忘れなかつた。御米は自分の耳と頭の慥《たしか》な事を夫《をつと》に誇つた。宗助は耳と頭の慥《たしか》でない事を幸福とした。

　「さう仰しやるけれど、是が坂井さんでなくつて、宅《うち》で御覽なさい。貴方見た樣に、ぐう／＼寐て入らしつたら困るぢやないの」と御米が宗助を遣り込めた。

　「なに、宅《うち》なんぞへ這入る氣遣はないから大丈夫だ」と宗助も口の減らない返事をした。

　其所へ清が突然臺所から顔を出して、

　「此間拵えた旦那樣の外套でも取られ樣ものなら、夫《それ》こそ騷ぎで御座いましたね。御宅《おうち》でなくつて坂井さんだつたから、本當に結構で御座います」と眞面目に悦《よろこび》の言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶に窮《きゆう》した。

　食事を濟ましても、出勤の時刻にはまだ大分《だいぶ》間《ま》があつた。坂井では定めて騷いでるだらうと云ふので、文庫は宗助が自分で持つて行つて遣る事にした。蒔絵《まきゑ》ではあるが、たゞ黒地に龜甲形《きつかふがた》を金《きん》で置いた丈《だけ》の事で、別に大して金目の物とも思へなかつた。御米は唐棧《たうざん》の風呂敷を出してそれを包《くる》んだ。風呂敷が少し小さいので、四隅《よすみ》を對《むか》ふ同志｜繋《つな》いで、眞中にこま結びを二つ拵えた。宗助がそれを提《さ》げた所は、丸《まる》で進物の菓子折の樣であつた。

　座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町｜許《ばかり》來て、坂を上《のぼ》つて、又半町程｜逆《ぎやく》に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかつた。宗助は石の上へ芝を盛つて扇骨木《かなめ》を奇麗に植付けた垣に沿ふて門内に入《はい》つた。

　家《いへ》の内は寧ろ靜か過ぎる位しんとしてゐた。摺硝子《すりがらす》の戸が閉《た》てゝある玄關へ來て、ベルを二三度押して見たが、ベルが利かないと見えて誰も出て來なかつた。宗助は仕方なしに勝手口へ廻つた。其所にも摺硝子の嵌《は》まつた腰障子が二枚｜閉《た》ててあつた。中では器物を取り扱ふ音がした。宗助は戸を開けて、瓦斯七輪《ガスしちりん》を置いた板の間に蹲踞《しやが》んでゐる下女に挨拶をした。

　「是は此方《こちら》のでせう。今朝｜私《わたし》の家《うち》の裏に落ちてゐましたから持つて來ました」と云ひながら、文庫を出した。

　下女は「左樣《さやう》で御座いましたか、どうも」と簡單に禮を述べて、文庫を持つた儘、板の間の仕切迄行つて、仲働《なかばたらき》らしい女を呼び出した。其所で小聲に説明をして、品物を渡すと、仲働《なかばたらき》はそれを受取つたなり、一寸宗助の方を見たがすぐ奧へ入《はい》つた。入れ違《ちがへ》に、十二三になる丸顏の眼の大きな女の子と、其妹らしい揃のリボンを懸けた子が一所に馳《か》けて來て、小さい首を二つ並べて臺所へ出した。さうして宗助の顏を眺めながら、泥棒よと耳語《さゝやき》やつた。宗助は文庫を渡して仕舞へば、もう用が濟んだのだから、奧の挨拶はどうでも可《い》いとして、すぐ歸らうかと考へた。

　「文庫は御宅のでせうね。可《い》いんでせうね」と念を押して、何《な》にも知らない下女を氣の毒がらしてゐる所へ、最前の仲働が出て來て、

　「何うぞ御通り下さい」と丁寧に頭を下げたので、今度は宗助の方が少し痛み入る樣になつた。下女は愈《いよ／＼》しとやかに同じ請求を繰り返した。宗助は痛み入る境を通り越して、遂に迷惑を感じ出した。所へ主人が自分で出て來た。

　主人は豫想通り血色の好い下膨《しもぶくれ》の福相《ふくさう》を具へてゐたが、御米の云つた樣に髭のない男ではなかつた。鼻の下に短かく刈り込んだのを生やして、たゞ頬から腮《あご》を奇麗に蒼くしてゐた。

　「いや何うも飛んだ御手數《おてかず》で」と主人は眼尻に皺を寄せながら禮を述べた。米澤《よねざは》の絣《かすり》を着た膝を板の間に突いて、宗助から色々樣子を聞いてゐる態度が、如何にも緩《ゆつ》くりしてゐた。宗助は昨夕《ゆうべ》から今朝へ掛けての出來事を一通り掻《か》い撮《つま》んで話した上、文庫の外に何か取られたものがあるかないかを尋ねて見た。主人は机の上に置いた金時計を一つ取られた由を答へた。けれども丸《まる》で他《ひと》のものでも失《な》くなした時の樣に、一向《いつかう》困つたと云ふ氣色《けしき》はなかつた。時計よりは寧ろ宗助の叙述の方に多くの興味を有《も》つて、泥棒が果して崖を傳つて裏から逃げる積《つもり》だつたらうか、又は逃げる拍子に、崖から落ちたものだらうかと云ふ樣な質問を掛けた。宗助は固《もと》より返答が出來なかつた。

　其所へ最前の仲働が、奧から茶や莨《たばこ》を運んで來たので、宗助は又歸りはぐれた。主人はわざわざ座蒲團迄取り寄せて、とう／＼其上へ宗助の尻を据ゑさした。さうして今朝早く來た刑事の話をし始めた。刑事の判定によると、賊は宵から邸内に忍び込んで、何でも物置かなぞに隱れてゐたに違ない。這入口《はいりくち》は矢張り勝手である。燐寸《まつち》を擦《す》つて?燭を點《とも》して、それを臺所にあつた小桶の中へ立てゝ、茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寐てゐるので、廊下傳ひに主人の書齋へ來て、其所で仕事をしてゐると、此間生れた末の男の子が、乳を呑む時刻が來たものか、眼を覺まして泣き出したため、賊は書齋の戸を開けて庭へ逃げたらしい。

　「平常《いつも》の樣に犬がゐると好かつたんですがね。生憎病氣なので、四五日前病院へ入れて仕舞つたもんですから」と主人は殘念がつた。宗助も、

　「夫《それ》は惜しい事でした」と答へた。すると主人は其犬の種《ブリード》やら血統やら、時々｜獵《かり》に連れて行く事や、色々な事を話し始めた。

　「獵《れふ》は好ですから。尤も近來は神經痛で少し休んでゐますが。何しろ秋口から冬へ掛けて鴫《しぎ》なぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へ浸《つか》つて、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身體には好くない樣です」

　主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、成程とか、左《さ》うですか、とか云つてゐると、何時《いつ》迄も話してゐるので、宗助は已《やむ》を得ず中途で立ち上がつた。

　「是から又例の通り出掛けなければなりませんから」と切り上げると、主人は始めて氣が付いた樣に、忙がしい所を引き留めた失禮を謝した。さうして何《いづ》れ又刑事が現?を見に行くかも知れないから、其時はよろしく願ふと云ふやうな事を述べた。最後に、

　「何うかちと御話に。私も近頃は寧ろ閑《ひま》な方ですから、又御邪魔に出ますから」と丁寧に挨拶をした。門を出て急ぎ足に宅《うち》へ歸ると、毎朝《まいあさ》出る時刻よりも、もう三十分程後れてゐた。

　「貴方何うなすつたの」と御米が氣を揉んで玄關へ出た。宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換へながら、

　「あの坂井と云ふ人は餘つ程氣樂な人だね。金があるとあし緩《ゆつ》くり出來るもんかな」と云つた。

　

　　　　　八

　

　「小六さん、茶の間から始めて。夫《それ》とも座敷の方を先にして」と御米が聞いた。

　小六は四五日｜前《まへ》とう／＼兄の所へ引き移つた結果として、今日の障子の張番を手傳はなければならない事となつた。彼は昔《むか》し叔父の家に居た時、安之助と一所になつて、自分の部屋の唐紙を張り替へた經驗がある。其時は糊《のり》を盆に溶《と》いたり、箆《へら》を使つて見たり、大分《だいぶ》本式に遣り出したが、首尾好く乾かして、いざ元の所へ建てるといふ段になると、二枚とも反《そ》つ繰《く》り返つて敷居の溝へ嵌《は》まらなかつた。それから是も安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の云付けで、障子を張らせられたときには、水道でざぶ／＼粋《わく》を洗つたため、矢張《やつぱ》り乾いた後で、惣體《そうたい》に歪《ゆがみ》が出來て非常に困難した。

　「姉さん、障子を張るときは、餘程愼重にしないと失策《しくじ》るです。洗つちや駄目ですぜ」と云ひながら、小六は茶の間の縁側からびり／＼破き始めた。

　縁先は右の方に小六のゐる六疊が折れ曲つて、左には玄關が突き出してゐる。其向ふを塀が縁と平行《へいかう》に塞《ふさ》いでゐるから、まあ四角な圍内《かこひうち》と云つて可《い》い。夏になるとコスモスを一面に茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景色《けしき》を喜んだ事もあるし、又塀の下へ細い竹を立てゝ、それへ朝顏を絡《から》ませた事もある。其時は起き拔けに、今朝咲いた花の數を勘定し合つて二人が樂《たのしみ》にした。けれども秋から冬へ掛けては、花も草も丸《まる》で枯れて仕舞ふので、小さな砂漠見た樣に、眺めるのも氣の毒な位｜淋《さび》しくなる。小六は此霜ばかり降りた四角な地面を脊にして、しきりに障子の紙を剥がしてゐた。

　時々寒い風が來て、後《うしろ》から小六の坊主頭と襟の邊《あたり》を襲つた。其度に彼は吹き曝《さら》しの縁から六疊の中へ引つ込みたくなつた。彼は赤い手を無言の儘働らかしながら、馬尻《ばけつ》の中で雜巾を絞《しぼ》つて障子の棧《さん》を拭き出した。

　「寒いでせう、御氣の毒さまね。生憎《あいにく》御天氣が時雨《しぐ》れたもんだから」と御米が愛想《あいそ》を云つて、鐵瓶の湯を注《つ》ぎ注《つ》ぎ、昨日《きのふ》※［者／火］た糊《のり》を溶いた。

　小六は實際こんな用をするのを、内心では大いに輕蔑してゐた。ことに昨今自分が已《や》むなく置かれた境遇からして、此際多少自己を侮辱してゐるかの觀を抱《いだ》いて雜巾を手にしてゐた。昔《むか》し叔父の家で、是と同じ事を遣らせられた時は、暇潰しの慰みとして、不愉快どころか却つて面白かつた記憶さへあるのに、今ぢや此位な仕事より外にする能力のないものと、強いて周圍から諦めさせられた樣な氣がして、縁側の寒いのが猶《なほ》のこと癪に觸《さは》つた。

　それで嫂《あによめ》には快よい返事さへ碌《ろく》にしなかつた。さうして頭の中で、自分の下宿にゐた法科大學生が、一寸散歩に出る序《ついで》に、資生堂へ寄つて、三つ入りの石鹸《しやぼん》と齒磨を買ふのにさへ、五圓近くの金を拂ふ華奢《くわしや》を思ひ浮べた。すると何うしても自分一人が、こんな窮境に陷《おちい》るべき理由がない樣に感ぜられた。それから、斯んな生活?態に甘んじて一生を送る兄夫婦が如何にも憫然《ふびん》に見えた。彼等は障子を張る美濃紙《みのがみ》を買ふのにさへ氣兼をしやしまいかと思はれる程、小六から見ると、消極的な暮し方をしてゐた。

　「斯んな紙ぢや、又すぐ破けますね」と云ひながら、小六は卷いた小口を一尺ほど日に透《す》かして、二三度力任せに鳴らした。

　「さう？　でも宅《うち》ぢや小供がないから、夫《それ》程《ほど》でもなくつてよ」と答へた御米は糊を含ました刷毛《はけ》を取つてとん／＼とんと棧《さん》の上を渡した。

　二人は長く繼いだ紙を双方から引き合つて、成るべく垂《た》るみの出來ない樣に力《つと》めたが、小六が時々面倒臭さうな顏をすると、御米はつい遠慮が出て、好《いゝ》加減に髪剃《かみそり》で小口を切り落して仕舞ふ事もあつた。從つて出來上つたものには、所々のぶく／＼が大分《だいぶ》目に付いた。御米は情《なさけ》なささうに、戸袋に立て懸けた張り立ての障子を眺めた。さうして心の中《うち》で、相手が小六でなくつて、夫《をつと》であつたならと思つた。

　「皺《しわ》が少し出來たのね」

　「何うせ僕の御手際ぢや旨くは行かない」

　「なに兄さんだつて、さう御上手ぢやなくつてよ。それに兄さんは貴方より餘つ程｜無精《ぶしやう》ね」

　小六は何にも答へなかつた。臺折から清が持つて來た含嗽茶碗《うがひぢやわん》を受け取つて、戸袋の前へ立つて、紙が一面に濡れる程霧を吹いた。二枚目を張つたときは、先に霧を吹いた分が略《ほゞ》乾いて皺が大方《おはかた》平らになつてゐた。三枚目を張つたとき、小六は腰が痛くなつたと云ひ出した。實を云ふと御米の方は今朝から頭が痛かつたのである。

　「もう一枚張つて、茶の間｜丈《だけ》濟ましてから休みませう」と云つた。

　茶の間を濟ましてゐるうちに午《ひる》になつたので、二人は食事を始めた。小六が引き移つてから此｜四五日《しごんち》、御米は宗助のゐない午飯《ひるはん》を、何時《いつ》も小六と差向《さしむかひ》で食べる事になつた。宗助と一所になつて以來、御米の毎日膳を共にしたものは、夫《をつと》より外になかつた。夫《をつと》の留守の時は、たゞ獨り箸を執るのが多年の習慣《ならはし》であつた。だから突然この小舅《こじうと》と自分の間に御櫃《おはち》を置いて、互に顏を見合せながら、口を動かすのが、御米に取つては一種｜異《い》な經驗であつた。それも下女が臺所で働らいてゐるときは、未《ま》だしもだが、清の影も音もしないとなると、猶《なほ》の事《こと》變に窮屈な感じが起つた。無論小六よりも御米の方が年上であるし、又從來の關係から云つても、兩性を絡《から》み付ける艶つぽい空氣は、箝束的《けんそくてき》な初期に於てすら、二人の間に起り得べき筈のものではなかつた。御米は小六と差向《さしむかひ》に膳に着くときの此氣ぶつせいな心持が、何時《いつ》になつたら消えるだらうと、心の中《うち》で私《ひそか》に疑ぐつた。小六が引き移る迄は、こんな結果が出やうとは、丸《まる》で氣が付かなかつたのだから猶更《なほさら》當惑した。仕方がないから成るべく食事中に話をして、責めて手持無沙汰な隙間｜丈《だけ》でも補はうと力《つと》めた。不幸にして今の小六は、此｜嫂《あによめ》の態度に對して程の好い調子を出す丈《だけ》の餘裕と分別《ふんべつ》を頭の中《うち》に發見し得なかつたのである。

　「小六さん、下宿は御馳走があつて」

　こんな質問に逢ふと、小六は下宿から遊びに來た時分の樣に、淡泊な遠慮のない答をする譯に行かなくなつた。已《やむ》を得ず、

　「なに左《さ》うでもありません」ぐらゐにして置くと、其語氣がからりと澄んでゐないので、御米の方では、自分の待遇が惡い所爲《せゐ》かと解釋する事もあつた。それが又無言の間《あひだ》に、小六の頭に映る事もあつた。

　ことに今日は頭の具合が好くないので、膳に向つても、御米は何時《いつ》もの樣に力《つと》めるのが退儀であつた。力《つと》めて失敗するのは猶《なほ》厭であつた。それで二人とも障子を張るときよりも言葉少なに食事を濟ました。

　午後は手が慣れた所爲《せゐ》か、朝に比べると仕事が少し果取《はかど》つた。然し二人の氣分は飯前よりも却つて縁遠くなつた。ことに寒い天氣が二人の頭に應《こた》へた。起きた時は、日を載せた空が次第に遠退いて行くかと思はれる程に、好く晴れてゐたが、それが眞蒼《まつさを》に色づく頃から急に雲が出て、暗い中で粉雪《こゆき》でも醸《かも》してゐる樣に、日の目を密封した。二人は交《かは》る／”＼火鉢に手を翳《かざ》した。

　「兄さんは來年になると月給が上がるんでせう」

　不圖小六が斯んな問を御米に掛けた。御米は其時疊の上の紙片《かみぎれ》を取つて、糊に汚《よご》れた手を拭いてゐたが、全く思も寄らないといふ顔をした。

　「何うして」

　「でも新聞で見ると、來年から一般に官吏の�摯�があると云ふ話ぢやありませんか」

　御米はそんな消息を全く知らなかつた。小六から詳しい説明を聞いて、始めて成程と首肯《うなづ》いた。

　「全くね。是ぢや誰だつて、遣つて行けないわ。御肴《おさかな》の切身なんか、私《わたし》が東京へ來てからでも、もう倍になつてるんですもの」と云つた。肴の切身の値段になると小六の方が全く無識であつた。御米に注意されて始めてそれ程無暗に高くなるものかと思つた。

　小六に一寸した好寄心の出たため、二人の會話は存外素直に流れて行つた。御米は裏の家主の十八九時代に物價の大變安かつた話を、此間宗助から聞いた通り繰り返した。其時分は蕎麥《そば》を食ふにしても、盛《もり》かけが八厘、種ものが二錢五厘であつた。牛肉は普通《なみ》が一人前《いちにんまへ》四錢で、ロースは六錢であつた。寄席《よせ》は三錢か四錢であつた。學生は月に七圓位國から貰へば中《ちゆう》の部《ぶ》であつた。十圓も取ると既に贅澤《ぜいたく》と思はれた。

　「小六さんも、其時分だと譯なく大學が卒業出來たのにね」と御米が云つた。

　「兄さんも其時分だと大變暮し易い譯ですね」と小六が答へた。

　座敷の張易《はりかへ》が濟んだときにはもう三時過になつた。さう斯うしてゐるうちには、宗助も歸つて來るし、晩の支度も始めなくつてはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃を片付けた。小六は大きな伸《のび》を一つして、握《にぎ》り拳《こぶし》で自分の頭をこん／＼と叩いた。

　「何うも御苦勞さま。疲れたでせう」と御米は小六を勞《いた》はつた。小六は夫《それ》よりも口淋《くちさむ》しい思がした。此間文庫を屆けてやつた禮に、坂井から呉れたと云ふ菓子を、戸棚から出して貰つて食べた。御米は御茶を入れた。

　「坂井と云ふ人は大學出なんですか」

　「えゝ、矢張《やつぱり》左樣《さう》なんですつて」

　小六は茶を飲んで烟草を吹いた。やがて、

　「兄さんは�摯�の事をまだ貴方に話さないんですか」と聞いた。

　「いゝえ、些《ちつ》とも」と御米が答へた。

　「兄さん見た樣になれたら好いだらうな。不平も何もなくつて」

　御米は特別の挨拶もしなかつた。小六は其儘｜起《た》つて六疊へ這入つたが、やがて火が消えたと云つて、火鉢を抱《かゝ》えて又出て來た。彼は兄の家《いへ》に厄介になりながら、もう少し立てば都合が付くだらうと慰めた安之助の言葉を信じて、學校は表向《おもてむき》休學の體《てい》にして一時の始末をつけたのである。

　

　　　　　九

　

　裏の坂井と宗助とは文庫が縁になつて思はぬ關係が付いた。夫《それ》迄《まで》は月に一度｜此方《こちら》から清に家賃を持たして遣ると、向《むかふ》から其受取を寄こす丈《だけ》の交渉に過ぎなかつたのだから、崖の上に西洋人が住んでゐると同樣で、隣人としての親みは、丸《まる》で存在してゐなかったのである。

　宗助が文庫を屆けた日の午後に、坂井の云つた通り、刑事が宗助の家の裏手から崖下を檢《しら》べに來たが、其時坂井も一所だつたので、御米は始めて噂に聞いた家主の顔を見た。髭のないと思つたのに、髭を生やしてゐるのと、自分なぞに對しても、存外丁寧な言葉を使ふのが、御米には少し案外であつた。

　「貴方、坂井さんは矢つ張り髭を生やしてゐてよ」と宗助が歸つたとき、御米はわざ／＼注意した。

　それから二日ばかりして、坂井の名刺を添へた立派な菓子折を持つて、下女が禮に來たが、先達《せんだつ》ては色々御世話になりまして、難有《ありがた》う存じます、何《いづ》れ主人が自身に伺ふ筈で御座いますがと云ひ置いて、歸つて行つた。

　其晩宗助は到來の菓子折の葢《ふた》を開けて、唐饅頭《たうまんぢゆう》を頬張りながら、

　「斯んなものを呉れる所をもつて見ると、夫《それ》程《ほど》吝《けち》でもないやうだね。他《ひと》の家《うち》の子をブランコへ乘せて遣らないつて云ふのは嘘だらう」と云つた。御米も、

　「屹度《きつと》嘘よ」と坂井を辯護した。

　夫婦と坂井とは泥棒の這入らない前より、是《これ》丈《だけ》親しみの度が�揩ｵた樣なものゝ、それ以上に接近しやうと云ふ念は、宗助の頭にも、御米の胸にも宿らなかつた。利害の打算から云へば無論の事、單に隣人の交際とか情誼《じやうぎ》とか云ふ點から見ても、夫婦はこれよりも前進する勇氣を有《も》たなかつたのである。もし自然が此儘に無爲の月日を驅つたなら、久しからぬうちに、坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になつて、崖の上と崖の下に互の家が懸け隔《へだゝ》る如く、互の心も離れ離れになつたに違なかつた。

　所がそれから又二日置いて、三日目の暮れ方に、獺《かはうそ》の襟の着いた暖かさうな外套《マント》を着て、突然坂井が宗助の所へ遣つて來た。夜間客に襲はれ付けない夫婦は、輕微の狼狽を感じた位驚ろかされたが、座敷へ上げて話して見ると、坂井は丁寧に先日の禮を述べた後《のち》、

　「御蔭で取られた品物が又戻りましたよ」と云ひながら、白縮緬《しろちりめん》の兵兒帶《へこおび》に卷き付けた金鎖を外《はづ》して、兩葢《りやうぶた》の金時計を出して見せた。

　規則だから警察へ屆ける事は屆けたが、實は大分《だいぶ》古い時計なので、取られても夫《それ》程《ほど》惜しくもない位に諦らめてゐたら、昨日《きのふ》になつて、突然差出人の不明な小包が着いて、其中にちやんと自分の失《な》くしたのが包《くる》んであつたんだと云ふ。

　「泥棒も持ち扱かつたんでせう。それとも餘り金にならないんで、已《やむ》を得ず返して呉れる氣になつたんですかね。何しろ珍らしい事で」と坂井は笑つてゐた。それから、

　「何私から云ふと、實はあの文庫の方が寧ろ大切な品でしてね。祖母《ばゞ》が昔《むか》し御殿へ勤めてゐた時分、戴いたんだとか云つて、まあ記念《かたみ》の樣なものですから」と云ふ樣な事も説明して聞かした。

　其晩坂井はそんな話を約二時間もして歸つて行つたが、相手になつた宗助も、茶の間で聞いてゐた御米も、大變談話の材料に富んだ人だと思はぬ譯に行かなかつた。後《あと》で、

　「世間の廣い方《かた》ね」と御米が評した。

　「閑だからさ」と宗助が解釋した。

　次の日宗助が役所の歸りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前迄來ると、例の獺《かはうそ》の襟を着けた坂井の外套が一寸眼に着いた。横顔を往來の方へ向けて、主人を相手に何か云つてゐる。主人は大きな眼鏡を掛けた儘、下から坂井の顔を見上げてゐる。宗助は挨拶をすべき折でもないと思つたから、其儘行き過ぎやうとして、店の正面迄來ると、坂井の眼が往來へ向いた。

　「やあ昨夜は。今御歸りですか」と氣輕に聲を掛けられたので、宗助も愛想《あいそ》なく通り過ぎる譯にも行かなくなつて、一寸歩調を緩《ゆる》めながら、帽子を取つた。すると坂井は、用はもう濟んだと云ふ風をして、店から出て來た。

　「何か御求めですか」と宗助が聞くと、

　「いえ、何」と答へた儘、宗助と並んで家《うち》の方へ歩き出した。六七間來たとき、

　「あの爺《ぢゞ》い、中々｜猾《ずる》い奴ですよ。華山《くわざん》の僞物《にせもの》を持つて來て押付《おつつけ》やうとしやがるから、今叱り付けて遣つたんです」と云ひ出した。宗助は始めて、此坂井も餘裕ある人に共通な好事《かうず》を道樂にしてゐるのだと心付いた。さうして此間賣り拂つた抱一《はういつ》の屏風も、最初から斯う云ふ人に見せたら、好かつたらうにと、腹の中《なか》で考へた。

　「あれは書畫には明るい男なんですか」

　「なに書畫どころか、丸《まる》で何も分らない奴です。あの店の樣子を見ても分るぢやありませんか。骨董らしいものは一つも並んでゐやしない。もとが紙屑屋から出世してあれ丈《だけ》になつたんですからね」

　坂井は道具屋の素性《すじやう》を能く知つてゐた。出入《でいり》の八百屋の阿爺《おやぢ》の話によると、坂井の家は舊幕の頃何とかの守《かみ》と名乘つたもので、此界隈では一番古い門閥家《もんばつか》なのださうである。瓦解《ぐわかい》の際、駿府《すんぷ》へ引き上げなかつたんだとか、或は引き上げて又出て來たんだとか云ふ事も耳にした樣であるが、それは判然《はつきり》宗助の頭に殘つてゐなかつた。

　「小さい内から惡戯《いたづら》ものでね。あいつが餓鬼大將になつて能く喧嘩をしに行つた事がありますよ」と坂井は御互の子供の時の事迄一口洩らした。それが又何うして華山《くわざん》の贋物《にせもの》を賣り込まうと巧《たく》んだのかと聞くと、坂井は笑つて、斯う説明した。――

　「なに親父《おやぢ》の代から贔屓《ひいき》にして遣つてるものですから、時々｜何《なん》だ蚊《か》だつて持つて來るんです。所が眼も利かない癖に、只慾ばりたがつてね、まことに取扱ひ惡《にく》い代物《しろもの》です。それについ此間抱一の屍風を買つて貰つて、味を占めたんでね」

　宗助は驚ろいた。けれども話の途中を遮《さへ》ぎる譯に行かなかつたので、黙つてゐた。坂井は道具屋がそれ以來乘氣になつて、自身に分りもしない書畫類をしきりに持ち込んで來る事やら、大坂出來の高麗燒《かうらいやき》を本物だと思つて、大事に飾つて置いた事やら話した末、

　「まあ臺所《だいどころ》で使ふ食卓《ちやぶだい》か、たか／”＼新《あら》の鐵瓶位しか、彼《あ》んな所ぢや買へたもんぢやありません」と云つた。

　其内二人は坂の上へ出た。坂井は其所を右へ曲る、宗助は其所を下へ下りなければならなかつた。宗助はもう少し一所に歩いて、屏風の事を聞きたかつたが、わざ／＼回《まは》り路をするのも變だと心付いて、夫《それ》なり分れた。分れる時、

　「近い中御邪魔に出ても宜《よ》う御座いますか」と聞くと、坂井は、

　「どうぞ」と快よく答へた。

　其日は風もなく一仕切《ひとしきり》日も照つたが、家《うち》にゐると底冷《そこびえ》のする寒さに襲はれるとか云つて、御米はわざ／＼置炬燵《おきごたつ》に宗助の着物を掛けて、それを座敷の眞中に据ゑて、夫《をつと》の歸りを待ち受けてゐた。

　此冬になつて、晝のうち炬燵を拵らえたのは、其日が始めてゞあつた。夜は疾《と》うから用ひてゐたが、何時《いつ》も六疊に置く丈《だけ》であつた。

　「座敷の眞中にそんなものを据ゑて、今日は何うしたんだい」

　「でも、御客も何もないから可《い》いでせう。だつて六疊の方は小六さんが居て、塞《ふさ》がつてゐるんですもの」

　宗助は始めて自分の家に小六の居る事に氣が付いた。襯衣《しやつ》の上から暖かい紡績織を掛けて貰つて、帶をぐる／＼卷き付けたが、

　「こゝは寒帶だから炬燵《こたつ》でも置かなくつちや凌《しの》げない」と云つた。小六の部屋になつた六疊は、疊こそ奇麗でないが、南と東が開《あ》いてゐて、家中《うちじゆう》で一番暖かい部屋なのである。

　宗助は御米の汲んで來た熱い茶を湯呑から二口程飲んで、

　「小六はゐるのかい」と聞いた。小六は固《もと》より居た筈である。けれども六疊はひつそりして人のゐる樣にも思はれなかつた。御米が呼びに立たうとするのを、用はないから可《い》いと留めた儘、宗助は炬燵蒲團の中へ潜《もぐ》り込んで、すぐ横になつた。一方口《いつぱうぐち》に崖を控えてゐる座敷には、もう暮方の色が萌《きざ》してゐた。宗助は手枕をして、何を考へるともなく、たゞ此暗く狹い景色《けしき》を眺めてゐた。すると御米と清が臺所で働く音が、自分に關係のない隣の人の活動の如くに聞えた。そのうち、障子｜丈《だけ》がたゞ薄白く宗助の眼に映る樣に、部屋の中が暮れて來た。彼はそれでも凝《じつ》として動かずにゐた。聲を出して洋燈《らんぷ》の催促もしなかつた。

　彼が暗い所から出て、晩食《ばんめし》の膳に着いた時は、小六も六疊から出て來て、兄の向ふに坐つた。御米は忙《いそが》しいので、つい忘れたと云つて、座敷の戸を締めに立つた。宗助は弟に夕方になつたら、ちと洋燈《らんぷ》を點《つ》けるとか、戸を閉《た》てるとかして、忙《せは》しい姉の手傳でもしたら好からうと注意したかつたが、昨今引き移つた許《ばかり》のものに、氣まづい事を云ふのも惡からうと思つて己《や》めた。

　御米が座敷から歸つて來るのを待つて、兄弟は始めて茶碗に手を着けた。其時宗助は漸く今日役所の歸りがけに、道具屋の前で坂井に逢つた事と、坂井があの大きな眼鏡を掛けてゐる道具屋から、抱一《はういつ》の屏風を買つたと云ふ話をした。御米は、

　「まあ」と云つたなり、しばらく宗助の顔を見てゐた。

　「ぢや屹度《きつと》あれよ。屹度あれに違ないわね」

　小六は始めのうち何にも口を出さなかつたが、段々兄夫婦の話を聞いてゐるうちに、略《ほゞ》關係が明瞭になつたので、

　「全體｜幾何《いくら》で賣つたのです」と聞いた。御米は返事をする前に一寸｜夫《をつと》の顔を見た。

　食事が終ると、小六はぢきに六疊へ這入つた。宗助は又炬燵へ歸つた。しばらくして御米も足を温《ぬく》めに來た。さうして次の土曜か日曜には坂井へ行つて、一つ屏風を見て來たら可《い》いだらうと云ふ樣な事を話し合つた。

　次の日曜になると、宗助は例の通り一週に一返の樂寐《らくね》を貪ぼつたため、午前《ひるまへ》半日をとう／＼空《くう》に潰して仕舞つた。御米は又頭が重いとか云つて、火鉢の縁《ふち》に倚《よ》りかゝつて、何をするのも懶《ものう》さうに見えた。斯んな時に六疊が空《あ》いてゐれば、朝からでも引込む場所があるのにと思ふと、宗助は小六に六疊を宛てがつた事が、間接に御米の避難場を取り上げたと同じ結果に陷《おちい》るので、ことに濟まない樣な氣がした。

　心持が惡ければ、座敷へ床を敷いて寐たら好からうと注意しても、御米は遠慮して容易に應じなかつた。それでは、又炬燵でも拵えたら何うだ、自分も當るからと云つて、とう／＼櫓《やぐら》と掛蒲團を清に云ひ付けて、座敷へ運ばした。

　小六は宗助が起きる少し前に、何處かへ出て行つて、今朝は顔さへ見せなかつた。宗助は御米に向つて別段其行先を聞き糺《たゞ》しもしなかつた。此頃では小六に關係した事を云ひ出して、御米に其返事をさせるのが、氣の毒になつて來た。御米の方から、進んで弟の讒訴《ざんそ》でもする樣だと、叱るにしろ、慰さめるにしろ、却つて始末が好いと考へる時もあつた。

　午《ひる》になつても御米は炬燵から出なかつた。宗助は一層《いつそ》靜かに寐かして置く方が身體のために可《よ》からうと思つたので、そつと臺所へ出て、清に一寸上の坂井迄行つてくるからと告げて、不斷着の上へ、袂の出る短いイン?ネスを纒つて表へ出た。

　今迄陰氣な室《へや》にゐた所爲《せゐ》か、通へ來ると急にからりと氣が晴れた。肌の筋肉が寒い風に抵抗して、一時に緊縮する樣な冬の心持の鋭どく出るうちに、ある快感を覺えたので、宗助は御米もあゝ家《うち》にばかり置いては善くない、氣候が好くなつたら、ちと戸外の空氣を呼吸させる樣にしてやらなくては毒だと思ひながら歩いた。

　坂井の家《うち》の門を入《はい》つたら、玄關と勝手口の仕切になつてゐる生垣の目に、冬に似合はないぱつとした赤いものが見えた。傍《そば》へ寄つてわざ／＼檢《しら》べると、それは人形に掛ける小さい夜具であつた。細い竹を袖に通して、落ちない樣に、扇骨木《かなめ》の枝に寄せ掛けた手際が、如何にも女の子の所作らしく殊勝に思はれた。かう云ふ惡戯《いたづら》をする年頃の娘は固《もと》よりの事、子供と云ふ子供を育て上げた經驗のない宗助は、此小さい赤い夜具の尋常に日に干してある有樣をしばらく立つて眺めてゐた。さうして二十年も昔に父母《ふぼ》が、死んだ妹《いもと》の爲に飾つた、赤い雛段《ひなだん》と五人囃《ごにんばやし》と、模樣の美くしい干菓子と、それから甘い樣で辛《から》い白酒を思ひ出した。

　坂井の主人は在宅ではあつたけれども、食事中だと云ふので、しばらく待たせられた。宗助は座に着くや否や、隣の室《へや》で小さい夜具を干した人達の騷ぐ聲を耳にした。下女が茶を運ぶために襖を開けると、襖の影から大きな眼が四つ程既に宗助を覗いてゐた。火鉢を持つて出ると、其｜後《あと》から又違つた顔が見えた。始めての所爲《せゐ》か、襖の開閉《あけたて》の度に出る顔が悉《こと／”＼》く違つてゐて、子供の數《かず》が何人あるか分らない樣に思はれた。漸く下女が退《さ》がりきりに退がると、今度は誰だか唐紙を一｜寸《すん》程細目に開けて、黒い光る眼｜丈《だけ》を其間から出した。宗助も面白くなつて、黙つて手招ぎをして見た。すると唐紙をぴたりと閉《た》てゝ、向ふ側で三四人が聲を合して笑ひ出した。

　やがて一人の女の子が、

　「よう、御姉樣又｜何時《いつ》もの樣に叔母さんごつこ爲《し》ませうよ」と云ひ出した。すると姉らしいのが、

　「えゝ、今日は西洋の叔母さんごつこよ。東作さんは御父さまだからパパで、雪子さんは御母さまだからママつて云ふのよ。可《よ》くつて」と説明した。其時又別の聲で、

　「可笑《をか》しいわね。ママだつて」と云つて嬉しさうに笑つたものがあつた。

　「私《わたし》夫《それ》でも何時《いつ》も御祖母《おばゞ》さまなのよ。御祖母《おばゞ》さまの西洋の名がなくつちや不可《いけ》ないわねえ。御祖母《おばゞ》さまは何て云ふの」と聞いたものもあつた。

　「御祖母《おばゞ》さまは矢つ張りバヾで可《い》いでせう」と姉が又説明した。

　夫《それ》から當分の間は、御免下さいましだの、何方《どちら》から入らつしやいましたのと盛に挨拶の言葉が交換されてゐた。其間にはちりん／＼と云ふ電話の假聲《こわいろ》も交つた。凡《すべ》てが宗助には陽氣で珍らしく聞えた。

　其所へ奧の方から足音がして、主人が此方《こつち》へ出て來たらしかつたが、次の間《ま》へ入《はい》るや否や、

　「さあ、御前達は此所で騷ぐんぢやない。彼方《あつち》へ行つて御出《おいで》。御客さまだから」と制した。其時、誰だかすぐに、

　「厭だよ。御父《おと》つちやんべい。大きい御馬《おむま》買つて呉れなくつちや、彼方《あつち》へ行かないよ」と答へた。聲は小さい男の子の聲であつた。年が行かない爲か、舌が能く回らないので、抗辯のしやうが如何にも億劫《おくくふ》で手間が掛かつた。宗助は其所を特に面白く思つた。

　主人が席に着いて、長い間待たした失禮を詫びてゐる間《ま》に、子供は遠くへ行つて仕舞つた。

　「大變御賑やかで結構です」と宗助が今自分の感じた通を述べると、主人はそれを愛嬌と受取つたものと見えて、

　「いや御覽の如く亂雜な有樣で」と言譯らしい返事をしたが、それを緒《いとくち》に、子供の世話の燒けて、夥《おびた》だしく手の掛る事などを色々宗助に話して聞かした。其｜中《うち》で綺麗な支那製の花籃《はなかご》のなかへ炭團《たどん》を一杯｜盛《も》つて床の間に飾つたと云ふ滑稽と、主人の編上の靴のなかへ水を汲み込んで、金魚を放したと云ふ惡戯《いたづら》が、宗助には大變耳新しかつた。然し、女の子が多いので服裝に物が要《い》るとか、二週間も旅行して歸つてくると、急にみんなの脊《せい》が一寸《すん》づゝも伸びてゐるので、何だか後《うしろ》から追ひ付かれる樣な心持がするとか、もう少しすると、嫁入の支度で忙殺されるのみならず、屹度《きつと》貧殺《ひんさつ》されるだらうとか云ふ話になると、子供のない宗助の耳には夫《それ》程《ほど》の同情も起し得なかつた。却つて主人が口で子供を煩冗《うるさ》がる割に、少しもそれを苦にする樣子の、顏にも態度にも見えないのを羨ましく思つた。

　好い加減な頃を見計《みはか》つて宗助は、先達て話のあつた屏風を一寸見せて貰へまいかと、主人に申し出た。主人は早速引き受けて、ぱち／＼と手を鳴らして、召使を呼んだが、藏の中に仕舞つてあるのを取り出して來る樣に命じた。さうして宗助の方を向いて、

　「つい二三日前迄其所へ立てて置いたのですが、例の子供が面白半分にわざと屏風の影へ集まつて、色々な惡戯《いたづら》をするものですから、傷でも付けられちや大變だと思つて仕舞ひ込んでしまひました」と云つた。

　宗助は主人の此言葉を聞いた時、今更｜手數《てかず》をかけて、屏風を見せて貰ふのが、氣の毒にもなり、又面倒にもなつた。實を云ふと彼の好奇心は、夫《それ》程《ほど》強くなかつたのである。成程一旦｜他《ひと》の所有に歸したものは、たとひ元が自分のであつたにしろ、無かつたにしろ、其所を突き留めた所で、寶際上には何の効果もない話に違なかつた。

　けれども、屏風は宗助の申し出た通り、間もなく奧から縁傳ひに運び出されて、彼の眼の前に現れた。さうして夫《それ》が豫想通りつい此間迄自分の座敷に立てゝあつた物であつた。此事實を發見した時、宗助の頭には、是と云つて大した感動も起らなかつた。たゞ自分が今坐つてゐる疊の色や、天井の柾目《まさめ》や、床の置物や、襖の模樣などの中に、此屏風を立てて見て、夫《それ》に、召使が二人がゝりで、藏の中から大事さうに取り出して來たと云ふ所作を付け加へて考へると、自分が持つてゐた時よりは、慥《たしか》に十倍以上｜貴《たつ》とい品の樣に眺められた丈《だけ》であつた。彼は即座に云ふ可き言葉を見出《みいだ》し得なかったので、いたづらに見慣れたものゝ上に、更に新らしくもない眼を据ゑてゐた。

　主人は宗助を以てある程度の鑑賞家と誤解した。立ちながら屏風の縁《ふち》へ手を掛けて、宗助の面《おもて》と屏風の面《おもて》とを比較してゐたが、宗助が容易に批評を下さないので、

　「是は素性《すじやう》の慥《たしか》なものです。出《で》が出《で》ですからね」と云つた。宗助は、たゞ

　「成程」と云つた。

　主人はやがて宗助の後《うしろ》へ回《まは》つて來て、指で其所此所を指《さ》しながら、品評やら説明やらした。其｜中《うち》には、さすが御大名｜丈《だけ》あつて、好い繪の具を惜氣《をしげ》もなく使ふのが此畫家の特色だから、色が如何にも美事であると云ふ樣な、宗助には耳新らしいけれども、普通一般に知れ渡つた事も大分《だいぶ》交つてゐた。

　宗助は好い加減な頃を見計《みはか》らつて、丁寧に體を述べて元の席に復した。主人も蒲團の上に直つた。さうして、今度は野路《のぢ》や空《そら》云々といふ題句やら書體やらに就いて語り出した。宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味を有《も》つてゐた。何時《いつ》の間《ま》に是程の知識を頭の中《なか》へ貯《たくは》へ得らるゝかと思ふ位、凡《すべ》てに心得のある男らしく思はれた。宗助は己《おの》れを恥ぢて、成るべく物數《ものかず》を云はない樣にして、たゞ向ふの話｜丈《だけ》に耳を借す事を力《つと》めた。

　主人は客が此方面の興味に乏しい樣子を見て、再び話を畫《ゑ》の方へ戻した。碌なものはないけれども、望ならば所藏の畫帖や幅物を見せても可《い》いと親切に申し出した。宗助は折角の好意を辭退しない譯に行かなかつた。其代りに、失禮ですがと前置をして、主人が此屏風を手に入れるに就て、何《ど》れ程の金額を拂つたかを尋ねた。

　「まあ堀出し物ですね。八十圓で買ひました」と主人はすぐ答へた。

　宗助は主人の前に坐つて、此屏風に關する一切の事を自白しやうか、しまいかと思案したが、ふと打ち明けるのも一興だらうと心付いて、とう／＼實は是々だと、今迄の?末を詳しく話し出した。主人は時々へえ、へえと駕ろいた樣な言葉を挾んで聞いてゐたが、仕舞に、

　「ぢや貴君《あなた》は別に書畫が好きで、見に人らしつた譯でもないんですね」と自分の誤解を、さも面白い經驗でもした樣に笑ひ出した。同時に、さう云ふ譯なら、自分が直《ぢか》に宗助から相當の値で讓つて貰へば可《よ》かつたに、惜しい事をしたと云つた。最後に横町の道具屋をひどく罵しつて、怪《け》しからん奴だと云つた。

　宗助と坂井とは是から大分《だいぶ》親《した》しくなつた。

　

　　　　　十

　

　佐伯の叔母も安之助も其後｜頓《とん》と宗助の宅《うち》へは見えなかつた。宗助は固《もと》より麹町へ行く餘暇を有《も》たなかつた。又｜夫《それ》丈《だけ》の興味もなかつた。親類とは云ひながら、別々の日が二人の家を照らしてゐた。

　たゞ小六｜丈《だけ》が時々話しに出掛ける樣子であつたが、是とても、さう繁々足を運ぶ譯でもないらしかつた。それに彼は歸つて來て、叔母の家の消息を殆んど御米に語らないのを常として居つた。御米はこれを故意《こい》から出る小六の仕打かとも疑《うたぐ》つた。然し自分が佐伯に對して特別の利害を感じない以上、御米は叔母の動靜を耳にしない方を、却つて喜こんだ。

　それでも時々は、先方《さき》の樣子を、小六と兄の對話から聞き込む事もあつた。一週間程前に、小六は兄に、安之助がまた新發明の應用に苦心してゐる話をした。それは印氣《インキ》の助けを借らないで、鮮明な印刷物を拵らえるとか云ふ、一寸聞くと頗る重寶な器械に就てであつた。話題の性質から云つても、自分とは全く利害の交渉のない六づかしい事なので、御米は例の通り黙つて口を出さずにゐたが、宗助は男だけに幾分か好奇心が動いたと見えて、何うして印氣《インキ》を使はずに印刷が出來るか抔《など》と問ひ糾《たゞ》してゐた。

　専門上の知識のない小六が、精密な返答をし得る筈は無論なかった。彼はたゞ安之助から聞いた儘を、覺えてゐる限り念を入れて説明した。此印刷術は近來英國で發明になつたもので、根本的にいふと矢張り電氣の利用に過ぎなかつた。電氣の一極を活字と結び付けて置いて、他の一極を紙に通じて、其紙を活字の上へ壓《お》し付けさへすれば、すぐ出來るのだと小六が云つた。色は普通黒であるが、手加減次第で赤にも青にもなるから色刷《いろずり》抔《など》の場合には、給の具を乾かす時間が省ける丈《だけ》でも大變重寶で、是を新聞に應用すれば、印氣《インキ》や印氣《イノキ》ロールの費《つひえ》を節約する上に、全體から云つて、少くとも從來の四分の一の手數《てかず》がなくなる點から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六は又安之助の話した通りを繰り返した。さうして其有望な前途を、安之助が既に手の中《うち》に握つたかの如き口氣《こうき》であつた。かつ其多望な安之助の未來のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれてゐる樣に、眼を輝やかした。其時宗助は何時《いつ》もの調子で、寧ろ穩やかに、弟の云ふ事を聞いてゐたが、聞いてしまつた後《あと》でも、別に是といふ眼立つた批評は加へなかつた。實際斯んな發明は、宗助から見ると、本當の樣でもあり、又嘘の樣でもあり、愈《いよ／＼》それが世間に行はれる迄は、賛成も反對も出來かねたのである。

　「ぢや鰹船《かつをぶね》の方はもう止したの」と、今迄黙つてゐた御米が、此時始めて口を出した。

　「止したんぢやないんですが、あの方は費用が隨分掛るので、いくら便利でも、さう誰も彼も拵える譯に行かないんださうです」と小六が答へた。小六は幾分か安之助の利害を代表してゐる樣な口振であつた。夫《それ》から三人の間に、しばらく談話が交換されたが、仕舞に、

　「矢張《やつぱり》何をしたつて、さう旨く行くもんぢやあるまいよ」と云つた宗助の言葉と、

　「坂井さん見た樣に、御金があつて遊んでゐるのが一番｜可《い》いわね」と云つた御米の言葉を聞いて、小六は又自分の部屋へ歸つて行つた。

　斯う云ふ機會に、佐伯の消息は折々夫婦の耳へ濁れる事はあるが、其外には、全く何をして暮らしてゐるか、互に知らないで過す月日が多かつた。

　ある時御米は宗助に斯んな問を掛けた。

　「小六さんは、安さんの所へ行くたんびに、小遣《こづかひ》でも貰つて來るんでせうか」

　今迄小六に就て、夫《それ》程《ほど》の注意を拂つてゐなかつた宗助は、突然此問に逢つて、すぐ、「何故《なぜ》」と聞き返した。御米はしばらく逡巡《ためら》つた末、

　「だつて、此頃能く御酒を呑んで歸つて來る事があるのよ」と注意した。

　「安さんが例の發明や、金儲《かねまう》けの話をするとき、其聞き賃に奢《おご》るのかも知れない」と云つて宗助は笑つてゐた。會話はそれなりでつい發展せずに仕舞つた。

　越えて三日目の夕方に、小六はまた飯時《めしどき》を外《はづ》して歸つて來なかつた。しばらく待ち合せてゐたが、宗助はついに空腹だとか云ひ出して、一寸湯にでも行つて時間を延ばしたらといふ御米の小六に對する氣兼に頓着なく、食事を始めた。其時御米は夫《をつと》に、

　「小六さんに御酒を止《や》める樣に、貴方から云つちや不可《いけ》なくつて」と切り出した。

　「そんなに意見しなければならない程飲むのか」と宗助は少し案外な顔をした。

　御米は夫《それ》程《ほど》でもないと、辯護しなければならなかつた。けれども實際は誰もゐない晝間のうち抔《など》に、あまり顔を赤くして歸つて來られるのが、不安だつたのである。宗助は夫《それ》なり放《はふ》つて置いた。然し腹の中《なか》では、果《はた》して御米の云ふ如く、何所かで金を借りるか、貰ふかして、夫《それ》程《ほど》好きもしないものを、わざと飲むのではなからうかと疑ぐつた。

　其うち年が段々片寄つて、夜が世界の三分の二を領《りやう》する樣に押し詰つて來た。風が毎日吹いた。其音を聞いてゐる丈《だけ》でも、生活《ライフ》に陰氣な響を與へた。小六はどうしても、六疊に籠つて、一日を送るに堪えなかつた。落ち付いて考へれば考へる程、頭が淋《さむ》しくつて、居たゝまれなくなる許《ばかり》であつた。茶の間へ出て嫂《あによめ》と話すのは猶《なほ》厭であつた。已《やむ》を得ず外へ出た。さうして友達の宅《うち》をぐる／＼回つて歩いた。友達も始のうちは、平生《いつも》の小六に對する樣に、若い學生のしたがる面白い話を幾何《いくら》でもした。けれども小六はさう云ふ話が盡きても、まだ遣つて來た。それで仕舞には、友達が、小六は、退屈の餘りに訪問をして、談話の復習に耽《ふけ》るものだと評した。たまには學校の下讀やら研究やらに追はれてゐる多忙の身だと云ふ風もして見せた。小六は友達からさう呑氣《のんき》な怠けものゝ樣に取り扱はれるのを、大變不愉快に感じた。けれども宅《うち》に落ち付いては、讀書も思索も、丸《まる》で出來なかつた。要するに彼位の年輩の青年が、一人前《いちにんまへ》の人間になる楷梯《かいてい》として、修むべき事、力《つと》むべき事には、内部の動搖やら、外部の束縛やらで、一切《いつさい》手が着かなかつたのである。

　夫《それ》でも冷たい雨が横に降つたり、雪融《ゆきどけ》の道がはげしく泥《ぬか》つたりする時は、着物を濡らさなければならず、足袋の泥を乾かさなければならない面倒があるので、如何《いか》な小六も時によると、外出を見合せる事があつた。さう云ふ日には、實際困却すると見えて、時々六疊から出て來て、のそりと火鉢の傍《そば》へ坐つて、茶などを注《つ》いで飲んだ。さうして其所に御米でもゐると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかつた。

　「小六さん御酒好き」と御米が開いた事があつた。

　「もう直《ぢき》御正月ね。貴方御雜※［者／火］いくつ上がつて」と聞いた事もあつた。

　さう云ふ場合が度重なるに連れて、二人の間は少しづゝ近寄る事が出來た。仕舞には、姉さん一寸こゝを縫つて下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼む樣になつた。さうして御米が絣《かすり》の羽織を受取つて、袖口の綻《ほころび》を繕《つくろ》つてゐる間、小六は何にもせずに其所へ坐つて、御米の手先を見詰めてゐた。これが夫《をつと》だと、何時《いつ》迄《まで》も黙つて針を動かすのが、御米の例であつたが、相手が小六の時には、さう投遣《なげやり》に出來ないのが、又御米の性質であつた。だからそんな時には力《つと》めても話をした。話の題目で、稍《やゝ》ともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未來を何うしたら好からうと云ふ心配であつた。

　「だつて小六さんなんか、まだ若いぢやありませんか。何をしたつて是からだわ。そりや兄さんの事よ。さう悲親しても可《い》いのわ。」

　御米は二度｜許《ばか》り斯ういふ慰め方をした。三度目には、

　「來年になれば、安さんの方で何うか都合して上げるつて受合つて下すつたんぢやなくつて」と聞いた。小六は其時｜不慥《ふたしか》な表情をして、

　「そりや安さんの計畫が、口でいふ通り旨く行けば譯はないんでせうが、段々考へると、何だか少し當にならない樣な氣がし出してね。鰹船《かつをぶね》もあんまり儲《まう》からない樣だから」と云つた。御米は小六の憮然《ぶぜん》としてゐる姿を見て、それを時々酒氣を帶びて歸つて來る、何所かに殺氣《さつき》を含んだ、しかも何が癪に障るんだか譯が分らないでゐて甚だ不平らしい小六と比較すると、心の中《うち》で氣の毒にもあり、又｜可笑《をか》しくもあつた。其時は、

　「本當にね。兄さんにさへ御金があると、何うでもして上げる事が出來るんだけれども」と、御世辭でも何でもない、同情の意を表した。

　其夕暮であつたか、小六は又寒い身體を外套《マント》に包《くる》んで出て行つたが、八時過に歸つて來て、兄夫婦の前で、袂から白い細長い袋を出して、寒いから蕎麥掻《そばがき》を拵らえて食はうと思つて、佐伯へ行つた歸りに買つて來たと云つた。さうして御米が湯を沸かしてゐるうちに、※［者／火］出しを拵えるとか云つて、しきりに鰹節《かつぶし》を掻いた。

　其時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとう／＼春迄延びた事を聞いた。此縁談は安之助が學校を卒業すると間もなく起つたもので、小六が房州から歸つて、叔母に學資の供給を斷わられる時分には、もう大分《だいぶ》話が進んでゐたのである。正式の通知が來ないので、何時《いつ》纒《まとま》つたか、宗助は丸《まる》で知らなかつたが、たゞ折々佐伯へ行つては、何か聞いて來る小六を通じてのみ、彼は年内に式を擧げる筈の新夫婦を豫想した。其他には、嫁の里がある會社員で、有福な生計《くらし》をしてゐる事と、其學校が女學館であるといふ事と、兄弟が澤山あると云ふ事｜丈《だけ》を、同じく小六を通じて耳にした。寫眞にせよ顔を知つてるのは小六｜許《ばかり》であつた。

　「好い器量？」と御米が聞いた事がある。

　「まあ好い方でせう」と小六が答へた事がある。

　其晩は何故《なぜ》暮のうちに式を濟まさないかと云ふのが、蕎麥掻の出來上る間、三人の話題になつた。御米は方位でも惡いのだらうと臆測した。宗助は押し詰つて日がないからだらうと考へた。獨り小六｜丈《だけ》が、

　「矢張《やつぱ》り物質的の必要かららしいです。先が何でも餘程｜派出《はで》な家《うち》なんで、叔母さんの方でもさう單簡《たんかん》に濟まされないんでせう」と何時《いつ》にない世帶染みた事を云つた。

　

　　　　　十一

　

　御米のぶら／＼し出したのは、秋も半《なか》ば過ぎて、紅葉《もみぢ》の赤黒く縮れる頃であつた。京都に居た時分は別として、廣島でも福岡でも、あまり健康な月日を送つた經驗のない御米は、此點に掛けると、東京へ歸つてからも、矢張り仕合せとは云へなかつた。この女には生れ故郷の水が、性《しやう》に合はないのだらうと、疑ぐれば疑ぐられる位、御米は一時惱んだ事もあつた。

　近頃はそれが段々落ち付いて來て、宗助の氣を揉む機會《ばあひ》も、年に幾度と勘定が出來る位少なくなつたから、宗助は役所の出入《でいり》に、御米は又｜夫《をつと》の留守の立居《たちゐ》に、等しく安心して時間を過す事が出來たのである。だから此年《ことし》の秋が暮れて、薄い霜を渡る風が、つらく肌を吹く時分になつて、又少し心持が惡くなり出しても、御米は夫《それ》程《ほど》苦にもならなかつた。始のうちは宗助にさへ知らせなかつた。宗助が見付けて、醫者に掛《か》ゝれと勸めても、容易に掛からなかつた。

　其所へ小六が引越して來た。宗助は其頃の御米を觀察して、體質の?態やら、精神の模樣やら、夫《をつと》丈《だけ》に能く知つてゐたから、成るべくは、人數《ひとかず》を殖やして宅《うち》の中を混雜《ごたつ》かせたくないとは思つたが、事情｜已《やむ》を得ないので、成るが儘にして置くより外に、手段の講じやうもなかつた。たゞ口の先で、成るべく安靜にしてゐなくては不可《いけ》ないと云ふ矛盾した助言は與へた。御米は微笑して、

　「大丈夫よ」と云つた。此答を得た時、宗助は猶の事安心が出來なくなつた。所が不思議にも、御米の氣分は、小六が引越して來てから、ずつと引立つた。自分に責任の少しでも加はつたため、心が緊張したものと見えて、却つて平生よりは、甲斐々々しく夫《をつと》や小六の世話をした。小六には夫《それ》が丸《まる》で通じなかつたが、宗助から見ると、御米が在來よりどれ程｜力《つと》めてゐるかが能く解つた。宗助は心のうちで、此まめやかな細君に新らしい感謝の念を抱くと同時に、かう氣を張り過ぎる結果が、一度に身體に障《さは》る樣な騷ぎでも引き起して呉れなければ可《い》いがと心配した。

　不幸にも、此心配が暮の二十日《はつか》過になつて、突然事實になりかけたので、宗助は豫期の恐怖に火が點《つ》いた樣に、いたく狼狽した。其日は判然《はつきウ》土に映らない空が、朝から重なり合つて、重い寒さが終日人の頭を抑え付けてゐた。御米は前の晩にまた寐られないで、休ませ損《そく》なつた頭を抱へながら、辛抱して働らき出したが、起《た》つたり動いたりするたびに、多少腦に應《こた》へる苦痛はあつても、比較的明るい外界の刺戟に紛れた爲か、凝《じつ》と寐てゐながら、頭｜丈《だけ》が冴えて痛むよりは、却つて凌《しの》ぎ易《やす》かつた。兎角して夫《をつと》を送り出す迄は、しばらくしたら又｜何時《いつ》もの樣に折り合つて來る事と思つて我慢してゐた。所が宗助がゐなくなつて、自分の義務に一段落が着いたといふ氣の弛《ゆる》みが出ると等しく、濁つた天氣がそろ／＼御米の頭を攻め始めた。空を見ると凍《こほ》つてゐる樣であるし、家《うち》の中《なか》にゐると、陰氣な障子の紙を透《とほ》して、寒さが浸《し》み込んで來るかと思はれる位だのに、御米の頭はしきりに熱《ほて》つて來た。仕方がないから、今朝あげた蒲團を又出して來て、座敷へ延べたまゝ横になつた。夫《それ》でも堪えられないので、清に濡手拭《ぬれてぬぐひ》を絞らして頭へ乘せた。それが直《ぢき》生温《なまぬる》くなるので、枕元に金盥《かなだらひ》を取り寄せて時々｜絞《しぼ》り易へた。

　午《ひる》迄《まで》こんな姑息手段《こそくしゆだん》で斷えず額を冷やして見たが、一向はか／”＼しい驗《げん》もないので、御米は小六のために、わざ／＼起きて、一所に食事をする根氣もなかつた。清にいひ付けて膳立《ぜんだて》をさせて、それを小六に薦《すゝ》めさした儘、自分は矢張り床を離れずにゐた。さうして、平生｜夫《をつと》のする柔《やはら》かい括枕《くゝりまくら》を持つて來て貰つて、堅いのと取り替へた。御米は髪の損《こは》れるのを、女らしく苦にする勇氣にさへ乏しかつたのである。

　小六は六疊から出て來て、一寸襖を開けて、御米の姿を覗き込んだが、御米が半《なか》ば床の間の方を向いて、眼を塞いでゐたので、寐付いたとでも思つたものか、一言《ひとこと》の口も利かずに、又そつと襖を閉めた。さうして、たつた一人大きな食卓を專領して、始めからさら／＼と茶漬を掻き込む音をさせた。

　二時頃になつて、御米は漸《や》つとの事、とろ／＼と眠つたが、眠が覺めたら額を捲《ま》いた濡れ手拭が殆んど乾く位暖かになつてゐた。其代り頭の方は少し樂になつた。たゞ肩から脊筋へ掛けて、全體に重苦しい樣な感じが新らしく加はつた。御米は何でも精を付けなくては毒だといふ考から、一人で起きて遅い午飯《ひるはん》を輕く食べた。

　「御氣分は如何《いかゞ》で御座います」と清が御給仕をしながら、しきりに聞いた。御米は大分《だいぶ》可《い》い樣だつたので、床を上げて貰つて、火鉢に倚《よ》つたなり、宗助の歸りを待ち受けた。

　宗助は例刻に歸つて來た。神田の通りで、門並《かどなみ》旗を立てゝ、もう暮の賣出しを始めた事だの、勸工場で紅白の幕を張つて樂隊に景氣を付けさしてゐる事だのを話した末、

　「賑やかだよ。一寸行つて御覽。なに電車に乘つて行けば譯はない」と勸めた。さうして自分は寒さに腐蝕《ふしよく》された樣に赤い顔をしてゐた。

　御米はかう宗助から勞《いた》はられた時、何だか自分の身體の惡い事を訴たへるに忍びない心持がした。實際又｜夫《それ》程《ほど》苦しくもなかつた。それで何時《いつ》もの通り何氣《なにげ》ない顔をして、夫《をつと》に着物を着換えさしたり、洋服を疊んだりして夜《よ》に入《い》つた。

　所が九時近くになつて、突然宗助に向つて、少し加減が惡いから先へ寐たいと云ひ出した。今迄平生の通り機嫌よく話してゐただけに、宗助は此言葉を聞いて一寸驚ろいたが、大した事でもないと云ふ御米の保證に、漸く安心してすぐ休む支度をさせた。

　御米が床へ這入つてから、約二十分｜許《ばかり》の間、宗助は耳の傍《はた》に鐵瓶の音を聞きながら、靜な夜《よ》を丸心《まるじん》の洋燈《らんぷ》に照らしてゐた。彼は來年度に一般官吏に�摯�の沙汰があるといふ評判を思ひ浮べた。又其前に改革か淘汰《たうた》が行はれるに違ないといふ噂に思ひ及んだ。さうして自分は何方《どつち》の方へ編入されるのだらうと疑つた。彼は自分を東京へ呼んで呉れた杉原が、今も猶《なほ》課長として本省にゐないのを遺憾とした。彼は東京へ移つてから不思議とまだ病氣をした事がなかつた。從つてまだ缺勤屆を出した事がなかつた。學校を中途で已《や》めたなり、本は殆んど讀まないのだから、學問は人並に出來ないが、役所でやる仕事に差支へる程の頭腦ではなかつた。

　彼は色々な事情を結合して考へた上、まあ大丈夫だらうと腹の中《なか》で極めた。さうして爪の先で輕く鐵瓶の縁《ふち》を敲《たゝ》いた。其時座敷で、

　「貴方一寸」と云ふ御米の苦しさうな聲が聞えたので、我知らず立ち上がつた。

　座敷へ來て見ると、御米は眉を寄せて、右の手で自分の肩を抑えながら、胸迄蒲團の外へ乘り出してゐた。宗助は殆んど器械的に、同じ所へ手を出した。さうして御米の抑えてゐる上から、固く骨の角《かど》を攫《つか》んだ。

　「もう少し後《うしろ》の方」と御米が訴へるやうに云つた。宗助の手が御米の思ふ所へ落ち付く迄には、二度も三度も其所此所と位置を易《か》えなければならなかつた。指で壓《お》して見ると、頸と肩の繼目の少し脊中へ寄つた局部が、石の樣に凝《こ》つてゐた。御米は男の力一杯にそれを抑えて呉れと頼んだ。宗助の額からは汗が※［者／火］染《にじ》み出した。それでも御米の滿足する程は力が出なかつた。

　宗助は昔の言葉で早打肩《はやうちかた》といふのを覺えてゐた。小さい時｜祖父《ぢゞい》から聞いた話に、ある侍《さむらひ》が馬に乘つて何處かへ行く途中で、急に此｜早打肩《はやうちかた》に冒されたので、すぐ馬から飛んで下りて、忽ち小柄《こづか》を拔くや否や、肩先を切つて血を出したため、危うい命を取り留めたといふのがあつたが、其話が今明らかに記憶の燒點《せうてん》に浮んで出た。其時宗助は是はならんと思つた。けれども果して刃物を用ひて、肩の肉を突いて可《い》いものやら、惡いものやら、決しかねた。

　御米は何時《いつ》になく逆上《のぼ》せて、耳迄赤くしてゐた。頭が熱いかと聞くと苦しさうに熱いと答へた。宗助は大きな聲を出して清に氷嚢《こほりぶくろ》へ冷たい水を入れて來いと命じた。氷嚢《こほりぶくろ》が生憎《あいにく》無かつたので、清は朝の通り金盥に手拭を浸《つ》けて持つて來た。清が頭を冷やしてゐるうち、宗助は矢張り精一杯肩を抑えてゐた。時々少しは可《い》いかと聞いても、御米は微《かす》かに苦しいと答へる丈《だけ》であつた。宗助は全く心細くなつた。思ひ切つて、自分で馳け出して醫者を迎《むかひ》に行かうとしたが、後《あと》が心配で一足も表へ出る氣にはなれなかつた。

　「清、御前急いで通りへ行つて、氷嚢《こほりぶくろ》を買つて醫者を呼んで來い。まだ早いから起きてるだらう」

　清はすぐ立つて茶の間の時計を見て、

　「九時十五分で御座います」と云ひながら、それなり勝手口へ回つて、ごそ／＼下駄を探してゐる所へ、旨い具合に外から小六が歸つて來た。例の通り兄には挨拶もしないで、自分の部屋へ這入らうとするのを、宗助はおい小六と烈しく呼び止めた。小六は茶の間で少し躊躇してゐたが、兄から又二聲程續けざまに大きな聲を掛けられたので、已《やむ》を得ず低い返事をして、襖《ふすま》から顏を出した。其顏は酒氣《しゆき》のまだ醒めない赤い色を眼の縁《ふち》に帶びてゐた。部屋の中を覗き込んで、始めて吃驚《びつくり》した樣子で、

　「何うかなすつたんですか」と醉が一時に去つた樣な表情をした。

　宗助は清に命じた通りを、小六に繰り返して、早くして呉れと急《せ》き立てた。小六は外套《マント》も脱がずに、すぐ玄關へ取つて返した。

　「兄さん、醫者迄行くのは急いでも時間が掛かりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ來る樣に頼みませう」

　「あゝ。左《さ》うして呉れ」と宗助は答へた。さうして小六の歸る間、清に何返《なんべん》となく金盥《かなだらひ》の水を易へさしては、一生懸命に御米の肩を壓《お》し付けたり、揉《も》んだりして見た。御米の苦しむのを、何もせずにたゞ見てゐるに堪えなかつたから、斯うして自分の氣を紛《まぎ》らしてゐたのである。

　此時の宗助に取つて、醫者の來るのを今か今かと待ち受ける心ほど苛《つら》いものはなかつた。彼は御米の肩を揉みながらも、絶えず表の物音に氣を配つた。

　漸く醫者が來たときは、始めて夜が明けた樣な心持がした。醫者は商賣柄｜丈《だけ》あつて、少しも狼狽《うろた》へた樣子を見せなかつた。小さい折鞄を脇に引き付けて、落付き拂つた態度で、慢性病の患者でも取り扱ふ樣に緩《ゆつ》くりした診察をした。其｜逼《せま》らない顔色を傍《はた》で見てゐた所爲《せゐ》か、わく／＼した宗助の胸も漸く治まつた。

　醫者は芥子《からし》を局部へ貼る事と、足を濕布で温める事と、夫《それ》から頭を氷で冷す事とを、應急手段として宗助に注意した。さうして自分で芥子《からし》を掻いて、御米の肩から頸の根へ貼り付けて呉れた。濕布は清と小六とで受持つた。宗助は手拭の上から氷嚢《こほりぶくろ》を額の上に當てがつた。

　兎角するうち約一時間も經つた。醫者はしばらく經過を見て行かうと云つて、夫《それ》迄《まで》御米の枕元に坐つてゐた。世間話も折々は交へたが、大方《おほかた》は無言の儘二人共に御米の容體を見守る事が多かつた。夜《よ》は例の如く靜に更けた。

　「大分《だいぶ》冷えますな」と醫者が云つた。宗助は氣の毒になつたので、あとの注意を能く聞いた上、遠慮なく引き取つて呉れる樣にと頼んだ。其時御米は先刻《さつき》よりは大分《だいぶ》輕快になつてゐたからである。

　「もう大丈夫でせう。頓服を一回上げますから今夜飲んで御覽なさい。多分寐られるだらうと思ひます」と云つて醫者は歸つた。小六はすぐ其｜後《あと》を追つて出て行つた。

　小六が藥取に行つた間に、御米は、

　「もう何時《なんじ》」と云ひながら、枕元の宗助を見上げた。宵とは違つて頬から血が退《ひ》いて、洋燈《らんぷ》に照らされた所が、ことに蒼白く映つた。宗助は黒い毛の亂れた所爲《せゐ》だらうと思つて、わざ／＼鬢《びん》の毛を掻き上げて遣つた。さうして、

　「少しは可《い》いだらう」と聞いた。

　「えゝ餘つ程樂になつたわ」と御米は何時《いつ》もの通り微笑を洩らした。御米は大抵苦しい場合でも、宗助に微笑を見せる事を忘れなかつた。茶の間では、清が突伏したまゝ鼾をかいてゐた。

　「清を寐かして遣つて下さい」と御米が宗助に頼んだ。

　小六が藥取りから歸つて來て、醫者の云ひ付け通り服藥を濟ましたのは、もう彼是《かれこれ》十二時近くであつた。それから二十分と經たないうちに、病人はすや／＼寐入つた。

　「好い塩梅《あんばい》だ」と宗助が御米の顏を見ながら云つた。小六もしばらく嫂《あによめ》の樣子を見守つてゐたが、

　「もう大丈夫でせう」と答へた。二人は氷嚢《こほりぶくろ》を額から卸《お》ろした。

　やがて小六は自分の部屋へ這入る、宗助は御米の傍《そば》へ床を延べて何時《いつ》もの如く寐た。五六時間の後《のち》冬の夜は錐《きり》の樣な霜を挾《さしは》さんで、からりと明け渡つた。それから一時間すると、大地を染める太陽が、遮ぎるものゝない蒼空に憚《はゞか》りなく上《のぼ》つた。御米はまだすや／＼寐てゐた。

　そのうち朝餉《あさげ》も濟んで、出勤の時刻が漸く近づいた。けれども御米は眠りから覺める氣色《けしき》もなかつた。宗助は枕邊《まくらべ》に曲《こゞ》んで、深い寐息を聞《き》ゝながら、役所へ行かうか休まうかと考へた。

　

　　　　　十二

　

　朝の内は役所で常の如く事務を執つてゐたが、折々｜昨夕《ゆうべ》の光景が眼に浮ぶに連れて、自然御米の病氣が氣に罹るので、仕事は思ふ樣に運ばなかつた。時には變な間違をさへした。宗助は午《ひる》になるのを待つて、思ひ切つて宅《うち》へ歸つて來た。

　電車の中では、御米の眠が何時《いつ》頃覺めたらう、覺めた後《あと》は心持が大分《だいぶ》好くなつたらう、發作ももう起る氣遣なからうと、凡《すべ》て惡くない想像ばかり思ひ浮べた。何時《いつ》もと違つて、乘客の非常に少ない時間に乘り合はせたので、宗助は周圍の刺戟に氣を使ふ必要が殆んどなかつた。それで自由に頭の中へ現はれる晝《ゑ》を何校となく眺めた。其うちに、電車は終點に來た。

　宅《うち》の門口《かどぐち》迄來ると、家の中《なか》はひつそりして、誰もゐない樣であつた。格子を開けて、靴を脱いで、玄關に上がつても、出て來るものはなかつた。宗助は何時《いつ》もの樣に縁側から茶の間へ行かずに、すぐ取付《とつつき》の襖を開けて、御米の寐てゐる座敷へ這入つた。見ると、御米は依然として寐てゐた。枕元の朱塗の盆に散藥《さんやく》の袋と洋杯《こつぷ》が載つてゐて、其｜洋杯《こつぷ》の水が半分殘つてゐる所も朝と同じであつた。頭を床の間の方へ向けて、左の頬と芥子《からし》を貼つた襟元が少し見える所も朝と同じであつた。呼息《いき》より外に現實世界と交通のない樣に思はれる深い眠も朝見た通りであつた。凡《すべ》てが今朝出掛に頭の中へ収めて行つた光景と少しも變つてゐなかつた。宗助は外套も脱がずに、上から曲《こゞ》んで、すう／＼いふ御米の寐息をしばらく聞いてゐた。御米は容易に覺めさうにも見えなかつた。宗助は昨夕《ゆうべ》御米が散藥を飲んでから以後の時間を指を折つて勘定した。さうして漸く不安の色を面《おもて》に表はした。昨夕《ゆうべ》迄は寐られないのが心配になつたが、斯う前後不覺に長く寐る所を眼《ま》のあたりに見ると、寐る方が何かの異?ではないかと考へ出した。

　宗助は蒲團へ手を掛けて二三度輕く御米を搖振《ゆすぶ》つた。御米の髪が括枕《くゝりまくら》の上で、波を打つ樣に動いたが、御米は依然としてすう／＼寐てゐた。宗助は御米を置いて、茶の間から臺所へ出た。流し元の小桶の中に茶碗と塗椀が洗はない儘｜浸《つ》けてあつた。下女部屋を覗くと、清が自分の前に小さな膳を控えたなり、御櫃《おはち》に倚《よ》りかゝつて突伏してゐた。宗助は又六疊の戸を引いて首を差し込んだ。其所には小六が掛蒲團を一枚頭から引被つて寐てゐた。

　宗助は一人で着物を着換えたが、脱ぎ捨てた洋服も、人手を借りずに自分で疊んで、押入に仕舞つた。それから火鉢へ火を繼《つ》いで、湯を沸かす用意をした。二三分は火鉢に持《も》たれて考へてゐたが、やがて立ち上がつて、先づ小六から起しに掛《か》ゝつた。次に清を起した。二人とも繁ろいて飛び起きた。小六に御米の今朝から今迄の樣子を聞くと、實は餘り眠いので、十一時半頃飯を食つて寐たのだが、夫《それ》迄《まで》は御米も能く熟睡してゐたのだと云ふ。

　「醫者へ行つてね。昨夜《ゆうべ》の藥を戴いてから寐出して、今になつても眠が覺めませんが、差支ないでせうかつて聞いて來て呉れ」

　「はあ」

　小六は簡單な返事をして出て行つた。宗助は又座敷へ來て御米の顔を熟視した。起して遣らなくつては惡い樣な、又起しては身體へ障る樣な、分別《ふんべつ》の付かない惑《まどひ》を抱《いだ》いて腕組をした。

　間もなく小六が歸つて來て、醫者は丁度往診に出掛ける所であつた、譯を話したら、では今から一二軒寄つてすぐ行かうと答へた、と告げた。宗助は醫者が見える迄、斯うして放《はふ》つて置いて構はないのかと小六に問ひ返したが、小六は醫者が以上より外に何にも語らなかつたと云ふ丈《だけ》なので、已《やむ》を得ず元の如く枕邊《まくらべ》に凝《じつ》と坐つてゐた。さうして心の中《うち》で、醫者も小六も不親切過ぎる樣に感じた。彼は其上｜昨夕《ゆうべ》御米を介抱してゐる時に歸つて來た小六の顏を思ひ出して、猶《なほ》不愉快になつた。小六が酒を呑む事は、御米の注意で始めて知つたのであるが、其後氣を付けて弟の樣子をよく見てゐると、成程何だか眞面目でない所もある樣なので、何時《いつ》かみつちり異見でもしなければなるまい位に考へてはゐたが、面白くもない二人の顔を御米に見せるのが、氣の毒なので、今日《けふ》迄わざと遠慮してゐたのである。

　「云ひ出すなら御米の寐てゐる今である。今ならどんな氣不味《きまづ》いことを双方で言ひ募つたつて、御米の神經に障る気遣はない」

　此所迄考へ付いたけれども、知覺のない御米の顏を見ると、又其方が氣掛《きがゝり》になつて、すぐにでも起したい心持がするので、つい決し兼てぐづ／＼してゐた。其所へ漸く醫者が來て呉れた。

　昨夕《ゆうべ》の折鞄を又丁寧に傍《わき》へ引き付けて、緩《ゆつ》くり卷烟草を吹かしながら、宗助の云ふことを、はあ／＼と聞いてゐたが、どれ拜見致しませうと御米の方へ向き直つた。彼は普通の場合の樣に病人の脈を取つて、長い間自分の時計を見詰めてゐた。それから黒い聽診器を心臓の上に當てた。それを丁寧に彼方此方《あちらこちら》と動かした。最後に丸い穴の開《あ》いた反射鏡を出して、宗助に?燭《らふそく》を點《つ》けて呉れと云つた。宗助は?燭を持たないので、清に洋燈《らんぷ》を點けさした。醫者は眠つてゐる御米の眼を押し開けて、仔細に反射鏡の光を睫《まつげ》の奧に集めた。診察は夫《それ》で終つた。

　「少し藥が利き過ぎましたね」と云つて宗助の方へ向き直つたが、宗助の眼の色を見るや否や、すぐ、

　「然し御心配になる事はありません。斯う云ふ場合に、もし惡い結果が起るとすると、屹度《きつと》心臓か腦を冒すものですが、今拜見した所では双方共異?は認められませんから」と説明して呉れた。宗助はそれで漸く安心した。醫者は又自分の用ひた眠り藥が比較的新らしいもので、學理上、他の睡眠劑の樣に有害でない事や、また其｜效目《きゝめ》が患者の體質に因つて、程度に大變な相違のある事などを語つて歸つた。歸るとき宗助は、

　「では寐られる丈《だけ》寐かして置いても差支ありませんか」と聞いたら、醫者は用さへなければ別に起す必要もあるまいと答へた。

　醫者が歸つたあとで、宗助は急に空腹になつた。茶の間へ出ると、先刻《さつき》掛けて置いた鐵瓶がちん／＼沸《たぎ》つてゐた。清を呼んで、膳を出せと命ずると、清は困つた顏付をして、まだ何の用意も出來てゐないと答へた。成程｜晩食《ばんめし》には少し間《ま》があつた。宗助は樂々と火鉢の傍《そば》に胡坐《あぐら》を掻いて、大根の香《かう》の物《もの》を?みながら湯漬《ゆづけ》を四杯ほどつゞけ樣《ざま》に掻き込んだ。それから約三十分程したら御米の眠がひとりでに覺めた。

　

　　　　　十三

　

　新年の頭を拵らえやうといふ氣になつて、宗助は久し振に髪結床《かみゆひどこ》の敷居を跨いだ。暮の所爲《せゐ》か客が大分《だいぶ》立て込んでゐるので、鋏の音が二三ケ所で、同時にちよき／＼鳴つた。此寒さを無理に乘り越して、一日も早く春に入らうと焦慮《あせ》るやうな表通《おもてどほり》の活動を、宗助は今見て來たばかりなので、其鋏の音が、如何にも忙《せは》しない響となつて彼の皷膜を打つた。

　しばらく煖爐《ストーブ》の傍《はた》で烟草を吹かして待つてゐる間に、宗助は自分と關係のない大きな世間の活動に否應なしに捲き込まれて、已《やむ》を得ず年を越さなければならない人の如くに感じた。正月を眼の前へ控えた彼は、實際是といふ新らしい希望もないのに、徒《いたづ》らに周圍から誘はれて、何だかざわ／＼した心持を抱《いだ》いてゐたのである。

　御米の發作《ほつさ》は漸く落ち付いた。今では平日《いつも》の如く外へ出ても、家《うち》の事がそれ程氣に掛《か》ゝらない位になつた。餘所《よそ》に比べると閑靜な春の支度も、御米から云へば、年に一度の忙がしさには違なかつたので、或は何時《いつ》も通《どほ》りの準備さへ拔いて、常よりも簡單に年を越す覺悟をした宗助は、蘇生《よみがへ》つた樣にはつきりした妻《さい》の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩｜遠退《とほの》いた時の如くに、胸を撫《な》で卸《おろ》した。然し其悲劇が又｜何時《いつ》如何なる形で、自分の家族を捕へに來るか分らないと云ふ、ぼんやりした掛念が、折々彼の頭のなかに霧となつて懸かつた。

　年の暮に、事を好むとしか思はれない世間の人が、故意《わざ》と短い日を前へ押し出したがつて齷齪《あくせく》する樣子を見ると、宗助は猶の事この茫漠たる恐怖の念に襲はれた。成らうことなら、自分｜丈《だけ》は陰氣な暗い師走《しはす》の中《うち》に一人殘つてゐたい思さへ起つた。漸く自分の番が來て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出《みいだ》した時、不圖《ふと》此影は本來何者だらうと眺めた。首から下は眞白な布に包まれて、自分の着てゐる着物の色も縞も全く見えなかつた。其時彼は又床屋の亭主が飼つてゐる小鳥の籠が、鏡の奧に映つてゐる事に氣が付いた。鳥が止《とま》り木《ぎ》の上をちらり／＼と動いた。

　頭へ香《にほひ》のする油を塗られて、景氣のいゝ聲を後《うしろ》から掛けられて、表へ出たときは、それでも清々《せい／＼》した心持であつた。御米の勸め通り髪を刈つた方が、結局《つまり》氣を新たにする効果があつたのを、冷たい空氣の中で、宗助は目覺した。

　水道税の事で一寸聞き合せる必要が生じたので、宗助は歸り路に坂井へ寄つた。下女が出て來て、此方《こちら》へと云ふから、何時《いつ》もの座敷へ案内するかと思ふと、其所を通り越して、茶の間へ導びいていつた。すると茶の間の襖が二尺ばかり開《あ》いてゐて、中から三四人の笑ひ聲が聞えた。坂井の家庭は相變らず陽気であつた。

　主人は光澤《つや》の好い長火鉢の向側《むかふがは》に坐つてゐた。細君は火鉢を離れて、少し縁側の障子の方へ寄つて、矢張《やはり》此方《こちら》を向いてゐた。主人の後《うしろ》に細長い黒い枠《わく》に嵌《は》めた柱時計が懸つてゐた。時計の右が壁で、左が袋戸棚になつてゐた。其｜張交《はりまぜ》に石摺《いしずり》だの、俳畫だの、扇の骨を拔いたものなどが見えた。

　主人と細君の外に、筒袖の揃ひの模樣の被布《ひふ》を着た女の子が二人肩を擦《す》り付け合つて坐つてゐた。片方は十二三で、片方は十《とを》位に見えた。大きな眼を揃へて、襖の陰から入《はい》つて來た宗助の方を向いたが、二人の眼元にも口元にも、今笑つた許《ばかり》の影が、まだゆたかに殘つてゐた。宗助は一應｜室《へや》の内を見回して、此親子の外に、まだ一人妙な男が、一番入口に近い所に畏まつてゐるのを見出《みいだ》した。

　宗助は坐つて五分と立たないうちに、先刻《さつき》の笑聲は、此變な男と坂井の家族との間に取り換はされた問答から出る事を知つた。男は砂埃《すなほこり》でざらつきさうな赤い毛と、日に燒けて生涯｜褪《さ》めつこない強い色を有《も》つてゐた。瀬戸物の釦《ぼたん》の着いた白木綿の襯衣《しやつ》を着て、手織の硬《こは》い布子《ぬのこ》の襟から財布の紐見たやうな長い丸打《まるうち》を懸けた樣子は、滅多に東京｜抔《など》へ出る機會のない遠い山の國のものとしか受け取れなかつた。其上男は此寒いのに膝小僧を少し出して、紺の落ちた小倉の帶の尻に差した手拭を拔いては鼻の下を擦《こす》つた。

　「是は甲斐の國から反物を脊負《しよ》つてわざ／＼東京迄出て來る男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、

　「何うか旦那、一つ買つて御呉《おく》れ」と挨拶をした。

　成程銘仙だの御召だの、白紬《しろつむぎ》だのが其所ら一面に取り散らしてあつた。宗助は此男の形裝《なり》や言葉遣の可笑《をか》しい割に、立派な品物を脊中へ乘せて歩行《ある》くのを寧ろ不思議に思つた。主人の細君の説明によると、此織屋の住んでゐる村は燒石ばかりで、米も粟も収《と》れないから、已《やむ》を得ず桑を植ゑて蠶を飼ふんださうであるが、餘程貧しい所と見えて、柱時計を持つてゐる家が一軒｜丈《だけ》で、高等小學へ通ふ小供が三人しかないといふ話であつた。

　「字の書けるものは、此人ぎりなんださうですよ」と云つて細君は笑つた。すると織屋も、

　「本當のこんだよ、奧さん。讀み書き算筆《さんびつ》の出來るものは、己《おれ》より外にねえんだからね。全く非道《ひど》い所にや違ない」と眞面目に細君の云ふ事を首肯《うけが》つた。

　織屋は色々の反物を主人や細君の前へ突き付けては、「買つて御呉《おく》れ」といふ言葉をしきりに繰り返した。そりや高いよ幾何々々《いくら／＼》に御負けなどゝ云はれると、「値ぢやねえね」とか、「拜むからそれで買つて御呉れ」とか、「まあ目方を見て御呉れ」とか凡《すべ》て異樣な田舎びた答をした。その度に皆《みんな》が笑つた。主人夫婦は又｜閑《ひま》だと見えて、面白半分に何時《いつ》迄《まで》も織屋を相手にした。

　「織屋、御前さうして荷を脊負《しよ》つて、外へ出て、時分どきになつたら、矢張《やつぱ》り御膳を食べるんだらうね」と細君が聞いた。

　「飯を食はねえでゐられるもんぢやないよ。腹の減る事ちうたら」

　「何んな所で食べるの」

　「何んな所で食べるちうて、矢つ張り茶屋で食ふだね」

　主人は笑ひながら茶屋とは何だと聞いた。織屋は、飯を食はす所が茶屋だと答へた。それから東京へ出立《でたて》には飯が非常に旨いので、腹を据ゑて食ひ出すと、大抵の宿屋は叶《かな》はない、三度々々食つちや氣の毒だと云ふ樣な事を話して、また皆《みんな》を笑はした。

　織屋は仕舞に撚糸《よりいと》の紬《つむぎ》と、白絽《しろろ》を一匹《いつぴき》細君に賣り付けた。宗助は此押し詰まつた暮に、夏の絽《ろ》を買ふ人を見て餘裕のあるものは又格別だと感じた。すると、主人が宗助に向つて、

　「何うです貴方も、序《ついで》に何か一つ。奧さんの不斷着でも」と勸めた。細君もかう云ふ機會に買つて置くと、幾割か値安に買へる便宜を説いた。さうして、

　「なに御拂は何時《いつ》でも可《い》いんです」と受合つて呉れた。宗助はとう／＼御米のために銘仙を一反買ふ事にした。主人はそれを散々値切つて三圓に負けさした。織屋は負けた後《あと》で又、

　「全く値ぢやねえね。泣きたくなるね」と云つたので、大勢がまた一度に笑つた。

　織屋は何處へ行つても斯ういふ鄙《ひな》びた言葉を使つて通してゐるらしかつた。毎日馴染みの家をぐる／＼回《まは》つて歩いてゐるうちには、脊中の荷が段々｜輕《かろ》くなつて、仕舞に紺の風呂敷と眞田紐《さなだひも》丈《だけ》が殘る。其時分には丁度舊の正月が來るので、一先《ひとまづ》國元へ歸つて、古い春を山の中で越して、夫《それ》から又新らしい反物を脊負《しよ》へる丈《だけ》脊負つて出て來るのだと云つた。

さうして養蠶の忙《せは》しい四月の末か五月の初｜迄《まで》に、それを悉皆《すつかり》金に換えて、又富士の北影の燒石｜許《ばかり》ころがつてゐる小村へ歸つて行くのださうである。

　「宅《うち》へ來出してから、もう四五年になりますが、何時《いつ》見ても同じ事で、少しも變らないんですよ」と細君が注意した。

　「實際珍らしい男です」と主人も評語を添へた。三日も外へ出ないと、町幅が何時《いつ》の間《ま》にか取り廣げられてゐたり、一日新聞を讀まないと、電車の開通を知らずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、斯う山男の特色を何處迄も維持して行くのは、實際珍らしいに違なかつた。宗助はつく／”＼此織屋の容貌やら態度やら服裝やら言葉使やらを勸察して、一種氣の毒な思をなした。

　彼は坂井を辭して、家《うち》へ歸る途中にも、折々イン?ネスの羽根の下に抱へて來た銘仙の包《つゝみ》を持ち易《か》へながら、それを三圓といふ安い價《ね》で賣つた男の、粗末な布子《ぬのこ》の縞《しま》と、赤くてばさ／＼した髪の毛と、其｜油氣《あぶらけ》のない硬《こは》い髪の毛が、何ういふ譯か、頭の眞中で立派に左右に分けられてゐる樣を、絶えず眠の前に浮べた。

　宅《うち》では御米が、宗助に着せる春の羽織を漸く縫ひ上げて、壓《おし》の代りに坐蒲團の下へ入れて、自分で其上へ坐つてゐる所であつた。

　「貴方今夜敷いて寐て下さい」と云つて、御米は宗助を顧みた。夫《をつと》から、坂井へ來てゐた甲斐《かひ》の男の話を聞いた時は、御米も流石《さすが》に大きな聲を出して笑つた。さうして宗助の持つて歸つた銘仙の縞柄《しまがら》と地合《ぢあひ》を飽かず眺めては、安い／＼と云つた。銘仙は全く品《しな》の良《い》いものであつた。

　「何うして、さう安く賣つて割に合ふんでせう」と仕舞に聞き出した。

　「なに中へ立つ呉服屋が儲《まう》け過ぎてるのさ」と宗助は其道に明るい樣な事を、此一反の銘仙から推斷して答へた。

　夫婦の話はそれから、坂井の生活に餘裕のある事と、其餘裕のために、横町の道具屋などに意外な儲《まう》け方をされる代りに、時とすると斯う云ふ織屋などから、差し向き不用のものを廉価に買つて置く便宜を有してゐる事などに移つて、仕舞に其家庭の如何にも陽氣で、賑やかな模樣に落ちて行つた。宗助は其時突然語調を更《か》へて、

　「何《なに》金があるばかりぢやない。一つは子供が多いからさ。子供さへあれば、大抵貧乏な家《うち》でも陽氣になるものだ」と御米を覺《さと》した。

　其云ひ方が、自分達の淋《さみ》しい生涯を、多少｜自《みづか》ら窘《たしな》める樣な苦《にが》い調子を、御米の耳に傳へたので、御米は覺えず膝の上の反物から手を放して夫《をつと》の顏を見た。宗助は坂井から取つて來た品が、御米の嗜好《しかう》に合つたので、久し振りに細君を喜ばせて遣つた自覺があるばかりだつたから、別段そこには氣が付かなかつた。御米も一寸宗助の顏を見たなり其時は何にも云はなかつた。けれども夜《よ》に入《い》つて寐る時間が來る迄御米はそれをわざと延ばして置いたのである。

　二人は何時《いつ》もの通り十時過床に入《い》つたが、夫《をつと》の眼がまだ覺めてゐる頃を見計らつて、御米は宗助の方を向いて話しかけた。

　「貴方｜先刻《さつき》小供がないと淋《さむ》しくつて不可《いけ》ないと仰しやつてね」

　宗助は是に類似の事を普般的に云つた覺は慥《たし》かにあつた。けれどもそれは強《あな》がちに、自分達の身の上に就て、特に御米の注意を惹《ひ》く爲に口にした、故意の觀察でないのだから、斯う改たまつて聞き糺《たゞ》されると、困るより外はなかつた。

　「何も宅《うち》の事を云つたのぢやないよ」

　此返事を受けた御米は、しばらく黙つてゐた。やがて、

　「でも宅《うち》の事を始終｜淋《さむ》しい／＼と思つてゐらつしやるから、必竟あんな事を仰しやるんでせう」と前と略《ほゞ》似た樣な問を繰り返した。宗助は固《もと》よりさうだと答へなければならない或物を頭の中《なか》に有《も》つてゐた。けれども御米を憚つて、それ程｜明白地《あからさま》な自白を敢てし得なかつた。此病氣上りの細君の心を休める爲には、却つてそれを冗談にして笑つて仕舞ふ方が善からうと考へたので、

　「淋《さむ》しいと云へば、そりや淋《さむ》しくないでもないがね」と調子を易へて成るべく陽氣に出たが、其所で詰まつたぎり、新らしい文句も、面白い言葉も容易に思ひ付けなかつた。已《やむ》を得ず、

　「まあ可《い》いや。心配するな」と云つた。御米はまた何とも答へなかつた。宗助は話題を變へやうと思つて、

　「昨夕《ゆうべ》も火事があつたね」と世間話をし出した。すると御米は急に、

　「私は實に貴方に御氣の毒で」と切なさうに言譯を半分して、又それなり黙つて仕舞つた。洋燈《らんぷ》は何時《いつ》もの樣に床の間の上に据ゑてあつた。御米は灯《ひ》に背《そむ》いてゐたから、宗助には顔の表情が判然《はつきり》分らなかつたけれども、其聲は多少涙でうるんでゐる樣に思はれた。今迄仰向いて天井を見てゐた彼は、すぐ妻の方へ向き直つた。さうして薄暗い影になつた御米の顏を凝《じつ》と眺めた。御米も暗い中から凝《じつ》と宗助を見てゐた。さうして、

　「疾《とう》から貴方に打ち明けて謝罪《あや》まらう／＼と思つてゐたんですが、つい言ひ惡《にく》かつたもんだから、夫《それ》なりにして置いたのです」と途切れ／＼に云つた。宗助には何の意味か丸《まる》で解らなかつた。多少はヒステリーの所爲《せゐ》かとも思つたが、全然さうとも決しかねて、しばらく茫然《ぼんやり》してゐた。すると御米が思ひ詰めた調子で、

　「私にはとても子供の出來る見込はないのよ」と云ひ切つて泣き出した。

　宗助は此可憐な自白を何う慰さめて可《い》いか分別に餘つて當惑してゐたうちにも、御米に對して甚だ氣の毒だといふ思が非常に高まつた。

　「子供なんざ、無くても可《い》いぢやないか。上の坂井さん見た樣に澤山生れて御覽、傍《はた》から見てゐても氣の毒だよ。丸《まる》で幼稚園の樣で」

　「だつて一人《ひとり》も出來ないと極つちまつたら、貴方だつて好かないでせう」

　「まだ出來ないと極りやしないぢやないか。是から生れるかも知れないやね」

　御米は猶《なほ》と泣き出した。宗助も途方に暮れて、發作《ほつさ》の治《をさ》まるのを穩やかに待つてゐた。さうして、緩《ゆつ》くり御米の説明を聞いた。

　夫婦は和合同棲といふ點に於て、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であつた。それも始から宿る種がなかつたのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、更《さら》に不幸の感が深かつた。

　始めて身重《みおも》になつたのは、二人が京都を去つて、廣島に瘠世帶《やせじよたい》を張つてゐる時であつた。懷妊《くわいにん》と事が極つたとき、御米は此新らしい經驗に對して、恐ろしい未來と、嬉しい未來を一度に夢に見る樣な心持を抱《いだ》いて日を過ごした。宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確證となるべき形を與へた事實と、ひとり解釋して少なからず喜んだ。さうして自分の命を吹き込んだ肉の塊《かたまり》が、目の前に踴《をど》る時節を指を折つて樂しみに待つた。所が胎兒は、夫婦の豫期に反して、五ケ月迄育つて突然｜下《お》りて仕舞つた。其時分の夫婦の活計《くらし》は苦しい苛《つら》い月ばかり續いてゐた。宗助は流産した御米の蒼い顏を眺めて、是も必竟《つまり》は世帶の苦勞から起るんだと判じた。さうして愛情の結果が、貧のために打ち崩されて、永く手の裡《うち》に捕《とら》へる事の出來なくなつたのを殘念がつた。御米はひたすら泣いた。

　福岡へ移つてから間もなく、御米は又｜酸いものを嗜《たし》む人となつた。一度流産すると癖になると聞いたので、御米は萬《よろづ》に注意して、つゝましやかに振舞つてゐた。其｜所爲《せゐ》か經過は至極順當に行つたが、どうした譯か、是といふ原因もないのに、月足らずで生れて仕舞つた。産婆は首を傾けて、一度醫者に見せる樣に勸めた。醫者に診《み》て貰ふと、發育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、晝夜とも變らない位、人工的に暖めなければ不可《いけ》ないと云つた。宗助の手際では、室内に煖爐を据ゑ付ける設備をする丈《だけ》でも容易ではなかつた。夫婦はわが時間と算段の許す限りを盡して、專念に赤兒の命を護つた。けれども凡《すべ》ては徒勞に歸した。一週間の後《のち》、二人の血を分けた情《なさけ》の塊《かたまり》は遂に冷たくなつた。御米は幼兒の亡骸《なきがら》を抱《だ》いて、

　「何うしませう」と啜《すゝ》り泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になつて、其灰が又黒い土に和《くわ》する迄、一口も愚痴《ぐち》らしい言葉は出さなかつた。其内｜何時《いつ》となく、二人の間に挾まつてゐた影の樣なものが、次第に遠退いて、程なく消えて仕舞つた。

　すると三度目の記憶が來た。宗助が東京に移つて始ての年に、御米は又懐姙したのである。出京の當座は、大分《だいぶん》身體が衰ろへてゐたので、御米は勿論、宗助もひどく其所を氣遣つたが、今度こそはといふ腹は兩方にあつたので、張のある月を無事に段々と重ねて行つた。所が丁度｜五月目《いつつきめ》になつて、御米は又意外の失敗《しくじり》を遣つた。其頃はまだ水道も引いてなかつたから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかつた。御米はある日裏にゐる下女に云ひ付ける用が出來たので、井戸流《ゐどながし》の傍《そば》に置いた盥《たらひ》の傍《そば》迄行つて話をした序《ついで》に、流《ながし》を向《むかふ》へ渡らうとして、青い苔《こけ》の生へてゐる濡れた板の上へ尻持を突いた。御米はまた遣り損《そく》なつたとは思つたが、自分の粗忽を面目ながつて、宗助にはわざと何事も語らずに其場を通した。けれども此震動が、何時《いつ》迄經つても胎兒の發育に是といふ影響も及ぼさず、從つて自分の身體にも少しの異?を引き起さなかつた事が慥《たしか》に分つた時、御米は漸く安心して過去の失《しつ》を改めて宗助の前に告げた。宗助は固《もと》より妻を咎める意もなかつた。たゞ、

　「能く氣を付けないと危ないよ」と穩やかに注意を加へて過ぎた。

　兎角するうちに月が滿ちた。愈《いよ／＼》生れるといふ間際《まぎは》迄《まで》日が詰つたとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに氣に掛つた。歸りには何時《いつ》も、今日はことによると留守のうちに抔《など》と案じ續けては、自分の家の格子の前に立つた。さうして半ば豫期してゐる赤兒の泣聲が聞えないと、却つて何かの變でも起つたらしく感じて、急いで宅《うち》へ飛び込んで、自分と自分の粗忽《そこつ》を恥づる事があつた。

　幸に御米の産氣《さんけ》づいたのは、宗助の外《そと》に用のない夜中だつたので、傍《そば》にゐて世話の出來ると云ふ點から見れば甚だ都合が好かつた。産婆も緩《ゆつ》くり間に合ふし、脱脂綿其他の準備も悉《こと／”＼》く不足なく取り揃へてあつた。産も案外輕かつた。けれども肝心の小兒《こども》は、たゞ子宮を逃《のが》れて廣い所へ出たといふ迄で、浮世の空氣を一口も呼吸しなかつた。産婆は細い硝子《がらす》の管の樣なものを取つて、小《ち》さい口の内《なか》へ強い呼息《いき》をしきりに吹き込んだが、効目《きゝめ》は丸《まる》でなかつた。生れたものは肉｜丈《だけ》であつた。夫婦は此肉に刻み付けられた、眼と鼻と口とを髣髴《はうふつ》した。然し其｜咽喉《のど》から出る聲は遂に聞く事が出來なかつた。

　産婆は出産のあつたつい一週間｜前《まへ》に來て、丁寧に胎兒の心臓迄聽診して、至極御健全だと保證して行つたのである。よし産婆の云ふ事に間違があつて、腹の兒《こ》の發育が今迄のうちに何處かで止つてゐたにした所で、それが直《すぐ》取り出されない以上、母體は今日《こんにち》迄平氣に持ち應《こた》へる譯がなかつた。其所を段々調べて見て、宗助は自分が未だ甞て聞いた事のない事實を發見した時に、思はず恐れ驚ろいた。胎兒は出る間際｜迄《まで》健康であつたのである。けれども臍帶纒絡《さいたいてんらく》と云つて、俗に云ふ胞《えな》を頸へ捲《ま》き付けてゐた。斯う云ふ異常の場合には、固《もと》より産婆の腕で切り拔けるより外に仕樣のないもので、經驗のある婆さんなら、取り上げる時に、旨く頸に掛《か》ゝつた胞《えな》を外《はづ》して引き出す筈であつた。宗助の頼んだ産婆も可成《かなり》年を取つてゐる丈《だけ》に、此位のことは心得てゐた。然し胎兒の頸を絡《から》んでゐた臍帶《さいたい》は、時たまある如く一重《ひとへ》ではなかつた。二重《ふたへ》に細い咽喉《のど》を卷いてゐる胞《えな》を、あの細い所を通す時に外《はづ》し損《そく》なつたので、小兒《こども》はぐつと気管を絞められて窒息して仕舞つたのである。

　罪は産婆にもあつた。けれども半《なかば》以上は御米の落度《おちど》に違なかつた。臍帶纒絡《さいたいてんらく》の變?は、御米が井戸端で滑つて痛く尻餠を搗《つ》いた五ケ月前既に自《みづか》ら釀《かも》したものと知れた。御米は産後の蓐中《じよくちゆう》に其始末を聞いて、たゞ輕く首肯《うなづ》いたぎり何にも云はなかつた。さうして、疲勞に少し落ち込んだ眼を霑《うる》ませて、長い睫毛《まつげ》をしきりに動かした。宗助は慰さめながら、手吊《はんけち》で頬に流れる涙を拭いて遣つた。

　是が子供に關する夫婦の過去であつた。此苦い經驗を甞《な》めた彼等は、それ以後幼兒に就て餘り多くを語るを好まなかつた。けれども二人の生活の裏側は、此記憶のために淋《さむ》しく染め付けられて、容易に剥げさうには見えなかつた。時としては、彼我の笑聲を通してさへ、御互の胸に、此裏側が薄暗く映る事もあつた。斯ういふ譯だから、過去の歴史を今｜夫《をつと》に向つて新たに繰り返さうとは、御米も思ひ寄らなかつたのである。宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めてゐなかつたのである。

　御米の夫《をつと》に打ち明けると云つたのは、固《もと》より二人の共有してゐた事實に就てではなかつた。彼女は三度目の胎兒を失つた時、夫《をつと》から其折の模樣を聞いて、如何にも自分が殘酷な母であるかの如く感じた。自分が手を下《くだ》した覺がないにせよ、考へ樣によつては、自分と生を與へたものの生を奪ふために、暗闇《くらやみ》と明海《あかるみ》の途中に待ち受けて、これを絞殺《かうさつ》したと同じ事であつたからである。斯う解釋した時、御米は恐ろしい罪を犯した惡人と己《おのれ》を見傚《みな》さない譯に行かなかつた。さうして思はざる�ｺ義上の苛責《かしやく》を人知れず受けた。しかも其苛責を分つて、共に苦しんで呉れるものは世界中に一人もなかつた。御米は夫《をつと》にさへ此苦しみを語らなかつたのである。

　彼女は其時普通の産婦の樣に、三週間を床の中で暮らした。それは身體から云ふと極めて安靜の三週問に違なかつた。同時に心から云ふと、恐るべき忍耐の三週間であつた。宗助は亡兒のために、小さい柩《ひつき》を拵らえて、人の眼に立たない葬儀を營なんだ。しかる後、又死んだもののために小さな位牌を作つた。位牌には黒い漆《うるし》で戒名《かいみやう》が書いてあつた。位牌の主《ぬし》は戒名を持つてゐた。けれども俗名《ぞくみやう》は兩親《ふたおや》といへども知らなかつた。宗助は最初それを茶の間の箪笥の上へ載せて、役所から歸ると絶えず線香を焚いた。其｜香《にほひ》が六疊に寐てゐる御米の鼻に時々｜通《かよ》つた。彼女の官能は當時それ程に鋭どくなつてゐたのである。しばらくしてから、宗助は何を考へたか、小さい位牌を箪笥の抽出《ひきだし》の底へ仕舞つてしまつた。其所には福岡で亡くなつた小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包《くる》んで丁寧に入れてあつた。東京の家を疊むとき宗助は先祖の位牌を一つ殘らず携えて、諸所を漂泊するの煩はしさに堪えなかつたので、新らしい父の分｜丈《だけ》を鞄《かばん》の中に収めて、其他は悉《こと／”＼》く寺へ預けて置いたのである。

　御米は宗助のする凡《すべ》てを寐ながら見たり聞いたりしてゐた。さうして布團の上に仰向になつた儘、此二つの小《ち》さい位牌を、眼に見えない因果の糸を長く引いて互に結び付けた。それから其糸を猶《なほ》遠く延ばして、是は位牌にもならずに流れて仕舞つた、始めから形のない、ぼんやりした影の樣な死兒の上に投げかけた。御米は廣島と福岡と東京に殘る一つ宛《づゝ》の記憶の底に、動かしがたい運命の嚴かな支配を認めて、其嚴かな支配の下《もと》に立つ、幾月日《いくつきひ》の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると觀じた時、時ならぬ呪詛《のろひ》の聲を耳の傍《はた》に聞いた。彼女が三週間の安靜を、蒲團の上に貪《むさ》ぼらなければならないやうに、生理的に強ひられてゐる間、彼女の鼓膜は此｜呪詛《のろひ》の聲で殆んど絶えず鳴つてゐた。三週間の安臥は、御米に取つて實に比類のない忍耐の三週間であつた。

　御米は此苦しい半月餘りを、枕の上で凝《じつ》と見詰めながら過ごした。仕舞には我慢して横になつてゐるのが、如何にも苛《つら》かつたので、看護婦の歸つた明《あく》る日に、こつそり起きてぶら／＼して見たが、それでも心に逼る不安は、容易に紛らせなかつた。退儀《たいぎ》な身體を無理に動かす割に、頭の中は少しも動いて呉れないので、又｜落膽《がつか》りして、ついには取り放しの夜具の下へ潜《もぐ》り込んで、人の世を遠ざける樣に、眼を堅く閉《つぶ》つて仕舞ふ事もあつた。

　其内定期の三週間も過ぎて、御米の身體は自《おのづ》からすつきりなつた。御米は寄麗に床を拂つて、新らしい氣のする眉を再び鏡に照らした。それは更衣《ころもがへ》の時節であつた。御米も久し振に綿の入《い》つた重いものを脱ぎ棄てゝ、肌に垢《あか》の觸れない輕い氣特を爽《さわ》やかに感じた。春と夏の境をぱつと飾る陽氣な日本の風物は、淋《さむ》しい御米の頭にも幾分かの反響を與へた。けれども、夫《それ》はたゞ沈んだものを掻き立てて、賑やかな光りのうちに浮かした迄であつた。御米の暗い過去の中に其時一種の好奇心が萌《きざ》したのである。

　天氣の勝《すぐ》れて美くしいある日の午前、御米は何時《いつ》もの通り宗助を送り出してから直《ぢき》に、表へ出た。もう女は日傘を差して外を行くべき時節であつた。急いで日向《ひなた》を歩くと額の邊《あたり》が少し汗ばんだ。御米は歩き／＼、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思はず一番目の抽出の底に仕舞つてあつた、新らしい位牌に手が觸れた事を思ひつゞけて、とう／＼ある易者《えきしや》の門を潜《くゞ》つた。

　彼女は多數の文明人に共通な迷信を子供の時から持つてゐた。けれども平生は其迷信が又多數の文明人と同じ樣に、遊戯的に外に現はれる丈《だけ》で濟んでゐた。それが實生活の嚴《おごそ》かな部分を冒す樣になつたのは、全く珍らしいと云はなければならなかつた。御米は其時眞面目な態度と眞面目な心を有《も》つて、易者の前に坐つて、自分が將來子を生むべき、又子を育てるべき運命を天から與へられるだらうかを確めた。易者は大道に店を出して、往來の人の身の上を一二錢で占《うら》なふ人と、少しも違つた樣子もなく、算木《さんぎ》を色々に並べて見たり、筮竹《ぜいちく》を揉んだり數へたりした後で、仔細らしく腮《あご》の下の髯を握つて何か考へたが、終りに御米の顔をつく／”＼眺めた末、

　「貴方には子供は出來ません」と落ち付き拂つて宣告した。御米は無言の儘、しばらく易者の言葉を頭の中で?んだり碎いたりした。それから顔を上げて、

　「何故《なぜ》でせう」と聞き返した。其時御米は易者が返事をする前に、又考へるだらうと思つた。所が彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまゝ、すぐ

　「貴方は人に對して濟まない事をした覺がある。其罪が祟《たゝ》つてゐるから、子供は決して育たない」と云ひ切つた。御米は此｜一言《いちげん》に心臓を射拔かれる思があつた。くしやりと首を折つたなり家《うち》へ歸つて、其夜は夫《をつと》の顔さへ碌々《ろく／＼》見上げなかつた。

　御米の宗助に打ち明けないで、今迄過したといふのは、此易者の判斷であつた。宗助は床の間に乘せた細い洋燈《らんぷ》の灯《ひ》が、夜の中に沈んで行きさうな靜かな晩に始めて御米の口から其話を聞いたとき、流石《さすが》に好い氣味はしなかつた。

　「神經の起つた時、わざ／＼そんな馬鹿な所へ出掛けるからさ。錢《ぜに》を出して下らない事を云はれて詰らないぢやないか。其《その》後《ご》もその占《うらなひ》の宅《うち》へ行くのかい」

　「恐ろしいから、もう決して行かないわ」

　「行かないが可《い》い。馬鹿氣てゐる」

　宗助はわざと鷹揚《おうやう》な答をして又寐て仕舞つた。

　

　　　　　十四

　

　宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかつた。一所になつてから今日《こんにち》迄《まで》六年程の長い月日を、まだ半日も氣不味《きまづ》く暮した事はなかつた。言逆《いさかひ》に顔を赤らめ合つた試《ためし》は猶なかつた。二人は呉服屋の反物を買つて着た。米屋から米を取つて食つた。けれども其他には一般の社會に待つ所の極《きは》めて少ない人間であつた。彼等は、日常の必要品を供給する以上の意味に於て、社會の存在を殆んど認めてゐなかつた。彼等に取つて絶對に必要なものは御互｜丈《だけ》で、其御互｜丈《だけ》が、彼等にはまた充分であつた。彼等は山の中にゐる心を抱《いだ》いて、都會に住んでゐた。

　自然の勢として、彼等の生活は單調に流れない譯に行かなかつた。彼等は複雜な社會の煩《わづらひ》を避け得たと共に、其社會の活動から出る樣々の經驗に直接觸れる機會を、自分と塞いで仕舞つて、都會に住みながら、都會に住む文明人の特權を棄てた樣な結果に到着した。彼等も自分達の日常に變化のない事は折々自覺した。御互が御互に飽きるの、物足りなくなるのといふ心は微塵《みぢん》も起らなかつたけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟に乏しい或物が潜んでゐる樣な鈍《にぶ》い訴《うつたへ》があつた。それにも拘はらず、彼等が毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦《う》まず渡つて來たのは、彼等が始から一般の社會に興味を失つてゐたためではなかつた。社會の方で彼等を二人｜限《ぎり》に切り詰めて其二人に冷かな背《そびら》を向けた結果に外ならなかつた。外に向つて生長する餘地を見出《みいだ》し得なかつた二人は、内に向つて深く延び始めたのである。彼等の生活は廣さを失なふと同時に、深さを�揩ｵて來た。彼等は六年の間世間に散漫な交渉を求めなかつた代りに、同じ六年の歳月《さいげつ》を擧げて、互の胸を堀り出した。彼等の命は、いつの間《ま》にか互の底に迄喰ひ入つた。二人は世間から見れば依然として二人であつた。けれども互から云へば、道義上切り離す事の出來ない一つの有機體になつた。二人の精神を組み立てる神經系は、最後の繊維に至る迄、互に抱き合つて出來上つてゐた。彼等は大きな水盤の表に滴《した》たつた二點の油の樣なものであつた。水を彈《はじ》いて二つが一所《いつしよ》に集まつたと云ふよりも、水に彈《はじ》かれた勢《いきほひ》で、丸く寄り添つた結果、離れる事が出來なくなつたと評する方が適當であつた。

　彼等は此｜抱合《はうがふ》の中《うち》に、尋常の夫婦に見出《みいだ》し難い親和と飽滿と、それに伴なう倦怠《けんたい》とを兼ね具へてゐた。さうして其倦怠の慵《ものう》い氣分に支配されながら、自己を幸福と評價する事｜丈《だけ》は忘れなかつた。倦怠は彼等の意識に眠の樣な幕を掛けて、二人の愛をうつとり霞ます事はあつた。けれども簓《さゝら》で神經を洗はれる不安は決して起し得なかつた。要するに彼等は世間に疎《うと》い丈《だけ》それ丈《だけ》仲の好い夫婦であつたのである。

　彼等は人並以上に睦《むつ》ましい月日を渝《かは》らずに今日《けふ》から明日《あす》へと繋いで行きながら、常は其所に氣が付かずに顏を見合はせてゐる樣なものゝ、時々自分達の陛《むつ》まじがる心を、自分で確《しか》と認める事があつた。その場合には必ず今迄睦まじく過ごした長の歳月《としつき》を溯《さか》のぼつて、自分達が如何な犧牲を拂つて、結婚を敢てしたかと云ふ當時を憶ひ出さない譯には行かなかつた。彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐の下《もと》に戰《をのゝ》きながら跪《ひざま》づいた。同時に此復讐を受けるために得た互の幸福に對して、愛の神に一瓣《いちべん》の香《かう》を焚く事を忘れなかつた。彼等は鞭《むちう》たれつゝ死《し》に赴くものであつた。たゞ其｜鞭《むち》の先に、凡《すべ》てを癒やす甘い蜜の着いてゐる事を覺《さと》つたのである。

　宗助は相當に資産のある東京ものゝ子弟として、彼等に共通な派手《はで》な嗜好を、學生時代には遠慮なく充たした男である。彼は其時｜服裝《なり》にも、動作にも、思想にも、悉《こと／”＼》く當世らしい才人の面影を漲らして、昂《たか》い首を世間に擡《もた》げつゝ、行かうと思ふ邊りを濶歩《くわつぽ》した。彼の襟の白かつた如く、彼の洋袴《ずぼん》の裾が奇麗に折り返されてゐた如く、其下から見える彼の靴足袋が模樣入のカシミヤであつた如く、彼の頭は華奢《きやしや》な世間向きであつた。

　彼は生《うま》れ付《つき》理解の好い男であつた。從つて大した勉強をする氣にはなれなかつた。學問は社會へ出るための方便と心得てゐたから、社會を一歩｜退《しり》ぞかなくつては達する事の出來ない、學者といふ地位には、餘り多くの興味を有《も》つてゐなかつた。彼はたゞ�ﾍ場へ出て、普通の學生のする通り、多くのノートブツクを黒くした。けれども宅《うち》へ歸つて來て、それを讀み直したり、手を入れたりした事は滅多になかつた。休んで拔けた所さへ大抵は其儘にして放《はふ》つて置いた。彼は下宿の机の上に、此ノートブツクを奇麗に積み上げて、何時《いつ》見ても整然と秩序の付いた書齋を空《から》にしては、外を出歩るいた。友達は多く彼の寛濶《くわんくわつ》を羨んだ。宗助も得意であつた。彼の未來は虹《にじ》の樣に美くしく彼の眸《ひとみ》を照らした。

　其頃の宗助は今と違つて多くの友達を持つてゐた。實を云ふと、輕快な彼の眼に映ずる凡《すべ》ての人は、殆んど誰彼の區別なく友達であつた。彼は敵といふ言葉の意味を正常に解し得ない樂天家として、若い世をのび／＼と渡つた。

　「なに不景気な顔さへしなければ、何處へ行つたつて驩迎《くわんげい》されるもんだよ」と學友の安井《やすゐ》によく話した事があつた。實際彼の顔は、他《ひと》を不愉快にする程深刻な表情を元し得た試《ためし》がなかつた。

　「君は身體が丈夫だから結構だ」とよく何處かに故障の起る安井が羨ましがつた。此安井といふのは國は越前《ゑちぜん》だが、長く横濱に居たので、言葉や樣子は毫も東京ものと異《こと》なる點がなかつた。着物道樂で、髪の毛を長くして眞中から分ける癖があつた。高等學校は違つてゐたけれども、講義のときよく隣合せに並んで、時々聞き損《そく》なつた所｜抔《など》を後から質問するので、口を利き出したのが元になつて、つい懇意になつた。それが學年の始《はじま》りだつたので、京都へ來て日のまだ淺い宗助には大分《だいぶん》の便宜であつた。彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒の如く吸ひ込んだ。二人は毎晩の樣に三條とか四條とかいふ賑やかな町を歩いた。時によると京極《きやうごく》も通り拔けた。橋の眞中に立つて鴨川の水を眺めた。東山《ひがしやま》の上に出る靜かな月を見た。さうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きい樣に感じた。町や人に厭《あ》きたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。宗助は至る所の大竹薮に緑の籠る深い姿を喜んだ。松の幹の染めた樣に赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情《ふぜい》を樂しんだ。ある時は大悲閣《だいひかく》へ登つて、即非《そくひ》の額の下に仰向きながら、谷底の流を下《くだ》る櫓《ろ》の音を聞いた。其音が雁《かり》の鳴聲によく似てゐるのを二人とも面白がつた。ある時は、平八茶屋《へいはちぢやや》迄出掛けて行つて、そこに一日寐てゐた。さうして不味《まづ》い河魚の串《くし》に刺したのを、かみさんに燒かして酒を呑んだ。其かみさんは、手拭を被つて、紺の立付《たつつけ》見た樣なものを穿《は》いてゐた。

　宗助は斯んな新らしい刺戟の下《もと》に、しばらくは慾求の滿足を得た。けれども一《ひ》と通り古い都の臭を嗅いで歩くうちに、凡《すべ》てがやがて、平板に見えだして來た。其時彼は美くしい山の色と清い水の色が、最初程鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思ひ始めた。彼は暖かな若い血を抱《いだ》いて、其｜熱《ほて》りを冷《さま》す深い緑に逢へなくなつた。さうかといつて、此情熱を焚《や》き盡す程の烈しい情動には無論出會はなかつた。彼の血は高い脈を打つて、徒らにむづ痒《がゆ》く彼の身體の中を流れた。彼は腕組をして、坐《ゐ》ながら四方の山を眺めた。さうして、

　「もう斯んな古臭い所には厭《あ》きた」と云つた。

　安井は笑ひながら、比較のため、自分の知つてゐる或友達の故郷の物語をして宗助に聞かした。それは淨瑠璃《じやうるり》の間《あひ》の土山《つちやま》雨が降るとある有名な宿《しゆく》の事であつた。朝起きてから夜寐る迄、眼に入るものは山より外にない所で、丸《まる》で擂鉢《すりばち》の底に住んでゐると同じ有樣だと告げた上、安井は其友蓮の小さい時分の經驗として、五月雨《さみだれ》の降りつゞく折｜抔《など》は、小供心に、今にも自分の住んでゐる宿《しゆく》が、四方の山から流れて來る雨の中に浸《つ》かつて仕舞ひさうで、心配でならなかつたと云ふ話をした。宗助はそんな擂鉢《すりばち》の底で一生を過す人の運命ほど情ないものはあるまいと考へた。

　「さう云ふ所に、人間がよく生きてゐられるな」と不思議さうな顏をして安井に云つた。安井も笑つてゐた。さうして土山《つちやま》から出た人物の中《うち》では、千兩函を摩《す》り替へて礫《はりつけ》になつたのが一番大きいのだと云ふ一口話を矢張り友達から聞いた通り繰り返した。狹い京都に飽きた宗助は、單調な生活を破る色彩として、さう云ふ出來事も百年に一度位は必要だらうと迄思つた。

　其時分の宗助の眼は、常に新らしい世界にばかり注《そゝ》がれてゐた。だから自然が一通《ひととほり》四季の色を見せて仕舞つたあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために、花や紅葉《もみぢ》を迎へる必要がなくなつた。強く烈しい命に生きたと云ふ證券を飽《あく》迄《まで》握りたかつた彼には、活《い》きた現在と、是から生れやうとする未來が、當面の問題であつたけれども、消えかゝる過去は、夢同樣に價《あたひ》の乏しい幻影に過ぎなかつた。彼は多くの剥げかゝつた社《やしろ》と、寂果《さびは》てた寺を見盡して、色の褪《さ》めた歴史の上に、黒い頭を振り向ける勇氣を失ひかけた。寐耄《ねぼ》けた昔に?徊《ていくわい》する程、彼の氣分は枯れてゐなかつたのである。

　學年の終りに宗助と安井とは再會を約して手を分つた。安井は一先《ひとまづ》郷里の福井へ歸つて、夫《それ》から横濱へ行く積りだから、もし其時には手紙を出して通知をしやう、さうして成るべくなら一所の汽車で京都へ下《くだ》らう、もし時間が許すなら、興津《おきつ》あたりで泊つて、清見寺《せいけんじ》や三保《みほ》の松原や、久能山《くのうざん》でも見ながら緩《ゆつ》くり遊んで行かうと云つた。宗助は大いに可《よ》からうと答へて、腹のなかでは既に安井の端書を手にする時の心持さへ豫想した。

　宗助が東京へ歸つたときは、父は固《もと》よりまだ丈夫であつた。小六は子供であつた。彼は一年ぶりに殷《さか》んな都の炎熱と煤烟を呼吸するのを却つて嬉しく感じた。燬《や》く樣な日の下に、渦を捲いて狂ひ出しさうな瓦の色が、幾里となく續く景色《けしき》を、高い所から眺めて、是でこそ東京だと思ふ事さへあつた。

　今の宗助なら目を眩《まは》しかねない事々物々が、悉《こと／”＼》く壯快の二字を彼の額に燒き付けべく、其時は反射して來たのである。

　彼の未來は封じられた蕾《つぼみ》のやうに、開かない先は他《ひと》に知れないばかりでなく、自分にも確《しか》とは分らなかつた。宗助はたゞ洋々の二字が彼の前途に棚引いてゐる氣がした丈《だけ》であつた。彼は此暑い休暇中にも卒業後の自分に對する謀《はかりごと》を忽《ゆる》かせにはしなかつた。彼は大學を出てから、官途に就かうか、又は實業に從はうか、それすら、まだ判然《はつきり》と心に極めてゐなかつたに拘はらず、何方《どちら》の方面でも構はず、今のうちから、進める丈《だけ》進んで置く方が利益だと心付いた。彼は直接父の紹介を得た。父を通して間接に其知人の紹介を得た。さうして自分の將來を影響し得る樣な人を物色して、二三の訪問を試みた。彼等のあるものは、避暑といふ名義の下《もと》に、既に東京を離れてゐた。あるものは不在であつた。又あるものは多忙のため時を期して、勤務先で會はうと云つた。宗助は日のまだ高くならない七時頃に、昇降器《エレ?−ター》で煉瓦造《れんぐわづくり》の三階へ案内されて、其所の應接間に、もう七八人も自分と同じ樣に、同じ人を待つてゐる光景を見て驚ろいた事もあつた。彼は斯うして新らしい所へ行つて、新らしい物に接するのが、用向の成否に關はらず、今迄眼に付かずに過ぎた活きた世界の斷片を頭へ詰め込む樣な氣がして何となく愉快であつた。

　父の云ひ付で、毎年の通り虫干の手傳をさせられるのも、斯んな時には、却つて興味の多い仕事の一部分に數へられた。彼は冷たい風の吹き通す土藏の戸前の濕《しめ》つぼい石の上に腰を掛けて、古くから家にあつた江戸名所圖會《えどめいしよづゑ》と、江戸砂子《えどすなご》といふ本を物珍しさうに眺めた。疊迄熱くなつた座敷の眞中へ胡坐《あぐら》を掻いて、下女の買つて來た樟腦《しやうなう》を、小さな紙片《かみぎれ》に取り分けては、醫者で呉れる散藥の樣な形に疊んだ。宗助は小供の時から、此樟腦の高い香《かをり》と、汗の出る土用と、砲烙灸《はうろくぎう》と、蒼空を緩く舞ふ鳶とを連想してゐた。

　兎角するうちに節は立秋に入つた。二百十日の前には、風が吹いて、兩が降つた。空には薄墨の※［者／火］染《にじ》んだ樣な雲がしきりに動いた。寒暖計が二三日下がり切りに下がつた。宗助はまた行李を麻繩で絡《から》げて、京都へ向ふ支度をしなければならなくなつた。

　彼は此間にも安井と約束のある事は忘れなかつた。家《うち》へ歸つた當座は、まだ二ケ月も先の事だからと緩《ゆつ》くり構へてゐたが、段々時日が逼《せま》るに從つて、安井の消息が氣になつてきた。安井は其《その》後《ご》一枚の端書さへ寄こさなかつたのである。宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。けれども返事は遂に來なかつた。宗助は横濱の方へ問ひ合はせて見やうと思つたが、つい番地も町名も聞いて置かなかつたので、何うする事も出來なかつた。

　立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滯在した上、京都へ着いてからの當分の小遣を渡して、

　「成《な》る丈《たけ》節儉しなくちや不可《いけ》ない」と諭した。

　宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時の如くに聞いた。父は又、

　「來年また歸つて來る迄は會はないから、隨分氣を付けて」と云つた。其歸つて來る時節には、宗助はもう歸れなくなつてゐたのである。さうして歸つて來た時は、父の亡骸《なきがら》がもう冷たくなつてゐたのである。宗助は今に至る迄其時の父の面影を思ひ浮べては濟まない樣な氣がした。

　愈《いよ／＼》立つと云ふ間際に、宗助は安井から一通の封書を受取つた。開いて見ると、約束通り一所に歸る積《つもり》でゐたが、少し事情があつて先へ立たなければならない事になつたからと云ふ斷《ことわり》を述べた末に、何《いづ》れ京都で緩《ゆつ》くり會はうと書いてあつた。宗助はそれを洋服の内懷《うちぶところ》に押し込んで汽車に乘つた。約束の興津《おきつ》へ來たとき彼は一人でプラツトフオームヘ降りて、細長い一筋町を清見寺《せいけんじ》の方へ歩いた。夏も既に過ぎた九月の初なので、大方の避暑客は早く引き上げた後《あと》だから、宿屋は比較的閑靜であつた。宗助は海の見える一室の中に腹這になつて、安井へ送る繪端書へ二三行の文句を書いた。其｜内《なか》に、君が來ないから僕一人で此所へ來たといふ言葉を入れた。

　翌日も約束通り一人で三保《みほ》と龍華寺《りゆうげじ》を見物して、京都へ行つてから安井に話す材料を出來る丈《だけ》拵えた。然し天氣の所爲《せゐ》か、當《あて》にした連《つれ》のないためか、海を見ても、山へ登つても、夫《それ》程《ほど》面白くなかつた。宿に凝《じつ》としてゐるのは、猶《なほ》退屈であつた。宗助は匆々に又宿の浴衣を脱ぎ棄てゝ、絞りの三尺と共に欄干に掛けて、興津を去つた。

　京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往來の日影を知らずに暮らした。二日目になつて漸く學校へ出て見ると、�ﾍ師はまだ出揃つてゐなかつた。學生も平日《いつも》よりは數《かず》が不足であつた。不審な事には、自分より三四《さんよ》つ日《か》前《まへ》に歸つてゐるべき筈の安井の顔さへ何處にも見えなかつた。宗助はそれが氣にかゝるので、歸りにわざ／＼安井の下宿へ回つて見た。安井の居る所は樹と水の多い加茂《かも》の社《やしろ》の傍《そば》であつた。彼は夏休み前から、少し閑靜な町｜外《はづ》れへ移つて勉強する積《つもり》だとか云つて、わざ／＼此不便な村同樣な田舍へ引込んだのである。彼の見付け出した家からが寂《さび》た土塀を二方に回《めぐ》らして、既に古風に片付いてゐた。宗助は安井から、其所の主人はもと加茂神社の神官の一人であつたと云ふ話を聞いた。非常に能辯な京都言葉を操《あやつ》る四十｜許《ばかり》の細君がゐて、安井の世話をしてゐた。

　「世話つて、たゞ不味《まづ》い菜《さい》を拵らえて、三度づゝ｜室《へや》へ運んで呉れる丈《だけ》だよ」と安井は移り立てから此細君の惡口を利いてゐた。宗助は安井を此所に二三度訪ねた縁故で、彼の所謂｜不味《まづ》い菜《さい》を拵らえる主《ぬし》を知つてゐた。細君の方でも宗助の顏を覺えてゐた。細君は宗助を見るや否や、例の柔かい舌で慇懃な挨拶を述べた後、此方《こつち》から聞かうと思つて來た安井の消息を、却つて向ふから尋ねた。細君の云ふ所によると、彼は郷里へ歸つてから當日に至る迄、一片の音信さへ下宿へは出さなかつたのである。宗助は案外な思で自分の下宿へ歸つて來た。

　夫《それ》から一週間程は、學校へ出るたんびに、今日は安井の顏が見えるか、明日《あす》は安井の聲がするかと、毎日漠然とした豫期を抱《いだ》いては�ﾍ室の戸を開けた。さうして毎日又漠然とした不足を感じては歸つて來た。尤も最後の三四日に於ける宗助は早く安井に會ひたいと思ふよりも、少し事情があるから、失敬して先へ立つとわざ／＼通知しながら、何時《いつ》迄《まで》待つても影も見せない彼の安否を、關係者として寧ろ氣に掛けてゐたのである。彼は學友の誰彼に萬遍なく安井の動靜を聞いて見た。然し誰も知るものはなかつた。たゞ一人が、昨夕《ゆうべ》四條の人込の中で、安井によく似た浴衣《ゆかた》がけの男を見たと答へた事があつた。然し宗助にはそれが安井だらうとは信じられなかつた。所が其話を聞いた翌日、即ち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服裝《なり》をした安井が、突然宗助の所へ尋ねて來た。

　宗助は着流しの儘麥藁帽を手に持つた友達の姿を久し振に眺めた時、夏休み前の彼の顏の上に、新らしい何物かゞ更に付け加へられた樣な氣がした。安井は黒い髪に油を塗つて、目立つ程奇麗に頭を分けてゐた。さうして今床屋へ行つて來た所だと言譯らしい事を云つた。

　其晩彼は宗助と一時間餘りも雜談に耽《ふけ》つた。彼の重々しい口の利き方、自分を憚《はゞ》かつて、思ひ切れない樣な話の調子、「然るに」と云ふ口癖、凡《すべ》て平生の彼と異《こと》なる點はなかつた。たゞ彼は何故《なぜ》宗助より先へ横濱を立つたかを語らなかつた。又途中何處で暇取つた爲、宗助より後れて京都へ着いたかを判然《はつきり》告げなかつた。然し彼は三四日｜前《まへ》漸く京都へ着いた事｜丈《だけ》を明かにした。さうして、夏休み前《まへ》にゐた下宿へはまだ歸らずにゐると云つた。

　「夫《それ》で何處に」と宗助が聞いたとき、彼は自分の今泊つてゐる宿屋の名前を、宗助に�ﾍへた。それは三條｜邊《へん》の三流位の家《いへ》であつた。宗助は其名前を知つてゐた。

　「何うして、其樣《そん》な所へ這入つたのだ。當分其所にゐる積《つもり》なのかい」と宗助は重ねて聞いた。安井はたゞ少し都合があつてと許《ばかり》答へたが、

　「下宿生活はもう已《や》めて、小さい家《うち》でも借りやうかと思つてゐる」と思ひがけない計晝を打ち明けて、宗助を驚ろかした。

　それから一週間ばかりの中に、安井はとう／＼宗助に話した通り、學校近くの閑靜な所に一戸を構へた。それは京都に共通な暗い陰氣な作りの上に、柱や格子を黒赤く塗つて、わざと古臭く見せた狭い貸家であつた。門口《かどぐち》に誰の所有とも付かない柳が一本あつて、長い枝が殆《ほとん》ど軒に觸りさうに風に吹かれる樣を宗助は見た。庭も東京と違つて、少しは整つてゐた。石の自由になる所だけに、比較的大きなのが座敷の眞正面に据ゑてあつた。其下には嬉しさうな苔がいくらでも生えた。裏には敷居の腐つた物置が空《から》の儘がらんと立つてゐる後《うしろ》に、隣の竹薮が便所の出入《ではい》りに望まれた。

　宗助の此處を訪問したのは、十月に少し間《ま》のある學期の始めであつた。殘暑がまだ強いので宗助は學校の往復に、蝙蝠傘《かうもりがさ》を用ひてゐた事を今に記憶してゐた。彼は格子の前で傘《かさ》を疊んで、内を覗き込んだ時、粗い縞の浴衣《ゆかた》を着た女の影をちらりと認めた。格子の内は三和土《たゝき》で、それが眞直に裏迄突き拔けてゐるのだから、這入つてすぐ右手の玄關めいた上り口を上らない以上は、暗いながら一筋に奧の方迄見える譯であつた。宗助は浴衣《ゆかた》の後影《うしろかげ》が、裏口へ出る所で消えてなくなる迄其處に立つてゐた。それから格子を開けた。玄關へは安井自身が現れた。

　座敷へ通つてしばらく話してゐたが、さつきの女は全く顏を出さなかつた。聲も立てず、音もさせなかつた。廣い家《うち》でないから、つい隣の部屋位にゐたのだらうけれども、居ないのと丸《まる》で違はなかつた。この影の樣に靜かな女が御米であつた。

　安井は郷里の事、東京の事、學校の講義の事、何くれとなく話した。けれども、御米の事に就ては一言《いちごん》も口にしなかつた。宗助も聞く勇気に乏しかつた。其日はそれなり別れた。

　次の日二人が顏を合したとき、宗助は矢張り女の事を胸の中《なか》に記憶してゐたが、口へ出しては一言《ひとこと》も語らなかつた。安井も何気《なにげ》ない風をしてゐた。懇意な若い青年が心易立《こゝろやすだて》に話し合ふ遠慮のない題目は、是迄二人の間に何度となく交換されたにも拘はらず、安井はこゝへ來て、息詰つた如くに見えた。宗助も其所を無理にこぢ開ける程の強い好寄心は有《も》たなかつた。從つて女は二人の意識の間に挾まりながら、つい話頭に上らないで、又一週間ばかり過ぎた。

　其日曜に彼は又安井を訪ふた。それは二人の關係してゐる或會に就て用事が起つたためで、女とは全く縁故のない動機から出た淡泊な訪問であつた。けれども座敷へ上がつて、同じ所へ坐らせられて、垣根に沿ふた小さな梅の木を見ると、此《この》前《まへ》來た時の事が明らかに思ひ出された。其日も座敷の外は、しんとして靜であつた。宗助は其靜かなうちに忍んでゐる若い女の影を想像しない譯に行かなかつた。同時にその若い女は此前と同じ樣に、決して自分の前に出て來る氣遣はあるまいと信じてゐた。

　此豫期の下《もと》に、宗助は突然御米に紹介されたのである。其時御米は此間の樣に粗い浴衣《ゆかた》を着てはゐなかつた。是から餘所《よそ》へ行くか、又は今外から歸つて來たと云ふ風な粧《よそほひ》をして、次の間から出て來た。宗助にはそれが意外であつた。然し大した綺羅《きら》を着飾つた譯でもないので、衣服の色も、帶の光も、夫《それ》程《ほど》彼を驚かす迄には至らなかつた。其上御米は若い女に有勝《ありがち》の矯羞《けうしう》といふものを、初對面の宗助に向つて、あまり多く表はさなかつた。たゞ普通の人間を靜にして言葉｜寡《すく》なに切り詰めた丈《だけ》に見えた。人の前へ出ても、隣の室《へや》に忍んでゐる時と、あまり區別のない程落付いた女だといふ事を見出《みいだ》した宗助は、それから推して、御米のひつそりしてゐたのは、穴勝《あながち》恥かしがつて、人の前へ出るのを避けるため許《ばかり》でもなかつたんだと思つた。

　安井は御米を紹介する時、

　「是は僕の妹《いもと》だ」といふ言葉を用ひた。宗助は四五分對坐して、少し談話を取り換はしでゐるうちに、御米の口調《くてう》の何處にも、國訛《くになまり》らしい音《おん》の交つてゐない事に氣が付いた。

　「今迄御國の方に」と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、

　「いや横濱に長く」と答へた。

　其日は二人して町へ買物に出やうと云ふので、御米は不斷着《ふだんぎ》を脱ぎ更へて、暑い所をわざ／＼新らしい白足袋迄｜穿《は》いたものと知れた。宗助は折角の出懸《でがけ》を喰ひ留めて、邪魔でもした樣に氣の毒な思をした。

　「なに宅《うち》を持ち立てだものだから、毎日々々要るものを新らしく發見するんで、一週に三返は是非都迄買ひ出しに行かなければならない」と云ひながら安井は笑つた。

　「途《みち》迄一所に出掛けやう」と宗助はすぐ立ち上がつた。序《ついで》に家《うち》の樣子を見てくれと安井の云ふに任せた。宗助は次の間にある亞鉛《とたん》の落しの付いた四角な火鉢や、黄な安っぽい色をした眞鍮の藥鑵や、古びた流しの傍《そば》に置かれた新らし過ぎる手桶を眺めて、門《かど》へ出た。安井は門口《かどぐち》へ錠《ぢやう》を卸して、鍵を裏の家《うち》へ預けるとか云つて、走《か》けて行つた。宗助と御米は待つてゐる間、二言、三言、尋常な口を利いた。

　宗助は此三四分間に取り換はした互の言葉を、いまだに覺えてゐた。それは只の男が只の女に對して人間たる親みを表はすために、遣り取りする簡略な言葉に過ぎなかつた。形容すれば水の樣に淺く淡いものであつた。彼は今日《こんにち》迄《まで》路傍道上に於て、何かの折に觸れて、知らない人を相手に、是程の挨拶をどの位繰り返して來たか分らなかつた。

　宗助は極めて短かい其時の談話を、一々思ひ浮べるたびに、其一々が、殆んど無着色と云つていゝ程に、平淡であつた事を認めた。さうして、斯く透明な聲が、二人の未來を、何うしてあゝ眞赤《まつか》に、塗り付けたかを不思議に思つた。今では赤い色が日を經て昔の鮮かさを失つてゐた。互を焚《や》き焦《こ》がした?《ほのほ》は、自然と變色して黒くなつてゐた。二人の生活は斯樣《かやう》にして暗い中に沈んでゐた。宗助は過去を振り向いて、事の成行を逆に眺め返しては、此淡泊な挨拶が、如何に自分等の歴史を濃く彩つたかを、胸の中《なか》で飽迄味はひつゝ、平凡な出來事を重大に變化させる運命の力を恐ろしがつた。

　宗助は二人で門の前に佇《たゝず》んでゐる時、彼等の影が折れ曲つて、半分｜許《ばかり》土塀に映つたのを記憶してゐた。御米の影が蝙蝠傘《かうもりがさ》で遮《さへ》ぎられて、頭の代りに不規則な傘《かさ》の形が壁に落ちたのを記憶してゐた。少し傾むきかけた初秋《はつあき》の日が、じり／＼二人を照り付けたのを記憶してゐた。御米は傘《かさ》を差した儘、それ程涼しくもない柳の下に寄つた。宗助は白い筋を縁《ふち》に取つた紫の傘《かさ》の色と、まだ褪め切らない柳の葉の色を、一歩｜遠退《とほの》いて眺め合はした事を記憶してゐた。　今考へると凡《すベ》てが明らかであつた。從つて何等の奇もなかつた。二人は土塀の影から再び現はれた安井を待ち合はして、町の方へ歩いた。歩く時、男同志は肩を並べた。御米は草履を引いて後《あと》に落ちた。話も多くは男｜丈《だけ》で受持つた。それも長くはなかつた。途中迄來て宗助は一人分れて、自分の家《うち》へ歸つたからである。

　けれども彼の頭には其日の印象が長く殘つてゐた。家《うち》へ歸つて、湯に入《はい》つて、燈火《ともしび》の前に坐つた後《のち》にも、折々色の着いた平たい畫《ゑ》として、安井と御米の姿が眼先にちらついた。それのみか床に入《い》つてからは、妹《いもと》だと云つて紹介された御米が、果して本當の妹《いもと》であらうかと考へ始めた。安井に問ひ詰めない限り、此｜疑《うたがひ》の解決は容易でなかつたけれども、臆斷《おくだん》はすぐ付いた。宗助は此臆斷を許すべき餘地が、安井と御米の間に充分存在し得るだらう位に考へて、寐ながら可笑《をか》しく思つた。しかも其臆斷に、腹の中《なか》で?徊《ていくわい》する事の馬鹿々々しいのに氣が付いて、消し忘れた洋燈《らんぷ》を漸くふつと吹き消した。

　斯う云ふ記憶の、次第に沈んで痕迹《あとかた》もなくなる迄、御互の顔を見ずに過す程、宗助と安井とは疎遠ではなかつた。二人は毎日學校で出合ふ許《ばかり》でなく、依然として夏休み前の通り往來を續けてゐた。けれども宗助が行くたびに、御米は必ず挨拶に出るとは限らなかつた。三返に一返位、顔を見せないで、始ての時の樣に、ひつそり隣りの室《へや》に忍んでゐる事もあつた。宗助は別にそれを氣にも留めなかつた。夫《それ》にも拘はらず、二人は漸く接近した。幾何《いくばく》ならずして冗談を云ふ程の親《したし》みが出來た。

　其内又秋が來た。去年と同じ事情の下《もと》に、京都の秋を繰り返す興味に乏しかつた宗助は、安井と御米に誘はれて茸狩《たけがり》に行つた時、朗らかな空氣のうちに又新らしい香《にほひ》を見出《みいだ》した。紅葉《もみぢ》も三人で觀た。嵯峨《さが》から山を拔けて高雄《たかを》へ歩く途中で、御米は着物の裾を捲《ま》くつて長襦袢｜丈《だけ》を足袋の上迄｜牽《ひ》いて、細い傘《かさ》を杖にした。山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が明らかに遠くから透《す》かされた時、御米は

　「京都は好い所ね」と云つて二人を顧みた。それを一所に眺めた宗助にも、京都は全く好い所の樣に思はれた。

　斯う揃つて外へ出た事も珍らしくはなかつた。家《うち》の中《なか》で顔を合はせる事は猶｜?《しば／＼》あつた。或時宗助が例の如く安井を尋ねたら、安井は留守で、御米ばかり淋《さみ》しい秋の中に取り殘された樣に一人坐つてゐた。宗助は淋《さむ》しいでせうと云つて、つい座敷に上り込んで、一つ火鉢の兩側に手を翳《かざ》しながら、思つたより長話をして歸つた。或時宗助がぽかんとして、下宿の机に倚《よ》りかゝつた儘、珍らしく時間の使ひ方に困つてゐると、ふと御米が遣つて來た。其所迄買物に出たから、序《ついで》に寄つたんだとか云つて、宗助の薦《すゝ》める通り、茶を飲んだり菓子を食べたり、緩《ゆつ》くり寛《くつ》ろいだ話をして歸つた。

　斯んな事が重なつて行くうちに、木の葉が何時《いつ》の間《ま》にか落ちて仕舞つた。さうして高い山の頂《いたゞき》が、ある朝眞白に見えた。吹き曝《さら》しの河原が白くなつて、橋を渡る人の影が細く動いた。其年の京都の冬は、音を立てずに肌を透《とほ》す陰忍《いんにん》な質《たち》のものであつた。安井は此惡性の寒氣《かんき》に中《あ》てられて、苛いインフルエンザに罹つた。熱が普通の風邪よりも餘程高かつたので、始は御米も驚ろいたが、それは一時《いちじ》の事で、すぐ退《ひ》いたには退《ひ》いたから、是でもう全快と思ふと、何時《いつ》迄立つても判然《はつきり》しなかつた。安井は黐《もち》の樣な熱に絡《から》み付かれて、毎日其美し引きに苦しんだ。

　醫者は少し呼吸器を冒されてゐる樣だからと云つて、切に轉地を勸めた。安井は心ならず押入の中の柳行李に麻繩を掛けた。御米は手提鞄《てさげかばん》に錠《ぢやう》を卸した。宗助は二人を七條迄見送つて、汽車が出る迄｜室《へや》の中へ這入つて、わざと陽氣な話をした。プラツトフオームへ下りた時、窓の内から、

　「遊びに來給へ」と安井が云つた。

　「何うぞ是非」と御米が言つた。

　汽車は血色の好い宗助の前をそろ／＼過ぎて、忽ち神戸の方に向つて烟を吐いた。

　病人は轉地先で年を越した。繪端書は着いた日から毎日の樣に寄こした。それに何時《いつ》でも遊びに來いと繰り返して書いてない事はなかつた。御米の文字も一二行宛は必ず交《まじ》つてゐた。宗助は安井と御米から屆いた繪端書を別にして机の上に重ねて置いた。外から歸るとそれが直《すぐ》眼に着いた。時々はそれを一枚宛順に讀み直したり、見直したりした。仕舞にもう悉皆《すつかり》癒つたから歸る。然し折角此所迄來ながら、此所で君の顔を見ないのは遺憾だから、此手紙が着き次第、一寸で可《い》いから來いといふ端書が來た。無事と退屈を忌む宗助を動かすには、この十數言《じふすうげん》で充分であつた。宗助は汽車を利用して其夜のうちに安井の宿に着いた。

　明るい燈火《ともしび》の下《した》に三人が待設けた顏を合はした時、宗助は何よりも先づ病人の色澤《いろつや》の回復して來た事に氣が付いた。立つ前よりも却つて好い位に見えた。安井自身もそんな心持がすると云つて、わざ／＼襯衣《しやつ》の袖を捲《まく》り上げて、青筋の入《はい》つた腕を獨《ひとり》で撫《な》でてゐた。御米も嬉しさうに眼を輝かした。宗助にはその活?な目遣が殊に珍らしく受取れた。今迄宗助の心に映じた御米は、色と音の撩亂《れうらん》する裏《なか》に立つてさへ、極めて落ち付いてゐた。さうして其落ち付きの大部分は矢鱈《やたら》に動かさない眼の慟らきから來たとしか思はれなかつた。

　次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。松の幹から脂《やに》の出る空氣を吸つた。冬の日は短い空を赤裸々に横切つて大人《おとな》しく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤に竈《かまど》の火の色に染めて行つた。風は夜に入つても起らなかつた。たゞ時々《とき／”＼》松を鳴らして過ぎた。暖かい好い日が宗助の泊つてゐる三日の間續いた。

　宗助はもつと遊んで行きたいと云つた。御米はもつと遊んで行きませうと云つた。安井は宗助が遊びに來たから好い天気になつたんだらうと云つた。三人は又行李と鞄を携へて京都へ歸つた。冬は何事もなく北風を寒い國へ吹き遣つた。山の上を明らかにした斑《まだら》な雪が次第に落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。

　宗助は當時を憶ひ出すたびに、自然の進行が其所ではたりと留まつて、自分も御米も忽ち化石して仕舞つたら、却つて苦はなかつたらうと思つた。事は冬の下から春が頭を擡《もた》げる時分に始まつて、散り盡した櫻の花が若葉に色を易へる頃に終つた。凡《すべ》てが生死《しやうし》の戰《たゝかひ》であつた。青竹を炙《あぶ》つて油を絞る程の苦しみであつた。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がつた時は何處も彼所《かしこ》も既に砂だらけであつたのである。彼等は砂だらけになつた自分達を認めた。けれども何時《いつ》吹き倒されたかを知らなかつた。

　世間は容赦なく彼等に�ｺ義上の罪を脊負《しよは》した。然し彼等自身は�ｺ義上の良心に責められる前に、一旦茫然として、彼等の頭が確であるかを疑つた。彼等は彼等の眼に、不�ｺ義な男女《なんによ》として恥づべく映る前に、既に不合理な男女《なんによ》として、不可思議に映つたのである。其所に言譯らしい言譯が何にもなかつた。だから其所に云ふに忍びない苦痛があつた。彼等は殘酷な運命が氣紛《きまぐれ》に罪もない二人の不意を打つて、面白半分｜穽《おとしあな》の中に突き落したのを無念に思つた。

　曝露《ばくろ》の日がまともに彼等の眉間《みけん》を射たとき、彼等は既に�ｺ義的に痙攣《けいれん》の苦痛を乘り切つてゐた。彼等は蒼白い額を素直に前に出して、其所に?《ほのほ》に似た烙印《やきいん》を受けた。さうして無形の鎖で繋がれた儘、手を携えて何處迄も、一所に歩調を共にしなければならない事を見出《みいだ》した。彼等は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云へば一般の社會を棄てた。もしくは夫等《それら》から棄てられた。學校からは無論棄てられた。たゞ表向｜丈《だけ》は此方《こちら》から退學した事になつて、形式の上に人間らしい迹《あと》を留《とゞ》めた。

　是が宗助と御米の過去であつた。

　

　　　　　十五

　

　此過去を負はされた二人は、廣島へ行つても苦しんだ。福岡へ行つても苦しんだ。東京へ出て來ても、依然として重い荷に抑えつけられてゐた。佐伯の家とは親しい關係が結べなくなつた。叔父は死んだ。叔母と安之助はまだ生きてゐるが、生きてゐる間に打ち解けた交際《つきあひ》は出來ない程、もう冷淡の日を重ねて仕舞つた。今年はまだ歳暮にも行かなかつた。向《むかふ》からも來なかつた。家《いへ》に引取つた小六さへ腹の底では兄に敬意を拂つてゐなかつた。二人が東京へ出たてには、單純な小供の頭から、正直に御米を惡《にく》んでゐた。御米にも宗助にもそれが能く分つてゐた。夫婦は日の前に笑み、月の前に考へて、靜かな年を送り迎へた。今年ももう盡きる間際迄來た。

　通町《とほりちゃう》では暮の内から門並揃《かどなみそろひ》の注連飾《しめかざり》をした。往來の左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹が、悉《こと／”＼》く寒い風に吹かれて、さら／＼と鳴つた。宗助も二尺餘りの細い松を買つて、門の柱に釘付にした。それから大きな赤い橙《だい／＼》を御供《おそなへ》の上に載せて、床の間に据ゑた。床には如何《いかゞ》はしい墨畫《すみゑ》の梅が、蛤《はまぐり》の格好《かつかう》をした月を吐いて懸つてゐた。宗助には此變な軸の前に、橙《だい／＼》と御供《おそなへ》を置く意味が解らなかつた。

　「一體｜是《こり》や、何う云ふ了見だね」と自分で飾り付けた物を眺めながら、御米に聞いた。御米にも毎年《まいとし》斯うする意味は頓《とん》と解らなかつた。

　「知らないわ。たゞ左樣《さう》して置けば可《い》いのよ」と云つて臺所へ去つた。宗助は、

　「斯うして置いて、詰り食ふためか」と首を傾けて御供の位置を直した。

　伸餠《のしもち》は夜業《よなべ》に俎《まないた》を茶の間迄持ち出して、みんなで切つた。庖丁《はうちやう》が足りないので、宗助は始から仕舞迄手を出さなかつた。力のある丈《だけ》に小六が一番多く切つた。其代り不同も一番多かつた。中には見掛の惡い形のものも交つた。變なのが出來るたびに清が聲を出して笑つた。小六は庖丁《はうちやう》の脊《せ》に濡布巾《ぬれぶきん》を宛てがつて、硬い耳の所を斷ち切りながら、

　「格好《かつかう》は何うでも、食ひさいすれば可《い》いんだ」と、うんと力を入れて耳迄赤くした。

　その外に迎年《げいねん》の支度としては、小殿原《ごまめ》を熬《い》つて、※［者／火］染《にしめ》を重詰にする位なものであつた。大晦日《おほみそか》の夜《よ》に入《い》つて、宗助は挨拶｜旁《かた／”＼》屋賃を持つて、坂井の家に行つた。わざと遠慮して勝手口へ回ると、摺硝子《すりがらす》へ明るい灯《ひ》が映つて、中はざわ／＼してゐた。上《あが》り框《がまち》に帳面を持つて腰を掛けた掛取らしい小僧が、立つて宗助に挨拶をした。茶の間には主人も細君もゐた。其片隅に印袢天《しるしばんてん》を着た出入《でいり》のものらしいのが、下を向いて、小《ち》さい輪飾《わかざり》をいくつも拵へてゐた。傍《そば》に讓葉《ゆづりは》と裏白《うらじろ》と半紙と鋏が置いてあつた。若い下女が細君の前に坐つて、釣錢らしい札《さつ》と銀貨を疊に並べてゐた。主人は宗助を見て、

　「いや何うも」と云つた。「押し詰つて嘸《さぞ》御忙《おいそが》しいでせう。此通りごた／＼です。さあ何うぞ此方《こちら》へ。何ですな、御互に正月にはもう飽きましたな。いくら面白いものでも四十返以上繰り返すと厭になりますね」

　主人は年の送迎に煩《わづ》らはしい樣な事を云つたが、其態度には何處と指してくさ／＼した所は認められなかつた。言葉遣は活?であつた。顔はつや／＼してゐた。晩食《ばんしよく》に傾けた酒の勢《いきほひ》が、まだ頬の上に差してゐる如く思はれた。宗助は貰ひ烟草をして二三十分ばかり話して歸つた。

　家《うち》では御米が清を連れて湯に行くとか云つて、石鹸入《しやぼんいれ》を手拭に包《くる》んで、留守居を頼む夫《をつと》の歸を待ち受けてゐた。

　「何うなすつたの、隨分長かつたわね」と云つて時計を眺めた。時計はもう十時近くであつた。其上清は湯の戻《もど》りに髪結《かみゆひ》の所へ回つて頭を拵える筈ださうであつた。閑靜な宗助の活計《くらし》も、大晦日には夫《それ》相應《さうおう》の事件が寄せて來た。

　「拂はもう皆《みんな》濟んだのかい」と宗助は立ちながら御米に聞いた。御米はまだ薪屋が一軒殘つてゐると答へた。

　「來たら拂つて頂戴」と云つて懷の中から汚《よご》れた男持の紙入と、銀貨入の蟇口《がまぐち》を出して、宗助に渡した。

　「小六は何うした」と夫《をつと》はそれを受取りながら云つた。

　「先刻《さつき》大晦日の夜《よる》の景色《けしき》を見て來るつて出て行つたのよ。隨分御苦勞さまね。此寒いのに」と云ふ御米の後《あと》に追《つ》いて、清は大きな聲を出して笑つた。やがて、

　「御若いから」と評しながら、勝手口へ行つて、御米の下駄を揃えた。

　「何處の夜景を見る氣なんだ」

　「銀座から日本橋通のだつて」

　御米は其時もう框《かまち》から下《お》り掛けてゐた。すぐ腰障子を開ける音がした。宗助は其音を聞き送つて、たつた一人火鉢の前に坐つて、灰になる炭の色を眺めてゐた。彼の頭には明日《あした》の日の丸が映つた。外を乘り回す人の絹帽子《きぬばうし》の光が見えた。洋劍《さあべる》の音だの、馬の嘶《いなゝき》だの、遣羽子《やりはご》の聲が聞えた。彼は今から數時間の後《のち》又年中行事のうちで、尤も人の心を新にすべく仕組まれた景物に出逢はなければならなかつた。

　陽氣さうに見えるもの、賑かさうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼の臂《ひぢ》を把《と》つて、一所に引張つて行かうとするものは一つもなかつた。彼はたゞ饗宴に招かれない局外者として、醉ふ事を禁じられた如くに、又醉ふ事を免かれた人であつた。彼は自分と御米の生命《らいふ》を、毎年《まいとし》平凡な波瀾のうちに送る以上に、面前《まのあたり》大した希望も持つてゐなかつた。かうして忙がしい大晦日に、一人家を守る靜かさが、丁度彼の平生の現實を代表してゐた。

　御米は十時過に歸つて來た。何時《いつ》もより光澤《つや》の好い頬を灯《ひ》に照らして、湯の温《ぬくもり》のまだ拔けない襟を少し開ける樣に襦袢を重ねてゐた。長い襟首が能く見えた。

　「何うも込んで込んで、洗ふ事も桶を取る事も出來ない位なの」と始めて緩《ゆつ》くり息を吐《つ》いた。

　清の歸つたのは十一時過であつた。是も綺麗な頭を障子から出して、たゞ今、どうも遅くなりましたと挨拶をした序《ついで》に、あれから二人とか三人とか待ち合したと云ふ話をした。

　たゞ小六｜丈《だけ》は容易に歸らなかつた。十二時を打つたとき、宗助はもう寐やうと云ひ出した。御米は今日に限つて、先へ寐るのも變なものだと思つて、出來る丈《だけ》話を繋いでゐた。小六は幸《さいはひ》にして間もなく歸つた。日本橋から銀座へ出て夫《それ》から、水天宮の方へ廻づた所が、電車が込んで何臺も待ち合はしたために遅くなつたといふ言譯をした。

　白牡丹《はくぼたん》へ這入つて、景物の金時計でも取らうと思つたが、何も買ふものがなかつたので、仕方なしに鈴の着いた御手玉を一箱買つて、さうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つ攫《つか》んだら、金時計は當らないで、こんなものが中《あた》つたと云つて、袂から倶樂部洗粉《くらぶあらひこ》を一袋出した。それを御米の前に置いて、

　「姉さんに上げませう」と云つた。それから鈴を着けた、梅の花の形に縫つた御手玉を宗助の前に置いて、

　「坂井の御嬢さんにでも御上げなさい」と云つた。

　事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終りを告げた。

　

　　　　　十六

　

　正月は二日目の雪を率《ひきゐ》て注連飾《しめかざり》の都を白くした。降り已《や》んだ屋根の色が故《もと》に復《かへ》る前、夫婦は亞鉛張《とたんばり》の庇《ひさし》を滑り落ちる雪の音に幾遍か驚ろかされた。夜半《よなか》にはどさと云ふ響が殊に甚しかつた。小路《こうぢ》の泥濘《ぬかるみ》は雨上りと違つて一日《いちんち》や二日《ふつか》では容易に乾かなかつた。外から靴を汚《よご》して歸つて來る宗助が、御米の顔を見るたびに、

　「是《こり》や不可《いけ》ない」と云ひながら玄關へ上つた。其樣子が恰も御米を路を惡くした責任者と見傚《みな》してゐる風に受取られるので、御米は仕舞に、

　「何うも濟みません。本當に御氣の毒さま」と云つて笑ひ出した。宗助は別に返すべき冗談も有《も》たなかつた。

　「御米此所から出掛けるには、何處へ行くにも足駄を穿《は》かなくつちやならない樣に見えるだらう。所が下町へ出ると大違だ。どの通もどの通もから／＼で、却つて挨が立つ位だから、足駄なんぞ穿《は》いちや極《きまり》が惡くつて歩けやしない。つまり斯う云ふ所に住んでゐる我々は一世紀がた後《おく》れる事になるんだね」

　こんな事を口にする宗助は、別に不足らしい顔もしてゐなかつた。御米も夫《をつと》の鼻の穴を潜《くゞ》る烟草の烟《けむ》を眺める位な氣で、それを聞いてゐた。

　「坂井さんへ行つて、さう云つて入らつしゃいな」と輕い返事をした。

　「さうして屋賃でも負けて貰ふ事にしやう」と答へた儘、宗助はついに坂井へは行かなかつた。

　其坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだ丈《だけ》で、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のある所を一日のうちに略《ほゞ》片付けて夕方歸つて見ると、留守の間《あひだ》に坂井がちやんと來てゐたので恐縮した。二日は雪が降つた丈《だけ》で何事もなく過ぎた。三日目の日暮《ひくれ》に下女が使に來て、御閑ならば、旦那樣と奧さまと、夫《それ》から若旦那樣に是非今晩御遊びに入らつしやる樣にと云つて歸つた。

　「何をするんだらう」と宗助は疑ぐつた。

　「屹度《きつと》歌加留多《うたがるた》でせう。小供が多いから」と御米が云つた。「貴方行つて入らつしやい」

　「折角だから御前行くが好い。己《おれ》は歌留多は久しく取らないから駄目だ」

　「私も久しく取らないから駄目ですわ」

　二人は容易に行かうとはしなかつた。仕舞に、では若旦那がみんなを代表して行くが宜《よ》からうといふ事になつた。

　「若旦那行つて來い」と宗助が小六に云つた。小六は苦笑ひして立つた。夫婦は若旦那と云ふ名を小六に冠《かむ》らせる事を大變な滑稽のやうに感じた。若旦那と呼ばれて、苦笑ひする小六の顔を見ると、等しく聲を出して笑ひ出した。小六は春らしい空氣の中《うち》から出た。さうして一町程の寒さを横切つて、又春らしい電燈の下《もと》に坐つた。

　其晩小六は大晦日に買つた梅の花の御手玉を袂に入れて、是は兄から差上げますとわざ／＼斷つて、坂井の御嬢さんに贈物にした。其代り歸りには、福引に當つた小さな裸人形を同じ袂へ入れて來た。其人形の額が少し缺けて、其所｜丈《だけ》墨で塗つてあつた。小六は眞面目な顔をして、是が袖萩《そではぎ》ださうですと云つて、それを兄夫婦の前に置いた。何故《なぜ》袖萩《そではぎ》だか夫婦には分らなかつた。小六には無論分らなかつたのを、坂井の奧さんが叮嚀に説明して呉れたさうであるが、夫《それ》でも腑に落ちなかつたので、主人がわざ／＼半切《はんきれ》に洒落《しやれ》と本文《ほんもん》を並べて書いて、歸つたら是を兄さんと姉さんに御見せなさいと云つて渡したとかいふ話であつた。小六は袂を探つて其書付を取り出して見せた。それに「此《この》垣《かき》一重《ひとへ》が黒鐵《くろがね》の」と認《したゝ》めた後に括弧《くわつこ》をして、（此《この》餓鬼《がき》額《ひたへ》が黒缺《くろがけ》の）とつけ加へてあつたので、宗助と御米は又春らしい笑を洩らした。

　「隨分念の入つた趣向《しゆかう》だね。一體誰の考《かんがへ》だい」と兄が聞いた。

　「誰ですかな」と小六は矢つ張り詰らなさうな顔をして、人形を其所へ放《はふ》り出した儘、自分の室《へや》に歸つた。

　それから二三日して、たしか七日《なぬか》の夕方に、また例の坂井の下女が來て、もし御閑なら何うぞ御話にと、叮嚀に主人の命を傳へた。宗助と御米は洋燈《らんぷ》を點《つ》けて丁度｜晩食《ばんめし》を始めた所であつた。宗助は其時茶碗を持ちながら、

　「春も漸やく一段落が着いた」と語つてゐた。そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、御米は夫《をつと》の顔を見て微笑した。宗助は茶碗を置いて、

　「まだ何か催ふしがあるのかい」と少し迷惑さうな眉をした。坂井の下女に聞いて見ると、別に來客もなければ、何の支度もないといふ事であつた。其上細君は子供を連れて親類へ呼ばれて行つて留守だといふ話迄した。

　「それぢや行かう」と云つて宗助は出掛けた。宗助は一般の社交を嫌つてゐた。已《やむ》を得なければ會合の席などへ顔を出す男でなかつた。個人としての朋友《ともだち》も多くは求めなかつた。訪問はする暇を有《も》たなかつた。たゞ坂井｜丈《だけ》は取除《とりのけ》であつた。折々は用もないのに此方《こつち》からわざ／＼出掛けて行つて、時を潰して來る事さへあつた。其癖坂井は世の中で尤も社交的の人であつた。此社交的な坂井と、孤獨な宗助が二人寄つて話が出來るのは、御米にさへ妙に見える現象であつた。坂井は、

　「彼方《あつち》へ行きませう」と云つて、茶の間を通り越して、廊下傳ひに小さな書齋へ入《はい》つた。其所には棕梠《しゆろ》の筆で書いた樣な、大きな硬《こは》い字が五字ばかり床の間に懸つてゐた。棚の上に見事な白い牡丹《ぼたん》が活《い》けてあつた。その外《ほか》机でも蒲團でも悉《こと／”＼》く綺麗であつた。坂井は始め暗い入口に立つて、

　「さあ何うぞ」と云ひながら、何所かぴちりと捩《ひね》つて、電氣燈を點《つ》けた。それから、

　「一寸待ち給へ」と云つて、燐寸《まつち》で瓦斯煖爐《ガスだんろ》を焚いた。瓦斯煖爐は室《へや》に比例した極《ごく》小さいものであつた。坂井はしかる後蒲團を薦めた。

　「是が僕の洞窟《とうくつ》で、面倒になると此所へ避難するんです」

　宗助も厚い綿《わた》の上で、一種の靜かさを感じた。瓦斯の燃える音が微《かす》かにして次第に脊中からほか／＼煖まつて來た。

　「此所にゐると、もう何所とも交渉はない。全く氣樂です。悠《ゆつ》くりして居らつしやい。實際正月と云ふものは豫想外に煩瑣《うるさ》いものですね。私も昨日《きのふ》迄で殆どへと／＼に降參させられました。新年が停滯《もたれ》てゐるのは實に苦しいですよ。夫《それ》で今日の午《ひる》から、とう／＼塵世を遠ざけて、病氣になつてぐつと寐込んぢまいました。今しがた眼を覺まして、湯に入《はい》つて、それから飯を食つて、烟草を呑んで、氣が付いて見ると、家内が子供を連れて親類へ行つて留守なんでせう。成程靜かな筈だと思ひましてね。すると今度は急に退屈になつたのです。人間も隨分我儘なものですよ。然しいくら退屈だつて、此上御目出たいものを、見たり聞いたりしちや骨が折れますし、又御正月らしいものを呑んだり食つたりするのも恐れますから、それで、御正月らしくない、と云ふと失禮だが、まあ世の中とあまり縁のない貴方、と云つてもまだ失敬かも知れないが、つまり一口に云ふと、超然派《てうぜんは》の一人《いちにん》と話しがして見たくなつたんで、それでわざ／＼使を上げた樣な譯なんです」と坂井は例の調子で、悉《こと／”＼》くすら／＼したものであつた。宗助は此樂天家の前では、よく自分の過去を忘れる事があつた。さうして時によると、自分がもし順當に發展して來たら、斯んな人物になりはしなかつたらうかと考へた。

　其所へ下女が三尺の狹い入口を開けて這入つて來たが、改ためて宗助に鄭重な御辭儀をした上、木皿の樣な菓子皿の樣なものを、一つ前に置いた。それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一口もものを云はずに退がつた。木皿の上には護謨毬《ごむまり》ほどな大きな田舎饅頭《ゐなかまんぢゆう》が一つ載せてあつた。それに普通の倍以上もあらうと思はれる楊枝が添へてあつた。

　「何うです暖《あつた》かい内に」と主人が云つたので、宗助は始めて此饅頭の蒸《む》して間もない新らしさに氣が付いた。珍らしさうに黄色い皮を眺めた。

　「いや出來たてぢやありません」と主人が又云つた。「實は昨夜《さくや》ある所へ行つて、冗談半分に賞めたら、御土産《おみやげ》に持つて入らつしやいと云ふから貰つて來たんです。其時は全く暖《あつ》たかだったんですがね。これは今上げやうと思つて蒸し返さしたのです」

　主人は箸とも楊枝とも片の付かないもので、無雜作に饅頭を割つて、むしや／＼食ひ始めた。宗助も顰《ひん》に傚《なら》つた。

　其《その》間《あひだ》に主人は昨夕《ゆうべ》行つた料理屋で逢つたとか云つて妙な藝者の話をした。此藝者はポツケツト論語が好きで、汽車へ乘つたり遊びに行つたりするときは、何時《いつ》でもそれを懷にして出るさうであつた。

　「それでね孔子の門人のうちで、子路《しろ》が一番好だつて云ふんですがね。其｜所謂《いはれ》を聞くと、子路と云ふ男は、一つ何か�ﾍ《をす》はつて、それをまだ行はないうちに、又新らしい事を聞くと苦にする程正直だからだつて云ふんです。實の所｜私《わたし》も子路はあまりよく知らないから困つたが、何しろ一人好い人が出來て、それと夫婦にならない前に、また新らしく好い人が出來ると苦になる樣なものぢやないかつて、聞いて見たんです……」

　主人は斯んな事を甚だ氣樂さうに述べ立てた。其話の樣子からして考へると、彼はのべつに斯ういふ場所に出入《しつにふ》して、其刺戟にはとうに麻痺《まひ》しながら、因習の結果、依然として月に何度となく同じ事を繰り返してゐるらしかつた。よく聞き糺《たゞ》して見ると、しかく平氣な男も、時々は歡樂の飽滿に疲弊して、書齋のなかで精神を休める必要が起《おこ》るのださうであつた。

　宗助はさういふ方面に丸《まる》で經驗のない男ではなかつたので、強ひて興味を裝《よそほ》ふ必要もなく、たゞ尋常な挨拶をする所が、却つて主人の氣に入るらしかつた。彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去を覗く樣な素振《そぶり》を見せた。然しそちらへは宗助が進みたがらない痕迹《こんせき》が少しでも出ると、すぐ話を轉じた。それは政略よりも寧ろ禮讓からであつた。從つて宗助には毫も不愉快を與へなかつた。

　其内小六の噂が出た。主人は此青年に就いて、肉身の兄が見逃す樣な新らしい觀察を、二三｜有《も》つてゐた。宗助は主人の評語を、當ると當らないとに論なく、面白く聞いた。そのなかに、彼は年に合はしては複雜な實用に適しない頭を有《も》つてゐながら、年よりも若い單純な性情を平氣で露《あら》はす子供ぢやないかといふ質問があつた。宗助はすぐそれを首肯《うけが》つた。然し學校�ﾍ育｜丈《だけ》で社會�ﾍ育のないものは、いくら年を取つても其｜傾《かたむき》があるだらうと答へた。

　「左樣《さやう》、それと反對で、社會�ﾍ育｜丈《だけ》あつて學校�ﾍ育のないものは、隨分複雜な性情を發揮する代りに、頭は何時《いつ》迄も小供ですからね。却つて始末が惡いかも知れない」

　主人は此所で一寸笑つたが、やがて、

　「何うです、私《わたし》の所へ書生に寄こしちや、少しは社會�ﾍ育になるかも知れない」と云つた。主人の書生は彼の犬が病氣で病院へ這入る一ケ月｜前《まへ》とかに、徴兵檢査に合格して入営したぎり今では一人もゐないのださうであつた。

　宗助は小六の所置を付ける好機會が、求めざるに先だつて、春と共に自《おのづ》から回《めぐ》つて來たのを喜こんだ。同時に、今迄世間に向つて、積極的に好意と親切を要求する勇気を有《も》たなかつた彼は、突然此主人の申《まう》し出《いで》に逢つて少し間誤《まご》つく位驚ろいた。けれども出來るなら成丈《なりたけ》早く弟を坂井に預けて置いて、比變動から出る自分の餘裕に、幾分か安之助の補助を足して、さうして本人の希望通り、高等の�ﾍ育を受けさしてやらうといふ分別をした。そこで打ち明けた話を腹藏なく主人にすると、主人は成程々々と聞いてゐる丈《だけ》であつたが、仕舞に雜作《ざふさ》なく、

　「そいつは好いでせう」と云つたので、相談は略《ほゞ》其座で纒まつた。

　宗助は其所で辭して歸れば可《よ》かつたのである。又辭して歸らうとしたのである。所が主人からまあ緩《ゆつ》くりなさいと云つて留められた。主人は夜は長い、まだ宵だと云つて時計迄出して見せた。實際彼は退屈らしかつた。宗助も歸れば只寐るより外に用のない身體なので、つい又尻を据ゑて、濃い烟草を新らしく吹かし始めた。仕舞には主人の例に傚《なら》つて、柔らかい座蒲團の上で膝さへ崩した。

　主人は小六の事に關聯して、

　「いや弟《おとゝ》などを有《も》つてゐると、隨分厄介なものですよ。私《わたくし》も一人やくざなのを世話をした覺がありますがね」と云つて、自分の弟が大學にゐるとき金の掛つた事｜抔《など》を、自分が學生時代の質朴さに比べて色々話した。宗助は此｜派手好《はでずき》な弟が、其後何んな徑路を取つて、何う發展したかを、氣味の惡い運命の意思を窺《うかゞ》ふ一端として、主人に聞いて見た。主人は卒然

　「冒險者《アド?ンチユアラー》」と、頭も尾《しつぽ》もない一句を投げる樣に吐いた。

　此弟は卒業後主人の紹介で、ある銀行に這入つたが、何でも金を儲けなくつちや不可《いけ》ないと口癖の樣に云つてゐたさうで、日露戦爭後間もなく、主人の留めるのも聞かずに、大いに發展して見たいとかとなへて遂に滿洲へ渡つたのだと云ふ。其所で何を始めるかと思ふと、遼河《れうが》を利用して、豆粕大豆《まめかすだいづ》を船で下《くだ》す、大仕掛な運送業を經営して、忽ち失敗してしまつたのださうである。元より當人は、資本主ではなかつたのだけれども、愈《いよ／＼》といふ曉《あかつき》に、勘定して見ると大きな缺損と事が極つたので、無論事業は繼續する譯に行かず、當人は必然の結果、地位を失つたぎりになつた。

　「それから後《あと》私《わたし》も何うしたか能く知らなかつたんですが、其《その》後《のち》漸く聞いて見ると、驚ろきましたね。蒙古へ這入つて漂浪《うろつ》いてゐるんです。何處迄｜山氣《やまぎ》があるんだか分らないんで、私《わたし》も少々｜劔呑《けんのん》になつてるんですよ。夫《それ》でも離れてゐるうちは、まあ何うかしてゐるだらう位に思つて放《はふ》つて置きます。時たま音便《たより》があつたつて、蒙古といふ所は、水に乏しい折で、暑い時には往來へ泥溝《どぶ》の水を撒《ま》くとかね、又はその泥溝《どぶ》の水が無くなると、今度は馬の小便を撒《ま》くとか、從つて甚だ臭いとか、まあそんな手紙が來る丈《だけ》ですから、――そりあ金の事も云つて來ますが、なに東京と蒙古だから打遣つて置けば夫《それ》迄《まで》です。だから離れてさへゐれば、まあ可《い》いんですが、其奴《そいつ》が去年の暮突然出て來ましてね」

　主人は思ひ付いた樣に、床の柱に懸けた、綺麗な房の付いた一種の裝飾物を取り卸した。

　それは錦の袋に這入つた一尺ばかりの刀であつた。鞘《さや》は何《なに》とも知れぬ緑色の雲母《きらゝ》の樣なもので出來てゐて、其｜所々《ところ／”＼》が三ケ所程銀で卷いてあつた。中身は六寸位しかなかつた。從がつて刃《は》も薄かつた。けれども鞘《さや》の格好《かつかう》は恰《あたか》も六角の樫《かし》の棒の樣に厚かつた。よく見ると、柄《つか》の後《うしろ》に細い棒が二本並んで差さつてゐた。結果は鞘を重ねて離れない爲に銀の鉢卷をしたと同じであつた。主人は

　「土産《みやげ》にこんなものを持つて來ました。蒙古刀《もうこたう》ださうです」と云ひながら、すぐ拔いて見せた。後《うしろ》に差してあつた象牙《ぞうげ》の樣な棒も二本拔いて見せた。

　「是《こり》や箸ですよ。蒙古人は始終是を腰へぶら下げてゐて、いざ御馳走といふ段になると、此刀を拔いて肉を切つて、さうして此箸で傍《そば》から食うんださうです」

　主人はことさらに刀と箸を兩手に持つて、切つたり食つたりする眞似をして見せた。宗助はひたすらに其精巧な作りを眺めた。

　「まだ蒙古人の天幕《てんと》に便ふフエルトも貰ひましたが、まあ昔の毛氈《まうせん》と變つた所もありませんね」

　主人は蒙古人の上手に馬を扱ふ事や、蒙古犬の瘠せて細長くて、西洋のグレー、ハウンドに似てゐる事や、彼等が支那人のために段々押し狹《せば》められて行く事や、――凡《すべ》て近頃｜彼地《あつち》から歸つたといふ弟に聞いた儘を宗助に話した。宗助は又自分の未《いま》だ曾《かつ》て耳にした事のない話｜丈《だけ》に、一々少なからぬ興味を有《も》つてそれを聞いて行つた。其うちに、元來此弟は蒙古で何をしてゐるのだらうといふ好奇心が出た。そこで一寸主人に尋ねて見ると、主人は、

　「冒険者《アド?ンンチユアラー》」と再び先刻《さつき》の言葉を力強く繰り返した。「何をしてゐるか分らない。私には、牧畜をやつてゐます。しかも成功してゐますと云ふんですがね、一向《いつかう》當《あて》にはなりません。今迄もよく法螺《ほら》を吹いて私を欺したもんです。それに今度東京へ出て來た用事と云ふのが餘つ程妙です。何とか云ふ蒙古王のために、金を二萬圓｜許《ばかり》借りたい。もし貸してやらないと自分の信用に關わるつて奔走してゐるんですからね。その取始《とつぱじめ》に捕まつたのは私だが、いくら蒙古王だつて、いくら廣い土地を抵當にするつたつて、蒙古と東京ぢや催促さへ出來やしませんもの。で、私が斷わると、蔭へ廻つて妻《さい》に、兄さんはあれだから大きな仕事が出來つこないつて、威張つてゐるんです。仕樣がない」

　主人は此所で少し笑つたが、妙に緊張した宗助の顔を見て、

　「何うです一遍逢つて御覽になつちや、わざ／＼毛皮の着いただぶ／＼したものなんか着て、一寸面白いですよ。何なら御紹介しませう。丁度｜明後日《あさつて》の晩呼んで飯を食はせる事になつてゐるから。――なに引つ掛つちや不可《いけ》ませんがね。黙つて向《むかふ》に喋舌《しやべ》らして、聞いてゐる分には、少しも危險はありません。たゞ面白い丈《だけ》です」としきりに勸め出した。宗助は多少心を動かした。

　「御出《おいで》になるのは御令弟｜丈《だけ》ですか」

　「いや外に一人｜弟《おとゝ》の友達で向《むかふ》から一所に來たものが、來る筈になつてゐます。安井とか云つて私はまだ逢つた事もない男ですが、弟《おとゝ》が頻に私に紹介したがるから、實はそれで二人を呼ぶ事にしたんです」

　宗助は其夜蒼い顏をして坂井の門を出た。

　

　　　　　十七

　

　宗助と御米の一生を暗く彩《いろ》どつた關係は、二人の影を薄くして、幽靈の樣な思を何所かに抱《いだ》かしめた。彼等は自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものが潜んでゐるのを、仄《ほの》かに自覺しながら、わざと知らぬ顏に互と向き合つて年を過した。

　當初彼等の頭腦に痛く應《こた》へたのは、彼等の過《あやまち》が安井の前途に及ぼした影響であつた。二人の頭の中で沸き返つた凄《すご》い泡の樣なものが漸く靜まつた時、二人は安井も亦半途で學校を退《しりぞ》いたといふ消息を耳にした。彼等は固より安井の前途を傷《きずつ》けた原因をなしたに違なかつた。次に安井が郷里に歸つたといふ噂を聞いた。次に病氣に罹つて家に寐てゐるといふ報知《しらせ》を得た。二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めた。最後に安井が滿洲に行つたと云ふ音信《たより》が來た。宗助は腹の中《なか》で、病氣はもう癒つたのだらうかと思つた。又は滿洲行の方が嘘ではなからうかと考へた。安井は身體から云つても、性質から云つても、滿洲や臺灣に向く男ではなかつたからである。宗助は出來る丈《だけ》手を回して、事の眞疑を探つた。さうして、或る關係から、安井がたしかに奉天にゐる事を確め得た。同時に彼の健康で、活?で、多忙である事も確め得た。其時夫婦は顔を見合せて、ほつといふ息を吐《つ》いた。

　「まあ可《よ》からう」と宗助が云つた。

　「病氣よりはね」と御米が云つた。

　二人は夫《それ》から以後安井の名を口にするのを避けた。考へ出す事さへも敢てしなかつた。彼等は安井を半途で退學させ、郷里へ歸らせ、病氣に罹らせ、もしくは滿洲へ驅り遣つた罪に對して、如何に悔恨の苦しみを重ねても、何うする事も出來ない地位に立つてゐたからである。

　「御米、御前信仰の心が起つた事があるかい」と或時宗助が御米に聞いた。御米は、たゞ、

　「あるわ」と答へた丈《だけ》で、すぐ「貴方は」と聞き返した。

　宗助は薄笑ひをしたぎり、何とも答へなかつた。其代り推して、御米の信仰に就いて、詳しい質問も掛けなかつた。御米には、それが仕合せかも知れなかつた。彼女はその方而に、是といふ程｜判然《はつきり》した凝り整つた何物も有《も》つてゐなかつたからである。二人は兎角して會堂の腰掛《べんち》にも倚らず、寺院の門も潜《くゞ》らずに過ぎた。さうして只自然の惠から來る月日《つきひ》と云ふ緩和劑の力｜丈《だけ》で、漸く落ち付いた。時々遠くから不意に現れる訴《うつたへ》も、苦しみとか恐れとかいふ殘酷の名を付けるには、あまり微《かす》かに、あまり薄く、あまりに肉體と慾得を離れ過ぎる樣になつた。必竟《ひつきやう》ずるに、彼等の信仰は、神を得なかつたため、佛に逢はなかつたため、互を目標《めじるし》として働らいた。互に抱《だ》き合つて、丸い圓を描《ゑが》き始めた。被等の生活は淋《さみ》しいなりに落ち付いて來た。其｜淋《さみ》しい落ち付きのうちに、一種の甘い悲哀を味はつた。文藝にも哲學にも縁のない彼等は、此味を舐《な》め葢しながら、自分で自分の?態を得意がつて自覚する程の知識を有《も》たなかつたから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、一層純粹であつた。――是が七日《なのか》の晩に坂井へ呼ばれて、安井の消息を聞く迄の夫婦の有樣であつた。

　其夜宗助は家に歸つて御米の顏を見るや否や、

　「少し具合が惡いから、すぐ寐よう」と云つて、火鉢に倚《よ》りながら、歸《かへり》を待ち受けてゐた御米を驚ろかした。

　「何うなすつたの」と御米は眼を上げて宗助を眺めた。宗助は其所に突つ立つてゐた。

　宗助が外から歸つて來て、こんな風をするのは、殆んど御米の記憶にない位珍らしかつた。御米は卒然何とも知れない恐怖の念に襲はれた如くに立ち上がつたが、殆んど器械的に、戸棚から夜具蒲團を取り出して、夫《をつと》の云ひ付け通り床を延べ始めた。其《その》間《あひだ》宗助は矢つ張り懷手をして傍《そば》に立つてゐた。さうして床が敷けるや否や、そこ／＼に着物を脱ぎ捨てゝ、すぐ其中に潜《もぐ》り込んだ。御米は枕元を離れ得なかつた。

　「何うなすつたの」

　「何だか、少し心持が惡い。しばらく斯うして凝《ぢ》つとしてゐたら、能くなるだらう」

　宗助の答は半ば夜着の下から出た。其聲が籠つた樣に御米の耳に響いた時、御米は濟まない顔をして、枕元に坐つたなり動かなかつた。

　「彼所《あつち》へ行つて居ても可《い》いよ。用があれば呼ぶから」

　御米は漸く茶の間へ歸つた。

　宗助は夜具を被《かぶ》つた儘、ひとり硬くなつて眼を眠つてゐた。彼は此暗い中で、坂井から聞いた話を何度となく反覆した。彼は滿洲にゐる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知らうとは、今が今迄豫期してゐなかつた。もう少しの事で、其安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣り合せか、向ひ合せに坐る運命にならうとは、今夜｜晩食《ばんめし》を濟ます迄、夢にも思ひ掛けなかつた。彼は寐ながら過去二三時間の經過を考へて、其クライマツクスが突如として、如何にも不意に起つたのを不思議に感じた。且《かつ》悲しく感じた。彼は是程偶然な出來事を借りて、後《うしろ》から斷りなしに足絡《あしがら》を掛けなければ、倒す事の出來ない程強いものとは、自分ながら任じてゐなかつたのである。自分の樣な弱い男を放《はふ》り出すには、もつと穩當な手段で澤山でありさうなものだと信じてゐたのである。

　小六から坂井の弟、それから滿洲、蒙古、出京、安井、――斯う談話の迹《あと》を辿《たど》れば辿《たど》る程、偶然の度はあまりに甚だしかつた。過去の痛恨を新《あらた》にすべく、普通の人が滅多に出逢はない此偶然に出逢ふために、千百人のうちから撰り出されなければならない程の人物であつたかと思ふと、宗助は苦しかつた。又腹立たしかつた。彼は暗い夜着の中で熱い息を吐《つ》いた。

　此二三年の月日で漸く癒り掛けた創口《きずぐち》が、急に疼《うづ》き始めた。疼《うづ》くに伴《つ》れて熱《ほて》つて來た。再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みさうになつた。宗助は一層《いつそ》のこと、萬事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分つて貰はうかと思つた。

　「御米、御米」と二聲呼んだ。

　御米はすぐ枕元へ來て、上から覗き込むやうに宗助を見た。宗助は夜具の襟から顏を全く出した。次の間の灯《ひ》が御米の頬を半分照らしてゐた。

　「熱い湯を一杯貰はう」

　宗助はとう／＼言はうとした事を言ひ切る勇気を失つて、嘘を吐《つ》いて胡魔化《ごまか》した。

　翌日宗助は例の如く起きて、平日と變る事なく食事を濟ました。さうして給仕をして呉れる御米の顏に、多少安心の色が見えたのを、嬉しい樣な隣れな樣な一種の情緒《じやうしよ》を以て眺めた。

　「昨夕《ゆうべ》は驚ろいたわ。何うなすつたのかと思つて」

　宗助は下を向いて茶碗に注《つ》いだ茶を呑んだ丈《だけ》であつた。何と答へていゝか、適當な盲葉を見出《みいだ》さなかつたからである。

　其日は朝からから風が吹き荒《すさ》んで、折々埃と共に行く人の帽を奪つた。熱があると惡いから、一日休んだらと云ふ御米の心配を聞き捨てにして、例の通り電車へ乘つた宗助は、風の音と車の音の中に首を縮めて、たゞ一つ所を見詰めてゐた。降りる時、ひゆうといふ音がして、頭の上の針線《はりがね》が鳴つたのに氣が付いて、空を見たら、此猛烈な自然の力の狂ふ間《あひだ》に、何時《いつ》もより明らかな日がのそりと出てゐた。風は洋袴《ずぼん》の股を冷たくして過ぎた。宗助には其砂を捲いて向ふの堀の方へ進んで行く影が、斜めに吹かれる雨の脚の樣に判然《はつきり》見えた。

　役所では用が手に着かなかつた。筆を持つて頬杖を突いた儘何か考へた。時々は不必要な墨を妄《みだ》りに磨り卸ろした。烟草は無暗に呑んだ。さうしては、思ひ出した樣に窓硝子を通して外を眺めた。外は見るたびに風の世界であつた。宗助はたゞ早く歸りたかつた。

　漸く時間が來て家《うち》へ歸つたとき、御米は不安らしく宗助の顔を見て、

　「何うもなくつて」と聞いた。宗助は已《やむ》を得ず、何うもないが、たゞ疲れたと答へて、すぐ炬燵の中へ入《はい》つたなり、晩食《ばんめし》迄動かなかつた。其内風は日と共に落ちた。晝の反動で四隣《あたり》は急にひつそり静まつた。

　「好い案排《あんばい》ね、風が無くなつて。晝間の樣に吹かれると、家《うち》に坐つてゐても何だか気味が惡くつて仕樣《しやう》がないわ」

　御米の言葉には、魔物でもあるかの樣に、風を恐れる調子があつた。宗助は落ち付いて、

　「今夜は少し暖《あつ》たかい樣だね。穩やかで好い御正月だ」と云つた。飯を濟まして烟草を一本吸ふ段になつて、突然、

　「御米、寄席《よせ》へでも行つて見やうか」と珍らしく細君を誘つた。御米は無論｜否《いな》む理由を有《も》たなかつた。小六は義太夫などを聞くより、宅《うち》に居て餠でも燒いて食つた方が勝手だといふので、留守を頼んで二人出た。

　少し時間が遅れたので、寄席は一杯であつた。二人は座蒲團を敷く餘地もない一番｜後《うしろ》の方に、立膝をする樣に割り込まして貰つた。

　「大變な人ね」

　「矢つ張り春だから入《はい》るんだらう」

　二人は小聲で話しながら、大きな部屋にぎつしり詰まつた人の頭を見回《みまは》した。其頭のうちで、高座に近い前の方は、烟草の烟で霞んでゐる樣にぼんやり見えた。宗助には此｜累々《るゐ／＼》たる黒いものが、悉《こと／”＼》く斯う云ふ娯樂の席へ來て、面白く半夜を潰す事の出來る餘裕のある人らしく思はれた。彼は何《ど》の顏を見ても羨ましかつた。

　彼は高座《かうざ》の方を正視して、熱心に淨瑠璃を聞かうと力《つと》めた。けれどもいくら力《つと》めても面白くならなかつた。時々眼を外《そ》らして、御米の顏を偸《ぬす》み見た。見るたびに御米の視線は正しい所を向いてゐた。傍《そば》に夫《をつと》のゐる事は殆んど忘れて、眞面目に聽いてゐるらしかつた。宗助は羨やましい人のうちに、御米｜迄《まで》勘定しなければならなかつた。

　中入の時、宗助は御米に、

　「何うだ、もう歸らうか」と云ひ掛けた。御米は其唐突なのに驚ろかされた。

　「厭なの」と聞いた。宗助は何とも答へなかつた。御米は、

　「何うでも可《い》いわ」と半分｜夫《をつと》の意に忤《さか》らはない樣な挨拶をした。宗助は折角連れて來た御米に對して、却つて氣の毒な心が起つた。とう／＼仕舞迄｜辛抱《しんばう》して坐つてゐた。

　家《うち》へ歸ると、小六は火鉢の前に胡坐《あぐら》を掻いて、脊表紙の反《そ》り返るのも構はずに、手に持つた本を上から翳《かざ》して讀んでゐた。鐵瓶は傍《わき》へ卸したなり、湯は生温《なまね》るく冷《さ》めてしまつた。盆の上に燒き餘りの餠が三切《みきれ》か四片《よきれ》載せてあつた。網の下から小皿に殘つた醤油の色が見えた。

　小六は席を立つて、

　「面白かつたですか」と聞いた。夫婦は十分程身體を炬燵で暖めた上すぐ床へ入《はい》つた。

　翌日になつても宗助の心に落付が來なかつた事は、略《ほゞ》前の日と同じであつた。役所が退《ひ》けて、例の通り電車へ乘つたが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に來ると云ふ事を想像すると、何うしても、わざ／＼其人と接近するために、こんな速力で、家《うち》へ歸つて行くのが不合理に思はれた。同時に安井はその後何んなに變化したらうと思ふと、餘所《よそ》から一目彼の樣子が眺めたくもあつた。

　坂井が一昨日《をとゝひ》の晩、自分の弟《おとゝ》を評して、一口に「冒險者《アド?ンチユアラー》」と云つた、その音《おん》が今宗助の耳に高く響き渡つた。宗助は此一語の中に、あらゆる自暴と自棄と、不平と憎惡と、亂倫と悖�ｺ《はいとく》と、盲斷と決行とを想像して、是等の一角《いつかく》に觸れなければならない程の坂井の弟と、それと利害を共にすべく滿洲から一所に出て來た安井が、如何なる程度の人物になつたかを、頭の中で描《ゑが》いて見た。描かれた畫《ゑ》は無論｜冒險者《アド?ンチユアラー》の字面の許す範圍内で、尤も強い色彩を帶びたものであつた。

　斯樣に、墮落の方面をとくに誇張した冒険者《アド?ンチユアラー》を頭の中《なか》で拵え上げた宗助は、其責任を自身一人で全く負はなければならない樣な氣がした。彼はたゞ坂井へ客に來る安井の姿を一目見て、其姿から、安井の今日《こんにち》の人格を髣髴《はうふつ》したかつた。さうして、自分の想像程彼は墮落してゐないといふ慰籍《ゐしや》を得たかつた。

　彼は坂井の家《いヘ》の傍《そば》に立つて、向《むかふ》に知れずに、他《ひと》を窺《うかゞ》ふ樣な便利な場所はあるまいかと考へた。不幸にして、身を隱すべきところを思ひ付き得なかつた。若し日が落ちてから來るとすれば、此方《こちら》が認められない便宜があると同時に、暗い中を通る人の顏の分らない不都合があつた。

　そのうち電車が神田へ來た。宗助は何時《いつ》もの通り其所で乘り換えて家《うち》の方へ向いて行くのが苦痛になつた。彼の神經は一歩でも安井の來る方角へ近づくに堪えなかつた。安井を餘所《よそ》ながら見たいといふ好奇心は、始めから左程《さほど》強くなかつた丈《だけ》に、乘換の間際になつて、全く抑えつけられてしまつた。彼は寒い町を多くの人の如く歩いた。けれども多くの人の如くに判然《はつきり》した目的は有《も》つてゐなかつた。其内店に灯《ひ》が點《つ》いた。電車も燈火《あかり》を照《と》もした。宗助はある牛肉店に上がつて酒を呑み出した。一本は夢中に呑んだ。二本目は無理に呑んだ。三本目にも醉へなかつた。宗助は脊を壁に持たして、醉つて相手のない人の樣な眼をして、ぼんやり何處かを見詰めてゐた。

　時刻が時刻なので、夕飯《ゆふめし》を食ひに來る客は入れ代り立ち代り來た。其多くは用辨的《ようべんてき》に飲食《いんしよく》を濟まして、さつさと勘定をして出て行く丈《だけ》であつた。宗助は周圍のざわつく中に黙然《もくねん》として、他《ひと》の倍も三倍も時を過ごした如くに感じた末、遂に坐り切れずに席を立つた。

　表は左右から射す店の灯《ひ》で明らかであつた。軒先を通る人は、帽も衣裝《いしやう》もはつきり物色する事が出來た。けれども廣い寒さを照らすには餘りに弱過ぎた。夜は戸毎の瓦斯と電燈を閑却して、依然として暗く大きく見えた。宗助は此世界と調和する程な黒味の勝つた外套に包まれて歩いた。其時彼は自分の呼吸する空氣さへ灰色になつて、肺の中の血管に觸れる樣な氣がした。

　彼は此晩に限つて、ベルを鳴らして忙がしさうに眼の前を往つたり來たりする電車を利用する考が起らなかつた。目的を有《も》つて途を行く人と共に、拔目なく足を運ばす事を忘れた。しかも彼は根の締らない人間として、かく漂浪の雛形を演じつゝある自分の心を省みて、もし此?態が長く續いたら何うしたら可《よ》からうと、ひそかに自分の未來を案じ煩つた。今日《こんにち》迄《まで》の經過から推して、凡《すべ》ての創口を癒合するものは時日であるといふ格言を、彼は自家の經驗から割り出して、深く胸に刻み付けてゐた。それが一昨日《をとゝひ》の晩にすつかり崩れたのである。

　彼は黒い夜の中を歩るきながら、たゞ何うかして此心から逃れ出たいと思つた。其心は如何にも弱くて落付かなくつて、不安で不定《ふてい》で、度胸がなさ過ぎて希知《けち》に見えた。彼は胸を抑えつける一種の壓迫の下《もと》に、如何にせば、今の自分を救ふ事が出來るかといふ實際の方法のみを考へて、其壓迫の原因になつた自分の罪や過失は全く此結果から切り放して仕舞つた。其時の彼は他《ひと》の事を考へる餘裕を失つて、悉《こと／”＼》く自己本位になつてゐた。今迄は忍耐で世を渡つて來た。是からは積極的に人世觀を作り易へなければならなかつた。さうして其人世觀は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であつた。心の實質が太くなるものでなくては駄目であつた。

　彼は行く／＼口の中で何遍も宗�ﾍの二字を繰り返した。けれども其響は繰り返す後《あと》からすぐ消えて行つた。攫《つか》んだと思ふ烟が、手を開けると何時《いつ》の間《ま》にか無くなつてゐる樣に、宗�ﾍとは果敢《はか》ない文字であつた。

　宗�ﾍと關聯して宗助は坐禪といふ記臆を呼び起した。昔し京都にゐた時分彼の級友に相國寺《しやうこくじ》へ行つて坐禪をするものがあつた。當時彼は其｜迂濶《うくわつ》を笑つてゐた。「今の世に……」と思つてゐた。其級友の動作が別に自分と違つた所もない樣なのを見て、彼は益《ます／＼》馬鹿々々しい氣を起した。

　彼は今更ながら彼の級友が、彼の侮蔑に値《あたひ》する以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相國寺《しやうこくじ》へ行つたのではなからうかと考へ出して、自分の輕薄を深く恥ぢた。もし昔から世俗で云ふ通り安心《あんじん》とか立命《りつめい》とかいふ境地に、坐禪の力で達する事が出來るならば、十日《とをか》や二十日《はつか》役所を休んでも構はないから遣つて見たいと思つた。けれども彼は斯《この》道《みち》にかけては全くの門外漢であつた。從つて、此《これ》より以上明瞭な考《かんがへ》も浮ばなかつた。

　漸く家《うち》へ辿《たど》り着いた時、彼は例の樣な御米と、例の樣な小六と、それから例の樣な茶の間と座敷と洋燈《らんぷ》と箪笥を見て、自分｜丈《だけ》が例にない?態の下《もと》に、此四五時間を暮してゐたのだといふ自覺を深くした。火鉢には小さな鍋が掛けてあつて、其｜葢《ふた》の隙間から湯氣が立つてゐた。火鉢の傍《わき》には彼の常に坐る折に、何時《いつ》もの座蒲團を敷いて、其前にちやんと膳立がしてあつた。

　宗助は糸底を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、此二三年來朝晩使ひ慣れた木の箸を眺めて、

　「もう飯は食はないよ」と云つた。御米は多少不本意らしい風もした。

　「おや左樣《さう》。餘《あんま》り遲いから、大方何處かで召上《めしや》がつたらうとは思つたけれど、若し未《ま》だゞと不可《いけ》ないから」と云ひながら、布巾で鍋の耳を撮《つま》んで、土瓶敷の上に卸した。それから清を呼んで膳を臺所へ退《さ》げさした。

　宗助は斯ういふ風に、何ぞ事故が出來て、役所の退出《ひけ》からすぐ外へ回つて遲くなる場合には、何時《いつ》でも其?末の大略を、歸宅早々御米に話すのを例にしてゐた。御米もそれを聞かないうちは氣が濟まなかつた。けれども今夜に限つて彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上つた事も、無理に酒を呑んだ事も、丸《まる》で話したくなかつた。何も知らない御米は又平常の通り無邪氣に夫《それ》から夫《それ》へと聞きたがつた。

　「何別に是といふ理由《わけ》もなかつたのだけれども、――つい彼所《あすこ》いらで牛《ぎう》が食ひたくなつた丈《だけ》の事さ」

　「さうして御腹《おなか》を消化《こな》す爲に、わざ／＼此所迄歩るいて入らしつたの」

　「まあ、左樣《さう》だ」

　御米は可笑《をか》しさうに笑つた。宗助は寧ろ苦しかつた。しばらくして、

　「留守に坂井さんから迎ひに來なかつたかい」と聞いた。

　「いゝえ、何故《なぜ》」

　「一昨日《をとゝひ》の晩行つたとき、御馳走するとか云つてゐたからさ」

　「また？」

　御米は少し呆れた顔をした。宗助は夫《それ》なり話を切り上げて寐た。頭の中をざわ／＼何か通つた。時々眼を開けて見ると、例の如く洋燈《らんぷ》が暗くして床の間の上に載せてあつた。御米はさも心地好ささうに眠つてゐた。つい此間迄は、自分の方が好く寐られて、御米は幾晩も睡眠の不足に惱まされたのであつた。宗助は眼を閉ぢながら、明らかに次の間の時計の音を聞かなければならない今の自分を更に心苦しく感じた。其時計は最初は幾つも續けざまに打つた。それが過ぎると、びんと只一つ鳴つた。其濁つた音が彗星《はうきぼし》の尾の樣にぼうと宗助の耳朶《みゝたぶ》にしばらく響いてゐた。次には二つ鳴つた。甚だ淋《さみ》しい音であつた。宗助は其間に、何とかして、もつと鷹揚に生きて行く分別をしなければならないと云ふ決心｜丈《だけ》をした。三時は朦朧《もうろう》として聞えた樣な聞えない樣なうちに過ぎた。四時、五時、六時は丸《まる》で知らなかつた。たゞ世の中が膨《ふく》れた。天が波を打つて伸び且つ縮んだ。地球が糸で釣るした毬《まり》の如くに大きな弧線《こせん》を描《ゑが》いて空間に搖《うご》いた。凡《すべ》てが恐ろしい魔の支配する夢であつた。七時過に彼ははつとして、此夢から覺めた。御米が何時《いつ》もの通り微笑して枕元に曲《かゞ》んでゐた。冴えた日は黒い世の中を疾《とく》に何處かへ追ひ遣つてゐた。

　

　　　　　十八

　

　宗助は一封の紹介?を懷《ふところ》にして山門《さんもん》を入《はい》つた。彼はこれを同僚の知人の某《なにがし》から得た。其同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隱袋《かくし》から菜根譚《さいこんたん》を出して讀む男であつた。かう云ふ方面に趣味のない宗助は、固《もと》より菜根譚《さいこんたん》の何物なるかを知らなかつた。ある日一つ車の腰掛に膝を並べて乘つた時、それは何だと聞いて見た。同僚は小形の黄色い表紙を宗助の前に出して、こんな妙な本だと答へた。宗助は重ねて何んな事が書いてあるかと尋ねた。其時同僚は、一口に説明の出來る格好《かつかう》な言葉を有《も》つてゐなかつたと見えて、まあ禪學の書物だらうといふ樣な妙な挨拶をした。宗助は同僚から聞いた此返事を能く覺えでゐた。

　紹介?を貰ふ四五日前《しごんちまへ》、彼は此同僚の傍《そば》へ行つて、君は禪學を遣るのかと、突然質問を掛けた。同僚は強く緊張した宗助の顔を見て頗る驚ろいた樣子であつたが、いや遣らない、たゞ慰み半分にあんな書物を讀む丈《だけ》だと、すぐ逃げて仕舞つた。宗助は多少失望に弛《ゆる》んだ下脣を垂れて自分の席に歸つた。

　其日歸りがげに、彼等は又同じ電車に乘り合はした。先刻《さつき》宗助の樣子を、氣の毒に觀察した同僚は、彼の質問の奧に雜談《ざつだん》以上のある意味を認めたものと見えて、前よりはもつと親切に其方面の話をして聞かした。然し自分は未だ甞《かつ》て參禪といふ事をした經驗がないと自白した。もし詳しい話が聞きたければ、幸ひ自分の知り合によく鎌倉へ行く男があるから紹介してやらうと云つた。宗助は車の中で其人の名前と番地を手帳に書き留めた。さうして次の日同僚の手紙を持つてわざ／＼回《まは》り道をして訪問に出掛けた。宗助の懷《ふところ》にした書?は其折席上で認《したゝ》めて貰つたものであつた。

　役所は病氣になつて十日｜許《ばかり》休む事にした。御米の手前も矢張り病氣だと取り繕《つくろ》つた。

　「少し腦が惡いから、一週間程役所を休んで遊《あす》んで來るよ」と云つた。御米は此頃の夫《をつと》の樣子の何處かに異?があるらしく思はれるので、内心では始終心配してゐた矢先だから、平生※［者／火］え切らない宗助の果斷を喜んだ。けれども其突然なのにも全く驚ろいた。

　「遊びに行くつて、何處へ入らつしやるの」と眼を丸くしない許《ばかり》に聞いた。

　「矢張《やつぱり》鎌倉邊が好からうと思つてる」と宗助は落ち付いて答へた。地味な宗助とハイカラな鎌倉とは殆んど縁の遠いものであつた。突然二つのものを結び付けるのは滑稽であつた。御米も微笑を禁じ得なかつた。

　「まあ御金持ね。私《わたし》も一所に連れてつて頂戴」と云つた。宗助は愛すべき細君のこの冗談《じようだん》を味はふ餘裕を有《も》たなかつた。眞面目な顔をして、

　「そんな贅澤な所へ行くんぢやないよ。禪寺へ留めて貰つて、一週間か十日、たゞ靜かに頭を休めて見る丈《だけ》の事さ。それも果《はた》して好くなるか、ならないか分らないが、空氣の可《い》い所へ行くと、頭には大變違ふと皆《みんな》云ふから」と辯解した。

　「そりや違ひますわ。だから行つて入らつしやいとも。今のは本當の冗談よ」

　御米は善良な夫《をつと》に調戯《からか》つたのを、多少濟まない樣に感じた。宗助は其｜翌日《あくるひ》すぐ貰つて置いた紹介?を懷にして、新橋から汽車に乘つたのである。

　其紹介?の表には釋宜道《しやくぎだう》樣と書いてあつた。

　「此間迄｜侍者《じしや》をしてゐましたが、此頃では塔頭《たつちゆう》にある古い庵室に手を入れて、其所に住んでゐるとか聞きました。何うですか、まあ着いたら尋ねて御覽なさい。庵の名はたしか一窓庵《いつさうあん》でした」と書いて呉れる時、わざ／＼注意があつたので、宗助は禮を云つて手紙を受取りながら、侍者《じしや》だの塔頭《たつちゆう》だのといふ自分には全く耳新らしい言葉の説明を聞いて歸つたのである。

　山門を入《はい》ると、左右には大きな杉があつて、高く空を遮《さへぎ》つてゐるために、路が急に暗くなつた。其陰氣な空氣に觸れた時、宗助は世の中と寺の中との區別を急に覺《さと》つた。靜かな境内《けいだい》の入口に立つた彼は、始めて風邪《ふうじや》を意識する場合に似た一種の惡寒《さむけ》を催した。

　彼はまづ眞直に歩るき出した。左右にも行手《いくて》にも、堂の樣なものや、院の樣なものがちよい／＼見えた。けれども人の出入《でいり》は一切なかつた。悉《こと／”＼》く寂寞《せきばく》として錆《さ》び果《は》てゝゐた。宗助は何處へ行つて、宜道《ぎだう》のゐる所を�ﾍへて貰はうかと考へながら、誰も通らない路の眞中に立つて四方を見回《みまは》した。

　山の裾を切り開いて、一二丁奧へ上《のぼ》る樣に建てた寺だと見えて、後《うしろ》の方は樹の色で高く塞がつてゐた。路の左右も山續《やまつゞき》か丘續《をかつゞき》の地勢に制せられて、決して平ではない樣であつた。其小高い所々《ところ／”＼》に、下から石段を疊んで、寺らしい門を高く構へたのが二三軒目に着いた。平地《ひらち》に垣を繞《めぐ》らして、轉在してゐるのは、幾多《いくら》もあつた。近寄つて見ると、何《いづ》れも門瓦《もんがはら》の下に、院號やら庵號やらが額にして懸けてあつた。

　宗助は箔の剥《は》げた古い額を一二枚讀んで歩いたが、不圖《ふと》一窓庵から先へ探し出して、もし其所に手紙の名宛の坊さんがゐなかつたら、もつと奧へ行つて尋ねる方が便利だらうと思ひ付いた。それから逆戻りをして塔頭《たつちゆう》を一々調べに懸ると、一窓庵は山門を這入るや否やすぐ右手の方の高い石段の上にあつた。丘外《をかはづ》れなので、日當の好い、からりとした玄關先を控えて、後《うしろ》の山の懷《ふところ》に暖まつてゐる樣な位置に冬を凌《しの》ぐ氣色《けしき》に見えた。宗助は玄關を通り越して庫裡《くり》の方から土間に足を入れた。上り口の障子の立てゝある所迄來て、たのむ／＼と二三度呼んで見た。然し誰も出て來て呉れるものはなかつた。宗助はしばらく其所に立つた儘、中の樣子を窺つてゐた。何時《いつ》迄立つてゐても音沙汰がないので、宗助は不思議な思ひをして、又｜庫裡《くり》を出て門の方へ引返した。すると石段の下から剃立《そりたて》の頭を青く光らした坊さんが上つて來た。年はまだ二十四五としか見えない苦い色白の顔であつた。宗助は門の扉の所に待ち合はして、

　「宜道《ぎだう》さんと仰しやる方は此方《こちら》に御出《おいで》でせうか」と聞いた。

　「私が宜道です」と若い僧は答へた。宗助は少し驚ろいたが、又嬉しくもあつた。すぐ懷中から例の紹介?を出して渡すと、宜道は立ちながら封を切つて、其場で讀み下《くだ》した。やがて手紙を卷き返して封筒へ入れると、

　「能《よ》うこそ」と云つて、叮嚀に會釋《ゑしやく》したなり、先に立つて宗助を導いた。二人は庫裡《くり》に下駄を脱いで、障子を開けて内へ這入つた。其所には大きな圍爐裏《ゐろり》が切つてあつた。宜道は鼠木綿の上に羽織つてゐた薄い粗末な法衣《ころも》を脱いで釘に懸けて、

　「御寒う御座いませう」と云つて、圍爐裏《ゐろり》の中に深く埋けてあつた炭を灰の下から掘り出した。

　此僧は若いに似合はず甚だ落付いた話振《はなしぶり》をする男であつた。低い聲で何か受答へをした後《あと》で、にやりと笑ふ具合などは、丸《まる》で女の樣な感じを宗助に與へた。宗助は心のうちに、この青年がどういふ機縁の元《もと》に、思ひ切つて頭を剃つたものだらうかと考へて、其樣子のしとやかな所を、何となく憐れに思つた。

　「大變御靜な樣ですが、今日はどなたも御留守なんですか」

　「いえ、今日に限らず、何時《いつ》も私一人です。だから用のあるときは構はず明け放しにして出ます。今も一寸下迄行つて用を足して參りました。それがため折角｜御出《おいで》の所を失禮致しました」

　宜道は此時改めて遠來の人に對して自分の不在を詫びた。此大きな庵を、たつた一人で預かつてゐるさへ、相應に骨が折れるのに、其上に厄介が�揩ｵたら嘸《さぞ》迷惑だらうと、宗助は少し氣の毒な色を外《ほか》に動かした。すると宜道は、

　「いえ、些《ちつ》とも御遠慮には及びません。道の爲で御座いますから」と床《ゆか》しい事を云つた。さうして、目下自分の所に、宗助の外に、まだ一人世話になってゐる居士《こじ》のある旨を告げた。此｜居士《こじ》は山へ來てもう二年になるとかいふ話であつた。宗助はそれから二三日して、始めて此居士を見たが、彼は剽輕《へうきん》な羅漢《らかん》の樣な顔をしてゐる氣樂さうな男であつた。細い大根《だいこ》を三四本ぶら下げて、今日は御馳走を買つて來たと云つて、それを宜道に※［者／火］てもらつて食つた。宜道も宗助も其｜相伴《しやうばん》をした。此居士は顔が坊さんらしいので、時々僧堂の衆に交つて、村の御齋《おとき》抔《など》に出掛ける事があるとか云つて宜道が笑つてゐた。

　其《その》外《ほか》俗人で山へ修業に來てゐる人の話も色々聞いた。中に筆墨《ふですみ》を商《あきな》ふ男がゐた。背中へ荷を一杯｜負《しよ》つて、二十日《はつか》なり三十日《さんじふにち》なり、其所等中《そこらぢゆう》回《まは》つて歩いて、略《ほゞ》賣り盡してしまふと山へ歸つて來て坐禪をする。それから少時《しばらく》して食ふものがなくなると、又｜筆墨《ふですみ》を脊《せ》に載せて行商に出る。彼は此兩面の生活を、殆んど循環小數《じゆんくわんせうすう》の如く繰り返して、飽く事を知らないのだと云ふ。

　宗助は一見《いつけん》こだわりの無ささうな是等の人の月日《つきひ》と、自分の内面にある今の生活とを比べて、其懸隔の甚だしいのに驚ろいた。そんな氣樂な身分だから坐禪が出來るのか、或は坐禪をした結果さういふ氣樂な心になれるのか迷つた。

　「氣樂では不可《いけ》ません。道樂に出來るものなら、二十年も三十年も雲水《うんすゐ》をして苦しむものはありません」と宜道は云つた。

　彼は坐禪をするときの一般の心得や、老師《らうし》から公案《こうあん》の出る事や、其公案に一生懸命｜?《かじ》り付いて、朝も晩も晝も夜も?《かじ》りつゞけに?《かじ》らなくては不可《いけ》ない事やら、凡《すべ》て今の宗助には心元なく見える助言《じよごん》を與へた末、

　「御室《おへや》へ御案内しませう」と云つて立ち上がつた。

　圍爐裏の切つてある所を出て、本堂を横に拔けて、其｜外《はづ》れにある六疊の座敷の障子を縁から開けて、中へ案内された時、宗助は始めて一人遠くに來た心持がした。けれども頭の中は、周圍の幽靜な趣《おもむき》と反照《はんせう》するためか、却つて町にゐるときよりも動搖した。

　約一時間もしたと思ふ頃宜道の足音が又木堂の方から響いた。

　「老師《らうし》が相見《しやうけん》になるさうで御座いますから、御都合が宜しければ參りませう」と云つて、丁寧に敷居の上に膝を突いた。

　二人は又寺を空《から》にして連立つて出た。山門の通りを略《ほゞ》一丁程奧へ來ると、左側に蓮地《はすいけ》があつた。寒い時分だから池の中はたゞ薄濁りに淀《よど》んでゐる丈《だけ》で、少しも清淨《しやうじやう》な趣《おもむき》はなかつたが、向側《むかふがは》に見える高い石の崖外《がけはづ》れ迄、縁に欄干のある座敷が突き出して居る所が、文人畫《ぶんじんぐわ》にでもありさうな風致を添へた。

　「彼所《あすこ》が老師の住んでゐられる所です」と宜道は比較的新らしい其建物を指《ゆびさ》した。

　二人は蓮池《はすいけ》の前を通り越して、五六級の石段を上《のぼ》つて、其正面にある大きな伽藍《がらん》の屋根を仰いだまゝ直《すぐ》左りへ切れた。玄關へ差しかゝつた時、宜道は

　「一寸失禮します」と云つて、自分｜丈《だけ》裏口の方へ回つたが、やがて奧から出て來て、

　「さあ何うぞ」と案内をして、老師のゐる所へ伴《つ》れて行つた。

　老師といふのは五十｜格好《がつかう》に見えた。赭黒《あかぐろ》い光澤《つや》のある顏をしてゐた。其皮膚も筋肉も悉《ことご》とく緊つて、何所にも怠《おこたり》のない所が、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫り付けた。たゞ唇があまり厚過ぎるので、其所に幾分の弛《ゆる》みが見えた。其代り彼の眼には、普通の人間に到底見るべからざる一種の精彩《せいさい》が閃《ひら》めいた。宗助が始めて其視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があつた。

　「まあ何から入《はい》つても同じであるが」と老師は宗助に向つて云つた。「父母未生以前本來《ふぼみしやういぜんほんらい》の面目《めんもく》は何《なん》だか、それを一つ考へて見たら善からう」

　宗助には父母未生以前《ふぼみしやういぜん》といふ意味がよく分らなかつたが、何しろ自分と云ふものは必竟《ひつきやう》何物だか、其本體を捕《つら》まへて見ろと云ふ意味だらうと判斷した。それより以上口を利くには、餘り禪といふものゝ知識に乏しかつたので、黙つて又宜道に伴《つ》れられて一窓庵へ歸つて來た。

　晩食《ばんめし》の時宜道は宗助に、入室《にふしつ》の時間の朝夕《てうせき》二回あることゝ、提唱《ていしやう》の時間が午前である事などを話した上、

　「今夜は未《ま》だ見解《けんげ》も出來ないかも知れませんから、明朝《みやうてう》か明晩御誘ひ申しませう」と親切に云つて呉れた。夫《それ》から最初のうちは、詰めて坐はるのは難儀だから線香を立てゝ、それで時間を計つて、少し宛《づゝ》休んだら好からうと云ふ樣な注意もして呉れた。

　宗助は線香を持つて、本堂の前を通つて自分の室《へや》と極つた六疊に這入つて、ぼんやりして坐つた。彼から云ふと所謂｜公案《こうあん》なるものゝ性質が、如何にも自分の現在と縁の遠い樣な氣がしてならなかつた。自分は今腹痛で惱んでゐる。其腹痛と言ふ訴《うつたへ》を抱《いだ》いて來て見ると、豈《あに》計《はか》らんや、其對症療法として、六づかしい數學の問題を出して、まあ是でも考へたら可《よ》からうと云はれたと一般であつた。考へろと云はれゝば、考へないでもないが、それは一應腹痛が治まつてからの事でなくては無理であつた。

　同時に彼は勤を休んで、わざ／＼此所迄來た男であつた。紹介?を書いて呉れた人、萬事に氣を付けて呉れる宜道に對しても、あまりに輕卒な振舞は出來なかつた。彼は先づ現在の自分が許す限りの勇気を提《ひつ》さげて、公案に向はうと決心した。それが何《いづ》れの所に彼を導びいて、どんな結果を彼の心に持ち來《きた》すかは、彼自身と雖《いへど》も全く知らなかつた。彼は悟《さとり》といふ美名に欺かれて、彼の平生に似合はぬ冒險を試みやうと企てたのである。さうして、もし此冒險に成功すれば、今の不安な不定《ふてい》な弱々しい自分を救ふ事が出來はしまいかと、果敢《はか》ない望を抱いたのである。

　彼は冷たい火鉢の灰の中に細い線香を燻《くゆ》らして、�ﾍへられた通り座蒲團の上に半伽《はんか》を組んだ。晝のうちは左迄《さまで》とは思はなかつた室《へや》が、日が落ちてから急に寒くなつた。彼は坐りながら、背中のぞく／＼する程温度の低い空氣に堪へなかつた。

　彼は考へた。けれども考へる方向も、考へる問題の實質も、殆んど捕《つら》まへ樣のない空漠なものであつた。彼は考へながら、自分は非常に迂濶《うくわつ》な眞似をしてゐるのではなからうかと疑《うたが》つた。火事見舞に行く間際に、細かい地圖を出して、仔細《しさい》に町名や番地を調べてゐるよりも、ずつと飛び離れた見當違の所作を演じてゐる如く感じた。

　彼の頭の中を色々なものが流れた。其あるものは明らかに眼に見えた。あるものは混沌《こんとん》として雲の如くに動いた。何所から來て何所へ行くとも分らなかつた。たゞ先のものが消える、すぐ後《あと》から次のものが現はれた。さうして仕切りなしに夫《それ》から夫《それ》へと續いた。頭の往來を通るものは、無限で無數で無盡藏で、決して宗助の命令によつて、留まる事も休む事もなかつた。斷ち切らうと思へば思ふ程、滾々《こん／＼》として湧いて出た。

　宗助は怖くなつて、急に日常の我を呼び起して、室《へや》の中を眺めた。室《へや》は微《かす》かな灯《ひ》で薄暗く照らされてゐた。灰の中に立てた線香は、まだ半分程しか燃えてゐなかつた。宗助は恐るべく時間の長いのに始めて氣が付いた。

　宗助はまた考へ始めた。すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。ぞろ／＼と群がる蟻の如くに動いて行く、あとから又ぞろ／＼と群がる蟻の如くに現はれた。凝《じつ》としてゐるのはたゞ宗助の身體｜丈《だけ》であつた。心は切ない程、苦しい程、堪えがたい程動いた。

　其内｜凝《じつ》としてゐる身體も、膝頭から痛み始めた。眞直に延ばしてゐた脊髄が次第々々に前の方に曲つて來た。宗助は兩手で左の足の甲を抱《かゝ》える樣にして下へ卸した。彼は何をする目的《めあて》もなく室《へや》の中に立ち上がつた。障子を明けて表へ出て、門前をぐる／＼馳《か》け回《まは》つて歩きたくなつた。夜はしんとしてゐた。寐てゐる人も起きてゐる人も何處にも居りさうには思へなかつた。宗助は外へ出る勇氣を失つた。凝《じつ》と生きながら妄想《まうざう》に苦しめられるのは猶恐ろしかつた。

　彼は思ひ切つて又新らしい線香を立てた。さうして又｜略《ほゞ》前《ぜん》と同じ過程を繰り返した。最後に、もし考へるのが目的だとすれば、坐つて考へるのも寐て考へるのも同じだらうと分別した。彼は室《へや》の隅に疊んであつた薄汚ない蒲團を敷いて、其中に潜《もぐ》り込んだ。すると先刻《さつき》からの疲れで、何を考へる暇もないうちに、深い眠りに落ちて仕舞つた。

　眼が覺めると枕元の障子が何時《いつ》の間《ま》にか明るくなつて、白い紙にやがて日の逼《せま》るべき色が動いた。晝も留守を置かずに濟む山寺は、夜に入つても戸を閉《た》てる音を聞かなかつたのである。宗助は自分が坂井の崖下の暗い部屋に寐てゐたのでないと意識するや否や、すぐ起き上がつた。縁へ出ると、軒端《のきば》に高く大覇王樹《おほさぼてん》の影が眼に映つた。宗助は又本堂の佛壇の前を拔けて、圍爐裏の切つてある昨日《きのふ》の茶の間へ出た。其所には昨日《きのふ》の通り宜道の法衣《ころも》が折釘に懸けてあつた。さうして本人は勝手の竈《かまど》の前に蹲踞《うづく》まつて、火を焚いてゐた。宗助を見て、

　「御早う」と慇懃《いんぎん》に禮をした。「先刻《さつき》御誘ひ申さうと思ひましたが、よく御寢《おやすみ》の樣でしたから、失禮して一人參りました」

　宗助は此若い僧が、今朝夜明がたに既に參禪を濟まして、夫《それ》から歸つて來て、飯を炊《かし》いでゐるのだといふ事を知つた。

　見ると彼は左の手で頻りに薪《まき》を差し易へながら、右の手に黒い表紙の本を持つて、用の合間々々に夫《それ》を讀んでゐる樣子であつた。宗助は宜道に書物の名を尋ねた。それは碧巖集《へきがんしふ》といふ六づかしい名前のものであつた。宗助は腹の中《なか》で、昨夕《ゆうべ》の樣に當途《あてど》もない考に耽《ふけ》つて、腦を疲らすより、一層《いつそ》其道の書物でも借りて讀む方が、要領を得る捷徑《ちかみち》ではなからうかと思ひ付いた。宜道にさう云ふと、宜道は一も二もなく宗助の考を排斥した。

　「書物を讀むのは極《ごく》惡う御座います。有體《ありてい》に云ふと、讀書程修業の妨《さまたげ》になるものは無い樣です。私共でも、斯うして碧巖《へきがん》抔《など》を讀みますが、自分の程度以上の所になると、丸《まる》で見當が付きません。それを好《いゝ》加減に揣摩《しま》する癖がつくと、それが坐る時の妨《さまたげ》になつて、自分以上の境界《きやうがい》を豫期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべき所に頓挫《とんざ》が出來ます。大變毒になりますから、御止しになつた方が可《よ》いでせう。もし強いて何か御讀みになりたければ、禪關策進《ぜんくわんさくしん》といふ樣な、人の勇氣を鼓舞したり激勵したりするものが宜しう御座いませう。それだつて、只刺戟の方便として讀む丈《だけ》で、道《みち》其物とは無關係です」

　宗助には宜道の意味がよく解らなかつた。彼は此｜生若《なまわか》い青い頭をした坊さんの前に立つて、恰も一個の低能兒であるかの如き心持を起した。彼の慢心は京都以來既に銷磨《せうま》し盡してゐた。彼は平凡を分として、今日《こんにち》迄《まで》生きて來た。聞達《ぶんたつ》程彼の心に遠いものはなかつた。彼はたゞ有の儘の彼として、宜道の前に立つたのである。しかも平生の自分より遙かに無力無能な赤子《あかご》であると、更に自分を認めざるを得なくなつた。彼に取つては新らしい發見であつた。同時に自尊心を根絶する程の發見であつた。

　宜道が竈《へつつひ》の火を消して飯をむらしてゐる間《あひだ》に、宗助は臺所から下りて庭の井戸端へ出て顔を洗つた。鼻の先にはすぐ雜木山が見へた。其裾の少し平《たひら》な所を拓《ひら》いて、菜園が拵えてあつた。宗助は濡れた頭を冷たい空氣に曝《さら》して、わざと菜園迄下りて行つた。さうして、其所に崖を横に堀つた大きな穴を見出した。宗助は少時《しばらく》其前に立つて、暗い奧の方を眺めてゐた。やがて、茶の間へ歸ると、圍爐裏には暖かい火が起つて、鐵瓶に湯の沸《たぎ》る音が聞えた。

　「手がないものだから、つい遲くなりまして御氣の毒です。すぐ御膳に致しませう。然しこんな所だから上げるものがなくつて困ります。其代り明日《あした》あたりは御馳走に風呂でも立てませう」と宜道が云つて呉れた。宗助は難有《ありがた》く圍爐裏の向《むかふ》に坐つた。

　やがて食事を了えて、わが室《へや》へ歸つた宗助は、又｜父母未生以前《ふぼみしやういぜん》と云ふ稀有《けう》な問題を眼の前に据ゑて、凝《じ》つと眺めた。けれども、もと／＼筋の立たない、從がつて發展のしやうのない問題だから、いくら考へても何處からも手を出す事は出來なかつた。さうして、すぐ考へるのが厭になつた。宗助は不圖《ふと》御米に此所へ着いた消息を書かなければならない事に氣が付いた。彼は俗用の生じたのを喜こぶ如くに、すぐ鞄《かばん》の中から卷紙と封じ袋を取り出して、御米に遣る手紙を書き始めた。まづ此所の閑靜な事、海に近い所爲《せゐ》か、東京よりは餘程暖かい事、空氣の清朗な事、紹介された坊さんの親切な事、食事の不味《まづ》い事、夜具蒲團の綺麗に行かない事、などを書き連ねてゐるうちに、はや三尺餘りの長さになつたので、其所《そこ》で筆を擱《お》いたが、公案に苦しめられてゐる事や、坐禪をして膝の關節を痛くしてゐる事や、考へるために益《ます／＼》神經衰弱が劇しくなりさうな事は、噫《おくび》にも出さなかつた。彼は此手紙に切手を貼つて、ポストに入れなければならない口實を求めて、早速山を下つた。さうして父母未生以前《ふぼみしやういぜん》と、御米と、安井に、脅《おびや》かされながら、村の中をうろついて歸つた。

　午《ひる》には、宜道から話のあつた居士に會つた。此居士は茶碗を出して、宜道に飯を盛《よそ》つて貰ふとき、憚かり樣とも何とも云はずに、たゞ合掌して禮を述べたり、相圖をしたりした。此位靜かに物事を爲《す》るのが法だとか云つた。口を利かず、音を立てないのは、考への邪魔になると云ふ精神からださうであつた。それ程眞劔にやるべきものをと、宗助は昨夜からの自分が、何となく恥づかしく思はれた。

　食後三人は圍爐裏の傍《はた》でしばらく話した。其時居士は、自分が坐禪をしながら、何時《いつ》か氣が付かずにうと／＼と眠つて仕舞つてゐて、はつと正気に歸る間際に、おや悟つたなと喜ぶことがあるが、さて愈《いよ／＼》眼を開《あ》いて見ると、矢つ張り元の通の自分なので失望する許《ばかり》だと云つて、宗助を笑はした。斯う云ふ氣樂な考で、參禪してゐる人もあると思ふと、宗助も多少は寛ろいだ。けれども三人が分れ／＼に自分の室《へや》に入《はい》る時、宜道が、

　「今夜は御誘ひ申しますから、是から夕方迄しつかり御坐りなさいまし」と眞面目に勸めたとき、宗助は又一種の責任を感じた。消化《こな》れない堅い團子が胃に滯《とゞこ》うつてゐる樣な不安な胸を抱《いだ》いて、わが室《へや》へ歸つて來た。さうして又線香を焚いて坐はり出した。其癖夕方迄は坐り續けられなかつた。どんな解答にしろ一つ拵らへて置かなければならないと思ひながらも、仕舞には根氣が盡きて、早く宜道が夕食《ゆふめし》の報知《しらせ》に本堂を通り拔けて來て呉れゝば好いと、夫《それ》ばかり氣に掛かつた。

　日は懊惱《あうなう》と困憊《こんぱい》の裡《うち》に傾むいた。障子に映る時の影が次第に遠くへ立ち退《の》くにつれて、寺の空氣が床《ゆか》の下から冷え出した。風は朝から枝を吹かなかつた。縁側に出て、高い庇《ひさし》を仰ぐと、黒い瓦の小口｜丈《だけ》が揃つて、長く一列に見える外に、穩かな空が、蒼い光をわが底の方に沈めつゝ、自分と薄くなつて行く所であつた。

　

　　　　　十九

　

　「危險《あぶな》う御座います」と云つて宜道は一足先へ暗い石段を下りた。宗助はあとから續いた。町と違つて夜になると足元が惡いので、宜道は提灯を點《つ》けて僅一丁｜許《ばかり》の路を照らした。石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右から二人の頭に蔽《お》ひ被《かぶ》さる樣に空を遮《さへぎ》つた。闇だけれども蒼い葉の色が二人の着物の織目に染み込む程に宗助を寒がらせた。提灯の灯《ひ》にも其色が多少映る感じがあつた。其提灯は一方に大きな樹の幹を想像する所爲《せゐ》か、甚だ小さく見えた。光の地面に屆く尺數も僅であつた。照らされた部分は明るい灰色の斷片となつて暗い中にほつかり落ちた。さうして二人の影が動くに伴《つ》れて動いた。

　蓮地《れんち》を行き過ぎて、左へ上《のぼ》る所は、夜はじめての宗助に取つて、少し足元が滑《なめら》かに行かなかつた。土の中に根を食つてゐる石に、一二度下駄の臺を引つ掛けた。蓮池《れんち》の手前から横に切れる裏路もあるが、此《この》方《ほう》は凸凹《とつあふ》が多くて、慣れない宗助には近くても不便だらうと云ふので、宜道はわざ／＼廣い方を案内したのである。

　玄關を入《はい》ると、暗い土間に下駄が大分《だいぶ》並んでゐた。宗助は曲《こゞ》んで、人の履物《はきもの》を踏まない樣にそつと上へのぼつた。室《へや》は八疊程の廣さであつた。其壁際に列を作つて、六七人の男が一側《ひとかは》に並んでゐた。中に頭を光らして、黒い法衣《ころも》を着た僧も交つてゐた。他《ほか》のものは大概袴を穿《は》いてゐた。此六七人の男は上《あが》り口《ぐち》と奧へ通ずる三尺の廊下口《らうかぐち》を殘して、行儀よく鈎《かぎ》の手に並んでゐた。さうして、一言《ひとこと》も口を利かなかつた。宗助は是等の人の顏を一目見て、まづ其｜峻刻《しゆんこく》なのに氣を奪はれた。彼等は皆固く口を結んでゐた。事ありげな眉を強く寄せてゐた。傍《そば》にどんな人がゐるか見向きもしなかつた。如何なるものが外から入《はい》つて來ても、全く注意しなかつた。彼等は活きた彫刻の樣に己《おの》れを持して、火《ひ》の氣《け》のない室《へや》に肅然と坐つてゐた。宗助の感覺には、山寺の寒さ以上に、一種｜嚴《おごそ》かな氣が加はつた。

　やがて寂寞の中《うち》に、人の足音が聞えた。初は微《かす》かに響いたが、次第に強く床《ゆか》を踏んで、宗助の坐つてゐる方へ近付いて來た。仕舞に一人の僧が廊下口からぬつと現れた。さうして宗助の傍《そば》を通つて、黙つて外の暗がりへ拔けて行つた。すると遠くの奧の方で鈴《れい》を振る音がした。

　此時宗助と並んで嚴肅に控えてゐた男のうちで、小倉の袴を着けた一人が、矢張《やはり》無言の儘立ち上がつて、室《へや》の隅の廊下口の眞正面へ來て着座した。其所には高さ二尺幅一尺程の木の枠の中に、銅鑼《どら》の樣な形をした、銅鑼《どら》よりも、ずつと重くて厚さうなものが懸つてゐた。色は蒼黒く貧しい灯《ひ》に照らされてゐた。袴を着けた男は、臺の上にある撞木《しゆもく》を取り上げて、銅鑼《どら》に似た鐘の眞中を二つ程打ち鳴らした。さうして、ついと立つて、廊下口を出て、奧の方へ進んで行つた。今度は前と反對に、足音が段々遠くの方へ去るに從つて、微《かす》かになつた。さうして一番仕舞にぴたりと何處かで留まつた。宗助は坐《ゐ》ながら、はつとした。彼は此袴を着けた男の身の上に、今何事が起りつゝあるだらうかを想像したのである。けれども奧はしんとして靜まり返つてゐた。宗助と並んでゐるものも、一人として顔の筋肉を動かすものはなかつた。たゞ宗助は心の中《なか》で、奧からの何物かを待ち受けた。すると忽然として鈴《れい》を振る響が彼の耳に應《こた》へた。同時に長い廊下を踏んで、此方《こちら》へ近付く足音がした。袴を着けた男は又廊下口から現はれて、無言の儘玄關を下りて、霜の裡《うち》に消え去つた。入れ代つて又新らしい男が立つて、最前の鐘を打つた。さうして、又廊下を踏み鳴らして奧の方へ行つた。宗助は沈黙の間に行はれる此順序を見ながら、膝に手を載せて、自分の番の來るのを待つてゐた。

　自分より一人置いて前の男が立つて行つた時は、良《やゝ》暫くしてから、わつと云ふ大きな聲が、奧の方で聞えた。其聲は距離が遠いので、劇しく宗助の鼓膜を打つ程、強くは響かなかつたけれども、たしかに精一杯《せいいつぱい》威を振《ふる》つたものであつた。さうして只｜一人《いちにん》の咽喉《のど》から出た個人の特色を帶びてゐた。自分のすぐ前の人が立つた時は、愈《いよ／＼》わが番が回つて來たと云ふ意識に制せられて、一層落付を失つた。

　宗助は此間の公案に對して、自分｜丈《だけ》の解答は準備してゐた。けれども、それは甚だ覺束ない薄手のものに過ぎなかつた。室中《しつちゆう》に入る以上は、何か見解《けんげ》を呈しない譯に行かないので、已《やむ》を得ず納まらない所を、わざと納まつた樣に取繕つた、其場限りの挨拶であつた。彼は此心細い解答で、僥倖《げうかう》にも難關を通過して見たい抔《など》とは、夢にも思ひ設けなかつた。老師を胡麻化《ごまか》す氣は無論なかつた。其時の宗助はもう少し眞面目であつたのである。單に頭から割り出した、恰も畫《ゑ》にかいた餠の樣な代物《しろもの》を持つて、義理にも室中に入らなければならない自分の空虚な事を恥ぢたのである。

　宗助は人のする如くに鐘を打つた。しかも打ちながら、自分は人並に此鐘を撞木《しゆもく》で敲《たゝ》くべき權能がないのを知つてゐた。それを人並に鳴らして見る猿の如き己《おの》れを深く嫌忌《けんき》した。

　彼は弱味のある自分に恐れを抱きつゝ、入口を出て冷たい廊下へ足を踏み出した。廊下は長く續いた。右側にある室《へや》は悉《こと／”＼》く暗かつた。角を二つ折れ曲ると、向《むかふ》の外《はづ》れの障子に灯影《ひかげ》が差した。宗助は其敷居際へ來て留まつた。

　室中に入るものは老師に向つて三拜するのが禮であつた。拜しかたは普通の挨拶の樣に頭を疊に近く下げると同時に、兩手の掌を上向《うへむき》に開いて、夫《それ》を頭の左右に並べたまゝ、少し物を抱《かゝ》へた心持に耳の邊《あたり》迄上げるのである。宗助は敷居際に跪《ひざま》づいて形《かた》の如く拜を行なつた。すると座敷の中で、　「一拜《いつぱい》で宜しい」と云ふ會釋があつた。宗助はあとを略して中へ入《はい》つた。

　室《へや》の中《なか》はたゞ薄暗い灯《ひ》に照らされてゐた。其弱い光は、如何に大字《だいじ》な書物をも披見《ひけん》せしめぬ程度のものであつた。宗助は今日《こんにち》迄《まで》の經驗に訴へて、これ位｜微《かす》かな燈火《ともしび》に、夜を營なむ人間を憶ひ起す事が出來なかつた。其光は無論月よりも強かつた。且《かつ》月の如く蒼白い色ではなかつた。けれどももう少しで朦朧《もうろう》の境《さかひ》に沈むべき性質《たち》のものであつた。

　此靜かな判然《はつきり》しない燈火《ともしび》の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道の所謂老師なるものを認めた。彼の顔は例によつて鑄物《いもの》の樣に動かなかつた。色は銅《あかゞね》であつた。彼は全身に澁《しぶ》に似た柿に似た茶に似た色の法衣《ころも》を纒つてゐた。足も手も見えなかつた。たゞ頸から上が見えた。其頸から上が、嚴肅と緊張の極度に安んじて、何時《いつ》迄經つても變る恐を有せざる如くに人を魅《み》した。さうして頭には一本の毛もなかつた。

　此面前に氣力なく坐つた宗助の、口にした言葉はたゞ一句で盡きた。

　「もつと、ぎろりとした所を持つて來なければ駄目だ」と忽ち云はれた。「其位な事は少し學問をしたものなら誰でも云へる」

　宗助は喪家《さうか》の犬の如く室中を退いた。後に鈴《れい》を振る音が烈しく響いた。

　

　　　　　二十

　

　障子の外で野中さん、野中さんと呼ぶ聲が二度程聞えた。宗助は半睡《はんすゐ》の裡《うち》にはいと應《こた》へた積《つもり》であつたが、返事を仕切らない先に、早く知覺を失つて、又正體なく寐入つてしまつた。

　二度目に眼が覺めた時、彼は驚ろいて飛び起きた。縁側へ出ると、宜道が鼠木綿の着物に襷《たすき》を掛けて、甲斐々々しく其所いらを拭いてゐた。赤く凍《かじか》んだ手で、濡雜巾《ぬれざふきん》を絞《しぼ》りながら、例の如く柔和《やさ》しいにこやかな顏をして、

　「御早う」と挨拶した。彼は今朝も亦とくに參禪を濟ました後《のち》、斯うして庵に歸つて働いてゐたのである。宗助はわざ／＼呼び起されても起き得なかつた自分の怠慢を省みて、全く極《きまり》の惡い思をした。

　「今朝もつい寐忘れて失禮しました」

　彼はこそ／＼勝手口から井戸端の方へ出た。さうして冷たい水を汲んで出來る丈《だけ》早く顏を洗つた。延び掛かつた髯が、頬の邊《あたり》で手を刺す樣にざら／＼したが、今の宗助にはそれを苦にする程の餘裕はなかつた。彼はしきりに宜道と自分とを對照して考へた。

　紹介?を貰ふときに東京で聞いた所によると、此宜道といふ坊さんは、大變｜性質《たち》の可《い》い男で、今では修業も大分《だいぶ》出來上がつてゐると云ふ話だつたが、會つて見ると、丸《まる》で一丁字《いつていじ》もない小厮《こもの》の樣に丁寧であつた。かうして襷掛で働いてゐる所を見ると、何うしても一個の獨立した庵《あん》の主人らしくはなかつた。納所《なつしよ》とも小坊主とも云へた。

　此｜矮小《わいせう》な若僧《じやくそう》は、まだ出家をしない前、たゞの俗人として此所へ修業に來た時、七日の間｜結跏《けつか》したぎり少しも動かなかつたのである。仕舞には足が痛んで腰が立たなくなつて、厠《かはや》へ上《のぼ》る折などは、やつとの事壁傳ひに身體を運んだのである。其時分の彼は彫刻家であつた。見性《けんしやう》した日に、嬉しさの餘り、裏の山へ馳《か》け上つて、草木國土悉皆成佛《さうもくこくどしつかいじやうぶつ》と大きな聲を出して叫んだ。さうして遂に頭を剃つてしまつた。

　此｜庵《あん》を預かる樣になつてから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、樂に足を延ばして寐た事はないと云つた。冬でも着物の儘壁に倚《もた》れて坐睡《ざすゐ》する丈《だけ》だと云つた。侍者《じしや》をしてゐた頃などは、老師の犢鼻褌《ふんどし》迄洗はせられたと云つた。其上少しの暇を偸《ぬす》んで坐りでもすると、後《うしろ》から來て意地の惡い邪魔をされる、毒吐《どくづ》かれる、頭の剃り立てには何の因果で坊主になつたかと悔む事が多かつたと云つた。

　「漸く此頃になつて少し樂になりました。しかし未《ま》だ先が御座います。修業は實際苦しいものです。さう容易に出來るものなら、いくら私共が馬鹿だつて、斯うして十年も二十年も苦しむ譯が御座いません」

　宗助はたゞ惘然《ばうぜん》とした。自己の根氣と精力の足らない事を齒掻く思ふ上に、夫《それ》程《ほど》歳月を掛けなければ成就出來ないものなら、自分は何しに此山の中迄遣つて來たか、それからが第一の矛盾であつた。

　「決して損になる氣遣は御座いません。十｜分《ぷん》坐れば、十｜分《ぷん》の功があり、二十｜分《ぷん》坐れば二十｜分《ぷん》の�ｺがあるのは無論です。其上最初を一つ奇麗に打《ぶ》ち拔いて置けば、あとは斯う云ふ風に始終此所に御出《おいで》にならないでも濟みますから」

　宗助は義理にも亦自分の室《へや》へ歸つて坐らなければならなかつた。

　斯んな時に宜道が來て、

　「野中さん提唱《ていしやう》です」と誘つて呉れると、宗助は心から嬉しい氣がした。彼は禿頭《はげあたま》を捕《つら》まへる樣な手の着け所のない難題に惱まされて、坐《ゐ》ながら凝《じつ》と煩悶するのを、如何にも切なく思つた。どんなに精力を消耗《せうかう》する仕事でも可《い》いから、もう少し積極的に身體を慟らかしたく思つた。

　提唱《ていしやう》のある場所は、矢張り一窓庵から一町も隔《へだゝ》つてゐた。蓮池《れんち》の前を通り越して、それを左へ曲らずに眞直に突き當ると、屋根瓦を嚴《いか》めしく重ねた高い軒が、松の間に仰《あふ》がれた。宜道は懷に黒い表紙の本を入れてゐた。宗助は無論手ぶらであつた。提唱《ていしやう》と云ふのが、學校でいふ講義の意味である事さへ、此所へ來て始めて知つた。

　室《へや》は高い天井に比例して廣く且つ寒かつた。色の變つた疊の色が古い柱と映《て》り合つて、昔を物語る樣に寂《さ》び果てゝゐた。其所に坐つてゐる人々も皆地味に見えた。席次不同に思ひ々々の座を占めてはゐるが、高聲《かうせい》に語るもの、笑ふものは一人もなかつた。僧は皆｜紺麻《こんあさ》の法衣《ころも》を着て、正面の曲?《きよくろく》の左右に列を作つて向ひ合せに並んだ。其｜曲?《きよくろく》は朱で塗つてあつた。

　やがて老師が現はれた。疊を見詰めてゐた宗助には、彼が何處を通つて、何處から此所へ出たか薩張《さつぱり》分らなかつた。たゞ彼の落ち付き拂つて曲?《きよくろく》に倚《よ》る重々しい姿を見た。一人の若い僧が立ちながら、紫の袱紗《ふくさ》を解いて、中から取り出した書物を、恭《うや／＼》しく卓上に置く所を見た。又其｜禮拜《らいはい》して退《しり》ぞく態《さま》を見た。

　此時堂上の僧は一齊《いつせい》に合掌して、夢窓國師《むさうこくし》の遺誡《ゐかい》を誦《じゆ》し始めた。思ひ／＼に席を取つた宗助の前後にゐる居士も皆｜同音《どうおん》に調子を合せた。聞いてゐると、經文の樣な、普通の言葉の樣な、一種の節を帶びた文字であつた。「我に三等の弟子あり。所謂猛烈にして諸縁《しよえん》を放下《はうげ》し、専一に己事《こじ》を究明する之を上等と名づく。修業純ならず駁雜《はくざつ》學を好む、之を中等と云ふ」云々といふ、餘り長くはないものであつた。宗助は始め夢窓國師《むさうこくし》の何人《なんぴと》なるかを知らなかつた。宜道から此夢窓國師《むさうこくし》と大燈國師《だいとうこくし》とは、禪門中興の祖であると云ふ事を�ﾍはつたのである。平生｜跛《ちんば》で充分に足を組む事が出來ないのを憤《いきどほ》つて、死ぬ間際に、今日《けふ》こそ己《おれ》の意の如くにして見せると云ひながら、惡い方の足を無理に折つぺしよつて、結跏《けつか》したため、血が流れて法衣《ころも》を※［者／火］染《にじ》ましたといふ大燈國師《だいとうこくし》の話も其折宜道から聞いた。

　やがて提唱が始まつた。宜道は懷から例の書物を出して、頁《ページ》を半《なか》ば擦《ず》らして宗助の前へ置いた。それは宗門無盡燈論《しゆうもんむじんとうろん》と云ふ書物であつた。始めて聞きに出た時、宜道は、

　「難有《ありがた》い結構な本です」と宗助に�ﾍへて呉れた。白隱和尚《はくいんをしやう》の弟子の東嶺和尚《とうれいをしやう》とかいふ人の編輯したもので、重に禪を修行するものが、淺い所から深い所へ進んで行く徑路やら、それに伴なふ心境の變化やらを秩序立てゝ書いたものらしかつた。

　中途から顔を出した宗助には、能くも解《げ》せなかつたけれども、講者《かうじや》は能辯の方で、黙つて聞いてゐるうちに、大變面白い所があつた。其上參禪の士を鼓舞する爲か、古來から斯《この》道《みち》に苦しんだ人の閲歴譚《えつれきだん》抔《など》を取り交ぜて、一段の精彩を着けるのが例であつた。此日も其通りであつたが、或所へ來ると、突然語調を改めて、

　「此頃室中に來つて、何うも妄想《まうざう》が起つて不可《いけ》ない抔《など》と訴へるものがあるが」と急に入室者の不熱心を戒しめ出したので、宗助は覺えずぎくりとした。室中に入つて、其｜訴《うつたへ》をなしたものは實に彼自身であつた。

　一時間の後宜道と宗助は袖をつらねて又一窓庵に歸つた。其歸り路に宜道は、

　「あゝして提唱のある時に、よく參禪者の不心得を諷《ふう》せられます」と云つた。宗助は何も答へなかつた。

　

　　　　　二十一

　

　其内、山の中の日は、一日々々と經つた。御米からは可なり長い手紙がもう二本來た。尤も二本ともに新たに宗助の心を亂す樣な心配事は書いてなかつた。宗助は常の細君思ひに似ず遂に返事を出すのを怠つた。彼は山を出る前に、何とか此間の問題に片を付けなければ、折角來た甲斐がない樣な、又宜道に對して濟まない樣な氣がしてゐた。眼が覺めてゐる時は、之がために名?し難い一種の壓迫を受けつゞけに受けた。從つて日が暮れて夜が明けて、寺で見る太陽の數が重なるにつけて、恰《あたか》も後から追ひ掛けられでもする如く氣を焦《いら》つた。けれども彼は最初の解決より外に、一歩も此問題にちかづく術《すべ》を知らなかつた。彼は又いくら考へても此最初の解決は確なものであると信じてゐた。たゞ理窟から割り出したのだから、腹の足《たし》には一向ならなかつた。彼は此確なものを放《はふ》り出して、更に又確なものを求めやうとした。けれども左樣《そんな》ものは少しも出て來なかつた。

　彼は自分の室《へや》で獨り考へた。疲れると、臺所から下りて、裏の菜園へ出た。さうして崖の下に堀つた横穴の中へ這入つて、凝《じ》つと動かずにゐた。宜道は氣が散る樣では駄目だと云つた。段々集注して凝《こ》り固まつて仕舞に鐵の棒の樣にならなくては駄目だと云つた。さう云ふ事を聞けば聞く程、實際にさうなるのが、困難になつた。

　「既に頭の中に、さう仕《し》樣《やう》と云ふ下心があるから不可《いけ》ないのです」と宜道が又云つて聞かした。宗助は愈《いよ／＼》窮した。忽然安井の事を考へ出した。安井がもし坂井の家へ頻繁に出入《でいり》でもする樣になつて、當分満洲へ歸らないとすれば、今のうちあの借家《しやくや》を引き上げて、何處かへ轉宅するのが上分別《じやうふんべつ》だらう。こんな所に愚圖々々してゐるより、早く東京へ歸つて其方の所置を付けた方がまだ實際的かも知れない。緩《ゆつ》くり構へて、御米にでも知れると又心配が殖える丈《だけ》だと思つた。

　「私の樣なものには到底｜悟《さとり》は開かれさうに有りません」と思ひ詰めた樣に宜道を捕《つら》まへて云つた。それは歸る二三日前《にさんちまへ》の事であつた。

　「いえ信念さへあれば誰でも悟れます」と宜道は躊躇もなく答へた。「法華《ほつけ》の凝《こ》り固まりが夢中に太鼓を叩く樣に遣つて御覽なさい。頭の巓邊《てつぺん》から足の爪先迄が悉《こと／”＼》く公案で充實したとき、俄然として新天地が現前するので御座います」

　宗助は自分の境遇やら性質が、夫《それ》程《ほど》盲目的に猛烈な働《はたらき》を敢てするに適しない事を深く悲しんだ。况《いは》んや自分の此山で暮らすべき日は既に限られてゐた。彼は直截《ちよくせつ》に生活の葛藤《かつとう》を切り拂ふ積りで、却つて迂濶《うくわつ》に山の中へ迷ひ込んだ愚物であつた。

　彼は腹の中で斯う考へながら、宜道の面前で、それ丈《だけ》の事を言ひ切る力がなかつた。彼は心から此若い禪僧の勇氣と熱心と眞面目と親切とに敬意を表してゐたのである。

　「道は近きにあり、却つて之を遠きに求むといふ言葉があるが實際です。つい鼻の先にあるのですけれども、何うしても氣が付きません」と宜道はさも殘念さうであつた。宗助は又自分の室《へや》に退《しりぞ》いて線香を立てた。

　斯う云ふ?態は、不幸にして宗助の山を去らなければならない日迄、目に立つ程の新生面を開く機會なく續いた。愈《いよ／＼》出立の朝になつて宗助は潔よく未練を抛《な》げ棄てた。

　「永々御世話になりました。殘念ですが、何うも仕方がありません。もう當分御眼に掛かる折も御座いますまいから、隨分御機嫌よう」と宜道に挨拶をした。宜道は氣の毒さうであつた。

　「御世話どころか、萬事不行屆で嘸《さぞ》御窮屈で御座いましたらう。然し是程御坐りになつても大分《だいぶ》違ひます。わざ／＼御出《おいで》になつた丈《だけ》の事は充分御座います」と云つた。然し宗助には丸《まる》で時間を潰しに來た樣な自覺が明らかにあつた。それを斯う取り繕《つく》ろつて云つて貰ふのも、自分の腑甲斐なさからであると、獨り恥ぢ入つた。

　「悟の遲速は全く人の性質《たち》で、それ丈《だけ》では優劣にはなりません。入り易くても後《あと》で塞《つか》へて動かない人もありますし、又初め長く掛かつても、愈《いよ／＼》と云ふ場合に非常に痛快に出來るのもあります。決して失望なさる事は御座いません。たゞ熱心が大切です。亡くなられた洪川和尚《こうせんをしやう》などは、もと儒�ﾍをやられて、中年からの修業で御座いましたが、僧になつてから三年の間と云ふもの丸《まる》で一則《いつそく》も通らなかつたです。夫《それ》で私《わし》は業《ごふ》が深くて悟れないのだと云つて、毎朝《まいてう》厠に向つて禮拜《らいはい》された位でありましたが、後にはあのやうな知識になられました。これ抔《など》は尤も好い例です」

　宜道は斯んな話をして、暗に宗助が東京へ歸つてからも、全く此方を斷念しない樣にあらかじめ間接の注意を與へる樣に見えた。宗助は謹んで、宜道のいふ事に耳を借した。けれども腹の中では大事がもう既に半分去つた如くに感じた。自分は門を開《あ》けて貰ひに來た。けれども門番は扉の向側《むかふがは》にゐて、敲《たゝ》いても遂に顔さへ出して呉れなかつた。たゞ、

　「敲いても駄目だ。獨りで開けて入《はい》れ」と云ふ聲が聞えた丈《だけ》であつた。彼は何うしたら此門の閂《くわんのき》を開ける事が出來るかを考へた。さうして其手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれども夫《それ》を實地に開ける力は、少しも養成する事が出來なかつた。從つて自分の立つてゐる場所は、此間題を考へない昔と毫も異なる所がなかつた。彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り殘された。彼は平生自分の分別を便《たより》に生きて來た。其分別が今は彼に崇《たゝ》つたのを口惜《くちをし》く思つた。さうして始から取捨も商量も容れない愚なものゝ一徹一圖を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立《たゝず》むべき運命をもつて生れて來たものらしかつた。夫《それ》は是非もなかつた。けれども、何うせ通れない門なら、わざ／＼其所迄｜辿《たど》り付くのが矛盾であつた。彼は後《うしろ》を顧みた。さうして到底又元の路へ引き返す勇氣を有《も》たなかつた。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時《いつ》迄も展望を遮《さへ》ぎつてゐた。彼は門を通る人ではなかづた。又門を通らないで濟む人でもなかつた。要するに、彼は門の下に立ち竦《すく》んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であつた。

　宗助は立つ前に、宜道と連れだつて、老師の許《もと》へ一寸暇乞に行つた。老師は二人を蓮池《れんち》の上の、縁に勾欄《こうらん》の着いた座敷に通した。宜道は自《みづか》ら次の間に立つて、茶を入れて出た。

　「東京はまだ寒いでせう」と老師が云つた。「少しでも手掛りが出來てからだと、歸つたあとも樂だけれども。惜しい事で」

　宗助は老師の此挨拶に對して、丁寧に禮を述べて、又十日前に潜《くゞ》つた山門を出た。甍《いらか》を壓する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後《うしろ》に聳えた。

　

　　　　　二十二

　

　家《いへ》の敷居を跨いだ宗助は、己《おの》れにさへ憫然《びんぜん》な姿を描《ゑが》いた。彼は過去十日間毎朝頭を冷水《れいすゐ》で濡らしたなり、未だ曾て櫛の齒を通した事がなかつた。髭は固《もと》より剃る暇《いとま》を有《も》たなかつた。三度とも宜道の好意で白米の炊《かし》いだのを食べたには食べたが、副食物と云つては、菜の※［者／火］たのか、大根の煮たの位なものであつた。彼の顔は自《おのづ》から蒼かつた。出る前よりも多少｜面窶《おもやつ》れてゐた。其上彼は一窓庵で考へつゞけに考へた習慣がまだ全く拔け切らなかつた。何所かに卵を抱《いだ》く牝鷄《めんどり》の樣な心持が殘つて、頭が平生の通り自由に働らかなかつた。其癖一方では坂井の事が氣に掛かつた。坂井と云ふよりも、坂井の所謂｜冒險者《アド?ンチユアラー》として宗助の耳に響いた其｜弟《おとゝ》と、其｜弟《おとゝ》の友達として彼の胸を騷がした安井の消息が氣にかゝつた。けれども彼は自身に家主の宅へ出向いて、それを聞き糺《たゞ》す勇氣を有《も》たなかつた。間接にそれを御米に問ふことは猶出來なかつた。彼は山にゐる間さへ、御米が此事件に就いて何事も耳にして呉れなければ可《い》いがと氣遣はない日はなかつた位である。宗助は年來住み慣れた家《いへ》の座敷に坐つて、

　「汽車に乘ると短かい道中でも氣の所爲《せゐ》か疲れるね。留守中に別段變つた事はなかつたかい」と聞いた。實際彼は短かい汽車旅行にさへ堪へかねる顔付をしてゐた。

　御米は如何な場合にも夫《をつと》の前に忘れなかつた笑顔《ゑがほ》さへ作り得なかつた。と云つて、折角保養に行つた轉地先から今歸つて來たばかりの夫に《をつと》、行かない前より却つて健康が惡くなつたらしいとは、氣の毒で露骨に話し惡《にく》かつた。わざと活?に、

　「いくら保養でも、家《うち》へ歸ると、少しは氣疲《きづかれ》が出るものよ。けれども貴方は餘《あん》まり爺々汚《ぢゞむさ》いわ。後生《ごしやう》だから一休《ひとやすみ》したら御湯に行つて頭を刈つて髭を剃《す》って來て頂戴」と云ひながら、わざ／＼机の引出から小さな鏡を出して見せた。

　宗助は御米の言葉を聞いて、始めて一窓庵の空気を風で拂つた樣な心持がした。一たび山を出て家《うち》へ歸れば矢張り元の宗助であつた。

　「坂井さんからは其《その》後《ご》何とも云つて來ないかい」

　「いゝえ何とも」

　「小六の事も」

　「いゝえ」

　其小六は圖書館へ行つて留守だつた。宗助は手拭と石鹸を持つて外へ出た。

　明る日役所へ出ると、みんなから病氣はどうだと聞かれた。中には少し瘠せた樣ですねと云ふものもあつた。宗助には夫《それ》が無意識の冷評の意味に聞えた。菜根譚《さいこんたん》を讀む男はたゞ何うです旨く行きましたかと尋ねた。宗助は此問にも大分《だいぶ》痛い思をした。

　其晩は又御米と小六から代る／”＼鎌倉の事を根堀り葉塀り問はれた。

　「氣樂でせうね。留守居も何も置かないで出られたら」と御米が云つた。

　「それで一日《いちんち》幾何《いくら》出すと置いて呉れるんです」と小六が聞いた。「鐵砲でも擔いで行つて、獵でもしたら面白からう」とも云つた。

　「然し退屈ね。そんなに淋《さむ》しくつちや。朝から晩迄寐て入らつしやる譯にも行かないでせう」と御米が又云つた。

　「もう少し滋養物が食へる所でなくつちあ、矢つ張り身體に可《よ》くないでせう」と小六が又云つた。

　宗助は其夜床の中《なか》へ入《はい》つて、明日《あした》こそ思ひ切つて、坂井へ行つて安井の消息をそれとなく聞き糺《たゞ》して、もし彼がまだ東京にゐて、猶しば／＼坂井と往復がある樣なら、遠くの方へ引越して仕舞はうと考へた。

　次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落した。夜《よ》に入《い》つて彼は、

　「一寸坂井さん迄行つて來る」と云ひ捨てゝ門を出た。月のない坂を上つて、瓦斯燈《ガスとう》に照らされた砂利を鳴らしながら潜戸《くゞりど》を開けた時、彼は今夜此所で安井に落ち合ふ樣な萬一はまづ起らないだらうと度胸を据ゑた。それでもわざと勝手口へ回つて、御客來ですかと聞くことは忘れなかつた。

　「能く御出です。何うも相變らず寒いぢやありませんか」と云ふ常の通り元氣の好い主人を見ると、子供を大勢自分の前へ並べて、其｜中《うち》の一人と掛聲をかけながら、じやん拳を遣つてゐた。相手の女の子の年は、六つ許《ばかり》に見えた。赤い幅のあるリボンを蝶々の樣に頭の上に喰付けて、主人に負けない程の勢で、小さな手を握り固めてさつと前へ出した。其斷然たる樣子と、其握り拳の小さゝと、之に反して主人の仰山らしく大きな拳骨が、對照になつて皆《みんな》の笑を惹《ひ》いた。火鉢の傍《はた》に見てゐた細君は、

　「そら今度《こんだ》こさ雪子の勝だ」と云つて愉快さうに綺麗な齒を露《あら》はした。子供の膝の傍《そば》には白だの赤だの藍だのゝ硝子玉《がらすだま》が澤山あつた。主人は、

　「とう／＼雪子に負けた」と席を外《はづ》して、宗助の方を向いたが、「何うです又｜洞窟《とうくつ》へでも引き込みますかな」と云つて立ち上がつた。

　書齋の柱には、例の如く錦の袋に入れた蒙古刀が振《ぶ》ら下《さ》がつてゐた。花活には何處で咲いたか、もう黄色い菜の花が挿してあつた。宗助は床柱の中途を華やかに彩《いろ》どる袋に眼を着けて、

　「相變らず掛かつて居りますな」と云つた。さうして主人の氣色《けしき》を頭の奧から窺つた。主人は、

　「えゝ些《ち》と物數奇《ものずき》過ぎますね、蒙古刀は」と答へた。「所が弟《おとゝ》の野郎そんな玩具《おもちや》を持つて來ては、兄貴を籠絡《ろうらく》する積《つもり》だから困りものぢやありませんか」

　「御舎弟は其《その》後《そ》何うなさいました」と宗助は何氣ない風を示した。

　「えゝ漸く四五日前歸りました。ありや全く蒙古向ですね。御前の樣な夷狄《いてき》は東京にや調和しないから早く歸れつたら、私《わたし》もさう思ふつて歸つて行きました。何うしても、ありや萬里の長城の向側《むかふがは》にゐるべき人物ですよ。さうしてゴビの沙漠の中で金剛石《ダイヤモンド》でも捜してゐれば可《い》いんです」

　「もう一人の御伴侶《おつれ》は」

　「安井ですか、あれも無論一所です。あゝなると落ち付いちや居られないと見えますね。何でも元は京都大學にゐたこともあるんだとか云ふ話ですが。何うして、あゝ變化したものですかね」

　宗助は腋の下から汗が出た。安井が何う變つて、どう落ち付かないのか、全く聞く氣にはならなかつた。たゞ自分が主人に安井と同じ大學にゐた事を、まだ洩らさなかつたのを天佑の樣に難有《ありがた》く思つた。けれども主人は其弟と安井とを晩餐に呼ぶとき、自分を此二人に紹介しやうと申し出た男である。辭退をして其席へ顔を出す不面目｜丈《だけ》は漸《やつ》と免かれた樣なものゝ、其晩主人が何かの機會《はずみ》につい自分の名を二人に洩らさないとは限らなかつた。宗助は後暗い人の、變名《へんみやう》を用ひて世を渡る便利を切に感じた。彼は主人に向つて、「貴方はもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか」と聞いて見たくて堪らなかつた。けれども、夫《それ》丈《だけ》は何うしても聞けなかつた。

　下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛つて出た。一丁の豆腐位な大きさの金玉糖《きんぎよくたう》の中に、金魚が二疋｜透《す》いて見えるのを、其儘庖丁の刃を入れて、元の形を崩さずに、皿に移したものであつた。宗助は一目見て、たゞ珍らしいと感じた。けれども彼の頭は寧ろ他《ほか》の方面に氣を奪はれてゐた。すると主人が、

　「何うです一つ」と例《いつも》の通り先づ自分から手を出した。

　「是はね、昨日《きのふ》ある人の銀婚式に呼ばれて、貰つて來たのだから、頗ぶる御目出度いのです。貴方も一切位｜肖《あやか》つても可《い》いでせう」

　主人は肖《あやか》りたい名の下《もと》に、甘垂《あまた》るい金玉糖《きんぎよくたう》を幾切か頬張つた。これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食へる樣に出來た、重寶で健康な男であつた。

　「何實を云ふと、二十年も三十年も夫婦が皺だらけになつて生きてゐたつて、別に御目出度くもありませんが、其所が物は比較的な所でね。私は何時《いつ》か清水谷の公園の前を通つて驚ろいた事がある」と變な方面へ話を持つて行つた。斯ういふ風に、夫《それ》から夫《それ》へと客を飽かせない樣に引張つて行くのが、社交になれた主人の平生の調子であつた。

　彼の云ふ所によると、清水谷から辨慶橋へ通じる泥溝《どぶ》の樣な細い流の中に、春先になると無數の蛙が生れるのださうである。其蛙が押し合ひ鳴き合つて生長するうちに、幾百組か幾千組の戀が泥溝《どぶ》の中で成立する。さうして夫等《それら》の愛に生きるものが重ならない許《ばかり》に隙間なく清水谷から辨慶橋へ續いて、互に睦まじく浮いてゐると、通り掛りの小僧だの閑人《ひまじん》が、石を打ち付けて、無殘にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、其數が殆んど勘定し切れない程多くなるのださうである。

　「死屍累々《ししるゐ／＼》とはあの事ですね。それが皆《みんな》夫婦なんだから實際氣の毒ですよ。詰りあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢ふか分らないんです。夫《それ》を考へると御互は實に幸福でさあ。夫婦になつてるのが惡《にく》らしいつて、石で頭を破《わ》られる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全く御目出たいに違ありませんよ。だから一切位｜肖《あやか》つて置く必要もあるでせう」と云つて、主人はわざと箸で金玉糖《きんぎよくたう》を挾んで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた。

　こんな冗談交《じょうだんまじ》りの話を、主人はいくらでも續けるので、宗助は已《や》むを得ず或る邊までは釣られて行つた。けれども腹の中は決して主人の樣に太平樂《たいへいらく》には行かなかつた。辭して表へ出て、又月のない空を眺めた時は、其深く黒い色の下《もと》に、何とも知れない一種の悲哀と物凄さを感じた。

　彼は坂井の家に、たゞ苟《いやし》くも免かれんとする料簡で行つた。さうして、其目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と眞率《しんそつ》の氣に充ちた主人に對して、政略的に談話を驅つた。しかも知らうと思ふ事は悉《こと／”＼》く知る事が出來なかつた。己《おの》れの弱點に付いては、一言《ひとこと》も彼の前に自白するの勇氣も必要も認めなかつた。

　彼の頭を掠《かす》めんとした雨雲《あまぐも》は、辛うじて、頭に触れずに過ぎたらしかつた。けれども、是に似た不安は是から先何度でも、色々な程度に於て、繰り返さなければ濟まない樣な蟲の知らせが何處かにあつた。それを繰り返させるのは天の事であつた。それを逃げて回るのは宗助の事であつた。

　

　　　　　二十三

　

　月が變つてから寒さが大分《だいぶ》緩《ゆる》んだ。官吏の�摯�問題につれて必然起るべく、多數の噂に上つた局員課員の淘汰《たうた》も、月末迄に略《ほゞ》片付いた。其《その》間《あひだ》ぽつり／＼と首を斬られる知人や未知人の名前を絶えず耳にした宗助は、時々｜家《うち》へ歸つて御米に、

　「今度《こんだ》は己《おれ》の番かも知れない」と云ふ事があつた。御米はそれを冗談とも聞き、又本氣とも聞いた。稀《まれ》には隱れた未來を故意に呼び出す不吉な言葉とも解釋した。それを口にする宗助の胸の中《なか》にも、御米と同じ樣な雲が去來した。

　月が改つて、役所の動搖も是で一段落だと沙汰せられた時、宗助は生き殘つた自分の運命を顧りみて、當然の樣にも思つた。又偶然の樣にも思つた。立ちながら、御米を見下して、

　「まあ助かつた」と六づかし氣に云つた。其嬉しくも悲しくもない樣子が、御米には天から落ちた滑稽に見えた。

　又二三日して宗助の月給が五圓昇つた。

　「原則通り二割五分�揩ｳないでも仕方があるまい。休《や》められた人も、元給の儘でゐる人も澤山あるんだから」と云つた宗助は、此五圓に自己以上の價値をもたらし歸つた如く滿足の色を見せた。御米は無論の事心のうちに不足を訴へるべき餘地を見出さなかつた。

　翌日《あくるひ》の晩宗助はわが膳の上に頭《かしら》つきの魚《うを》の、尾を皿の外に躍らす態《さま》を眺めた。小豆《あづき》の色に染まつた飯の香《かをり》を嗅いだ。御米はわざ／＼清を遣つて、坂井の家に引き移つた小六を招いた。小六は、

　「やあ御馳走だなあ」と云つて勝手から入《はい》つて來た。

　梅がちらほらと眼に入る樣になつた。早いのは既に色を失なつて散りかけた。雨は烟る樣に降り始めた。それが霽《は》れて、日に蒸されるとき、地面からも、屋根からも、春の記憶を新にすべき濕氣がむら／＼と立ち上《のぼ》つた。脊戸《せど》に干した雨傘《あまがさ》に、小犬がじやれ掛《か》ゝつて蛇の目の色がきら／＼する所に陽炎《かげろふ》が燃える如く長閑《のどか》に思はれる日もあつた。

　「漸く冬が過ぎた樣ね。貴方｜今度《こんだ》の土曜に佐伯の叔母さんの處へ回つて、小六さんの事を極めて入らつしやいよ。あんまり何時《いつ》迄も放《はふ》つて置くと、又安さんが忘れて仕舞ふから」と御米が催促した。宗助は、

　「うん、思ひ切つて行つて來《き》よう」と答へた。小六は坂井の好意で、其所の書生に住み込んだ。其上に宗助と安之助が、不足の所を分擔する事が出來たらと小六に云つて聞かしたのは、宗助自身であつた。小六は兄の運動を待たずに、すぐ安之助に直談判《ぢきだんぱん》をした。さうして、形式的に宗助の方から依頼すればすぐ安之助が引き受ける迄に自分で埒《らち》を明けたのである。

　小康は斯くして事を好まない夫婦の上に落ちた。ある日曜の午《ひる》宗助は久し振りに、四日目の垢を流すため横町の洗湯に行つたら、五十｜許《ばかり》の頭を剃つた男と、三十代の商人《あきんど》らしい男が、漸く春らしくなつたと云つて、時候の挨拶を取り換はしてゐた。若い方が、今朝始めて鶯の鳴聲を聞いたと話すと、坊さんの方が、私《わたし》は二三日前にも一度聞いた事があると答へてゐた。

　「まだ鳴きはじめだから下手だね」

　「えゝ、まだ充分に舌が回りません」

　宗助は家《うち》へ歸つて御米に此鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子の硝子《がらす》に映《うつ》る麗《うらゝ》かな日影をすかして見て、

　「本當に難有《ありがた》いわね。漸くの事春になつて」と云つて、晴れ／”＼しい眉を張つた。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪《き》りながら、

　「うん、然し又ぢき冬になるよ」と答へて、下を向いたまゝ鋏《はさみ》を動かしてゐた。

　

　　　　　　2006年11月18日（土）午前11時12分、入力終了

　　　　　　2019年1月18日（金）午前10時48分、校正終了