小説(続)
 
彼岸過迄
行人
こゝろ
道草
明暗
 
   彼岸過迄
明治四五、一、二−四五、四、二九
 
  彼岸過迄に就て
 
 事實を讀者の前に告白すると、去年の八月頃既に自分の小説を紙上に連載すべき筈だつたのである。ところが餘り暑い盛りに大患後の身體を打通《ぶつとほ》しに使ふのは何《ど》んなものだらうといふ親切な心配をして呉れる人が出て來たので、それを好《い》い機會《しほ》に、尚二箇月の暇を貪《むさぼ》ることに取極めて貰つたのが原《もと》で、とう/\其二箇月が過去つた十月にも筆を執らず、十一十二もつい紙上へは杳《えう》たる有樣で暮して仕舞つた。自分の當然遣るべき仕事が、斯ういふ風に、崩れた波の崩れながら傳はつて行くやうな具合で、只だらしなく延びるのは決して心持の好いものではない。
 歳の改まる元旦から愈《いよ/\》書始める緒口《いとぐち》を開くやうに事が極つた時は、長い間抑へられたものが伸びる時の樂《たのしみ》よりは、脊中《せなか》に脊負《しよは》された義務を片附ける時機が來たといふ意味で先《まづ》何よりも嬉しかつた。けれども長い間|抛《はふ》り出して置いた此の義務を、何うしたら例《いつも》よりも手際よく遣《や》つて退《の》けられるだらうかと考へると、又新らしい苦痛を感ぜずには居られない。
 久し振だから成るべく面白いものを書かなければ濟まないといふ氣がいくらかある。それに自分の健康状態やら其の他の事情に對して寛容の精神に充ちた取り扱ひ方をして呉れた社友の好意だの、又自分の書くものを毎日日課のやうにして讀んで呉れる讀者の好意だのに、酬《むく》いなくては濟まないといふ心持が大分《だいぶ》附け加はつて來る。で、何うかして旨いものが出來るやうにと念じてゐる。けれどもたゞ念力|丈《だけ》では作物《さくぶつ》の出來榮《できばえ》を左右する譯には何うしたつて行きつこない、いくら佳《い》いものをと思つても、思ふやうになるかならないか自分にさへ豫言の出來かねるのが述作の常であるから、今度こそは長い間休んだ埋合《うめあは》せをする積《つもり》であると公言する勇氣が出ない。そこに一種の苦痛が潜んでゐるのである。
 此の作を公《おほやけ》にするに方《あた》つて、自分はたゞ以上の事|丈《だけ》を言つて置きたい氣がする。作の性質だの、作物《さくぶつ》に對する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めてゐない。實をいふと自分は自然派の作家でもなければ象徴派《しやうちようは》の作家でもない。近頃しば/\耳にするネオ浪漫波《ローマンは》の作家では猶更《なほさら》ない。自分は是等の主義を高く標榜《へうばう》して路傍《ろばう》の人の注意を惹《ひ》く程に、自分の作物《さくぶつ》が固定した色に染附けられてゐるといふ自信を持ち得ぬものである。又そんな自信を不必要とするものである。たゞ自分は自分であるといふ信念を持つてゐる。さうして自分が自分である以上は、自然派でなからうが、象徴派《しやうちようは》でなからうが、乃至《ないし》ネオの附く浪漫派《ロ−マンは》でなからうが全く構はない積《つもり》である。
 自分は又自分の作物《さくぶつ》を新しい/\と吹聽《ふいちやう》する事も好まない。今の世に無暗に新しがつてゐるものは三越呉服店とヤンキーと夫《それ》から文壇に於ける一部の作家と評家だらうと自分はとうから考へてゐる。
 自分は凡《すべ》て文壇に濫用される空疎な流行語を藉《か》りて自分の作物《さくぶつ》の商標としたくない。たゞ自分らしいものが書きたい丈《だけ》である。手腕が足りなくて自分以下のものが出來たり、衒氣《げんき》があつて自分以上を裝《よそほ》ふ樣なものが出來たりして、讀者に濟まない結果を齎《もたら》すのを恐れる丈《だけ》である。
 東京大阪を通じて計算すると、吾《わが》朝日新聞の購讀者は實に何十萬といふ多数に上つてゐる。其の内で自分の作物《さくぶつ》を讀んでくれる人は何人あるか知らないが、其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた經驗はあるまい。全くたゞの人間として大自然の空氣を眞率《しんそつ》に呼吸しつゝ穩當に生息してゐる丈《だけ》だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且《かつ》尋常なる士人の前にわが作物《さくぶつ》を公《おほやけ》にし得る自分を幸福と信じてゐる。
 「彼岸過迄《ひがんすぎまで》」といふのは元日から始めて、彼岸過迄書く豫定だから單にさう名づけた迄に過ぎない實は空《むな》しい標題《みだし》である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、其の個々の短篇が相合して一長篇を構成するやうに仕組んだら、新聞小説として存外面白く讀まれはしないだらうかといふ意見を持《ぢ》してゐた。が、つい夫《それ》を試みる機會もなくて今日《こんにち》迄《まで》過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならば此の「彼岸過迄」をかねての思はく通りに作り上げたいと考へてゐる。けれども小説は建築家の圖面と違つて、いくら下手でも活動と發展を含まない譯に行かないので、たとひ自分が作るとは云ひながら、自分の計畫通りに進行しかねる場合が能く起つて来るのは、普通の實世間に於て吾々の企《くはだ》てが意外の障害を受けて豫期の如くに纒まらないのと一般である。從つて是はずつと書進んで見ないと一寸分らない全く未來に屬する問題かも知れない。けれどもよし旨く行かなくつても、離れるとも即《つ》くとも片《かた》の附かない短篇が續く丈《だけ》の事だらうとは豫想出來る。自分は夫《それ》でも差支へなからうと思つてゐる。(明治四十五年一月此作を朝日新聞に公けにしたる時の緒言)
 
  風呂の後
 
     一
 
 敬太郎《けいたらう》は夫《それ》程《ほど》驗《げん》の見えない此間からの運動と奔走に少し厭氣《いやき》が注《さ》して來た。元々|頑丈《ぐわんぢやう》に出來た身體だから單に馳け歩くといふ努力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知してゐるが、思ふ事が引つ懸つたなり居据《ゐすわ》つて動かなかつたり、又は引つ懸らうとして手を出す途端にすぽりと外《はづ》れたりする反間《へま》が度重《たびかさ》なるに連れて、身體よりも頭の方が段々云ふ事を聞かなくなつて來た。で、今夜は少し癪も手傳つて、飲みたくもない麥酒《ビ−ル》をわざとポン/\拔いて、出來るだけ快豁《くわいくわつ》な氣分を自分と誘《いざな》つて見た。けれども何時《いつ》迄《まで》經つても、特更《ことさら》に借着をして陽氣がらうとする自覺が退《の》かないので、仕舞に下女を呼んで、其所いらを片付さした。下女は敬太郎の顔を見て、「まあ田川さん」と云つたが、其|後《あと》から又「本當にまあ」と付け足した。敬太郎は自分の顔を撫《な》でながら、「赤いだらう。こんな好い色を何時《いつ》迄《まで》も電燈に照らして置くのは勿體ないから、もう寐るんだ。序《ついで》に床を取つて呉れ」と云つて、下女がまだ何か遣り返さうとするのをわざと外《はづ》して廊下へ出た。さうして便所から歸つて夜具の中に潜《もぐ》り込む時、まあ當分休養する事にするんだと口の内で囁《つぶや》いた。
 敬太郎は夜中に二返眼を覺《さ》ました。一度は咽喉《のど》が渇いたため、一度は夢を見たためであつた。三度目に眼が開《あ》いた時は、もう明るくなつてゐた。世の中が動き出してゐるなと氣が付くや否や敬太郎は、休養々々と云つて又眼を眠《ねむ》つて仕舞つた。其次には氣の利かないボン/\時計の大きな音が無遠慮に耳に響いた。夫《それ》から後《あと》はいくら苦心しても寐付かれなかつた。已《やむ》を得ず横になつた儘《まゝ》卷烟草を一本吸つてゐると、半分程に燃えて來た敷島の先が崩れて、白い枕が灰だらけになつた。それでも彼は凝《じつ》としてゐる積《つもり》であつたが、仕舞に東窓から射し込む強い日脚に打たれた氣味で、少し頭痛がし出したので、漸く我《が》を折つて起き上つたなり、楊枝《やうじ》を銜《くは》へた儘、手拭をぶら下げて湯に行つた。
 湯屋の時計はもう十時少し廻つてゐたが、流しの方はからりと片付いて、小桶《こをけ》一つ出てゐない。たゞ浴槽《ゆぶね》の中に一人横向になつて、硝子越に射し込んでくる日光を眺めながら、呑氣《のんき》さうにぢやぶ/\遣つてるものがある。それが敬太郎と同じ下宿にゐる森本《もりもと》といふ男だつたので、敬太郎はやあ御早うと聲を掛けた。すると、向ふでも、やあ御早うと挨拶をしたが、
 「何です今頃|楊枝《やうじ》なぞを銜《くは》へ込んで、冗談ぢやない。さう云やあ昨夕《ゆうべ》貴方の部屋に電氣が點《つ》いて居ない樣でしたね」と云つた。
 「電氣は宵の口から煌々《くわう/\》と點《つ》いてゐたさ。僕は貴方と違つて品行方正だから、夜遊びなんか滅多にした事はありませんよ」
 「全くだ。貴方は堅いからね。羨ましい位堅いんだから」
 敬太郎は少し羞痒《くすぐつ》たいやうな氣がした。相手を見ると依然として横隔膜から下を湯に浸《つ》けた儘、まだ飽きずにぢやぶ/\遣つてゐる。さうして比較的眞面目な顔をしてゐる。敬太郎は此氣樂さうな男の口髭がだらしなく濡れて一本々々|下向《したむき》に垂れた處を眺めながら、
 「僕の事は何うでも好いが、貴方は何うしたんです。役所は」と聞いた。すると森本は倦怠《だる》さうに浴槽《ゆぶね》の側《ふち》に兩肱を置いて其上に額を載せながら俯伏《うつぶし》になつた儘、
 「役所は御休みです」と頭痛でもする人のやうに答ヘた。
 「何で」
 「何ででもないが、僕の方で御休みです」
 敬太郎は思はず自分の同類を一人發見したやうな氣がした。夫《それ》でつい、「矢つ張り休養ですか」と云ふと、相手も「えゝ休養です」と答へたなり元の通り湯槽《ゆぶね》の側《ふち》に突伏《つつぷ》してゐた。
 
     二
 
 敬太郎が留桶《とめをけ》の前へ腰を卸して、三助《さんすけ》に垢擦《あかすり》を掛けさせてゐる時分になつて、森本はやつと烟《けむ》の出るやうな赤い身體を全く湯の中から露出した。さうして、あゝ好い心持だといふ顏付で、流しの上へぺたりと胡坐《あぐら》をかいたと思ふと、
 「貴方は好い體格だね」と云つて敬太郎の肉付《にくづき》を賞め出した。
 「是で近頃は大分《だいふ》惡くなつた方です」
 「どうして/\夫《それ》で惡かつた日にや僕なんざあ」
 森本は自分で自分の腹をポン/\叩いて見せた。其腹は凹《へこ》んで脊中の方へ引付《ひつつ》けられてる樣であつた。
 「何しろ商賣が商賣だから身體は毀《こは》す一方ですよ。尤も不養生も大分《だいぶ》遣りましたがね」と云つた後《あと》で、急に思ひ出したやうにアハヽヽと笑つた。敬太郎は夫《それ》に調子を合せる氣味で、
 「今日は僕も閑《ひま》だから、久し振で又貴方の昔話でも何ひませうか」と云つた。すると森本は、
 「えゝ話しませう」とすぐ乘氣な返事をしたが、活?なのはたゞ返事|丈《だけ》で、擧動の方は緩慢といふよりも、凡《すべ》ての筋肉が湯に?《う》でられた結果、當分|作用《はたらき》を中止してゐる姿であつた。
 敬太郎が石鹸《しやぼん》を塗《つ》けた頭をごし/\いはしたり、堅い足の裏や指の股を擦《こす》つたりする間、森本は依然として胡坐《あぐら》をかいた儘、何處一つ洗ふ氣色《けしき》は見えなかつた。最後に瘠せた一塊《ひとかたまり》の肉團をどぶりと湯の中に抛《はふ》り込むやうに浸《つ》けて、敬太郎と略《ほゞ》同時に身體を拭きながら上つて來た。さうして、
 「たまに朝湯へ來ると綺麗で好い心持ですね」と云つた。
 「えゝ。貴方のは洗ふんでなくつて、本當に湯に這入るんだから殊にさうだらう。實用の爲の入湯《にふたう》でなくつて、快感を貪ぼる爲の入浴なんだから」
 「さう六づかしい這入り方《かた》でもないんでせうが、何うも斯んな時に身體なんか洗ふな億劫《おつくふ》でね。つい盆鎗《ぼんやり》浸《つか》つて盆鎗《ぼんやり》出ちまいますよ。其所へ行くと、貴方は三層倍も勤勉《まめ》だ。頭から足から何處から何處迄實によく手落なく洗ひますね。御負に楊枝迄使つて。あの綿密な事には僕も殆んど感心しちまつた」
 二人は連立つて湯屋の門口《かどぐち》を出た。森本が一寸通り迄行つて卷紙を買ふからといふので、敬太郎も付合ふ氣になつて、横丁を東へ切れると、道が急に惡くなつた。昨夕《ゆうべ》の雨が土を潤《ふや》かし拔いた處へ、今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり蹴上げたりした泥の痕《あと》を、二人は厭《いと》ふやうな輕蔑するやうな樣子で歩いた。日は高く上《のぼ》つてゐるが、地面から吸ひ上げられる水蒸氣はいまだに微《かす》かな波動を地平線の上に描《ゑが》いてゐるらしい感じがした。
 「今朝の景色《けしき》は寐坊の貴方に見せたい樣だつた。何しろ日がかん/\當つてる癖に靄が一杯なんでせう。電車を此方《こつち》から透かして見ると、乘客が丸《まる》で障子に映る影畫《かげゑ》の樣に、はつきり一人《ひとり》/\見分けられるんです。それでゐて御天道樣《おてんとさま》が向ふ側にあるんだから其一人々々が何《ど》れも是もみんな灰色の化物に見えるんで、頗る奇觀でしたよ」
 森本は斯んな話をしながら、紙屋へ這入つて卷紙と状袋で膨《ふく》らました懷《ふところ》を一寸抑えながら出て來た。表に待つてゐた敬太郎はすぐ今來た道の方へ足を向け直した。二人は其儘一所に下宿へ歸つた。上靴《スリツパー》の踵《かゝと》を鳴らして階段《はしごだん》を二つ上《のぼ》り切つた時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、
 「さあ何うぞ」と森本を誘《いざな》つた。森本は、
 「もう直《ぢき》午飯《ひる》でせう」と云つたが、躊躇すると思ひの外、恰も自分の部屋へでも這入るやうな無雜作な態度で、敬太郎の後《あと》に跟《つ》いて來た。さうして、
 「貴方の室《へや》から見た景色《けしき》は何時《いつ》見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、手摺付《てすりつき》の縁板の上へ濡手拭を置いた。
 
     三
 
 敬太郎は此瘠せながら大した病氣にも罹らないで、毎日新橋の停車場《ステーシヨン》へ行く男について、平生から一種の好奇心を有《も》つてゐた。彼はもう三十以上である。夫《それ》でいまだに一人で下宿|住居《ずまひ》をして停車場《ステーシヨン》へ通勤してゐる。然し停車場《ステーシヨン》で何の係りをして、何《ど》んな事務を取扱つてゐるのか、ついぞ當人に聞いた事もなければ、又向ふから話した試《ためし》もないので、敬太郎には一切が]《エツキス》である。たま/\人を送つて停車場《ステーシヨン》へ行く場合もあるが、そんな時にはつい混雜に取り紛れて、停車場《ステーシヨン》と森本とを一所に考へる程の餘裕も出ず、さうかと云つて、森本の方から自己の存在を思ひ起させる樣に、敬太郎の眼につくべき所へ顏を出す機會も起らなかつた。たゞ長い間同じ下宿に立籠《たてこも》つてゐるといふ縁故だか同情だかが本《もと》で、いつの間《ま》にか挨拶をしたり世間話をする仲になつた迄である。
 だから敬太郎の森本に對する好奇心といふのは、現在の彼にあると云ふよりも、寧ろ過去の彼にあると云つた方が適當かも知れない。敬太郎はいつか森本の口から、彼が歴乎《れつき》とした一家の主人公であつた時分の話を聞いた。彼《かれ》の女房の話も聞いた。二人の間に出來た子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼《がき》が死んで呉れたんで、まあ助かつたやうなもんでさあ。山神《さんじん》の祟《たゝり》には實際恐れを作《な》してゐたんですからね」と云つた彼の言葉を、敬太郎は未《いま》だに覺えてゐる。其時しかも山神《さんじん》が分らなくつて、何だと聞き返したら、山の神の漢語ぢやありませんかと教へられた可笑《をかし》さ迄まだ記憶に殘つてゐる。夫等《それら》を思ひ出しても、敬太郎から見ると、凡《すべ》て森本の過去には一種ロマンスの臭《にほひ》が、箒星《はうきぼし》の尻尾《しつぽ》の樣にぼうつと掩被《おつかぶ》さつて怪しい光を放つてゐる。
 女に就て出來たとか切れたとかいふ逸話以外に、彼は又樣々な冒險譚《ばうけんだん》の主人公であつた。まだ海豹島《かいへうたう》へ行つて膃肭臍《おつとせい》は打つて居ない樣であるが、北海道の何處かで鮭を漁《と》つて儲けた事は慥《たし》かであるらしい。夫《それ》から四國邊の或る山から安質莫尼《アンチモニー》が出ると觸れて歩いて、決して出なかつた事も、當人がさう自白する位だから事實に違ない。然し最も奇拔なのは呑口會社《のみぐちぐわいしや》の計畫で、是は酒樽《さかだる》の呑口《のみぐち》を作る職人が東京に極《ごく》少ないといふ所から思ひ付いたのださうだが、折角大阪から呼び寄せた職人と衝突した爲に成立しなかつたと云つて彼は未だに殘念がつてゐる。
 儲口を離れた普通の浮世話になると、彼は又非常に豐富な材料の所有者であるといふ事を容易に證據立てる。筑摩川《ちくまがは》の上流の何とかいふ所から河を隔てゝ向ふの山を見ると、巖《いは》の上に熊がごろ/\晝寐をしてゐるなどは未《ま》だ尋常の方なので、それが一層色づいて來ると、信州|戸隱山《とがくしやま》の奧の院といふのは普通の人の登れつこない難所だのに、夫《それ》を盲目《めくら》が天邊《てつぺん》迄登つたから驚ろいたなどといふ。其所へ御參《おまゐり》をするには、どんなに脚の達者なものでも途中で一晩明かさなければならないので、森本も仕方なしに五合目あたりで焚火をして夜の寒さを凌《しの》いでゐると、下から鈴《れい》の響が聞えて來たから、不思議に思つてゐるうちに、其|鈴《れい》の音《ね》が段々近くなつて、仕舞に座頭《ざとう》が上《のぼ》つて來たんだと云ふ。しかも其座頭が森本に今晩はと挨拶をして又すた/\上つて行つたと云ふんだから、餘り妙だと思つて猶《なほ》能く聞いて見ると、實は案内者が一人付いてゐたのださうである。其案内者の腰に鈴《れい》を着けて、後《あと》から來る盲者《めくら》が其|鈴《れい》の音を頼りに上《のぼ》る事が出來るやうにしてあつたのだと説明されて、稍《やゝ》納得も出來たが、それにしても敬太郎には隨分意外な話である。が、夫《それ》がもう少し高《かう》じると、殆んど妖怪談《えうくわいだん》に近い妙なものとなつて、だらしのない彼の口髭の下から最も慇懃《いんぎん》に發表される。彼が耶馬溪《やばけい》を通つた序《ついで》に、羅漢寺《らかんじ》へ上《のぼ》つて、日暮に一本道を急いで、杉並木の間を下りて來ると、突然一人の女と擦れ違つた。其女は臙脂《べに》を塗つて白粉《おしろい》をつけて、婚禮に行く時の髪を結《ゆ》つて、裾模樣の振袖に厚い帶を締めて、草履穿《ざうりばき》の儘たつた一人すた/\羅漢寺《らかんじ》の方へ上《のぼ》つて行つた。寺に用のある筈はなし、又寺の門はもう締まつてゐるのに、女は盛裝した儘暗い所をたつた一人で上《のぼ》つて行つたんださうである。――敬太郎はこんな話を聞く度にへえーと云つて、信じられ得ない意味の微笑を洩らすに拘はらず、矢つ張り相當の興味と緊張とを以て森本の辯口《べんこう》を迎へるのが例であつた。
 
     四
 
 此日も例によつて例の樣な話が出るだらうといふ下心から、わざと廻り路迄して一所に風呂から歸つたのである。年こそ夫《それ》程《ほど》取つてゐないが、森本のやうに、大抵な世間の關門を潜《くゞ》つて來たとしか思はれない男の經歴談は、此夏學校を出た許《ばかり》の敬太郎に取つては、多大の興味があるのみではない、聞き樣次第で隨分利益も受けられた。
 其上敬太郎は遺傳的に平凡を忌む浪漫趣味《ロマンチツク》の青年であつた。かつて東京の朝日新聞に兒玉音松《こだまおとまつ》とかいふ人の冒險談が連載された時、彼は丸《まる》で丁年未滿の中學生のやうな熱心を以て毎日それを迎へ讀んでゐた。其《その》中《うち》でも音松君が洞穴の中から躍り出す大蛸《おほだこ》と戰つた記事を大變面白がつて、同じ科の學生に、君、蛸の大頭を目懸けて短銃《ピストル》をポン/\打つんだが、つる/\滑つて少しも手應《てごたへ》がないといふぢやないか。其内大將の後《あと》からぞろ/\出て來た小蛸《こだこ》がぐるりと環《わ》を作つて彼を取り卷いたから何をするのかと思ふと、どつちが勝つか熱心に見物してゐるんださうだからねと大いに乘氣で話した事がある。すると其友達が調戯《からかひ》半分に、君の樣な剽輕《へうきん》ものは到底文官試驗などを受けて地道《ぢみち》に世の中を渡つて行く氣になるまい、卒業したら、一層《いつそ》の事思ひ切つて南洋へでも出掛けて、好きな蛸狩《たこがり》でもしたら何うだと云つたので、夫《それ》以来「田川《たがは》の蛸狩《たこがり》」といふ言葉が友達間に大分《だいぶ》流行《はや》り出した。此《この》間《あひだ》卒業して以來足を擂木《すりこぎ》の樣にして世の中への出口を探して歩いてゐる敬太郎に會ふたびに、彼等はどうだね蛸狩《たこがり》は成功したかいと聞くのが常になつてゐた位である。
 南洋の蛸狩はいかな敬太郎にもちと奇拔《きばつ》過ぎるので、眞面目に思ひ立つ勇氣も出なかつたが、新嘉坡《シンガポール》の護謨林《ごむりん》栽培などは學生のうち既に目論《もくろ》んで見た事がある。當時敬太郎は、果《はて》しのない廣野《ひろの》を埋《う》め盡す勢《いきほひ》で何百萬本といふ護謨の樹が茂つてゐる眞中に、一階建のバンガローを拵《こしら》へて、其中に栽培監督者としての自分が朝夕《あさゆふ》起臥する樣《さま》を想像して已《や》まなかつた。彼はバンガローの床《ゆか》をわざと裸にして、其上に大きな虎の皮を敷く積りであつた。壁には水牛の角を塗り込んで、夫《それ》に鐵砲を懸け、猶《なほ》其下に錦の袋に入れた儘の日本刀を置く筈にした。さうして自分は眞白なターバンをぐる/\頭へ卷き付けて、廣い?ランダに据ゑ付けてある籐椅子《といす》の上に寐そべりながら、強い香《かをり》のハ?ナをぷかり/\と鷹揚《おうやう》に吹かす氣でゐた。夫《それ》のみか、彼の足の下には、スマタラ産の黒猫、――天鵞絨《びろうど》の樣な毛並と黄金《こがね》其儘の眼と、それから身の丈《たけ》よりも餘程長い尻尾《しつぽ》を持つた怪しい猫が、背中を山の如く高くして蹲踞《うづく》まつてゐる譯になつてゐた。彼はあらゆる想像の光景を斯く自分に滿足の行くやうに豫《あらかじ》め整へた後《あと》で、愈《いよ/\》實際の算盤《そろばん》に取り掛つたのである。所が案外なもので、まづ護謨を植ゑる爲の地面を借り受けるのに大分《だいぶん》な手數《てすう》と暇が要る。夫《それ》から借りた地面を切り開くのが容易の事でない。次に地ならし植付に費やすべき金高《かねだか》が意外に多い。其上絶えず人夫を使つて草取をした上で、六年間苗木の生長するのを馬鹿見たやうに凝《じつ》と指を銜《くは》へて見てゐなければならない段になつて、敬太郎は既に充分退却に價すると思ひ出した所へ、彼に色々の事情を教へてくれた護謨|通《つう》は、今暫らくすると、あの邊で出來る護謨の供給が、世界の需用以上に超過して、栽培者は非常の恐慌を起すに違ないと威嚇《ゐかく》したので、彼は其《その》後《ご》護謨《ごむ》の護《ご》の字も口にしなくなつて仕舞つたのである。
 
     五
 
 けれども彼の異常に對する嗜欲《しよく》は中々是位の事で冷却しさうには見えなかつた。彼は都の眞中に居て、遠くの人や國を想像の夢に上《のぼ》して樂しんでゐる許《ばかり》でなく、毎日電車の中で乘り合せる普通の女だの、又は散歩の道すがら行き逢ふ實際の男だのを見てさへ、悉《こと/”\》く尋常以上に奇《き》なあるものを、マントの裏かコートの袖に忍ばして居はしないだらうかと考へる。さうして何うか此のマントやコートを引つ繰り返して其|奇《き》な所をたゞ一目《ひとめ》で好いからちらりと見た上、後《あと》は知らん顔をして濟ましてゐたいやうな氣になる。
 敬太郎の此傾向は、彼がまだ高等學校に居た時分、英語の教師が教科書としてスチーブンソンの新亞刺比亞物語《しんアラビヤものがたり》といふ書物を讀ました頃から段々頭を持ち上げ出したやうに思はれる。夫《それ》迄《まで》彼は大《だい》の英語嫌《えいごぎらひ》であつたのに、此書物を讀むやうになつてから、一回も下讀を怠らずに、中《あ》てられさへすれば、必ず起立して譯を付けたのでも、彼が如何《いか》にそれを面白がつてゐたかゞ分る。ある時彼は興奮の餘り小説と事實の區別を忘れて、十九世紀の倫敦《ロンドン》に實際こんな事があつたんでせうかと眞面目な顔をして教師に質問を掛けた。其教師はつい此間英國から歸つた許《ばかり》の男であつたが、黒いメルトンのモーニングの尻から麻の手帛《ハンケチ》を出して鼻の下を拭ひながら、十九世紀どころか今でもあるでせう。倫敦《ロンドン》といふ所は實際不思議な都ですと答へた。敬太郎の眼は其時驚嘆の光を放つた。すると教師は椅子を離れてこんな事を云つた。
 「尤も書き手が書き手だから觀察も奇拔だし、事件の解釋も自《おのづ》から普通の人間とは違ふんで、斯んなものが出來上つたのかも知れません。實際スチーブンソンといふ人は辻待《つじまち》の馬車を見てさへ、其所に一種のロマンスを見出《みいだ》すといふ人ですから」
 辻馬車とロマンスに至つて敬太郎は少し分らなくなつたが、思ひ切つて其説明を聞いて見て、始めて成程と悟つた。夫《それ》から以後は、此平凡極まる東京の何所にでもごろ/\して、最も平凡を極めてゐる辻待の人力車を見るたんびに、此車だつて昨夕《ゆうべ》人殺しをする爲の客を出刃《でば》ぐるみ乘せて一散《いつさん》に馳《か》けたのかも知れないと考へたり、又は追手《おつて》の思《おも》はくとは反對の方角へ走る汽車の時間に間に合ふ樣に、美くしい女を幌《ほろ》の中に隱して、何處かの停車場《ステーシヨン》へ飛ばしたのかも分らないと思つたりして、一人で怖《こは》がるやら、面白がるやら頻りに喜こんでゐた。
 そんな想像を重ねるにつけ、是程込み入つた世の中だから、たとひ自分の推測通りと迄行かなくつても、何處か尋常と變つた新らしい調子を、彼の神經にはつと響かせ得るやうな事件に、一度位は出會《であ》つて然るべき筈だといふ考へが自然と起つてきた。所が彼の生活は學校を出て以來たゞ電車に乘るのと、紹介状を貰つて知らない人を訪問する位のもので、其他に何といつて取り立てゝ云ふべき程の小説は一つもなかつた。彼は毎日見る下宿の下女の顔に飽き果てた。毎日食ふ下宿の菜《さい》にも飽き果てた。責《せ》めて此單調を破るために、滿鐵の方が出來るとか、朝鮮の方が纒まるとかすれば、まだ衣食の途《みち》以外に、幾分かの刺戟が得られるのだけれども、兩方共二三日前に當分望がないと判然して見ると、益《ます/\》眼前の平凡が自分の無能力と密切な關係でもあるかのやうに思はれて、ひどく盆鎗《ぼんやり》して仕舞つた。夫《それ》で糊口《ここう》の爲の奔走は勿論の事、往來に落ちたばら錢《せん》を探して歩くやうな長閑《のどか》な氣分で、電車に乘つて、漫然と人事上の探檢を試みる勇氣もなくなつて、昨夕《ゆうべ》は左程《さほど》好きでもない麥酒《ビール》を大いに飲んで寐たのである。
 こんな時に、非凡の經驗に富んだ平凡人とでも評しなければ評しやうのない森本の顔を見るのは、敬太郎に取つて既に一種の興奮であつた。卷紙を買ふ御供迄して彼を自分の室《へや》へ連れ込んだのは是が爲である。
 
     六
 
 森本は窓際へ坐つて少時《しばらく》下の方を眺めてゐた。
 「貴方の室《へや》から見た景色《けしき》は相變らず好うがすね、ことに今日は好い。あの洗ひ落したやうな空の裾に、色づいた樹が、所々|暖《あつ》たかく塊《かた》まつてゐる間から赤い煉瓦が見える樣子は、慥《たし》かに畫《ゑ》になりさうですね」
 「さうですね」
 敬太郎は已《やむ》を得ず斯ういふ答をした。すると森本は自分が肱《ひぢ》を乘せてゐる窓から一尺ばかり出張つた縁板を見て、
 「此所は何うしても盆栽《ぼんさい》の一つや二つ載せて置かないと納まらない所ですよ」と云つた。
 敬太郎は成程そんなものかと思つたけれども、もう「左樣《さう》ですね」を繰り返す勇氣も出なかつたので、
 「貴方は畫《ゑ》や盆栽《ぼんさい》迄解るんですか」と聞いた。
 「解るんですかは少し恐れ入りましたね。全く柄《がら》にないんだから、さう聞かれても仕方はないが、――然し田川さんの前だが、斯う見えて盆栽も弄《いぢ》くるし、金魚も飼ふし、一時は畫《ゑ》も好きで能く描《か》いたもんですよ」
 「何でも遣るんですね」
 「何《なん》でも屋に碌なものなしで、とう/\斯んなもんになつちやつた」
 森本はさう云ひ切つて、自分の過去を悔ゆるでもなし、又其現在を悲觀するでもなし、殆んど鋭どい表情の何處にも出てゐない不斷の顔をして敬太郎を見た。
 「然し僕は貴方見たやうに變化の多い經驗を、少しでも好いから甞《な》めて見たいと何時《いつ》でもさう思つてゐるんです」と敬太郎が眞面目に云ひ掛けると、森本は恰も醉つ拂のやうに、右の手を自分の顏の前へ出して、大袈裟に右左に振つて見せた。
 「それが極《ごく》惡い。若い内――と云つた所で、貴方と僕はさう年も違つてゐないやうだが、――兎に角若い内は何でも變つた事が爲《し》て見たいもんでね。所が其變つた事を仕盡した上で、考へて見ると、何だ馬鹿らしい、こんな事なら爲ない方が餘程《よつぽど》増しだと思ふ丈《だけ》でさあ。貴方なんざ、是からの身體だ。大人《おと》なしくさへして居りや何《ど》んな發展でも出來やうつてもんだから、肝心な所で山氣《やまぎ》だの謀叛氣《むほんぎ》だのつて低氣壓を起しちや親不孝に當らあね。――時に何うです、此間から伺がはう/\と思つて、つい忙がしくつて、伺がはずにゐたんだが、何か好い口は見付《めつ》かりましたか」
 正直な敬太郎は憮然《ぶぜん》として有の儘を答へた。さうして、到底當分是といふ期待《あて》もないから、奔走をやめて少し休養する積《つもり》であると付け加へた。森本は一寸驚ろいたやうな顔をした。
 「へえー、近頃は大學を卒業しても、ちよつくら一寸《ちよいと》口が見付《めつ》からないもんですかねえ。餘程《よつぽど》不景気なんだね。尤も明治も四十何年といふんだから、其筈には違ないが」
 森本は此處迄來て少し首を傾《かし》げて、自分の哲理を自分で噛み締めるやうな素振《そぶり》をした。敬太郎は相手の樣子を見て、夫《それ》程《ほど》滑稽とも思はなかつたが、心の内で、此男は心得があつてわざと斯んな言葉遣をするのだらうか、又は無學の結果斯うより外言ひ現はす手段《てだて》を知らないのだらうかと考へた。すると森本が傾《かし》げた首を急に竪《たて》に直した。
 「何うです、御厭《おいや》でなきや、鐵道の方へでも御出《おで》なすつちや。何なら話して見ませうか」
 如何な浪漫的《ロマンチツク》な敬太郎も此男に頼んだら好い地位が得られるとは想像し得なかつた。けれども左《さ》も輕々と云つて退《の》ける彼の愛嬌を、翻弄と解釋する程の僻《ひがみ》も有《も》たなかつた。據處《よんどころ》なく苦笑しながら、下女を呼んで、
 「森本さんの御膳も此所へ持つて來るんだ」と云ひ付けて、酒を命じた。
 
     七
 
 森本は近頃身體の爲に酒を愼しんでゐると斷わりながら、注《つ》いで遣りさへすれば、すぐ猪口《ちよく》を空《から》にした。仕舞にはもう止しませうといふ口の下から、自分でコ利の尻を持ち上げた。彼は平生から閑靜なうちに何處か氣樂な風を帶びてゐる男であつたが、猪口《ちよく》を重ねるにつれて、其閑靜が熱《ほて》つてくる、氣樂は次第々々に膨脹するやうに見えた。自分でも「斯うなりや併呑自若《へいどんじじやく》たるもんだ。明日《あした》免職になつたつて驚ろくんぢやない」と威張り出した。敬太郎が飲めない口なので、時々思ひ出すやうに、盃に唇を付けて、付合《つきあ》つてゐるのを見て、彼は、
 「田川さん、貴方本當に飲《い》けないんですか、不思議ですね。酒を飲まない癖に冒險を愛するなんて。あらゆる冒險は酒に始まるんです、さうして女に終るんです」と云つた。彼はつい今迄自分の過去を碌でなしの樣に蹴《け》なしてゐたのに、醉つたら急に模樣が變つて、後光《ごくわう》が逆《ぎやく》に射すとでも評すぺき態度で、氣?《きえん》を吐き始めた。さうして夫《それ》が大抵は失敗の氣?《きえん》であつた。しかも敬太郎を前に置いて、
 「貴方なんざあ、失禮ながら、まだ學校を出た許《ばかり》で本當の世の中は御存じないんだからね。いくら學士で御座いの、博士で候《さふらふ》のつて、肩書ばかり振り廻したつて、僕は慴《おび》えない積《つもり》だ。此方《こつち》やちやんと實地を踏んで來てゐるんだもの」と、さつき迄教育に對して多大の尊敬を拂つてゐた事は丸《まる》で忘れた樣な風で、無遠慮な極め付け方をした。さうかと思ふと噫《げつぷ》の樣な溜息を洩らして自分の無學をさも情《なさけ》なささうに恨んだ。
 「まあ手つ取り早く云やあ、此世の中を猿|同然《どうぜん》渡つて來たんでさあ。斯う申しちや可笑《をか》しいが、貴方より十層倍の經驗は慥《たし》かに積んでる積《つもり》です。それでゐて、未《いま》だに此通り解脱《げだつ》が出來ないのは、全く無學即ち學がないからです。尤も教育があつちや、斯う無暗|矢鱈《やたら》と變化する譯にも行かないやうなもんかも知れませんよ」
 敬太郎はさつきから氣の毒なる先覺者とでも云つた樣に相手を考へて、其云ふ事に相應の注意を拂つて聞いてゐたが、なまじい酒を飲ましたためか、今日は何時《いつ》もより氣?だの愚痴だのが多くつて、例のやうに純粹の興味が湧かないのを殘念に思つた。好い加減に酒を切り上げて見たが、矢つ張り物足らなかつた。夫《それ》で新らしく入れた茶を勸めながら、
 「貴方の經歴談は何時《いつ》聞いても面白い。夫《それ》許《ばかり》でなく、僕のやうな世間見ずは、御話を伺ふたんびに利益を得ると思つて感謝してゐるんだが、貴方が今迄遣つて來た生活のうちで、最も愉快だつたのは何ですか」と聞いて見た。森本は熱い茶を吹き/\、少し充血した眼を二三度ぱちつかせて黙つてゐた。やがて深い湯呑を干して仕舞ふと、斯う云つた。
 「さうですね。遣つた後《あと》で考へると、みんな面白いし、又みんな詰らないし、自分ぢや一寸見分が付かないんだが。――全體愉快つてえのは、その、女氣《をんなつけ》のある方を指すんですか」
 「さう云ふ譯でもないんですが、有つたつて差支ありません」
 「なんて、實は其方《そつち》の方が聞きたいんでせう。――然し雜談《じやうだん》拔きでね、田川さん。面白い面白くないは偖《さて》置いて、あれ程|呑氣《のんき》な生活は世界に又となからうといふ奴を遣つた覺があるんですよ。そいつを一つ話しませうか、御茶受の代りに」
 敬太郎は一も二もなく所望した。森本は「ぢやあ一寸小便をして來る」と云つて立ち掛けたが、「其代り斷わつて置くが女氣《をんなつけ》はありませんよ。女氣《をんなつけ》どころか、第一人間の氣《け》がないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行つた。敬太郎は一種の好奇心を抱《いだ》いて、彼の歸るのを待ち受けた。
 
     八
 
 所が五分待つても十分待つても冒險家は容易に顏を現はさなかつた。敬太郎はとう/\凝《じつ》と我慢し切れなくなつて、自分で下へ降《お》りて用場《ようば》を探して見ると、森本の影も形も見えない。念の爲め又|階段《はしごだん》を上《あが》つて、彼の部屋の前迄來ると、障子を五六寸明け放した儘、眞中に手枕をしてごろりと向ふむきに轉がつてゐるものが即ち彼であつた。「森本さん、森本さん」と二三度呼んで見たが、中々動きさうにないので、流石《さすが》の敬太郎も勃《むつ》として、いきなり室《へや》に這入り込むや否や、森本の首筋を攫《つか》んで強く搖振《ゆすぶ》つた。森本は不意に蜂にでも螫《さ》されたやうに、あつと云つて半《なか》ば跳《は》ね起きた。けれども振り返つて敬太郎の顔を見ると同時に、又すぐ夢現《ゆめうつゝ》のたるい眼付に戻つて、
 「やあ貴方ですか。あんまり頂戴した所為《せゐ》か、少し氣分が變になつたもんだから、此所へ來て一寸休んだらつい眠くなつて」と辯解する樣子に、是といつて他《ひと》を愚弄する體《てい》もないので、敬太郎もつい怒《おこ》れなくなつた。然し彼の待ち設けた冒險談は是で一頓挫《いちとんざ》を來《きた》したも同然なので、一人自分の室《へや》に引取らうとすると、森本は「どうも濟みません、御苦勞樣でした」と云ひながら、又|後《あと》から敬太郎に付いて來た。さうして先刻《さつき》迄自分の坐つてゐた座蒲團の上に、きちんと膝を折つて、
 「ぢや愈《いよ/\》世界に類のない呑氣生活の御話でも始めますかな」と云つた。
 森本の呑氣生活といふのは、今から十五六年|前《ぜん》彼が技手に雇はれて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であつた。固《もと》より人間のゐない所に天幕《てんと》を張つて寐起をして、用が片付き次第、又|天幕《てんと》を擔《かつ》いで、先へ進むのだから、當人の斷つた通り、到底女つ氣《け》のありやう筈はなかつた。
 「何しろ高さ二丈もある熊笹を切り開いて途を付けるんですからね」と彼は右手を額より高く上げて、如何に熊笹が高く茂つてゐたかを形容した。其切り開いた途の兩側に、朝起きて見ると、蝮蛇《まむし》がとぐろを卷いて日光を鱗の上に受けてゐる。それを遠くから棒で抑えて置いて、傍《そば》へ寄つて打《ぶ》ち殺して肉を燒いて食ふのだと彼は話した。敬太郎がどんな味がすると聞くと、森本は能く思ひ出せないが、何でも魚肉《さかな》と獣肉《にく》の間位だらうと答へた。
 天幕《てんと》の中へは熊笹の葉と小枝を山の樣に積んで、其上に疲れた身體を埋《うづ》めぬ許《ばかり》に投げ掛けるのが例であるが、時には外へ出て焚火をして、大きな熊を眼の前に見る事もあつた。虫が多いので蚊帳は始終釣つてゐた。ある時其蚊帳を擔《かつ》いで谷川へ下りて、何とかいふ川魚を掬《すく》つて歸つたら、其晩から蚊帳が急に腥《なまぐ》さくなつて困つた。――凡《すべ》て是等は森本の所謂呑氣生活の一部分であつた。
 彼は又山であらゆる茸《たけ》を採つて食つたさうである。ます茸《だけ》といふのは廣葢《ひろぶた》程の大きさで、切つて味噌汁の中へ入れて※[者/火]ると丸《まる》で蒲鉾《かまぼこ》のやうだとか、月見茸《つきみだけ》といふのは一抱《ひとかゝへ》もあるけれども、是は殘念だが食へないとか、鼠茸《ねずみだけ》といふのは三つ葉の根のやうで可愛《かはい》らしいとか、中々|精《くは》しい説明をした。大きな笠の中へ、野葡萄を一杯探つて來て、それ許《ばかり》貪《むさ》ぼつてゐたものだから、仕舞に舌が荒れて、飯が食へなくなつて困つたといふ話も序《ついで》に付け加へた。
 食ふ話ばかりかと思ふと、又一週間絶食をしたといふ悲酸な物語もあつた。それはみんなの糧《かて》が盡きたので、人足が村迄米を取りに行つた留守中に大變な豪雨があつた時の事である。元々村へ出るには、澤邊《さはべ》迄降りて、澤傳ひに里へ下るのだから、俄雨で谷が急に一杯になつたが最後、米など脊負《しよ》つて歸れる譯のものでない。森本は腹が減つて仕方がないから、凝《じつ》と仰向《あふむけ》に寐て、たゞ空を眺めてゐた所が、仕舞にぼんやりし出して、夜も晝も滅茶苦茶に分らなくなつたさうである。
 「さう長い間飲まず食はずぢや、兩便《りやうべん》とも留《と》まるでせう」と敬太郎が聞くと、「いえ何、矢つ張有りますよ」と森本は頗る氣樂さうに答へた。
 
     九
 
 敬太郎は微笑せざるを得なかつた。然し夫《それ》よりも可笑《をか》しく感じたのは、森本の形容した大風の勢であつた。彼等の一行が測量の途次|茫々《ばう/\》たる芒原《すゝきはら》の中で、突然|面《おもて》も向けられない程の風に出會つた時、彼等は四つ這になつて、つい近所の密林の中へ逃げ込んだ所が、一抱《ひとかゝへ》も二抱《ふたかゝへ》もある大木の枝も幹も凄まじい音を立てゝ、一度に風から痛振《いたぶ》られるので、其動搖が根に傳はつて、彼等の踏んでゐる地面が、地震の時の樣にぐら/\したと云ふのである。
 「それぢや假令《たとひ》林の中へ逃げ込んだ所で、立つてゐる譯に行かないでせう」と敬太郎が聞くと、「無論突伏してゐました」といふ答であつたが、いくら非道《ひど》い風だつて、土の中に張つた大木の根が動いて、地震を起す程の勢があらうとは思へなかつたので、敬太郎は覺えず吹き出して仕舞つた。すると森本も丸《まる》で他事《ひとごと》の樣に同じく大きな聲を出して笑ひ始めたが、夫《それ》が濟むと、急に眞面目になつて、敬太郎の口を抑へるやうな手付をした。
 「可笑《をか》しいが本當です。何《ど》うせ常識以下に飛び離れた經驗をする位の僕だから、不中用《やくざ》にやあ違ないが本當です。――尤も貴方見たいに學のあるものが聞きあ全く嘘のやうな話さね。だが田川さん、世の中には大風に限らず隨分面白い事が澤山あるし、又貴方なんざあ其面白い事に打《ぶ》つからう/\と苦勞して御出《おいで》なさる御樣子だが、大學を卒業しちやもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思ひますからね。よしんば自分でいくら身を落す積《つもり》で掛つても、まさか親の敵討《かたきうち》ぢやなしね、さう眞劍に自分の位地を棄てゝ漂浪するほどの物數奇《ものずき》も今の世にはありませんからね。第一《だいち》傍《はた》がさう爲《さ》せないから大丈夫です」
 敬太郎は森本の此言葉を、失意のやうにも又得意のやうにも聞いた。さうして腹の中で、成程|常調《じやうてう》以上《いじやう》の變つた生活は、普通の學士などには送れないかも知れないと考へた。所がそれを自分にさへ抑えたい氣がするので、わざと抵抗するやうな語氣で、
 「だつて、僕は學校を出たには出たが、未だに位置などは無いんですぜ。貴方は位置々々つて頻りに云ふが。――實際位置の奔走にも厭々《あき/\》して仕舞つた」と投げ出すやうに云つた。すると森本は比較的嚴肅な顔をして、
 「貴方のは位置がなくつて有る。僕のは位置が有つて無い。それ丈《だけ》が違ふんです」と若いものに教へる態度で答へた。けれども敬太郎には此|御籤《おみくじ》めいた言葉が左程《さほど》の意義を齎《もたら》さなかつた。二人は少しの間烟草を吹かして黙つてゐた。
 「僕もね」とやがて森本が口を開いた。「僕もね、斯うやつて三年越、鐵道の方へ出てゐるが、もう厭になつたから近々《きん/\》罷《や》めやうと思ふんです。尤も僕の方で罷《や》めなけりや向ふで罷《や》める丈《だけ》なんだからね。三年越と云やあ僕にしちや長い方でさあ」
 敬太郎は罷《や》めるが好からうとも罷《や》めないが好からうとも云はなかつた。自分が罷《や》めた經驗も罷《や》められた閲歴もないので、他《ひと》の進退などは何うでも構はない樣な氣がした。たゞ話が理に落ちて面白くないといふ自覺|丈《だけ》あつた。森本は夫《それ》と察したか、急に調子を易へて、世間話を快活に十分程した後《あと》で、「いや何うも御馳走でした。――兎に角田川さん若いうちの事ですよ、何を遣るのも」と、恰も自分が五十位の老人のやうなことを云つて歸つて行つた。
 夫《それ》から一週間|許《ばかり》の間、田川は落ち付いて森本と話す機會を有《も》たなかつたが、二人共同じ下宿にゐるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事は殆んど稀であつた。顔を洗ふ所などで落ち合ふ時、敬太郎は彼の着てゐる黒襟の掛つたドテラが常に目に付いた。彼は又|襟開《えりあき》の廣い新調の脊廣を着て、妙な洋杖《ステツキ》を突いて、役所から歸ると能く出て行つた。其|洋杖《ステツキ》が土間の瀬戸物製の傘入《かさいれ》に入れてあると、はゝあ先生今日は宅《うち》に居るなと思ひながら敬太郎は常に下宿の門《かど》を出入《でいり》した。すると其|洋杖《ステツキ》がちやんと例の所に立てゝあるのに、森本の姿が不意に見えなくなつた。
 
     十
 
 一日二日はつい氣が付かずに過ぎたが、五日目位になつても、まだ森本の影が見えないので、敬太郎は漸く不審の念を起し出した。給仕に來る下女に聞いて見ると、彼は役所の用で何處かへ出張したのださうである。固《もと》より役人である以上、何時《いつ》出張しないとも限らないが、敬太郎は平生から此男を相《さう》して、何でも停車場《ステーシヨン》の構内で、貨物の發送係位を勤めてゐるに違ないと判じてゐたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時既に五六日と斷つて行つたのだから、今日か翌日《あした》は歸る筈だと下女に云はれて見ると、成程さうかとも思つた。所が豫定の時日が過ぎても、森本の變な洋杖《ステツキ》が依然として傘入《かさいれ》の中にあるのみで、當人のドテラ姿は一向洗面所へ現はれなかつた。
 仕舞に宿の神さんが來て、森本さんから何か御音信《おたより》が御座いましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行かうと思つてゐた所だと答へた。神さんは多少心元ない色を梟《ふくろ》の樣な丸い眼の中《うち》に漂《たゞ》よはせて出て行つた。夫《それ》から一週間程經つても森本はまだ歸らなかつた。敬太郎も再び不審を抱《いだ》き始めた。帳場の前を通る時に、未《まだ》ですかとわざと立ち留つて聞く事さへあつた。けれども其頃は自分が又思ひ返して、位置の運動を始め出した出花《でばな》なので、自然|其《その》方《はう》にばかり頭を專領される日が多いため、是より以上立ち入つて何物をも探る事を敢てしなかつた。實を云ふと、彼は森本の豫言通り、衣食の計《はかりごと》のために、好奇家の權利を放棄したのである。
 すると或晩主人が一寸御邪魔をしても好いかと斷わりながら障子を開けて這入つて來た。彼は腰から古めかしい烟草入を取り出して、其筒を拔く時ぽんといふ音をさせた。夫《それ》から銀の烟管《きせる》に刻草《きざみ》を詰めて、濃い烟を巧者に鼻の穴から迸《ほとば》しらせた。斯う緩《ゆつ》くり構へる彼の本意を、敬太郎は判然《はつきり》向ふからさうと切り出される迄|覺《さと》らずに、何うも變だと許《ばかり》考へてゐた。
 「實は少し御願があつて上つたんですが」と云つた主人は稍《やゝ》小聲になつて、「森本さんの居らつしやる所を何うか教へて頂く譯に參りますまいか、決して貴方に御迷惑の懸るやうな事は致しませんから」と藪から棒に附け加へた。
 敬太郎は此意外の質問を受けて、しばらくは何といふ挨拶も口へ出なかつたが、漸く、「一體何う云ふ譯なんです」と主人の顏を覗き込んだ。さうして彼の意味を讀まうとしたが、主人は煙管《きせる》が詰つたと見えて、敬太郎の火箸で雁首《がんくび》を堀つてゐた。夫《それ》が濟んでから羅字《らう》の疎通をぷつ/\試した上、そろ/\と説明に取り掛つた。
 主人の云ふ所によると、森本は下宿代が此家《こゝ》に六ケ月|許《ばかり》滯《とゞこほ》つてゐるのださうである。が、三年越しゐる客ではあるし、遊んでゐる人ぢやなし、此年《ことし》の末には何うかするからといふ當人の言譯を信用して、別段催促もしなかつた所へ、今度の旅行になつた。家《うち》のものは固《もと》より出張と許《ばか》り信じてゐたが、其|日限《にちげん》が過ぎていくら待つても歸らないのみか、何處からも何の音信《たより》も來ないので、仕舞にとう/\不審を起した。夫《それ》で一方に本人の室《へや》を調べると共に、一方に新橋へ行つて出張先を聞き合せた。ところが室《へや》の方は荷物も其儘で、彼の居つた時分と何の變りもなかつたが、新橋の答は又案外であつた。出張したと許《ばかり》思つてゐた森本は、先月限り罷《や》められてゐたさうである。
 「夫《それ》で貴方は平生森本さんと御懇意の間柄で居らつしやるんだから、貴方に伺つたら多分何處に御出《おいで》か分るだらうと思つて上つた樣な譯で。決して貴方に森本さんの分を何うの斯うのと申し上げる積《つもり》ではないのですから、何うか居所|丈《だけ》知らして頂けますまいか」
 敬太郎は此|失踪者《しつそうしや》の友人として、彼の香《かん》ばしからぬ行爲に立ち入つた關係でもあるかの如く主人から取扱はれるのを甚だ迷惑に思つた。成程事實をいへば、つい此間迄或意味の嘆賞《たんしやう》を懷《ふところ》にして森本に近づいてゐたには違ないが、こんな實際問題に迄秘密の打ち合せがあるやうに見做《みな》されては、未來を有《も》つ青年として大いなる不面目だと感じた。
 
     十一
 
 正直な彼は主人の疳違《かんちがひ》を腹の中で怒《おこ》つた。けれども怒る前に先づ冷たい青大將《あをだいしやう》でも握らせられた樣な不氣味さを覺えた。此妙に落付拂つて古風な烟草入から刻《きざ》みを撮《つま》み出しては雁首《がんくび》へ詰める男の誤解は、正解と同じ樣な不安を敬太郎に與へたのである。彼は談判に伴なう一種の藝術の如く巧みに烟管《きせる》を扱かふ人であつた。敬太郎は彼の樣子をしばらく眺めてゐた。さうして只知らないといふより外に、向ふの疑惑を晴らす方法がないのを殘念に思つた。果して主人は容易に烟草入を腰へ納めなかつた。烟管《きせる》を筒へ入れて見たり出して見たりした。其度に例の通りぽん/\といふ音がした。敬太郎は仕舞に何うしても此音を退治《たいぢ》て遣りたいやうな氣がし出した。
 「僕はね、御承知の通り學校を出た許《ばかり》でまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、是でも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のやうな浮浪の徒《と》と一所に見られちや、少し體面に係はる。况んや後暗《うしろぐら》い關係でもあるやうに邪推して、いくら知らないと云つても執濃《しつこ》く疑《うたぐ》つてゐるのは怪《け》しからんぢやないか。君がさういふ態度で、二年もゐる客に對する氣なら夫《それ》で好い。此方《こつち》にも料簡《れうけん》がある。僕は過去二年の間君のうちに厄介になつてゐるが、一ケ月でも宿料《しゆくれう》を滯《とゞこ》ふらした事があるかい」
 主人は無論敬太郎の人格に對して失禮に當るやうな疑を毛頭抱いてゐない積《つもり》であるといふ事を繰り返して述べた。さうして萬一森本から音信《たより》でもあつて、彼の居所が分つたら何うぞ忘れずに教へて貰ひたいと頼んだ末、もしさつき聞いた事が敬太郎の氣に障つたら、いくらでも詫《あや》まるから勘辨して呉れと云つた。敬太郎は主人の烟草入を早く腰に差させやうと思つて、單に宜しいと答へた。主人は漸く談判の道具を角帶《かくおび》の後へ仕舞ひ込んだ。室《へや》を出る時の彼の樣子に、別段敬太郎を疑ぐる氣色《けしき》も見えなかつたので、敬太郎は怒つて遣つて好い事をしたと考へた。
 夫《それ》からしばらく經つと、森本の室《へや》に、何時《いつ》の間《ま》にか新らしい客が這入つた。敬太郎は彼の荷物を主人が何う片付けたかに就いて不審を抱いた。けれども主人がかの烟草入を差して談判に來て以來、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中《なか》は兎も角、上部《うはべ》は知らん顔をしてゐた。さうして依然として出來るやうな又出來ないやうな地位を、元程|焦燥《あせ》らない程度ながらも、先づ自分の遣るべき第一の義務として、根氣に狩《か》り歩《あ》るいてゐた。
 或る晩も其用で内幸町迄行つて留守を食《く》つたので已《やむ》を得ず又電車で引き返すと、偶然向ふ側に黄八丈《きはちぢやう》の袢天《はんてん》で赤ん坊を負《おぶ》つた婦人が乘り合せてゐるのに氣が付いた。其女は眉毛の細くて濃い、首筋の美くしく出來た、何方《どつち》かと云へば粹《いき》な部類に屬する型だつたが、何うしても袢天負《はんてんおんぶ》をするといふ柄《がら》ではなかつた。と云つて、背中の子は慥《たしか》に自分の子に違ないと敬太郎は考へた。猶《なほ》能く見ると前垂の下から格子縞か何かの御召が出てゐるので、敬太郎は益《ます/\》變に思つた。外面《そと》は雨なので、五六人の乘客は皆|傘《かさ》をつぼめて杖にしてゐた。女のは黒蛇目《くろじやのめ》であつたが、冷たいものを手に持つのが厭だと見えて、彼女はそれを自分の側《わき》に立て掛けて置いた。其疊んだ蛇の目の先に赤い漆《うるし》で加留多《かるた》と書いてあるのが敬太郎の眼に留つた。
 此|黒人《くろうと》だか素人《しろうと》だか分らない女と、私生兒だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉を心持八の字に寄せて俯目勝《ふしめがち》な白い顏と、御召の着物と、黒蛇の目に鮮かな加留多《かるた》といふ文字とが互違《たがひちがひ》に敬太郎の神經を刺戟した時、彼は不圖森本と一所になつて子迄生んだといふ女の事を思ひ出した。森本自身の口から出た、「斯ういふと未練がある樣で可笑《をか》しいが、顔質《かほだち》は惡い方ぢやありませんでした。眉毛《まみえ》の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云ふ癖のある」といつた樣な言葉をぽつ/\頭の中で憶ひ起しながら、加留多《かるた》と書いた傘《かさ》の所有|主《ぬし》を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行つた。後に殘つた敬太郎は一人森本の顏や樣子を心に描きつゝ、運命が今彼を何處に連れ去つたらうかと考へ/\下宿へ歸つた。さうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出《みいだ》した。
 
     十二
 
 好奇心に驅られた敬太郎は破るやうに此無名氏の書信を披《ひら》いて見た。すると西洋罫紙《せいやうけいし》の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本生よりとあるのが何より先に眼に入つた。敬太郎はすぐ又封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも變へて、其所に消印の文字を讀まうと力《つと》めたが、肉が薄いので何うしても判斷が付かなかつた。已《やむ》を得ず再び本文に立ち歸つて、まづ夫《それ》から片付ける事にした。本文には斯うあつた。
 「突然消えたんで定めて驚ろいたでせう。貴方は驚ろかないにしても、雷獣《らいじう》とさうしてヅク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣《らいじう》とさうしてヅクと呼んでゐた。ヅクは耳ヅクの略語である)彼等兩人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、實は少し下宿代を滯《とゞこ》うらしてゐたので、話をしたら雷獣とさうしてヅクが面倒をいふだらうと思つて、わざと斷らずに、自由行動を取りました。僕の室《へや》に置いてある荷物を始末したら――行李《こり》の中には衣類其他が悉皆《すつかり》這入つてゐますから、相當の金になるだらうと思ふんです。だから兩人に貴方から右を賣るなり着るなりしろと仰しやつて頂きたい。尤も彼|雷獣《らいじう》は御承知の如き曲者《くせもの》故《ゆゑ》僕の許諾を待たずして、疾《とつく》の昔にさう取計つてゐるかも知れない。のみならず、此方《こつち》からさう穩便に出ると、まだ殘つてゐる僕の尻を、貴方に拭つて貰ひたいなどと、飛んでもない難題を持ち懸けるかも知れませんが、夫《それ》には決して取り合つちや不可《いけ》ません。貴方のやうに高等教育を受けて世の中へ出たての人は兎角|雷獣輩《らいじうはい》が食物《くひもの》にしたがるものですから、其|邊《へん》はよく御注意なさらないと不可《いけ》ません。僕だつて教育こそないが、借金を踏んぢや善くない位の事はまさかに心得てゐます。來年になれば屹度《きつと》返してやる積《つもり》です。僕に意外な經歴が數々あるからと云つて、貴方に此點迄疑はれては、折角の親友を一人失くしたも同樣、甚だ遺憾の至《いたり》だから、何うか雷獣《らいじう》如きものゝ爲に僕を誤解しないやうに願ひます」
 森本は次に自分が今大連で電氣公園の娯樂掛りを勤めてゐる由を書いて、來年の春には活動寫眞買入の用向を帶びて、是非共出京する筈だから、其節は御地で久し振に御目に懸るのを今から樂《たのしみ》にして待つてゐると附け加へてゐた。さうして其|後《あと》へ自分が旅行した滿洲地方の景况をさも面白さうに一口位|宛《づゝ》吹聽《ふいちやう》してゐた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春《ちやうしゆん》とかにある博打場《ばくちば》の光景で、是は甞《かつ》て馬賊の大將をしたといふ去る日本人の經營に係るものだが、其所へ行つて見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のやうにぎつしり詰つて、血眼《ちまなこ》になりながら、一種の臭氣を吐き合つてゐるのださうである。しかも長春の富豪が、慰み半分わざと垢《あか》だらけな着物を着て、こつそり此所へ出入《しゆつにふ》するといふんだから、森本だつて何《ど》んな眞似をしたか分らないと敬太郎は考へた。
 手紙の末段には盆栽の事が書いてあつた。「あの梅の鉢は動坂の植木屋で買つたので、幹は夫《それ》程《ほど》古くないが、下宿の窓などに載せて置いて朝夕《あさゆふ》眺めるには丁度手頃のものです。あれを獻上するから貴方の室《へや》へ持つて入らつしやい。尤も雷獣《らいじう》とさうしてヅクは兩人共極めて不風流故、床の間の上へ据ゑたなり放《はふ》つて置いて、もう枯らして仕舞つたかも知れません。夫《それ》から上り口の土間の傘入《かさいれ》に、僕の洋杖《ステツキ》が差さつてゐる筈です。あれも價格《ねだん》から云へば決して高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非貴方に進上したいと思ひます。如何な雷獣《らいじう》とさうしてヅクもあの洋杖《ステツキ》を貴方が取つたつて、まさか故障は申し立てますまい。だから決して御遠慮なさらずと好い。取つて御使ひなさい。――滿洲ことに大連は甚だ好い所です。貴方の樣な有爲の青年が發展すべき所は當分|外《ほか》に無いでせう。思ひ切つて是非入らつしやいませんか。僕は此方《こつち》へ來て以來滿鐵の方にも大分《だいぶ》知人が出來たから、もし貴方が本當に來る氣なら、相當の御世話は出來る積《つもり》です。但し其節は前以て一寸御通知を願ひます。左樣《さよ》なら」
 敬太郎は手紙を疊んで机の抽出《ひきだし》へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息に就て何事も語らなかつた。洋杖《ステツキ》は依然として、傘入の中に差さつてゐた。敬太郎は出入《でいり》の都度《つど》、夫《それ》を見るたびに一種妙な感に打たれた。
 
  停留所
 
     一
 
 敬太郎に須永《すなが》といふ友達があつた。是は軍人の子でありながら軍人が大嫌《だいきらひ》で、法律を修めながら役人にも會社員にもなる氣のない、至つて退嬰主義《たいえいしゆぎ》の男であつた。少くとも敬太郎にはさう見えた。尤も父は餘程以前に死んだとかで、今では母とたつた二人ぎり、淋《さみ》しいやうな、又|床《ゆか》しいやうな生活を送つてゐる。父は主計官として大分《だいぶ》好い地位に迄昇つた上、元來が貨殖《くわしよく》の道に明らかな人であつた丈《だけ》、今でも母子《おやこ》共《とも》衣食の上に不安の憂を知らない好い身分である。彼の退嬰主義《たいえいしゆぎ》も半《なか》ばは此安泰な境遇に慣れて、奮闘の刺戟を失つた結果とも見られる。といふものは、父が比較的立派な地位にゐた所爲《せゐ》か、彼には世間|體《てい》の好い許《ばかり》でなく、實際爲になる親類があつて、幾何《いくら》でも出世の世話をして遣らうといふのに、彼は何だ蚊だと手前勝手|許《ばかり》並べて、今以て愚圖々々してゐるのを見ても分る。
 「さう贅澤ばかり云つてちや勿體ない。厭なら僕に讓るがいゝ」と敬太郎は冗談半分に須永を強請《せび》ることもあつた。すると須永は淋《さび》しさうな又氣の毒さうな微笑を洩らして、「だつて君ぢや不可《いけ》ないんだから仕方がないよ」と斷るのが常であつた。斷られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかつた。己《おれ》は己《おれ》で何うかするといふ氣慨も起して見た。けれども根が執念深《しふねんぶか》くない性質《たち》だから、是しきの事で須永に對する反抗心などが永く續きやう筈がなかつた。其上身分が定まらないので、氣の落ち付く背景を有《も》たない彼は、朝から晩迄下宿の一《ひ》と間《ま》に凝《じつ》と坐つてゐる苦痛に堪へなかつた。用がなくつても半日は是非出て歩るいた。さうして能く須永の家《うち》を訪問《おとづ》れた。一つは何時《いつ》行つても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があつたのかも知れない。
 「糊口《くち》も糊口《くち》だが、糊口《くち》より先に、何か驚嘆に價する事件に會ひたいと思つてるが、いくら電車に乘つて方々歩いても全く駄目だね。攫徒《すり》にさへ會はない」などと云ふかと思ふと、「君、教育は一種の權利かと思つてゐたら全く一種の束縛だね。いくら學校を卒業したつて食ふに困るやうぢや何の權利かこれ有らんやだ。夫《それ》ぢや位地は何うでも可《い》いから思ふ存分勝手な眞似をして構はないかといふと、矢つ張り構ふからね。厭に人を束縛するよ教育が」と忌々《いま/\》しさうに嘆息する事がある。須永は敬太郎の何《いづ》れの不平に對しても餘り同情がないらしかつた。第一彼の態度からしてが本當に眞面目なのだか、又はたゞ空焦燥《からはしやぎ》に焦燥《はしや》いでゐるのか見分が付かなかつたのだらう。或時須永はあまり敬太郎が斯ういふ樣な浮《うは》ずつた事ばかり言ひ募るので、「夫《それ》ぢや君は何《ど》んな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視廳の探偵見たやうな事がして見たいと答へた。
 「ぢや爲《す》るが好いぢやないか、譯ないこつた」
 「所がさうは行かない」
 敬太郎は本氣に何故《なぜ》自分に探偵が出來ないかといふ理由を述べた。元來探偵なるものは世間の表面から底へ潜《もぐ》る社會の潜水夫のやうなものだから、是程人間の不思議を攫《つか》んだ職業はたんとあるまい。夫《それ》に彼等の立場は、たゞ他《ひと》の暗黒面を觀察する丈《だけ》で、自分と墮落して懸る危險性を帶びる必要がないから、猶《なほ》の事都合が可《い》いには相違ないが、如何《いかん》せん其目的が既に罪惡の暴露にあるのだから、豫《あらか》じめ人を陷《おとしい》れやうとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の惡い事は自分には出來ない。自分はたゞ人間の研究者|否《いな》人間の異常なる機關《からくり》が暗い闇夜に運轉する有樣を、驚嘆の念を以て眺めてゐたい。――斯ういふのが敬太郎の主意であつた。須永は逆《さから》はずに聞いてゐたが、是といふ批判の言葉も放たなかつた。夫《それ》が敬太郎には老成と見えながら其實平凡なのだとしか受取れなかつた。しかも自分を相手にしないやうな落付拂つた風のあるのを惡《にく》く思つて別れた。けれども五日と經たないうちに又須永の宅《うち》へ行きたくなつて、表へ出ると直《すぐ》神田行の電車に乘つた。
 
     二
 
 須永はもとの小川亭即ち今の天下堂といふ高い建物を目標《めじるし》に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上《つまさきのぼ》りに折れて、二三度不規則に曲つた極めて分り惡《にく》い所に居た。家並《いへなみ》の立て込んだ裏通りだから、山の手と違つて無論屋敷を廣く取る餘地はなかつたが、夫《それ》でも門から玄關迄二間程御影の上を渡らなければ、格子先の電鈴《ベル》に手が屆かない位の一構であつた。もとから自分の持家《もちいへ》だつたのを、一時親類の某《なにがし》に貸したなり久しく過ぎた所へ、父が死んだので、無人《ぶにん》の活計《くらし》には場所も廣さも恰好だらうといふ母の意見から、駿河臺の本宅を賣拂つて此所へ引移つたのである。尤も夫《それ》から大分《だいぶ》手を入れた。殆んど新築したも同然さと甞《かつ》て須永が説明して聞かせた時に、敬太郎は成程|左樣《さう》かと思つて、二階の床柱や天井板を見廻した事がある。此二階は須永の書齋にするため、後から繼ぎ足したので、風が強く吹く日には少し搖れる氣味はあるが、外に是と云つて非の打ちやうのない綺麗に明かな四疊六疊|二間《ふたま》つゞきの室《へや》であつた。其|室《へや》に坐つてゐると、庭に植ゑた松の枝と、手斧目《てうなめ》の付いた板塀の上の方と、夫《それ》から忍び返しが見えた。縁に出て手摺《てすり》から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草《さぎさう》を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあつた。
 彼は須永を訪問して此座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の區別を判然と心に呼び起さざるを得なかつた。さうして斯う小じんまり片付いて暮してゐる須永を輕蔑すると同時に、閑静ながら餘裕のある此友の生活を羨やみもした。青年があんなでは駄目だと考へたり、又あんなにも爲《な》つて見たいと思つたりして、今日も二つの矛盾から出來上つた斑《まだら》な興味を懷《ふところ》に、彼は須永を訪問したのである。
 例の小路《こうぢ》を二三度曲折して、須永の住居《すま》つてゐる通りの角迄來ると、彼より先に一人の女が須永の門を潜《くゞ》つた。敬太郎はたゞ一目《ひとめ》其後姿を見た丈《だけ》だつたが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味《ロマンしゆみ》とが力を合せて、引き摺るやうに彼を同じ門前に急がせた。一寸覗いて見ると、もう女の影は消えてゐた。例の通り紅葉《もみぢ》を引手《ひきて》に張り込んだ障子が、閑靜に閉《しま》つてゐる丈《だけ》なのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず眺めてゐたが、やがて沓脱《くつぬぎ》の上に脱ぎ捨てた下駄に氣を付けた。其下駄は勿論女ものであつたが、行儀よく向ふむきに揃つてゐる丈《だけ》で、下女が手を懸けて直した迹《あと》が少しも見えない。敬太郎は下駄の向と、思つたより早く上《あが》つて仕舞つた女の所作とを繼ぎ合はして、是は取次を乞はずに、獨りで勝手に障子を開けて這入つた極めて懇意の客だらうと推察した。でなければ家《うち》のものだが、夫《それ》では少し變である。須永の家《いへ》は彼と彼の母と仲働《なかばたら》きと下女の四人《よつたり》暮しである事を敬太郎はよく知つてゐたのである。
 敬太郎は須永の門前にしばらく立つてゐた。今這入つた女の動靜をそつと塀の外から窺《うかゞ》ふといふよりも、寧ろ須永と此女が何《ど》んな文《あや》に二人の浪漫《ロマン》を織つてゐるのだらうと想像する積《つもり》であつたが、矢張|聞耳《きゝみゝ》は立てゝゐた。けれども内は何時《いつ》もの通り森《しん》としてゐた。艶《なま》めいた女の聲|所《どころ》か、咳嗽《せき》一つ聞えなかつた。
 「許嫁《いひなづけ》かな」
 敬太郎は先《まづ》第一に斯う考へたが、彼の想像は其位で落付く程、訓練を受けてゐなかつた。――母は仲働を連れて親類へ行つたから今日は留守である。飯焚《めしたき》は下女部屋に引き下がつてゐる。須永と女とは今差向ひで何か私語《さゝや》いてゐる。――果してさうだとすると何時《いつ》もの樣に格子戸《かうしど》をがらりと開けて頼むと大きな聲を出すのも變なものである。或は須永も母も仲働も一所に出たかも知れない。御《お》さんは屹度《きつと》晝寐をしてゐる。女は其所へ這入つたのである。とすれば泥棒である。此儘引返しては濟まない。――敬太郎は狐憑《きつねつき》の樣にのそりと立つてゐた。
 
     三
 
 すると二階の障子がすうと開《あ》いて、青い色の硝子瓶《がらすびん》を提《さ》げた須永の姿が不意に縁側へ現はれたので敬太郎は一寸|吃驚《びつくり》した。
 「何をしてゐるんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議さうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉《のど》の周圍《まはり》に白いフラネルを捲いてゐた。手に提げたのは含嗽劑《がんそうざい》らしい。敬太郎は上を向いて、風邪を引いたのかとか何とか二三言葉を換《か》はしたが、依然として表に立つた儘、動かうともしなかつた。須永は仕舞に這入れと云つた。敬太郎はわざと這入つても可《い》いかと念を入れて聞き返した。須永は殆んど其意味を覺《さと》らない人の如く、輕く首肯《うなづ》いたぎり障子の内に引き込んでしまつた。
 階段《はしごだん》を上《あが》る時、敬太郎は奧の部屋で微《かす》かに衣摺《きぬずれ》の音がするやうな氣がした。二階には今迄須永の羽織つてゐたらしい黒八丈《くろはちぢやう》の襟の掛つたどてらが脱ぎ捨てゝある丈《だけ》で、外に平生と變つた所はどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云つても、彼の須永に對する交情から云つても、是程氣に掛る女の事を、率直に切り出して聞けない筈はなかつたのだが、今迄に何處か罪な想像を逞《たく》ましくしたといふ疚《や》ましさもあり、又|面《めん》と向つてすぐとは云ひ惡《にく》い皮肉な覘《ねらひ》を付けた自覺もあるので、今しがた君の家《うち》へ這入つた女は全體何者だと無邪氣に尋ねる勇氣も出なかつた。却つて自分の先へ先へと走りたがる心を壓《お》し隱すやうな風に、
 「空想はもう當分|已《や》めだ。夫《それ》よりか口の方が大事だからね」と云つて、兼《かね》て須永から聞いてゐる内幸町《うちさいはひちやう》の叔父さんといふ人に、一應さういふ方の用向で會つて置きたいから紹介して呉れと眞面目に頼んだ。叔父といふのは須永の母の妹の連合《つれあひ》で、官吏から實業界へ這入つて、今では四つか五つの會社に關係を有《も》つてゐる相當な位地の人であつたが、須永は其叔父の力を藉《か》りて何うしやうといふ料簡《れうけん》もないと見えて、「叔父が色々云つて呉れるけれども、僕は餘《あんまり》進まないから」と、かつて敬太郎に話した事があつたのを、敬太郎は覺えてゐたのである。
 須永は今朝既に其叔父に會ふ筈であつたが、咽喉《のど》を痛めたため、外出を見合せたのださうで、四五日内には大抵行けるだらうから、其時には是非話して見やうと答へたあとで、「叔父も忙がしい身體だしね、夫《それ》に方々から頼まれるやうだから、屹度《きつと》とは受合はれないが、まあ會つて見給へ」と念の爲だか何だか付け加へた。餘り望を置き過ぎられては困るといふのだらうと敬太郎は解釋したが、夫《それ》でも會はないよりは増しだ位に考へて、例に似ず宜しく頼む氣になつた。が、口で頼む程腹の中では心配も苦労もしてゐなかつた。
 元來彼が卒業後相當の地位を求める爲に、腐心し運動し奔走し、今も猶《なほ》しつゝあるのは、當人の公言する如く佯《いつは》りなき事實ではあるが、未だに成效《せいかう》の曙光《しよくわう》を拜まないと云つて、左《さ》も苦しさうな聲を出して見せるうちには、少なくとも五割方の懸値が籠つてゐた。彼は須永の樣な一人息子ではなかつたが、(妹が片付いて、)母一人殘つてゐる所は兩方共同じであつた。彼は須永のやうに地面家作の所有主でない代りに、國に少し田地《でんぢ》を有《も》つてゐた。固《もと》より大した穀高《こくだか》になるといふ程のものでもないが、俵《へう》が幾何《いくら》といふ極つた金に毎年《まいねん》替へられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかつた。其上女親の甘いのに付け込んで、自分で自分の身を喰ふやうな臨時費を請求した事も今迄に一度や二度ではなかつた。だから位地々々と云つて騷ぐのが、全くの空騷《からさわぎ》でないにしても、郷黨だの朋友だの又は自分だのに對する虚榮心に煽《あふ》られてゐる事は慥《たし》かであつた。そんなら學校にゐるうちもつと勉強して好い成績でも取つて置きさうなものだのに、そこが浪漫家《ロマンか》丈《だけ》あつて、學課は成るべく怠けやう怠けやうと心掛けて通して來た結果.頗る鮮《あざ》やかならぬ及第をして仕舞つたのである。
 
 
 それで約一時間程須永と話す間にも、敬太郎は位地とか衣食とかいふ苦しい問題を自分と進んで持ち出して置きながら、矢張《やつぱり》先刻《さつき》見た後姿の女の事が氣に掛つて、肝心の世渡りの方には口先程眞面目になれなかつた。一度|下座敷《したざしき》で若々しい女の笑ひ聲が聞えた時などは、誰か御客が來てゐるやうだねと尋ねて見やうかしらんと考へた位である。所が其考へてゐる時間が、既に自然を打《ぶ》ち壞《こは》す道具になつて、折角の問が間外《まはづ》れにならうとしたので、とう/\口へ出さずに已《や》めて仕舞つた。
 それでも須永の方では成るべく敬太郎の好奇心に媚びる樣な話題を持ち出した氣でゐた。彼は自分の住んでゐる電車の裏通りが、如何に小さな家と細い小路《こうぢ》の爲に、賽《さい》の目のやうに區切《くぎ》られて、名も知らない都會人士の巣を形づくつてゐるうちに、社會の上層に浮き上らない戯曲が殆んど戸毎《こごと》に演ぜられてゐると云ふやうな事實を敬太郎に告げた。
 先づ須永の五六軒先には日本橋邊の金物屋《かなものや》の隱居の妾《めかけ》がゐる。其妾が宮戸座《みやとざ》とかへ出る役者を情夫《いろ》にしてゐる。夫《それ》を隱居が承知で黙つてゐる。其向ふ横町に代言《だいげん》だか周旋屋《しうせんや》だか分らない小綺麗な格子戸《かうしど》作りの家《うち》があつて、時々表へ女記者一名、女コツク一名至急入用などといふ廣告を黒板《ボールド》へ書いて出す。其所へある時二十七八の美くしい女が、襞《ひだ》を取つた紺綾《こんあや》の長いマントをすぽりと被《かぶ》つて、丸《まる》で西洋の看護婦といふ服裝《なり》をして來て職業の周旋を頼んだ。それが其家《そこ》の主人の昔《むか》し書生をしてゐた家《うち》の御孃さんなので、主人は勿論妻君も驚ろいたといふ話がある。次に背中合せの裏通りへ出ると、白髪頭で廿《はたち》位の妻君を持つた高利貸がゐる。人の評判では借金の抵當《かた》に取つた女房ださうである。其隣りの博奕打《ばくちうち》が、大勢同類を寄せて、互に血眼《ちまなこ》を擦《こす》り合つてゐる最中に、ねんね子で赤ん坊を負《おぶ》つた上《かみ》さんが、勝負で夢中になつてゐる亭主を迎に來る事がある。上《かみ》さんが泣きながら何うか一所に歸つて呉れといふと、亭主は歸るには歸るが、もう一時間程して負けたものを取り返してから歸るといふ。すると上《かみ》さんはそんな意地を張れば張る程負ける丈《だけ》だから、是非今歸つて呉れと縋《すか》り付くやうに頼む。いや歸らない、いや歸れといつて、往來の氷る夜中でも四隣《あたり》の眠《ねむり》を驚ろかせる。……
 須永の話を段々聞いてゐるうちに、敬太郎は斯ういふ實地小説のはびこる中に年來住み慣れて來た須永も亦人の見ないやうな芝居をこつそり遣つて、口を拭《ぬぐ》つて濟ましてゐるのかも知れないといふ氣が強くなつて來た。固《もと》より其推察の裏には先刻《さつき》見た後姿の女が薄い影を投げてゐた。「序《ついで》に君の分も聞かうぢやないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云つて薄笑ひをした丈《だけ》であつた。其後で簡單に「今日は咽喉《のど》が痛いから」と云つた。左《さ》も小説は有《も》つてゐるが、君には話さないのだと云はん許《ばかり》の挨拶に聞えた。
 敬太郎が二階から玄關へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかつた。歸つたのか、下駄箱へ仕舞はしたのか、又は氣を利かして隱したのか、彼には丸《まる》で見當が付かなかつた。表へ出るや否や、何ういふ料簡か彼はすぐ一軒の烟草屋へ飛び込んだ。さうして其所から一本の葉巻を銜《くは》へて出て來た。それを吹かしながら須田町迄來て電車に乘らうとする途端に、喫烟御斷りといふ社則を思ひ出したので、又萬世橋の方へ歩いて行つた。彼は本郷の下宿へ歸る迄此葉巻を持たす積《つもり》で、ゆつくり/\足を運ばせながら猶《なほ》須永の事を考へた。其須永は決して何時《いつ》もの樣に單獨には頭の中へは這入つて来なかつた。考へるたびに屹度《きつと》後姿の女がちら/\跟《つ》いて來た。仕舞に「本郷臺町の三階から遠眼鏡《とほめがね》で世の中を覗いてゐて、浪漫的《ロマンてき》探險なんて氣の利いた眞似が出來るものか」と須永から冷笑《ひや》かされた樣な心持がし出した。
 
      五
 
 彼は今日《こんにち》迄《まで》、俗にいふ下町生活に昵懇《なじみ》も趣味も有《も》ち得ない男であつた。時たま日本橋の裏通りなどを通つて、身を横にしなければ潜《くゞ》れない格子戸だの、三和土《たゝき》の上から譯もなくぶら下がつてゐる鐵燈籠《かなどうろう》だの、上《あが》り框《がまち》の下を張り詰めた綺麗に光る竹だの、杉だか何だか日光《ひ》が透《とほ》つて赤く見える程薄つぺらな障子の腰だのを眼にする度に、如何にもせゝこましさうな心持になる。斯う萬事がきちりと小さく整のつて且《かつ》光つてゐられては窮屈で堪らないと思ふ。是程小ぢんまりと几帳面《きちやうめん》に暮らして行く彼等は、恐らく食後に使ふ楊枝の削《けづ》り方迄氣に掛けてゐるのではなからうかと考へる。さうして夫《それ》が悉く《こと/”\》く傳説的の法則に支配されて、丁度彼等の用ひる烟草盆の樣に、先祖代々順々に拭き込まれた習慣を笠に、恐るべく光つてゐるのだらうと推察する。須永の家《うち》へ行つて、用もない松へ大事さうな雪除《ゆきよけ》をした所や、狹い庭を馬鹿丁寧に枯松葉で敷き詰めた景色《けしき》抔《など》を見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開化の懷《ふところ》に、ぽうと育つた若且都を聯想しない譯に行かなかつた。第一須永が角帶《かくおび》をきうと締めてきちりと坐る事からが彼には變であつた。其所へ長唄の好きだとかいふ御母《おつか》さんが時々出て來て、滑《すべ》つこい癖にアクセントの強い言葉で、舌觸《したざはり》の好い愛嬌を振り懸けてくれる折などは、昔から重語《ぢゆうづめ》にして藏の二階へ仕舞つて置いたものを、今取り出して來たといふ風に、出來合《できあひ》以上の旨さがあるので、紋切形《もんきりがた》とは無論思はないけれども、幾代《いくだい》も掛つて辭令の練習を積んだ巧みが、其底に潜《ひそ》んでゐるとしか受取れなかつた。
 要するに敬太郎はもう少し調子|外《はづ》れの自由なものが欲しかつたのである。けれども今日《けふ》の彼は少くとも想像の上に於て平生の彼とは違つてゐた。彼はコ川時代の濕《しめ》つぽい空氣が未《いま》だに漂《たゞ》よつてゐる黒い藏造《くらづくり》の立ち並《なら》ぶ裏通に、親讓りの家《うち》を構へて、敬ちやん御遊びなといふ友達を相手に、泥棒ごつこや大將ごつこをして成長したかつた。月に一遍宛|蠣殻町《かきがらちやう》の水天宮樣《すゐてんぐうさま》と深川の不動樣へ御參りをして、護摩《ごま》でも上げたかつた。(現に須永は母の御供をして斯ういふ舊弊な眞似を當り前の如く遣つてゐる。)夫《それ》から鐵無地《てつむぢ》の羽織でも着ながら、歌舞伎を當世《たうせい》に崩して往來へ流した匂《にほひ》のする町内を恍惚《くわうこつ》と歩きたかつた。さうして習慣に縛られた、且《かつ》習慣を飛び超えた艶《なま》めかしい葛藤《かつとう》でも其所に見出《みいだ》したかつた。
 彼は此時忽ち森本の二字を思ひ浮かべた。すると其二字の周圍にある空想が妙に色を變へた。彼は物好にも自《みづか》ら進んで此後ろ暗い奇人に握手を求めた結果として、もう少しで飛んだ迷惑を蒙むる所であつた。幸ひに下宿の主人が自分の人格を信じたから可《い》いやうなものゝ、疑ぐらうとすれば何處迄も疑ぐられ得る場合なのだから、主人の態度|如何《いかん》に依つては警察位へ行かなければならなかつたのかも知れない。と、斯う考へると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫《ロマン》が急に温味《あたゝかみ》を失つて、醜《みに》くい想像から出來上つた雲の峯同樣に、意味もなく崩れて仕舞つた。けれども其奧に口髭をだらしなく垂らした二重瞼《ふたへまぶち》の瘠《やせ》ぎすの森本の顔|丈《だけ》は粘《ねば》り強く殘つてゐた。彼は其顔を愛したいやうな、侮《あなど》りたいやうな、又憐みたいやうな心持になつた。さうして此凡庸な顔の後《うしろ》に解すべからざる怪しい物がぼんやり立つてゐるやうに思つた。さうして彼が記念《かたみ》に呉れると云つた妙な洋杖《ステツキ》を聯想した。
 此|洋杖《ステツキ》は竹の根の方を曲げて柄《え》にした極めて單簡《たんかん》のものだが、たゞ蛇を彫つてある所が普通の杖と違つてゐた。尤も輸出向に能く見るやうに蛇の身をぐる/\竹に卷き付けた毒々しいものではなく、彫つてあるのはたゞ頭|丈《だけ》で、其頭が口を開けて何か呑み掛けてゐる所を握《にぎり》にしたものであつた。けれども其呑み掛けてゐるのが何であるかは、握りの先が丸く滑つこく削られてゐるので、蛙だか鷄卵《たまご》だか誰にも見當が付かなかつた。森本は自分で竹を伐つて、自分で此蛇を彫つたのだと云つてゐた。
 
     六
 
 敬太郎は下宿の門口《かどぐち》を潜《くゞ》るとき何より先にまづ此|洋杖《ステツキ》に眼を付けた。といふよりも途すがらの聯想が、硝子戸《がらすど》を開けるや否や、彼の眼を瀬戸物の傘入《かさいれ》の方へ引き付けたのである。實をいふと、彼は森本の手紙を受取つた當座、此|洋杖《ステツキ》を見るたびに、自分にも説明の出來ない妙な感じがしたので、成るべく眼を觸れないやうに、出入《でいり》の際視線を逸《そ》らした位である。所がさうすると今度はわざと見ない振をして傘入《かさいれ》の傍《そば》を通るのが苦になつてきて、極めて輕微な程度ではあるけれども此變な洋杖《ステツキ》におのづと崇《たゝ》られたと云ふ風になつて仕舞つた。彼自身も遂には自分の神經を不思議に思ひ出した。彼は一種の利害關係から、過去に溯《さかの》ぼる嫌疑を恐れて、森本の居所も又其の言傳《ことづて》も主人夫婦に告げられないといふ弱味を有《も》つてゐるには違ないが、夫《それ》は良心の上にどれ程の曇も懸けなかつた。記念《かたみ》として上げるとわざ/\云つて來たものを、快よく貰ひ受ける勇氣の出ないのは、他《ひと》の好意を空《むなし》くする點に於て、面白くないに極つてゐるが、是とても苦になる程ではない。たゞ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(恐らくはのたれ死《じに》といふ終りを告げるのだらう。)其憐れな最期を今から豫想して、此|洋杖《ステツキ》が傘入《かさいれ》の中に立つてゐるとする。さうして多能な彼の手によつて刻《きざ》まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑まうとして呑まず、吐かうとして吐かず、何時《いつ》迄《まで》も竹の棒の先に、口を開《あ》いた儘|喰付《くつつ》いてゐるとする。――斯ういふ風に森本の運命と其運命を黙つて代表してゐる蛇の頭とを結び付けて考へた上に、其代表者たる蛇の頭を毎日握つて歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎は其時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分で此|洋杖《ステツキ》を傘入の中から拔き取る事も出來ず、又下宿の主人に命じて、自分の目の屆かない所へ片付けさせる譯にも行かないのを大袈裟ではあるが一種の因果のやうに考へた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計《くわつけい》とは大分《だいぶ》一致しない所もあつて、實際を云ふと、是が爲に下宿を變へて落ち付いた方が樂だと思ふ程彼は洋杖《ステツキ》に災《わざはひ》されてゐなかつたのである。
 今日も洋杖《ステツキ》は依然として傘入の中に立つてゐた。鎌首は下駄箱の方を向いてゐた。敬太郎は夫《それ》を横に見たなり自分の室《へや》に上つたが、やがて机の前に坐つて、森本に遣る手紙を書き始めた。先づ此間向ふから來た音信《たより》の禮を述べた上、何故《なぜ》早く返事を出さなかつたかといふ辯解を二三行でも可《い》いから付け加へたいと思つたが、夫《それ》を明らさまに打ち開けては、君の樣な漂浪者《?ガボンド》を知己に有《も》つ僕の不名譽を考へると、書信の往復などは爲《す》る氣になれなかつたからだとでも書くより外に仕方がないので、其所は例の奔走に取り紛れと簡單な一句で胡麻化《ごまか》して置いた。次に彼が大連で好都合な職業に有付いた祝ひの言葉を一寸入れて、其|後《あと》へ段々東京も寒くなる時節柄、滿洲の霜や風は嘸《さぞ》凌《しの》ぎ惡《にく》いだらう。殊に貴方の身體ではひどく應《こた》へるに違ないから、是非用心して病氣に罹らない樣になさいと優しい文句を數行《すぎやう》綴つた。敬太郎から云ふと、實は此所が手紙を出す主意なのだから、成るべく自分の同情が先方へ徹する樣に旨く且つ長く、さうして誰が見ても實意の籠つてゐるやうに書きたかつたのだけれども、讀み直して見ると、矢つ張り普通の人が普通時候の挨拶に述べる用語以外に、何の新らしい所もないので、彼は少し失望した。と云つて、固々《もと/\》戀人に送る艶書《えんしよ》程熱烈な眞心《まごゝろ》を籠めたものでないのは覺悟の前である。それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したつて駄目だ位の口實の下に、其所は其儘にして前《さき》へ進んだ。
 
     七
 
 森本が下宿へ置き去りにして行つた荷物の始末に就ては義理にも何とか書き添へなければ濟まなかつた。然し其處置の付け方を亭主に聞くのは厭《いや》だし、聞かなければ委細の報道は出來る筈はなし、敬太郎は筆の先を宙に浮かした儘考へてゐたが、とう/\「貴方の荷物は、僕から主人に話して、何うでも彼の都合の宜《い》い樣に取り計らはせろとの御依頼でしたが、貴方の千里眼の通り、僕が何にも云はない先に、雷獣《らいじう》の方で勝手に取計つて仕舞つたやうですから左樣《さやう》御承知を願ひます。梅の盆栽を下さるといふ事ですが、是は影も形も見えないやうですから、頂きません。たゞ御禮|丈《だけ》申し述べて置きます。夫《それ》から」とつゞけて置いて、又筆を休めた。
 敬太郎は愈《いよ/\》洋杖《ステツキ》の所へ來たのである。根が正直な男だから、あの洋杖《ステツキ》は折角の御覺召《おぼしめし》だから、頂戴して毎日散歩の時突いて出ます抔《など》と空々しい嘘は吐《つ》けず、と言つて御親切は難有《ありがた》いが僕は貰ひませんとは猶更《なほさら》書けず。仕方がないから、「あの洋杖《ステツキ》は未だに傘入《かさいれ》の中に立つてゐます。持主の歸るのを毎日毎夜待ち暮してゐる如く立つてゐます。雷獣《らいじう》もあの蛇の頭へは手を觸れる事を敢てしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としての貴方の手腕に敬服せざるを得ないです」と好《いゝ》加減な御世辭を並《なら》べて、事實を暈《ぼか》す手段とした。
 状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思ひ出さうとしたが、何うしても胸に浮ばないので、已《やむ》を得ず大連電氣公園内娯樂掛り森本樣とした。今迄の關係上主人夫婦の眼を憚《はゞ》からなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる譯にも行かなかつたから、敬太郎はすぐ夫《それ》を自分の袂の中に藏《かく》した。彼はそれを持つて夕食後散歩|旁《かた/”\》外へ出懸ける氣で寒い梯子段を下迄降り切ると、須永から電話が掛つた。
 今日内幸町から從妹《いとこ》が來ての話に、叔父は四五日内に用事で大阪へ行くかも知れないさうだから、餘り遲くなつてはと思つて、立つ前に會つて貰へまいかと電話で聞いて見たら、宜しいといふ返事だから、行く氣なら成るべく早く行つた方が可《よ》からう。尤も電話の上に咽喉《のど》が痛いので、詳しい話は出來なかつたから、其|積《つもり》でゐて呉れといふのが彼の用向であつた。敬太郎は「どうも難有《ありがた》う。ぢや成るべく早く行くやうにするから」と禮を述べて電話を切つたが、何うせ行くなら今夜にでも行つて見やうといふ氣が起つたので、再び三階へ取つて返して此間拵らへたセルの袴を穿《は》いた上、愈《いよ/\》表へ出た。
 曲り角へ來てポストへ手紙を入れる事は忘れなかつたけれども、肝心の森本の安否は此時既に敬太郎の胸に、たゞ微《かす》かな火氣《ほとぼり》を殘すのみであつた。夫《それ》でも状袋が郵便函の口を滑つて、すとんと底へ落ちた時は、受取人の一週間以内に封を披《ひら》く樣を想見して、滿更《まんざら》惡い心持もしまいと思つた。
 夫《それ》から電車へ乘る迄はたゞ一直線にすた/\歩いた。考も一直線に内幸町の方を向いてゐたが、電車が明神下《みやうじんした》へ出る時分、何氣なく今しがた電話口で須永から聞いた言葉を、頭の内で繰り返して見ると、覺えずはつと思ふ所が出て來た。須永は「今日内幸町からイトコが來て」と慥《たし》かに云つたが、其イトコが彼の叔父さんの子である事は疑ふ迄もない。然し其子が男であるか女であるかは不完全な日本語の丸《まる》で關係しない所である。
 「何方《どつち》だらう」
 敬太郎は突然氣にし始めた。若《も》しそれが男だとすれば、あの後姿の女に就ての手掛《てがゝり》にはならない。從つて女は彼の好奇心を徒《いたづ》らに刺戟した丈《だけ》で、ちつとも動いて來ない。然し若し女だとすると、日といひ時刻といひ、須永の玄關から上り具合といひ、何うも自分より一足先へ這入つたあの女らしい。想像と事實を繼ぎ合はせる事に巧みな彼は、さうと確かめないうちに、端的《てつきり》さうと極めて仕舞つた。斯う解釋した時彼は、今迄|泡立《あわだ》つてゐた自分の好奇心に幾分の冷水を注《さ》したやうな滿足を覺えると共に、豫期したよりも平凡な方角に、手掛が一つ出來たと云ふ詰らなさをも感じた。
 
     八
 
 彼は小川町迄來た時、一寸電車を下りても須永の門口《かどぐち》迄行つて、友の口から事實を確かめて見たい位に思つたが、單純な好奇心以外にそんな立ち入つた詮議《せんぎ》をすべき理由を何處にも見出《みいだ》し得ないので、我慢してすぐ三田線に移つた。けれども眞直に神田橋を拔けて丸の内を疾驅する際にも、自分は今須永の從妹《いとこ》の家に向つて走りつゝあるのだといふ心持は忘れなかつた。彼は勸業銀行の邊《あたり》で下りる筈の所を、つい櫻田本郷町迄乘り越して驚ろいて又暗い方へ引き返した。淋《さび》しい夜であつたが尋ねる目的の家はすぐ知れた。丸い瓦斯《ガス》に田口《たぐち》と書いた門の中を覗いて見ると、思つたより奧深さうな構《かまへ》であつた。けれども實際は砂利を敷いた路が往來から筋違《すぢかひ》に玄關を隱してゐるのと、正面を遮《さへ》ぎる植込がこんもり黒ずんで立つてゐるのとで、幾分か嚴《いか》めしい景氣を夜陰に添へた迄で、門内に這入つた所では見付《みつき》程《ほど》手廣な住居《すまひ》でもなかつた。
 玄關には西洋|擬《まが》ひの硝子戸《がらすど》が二枚|閉《た》てゝあつたが、頼むといつても、電鈴《ベル》を押しても、取次が中々出て來ないので、敬太郎は已《やむ》を得ずしばらく其|傍《そば》に立つて内の樣子を窺がつてゐた。すると、何處からか漸く足音が聞こえ出して、眼の前の擦硝子《すりがらす》がぱつと明るくなつた。夫《それ》から庭下駄で三和土《たゝき》を踏む音が二足三足したと思ふと、玄關の扉が片方|開《あ》いた。敬太郎は此際取次の風采《ふうさい》を想望する程の物數奇《ものずき》もなく、全く漫然と立つてゐた丈《だけ》であるが、夫《それ》でも絣《かすり》の羽織を着た書生か、双子《ふたこ》の綿入を着た下女が、一應御辭儀をして彼の名刺を受取る事とのみ期待してゐたのに、今《いま》戸を半分開けて彼の前に立つたのは、思ひも寄らぬ立派な服裝《なり》をした老紳士であつた。電氣の光を脊中に受けてゐるので、顔は判然《はつきり》しなかつたが、白縮緬《しろちりめん》の帶|丈《だけ》はすぐ彼の眼に映じた。其瞬間にすぐ是が田口といふ須永の叔父さんだらうといふ感じが敬太郎の頭に働いた。けれども事が餘り意外なので、すぐ挨拶をする餘裕も出ず少しはあつけに取られた氣味で、盆槍《ぼんやり》してゐた。其上自分を甚だ若く考へてゐる敬太郎には、四十代だらうが五十代だらうが乃至《ないし》六十代だらうが殆んど區別のない一樣《いちやう》の爺さんに見える位、彼は老人に對して親しみのない男であつた。彼は四十五と五十五を見分けて遣る程の同情心を年長者に對して有《も》たなかつたと同時に、其|何《いづ》れに向つても慣れないうちは異人種のやうな無氣味《ぶきみ》を覺えるのが常なので、猶更|迷兒《まご》ついたのである。然し相手は何も氣に掛らない樣子で、「何か用ですか」と聞いた。丁寧でもなければ輕蔑でもない至つて無雜作な其言葉つきが、少し敬太郎の度胸を回復させたので、彼は漸く自分の姓名を名乘ると共に手短かく來意を告げる機會を得た。すると年嵩《としかさ》な男は思ひ出したやうに、「さう/\先刻《さつき》市藏《いちざう》(須永の名)から電話で話がありました。然し今夜|御出《おいで》になるとは思ひませんでしたよ」と云つた。さうして君さう早く來たつて不可《いけ》ないといふ樣子が其裏に見えたので、敬太郎は精一杯《せいいつぱい》言譯をする必要を感じた。老人はそれを聞くでもなし聞かぬでもなしといつた風に黙つて立つてゐたが、「そんなら又入らつしやい。四五日うちに一寸旅行しますが、其前に御目に掛れる暇さへあれば、御目に掛つても宜《よ》う御座んす」と云つた。敬太郎は篤く禮を述べて又門を出たが、暗い夜《よ》の中で、禮の述べ方がちと馬鹿丁寧過ぎたと思つた。
 是はずつと、後《あと》になつて、須永の口から敬太郎に知れた話であるが、此所の主人は、此時玄關に近い應接間で、たつた一人|碁盤《ごばん》に向つて、白石と黒石を互違《たがひちがひ》に並《なら》べながら考へ込んでゐたのださうである。夫《それ》は客と一石《いつせき》遣つた後《あと》の引續きとして、是非共ある問題を解決しなければ氣が濟まなかつたからであるが、肝心の所で敬太郎がさも田舍者らしく玄關を騷がせるものだから、先づ此邪魔を追つ拂つた後《あと》でといふ積《つもり》になつて、焦慮《じれ》つたさの餘り自分と取次に出たのだといふ。須永に此|?末《てんまつ》を聞かされた時に、敬太郎は益《ます/\》自分の挨拶が丁寧過ぎたやうな氣がした。
 
     九
 
 中一日《なかいちにち》置いて、敬太郎は堂々と田口へ電話を懸けて、是からすぐ行つても差支ないかと聞き合はせた。向ふの電話口へ出たものは、敬太郎の言葉つきや話し振の比較的|横風《おうふう》な所から大分《だいぶん》位地の高い人とでも思つたらしく、「どうぞ少々御待ち下さいまし、只今主人の都合を一寸尋ねますから」と丁寧な挨拶をして引き込んだが、今度返事を傳へるときは、「あゝ、もし/\今ね、來客中で少し差支へるさうです。午後の一時頃來るなら來て頂きたいといふ事です」と前よりは言葉が餘程|粗末《ぞんざい》になつてゐた。敬太郎は、「さうですか、夫《それ》では一時頃上りますから、どうぞ御主人に宜しく」と答へて電話を切つたが、内心は一種|厭《いや》な心持がした。
 十二時かつきりに午飯《ひるめし》を食ふ積《つもり》で、あらかじめ下女に云ひ付けて置いた膳が、時間通り出て來ないので、敬太郎は騷々しく鳴る大學の鐘に急《せ》き立てられでもする樣に催促をして、出來る丈《だけ》早く食事を濟ました。電車の中では一昨日《をとゝひ》の晩會つた田口の態度を思ひ浮べて、今日も亦あゝいふ風に無雜作な取扱を受けるのか知らん、夫《それ》とも向ふで會ふといふ位だから、もう少しは愛嬌のある挨拶でもして呉れるか知らんと考へなどした。彼は此紳士の好意で、相當の地位さへ得られるならば、多少腰を曲《かゞ》めて窮屈な思をする位は我慢する積《つもり》であつた。けれども先刻《さつき》電話の取次に出たものゝ樣に、五分と經たないうちに、言葉使ひを惡い方に改められたりすると、もう不愉快になつて、どうか其奴《そいつ》が又取次に出なければいゝがと思ふ。其癖自分の掛け方の自分としては少し横風《わうふう》過ぎた事には丸《まる》で氣が付かない性質《たち》であつた。
 小川町の角で、斜《はす》に須永の家《うち》へ曲《まが》る横町を見た時、彼ははつと例の後姿の事を思ひ出して、急に日蔭から日向《ひなた》へ想像を移した。今日も美くしい須永の從妹《いとこ》の居る所へ訪問に出掛けるのだと自分で自分に教へる方が、億劫《おつくふ》な手數《てかず》を掛けて、好い顔もしない爺さんに、衣食の途を授けて下さいと泣付《なきつき》に行くのだと意識するよりも、敬太郎に取つては遙かに麗《うらゝ》かであつたからである。彼は須永の從妹《いとこ》と田口の爺さんを自分勝手に親子と極めて置きながら何處迄も二人を引き離して考へてゐた。此間の晩田口と向き合つて玄關先に立つた時も、光線の具合で先方《さき》の人品は判然《はつきり》分らなかつたけれども、眼鼻だちの輪廓|丈《だけ》で評した所が、あまり立派な方でなかつた事は、此爺さんの第一印象として、敬太郎の胸に夜目《よめ》にも疑《うたがひ》なく描かれたのである。夫《それ》でゐて彼は此男の娘なら、須永との關係は何うあらうとも、器量《きりやう》はあまり可《い》い方ぢやあるまいといふ氣が何處にも起らなかつた。そこで離れてゐて合ひ、合つてゐて離れる樣な日向《ひなた》日蔭の裏表を一枚にした頭を彼は田口家に對して抱《いだ》いてゐたのである。それを互違に繰り返した後《あと》、彼は田口の門前に立つた。すると其所に大きな自働車が御者《ぎよしや》を乘せた儘待つてゐたので、少し安からぬ感じがした。
 玄關へ掛つて名刺を出すと、小倉の袴を穿《は》いた若い書生がそれを受取つて、「一寸」と云つた儘奧へ這入て行つた。其聲が確かに先刻《さつき》電話口で聞いたのに違ないので、敬太郎は彼の後姿を見送りながら厭《いや》な奴だと思つた。すると彼は名刺を持つた儘又現はれた。さうして「御氣の毒ですが、只今來客中ですから又何うぞ」と云つて、敬太郎の前に突立《つつた》つてゐた。敬太郎も少し勃《むつ》とした。
 「先程電話で御都合を伺つたら、今客があるから午後一時頃來いといふ御返事でしたが」
 「實はさつきの御客がまだ御歸りにならないで、御膳などが出て混雜《ごた/\》してゐるんです」
 落付いて聞きさへすれば滿更《まんざら》無理もない言譯なのだが、電話以後此取次が癪に障つてゐる敬太郎には彼の云ひ草が如何にも氣に喰はなかつた。それで自分の方から先《せん》を越す積《つもり》か何かで、「さうですか、度々御足労でした。どうぞ御主人へよろしく」と平仄《ひやうそく》の合はない捨《すて》臺詞のやうな事を云つた上、何だこんな自働車がと云はぬ許《ばかり》に其|傍《そば》を擦り拔けて表へ出た。
 
 
 彼は此日必要な會見を都合よく濟ました後《あと》、新らしく築地に世帶を持つた友人の所へ廻つて、須永と彼の從妹《いとこ》とそれから彼の叔父に當る田口とを想像の糸で巧みに繼《つ》ぎ合せつゝある一部始終《いちぶしじゆう》を御馳走に、晩迄話し込む氣でゐたのである。けれども田口の門を出て日比谷公園の傍《わき》に立つた彼の頭には、そんな餘裕は更になかつた。後姿を見た丈《だけ》ではあるが、在所《ありか》を既に突き留めて、今其人の家を尋ねたのだといふ陽気な心持は固《もと》よりなかつた。位置を求めに此所迄來たといふ自覺は猶《なほ》なかつた。彼はたゞ屈辱を感じた結果として、腹を立てゝゐた丈《だけ》である。さうして自分を田口のやうな男に紹介した須永こそ此取扱に對して當然責任を負はなくてはならないと感じてゐた。彼は歸り掛に須永の所へ寄つて、逐一?末を話した上、存分文句を並《なら》べてやらうと考へた。それで又電車に乘つて一直線に小川町迄引返して來た。時計を見ると、二時にはまだ二十分程|間《ま》があつた。須永の家《うち》の前へ來て、わざと往來から須永々々と二聲ばかり呼んで見たが、ゐるのか居ないのか二階の障子は立て切つた儘遂に開《あ》かなかつた。尤も彼は體裁家で、平生から斯ういふ呼び出し方を田舍者らしいといつて厭《いや》がつてゐたのだから、聞こえても知らん顔をしてゐるのではなからうかと思つて、敬太郎は正式に玄關の格子口へ掛つた。けれども取次に出た仲働《なかばたらき》の口から「午《ひる》少し過に御出ましになりました」といふ言葉を聞いた時は、一寸張合が拔けて少しの間黙つて立つてゐた。
 「風邪《かぜ》を引いてゐた樣でしたが」
 「はい、御風邪《おかぜ》を召して居らつしやいましたが、今日は大分《だいぶ》好いからと仰しやつて、御出掛になりました」
 敬太郎は歸らうとした。仲働は「一寸御隱居さまに申し上げますから」といつて、敬太郎を格子のうちに待たした儘奧へ這入つた。と思ふと襖《ふすま》の陰から須永の母の姿が現はれた。脊《せい》の高い面長《おもなが》の下町風に品《ひん》のある婦人であつた。
 「さあ何うぞ。もう其内歸りませうから」
 須永の母に斯う云ひ出されたが最後、江戸慣れない敬太郎は何うそれを斷つて外へ出て可《い》いか、未《いま》だに其心得がなかつた。第一《だいち》何處で斷る隙間もないやうに、調子の好い文句が夫《それ》から夫《それ》へとずる/\彼の耳へ響いて來るのである。それが世間|體《てい》の好い御世辭と違つて、引き留められてゐるうちに、上つては迷惑だらうといふ遠慮が何時《いつ》の間《ま》にか失《な》くなつて、つい氣の毒だから少し話して行かうといふ氣になるのである。敬太郎は云はれる儘にとう/\例の書齋へ腰を卸ろした。須永の母が御寒いでせうと云つて、仕切りの唐紙《からかみ》を締めて呉れたり、さあ御手をお出しなさいと云つて、佐倉《さくら》を埋《い》けた火鉢を勸めて呉れたりするうちに、一時昂奮した彼の氣分は次第に落ち付いて來た。彼はシキとかいふ白い絹へ秋田蕗《あきたぶき》を一面に大きく摺《す》つた襖《ふすま》の模樣だの、唐桑《からくは》らしくてら/\した黄色い手焙《てあぶり》だのを眺めて、此しとやかで能辯な、人を外《そら》す事を知らないと云つた風の母と話をした。
 彼女の語る所によると、須永は今日|矢來《やらい》の叔父の家《うち》へ行つたのださうである。
 「ぢあ序《ついで》だから歸りに小日向《こびなた》へ廻つて御寺參りを爲《し》て來て御呉れつて申しましたら、御母さんは近頃|無精《ぶしやう》になつた樣ですね、此間も他《ひと》に代理をさせたぢやありませんか、年を取つた所爲《せゐ》かしらなんて惡口を云ひ云ひ出て參りましたが、あれもね貴方《あなた》、先達《せんだつ》て中《ぢゆう》から風邪《かぜ》を引いて咽喉《のど》を痛めて居りますので、今日も何なら止した方が可《い》いぢやないかと留《と》めて見ましたが、矢つ張若いものは用心深いやうでも何處か我無《がむ》しやらで、年寄の云ふ事|抔《など》には一切無頓着で御座いますから……」
 須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の樂みのやうに斯ういふ調子で伜《せがれ》の話をするのが常であつた。敬太郎の方で須永の評判でも持ち出さうものなら、何時《いつ》迄でも其問題の後《あと》へ喰付《くつつ》いて來て、容易に話頭を改めないのが例になつてゐた。敬太郎もそれには大分《だいぶ》慣れてゐるから、此際も向ふのいふ通りを只ふん/\と大人《おとな》しく聞いて、一段落の來るのを待つてゐた。
 
     十一
 
 其内話がいつか肝心の須永を逸《そ》れて、矢來の叔父といふ人の方へ移つて行つた。是は内幸町と違つて、此|御母《おつか》さんの實の弟に當る男ださうで、一種の贅澤屋のやうに敬太郎は須永から聞いてゐた。外套の裏は繻子《しゆす》でなくては見つともなくて着られないと云つたり、要りもしないのに古渡《こわた》りの更紗玉《さらさだま》とか號して、石だか珊瑚《さんご》だか分らないものを愛玩《あいぐわん》したりする話は未だに覺えてゐた。
 「何にもしないで贅澤に遊んでゐられる位好い事はないんだから、結構な御身分ですね」と敬太郎が云ふのを引き取るやうに母は、「何うして貴方、打ち明けた御話が、まあ何うにか斯うにか遣つて行けるといふ迄で、樂だの贅澤だのといふ段にはまだ中々なので御座いますから不可《いけ》ません」と打ち消した。
 須永の親戚に當る人の財力が、左程《さほど》敬太郎に關係のある譯でもないので、彼は夫《それ》なり黙つて仕舞つた。すると母は少しでも談話の途切れるのを自分の過失ででもあるやうに、すぐ言葉を繼《つ》いだ。
 「夫《それ》でも妹婿《いもとむこ》の方は御蔭さまで、何だ蚊だつて方々の會社へ首を突つ込んで居りますから、此方はまあ不自由なく暮しておる模樣で御座いますが、手前共や矢來の弟《おとゝ》などになりますと、云はば浪人同樣で、昔に比《くら》べたら、御羽うち枯らさない許《ばかり》の體《てい》たらくだつて、よく弟《おとゝ》ともさう申しては笑ふこつて御座いますよ」
 敬太郎は何となく自分の身の上を顧みて氣恥かしい思をした。幸《さいはひ》に先方《さき》がすら/\喋舌《しやべ》つて呉れるので、此方《こつち》に受け答をする文句を考へる必要がないのを責《せ》めてもの得《とく》として聞き續けた。
 「夫《それ》にね、御承知の通り市藏があゝいふ引つ込思案の男だもんで御座んすから、私もたゞ學校を卒業させた丈《だけ》では、全く心配が拔けませんので、まことに困り切ります。早く気に入つた嫁でも貰つて、年寄に安心でもさせて呉れる樣におしなと申しますと、さう御母さんの都合のいゝように許《ばかり》世の中は行きやしませんて、天《てん》で相手にしないんで御座いますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、何處へでも可《い》いから、務《つとめ》にでも出る氣になればまだしも、そんな事には又|丸《まる》で無頓着で貴方……」
 敬太郎は此點に於て實際須永が横着《わうちやく》過ると平生《ふだん》から思つてゐた。「餘計な事ですが、少し目上の人から意見でも仕て上げるようにしたら何うでせう。今御話の矢來の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する氣で云つた。
 「所が是が又大の交際嫌の變人で御座いまして、忠告どころか、何だ銀行へ這入つて算盤《そろばん》なんかパチ/\云はすなんて馬鹿があるもんかと、斯うで御座いますから頭から相談にも何にもなりません。それを又市藏が嬉しがりますので。矢來の叔父の方が好きだとか氣が合ふとか申しちや能く出掛けます。今日なども日曜ぢやあるし御天氣は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前に一寸あちらへ顏でも出せば可《い》いので御座いますけれども、矢張《やつぱり》矢來へ行くんだつてとう/\自分の好きな方へ參りました」
 敬太郎は此時自分が今日何の爲に馳け込むやうに此家を襲つたかの原因に就て、又新らしく考へ出した。彼は須永の顔を見たら隨分過激な言葉を使つても其不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門は潜《くゞ》らない積《つもり》だから、さう思つて呉れ給へ位の臺詞《せりふ》を云つて歸る氣でゐたのに、肝心の須永は留守で、事情も何も知らない彼の母から、逆《さか》さに色々な話を仕掛けられたので、怒《おこ》つて遣らうといふ氣は無論拔けて仕舞つたのである。が、夫《それ》でも行き掛り上、田口と會見を遂げ得なかつた?末|丈《だけ》は、一應此母の耳へでも構はないから入れて置く必要があるだらう。それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になつてゐる今が一番|可《よ》からう。――斯う敬太郎は思つた。
 
     十二
 
 「實はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云ひ出すと、自分の息子の事ばかり考へてゐた母は、「おや左樣《さう》で御座いましたか」と漸《やつ》と氣が付いて濟まないといふ顔付をした。此間から敬太郎が躍起《やくき》になつて口を探してゐる事や、探しあぐんで須永に紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に會へるように周旋した事は、須永の傍《そば》にゐる母として彼《かの》女《をんな》の悉く見たり聞いたりした所であるから、行き屆いた人なら先方《さき》で何も云ひ出さない前に、此方《こつち》から何《ど》んな模樣です位は聞いて遣るべきだとでも思つたのだらう。斯う觀察した敬太郎は、此一句を前置に、今迄の成行を殘らず話さうと力《つと》めに掛つたが、時々相手から「左樣《さう》で御座いますとも」とか、「本當にまあ、間《ま》の惡い時にはね」とか、何方《どつち》にも同情したやうな間投詞が出るので、自分がむかつ腹《ぱら》を立てゝ惡體《あくたい》を吐《つ》いた事などは話のうちから綺麗に拔いて仕舞つた。須永の母は氣の毒といふ言葉を何遍も繰り返した後《あと》で、田口を辯護するやうに斯んな事を云つた。――
 「そりやあ實の所忙しい男なので。妹《いもと》などもあゝして一つ家に住んで居りますようなものゝ、――何で御座んしよう。――落々《おち/\》話の出來るのは恐らく一週間に一日も御座いますまい。私が見兼て要作《えうさく》さんいくら御金が儲かるたつて、さう働らいて身體を壞しちや何にもならないから、偶《たま》には骨休めをなさいよ、身體が資本《もとで》ぢやありませんかと申しますと、己等《おいら》もさう思つてるんだが、夫《それ》から夫《それ》へと用が湧いてくるんで、傍《そば》から掬《しや》くひ出さないと、用が腐つちまふから仕方がないなんて笑つて取り合ひませんので。さうかと思ふとまた妹《いもと》や娘に今日は是から鎌倉へ伴れて行く、さあすぐ支度をしろつて、丸《まる》で足元から鳥が立つやうに急《せ》き立てる事も御座いますが……」
 「御孃さんが御有りなのですか」
 「えゝ二人居ります。何《いづ》れも年頃で御座いますから、もうそろ/\何處かへ片付けるとか婿を取るとかしなければなりますまいが」
 「其内の一人の方《かた》が、須永君の所へ御出《おいで》になる譯でもないんですか」
 母は一寸|口籠《くちごも》つた。敬太郎もたゞ自分の好奇心を滿足させるためにあまり立ち入つた質問を掛け過ぎたと氣が付いた。何とかして話題を轉じやうと考へてゐるうちに、相手の方で、
 「まあ何うなりますか。親達の考も御座いませうし。當人達《たうにんたち》の存じ寄りも確《しか》と聞糺《きゝたゞ》して見ないと分りませんし。私ばかりで斯うもしたい、彼《あ》あもしたいと幾何《いくら》熱急《やきもき》思つても是《これ》許《ばかり》は致し方が御座いません」と何だか意味のありさうな事を云つた。一度|退《ひ》き掛けた敬太郎の好奇心は此答で又打ち返して來さうにしたが、善くないといふ克己心にすぐ抑えられた。
 母は猶《なほ》田口の辯護をした。そんな忙がしい身體だから、時によると心にもない約束違ひ抔《など》をする事もあるが、一旦引き受けた以上は忘れる男ではないから、まあ旅行から歸る迄待つて、緩《ゆつ》くり會つたら宜《よ》からうといふ注意とも慰藉《ゐしや》とも付かない助言《じよごん》も與へた。
 「矢來のは居つても會はん方《はう》で、是は仕方が御座いませんが、内幸町のは居ないでも都合さへ付けば馳けて歸つて來て會ふといった風の性質《たち》で御座いますから、今度旅行から歸つて來さへすれば、此方《こつち》から何とも云つて遣らないでも、向ふで屹度《きつと》市藏の所へ何とか申して參りますよ。屹度《きつと》」
 斯う云はれて見ると、成程さういふ人らしいが、それは此方《こつち》が大人《おとな》しくしてゐればこそで、先刻《さつき》の樣にぷん/\怒つては到底物にならないに極り切つてゐる。然し今更それを打ち明ける譯には行かないので、敬太郎はたゞ黙つてゐた。須永の母は猶《なほ》「あんな顔はして居りますが、見懸《みかけ》によらない實意のある剽輕者《へうきんもの》で御座いますから」と云つて一人で笑つた。
 
     十三
 
 剽輕者《へうきんもの》といふ言葉は田口の風采なり態度なりに照り合はせて見て、何うも敬太郎の腑《ふ》に落ちない形容であつた。然し實際を聞いて見ると、成程當つてゐる所もあるように思はれた。田口は昔《むか》しある御茶屋へ行つて、姉さん此電氣燈は熱《ほて》り過ぎるね、もう少し暗くして御呉れと頼んだ事があるさうだ。下女が怪訝《けげん》な顔をして小さい球《たま》と取り換えませうかと聞くと、いゝえさ、其所を一寸《ちよいと》捻《ねぢ》つて暗くするんだと眞面目に云ひ付けるので、下女は是は電氣燈のない田舍から出て來た人に違ないと見て取つたものか、くす/\笑ひながら、且那電氣はランプと違つて捻《ひね》つたつて暗くはなりませんよ、消えちまふ丈《だけ》ですから。ほらねとぱちツと音をさせて座敷を眞暗にした上、又ぱつと元通りに明るくするかと思ふと、大きな聲でばあと云つた。田口は少しも悄然《しよげ》ずに、おや/\未《ま》だ舊式を使つてるね。見つともないぢやないか、此所の家《うち》にも似合はないこつた。早く會杜の方へ改良を申し込んで置くと可《い》い。順番に直して呉れるから。と左《さ》も尤もらしい忠告を與へたので、下女もとう/\眞《ま》に受け出して、本當に是ぢや不便ね、だいち點《つ》けつ放《ぱな》しで寐る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでせうからと左《さ》も感心したらしく、改良に賛成したさうである。ある時用事が出來て門司《もじ》とか馬關《ばくわん》とか迄行つた時の話は是よりも餘程念が入《い》つてゐる。一所に行くべき筈のAといふ男に差支が起つて、二日ばかり彼は宿屋で待ち合はしてゐた。其間の退屈|紛《まぎ》れに彼はAを一つ擔《かつ》いで遣らうと巧《たく》らんだ。是は町を歩いてゐる時、一軒の寫眞屋の店先で不圖思ひ付いた惡戯《いたづら》で、彼は其店から地方《ところ》の藝者の寫眞を一枚買つたのである。其裏へA樣と書いて、手紙を添へた贈物のやうに拵えた。其手紙は女を一人雇つて、充分の時間を與へた上、出來る丈《だけ》Aの心を動かす樣に艶《なま》めかしく曲《くね》らしたもので、誰が貰つても嬉しい顔をするに足る許《ばかり》か、今日の新聞を見たら、明日《あした》此所へ御着の筈だと出てゐたので、久し振りに此手紙を上げるんだから、何うか讀み次第、何處其所迄來て頂きたいと書いた中々安くないものであつた。彼は其晩自分で此手紙をポストへ入れて、翌日配達の時又それを自分で受取つたなり、Aの來るのを待ち受けた。Aが着いても彼は此手紙を中々出さなかつた。力《つと》めて眞面目な用談に就ての打合せなどを大事らしく爲續《しつゞ》けて、漸《やつ》と同じ食卓で晩餐の膳に向つた時、突然思ひ出したやうに袂の中からそれを取り出してAに與へた。Aは表に至急親展とあるので、一寸箸を下に置くと、すぐ封を開いたが、少し讀み下《くだ》すと同時に包んである寫眞を拔いて裏を見るや否や、急に丸める樣に懷へ入れて仕舞つた。何か急《いそぎ》の用でも出來たのかと聞くと、いや何といふばかりで、不得要領《ふとくえうりやう》に又箸を取つたが、何處となくそわ/\した樣子で、まだ段落の付かない用談を其儘に、少し失禮する腹が痛いからと云つて自分の部屋に歸つた。田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだらうから、出るときは車が待つてでもゐたやうに、Aが何にも云はない先に彼を乘せて馳け出して、その思はく通り何處の何といふ家《うち》の門《かど》へ卸すようにしろと云ひ付けた。さうして自分はAより早く同じ家《うち》へ行つて、主婦《かみさん》を呼ぶや否や、今おれの宿の提灯《ちやうちん》を點《つ》けた車に乘つて、是々の男が來るから、來たらすぐ綺麗な座敷へ通して、叮嚀に取扱つて、向うで何にも云はない先に、御連樣《おつれさま》は疾《とう》から御待兼で御座いますと云つたなり引き退がつて、すぐ己《おれ》の所へ知らせて呉れと頼んだ。さうして一人で烟草を吹かして腕組をしながら、事件の經過を待つてゐた。すると萬事が旨い具合に豫定の通り進行して、愈《いよ/\》自分の出る順が來た。そこでAの部屋の傍《そば》へ行つて間の襖を開けながら、やあ早かつたねと挨拶すると、Aは顔の色を變へて驚ろいた。田口は其前へ坐り込んで、實は是々だと殘らず自分の惡戯《いたづら》を話した上、「擔《かつ》いだ代りに今夜は僕が奢《おご》るよ」と笑ひながら云つたんだといふ。
 「斯ういふ飄氣《へうげ》た眞似をする男なんで御座いますから」と須永の母も話した後《あと》で可笑《をか》しさうに笑つた。敬太郎はあの自働車はまさか惡戯《いたづら》ぢやなかつたらうと考へながら下宿へ歸つた。
 
      十四
 
 自動車事件以後敬太郎はもう田口の世話になる見込はないものと諦らめた。それと同時に須永の從弟《いとこ》と假定された例の後姿の正體も、略《ほゞ》發端《ほつたん》の入口に當たる淺い所でぱたりと行き留つたのだと思ふと、其底に齒痒《はがゆ》いやうな又※[者/火]切らないやうな不愉快があつた。彼は今日《こんにち》迄《まで》何一つ自分の力で、先へ突き拔けたといふ自覺を有《も》つてゐなかつた。勉強だらうが、運動だらうが、其他何事に限らず本氣に遣り掛けて、貫《つら》ぬき終《おほ》せた試《ためし》がなかつた。生れてから只《たつ》た一つ行ける所迄行つたのは、大學を卒業した位なものである。それすら精を出さずにとぐろ許《ばかり》卷きたがつてゐるのを、向《むかふ》で引き摺り出して呉れたのだから、中途で動けなくなつた間怠《まだる》さのない代りには、漸《やつ》との思ひで井戸を掘り拔いた時の晴々《せい/\》した心持も知らなかつた。
 彼は盆槍《ぼんやり》して四五日過ぎた。不圖學生時代に學校へ招待した或宗教家の談話を思ひ出した。其宗教家は家庭にも社會にも何の不滿もない身分だのに、自《みづ》から進んで坊主になつた人で、其當時の事情を述べる時に、何うしても不思議で堪らないから斯《この》道《みち》に入《はい》つて見たと云つた。此人は何《ど》んな朗らかに透き徹る樣な空の下に立つても、四方から閉ぢ込められてゐる樣な氣がして苦しかつたのださうである。樹を見ても家を見ても往來を歩く人間を見ても鮮《あざや》かに見えながら、自分|丈《だけ》硝子張《がらすばり》の箱の中に入れられて、外の物と直《ぢか》に續いてゐない心持が絶えずして、仕舞には窒息《ちつそく》する程苦しくなつて來るんだといふ。敬太郎は此話を聞いて、それは一種の神經病に罹つてゐたのではなからうかと疑つたなり、今日《こんにち》迄《まで》氣にも掛けずにゐた。然し此四五日|盆槍《ぼんやり》屈託《くつたく》してゐるうちに能く/\考へて見ると、彼自身が今迄に、何一つ突き拔いて痛快だといふ感じを得た事のないのは、坊主にならない前の此宗教家の心に何處か似た點があるやうである。勿論自分のは比較にならない程微弱で、しかも性質が丸《まる》で違つてゐるから、此坊さんの樣にえらい勇斷を爲《す》る必要はない。もう少し奮發して氣張《きば》る事さへ覺えれば、當つても外《はづ》れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日《こんにち》迄《まで》ついぞ其所に心を用ひる事をしなかつたのである。
 敬太郎は一人で斯う考へて、何處へでも進んで行かうと思つたが、又一方では、もうすつぽ拔けの後《あと》の祭の樣な氣がして、何といふ當《あて》もなく又|三四日《さんよつか》ぶら/\と暮した。其間に有樂座へ行つたり、落語を聞いたり、友達と話したり、往來を歩いたり、色々遣つたが、何《いづ》れも藥罐頭《やくわんあたま》を攫《つか》むと同じ事で、世の中は少しも手に握れなかつた。彼は碁を打ちたいのに、碁を見せられるといふ感じがした。さうして同じ見せられるなら、もう少し面白い波瀾曲折《はらんきよくせつ》のある碁が見たいと思つた。
 すると直《すぐ》須永と後姿の女との關係が想像された。もと/\頭の中で無暗に色澤《つや》を着けて奧行《おくゆき》のある樣に組み立てる程の關係でもあるまいし、あつた所が他《ひと》の事を餘計な御切買《おせつかひ》だと、自分で自分を嘲けりながら、あゝ馬鹿らしいと思ふ後《あと》から、矢つ張り何かあるだらうといふ好奇心が今の樣にちよい/\と閃めいて來るのである。さうして此の道をもう少し辛抱強く先へ押して行つたら、自分が今迄經驗した事のない浪漫的《ロマンチツク》な或物に打《ぶ》つかるかも知れないと考へ出す。すると田口の玄關で怒《おこ》つたなり、あの女の研究迄投げて仕舞つた自分の短氣を、自分の好奇心に釣り合はない弱味だと思ひ始める。
 職業に就ても、あんな些細《ささい》な行違《ゆきちがひ》の爲に愛想《あいそ》づかしを假令《たとひ》一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くする筈ではなかつたと思ふ。あれで出來るとも出來ないとも、まだ方《かた》のつかない未來を中途半端に仕切つてしまつた。さうして好んで※[者/火]切《にえき》らない思ひに惱んでゐる姿になつてしまつた。須永の母の保證する所では、田口といふ老人は見掛に寄らない親切氣のある人ださうだから、或は旅行から歸つて來た上で、又改めて會つて呉れないとも限らない。が、此方《こつち》からもう一遍會見の都合を間ひ合せたり抔《など》して、常識のない馬鹿だと輕蔑《さげす》まれても詰らない。けれども何《ど》の道突き拔けた心持を確《しつ》かり捕《つら》まへる爲には馬鹿と云はれる迄も、其所迄突つ懸けて行く必要があるだらう。――敬太郎は屈託しながらも色々考へた。
 
     十五
 
 けれども身の一大事を即座に決定するといふ非常な場合と違つて、敬太郎の思案には屈託の裏《うち》に、何處か呑気《のんき》なものがふわ/\してゐた。此道をとゞの詰り迄進んで見ようか、又は是限《これぎり》已《や》めにして、更に新らしいものに移る支度をしようか。問題は煎じ詰める迄もなく當初から至極簡單に出來上つてゐたのである。それに迷ふのは、一度|籤《くじ》を引き損《そく》なつたが最後、もう浮ぶ瀬はないといふ非道《ひど》い目に會ふからではなくつて、何方《どつち》に轉んでも大した影響が起らないため、何うでも好いといふ怠けた心持が何時《いつ》しらず働らくからである。彼は眠い時に本を讀む人が、眠氣《ねむけ》に抵抗する努力を厭《いと》ひながら、文字の意味を判明《はつきり》頭に入れようと試みる如く、呑氣《のんき》の懷《ふところ》で決斷の卵を温めてゐる癖に、たゞ旨く孵化《かへ》らない事ばかり苦にしてゐた。この不決斷を逃《のが》れなければといふ口實の下《もと》に、彼は暗《あん》に自分の物數奇《ものずき》に媚《こ》びようとした。さうして自分の未來を賣卜者《うらなひしや》の八卦《はつけ》に訴へて判斷して見る氣になつた。彼は加持《かぢ》、祈祷《きたう》、御封《ごふう》、虫封《むしふう》じ、降巫《いちこ》の類《たぐひ》に、全然信仰を有《も》つ程、非科學的に教育されてはゐなかつたが、それ相當の興味は、何《いづ》れに對しても昔から今日《こんにち》迄《まで》失はずに成長した男である。彼の父は方位《はうゐ》九星《きうせい》に詳しい神經家であつた。彼が小學校へ行く時分の事であつたが、ある日曜日に、彼の父は尻を端折《はしよ》つて、鍬を擔《か》ついだ儘庭へ飛び下りるから、何をするのかと思つて、後から跟《つ》いて行かうとすると、父は敬太郎に向つて、御前は其所にゐて時計を見て居ろ、さうして十二時が鳴り出したら、大きな聲を出して合圖をして呉れ、すると御父さんがあの乾《いぬゐ》に當る梅の根つこを堀り始めるからと云ひ付けた。敬太郎は子供心に又例の家相だと思つて、時計がちんと鳴り出すや否や命令通り、十二時ですようと大きな聲で叫んだ。それで、其場は無事に濟んだが、あれ程正確に鍬を下ろす積《つもり》なら、肝心の時計が狂つてゐない樣に豫《あら》かじめ直して置かなくてはならない筈だのにと敬太郎は父の迂濶《うくわつ》を可笑《をか》しく思つた。學校の時計と自分の家《うち》のとは其時二十分近く違つてゐたからである。所が其後《そのご》摘草《つみくさ》に行つた歸りに、馬に蹴られて土堤《どて》から下へ轉がり落ちた事がある。不思議に怪我《けが》も何もしなかつたのを、御祖母《おばあ》さんが大層喜んで、全く御地藏樣が御前の身代りに立つて下さつた御蔭だ是《これ》御覽《ごらん》と云つて、馬の繋いであつた傍《そば》にある石地藏の前に連れて行くと、石の首がぽくりと缺けて、涎掛《よだれかけ》丈《だけ》が殘つてゐた。敬太郎の頭には其時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。其雲が身體の具合や四邊《あたり》の事情で、濃くなつたり薄くなつたりする變化はあるが、成長した今日《こんにち》に至る迄、未だに拔け切らずにゐた事|丈《だけ》は慥《たしか》である。
 斯ういふ譯で、彼は明治の世に傳はる面白い職業の一つとして、何時《いつ》でも大道占《だいだううらな》ひの弓張提灯《ゆみはりぢやうちん》を眺めてゐた。尤も金を拂つて筮竹《ぜいちく》の音を聞く程の熱心はなかつたが、散歩の序《ついで》に、寒い顔を提灯の光に映した女などが、悄然《しよんぽり》其所に立つてゐるのを見掛けると、此暗い影を未來に投げて、思案に沈んでゐる憐れな人に、易者《えきしや》が何《ど》んな希望と不安と畏怖《ゐふ》と自信とを與へるだらうといふ好奇心に惹かされて、面白半分、そつと傍《そば》へ寄つて、陰の方から立聞《たちぎゝ》をする事が?《しば/\》あつた。彼の友の某《なにがし》が、自分の腦力に悲觀して、試驗を受けようか學校を已《や》めようかと思ひ煩《わづら》つてゐる頃、ある人が旅行の序《ついで》に、善光寺如來の御神籤《おみくじ》を頂いて第五十五の吉といふのを郵便で送つて呉れたら、其|中《なか》に雲《くも》散《さん》じて月重ねて明らかなり、といふ句と、花|發《ひら》いて再び重榮《ちようえい》といふ句があつたので、物は試しだからまあ受けて見ようと云つて、受けたら綺麗に及第した時、彼は興に乘つて、方々の神社で手當り次第|御神籤《おみくじ》を頂き廻つた事さへある。しかも夫《それ》は別に是といふ目的なしに頂いたのだから彼は平生でも、優に賣卜者《うらなひしや》の顧客《とくい》になる資格を充分具へてゐたに違ない。其代り今度の樣な場合にも、何處か慰さみがてらに、まあ遣つて見ようといふ浮氣《うはき》が大分《だいぶ》交つてゐた。
 
     十六
 
 敬太郎は何處の占《うら》なひ者《しや》に行つたものかと考へて見たが、生憎《あいにく》何處といふ當《あて》もなかつた。白山の裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今迄に名前を聞いたのは二三軒あるが、無暗《むやみ》に流行《はや》るのは山師《やまし》らしくつて行く氣にならず、と云つて、自分で嘘と知りつゝ出鱈目《でたらめ》を強ひて尤もらしく述べる奴は猶《なほ》不都合であるし、出來るならば餘り人の込み合はない家《うち》で、閑静な髯を生やした爺さんが奇警《きけい》な言葉で、簡潔にすぱ/\と道《い》ひ破《やぶ》つて呉れるのが何處かにゐれば可《い》いがと思つた。
 さう思ひながら、彼は自分の父が能く相談に出掛けた、郷里《くに》の一本寺《いつぽんじ》の隱居の顔を頭の中に描き出した。夫《それ》から不圖氣が付いて、考へるんだか只坐つてゐるんだか分らない自分の樣子が馬鹿々々しくなつたので、兎に角出て其所いらを歩いてるうちに、運命が自分を誘ひ込むやうな占《うら》ない者《しや》の看板に打《ぶ》つかるだらうといふ漠然たる頭に帽子を載せた。
 彼は久し振に下谷の車坂《くるまざか》へ出て、あれから東へ眞直に、寺の門だの、佛師屋《ぶつしや》だの、古臭い生藥屋《きぐすりや》だの、コ川時代のがらくたを埃と一所に並《なら》べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡《もんぜき》の中を拔けて、奴鰻《やつこうなぎ》の角へ出た。
 彼は小供の時分よく江戸時代の淺草を知つてゐる彼の祖父《ぢい》さんから、しばしば觀音樣の繁華を耳にした。仲見世《なかみせ》だの、奧山《おくやま》だの、並木《なみき》だの、駒形《こまかた》だの、色々云つて聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さへあつた。廣小路に菜飯《なめし》と田樂《でんがく》を食はせるすみ屋といふ洒落《しやれ》た家《うち》があるとか、駒形《こまかた》の御堂の前の綺麗な繩暖簾《なはのれん》を下げた鰌屋《どぜうや》は昔《むか》しから名代《なだい》なものだとか、食物《くひもの》の話も大分《たいぶ》聞かされたが、凡《すべ》ての中《うち》で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助《ながゐひやうすけ》の居合拔《ゐあひぬき》と、脇差《わきざし》をぐい/\呑んで見せる豆藏《まめざう》と、江州《がうしう》伊吹山《いぶきやま》の麓にゐる前足が四つで後足《あとあし》が六つある大蟇《おほがま》の干し固めたのであつた。夫等《それら》には藏の二階の長持の中にある草双紙《くさざうし》の畫解《ゑとき》が、子供の想像に都合の好いような説明を幾何《いくら》でも與へて呉れた。一本齒の下駄を穿いた儘、小さい三寶の上に曲《しや》がんだ男が、襷掛《たすきがけ》で身體よりも高く反《そ》り返つた刀を拔かうとする所や、大きな蝦蟆《がま》の上に胡坐《あぐら》をかいて、兒雷也《じらいや》が魔法か何か使つてゐる所や、顔より大きさうな天眼鏡《てんがんきやう》を持つた白い髯の爺さんが、唐机《たうづくゑ》の前に坐つて、平突張《へいつくば》つたちょん髷を上から見下《みおろ》す所や、大抵の不思議なものはみんな繪本から拔け出して、想像の淺草に並《なら》んでゐた。斯ういふ譯で敬太郎の頭に映る觀音の境内には、歴史的に妖嬌陸離《えうけうりくり》たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎《かげろ》つてゐたのである。東京へ來てから、此怪しい夢は固《もと》より手痛く打ち崩されて仕舞つたが、夫《それ》でも時々は今でも觀音樣の屋根に鵠《こふ》の鳥が巣を食つてゐるだらう位の考にふら/\となる事がある。今日も淺草へ行つたら何うかなるだらうといふ料簡《れうけん》が暗《あん》に働らいて、足が自《おの》づと此方《こつち》に向いたのである。然しルナパークの後《うしろ》から活動寫眞の前へ出た時は、是《こり》や占《うら》なひ者《しや》などの居る所ではないと今更の樣に其雜沓に驚ろいた。責《せ》めて御賓頭顱《おびんづる》でも撫《な》でて行かうかと思つたが、何處にあるか忘れてしまつたので、本堂へ上《あが》つて、魚河岸《うをがし》の大提灯《おほぢやうちん》と頼政《よりまさ》の鵺《ぬえ》を退治てゐる額|丈《だけ》見てすぐ雷門《かみなりもん》を出た。敬太郎の考ヘでは是から淺草橋へ出る間には、一軒や二軒の易者はあるだらう。もし在つたら何でも構はないから入《はい》る事にしよう。或は高等工業の先を曲つて柳橋の方へ拔けて見ても好いなどゝ、丸《まる》で時分どきに恰好《かつかう》な飯屋《めしや》でも探す氣で歩いてゐた。所がいざ探すとなると生憎《あいにく》なもので、平生《ふだん》は散歩さへすれば至る所に神易《しんえき》の看板がぶら下つてゐる癖に、あの廣い表通りに門戸を張つてゐる卜者《うらなひ》は丸《まる》で見當らなかつた。敬太郎は此|企圖《くはだて》も亦例によつて例の如く、突き拔けずに中途で御仕舞になるのかも知れないと思つて少し失望しながら藏前《くらまへ》まで來た。すると漸《やつ》との事で尋ねる商賣の家《うち》が一軒あつた。細長い堅木の厚板に、身の上判斷と割書《わりがき》をした下に、文錢占《ぶんせんうら》なひと白い字で彫つて、其又下に、漆で塗つた眞赤《まつか》な唐辛子《たうがらし》が描《か》いてある。此奇體な看板が先づ敬太郎の眼を惹いた。
 
      十七
 
 能く見ると是は一軒の生藥屋《きぐすりや》の店を仕切つて、其狭い方へ小瀟洒《こざつぱり》した差掛樣《さしかけやう》のものを作つたので、中に七色唐辛子《なゝいろたうがらし》の袋を並《なら》べてあるから、看板の通りそれを賣る傍《かたは》ら、占なひを見る趣向に違ない。敬太郎は斯う觀察して、そつと餡轉餅屋《あんころもちや》に似た差掛《さしかけ》の奧を覗いて見ると、小作りな婆さんが只《たつた》一人|裁縫《しごと》をしてゐた。狹い室《へや》一つの住居《すまひ》としか思はれないのに、肝心の易者の影も形も見えないから、主人は他行中《たぎやうちゆう》で、細君が留守番をしてゐる所かとも思つたが、店先の構造から推すと、奧は生藥屋の方《はう》と續いてゐるかも知れないので、一概に留守と見切《みきり》を付ける譯にも行かなかつた。それで二三歩先へ出て、藥種店の方を覗くと、八《や》ツ目鰻《めうなぎ》の干したのも釣るしてなければ、大きな龜の甲も飾つてないし、人形の腹をがらん胴にして、五色の五臓を外から見えるように、腹の中の棚に載せた古風の裝飾もなかつた。一本寺《いつぽんじ》の隱居に似た髯のある爺さんは固《もと》より坐つてゐなかつた。彼は再び立ち戻つて、身の上判斷|文錢占《ぶんせんうら》なひといふ看板の懸つた入口から暖簾《のれん》を潜《くゞ》つて内へ入《はい》つた。裁縫《しごと》をしてゐた婆さんは、針の手を已《や》めて、大きな眼鏡の上から睨むやうに敬太郎を見たが、たゞ一口、占《うら》なひですかと聞いた。敬太郎は「えゝ一寸見て貰ひたいんだが、御留守のやうですね」と云つた。すると婆さんは、膝の上のやわらか物を隅の方へ片付けながら、御上りなさいと答へた。敬太郎は云はれる通り素直に上つて見ると、狹いけれども居心地の惡い程|汚《よご》れた室《へや》ではなかつた。現に疊|抔《など》は取り替へ立てでまだ新らしい香《か》がした。婆さんは※[者/火]立つた鐵瓶の湯を湯呑に注《つ》いで、香煎《かうせん》を敬太郎の前に出した。さうして昔は藥箱でも載せた棚らしい所に片付けてあつた小机を取り卸しに掛つた。其机には無地の羅紗《ラシヤ》が掛けてあつたが、婆さんはそれを其儘敬太郎の正面に据ゑて、さうして再び故《もと》の座に歸つた。
 「占《うら》なひは私がするのです」
 敬太郎は意外の感に打たれた。此|小《ち》いさい丸髷に結《ゆ》つた、黒繻子の襟の掛つた着物の上に、地味な縞の羽織を着た、一心に縫物をしてゐる、純然家庭的の女が、自分の未來に横たはる運命の豫言者であらうとは全く想像の外《ほか》にあつたのである。其上彼は此婦人の机の上に、筮竹《ぜいちく》も算木《さんぎ》も天眼鏡《てんがんきやう》もないのを不思議に眺めた。婆さんは机の上に乘つてゐる細長い袋の中からちやら/\と音をさせて、穴の開《あ》いた錢《ぜに》を九つ出した。敬太郎は始めて是が看板に「文錢占《ぶんせんうら》なひ」とある文錢《ぶんせん》なるものだらうと推察したが、偖《さて》此九枚の文錢《ぶんせん》が、暗い中で自分を操つてゐる運命の糸と、どんな關係を有《も》つてゐるか、固《もと》より想像し得る筈がないので、たゞ其所に鑄出《いだ》された模樣と、それが仕舞つてあつた袋とを見比べる丈《だけ》で、何事も云はずにゐた。袋は能裝束の切れ端か、懸物の表具の餘りで拵らえたらしく、金の糸が所々に光つてゐるけれども、大分《だいぶ》古いものと見えて、手擦《てずれ》と時代のため、派手な色を全く失つてゐた。
 婆さんは年寄に似合はない白い繊麗《きやしや》な指で、九枚の文錢を三枚|宛《づゝ》三列《みけた》に並《なら》べたが、ひよつと顔を上げて、「身の上を御覽ですか」と聞いた。
 「さあ一生涯の事を一度に聞いて置いても損はないが、夫《それ》よりか今此所で何うしたら可《い》いか、其方を極めて懸る方が僕には大切らしいから、まあ夫《それ》を一つ願はう」
 婆さんはさうですかと答へたが、夫《それ》で御年はと又敬太郎の年齡を尋ねた。それから生れた月と日を確めた。其|後《あと》で胸算用《むなざんよう》でもする案排《あんばい》しきで、指を折つて見たり、たゞ考《かん》がへたりしてゐたが、やがて又綺麗な指で例の文錢を新らしく並《なら》べ更《か》へた。敬太郎は表に波が出たり、或は文字が現はれたりして、三枚が三列《みけた》に續く順序と排列を、深い意味でもある樣な眼付をして見守つてゐた。
 
     十八
 
 婆さんはしばらく手を膝の上に載せて、何事も云はずに古い錢《ぜに》の面《おもて》を凝《ぢつ》と注意してゐたが、やがて考への中心點が明快《はつきり》纒まつたといふ樣子をして、「貴方は今迷つて居らつしやる」と云ひ切つたなり敬太郎の顏を見た。敬太郎はわざと何も答へなかつた。
 「進まうか止《よ》さうかと思つて迷つて居らつしやるが、是は御損ですよ。先へ御出《おで》になつた方が、たとひ一時は思はしくない樣でも、末始終《すゑしじゆう》御爲ですから」
 婆さんは一區限《ひとくぎり》付けると、又口を閉ぢて敬太郎の樣子を窺つた。敬太郎は始めからたゞ先方のいふ事をふん/\聞く丈《だけ》にして、此方《こちら》では何も喋舌《しやべ》らない積《つもり》に、腹の中で極めて掛つたのであるが、婆さんの此|一言《いちげん》に、ぼんやりした自分の頭が、相手の聲に映つてちらりと姿を現はしたやうな氣がしたので、つい其刺戟に應じて見たくなつた。
 「進んでも失敗《しくじ》る樣な事はないでせうか」
 「えゝ。だから成るべく大人《おとな》しくして。短氣を起さないようにね」
 是は豫言ではない、常識があらゆる人に教へる忠告に過ぎないと思つたけれども婆さんの態度に、是といふ故意《わざ》とらしい點も見えないので、彼は猶《なほ》質問を續けた。
 「進むつて何方《どつち》の方へ進んだものでせう」
 「夫《それ》は貴方の方が能く分つて居らつしやる筈ですがね。私はたゞ最《もう》少し先迄|御出《おで》なさい、其方が御爲だからと申し上げる迄です」
 斯うなると敬太郎も行き掛り上《じやう》さうですかと云つて引込《ひつこ》む譯に行かなくなつた。
 「だけれども道が二つ有るんだから、その内で何方《どつち》を進んだら可《よ》からうと聞くんです」
 婆さんは又黙つて文錢《ぶんせん》の上を眺めてゐたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ同《おん》なじですね」と答へた。さうして先刻《さつき》裁縫《しごと》をしてゐた時に散らばした糸屑《いとくづ》を拾つて、其中から紺と赤の絹糸の可成《かなり》長いのを擇《よ》り出して、敬太郎の見てゐる前で、それを綺麗に縒《よ》り始めた。敬太郎はたゞ手持無沙汰の徒事《いたづら》とばかり思つて、別段意にも留《とゞ》めなかつたが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに縒《よ》り上げて、文錢の上に載せた。
 「是を御覽なさい。斯う縒《よ》り合はせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるぢやありませんか。そら派手《はで》な赤と地味な紺が。若い時には兎角派手の方へ派手の方へと驅け出して遣り損ない勝のものですが、貴方のは今の所此|縒糸《よりいと》見た樣に丁度好い具合に、一所に絡《から》まり合つてゐる樣ですから御仕合せです」
 絹糸の喩《たとへ》は何とも知らず面白かつたが、御仕合せですと云はれて見ると、嬉しいよりも却つて可笑《をか》しい心持の方が敬太郎を動かした。
 「ぢや其紺糸で地道《ぢみち》を踏んで行けば、其間にちら/\派手な赤い色が出て來ると云ふんですね」と敬太郎は向ふの言葉を呑み込んだ樣な尋ね方をした。
 「さうです左樣《さう》なる筈です」と婆さんは答へた。始めから敬太郎は占なひの一言《いちごん》で、是非共右か左へ片付けなければならないと迄|切《せつ》に思ひ詰めてゐた譯でもなかつたけれども、是《これ》丈《だけ》で歸るのも少し物足りなかつた。婆さんの云ふ事が、丸《まる》で自分の胸と懸け隔たつた別世界の消息なら、固《もと》より論はないが、意味の取り方では大分《だいぶ》自分の今の身の上に、應用の利く點もあるので、敬太郎は其所に微《かす》かな未練を殘した。
 「最《も》う何にも伺がふ事はありませんか」
 「さうですね。近い内に一寸した事が出來るかも知れません」
 「災難ですか」
 「災難でもないでせうが、氣を付けないと遣り損ないます。さうして遣り損なへば夫《それ》つきり取り返しが付かない事です」
 
     十九
 
 敬太郎の好奇心は少し鋭敏になつた。
 「全體|何《ど》んな性質《たち》の事ですか」
 「夫《それ》は起つて見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではない樣です」
 「ぢや何うして失敗《しくじ》らない工夫をして好いか、それも分らないでせうね」
 「分らない事もありませんが、若《も》し御望みなら、最《も》う一遍|占《うら》なひを立て直して見て上げても宜《よ》う御座んす」
 敬太郎は、では御頼み申しますと云はない譯に行かなかつた。婆さんは又|繊細《きやしや》な指先を小器用に動かして、例の文錢を裏表に並《なら》べ更《か》へた。敬太郎から云へば先《せん》の並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんには其所に何か重大の差別があるものと見えて、其一枚を引つ繰り返すにも輕率に手は下さなかつた。漸く九枚を夫々《それ/”\》念入に片付けた後《あと》で、婆さんは敬太郎に向つて「大體分りました」と云つた。
 「何うすれば好いんですか」
 「何うすればつて、占なひには陰陽《いんやう》の理で大きな形が現はれる丈《だけ》だから、實地は各自《めい/\》が其場に臨んだ時、其大きな形に合はして考ヘる外ありませんが、まあ斯うです。貴方は自分の樣な又|他人《ひと》の樣な、長い樣な又短かい樣な、出る樣な又這入る樣なものを持つて居らつしやるから、今度事件が起つたら、第一にそれを忘れないやうになさい。左樣《さう》すれば旨く行きます」
 敬太郎は烟《けむ》に卷かれざるを得なかつた。いくら大きな形が陰陽の理で現はれたにした所で、是ぢや方角さへ立たない霧の樣なものだから、假令《たとひ》嘘でも本當でも、最《も》う少し切り詰めた應用の利く所を是非云はせようと思つて、二三押問答をして見たが、一向《いつかう》埒《らち》が明かなかつた。敬太郎はとう/\此禅坊主の寐言に似たものを、手拭に包《くる》んだ懷爐《くわいろ》の如く懷中させられて表へ出た。御負《おまけ》に出掛《でがけ》に七色唐辛子《なゝいろたうがらし》を二袋買つて袂へ入れた。
 翌日彼は朝飯《あさはん》の膳に向つて、烟《けむ》の出る味噌汁椀の葢《ふた》を取つたとき、忽ち昨日《きのふ》の唐辛子を思ひ出して、袂から例の袋を取り出した。それを十二分に汁の上に振り掛けて、ひり/\するのを我慢しながら食事を濟ましたが、婆さんの云はゆる「陰陽の理によつて現はれた大きな形」を頭の中に呼び起して見ると、まだ漠然と瓦斯《ガス》の如く殘つてゐた。然し手の付けやうのない謎《なぞ》に氣を揉む程熱心な占《うら》なひ信者でもないので、彼は何うにかそれを解釋して見たいと焦心《あせ》る苦悶を知らなかつた。只其分らない所に妙な趣《おもむき》があるので、忘れないうちに、婆さんの云つた通りを紙片《かみぎれ》に書いて机の抽出《ひきだし》へ入れた。
 もう一遍田口に會ふ手段を講じて見る事の可否は、昨日《きのふ》既に婆さんの助言《じよごん》で斷定されたものと敬太郎は解釋した。けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動かうとする矢先へ婆さんが動く縁を付けて呉れたに過ぎないのだと思つた。彼は須永へ行つて彼の叔父が既に大阪から歸つたか何うか尋ねて見ようかと考へたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を壓迫してゐるので足を運ぶ勇氣が一寸出なかつた。電話も此際利用しにくかつた。彼は已《やむ》を得ず、手紙で用を辨ずる事にした。彼は先達《せんだつ》て須永の母に話したと略《ほゞ》同樣の?末を簡略に書いた後で、田口がもう旅行から歸つたか何うかを聞き合はせて、若《も》し歸つたなら御多忙中甚だ恐れ入るけれども、都合して會つて呉れる譯には行くまいか、此方《こつち》は何うせ閑《ひま》な身體だから、何時《いつ》でも指定された時日に出られる積《つもり》だがと、此間の權幕は、綺麗に忘れた樣な口振を見せた。敬太郎は此手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも豫想した。所が二日立つても三日立つても何の挨拶もないので、少し不安の念に惱まされ出した。なまじい賣卜者《うらなひしや》の言葉などに動かされて、恥を掻いては詰らないといふ後悔も交《まじ》つた。すると四日目の午前になつて、突然田口から電話口へ呼び出された。
 
     二十
 
 電話口へ出て見ると案外にも主人の聲で、今|直《すぐ》來る事が出來るかといふ簡單な問ひ合はせであつた。敬太郎はすぐ出ますと答へたが、夫《それ》丈《だけ》で電話を切るのは何となく打《ぶ》つ切《き》ら棒《ぼう》過ぎて愛嬌が足りない氣がするので、少し色を着ける爲に、須永君から何か御話でも御座いましたかと聞いて見た。すると相手は、えゝ市藏から御希望を通知して來たのですが、手數《てかず》だから直接に私の方で御都合を伺がひました。ぢや御待ち申しますから、直《すぐ》どうぞ。と云つて夫《それ》なり引込《ひつこ》んで仕舞つた。敬太郎は又例の袴を穿《は》きながら、今度こそ樣子が好ささうだと思つた。夫《それ》から此間買つた許《ばか》りの中折を帽子掛から取ると、未來に富んだ顔に生氣を漲《みな》ぎらして快豁《くわいくわつ》に表へ出た。外には白い霜を一度に摧《くだ》いた日が、木枯しにも吹き捲くられずに、穩やかな往來をおつとりと一面に照らしてゐた。敬太郎は其中を突切《つつき》る電車の上で、光を割《さ》いて進む樣な感じがした。
 田口の玄關は此間と違つて蕭條《ひつそ》りしてゐた。取次に袴を着けた例の書生が現はれた時は、少し極りが惡かつたが、まさか先達《せんだつ》ては失禮しましたとも云へないので、素知らぬ顔をして叮嚀に來意を告げた。書生は敬太郎を覺えてゐたのか、居ないのか、只はあと云つたなり名刺を受取つて奧へ這入つたが、やがて出て來て、何うぞ此方《こちら》へと應接間へ案内した。敬太郎は取次の揃へて呉れた上靴《スリツパー》を穿《は》いて、御客らしく通るには通つたが、四五脚ある椅子の何《ど》れへ腰を掛けて可《い》いか一寸迷つた。一番小さいのにさへ極めて置けば間違はあるまいといふ謙遜から、彼は腰の高い肱懸も裝飾も付かない最も輕さうなのを擇《よ》つて、わざと位置の惡い所へ席を占めた。
 やがて主人が出て來た。敬太郎は使ひ慣れない切口上を使つて、初對面の挨拶やら會見の禮やらを述べると、主人は輕くそれを聞き流す丈《だけ》で、只はあ/\と挨拶した。さうしていくら區切が來ても、一向《いつかう》何とも云つて呉れなかつた。彼は主人の態度に失望する程でもなかつたが、自分の言葉がさう思ふ通り長く續かないのに弱つた。一應頭の中にある挨拶を出し切つて仕舞ふと、後は夫《それ》限《ぎり》で、手持無沙汰と知りながら黙らなければならなかつた。主人は卷莨入《まきたばこいれ》から敷島を一本取つて、あとを心持敬太郎のゐる方へ押し遣つた。
 「市藏から貴方の御話しは少し聞いた事もありますが、一體何ういふ方を御希望なんですか」
 實を云ふと、敬太郎には何といふ特別の希望はなかつた。只相當の位置さへ得られゝばと許《ばかり》考へてゐたのだから、斯う聞かれると盆槍《ぼんやり》した答より外に出來なかつた。
 「凡《すべ》ての方面に希望を有《も》つてゐます」
 田口は笑ひ出した。さうして機嫌の好い顔付をして、學士の數《かず》の斯んなに殖えて來た今日《こんにち》、幾何《いくら》世話をする人があらうとも、さう最初から好い地位が得られる譯のものでないといふ事情を懇《ねん》ごろに説いて聞かせた。
 然し夫《それ》は田口から改めて教はる迄もなく、敬太郎の疾《と》うから痛切に承知してゐる所であつた。
 「何でも遣ります」
 「何でも遣りますつたつて、まさか鐵道の切符切も出來ないでせう」
 「いえ出來ます。遊んでるよりは増しですから。將來の見込のあるものなら本當に何でも遣ります。第一遊んでゐる苦痛を逃《のが》れる丈《だけ》でも結構です」
 「さう云ふ御考なら又私の方でも能く氣を付けて置きませう。直《すぐ》といふ譯にも行きますまいが」
 「何うぞ。――まあ試しに使つて見て下さい。貴方の御家《おうち》の――と云つちや餘り變ですが、貴方の私事《わたくしごと》にでゞも可《い》いから、一寸使つて見て下さい」
 「そんな事でも爲《し》て見る氣がありますか」
 「あります」
 「それぢや、殊に依ると何か願つて見るかも知れません。何日《いつ》でも構ひませんか」
 「えゝ成るべく早い方が結構です」
 敬太郎は是で會見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。
 
      二十一
 
 穩やかな冬の日が又二三日續いた。敬太郎は三階の室《へや》から、窓に入る空と樹と屋根瓦を眺めて、自然を橙色《だい/\いろ》に暖ためる大人《おと》なしい此日光が、恰も自分の爲に世の中を照らしてゐる樣な愉快を覺えた。彼は此間の會見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずる樣になつた。さうして其結果が何《ど》んな異樣の形を裝《よそほ》つて、彼の前に現はれるかを、彼は最も樂しんで待ち暮らした。彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者の申《まを》し出《いで》以上のもの迄含んでゐた。彼は一定の職業から生ずる義務を希望した許《ばかり》でなく、刺戟に充ちた一時性の用事をも田口から期待した。彼の性質として、もし成效の影が彼を掠《かす》めて閃めくならば、恐らく尋常の雜務とは切り離された特別の精彩を帶びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだらう位に考へた。そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴してゐたのである。
 すると四日ばかりして、又田口から電話が掛つた。少し頼みたい事が出來たが、わざ/\呼び寄せるのも氣の毒だし、電話では手間が要《い》つて却つて面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委細《ゐさい》はそれを見て承知して呉れ。もし分らない事があつたら、又電話で聞き合はしても可《い》いといふ通知であつた。敬太郎はぼんやり見えてゐた遠眼鏡《とほめがね》の度がぴたりと合つた時のやうに愉快な心持がした。
 彼は机の前を一寸《いつすん》も離れずに、速達便の屆くのを待つてゐた。さうして其《その》間《あひだ》絶ず例の想像を逞《たく》ましくしながら、田口の所謂用事なるものを胸の中で組み立てゝ見た。其所には何時《いつ》か須永の門前で見た後姿の女が、稍《やゝ》ともすると斷わりなしに入り込んで來た。不圖氣が付いて、もつと實際的のもので有るべき筈だと思ふと、其時|丈《だけ》は自分で自分の空想を叱る樣にしては、彼はもどかしい時を過ごした。
 やがて待ち焦《こが》れた状袋が彼の手に落ちた。彼はすつと音をさせて、封を裂いた。息も繼《つ》がずに卷紙の端《はし》から端《はし》迄《まで》を一気に讀み通して、思はずあつといふ微《かす》かな聲を揚げた。與へられた彼の用事は待ち設けた空想よりも猶《なほ》浪漫的《ロマンチツク》であつたからである。手紙の文句は固《もと》より簡單で用事以外の言葉は一切書いてなかつた。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乘つて、小川町の停留所で下りる四十|恰好《がつかう》の男がある。それは黒の中折に霜降の外套を着て、顔の面長《おもなが》い脊《せい》の高い、瘠せぎすの紳士で、眉と眉の間に大きな黒子《ほくろ》があるから其特徴を目標《めじるし》に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろといふ丈《だけ》であつた。敬太郎は始めて自分が危險なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公の樣な心持がし出した。同時に田口が自己の社會的利害を護る爲に、斯んな暗がりの所作を敢てして、他日の用に、他《ひと》の弱點を握つて置くのではなからうかと云ふ疑を起した。さう思つた時、彼は人の狗《いぬ》に使はれる不名譽と不コ義を感じて、一種苦悶の膏汗《あぶらあせ》を腋《わき》の下に流した。彼は手紙を手にした儘、凝《ぢつ》と眸《ひとみ》を据ゑたなり固くなつた。然し須永の母から聞いた田口の性格と、自分が直《ぢか》に彼に會つた時の印象とを纒めて考へて見ると、決してそんな人の惡さうな男とも思はれないので、たとひ他人の内行《ないかう》に探《さぐ》りを入れるにした所で、必ずしも夫《それ》程《ほど》下品な料簡《れうけん》から出るとは限らないといふ推斷も付いて見ると、一旦|硬直《かうちよく》になつた筋肉の底に、又温たかい血が通ひ始めて、コ義に逆らふ吐氣《むかつき》なしに、たゞ興味といふ一點から此問題を面白く眺める餘裕も出來てきた。それで世の中に接觸する經驗の第一着手として、兎も角も田口から依頼された通りに此仕事を遣り終《おほ》せて見やうといふ氣になつた。彼はもう一度篤と田口の手紙を讀み直した。さうして其所に書いてある特徴と條件|丈《だけ》で、果して滿足な結果が實際に得られるだらうか何うかを確かめた。
 
     二十二
 
 田口から知らせて來た特徴のうちで、本當に其人の身を離れないものは、眉と眉の間の黒子《ほくろ》だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいふ薄暗い光線の下《もと》で、乘降《のりおり》に忙がしい多數の客の中《うち》から、指定された局部の一點を目標《めじるし》に、是だと思ふ男を過ちなく見付け出さうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云へば、丁度役所の退《ひ》ける刻限なので、丸の内から只一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の數《かず》丈《だけ》でも大したものである。それに外《ほか》と違つて停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先に、幕だの樂隊だの、蓄音機だのを飾るやら具へるやらして、電燈以外の景氣を點《つ》けて、不時の客を呼び寄せる混雜も勘定に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考へて見ると、到底一人の手際ではといふ覺束ない心持が起つて來る。けれども又尋ね出さうとする其人が、霜降の外套に黒の中折といふ服裝《いでたち》で電車を降りると極つて見れば、其所にまだ一縷《いちる》の望がある樣にも思はれる。無論霜降の外套|丈《だけ》では、どんな恰好《かつかう》にしろ手掛りになり樣《やう》筈がないが、黒の中折を被つてゐるなら、色變りより外に用ひる人のない今日《こんにち》だから、すぐ眼に付くだらう。夫《それ》を目宛《めあて》に注意したら或は成功しないとも限るまい。
 斯う考へた敬太郎は、兎も角も停留所迄行つて見る事だといふ氣になつた。時計を眺めると、まだ一時を打つた許《ばかり》である。四時より三十分前に向《むかふ》ヘ着くとした所で、三時頃から宅《うち》を出れば澤山なのだから、未《ま》だ二時間の猶豫がある。彼は此二時間を最も有益に利用する積《つもり》で、凝《ぢつ》とした儘坐つてゐた。けれども只眼の前に、美土代町《みとしろちやう》と小川町が、丁字《ていじ》になつて交叉してゐる三つ角の雜沓が入り亂れて映る丈《だけ》で、是と云つて成功を誘《いざな》ふに足る上分別《じやうふんべつ》は浮ばなかつた。彼の頭は考へれば考へる程、同じ場所に吸ひ付いたなり丸《まる》で動くことを知らなかつた。其所へ、何うしても目指す人には會へまいといふ掛念が、不安を伴《ともな》つて胸の中をざわつかせた。敬太郎は一層《いつそ》の事時間が來る迄外を歩きつゞけに歩いて見やうかと思つた。さう決心をして、兩手を机の縁《ふち》に掛けて、勢よく立ち上がらうとする途端に、此間淺草で占《うら》なひの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、其時には斯う/\いふものを忘れない樣にしろ」といふ注意を思ひ出した。彼は婆さんの其時の言葉を、解すべからざる謎《なぞ》として、殆んど頭の外へ落して仕舞つたにも拘はらず、參考の爲わざ/\書き付にして机の抽出《ひきだし》に入れて置いた。で又其|紙片《かみぎれ》を取り出して、自分の樣で他人《ひと》の樣な、長い樣で短かい樣な、出る樣で這入る樣なといふ句を飽かず眺めた。始めのうちは今迄通り到底意味のある筈がないとしか見えなかつたが、段々繰り返して讀むうちに、辛拘強く考へさへすれば、斯ういふ妙な特性を有《も》つたものが或は出て來るかも知れないといふ氣になつた。其上敬太郎は婆さんに、自分が持つてゐるんだから、いざといふ場合に忘れない樣になさいと注意されたのを覺えてゐたので、何でも好い、たゞ身の周圍《まはり》の物から、自分の樣で他人《ひと》の樣な、長い樣で短かい樣な、出る樣で這入る樣なものを探し中《あ》てさへすれば、比較的狹い範圍内で、此問題を解決する事が出來る譯になつて、存外早く片が付くかも知れないと思ひ出した。そこでわが自由になる是から先の二時間を、全く此|謎《なぞ》を解く爲の二時間として、大切に利用しやうと決心した。
 所が先づ眼の前の机、書物、手拭、座蒲團から順々に進行して行李《かうり》鞄《かばん》靴下《くつした》迄|行《い》つたが、一向《いつかう》それらしい物に出合はないうちに、とう/\一時間經つて仕舞つた。彼の頭は焦燥《いらだ》つと共に亂れて來た。彼の觀念は彼の室《へや》の中を驅け廻《めぐ》つて落ち付けないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縱横に走つた。やがて彼の前に、霜降の外套を着た黒の中折を被つた脊《せい》の高い瘠《やせ》ぎすの紳士が、彼の是から探さうといふ其人の權威を具へて、あり/\と現はれた。すると其顔が忽ち大連にゐる森本の顔になつた。彼はだらしのない髯を生やした森本の容貌を想像の眼で眺めた時、突然電流に感じた人の樣にあつと云つた。
 
     二十三
 
 森本の二字は疾《と》うから敬太郎の耳に變な響を傳へる媒介《なかだち》となつてゐたが、此頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴《ふちよう》に變化して仕舞つた。元から此男の名前さへ出ると、必ず例の洋杖《ステツキ》を聯想したものだが、洋杖《ステツキ》が二人を繋ぐ縁に立つてゐると解釋しても、或は二人の中を割《さ》く邪魔に挾まつてゐると見傚《みな》しても、兎に角森本と此竹の棒の間にはある距離《へだゝり》があつて、さう一足飛《いつそくとび》に片方から片方へ移る譯に行かなかつたのに、今では夫《それ》が一つになつて、森本と云へば洋杖《ステツキ》、洋杖《ステツキ》と云へば森本といふ位劇しく敬太郎の頭を刺戟するのである。其刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有の樣な又森本の所有の樣な、持主の何方《どつち》とも片付かないといふ觀念が、熱《ほて》つた血に流されながら偶然浮び上つた時、彼はあゝ是だと叫んで、亂れ逃げる黒い影の内から、其|洋杖《ステツキ》丈《だけ》をうんと捕《つか》まへたのである。
 「自分の樣な他人《ひと》の樣な」と云つた婆さんの謎は是で解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがつた。けれども未《ま》だ「長い樣な短かい樣な、出る樣な這入る樣な」といふ所迄は考へて見ないので、彼はあまる二ケ條の特性をも等しく此|洋杖《ステツキ》の中《うち》から探し出さうといふ料簡《れうけん》で、更に新たな努力を鼓舞して掛つた。
 始めは見方一つで長くもなり短かくもなる位の意味かも知れないと思つて、先へ進んで見たが、夫《それ》では餘り平凡過ぎて、解釋が付いたも付かないも同じ事の樣な心持がした。其所で又後戻りをして、「長い樣な短かい樣な」といふ言葉を幾度《いくたび》か口の内で繰り返しながら思案した。が、容易に解決の出來る見込は立たなかつた。時計を見ると、自由に使つて可《い》い二時間のうちで、もう三十分しか殘つてゐない。彼は拔裏《ぬけうら》と間違へて袋の口へ這入り込んだ結果、好んで行き惱みの状態に悶えてゐるのでは無からうかと、自分で自分の判斷を危ぶみ出した。出端《では》のない行き留りに立つ位なら、もう一遍引き返して、新らしい途を探す方が増しだとも考へた。然し斯う時間が逼つてゐるのに、初手《しよて》から出直しては、到底《とて》も間に合ふ筈がない、既に此處迄來られたといふ一部分の成功を縁喜にして、是非先へ突き拔ける方が順當だとも考へた。是が可《よ》からう彼《あれ》が可《よ》からうと右左に思ひ亂れてゐる中に、彼の想像は不圖全體としての杖を離れて、握りに刻まれた蛇の頭に移つた。其瞬間に、鱗《うろこ》のぎら/\した細長い胴と、匙《さじ》の先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない鎌首だから、長くなければならない筈だのに短かく切られてゐる、其所が即ち長い樣な短かい樣な物であると悟つた。彼は此答案を稻妻の如く頭の奧に閃《ひら》めかして、得意の餘り踴躍《こをどり》した。あとに殘つた「出る樣な這入る樣な」ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。彼は鷄卵《たまご》とも蛙とも何とも名状し難い或物が、半《なか》ば蛇の口に隱れ、半《なか》ば蛇の口から現はれて、呑み盡されもせず、逃《のが》れ切りもせず、出るとも這入るとも片の付《つか》ない状態を思ひ浮かべて、すぐ是だと判斷したのである。
 是で萬事が綺麗に解決されたものと考へた敬太郎は、躍り上る樣に机の前を離れて、時計の鎖を帶に絡《から》んだ。帽子は手に持つた儘、袴も穿《は》かずに室《へや》を出やうとしたが、あの洋杖《ステツキ》を何うして持つて出たものだらうかといふ問題が一寸彼を躊躇さした。あれに手を觸れるのは無論、たとひ傘入から引き出した處で、森本が置き去りにして行つてから既に久しい今日《こんにち》となつて見れば、主人に斷わらないにしろ、咎められたり怪しまれたりする氣遣はないに極つてゐるが、偖《さて》彼等が傍《そば》に居ない時、又居るにしても見ないうちに、夫《それ》を提げて出やうとするには相當の思慮か準備が必要になる。迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪禁《まじなひ》に使ふ品物を(是から其目的に使ふんだといふ料簡《れうけん》があつて)手に入れる時には、屹度《きつと》人の見てゐない機會を偸《ぬす》んで遣らなければ利かないといふ言ひ傳へを、郷里《くに》に居た頃、よく母から聞かされてゐたのである。敬太郎は宿の上り口の正面に懸けてある時計を見る振《ふり》をして、二階の梯子段の中途迄降りて下の樣子を窺がつた。
 
     二十四
 
 主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸火鉢を抱《かゝ》へ込んでゐた。細君の姿は何處にも見えなかつた。敬太郎が梯子段の中途で、及び腰をして、硝子越《がらすごし》に障子の中を覗いてゐると、主人の頭の上で忽然《こつぜん》呼鈴《ベル》が烈しく鳴り出した。主人は仰向いて番號を見ながら、おい誰かゐないかねと次の間《ま》へ聲を掛けた。敬太郎は又そろ/\三階の自分の室《へや》へ歸つて來た。
 彼はわざ/\戸棚を開けて、行李《こり》の上に投げ出してあるセルの袴を取り出した。彼は夫《それ》を穿《は》くとき、腰板を後《うしろ》に引き摺《ず》つて、室《へや》の中を歩き廻つた。それから足袋を脱いで、靴下に更《か》へた。是《これ》丈《だけ》身裝《みなり》を改めた上、彼は又三階を下りた。居間を覗くと細君の姿は依然として見えなかつた。下女も其所らには居なかつた。呼鈴《ベル》も今度は鳴らなかつた。家中《いへぢゆう》ひつそり閑としてゐた。たゞ主人|丈《だけ》は前の通り大きな丸火鉢に靠《もた》れて、上り口の方を向いたなり凝《ぢつ》と坐つてゐた。敬太郎は段々を下迄降り切らない先に、高い所から斜《はす》に主人の丸くなつた脊中を見て、是はまだ都合が惡いと考へたが、ついに思ひ切つて上り口へ出た。主人は案《あん》の上《じやう》、「御出掛で」と挨拶した。さうして例《いつも》の通り下女を呼んで下駄箱に仕舞つてある履物を出させやうとした。敬太郎は主人一人の眼を掠《か》すめるのにさへ苦心してゐた所だから、此上下女に出られては敵《かな》はないと思つて、いや宜しいと云ひながら、自分で下駄箱の垂《たれ》を上げて、早速靴を取り卸した。旨い具合に下女は彼が土間へ降り立つ迄出て來なかつた。けれども、亭主は依然として此方《こつち》を向いてゐた。
 「一寸御願ですがね。室《へや》の机の上に今月の法學協會雜誌がある筈だが、一寸取つて來て呉れませんか。靴を穿《は》いてしまつたんで、又|上《あが》るのが面倒だから」
 敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知つて、わざと斯う頼んだのである。主人は自分より外のものでは到底《とても》辨じない用事なので、「はあ能うがす」と云つて氣作《きさく》に立つて梯子段を上《のぽ》つて行つた。敬太郎は其ひまに例の洋杖《ステツキ》を傘入から抽《ぬ》き取つたなり、抱《だ》き込む樣に羽織の下へ入れて、主人の座に歸らないうちに竊《そつ》と表へ出た。彼は洋杖《ステツキ》の頭の曲つた角を、右の腋の下に感じつゝ急ぎ足に本郷の通迄來た。其所で一旦羽織の下から杖を出して蛇の首を凝《ぢつ》と眺めた。さうして袂の手帛《ハンケチ》で上から下迄給麗に埃を拭いた。夫《それ》から後《あと》は普通の杖の樣に右の手に持つて、力任せに振り/\歩いた。電車の上では、蛇の頭へ兩手を重ねて、其上に顋《あご》を載せた。さうして漸《やつ》と今一段落付いた自分の努力を顧みて、ほつと一息|吐《つ》いた。同時に是から先指定された停留所へ行つてからの成否が又氣に掛り出した。考へて見ると、是程骨を折つて、偸《ぬす》む樣に持ち出した洋杖《ステツキ》が、何うすれば眉と眉の間の黒子《ほくろ》を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量の外《ほか》にあつた。彼はたゞ婆さんに云はれた通り、自分の樣な他人《ひと》の樣な、長い樣な短かい樣な、出る樣な這入る樣なものを、一生懸命に探し當てゝ、それを忘れないで携《たづ》さへてゐるといふ迄であつた。此怪しげに見えて平凡な、しかも無暗に輕い竹の棒が、寐かさうと起こさうと、手に持たうと袖に隱さうと、未知の人を探す上に、果して何の役に立つか知らんと疑ぐつた時、彼は一寸の間《ま》、瘧《ぎやく》を振ひ落した人の樣にけろりとして、車内を見廻はした。さうして頭の毛穴から湯氣の立つ程|業《ごふ》を※[者/火]やした先刻《さつき》の努力を氣恥かしくも感じた。彼は自分で自分の所作を紛らす爲に、わざと洋杖《ステツキ》を取り直して、電車の床《ゆか》をとん/\と輕く叩いた。
 やがて目的の場所へ來た時、彼は取り敢えず青年會館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分程|間《ま》があるので、彼は人通りと電車の響きを横切つて向ふ側へ渡つた。其所には交番があつた。彼は派出所の前に立つてゐる巡査と同じ態度で、赤いポストの傍《そば》から、眞直に南へ走る大通りと、緩い弧線を描いて左右に廻り込む廣い往來とを眺めた。是から自分の活躍すべき舞臺面を一應斯ういふ風に檢分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめに掛つた。
 
     二十五
 
 赤い郵便函《ポスト》から五六間東へ下《くだ》ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鐵の柱がすぐ彼の眼に入《い》つた。此所にさへ待つてゐれば、假令《たとひ》混雜に取り紛れて注意人物を見失ふ迄も、刻限に自分の部署に着いたといふ強味はあると考へた彼は、是《これ》丈《だけ》の安心を胸に握つた上、又|目標《めじるし》の鐵の柱を離れて、四邊《あたり》の光景を見廻した。彼のすぐ後には藏造《くらづくり》の瀬戸物屋があつた。小さい盃の澤山並んだのを箱入にして額の樣に仕立てたのがその軒下に懸つてゐた。大きな鐵製《かねせい》の鳥籠に、陶器で出來た餌壺を幾個《いくつ》となく外から括《くゝ》り付けたのも、某所にぶら下がつてゐた。其隣りは皮屋であつた。眼も爪も全く生きた時の儘に殘した大きな虎の皮に、緋羅紗《ひらしや》の縁《へり》を取つたのが此店の重な裝飾であつた。敬太郎は琥珀《こはく》に似た其虎の眼を深く見詰めて立つた。細長くつて眞白な皮で出來た襟卷らしいものゝ先に、豆狸の樣な顏が付着してゐるのも滑稽に見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、又次の店に移つた。さうして瑪瑙《めなう》で刻《ほ》つた透明な兎だの、紫水晶で出來た角形《かくがた》の印材だの、翡翠《ひすゐ》の根懸《ねがけ》だの孔雀石《くじやくせき》の緒締《をじめ》だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでゐる寶石商の硝子窓を覗いた。
 敬太郎は斯うして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工《からきざいく》の店先迄來た。其時|後《うしろ》から來た電車が、突然自分の歩いてゐる往來の向ふ側で留つたので、若《も》しやといふ心から、筋違《すぢかひ》に通を横切つて細い横町の角にある唐物屋《たうぶつや》の傍《そば》へ近寄ると、其所にも一本の鐵の柱に、先刻《さつき》のと同じ樣な、小川町停留所といふ文字が白く書いてあつた。彼は念の爲|此《この》角《かど》に立つて、二三臺の電車を待ち合はせた。すると最初には青山といふのが來た。次には九段新宿といふのが來た。が、何れも萬世橋の方から眞直に進んで來るので彼は漸く安心した。是でよもやの懸念もなくなつたから、そろ/\元の位地に歸らうといふ積《つもり》で、彼は足の向《むき》を更《か》へに掛つた途端に、南から來た一臺がぐるりと美土代町《みとしろちやう》の角を回轉して、又敬太郎の立つてゐる傍《そば》で留つた。彼は其電車の運轉手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を讀んだ時、始めて自分の不注意に氣が付いた。三田方面から丸の内を拔けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを眞直に突き當つて、左へ曲つても今敬太郎の立つてゐる停留所で降りられるし、又右へ曲つても先刻《さつき》彼の檢分して置いた瀬戸物屋の前で降りられるのである。さうして兩方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分が是から後《あと》を跟《つ》けやうといふ黒い中折の男は、何方《どつち》へ降りるのだか、彼には丸《まる》で見當が付かない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鐵柱の距離《みちのり》を目分量で測つて見ると、一町には足りない位だが、幾何《いくら》眼と鼻の間だからと云つて、一方|丈《だけ》を専門にしてさへ覺束ない彼の監視力に對して、兩方共手落なく見張り終《おほ》せる手際を要求するのは、何《ど》れ程《ほど》自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶對の不可能であつた。彼は自分の住居《すま》つてゐる地理上の關係から、常に本郷三田間を連絡する電車に許《ばか》り乘つてゐた爲、巣鴨方面から水道橋を通つて同じく三田に續く線路の存在に、今が今迄氣が付かずにゐた自己の迂潤《うくわつ》を深く後悔した。
 彼は困却の餘り不圖思ひ付いた窮策《きゆうさく》として、須永の助力でも借りに行かうかと考へた。然し時計はもう四時七分前に逼つてゐた。つい此裏道に住んでゐる須永だけれども、門前迄駈け付ける時間と、かい摘《つま》んで用事を呑み込ます時間を勘定に入れれば到底《とても》間に合ひさうにない。よし其位の間《ま》は取れるとした所で、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のゐる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合圖をしなければならない。それも此人込の中だから、手を擧げたり手帛《はんけち》を振る位では一寸通じかねる。紛れもなく敬太郎に分らせやうとするには、往來を驚ろかす程な大きな聲で叫ぶに限ると云つても可《い》い位なものだが、さう云ふ突飛《とつぴ》は餘程な場合でも體裁を重んずる須永の樣な男に出來る筈がない。萬一我慢して遣つて呉れた處で、此方《こつち》から驅けて行く間には、肝心の黒の中折帽を被つた男の姿は見えなくなつて仕舞はないとも云へない。――斯う考へた敬太郎は已《やむ》を得ないから運を天に任せて何方《どつち》か一方の停留所|丈《だけ》守らうと決心した。
 
     二十六
 
 決心は爲《し》たやうなものゝ、夫《それ》では今立つてゐる所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと成效《せいかう》を度外に置いて仕事に掛つた不安を感ぜずには居られなかつた。彼は首を延ばす樣にして、又東の停留所を望んだ。位地の所爲《せゐ》か、向《むき》の具合か、夫《それ》とも自分が始終|乘降《のりおり》に慣れてゐる譯か、どうも其方《そちら》の方が陽氣に見えた。尋ねる人も何だか向《むかふ》で降りさうな心持がした。彼はもう一度見張のステーシヨンを移さうかと思ひながら、猶《なほ》且《かつ》決しかねて暫らく躊躇してゐた。すると其所へ江戸川行の電車が一臺來てずる/\と留まつた。誰も降者《おりて》がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちに又車を出さうとした。敬太郎は錦町へ拔ける細い横町を脊にして、眼の前の車臺には殆んど氣の付かない程、此所にゐやうか彼所《あつち》へ行かうかと迷つてゐた。所へ後の横町から突然馳け出して來た一人の男が、敬太郎を突き除《の》ける樣にして、ハンドルへ手を掛けた運轉手の臺へ飛び上つた。敬太郎の驚ろきが未《ま》だ回復しないうちに、電車はがたりと云ふ音を出して既に動き始めた。飛び上がつた男は硝子戸の内へ半分身體を入れながら失敬しましたと云つた。敬太郎は其男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。彼は敬太郎に當つた拍子に、敬太郎の持つてゐた洋杖《ステツキ》を蹴飛ばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。敬太郎は直《すぐ》曲《こゞ》んで洋杖《ステツキ》を拾ひ上げやうとした。彼は其時蛇の頭が偶然|東向《ひがしむき》に倒れてゐるのに氣が付いた。さうして其頭の恰好《かつこう》を何となしに、方角を教へる指標《フヒンガーポスト》の樣に感じた。
 「矢つ張り東が好からう」
 彼は早足に瀬戸物屋の前迄歸つて來た。其所で本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人殘らず物色する氣で立つた。彼は最初の二三臺を親の敵《かたき》でも覘《ねら》ふ樣に怖《こは》い眼付で吟味した後《あと》、少し心に餘裕が出來るに連れて、腹の中が段々|氣丈《きぢやう》になつて來た。彼は自分の眼の屆く廣場を、一面の舞臺と見傚《みな》して、其上に自分と同じ態度の男が三人ゐる事を發見した。其一人は派出所の巡査で、是は自分と同じ方を向いて同じ樣に立つてゐた。もう一人は天下堂の前にゐるポイントマンであつた。最後の一人《いちにん》は廣場の眞中に青と赤の旗を神聖な象徴《シンボル》の如く振り分ける分別盛《ふんべつざか》りの中年|者《もの》であつた。其内で何時《いつ》出て來るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈さうに立つてゐるものは巡査と自分だらうと敬太郎は考へた。
 電車は入れ代り立ち代り彼の前に留つた。乘るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込まうとする、降りるものは權柄《けんぺい》づくで上から伸《の》し懸つて來る。敬太郎は何處の何物とも知れない男女《なんによ》が聚《あつ》まつたり散つたりする爲に、自分の前で無作法に演じ出す一分時《いつぷんじ》の爭を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待つても出て來なかつた。ことに依ると、もう疾《と》うに西の停留所から降りて仕舞つたものではなからうかと思ふと、斯うして役にも立たない人の顔ばかり見詰めて、眼のちら/\する程一つ所に立つてゐるのは、隨分馬鹿氣た所作に見えて來る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のやうに夢中で費やした先刻《さつき》の二時間を、充分須永と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、遙かに常識に適《かな》つた遣口だと考へ出した。彼が此|苦《にが》い氣分を痛切に甞《な》めさせられる頃から空は段々光を失なつて、眼に映る物の色が一面に蒼く沈んで來た。陰欝な冬の夕暮を補なふ瓦斯《ガス》と電氣の光がぽつ/\其所らの店硝子《みせがらす》を彩《いろ》どり始めた。不圖氣が付いて見ると、敬太郎から一間|許《ばかり》の所に、廂髪《ひさしがみ》に結《い》つた一人の若い女が立つてゐた。電車の乘降《のりおり》が始まる度に、彼は注意の餘波《なごり》を自分の左右に拂つてゐた積《つもり》なので、何時《いつ》何方《どつち》から歩き寄つたか分らない婦人を思はぬ近くに見た時は、何より先にまづ其存在に驚ろかされた。
 
     二十七
 
 女は年に合はして地味なコートを引き摺《ず》る樣に長く着てゐた。敬太郎は若い人の肉を飾る華麗《はなやか》な色を其裏に想像した。女は又わざと夫《それ》を世間から押し包む樣にして立つてゐた。襦袢《じゆばん》の襟さへ羽二重の襟卷で隱してゐた。其《その》羽二重の白いのが、夕暮の逼《せま》るに連れて、空氣から浮き出して來る外に、女は身の周圍《まはり》に何といつて他《ひと》の注意を惹くものを着けて居なかつた。けれども時節柄に頓着なく、當人の好尚《このみ》を示した此|一色《ひといろ》が、敬太郎には何よりも際立つて見えた。彼は光の拔けて行く寒い空の下で、不調和な異な物に出逢つた感じよりも、煤《すゝ》けた往來に冴々《さえ/”\》しい一點を認めた氣分になつて女の頸の邊《あたり》を注意した。女は敬太郎の視線を正面《まとも》に受けた時、心持身體の向を變へた。夫《それ》でも猶《なほ》落付かない樣子をして、右の手を耳の所迄上げて、鬢から洩れた毛を後《うしろ》へ掻き遣る風をした。固《もと》より、女の髪は綺麗に揃つてゐたのだから、敬太郎には此擧動が實《み》のない科《しな》としてのみ映つたのだが、其手を見た時彼は又新たな注意を女から強ひられた。
 女は普通の日本の女性《によしやう》の樣に絹の手袋を穿《は》めてゐなかつた。きちりと合ふ山羊《やぎ》の革製ので、華奢《きやしや》な指をつゝましやかに包んでゐた。夫《それ》が色の着いた?を薄く手の甲に流したと見える程、肉と革がしつくり喰付《くつつ》いたなり、一筋の皺も一分《いちぶ》の弛《たる》みも餘してゐなかつた。敬太郎は女の手を上げた時、此手袋が女の白い手頸を三寸も深く隱してゐるのに氣が付いた。彼は夫《それ》限《ぎり》眼を轉じて又電車に向つた。けれども乘降《のりおり》の一《ひと》混雜が濟んで、思ふ人が出て來ないと、また心に二三|分《ぷん》の餘裕が出来るので、それを利用しやうと待ち構へる程の執着はなかつたにせよ、電車の通り越した相間々々《あひま/\》には覺《さと》られない位の視力を使つて常に女の方を注意してゐた。
 始め彼は此女を「本郷行」か「龜澤町行」に乘るのだらうと考へてゐた。所が兩方の電車が一順廻つて來て、自分の前に留つても、一向《いつかう》乘る樣子がないので、彼は少々變に思つた。或は無理に込み合つてゐる車臺に乘つて、押し潰されさうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺《こら》へた方が差引|得《とく》になるといふ主義の人かとも考へて見たが、滿員といふ札も懸けず、一つや二つの空席は充分ありさうなのが廻つて來ても、女は少しも乘る素振《そぶり》を見せないので、敬太郎は愈《いよ/\》變に思つた。女は敬太郎から普通以上の注意を受けてゐると覺《さと》つたらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘《かさ》を廣げる人の樣に、わざと彼の觀察を避《よ》ける準備をした。さうして故意に反對の方を見たり、或は向ふへ二三歩あるき出したりした。夫《それ》がため、妙に遠慮深い所の出來た敬太郎は成るべく露骨《むきだし》に女の方を見るのを愼しんでゐた。が仕舞に不圖氣が付いて、此女は不案内のため、自分の勝手で好い加減に極めた停留所の前に來て、乘れもしない電車を何時《いつ》迄も待つてゐるのではなからうかと思つた。それなら親切に教へて遣るべきだといふ勇氣が急に起つたので、彼は逡巡《しゆんじゆん》する氣色《けしき》もなく、眞正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の寶石商の窓際迄行つたなり、恰も敬太郎の存在を認めぬものゝ如くに、其所で額を窓硝子に着ける樣に、中に並べた指環だの、帶留だの枝珊瑚《えださんご》の置物だのを眺め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立《かういだて》をして、却つて自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
 女の容貌は始めから大したものではなかつた。眞向《まむき》に見ると夫《それ》程《ほど》でもないが、横から眺めた鼻付は誰の目にも少し低過ぎた。其代り色が白くて、晴々《はれ/”\》しい心持のする眸を有《も》つてゐた。寶石商の電燈は今|硝子越《がらすごし》に彼《かの》女《をんな》の鼻と、豐《ふつ》くらした頬の一部分と額とを照らして、斜《はす》かけに立つてゐる敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輸廓を與へた。彼は其輪廓と、長いコートに包まれた恰好《かつかう》の可《い》い彼《かの》女《をんな》の姿とを胸に収めて、又電車の方に向つた。
 
     二十八
 
 電車が又二三臺來た。さうして二三臺共又敬太郎の失望を繰り返さして東へ去つた。彼は成功を思ひ切つた人の如くに帶の下から時計を出して眺めた。五時はもう疾《と》うに過ぎてゐた。彼は今更氣が付いた樣に、頭の上に被《かぶ》さる黒い空を仰いで、苦々しく舌打をした。是程骨を折つて網を張つた中へ掛らない鳥は、西の停留所から平氣で逃げたんだと思ふと、他《ひと》を騙《だま》す爲にわざ/\拵らへた婆さんの豫言も、大事さうに持つて出た竹の洋杖《ステツキ》も、其|洋杖《ステツキ》が與へて呉れた方角の暗示も、悉《こと/”\》く忌々《いま/\》しさの種になつた。彼は暗い夜を欺《あざ》むいて眼先にちら/\する電燈の光を見廻して、自分を其中心に見出《みいだ》した時、此明るい輝きも必竟《ひつきやう》自分の見殘した夢の影なんだらうと考へた。彼は其位興を覺《さ》ましながらまだ其位|寐惚《ねぼ》けた心持を失はずに立つてゐたが、やがて早く下宿へ歸つて正氣の人間に爲《な》らうといふ覺悟をした。洋杖《ステツキ》は自分の馬鹿を嘲ける記念《かたみ》だから、歸り掛に人の見てゐない所で二つに折つて、蛇の頭も鐵の輪の突がねも減茶々々に、萬世橋から御茶の水へ放《はふ》り込んで遣らうと決心した。
 彼は既に動かうとして一歩足を移しかけた時、又|先刻《さつき》の若い女の存在に氣が付いた。女は何時《いつ》の間《ま》にか寶石商の窓を離れて、元の通り彼から一間|許《ばかり》の所に立つてゐた。脊《せい》が高いので、手足も人尋常《ひとなみ》より恰好《かつかう》よく伸びた所を、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度は殊に其右の手が彼の心を惹いた。女は自然の儘に夫《それ》をすらりと垂れたなり、丸《まる》で他《ひと》の注意を豫期しないでゐたのである。彼は素直に調子の揃つた五本の指と、しなやかな革で堅く括《くゝ》られた手頸と、手頸と袖口の間から微《かす》かに現はれる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であつたが、動かないで長く一所《ひとところ》に立ち盡すものに、寒さは辛《つら》く當つた。女は心持ち顋を襟卷の中に埋《うづ》めて、俯目勝《ふしめがち》に凝《ぢつ》としてゐた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かない樣な此|眼遣《めづかひ》の底に、却つて自分が氣に掛つてゐるらしい反證を得たと信じた。彼が先刻《さつき》から蛋取眼《のみとりまなこ》で、黒の中折帽を被つた紳士を探してゐる間、此女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、觀察の矢を絶えず此方《こつち》に射懸けてゐたのではなからうか。彼は或男を探偵しつゝ、又或女に探偵されつゝ、一時間|餘《あまり》を此所に過ごしたのではなからうか。けれども何處の何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何の爲に探るのだか、彼には何等の考がなかつた如く、何處の何物とも知れない女から何を仕出《しで》かすか分らない人として何の爲に自分が覘《ねら》はれるのだか、其所へ行くと矢張り丸《まる》で要領を得なかつた。敬太郎は此方《こつち》で少し歩き出して見せたら向ふの樣子がもつと鮮明に分るだらうといふ氣になつて、そろり/\と派出所の後《うしろ》を西の方へ動いて行つた。勿論女に勘付かれない爲に、彼は振向いて後を見る動作を固く憚かつた。けれども何時《いつ》迄も前《まへ》許《ばかり》見て先へ行つては、肝心の目的を達する機會がないので、彼は十間程來たと思ふ時分に、わざと見たくもない硝子窓を覗いて、其所に飾つてある天鷲絨《びろうど》の襟の着いた女の子のマントを眺める風をしながら、そつと後《うしろ》を振り向いた。すると女は自分の背後にゐる所《どころ》ではなかつた。延び上つても色々な人が自分を追越す樣に後《あと》から後《あと》から來る陰になつて、白い襟卷も長いコートも更に彼の眼に入らなかつた。彼は其儘前へ進む勇氣があるかを自分で自分に疑ぐつた。黒い中折の帽子を被つた人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、斷念しても夫《それ》程《ほど》の遺憾はないが、女の方は何《ど》んなつまらない結果に終らうとも、最《もう》少し觀察してゐたかつた。彼は女から自分が探偵されてゐると云ふ疑念を逆に投げ返して、此方《こつち》から女の行動を今しばらく注意して見ようといふ物數奇《ものずき》を起した。彼は落し物を拾ひに歸る人の急ぎ足で、又元の派出所近く來た。そこの暗い陰に身を寄せる樣にして窺ふと、女は依然として凝《ぢつ》と通りの方を向いて立つてゐた。敬太郎の戻つた事には丸《まる》で氣が付いてゐない風に見えた。
 
     二十九
 
 其時敬太郎の頭に、此女は處女だらうか細君だらうかといふ疑が起つた。女は現代多數の日本婦人にあまねく行はれる廂髪《ひさしがみ》に結《い》つてゐるので、其邊の區別は始めから不分明《ふぶんみやう》だつたのである。が、愈《いよ/\》物陰に來て、半《なかば》後《うしろ》になつた其姿を眺めた時は、第一番に何方《どつち》の階級に屬する人だらうといふ問題が、新たに彼を襲つて來た。
 見懸《みかけ》からいふと或は人に嫁いだ經驗がありさうにも思はれる。然し身體の發育が尋常より遙かに好いから殊によれば年は存外取つて居ないのかも知れない。夫《それ》なら何故《なぜ》あんな地味な服裝《つくり》をしてゐるのだらう。敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄に就いて、何をいふ權利も有《も》たない男だが、若い女なら此陰欝な師走《しはす》の空氣を跳ね返す樣に、派出《はで》な色を肉の上に重ねるものだ位の漠《ばつ》とした觀察はあつたのである。彼は此女が若々しい自分の血に高い熱を與へる刺戟性の文《あや》を何處にも見せて居ないのを不思議に思つた。女の身に着けたものゝ内で、纔《わづ》かに人の注意を惹くのは頸の周圍《まはり》を包む羽二重の襟卷|丈《だけ》であるが、夫《それ》はたゞ清いと云ふ感じを起す寒い色に過ぎなかつた。あとは冬枯の空と似合つた長いコートですぽりと隱してゐた。
 敬太郎は年に合はして餘りに媚《こ》びる氣分を失ひ過ぎた此|衣服《なり》を再び後《うしろ》から見て、何うしても既に男を知つた結果だと判じた。其上此女の態度には何處か大人《おとな》びた落付があつた。彼は其落付を品性と教育からのみ來た所得とは見傚《みな》し得なかつた。家庭以外の空氣に觸れたため、初々《うひ/\》しい羞恥《はにかみ》が、手帛《ハンケチ》に振り懸けた香水の香《か》の樣に自然と拔けて仕舞つたのではなからうかと疑ぐつた。それ許《ばかり》ではない、此女の落付の中には、落ち付かない筋肉の作用が、身體全體の運動となつたり、眉や口の運動となつて、ちょい/\出て來るのを彼は先刻《さつき》目撃した。最も鋭敏に動くものは其眼であらうと彼は疾《と》くに認めてゐた。けれども其鋭敏に動かうとする眼を、強ひて動かすまいと力《つと》める女の態度も亦同時に認めない譯に行かなかつた。だから此女の落ち付は、自分で自分の神經を殺してゐるといふ自覺に伴なつたものだと彼は勘定《かんてい》して居た。
 所が今|後《うしろ》から見た女は身體といひ氣分といひ比較的沈靜して兩方の間に旨く調子が取れてゐる樣に思はれた。彼《かの》女《をんな》は先刻《さつき》と違つて、別段姿勢を改ためるでもなく、そろ/\歩き出すでもなく、寶石商の窓へ寄り添ふでもなく、寒さを凌ぎかねる風情《ふぜい》もなく、殆んど閑雅とでも形容したい樣子をして、一段高くなつた人道の端《はじ》に立つてゐた。傍《そば》には次の電車を待ち合せる人が二三散らばつてゐた。彼等は皆向ふから來る車臺を見詰めて、早く自分の傍《そば》へ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち退《の》いたので大いに安心したらしい彼《かの》女《をんな》は、其|中《うち》で最も熱心に何かを待ち受ける一人《いちにん》となつて、筋向ふの曲り角を凝《ぢつ》と注意し始めた。敬太郎は派出所の陰を上《かみ》へ廻つて車道へ降りた。さうしてペンキ塗の交番を楯《たて》に、巡査の立つてゐる横から女の顔を覘《ねら》ふ樣に見た。さうして其表情の變化に又驚ろかされた。今迄後姿を眺めて物陰にゐた時は、彼《かの》女《をんな》を包む一色《ひといろ》の目立たないコートと、其|脊《せい》の高さと、大きな廂髪《ひさしがみ》とを材料に、想像の國で寧ろ自由過ぎる結論を弄《もて》あそんだのだが、斯うして彼《かの》女《をんな》の知らない間《ま》に、其顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢つた樣な氣がしない譯に行かなかつた。要するに女は先刻《さつき》より大變若く見えたのである。切に何物かを待ち受けてゐる其眼も其口も、たゞ生々《いき/\》した一種華やかな氣色《きしよく》に充ちて、夫《それ》より外の表情は毫も見當らなかつた。敬太郎は其|中《うち》に處女の無邪氣ささへ認めた。
 やがて女の見詰めてゐる方角から一臺の電車が弓なりに曲つた線路を、ぐるりと緩《ゆる》く廻轉して來た。それが女の居る前で滑る樣に留つた時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱の樣なものを提《さ》げて、すた/\巡査の前を通り越して人道へ飛び上がつたが、一人は降りると直《すぐ》に女の前に行つて、其所に立ち留まつた。
 
     三十
 
 敬太郎は女の笑ひ顔を此時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのを其特徴の一つとして彼は最初から眺めてゐたが、美くしい齒を露《む》き出《だ》しに現はして、潤澤《うるほひ》の饒《ゆた》かな黒い大きな眼を、上下《うへした》の睫《まつげ》の觸れ合ふ程、共に寄せた時は、此女から夢にも豫期しなかつた印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑ひ顔に見惚《みと》れると云ふよりも寧ろ驚ろいて相手の男に視線を移した。すると其男の頭の上に黒い中折が乘つてゐるのに氣が付いた。外套は判切《はつきり》霜降とは見分けられなかつたが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸《ひとみ》に投げた。其上|脊《せい》は高かつた。瘠《やせ》ぎすでもあつた。たゞ年齡《とし》の點に至ると、敬太郎には兎角の判断を下しかねた。けれども其人が壽命の度盛《どもり》の上に於て、自分とは遙か隔たつた向ふに居る事|丈《だけ》は慥《たしか》なので、彼は此男を躊躇なく四十|恰好《がつかう》と認めた。是《これ》丈《だけ》の特點を前後なく殆んど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先刻《さつき》から馬鹿を盡して付け覘《ねら》つた本人がやつと今電車を降りたのだと斷定しない譯に行かなかつた。彼は例刻の五時が疾《と》うの昔《むか》しに過ぎたのに、妙な醉興《すゐきよう》を起して、矢張り同じ所にぶら付いて居た自分を仕合せだと思つた。其醉興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て來て呉れたのを有難く思つた。更に其若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐を以て、待ち終《おほ》せたのを幸運の一つに數へた。彼は此|]《エツクス》といふ男に就て、田口のために、ある知識を供給する事が出來ると共に、同じ知識がY《ワイ》といふ女に關する自分の好奇心を幾分か滿足させ得るだらうと信じたからである。
 男と女は丸《まる》で敬太郎の存在に氣が付かなかつたと見えて、前後左右に遠慮する氣色《けしき》もなく、猶《なほ》立ちながら話してゐた。女は始終微笑を洩らす事を已《や》めなかつた。男も時々聲を出して笑つた。二人が始めて顔を合はした時の挨拶の樣子から見ても彼等は決して疎遠な間柄ではなかつた。異性を繋ぎ合はせる樣で、其實兩万の仲を堰《せ》く、慇懃《いんぎん》な男女間《なんによかん》の禮義は彼等の何方《どちら》にも見出《みいだ》す事が出來なかつた。男は帽子の縁《ふち》に手を掛ける面倒さへ敢てしなかつた。敬太郎は其|鍔《つば》の下にあるべき筈の大きな黒子《ほくろ》を面と向つて是非突き留めたかつた。もし女が居なかつたならば肉の上に取り殘された此異樣な一點を確かめる爲に、彼はつか/\と男の前へ進んで行つて、何でも好いから、只口から出任《でまか》せの質問を掛けたかも知れない。夫《それ》でなくても、直ちに彼の傍《そば》へ近寄つて、滿足の行く迄其顔を覗き込んだらう。此際さう云ふ大膽な行動を妨たげるものは、男の前に立つてゐる例の女であつた。女が敬太郎の態度を惡く疑ぐつたか何うかは問題として、彼の擧動に不審を抱いた樣子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じた所である。それを承知しながら、再び其視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌疑の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で打《う》ち毀《こは》すと同じ結果になる。
 斯う考へた敬太郎は、自然の順序として相應の機會が廻《めぐ》つて來る迄は、黒子《ほくろ》の有る無しを見屆ける丈《だけ》は差し控えた方が得策だらうと判斷した。其代り見え隱《がく》れに二人の後《あと》を跟《つ》けて、出來得るならば斷片的でも可《い》いから、彼等の談話を小耳に挾まうと覺悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼等の言動を、ひそかに我胸に疊み込む事のコ義的價値に就いて、別に良心の相談を受ける必要を認めなかつた。さうして自分の骨折から出る結果は、世故《せこ》に通じた田口によつて、必ず善意に利用されるものと只《たゞ》淡泊に信じてゐた。
 やがて男は女を誘《いざ》なふ風をした。女は笑ひながら夫《それ》を拒《こば》む樣に見えた。仕舞《しまひ》に半《なか》ば向き合つてゐた二人が、肩と肩を揃えて瀬戸物屋の軒端《のきば》近く歩き寄つた。其所から手を組み合はせない許《ばか》りに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼等の背後迄來た。さうして自分の歩調を彼等と同じ速度に改ためた。萬一女に振り向かれても、疑惑を免かれる爲に、彼は決して彼等の後姿には眼を注がなかつた。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くものゝ如くに、故意《わざ》とあらぬ方《かた》を見て歩いた。
 
      三十一
 
 「だつて餘《あん》まりだわ。斯んなに人を待たして置いて」
 敬太郎の耳に入《はい》つた第一の言葉は、女の口から出た斯ういふ意味の句であつたが、是に對する男の答は全く聞き取れなかつた。夫《それ》から五六間行つたと思ふ頃、二人の足が急に今迄の歩調を失つて、並んだ影法師が殆んど敬太郎の前に立ち塞がりさうにした。敬太郎の方でも、後《うしろ》から向ふに突き當らない限りは先へ通り拔けなければ跋《ばつ》が惡くなつた。彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍《そば》にあつた菓子屋の店先へ寄り添ふやうに自分を片付けた。さうして其所に並んでゐる大きな硝子壺の中のビスケツトを見詰める風をしながら、二人の動くのを待つた。男は外套の中へ手を入れる樣に見えたが、夫《それ》が濟むと少し身體を横にして、下向きに右手で持つたものを店の灯《ひ》に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、其時敬太郎に分つた。
 「まだ六時だよ。そんなに遲かあない」
 「遲いわ貴方、六時なら。妾《あたし》もう少しで歸《かい》る所よ」
 「何うも御氣の毒さま」
 二人は又歩き出した。敬太郎も壺入のビスケツトを見棄てゝ其|後《あと》に從がつた。二人は淡路町《あはぢちやう》迄來て其所から駿河臺下へ拔ける細い横町を曲つた。敬太郎も續いて曲らうとすると、二人は其角にある西洋料理屋へ入《はい》つた。其時彼は其|門口《かどぐち》から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼等が停留所を離れる時、二人連れ立つて何處へ行くだらうか、敬太郎には丸《まる》で想像も付かなかつたのだが、突然斯んな家《うち》へ入《は》いられて見ると、何でもない所|丈《だけ》に、却つて案外の感に打たれざるを得なかつた。それは寶亭《たからてい》と云つて、敬太郎の元から知つてゐる料理屋で、古くから大学へ出入《でいり》をする家《うち》であつた。近頃|普請《ふしん》をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝《さら》して、斜懸《はすかけ》に立ち切られた樣な棟を南向に見せてゐるのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼は其薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麥酒《ビール》の廣告寫眞を仰ぎながら、肉刀《ナイフ》と肉叉《フオーク》を凄まじく闘かはした數度《すど》の記憶さへ有《も》つてゐた。
 二人の行先に就いては、是といふ明らかな希望も豫期も無かつたが、少しは紫がゝつた空氣の匂ふ迷路《メーズ》の中に引き入れられるかも知れない位の感じが暗に働らいて是迄|後《あと》を跟《つ》けて來た敬太郎には、馬鈴薯《じやがいも》や牛肉を揚げる油の臭が、臺所からぷん/\往來へ溢れる西洋料理屋は餘りに平凡らしく見えた。けれども自分の到底《とて》も近寄れない幽玄な所へ姿を隱して、夫《それ》限《ぎり》出て來ないよりは、遙かに都合が好いと考へ直した彼は、二人の身體が、誰にでも近寄る事の出來る、普通の洋食店のペンキの奧に圍はれてゐるのを寧ろ心丈夫だと覺《さと》つた。幸ひ彼は此位な程度の家で、冬空の外氣に刺戟された食慾を充たすに足る程の財布を懷中してゐた。彼はすぐ二人の後《あと》を追つて其所の二階へ上《のぼ》らうとしたが、電燈の強く往來へ射す門口《かどぐち》迄來た時、不圖氣が付いた。既に女から顔を覺えられた以上、殆んど同時に一つ二階へ押し上つては不味《まづ》い。ひよつとすると此人は自分を跟《つ》けて來たのだといふ疑惑を故意《ことさら》先方に與へる譯になる。
 敬太郎は何氣ない振をして、往來へ射す光を横切つた儘、黒い小路《こうぢ》を一丁|許《ばかり》先へ歩いた。さうして其小路の盡きる坂下から又黒い人となつて、自分の影法師を自分の身體の中へ疊み込んだ樣にひつそりと明るい門口《かどぐち》迄歸つて来た。それから其|門《かど》を潜《くゞ》つた。時々來た事があるので、彼は此|家《うち》の勝手を略《ほゞ》承知してゐた。下には客を通す部屋がなくつて、二階と三階|丈《だけ》で用を辨じてゐるが、餘程込み合はなければ三階へは案内しない、大抵は二階で濟むのだから、上《あが》つて右の奧か、左の横にある廣間を覗けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もし其處に居なかつたら表の方の細長い室《へや》迄|開《あ》けてやらう位の考で、階段《はしごだん》を上《あが》り掛けると、白服の給仕《ボーイ》が彼を案内すべく上《あが》り口に立つてゐるのに氣が付いた。
 
     三十二
 
 敬太郎は手に持つた洋杖《ステツキ》を其儘に段々を上《のぼ》り切つたので、給仕《ボーイ》は彼の席を定める前に、まづ其|洋杖《ステツキ》を受取つた。同時に此方《こちら》へと云ひながら背中を向けて、右手の廣間へ彼を案内した。彼は給仕《ボーイ》の後《うしろ》から自分の洋杖《ステツキ》が何處に落ち付くかを一目見屆けた。すると其所に先刻《さつき》注意した黒の中折帽が掛つてゐた。霜降らしい外套も、女の着て居た色合のコートも釣るしてあつた。給仕《ボーイ》が其裾を動かして、竹の洋杖《ステツキ》を突込《つつこ》んだ時、大きな模樣を拔いた羽二重の裏が敬太郎の眼にちらついた。彼は蛇の頭がコートの裏に隱れるのを待つて、更に其持主の方に眼を轉じた。幸ひに女は男と向き合つて、入口の方に背中|許《ばかり》を見せてゐた。新らしい客の來た物音に、振り返りたい氣があつても、ぐるりと廻るのが、一旦席に落ち付いた品位を崩す恐があるので、必要のない限り、普通の婦人はさういふ動作を避けたがるだらうと考へた敬太郎は、女の後姿を眺めながら、一先《ひとま》づ安堵《あんど》の思ひをした。女は彼の推察通り果して後《うしろ》を向かなかつた。彼は其|間《ま》に女の坐つてゐるすぐ傍《そば》迄行つて背中合せに第二列の食卓に就かうとした。其時男は顔を上げて、まだ腰も掛けず向《むき》も改ためない敬太郎を見た。彼の食卓の上には支那めいた鉢に植ゑた松と梅の盆栽が飾り付けてあつた。彼の前にはスープの皿があつた。彼は其中に大きな匙《さじ》を落したなり敬太郎と顔を見合せたのである。二人の間に横《よこた》はる六尺に足らない距離は明らかな電燈が隈《くま》なく照らしてゐた。卓上に掛けた白い布が又此明るさを助けるやうに、潔《いさ》ぎいゝ光を四方の食卓《テーブル》から反射してゐた。敬太郎は斯ういふ都合のいゝ條件の具備した室《へや》で、男の顔を滿足する迄見た。さうして其顔の眉と眉の間に、田口から通知のあつた通り、大きな黒子《ほくろ》を認めた。
 此|黒子《ほくろ》を別にして、男の容貌に是と云つた特異な點はなかつた。眼も鼻も口も全く人並であつた。けれども離れ離れに見ると凡庸な道具が揃つて、面長《おもなが》な顔の表に夫々《それぞれ》の位地を占めた時、彼は尋常以上に品格のある紳士としか誰の目にも映らなかつた。敬太郎と顔を合せた時、スープの中に匙を入れた儘、啜《すゝ》る手を少時《しばらく》已《や》めた態度などは、何處かに寧ろ氣高い風を帶びてゐた。敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵といふ文字に普通付着してゐる意味を心のうちで考へ出して、此男の風采《ふうさい》態度《たいど》と探偵とは到底《とて》も釣り合はない性質のものだといふ氣がした。敬太郎から見ると、此人は探偵して然るべき何物をも彼の人相の上に有《も》つて居なかつたのである。彼の顔の表に並んでゐる眼鼻口の何《いづ》れを取つても、其奧に秘密を隱さうとするには、餘りに出來が尋常過ぎたのである。彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けた此宵の仕事に對する自分の興味が、既に三分の一ばかり蒸發した樣な失望を感じた。第一斯んな性質《たち》の仕事を田口から引き受けたコ義上の可否さへ疑がはしくなつた。
 彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして?麭《ぱん》に手も觸《ふ》れずに居た。男と女は彼等の傍《そば》に坐つた新らしい客に幾分か遠慮の氣味で、一寸の間《ま》話を途切らした。けれども敬太郎の前に曖められた白い皿が現はれる頃から、又少し調子づいたと見えて、二人の聲が互違《たがひちがひ》に敬太郎の耳に入《い》つた。――
 「今夜は不可《いけ》ないよ。少し用があるから」
 「何《ど》んな用?」
 「何《ど》んな用つて、大事な用さ。中々さう安くは話せない用だ」
 「あら好くつてよ。妾《あたし》ちやんと知つてるわ。――散《さん》ざつぱら他《ひと》を待たした癖に」
 女は少し拗《す》ねた樣な物の云ひ方をした。男は四邊《あたり》に遠慮する風で、低く笑つた。二人の會話は夫《それ》限《ぎり》靜かになつた。やがて思ひ出した樣に男の聲がした。
 「何しろ今夜は少し遲いから止さうよ」
 「些《ちつ》とも遲かないわ。電車に乘つて行きやあ直《ぢき》ぢやありませんか」
 女が勸めてゐる事も男が躊躇してゐる事も敬太郎には能く解つた。けれども彼等が何處へ行く積《つもり》なのだか、その肝心な目的地になると、彼には何等の觀念もなかつた。
 
     三十三
 
 もう少し聞いてゐる内には或は中《あた》りが付くかも知れないと思つて、敬太郎は自分の前に殘された皿の上の肉刀《ナイフ》と、其|傍《そば》に轉がつた赤い仁參《にんじん》の一切《ひときれ》を眺めてゐた。女は猶《なほ》男を強《し》ひる事を已《や》めない樣子であつた。男は其度に何とか蚊《か》とか云つて逃《のが》れてゐた。然し相手を怒《おこ》らせまいとする優しい態度は何時《いつ》も變らなかつた。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆《あをゑんどう》が運ばれる時分には、女もとう/\我《が》を折り始めた。敬太郎は心の内で、女が何處迄も剛情を張るか、でなければ男が好《いゝ》加減に降參するか、何方《どつち》かになれば可《い》いがと、ひそかに祈つてゐたのだから、思つた程女の強くないのを發見した時は少なからず殘念な氣がした。責《せ》めて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつゝあつた目的地|丈《だけ》でも、何かの機會《はずみ》に小耳に挾んで置きたかつたが、愈《いよ/\》話が纒まらないとなると、男女《なんによ》の問答は自然|外《ほか》へ移らなければならないので、當分其望みも絶えてしまつた。
 「ぢや行かなくつても可《い》いから、あれを頂戴」と、やがて女が云ひ出した。
 「あれつて。只あれぢや分らない」
 「ほら彼《あれ》よ。此間《こなひだ》の。ね、分つたでせう」
 「ちつとも分らない」
 「失敬ね、貴方は。ちやんと分つてる癖に」
 敬太郎は一寸振り向いて後《うしろ》が見たくなつた。其時|階段《はしごだん》を踏む大きな音が聞こえて、三人|許《ばかり》の客がどや/\と一度に上つて來た。其内の一人はカーキー色の服に長靴を穿《は》いた軍人であつた。さうして床《ゆか》の上を歩く音と共に、腰に釣るした劔をがちゃ/\鳴らした。三人は上《あが》つて左側の室《へや》へ案内された。此物音が例の男と女の會話を攪《か》き亂した爲、敬太郎の好奇心もちらつく劔の光が落付く迄中途に停止してゐた。
 「此間《このあひだ》見せて頂いたものよ。分つて」
 男は分つたとも分らないとも云はなかつた。敬太郎には無論想像さへ付かなかつた。彼は女が何故《なぜ》淡泊に自分の欲しいといふものゝ名を判切《はつきり》云つて呉れないかを恨んだ。彼は何とはなしに夫《それ》が知りたかつたのである。すると、
 「あんなもの今|茲《こゝ》に持つてるもんかね」と男が云つた。
 「誰も茲《こゝ》に持つてるつて云やしないわ。たゞ頂戴つて云ふのよ。今度《こんだ》で可《い》いから」
 「そんなに欲しけりや遣つても可《い》い。が……」
 「あツ嬉しい」
 敬太郎は又振り返つて女の顔が見たくなつた。男の顔も序《ついで》に見て置きたかつた。けれども女と一直線になつて、背中合せに坐つてゐる自分の位置を考へると、此際そんな盲動は愼しまなければならないので、眼の遣り所に困るといふ風で、たゞ正面をぽかんと見廻した。すると勝手の上《あが》り口の方から、給仕《ボーイ》が白い皿を二つ持つて入《はい》つて來て、夫《それ》を古いのと引き更《か》へに、二人の前へ置いて行つた。
 「小鳥だよ。食べないか」と男が云つた。
 「妾《あたし》もう澤山」
 女は燒いた小鳥に手を觸れない樣子であつた。其代り暇の出來た口を男よりは餘計動かした。二人の問答から察すると、女の男に呉れと逼つたのは珊瑚樹《さんごじゆ》の珠か何からしい。男は斯ういふ事に精通してゐるといふ口調《くてう》で、色々な説明を女に與へてゐた。が、夫《それ》は敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家《かうずか》の嬉しがる知識に過ぎなかつた。練物で作つたのへ指先の紋を押し付けたりして、時々旨く胡麻化《ごまか》した贋物《がんぶつ》があるが、夫《それ》は手障りが何處かざら/\するから、本當の古渡《こわた》りとは直《すぐ》區別できる抔《など》と叮嚀に女に教へてゐた。敬太郎は前後《あとさき》を綜合《すべあ》はして、何でも餘程|貴《たつ》とい、又大變珍らしい、今時さう容易《たやす》くは手に入らない時代の付いた珠を、女が男から貰ふ約束をしたといふ事が解つた。
 「遣るには遣るが、御前あんなものを貰つて何《なん》にする氣だい」
 「貴方こそ何《なん》になさるの。あんな物を持つてゝ、男の癖に」
 
     三十四
 
 しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物《くだもの》にするかい」と女に聞いた。女は「何方《どつち》でも好いわ」と答へた。彼等の食事が漸く終りに近付いた合圖とも見られる此簡單な問答が、今迄うつかりと二人の話に釣り込まれてゐた敬太郎に、忽ち自分の義務を注意する樣に響いた。彼は此料理屋を出た後《あと》の二人の行動をも觀察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作つてゐたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知してゐた。後《おく》れて席を立つにしても、卷烟草を一本吸はない先に、夜と人と、雜沓《ざつたふ》と暗闇《くらやみ》の中《なか》に、彼等の姿を見失なふのは慥《たしか》であつた。もし間違ひなく彼等の影を踏んで後《あと》から喰付《くつつ》いて行かうとするなら、何うしても一足先へ出て、相手に氣の付かない物陰か何かで、待ち合せるより外に仕方がないと考へた。敬太郎は早く勘定を濟まして置くに若《し》くはないといふ氣になつて、早速|給仕《ボーイ》を呼んでビルを請求した。
 男と女はまだ落付いて話してゐた。然し二人の間に何といふ極つた題目も起らないので、夫《それ》を種に意見や感情の交換《とりやり》も始まる機會《をり》はなく、只だらしのない雲の樣に夫《それ》から夫《それ》へと流れて行く丈《だけ》に過ぎなかつた。男の特徴に數へられた眉と眉の間の黒子《ほくろ》抔《など》も偶然女の口に上《のぼ》つた。
 「何故《なぜ》そんな所に黒子《ほくろ》なんぞが出來たんでせう」
 「何も近頃になつて急に出來やしまいし、生れた時からあるんだ」
 「だけどさ。見つともなかなくつて、其んな所《とこ》にあつて」
 「幾何《いくら》見つともなくつても仕方がないよ。生れ付だから」
 「早く大學へ行つて取つて貰ふと可《い》いわ」
 敬太郎は此時|指洗椀《フインガーボール》の水に自分の顔の映る程下を向いて、兩手で自分の米噛《こめかみ》を隱す樣に抑えながら、くす/\と笑つた。所へ給仕《ボーイ》が釣錢を盆に乘せて持つて來た。敬太郎はそつと立つて目立たない樣に階段《はしごだん》の上《あが》り口迄|大人《おとな》しく足を運ぶと、其所に立つてゐた給仕《ボーイ》が大きな聲で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は先刻《さつき》給仕《ボーイ》に預けた洋杖《ステツキ》を取つて來るのを忘れた事に氣が付いた。其|洋杖《ステツキ》はいまだに室《へや》の隅に置いてある帽子掛の下に突き込まれた儘、女の長いコートの裾に隱されてゐた。敬太郎は室《へや》の中にゐる男女《なんによ》を憚かる樣に、拔き足で後戻りをして、靜かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握つた時、すべすべした羽二重の裏と、柔らかい外套の裏が、優しく手の甲に觸れるのを彼は感じた。彼は又爪先で歩かない許《ばかり》に氣を付けて階段《はしごだん》の上迄來ると、其所から急に調子を變へて、とん、とん、とんと刻《きざ》み足に下へ驅け下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向ふへ横切つた。其突き當りに、大きな古着屋のやうな洋服屋のやうな店があるので、彼は其店の電燈の光を後《うしろ》にして立つた。斯うしてさへゐれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲らうが、左へ折れやうが、又は中川の角に添つて連雀町《れんじやくちやう》の方へ拔けやうが、或は門《かど》からすぐ小路《こうぢ》傳ひに駿河臺下へ向はうが、何方《どつち》へ行かうと見逃《みのが》す氣遣はないと彼は心丈夫に洋杖《ステツキ》を突いて、目指す家の門口《かどぐち》を見守つてゐた。
 彼は約十分|許《ばかり》待つた後で、注意の燒點《せうてん》になる光の中《うち》に、一向《いつかう》人影が射さないのを不審に思ひ始めた。已《やむ》を得ず二階を眺めてその窓|丈《だけ》明るくなつた奧を覗く樣に、彼等の早く席を立つ事を祈つた。さうして待ち草臥《くたび》れた眼を移す毎に、屋根の上に廣がる黒い空を仰いだ。今迄地面の上を照らしてゐる人間の光ばかりに欺むかれて、丸《まる》で其存在を忘れてゐた此大きな夜は、暗い頭の上で、先刻《さつき》から寒さうな雨を釀《かも》してゐたらしく、敬太郎の心を佗《わ》びしがらせた。不圖考へると、今迄は自分に遠慮して只の話をしてゐた二人が、自分の立つたのを幸ひに、自分の役目として是非聞いて置かなければならない樣な肝心の相談でもし始めたのではなからうか。彼は此疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、其内に二人の向き合つた姿をあり/\と認めた。
 
     三十五
 
 彼はあまり注意深く立ち廻つて、却つて洋食店の門を早く出過ぎたのを悔んだ。けれども二人が彼に氣兼をする以上は、たとひ同じ席に何時《いつ》迄も根が生えた樣に腰を据ゑてゐた所で、矢つ張り普通の世間話より外に聞く譯には行かないのだから、よし今迄坐つた儘動かないものと假定しても、其結果は早く席を立つたと略《ほゞ》同じ事になるのだと思ふと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張つてゐるより仕方なかつた。すると帽子の廂《ひさし》へ雨が二雫《ふたしづく》程落ちた樣な氣がするので、彼は又仰向いて黒い空を眺めた。闇より外に何も眼を遮《さへ》ぎらない頭の上は、彼の立つてゐる電車通と違つて非常に靜であつた。彼は頬の上に一滴の雨を待ち受ける積《つもり》で、久しく顔を上げたなり、恰好《かつかう》さへ分らない大きな暗いものを見詰めてゐる間《あひだ》に、今にも降り出すだらうといふ掛念を何處かへ失なつて、こんな落ち付いた空の下にゐる自分が、何故《なぜ》こんな落ち付かない眞似を好んで遣るのだらうと偶然考へた。同時に凡《すべ》ての責任が自分の今突いてゐる竹の洋杖《ステツキ》にあるやうな氣がした。彼は例の如く蛇の頭を握つて、寒さに對する欝憤を晴らす如くに、二三度それを烈しく振つた。其時待ち佗《わ》びた人の影法師が揃つて洋食店の門口《かどぐち》を出た。敬太郎は何より先に女の細長い頸を包む白い襟卷に眼を付けた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向ふ側を、先刻《さつき》とは反對の方角に、元來た道へ引き返しに掛つた。敬太郎も猶豫《いうよ》なく向ふへ渡つた。彼等は緩《ゆる》い歩調で、賑やかに飾つた店先を軒毎に覗く樣に足を運ばした。後《うしろ》から跟《つ》いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合つた歩き方をしなければならないので、其遲過ぎるのが大分《だいぶ》苦になつた。男は香《か》の高い葉卷を銜《くは》えて、行く/\夜の中へ微《かす》かな色を立てる烟を吐いた。それが風の具合で後《うしろ》から從がふ敬太郎の鼻を時々快ろよく侵《をか》した。彼は其香ひを嗅ぎ/\鈍《のろ》い足並を我慢して實直に其跡を踏んだ。男は脊《せい》が高いので後《うしろ》から見ると、一寸西洋人の樣に思はれた。夫《それ》には彼の吹かしてゐる強い葉卷が多少|錯覺《さくかく》を助けた。すると聯想が忽ち伴侶《つれ》の方に移つて、女が旦那から買つて貰つた革の手袋を穿《は》めてゐる洋妾《らしやめん》の樣に思はれた。敬太郎が不圖斯ういふ空想を起して、可笑《をか》しいと思ひながらも、なほ一人で興を催してゐると、二人は最前待ち合はした停留所の前迄來て一寸立ち留まつたが、やがて又線路を横切つて向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを眞似た。すると二人は又美土代町の角を此方《こちら》から反對の側へ渡つた。敬太郎もつゞいて同じ側へ渡つた。二人は又歩き出して南へ動いた。角から半町|許《ばかり》來ると、其所にも赤く塗つた鐵の柱が一本立つてゐた。二人は其柱の傍《そば》へ寄つて立つた。彼等は又三田線を利用して南へ、歸るか、行くか、する人だと此時始めて氣が付いた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乘らなければなるまいと覺悟した。彼等は申し合せた樣に敬太郎の方を顧みた。固《もと》より彼のゐる方から電車が横町を曲つて來るからではあるが、夫《それ》にしても敬太郎は餘り好い心持はしなかつた。彼は帽子の鍔を引つ繰り返して、ぐつと下へ卸して見たり、手で顔を撫《な》でゝ見たり、成るべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと變な見當を眺めて見たりして、電車の現はれるのをつらく待ち佗《わ》びた。
 間《ま》もなく一臺來た。敬太郎はわざと二人の乘つた後《あと》から這入つて、嫌疑を避けやうと工夫した。夫《それ》でしばらく後《うしろ》の方に愚圖々々してゐると、女は例の長いコートの裾を踏まへない許《ばかり》に引き摺《ず》つて車掌臺の上に足を移した。然しあとから直《すぐ》續くと思つた男は、案外|上《あが》る氣色《けしき》もなく、足を揃へた儘、兩手を外套の隱袋《かくし》に突き差して立つてゐた。敬太郎は女を見送りに男がわざ/\此所迄足を運んだのだといふ事に漸く氣が付いた。實をいふと、彼は男よりも女の方に餘計興味を持つてゐたのである。男と女が此所で分れるとすれば、無論男を捨てゝ女の先途|丈《だけ》を見屆けたかつた。けれども自分が田口から依託《いたく》されたのは女と關係のない黒い中折帽を被つた男の行動|丈《だけ》なので、彼は我慢して車臺に飛び上がるのを差し控えた。
 
     三十六
 
 女は車臺に乘つた時、一寸男に目禮したが、夫《それ》限《ぎり》中へ這入つて仕舞つた。冬の夜《よ》の事だから、窓硝子《まどがらす》は悉《こと/”\》く締め切つてあつた。女はことさらにそれを開けて内から首を出す程の愛嬌も見せなかつた。夫《それ》でも男はのつそり立つて、車の動くのを待つてゐた。車は動き出した。二人の間に挨拶の交換《やりとり》がもう必要でないと認めた如く、電力は急いで光る窓を南の方《かた》へ運び去つた。男は此時口に銜《くは》えた葉卷を土の上に投げた。夫《それ》から足の向を變へて又三ツ角の交叉點迄出ると、今度は左へ折れて唐物屋の前で留つた。其所は敬太郎が人に突き當られて、竹の洋杖《ステツキ》を取り落した記憶の新らしい停留所であつた。彼は男の後《あと》を見え隱れに此所迄|跟《つ》いて來て、又見たくもない唐物屋の店先に飾つてある新柄の襟飾《ねくたい》だの、絹帽《シルクハツト》だの、變り縞の膝掛だのを覗き込みながら、斯う遠慮をする樣では、探偵の興も覺める丈《だけ》だと考へた。女が既に離れた以上、自分の仕事に飽《あき》が來たと云つては濟まないが、前《ぜん》同樣であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかつた。彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られてゐるのだから、もう是で偵察の役目は濟んだものとして、下宿へ歸つて寐やうかとも思つた。
 其所へ男の待つてゐる電車が來たと見えて、彼は長い手で鐵の棒を握るや否や瘠《や》せた身體を體《てい》よく留まり切らない車臺の上に乘せた。今迄躊躇してゐた敬太郎は急に此瞬間を失なつてはといふ氣が出たので、すぐ同じ車臺に飛び上つた。車内は其程込みあつて居なかつたので、乘客は自由に互の顔を見合ふ餘裕を充分持つてゐた。敬太郎は箱の中に身體を入れると同時に、既に席を占めた五六人から一度に視線を集められた。其うちには今坐つた許《ばかり》の中折の男のも交《まじ》つてゐたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやといふ認識はあつたが、付け覘《ねら》はれてゐるなといふ疑惑は更に現はれてゐなかつた。敬太郎は漸く伸び/\した心持になつて、男と同じ側を擇《よ》つて腰を掛けた。此電車で何處へ連れて行かれる事かと思つて軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあつた。彼は男が乘り換へさへすれば、自分も早速降りる積《つもり》で、停留所へ來る毎に男の樣子を窺《うか》がつた。男は始終|隱袋《かくし》へ手を突き込んだ儘、多くは自分の正面かわが膝の上かを見てゐた。其樣子を形容すると、何にも考へずに何か考へ込んでゐると云ふ風であつた。所が九段下へ掛つた頃から、長い首を時々伸ばして、或物を確かめたい樣に、窓の外を覗き出した。敬太郎もつい釣り込まれて、見惡《みにく》い外を透かす樣に眺めた。やがて電車の走る響の中に、窓|硝子《がらす》にあたつて摧《くだ》ける雨の音が、ぽつり/\と耳元でし始めた。彼は携《たづさ》へてゐる竹の洋杖《ステツキ》を眺めて、この代りに雨傘《あまがさ》を持つて來れば可《よ》かつたと思ひ出した。
 彼は洋食店以後、中折を被つた男の人柄と、世の中に丸《まる》で疑を掛けてゐない其眼付とを注意した結果、此時不圖、こんな窮屈な思ひをして、入らざる材料を集めるよりも、いつそ露骨《むきだし》に此方《こつち》から話し掛けて、當人の許諾を得た事實|丈《だけ》を田口に報告した方が、今更|遲蒔《おそまき》の樣でも、まだ氣が利いてゐやしないかと考へて、自分で自分を彼に紹介する便法《べんぱふ》を工夫し始めた。其内電車はとう/\終點迄來た。雨は益《ます/\》烈しくなつたと見えて、車が留るとざあといふ音が急に彼の耳を襲つた。中折の男は困つたなと云ひながら、外套の襟を立てゝ洋袴《ズボン》の裾を返した。敬太郎は洋杖《ステツキ》を突きながら立ち上つた。男は雨の中へ出ると、直《すぐ》寄つて來る俥引《くるまひき》を捕《つら》まへた。敬太郎も後《おく》れない樣に一臺雇つた。車夫は梶棒《かぢばう》を上げながら、何處《どちら》へと聞いた。敬太郎はあの車の後《あと》に付いて行けと命じた。車夫はへいと云つて無暗に馳け出した。一筋道を矢來の交番の下迄來ると、車夫は又|梶棒《かぢばう》を留めて、旦那|何方《どつち》へ行くんですと聞いた。男の乘つた車は幾何《いくら》幌《ほろ》の内から延び上つても影さへ見えなかつた。敬太郎は車上に洋杖《ステツキ》を突つ張つた儘、雨の音のする中で方角に迷つた。
 
  報告
 
     一
 
 眼が覺めると、自分の住み慣れた六疊に、何時《いつ》もの通り寐てゐる自分が、敬太郎には全く變に思はれた。昨日《きのふ》の出來事は凡《すべ》て本當の樣でもあつた。又纒まりのない夢の樣でもあつた。もつと綿密に形容すれば、「本當の夢」の樣でもあつた。醉つた氣分で町の中に活動したといふ記憶も伴なつてゐた。夫《それ》よりか、醉つた氣分が世の中に充ち充ちてゐたといふ感じが一番強かつた。停留所も電車も醉つた氣分に充ちてゐた。寶石商も、革屋も、赤と青の旗振りも、同じ空氣に醉つてゐた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、其所に席を占めた眉の間に黒子《ほくろ》のある神士も、色の白い女も、悉《こと/”\》く此空氣に包まれてゐた。二人の話しに出て來る、何處にあるか分らない所の名も、男が女に遣る約束をした珊瑚の珠も、みんな陶然とした一種の氣分を帶びてゐた。最も此気分に充ちて活躍したものは竹の洋杖《ステツキ》であつた。彼が其|洋杖《ステツキ》を突いたまゝ、幌《ほろ》を打つ雨の下で、方角に迷つた時の心持は、此氣分の高潮に達した幕前の一區切《ひとくぎり》として、殆ど狐から取り憑《つ》かれた人の感じを彼に與へた。彼は其時店の灯《ひ》で佗《わ》びしく照らされたびしよ濡れの往來と、坂の上に小さく見える交番と、其左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、果して是が今日の仕事の結末かと疑ぐつた。彼は已《やむ》を得ず車夫に梶棒《かぢばう》を向け直させて、思ひも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶してゐた。
 彼は寐ながら天井を眺めて、自分に最も新らしい昨日《きのふ》の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日醉の眼と頭をもつて、蠶の糸を吐く樣に夫《それ》から夫《それ》へと出てくる此|記念《かたみ》の畫《ゑ》を飽かず見詰めてゐたが、仕舞には眼光に漂《たゞ》よふふわ/\した夢の蒼蠅《うるさ》さに堪えなくなつた。夫《それ》でも後《あと》から後《あと》からと向ふで獨《ひと》り勝手《がつて》に現はれて來るので、彼は正氣でありながら、何かに魅入られたのではなからうかと云ふ疑さへ起した。彼は此淺い疑に關聯して、例の洋杖《ステツキ》を胸に思ひ浮べざるを得なかつた。昨日《きのふ》の男も女も彼の眼には繪を見る程明らかであつた。容貌は固《もと》より服裝《なり》から歩き付に至る迄|悉《こと/”\》く記憶の鏡に判切《はつき》りと映つた。夫《それ》でゐて二人とも遠くの國にゐる樣な心持がした。遠くの國にゐながら、つい近くにあるものを見るやうに、鮮やかな色と形を備へて眸《ひとみ》を侵《をか》して來た。此不思議な影響が洋杖《ステツキ》から出たかも知れないといふ神經を敬太郎は何處かに持つてゐた。彼は昨夕《ゆうべ》法外な車賃を貪《むさ》ぼられて、宿の門口《かどぐち》を潜《くゞ》つた時、何心なく其|洋杖《ステツキ》を持つた儘自分の室《へや》迄歸つて來て、是は人の目に觸れる所に置くべきものでないといふ顔をして、寐る前に、戸棚の奧の行李の後《うしろ》へ投げ込んで仕舞つたのである。
 今朝は蛇の頭に夫《それ》程《ほど》の意味がないやうにも思はれた。ことに是から田口に逢つて、探偵の結果を報告しなければならないと云ふ實際問題の方が頭に浮いて來ると、猶更《なほさら》さういふ感じが深くなつた。彼は一日の午後から宵へ掛けて、妙に一種の空氣に醉はされた氣分で活動した自覺は慥《たしか》にあるが、いざ其活動の結果を、普通の人間が處世上に利用出來る樣に、筋の立つた報告に纒める段になると、自分の引き受けた仕事は成效《せいかう》してゐるのか失敗してゐるのか殆んど分らなかつた。從つて洋杖《ステツキ》の御蔭を蒙つてゐるのか、ゐないのかも判然しなかつた。床の中で前後を繰り返した敬太郎には、正《まさ》しく其御蔭を蒙つてゐるらしくも見えた。又決して其御蔭を蒙つてゐない樣にも思はれた。
 彼は兎も角も二日醉の魔を拂ひ落してからの事だと決心して、急に夜着《よぎ》を剥《は》ぐつて跳ね起きた。夫《それ》から洗面所へ下りて氷る程冷めたい水で頭をざあ/\洗つた。是で昨日《きのふ》の夢を髪の毛の根本から振ひ落して、普通の人間に立ち還つた樣な氣になれたので、彼は景氣よく三階の室《へや》に上《のぼ》つた。其所の窓を潔《いさ》ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍|許《ばか》り深呼吸をした。斯う精神作用を人間並に刺戟した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や條項に就て力《つと》めて實際的に思慮を回《めぐ》らした。
 
     二
 
 突き留めて見ると、田口の役に立ちさうな種は丸《まる》で上がつてゐない樣にも思はれるので、敬太郎は少し心細くなつて來た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けてゐるやうに氣が急《せ》くので、彼は早速田口家へ電話を掛けた。是から直《すぐ》行つて可《い》いかと聞くと、大分《だいぶ》待たした後《あと》で、差支ないといふ答が、例の書生の口を通して來たので、彼は猶豫なく内幸町へ出掛けた。
 田口の門前には車が二臺待つてゐた。玄關にも靴と下駄が一足|宛《づゝ》あつた。彼は此間と違つて日本間の方へ案内された。其所は十疊程の廣い座敷で、長い床に大きな懸物が二幅掛かつてゐた。湯呑の樣な深い茶碗に書生が番茶を一杯汲んで出した。桐を刳《く》つた手焙《てあぶり》も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲團も同じ男が勸めて呉れた丈《だけ》で、女は一切出て來なかつた。敬太郎は廣い室《へや》の眞中に畏まつて、主人の足音の近付くのを窮屈に待つた。所が其主人は用談が果てないと見えて、何時《いつ》迄《まで》待つても中々現はれなかつた。敬太郎は已《やむ》を得ず茶色になつた古さうな懸物の價額《ねだん》を想像したり、手焙《てあぶり》の縁《ふち》を撫《な》で廻したり、或は袴の膝へきちりと兩手を乘せて一人改たまつて見たりした。凡《すべ》て自分の周圍《まはり》があまり綺麗に調《とゝの》つてゐる丈《だけ》に、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落付けなかつたのである。仕舞に違棚の上にある畫帖らしい物を取り卸《お》ろして覽《み》やうかと思つたが、其立派な表紙が、是は裝飾だから手を觸れちや不可《いけ》ないと斷《ことわ》る樣に光るので、彼はついに手を出しかねた。
 斯う敬太郎の神經を惱ました主人は、彼を稍《やゝ》小一時間も待たした後《あと》で、漸く應接間から出て來た。
 「何うも長い間御待たせ申して。――客が中々歸らないものだから」
 敬太郎は此言辭に對して適當と思ふ樣な挨拶を一と口と、それに添へた叮嚀な御辭儀を一つした。夫《それ》からすぐ昨日《きのふ》の事を云ひ出さうとしたが、何を何う先に述べたら都合が可《い》いか、此場に臨んで急に又迷ひ始めたうちに、切り出す機を逸してしまつた。主人は又冒頭から左《さ》も忙がしさうに聲も身體も取り扱かつてゐる癖に、何處か腹の中に餘裕の貯藏庫でもあるやうに、決して周章《あわて》て探偵の結果を聞きたがらなかつた。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く當るだらうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極面白さうだけれども、其實詰らない事|許《ばかり》話の種にした。敬太郎は向ふの問に從つて主人の滿足する程度にわが答へを運んでゐたが、相手は斯んな無意味な話を進めて行くうちに、暗《あん》に彼の樣子を注意してゐるらしかつた。其所迄は彼もぼんやり氣が付いた。然し主人が何故《なぜ》そんな注意を自分に拂ふのか、其譯は丸《まる》で解らなかつた。すると、
 「何うです昨日《きのふ》は。旨く行きましたか」と主人が突然聞き出した。斯う聞かれるだらう位の腹は始めから敬太郎にも有つたのだが、正直に答へれば、「何うですか」といふ他《ひと》を馬鹿にした生返事になるので、彼は一寸口籠つた後《あと》、
 「さうです御通知のあつた人|丈《だけ》は漸《やつ》と探し當てました」と答へた。 「眉間《みけん》に黒子《ほくろ》がありましたか」
 敬太郎は少し隆起した黒い肉の一點を局部に認めたと答へた。
 「衣服《なり》も此方《こつち》から云つて上げた通りでしたか。黒の中折に、霜降の外套を着て」
 「さうです」
 「夫《それ》ぢや大抵間違はないでせう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」 「時間は少し後れた樣です」
 「何分位」
 「何分か知りませんが、何でも五時餘つ程|過《すぎ》の樣でした」
 「餘つ程|過《すぎ》。餘つ程過ならそんな人を待つてゐなくても好いぢやありませんか。四時から五時迄の間と、わざ/\時間を切つて通知して上げた位だから、五時を過ぎればもう貴方の義務は濟んだも同然ぢやないですか。何故《なぜ》其儘歸つて、其通り報知しないんです」
 今迄穩やかに機嫌よく話してゐた長者《ちやうしや》から突然斯う手嚴しく遣付《やりつ》けられやうとは、敬太郎は夢にも思はなかつた。
 
     三
 
 敬太郎は今迄|下町出《したまちで》の旦那を眼の前に描いてゐた。夫《それ》が突然規律づくめの軍人として彼を威壓して來た時、彼は忽ち心の中心を狂はした。友達に對してなら云ひ得る「君の爲だから」といふ言葉も挨拶も有《も》つてゐたのだが、此場合には夫《それ》が丸《まる》で役に立たなかつた。
 「たゞ私の勝手で、時間が來ても其所を動かなかつたのです」
 敬太郎が斯う答へるか答へないうちに、田口は今の屹《きつ》とした態度をすぐ崩して、
 「そりや私《わたし》の爲に大變都合が好かつた」と機嫌の好い調子で受けたが、「然し貴方《あなた》の勝手と云ふのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡《しゆんじゆん》した。
 「なに夫《そり》や聞かないでも構ひません。貴方の事だから。話したくなければ話さないでも差支ない」
 田口は斯う云つて、自分の前に引き付けた手提烟草盆《てさげたばこぼん》の抽出《ひきだし》を開けると、其中から角《つの》で出來た細長い耳掻を捜し出した。それを右の耳の中に入れて、左《さ》も痒《か》ゆさうに掻き廻した。敬太郎は見ない振をしてわざと自分を見てゐるやうな、又耳|丈《だけ》に氣を取られてゐるやうな、田口の蹙面《しかめつら》を薄氣味惡く感じた。
 「實は停留所に女が一人立つてゐたのです」と彼はとう/\自白して仕舞つた。
 「年寄ですか、若い女ですか」
 「若い女です」
 「成程」
 田口はたゞ一口斯う云つた丈《だけ》で、何とも後を繼いで呉れなかつた。敬太郎も頓挫《とんざ》したなり言葉を途切らした。二人はしばらく差向ひの儘口を聞《き》かずにゐた。
 「いや、若からうが年寄だらうが、其婦人の事を聞くのは可《よ》くなかつた。夫《それ》は貴方|丈《だけ》に關係のある事なんでせうから、止しにしませう。私《わたし》の方ぢや唯顔に黒子《ほくろ》のある男に就いて、研究の結果さへ伺がへば可《い》いんだから」
 「然し其女が黒子《ほくろ》のある人の行動に始終入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合はしてゐたのですから」
 「はあ」
 田口は一寸思ひも寄らぬといふ顔付をしたが、「ぢや其婦人は貴方の御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎は固《もと》より知合だと答へる勇氣を有《も》たなかつた。極りの惡い思ひをしても、見た事も口を利いた事もない女だと正直に云はなければならなかつた。田口はさうですかと、穩かに敬太郎の返事を聞いた丈《だけ》で、少しも追窮する氣色《けしき》を見せなかつたが、急に摧《くだ》けた調子になつて、
 「何《ど》んな女なんです。其若い婦人と云ふのは。器量からいふと」と興味に充ちた顔を提烟草盆《さげたばこぼん》の上に出した。
 「いえ、なに、詰らない女なんです」と敬太郎は前後の行《い》き掛《がゝ》り上《じやう》答へて仕舞つて、實際頭の中でも詰らない樣な氣がした。是が相手と場合次第では、うん器量は中々好い方だ位は固《もと》より云ひ兼ねなかつたのである。田口は「詰らない女」といふ敬太郎の判斷を聞いて、忽ち大きな聲を出して笑つた。敬太郎には其意味が能く解らなかつたけれども、何でも頭の上で大濤《おほなみ》が崩れたやうな心持がして、幾分か顔が熱くなつた。
 「宜御座《よござ》んす、夫《それ》で。――夫《それ》から何うしました。女が停留所で待ち合はしてゐる所へ男が來て」
 田口は又普通の調子に戻つて、眞面目に事件の經過を聞かうとした。實をいふと敬太郎は自分が是から話す巓末《てんまつ》を、何うして握る事が出來たかの苦心談を、先づ冒頭に敷衍《ふえん》して、二つある同じ名の停留所に迷つた事から、不思議な謎《なぞ》の活きて働らく洋杖《ステツキ》を、何う抱《かゝ》へ出して、何う利用したかに至る迄を、自分の手柄の成るべく重く響く樣に、詳しく述べたかつたのであるが、會ふや否や四時と五時との行拶《いきさつ》で遣られた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だつたりした不味《まづ》い所があるので、自分を廣告する勇氣は全く拔けてゐた。夫《それ》で男と女が洋食屋へ入《はい》つてから以後の事|丈《だけ》を極《ごく》淡泊《あつさ》り話して見ると、宅《うち》を出る時自分が心配してゐた通り、少しも捕《つら》まへ所のない、恰も灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じ樣な貧しい報告になつた。
 
      四
 
 夫《それ》でも田口は別段厭な顔も見せなかつた。落付いた腕組を仕舞迄解かずに、只ふんとか、成程とか、夫《それ》からとか云ふ繋《つな》ぎの言葉を、時々敬太郎の爲に投げ込んで呉れる丈《だけ》であつた。其代り報告の結末が來ても、まだ何か豫期してゐる樣に、今迄の態度を容易に變へなかつた。敬太郎は仕方なしに、「夫《それ》丈《だけ》です。實際詰らない結果で御氣の毒です」と言譯を付け加へた。
 「いや大分《だいぶ》參考になりました。何うも御苦労でした。中々骨が折れたでせう」
 田口の此挨拶の中《うち》に、大した感謝の意を含んでゐない事は無論であつたが、自分が馬鹿に見えつゝある今の敬太郎には是《これ》丈《だけ》の愛嬌が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻かずに濟んだといふ安心を此時漸やく得た。同時に垂味《たるみ》の出來た氣分が、すぐ田口に向いて働らき掛けた。
 「一體あの人は何なんですか」
 「さあ何でせうか。貴方は何う鑑定しました」
 敬太郎の前には黒の中折を被つて、襟開《えりあき》の廣い霜降の外套を着た男の姿があり/\と現はれた。其人の樣子といひ言葉遣ひといひ歩き付といひ、何から何迄|判切《はつきり》見えたには見えたが、田口に對する返事は一口も出て來なかつた。
 「何うも分りません」
 「ぢや性質は何《ど》んな性質でせう」
 性質なら敬太郎にも略《ほゞ》見當が付いてゐた。「穩《おだ》やかな人らしく思ひました」と觀察の通りを答へた。
 「若い女と話してゐる所を見て、さう云ふんぢやありませんか」
 斯う云つた時、田口の唇の角に薄笑の影がちら付いてゐるのを認めた敬太郎は、何か答へやうとした口を又塞いで仕舞つた。
 「若い女には誰でも優しいものですよ。貴方だつて滿更《まんざら》經驗のない事でもないでせう。ことに彼《あ》の男と來たら、人一倍|左《さ》うなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑ひ出した。けれども笑ひながらちやんと敬太郎の上に自分の眼を注いでゐた。敬太郎は傍《はた》で自分を見たら嘸《さぞ》氣の利かない愚物《ぐぶつ》になつてゐるんだらうと考へながらも、矢つ張り苦しい思ひをして田口と共に笑はなければ居られなかつた。
 「ぢや女は何物なんでせう」
 田口は此所で觀察點を急に男から女へ移した。さうして今度は自分の方で敬太郎に斯ういふ質間を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりも猶《なほ》分り惡《にく》いです」と答へて仕舞つた。
 「素人《しろうと》だか黒人《くろうと》だか、大體の區別さへ付きませんか」
 「左樣《さやう》」と云ひながら、敬太郎は一寸考がへて見た。革の手袋だの、白い襟卷だの、美くしい笑ひ顔だの、長いコートだの、續々記憶の表面に込み上げて來たが、それを綜括《すべくゝ》つた所で何處からも此問に應ぜられる樣な要領は得られなかつた。 「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿《は》めて居ましたが……」
 女の身に着けた品物の中《うち》で、特に敬太郎の注意を惹いた此二點も、田口には何の興味も與へないらしかつた。彼はやがて眞面目な顔をして、「ぢや男と女の關係に就いて何か御意見はありませんか」と聞き出した。
 敬太郎は先刻《さつき》自分の報告が滯りなく濟んだ證據に、御苦労さまと云ふ謝辭さへ受けた後《あと》で、斯う難問が續發しやうとは毫も思ひ掛けなかつた。しかも窮してゐる所爲《せゐ》か、それが順を逐つて段々六づかしい方へ競《せ》り上《あが》つて行く樣に感ぜられてならなかつた。田口は敬太郎の行き詰つた樣子を見て、再び同じ問を外の言葉で説明して呉れた。
 「例へば夫婦だとか、兄弟《きやうだい》だとか、又はたゞの友達だとか、情婦《いろ》だとかですね。色々な關係があるうちで何だと思ひますか」
 「私も女を見た時に、處女だらうか細君だらうかと考へたんですが……然し何うも夫婦ぢやない樣に思ひます」
 「夫婦でないにしてもですね。肉體上の關係があるものと思ひますか」
 
      五
 
 敬太郎の胸にも此|疑《うたがひ》は最初から多少|萌《きざ》さないでもなかつた。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼等二人の間に秘密の關係が既に成立してゐるといふ假定が遠くから彼を操《あやつ》つて、それが爲に偵察《ていさつ》の興味が一段と鋭どく研《と》ぎ澄まされたのかも知れなかつた。肉と肉の間に起る此關係を外にして、研究に價する交渉は男女《なんによ》の間《あひだ》に起り得るものでないと主張する程彼は理論家ではなかつたが、暖たかい血を有《も》つた青年の常として、此觀察點から男女《なんによ》を眺めるときに、始めて男女《なんによ》らしい心持が湧いて來るとは思つてゐたので、成るべく其所を離れずに世の中を見渡したかつたのである。年の若い彼の眼には、人間といふ大きな世界があまり判切《はつきり》分らない代りに、男女《なんによ》といふ小さな宇宙は斯く鮮やかに映つた。從つて彼は大抵の社會的關係を、出來る丈《だけ》此一點迄切落して樂んでゐた。停留所で逢つた二人の關係も、敬太郎の氣の付かない頭の奧では、既に斯ういふ一對《いつつゐ》の男女《なんによ》として最初から結び付けられてゐたらしかつた。彼は又其背後に罪惡を想像して要もないのに恐れを抱《いだ》く程の道コ家でもなかつた。彼は世間並な道義心の所有者として有り觸れた人間の一人《いちにん》であつたけれども、其道義心は彼の空想力と違つて、いざといふ場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女關係《なんによくわんけい》に引き直して見ても、別段不愉快にはならずに濟んだのである。彼はたゞ年齡《とし》の上に於て二人の相違の著るしいのを疑ぐつた。が、又一方では其相違が却つて彼の眼に映ずる「男女《なんによ》の世界」なるものの特色を濃く示してゐる樣にも見えた。
 彼の二人に對する心持は知らず/\の間に斯う弛《ゆる》んでゐたのだが、愈《いよ/\》さうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、斷然とした返答は、責任のあるなしに拘はらず、纒まつた形となつて頭の中には現はれ惡《にく》かつた。それで斯う云つた。――
 「肉體上の關係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
 田口は唯《たゞ》微笑した。其所へ例の袴を穿《は》いた書生が、一枚の名刺を盆に載せて持つて來た。田口は一寸|夫《それ》を受取つた儘、「まあ分らない所が本當でせう」と敬太郎に答へたが、すぐ書生の方を見て、「應接間へ通して置いて……」と命令した。先刻《さつき》から餘程窮してゐた矢先だから、敬太郎はこの來客を好い機《しほ》に、もう此所で切り上げやうと思つて身繕《みづくろ》ひに掛かると、田口はわざ/\彼の立たない前に夫《それ》を遮《さへ》ぎつた。さうして敬太郎の辟易《へきえき》するのに頓着なく猶《なほ》質問を進行させた。其内で敬太郎の明瞭に答へられるのは殆んど一ケ條もなかつたので、彼は大學で受けた口答試驗の時よりもまだ辛《つら》い思ひをした。
 「ぢや是《これ》限《ぎり》にしますが、男と女の名前は分りましたらう」
 田口の最後と斷《ことわ》つた此問に對しても、敬太郎は固《もと》より滿足な返事を有《も》つてゐなかつた。彼は洋食店で二人の談話に注意を拂ふ間にも何々さんとか何々子とか或は御何《おなに》とかいふ言葉が屹度《きつと》何處かへ交《まじ》つて來るだらうと心待に待つてゐたのだが、彼等は特にそれを避ける必要でもある如くに、御互の名は勿論、第三者の名も決して引合にさへ出さなかつたのである。
 「名前も全く分りません」
 田口は此答を聞いて、手焙《てあぶり》の胴に當てた手を動かしながら、拍子を取るやうに、指先で桐の縁《ふち》を敲《たゝ》き始めた。それを少時《しばらく》繰り返した後《あと》で、「何うしたんだか餘《あん》まり要領を得ませんね」と云つたが、直《すぐ》言葉を繼《つ》いで、「然し貴方は正直だ。其所が貴方の美點だらう。分らない事を分つた樣に報告するよりも餘つ程好いかも知れない。まあ買へば其所を買ふんですね」と笑ひ出した。敬太郎は自分の觀察が、果して實用に向かなかつたのを發見して、多少わが迂潤《うくわつ》に恥ぢ入る氣も起つたが、然し僅か二三時間の注意と忍耐と推測では、たとひ自分より十層倍行き屆いた人間に代理を頼んだ所で、田口を滿足させる樣な結果は得られる譯のものでないと固く信じてゐたから、此評價に對して夫《それ》程《ほど》の苦痛も感じなかつた。其代り正直と賞められた事も大した嬉しさにはならなかつた。此位の正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。
 
     六
 
 敬太郎は先刻《さつき》から頭の上らない田口の前で、たつた一言《ひとこと》で好いから、思ひ切つた自分の腹をずばりと云つて見たいと考へてゐたが、此所で云はなければ最《も》う云ふ機會はあるまいといふ氣が此時不圖|萌《きざ》した。
 「要領を得ない結果|許《ばかり》で私も甚だ御氣の毒に思つてゐるんですが、貴方の御聞きになる樣な立ち入つた事が、あれ丈《だけ》の時間で、私の樣な迂濶なものに見極められる譯はないと思ひます。斯ういふと生意氣に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後《あと》なんか跟《つ》けるより、直《ぢか》に會つて聞きたい事|丈《だけ》遠慮なく聞いた方が、まだ手數《てかず》が省《はぶ》けて、さうして動かない確かな所が分りやしないかと思ふのです」
 是《これ》丈《だけ》云つた敬太郎は、定めて世故《せこ》に長《た》けた相手から笑はれるか、冷かされる事だらうと考へて田口の顔を見た。すると田口は案外にも寧ろ眞面目な態度で「貴方に夫《それ》丈《だけ》の事が解つてゐましたか。感心だ」と云つた。敬太郎はわざと答を控えてゐた。
 「貴方のいふ方法は最も迂濶の樣で、最も簡便な又最も正當な方法ですよ。其所に氣が付いて居れば人間として立派なものです」と田口が再び繰り返した時、敬太郎は益《ます/\》返答に窮した。
 「夫《それ》程《ほど》の考がちやんとある貴方に、あんな詰らない仕事を御頼《おたのみ》申したのは私《わたし》が惡かつた。人物を見損《みそく》なつたのも同然なんだから。が、市藏が貴方を紹介する時に、さう云ひましたよ。貴方は探偵の遣るやうな仕事に興味を有《も》つて御出《おいで》だつて。夫《それ》でね、つい飛んでもない事を御願ひして。止しやあ可《よ》かつた……」
 「いえ須永君にはさう云ふ意味の事を慥《たし》かに話した覺えがあります」と敬太郎は苦しい思をして答へた。
 「左樣《さう》でしたか」
 田口は敬太郎の矛盾を此一句で切り棄てたなり、夫《それ》以上に追窮する愚《ぐ》を敢てしなかつた。さうして問題をすぐ改めて見せた。
 「ぢや何うでせう。黙つて後《あと》なんどを跟《つ》けずに、貴方のいふ通り尋常に玄關から掛つて行つちや。貴方に夫《それ》丈《だけ》の勇氣がありますか」
 「無い事もありません」
 「あんなに跟《つ》け廻した後で」
 「あんなに跟《つ》け廻したつて、私はあの人達の不名譽になる樣な觀察は決して爲《し》てゐない積《つもり》です。
 「御尤もだ。そんなら一つ行つて御覽なさい。紹介するから」
 田口は斯う云ひながら、大きな聲を出して笑つた。けれども敬太郎には此申し出が萬更《まんざら》の冗談とも思へなかつたので、彼は紹介状を携へて本當に眉間《みけん》の黒子《ほくろ》と向き合つて話して見やうかといふ料簡を起した。
 「會ひますから紹介状を書いて下さい。私は彼《あ》の人と話して見たい氣がしますから」
 「宜《い》いでせう。是も經驗の一つだから、まあ會つて直《ぢか》に研究して御覽なさい。貴方の事だから田口に頼まれて此間の晩|後《あと》を跟《つ》けました位|屹度《きつと》云ふでせう。然し夫《それ》は構はない。云ひたければ云つても宜《よ》う御座んす。私《わたし》に遠慮は要らないから。夫《それ》から彼《あ》の女との關係もですね、貴方に勇氣さへあるなら聞いて御覽なさい。何うです、それを聞く丈《だけ》の度胸が貴方にありますか」
 田口は此所で一寸言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちに又自分から話を續けた。
 「だが兩方とも口へ出せる樣に自然が持ち掛けて來る迄は、聞いても話しても不可《いけ》ませんよ。いくら勇氣があつたつて、常識のない奴だと思はれる丈《だけ》だから。夫《それ》所《どころ》ぢやない、彼《あ》の男は唯でさへ隨分|會《あ》ひ惡《にく》い方《はう》なんだから、そんな事を無暗に喋《しや》べらうものなら、直《すぐ》歸つて呉れ位云ひ兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、其所いらは能く用心しないとね……」
 敬太郎は固《もと》より畏まりましたと答へた。けれども腹の中では黒の中折の男を田口の樣に見る事が何うしても出來なかつた。
 
     七
 
 田口は硯箱《すゞりばこ》と卷紙を取り寄せて、さら/\と紹介状を書き始めた。やがて名宛を認《したゝ》め終ると、「たゞ通り一遍の文言《もんごん》丈《だけ》並べて置いたら夫《それ》で好いでせう」と云ひながら、手焙《てあぶり》の前に翳《かざ》した手紙を敬太郎に讀んで聞かせた。其中には書いた當人の自白した如く、是といつて特別の注意に價《あたひ》する事は少しも出て來なかつた。只此者は今年《ことし》大學を卒業した許《ばかり》の法學士で、殊によると自分が世話をしなければならない男だから、何うか會つて話をして遣つて呉れとある丈《だけ》だつた。田口は異存のない敬太郎の顔を見屆けた上で、すぐ其卷紙をぐる/\と卷いて封筒へ入れた。それから其表へ松本恒三樣《まつもとつねざうさま》と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は眞面目になつて松本恒三樣の五字を眺めたが、肥《ふと》つた締りのない書體で、此人が斯んな字を書くかと思ふ程|拙《せつ》らしく出來てゐた。
 「さう感心して何時《いつ》迄も眺めてゐちやあ不可《いけ》ない」
 「番地が書いてない樣ですが」
 「あゝ左《さ》うか。そいつは私《わたし》の失念だ」
 田口は再び手紙を受け取つて、名宛の人の住所と番地を書き入れて呉れた。
 「さあ是なら好いでせう。不味《まづ》くつて大きな所は土橋《どばし》の大壽司流《おほずしりう》とでも云ふのかな。まあ役に立ちさへすれば可《よ》からう、我慢なさい」
 「いえ結構です」
 「序《ついで》に女の方へも一通《いつつう》書きませうか」
 「女も御存じなのですか」
 「ことによると知つてるかも知れません」と答へた田口は何だか意味のありさうに微笑した。
 「御差支さへなければ、御序《おついで》に一本書いて頂だいても宜しう御座います」と敬太郎も冗談半分に頼んだ。
 「まあ止した方が安全でせうね。貴方の樣な年の若い男を紹介して、もし間違でも出來ると責任問題だから。浪漫《ローマン》−何とか云ふぢやありませんか、貴方の樣な人の事を。私《わたし》や學問がないから、今頃|流行《はや》るハイカラな言葉を直《すぐ》忘れちまつて困るが、何とか云ひましたつけね、あの、小説家の使ふ言葉は。……」
 敬太郎はまさか夫《そり》や斯う云ふ言葉でせうと教へる氣にもなれなかつた。唯エヘヽと馬鹿見た樣に笑つてゐた。さうして長居をすればする程、段々|非道《ひど》く冷かされさうなので、心の内では、此一段落が付いたら、早く切り上げて歸らうと思つた。彼は田口の呉れた紹介状を懷に収めて、「では二三曰|内《うち》に是を持つて行つて參りませう。其模樣で又伺がふ事に致しますから」と云ひながら、柔かい座蒲團の上を滑り下りた。田口は「何うも御苦労でした」と叮嚀に挨拶した丈《だけ》で、ロマンチツクもコスメチツクも悉皆《すつかり》忘れてしまつたといふ顏付をして立ち上つた。
 敬太郎は歸り途に、今|會《あ》つた田口と、是から會《あ》はうといふ松本と、夫《それ》から松本を待ち合はした例の恰好《かつかう》の可《い》い女とを、合せたり離したりして頻りに其關係を考へた。さうして考へれば考へる程一歩|宛《づゝ》迷宮《メーズ》の奧に引き込まれる樣な面白味を感じた。今日《けふ》田口での獲物は松本といふ名前|丈《だけ》であるが、此名前が色々に錯綜《さくそう》した事實を自分の爲に締《し》め括《くゝ》つてゐる妙な嚢《ふくろ》の樣に彼には思へるので、其所から何が出るか分らない丈《だけ》夫《それ》丈《だけ》彼には樂みが多かつた。田口の説明によると、近寄|惡《にく》い人の樣にも聞こえるが、彼の見た所では田口より數倍話しが爲易《しやす》さうであつた。彼は今日《けふ》田口から得た印象のうちに、人を取扱ふ點に掛けて成程老練だといふ嘆美《たんび》の聲を見出《みいだ》した上、人物としても何處か偉さうに思はれる點が、時々彼の眼を射る樣にちら/\輝やいたにも拘《かゝ》はらず、其前に坐つてゐる間、彼は始終何物にか縛られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事が出來なかつた。絶えず監視の下《もと》に置かれた樣な此状態は、一時性のものでなくつて、幾何《いくら》面會の度數を重ねても、決して薄らぐ折はなからうと迄彼には見えた位である。彼は斯ういふ風に氣の置ける田口と反對の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られさうにない、話し聲其物のうちに既に懷かし味の籠つた樣な松本を想像して已《や》まなかつた。
 
     八
 
 翌朝《よくあさ》早速支度をして松本に會ひに行かうと思つてゐると生憎《あいにく》寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に濡れてゐた。屋根瓦に徹《とほ》る樣な佗《わ》びしい色をしばらく眺めてゐた敬太郎は、田口の紹介状を机の上に置いて、出やうか止さうかと一寸思案したが、早く會つて見たいといふ氣が強く起るので、とう/\机の前を離れた。さうして豆腐屋の喇叭《らつぱ》が、陰氣な空氣を割《さ》いて鋭どく往來に響く下の方へ降りて行つた。
 松本の家《うち》は矢來《やらい》なので、敬太郎は此間の晩狐に撮《つま》まれたと同じ思ひをした交番下の景色《けしき》を想像しつゝ、其所へ來ると、坂下と坂上が兩方共|二股《ふたまた》に割れて、勾配《こうばい》の付いた眞中|丈《だけ》がいびつに膨《ふく》れてゐるのを發見した。彼は寒い雨の袴の裾に吹き掛けるのも厭はずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒《かぢぼう》を握つた儘立往生をしたのは此|邊《へん》だらうと思ふ所を見廻した。今日も同じ樣に雨がざあ/\落ちて、彼の踏んでゐる土は地下の鉛管迄腐れ込む程濡れてゐた。たゞ晝|丈《だけ》に周圍は暗いながらも明るいので、立ち留つた時の心持は此間とは丸《まる》で趣《おもむき》が違つてゐた。敬太郎は後《うしろ》の方に高く黒ずんでゐる目白臺《めじろだい》の森と、右手の奧に朦朧《もうろう》と重なり合つた水稻荷《みづいなり》の木立《こだち》を見て坂を上《あが》つた。それから同じ番地の家の何軒でもある矢來の中をぐる/\歩いた。始めのうちは小《ち》さい横町を右へ折れたり左へ曲つたり、濡れた枳殻《からたち》の垣を覗いたり、古い椿の生《お》ひ被《かぶ》さつてゐる墓地らしい構の前を通つたりしたが、松本の家は容易に見當らなかつた。仕舞に尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見付けて、其所の若い者に聞いたら、何でもない事の樣にすぐ教へて呉れた。
 松本の家は此車屋の筋向ふを這入つた突き當りの、竹垣に圍《かこ》はれた綺麗な住居《すまひ》であつた。門を潜《くゞ》ると子供が太鼓を鳴らしてゐる音が聞こえた。玄關へ掛つて案内を頼んでも其太鼓の音は毫《がう》も已《や》まなかつた。其代り四邊《あたり》は森閑《しんかん》として人の住んでゐる臭《にほひ》さへしなかつた。雨に鎖《とざ》された家《いへ》の奧から現はれた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取つたなり無言の儘引つ込んだが、少時《しばらく》してから又出て來て、「甚だ勝手を申し上げて濟みませんで御座いますが、雨の降らない日に御出《おいで》を願へますまいか」と云つた。今迄就職運動のため諸方へ行つて斷わられ付けてゐる敬太郎にも、此斷り方|丈《だけ》は不思議に聞こえた。彼は何故《なぜ》雨が降つては面會に差支へるのか直《すぐ》反問したくなつた。けれども下女に議論を仕掛けるのも一種變な場合なので、「ぢや御天氣の日に伺がへば御目に掛かれるんですね」と念晴《ねんばら》しに聞き直して見た。下女は唯「はい」と答へた丈《だけ》であつた。敬太郎は仕方なしに又雨の降る中へ出た。ざあと云ふ音が急に烈しく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓が未《ま》だどん/\と響いてゐた。彼は失來の坂を下《お》りながら變な男が有つたものだといふ觀念を數度《すど》繰り返した。田口が唯でさへ會《あ》ひ惡《にく》いと云つたのは、斯んな所を指すのではなからうかとも考へた。其日は家《うち》へ歸つても、氣分が中止の姿勢に餘儀なく据ゑ付けられた儘、何《ど》の方角へも進行出來ないのが苦痛になつた。久し振に須永の家《うち》へでも行つて、此間からの?末を茶話に半日を暮らさうかと考へたが、何うせ行くなら、今の仕事に一段落付けて、自分にも見當の立つた筋を吹聽《ふいちやう》するのでなくては話しばいもしないので、遂に行かず仕舞にしてしまつた。
 翌日《あくるひ》は昨日《きのふ》と打つて變つて好い天氣になつた。起き上る時、あらゆる濁《にごり》を雨の力で洗ひ落した樣に綺麗に輝やく蒼空《あをぞら》を、眩《まば》ゆさうに仰ぎ見た敬太郎は、今日《けふ》こそ松本に會へると喜こんだ。彼は此間の晩|行李《かうり》の後《うしろ》に隱して置いた例の洋杖《ステツキ》を取り出して、今日は一つ是を持つて行つて見ようと考がへた。彼はそれを突いて、又矢來の坂を上《あが》りながら、昨日の下女が今日も出て來て、折角ですが今日は御天氣過ぎますから、最少《もすこ》し曇つた日に御出《おいで》下さいましと云つたら何《ど》んなものだらうと想像した。
 
     九
 
 所が昨日《きのふ》と違つて、門を潜《くゞ》つても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかつた。玄關には此前目に着かなかつた衝立《ついたて》が立つてゐた。其|衝立《ついたて》には淡彩《たんさい》の鶴がたつた一羽|佇《たゝ》ずんでゐる丈《だけ》で、姿見の樣に細長い其|格好《かつかう》が、普通の寸法と違つてゐる意味で敬太郎の注意を促《うな》がした。取次には例の下女が現はれたには相違ないが、其|後《あと》から遠慮のない足音をどん/\立てゝ二人の小供が衝立《ついたて》の影迄來て、珍らしさうな顔をして敬太郎を眺めた。昨日に比べると是《これ》丈《だけ》の變化を認めた彼は、最後に何うぞといふ案内と共に、硝子戸《がらすど》の締まつてゐる座敷へ通つた。其眞中にある金魚鉢の樣に大きな瀬戸物の火鉢の兩側に、下女は座蒲團を一枚づゝ置いて、其一枚を敬太郎の席とした。其座蒲團は更紗《さらさ》の模樣を染めた眞丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議さうに其上へ坐つた。床の間には刷毛《はけ》でがし/\と粗末《ぞんざい》に書いた樣な山水《さんすゐ》の軸が懸つてゐた。敬太郎は何處が樹で何處が巖《いは》だか見分の付かない畫《ゑ》を、輕蔑に値する裝飾品の如く眺めた。すると其隣りに銅鑼《どら》が下《さが》つてゐて、それを叩く棒迄添へてあるので、益《ます/\》變つた室《へや》だと思つた。
 すると間《あひ》の襖《ふすま》を開けて隣座敷から黒子《ほくろ》のある主人が出て來た。「能く御出《おいで》です」と云つたなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐つたが、其調子は決して愛嬌のある方ではなかつた。唯何處かおつとりして居るので、相手に餘り重きを置かない所が、却つて敬太郎に樂な心持を與へた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合はせながら、敬太郎は別段氣が詰る思もせずにゐられた。其上彼は此間の晩、慥《たし》かに自分の顔を此所の主人に覺えられたに違ないと思ひ込んでゐたにも拘はらず、今|會《あ》つて見ると、覺えて居るのだか、居ないのだか、平然としてそんな素振《そぶり》は、口にも色にも出さないので、彼は猶更《なほさら》氣兼の必要を感じなくなつた。最後に主人は昨日《きのふ》雨天のため面會を謝絶した理由も言譯も一言《ひとこと》も述べなかつた。述べ度くなかつたのか、述べなくつても構はないと認めてゐたのか、夫《それ》すら敬太郎には丸《まる》で判斷が付かなかつた。
 話は自然の順序として、紹介者になつた田口の事から始まつた。「貴方は是から田口に使つて貰はうといふのでしたね」といふのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。夫《それ》から彼の未《いま》だ甞《かつ》て考へた事もない、社會觀とか人生觀とかいふ小六《こむ》づかしい方面の間題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼は其時心のうちで、此松本といふ男は世に著はれない學者の一人なのではなからうかと疑ぐつた位、妙な理窟をちら/\と閃《ひら》めかされた。夫《それ》許《ばかり》でなく、松本は田口を捕《つら》まへて、役には立つが頭の成つてゐない男だと罵《のゝ》しつた。
 「第一《だいち》あゝ忙がしくしてゐちあ、頭の中に組織立つた考の出來る閑《ひま》がないから駄目です。彼奴《あいつ》の腦と來たら、年《ねん》が年中《ねんぢゆう》摺鉢《すりばち》の中で、擂木《すりこぎ》に攪《か》き廻されてる味噌見たやうなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
 敬太郎には何故《なぜ》此主人が田口に對して斯う迄|惡體《あくたい》を吐《つ》くのか薩張《さつぱり》譯が分らなかつた。けれども彼の不思議に感じたのは、是程の激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫《がう》も毒々しい所だの、小惡《こにく》らしい點だのの見えない事であつた。彼の罵しる言葉は、人を罵しつた經驗を知らない樣な落付を具へた彼の聲を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する氣になれなかつた。たゞ一種變つた人だといふ感じが新たに刺戟を受ける丈《だけ》であつた。
 「夫《それ》でゐて、碁を打つ、謠《うたひ》を謠ふ。色々な事を遣る。尤も何《いづ》れも下手糞なんですが」
 「夫《それ》が餘裕のある證據ぢやないでせうか」
 「餘裕つて君。――僕は昨日《きのふ》雨が降るから天氣の好い日に來て呉れつて、貴方を斷わつたでせう。其譯は今云ふ必要もないが、何しろそんな我儘な斷わり方が世間にあると思ひますか。田口だつたら左《さ》う云ふ斷り方は決して出來ない。田口が好んで人に會ふのは何故《なぜ》だと云つて御覽。田口は世の中に求める所のある人だからです。つまり僕の樣な高等遊民《かうとういうみん》でないからです。いくら他《ひと》の感情を害したつて、困りやしないといふ餘裕がないからです」
 
     十
 
 「實は田口さんからは何にも伺がはずに參つたのですが、今御使ひになつた高等遊民《かうとういうみん》といふ言葉は本當の意味で御用ひなのですか」
 「文字通りの意味で僕は遊民《いうみん》ですよ。何故《なぜ》」
 松本は大きな火鉢の縁《ふち》へ兩肱を掛けて、其一方の先にある拳骨《げんこつ》を顎《あご》の支へにしながら敬太郎を見た。敬太郎は初對面の客を客と感じてゐないらしい此松本の樣子に、成程高等遊民の本色《ほんしよく》があるらしくも思つた。彼は烟草道樂と見えて、今日は大きな丸い雁首《がんくび》の付いた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思ひ出した樣な濃い烟を、まだ火の消えてゐない證據として、狼烟《のろし》の如くぱつ/\と揚げた。其烟が彼の顔の傍《そば》で何時《いつ》の間《ま》にか消えて行く具合が、何處にも締りを設ける必要を認めてゐないらしい彼の眼鼻と相待つて、今迄經驗した事のない一種静かな心持を敬太郎に與へた。彼は少し薄くなりかゝつた髪を、頭の眞中から左右へ分けてゐるので、平たい頭が猶《なほ》の事尋常に落ち付いて見えた。彼は又普通世間の人が着ない樣な茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋《うはたび》を白の上に重ねてゐた。其色がすぐ坊主の法衣《ころも》を聯想させる所が又變に特別な男らしく敬太郎の眼に映つた。自分で高等遊民だと名乘るものに會つたのは是が始めてではあるが、松本の風采なり態度なりが、如何にもさう云ふ階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた氣味の敬太郎に投げ込んだのは事實であつた。
 「失禮ながら御家族は大勢で入らつしやいますか」
 敬太郎は自《みづ》から高等遊民と稱する人に對して、何ういふ譯か先づ斯ういふ問が掛けて見たかつた。すると松本は「えゝ子供が澤山ゐます」と答へて、敬太郎の忘れ掛つてゐたパイプからぱつと烟を出した。
 「奧さんは……」
 「妻《さい》は無論居ます。何故ですか」
  敬太郎は取り返しの付かない愚《ぐ》な問を出して、始末に行かなくなつたのを後悔した。相手が夫《それ》程《ほど》感情を害した樣子を見せないにしろ、不思議さうに自分の顔を眺めて、解決を豫期してゐる以上は、何とか云はなければ濟まない場合になつた。
 「貴方の樣な方が、普通の人間と同じ樣に、家庭的に暮して行く事が出來るかと思つて一寸伺つた迄です」
 「僕が家庭的に……。何故。高等遊民だからですか」
 「さう云ふ譯でも無いんですが、何だかそんな心持がしたから一寸伺がつたのです」
 「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
 敬太郎はもう何も云ふ事がなくなつて仕舞つた。彼の頭腦の中では、返事に行き詰まつた困却と、此所で問題を變へやうとする努力と、これを緒口《いとくち》に、革の手袋を穿《は》めた女の關係を確かめたい希望が三つ一所に働らくので、元から夫《それ》程《ほど》秩序の立つてゐない彼の思想に猶更《なほさら》暗い影を投げた。けれども松本はそんな事に丸《まる》で注意しない風で、困つた敬大郎の顔を平氣に眺めてゐた。若し是が田口であつたなら手際よく相手を打ち据ゑる代りに、打ち据ゑるとすぐ向ふから局面を變へて呉れて、相手に見苦るしい立ち往生などは決してさせない鮮やかな腕を有《も》つてゐるのにと敬太郎は思つた。氣は置けないが、人を取扱かふ點に於て、全く冴えた熟練を缺いてゐる松本の前で、敬太郎は圖らず二人の相違を認めた樣な氣がしてゐると、松本は偶然「貴方は左《さ》ういふ問題を考へて見た事がないやうですね」と聞いて呉れた。
 「えゝ丸《まる》で考へて居ません」
 「考へる必要は有りませんね。一人で下宿してゐる以上は。けれども幾何《いくら》一人だつて、廣い意味での男對女の問題は考へるでせう」
 「考へると云ふより寧ろ興味があるといつた方が適當かも知れません。興味なら無論有ります」
 
     十一
 
 二人は人間として誰しも利害を感ずる此問題に就いて暫時《しばらく》話した。けれども年齒《とし》の違だか段の違だか、松本の云ふ事は肝心の肉を拔いた骨組|丈《だけ》を並べて見せる樣で、敬太郎の血の中迄這入り込んで來て、共に流れなければ已《や》まない程の切實な勢を丸《まる》で持つてゐなかつた。其代り敬太郎の秩序立たない斷片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失つて、少しも松本の胸に徹《とほ》らないらしかつた。
 斯んな縁遠い話をしてゐる中《うち》で、たゞ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亞《ろしや》の文學者のゴーリキとかいふ人が、自分の主張する社會主義とかを實行する上に、資金の必要を感じて、それを調達《てうだつ》のため細君同伴で亞米利加《アメリカ》へ渡つた時の話であつた。其時ゴーリキは大變な人氣を一身に集めて、招待やら驩迎《くわんげい》やらに忙殺される程の景氣のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつゝあつた。所が彼の本國から伴《つ》れて來た細君といふのが、本當の細君でなくて單に彼の情婦に過ぎないといふ事實が何處からか曝露《ばくろ》した。すると今迄狂熱に達してゐた彼の名聲が、忽ちどさりと落ちて、廣い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなつて仕舞つたので、ゴーリキは已《や》むを得ず其儘|亞米利加《アメリカ》を去つた。といふのが筋であつた。
 「露西亞《ロシヤ》と亞米利加《アメリカ》では是《これ》丈《だけ》男女關係《なんによくわんけい》の解釋が違ふんです。ゴーリキの遣口《やりくち》は露西亞《ロシヤ》なら殆んど問題にならない位些細な事件なんでせうがね。下らない」と松本は全く下らなさうな顏をした。
 「日本は何方《どつち》でせう」と敬太郎は聞いて見た。
 「まあ露西亞派《ロシヤは》でせうね。僕は露西亞派《ロシヤは》で澤山だ」
と云つて、松本は又|狼烟《のろし》の樣な濃い烟をぱつと口から吐いた。
 此所迄來て見ると、此間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取つて少しも苦にならない樣な氣がし出した。
 「先達《せんだつ》ての晩神田の洋食店で私は貴方に御目に懸つたと思ふんですが」
 「えゝ會ひましたね。よく覺えてゐます。夫《それ》から歸りにも電車の中で會つたぢやありませんか。君も江戸川迄乘つた樣だが、あすこいらに下宿でもしてゐるんですか。あの晩は雨が降つて困つたでせう」
 松本は果して敬太郎を記憶してゐた。夫《それ》を初めから口に出すでもなく、今になつて漸やく氣が付いた振をするでもなく、話しても可《よ》し話さないでも可《よ》しと云つた風の態度が、無邪氣から出るのか、度胸から出るのか、又は鷹揚《おうやう》な彼の生れ付から出るのか、敬太郎には一寸判斷しかねた。
 「御伴《おつれ》が御有《おあり》の樣でしたが」
 「えゝ別嬪《べつぴん》を一人|伴《つ》れてゐました。貴方は慥《たし》か一人でしたね」
 「一人です。貴方も御歸りには御一人ぢやなかつたですか」
 「左《さ》うです」
 一寸はき/\進んだ問答は此所へ來てぴたりと留つて仕舞つた。松本が又女の事を云ひ出すかと思つて待つてゐると、「貴方の下宿は牛込ですか、小石川ですか」と丸《まる》で無關係の問を敬太郎は掛けられた。
 「本郷です」
 松本は腑に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでゐる彼が、何故《なぜ》江戸川の終點迄乘つたのか、其説明を聞きたいと云はぬ許《ばかり》の松本の眼付を見た時、敬太郎は面倒だから此所で一つ心持よく萬事を打ち明けて仕舞はうと決心した。もし怒《おこ》られたら、詫《あや》まる丈《だけ》で、詫《あや》まつて聞かれなければ、御辭儀を叮嚀にして歸れば好からうと覺悟を極めた。
 「實は貴方の後《あと》を跟《つ》けてわざ/\江戸川迄來たのです」と云つて松本の顔を見ると、案外にも豫期した程の變化も起らないので、敬太郎は先づ安心した。
 「何の爲に」と松本は殆んど何時《いつ》もの樣な緩《ゆる》い口調で聞き返した。
 「人から頼まれたのです」
 「頼まれた? 誰に」
 松本は始めて、少し驚いた聲の中《うち》に、並より強いアクセントを置いて、斯う聞いた。
 
      十二
 
 「實は田口さんに頼まれたのです」
 「田口とは。田口要作《たぐちえうさく》ですか」
 「左《さ》うです」
 「だつて君はわざ/\田口の紹介状を持つて僕に會ひに來たんぢやありませんか」
 斯う一句々々問ひ詰められて行くよりは、自分の方で一と思ひに今迄の經過を話して仕舞ふ方が樂な氣がするので、敬太郎は田口の速達便を受取つて、すぐ小川町の停留所へ見張に出た冒險の第一節目から始めて、電車が江戸川の終點に着いた後の雨の中の立往生に至る迄の?末を包まず打ち明けた。固《もと》よりたゞ筋の通る丈《だけ》を目的に、誇張は無論|布衍《ふえん》の煩はしさも出來る限り避けたので、時間が夫《それ》程《ほど》掛らなかつた所爲《せゐ》か、松本は話の進行してゐる間一口も敬太郎を遮《さへ》ぎらなかつた。話が濟んでからも、直《すぐ》とは聲を出す樣子は見えなかつた。敬太郎は主人の此沈黙を、感情を害した結果ではなからうかと推察して、怒《おこ》り出されないうちに早く詫《あや》まるに越した事はないと思ひ定めた。すると主人の方から突然口を利き始めた。
 「どうも怪《け》しからん奴だね、あの田口といふ男は。夫《それ》に使はれる君も亦君だ。餘つ程の馬鹿だね」
 斯ういつた主人の顔を見ると、呆《あき》れ返つてゐる風は誰の目にも着くが、怒氣を帶びた樣子は比較的何處にも表はれてゐないので、敬太郎は寧ろ安心した。此際馬鹿と呼ばれる位の事は、彼に取つて何でもなかつたのである。
 「何うも惡い事をしました」
 「詫まつて貰ひたくも何ともない。只君が御氣の毒だから云ふのですよ。あんな者に使はれて」
 「それ程惡い人なんですか」
 「一體何の必要があつて、そんな愚《ぐ》な事を引き受けたのです」
 物數奇から引き受けたといふ言葉は、此場合何うしても敬太郎の口へは出て來なかつた。彼は已《や》むを得ず、衣食問題の必要上何うしても田口に頼《たよ》らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだといふ風な答をした。
 「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方が可《い》いですよ。餘計な事ぢやありませんか、寒いのに雨に降られて人の後《あと》を跟《つ》けるなんて」
 「私も少し懲《こ》りました。是からはもう遣らない積《つもり》です」
 此述懷を聞いた松本は何とも云はず、たゞ苦笑ひをしてゐた。それが敬太郎には輕蔑の意味にも憐愍《れんみん》の意昧にも取れるので、彼は何《いづ》れにしても甚だ肩身の狹い思をした。
 「貴方は僕に對して濟まん事をした樣な風をしてゐるが、實際|左《さ》うなのですか」
 根本義に溯《さかの》ぼつたら夫《それ》程《ほど》に感じてゐない敬大郎も斯う聞かれると、行掛り上|左《さ》うだと思はざるを得なかつた。又さう答へざるを得なかつた。
 「ぢや田口へ行つてね。此間僕の伴れてゐた若い女は高等淫賣《かうとういんばい》だつて、僕自身がさう保證したと云つて呉れ玉へ」
 「本當にさういふ種類の女なんですか」
 敬太郎は一寸驚ろかされた顏をして斯う聞いた。
 「まあ何でも好いから、高等淫賣《かうとういんばい》だと云つて呉れ玉へ」
 「はあ」
 「はあぢや不可《いけ》ない、慥《たし》かに左《さ》う云はなくつちや。云へますか、君」
 敬太郎は現代に教育された青年の一人として、斯ういふ意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚《はゞ》かる程の男ではなかつた。けれども松本が強ひて此四字を田口の耳へ押し込まうとする奧底には、何か不愉快な或物が潜んでゐるらしく思はれるので、さう輕々しい調子で引き受ける氣も起らなかつた。彼が挨拶に困つて六づかしい顏をしてゐると、それを見た松本は、「何、君心配しないでも可《い》いですよ。相手が田口だもの」と云つたが、暫らくして漸《やつ》と氣が付いた樣に、「君は僕と田口との關係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答へた。
 
     十三
 
 「其關係を話すと、君が田口に向つてあの女の事を高等淫賣だと云ふ勇氣が出惡《でにく》くなる丈《だけ》だから詰り僕には損になるんだが、何時《いつ》迄罪もない君を馬鹿にするのも氣の毒だから、聞かして上げやう」
 斯ういふ前置を置いた上、松本は田口と自分が社會的に何う交渉してゐるかを説明して呉れた。其説明は最も簡單に濟む丈《だけ》に最も敬太郎を驚ろかした。それを一言でいふと、田口と松本は近い親類の間柄だつたのである。松本に二人の姉があつて、一人が須永の母、一人が田口の細君、といふ互の縁續きを始めて呑み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に當る松本が、叔父といふ資格で、彼の娘と時間を極めて停留所で待ち合はした上、ある料理店で會食したといふ事實を、世間の出來事のうちで最も平凡を極めたものゝ一つの樣に見た。それを込み入つた文《あや》でも隱してゐるやうに、一生懸命に自分の燃やした陽炎《かげろふ》を散らつかせながら、後《あと》を追掛《おつか》けて歩いたのが、左《さ》も/\馬鹿/\しくなつて來た。
 「御孃さんは何で又|彼處《あすこ》迄|出張《でば》つてゐたんですか。たゞ私を釣る爲なんですか」
 「何須永へ行つた歸りなんです。僕が田口で話してゐると、彼《あ》の子が電話を掛けて、四時半頃|彼所《あすこ》で待ち合せてゐるから、一寸歸りに降りて呉れといふんです。面倒だから止さうと思つたけれども、是非何とか蚊とかいふから、降りた所がね。今朝御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮に指環《ゆびわ》を買つて遣ると云つてゐたから、停留所で待ち伏せをして、逃《にが》さない樣に一所に行つて買つて貰へと云はれたから先刻《さつき》から此所で待つてゐたんだつて、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出して中々動かない。仕方がないから、まあ西洋料理位で胡麻化《ごまか》して置かうと思つて、とう/\寶亭へ連れ込んだんです。――實に田口といふ男は箆棒《べらぼう》だね。わざ/\夫《それ》程《ほど》の手數《てかず》を掛けて、何もそんな下らない眞似をするにも當らないぢやないか。騙《だま》された君よりも餘つ程田口の方が箆棒《べらぼう》ですよ」
 敬太郎には騙された自分の方が遙かに愚物《ぐぶつ》に思はれた。さうと知つたら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出來たものをと、自《おのづ》から赧《あか》い顔もしなければならなかつた。
 「貴方は丸《まる》で御承知ない事なんですね」
 「知るものかね、君。いくら高等遊民だつて、そんな暇の出る筈がないぢやありませんか」
 「御孃さんは何うでせう。多分御存じなんだらうと思ひますが」
 「左《さ》うさ」と云つて松本はしばらく思案してゐたが、やがて判切《はつきり》した口調で、「いや知るまい」と斷言した。「あの箆棒《べらぼう》の田口に、一つ取柄《とりえ》があると云へば云はれるのだが、彼《あ》の男はね、幾何《いくら》惡戯《いたづら》をしても、其|惡戯《いたづら》をされた當人が、もう少しで恥を掻きさうな際《きは》どい時になると、ぴたりと留めて仕舞ふか、又は自分が其場へ出て來て、當人の體面に拘はらない内に綺麗に始末を付ける。其所へ行くと箆棒《べらぼう》には違ないが感心な所があります。つまり遣方《やりかた》は惡辣《あくらつ》でも、結末には妙に温かい情《なさけ》の籠つた人間らしい點を見せて來るんです。今度の事でも恐らく自分一人で呑み込んでゐる丈《だけ》でせう。君が僕の家《うち》へ來なかつたら、僕は屹度《きつと》此事件を知らずに濟むんだつたらう。自分の娘にだつて、君の馬鹿を證明する樣な策略《さくりやく》を、始めから吹聽《ふいちやう》する程無慈悲な男ぢやない。だから序《ついで》に惡戯《いたづら》も止せば可《い》いんだがね、夫《それ》が何うしても止せない所が、要するに箆棒《べらぼう》です」
 田口の性格に對する松本の斯ういふ批評を黙つて聞いてゐた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞《ふるまひ》を顧みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を怨《うら》むよりも、寧ろ惡戯《いたづら》をした田口を頼もしいと思ふ心が、わが胸の裏《うち》で一番勝を制したのを自覺した。が、果して左《さ》ういふ人ならば、何故《なぜ》彼の前に出て話をしてゐる間に、あんな窮屈な感じが起るのだらうといふ不審も自《おの》づと萌《きざ》さない譯に行かなかつた。
 「貴方の御話で大分《だいぶ》田口さんが解つて來た樣ですが、私はあの方《かた》の前へ出ると、何だか氣が落ち付かなくつて變に苦しいです」
 「夫《そり》や向ふでも君に氣を許さないからさ」
 
     十四
 
 斯う云はれて見ると、田口が自分に氣を許してゐない眼遣《めづかひ》やら言葉付やらがあり/\と敬太郎の胸に、疑もない記憶として讀まれた。けれども田口程の老巧のものに、何で學校を出た許《ばかり》の青臭い自分が、夫《それ》程《ほど》苦になるのか、敬太郎は全く合點が行かなかつた。彼は見た通りの儘の自分で、誰の前へ出ても通用するものと今迄固く己《おの》れを信じてゐたのである。彼はたゞ斯樣な青年として、他《ひと》に憚《はゞ》かられたり氣を置かれたりする資格さへない樣に自分を見縊《みくび》つてゐた丈《だけ》に、經驗の程度の違ふ年長者から、自分の思はくと違ふ待遇を受けるのを寧ろ不思議に考へ出した。
 「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
 「何うだか、そんな細かい事は初めて會つた丈《だけ》ぢや分らないですよ。然し有つても無くつても、僕の君に對する待遇には一向關係がないから可《い》いぢやありませんか」
 「けれども田口さんから左《さ》う思はれちや……」
 「田口は君だから左《さ》う思ふんぢやない、誰を見ても左《さ》う思ふんだから仕方がないさ。あゝして長い間人を使つてるうちには、大分《だいぶ》騙《だま》されなくつちやならないからね。偶《たま》に自然其儘の美くしい人間が自分の前に現はれて來ても、矢つ張り氣が許せないんです。夫《それ》があゝ云ふ人の因果だと思へば夫《それ》で好いぢやないか。田口は僕の義兄だから、斯う云ふと變に聞えるが、本來は美質なんです。決して惡い男ぢやない。唯あゝして何年となく事業の成功といふ事|丈《だけ》を重に眼中に置いて、世の中と闘かつてゐるものだから、人間の見方が妙に片寄つて、此奴《こいつ》は役に立つだらうかとか、此奴《こいつ》は安心して使へるだらうかとか、まあそんな事ばかり考へてゐるんだね。あゝなると女に惚れられても、是《こり》や自分に惚れたんだらうか、自分の持つてゐる金に惚れたんだらうか、直《すぐ》其所を疑ぐらなくつちや居られなくなるんです。美人でさへ左《さ》うなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは當然だと思はなくつちや不可《いけ》ない。其所が田口の田口たる所なんだから」
 敬太郎は此批評で田口といふ男が自分にも判切《はつきり》呑み込めた樣な氣がした。けれども斯ういふ風に一々彼を肯《うけが》はせる程の判斷を、彼の頭に鐵椎《てつつゐ》で叩き込む樣に入れて呉れる松本は抑《そも/\》何者だらうか、其點になると敬太郎は依然として茫漠《ばうばく》たる雲に對する思があつた。批評に上《のぼ》らない前の田口でさへ、此男よりは却つて活きた人間らしい氣がした。
 同じ松本に就いて見ても、此間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊瑚樹《さんごじゆ》の珠が何うしたとか斯うしたとか云つてゐた時の方が、餘つ程活きて動いてゐた。今彼の前に坐つてゐるのは、大きなパイプを銜《くは》へた木像の靈が、口を利くと同じ樣な感じを敬太郎に與へる丈《だけ》なので、彼はたゞ其人の本體を髣髴《はうふつ》するに苦しむに過ぎなかつた。彼が一方では明瞭な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかを斯ういふ風に考へつゝ、自分は頭腦の惡い、直覺の鈍い、世間並以下の人物ぢやあるまいかと疑り始めた時、此漠然たる松本が又口を開いた。
 「夫《それ》でも田口が箆棒《べらぼう》を遣つて呉れた爲め、君は却《かへ》つて仕合《しあはせ》をした樣なものですね」
 「何故《なぜ》ですか」
 「屹度《きつと》何か位置を拵らへて呉れますよ。是なりで放《はふ》つて置きや田口でも何でもありやしない。夫《それ》は責任を持つて受合つて上げても宜《い》い。が、詰らないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
 二人は顔を見合せて笑つた。敬太郎が丸い更紗《さらさ》の座蒲團の上から立ち上がつた時、主人はわざ/\玄關迄送つて出た。其所に飾つてあつた墨繪の鶴の衝立《ついたて》の前に、瘠せた高い身體をしばらく佇《たゝ》ずまして、靴を穿《は》く敬太郎の後姿を眺めてゐたが、「妙な洋杖《ステツキ》を持つてゐますね。一寸拜見」と云つた。さうして夫《それ》を敬太郎の手から受取つて、「へえ、蛇の頭だね。中々旨く刻《ほ》つてある。買つたんですか」と聞いた。「いえ素人《しろうと》が刻つたのを貰つたんです」と答へた敬太郎は、夫《それ》を振りながら又矢來の坂を江戸川の方へ下《くだ》つた。
 
  雨の降る日
 
 雨の降る日に面會を謝絶した松本の理由は、遂に當人の口から聞く機會を得ずに久しく過ぎた。敬太郎も其内に取り紛れて忘れて仕舞つた。不圖それを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入《しゆつにふ》の出來る身になつてからの事である。其時分の彼の頭には、停留所の經驗が既に新らしい匂ひを失ひ掛けてゐた。彼は時々須永から其話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかつた。須永はよく彼に向つて、何故《なぜ》其前に僕の所へ來て打ち明けなかつたのだと詰問した。内幸町の叔父が人を擔《かつ》ぐ位の事は、母から聞いて知つて居る筈だのにと窘《たし》なめる事もあつた。仕舞には、君があんまり色氣が有り過ぎるからだと調戯《からか》ひ出した。敬太郎は其度に「馬鹿云へ」で通してゐたが、心の内では毎《いつ》も、須永の門前で見た後姿の女を思ひ出した。其女が取も直さず停留所の女であつた事も思ひ出した。さうして何處か遠くの方で氣恥かしい心持がした。其女の名が千代子《ちよこ》で、其妹の名が百代子《もゝよこ》である事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかつた。
 彼が松本に會つて、凡《すべ》て内幕の消息を聞かされた後《あと》田口へ顔を出すのは多少極りの惡い思をする丈《だけ》であつたに拘はらず、顔を出さなければ締め括りが付かないといふ行き掛りから、笑はれるのを覺悟の前で、又田口の門を潜《くゞ》つた時、田口は果して大きな聲を出して笑つた。けれども其笑の中《うち》には己《おの》れの機略に誇る高慢の響よりも、迷つた人を本來の路に返して遣つた喜びの勝利が聞こえてゐるのだと敬太郎には解釋された。田口は其時訓戒の爲だとか教育の方法だとかいつた風の、恩に着せた言葉を一切使はなかつた。たゞ惡意でした譯でないから、怒《おこ》つては不可《いけ》ないと斷わつて、すぐ其場で相當の位置を拵らへて呉れる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合はせてゐた方の姉娘を呼んで、是が私《わたし》の娘だとわざ/\紹介した。さうして此《この》方《かた》は市《いつ》さんの御友達だよと云つて敬太郎を娘に教へてゐた。娘は何で斯ういふ人に引き合されるのか、一寸|解《かい》しかねた風をしながら、極めて餘所《よそ》/\しく叮嚀な挨拶をした。敬太郎が千代子といふ名を覚えたのは其時の事であつた。
 是が田口の家庭に接觸した始めての機會になつて、敬太郎は其《その》後《ご》も用事なり訪問なりに縁を藉《か》りて、同じ人の門を潜《くゞ》る事が多くなつた。時々は玄關脇の書生部屋へ這入つて、甞て電話で口を利き合つた事のある書生と世間話さへした。奧へも無論通る必要が生じて來た。細君に呼ばれて内向《うちむき》の用を足す場合もあつた。中學校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事も稀ではなかつた。出入《でいり》の度數が斯う重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機會も自然多くなつて來たが、一種|間《ま》の延びた彼の調子と、比較的引き締つた田口の家風と、差向ひで坐る時間の缺乏とが、容易に打ち解け難い境遇に彼等を置き去りにした。彼等の間に取り換はされた言葉は、無論形式|丈《だけ》を重んずる堅苦しいものではなかつたが、大抵は五分と掛からない當用に過ぎないので、親しみは夫《それ》程《ほど》出る暇がなかつた。彼等が公然と膝を突き合はせて、例になく長い時間を、遠慮の交《まじ》らない談話に更《ふ》かしたのは、正月|半《なか》ばの歌留多會の折であつた。其時敬太郎は千代子から、貴方隨分|鈍《のろ》いのねと云はれた。百代子からは、妾《あたし》貴方と組むのは厭よ、負けるに極まつてるからと怒《おこ》られた。
 夫《それ》から又一ケ月程經つて、梅の音信《たより》の新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久し振に須永の二階で暮した時、偶然遊びに來てゐた千代子に出逢つた。三人して夫《それ》から夫《それ》へと纒まらない話を續けて行くうちに、不圖松本の評判が千代子の口に上《のぼ》つた。
 「あの叔父さんも隨分變つてるのね。雨が降ると一しきり能く御客を斷わつた事があつてよ。今でも左《さ》うか知ら」
 
     二
 
 「實は僕も雨の降る日に行つて斷られた一人《いちにん》なんだが……」と敬太郎が云ひ出した時、須永と千代子は申し合せた樣に笑ひ出した。
 「君も隨分運の惡い男だね。大方例の洋杖《ステツキ》を持つて行かなかつたんだらう」と須永は調戯《からか》ひ始めた。
 「だつて無理だわ、雨の降る日に洋杖《ステツキ》なんか持つて行けつたつて。ねえ田川さん」
 此|理攻《りぜ》めの辯護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
 「一體田川さんの洋杖《ステツキ》つて、何《ど》んな洋杖《ステツキ》なの。妾《わたし》一寸見たいわ。見せて頂戴、ね、田川さん。下へ行つて見て來ても好くつて」
 「今日は持つて來ません」
 「何故《なぜ》持つて來ないの。今日は貴方|夫《それ》でも好い御天氣よ」
 「大事な洋杖《ステツキ》だから、いくら好い御天氣でも、只の日には持つて出ないんだとさ」
 「本當?」
 「まあ其んなものです」
 「ぢや旗日《はたび》に丈《だけ》突いて出るの」
 敬太郎は一人で二人に當つてゐるのが少し苦しくなつた。此次内幸町へ行く時は、屹度《きつと》持つて行つて見せるといふ約束をして漸く千代子の追窮を逃《のが》れた。其代り千代子から何故《なぜ》松本が雨の降る日に面會を謝絶したかの源因を話して貰ふ事にした。――
 夫《それ》は珍らしく秋の日の曇つた十一月のある午過《ひるすぎ》であつた。千代子は松本の好きな雲丹《うに》を母から言付《ことづ》かつて矢來へ持つて來た。久し振に遊んで行かうか知らと云つて、わざ/\乘つて來た車迄返して、緩《ゆつ》くり腰を落ち付けた。松本には十三になる女を頭《かしら》に、男、女、男と互違《たがひちがひ》に順序よく四人の子が揃つてゐた。是等は皆二つ違ひに生れて、何《いづ》れも世間並に成長しつゝあつた。家庭に華《はな》やかな匂を着ける此生き/\した裝飾物の外に、松本夫婦は取つて二つになる宵子《よひこ》を、指環に嵌《は》めた眞珠の樣に大事に抱《だ》いて離さなかつた。彼女は眞珠の樣に透明な青白い皮膚と、漆の樣に濃い大きな眼を有《も》つて、前の年の雛の節句の前の宵に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛《かはい》がつてゐた。來る度《たん》びに屹度《きつと》何か玩具《おもちや》を買つて來て遣つた。或時は餘り多量に甘《あま》いものを當《あて》がつて叔母から怒《おこ》られた事さへある。すると千代子は、大事さうに宵子を抱いて縁側へ出て、ねえ宵子さんと云つては、わざと二人の親しい樣子を叔母に見せた。叔母は笑ひながら、何だね喧嘩でもしやしまいしと云つた。松本は、御前そんなに宵子が好きなら御祝ひの代りに上げるから、嫁に行くとき持つて御出《おいで》と調戯《からか》つた。
 其日も千代子は坐ると直《すぐ》宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代《さかやき》を剃《そ》つた事がないので、頭の毛が非常に細く柔かに延びてゐた。さうして皮膚の青白い所爲《せゐ》か、其髪の色が日光に照らされると、潤澤《うるほひ》の多い紫を含んでぴか/\縮れ上つてゐた。「宵子さんかん/\結《い》つて上げませう」と云つて、千代子は鄭寧に其|縮《ちゞ》れ毛《げ》に櫛《くし》を入れた。それから乏しい片鬢《かたびん》を一束|割《さ》いて、其根元に赤いリボンを括《くゝ》り付けた。宵子の頭は御供《おそなへ》の樣に平らに丸く開いてゐた。彼女は短かい手をやつと其|御供《おそなへ》の片隅へ乘せて、リボンの端《はじ》を抑えながら、母のゐる所迄よた/\歩いて來て、イボン/\と云つた。母があゝ好くかん/\が結《い》へましたねと賞めると、千代子は嬉しさうに笑ひながら、子供の後姿を眺めて、今度は御父さんの所へ行つて見せて入らつしやいと指圖《さしづ》した。宵子は又足元の危ない歩き付をして、松本の書齋の入口迄來て、四《よ》つ這《ばひ》になつた。彼女が父に禮をするときには必ず四つ這になるのが例であつた。彼女は其所で自分の尻を出來る丈《だけ》高く上げて、御供《おそなへ》の樣な頭を敷居から二三寸の所迄下げて、又イボン/\と云つた。書見を一寸|已《や》めた松本が、あゝ好い頭だね、誰に結《い》つて貰つたのと聞くと、宵子は頸を下げた儘、ちい/\と答へた。ちい/\と云ふのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴《ふちやう》であつた。後《うしろ》に立つて見てゐた千代子は小《ち》さい唇から出る自分の名前を聞いて、又嬉しさうに大きな聲で笑つた。
 
     三
 
 其内子供がみんな學校から歸つて來たので、今迄赤いリボンに占領されてゐた家庭が、急に幾色かの華やかさを加へた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、巴《ともゑ》の紋の付いた陣太鼓《ぢんだいこ》の樣なものを持つて來て、宵子さん叩かして上げるから御出《おいで》と連れて行つた。其時千代子は巾着《きんちやく》の樣な恰好《かつかう》をした赤い毛織の足袋が廊下を動いて行く影を見詰めてゐた。其足袋の紐の先には丸い房が付いてゐて、それが小《ち》いさな足を運ぶ度にぱつ/\と飛んだ。
 「あの足袋は慥《たしか》御前が編んで遣つたのだつたね」
 「えゝ可愛《かはい》らしいわね」
 千代子は其所へ坐つて、しばらく叔父と話してゐた。
其うちに曇つた空から淋しい雨が落ち出したと思ふと、それが見る/\音を立てゝ、空坊主《からばうず》になつた梧桐《ごとう》をしたゝか濡らし始めた。松本も千代子も申し合せた樣に、硝子越《がらすごし》の雨の色を眺めて、手焙《てあぶり》に手を翳《かざ》した。
 「芭蕉《ばせう》があるもんだから餘計音がするのね」
 「芭蕉は能く持つものだよ。此間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思つて、毎日斯うして見てゐるが中々枯れない。山茶花《さゞんくわ》が散つて、青桐《あをぎり》が裸になつても、まだ青いんだからなあ」
 「妙な事に感心するのね。だから恒三《つねざう》は閑人《ひまじん》だつて云はれるのよ」
 「其代り御前の御父さんには芭蕉の研究なんか死ぬ迄出來つこない」
 「爲《し》たかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く學者ね。妾《わたし》本當に敬服してゝよ」
 「生意氣《なまいき》云ふな」
 「あら本當よ貴方。だつて何を聞いても知つてるんですもの」
 二人が斯んな話をしてゐると、只今|此《この》方《かた》が御見えになりましたと云つて、下女が一通の紹介状の樣なものを持つて來て松本に渡した。松本は「千代子待つて御出《おいで》。今に又面白い事を教へて遣るから」と笑ひながら立ち上つた。
 「厭よ又|此間《こなひだ》見たいに、西洋烟草の名なんか澤山覺えさせちや」
 松本は何にも答へずに客間の方へ出て行つた。千代子も茶の間へ取つて返した。其所には雨に降り込められた空の光を補なふため、もう電氣燈が點《とも》つてゐた。
 臺所では既に夕飯《ゆふめし》の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪《ガスしちりん》が二つとも忙がしく青い?を吐いてゐた。やがて小供は大きな食卓に二人づゝ向ひ合せに坐つた。宵子|丈《だけ》は別に下女が付いて食事をするのが例になつてゐるので、此晩は千代子が其役を引受けた。彼女は小《ち》さい朱塗の椀と小皿に盛つた魚肉とを盆の上に載せて、横手にある六疊へ宵子を連れ込んだ。其所は家《うち》のものゝ着更《きがへ》をする爲に多く用ひられる室《へや》なので、箪笥《たんす》が二つと姿見が一つ、壁から飛び出した樣に据ゑてあつた。千代子は其姿見の前に玩具の樣な椀と茶碗を載せた盆を置いた。
 「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠さま」
 千代子が粥《かゆ》を一匙《ひとさじ》宛《づゝ》掬《すく》つて口へ入れて遣る度に、宵子は旨《おい》しい/\だの、頂戴/\だの色々な藝を強ひられた。仕舞に自分一人で食べると云つて、千代子の手から匙を受け取つた時、彼女は又|丹念《たんねん》に匙の持ち方を教へた。宵子は固《もと》より極めて短かい單語より外に發音出來なかつた。さう持つのではないと叱られると、屹度《きつと》御供《おそなへ》の樣な平たい頭を傾《かし》げて、斯《か》う? 斯《か》う? と聞き直した。それを千代子が面白がつて、何遍も繰り返さしてゐるうちに、何時《いつ》もの通り斯《か》う? と半分言ひ懸けて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持つた匙を放《はふ》り出して、千代子の膝の前に俯伏《うつぶせ》になつた。
 「何うしたの」
 千代子は何の氣も付かずに宵子を抱《だ》き起した。すると丸《まる》で眠つた子を抱へた樣に、たゞ手應《てごたへ》がぐたりとした丈《だけ》なので、千代子は急に大きな聲を出して、宵子さん/\と呼んだ。
 
 
 宵子はうと/\寐入つた人の樣に眼を半分閉ぢて口を半分|開《あ》けた儘千代子の膝の上に支へられた。千代子は平手で其背中を二三度叩いたが、何の效目《きゝめ》もなかつた。
 「叔母さん、大變だから來て下さい」
 母は驚ろいて箸と茶碗を放《はふ》り出したなり、足音を立てゝ這入つて來た。何うしたのと云ひながら、電燈の眞下で頭を仰向《あふむけ》にして見ると、唇にもう薄く紫の色が注《さ》してゐた。口へ掌《てのひら》を當てがつても、呼息《いき》の通ふ音はしなかつた。母は呼吸《こきふ》の塞《つま》つた樣な苦しい聲を出して、下女に濡手拭を持つて來さした。それを宵子の額に載せた時、「脈《みやく》はあつて」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸を握つたが脈《みやく》は何處にあるか丸《まる》で分らなかつた。
 「叔母さん何うしたら好いでせう」と蒼い頭をして泣き出した。母は茫然と其所に立つて見てゐる小供に、「早く御父さんを呼んで入らつしやい」と命じた。小供は四人《よつたり》とも客間の方へ馳け出した。其足音が廊下の端《はづれ》で止まつたと思ふと、松本が不思議さうな顔をして出て來た。「何うした」と云ひながら、蔽《お》ひ被《かぶ》さる樣に細君と千代子の上から宵子を覗き込んだが、一目見ると急に眉を寄せた。
 「醫者は……」
 醫者は時を移さず來た。「少し模樣が變です」と云つてすぐ注射をした。然し何の效能《きゝめ》もなかつた。「駄目でせうか」といふ苦しく張り詰めた問が、固く結ばれた主人の唇を洩れた。さうして絶望を怖れる怪しい光に充ちた三人の眼が一度に醫者の上に据ゑられた。鏡を出して瞳孔《どうこう》を眺めてゐた醫者は、此時宵子の裾《すそ》を捲《まく》つて肛門《かうもん》を見た。
 「是では仕方がありません。瞳孔《どうこう》も肛門《かうもん》も開《ひら》いて仕舞つてゐますから。何うも御氣の毒です」
 醫者は斯う云つたが又|一筒《いつとう》の注射を心臓部に試みた。固《もと》より夫《それ》は何の手段にもならなかつた。松本は透き徹る樣な娘の肌に針の突き刺される時、自《おのづ》から眉間を險しくした。千代子は涙をぽろ/\膝の上に落した。
 「病因は何でせう」
 「何うも不思議です。たゞ不思議といふより外に云ひ樣がないやうです。何う考へても……」と醫者は首を傾むけた。「辛子湯《からしゆ》でも使はして見たら何うですか」と松本は素人料簡《しろうとれうけん》で聞いた。「好いでせう」と醫者はすぐ答へたが、其顔には毫《がう》も奨勵《しやうれい》の色が出なかつた。
 やがて熱い湯を盥《たらひ》へ汲んで、湯氣の濛々と立つ眞中へ辛子《からし》を一袋|空《あ》けた。母と千代子は黙つて宵子の着物を取り除《の》けた。醫者は熱場の中へ手を入れて、「もう少し注水《うめ》ませう。餘り熱いと火傷《やけど》でもなさると不可《いけ》ませんから」と注意した。
 醫者の手に抱《だ》き取られた宵子は、湯の中に五六|分《ぷん》浸《つ》けられてゐた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見詰めてゐた。「もう好いでせう。餘《あん》まり長くなると……」と云ひながら、醫者は宵子を盥《たらひ》から出した。母はすぐ受取つてタオルで鄭寧に拭いて元の着物を着せて遣つたが、ぐた/\になつた宵子の樣子に、些《ちつ》とも前と變りがないので、「少しの間此儘寐かして置いて遣りませう」と恨めしさうに松本の顔を見た。松本は夫《それ》が可《よ》からうと答へた儘、又座敷の方へ取つて返して、來客を玄關に送り出した。
 小《ち》さい蒲團と小《ち》さい枕がやがて宵子の爲に戸棚から取り出された。其上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思へない宵子の姿を眺めた千代子は、わつと云つて突伏《つつぷ》した。
 「叔母さん飛んだ事をしました……」
 「何も千代ちやんがした譯ぢやないんだから……」
 「でも妾《あたし》が御飯を喫《た》べさしてゐたんですから……叔父さんにも叔母さんにも洵《まこ》とに濟みません」
 千代子は途切れ/\の言葉で、先刻《さつき》自分が夕飯《ゆふめし》の世話をしてゐた時の、平生《ふだん》と異ならない元氣な樣子を、何遍も繰り返して聞かした。松本は腕組をして、「何うも失つ張り不思議だよ」と云つたが、「おい御仙《おせん》、此所へ寐かして置くのは可哀《かはい》さうだから、あつちの座敷へ連れて行つてやらう」と細君を促した。千代子も手を貸した。
 
      五
 
 手頃な屏風がないので、唯都合の好い位置を擇《よ》つて、何の圍《かこ》ひもない所へ、そつと北枕に寐かした。今朝|方《がた》玩弄《おもちや》にしてゐた風船玉を茶の間から持つて來て、御仙《おせん》が其枕元に置いて遣つた。顏へは白い晒《さら》し木綿を掛けた。千代子は時々それを取り除《の》けて見ては泣いた。「一寸貴方」と御仙が松本を顧みて、「丸《まる》で觀音樣の樣に可愛《かはい》い顔をしてゐます」と鼻を詰らせた。松本は「左《さ》うか」と云つて、自分の坐つてゐる席から宵子の顔を覗き込んだ。
 やがて白木の机の上に、樒《しきみ》と線香立と白團子が並べられて、?燭の灯《ひ》が弱い光を放つた時、三人は始めて眠から覺めない宵子と自分達が遠く離れて仕舞つたといふ心細い感じに打たれた。彼等は代る/”\線香を上げた。其烟の香《にほひ》が、二時間前とは全く違ふ世界に誘《いざ》なひ込まれた彼等の鼻を斷えず刺戟した。外の子供は平生の通り早く寐かされた後《あと》に、咲子《さきこ》といふ十三になる長女|丈《だけ》が起きて線香の側《そば》を離れなかつた。
 「御前も御寐よ」
 「まだ内幸町からも神田からも誰も來ないのね」
 「もう來るだらう。好いから早く御寐」
 咲子は立つて廊下へ出たが、其所で振り回《かへ》つて、千代子を招いた。千代子が同じく立つて廊下へ出ると、小さな聲で、怖《こは》いから一所に便所《はゞかり》へ行つて呉れろと頼んだ。便所には電燈が點《つ》けてなかつた。千代子は燐寸《マツチ》を擦つて雪洞《ぼんぼり》に灯《ひ》を移して、咲子と一所に廊下を曲つた。歸りに下女部屋を覗いて見ると、飯焚《めしたき》が出入《でいり》の車夫と火鉢を挾んでひそ/\何か話してゐた。千代子には夫《それ》が宵子の不幸を細かに語つてゐるらしく思はれた。外の下女は茶の間で來客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしてゐた。
 通知を受けた親類のものが其内二三人寄つた。何《いづ》れ又來るからと云つて歸つたのもあつた。千代子は來る人毎に宵子の突然な最後を繰返し/\語つた。十二時過から御仙は通夜《つや》をする人の爲に、わざと置火燵《おきごたつ》を拵らえて室《へや》に入れたが、誰もあたるものはなかつた。主人夫婦は無理に勸められて寢室へ退《しり》ぞいた。其|後《あと》で千代子は幾度か短かくなつた線香の烟を新らしく繼《つ》いだ。雨はまだ降り已《や》まなかつた。夕方芭蕉に落ちた響はもう聞こえない代りに、亞鉛葺《とたんぶき》の廂《ひさし》にあたる音が、非常に淋しくて悲しい點滴《てんてき》を彼女の耳に絶えず送つた。彼女は此雨の中で、時々宵子の顔に當てた晒《さらし》を取つては啜泣《すゝりなき》をしてゐるうちに夜が明けた。
 其日は女がみんなして宵子の經帷子《きやうかたびら》を縫つた。百代子《もゝよこ》が新たに内幸町から來たのと、外に懇意の家《うち》の細君が二人程見えたので、小さい袖や裾が、方々の手に渡つた。千代子は半紙と筆と硯とを持つて廻つて、南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》といふ六字を誰にも一枚づゝ書かした。「市《いつ》さんも書いて上げて下さい」と云つて、須永の前へ來た。「何《ど》うするんだい」と聞いた須永は、不思議さうに筆と紙を受取つた。
 「細かい字で書ける丈《だけ》一面に書いて下さい。後《あと》から六字|宛《づゝ》を短冊形《たんざくがた》に剪《き》つて棺《くわん》の中へ散らしにして入れるんですから」
 皆《みん》な畏こまつて六字の名號《みやうがう》を認《した》ためた。咲子は見ちや厭よと云ひながら袖屏風《そでびやうぶ》をして曲りくねつた字を書いた。十一になる男の子は僕は假名で書くよと斷わつて、ナムアミダブツと電報の樣に幾何《いくつ》も並べた。午退《ひるすぎ》になつて愈《いよ/\》棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さして御遣りな」と云つた。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして抱《だ》き起した。その脊中には紫色の斑點が一面に出てゐた。着換が濟むと御仙が小さい珠數《じゆず》を手に掛けてやつた。同じく小さい編笠《あみがさ》と藁草履《わらざうり》を棺に入れた。昨日《きのふ》の夕方迄|穿《は》いてゐた赤い毛糸の足袋も入れた。其紐の先に付けた丸い珠のぶら/\動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなの呉れた玩具《おもちや》も足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》の短冊《たんざく》を雪の樣に振り掛けた上へ葢《ふた》をして、白綸子《しろりんず》の被《おひ》をした。
 
     六
 
 友引《ともびき》は善くないといふ御仙の説で、葬式を一日延ばしたため、家《うち》の中は陰氣な空氣の裡《うち》に常よりは賑はつた。七つになる嘉吉《かきち》といふ男の子が、何時《いつ》もの陣太鼓を叩いて叱られた後《あと》、そつと千代子の傍《そば》へ來て、宵子さんはもう歸つて來ないのと聞いた。須永が笑ひながら、明日《あした》は嘉吉《かきち》さんも燒場へ持つて行つて、宵子さんと一所に燒いて仕舞ふ積《つもり》だと調戯《からか》ふと、嘉吉はそんな積《つもり》なんか僕厭だぜと云ひながら、大きな眼をくる/\させて須永を見た。咲子は、御母さん妾《わたし》も明日《あした》御葬式に行きたいわと御仙に強請《せび》つた。妾《あたし》もねと九つになる重子《しげこ》が頼んだ。御仙は漸く氣が付いた樣に、奧で田口夫婦と話をしてゐた夫《をつと》を呼んで、「貴方、明日《あした》入らしつて」と聞いた。
 「行くよ。御前も行つてやるが好い」
 「えゝ、行く事に極めてます。小供には何を着せたら可《い》いでせう」
 「紋付で可《い》いぢやないか」
 「でも餘《あん》まり模樣が派手だから」
 「袴を穿《は》けば可《い》いよ。男の子は海軍服で澤山だし。御前は黒紋付だらう。黒い帶は持つてるかい」
 「持つてます」
 「千代子、御前も持つてるなら喪服を着て供《とも》に立つて御遣り」
 斯んな世話を燒いた後で、松本は又奧へ引返した。千代子も亦線香を上げに立つた。棺の上を見ると、何時《いつ》の間《ま》にか綺麗な花環《はなわ》が載せてあつた。「何時《いつ》來たの」と傍《そば》に居る妹の百代《もゝよ》に聞いた。百代《もゝよ》は小さな聲で「先刻《さつき》」と答へたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけでは淋《さみ》しいつて、わざと赤いのを交《ま》ぜさしたんですつて」と説明した。姉と妹はしばらく其所に並んで坐つてゐた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さん貴方宵子さんの死顔《しにがほ》を見て」と聞いた。百代は「えゝ」と首肯《うな》づいた。
 「何時《いつ》」
 「ほら先刻《さつき》御棺に入れる時見たんぢやないの。何故《なぜ》」
 千代子は夫《それ》を忘れてゐた。妹が若し見ないと云つたら、二人で棺の葢《ふた》をもう一遍開けやうと思つたのである。「御止しなさいよ、怖《こは》いから」と云つて百代は首を掉《ふ》つた。
 晩には通夜僧《つやそう》が來て御經を上げた。千代子が傍《そば》で聞いてゐると、松本は坊さんを捕《つら》まへて、三部經《さんぶきやう》がどうだの、和讃《わさん》がどうだのといふ變な話をしてゐた。其會話の中には親鸞上人《しんらんしやうにん》と蓮如上人《れんによしやうにん》といふ名が度々出て來た。十時少し廻つた頃、松本は菓子と御布施《おふせ》を僧の前に並べて、もう宜しいから御引取下さいと斷《こと》わつた。坊さんの歸つた後《あと》で御仙が其|理由《わけ》を聞くと、「何坊さんも早く寐た方が勝手だあね。宵子だつて御經なんか聽くのは嫌《きらひ》だよ」と濟ましてゐた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
 あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が靜かに動いた。路端《みちばた》の人はそれを何か不可思議のものでもあるかの樣に目送《もくそう》した。松本は白張《しらはり》の提灯や白木《しらき》の輿《こし》が嫌《きらひ》だと云つて、宵子の棺を喪車に入れたのである。其喪車の周圍《ぐるり》に垂れた黒い幕が搖れる度に、白綸子覆《しろりんずおひ》をした小さな棺の上に飾つた花環がちら/\見えた。其所いらに遊んでゐた子供が驅け寄つて來て、珍らしさうに車の中を覗き込んだ。車と行き逢つた時、脱帽して過ぎた人もあつた。
 寺では讀經《どきやう》も燒香も形式通り濟んだ。千代子は廣い本堂に坐つてゐる間、不思議に涙も何も出なかつた。叔父叔母の顔を見ても是といつて憂に鎖《とざ》された樣子は見えなかつた。燒香の時、重子《しげこ》が香《かう》を撮《つま》んで香爐《かうろ》の裏《うち》へ燻《くべ》るのを間違へて、灰を一撮《ひとつか》み取つて、抹香《まつかう》の中へ打ち込んだ折には、可笑《をか》しくなつて吹き出した位である。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺に附き添つて火葬場へ廻つたので、千代子は外のものと一所に又矢來へ歸つて來た。車の上で、切なさの少し減つた今よりも、苦しい位悲しかつた昨日《きのふ》一昨日《をとゝひ》の氣分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでゐたらしく考へて、其時味はつた痛烈な悲哀を却つて戀しく思つた。
 
      七
 
 骨上《こつあげ》には御仙と須永と千代子と夫《それ》に平生《ふだん》宵子の守をしてゐた清《きよ》といふ下女が附いて都合|四人《よつたり》で行つた。柏木《かしはぎ》の停車場《ステーシヨン》を下りると二丁位な所を、つい氣が付かずに宅《うち》から車に乘つて出たので時間は却つて長く掛つた。火葬場の經驗は千代子に取つて生れて始めてであつた。久しく見ずにゐた郊外の景色《けしき》も忘れ物を思ひ出した樣に嬉しかつた。眼に入るものは青い麥畠と青い大根畠と常磐木《ときはぎ》の中に赤や青や褐色を雜多に交ぜた森の色であつた。前へ行く須永は時々|後《うしろ》を振り返つて、穴八幡《あなはちまん》だの諏訪《すは》の森《もり》だのを千代子に教へた。車が暗いだら/\坂へ來た時、彼は又小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子の爲に指《ゆびさ》した。夫《それ》には弘法大師《こうぼふだいし》千五十年|供養塔《くやうたふ》と刻《きざ》んであつた。その下に熊笹の生ひ茂つた吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋の袂を左《さ》も田舎路らしく見せてゐた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の變つた小さい葉が一つづゝ落ちて來た。夫《それ》が空中で非常に早くきり/\舞ふ姿が鮮やかに千代子の眼を刺戟した。夫《それ》が容易に地面の上へ落ちずに、何時《いつ》迄も途中でびら/\するのも、彼女には眼新らしい現象であつた。
 火葬場は日當りの好い平地《ひらち》に南を受けて建てられてゐるので、車を門内に引き入れた時、思つたより陽氣な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云ふと、郵便局の受付口見た樣な窓の中に坐つてゐた男が、鍵《かぎ》は御持ちでせうねと聞いた。御仙は變な顔をして急に懷や帶の間を探り出した。
 「飛んだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥の上へ置いたなり……」
 「持つて來なかつたの。ぢや困るわね。まだ時間があるから急いで市《いつ》さんに取つて來て貰ふと好いわ」
 二人の問答を後《うしろ》の方で冷淡に聞いてゐた須永は、鍵なら僕が持つて來てゐるよと云つて、冷たい重いものを袂から出して叔母に渡した。御仙が夫《それ》を受付口へ見せてゐる間に、千代子は須永を窘《たし》なめた。
 「市《いつ》さん、貴方本當に惡《にく》らしい方《かた》ね。持つてるなら早く出して上げれば可《い》いのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭が盆槍《ぼんやり》してゐるから忘れるんぢやありませんか」
 須永は唯微笑して立つてゐた。
 「貴方の樣な不人情な人は斯んな時には一層《いつそ》來ない方が可《い》いわ。宵子さんが死んだつて、涙一つ零《こぼ》すぢやなし」
 「不人情なんぢやない。まだ子供を持つた事がないから、親子の情愛が能く解らないんだよ」
 「まあ。能く叔母さんの前でそんな呑氣《のんき》な事が云へるのね。ぢや妾《あたし》なんか何うしたの。何時《いつ》子供持つた覺があつて」
 「あるか何うか僕は知らない。けれども千代ちやんは女だから、大方男より美くしい心を持つてるんだらう」
 御仙は二人の口論を聞かない人の樣に、用事を濟ますとすぐ待合所の方へ歩いて行つた。其所へ腰を掛けてから、立つてゐる千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の傍《そば》へ來て座に着いた。須永も續いて這入つて來た。さうして二人の向側《むかふがは》にある凉み臺見た樣なものゝ上に腰を掛けた。清も御掛けと云つて自分の席を割《さ》いて遣つた。
 四人が茶を呑んで待ち合はしてゐる間《あひだ》に、骨上《こつあげ》の連中が二三組見えた。最初のは田舎|染《じ》みた御婆さん丈《だけ》で、是は御仙と千代子の服裝に對して遠慮でもしたらしく口數を多く利《き》かなかつた。次には尻を絡《から》げた親子連《おやこづれ》が來た。活?な聲で、壺を下さいと云つて、一番安いのを十六錢で買つて行つた。三番目には散髪《さんぱつ》に角帶を締めた男とも女とも片の付かない盲者《めくら》が、紫の袴を穿《は》いた女の子に手を引かれて遣つて來た。さうして未《ま》だ時間はあるだらうねと念を押して、袂から出した卷烟草を吸ひ始めた。須永は此|盲者《めくら》の顔を見ると立ち上つてぷいと表へ出たぎり中々返つて來なかつた。所へ事務所のものが御仙の傍《そば》へ來て、用意が出來ましたから何うぞと促《うな》がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
 
     八
 
 眞鍮の掛札に何々殿と書いた並等《なみとう》の竈《かま》を、薄氣味惡く左右に見て裏へ拔けると、廣い空地《あきち》の隅に松薪《まつまき》が山の樣に積んであつた。周圍《まはり》には綺麗な孟宗藪《まうそうやぶ》が蒼々と茂つてゐた。其下が茶畠で、麥畠の向ふが又岡續きに高く蜿蜒《うね/\》してゐるので、北側の眺めは殊に晴々《はれ/”\》しかつた。須永は此|空地《あきち》の端《はし》に立つて廣い眼界をぼんやり見渡してゐた。
 「市《いつ》さん、もう用意が出來たんですつて」
 須永は千代子の聲を聞いて黙つた儘歸つて來たが、「あの竹藪は大變見事だね。何だか死人《しびと》の膏《あぶら》が肥料《こやし》になつて、あゝ生々《いき/\》延びる樣な氣がするぢやないか。此所に出來る筍《たけのこ》は屹度《きつと》旨いよ」と云つた。千代子は「おゝ厭だ」と云《い》ひ放《ぱなし》にして、さつさと又|並等《なみとう》を通り拔けた。宵子の竈《かま》は上等の一號といふので、扉の上に紫の幕が張つてあつた。その前に昨日《きのふ》の花環が少し凋《しぼ》み掛けて、臺の上に靜かに横たはつてゐた。夫《それ》が昨夜《ゆうべ》宵子の肉を燒いた熱氣《ねつき》の記念《かたみ》の樣に思はれるので、千代子は急に息苦しくなつた。御坊《おんばう》が三人出て來た。其内の一番年を取つたのが「御封印を……」と云ふので、須永は「よし、構はないから開けて呉れ」と頼んだ。畏まつた御坊は自分の手で封印を切つて、かちやりと響く音をさせながら錠《ぢやう》を拔いた。黒い鐵の靡が左右へ開《あ》くと、薄暗い奧の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない一塊《ひとかたまり》となつて朧氣《おぼろげ》に見えた。御坊は「今出しませう」と斷つて、レールを二本前の方に繼ぎ足して置いて、鐵の環《くわん》に似たものを二つ棺臺の端《はし》に掛けたかと思ふと、忽然《いきなり》がら/\といふ音と共に、かの形を成さない一塊《ひとかたまり》の燒殘《やけのこり》が四人の立つてゐる鼻の下へ出て來た。千代子は其なかで、例の御供《おそなへ》に似てふつくらと膨らんだ宵子の頭葢骨が、生きてゐた時其儘の姿で殘つてゐるのを認めて急に手吊《ハンケチ》を口に銜《くは》へた。御坊は此頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を殘して、「あとは綺麗に篩《ふる》つて持つて參りませう」と云つた。
 四人《よつたり》は各自《めい/\》木箸と竹箸を一本|宛《づゝ》持つて、臺の上の白骨《はくこつ》を思ひ思ひに拾つては、白い壺の中へ入れた。さうして誘ひ合せた樣に泣いた。たゞ須永|丈《だけ》は蒼白い顏をして口も利かず鼻も鳴らさなかつた。「齒は別になさいますか」と聞きながら、御坊が小器用に齒を拾ひ分けて呉れた時、顎をくしや/\と潰して其中から二三枚|擇《よ》り出したのを見た須永は、「斯うなると丸《まる》で人間の樣な氣がしないな。砂の中から小石を拾ひ出すと同じ事だ」と獨言《ひとりごと》の樣に云つた。下女が三和土《たゝき》の上にぽた/\と涙を落した。御仙と千代子は箸を置いて手帛《ハンケチ》を顔へ當てた。
 車に乘るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺を抱《だ》いて夫《それ》を膝の上に載せた。車が馳け出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高い欅《けやき》が白茶《しらちや》けた幹を路の左右に並べて、彼等を送り迎へる如くに細い枝を搖り動かした。其細い枝が遙か頭の上で交叉する程繁く兩側から出てゐるのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思つて、千代子は折々頭を上げては、遠い空を眺めた。宅《うち》へ着いて遺骨を佛壇の前に置いた時、すぐ寄つて來た小供が、葢《ふた》を開けて見せて呉れといふのを彼女は斷然拒絶した。
 やがて家内中同じ室《へや》で晝飯の膳に向つた。「斯うして見ると、まだ子供が澤山ゐるやうだが、是で一人もう缺けたんだね」と須永が云ひ出した。
 「生きてる内は夫《それ》程《ほど》にも思はないが、逝かれて見ると一番惜しい樣だね。此所にゐる連中のうちで誰か代りになれば可《い》いと思ふ位だ」と松本が云つた。
 「非道《ひど》いわね」と重子が咲子に耳語《さゝや》いた。
 「叔母さん又奮發して、宵子さんと瓜二つの樣な子を拵えて頂戴。可愛《かはい》がつて上げるから」
 「宵子と同じ子ぢや不可《いけ》ないでせう、宵子でなくつちや。御茶碗や帽子と違つて代りが出來たつて、亡《な》くしたのを忘れる譯にや行かないんだから」
 「己《おれ》は雨の降る日に紹介状を持つて會ひに來る男が厭になつた」
 
  須永の話
 
 
 敬太郎は須永の門前で後姿の女を見て以來、此二人を結び付ける縁《えん》の糸を常に想像した。其糸には一種夢の樣な匂があるので、二人を眼の前に、須永とし又千代子として眺める時には、却つて何處かへ消えて仕舞ふ事が多かつた。けれども彼等が普通の人間として敬太郎の肉眼に現實の刺戟を與へない折々には、失なはれた糸が又二人の中を離すべからざる因果の如くに繋《つな》いだ。田口の家《うち》へ出入《でいり》する樣になつてからも、須永と千代子の關係に就いては、一口でさへ誰からも聞いた事はなし、又二人の樣子を直《ぢか》に觀察しても尋常の從兄弟《いとこ》以上に何物も仄《ほの》めいてゐなかつたには違ないが、斯ういふ當初からの聯想に支配されて、彼は頭の何處かに、二人を常に一對《いつつゐ》の男女《なんによ》として認める傾きを有《も》つてゐた。女の連添はない若い男や、男の手を組まない若い女は、要するに敬太郎から見れば自然を損なつた片輪に過ぎないので、彼が自分の知る彼等を頭のうちで斯樣《かやう》に組み合はせたのは、まだ片輪の境遇に迷兒付《まごつ》いてゐる二人に、自然が生み付けた通りの資格を早く與へて遣りたいといふ道義心の要求から起つたのかも知れなかつた。
 それは小六づかしい理窟だから、假令《たとひ》何《ど》んな要求から起らうと敬太郎の爲に辯ずる必要はないが、此頃になつて偶然千代子の結婚談を耳にした彼が、頭の中の世界と、頭の外にある社會との矛盾に、一寸首を捻《ひね》つたのは事實に相違なかつた。彼は其話を書生の佐伯《さへき》から聞いたのである。尤も佐伯の樣なものが、まだ事の纒まらない先から、奧の委しい話を知らう筈がなかつた。彼はたゞ漠然とした顔の筋肉を何時《いつ》もより緊張させて、何でもそんな評判ですと云ふ丈《だけ》であつた。千代子を貰ふ人の名前も無論分らなかつたが、身分の實業家である事は慥《たしか》に思はれた。
 「千代子さんは須永君の所へ行くのだと許《ばかり》思つてゐたが、左《さ》うぢやないのかね」
 「左《さ》うも行かないでせう」
 「何故《なぜ》」
 「何故つて聞かれると、僕にも明瞭な答は出來|惡《にく》いんですが、一寸考へて見ても六づかしさうですね」
 「左《さ》うかね、僕は又丁度好い夫婦だと思つてるがね。親類ぢやあるし、年だつて五つか六つ違なら可笑《をか》しかなしさ」
 「知らない人から見ると一寸さう見えるでせうがね。裏面には色々複雜な事情もある樣ですから」
 敬太郎は佐伯の云はゆる「複雜な事情」なるものを根堀り葉堀り聞きたくなつたが、何だか自分を門外漢扱ひにする樣な彼の言葉が癪に障るのと、高《たか》が玄關番の書生から家庭の内幕を聞き出したと云はれては自分の品格に拘はるのと、最後には、口程詳しい事情を佐伯が知つてゐる氣遣《きづかひ》がないのとで、夫《それ》限《ぎり》其話は已《や》めにした。其折序ながら奧へ行つて細君に挨拶をして少時《しばらく》話したが、別に平生と何の變る樣子もないので、御目出たう御座いますと云ふ勇氣も出なかつた。
 是は敬太郎が須永の宅《うち》で矢來の叔父さんの家《うち》にあつた不幸を千代子から聞いたつい二三日前の事であつた。其日彼が久し振に須永を訪問したのも、實は其結婚問題に就いて須永の考へを確かめる積《つもり》であつた。須永が何處の何人《なんぴと》と結婚しやうと、千代子が何處の何人《なんぴと》に片附かうと、夫《それ》は敬太郎の關係する所ではなかつたが、此二人の運命が、夫《それ》程《ほど》容易《たやす》く右左へ未練なく離れ/”\になり得るものか、又は自分の想像した通り幻《まぼろ》しに似た糸の樣なものが、二人にも見えない縁となつて、彼等を冥々《めい/\》のうちに繋ぎ合せてゐるものか。夫《それ》とも此夢で織つた帶とでも形容して然るべき散《ち》ら散《ち》らするものが、或時は二人の眼に明らかに見え、或時は全たく切れて、彼等をばら/\に孤立させるものか、――其所いらが敬太郎には知りたかつたのである。固《もと》より夫《それ》は單なる物數奇《ものずき》に過ぎなかつた。彼は明らかに左《さ》うだと自覺してゐた。けれども須永に對してなら、此物數奇を滿足させても無禮に當らない事も自覺してゐた。夫《それ》許《ばかり》か此物數奇を滿足させる權利があると迄信じてゐた。
 
     二
 
 其日は生憎《あいにく》千代子に妨たげられた上、仕舞には須永の母さへ出て來たので、大分《だいぶ》長く坐つてゐたにも拘はらず、立ち入つた話は一切持ち出す機會がなかつた。たゞ敬太郎は偶然にも自分の前に並んだ三人が、有の儘の今の姿で、現に似合はしい夫婦と姑《しうとめ》に成り終《おほ》せてゐるといふ事に不圖思ひ及んだ時、彼等を世間並の形式で纒めるのは、最も容易《たやす》い仕事の樣に考へて歸つた。
 次の日曜が又幸いな暖かい日和《ひより》を凡《すべ》ての勤《つと》め人《にん》に惠んだので、敬太郎は朝早くから須永を尋ねて、郊外に誘《いざ》なはうとした。無精《ぶしやう》で我儘な彼は玄關先迄出て來ながら、中々應じさうにしなかつたのを、母親が無理に勸めて漸く靴を穿《は》かした。靴を穿いた以上彼は、敬太郎の意志通り何方《どつち》へでも動く人であつた。其代りいくら相談を掛けても、ある判切《はつきり》した方角へ是非共足を運ばなければならないと主張する男ではなかつた。彼と矢來の松本と一所に出ると、二人とも行先を考へずに歩くので、一致して飛んでもない所へ到着する事がまゝ有つた。敬太郎は現に此人の母の口から其例を聞かされたのである。
 此日彼等は兩國から汽車に乘つて鴻《こう》の臺《だい》の下迄行つて降りた。夫《それ》から美くしい廣い河に沿つて土堤《どて》の上をのそ/\歩いた。敬太郎は久し振に晴々《はれ/”\》した好い氣分になつて、水だの岡だの帆懸船《ほかけぶね》だのを見廻した。須永も景色《けしき》丈《だけ》は賞めたが、まだ斯んな吹き晴らしの土堤《どて》などを歩く季節ぢやないと云つて、寒いのに伴《つ》れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖たかくなると主張した敬太郎はさつさと歩き始めた。須永は呆れた樣な顔をして跟《つ》いて來た。二人は柴又《しばまた》の帝釋天《たいしやくてん》の傍《そば》迄來て、川甚《かはじん》といふ家《うち》へ這入つて飯を食つた。其所で誂《あつ》らへた鰻の蒲燒が甘垂《あまた》るくて食へないと云つて、須水は又苦い顔をした。先刻《さつき》から二人の氣分が熟しないので、しんみりした話をする餘地が出て來ないのを苦しがつてゐた敬太郎は、此時須永に「江戸つ子は贅澤なものだね。細君を貰ふときにも左《さ》う贅澤を云ふかね」と聞いた。
 「云へれば誰だつて云ふさ。何も江戸つ子に限りあしない。君見た樣な田舍ものだつて云ふだらう」
 須永は斯う答へて澄ましてゐた。敬太郎は仕方なしに「江戸つ子は無愛嬌なものだね」と云つて笑ひ出した。須永も突然|可笑《をか》しくなつたと見えて笑ひ出した。夫《それ》から後《あと》は二人の氣分と同じ樣に、二人の會話も圓滿に進行した。敬太郎が須永から「君も此頃は大分《だいぶ》落ち付いて來た樣だ」と評されても、彼は「少し眞面目になつたかね」と大人《おとな》しく受けるし、彼が須永に「君は益《ます/\》偏窟に傾くぢやないか」と調戯《からか》つても、須永は「何うも自分ながら厭になる事がある」と快よく己《おの》れの弱點を承認する丈《だけ》であつた。
 斯ういふ打ち解けた心持で、二人が差し向いに互の眼の奧を見透《みとほ》して恥づかしがらない時に、千代子の問題が持ち出されたのは、其眞相を聞かうとする敬太郎に取つて偶然の仕合せであつた。彼は先づ一週間程前耳にした彼女が近いうちに結婚するといふ噂を皮切《かはきり》に須永を襲つた。其時須永は少しも昂奮した樣子を見せなかつた。寧ろ何時《いつ》もより沈んだ調子で、「又何か縁談が起り掛けてゐるやうだね。今度は旨く纒まれば可《い》いが」と答へたが、急に口調《くてう》を更《か》へて、「なに君は知らない事だが、今迄もさう云ふ話は何度もあつたんだよ」と左《さ》も陳腐《ちんぷ》らしさうに説明して聞かせた。
 「君は貰ふ氣はないのかい」
 「僕が貰ふ樣に見えるかね」
 話しは斯んな風に、御互で引き摺る樣にして段々先へ進んだが、愈《いよ/\》際《きは》どい所迄打ち明けるか、左《さ》もなければ題目を更《か》へるより外に仕方がないといふ點迄押し詰められた時、須永はとう/\敬太郎に「又|洋杖《ステツキ》を持つて來たんだね」と云つて苦笑した。敬太郎も笑ひながら縁側へ出た。其所から例の洋杖《ステツキ》を取つて又這入つて來たが、「此通りだ」と蛇の頭を須永に見せた。
 
     三
 
 須永の話は敬大郎の豫期したよりも遙かに長かつた。――
 僕の父は早く死んだ。僕がまだ親子の情愛を能く解しない子供の頃に突然死んで仕舞つた。僕は子がないから、自分の血を分けた温たかい肉の塊《かたま》りに對する情《なさけ》は、今でも比較的薄いかも知れないが、自分を生んで呉れた親を懷かしいと思ふ心は其後《そのご》大分《だいぶ》發達した。今の心を其時分持つてゐたならと考へる事も稀ではない。一言《いちごん》でいふと、當時の僕は父には甚だ冷淡だつたのである。尤も父も決して甘い方ではなかつた。今の僕の胸に映る彼の顏は、骨の高い血色の勝《すぐ》れない、親しみの薄い、嚴格な表情に充ちた肖像に過ぎない。僕は自分の顔を鏡の裏《うち》に見るたんびに、それが胸の中《なか》に収めた父の容貌と大變似てゐるのを思ひ出しては不愉快になる。自分が父と同じ厭な印象を、傍《はた》の人に與へはしまいかと苦に病んで、其所で氣が引ける許《ばかり》ではない。斯んな陰欝な眉や額が代表するよりも、まだ増しな温たかい情愛を、血の中に流してゐる今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も、心の底には自分以上に熱い涙を貯《たくは》へてゐたのではなからうかと考へると、父の記念《かたみ》として、彼の惡い上皮《うはかは》丈《だけ》を覺えてゐるのが、子として如何にも情ない心持がするからである。父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「市藏、おれが死ぬと御母《おかあ》さんの厄介にならなくつちやならないぞ。知つてるか」と云つた。僕は生れた時から母の厄介になつてゐたのだから、今更改ためて父からそれを聞かされるのを妙に思つた。黙つて坐つてゐると、父は骨|許《ばかり》になつた顔の筋を無理に動かす樣にして、「今の樣に腕白ぢや、御母さんも構つて呉れないぞ。もう少し大人《おとな》しくしないと」と云つた。僕は母が今迄構つて呉れたんだから此儘の僕で澤山だといふ氣が充分あつた。それで父の小言《こごと》を丸《まる》で必要のない餘計な事の樣に考へて病室を出た。
 父が死んだ時母は非常に泣いた。葬式が出る間際《まぎは》になつて、僕は着物を着換えさせられた儘、手持無沙汰だから、一人縁側へ出て、蒼い空を覗き込む樣に眺めてゐると、白無垢《しろむく》を着た母が何を思つたか不意に其所へ出て來た。田口や松本を始め、供《とも》に立つものはみんな向《むかふ》の方で混雜《ごた/\》してゐたので、傍《はた》には誰も見えなかつた。母は突然《いきなり》自分の坊主頭へ手を載せて、泣き腫《は》らした眼を自分の上に据ゑた。さうして小さい聲で、「御父さんが御亡《おな》くなりになつても、御母さんが今迄通り可愛《かはい》がつて上げるから安心なさいよ」と云つた。僕は何とも答へなかつた。涙も落さなかつた。其時は夫《それ》で濟んだが、兩親《ふたおや》に對する僕の記憶を、生長の後《のち》に至つて、遠くの方で曇らすものは、二人の此時の言葉であるといふ感じが其《その》後《のち》次第々々に強く明らかになつて來た。何の意味も付ける必要のない彼等の言葉に、僕は何故《なぜ》厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見ても丸《まる》で説明が付かなかつた。時々は母に向つて直《ぢか》に問ひ糺《たゞ》して見たい氣も起つたが、母の顔を見ると急に勇氣が摧《くじ》けて仕舞ふのが例《つね》であつた。さうして心の中《うち》の何處かで、それを打ち明けたが最後、親しい母子《おやこ》が離れ/”\になつて、永久今の睦《むつ》ましさに戻る機會はないと僕に耳語《さゝや》くものが出て來た。夫《それ》でなくても、母は僕の眞面目な顏を見守つて、そんな事が有つたつけかねと笑ひに紛らしさうなので、さう剥《は》ぐらかされた時の殘酷な結果を豫想すると、到底《とて》も口へ出された義理ぢやないと思ひ直しては黙つてゐた。
 僕は母に對して決して柔順な息子《むすこ》ではなかつた。父の死ぬ前に枕元へ呼び付けられて意見された丈《だけ》あつて、小さいうちから能く母に逆らつた。大きくなつて、女親だけに猶更《なほさら》優しくして遣りたいといふ分別が出來た後《あと》でも、矢つ張り彼女の云ふ通りにはならなかつた。此二三年は殊に心配ばかり掛けてゐた。が、幾何《いくら》勝手を云ひ合つても、母子《おやこ》は生れて以來の母子《おやこ》で、此|貴《たつ》とい觀念を傷つけられた覺は、重手《おもで》にしろ淺手《あさで》にしろ、まだ經驗した試しがないといふ考へから、若し彼《あ》の事を云ひ出して、二人共後悔の瘢痕《はんこん》を遺さなければ濟まない瘡《きず》を受けたなら、夫《それ》こそ取返しの付かない不幸だと思つてゐた。此畏怖の念は神經質に生れた僕の頭で拵らえるのかも知れないとも疑《うたぐ》つて見た。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未來として存在してゐる事が多かつた。だから僕は彼《あ》の時の父と母の言葉を、それなり忘れて仕舞ふ事が出來なかつたのを、今でも情なく感ずるのである。
 
      四
 
 父と母の間は何《ど》れ程圓滿であつたか、僕には分らない。僕はまだ妻《さい》を貰つた經驗がないから、さう云ふ事を口にする資格はないかも知れないが、如何《いか》な仲の善《い》い夫婦でも、時々は氣不味《きまづ》い思を爲合《しあ》ふのが人間の常だらうから、彼等だつて永く添つてゐるうちには面白くない汚點《しみ》を双方の胸の裏《うち》に見出《みいだ》しつゝ、世間も知らず互も口にしない不満を、自分一人|苦《にが》く味はつて我慢した場合もあつたのだらうと思ふ。尤も父は疳癖の強い割に陰性な男だつたし、母は長唄をうたふ時より外に、大きな聲の出せない性分《たち》なので、僕は二人の言ひ爭そふ現場《げんば》を、父の死ぬ迄|未《いま》だ曾《かつ》て目撃した事がなかつた。要するに世間から云へば、僕等の宅《うち》程《ほど》靜かに整のつた家庭は滅多に見當らなかつたのである。あの位|他《ひと》の惡口を露骨にいふ松本の叔父でさへ、今だにさう認めて間違《まちがひ》ないものと信じ切つてゐる。
 母は僕に對して死んだ父を語る毎に、世間の夫《をつと》のうちで最も完全に近いものゝ樣に説明して已《や》まない。是は幾分か僕の腹の底に濁つた儘沈んでゐる父の記憶を清めたい爲の辯護とも思はれる。又は彼女自身の記憶に時間の布巾《ふきん》を掛けて段々|光澤《つや》を出す積《つもり》とも見られる。けれども慈愛に充ちた親としての父を僕に紹介する時には、彼女の態度が全く一變する。平生僕が目《ま》の當《あた》りに見てゐるあの柔和な母が、何うして斯う眞面目になれるだらうと驚ろく位、嚴肅な氣象で僕を打ち据ゑる事さへあつた。が、夫《それ》は僕が中學から高等學校へ移る時分の昔である。今はいくら母に強請《せび》つて同じ話を繰り返して貰つても、そんな氣高《けだか》い氣分には到底《とて》もなれない。僕の情操は其頃から學校を卒業する迄の間に、近頃の小説に出る主人公の樣に、丸《まる》で荒《すさ》み果てたのだらう。現代の空氣に中毒した自分を呪ひたくなると、僕は時々もう一遍で好いから、母の前であゝ云ふ崇高な感じに觸れて見たいといふ望を起すが、同時に其望みが到底《とて》も遂げられない過去の夢であるといふ悲しみも湧いて來る。
 母の性格は吾々が昔から用ひ慣れた慈母といふ言葉で形容さへすれば、夫《それ》で盡きてゐる。僕から見ると彼女は此二字の爲に生れて此二字の爲に死ぬと云つても差支ない。まことに氣の毒であるが、夫《それ》でも母は生活の滿足を此一點にのみ集注してゐるのだから、僕さへ充分の孝行が出來れば、是に越した彼女の喜はないのである。が、もし其僕が彼女の意に背《そむ》く事が多かつたら、是程の不幸は又彼女に取つて決してない譯になる。それを思ふと僕は非常に心苦しい事がある。
 思ひ出したから此所で一寸云ふが、僕は生れてからの一人息子ではない。子供の時分に妙《たへ》ちやんといふ妹《いもと》と毎日遊んだ事を覺えてゐる。其|妹《いもと》は大きな模樣のある被布《ひふ》を平生《ふだん》着て、人形の樣に髪を切り下げてゐた。さうして僕の事を常に市藏ちやん/\と云つて、兄さんとは決して呼ばなかつた。此|妹《いもと》は父の亡《な》くなる何年前かに實扶的里亞《ジフテリア》で死んで仕舞つた。其頃は血清注射がまだ發明されない時分だつたので、治療も大變に困難だつたのだらう。僕は固《もと》より實扶的里亞《ジフテリア》と云ふ名前さへ知らなかつた。宅《うち》へ見舞に來た松本に、御前も實扶的里亞《ジフテリア》かと調戯《からか》はれて、うん左《さ》うぢやないよ僕軍人だよと答へたのを今だに忘れずにゐる。妹《いもと》が死んでから當分は六づかしい父の顔が大分《だいぶ》優しく見えた。母に向つて、まことに御前には氣の毒な事をしたといつた顔が殊に穩かだつたので、小供ながら、つい其時の言葉迄|小《ち》さい胸に刻み付けて置いた。然し母が夫《それ》に對して何う答へたかは全く知らない。いくら思ひ出さうとしても思ひ出せない所をもつて見ると、初から覺えなかつたのだらう。是程鋭敏に父を觀察する能力を、小供の時から持つてゐた僕が、母に對する注意に缺けてゐたのも不思議である。人間が自分よりも餘計に他《ひと》を知りたがる癖のあるものだとすれば、僕の父は母よりも餘程他人らしく僕に見えてゐたのかも分らない。それを逆に云ふと、母は觀察に價《あたひ》しない程僕に親しかつたのである。――兎に角|妹《いもと》は死んだ。それからの僕は父に對しても母に對しても一人息子であつた。父が死んで以後の今の僕は母に對しての一人息子である。
 
     五
 
 だから僕は母を出來る丈《だけ》大事にしなければ濟まない。が、實際は同じ源因が却つて僕を我儘にしてゐる。僕は去年學校を卒業してから今日《こんにち》迄《まで》、まだ就職といふ問題について唯の一日も頭を使つた事がない。出た時の成績は寧ろ好い方であつた。席次を目安《めやす》に人を採る今の習慣を利用しやうと思へば、隨分友達を羨ましがらせる位置に坐り込む機會もないではなかつた。現に一度はある方面から人選《にんせん》の依託《いたく》を受けた某教授に呼ばれて意向を聞かれた記憶さへ有《も》つてゐる。夫《それ》だのに僕は動かなかつた。固《もと》より自慢で斯う云ふ話をするのではない。眞底を打ち明ければ寧ろ自慢の反對で、全く信念の缺乏から來た引込《ひつこ》み思案なのだから不愉快である。が、朝から晩迄氣骨を折つて、世の中に持て囃《はや》された所で、何處が何うしたんだといふ横着は、無論斷わる時から付け纒つてゐた。僕は時めくために生れた男ではないと思ふ。法律などを修めないで、植物學か天文學でも遣つたらまだ性に合つた仕事が天から授かるかも知れないと思ふ。僕は世間に對しては甚だ氣の弱い癖に、自分に對しては大變辛抱の好い男だから左《さ》う思ふのである。
 斯ういふ僕の我儘を我儘なりに通して呉れるものは、云ふ迄もなく父が遺して行つた僅ばかりの財産である。もし此財産がなかつたら、僕は何《ど》んな苦しい思をしても、法學士の肩書を利用して、世間と戰かはなければならないのだと考へると、僕は死んだ父に對して改ためて感謝の念を捧げたくなると同時に、自分の我儘は此財産のためにやつと存在を許されてゐるのだから餘程腰の坐らない淺墓《あさはか》なものに違ないと推斷する。さうして其犠牲にされてゐる母が一層氣の毒になる。
 母は昔堅氣《むかしかたぎ》の教育を受けた婦人の常として、家名を揚げるのが子たるものゝ第一の務だといふ樣な考へを、何より先に抱《いだ》いてゐる。然し彼女の家名を揚げるといふのは、名譽の意味か、財産の意味か、權力の意味か、又はコ望の意味か、其所へ行くと全く何の分別もない。たゞ漠然と、一つが頭の上に落ちて來れば、凡《すべ》て其他が後《あと》を追つて門前に輻輳《ふくそう》する位に思つてゐる。然し僕はさういふ問題に就いて、何事も母に説明して遣る勇氣がない。説明して聞かせるには、先づ僕の見識で尤もと認めた家名の揚げ方をした上でないと、僕に其資格が出來ないからである。僕は如何なる意味に於ても家名を揚げ得る男ではない。たゞ汚《けが》さない丈《だけ》の見識を頭に入れて置く許《ばかり》である。さうして其見識は母に見せて喜こんで貰へる所か、彼女とは丸《まる》で懸け離れた縁のないものなのだから、母も心細いだらう。僕も淋しい。
 僕が母に掛ける心配の數あるうちで、第一に擧げなければならないのは、今話した通りの僕の缺點である。然し此缺點を矯《た》めずに母と不足なく暮らして行かれる程、母は僕を愛してゐて呉れるのだから、唯濟まないと思ふ心を失なはずに、此儘で押せば押せない事もないが、此我儘よりももつと鋭どい失望を母に與へさうなので、僕が私《ひそ》かに胸を痛めてゐるのは結婚問題である。結婚問題と云ふより僕と千代子を取り卷く周圍の事情と云つた方が適當かも知れない。夫《それ》を説明するには話の順序として先づ千代子の生れない當時に溯《さかの》ぼる必要がある。其頃の田口は決して今程の幅利《はゞきゝ》でも資産家でもなかつた。たゞ將來見込のある男だからと云ふので、父が母の妹《いもと》に當るあの叔母を嫁に遣るやうに周旋したのである。田口は固《もと》より僕の父を先輩として仰いでゐた。何蚊《なにか》につけて相談もしたり、世話にもなつた。兩家の間に新らしく成立した此親しい關係が、月と共に加速度を以て圓滿に進行しつゝある際に千代子が生れた。其時僕の母は何う思つたものか、大きくなつたら此子を市藏の嫁に呉れまいかと田口夫婦に頼んだのださうである。母の語る所によると、彼等は其折快よく母の頼みを承諾したのだと云ふ。固《もと》より後《あと》から百代が生まれる、吾一《ごいち》といふ男の子も出來る、千代子も遣らうとすれば何處へでも遣られるのだが、屹度《きつと》僕に遣らなければならない程確かに母に受合つたか何うか、其所は僕も知らない。
 
     六
 
 兎に角僕と千代子の間には兩方其物心の付かない當時から既に斯ういふ絆《きづな》があつた。けれども其|絆《きづな》は僕等二人を結び付ける上に於て頗る怪しい絆《きづな》であつた。二人は固《もと》より天に上《あが》る雲雀《ひばり》の如く自由に生長した。絆《きづな》を綯《な》つた人でさへ確《しか》と其|端《はし》を握つてゐる氣ではなかつたのだらう。僕は怪しい絆《きづな》といふ文字を奇縁といふ意味で此所に使ふ事の出來ないのを深く母の爲に悲しむのである。
 母は僕の高等學校に這入つた時分|夫《それ》となく千代子の事を仄《ほの》めかした。其頃の僕に色氣のあつたのは無論である。けれども未來の妻《さい》といふ觀念は丸《まる》で頭に無かつた。そんな話に取り合ふ落ち付さへ持つてゐなかつた。殊に子供の時から一所に遊んだり喧嘩をしたり、殆んど同じ家に生長したと違はない親しみのある少女は、餘り自分に近過ぎるためか甚だ平凡に見えて、異性に對する普通の刺戟を與へるに足りなかつた。是は僕の方ばかりではあるまい、千代子も恐らく同感だらうと思ふ。其證據には長い交際の前後を通じて、僕は未《いま》だ曾《かつ》て男として彼女から取り扱かはれた經驗を記憶する事が出來ない。彼女から見た僕は、怒《おこ》らうが泣かうが、科《しな》をしようが色眼を使はうが、常に變らない從兄《いとこ》に過ぎないのである。尤も是は幾分か、純粹な氣象を受けて生れた彼女の性情からも出るので、其所になると又僕程彼女を知り拔いてゐるものはないのだが、單に夫《それ》丈《だけ》であゝ男女《なんによ》の牆壁《しやうへき》が取り除《の》けられる譯のものではあるまい。たゞ一度……然し是は後で話す方が宜《よ》からうと思ふ。
 母は自分のいふ事に耳を借さなかつた僕を羞恥家《はにかみや》と解釋して、再び時機を待つものゝ如くに、此問題を懷に収めた。羞恥《はにかみ》は僕と雖ども否定する勇氣がない。然し千代子に意があるから羞恥《はにか》んだのだと取つた母は、全くの反對を事實と認めたと同じ事である。要するに母は未來に對する準備といふ考から、僕等二人を成る可く仲善く育て上げやう/\と力《つと》めた結果、男女《なんによ》としての二人を次第に遠ざからした。さうして自分では知らずにゐた。夫《それ》を知らなければならない樣にした僕は全く殘酷であつた。
 其日の事を語るのが僕には實際の苦痛である。母は高等學校時代に匂はした千代子の問題を、僕が大學の二年になる迄、凝《ぢつ》と懷に抱《だ》いた儘一人で温めてゐたと見えて、ある晩――春休みの頃の花の咲いたといふ噂のあつた或日の晩――そつと僕の前に出して見せた。其時は僕も大分《だいぶ》大人《おとな》らしくなつてゐたので、靜かに其問題を取り上げて、裏表から鄭寧に吟味する餘裕が出來てゐた。母も其時にはたゞ遠くから匂はせる丈《だけ》でなくて、自分の希望に正當の形式を與へる事を忘れなかつた。僕は何心なく從妹《いとこ》は血屬だから厭だと答へた。母は千代子の生れた時呉れろと頼んで置いたのだから貰つたら可《い》いだらうと云つて僕を驚ろかした。何故《なぜ》そんな事を頼んだのかと聞くと、何故でも私《わたし》の好きな子で、御前も嫌ふ筈がないからだと、赤ん坊には應用の利かない樣な挨拶をして僕を弱らせた。段々其所を押して見ると、仕舞に涙ぐんで、實は御前の爲ではない、全く私《わたし》の爲に頼むのだと云ふ。しかも何うして夫《それ》が母の爲になるのか、其理由は幾何《いくら》聞いても語らない。最後に何でも蚊でも千代子は厭かと聞かれた。僕は厭でも何でもないと答へた。然し當人も僕の所へ來る氣はなし、田口の叔父も叔母も僕に呉れたくはないのだから、そんな事を申し込むのは止した方が好い、先方で迷惑する丈《だけ》だからと教へた。母は約束だから迷惑しても構はない、又迷惑する筈がないと主張して、昔《むか》し田口が父の世話になつたり厄介になつたりした例を數へ擧げた。僕は已《やむ》を得ないから此問題は卒業する迄解決を着けずに置かうと云ひ出した。母は不安の裏《うち》に一縷《いちる》の望を現はした顔色をして、もう一遍|篤《とく》と考へて見て呉れと頼んだ。
 斯ういふ事情で、今迄母一人で懷に抱《だ》いてゐた問題を、其《その》後《のち》は僕も抱《だ》かなければならなくなつた。田口は又田口流に、同じ問題を孵《かへ》しつゝあるのではなからうか。假令《たとひ》千代子を外《ほか》へ縁付けるにしても、いざと云ふ場合には一應|此方《こちら》の承諾を得る必要があるとすれば、叔父も氣掛りに違ひない。
 
      七
 
 僕は不安になつた。母の顔を見る度に、彼女を欺むいて其日々々を姑息《こそく》に送つてゐる樣な氣がして濟まなかつた。一頃は思ひ直して出來得るならば母の希望通り千代子を貰つて遣りたいとも考へた。僕は其爲にわざ/\用もない田口の家へ遊びに行つて夫《それ》となく叔父や叔母の樣子を見た。彼等は僕の母の肉薄に應ずる準備として前以て僕を疎《うと》んずる樣な素振《そぶり》を口にも擧動にも決して示さなかつた。彼等は夫《それ》程《ほど》淺薄な又不親切な人間ではなかつたのである。けれども彼等の娘の未來の夫《をつと》として、僕が彼等の眼に如何に憐れむべく映じてゐたかは、遠き前から僕の見拔いてゐた所と、ちつとも變化を來さないばかりか、近頃になつて益《ます/\》其|傾《かたむき》が著るしくなる樣に思はれた。彼等は第一に僕の弱々しい體格と僕の蒼白い顔色とを婿として肯《うけ》がはない積《つもり》らしかつた。尤も僕は神經の鋭どく動く性質《たち》だから、物を誇大に考へ過したり、要らぬ僻《ひが》みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委《くは》しい叔父叔母の觀察を遠慮なく此所に述べる非禮は憚かりたい。たゞ一言《いちごん》で云ふと、彼等は其當時千代子を僕の嫁にしやうと明言したのだらう。少なくとも遣つても可《い》い位には考へてゐたのだらう。が、其《その》後《ご》彼等の社會に占め得た地位と、彼等とは脊中合せに進んで行く僕の性格が、二重に實行の便宜を奪つて、たゞ惚《ぼ》けかゝつた空《むな》しい義理の拔殻《ねけがら》を、彼等の頭の何處かに置き去りにして行つたと思へば差支ないのである。
 僕と彼等とはあらゆる人の結婚問題に就いても多くを語る機會を持たなかつた。たゞある時叔母と僕との間に斯んな會話が取り換はされた。
 「市《いつ》さんも最《も》う徐々《そろ/\》奧さんを探さなくつちやなりませんね。姉さんは疾《と》うから心配してゐるやうですよ」
 「好いのがあつたら母に知らして遣つて下さい」
 「市さんには大人《おとな》しくつて優しい、親切な看護婦見た樣な女が可《い》いでせう」
 「看護婦見た樣な嫁はないかつて探しても、誰も來手《きて》はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自《みづか》ら嘲ける如く斯う云つた時、今迄向ふの隅で何かしてゐた千代子が、不意に首を上げた。
 「妾《あたし》行つて上げませうか」
 僕は彼女の眼を深く見た。彼女も僕の顔を見た。けれども兩方共其所に意味のある何物をも認めなかつた。叔母は千代子の方を振り向きもしなかつた。さうして、「御前の樣な露骨《むきだし》のがら/\した者が、何で市《いつ》さんの氣に入るものかね」と云つた。僕は低い叔母の聲のうちに、窘《たし》なめる樣な又怖れる樣な一種の響を聞いた。千代子は唯から/\と面白さうに笑つた丈《だけ》であつた。其時百代子も傍《そば》に居た。是は姉の言葉を聞いて微笑しながら席を立つた。形式を具へない斷りを云はれたと解釋した僕はしばらくして又席を立つた。
 此事件後僕は同じ問題に關して母の滿足を買ふための努力を益《ます/\》屑《いさぎ》よしとしなくなつた。自尊心の強い父の子として、僕の神經は斯ういふ點に於て自分でも驚ろく位過敏なのである。勿論僕は其折の叔母に對して決して感情を害しはしなかつた。此方《こつち》からまだ正式の申し込みを受けてゐない叔母としては、あゝより外に意向の洩らし方も無かつたのだらうと思ふ。千代子に至つては何を云はうが笑はうが、何時《いつ》でも蟠《わだか》まりのない彼女の胸の中《なか》を、其儘|外《そと》に表はしたに過ぎないと考へてゐた。僕は其時の千代子の言葉や樣子から察して、彼女が僕の所へ來たがつてゐない事|丈《だけ》は、從前通り慥《たしか》に認めたが、同時に、もし差し向ひで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、えゝさういふ譯なら御嫁に來て上げませうと、其場ですぐ承知しないとも限るまいと思つて、私《ひそ》かに掛念《けねん》を抱《いだ》いた位である。彼女はさう云ふ時に、平氣で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極めて純粹の女だと僕は常から信じてゐたからである。
 
     八
 
 意地の強い僕は母を嬉しがらせるよりも成る可く自我を傷《きずつ》けない樣にと祈つた。其結果千代子が僕の知らない間《ま》に、母から説き落されてはと掛念して、暗にそれを防ぐ分別をした。母は彼女の生れ落ちた當初既に僕の嫁と極めた丈《だけ》あつて、多くある姪《めひ》や甥《をひ》の中で、取り分け千代子を可愛《かはい》がつた。千代子も子供の時分から僕の家を生家の如く心得て遠慮なく寐泊りに來た。其縁故で、田口と僕の家が昔に比べると比較的疎くなつた今日《こんにち》でも、千代子|丈《だけ》は叔母さん叔母さんと云つて、生《うみ》の親にでも逢ひに來る樣な朗らかな顔をして、しげ/\出入《でいり》をして居た。單純な彼女は、自分の身を的《まと》に時々起る縁談をさへ、隱す所なく母に打ち明けた。人の好い母は又|夫《それ》を素直に聞いて遣る丈《だけ》で、恨めしい眼付一つも見せ得なかつた。僕の恐れる懇談は、斯ういふ關係の深い二人の間に、何時《いつ》起らないとも限らなかつたのである。
 僕の分別といふのは先づ此點に關して、當分母の口を塞いで置かうとする用心に過ぎなかつた。所がいざ改たまつて母にそれを切り出さうとすると、唯自分の我《が》を通す爲に、弱い親の自由を奪ふのは殘酷な子に違ないといふ心持が、何處にか萌《きざ》すので、つい夫《それ》なりにして已《や》める事が多かつた。尤も年寄の眉を曇らすのがたゞ情《なさけ》ない許《ばかり》で已《や》めたとも云はれない。是程親しい間柄でさへ今迄思ひ切つた所を千代子に打ち明け得なかつた母の事だから、假令《たとひ》此儘にして置いても、まあ當分は大丈夫だらうといふ考が、母に對する僕を多少抑へたのである。
 夫《それ》で僕は千代子に關して何といふ明瞭な所置も取らずに過ぎた。尤も斯ういふ不安な状態で日を送つた時期にも、丸《まる》で田口の家と打絶えた譯ではなかつたので、會《たま》には單に母の喜こぶ顔を見るだけの目的をもつて内幸町迄電車を利用した覺さへあつたのである。さういふ或日の晩、僕は久し振りに千代子から、習ひ立ての珍らしい手料理を御馳走するからと引止められて、夕飯の膳に就いた。何時《いつ》も留守勝な叔父が其日は丁度内に居て、食事中例の氣作《きさく》な話をし續けにしたため、若い人の陽氣な笑ひ聲が障子に響く位家の中が賑はつた。飯が濟んだ後《あと》で、叔父は何ういふ考か、突然僕に「市《いつ》さん久し振に一局やらうか」と云ひ出した。僕は左程《さほど》氣が進まなかつたけれども折角だから、遣りませうと答へて、叔父と共に別室へ退いた。二人は其所で二三番打つた。固《もと》より下手と下手の勝負なので、時間の掛る筈もなく、碁石を片付けても未《ま》だ夫《それ》程《ほど》遲くはならなかつた。二人は烟草を呑みながら又話を始めた。其時僕は適當な機會を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ纒まりませんか」と聞いた。それは固《もと》より僕が千代子に對して他意のないといふ事を示すためであつた。が又一方では、一日も早く此問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考へたからである。すると叔父は流石《さすが》に男だけあつて、何の躊躇もなく斯う云つた。――
 「いや未《ま》だ中々|左《さ》う行きさうもない。段々そんな話を持つて來て呉れるものはあるが、何しろ六づかしくつて弱る。其上調べれば調べる程面倒になる丈《だけ》だし、まあ大抵の所で纒まるなら纒めて仕舞はうかと思つてる。――縁談なんてものは妙なものでね。今だから御前に話すが、實は千代子の生れたとき、御前の御母さんが、是を市藏の嫁に欲しいつてね――生れ立ての赤ん坊をだよ」
 叔父は此時笑ひながら僕の顔を見た。
 「母は本氣で左《さ》う云つたんださうです」
 「本氣さ。姉さんは又正直な人だからね。實に好い人だ。今でも時々眞面目になつて叔母さんに其話をするさうだ」
 叔父は再び大きな聲を出して笑つた。僕は果して叔父が斯う輕く此事件を解釋してゐるなら、母の爲に少し辯じて遣らうかと考へた。が、もし是が世慣れた人の巧妙な覺《さと》らせ振《ぶり》だとすれば、一口でも云ふ丈《だけ》が愚《おろか》だと思ひ直して黙つた。叔父は親切な人で又世慣れた人である。彼の此時の言葉は何方《どちら》の眼で見て可《い》いのか、僕には今《いま》以《もつ》て解らない。たゞ僕が其時以來千代子を貰はない方へ愈《いよ/\》傾いたのは事實である。
 
     九
 
 夫《それ》から二ケ月|許《ばかり》の間僕は田口の家へ近寄らなかつた。母さへ心配しなければ、夫《それ》限《ぎり》内幸町へは足を向けずに濟ましたかも知れなかつた。たとひ母が心配するにしても、單に彼女に對する掛念|丈《だけ》が問題なら、或は僕の氣隨《きずゐ》をいざといふ極點|迄《まで》押し通したかも知れなかつた。僕はそんな風に生み付けられた男なのである。所が二ケ月の末になつて、僕は突然自分の片意地を翻《ひる》がへさなければ不利だといふ事に氣が付いた。實を云ふと、僕が田口と疎遠になればなる程、母はあらゆる機會を求めて、益《ます/\》千代子と接觸する樣に力《つと》め出したのである。さうして何時《いつ》なんどき僕の最も恐れる直接の談判を、千代子に向つて開かないとも限らない樣に、漸々《ぜん/\》形勢を切迫させて來たのである。僕は思ひ切つて、此危機を一帳場《ひとちやうば》先へ繰り越さうとした。さうして其決心と共に又田口の敷居を跨《また》ぎ出した。
 彼等の僕を遇する態度に固《もと》より變りはなかつた。僕の彼等に對する樣子も亦二ケ月|前《まへ》の通りであつた。僕と彼等とは故《もと》の如く笑つたり、巫山戯《ふざけ》たり、揚足の取りつ競《くら》をしたりした。要するに僕の田口で費《つひ》やした時間は、騷がしい位陽氣であつた。本當の所をいふと、僕には少し陽氣過ぎたのである。從つて腹の中が常に空虚な努力に疲れてゐた。鋭どい眼で注意したら、何處かに僞《いつはり》の影が射して、本來の自分を醜く彩《いろど》つてゐたらうと思ふ。其内で自分の氣分と自分の言葉が、半紙の裏表の樣にぴたりと合つた愉快を感じた覺《おぼえ》が唯《たゞ》一遍ある。夫《それ》は家例として年に一度か二度田口の家族が揃つて遊びに出る日の出來事であつた。僕は知らずに奧へ通つて、千代子一人が閑靜に坐つてゐるのを見て驚ろいた。彼女は風邪を引いたと見えて、咽喉《のど》に濕布をしてゐた。常にも似ない蒼い顔色も淋《さび》しく思はれた。微笑しながら、「今日は妾《あたし》御留守居よ」と云つた時、僕は始めて皆《みんな》出拂つた事に氣が付いた。
 其日の彼女は病氣の所爲《せゐ》か何時《いつ》もよりしんみり落付いてゐた。僕の顔さへ見ると、屹度《きつと》冷かし文句を並べて、何うしても惡口の云ひ合ひを挑《いど》まなければ已《や》まない彼女が、一人ぼつちで妙に沈んでゐる姿を見たとき、僕は不圖《ふと》可憐な心を起した。夫《それ》で席に着くや否や、優しい慰藉の言葉を口から出す氣もなく自《おのづ》から出した。すると千代子は一種變な表情をして、「貴方今日は大變優しいわね。奧さんを貰つたら左《さ》ういふ風に優しく仕《し》て上げなくつちや不可《いけ》ないわね」と云つた。遠慮がなくて親しみ丈《だけ》持つてゐた僕は、今迄千代子に對していくら無愛矯に振舞つても差支ないものと暗に自《みづ》から許してゐたのだといふ事に此時始めて氣が付いた。さうして千代子の眼の中《うち》に何處か嬉しさうな色の微《かす》かながら漂よふのを認めて、自分が惡かつたと後悔した。
 二人は殆んど一所《いつしよ》に生長したと同じ樣な自分達の過去を振り返つた。昔の記憶を語る言葉が互の唇から當時を蘇生《よみがへ》らせる便《たより》として洩れた。僕は千代子の記憶が、僕よりも遙かに勝《すぐ》れて、細かい所迄|鮮《あざ》やかに行き渡つてゐるのに驚ろいた。彼女は今から四年|前《まへ》、僕が玄關に立つた儘袴の綻《ほころび》を彼女に縫はせた事迄覺えてゐた。其時彼女の使つたのは木綿糸でなくて絹糸であつた事も知つてゐた。
 「妾《あたし》貴方の描《か》いて呉れた畫《ゑ》をまだ持つててよ」
 成程|左《さ》う云はれて見ると、千代子に畫《ゑ》を描《か》いて遣つた覺があつた。けれども夫《それ》は彼女が十二三の時の事で、自分が田口に買つて貰つた繪具と紙を僕の前へ押し付けて無理矢理に描《か》かせたものである。僕の畫道に於ける嗜好《たしなみ》は、夫《それ》から以後|今日《こんにち》に至る迄、ついぞ畫筆《ゑふで》を握つた試しがないのでも分るのだから、赤や緑の單純な刺戟が、一通り彼女の眼に映つて仕舞へば、興味は其所に盡きなければならない筈のものであつた。夫《それ》を保存してゐると聞いた僕は迷惑さうに苦笑せざるを得なかつた。
 「見せて上げませうか」
 僕は見ないでも可《い》いと斷つた。彼女は構はず立ち上がつて、自分の室《へや》から僕の畫を納めた手文庫を持つて來た。
 
      十
 
 千代子は其中から僕の描《か》いた畫を五六枚出して見せた。それは赤い椿だの、紫の東菊《あづまぎく》だの、色變りのダリヤだので、孰《いづ》れも單純な花卉《くわき》の寫生に過ぎなかつたが、要らない所にわざと手を掛けて、時間の浪費を厭はずに、細かく綺麗に塗り上げた手際は、今の僕から見ると殆んど驚ろくべきものであつた。僕は是程綿密であつた自分の昔に感服した。
 「貴方それを描《か》いて下すつた時分は、今より餘程《よつぽど》親切だつたわね」
 千代子は突然斯う云つた。僕には其意味が丸《まる》で分らなかつた。畫から眼を上げて、彼女の顔を見ると、彼女も黒い大きな瞳を僕の上に凝《ぢつ》と据ゑてゐた。僕は何ういふ譯でそんな事を云ふのかと尋ねた。彼女はそれでも答へずに僕の顏を見詰めてゐた。やがて何時《いつ》もより小さな聲で「でも近頃頼んだつて、そんなに精出して描《か》いては下さらないでせう」と云つた。僕は描くとも描かないとも答へられなかつた。たゞ腹の中で、彼女の言葉を尤もだと首肯《うけが》つた。
 「夫《それ》でも能く斯んな物を丹念に仕舞つて置くね」
 「妾《あたし》御嫁に行く時も持つてく積《つもり》よ」
 僕は此言葉を聞いて變に悲しくなつた。さうして其悲しい氣分が、すぐ千代子の胸に應《こた》へさうなのが猶恐ろしかつた。僕は其刹那既に涙の溢れさうな黒い大きな眼を自分の前に想像したのである。
 「そんな下らないものは持つて行かないが可《い》いよ」
 「可《い》いわ、持つて行つたつて、妾《あたし》のだから」
 彼女は斯う云ひつゝ、赤い椿や紫の東菊を重ねて、又文庫の中へ仕舞つた。僕は自分の氣分を變へるためわざと彼女に何時頃《いつごろ》嫁に行く積《つもり》かと聞いた。彼女はもう直《ぢき》に行くのだと答へた。
 「然しまだ極つた譯ぢやないんだらう」
 「いゝえ、もう極つたの」
 彼女は明らかに答へた。今迄自分の安心を得る最後の手段として、一日《いちじつ》も早く彼女の縁談が纒まれば好いがと念じてゐた僕の心臓は、此答と共にどきんと音のする浪を打つた。さうして毛穴から這ひ出す樣な膏汗《あぶらあせ》が、脊中と腋の下を不意に襲つた。千代子は文庫を抱《だ》いて立ち上つた。障子を開けるとき、上から僕を見下《みおろ》して、「嘘よ」と一口|判切《はつきり》云ひ切つた儘、自分の室《へや》の方へ出て行つた。
 僕は動く考もなく故《もと》の席に坐つてゐた。僕の胸には忌々《いま/\》しい何物も宿らなかつた。千代子の嫁に行く行かないが、僕に何う影響するかを、此時始めて實際に自覺する事の出來た僕は、それを自覺させて呉れた彼女の翻弄に對して感謝した。僕は今迄氣が付かずに彼女を愛してゐたのかも知れなかつた。或は彼女が氣が付かないうちに僕を愛してゐたのかも知れなかつた。――僕は自分といふ正體が、夫《それ》程《ほど》解り惡《にく》い怖《こは》いものなのだらうかと考へて、しばらく茫然としてゐた。すると彼方《あちら》の方で電話がちりん/\と鳴つた。千代子が縁傳ひに急ぎ足で遣つて來て、僕に一所に電話を掛けて呉れと頼んだ。僕には一所に掛けるといふ意味が呑み込めなかつたが、すぐ立つて彼女と共に電話口へ行つた。
 「もう呼び出してあるのよ。妾《あたし》聲が嗄《か》れて、咽喉《のど》が痛くつて話が出來ないから貴方代理をして頂戴。聞く方は妾《あたし》が聞くから」
 僕は相手の名前も分らない、又向ふの話の通じない電話を掛けるべく、前屈《まへこゞ》みになつて用意をした。千代子は既に受話器を耳に宛《あ》てゝゐた。それを通して彼女の頭へ送られる言葉は、獨り彼女が占有する丈《だけ》なので、僕はたゞ彼女の小聲でいふ挨拶を大きくして譯も解らず先方へ取次ぐに過ぎなかつた。夫《それ》でも始の内は滑稽も構はず暇が掛るのも厭はず平氣で遣《や》つてゐたが、次第に僕の好奇心を挑發《てうはつ》する樣な返事や質問が千代子の口から出て來るので、僕は曲《こゞ》んだ儘、おい一寸《ちよいと》それを御貸《おかし》と聲を掛けて左手を眞直に千代子の方へ差し伸べた。千代子は笑ひながら否々《いや/\》をして見せた。僕は更に姿勢を正しくして、受話器を彼女の手から奪はうとした。彼女は決して夫《それ》を離さなかつた。取らうとする取らせまいとする爭が二人の間に起つた時、彼女は手早く電話を切つた。さうして大きな聲を揚げて笑ひ出した。――
 
     十一
 
 斯ういふ光景が若し今より一年前に起つたならと僕は其《その》後《ご》何遍も繰り返し/\思つた。さう思ふ度に、もう遲過ぎる、時機は既に去つたと運命から宣告される樣な氣がした。今からでも斯ういふ光景を二度三度と重ねる機會は捉《つら》まへられるではないかと、同じ運命が暗に僕を唆《そゝ》のかす日もあつた。成程二人の情愛を互ひに反射させ合ふためにのみ眼の光を使ふ手段を憚《はゞ》からなかつたなら、千代子と僕とは其日を基點として出立しても、今頃は人間の利害で割《さ》く事の出來ない愛に陷《おちい》つてゐたかも知れない。たゞ僕はそれと反對の方針を取つたのである。
 田口夫婦の意向や僕の母の希望は、他人の入智慧同樣に意味の少ないものとして、單に彼女と僕を裸にした生れ付|丈《だけ》を比較すると、僕等は到底《とて》も一所になる見込のないものと僕は平生から信じてゐた。是は何故《なぜ》と聞かれても滿足の行く樣に答辯が出來ないかも知れない。僕は人に説明する爲にさう信じてゐるのでないから。僕はかつて文學|好《ずき》のある友達からダヌンチオと一少女の話を聞いた事がある。ダヌンチオといふのは今の以太利《イタリア》で一番有名な小説家ださうだから、僕の友達の主意は無論彼の勢力を僕に紹介する積《つもり》だつたのだらうが、僕には其所へ引合に出された少女の方が彼よりも遙かに興味が多かつた。其話は斯うである。――
 ある時ダヌンチオが招待を受けてある會合の席へ出た。文學者を國家の裝飾の樣に持《も》て囃《はや》す西洋の事だから、ダヌンチオは其席に群がる凡《すべ》ての人から多大の尊敬と愛嬌を以て偉人の如く取扱かはれた。彼が滿堂の注意を一身に集めて、衆人の間を彼所此所《あちこち》徘徊《はいくわい》してゐるうち、何ういふ機會《はずみ》か自分の手巾《ハンケチ》を足の下《もと》へ落した。混雜の際と見えて、彼は固《もと》より、傍《はた》のものも一向それに氣が付かずにゐた。すると未《まだ》年の若い美くしい女が一人其|手巾《はんけち》を床《ゆか》の上から取り上げて、ダヌンチオの前へ持つて來た。彼女はそれをダヌンチオに渡す積《つもり》で、是は貴方のでせうと聞いた。ダヌンチオは有難うと答へたが、女の美くしい器量に對して一寸愛嬌が必要になつたと見えて、「貴方のにして持つて居らつしやい、進上しますから」と恰も少女の喜びを豫想した樣な事を云つた。女は一口の答もせず黙つて其|手巾《はんけち》を指先で撮《つま》んだ儘|暖爐《ストーヴ》の傍《そば》迄行つていきなり夫《それ》を火の中へ投げ込んだ。ダヌンチオは別にして其他の席に居合せたものは悉《こと/”\》く微笑を洩らした。
 僕は此話を聞いた時、年の若い茶褐色の髪毛を有《も》つた以太利《イタリア》生れの美人を思ひ浮べるよりも、其代りとしてすぐ千代子の眼と眉を想像した。さうして夫《それ》が若し千代子でなくつて妹の百代子であつたなら、たとひ腹の中は何うあらうとも、其場は禮を云つて快よく手巾《ハンケチ》を貰ひ受けたに違ひあるまいと思つた。たゞ千代子には夫《それ》が出來ないのである。
 口の惡い松本の叔父は此|姉妹《きやうだい》に渾名《あだな》を付けて常に大蝦蟆《おほがま》と小蝦蟆《ちひがま》と呼んでゐる。二人の口が唇の薄い割に長過ぎる所が銀貨入れの蟇口《がまぐち》だと云つては常に二人を笑はせたり怒らせたりする。是は性質に關係のない顏形の話であるが、同じ叔父が口癖の樣に此|姉妹《きやうだい》を評して、小蟇《ちひがま》は大人《おとな》しくつて好いが、大蟇《おほがま》は少し猛烈過ぎると云ふのを聞く度に、僕はあの叔父が何う千代子を觀察してゐるのだらうと考へて、必ず彼の眼識に疑を挾《さしは》さみたくなる。千代子の言語なり擧動なりが時に猛烈に見えるのは、彼女が女らしくない粗野な所を内に藏《かく》してゐるからではなくつて、餘り女らしい優しい感情に前後を忘れて自分を投げ掛けるからだと僕は固く信じて疑がはないのである。彼女の有《も》つてゐる善惡是非の分別は殆んど學問や經驗と獨立してゐる。たゞ直覺的に相手を目當に燃え出す丈《だけ》である。夫《それ》だから相手は時によると稻妻に打たれた樣な思ひをする。當りの強く烈しく來るのは、彼女の胸から純粹な塊《かた》まりが一度に多量に飛んで出るといふ意味で、刺《とげ》だの毒だの腐触劑《ふしよくざい》だのを吹き掛けたり浴びせ掛けたりするのとは丸《まる》で譯が違ふ。其證據にはたとひ何《ど》れ程《ほど》烈しく怒《おこ》られても、僕は彼女から清いもので自分の腸《はらわた》を洗はれた樣な氣持のした場合が今迄に何遍もあつた。氣高《けだか》いものに出會つたといふ感じさへ稀には起した位である。僕は天下の前にたゞ一人立つて、彼女はあらゆる女のうちで尤も女らしい女だと辯護したい位に思つてゐる。
 
      十二
 
 是程|好《よ》く思つてゐる千代子を妻《さい》として何處が不都合なのか。――實は僕も自分で自分の胸に斯う聞いた事がある。其時|理由《わけ》も何もまだ考へない先に、僕はまづ恐ろしくなつた。さうして夫婦としての二人を長く眼前に想像するに堪へなかつた。斯んな事を母に云つたら定めし驚ろくだらう、同年輩の友達に話しても或は通じないかも知れない。けれども強ひて沈黙のなかに記憶を埋《うづ》める必要もないから、それを自分|丈《だけ》の感想に止《とゞ》めないで此所に自白するが、一口に云ふと、千代子は恐ろしい事を知らない女なのである。さうして僕は恐ろしい事|丈《だけ》知つた男なのである。だから唯釣り合はない許《ばかり》でなく、夫婦となれば正に逆に出來上るより外に仕方がないのである。
 僕は常に考へてゐる。「純粹な感情程美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは當り前である。僕がもし千代子を妻《さい》にするとしたら、妻《さい》の眼から出る強烈な光に堪へられないだらう。其光は必ずしも怒を示すとは限らない。情《なさけ》の光でも、愛の光でも、若《もし》くは渇仰《かつかう》の光でも同じ事である。僕は屹度《きつと》其光の爲に射竦《ゐすく》められるに極つてゐる。それと同程度或はより以上の輝くものを、返禮として彼女に與へるには、感情家として僕が餘りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰つても、それを味はひ盡くす資格を持たない下戸として、今日《こんにち》迄《まで》世間から教育されて來たのである。
 千代子が僕の所へ嫁に來れば必ず殘酷な失望を經驗しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、有るに任せて惜氣《をしげ》もなく夫《をつと》の上に注《つ》ぎ込む代りに、それを受け入れる夫《をつと》が、彼女から精神上の營養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫《をつと》から豫期するに違ひない。年の行かない、學問の乏しい、見識の狹い點から見ると氣の毒と評して然るべき彼女は、頭と腕を擧げて實世間に打ち込んで、肉眼で指《さ》す事の出來る權力か財力を攫《つか》まなくつては男子でないと考へてゐる。單純な彼女は、たとひ僕の所へ嫁に來ても、矢張さう云ふ働き振を僕から要求し、又要求さへすれば僕に出來るものとのみ思ひ詰めてゐる。二人の間に横たはる根本的の不幸は此所に存在すると云つても差支ないのである。僕は今云つた通り、妻《さい》としての彼女の美くしい感情を、さう多量に受け入れる事の出來ない至つて燻《くす》ぶつた性質《たち》なのだが、よし燒石に水を濺《そゝ》いだ時の樣に、それを悉《こと/”\》く吸ひ込んだ所で、彼女の望み通りに利用する譯には到底《とて》も行かない。もし純粹な彼女の影響が僕の何處かに表はれるとすれば、それは幾何《いくら》説明しても彼女には全く分らない所に、思ひも寄らぬ形となつて發現する丈《だけ》である。萬一彼女の眼に留まつても、彼女はそれをコスメチツクで塗り堅めた僕の頭や羽二重の足袋で包んだ僕の足よりも難有《ありがた》がらないだらう。要するに彼女から云へば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、次第々々に結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。
 僕は自分と千代子を比較する毎に、必ず恐れない女と恐れる男といふ言葉を繰り返したくなる。仕舞にはそれが自分の作つた言葉でなくつて、西洋人の小説に其儘出てゐる樣な氣を起す。此間講釋好きの松本の叔父から、詩と哲學の區別を聞かされて以来は、恐れない女と恐れる男といふと、忽ち自分に縁の遠い詩と哲學を想ひ出す。叔父は素人學問《しろうとがくもん》ながら斯んな方面に興味を有《も》つてゐる丈《だけ》に、面白い事を色々話して聞かしたが、僕を捕《つら》まへて「御前の樣な感情家は」と暗に詩人らしく僕を評したのは間違つてゐる。僕に云はせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思ひ切つた事の出來ずに愚圖々々してゐるのは、何より先に結果を考へて取越苦勞をするからである。千代子が風の如く自由に振舞ふのは、先の見えない程強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知つてゐる人間のうちで、最も恐れない一人《いちにん》である。だから恐れる僕を輕蔑するのである。僕は又感情といふ自分の重みで蹴爪《けつま》付きさうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐れむのである。否《いな》時によると彼女の爲に戰慄するのである。
 
     十三
 
 須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事實を云へば彼は又彼なりに詩人とも哲學者とも云ひ得る男なのかも知れなかつた。然し夫《それ》は傍《はた》から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身は決して何方《どつち》とも思つてゐなかつた。從つて詩とか哲學とかいふ文字も、月の世界でなければ役に立たない夢の樣なものとして、殆んど一顧に價《あたひ》しない位に見限《みかぎ》つてゐた。其上彼は理窟が大嫌ひであつた。右か左へ自分の身體を動かし得ない唯の理窟は、いくら旨く出來ても彼には用のない贋造紙幣《がんざうしへい》と同じ物であつた。從つて恐れる男とか恐れない女とかいふ辻占《つじうら》に似た文句を、黙つて聞いてゐる筈はなかつたのだが、しつとりと潤《うるほ》つた身の上話の續きとして、感想が其所へ流れ込んで來たものだから、敬太郎も能く解らないながら素直に耳を傾むけなければ濟まなかつたのである。
 須永も其所に氣が付いた。
 「話が理窟|張《ば》つて六づかしくなつて來たね。あんまり一人で調子に乘つて饒舌《しやべ》つてゐるものだから」
 「いや構はん。大變面白い」
 「洋杖《ステツキ》の效果《きゝめ》がありやしないか」
 「何うも不思議にあるやうだ。序でにもう少し先迄話す事にしやうぢやないか」
 「もう無いよ」
 須永はさう云ひ切つて、靜かな水の上に眼を移した。
敬太郎も少時《しばらく》黙つてゐた。不思議にも今聞かされた須永の詩だか哲學だか分らないものが、形の判然《はつきり》しない雲の峯の樣に、頭の中に聳えて容易に消えさうにしなかつた。何事も語らないで彼の前に坐つてゐる須永自身も、平生の紋切形《もんきりがた》を離れた怪しい一種の人物として彼の眼に映じた。何うしてもまだ話の續きがあるに違ないと思つた敬太郎は、今の一番仕舞の物語は何時《いつ》頃《ごろ》の事かと須永に尋ねた。それは自分の三年生位の時の出來事だと須永は答へた。敬太郎は同じ關係が過去一年餘りの間に何ういふ徑路を取つて何う進んで、今は何《ど》んな解決が付いてゐるかと聞き返した。須永は苦笑して、先づ外へ出てからにしやうと云つた。二人は勘定を濟まして外へ出た。須永は先へ立つ敬太郎の得意に振り動かす洋杖《ステツキ》の影を見て又苦笑した。
 柴又の帝釋天の境内に來た時、彼等は平凡な堂宇を、義理に拜ませられたやうな顏をしてすぐ門を出た。さうして二人共汽車を利用してすぐ東京へ歸らうといふ氣を起した。停車場《ステーシヨン》へ來ると、間怠《まだ》るこい田舍汽車の發車時間にはまだ大分《だいぶ》間《ま》があつた。二人はすぐ其所にある茶店に入つて休息した。次の物語は其時敬太郎が前約を楯に須永から聞かして貰つたものである。――
 僕が大學の三年から四年に移る夏休みの出來事であつた。宅《うち》の二階に籠つて此暑中を何う暮らしたら宜《よ》からうと思案してゐると、母が下から上《あが》つて來て、閑になつたら鎌倉へ一寸行つて來たら何うだと云つた。鎌倉には其一週間程前から田口のものが避暑に行つてゐた。元來叔父は餘り海邊《うみべ》を好まない性質《たち》なので、一家《いつけ》のものは毎年輕井澤の別莊へ行くのを例にしてゐたのだが、其年は是非海水浴がしたいと云ふ娘達の希望を容れて、材木座にある、或人の邸宅《やしき》を借り入れたのである。移る前に千代子が暇乞かた/”\報知《しらせ》に來て、まだ行つては見ないけれども、山陰の凉しい崖の上に、二段か三段に建てた割合手廣な住居《すまひ》ださうだから是非遊びに來いと母に勸めてゐたのを、僕は傍《そば》で聞いてゐた。夫《それ》で僕は母に貴方こそ行つて遊んで來たら氣保養《きぼやう》になつて可《よ》からうと忠告した。母は懷から千代子の手紙を出して見せた。夫《それ》には千代子と百代子の連名で、母と僕に一所に來る樣にと、彼等の女親の命令を傳へる如く書いてあつた。母が行くとすれば年寄一人を汽車に乘せるのは心配だから、是非共僕が付いて行かなければならなかつた。變窟な僕からいふと、さう混雜《ごた/\》した所へ二人で押し掛けるのは、世話にならないにしても氣の毒で厭だつた。けれども母は行きたい樣な顏をした。さうして夫《それ》が僕の爲に行きたい樣な顏に見えるので僕は益《ます/\》厭になつた。が、とゞの詰りとう/\行く事にした。斯う云つても人には通じないかも知れないが、僕は意地の強い男で、又意地の弱い男なのである。
 
     十四
 
 母は内氣な性分なので平生から餘り旅行を好まなかつた。昔風に重きを置かなければ承知しない嚴格な父の生きてゐる頃は外へもさう度々は出られない樣子であつた。現に僕は父と母が娯樂の目的をもつて一所に家を留守にした例を覺えてゐない。父が死んで自由が利くやうになつてからも、さう勝手な時に好きな所へ行く機會は不幸にして僕の母には與へられなかつた。一人で遠くへ行つたり、長く宅《うち》を空《あ》けたりする便宜を有《も》たない彼女は、母子《おやこ》二人の家庭に斯うして幾年を老いたのである。
 鎌倉へ行かうと思ひ立つた日、僕は彼女のために一個の鞄《かばん》を携《たづさ》へて直行《ちよくかう》の汽車に乘つた。母は車の動き出す時、隣に腰を掛けた僕に、汽車も久し振りだねと笑ひながら云つた。さう云はれた僕にも實は餘り頻繁な經驗ではなかつた。新らしい氣分に誘はれた二人の會話は平生《ふだん》よりは生々《いき/\》してゐた。何を話したか自分にも一向《いつかう》覺えのない事を、聞いたり聞かれたりして斷續に任せてゐるうちに車は目的地に着いた。豫《あらか》じめ通知をしてないので停車場《ステーション》には誰も迎に來てゐなかつたが、車を雇ふとき某《なにがし》さんの別莊と注意したら、車夫はすぐ心得て引き出した。僕はしばらく見ないうちに、急に新らしい家の多くなつた砂道を通りながら、松の間《あひだ》から遠くに見える畠中《はたなか》の黄色い花を美くしく眺めた。それは一寸見ると丸《まる》で菜種の花と同じ趣《おもむき》を具へた目新らしいものであつた。僕は車の上で、この散《ち》ら/\する色は何だらうと考へ拔いた揚句、突然|唐茄子《たうなす》だと氣が付いたので獨《ひと》り可笑《をか》しがつた。
 車が別莊の門に着いた時、戸障子を取り外《はづ》した座敷の中に動く人の影が往來から能く見えた。僕はそのうちに白い浴衣《ゆかた》を着た男のゐるのを見て、多分叔父が昨日《きのふ》あたり東京から來て泊つてるのだらうと思つた。所が奧に居るものが悉《こと/”\》く僕等を迎へるために玄關へ出て來たのに、其男|丈《だけ》は少しも顔を見せなかつた。勿論叔父なら其位の事は有る可き筈だと思つて、座敷へ通つて見ると、其所にも彼の姿は見えなかつた。僕はきよろ/\してゐるうちに、叔母と母が汽車の中は嘸《さぞ》暑かつたらうとか、見晴しの好い所が手に入《い》つて結構だとか、年寄の女だけに口數《くちかず》の多い挨拶の遣取《やりとり》を始めた。千代子と百代子は母の爲に浴衣《ゆかた》を勸めたり、脱ぎ捨てた着物を晒干《さぼ》して呉れたりした。僕は下女に風呂場へ案内して貰つて、水で顔と頭を洗つた。海岸からは大分《だいぶ》道程《みちのり》のある山手だけれども水は存外惡かつた。手拭を絞つて金盥《かなだらひ》の底を見てゐると、忽ち砂の樣な滓《おり》が澱《をど》んだ。
 「是を御使ひなさい」といふ千代子の聲が突然|後《うしろ》でした。振り返ると、乾いた白いタオルが肩の所に出てゐた。僕はタオルを受取つて立ち上つた。千代子は又|傍《そば》にある鏡臺の抽出《ひきだし》から櫛《くし》を出して呉れた。僕が鏡の前に坐つて髪を解かしてゐる間、彼女は風呂場の入口の柱に身體を持たして、僕の濡れた頭を眺めてゐたが、僕が何も云はないので、向ふから「惡い水でせう」と聞いた。僕は鏡の中を見たなり、何うして斯んな色が着いてゐるのだらうと云つた。水の問答が濟んだとき、僕は櫛を鏡臺の上に置いて、タオルを肩に掛けた儘立ち上つた。千代子は僕より先に柱を離れて座敷の方へ行かうとした。僕は藪から棒に後《うしろ》から彼女の名を呼んで、叔父は何處にゐるかと尋ねた。彼女は立ち止まつて振り返つた。
 「御父さんは四五日|前《まへ》一寸入らしつたけど、一昨日《をとゝひ》又用が出來たつて東京ヘ御歸りになつた限《ぎり》よ」
 「此所にや居ないのかい」
 「えゝ。何故《なぜ》。ことによると今日の夕方吾一さんを連れて、又入らつしやるかも知れないけども」
 千代子は明日《あした》もし天氣が好ければ皆《みんな》と魚《さかな》を漁《と》りに行く筈になつてゐるのだから、田口が都合して今日の夕方迄に來て呉れなければ困るのだと話した。さうして僕にも是非一所に行けと勸めた。僕は魚の事よりも先刻《さつき》見た浴衣掛《ゆかたがけ》の男の居所が知りたかつた。
 
     十五
 
 「先刻《さつき》誰だか男の人が一人座敷に居たぢやないか」
 「あれ高木《たかぎ》さんよ。ほら秋子さんの兄さんよ。知つてるでせう」
 僕は知つて居るとも居ないとも答へなかつた。然し腹の中では、此高木と呼ばれる人の何者かをすぐ了解した。百代子の學校朋輩に高木秋子といふ女のある事は前から承知してゐた。其人の顏も、百代子と一所に撮《と》つた寫眞で知つてゐた。手蹟《しゆせき》も繪端書で見た。一人の兄が亞米利加《アメリカ》へ行つてゐるのだとか、今歸つて來た許《ばかり》だとかいふ話も其頃耳にした。困らない家庭なのだらうから、其人が鎌倉へ遊びに來てゐる位は怪しむに足らなかつた。よし此所に別莊を持つてゐた所で不思議はなかつた。が、僕は其高木といふ男の住んでゐる家を千代子から聞き度くなつた。
 「つい此下よ」と彼女は云つた限《ぎり》であつた。
 「別莊かい」と僕は重ねて聞いた。
 「えゝ」
 二人はそれ以外を語らずに座敷へ歸つた。座敷では母と叔母がまだ海の色が何うだとか、大佛が何方《どつち》の見當に中《あた》るとかいふ左程《さほど》でもない事を、問題らしく聞いたり教へたりしてゐた。百代子は千代子に彼等の父が其日の夕方迄に來ると云つて、わざ/\知らせて來た事を告げた。二人は明日《あす》魚《さかな》を漁《と》りに行く時の樂みを、今|眼《ま》の當りに描《ゑが》き出して、既に手の内に握つた人の如く語り合つた。
 「高木さんも入らつしやるんでせう」
 「市《いつ》さんも入らつしやい」
 僕は行かないと答へた。其理由として、少し宅《うち》に用があつて、今夜東京へ歸《か》へらなければならないからといふ説明を加へた。然し腹の中では只でさへ斯う混雜《ごた/\》してゐる處へ田口が吾一でも連れて來たら、夫《それ》こそ自分の寐る場所さへ無くなるだらうと心配したのである。其上僕は姉妹《きやうだい》の知つてゐる高木といふ男に會ふのが厭だつた。彼は先刻《さつき》迄二人と僕の評判をしてゐたが、僕の來たのを見て、遠慮して裏から歸つたのだと百代子から聞いた時、僕はまづ窮屈な思ひを逃《のが》れて好かつたと喜こんだ。僕は夫《それ》程《ほど》知らない人を怖《こは》がる性分なのである。
 僕の歸ると云ふのを聞いた二人は、驚ろいたやうな顔をして留《と》めに掛つた。殊に千代子は躍起《やくき》になつた。彼女は僕を捉《つら》まへて變人だと云つた。母を一人殘してすぐ歸る法はないと云つた。歸ると云つても歸さないと云つた。彼女は自分の妹や弟に對してよりも、僕に對しては遙かに自由な言葉を使ひ得る特權を有《も》つてゐた。僕は平生から彼女が僕に對して振舞ふ如く大膽に率直に(或時は善意ではあるが)威壓的に、他人に向つて振舞ふ事が出來たなら、僕の樣な他に缺點の多いものでも、嘸《さぞ》愉快に世の中を渡つて行かれるだらうと想像して、大いに此小さな暴君《タイラント》を羨ましがつてゐた。
 「えらい權幕《けんまく》だね」
 「貴方は親不孝よ」
 「ぢや叔母さんに聞いて來るから、もし叔母さんが泊つて行く方が可《い》いつて、仰《おつ》しやつたら、泊つて入らつしやい。ね」
 百代子は仲裁を試みる樣な口調で斯う云ひながら、すぐ年寄の話してゐる座敷の方へ立つて行つた。僕の母の意向は無論聞く迄もなかつた。從つて百代子の年寄二人から齎《もた》らした返事も此所に述べるのは蛇足《だそく》に過ぎない。要するに僕は千代子の捕虜になつたのである。
 僕はやがて一寸町へ出て來るといふ口實《いひまへ》の下《もと》に、午後の暑い日を洋傘《かうもり》で遮《さへ》ぎりながら別莊の附近を順序なく徘徊《はいくわい》した。久しく見ない土地の昔を偲《しの》ぶ爲と云へば云へない事もないが、僕にそんな寂《さ》びた心持を嬉しがる風流があつたにした所で、今は夫《それ》に耽《ふけ》る落付も餘裕も與へられなかつた。僕は只うろ/\と其所等の標札を讀んで歩いた。さうして比較的立派な平屋建《ひらやだて》の門の柱に、高木の二字を認めた時、是だらうと思つて、しばらく門前に佇《たゝず》んだ。夫《それ》から後《あと》は全く何の目的もなしに猶《なほ》緩漫な歩行を約十五分|許《ばかり》續けた。然し是は僕が自分の心に、高木の家を見る爲にわざ/\表へ出たのではないと申し渡したと同じ樣なものであつた。僕はさつさと引き返した。
 
     十六
 
 實を云ふと、僕は此高木といふ男に就いて、殆んど何も知らなかつた。只一遍百代子から彼が適當な配偶を求めつゝある由を聞いた丈《だけ》である。其時百代子が、御姉さんには何うかしらと、丁度相談でもする樣に僕の顔色を見たのを覺えてゐる。僕は何時《いつ》もの通り冷淡な調子で、好いかも知れない、御父さんか御母さんに話して御覽と云つたと記憶する。夫《それ》から以後僕の田口の家《うち》に足を入れた度數は何遍あるか分らないが、高木の名前は少くとも僕のゐる席ではついぞ誰の口にも上《のぼ》らなかつたのである。夫《それ》程《ほど》親しみの薄い、顏さへ見た事のない男の住居《すまひ》に何の興味があつて、僕はわざ/\砂の燒ける暑さを冒して外出したのだらう。僕は今日《こんにち》迄《まで》その理由を誰にも話さずにゐた。自分自身にも其時には能く説明が出來なかつた。たゞ遠くの方にある一種の不安が、僕の身體を動かしに來たといふ漠たる感じが胸に射《さ》した許《ばかり》であつた。それが鎌倉で暮らした二日の間に、紛れもないある形を取つて發展した結果を見て、僕を散歩に誘ひ出したのも失張同じ力に違ひないと今から思ふのである。
 僕が別莊へ歸つて一時間經つか經たないうちに、僕の注意した門札と同じ名前の男が忽ち僕の前に現はれた。田口の叔母は、高木さんですと云つて叮嚀に其男を僕に紹介した。彼は見るからに肉の緊《しま》つた血色の好い青年であつた。年から云ふと、或は僕より上かも知れないと思つたが、其きび/\した顔付を形容するには、是非共青年といふ文字が必要になつた位彼は生氣に充ちてゐた。僕は此男を始めて見た時、是は自然が反對を比較する爲に、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなからうかと疑ぐつた。無論其不利益な方面を代表するのが僕なのだから、斯う改たまつて引き合はされるのが、僕にはたゞ惡い洒落《しやれ》としか受取られなかつた。
 二人の容貌が既に意地の好くない對照を與へた。然し樣子とか應對振《おうたいぶり》とかになると僕は更に甚しい相違を自覺しない譯に行かなかつた。僕の前にゐるものは、母とか叔母とか從妹《いとこ》とか、皆親しみの深い血屬ばかりであるのに、夫等《それら》に取り捲かれてゐる僕が、此高木に比べると、却つて何處からか客にでも來たやうに見えた位、彼は自由に遠慮なく、しかも或程度の品格を落す危險なしに己《おのれ》を取扱かふ術を心得てゐたのである。知らない人を怖れる僕に云はせると、此男は生れるや否や交際場裏に棄てられて、其儘|今日《こんにち》迄《まで》同じ所で人と成つたのだと評したかつた。彼は十|分《ぷん》と經たないうちに、凡《すべ》ての會話を僕の手から奪つた。さうして夫《それ》を悉《こと/”\》く一身に集めて仕舞つた。其代り僕を除《の》け物《もの》にしないための注意を拂つて、時々僕に一句か二句の言葉を與へた。夫《それ》が又|生憎《あいにく》僕には興味の乘らない話題ばかりなので、僕はみんなを相手にする事も出來ず、高木一人を相手にする譯にも行かなかつた。彼は田口の叔母を親しげに御母《おかあ》さん/\と呼んだ。千代子に對しては、僕と同じ樣に、千代ちやんといふ幼馴染《をさななじみ》に用ひる名を、自然に命ぜられたかの如く使つた。さうして僕に、先程御着になつた時は、丁度千代ちやんと貴方の御噂をしてゐた所でしたと云つた。
 僕は初めて彼の容貌を見た時から既に羨ましかつた。話をする所を聞いて、すぐ及ばないと思つた。夫《それ》丈《だけ》でも此場合に僕を不愉快にするには充分だつたかも知れない。けれども段々彼を觀察してゐるうちに、彼は自分の得意な點を、劣者の僕に見せ付ける樣な態度で、誇り顔に發揮するのではなからうかといふ疑が起つた。其時僕は急に彼を恨み出した。さうして僕の口を利くべき機會が廻つて來てもわざと沈黙を守つた。
 落ち付いた今の氣分で其時の事を回顧して見ると、斯う解釋したのは或は僕の僻《ひが》みだつたかも分らない。僕はよく人を疑ぐる代りに、疑ぐる自分も同時に疑がはずには居られない性質《たち》だから、結局|他《ひと》に話をする時にも何方《どつち》と判然《はつきり》した所が云ひ惡《にく》くなるが、若し夫《それ》が本當に僕の僻《ひが》み根性だとすれば、其裏面には未《まだ》凝結した形にならない嫉?《しつと》が潜んでゐたのである。
 
     十七
 
 僕は男として嫉?《しつと》の強い方か弱い方か自分にも能く解らない。競爭者のない一人息子として寧ろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のうちで嫉?《しつと》を起す機會を有《も》たなかつた。小學や中學は自分より成績の好い生徒が幸ひにしてさう無かつた爲か、至極太平に通り拔けた樣に思ふ。高等學校から大學へ掛けては、席次に左程《さほど》重きを置かないのが、一般の習慣であつた上、年毎に自分を高く見積る見識といふものが加はつて來るので、點數の多少は大した苦にならなかつた。此等を外にして、僕はまだ痛切な戀に落ちた經驗がない。一人の女を二人で爭つた覺《おぼえ》は猶更ない。自白すると僕は若い女殊に美くしい若い女に對しては、普通以上に精密な注意を拂ひ得る男なのである。往來を歩いて綺麗な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時の樣に晴やかな心持になる。會《たま》にはその所有者になつて見たいと云ふ考も起る。然し其顔と其着物が何う果敢《はか》なく變化し得るかをすぐ豫想して、醉が去つて急にぞつとする人の淺間しさを覺える。僕をして執念《しふね》く美くしい人に附纒《つけまつ》はらせないものは、正に此酒に棄てられた淋しみの障害に過ぎない。僕は此氣分に乘り移られるたびに、若い自分が突然|老人《としより》か坊主に變つたのではあるまいかと思つて、非常な不愉快に陷《おちい》る。が、或は夫《それ》が爲に戀の嫉?《しつと》といふものを知らずに濟ます事が出來たかも知れない。
 僕は普通の人間でありたいといふ希望を有《も》つてゐるから、嫉?心《しつとしん》のないのを自慢にしたくも何ともないけれども、今話した樣な譯で、眼《ま》の當りに此高木といふ男を見る迄は、さういふ名の付く感情に強く心を奪はれた試《ためし》がなかつたのである。僕は其時高木から受けた名状し難い不快を明らかに覺えてゐる。さうして自分の所有でもない、又所有にする氣もない千代子が源因で、此|嫉?心《しつとしん》が燃え出したのだと思つた時、僕は何うしても僕の嫉?心《しつとしん》を抑え付けなければ自分の人格に對して申し譯がない樣な氣がした。僕は存在の權利を失つた嫉?心《しつとしん》を抱《いだ》いて、誰にも見えない腹の中で苦悶し始めた。幸ひ千代子と百代子が日が薄くなつたから海へ行くと云ひ出したので、高木が必ず彼等に跟《つ》いて行くに違ないと思つた僕は、早く跡に一人殘りたいと願つた。彼等は果して高木を誘つた。所が意外にも彼は何とか言譯を拵えて容易に立たうとしなかつた。僕はそれを僕に對する遠慮だらうと推察して、益《ます/\》眉を暗くした。彼等は次に僕を誘つた。僕は固《もと》より應じなかつた。高木の面前から一刻も早く逃《のが》れる機會は、與へられないでも手を出して奪いたい位に思つてゐたのだが、今の氣分では二人と濱邊まで行く努力が既に厭であつた。母は失望した樣な頭をして、一所に行つて御出《おいで》なと云つた。僕は黙つて遠くの海の上を眺めてゐた。姉妹《きやうだい》は笑ひながら立ち上つた。
 「相變らず偏窟《へんくつ》ね貴方は。丸《まる》で腕白小僧見たいだわ」
 千代子に斯う罵しられた僕は、實際誰の目にも立派な腕白小僧として見えたらう。僕自身も腕白小僧らしい思ひをした。調子の好い高木は縁側へ出て、二人の爲に菅笠の樣に大きな麥藁帽を取つて遣つて、行つて入らつしやいと挨拶をした。
 二人の後姿が別莊の門を出た後で、高木は猶《なほ》しばらく年寄を相手に話してゐた。斯うやつて避暑に來てゐると氣樂で好いが、何うして日を送るかゞ大問題になつて却つて苦痛になる抔《など》と、實際活氣に充ちた身體を暑さと退屈さに持ち扱かつてゐる風に見えた。やがて、是から晩迄何をして暮らさうかしらと獨言《ひとりごと》の樣に云つて、不意に思ひ出した如く、玉《たま》は何うですと僕に聞いた。幸ひにして僕は生れてからまだ玉突といふ遊戯を試みた事がなかつたのですぐ斷つた。高木は丁度好い相手が出來たと思つたのに殘念だと云ひながら歸つて行つた。僕は活?に動く彼の後影を見送つて、彼は是から姉妹《きやうだい》のゐる濱邊の方へ行くに違ひないといふ氣がした。けれども僕は坐つてゐる席を動かなかつた。
 
     十八
 
 高木の去つた後《あと》、母と叔母は少時《しばらく》彼の噂をした。初對面の人|丈《だけ》に母の印象は殊に深かつた樣に見えた。氣の置けない、至つて行き屆いた人らしいと云つて賞めてゐた。叔母は又母の批評を一々實例に照らして確かめる風に見えた。此時僕は高木に就いて知り得た極めて乏しい知識の殆んど全部を訂正しなければならない事を發見した。僕が百代子から聞いたのでは、亞米利加《アメリカ》歸りといふ話であつた彼は、叔母の語る所によると、さうではなくつて全く英吉利《イギリス》で教育された男であつた。叔母は英國流の紳士といふ言葉を誰かから聞いたと見えて、二三度それを使つて、何の心得もない母を驚ろかしたのみか、だから何處となく品《ひん》の善い所があるんですよと母に説明して聞かせたりした。母は只へえと感心するのみであつた。
 二人が斯んな話をしてゐる内、僕は殆んど一口も口を利かなかつた。唯|上部《うはべ》から見て平生の調子と何の變る所もない母が、此際高木と僕を比較して、腹の中で何う思つてゐるだらうと考へると、僕は母に對して氣の毒でもあり又|恨《うら》めしくもあつた。同じ母が、千代子對僕と云ふ古い關係を一方に置いて、更に千代子對高木といふ新らしい關係を一方に想像するなら、果して何《ど》んな心持になるだらうと思ふと、假令《たとひ》少しの不安でも、避け得られる所をわざと與へるために彼女を連れ出したも同じ事になるので、僕は唯でさへ不愉快な上に、年寄に濟まないといふ苦痛をもう一つ重ねた。
 前後の模樣から推《お》す丈《だけ》で、實際には事實となつて現はれて來なかつたから何とも云ひ兼ねるが、叔母は此場合を利用して、若し縁があつたら千代子を高木に遣る積《つもり》でゐる位の打明話《うちあけばなし》を、僕等|母子《おやこ》に向つて、相談とも宣告とも片付かない形式の下《もと》に、する氣だつたかも知れない。凡《すべ》てに氣が付く癖に、斯うなると却つて僕よりも迂遠《うと》い母は何うだか、僕は其場で叔母の口から、僕と千代子と永久に手を別つべき談判の第一節を豫期してゐたのである。幸か不幸か、叔母がまだ何も云ひ出さないうちに、姉妹《きやうだい》は濱から廣い麥藁帽の緑《ふち》をひら/\さして歸つて來た。僕が僕の占ひの的中しなかつたのを、母の爲に喜こんだのは事實である。同時に同じ出來事が僕を焦燥《もどか》しがらせたのも嘘ではない。
 夕方になつて、僕は姉妹《きやうだい》と共に東京から來る筈の叔父を停車場《ステーシヨン》に迎へるべく母に命ぜられて家《いへ》を出た。彼等は揃《そろひ》の浴衣《ゆかた》を着て白い足袋を穿《は》いてゐた。それを後《うしろ》から見送つた彼等の母の眼に彼等が如何なる誇として映じたらう。千代子と並んで歩く僕の姿が又僕の母には畫《ゑ》として普通以上に何《ど》んなに價《あたひ》が高かつたらう。僕は母を欺むく材料に自然から使はれる自分を心苦しく思つて、門を出る時振り返つて見たら、母も叔母もまだ此方《こつち》を見てゐた。
 途中迄來た頃、千代子は思ひ出した樣に突然|留《とま》つて、「あつ高木さんを誘ふのを忘れた」と云つた。百代子はすぐ僕の顔を見た。僕は足の運びを止《と》めたが、口は開《ひら》かなかつた。「最《も》う好いぢやないの、此所迄來たんだから」と百代子が云つた。「だつて妾《あたし》先刻《さつき》誘つて呉れつて頼まれたのよ」と千代子が云つた。百代子は又僕の顔を見て逡巡《ためら》つた。
 「市《いつ》さん貴方時計持つて居らしつて。今|何時《なんじ》」
 僕は時計を出して百代子に見せた。
 「まだ間に合はない事はない。誘つて來るなら來ると好い。僕は先へ行つて待つてゐるから」
 「最《も》う遲いわよ貴方。高木さん、もし入らつしやる積《つもり》なら屹度《きつと》一人でも入らしつてよ。後から忘れましたつて詫まつたら夫《それ》で好《よ》かないの」
 姉妹《きやうだい》は二三度押問答の末遂に後戻りをしない事にした。高木は百代子の豫言通りまだ汽車の着かないうちに急ぎ足で構内へ這入つて來て、姉妹《きやうだい》に、何うも非道《ひど》い、あれ程頼んで置くのにと云つた。夫《それ》から御母さんはと聞いた。最後に僕の方を向いて、先程はと愛想《あいそ》の好い挨拶をした。
 
     十九
 
 其晩は叔父と從弟《いとこ》を待ち合はした上に、僕等|母子《おやこ》が新たに食卓に加はつたので、食事の時間が何時《いつ》もより、大分《だいぶ》後《おく》れた許《ばかり》でなく、私《ひそ》かに恐れた通り甚だしい混雜の中《うち》に箸と茶椀の動く光景を見せられた。叔父は笑ひながら、市《いつ》さん丸《まる》で火事場の樣だらう、然し會《たま》には斯んな騷ぎをして飯を食ふのも面白いものだよと云つて、間接の言譯をした。閑靜な膳に慣れた母は、此賑やかさの中《うち》に實際叔父の言葉通り愉快らしい顏をしてゐた。母は内氣な癖に斯ういふ陽氣な席が好きなのである。彼女は其時偶然口に上《のぼ》つた一塩《ひとしほ》にした小鯵《こあぢ》の燒いたのを美味《うま》いと云つて頻りに賞めた。
 「漁師《れふし》に頼んどくと幾何《いくら》でも拵えて來て呉れますよ。何なら、歸りに持つて入らつしやいな。姉さんが好きだから上げたいと思つてたんですが、つい序《ついで》が無かつたもんだから。夫《それ》にすぐ腐《わる》くなるんでね」
 「妾《わたし》も何時《いつ》か大磯で誂《あつら》へてわざ/\東京迄持つて歸つた事があるが、餘つ程氣を付けないと途中でね」
 「腐るの」と千代子が聞いた。
 「叔母さん興津鯛《おきつだひ》御嫌《おきらひ》。妾《あたし》是よか興津鯛の方が美味《おいし》いわ」と百代子が云つた。
 「興津鯛は又《また》興津鯛で結構ですよ」と母は大人《おとな》しい答をした。
 斯んなくだ/\しい會話を、僕が何故《なぜ》覺えてゐるかと云ふと、僕は其時母の顔に表はれた、さも滿足らしい氣持を能く注意して見てゐたからであるが、最《も》う一つは僕が母と同じ樣に一塩《ひとしほ》の小鯵を好いてゐたからでもある。
 序《ついで》だから此所で云ふ。僕は自分の嗜好や性質の上に於て、母に大變能く似た所と、全く違つた所と兩方|有《も》つてゐる。是はまだ誰にも話さない秘密だが、實は單に自分の心得として、過去幾年かの間、僕は母と自分と何處が何う違つて、何處が何う似てゐるかの詳しい研究を人知れず重ねたのである。何故《なぜ》そんな眞似をしたかと母に聞かれては云ひ兼ねる。たとひ僕が自分に聞き糺《たゞ》して見ても判切《はつきり》云へなかつたのだから、理由《わけ》は話せない。然し結果からいふと斯うである。――缺點でも母と共に具へてゐるなら僕は大變嬉しかつた。長所でも母になくつて僕|丈《だけ》有《も》つてゐると甚だ不愉快になつた。其内で僕の最も氣になるのは、僕の顔が父に丈《だけ》似て、母とは丸《まる》で縁のない眼鼻立に出來上つてゐる事であつた。僕は今でも鏡を見るたびに、器量が落ちても構はないから、もつと母の人相を多量に受け繼《つ》いで置いたら、母の子らしくつて嘸《さぞ》心持が好いだらうと思ふ。
 食事の後れた如く、寐る時間も順繰《じゆんぐり》に延びて大分《だいぶ》遲くなつた。其上急に人數《にんず》が増《ふ》えたので、床の位置やら部屋割を極める丈《だけ》が叔母に取つての一骨折《ひとほねをり》であつた。男三人は一所に固められて、同じ蚊帳に寐た。叔父は肥つた身體を持ち扱かつて、團扇《うちは》をしきりにばた/\云はした。
 「市《いつ》さん何うだい、暑いぢやないか。是ぢや東京の方が餘つ程樂だね」
 僕も僕の隣にゐる吾一も東京の方が樂だと云つた。夫《それ》では何を苦しんでわざ/\鎌倉|下《くだ》り迄《まで》出掛けて來て、狹い蚊帳へ押し合ふ樣に寐るんだか、叔父にも吾一にも僕にも説明のしやうがなかつた。
 「是も一興《いつきよう》だ」
 疑問は叔父の此一句で忽ち納《をさま》りが付いたが、暑さの方は中々去らないので誰もすぐは寐つかれなかつた。吾一は若い丈《だけ》に、明日《あした》の魚捕《さかなとり》の事を叔父に向つてしきりに質問した。叔父は又眞面目だか冗談だか、船に乘りさへすれば、魚の方で風《ふう》を望《のぞ》んで降《くだ》る樣な旨い話をして聞かせた。夫《それ》がたゞ自分の伜《せがれ》を相手にする許《ばかり》でなく、時々はねえ市《いつ》さんと、そんな事に丸《まる》で冷淡の僕迄|聽手《きゝて》にするのだから少し變であつた。然し僕の方はそれに對して相當な挨拶をする必要があるので、話の濟む前には、僕は當然同行者の一人《いちにん》として受答《うけこたへ》をする樣になつてゐた。僕は固《もと》より行く積《つもり》でも何でもなかつたのだから、此變化は僕に取つて少し意外の感があつた。氣樂さうに見える叔父は其内大きな鼾聲《いびき》をかき始めた。吾一もすや/\寐入つた。たゞ僕|丈《だけ》は開《あ》いてゐる眼をわざと閉ぢて、更《ふ》ける迄色々な事を考へた。
 
      二十
 
 翌日《あくるひ》眼が覺めると、隣に寐てゐた吾一の姿が何時《いつ》の間《ま》にかもう見えなくなつてゐた。僕は寐足らない頭を枕の上に着けて、夢とも思索とも名の付かない路を辿りながら、時々別種の人間を偸《ぬす》み見る樣な好奇心を以て、叔父の寐顔を眺めた。さうして僕も寐てゐる時は、傍《はた》から見ると、矢張|斯《か》う苦《く》がない顔をしてゐるのだらうかと考へ抔《など》した。其所へ吾一が這入つて來て、市《いつ》さん何うだらう天氣はと相談した。一寸起きて見ろと促《うな》がすので、起き上つて縁側へ出ると、海の方には一面に柔い靄の幕が掛つて、近い岬の木立さへ常の色には見えなかつた。降つてるのかねと僕は聞いた。吾一はすぐ庭先へ飛び下りて、空を眺め出したが、少し降つてると答へた。
 彼は今日の船遊びの中止を深く氣遣ふものゝ如く、二人の姉迄縁側へ引張出して、頻りに何うだらう/\を繰り返した。仕舞に最後の審判者たる彼の父の意見を必要と認めたものか、まだ寐てゐる叔父をとう/\呼び起した。叔父は天氣|抔《など》は何うでも好いと云つた樣な眠たい眼をして、空と海を一應見渡した上、何《なに》此模樣なら今に屹度《きつと》晴れるよと云つた。吾一はそれで安心したらしかつたが、千代子は當《あて》にならない無責任な天氣豫報たから心配だと云つて僕の顔を見た。僕は何とも云へなかつた。叔父は、なに大丈夫/\と受合つて風呂場の方へ行つた。
 食事を濟ます頃から霧の樣な雨が降り出した。それでも風がないので、海の上は平生よりも却つて穩やかに見えた。生憎《あいにく》な天氣なので人の好い母はみんなに氣の毒がつた。叔母は今に屹度《きつと》本降になるから今日は止したが好からうと注意した。けれども若いものは悉《こと/”\》く行く方を主張した。叔父はぢや御婆さん丈《だけ》殘して、若いものが揃つて出掛ける事にしやうと云つた。すると叔母が、では御爺さんは何方《どつち》になさるのとわざと叔父に聞いて、みんなを笑はした。
 「今日は是でも若いものの部だよ」
 叔父は此言葉を證據立てる爲だか何だか、早速立つて浴衣《ゆかた》の尻を端折《はしよ》つて下へ降りた。姉弟《きやうだい》三人も其儘の姿で縁から降りた。
 「御前達も尻を捲《まく》るが好い」
 「厭な事」
 僕は山賊の樣な毛脛《けずね》を露出《むきだ》しにした叔父と、靜御前《しづかごぜん》の笠に似た恰好《かつかう》の麥藁帽を被つた女二人と、黒い兵兒帶《へこおび》をこま結びにした弟を、縁の上から見下して、全く都離れのした不思議な團體の如く眺めた。
 「市《いつ》さんが又何か惡口を云はうと思つて見てゐる」と百代子が薄笑ひをしながら僕の顔を見た。
 「早く降りて入らつしやい」と千代子が叱る樣に云つた。
 「市《いつ》さんに惡い下駄を貸して上げるが好い」と叔父が注意した。
 僕は一も二もなく降りたが、約束のある高木が來ないので、夫《それ》が又一つの問題になつた。大方此天氣だから見合はしてゐるのだらうと云ふのが、みんなの意見なので、僕等がそろ/\歩いて行く間に、吾一が馳足《かけあし》で迎に行つて連れて來る事にした。
 叔父は例の調子でしきりに僕に話し掛けた。僕も相手になつて歩調を合せた。其うちに、男の足だものだから、何時《いつ》の間《ま》にか姉妹《きやうだい》を乘り越した。僕は一度振り返つて見たが、二人は後れた事に一向頓着しない樣子で、毫も追ひ付かうとする努力を示さなかつた。僕には夫《それ》がわざと後《あと》から來る高木を待ち合せる爲の樣にしか取れなかつた。それは誘つた人に對する禮儀として、彼等の取るぺき當然の所作だつたのだらう。然し其時の僕にはさう思へなかつた。さう思ふ餘地があつても、さうは感ぜられなかつた。早く來いといふ合圖をしやうといふ考で振り向いた僕は、合圖を止《や》めて又叔父と歩き出した。さうして其儘|小坪《こつぼ》へ這入る入口の岬の所迄來た。其所は海へ出張《でば》つた山の裾を、人の通れる丈《だけ》の狹い幅に削《けづ》つて、ぐるりと向ふ側へ廻り込まれる樣にした坂道であつた。叔父は一番高い坂の角迄來て留《と》まつた。
 
     二十一
 
 彼は突然彼の體格に相應した大きな聲を出して姉妹《きやうだい》を呼んだ。自白するが、僕は夫《それ》迄《まで》に何度も後《うしろ》を振り返つて見やうとしたのである。けれども氣が咎《とが》めると云ふのか、自尊心が許さないと云ふのか、振り向かうとする毎に、首が猪の樣に堅くなつて後《うしろ》へ回らなかつたのである。
 見ると二人の姿はまだ一町程下にあつた。さうして其すぐ後《うしろ》に高木と吾一が續いてゐた。叔父が遠慮のない大きな聲を出して、おゝいと呼んだ時、姉妹《きやうだい》は同時に僕等を見上げたが、千代子はすぐ後《うしろ》にゐる高木の方を向いた。すると高木は被つてゐた麥藁帽を右の手に取つて、僕等を目當に頻りに振つて見せた。けれども四人《よにん》のうちで聲を出して叔父に應じたのは只《たゞ》吾一|丈《だけ》であつた。彼は又學校で號令の稽古でもしたものと見えて、海と崖に反響する樣な答と共に兩手を一度に頭の上に差し上げた。
 叔父と僕は崖の鼻に立つて彼等の近寄るのを待つた。彼等は叔父に呼ばれた後《のち》も呼ばれない前と同じ遲い歩調で、何か話しながら上《あが》つて來た。僕には夫《それ》が尋常でなくつて、大いに巫山戯《ふざけ》てゐる樣に見えた。高木は茶色のだぶ/\した外套の樣なものを着て時々|隱袋《ポツケツト》へ手を入れた。此暑いのにまさか外套は着られまいと思つて、最初は不思議に眺めてゐたが、段々近くなるに從がつて、それが薄い雨除《レインコート》である事に氣が付いた。其時叔父が突然、市《いつ》さんヨツトに乘つて其所いらを遊んで歩くのも面白いだらうねと云つたので、僕は急に氣が付いた樣に高木から眼を轉じて脚の下を見た。すると磯に近い所に、眞白に塗つた空船《からぶね》が一艘、靜かな波の上に浮いてゐた。糠雨《ぬかあめ》と迄も行かない細かいものが猶降り已《や》まないので、海は一面に暈《ぼか》されて、平生《いつも》なら手に取る樣に見える向ふ側の絶壁の樹も岩も、殆んど一色《ひといろ》に眺められた。其内|四人《よつたり》は漸く僕等の傍《そば》迄來た。
 「何うも御待たせ申しまして、實は髭を剃《す》つてゐたものだから、途中で已《や》める譯に行かず……」と高木は叔父の顔を見るや否や云譯をした。
 「えらい物《もん》を着込んで暑かありませんか」と叔父が聞いた。
 「暑くつたつて脱ぐ譯に行かないのよ。上はハイカラでも下は蠻殻《ばんから》なんだから」と千代子が笑つた。高木は雨外套《レインコート》の下に、直《ぢか》に半袖の薄い襯衣《しやつ》を着て、變な半洋袴《はんズボン》から餘つた脛《すね》を丸出しにして、黒足袋に俎下駄《まないたげた》を引つ掛けてゐた。彼は此通りと雨外套《レインコート》の下を僕等に示した上、日本へ歸ると服裝が自由で貴女《レデー》の前でも氣兼《きがね》がなくつて好いと云つてゐた。
 一同がぞろ/\揃つて道幅の六尺ばかりな汚苦《むさくる》しい漁村に這入ると、一種不快な臭《にほひ》がみんなの鼻を撲《う》つた。高木は隱袋《ポツケツト》から白い手巾《ハンケチ》を出して短かい髭の上を掩《おほ》つた。叔父は突然其所に立つて僕等を見てゐた子供に、西の者で南の方から養子に來たものゝ宅《うち》は何處だと奇體な質問を掛けた。子供は知らないと云つた。僕は千代子に何でそんな妙な聞き方をするのかと尋ねた。昨夕《ゆうべ》聞き合せに人を遣つた家《うち》の主人が云ふには、名前は忘れたから是々の男と云つて探して歩けば分ると教へたからだと千代子が話して聞かした時、僕は此|呑氣《のんき》な教へ方と、同じく暢氣な聞き方を、如何にも餘裕なくこせついてゐる自分と比べて見て、妙に羨ましく思つた。
 「それで分るんでせうか」と高木が不思議な顏をした。
 「分つたら餘つ程奇體だわね」と千代子が笑つた。
 「何大丈夫分るよ」と叔父が受合つた。
 吾一は面白半分人の顏さへ見れば、西のもので南の方から養子に來たものゝ宅《うち》は何處だと聞いては、其度にみんなを笑はした。一番仕舞に、編笠を被つて白の手甲《てつかふ》と脚袢《きやはん》を着けた月琴彈《げつきんひき》の若い女の休んでゐる汚ない茶店の婆さんに同じ問を掛けたら、婆さんは案外にもすぐ其所だと容易《たやす》く教へて呉れたので、みんなが又手を拍つて笑つた。それは往來から山手の方へ三級ばかりに仕切られた石段を登り切つた小高い所にある小さい藁葺《わらぶき》の家《いへ》であつた。
 
     二十二
 
 此細い石段を思ひ/\の服裝《なり》をした六人が前後してぞろ/\登る姿は、傍《はた》で見てゐたら定めし變なものだつたらうと思ふ。其上六人のうちで、是から何をするか明瞭《はつきり》した考を有《も》つてゐたものは誰もないのだから甚だ氣楽である。肝心の叔父さへ唯船に乘る事を知つてゐる丈《だけ》で、後は網だか釣だか、又何處迄漕いで出るのか一向|辨別《わきま》へないらしかつた。百代子の後《あと》から足の力で擦り減らされて凹みの多くなつた石段を踏んで行く僕は斯んな無意味な行動に、己《おの》れを委《ゆだ》ねて悔いない所を、避暑の趣《おもむき》とでも云ふのかと思ひつゝ上《のぼ》つた。同時に此無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に暗に演ぜられつゝあるのでは無からうかと疑ぐつた。さうして其一幕の中で、自分の務めなければならない役割が若し有るとすれば、穩かな顏をした運命に、輕く翻弄される役割より外にあるまいと考へた。最後に何事も打算しないで唯無雜作に遣つて除《の》ける叔父が、人に氣の付かないうちに、此幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な手際《てぎは》を有《も》つた作者と云はなければなるまいといふ氣を起した。僕の頭に斯ういふ影が射した時、すぐ後《あと》から跟《つ》いて上《あが》つて來る高木が、是ぢや暑くつて堪らない、御免蒙つて雨防衣《レインコート》を脱がうと云ひ出した。
 家は下から見たよりも猶《なほ》小さくて汚なかつた。戸口に杓子が一つ打ち付けてあつて、夫《それ》に百日風邪吉野平吉一家一同と書いてあるので、主人の名が漸く分つた。それを見付け出して、みんなに聞こえるやうに讀んだのは、目敏《めざと》い吾一の手柄であつた。中を覗くと天井も壁も悉《こと/”\》く黒く光つてゐた。人間としては婆さんが一人居たぎりである。其婆さんが、今日は天氣が好くないので、大方|御出《おいで》ぢやあるまいと云つて早く海へ出ましたから、今濱へ下りて呼んできませうと斷わりを述べた。舟へ乘つて出たのかねと叔父が聞くと、婆さんは多分あの船だらうと答へて、手で海の上を指《さ》した。靄はまだ晴れなかつたけれども、先刻《さつき》よりは空が大分《だいぶ》明るくなつたので、沖の方は比較的|判切《はつきり》見える中に、指された船は遠くの向ふに小さく横《よこた》はつてゐた。
 「あれぢや大變だ」
 高木は携へて來た双眼鏡を覗きながら斯う云つた。
 「隨分|呑氣《のんき》ね、迎ひに行くつて、何うしてあんな所へ迎に行けるんでせう」と千代子は笑ひながら、高木の手から双眼鏡を受取つた。
 婆さんは何|直《ぢき》ですと答へて、草履を穿《は》いた儘、石段を馳け下りて行つた。叔父は田舍者は氣樂だなと笑つてゐた。吾一は婆さんの後《あと》を追掛けた。百代子はぼんやりして汚ない縁へ腰を卸した。僕は庭を見廻した。庭といふ名の勿體なく聞こえる縁先は五坪《いつつぼ》にも足りなかつた。隅に無花果《いちじく》が一本あつて、腥《なま》ぐさい空氣の中に、青い葉を少し許《ばか》り茂らしてゐた。枝にはまだ熟しない實《み》が云譯《いひわけ》程|結《な》つて、其一本の股の所に、空《から》の虫籠が懸つてゐた。其下には瘠せた鷄が二三羽無暗に爪を立てた地面の中を餓えた嘴《くちばし》で啄《つゝ》いてゐた。僕は其|傍《そば》に伏せてある鐵網《かなあみ》の鳥籠らしいものを眺めて、その恰好《かつかう》が丁度|佛手柑《ぶしゆかん》の如く不規則に歪《ゆが》んでゐるのに一種滑稽な思ひをした。すると叔父が突然、何分臭いねと云ひ出した。百代子は、あたし最《も》う御魚《おさかな》なんか何うでも好いから、早く歸りたくなつたわと心細さうな聲を出した。此時迄双眼鏡で海の方を見ながら、斷えず千代子と話してゐた高木はすぐ後《うしろ》を振り返つた。
 「何をしてゐるだらう。一寸行つて樣子を見て來ませう」
 彼はさう云ひながら、手に持つた雨外套《レーンコート》と双眼鏡を置くために後《うしろ》の縁を顧みた。傍《そば》に立つた千代子は高木の動かない前に手を出した。
 「此方《こつち》へ御出しなさい。持つてるから」
 さうして高木から二つの品を受け取つた時、彼女は改めて又彼の半袖姿を見て笑ひながら、「とう/\蠻殻《ばんから》になつたのね」と評した。高木は唯苦笑した丈《だけ》で、すぐ濱の方へ下りて行つた。僕は左《さ》も運動家らしく發達した彼の肩の肉が、急いで石段を下りる爲に手を振る毎に動く樣を後《うしろ》から無言のまゝ注意して眺めた。
 
     二十三
 
 船に乘るためにみんなが揃つて濱に下り立つたのは夫《それ》から約一時間の後《のち》であつた。濱には何の祭の前か過《すぎ》か、深く砂の中に埋められた高い幟《のぼり》の棒が二本僕の眼を惹いた。吾一は何處からか磯へ打ち上げた枯枝を拾つて來て、廣い砂の上に大きな字と大きな顔をいくつも並べた。
 「さあ御乘り」と坊主頭の船頭が云つたので、六人は順序なくごた/\に船縁《ふなべり》から這ひ上つた。偶然の結果千代子と僕は後《あと》のものに押されて、仕切りの付いた舳《へさき》の方に二人膝を突き合せて坐つた。叔父は一番先に、胴《どう》の間《ま》といふのか、眞中の廣い所に、家長《かちやう》らしく胡坐《あぐら》をかいて仕舞つた。さうして高木を其日の客として取り扱ふ積《つもり》か、さあ何うぞと案内したので、彼は否應《いやおう》なしに叔父の傍《そば》に座を占めた。百代子と吾一は彼等の次の間《ま》と云つた樣な仕切の中に船頭と一所に這入つた。
 「何うです此方《こつち》が空《す》いてますから入らつしやいませんか」と高木はすぐ後《うしろ》の百代子を顧みた。百代子は難有《ありがた》うといつたきり席を移さなかつた。僕は始めから千代子と一つ薄縁《うすべり》の上に坐るのを快よく思はなかつた。僕の高木に對して嫉妬を起した事は既に明かに自白して置いた。其嫉妬は程度に於て昨日《きのふ》も今日《けふ》も同じだつたかも知れないが、それと共に競爭心は未だ甞て微塵も僕の胸に萌《きざ》さなかつたのである。僕も男だから是から先いつ何《ど》んな女を的に劇烈な戀に陷《おちい》らないとも限らない。然し僕は斷言する。若し其戀と同じ度合の劇烈な競爭を敢てしなければ思ふ人が手に入らないなら、僕は何《ど》んな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懷ろにして戀人を見棄てゝ仕舞ふ積《つもり》でゐる。男らしくないとも、勇氣に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他《ひと》から評したら何うにでも評されるだらう。けれども夫《それ》程《ほど》切ない競爭をしなければ吾《わが》有《もの》に出來にくい程、何方《どつち》へ動いても好い女なら、夫《それ》程《ほど》切ない競爭に價《あたひ》しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡《なび》かない女を無理に抱《だ》く喜《よろ》こびよりは、相手の戀を自由の野に放つて遣つた時の男らしい氣分で、わが失戀の瘡痕《きずあと》を淋《さみ》しく見詰めてゐる方が、何《ど》の位良心に對して滿足が多いか分らないのである。
 僕は千代子に斯う云つた。――
 「千代ちやん行つちや何うだ。彼方《あつち》の方が廣くつて樂《らく》な樣だから」
 「何故《なぜ》、此所に居ちや邪魔なの」
 千代子はさう云つた儘動かうとしなかつた。僕には高木がゐるから彼方《あつち》へ行けといふのだといふ樣な説明は、露骨と聞こえるにしろ、厭味と受取られるにしろ、全く口にする勇氣は出なかつた。たゞ彼女から斯う云はれた僕の胸に、一種の嬉しさが閃めいたのは、口と腹と何う裏表になつてゐるかを曝露する好い證據で、自分で自分の薄弱な性情を自覺しない僕には痛い打撃であつた。
 昨日《きのふ》會つた時よりは氣の所爲《せゐ》か少し控目になつたやうに見える高木は、千代子と僕の間に起つた此問答を聞きながら知らぬ振をしてゐた。船が磯を離れたとき、彼は「好い案排《あんばい》に空模樣が直つて來ました。是ぢや日がかん/\照るより却つて結構です。船遊びには持つて來いといふ御天氣で」といふ樣な事を叔父と話し合つたりした。叔父は突然大きな聲を出して、「船頭、一體何を捕《と》るんだ」と聞いた。叔父も其他のものも、此時迄何を捕《と》るんだか一向知らずにゐたのである。坊主頭の船頭は、粗末《ぞんざい》な言葉で、蛸《たこ》を捕《と》るんだと答へた。此奇拔な返事には千代子も百代子も驚ろくよりも可笑《をか》しかつたと見えて、忽ち聲を出して笑つた。
 「蛸《たこ》は何處にゐるんだ」と叔父が又聞いた。
 「此所いらにゐるんだ」と船頭は又答へた。
 さうして湯屋の留桶《とめをけ》を少し深くした樣な小判形《こばんなり》の桶の底に、硝子《がらす》を張つたものを水に伏せて、其中に顔を突込《つつこ》む樣に押し込みながら、海の底を覗き出した。船頭は此妙な道具を鏡《かゞみ》と稱《とな》へて、二つ三つ餘分に持ち合はせたのを、すぐ僕等に貸して呉れた。第一にそれを利用したのは船頭の傍《そば》に座を取つた吾一と百代子であつた。
 
     二十四
 
 鏡が夫《それ》から夫《それ》へと順々に回つた時、叔父は是《こり》や鮮《あざ》やかだね、何でも見えると非道《ひど》く感心してゐた。叔父は人間社會の事に大抵通じてゐる所爲《せゐ》か、萬《よろづ》に高《たか》を括《くゝ》る癖に、斯ういふ自然界の現象に襲はれるとぢき驚ろく性質《たち》なのである。自分は千代子から渡された鏡を受け取つて、最後に一枚の硝子越に海の底を眺めたが、かねて想像したと少しも異なる所のない極めて平凡な海の底が眼に入つた丈《だけ》である。其所には小《ち》さい岩が多少の凸凹《とつあふ》を描いて一面に連なる間に、蒼黒い藻草が限りなく蔓延《はびこ》つてゐた。其藻草が恰も生温《なまぬ》るい風に拗《なぶ》られる樣に、波のうねりで靜かに又永久に細長い莖を前後に搖《うご》かした。
 「市《いつ》さん蛸が見えて」
 「見えない」
 僕は顔を上げた。千代子は又首を突込《つつこ》んだ。彼女の被つてゐたへな/\の麥藁帽子の縁《ふち》が水に浸《つか》つて、船頭に操《あや》つられる船の勢に逆らふ度に、可憐な波をちよろ/\起した。僕は其|後《うしろ》に見える彼女の黒い髪と白い頸筋を、其顏よりも美くしく眺めてゐた。
 「千代ちやんには、見《めつ》付かつたかい」
 「駄目よ。蛸なんか何處にも泳いでゐやしないわ」
 「餘つ程慣れないと中々|見付《めつ》ける譯に行かないんださうです」
 是は高木が千代子の爲に説明して呉れた言葉であつた。彼女は兩手で桶を抑へたまゝ、船縁《ふなべり》から乘り出した身體を高木の方へ捻《ね》ぢ曲げて、「道理《どうれ》で見えないのね」といつたが、其儘水に戯《たはむ》れる樣に、兩手で抑えた桶をぶく/\動かしてゐた。百代子が向ふの方から御姉さんと呼んだ。吾一は居所も分らない蛸を無暗に突き廻した。突くには二間|許《ばかり》の細長い女竹《めだけ》の先に一種の穗先を着けた變なものを用ひるのである。船頭は桶を齒で銜《くは》へて、片手に棹《さを》を使ひながら、船の動いて行くうちに、蛸の居所を探し中《あ》てるや否や、その長い竹で巧みにぐにや/\した怪物を突き刺した。
 蛸は船頭一人の手で、何疋も船の中に上がつたが、何《いづ》れも同じ位な大きさで、是はと驚ろく程のものはなかつた。始めのうちこそ皆《みんな》珍らしがつて、捕《と》れるたびに騷いで見たが、仕舞には流石《さすが》元氣な叔父も少し飽きて來たと見えて、「斯う蛸ばかり捕《と》つても仕方がないね」と云ひ出した。高木は烟草を吹かしながら、舟底《ふなぞこ》にかたまつた獲物を眺め始めた。
 「千代ちやん、蛸の泳いでる所を見た事がありますか。一寸來て御覽なさい、餘程《よつぽど》妙ですよ」
 高木は斯う云つて千代子を招いたが、傍《そば》に坐つてゐる僕の顏を見た時、「須永さん何うです、蛸が泳いでゐますよ」と付け加へた。僕は「左《さ》うですか。面白いでせう」と答へたなり直《すぐ》席を立たうともしなかつた。千代子はどれと云ひながら高木の傍《そば》へ行つて新らしい座を占めた。僕は故《もと》の所から彼女にまだ泳いでるかと尋ねた。
 「えゝ面白いわ、早く來て御覽なさい」
 蛸は八本の足を眞直に揃へて、細長い身體を一氣にすつ/\と區切りつゝ、水の中を一直線に船板に突き當る迄進んで行くのであつた。中には烏賊《いか》の樣に黒い墨を吐くのも交《まじ》つてゐた。僕は中腰になつて一寸其光景を覗いたなり故《もと》の席に戻つたが、千代子は夫《それ》限《ぎり》高木の傍《そば》を離れなかつた。
 叔父は船頭に向つて蛸はもう澤山だと云つた。船頭は歸るのかと聞いた。向ふの方に大きな竹籃《たけかご》の樣なものが二つ三つ浮いてゐたので、蛸ばかりで淋《さむ》しいと思つた叔父は、船を其一つの側《わき》へ漕ぎ寄せさした。申し合せた樣に、舟中《ふねぢゆう》立ち上つて籃《かご》の内を覗くと、七八寸もあらうと云ふ魚《さかな》が、縱横に狹い水の中を馳け廻つてゐた。その或ものは水の色を離れない蒼い光を鱗に帶びて、自分の勢で前後左右に作る波を肉の裏に透《とほ》す樣に輝やいた。
 「一つ掬《すく》つて御覽なさい」
 高木は大きな掬網《たま》の柄《え》を千代子に握らした。千代子は面白半分それを受取つて水の中で動かさうとしたが、動きさうにもしないので、高木は己《おの》れの手を添へて二人一所に籃《かご》の中を覺束《おぼつか》なく攪《か》き廻した。然し魚《さかな》は掬《すく》へる所《どころ》ではなかつたので、千代子は直《すぐ》それを船頭に返した。船頭は同じ掬網《たま》で叔父の命ずる儘に何疋でも水から上へ擇《よ》り出した。僕等は危怪《きくわい》な蛸の單調を破るべく、鷄魚《いさき》、鱸《すゞき》、黒鯛の變化を喜こんで又岸に上《のぼ》つた。
 
     二十五
 
 僕は其晩一人東京へ歸つた。母はみんなに引き留《と》められて、歸るときには吾一か誰か送つて行くといふ條件の下《もと》に、猶《なほ》二三日鎌倉に留《とゞ》まる事を肯《がへ》んじた。僕は何故《なぜ》母が彼等の勸める儘に、人を好《よ》く落ち付いてゐるのだらうと、鋭どく磨《と》がれた自分の神經から推して、悠長《いうちやう》過ぎる彼女を齒痒《はがゆ》く思つた。
 高木には夫《それ》から以後ついぞ顏を合せた事がなかつた。千代子と僕に高木を加へて三《み》つ巴《ともゑ》を描いた一種の關係が、夫《それ》限《ぎり》發展しないで、其|中《うち》の劣敗者に當る僕が、恰も運命の先途《せんど》を豫知した如き態度で、中途から渦卷の外《そと》に逃《のが》れたのは、此話を聞くものに取つて、定めし不本意であらう。僕自身も幾分か火の手のまだ収まらないうちに、取り急いで纒《まとひ》を撤した樣な心持がする。と云ふと、僕に始からある目論見《もくろみ》があつて、わざ/\鎌倉へ出掛けたとも取れるが、嫉妬心だけあつて競爭心を有《も》たない僕にも相應の己惚《うねぼれ》は陰氣な暗い胸の何處かで時々ちら/\陽炎《かげろ》つたのである。僕は自分の矛盾をよく研究した。さうして千代子に對する己惚《うぬぼれ》を飽迄《あくまで》積極的に利用し切らせない爲に、他の思想やら感情やらが、入れ代り立ち替り雜然として吾心を奪ひに來る煩らはしさに惱んだのである。
 彼女は時によると、天下に只|一人《いちにん》の僕を愛してゐる樣に見えた。僕は夫《それ》でも進む譯に行かないのである。然し未來に眼を塞いで、思ひ切つた態度に出やうかと思案してゐるうちに、彼女は忽ち僕の手から逃《のが》れて、全くの他人と違はない顔になつて仕舞ふのが常であつた。僕が鎌倉で暮した二日の間に、斯ういふ潮《しほ》の滿干《みちひ》は既に二三度あつた。或時は自分の意志で此變化を支配しつゝ、わざと近寄つたり、わざと遠退いたりするのでなからうかといふ微《かす》かな疑惑をさへ、僕の胸に烟らせた。それ許《ばかり》ではない。僕は彼女の言行を、一《いつ》の意味に解釋し終つたすぐ後《あと》から、丸《まる》で反對の意味に同じものを又解釋して、其實|何方《どつち》が正しいのか分らない徒《いた》づらな忌々《いま/\》しさを感じた例《ためし》も少なくはなかつた。
 僕は此二日間に娶《めと》る積《つもり》のない女に釣られさうになつた。さうして高木といふ男が苟《いや》しくも眼の前に出没する限りは、厭でも仕舞迄釣られて行きさうな心持がした。僕は高木に對して競爭心を有《も》たないと先に斷つたが、誤解を防ぐために、もう一度同じ言葉を繰り返したい。もし千代子と高木と僕と三人が巴になつて戀か愛か人情かの旋風《つむじかぜ》の中に狂ふならば、其時僕を動かす力は高木に勝たうといふ競爭心でない事を僕は斷言する。夫《それ》は高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければ居られない神經作用と同じ物だと斷言する。結果が高木に對して勝つか負けるかに歸着する上部《うはべ》から云へば、競爭と見えるかも知れないが、動力は全く獨立した一種の働きである。しかも其動力は高木が居さへしなければ決して僕を襲つて來ないのである。僕は其二日間に、此怪しい力の閃《きらめき》を物凄く感じた。さうして強い決心と共にすぐ鎌倉を去つた。
 僕は強い刺戟に充ちた小説を讀むに堪へない程弱い男である。強い刺戟に充ちた小説を實行する事は猶更《なほさら》出來ない男である。僕は自分の氣分が小説になり掛けた刹那《せつな》に驚ろいて、東京へ引き返したのである。だから汽車の中の僕は、半分は優者で半分は劣者であつた。比較的乘客の少ない中等列車のうちで、僕は自分と書き出して自分と裂き棄てた樣な此小説の續きを色々に想像した。其所には海があり、月があり、磯があつた。若い男の影と若い女の影があつた。始めは男が激して女が泣いた。後《あと》では女が激して男が宥《なだ》めた。終《つひ》には二人手を引き合つて音のしない砂の上を歩いた。或は額《がく》があり、疊があり、凉しい風が吹いた。二人の若い男が其所で意味のない口論をした。それが段々熱い血を頬に呼び寄せて、終《つひ》には二人共自分の人格に拘はる樣な言葉使ひをしなければ濟まなくなつた。果《はて》は立ち上つて拳《こぶし》を揮《ふる》ひ合つた。或は……。芝居に似た光景は幾幕となく眼の前に描《ゑが》かれた。僕は其|何《いづ》れをも甞《な》め試ろみる機會を失つて却つて自分の爲に喜んだ。人は僕を老人見た樣《やう》だと云つて嘲けるだらう。もし詩に訴へてのみ世の中を渡らないのが老人なら、僕は嘲けられても滿足である。けれども若し詩に涸《か》れて乾《から》びたのが老人なら、僕は此品評に甘んじたくない。僕は始終詩を求めて藻掻《もが》いてゐるのである。
 
     二十六
 
 僕は東京へ歸つてからの氣分を想像して、或は刺戟を眼の前に控へた鎌倉にゐるよりも却つて焦躁《いら》つきはしまいかと心配した。さうして相手もなく一人|焦燥《いら》つく事の甚しい苦痛を徒らに胸の中《うち》に描いて見た。偶然にも結果は他の一方に外《そ》れた。僕は僕の希望した通り、平生に近い落付と冷靜と無頓着とを、比較的容易に、淋《さみ》しいわが二階の上に齎《もた》らし歸る事が出來た。僕は新らしい匂のする蚊帳を座敷一杯に釣つて、軒に鳴る風鈴の音を樂しんで寐た。宵には町へ出て草花の鉢を抱《かゝ》へながら格子《かうし》を開ける事もあつた。母が居ないので、凡《すべ》ての世話は作《さく》といふ小間使がした。鎌倉から歸つて、始めてわが家の膳に向つた時、給仕の爲に黒い丸盆を膝の上に置いて、僕の前に畏こまつた作《さく》の姿を見た僕は今更の樣に彼女と鎌倉にゐる姉妹《きやうだい》との相違を感じた。作《さく》は固《もと》より好い器量の女でも何でもなかつた。けれども僕の前に出て畏こまる事より外に何も知つてゐない彼女の姿が、僕には如何《いか》に愼《つゝ》ましやかに如何《いか》に控目に、如何《いか》に女として憐れ深く見えたらう。彼女は戀の何物であるかを考へるさへ、自分の身分では既に生意氣過ぎると思ひ定めた樣子で、大人《おとな》しく坐つてゐたのである。僕は珍らしく彼女に優しい言葉を掛けた。さうして彼女に年は幾何《いくつ》だと聞いた。彼女は十九だと答へた。僕は又突然嫁に行きたくはないかと尋ねた。彼女は赧《あか》い顔をして下を向いたなり、露骨な問を掛けた僕を氣の毒がらせた。僕と作《さく》とは夫《それ》迄《まで》殆んど用の口より外に利いた事がなかつたのである。僕は鎌倉から新らしい記憶を持つて歸つた反動として、其時始めて、自分の家に使つてゐる下婢の女らしい所に氣が付いた。愛とは固《もと》より彼女と僕の間に云ひ得べき言葉でない。僕はたゞ彼女の身の周圍《まはり》から出る落付いた、氣安い、大人《おとな》しやかな空氣を愛したのである。
 僕が作《さく》の爲に安慰を得たと云つては、自分ながら可笑《をか》しく聞こえる。けれども今考へて見ても夫《それ》より外の源因は全く考へ付かない樣だから、矢つ張り作《さく》が――作《さく》がといふより、其時の作《さく》が代表して僕に見せて呉れた女性《によしやう》のある方面の性質が、想像の刺戟にすら焦躁立《いらだ》ちたがつてゐた僕の頭を靜めて呉れたのだらうと思ふ。白状すれば鎌倉の景色《けしき》は折々眼に浮かんだ。其景色のうちには無論人間が活動してゐた。たゞ夫《それ》が僕の遠くにゐる、僕とは到底《とて》も利害を一《いつ》にし得ない人間の活動らしく見えたのは幸福であつた。
 僕は二階に上《のぼ》つて書架の整理を始めた。綺麗好な母が始終氣を付けて掃除を怠たらなかつたに拘はらず、一々書物を並べ直すとなると、思はぬ挨の色を、目の屆かない陰に見付けるので、殘らず揃へる迄には、中々手間取つた。僕は暑中に似合はしい閑事業として、成る可く時間の掛る樣に、氣が向けば手にした本を何時《いつ》迄も讀み耽《ふけ》つて見《み》樣《やう》といふ氣樂な方針で蝸牛《かたつむり》の如く進行した。作《さく》は時ならない拂塵《はたき》の音を聞き付けて、梯子段から銀杏返《いてふがへ》しの頭を出した。僕は彼女に書架の一部を雜巾で拭いて貰つた。然し何時《いつ》迄掛るか分らない仕事の手傳を、濟むまでさせるのも氣の毒だと思つて、直《すぐ》階下《した》へ下げた。僕は一時間程書物を伏せたり立てたりして少し草臥《くたび》れたから烟草を吹かして休んでゐると、作《さく》が又梯子段から顔を出した。さうして、私でよろしければ何ぞ致しませうかと尋ねた。僕は作《さく》に何かさせて遣りたかつた。不幸にして西洋文字の讀めない彼女には手の出せない書物の整理なので、僕は氣の毒だけれども、何《なに》好いよと斷つて又下へ追ひ遣つた。
 作《さく》の事をさう一々云ふ必要もないが、つい前からの關係で、彼女の其時の行動を覺えて居たから話したのである。僕は一本の卷烟草を呑み切つた後《あと》で又整理に掛つた。今度は作《さく》の爲にわれ一人《いちにん》の世界を妨たげられる虞《おそれ》なしに、書架の二段目を一氣に片付けた。其時僕は久しく友達に借りて、つい返すのを忘れてゐた妙な書物を、偶然棚の後《うしろ》から發見した。それは寧ろ薄い小形の本だつたので、つい外のものゝ向側《むかふがは》へ落ちたなり埃だらけになつて、今日《けふ》迄《まで》僕の眼を掠《かす》めてゐたのである。
 
     二十七
 
 僕に此本を貸して呉れたものは或|文學好《ぶんがくずき》の友達であつた。僕はかつて此男と小説の話をして、思慮の勝つたものは、萬事に考へ込む丈《だけ》で、一向《いつかう》華やかな行動を仕切る勇氣がないから、小説に書いても詰らないだらうと云つた。僕の平生からあまり小説を愛讀しないのは、僕に小説中の人物になる資格が乏しいので、資格が乏しいのは、考へ/\して愚圖つく所爲《せゐ》だらうと兼々思つてゐたから、僕はつい斯ういふ質問が掛けて見たくなつたのである。其時彼は机上にあつた此本を指《さ》して、此所に書いてある主人公は、非常に目覺しい思慮と、恐ろしく凄まじい思ひ切つた行動を具へてゐると告げた。僕は一體|何《ど》んな事が書いてあるのかと聞いた。彼はまあ讀んで見ろと云つて、其本を取つて僕に渡した。標題にはゲダンケといふ獨乙字《ドイツじ》が書いてあつた。彼は露西亞物《ロシアもの》の翻譯だと教へて呉れた。僕は薄い書物を手にしながら、重ねてその梗※[既/木]《かうがい》を彼に尋ねた。彼は梗※[既/木]《かうがい》などは何うでも好いと答へた。さうして中に書いてある事が嫉妬なのだか、復讐なのだか、深刻な惡戯《いたづら》なのだか、醉興な計略なのだか、眞面目な所作なのだか、氣狂《きちがひ》の推理なのだか、常人の打算なのだか、殆んど分らないが、何しろ華々しい行動と同じく華々しい思慮が伴なつてゐるから、兎も角も讀んで見ろと云つた。僕は書物を借りて歸つた。然し讀む氣はしなかつた。僕は讀み耽《ふけ》らない癖に、小説家といふものを一切馬鹿にしてゐた上に、友達のいふ樣な事には些《ちつ》とも心を動かすべき興味を有《も》たなかつたからである。
 此出來事を悉皆《すつかり》忘れてゐた僕は、何の氣も付かずに其ゲダンケを今棚の後《うしろ》から引き出して厚い塵を拂つた。さうして見覺のある例の獨乙字《ドイツじ》の標題に眼を付けると共に、かの文學好の友達と彼の其時の言葉とを思ひ出した。すると突然何處から起つたか分らない好奇心に驅られて、すぐ其一頁を開いて初めから讀み始めた。中には恐るべき話が書いてあつた。
 或女に意のあつた或男が、其婦人から相手にされないのみか、却つてわが知り合の人の所へ嫁入られたのを根に、新婚の夫《をつと》を殺さうと企てた。但し唯殺すのではない。女房が見てゐる前で殺さなければ面白くない。しかも其見てゐる女房が彼を下手人と知つてゐながら、何時《いつ》迄も指を銜《くは》へて、彼を見てゐる丈《だけ》で、夫《それ》より外に何うにも手の付けやうのないといふ複雜な殺し方をしなければ氣が濟まない。彼は其|手段《てだて》として一種の方法を案出した。ある晩餐の席へ招待された好機を利用して、彼は急に劇しい發作《ほつさ》に襲はれた振をし始めた。傍《はた》から見ると丸《まる》で狂人としか思へない擧動を其場で敢てした彼は、同席の一人殘らずから、全くの狂人と信じられたのを見濟まして、心の内で圖に當つた策略を祝賀した。彼は人目に觸れ易い社交場裡で、同じ所作を猶《なほ》二三度繰り返した後、發作の爲に精神に狂《くるひ》の出る危險な人といふ評判を一般に博し得た。彼は此|手數《てかず》の懸つた準備の上に、手の付けやうのない殺人罪を築き上げる積《つもり》でゐたのである。?《しば/\》起る彼の發作が、華やかな交際の色を暗く損《そこ》ない出してから、今迄懇意に往來《ゆきき》してゐた誰彼の門戸が、彼に對して急に固く鎖される樣になつた。けれども夫《それ》は彼の苦にする所ではなかつた。彼は猶《なほ》自由に出入《でいり》の出來る一軒の家を持つてゐた。それが取りも直さず彼の將《まさ》に死の國に蹴落さうとしつゝある友と其細君の家だつたのである。彼は或日何氣ない顔をして友の住居《すまひ》を敲《たゝ》いた。其所で世間話に時を移すと見せて、暗に目の前の人に飛び掛る機を窺つた。彼は机の上にあつた重い文鎭を取つて、突然是で人が殺せるだらうかと尋ねた。友は固《もと》より彼の問を眞《ま》に受けなかつた。彼は構はず出來る丈《だけ》の力を文鎭に込めて、細君の見てゐる前で、最愛の夫《をつと》を打ち殺した。さうして狂人の名の下《もと》に、瘋癲院《ふうてんゐん》に送られた。彼は驚ろくべき思慮と分別と推理の力とを以て、以上の?末を基礎に、自分の決して狂人でない譯をひたすら辯解してゐる。かと思ふと、其辯解を又疑つてゐる。のみならず、其疑ひを又辯解しやうとしてゐる。彼は必竟正氣なのだらうか、狂人なのだらうか、――僕は書物を手にした儘|慄然《りつぜん》として恐れた。
 
     二十八
 
 僕の頭《ヘツド》は僕の胸《ハート》を抑える爲に出來てゐた。行動の結果から見て、甚しい悔《くい》を遺さない過去を顧みると、是が人間の常體かとも思ふ。けれども胸《ハート》が熱しかける度に、嚴肅な頭《あたま》の威力を無理に加へられるのは、普通誰でも經驗する通り、甚しい苦痛である。僕は意地張《いぢばり》といふ點に於て、何方《どつち》かといふと寧ろ陰性の癇癪持だから、發作《ほつさ》に心を襲はれた人が急に理性の爲に喰ひ留められて、劇しい自動車の速力を即時に殺す樣な苦痛は滅多に甞《な》めた事がない。夫《それ》ですら或場合には命の心棒を無理に曲げられるとでも云はなければ形容しやうのない活力の燃燒を内に感じた。二つの爭ひが起る度に、常に頭《ヘツド》の命令に屈從して來た僕は、或時は僕の頭《ヘツド》が強いから屈從させ得るのだと思ひ、或時は僕の胸《ハート》が弱いから屈從するのだとも思つたが、何うしても此爭ひは生活の爲の爭ひでありながら、人知れず、わが命を削る爭ひだといふ畏怖の念から解脱する事が出來なかつた。
 夫《それ》だから僕はゲダンケの主人公を見て驚ろいたのである。親友の命を虫の息の樣に輕《かろ》く見る彼は、理と情《じやう》との間に何等の矛盾をも扞格《かんかく》をも認めなかつた。彼の有する凡《すべ》ての知力は、悉《こと/”\》く復讐の燃料となつて、殘忍な兇行を手際よく仕途げる方便に供せられながら、毫も悔ゆる事を知らなかつた。彼は周密なる思慮を率《ひき》いて、滿腔《まんかう》の毒血を相手の頭から浴びせ掛け得る偉大なる俳優であつた。若《もし》くは尋常以上の頭腦と情熱を兼ねた狂人であつた。僕は平生の自分と比較して、斯う顧慮なく一心に振舞へるゲダンケの主人公が大いに羨ましかつた。同時に汗の滴《したゝ》る程恐ろしかつた。出來たら嘸《さぞ》痛快だらうと思つた。出來《でか》した後《あと》は定めし堪へがたい良心の拷問《がうもん》に逢ふだらうと思つた。
 けれども若し僕の高木に對する嫉妬がある不可思議の徑路を取つて、向後《かうご》今の數十倍に烈敷《はげしく》身を燒くなら何うだらうと僕は考へた。然し僕は其時の自分を自分で想像する事が出來なかつた。始めは人間の元來からの作りが違ふんだから、到底《とて》も斯んな眞似は爲得《しえ》まいといふ見地から、直《すぐ》此問題を棄却しやうとした。次には、僕でも同じ程度の復讐が充分遣つて除《の》けられるに違ひないといふ氣がし出した。最後には、僕の樣に平生は頭《ヘツド》と胸《ハート》の爭ひに惱んで愚圖ついてゐるものにして始めて斯んな猛烈な兇行を、冷靜に打算的に、且つ組織的に、逞《たく》ましうするのだと思ひ出した。僕は最後に何故《なぜ》斯う思つたのか自分にも分らない。たゞ斯う思つた時急に變な心持に襲はれた。其心持は純然たる恐怖でも不安でも不快でもなく、夫等《それら》よりは遙かに複雜なものに見えた。が、纒つて心に現はれた状態から云へば、丁度|大人《おと》なしい人が酒の爲に大膽になつて、是なら何でも遣れるといふ滿足を感じつゝ、同時に醉に打ち勝たれた自分は、品性の上に於て平生の自分より遙に墮落したのだと氣が付いて、さうして墮落は酒の影響だから何處へ何う避けても人間として到底《とて》も逃《のが》れる事は出來ないのだと沈痛に諦らめを付けたと同じ樣な變な心持であつた。僕は此變な心持と共に、千代子の見てゐる前で、高木の腦天に重い文鎭を骨の底迄打ち込んだ夢を、大きな眼を開《あ》きながら見て、驚ろいて立ち上つた。
 下へ降《お》りるや否や、いきなり風呂場へ行つて、水をざあ/\頭へ掛けた。茶の間の時計を見ると、もう午過《ひるすぎ》なので、それを好い機會《しほ》に、其所へ坐はつて飯を片付ける事にした。給仕には例の通り作《さく》が出た。僕は二《ふ》た口|三《み》口無言で飯の塊《かたま》りを頬張つたが、突然彼女に、おい作《さく》僕の顔色は何うかあるかいと聞いた。作は吃驚《びつくり》した眼を大きくして、いゝえと答へた。夫《それ》で問答が切れると、今度は作の方が何うか遊ばしましたかと尋ねた。
 「いゝや、大して何うもしない」
 「急に御暑う御座いますから」
 僕は黙つて二杯の飯を食ひ終つた。茶を注《つ》がして飲み掛けた時、僕は又突然|作《さく》に、鎌倉|抔《など》へ行つて混雜《ごた/\》するより宅《うち》にゐる方が靜で好いねと云つた。作は、でも彼方《あちら》の方が御凉しう御座いませうと云つた。僕はいや却つて東京より暑い位だ、あんな所にゐると氣ばかり焦燥《いら》/\して不可《いけ》ないと説明して遣つた。作は御隱居さまはまだ當分|彼地《あちら》に御出《おいで》で御座いますかと尋ねた。僕はもう歸るだらうと答へた。
 
     二十九
 
 僕は僕の前に坐つてゐる作《さく》の姿を見て、一筆《ひとふで》がきの朝貌《あさがほ》の樣な氣がした。只|貴《たつ》とい名家の手にならないのが遺憾であるが、心の中はさう云ふ種類の畫《ゑ》と同じく簡略に出來上つてゐるとしか僕には受取れなかつた。作の人柄を畫に喩《たと》へて何の爲になると聞かれるかも知れない。深い意味もなからうが、實は彼女の給仕を受けて飯を食ふ間に、今しがたゲダンケを讀んだ自分と、今黒塗の盆を持つて畏まつてゐる彼女とを比較して、自分の腹は何故《なぜ》斯う執濃《しつこ》い油繪の樣に複雜なのだらうと呆れたからである。白状すると僕は高等教育を受けた證據として、今日《こんにち》迄《まで》自分の頭が他《ひと》より複雜に働らくのを自慢にしてゐた。所が何時《いつ》か其働らきに疲れてゐた。何の因果で斯う迄事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考へて情なかつた。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顏を見て尊《たつ》とい感じを起した。
 「作《さく》御前でも色々物を考へる事があるかね」
 「私なんぞ別に何も考へる程の事が御座いませんから」
 「考へないかね。それが好いね。考へる事がないのが一番だ」
 「あつても智慧が御座いませんから、筋道が立ちません。全く駄目で御座います」
 「仕合せだ」
 僕は思はず斯う云つて作《さく》を驚ろかした。作は突然僕から冷かされたとでも思つたらう。氣の毒な事をした。
 其夕暮に思ひ掛ない母が出し拔けに鎌倉から歸つて來た。僕は其時|日《ひ》の限《かぎ》り掛《か》けた二階の縁に籐椅子《といす》を持ち出して、作《さく》が跣足《はだし》で庭先へ水を打つ音を聞いてゐた。下へ降《お》りて玄關へ出た時、僕は母を送つて來るべき筈の吾一の代りに、千代子が彼女の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》つたのを見て非常に驚ろいた。僕は籐椅子《といす》の上で千代子の事を全く考へずに居たのである。考へても彼女と高木とを離す事は出來なかつたのである。さうして二人は當分鎌倉の舞臺を動き得ないものと信じてゐたのである。僕は日に燒けて心持色の黒くなつたと思はれる母と顔を見合はして挨拶を取り替《かは》す前に、先づ千代子に向つて何うして來たのだと聞きたかつた。實際僕は其通りの言葉を第一に用ひたのである。
 「叔母さんを送つて來たのよ。何故《なぜ》。驚ろいて」
 「そりや難有《ありがた》う」と僕は答へた。僕の千代子に對する感情は鎌倉へ行く前と、行つてからとで大分《だいぶ》違つてゐた。行つてからと歸つて來てからとでも亦大分違つてゐた。高木と一所に束《つか》ねられた彼女に對するのと、斯う一人に切り離された彼女に對するのとでも亦大分違つてゐた。彼女は年を取つた母を吾一に托するのが不安心だつたから、自分で跟《つ》いて來たのだと云つて、作《さく》が足を洗つてゐる間《ま》に、母の單衣《ひとへ》を箪笥から出したり、夫《それ》を旅行着と着換へさせたり抔《など》して、元の千代子の通り豆《まめ》やかに振舞つた。僕は母にあれから何か面白い事がありましたかと尋ねた。母は滿足らしい顔をしながら、別に是といふ珍らしい事も無かつたと答へたが、「でもね久し振に好い氣保養《きほやう》をしました。御蔭で」と云つた。僕にはそれが傍《そば》にゐる千代子に對しての禮の言葉と聞こえた。僕は千代子に今日是から又鎌倉へ歸るのかと尋ねた。
 「泊つて行くわ」
 「何處へ」
 「さうね。内幸町へ行つても好いけど、あんまり廣過ぎて淋《さむ》しいから。――久し振に此所へ泊らうかしら、ねえ叔母さん」
 僕には千代子が始めから僕の家に寐る積《つもり》で出て來たやうに見えた。自白すれば僕は其所へ坐つて十分と經たないうちに、又眼の前にゐる彼女の言語動作を一種の立場から觀察したり、評價したり、解釋したりしなければならない樣になつたのである。僕はそこに氣が付いた時、非常な不愉快を感じた。又さういふ努力には自分の神經が疲れ切つてゐる事も感じた。僕は自分が自分に逆らつて餘儀なく斯う心を働かすのか。或は千代子が厭がる僕を無理に強ひて動く樣にするのか。何方《どつち》にしても僕は腹立たしかつた。
 「千代ちやんが來ないでも吾一さんで澤山だのに」
 「だつて妾《あたし》責任があるぢやありませんか。叔母さんを招待したのは妾《あたし》でせう」
 
     三十
 
 「ぢや僕も招待を受けたんだから、送つて來て貰へば好かつた」
 「だから他《ひと》の云ふ事を聞いて、もつと居らつしやれば好いのに」
 「いゝえ彼《あ》の時にさ。僕の歸つた時にさ」
 「左樣《さう》すると丸《まる》で看護婦見た樣《やう》ね。好いわ看護婦でも、附いて來て上げるわ。何故《なぜ》さう云はなかつたの」
 「云つても斷られさうだつたから」
 「妾《あたし》こそ斷られさうだつたわ、ねえ叔母さん。偶《たま》に招待に應じて來て置きながら、厭に六づかしい顏ばかりしてゐるんですもの。本當に貴方は少し病氣よ」
 「だから千代子に附いて來て貰ひたかつたのだらう」と母が笑ひながら云つた。
 僕は母の歸るつい一時間前迄千代子の來る事を豫想し得なかつた。夫《それ》は今改めて繰り返す必要もないが、それと共に僕は母が高木に就いて齎《もた》らす報道を殆んど確實な未來として豫期してゐた。穩やかな母の顏が不安と失望で曇る時の氣の毒さも豫想してゐた。僕は今此豫期と全く反對の結果を眼の前に見た。彼等は二人とも常に變らない親しげな叔母《をば》姪《めひ》であつた。彼等の各自《おの/\》は各自《おの/\》に特有な温か味と清々《すが/\》しさを、何時《いつ》もの通り互ひの上に、又僕の上に、心持よく加へた。
 其晩は散歩に出る時間を儉約して、女二人と共に二階に上《あが》つて凉みながら話をした。僕は母の命ずる儘《まゝ》軒端《のきば》に七草《なゝくさ》を描《か》いた岐阜提灯《ぎふぢやうちん》を懸けて、其中に細い?燭を點《つ》けた。熱いから電燈を消さうと發議《ほつぎ》した千代子は、遠慮なく疊の上を暗くした。風のない月が高く上《のぼ》つた。柱に凭《もた》れてゐた母が鎌倉を思ひ出すと云つた。電車の音のする所で月を看《み》るのは何だか可笑《をか》しい氣がすると、此間から海邊《うみべ》に馴染《なず》んだ千代子が評した。僕は先刻《さつき》の籐椅子《といす》の上に腰を卸して團扇《うちは》を使つてゐた。作《さく》が下から二度|許《ばかり》上《あが》つて來た。一度は烟草盆の火を入れ更《か》へて、僕の足の下に置いて行つた。二返目には近所から取り寄せた氷菓子《アイスクリーム》を盆に載せて持つて來た。僕は其度毎階級制度の嚴重な對建の代《よ》に生れた樣に、卑しい召使の位置を生涯の分と心得てゐる此作と、何《ど》んな人の前へ出ても貴女《レデー》として振舞つて通るべき氣位を具へた千代子とを比較しない譯に行かなかつた。千代子は作が出て來ても、作でない外の女が出て來たと同じ樣に、なんにも氣に留めなかつた。作の方では一旦|起《た》つて梯子段の傍《そば》迄行つて、もう降りやうとする間際に屹度《きつと》振り返つて、千代子の後姿を見た。僕は自分が鎌倉で高木を傍《そば》に見て暮した二日間を思ひ出して、材料がないから何も考へないと明言した作に、千代子といふハイカラな有毒の材料が與へられたのを憐れに眺めた。
 「高木は何うしたらう」といふ問が僕の口元迄|?《しば/\》出た。けれども單なる消息の興味以外に、何か爲にする不純なものが自分を前に押し出すので、其|都度《つど》卑怯だと遠くで罵られる爲か、つい聞くのを屑《いさぎ》よしとしなくなつた。夫《それ》に千代子が歸つて母|丈《だけ》になりさへすれば彼の話は遠慮なく出來るのだからとも考へた。然し實を云ふと、僕は千代子の口から直下《ぢか》に高木の事を聞きたかつたのである。さうして彼女が彼を何う思つてゐるか、夫《それ》を判切《はつきり》胸に疊み込んで置きたかつたのである。是は嫉妬の作用なのだらうか。もし此話を聞くものが、嫉妬だといふなら、僕には少しも異存がない。今の料簡《れうけん》で考へて見ても、何うも外の名は付け惡《にく》いやうである。それなら僕が夫《それ》程《ほど》千代子に戀してゐたのだらうか。問題がさう推移すると、僕も返事に窮するより外に仕方がなくなる。僕は實際彼女に對して、そんなに熱烈な愛を脈搏《みやくはく》の上に感じてゐなかつたからである。すると僕は人より二倍も三倍も嫉妬深い譯になるが、或はさうかも知れない。然しもつと適當に評したら、恐らく僕本來の我儘が源因なのだらうと思ふ。たゞ僕は一言《いちごん》それに付け加へて置きたい。僕から云はせると、既に鎌倉を去つた後《あと》猶《なほ》高木に對しての嫉妬心が斯う燃えるなら、それは僕の性情に缺陷があつたばかりでなく、千代子自身に重い責任があつたのである。相手が千代子だから、僕の弱點が是程に濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚《はゞか》らない。では千代子の何《ど》の部分が僕の人格を墮落させるのだらうか。夫《それ》は到底《とて》も分らない。或は彼女の親切ぢやないかとも考へてゐる。
 
     三十一
 
 千代子の樣子は何時《いつ》もの通り明《あけ》つ放《ぱな》しなものであつた。彼女は何《ど》んな問題が出ても苦もなく口を利いた。それは必竟《ひつきやう》腹の中に何も考へてゐない證據だとしか取れなかつた。彼女は鎌倉へ行つてから水泳を自習し始めて、今では脊《せい》の立たない所迄行くのが樂みだと云つた。夫《それ》を用心深い百代子が劔呑がつて、詫《あや》まる樣に悲しい聲を出して止《と》めるのが面白いと云つた。其時母は半《なか》ば心配で半《なか》ば呆れた樣な顏をして、「何ですね女の癖にそんな輕機《かるはずみ》な眞似をして。是からは後生《ごしやう》だから叔母さんに免じて、あぶない惡巫山戯《わるふざけ》は止《よ》して御呉れよ」と頼んでゐた。千代子はたゞ笑ひながら、大丈夫よと答へた丈《だけ》であつたが、ふと縁側の椅子に腰を掛けてゐる僕を顧《かへり》みて、市《いつ》さんもさう云ふ御轉婆《おてんば》は嫌《きらひ》でせうと聞いた。僕は唯、あんまり好きぢやないと云つて、月の光の隈なく落ちる表を眺めてゐた。もし僕が自分の品格に對して尊敬を拂ふ事を忘れたなら、「然し高木さんには氣に入るんだらう」といふ言葉を其|後《あと》に屹度《きつと》付け加へたに違ない。其所迄引き摺《ず》られなかつたのは、僕の體面上まだ仕合せであつた。
 千代子は斯くの如く明けつ放しであつた。けれども夜が更《ふ》けて、母がもう寐やうと云ひ出す迄、彼女は高木の事をとう/\一口も話頭に上《のぼ》せなかつた。其所に僕は甚だしい故意《こい》を認めた。白い紙の上に一點の暗い印氣《いんき》が落ちた樣な氣がした。鎌倉へ行く迄千代子を天下の女性《によしやう》のうちで、最も純粹な一人《いちにん》と信じてゐた僕は、鎌倉で暮した僅か二日の間に、始めて彼女の技巧《アート》を疑ひ出したのである。其|疑《うたがひ》が今漸く僕の胸に根を卸さうとした。
 「何故《なぜ》高木の話をしないのだらう」
 僕は寐ながら斯う考へて苦しんだ。同時に斯んな問題に睡眠の時間を奪はれる愚《おろか》さを自分で能く承知してゐた。だから苦しむのが馬鹿々々しくて猶《なほ》癇が起つた。僕は例の通り二階に一人寐てゐた。母と千代子は下座敷に蒲團を並べて、一つ蚊帳の中に身を横たへた。僕はすや/\寐てゐる千代子を自分のすぐ下に想像して、必竟《ひつきやう》のつそつ苦しがる僕は負けてゐるのだと考へない譯に行かなくなつた。僕は寐返りを打つ事さへ厭になつた。自分がまだ眠られないといふ弱味を階下《した》へ響かせるのが、勝利の報知として千代子の胸に傳はるのを恥辱と思つたからである。
 僕が斯うして同じ問題を色々に考へてゐるうちに、同じ問題が僕には色々に見えた。高木の名前を口へ出さないのは、全く彼女の僕に對する好意に過ぎない。僕に氣を惡くさせまいと思ふ親切から彼女はわざとそれ丈《だけ》を遠慮したのである。斯う解釋すると鎌倉にゐた時の僕は、あれ程單純な彼女をして、僕の前に高木の二字を公《おほや》けにする勇氣を失はしめた程、不合理に機嫌を惡く振舞つたのだらう。もし左樣《さう》だとすれば、自分は人の氣を惡くする爲に、人の中へ出る、不愉快な動物である。宅《うち》へ引込《ひつこ》んで交際《つきあひ》さへ爲《し》なければ夫《それ》で宜《い》い。けれども若し親切を冠《かむ》らない技巧《アート》が彼女の本義なら……。僕は技巧《アート》といふ二字を細かに割つて考へた。高木を媒鳥《をとり》に僕を釣る積《つもり》か。釣るのは、最後の目的もない癖に、唯僕の彼女に對する愛情を一時的に刺戟して樂しむ積《つもり》か。或は僕にある意味で高木の樣になれといふ積《つもり》か。さうすれば僕を愛しても好いといふ積《つもり》か。或は高木と僕と戰ふ所を眺めて面白かつたといふ積《つもり》か。又は高木を僕の眼の前に出して、斯ういふ人がゐるのだから、早く思ひ切れといふ積《つもり》か。――僕は技巧《アート》の二字を何處迄も割つて考へた。さうして技巧《アート》なら戰爭だと考へた。戰爭なら何うしても勝負に終るべきだと考へた。
 僕は寐付かれないで負けてゐる自分を口惜《くや》しく思つた。電燈は蚊帳を釣るとき消して仕舞つたので、室《へや》の中に隙間《すきま》もなく蔓延《はびこ》る暗闇《くらやみ》が窒息する程重苦しく感ぜられた。僕は眼の見えない所に眼を明けて頭|丈《だけ》働らかす苦痛に堪へなくなつた。寐返りさへ愼んで我慢してゐた僕は、急に起《た》つて室《へや》を明るくした。序《ついで》に縁側へ出て雨戸を一枚細目に開けた。月の傾むいた空の下には動く風もなかつた。僕はたゞ比較的冷かな空氣を肌と咽喉《のど》に受けた丈《だけ》であつた。
 
     三十二
 
 翌日《あくるひ》は何時《いつ》も一人で寐てゐる時より一時間半も早く眼が覺めた。すぐ起きて下へ降《お》りると、銀杏返《いてふがへ》しの上へ白地の手拭を被つて、長火鉢の灰を篩《ふる》つてゐた作《さく》が、おやもう御目覺でと云ひながら、すぐ顔を洗ふ道具を風呂場へ並べて呉れた。僕は歸りに埃だらけの茶の間を爪先で通り拔けて玄關へ出た。其時|序《ついで》に二人の寐てゐる座敷を蚊帳越しに覗いて見たら、目敏《めざと》い母も昨日《きのふ》の汽車の疲が出た所爲《せゐ》か、未《ま》だ靜かな眠を貪《むさ》ぼつてゐた。千代子は固《もと》より夢の底に埋《うづ》まつてゐる樣に正體なく枕の上に首を落してゐた。僕は目的《あて》もなく表へ出た。朝の散歩の趣《おもむき》を久しく忘れてゐた僕には、常に變はらない町の色が、暑さと雜沓とに染め付けられない安息日の如く穩やかに見えた。電車の線路が研《と》ぎ澄まされた光を眞直に地面の上に伸ばすのも落付いた感じであつた。けれども僕は散歩がしたくつて出たのではなかつた。唯眼が早く覺め過ぎて、中有《はした》に延びた命の斷片を、運動で埋める積《つもり》で歩くのだから、夫《それ》程《ほど》の興味は空にも地にも乃至《ないし》町にも見出《みいだ》す事が出來なかつた。
 一時間ばかりして僕は寧ろ疲れた顔を母からも千代子からも怪しまれに戻つて來た。母は何處へ行つたのと聞いたが、後《あと》から、色澤《いろつや》が好くないよ、何うか御仕《おし》かいと尋ねた。
 「昨夕《ゆうべ》好く寐られなかつたんでせう」
 僕は千代子の此言葉に對して答ふべき術《すべ》を知らなかつた。實を云ふと、昂然としてなに好く寐られたよと云ひたかつたのである。不幸にして僕は夫《それ》程《ほど》の技巧家《アーチスト》でなかつた。と云つて、正直に寐られなかつたと自白するには餘り自尊心が強過ぎた。僕は遂に何も答へなかつた。
 三人が同じ食卓で朝飯《あさめし》を濟ますや否や、母が昨日《きのふ》凉しいうちにと頼んで置いた髪結《かみひ》が來た。洗ひ立《たて》の白い胸掛をかけて、敷居越に手を突いた彼女は、御歸りなさいましと親しい挨拶をした。彼女は此職業に共通な目出度い口振《くちぶり》を有《も》つてゐた。それを得意に使つて、内氣な母に避暑を誇の種に話させる機會を一句毎に作つた。母は滿足らしくも見えたが、さう喋々しくは饒舌《しやべ》り得なかつた。髪結《かみひ》はより效目《きゝめ》のある相手として、すぐ年の若い千代子を選んだ。千代子は固《もと》より誰彼の容赦なく一樣に氣易く應對の出來る女だつたので、御孃樣と呼び掛けられる度に相當の受答《うけこたへ》をして話を勢《はず》ました。千代子の泳の噂が出た時、髪結《かみひ》は活?で宜しう御座います、近頃の御孃樣方はみんな水泳の稽古をなさいますと誰が聞いても拵へたやうな御世辭を云つた。
 妙な事を吹聽《ふいちやう》する樣で可笑《をか》しいが、實をいふと僕は女の髪を上げる所を見てゐるのが好きであつた。母が乏《とも》しい髪を工面して、何うか斯うか常に結《ゆ》ひ上げる樣子は、いくら上手《じやうず》が纒めるにしても、夫《それ》程《ほど》見榮《みばえ》のある畫《ゑ》ではないが、それでも退屈を凌ぐには恰好《かつかう》な慰みであつた。僕は髪結《かみひ》の手の動く間《ま》に、自然と出來上つて行く小さな母の丸髷を眺めてゐた。さうして腹の中で、千代子の髪を日本流に櫛を入れたら嘸《さぞ》見事だらうと思つた。千代子は色の美くしい、癖のない、長くて多過ぎる髪の所有者だつたからである。此場合|何時《いつ》もの僕なら、千代ちやんも序《ついで》に結《い》つて御貰ひなと屹度《きつと》勸める所であつた。然し今の僕にはそんな親しげな要求を彼女に向つて投げ掛ける氣が出惡《でにく》かつた。すると偶然にも千代子の方で、何だか妾《あたし》も一つ結つて見たくなつたと云ひ出した。母は御結《おい》ひよ久し振にと誘《いざ》なつた。髪結《かみひ》は是非御上げ遊ばせな、私始めて御髪《おぐし》を拜見した時から束髪にして居らつしやるのは勿體ないと思つとりましたと左《さ》も結《い》ひたさうな口振を見せた。千代子はとう/\鏡臺の前に坐つた。
 「何に結《い》はうかしら」
 髪結《かみひ》は島田を勸めた。母も同じ意見であつた。千代子は長い髪を脊中に垂れた儘《まゝ》突然|市《いつ》さんと呼んだ。
 「貴方何が好き」
 「旦那樣も島田が好きだと屹度《きつと》仰しやいますよ」
 僕はぎくりとした。千代子は丸《まる》で平氣の樣に見えた。わざと僕の方を振り返つて、「ぢや島田に結《い》つて見せたげませうか」と笑つた。「好いだらう」と答へた僕の聲は如何にも鈍《どん》に聞こえた。
 
     三十三
 
 僕は千代子の髪の出來上らない先に二階へ上《あが》つた。僕の樣な神經質なものが拘《こだ》はつて來ると、無關係の人の眼には殆んど小供らしいと思はれる樣な所作を敢てする。僕は中途で鏡臺の傍《そば》を離れて、美くしい島田髷をいたゞく女が男から強奪する嘆賞の租税を免かれた積《つもり》でゐた。其時の僕は夫《それ》程《ほど》此女の虚榮心に媚びる好意を有《も》たなかつたのである。
 僕は自分で自分の事を彼是《かれこれ》取り繕《つく》ろつて好く聞えるやうに話したくない。然し僕如きものでも長火鉢の傍《はた》で起るこんな戰術よりはもう少し高尚な問題に頭を使ひ得る積《つもり》でゐる。たゞ其所迄引き摺《ず》り落された時、僕の弱點として何うしても脱線する氣になれないのである。僕は自分でその詰らなさ加減をよく心得てゐた丈《だけ》に、それを敢てする僕を自分で恨み自分で鞭《むち》うつた。
 僕は空威張《からゐばり》を卑劣と同じく嫌ふ人間であるから、低くても小《ち》さくても、自分らしい自分を話すのを名譽と信じて成るべく隱さない。けれども、世の中で認めてゐる偉い人とか高い人とかいふものは、悉《こと/”\》く長火鉢や臺所の卑しい人生の葛藤《かつとう》を超越してゐるのだらうか。僕はまだ學校を卒業した許《ばかり》の經驗しか有《も》たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴へて考へた所では、恐らくそんな偉い人高い人は何時《いつ》の世にも存在してゐないのではなからうか。僕は松本の叔父を尊敬してゐる。けれども露骨な事を云へば、あの叔父の樣なのは偉く見える人、高く見せる人と評すれば夫《それ》で足りてゐると思ふ。僕は僕の敬愛する叔父に對しては僞物《ぎぶつ》贋物《がんぶつ》の名を加へる非禮と僻見《へきけん》とを憚かりたい。が、事實上彼は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥してゐるのである。小事に齷齪《あくそく》しない手を拱《こま》ぬいで、頭の奧で齷齪《あくそく》してゐるのである。外《そと》へ出さない丈《だけ》が、普通より品《ひん》が好いと云つて僕は讃辭を呈したく思つてゐる。さうして其|外《そと》へ出さないのは財産の御蔭、年齡《とし》の御蔭、學問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れてゐるからでもあり、彼と社會の關係が逆《ぎやく》な樣で實は順《じゆん》に行くからでもある。――話がつい横道へ外《そ》れた。僕は僕の屑々《こせ/\》した所を餘り長く辯護し過ぎたかも知れない。
 僕は今いふ通り早く二階へ上《あが》つて仕舞つた。二階は日が近いので、階下《した》よりは餘程|凌《しの》ぎ惡《にく》いのだけれども、平生居つけた所爲《せゐ》で、僕は一日の大部分を此所で暮らす事にしてゐたのである。僕は何時《いつ》もの通り机の前に坐つたなり唯《たゞ》頬杖を突いて茫然《ぼんやり》してゐた。今朝烟草の灰を棄てたマジヨリカの灰皿が綺麗に掃除されて僕の肱の前に載せてあつたのに氣が付いて、僕は其中に現はされた二羽の鵞鳥を眺めながら、其灰を空《あ》けた作《さく》の手を想像に描いた。すると下から梯子段を踏む音がして誰か上《あが》つて來た。僕は其足音を聞くや否や、直それが作でない事を知つた。僕は斯う盆槍《ぼんやり》屈托してゐる所を千代子に見られるのを屈辱の樣に感じた。同時に傍《そば》にあつた書物を開けて、先刻《さつき》から讀んでゐた振をする程器用な機轉を用ひるのを好まなかつた。
 「結《い》へたから見て頂戴」
 僕は僕の前にすぐ斯う云ひながら坐る彼女を見た。
 「可笑《をか》しいでせう。久しく結《い》はないから」
 「大變美くしく出來たよ。是から何時《いつ》でも島田に結《ゆ》ふと可《い》い」
 「二三度壞しちや結《い》ひ、壞しちや結《い》ひしないと不可《いけ》ないのよ。毛が馴染《なず》まなくつて」
 斯んな事を聞いたり答へたり三四返してゐるうちに、僕は何時《いつ》の間《ま》にか昔と同じ樣に美くしい素直な邪氣のない千代子を眼の前に見る氣がし出した。僕の心持が何かの調子で和《やは》らげられたのか、千代子の僕に對する態度が何處かで角度を改ためたのか、それは判然《はんぜん》と云ひ惡《にく》い。斯うだと説明の出來る捕《とら》へ所《どころ》は兩方になかつたらしく記憶してゐる。もし此氣易い状態が一二時間も長く續いたなら、或は僕の彼女に對して抱いた變な疑惑を、過去に溯《さかの》ぼつて當初から眞直に黒い棒で誤解といふ名の下《もと》に消し去る事が出來たかも知れない。所が僕はつい不味《まづ》い事をしたのである。
 
     三十四
 
 夫《それ》は外でもない。少時《しばらく》千代子と話してゐるうちに、彼女が單に頭を見せに上《あが》つて來た許《ばかり》でなく、今日是から鎌倉へ歸るので、其|左樣《さやう》ならを云ひに一寸顔を出したのだと云ふ事を知つた時、僕はつい用意の足りない躓《つま》づき方をしたのである。
 「早いね。もう歸るのかい」と僕が云つた。
 「早かないわ、もう一晩泊つたんだから。だけど斯んな頭をして歸ると何だか可笑《をか》しいわね、御嫁にでも行く樣で」と千代子が云つた。
 「まだみんな鎌倉に居るのかい」と僕が聞いた。
 「えゝ。何故《なぜ》」と千代子が聞き返した。
 「高木さんも」と僕が又聞いた。
 高木といふ名前は今迄千代子も口にせず、僕も話頭に上《のぼ》すのをわざと憚かつてゐたのである。が、何かの機會《はずみ》で、平生《いつも》通りの打ち解けた遠慮のない氣分が復活したので、其中に引き込まれた矢先、つい何の氣も付かずに使つて仕舞つたのである。僕はふら/\と此問を掛けて彼女の顔を見た時忽ち後悔した。
 僕が煮え切らない又|捌《さば》けない男として彼女から一種の輕蔑を受けてゐる事は、僕の疾《と》うに話した通りで、實を云へば二人の交際は此黙許を認め合つた上の親しみに過ぎなかつた。其代り千代子が常に畏《おそ》れる點を、幸にして僕はたゞ一つ有《も》つてゐた。夫《それ》は僕の無口である。彼女の樣に萬事明けつ放しに腹を見せなければ氣の濟まない者から云ふと、何時《いつ》でも、しんねりむつつりと構へてゐる僕などの態度は、決して氣に入る筈がないのだが、其所に又妙に見透《みす》かせない心の存在が仄《ほの》めくので、彼女は昔から僕を全然知り拔く事の出來ない、從つて輕蔑しながらも何處かに恐ろしい所を有《も》つた男として、或る意味の尊敬を拂つてゐたのである。是は公《おほや》けにこそ明言しないが、向ふでも腹の底で正式に認めるし、僕も冥々《めい/\》のうちに彼女から僕の權利として要求してゐた事實である。
 所が偶然高木の名前を口にした時、僕は忽ち此尊敬を永久千代子に奪ひ返された樣な心持がした。と云ふのは、「高木さんも」といふ僕の問を聞いた千代子の表情が急に變化したのである。僕はそれを強《あなが》ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今迄僕が未だ甞て彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑が輝やいたのは疑ひもない事實であつた。僕は豫期しない瞬間に、平手《ひらて》で横面《よこつら》を力任せに打たれた人の如くにぴたりと止《と》まつた。
 「あなた夫《それ》程《ほど》高木さんの事が氣になるの」
 彼女は斯う云つて、僕が兩手で耳を抑へたい位な高笑ひをした。僕は其時鋭どい侮辱を感じた。けれども咄嗟《とつさ》の場合何といふ返事も出し得なかつた。
 「貴方は卑怯だ」と彼女が次に云つた。此突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざ/\人を呼び付けて、と云つて遣りたかつた。けれども年弱な女に對して、向ふと同じ程度の激語を使ふのはまだ早過ぎると思つて我慢した。千代子もそれなり黙つた。僕は漸くにして「何故《なぜ》」といふ僅か二字の問を掛けた。すると千代子の濃い眉が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覺してゐながら、たま/\他《ひと》の指摘を受けると、自分の弱點を相手に隱す爲に、取り繕ろつて空《そら》つ遠惚《とぼ》けるものと此問を解釋したらしい。
 「何故つて、貴方自分で能く解つてるぢやありませんか」
 「解らないから聞かして御呉れ」と僕が云つた。僕は階下《した》に母を控へてゐるし、感情に訴へる若い女の氣質も能く呑み込んだ積《つもり》でゐたから、出來る丈《だけ》相手の氣を拔いて話を落ち付かせる爲に、其時の僕としては、殆んど無理な程の、低いかつ緩い調子を取つたのであるが、夫《それ》が却つて千代子の氣に入らなかつたと見える。
 「それが解らなければ貴方馬鹿よ」
 僕は恐らく平生《いつも》より蒼い顔をしたらうと思ふ。自分では唯《たゞ》眼を千代子の上に凝《ぢつ》と据ゑた事|丈《だけ》を記憶してゐる。其時何物も恐れない千代子の眼が、僕の視線と無言のうちに行き合つて、兩方共しばらく其所に止《と》まつてゐた事も記憶してゐる。
 
     三十五
 
 「千代ちやんの樣な活?な人から見たら、僕見たいに引込思案《ひつこみじあん》なものは無論卑怯なんだらう。僕は思つた事をすぐ口へ出したり、又は其儘所作にあらはしたりする勇氣のない、極めて因循《いんじゆん》な男なんだから。其點で卑怯だと云ふなら云はれても仕方がないが‥…」
 「そんな事を誰が卑怯だと云ふもんですか」
 「然し輕蔑はしてゐるだらう。僕はちやんと知つてる」
 「貴方こそ妾《あたし》を輕蔑してゐるぢやありませんか。妾《あたし》の方が餘つ程よく知つてるわ」
 僕は殊更《ことさら》に彼女の此言葉を肯定する必要を認めなかつたから、わざと返事を控えた。
 「貴方は妾《あたし》を學問のない、理窟の解らない、取るに足らない女だと思つて、腹の中で馬鹿にし切つてるんです」
 「それは御前が僕を愚圖と見縊《みくび》つてるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云はれても構はない積《つもり》だが、苟《いや》しくもコ義上の意味で卑怯といふなら、そりや御前の方が間違つてゐる。僕は少なくとも千代ちやんに關係ある事柄に就いて、道コ上卑怯な振舞をした覺《おぼえ》はない筈だ。愚圖とか煮え切らないとかいふべき所に、卑怯といふ言葉を使はれては、何だか道義的勇氣を缺いた――といふより、コ義を解しない下劣な人物の樣に聞えて甚だ心持が惡いから訂正して貰ひたい。夫《それ》とも今いつた意味で、僕が何か千代ちやんに對して濟まない事でもしたのなら遠慮なく話して貰はう」
 「ぢや卑怯の意味を話して上げます」と云つて千代子は泣き出した。僕は是迄千代子を自分より強い女と認めてゐた。けれども彼女の強さは單に優しい一圖から出る女氣《をんなぎ》の凝《こ》り塊《かたま》りとのみ解釋してゐた。所が今僕の前に現はれた彼女は、唯《たゞ》勝氣に充ちた丈《だけ》の、世間に有りふれた、俗つぽい婦人としか見えなかつた。僕は心を動かす所なく、彼女の涙の間から如何なる説明が出るだらうと待ち設けた。彼女の唇を洩れるものは、自己の體面を飾る強辯より外に何も有る筈がないと、僕は固く信じてゐたからである。彼女は濡れた捷毛《まつげ》を二三度|繁叩《しばたゝ》いた。
 「貴方は妾《あたし》を御轉婆《おてんば》の馬鹿だと思つて始終冷笑してゐるんです。貴方は妾《あたし》を……愛してゐないんです。つまり貴方は妾《あたし》と結婚なさる氣が……」
 「そりや千代ちやんの方だつて……」
 「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云ふんでせう。そんなら夫《それ》で宜《よ》う御座んす。何も貰つて下さいとは云やしません。唯《たゞ》何故愛してもゐず、細君にもしやうと思つてゐない妾《あたし》に對して……」
 彼女は此所へ來て急に口籠つた。不敏な僕は其後へ何が出て來るのか、まだ覺《さと》れなかつた。「御前に對して」と半《なか》ば彼女を促がす樣に問を掛けた。彼女は突然物を衝き破つた風に、「何故嫉妬なさるんです」と云ひ切つて、前よりは劇しく泣き出した。僕はさつと血が顏に上《のぼ》る時の熱《ほて》りを兩方の頬に感じた。彼女は殆んど夫《それ》を注意しないかの如くに見えた。
 「貴方は卑怯です、コ義的に卑怯です。妾《あたし》が叔母さんと貴方を鎌倉へ招待した料簡《れうけん》さへ貴方は既に疑《うたぐ》つて居らつしやる。それが既に卑怯です。が、それは問題ぢやありません。貴方は他《ひと》の招待に應じて置きながら、何故|平生《ふだん》の樣に愉快にして下さる事が出來ないんです。妾《あたし》は貴方を招待した爲に恥を掻いたも同じ事です。貴方は妾《あたし》の宅《うち》の客に侮辱を與へた結果、妾《あたし》にも侮辱を與へてゐます」
 「侮辱を與へた覺はない」
 「あります。言葉や仕打は何うでも構はないんです。
貴方の態度が侮辱を與へてゐるんです。態度が與へてゐないでも、貴方の心が與へてゐるんです」
 「そんな立ち入つた批評を受ける義務は僕にないよ」
 「男は卑怯だから、さう云ふ下らない挨拶が出來るんです。高木さんは紳士だから貴方を容れる雅量が幾何《いくら》でもあるのに、貴方は高木さんを容れる事が決して出來ない。卑怯だからです」
 
  松本の話
 
     一
 
 夫《それ》から市藏と千代子との間が何うなつたか僕は知らない。別に何うもならないんだらう。少なくとも傍《はた》で見てゐると、二人の關係は昔から今日《こんにち》に至る迄全く變らない樣だ。二人に聞けば色々な事を云ふだらうが、夫《それ》は其時限りの氣分に制せられて、眞《まこと》しやかに前後に通じない嘘を、永久の價値ある如く話すのだと思へば間違ない。僕はさう信じてゐる。
 あの事件なら其當時僕も聞かされた。しかも兩方から聞かされた。あれは誤解でも何でもない。兩方でさう信じてゐるので、さうして其信じ方に兩方とも無理がないのだから、極めて尤もな衝突と云はなければならない。從つて夫婦にならうが、友達として暮らさうが、あの衝突|丈《だけ》は到底免かれる事の出來ない、まあ二人の持つて生れた、因果と見るより外に仕方がなからう。所が不幸にも二人は或る意味で密接に引き付けられてゐる。しかも其引き付けられ方が又|傍《はた》のものに何うする權威もない宿命の力で支配されてゐるんだから恐ろしい。取り澄ました警句を用ひると、彼等は離れる爲に合ひ、合ふ爲に離れると云つた風の気の毒な一對《いつつゐ》を形づくつてゐる。斯う云つて君に解るか何うか知らないが、彼等が夫婦になると、不幸を釀《かも》す目的で夫婦になつたと同樣の結果に陷いるし、又夫婦にならないと不幸を續ける精神で夫婦にならないのと擇《えら》ぶ所のない不滿足を感ずるのである。だから二人の運命は唯《たゞ》成行に任せて、自然の手で直接に發展させて貰ふのが一番上策だと思ふ。君だの僕だのが何の蚊《か》のと要らぬ世話を燒くのは却つて當人達のために好くあるまい。僕は知つての通り、市藏から見ても千代子から見ても他人ではない。ことに須永の姉からは、二人の身分に就いて今迄頼まれたり相談を受けたりした例《ためし》は何度もある。けれども天の手際で旨く行かないものを、何うして僕の力で纒める事が出來やう。つまり姉は無理な夢を自分一人で見てゐるのである。
 須永の姉も田口の姉も、僕と市藏の性質が餘り能く似てゐるので驚ろいてゐる。僕自身も何うして斯んな變り者が親類に二人揃つて出來たのだらうかと考へては不思議に思ふ。須永の姉の料簡《れうけん》では、市藏の今日《こんにち》は全く僕の感化を受けた結果に過ぎないと見てゐるらしい。僕が姉の氣に入らない點を幾何《いくら》でも有《も》つてゐる内で、最も彼女を不愉快にするものは、不明なる僕のわが甥《をひ》に及ぼしたと認められてゐる此惡い影響である。僕は僕の市藏に對する今日《こんにち》迄《まで》の態度に顧みて、此非難を尤もだと肯《がへん》ずる。それが爲に市藏を田口家から疎隔したといふ不服も序《ついで》に承認して差支ない。たゞ彼等姉二人が僕と市藏とを、同じ型から出來上つた偏窟人の樣に見傚《みな》して、同じ眉を僕等の上に等しく顰《ひそ》めるのは疑もなく誤つてゐる。
 市藏といふ男は世の中と接觸する度に内へとぐろを捲き込む性質《たち》である。だから一つ刺戟を受けると、其刺戟が夫《それ》から夫《それ》へと廻轉して、段々深く細かく心の奧に喰ひ込んで行く。さうして何處迄喰ひ込んで行つても際限を知らない同じ作用が連續して、彼を苦しめる。仕舞には何うかして此内面の活動から逃《のが》れたいと祈る位に氣を惱ますのだけれども、自分の力では如何《いかん》ともすべからざる呪ひの如くに引つ張られて行く。さうして何時《いつ》か此努力の爲に難れなければならない、たつた一人で斃れなければならないといふ怖れを抱《いだ》くやうになる。さうして氣狂《きちがひ》の樣に疲れる。是が市藏の命根《めいこん》に横《よこた》はる一大不幸である。この不幸を轉じて幸《さいはひ》とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外《そと》へとぐろを捲き出させるより外に仕方がない。外にある物を頭へ運び込むために眼を使ふ代りに、頭で外にある物を眺める心持で眼を使ふやうにしなければならない。天下にたつた一つで好いから、自分の心を奪ひ取るやうな偉いものか、美くしいものか、優しいものか、を見出《みいだ》さなければならない。一口に云へば、もつと浮氣《うはき》にならなければならない。市藏は始め浮氣《うはき》を輕蔑して懸つた。今は其浮氣を渇望してゐる。彼は自己の幸福のために、何うかして翩々《へんぺん》たる輕薄才子になりたいと心《しん》から神に念じてゐるのである。輕薄に浮かれ得るより外に彼を救ふ途《みち》は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、既に承知してゐた。けれども實行は未だに出來ないで藻掻《もが》いてゐる。
 
     二
 
 僕は斯ういふ市藏を仕立て上げた責任者として親類のものから暗《あん》に恨まれてゐるが、僕自身も其點に就ては疚《や》ましい所が大いにあるのだから仕方がない。僕はつまり性格に應じて人を導く術《すべ》を心得なかつたのである。唯自分の好尚《かうしやう》を移せる丈《だけ》市藏の上に移せば夫《それ》で充分だといふ無分別から、勝手次第に若いものゝ柔らかい精神を動かして來たのが、凡《すべ》ての禍《わざはひ》の本《もと》になつたらしい。僕が此過失に氣が付いたのは今から二三年|前《まへ》である。然し氣が付いた時はもう遲かつた。僕はたゞ爲《な》す能力のない手を拱《こま》ぬいて、心の中《うち》で嘆息した丈《だけ》であつた。
 事實を一言《いちごん》でいふと、僕の今遣つてゐるやうな生活は、僕に最も適當なので、市藏には決して向かないのである。僕は本來から氣の移り易く出來上つた、極めて安價な批評をすれば、生れ付いての浮気《うはき》ものに過ぎない。僕の心は絶えず外に向つて流れてゐる。だから外部の刺戟次第で何うにでもなる。と云つた丈《だけ》では能く腑《ふ》に落ちないかも知れないが、市藏は在來の社會を教育する爲に生れた男で、僕は通俗な世間から教育されに出た人間なのである。僕が此位好い年をしながらまだ大變若い所があるのに引き更《か》へて、市藏は高等學校時代から既に老成してゐた。彼は社會を考へる種に使ふけれども、僕は社會の考へに此方《こつち》から乘り移つて行く丈《だけ》である。其所に彼の長所があり、かねて彼の不幸が潜んでゐる。其所に僕の短所があり又僕の幸福が宿つてゐる。僕は茶の湯をやれば靜かな心持になり、骨董《こつとう》を捻《ひね》くれば寂《さ》びた心持になる。其外|寄席《よせ》、芝居、相撲《すまふ》、凡《すべ》て其時々の心持になれる。其結果あまり眼前の事物に心を奪はれ過ぎるので、自然に己《おのれ》なき空疎な感に打たれざるを得ない。だから斯んな超然生活を營んで強ひて自我を押し立てやうとするのである。所が市藏は自我より外《ほか》に當初から何物も有《も》つてゐない男である。彼の缺點を補なふ――といふより、彼の不幸を切り詰める生活の徑路は、唯内に潜《もぐ》り込まないで外《そと》に應ずるより外《ほか》に仕方がないのである。然るに彼を幸福にし得る其唯一の策を、僕は間接に彼から奪つて仕舞つた。親類が恨むのは尤もである。僕は本人から恨まれないのをまだしもの仕合せと思つてゐる位である。
 今から慥《たしか》一年位前の話だと思ふ。何しろ市藏がまだ學校を出ない時の話だが、ある日偶然遣つて來て、一寸挨拶をしたぎり直《すぐ》何處かへ見えなくなつた事がある。其時僕はある人に頼まれて、書齋で日本の活花《いけばな》の歴史を調べてゐた。僕は調べものゝ方に氣を取られて、彼の顔を出した時、やあと唯《たゞ》振り返つた丈《だけ》であつたが、夫《それ》でも彼の血色が甚だ勝れないのを苦にして、仕事の區切が付くや否や彼を探しに書齋を出た。彼は妻《さい》とも仲が善かつたので、或は茶の間で話でもしてゐる事かと思つたら、其所にも姿は見えなかつた。妻《さい》に聞くと子供の部屋だらうといふので、縁傳ひに戸《ドアー》を開けると、彼は咲子の机の前に坐つて、女の雜誌の口繪に出てゐる、ある美人の寫眞を眺めてゐた。其時彼は僕を顧みて、今斯ういふ美人を發見して、先刻《さつき》から十分|許《ばかり》相對してゐる所だと告げた。彼は其顔が眼の前にある間、頭の中の苦痛を忘れて自《おのづ》から愉快になるのださうである。僕は早速何處の何者の令孃かと尋ねた。すると不思議にも彼は寫眞の下に書いてある女の名前をまだ讀まずにゐた。僕は彼を迂濶だと云つた。夫《それ》程《ほど》氣に入つた顔なら何故《なぜ》名前から先に頭に入れないかと尋ねた。時と場合によれば、細君として申し受ける事も不可能でないと僕は思つたからである。然るに彼は又何の必要があつて姓名や住所を記憶するかと云つた風の眼使《めづかひ》をして僕の注意を怪しんだ。
 つまり僕は飽く迄も寫眞を實物の代表として眺め、彼は寫眞をたゞの寫眞として眺めてゐたのである。若し寫眞の背後に、本當の位置や身分や教育や性情が付け加はつて、紙の上の肖像を活かしに掛つたなら、彼は却つて氣に入つた其顔迄|併《あは》せて打ち棄てて仕舞つたかも知れない。是が市藏の僕と根本的に違ふ所である。
 
     三
 
 市藏の卒業する二三ケ月前、たしか去年の四月頃だつたらうと思ふ。僕は彼の母から彼の結婚に關して、今迄にない長時間の相談を受けた。姉の意思は固《もと》より田口の姉娘を彼の嫁として迎へたいといふ單純にしてかつ頑固なものであつた。僕は女に理窟を聞かせるのを、男の恥の樣に思ふ癖があるので、六づかしい事は成る可く控えたが、何しろ斯ういふ問題に就て、出來る丈《だけ》本人の自由を許さないのは親の義務に背《そむ》くのも同然だといふ意味を、昔風の彼女の腑《ふ》に落ちるやうに碎いて説明した。姉は御承知の通り極めて穩やかな女ではあるが、いざとなると同じ意見を何度でも繰り返して憚からない婦人に共通な特性を一人前以上に具へてゐた。僕は彼女の執拗《しつあう》を惡《にく》むよりは、其根氣の好過《よす》ぎる所に却つて妙な憐れみを催《もよほ》した。それで、今親類中に、市藏の尊敬してゐるものは僕より外にないのだから、兎も角も一遍呼び寄せて篤《とく》と話して見て呉れぬかといふ彼女の請《こひ》を快よく引受けた。
 僕が此目的を果《はた》すために市藏と此座敷で會見を遂げたのは、夫《それ》から四日目の日曜の朝だと記憶する。彼は卒業試驗間近の多忙を目の前に控えながら座に着いて、何試驗なんか何うなつたつて構やしませんがと苦笑した。彼の説明によると、かねて其話は彼の母から何度も聞かされて、何度も決答を繰り延ばした陳腐なものであつた。尤も彼のそれに對する態度は、問題の陳腐と反比例に頗る切なささうに見えた。彼は最後に母から口説《くど》かれた時、卒業の上、何うとも解決するから、夫《それ》迄《まで》待つて呉れろと母に頼んで置いたのださうである。夫《それ》をまだ試驗も濟まない先から僕に呼び付けられたので、多少迷惑らしく見えた許《ばか》りか、年寄は氣が短かくつて困ると言葉に出して迄訴へた。僕も尤もだと思つた。
 僕の推測では、彼が學校を出る迄兎角の決答を延ばしたのは、そのうちに千代子の縁談が、自分よりは適當な候補者の上に纒《まと》ひ付くに違ないと勘定《かんてい》して、直接に母を失望させる代りに、周圍の事情が母の意思を翻《ひるが》へさせるため自然と彼女に壓迫を加へて來るのを待つ一種の逃避手段に過ぎないと思はれた。僕は市藏にさうぢや無いかと聞いた。市藏はさうだと答へた。僕は彼に何うしても母を滿足させる氣はないかと尋ねた。彼は何事によらず母を滿足させたいのは山々であると答へた。けれども千代子を貰はうとは決して云はなかつた。意地づくで貰はないのかと聞いたら、或はさうかも知れないと云ひ切つた。もし田口が遣つても好いと云ひ、千代子が來ても好いと云つたら何うだと念を押したら、市藏は返事をしずに黙つて僕の顔を眺めてゐた。僕は彼の此顔を見ると、決して話を先へ進める氣になれないのである。畏怖といふと仰山《ぎやうさん》すぎるし、同情といふと丸《まる》で憐れつぽく聞こえるし、此顏から受ける僕の心持は、何と云つて可《い》いか殆んど分らないが、永久に相手を諦らめて仕舞はなければならない絶望に、ある凄味《すごみ》と優し味を付け加へた特殊の表情であつた。
 市藏はしばらくして自分は何故《なぜ》斯う人に嫌はれるんだらうと突然意外な述懷をした。僕は其|時《とき》ならないのと平生の市藏に似合しからないのとで驚ろかされた。何故そんな愚癡《ぐち》を零《こぼ》すのかと窘《たし》なめる樣な調子で反問を加へた。
 「愚癡ぢやありません。事實だから云ふのです」
 「ぢや誰が御前を嫌つてゐるかい」
 「現にさういふ叔父さんからして僕を嫌つてゐるぢやありませんか」
 僕は再び驚ろかされた。あまり不思議だから二三度押問答の末推測して見ると、僕が彼に特有な一種の表情に支配されて話の進行を停止した時の態度を、全然彼に對する嫌惡《けんを》の念から出たと受けてゐるらしかつた。僕は極力彼の誤解を打破しに掛つた。
 「おれが何で御前を惡《にく》む必要があるかね。子供の時からの關係でも知れてゐるぢやないか。馬鹿を云ひなさんな」
 市藏は叱られて激した樣子もなく益《ます/\》蒼い顔をして僕を見詰めた。僕は燐火《りんくわ》の前に坐つてゐる樣な心持がした。
 
     四
 
 「おれは御前の叔父だよ。何處の國に甥《をひ》を憎む叔父があるかい」
 市藏は此言葉を聞くや否や忽ち薄い唇《くちびる》を反《そ》らして淋《さみ》しく笑つた。僕は其|淋《さみ》しみの裏に、奧深い輕侮の色を透《すか》し見た。自白するが、彼は理解の上に於て僕よりも優れた頭の所有者である。僕は百も夫《それ》を承知でゐた。だから彼と接觸するときには、彼から馬鹿にされるやうな愚《ぐ》を成るべく愼んで外《そと》に出さない用心を怠らなかつた。けれども時々は、つい年長者の傲《おご》る心から、親しみの強い彼を眼下《がんか》に見下《みくだ》して、淺薄と心付《こゝろづき》ながら、其場限りの無意味に勿體を付けた訓戒などを與へる折も無いではなかつた。賢《かし》こい彼は僕に恥を掻かせるために、自分の優越を利用する程、品位を缺いた所作を敢てし得ないのではあるが、僕の方では其|都度《つど》彼に對する此方《こつち》の相場が下落して行くやうな屈辱を感ずるのが例であつた。僕はすぐ自分の言葉を訂正しに掛つた。
 「そりや廣い世の中だから、敵同志《かたきどうし》の親子もあるだらうし、命を危《あや》め合ふ夫婦も居ないとは限らないさ。然しまあ一般に云へば、兄弟《きやうだい》とか叔父《をぢ》甥《をひ》とかの名で繋《つな》がつてゐる以上は、繋がつてゐる丈《だけ》の親しみは何處かにあらうぢやないか。御前は相應の教育もあり、相應の頭もある癖に、何だか妙に一種の僻《ひか》みがあるよ。夫《それ》が御前の弱點だ。是非直さなくつちや不可《いけ》ない。傍《はた》から見てゐても不愉快だ」
 「だから叔父さん迄僕を嫌つてゐると云ふのです」
 僕は返事に窮した。自分で氣の付かない自分の矛盾を今市藏から指摘された樣な心持もした。
 「僻《ひが》みさへさらりと棄てゝ仕舞ヘば何でもないぢやないか」と僕は左《さ》も事もなげに云つて退《の》けた。
 「僕に僻《ひがみ》があるでせうか」と市藏は落付いて聞いた。
 「あるよ」と僕は考ヘずに答へた。
 「何ういふ所が僻《ひが》んでゐるでせう。判然《はつきり》聞かして下さい」
 「何ういふ所がつて、――あるよ。あるから有ると云ふんだよ」
 「ぢや左《さ》ういふ弱點があるとして、其弱點は何處から出たんでせう」
 「そりや自分の事だから、少し自分で考へて見たら可《よ》からう」
 「貴方は不親切だ」と市藏が思ひ切つた沈痛な調子で云つた。僕はまづ其調子に度を失つた。次に彼の眼の色を見て萎縮《ゐしゆく》した。其眼は如何にも恨めしさうに僕の顏を見詰めてゐた。僕は彼の前に一言《いちごん》の挨拶さへする勇氣を振ひ起し得なかつた。
 「僕は貴方に云はれない先から考へてゐたのです。仰しやる迄もなく自分の事だから考へてゐたのです。誰も教へて呉れ手がないから獨りで考へてゐたのです。僕は毎日毎夜考へました。餘り考へ過ぎて頭も身體も續かなくなる迄考へたのです。夫《それ》でも分らないから貴方に聞いたのです。貴方は自分から僕の叔父だと明言して居らつしやる。それで叔父だから他人より親切だと云はれる。然し今の御言葉は貴方の口から出たにも拘はらず、他人よりも冷刻なものとしか僕には聞こえませんでした」
 僕は頬を傳はつて流れる彼の涙を見た。幼少の時から馴染《なじ》んで今日《こんにち》に及んだ彼と僕との間に、こんな光景《シーン》は未だ甞て一回も起らなかつた事を僕は君に明言して置きたい。從つて此昂奮した青年を何う取り扱つて可《い》いかの心得が、僕に丸《まる》で無かつた事も序《ついで》に斷つて置きたい。僕は唯茫然として手を拱《こま》ぬいてゐた。市藏は又僕の態度などを眼中に置いて、自分の言葉を調節する餘裕を有《も》たなかつた。
 「僕は僻《ひが》んでゐるでせうか。慥《たしか》に僻《ひが》んでゐるでせう。貴方が仰しやらないでも、能く知つてゐる積《つもり》です。僕は僻《ひが》んでゐます。僕は貴方からそんな注意を受けないでも、能く知つてゐます。僕はたゞ何うして斯うなつたか其譯が知りたいのです。いゝえ母でも、田口の叔母でも、貴方でも、みんな能く其譯を知つてゐるのです。唯《たゞ》僕|丈《だけ》が知らないのです。唯《たゞ》僕|丈《だけ》に知らせないのです。僕は世の中の人間の中《うち》で貴方を一番信用してゐるから聞いたのです。貴方はそれを殘酷に拒絶した。僕は是から生涯の敵として貴方を呪ひます」
 市藏は立ち上つた。僕は其咄嗟の際《さい》に決心をした。
 さうして彼を呼び留めた。
 
      五
 
 僕はかつて或學者の講演を聞いた事がある。其學者は現代の日本の開化を解剖して、かゝる開化の影響を受ける吾等は、上滑《うはすべ》りにならなければ必ず神經衰弱に陷《おち》いるに極つてゐるといふ理由を、臆面なく聽衆の前に曝露した。さうして物の眞相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知つたとなると、却つて知らぬが佛で濟ましてゐた昔が羨ましくつて、今の自分を後悔する場合も少なくはない、私の結論|抔《など》も或はそれに似たものかも知れませんと苦笑して壇を退《しり》ぞいた。僕は其時市藏の事を思ひ出して、斯ういふ苦《にが》い眞理を承《うけたま》はらなければならない我々日本人も隨分氣の毒なものだが、彼の樣にたつた一人の秘密を、攫《つか》まうとしては恐れ、恐れては又|攫《つか》まうとする青年は一層|見慘《みじめ》に違あるまいと考へながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために濺《そゝ》いだ。
 是は單に僕の一族内の事で、君とは全く利害の交渉を有《も》たない話だから、君が市藏のために折角心配して呉れた親切に對する前からの行掛《ゆきがゝり》さへなければ、打ち明けない筈だつたが、實を云ふと、市藏の太陽は彼の生れた日から既に曇つてゐるのである。
 僕は誰にでも明言して憚からない通り、一切の秘密はそれを開放した時始めて自然に復《かへ》る落着《らくちやく》を見る事が出來るといふ主義を抱いてゐるので、穩便とか現状維持とかいふ言葉には一般の人ほど重きを置いてゐない。從つて今日《こんにち》迄《まで》に自分から進んで、市藏の運命を生れた當時に溯《さかのぼ》つて、逆に照らしてやらなかつたのは僕としては寧ろ不思議な手落と云つても可《い》い位である。今考へて見ると、僕が市藏に呪はれる間際迄、何故《なぜ》此事件を秘密にしてゐたものか、其意味が殆んど分らない。僕は此秘密に風を入れた所で、彼等|母子《おやこ》の間柄が惡くならうとは夢にも想像し得なかつたからである。
 市藏の太陽は彼の生れた日から既に曇つてゐたといふ僕の言葉の裏に、何《ど》んな事實が含まれてゐるかは、彼と交《まじは》りの深い君の耳で聞いたら、既に具體的な響となつて解つてゐるかも知れない。一口でいふと、彼等は本當の母子《おやこ》ではないのである。猶《なほ》誤解のないやうに一言《いちげん》付け加へると、本當の母子《おやこ》よりも遙かに仲の好い繼母《まゝはゝ》と繼子《まゝこ》なのである。彼等は血を分けて始めて成立する通俗な親子關係を輕蔑しても差支ない位、情愛の糸で離れられないやうに、自然から確《しつ》かり括《くゝ》り付けられてゐる。何《ど》んな魔の振る斧《をの》の刃《は》でも此糸を絶ち切る譯に行かないのだから、何《ど》んな秘密を打ち明けても怖《こは》がる必要は更にないのである。夫《それ》だのに姉は非常に恐れてゐた。市藏も非常に恐れてゐた。姉は秘密を手に握つた儘、市藏は秘密を手に握らせられるだらうと待ち受けた儘、二人して非常に恐れてゐた。僕はとう/\彼の恐れるものゝ正體を取り出して、彼の前に他意なく並べて遣つたのである。
 僕は其時の問答を一々繰り返して今君に告げる勇氣に乏しい。僕には固《もと》より夫《それ》程《ほど》の大事件とも始から見えず、又成る可く平氣を裝ふ必要から、詰り何でもない事の樣に話したのだが、市藏は夫《それ》を命懸《いのちがけ》の報知として、必死の緊張の下《もと》に受けたからである。唯《たゞ》前の績きとして、事實|丈《だけ》を一口に約《つゞ》めて云ふと、彼は姉の子でなくつて、小間使の腹から生れたのである。僕自身の家に起つた事でない上に、二十五年以上も經つた昔の話だから、僕も詳しい?末は知らう筈がないが、何しろ其小間使が須永の種を宿した時、姉は相當の金を遣つて彼女に暇を取らしたのださうである。夫《それ》から宿へ下《さが》つた姙婦が男の子を生んだといふ報知を待つて、又子供|丈《だけ》引き取つて表向《おもてむき》自分の子として養育したのださうである。是は姉が須永に對する義理からでもあらうが、一つは自分に子の出來ないのを苦にしてゐた矢先だから、本氣に吾子として愛《いつく》しむ考も無論手傳つたに違ない。實際彼等は君の見る如く、又吾々の見る如く、最も親しい親子として今日《こんにち》迄《まで》發展して來たのだから、御互に事情を明《あか》し合つた所で毫も差支の起る譯がない。僕に云はせると、世間に有勝《ありがち》な反《そり》の合《あは》ない本當の親子よりも何《ど》の位肩身が廣いか分りやしない。二人だつて、さうと知つた上で、今迄の睦まじさを回顧した時の方が、何《ど》んなに愉快が多いだらう。少なくとも僕ならさうだ。それで僕は市藏のために特に此美くしい點を力の有らん限り彩《いろど》る事を怠らなかつた。
 
     六
 
 「おれは左《さ》う思ふんだ。だから少しも隱す必要を認めてゐない。御前だつて健全な精神を持つてゐるなら、おれと同じ樣に思ふべき筈ぢやないか。もし左《さ》う思ふ事が出來ないといふなら、夫《それ》が即ち御前の僻《ひが》みだ。解つたかな」
 「解りました。善く解りました」と市藏が答へた。
僕は「解つたら夫《それ》で好い、もう其問題に就て彼是といふのは止《よ》しにしやうよ」と云つた。
 「もう止します。もう決して此事に就いて、貴方を煩らはす日は來ないでせう。成程貴方の仰しやる通り僕は僻《ひが》んだ解釋ばかりしてゐたのです。僕は貴方の御話を聞く迄は非常に怖《こは》かつたです。胸の肉が縮まる程怖かつたです。けれども御話を聞いて凡《すべ》てが明白になつたら、却つて安心して氣が樂になりました。もう怖い事も不安な事もありません。其代り何だか急に心細くなりました。淋《さび》しいです。世の中にたつた一人立つてゐる樣な氣がします」
 「だつて御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだつて今迄のおれだよ。誰も御前に對して變るものはありやしないんだよ。神經を起しちや不可《いけ》ない」
 「神經は起さなくつても淋《さび》しいんだから仕方がありません。僕は是から宅《うち》へ歸つて母の顔を見ると屹度《きつと》泣くに極つてゐます。今から其時の涙を豫想しても淋《さむ》しくつて堪りません」
 「御母さんには黙つてゐる方が可《よ》からう」
 「無論話しやしません。話したら母が何《ど》んな苦しい顔をするか分りません」
 二人は黙然として相對した。僕は手持無沙汰に烟草盆の灰吹を叩いた。市藏は打向《うつむ》いて袴の膝を見詰めてゐた。やがて彼は淋《さみ》しい顏を上げた。
 「もう一つ伺つて置きたい事がありますが、聞いて下さいますか」
 「おれの知つてる事なら何でも話して上げる」
 「僕を生んだ母は今何處に居るんです」
 彼の實の母は、彼を生むと間もなく死んで仕舞つたのである。それは産後の肥立《ひだち》が惡かつた所爲《せゐ》だとも云ひ、又は別の病《やまひ》だとも聞いてゐるが、是も詳しい話を爲《し》て遣る程の材料に缺乏した僕の記憶では、到底餓えた彼の眼を靜めるに足りなかつた。彼の生母《せいぼ》の最後の運命に關する僕の話は、僅か二三分で盡きて仕舞つた。彼は遺憾な顔をして彼女の名前を聞いた。幸《さいはひ》にして僕は御弓《おゆみ》といふ古風な名を忘れずにゐた。彼は次に死んだ時の彼女の年齡《とし》を問ふた。僕は其點に關して、何といふ確《しか》とした知識も有《も》つてゐなかつた。彼は最後に、彼の宅《うち》に奉公してゐた時分の彼女に會つた事があるかと尋ねた。僕はあると答へた。彼はどんな女だと聞き返した。氣の毒にも僕の記憶は頗る朦朧としてゐた。事實僕は其當時十五六の少年に過ぎなかつたのである。
 「何でも島田に結つてた事がある」
 此位より外に要領を得た返事は一つも出來ないので、僕も甚だ殘念に思つた。市藏は漸く諦《あき》らめたといふ眼付をして、一番仕舞に、「ぢや責《せ》めて寺|丈《だけ》教へて呉れませんか。母が何處へ埋《うま》つてゐるんだか、夫《それ》丈《だけ》でも知つて置きたいと思ひますから」と云つた。けれども御弓《おゆみ》の菩提所を僕が知らう筈がなかつた。僕は呻吟しながら、已《やむ》を得なければ姉に聞くより外に仕方あるまいと答へた。
 「御母さんより外に知つてるものは無いでせうか」
 「まあ有るまいね」
 「ぢや分らないでも宜《よ》ござんす」
 僕は市藏に對して氣の毒なやうな又濟まないやうな心持がした。彼はしばらく庭の方を向いて、麗《うらゝ》かな日脚の中に咲く大きな椿を眺めてゐたが、やがて視線を故《もと》に戻した。
 「御母さんが是非千代ちやんを貰へといふのも、矢つ張血統上の考へから、身縁《みより》のものを僕の嫁にしたいといふ意味なんでせうね」
 「全く其所だ。外に何にもないんだ」
 市藏は夫《それ》では貰はうとも云はなかつた。僕もそれなら貰ふかとも聞かなかつた。
 
     七
 
 此會見は僕にとつて美くしい經驗の一つであつた。双方で腹藏なく凡《すべ》てを打ち明け合ふ事が出來たといふ點に於て、いまだに僕の貧しい過去を飾つてゐる。相手の市藏から見ても、或は生れて始めての慰籍《ゐしや》ではなかつたかと思ふ。兎に角彼が歸つたあとの僕の頭には、善い功コ《くどく》を施こしたといふ愉快な感じが殘つたのである。
 「萬事おれが引き受けて遣るから心配しないがいゝ」
 僕は彼を玄關に送り出しながら、最後に斯ういふ言葉を彼の背に暖かく掛けて遣つた。其代り姉に會見の結果を報告する時は甚だ不味《まづ》かつた。已《やむ》を得ないから、卒業して頭に暇さへ出來れば、はつきり何うにか片を付けると云つてゐるから、夫《それ》迄《まで》待つが好からう、今彼是突つつくのは試驗の邪魔になる丈《だけ》だからと、姉が聞いても無理のない所で、一先《ひとまづ》宥《なだ》めて置いた。
 僕は同時に事情を田口に話して、成るべく市藏の卒業前に千代子の縁談が運ぶやうに工夫した。委細を聞いた田口の口振は平生の通り如才なく且《かつ》無雜作であつた。彼は僕の注意がなくつても、其邊は心得てゐる積《つもり》だと答へた。
 「けれども必竟は本人の爲に嫁入《かたづ》けるんで、(さう申しちや角が立つが、)姉さんや市藏の便宜のために、千代子の結婚を無理に繰り上げたり、繰り延べたりする譯にも行かないものだから」
 「御尤もだ」と僕は承認せざるを得なかつた。僕は元來田口家と親類並の交際《つきあひ》をしてゐるにはゐるが、其實彼等の娘の縁談に、進んで口を出したこともなければ、又向ふから相談を受けた例《ためし》も有《も》たないのである。夫《それ》で今日《こんにち》迄《まで》千代子に何《ど》んな候補者があつたのか、間接にさへ殆んど其噂を耳にしなかつた。たゞ前の年鎌倉の避暑地とかで市藏が會つて氣を惡くしたといふ高木|丈《だけ》は、市藏からも千代子からも名前を教へられて覺えてゐた。僕は突然ながら田口に其男は何うなつたかと尋ねた。田口は愛嬌らしく笑つて、高木は始めから候補者として打つて出たのではないと告げた。けれども相當の身分と教育があつて獨身の男なら、誰でも候補者になり得る權利は有《も》つてゐるのだから、候補者でないとは決して斷言出來ないとも告げた。此曖昧な男の事を僕は猶《なほ》委《くは》しく聞いて見て、彼が今|上海《シヤンハイ》にゐる事を確かめた。上海《シヤンハイ》にゐるけれども何時《いつ》歸るか分らないといふ事も確かめた。彼と千代子との間柄は其後何等の發展も見ないが、信書の往復は未《いま》だに絶えない、さうして其信書は屹度《きつと》父母《ふぼ》が眼を通した上で本人の手に落つるといふ條件付の往復であるといふ事迄確めた。僕は一も二もなく、千代子には其男《それ》が好いぢやないかと云つた。田口はまだ何處かに慾があるのか、又は別に考を有《も》つてゐるのか、さうする積《つもり》だとは明言しなかつた。高木の如何なる人物かを丸《まる》で解しない僕が、それ以上勸める權利もないから、僕はつい其儘にして引き取つた。
 僕と市藏とは其後久しく會はなかつた。久しくと云つた所で僅か一ケ月半|許《ばかり》の時日に過ぎないのだが、僕には卒業試驗を眼の前に控へながら、家庭問題に屈托しなければならない彼の事が非常に氣に掛つた。僕はそつと姉を訪ねてそれとなく彼の近况を探つて見た。姉は平氣で、何でも大分《だいぶ》忙がしさうだよ、卒業するんだから其筈さねと云つて澄ましてゐた。僕は夫《それ》でも不安心だつたから、或日一時間の夕《ゆふべ》を僕と會食する爲に割《さ》かせて、彼の家の近所の洋食店で共に晩餐を食ひながら、ひそかに彼の樣子を窺つた。彼は平生の通り落ち付いてゐた。なに試驗なんか何うにか斯うにか遣つ付けまさあと受合つた所に、滿更《まんざら》の虚勢も見えなかつた。大丈夫かいと念を押した時、彼は急に情《なさけ》なさうな顏をして、人間の頭は思つたより堅固に出來てゐるもんですね、實は僕自身も怖《こは》くつて堪らないんですが、不思議にまだ壞れません、此樣子ならまだ當分は使へるでせうと云つた。冗談らしくもあり、又眞面目らしくもある此言葉が、妙に憐れ深い感じを僕に與へた。
 
     八
 
 若葉の時節が過ぎて、湯上《ゆあが》りの單衣《ひとへ》の胸に、團扇《うちは》の風を入れたく思ふ或日、市藏が又ふらりと遣つて來た。彼の顔を見るや否や僕が第一に掛けた言葉は、試驗は何うだつたいといふ一語であつた。彼は昨日《きのふ》漸く濟んだと答へた。さうして明日《あす》から一寸旅行して來る積《つもり》だから暇乞《いとまごひ》に來たと告げた。僕は成績もまだ分らないのに、遠く走る彼の心理状態を疑つて又多少の不安を感じた。彼は京都附近から須磨《すま》明石《あかし》を經て、ことに因ると、廣島|邊《へん》迄行きたいといふ希望を述べた。僕は其旅行の比較的大袈裟なのに驚ろいた。及第とさへ極つてゐれば夫《それ》でも好からうがと間接に不賛成の意を仄《ほの》めかして見ると、彼は試驗の結果などには存外冷淡な挨拶をした。そんな事に氣を遣ふ叔父さんこそ平生にも似合はしからんぢやありませんかと云つて、殆んど相手にならなかつた。話してゐるうちに、僕は彼の思《おも》ひ立《たち》が及落の成績に關係のない別方面の動機から萌《きざ》してゐるといふ事を發見した。
 「實はあの事件以來妙に頭を使ふので、近頃では落ち付いて書齋に坐つてゐる事が困難になりましてね。何うしても旅行が必要なんですから、まあ試驗を中途で已《や》めなかつたのが感心だ位に賞《ほ》めて許して下さい」
 「夫《そ》りや御前の金で御前の行きたい所へ行くのだから少しも差支はないさ。考へて見れば少しは飛び歩いて氣を換えるのも好からう。行つて來るがいゝ」
 「えゝ」と云つて市藏はやゝ滿足らしい顏をしたが、「實は大きな聲で話すのも氣の毒で勿體ないんですが、叔父さんにあの話を聞いてから以後は、母の顏を見るたんびに、變な心持になつて堪らないんです」と付け足した。
 「不愉快になるのか」と僕は寧ろ嚴かに聞いた。
 「いゝえ、只氣の毒なんです。始めは淋《さび》しくつて仕方がなかつたのが、段々々々氣の毒に變化して來たのです。實は此所|丈《だけ》の話ですけれども、近頃では母の顏を朝夕見るのが苦痛なんです。今度《こんだ》の旅行だつて、かねてから卒業したら母に京大阪と宮島を見物させて遣りたいと思つてゐたのだから、昔の僕なら供《とも》をする氣で留守を叔父さんにでも頼みに出掛けて來る所なんですが、今云つた樣な譯で、關係が丸《まる》で逆になつたもんだから、少しでも母の傍《そば》を離れたらといふ氣ばかりして」
 「困るね、さう變になつちやあ」
 「僕は離れたら又|屹度《きつと》母が戀しくなるだらうと思ふんですが、何うでせう。さう旨くは行かないもんでせうか」
 市藏は左《さ》も懸念《けねん》らしく斯ういふ問を掛けた。彼より經驗に富んだ年長者を以て自任する僕にも、此點に關する彼の未來は殆んど想像出來なかつた。僕はたゞ自分に信念がなくつて、わが心の事を他《ひと》に尋ねて安心したいと願ふ彼の胸の裏《うち》を憐れに思つた。上部《うはべ》は如何にも優しさうに見えて、實際は極めて意地の強く出來上つた彼が、こんな弱い音《ね》を出すのは、殆んど例《ためし》のない事だつたからである。僕は僕の力の及ぶ限り彼の心に保證を與へた。
 「そんな心配はする丈《だけ》損だよ。おれが受合つてやる。大丈夫だから遊んで來るが好い。御前の御母さんはおれの姉だ。しかもおれよりも學問をしない丈《だけ》に、餘程純良に出來てゐる、誰からも敬愛されべき婦人だ。あの姉と君のやうな情愛のある子が何うして離れつ切りに離れられるものか。大丈夫だから安心するが好い」
 市藏は僕の言葉を聞いて實際安心したらしく見えた。僕も稍《やゝ》安心した。けれども一方では、此位根のない慰藉《ゐしや》の言葉が、明晰な頭腦を有《も》つた市藏に、是程の影響を與へたとすれば、それは彼の神經が何處か調子を失なつてゐる爲ではなからうかといふ疑も起つた。僕は突然極端の出來事を豫想して、一人身の旅行を危ぶみ始めた。
 「おれも一所に行かうか」
 「叔父さんと一所ぢや」と市藏が苦笑した。
 「不可《いけ》ないかい」
 「平生《ふだん》なら此方《こつち》から誘つても行つて貰ひたいんだが、何しろ何時《いつ》何處へ立つんだか分らない、云はゞ氣の向き次第豫定の狂ふ旅行だから御氣の毒でね。それに僕の方でも貴方が居ると束縛があつて面白くないから……」
 「ぢや止《よ》さう」と僕はすぐ申し出《で》を撤回した。
 
     九
 
 市藏が歸つた後《あと》でも、しばらくは彼の事が變に氣に掛つた。暗い秘密を彼の頭に判で押した以上、それから出る一切の責任は、當然僕が脊負《しよ》つて立たなければならない氣がしたからである。僕は姉に會つて、彼女の樣子を見もし、又市藏の近况を聞きもしたくなつた。茶の間にゐた妻《さい》を呼んで、相談|旁《かた/”\》理由《わけ》を話すと、存外物に驚ろかない妻《さい》は、貴方があんまり餘計な御喋舌《おしやべり》をなさるからですよと云つて、始めは殆んど取り合はなかつたが、仕舞に、なんで市《いつ》さんに間違があるもんですか、市さんは年こそ若いが、貴方より餘程《よつぽど》分別のある人ですものと、獨りで受合つてゐた。
 「すると市藏の方で、却つておれの事を心配してゐる譯になるんだね」
 「さうですとも、誰だつて貴方の懷手ばかりして、舶來のパイプを銜《くは》へてゐる所を見れば、心配になりますわ」
 其内子供が學校から歸つて來て、家《うち》の中《なか》が急に賑やかになつたので、市藏の事はつい忘れた限《ぎり》、夕方迄とう/\思ひ出す暇がなかつた。其所へ姉が自分の方から突然尋ねて來た時は、僕も覺えず冷《ひや》りとした。
 姉は何時《いつ》もの通り、家族の集まつてゐる眞中に坐つて、無沙汰の詫やら、時候の挨拶やらを長々しく妻《さい》と交換してゐた。僕も其所に座を占めた儘動く機會を失つた。
 「市藏が明日《あす》から旅行するつて云ふぢやありませんか」と僕は好い加減な時分に聞き出した。
 「それに就てね……」と姉は稍《やゝ》眞面目になつて僕の顔を見た。僕は姉の言葉を皆迄聞かずに、「なに行きたいなら行かして御遣んなさい。試驗で頭を散々使つた後《あと》だもの。少しは樂もさせないと身體の毒になるから」と恰も市藏の行動を辯護する樣に云つた。姉は固《もと》より同じ意見だと答へた。たゞ彼の健康状態が旅行に堪へるか何うかを氣遣ふ丈《だけ》だと告げた。最後に僕の見る所では大丈夫なのかと聞いた。僕は大丈夫だと答へた。妻《さい》も大丈夫だと答へた。姉は安心といふよりも、寧ろ物足りない顔をした。僕は姉の使ふ健康といふ言葉が、身體に關係のない精神上の意味を有《も》つてゐるに違ないと考へて、腹の中で一種の苦痛を感じた。姉は僕の顔付から直覺的に影響を受けたらしい心細さを額に刻《きざ》んで、「恒《つね》さん、先刻《さつき》市藏が此方《こちら》へ上つた時、何か樣子の變つた所でも有りやしませんでしたかい」と聞いた。
 「何そんな事があるもんですか。矢つ張り普通の市藏でさあ。ねえ御仙《おせん》」
 「えゝ些《ちつ》とも違つて御出《おいで》ぢやありません」
 「わたしも左《さ》うかと思ふけれども、何だか此間から調子が變でね」
 「何《ど》んななんです」
 「何《ど》んなだと云はれると又話しやうもないんだが」
 「全く試驗の爲だよ」と僕はすぐ打ち消した。
 「姉さんの神經《きでん》ですよ」と妻《さい》も口を出した。
 僕等は夫婦して姉を慰さめた。姉は仕舞に稍《やゝ》納得したらしい顔付をして、みんなと夕食《ゆふめし》を共にする迄話し込んだ。歸る時には散歩がてら、子供を連れて電車迄見送つたが、夫《それ》でも氣が濟まないので、子供を先へ返して、斷わる姉の傍《そば》に席を取つたなり、とう/\彼女の家《いへ》迄來た。
 僕は幸ひ二階にゐた市藏を姉の前に呼び出した。御母さんが御前の事を大層心配してわざ/\矢來迄來たから、今おれが色々に云つて漸く安心させた處だと告げた。從つて旅行に出すのは、つまり僕の責任なんだから、成るべく年寄に心配を掛けない樣に、着いたら着いた所から、立つなら立つ所から、又逗留するなら逗留する所から、必ず音信《たより》を怠たらない樣にして、何時《いつ》でも用が出來次第|此方《こつち》から呼び返す事の出來る注意をしたら好からうと云つた。市藏は其位の面倒なら僕に注意される迄もなく既に心得てゐると答へて、彼の母の顔を見ながら微笑した。
 僕は是で幾分か姉の心を柔らげ得たものと信じて十一時頃又電車で矢來へ歸つて來た。
 僕を迎に玄關に出た妻《さい》は、待ちかねたやうに、何うでしたと尋ねた。僕はまあ安心だらうよと答へた。實際僕は安心した樣な心持だつたのである。で、明《あく》る日は新橋へ見送りにも行かなかつた。
 
     十
 
 約束の音信《たより》は至る所からあつた。勘定すると大抵日に一本位の割になつてゐる。其代り多くは旅先の畫端書に二三行の文句を書き込んだ簡略なものに過ぎなかつた。僕は其端書が着く度に、まづ安心したといふ顔付をして、妻《さい》からよく笑はれた。一度僕が此樣子なら大丈夫らしいね、何うも御前の豫言の方が適中したらしいと云つた時、妻《さい》は愛想《あいそ》もなく、當り前ですわ、三面記事や小説見たやうな事が、滅多にあつて堪るもんですかと答へた。僕の妻《さい》は小説と三面記事とを同じ物の如く見傚《みな》す女であつた。さうして兩方とも嘘と信じて疑はない程|浪漫斯《ロマンス》に縁の遠い女であつた。
 端書に滿足した僕は、彼の封筒入の書翰に接し出した時更に眉を開いた。といふのは、僕の恐れを抱いてゐた彼の手が、陰欝な色に卷紙を染めた痕迹《こんせき》が、その何處にも見出せなかつたからである。彼の状袋の中に卷き納めた文句が、彼の端書よりも如何に鮮かに、彼の變化した氣分を示してゐるかは、實際それを讀んで見ないと分らない。此所に二三通取つてある。
 彼の氣分を變化するに與《あづ》かつて效力のあつたものは京都の空氣だの宇治の水だの色々ある中に、上方地方《かみがたちはう》の人の使ふ言葉が、東京に育つた彼に取つては最も興味の多い刺戟になつたらしい。何遍もあの邊を通過した經驗のあるものから云ふと馬鹿げて居るが、市藏の當時の神經にはあゝ云ふ滑《なめ》らかで靜かな調子が、鎭經劑《ちんけいざい》以上に優しい影響を與へ得たのではなからうかと思ふ。なに若い女の? それは知らない。無論若い女の口から出れば效目《きゝめ》は多いだらう。市藏も若い男の事だから、求めてさう云ふ所へ近付いたかも知れない。然し此所に書いてあるのは、不思議に御婆さんの例である。 ――
 「僕は此邊の人の言葉を聞くと微《かす》かな醉に身を任せた樣な氣分になります。ある人はべたついて厭《いや》だと云ひますが、僕は丸《まる》で反對です。厭なのは東京の言葉です。無暗に角度の多い金米糠《こんぺいとう》のやうな調子を得意になつて出します。さうして聽手《きゝて》の心を粗暴にして威張ります。僕は昨日《きのふ》京都から大阪へ來ました。今日朝日新聞にゐる友人を尋ねたら、其友人が箕面《みのお》といふ紅葉《もみぢ》の名所へ案内して呉れました。時節が時節ですから、紅葉《もみぢ》は無論見られませんでしたが、溪川《たにがは》があつて、山があつて、山の行き當りに瀧があつて、大變好い所でした。友人は僕を休ませる爲に社の倶樂部《クラブ》とかいふ二階建の建物の中へ案内しました。其所へ這入つて見ると、幅の廣い長い土間が、竪《たて》に家の間口を貫ぬいてゐました。さうして其《それ》が悉《こと/”\》く敷瓦《しきがはら》で敷き詰められてゐる模樣が、何だか支那の御寺へでも行つたやうな沈んだ心持を僕に與へました。此家は何でも誰かゞ始め別莊に拵えたのを、朝日新聞で買ひ取つて倶樂部《クラブ》用にしたのだとか聞きましたが、よし別莊にせよ、瓦を疊んで出來てゐる、此廣々とした土間は何の爲でせう。僕はあまり妙だから友人に尋ねて見ました。所が友人は知らんと云ひました。尤も是は何うでも構はない事です。たゞ叔父さんが斯う云ふ事に明らかだから、或は知つて御出《おいで》かも知れないと思つて、一寸蛇足に書き添へた丈《だけ》です。僕の御報知したいのは實は此廣い土間ではなかつたのです。土間の上に下りてゐた御婆さんが問題だつたのです。御婆さんは二人ゐました。一人は立つて、一人は椅子に腰を掛けてゐました。但し兩方ともくり/\坊主です。其立つてゐる方が、僕等が這入るや否や、友人の顔を見て挨拶をしました。さうして『おや御免やす。今八十六の御婆さんの頭を剃《そ》つとる所だすよつて。――御婆さん凝《ぢつ》として居なはれや、もう少しだけれ。――よう剃つたけれ毛は一本も有りやせんよつて、何も恐ろしい事ありやへん』と云ひました。椅子に腰を掛けた御婆さんは頭を撫《な》でて『大きに』と禮を述べました。友人は僕を顧みて野趣があると笑ひました。僕も笑ひました。唯《たゞ》笑つた丈《だけ》ではありません。百年も昔の人に生れたやうな暢氣《のんびり》した心持がしました。僕は斯ういふ心持を御土産《おみやげ》に東京へ持つて歸りたいと思ひます」
 僕も市藏が斯ういふ心持を、姉へ御土産として持つて來て呉れゝば可《い》いがと思つた。
 
     十−
 
 次のは明石から來たもので、前に比べると多少複雜な丈《だけ》に、市藏の性格をより鮮やかに現はしてゐる。
 「今夜此所に來ました。月が出て庭は明らかですが、僕の部屋は影になつて却つて暗い心持がします。飯を食つて烟草を呑んで海の方を眺めてゐると、――海はつい庭先にあるのです。漣《さゞなみ》さへ打たない靜かな晩だから、河縁《かはべり》とも池の端《はた》とも片の付かない渚《なぎさ》の景色《けしき》なんですが、其所へ凉み船が一艘流れて來ました。其船の形好《かつかう》は夜でよく分らなかつたけれども、幅の廣い底の平たい、何うしても海に浮ぶものとは思へない穩やかな形を具へてゐました。屋根は確かあつた樣に覺えます。其軒から畫《ゑ》の具《ぐ》で染めた提灯《ちやうちん》が幾何《いくつ》もぶら下がつてゐました。薄い光の奧には無論人が坐つてゐる樣でした。三味線の音も聞こえました。けれども惣體《そうたい》が如何にも落ち付いて、滑る樣に樂しんで僕の前を流れて行きました。僕は靜かに其影を見送つて、御祖父《おぢい》さんの若い時分の話といふのを思ひ出しました。叔父さんは固《もと》より御存じでせう、御祖父《おぢい》さんが昔の通人のした月見の舟遊《ふなあそび》を實際に遣つた話を。僕は母から二三度聞かされた事があります。屋根船を綾瀬川《あやせがは》迄漕ぎ上《のぼ》せて、靜かな月と靜かな波の映り合ふ眞中に立つて、用意してある銀扇《ぎんせん》を開いた儘、夜の光の遠くへ投げるのだと云ふぢやありませんか。扇の要《かなめ》がぐる/\廻つて、地紙《ぢがみ》に塗つた銀泥《ぎんでい》をきら/\させながら水に落ちる景色《けしき》は定めて美事だらうと思ひます。それも只の一本ならですが、船のものが惣掛《そうがゝ》りで、ひら/\する光を投げ競《きそ》ふ光景は想像しても凄艶です。御祖父《おぢい》さんは銅壺《どうこ》の中に酒を一杯入れて、其酒でコ利の爛《かん》をした後《あと》を悉《こと/”\》く棄てさした程の豪奢な人だと云ふから、銀扇の百本位一度に水に流しても平氣なのでせう。さう云へば、遺傳だか何だか、叔父さんにも貧乏な割にはと云つては失禮ですが、何處かに贅澤な所がある樣ですし、あんな内氣な母にも、妙に陽氣な事の好きな方面が昔から見えてゐました。唯《たゞ》僕|丈《だけ》は、――斯ういふと又あの問題を持ち出したなと早合點なさるかも知れませんが、僕はもうあの事に就いて叔父さんの心配なさる程屈托して居ない積《つもり》ですから安心して下さい。唯《たゞ》僕|丈《だけ》はと斷るのは決して苦《にが》い意味で云ふのではありません。僕は此點に於て、叔父さんとも母とも生れ付が違つてゐると申したいのです。僕は比較的樂に育つた、物質的に幸福な子だから、贅澤と知らずに贅澤をして平氣で居ました。着物などでも、母の注意で、人前へ出て恥かしくない樣なものを身に着けながら、是が當然だと澄ましてゐました。けれども夫《それ》は永く習慣に養はれた結果、自分で知らない不明から出るので、一度其所に氣が付くと、急に不安になります。着物や食事はまあ何うでも可《い》いとして、僕は此間ある富豪の無暗に金を使ふ樣子を聞いて恐ろしくなつた事があります。其男は藝者や幇間《ほうかん》を大勢集めて、鞄の中から出した札《さつ》の束《たば》を、其前でずた/\に裂いて、それを御祝儀とか稱《とな》へて、みんなに遣るのださうです。夫《それ》から立派な着物を着た儘湯に這入つて、あとは三助《さんすけ》に呉れるのださうです。彼の亂行はまだ澤山ありましたが、何《いづ》れも天を恐れない暴慢|極《きは》まるものゝみでした。僕は其話を聞いた時無論彼を惡《にく》みました。けれども氣概に乏しい僕は、惡《にく》むよりも寧ろ恐れました。僕から彼の所行《しよぎやう》を見ると、強盗が白刃《しらは》の拔身を疊に突き立てゝ良民を脅迫《おびやか》してゐるのと同じ樣な感じになるのです。僕は實に天とか、人道とか、もしくは神佛とかに對して申し譯がないといふ、眞正に宗教的な意味に於て恐れたのです。僕は是程臆病な人間なのです。驕奢《けうしや》に近づかない先から、驕奢の絶頂に達して躍り狂ふ人の、一轉化の後《のち》を想像して、怖《こは》くて堪らないのであります。――僕は斯んな事を考へて、靜かな波の上を流れて行く凉み船を見送りながら、此位な程度の慰さみが人間として丁度手頃なんだらうと思ひました。僕も叔父さんから注意された樣に、段々|浮氣《うはき》になつて行きます。賞めて下さい。月の差す二階の客は、神戸から遊びに來たとかで、僕の厭な東京語ばかり使つて、折々詩吟などを遣ります。其中に艶《なま》めかしい女の聲も交つてゐましたが、二三十分前から急に大人《おとな》しくなりました。下女に聞いたらもう神戸へ歸つたのださうです。夜も大分《だいぶ》更《ふ》けましたから、僕も休みます」
 
     十二
 
 「昨夕《ゆうべ》も手紙を書きましたが、今日も亦|今朝《こんてう》以來の出來事を御報知します。斯う續けて叔父さんに許《ばかり》手紙を上げたら、叔父さんは屹度《きつと》皮肉な薄笑ひをして、彼奴《あいつ》何處へも文《ふみ》を遣る所がないものだから、已《やむ》を得ず姉と已《おれ》に對して丈《だけ》、時間を費やして音信《たより》を怠らないんだと、腹の中で云ふでせう。僕も筆を執りながら、一寸さういふ考へを起しました。然し僕にもしそんな愛人が出來たら、叔父さんはたとひ僕から手紙を貰はないでも、喜こんで下さるでせう。僕も叔父さんに音信《たより》を怠つても、其方が幸福だと思ひます。實は今朝起きて二階へ上《あが》つて海を見下《みおろ》してゐると、さういふ幸福な二人連が、磯通《いそづた》ひに西の方へ行きました。是は殊によると僕と同じ宿に泊つてゐる御客かも知れません。女がクリーム色の洋傘《かうもり》を翳《さ》して、素足に着物の裾を少し捲《まく》りながら、淺い波の中を、男と並んで行く後姿を、僕は羨ましさうに眺めたのです。波は非常に澄んでゐるから高い所から見下《みおろ》すと、陸《をか》に近いあたり抔《など》は、日の照る空氣の中と變りなく何でも透いて見えます。泳いでゐる海月《くらげ》さへ判切《はつきり》見えます。宿の客が二人出て來て泳ぎ廻つてゐますが、彼等の水中で遣る所作が、一擧一動|悉《ことご》とく手に取る樣に見えるので、藝としての水泳の價値が、大分《だいぶ》下落する樣です。(午前七時半)」
 「今度は西洋人が一人水に浸《つか》つてゐます。あとから若い女が出て來ました。其女が波の中に立つて、二階に殘つてゐるもう一人の西洋人を呼びます。『ユー、カム、ヒヤ』と云つて英語を使ひます。『イツト、イズ、?リ、ナイス、イン、ウオーター』と云ふ樣な事を連《しき》りに申します。其英語は中々達者で流暢で羨ましい位旨く出ます。僕は到底《とて》も及ばないと思つて感心して聞いてゐました。けれども英語の達者な此女から呼ばれた西洋人は中々下りて來ませんでした。女は泳げないんだか、泳ぎたくないんだか、胸から下を水に浸《つ》けた儘波の中に立つてゐました。すると先へ下りた方の西洋人が女の手を執つて、深い所へ連れて行かうとしました。女は身を竦《すく》めるやうにして拒《こば》みました。西洋人はとう/\海の中で女を横に抱《だ》きました。女の跳ねて水を蹴る音と、其笑ひながら、きやつ/\騷ぐ聲が、遠方まで響きました。(午前十時)」
 「今度は下の座敷に藝者を二人連れて泊つてゐた客が端艇《ボート》を漕ぎに出て來ました。此|端艇《ボート》は何處から持つて來たか分りませんが、極めて小さい且つ頗る危しいものです。客は漕いでやるからと云つて、藝者を乘せやうとしますが、藝者の方では怖《こは》いからと斷つて中々乘りません。然しとう/\客の意の通りになりました。其時年の若い方が、わざ/\喫驚《びつくり》して見せる科《しな》が、餘程馬鹿らしう御座いました。端艇《ボート》が其所いらを漕ぎ廻つて歸つて來ると、年上の藝者が、宿屋のすぐ裏に繋いである和船に向つて、船頭はん、其船|空《あ》いてゐまつかと、大きな聲で聞きました。今度は和船の中に、御馳走を入れて、又海の上に出る相談らしいのです。見てゐると、藝者が宿の下女を使つて、麥酒《ビール》だの水菓子だの三味線だのを船の中へ運び込まして置いて、仕舞に自分達も乘りました。所が肝心の御客は餘程威勢の可《い》い男で、遙《はる》か向ふの方にまだ端艇《ボート》を漕ぎ廻してゐました。誰も乘せ手がなかつたと見えて、今度は黒裸《くろはだか》の浦の子僧を一人|生捕《いけど》つてゐました。藝者はあきれた顔をして、しばらく其方を眺めてゐましたが、やがて根限《こんかぎ》りの大きな聲で、阿呆《あほう》と呼びました。すると阿呆と呼ばれた客が端艇《ボート》を此方《こちら》へ漕ぎ戻して來ました。僕は面白い藝者で又面白い客だと思ひました。(午前十一時)」
 「僕がこんな煩瑣《くだ/\》しい事を物珍らしさうに報道したら、叔父さんは物數奇《ものずき》だと云つて定めし苦笑なさるでせう。然し是は旅行の御蔭で僕が改良した證據なのです。僕は自由な空氣と共に往來する事を始めて覺えたのです。こんな詰らない話を一々書く面倒を厭はなくなつたのも、つまりは考へずに觀るからではないでせうか。考へずに觀るのが、今の僕には一番藥だと思ひます。僅かの旅行で、僕の神經だか性癖だかが直つたと云つたら、直り方があまり安つぽくつて恥づかしい位です。が、僕は今より十層倍も安つぽく母が僕を生んで呉れた事を切望して已《や》まないのです。白帆が雲の如く簇《むらが》つて淡路島の前を通ります。反對の側の松山の上に人丸《ひとまる》の社《やしろ》があるさうです。人丸《ひとまる》といふ人はよく知りませんが、閑《ひま》があつたら序《ついで》だから行つて見やうと思ひます」
 
  結末
 
 敬太郎の冒險は物語に始まつて物語に終つた。彼の知らうとする世の中は最初遠くに見えた。近頃は眼の前に見える。けれども彼は遂に其中に這入つて、何事も演じ得ない門外漢に似てゐた。彼の役割は絶えず受話器を耳にして「世間」を聽く一種の探訪《たんばう》に過ぎなかつた。
 彼は森本の口を通して放浪生活の斷片を聞いた。けれども其斷片は輪廓と表面から成る極めて淺いものであつた。從つて罪のない面白味を、野性の好奇心に充ちた彼の頭に吹き込んだ丈《だけ》である。けれども彼の頭の中の隙間《すきま》が、瓦斯《ガス》に似た冒險譚《ばうけんだん》で膨脹した奧に、彼は人間としての森本の面影を、夢現《ゆめうつゝ》の如く見る事を得た。さうして同じく人間としての彼に、知識以外の同情と反感を與へた。
 彼は田口と云ふ實際家の口を通して、彼が社會を如何に眺めてゐるかを少し知つた。同時に高等遊民と自稱する松本といふ男から其人生觀の一部を聞かされた。彼は親しい社會的關係によつて繋がれてゐながら、丸《まる》で毛色の異《こと》なつた此二人の對照を胸に据ゑて、幾分か己《おの》れの世間的經驗が廣くなつた樣な心持がした。けれども其經驗は唯廣く面積の上に於て延びる丈《だけ》で、深さは左程《さほど》増したとも思へなかつた。
 彼は千代子といふ女性《によしやう》の口を通して幼兒の死を聞いた。千代子によつて叙《じよ》せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違つて、美くしい畫《ゑ》を見る樣な所に、彼の快感を惹いた。けれども其快感のうちには涙が交つてゐた。苦痛を逃れるために已《やむ》を得ず流れるよりも、悲哀を出來る丈《だけ》長く抱《いだ》いてゐたい意味から出る涙が交つてゐた。彼は獨身ものであつた。小兒に對する同情は極めて乏しかつた。それでも美くしいものが美くしく死んで美くしく葬られるのは憐れであつた。彼は雛祭の宵に生れた女の子の運命を、恰かも御雛樣のそれの如く可憐に聞いた。
 彼は須永の口から一調子《ひとてうし》狂つた母子《おやこ》の關係を聞かされて驚ろいた。彼も國元に一人の母を有《も》つ身であつた。けれども彼と彼の母との關係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの因果に纒綿されてゐなかつた。彼は自分が子である以上、親子の間を解し得たものと信じて疑はなかつた。同時に親子の間は平凡なものと諦らめてゐた。より込み入つた親子は、たとひ想像が出來るにしても、一向腹には應《こた》へなかつた。それが須永の爲に深く堀り下げられた樣な氣がした。
 彼は又須永から彼と千代子との間柄を聞いた。さうして彼等は必竟夫婦として作られたものか、朋友として存在すべきものか、もしくは敵《かたき》として睨み合ふべきものかを疑つた。其疑ひの結果は、半分の好奇と半分の好意を驅つて彼を松本に走らしめた。彼は案外にも、松本をたゞ舶來のパイプを銜《くは》へて世の中を傍觀してゐる男でないと發見した。彼は松本が須永に對して何《ど》んな考で何ういふ所置を取つたかを委《くは》しく聞いた。さうして松本のさういふ所置を取らなければならなくなつた事情も審《つまび》らかにした。
 顧みると、彼が學校を出て、始めて實際の世の中に接觸して見たいと志ざしてから今日《こんにち》迄《まで》の經歴は、單に人の話を其所此所と聞き廻つて歩いた丈《だけ》である。耳から知識なり感情なりを傳へられなかつた場合は、小川町の停留所で洋杖《ステツキ》を大事さうに突いて、電車から下りる霜降の外套を着た男が若い女と一所に洋食屋に這入る後《あと》を跟《つ》けた位のものである。夫《それ》も今になつて記憶の臺に載せて眺めると、殆んど冒險とも探檢とも名付けやうのない兒戯《じぎ》であつた。彼は夫《それ》がために位地に有りつく事は出來た。けれども人間の經驗としては滑稽の意味以外に通用しない、たゞ自分に丈《だけ》眞面目な、行動に過ぎなかつた。
 要するに人世に對して彼の有する最近の知識感情は悉く鼓膜の働らきから來てゐる。森本に始まつて松本に終る幾席《いくせき》かの長話は、最初廣く薄く彼を動かしつゝ漸々《ぜん/\》深く狹く彼を動かすに至つて突如として已《や》んだ。けれども彼は遂に其中に這入れなかつたのである。其所が彼に物足らない所で、同時に彼の仕合せな所である。彼は物足らない意味で蛇の頭を呪ひ、仕合せな意味で蛇の頭を祝した。さうして、大きな空を仰いで、彼の前に突如として已《や》んだ樣に見える此劇が、是から先|何《ど》う永久に流轉《るてん》して行くだらうかを考へた。
 
   行人
大正元年、一二、六−二、一一、一五
  友達
 
     一
 
 梅田《うめだ》の停車場《ステーシヨン》を下《お》りるや否や自分は母から云ひ付けられた通り、すぐ俥《くるま》を雇《やと》つて岡田《をかだ》の家に馳《か》けさせた。岡田は母方の遠縁に當る男であつた。自分は彼が果《はた》して母の何に當るかを知らずに唯|疎《うと》い親類とばかり覺えてゐた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪うたのには理由があつた。自分は此處へ來る一週間|前《まへ》或友達と約束をして、今から十日以内に阪地《はんち》で落ち合はう、さうして一所に高野《かうや》登りを遣らう、若し時日《じじつ》が許すなら、伊勢から名古屋へ廻《まは》らう、と取り極めた時、何方《どつち》も指定すべき場所を有《も》たないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
 「ぢや大阪へ着き次第、其處へ電話を掛ければ君の居るか居ないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話を有《も》つてゐるかどうか、其處は自分にも甚だ危《あや》しかつたので、もし電話がなかつたら、電信でも郵便でも好いから、すぐ出して呉れるやうに頼んで置いた。友達は甲州線《かふしうせん》で諏訪《すは》まで行つて、夫《それ》から引返して木曾を通つた後《あと》、大阪へ出る計畫であつた。自分は東海道を一息《ひといき》に京都迄來て、其處で四五日|用足《ようたし》旁《かた/”\》逗留《とうりう》してから、同じ大阪の地を踏む考へであつた。
 豫定の時日を京都で費《つひや》した自分は、友達の消息《たより》を一刻も早く耳にする爲め停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかつたのである。けれども夫《それ》はたゞ自分の便宜になる丈《だけ》の、いはゞ私の都合に過ぎないので、先刻《さつき》云つた母の云付《いひつけ》とは丸《まる》で別物であつた。母が自分に向つて、彼方《あちら》へ行つたら何より先に岡田を尋ねるやうにと、わざ/\荷になる程大きい鑵入《くわんいり》の菓子を、御土産だよと斷《ことわ》つて、鞄《かばん》の中へ入れて呉れたのは、昔氣質《むかしかたぎ》の律儀《りちぎ》からではあるが、其奧にもう一つ實際的の用件を控《ひか》へてゐるからであつた。
 自分は母と岡田が彼等の系統上どんな幹の先へ岐《わか》れて出た、どんな枝となつて、互に關係してゐるか知らない位な人間である。母から依託《いたく》された用向についても大した期待も興味もなかつた。けれども久し振に岡田といふ人物――落ち付いて四角な顔をしてゐる、いくら髭《ひげ》を欲しがつても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろ/\薄くなつて來さうな、――岡田といふ人物に會ふ方の好奇心は多少動いた。岡田は今迄に所用《しよよう》で時々出京した。所が自分は何時《いつ》も懸け違つて會ふ事が出來なかつた。從つて強く酒精《アルコール》に染められた彼《かれ》の四角な顔も見る機會を奪はれてゐた。自分は俥《くるま》の上で指を折つて勘定して見た。岡田が居なくなつたのは、つい此間《このあひだ》の樣でも、もう五六年になる。彼の氣にしてゐた頭も、此頃では大分《だいぶ》危險に逼《せま》つてゐるだらうと思つて、その地《ぢ》の透《す》いて見える所を想像したり抔《など》した。
 岡田の髪の毛は想像した通り薄くなつて居たが、住居《すまひ》は思つたよりも薩張《さつぱり》した新しい普請《ふしん》であつた。
 「どうも上方流《かみがたりう》で餘計な所に高塀《たかべい》なんか築き上《あげ》て、陰氣《いんき》で困つちまいます。其|代《かは》り二階はあります。一寸|上《あが》つて御覽なさい」と彼は云つた。自分は何より先に友達の事が氣になるので、斯う/\いふ人からまだ何とも通知は來ないかと聞いた。岡田は不思議さうな顔をして、いゝえと答へた。
 
     二
 
 自分は岡田に連れられて二階へ上《あが》つて見た。當人が自慢する程あつて眺望《てうばう》は可なり好かつたが、縁側のない座敷の窓へ日が遠慮なく照り返すので、暑さは一通りではなかつた。床の間に懸けてある軸物《ぢくもの》も反《そ》つくり返つて居た。
 「なに日が射す爲ぢやない。年《ねん》が年中《ねんぢゆう》懸け通しだから、糊《のり》の具合であゝなるんです」と岡田は眞面目に辯解した。
 「成程|梅《うめ》に鶯《うぐひす》だ」と自分も云ひたくなつた。彼は世帶を持つ時の用意に、此|幅《ふく》を自分の父から貰つて、大得意で自分の室《へや》へ持つて來て見せたのである。其時自分は「岡田君此|呉春《ごしゆん》は僞物《ぎぶつ》だよ。夫《それ》だからあの親父《おやぢ》が君に呉れたんだ」と云つて調戯《からかひ》半分岡田を怒らした事を覺えてゐた。
 二人は懸物《かけもの》を見て、當時を思ひ出しながら子供らしく笑つた。岡田は何時《いつ》迄も窓に腰を掛けて話を續ける風に見えた。自分も襯衣《シヤツ》に洋袴《ずぼん》丈《だけ》になつて其處に寐轉《ねころ》びながら相手になつた。さうして彼から天下茶屋《てんがちやや》の形勢だの、將來の發展だの、電車の便利だのを聞かされた。自分は自分に夫《それ》程《それほど》興味のない問題を、たゞ素直《すなほ》にはい/\と聽いて居たが、電車の通じる所へわざ/\俥《くるま》へ乘つて來た事|丈《だけ》は、馬鹿らしいと思つた。二人は又二階を下りた。
 やがて細君が歸つて來た。細君はお兼《かね》さんと云つて、器量《きりやう》は夫《それ》程《ほど》でもないが、色の白い、皮膚の滑《なめ》らかな、遠見《とほみ》の大變好い女であつた。父が勤めてゐたある官省の屬官の娘で、其頃は時々勝手口から頼まれものゝ仕立物などを持つて出入《でいり》をしてゐた。岡田は又其時分自分の家の食客《しよくかく》をして、勝手口に近い書生部屋で、勉強もし晝寐もし、時には燒芋|抔《など》も食つた。彼等は斯樣にして互に顔を知り合つたのである。が、顔を知り合つてから、結婚が成立するまでに、どんな徑路《けいろ》を通つて來たか自分はよく知らない。岡田は母の遠縁に當る男だけれども、自分の宅《うち》では書生同樣にしてゐたから、下女達は自分や自分の兄には遠慮して云ひ兼ねる事迄も、岡田に對してはつけ/\と云つて退《の》けた。「岡田さんお兼さんが宜しく」抔《など》といふ言葉は、自分も時々耳にした。けれども岡田は一向《いつかう》氣にも留めない樣子だつたから、大方たゞの徒事《いたづら》だらうと思つてゐた。すると岡田は高商を卒業して一人で大阪のある保險會社へ行つて仕舞つた。地位は自分の父が周旋《しうせん》したのださうである。夫《それ》から一年程して彼は又|瓢然《へうぜん》として上京した。さうして今度はお兼さんの手を引いて大阪へ下《くだ》つて行つた。これも自分の父と母が口を利いて、話を纒《まと》めて遣つたのださうである。自分は其時富士へ登つて甲州路を歩く考へで家には居なかつたが、後で其話を聞いて一寸驚いた。勘定して見ると、自分が御殿場で下りた汽車と擦《す》れ違つて、岡田は新しい細君を迎へるために入京したのである。
 お兼さんは格子《かうし》の前で疊んだ洋傘《かうもり》を、小さい包と一緒に、脇《わき》の下に抱《かゝ》へながら玄關から勝手の方に通り拔ける時、ちよつと極《きまり》の惡さうな顔をした。其顔は日盛《ひざかり》の中を歩いた火氣《ほてり》のため、汗を帶びて赤くなつてゐた。
 「おい御客さまだよ」と岡田が遠慮のない大きな聲を出した時、お兼さんは「只今」と奧の方で優しく答へた。自分は此聲の持主に、かつて着た久留米絣《くるめがすり》やフランネルの襦袢《じゆばん》を縫つて貰つた事もあるのだなと不圖《ふと》懷かしい記憶を喚起《よびおこ》した。
 
     三
 
 お兼さんの態度は明瞭で落付いて、何處にも下卑《げび》た家庭に育つたといふ面影《おもかげ》は見えなかつた。「二三日前《にさんちまへ》からもう御出《おいで》だらうと思つて、心待に御待申して居りました」などゝ云つて、眼の縁《ふち》に愛嬌《あいけう》を漂《たゞ》よはせる所などは、自分の妹よりも品《ひん》の良《い》い許《ばかり》でなく、樣子も幾分か立優《たちまさ》つて見えた。自分はしばらくお兼さんと話してゐるうちに、是なら岡田がわざ/\東京|迄《まで》出て來て連れて行つても然《しか》るべきだといふ氣になつた。
 此若い細君がまだ娘盛《むすめざかり》の五六年|前《ぜん》に、自分は既に其聲も眼鼻立《めはなだち》も知つてゐたのではあるが、夫《それ》程《ほど》親しく言葉を換《か》はす機會もなかつたので、斯うして岡田夫人として改まつて會つて見ると、さう馴々《なれ/\》しい應對も出來なかつた。それで自分は自分と同階級に屬する未知の女に對する如く、畏まつた言語をぽつ/\使つた。岡田はそれが可笑《をか》しいのか、又は嬉しいのか、時々自分の顔を見て笑つた。夫《それ》丈《だけ》なら構はないが、折節《をりせつ》はお兼さんの顏を見て笑つた。けれどもお兼さんは澄ましてゐた。お兼さんが一寸用があつて奧へ立つた時、岡田はわざと低い聲をして、自分の膝を突つつきながら、「何故《なぜ》あいつに對して、さう改まつてるんです。元から知つてる間柄《あひだがら》ぢやありませんか」と冷笑《ひやか》すやうな句調《くてう》で云つた。
 「好い奧さんになつたね。あれなら僕が貰やよかつた」
 「冗談いつちや不可《いけ》ない」と云つて岡田は一層大きな聲を出して笑つた。やがて少し眞面目になつて、「だつて貴方《あなた》はあいつの惡口をお母さんに云つたつていふぢやありませんか」と聞いた。
 「何んて」
 「岡田も氣の毒だ、あんなものを大阪|下《くだ》り迄《まで》引つ張つて行くなんて。最《も》う少し待つてゐれば己《おれ》が相當なのを見付《めつ》けてやるのにつて」
 「そりや君昔の事ですよ」
 斯うは答へたやうなものゝ、自分は少し恐縮した。且《かつ》一寸|狼狽《らうばい》した。さうして先刻《さつき》岡田が變な眼遣《めづかひ》をして、時々細君の方を見た意味を漸く理解した。
 「あの時は僕も母から大變叱られてね。御前のやうな書生に何が解るものか。岡田さんの事はお父さんと私《わたし》とで當人|達《たち》に都合の好いやうにしたんだから、餘計な口を利かずに黙つて見て御出《おいで》なさいつて。どうも手痛《てひど》くやられました」
 自分は母から叱られたといふ事實が、自分の辯解にでもなるやうな語氣で、其時の樣子を多少誇張して述べた。岡田は益《ます/\》笑つた。
 夫《それ》でもお兼さんが又座敷へ顔を出した時、自分は多少極りの惡い思をしなければならなかつた。人の惡い岡田はわざ/\細君に、「今|二郎《じらう》さんが御前の事を大變賞めて下すつたぜ。よく御禮を申し上げるが好い」と云つた。お兼さんは「貴方《あなた》があんまり惡口を仰しやるからでせう」と夫《をつと》に答へて、眼では自分の方を見て微笑した。
 夕飯前《ゆふはんまへ》に浴衣《ゆかた》がけで、岡田と二人岡の上を散歩した。まばらに建てられた家屋や、それを取り卷く垣根が東京の山の手を通り越した郊外を思ひ出させた。自分は突然大阪で會合しやうと約束した友達の消息が氣になり出した。自分はいきなり岡田に向つて、「君の所にや電話はないんでせうね」と聞いた。「あの構《かまへ》で電話があるやうに見えますかね」と答へた岡田の顔には、たゞ機嫌の好《い》い浮き/\した調子ばかり見えた。
 
      四
 
 それは夕方の比較的長く續く夏の日の事であつた。二人の歩いてゐる岡の上は殊更《ことさら》明るく見えた。けれども、遠くにある立樹《たちき》の色が空に包まれて段々黒ずんで行くにつれて、空の色も時を移さず變つて行つた。自分は名殘《なごり》の光で岡田の顔を見た。
 「君東京に居た時より餘程|快豁《くわいくわつ》になつた樣ですね。血色も大變好い。結構だ」
 岡田は「えゝまあお蔭さまで」と云つたやう曖昧な挨拶をしたが、其挨拶のうちには一種嬉しさうな調子もあつた。
 もう晩飯《ばんめし》の用意も出來たから歸らうぢやないかと云つて、二人|歸路《きろ》についた時、自分は突然岡田に、「君とお兼さんとは大變仲が好いやうですね」といつた。自分は眞面目な積《つもり》だつたけれども、岡田にはそれが冷笑《ひやかし》のやうに聞えたと見えて、彼はたゞ笑ふ丈《だけ》で何の答へもしなかつた。けれども別に否《いな》みもしなかつた。
 少時《しばらく》してから彼は今迄の快豁《くわいくわつ》な調子を急に失《うしな》つた。さうして何か秘密でも打ち明けるやうな具合に聲を落した。それでゐて、恰《あたか》も獨言《ひとりごと》をいふ時のやうに足元を見詰《みつめ》ながら、「是であいつと一所になつてから、彼是もう五六年近くになるんだが、どうも子供が出來ないんでね、何ういふものか。それが氣掛《きがゝり》で……」と云つた。
 自分は何とも答へなかつた。自分は子供を生ます爲に女房を貰ふ人は、天下に一人もある筈がないと、豫《かね》てから思つてゐた。然し女房を貰つてから後《あと》で、子供が欲しくなるものかどうか、其處になると自分にも判斷が付かなかつた。
 「結婚すると子供が欲しくなるものですかね」と聞いて見た。
 「なに子供が可愛《かはい》いかどうかまだ僕にも分りませんが、何しろ妻《さい》たるものが子供を生まなくつちや、丸《まる》で一人前の資格がない樣な氣がして……」
 岡田は單にわが女房を世間並《せけんなみ》にする爲に子供を欲するのであつた。結婚はしたいが子供が出來るのが怖いから、まあ最《も》う少し先へ延さうといふ苦しい世の中ですよと自分は彼に云つて遣りたかつた。すると岡田が「それに二人切《ふたりぎり》ぢや淋《さび》しくつてね」と又つけ加へた。
 「二人切《ふたりぎり》だから仲が好いんでせう」
 「子供が出來ると夫婦の愛は滅るもんでせうか」
 岡田と自分は實際二人の經驗以外にあることを左《さ》も心得た樣に話し合つた。
 宅《うち》では食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗に並《なら》んで二人を待つてゐた。お兼さんは薄化粧《うすげしやう》をして二人のお酌をした。時々は團扇《うちは》を持つて自分を扇《あふ》いで呉れた。自分は其風が横顔に當るたびに、お兼さんの白粉《おしろい》の匂《にほひ》を微《かす》かに感じた。さうして夫《それ》が麥酒《ビール》や山葵《わさび》の香《か》よりも人間らしい好い匂の樣に思はれた。
 「岡田君は何時《いつ》も斯うやつて晩酌《ばんしやく》を遣るんですか」
と自分はお兼さんに聞いた。お兼さんは微笑しながら、「どうも後引上戸《あとひきじやうご》で困ります」と答へてわざと夫《をつと》の方を見遣つた。夫《をつと》は、「なに後《あと》が引ける程《ほど》飲ませやしないやね」と云つて、傍《そば》にある團扇《うちは》を取つて、急に胸のあたりをはた/\いはせた。自分は又急に此地《こつち》で會ふべき筈の友達の事に思ひ及んだ。
 「奧さん、三澤《みさは》といふ男から僕に宛てて、郵便か電報か何か來ませんでしたか。今散歩に出た後《あと》で」
 「來やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻《さい》はさう云ふ事はちやんと心得てるんだから。ねえお兼。――好いぢやありませんか、三澤の一人や二人來たつて來なくつて。二郎さん、そんなに僕の宅《うち》が氣に入らないんですか。第一《だいち》貴方はあの一件からして片付けて仕舞はなくつちやならない義務があるでせう」
 岡田は斯う云つて、自分の洋盃《コツプ》へ麥酒《ビール》をゴボ/\と注《つ》いだ。もう餘程醉つてゐた。
 
     五
 
 其晩はとう/\岡田の家《うち》へ泊つた。六疊の二階で一人寐かされた自分は、蚊帳《かや》の中の暑苦しさに堪へかねて、成るべく夫婦に知れないやうに、そつと雨戸を開け放つた。窓際を枕に寐てゐたので、空は蚊帳越《かやごし》にも見えた。試《ためし》に赤い裾《すそ》から、頭だけ出して眺めると星がきら/\と光つた。自分はこんな事をする間にも、下にゐる岡田夫婦の今昔《こんじやく》は忘れなかつた。結婚してからあゝ親《した》しく出來たら嘸《さぞ》幸福だらうと羨ましい氣もした。三澤から何《なん》の音信《たより》のないのも氣掛りであつた。然し斯うして幸福な家庭の客となつて、彼の消息を待つために四五日|愚圖々々《ぐづ/\》してゐるのも惡くはないと考へた。一番|何《ど》うでも好かつたのは岡田の所謂《いはゆる》「例の一件」であつた。
 翌日《よくじつ》眼が覺めると、窓の下の狹苦しい庭で、岡田の聲がした。
 「おいお兼とう/\絞《しぼ》りのが咲き出したぜ。一寸《ちよいと》來て御覽」
 自分は時計を見て、腹這《はらばひ》になつた。さうして燐寸《マツチ》を擦《す》つて敷島へ火を點《つ》けながら、暗《あん》にお兼さんの返事を待ち構へた。けれどもお兼さんの聲は丸《まる》で聞えなかつた。岡田は「おい」「おいお兼」を又二三度繰返した。やがて、「せわしない方ね、貴方は。今朝顔どころぢやないわ、臺所が忙《いそが》しくつて」といふ言葉が手に取るやうに聞こえた。お兼さんは勝手から出て來て座敷の縁側に立つてゐるらしい。
 「それでも綺麗ね。咲いて見ると。――金魚はどうして」
 「金魚は泳いでゐるがね。どうも此方は六づかしいらしい」
 自分はお兼さんが、死にかゝつた金魚の運命について、何かセンチメンタルな事でもいふかと思つて、煙草を吹かしながら聽いてゐた。けれどもいくら待つてゐても、お兼さんは何とも云はなかつた。岡田の聲も聞こえなかつた。自分は煙草を捨てゝ立ち上つた。さうして可成《かなり》急な階子段《はしごだん》を一段づゝ音を立てゝ下へ降《お》りて行つた。
 三人で飯を濟ました後《あと》、岡田は會社へ出勤しなければならないので、緩《ゆつく》り案内をする時間がないのを殘念がつた。自分は此處へ來る前から、そんな事を全く豫期してゐなかつたと云つて、白い詰襟姿《つめえりすがた》の彼を坐つたまゝ眺めてゐた。
 「お兼、お前暇があるなら二郎さんを案内して上げるが好い」と岡田は急に思ひ付いたやうな顏付で云つた。お兼さんは何時《いつ》もの樣子に似ず、此時|丈《だけ》は夫《をつと》にも自分にも何とも答へなかつた。自分はすぐ、「なに構はない。君と一所に君の會社のある方角|迄《まで》行つて、そこいらを逍遙《ぶらつ》いて見よう」と云ひながら立つた。お兼さんは玄關で自分の洋傘《かうもり》を取つて、自分に手渡しして呉れた。夫《それ》から只一口「お早く」と云つた。
 自分は二度電車に乘せられて、二度下ろされた。さうして岡田の通《かよ》つてゐる石造の會社の周圍《しうゐ》を好い加減に歩き廻つた。同じ流れか、違ふ流れか、水の面《おもて》が二三度目に入《はい》つた。その内暑さに堪へられなくなつて、又好い加減に岡田の家《うち》へ歸つて來た。
 二階へ上《あが》つて、――自分は昨夜《ゆうべ》から此六疊の二階を、自分の室《へや》と心得るやうになつた。――休息してゐると、下から階子段を踏む音がして、お兼さんが上《あが》つて來た。自分は驚いて脱《ね》いだ肌《はだ》を入れた。昨日|廂《ひさし》に束《つか》ねてあつたお兼さんの髪は、何時《いつ》の間《ま》にか大きな丸髷《まるまげ》に變つてゐた。さうして桃色の手絡《てがら》が髷《まげ》の間から覗いてゐた。
 
     六
 
 お兼さんは黒い盆の上に載せた平野水《ひらのすゐ》と洋盃《コツプ》を自分の前に置いて「如何《いかゞ》で御座いますか」と聞いた。自分は「難有《ありがた》う」と答へて、盆を引き寄せやうとした。お兼さんは「いえ私が」と云つて急に罎《びん》を取り上げた。自分は此時黙つてお兼さんの白い手ばかり見てゐた。其手には昨夕《ゆうべ》氣が付かなかつた指環《ゆびわ》が一つ光つてゐた。
 自分が洋盃《コツプ》を取り上げて咽喉《のど》を潤《うるほ》した時、お兼さんは帶の間から一枚の葉書を取り出した。
 「先程お出掛《でかけ》になつた後《あと》で」と云ひかけて、にや/\笑つてゐる。自分は其表面に三澤の二字を認めた。
 「とう/\參りましたね。御待かねの……」
 自分は微笑しながら、すぐ裏を返して見た。
 「一兩日|後《おく》れるかも知れぬ」
 葉書に大きく書いた文字はたゞ是《これ》丈《だけ》であつた。
 「丸《まる》で電報の樣で御座いますね」
 「それで貴方笑つてたんですか」
 「さう云ふ譯でも御座いませんけれども、何だか餘《あん》まり……」
 お兼さんは其處で黙つて仕舞つた。自分はお兼さんをもつと笑はせたかつた。
 「餘《あん》まり、何うしました」
 「餘《あん》まり勿體ないやうですから」
 お兼さんのお父さんといふのは大變|緻密《ちみつ》な人で、お兼さんの所へ手紙を寄こすにも、大抵は葉書で用を辨じてゐる代りに蠅《はい》の頭のやうな字を十五行も並《なら》べて來るといふ話しを、お兼さんは面白さうにした。自分は三澤の事を全く忘れて、たゞ前にゐるお兼さんを的《まと》に、樣々の事を尋ねたり聞いたりした。
 「奧さん、子供が欲しかありませんか。斯うやつて、一人で留守《るす》をしてゐると退屈するでせう」
 「左樣《さう》でも御座いませんわ。私《わたくし》兄弟の多い家《うち》に生れて大變苦勞して育つた所爲《せゐ》か、子供|程《ほど》親を意地見《いぢめ》るものはないと思つて居りますから」
 「だつて一人や二人は可《い》いでせう。岡田君は子供がないと淋《さみ》しくつて不可《いけ》ないつて云つてましたよ」
 お兼さんは何にも答へずに窓の外の方を眺めてゐた。顏を元へ戻しても、自分を見ずに、疊の上にある平野水《ひらのすゐ》の罎《びん》を見てゐた。自分は何にも氣が付かなかつた。それで又「奧さんは何故《なぜ》子供が出來ないんでせう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顏をした。自分はたゞ心易《こゝろやす》だてで云つたことが、甚だ面白くない結果を引き起したのを後悔した。けれども何うする譯にも行かなかつた。其時はたゞお兼さんに氣の毒をしたといふ心|丈《だけ》で、お兼さんの赤くなつた意味を知らう抔《など》とは夢にも思はなかつた。
 自分は此|居苦《ゐぐる》しく又|立苦《たちぐる》しくなつた樣に見える若い細君を、何うともして救はなければならなかつた。夫《それ》には是非共話頭を轉ずる必要があつた。自分はかねてから左程《さほど》重きを置いてゐなかつた岡田の所謂「例の一件」をとう/\持ち出した。お兼さんはすぐ元の態度を回復した。けれども夫《をつと》に責任の過半を讓《ゆづ》る積《つもり》か、決して多くを語らなかつた。自分もさう根掘り葉掘り聞きもしなかつた。
 
 
 「例の一件」が本式に岡田の口から持ち出されたのは其晩の事であつた。自分は露に近い縁側を好んで其處に座を占めてゐた。岡田は夫《それ》迄《まで》お兼さんと向き合つて座敷の中に坐つて居たが、話が始まるや否や、すぐ立つて縁側へ出て來た。
 「何うも遠くぢや話がし惡《にく》くつて不可《いけ》ない」と云ひながら、模樣の付いた座蒲團を自分の前に置いた。お兼さん丈《だけ》は依然として元の席を動かなかつた。
 「二郎さん寫眞は見たでせう、此間《このあひだ》僕が送つた」
 寫眞の主《ぬし》といふのは、岡田と同じ會社へ出る若い人であつた。此寫眞が來た時|家《うち》のものが代《かは》り番子《ばんこ》に見て樣々の批評を加へたのを、岡田は知らないのである。
 「えゝ一寸見ました」
 「何うです評判は」
 「少し御凸額《おでこ》だつて云つたものも有ります」
 お兼さんは笑ひ出した。自分も可笑《をか》しくなつた。と云ふのは、其男の寫眞を見て、お凸額《でこ》だと云ひ始めたものは、實のところ自分だからである。
 「お重《しげ》さんでせう、そんな惡口をいふのは。あの人の口に掛つちや、大抵のものは敵《かな》はないからね」
 岡田は自分の妹のお重《しげ》を大變口の惡い女だと思つてゐる。それも彼がお重から、あなたの顏は將棋《しやうぎ》の駒《こま》見たいよと云はれてからの事である。
 「お重《しげ》さんに何と云はれたつて構はないが肝心《かんじん》の當人は何うなんです」
 自分は東京を立つとき、母から、貞《さだ》には無論異存これなくといふ返事を岡田の方へ出して置いたといふ事を確めて來たのである。だから、當人は母から上げた返事の通りだと答へた。岡田夫婦は又|佐野《さの》といふ婿《むこ》になるべき人の性質や品行や將來の望みや、其他色々の條項に就て一々自分に話して聞かせた。最後に當人が此縁談の成立を切望してゐる例|抔《など》を擧げた。
 お貞《さだ》さんは器量から云つても教育から云つても、是といふ特色のない女である。たゞ自分の家の厄介ものといふ名がある丈《だけ》である。
 「先方があまり乘氣になつて何だか劔呑《けんのん》だから、彼地《あつち》へ行つたら能く樣子を見て來てお呉れ」
 自分は母から斯う頼まれたのである。自分はお貞《さだ》さんの運命について、夫《それ》程《ほど》多くの興味は有《も》ち得なかつたけれども、成程さう望まれるのは、お貞さんの爲に結構な樣で又危險な事だらうとも考へてゐた。夫《それ》で今迄黙つて岡田夫婦の云ふ事を聞いてゐた自分は、不圖《ふと》口を滑《すべ》らした。――
 「何《どう》してお貞《さだ》さんが、そんなに氣に入つたものかな。まだ會つた事もないのに」
 「佐野さんはあゝいふ確《しつ》かりした方《かた》だから、矢張《やつぱり》辛抱人《しんばうにん》を御貰ひになる御考へなんですよ」
 お兼さんは岡田の方を向いて、佐野の態度を斯う辯解した。岡田はすぐ、「さうさ」と答へた。さうして其外には何も考へてゐないらしかつた。自分は兎に角其佐野といふ人に明日《あした》會はうといふ約束を岡田として、又六疊の二階に上つた。頭を枕に着けながら、自分の結婚する場合にも事が斯う簡單に運ぶのだらうかと考へると、少し恐ろしい氣がした。
 
     八
 
 翌日《あくるひ》岡田は會社を午《ひる》で切上げて歸つて來た。洋服を投出すが早いか勝手へ行つて水浴をして「さあ行かう」と云ひ出した。
 お兼さんは何時《いつ》の間《ま》にか箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》を開けて、岡田の着物を取り出した。自分は岡田が何を着るか、左程《さほど》氣にも留めなかつたが、お兼さんの着せ具合や、帶の取つて遣り具合には、知らず/\注意を拂つてゐたものと見えて、「二郎さんあなた仕度は好いんですか」と聞かれた時、はつと氣が付いて立ち上つた。
 「今日は御前も行くんだよ」と岡田はお兼さんに云つた。「だつて……」とお兼さんは絽《ろ》の羽織を兩手で持ちながら、夫《をつと》の顏を見上げた。自分は梯子段《はしごだん》の中途で、「奧さん入らつしやい」と云つた。
 洋服を着て下へ降《お》りて見ると、お兼さんは何時《いつ》の間《ま》にかもう着物も帶も取り換へてゐた。
 「早いですね」
 「えゝ早變《はやがは》り」
 「あんまり變り榮《ばえ》もしない服裝《なり》だね」と岡田が云つた。
 「是で澤山よ彼《あ》んな所《とこ》へ行くのに」とお兼さんが答へた。
 三人は暑《あつさ》を冒《をか》して岡を下《くだ》つた。さうして停車場からすぐ電車に乘つた。自分は向側に並《なら》んで腰を掛けた岡田とお兼さんを時々見た。其《その》間《あひだ》には三澤の突飛な葉書を思ひ出したりした。全體あれは何處で出したものなんだらうと考へても見た。是から會ひに行く佐野といふ男の事も、ちよい/\頭に浮んだ。しかし其たんびに「物好《ものずき》」といふ言葉が何うしても一所に出て來た。
 岡田は突然|體《からだ》を前に曲げて、「何うです」と聞いた。自分はたゞ「結構です」と答へた。岡田は元のやうに腰から上を眞直にして、何かお兼さんに云つた。其顔には得意の色が見えた。すると今度はお兼さんが顔を前へ出して「御氣に入つたら、貴方《あなた》も大阪《こちら》へ入らつしやいませんか」と云つた。自分は覺えず「有難う」と答へた。さつき何うですと突然聞いた岡田の意味は、此時漸く解つた。
 三人は濱寺《はまでら》で降《お》りた。此地方の樣子を知らない自分は、大《おほき》な松と砂の間を歩いて流石《さすが》に好い所だと思つた。然し岡田は此處では「何うです」を繰返さなかつた。お兼さんも洋傘《かうもり》を開いた儘さつさと行つた。
 「もう來てゐるだらうか」
 「さうね。ことに因《よ》ると最《も》う來て待つて居らつしやるかも知れないわ」
 自分は二人の後《あと》に跟《つ》いて、斯んな會話を聽きながら、すばらしく大きな料理屋の玄關の前に立つた。自分は何よりもまづ其大きいのに驚かされたが、上つて案内をされた時、更にその道中《だうちゆう》の長いのに吃驚《びつくり》した。三人は段々を下りて細い廊下を通つた。
 「隧道《トンネル》ですよ」
 お兼さんが斯ういつて自分に教へて呉れたとき、自分はそれが冗談《じようだん》で、本當に地面の下ではないのだと思つた。それで只《たゞ》笑つて薄暗い處を通り披けた。
 座敷では佐野が一人敷居際に洋服の片膝を立てゝ、煙草を吹かしながら海の方を見てゐた。自分達の足音を聞いた彼はすぐ此方《こつち》を向いた。其時彼の額の下に、金縁の眼鏡が光つた。部屋へ這入るとき第一に彼と顏を見合せたのは實に自分だつたのである。
 
     九
 
 佐野は寫眞で見たよりも一層|御凸額《おでこ》であつた。けれども額の廣い處へ、夏だから髪を短く刈つてゐるので、ことにさう見えたのかも知れない。初對面の挨拶をするとき、彼は「何分《なにぶん》宜敷《よろしく》」と云つて頭を丁寧に下げた。此普通一般の挨拶振《あいさつぶり》が、場合が場合なので、自分には一種變に聞こえた。自分の胸は今迄|左程《さほど》責任を感じてゐなかつた所へ急に重苦しい束縛《そくばく》が出來た。
 四人《よつたり》は膳に向ひながら話をした。お兼さんは佐野とは大分《だいぶ》心易い間柄と見えて、時々向側から調戯《からか》つたりした。
 「佐野さん、あなたの寫眞の評判が東京《あつち》で大變なんですつて」
 「どう大變なんです。――大方《おほかた》好い方へ大變なんでせうね」
 「そりや勿論よ。嘘だと覺し召すならお隣りに居らつしやる方に伺つて御覽になれば解るわ」
 佐野は笑ひながらすぐ自分の方を見た。自分は一寸何とか云はなければ跋《ばつ》が惡かつた。それで眞面目な顏をして、「どうも寫眞は大阪の方が東京より發達してゐるやうですね」と云つた。すると岡田が「淨瑠璃《じゃうるり》ぢやあるまいし」と交返《まぜかへ》した。
 岡田は自分の母の遠縁に當る男だけれども、長く自分の宅《うち》の食客《しよくかく》をしてゐた所爲《せゐ》か、昔から自分や自分の兄に對しては一段偉い物の云ひ方をする習慣を有《も》つてゐた。久し振に會つた昨日《きのふ》一昨日《をとゝひ》抔《など》は殊に左右《さう》であつた。所が斯うして佐野が一人新しく席に加はつて見ると、友達の手前體裁が惡いといふ譯だか何だか、自分に對する口の利き方が急に對等になつた。ある時は對等以上に横風《わうふう》になつた。
 四人《よつたり》のゐる座敷の向《むかふ》には、同じ家のだけれども棟《むね》の違ふ高い二階が見えた。障子を取り拂つた其廣間の中を見上げると、角帶《かくおび》を締めた若い人達が大勢《おほぜい》ゐて、其内の一人が手拭《てぬぐひ》を肩へ掛けて踊《をどり》かなにか躍《をど》つてゐた。「御店《おたな》ものゝ懇親會といふ所だらう」と評し合つてゐるうちに、十六七の小僧が手摺《てすり》の所へ出て來て、汚ないものを容赦《ようしや》なく廂《ひさし》の上へ吐いた。すると同じ位な年輩の小僧が又一人煙草を吹かしながら出て來て、こら確《しつ》かりしろ、己《おれ》が付いてゐるから、何にも怖がるには及ばない、といふ意味を純粹の大阪辯で遣り出した。今迄|苦々《にが/\》しい顏をして手摺《てすり》の方を見てゐた四人《よつたり》はとう/\吹き出して仕舞つた。
 「何方《どつち》も醉つてるんだよ。小僧の癖に」と岡田が云つた。
 「貴方見たいね」とお兼さんが評した。
 「何方《どつち》がです」と佐野が聞いた。
 「兩方ともよ。吐いたり管《くだ》を捲《ま》いたり」とお兼さんが答へた。
 岡田は寧ろ愉快な顔をしてゐた。自分は黙つてゐた。佐野は獨り高笑《たかわらひ》をした。
 四人《よつたり》はまだ日の高い四時頃に其處を出て歸路についた。途中で分れるとき佐野は「何《いづ》れ其内《そのうち》又《また》」と帽を取つて挨拶した。三人はプラツトフオームから外へ出た。
 「何うです、二郎さん」と岡田はすぐ自分の方を見た。
 「好ささうですね」
 自分は斯うより外に答へる言葉を知らなかつた。それでゐて、斯う答へた後《あと》は甚だ無責任なやうな氣がしてならなかつた。同時に此無責任を餘儀なくされるのが、結婚に關係する多くの人の經驗なんだらうとも考へた。
 
     十
 
 自分は三澤の消息を待つて、猶《なほ》二三日岡田の厄介になつた。實をいふと彼等は自分の餘所《よそ》に行つて宿を取る事を許さなかつたのである。自分は其《その》間《あひだ》出來る丈《だけ》一人で大阪を見て歩いた。すると町幅の狹い所爲《せゐ》か、人間の運動が東京よりも?溂《はつらつ》と自分の眼を射るやうに思はれたり、家並《いへなみ》が締りのない東京より整つて好ましいやうに見えたり、河が幾筋もあつて其河には靜かな水が豐かに流れてゐたり、眼先の變つた興味が日に一つ二つは必ずあつた。
 佐野には濱寺で一所に飯を食つた次の晩又會つた。今度は彼の方から浴衣《ゆかた》がけで岡田を尋ねて來た。自分は其時も彼是二時間餘り彼と話した。けれどもそれは只《たゞ》前日の催しを岡田の家で小親模に繰返したに過ぎなかつたので、新しい印象と云つては格別頭に殘りやうがなかつた。だから本當をいふと唯《たゞ》世間並の人といふ外に、自分は彼に就いて何も解らなかつた。けれども亦母や岡田に對する義務としては、何も解らないで澄ましてゐる譯にも行かなかつた。自分は此二三日の間に、とう/\東京の母へ向けて佐野と會見を結了《けつれう》した旨の報告を書いた。
 仕方がないから「佐野さんはあの寫眞によく似てゐる」と書いた。「酒は呑むが、呑んでも赤くならない」と書いた。「御父さんのやうに謠《うたひ》をうたふ代りに義太夫を勉強してゐるさうだ」と書いた。最後に岡田夫婦と仲の好さゝうな樣子を述べて、「あれ程仲の好い岡田さん夫婦の周旋だから間違はないでせう」と書いた。一番仕舞に、「要するに、佐野さんは多數の妻帶者と變つた所も何もないやうです。お貞《さだ》さんも普通の細君になる資格はあるんだから、承諾したら好いぢやありませんか」と書いた。
 自分は此手紙を封じる時、漸く義務が濟んだやうな氣がした。然し此手紙一つでお貞《さだ》さんの運命が永久に決せられるのかと思ふと、多少自分のおつ猪口《ちよこ》ちよいに恥入る所もあつた。そこで自分は此手紙を封筒へ入《いれ》た儘、岡田の所へ持つて行つた。岡田はすうと眼を通した丈《だけ》で、「結構」と答へた。お兼さんは、てんで卷紙に手を觸れなかつた。自分は二人の前に坐つて、双方を見較べた。
 「是で好いでせうかね。是さへ出して仕舞へば、宅《うち》の方は極《きま》るんです。從つて佐野さんも一寸動けなくなるんですが」
 「結構です。それが僕等の最も希望する所です」と岡田は開き直つていつた。お兼さんは同じ意味を女の言葉で繰り返した。二人から斯う事もなげに云はれた自分は、それで安心するよりも却つて心元なくなつた。
 「何がそんなに氣になるんです」と岡田が微笑しながら煙草の煙を吹いた。「此事件に就いて一番冷淡だつたのは君ぢやありませんか」
 「冷淡にや違ないが、あんまりお手輕過ぎて、少し双方に對して申譯がない樣だから」
 「お手輕どころぢや御座いません、それ丈《だけ》長い手紙を書いて頂けば。それでお母さまが御滿足なさる、此方《こちら》は初から極つてゐる。是程お目出たい事はないぢや御座いませんか、ねえ貴方」
 お兼さんは斯ういつて、岡田の方を見た。岡田は左右《さう》ともと云はぬばかりの顔をした。自分は理窟をいふのが厭になつて、二人の目の前で、三錢切手を手紙に貼《は》つた。
 
     十−
 
 自分は此手紙を出しつ切《きり》にして大阪を立退《たちの》きたかつた。岡田も母の返事の來るまで自分に居て貰ふ必要もなからうと云つた。
 「けれどもまあ緩《ゆつ》くりなさい」
 是が彼の?《しば/\》繰り返す言葉であつた。夫婦の好意は自分によく解つてゐた。同時に彼等の迷惑も亦よく想像された。夫婦ものに自分の樣な横着《わうちやく》な泊り客は、此方《こつち》にも多少の窮屈《きゆうくつ》は免かれなかつた。自分は電報のやうに簡單な端書を書いたぎり何の音沙汰《おとさた》もない三澤が惡《にく》らしくなつた。もし明日中《あしたぢゆう》に何とか音信《たより》がなければ、一人で高野登りを遣らうと決心した。
 「ぢや明日《あした》は佐野を誘つて寶塚《たからづか》へでも行きませう」
と岡田が云ひ出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰《さしくり》をして呉れるのが苦になつた。もつと皮肉を云へば、そんな温泉場へ行つて、飲んだり食つたりするのが、お兼さんに濟まない樣な氣がした。お兼さんは一寸見ると、派出好《はでずき》の女らしいが、夫《それ》は寧ろ色白な顏立や樣子がさう思はせるので、性質からいふと普通の東京ものよりずつと地味《じみ》であつた。外へ出る夫《をつと》の懷中にすら、ある程度の束縛を加へる位《くらゐ》締つてゐるんぢやないかと思はれた。
 「御酒《ごしゆ》を召上らない方《かた》は一生のお得ですね」
 自分の杯《さかづき》に親しまないのを知つたお兼さんは、ある時斯ういふ述懷《じゆつくわい》を、さも羨ましさうに洩らした事さへある。それでも岡田が顔を赤くして、「二郎さん久し振に相撲《すまふ》でも取りませうか」と野蠻な聲を出すと、お兼さんは眉をひそめながら、嬉しさうな眼付をするのが常であつたから、お兼さんは旦那の醉《ゑ》ふのが嫌ひなのではなくつて、酒に費用《つひえ》の掛るのが嫌ひなのだらうと、自分は推察してゐた。
 自分は折角の好意だけれども寶塚行《たからづかゆき》を斷《ことわ》つた。さうして腹の中《なか》で、あしたの朝岡田の留守に、一寸電車に乘つて一人で行つて樣子を見て來《き》ようと取り極めた。岡田は「さうですか。文樂《ぶんらく》だと好いんだけれども生憎暑いんで休んでゐるもんだから」と氣の毒さうに云つた。
 翌朝《よくあさ》自分は岡田と一所に家《うち》を出た。彼は電車の上で突然自分の忘れ掛けてゐたお貞《さだ》さんの結婚問題を持ち出した。
 「僕は貴方の親類だと思つてやしません。貴方のお父さんやお母さんに書生として育てられた食客《しよくかく》と心得てゐるんです。僕の今の地位だつて、あのお兼だつて、みんな貴方の御兩親のお蔭で出來たんです。だから何か御恩返しをしなくつちや濟まないと平生から思つてるんです。お貞《さだ》さんの問題もつまり夫《それ》が動機で爲《し》たんですよ。決して他意はないんですからね」
 お貞《さだ》さんは宅《うち》の厄介ものだから、一日も早く何處かへ嫁に世話をするといふのが彼の主意であつた。自分は家族の一人として岡田の好意を謝すべき地位にあつた。
 「お宅《たく》ぢや早くお貞《さだ》さんを片付けたいんでせう」
 自分の父も母も實際さうなのである。けれども此時自分の眼にはお貞《さだ》さんと佐野といふ縁故も何もない二人が一所に且《かつ》離れ/”\に映じた。
 「旨く行くでせうか」
 「そりや行くだらうぢやありませんか。僕とお兼を見たつて解るでせう。結婚してからまだ一度も大喧嘩《おほげんくわ》をした事なんかありやしませんぜ」
 「貴方方《あなたがた》は特別だけれども……」
 「なに何處の夫婦だつて、大概似たものでさあ」
 岡田と自分はそれで此話を切り上げた。
 
     十二
 
 三澤の便《たよ》りは果《はた》して次の日の午後になつても來なかつた。氣の短い自分には斯んなヅボラを待つて遣るのが腹立《はらだゝ》しく感ぜられた。強ひても是から一人で立たうと決心《けつしん》した。
 「まあもう一日二日《いちんちふつか》は宜しいぢや御座いませんか」とお兼さんは愛嬌《あいけう》に云つて呉れた。自分が鞄《かばん》の中へ浴衣《ゆかた》や三尺帶《さんじやくおび》を詰めに二階へ上《あが》り掛ける下から、「是非|左右《さう》なさいましよ」と追掛《おつか》けるやうに留めた。それでも氣が濟まなかつたと見えて、自分が鞄《かばん》の始末をした頃、上《あが》り口《ぐち》へ顔を出して、「おやもう御荷物の仕度をなすつたんですか。ぢや御茶でも入れますから、御緩《ごゆつ》くりどうぞ」と降《お》りて行つた。
 自分は胡坐《あぐら》の儘《まゝ》旅行案内をひろげた。さうして胸の中《うち》で彼是と時間の都合を考へた。其都合が中々旨く行かないので、仰向《あふむけ》になつて少時《しばらく》寐て見た。すると三澤と一所に歩く時の愉快が色々に想像された。富士を須走口《すばしりぐち》へ降りる時、滑つて轉んで、腰にぶら下げた大きな金明水入《きんめいすゐいり》の硝子壜《ガラスびん》を、壞したなり帶へ括《くゝ》り付けて歩いた彼の姿扮《すがた》抔《など》が眼に浮《うか》んだ。所へ又|梯子段《はしごだん》を踏むお兼さんの足音がしたので、自分は急に起き直つた。
 お兼さんは立ちながら、「まあ好かつた」と一息|吐《つ》いたやうに云つて、すぐ自分の前に坐つた。さうして三澤から今屆いた手紙を自分に渡した。自分はすぐ封を開いて見た。
 「とう/\御着《おつき》になりましたか」
 自分は一寸お兼さんに答へる勇氣を失つた。三澤は三日前大阪に着いて二日ばかり寐た揚句《あげく》とう/\病院に入《はい》つたのである。自分は病院の名を指《さ》してお兼さんに地理を聞いた。お兼さんは地理|丈《だけ》は能く呑み込んでゐたが、病院の名は知らなかつた。自分は兎に角|鞄《かばん》を提《さ》げて岡田の家《いへ》を出る事にした。
 「どうも飛んだ事で御座いますね」とお兼さんは繰り返し/\氣の毒がつた。斷《ことわ》るのを無理に、下女が鞄《かばん》を持つて停車場《ステーシヨン》迄|隨《つ》いて來た。自分は途中で猶も此下女を返さうとしたが、何とか云つて中々歸らなかつた。其言葉は解るには解るが、自分のやうに此土地に親しみのないものには到底《とても》覺えられなかつた。別れるとき今迄世話になつた禮に一圓|遣《や》つたら「さいなら、お機嫌よう」と云つた。
 電車を下りて俥《くるま》に乘ると、其|俥《くるま》は軌道《レール》を横切つて細い通りを眞直に馳《か》けた。馳《か》け方が餘り烈しいので、向ふから來る自轉車だの俥だのと幾度《いくたび》か衝突しさうにした。自分ははら/\しながら病院の前に降《お》ろされた。
 鞄を持つた儘三階に上《あが》つた自分は、三澤を探すため方々の室《へや》を覗いて歩いた。三澤は廊下の突き當りの八疊に、氷嚢《ひようなう》を胸の上に載せて寐てゐた。
 「何うした」と自分は室《へや》に入《はい》るや否や聞いた。彼は何も答へずに苦笑してゐる。「又食ひ過ぎたんだらう」と自分は叱るやうに云つたなり、枕元に胡坐《あぐら》を掻いて上着《うはぎ》を脱いだ。
 「其處に蒲團がある」と三澤は上眼《うはめ》を使つて、室の隅を指《さ》した。自分は其眼の樣子と頬の具合を見て、是は何《ど》の位《くらゐ》重い程度の病氣なんだらうと疑つた。
 「看護婦は付いてるのかい」
 「うん。今何處かへ出て行つた」
 
     十三
 
 三澤は平生から胃腸の能くない男であつた。稍《やゝ》ともすると吐いたり下したりした。友達は夫《それ》を彼の不養生からだと評し合つた。當人は又母の遺傳で體質から來るんだから仕方がないと辯解してゐた。さうして消化器病の書物などを引繰《ひつく》り返して、アトニーとか下垂性《かすゐせい》とかトーヌスとかいふ言葉を使つた。自分|抔《など》が時々彼に忠告めいた事をいふと、彼は素人《しろうと》が何を知るものかと云はぬ許《ばかり》の顏をした。
 「君アルコールは胃で吸収されるものか、腸で吸収されるものか知つてるか」などゝ澄ましてゐた。其癖病氣になると彼は屹度《きつと》自分を呼んだ。自分もそれ見ろと思ひながら必ず見舞に出掛けた。彼の病氣は短くて二三日長くて一二週間で大抵は癒つた。それで彼は彼の病氣を馬鹿にしてゐた。他人の自分は猶更《なほさら》であつた。
 けれども此場合自分は先《ま》づ彼の入院に驚かされてゐた。其上に胃の上の氷嚢で又驚かされた。自分は夫《それ》迄《まで》氷嚢は頭か心臓の上でなければ載せるものでないとばかり信じてゐたのである。自分はぴくん/\と脈を打つ氷嚢を見詰めて厭な心持になつた。枕元に坐つてゐればゐる程、付景氣《つけげいき》の言葉が段々出なくなつて來た。
 三澤は看護婦に命じて氷菓子《アイスクリーム》を取らせた。自分が其一杯に手を着けてゐるうちに、彼は殘る一杯を食ふといひ出した。自分は藥と定食以外にそんなものを口にするのは好くなからうと思つて留めに掛つた。すると三澤は怒つた。
 「君は一杯の氷菓子《アイスクリーム》を消化するのに、何《ど》の位《くらゐ》強壯な胃が必要だと思ふのか」と眞面目な顔をして議論を仕掛けた。自分は實の所何にも知らないのである。看護婦は、可《よ》からうけれども念の爲だからと云つて、わざ/\醫局へ聞きに行つた。さうして少量なら差支ないといふ許可を得て來た。
 自分は便所に行くとき三澤に知れないやうに看護婦を呼んで、あの人の病氣は全體何といふんだと聞いて見た。看護婦は大方胃が惡いんだらうと答へた。夫《それ》より以上の事を尋ねると、今朝看護婦會から派出された許《ばかり》で、何もまだ分らないんだと云つて平氣でゐた。仕方なしに下へ降《お》りて醫員に尋ねたら、其男もまだ三澤の名を知らなかつた。けれども患者の病名だの處方だのを書いた紙箋《しせん》を繰つて、胃が少し糜爛《たゞ》れたんだといふ事|丈《だけ》教へて呉れた。
 自分は又三澤の傍《そば》へ行つた。彼は氷嚢を胃の上に載せた儘、「君其窓から外を見てみろ」、と云つた。窓は正面に二つ側面に一つあつたけれども、何《いづ》れも西洋式で普通より高い上に、病人は日本の蒲團を敷いて寐てゐるんだから、彼の眼には強い色の空と、電信線の一部分が筋違《すぢかひ》に見える丈《だけ》であつた。
 自分は窓側《まどぎは》に手を突いて、外を見下《みおろ》した。すると何よりも先づ高い煙突から出る遠い煙が眼に入《い》つた。其煙は市全體を掩ふやうに大きな建物の上を這ひ廻つてゐた。
 「河が見えるだらう」と三澤が云つた。
 大きな河が左手の方に少し見えた。
 「山も見えるだらう」と三澤が又云つた。
 山は正面に先《さつ》きから見えてゐた。
 それが暗《くら》がり峠《たうげ》で、昔は多分大きな木ばかり生えてゐたのだらうが、今はあの通り明るい峠《たうげ》に變化したんだとか、もう少しするとあの山の下を突《つ》き貫《ぬ》いて、奈良へ電車が通ふやうになるんだとか、三澤は今誰かから聞いた許《ばか》りの事を元氣よく語つた。自分は是なら大した心配もないだらうと思つて病院を出た。
 
     十四
 
 自分は別に行く所もなかつたので、三澤の泊つた宿の名を聞いて、其處へ俥《くるま》で乘り付けた。看護婦はつい近くのやうに云つたが、始めての自分には可なりの道程《みちのり》と思はれた。
 其宿には玄關も何にもなかつた。這入つても入らつしやいと挨拶に出る下女もなかつた。自分は三澤の泊つたといふ二階の一間《ひとま》に通された。手摺《てすり》の前はすぐ大きな川で、座敷から眺めてゐると、大變|凉《すゞ》しさうに水は流れるが、向《むき》の所爲《せゐ》か風は少しも入《はい》らなかつた。夜《よ》に入《い》つて向側に點ぜられる燈火のきらめきも、たゞ眼に少しばかりの趣《おもむき》を添へる丈《だけ》で、凉味といふ感じには丸《まる》でならなかつた。
 自分は給仕の女に三澤の事を聞いて始めて知つた。彼は二日《ふつか》此處に寐た揚句《あげく》、三日目に入院したやうに記憶してゐたが實はもう一日前の午後に着いて、鞄《かばん》を投げ込んだ儘外出して、其晩の十時過に始めて歸つて來たのださうである。着いた時には五六人の伴侶《つれ》がゐたが、歸りにはたつた一人になつてゐたと下女は告げた。自分は其五六人の伴侶《つれ》の何人《なんぴと》であるかに就いて思ひ惱んだ。然し想像さへ浮ばなかつた。
 「醉つてたかい」と自分は下女に聞いて見た。其處《そこ》は下女も知らなかつた。けれども少し經《た》つて吐《は》いたから醉つてゐたんだらうと答へた。
 自分は其《その》夜《よ》蚊帳《かや》を釣つて貰つて早く床に這入つた。すると其の蚊帳に穴があつて、蚊が二三疋這入つて來た。團扇《うちは》を動かして、それを拂《はら》ひ退《の》けながら寐ようとすると、隣の室《へや》の話し聲が耳に付いた。客は下女を相手に酒でも呑んでゐるらしかつた。さうして警部だとかいふ事であつた。自分は警部の二字に多少の興味があつた。それで其人の話を聞いて見る氣になつたのである。すると自分の室《へや》を受持つてゐる下女が上つて來て、病院から電話だと知らせた。自分は驚いて起き上つた。
 電話の相手は三澤の看護婦であつた。病人の模樣でも急に變つたのかと思つて心配しながら用事を聞いて見ると病人から、明日《あした》は成るべく早く來て呉れ、退屈で困るからといふ傳言に過ぎなかつた。自分は彼の病氣が果《はた》してさう重くないんだと斷定した。「何だそんな事か、さういふ我儘は成るべく取次《とりつ》がないが好い」と叱り付るやうに云つて遣つたが、後で看護婦に對して氣の毒になつたので、「然し行く事は行くよ。君が來て呉れといふなら」と付け足《た》して室《へや》へ歸つた。
 下女は何時《いつ》氣が付いたか、蚊帳の穴を針と糸で塞いでゐた。けれども既に這入つてゐる蚊は其儘なので、横になるや否や、時々額や鼻の頭の邊《あたり》でぶうんと云ふ小《ちひさ》い音がした。夫《それ》でもうと/\と寐た。すると今度は右の方の部屋でする話聲で眼が覺めた。聞いてゐると矢張り男と女の聲であつた。自分は此方側《こつちがは》に客は一人もゐない積《つもり》でゐたので、一寸驚かされた。然し女が繰返して、「そんなら最《も》う歸して貰ひますぜ」といふやうな言葉を二三度用ひたので、隣の客が女に送られて茶屋からでも歸つて來たのだらうと推察して又眠りに落ちた。
 それから最《も》う一度下女が雨戸を引く音に夢を破られて、最後に起き上つたのが、まだ川の面《おもて》に白い靄が薄く見える頃だつたから、正味《しやうみ》寐たのは何時間にもならなかつた。
 
     十五
 
 三澤の氷嚢は依然として其日も胃の上に在つた。
 「まだ氷で冷やしてゐるのか」
 自分は聊か案外な顔をして斯う聞いた。三澤にはそれが友達甲斐もなく響いたのだらう。
 「鼻風邪《はなかぜ》ぢやあるまいし」と云つた。
 自分は看護婦の方を向いて、「昨夕《ゆうべ》は御苦勞さま」と一口禮を述べた。看護婦は色の蒼《あを》い膨《ふく》れた女であつた。顔付が繪にかいた座頭に好く似てゐる所爲《せゐ》か、普通彼等の着る白い着物が些《ちつ》とも似合はなかつた。岡山のもので、小さい時|膿毒性《のうどくしやう》とかで右の眼を惡くしたんだと、此方《こつち》で尋ねもしない事を話した。成程この女の一方の眼には白い雲が一杯に掛つてゐた。
 「看護婦さん、こんな病人に優しくして遣ると何を云ひ出すか分らないから、好加滅《いゝかげん》にして置くが可《い》いよ」
 自分は面白半分わざと輕薄な露骨《ろこつ》を云つて、看護婦を苦笑《くせう》させた。すると三澤が突然「おい氷だ」と氷嚢を持ち上げた。
 廊下の先で氷を割る音がした時、三澤は又「おい」と云つて自分を呼んだ。
 「君には解るまいが、此病氣を押してゐると、屹度|潰瘍《くわいやう》になるんだ。それが危險だから僕は斯う凝《ぢつ》として氷嚢を載せてゐるんだ。此處へ入院したのも、醫者が勸めたのでも、宿で周旋して貰つたのでもない。たゞ僕自身が必要と認めて自分で入《はい》つたのだ。醉興ぢやないんだ」
 自分は三澤の醫學上の智識に就いて、夫《それ》程《ほど》信を置き得なかつた。けれども斯う眞面目に出られて見ると、もう交《ま》ぜ返《かへ》す勇氣もなかつた。其上彼の所謂|潰瘍《くわいやう》とは何《ど》んなものか全く知らなかつた。
 自分は起《た》つて窓側《まどぎは》へ行つた。さうして強い光に反射して、乾いた土の色を見せてゐる暗《くら》がり峠《たうげ》を望んだ。不圖《ふと》奈良へでも遊びに行つて來《き》ようかといふ氣になつた。
 「君其樣子ぢや當分約束を履行する譯にも行かないだらう」
 「履行しようと思つて、是程の養生をしてゐるのさ」
 三澤は中々強情の男であつた。彼の強情に付き合へば、彼の健康が旅行に堪《た》へ得る迄自分は此暑い都の中で蒸《む》されてゐなければならなかつた。
 「だつて君の氷嚢は中々取れさうにないぢやないか」
 「だから早く癒るさ」
 自分は彼と斯ういふ談話を取り換《か》はせてゐるうちに、彼の強情のみならず、彼の我儘な點を能《よ》く見て取つた。同時に一日も早く病人を見捨てゝ行かうとする自分の我儘も亦|能《よ》く自分の眼に映つた。
 「君大阪へ着いたときは澤山|伴侶《つれ》があつたさうぢやないか」
 「うん、あの連中と飲んだのが惡かつた」
 彼の擧げた姓名のうちには、自分の知つてゐるものも二三あつた。三澤は彼等と名古屋から一所の汽車に乘つたのだが、何《いづ》れも馬關とか門司とか福岡とか迄行く人であるに拘《かゝは》らず久し振だからといふので、皆《みん》な大阪で降りて三澤と共に飯を食つたのださうである。
 自分は兎も角ももう二三日居て病人の經過を見た上、何うとか爲《し》やうと分別《ふんべつ》した。
 
     十六
 
 其《その》間《あひだ》自分は三澤の附添のやうに、晝も晩も大抵は病院で暮した。孤獨な彼は實際毎日自分を待受けてゐるらしかつた。それでゐて顔を合はすと、決して禮などは云はなかつた。わざ/\草花を買つて持つて行つて遣つても、憤《むつ》と膨《ふく》れてゐる事さへあつた。自分は枕元で書物を讀んだり、看護婦を相手にしたり、時間が來ると病人に藥を呑ませたりした。朝日が強く差し込む室《へや》なので、看護婦を相手に、寐床を影の方へ移す手傳もさせられた。
 自分は斯うしてゐるうちに、毎日午前中に回診する院長を知る樣になつた。院長は大概黒のモーニングを着て醫員と看護婦を一人づゝ隨へてゐた。色の淺黒い鼻筋の通つた立派な男で、言葉遣ひや態度にも容貌の示す如く品格があつた。三澤は院長に會ふと、醫學上の知識を丸《まる》で有《も》つてゐない自分たちと同じやうな質問をしてゐた。「まだ容易に旅行などは出來ないでせうか」「潰瘍《くわいやう》になると危險でせうか」「斯うやつて思ひ切つて入院した方が、今考へて見ると矢つ張り得策だつたんでせうか」などゝ聞くたびに院長は「えゝまあ左右《さう》です」ぐらゐな單簡《たんかん》な返答をした。自分は平生解らない術語を使つて、他《ひと》を馬鹿にする彼が、院長の前で斯う小さくなるのを滑稽に思つた。
 彼の病氣は輕いやうな重いやうな變なものであつた。宅《うち》へ知らせる事は當人が絶對に不承知であつた。院長に聞いて見ると、嘔氣《はきけ》が來なければ心配する程の事もあるまいが、夫《それ》にしても最《も》う少しは食慾が出る筈だと云つて、不思議さうに考へ込んでゐた。自分は去就《きよしう》に迷つた。
 自分が始めて彼の膳を見たとき其上には、生豆腐《なまどうふ》と海苔《のり》と鰹節《かつぶし》の肉汁《ソツプ》が載つてゐた。彼は是より以上箸を着ける事を許されなかつたのである。自分は是では前途遼遠《ぜんとれうゑん》だと思つた。同時に其膳に向つて薄い粥《かゆ》を啜《すゝ》る彼の姿が變に痛ましく見えた。自分が席を外《はづ》して、つい近所の洋食屋へ行つて支度をして歸つて來ると、彼は屹度《きつと》「旨かつたか」と聞いた。自分は其顔を見て益《ます/\》氣の毒になつた。
 「あの家《うち》は此間君と喧嘩した氷菓子《アイスクリーム》を持つて來る家《うち》だ」
 三澤は斯ういつて笑つてゐた。自分は彼がもう少し健康を回復する迄彼の傍《そば》に居てやりたい氣がした。
 然し宿へ歸ると、暑苦しい蚊帳《かや》の中で、早く凉しい田舍へ行きたいと思ふことが多かつた。此間の晩女と話をして人の眠を妨《さまた》げた隣の客はまだ泊つてゐた。さうして自分の寐ようとする頃に必ず酒氣《しゆき》を帶びて歸つて來た。ある時は宿で酒を飲んで、藝者を呼べと怒鳴《どな》つてゐた。それを下女が樣々に胡麻化《ごまか》さうとして仕舞には、あの女はあなたの前へ出ればこそ、彼《あ》んな愛嬌をいふものゝ、蔭では貴方の惡口ばかり並《なら》べるんだから止《や》めろと忠告してゐた。すると客は、なに己《おれ》の前へ出た時だけ御世辭を云つて呉れりやそれで嬉しいんだ、蔭で何と云つたつて聞えないから構はないと答へてゐた。ある時は是も藝者が何か眞面目な話を持ち込んで來たのを、今度は客の方で胡麻化《ごまか》さうとして、其藝者から他《ひと》の話を「ぢやん、ぢやか、ぢやん」に爲てしまふと云つて怒られてゐた。
 自分はこんな事で安眠を妨害されて、實際迷惑を感じた。
 
     十七
 
 そんな斯んなで好く眠られなかつた朝、もう看病は御免蒙るといふ氣で、病院の方へ橋を渡つた。すると病人はまだすや/\眠つてゐた。
 三階の窓から見下《みおろ》すと、狹い通なので、門前の路が細く綺麗に見えた。向側は立派な高塀つゞきで、其一つの潜《くゞ》りの外へ主人《あるじ》らしい人が出て、如露《じようろ》で丹念《たんねん》に往來を濡らしてゐた。塀の内には夏蜜柑のやうな深緑の葉が瓦を隱す程茂つてゐた。
 院内では小使が丁字形《ていじけい》の棒の先へ雜巾《ざふきん》を括《くゝ》り付けて廊下をぐん/\押して歩いた。雜巾《ざふきん》をゆすがないので、折角拭いた所が却《かへ》つて白く汚れた。輕い患者はみな洗面所へ出て顔を洗つた。看護婦の拂塵《はたき》の聲が此處彼處《こゝかしこ》で聞こえた。自分は枕を借りて、三澤の隣の空室《あきべや》へ、昨夕《ゆうべ》の睡眠不足を補ひに入《はい》つた。
 其|室《へや》も朝日の強く當る向《むき》にあるので、一寐入するとすぐ眠が覺めた。額や鼻の頭に汗と油が一面に浮き出してゐるのも不愉快だつた。自分は其時岡田から電話口へ呼ばれた。岡田が病院へ電話を掛けたのは是で三度目である。彼は極《きま》り切つて、「御病人の御樣子は何うです」と聞く。「二三日|中《うち》是非伺ひます」といふ。「何でも御用があるなら御遠慮なく」といふ。最後に屹度《きつと》お兼さんの事を一口二口付加へて、「お兼からも宜しく」とか、「是非お遊びに入らつしやる樣に妻《さい》も申して居ります」とか、「うちの方が忙がしいんで、つい御無沙汰をしてゐます」とか云ふ。
 其日も岡田の話は何時《いつ》もの通りであつた。けれども一番仕舞に、「今から一週間内……と斷定する譯には行かないが、兎に角もう少しすると、貴方を一寸《ちょいと》驚かせる事が出て來るかも知れませんよ」と妙な事を仄《ほの》めかした。自分は全く想像が付かないので、全體|何《ど》んな話なんですかと二三度聞き返したが、岡田は笑ひながら、「もう少しすれば解ります」といふ限《ぎり》なので、自分もとう/\其意味を聞かないで、三澤の室《へや》へ歸つて來た。
 「又例の男かい」と三澤が云つた。
 自分は今の岡田の電話が氣になつて、すぐ大阪を立つ話を持ち出す心持になれなかつた。すると思ひ掛ない三澤の方から「君もう大阪は厭になつたらう。僕のためにゐて貰ふ必要はないから、何處かへ行くなら遠慮なく行つて呉れ」と云ひ出した。彼はたとひ病院を出る場合が來ても、無闇な山登り抔《など》は當分愼まなければならないと覺つたと説明して聞かせた。
 「それぢや僕の都合の好いやうにしよう」
 自分は斯う答へて暫らく黙つてゐた。看護婦は無言の儘|室《へや》の外に出て行つた。自分は其草履の音の消えるのを聞いてゐた。それから小《ちひ》さい聲をして三澤に、「金はあるか」と尋ねた。彼は己《おの》れの病氣をまだ己《おの》れの家《いへ》に知らせないでゐる。夫《それ》にたつた一人の知人たる自分が、彼の傍《そば》を立ち退《の》いたら、精神上よりも物質的に心細からうと自分は懸念した。
 「君に才覺が出來るのかい」と三澤は聞いた。
 「別に目的《あて》もないが」と自分は答へた。
 「例の男は何うだい」と三澤が云つた。
 「岡田か」と自分は少し考へ込んだ。
 三澤は急に笑ひ出した。
 「何いざとなれば何うかなるよ。君に算段して貰はなくつても。金は有るには有るんだから」と云つた。
 
     十八
 
 金の事はつい夫成《それなり》になつた。自分は岡田へ金を借りに行く時の思ひを想像すると實際厭だつた。病氣に罹《かゝ》つた友達の爲だと考へても、少しも進む氣はしなかつた。其代り此地を立つとも立たないとも決心し得ないで愚圖々々した。
 岡田からの電話は掛つて來た時|大《おほい》に自分の好奇心を動搖させたので、わざ/\彼に會つて眞相を聞き糺《たゞ》さうかと思つたけれども、一晩|經《た》つとそれも面倒になつて、つい其儘にして置いた。
 自分は依然として病院の門を潜《くゞ》つたり出たりした。朝九時頃玄關に掛《かゝ》ると、廊下も控所も外來の患者で一杯に埋《うま》つてゐる事があつた。そんな時には世間にも是程病人が有り得るものかとわざと驚いたやうな顔をして、彼等の樣子を一順《いちじゆん》見渡してから、梯子段《はしごだん》に足を掛けた。自分が偶然あの女を見出だしたのは全く此一瞬間にあつた。あの女といふのは三澤があの女/\と呼ぶから自分もさう呼ぶのである。
 あの女は其時廊下の薄暗い腰掛の隅に丸くなつて横顔|丈《だけ》を見せてゐた。其|傍《そば》には洗髪《あらひがみ》を櫛卷《くしまき》にした脊《せい》の高い中年の女が立つてゐた。自分の一瞥《いちべつ》はまづ其女の後姿の上に落ちた。さうして何だか其處に愚圖々々してゐた。すると其|年増《としま》が向ふへ動き出した。あの女は其|年増《としま》の影から現はれたのである。其時あの女は忍耐の像の樣に丸くなつて凝《じつ》としてゐた。けれども血色にも表情にも苦悶《くもん》の迹《あと》は殆んど見えなかつた。自分は最初其横顔を見た時、是が病人の顔だらうかと疑つた。たゞ胸が腹に着く程|脊中《せなか》を曲げてゐる所に、恐ろしい何物かゞ潜《ひそ》んでゐる樣に思はれて、それが甚だ不快であつた。自分は階段を上《のぼ》りつゝ、「あの女」の忍耐と、美しい容貌《ようばう》の下に包んでゐる病苦とを想像した。
 三澤は看護婦から病院のAといふ助手の話を聞かされてゐた。此Aさんは夜《よる》になつて閑《ひま》になると、好く尺八《しやくはち》を吹く若い男であつた。獨身もので病院に寢泊りをして、室《へや》は三澤と同じ三階の折れ曲つた隅にあつた。此間迄始終|上履《スリツパー》の音をぴしや/\云はして歩いてゐたが、此二三日|丸《まる》で顔を見せないので、三澤も自分も、何うかしたのかね位は噂し合つてゐたのである。
 看護婦はAさんが時々|跛《びつこ》を引いて便所へ行く樣子が可笑《をか》しいと云つて笑つた。それから病院の看護婦が時々ガーゼと金盥《かなだらひ》を持つてAさんの部屋へ入《はい》つて行く所を見たとも云つた。三澤はさういふ話に興味が有るでもなく、又無いでもない樣な無愛嬌な顔をして、たゞ「ふん」とか「うん」とか答へてゐた。
 彼は又自分に何時《いつ》迄大阪に居る積《つもり》かと聞いた。彼は旅行を斷念してから、自分の顔を見ると能く斯う云つた。それが自分には遠慮がましく且《かつ》催促がましく聞こえて却《かへ》つて厭《いや》であつた。
 「僕の都合で歸らうと思へば何時《いつ》でも歸るさ」
 「何うか左右《さう》して呉れ」
 自分は立つて窓から眞下を見下した。「あの女」はいくら見てゐても門の外へ出て來なかつた。
 「日の當る所へわざ/\出て何を爲《し》てゐるんだ」と三澤が聞いた。
 「見てゐるんだ」と自分は答へた。
 「何を見てゐるんだ」と三澤が聞き返した。
 
     十九
 
 自分は夫《それ》でも我慢して容易に窓側《まどぎは》を離れなかつた。つい向ふに見える物干に、松だの石榴《ざくろ》だのゝ盆栽が五六鉢並んでゐる傍《そば》で、島田に結《い》つた若い女が、しきりに洗濯ものを竿の先に通してゐた。自分は一寸其方を見ては又下を向いた。けれども待ち設けてゐる當人はいつ迄|經《た》つても出て來る氣色《けしき》はなかつた。自分はとう/\暑さに堪へ切れないで又三澤の寐床の傍《そば》へ來て坐つた。彼は自分の顔を見て、「何うも強情な男だな、他《ひと》が親切に云つて遣れば遣る程、わざ/\日の當る所に顔を曝してゐるんだから。君の顔は眞赤《まつか》だよ」と注意した。自分は平生から三澤こそ強情な男だと思つてゐた。それで「僕の窓から首を出してゐたのは、君の樣な無意味な強情とは違ふ。ちやんと目的があつてわざと首を出したんだ」と少し勿體を付けて説明した。其代り肝心の「あの女」の事を却《かへ》つて云ひ惡《にく》くして仕舞つた。
 程|經《へ》て三澤は又「先刻《さつき》は本當に何か見てゐたのか」と笑ひながら聞いた。自分は此時もう氣が變つてゐた。「あの女」を口にするのが愉快だつた。何うせ強情な三澤の事だから、聞けば屹度《きつと》馬鹿だとか下らないとか云つて自分を冷罵するに違ないとは思つたが、それも氣にはならなかつた。左右《さう》したら實は「あの女」に就いて自分はある原因から特別の興味を有《も》つやうになつたのだ位答へて、三澤を少し焦《じ》らして遣らうといふ下心さへ手傳つた。
 所が三澤は自分の豫期とは丸《まる》で反對の態度で、自分のいふ一句々々をさも感心したらしく聞いてゐた。自分も乘氣になつて一二分で濟む所を三倍程に語り續けた。一番仕舞に自分の言葉が途切れた時、三澤は「それは無論|素人《しろうと》なんぢやなからうな」と聞いた。自分は「あの女」を詳しく説明したけれども、つい藝者といふ言葉を使はなかつたのである。
 「藝者ならことによると僕の知つてゐる女かも知れない」
 自分は驚かされた。然し的《てつ》きり冗談だらうと思つた。けれども彼の眼は其反對を語つてゐた。其癖口元は笑つてゐた。彼は繰り返して「あの女」の眼つきだの鼻つきだのを自分に問うた。自分は梯子段《はしごだん》を上《のぼ》る時、其横顔を見た限《ぎり》なので、さう詳しい事は答へられない程であつた。自分にはたゞ脊中《せなか》を折つて重なり合つてゐるやうな憐れな姿勢|丈《だけ》があり/\と眼に映つた。
 「屹度《きつと》あれだ。今に看護婦に名前を聞かして遣らう」
 三澤は斯う云つて薄笑ひをした。けれども自分を擔《かつ》いでる樣子は更に見えなかつた。自分は少し釣り込まれた氣味で、彼と「あの女」との關係を聞かうとした。
 「今に話すよ。あれだと云ふ事が確に分つたら」
 そこへ病院の看護婦が「回診です」と注意しに來たので、「あの女」の話はそれなり途切れて仕舞つた。自分は回診の混雜を避けるため、時間が來ると席を外《はづ》して廊下へ出たり、貯水桶のある高い處へ出たりしてゐたが、其日は手近にある帽を取つて、梯子段を下迄|降《お》りた。「あの女」がまだ何處かに居さうな氣がするので、自分は玄關の入口に佇立《たゝず》んで四方を見廻した。けれども廊下にも控室にも患者の影はなかつた。
 
     二十
 
 其夕方の空が風を殺して靜まり返つた灯《ひ》ともし頃、自分は又曲りくねつた段々を急ぎ足に三澤の室《へや》迄《まで》上《のぼ》つた。彼は食後と見えて蒲團の上に胡坐《あぐら》をかいて大きくなつてゐた。
 「もう便所へも一人で行くんだ。肴《さかな》も食つてゐる」
 是が彼の其時の自慢であつた。
 窓は三《みつ》つ共《とも》明け放つてあつた。室《へや》が三階で前に目を遮《さへ》ぎるものがないから、空は近くに見えた。其中に燦《きら》めく星も遠慮なく光を増して來た。三澤は團扇《うちは》を使ひながら、「蝙蝠《かうもり》が飛んでやしないか」と云つた。看護婦の白い服が窓の傍《そば》迄《まで》動いて行つて、其胴から上が一寸|窓枠《まどわく》の外へ出た。自分は蝙蝠《かうもり》よりも「あの女」の事が氣に掛つた。「おい、あの事は解つたか」と聞いて見た。
 「矢つ張りあの女だ」
 三澤は斯う云ひながら、一寸意味のある眼遣ひをして自分を見た。自分は「左右《さう》か」と答へた。その調子が餘り高いといふ譯なんだらう、三澤は團扇《うちは》でぱつと自分の顔を煽《あふ》いだ。さうして急に持ち交《か》へた柄《え》の方を前へ出して、自分達のゐる室《へや》の筋向ふを指《さ》した。
 「あの室《へや》へ這入つたんだ。君の歸つた後《あと》で」
 三澤の室《へや》は廊下の突き當りで往來の方を向いてゐた。女の室は同じ廊下の角で、中庭の方から明りを取る樣に出來てゐた。暑いので兩方共入り口は明けた儘、障子は取り拂つてあつたから、自分のゐる所から、圃扇《うちは》の柄《え》で指《さ》し示された部屋の入口は、四半分|程《ほど》斜めに見えた。然し其處には女の寐て居る床《とこ》の裾《すそ》が、晝《ゑ》の模樣のやうに三角に少し出てゐる丈《だけ》であつた。
 自分は其蒲團の端《はじ》を見詰めて少時《しばらく》何も云はなかつた。
 「潰瘍《くわいやう》の劇しいんだ。血を吐くんだ」と三澤が又小さな聲で告げた。自分は此時彼が無理を遣ると潰瘍《くわいやう》になる危險があるから入院したと説明して聞かせた事を思ひ出した。潰瘍《くわいやう》といふ言葉は其折自分の頭に何等の印象も與へなかつたが、今度は妙に恐ろしい響を傳へた。潰瘍《くわいやう》の陰に、死といふ怖いものが潜《ひそ》んでゐるかのやうに。
 しばらくすると、女の部屋で微《かす》かにげえ/\といふ聲がした。
 「そら吐いてゐる」と三澤が眉をひそめた。やがて看護婦が戸口へ現れた。手に小さな金盥《かなだらひ》を持ちながら、草履を突つ掛けて、一寸我々の方を見た儘出て行つた。
 「癒《なほ》りさうなのかな」
 自分の眼には、今朝|腮《あご》を胸に押し付けるやうにして、凝《ぢつ》と腰を掛けてゐた美くしい若い女の顔があり/\と見えた。
 「何うだかね。あゝ嘔《は》くやうぢや」と三澤は答へた。其表情を見ると氣の毒といふより寧ろ心配さうな或物に囚《とら》へられてゐた。
 「君は本當にあの女を知つてゐるのか」と自分は三澤に聞いた。
 「本當に知つてゐる」と三澤は眞面目に答へた。
 「然し君は大阪へ來たのが今度始めてぢやないか」と自分は三澤を責めた。
 「今度來て今度知つたのだ」と三澤は辯解した。「此病院の名も實はあの女に聞いたのだ。僕は此處へ這入る時から、あの女が殊によると遣つて來やしないかと心配してゐた。けれども今朝君の話を聞く迄はよもやと思つてゐた。僕はあの女の病氣に對しては責任があるんだから……」
 
     二十−
 
 大阪へ着くと其儘、友達と一所に飲みに行つた何處かの茶屋で、三澤は「あの女」に會つたのである。
 三澤は其時既に暑さのために胃に變調を感じてゐた。彼を強ひた五六人の友達は、久し振だからといふ口實のもとに、彼を醉はせる事を御馳走のやうに振舞《ふるま》つた。三澤も宿命に從ふ柔順な人として、いくらでも盃《さかづき》を重ねた。それでも胸の下の所には絶えず不安な自覺があつた。ある時は變な顔をして苦しさうに生唾《なまつばき》を呑み込んだ。丁度彼の前に坐つてゐた「あの女」は、大阪言葉で彼に藥を遣らうかと聞いた。彼はジエムか何かを五六粒|手《て》の平《ひら》へ載せて口のなかへ投げ込んだ。すると入物を受取つた女も同じ樣に白い掌《てのひら》の上に小さな粒を並《なら》べて口へ入れた。
 三澤は先刻《さつき》から女の倦怠《だる》さうな立居に氣を付けてゐたので、御前も何處か惡いのかと聞いた。女は淋《さび》しさうな笑ひを見せて、暑い所爲《せゐ》か食慾がちつとも進まないので困つてゐると答へた。ことに此一週間は御飯が厭で、たゞ氷ばかり呑んでゐる、それも今呑んだかと思ふと、すぐ又食べたくなるんで、何うも仕樣がないと云つた。
 三澤は女に、それは大方胃が惡いのだらうから、何處かへ行つて專門の大家にでも見せたら好からうと眞面目な忠告をした。女も他《ひと》に聞くと胃病に違ないといふから、好い醫者に見せたいのだけれども家業が家業だからと後《あと》は云ひ澁つてゐた。彼は其時女から始めて此處の病院と院長の名前を聞いた。
 「僕もさう云ふ所へ一寸|入《はい》つて見樣《みやう》かな。何うも少し變だ」
 三澤は冗談とも本氣ともつかない調子で斯んな事を云つて、女から縁喜《えんぎ》でもないやうに眉を寄せられた。
 「夫《それ》ぢやまあたんと飲んでから後《あと》の事にしよう」と三澤は彼の前にある盃をぐつと干して、それを女の前に突き出した。女は大人《おとな》しく酌をした。
 「君も飲むさ。飯は食へなくつても、酒なら飲めるだらう」
 彼は女を前に引き付けて無暗《むやみ》に盃を遣つた。女も素直《すなほ》にそれを受けた。然し仕舞には堪忍《かんにん》して呉れと云ひ出した。それでも凝《ぢつ》と坐つた儘《まゝ》席を立たなかつた。
 「酒を呑んで胃病の虫を殺せば、飯なんかすぐ喰へる。呑まなくつちや駄目だ」
 三澤は自暴《やけ》に醉つた揚句、亂暴な言葉迄使つて女に酒を強ひた。それでゐて、己れの胃の中には、今にも爆發しさうな苦しい塊《かたまり》が、うねりを打つてゐた。
      *     *     *     *
 自分は三澤の話を此處|迄《まで》聞いて慄《ぞつ》とした。何の必要があつて、彼は己《おのれ》の肉體をさう殘酷に取扱つたのだらう。己れは自業自得としても、「あの女」の弱い身體《からだ》をなんで左右《さう》無益《むやく》に苦めたものだらう。
 「知らないんだ。向《むかふ》は僕の身體を知らないし、僕は又あの女の身體を知らないんだ。周圍《まはり》に居るものは又我々二人の身體を知らないんだ。それ許《ばかり》ぢやない、僕もあの女も自分で自分の身體が分らなかつたんだ。其上僕は自分の胃《ゐ》の腑《ふ》が忌々《いま/\》しくつて堪《た》まらなかつた。それで酒の力で一つ壓倒して遣らうと試みたのだ。あの女もことによると、左右《さう》かも知れない」
 三澤は斯う云つて暗然としてゐた。
 
     二十二
 
 「あの女」は室《へや》の前を通つても廊下からは顔の見えない位置に寐てゐた。看護婦は入口の柱の傍《そば》へ寄つて覗き込むやうにすれば見えると云つて自分に教へて呉れたけれども自分にはそれを敢てする程の勇氣がなかつた。
 附添の看護婦は暑いせゐか大概は其柱にもたれて外の方ばかり見てゐた。それが又看護婦としては特別器量が好いので、三澤は時々不平な顔をして人を馬鹿にしてゐる抔《など》と云つた。彼の看護婦はまた別の意味からして、此美しい看護婦を好く云はなかつた。病人の世話を其方退《そつちのけ》にするとか、不親切だとか、京都に男があつて、其男から手紙が來たんで夢中なんだとか、色々の事を探つて來ては三澤や自分に報告した。ある時は病人の便器を差し込んだなり、引き出すのを忘れて其儘寐込んで仕舞つた怠慢《たいまん》さへあつたと告げた。
 實際この美しい看護婦が器量の優れてゐる割合に義務を重んじなかつた事は自分達の眼にもよく映つた。
 「ありや取り換へて遣らなくつちや、あの女が可哀《かはい》さうだね」と三澤は時々|苦《にが》い顔をした。それでも其看護婦が入口の柱にもたれて、うと/\して居ると、彼はわが室《へや》の中《うち》から其横顔を凝《ぢつ》と見詰めて居る事があつた。
 「あの女」の病勢も此方《こつち》の看護婦の口からよく洩《も》れた。――牛乳でも肉汁《ソツプ》でも、どんな輕い液體でも狂つた胃が決して受付けない。肝心《かんじん》の藥さへ厭がつて飲まない。強ひて飲ませると、すぐ戻してしまふ。
 「血は吐くかい」
 三澤は何時《いつ》でも斯う云つて看護婦に反問した。自分は其言葉を聞くたびに不愉快な刺戟《しげき》を受けた。
 「あの女」の見舞客は絶えずあつた。けれども外《ほか》の室《へや》のやうに賑かな話し聲は丸《まる》で聞こえなかつた。自分は三澤の室《へや》に寐ころんで、「あの女」の室《へや》を出たり入《はい》つたりする島田や銀杏返《いてふがへ》しの影をいくつとなく見た。中には眼の覺めるやうに派出《はで》な模樣の着物を着てゐるものもあつたが、大抵は素人《しろうと》に近い地味《じみ》な服裝《なり》で、こつそり來てこつそり出て行くのが多かつた。入口であら姐《ねえ》はんといふ感投詞《かんとうし》を用ひたものもあつたが、夫《それ》はたゞの一遍に過ぎなかつた。それも廊下の端《はじ》に洋傘《かうもり》を置いて室《へや》の中へ入《はい》るや否や急に消えたやうに靜かになつた。
 「君はあの女を見舞つて遣つたのか」と自分は三澤に聞いた。
 「いゝや」と彼は答へた。「然し見舞つて遣る以上の心配をして遣つてゐる」
 「ぢや向ふでもまだ知らないんだね。君の此處にゐる事は」
 「知らない筈だ、看護婦でも云はない以上は。あの女の入院するとき僕はあの女の顔を見てはつと思つたが、向ふでは僕の方を見なかつたから、多分知るまい」
 三澤は病院の二階に「あの女」の馴染客《なじみきやく》があつて、夫《それ》が「お前胃のため、わしや腸のため、共に苦しむ酒のため」といふ都々逸《どゞいつ》を紙片《かみぎれ》へ書いて、あの女の所へ屆けた上、出院のとき袴羽織《はかまはおり》でわざ/\見舞に來た話をして、何といふ馬鹿だといふ顔付をした。
 「靜かにして、刺戟《しげき》のないやうにして遣らなくつちや不可《いけ》ない。室《へや》でもそつと入《はい》つて、そつと出て遣るのが當り前だ」と彼は云つた。
 「隨分靜ぢやないか」と自分は云つた。
 「病人が口を利くのを厭がるからさ。惡い證據だ」と彼が又云つた。
 
     二十三
 
 三澤は「あの女」の事を自分の豫想以上に詳しく知つてゐた。さうして自分が病院に行くたびに、其話を第一の問題として持ち出した。彼は自分の居ない間《ま》に得た「あの女」の内状を、恰も彼と關係ある婦人の内所話《ないしよばなし》でも打ち明ける如くに語つた。さうして夫等《それら》の知識を自分に與へるのを誇りとする樣に見えた。
 彼の語る所によると「あの女」はある藝者屋の娘分として大事に取扱かはれる賣子《うれつこ》であつた。虚弱な當人は又それを唯一の滿足と心得て商賣に勉強してゐた。ちつとやそつと身體が惡くても決して休むやうな横着はしなかつた。時たま堪へられないで床に就く場合でも、早く御座數に出たい出たいといふのを口癖にしてゐた。……
 「今あの女の室《へや》に來てゐるのは、其藝者屋に古くからゐる下女さ。名前は下女だけれど、古くからゐるんで、自然權力があるから、下女らしく爲《し》ちやゐない。丸《まる》で叔母さんか何ぞの樣だ。あの女もあの下女のいふ事|丈《だけ》は素直によく聞くので、厭がる藥を呑ませたり、我儘を云ひ募らせないためには必要な人間なんだ」
 三澤はすべて斯ういふ内幕《うちまく》の出所《でどころ》をみんな彼の看護婦に歸して、ことごとく彼女から聞いた樣に説明した。けれども自分は少し其處に疑はしい點を認めないでもなかつた。自分は三澤が便所へ行つた留守に、看護婦を捕《つら》まへて、「三澤はあゝ云つてるが、僕の居ないとき、あの女の室《へや》へ行つて話でもするんぢやないか」と聞いて見た。看護婦は眞面目な顔をして「そんな事ありゃしまへん」といふやうな言葉で、一口に自分の疑ひを否定した。彼女は夫《それ》から左右《さう》いふお客が見舞に行つた所で、身上話などが出來る筈がないと辯解した。さうして「あの女」の病氣が段々險惡の一方へ落ち込んで行く心細い例を話して聞かせた。
 「あの女」は嘔氣《はきけ》が止まないので、上から營養の取り樣がなくなつて、昨日《きのふ》とう/\慈養浣腸《じやうくわんちやう》を試みた。然し其結果は思はしくなかつた。少量の牛乳と鷄卵《たまご》を混和した單純な液體ですら、衰弱を極《きは》めたあの女の腸には荷が重過ぎると見えて豫期通り吸収されなかつた。
 看護婦は是《これ》丈《だけ》語つて、この位重い病人の室《へや》へ入《はい》つて、誰が悠々《いう/\》と身上話などを聞いて居られるものかといふ顔をした。自分も彼女の云ふ所が本當だと思つた。それで三澤の事は忘れて、たゞ綺羅《きら》を着飾つた流行の藝者と、恐ろしい病氣に罹《かゝ》つた隣《あはれ》な若い女とを、黙つて心のうちに對照した。
 「あの女」は器量と藝を賣る御蔭で、何とかいふ藝者屋の娘分になつて家《うち》のものから大事がられてゐた。それを賣る事が出來なくなつた今でも、矢張今迄通り宅《うち》のものから大事がられるだらうか。若し彼等の待遇が、あの女の病氣と共に段々輕薄に變つて行くなら、毒惡《どくあく》な病と苦戰するあの女の心は何《ど》の位心細いだらう。何うせ藝妓屋《げいしやや》の娘分になる位だから、生みの親は身分のあるものでないに極つてゐる。經濟上の餘裕がなければ、何う心配したつて役には立つまい。
 自分は斯んな事も考へた。便所から歸つた三澤に「あの女の本當の親はあるのか知つてるか」と尋ねて見た。
 
     二十四
 
 「あの女」の本當の母といふのを、三澤はたつた一遍見た事があると語つた。
 「それもほんの後姿《うしろすがた》丈《だけ》さ」と彼はわざ/\斷《ことわ》つた。
 其母といふのは自分の想像|通《どほり》、あまり樂《らく》な身分の人ではなかつたらしい。やつとの思ひで薩張《さつぱり》した身裝《みなり》をして出て來るやうに見えた。たまに來ても左《さ》も氣兼《きがね》らしく狐鼠々々《こそ/\》と來て何時《いつ》の間《ま》にか、又|梯子段《はしごだん》を下りて人に氣の付かない樣に歸つて行くのださうである。
 「いくら親でも、あゝなると遠慮が出來るんだね」と三澤は云つてゐた。
 「あの女」の見舞客はみんな女であつた。しかも若い女が多數を占めてゐた。それが又普通の令孃や細君と違つて、色香《いろか》を命とする綺麗な人|許《ばかり》なので、其|中《なか》に交《まじ》る此母は、唯でさへ燻《くす》ぶり過ぎて地味《じみ》なのである。自分は年を取つた貧しさうな此母の後姿を想像に描《ゑが》いて暗に憐《あはれ》を催した。
 「親子の情合からいふと、娘があんな大病に罹《かゝ》つたら、母たるものは朝晩とも嘸《さぞ》傍《そば》に付いて居て遣りたい氣がするだらうね。他人の下女が幅を利かしてゐて、實際の親が他人扱ひにされるのは、見てゐても餘り好い心持ぢやない」
 「いくら親でも仕方がないんだよ。だいち傍《そば》にゐてやる程の時間もなし、時間があつても入費がないんだから」
 自分は情ない氣がした。あゝ云ふ浮いた家業をする女の平生は羨ましい程|派出《はで》でも、いざ病氣となると、普通の人よりも悲酸《ひさん》の程度が一層甚だしいのではないかと考へた。
 「旦那が付いてゐさうなものだがな」
 三澤の頭も此點|丈《だけ》は注意が足りなかつたと見えて、自分が斯う不審を打つたとき、彼は何の答もなく黙つてゐた。あの女に關して一切の新智識を供給する看護婦も其處へ行くと何の役にも立たなかつた。
 「あの女」の蚊弱《かよわ》い身體は、其頃の暑さでも何うか斯うか持ち應《こた》へてゐた。三澤と自分はそれを殆んど奇蹟の如くに語り合つた。其癖|兩人《ふたり》とも露骨を憚《はゞか》つて、ついぞ柱の影から室《へや》の中を覗いて見た事がないので、現在の「あの女」が何《ど》の位|窶《やつ》れてゐるかは空《むな》しい想像畫に過ぎなかつた。滋養浣腸《じやうくわんちやう》さへ思はしく行かなかつたといふ報知が、自分等二人の耳に屆いた時ですら、三澤の眼には美しく着飾つた藝者の姿より外に映るものはなかつた。自分の頭にも、唯《たゞ》血色の惡くない入院前の「あの女」の顔が描《ゑか》かれる丈《だけ》であつた。それで二人共あの女は最《も》う六《むづ》かしいだらうと話し合つてゐた。さうして實際は双方共死ぬとは思はなかつたのである。
 同時に色々な患者が病院を出たり入《はい》つたりした。ある晩「あの女」と同じ位な年輩の二階に居る婦人が擔架《たんか》で下へ運ばれて行つた。聞いて見ると、今日明日《けふあす》にも變がありさうな危險な所を、附添の母が田舍へ連れて歸るのであつた。其母は三澤の看護婦に、氷|許《ばかり》も二十何圓とか遣《つか》つたと云つて、何《どう》しても退院するより外に途がないとわが窮状を仄《ほのめ》かしたさうである。
 自分は三階の窓から、田舍へ歸る釣臺を見下《みおろ》した。釣臺は暗くて見えなかつたが、用意の提灯《ちやうちん》の灯《ひ》はやがて動き出した。窓が高いのと往來が狹いので、灯《ひ》は谷の底をひそかに動いて行くやうに見えた。それが向ふの暗い四つ角を曲つてふつと消えた時、三澤は自分を顧みて「歸り着く迄持てば好いがな」と云つた。
 
     二十五
 
 斯んな悲酸《ひさん》な退院を餘儀なくされる患者があるかと思ふと、毎日子供を負ぶつて、廊下だの物見臺だの他人《ひと》の室《へや》だのを、ぶら/\廻つて歩く呑氣《のんき》な男もあつた。
 「丸《まる》で病院を娯樂場のやうに思つてるんだね」
 「第一《だいち》何方《どつち》が病人なんだらう」
 自分達は可笑《をか》しくもあり又不思議でもあつた。看護婦に聞くと、負ぶつてゐるのは叔父で、負ぶさつてゐるのは甥《をひ》であつた。此|甥《をひ》が入院當時骨と皮|許《ばかり》に瘠せてゐたのを叔父の丹精《たんせい》一つでこの位|肥《ふと》つたのださうである。叔父の商賣はめりやす屋だとか云つた。いづれにしても金に困らない人なのだらう。
 三澤の一軒置いて隣には又變な患者がゐた。手提鞄《てさげかばん》抔《など》を提《さ》げて、普通の人間の如く平氣で出歩いた。時には病院を空《あ》ける事さへあつた。歸つて來ると素《す》つ裸體《ぱだか》になつて、病院の飯を旨さうに食つた。さうして昨日《きのふ》は一寸神戸まで行つて來ました抔《など》と澄ましてゐた。
 岐阜からわざ/\本願寺參りに京都迄出て來た序《ついで》に、夫婦|共《とも》此病院に這入つたなり動かないのもゐた。其夫婦ものゝ室《へや》の床《とこ》には後光《ごくわう》の射した阿彌陀樣の軸が懸けてあつた。二人差向ひで氣樂さうに碁を打つてゐる事もあつた。それでも細君に聞くと、此春餅を食つた時、血を猪口《ちよく》に一杯半|程《ほど》吐いたから伴《つ》れて來たのだと勿體らしく云つて聞かせた。
 「あの女」の看護婦は依然として入口の柱に靠《もた》れて、わが膝を兩手で抱いてゐる事が多かつた。此方《こつち》の看護婦はそれを又器量を鼻へ掛けて、わざ/\あんな人の眼に着く所へ出るのだと評してゐた。自分は「まさか」と云つて辯護する事もあつた。けれども「あの女」と其美しい看護婦との關係は、冷淡さ加減の程度に於いて、當初も其時もあまり變りがないやうに見えた。自分は器量好しが二人寄つて、我知らず互に嫉《にく》み合ふのだらうと説明した。三澤は、さうぢやない、大阪の看護婦は氣位が高いから、藝者|抔《など》を眼下《がんか》に見て、始めから相手にならないんだ、それが冷淡の原因に違ないと主張した。斯う主張しながらも彼は別に此看護婦を惡《にく》む樣子はなかつた。自分もこの女に對して左程《さほど》厭な感じは有《も》つてゐなかつた。醜い三澤の附添ひは「本間《ほんま》に器量の好《え》いものはコやな」と云つた風の、自分達には變に響く言葉を使つて、二人を笑はせた。
 こんな周圍に取り圍《かこ》まれた三澤は、身體の回復するに從つて、「あの女」に對する興味を日に増し加へて行くやうに見えた。自分が已《やむ》を得ず興味といふ妙な熟字を此處に用ひるのは、彼の態度が戀愛でもなければ、又全くの親切でもなく、興味の二字で現《あらは》すより外に、適切な文字が一寸見當らないからである。
 始めて「あの女」を控室で見たときは、自分の興味も三澤に讓らない位鋭かつた。けれども彼から「あの女」の話を聞かされるや否や、主客《しゆかく》の別は既に付いて仕舞つた。それからと云ふもの、「あの女」の噂が出る度に、彼は何時《いつ》でも先輩の態度を取つて自分に向つた。自分も一時は彼に釣り込まれて、當初の興味が段々|研《と》ぎ澄《す》まされて行く樣な氣分になつた。けれども客の位置に据ゑられた自分はそれ程長く興味の高潮《かうてう》を保《たも》ち得なかつた。
 
     二十六
 
 自分の興味が強くなつた頃、彼の興味は自分より一層強くなつた。自分の興味が稍《やゝ》衰へかけると、彼の興味は益《ます/\》強くなつて來た。彼は元來が打《ぶ》つ切《き》ら棒《ぼう》の男だけれども、胸の奧には人一倍優しい感情を有《も》つてゐた。さうして何か事があると急に熱する癖があつた。
 自分は既に院内をぶら/\する程に回復した彼が、何故《なぜ》「あの女」の室《へや》へ入《はい》り込まないかを不審に思つた。彼は決して自分の樣な羞恥家《はにかみや》ではなかつた。同情の言葉を掛けに、一遍會つた「あの女」の病室へ見舞に行く位の事は、彼の性質から見て何でもなかつた。自分は「そんなにあの女が氣になるなら、直《ぢか》に行つて、會つて慰めて遣れば好いぢやないか」と迄《まで》云つた。彼は「うん、實は行きたいのだが……」と澁《しぶ》つてゐた。實際これは彼の平生にも似合はない挨拶であつた。さうして其意味は解らなかつた。解らなかつたけれども、本當は彼の行かない方が、自分の希望であつた。
 ある時自分は「あの女」の看護婦から――自分と此美しい看護婦とは何時《いつ》の間《ま》にか口を利く樣になつてゐた。尤もそれは彼女が例の柱に倚《よ》りかゝつて、其前を通る自分の顔を見上げるときに、時候の挨拶を取換はす位な程度に過ぎなかつたけれども、――兎に角此美しい看護婦から自分は運勢早見《うんせいはやみ》なんとかいふ、玩具《おもちや》の占《うらな》ひの本見た樣なものを借りて、三澤の室《へや》でそれを遣《や》つて遊んだ。
 是は赤と黒と兩面に塗り分けた碁石《ごいし》のやうな丸く平たいものを幾何《いくつ》か持つて、それを眼を眠《ねむ》つた儘疊の上へ並べて置いて、赤が若干《いくつ》黒が若干《いくつ》と後から勘定するのである。それから其數字を一つは横へ、一つは竪に繰つて、兩方が一點に會《くわい》した所を本で引いて見ると、辻占《つじうら》のやうな文句が出る事になつてゐた。
 自分が眼を閉ぢて、石を一つ一つ疊の上に置いたとき、看護婦は赤がいくつ黒がいくつと云ひながら占《うらな》ひの文句を繰つて呉れた。すると、「此戀若し成就する時は、大いに恥を掻く事あるべし」とあつたので、彼女は讀みながら吹き出した。三澤も笑つた。
 「おい氣を付けなくつちや不可《いけ》ないぜ」と云つた。三澤は其前から「あの女」の看護婦に自分が御辭儀をする所が變だと云つて、始終自分に調戯《からか》つてゐたのである。
 「君こそ少し氣を付けるが好い」と自分は三澤に竹箆返《しつぺいがへ》しを喰はして遣つた。すると三澤は眞面目な顔をして「何故《なぜ》」と反間して來た。此場合此強情な男にこれ以上いふと、事が面倒になるから自分は黙つてゐた。
 實際自分は三澤が「あの女」の室《へや》へ出入《でいり》する氣色《けしき》のないのを不審に思つてゐたが一方では又彼の熱し易い性質を考へて、今迄は兎に角、是から先彼が何時《いつ》何う變返《へんがへ》るかも知れないと心配した。彼は既に下の洗面所|迄《まで》行つて、朝毎に顔を洗ふ位の氣力を回復してゐた。
 「何うだもう好い加減に退院したら」
 自分は斯う勸めて見た。さうして萬一金錢上の關係で退院を躊躇するやうすが見えたら、彼が自宅から取り寄せる手間《てま》と時間を省くため、自分が思ひ切つて一つ岡田に相談して見ようと迄《まで》思つた。三澤は自分の云ふ事には何の返事も與へなかつた。却つて反對に「一體君はいつ大阪を立つ積《つもり》だ」と聞いた。
 
     二十七
 
 自分は二日|前《まへ》に天下茶屋《てんがちやや》のお兼さんから不意の訪問を受けた。其結果として此間《このあひだ》岡田が電話口で自分に話し掛けた言葉の意味を漸く知つた。だから自分は此時既に一週間内に自分を驚かして見せるといつた彼の豫言の爲に縛《しば》られてゐた。三澤の病氣、美しい看護婦の顔、聲も姿も見えない若い藝者と、其人の一時折合つてゐる蒲團の上の狹い生活、――自分は單にそれ等ばかりで大阪に愚圖《ぐづ》ついて居るのではなかつた。詩人の好きな言語を借りて云へば、ある豫言の實現を期待しつゝ暑い宿屋に泊つてゐたのである。
 「僕には左右《さう》いふ事情があるんだから、もう少し此處に待つてゐなければならないのだ」と自分は大人《おとな》しく三澤に答へた。すると三澤は多少殘念さうな顔をした。
 「ぢや一所に海邊《かいへん》へ行つて靜養する譯にも行かないな」
 三澤は變な男であつた。此方《こつち》が大事がつて遣る間は、向ふで何時《いつ》でも跳ね返すし、此方《こつち》が退《の》かうとすると、急に又|他《ひと》の袂を捕《つら》まへて放さないし、と云つた風に氣分の出入《でいり》が著るしく眼に立つた。彼と自分との交際は從來|何時《いつ》でも斯ういふ消長を繰返しつゝ今日《こんにち》に至つたのである。
 「海岸へ一所に行く積りででもあつたのか」と自分は念を押して見た。
 「無いでもなかつた」と彼は遠くの海岸を眼の中に思ひ浮かべるやうな風をして答へた。此時の彼の眼には、實際「あの女」も「あの女」の看護婦もなく、たゞ自分といふ友達がある丈《だけ》のやうに見えた。
 自分は其日快よく三澤に別れて宿へ歸つた。然し歸り路に、その快よく別れる前の不愉快さも考へた。自分は彼に病院を出ろと勸めた、彼は自分に何時《いつ》迄《まで》大阪にゐるのだと尋ねた。上部《うはべ》にあらはれた言葉の遣り取りはたゞ是《これ》丈《だけ》に過ぎなかつた。然し三澤も自分も其處に變な苦い意味を味はつた。
 自分の「あの女」に對する興味は衰へたけれども自分は何うしても三澤と「あの女」とをさう懇意にしたくなかつた。三澤も又、あの美しい看護婦を何うする了簡もない癖に、自分|丈《だけ》が段々|彼女《かのぢよ》に近づいて行くのを見て、平氣でゐる譯には行かなかつた。其處に自分達の心付かない暗闘があつた。其處に持つて生れた人間の我儘と嫉妬があつた。其處に調和にも衝突にも發展し得ない、中心を缺いた興味があつた。要するに其處には性《せい》の爭ひがあつたのである。さうして兩方共それを露骨に云ふ事が出來なかつたのである。
 自分は歩きながら自分の卑怯《ひけふ》を恥ぢた。同時に三澤の卑怯《ひけふ》を惡《にく》んだ。けれども淺間《あさま》しい人間である以上、是から先何年|交際《まじはり》を重ねても、此卑怯を拔く事は到底出來ないんだといふ自覺があつた。自分は其時非常に心細くなつた。かつ悲しくなつた。
 自分は其|明日《あした》病院へ行つて三澤の顔を見るや否や、「もう退院は勸めない」と斷つた。自分は手を突いて彼の前に自分の罪を詫びる心持で斯う云つたのである。すると三澤は「いや僕もさう愚圖々々《ぐづ/\》してはゐられない。君の忠告に從つて愈《いよ/\》出る事にした」と答へた。彼は今朝院長から退院の許可を得た旨を話して、「あまり動くと惡いさうだから寢臺で東京|迄《まで》直行する事にした」と告げた。自分は其突然なのに驚いた。
 
     二十八
 
 「何うして又|左右《さう》急に退院する氣になつたのか」
 自分は斯う聞いて見ないではゐられなかつた。三澤は自分の問に答へる前に凝《ぢつ》と自分の顔を見た。自分はわが顔を通して、わが心を讀まれるやうな氣がした。
 「別段是といふ譯もないが、もう出る方が好からうと思つて……」
 三澤は是ぎり何にも云はなかつた。自分も黙つてゐるより外に仕方がなかつた。二人は何時《いつ》もより沈んで相對してゐた。看護婦は既に歸つた後《あと》なので、室《へや》の中《なか》はことに淋《さみ》しかつた。今迄蒲團の上に胡坐《あぐら》をかいてゐた彼は急に倒れるやうに仰向《あふむき》に寢た。さうして上眼《うはめ》を使つて窓の外を見た。外には何時《いつ》ものやうに色の強い青空が、ぎら/\する太陽の熱を一面に漲らしてゐた。
 「おい君」と彼はやがて云つた。「能く君の話す例の男ね。あの男は金を持つてゐないかね」
 自分は固《もと》より岡田の經濟事情を知らう筈がなかつた。あの始末屋《しまつや》の御兼さんの事を考へると、金といふ言葉を口から出すのも厭だつた。けれどもいざ三澤の出院となれば、其位な手數《てかず》は厭《いと》ふまいと、昨日《きのふ》既に覺悟を極めた所であつた。
 「節儉家だから少しは持つてるだらう」
 「少しで好いから借りて來て呉れ」
 自分は彼が退院するに就いて會計へ拂ふ入院料に困るのだと思つた。それで何《ど》の位不足なのかを確めた。所が事實は案外であつた。
 「此處の拂と東京へ歸る旅費位は何うか斯うか持つてゐるんだ。夫《それ》丈《だけ》なら何も君を煩はす必要はない」
 彼は大した物持《ものもち》の家《いへ》に生れた果報者でもなかつたけれども、自分が一人息子だけに、斯ういふ點に掛けると、自分達より餘程自由が利いた。其上母や親類のものから京都で買物を頼まれたのを、新しい道伴《みちづれ》が出來たためつい大阪|迄《まで》乘り越して、未《いま》だに手を着けない金が餘つてゐたのである。
 「ぢや唯用心の爲に持つて行かうと云ふんだね」
 「いや」と彼は急に云つた。
 「ぢや何うするんだ」と自分は問ひ詰めた。
 「何うしても僕の勝手だ。たゞ借りて呉れさへすれば好いんだ」
 自分は又腹が立つた。彼は自分を丸《まる》で他人扱ひにしてゐるのである。自分は憤《むつ》として黙つてゐた。
 「怒つちや不可《いけ》ない」と彼が云つた。「隱すんぢやない、君に關係のない事を、わざと吹聽《ふいちやう》する樣に見えるのが厭だから、知らせずに置かうと思つた丈《だけ》だから」
 自分はまだ黙つてゐた。彼は寐ながら自分の顔を見上げてゐた。
 「そんなら話すがね」と彼が云ひ出した。
 「僕はまだあの女を見舞つて遣らない。向《むかふ》でもそんな事は待ち受けてやしないだらうし、僕も必ず見舞に行かなければならない程の義理はない。が、僕は何だかあの女の病氣を危險にした本人だといふ自覺が何うしても退《の》かない。それで何方《どつち》が先へ退院するにしても、其|間際《まぎは》に一度會つて置きたいと始終思つてゐた。見舞ぢやない、詫《あや》まる爲にだよ。氣の毒な事をしたと一口|詫《あや》まれば夫《それ》で好いんだ。けれども只|詫《あや》まる譯にも行かないから、それで君に頼んで見たのだ。然し君の方の都合が惡ければ強ひて左右《さう》して貰はないでも何うかなるだらう。宅《うち》へ電報でも掛けたら」
 
     二十九
 
 自分は行掛《ゆきがゝ》り上《じやう》一應岡田に當つて見る必要があつた。宅《うち》へ電報を打つといふ三澤を一寸待たして、ふらりと病院の門を出た。岡田の勤めてゐる會社は、三澤の室《へや》とは反對の方向にあるので、彼の窓から眺める譯には行かないけれども、道程《みちのり》からいふと幾何《いくら》もなかつた。それでも暑いので歩いて行くうちに汗が脊中を濡らす程出た。
 彼は自分の顔を見るや否や、左《さ》も久し振に會つた人らしく「やつ暫く」と叫ぶやうに云つた。さうして是迄度々電話で繰り返した挨拶を又新しくまのあたり述べた。
 自分と岡田とは今でこそ少し改まつた言葉使もするが、昔を云へば、何の遠慮もない間柄であつた。其頃は金も少しは彼の爲に融通して遣つた覺《おぼえ》がある。自分は勇氣を皷舞する爲に、わざと其當時の記憶を呼起して掛つた。何にも知らない彼は、立ちながら元氣な聲を出して、「何うです二郎さん、僕の豫言は」と云つた。「何うか斯うか一週間うちに貴方を驚かす事が出來さうぢやありませんか」
 自分は思ひ切つて、先づ肝心の用事を話した。彼は案外な顔をして聞いてゐたが、聞いて仕舞ふとすぐ、「宜《よ》うがす、其位なら何うでもします」と容易に引き受けて呉れた。
 彼は固《もと》より其|隱袋《ポツケツト》の中《うち》に入用《いりよう》の金を持つてゐなかつた。「明日《あした》でも好いんでせう」と聞いた。自分は又思ひ切つて、「出來るなら今日中《けふぢゆう》に欲しいんだ」と強ひた。彼は一寸當惑した樣に見えた。
 「ぢや仕方がない迷惑でせうけれども、手紙を書きますから、宅《うち》へ持つて行つてお兼に渡して下さいませんか」
 自分は此事件に就てお兼さんと直接の交渉は成るべく避けたかつたけれども、此場合|已《やむ》を得なかつたので、岡田の手紙を懷へ入れて、天下茶屋へ行つた。お兼さんは自分の聲を聞くや否や上り口|迄《まで》馳け出して來て、「此御暑いのに能くまあ」と驚いて呉れた。さうして、「さあ何うぞ」を二三返繰返したが、自分は立つた儘「少し急ぎますから」と斷つて、岡田の手紙を渡した。お兼さんは上り口に兩膝を突いたなり封を切つた。
 「何うもわざ/\恐れ入りましたね。夫《それ》ではすぐ御供をして參りますから」とすぐ奧へ入《はい》つた。奧では用箪笥《ようだんす》の環《くわん》の鳴る音がした。
 自分はお兼さんと電車の終點|迄《まで》一所に乘つて來て其處で別れた。「では後程《のちほど》」と云ひながらお兼さんは洋傘《かうもり》を開いた。自分は又|俥《くるま》を急がして病院へ歸つた。顔を洗つたり、身體を拭いたり、少時《しばらく》三澤と話してゐるうちに、自分は待ち設けた通りお兼さんから病院の玄關|迄《まで》呼び出された。お兼さんは帶の間にある銀行の帳面を披いて、其處に挾んであつた札《さつ》を自分の手の上に乘せた。
 「では何うぞ一寸御改ためなすつて」
 自分は形式的にそれを勘定した上、「確に。――どうも飛んだ御手數《おてかず》を掛けました。御暑い所を」と禮を述べた。實際急いだと見えてお兼さんは富士額の兩脇を、細かい汗の玉でぢつとりと濡らしてゐた。
 「何うです、ちつと上つて凉んで入らしつたら」
 「いゝえ今日《こんにち》は急ぎますから、是で御免を蒙ります。御病人へ何うぞ宜しく。――でも結構で御座いましたね、早く御退院になれて。一時は宅でも大層心配致しまして、能く電話で御樣子を伺つたとか申して居りましたが」
 お兼さんは斯んな愛想《あいそ》を云ひながら、又例のクリーム色の洋傘《かうもり》を開いて歸つて行つた。
 
     三十
 
 自分は少し急《せ》き込んでゐた。紙幣《しへい》を握つた儘段々を馳け上るやうに三階迄來た。三澤は平生よりは落付いてゐなかつた。今火を點《つ》けた許《ばかり》の卷煙草をいきなり灰吹《はひふき》の中に放《はふ》り込んで、有難うともいはずに、自分の手から金を受取つた。自分は渡した金の高を注意して、「好いか」と聞いた。夫《それ》でも彼は只うんと云つた丈《だけ》である。
 彼は凝《ぢつ》と「あの女」の室《へや》の方を見詰めた。時間の具合で、見舞に來たものゝ草履は一足も廊下の端《はじ》に脱ぎ棄てゝなかつた。平生から靜過ぎる室《へや》の中は、殊に寂寞としてゐた。例の美くしい看護婦は相變らず角の柱に倚りかゝつて、産婆學の本か何か讀んでゐた。
 「あの女は寐てゐるのかしら」
 彼は「あの女」の室《へや》へ入《はい》るべき好機會を見出しながら、却《かへ》つて其眠を妨《さまた》げるのを恐れるやうに見えた。
 「寐てゐるかも知れない」と自分も思つた。
 しばらくして三澤は小さな聲で「あの看護婦に都合を聞いて貰はうか」と云ひ出した。彼はまだ此看護婦に口を利いた事がないといふので、自分が其役を引受けなければならなかつた。
 看護婦は驚いたやうな又|可笑《をか》しいやうな顔をして自分を見た。けれどもすぐ自分の眞面目な態度を認めて、室《へや》の中へ入《はい》つて行つた。かと思ふと、二分と經たないうちに笑ひながら又出て來た。さうして今丁度氣分の好い所だからお目に掛れるといふ患者の承諾をもたらした。三澤は黙つて立ち上つた。
 彼は自分の顔も見ず、又看護婦の顔も見ず、黙つて立つたなり、すつと「あの女」の室《へや》の中へ姿を隱した。自分は元の座に坐つて、ぼんやり其|後影《うしろかげ》を見送つた。彼の姿が見えなくなつても矢張|空《くう》に同じ所を見詰めてゐた。冷淡なのは看護婦であつた。一寸《ちよつと》侮蔑《あなどり》の微笑《びせう》を唇の上に漂《たゞよ》はせて自分を見たが、それなり元の通り柱に脊を倚せて、黙つて讀みかけた書物をまた膝の上にひろげ始めた。
 室《へや》の中は三澤の入《はい》つた後《あと》も彼の入《はい》らない前も同じ樣に靜であつた。話し聲|抔《など》は無論聞こえなかつた。看護婦は時々不意に眼を上げて室《へや》の奧の方を見た。けれども自分には何の相圖《あひづ》もせずに、すぐ其眼を頁の上に落した。
 自分は此三階の宵の間《ま》に虫の音らしい凉しさを聽いた例《ためし》はあるが、晝のうちに八釜《やかま》しい蝉の聲はついぞ自分の耳に屆いた事がない。自分のたつた一人で坐つてゐる病室は其時明かな太陽の光を受けながら、眞夜中よりも猶靜かであつた。自分は此死んだやうな靜かさのために、却《かへ》つて神經を焦《い》らつかせて、「あの女」の室《へや》から三澤の出るのを待ちかねた。
 やがて三澤はのつそりと出て來た。室《へや》の敷居を跨《また》ぐ時、微笑しながら「御邪魔さま。大勉強だね」と看護婦に挨拶する言葉|丈《だ》けが自分の耳に入《はい》つた。
 彼は上草履の音をわざとらしく高く鳴らして、自分の室《へや》に入《はい》るや否や、「やつと濟んだ」と云つた。自分は「何うだつた」と聞いた。
 「やつと濟んだ。是でもう出ても好い」
 三澤は同じ言葉を繰返す丈《だけ》で、其他には何にも云はなかつた。自分もそれ以上は聞き得なかつた。兎も角も退院の手續を早くする方が便利だと思つて、其處らに散らばつてゐるものを片付け始めた。三澤も固《もと》より凝《ぢつ》としてはゐなかつた。
 
     三十−
 
 二人は俥《くるま》を雇《やと》つて病院を出た。先へ梶棒《かぢぼう》を上げた三澤の車夫が餘り威勢よく馳《か》けるので、自分は大きな聲でそれを留めようとした。三澤は後《うしろ》を振り向いて、手を振つた。「大丈夫、大丈夫」と云ふらしく聞こえたから、自分もそれなりにして注意はしなかつた。宿へ着いたとき、彼は川縁《かはべり》の欄干に兩手を置いて、眼の下の廣い流を凝《ぢつ》と眺めてゐた。
 「何うした。心持でも惡いか」と自分は後《うしろ》から聞いた。彼は後《うしろ》を向かなかつた。けれども「いゝや」と答へた。「此處へ來て此河を見る迄《まで》此|室《へや》の事を丸《まる》で忘れてゐた」
 左右《さう》いつて、彼は依然として流れに向つてゐた。自分は彼を其儘にして、麻の座蒲團の上に胡坐《あぐら》をかいた。それでも待遠しいので、やがて袂《たもと》から敷島の袋を出して、煙草を吸ひ始めた。其煙草が三分の一|煙《けむ》になつた頃、三澤は漸く手摺《てすり》を離れて自分の前へ來て坐つた。
 「病院で暮らしたのも、つい昨日今日の樣だが、考へて見ると、もう大分《だいぶん》になるんだね」と云つて指を折りながら、日數《ひかず》を勘定し出した。
 「三階の光景が當分眼を離れないだらう」と自分は彼の顔を見た。
 「思ひも寄らない經驗をした。是も何かの因縁だらう」と三澤も自分の顔を見た。
 彼は手を叩いて、下女を呼んで今夜の急行列車の寢臺《しんだい》を注文した。それから時計を出して、食事を濟ました後《あと》、時間に何《ど》の位餘裕があるかを見た。窮屈に馴れない二人はやがて轉《ごろ》りと横になつた。
 「あの女は癒りさうなのか」
 「さうさな。事によると癒るかも知れないが……」
 下女が誂《あつら》へた水菓子を鉢に盛つて、梯子段《はしごだん》を上つて來たので、「あの女」の話は是で切れて仕舞つた。自分は寐轉《ねころ》んだ儘、水菓子を食つた。其間彼はたゞ自分の口の邊《あたり》を見る許《ばかり》で、何事も云はなかつた。仕舞に左《さ》も病人らしい調子で、「己《おれ》も食ひたいな」と一言《ひとこと》云つた。先刻《さつき》から浮かない樣子を見てゐた自分は、「構ふものか、食ふが好い。食へ食へ」と勸めた。三澤は幸ひにして自分が氷菓子《アイスククリーム》を食はせまいとした彼《あ》の日の出來事を忘れてゐた。彼はたゞ苦笑ひをして横を向いた。
 「いくら好だつて、惡いと知りながら、無理に食はせられて、あの女の樣になつちや大變だからな」
 彼は先刻《さつき》から「あの女」の事を考へてゐるらしかつた。彼は今でも「あの女」の事を考へてゐるとしか思はれなかつた。
 「あの女は君を覺えてゐたかい」
 「覺えてゐるさ。此間《このあひだ》會つて、僕から無理に酒を呑まされた許《ばかり》だもの」
 「恨んでゐたらう」
 今迄横を向いてそつぽへ口を利いてゐた三澤は、此時急に顔を向け直してきつと正面から自分を見た。其變化に氣の付いた自分はすぐ眞面目な顔をした。けれども彼があの女の室《へや》に入《はい》つた時、二人の間に何《ど》んな談話が交換されたかに就いて、彼は遂に何事をも語らなかつた。
 「あの女はことによると死ぬかも知れない。死ねばもう會ふ機會はない。萬一《まんいち》癒るとしても、矢つ張會ふ機會はなからう。妙なものだね。人間の離合といふと大袈裟だが。それに僕から見れば實際離合の感があるんだからな。あの女は今夜僕の東京へ歸る事を知つて、笑ひながら御機嫌ようと云つた。僕は其|淋《さび》しい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見さうだ」
 
     三十二
 
 三澤は唯斯う云つた。さうして夢に見ない先から既に「あの女」の淋《さび》しい笑ひ顔を眼の前に浮《うか》べてゐる樣に見えた。三澤に感傷的の所があるのは自分も能く承知してゐたが、單にあれ丈《だけ》の關係で、是程あの女に動かされるのは不審であつた。自分は三澤と「あの女」が別れる時、何んな話をしたか、詳しく聞いて見ようと思つて、少し水を向け掛けたが、何の效果もなかつた。しかも彼の態度が惜しいものを半分|他《ひと》に配《わ》けてやると、半分無くなるから厭《いや》だといふ風に見えたので、自分は益《ます/\》變な氣持がした。
 「そろ/\出掛けようか。夜の急行は込むから」ととう/\自分の方で三澤を促《うな》がすやうになつた。
 「まだ早い」と三澤は時計を見せた。成程汽車の出る迄にはまだ二時間|許《ばかり》餘つてゐた。もう「あの女」の事は聞くまいと決心した自分は、成るべく病院の名前を口へ出さずに、寐轉《ねころ》びながら彼と通り一遍の世間話を始めた。彼は其時|人並《ひとなみ》の受け答をした。けれども何處か調子に乘らない所があるので、何となく不愉快さうに見えた。夫《それ》でも席は動かなかつた。さうして仕舞には黙つて河の流ればかり眺めてゐた。
 「まだ考へてゐる」と自分は大きな聲を出してわざと叫んだ。三澤は驚いて自分を見た。彼は斯ういふ場合にきつと、御前は?ルガーだと云ふ眼付をして、一瞥《いちべつ》の侮辱を自分に與へなければ承知しなかつたが、此時に限つてそんな樣子はちつとも見せなかつた。
 「うん考へてゐる」と輕く云つた。「君に打ち明けようか、打ち明けまいかと迷つてゐた所だ」と云つた。
 自分は其時彼から妙な話を聞いた。さうして其話が直接「あの女」と何の關係もなかつたので猶更意外の感に打たれた。
 今から五六年|前《まへ》彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁《よめ》らした事があつた。不幸にも其娘さんはある纒綿した事情のために、一年|經《た》つか經《た》たないうちに、夫《をつと》の家《いへ》を出る事になつた。けれども其處にも亦複雜な事情があつて、すぐ吾家《わがいへ》に引取られて行く譯に行かなかつた。それで三澤の父が仲人《なかうど》といふ義理合から當分此娘さんを預かる事になつた。――三澤は一旦|嫁《とつ》いで出て來た女を娘さん――と云つた。
 「其娘さんは餘り心配した爲だらう、少し精神に異状を呈してゐた。それは宅《うち》へ來る前か、或は來てからか能く分らないが、兎に角|宅《うち》のものが氣が付いたのは來てから少し經《た》つてからだ。固《もと》より精神に異状を呈してゐるには相違なからうが、一寸見たつて少しも分らない。たゞ黙つて欝ぎ込んでゐる丈《だけ》なんだから。所が其娘さんが……」
 三澤は此處|迄《まで》來て少し躊躇《ちうちよ》した。
 「其娘さんが可笑《をか》しな話をするやうだけれども、僕が外出すると屹度《きつと》玄關|迄《まで》送つて出る。いくら隱れて出ようとしても屹度《きつと》送つて出る。さうして必ず、早く歸つて來て頂戴ねと云ふ。僕がえゝ早く歸りますから大人《おとな》しくして待つて居らつしやいと返事をすれば合點《がつてん》/\をする。もし黙つてゐると、早く歸つて來て頂戴ね、ね、と何度でも繰返《くりかへ》す。僕は宅《うち》のものに對して極《きま》りが惡くつて仕樣がなかつた。けれども亦此娘さんが不憫《ふびん》で堪《た》まらなかつた。だから外出しても成るべく早く歸る樣に心掛けてゐた。歸ると其人の傍《そば》へ行つて、立つた儘只今と一言《ひとこと》必ず云ふ事にしてゐた」
 三澤は其處へ來て又時計を見た。
 「まだ時間はあるね」と云つた。
 
     三十三
 
 其時自分は是限《これぎり》で其娘さんの話を止《や》められてはと思つた。幸ひに時間がまだ大分《だいぶ》あつたので、自分の方から何とも云はない先に彼は又語り續けた。
 「宅《うち》のものが其娘さんの精神に異状があるといふ事を明かに認め出してからはまだ可《よ》かつたが、知らないうちは今云つた通り僕も其娘さんの露骨なのに隨分弱らせられた。父や母は苦《にが》い顔をする。臺所のものは内所《ないしよ》でくす/\笑ふ。僕は仕方がないから、其娘さんが僕を送つて玄關|迄《まで》來た時、烈しく怒り付けて遣らうかと思つて、二三度|後《うしろ》を振り返つて見たが、顔を合《あは》せるや否や、怒る所か、邪慳《じやけん》な言葉などは可哀《かはい》さうで到底《とても》口から出せなくなつて仕舞つた。其娘さんは蒼い色の美人だつた。さうして黒い眉毛と黒い大きな眸《ひとみ》を有《も》つてゐた。其黒い眸《ひとみ》は始終遠くの方の夢を眺てゐるやうに恍惚《うつとり》と潤《うるほ》つて、其處に何だか便《たより》のなささうな憐《あはれ》を漂《たゞ》よはせてゐた。僕が怒らうと思つて振り向くと、其娘さんは玄關に膝を突いたなり恰《あたか》も自分の孤獨《こどく》を訴《うつた》へるやうに、其黒い眸《ひとみ》を僕に向けた。僕は其度に娘さんから、斯うして活きてゐてもたつた一人で淋《さむ》しくつて堪らないから、何うぞ助けて下さいと袖に縋られるやうに感じた。――其眼がだよ。其黒い大きな眸《ひとみ》が僕にさう訴へるのだよ」
 「君に惚れたのかな」と自分は三澤に聞きたくなつた。
 「それがさ。病人の事だから戀愛なんだか病氣なんだか、誰にも解る筈がないさ」と三澤は答へた。
 「色情狂つていふのは、其んなもんぢやないのかな」と自分は又三澤に聞いた。
 三澤は厭な顔をした。
 「色情狂と云ふのは、誰にでも枝垂《しなだ》れ懸《かゝ》るんぢやないか。其娘さんはたゞ僕を玄關|迄《まで》送つて出て來て、早く歸つて來て頂戴ねと云ふ丈《だけ》なんだから違ふよ」
 「左右《さう》か」
 自分の此時の返事は全く光澤《つや》がなさ過ぎた。
 「僕は病氣でも何でも構はないから、其娘さんに思はれたいのだ。少くとも僕の方ではさう解釋してゐたいのだ」と三澤は自分を見詰《みつ》めて云つた。彼の顔面の筋肉は寧ろ緊張してゐた。「所が事實は何うも左右《さう》でないらしい。其娘さんの片付いた先の旦那といふのが放蕩家《はうたうか》なのか交際家なのか知らないが、何でも新婚早々たび/\家《うち》を空《あ》けたり、夜遲く歸つたりして、其娘さんの心を散々|苛《いぢ》め拔いたらしい。けれども其娘さんは一口も夫《をつと》に對して自分の苦みを言はずに我慢してゐたのだね。その時の事が頭に祟《たゝ》つてゐるから、離婚になつた後《あと》でも旦那に云ひたかつた事を病氣のせゐで僕に云つたのださうだ。――けれども僕はさう信じたくない。強ひても左右《さう》でないと信じてゐたい」
 「それ程君は其娘さんが氣に入つてたのか」と自分は又三澤に聞いた。
 「氣に入るやうになつたのさ。病氣が惡くなればなる程」
 「それから。――其娘さんは」
 「死んだ。病院へ入《はひ》つて」
 白分は黙然《もくねん》とした。
 「君から退院を勸められた晩、僕は其娘さんの三回忌を勘定して見て、單にその爲|丈《だけ》でも歸りたくなつた」と三澤は退院の動機を説明して聞かせた。自分はまだ黙つてゐた。
 「あゝ肝心《かんじん》の事を忘れた」と其時三澤が叫んだ。自分は思はず「何だ」と聞き返した。
 「あの女の顔がね、實は其娘さんに好く似て居るんだよ」
 三澤の口元には解つたらうと云ふ一種の微笑が見えた。二人はそれからぢきに梅田の停車場《ステーシヨン》へ俥《くるま》を急がした。場内は急行を待つ乘客で既に一杯になつてゐた。二人は橋を向《むかふ》へ渡つて上《のぼ》り列車を待ち合はせた。列車は十分と立たないうちに地を動かして來た。
 「又|會《あ》はふ」
 自分は「あの女」の爲に、又「其娘さん」の爲に三澤の手を固く握つた。彼の姿は列車の音と共に忽ち暗中《あんちゆう》に消えた。
 
  兄
 
 
 自分は三澤を送つた翌日《あくるひ》又母と兄夫婦とを迎へるため同じ停車場《ステーシヨン》に出掛けなければならなかつた。
 自分から見ると殆んど想像さへ付かなかつた此《この》出來事を、始めから工夫して、とう/\それを物にする迄《まで》漕ぎ付けたものは例の岡田であつた。彼は平生から能くこんな技巧を弄して其|成效《せいかう》に誇るのが好であつた。自分をわざ/\電話口へ呼び出して、其内|屹度《きつと》自分を驚かして見せると斷つたのは彼である。それから程なく、お兼さんが宿屋へ尋ねて來て、其譯を話した時には、自分も實際驚かされた。
 「何うして來るんです」と自分は聞いた。
 自分が東京を立つ前に、母の持つてゐた、或|場末《ばすゑ》の地面が、新たに電車の布設される通り路に當るとかで其|前側《まへがは》を幾坪か買ひ上げられると聞いたとき、自分は母に「ぢや其金で此夏みんなを連て旅行なさい」と勸めて、「また二郎さんのお株が始まつた」と笑はれた事がある。母はかねてから、若し機會があつたら京《きやう》大阪《おほさか》を見たいと云つてゐたが、或は其金が手に入《はい》つた所へ、岡田からの勸誘があつたため、斯う大袈裟な計畫になつたのではなからうか。それにしても岡田が又何でそんな勸誘をしたものだらう。
 「何といふ大した考へもないんで御座いませう。たゞ昔《むか》しお世話になつた御禮に御案内でもする氣なんでせう。それに彼《あ》の事も御座いますから」
 お兼さんの「彼《あ》の事」といふのは例の結婚事件である。自分はいくらお貞《さだ》さんが母のお氣に入りだつて、其爲に彼女がわざ/\大阪三界《おほさかさんがい》迄《まで》出て來る筈がないと思つた。
 自分は其時既に懷が危《あや》しくなつてゐた。其上|後《あと》から三澤のために岡田に若干の金額を借りた。外《ほか》の意味は別として、母と兄夫婦の來るのは此|不足《ふそく》?補《てんぽ》の方便として自分には好都合であつた。岡田もそれを知つて快よく此方《こちら》の要《い》る丈《だけ》すぐ用立てゝ呉れたに違ひなからうと思つた。
 自分は岡田夫婦と一所に停車場《ステーシヨン》に行つた。三人で汽車を待ち合はしてゐる間に岡田は、「何うです。二郎さん喫驚《びつくり》したでせう」といつた。自分は是と類似の言葉を、彼から何遍も聞いてゐるので、何とも答へなかつた。お兼さんは岡田に向つて、「あなた此間《このあひだ》から獨《ひとり》で御得意なのね。二郎さんだつて聞き飽きて居らつしやるわ。そんな事」と云ひながら自分を見て「ねえ貴方」と詫《あや》まるやうに附加へた。自分はお兼さんの愛嬌のうちに、何處となく黒人《くろうと》らしい媚《こび》を認めて、急に返事の調子を狂はせた。お兼さんは素知《そし》らぬ風をして岡田に話し掛けた。――
 「奧さまも大分《だいぶ》御目に懸らないから、隨分お變りになつたでせうね」
 「此前會つた時は矢つ張り元の叔母さんさ」
 岡田は自分の母の事を叔母さんと云ひ、お兼さんは奧樣といふのが、自分には變に聞こえた。
 「始終|傍《そば》にゐると、變るんだか變らないんだか分りませんよ」と自分は答へて笑つてゐるうちに汽車が着いた。岡田は彼等三人の爲に特別に宿を取つて置いたとかいつて、直《たゞち》に俥《くるま》を南へ走らした。自分は空《くう》に乘つた俥の上で、彼の能く人を驚かせるのに驚いた。左右《さう》云へば彼が突然上京してお兼さんを奪ふやうに伴《つ》れて行つたのも自分を驚かした目覺ましい手柄の一つに相違なかつた。
 
     二
 
 母の宿は左程《さほど》大きくはなかつたけれども、自分の泊つてゐる所よりは餘程上品な構《かまへ》であつた。室《へや》には扇風器だの、唐机《たうづくゑ》だの、特別に其|唐机《たうづくゑ》の傍《そば》に備へ付けた電燈などがあつた。兄はすぐ其處にある電報紙へ大阪《おほさか》着《ちやく》の旨を書いて下女に渡してゐた。岡田は何時《いつ》の間《ま》にか用意して來た三四枚の繪端書を袂の中から出して、是は叔父さん、是はお重《しげ》さん、是はお貞《さだ》さんと一々|名宛《なあて》を書いて、「さあ一口《ひとくち》宛《づゝ》皆《みん》な何うぞ」と方々へ配つてゐた。
 自分はお貞《さだ》さんの繪端書へ「御目出たう」と書いた。すると母が其《その》後《あと》へ「病氣を大事になさい」と書いたので吃驚《びつくり》した。
 「お貞《さだ》さんは病氣なんですか」
 「實はあの事があるので、丁度好い折だから、今度|伴《つ》れて來《き》ようと思つて仕度までさせた所が、生憎《あいにく》お腹《なか》が惡くなつてね。殘念な事をしましたよ」
 「でも大した事ぢやないのよ。もうお粥《かゆ》がそろ/\食べられるんだから」と嫂《あによめ》が傍《そば》から説明した。其嫂は父に出す繪端書を持つた儘何か考へてゐた。「叔父さんは風流人だから歌が好いでせう」と岡田に勸められて、「歌なんぞ出來るもんですか」と斷つた。岡田は又お重《しげ》へ宛てたのに、「あなたの口の惡い所を聞けないのが殘念だ」と細《こま》かく謹んで書いたので、兄から「將棋の駒がまだ祟つてると見えるね」と笑はれてゐた。
 繪端書が濟んで、しばらく世間話をした後《あと》で、岡田とお兼さんは又來ると云つて、母や兄が止《と》めるのも聞かずに歸つて行つた。
 「お兼さんは本當に奧さんらしくなつたね」
 「宅《うち》へ仕立物を持つて來た時分を考へると、丸《まる》で見違へる樣だよ」
 母が兄とお兼さんを評し合つた言葉の裏には、己《おの》れが夫《それ》丈《だけ》年を取つたといふ淡い哀愁を含んでゐた。
 「お貞《さだ》さんだつて、もう直《ぢき》ですよお母さん」と自分は横合から口を出した。
 「本當にね」と母は答へた。母は腹の中《なか》で、まだ片付く當《あて》のないお重《しげ》の事でも考へてゐるらしかつた。兄は自分を顧みて、「三澤が病氣だつたので、何處へも行かなかつたさうだね」と聞いた。自分は「えゝ。飛んだ所へ引つかゝつて何處へも行かずじまひでした」と答へた。自分と兄とは常に此位|懸隔《かけへだて》のある言葉で應對するのが例になつてゐた。是は年が少し違ふのと、父が昔堅氣《むかしかたぎ》で、長男に最上の權力を塗り付けるやうにして育て上げた結果である。母も偶には自分をさん付けにして二郎さんと呼んで呉れる事もあるが、是は單に兄の一郎《いちらう》さんのお餘りに過ぎないと自分は信じてゐた。
 みんなは話に氣を取られて浴衣《ゆかた》を着換へるのを忘れてゐた。兄は立つて、糊《のり》の強いのを肩へ掛けながら、「何うだい」と自分を促《うな》がした。嫂《あによめ》は浴衣《ゆかた》を自分に渡して、「全體あなたのお部屋は何處にあるの」と聞いた。手摺《てすり》の所へ出て、鼻の先にある高い塗塀《ぬりべい》を欝陶《うつたう》しさうに眺めてゐた母は、「宜《い》い室《へや》だが少し陰氣だね。二郎お前のお室《へや》も斯んなかい」と聞いた。自分は母のゐる傍《そば》へ行つて、下を見た。下には張物板《はりものいた》の樣な細長い庭に、細い竹が疎《まばら》に生えて錆《さ》びた鐵燈籠《かなどうろう》が石の上に置いてあつた。其石も竹も打水《うちみづ》で皆しつとり濡れてゐた。
 「狹いが凝《こ》つてますね。其代り僕の所の樣に河がありませんよ、お母さん」
 「おや何處に河があるの」と母がいふ後《あと》から、兄も嫂も其河の見える座敷と取換へて貰はうと云ひ出した。自分は自分の宿のある方角やら地理やらを説明して聞かした。さうして一先《ひとまづ》歸つて荷物を纒めた上又此處へ來る約束をして宿を出た。
 
     三
 
 自分は其夕方宿の拂《はらひ》を濟まして母や兄と一所になつた。三人は少し夕飯《ゆふめし》が後《おく》れたと見えて、膳を控へた儘《まゝ》楊枝を使つてゐた。自分は彼等を散歩に連れ出さうと試みた。母は疲れたと云つて應じなかつた。兄は面倒らしかつた。嫂《あによめ》丈《だけ》には行きたい樣子が見えた。
 「今夜は御止《およ》しよ」と母が留《と》めた。
 兄は寐轉《ねころ》びながら話をした。さうして口では大阪を知つてる樣な事を云つた。けれども能く聞いて見ると、知つてゐるのは天王寺《てんのうじ》だの中の島だの千日前《せんにちまへ》だのといふ名前|許《ばかり》で地理上の知識になると、丸《まる》で夢のやうに散漫|極《きは》まるものであつた。
 尤も「大阪城の石垣の石は實に大きかつた」とか、「天王寺《てんのうじ》の塔の上へ登つて下を見たら眠が眩《くら》んだ」とか斷片的の光景は實際覺えてゐるらしかつた。其内で一番面白く自分の耳に響いたのは彼の昔|泊《とま》つたといふ宿屋の夜《よる》の景色であつた。
 「細い通りの角で、欄干の所へ出ると柳が見えた。家が隙間《すきま》なく並《なら》んでゐる割には閑靜で、窓から眺められる長い橋も畫《ゑ》の樣に趣《おもむき》があつた。其上を通る車の音も愉快に響いた。尤も宿そのものは不親切で汚なくつて困つたが……」
 「一體それは大阪の何處なの」と嫂《あによめ》が聞いたが、兄は全く知らなかつた。方角さへ分らないと答へた。是が兄の特色であつた。彼は事件の斷面を驚く許《ばか》り鮮《あざや》かに覺えてゐる代りに、場所の名や年月《としつき》を全く忘れて仕舞ふ癖があつた。夫《それ》で彼は平氣でゐた。
 「何處だか解らなくつちや詰らないわね」と嫂《あによめ》が又云つた。兄と嫂《あによめ》とはこんな所でよく喰ひ違つた。兄の機嫌の惡くない時は夫《それ》でも濟むが、少しの具合で事が面倒になる例《ためし》も稀ではなかつた。斯ういふ消息に通じた母は、「何處でも構はないが、それ丈《だけ》ぢやない筈だつたのにね。後《あと》を御話しよ」と云つた。兄は「御母さんにも直《なほ》にも詰らない事ですよ」と斷つて、「二郎其處の二階に泊つたとき面白いと思つたのはね」と自分に話し掛けた。自分は固《もと》より兄の話を一人で聞くべき責任を引受けた
 「何うしました」
 「夜になつて一寐入《ひとねいり》して眠が醒めると、明かるい月が出て、其月が青い柳を照してゐた。それを寐ながら見てゐるとね、下の方で、急にやつといふ掛聲が聞こえた。あたりは案外靜まり返つてゐるので、其掛聲が殊更《ことさら》強く聞こえたんだらう、己《おれ》はすぐ起きて欄干の傍《そば》迄《まで》出て下を覗いた。すると向《むかふ》に見える柳の下で、眞裸《まつぱだか》な男が三人代る/”\大《おほき》な澤庵石《たくあんいし》の持ち上げ競《くら》をしてゐた。やつと云ふのは兩手へ力を入れて差し上げる時の聲なんだよ。夫《それ》を三人とも夢中になつて熱心に遣つてゐたが、熱心な所爲《せゐ》か、誰も一口も物を云はない。己《おれ》は明らかな月影に黙つて動く裸體《はだか》の人影を見て、妙に不思議な心持がした。すると其内の一人が細長い天秤棒《てんびんぼう》のやうなものをぐるり/\と廻し始めた……」
 「何だか水滸傳《すゐこでん》のやうな趣《おもむき》ぢやありませんか」
 「其時からしてが既に縹緲《へうべう》たるものさ。今日《こんにち》になつて回顧すると丸《まる》で夢の樣だ」
 兄はこんな事を回想するのが好であつた。さうして夫《それ》は母にも嫂《あによめ》にも通じない、たゞ父と自分|丈《だけ》に解る趣《おもむき》であつた。
 「其時大阪で面白いと思つたのは只《たゞ》それ限《ぎり》だが、何だかそんな連想を持つて來て見ると、一向《いつかう》大阪らしい氣がしないね」
 自分は三澤の居た病院の三階から見下《みおろ》される狹い綺麗な通を思ひ出した。さうして兄の見た棒使や力持はあんな町内にゐる若い衆ぢやなからうかと想像した。
 岡田夫婦は約の如く其晩又|尋《たづ》ねて來た。
 
      四
 
 岡田は頗る念入の遊覽目録といつたやうなものを、わざ/\宅《うち》から拵《こしら》へて來て、母と兄に見せた。それが又餘り綿密過ぎるので、母も兄も「是ぢや」と驚いた。
 「まあ幾日《いくか》位《くらゐ》御滯在になれるんですか、夫《それ》次第でプログラムの作り方も亦あるんですから。此方《こつち》は東京と違つてね、少し市を離れると幾何《いくら》でも見物する所があるんです」
 岡田の言葉のうちには多少の不服が籠《こも》つてゐたが、同時に得意な調子も見えた。
 「丸《まる》で大阪を自慢して居らつしやる樣よ。貴方の話を傍《そば》で聞いてゐると」
 お兼さんは笑ひながら斯う云つて眞面目な夫《をつと》に注意した。
 「いえ自慢ぢやない。自慢ぢやないが……」
 注意された岡田は益《ます/\》眞面目になつた。それが少し滑稽に見えたので皆《みん》なが笑ひ出した。
 「岡田さんは五六年のうちに悉皆《すつかり》上方風《かみがたふう》になつて仕舞つたんですね」と母が調戯《からか》つた。
 「それでも能く東京の言葉|丈《だけ》は忘れずにゐるぢやありませんか」と兄が其|後《あと》に隨《つ》いて又|冷嘲《ひやか》し始めた。岡田は兄の顔を見て、「久し振に會ふと、すぐ是だから敵《かな》はない。全く東京ものは口が惡い」と云つた。
 「それにお重《しげ》の兄《あにき》だもの、岡田さん」と今度は自分が口を出した。
 「お兼《かね》少し助けて呉れ」と岡田が仕舞に云つた。さうして母の前に置いてあつた先刻《さつき》のプログラムを取つて袂へ入れながら、「馬鹿々々しい、骨を折つたり調戯《からか》はれたり」とわざ/\怒つた風をした。
 冗談が一仕切《ひとしきり》濟むと、自分の豫期してゐた通り、佐野の話が母の口から持ち出された。母は「此度は又色々」と云つた樣な打つて變つた凡帳面《きちやうめん》な言葉で岡田に禮を述べる、岡田は又|鹿爪《しかつめ》らしく改まつた口上で、まことに行き屆きませんでなどと挨拶をする、自分には兩方|共《とも》大袈裟に見えた。それから岡田は丁度好い都合だから、是非本人に會つて遣つて呉れと、また會見の打ち合せをし始めた。兄も其話しの中に首を突込まなくつては義理が惡いと見えて、煙草を吹かしながら二人の相手になつてゐた。自分は病氣で寐てゐるお貞《さだ》さんに此樣子を見せて、有難いと思ふか、餘計な御世話だと思ふか、本當の所を聞いて見たい氣がした。同時に三澤が別れる時、新しく自分の頭に殘して行つた美しい精神病の「娘さん」の不幸な結婚を聯想した。
 嫂《あによめ》とお兼さんは親しみの薄い間柄であつたけれども、若い女同志といふ縁故で先刻《さつき》から二人|丈《だけ》で話してゐた。然し氣心が知れない所爲《せゐ》か、兩方|共《とも》遠慮がちで一向《いつかう》調子が合ひさうになかつた。嫂《あによめ》は無口な性質《たち》であつた。お兼さんは愛嬌のある方であつた。お兼さんが十口《とくち》物をいふ間に嫂《あによめ》は一口《ひとくち》しか喋舌《しやべ》れなかつた。しかも種が切れると、其|都度《つど》屹度《きつと》お兼さんの方から供給されてゐた。最後に子供の話が出た。すると嫂《あによめ》の方が急に優勢になつた。彼女《かのぢよ》はその小さい一人娘の平生を、左《さ》も興ありげに語つた。お兼さんは又|嫂《あによめ》のくだ/\しい叙述を、左《さ》も感心したやうに聞いてゐたが、實際は丸《まる》で無頓着らしくも見えた。たゞ一遍「よくまあお一人でお留守居が出來ます事」と云つたのは誠らしかつた。「お重《しげ》さんによく馴付《なつ》いて居りますから」と嫂《あによめ》は答へてゐた。
 
        五
 
 母と兄夫婦の滯在日數は存外少いものであつた。先づ市内で二三日市外で二三日しめて一週間足らずで東京へ歸る豫定で出て來たらしかつた。
 「責《せ》めてもう少しは宜いでせう。折角此處|迄《まで》出て入らしつたんだから。又來るたつて、そりや容易な事ぢやありませんよ、億劫《おつくふ》で」
 斯うは云ふものゝ岡田も、母の滯在中會社の方を丸《まる》で休んで、毎日案内ばかりして歩ける程の餘裕は無論なかつた。母も東京の宅《うち》の事が氣に掛《かゝ》る樣に見えた。自分に云はせると、母と兄夫婦といふからしてが既に妙な組合せであつた。本來なら父と母と一所に來るとか、兄と嫂《あによめ》丈《だけ》が連立《つれだ》つて避暑に出掛けるとか、もし又お貞《さだ》さんの結婚問題が目的なら、當人の病氣が癒るのを待つて、母なり父なりが連れて來て、早く事を片付けてしまふとか、自然の豫定は二通りも三通りもあつた。それが斯う變な形になつて現れたのは何ういふ譯だか、自分には始めから呑み込めなかつた。母は又それを胸の中に疊込《たゝみこ》んでゐるといふ風に見えた。母ばかりではない、兄夫婦も其處に氣が付いてゐるらしい所もあつた。
 佐野との會見は型《かた》の如く濟んだ。母も兄も岡田に禮を述べてゐた。岡田の歸つた後でも兩方|共《とも》佐野の批評はしなかつた。もう事が極つて批評をする餘地がないといふ樣にも取れた。結婚は年の暮に佐野が東京へ出て來る機會を待つて、式を擧げるやうに相談が調《とゝの》つた。自分は兄に、「お目出た過ぎる位事件がどん/\進行して行く癖に、本人が一向《いつかう》知らないんだから面白い」と云つた。
 「當人は無論知つてるんだ」と兄が答へた。
 「大喜びだよ」と母が保證した。
 自分は一言もなかつた。しばらくしてから、「尤もこんな問題になると自分でどん/\進行させる勇氣は日本の婦人にあるまいからな」と云つた。兄は黙つてゐた。嫂《あによめ》は變な顔をして自分を見た。
 「女|丈《だけ》ぢやないよ。男だつて自分勝手に無暗と進行されちや困りますよ」と母は自分に注意した。すると兄が「一層《いつそ》その方が好いかも知れないね」と云つた。其云ひ方が少し冷《ひやゝ》か過ぎた所爲《せゐ》か、母は何だか厭な顔をした。嫂《あによめ》も亦變な顔をした。けれども二人とも何とも云はなかつた。
 少し經《た》つてから母は漸く口を開いた。
 「でも貞《さだ》丈《だけ》でも極まつて呉れるとお母さんは大變|樂《らく》な心持がするよ。後《あと》は重《しげ》ばかりだからね」
 「是もお父さんの御蔭さ」と兄が答へた。其時兄の唇に薄い皮肉の影が動いたのを、母は氣がつかなかつた。
 「全くお父さんの御蔭に違ないよ。岡田が今あゝ遣つてるのと同じ事さ」と母は大分滿足な體《てい》に見えた。
 隣れな母は父が今でも社會的に昔通りの勢力を有《も》つてゐると許《ばか》り信じてゐた。兄は兄|丈《だけ》に、社會から退隱したと同樣の今の父に、其半分の影響さへ六づかしいと云ふ事を見破つてゐた。
 兄と同意見の自分は、家族中ぐるになつて、佐野を瞞《だま》してゐる樣な氣がしてならなかつた。けれども亦一方から云へば、佐野は瞞《だま》されても然るべきだといふ考へが始めから頭の何處かに引掛つてゐた。
 兎に角會見は滿足のうちに濟んだ。兄は暑いので腦に應《こた》へるとか云つて、早く大阪を立ち退《の》く事を主張した。自分は固《もと》より賛成であつた。
 
     六
 
 實際其頃の大阪は暑かつた。ことに我々の泊つてゐる宿屋は暑かつた。庭が狹いのと塀が高いので、日の射し込む餘地もなかつたが、其代り風の通る隙間にも乏しかつた。ある時は濕《しめ》つぽい茶座敷の中で、四方から焚火《たきび》に焙《あぶ》られてゐるやうな苦しさがあつた。自分は夜通《よどほ》し扇風器を掛けてぶう/\鳴らしたため、馬鹿な眞似をして風邪《かぜ》でも引いたら何うすると云つて母から叱られた事さへあつた。
 大阪を立たうといふ兄の意見に賛成した自分は、有馬《ありま》なら凉しくつて兄の頭に宜からうと思つた。自分は此有名な温泉をまだ知らなかつた。車夫が梶棒《かぢぼう》へ綱を付けて、其綱の先をまた犬に付けて坂路を上《のぼ》るのださうだが、暑いので犬がともすると溪河《たにがは》の清水《しみづ》を飲まうとするのを、車夫が怒《いか》つて竹の棒で無暗に打擲《うちたゝ》くから、犬がひん/\苦しがりながら俥《くるま》を引くんだといふ語を、かつて聞いた儘|喋舌《しやべ》つた。
 「厭だねそんな俥《くるま》に乘るのは、可哀想《かはいさう》で」と母が眉をひそめた。
 「何故《なぜ》又水を飲ませないんだらう。俥《くるま》が遲れるからかね」と兄が聞いた。
 「途中で水を飲むと疲れて役に立たないからださうです」と自分が答へた。
 「へえー、何故《なぜ》」と今度は嫂《あによめ》が不思議さうに聞いたが、それには自分も答へる事が出來なかつた。
 有馬行《ありまゆき》は犬の所爲《せゐ》でもなかつたらうけれども、とう/\立消《たちぎえ》になつた。さうして意外にも和歌《わか》の浦《うら》見物が兄の口から發議《ほつぎ》された。是は自分もかねてから見たいと思つてゐた名所であつた。母も子供の時から其名に親しみがあるとかで、すぐ同意した。嫂《あによめ》丈《だけ》は何處でも構はないといふ風に見えた。
 兄は學者であつた。又|見識家《けんしきか》であつた。其上詩人らしい純粹な氣質を持つて生れた好い男であつた。けれども長男|丈《だけ》に何處か我儘な所を具へてゐた。自分から云ふと、普通の長男よりは、大分《だいぶ》甘やかされて育つたとしか見えなかつた。自分|許《ばかり》ではない、母や嫂《あによめ》に對しても、機嫌の好い時は馬鹿に好いが、一且|旋毛《つむじ》が曲り出すと、幾日《いくか》でも苦い顔をして、わざと口を利かずに居た。それで他人の前へ出ると、また全く人間が變つた樣に、大抵な事があつても滅多に紳士の態度を崩さない、圓滿な好侶伴《かうりよはん》であつた。だから彼の朋友は悉《こと/”\》く彼を穩かな好い人物だと信じてゐた。父や母は其評判を聞くたびに案外な顔をした。けれども矢つ張り自分の子だと見えて、何處か嬉しさうな樣子が見えた。兄と衝突してゐる時にこんな評判でも耳に入らうものなら、自分は無暗に腹が立つた。一々其人の宅《うち》迄《まで》出掛けて行つて、彼等の誤解を訂正して遣りたいやうな氣さへ起つた。
 和歌の浦|行《ゆき》に母がすぐ賛成したのも、實は彼女《かのぢよ》が兄の氣性を能く呑み込んでゐるからだらうと自分は思つた。母は長い間|吾子《わがこ》の我《が》を助け育てるやうにした結果として、今では何事によらず其|我《が》の前に跪《ひざまづ》く運命を甘んじなければならない位地にあつた。
 自分は便所に立つた時、手水鉢《てうづばち》の傍《そば》にぼんやり立つてゐた嫂《あによめ》を見付《めつ》けて、「姉さん何うです近頃は。兄さんの機嫌は好い方なんですか惡い方なんですか」と聞いた。嫂《あによめ》は「相變らずですわ」とたゞ一口答へた丈《だけ》であつた。嫂《あによめ》は夫《それ》でも淋《さみ》しい頬に片靨《かたゑくぼ》を寄せて見せた。彼女は淋《さみ》しい色澤《いろつや》の頬を有《も》つてゐた。それから其眞中に淋《さみ》しい片靨《かたゑくぼ》を有《も》つてゐた。
 
      七
 
 自分は立つ前に岡田に借りた金の片《かた》を付けて行きたかつた。尤も彼に話をしさへすれば、東京へ歸つてからでも構はないとは思つたけれども、あゝいふ人の金は成る可く早く返して置いた方が、此方《こつち》の心持が宜《い》いといふ考へがあつた。それで誰も傍《そば》に居ない折を見計らつて、母に何うかして呉れと頼んだ。
 母は兄を大事にする丈《だけ》あつて、無論彼を心《しん》から愛してゐた。けれども長男といふ譯か、又|氣六《きむ》づかしいといふ所爲《せゐ》か、何處かに遠慮があるらしかつた。一寸の事を注意するにしても、成る可く氣に障らないやうに、始めから氣を置いて掛つた。其處へ行くと自分は丸《まる》で子供同樣の待遇を母から受けてゐた。「二郎そんな法があるのかい」などゝ頭ごなしに遣付《やつつ》けられた。其代りまた兄以上に可愛《かはい》がられもした。小遣などは兄に内所で能く貰つた覺《おぼえ》がある。父の着物なども何時《いつ》の間《ま》にか自分のに仕立直してある事は珍らしくなかつた。斯ういふ母の仕打が、例の兄には又頗る氣に入らなかつた。些細な事から兄は能く機嫌を惡くした。さうして明るい家《いへ》の中《うち》に陰氣な空氣を漲《みな》ぎらした。母は眉をひそめて、「また一郎の病氣が始まつたよ」と自分に時々|私語《さゝや》いた。自分は母から腹心の郎黨として取扱はれるのが嬉しさに、「癖なんだから、放《はふ》つてお置きなさい」位《ぐらゐ》云つて澄ましてゐた時代もあつた。兄の性質が氣六《きむ》づかしいばかりでなく、大小となく影で狐鼠々々《こそ/\》何か遣られるのを忌む正義の念から出るのだといふ事を後《あと》から知つて以來、自分は彼に對してこんな輕薄な批評を加へるのを恥《は》づるやうになつた。けれども表向《おもてむき》兄の承諾を求めると、到底|行《おこな》はれにくい用件が多いので、自分はつい機會《をり》を見ては母の懷に一人|抱《だ》かれようとした。
 母は自分が三澤のために岡田から金を借りた?末《てんまつ》を聞いて驚いた顔をした。
 「そんな女のためにお金を使ふ譯がないぢやないか、三澤さんだつて。馬鹿らしい」と云つた。
 「だけど、其處には三澤も義理があるんだから」と自分は辯解した。
 「義理々々つて、御母《おかあ》さんには解らないよ、お前のいふ事は。氣の毒なら、手ぶらで見舞に行く丈《だけ》の事ぢやないか。もし手ぶらで極《きま》りが惡ければ、菓子折の一つも持つて行きやあ澤山だね」
 自分はしばらく黙つてゐた。
 「よし三澤さんに夫《それ》丈《だけ》の義理があつたにした所でさ。何もお前が岡田なんぞからそれを借りて上げる丈《だけ》の義理はなからうぢやないか」
 「ぢや宜御座《よござ》んす」と自分は答へた。さうして立つて下へ行かうとした。兄は湯に入《はい》つてゐた。嫂《あによめ》は小さい下の座敷を借りて髪を結はしてゐた。座敷には母より外にゐなかつた。
 「まあお待ちよ」と母が呼び留めた。「何も出して上げないと云つてやしないぢやないか」
 母の言葉には兄一人でさへ澤山な所へ、何の必要があつて、自分|迄《まで》此年寄を苛《いぢ》めるかと云はぬ許《ばかり》の心細さが籠《こも》つてゐた。自分は母のいふ通り元の席に着いたが、氣の毒で一寸顔を上げ得なかつた。さうして此|無恰好《ぶかつかう》な態度で、左《さ》も子供らしく母から要る丈《だけ》の金子《きんす》を受取つた。母が一段聲を落して、何時《いつ》ものやうに、「兄さんには内所《ないしよ》だよ」と云つた時、自分は不意に名状しがたい不愉快に襲はれた。
 
      八
 
 自分達は其翌日の朝和歌山へ向けて立つ筈になつてゐた。何うせ一旦は此處へ引返して來なければならないのだから、岡田の金も其時で好いとは思つたが、性急《せつかち》の自分には紙入を其儘懷中してゐるからが既に厭だつた。岡田は其晩も例の通り宿屋へ話に來るだらうと想像された。だからその折にそつと返して置かうと自分は腹の中《うち》で極めた。
 兄が湯から上つて來た。帶も締めずに、浴衣《ゆかた》を羽織るやうに引掛けた儘ずつと欄干の所|迄《まで》行つて其處へ濡手拭《ぬれてぬぐひ》を懸けた。
 「お待遠」
 「お母さん、何うです」と自分は母を促《うな》がした。
 「まあお這入りよ、お前から」と云つた母は、兄の首や胸の所を眺めて、「大變好い血色におなりだね。夫《それ》に少し肉が付いた樣ぢやないか」と賞めてゐた。兄は性來《しやうらい》の痩《やせ》つぽちであつた。宅《うち》では夫《それ》をみんな神經の所爲《せゐ》にして、もう少し肥《ふと》らなくつちや駄目だと云ひ合つてゐた。その内でも母は最も氣を揉《も》んだ。當人自身も痩せてゐるのを何かの刑罰のやうに忌《い》み恐れた。夫《それ》でも些《ちつ》とも肥《ふと》れなかつた。
 自分は母の言葉を聞きながら、此苦しい愛矯《あいけう》を、慰藉の一つとして吾子の前に捧げなければならない彼女の心事を氣の毒に思つた。兄に比べると遙かに頑丈《ぐわんぢやう》な體?《からだ》を起しながら、「ぢや御先へ」と母に挨拶して下へ降《お》りた。風呂場の隣の小さい座數を一寸《ちょいと》覗くと、嫂《あによめ》は今|髷《まげ》が出來た所で、合せ鏡をして鬢《びん》だの髱《たぼ》だのを撫《な》でゝゐた。
 「もう濟んだんですか」
 「えゝ。何處へ入らつしやるの」
 「御湯へ這入らうと思つて。お先へ失禮しても宜《よ》ござんすか」
 「さあ何うぞ」
 自分は湯に入りながら、嫂《あによめ》が今日に限つてなんで又|丸髷《まるまげ》なんて仰山《ぎやうさん》な頭に結《ゆ》ふのだらうと思つた。大きな聲を出して、「姉さん、姉さん」と湯壺の中から呼んで見た。「なによ」といふ返事が廊下の出口で聞こえた。
 「御苦勞さま、此暑いのに」と自分が云つた。
 「何故《なぜ》」
 「何故《なぜ》つて、兄さんの御好《おこの》みなんですか、其でこ/\頭は」
 「知らないわ」
 嫂《あによめ》の廊下傳ひに梯子段を上《のぼ》る草履の音が判切《はつき》り聞こえた。
 廊下の前は中庭で八つ手の株が見えた。自分は其の暗い庭を前に眺めて、番頭に背中を流して實つてゐた。すると入口の方から縁側を沿つて、又|活?《くわつぱつ》な足音が聞こえた。
 さうして詰襟の白い洋服を着た岡田が自分の前を通つた。自分は思はず、「おい君、君」と呼んだ。
 「や、今お湯、暗いんで些《ちつ》とも氣が付かなかつた」と岡田は一足《ひとあし》後戻りして風呂を覗き込みながら挨拶をした。
 「貴方に話がある」と自分は突然云つた。
 「話が? 何です」
 「まあ、お入《はい》んなさい」
 岡田は冗談ぢやないと云ふ顔をした。
 「お兼は來ませんか」
 自分が「いゝえ」と答へると、今度は「皆さんは」と聞いた。自分が又「みんな居ますよ」といふと、不思議さうに「ぢや今日は何處へも行かなかつたんですか」と聞いた。
 「行つてもう歸つて來たんです」
 「實は僕も今會社から歸り掛けですがね。何うも暑いぢやあありませんか。――兎に角一寸|伺候《しこう》して來ますから。失禮」
 岡田は斯う云ひ捨てたなり、とう/\自分の用事を聞かずに二階へ上《あが》つて行つて仕舞つた。自分もしばらくして風呂から出た。
 
     九
 
 岡田は其《その》夜《よ》大分《だいぶ》酒を呑んだ。彼は是非都合して和歌の浦迄一所に行く積《つもり》でゐたが、生憎《あいにく》同僚が病氣で缺勤してゐるので、豫期の通りにならないのが甚だ殘念だと云つて頻りに母や兄に詫びてゐた。
 「ぢや今夜が御別れだから、少し御過《おす》ごしなさい」
と母が勸めた。
 生憎《あいにく》自分の家族は酒に親しみの薄いもの許《ばかり》で、誰も彼の相手にはなれなかつた。それで皆《みん》な御免蒙つて岡田より先へ食事を濟ました。岡田はそれが此方《こつち》も勝手だといつた風に、獨り膳を控へて盃《さかづき》を甜《な》め續けた。
 彼は性來《しやうらい》元氣な男であつた。其上酒を呑むと益《ます/\》陽氣になる好い癖を持つてゐた。さうして相手が聞かうが聞くまいが、頓着なしに好きな事を喋舌《しやべ》つて、時々一人高笑ひをした。
 彼は大阪の富が過去二十年間に何《ど》の位《くらゐ》殖えて、是から十年立つとまた其富が今の何十倍になるといふやうな統計を擧げて大《おほい》に滿足らしく見えた。
 「大阪の富より君自身の富は何うだい」と兄が皮肉を云つたとき、岡田は禿げ掛つた頭へ手を載せて笑ひ出した。
 「然し僕の今日《こんにち》あるも――といふと、偉過ぎるが、まあ何うか斯うか遣つて行けるのも、全く叔父さんと叔母さんのお蔭です。僕はいくら斯うして酒を呑んで太平樂《たいへいらく》を並べてゐたつて、夫《それ》丈《だけ》は決して忘れやしません」
 岡田は斯んな事を云つて、傍《そば》にゐる母と遠くにゐる父に感謝の意を表した。彼は醉ふと同じ言葉を何遍も繰返す癖のある男だつたが、ことに此感謝の意は少しづゝ違つた形式で、幾度《いくたび》か彼の口から洩れた。仕舞に彼は灘萬《なだまん》のまな鰹《がつを》とか何とかいふものを、是非父に喰はせたいと云ひ募《つの》つた。
 自分は彼がもと書生であつた頃、ある正月の宵《よひ》何處かで振舞酒《ふるまひざけ》を浴びて歸つて來て、父の前へ長さ三寸ばかりの赤い蟹《かに》の足を置きながら平伏して、謹んで北海の珍味を獻上しますと云つたら、父は「何だそんな朱塗《しゆぬ》りの文鎭《ぶんちん》見たいなもの。要らないから早く其方《そつち》へ持つて行け」と怒つた昔を思ひ出した。
 岡田は何時《いつ》迄《まで》も飲んで歸らなかつた。始めは興を添へた彼の座談も段々|皆《みん》なに飽きられて來た。嫂《あによめ》は團扇《うちは》を顔へ當てて欠《あくび》を隱した。自分はとう/\彼を外へ連出《つれだ》さなければならなかつた。自分は散歩にかこつけて五六町彼と一所に歩いた。さうして懷から例の金を出して彼に返した。金を受取つた時の彼は、醉つてゐるにも拘《かゝ》はらず驚ろくべく慥《たしか》なものであつた。「今でなくつても宜《い》いのに。然しお兼が喜びますよ。有がたう」と云つて、洋服の内隱袋《うちがくし》へ収めた。
 通りは靜であつた。自分はわれ知らず空を仰いだ。空には星の光が存外《ぞんぐわい》濁つてゐた。自分は心の内に明日《あす》の天氣を氣遣つた。すると岡田が藪から棒に「一郎さんは實際|六《む》づかしやでしたね」と云ひ出した。さうして昔《むか》し兄と自分と將棋《しやうぎ》を指した時、自分が何か一口《ひとくち》云つたのを癪に、いきなり將棋の駒を自分の額へ打付《ぶつ》けた騷ぎを、新しく自分の記憶から呼び覺《さま》した。
 「あの時分から我儘だつたからね、何うも。然し此頃は大分《だいぶ》機嫌が好いやうぢやありませんか」と彼が又云つた。自分は※[者/火]え切らない生返事《なまへんじ》をして置いた。
 「尤も奧さんが出來てから、もう餘つ程になりますからね。然し奧さんの方でも隨分|氣骨《きぼね》が折れるでせう。あれぢや」
 自分は夫《それ》でも何の答もしなかつた。ある四角《よつかど》へ來て彼と別れるときたゞ「お兼さんに宜しく」と云つた儘《まゝ》又元の路へ引き返した。
 
      十
 
 翌日《よくじつ》朝の汽車で立つた自分達は狹い列車のなかの食堂で晝飯《ひるめし》を食つた。「給仕がみんな女だから面白い。しかも中々|別嬪《べつぴん》がゐますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で晝飯《ひるめし》を遣つて御覽なさい」と岡田が自分に注意したから、自分は皿を運んだりサイダーを注《つ》いだりする女を能く心付て見た。然し別に是といふ程の器量を有《も》つたものもゐなかつた。
 母と嫂《あによめ》は物珍らしさうに窓の外を眺めて、田舍めいた景色を賞し合つた。寶際|窓外《さうぐわい》の眺めは大阪を今離れた許《ばかり》の自分達には一つの變化であつた。ことに汽車が海岸近くを走るときは、松の緑と海の藍《あゐ》とで、煙に疲れた眼に爽《さわや》かな青色を射返《いかへ》した。木蔭から出たり隱れたりする屋根瓦の積み方も東京地方のものには珍らしかつた。
 「あれは妙だね。御寺かと思ふと、左右《さう》でもないし。二郎、矢つ張り百姓家なのかね」と母がわざ/\指をさして、比較的大きな屋根を自分に示した。
 自分は汽車の中で兄と隣り合せに坐つた。兄は何か考へ込んでゐた。自分は心の内で又例のが始まつたのぢやないかと思つた。少し話でもして機嫌を直さうか、それとも黙つて知らん顔をしてゐようかと躊躇した。兄は何か癪に障つた時でも、六《む》づかしい高尚な問題を考へてゐる時でも同じく斯んな樣子をするから、自分には一向《いつかう》見分が付かなかつた。
 自分は仕舞にとう/\思ひ切つて此方《こつち》から何か話を切り出さうとした。と云ふのは、向側《むかふがは》に腰を掛けてゐる母が、嫂《あによめ》と應對の相間々々《あひま/\》に、兄の顔を偸《ぬす》むやうに一二度見たからである。
 「兄さん、面白い話がありますがね」と自分は兄の方を見た。
 「何だ」と兄が云つた。兄の調子は自分の豫期した通り無愛想《ぶあいさう》であつた。然しそれは覺悟の前であつた。
 「つい此間《このあひだ》三澤から聞いた許《ばかり》の話ですがね。……」
 自分は例の精神病の娘さんが一旦|嫁《とつ》いだあと不縁になつて、三澤の宅《うち》へ引き取られた時、三澤の出る後《あと》を慕つて、早く歸つて來て頂戴と、何時《いつ》でも云ひ習はした話をしようと思つて一寸其所で句を切つた。すると兄は急に氣乘りのした樣な顔をして、「其話なら己《おれ》も聞いて知つてゐる。三澤が其女の死んだとき、冷たい額へ接吻《せつぷん》したといふ話だらう」と云つた。
 自分は喫驚《びつくり》した。
 「そんな事があるんですか。三澤は接吻《せつぷん》の事については一口も云ひませんでしたがね。皆《みん》な居る前でですか、三澤が接吻《せつぷん》したつて云ふのは」
 「夫《それ》は知らない。皆《みんな》の前で遣つたのか。又は外に人の居ない時に遣つたのか」
 「だつて三澤が只《たつ》た一人で其娘さんの死骸の傍《そば》にゐる筈がないと思ひますがね。もし誰もそばに居ない時|接吻《せつぷん》したとすると」
 「だから知らんと斷つてるぢやないか」
 自分は黙つて考へ込んだ。
 「一體兄さんは何うして、其んな話を知つてるんです」
 「Hから聞いた」
 Hとは兄の同僚で、三澤を教へた男であつた。其Hは三澤の保證人だつたから、少しは關係の深い間柄なんだらうけれども、何うして斯んな際どい話を聞き込んで、兄に傳へたものだらうか、夫《それ》は彼も知らなかつた。
 「兄さんは何故《なぜ》又今日|迄《まで》其話を爲《し》ずに黙つてゐたんです」と自分は最後に兄に聞いた。兄は苦《にが》い顔をして、「する必要がないからさ」と答へた。自分は樣子によつたらもつと肉薄して見ようかと思つてゐるうちに汽車が着いた。
 
     十一
 
 停車場《ステーシヨン》を出るとすぐ其處に電車が待つてゐた。兄と自分は手提鞄《てさげかばん》を持つた儘婦人を扶《たす》けて急いでそれに乘り込んだ。
 電車は自分|達《たち》四人が一度に這入つた丈《だけ》で、中々動き出さなかつた。
 「閑靜な電車ですね」と自分が侮《あな》どるやうに云つた。
 「是なら妾達《わたしたち》の荷物を乘つけても宜《よ》ささうだね」と母は停車場の方を顧《かへり》みた。
 所へ書物を持つた書生體《しよせいてい》の男だの、扇を使ふ商人風の男だのが二三人前後して車臺に上《のぼ》つてばら/\に腰を掛け始めたので、運轉手は遂に把手《ハンドル》を動かし出した。
 自分達は何だか市の外廓《ぐわいくわく》らしい淋《さむ》しい土塀《どべい》つゞきの狹い町を曲つて、二三度停留所を通り越した後《のち》、高い石垣の下にある濠《ほり》を見た。濠《ほり》の中には蓮《はす》が一面に青い葉を浮《うか》べてゐた。其青い葉の中に、點々と咲く紅《くれなゐ》の花が、落ち付かない自分達の眼をちら/\させた。
 「へえー是が昔のお城かね」と母は感心してゐた。母の叔母といふのが、昔し紀州家の奧に勤めてゐたとか云ふので、母は一層感慨の念が深かつたのだらう。自分も子供の時、折々耳にした紀州樣、紀州樣といふ對建時代の言葉を不圖《ふと》思ひ出した。
 和歌山市を通り越して少し田舍道を走ると、電車はぢき和歌の浦へ着いた。拔目《ぬけめ》のない岡田はかねてから注意して土地で一流の宿屋へ室《へや》の注文をしたのだが、生憎《あいにく》避暑の客が込み合つて、眺めの好い座敷が塞《ふさ》がつてゐるとかで、自分達は直《たゞち》に俥《くるま》を命じて濱手の角を曲つた。さうして海を眞前《まんまへ》に控へた高い三階の上層の一室に入つた。
 其處は南と西の開《あ》いた廣い座敷だつたが、普請《ふしん》は氣の利いた東京の下宿屋|位《ぐらゐ》なもので、品位からいふと大阪の旅館とはてんで比べ物にならなかつた。時々|大一座《おほいちざ》でもあつた時に使ふ二階は打《ぶ》つ通しの大廣問で、伽藍堂《がらんだう》の樣な眞中《まんなか》に立つて、波を打つた安疊を眺めると、何となく殺風景な感が起つた。
 兄は其大廣間に假の仕切として立てゝあつた六枚折の屏風《びやうぶ》を黙つて見てゐた。彼は斯ういふものに對して、父の薫陶《くんたう》から來た一種の鑑賞力を有《も》つてゐた。其|屏風《びやうぶ》には妙にべろ/\した葉の竹が巧《たくみ》に描《ゑが》かれてゐた。兄は突然|後《うしろ》を向いて「おい二郎」と云つた。
 其時兄と自分は下の風呂に行く積《つもり》で二人ながら手拭をさげてゐた。さうして自分は彼の二間|許《ばか》り後《うしろ》に立つて、屏風の竹を眺める彼を又眺めてゐた。自分は兄が此屏風の畫《ゑ》について、何かまた批評を加へるに違ひないと思つた。
 「何です」と答へた。
 「先刻《さつき》汽車の中で話しが出た、あの三澤の事だね。お前は何う思ふ」
 兄の質問は實際自分に取つて意外であつた。彼は何故《なぜ》其話しを今迄自分に聞かせなかつたと汽車の中で問はれた時、既に苦い顔をして必要がないからだと答へた許《ばかり》であつた。
 「例の接吻《キツス》の話ですか」と自分は聞き返した。
 「いえ接吻《キツス》ぢやない。其女が三澤の出る後《あと》を慕つて、早く歸つて來て頂戴と必ず云つたといふ方の話さ」
 「僕には兩方|共《とも》面白いが、接吻《キツス》の方が何だかより多く純粹で且《かつ》美しい氣がしますね」
 此時自分達は二階の梯子段を半分程|降《お》りてゐた。兄は其の中途でぴたりと留つた。
 「そりや詩的に云ふのだらう。詩を見る眼で云つたら、兩方|共《とも》等しく面白いだらう。けれども己《おれ》の云ふのは左右《さう》ぢやない。もつと實際問題にしての話だ」
 
     十二
 
 自分には兄の意味が能く解らなかつた。黙つて梯子段の下まで降《お》りた。兄も仕方なしに自分の後《あと》に跟《つ》いて來た。風呂場の入口で立ち留つた自分は、振り返つて兄に聞いた。
 「實際問題と云ふと、何ういふ事になるんですか。一寸僕には解らないんですが」
 兄は焦急《じれつ》たさうに説明した。
 「つまり其女がさ、三澤の想像する通り本當に彼《あ》の男を思つてゐたか、又は先の夫《をつと》に對して云ひたかつた事を、我慢して云はずにゐたので、精神病の結果ふら/\と口にし始めたのか、何方《どつち》だと思ふと云ふんだ」
 自分も此問題は始め其話を聞いた時、少し考へて見た。けれども何方《どつち》が何《ど》うだか到底分るべき筈の者でないと諦めて、それなり放《はふ》つて仕舞つた。それで自分は兄の質問に對して是といふ程の意見も持つてゐなかつた。
 「僕には解らんです」
 「左右《さう》か」
 兄は斯う云ひながら、矢つ張り風呂に這入らうともせず、其儘立つてゐた。自分も仕方なしに裸になるのを控へてゐた。風呂は思つたより小さく且つ多少古びてゐた。自分は先づ薄暗い風呂を覗き込んで、又兄に向《むか》つた。
 「兄さんには何か意見が有るんですか」
 「己《おれ》は何《ど》うしても其女が三澤に氣があつたのだとしか思はれんがね」
 「何故《なぜ》ですか」
 「何故《なぜ》でも己《おれ》はさう解釋するんだ」
 二人は其話の結末を付けずに湯に入つた。湯から上つて婦人|連《れん》と入代つた時、室《へや》には西日が一杯|射《さ》して、海の上は溶けた鐵の樣に熱く輝いた。二人は日を避けて次の室《へや》に這入つた。さうして其處で相對して坐つた時、先刻《さつき》の問題が又兄の口から語頭に上《のぼ》つた。
 「己《おれ》は何《どう》しても斯う思ふんだがね……」
 「えゝ」と自分は只|大人《おとな》しく聞いてゐた。
 「人間は普通の場合には世間の手前とか義理とかで、いくら云ひ度くつても云へない事が澤山あるだらう」
 「夫《それ》は澤山あります」
 「けれども夫《それ》が精神病になると――と云ふと凡《すべ》ての精神病を含めて云ふやうで、醫者から笑はれるかも知れないが、――然し精神病になつたら、大變氣が樂《らく》になるだらうぢやないか」
 「左右《さう》云ふ種類の患者もあるでせう」
 「所でさ、もし其女が果《はた》して左右《さう》いふ種類の精神病患者だとすると、凡《すべ》て世間|並《なみ》の責任は其女の頭の中から消えて無くなつて仕舞ふに違なからう。消えて無くなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構はず露骨に云へるだらう。さうすると、其女の三澤に云つた言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遙に誠の籠《こも》つた純粹のものぢやなからうか」
 自分は兄の解釋にひどく感服して仕舞つた。「夫《それ》は面白い」と思はず手を拍《う》つた。すると兄は案外不機嫌な顔をした。
 「面白いとか面白くないとか云ふ浮いた話ぢやない。二郎、實際今の解釋が正確だと思ふか」と問ひ詰める樣に聞いた。
 「左右《さう》ですね」
 自分は何となく躊躇しなければならなかつた。
 「噫々《あゝ/\》女も氣狂《きちがひ》にして見なくつちや、本體は到底解らないのかな」
 兄は斯う云つて苦しい溜息を洩らした。
 
     十三
 
 宿の下には可成《かなり》大きな掘割《ほりわり》があつた。それが何《ど》うして海へつゞいてゐるか一寸解らなかつたが、夕方には漁船が一二艘何所からか漕ぎ寄せて來て、緩《ゆる》やかに樓の前を通り過ぎた。
 自分達は其掘割に沿うて一二丁右の方へ歩いた後《あと》、又左へ切れて田圃路《たんぼみち》を横切り始めた。向ふを見ると、田の果《はて》がだら/\坂の上《のぼ》りになつて、其を上《のぼ》り盡した土手の縁《ふち》には、松が左右に長く續いてゐた。自分達の耳には大きな波の石に碎ける音がどどん/\と聞えた。三階から見ると其碎けた波が忽然白い煙となつて空《くう》に打上げられる樣《さま》が、明かに見えた。
 自分達は遂に其土手の上へ出た。波は土手のもう一つ先にある厚く築き上げられた石垣に當つて、見事に粉微塵《こみぢん》となつた末、※[者/火]え返るやうな色を起して空《くう》を吹くのが常であつたが、偶《たま》には崩れたなり石垣の上を流れ越えて、ざつと内側へ落ち込んだりする大きいのもあつた。
 自分達はしばらく其壯觀に見惚《みと》れてゐたが、やがて強い浪の響きを耳にしながら歩き出した。其時母と自分は、是が片男波《かたをなみ》だらうと好い加減な想像を話の種に二人|並《なら》んで歩いた。兄夫婦は自分達より少し先へ行つた。二人とも浴衣掛《ゆかたがけ》で、兄は細い洋杖《ステツキ》を突いてゐた。嫂《あによめ》は又幅の狹い御殿模樣か何かの麻の帶を締めてゐた。彼等は自分達より殆んど二十間ばかり先へ出てゐた。さうして二人とも並んで足を運ばして行つた。けれども彼等の間には彼是《かれこれ》一間の距離があつた。母はそれを氣にする樣な、又氣にしない樣な眼遣《めづかひ》で、時々見た。其見方が又餘りに神經的なので、母の心は此二人について何事かを考へながら歩いてゐるとしか思へなかつた。けれども自分は話しの面倒になるのを恐れたから、素知《そし》らぬ顔をしてわざと緩々《ゆる/\》歩いた。さうして成るべく呑《の》ん氣《き》さうに見せる積《つもり》で母を笑はせるやうな剽輕《へうきん》な事ばかり饒舌《しやべ》つた。母は何時《いつ》もの通り「二郎、御前見たいに暮して行けたら、世間に苦はあるまいね」と云つたりした。
 仕舞に彼女はとう/\堪《こら》へ切れなくなつたと見えて、「二郎あれを御覽」と云ひ出した。
 「何ですか」と自分は聞き返した。
 「あれだから本當に困るよ」と母が云つた。其時母の眼は先へ行く二人の後姿を凝《ぢつ》と見詰めてゐた。自分は少くとも彼女の困ると云つた意味を表向《おもてむき》承認しない譯に行かなかつた。
 「又何か兄さんの氣に障る事でも出來たんですか」
 「そりやあの人の事だから何とも云へないがね。けれども夫婦となつた以上は、お前、いくら且那が素《そ》つ氣《け》なくしてゐたつて、此方《こつち》は女だもの。直《なほ》の方から少しは機嫌の直《なほ》るやうに仕向けて呉れなくつちや困るぢやないか。あれを御覽な、あれぢや丸《まる》であかの他人が同《おん》なじ方角へ歩いて行くのと違《ちが》やしないやね。なんぼ一郎だつて直《なほ》に傍《そば》へ寄つて呉れるなと頼みやしまいし」
 母は無言の儘離れて歩いてゐる夫婦のうちで、唯|嫂《あによめ》の方にばかり罪を着せたがつた。是には多少自分にも同感な所もあつた。さうして此同感は平生から兄夫婦の關係を傍《はた》で見てゐるものゝ胸には屹度《きつと》起る自然のものであつた。
 「兄さんは又何か考へ込んでゐるんですよ。夫《それ》で姉さんも遠慮してわざと口を利かずにゐるんでせう」
 自分は母の爲にわざと斯んな氣休《きやす》めを云つて胡魔化《ごまか》さうとした。
 
     十四
 
 「たとひ何か考へて居るにしてもだね。直《なほ》の方があゝ無頓着ぢや片つ方でも口の利きやうがないよ。丸《まる》でわざ/\離れて歩いてゐるやうだもの」
 兄に同情の多い母から見ると、嫂《あによめ》の後姿は、如何《いか》にも冷淡らしく思はれたのだらう。が自分はそれに對して何とも答へなかつた。たゞ歩きながら嫂《あによめ》の性格をもつと一般的に考へるやうになつた。自分は母の批評が滿更《まんざら》當つてゐないとも思はなかつた。けれども我肉身の子を可愛《かはい》がり過ぎるせゐで、少し彼女の缺點を苛酷《かこく》に見て居はしまいかと疑つた。
 自分の見た彼女は決して温《あたゝ》かい女ではなかつた。けれども相手から熱を與へると、温《あたゝ》め得る女であつた。持つて生れた天然の愛嬌《あいけう》のない代りには、此方《こつち》の手加減で隨分愛嬌を搾《しぼ》り出す事の出來る女であつた。自分は腹の立つ程の冷淡さを嫁入後《よめいりご》の彼女《かのぢよ》に見出《みいだ》した事が時々あつた。けれども矯《た》め難い不親切や殘酷心はまさかにあるまいと信じてゐた。
 不幸にして兄は今自分が嫂《あによめ》について云つた樣な氣質を多量に具へてゐた。從つて同じ型に出來上つた此夫婦は、己《おの》れの要するものを、要する事の出來ないお互に對して、初手《しよて》から求め合つてゐて、未《いま》だにしつくり反《そり》が合はずに居るのではあるまいか。時々兄の機嫌の好い時|丈《だけ》、嫂《あによめ》も喩快さうに見えるのは、兄の方が熱し易い性《たち》丈《だけ》に、女に働き掛ける温《あたゝ》か味《み》の功力《くりき》と見るのが當然だらう。さうでない時は、母が嫂《あによめ》を冷淡過ぎると評する樣に、嫂《あによめ》も亦兄を冷淡過ぎると腹のうちで評してゐるかも知れない。
 自分は母と並んで歩きながら先へ行く二人を斯んなに考へた。けれども母に對してはそんな六づかしい理窟を云ふ氣にはなれなかつた。すると「何うも不思議だよ」と母が云ひ出した。
 「一體|直《なほ》は愛嬌のある質《たち》ぢやないが、御父さんや妾《わたし》には何時《いつ》だつて同《おん》なじ調子だがね。二郎、御前にだつて左右《さう》だらう」
 是は全く母の云ふ通りであつた。自分は元來|性急《せつかち》な性分で、よく大きな聲を出したり、怒鳴《どな》り付けたりするが、不思議にまだ嫂《あによめ》と喧嘩をした例《ためし》はなかつたのみならず、場合によると、兄よりも却《かへ》つて心置なく話をした。
 「僕にも左右《さう》ですがね。成程さう云はれゝば少々變には違ない」
 「だからさ妾《わたし》には直《なほ》が一郎に對して丈《だけ》、わざ/\、彼《あ》んな風をつらあてがましく遣つてゐる樣に思はれて仕方がないんだよ」
 「まさか」
 自白すると自分は此間題を母程|細《こま》かく考へてゐなかつた。從つてそんな疑ひを挾《さしは》さむ餘地がなかつた。あつても其原因が第一不審であつた。
 「だつて宅中《うちぢゆう》で兄さんが一番大事な人ぢやありませんか、姉さんに取つて」
 「だからさ。御母さんには譯が解らないと云ふのさ」
 自分には折角斯んな景色の好い所へ來ながら、際限もなく母を相手に、嫂《あによめ》を陰で評してゐるのが馬鹿らしく感ぜられてきた。
 「其内|機會《をり》があつたら、姉さんにまた能く腹の中《なか》を僕から聞いて見ませう。何心配する程の事はありませんよ」と云ひ切つて、向《むかふ》の石垣迄突き出してゐる掛茶屋から防波堤の上に馳《か》け上つた。さうして、精一杯の聲を揚げて、「おーい/\」と呼んだ。兄夫婦は驚いて振り向いた。其時石の堤に當つて碎けた波が、吹き上《あ》げる泡と脚を洗ふ流れとで、自分を濡鼠《ぬれねずみ》の如くにした。
 自分は母に叱られながら、ぽた/\雫《しづく》を垂らして、三人と共に宿に歸つた。とどん/\といふ波の音が、歸り道|中《ぢゆう》自分の鼓膜に響いた。
 
     十五
 
 其晩自分は母と一所に眞白な蚊帳の中に寢た。普通の麻よりは遙に薄く出來てゐるので、風が來て綺麗なレースを弄《もてあそ》ぶ樣《さま》が凉しさうに見えた。
 「好い蚊帳ですね。宅《うち》でも一つ斯んなのを買はうぢやありませんか」と母に勸めた。
 「是りや見てくれ丈《だけ》は綺麗だが、それ程高いものぢやないよ。却《かへ》つて宅《うち》にあるあの白麻の方が上等なんだよ。たゞ此方《こつち》のはうが輕くつて、繼ぎ目がない丈《だけ》に華奢《きやしや》に見えるのさ」
 母は昔もの丈《だけ》あつて宅《うち》にある岩國《いはくに》か何處かで出來る麻の蚊帳の方を賞めてゐた。
 「だいち寢冷《ねびえ》をしない丈《だけ》でも彼方《あつち》の方が得ぢやないか」と云つた。
 下女が來て障子を締め切つてから、蚊帳は少しも動かなくなつた。
 「急に暑苦しくなりましたね」と自分は嘆息するやうに云つた。
 「左右《さう》さね」と答へた母の言葉は、丸で暑さが苦にならない程《ほど》落付いてゐた。それでも團扇遣《うちはづかひ》の音|丈《だけ》は微《かす》かに聞こえた。
 母はそれから弗《ふつ》つり口を利かなくなつた。自分も眼を眠つた。襖《ふすま》一つ隔てた隣座敷には兄夫婦が寢てゐた。これは先刻《さつき》から靜であつた。自分の話相手がなくなつて此方《こつち》の室《へや》が急に寂《ひつ》そりして見ると、兄の室《へや》は猶《なほ》森閑と自分の耳を澄ました。
 自分は眼を閉ぢた儘|凝《ぢつ》としてゐた。然し何時《いつ》迄《まで》經《た》つても寢つかれなかつた。仕舞には靜さに祟《たゝ》られたやうな此暑い苦しみを痛切に感じ出した。それで母の眠を妨げない樣にそつと蒲團の上に起き直つた。それから蚊帳の裾を捲《まく》つて縁側へ出る氣で、成る可く音のしない樣に障子をすうと開《あ》けに掛つた。すると今迄寢入つてゐたと許《ばかり》思つた母が突然「二郎何處へ行くんだい」と聞いた。
 「あんまり寢苦しいから、縁側へ出て少し凉まうと思ひます」
 「左右《さう》かい」
 母の聲は明晰で落ち付いてゐた。自分は其調子で、彼女がまんじりともせずに今迄起きてゐた事を知つた。
 「御母さんも、まだ御休みにならないんですか」
 「えゝ寢床の變つた所爲《せゐ》か何だか勝手が違つてね」
 自分は貸浴衣《かしゆかた》の腰に三尺帶を一重《ひとへ》廻した丈《だけ》で、懷へ敷島の袋と燐寸《マツチ》を入れて縁側へ出た。縁側には白いカ※[ワに濁点]ーの掛つた椅子が二脚|程《ほど》出てゐた。自分は其一脚を引き寄せて腰を掛けた。
 「餘りがた/\云はして、兄さんの邪魔になると不可《いけ》ないよ」
 母から斯う注意された自分は、煙草を吹かしながら黙つて、夢のやうな眼前《めのまへ》の景色を眺めてゐた。景色は夜と共に無論ぼんやりしてゐた。月のない晩なので、殊更《ことさら》暗いものが蔓《はびこ》り過ぎた。其うちに晝間見た土手の松並木|丈《だけ》が一際《ひときは》黒ずんで左右に長い帶を引き渡してゐた。其下に浪の碎けた白い泡が夜の中に絶間なく動搖するのが、比較的刺戟|強《づよ》く見えた。
 「もう好い加減に御這入りよ。風邪でも引くと不可《いけ》ないから」
 母は障子の内から斯う云つて注意した。自分は椅子に倚《よ》りながら、母に夜の景色を見せようと思つて一寸勸めたが、彼女は應じなかつた。自分は素直に又蚊帳の中に這入つて、枕の上に頭を着けた。
 自分が蚊帳を出たり這入つたりした間、兄夫婦の室《へや》は森《しん》として元の如く靜かであつた。自分が再び床に着いた後《あと》も依然として同じ沈黙に鎖《とざ》されてゐた。たゞ防波堤に當つて碎ける浪の音のみが、どどん/\と何時《いつ》迄《まで》も響いた。
 
     十六
 
 朝起きて膳に向つた時見ると、四人《よつたり》は悉《こと/”\》く寢足らない顔をしてゐた。さうして四人《よつたり》とも其寐足らない雲を膳の上に打ちひろげてわざと會話を陰氣にしてゐるらしかつた。自分も變に窮屈だつた。
 「昨夕《ゆうべ》食つた鯛《たひ》の焙烙蒸《はうろくむし》に中《あ》てられたらしい」と云つて、自分は不味《まづ》さうな顔をして席を立つた。手摺《てすり》の所へ來て、隣に見える東洋第一エレ?ーターと云ふ看板を眺めてゐた。此昇降器は普通のやうに、家の下層から上層に通じてゐるのとは違つて、地面から岩山の頂《いたゞき》まで物數寄《ものずき》な人間を引き上げる仕掛であつた。所にも似ず無風流な裝置には違ないが、淺草にもまだない新しさが、昨日《きのふ》から自分の注意を惹いてゐた。
 果《はた》して早起の客が二人三人ぼつ/\もう乘り始めた。早く食事を終へた兄は何時《いつ》の間《ま》にか、自分の後《うしろ》へ來て、小楊枝を使ひながら、上《のぼ》つたり下《お》りたりする鐵の箱を自分と同じ樣に眺めてゐた。
 「二郎、今朝一寸あの昇降器へ乘つて見ようぢやないか」と兄が突然云つた。
 自分は兄にしては些《ち》と子供らしい事を云ふと思つて、ひよつと後《うしろ》を顧みた。
 「何だか面白さうぢやないか」と兄は柄にもない稚氣《ちき》を言葉に現した。自分は昇降器へ乘るのは好いが、ある目的地へ行けるか何うか夫《それ》が危《あや》しかつた。
 「何處へ行けるんでせう」
 「何處だつて構はない。さあ行かう」
 自分は母と嫂《あによめ》も無論一所に連れて行く積《つもり》で、「さあ/\」と大きな聲で呼び掛けた。すると兄は急に自分を留めた。
 「二人で行かう。二人|限《ぎり》で」と云つた。
 そこへ母と嫂《あによめ》が「何處へ行くの」と云つて顔を出した。
 「何一寸あのエレ?ーターへ乘つて見るんです。二郎と一所に。女には劔呑《けんのん》だから、御母さんや直《なほ》は止した方が好いでせう。僕等がまあ乘つて、試して見ますから」
 母は虚空《こくう》に昇つて行く鐵の箱を見ながら氣味の惡さうな顔をした。
 「直《なほ》お前何うするい」
 母が斯う聞いた時、嫂《あによめ》は例の通り淋《さむ》しい靨《ゑくぼ》を寄せて「妾《わたくし》は何うでも構ひません」と答へた。それが大人《おとな》しいとも取れるし、又聽きやうでは、冷淡とも無愛想とも取れた。夫《それ》を自分は兄に對して氣の毒と思ひ嫂《あによめ》に對しては損だと考へた。
 二人は浴衣掛《ゆかたがけ》で宿を出ると、すぐ昇降器へ乘つた。箱は一間四方|位《くらゐ》のもので、中に五六人這入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さへ出す事の出來ない鐵の棒の間から外を見た。さうして非常に欝陶《うつたう》しい感じを起した。
 「牢屋見たいだな」と兄が低い聲で私語《さゝや》いた。
 「左右《さう》ですね」と自分が答へた。
 「人間も此通りだ」
 兄は時々斯んな哲學者めいた事をいふ癖があつた。自分は只「左右《さう》ですな」と答へた丈《だけ》であつた。けれども兄の言葉は單に其輪廓|位《ぐらゐ》しか自分には呑み込めなかつた。
 牢屋に似た箱の上《のぼ》り詰めた頂點は、小さい石山の天邊《てつぺん》であつた。其處々に脊の低い松が噛《かじ》りつくやうに青味を添へて、單調を破るのが、夏の眼に嬉しく映つた。さうして僅な平地《ひらち》に掛茶庭があつて、猿が一匹飼つてあつた。兄と自分は猿に芋を遣つたり、調戯《からか》つたりして、物の十分も其茶屋で費やした。
 「何處か二人|丈《だけ》で話す所はないかな」
 兄は斯う云つて四方《あたり》を見渡した。其眼は本當に二人|丈《だけ》で話の出來る靜かな場所を見付けてゐるらしかつた。
 
     十七
 
 其處は高い地勢のお蔭で四方とも能く見晴らされた。ことに有名な紀三井寺《きみゐでら》を蓊欝《こんもり》した木立《こだち》の中に遠く望む事が出來た。其|麓《ふもと》に入江らしく穩かに光る水が又|海濱《かいひん》とは思はれない澤邊《さはべ》の景色を、複雜な色に描《ゑが》き出してゐた。自分は傍《そば》に居る人から淨瑠璃《じやうるり》にある下《さが》り松《まつ》といふのを教へて貰つた。其松は成程懸崖を傳ふ樣に逆《さか》に枝を伸《の》してゐた。
 兄は茶店の女に、此處いらで靜な話をするに都合の好い場所はないかと尋ねてゐたが、茶店の女は兄の問が解らないのか、何を云つても少しも要領を得なかつた。さうして地方訛《ちはうなまり》ののし〔二字傍点〕とかいふ語尾を頻に繰返した。
 仕舞に兄は「ぢや其|權現樣《ごんげんさま》へでも行くかな」と云ひ出した。
 「權現樣《ごんげんさま》も名所の一つだから好いでせう」
 二人はすぐ山を下りた。俥《くるま》にも乘らず、傘《かさ》も差さず、麥藁帽子|丈《だけ》被つて暑い砂道を歩いた。斯うして兄と一所に昇降器へ乘つたり、權現へ行つたりするのが、其日は自分に取つて、何だか不安に感ぜられた。平生でも兄と差向ひになると多少|氣不精《きぶつせい》には違なかつたけれども、其日程落付かない事も亦珍らしかつた。自分は兄から「おい二郎二人で行かう、二人|限《ぎり》で」と云はれた時から既に變な心持がした。
 二人は額から油汗をぢり/\湧かした。其上に自分は實際|昨夕《ゆうべ》食つた鯛の焙烙蒸《はうろくむし》に少し中《あ》てられてゐた。そこへ段々高くなる太陽が容赦なく具合の惡い頭を照らしたので、自分は仕方なしに黙つて歩いてゐた。兄も無言の儘《まゝ》體を運ばした。宿で借りた粗末な下駄がさく/\砂に喰ひ込む音が耳に付いた。
 「二郎何うかしたか」
 兄の聲は全く藪から棒が急に出た樣に自分を驚かした。
 「少し心持が變です」
 二人は又無言で歩き出した。
 漸く權現の下へ來た時、細い急な石段を仰ぎ見た自分は、其高いのに辟易《へきえき》する丈《だけ》で、容易に登る勇氣は出し得なかつた。兄は其下に並べてある藁草履を突掛けて十段ばかり一人で上《のぼ》つて行つたが、後《あと》から續かない自分に氣が付いて、「おい來ないか」と嶮《けは》しく呼んだ。自分も仕方なしに婆さんから草履を一足借りて、骨を折つて石段を上《のぼ》り始めた。夫《それ》でも中途位から一歩ごとに膝の上に兩手を置いて、身體の重みを託さなければならなかつた。兄を下から見上げると左《さ》も焦熱《じれ》つたさうに頂上の山門の角に立つてゐた。
 「丸で醉つ拂ひの樣ぢやないか、段々を筋遠《すぢかひ》に練《ね》つて歩くざまは」
 自分は何と評されても構はない氣で、早速帽子を地《ぢ》の上に投げると同時に、肌を拔いだ。扇を持たないので、手にした手帛《ハンケチ》でしきりに胸の邊《あた》りを拂つた。自分は後《うしろ》から「おい二郎」と屹度《きつと》何か云はれるだらうと思つて、内心穩かでなかつた所爲《せゐ》か、汗に濡れた手帛《ハンケチ》を無暗に振り動かした。さうして「暑い暑い」と續けさまに云つた。
 兄は軈《やが》て自分の傍《そば》へ來て其處にあつた石に腰を卸《おろ》した。其石の後《うしろ》は篠竹《しのだけ》が一面に生えて遙《はるか》の下迄石垣の縁《ふち》を隱す樣に茂つてゐた。其中から大きな椿が所々に白茶《しらちや》けた幹を現すのが殊に目立つて見えた。
 「成程此處は靜だ。此處なら悠《ゆつ》くり話が出來さうだ」と兄は四方《あたり》を見廻した。
 
     十八
 
 「二郎少し御前に話があるがね」と兄が云つた。
 「何です」
 兄は少時《しばらく》逡巡《しゆんじゆん》して口を開《ひら》かなかつた。自分は又それを聞くのが厭さに、催促もしなかつた。
 「此處は凉しいですね」と云つた。
 「あゝ凉しい」と兄も答へた。
 實際其處は日影に遠い所爲《せゐ》か凉しい風の通ふ高みであつた。自分は三四分|手帛《ハンケチ》を動かした後《のち》、急に肌を入れた。山門の裏には物寂びた小さい拜殿があつた。餘程古い建物と見えて、軒に彫付けた獅子の頭|抔《など》は繪の具が半分剥げかゝつてゐた。
 自分は立つて山門を潜《くゞ》つて拜殿の方へ行つた。
 「兄さん此方《こつち》の方がまだ凉しい。此方《こつち》へ入らつしやい」
 兄は答へもしなかつた。自分は夫《それ》を機《しほ》に拜殿の前面を左右に逍遙した。さうして暑い日を遮《さへぎ》る高い常磐木《ときはぎ》を見てゐた。所へ兄が不平な顔をして自分に近づいて來た。
 「おい少し話しがあるんだと云つたぢやないか」
 自分は仕方なしに拜殿の段々に腰を掛けた。兄も自分に並んで腰を掛けた。
 「何ですか」
 「實は直《なほ》の事だがね」と兄は甚だ云ひ惡《にく》い所をやつと云ひ切つたといふ風に見えた。自分は「直《なほ》」といふ言葉を聞くや否や冷《ひや》りとした。兄夫婦の間柄は母が自分に訴へた通り、自分にも大抵は呑み込めてゐた。さうして母に約束した如く、自分は何時《いつ》か折を見て、嫂《あによめ》に腹の中《なか》をとつくり聽糺《きゝたゞ》した上、此方《こつち》から其知識をもつて、積極的に兄に向《むか》はうと思つてゐた。それを自分が遣らないうちに、若し兄から先《せん》を越されでもすると困るので、自分はひそかに其處を心配してゐた。實を云ふと、今朝兄から「二郎、二人で行かう、二人|限《ぎり》で」と云はれた時、自分は或は此間題が出るのではあるまいかと掛念《けねん》して自《おのづ》と厭になつたのである。
 「嫂《ねえ》さんが何うかしたんですか」と自分は已《やむ》を得ず兄に聞き返した。
 「直《なほ》は御前に惚れてるんぢやないか」
 兄の言葉は突然であつた。且《かつ》普通兄の有《も》つてゐる品格にあたひしなかつた。
 「何うして」
 「何うしてと聞かれると困る。夫《そ》れから失禮だと怒られては猶《なほ》困る。何も文《ふみ》を拾つたとか、接吻《せつぷん》した所を見たとか云ふ實證から來た話ではないんだから。本當いふと表向《おもてむき》こんな愚劣な問を、苟《いや》しくも夫《をつと》たる己《おれ》が、他人に向つて掛けられた譯のものではない。ないが相手が御前だから己《おれ》も己《おれ》の體面を構はずに、聞き惡《にく》い所を我慢して聞くんだ。だから云つて呉れ」
 「だつて嫂《ねえ》さんですぜ相手は。夫《をつと》のある婦人、殊に現在の嫂《あによめ》ですぜ」
 自分は斯う答へた。さうして斯う答へるより外に何と云ふ言葉も出なかつた。
 「それは表面の形式から云へば誰もさう答へなければならない。御前も普通の人間だからさう答へるのが至當だらう。己《おれ》も其|一言《いちごん》を聞けば只《たゞ》恥ぢ入るより外に仕方がない。けれども二郎御前は幸ひに正直な御父さんの遺傳を受けてゐる。それに近頃の、何事も隱さないといふ主義を最高のものとして信じてゐるから聞くのだ。形式上の答へは己《おれ》にも聞かない先から解つてゐるが、たゞ聞きたいのは、もつと奧の奧の底にある御前の感じだ。その本當の所を何うぞ聞かして呉れ」
 
     十九
 
 「そんな腹の奧の奧底にある感じなんて僕に有る筈がないぢやありませんか」
 斯う答へた時、自分は兄の顔を見ないで、山門の屋根を眺めてゐた。兄の言葉はしばらく自分の耳に聞こえなかつた。すると其れが一種の癇高《かんだか》い、さも昂奮を抑へたやうな調子になつて響いて來た。
 「おい二郎何だつて其んな輕薄な挨拶をする。己《おれ》と御前は兄弟ぢやないか」
 自分は驚いて兄の顔を見た。兄の顔は常磐木《ときはぎ》の影で見る所爲《せゐ》か稍《やゝ》蒼味《あをみ》を帶びてゐた。
 「兄弟ですとも。僕はあなたの本當の弟《おとゝ》です。だから本當の事を御答へした積《つもり》です。今云つたのは決して空々しい挨拶でも何でもありません。眞底さうだから左右《さう》いふのです」
 兄の神經の鋭敏な如く自分は熱しやすい性急《せつかち》であつた。平生の自分なら或は斯んな返事は出なかつたかも知れない。兄は其時簡單な一句を射た。
 「屹度《きつと》」
 「えゝ屹度《きつと》」
 「だつて御前の顔は赤いぢやないか」
 實際其時の自分の顔は赤かつたかも知れない。兄の面色《めんしよく》の蒼いのに反して、自分は我知らず、兩方の頬の熱《ほて》るのを強く感じた。其上自分は何と返事をして好いか分らなかつた。
 すると兄は何と思つたか忽ち階段から腰を起した。さうして腕組をしながら、自分の席を取つてゐる前を右左《みぎひだり》に歩き出した。自分は不安な眼をして、彼の姿を見守つた。彼は始めから眼を地面の上に落してゐた。二三度自分の前を横切つたけれども決して一遍も其眼を上げて自分を見なかつた。三度目に彼は突如として、自分の前に來て立ち留つた。
 「二郎」
 「はい」
 「おれは御前の兄だつたね。誠に子供らしい事を云つて濟まなかつた」
 兄の眼の中には涙が一杯溜つてゐた。
 「何故《なぜ》です」
 「おれは是でも御前より學問も餘計した積《つもり》だ。見識も普通の人間より持つてゐると許《ばかり》今日《こんにち》迄《まで》考へてゐた。所があんな子供らしい事をつい口にして仕舞つた。まことに面目《めんぼく》ない。何うぞ兄を輕蔑して呉れるな」
 「何故です」
 自分は簡單な此問を再び繰返した。
 「何故ですとさう眞面目に聞いて呉れるな。あゝ己《おれ》は馬鹿だ」
 兄は斯う云つて手を出した。自分はすぐ其手を握つた。兄の手は冷たかつた。自分の手も冷たかつた。
 「たゞ御前の顔が少し許《ばかり》赤くなつたからと云つて、御前の言葉を疑ぐるなんて、まことに御前の人格に對して濟まない事だ。何うぞ堪忍して呉れ」
 自分は兄の氣質が女に似て陰晴常なき天候の如く變るのを能く承知してゐた。然し一《ひ》と見識《けんしき》ある彼の特長として、自分にはそれが天眞爛漫《てんしんらんまん》の子供らしく見えたり、又は玉のやうに玲瓏《れいろう》な詩人らしく見えたりした。自分は彼を尊敬しつゝも、何處か馬鹿にし易い所のある男の樣に考へない譯に行かなかつた。自分は彼の手を握つた儘「兄さん、今日は頭が何うかして居るんですよ。そんな下らない事はもう是限《これぎり》にして徐々《そろ/\》歸らうぢやありませんか」と云つた。
 
     二十
 
 兄は突然自分の手を放した。けれども決して其處を動かうとしなかつた。元の通り立つた儘何も云はずに自分を見下《みおろ》した。
 「御前|他《ひと》の心が解るかい」と突然聞いた。
 今度は自分の方が何も云はずに兄を見上げなければならなかつた。
 「僕の心が兄さんには分らないんですか」と稍《やゝ》間《あひだ》を置いて云つた。自分の答には兄の言葉より一種の根強さが籠つてゐた。
 「御前の心は己《おれ》に能く解つてゐる」と兄はすぐ答へた。
 「ぢや夫《それ》で好いぢやありませんか」と自分は云つた。
 「いや御前の心ぢやない。女の心の事を云つてるんだ」
 兄の言語のうち、後《あと》一句には火の付いたやうな鋭さがあつた。其鋭さが自分の耳に一種異樣の響を傳へた。
 「女の心だつて男の心だつて」と云ひ掛けた自分を彼は急に遮つた。
 「御前は幸福な男だ。恐らくそんな事をまだ研究する必要が出て來なかつたんだらう」
 「そりや兄さんの樣な學者ぢやないから……」
 「馬鹿云へ」と兄は叱り付けるやうに叫んだ。
 「書物の研究とか心理學の説明とか、そんな廻り遠い研究を指すのぢやない。現在自分の眼前に居て、最も親しかるべき筈の人、其人の心を研究しなければ、居ても立つても居られないといふやうな必要に出逢つた事があるかと聞いてるんだ」
 最も親しかるべき筈の人と云つた兄の意味は自分にすぐ解つた。
 「兄さんは餘《あん》まり考へ過ぎるんぢやありませんか、學問をした結果。もう少し馬鹿になつたら好いでせう」
 「向ふでわざと考へさせるやうに仕向けて來るんだ。己《おれ》の考へ慣れた頭を逆《ぎやく》に利用して。何うしても馬鹿にさせて呉れないんだ」
 自分は茲《こゝ》にいたつて、殆んど慰藉の辭《じ》に窮した。自分より幾倍立派な頭を有《も》つてゐるか分らない兄が、斯んな妙な問題に對して自分より幾倍頭を惱めてゐるかを考へると、甚だ氣の毒でならなかつた。兄が自分より神經質な事は、兄も自分もよく承知してゐた。けれども今迄兄から斯う歇私的里的《ヒステリてき》に出られた事がないので、自分も實は途方に暮れて仕舞つた。
 「御前メレヂスといふ人を知つてるか」と兄が聞いた。
 「名前|丈《だけ》は聞いてゐます」
 「あの人の書翰集《しよかんしふ》を讀んだ事があるか」
 「讀む所《どころ》か表紙を見た事も有りません」
 「左右《さう》か」
 彼は斯う云つて再び自分の傍《そば》へ腰を掛けた。自分は此時始めて懷中に數島の袋と燐寸《マツチ》のある事に氣が付いた。それを取り出して、自分から先づ火を點《つ》けて兄に渡した。兄は器械的にそれを吸つた。
 「其人の書翰《しよかん》の一つのうちに彼は斯んな事を云つてゐる。――自分は女の容貌に滿足する人を見ると羨ましい。女の肉に滿足する人を見ても羨ましい。自分は何うあつても女の靈《れい》といふか魂《たましひ》といふか、所謂《いはゆる》スピリツトを攫《つか》まなければ滿足が出來ない。それだから何うしても自分には戀愛事件が起らない」
 「メレヂスつて男は生涯獨身で暮したんですかね」
 「そんな事は知らない。又そんな事は何うでも構はないぢやないか。然し二郎、おれが靈《れい》も魂《たましひ》も所謂《いはゆる》スピリツトも攫《つか》まない女と結婚してゐる事|丈《だけ》は慥《たしか》だ」
 
     二十一
 
 兄の顔には苦悶の表情があり/\と見えた。色々な點に於て兄を尊敬する事を忘れなかつた自分は、此時胸の奧で殆んど恐怖に近い不安を感ぜずには居られなかつた。
 「兄さん」と自分はわざと落付き拂つて云つた。
 「何だ」
 自分は此答を聞くと同時に立つた。さうして、殊更《ことさら》に兄の腰を掛けてゐる前を、先刻《さつき》兄が遣つたと同じ樣に、然し全く別の意味で、右左《みぎひだり》へと二三度横切つた。兄は自分には丸《まる》で無頓着に見えた。兩手の指を、少し長くなつた髪の間に、櫛《くし》の齒の樣に深く差し込んで下を向いてゐた。彼は大變|色澤《いろつや》の好い髪の所有者であつた。自分は彼の前を横切る度に、其|漆黒《しつこく》の髪と其《その》間《あひだ》から見える關節の細い、華奢《きやしや》な指に眼を惹《ひ》かれた。其指は平生から自分の眼には彼の神經質を代表する如く優しく且《かつ》骨張つて映つた。
 「兄さん」と自分が再び呼掛けた時、彼は漸く重さうに頭を上げた。
 「兄さんに對して僕が斯んな事をいふと甚だ失禮かも知れませんがね。他《ひと》の心なんて、いくら學問をしたつて、研究をしたつて、解りつこないだらうと僕は思ふんです。兄さんは僕よりも偉い學者だから固《もと》より其處に氣が付いて居らつしやるでせうけれども、いくら親しい親子だつて兄弟だつて、心と心は只通じてゐるやうな氣持がする丈《だけ》で、實際向ふと此方《こつち》とは身體が離れてゐる通り心も離れてゐるんだから仕樣がないぢやありませんか」
 「他《ひと》の心は外から研究は出來る。けれども其心に爲《な》つて見る事は出來ない。其位の事なら己《おれ》だつて心得てゐる積《つもり》だ」
 兄は吐き出すやうに、又|懶《ものう》さうに斯う云つた。自分はすぐ其|後《あと》に跟《つ》いた。
 「それを超越するのが宗教なんぢやありますまいか。僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが、兄さんは何でも能く考へる性質《たち》だから……」
 「考へる丈《だけ》で誰が宗教心に近づける。宗教は考へるものぢやない、信じるものだ」
 兄は左《さ》も忌々しさうに斯う云ひ放つた。さうして置いて、「あゝ己《おれ》は何《ど》うしても信じられない。何うしても信じられない。たゞ考へて、考へて、考へる丈《だけ》だ。二郎、何《ど》うか己《おれ》を信じられる樣にして呉れ」と云つた。
 兄の言葉は立派な教育を受けた人の言葉であつた。然し彼の態度は殆んど十八九の子供に近かつた。自分はかゝる兄を自分の前に見るのが悲しかつた。其時の彼はほとんど砂の中で狂ふ泥鰌《どぢやう》の樣であつた。
 いづれの點に於いても自分より立ち勝つた兄が、斯んな態度を自分に示したのは此時が始めてであつた。自分はそれを悲しく思ふと同時に、此傾向で彼が段々進んで行つたなら或は遠からず彼の精神に異状を呈するやうになりはしまいかと懸念《けねん》して、それが急に恐ろしくなつた。
 「兄さん、此事に就いては僕も實はとうから考へてゐたんです……」
 「いや御前の考へなんか聞かうと思つてゐやしない。今日御前を此處へ連れて來たのは少し御前に頼みがあるからだ。何うぞ聞いて呉れ」
 「何ですか」
 事は段々面倒になつて來さうであつた。けれども兄は容易に其頼みといふのを打ち明けなかつた。所へ我々と同じ遊覽人めいた男女《なんによ》が三四人石段の下に現れた。彼等はてんでに下駄を草履と脱ぎ易へて、高い石段を此方《こつち》へ登つて來た。兄は其人影を見るや否や急に立上がつた。「二郎歸らう」と云ひながら石段を下《くだ》り掛けた。自分もすぐ其|後《あと》に隨つた。
 
     二十二
 
 兄と自分は又元の路へ引返した。朝來た時も腹や頭の具合が變であつたが、歸りは日盛《ひざかり》になつた所爲《せゐ》か猶《なほ》苦しかつた。生憎《あいにく》二人共時計を忘れたので何時《なんじ》だか一寸分り兼ねた。
 「もう何時《なんじ》だらう」と兄が聞いた。
 「左右《さう》ですね」と自分はぎら/\する太陽を仰ぎ見た。「まだ午《ひる》にはならないでせう」
 二人は元の路を逆に歩いてゐる積《つもり》であつたが、何う間違へたものか、變に磯臭《いそくさ》い濱邊《はまべ》へ出た。其處には漁師《れふし》の家が雜貨店と交《まじ》つて貧しい町をかたち作つてゐた。古い旗を屋根の上に立てた汽船會社の待合所も見えた。
 「何だか路が違つた樣ぢやありませんか」
 兄は相變らず下を向いて考へながら歩いてゐた。下には貝殻が其處此處に散つてゐた。それを踏み碎く二人の足音が時々單調な歩行《ほかう》に一種田舍びた變化を與へた。兄は一寸立ち留つて左右《さいう》を見た。
 「此處は往《いき》に通らなかつたかな」
 「えゝ通りやしません」
 「左右《さう》か」
 二人はまた歩き出した。兄は依然として下を向き勝であつた。自分は路を迷つた爲め、存外宿へ歸るのが遲くなりはしまいかと心配した。
 「何|狹《せま》い所だ。何處を何う間違へたつて、歸れるのは同《おん》なじ事だ」
 兄は斯う云つてすた/\行つた。自分は彼の歩き方を後《うしろ》から見て、足に任《まか》せてといふ故《ふる》い言葉を思ひ出した。さうして彼より五六間|後《おく》れた事を此場合何よりも有難く感じた。
 自分は二人の歸り道に、兄から例の依頼といふのを屹度《きつと》打ち明けられるに違ひないと思つて暗に其覺悟をしてゐた。所が事實は反對で、彼は出來る丈《だけ》口數を愼んで、さつさと歩く方針に出た。それが少しは無氣味でもあつたが又|大分《だいぶ》嬉しくもあつた。
 宿では母と嫂《あによめ》が欄干に縞絽《しまろ》だか明石《あかし》だか他處行《よそゆき》の着物を掛けて二人とも浴衣《ゆかた》の儘《まゝ》差向ひで坐つてゐた。自分達の姿を見た母は、「まあ何處迄行つたの」と驚いた顔をした。
 「あなた方は何處へも行かなかつたんですか」
 欄干に干してある着物を見ながら、自分が斯う聞いた時、嫂《あによめ》は「えゝ行つたわ」と答へた。
 「何處へ」
 「中《あ》てゝ御覽なさい」
 今の自分は兄のゐる前で嫂《あによめ》から斯う氣易く話し掛けられるのが、兄に對して何とも申し譯がないやうであつた。のみならず、兄の眼から見れば、彼女が故意《ことさら》に自分に丈《だけ》親しみを表はしてゐるとしか解釋が出來まいと考へて誰にも打ち明けられない苦痛を感じた。
 嫂《あによめ》は一向《いつかう》平氣であつた。自分には夫《それ》が冷淡から出るのか、無頓着から來るのか、又は常識を無視してゐるのか、少し解り兼ねた。
 彼等の見物して來た所は紀三井寺《きみゐでら》であつた。玉津島明神《たまつしまみやうじん》の前を通りへ出て、其處から電車に乘るとすぐ寺の前へ出るのだと母は兄に説明してゐた。
 「高い石段でね。斯うして見上げる丈《だけ》でも眼が眩《ま》ひさうなんだよ、お母さんには。是ぢや到底《とても》上《のぼ》れつこないと思つて、妾《わたし》や何うしようか知らと考へたけれども、直《なほ》に手を引つ張つて貰つて、漸くお參り丈《だけ》は濟ませたが、其代り汗で着物がぐつしよりさ……」
 兄は「はあ、左右《さう》ですか/\」と時々氣のない返事をした。
 
     二十三
 
 其日は何事も起らずに濟んだ。夕方は四人《よつたり》でトランプをした。みんなが四枚づゝのカードを持つて、其一枚を順送りに次の者へ伏せ渡しにするうちに數の揃つたのを出して仕舞ふと、何處かにスペードの一が殘るそれを握つたものが負になるといふ温泉場などでよく流行《はや》る至極簡單なものであつた。
 母と自分はよくスペードを握つては妙な顔をしてすぐ勘付《かんづ》かれた。兄も時々苦笑した。一番冷淡なのは嫂《あによめ》であつた。スペードを握らうが握るまいがわれには一向《いつかう》關係がないといふ風をしてゐた。是は風といふよりも寧ろ彼女《かのぢよ》の性質であつた。自分はそれでも兄が先刻《さつき》の會談のあと、よく是程に昂奮した神經を治《をさ》められたものだと思つてひそかに感心した。
 晩は寐られなかつた。昨夕《ゆうべ》よりも猶《なほ》寐られなかつた自分はどゞん/\と響く浪の音の間に、兄夫婦の寐てゐる室《へや》に耳を澄ました。けれども彼等の室《へや》は依然として昨夜の如く靜であつた。自分は母に見咎《みとが》められるのを恐れて、其《その》夜《よ》は敢《あへ》て縁側へ出なかつた。
 朝になつて自分は母と嫂《あによめ》を例の東洋第一エレ?ーターへ案内した。さうして昨日《きのふ》の樣に山の上の猿に芋を遣つた。今度は猿に馴染のある宿の女中が一所に隨《つ》いて來たので、猿を抱いたり鳴かしたり前の日よりは大分《だいぶ》賑やかだつた。母は茶店の床凡《しやうぎ》に腰を掛けて、新和歌《しんわか》の浦《うら》とかいふ禿《は》げて茶色になつた山を指《さ》して何だらうと聞いてゐた。嫂《あによめ》は頻《しきり》に遠眼鏡はないか/\と騷いだ。
 「姉さん、芝の愛宕樣《あたごさま》ぢやありませんよ」と自分は云つて遣つた。
 「だつて遠眼鏡|位《ぐらゐ》あつたつて好いぢやありませんか」と嫂《あによめ》はまだ不足を並べてゐた。
 夕方になつて自分はとう/\兄に引つ張られて紀三井寺へ行つた。是は婦人|連《れん》が昨日《きのふ》既に參詣したといふのを口實に、我々二人|丈《だけ》が行く事にしたのであるが、其實兄の依頼を聞くために自分が彼から誘ひ出されたのである。
 自分達は母の見た丈《だけ》で恐れたといふ高い石段を一直線に上《のぼ》つた。其上は平《ひら》たい山の中腹で眺望の好い所にベンチが一つ据ゑてあつた。本堂は傍《そば》に五重の塔を控へて、普通ありふれた佛閣よりも寂《さび》があつた。廂《ひさし》の最中《まんなか》から下《さが》つてゐる白い紐などは如何にも閑靜に見えた。
 自分達は何物も眼を遮らないベンチの上に腰を卸して並び合つた。
 「好い景色ですね」
 眼の下には遙《はるか》の海が鰯《いわし》の腹のやうに輝いた。其處へ名殘《なごり》の太陽が一面に射して、眩《まば》ゆさが赤く頬を染める如くに感じた。澤《さは》らしい不規則な水の形も亦《また》海より近くに、平《ひら》たい面《めん》を鏡のやうに展《の》べてゐた。
 兄は例の洋杖《ステツキ》を顋《あご》の下に支へて黙つてゐたが、やがて思ひ切つたといふ風に自分の方を向いた。
 「二郎|實《じつ》は頼みがあるんだが」
 「えゝ、それを伺ふ積《つもり》でわざ/\來たんだから緩《ゆつ》くり話して下さい。出來る事なら何でもしますから」
 「二郎|實《じつ》は少し云ひ惡《にく》い事なんだがな」
 「云ひ惡《にく》い事でも僕だから好いでせう」
 「うん己《おれ》は御前を信用してゐるから話すよ。然し驚いて呉れるな」
 自分は兄から斯う云はれた時に、話を聞かない先《さき》にまづ驚いた。さうして何《ど》んな注文が兄の口から出るかを恐れた。兄の氣分は前《まへ》云つた通り變り易かつた。けれども一旦何か云ひ出すと、意地にも夫《それ》を通さなければ承知しなかつた。
 
     二十四
 
 「二郎驚いちや不可《いけ》ないぜ」と兄が繰返した。さうして現に驚いてゐる自分を嘲《あざ》ける如く見た。自分は今の兄と權現社頭《ごんげんしやとう》の兄とを比較して丸《まる》で別人の觀《くわん》をなした。今の兄は飜《ひる》がへし難い堅い決心を以て自分に向つてゐるとしか自分には見えなかつた。
 「二郎|己《おれ》は御前を信用してゐる。御前の潔白な事は既に御前の言語が證明してゐる。それに間違はないだらう」
 「ありません」
 「夫《それ》では打ち明けるが、實は直《なほ》の節操《せつさう》を御前に試《ため》して貰ひたいのだ」
 自分は「節操《せつさう》を試《ため》す」といふ言葉を聞いた時、本當に驚いた。當人から驚くなといふ注意が二遍あつたに拘はらず、非常に驚いた。只あつけに取られて、呆然としてゐた。
 「何故《なぜ》今になつてそんな顔をするんだ」と兄が云つた。
 自分は兄の眼に映じた自分の顔を如何にも情《なさけ》なく感ぜざるを得なかつた。丸で此間《このあひだ》の會見とは兄弟地を換へて立つたとしか思へなかつた。それで急に氣を取り直した。
 「姉さんの節操を試すなんて、――其んな事は廢《よ》した方が好いでせう」
 「何故《なぜ》」
 「何故つて、餘《あん》まり馬鹿らしいぢやありませんか」
 「何が馬鹿らしい」
 「馬鹿らしかないかも知れないが、必要がないぢやありませんか」
 「必要があるから頼むんだ」
 自分は少時《しばらく》黙つてゐた。廣い境内には參詣人の影も見えないので、四邊《あたり》は存外靜であつた。自分は其處いらを見廻して、最後に我々二人の淋《さび》しい姿を其一隅に見出した時、薄氣味の惡い心持がした。
 「試《ため》すつて、伺うすれば試《ため》されるんです」
 「御前と直《なほ》が二人で和歌山へ行つて一晩泊つて呉れゝば好いんだ」
 「下らない」と自分は一口に退《しり》ぞけた。すると今度は兄が黙つた。自分は固《もと》より無言であつた。海に射《い》り付ける落日《らくじつ》の光が次第に薄くなりつゝ猶《なほ》名殘《なごり》の熱を薄赤く遠い彼方《あなた》に棚引《たなび》かしてゐた。
 「厭かい」と兄が聞いた。
 「えゝ、外の事ならですが、夫《それ》丈《だけ》は御免です」と自分は判切《はつき》り云ひ切つた。
 「ぢや頼むまい。其代り己《おれ》は生涯御前を疑ぐるよ」
 「そりや困る」
 「困るなら己《おれ》の頼む通り遣つて呉れ」
 自分は唯|俯向《うつむ》いてゐた。何時《いつ》もの兄ならもう疾《とく》に手を出してゐる時分であつた。自分は俯向《うつむ》きながら、今に兄の拳《こぶし》が帽子の上へ飛んで來るか、又は彼の平手《ひらて》が頬のあたりでピシヤリと鳴るかと思つて、凝《ぢ》つと癇癪玉《かんしやくだま》の破裂するのを期待してゐた。さうして其破裂の後《のち》に多く生ずる反動を機會として、兄の心を落ち付けようとした。自分は人より一倍強い程度で、此反動に罹《かゝ》り易い兄の氣質を能く呑み込んでゐた。
 自分は大分《だいぶ》辛抱《しんばう》して兄の鐵拳《てつけん》の飛んで來るのを待つてゐた。けれども自分の期待は全く徒勞であつた。兄は死んだ人の如く靜であつた。遂には自分の方から狐の樣に變な眼遣《めづか》ひをして、兄の顔を倫《ぬす》み見なければならなかつた。兄は蒼い顔をしてゐた。けれども決して衝動的に動いて來る氣色《けしき》には見えなかつた。
 
     二十五
 
 稍《やゝ》あつて兄は昂奮した調子で斯う云つた。
 「二郎|己《おれ》はお前を信用してゐる。けれども直《なほ》を疑《うた》ぐつてゐる。しかも其|疑《うた》ぐられた當人の相手は不幸にしてお前だ。但し不幸と云ふのは、お前に取つて不幸といふので、己《おれ》には却《かへ》つて幸《さいはひ》になるかも知れない。と云ふのは、己《おれ》は今明言した通り、お前の云ふ事なら何でも信じられるし又何でも打明けられるから、それで己《おれ》には幸ひなのだ。だから頼むのだ。己《おれ》の云ふ事に滿更《まんざら》論理のない事もあるまい」
 自分は其時兄の言葉の奧に、何か深い意味が籠《こも》つてゐるのではなからうかと疑ひ出した。兄は腹の中《なか》で、自分と嫂《あによめ》の間に肉體上の關係を認めたと信じて、わざと斯ういふ難題を持ち掛けるのではあるまいか。自分は「兄さん」と呼んだ。兄の耳には兎に角、自分は餘程《よほど》力強い聲を出した積《つもり》であつた。
 「兄さん、外《ほか》の事とは違つて是は倫理上の大問題ですよ……」
 「當り前さ」
 自分は兄の答への殊の外冷淡なのを意外に感じた。同時に先の疑ひが益《ます/\》深くなつて來た。
 「兄さん、いくら兄弟の仲だつて僕はそんな殘酷な事はしたくないです」
 「いや向ふの方が己《おれ》に對して殘酷なんだ」
 自分は兄に向つて嫂《あによめ》が何故《なぜ》殘酷であるかの意味を聞かうともしなかつた。
 「そりや改めて又伺ひますが、何しろ今の御依頼|丈《だけ》は御免蒙ります。僕には僕の名譽がありますから。いくら兄さんの爲だつて、名譽|迄《まで》犠牲には出來ません」
 「名譽?」
 「無論名譽です。人から頼まれて他《ひと》を試驗するなんて、――外の事だつて厭でさあ。况《ま》してそんな……探偵ぢやあるまいし……」
 「二郎、己《おれ》はそんな下等な行爲をお前から向ふへ仕掛けてくれと頼んでゐるのぢやない。單に嫂《あによめ》とし又弟として一つ所へ行つて一つ宿へ泊つて呉れといふのだ。不名譽でも何でもないぢやないか」
 「兄さんは僕を疑ぐつてゐらつしやるんでせう。そんな無理を仰しやるのは」
 「いや信じてゐるから頼むのだ」
 「口で信じてゐて、腹では疑ぐつてゐらつしやる」
 「馬鹿な」
 兄と自分は斯んな會話を何遍も繰返した。さうして繰返すたびに双方|共《とも》激して來た。すると一寸した言葉から熱が急に引いた樣に二人|共《とも》治まつた。
 其激した或時に自分は兄を眞正の精神病患者だと斷定した瞬間さへあつた。然し其|發作《ほつさ》が風のやうに過ぎた後《あと》では又通例の人間の樣にも感じた。仕舞に自分は斯う云つた。
 「實は此間から僕も其事に就いては少々考へがあつて、機會があつたら姉さんにとくと腹の中《なか》を聞いて見る氣でゐたんですから、夫《それ》丈《だけ》なら受合ひませう。もうぢき東京へ歸るでせうから」
 「ぢや夫《それ》を明日《あした》遣つて呉れ。あした晝一所に和歌山へ行つて、晝のうちに返つて來れば差支《さしつかへ》ないだらう」
 自分は何故《なぜ》か夫《それ》が厭だつた。東京へ歸つて緩《ゆつ》くり折を見ての事にしたいと思つたが、片方を斷つた今更一方も否《いや》とは云ひかねて、とう/\和歌山見物|丈《だけ》は引き受ける事にした。
 
     二十六
 
 その明くる朝は起きた時から生憎《あいにく》空に斑《ふ》が見えた。しかも風さへ高く吹いて例の防波堤に崩《くだ》ける波の音が凄じく聞え出した。欄干に倚《よ》つて眺めると、白い煙が濛々《もう/\》と岸一面を立て籠《こ》めた。午前は四人とも海岸に出る氣がしなかつた。
 午《ひる》過ぎになつて、空模樣は少し穩《おだや》かになつた。雲の重なる間から日脚《ひあし》さへ一寸々々《ちよい/\》光を出した。それでも漁船が四五艘いつもより早く樓前《ろうぜん》の掘割《ほりわり》へ漕ぎ入れて來た。
 「氣味が惡いね。何だか暴風雨《あらし》でもありさうぢやないか」
 母はいつもと違ふ空を仰いで、斯う云ひながら又《また》元の座敷へ引返《ひつかへ》して來た。兄はすぐ立つて又欄干へ出た。
 「何大丈夫だよ。大した事はないに極つてゐる。御母さん僕が受け合ひますから出掛けようぢやありませんか。俥《くるま》も既に誂《あつら》へてありますから」
 母は何とも云はずに自分の顔を見た。
 「そりや行つても好いけれど、行くなら皆《みん》なで一所に行かうぢやないか」
 自分は其方が遙《はるか》に樂《らく》であつた。出來得るなら何うか母の御供をして、和歌山行を已《や》めたいと考へた。
 「ぢや僕達も一所にその切り開いた山道《やまみち》の方へ行つて見ませうか」と云ひながら立ち掛けた。すると嶮《けは》しい兄の眼がすぐ自分の上に落ちた。自分は到底是では約束を履行するより外に道がなからうと又思ひ返した。
 「さう/\姉さんと約束があつたつけ」
 自分は兄に対して、つい空惚《そらとぼ》けた挨拶をしなければ濟まなくなつた。すると母が今度は苦い顔をした。
 「和歌山は已《や》めにお爲《し》よ」
 自分は母と兄の顔を見比べて何うしたものだらうと躊躇した。嫂《あによめ》は何時《いつ》もの樣に冷然としてゐた。自分が母と兄の間に迷つてゐる間、彼女は殆ど一言《いちごん》も口にしなかつた。
 「直《なほ》御前二郎に和歌山へ連れて行つて貰ふ筈だつたね」と兄が云つた時、嫂《あによめ》はたゞ「えゝ」と答へた丈《だけ》であつた。母が「今日はお止《よ》しよ」と止《と》めた時、嫂《あによめ》は又「えゝ」と答へた丈《だけ》であつた。自分が「姉さん何うします」と顧みた時は、又「何うでも好いわ」と答へた。
 自分は一寸用事に下へ降《お》りた。すると母が又|後《あと》から降りて來た。彼女の樣子は何だかそわ/\してゐた。
 「御前本當に直《なほ》と二人で和歌山へ行く氣かい」
 「えゝ、だつて兄さんが承知なんですもの」
 「幾何《いくら》承知でも御母さんが困るから御止しよ」
 母の顔の何處かには不安の色が見えた。自分はその不安の出所《でどころ》が兄にあるのか、又は嫂《あによめ》と自分にあるか、一寸《ちよつと》判斷に苦しんだ。
 「何故《なぜ》です」と聞いた。
 「何故《なぜ》ですつて、御前と直《なほ》と行くのは不可《いけ》ないよ」
 「兄さんに惡いと云ふんですか」
 自分は露骨に斯う聞いて見た。
 「兄さんに惡い許《ばかり》ぢやないが……」
 「ぢや姉さんだの僕だのに惡いと云ふんですか」
 自分の問は前より猶《なほ》露骨であつた。母は黙つて其處に佇《たゝ》ずんでゐた。自分は母の表情に珍らしく猜疑《さいぎ》の影を見た。
 
     二十七
 
 自分は自分を信じ切り、又愛し切つてゐると許《ばかり》考へてゐた母の表情を見て忽ち臆した。
 「では止します。元々僕の發案《ほつあん》で姉さんを誘ひ出すんぢやない。兄さんが二人で行つて來いと云ふから行く丈《だけ》の事です。御母さんが御不承知なら何時《いつ》でも已《や》めます。其代り御母さんから兄さんに談判して行かないで好いやうにして下さい。僕は兄さんに約束があるんだから」
 自分は斯う答へて、何だか極《きま》りが惡さうに母の前に立つてゐた。實は母の前を去る勇氣が出なかつたのである。母は少し途方に暮れた樣子であつた。然し仕舞に思ひ切つたと見えて、「ぢや兄さんには妾《わたし》から話をするから、其代り御前は此處に待つてゝ御呉れ、三階へ一緒に來ると又事が面倒になるかも知れないから」
と云つた。
 自分は母の後影を見送りながら、事が斯んな風に引絡《ひつから》まつた日には、到底《とても》嫂《あによめ》を連れて和歌山などへ行く氣になれない、行つた所で肝心の用は辨じない、何うか母の思ひ通りに事が變《へん》じて呉れゝば好いがと思つた。さうして氣の落ち付かない胸を抱《いだ》いて、廣い座敷を右左《みぎひだり》に目的もなく往つたり來たりした。
 やがて三階から兄が下りて來た。自分は其顔をちらりと見た時、是は何《どう》しても行かなければ濟まないなとすぐ讀んだ。
 「二郎、今になつて違約して貰つちや己《おれ》が困る。貴樣だつて男だらう」
 自分は時々兄から貴樣と呼ばれる事があつた。さうして此貴樣が彼の口から出たときは屹度《きつと》用心して後難を避けた。
 「いえ行くんです。行くんですがお母さんが止せと仰しやるから」
 自分が斯う云つてるうちに、母が又心配さうに三階から下りて來た。さうしてすぐ自分の傍《そば》へ寄つて、「二郎お母さんは先刻《さつき》あゝ云つたけれども、よく一郎に聞いて見ると、何だか紀三井寺で約束した事があるとか云ふ話だから、殘念だが仕方ない。矢つ張り其約束通りになさい」と云つた。
 「えゝ」
 自分は斯う答へて、あとは何にも云はない事にした。
 やがて母と兄は下に待つてゐる俥《くるま》に乘つて、樓前から右の方へ鐵輪《かなわ》の音を鳴らして去つた。
 「ぢや僕等も徐々《そろ/\》出掛けませうかね」と嫂《あによめ》を顧みた時、自分は實際好い心持ではなかつた。
 「何うです出掛ける勇氣がありますか」と聞いた。
 「あなたは」と向《むかふ》も聞いた。
 「僕はあります」
 「貴方にあれば、妾《あたし》にだつてあるわ」
 自分は立つて着物を着換へ始めた。
 嫂《あによめ》は上着を引掛けて呉れながら、「貴方何だか今日は勇氣がないやうね」と調戯《からか》ひ半分に云つた。自分は全く勇氣がなかつた。
 二人は電車の出る所|迄《まで》歩いて行つた。生憎《あいにく》近路《ちかみち》を取つたので、嫂《あによめ》の薄い下駄と白足袋が一足《ひとあし》毎《ごと》に砂の中に潜《もぐ》つた。
 「歩き惡《にく》いでせう」
 「えゝ」と云つて彼女《かのぢよ》は傘《かさ》を手に持つた儘、後《うしろ》を向いて自分の後足《あとあし》を顧みた。自分は赤い靴を砂の中に埋《うづ》めながら、今日の使命を何處で何う果《はた》したものだらうと考へた。考へながら歩く所爲《せゐ》か會話は少しも機《はず》まない心持がした。
 「貴方《あなた》今日は珍らしく黙つてゐらつしやるのね」と遂に嫂《あによめ》から注意された。
 
     二十八
 
 自分は嫂《あによめ》と並んで電車に腰を掛けた。けれども大事の用を前に控へてゐるといふ氣が胸にあるので、何うしても機嫌よく話は出來なかつた。
 「何故《なぜ》そんなに黙つてゐらつしやるの」と彼女が聞いた。自分は宿を出てから斯う云ふ意味の質問を彼女から既に二度|迄《まで》受けた。それを裏から見ると、二人でもつと面白く話さうぢやありませんかと云ふ意味も映つてゐた。
 「あなた兄さんにそんな事を云つたことがありますか」
 自分の顔は稍《やゝ》眞面目であつた。嫂《あによめ》は一寸それを見て、すぐ窓の外を眺めた。さうして「好い景色ね」と云つた。成程其時電車の走つてゐた所は、惡い景色ではなかつたけれども、彼女の殊更《ことさら》にそれを眺めた事は明《あきら》かであつた。自分はわざと嫂《あによめ》を呼んで再び前の質問を繰返した。
 「何故《なぜ》そんな詰らない事を聞くのよ」と云つた彼女は、殆んど一顧《いつこ》に價《あたひ》しない風をした。
 電車は又走つた。自分は次の停留所へ來る前又|執拗《しふね》く同じ問を掛けて見た。
 「うるさい方ね」と彼女が遂に云つた。「そんな事聞いて何になさるの。そりや夫婦ですもの、その位な事云つた覺はあるでせうよ。それが何うしたの」
 「何うもしやしません。兄さんにも左右《さう》いふ親しい言葉を始終掛けて上げて下さいと云ふ丈《だけ》です」
 彼女は蒼白い頬へ少し血を寄せた。其量が乏しい所爲《せゐ》か、頬の奧の方に灯《ともしび》を點《つ》けたのが遠くから皮膚をほてらしてゐる樣であつた。しかし自分は其意味を深くも考へなかつた。
 和歌山へ着いた時、二人は電車を降《お》りた。降《お》りて始めて自分は和歌山へ始めて來た事を覺《さと》つた。實は此地を見物する口實の下《もと》に、嫂《あによめ》を連れて來たのだから、形式にも何處か見なければならなかつた。
 「あら貴方まだ和歌山を知らないの。夫《それ》でゐて妾《あたし》を連れて來るなんて、隨分|呑氣《のんき》ね」
 嫂《あによめ》は心細さうに四方《あたり》を見廻した。自分も何分か極りが惡かつた。
 「俥《くるま》へでも乘つて車夫に好い加減な所へ連れて行つて貰ひませうか。それともぶら/\御城の方へでも歩いて行きますか」
 「左右《さう》ね」
 嫂《あによめ》は遠くの空を眺めて、近い自分には眼を注がなかつた。空は此處も海邊《かいへん》と同じやうに曇つてゐた。不規則に濃淡を亂した雲が幾重《いくへ》にも二人の頭の上を蔽《おほ》つて、日を直下《ぢか》に受けるよりは蒸し熱かつた。其上|何時《いつ》驟雨《しうう》が來るか解らない程に、空の一部分が既に黒ずんでゐた。其黒ずんだ圓《ゑん》の四方が暈《ぼか》されたやうに輝いて、丁度今我々が見捨《みす》てて來た和歌の浦の見當に、凄じい空の一角を描《ゑか》き出してゐた。嫂《あによめ》は今その氣味の惡い所を眉を寄せて眺めてゐるらしかつた。
 「降るでせうか」
 自分は固《もと》より降るに違ないと思つてゐた。それで兎に角|俥《くるま》を雇つて、見る丈《だけ》の所を馳《か》け拔けた方が得策だと考へた。自分は直《たゞち》に俥《くるま》を命じて、何處でも構はないから成るべく早く見物の出來る樣に挽《ひ》いて廻れと命じた。車夫は要領を得た如く又得ない如く、無暗に驅《か》けた。狹い町へ出たり、例の蓮《はす》の咲いてゐる濠へ出たり又狹い町へ出たりしたが、一向《いつかう》是ぞといふ所はなかつた。最後に自分は俥《くるま》の上で、斯う驅《か》けて許《ばかり》ゐては肝心の話が出來ないと氣が付いて、車夫に何處か寛《ゆつ》くり坐つて話の出來る所へ連れて行けと差圖《さしづ》した。
 
     二十九
 
 車夫は心得て驅け出した。今迄と違つて威勢があまり好過《よす》ぎると思ふうちに、二人の俥《くるま》は狹い横町を曲つて、突然大きな門を潜《くゞ》つた。自分があわてゝ、車夫を呼び留めようとした時、梶棒《かぢぼう》は既に玄關に横付《よこづけ》になつてゐた。二人は何うする事も出來なかつた。其上若い着飾つた下女が案内に出たので、二人は遂に上《あが》るべく餘儀なくされた。
 「斯んな所へ來る筈ぢやなかつたんですが」と自分はつい言譯らしい事を云つた。
 「何故《なぜ》。だつて立派な御茶屋ぢやありませんか。結構だわ」と嫂《あによめ》が答へた。其答へ振《ぶり》から推《お》すと、彼女は最初から斯ういふ料理屋めいた所へでも來るのを豫期してゐたらしかつた。
 實際|嫂《あによめ》のいつた通り其座敷は物綺麗に且《かつ》堅牢に出來上つてゐた。
 「東京|邊《へん》の安料理屋より却《かへ》つて好い位ですね」と自分は柱の木口や床の軸などを見廻した。嫂《あによめ》は手摺の所へ出て、中庭を眺めてゐた。古い梅の株の下に蘭の茂りが蒼黒い影を深く見せてゐた。梅の幹にも硬《かた》くて細長い苔《こけ》らしいものが處々《ところ/”\》に喰付《くつつ》いてゐた。
 下女が浴衣《ゆかた》を持つて風呂の案内に來た。自分は風呂に這入る時間が惜しかつた。さうして日が暮れはしまいかと心配した。出來るならば一刻も早く用を片付けて、約束通り明るい路を濱邊《はまべ》まで歸りたいと念じた。
 「何うします姉さん、風呂は」と聞いて見た。
 嫂《あによめ》も明るいうちには歸るやうに兄から兼ねて云ひ付けられてゐたので、其處は能く承知してゐた。彼女は帶の間から時計を出して見た。
 「まだ早いのよ、二郎さん。お湯へ這入つても大丈夫だわ」
 彼女は時間の遲く見えるのを全く天氣の所爲《せゐ》にした。尤も濁つた雲が幾重《いくへ》にも空を鎖《とざ》してゐるので、時計の時間よりは世の中が暗く見えたのは慥《たしか》に違ひなかつた。自分は又今にも降り出しさうな雨を恐れた。降るなら一仕切《ひとしきり》ざつと來た後《あと》で、歸つた方が却《かへ》つて樂だらうと考へた。
 「ぢや一寸汗を流して行きませうか」
 二人はとう/\風呂に入つた。風呂から出ると膳が運ばれた。時間からいふと飯には早過ぎた。酒は遠慮したかつた。且《かつ》飲める口でもなかつた。自分は已《やむ》を得ず、吸物を吸つたり、刺身を突《つゝ》ついたりした。下女が邪魔になるので、用があれば呼ぶからと云つて下げた。
 嫂《あによめ》には改まつて云ひ出したものだらうか、又は夫《それ》となく話の序《ついで》に其處へ持つて行つたものだらうかと思案した。思案し出すと何方《どつち》も宜い樣で又|何方《どつち》も惡い樣であつた。自分は吸物椀を手にした儘ぼんやり庭の方を眺めてゐた。
 「何を考へて居らつしやるの」と嫂《あによめ》が聞いた。
 「何、降りやしまいかと思つてね」と自分は宜い加減な答をした。
 「左右《さう》。そんなに御天氣が怖いの。貴方にも似合はないのね」
 「怖かないけど、もし強雨《がうう》にでもなつちや大變ですからね」
 自分が斯う云つてゐる内に、雨はぽつり/\と落ちて來た。餘程早くからの宴會でもあるのか、向ふに見える二階の廣間に、二三人紋付羽織の人影が見えた。其見當で藝者が三味線の調子を合はせてゐる音が聞え出した。
 宿を出るとき既にざわついてゐた自分の心は、此時一層落付を失ひ掛けて來た。自分は腹の中《なか》で、今日は到底《とても》しんみりした話をする氣になれないと恐れた。何故《なぜ》又其今日に限つて、こんな變な事を引受けたのだらうと後悔もした。
 
     三十
 
 嫂《あによめ》はそんな事に氣の付く筈がなかつた。自分が雨を氣にするのを見て、彼女は却《かへ》つて不思議さうに詰《なじ》つた。
 「何でそんなに雨が氣になるの。降れば後が涼しくなつて好いぢやありませんか」
 「だつて何時《いつ》已《や》むか解らないから困るんです」
 「困りやしないわ。いくら約束があつたつて、御天氣の所爲《せゐ》なら仕方がないんだから」
 「然し兄さんに對して僕の責任がありますよ」
 「ぢやすぐ歸りませう」
 嫂《あによめ》は斯う云つて、すぐ立ち上つた。其樣子には一種の決斷があらはれてゐた。向《むかふ》の座敷では客の頭が揃つたのか、三味線の音《ね》が雨を隔てゝ爽《さわや》かに聞え出した。電燈も既に輝いた。自分も半《なか》ば嫂《あによめ》の決心に促されて、腰を立て掛けたが、考へると受合つて來た話はまだ一言《ひとこと》も口へ出してゐなかつた。後れて歸るのが母や兄に濟まない如く、少しも嫂《あによめ》に肝心の用談を打ち明けないのが又自分の心に濟まなかつた。
 「姉さん此雨は容易に已《や》みさうもありませんよ。それに僕は姉さんに少し用談があつて來たんだから」
 自分は半分空を眺めて又|嫂《あによめ》を振り返つた。自分は固《もと》よりの事、立ち上つた彼女も、まだ歸る仕度は始めなかつた。彼女は立ち上つたには、立ち上つたが、自分の樣子次第で其以後の態度を一定しようと、五分の隙間なく身構へてゐるらしく見えた。自分は又|軒端《のきば》へ首を出して上の方を望んだ。室《へや》の位置が中庭を隔てゝ向ふに大きな二階建の廣間を控へてゐるため、空は何時《いつ》ものやうに廣くは眼界に落ちなかつた。從つて雲の往來《ゆきき》や雨の降り按排《あんばい》も、一般的には能く分かなかつた。けれども凄まじさが先刻《さつき》よりは一層甚だしく庭木を痛振《いたぶ》つてゐるのは事實であつた。自分は雨よりも空よりも、まづ此風に辟易《へきえき》した。
 「あなたも妙な方ね。歸るといふから其《その》積《つもり》で仕度をすれば、又坐つて仕舞つて」
 「仕度つて程の仕度もしないぢやありませんか。只立つた限《ぎり》でさあ」
 自分が斯う云つた時、嫂《あによめ》はにつこりと笑つた。さうして故意《わざ》と己《おの》れの袖や裾のあたりを成程といつたやうな又意外だと驚いたやうな眼付で見廻した。それから微笑を含んで其樣子を見てゐた自分の前に再びぺたりと坐つた。
 「何よ用談があるつて。妾《あたし》にそんな六《む》づかしい事が分りやしないわ。それよりか向ふの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ」
 雨は軒に響くといふよりも寧《むしろ》風に乘せられて、氣儘な場所へ叩き付けられて行く樣な音を起した。其間に三味線の音が氣紛《きまぐ》れものらしく時々二人の耳を掠《かす》め去つた。
 「用があるなら早く仰《おつし》やいな」と彼女は催促した。
 「催促されたつて一寸云へる事ぢやありません」
 自分は實際彼女から促された時、何と切り出して好いか分らなかつた。すると彼女はにや/\と笑つた。
 「貴方取つて幾何《いくつ》なの」
 「そんなに冷《ひや》かしちや不可《いけ》ません。本當に眞面目な事なんだから」
 「だから早く仰しやいな」
 自分は愈《いよ/\》改まつて忠告がましい事を云ふのが厭になつた。さうして彼女の前へ出た今の自分が何だか彼女から一段低く見縊《みくび》られてゐる樣な氣がしてならなかつた。それだのに其處に一種の親しみを感じずには又居られなかつた。
 
     三十一
 
 「姉さんは幾何《いくつ》でしたつけね」と自分は遂に即《つ》かぬ事を聞き出した。
 「是でもまだ若いのよ。貴方より餘《よ》つ程《ぽど》下の積《つもり》ですわ」
 自分は始めから彼女の年と自分の年を比較する氣はなかつた。
 「兄さんとこへ來てからもう何年になりますかね」と聞いた。
 嫂《あによめ》は唯《たゞ》澄まして「左右《さう》ね」と云つた。
 「妾《あたし》そんな事みんな忘れちまつたわ。だいち自分の年さへ忘れる位ですもの」
 嫂《あによめ》の此|恍《とぼ》け方《かた》は如何にも嫂《あによめ》らしく響いた。さうして自分には却《かへ》つて嬌態とも見える此不自然が、眞面目な兄に甚だしい不愉快を與へるのではなからうかと考へた。
 「姉さんは自分の年にさへ冷淡なんですね」
 自分は斯んな皮肉を何となく云つた。然し云つたときの浮氣《うはき》な心にすぐ氣がつくと急に兄に濟まない恐ろしさに襲はれた。
 「自分の年なんかに、いくら冷淡でも構はないから、兄さんに丈《だけ》はもう少し氣を付けて親切にして上げて下さい」
 「妾《あたし》そんなに兄さんに不親切に見えて。是でも出來る丈《だけ》の事は兄さんに爲《し》て上げてる積《つもり》よ。兄さん許《ばかり》ぢやないわ。貴方にだつて左右《さう》でせう。ねえ二郎さん」
 自分は、自分にもつと不親切にして構はないから、兄の方には最《もう》少《すこ》し優しくして呉れろと、頼む積《つもり》で嫂《あによめ》の眼を見た時、又急に自分の甘《あま》いのに氣が付いた。嫂《あによめ》の前へ出て、斯う差し向ひに坐つたが最後、到底眞底から誠實に兄の爲に計る事は出來ないのだと迄《まで》思つた。自分は言葉には少しも窮しなかつた。何《ど》んな言語でも兄の爲に使はうとすれば使はれた。けれども其《それ》を使ふ自分の心は、兄の爲でなくつて却《かへ》つて自分の爲に使ふのと同じ結果になりやすかつた。自分は決して斯んな役割を引き受けべき人格でなかつた。自分は今更のやうに後悔した。
 「貴方急に黙つちまつたのね」と其時|嫂《あによめ》が云つた。恰も自分の急所を突く樣に。
 「兄さんの爲に、僕が先刻《さつき》からあなたに頼んでゐる事を、姉さんは眞面目に聞いて下さらないから」
 自分は恥づかしい心を抑へてわざと斯う云つた。すると嫂《あによめ》は變に淋《さみ》しい笑ひ方をした。
 「だつて夫《そり》や無理よ二郎さん。妾《あたし》馬鹿で氣が付かないから、みんなから冷淡と思はれてゐるかも知れないけれど、是で全く出來る丈《だけ》の事を兄さんに對してしてゐる氣なんですもの。――妾《あたし》や本當に腑拔《ふぬけ》なのよ。ことに近頃は魂《たましひ》の拔殻《ぬけがら》になつちまつたんだから」
 「さう氣を腐《くさ》らせないで、もう少し積極的にしたら何うです」
 「積極的つて何うするの。御世辭を使ふの。妾《あたし》御世辭は大嫌ひよ。兄さんも御嫌ひよ」
 「御世辭なんか嬉しがるものもないでせうけれども、もう少し何うかしたら兄さんも幸福でせうし、姉さんも仕合せだらうから……」
 「宜御座《よござ》んす。もう伺はないでも」と云つた嫂《あね》は、其言葉の終らないうちに涙をぽろ/\と落した。
 「妾《あたし》のやうな魂《たましひ》の拔殻《ぬけがら》はさぞ兄さんには御氣に入らないでせう。然し私は是で滿足です。是で澤山です。兄さんについて今迄何の不足を誰にも云つた事はない積《つもり》です。其位の事は二郎さんも大抵《たいてい》見てゐて解りさうなもんだのに……」
 泣きながら云ふ嫂《あによめ》の言葉は途切《とぎ》れ/\にしか聞こえなかつた。然し其|途切《とぎ》れ/\の言葉が鋭い力をもつて自分の頭に應《こた》へた。
 
     三十二
 
 自分は經驗のある或年長者から女の涙に金剛石《ダイヤ》は殆んどない、大抵は皆ギヤマン細工《ざいく》だと甞《かつ》て教《をそ》はつた事がある。其時自分は成程そんなものかと思つて感心して聞いてゐた。けれども夫《それ》は單に言葉の上の智識に過ぎなかつた。若輩《じやくはい》な自分は嫂《あによめ》の涙を眼の前に見て、何となく可憐《かれん》に堪《た》へないやうな氣がした。外の場合なら彼女の手を取つて共に泣いて遣りたかつた。
 「そりや兄さんの氣六《きむ》づかしい事は誰にでも解つてます。あなたの辛抱も並《なみ》大抵ぢやないでせう。けれども兄さんはあれで潔白すぎる程《ほど》潔白で正直すぎる程《ほど》正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です……、
 「二郎さんに何もそんな事を伺はないでも兄さんの性質位|妾《あたし》だつて承知してゐる積《つもり》です。妻《さい》ですもの」
 嫂《あによめ》は斯う云つて又しやくり上げた。自分は益《ます/\》可哀《かはい》さうになつた。見ると彼女の眼を拭《ぬぐ》つてゐた小形の手帛《ハンケチ》が、皺《しわ》だらけになつて濡れてゐた。自分は乾いてゐる自分ので彼女の眼や頬を撫でゝやるために、彼女の顔に手を出したくて堪らなかつた。けれども、何とも知れない力が又其手をぐつと抑へて動けないやうに締め付けてゐる感じが強く働いた。
 「正直な所《ところ》姉さんは兄さんが好きなんですか、又|嫌《きらひ》なんですか」
 自分は斯う云つて仕舞つた後《あと》で、此言葉は手を出して嫂《あによめ》の頬を、拭いて遣れない代りに自然口の方から出たのだと氣が付いた。嫂《あによめ》は手帛《ハンケチ》と涙の間から、自分の顔を覗くやうに見た。
 「二郎さん」
 「えゝ」
 此簡單な答は、恰も磁石に吸はれた鐵の屑の樣に、自分の口から少しの抵抗もなく、何等の自覺もなく釣り出された。
 「貴方何の必要があつて其んな事を聞くの。兄さんが好きか嫌ひかなんて。妾《あたし》が兄さん以外に好いてる男でもあると思つてゐらつしやるの」
 「左右《さう》いふ譯ぢや決してないんですが」
 「だから先刻《さつき》から云つてるぢやありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑拔《ふぬけ》の所爲《せゐ》だつて」
 「さう腑拔《ふぬけ》を殊更《ことさら》に振り舞はされちや困るね。誰も宅《うち》のものでそんな惡口を云ふものは一人もないんですから」
 「云はなくつても腑拔《ふねけ》よ。能く知つてるわ、自分だつて。けど、是でも時々は他《ひと》から親切だつて賞められる事もあつてよ。さう馬鹿にしたものでもないわ」
 自分は甞《かつ》て大きなクツシヨンに蜻蛉《とんぼ》だの草花だのを色々の糸で、嫂《あによめ》に縫ひ付けて貰つた御禮に、あなたは親切だと感謝した事があつた。
 「あれ、まだ有るでせう綺麗ね」と彼女が云つた。
 「えゝ。大事にして持つてゐます」と自分は答へた。自分は事實だから斯う答へざるを得なかつた。斯う答へる以上、彼女が自分に親切であつたといふ事實を裏から認識しない譯に行かなかつた。
 不圖耳を欹《そばだ》てると向ふの二階で彈いてゐた三味線は何時《いつ》の間《ま》にか已《や》んでゐた。殘り客らしい人の醉つた聲が時々風を横切《よこぎ》つて聞こえた。もう夫《それ》程《ほど》遲くなつたのかと思つて、時計を捜《さが》し出しに掛つた所へ女中が飛石傳《とびいしづたひ》に縁側から首を出した。
 自分等は此女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれてゐるといふ事を知つた。電話が切れて話が通じないといふ事を知つた。往來の松が倒れて電車が通じないといふ事も知つた。
 
     三十三
 
 自分は其時急に母や兄の事を思ひ出した。眉《まゆ》を焦《こが》す火の如く思ひ出した。狂《くる》ふ風と渦卷《うづま》く浪に弄《もてあそ》ばれつゝある彼等の宿が想像の眼にあり/\と浮んだ。
 「姉さん大變な事になりましたね」と自分は嫂《あによめ》を顧みた。嫂《あによめ》は夫《それ》程《ほど》驚いた樣子もなかつた。けれども氣の所爲《せゐ》か、常から蒼い頬が一層蒼いやうに感ぜられた。其蒼い頬の一部と眼の縁《ふち》に先刻《さつき》泣いた痕跡がまだ殘つてゐた。嫂《あによめ》はそれを下女に悟られるのが厭なんだらう、電燈に疎《うと》い不自然な方角へ顔を向けて、わざと入口の方を見なかつた。
 「和歌の浦へは何うしても歸られないんでせうか」と云つた。
 見當違ひの方から出た此|問《とひ》は、自分に云ふのか、又は下女に聞くのか、一寸解らなかつた。
 「俥《くるま》でも駄目だらうね」と自分が同じ樣な問を下女に取次いだ。
 下女は駄目といふ言葉こそ繰返さなかつたが、危險な意味を反覆説明して、聞かせた上、是非今夜|丈《だけ》は和歌山《こゝ》へ泊れと忠告した。彼女の顔は寧ろ吾々二人の利害を標的《まと》にして物を云つてるらしく眞面目に見えた。自分は下女の言葉を信ずれば信ずる程《ほど》母の事が氣になつた。
 防波堤と母の宿との間には彼是五六町の道程《みちのり》があつた。波が高くて少し土手を越す位なら、容易に三階の座敷迄來る氣遣ひはなからうとも考へた。然しもし海嘯《つなみ》が一度に寄せて來るとすると、……
 「おい海嘯《つなみ》であすこいらの宿屋がすつかり波に攫《さら》はれる事があるかい」
 自分は本當に心配の餘り下女に斯う聞いた。下女はそんな事はないと斷言した。然し波が防波堤を越えて土手下へ落ちてくるため、中が湖水《みづうみ》のやうに一杯になる事は二三度あつたと告げた。
 「夫《それ》にしたつて、水に浸《つか》つた家《うち》は大變だらう」と自分は又聞いた。
 下女は、高々水の中で家《うち》がぐる/\回《まは》る位なもので、海迄持つて行かれる心配は先づあるまいと答へた。此|呑氣《のんき》な答へが心配の中にも自分を失笑せしめた。
 「ぐる/\回りや夫《それ》で澤山だ。其上海迄持つてかれた日にや好い災難ぢやないか」
 下女は何とも云はずに笑つてゐた。嫂《あによめ》も暗い方から電燈をまともに見始めた。
 「姉さん何うします」
 「何うしますつて、妾《あたし》女だから何うして好いか解らないわ。若し貴方が歸ると仰しやれぼ、何《ど》んな危險があつたつて、妾《あたし》一所に行くわ」
 「行くのは構はないが、――困つたな。ぢや今夜は仕方がないから此處へ泊るとしますか」
 「貴方が御泊りになれば妾《あたし》も泊るより外に仕方がないわ。女一人で此暗いのにとても和歌の浦迄行く譯には行かないから」
 下女は今迄|勘蓬《かんちがひ》をしてゐたと云はぬ許《ばかり》の眼遣《めづかひ》をして二人を見較《みくら》べた。
 「おい電話は何うしても通じないんだね」と自分は又念のため聞いて見た。
 「通じません」
 自分は電話口へ出て直接に試みて見る勇氣もなかつた。
 「ぢや仕樣がない泊ることに極めませう」と今度は嫂《あによめ》に向つた。
 「えゝ」
 彼女の返事は何時《いつ》もの通り簡單でさうして落付いてゐた。
 「町の中なら俥《くるま》が通ふんだね」と自分は又下女に向つた。
 
     三十四
 
 二人はこれから料理屋で周旋して呉れた宿屋|迄《まで》行かなければならなかつた。仕度をして玄關を下りた時、其所に輝く電燈と、車夫の提灯《ちやうちん》とが、雨の音と風の叫びに冴えて、恰《あたか》も闇に狂ふ物凄さを照らす道具のやうに思はれた。嫂《あによめ》は先づ色の眼に付くあでやかな姿を黒い幌《ほろ》の中へ隱した。自分もつゞいて窮屈な深い桐油《とうゆ》の中に身體を入れた。
 幌《ほろ》の中に包まれた自分は殆んど往來の凄じさを見る遑《いとま》がなかつた。自分の頭はまだ經驗した事のない海嘯《つなみ》といふものに絶えず支配された。でなければ、意地の惡い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退《しりぞ》けた事を、何うしても實行しなければならなくなつた運命をつらく觀《くわん》じた。自分の頭は落付いて想像したり觀《くわん》じたりする程の餘裕を無論|有《も》たなかつた。たゞ亂雜な火事場のやうに取留めもなくくる/\廻轉した。
 そのうち俥《くるま》の梶棒《かぢぼう》が一軒の宿屋のやうな構《かまへ》の門口へ横付になつた。自分は何だか暖簾《のれん》を潜《くゞ》つて土間へ這入つたやうな氣がしたが慥《たしか》には覺えてゐない。土間は幅の割に竪《たて》からいつて大分《だいぶ》長かつた。帳場も見えず番頭も居ず、たゞ一人の下女が取次に出た丈《だけ》で、宵の口としては至つて淋《さみ》しい光景であつた。
 自分達は黙つて其所に突立つてゐた。自分は何故《なぜ》だか嫂《あによめ》に話したくなかつた。彼女も澄まして絹張の傘《かさ》の先を斜に土間に突いたなりで立つてゐた。
 下女の案内で二人の通された部屋は、縁側を前に御簾《みす》の樣な簀垂《すだれ》を軒に懸けた古めかしい座敷であつた。柱は時代で黒く光つてゐた。天井にも煤《すゝ》の色が一面に見えた。嫂《あによめ》は例の傘《かさ》を次の間《ま》の衣桁《いかう》に懸けて、「こゝは向ふが高い棟で、此方《こつち》が厚い練塀《ねりべい》らしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻《さつき》俥《くるま》へ乘つた時は大變ね。幌《ほろ》の上でひゆ/\いふのが氣味が惡かつた位《ぐらゐ》よ。あなた風の重みが俥《くるま》の幌《ほろ》に乘《の》し掛《かゝ》つて來るのが乘つてゝ分つたでせう。妾《あたし》もう少しで俥《くるま》が引《ひ》つ繰返《くりかへ》るかも知れないと思つたわ」と云つた。
 自分は少し逆上してゐたので、そんな事はよく注意してゐられなかつた。けれども其通りを眞直に答へる程の勇氣もなかつた。
 「えゝ隨分な風でしたね」と胡魔化《ごまか》した。
 「此處で此位ぢや、和歌の浦はさぞ大變でせうね」と嫂《あによめ》が始めて和歌の浦の事を云ひ出した。
 自分は胸が又わく/\し出した。「姐《ねえ》さん此處の電話も切れてるのかね」と云つて、答へも待たずに風呂場に近い電話口|迄《まで》行つた。其處で帳面を引つ繰返《くりかへ》しながら、號鈴《ベル》をしきりに鳴らして、母と兄の泊つてゐる和歌の浦の宿へ掛けて見た。すると不思議に向ふで二言三言何か云つた樣な氣がするので、是は有難いと思ひつゝ猶《なほ》暴風雨《あらし》の模樣を聞かうとすると、又|薩張《さつぱり》通じなくなつた。それから何遍もし/\と呼んでも幾何《いくら》號鈴《ベル》を鳴らしても、呼び甲斐も鳴らし甲斐も全く無くなつたので、遂に我《が》を折つてわが部屋へ引き戻して來た。嫂《あによめ》は蒲團の上に坐つて茶を吸《すゝ》つてゐたが、自分の足音を聽きつゝ振り返つて、「電話は何うして?通じて?」と聞いた。自分は電話に就いて今の一部始終《いちぶしじゆう》を説明した。
 「大方《おほかた》其んな事だらうと思つた。到底《とて》も駄目よ今夜は。いくら掛けたつて、風で電話線を吹き切つちまつたんだから。あの音を聞いたつて解るぢやありませんか」
 風は何處からか二筋に綯《よ》れて來たのが、急に擦違《すれちがひ》になつて唸《うな》る樣な怪しい音を立てゝ、又|虚空《こくう》遙《はるか》に騰《のぼ》る如くに見えた。
 
     三十五
 
 二人が風に耳を峙《そば》だてゝゐると、下女が風呂の案内に來た。それから晩食《ばんめし》を食ふかと聞いた。自分は晩食《ばんめし》などを欲しいと思ふ氣になれなかつた。
 「何うします」と嫂《あによめ》に相談して見た。
 「左右《さう》ね。何うでも宜いけども。折角泊つたもんだから、御膳《おぜん》だけでも見た方が宜いでせう」と彼女は答へた。
 下女が心得て立つて行つたかと思ふと、宅中《うちぢゆう》の電燈がぱたりと消えた。黒い柱と煤《すゝ》けた天井でたゞさへ陰氣な部屋が、今度は眞暗になつた。自分は鼻の先に坐つてゐる嫂《あによめ》を嗅《か》げば嗅《か》がれるやうな氣がした。
 「姉さん怖《こは》かありませんか」
 「怖《こは》いわ」といふ聲が想像した通りの見當で聞こえた。けれども其聲のうちには怖《こは》らしい何物をも含んでゐなかつた。又わざと怖がつて見せる若々しい蓮葉《はすは》の態度もなかつた。
 二人は暗黒のうちに坐つてゐた。動かずに又物を云はずに、黙つて坐つてゐた。眼に色を見ない所爲《せゐ》か、外《そと》の暴風雨《あらし》は今迄よりは餘計耳に付いた。雨は風に散らされるので夫《それ》程《ほど》恐ろしい音も傳へなかつたが、風は屋根も塀も電柱も、見境《みさかひ》なく吹き捲《めく》つて悲鳴を上げさせた。自分達の室《へや》は地面の上の穴倉見た樣な所で、四方共|頑丈《ぐわんぢやう》な建物だの厚い塗壁だのに包《かこ》まれて、縁の前の小さい中庭さへ比較的安全に見えたけれども、周圍一面から出る一種凄じい音響は、暗闇に伴《ともな》つて起る人間の抵抗し難い不可思議な威嚇《ゐかく》であつた。
 「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯《ひ》を持つて來るでせうから」
 自分は斯う云つて、例の見當から嫂《あによめ》の聲が自分の皷膜に響いてくるのを暗に豫期してゐた。すると彼女は何事をも答へなかつた。それが漆《うるし》に似た暗闇の威力で、細い女の聲さへ通らないやうに思はれるのが、自分には多少無氣味であつた。仕舞に自分の傍《そば》に慥《たしか》に坐つてゐるべき筈の嫂《あによめ》の存在が氣に掛《かゝ》り出した。
 「姉さん」
 嫂《あによめ》はまだ黙つてゐた。自分は電氣燈の消えない前、自分の向ふに坐つてゐた嫂《あによめ》の姿を、想像で適當の距離に描《ゑが》き出した。さうして其れを便りに又「姉さん」と呼んだ。
 「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅《うるさ》さうであつた。
 「居るんですか」
 「居るわ貴方。人間ですもの。嘘だと思ふなら此處へ來て手で障《さは》つて御覽なさい」
 自分は手捜《てさぐ》りに捜《さぐ》り寄つて見たい氣がした。けれども夫《それ》程《ほど》の度胸がなかつた。其うち彼女の坐つてゐる見當で女帶の擦《す》れる音がした。
 「姉さん何かしてゐるんですか」と聞いた。
 「えゝ」
 「何をしてゐるんですか」と再び聞いた。
 「先刻《さつき》下女が浴衣《ゆかた》を持つて來たから、着換へようと思つて、今帶を解いてゐる所です」と嫂《あによめ》が答へた。
 自分が暗闇で帶の音を聞いてゐるうちに、下女は古風な?燭《らふそく》を點《つ》けて縁側傳ひに持つて來た。さうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。?燭《らふそく》の?《ほのほ》がちら/\右左へ搖れるので、黒い柱や煤けた天井は勿論、灯《ひ》の勢《いきほひ》の及ぶ限りは、穩かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋《さび》しく焦立《いらだ》たせた。殊更床に掛けた軸と、其前に活けてある花とが、氣味の惡い程目立つて?燭の灯《ひ》の影響を受けた。自分は手拭を持つて、又汗を流しに風呂へ行つた。風呂は怪しげなカンテラで照らされてゐた。
 
     三十六
 
 自分は佗《わ》びしい光でやつと見分《みわけ》のつく小桶を使つてざあ/\背中を流した。出掛《でがけ》に又念のためだから電話をちりん/\鳴らして見たが更に通じる氣色《けしき》がないので已《や》めた。
 嫂《あによめ》は自分と入れ代りに風呂に入《はい》つたかと思ふとすぐ出て來た。「何だか暗くつて氣味が惡いのね。それに桶や湯槽《ゆぶね》が古いんで緩《ゆつ》くり洗ふ氣にもなれないわ」
 其時自分は畏《かしこ》まつた下女を前に置いて?燭の灯《ひ》を便《たより》に宿帳を付けべく餘儀なくされてゐた。
 「姉さん宿帳は何う付けたら好いでせう」
 「何うでも。好い加減に願ひます」
 嫂《あによめ》は斯う云つて小さい袋から櫛やなにか這入つてゐる更紗《サラサ》の疊紙《たゝう》を出し始めた。彼女は後向《うしろむき》になつて?燭を一つ占領して鏡臺に向ひつゝ何か遣つてゐた。自分は仕方なしに東京の番地と嫂《あによめ》の名を書いて、わざと傍《そば》に一郎|妻《さい》と認《したゝ》めた。同樣の意味で自分の側《わき》にも一郎|弟《おとゝ》とわざ/\斷《ことわ》つた。
 飯の出る前に、何の拍子か、先に暗くなつた電燈が又一時に明るくなつた。其時臺所の方でわあと喜びの鬨《とき》の聲を擧げたものがあつた。暴風雨《しけ》で魚《さかな》がないと下女が言譯を云つたに拘《かゝ》はらず、吾々の膳の上は明かであつた。
 「丸《まる》で生返《いきかへ》つた樣ね」と嫂《あによめ》が云つた。
 すると電燈が又ぱつと消えた。自分は急に箸を消えた處に留めたぎり、しばらく動かさなかつた。
 「おや/\」
 下女は大きな聲をして朋輩の名を呼びながら燈火《あかり》を求めた。自分は電氣燈がぱつと明るくなつた瞬間に嫂《あによめ》が、何時《いつ》の間《ま》にか薄く化粧《けしやう》を施したといふ艶《なまめ》かしい事實を見て取つた。電燈の消えた今、其顔|丈《だけ》が眞闇《まつくら》なうちに故《もと》の通り殘つてゐるやうな氣がしてならなかつた。
 「姉さん何時《いつ》御粧《おつくり》したんです」
 「あら厭だ眞闇《まつくら》になつてから、そんな事を云ひだして。貴方|何時《いつ》見たの」
 下女は暗闇で笑ひ出した。さうして自分の眼ざとい事を賞めた。
 「斯んな時に白粉《おしろい》迄《まで》持つて來るのは實に細かいですね、姉さんは」と自分は又暗闇の中で嫂《あによめ》に云つた。
 「白粉《おしろい》なんか持つて來やしないわ。持つて來たのはクリームよ、貴方《あなた》」と彼女は又暗闇の中で辯解した。
 自分は暗がりの中で、しかも下女の居る前で、斯んな冗談を云ふのが常よりは面白かつた。そこへ彼女の朋輩が又別の?燭を二本|許《ばかり》點《つ》けて來た。
 室《へや》の中は裸?燭《はだからふそく》の灯《ひ》で渦を卷くやうに動搖した。自分も嫂《あによめ》も眉を顰《ひそ》めて燃える?《ほのほ》の先を見詰めて居た。さうして落付のない淋《さび》しさとでも形容すべき心持を味はつた。
 程なく自分達は寐た。便所に立つた時、自分は窓の間から空を仰ぐ樣に覗いて見た。今迄多少靜まつて居た暴風雨《あらし》が、此時は夜更《よふけ》と共に募つたものか、眞黒な空が眞黒いなりに活動して、瞬間も休まない樣に感ぜられた。自分は恐ろしい空の中で、黒い電光が擦れ合つて、互に黒い針に似たものを隙間《すきま》なく出しながら、此暗さを大きな音の中《うち》に維持してゐるのだと想像し、かつ其想像の前に畏縮した。
 蚊帳の外には?燭の代りに下女が床を延べた時、行燈《あんどん》を置いて行つた。其|行燈《あんどん》が又|古風《こふう》な陰氣なもので、一層《いつそ》吹き消して闇《くら》がりにした方が、微《かす》かな光に照らされる無氣味さよりは却《かへ》つて心持が好い位だつた。自分は燐寸《マツチ》を擦つて、薄暗い所で煙草を呑み始めた。
 
     三十七
 
 自分は先刻《さつき》から少しも寐なかつた。小用《こよう》に立つて、一本の紙卷を吹かす間にも色々な事を考へた。それが取り留《とめ》もなく雜然と一度に來るので、自分にも何が主要の問題だか捕《とら》へられなかつた。自分は燐寸《マツチ》を擦つて煙草を呑んでゐる事さへ時々忘れた。而も其處に氣が付いて、再び吸口を脣に銜《くは》へる時の煙の無味《まづ》さは又特別であつた。
 自分の頭の中には、今見て來た正體《しやうたい》の解らない黒い空が、凄まじく一樣に動いてゐた。夫《それ》から母や兄のゐる三階の宿が波を幾度となく被《かぶ》つて、くるり/\と廻り出してゐた。それが片付かないうちに、此部屋の中に寐てゐる嫂《あによめ》の事が又氣になり出した。天災とは云へ二人で此處へ泊つた言譯を何うしたものだらうと考へた。辯解してから後《あと》、兄の機嫌を何うして取り直したものだらうとも考へた。同時に今日|嫂《あによめ》と一所に出て、滅多にない斯んな冒險を共にした嬉しさが何處からか湧いて出た。其嬉しさが出た時、自分は風も雨も海嘯《つなみ》も母も兄も悉く《こと/”\》く忘れた。すると其嬉しさが又俄然として一種の恐ろしさに變化した。恐ろしさと云ふよりも、寧ろ恐ろしさの前觸《まへぶれ》であつた。何處かに潜伏してゐるやうに思はれる不安の徴候であつた。さうして其時は外面《そと》を狂ひ廻る暴風雨《あらし》が、木を根こぎにしたり、塀を倒したり、屋根瓦を捲《め》くつたりするのみならず、今薄暗い行燈《あんどう》の下《もと》で味のない煙草を吸つてゐる此自分を、粉微塵《こみぢん》に破壞する豫告の如く思はれた。
 自分が斯んな事をぐる/\考へてゐるうちに、蚊帳の中に死人の如く大人《おとな》しくしてゐた嫂《あによめ》が、急に寐返《ねがへり》をした。さうして自分に聞えるやうに長い欠伸《あくび》をした。
 「姉さんまだ寐ないんですか」と自分は煙草の煙の間から嫂《あによめ》に聞いた。
 「えゝ、だつて此吹き降りぢや寐ようにも寐られないぢやありませんか」
 「僕もあの風の音が耳に付いて何うする事も出來ない。電燈の消えたのは、何でも此處いら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだつてね」
 「さうよ、其んな事を先刻《さつき》下女が云つたわね」
 「御母さんと兄さんは何うしたでせう」
 「妾《あたし》も先刻《さつき》から其事ばかり考へてゐるの。然しまさか浪は這入らないでせう。這入つたつて、あの土手の松の近所にある怪しい藁屋位なものよ。持つてかれるのは。もし本當の海嘯《つなみ》が來てあすこ界隈を悉皆《すつかり》攫《さら》つて行くんなら、妾《あたし》本當に惜しい事をしたと思ふわ」
 「何故《なぜ》」
 「何故つて、妾《あたし》そんな物凄い所が見たいんですもの」
 「冗談ぢやない」と自分は嫂《あによめ》の言葉を打《ぶ》つた切《ぎ》る積《つもり》で云つた。すると嫂《あによめ》は眞面目に答へた。
 「あら本當よ二郎さん。妾《あたし》死ぬなら首を縊《くゝ》つたり咽喉《のど》を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌《きらひ》よ。大水に攫《さら》はれるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」
 自分は小説などを夫《それ》程《ほど》愛讀しない嫂《あによめ》から、始めて斯んなロマンチツクな言葉を聞いた。さうして心のうちで是は全く神經の昂奮から來たに違ひないと判じた。
 「何かの本にでも出て來さうな死方ですね」
 「本に出るか芝居で遣《や》るか知らないが、妾《あたし》や眞劔にさう考へてるのよ。嘘だと思ふなら是から二人で和歌の浦へ行つて浪でも海嘯《つなみ》でも構はない、一所に飛び込んで御目に懸けませうか」
 「あなた今夜は昂奮してゐる」と自分は慰撫《なだ》める如く云つた。
 「妾《あたし》の方が貴方より何《ど》の位落ち付いてゐるか知れやしない。大抵の男は意氣地なしね、いざとなると」と彼女は床の中《なか》で答へた。
 
     三十八
 
 自分は此時始めて女といふものをまだ研究してゐない事に氣が付いた。嫂《あによめ》は何處から何う押しても押し樣のない女であつた。此方《こつち》が積極的に進むと丸《まる》で暖簾《のれん》の樣に抵抗《たわい》がなかつた。仕方なしに此方《こつち》が引き込むと、突然變な所へ強い力を見せた。其力の中《うち》には到底《とて》も寄り付けさうにない恐ろしいものもあつた。又は是なら相手に出來るから進まうかと思つて、まだ進みかねてゐる中《うち》に、弗《ふつ》と消えて仕舞ふのもあつた。自分は彼女と話してゐる間|始終《しじゆう》彼女から飜弄されつゝある樣な心持がした。不思議な事に、其飜弄される心持が、自分に取つて不愉快であるべき筈だのに、却つて愉快でならなかつた。
 彼女は最後に物凄い決心を語つた。海嘯《つなみ》に攫《さら》はれて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壯烈な最後を望んでゐた。自分は平生から(ことに二人で此和歌山に來てから)體力や筋力に於て遙《はるか》に優勢な位地に立ちつゝも、嫂《あによめ》に對しては何處となく無氣味な感じがあつた。さうして其無氣味さが甚だ狎《な》れ易い感じと妙に相伴《あひともな》つてゐた。
 自分は詩や小説にそれ程親しみのない嫂《あによめ》のくせに、何に昂零して海嘯《つなみ》に攫《さら》はれて死にたい抔《など》と云ふのか、其處をもつと突き留めて見たかつた。
 「姉さんが死ぬなんて事を云ひ出したのは今夜始めてゞすね」
 「えゝ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくつてよ。けれども死ぬ事は、死ぬ事|丈《だけ》は何うしたつて心の中《うち》で忘れた日はありやしないわ。だから嘘だと思ふなら、和歌の浦迄|伴《つ》れて行つて頂戴。屹度《きつと》浪の中へ飛込んで死んで見せるから」
 薄暗い行燈《あんどん》の下《もと》で、暴風雨《あらし》の音の間に此言葉を聞いた自分は、實際物凄かつた。彼女は平生から落付いた女であつた。歇斯的里風《ヒステリふう》な所は殆んどなかつた。けれども寡言《くわげん》な彼女の頬は常に蒼かつた。さうして何處かの調子で眼の中に意味の強い解すべからざる光が出た。
 「姉さんは今夜|餘程《よつぽど》何うかしてゐる。何か昂奮してゐる事でもあるんですか」
 自分は彼女の涙を見る事は出來なかつた。又彼女の泣き聲を聞く事も出來なかつた。けれども今にも其處に至りさうな氣がするので、暗い行燈《あんどん》の光を便《たよ》りに、蚊帳の中を覗いて見た。彼女は赤い蒲團を二枚重ねて其上に縁《ふち》を取つた白麻の掛蒲團を胸の所迄行儀よく掛けてゐた。自分が暗い灯《ひ》で其姿を覗き込んだ時、彼女は枕を動かして自分の方を見た。
 「あなた昂奮昂奮つて、よく仰しやるけれども妾《あたし》や貴方よりいくら落付いてるか解りやしないわ。何時《いつ》でも覺悟が出來てるんですもの」
 自分は何と答ふべき言葉も持たなかつた。黙つて二本目の敷島を暗い灯影《ほかげ》で吸ひ出した。自分はわが鼻と口から濛々と出る煙ばかりを眺めてゐた。自分は其間に氣味のわるい眼を轉じて、時々蚊帳の中を窺《うかゞ》つた。嫂《あによめ》の姿は死んだ樣に靜であつた。或は既に寐付いたのではないかとも思はれた。すると突然仰向けになつた顔の中から、「二郎さん」と云ふ聲が聞こえた。
 「何ですか」と自分は答へた。
 「貴方其處で何をして居らつしやるの」
 「煙草を呑んでるんです。寐られないから」
 「早く御休みなさいよ。寐られないと毒だから」
 「えゝ」
 自分は蚊帳の裾《すそ》を捲《ま》くつて、自分の床の中に這入つた。
 
     三十九
 
 翌日《よくじつ》は昨日《きのふ》と打つて變つて美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
 「好い天氣になりましたね」と自分は嫂《あによめ》に向つて云つた。
 「本當《ほんと》ね」と彼女も答へた。
 二人は能く寐なかつたから、夢から覺めたといふ心持はしなかつた。たゞ床を離れるや否や魔から覺めたといふ感じがした程、空は蒼く染められてゐた。
 自分は朝飯《あさめし》の膳に向ひながら、廂《ひさし》を洩れる明らかな光を見て、急に氣分の變化に心付いた。從つて向ひ合つてゐる嫂《あによめ》の姿が昨夕《ゆうべ》の嫂《あによめ》とは全く異なるやうな心持もした。今朝見ると彼女の眼に何處といつて浪漫的《ロマンてき》な光は射してゐなかつた。たゞ寐《ね》の足りない?《まぶち》が急に爽《さわや》かな光に照らされて、それに抵抗するのが如何にも慵《ものう》いと云つたやうな一種の倦怠《けた》るさが見えた。頬の蒼白いのも常に變らなかつた。
 我々は出來る丈《だけ》早く朝飯を濟まして宿を立つた。電車はまだ通じないだらうといふ宿のものゝ注意を信用して俥《くるま》を雇つた。車夫は土間から表に出た我々を一目見て、すぐ夫婦ものと鑑定したらしかつた。俥《くるま》に乘るや否や自分の梶棒《かぢぼう》を先へ上げた。自分はそれを留める樣に、「後《あと》から後《あと》から」と云つた。車夫は心得て「奧さんの方が先だ」と相圖した。嫂《あによめ》の俥《くるま》が自分の傍《そば》を擦《す》り拔ける時、彼女は例の片靨《かたゑくぼ》を見せて「御先へ」と挨拶した。自分は「さあ何うぞ」と云つたやうなものゝ、腹の中では車夫の口にした奧さんといふ言葉が大いに氣になつた。嫂《あによめ》はそんな景色《けしき》もなく、自分を乘り越すや否や、琥珀《こはく》に刺繍《ぬひ》のある日傘を翳《かざ》した。彼女の後姿は如何にも凉しさうに見えた。奧さんと云はれても云はれないでも全く無關係の態度で、俥《くるま》の上に澄まして乘つてゐるとしか思はれなかつた。
 自分は嫂《あによめ》の後姿を見詰めながら、又彼女の人となりに思ひ及んだ。自分は平生こそ嫂《あによめ》の性質を幾分かしつかり手に握つてゐる積《つもり》であつたが、いざ本式に彼女の口から本當の所を聞いて見ようとすると、丸《まる》で八幡《やはた》の藪《やぶ》知《し》らずへ這入つた樣に、凡《すべ》てが解らなくなつた。
 凡ての女は、男から觀察しようとすると、みんな正體《しやうたい》の知れない嫂《あによめ》の如きものに歸着するのではあるまいか。經驗に乏しい自分は斯うも考へて見た。又其正體の知れない所が即ち他の婦人に見出《みいだ》しがたい嫂《あによめ》丈《だけ》の特色であるやうにも考へて見た。兎に角|嫂《あによめ》の正體は全く解らないうちに、空が蒼々と晴れて仕舞つた。自分は氣の拔けた麥酒《ビール》の樣な心持を抱いて、先へ行く彼女の後姿を絶えず眺めてゐた。
 突然自分は宿へ歸つてから嫂《あによめ》について兄に報告をする義務がまだ殘つてゐる事に氣が付いた。自分は何と報告して好いか能く解らなかつた。云ふべき言葉は澤山あつたけれども、夫《それ》を一々兄の前に並べるのは到底自分の勇氣では出來なかつた。よし並べたつて最後の一句は正體《しやうたい》が知れないといふ簡單な事實に歸する丈《だけ》であつた。或は兄自身も自分と同じく、此|正體《しやうたい》を見屆ようと煩悶し拔いた結果、斯んな事になつたのではなからうか。自分は自分が若し兄と同じ運命に遭遇したら、或は兄以上に神經を惱ましはしまいかと思つて、始めて恐ろしい心持がした。
 俥《くるま》が宿へ着いたとき、三階の縁側には母の影も兄の姿も見えなかつた。
 
     四十
 
 兄は三階の日に遠い室《へや》で例の黒い光澤《つや》のある頭を枕に着けて仰向きになつてゐた。けれども眠つてはゐなかつた。寧ろ充血した眼を見張るやうに緊張して天井を見詰めてゐた。彼は自分達の足音を聞くや否や、いきなり其血走つた眼を自分と嫂《あによめ》に注いだ。自分は兼《かね》てから其眼付を豫想し得なかつた程兄を知らない譯でもなかつた。けれども室《へや》の入口で嫂《あによめ》と相並んで立ちながら、昨夕《ゆうべ》まんじりともしなかつたと自白して居るやうな彼の赤くて鋭い眼付を見た時は、少し驚かされた。自分は斯ういふ場合の緩和劑《くわんわざい》として例《いつも》の通り母を求めた。其母は座敷の中にも縁側にも何處にも見當らなかつた。
 自分が彼女を探してゐるうちに嫂《あによめ》は兄の枕元に坐つて挨拶をした。
 「只今」
 兄は何とも答へなかつた。嫂《あによめ》は又坐つたなり其處を動かなかつた。自分は勢ひとして口を開くべく餘儀なくされた。
 「昨夕《ゆうべ》此方《こつち》は大變な暴風雨《あらし》でしたつてね」
 「うん隨分|非道《ひど》い風だつた」
 「波があの石の土手を越して松並木から下へ流れ込んだの」
 是は嫂《あによめ》の言葉であつた。兄はしばらく彼女の顔を眺めてゐた。それから徐《おもむ》ろに答へた。
 「いや左右《さう》でもない。家に故障はなかつた筈だ」
 「ぢや。無理に歸れば歸れたのね」
 嫂《あによめ》は斯う云つて自分を顧《かへり》みた。自分は彼女よりも寧ろ兄の方に向いた。
 「いや到底《とて》も歸れなかつたんです。電車がだいち通じないんですもの」
 「左右《さう》かも知れない。昨日《きのふ》は夕方あたりからあの波が非常に高く見えたから」
 「夜中《よなか》に宅《うち》が搖れやしなくつて」
 是も嫂《あによめ》の兄に聞いた問であつた。今度は兄がすぐ答へた。
 「搖れた。お母さんは危險だからと云つて下へ降りて行かれた位搖れた」
 自分は兄の眼色の險惡な割合に、夫《それ》程《ほど》殺氣を帶びてゐない彼の言語動作を漸々《やう/\》確め得た時やつと安心した。彼は自分の性急《せつかち》に比べると約五倍がたの癇癪持であつた。けれども一種|天賦《てんぷ》の能力があつて、時に其癇癪を巧《たくみ》に殺す事が出來た。
 其内に明神樣へ御參りに行つた母が歸つて來た。彼女は自分の顔を見て漸く安心したといふやうな色をして呉れた。
 「よく早く歸れて好かつたね。――まあ昨夕《ゆうべ》の恐ろしさつたら、夫《そり》や御話にも何にもならないんだよ、二郎。此柱がぎい/\つて鳴るたんびに、座敷が右左に動《いご》くんだらう。そこへ持つて來て、あの浪の音がね。――わたしや今聞いても本當に慄《ぞつ》とするよ……」
 母は昨夕《ゆうぺ》の暴風雨《あらし》を非道《ひど》く怖がつた。殊に其聯想から出る、防波堤を碎きにかゝる浪の音を嫌つた。
 「もう/\和歌の浦も御免。海も御免。慾も得も要らないから、早く東京へ歸りたいよ」
 母は斯う云つて眉をひそめた。兄は肉のない頬へ皺を寄せて苦笑した。
 「二郎達は昨夕《ゆうべ》何處へ泊つたんだい」と聞いた。
 自分は和歌山の宿の名を擧げて答へた。
 「好い宿かい」
 「何だか彼《かん》だか、たゞ暗くつて陰氣な丈《だけ》です。ねえ姉さん」
 其時兄は走るやうな眼を嫂《あによめ》に轉じた。
 嫂《あによめ》はたゞ自分の顔を見て「丸《まる》でお化《ばけ》でも出さうな宅《うち》ね」と云つた。
 日の夕暮に自分は嫂《あによめ》と階段の下で出逢つた。其時自分は彼女に「何うです、兄さんは怒つてるんでせうか」と聞いて見た。嫂《あによめ》は「何うだか腹の中は一寸解らないわ」と淋《さび》しく笑ひながら上へ昇つて行つた。
 
     四十一
 
 母が暴風雨《あらし》に怖氣《おぢけ》が付いて、早く立たうと云ふのを機《しほ》に、みんな此處を切上げて一刻も早く歸る事にした。
 「如何《いか》な名所でも一日二日は好いが、長くなると詰らないですね」と兄は母に同意してゐた。
 母は自分を小蔭へ呼んで、「二郎お前何うする積《つもり》だい」と聞いた。自分は自分の留守中に兄が萬事を母に打ち明けたのかと思つた。然し兄の平生から察すると、そんな行き拔けの人《ひと》と成《なり》でもなさゝうであつた。
 「兄さんは昨夕《ゆうべ》僕等が歸らないんで、機嫌でも惡くしてゐるんですか」
 自分が斯う質問を掛けた時、母は少しの間《あひだ》黙つてゐた。
「昨夕《ゆうべ》はね、知つての通りの浪や風だから、そんな話をする閑《ひま》も無かつたけれども……」
 母は何うしても其處迄しか云はなかつた。
 「お母さんは何だか僕と嫂《ねえ》さんの仲《なか》を疑ぐつてゐらつしやる樣だが……」と云ひ掛けると、今迄自分の眼を凝《ぢつ》と見てゐた母は急に手を振つて自分を遮《さへぎ》つた。
 「そんな事があるものかねお前、お母さんに限つて」
 母の言葉は實際|判然《はつきり》した言葉に違なかつた。顔付も眼付もきび/\してゐた。けれども彼女の腹の中は到底《とても》讀めなかつた。自分は親身《しんみ》の子として、時たま本當の父や母に向ひながら嘘と知りつゝ眞顔で何か云ひ聞かされる事を覺えて以來、世の中で本當の本當を云ひ續けに云ふものは一人もないと諦めてゐた。
 「兄さんには僕から萬事話す事になつてゐます。さう云ふ約束になつてるんだから、お母さんが心配なさる必要はありません。安心して居らつしやい」
 「ぢや成るべく早く片付けた方が好いよ二郎」
 自分達は其明くる宵の急行で東京へ歸る事に極めてゐた。實はまだ大阪を中心として、見物かた/”\歩くべき場所は澤山あつたけれども、母の氣が進まず、兄の興味が乘らず、大阪で中繼《なかつぎ》をする時間さへ惜んで、すぐ東京|迄《まで》寢臺で通さうと云ふのが母と兄の主張であつた。
 自分達は是非共|翌日《あした》の朝の汽車で和歌山から大阪へ向けて立たなければならなかつた。自分は母の命令で岡田の宅《うち》迄《まで》電報を打つた。
 「佐野さんへは掛ける必要もないでせう」と云ひながら自分は母と兄の顔を眺めた。
 「あるまい」と兄が答へた。
 「岡田へさへ打つて置けば、佐野さんは打《うつ》ちやつて置いても屹度《きつと》送りに來て呉れるよ」
 自分は電報紙を持ちながら、是非共お貞《さだ》さんを貰ひたいといふ佐野のお凸額《でこ》と其金縁眼鏡を思ひ出した。
 「では彼《あ》のお凸額《でこ》さんは止《や》めて置かう」
 自分は斯う云つて、みんなを笑はせた。自分が疾《と》うから佐野の御凸額《おでこ》を氣にしてゐた如く、外のものも同じ人の同じ特色を注意してゐたらしかつた。
 「寫眞で見たより御凸額《おでこ》ね」と嫂《あによめ》は眞面目な顔で云つた。
 自分は冗談のうちに自分を紛《まぎら》しつゝ、何んな折を利用して嫂《あによめ》の事を兄に復命したものだらうかと考へてゐた。それで時々|偸《ぬす》むやうに又先方の氣の付かない樣に兄の樣子を見た。所が兄は自分の豫期に反して、全くそれには無頓着の樣に思はれた。
 
     四十二
 
 自分が兄から別室に呼出されたのは夫《それ》が濟んで少時《しばらく》してゞあつた。其時兄は常に變らない樣子をして、(嫂《あによめ》に評させると常に變らない樣子を裝《よそほ》つて、)「二郎一寸話がある。彼方《あつち》の室《へや》へ來て呉れ」と穩《おだや》かに云つた。自分は大人《おとな》しく「はい」と答へて立つた。然し何うした機《はずみ》か立つときに嫂《あによめ》の顔を一寸見た。其時は何の氣も付かなかつたが、此平凡な所作が其後自分の胸には絶えず驕慢《けうまん》の發現として響いた。嫂《あによめ》は自分と顔を合せた時、いつもの通り片靨《かたゑくぼ》を見せて笑つた。自分と嫂《あによめ》の眼を他《ひと》から見たら、何處かに得意の光を帶びてゐたのではあるまいか。自分は立ちながら、次の室《へや》で浴衣《ゆかた》を疊んでゐた母の方を一寸|顧《かへりみ》て、思はず立疎《たちすく》んだ。母の眼付は先刻《きつき》からたつた一人でそつと我々を觀察してゐたとしか見えなかつた。自分は母から疑惑の矢を胸に射付けられたやうな氣分で兄の居る室《へや》へ這入つた。
 其頃は丁度舊暦の盆で、所謂|盆波《ぼんなみ》の荒いためか、泊り客は無論、日返りの遊び客さへ何時《いつ》も程は影を見せなかつた。廣い三階建ては從つて空《あ》いてゐる室《へや》の方が多かつた。少しの間《ま》融通しようと思へば、何時でも自分の自由になつた。
 兄は兼《かね》てから下女に命じて置いたものと見えて、室《へや》には麻の蒲團が差し向ひに二枚、華奢《きやしや》な煙草盆を間に、團扇《うちは》さへ添へて据ゑられてあつた。自分は兄の前に坐つた。けれども何と云ひ出して然るべきだか、其手加減が一寸解らないので、たゞ黙つてゐた。兄も容易に口を開かなかつた。然しこんな場合になると性質上|屹度《きつと》兄の方から積極的に出るに違ひないと踏んだ自分は、わざと卷莨《まきたばこ》を吹かしつゞけた。
 自分は此時の自分の心理状態を解剖して、今から顧《かへり》みると、兄に調戯《からか》ふといふ程でもないが、多少彼を焦《じ》らす氣味でゐたのは慥《たしか》であると自白せざるを得ない。尤も自分が何故《なぜ》それ程兄に對して大膽になり得たかは、我ながら解らない。恐らく嫂《あによめ》の態度が知らぬ間《ま》に自分に乘り移つてゐたものだらう。自分は今になつて、取り返す事も償《つぐな》ふ事も出來ない此態度を深く懺悔《ざんげ》したいと思ふ。
 自分が卷莨《まきたばこ》を吹かして黙つてゐると兄は果《はた》して「二郎」と呼びかけた。
 「お前|直《なほ》の性質が解つたかい」
 「解りません」
 自分は兄の問の餘りに嚴格なため、つい斯う簡單に答へて仕舞つた。さうして其あまりに形式的なのに後から氣が付いて、惡かつたと思ひ返したが、もう及ばなかつた。
 兄は其|後《のち》一口も聞きもせず、又答へもしなかつた。二人斯うして黙つてゐる間が、自分には非常な苦痛であつた。今考へると兄には、猶更の苦痛であつたに違ない。
 「二郎、おれはお前の兄として、たゞ解りませんといふ冷淡な挨拶を受けようとは思はなかつた」
 兄は斯う云つた。さうして其聲は低くかつ顫へてゐた。彼は母の手前、宿の手前、又自分の手前と問題の手前とを兼ねて、高くなるべき筈の咽喉《のど》を、やつとの思ひで抑へてゐるやうに見えた。
 「お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで濟むものと、高《たか》を括《くゝ》つてるのか、子供ぢやあるまいし」
 「いえ決して其んなわけぢやありません」
 是《これ》丈《だけ》の返事をした時の自分は眞に純良なる弟であつた。
 
     四十三
 
 「さう云ふ積《つもり》でなければ、積《つもり》でない樣にもつと詳《くはし》く話したら好いぢやないか」
 兄は苦《にが》り切《き》つて團扇《うちは》の繪を見詰めてゐた。自分は兄に顔を見られないのを幸ひに、暗に彼の樣子を窺つた。自分から斯ういふと兄を輕蔑するやうで甚だ濟まないが、彼の表情の何處かには、といふよりも、彼の態度の何處かには、少し大人氣《おとなげ》を缺いた稚氣さへ現はれてゐた。今の自分は此純粹な一本調子に對して、相應の尊敬を拂ふ見地《けんち》を具へてゐる積《つもり》である。けれども人格の出來てゐなかつた當時の自分には、たゞ向《むかふ》の隙《すき》を見て事をするのが賢いのだといふ利害の念が、斯んな問題に迄付け纒《まつ》はつてゐた。
 自分はしばらく兄の樣子を見てゐた。さうして是は與《くみ》し易いといふ心が起つた。彼は癇癪を起してゐる。彼は焦《じ》れ切つてゐる。彼はわざとそれを抑へようとしてゐる。全く餘裕のない程緊張してゐる。然し風船球の樣に輕く緊張してゐる。もう少し待つてゐれば自分の力で破裂するか、又は自分の力で何處かへ飛んで行くに相違ない。――自分は斯う觀察した。
 嫂《あによめ》が兄の手に合はないのも全く此處に根ざしてゐるのだと自分は此時漸く勘付いた。又|嫂《あによめ》として存在するには彼女の遣口《やりくち》が一番巧妙なんだらうとも考へた。自分は今日《こんにち》迄《まで》たゞ兄の正面ばかり見て、遠慮したり氣兼《きがね》したり、時によつては恐れ入つたりしてゐた。然し昨日《きのふ》一日一晩|嫂《あによめ》と暮した經驗は圖らずも此|苦々《にが/\》しい兄を裏から甘く見る結果になつて眼前に現はれて來た。自分は何時《いつ》嫂《あによめ》から兄を斯う見ろと教《をそ》はつた覺はなかつた。けれども兄の前へ出て、是程度胸の据つた事も亦なかつた。自分は比較的濟まして、團扇《うちは》を見詰めてゐる兄の額のあたりを此方《こつち》でも見詰めてゐた。
 すると兄が急に首を上げた。
 「二郎何とか云はないか」と勵《はげ》しい言葉を自分の皷膜に射込んだ。自分は其聲で又はつと平生の自分に返つた。
 「今云はうと思つてる所です。然し事が複雜な丈《だけ》に、何から話して好いか解らないんで一寸困つてるんです。兄さんも外の事たあ違ふんだから、最《も》う少し打ち解けて緩《ゆつ》くり聞いて下さらなくつちや。さう裁判所みたやうに生眞面目《きまじめ》に叱り付けられちや、折角|咽喉《のど》迄出掛つたものも、辟易《へきえき》して引込んぢまいますから」
 自分が斯う云ふと、兄は流石《さすが》に一見識《ひとけんしき》ある人|丈《だけ》あつて、「あゝ左右《さう》か己《おれ》が惡かつた。お前が性急《せつかち》の上へ持つて來て、己《おれ》が癇癪持と來てゐるから、つい變にもなるんだらう。二郎、それぢや何時《いつ》緩《ゆつく》り話される。緩《ゆつく》り聞く事なら今でも己《おれ》には出來る積《つもり》だが」と云つた。
 「まあ東京へ歸る迄待つて下さい。東京へ歸るたつて、あすの晩の急行だから、もう直《ぢき》です。其上で落付いて僕の考へも申し上げたいと思つてますから」
 「夫《それ》でも好《い》い」
 兄は落付いて答へた。今迄の彼の癇癪を自分の信用で吹き拂ひ得た如くに。
 「では何うか、左右《さう》願ひます」と云つて自分が立ち掛けた時、兄は「あゝ」と肯《うな》づいて見せたが、自分が敷居を跨《また》ぐ拍子に「おい二郎」と又呼び戻した。
 「詳《くはし》い事は追つて東京で聞くとして、唯《たゞ》一言《ひとこと》だけ要領を聞いて置かうか」
 「姉さんに就いて……」
 「無論」
 「姉さんの人格に就て、御疑ひになる所は丸《まる》でありません」
 自分が斯う云つた時、兄は急に色を變へた。けれども何にも云はなかつた。自分はそれぎり席を立つて仕舞つた。
 
     四十四
 
 自分は其時場合によれば、兄から拳骨を食ふか、又は後《うしろ》から熱罵を浴《あび》せ掛けられる事と豫期してゐた。色を變へた彼を後《うしろ》に見捨てゝ、自分の席を立つた位だから、自分は普通より餘程彼を見縊《みくび》つてゐたに違なかつた。其上自分はいざとなれば腕力に訴へてでも嫂《あによめ》を辯護する氣概を十分具へてゐた。是は嫂《あによめ》が潔白だからといふよりも嫂《あによめ》に新たなる同情が加はつたからと云ふ方が適切かも知れなかつた。云ひ換へると、自分は兄を夫《それ》丈《だけ》輕蔑し始めたのである。席を立つ時などは多少彼に對する敵愾心《てきがいしん》さへ起つた。
 自分が室《へや》へ歸つて來た時、母はもう浴衣《ゆかた》を疊んではゐなかつた。けれども小さい行李《こり》の始末に餘念なく手を動かしてゐた。それでも心は手許になかつたと見えて、自分の足音を聞くや否や、すぐ此方《こつち》を向いた。
 「兄さんは」
 「今來るでせう」
 「もう話は濟んだの」
 「濟むの濟まないのつて、始めからそんな大した話ぢやないんです」
 自分は母の氣を休めるため、わざと蒼蠅《うるさ》さうに斯う云つた。母は又行李の中へ、こま/”\したものを出したり入れたりし始めた。自分は今度は彼の女に恥ぢて、決して傍《そば》に手傳つてゐる嫂《あによめ》の顔を敢《あへ》て見なかつた。それでも彼女の若くて淋《さむ》しい脣には冷かな笑の影が、自分の眼を掠《かす》めるやうに過ぎた。
 「今から荷造りですか。ちつと早過ぎるな」と自分はわざと年を取つた母を嘲《あざ》ける如く注意した。
 「だつて立つとなれば、成るたけ早く用意して置いた方が都合が好いからね」
 「左右《さう》ですとも」
 嫂《あによめ》の此返事は、自分が何か云はうとする先《せん》を越して聲に應ずる響の如く出た。
 「ぢや繩でも絡《から》げませう。男の役だから」
 自分は兄と反對に車夫や職人のするやうな荒仕事に妙を得てゐた。ことに行李《こり》を括《くゝ》るのは得意であつた。自分が繩を十文字に掛け始めると、嫂《あによめ》はすぐ立つて兄の居る室《へや》の方に行つた。自分は思はず其後姿を見送つた。
 「二郎兄さんの機嫌は何うだつたい」と母がわざ/\小さな聲で自分に聞いた。
 「別に是と云ふ事もありません。なあに心配なさる事があるもんですか。大丈夫です」と自分は殊更に荒つぽく云つて、右足で行李《こり》の葢《ふた》をぎい/\締めた。
 「實はお前にも話したい事があるんだが。東京へでも歸つたら何れ又|緩《ゆつ》くりね」
 「えゝ緩《ゆつ》くり伺ひませう」
 自分は斯う無造作に答へながら、腹の中では母の所謂話なるものゝ内容を朧氣《おぼろげ》ながら髣髴《はうふつ》した。
 少時《しばらく》すると、兄と嫂《あによめ》が別席から出て來た。自分は平氣を粧《よそほ》ひながら母と話してゐる間にも、兩人の會見と其會見の結果に就いて多少氣掛りな所があつた。母は二人の並んで來る樣子を見て、やつと安心した風を見せた。自分にも何處かにそんな所があつた。
 自分は行李《こり》を絡《から》げる努力で、顔やら脊中やらから汗が澤山出た。腕捲《うでまく》りをした上、浴衣《ゆかた》の袖で汗を容赦なく拭いた。
 「おい暑さうだ。少し扇《あふ》いで遣るが好い」
 兄は斯う云つて嫂《あによめ》を顧みた。嫂《あによめ》は靜に立つて自分を扇いで呉れた。
 「何よござんす。もう直《ぢき》ですから」
 自分が斯う斷つてゐるうちに、やがて明日《あす》の荷造りは出來上つた。
 
  歸つてから
 
      一
 
 自分は兄夫婦の仲が何うなる事かと思つて和歌山から歸つて來た。自分の豫想は果《はた》して外《はづ》れなかつた。自分は自然の暴風雨《あらし》に次《つい》で、兄の頭に一種の旋風が起る徴候を十分認めて彼の前を引き下つた。けれども其徴候は嫂《あによめ》が行つて十分か十五分話してゐるうちに、殆んど警戒を要しない程|穩《おだや》かになつた。
 自分は心のうちで此變化に驚いた。針鼠《はりねずみ》の樣に尖つてるあの兄を、僅かの間に丸め込んだ嫂《あによめ》の手腕には猶更《なほさら》敬服した。自分は漸く安心したやうな顔を、晴々と輝かせた母を見る丈《だけ》でも滿足であつた。
 兄の機嫌は和歌の浦を立つ時も變らなかつた。汽車の内でも同じ事であつた。大阪へ來ても猶《なほ》續いてゐた。彼は見送りに出た岡田夫婦を捕《つら》まへて戯談《じやうだん》さへ云つた。
 「岡田君お重《しげ》に何か言傳《ことづて》はないかね」
 岡田は要領を得ない顔をして、「お重《しげ》さんに丈《だけ》ですか」と聞き返してゐた。
 「さうさ君の仇敵《きうてき》のお重《しげ》にさ」
 兄が斯う答へた時、岡田はやつと氣の付いたといふ風に笑ひ出した。同じ意味で謎《なぞ》の解けたお兼《かね》さんも笑ひ出した。母の豫言通り見送りに來てゐた佐野も、漸く笑ふ機會が來た樣に、憚《はゞか》りなく口を開いて周圍の人を驚かした。
 自分は其時迄|嫂《あによめ》に何うして兄の機嫌を直したかを聞いて見なかつた。其後もついぞ聞く機會を有《も》たなかつた。けれども斯ういふ靈妙な手腕を有つてゐる彼女であればこそ、あの兄に對して始終あゝ高《たか》を括《くゝ》つてゐられるのだと思つた。さうして其手腕を彼女はわざと出したり引込ましたりする、單に時と場合ばかりでなく、全く己れの氣儘次第で出したり引込ましたりするのではあるまいかと疑ぐつた。
 汽車は例の如く込み合つてゐた。自分達は仕切りの付いてゐる寢臺《しんだい》をやつとの思ひで四つ買つた。四つで一室になつてゐるので都合は大變好かつた。兄と自分は體力の優秀な男子と云ふ譯で、婦人|方《がた》二人に、下のベツドを當《あて》がつて、上へ寐た。自分の下には嫂《あによめ》が横になつてゐた。
 自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にゐる嫂《あによめ》を何うしても忘れる事が出來なかつた。彼女の事を考へると愉快であつた。同時に不愉快であつた。何だか柔かい青大將《あをだいしやう》に身體を絡《から》まれるやうな心持もした。
 兄は谷一つ隔てゝ向ふに寐てゐた。是は身體が寐てゐるよりも本當に精神が寐てゐるやうに思はれた。さうして其寐てゐる精神を、ぐにや/\した例の青大將が筋違《すぢかひ》に頭から足の先|迄《まで》卷き詰めてゐる如く感じた。自分の想像には其青大將が時々熱くなつたり冷たくなつたりした。夫《それ》からその卷きやうが緩《ゆる》くなつたり、緊《かた》くなつたりした。兄の顔色は青大將の熱度の變ずる度に、それから其|絡《から》みつく強さの變ずる度に、變つた。
 自分は自分の寐臺《ねだい》の上で、半《なかば》は想像の如く半は夢の如くに此青大將と嫂《あによめ》とを連想して已《や》まなかつた。自分は此詩に似たやうな眠《ねむり》が、驛夫の呼ぶ名古屋名古屋と云ふ聲で、急に破られたのを今でも記憶してゐる。其時汽車の音がはたりと留《とま》ると同時に、さあといふ雨の音が聞こえた。自分は靴足袋の裏に濕氣《しめりけ》を感じて起き上ると、足の方に當る窓が塵除《ちりよけ》の紗《しや》で張つてあつた。自分はいそいで窓を閉《た》て換へた。外の人のは何うかと思つて、聞いて見たが、答がなかつた。たゞ嫂《あによめ》丈《だけ》が雨が降り込むやうだといふので、已《やむ》を得ず上から飛び下りて又窓を閉《た》て換へてやつた。
 
     二
 
 「雨の樣ね」と嫂《あによめ》が聞いた。
 「えゝ」
 自分は半《なか》ば風に吹き寄せられた厚い窓掛の、じと/\に濕《しめ》つたのを片方へがらりと引いた。途端に母の寐返りを打つ音が聞こえた。
 「二郎、此處は何處だい」
 「名古屋です」
 自分は吹き込む紗《しや》の窓を通して、殆んど人影の射さない停車場《ステーシヨン》の光景を、雨のうちに眺めた。名古屋々々々と呼ぶ聲がまだ遠くの方で聞こえた。夫《それ》からこつりこつりといふ足音がたつた一人で活きて來るやうに響いた。
 「二郎|序《ついで》に妾《わたし》の足の方も締めて御呉れな」
 「御母さんの所も硝子《ガラス》が閉《た》つてゐないんですか。先刻《さつき》呼んだら能く寐て居らつしやる樣でしたから……」
 自分は嫂《あによめ》の方を片付けて、すぐ母の方に行つた。厚い窓掛を片寄せて、手探《てさぐ》りに探《さぐ》つて見ると、案外にも立派に硝子戸《ガラスど》が締まつてゐた。
 「御母さん此方《こつち》は雨なんか這入りやしませんよ。大丈夫です、此通りだから」
 自分はかう云ひながら、母の足の方に當る硝子《ガラス》を、とん/\と手で叩いて見せた。
 「おや雨は這入らないのかい」
 「這入るものですか」
 母は微笑した。
 「何時《いつ》頃から雨が降り出したか御母さんは些《ちつ》とも知らなかつたよ」
 母はさも愛想《あいそ》らしく又|辯疏《いひわけ》らしく口を利いて、「二郎、御苦勞だつたね、早く御休み。もう餘つ程遲いんだらう」と云つた。
 時計は十二時過であつた。自分は又そつと上の寢臺に登つた。車室は元の通り靜かになつた。嫂《あによめ》は母が口を利き出してから、何も云はなくなつた。母は自分が自分の寢臺に上《のぼ》つてから、亦何も云はなくなつた。たゞ兄|丈《だけ》は始めから仕舞迄|一言《ひとこと》も物を云はなかつた。彼は聖者《しやうじや》の如く只すや/\と眠つてゐた。此|眠方《ねむりかた》が自分には今でも不審の一つになつてゐる。
 彼は自分で時々公言する如く多少の神經衰弱に陷つてゐた。さうして時々《じゞ》不眠のために苦しめられた。又正直にそれを家族の誰彼に訴へた。けれども眠くて困ると云つた事は未《いま》だ曾《か》つてなかつた。
 富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆《さか》らつて飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしさうに眺める時すら、彼は前後に關係なく心持よささうに寐てゐた。
 食堂が開《あ》いて乘客の多數が朝飯《あさめし》を濟ました後《のち》、自分は母を連れて昨夜以來の空腹を充たすべく細い廊下を傳はつて後部の方へ行つた。其時母は嫂《あによめ》に向つて、「もう好い加減に一郎を起して、一所に彼方《あつち》へ御出《おい》で。妾達《わたしたち》は向《むかふ》へ行つて待つてゐるから」と云つた。嫂《あによめ》は何時《いつ》もの通り淋《さむ》しい笑ひ方をして、「えゝ直《ぢき》御後《おあと》から參ります」と答へた。
 自分達は室内の掃除に取り懸らうとする給仕《ボイ》を後《あと》にして食堂へ這入つた。食堂はまだ大分《だいぶ》込んでゐた。出たり這入つたりするものが絶えず狹い通り路をざわつかせた。自分が母に紅茶と果物を勸めてゐる時分に、兄と嫂《あによめ》の姿が漸く入口に現れた。不幸にして彼等の席は自分達の傍《そば》に見出せる程、食卓は空《す》いてゐなかつた。彼等は入口の所に差し向ひで座を占めた。さうして普通の夫婦のやうに笑ひながら話したり、窓の外を眺めたりした。自分を相手に茶を啜《すゝ》つてゐた母は、時々其樣子を滿足らしく見た。
 自分達は斯くして東京へ歸つたのである。
 
     三
 
 繰返していふが、我々は斯うして東京へ歸つたのである。
 東京の宅は平生の通り別にこれと云つて變つた樣子もなかつた。お貞《さだ》さんは襷《たすき》を掛けて別條なく働いてゐた。彼女が手拭を被《かぶ》つて洗濯をしてゐる後姿を見て、一段落置いた昔のお貞さんを思ひだしたのは、歸つて二日目の朝であつた。
 芳江《よしえ》といふのは兄夫婦の間《あひだ》に出來た一人つ子であつた。留守のうちはお重《しげ》が引受けて萬事世話をしてゐた。芳江は元來母や嫂《あによめ》に馴付《なつ》いてゐたが、いざとなると、お重|丈《だけ》でも不自由を感じない程世話の燒けない子であつた。自分はそれを嫂《あによめ》の氣性を受けて生れたためか、さうでなければお重の愛嬌のあるためだと解釋してゐた。
 「お重《しげ》お前の樣なものが能くあの芳江《よしえ》を預かる事が出來るね。流石《さすが》にやつぱり女だなあ」と父が云つたら、お重は膨《ふく》れた顔をして、「御父さんも隨分な方《かた》ね」と母にわざ/\訴へに來た話を、汽車の中で聞いた。
 自分は歸つてから一兩日して、彼女に、「お重《しげ》お前を御父さんが矢つ張り女だなと仰しやつたつて怒つてるさうだね」と聞いた。彼女は「怒つたわ」と答へたなり、父の書齋の花瓶《はないけ》の水を易へながら、乾いた布巾《ふきん》で水を切つてゐた。
 「まだ怒つてるのかい」
 「まだつて最《も》う忘れちまつたわ。――綺麗ね此花は何といふんでせう」
 「お重《しげ》然し、女だなあといふのは、夫《そ》りや賞めた言葉だよ。女らしい親切な子だといふんだ。怒る奴があるもんか」
 「何うでも能くつてよ」
 お重は帶で隱した尻の邊《あたり》を左右に振つて、兩手で花瓶《はないけ》を持ちながら父の居間の方へ行つた。それが自分には恰も彼女が尻で怒《いかり》を見せてゐるやうで可笑《をかし》かつた。
 芳江《よしえ》は我々が歸るや否や、すぐお重《しげ》の手から母と嫂《あによめ》に引渡された。二人は彼女を奪ひ合ふ樣に抱いたり下《おろ》したりした。自分の平生から不思議に思つてゐたのは、この外見上冷靜な嫂《あによめ》に、頑是《ぐわんぜ》ない芳江がよくあれ程に馴付《なつき》得たものだといふ眼前の事實であつた。この眸の黒い髪の澤山ある、さうして母の血を受けて人並よりも蒼白い頬をした少女は、馴れ易からざる彼女の母の後《あと》を、奇蹟の如く追つて歩いた。それを嫂《あによめ》は日本一の誇として、宅中《うちぢゆう》の誰彼に見せびらかした。ことに己《おのれ》の夫《をつと》に對しては見せびらかすといふ意味を通り越して、寧ろ殘酷な敵打《かたきうち》をする風にも取れた。兄は思索に遠ざかる事の出來ない讀書家として、大抵は書齋裡《しよさいり》の人であつたので、いくら腹のうちで此少女を鍾愛《しようあい》しても、鍾愛《しようあい》の報酬たる親《した》しみの程度は甚だ稀薄なものであつた。感情的な兄がそれを物足らず思ふのも無理はなかつた、食卓の上などで夫《それ》が色に出る時さへ兄の性質としては偶《たま》にはあつた。さうなると外のものよりお重が承知しなかつた。
 「芳江《よしえ》さんは御母さん子ね。何故《なぜ》御父さんの側《そば》に行かないの」などゝ故意《わざ》とらしく聞いた。
 「だつて……」と芳江《よしえ》は云つた。
 「だつて何うしたの」とお重《しげ》が又聞いた。
 「だつて怖いから」と芳江《よしえ》はわざと小さな聲で答へた。それがお重《しげ》には猶更《なほさら》忌々しく聞こえるのであつた。
 「なに?怖いつて?誰が怖いの?」
 斯んな問答がよく繰り返へされて、時には五分も十分も續いた。嫂《あによめ》は斯う云ふ場合に、決して眉目を動さなかつた。何時でも蒼い頬に微笑を見せながら何處までも尋常な應對をした。仕舞には父や母が双方を宥《なだ》めるために、兄から果物を貰はしたり、菓子を受け取らしたりさせて、「さあ夫《それ》で好い。御父さんから旨いものを頂戴して」とやつと御茶を濁す事もあつた。お重《しげ》は夫《それ》でも腹が癒えなさうに膨《ふく》れた頬をみんなに見せた。兄は黙つて獨り書齋へ退《しりぞ》くのが常であつた。
 
      四
 
 父は其年始めて誰かゝら朝貌《あさがほ》を作る事を教はつて、しきりに變つた花や葉を愛玩してゐた。變つたと云つても普通のものがたゞ縮れて見立がなくなる丈《だけ》だから、宅中《うちぢゆう》でそれを顧みるものは一人もなかつた。たゞ父の熱心と彼の早起と、幾何《いくつ》も並んでゐる鉢と、綺麗な砂と、それから最後に、厭に拗《す》ねた花の樣《さま》や葉の形に感心する丈《だけ》に過ぎなかつた。
 父はそれらを縁側へ並べて誰を捉《つら》まへても説明を怠らなかつた。
 「成程面白いですなあ」と正直な兄までさも感心したらしく御世辭を餘犠なくされてゐた。
 父は常に我々とは懸け隔《へだゝ》つた奧の二間《ふたま》を專領してゐた。簀垂《すだれ》の懸つた其縁側に、朝貌《あさがほ》は何時《いつ》でも並べられた。從つて我々は「おい一郎」とか「おいお重《しげ》」とか云つて、わざ/\其處へ呼び出されたものであつた。自分は兄よりも遙《はるか》に父の氣に入るやうな賛辭を呈して引き退《さ》がつた。さうして父の聞えない所で、「何うもあんな朝貌《あさがほ》を賞めなけりやならないなんて、實際恐れ入るね。親父《おやぢ》の醉興にも困つちまふ」などゝ惡口を云つた。
 一體父は講釋好《かうしやくずき》の説明好であつた。其上時間に暇があるから、誰でも構はず、號鈴《ベル》を鳴らして呼寄せては色々な話をした。お重《しげ》などは呼ばれるたびに、「兄さん今日は御願だから代りに行つて頂戴」と云ふ事がよくあつた。其お重に父は又解り惡《にく》い事を話すのが大好だつた。
 自分達が大阪から歸つたとき朝貌《あさがほ》はまだ咲いてゐた。然し父の興味はもう朝貌《あさがほ》を離れてゐた。
 「何うしました。例の變り種は」と自分が聞いて見ると、父は苦笑ひをして「實は朝貌もあまり思はしくないから、來年からはもう止《や》めだ」と答へた。自分は大方父の誇りとして我々に見せた妙な花や葉が、恐らく其道の人から鑑定すると、成つてゐなかつたんだらうと判斷して、茶の間で大きな聲を立てゝ笑つた。すると例のお重《しげ》とお貞《さだ》さんが父を辯護した。
 「さうぢや無いのよ。あんまり手數《てすう》が掛るんで、御父さんも根氣が盡きちまつたのよ。夫《それ》でも御父さんだからあれ丈《だけ》に出來たんですつて、皆《みん》な賞めて居らしつたわ」
 母と嫂《あによめ》は自分の顔を見て、さも自分の無識を嘲《あざ》けるやうに笑ひ出した。すると傍《そば》にゐた小さな芳江《よしえ》迄が嫂《あによめ》と同じやうに意味のある笑ひ方をした。
 こんな瑣事《さじ》で日を暮してゐるうちに兄と嫂《あによめ》の間柄は自然自分達の胸を離れるやうになつた。自分はかねて約束した通り、兄の前へ出て嫂《あによめ》の事を説明する必要がなくなつた樣な氣がした。母が東京へ歸つてから緩《ゆつ》くり話さうと云つた六《む》づかしさうな事件も母の口から容易に出ようとも思へなかつた。最後にあれ程|嫂《あによめ》に就いて智識を得たがつてゐた兄が、段々冷靜に傾いて來た。其代り父母や自分に對しても前程は口を利かなくなつた。暑い時でも大抵は書齋へ引籠つて何か熱心に遣つてゐた。自分は時々|嫂《あによめ》に向つて、「兄さんは勉強ですか」と聞いた。嫂《あによめ》は「えゝ大方來學年の講義でも作つてるんでせう」と答へた。自分は成程と思つて、其忙しさが永く續くため、彼の心を全然|其方《そつち》の方へ轉換させる事が出來はしまいかと念じた。嫂《あによめ》は平生の通り淋《さび》しい秋草のやうに其處らを動いてゐた。さうして時々|片靨《かたゑくぼ》を見せて笑つた。
 
 
 其うち夏も次第に過ぎた。宵々に見る星の光が夜毎に深くなつて來た。梧桐《あをぎり》の葉の朝夕風に搖ぐのが、肌に應へるやうに眼をひや/\と搖振《ゆすぶ》つた。自分は秋に入ると生れ變つた樣に愉快な氣分を時々感じ得た。自分より詩的な兄は曾《かつ》て透き通る秋の空を眺めてあゝ生き甲斐のある天だと云つて嬉しさうに眞蒼な頭の上を眺めた事があつた。
 「兄さん愈《いよ/\》生き甲斐のある時候が來ましたね」と自分は兄の書齋の?ランダに立つて彼を顧みた。彼は其處にある籐椅子《といす》の上に寐て居た。
 「まだ本當の秋の氣分にやなれない。もう少し經たなくつちや駄目だね」と答へて彼は膝の上に伏せた厚い書物を取り上げた。時は食事前の夕方であつた。自分はそれなり書齋を出て下へ行かうとした。すると兄が急に自分を呼び止めた。
 「芳江《よしえ》は下にゐるかい」
 「居るでせう。先刻《さつき》裏庭で見たやうでした」
 自分は北の方の窓を開けて下を覗いて見た。下には特に彼女の爲に植木屋が拵《こしら》へたブランコがあつた。然し先刻《さつき》ゐた芳江《よしえ》の姿は見えなかつた。「おや何處へか行つたかな」と自分が獨言を云つてると、彼女の鋭い笑ひ聲が風呂場の中で聞えた。
 「あゝ湯に這入つてゐます」
 「直《なほ》と一所かい。御母さんとかい」
 芳江《よしえ》の笑ひ聲の間には慥《たしか》に、女として深さのあり過ぎる嫂《あによめ》の聲が聞えた。
 「姉さんです」と自分は答へた。
 「大分《だいぶ》機嫌が好ささうぢやないか」
 自分は思はず斯う云つた兄の顔を見た。彼は手に持つてゐた大きな書物で頭まで隱してゐたから此言葉を發した時の表情は少しも見る事が出來なかつた。けれども、彼の意味は其調子で自分に能く呑み込めた。自分は少し逡巡《しゆんじゆん》した後《あと》で、「兄さんは子供をあやす事を知らないから」と云つた。兄の顔は夫《それ》でも書物の後《うしろ》に隱れてゐた。それを急に取るや否や彼は「己《おれ》の綾成《あや》す事の出來ないのは子供ばかりぢやないよ」と云つた。自分は黙つて彼の顔を打ち守つた。
 「己《おれ》は自分の子供を綾成《あや》す事が出來ないばかりぢやない。自分の父や母でさへ綾成《あや》す技巧を持つてゐない。それ所か肝心のわが妻《さい》さへ何うしたら綾成《あや》せるか未《いま》だに分別が付かないんだ。此年になる迄學問をした御蔭で、そんな技巧は覺える餘暇《ひま》がなかつた。二郎、ある技巧は、人生を幸福にする爲に、何うしても必要と見えるね」
 「でも立派な講義さへ出來りや、それで凡《すべ》てを償つて餘《あまり》あるから好いでさあ」
 自分は斯う云つて、樣子次第、退却しようとした。所が兄は中止する氣色《けしき》を見せなかつた。
 「己《おれ》は講義を作るため許《ばかり》に生れた人間ぢやない。然し講義を作つたり書物を讀んだりする必要があるために肝心の人間らしい心持を人間らしく滿足させる事が出來なくなつてしまつたのだ。でなければ先方《さき》で滿足させて呉れる事が出來なくなつたのだ」
 自分は兄の言葉の裏に、彼の周圍を呪《のろ》ふやうに苦々《にが/\》しい或物を發見した。自分は何とか答へなければならなかつた。然し何と答へて好いか見當が付かなかつた。たゞ問題が例の嫂事件《あによめじけん》を再發《さいほつ》させては大變だと考へた。それで卑怯の樣ではあるが、問答が其處へ流れ入る事を故意に防いだ。
 「兄さんが考へ過ぎるから、自分でさう思ふんですよ。夫《それ》よりか此好天氣を利用して、今度の日曜位に、何處かへ遠足でもしようぢやありませんか」
 兄はかすかに「うん」と云つて慵《ものう》げに承諾の意を示した。
 
      六
 
 兄の顔には孤獨の淋《さみ》しみが廣い額を傳はつて瘠《こ》けた頬に漲《みなぎ》つてゐた。
 「二郎|己《おれ》は昔から自然が好きだが、詰《つま》り人間と合はないので、已《やむ》を得ず自然の方に心を移す譯になるんだらうかな」
 自分は兄が氣の毒になつた。「そんな事はないでせう」と一口に打ち消して見た。けれどもそれで兄の滿足を買ふ譯には行かなかつた。自分はすかさず又斯う云つた。
 「矢つ張り家の血統にさう云ふ傾きがあるんですよ。御父さんは無論、僕でも兄さんの知つていらつしやる通りですし、夫《それ》にね、あのお重《しげ》が又不思議と、花や木が好きで、今ぢや山水畫などを見ると感に堪へたやうな顔をして時々眺めてゐる事がありますよ」
 自分は成るべく兄を慰めようとして、色々な話をしてゐた。其處へお貞《さだ》さんが下から夕食の報知《しらせ》に來た。自分は彼女に、「お貞さんは近頃嬉しいと見えて妙ににこ/\してゐますね」と云つた。自分が大阪から歸るや否や、お貞さんは暑い下女|室《べや》の隅に引込んで容易に顔を出さなかつた。それが大阪から出したみんなの合併絵葉書《がつぺいゑはがき》の中《うち》へ、自分がお貞さん宛《あて》に「御目出たう」と書いた五字から起つたのだと知れて家内中大笑ひをした。其爲か一つ家《いへ》にゐながらお貞さんは變に自分を回避した。從つて顔を合はせると自分は殊更に何か云ひたくなつた。
 「お貞《さだ》さん何が嬉しいんですか」と自分は面白半分追窮するやうに聞いた。お貞さんは手を突いたなり耳迄赤くなつた。兄は籐椅子《といす》の上からお貞さんを見て、「お貞さん、結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ。行つて見るとね、結婚は顔を赤くする程嬉しいものでもなければ、恥づかしいものでもないよ。それ所か、結婚をして一人の人間が二人になると、一人でゐた時よりも人間の品格が墮落する場合が多い。恐ろしい目に會ふ事さへある。まあ用心が肝心だ」と云つた。
 お貞《さだ》さんには兄の意味が全く通じなかつたらしい。何と答へて好いか解らないので、寧ろ途方に暮れた顔をしながら涙を眼に一杯|溜《た》めてゐた。兄はそれを見て、「お貞さん餘計な事を話して御氣の毒だつたね。今のは冗談だよ。二郎の樣な向ふ見ずに云つて聞かせる事を、ついお貞さん見たいな優しい娘さんに云つちまつたんだ。全くの間違だ。勘辨《かんべん》して呉れ玉へ。今夜は御馳走があるかね。二郎それぢや御膳を食べに行かう」と云つた。
 お貞《さだ》さんは兄が籐椅子《といす》から立ち上るのを見るや否や、すぐ腰を立てゝ一足先へ階子段をとん/\と下りて行つた。自分は兄と肩を比《なら》べて室《へや》を出に掛つた。其時兄は自分を顧みて「二郎、此間の問題もそれぎりになつてゐたね。つい書物や講義の事が忙《いそが》しいものだから、聞かう/\と思ひながら、つい其儘にして置いて濟まない。其内|緩《ゆつ》くり聽く積《つもり》だから、どうか話して呉れ」と云つた。自分は「此間《このあひだ》の問題とは何ですか」と空惚《そらとぼ》けたかつた。けれどもそんな勇氣は此際出る餘裕がなかつたから、まづ體裁の好い挨拶|丈《だけ》をして置いた。
 「斯う時間が經《た》つと、何だか氣の拔けた麥酒《ビール》見た樣で、僕には話し惡《にく》くなつて仕舞ひましたよ。然し折角のお約束だから聽くと仰しやれば遣らん事もありませんがね。然し兄さんの所謂《いはゆる》生き甲斐のある秋にもなつたものだから、其んな詰らない事より、先づ第一に遠足でもしようぢやありませんか」
 「うん遠足も好からうが……」
 二人は斯んな話を交換しながら、食卓の据ゑてある下の室《へや》に入つた。さうして其處に芳江《よしえ》を傍《そば》に引き付けてゐる嫂《あによめ》を見出した。
 
      七
 
 食卓の上で父と母は偶然又お貞《さだ》さんの結婚問題を話頭に上《のぼ》せた。母は兼《かね》て白縮緬《しろちりめん》を織屋から買つて置いたから、それを紋付に染めようと思つてゐるなどゝ云つた。お貞さんは其時みんなの後《うしろ》に坐つて給仕をしてゐたが、急に黒塗の盆をおはち〔二字傍点〕の上へ置いたなり席を立つて仕舞つた。
 自分は彼女の後姿を見て笑ひ出した。兄は反對に苦《にが》い顏をした。
 「二郎お前が無暗に調戯《からか》ふから不可《いけ》ない。あゝ云ふ乙女《おぼこ》にはもう少しデリカシーの籠つた言葉を使つて遣らなくつては」
 「二郎は丸で堂摺連《だうするれん》と同じ事だ」と父が笑ふやうな又|窘《たし》なめる樣な句調で云つた。母|丈《だけ》は一人不思議な顔をしてゐた。
 「何《なに》二郎がね。お貞《さだ》さんの顔さへ見れば御目出たうだの嬉しい事がありさうだのつて、色々の事を云ふから、向ふでも恥かしがるんです。今も二階で顔を赤くさせた許《ばかり》の所だもんだから、すぐ逃げ出したんです。お貞さんは生れ付からして直《なほ》とは丸で違つてるんだから、此方《こつち》でも其《その》積《つもり》で注意して取り扱つて遣らないと不可《いけ》ません……」
 兄の説明を聞いた母は始めて成程と云つたやうに苦笑した。もう食事を濟ましてゐた嫂《あによめ》は、わざと自分の顔を見て變な眼遣《めづかひ》をした。それが自分には一種の相圖の如く見えた。自分は父から評された通り大分《だいぶ》堂摺連《だうするれん》の傾きを持つてゐたが、此時は父や母に憚《はゞか》つて、嫂《あによめ》の相圖を返す氣は毫《がう》も起らなかつた。
 嫂《あによめ》は無言の儘すつと立つた、室《へや》の出口で一寸振り返つて芳江《よしえ》を手招きした。芳江もすぐ立つた。
 「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重《しげ》が聞いた。芳江《よしえ》は其處に立つた儘、何うしたものだらうかと思案する樣子に見えた。嫂《あによめ》は「おや芳江さん來ないの」と左《さ》も大人《おとな》しやかに云つて廊下の外へ出た。今迄|躊躇《ちうちよ》してゐた芳江は、嫂《あによめ》の姿が見えなくなるや否や、急に意を決したものゝ如く、ばた/\と其|後《あと》を追駈けた。
 お重《しげ》は彼女の後姿を左《さ》も忌々《いま/\》しさうに見送つた。父と母は嚴格な顔をして己《おの》れの皿の中を見詰めてゐた。お重は兄を筋違《すぢか》ひに見た。けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めてゐた。尤も彼の眉根には薄く八の字が描《ゑが》かれてゐた。
 「兄さん、其プツヂングを妾《あたし》に頂戴。ね、好いでせう」とお重《しげ》が兄に云つた。兄は無言の儘皿をお重の方に押遣つた。お重も無言の儘其を匙《スプーン》で突《つゝ》ついたが、自分から見ると、食べたくない物を業腹《ごふはら》で食べてゐるとしか思はれなかつた。
 兄が席を立つて書齋に入《い》つたのは夫《それ》からして少時《しばらく》後《のち》の事であつた。自分は耳を峙《そばだ》てゝ彼の上靴《スリツパ》が靜に階段を上《のぼ》つて行く音を聞いた。軈《やが》て上の方で書齋の戸《ドア》がどたんと閉まる聲がして、後《あと》は靜になつた。
 東京へ歸つてから自分は斯んな光景をしば/\目撃した。父も其處には氣が付いてゐるらしかつた。けれども一番心配さうなのは母であつた。彼女は嫂《あによめ》の態度を見破つて、かつ容赦の色を見せないお重《しげ》を、一日も早く片付けて若い女同士の葛藤を避けたい氣色《けしき》を色にも顔にも擧動にも現した。次には成るべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分といふ厄介ものを拔き去りたかつた。けれども複雜な世の中は、さう母の思ふ樣に旨く回轉して呉れなかつた。自分は相變らず、のらくらして居た。お重は益《ます/\》嫂を敵《かたき》の樣に振舞つた。不思議に彼女は芳江《よしえ》を愛した。けれども夫《それ》は嫂《あによめ》の居ない留守に限られてゐた。芳江も嫂《あによめ》の居ない時ばかりお重に縋り付いた。兄の額には學者らしい皺が段々深く刻《きざ》まれて來た。彼は益《ます/\》書物と思索の中に沈んで行つた。
 
     八
 
 斯んな譯で、母の一番輕く見てゐたお貞《さだ》さんの結婚が最初に極まつたのは、彼女の思はくとは丸《まる》で反對であつた。けれども早晩《いつか》片付なければならないお貞さんの運命に一段落を付けるのも、矢張り父や母の義務なんだから、彼等は岡田の好意を喜びこそすれ、決してそれを惡く思ふ筈はなかつた。彼女の結婚が家中《うちぢゆう》の問題になつたのも詰りはその爲であつた。お重《しげ》は此問題に就いてよくお貞さんを捕《つら》まへて離さなかつた。お貞さんは又お重には赤い顔も見せずに、色々の相談をしたり己《おの》れの將來をも語り合つたらしい。
 或日自分が外《そと》から歸つて來て、風呂から上つた所へ、お重《しげ》が、「兄さん佐野さんて一體どんな人なの」と例の前後を顧慮しない調子で聞いた。是は自分が大阪から歸つてから、もう二度目若しくは三度目の質問であつた。
 「何だそんな藪から棒に。御前は一體輕卒で不可《いけ》ないよ」
 怒《おこ》り易いお重《しげ》は黙つて自分の顔を見てゐた。自分は胡坐《あぐら》をかきながら、三澤へ遣る端書を書いてゐたが、此樣子を見て、一寸筆を留めた。
 「お重《しげ》又怒つたな。――佐野さんはね、此間《このあひだ》云つた通り金縁眼鏡を掛けたお凸額《でこ》さんだよ。夫《それ》で好いぢやないか。何遍聞いたつて同《おんな》じ事だ」
 「お凸額《でこ》や眼鏡は寫眞で充分だわ。何も兄さんから聞かないだつて妾《あたし》知つてゝよ。眼があるぢやありませんか」
 彼女はまだ打ち解けさうな口の利き方をしなかつた。自分は靜かに端書と筆を机の上へ置いた。
 「全體何を聞かうと云ふのだい」
 「全體貴方は何を研究して入らしつたんです。佐野さんに就いて」
 お重《しげ》といふ女は議論でも遣り出すと丸《まる》で自分を同輩の樣に見る、癖だか、親しみだか、猛烈な氣性だか、稚氣《ちき》だかがあつた。
 「佐野さんに就いてつて……」と自分は聞いた。
 「佐野さんの人《ひと》と爲《な》りに就いてゞす」
 自分は固《もと》よりお重《しげ》を馬鹿にしてゐたが、斯ういふ眞面目な質問になると、腹の中《なか》でどつしりした何物も貯へてゐなかつた。自分は濟まして卷煙草を吹かし出した。お重は口惜《くや》しさうな顔をした。
 「だつて餘《あん》まりぢやありませんか、お貞《さだ》さんがあんなに心配してゐるのに」
 「だつて岡田が慥《たしか》だつて保證するんだから、好いぢやないか」
 「兄さんは岡田さんを何《ど》の位信用して居らつしやるんです。岡田さんは高が將棋の駒ぢやありませんか」
 「顔は將棋の駒だつて何だつて……」
 「顔ぢやありません。心が浮いてるんです」
 自分は面倒と癇癪でお重《しげ》を相手にするのが厭になつた。
 「お重《しげ》御前そんなにお貞《さだ》さんの事を心配するより、自分が早く嫁にでも行く工夫をした方が餘つ程利口だよ。お父さんやお母さんは、お前が片付いて呉れる方をお貞さんの結婚より何《ど》の位助かると思つてゐるか解りやしない。お貞さんの事なんか何うでも宜いから、早く自分の身體の落ち付くやうにして、少し親孝行でも心掛けるが好い」
 お重《しげ》は果《はた》して泣き出した。自分はお重と喧嘩をするたびに向ふが泣いて呉れないと手應《てごたへ》がない樣で、何だか物足らなかつた。自分は平氣で莨《たばこ》を吹かした。
 「ぢや兄さんも早くお嫁を貰つて獨立したら好いでせう。其方が妾《あたし》が結婚するより幾ら親孝行になるか知れやしない。厭に嫂《ねえ》さんの肩ばかり持つて……」
 「お前は嫂《ねえ》さんに抵抗し過ぎるよ」
 「當前《あたりまへ》ですわ。大兄《おほにい》さんの妹ですもの」
 
     九
 
 自分は三澤へ端書を書いた後《あと》で、風呂から出立《でたて》の頬に髪剃を中《あ》てようと思つてゐた。お重《しげ》を相手に愚圖々々いふのが面倒になつたのを好い幸ひに、「お重氣の毒だが風呂場から熱い湯をうがひ茶碗に一杯持つて來て呉れないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗《うがひぢやわん》どころの騷ぎではないらしかつた。夫《それ》より未《まだ》十倍も嚴肅な人生問題を考へてゐるものゝ如く澄まして膨《ふく》れてゐた。自分はお重に構はず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰つた。それから机の上へ旅行用の鏡を立てゝ、象牙の柄《え》のついた髪刺を並べて、熱湯で濡らした頻をわざと滑稽に膨《ふく》らませた。
 自分が物新しさうにシエーヴイング、ブラツシを振り廻して、石鹸《シヤボン》の泡で顔中を眞白にしてゐると、先刻《さつき》から傍《そば》に坐つて此樣子を見てゐたお重《しげ》は、ワツと云ふ悲劇的な聲を振り上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩此處に來るだらうと思つて、暗に此悲鳴を豫期してゐたのである。そこで益《ます/\》頬《ほつ》ぺたに空氣を一杯入れて、白い石鹸《ツヤボン》をすう/\と髪刺の刃で心持宜さゝうに落し始めた。お重はそれを見て業腹だか何だか益《ます/\》騷々しい聲を立てた。仕舞に「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にして居たには違ないが、此鋭い聲は少し驚かされた。
 「何だ」
 「何だつて、そんなに人を馬鹿にするんです。是でも私は貴方の妹です。嫂《ねえ》さんはいくら貴方が贔屓《ひいき》にしたつて、もと/\他人ぢやありませんか」
 自分は髪剃を下へ置いて、石鹸《シヤボン》だらけの頬をお重《しげ》の方に向けた。
 「お重《しげ》お前は逆《のぼ》せてゐるよ。お前が己《おれ》の妹で、嫂《ねえ》さんが他家《よそ》から嫁に來た女だ位は、お前に教はらないでも知つてるさ」
 「だから私に早く嫁に行けなんて餘計な事を云はないで、あなたこそ早く貴方の好きな嫂《ねえ》さん見た樣な方《かた》をお貰ひなすつたら好いぢやありませんか」
 自分は平手《ひらて》でお重《しげ》の頭を一つ張り付けて遣りたかつた。けれども家中《うちぢゆう》騷ぎ廻られるのが怖いんで、容易に手は出せなかつた。
 「ぢやお前も早く兄さん見た樣な学者を探して嫁に行つたら好からう」
 お重《しげ》は此言葉を聞くや否や、急に※[手偏+國]《つか》み懸りかねまじき凄じい勢ひを示した。さうして涙の途切れ目/\に彼女の結婚がお貞《さだ》さんより後《おく》れたので、夫《それ》でこんなに愚弄されるのだと言明した末、自分を兄妹《きやうだい》に同情のない野蠻人だと評した。自分も固《もと》より彼女の相手になり得る程の惡口家《わるくちや》であつた。けれども最後にとう/\根気負《こんきまけ》がして默つて仕舞つた。夫《それ》でも彼女は自分の傍《そば》を去らなかつた。さうして事實は無論の事、事實が生んだ飛んでもない想像迄縱に喋舌《しやべ》り廻して已《や》まなかつた。其《その》中《うち》で彼女の最も得意とする主題は、何でも蚊でも自分と嫂《あによめ》とを結び付けて當て擦《こす》るといふ惡い意地であつた。自分は夫《それ》が何より厭であつた。自分は其時心の中《うち》で、何んなお多福でも構はないから、お重より早く結婚して、此夫婦關係が何うだの、男女《なんによ》の愛が何うだのと囀《さへづ》る女を、たつた一人|後《あと》に取り殘して遣りたい氣がした。夫《それ》から其方が又實際母の心配する通り、兄夫婦にも都合が好からうと眞面目に考へても見た。
 自分は今でも雨に叩かれたやうなお重《しげ》の佛頂面《ぶつちやうづら》を覺えてゐる。お重は又|石鹸《シヤボン》を溶いた金盥《かなだらひ》の中に顔を突込んだとしか思はれない自分の異《い》な顔を、何うしても忘れ得ないさうである。
 
     十
 
 お重《しげ》は明らかに嫂《あによめ》を嫌つてゐた。是は學究的に孤獨な兄に同情が強いためと誰にも肯《うな》づかれた。
 「御母さんでも居なくなつたら何うなさるでせう。本當に御氣の毒ね」
 凡《すべ》てを隱す事を知らない彼女はかつて自分に斯う云つた。是は固《もと》より頬ぺたを眞白にして自分が彼女と喧嘩をしない遠い前の事であつた。自分は其の時彼女を相手にしなかつた。たゞ「兄さん見たいに譯の解つた人が、家庭間の關係で、御前|抔《など》に心配して貰ふ必要が出て來るものか、默つて見て居らつしゃい。御父さんも御母さんも付いてゐらつしやるんだから」と訓戒でも與へるやうに云つて聞かせた。
 自分は其時分からお重《しげ》と嫂《あによめ》とは火と水の樣な個性の差異から、到底圓熟に同棲する事は困難だらうと既に觀察してゐた。
 「御母さんお重《しげ》も早く片付けて仕舞はないと不可《いけ》ませんね」と自分は母に忠告がましい差出口を利いた事さへあつた。其折母は何故《なぜ》とも何とも聞き返さなかつたが、左《さ》も自分の意味を呑み込んだらしい眼付をして「お前が云つて呉れないでも、御父さんだつて妾《わたし》だつて心配し拔いてゐる所だよ。お重|許《ばかり》ぢやないやね。御前のお嫁だつて、蔭ぢや何《ど》の位みんなに手數《てかず》を掛けて探して貰つてるか分りやしない。けれども是《これ》許《ばかり》は縁だからね……」と云つて自分の顔をしけじけと見た。自分は母の意味も何も解らずに、たゞ「はあ」と子供らしく引き下がつた。
 お重《しげ》は何でも直《ぢき》むき〔二字傍点〕になる代りに裏表のない正直な美質を持つてゐたので、母よりは寧ろ父に愛されてゐた。兄には無論可愛がられてゐた。お貞《さだ》さんの結婚談が出た時にも「先づお重から片付けるのが順だらう」と云ふのが父の意見であつた。兄も多少はそれに同意であつた。けれども折角名ざしで申し込まれたお貞さんのために、澤山《たんと》ない機會を逃《のが》すのはつまり兩損になるといふ母の意見が實際上に尤もなので、理に明るい兄はすぐ折れて仕舞つた。兄の見地《けんち》に多少讓歩してゐる父も無事に納得した。
 けれども默つてゐたお重《しげ》には、夫《それ》が甚だしい不愉快を與へたらしかつた。然し彼女が今度の結婚問題に就て萬事快くお貞《さだ》さんの相談に乘るのを見ても、彼女が機先を制せられたお貞さんに惡感情を抱《いだ》いてゐないのは慥《たしか》な事實であつた。
 彼女はたゞ嫂《あによめ》の傍《そば》にゐるのが厭らしく見えた。いくら父母《ちゝはゝ》のゐる家であつても、いくら思ひ通りの子供らしさを精一杯に振り舞はす事が出來ても、此冷かな嫂《あによめ》からふんといふ顔付で眺められるのが何より辛かつたらしい。
 斯ういふ氣分に神經を焦《いら》つかせてゐる時、彼女は不圖《ふと》女の雜誌か何かを借りるために嫂《あによめ》の室《へや》へ這入つた。さうして其處で嫂《あによめ》がお貞《さだ》さんの爲に縫つてゐた嫁入仕度の着物を見た。
 「お重《しげ》さん是お貞《さだ》さんのよ。好いでせう。あなたも早く佐野さん見た樣な方の所へ入らつしゃいよ」と嫂《あによめ》は縫つてゐた着物を裏表|引繰返《ひつくりかへ》して見せた。其態度がお重には見せびらかしの面當《つらあて》の樣に聞えた。早く嫁に行く先を極めて、斯んなものでも縫ふ覚悟でもしろといふ謎《なぞ》にも取れた。何時《いつ》迄|小姑《こじうと》の地位を利用して人を苛虐《いぢ》めるんだといふ諷刺《ふうし》とも解釋された。最後に佐野さんの樣な人の所へ嫁に行けと云はれたのが尤も神經に障つた。
 彼女は泣きながら父の室《へや》に訴へに行つた。父は面倒だと思つたのだらう、嫂《あによめ》には一言《いちごん》も聞糺《きゝたゞ》さずに、翌日お重《しげ》を連れて三越へ出掛けた。
 
     十一
 
 夫《それ》から二三日して、父の所へ二人程客が來た。父は生來《せいらい》交際好の上に、職業上の必要から、大分《だいぶ》手廣く諸方へ出入《でいり》してゐた。公《おほやけ》の務を退《しりぞ》いた今日《こんにち》でも其惰性だか影響だかで、知合間《しりあひかん》の往來は絶える間《ま》もなかつた。尤も始終顔を出す人に、夫《それ》程《ほど》有名な人も勢力家も見えなかつた。其時の客は貴族院の議員が一人と、ある會社の監査役が一人とであつた。
 父は此二人と謠《うたひ》の方の仲善《なかよし》と見えて、彼等が來る度に謠をうたつて樂《たのし》んだ。お重《しげ》は父の命令で、少しの間《あひだ》皷の稽古をした覺《おぼえ》があるので、さう云ふ時には能く客の前へ呼び出されて皷を打つた。自分は其高慢ちきな顔をまだ忘れずにゐる。
 「お重《しげ》お前の皷は好いが、お前の顔は頗る不味《まづ》いね。惡い事は云はないから、嫁に行つた當座は決して皷を御打ちでないよ。いくら御亭主が謠氣狂《うたひきちがひ》でもあゝ澄まされた日にや、愛想を盡かされる丈《だけ》だから」とわざ/\罵しつた事がある。すると傍《そば》に聞いてゐたお貞《さだ》さんが眼を丸くして、「まあ非道《ひど》い事を仰しやる事、隨分ね」と云つたので、自分も少し言ひ過ぎたかと思つた。けれども烈しいお重は平生に似ず全く自分の言葉を氣に掛けないらしかつた。「兄さんあれでも顔の方はまだ上等なのよ。皷と來たらそれこそ大變なの。妾《あたし》謠の御客がある程厭な事はないわ」とわざ/\自分に説明して聞かせた。お重の顔ばかりに注意してゐた自分は、彼女の皷が夫《それ》程《ほど》不味《まづ》いとは夫《それ》迄《まで》氣が付かなかつた。
 其日も客が來てから一時間半程すると豫定の通り謠が始まつた。自分はやがて又お重《しげ》が呼び出される事と思つて、調戯《からかひ》半分茶の間の方に出て行つた。お重は一生懸命に會席膳《くわいせきぜん》を拭いてゐた。
 「今日はポン/\鳴らさないのか」と自分がことさらに聞くと、お重《しげ》は妙にとぼけた顔をして、立つてゐる自分を見上げた。
 「だつて今御膳が出るんですもの。忙しいからつて、斷つたのよ」
 自分は臺所や茶の間のごた/\した中で、巫山戯《ふざけ》過ぎて母に叱られるのも面白くないと思つて、又|室《へや》へ取つて返した。
 夕食後一寸散歩に出て歸つて來ると、まだ自分の室《へや》に這入らない先から母に捉《つら》まつた。
 「二郎丁度好い所へ歸つて來てお呉れだ。奧へ行つて御父さんの謠《うたひ》を聞いて入らつしやい」
 自分は父の謠を聞き慣れてゐるので、一番|位《ぐらゐ》聽くのは左程《さほど》厭とも思はなかつた。
 「何を遣るんです」と母に質問した。母は自分とは正反對に謠が又大嫌ひだつた。「何だか知らないがね。早く入らつしやいよ。皆さんが待つて居らつしやるんだから」と云つた。
 自分は委細承知して奧へ通らうとした。すると暗い縁側の所にお重《しげ》がそつと立つてゐた。自分は思はず「おい……」と大きな聲を出し掛けた。お重は急に手を振つて相圖のやうに自分の口を塞《ふさ》いで仕舞つた。
 「何故《なぜ》そんな暗い所に一人で立つて居るんだい」と自分は彼女の耳へ口を付けて聞いた。彼女はすぐ「何故《なぜ》でも」と答へた。然し自分が其返事に滿足しないで矢張り元の所に立つてゐるのを見て、「先刻《さつき》から、何遍も出て來い/\つて催促するのよ。だから御母さんに斷つて、少し加減が惡い事にしてあるのよ」
 「何故《なぜ》又《また》今日に限つて、そんなに遠慮するんだい」
 「だつて妾《あたし》皷なんか打つのはもう厭になつちまつたんですもの、馬鹿らしくつて。それに是から遣るのなんか六づかしくつて到底《とて》も出來ないんですもの」
 「感心にお前見た樣な女でも謙遜の道は少々心得てゐるから偉いね」と云ひ放つた儘、自分は奧へ通つた。
 
     十二
 
 奧には例の客が二人床の前に坐つてゐた。二人とも品の好い容貌の人で、其薄く禿げ掛《かゝ》つた頭が後《うしろ》に掛つてゐる探幽《たんいう》の三幅對《さんぷくつゐ》と能く調和した。
 彼等は二人とも袴の儘、羽織を脱ぎ放しにしてゐた。三人のうちで袴を着けてゐなかつたのは父|許《ばかり》であつたが、其父でさへ羽織|丈《だけ》は遠慮してゐた。
 自分は見知り合だから正面の客に挨拶かた/”\、「何うか拜聽を……」と頭を下げた。客は一寸恐縮の體《てい》を裝《よそほ》つて、「いや何うも……」と頭を掻く眞似をした。父は自分に又お重《しげ》の事を尋ねたので、「先刻《さつき》から少し頭痛がするさうで、御挨拶に出られないのを殘念がつてゐました」と答へた。父は客の方を見ながら、「お重が心持が惡いなんて、丸《まる》で鬼の霍亂《くわくらん》だな」と云つて、今度は自分に、「先刻《さつき》綱《つな》(母の名)の話では腹が痛い樣に聞いたがさうぢやない頭痛なのかい」と聞き直した。自分は仕舞つたと思つたが「多分兩方なんでせう。胃腸の熱で頭が痛む事もあるやうだから。然し心配する程の病氣ぢやないやうです。ぢき癒るでせう」と答へた。客は蒼蠅《うるさ》い程お重に同情の言葉を注射した後《あと》、「ぢや殘念だが始めませうか」と云ひ出した。
 聽手《きゝて》には、自分より前に兄夫婦が横向になつて、行儀よく併《なら》んで坐つてゐたので、自分は鹿爪らしく嫂《あによめ》の次に席を取つた。「何を遣るんです」と坐りながら聞いたら、斯《この》道《みち》について何の素養も趣味もない嫂《あによめ》は、「何でも景清《かげきよ》ださうです」と答へて、それ限《ぎり》何とも云はなかつた。
 客のうちで赭顔《あからがほ》の恰腹《かつぷく》の好い男が仕手《して》をやる事になつて、其隣の貴族院議員が脇《わき》、父は主人役で「娘」と「男」を端役《はやく》だと云ふ譯か二つ引き受けた。多少謠を聞分ける耳を持つてゐた自分は、最初から何んな景清が出來るかと心配した。兄は何を考へてゐるのか、甚だ要領を得ない顔をして、凋落《てうらく》しかゝつた前世紀《ぜんせいき》の肉聲を夢のやうに聞いてゐた。嫂《あによめ》の皷膜には肝腎《かんじん》の「松門《しようもん》」さへ人間としてよりも寧ろ獣類の吠《うなり》として不快に響いたらしい。自分はかねてから此「景清」といふ謠に興味を持つてゐた。何だか勇ましいやうな慘《いた》ましいやうな一種の氣分が、盲目《まうもく》の景清の強い言葉遣から、又遙々父を尋ねに日向《ひうが》迄《まで》下《くだ》る娘の態度から、涙に化して自分の眼を輝かせた場合が、一二度あつた。
 然し夫《それ》は歴乎《れつき》とした謠手が本氣に各自の役を引き受けた場合で、今聞かせられてゐるやうな胡麻節《ごまぶし》を辿つて漸く出來上る景清に對しては殆んど同情が起らなかつた。
 やがて景清の戰物語《いくさものがたり》も濟んで一番の謠も滯りなく結末|迄《まで》來た。自分は其成蹟を何と評して好いか解らないので、少し不安になつた。嫂《あによめ》は平生の寡言にも似ず「勇しいものですね」と云つた。自分も「左右《さう》ですね」と答へて置いた。すると多分一口も開くまいと思つた兄が、急に赭顔《あからがほ》の客に向つて、「さすがに我も平家なり物語り申してとか、始めてとかいふ句がありましたが、あのさすがに我も平家なりといふ言葉が大變面白う御座いました」と云つた。
 兄は元來正直な男で、かつ己《おの》れの教育上嘘を吐《つ》かないのを、品性の一部分と心得てゐる位の男だから、此批評に疑ふ餘地は少しもなかつた。けれども不幸にして彼の批評は謠の上手下手でなくつて、文章の巧拙に屬する話だから、相手には殆んど手應《てごたへ》がなかつた。
 斯う云ふ場合に馴れた父は「いや彼處《あすこ》は非常に面白く拜聽した」と客の謠《うた》ひ振《ぶり》を一應賞めた後《あと》で、「實はあれに就いて思ひ出したが、大變興味のある話がある。丁度あの文句を世話に崩して、景清を女にしたやうなものだから、謠よりは餘程|艶《えん》である。しかも事實でね」と云ひ出した。
 
     十三
 
 父は交際家だけあつて、斯ういふ妙な話を澤山頭の中《なか》に仕舞つてゐた。さうして客でもあると、獻酬《けんしう》の間に能くそれを臨機應變に運用した。多年父の傍《そば》に寐起してゐる自分にも此|女景清《をんなかげきよ》の逸話は始めてであつた。自分は思はず耳を傾けて父の顔を見た。
 「つい此間《このあひだ》の事で、又實際あつた事なんだから御話をするが、その發端《ほつたん》はずつと古い。古いたつて何も源平時代から説き出すんぢやないから其處は御安心だが、何しろ今から二十五六年前、丁度私の腰辨時代とでも云ひませうかね……」
 父は斯ういふ前置をして皆《みん》なを笑はせた後《あと》で本題に這入つた。それは彼の友達と云ふよりも寧ろずつと後輩に當る男の艶聞《えんぶん》見たやうなものであつた。尤も彼は遠慮して名前を云はなかつた。自分は家《うち》へ出入《ではい》る人の數々に就いて、大抵は名前も顔も覺えてゐたが、此逸話を有《も》つた男|丈《だけ》はいくら考へても何《ど》んな想像も浮かばなかつた。自分は心のうちで父は今|表向《おもてむき》多分此人と交際してゐるのではなからうと疑ぐつた。
 何しろ事は其人の二十《はたち》前後に起つたので、其時當人は高等學校へ這入り立てだとか、這入つてから二年目になるとか、父は甚だ曖昧な説明をしてゐたが、それは何方《どつち》にしたつて、我々の氣に掛る所ではなかつた。
 「其人は好い人間だ。好い人間にも色々あるが、まあ好い人間だ。今でもさうだから、廿歳《はたち》位《ぐらゐ》の時分は定めて可愛らしい坊ちやんだつたらう」
 父は其男を斯《かう》荒つぽく叙述《じょじゆつ》して置いて、其男と其家の召使とがある關係に陷入《おちい》つた因果を極|單簡《たんかん》に物語つた。
 「元來|其奴《そいつ》はね本當の坊ちやんだから、情事なんて洒落《しゃれ》た經驗は丸で夫《それ》迄《まで》知らなかつたのださうだ。當人も亦婦人に慕はれるなんて粹事《いきごと》は自分の樣なものに到底有り得べからざる奇蹟と思つてゐたのださうだ。所が其奇蹟が突然天から降つて來たので大變驚ろいたんですね」
 話し掛けられた客は寧ろ眞面目な顔をして、「成程」と受けてゐたが、自分は可笑《をか》しくて堪らなかつた。淋《さみ》しさうな兄の頬にも笑の渦《うづ》が漂《たゞ》よつた。
 「しかも夫《それ》が男の方が消極的で、女の方が積極的なんだから愈《いよ/\》妙ですよ。私が其奴《そいつ》に、其女が君に覺召《おぼしめし》があると悟つたのは何ういふ機《はずみ》だと聞いたらね。眞面目な顔をして、色々云ひましたが、其うちで一番面白いと思つた所爲《せゐ》か、未だに覺えてゐるのは、そいつが瓦煎餅《かはらせんべい》か何か食つてる所へ女が來て、私にも其|御煎餅《おせんべ》を頂戴なと云ふや否や、そいつの食ひ缺いた殘りの半分を引《ひ》つ手繰《たく》つて口へ入れたといふ時なんです」
 父の話方は無論滑稽を主にして、大事の眞面目な方を背景に引き込まして仕舞ふので、聞いてゐる客を始め我々三人もたゞ笑ふ丈《だけ》笑へばそれで後《あと》には何も殘らないやうな氣がした。其上客は笑ふ術を何處かで練修《れんしう》して來たやうに旨く笑つた。一座のうちで比較的眞面目だつたのはたゞ兄一人であつた。
 「兎に角其結果は何うなりました。目出たく結婚したんですか」と冗談とも思はれない調子で聞いてゐた。
 「いや其處を是から話さうといふのだ。先刻《さつき》も云つた通り『景清』の趣《おもむき》の出てくる所は是からさ。今言つてる所はほんの冒頭《まへおき》だて」と父は得意らしく答へた。
 
     十四
 
 父の話す所によると、其男と其女の關係は、夏の夜の夢のやうに果敢《はか》ないものであつた。然し契《ちぎ》りを結んだ時、男は女を未來の細君にすると言明したさうである。尤も是は女から申し出した條件でも何でもなかつたので、唯男の口から勢《いきほ》ひに驅《か》られて、おのづと迸《ほとば》しつた、誠ではあるが實行しにくい感情的の言葉に過ぎなかつたと父は態々説明した。
 「と云ふのはね、兩方共おない年でせう。然も一方は親の脛《すね》を噛《かじ》つてる前途遼遠の書生だし、一方は下女奉公でもして暮さうといふ貧しい召使ひなんだから、どんな堅い約束をしたつて、其約束の實行が出來る長い年月の間《あひだ》には、何んな故障が起らないとも限らない。で、女が聞いたさうですよ。貴方が學校を卒業なさると、二十五六に御成んなさる。すると私も同じ位に老《ふ》けて仕舞ふ。夫《それ》でも御承知ですかつてね」
 父は其處へ來て、急に話を途切らして、膝の下にあつた銀烟管《ぎんぎせる》へ煙草を詰めた。彼が薄青い烟を一時に鼻の穴から出した時、自分はもどかしさの餘り「其人は何て答へました」と聞いた。
 父は吸殻《すひがら》を手で叩《はた》きながら「二郎が屹度《きつと》何とか聞くだらうと思つた。二郎面白いだらう。世間には隨分色々な人があるもんだよ」と云つて自分を見た。自分は只「へえ」と答へた。
 「實はわしも聞いて見た、其男に。君何て答へたかつて。すると坊ちやんだね、斯う云ふんだ。僕は自分の年も先の年も知つてゐた。けれども僕が卒業したら女が幾何《いくつ》になるか、其處迄は考へて居られなかつた、况《いはん》や僕が五十になれば先も五十になるなんて遠い未來は全く頭の中に浮かんで來なかつたつて」
 「無邪氣なものですね」と兄は寧ろ賛嘆《さんたん》の口振《くちぶり》を見せた。今迄黙つてゐた客が急に兄に賛成して、「全くの所無邪氣だ」とか「成程若いものになると如何にも一圖《いちづ》ですな」とか云つた。
 「所が一週間|經《た》つか經《た》たないうちに其奴《そいつ》が後悔し始めてね、なに女は平氣なんだが、其奴《そいつ》が自分で恐縮して仕舞つたのさ。坊ちやん丈《だけ》に意氣地のない事つたら。然し正直ものだからとう/\女に對してまともに結婚破約を申し込んで、しかも極りの惡さうな顔をして、御免よとか何とか云つて謝罪《あや》まつたんだつてね。そこへ行くとおない年だつて先は女だもの、『御免よ』なんて子供らしい言葉を聞けば可愛《かは》いくもなるだらうが、又馬鹿々々しくもなるだらうよ」
 父は大きな聲を出して笑つた。御客も其反響の如くに笑つた。兄だけは可笑《をか》しいのだか、苦々しいのだか變な顔をしてゐた。彼の心には凡《すべ》て斯う云ふ物語が嚴肅な人生問題として映るらしかつた。彼の人生觀から云つたら父の話し振さへ或は輕薄に響いたかもしれない。
 父の語る所を聞くと、其女は少時《しばら》くしてすぐ暇を貰つて其處を出てしまつた限《ぎり》再び顔を見せなかつたけれども、其男はそれ以來二三ケ月の間《あひだ》何か考へ込んだなり魂が一つ所にこびり付いた樣に動かなかつたさうである。一遍其女が近所へ來たと云つて寄つた時などでも、外の人の手前だか何だか殆んど一口も物を云はなかつた。しかも其時は丁度|午飯《ひるめし》の時で、其女が昔の通り御給仕をしたのだが、男は丸《まる》で初對面の者にでも逢つた樣に口數《くちかず》を利かなかつた。
 女もそれ以來決して男の家の敷居を跨がなかつた。男は丸で其女の存在を忘れて仕舞つたやうに、學校を出て家庭を作つて、二十何年といふつい近頃|迄《まで》女とは何等の交渉もなく打過ぎた。
 
     十五
 
 「それ丈《だけ》で濟めばまあ唯の逸話さ。けれども運命といふものは恐しいもので……」と父が又語り續けた。
 自分は父が何を云ひ出すかと思つて、彼の顔から自分の眼を離し得なかつた。父の物語りの概要を摘《つま》んで見ると、ざつと斯うであつた。
 其男が其女を丸《まる》で忘れた二十何年の後《のち》、二人が偶然運命の手引で不意に會つた。會つたのは東京の眞中であつた。しかも有樂座で名人會とか美音會《びおんくわい》とかのあつた薄ら寒い宵の事ださうである。
 其時男は細君と女の子を連れて、土間《どま》の何列目か知らないが、かねて注文して置いた席に並んでゐた。すると彼等が入場して五分|經《た》つか立たないのに、今云つた女が他の若い女に手を引かれながら這入つて來た。彼等も電話か何かで席を豫約して置いたと見えて、男の隣にあるエンゲージドと紙札を張つた所へ案内された儘|大人《おと》なしく腰を掛けた。二人は斯ういふ奇妙な所で、奇妙に隣合はせに坐つた。猶更《なほさら》奇妙に思はれたのは、女の方が昔と違つた表情のない盲目《めくら》になつてしまつて、外《ほか》に何んな人が居るか全く知らずに、たゞ舞臺から出る音樂の響にばかり耳を傾けてゐるといふ、男に取つては丸《まる》で想像すらし得なかつた事實であつた。
 男は始め自分の傍《そば》に坐る女の顔を見て過去二十年の記憶を逆《さか》さに振られた如く驚ろいた。次に黒い眸《ひとみ》を凝《ぢつ》と据ゑて自分を見た昔の面影が、何時《いつ》の間《ま》にか消えてゐた女の面影に氣が付いて、又|愕然《がくぜん》として心細い感に打たれた。
 十時過|迄《まで》一つ席に殆んど身動きもせずに坐つてゐた男は、舞臺で何を遣らうが、殆ど耳へは這入らなかつた。たゞ女に別れてから今日《こんにち》に至る運命の暗い糸を、色々に想像する丈《だけ》であつた。女は又わが隣にゐる昔の人を、見もせず、知りもせず、全く意識に上《のぼ》す暇《いとま》もなく、たゞ自然に凋落しかゝつた過去の音樂に、やつとの思ひで若い昔を偲《しの》ぶ氣色《けしき》を濃い眉の間に表すに過ぎなかつた。
 二人は突然として邂逅《かいこう》し、突然として別れた。男は別れた後《のち》も?《しば/\》女の事を思ひ出した。ことに彼女の盲目《めくら》が氣に掛つた。それで何うかして女の居る所を突き留めようとした。
 「馬鹿正直な丈《だけ》に熱心な男だもんだから、とう/\成功した。其筋道も聞くには聞いたが、くだ/\しくつて忘れちまつたよ。何でも彼が其次に有樂座へ行つた時、案内者を捕《つら》まへて、何とか彼《か》んとかした上に、大分《だいぶ》込み入つた手數《てかず》を掛けたんださうだ」
 「何處に居たんです其女は」と自分は是非確めたくなつた。
 「夫《それ》は秘密だ。名前や所は一切云はれない事になつてゐる。約束だからね。それは好いが、其奴《そいつ》が私《わたし》に其|盲目《めくら》の女のゐる所を訪問して呉れと頼むんだね。何といふ主意か解らないが、詰りは無沙汰見舞のやうなものさ。當人に云はせると、學問した丈《だけ》に、鹿爪らしい理窟を何《なん》が條《でう》も並べるけれども。つまり過去と現在の中間を結び付けて安心したいのさ。夫《それ》に何うして盲目《めくら》になつたか、それが大邊當人の神經を惱ましてゐたと見えてね。と云つて今更《いまさら》其女と新しい關係を付ける氣はなし、且《かつ》は女房子《にようぼこ》の手前もあるから、自分はわざ/\出掛け度くないのさ。のみならず彼が又昔其女と別れる時餘計な事を饒舌《しやべ》つてゐるんです。僕は少し學問する積《つもり》だから三十五六にならなければ妻帶しない。で已《やむ》を得ず此間の約束は取消にして貰ふんだつてね。所が奴《やつ》學校を出るとすぐ結婚してゐるんだから良心の方から云つちやあまり心持は能くないのだらう。其でとう/\私《わたし》が行く事になつた」
 「まあ馬鹿らしい」と嫂《あによめ》が云つた。
 「馬鹿らしかつたけれどもとう/\行つたよ」と父が答へた。客も自分も興味ありげに笑ひ出した。
 
      十六
 
 父には人に見られない一種|剽輕《へうきん》な所があつた。或者は直《ちよく》な方《かた》だとも云ひ、或者は氣の置けない男だとも評した。
 「親爺《おやぢ》は全くあれで自分の地位を拵へ上げたんだね。實際の所それが世の中なんだらう。本式に學問をしたり眞面目に考へを纒めたりしたつて、社會ではちつとも重寶がらない。唯輕蔑される丈《だけ》だ」
 兄は斯んな愚痴とも厭味とも、又|諷刺《ふうし》とも事實とも、片の付かない感慨を、蔭ながら曾《かつ》て自分に洩らした事があつた。自分は性質から云ふと兄よりも寧ろ父に似て居た。其上年が若いので、彼のいふ意味が今程明瞭に解らなかつた。
 何しろ父が其男に頼まれて、快よく訪問を引受けたのも、多分持つて生れた物數寄《ものずき》から來たのだらうと自分は解釋してゐる。
 父はやがて其|盲目《めくら》の家《いへ》を音信《おとづ》れた。行く時に男は土産《みやげ》のしるしだと云つて、百圓札を一枚紙に包んで水引を掛けたのに、大きな菓子折を一つ添へて父に渡した。父はそれを受取つて、俥《くるま》を其女の家《いへ》に驅《か》つた。
 女の家《いへ》は狹かつたけれども小綺麗に且《か》つ住心地よく出來てゐた。縁の隅に丸く彫り拔いた御影の手水鉢《てうづばち》が据ゑてあつて、手拭掛には小新らしい三越の手拭さへ搖《ゆら》めいてゐた。家内も小人數らしく寂然《ひつそり》として音もしなかつた。
 父は此日當りの好い然し茶がかつた小座敷で、初めて其|盲人《まうじん》に會つた時、一寸何と云つて好いか分らなかつたさうである。
 「己《おれ》の樣なものが言句に窮するなんて馬鹿げた恥を話すやうだが實際困つたね。何しろ相手が盲目《めくら》なんだからね」
 父はわざと斯う云つて皆《みん》なを興がらせた。
 彼は其場でとう/\男の名を打ち明けて、例の土産《みやげ》ものを取り出しつゝ女の前に置いた。女は眼が惡いので菓子折を撫でたり擦《さす》つたりして見た上、「何うも御親切に……」と恭《うや/\》しく禮を述べたが、其上にある紙包を手で取上げるや否や、少し變な顔をして「是は?」と念を押す樣に聞いた。父は例の氣性だから、呵々《から/\》と笑ひながら、「それも御土産《おみやげ》の一部分です、何うか一緒に受取つて置いて下さい」と云つた。すると女が水引の結び目を持つた儘、「もしや金子《きんす》では御座いませんか」と問ひ返した。
 「いえ何甚だ輕少で――然し○○さんの寸志ですから何うぞ御納め下さい」
 父が斯う云つた時、女はぱたりと此紙包を疊の上に落した。さうして閉ぢた眸《ひとみ》を屹《きつ》と父の方へ向けて、「私は今|寡婦《やもめ》で御座いますが、此間迄|歴乎《れつき》とした夫《をつと》が御座いました。子供は今でも丈夫で御座います。たとひ何んな關係があつたにせよ、他人さまから金子《きんす》を頂いては、樂《らく》に今日《こんにち》を過《すご》すやうにして置いて呉れた夫《をつと》の位牌《ゐはい》に對して濟《すみ》ませんから御返し致します」と判切《はつきり》云つて涙を落した。
 「是には實に閉口したね」と父は皆《みん》なの顔を一順《いちじゆん》見渡したが、其時に限つて、誰も笑ふものはなかつた。自分も腹の中《なか》で、いかな父でも流石《さすが》に弱つたらうと思つた。
 「其時わしは閉口しながらも、あゝ景清を女にしたら矢つ張り斯んなものぢやなからうかと思つてね。本當は感心しましたよ。何ういふ譯で景清を思ひ出したかと云ふとね。たゞ双方とも盲目《めくら》だからと云ふ許《ばかり》ぢやない。何うも其女の態度がね……」
 父は考へてゐた。父の筋向ふに坐つてゐた赭顔《あからがほ》の客が、「全く氣込《きごみ》が似てゐるからですね」と左《さ》も六《む》づかしい謎《なぞ》でも解くやうに云つた。
 「全く氣込です」と父はすぐ承服した。自分は是で父の話が結末に來たのかと思つて、「成程|夫《それ》は面白い御話です」と全體を批評する樣な調子で云つた。すると父は「まだ後《あと》があるんだ。後《あと》の方がまだ面白い。ことに二郎の樣な若い者が聞くと」と付け加へた。
 
     十七
 
 父は意外な女の見識に、話の腰を折られて、已《やむ》を得ず席を立たうとした。すると女は始めて女らしい表情を面《おもて》に湛《たゝ》へて、縋《すが》りつくやうに父を留めた。さうして何時《いつ》何日《いつか》何處で○○が自分を見たのかと聞いた。父は例の有樂座の事を包み藏《かく》さず盲人《まうじん》に話して聞かせた。
 「丁度あなたの隣に腰を掛けてゐたんださうです。あなたの方では丸《まる》で知らなかつたでせうが、○○は最初から氣が付いてゐたのです。然し細君や娘の手前、口を利く事も出來|惡《にく》かつたんでせう。夫《それ》なり宅《うち》へ歸つたと云つてゐました」
 父は其時始めて盲目《めくら》の涙腺から流れ出る涙を見た。
 「失禮ながら眼を御煩ひになつたのは餘程以前の事なんですか」と聞いた。
 「斯ういふ不自由な身體になつてから、もう六年程にもなりませうか。夫《をつと》が亡くなつて一年|經《た》つか經《た》たないうちの事で御座います。生《うま》れ付《つき》の盲目《めくら》と違つて、當座は大變不自由を致しました」
 父は慰め樣もなかつた。彼女の所謂|夫《をつと》といふのは何でも、請負師《うけおひし》か何かで、存生中《ぞんしやうちゆう》に大分《だいぶ》金を使つた代りに、相應の資産も殘して行つたらしかつた。彼女は其御蔭で眼を煩つた今日《こんにち》でも、立派に獨立して暮して行けるのだらうと父は説明した。
 彼女は人に誇つて然るべき倅《せがれ》と娘を持つてゐた。其|倅《せがれ》には高等の教育こそ施してないやうだつたけれども、何でも銀座邊のある商會へ這入つて獨立し得る丈《だけ》の収入を得てゐるらしかつた。娘の方は下町風の育て方で、唄や三味線の稽古を専一と心得させるやうに見えた。凡《すべ》てを通じて○○とは遠い過去に燒き付けられた一點の記憶以外に何ものをも共通に有《も》つてゐるとは思へなかつた。
 父が有樂座の話をした時に、女は兩方の眼をうるませて、「本當に盲目《めくら》程氣の毒なものは御座いませんね」と云つたのが、痛く父の胸には應《こた》へたさうである。
 「○○さんは今何をして御出《おいで》で御座いますか」と女は又空中に何物をか想像するが如き眼遣《めづかひ》をして父に聞いた。父は殘りなく○○が學校を出てから以後の經歴を話して聞かせた後、「今ぢや中々偉くなつてゐますよ。私見たいな老朽とは違つてね」と答へた。
 女は父の返事には耳も借さずに、「定めてお立派な奧さんをお貰ひになつたで御座いませうね」と大人《おとな》しやかに聞いた。
 「えゝ最《も》う子供が四人《よつたり》あります」
 「一番お上のは幾何《いくつ》にお成りで」
 「左樣《さやう》さもう十二三にも成りませうか。可愛《かはい》らしい女の子ですよ」
 女は默つたなり頻りに指を折つて何か勘定し始めた。其指を眺めてゐた父は、急に恐ろしくなつた。さうして腹の中《なか》で餘計な事を云つて、もう取り返しが付かないと思つた。
 女は少後《しばらく》間《ま》を置いて、たゞ「結構で御座います」と一口云つて後は淋《さび》しく笑つた。然し其笑ひ方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも變な感じを與へたと云つた。
 父は○○の宿所を明らさまに告げて、「ちと暇《ひま》な時に遊びがてら御孃さんでも連れて行つて御覽なさい。一寸好い家《うち》ですよ。○○も夜なら大抵御目にかゝれると云つてゐましたから」と云つた。すると女は忽ち眉を曇らして、「そんな立派な御屋敷へ我々|風情《ふぜい》が到底《とて》も御出入《おでいり》は出來ませんが」と云つた儘しばらく考へてゐたが、忽ち抑へ切れないやうに眞劔な聲を出して、「御出入《おでいり》は致しません。先樣《さきさま》で來いと仰しやつても此方《こつち》で御遠慮しなければなりません。然したゞ一つ一生の御願に伺つて置きたい事が御座います。斯うして御目に掛《かゝ》れるのも最《も》う二度とない御縁だらうと思ひますから、何うぞ夫《それ》丈《だけ》聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」と云つた。
 
     十八
 
 父は年の割に度胸の惡い男なので、女から斯う云はれた時は、何んな凄まじい文句を並べられるかと思つて、少からず心配したさうである。
 「幸ひ相手の眼が見えないので、自分の周章《あわて》さ加減を覺《さと》られずに濟んだ」と彼は殊更《ことさら》に付け加へた。其時女は斯う云つたさうである。
 「私は御覽の通り眼を煩つて以來、色といふ色は皆目《かいもく》見《みえ》ません。世の中で一番明るい御天道樣《おてんときま》さへもう拜む事は出來なくなりました。一寸表へ出るにも娘の厄介にならなければ用事は足せません。いくら年を取つても一人で不自由なく歩く事の出來る人間が幾人《いくたり》あるかと思ふと、何の因果で斯んな業病《ごふびやう》に罹つたのかと、つく/”\辛い心持が致します。けれども此眼は潰れても左程《さほど》苦しいとは存じません。たゞ兩方の眼が滿足に開《あ》いて居る癖に、他《ひと》の料簡方《れうけんがた》が解らないのが一番苦しう御座います」
 父は「成程」と答へた。「御尤も」とも答へた。けれども女のいふ意味は一向《いつかう》通じなかつた。彼にはさういふ經驗が丸《まる》でなかつたと彼は明言した。女は曖昧な父の言葉を聞いて、「ねえ貴方|左右《さう》では御座いませんか」と念を押した。
 「そりや其んな場合は無論有るでせう」と父が云つた。
 「有るでせうでは、貴方もわざ/\○○さんに御頼まれになつて、此處迄入らしつて下すつた甲斐がないでは御座いませんか」と女が云つた。父は益《ます/\》窮した。
 自分は此の時偶然兄の顔を見た。さうして彼の神經的に緊張した眼の色と、少し冷笑を洩らしてゐるやうな嫂《あによめ》の唇との對照を比較して、突然彼等の間に此間から蟠《わだか》まつてゐる妙な關係に氣が付いた。その蟠《わだか》まりの中に、自分も引きずり込まれてゐるといふ、一種|厭《いと》ふべき空氣の匂ひも容赦なく自分の鼻を衝いた。自分は父が何故《なぜ》座興とは云ひながら、擇《よ》りに擇《よ》つて、斯んな話をするのだらうと、漸く不安の念が起つた。けれども萬事は既に遲かつた。父は知らぬ顔をして勝手次第に話頭を進めて行つた。
 「おれは夫《それ》でも解らないから、淡泊に其女に聞いて見た。折角○○に頼まれてわざ/\此處迄來て、肝心な要領を伺はないで引き取つては、あなたに對しては勿論○○から云つても定めし不本意だらうから、何うかあなたの胸を存分私に打明けて下さいませんか。夫《それ》でないと私も歸つてから○○に話がし惡《にく》いからつて」
 其時女は始めて思ひ切つた決斷の色を面《おもて》に見せて、「では申し上げます。貴方も○○さんの代理にわざ/\尋ねて來て下さる位で居らつしやるから、定めし關係の深い御方には違ひ御座いませんでせう」といふ冒頭《まへおき》を置いて、彼女の腹を父に打明けた。
 ○○が結婚の約束をしながら一週間|經《た》つか經《た》たないのに、それを取り消す氣になつたのは、周圍の事情から壓迫を受けて已《やむ》を得ず斷つたのか、或は別に何か氣に入らない所でも出來て、其氣に入らない所を、結婚の約束後急に見付けたため斷つたのか、其|有體《ありてい》の本當が聞きたいのだと云ふのが、女の何より知りたい所であつた。
 女は二十年以上○○の胸の底に隱れてゐる此秘密を掘り出し度くつて堪らなかつたのである。彼女には天下の人が悉《こと/”\》く持つてゐる二つの眼を失つて、殆んど他《ひと》から片輪《かたは》扱ひにされるよりも、一旦契つた人の心を確實に手に握れない方が遙かに苦痛なのであつた。
 「御父さんはどういふ返事をして御遣りでしたか」
と其時兄が突然聞いた。其顔には普通の興味といふよりも、異状の同情が籠《こも》つてゐるらしかつた。
 「己《おれ》も仕方がないから、夫《そり》や大丈夫、僕が受け合ふ。本人に輕薄な所は些《ちつ》ともないと答へた」と父は好い加減な答へを却《かへ》つて自慢らしく兄に話した。
 
     十九
 
 「女はそんな事で滿足したんですか」と兄が聞いた。自分から見ると、兄の此問には冒す可《べか》らざる強味が籠つてゐた。夫《それ》が一種の念力《わんりき》のやうに自分には響いた。
 父は氣が付いたのか、氣が付かなかつたのか、平氣で斯んな答をした。
 「始は滿足しかねた樣子だつた。勿論|此方《こつち》の云ふ事がそら夫《それ》程《ほど》根のある譯でもないんだからね。本當を云へば、先刻《さつき》お前達に話した通り男の方は丸で坊ちやんなんで、前後の分別も何もないんだから、眞面目な挨拶はとても出來ないのさ。けれども其奴《そいつ》が一旦女と關係した後で止せば好かつたと後悔したのは、何うも事實に違なからうよ」
 兄は苦々しい顔をして父を見てゐた。父は何といふ意味か、兩手で長い頬を二度|程《ほど》撫でた。
 「此席で斯んな御話をするのは少し憚《はゞか》りがあるが」と兄が云つた。自分は何んな議論が彼の口から出るか、次第によつては途中から其|鉾先《ほこさき》を、一座の迷惑にならない方角へ向易《むけか》へようと思つて聞いてゐた。すると彼は斯う續けた。
 「男は情慾を滿足させる迄は、女よりも烈しい愛を相手に捧《さゝ》げるが、一旦《いつたん》事が成就すると其愛が段々|下《くだ》り坂になるに反して、女の方は關係が付くと夫《それ》から其男を益《ます/\》慕ふ樣になる。是が進化論から見ても、世間の事實から見ても、實際ぢやなからうかと思ふのです。夫《それ》で其男も此原則に支配されて後から女に氣がなくなつた結果結婚を斷つたんぢやないでせうか」
 「妙な御話ね。妾《あたし》女だからそんな六《む》づかしい理窟は知らないけれども、始めて伺つたわ。隨分面白い事があるのね」
 嫂《あによめ》が斯う云つた時、自分は客に見せたくないやうな厭な表情を兄の顔に見出《みいだ》したので、すぐそれを胡麻化《ごまか》すため何か云つて見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。
 「そりや學理から云へば色々解釋が付くかも知れないけれども、まあ何だね、實際は其女が厭になつたに相違ないとした所で、當人|面喰《めんく》らつたんだね、まづ第一に。其上|小膽《せうたん》で無分別で正直と來てゐるから、それ程厭でなくつても斷りかねないのさ」
 父はさう云つたなり洒然《しやぜん》としてゐた。
 床《とこ》の前に謠本を置いてゐた一人の客が、其時父の方を向いて斯う云つた。
 「然し女といふものは兎に角|執念深《しふねんぶか》いものですね。二十何年も其事を胸の中に疊込んで置くんですからね。全くの所貴方は好い功コを爲すつた。さう云つて安心させて遣れば其眼の見えない女のために何《ど》の位嬉しかつたか解りやしません」
 「其處が凡《すべ》ての懸合事《かけあひごと》の氣轉ですな。萬事|左右《さう》遣れば双方の爲に何《ど》の位都合が好いか知れんです」
 他の客が續いて斯う云つた時、父は「いや何うも」と頭を掻いて「實は今云つた通り最初はね、その位な事ぢや中々|疑《うたぐ》りが解けないんで、私も少々弱らせられました。夫《それ》を色々に光澤《つや》を付けたり、出鱈目《でたらめ》を拵《こしら》へたりして、とう/\女を納得《なつとく》させちまつたんですが、隨分骨が折れましたよ」と少し得意氣であつた。
 やがて客は謠本を風呂敷に包んで露に濡れた門を潜《くゞ》つて出た。皆《みん》な後《あと》で世間話をしてゐるなかに、兄|丈《だけ》は六づかしい顔をして一人書齋に入つた。自分は例の如く冷かに重い音をさせる上草履《スリツパー》の音を一つ宛《づゝ》聞いて、最後にどんと締まる扉《ドア》の響に耳を傾けた。
 
     二十
 
 二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋が段々深くなつた。葉鷄頭《はげいとう》の濃い色が庭を覗くたびに自分の眼に映つた。
 兄は俥《くるま》で學校へ出た。學校から歸ると大抵は書齋へ這入つて何かしてゐた。家族のものでも滅多に顔を合はす機會はなかつた。用があると此方《こつち》から二階に上《のぼ》つて、わざ/\扉《ドア》を開けるのが常になつてゐた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けてゐた。それでなければ何か萬年筆で細かい字を書いてゐた。一番我々の眼に付いたのは、彼の茫然として洋机《テーブル》の上に頬杖を突いて居る時であつた。
 彼は一心に何か考へてゐるらしかつた。彼は學者で且《かつ》思索家であるから、黙つて考へるのは當然の事のやうにも思はれたが、扉《ドア》を開けて其樣子を見た者は、如何にも寒い氣がすると云つて、用を濟ますのを待ち兼ねて外へ出た。最も關係の深い母ですら、書齋へ行くのを餘り難有《ありがた》いとは思つてゐなかつたらしい。
 「二郎、學者つてものは皆《みん》なあんな偏屈なものかね」
 此問を聞いた時、自分は學者でないのを不思議な幸福の樣に感じた。それで只えへゝと笑つてゐた。すると母は眞面目な顔をして、「二郎、御前が居なくなると、宅《うち》は淋《さむ》しい上にも淋《さむ》しくなるが、早く好い御嫁さんでも貰つて別に成る工面《くめん》を御爲《おし》よ」と云つた。自分には母の言葉の裏に、自分さへ新しい家庭を作つて獨立すれば、兄の機嫌が少しは能くなるだらうといふ意味が明らさまに讀まれた。自分は今でも兄がそんな妙な事を考へてゐるのだらうかと疑《うたぐ》つても見た。然し自分も既に一家を成して然るべき年輩だし、又小さい一軒の竈《かまど》位《ぐらゐ》は、現在の収入で何うか斯うか維持して行かれる地位なのだから、かねてから、左右《さう》いふ考へはちら/\と無頓着な自分の頭をさへ横切つたのである。
 自分は母に對して、「えゝ外へ出る事なんか譯はありません。明日《あした》からでも出ろと仰しやれば出ます。然し嫁の方はさうちんころ〔四字傍点〕の樣に、何でも構はないから、只《たゞ》路に落ちてさへゐれば拾つて來るといふやうな遣口《やりくち》ぢや僕には不向《ふむき》ですから」と云つた。其時母は「そりや無論……」と答へようとするのを自分はわざと遮《さへぎ》つた。
 「御母さんの前ですが、兄さんと姉さんの間ですね。あれには色々複雜な事情もあり、又僕が固《もと》から少し姉さんと知り合だつたので、御母さんにも御心配を懸けて濟まない樣ですけれども、大根《おほね》をいふとね。兄さんが學問以外の事に時間を費《つひや》すのが惜《をし》いんで、萬事|人任《ひとまか》せにして置いて、何事にも手を出さずに華族然と澄ましてゐたのが惡いんですよ。いくら研究の時間が大切だつて、學校の講義が大事だつて、一生同じ所で同じ生活をしなくつちやならない吾が妻ぢやありませんか。兄さんに云はしたら又學者相應の意見もありませうけれども學者以下の我々には到底《とて》もあんな眞似は出來ませんからね」
 自分が斯んな下らない理窟を云ひ募《つの》つてゐるうちに、母の眼には何時《いつ》の間《ま》にか涙らしい光の影が、段々溜つて來たので、自分は驚いて已《や》めて仕舞つた。
 自分は面《つら》の皮が厚いといふのか、遠慮がなさ過ぎると云ふのか、それ程|宅《うち》のものが氣兼《きがね》をして、云はゞ敬して遠ざけてゐるやうな兄の書齋の扉《ドア》を他《ひと》よりも?《しば/\》叩いて話をした。中へ這入つた當分の感じは、さすがの自分にも少し應《こた》へた。けれども十分位|經《た》つと彼は丸《まる》で別人のやうに快活になつた。自分は苦《にが》い兄の心機を斯う一轉させる自分の手際に重きを置いて、恰も己《おの》れの虚榮心を滿足させる爲の手段らしい態度をもつて、わざ/\彼の書齋へ出入《でいり》した事さへあつた。自白すると、突然兄から捕《つら》まつて危く死地に陷《おとしい》れられさうになつたのも、實は斯ういふ得意の瞬間であつた。
 
     二十一
 
 其折自分は何を話てゐたか今|慥《たしか》に覺えてゐない。何でも兄から玉突《たまつき》の歴史を聞いた上、ルイ十四世頃の銅版の玉突臺をわざ/\見せられた樣な氣がする。
 兄の室《へや》へ這入つては、斯んな問題を種に、彼の新しく得た知識を、はい/\聞いてゐるのが一番安全であつた。尤も自分も御饒舌《おしやべり》だから、兄と違つた方面で、ルネサンスとかゴシツクとかいふ言葉を心得顔に振り廻す事も多かつた。然し大抵は世間離れのした斯う云ふ談話|丈《だけ》で書齋を出るのが例であつたが、其折は何かの拍子で兄の得意とする遺傳とか進化とかに就いての學説が、銅版の後で出て來た。自分は多分云ふ事がないため、黙つて聞いてゐたものと見える。其時兄が「二郎お前はお父さんの子だね」と突然云つた。自分はそれが何うしたと云はぬ許《ばかり》の顔をして、「左右《さう》です」と答へた。
 「おれはお前だから話すが、實はうちのお父さんには、一種妙におつちよこちよい〔八字傍点〕の所があるぢやないか」
 兄から父を評すれば正に左右《さう》であるといふ事を自分は以前から呑込んでゐた。けれども兄に對して此場合何と挨拶すべきものか自分には解らなかつた。
 「夫《そり》や貴方のいふ遣傳とか性質とかいふものぢや恐らくないでせう。今の日本の社會があれでなくつちや、通させないから、已《やむ》を得ないのぢやないですか。世の中にやお父さん所かまだ/\堪らないおつちよこ〔五字傍点〕がありますよ。兄さんは書齋と學校で高尚に日を暮してゐるから解らないかも知れないけれども」
 「夫《そり》や己《おれ》も知つてる。お前の云ふ通りだ。今の日本の社會は――ことによつたら西洋も左右《さう》かも知れないけれども――皆《みん》な上滑《うはすべ》りの御上手もの丈《だけ》が存在し得るやうに出來上がつてゐるんだから仕方がない」
 兄は斯う云つて少時《しばらく》沈黙の裡《うち》に頭を埋《うづ》めてゐた。夫《それ》から怠《だる》さうな眼を上げた。
 「然し二郎、お父さんのは、お氣の毒だけれども、持つて生れた性質なんだよ。何んな社會に生きてゐても、あゝより外に存在の仕方はお父さんに取つて六づかしいんだね」
 自分は此學問をして、高尚になり、かつ迂濶になり過ぎた兄が、家中《うちぢゆう》から變人扱ひにされるのみならず、親身の親からさへも、日に日に離れて行くのを眼前に見て、思はず顔を下げて自分の膝頭を見詰めた。
 「二郎お前も矢つ張りお父さん流だよ。少しも摯實《しじつ》の氣質がない」と兄が云つた。
 自分は癇癪の不意に起る野蠻な氣質を兄と同樣に持つてゐたが、此場合兄の言葉を聞いたとき、毫も憤怒の念が萠《きざ》さなかつた。
 「そりや非道《ひど》い。僕は兎に角、お父さん迄世間の輕薄ものと一所に見做《みな》すのは。兄さんは獨りぼつちで書齋にばかり籠つてゐるから、夫《それ》でさういふ僻《ひが》んだ觀察ばかりなさるんですよ」
 「ぢや例を擧げて見せようか」
 兄の眼は急に光を放つた。自分は思はず口を閉ぢた。
 「此間《このあひだ》謠の客のあつた時に、盲女《めくらをんな》の話をお父さんがしたらう。あのときお父さんは何とかいふ人を立派に代表して行きながら、其女が二十何年も解らずに煩悶してゐた事を、たゞ一口に胡魔化《ごまか》してゐる。己《おれ》はあの時、其女のために腹の中《なか》で泣いた。女は知らない女だから夫《それ》程《ほど》同情は起らなかつたけれども、實をいふとお父さんの輕薄なのに泣いたのだ。本當に情ないと思つた。……」
 「さう女見たやうに解釋すれば、何だつて輕薄に見えるでせうけれども……」
 「そんな事を云ふ所が、つまりお父さんの惡い所を受け繼いでゐる證據になる丈《だけ》さ。己《おれ》は直《なほ》の事をお前に頼んで、其報告を何時《いつ》迄も待つてゐた。所がお前は何時《いつ》迄も言葉を左右に託して、空恍《そらとぼ》けてゐる……」
 
     二十二
 
 「空恍《そらとぼ》けてると云はれちや些《ちつ》と可哀《かはい》さうですね。話す機會もなし、又話す必要がないんですもの」
 「機會は毎日ある。必要はお前になくても己《おれ》の方にあるから、わざ/\頼んだのだ」
 自分は其時ぐつと行き詰つた。實はあの事件以後、嫂《あによめ》について兄の前へ一人出て、眞面目に彼女を論ずるのが如何にも苦痛だつたのである。自分は話頭を無理に横へ向けようとした。
 「兄さんは既にお父さんを信用なさらず。僕も其お父さんの子だといふ譯で、信用なさらない樣だが、和歌の浦で仰しやつた事とは丸で矛盾してゐますね」
 「何が」と兄は少し怒氣を帶びて反問した。
 「何がつて、あの時、貴方は仰しやつたぢやありませんか。お前は正直なお父さんの血を受けてゐるから、信用が出來る、だから斯んな事を打ち明けて頼むんだつて」
 自分が斯う云ふと、今度は兄の方がぐつと行き詰まつた樣な形迹《けいせき》を見せた。自分は此處だと思つて、わざと普通以上の力を、言葉の裡《うち》へ籠《こ》めながら斯う云つた。
 「そりや御約束した事ですから、嫂《ねえ》さんに就いて、あの時の一部始終を今此處で御話しても一向差支ありません。固《もと》より僕はあまり下らない事だから、機會が來なければ口を開く考へもなし、又口を開いたつて、只|一言《いちごん》で濟んで仕舞ふ事だから、兄さんが氣に掛けない以上、何も云ふ必要を認めないので、今日《こんにち》迄《まで》控へてゐたんですから。――然し是非何とか報告をしろと、官命で出張した屬官流に逼られゝば、仕方がない。今|即刻《すぐ》でも僕の見た通りをお話します。けれども豫《あらかじ》め斷つて置きますが、僕の報告から、貴方の豫期してゐるやうな變な幻《まぼろし》は決して出て來ませんよ。元々|貴方《あなた》の頭にある幻《まぼろし》なんで、客觀的には何處にも存在してゐないんだから」
 兄は自分の言葉を聞いた時、平生と違つて、顔の筋肉を殆ど一つも動かさなかつた。唯|洋卓《テーブル》の前に肱を突いたなり、凝《ぢつ》としてゐた。眼さへ伏せてゐたから、自分には彼の表情が些《ちつ》とも解らなかつた。兄は理に明らかな樣で、又其理にころりと抛《な》げられる癖があつた。自分はたゞ彼の顔色が少し蒼くなつたのを見て、是は必竟彼が自分の強い言語に叩かれたのだと判斷した。
 自分は其所《そこ》にあつた卷莨入《まきたばこいれ》から烟草を一本取り出して燐寸《マツチ》の火を擦《す》つた。さうして自分の鼻から出る青い烟と兄の顔とを等分に眺めてゐた。
 「二郎」と兄が漸く云つた。其聲には力も張《はり》もなかつた。
 「何です」と自分は答へた。自分の聲は寧ろ驕《おご》つてゐた。
 「もう己《おれ》はお前に直《なほ》の事に就いて何も聞かないよ」
 「左右《さう》ですか。其方が兄さんの爲にも嫂《ねえ》さんの爲にも、また御父さんの爲にも好いでせう。善良な夫《をつと》になつて御上げなさい。さうすれば嫂《ねえ》さんだつて善良な夫人でさあ」と自分は嫂《あによめ》を辯護するやうに、又兄を戒めるやうに云つた。
 「此馬鹿野郎」と兄は突然大きな聲を出した。其聲は恐らく下《した》迄《まで》聞えたらうが、すぐ傍《そば》に坐つてゐる自分には、殆ど豫想外の驚きを心臓に打ち込んだ。
 「お前はお父さんの子だけあつて、世渡りは己《おれ》より旨いかも知れないが、士人の交《まじ》はりは出來ない男だ。なんで今になつて直《なほ》の事をお前の口などから聞かうとするものか。輕薄兒《けいはくじ》め」
 自分の腰は思はず坐つてゐる椅子からふらりと離れた。自分は其儘|扉《ドア》の方へ歩いて行つた。
 「お父さんのやうな虚僞な自白を聞いた後《あと》、何で貴樣の報告なんか宛《あて》にするものか」
 自分は斯ういふ烈しい言葉を背中に受けつゝ扉《ドア》を閉めて、暗い階段の上に出た。
 
     二十三
 
 自分は夫《それ》から約一週間程といふもの、夕食以外には兄と顔を合《あは》した事がなかつた。平生食卓を賑やかにする義務を有《も》つてゐると迄、皆《みん》なから思はれてゐた自分が、急に黙つて仕舞つたので、テーブルは變に淋《さみ》しくなつた。何處かで鳴く?《こほろぎ》の音《ね》さへ、併《なら》んでゐる人の耳に、肌寒《はださむ》の象徴《シンボル》の如く響いた。
 斯ういふ寂莫《せきばく》たる團欒《だんらん》の中《なか》に、お貞《さだ》さんは日毎に近づいて來る我結婚の日限《にちげん》を考へるより外に、何の天地もない如くに、盆を膝の上へ載せて御給仕をしてゐた。陽氣な父は周圍に頓着なく、己《おの》れに特有な勝手な話ばかりした。然し其反響は何時《いつ》もの樣に何處からも起らなかつた。父の方でも丸《まる》でそれを豫期する氣色《けしき》は見えなかつた。
 時々席に列《つらな》つたものが、一度に聲を出して笑ふ種になつたのは唯|芳江《よしえ》ばかりであつた。母などは話が途切れておのづと不安になる度に、「芳江お前は……」とか何とか無理に問題を拵へて、一時を糊塗するのを例にした。すると其|態《わざ》とらしさが、すぐ兄の神經に觸つた。
 自分は食卓を退《しりぞ》いて自分の室《へや》に歸る度に、ほつと一息《ひといき》吐《つ》くやうに煙草を呑んだ。
 「詰らない。一面識《いちめんしき》のないものが寄つて會食するより猶《なほ》詰らない。他《ひと》の家庭もみんな斯んな不愉快なものかしら」
 自分は時々斯う考へて、早く家《うち》を出てしまはうと決心した事もあつた。あまり食卓の空氣が冷やかな折は、お重《しげ》が自分の後を戀《した》つて、追ひ懸けるやうに、自分の室《へや》へ這入つて來た。彼女は何にも云はずに其處で泣き出したりした。或時は何故《なぜ》兄さんに早く詫《あや》まらないのだと詰問するやうに自分を惡《にく》らしさうに睨《にら》めたりした
 自分は宅《うち》に居るのが愈《いよ/\》厭になつた。元來|性急《せつかち》の癖に決斷に乏しい自分だけれども、今度こそは下宿なり間借りなりして、當分氣を拔かうと思ひ定《さだ》めた。自分は三澤の所へ相談に行つた。其時自分は彼に、「君が大阪などで、あゝ長く煩《わづら》ふから惡いんだ」と云つた。彼は「君がお直《なほ》さん抔《など》の傍《そば》に長く喰付《くつつ》いてゐるから惡いんだ」と答へた。
 自分は上方《かみがた》から歸つて以來、彼に會ふ機會は何度となくあつたが、嫂《あによめ》に就いては、未《いま》だ曾つて一言も彼に告げた例《ためし》がなかつた。彼も亦自分の嫂《あによめ》に關しては、一切口を閉ぢて何事をも云はなかつた。
 自分は始めて彼の咽喉《のど》を洩れる嫂《あによめ》の名を聞いた。また其|嫂《あによめ》と自分との間《あひだ》に横《よこた》はる、深くも淺くも取れる相互關係をあらはした彼の言葉を聞いた。さうして驚きと疑の眼を三澤の上に注《そゝ》いだ。其|中《なか》に怒《いかり》を含んでゐると解釋した彼は、「怒《おこ》るなよ」と云つた。其|後《あと》で「氣狂《きちがひ》になつた女に、しかも死んだ女に惚れられたと思つて、己惚《おのぼ》れてゐる己《おれ》の方が、まあ安全だらう。其代り心細いには違ない。然し面倒は起らないから、幾何《いくら》惚れても、惚れられても一向差支ない」と云つた。自分は黙つてゐた。彼は笑ひながら「何うだ」と自分の肩を捕《つか》まへて小突いた。自分には彼の態度が眞面目なのか、又冗談なのか、少しも解らなかつた。眞面目にせよ、冗談にせよ、自分は彼に向つて何事をも説明したり、辯明したりする氣は起らなかつた。
 自分は夫《それ》でも三澤に適當な宿を一二軒|教《をそ》はつて、歸り掛けに、自分の室《へや》迄《まで》見て歸つた。家《うち》へ戻るや否や誰より先に、まづお重《しげ》を呼んで、「兄さんもお前の忠告して呉れた通り愈《いよ/\》家《うち》を出る事にした」と告げた。お重は案外な樣な又豫期してゐたやうな表情を眉間《みけん》にあつめて、凝《ぢつ》と自分の顔を眺めた。
 
     二十四
 
 兄妹《きやうだい》として云へば、自分とお重《しげ》とは餘り仲の善《い》い方ではなかつた。自分が外へ出る事を、先《まづ》第一に彼女に話したのは、愛情のためといふよりは、寧ろ面當《つらあて》の氣分に打勝たれてゐた。すると見る/\うちにお重の兩方の眼に涙が一杯|溜《たま》つて來た。
 「早く出て上げて下さい。其代り妾《あたし》も何んな所でも構はない、一日も早くお嫁に行きますから」と云つた。
 自分は黙つてゐた。
 「兄さんは一旦《いつたん》外へ出たら、それなり家《うち》へ歸らずに、すぐ奧さんを貰つて獨立なさる積《つもり》でせう」と彼女が又聞いた。
 自分は彼女の手前「勿論さ」と答へた。其時お重《しげ》は今迄持ち應へてゐた涙をぽろり/\と膝の上に落した。
 「何だつて、そんなに泣くんだ」と自分は急に優しい聲を出して聞いた。實際自分は此事件に就いてお重《しげ》の眼から一滴の涙さへ豫期して居なかつたのである。
 「だつて妾《あたし》許《ばかり》後《あと》へ殘つて……」
 自分に判切《はつきり》聞こえたのは只《たゞ》是《これ》丈《だけ》であつた。其他は彼女の無暗に引泣上《しやくりあ》げる聲が邪魔をして殆んど崩れたまゝ自分の皷膜を打つた。
 自分は例の如く煙草を呑み始めた。さうして大人《おとな》しく彼女の泣き止むのを待つてゐた。彼女はやがて袖で眼を拭いて立ち上つた。自分は其後姿を見たとき、急に可哀《かはい》さうになつた。
 「お重《しげ》、お前とは好く喧嘩ばかりしたが、もう今迄通り啀《いが》み會ふ機會も滅多にあるまい。さあ仲直りだ。握手しよう」
 自分は斯う云つて手を出した。お重《しげ》は却《かへ》つて極《きま》り惡氣《わるげ》に躊躇した。
 自分は是から段々に父や母に自分の外へ出る決心を打ち明けて、彼等の許諾を一々求めなければならないと思つた。たゞ最後に兄の所へ行つて、同じ決心を是非共繰返す必要があるので、それ丈《だけ》が苦《く》になつた。
 母に打ち明けたのは慥《たしか》その明くる日であつた。母は此|唐突《たうとつ》な自分の決心に驚いたやうに、「何うせ出るならお嫁でも極つてからと思つてゐたのだが。――まあ仕方があるまいよ」と云つた後《あと》、憮然《ぶぜん》として自分の顔を見た。自分はすぐ其足で、父の居間へ行かうとした。母は急に後から呼び留めた。
 「二郎たとひ、お前が家《うち》を出たつてね……」
 母の言葉は夫《それ》丈《だけ》で支《つか》へて仕舞つた。自分は「何ですか」と聞き返したため、元の場所に立つてゐなければならなかつた。
 「兄さんにはもう御話しかい」と母は急に即《つ》かぬ事を云ひ出した。
 「いゝえ」と自分は答へた。
 「兄さんには却《かへ》つてお前から直下《ぢか》に話した方が好いかも知れないよ。なまじ、御父さんや御母さんから取次ぐと、却《かへ》つて感情を害するかも知れないからね」
 「えゝ僕もさう思つてゐます。成丈《なるたけ》綺麗にして出る積《つも》りですから」
 自分は斯う斷つて、すぐ父の居間に這入つた。父は長い手紙を書いてゐた。
 「大阪の岡田からお貞《さだ》の結婚に就いて、此間又問ひ合せが來たので、其返事を書かう/\と思ひながら、とう/\今日迄|放《はふ》つて置いたから、今日は是非一つ其義務を果さうと思つて、今書いてゐる所だ。序《ついで》だから左右《さう》云つとくが、御前の書く拜啓の啓の字は間違つてゐる。崩すなら其處にある樣に崩すものだ」
 長い手紙の一端が丁度自分の坐つた膝の前に出てゐた。自分は啓の字を横に見たが、何處が間違つてゐるのか丸《まる》で解らなかつた。自分は父が筆を動かす間、床に活けた黄菊だの其|後《うしろ》にある懸物だのを心のうちで品評してゐた。
 
     二十五
 
 父は長い手紙を裾《すそ》の方から卷き返しながら、「何か用かね、又金ぢやないか。金ならないよ」と云つて、封筒に上書《うはがき》を認《したゝ》めた。
 自分は極《きは》めて簡略に自分の決意を述べた上、「永々御厄介になりましたが……」といふやうな形式の言葉を一寸|後《あと》へ付け加へた。父は唯「うん左右《さう》か」と答へた。やがて切手を状袋の角《かど》へ貼《は》り付けて、「一寸其ベルを押して呉れ」と自分に頼んだ。自分は「僕が出させませう」と云つて手紙を受け取つた。父は「お前の下宿の番地を書いて、御母さんに渡して置きな」と注意した。それから床《とこ》の幅《ふく》に就いて色々な説明をした。
 自分は夫《それ》だけ聞いて父の室《へや》を出た。是で挨拶の殘つてゐるものは愈《いよ/\》兄と嫂《あによめ》丈《だけ》になつた。兄には此間の事件以來殆んど親《した》しい言葉を換《か》はさなかつた。自分は彼に對して怒《おこ》り得る程の勇氣を持つてゐなかつた。怒《おこ》り得るならば、此間《このあひだ》罵しられて彼の書齋を出るとき、既に激昂してゐなければならなかつた。自分は後《うしろ》から小さな石膏像の飛んでくる位に恐れを抱く人間ではなかつた。けれどもあの時に限つて、怒るべき勇氣の源が既に枯れてゐたやうな氣がする。自分は室《へや》に入《い》つた幽靈が、ふうと又|室《へや》を出る如くに力なく退却した。其後も彼の書齋の扉《ドア》を叩いて、快《こゝろよ》く詫《あや》まる丈《だけ》の度胸は、何處からも出て來なかつた。斯くして自分は毎日|苦《にが》い顔をしてゐる彼の顔を、晩餐の食卓に見る丈《だけ》であつた。
 嫂《あによめ》とも自分は近頃|減多《めつた》に口を利かなかつた。近頃といふよりも寧ろ大阪から歸つて後《のち》といふ方が適當かも知れない。彼女は單獨に自分の箪笥などを置いた小《ち》さい部屋の所有主であつた。然しながら彼女と芳江《よしえ》が二人|限《ぎり》其處に遊んでゐる事は、一日中で時間に積《つも》ると幾何《いくら》もなかつた。彼女は大抵母と共に裁縫其他の手傳をして日を暮してゐた。
 父や母に自分の未來を打ち明けた明《あく》る朝、便所から風呂場へ通《かよ》ふ縁側で、自分は此|嫂《あによめ》にばたりと出會つた。
 「二郎さん、あなた下宿なさるんですつてね。宅《うち》が厭なの」と彼女は突然聞いた。彼女は自分の云つた通りを、何時《いつ》の間《ま》にか母から傳へられたらしい言葉遣《ことばづかひ》をした。自分は何氣なく「えゝ少時《しばらく》出る事にしました」と答へた。
 「其方が面倒でなくつて好いでせう」
 彼女は自分が何か云ふかと思つて、凝《ぢつ》と自分の顔を見てゐた。然し自分は何とも云はなかつた。
 「さうして早く奧さんをお貰ひなさい」と彼女の方から又云つた。自分は夫《それ》でも默つてゐた。
 「早い方が好いわよ貴方《あなた》。妾《あたし》探して上げませうか」と又聞いた。
 「何うぞ願ひます」と自分は始めて口を開いた。
 嫂《あによめ》は自分を見下《みさ》げた樣な又自分を調戯《からか》ふ樣な薄笑ひを薄い唇の兩端に見せつゝ、わざと足音を高くして、茶の間の方へ去つた。
 自分は默つて、風呂場と便所の境にある三和土《たゝき》の隅に寄せ掛けられた大きな銅の金盥《かなだらひ》を見詰めた。此|金盥《かなだらひ》は直徑二尺以上もあつて自分の力で持上げるのも困難な位、重くて且《かつ》大きなものであつた。自分は子供の時分から此|金盥《かなだらひ》を見て、屹度《きつと》大人《おとな》の行水《ぎやうずゐ》を使ふものだと許《ばか》り想像して、一人嬉しがつてゐた。金盥《かなだらひ》は今|塵《ちり》で佗《わび》しく汚れてゐた。低い硝子戸《ガラスど》越しには、是も自分の子供時代から忘れ得ない秋海棠《しうかいだう》が、變らぬ年毎《としごと》の色を淋《さみ》しく見せてゐた。自分は是等の前に立つて、能く秋先《あきさき》に玄關前の棗《なつめ》を、兄と共に叩き落して食つた事を思ひ出した。自分はまだ青年だけれども、自分の背後には既に是《これ》丈《だけ》無邪氣な過去がずつと續いてゐる事を發見した時、今昔の比較が自《おのづ》から胸に溢《あふ》れた。さうして是から此|餓鬼大将《がきだいしやう》であつた兄と不愉快な言葉を交換して、わが家《いへ》を出なければならないといふ變化に想ひ及んだ。
 
     二十六
 
 其日自分が事務所から歸つてお重《しげ》に「兄さんは」と聞くと、「まだよ」といふ返事を得た。
 「今日は何處かへ廻る日なのかね」と重《かさ》ねて尋ねた時、お重《しげ》は「何うだか知らないわ。書齋へ行つて壁に貼り付けてある時間表を見て來て上げませうか」と云つた。
 自分はたゞ兄が歸つたら教へて呉れるやうに頼んで、誰にも會はずに室《へや》へ這入つた。洋服を脱ぎ替へるのも面倒なので、其儘横になつて寐てゐるうち、何時《いつ》の間《ま》にか本當の眠りに落ちた。さうして他人に説明も何も出來ない樣な複雜に變化する不安な夢に襲はれてゐると、急にお重《しげ》から起された。
 「大兄《おほにい》さんがお歸りよ」
 斯ういふ彼女の言葉が耳に這入つた時、自分はすぐ起ち上がつた。けれども意識は朦朧《もうろう》として、夢のつゞきを歩いてゐた。お重《しげ》は後《うしろ》から「まあ顔でも洗つて入らつしゃい」と注意した。判然《はつきり》しない自分の意識は、それすら敢てする勇氣を必要と感ぜしめなかつた。
 自分は其儘兄の書齋に這入つた。兄もまだ洋服のまゝであつた。彼は扉《ドア》の音を聞いて、急に入口に眼を轉じた。其光のうちには或豫期を明かに表してゐた。彼が外出して歸ると、嫂《あによめ》が芳江《よしえ》を連れて、不斷の和服を持つて上がつて來るのが、其頃の習慣であつた。自分は母が嫂《あによめ》に「斯ういふ風にお爲《し》よ」と云ひ付けたのを傍《そば》にゐて聞いてゐた事がある。自分はぼんやりしながらも、兄の此眼附によつて、和服の不斷着より、嫂《あによめ》と芳江とを彼は待ち設けてゐたのだと覺《さと》つた。
 自分は寐惚《ねぼ》けた心持が有つたればこそ、平氣で彼の室《へや》を突然開けたのだが、彼は自分の姿を敷居の前に見て、少しも怒《いか》りの影を現さなかつた。然したゞ默つて自分の脊廣姿を打ち守る丈《だけ》で、急に言葉を出す氣色《けしき》はなかつた。
 「兄さん、一寸御話がありますが……」
と、自分は遂に此方《こつち》から切り出した。
 「此方《こつち》へ御這入り」
 彼の言語は落ち付いてゐた。且《かつ》此間の事に就いて何の介意《かいい》をも含んでゐないらしく自分の耳に響いた。彼は自分の爲に、わざ/\一脚の椅子を己れの前へ据ゑて、自分を麾《さしま》ねいた。
 自分はわざと腰を掛けずに、椅子の脊に手を載《の》せた儘、父や母に云つたと略《ほゞ》同樣の挨拶を述べた。兄は尊敬すべき學者の態度で、それを靜かに聞いてゐた。自分の單簡《たんかん》の説明が終ると、彼は嬉しくも悲しくもない常の來客に應接する樣な態度で「まあ其處へお掛け」と云つた。
 彼は黒いモーニングを着て、あまり好い香《にほひ》のしない葉卷を燻《くゆ》らしてゐた。
 「出るなら出るさ。お前ももう一人前《いちにんまへ》の人間だから」と云つて少時《しばらく》煙ばかり吐いてゐた。夫《それ》から「然し己《おれ》がお前を出したやうに皆《みん》なから思はれては迷惑だよ」と續けた。「そんな事はありません。唯自分の都合で出るんですから」と自分は答へた。
 自分の寐惚《ねぼ》けた頭は此時次第に冴えて來た。出來る丈《だけ》早く兄の前から退《しりぞ》きたくなつた結果、振り返つて室《へや》の入口を見た。
 「直《なほ》も芳江《よしえ》も今湯に這入つて居るやうだから、誰も上がつて來やしない。其んなにそわ/\しないで緩《ゆつ》くり話すが好い、電燈でも點《つ》けて」
 自分は立ち上がつて、室《へや》の内を明るくした。夫《それ》から、兄の吹かしてゐる葉巻を一本取つて火を點《つ》けた。
 「一本八錢だ。隨分惡い煙草だらう」と彼が云つた。
 
     二十七
 
 「何時《いつ》出る積《つもり》かね」と兄が又聞いた。
 「今度の土曜あたりに仕ようかと思つてます」と自分は答へた。
 「一人出るのかい」と兄が又聞いた。
 此寄異な質問を受けた時、自分は少時《しばらく》茫然として兄の顔を打ち守つてゐた。彼がわざと斯う云ふ失禮な皮肉を云ふのか、さうでなければ彼の頭に少し變調を來《きた》したのか、何方《どつち》だか解らないうちは、自分にも何《ど》の見當へ打つて出て好いものか、料簡が定まらなかつた。
 彼の言葉は平生から皮肉澤山に自分の耳を襲つた。然しそれは彼の智力が我々よりも鋭敏に働き過ぎる結果で、其他に惡氣のない事は、自分に能く呑み込めてゐた。唯此|一言《いちごん》丈《だけ》は鼓膜に響いたなり、何時《いつ》迄も其處でぢん/\熱く鳴つてゐた。
 兄は自分の顔を見て、えへゝと笑つた。自分は其笑ひの影にさへ歇斯的里性《ヒステリせい》の稻妻を認めた。
 「無論一人で出る氣だらう。誰も連れて行く必要はないんだから」
 「勿論です。唯一人になつて、少し新しい空氣を吸ひたい丈《だけ》です」
 「新しい空氣は己《おれ》も吸ひたい。然し新しい空氣を吸はして呉れる所は、この廣い東京に一ケ所もない」
 自分は半《なか》ば此好んで孤立してゐる兄を隣れんだ。さうして半《なか》ば彼の過敏な神經を悲しんだ。
 「ちつと旅行でも爲《な》すつたら何うです。少しは晴々《せい/\》するかも知れません」
 自分が斯う云つた時、兄はチヨツキの隱袋《かくし》から時計を出した。
 「まだ食事の時間には少し間《ま》があるね」と云ひながら、彼は再び椅子に腰を落ち付けた。さうして「おい二郎|最《も》う左右《さう》度々《たび/\》話す機會もなくなるから、飯が出來る迄此處で話さうぢやないか」と自分の顔を見た。
 自分は「えゝ」と答へたが、少しも尻は坐らなかつた。其上何も話す種がなかつた。すると兄が突然「お前パオロとフランチエスカの戀を知つてるだらう」と聞いた。自分は聞いた樣な、聞かない樣な氣がするので、すぐとは返事も出來なかつた。
 兄の説明によると、パオロと云ふのはフランチエスカの夫《をつと》の弟で、其二人が夫《をつと》の眼を忍んで、互に慕ひ合つた結果、とう/\夫《をつと》に見付かつて殺されるといふ悲しい物語りで、ダンテの神曲の中とかに書いてあるさうであつた。自分は其隣れな物語に對する同情よりも、斯んな話を殊更《ことさら》にする兄の心持に就いて、一種厭な疑念を挾《さしは》さんだ。兄は臭い煙草の煙の間から、始終自分の顔を見詰めつゝ十三世紀だか十四世紀だか解らない遠い昔の以太利《イタリー》の物語をした。自分は其|間《あひだ》やつとの事で、不愉快の念を抑へてゐた。所が物語が一應濟むと、彼は急に思ひも寄らない質問を自分に掛けた。
 「二郎、何故《なぜ》肝心な夫《をつと》の名を世間が忘れてパオロとフランチエスカ丈《だけ》覺えてゐるのか。其譯を知つてるか」
 自分は仕方がないから「矢つ張り三勝半七《さんかつはんしち》見たやうなものでせう」と答へた。兄は意外な返事に一寸驚いたやうであつたが、「己《おれ》は斯う解釋する」と仕舞に云ひ出した。
 「己《おれ》は斯う解釋する。人間の作つた夫婦といふ關係よりも、自然が釀《かも》した戀愛の方が、實際神聖だから、それで時を經《ふ》るに從がつて、狹い杜會の作つた窮屈な道コを脱ぎ棄てゝ、大きな自然の法則を嘆美する聲|丈《だけ》が、我々の耳を刺戟するやうに殘るのではなからうか。尤も其當時はみんな道コに加勢する。二人のやうな關係を不義だと云つて咎《とが》める。然しそれは其事情の起つた瞬間を治《をさ》める爲の道義に驅られた云はゞ通り雨のやうなもので、あとへ殘るのは何うしても青天と白日、即ちパオロとフランチエスカさ。何うだ左右《さう》は思はんかね」
 
     二十八
 
 自分は年輩から云つても性格から云つても、平生なら兄の説に手を擧げて賛成する筈であつた。けれども此場合、彼が何故《なぜ》わざ/\パオロとフランチエスカを問題にするのか、又何故彼等二人が永久に殘る理由《いはれ》を、物々しく解説するのか、其主意が分らなかつたので、自然の興味は全く不快と不安の念に打ち消されて仕舞つた。自分は奧齒に物の挾まつたやうな兄の説明を聞いて、必竟《ひつきやう》それが何うしたのだといふ氣を起した。
 「二郎、だから道コに加勢するものは一時の勝利者には違ないが、永久の敗北者《はいぼくしや》だ。自然に從ふものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ……」
 自分は何とも云はなかつた。
 「所が己《おれ》は一時の勝利者にさへなれない。永久には無論敗北者だ」
 自分は夫《それ》でも返事をしなかつた。
 「相撲《すまふ》の手を習つても、實際力のないものは駄目だらう。そんな形式に拘泥しないでも、實力さへ慥《たしか》に持つてゐれば其方が屹度《きつと》勝つ。勝つのは當り前さ。四十八手は人間の小刀細工だ。膂力《りよりよく》は自然の賜物《たまもの》だ。……」
 兄は斯ういふ風に、影を踏んで力《りき》んでゐるやうな哲學をしきりに論じた。さうして彼の前に坐つてゐる自分を、氣味の惡い霧で、一面に鎖して仕舞つた。自分には此|朦朧《もうろう》たるものを拂ひ退《の》けるのが、太い麻繩を噛み切るよりも苦しかつた。
 「二郎、お前は現在も未來も永久に、勝利者として存在しようとする積《つもり》だらう」と彼は最後に云つた。
 自分は癇癪持だけれども兄|程《ほど》露骨に突進はしない性質であつた。ことさら此時は、相手が全然正氣なのか、又は少し昂奮し過ぎた結果、精神に尋常でない一種の状態を引き起したのか、第一その方を懸念しなければならなかつた。其上兄の精神状態を其處に導いた原因として、何うしても自分が責任者と目指されてゐるといふ事實を、猶更《なほさら》苛《つら》く感じなければならなかつた。
 自分はとう/\仕舞迄|一言《いちごん》も云はずに兄の言葉を聞く丈《だけ》聞いてゐた。さうして夫《それ》程《ほど》疑ぐるなら一層《いつそ》嫂《あによめ》を離別したら、晴々《せい/\》して好からうにと考へたりした。
 所へ其|嫂《あによめ》が兄の平生着《ふだんき》を持つて、芳江《よしえ》の手を引いて、例の如く階段を上《あが》つて來た。
 扉《ドア》の敷居に姿を現した彼女は、風呂から上りたてと見えて、蒼味《あをみ》の注《さ》した常の頬に、心持の好い程、薄赤い血を引き寄せて、肌理《きめ》の細かい皮膚に手觸《てざはり》を挑《いど》むやうな柔らかさを見せてゐた。
 彼女は自分の顔を見た。けれども一言《ひとこと》も自分には云はなかつた。
 「大變遲くなりました。嘸《さぞ》御窮屈でしたらう。生僧《あいにく》御湯へ這入つてゐたものだから、すぐ御召《おめし》を持つて來る事が出來なくつて」
 嫂《あによめ》は斯う云ひながら兄に挨拶した。さうして傍《そば》に立つてゐた芳江《よしえ》に、「さあお父さんに御歸り遊ばせと仰《おつし》やい」と注意した。芳江は母の命令《いひつけ》通り「御歸り」と頭を下げた。
 自分は永らくの間、嫂《あによめ》が兄に對して是程家庭の夫人らしい愛嬌を見せた例《ためし》を知らなかつた。自分は又此愛嬌に對して柔《やはら》げられた兄の氣分が、彼の眼に強く集まつた例《ためし》も知らなかつた。兄は人の手前|極《きは》めて自尊心の強い男であつた。けれども、子供のうちから兄と一所に育つた自分には、彼の腦天を動きつゝある雲の往來《ゆきき》が能く解つた。
 自分は助け船が不意に來た嬉しさを胸に藏《かく》して兄の室《へや》を出た。出る時|嫂《あによめ》は一面識もない眼下のものに挨拶でもするやうに、一寸頭を下げて自分に默禮をした。自分が彼女から斯んな冷淡な挨拶を受けたのも亦珍らしい例であつた。
 
     二十九
 
 二三日してから自分はとう/\家《いへ》を出た。父や母や兄弟の住む、古い歴史を有《も》つた家《いへ》を出た。出る時は殆んど何事をも感じなかつた。母とお重《しげ》が別れを惜《をし》むやうに浮かない顔をするのが、却《かへ》つて厭であつた。彼等は自分の自由行動をわざと妨げる樣に感ぜられた。嫂《あによめ》丈《だけ》は淋《さみ》しいながら笑つて呉れた。
 「もう御出掛。では御機嫌よう。又ちよく/\遊びに入らつしゃい」
 自分は母やお重《しげ》の曇つた顔を見た後《あと》で、此一口の愛嬌を聞いた時、多少の愉快を覺えた。
 自分は下宿へ移つてからも有樂町の事務所へ例の通り毎日|通《かよ》つてゐた。自分を其處へ周旋して呉れたものは、例の三澤であつた。事務所の持主は、昔三澤の保證人をしてゐた(兄の同僚の)Hの叔父に當《あた》る人であつた。此人は永らく外國に居て、内地でも相應に經驗を積んだ大家であつた。胡麻塩頭《ごましほあたま》の中へ指を突つ込んで、無暗に頭垢《ふけ》を掻き落す癖があるので、差《さ》し向《むかひ》の間に火鉢でも置くと、時々火の中から妙な臭を立てさせて、非道《ひど》く相手を弱らせる事があつた。
 「君の兄さんは近來何を研究してゐるか」などゝ度々自分に聞いた。自分は仕方なしに、「何だか一人で書齋に籠《こも》つて遣つてるやうです」と極めて大體な答へをするのを例のやうにしてゐた。
 梧桐《あをぎり》が坊主になつたある朝、彼は突然自分を捕《とら》へて、「君の兄さんは近頃何うだね」と又聞いた。斯う云ふ彼の質問に慣れ切つてゐた自分も、其時ばかりは餘りの不意打に一寸返事を忘れた。
 「健康は何うだね」と彼は又聞いた。
 「健康は餘り好い方ぢやないです」と自分は答へた。
 「少し氣を付けないと不可《いけ》ないよ。餘り勉強ばかり爲てゐると」と彼は云つた。
 自分は彼の顔を打ち守つて、其處に一種の眞面目な眉と眼の光とを認めた。
 自分は家《いへ》を出てから、まだ一遍しか家《うち》へ行かなかつた。其折そつと母を小蔭に呼んで、兄の樣子を聞いて見たら「近頃は少し好い樣だよ。時々裏へ出て芳江《よしえ》をブランコに載せて、押して遣つたりしてゐるからね。……」
 自分は夫《それ》で少しは安心した。夫《それ》限《ぎり》宅《うち》の誰とも顔を合はせる機會を拵へずに今日《こんにち》迄過ぎたのである。
 晝の時間に一品料理を取寄せて食つてゐると、B先生(事務所の持主)が又突然「君は慥《たし》か下宿したんだつたね」と聞いた。自分は唯簡單に「えゝ」と答へて置いた。
 「何故《なぜ》。家《うち》の方が廣くつて便利だらうぢやないか。それとも何か面倒な事でもあるのかい」
 自分は愚圖ついて頗る曖昧な挨拶をした。其時呑み込んだ?麭《パン》の一片《いつぺん》が、如何にも水氣がないやうに、ぱさ/\と感ぜられた。
 「然し一人の方が却つて氣樂かも知れないね。大勢ごた/\してゐるよりも。――時に君はまだ獨身だらう、何うだ早く細君でも有《も》つちや」
 自分はB先生の此言葉に對しても、平生の通り氣楽な答が出來なかつた。先生は「今日は君いやに意氣銷沈《いきせうちん》してゐるね」と云つたぎり話頭を轉じて、他《ほか》のものと愚にも附かない馬鹿話を始め出した。自分は自分の前にある茶碗の中に立つてゐる茶柱を、何かの前徴の如く見詰めたぎり、左右に起る笑ひ聲を聞くともなく、又聞かぬでもなく、默然《もくねん》と腰を掛けてゐた。さうして心の裡《うち》で、自分こそ近頃神經過敏症に罹《かゝ》つてゐるのではなからうかと不愉快な心配をした。自分は下宿にゐて餘り孤獨なため、斯う頭に變調を起したのだと思ひ付いて、歸つたら久し振に三澤の所へでも話に行かうと決心した。
 
     三十
 
 其晩三澤の二階に案内された自分は、氣樂さうに胡坐《あぐら》をかいた彼の姿を見て羨ましい心持がした。彼の室《へや》は明るい電燈と、暖かい火鉢で、初冬《はつふゆ》の寒さから全然隔離されてゐるやうに見えた。自分は彼の痼疾《こしつ》が秋風の吹き募るに從つて、漸々《ぜん/\》好い方へ向いて來た事を、かねてから彼の色にも姿にも知つた。けれども今の自分と比較して、彼が斯う悠《ゆつ》たり構へてゐようとは思へなかつた。高くて暑い空を、恐る/\仰いで暮らした大阪の病院を憶ひ起すと、當時の彼と今の自分とは、殆んど地を換へたと一般であつた。
 彼はつい近頃父を失つた結果として、當然一家の主人に成り濟ましてゐた。Hさんを通してB先生から彼を使ひたいと申し込まれた時も、彼はまづ己《おの》れを後《のち》にするといふ好意からか、若しくは贅澤な擇好《よりごの》みからか、折角の位置を自分に讓つて呉れた。
 自分は電燈で照された彼の室《へや》を見廻して、其壁を隙間なく飾つてゐる風推なエツチングや水彩畫などに就いて、しばらく彼と話し合つた。けれども何ういふものか、藝術上の議論は十分|經《た》つか經《た》たないうちに自然と消えて仕舞つた。すると三澤は突然自分に向つて、「時に君の兄さんだがね」と云ひ出した。自分は此處でも亦兄さんかと驚いた。
 「兄が何うしたつて?」
 「いや別に何うしたつて事もないが……」
 彼は是《これ》丈《だけ》云つて只自分の顔を眺めてゐた。自分は勢ひ彼の言葉とB先生の今朝の言葉とを胸の中《うち》で結び付けなければならなかつた。
 「さう半分でなく、話すなら皆《みん》な話して呉れないか。兄が一體何うしたと云ふんだ。今朝もB先生から同じ樣な事を聞かれて、妙な氣がしてゐる所だ」
 三澤は焦烈《じれ》つたさうな自分の顔を尚|懇氣《こんき》に見詰めてゐたが、やがて「ぢや話さう」と云つた。
 「B先生の話も僕のも矢つ張り同じHさんから出たのだらうと思ふがね。Hさんのは又學生から出たのだつて云つたよ。何でもね、君の兄さんの講義は、平生から明瞭で新しくつて、大變學生に氣受《きうけ》が好いんださうだが、其明瞭な講義中に、矢張り明瞭ではあるが、前後と何うしても辻褄《つじつま》の合はない所が一二箇所出て來るんだつてね。さうして夫《それ》を學生が質問すると、君の兄さんは元來正直な人だから、何遍も何遍も繰返して、其處を説明しようとするが、何うしても解らないんださうだ。仕舞に手を額へ當てて、何うも近來頭が少し惡いもんだから……と茫乎《ぼんやり》硝子窓《ガラスまど》の外を眺めながら、何時《いつ》迄も立つてゐるんで、學生も、そんなら又此次にしませうと、自分の方で引き下がつた事が、何でも幾遍もあつたと云ふ話さ。Hさんは僕に今度長野(自分の姓)に逢つたら、少し注意して見るが好い。ことによると烈しい神經衰弱なのかも知れないからつて云つたが、僕もとう/\それなり忘れて仕舞つて、今君の顔を見る迄實は思ひ出せなかつたのだ」
 「そりや何時《いつ》頃の事だ」と自分はせはしなく聞いた。
 「丁度君の下宿する前後の事だと思つてゐるが、判然《はつきり》した事は覺えて居ない」
 「今でも左右《さう》なのか」
 三澤は自分の思ひ逼《せま》つた顔を見て、慰めるやうに「いや/\」と云つた。
 「いや/\夫《それ》はほんに一時的の事であつたらしい。此頃では全然平生と變らなくなつたやうだと、Hさんが二三日前《にさんちまへ》僕に話したから、もう安心だらう。然し……」
 自分は家《うち》を出た時に自分の胸に刻み込んだ兄との會見を思はず憶ひ出した。さうして其折の自分の疑ひが、或は学校で證明されたのではなからうかと考へて、非常に心細く且恐ろしく感じた。
 
     三十一
 
 自分は力《つと》めて兄の事を忘れようとした。すると不圖《ふと》大阪の病院で三澤から聞いた精神病の「娘さん」を聯想し始めた。
 「あのお孃さんの法事には間に合つたのかね」と聞いて見た。
 「間に合つた。間に合つたが、實にあの娘さんの親達は失敬な厭な奴だ」と彼は拳骨《げんこつ》でも振り廻しさうな勢ひで云つた。自分は驚いて其理由を聞いた。
 彼は其日三澤家を代表して、築地の本願寺の境内とかにある菩提所《ぼだいしよ》に參詣した。薄暗い本堂で長い讀經《どきやう》があつた後、彼も列席者の一人として、一抹《いちまつ》の香を白い位牌の前に焚いた。彼の言葉によると、彼《かれ》程《ほど》の誠をもつて、其若く美しい女の靈前に額《ぬか》づいたものは、彼以外に殆どあるまいといふ話であつた。
 「あいつ等はいくら親だつて親類だつて、只《たゞ》靜かなお祭りでも爲《し》てゐる氣になつて、平氣でゐやがる。本當に涙を落したのは他人の己《おれ》丈《だけ》だ」
 自分は三澤の斯ういふ憤慨を聞いて、少し滑稽を感じたが、表ではたゞ「成程」と肯《うけ》がつた。すると三澤は「いや其れ丈《だけ》なら何も怒りやしない。然し癪に障つたのはその後《あと》だ」
 彼は一般の例に從つて、法要の濟んだ後《あと》、寺の近くにある或料理屋へ招待された。其食事中に、彼女の父に當《あた》る人や、母に當《あた》る女が、彼に對して談《はなし》をするうちに妙に引つ掛つて來た。何の惡意もない彼には、最初一向その當《あて》こすりが通じなかつたが、段々時間の進むに從つて、彼等の本旨が漸く分つて來た。
 「馬鹿にも程があるね。露骨にいへばさ、あの娘さんを不幸にした原因は僕にある。精神病にしたのも僕だ、と斯うなるんだね。さうして離別になつた先の亭主は、丸《まる》で責任のないやうに思つてるらしいんだから失敬ぢやないか」
 「何うして又さう思ふんだらう。そんな筈はないがね。君の誤解ぢやないか」と自分が云つた。
 「誤解?」と彼は大きな聲を出した。自分は仕方なしに默つた。彼はしきりにその親達の愚劣な點を述べたてゝ已《や》まなかつた。その女の夫《をつと》となつた男の輕薄を罵しつて措《お》かなかつた。仕舞に斯う云つた。
 「何故《なぜ》そんなら始めから僕に遣らうと云はないんだ。資産や社會的の地位ばかり目當《めあて》にして……」
 「一體君は貰ひたいと申し込んだ事でもあるのか」と自分は途中で遮《さへぎ》つた。
 「ないさ」と彼は答へた。
 「僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤《うるほ》つた眼が、僕の胸を絶えず往來《ゆきき》するやうになつたのは、既に精神病に罹《かゝ》つてからの事だもの。僕に早く歸つて來て呉れと頼み始めてからだもの」
 彼は斯う云つて、依然として其女の美しい大《おほき》な眸《ひとみ》を眼の前に描《ゑが》くやうに見えた。もし其女が今でも生きて居たなら何んな困難を冒《をか》しても、愚劣な親達の手から、若しくは輕薄な夫《をつと》の手から、永久に彼女を奪ひ取つて、己《おの》れの懷で暖めて見せるといふ強い決心が、同時に彼の固く結んだ口の邊《あたり》に現れた。
 自分の想像は、此時其美しい眼の女よりも、却《かへ》つて自分の忘れようとしてゐた兄の上に逆戻りをした。さうして其女の精神に祟《たゝ》つた恐ろしい狂ひが耳に響けば響く程、兄の頭が氣に掛つて來た。兄は和歌山行の汽車の中で、其女は慥《たし》かに三澤を思つてゐるに違ないと斷言した。精神病で心の憚《はゞかり》が解けたからだと其理由迄も説明した。兄はことによると、嫂《あによめ》をさういふ精神病に罹《かゝ》らして見たい、本音を吐かせて見たい、と思つてるかも知れない。さう思つてゐる兄の方が、傍《はた》から見ると、もうそろ/\神經衰弱の結果、多少精神に狂ひを生じかけて、自分の方から恐ろしい言葉を家中《うちぢゆう》に響かせて狂ひ廻らないとも限らない。
 自分は三澤の顔などを見てゐる暇を有《も》たなかつた。
 
     三十二
 
 自分はかねて母から頼まれて、此次若し三澤の所へ行つたら、彼にお重《しげ》を貰ふ氣があるか、ないか、夫《それ》となく彼の樣子を探つて來るといふ約束をした。しかし其晩は何うしても左右《さう》いふ元氣が出なかつた。自分の心持を了解しない彼は、却《かへ》つて自分に結婚を勸めて已《や》まなかつた。自分の頭は又それに對して氣乘《きのり》のした返事をする程、穩かに澄んでゐなかつた。彼は折を見て、ある候補者を自分に紹介すると云つた。自分は生返事をして彼の家《いへ》を出た。外は十文字に風が吹いてゐた。仰ぐ空には星が粉《こ》の如くさゝやかな力を集めて、此風に抵抗しつゝ輝いた。自分は佗しい胸の上に兩手を當てゝ下宿へ歸つた。さうして冷たい蒲團の中にすぐ潜《もぐ》り込んだ。
 夫《それ》から二三日《にさんち》しても兄の事がまだ氣に懸つたなり、頭が何うしても自分と調和して呉れなかつた。自分はとう/\番町へ出掛けて行つた。直接兄に會ふのが厭なので、二階へはとう/\上《あが》らなかつたが、母を始め他の者には無沙汰見舞の格で、何氣なく例の通りの世間話をした。兄を交へない一家の團欒《だんらん》は却《かへ》つて寛いだ暖かい感じを自分に與へた。
 自分は歸り際に、母を一寸次の間へ呼んで、兄の近况を聞いて見た。母は此頃兄の神經が大分《だいぶ》落ち付いたと云つて喜んで居た。自分は母の一言《いちごん》でやつと安心したやうなものゝ、母には氣の付かない特殊の點に、何だか變調がありさうで、却《かへ》つてそれが氣掛りになつた。さればと云つて、兄に會つて自分から彼を試驗しようといふ勇氣は無論起し得なかつた。三澤から聞いた兄の講義が一時變になつた話も母には告げ得なかつた。
 自分は何も云ふ事のないのに、茫乎《ぼんやり》暗い部屋の襖《ふすま》の蔭に寒さうに立つて居た。母も自分に對して其處を動かなかつた。其上彼女の方から自分に何かいふ必要を認めるやうに見えた。
 「尤も此間少し風邪を引いた時、妙な囈語《うはこと》を云つたがね」と云つた。
 「何んな事を云ひました」と自分は聞いた。
 母はそれには答へないで、「なに熱の所爲《せゐ》だから、心配する事はないんだよ」と自分の問を打ち消した。
 「熱がそんなに有つたんですか」と自分は更に別の事を尋ねた。
 「それがね、熱は三十八度か八度五分位なんだから、其んな筈はないと思つて、お醫者に聞いて見ると、神經衰弱のものは少しの熱でも頭が變になるんだつてね」
 醫學の初歩さへ心得ない自分は始めて此知識に接して、思はず眉をひそめた。けれども室《へや》が暗いので、母には自分の顔が見えなかつた。
 「でも氷で頭を冷したら、其お蔭で熱がすぐ引いたんで安心したけれど……」
 自分は熱の引かない時の兄が、何《ど》んな囈語《うはこと》を云つたか、それが未《ま》だ知りたいので、薄ら寒い襖《ふすま》の蔭に依然として立つてゐた。
 次の間《ま》は電燈で明るく照されてゐた。父が芳江《よしえ》に何か云つて調戯《からか》ふたびに、皆《みん》なの笑ふ聲が陽氣に聞こえた。すると突然其笑ひ聲の間から、「おい二郎」と父が自分を呼んだ。
 「おい二郎、又御母さんに小遣でも強請《せび》つてるんだらう。お綱、お前見たやうに、さう無暗に二郎の口車に乘つちや不可《いけ》ないよ」と大きな聲で云つた。
 「いゝえ其んな事ぢやありません」と自分も大きな聲で負けずに答へた。
 「ぢや何だい、そんな暗い所で、こそ/\御母さんを取《と》つ捉《つら》まへて話して居るのは。おい早く光《あか》るい所へ面《つら》を出せ」
 父が斯う云つた時、明るい室《へや》の方に集まつたものは一度にどつと笑つた。自分は母から聞き度い事も聞かずに、父の命令通り、はいと云つて、皆《みん》なの前へ姿をあらはした。
 
     三十三
 
 それから暫くの問は、B先生の顔を見ても、三澤の所へ遊びに行つても、兄の話は一向話題に上《のぼ》らなかつた。自分は少し安心した。さうして成るべく家《うち》の事を忘れようと試みた。然し下宿の徒然《とぜん》に打ち勝たれるのが何より苦しいので、よく三澤の時間を潰しに此方《こつち》から押し寄せたり、又引つ張り出したりした。
 三澤は厭きずに何時《いつ》迄も例の精神病の娘さんの話をした。自分は此異樣なおのろけを聞くたびに、屹度《きつと》兄と嫂《あによめ》の事を連想して自《おのづ》から不快になつた。それで、時々又かといふ樣子を色にも言葉にも表はした。三澤も負けては居なかつた。
 「君も君のおのろけを云へば、夫《それ》で差引損得なしぢやないか」などと自分を冷かした。自分はもう些《ちつ》とで彼と往來で喧嘩をする所であつた。
 彼には斯ういふ風に、精神病の娘さんが、影身《かげみ》に添つて離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重《しげ》の事を彼に話す餘地がなかつた。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だらうと、仲の善くない自分にも思へたが、惜《をし》い事に、此大切な娘さんとは、丸で顔の型が違つてゐた。
 自分の遠慮に引き換へて、彼は平氣で自分に妹の候補者を推擧した。「今度《こんだ》何處かで一寸見て見ないか」と勸めた事もあつた。自分は始めこそ生返事|許《ばかり》してゐたが、仕舞は本氣に其女に會はうと思ひ出した。すると三澤は、まだ機會が來ないから、最《も》う少し、最う少し、と會見の日を順繰に先へ送つて行くので、自分は又氣を腐らした末、遂に其女の幻《まぼろし》を離れて仕舞つた。
 反對に、お貞《さだ》さんの方の結婚は愈《いよ/\》事實となつて現るべく、目前に近《ちかづ》いて來た。お貞さんは相應の年をしてゐる癖に、宅中《うちぢゆう》で一番|初心《うぶ》な女であつた。是といふ特色はないが、何を云つても、ぢき顔を赤くする所に變な愛嬌があつた。
 自分は三澤と夜更《よふけ》に寒い町を歸つて來て、下宿の冷たい夜具に潜《もぐ》り込みながら、時々お貞《さだ》さんの事を思ひ出した。さうして彼女も斯んな冷たい夜具を引き擔《かつ》ぎながら、今頃は近い未來に逼る暖かい夢を見て、誰も氣の付かない笑ひ顔を、半《なか》ば天鷲絨《ビロウド》の襟の裡《なか》に埋《うづ》めてゐるだらうなどと想像した。
 彼女の結婚する二三日前に、岡田と佐野は、氷を裂くやうな汽車の中から身を顫はして新橋の停車場《ステーシヨン》に下りた。彼は迎へに出た自分の顔を見て、いようといふ掛聲《かけごゑ》をした。それから「相變らず二郎さんは呑氣《のんき》だね」と云つた。岡田は己《おの》れの呑氣さ加減を自覺しない男のやうにも思はれた。
 翌日番町へ行つたら、岡田一人のために宅中《うちぢゆう》騷々しく賑つてゐた。兄も外の事と違ふといふ意味か、別に苦《にが》い顔もせずに、其|渦中《くわちゆう》に捲込《まきこ》まれて黙つてゐた。
 「二郎さん、今になつて下宿するなんて、そんな馬鹿がありますか、家《うち》が淋《さび》しくなる丈《だけ》ぢやありませんか。ねえお直《なほ》さん」と彼は嫂《あによめ》に話し掛けた。此時|丈《だけ》は嫂《あによめ》も流石《さすが》變な顔をして黙つてゐた。自分も何とも云ひやうがなかつた。兄は却《かへ》つて冷然と凡《すべ》てに取り合はない氣色《けしき》を見せた。岡田は既に醉つて何事にも拘泥せずへら/\口を動かした。
 「尤も一郎さんも善くないと僕は思ひますよ。さう貴方、書齋にばかり引つ込んで勉強してゐたつて、詰らないぢやありませんか。もう貴方|位《ぐらゐ》學問をすれば、何處へ出たつて引けを取るんぢやないんだからね。然し二郎さん始め、お直《なほ》さんや叔母さんも好くないやうですね。一郎は書齋より外は嫌ひだ/\つて云つときながら、僕が來て斯う引つ張り出せば、譯なく二階から下りて來て、僕と面白さうに話して呉れるぢやありませんか。左右《さう》でせう一郎さん」
 彼は斯う云つて兄の方を見た。兄は黙つて苦笑ひをした。
 「ねえ叔母さん」
 母も黙つてゐた。
 「ねえお重《しげ》さん」
 彼は返事を受ける迄順々に聞いて廻るらしかつた。お重《しげ》はすぐ「岡田さん、貴方いくら年を取つても饒舌《しやべ》る病氣が癒らないのね。騷々しいわよ」と云つた。それで皆《みん》なが笑ひ出したので、自分はほつと一《ひ》と息《いき》吐《つ》いた。
 
     三十四
 
 芳江《よしえ》が「叔父さん一寸入らつしやい」と次の間から小さな手を出して自分を招いた。「何だい」と立つて行くと彼女は何處からか、大きな信玄袋《しんげんぶくろ》を引摺《ひきず》り出して、「是お貞《さだ》さんのよ、見せたげませうか」と自慢らしく目分を見た。
 彼女は信玄袋の中から天鷲絨《ビロウド》で張つた四角な箱を出した。自分は其中にある眞珠の指環を手に取つて、ふんと云ひながら眺めた。芳江《よしえ》は「是もよ」と云つて、今度は海老茶色のを出したが、是は自分が洗濯|其他《そのた》の世話になつた禮に買つて遣つた寶石なしの單純な金の指環であつた。彼女は又「是もよ」と云つて、繻珍《しゆちん》の紙入を出した。其紙入には模樣風に描《ゑが》いた菊の花が金で一面に織り出されてゐた。彼女は其次に比較的大きくて細長い桐の箱を出した。是は金と赤銅《しやくどう》と銀とで、蔦《つた》の葉を綴つた金具の付いてゐる帶留であつた。最後に彼女は櫛《くし》と笄《かうがい》を示して、「是|卵甲《らんかふ》よ。本當の鼈甲《べつかふ》ぢやないんだつて。本當の鼈甲《べつかふ》は高過ぎるから御已《おや》めにしたんですつて」と説明した。自分には卵甲《らんかふ》といふ言葉が解らなかつた。芳江には無論解らなかつた。けれども女の子|丈《だけ》あつて、「是一番安いのよ。四方張《しはうばり》よか安いのよ。玉子の白味で貼《は》り付けるんだから」と云つた。「玉子の白味で何處をどう貼《は》り付けるんだい」と聞くと、彼女は、「そんな事知らないわ」と取り濟ました口の利き方をして、さつさと信玄袋を引き摺《ず》つて次の間へ行つて仕舞つた。
 自分は母からお貞《さだ》さんの當日着る着物を見せて貰つた。薄紫がかつた御納戸《おなんど》の縮緬《ちりめん》で、紋《もん》は蔦《つた》、裾の模樣は竹であつた。
 「是ぢや餘り閑靜《かんせい》過ぎやしませんか、年に合はして」と自分は母に聞いて見た。母は「でもね餘《あん》まり高くなるから」と答へた。さうして「是でも御前二十五圓掛つたんだよ」と付け加へて、無知識な自分を驚かした。地《ぢ》は去年の春京都の織屋が背負《しよ》つて來た時、白の儘三反|許《ばかり》用意に買つて置いて、此間迄|箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》に仕舞つたなり放《はふ》つてあつたのださうである。
 お貞《さだ》さんは一座の席へ先刻《さつき》から少しも顔を出さなかつた。自分は大方極りが惡いのだらうと想像して、其極りの惡い所を、此處で一目見たいと思つた。
 「お貞《さだ》さんは何處に居るんです」と母に聞いた。すると兄が「あゝ忘れた。行く前に一寸お貞さんに話があるんだつた」と云つた。
 みんな變な顔をしたうちに、嫂《あによめ》の唇には著《いちじ》るしい冷笑の影が閃《ひら》めいた。兄は誰にも取合ふ氣色《けしき》もなく、「一寸失敬」と岡田に挨拶して、二階へ上がつた。其足音が消えると間《ま》もなく、お貞《さだ》さんは自分達の居る室《へや》の敷居際迄來て、岡田に叮嚀な挨拶をした。
 彼女は「さあ何うぞ」と會釋する岡田に、「今一寸御書齋迄參らなければなりませんから、いづれ後程《のちほど》」と答へて立ち上がつた。彼女の上氣したやうにほつと赤くなつた顔を見た一座のものは、氣の毒な爲か何だか強ひて引き留めようともしなかつた。 兄の二階へ上がる足音はそれ程強くはなかつたが、何時《いつ》でも上履《スリツパー》を引掛けてゐる爲、ぴしや/\する響が、下からよく聞こえた。お貞《さだ》さんのは素足の上に、女のつゝましやかな氣性をあらはす所爲《せゐ》か、丸で聽き取れなかつた。戸を開けて戸を閉ぢる音さへ、自分の耳には全く這入らなかつた。
 彼等二人は其處で約三十分|許《ばかり》何か話してゐた。其間|嫂《あによめ》は平生の冷淡さに引き換へて、尋常《なみ》のものより機嫌よく話したり笑つたりした。けれども其裏に不機嫌を藏《かく》さうとする不自然の努力が強く潜在してゐる事が自分に能く解つた。岡田は平氣でゐた。
 自分は彼女が兄と會見を終つて、自分達の室《へや》の横を通る時、其足音を聞き付けて、用あり氣に不意と廊下へ出た。ばつたり出逢つた彼女の顔は依然として恥づかしさうに赤く染つてゐた。彼女は眼を俯《ふ》せて、自分の傍《そば》を擦《す》り拔けた。其時自分は彼女の瞼《まぶた》に涕の宿つた痕迹《こんせき》を慥《たし》かに認めたやうな氣がした。けれども書齋に入つた彼女が兄と差向ひで何んな談話をしたか、それは未《いま》だに知る事を得ない。自分|丈《だけ》ではない、其委細を知つてゐるものは、彼等二人より以外に、恐らく天下に一人もあるまいと思ふ。
 
     三十五
 
 自分は親戚の片割《かたわれ》として、お貞《さだ》さんの結婚式に列席するやう、父母《ちゝはゝ》から命ぜられてゐた。其日は丁度雨がしよぼ/\降つて、婚禮には似合しからぬ佗《わ》びしい天氣であつた。何時《いつ》もより早く起きて番町へ行つて見ると、お貞さんの衣裳《いしやう》が八疊の間に取り散らしてあつた。
 便所へ行つた歸りに風呂場の口を覗いて見たら、硝子戸《ガラスど》が半分|開《あ》いて、其中にお貞《さだ》さんのお化粧をしてゐる姿がちらりと見えた。それから「あら其處へ障つちや厭ですよ」といふ彼女の聲が聞こえた。芳江《よしえ》は面白半分何か惡戯《いたづら》をすると見えた。自分も芳江の眞似を遣らうと思つたが、場合が場合なのでつい遠慮して茶の間へ戻つた。
 しばらくしてから、又八疊へ出て見ると、みんながお召換《めしかへ》を遣つてゐた。芳江《よしえ》が「あのお貞《さだ》さんは手へも白粉《おしろい》を塗《つ》けたのよ」と大勢に吹聽してゐた。實を云ふと、お貞さんは顔よりも手足の方が赤黒かつたのである。
 「大變眞白になつたな。亭主を欺瞞《だま》すんだから善くない」と父が調戯《からか》つてゐた。
 「あしたになつたら旦那樣が嘸《さぞ》驚くでせう」と母が笑つた。お貞《さだ》さんも下を向いて苦笑した。彼女は初めて島田に結つた。それが豫期出來なかつた斬新《ざんしん》の感じを自分に與へた。
 「此|髷《まげ》でそんな重いものを差したら嘸《さぞ》苦しいでせうね」と自分が聞くと、母は「いくら重くつても、生涯に一度はね……」と云つて、己《おの》れの黒紋付と白襟との合ひ具合をしきりに氣にしてゐた。お貞《さだ》さんの帶は嫂《あによめ》が後へ廻つて、ぐつと締めて遣つた。
 兄は例の臭い卷煙草を吹かしながら廣い縁側を彼方《あちら》此方《こちら》と逍遙《せうえう》してゐた。彼は此結婚に、丸《まる》で興味を有《も》たないやうな、又彼一流の批評を心の中に加へてゐるやうな、判斷の出來|惡《にく》い態度をあらはして、時々我々の居る座敷を覗いた。けれども一寸敷居際に留まる丈《だけ》で決して中へは這入らなかつた。「仕度はまだか」とも催促しなかつた。彼はフロツクに絹帽《シルクハツト》を被つてゐた。
 愈《いよ/\》出る時に、父は一番綺麗な俥《くるま》を擇《よ》つて、お貞《さだ》さんを乘せて遣つた。十一時に式がある筈の所を少し時間が後《おく》れた爲め岡田は大神宮の式臺へ出て、わざ/\我々を待つてゐた。皆《みん》ながどや/\と一度に控所に這入ると、其處にはお婿さんがたゞ一人質に取られた置物のやうに椅子へ腰を掛けてゐた。やがて立ち上がつて、一人/\に挨拶をするうちに、自分は控所にある洋卓《テーブル》やら、絨氈《じゅうたん》やら、白木《しらき》の格天井《がうてんじやう》やらを眺めた。突き當りには御簾《みす》が下りてゐて、中には何か在るらしい氣色《けしき》だけれども、奧の全く暗いため何物をも髣髴《はうふつ》する事が出來なかつた。其前には鶴と浪を一面に描《ゑが》いた目出度い一双の金屏風《きんびやうぶ》が立て廻してあつた。
 縁女《えんぢよ》と仲人《なかうど》の奧さんが先、それから婿と仲人《なかうど》の夫《をつと》、其次へ親類がつゞくといふ順を、袴羽織の男が出て來て教へて呉れたが、肝腎の仲人たるべき岡田はお兼さんを連れて來なかつたので、「ぢや甚だ御迷惑だけど、一郎さんとお直《なほ》さんに引き受けて戴きませうか、此場|限《かぎ》り」と岡田が父に相談した。父は簡單に「好からうよ」と答へた。嫂《あによめ》は例の如く「何うでも」と云つた。兄も「何うでも」と云つたが、後《あと》から、「然し僕等のやうな夫婦が媒妁人《ばいしやくにん》になつちや、少し御兩人の爲に惡いだらう」と付け足した。
 「惡いなんて――僕がするより名譽でさあね。ねえ二郎さん」と岡田が例の如く輕い調子で云つた。兄は何やら其理由を述べたいらしい氣色《けしき》を見せたが、すぐ考へ直したと見えて、「ぢや生れて初めての大役を引き受けて見るかな。然し何にも知らないんだから」と云ふと、「何向ふで何も彼も教へて呉れるから世話はない。お前達は何もしないで濟むやうにちやんと拵へてあるんだ」と父が説明した。
 
       三十六
 
 反橋《そりはし》を渡る所で、先の人が何かに支《つか》へて一同一寸留つた機會を利用して、自分はそつと岡田のフロツクの尻を引張つた。
 「岡田さんは實に呑氣《のんき》だね」と云つた。
 「何故《なぜ》です」
 彼は自ら媒妁人をもつて任じながら、その細君を連れて來ない不注意に少しも氣が付いてゐないらしかつた。自分から呑氣の譯を聞いた時、彼は苦笑して頭を掻きながら、「實は伴《つ》れて來《き》ようと思つたんですがね、まあ何うかなるだらうと思つて……」と答へた。
 反橋《そりはし》を降りて奧へ這入らうといふ入口の所で、花嫁は一面に張り詰められた鏡の前へ坐つて、黒塗の盥《たらひ》の中で手を洗つてゐた。自分は後《うしろ》から脊延《せいのび》をして、お貞《さだ》さんの姿を見た時、成程これで列が後れるんだなと思ふと同時に吹き出し度なつた。折角丹精して塗り立てた彼女の手も、此神聖な一杓《ひとしやく》の水で、無殘《むざん》に元の如く赤黒くされて仕舞つたのである。
 神殿の左石には別室があつた。其右の方へ兄が佐野さんを伴《つ》れて這入つた。其左の方へ嫂《あによめ》がお貞《さだ》さんを伴《つ》れて這入つた。それが左右から出て來て着座するのを見ると、兄夫婦は眞面目な顔をして向ひ合せに坐つてゐた。花嫁花婿も無論の事、謹んだ姿で相對してゐた。
 式壇を正面に、後《うしろ》の方にずらりと並んだ父だの母だの自分達は、此二樣の意味を有《も》つた夫婦と、繪の具で塗り潰した綺麗な太皷と、何物を中に藏《かく》してゐるか分らない、御簾《みす》を靜肅に眺めた。
 兄は腹のなかで何を考へてゐるか、餘所目《よそめ》から見ると、尋常と變る所は少しもなかつた。嫂《あによめ》は元より取り繕つた樣子もなく、自然其儘に取り濟ましてゐた。
 彼等は既に過去何年かの間に、夫婦といふ社會的に大切な經驗を彼等なりに甞《な》めて來た、古い夫婦であつた。さうして彼等の甞《な》めた經驗は、人生の歴史の一部分として、彼等に取つては再びしがたい貴《たつと》いものであつたかも知れない。けれども何方《どつち》から云つても、蜜に似た甘いものではなかつたらしい。此|苦《にが》い經驗を有する古夫婦が、己《おの》れ達のあまり幸福でなかつた運命の割前を、若い男と若い女の頭の上に割り付けて、又新しい不仕合な夫婦を作る積《つもり》なのかしらん。
 兄は學者であつた。かつ感情家であつた。其蒼白い額の中に或は此位な事を考へてゐたかも知れない。或はそれ以上に深い事を考へてゐたかも知れない。或は凡《すべ》ての結婚なるものを自《みづか》ら呪詛《じゆそ》しながら、新郎と新婦の手を握らせなければならない仲人《なかうど》の喜劇と悲劇とを同時に感じつゝ坐つてゐたかも知れない。
 兎に角兄は眞面目に坐つてゐた。嫂《あによめ》も、佐野さんも、お貞《さだ》さんも、眞面目に坐つてゐた。其内式が始まつた。巫女《みこ》の一人が、途中から腹痛で引き返したといふので介添《かいぞへ》が其代りを勤めた。
 自分の隣に坐つてゐたお重《しげ》が「大兄さんの時より淋しいのね」と私語《さゝや》いた。其時は簫《せう》や大皷を入れて、巫女《みこ》の左右に入れ交《か》ふ姿も蝶のやうに翩々《ひら/\》と華麗《はなやか》に見えた。
 「御前の嫁に行く時は、あの時位賑かにして遣るよ」と自分はお重《しげ》に云つた。お重は笑つてゐた。
 式が濟んでみんなが控所へ歸つた時、お貞《さだ》さんは我々が立つてゐるのに、わざ/\絨氈《じゆうたん》の上に手を突いて今迄厄介になつた禮を丁寧に述べた。彼女の眼には淋《さび》しさうな涙が一杯溜つてゐた。
 新夫婦と岡田は晝の汽車で、すぐ大阪へ向けて立つた。自分は雨のプラツトフオームの上で、二三日箱根あたりで逗留《とうりう》する筈のお貞《さだ》さんを見送つた後《あと》、父や兄に別れて獨り自分の下宿へ歸つた。さうして途々自分にも當然番の廻つてくるべき結婚問題を人生に於ける不幸の謎《なぞ》の如く考へた。
 
     三十七
 
 お貞《さだ》さんが攫《さら》はれて行くやうに消えて仕舞つた後《あと》の宅《うち》は、相變らずの空氣で包まれてゐた。自分の見た所では、お貞さんが宅中《うちぢゆう》で一番の呑氣《のんき》ものらしかつた。彼女は永年世話になつた自分の家《いへ》に、朝夕《あさゆふ》箒を執つたり、洗《あら》ひ洒《そゝ》ぎをしたりして、下女だか仲働だか分らない地位に甘んじた十年の後《あと》、別に不平な顔もせず佐野と一所に雨の汽車で東京を離れて仕舞つた。彼女の腹の中《なか》も日常彼女の繰り返しつゝ慣れ拔いた仕事の如く明瞭でかつ器械的なものであつたらしい。一家|團欒《だんらん》の時季とも見るべき例の晩餐の食卓が、一時重苦しい灰色の空氣で鎖された折でさへ、お貞さん丈《だけ》は其中に坐つて、平生と何の變りもなく、給仕の盆を膝の上に載せたまゝ平氣で控へてゐた。結婚當日の少し前、兄から書齋へ呼ばれて出て來た時、彼女の顔を染めた色と、彼女の瞼《まぶた》に充ちた涙が、彼女の未來のために、何を語つてゐたか知らないが、彼女の氣質から云へば、それがために長い影響を受けようとも思へなかつた。
 お貞《さだ》さんが去ると共に冬も去つた。去つたと云ふよりも、先づ大した事件も起らずに濟んだと評する方が適當かも知れない。斑《まだ》らな雪、枯枝を搖《ゆす》ぶる風、手水鉢《てうづばち》を鎖《と》ざす氷、孰《いづ》れも例年の面影を規則正しく自分の眼に映した後《あと》、消えては去り消えては去つた。自然の寒い課程が斯う繰返されてゐる間、番町の家は凝《ぢつ》として動かずにゐた。其|家《いへ》の中《なか》にゐる人と人との關係も何うか斯うか今迄通り持ち應《こた》へた。
 自分の地位にも無論變化はなかつた。唯お重《しげ》が遊び半分時々苦情を訴へに來た。彼女は來る度に「お貞《さだ》さんは何うしてゐるでせうね」と聞いた。
 「何うしてゐるでせうつて、――お前の所へ何とも云つて來ないのか」
 「來る事は來るわ」
 聞いて見ると、結婚後のお貞《さだ》さんに就いて、彼女は自分より遙《はるか》に豐富な知識を有《も》つてゐた。
 自分は又彼女が來る度に、兄の事を聞くのを忘れなかつた。
 「兄さんは何うだい」
 「何うだいつて、貴方こそ惡いわ。家《うち》へ來ても兄さんに逢はずに歸るんだから」
 「わざ/\避けるんぢやない。行つても何時《いつ》でも留守なんだから仕方がない」
 「嘘を仰しやい。此間來た時も書齋へ這入らずに逃げた癖に」
 お重《しげ》は自分より正直な丈《だけ》に眞赤《まつか》になつた。自分はあの事件以後何うかして兄と故《もと》の通り親《した》しい關係になりたいと心では希望してゐたが、實際はそれと反對で、何だか近寄り惡《にく》い氣がするので、全くお重の云ふ如く、宅《うち》へ行つて彼に挨拶する機會があつても、成る可く會はずに歸る事が多かつた。
 お重《しげ》に遣り込められると、自分は無言の降意を表する如くにあはゝと笑つたり、わざと短い口髭を撫《な》でたり、時によると例の通り煙草に火を點《つ》けて曖昧な煙を吐いたりした。
 左右《さう》かと思ふと却《かへ》つてお重《しげ》の方から突然「大兄さんも隨分變人ね。あたし今になつて全く貴方が喧嘩して出たのも無理はないと思ふわ」などと云つた。お重から藪から棒に斯う驚かされると、自分は腹の底で自分の味方が一人|殖《ふ》えたやうな氣がして嬉しかつた。けれども表向彼女の意見に相槌《あひづち》を打つ程の稚氣《ちき》もなかつた。叱り付ける程の衒氣《げんき》もなかつた。只《たゞ》彼女が歸つた後《あと》で、忽ち今迄の考へが逆《さかさ》まになつて、兄の精神状態が周圍に及ぼす影響|抔《など》が頻りに苦になつた。段々生物から孤立して、書物の中に引き摺《ず》り込まれて行くやうに見える彼を平生よりも一倍氣の毒に思ふ事もあつた。
 
     三十八
 
 母も一二遍來た。最初來た時は大變機嫌が好かつた。隣の座敷にゐる法學士は何處へ出て何を勤めてゐるのだ抔《など》と、自分にも判然《はつきり》解らないやうな事を、左《さ》も大事らしく聞いたりした。其時彼女は宅《うち》の近况に就いて何にも語らずに、「此頃は方々で風邪が流行《はや》るから氣をお付け。お父さんも二三日前《にさんちまへ》から咽喉《のど》が痛いつて、濕布《しつぷ》をしてお出でだよ」と注意して去つた。自分は彼女の去つた後《あと》、兄夫婦の事を思ひ出す暇さへなかつた。彼等の存在を忘れた自分は、快よい風呂に入つて、旨い夕飯《ゆふめし》を食つた。
 次に訪ねて呉れた時の母の調子は、前に較べると少し變つてゐた。彼女は大阪以後、ことに自分が下宿して以後、自分の前でわざと嫂《あによめ》の批評を回避するやうな風を見せた。自分も母の前では氣が咎《とが》めるといふのか、必要のない限り、嫂《あによめ》の名を憚《はゞか》つて、成るべく口へ出さなかつた。所が此注意深い母が其折|卒然《そつぜん》と自分に向つて、「二郎、此處《こゝ》丈《だけ》の話だが、一體お直《なほ》の氣立は好いのかね惡いのかね」と聞いた。果《はた》して何か始まつたのだと心得た自分は冷《ひや》りとした。
 下宿後の自分は、兄に就いても嫂《あによめ》に就いても不謹愼な言葉を無責任に放つ勇氣は全くなかつたので、母は自分から何一つ滿足な材料を得ずして去つた。自分の方でも、何故《なぜ》彼女が此氣味の惡い質問を自分に突然と掛けたか遂に要領を得ずに母を逸した。「何か又心配になるやうな事でも出來たのですか」と聞いても、彼女は「なに別に是と云つて變つた事はないんだがね……」と答へる丈《だけ》で、後は自分の顔を打守るに過ぎなかつた。
 自分は彼女が歸つた後《あと》、しきりに此質問に拘泥《こうでい》し始めた。けれども前後の事情だの母の態度だのを綜合《そうがふ》して考へて見て、何うしても新しい事件が、わが家庭のうちに起つたとは受取れないと判斷した。
 母もあまり心配し過ぎて、とう/\嫂《あね》が解らなくなつたのだ。
 自分は最後に斯う解釋して、恐ろしい夢に捉《とら》へられたやうな氣持を抱《いだ》いた。
 お重《しげ》も來《き》、母も來る中に、嫂《あによめ》丈《だけ》は、遂に一度も自分の室《へや》の火鉢に手を翳《かざ》さなかつた。彼女がわざと遠慮して自分を尋ねない主意は、自分にも好く呑み込めてゐた。自分が番町へ行つたとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですつてね。お室《へや》に立派な床《とこ》があつて、庭に好い梅が植ゑてあるつて云ふ話ぢやありませんか」と聞いた。然し「今度拜見に行きますよ」とは云はなかつた。自分も「見に入らつしやい」とは云ひかねた。尤も彼女の口に上つた梅は、何處かの畠から引つこ拔いて來て、其儘其處へ植ゑたとしか思はれない無意味なものであつた。
 嫂《あによめ》が來ないのとは異樣の意味で、又同樣の意味で、兄の顔は決して自分の室《へや》の裡《うち》に見出されなかつた。
 父も來なかつた。
 三澤は時々來た。自分はある機會を利用して、それとなく彼にお重《しげ》を貰ふ意があるかないかを探つて見た。
 「左右《さう》だね。あのお孃さんも最《も》う年頃だから、そろ/\何處かへ片付ける必要が逼《せま》つて來るだらうね。早く好い所を見付けて嬉しがらせて遣り給へ」
 彼はたゞ斯う云つた丈《だけ》で、取り合ふ氣色《けしき》もなかつた。自分は夫《それ》限《ぎり》斷念して仕舞つた。
 永いやうで短い冬は、事の起りさうで事の起らない自分の前に、時雨《しぐれ》、霜解《しもどけ》、空《から》つ風《かぜ》……と既定の日程を平凡に繰り返して、斯樣に去つたのである。
 
  塵勞
 
     一
 
 陰刻《いんこく》な冬が彼岸《ひがん》の風に吹き拂はれた時自分は寒い窖《あなぐら》から顔を出した人のやうに明るい世界を眺めた。自分の心の何處かには此明るい世界も亦今|遣《や》り過《す》ごした冬と同樣に平凡だといふ感じがあつた。けれども呼息《いき》をする度に春の匂《にほひ》が脈《みやく》の中に流れ込む快よさを忘れる程自分は老いてゐなかつた。
 自分は天氣の好い折々|室《へや》の障子を明け放つて往來を眺めた。又|廂《ひさし》の先に横《よこた》はる蒼空《あをぞら》を下から透《すか》すやうに望んだ。さうして何處か遠くへ行きたいと願つた。學校にゐた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度をする筈なのだけれども、事務所へ通ふやうになつた今の自分には、そんな自由は到底《とても》望めなかつた。偶《たま》の日曜ですら寐起の惡い顔を一日下宿に持ち扱つて、散歩にさへ出ない事があつた。
 自分は半《なか》ば春を迎へながら半《なか》ば春を呪《のろ》ふ氣になつてゐた。下宿へ歸つて夕飯《ゆふめし》を濟ますと、火鉢の前へ坐つて煙草を吹かしながら茫然《ぼんやり》自分の未來を想像したりした。其未來を織る糸のうちには、自分に媚びる花やかな色が、新しく活けた佐倉炭《さくらずみ》の?《ほのほ》と共にちら/\と燃え上るのが常であつたけれども、時には一面に變色して何處迄行つても灰の樣に光澤《つや》を失つてゐた。自分は斯ういふ想像の夢から突然何かの拍子で現在の我に立ち返る事があつた。さうして此現在の自分と未來の自分とを運命が何ういふ手段で結び付けて行くだらうと考へた。
 自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、丁度期んな風に現實と空想の間に迷つて凝《ぢつ》と火鉢に手を翳《かざ》してゐた、或|宵《よひ》の口《くち》の出來事であつた。自分は自分の注意を己《おの》れ一人に集めてゐたといふものか、實際下女の廊下を踏んで來る足音に氣が付かなかつた。彼女が思ひ掛《がけ》なくすうと襖《ふすま》を開けた時自分は始めて偶然のやうに眼を上げて彼女と顔を見合せた。
 「風呂かい」
 自分はすぐ斯う聞いた。是より外に下女が今頃自分の室《へや》の襖《ふすま》を開ける筈がないと思つたからである。すると下女は立ちながら「いゝへ」と答へたなり黙つてゐた。自分は下女の眼元に一種の笑ひを見た。其の笑ひの中《うち》には相手を翻弄《ほんろう》し得た瞬間の愉快を女性的《によしやうてき》に貪《むさぼ》りつゝある妙な閃《ひらめき》があつた。自分は鋭く下女に向つて、「何だい、突立《つつた》つた儘」と云つた。下女はすぐ敷居際に膝を突いた。さうして「御客樣です」と稍《やゝ》眞面目に答へた。
 「三澤だらう」と自分が云つた。自分は或事で三澤の訪問を豫期してゐたのである。
 「いゝえ女の方です」
 「女の人?」
 自分は不審の眉を寄せて下女に見せた。下女は却《かへ》つて澄ましてゐた。
 「此方《こちら》へ御通し申しますか」
 「何といふ人だい」
 「知りません」
 「知りませんつて、名前を聞かないで無暗に人の室《へや》へ客を案内する奴があるかい」
 「だつて聞いても仰《おつし》やらないんですもの」
 下女は斯う云つて、又|先刻《さつき》の樣な意地の惡い笑を目元で笑つた。自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上つた。敷居際に膝を突いてゐる下女を追ひ退《の》けるやうにして上《あが》り口《ぐち》迄出た。さうして土間の片隅にコートを着た儘《まゝ》寒さうに立つてゐた嫂《あによめ》の姿を見出した。
 
      二
 
 其日は朝から曇つてゐた。然し打ち續いた好天氣を一度に追ひ拂ふやうに寒い風が吹いた。自分は事務所から歸りがけに、外套の襟を立てゝ歩きながら道々雨になるのを氣遣つた。其雨が先刻《さつき》夕飯《ゆふめし》の膳に向ふ時分からしと/\と降り出した。
 「好く斯んな寒い晩に御出掛けでした」
 嫂《あによめ》は輕く「えゝ」と答へたぎりであつた。自分は今迄坐つてゐた蒲團の裏を返して、それを三尺の床の前に直して、「さあ此方《こつち》へ入らつしやい」と勸めた。彼女はコートの片袖をする/\と脱ぎながら「さうお客扱ひにしちや厭よ」と云つた。自分は茶器を洒《すゝ》がせる爲に電鈴《ベル》を押した手を放して、彼女の顔を見た。寒い戸外の空氣に冷えた其頬は何時《いつ》もより蒼白く自分の眸子《ひとみ》を射た。不斷から淋《さむ》しい片靨《かたゑくぼ》さへ平生《つね》とは違つた意味の淋《さむ》しさを消える瞬間にちら/\と動かした。
 「まあ好いから其處へ坐つて下さい」
 彼女は自分の云ふ通りに蒲團の上に坐つた。さうして白い指を火鉢の上に翳《かざ》した。彼女はその姿から想像される通り手爪先《てづまさき》の尋常《じんじやう》な女であつた。彼女の持つて生れた道具のうちで、初《はじめ》から自分の注意を惹《ひ》いたものは、華奢《きやしや》に出來上つた其手と足とであつた。
 「二郎さん、貴方も手を出して御あたりなさいな」
 自分は何故《なぜ》か躊躇《ちうちよ》して手を出しかねた。其時雨の音が窓の外で蕭々《せう/\》とした。晝間|吹募《ふきつの》つた西北《にしきた》の風は雨と共にばつたりと落ちたため世間は案外靜かになつてゐた。只《たゞ》時を區切《くぎ》つて樋《とひ》を叩く雨滴《あまだれ》の音|丈《だけ》がぽたり/\と響いた。嫂《あによめ》は平生《いつも》の通り落ち付いた態度で、室《へや》の中を見廻しながら「成程好い御室《おへや》ね、さうして靜だ事」と云つた。
 「夜だから好く見えるんです。晝間來て御覽なさい、隨分汚ならしい室《へや》ですよ」
 自分は少時《しばらく》嫂《あによめ》と應對してゐた。けれども今自白すると腹の中《なか》は話の調子で示される程穩かなものでは決してなかつた。自分は嫂《あによめ》が此下宿へ訪ねて來《き》ようとは其時|迄《まで》決して豫期してゐなかつたのである。空想にすら描《ゑが》いてゐなかつたのである。彼女の姿を上《あが》り口《ぐち》の土間に見出《みいだ》した時自分ははつと驚いた。さうして其驚きは喜びの驚きよりも寧ろ不安の驚きであつた。
 「何で來たのだらう。何で此寒いのにわざ/\來たのだらう。何でわざ/\晩になつて灯《ひ》が點《つ》いてから來たのだらう」
 是が彼女を見た瞬間の疑惑であつた。此疑惑に初手《しよて》からこだはつた自分の胸には、火鉢を隔てゝ彼女と相對してゐる日常の態度の中《うち》に絶えざる壓迫があつた。それが自分の談話や調子に不愉快なそら/”\しさを與へた。自分はそれを明かに自覺した。それから其|空々《そら/”\》しさがよく相手の頭に映《うつ》つてゐるといふ事も自覺した。けれども何うする譯にも行かなかつた。自分は嫂《あによめ》に「冴《さ》え返つて寒くなりましたね」と云つた。「雨の降るのに好く御出掛ですね」と云つた。「何うして今頃御出掛です」と聞いた。對話が其處迄行つても自分の胸に少しの光明を投げなかつた時、自分は硬《かた》くなつた、さうしてジヨコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦《すく》まざるを得なかつた。
 「二郎さんは少時《しばらく》會はないうちに、急に改まつちまつたのね」と嫂《あによめ》が云ひ出した。
 「そんな事は有りません」と自分は答へた。
 「いゝえ左右《さう》よ」と彼女が押し返した。
 
     三
 
 自分はつと立つて嫂《あによめ》の後《うしろ》へ廻つた。彼女は半間《はんげん》の床《とこ》を脊にして坐つてゐた。室《へや》が狹いので彼女の帶のあたりは殆んど杉の床柱とすれ/\であつた。自分が其間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈さうに體?《からだ》を前の方へ屈《かゞ》めて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙《ちう》に浮かした儘、床の奧から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。
 「一つ何うです」
 斯う云ひながら葢《ふた》を取らうとすると、彼女は微《かす》かに苦笑を洩らした。重箱の中には白砂糖を振り懸けた牡丹餅《ぼたもち》が行儀よく並べてあつた。昨日《きのふ》が彼岸《ひがん》の中日《ちゆうにち》である事を自分は此|牡丹餅《ぼたもち》によつて始めて知つたのである。自分は嫂《あによめ》の顔を見て眞面目に「食べませんか」と尋ねた。彼女は忽ち吹き出した。
 「貴方も隨分ね、其|御萩《おはぎ》は昨日《きのふ》宅《うち》から持たせて上げたんぢやありませんか」
 自分は已《やむ》を得ず苦笑しながら一つ頬張つた。彼女は自分の爲に湯呑へ茶を注《つ》いでくれた。
 自分は此牡丹餅から彼女が今日|墓詣《はかまゐ》りのため里《さと》へ行つて其歸り掛《がけ》に此處へ寄つたのだと云ふ事を漸く確めた。
 「大變御無沙汰をしてゐますが、彼方《あちら》でも別にお變りはありませんか」
 「えゝ有り難う、別に……」
 言葉寡《ことはずくな》な彼女はたゞ簡單に斯う答へた丈《だけ》であつたが、その後へ、「御無沙汰つて云へば、貴方《あなた》番町へも隨分御無沙汰ね」と付け加へて、ことさらに自分の顔を見た。
 自分は全く番町へは遠ざかつてゐた。始めは宅《うち》の事が苦になつて一週に一度か二度行かないと氣が濟まない位だつたが、何時《いつ》か中心を離れて餘所《よそ》からそつと眺める癖を養ひ出した。さうして其眺めてゐる間少くとも事が起らずに濟んだといふ自覺が、無沙汰を無事の原因のやうに思はせてゐた。
 「何故《なぜ》元のやうにちよく/\入らつしやらないの」
 「少し仕事の方が忙《いそが》しいもんですから」
 「さう? 本當に? 左右《さう》ぢやないでせう」
 自分は嫂《あによめ》から斯う追窮されるのに堪へなかつた。其上自分には彼女の心理が解らなかつた。他《ほか》の人はどうあらうとも、嫂《あによめ》丈《だけ》は此點に於て自分を追窮する勇氣のないものと今迄固く信じてゐたからである。自分は思ひ切つて「あなたは大膽過ぎる」と云はうかと思つた。けれども疾《とう》に相手から小膽と見縊《みくび》られてゐる自分は遂に卑怯であつた。
 「本當に忙がしいのです。實は此間から少し勉強しようと思つて、そろ/\其準備に取り懸つたもんですから、つい近頃は何處へも出る氣にならないんです。僕は何時《いつ》迄《まで》斯んな事をして愚圖々々してゐたつて詰らないから、今のうち少し本でも讀んで置いて、もう少ししたら外國へでも行つて見たいと思つてるんだから」
 此答への後半は本當に自分の希望であつた。自分は何でもいゝから只《たゞ》遠くへ行きたい行きたいと願つてゐた。
 「外國つて、洋行?」と嫂《あによめ》が聞いた。
 「まあ左右《さう》です」
 「結構ね。御父さんに願つて早く遣つて御頂きなさい。妾《あたし》話して上げませうか」
 自分も無駄と知りながらそんな事を幻《まぼろし》のやうに考へてゐたのだが、彼女の言葉を聞いた時急に、「お父さんは駄目ですよ」と首を振つて見せた。彼女はしばらく黙つてゐた。やがて物憂さうな調子で「男は氣樂なものね」と云つた。
 「些《ちつ》とも氣樂ぢやありません」
 「だつて厭になれば何處へでも勝手に飛んで歩けるぢやありませんか」
 
      四
 
 自分は何時《いつ》か手を出して火鉢へあたつてゐた。その火鉢は幾分か脊《せい》を高くかつ分厚《ぶあつ》に拵へたものであつたけれども、大きさから云ふと、普通《なみ》の箱火鉢と同じ事なので二人向ひ合せに手を翳《かざ》すと、顔と顔との距離があまり近過ぎる位の位地にあつた。嫂《あによめ》は席に着いた初から寒いといつて、猫脊《ねこぜ》の人のやうに、心持胸から上を前の方に屈《こゞ》めて坐つてゐた。彼女の此姿勢のうちには女らしいといふ以外に何の非難も加へやうがなかつた。けれども其結果として自分は勢ひ後《うしろ》へ反《そ》り返る氣味で座を構へなければならなくなつた。それですら自分は彼女の富士額《ふじびたひ》を是程近く且《かつ》長く見詰めた事はなかつた。自分は彼女の蒼白い頬の色を?《ほのほ》の如く眩《まぶ》しく思つた。
 自分は斯ういふ比較的窮屈な態度の下《もと》に、彼女から突如として彼女と兄の關係が、自分が宅《うち》を出た後《あと》も唯好くない一方に進んで行く丈《だけ》であるといふ厭な事實を聞かされた。彼女は是迄|此方《こちら》から問ひ掛けなければ、決して兄の事に就いて口を開かない主義を取つてゐた。たとひ此方《こちら》から問掛けても「相變らずですわ」とか、「何心配する程の事ぢやなくつてよ」とか答へて只微笑するのが常であつた。それを丸《まる》で逆《さか》さまにして、自分の最も心苦しく思つてゐる問題の眞相を、向ふから積極的に此方《こちら》へ吐き掛けたのだから、卑怯な自分は不意に硫酸を浴《あび》せられた樣にひり/\とした。
 然し一旦《いつたん》緒《いとぐち》を見出した時、自分は出來る丈《だけ》根掘り葉掘り聞かうとした。けれども言葉の浪費を忌む彼女は、さう此方《こちら》の思ひ通りにはさせなかつた。彼女の口にする所は重に彼等夫婦間に横たはる氣不味《きまづ》さの閃電《せんでん》に過ぎなかつた。さうして氣不味《きまづ》さの近因に就《つい》ては遂に一言《ひとこと》も口にしなかつた。それを聞くと、彼女はたゞ「何故《なぜ》だか分らないのよ」といふ丈《だけ》であつた。實際彼女にはそれが分らないのかも知れなかつた。又分つてゐる癖にわざと話さないのかも知れなかつた。
 「何うせ妾《あたし》が斯んな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくら何うしたつて爲《な》るやうに爲《な》るより外に道はないんだから。さう思つて諦らめてゐれば夫《それ》迄《まで》よ」
 彼女は初めから運命なら畏《おそ》れないといふ宗教心を、自分一人で持つて生れた女らしかつた。其代り他《ひと》の運命も畏れないといふ性質《たち》にも見えた。
 「男は厭になりさへすれば二郎さん見たいに何處へでも飛んで行けるけれども、女は左右《さう》は行きませんから。妾《あたし》なんか丁度親の手で植付けられた鉢植のやうなもので一遍植ゑられたが最後、誰か來て動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝《ぢつ》としてゐる丈《だけ》です。立枯《たちがれ》になる迄|凝《ぢつ》としてゐるより外に仕方がないんですもの」
 自分は氣の毒さうに見える此訴への裏面に、測るべからざる女性《によしやう》の強さを電氣のやうに感じた。さうして此強さが兄に對して何う働くかに思ひ及んだ時、思はずひやりとした。
 「兄さんは只《たゞ》機嫌が惡い丈《だけ》なんでせうね。外に何處も變つた所はありませんか」
 「左石《さう》ね。夫《そり》や何とも云へないわ。人間だから何時《いつ》何んな病氣に罹《かゝ》らないとも限らないから」
 彼女はやがて帶の間から小さい女持の時計を出してそれを眺めた。室《へや》が靜かなので其|葢《ふた》を締める音が意外に強く耳に鳴つた。恰も穩かな皮膚の面《おもて》に鋭い針の先が觸れたやうであつた。
 「もう歸りませう。――二郎さん御迷惑でしたらう斯んな厭な話を聞かせて。妾《あたし》今迄誰にもした事はないのよ、斯んな事。今日自分の宅《うち》へ行つてさへ默つてる位ですもの」
 上り口に待つてゐた車夫の提灯《ちやうちん》には彼女の里方《さとかた》の定紋《ぢやうもん》が付いてゐた。
 
     五
 
 其晩は靜かな雨が夜通し降つた。枕を叩くやうな雨滴《あまだれ》の音の中に、自分は何時《いつ》迄も嫂《あによめ》の幻影《まぼろし》を描《ゑが》いた。濃い眉とそれから濃《こ》い眸子《ひとみ》、それが眼に浮ぶと、蒼白い額や頬は、磁石《じしやく》に吸ひ付けられる鐵片《てつぺん》の速度で、すぐ其|周圍《まはり》に反映した。彼女の幻影《まぼろし》は何遍も打ち崩された。打ち崩される度に復同じ順序がすぐ繰返された。自分は遂に彼女の唇の色迄|鮮《あざや》かに見た。其唇の兩端《りやうはし》にあたる筋肉が聲に出ない言葉の符號《シンボル》の如く微《かす》かに顫動《せんどう》するのを見た。それから、肉眼の注意を逃《のか》れようとする微細の渦《うづ》が、靨《ゑくぼ》に寄らうか崩れようかと迷ふ姿で、間斷なく波を打つ彼女の頬をあり/\と見た。
 自分は夫《それ》位《くらゐ》活《い》きた彼女を末《それ》位《くらゐ》劇しく想像した。さうして雨滴《あまだれ》の音のぽたり/\と響く中に、取り留めもない色々な事を考へて、火照《ほて》つた頭を惱まし始めた。
 彼女と兄との關係が惡く變る以上、自分の身體《からだ》が何處に何う飛んで行かうとも、自分の心は決して安穩であり得なかつた。自分は此點に就いて彼女にもつと具體的な説明を求めたけれども、普通の女のやうに零碎《れいさい》な事實を訴への材料にしない彼女は、殆んど自分の要求を無視した樣に取り合はなかつた。自分は結果からいふと、焦慮《じら》される爲に彼女の訪問を受けたと同じ事であつた。
 彼女の言葉は凡《すべ》て影のやうに暗かつた。それでゐて、稻妻のやうに簡潔な閃《ひらめき》を自分の胸に投げ込んだ。自分は此影と稻妻とを綴り合せて、若しや兄が此間中《このあひだぢゆう》癇癖《かんぺき》の嵩《かう》じた揚句《あげく》、嫂《あによめ》に對して今迄にない手荒な事でもしたのではなからうかと考へた。打擲《ちやうちやく》といふ字は折檻《せつかん》とか虐待《ぎやくたい》とかいふ字と並べて見ると、忌はしい殘酷な響を持つてゐる。嫂《あによめ》は今の女だから兄の行爲を全く此意味に解してゐるかも知れない。自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女は人間だから何時《いつ》何んな病氣に罹るかも知れないと冷《ひやゝ》かに云つて退《の》けた。自分が兄の精神作用に掛念《けねん》があつて此問を出したのは彼女にも通じてゐる筈である。從つて平生よりも猶《なほ》冷淡な彼女の答は、美しい己《おの》れの肉に加へられた鞭の音を、夫《をつと》の未來に反響させる復讎《ふくしう》の聲とも取れた。――自分は怖《こは》かつた。
 自分は明日《あす》にも番町へ行つて、母からでもそつと彼等二人の近況を聞かなければならないと思つた。けれども嫂《あによめ》は既に明言した。彼等夫婦關係の變化に就いては何人《なんぴと》もまだ知らない、又|何人《なんぴと》にも告げた事がないと明言した。影のやうな稻妻のやうな言葉のうちから其消息をぼんやりと燒き付けられたのは、天下に自分の胸がたつた一つある許《ばかり》であつた。
 何故《なぜ》あれ程言葉の寡《すく》ない嫂《あによめ》が自分に丈《だけ》それを話し出したのだらうか。彼女は平生から落付いてゐる。今夜も平生の通り落付いてゐた。彼女は昂奮の極《きよく》訴へる所がないので、わざ/\自分を訪うたものとは思へなかつた。だいち訴へといふ言葉からしてが彼女の態度には不似合であつた。結果から云へば、自分は先刻《さつき》云つた通り寧ろ彼女から焦慮《じら》されたのであるから。
 彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「何故《なぜ》さう堅苦しくして居らつしやるの」と聞いた。自分が「別段堅苦しくはしてゐません」と答へた時、彼女は「だつて反《そ》つ繰《く》り返《かへ》つてるぢやありませんか」と笑つた。其時の彼女の態度は、細い人指《ひとさし》ゆびで火鉢の向側から自分の頻《ほつ》ぺたでも突つつきさうに狎《な》れ/\しかつた。彼女は又自分の名を呼んで、「吃驚《びつくり》したでせう」と云つた。突然雨の降る寒い晩に來て、自分を驚かして遣つたのが、左《さ》も愉快な惡戯《いたづら》でゞもあるかの如くに云つた。……
 自分の想像と記憶は、ぽたり/\と垂れる雨滴《あまだれ》の拍子のうちに、夫《それ》からそれからと留度もなく深更|迄《まで》廻轉した。
 
     六
 
 夫《それ》から三四日《さんよつか》の間《あひだ》といふもの自分の頭は絶えず嫂《あによめ》の幽靈に追ひ廻された。事務所の机の前に立つて肝心の圖を引く時ですら、自分は此|祟《たゝり》を拂ひ退《の》ける手段を知らなかつた。或日には始終他人の手を借りて仕事を運んで行く樣な齒掻ゆい思さへ加はつた。斯うして自分で自分を離れた氣分を持ちながら、上部《うはべ》丈《だけ》を人並に遣つて行くのに傍《はた》の者は何故《なぜ》不審がらないのだらうと疑ぐつて見たりした。自分は餘程前から事務所ではもう快活な男として通用しない樣になつてゐた。ことに近來は口數さへ碌《ろく》に利かなかつた。それで此|三四日間《さんよつかかん》に起つた變化も亦|他《ひと》の注意に上《のぼ》らずに濟んでゐるのだらうと考へた。さうして自己と周圍と全く遮斷《しやだん》された人の淋《さび》しさを獨り感じた。
 自分は此の間《あひだ》に一人の嫂《あによめ》を色々に視た。――彼女は男子さへ超越する事の出來ないあるものを嫁に來た其日から既に超越してゐた。或は彼女には始めから超越すべき牆《かき》も壁もなかつた。始めから囚《とら》はれない自由な女であつた。彼女の今迄の行動は何物にも拘泥しない天眞の發現に過ぎなかつた。
 或時は又彼女が凡《すべ》てを胸のうちに疊み込んで、容易に己を露出しない所謂《いはゆる》しつかりものゝ如く自分の眼に映じた。さうした意味から見ると、彼女は有り觸れたしつかりものゝ域《ゐき》を遙《はるか》に通り越してゐた。あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしつかりし過ぎたものに違ひなかつた。驚くべく圖々《づう/\》しいものでもあつた。
 或|刹那《せつな》には彼女は忍耐の權化《ごんげ》の如く、自分の前に立つた。さうして其忍耐には苦痛の痕迹《こんせき》さへ認められない氣高《けだか》さが潜んでゐた。彼女は眉をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然《たんぜん》と坐つた。恰も其坐つてゐる席の下からわが足の腐れるのを待つかの如くに。要するに彼女の忍耐は、忍耐といふ意味を通り越して、殆んど彼女の自然に近い或物であつた。
 一人の嫂《あによめ》が自分には斯う色々に見えた。事務所の机の前、晝餐《ひるめし》の卓《たく》の上、歸り途の電車の中、下宿の火鉢の周圍《まはり》、さま/”\の所でさま/”\に變つて見えた。自分は他《ひと》の知らない苦しみを他《ひと》に言はずに苦しんだ。其間思ひ切つて番町へ出掛けて行つて、大體の樣子を探るのがともかくも順序だとは?《しば/\》胸に浮かんだ。けれども卑怯な自分はそれを敢てする勇氣を有《も》たなかつた。眼の前に怖い物のあるのを知りながら、わざと見ない爲に瞼《まぶた》を閉ぢてゐた。
 すると五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口迄呼び出された。
 「御前は二郎かい」
 「さうです」
 「明日《あす》の朝一寸行くが好いかい」
 「へえ」
 「差支があるかい」
 「いえ別に……」
 「ぢや待つてゝ呉れ、好いだらうね。左樣なら」
 父はそれで電話を切つて仕舞つた。自分は少からず狼狽《らうばい》した。何の用事であるかをさへ確める餘裕を有《も》たなかつた自分は、電話口を離れてから後悔した。もし用事があるなら呼び付けられさうなものだのにとすぐ變に思つても見た。父が向ふから來るといふ違例な事が、此間の嫂《あによめ》の訪問に何か關係がある樣な氣がして、自分の胸は一層不安になつた。
 下宿に歸つたら、大阪の岡田から來た一枚の繪端書が机の上に載《の》せてあつた。それは彼等夫婦が佐野とお貞《さだ》さんを誘つて、樂しい半日を郊外に暮らした記念であつた。自分は机に向つて長い間其繪端書を見詰めてゐた。
 
     七
 
 日曜には思ひ切つて寐坊をする癖のついてゐた自分も、次の朝|丈《だけ》は割合に早く起きた。飯を濟まして新聞を讀むと、其新聞が汽車を待ち合せる間に買つて、せはしなく眼を通す時のやうに、何の見る所もない程、詰らなく感ぜられた。自分はすぐ新聞を棄てた。然し五六分|經《た》たないうちに又それを取り上げた。自分は煙草を吸つたり、眼鏡の曇を丁寧に拭《ぬぐ》つたり、色々な所作をして、父の來るのを待ち受けた。
 父は容易に來なかつた。自分は父の早起をよく承知してゐた。彼の性急《せつかち》にも子供のうちから善く馴らされてゐた。落ち付かない自分は、電話でも掛けて、何うしたのか此方《こつち》から父の都合を聞いて見ようかと思つた。
 母に狎《な》れ拔いた自分は、常から父を憚《はゞか》つてゐた。けれども、本當の底を割つて見ると、柔和《やさ》しい母の方が、苛酷《きび》しい父よりは却つて怖かつた。自分は父に怒られたり小言を云はれたりする時に、恐縮はしながらも、矢つ張り男は男だと腹の中《なか》で思ふ事が度々あつた。けれども此場合は何時《いつ》もと違つてゐた。いくら父でもさう容易《たやす》く高を括《くゝ》る譯に行かなかつた。電話を掛けようとした自分は又掛け得ずに仕舞つた。
 父はとう/\十時頃になつて遣つて來た。羽織袴で少し極り過ぎた服裝《なり》はしてゐたが、顔付は存外|穩《おだや》かであつた。小さい時から彼の手元で育つた自分は、事のあるかないかを彼の顔色からすぐ判斷する功を積んでゐた。
 「もつと早く御出《おいで》だらうと思つて先刻《さつき》から待つてゐました」
 「大方《おほかた》床の中で待つてたんだらう。早いのはいくら早くつても驚かないが、御前に氣の毒だからわざと遲く出掛けたのさ」
 父は自分の汲んで出した茶を、飲むやうに甞《な》めるやうに、口の所へ持つて行つて、室《へや》の中《なか》をぢろ/\見廻した。室《へや》には机と本箱と火鉢がある丈《だけ》であつた。
 「好い室だね」
 父は自分達に對してもよく斯んな愛嬌を云ふ男であつた。彼が長年社交のために用ひ慣れた言葉は、遠慮のない家庭に迄、何時《いつ》か這入り込んで來た。それ程枯れた御世辭だから、それが自分には他《ひと》の「御早う」位にしか響かなかつた。
 彼は三尺の床を覗いて其處に掛けた幅物を眺め出した。
 「丁度好いね」
 其軸は特に此處の床の間を飾るために自分が父から借りて來た小形の半切《はんせつ》であつた。彼が「是なら持つて行つても好い」と投げ出して呉れた丈《だけ》あつて、自分には丁度好くも何ともない變なものであつた。自分は苦笑してそれを眺めてゐた。
 其處には薄墨で棒が一本|筋違《すぢかひ》に書いてあつた。其上に「此棒ひとり動かず、さはれば動く」と賛《さん》がしてあつた。要するに繪とも字とも片《かた》のつかない詰らないものであつた。
 「御前は笑ふがね。是でも澁いものだよ。立派な茶懸《ちやがけ》になるんだから」
 「誰でしたつけね書き手は」
 「それは分らないが、何《いづ》れ大コ寺か何か……」
 「さう/\」
 父はそれで懸物の講釋を切り上げようとはしなかつた。大コ寺がどうの、黄檗《わうばく》がどうのと、自分には丸《まる》で興味のない事を説明して聞かせた。仕舞に「此棒の意味が解るか」抔《など》と云つて自分を惱ませた。
 
     八
 
 其日自分は父に伴《つ》れられて上野の表慶館を見た。今迄彼に隨《つ》いてさういふ所へ行つた事は幾度となくあつたが、まさかその爲に彼がわざ/\下宿へ誘ひに來《き》ようとは思へなかつた。自分は父と共に下宿の門《かど》を出て上野へ向ふ途々も、今に彼の口から何か本當の用事が出るに違ないと豫期してゐた。然しそれを此方《こつち》から聞く勇氣はとても起らなかつた。兄の名も嫂《あによめ》の名も彼の前には封じられた言葉の如く、自分の聲帶を固く括《くゝ》り付けた。
 表慶館で彼は利休の手紙の前へ立つて、何々せしめ候《そろ》……かね、といつた風に、解らない字を無理にぽつ/\讀んで居た。御物《ごもつ》の王羲之《わうぎし》の書を見た時、彼は「ふうん成程」と感心してゐた。其書が又自分には至つて詰まらなく見えるので、「大いに人意を強うするに足るものだ」と云つたら、「何故《なぜ》」と彼は反問した。
 二人は二階の廣間へ入《はい》つた。すると其處に應擧《おうきよ》の繪がずらりと十幅ばかり懸けてあつた。それが不思議にも續きもので、右の端《はじ》の巖の上に立つてゐる三羽の鶴と、左の隅に翼をひろげて飛んでゐる一羽の外は、距離にしたら約二三間の間《あひだ》悉《こと/”\》く波で埋《うま》つてゐた。
 「唐紙《からかみ》に貼つてあつたのを、剥がして懸物にしたのだね」
 一幅毎に殘つてゐる開閉《あけたて》の手摺《てずれ》の痕《あと》と、引手《ひきて》の取れた部分の白い型を、父は自分に指し示した。自分は廣間の眞中に立つて此雄大な畫《ゑ》を描《か》いた昔の日本人を尊敬する事を、父の御蔭で漸く知つた。
 二階から下りた時、父は玉《ぎよく》だの高麗燒《かうらいやき》だのの講釋をした。柿右衛門《かきゑもん》と云ふ名前も聞かされた。一番下らないのはのんかうの茶碗であつた。疲れた二人は遂に表慶館を出た。館の前を掩《おほ》ふやうに聳えてゐる蒼黒い一本の松の木を右に見て、綺麗な小路《こみち》をのそ/\歩いた。それでも肝心の用事に就いて、父は一言《ひとこと》も云はなかつた。
 「もうぢき花が咲くね」
 「咲きますね」
 二人は又のそ/\東照宮の前迄來た。
 「精養軒で飯でも食ふか」
 時計はもう一時半であつた。小さい時分から父に伴《つ》れられて外出《そとで》する度に、屹度《きつと》何處かで物を食ふ癖の付いた自分は、成人の後《のち》も御供と御馳走を引き離しては考へてゐなかつた。けれども其日は何故《なぜ》だか早く父に別れたかつた。
 行き掛けに氣の付かなかつた其精養軒の入口は、五色の旗で隙間なく飾られた綱を、何時《いつ》の間《ま》にか縱横に渡して、絹帽《シルクハツト》の客を華やかに迎へてゐた。
 「何かあるんですよ今日は。大方貸し切りなんでせう」
 「成程」
 父は立ち留つて木《こ》の間《ま》にちら/\する旗の色を眺めてゐたが、やがて氣の付いた風で、「今日は二十三日だつたね」と聞いた。其日は二十三日であつた。さうしてKといふ兄の知人の結婚披露の當日であつた。
 「つい忘れてゐた。一週間ばかり前に招待状が來てゐたつけ。一郎と直《なほ》と二人の名宛《なあて》で」
 「Kさんはまだ結婚しなかつたのですかね」
 「さうさ。善く知らないが、まさか二度目ぢやなからうよ」
 二人は山を下りてとう/\其左側にある洋食屋に這入つた。
 「此處は往來がよく見える。ことに寄ると一郎が、絹帽《シルクハツト》を被つて通るかも知れないよ」
 「嫂《ねえ》さんも一所なんですか」
 「さあ。何うかね」
 二階の窓際近くに席を占めた自分達は、花で飾られた低い瓶《※[ワに濁点]ーズ》を前に、廣々した三橋《みはし》の通りを見下した。
 
     九
 
 食事中父は機嫌よく話した。然し用談らしい改まつたものは、珈琲《コーヒー》を飲む迄遂に彼の口に上《のぼ》らなかつた。表へ出た時、彼は始めて氣の付いたらしい顔をして、向ふ側の白い大きな建物を眺めた。
 「やあ何時《いつ》の間《ま》にか勸工場《くわんこうば》が活動に變化してゐるね。些《ちつ》とも知らなかつた。何時《いつ》變つたんだらう」
 白い洋館の正面に金字で書いてある看板の周圍は、無數の旗の影で安價に彩《いろど》られてゐた。自分は職業柄、左《さ》も仰山らしく東京の眞中に立つてゐる此粗末な建築を、情ない眼付で見た。
 「何うも驚くね世の中の早く變るには。さう思ふと己《おれ》なぞも何時《いつ》死ぬか分らない」
 好い日曜なのと時刻が時刻なので、往來は今が人の出盛りであつた。華やかな色と、陽氣な肉と、浮いた足並の簇《むら》がるなかで斯う云つた父の言葉は、妙に周圍と調和を缺いてゐた。
 自分は番町と下宿と方角の岐《わか》れる所で、父に別れようとした。
 「用があるのかい」
 「えゝ少し……」
 「まあ好いから宅《うち》迄《まで》御出《おいで》」
 自分は帽子の鍔《つば》へ手を懸けた儘《まゝ》躊躇した。
 「いゝから御出《おいで》よ。自分の宅《うち》ぢやないか。偶《たま》には來るものだ」
 自分は極りの惡い顔をして父の後《あと》に隨がつた。父はすぐ後《うしろ》を振り向いた。
 「宅《うち》ぢや近頃御前が來ないので、みんな不思議がつてるんだぜ。二郎は何うしたんだらうつて。遠慮が無沙汰といふが、御前のは無遠慮が無沙汰になるんだから猶《なほ》惡い」
 「さう云ふ譯でもありませんが。……」
 「何しろ來るが好い。言譯は宅《うち》へ行つて、御母さんにたんとするさ。己《おれ》はたゞ引つ張つて行く役なんだから」
 父はずん/\歩いた。自分は腹の中《なか》で恰《あたか》も丁年未滿の若者のやうな自分の態度を苦笑しながら、默つて父と歩調を共にした。其日は此間とは打つて變つて、青春の第一日ともいふべき暖かい光を、南へ廻つた太陽が自分達の上へ投げかけてゐた。獺《かはうそ》の襟を付けた重いとんびを纒つた父も、少し厚手の外套を着た自分も、先刻《さつき》からの運動で、少し温氣《うんき》に蒸される氣味であつた。其春の半日を自分は父の御蔭で、珍らしく方々引つ張り廻された。此老いた父と、斯う肩を並べて歩いた例《ためし》は近頃|頓《とん》となかつた。此老いた父と是から先もう何度斯うして歩けるものか夫《それ》も分らなかつた。
 自分は鈍い不安のうちに、微《かす》かな嬉しさと、其嬉しさに伴《ともな》ふ一種の果敢《はか》なさとを感じた。さうして不意に自分の胸を襲つた此感傷的な氣分に、成るべく己《おの》れを任せるやうな心持で足を運ばせた。
 「御母さんは驚いてゐるよ。御彼岸《おひがん》に御萩《おはぎ》を持たせて遣つても、返事も寄こさなければ、重箱を返しもしないつて。一寸でも好いから來ればいゝのさ。來られない譯が急に出來た譯でもあるまいし」
 自分は何とも返事をしなかつた。
 「今日は久し振りに御前を伴れて行つて皆《みん》なに會はせようと思つて。――御前一郎に近頃會つた事はあるまい」
 「えゝ實は下宿をする時挨拶をした限《ぎり》です」
 「それ見ろ。所が今日は生僧《あいにく》一郎が留守だがね。御父さんが上野の披露會の事を忘れてゐたのが惡かつたけれども」
 自分は父に伴《つ》れられて、とう/\番町の門を潜《くゞ》つた。
 
     十
 
 座敷に這入つた時、母は自分の顔を見て、「おや珍らしいね」と云つた丈《だけ》であつた。自分は殆ど權柄《けんぺい》づくで此處へ引つ張られて來ながらも、途々父の情《なさけ》を難有《ありがた》く感じてゐた。さうして暗に家に歸つてから母に會ふ瞬間の光景を豫想してゐた。その豫想が此|一言《いちごん》で打ち崩されたのは案外であつた。父は家内の誰にも打ち合せをせずに、全く自分一人の考へで、此不心得な息子に親切を盡して呉れたのである。お重《しげ》は逃げた飼犬を見るやうな眼付で自分を見た。「そら迷子《まひご》が歸つて來た」と云つた。嫂《あによめ》はたゞ「入らつしゃい」と平生の通り言葉寡《ことばずくな》な挨拶をした。此間の晩一人で尋ねて來た事は、丸《まる》で忘れて仕舞つたといふ風に見えた。自分も人前を憚《はゞか》つて一口もそれに觸れなかつた。比較的陽氣なのは父であつた。彼は多少の諧謔《かいぎやく》と誇張とを交ぜて、今日何うして自分をおびき出したかを得意らしく母やお重に話した。おびき出すといふ彼の言葉が自分には仰山でかつ滑稽に聞えた。
 「春になつたから、皆《みん》なもちつと陽氣にしなくつちや不可《いけ》ない。此頃のやうに默つて許《ばかり》ゐちや、丸《まる》で幽靈屋敷のやうで、くさ/\する丈《だけ》だあね。桐畠《きりばたけ》でさへ立派な家《うち》が建つ時節ぢやないか」
 桐畠といふのは家《うち》のつい近所にある角地面《かどぢめん》の名であつた。其處へ住まふと何か祟《たゝり》があるといふ昔からの言ひ傳へで、此間迄|空地《あきち》になつてゐたのを、此頃になつて漸く或る人が買ひ取つて、大きな普請《ふしん》を始めたのである。父は自分の家が第二の桐畠になるのを恐れでもするやうに、活々《いき/\》と傍《そば》のものに話し掛けた。平生彼の居馴染《ゐなじ》んだ室《へや》は、奧の二間《ふたま》續きで、何か用があると、母でも兄でも、其處へ呼び出されるのが例になつてゐたが、其日はいつもと違つて、彼は初めから居間へは這入らなかつた。たゞ袴と羽織を脱ぎ棄てたなり、其處へ坐つた儘、長く自分達を相手に喋舌《しやべ》つてゐた。
 久しく住み馴れた自分の家も、斯うして偶《たま》に來て見ると、多少忘れ物でも思ひ出すやうな趣《おもむき》があつた。出る時はまだ寒かつた。座敷の硝子戸《ガラスど》は大抵二重に鎖《とざ》されて、庭の苔を殘酷に地面から引き剥《はが》す霜が一面に降つてゐた。今は其外側の仕切《しきり》が悉《こと/”\》く戸袋の中《うち》に収《をさ》められて仕舞つた。内側も左右に開かれてゐた。許す限り家の中と大空と續くやうにしてあつた。樹も苔も石も自然から直接に眼の中へ飛び込んで來た。凡《すべ》てが出る時と趣《おもむき》を異《こと》にしてゐた。凡《すベ》てが下宿とも趣《おもむき》を異《こと》にしてゐた。
 自分は斯ういふ過去の記念のなかに坐つて、久し振に父母《ふぼ》や妹や嫂《あによめ》と一所に話をした。家族のうちで其處にゐないものは唯《たゞ》兄|丈《だけ》であつた。其の兄の名は先刻《さつき》からまだ一度も誰の會話にも上《のぼ》らなかつた。自分は其日彼がKさんの披露會に呼ばれたといふ事を聞いた。自分は彼が其招待に應じたか、上野へ出掛けたか、果して留守であるかさへ知らなかつた。自分は自分の前にゐる嫂《あによめ》を見て、彼女が披露の席に臨まないといふ事|丈《だけ》を確めた。
 自分は兄の名が話頭に上《のぼ》らないのを苦にした。同時に彼の名が出て來るのを憚《はゞか》つた。さうした心持でみんなの顔を見ると、無邪氣な顔は一つもないやうに思へた。
 自分はしばらくしてお重《しげ》に「お重お前の室《へや》を一寸御見せ。綺麗になつたつて威張つてたから見てやらう」と云つた。彼女は「當り前よ、威張る丈《だけ》の事はあるんだから行つて御覽なさい」と答へた。自分は下宿をする迄|朝夕《てうせき》寐起きをした、家中《うちぢゆう》で一番馴染の深い、故《もと》のわが室《へや》を覗きに立つた。お重は果して後《あと》から隨《つ》いて來た。
 
     十一
 
 彼女の室《へや》は自慢する程綺麗にはなつてゐなかつたけれども、自分の住み荒した昔に比べると、何處かになまめいた匂ひが漂よつてゐた。自分は机の前に敷いてある派出《はで》な模樣の座蒲團の上に胡坐《あぐら》をかいて、「成程」と云ひながら其處いらを見廻した。
 机の上には和製のマジヨリカ皿があつた。薔薇の造り花がセゼツシヨン式の一輪瓶《いちりんざし》に挿してあつた。白い大きな百合を刺?《ぬひ》にした壁飾りが横手に懸けてあつた。
 「ハイカラぢやないか」
 「ハイカラよ」
 お重《しげ》の澄ました顔には得意の色が見えた。
 自分はしばらく其處でお重《しげ》に調戯《からか》つてゐた。五六分してから彼女に「近頃兄さんは何うだい」と左《さ》も偶然らしく問ひ掛けて見た。すると彼女は急に聲を潜めて、「そりや變なのよ」と答へた。彼女の性質は嫂《あによめ》とは全く反對なので、斯う云ふ場合には大變都合が好かつた。一旦《いつたん》緒口《いとぐち》さへ見出せば、あとは此方《こつち》で水を向ける必要も何もなかつた。隱す事を知らない彼女は腹にある事を悉《こと/”\》く話した。默つて聞いてゐた自分にも仕舞には蒼蠅《うるさ》い程であつた。
 「つまり兄さんが家《うち》のものとあんまり口を利かないと云ふんだらう」
 「えゝ左右《さう》よ」
 「ぢや僕の家《うち》を出た時と同じ事ぢやないか」
 「まあ左右《さう》よ」
 自分は失望した。考へながら、煙草の灰をマジヨリカ皿の中へ遠慮なくはたき落した。お重《しげ》は厭な顔をした。
 「それペン皿よ。灰皿ぢやないわよ」
 自分は嫂《あによめ》程に頭の出來てゐないお重《しげ》から、何も得る所のないのを覺《さと》つて、又父や母のゐる座敷へ歸らうとした時、突然妙な話を彼女から聞いた。
 その話によると、兄は此頃テレパシーか何かを眞面目に研究してゐるらしかつた。彼はお重《しげ》を書齋の外に立たして置いて、自分で自分の腕を抓《つね》つた後《あと》「お重、今兄さんは此處を抓《つね》つたが、お前の腕も其處が痛かつたらう」と尋ねたり、又は室《へや》の中で茶碗の茶を自分一人で飲んで置きながら、「お重お前の咽喉《のど》は今何か飲む時のやうにぐび/\鳴りやしないか」と聞いたりしたさうである。
 「妾《あたし》説明を聞く迄は、きつと氣が變になつたんだと思つて吃驚《びつく》りしたわ。兄さんは後で佛蘭西《フランス》の何とかいふ人の遣つた實驗だつて教へて呉れたのよ。さうしてお前は感受性が鈍いから罹《かゝ》らないんだつて云ふのよ。妾《あたし》嬉しかつたわ」
 「何故《なぜ》」
 「だつてそんなものに罹《かゝ》るのはコレラに罹《かゝ》るより厭だわ妾《あたし》」
 「そんなに厭かい」
 「極まつてるぢやありませんか。だけど、氣味が惡いわね、いくら學問だつてそんな事をしちや」
 自分も可笑《をか》しいうちに何だか氣味の惡い心持がした。座敷へ歸つて來ると、嫂《あによめ》の姿はもう其處に見えなかつた。父と母は差し向ひになつて小さな聲で何か話し合つてゐた。其樣子が今しがた自分一人で家中を陽氣にした賑やかな人の樣子とも見えなかつた。「あゝ育てる積《つもり》ぢやなかつたんだがね」といふ聲が聞えた。
 「あれぢや困りますよ」といふ聲も聞えた。
 
     十二
 
 自分は其席で父と母から兄に關する近況の一般を聞いた。彼等の擧げた事實は、お重《しげ》を通して得た自分の知識に裏書をする以外、別に新しい何物をも付け加へなかつたけれども、其樣子といひ言葉といひ、如何にも兄の存在を苦にしてゐるらしく見えて、甚だ痛々しかつた。彼等(ことに母)は兄一人のために宅中《うちぢゆう》の空氣が濕《しめ》つぼくなるのを辛《つら》いと云つた。尋常の父母以上にわが子を愛して來たといふ自信が、彼等の不平を一層濃く染めつけた。彼等はわが子から是程不愉快にされる因縁がないと暗に主張してゐるらしく思はれた。從つて自分が彼等の前に坐つてゐる間《あひだ》、彼等は兄を云々する外、何人《なんぴと》の上にも非難を加へなかつた。平生から兄に對する嫂《あによめ》の仕打に飽き足らない顔を見せてゐた母でさへ、此時は彼女について終《つひ》に一口も訴へがましい言葉を洩らさなかつた。
 彼等の不平のうちには、同情から出る心配も多量に籠つてゐた。彼等は兄の健康について少からぬ掛念《けねん》を有《も》つてゐた。其健康に多少支配されなければならない彼の精神状態にも冷淡ではあり得なかつた。要するに兄の未來は彼等にとつて、恐ろしいX《エツキス》であつた。
 「どうしたものだらう」
 是が相談の時必ず繰り返されべき言葉であつた。實を云へば、一人々々離れてゐる折ですら、胸の中《うち》でぼんやり繰り返して見るべき二人の言葉であつた。
 「變人《へんじん》なんだから、今迄もよく斯んな事があつたには有つたんだが、變人|丈《だけ》にすぐ癒つたもんだがね。不思議だよ今度《こんだ》は」
 兄の機嫌買を子供のうちから知り拔いてゐる彼等にも、近頃の兄は不思議だつたのである。陰欝な彼の調子は、自分が下宿する前後から今日《こんにち》迄少しの晴間なく續いたのである。さうして夫《それ》が段々險惡の一方に向つて眞直に進んで行くのである。
 「本當に困つちまふよ妾《わたし》だつて。腹も立つが氣の毒でもあるしね」
 母は訴へるやうに自分を見た。
 自分は父や母と相談の揚句、兄に旅行でも勸めて見る事にした。彼等が自分達の手際では到底《とても》駄目だからといふので、自分は兄と一番親密なHさんにそれを頼むが好からうと發議《ほつぎ》して二人の賛成を得た。然し其頼み役には是非共自分が立たなければ濟まなかつた。春休みにはまだ一週間あつた。けれども學校の講義はもうそろ/\仕舞になる日取であつた。頼んで見るとすれば、早くしなければ都合が惡かつた。
 「ぢや二三日《にさんち》うちに三澤の所へ行つて三澤からでも話して貰ふか又樣子によつたら僕がぢかに行つて話すか、何方《どつち》かにしませう」
 Hさんとそれ程懇意でない自分は、何うしても途中に三澤を置く必要があつた。三澤は在學中Hさんを保證人にしてゐた。學校を出てからも殆んど家族の一人の如く始終其處へ出入《でいり》してゐた。
 歸りがけに挨拶をしようと思つて、一寸|嫂《あによめ》の室《へや》を覗いたら、嫂《あによめ》は芳江《よしえ》を前に置いて裸人形に美しい着物を着せて遣つてゐた。
 「芳江《よしえ》大變大きくなつたね」
 自分は芳江《よしえ》の頭へ立ちながら手を掛けた。芳江はしばらく顔を見なかつた叔父に突然|綾《あや》されたので、少しはにかんだ樣に唇を曲げて笑つてゐた。門を出る時は彼是《かれこれ》五時に近かつたが、兄はまだ上野から歸らなかつた。父は久し振りだから飯《めし》でも食つて彼に會つて行けと云つたが、自分はとう/\それ迄腰を据ゑてゐられなかつた。
 
     十三
 
 翌日《あくるひ》自分は事務所の歸りがけに三澤を尋ねた。丁度髪を刈りに今しがた出掛けた所だといふので、自分は遠慮なく上り込んで彼を待つ事にした。
 「此|兩三日《りやうさんにち》は減切《めつきり》お暖かになりました。もうそろ/\花も咲くで御座いませう」
 主人の歸る間座敷へ出た彼の母は、何時《いつ》もの通り丁寧な言葉で自分に話し掛けた。
 彼の室《へや》は例の如く繪だのスケツチだので鼻を突きさうであつた。中には額縁も何《な》にもない裸の儘を、ピンで壁の上へぢかに貼り付けたのもあつた。
 「何だか存じませんが、好だもので御座いますから、無暗と貼散《はりち》らかしまして」と彼の母は辨解がましく云つた。自分は横手の本棚の上に、丸い壺と並べて置いてあつた一枚の油繪に眼を着けた。
 それには女の首が描《か》いてあつた。其女は黒い大きな眼を有《も》つてゐた。さうしてその黒い眼の柔かに濕《うるほ》つたぼんやりしさ加減が、夢の樣な匂を畫幅全體に漂はしてゐた。自分は凝《ぢつ》とそれを眺めてゐた。彼の母は苦笑して自分を顧みた。
 「あれも此間いたづらに描《か》きましたので」
 三澤は畫《ゑ》の上手な男であつた。職業柄自分も繪の具を使ふ道位は心得てゐたが、藝術的の素質を饒《ゆた》かに有《も》つてゐる點に於いて、自分は到底彼の敵ではなかつた。自分は此繪を見ると共に可憐なオフヒリヤを連想した。
 「面白いです」と云つた。
 「寫眞を臺にして描《か》いたんだから氣分が能く出ない、いつそ生きてるうちに描《か》かして貰へば好かつたなんて申して居りました。不幸な方で、二三年前に亡くなりました。折角御世話をして上げた御嫁入先も不縁でね、あなた」
 油繪のモデルは三澤の所謂|出戻《でもど》りの御孃さんであつた。彼の母は自分の聞かない先きに、彼女に就いて色々と語つた。けれども女と三澤との關係は一言《ひとこと》も口にしなかつた。女の精神病に罹つた事にも丸で觸れなかつた。自分も夫《それ》を聞く氣は起らなかつた。却つて話頭を此方《こつち》で切り上げるやうにした。
 問題は彼女を離れるとすぐ三澤の結婚談に移つて行つた。彼の母は嬉しさうであつた。
 「あれも色々御心配を掛けましたが、今度漸く極まりまして……」
 此間三澤から受取つた手紙に、少し一身上《いつしんじやう》の事に就て、君に話があるから其内是非行くと書いてあつたのが、此話でやつと悟れた。自分は彼の母に對して、たゞ人並の祝意を表して置いたが、心のうちでは其嫁になる人は、果して此油繪に描《か》いてある女のやうに、黒い大きな滴るほどに潤《うるほ》つた眼を有《も》つてゐるだらうか、それが何より先に確めて見たかつた。
 三澤は思つた程早く歸らなかつた。彼の母は大方歸りがけに湯にでも行つたのだらうと云つて、何なら見せに遣らうかと聞いたが、自分はそれを斷つた。然し彼女に對する自分の話は、氣の毒な程|實《み》が入らなかつた。
 三澤に何うだらうと云つた自分の妹《いもと》のお重《しげ》は、まだ何處へ行くとも極らずに愚圖々々してゐる。さういふ自分もお重と同じ事である。折角身の堅まつた兄と嫂《あによめ》は折り合はずにゐる。――斯んな事を對照して考へると、自分は何うしても快活になれなかつた。
 
     十四
 
 其内三澤が歸つて來た。近頃は身體の具合が好いと見えて、髪を刈つて湯に入《はい》つた後の彼の血色は、殊につや/\しかつた。健康と幸福、自分の前に胡坐《あぐら》をかいた彼の顔はたしかに此二つのものを物語つてゐた。彼の言語態度も亦それに匹敵して陽氣であつた。自分の持つて來た不愉快な話を、突然と切り出すには餘りに快活すぎた。
 「君何うかしたか」
 彼の母が席を立つて二人差向ひになつた時、彼は斯う問ひ掛けた。自分は澁りながら、兄の近況を彼に訴へなければならなかつた。其兄を勸めて旅行させるやうに、彼からHさんに頼んで呉れと云はなければならなかつた。
 「父や母が心配するのを只黙つて見てゐるのも氣の毒だから」
 此最後の言葉を聞く迄、彼は尤もらしく腕組をして自分の膝頭を眺めてゐた。
 「ぢや君と一所に行かうぢやないか。一所の方が僕一人より好からう、精《くは》しい話が出來て」
 三澤にそれ丈《だけ》の好意があれば、自分に取つても、それに越した都合はなかつた。彼は着物を着換ると云つてすぐ座を起《た》つたが、しばらくすると又|襖《ふすま》の陰《かげ》から顔を出して、「君、母が久し振りだから君に飯を食はせたいつて今支度をしてゐる所なんだがね」と云つた。自分は落ち付いて馳走を受ける氣分を有《も》つてゐなかつた。然しそれを斷つたにした所で、飯は何處かで食はなければならなかつた。自分は曖昧な返事をして、早く立ちたいやうな氣のする尻を元の席に据ゑてゐた。さうして本棚の上に載せてある女の首をちよい/\眺めた。
 「どうも何にも御座いませんのに、御引留め申しまして嘸《さぞ》御迷惑で御座いましたらう。ほんの有合せで」
 三澤の母は召使に膳を運ばせながら又座敷へ顔を出した。膳の端《はし》には古さうに見える九谷燒の猪口《ちよく》が載せてあつた。
 それでも三澤と一所に出たのは思つたより早かつた。電車を降りて五六丁歩るいて、Hさんの應接間に通つた時、時計を見たらまだ八時であつた。
 Hさんは銘仙の着物に白い縮緬《ちりめん》の兵兒帶《へこおび》をぐる/\卷き付けた儘、椅子の上に胡坐《あぐら》をかいて、「珍らしいお客さんを連れて來たね」と三澤に云つた。丸い顔と丸い五分刈の頭を有《も》つた彼は、支那人のやうにでく/\肥つてゐた。話振も支那人が慣れない日本語を操《あや》つる時のやうに、鈍《のろ》かつた。さうして口を開くたびに、肉の多い頬が動くので、始終にこ/\してゐるやうに見えた。
 彼の性質は彼の態度の示す通り鷹揚《おうやう》なものであつた。彼は比較的堅固でない椅子の上に、わざ/\兩足を載せて胡坐《あぐら》をかいたなり、傍《はた》から見ると左《さ》も窮屈さうな姿勢の下《もと》に、夷然《いぜん》として落付いてゐた。兄とは殆んど正反對な此樣子なり氣風なりが、却つて兄と彼とを結び付ける一種の力になつてゐた。何にも逆《さか》らはない彼の前には、兄も逆らふ氣が出なかつたのだらう。自分はHさんの惡口を云ふ兄の言葉を、今迄つひぞ一度も聞いた事がなかつた。
 「兄さんは相變らず勉強ですか。あゝ勉強しては不可《いけ》ないね」
 悠長な彼は斯う云つて、自分の吐いた煙草の煙を眺めてゐた。
 
     十五
 
 やがて用事が三澤の口から切り出された。自分はすぐ其|後《あと》に隨《つ》いて主要な點を説明した。Hさんは首を捻《ひね》つた。
 「そりや少し妙ですね、そんな筈はなささうだがね」
 彼の不審は決して僞《いつはり》とは見えなかつた。彼は昨日《きのふ》Kの結婚披露に兄と精養軒で會つた。そこを出る時にも一所に出た。話が途切れないので、浮か/\と二人連立つて歩いた。仕舞ひに兄が疲れたといつた。Hさんは自分の家に兄を引張つて行つた。
 「兄さんは此處で晩飯を食つた位なんだからね、何うも少しも不斷と違つた所はないやうでしたよ」
 我儘に育つた兄は、平生から家《うち》で氣六《きむ》づかしい癖に、外では至極|穩《おだや》かであつた。然しそれは昔の兄であつた。今の彼を、たゞ我儘の二字で説明するのは餘りに單純過ぎた。自分は已《やむ》を得ず其時兄がHさんに向つて重《おも》に何《ど》んな話をしたか、差支ない限りそれを聞かうと試みた。
 「なに別に家庭の事なんか一口も云やしませんよ」
 是も嘘ではなかつた。記憶の好いHさんは、其時の話題を明瞭に覺えてゐて、それを最も淡泊な態度で話して呉れた。
 兄は其時しきりに死といふものに就いて云々したさうである。彼は英吉利《イギリス》や亞米利加《アメリカ》で流行《はや》る死後の研究といふ題目に興味を有《も》つて、大分《だいぶ》其方面を調べたさうである。けれども、何《ど》れも是も彼には不滿足だと云つたさうである。彼はメーテルリンクの論文も讀んで見たが、矢張り普通のスピリチユアリズムと同じ樣に詰らんものだと嘆息したさうである。
 兄に關するHさんの話は、凡《すべ》て學問とか研究とかいふ側《がは》許《ばか》りに限られてゐた。Hさんは兄の本領として夫《それ》を當然の如くに思つてゐるらしかつた。けれども聞いてゐる自分は、どうしても此兄と家庭の兄とを二つに切り離して考へる譯には行かなかつた。寧ろ家庭の兄が斯ういふ研究的な兄を生み出したのだとしか理解出來なかつた。
 「そりや動搖はしてゐますね。御宅の方の關係があるかないか、そこは僕にも解らないが、何しろ思想の上で動搖して落付かないで弱つてゐる事は慥《たしか》なやうです」
 Hさんは仕舞に斯う云つた。彼は其上に兄の神經衰弱も肯《うけ》がつた。然し夫《それ》は兄の隱してゐる事でも何でもなかつた。兄はHさんに會ふたんびに、ほとんど極り文句のやうに、それを訴へて已《や》まなかつたさうである。
 「だから此際旅行は至極好いでせうよ。さう云ふ譯なら一つ勸めて見ませう。然しうんと云つてすぐ承知するかね。中々動かない人だから、ことによると六づかしいね」
 Hさんの言葉には自信がなかつた。
 「貴方《あなた》の仰しやる事なら素直《すなほ》に聞くだらうと思ふんですが」
 「左右《さう》も行かんさ」
 Hさんは苦笑してゐた。
 表へ出た時は彼是十時に近かつた。それでも閑靜な屋敷町にちらほら人の影が見えた。それが皆《みん》なそゞろ歩きでもするやうに、長閑《のど》かに履物《はきもの》の音を響かして行つた。空には星の光が鈍《にぶ》かつた。恰《あたか》も眠たい眼をしばたゝいてゐるやうな鈍《にぶ》さであつた。自分は不透明な何物かに包まれた氣分を抱いた。さうして薄明るい往來を三澤と二人肩を並べて歸つた。
 
     十六
 
 自分は首を長くしてHさんの消息を待つた。花のたよりが都下の新聞を賑し始めた一週間の後《のち》になつても、Hさんからは何の通知もなかつた。自分は失望した。電話を番町へ掛けて聞き合せるのも厭になつた。何うでもするが好いといふ氣分で凝《ぢつ》としてゐた。そこへ三澤が來た。
 「何うも旨く行かないさうだ」
 事實は果して自分の想像した通りであつた。兄はHさんの勸誘を斷然斷つて仕舞つた。Hさんは已《やむ》を得ず三澤を呼んで、其結果を自分に傳へるやうに頼んだ。
 「それでわざ/\來て呉れたのかい」
 「まあ左右《さう》だ」
 「何うも御苦勞さま、濟まない」
 自分は是以上何を云ふ氣も起らなかつた。
 「Hさんはあゝ云ふ人だから、自分の責任のやうに氣の毒がつてゐる。今度は事が餘り突然なので旨く行かなかつたが、此次の夏休みには是非何處かへ連れ出す積《つもり》だと云つてゐた」
 自分は斯ういふ慰藉をもたらしてくれた三澤の顔を見て苦笑した。Hさんのやうな大悠《たいいう》な人から見たら、春休みも夏休みも同じ事なんだらうけれども、内側で働いてゐる自分達の眼には、夏休みといへば遠い未來であつた。其遠い未來と現在の間には大きな不安が潜んでゐた。
 「然しまあ仕方がない。元々|此方《こつち》で勝手なプログラムを拵へて置いて、それに當てはまるやうに兄を自由に動かさうといふんだから」
 自分はとう/\諦めた。三澤は何にも批評せずに、机の角に肱を突き立てて、其上に顋《あご》を載せたなり自分の顔を眺めてゐた。彼はしばらくしてから、「だから僕のいふ通りにすれば好いんだ」と云つた。
 此間Hさんに兄の事を依頼しに行つた歸り途に、無言な彼は突然往來の眞中で自分を驚かしたのである。今迄兄の事に就て一言《いちごん》も發しなかつた彼は、其時不意に自分の肩を突いて、「君兄さんを旅行させるの、快活にするのつて心配するより、自分で早く結婚した方が好かないか。其方がつまり君の得だぜ」と云つた。
 彼が自分に結婚を勸めたのは、其晩が始めてではなかつた。自分は何時《いつ》も相手がないとばかり彼に答へてゐた。彼は仕舞に相手を拵へて遣ると云ひ出した。さうして一時はそれが殆ど事實になり掛けた事もあつた。
 自分は其晩の彼に向つても矢張り同じやうな挨拶をした。彼はそれを何時《いつ》もより冷淡なものとして記憶してゐたのである。
 「ぢや君のいふ通りにするから、本當に相手を出して呉れるかい」
 「本當に僕のいふ通りにすれば、本當に好いのを出す」
 彼は實際心當りがあるやうな口を利いた。近いうち彼の娶《めと》るべき女からでも聞いたのだらう。
 彼はもう大きな黒い眼を有《も》つた精神病の御孃さんに就いては多くを語らなかつた。
 「君の未來の細君は矢つ張りあゝいふ顔立なんだらう」
 「さあ何うかな。いづれそのうち引き合はせるから見て呉れ玉へ」
 「結婚式は何時《いつ》だい」
 「ことによると向ふの都合で秋迄延ばすかも知れない」
 彼は愉快らしかつた。彼は來るべき彼の生活に、彼の有《も》つてゐる過去の詩を投げ懸けてゐた。
 
     十七
 
 四月は何時《いつ》の間《ま》にか過ぎた。花は上野から向島、それから荒川といふ順序で、段々咲いていつて段々散つて仕舞つた。自分は一年のうちで人の最も嬉しがる此花の時節を無爲に送つた。然し月が替つて世の中が青葉で包まれ出してから、振り返つて遣り過ごした春を眺めると甚だ物足りなかつた。それでも無爲に送れた丈《だけ》が有難かつた。
 家《うち》へは其《その》後《のち》一回も足を向けなかつた。家《うち》からも誰一人尋ねて來なかつた。電話は母とお重《しげ》から一二度掛つたが、それは自分の着る着物に就いての用事に過ぎなかつた。三澤には全く會はなかつた。大阪の岡田からは花の盛りに繪端書が又一枚來た。前と同じやうにお貞《さだ》さんやお兼《かね》さんの署名があつた。
 自分は事務所へ通ふ動物の如く暮してゐた。すると五月の末になつて突然三澤から大きな招待状を送つて來た。自分は結婚の通知と早合點して封を裂いた。所が案外にもそれは富士見町の雅樂稽古所からの案内状であつた。「六月二日音樂演習相催し候《そろ》間《あひだ》同日午後一時より御來聽被下度|候《そろ》此段御案内申進|候《そろ》也《なり》」と書いてあつた。今迄斯ういふ方面に關係があるとは思はなかつた三澤が、何うしてこんな案内状を自分に送つたのか、丸で解らなかつた。半日の後《のち》自分は又彼の手紙を受け取つた。其手紙には、六月二日には、是非來いといふ文句が添へてあつた。是非來いといふ位だから彼自身は無論行くに極まつてゐる。自分は折角だからまづ行つて見ようと思ひ定めた。けれども、雅樂そのものに就いては大した期待も何もなかつた。それよりも自分の氣分に轉化の刺戟を與へたのは、三澤が餘事の如く名宛のあとへ付け足した、短い報知であつた。
 「Hさんは嘘を吐かない人だ。Hさんはとう/\君の兄さんを説き伏せた。此六月學校の講義を切り上げ次第、二人は何處かへ旅をする事に約束が出來たさうだ」
 自分は父のため母のため且《かつ》兄自身のため喜んだ。あの兄がHさんに對して旅行しようと約束する氣分になつたとすれば、單にそれ丈《だけ》でも彼には大きい變化であつた。僞りの嫌ひな彼は必ずそれを實行する積《つもり》でゐるに違ひなかつた。
 自分は父にも母にも實否を問ひ合はせなかつた。Hさんに向つても其消息を確める手段を取らなかつた。たゞ三澤の口からもう少し精《くは》しい所を聞かせて貰ひたかつた。それも今度會つた時で構はないといふ氣があるので、彼の是非來いといふ六月二日が暗に待ち受けられた。
 六月二日は生憎《あいにく》雨であつた。十一時頃には少し歇《や》んだが、季節が季節なのでからりとは晴れなかつた。往來を行く人は傘をさしたり疊んだりした。見附外《みつけそと》の柳は烟のやうに長い枝を垂れてゐた。其下を通ると、青白い粉《こ》か黴《かび》が着物にくつ付いて何時《いつ》迄《まで》も落ないやうに感ぜられた。
 雅樂所の門内には俥《くるま》が澤山並んでゐた。馬車も一二臺ゐた。然し自動車は一つも見えなかつた。自分は玄關先で帽子を人に渡した。其人は金の釦鈕《ボタン》のついた制服のやうなものを着てゐた。もう一人の人が自分を觀覽席へ連れて行つて呉れた。
 「其處いらへ御掛けなすつて」
 彼はさう云つて又玄關の方へ歸つて行つた。椅子はまだ疎《まば》らに占領されてゐる丈《だけ》であつた。自分は成るべく人の眼に着かないやうに後列の一脚に腰を下《おろ》した。
     十八
 
 自分は心のうちで三澤を豫期しながら四方を見渡したが彼の姿は何處にも見えなかつた。尤も見所《けんじよ》は正面の外《ほか》左右|兩側面《りやうそくめん》にもあつた。自分は玄關から左へ突き當つて右へ折れて金屏風の立ててある前を通つて正面席に案内されたのである。自分の前には紋付の女が二三人居た。後《うしろ》にはカーキー色の軍服を着けた士官が二人居た。その外六七人其處此處に散點してゐた。
 自分から一席置いて隣の二人連《ふたりづれ》は、舞臺の正面に掛つてゐる幕の話をしてゐた。それには雅樂に何の縁故《ゆかり》もなささうに見える變な紋が、竪《たて》に何行も染め出されてゐた。
 「あれが織田信長《おだのぶなが》の紋ですよ。信長が王室の式微《しきび》を慨《なげ》いて、あの幕を獻上したといふのが始まりで、それから以後は必ずあの木瓜《もくかう》の紋の付いた幕を張る事になつてるんださうです」
 幕の上下《うへした》は紫地に金《きん》の唐草の模樣を置いた縁《ふち》で包んであつた。
 幕の前を見ると、眞中に大皷が据ゑてあつた。その太皷には緑や金や赤の美しい色彩《いろどり》が施《ほどこ》されてあつた。さうして薄くて丸い枠の中に入れてあつた。左の端《はし》には火熨斗《ひのし》位の大きさの鐘が矢張り枠の中に釣るしてあつた。其外には琴が二面あつた。琵琶《びは》も二面あつた。
 樂器の前は青い毛氈《まうせん》で敷き詰められた舞をまふ所になつてゐた。構造は能のそれのやうに、三方の見所《けんじよ》からは全く切り離されてゐた。さうして其|途切《とぎ》れた四五尺の空間からは日も射し風も通ふやうに出來てゐた。
 自分が物珍らしさうに此樣子を見てゐるうちに、觀客《けんぶつ》は一人二人と絶えず集まつて來た。其中には自分がある音樂會で顔だけ覺えたNといふ侯爵もゐた。「今日は教育會があるので來られない」と細君の事か何かを、傍《そば》にゐた坊主頭の丸々と肥えた小さい人に話してゐた。此丸い小さな人がKといふ公爵である事を、自分は後《あと》で三澤から教《をす》はつた。
 其三澤は舞樂の始まるやつと五六分前にフロツクコートで遣つて來て、入口の金屏風の所でしばらく觀覽席を見渡しながら躊躇してゐたが、自分の顔を見付けるや否や、すぐ傍《そば》へ來て腰を掛けた。
 彼と前後して一人の脊《せい》の高い若い男が、年頃の女を二人連れて、矢張正面席へ這入つて來た。男はフロツクコートを着てゐた。女は無論紋付であつた。其男と伴《つれ》の女の一人が顔立から云つて能く似てゐるので、自分はすぐ彼等の兄妹《きやうだい》である事を覺《さと》つた。彼等は人の頭を五六列越して、三澤と挨拶を交換した。男の顔には出來る丈の愛嬌が湛《たゝ》へられた。女は心持顔を赤くした。三澤はわざ/\腰を浮かして起立した。婦人は大抵前の方に席を占めるので、彼等は遂に自分達の傍《そば》へは來なかつた。
 「あれが僕の妻《さい》になるべき人だ」と三澤は小聲で自分に告げた。自分は腹の中で、あの夢のやうな大きい黒い眼の所有者であつた精神病のお孃さんと、自分の二三間前に今席を取つた色澤《いろつや》の好いお孃さんとを比較した。彼女は自分にたゞ黒い髪と白い襟足とを見せて坐つてゐた。それも人の影に遮《さへぎ》られて自由には見られなかつた。
 「もう一人の女ね」と三澤が又小聲で云ひ掛けた。それから彼は突然ポツケツトへ手を入れて、白い紙片《かみきれ》と萬年筆を取り出した。彼はすぐそれへ何か書き始めた。正面の舞臺にはもう樂人《がくじん》が現はれた。
 
     十九
 
 彼等は帽子とも頭巾《づきん》とも名の付けやうのない奇拔なものを被つてゐた。謠曲の富士太皷を知つてゐた自分は、大方これが鳥兜《とりかぶと》といふものだらうと推察した。首から下も被りものと同じく現代を超越してゐた。彼等は錦で作つた※[衣偏+上]※[衣偏+下]《かみしも》のやうなものを着てゐた。其|※[衣偏+上]※[衣偏+下]《かみしも》には骨がないので肩のあたりは柔《やはら》かな線でぴたりと身體《からだ》に付いてゐた。袖には白の先へ幅三寸位の赤い絹が縫足《ぬひた》してあつた。彼等はみな白の括《くゝ》り袴を穿《は》いてゐた。さうして一樣《いちやう》に胡坐《あぐら》をかいた。
 三澤は膝の上で何か書き掛けた白い紙を苦茶々々にした。自分は其苦茶々々になつた紙の塊《かたま》りを横から眺めた。彼は一言《いちごん》の説明も與へずに正面を見た。青い毛氈《まうせん》の上に左の帳《とばり》の影から現はれたものは鉾《ほこ》を有《も》つてゐた。是も管絃《くわんげん》を奏する人と同じく錦の袖無《そでなし》を着てゐた。
 三澤は何時《いつ》迄《まで》經つても「もう一人の女はね」の續きを云はなかつた。觀覽席にゐるものは悉《こと/”\》く靜肅であつた。隣同志で話をするのさへ憚《はゞ》かられた。自分は仕方なしに催促を我慢した。三澤も空とぼけて澄ましてゐた。彼は自分と同じやうに此處へは始めて顔を出したので、少し硬くなつてゐるらしかつた。
 舞は謹愼な見物の前に、既定のプログラム通り、單調で上品な手足の運動を飽きもせずに進行させて行つた。けれども彼等の服裝は、題の改《あらた》まる毎に、閑雅な上代の色彩を、代る/”\自分達の眼に映しつゝ過ぎた。あるものは冠に櫻の花を挿してゐた。紗《しや》の大きな袖の下から燃えるやうな五色の紋を透《す》かせてゐた。黄金作《こがねづくり》の太刀《たち》も佩《は》いてゐた。あるものは袖口を括《くゝ》つた朱色の着物の上に、唐錦のちゃん/\を膝のあたり迄垂らして、丸《まる》で錦に包まれた獵人《かりうど》のやうに見えた。あるものは蓑《みの》に似た青い衣《きぬ》をばら/\に着て、同じ青い色の笠を腰に下げてゐた。――凡《すべ》てが夢のやうであつた。吾々の祖先が殘して行つた遠い記念《かたみ》の匂ひがした。みんな有難さうな顔をしてそれを觀てゐた。三澤も自分も狐に撮《つ》まゝれた氣味で坐つてゐた。
 舞樂が一段落ついた時に、御茶を上げますと誰かゞ云つたので周圍の人は席を立つて別室に動き始めた。其處へ先刻《さつき》三澤と約束の整つたといふ女の兄《あに》さんが來て、物馴れた口調で彼と話した。彼は斯ういふ方面に關係のある男と見えて、當日案内を受けた誰彼を能く知つてゐた。三澤と自分は此人から今迄そこいらにゐた華族や高官や名士の名を教へて貰つた。
 別室には珈琲《コーヒ―》とカステラとチヨコレートとサンドヰツチがあつた。普通の會の時のやうに、無作法な振舞は見受けられなかつたけれども、それでも多少込み合ふので、女は坐つたなり席を立たないのがあつた。三澤と彼の知人は、菓子と珈琲を盆の上に載せて、わざ/\二人の御孃さんの所へ持つて行つた。自分はチヨコレートの銀紙を剥《はが》しながら、敷居の上に立つて、遠くから其樣子を偸《ぬす》むやうに眺めてゐた。
 三澤の細君になるべき人は御辭義をして、珈琲茶碗《コーヒーぢやわん》丈《だけ》を取つたが、菓子には手を觸れなかつた。所謂「もう一人の女」は其珈琲茶碗にさへ容易《たやす》く手を出さなかつた。三澤は盆を持つた儘、引く事も出來ず進む事も出來ない態度で立つてゐた。女の顔が先刻《さつき》見た時よりも子供々々した苦痛の表情に充ちてゐた。
 
     二十
 
 自分は先刻《さつき》から「もう一人の女」に特別の注意を拂つてゐた。それには三澤の樣子や態度が有力な原因となつて働いてゐたに違ないが、單獨に云つても、彼女は自分の視線を引着けるに足る程な好い器量を有《も》つてゐたのである。自分は彼女と三澤の細君になるべき人との後姿を、舞樂の相間々々に絶えず眺めた。彼等は自分の坐つてゐる所から、ことさらな方向に眸子《ひとみ》を轉ずる事なしに、自然と見られるやうに都合の好い地位に坐つてゐた。
 斯うして首筋ばかり眺めてゐた自分は今比較的自由な場所に立つて、彼等の顔立を筋違《すぢかひ》に見始めた。或は正面に動く機會が來るかも知れないと思つた時、自分はチヨコレートを頬張りながら、暗に其瞬間を捉《とら》へる注意を怠らなかつた。けれども其女も三澤の意中の人も、遂に此方《こつち》を向かなかつた。自分はたゞ彼等の容貌を三分の二|丈《だけ》側面から遠くに望んだ。
 其内三澤は又盆を持つて此方《こちら》へ歸つて來た。自分の傍《そば》を通る時、彼は微笑しながら、「何うだい」と云つた。自分はたゞ「御苦勞さま」と挨拶した。後《あと》から例の脊《せい》の高い兄さんが遣つて來た。
 「何うです、彼方《あちら》へ入らしつて煙草でも御呑みになつちや。喫煙室はあすこの突き當りです」
 自分と三澤との間に緒口《いとぐち》の付き掛けた談話は是で又流れて仕舞つた。二人は彼に導かれて喫煙室に這入つた。煙と男子に占領された比較的狹い其|室《へや》は思つたより賑かであつた。
 自分は其|一隅《ひとすみ》にたゞ一人の知つた顔を見出した。それは伶人《れいじん》の姓を有《も》つた眼の大きい男であつた。ある協會の主要な一員として、舞臺の上で巧《たくみ》に其大きな眼を利用する男であつた。彼は臺詞《セリフ》を使ふ時のやうな深い聲で、誰かと話してゐたが、殆んど自分達と入れ代り位に、喫煙室を出て行つた。
 「とう/\役者になつたんださうだ」
 「儲《まう》かるのかね」
 「えゝ儲《まう》かるんだらう」
 「此間何とかを遣るといふ事が新聞に出てゐたが、あの人なんですか」
 「えゝさうださうです」
 彼の去つた後《あと》で、室《へや》の中央にゐた三人の男は斯んな話をしてゐた。三澤の知人は自分達に其三人の名を教へて呉れた。其うちの二人は公爵で、一人は伯爵であつた。さうして三人が三人とも公卿出《くげで》の華族であつた。彼等の會話から察すると、三人ながら殆ど劇といふ藝術に對して何の知識も興味も有《も》つてゐないやうであつた。
 我々は又元の席に歸つて二三番の歐洲樂《おうしうがく》を聞いた後《あと》、漸く五時頃になつて雅樂所を出た。周圍に人が居なくなつた時、三澤は漸く「もう一人の女」の事に就いて語り始めた。彼の考へは自分が最初から推察した通りであつた。
 「何うだい、氣に入らないかね」
 「顔は好いね」
 「顔|丈《だけ》かい」
 「あとは分らないが、然し少し舊式ぢやないか。何でも遠慮さへすればそれが禮儀だと思つてるやうだね」
 「家庭が家庭だからな。然しあゝいふのが間違がないんだよ」
 二人は土手に沿うて歩いた。土手の上の松が雨を含んで蒼黒く空に映つた。
 
     二十−
 
 自分は三澤と飽かず女の話をした。彼の娶《めと》るべき人は宮内省に關係のある役人の娘であつた。其|伴侶《つれ》は彼女と仲の好い友達であつた。三澤は彼女と打ち合せをして、とくに自分のために其人を誘ひ出したのであつた。自分は其人の家族やら地位やら教育やらについて得らるゝ限りの知識を彼から供給して貰つた。
 自分は本末《ほんまつ》を?倒《てんだう》した。雅樂所で三澤に會ふ迄は、Hさんと兄とが此夏一所にするといふ旅行の件を、其日の問題として暗《あん》に胸の中《うち》に疊み込んでゐた。雅樂所を出る時は、それがほんの付けたりになつて仕舞つた。自分は愈《いよ/\》彼に別れる間際になつて、始めて四つ角の隅に立つた。
 「兄の事も今日君に會つたらよく聞かうと思つてゐたんだが、愈Hさんの云ふ通りになつたんだね」
 「Hさんはわざ/\僕を呼び寄せてさう云つた位なんだから間違はないさ。大丈夫だよ」
 「何處へ行くんだらう」
 「そりや知らない。――何處だつて好いぢやないか、行きさいすりあ」
 遠くから見てゐる三澤の眼には、兄の運命が最初から夫《それ》程《ほど》の問題になつてゐなかつた。
 「それより片つ方のほうを積極的にどし/\進行させようぢやないか」
 自分は一人下宿へ歸る途々、矢張兄と嫂《あによめ》の事を考へない譯に行かなかつた。然し其日會つた女の事も或は彼等以上に考へたかも知れない。自分は彼女と一言《ひとこと》も口を交へなかつた。自分は遂に彼女の聲を聞き得なかつた。三澤は自然が二人を視線の通ふ一室に會合させたといふ事實以外に、わざとらしい痕迹《こんせき》を見せるのは厭だと云つて、紹介も何もしなかつた。彼はさう云つて後《あと》から自分に斷つた。彼の遣口は、彼女に取つても自分に取つても、面倒や迷惑の起り得ない程|單簡《たんかん》で淡泊なものであつた。然し夫《それ》だから物足りなかつた。自分はもう少し何とかして貰ひたかつた。「然し君の意志が解らなかつたから」と三澤は辯解した。さう云はれて見ると、さうでもあつた。自分はあれ以上、女を目掛けて進んで行く考へはなかつたのだから。
 夫《それ》から二三日は女の顔を時々頭の中で見た。然しそれが爲に、又會ひたいの焦慮《あせ》るのといふ熱は起らなかつた。その當日のぱつとした色彩が剥《は》げて行くに連れて、番町の方が依然として重要な問題になつて來た。自分はなまじい遠くから女の匂ひを嗅いだ反動として、却つてぢゞむさくなつた。事務所の往復に、ざら/\した頬を撫でゝ見て、手もなく電車に乘つた貉《むじな》の樣なものだと悲觀したりした。
 一週間程經つて母から電話がかゝつた。彼女は電話口へ出て、昨日《きのふ》Hさんが遊びに來た事を告げた。嫂《あによめ》が風邪氣なので、彼女が代理として饗應《もてなし》の席に出たら、Hさんが兄と一所に旅行する話を始めたと告げた。彼女は喜ばしさうな調子で、自分に禮を述べた。父からも宜しくとの事であつた。自分は「いゝ案排《あんばい》でした」と答へた。
 自分は其晩色々考へた。自分は旅行が兄のために有利であると認めたから、Hさんを煩《わづら》はして、是《これ》丈《だけ》の手續を運んだのであるが、眞底を自白すると、自分の最も苦《く》に病《や》んでゐるのは、兄の自分に對する思はくであつた。彼は自分を何う見てゐるだらうか。どの位の程度に自分を憎んでゐるだらう、又|疑《うたぐ》つてゐるだらう。其處が一番知りたかつた。從つて自分の氣になるのは未來の兄であると同時に現在の兄であつた。久しく彼と會見の路を絶たれた自分は、其現在の兄に關する直接の知識を殆んど有《も》たなかつた。
 
     二十二
 
 自分は旅行に出る前のHさんに一應會つて置く必要を感じた。此方《こつち》で頼んだ事を順に運んで呉れた好意に對して、禮を云はなければ濟まない義理も控へてゐた。
 自分は事務所の歸り掛けに又彼の玄關に立つて名刺を出した。取次が奧へ這入つたかと思ふと、彼は例のむく/\した丸い體?《からだ》を、自分の前に運んで來た。
 「實は今あしたの講義で苦しんでゐる所なんですがね。もし急用でなければ、今日は御免を蒙りたい」
 學者の生活に氣の付かなかつた自分は、Hさんの此言葉で、急に兄の日常を想ひ起した。彼等の書齋に立籠《たてこも》るのは、必ずしも家庭や社會に對する謀反《むほん》とも限らなかつた。自分はHさんに都合の好い日を聞いて、又出直す事にした。
 「ぢや御氣の毒だが、さうして下さい。成るべく早く講義を切り上げて、兄さんと一所に旅行しようと云ふ譯なんだからね」
 自分はHさんの前に丁寧な頭を下げなければならなかつた。
 彼の家を再度|訪問《おとづ》れたのは、夫《それ》から又二三日|經《た》つた梅雨《つゆ》晴の夕方であつた。肥つた彼は暑いと云つて浴衣《ゆかた》の胸を胃の上部迄開け放つて坐つてゐた。
 「さあ何處へ行くかね。まだ海とも山とも極めてゐないんだが」
 Hさん丈《だけ》あつて行く先|抔《など》は頓《とん》と苦にしてゐないらしかつた。自分も夫《それ》には無頓着であつた。けれども……。
 「少しそれに就いて御願があるんですが」
 家庭の事情の一般は、此間三澤と來た時、既にHさんの耳に入れて仕舞つた。然し兄と自分との間《あひだ》に横たはる一種特別な關係に就いては、まだ一言《ひとこと》も彼に告げてゐなかつた。然し夫《それ》は何時《いつ》迄經つてもHさんの前で自分から打ち明《あけ》るべき性質のものでないと自分は考へてゐた。親しい三澤の知識ですら、其處になると殆んど臆測に過ぎなかつた。Hさんは三澤から其臆測の知識を間接に受けてゐるかも知れなかつたけれども、此方《こつち》から露骨に切り出さない以上、その信僞《しんぎ》も程度も、丸《まる》で確める譯に行かなかつた。
 自分は兄から今何う見られてゐるか、何う思はれてゐるか、それが知りたくつて仕方がなかつた。それを知るために、此際Hさんの助《たすけ》を借りようとすれば、勢ひ萬事を彼の前に投げ出して見せなければならなかつた。自分が三澤に何事も云はずに、恰も彼を出し拔いた樣な態度で、たつた一人斯うしてHさんを訪問するのも、實は其用事の眞相を成るべく他《ひと》に知らせたくないからであつた。然し三澤に對してさへ、良心に氣兼をするやうな用事の眞相なら、それをHさんの前で云はれる筈がなかつた。
 自分は已《やむ》を得ず特殊《スペシヤル》な問題を一般的《ジエネラル》に崩して仕舞つた。
 「甚だ御迷惑かも知れませんが、兄と一所に旅行される間、兄の擧動なり言語なり、思想なり感情なりに就いて、貴方の御觀察になつた所を、出來る丈《だけ》詳しく書いて報知して頂く譯には行きますまいか。その邊が明瞭になると、宅でも兄の取扱上大變便宜を得るだらうと思ふんですが」
 「左右《さう》さね。絶對に出來ない事もないが、ちつと六《む》づかしさうですね。だいち時間がないぢやないか、君、そんな事をする。よし時間があつても、必要がないだらう。それより僕等が旅行から歸つたらゆつくり聞きに來たら好いぢやありませんか」
 
     二十三
 
 Hさんの云ふ所は尤もであつた。自分は下を向いてしばらく默つてゐたが、とう/\嘘を吐《つ》いた。
 「實は父や母が心配して、出來るなら旅行中の模樣を、經過の一段落|毎《ごと》に承知したいと云ふんですが……」
 自分は困つた顔をした。Hさんは笑ひ出した。
 「君そんなに心配する事はありませんよ。大丈夫だよ、僕が受け合ふよ」
 「然し年寄ですから……」
 「困るね、それぢや。だから年寄は嫌ひなんだ。宅《うち》へ行つて左右《さう》云ひ玉へな、大丈夫だつて」
 「何とか好い工夫はないもんでせうか。貴方の御迷惑にならないで、さうして、父や母を滿足させる樣な」
 Hさんは又にや/\笑つてゐた。
 「そんな重寶な工夫があるものかね、君。――然し折角の御依頼だから斯うしよう。もし旅先で報道するに足るやうな事が起つたら、君の所へ手紙を上げると。もし手紙が行かなかつたら、平生の通りだと思つて安心してゐると。それで可《よ》からう」
 自分は是より以上Hさんに望む事は出來なかつた。
 「それで結構です。然し出來事といふ意味を俗にいふ不慮の出來事と取らずに、貴方が御觀察になる兄の感情なり思想のうちで、是は尋常でないと御氣付になつたものに應用して頂けませうか」
 「中々面倒だね、事が。然しまあ宜いや、さう爲《し》てもいゝ」
 「夫《それ》からことによると、僕の事だの母の事だの、家庭の事などが兄の口に上《のぼ》るかも知れませんが、それを御遠慮なく一々聞かして頂きたいと思ひますが」
 「うん、そりや差支ない限り知らせて上げませう」
 「差支があつても構はないから聞かして戴きたい。それでないと宅《うち》のものが困りますから」
 Hさんは黙つて煙草を吹かし出した。自分は弱輩《じやくはい》の癖に多少云ひ過ぎた事に氣が付いた。手持無沙汰の感じが強く頭に上つた。Hさんは庭の方を見てゐた。其隅に秋田から家主が持つて來て植ゑたといふ大きな蕗《ふき》が五六本あつた。雨上りの初夏の空が何時《いつ》迄も明るい光を地の上に投げてゐるので、その太い蕗の莖がすい/\と薄暗い中に青く描《ゑが》かれてゐた。
 「あすこへ大きな蟇《がま》が出るんですよ」とHさんが云つた。
 しばらく世間話をした後で、自分は暗くならないうちに席を立たうとした。
 「君の縁談は何うなりました。此間三澤が來て、好いのを見付けて遣つたつて得意になつてゐましたよ」
 「えゝ三澤も隨分世話好ですから」
 「所が萬更《まんざら》世話好|許《ばかり》で遣つてるんでもないやうですよ。だから君も好い加減に貰つちまつたら好いぢやありませんか。器量は惡かないつて話ぢやないか。君には氣に入らんのかね」
 「氣に入らんのぢやありません」
 Hさんは「はあ矢つ張氣に入つたのかい」と云つて笑ひ出した。自分はHさんの門を出て、あの事も早く何うかしなければ、三澤に對して義理が惡いと考へた。然し兄の問題が一段落でも片付いて呉れない以上、到底|其方《そつち》へ向ける心の餘裕は出なかつた。いつそ一思ひにあの女の方から惚れ込んで呉れたならなどゝ思つても見た。
 
     二十四
 
 自分は又三澤を尋ねた。けれども腹を極めてから尋ねた譯でないから、實際上何んな歩調も前に動かす氣にはなれなかつた。自分の態度は何處迄も愚圖々々であつた。さうして唯《たゞ》漫然と其女の話をした。
 「何うするね」
 斯う聞かれると、結局要領を得た何の挨拶も出來なかつた。
 「僕は職業の上ではふわ/\して浪人のやうに暮してゐるが、家庭の人としてなら、是でも一定の方針に支配されて、着々固まつて行きつゝある積《つもり》だ。所が君は丸《まる》で反對だね。一家の主人となるとか、他《ひと》の夫になるとかいふ方面には、故意に意志の働きを鈍らせる癖に、職業の問題になると、手つ取早く片附けて、ちやんと落付いてゐるんだから」
 「あんまり落付いても居ないさ」
 自分は大阪の岡田から受取つた手紙の中に、相應な位地が彼地《あちら》にあるから來ないかといふ勸誘があつたので、ことによつたら今の事務所を飛び出さうかと考へてゐた。
 「つい此間迄は洋行するつて頻りに騷いでゐたぢやないか」
 三澤は自分の矛盾を追窮した。自分には西洋も大阪も變化として此際大した相違もなかつた。
 「さう萬事|的《あて》にならなくつちや駄目だ。僕|丈《だけ》君の結婚問題を眞面目に考へるのは馬鹿々々しい譯だ。斷つちまはう」
 三澤は大分《だいぶ》癪に障つたらしく見えた。自分は又自分が癪に障つてならなかつた。
 「一體先方では何ういふんだ。君は僕ばかり責めるがね、僕には向ふの意志が少しも解らないぢやないか」
 「解る筈がないよ。まだ何にも話してないんだもの」
 三澤は少し激してゐた。さうして激するのが尤もであつた。彼は女の父兄にも女自身にも、自分の事をまだ一口も告げてゐなかつた。何う間違つても彼等の體面に障りやうのない事情の下《もと》に、女と自分を御互の視線の通ふ範圍内に置いた丈《だけ》であつた。彼の處置には少しも人工的な痕迹《こんせき》を留《とゞ》めない、殆んど自然其儘の利用に過ぎないといふのが彼の大いなる誇りであつた。
 「君の考へが纒まらない以上は何うする事も出來ないよ」
 「ぢやもう少し考へて見よう」
 三澤は焦慮《じれつ》たさうであつた。自分も自分が不愉快であつた。
 Hさんと兄が一所の汽車で東京を去つたのは、自分が三澤の所へ出掛けてから、一週間と經たないうちであつた。自分は彼等の立つ時刻も日限も知らずにゐた。三澤からもHさんからも何の通知を受取らなかつた自分は、家《うち》からの電話で始めてそれを聞いた。其時電話口へは思ひ掛けなく嫂《あによめ》が出て來た。
 「兄さんは今朝お立ちよ。お父さんが貴方へ知らせて置けと仰しやるから、一寸御呼び申しました」
 嫂《あによめ》の言葉は少し改まつてゐた。
 「Hさんと一所なんでせうね」
 「えゝ」
 「何處へ行つたんですか」
 「何でも伊豆の海岸を廻るとかいふ御話しでした」
 「ぢや船ですか」
 「いゝえ矢張《やつぱ》り新橋から……」
 
     二十五
 
 其日自分は下宿へ歸らずに、事務所からすぐ番町へ廻つた。昨日《きのふ》迄恐れて近寄らなかつたのに、兄の出立と聞くや否や、すぐ其方《そちら》へ足を向けるのだから、自分の行爲は餘りに現金過ぎた。けれども自分はそれを隱す氣もなかつた。隱さなければ濟まない人は、宅《うち》に一人も居ないやうに思はれた。
 茶の間には嫂《あによめ》が雜誌の口繪を見てゐた。
 「今朝程は失體」
 「おや吃驚《びつくり》したわ、誰かと思つたら、二郎さん。今京橋から御歸り?」
 「えゝ、暑くなりましたね」
 自分は手帛《ハンケチ》を出して顔を拭いた。それから上着を脱いで疊の上へ放《はふ》り出した。嫂《あによめ》は團扇《うちは》を取つて呉れた。
 「御父さんは?」
 「御父さんは御留守よ。今日は築地で何かあるんですつて」
 「精養軒?」
 「ぢやないでせう。多分外の御茶屋だと思ふんだけれども」
 「お母さんは?」
 「お母さんは今御風呂」
 「お重《しげ》は?」
 「お重《しげ》さんも……」
 嫂《あによめ》はとう/\笑ひ掛けた。
 「風呂ですか」
 「いゝえ、居ないの」
 下女が來て氷の中へ苺《いちご》を入れるかレモンを入れるかと尋ねた。
 「宅《うち》ぢやもう氷を取るんですか」
 「えゝ二三日前《にさんちまへ》から冷藏庫を使つてゐるのよ」
 氣の所爲《せゐ》か嫂《あによめ》は此前見た時よりも少し窶《やつ》れてゐた。頬の肉が心持減つたらしかつた。それが夕方の光線の具合で、顔を動かす時に、ちらり/\と自分の眼を掠《かす》めた。彼女は左の頬を縁側に向けて坐つてゐたのである。
 「兄さんは夫《それ》でも能く思ひ切つて旅に出掛けましたね。僕は殊によると今度《こんだ》も亦延ばすかも知れないと思つてたんだが」
 「延ばしやなさらないわよ」
 嫂《あによめ》は斯ういふ時に下を向いた。さうして何時《いつ》もよりも一層落付いた沈んだ低い聲を出した。
 「そりや兄さんは義理堅いから、Hさんと約束した以上、それを實行する積《つもり》だつたには違ないけれども……」
 「そんな意味ぢやないのよ。そんな意味ぢやなくつて、さうして延ばさないのよ」
 自分はぽかんとして彼女の顔を見た。
 「ぢや何んな意味で延ばさないんです」
 「何んな意味つて、――解つてるぢやありませんか」
 自分には解らなかつた。
 「僕には解らない」
 「兄さんは妾《あたし》に愛想を盡かしてゐるのよ」
 「愛想づかしに旅行したといふんですか」
 「いゝえ、愛想を盡かして仕舞つたから、それで旅行に出掛けたといふのよ。つまり妾《あたし》を妻と思つてゐらつしやらないのよ」
 「だから……」
 「だから妾《あたし》の事なんか何うでも構はないのよ。だから旅に出掛けたのよ」
 嫂《あによめ》は是で默つて仕舞つた。自分も何とも云はなかつた。其處へ母が風呂から上《あが》つて來た。
 「おや何時《いつ》來たの」
 母は二人坐つてゐる所を見て厭な顔をした。
 
     二十六
 
 「もう好い加減に芳江《よしえ》を起さないと又晩に寐ないで困るよ」
 嫂《あによめ》は默つて起《た》つた。
 「起きたらすぐ湯に入れて御遣んなさいよ」
 「えゝ」
 彼女の後姿は廊下を曲《まが》つて消えた。
 「芳江《よしえ》は晝寐ですか、どうれで靜だと思つた」
 「先刻《さつき》何だか拗《す》ねて泣いてたら、夫限《それつきり》寐ちまつたんだよ。何ぼなんでも、もう五時だから、好い加減に起して遣らなくつちや……」
 母は不平らしい顔をしてゐた。
 自分は其日珍しく宅《うち》の食卓に向つて、晩餐の箸を取つた。築地の料理屋か待合へ呼ばれたといふ父は、無論歸らなかつたけれども、お重《しげ》は豫定通り戻つて來た。
 「おい早く來て坐らないか。みんな御前の湯から上《あが》るのを待つてたんだ」
 お重《しげ》は縁側へぺたりと尻を着けて團扇《うちは》で浴衣《ゆかた》の胸へ風を入れてゐた。
 「そんなに急《せ》き立てなくつたつて可《よ》かないの。會《たま》に來たお客さまの癖に」
 お重《しげ》はつんとしてわざと鼻の先の八つ手の方を向いてゐた。母は又始まつたといふ笑の裡《うち》に自分を見た。自分は又|調戯《からかひ》たくなつた。
 「御客さまだと思ふなら、そんな大きなお尻を向けないで、早く此處へ來てお坐りよ」
 「蒼蠅《うるさ》いわよ」
 「一體此暑いのに、一人で何處をほつつき歩いてたんだい」
 「何處でも餘計な御世話よ。ほつつき歩くだなんて、第一《だいち》言葉使からして貴方《あなた》は下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行つて、兄さんの秘密をすつかり聞いて來たから」
 お重《しげ》は兄の事を大兄さん、自分の事をたゞ兄さんと呼んでゐた。始めはちい〔二字傍点〕兄《にい》さんと云つたのだが、其ちい〔二字傍点〕を聞くたびに妙な不快を感ずるので、自分はとう/\ちい〔二字傍点〕丈《だけ》を取らして仕舞つた。
 「好くつてみんなに話しても」
 お重《しげ》は湯で火照《ほて》つた顔をぐるりと自分の方に向けた。自分は瞬きを二つ續けざまにした。
 「だつて御前は今兄さんの秘密だと明言したぢやないか」
 「えゝ秘密よ」
 「秘密なら話して可《よ》くないに極つてるぢやないか」
 「それを話すから面白いのよ」
 自分はお重《しげ》の無鐵砲が、何を云ひ出すか分らないと思つて腹の中では辟易《へきえき》した。
 「お重《しげ》御前は論理學でいふコントラヂクシヨン、イン、タームス、といふ事を知らないだらう」
 「可《よ》くつてよ。そんな高慢ちきな英語なんか使つて、他《ひと》が知らないと思つて」
 「もう二人とも止《よ》しにお爲《し》よ。何だね面白くもない、十五六の子供ぢやあるまいし」
 母はとう/\二人を窘《たし》なめた。自分もそれを好い機《しほ》にすぐ舌戰を切り上げた。お重《しげ》も團扇《うちは》を縁側へ投げ出して大人《おと》なしく食卓に着いた。
 局面が一轉した後《あと》なので、秘密らしい秘密は、食事中遂にお重《しげ》の口から洩れる機會がなかつた。母も嫂《あによめ》も丸《まる》でそれには取り合ふ氣色《けしき》を見せなかつた。平吉といふ男が裏から出て來て、庭に水を打つた。「まださう燥《かわ》いてゐないんだから、好い加減にしてお置き」と母が云つてゐた。
 
     二十七
 
 其晩番町を出たのは燈火《あかり》が點《つ》いてまだ間《ま》もない宵の口であつた。それでも飯を濟ましてから約一時間半程は、其處へ坐り込んだ儘、みんなを相手に喋舌《しやべ》つてゐた。
 自分は其一時間半の間に、とう/\お重《しげ》から例の秘密をあばかれる羽目に陷《おちい》つた。然しそれが自分に取つては、秘密でも何でもない例の結婚問題だつたので、自分は却つて安心した。
 「御母さん、兄さんは妾達《あたしたち》に隱れて此間見合をなすつたんですつて」
 「隱れて見合なんかするものか」
 自分は母がまだ何とも云はないうちにお重《しげ》の言葉を遮つた。
 「いゝえ慥《たしか》な筋からちやんと聞いて來たんだから、いくら白ばつくれても最《も》う駄目よ」
 慥《たしか》な筋といふ樣な一種の言葉が、お重《しげ》の口から出るのを聞いたとき、自分は思はず苦笑した。
 「馬鹿だなお前は」
 「馬鹿でも可《い》いわよ」
 お重《しげ》は六月二日の出來事を母や嫂《あによめ》に向つてべら/\喋舌《しやべ》り出した。それが中々|精《くは》しいので自分は少し驚いた。何處から其知識を得て來たのだらうといふ好奇心が強く自分の反問を促《うなが》した。けれどもお重はたゞ意地の惡い微笑を洩らすのみで、決して出所《しゆつしよ》を告げなかつた。
 「兄さんが妾達《あたしたち》に默つてゐるのは、屹度《きつと》打ち明けて云ひ惡《にく》い譯があるからなのよ。ね、さうでせう、兄さん」
 お重《しげ》は自分の好寄心を滿足させないのみか、却つて向ふから此方《こつち》を嬲《なぶ》りにかゝつた。自分は「何うでも好いや」と云つた。母から眞面目に事の?末を聞かれた時、自分は簡單に有の儘を答へた。
 「たゞ夫《それ》丈《だけ》の事なんです。しかも向《むかふ》ぢや全く知らないんだから其|積《つもり》で居て下さい。お重《しげ》見たいに好い加減な事を云ひ觸らすと、僕は何うでも構はんにした所で、先方が迷惑するかも知れませんから」
 母は先方が迷惑がる筈がないといふ顔付で、無暗に細かい質問を始めた。然し財産が何《ど》の位あるんだらうとか、親類に貧乏人があるだらうかとか、或は惡い病氣の系統を引いてゐやしなからうかと云ふやうな事になると、自分には丸《まる》で答へられなかつた。のみならず仕舞には聞くのさへ面倒で厭になつて來た。自分はとう/\逃げ出すやうにして番町を出た。
 自分が其夜母から色々な質問を掛けられてゐる間、嫂《あによめ》は始終同じ席にゐたが、此間題に關しては殆ど一言《ひとこと》も口を開かなかつた。母も彼女に向つてつひぞ相談がましい言葉を掛けなかつた。二人の此態度が、二人の氣質をよく代表してゐた。然しそれは單に氣質の相違から許《ばかり》來た一種の對照とも思へなかつた。嫂《あによめ》は全くの局外者らしい位地を守るためか何だか、始終|芳江《よしえ》のおもりに氣を取られ勝《がち》に見えた。日が暮れさへすればすぐ寐かされる習慣の芳江は、晝寐を貪《むさぼ》り過ぎた結果として、其晩はとう/\自分が歸る迄蚊帳の中へ這入らなかつた。
 自分は下宿へ歸つて、自分の室《へや》の暑苦しいのを意外に感じた。わざと電氣燈を消して暗い所に默つて坐つてゐた。今朝立つた兄は今日何處で泊るだらう。Hさんは今夜彼と何んな話をするだらう。鷹揚なHさんの顔が自然と眼の前に浮かんだ。それと共に瘠せた兄の頬に刻《きざ》まれた久し振の笑が見えた。
 
     二十八
 
 其|翌日《あくるひ》からHさんの手紙が心待に待ち受けられた。自分は一日《いちんち》、二日《ふつか》、三日《みつか》と指を折つて日取を勘定し始めた。けれどもHさんからは何の音信《たより》もなかつた。繪端書一枚さへ來なかつた。自分は失望した。Hさんに責任を忘れるやうな輕薄はなかつた。然し此方《こちら》の豫期通り律義《りちぎ》にそれを果して呉れない程の大悠《たいいう》はあつた。自分は自烈《じれつ》たい部に屬する人間の一人として遠くから彼を眺めた。
 すると二人が立つてから丁度十一日日の晩に、重い封書が始めて自分の手に落ちた。Hさんは罫《けい》の細《こま》かい西洋紙へ、萬年筆《まんねんふで》で一面に何か書いて來た。頁《ページ》の數《かず》から云つても、二時間や三時間で出來る仕事ではなかつた。自分は机の前に縛《くゝ》り付けられた人形の樣な姿勢でそれを讀み始めた。自分の眼には、この小さな黒い字の一點一劃も讀み落すまいといふ決心が、?《ほのほ》の如く輝いた。自分の心は頁《ページ》の上に釘付《くぎづけ》にされた。しかも雪を行く橇《そり》のやうに、其上を滑《すべ》つて行つた。要するに自分はHさんの手紙の最初の頁《ページ》の第一行から讀み始めて、最後の頁《ページ》の最終の文句に至る迄に、何《ど》の位の時間が要《い》つたか丸《まる》で知らなかつた。
 手紙は下《しも》のやうに書いてあつた。
 「長野君を誘つて旅へ出るとき、あなたから頼まれた事を、一旦引き受けるには引き受けたが、いざとなつて見ると、到底《とても》實行は出來まい、また出來てもする必要があるまい、もしくは必要と不必要に拘《かゝ》はらず、するのは好《この》もしい事でなからう、――斯ういふ考へでゐました。旅行を始めてから一日二日《いちにちふつか》は、此三つの事情の凡《すべ》てか或は幾分かゞ常に働くので、是では折角の約束も反古《ほご》にしなければならないといふ氣が強く募りました。それが三日四日《みつかよつか》となつた時、少し考へさせられました。五日六日《いつかむいか》と日を重ねるに從つて、考へる許《ばかり》でなく、約束通りあなたに手紙を上げるのが、或は必要かも知れないと思ふやうになりました。尤も此處にいふ必要といふ意味が、あなたと私とで、大分《だいぶ》違ふかも知れませんが、それは此手紙を仕舞迄御讀みになれば解る事ですから、説明はしません。それから當初私の抱《いだ》いた好もしくないといふ倫理上の感じ、是はいくら日數《ひかず》を經過しても取去る譯には行きませんが、片方にある必要の度が、自然|夫《それ》を抑へ付ける程強くなつて來た事も亦確であります。恐らく手紙を書いてゐる暇があるまい。――此故障|丈《だけ》は始めあなたに申上げた通り何處迄も付け纒つて離れませんでした。我々二人は一所の室《へや》に寐ます、一所の室《へや》で飯を食ひます、散歩に出る時も一所です、湯も風呂場の構造が許す限りは、一所に這入ります。かう數へ立てゝ見ると、別々に行動するのは、まあ厠《かはや》に上《のぼ》る時位なものなのですから。
 無論我々二人は朝から晩迄のべつに喋舌《しやべ》り續けてゐる譯ではありません。御互が勝手な書物を手にしてゐる時もあります、默つて寐轉んでゐる事もあります。然し現に其人の居る前で、其人の事を知らん顔で書いて、さうして夫《それ》をそつと他《ひと》に知らせるのは一寸私にとつては出來|惡《にく》いのです。書くべき必要を認め出した私も、是には弱りました。いくら書く機會を見付けよう/\と思つても、そんな機會の出て來る筈がないのですから。然し偶然は遂に私の手を導いて、私に私の必要と認める仕事をさせるやうにして呉れました。私はそれ程兄さんに氣兼をせずに、此手紙を書き初めました。さうして同じ状態の下《もと》に、それを書き終る事を希望します。
 
     二十九
 
 我々は二三日前から此|紅《べに》が谷《やつ》の奧に來て、疲れた身體を谷《たに》と谷《たに》の間に放《はふ》り出しました。居る所は私の親戚の有《も》つてゐる小さい別莊です。所有主は八月にならないと東京を離れる事が六づかしいので、其前なら何時《いつ》でも君方に用立《ようだ》てて宜しいと云つた言葉を、圖らず旅行中に利用する譯になつたのであります。
 別莊といふと大變|人聞《ひとぎゝ》が好いやうですが、其實は甚だ見苦しい手狹なもので、構へからいふと、丁度東京の場末にある四五十圓の安官吏の住居《すまひ》です。然し田舍|丈《だけ》に邸内の地面には多少の餘裕があります。庭だか菜園だか分らないものが、軒から爪下りに向ふの垣根|迄《まで》續いてゐます。其の垣には珊瑚樹《さんごじゆ》の實《み》が一面に結《な》つてゐて、葉越に隣の藁屋根が四半分程見えます。
 同じ軒の下から谷を隔てゝ向ふの山も手に取るやうに見えます。此山全體がある伯爵の別莊地で、時には浴衣《ゆかた》の色が樹の間から見えたり、女の聲が崖の上で響いたりします。其崖の頂《いたゞき》には高い松が空を突くやうに聳えてゐます。我々は低い軒の下から朝夕《あさゆふ》此松を見上るのを、高尚な課業のやうに心得て暮してゐます。
 今迄通つて來たうちで、君の兄さんには此處が一番氣に入つたやうです。それには色々な意味があるかも知れませんが、二人ぎりで獨立した一軒の家《いへ》の主人《あるじ》になり濟まされたといふ氣分が、人慣れない兄さんの胸に一種の落付を與へるのが、其大原因だらうと思ひます。今迄何處へ泊つてもよく寐られなかつた兄さんは、此處へ來た晩からよく寐ます。現に今私がかうやつて萬年筆《まんねんふで》を走らしてゐる間も、ぐう/\寐てゐます。
 もう一つ此處へ來てから偶然の恩惠に浴したと思ふのは、普通の宿屋のやうに二人が始終膝を突き合はして、一つ部屋にごろ/\してゐないで濟む事です。家《いへ》は今申した通り手狹至極なものであります。門を出て右の坂上にある或る長者《ちやうじや》の拵へた西洋館などに比べると全くの燐寸箱《マツチばこ》に過ぎません。それでも垣を圍《めぐ》らして四方から切り離した獨立の一軒家です。窮屈ではあるが間數《まかず》は五つ程あります。兄さんと私は一つ座敷に吊《つ》つた一つ蚊帳の中に寐ます。然し宿屋と違つて同じ時間に起きる必要はありません。片方が起きても、片方は寐たい丈《だけ》寐てゐられます。私は兄さんをそつとして置いて、次の座敷に据ゑてある一閑張《いつかんばり》の机に向ふ事が出來ます。晝も其通りです。二人差向ひでゐるのが苦痛になれば、何方《どつち》かが勝手に姿を隱して、自分に都合のいゝ事を、好な時間|丈《だけ》やります。それから適當な頃に又出て來て顔を見せます。
 私は斯ういふ偶然を利用して此手紙を書くのであります。さうして此偶然を思ひ掛なく利用する事の出來た自分を、あなたの爲に仕合せと考へます。同時に、それを利用する必要を認め出した自分を、自分のために遺憾だと思ひます。
 私のいふ事は順序からいふと日記體に纒まつて居りません。分類からいふと科學的に區別が立たないかも知れません。然しそれは汽車、俥《くるま》、宿、凡《すべ》て規則的な仕事を妨《さまた》げる旅行といふものゝ障害と、平氣で取り掛りにくいといふ其仕事の性質とが、破壞的に働いた結果と思つて頂くより仕方がありません。斷片的にせよ下《しも》に述べる丈の事を貴方《あなた》に報道し得るのが既に私には意外なのであります。全く偶然の御蔭なのであります。
 
     三十
 
 我々は二人とも大した旅行癖《りよかうへき》のない男です。從つて我々の編み上げた旅程も亦經驗相應に平凡でした。近くで便利な所を人並に廻つて歩けば、夫《それ》で目的の大半は達せられる位な考へで、まづ相模伊豆|邊《あたり》をぼんやり心掛ました。
 それでも私の方が兄さんよりはまだ増しでした。私は重要な場所と、そこへ行くべき交通機關とを略《ほゞ》承知してゐましたが、兄さんに至つては殆んど地理や方角を超越してゐました。兄さんは國府津《こふづ》が小田原《をだはら》の手前か先か知りませんでした。知らないといふより寧ろ構はないのでせう。是程一方に無頓着な兄さんが、何故《なぜ》人事上のあらゆる方面に、同じ平然たる態度を見せる事が出來ないのかと思ふと、私は實際不思議な感に打たれざるを得ません。然しそれは餘事です。話が逸《そ》れると戻り惡《にく》くなりますから、成る可く本流を傳《つた》つて、筋を離れないやうに進む事にしませう。
 我々は始め逗子《づし》を基點として出發する事に相談を極めてゐました。所が其朝新橋へ驅け付ける俥《くるま》の上で、ふと私の考へが變りました。如何に平凡な旅行にしても、眞先に逗子へ行くのは、あまりに平凡過ぎて氣が進まなくなつたのです。私は停車場《ステーシヨン》で兄さんに相談の仕直しを遣りました。私は行程を逆にして、まづ沼津から修善寺《しゆぜんじ》へ出て、それから山越《やまごし》に伊東の方へ下りようと云ひました。小田原と國府津《こふづ》の後先《あとさき》さへ知らない兄さんに異存のある筈がないので、我々はすぐ沼津迄の切符を買つて、其儘東海道行の汽車に乘り込みました。
 汽車中では報知に値《あたひ》する樣な事が別に起りませんでした。先方へ着いても、風呂へ入《はい》つたり、飯を食つたり、茶を飲んだりする間《あひだ》は、是といつて目に着く點もなかつたのです。私は兄さんに就いて、是はことによると家族の人の參考のために、知らせて置く必要があるかも知れないと思ひ出したのは、其日の晩になつてからであります。
 寐るには早過ぎました。話にはもう飽きました。私は旅行中に誰でも經驗する一種の徒然《とぜん》に襲はれました。不圖《ふと》床の間の脇を見ると、其處に重さうな碁盤が一面あつたので、私はすぐそれを室《へや》の眞中へ持ち出しました。無論兄さんを相手に黒白《こくびやく》を爭ふつもりでした。貴方は御存じだか何うだか知りませんが、私は學校にゐた時分、是でよく兄さんと碁を打つたものです。其《その》後《ご》二人とも申し合せたやうに、ぴたりと已《や》めて仕舞ひましたが、この場合、二人が持て餘してゐる時間を、面白く過ごすには碁盤が屈強の道具に違なかつたのです。
 兄さんは暫く碁盤を眺めてゐました。さうして置いて「まあ止さう」と云ひました。私は思ひ込んだ勢ひで、「さう云はずに遣らうぢやないか」と押し返しました。夫《それ》でも兄さんは「いや/\まあ止さう」と云ひます。兄さんの顔を見ると、眼と眉の間に變な表情がありました。それが何の碁なんぞと云つた風の輕蔑又は無頓着を元してゐないのですから、私は一寸|異《い》な心持がしました。然し無理に強ひるのも厭ですから、私はとう/\一人で碁石を取り上げて、黒と白を打手違《うつてちがひ》に、盤の上に並べ始めました。兄さんは少しの間それを見てゐました。私が猶《なほ》默つて打ち續けて行きますと、兄さんは不意に座を立つて廊下へ出ました。大方便所へでも行つたのだらうと思つた私は、一向兄さんの擧動には注意を拂ひませんでした。
 
     三十一
 
 案の通り兄さんは時を移さず戻つて來ました。さうして突然《いきなり》「遣らう」といふや否や、自分の手から、碁石を?《も》ぎ取るやうに引《ひ》つ手繰《たく》りました。私は何の氣もつかずに、「よろしい」と答へて、すぐ打ち始めました。我々のは申す迄もなくヘボ碁ですから、石を下《くだ》すのも早いし、勝負の片付くのも雜作はありません。一時間のうちに悠《いう》に二番位は始末が出來る位だから、見てゐても局に對《むか》つてゐても、間怠《まだる》い思ひは決してないのです。所を兄さんは、その手早く運んで行く碁面を、仕舞|迄《まで》辛抱して眺めてゐるのは苦痛だと云つて、とう/\中途で已《や》めて終ひました。私は心持でも惡くなつたのかと思つて心配しましたが、兄さんはたゞ微笑してゐました。
 床に入《はい》る前になつて、私は始めて兄さんから其時の心理状態の説明を聞きました。兄さんは碁を打つのは固《もと》より、何をするのも厭だつたのださうです。同時に、何かしなくつては居られなかつたのださうです。此矛盾が既に兄さんには苦痛なのでした。兄さんは碁を打ち出せば、屹度《きつと》碁なんぞ打つてゐられないといふ氣分に襲はれると豫知してゐたのです。けれども又打たずには居られなくなつたのです。それで已《やむ》を得ず盤に向つたのです。盤に向ふや否や自烈《じれつ》たくなつたのです。仕舞には盤面に散點する黒と白が、自分の頭を惱ます爲に、わざと續いたり離れたり、切れたり合つたりして見せる、怪物のやうに思はれたのださうです。兄さんはもう些《ちつ》とで、盤面を減茶々々に掻き亂して、此魔物を追拂《おつぱら》ふ所だつたと云ひました。何事も知らなかつた私は、少し驚き乍らも惡い事をしたと思ひました。
 「いや碁に限つた譯ぢやない」と云つて兄さんは、自分の過失《あやまち》を許して呉れました。私は其時兄さんから、兄さんの平生を聞きました。兄さんの態度は碁を中途で已《や》めた時ですら落付いてゐました。上部《うはべ》から見ると何の異状もない兄さんの心持は、恐らくあなた方には理解されてゐないかも知れません。少くとも斯ういふ私には一つの發見でした。
 兄さんは書物を讀んでも、理窟を考へても、飯を食つても、散歩をしても、二六時中何をしても、其處に安住する事が出來ないのださうです。何をしても、こんな事をしてはゐられないといふ氣分に追ひ掛けられるのださうです。
 「自分のしてゐる事が、自分の目的《エンド》になつてゐない程苦しい事はない」と兄さんは云ひます。
 「目的《エンド》でなくつても方便《ミインズ》になれば好いぢやないか」と私が云ひます。
 「それは結構である。ある目的《エンド》があればこそ、方便《ミインズ》が定められるのだから」と兄さんが答へます。
 兄さんの苦しむのは、兄さんが何を何うしても、それが目的《エンド》にならない許《ばか》りでなく、方便《ミインズ》にもならないと思ふからです。たゞ不安なのです。從つて凝《ぢつ》としてゐられないのです。兄さんは落ち付いて寐てゐられないから起きると云ひます。起きると、たゞ起きてゐられないから歩くと云ひます。歩くとたゞ歩いてゐられないから走《か》けると云ひます。既に走《か》け出した以上、何處迄行つても止まれないと云ひます。止まれない許《ばかり》なら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云ひます。其極端を想像すると恐ろしいと云ひます。冷汗が出るやうに恐ろしいと云ひます。怖くて/\堪《たま》らないと云ひます。
 
     三十二
 
 私は兄さんの説明を聞いて、驚きました。然しさういふ種類の不安を、生れてからまだ一度も經驗した事のない私には、理解があつても同情は伴《ともな》ひませんでした。私は頭痛を知らない人が、割れるやうな痛みを訴へられた時の氣分で、兄さんの話に耳を傾けてゐました。私はしばらく考へました。考へてゐるうちに、人間の運命といふものが朧氣《おぼろげ》ながら眼の前に浮かんで來ました。私は兄さんの爲に好い慰藉《ゐしや》を見出《みいだ》したと思ひました。
 「君のいふやうな不安は、人間全體の不安で、何も君一人|丈《だけ》が苦しんでゐるのぢやないと覺《さと》れば夫《それ》迄《まで》ぢやないか。詰りさう流轉《るてん》して行くのが我々の運命なんだから」
 私の此言葉はぼんやりしてゐる許《ばかり》でなく、頗る不快に生温《なまぬ》るいものでありました。鋭い兄さんの眼から出る輕侮の一瞥《いちべつ》と共に葬られなければなりませんでした。兄さんは斯う云ふのです。
 「人間の不安は科學の發展から來る。進んで止《とゞ》まる事を知らない科學は、かつて我々に止《とゞ》まる事を許《ゆる》して呉れた事がない。徒歩から俥《くるま》、俥《くるま》から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、何處迄行つても休ませて呉れない。何處迄|伴《つ》れて行かれるか分らない。實に恐ろしい」
 「そりや恐ろしい」と私も云ひました。
 兄さんは笑ひました。
 「君の恐ろしいといふのは、恐ろしいといふ言葉を使つても差支ないといふ意味だらう。實際恐ろしいんぢやないだらう。つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだらう。僕のは違ふ。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打つ活きた恐ろしさだ」
 私は兄さんの言葉に一毫《いちがう》も虚僞の分子の交つてゐない事を保證します。然し兄さんの恐ろしさを自分の舌で甞《な》めて見る事はとても出來ません。
 「凡《すべ》ての人の運命なら、君一人さう恐ろしがる必要がない」と私は云ひました。
 「必要がなくても事實がある」と兄さんは答へました。其上|下《しも》の樣な事も云ひました。
 「人間全體が幾世紀かの後《のち》に到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに經過しなければならないから恐ろしい。一代のうちなら未《ま》だしもだが、十年間でも、一年間でも、縮めて云へば一ケ月間乃至一週間でも、依然として同じ運命を經過しなければならないから恐ろしい。君は嘘かと思ふかも知れないが、僕の生活の何處を何んな斷片に切つて見ても、たとひ其斷片の長さが一時間だらうと三十分だらうと、それが屹度《きつと》同じ運命を經過しつゝあるから恐ろしい。要するに僕は人間全體の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に※[者/火]詰めた恐ろしさを經驗してゐる」
 「それは不可《いけ》ない。もつと氣を樂にしなくつちや」
 「不可《いけ》ない位は自分にも好く解つてゐる」
 私は兄さんの前で默つて煙草を吹かしてゐました。私は心のうちで、何うかして兄さんを此苦痛から救ひ出して上げたいと念じました。私は凡《すべ》て其他の事を忘れました。今迄|凝《ぢつ》と私の顔を見守つてゐた兄さんは、其時突然「君の方が僕より偉い」と云ひました。私は思想の上に於て、兄さんこそ私に優れてゐると感じてゐる際でしたから、此賛辞に對して嬉しいとも難有《ありがた》いとも思ふ氣は起りませんでした。私は矢張默つて煙草を吹かしてゐました。兄さんは段々落ち付いて來ました。夫《それ》から二人とも一つ蚊帳に這入つて寐ました。
 
     三十三
 
 翌日《あくるひ》も我々は同じ所に泊《とま》つてゐました。朝起き拔けに濱邊を歩いた時、兄さんは眠つてゐる樣な深い海を眺めて、「海も斯う靜かだと好いね」と喜びました。近頃の兄さんは何でも動かないものが懷かしいのださうです。その意味で水よりも山が氣に入るのでした。氣に入ると云つても、普通の人間が自然を樂しむ時の心持とは少し違ふやうです。それは下《しも》に擧げる兄さんの言葉で御解りになるでせう。
 「斯うして髭を生やしたり、洋服を着たり、シガーを銜《くは》へたりする所を上部《うはべ》から見ると、如何にも一人前《ひとりまへ》の紳士らしいが、實際僕の心は宿なしの乞食見たやうに朝から晩迄うろ/\してゐる。二六時|中《ちゆう》不安に追ひ懸けられてゐる。情ない程落付けない。仕舞には世の中で自分程修養の出來てゐない氣の毒な人間はあるまいと思ふ。さういふ時に、電車の中やなにかで、不圖《ふと》眼を上げて向ふ側を見ると、如何にも苦のなささうな顔に出つ食はす事がある。自分の眼が、ひとたび其邪念の萠《きざ》さないぽかんとした顔に注ぐ瞬間に、僕はしみ/”\嬉しいといふ刺戟を總身《そうしん》に受ける。僕の心は旱魃《かんばつ》に枯れかゝつた稻の穗が膏雨《かうう》を得たやうに蘇《よみが》へる。同時に其顔――何も考へてゐない、全く落付拂つた其顔が、大變氣高く見える。眼が下つてゐても、鼻が低くつても、雜作《ざふさく》は何うあらうとも、非常に氣高く見える。僕は殆んど宗教心に近い敬虔《けいけん》の念をもつて、其顔の前に跪《ひざま》づいて感謝の意を表したくなる。自然に對する僕の態度も全く同じ事だ。昔のやうに唯うつくしいから玩《もてあそ》ぶといふ心持は、今の僕には起《おこ》る餘裕がない」
 兄さんは其時電車のなかで偶然見當る尊《たつと》い顔の部類の中《うち》へ、私を加へました。私は思ひも寄らん事だと云つて辭退しました。すると兄さんは眞面目な態度で斯う云ひました。
 「君でも一日のうちに、損も得も要らない、善も惡も考へない、たゞ天然の儘の心を天然の儘顔に出してゐる事が、一度や二度はあるだらう。僕の尊いといふのは、其時の君の事を云ふんだ。其時に限るのだ」
 兄さんは斯う云はれても覺束《おぼつか》なく見える私のために、具體的な證據を示してやるといふ積《つもり》か、昨夜《ゆうべ》二人が床に入る前の私を取つて來て其例に引きました。兄さんはあの折談話の機《はずみ》でつい興奮し過ぎたと自白しました。然し私の顔を見たときに、その激した心の調子が次第に収まつたと云ふのです。私が肯《うけが》はうと肯《うけが》ふまいと、それには頓着する必要がない、たゞ其時の私から好い影響を受けて、一時的にせよ苦しい不安を免かれたのだと、兄さんは斷言するのです。
 其時の私は前《ぜん》云つた通りです。たゞ煙草を吹かして默つてゐた丈《だけ》です。私は其時|凡《すべ》ての事を忘れました。獨り兄さんを何うにかして此不安の裡《うち》から救つて上げたいと念じました。けれども私の心が兄さんに通じようとは思ひませんでした。又通じさせようといふ氣は無論ありませんでした。だから何にも云はずに默つて煙草を吹かしてゐたのです。然し其處に純粹な誠があつたのかも知れません。兄さんは其誠を私の顔に讀んだのでせうか。
 私は兄さんと砂濱の上をのそり/\と歩きました。歩きながら考へました。兄さんは早晩宗教の門を潜《くゞ》つて始めて落付ける人間ではなからうか。もつと強い言葉で同じ意味を繰り返すと、兄さんは宗教家になる爲に、今は苦痛を受けつゝあるのではなからうか。
 
     三十四
 
 「君近頃神といふものに就いて考へた事はないか」
 私は仕舞に斯ういふ質問を兄さんに掛けました。私が此處でとくに「近頃」と斷つたのは、書生時代の古い回想から來たものであります。其時分は二人共まだ考への纒《まと》まらない青二才でしたが、それでも私は思索に耽《ふけ》り勝《がち》な兄さんと、よく神の存在に就いて云々したものであります。序《ついで》だから申しますが、兄さんの頭は其時分から少し外の人とは變つてゐました。兄さんは浮々《うか/\》と散歩をしてゐて、ふと自分が今歩いてゐたなといふ事實に氣が付くと、さあ夫《それ》が解すべからざる問題になつて、考へずには居られなくなるのでした。歩かうと思へば歩くのが自分に違ないが、其歩かうと思ふ心と、歩く力とは、果して何處から不意に湧いて出るか、それが兄さんには大いなる疑問になるのでした。
 二人はそんな事から神とか第一原因とかいふ言葉をよく使ひました。今から考へると解らずに使つたのでした。然し口の先で使ひ慣れた結果、仕舞には神も何時《いつ》か陳腐《ちんぷ》になりました。それから二人とも申し合せた樣に默りました。默つてから何年目になるでせう。私は靜かな夏の朝の、海といふ深い色を沈める大きな器《うつは》の前に立つて、兄さんと相對しつゝ、再び神といふ言葉を口にしたのであります。
 然し兄さんは其言葉を全く忘れてゐました。思ひ出す氣色《けしき》さへありませんでした。私の質問に對する返事としては、たゞ微《かす》かな苦笑があの皮肉な唇の端《はし》を横切つた丈《だけ》でした。
 私は兄さんの此態度で辟易《へきえき》する程に臆病ではありませんでした。また思ふ事を云ひ終《おほ》せずに引込む程|疎《うと》い間柄でもありませんでした。私は一歩前へ進みました。
 「何處の馬の骨だか分らない人間の顔を見てさへ、時々|難有《ありがた》いといふ氣が起《おこ》るなら、圓滿な神の姿を束《つか》の間《ま》も離れずに拜んでゐられる場合には、何百倍幸福になるか知れないぢやないか」
 「そんな意味のない口先|丈《だけ》の論理《ロジツク》が何の役に立つものかね。そんなら神を僕の前に連れて來て見せて呉れるが好い」
 兄さんの調子にも兄さんの眉間《みけん》にも自烈《じれつ》たさうなものが顫動《せんどう》してゐました。兄さんは突然|足下《あしもと》にある小石を取つて二三間波打際の方に馳《か》け出しました。さうして夫《それ》を遙《はるか》の海の中へ投げ込みました。海は靜かに其小石を受け取りました。兄さんは手應《てごたへ》のない努力に、憤《いきどほ》りを起《おこ》す人のやうに、二度も三度も同じ所作を繰返しました。兄さんは磯へ打ち上げられた昆布《こぶ》だか若布《わかめ》だか、名も知れない海藻《かいさう》の間《あひだ》を構はず駈け廻りました。それから又私の立つて見てゐる所へ歸つて來ました。
 「僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ」
 兄さんは斯う云ふのです。さうして苦しさうに呼息《いき》をはずませてゐました。私は兄さんを連れて、又そろ/\宿の方へ引き返しました。
 「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕が難有《ありがた》いと思ふ刹那《せつな》の顔、即ち神ぢやないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神ぢやないか。其外に何んな神がある」
 兄さんから斯う論じかけられた私は、たゞ「成程」と答へる丈《だけ》でした。兄さんは其時は物足りない顔をします。然し後《あと》になると矢張《やつぱ》り私に感心した樣な素振《そぶり》を見せます。實を云ふと、私の方が兄さんに遣り込められて感心する丈《だけ》なのですが。
 
     三十五
 
 我々は沼津で二日|程《ほど》暮しました。序《ついで》に興津《おきつ》迄行かうかと相談した時、兄さんは厭だと云ひました。旅程に掛けては、萬事私の思ひの儘になつてゐる兄さんが、何故《なぜ》其時に限つて斷然私の申《まを》し出《いで》を拒絶したものか、私には頓《とん》と解りませんでした。後《あと》で其説明を聞いたら、三保《みほ》の松原《まつばら》だの天女《てんによ》の羽衣《はごろも》だのが出て來る所は嫌ひだと云ふのです。兄さんは妙な頭を有《も》つた人に違ありません。
 我々はつひに三島《みしま》迄引き返しました。其處で大仁《おほひと》行の汽車に乘り換へて、とう/\修善寺《しゆぜんじ》へ行きました。兄さんには始めから此温泉が大變氣に入つてゐたやうです。然し肝心《かんじん》の目的地へ着くや否や、兄さんは「おや/\」といふ失望の聲を放ちました。實際兄さんの好いてゐたのは、修善寺といふ名前で、修善寺といふ所ではなかつたのです。瑣事《さじ》ですが、是も幾分か兄さんの特色になりますから序《ついで》に附加へて置きます。
 御承知の通り此温泉場は、山と山が抱合つてゐる隙間から谷底へ陷落したやうな低い町にあります。一旦其所へ這入つた者は、何方《どつち》を見ても青い壁で鼻が支《つか》へるので、仕方なしに上を見上げなければなりません。俯向《うつむ》いて歩いたら、地面の色さへ碌に眼には留まらない位狹苦しいのです。今迄海よりも山の方が好いと云つてゐた兄さんは、修善寺へ來て山に取り圍まれるが早いか、急に窮屈がり出しました。私はすぐ兄さんを伴《つ》れて、表へ出て見ました。すると、普通の町なら先《まづ》往來に當る所が、一面の川床《かはどこ》で、青い水が岩に打《ぶ》つかりながら其|中《なか》を流れてゐるのです。だから歩くと云つても、歩きたい丈《だけ》歩く餘地は無論ありませんでした。私は川の眞中《まんなか》の岩の間から出る温泉に兄さんを誘ひ込みました。男も女もごちや/\に一つ所《とこ》に浸《つか》つてゐるのが面白かつたからです。不潔な事も話の種になる位でした。兄さんと私はさすがに其所へ浴衣《ゆかた》を投げ棄てゝ這入る勇氣はありませんでした。然し湯の中にゐる黒い人間を、岩の上に立つて物好《ものずき》らしく何時《いつ》迄も眺めてゐました。兄さんは嬉しさうでした。岩から岸に渡した危ない板を踏みながら元の路へ引き返す時に、兄さんは「善男善女《ぜんなんぜんによ》」といふ言葉を使ひました。それが雜談半分の形容詞でなく、全くさう思はれたらしいのです。
 翌朝《あくるあさ》楊枝《やうじ》を銜《くは》へながら、一所に内風呂に浸《つか》つた時、兄さんは「昨夕《ゆうべ》も寐られないで困つた」と云ひました。私は今の兄さんに取つて寐られないが一番毒だと考へてゐましたので、つい夫《それ》を問題にしました。
 「寐られないと、何《どう》かして寐よう/\と焦《あせ》るだらう」と私が聞きました。
 「全くさうだ、だから猶《なほ》寐られなくなる」と兄さんが答へました。
 「君、寐なければ誰かに濟まない事でもあるのか」と私が又聞きました。
 兄さんは變な顔をしました。石で疊んだ風呂槽《ふろをけ》の縁《ふち》に腰を掛けて、自分の手や腹を眺めてゐました。兄さんは御存じの通り餘り肥《ふと》つては居ません。
 「僕も時々寐られない事があるが、寐られないのも亦《また》愉快なものだ」と私が云ひました。
 「何うして」と今度は兄さんが聞きました。私は其時私の覺えてゐた燈影《とうえい》無睡《むすゐ》を照《てら》し心清《しんせい》妙香《めうかう》を聞《き》くといふ古人の句を兄さんの爲に擧げました。すると兄さんは忽ち私の顔を見てにや/\と笑ひました。
 「君のやうな男にさういふ趣《おもむき》が解るかね」と云つて、不審さうな樣子をしました。
 
     三十六
 
 その日私はまた兄さんを引張《ひつぱ》り出して今度は山へ行きました。上を見て山に行き、下を向いて湯に入《はい》る、それより外にする事は先づない所なのですから。
 兄さんは痩せた足を鞭《むち》のやうに使つて細い道を達者に歩きます。其代り疲れる事も亦人一倍早いやうです。肥つた私がのそ/\後《あと》から上《あが》つて行くと、木の根に腰を掛けて、せえ/\云つてゐます。兄さんのは他《ひと》を待ち合せるのではありません。自分が呼息《いき》を切らして已《や》むを得ずに斃《たふ》れるのです。
 兄さんは時々立ち留まつて茂みの中に咲いてゐる百合を眺めました。一度などは白い花片《はなびら》をとくに指さして、「あれは僕の所有だ」と斷りました。私にはそれが何の意味だか解りませんでしたが、別に聞き返す氣も起らずに、とう/\天邊《てつぺん》迄《まで》上《のぼ》りました。二人で其處にある茶屋に休んだ時、兄さんは又足の下に見える森だの谷だのを指《さ》して、「あれ等《ら》も悉《こと/”\》く僕の所有だ」と云ひました。二度迄繰り返された此言葉で、私は始めて不審を起しました。然し其不審は其場ですぐ晴らす譯に行きませんでした。私の質問に對する兄さんの答は、たゞ淋《さび》しい笑に過ぎなかつたのです。
 我々は其茶店の床几《しやうぎ》の上で、しばらく死んだやうに寐てゐました。其《その》間《あひだ》兄さんは何を考へてゐたか知りません。私はたゞ明らかな空を流れる白い雲の樣子ばかり見てゐました。私の眼はきら/\しました。次第に歸り途の暑さが想ひやられるやうになりました。私は兄さんを促《うなが》して又山を下《お》りました。其時です。兄さんが突然|後《うしろ》から私の肩をつかんで、「君の心と僕の心とは一體何處迄通じてゐて、何處から離れてゐるのだらう」と聞いたのは。私は立ち留まると同時に、左の肩を二三度強く小突き廻されました。私は身體に感ずる動搖を、同じやうに心でも感じました。私は平生から兄さんを思索家と考へてゐました。一所に旅に出てからは、宗教に這入らうと思つて這入口《はいりくち》が分らないで困つてゐる人のやうにも解釋して見ました。私が心に動搖を感じたといふのは、果して兄さんの此質問が、さういふ立場から出たのであらうかと迷つたからです。私はあまり物に頓着しない性質《たち》です。またあまり物に驚かない、至つて鈍《どん》な男です。けれども出立|前《ぜん》あなたから色々依頼を受けたため、兄さんに對して丈《だけ》は、妙に鋭敏になりたがつてゐました。私は少し平氣の道を踏み外《はづ》しさうになりました。
 「Keine Brücke führt von Mensch zu Mensch.(人から人へ掛け渡す橋はない)」
 私はつい覺えてゐた獨逸《ドイツ》の諺《ことわざ》を返事に使ひました。無論半分は問題を面倒にしない故意《こい》の作略《さりやく》も交《まじ》つてゐたでせうが。すると兄さんは、「さうだらう、今の君はさうより外に答へられまい」と云ふのです。私はすぐ「何故《なぜ》」と云つて聞き返しました。
 「自分に誠實でないものは、決して他人に誠實であり得ない」
 私は兄さんの此言葉を、自分の何處へ應用して好いか氣が付きませんでした。
 「君は僕のお守《もり》になつて、わざ/\一所に旅行してゐるんぢやないか。僕は君の好意を感謝する。けれども左右《さう》いふ動機から出る君の言動は、誠《まこと》を裝《よそほ》ふ僞《いつは》りに過ぎないと思ふ。朋友としての僕は君から離れる丈《だけ》だ」
 兄さんは斯う斷言しました。さうして私を其處へ取殘した儘、一人でどん/\山道を馳け下りて行きました。其時私も兄さんの口を迸《ほとば》しるEinsamkeit、du meine Heimat Einsamkeit!(孤獨なるものよ、汝はわが住居《すまひ》なり)といふ獨逸語《ドイツご》を聞きました。
 
     三十七
 
 私は心配しい/\宿へ歸りました。兄さんは室《へや》の眞ん中に蒼い顔をして寐てゐました。私の姿を見ても口を利きません、動きもしません。私は自然を尊《たつと》む人を、自然の儘にして置く方針を取りました。私は靜かに兄さんの枕元で一服しました。それから氣特の惡い汗を流すために手拭を持つて風呂場へ行きました。私が湯槽《ゆをけ》の縁《ふち》に立つて身體を清めてゐると、兄さんが後《あと》から遣つて來ました。二人は其時始めて物を云ひ合ひました。私は「疲れたらう」と聞きました。兄さんは「疲れた」と答へました。
 午《ひる》の膳に向ふ頃から兄さんの機嫌は段々回復して來ました。私はつひに兄さんに向つて、先刻《さつき》山途で二人の間に起つた芝居がゝりの動作に云ひ及びました。兄さんは始めのうちは苦笑してゐました。然し仕舞には居住居《ゐずまひ》を直して眞面目になりました。さうして實際孤獨の感に堪へないのだと云ひ張りました。私は其時始めて兄さんの口から、彼がたゞに社會に立つてのみならず、家庭にあつても一樣に孤獨であるといふ痛ましい自白を聞かされました。兄さんは親しい私に對して疑念を持つてゐる以上に、其家庭の誰彼を疑《うたぐ》つてゐる樣でした。兄さんの眼には御父さんも御母さんも僞《いつはり》の器《うつは》なのです。細君は殊にさう見えるらしいのです。兄さんは其細君の頭に此間《このあひだ》手を加へたと云ひました。
 「一度|打《ぶ》つても落付いてゐる。二度|打《ぶ》つても落付いてゐる。三度目には抵抗するだらうと思つたが、矢つ張り逆《さか》らはない。僕が打《ぶ》てば打《ぶ》つほど向《むかふ》はレデーらしくなる。そのために僕は益《ます/\》無頼漢《ごろつき》扱ひにされなくては濟まなくなる。僕は自分の人格の墮落を證明するために、怒《いかり》を小羊の上に洩らすと同じ事だ。夫《をつと》の怒《いかり》を利用して、自分の優越に誇らうとする相手は殘酷ぢやないか。君、女は腕力に訴へる男より遙に殘酷なものだよ。僕は何故《なぜ》女が僕に打《ぶ》たれた時、起《た》つて抵抗して呉れなかつたと思ふ。抵抗しないでも好いから、何故|一言《ひとこと》でも云ひ爭つて呉れなかつたと思ふ」
 斯ういふ兄さんの顔は苦痛に充ちてゐました。不思議な事に兄さんはこれ程鮮明に自分が細君に對する不快な動作を話して置きながら、その動作を敢てするに至つた原因に就いては、具體的に殆んど何事も語らないのです。兄さんはたゞ自分の周圍が僞《いつはり》で成立してゐると云ひます。しかも其|偽《いつはり》を私の眼の前で組み立てゝ見せようとはしません。私は何でこの空漠な響を有《も》つ僞《いつはり》といふ字のために、兄さんがそれ程興奮するかを不審がりました。兄さんは私が僞《いつはり》といふ言葉を字引で知つてゐる丈《だけ》だから、そんな迂濶《うくわつ》な不審を起すのだと云つて、實際に遠い私を窘《たし》なめました。兄さんから見れば、私は實際に遠い人間なのです。私は強《し》ひて兄さんから僞《いつはり》の内容を聞かうともしませんでした。從つて兄さんの家庭には何んな面倒な事情が縺《もつ》れ合つてゐるか、私には頓《とん》と解りません。好んで聞くべき筋でもなし、又聞いて置かないでも、家庭の一員たる貴方には報道の必要のない事と思ひましたから、其儘にして濟ましました。たゞ御參考迄に一言《いちごん》注意して置きますが、兄さんは其時御兩親や奧さんに就いて、抽象的ながら云々《うん/\》されたに拘《かゝ》はらず、貴方に關しては、二郎といふ名前さへ口にされませんでした。それからお重《しげ》さんとかいふ妹さんの事に就いても何にも云はれませんでした。
 
     三十八
 
 私が兄さんにマラルメの話をしたのほ修善寺《しゆぜんじ》を立つて小田原《をだはら》へ來た晩の事です。專門の違ふ貴方だから、或は失禮にもなるまいと思つて書き添へますが、マラルメと云ふのは有名な佛蘭西《フランス》の詩人の名前です。斯ういふ私も實はその名前だけしか知らないのです。だから話と云つた所で作物《さくぶつ》の批評などではありません。東京を立つ前に、取りつけの外國雜誌の封を切つて、一寸眼を通したら、其うちにこの詩人の逸話があつたのを、面白いと思つて覺えてゐたので、私はついそれを擧げて、兄さんの反省を促《うなが》して見たくなつたのです。
 此マラルメと云ふ人にも多くの若い崇拜者がありました。其人達はよく彼の家に集まつて、彼の談話に耳を傾ける宵を更《ふか》したのですが、如何に多くの人が押し懸けても、彼の坐るべき場所は必ず暖爐の傍《そば》で、彼の腰を卸《おろ》すのは必ず一箇の搖椅《ゆりいす》と極つてゐました。是は長い習慣で定《さだ》められた規則のやうに、誰も犯すものがなかつたといふ事です。所がある晩新しい客が來ました。慥《たし》か英吉利《イギリス》のシモンズだつたといふ話ですが、その客は今日《こんにち》迄《まで》の習慣を丸《まる》で知らないので、何《ど》の席も何《ど》の椅子も同じ價《あたひ》と心得たのでせう、當然マラルメの坐るべきかの特別の椅子へ腰を掛けて仕舞ひました。マラルメは不安になりました。何時《いつ》ものやうに話に實《み》が入りませんでした。一座は白けました。
 「何といふ窮屈な事だらう」
 私はマラルメの話をした後《あと》で、斯ういふ一句の斷案を下しました。さうして兄さんに向つて、「君の窮屈な程度はマラルメよりも烈しい」と云ひました。
 兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて來たやうな結果に陷《おちい》つてゐます。兄さんには甲でも乙でも構はないといふ鈍《どん》な所がありません。必ず甲か乙かの何方《どつち》かでなくては承知出來ないのです。しかも其甲なら甲の形なり程度なり色合《いろあひ》なりが、ぴたりと兄さんの思ふ坪に嵌《はま》らなければ肯《うけ》がはないのです。兄さんは自分が鋭敏な丈《だけ》に、自分の斯うと思つた針金の樣に際《きは》どい線の上を渡つて生活の歩《ほ》を進めて行きます。其代り相手も同じ際どい針金の上を、踏み外《はづ》さずに進んで來て呉れなければ我慢しないのです。然し是が兄さんの我儘から來ると思ふと間違ひです。兄さんの豫期通りに兄さんに向つて働き懸ける世の中を想像して見ると、それは今の世の中より遙に進んだものでなければなりません。從つて兄さんは美的にも智的にも乃至《ないし》倫理的にも自分程進んでゐない世の中を忌むのです。だから唯の我儘とは違ふでせう。椅子を失つて不安になつたマラルメの窮屈ではありますまい。
 然し苦しいのは或はそれ以上かも知れません。私は何うかして其|苦《くるし》みから兄さんを救ひ出したいと念じてゐるのです。兄さんも自分で其苦しみに堪へ切れないで、水に溺れかゝつた人のやうに、只管《ひたすら》藻掻《もが》いてゐるのです。私には心のなかの其爭ひが能く見えます。然し天賦《てんぷ》の能力と教養の工夫とで漸く鋭くなつた兄さんの眼を、たゞ落付を與へる目的のために、再び昧《くら》くしなければならないといふ事が、人生の上に於て何んな意義になるでせうか。よし意義があるにした所で、人間として出來得る仕事でせうか。
 私は能く知つてゐました。考へて/\考へ拔いた兄さんの頭には、血と涙で書かれた宗教の二字が、最後の手段として、躍り叫んでゐる事を知つてゐました。
 
     三十九
 
 「死ぬか、氣が違ふか、夫《それ》でなければ宗教に入るか。僕の前途には此三つのものしかない」
 兄さんは果して斯う云ひ出しました。其時兄さんの顔は、寧ろ絶望の谷に赴《おもむ》く人の樣に見えました。
 「然し宗教には何うも這入れさうもない。死ぬのも未練に食ひ留められさうだ。なればまあ氣違だな。然し未來の僕は偖《さて》置《お》いて、現在の僕は君|正氣《しやうき》なんだらうかな。もう既に何うかなつてゐるんぢやないかしら。僕は怖くて堪まらない」
 兄さんは立つて縁側へ出ました。其處から見へる海を手摺《てすり》に倚《よ》つてしばらく眺めてゐました。夫《それ》から室《へや》の前を二三度行つたり來たりした後《あと》、又元の所へ歸つて來ました。
 「椅子位失つて心の平和を亂されるマラルメは幸ひなものだ。僕はもう大抵なものを失つてゐる。纔《わづか》に自己の所有として殘つてゐる此肉體さへ、(此手や足さへ、)遠慮なく僕を裏切る位だから」
 兄さんの此言葉は、好い加減な形容ではないのです。昔から内省の力に勝つてゐた兄さんは、あまり考へた結果として、今は此力の威壓に苦しみ出してゐるのです。兄さんは自分の心が如何《どん》な状態にあらうとも、一應それを振り返つて吟味した上でないと、決して前へ進めなくなつてゐます。だから兄さんの命の流れは、刹那々々《せつな/\》にぽつ/\中斷されるのです。食事中一分毎に電話口へ呼び出されるのと同じ事で、苦しいに違ありません。然し中斷するのも兄さんの心なら、中斷されるのも兄さんの心ですから、兄さんは詰まる所二つの心に支配されてゐて、其二つの心が嫁《よめ》と姑《しうと》の樣に朝から晩迄責めたり、責められたりしてゐるために、寸時の安心も得られないのです。
 私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考へてゐない人の顔が一番|氣高《けだか》いと云つた兄さんの心を理解する事が出來ました。兄さんが此判斷に到着したのは、全く考へた御蔭です。然し考へた御蔭で此|境界《きやうがい》には這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思つて、たゞ幸福の研究ばかりしたのです。所がいくら研究を積んでも、幸福は依然として對岸にあつたのです。
 私はとう/\兄さんの前に再び神といふ言葉を持ち出しました。さうして意外にも突然兄さんから頭を打たれました。然し是は小田原で起つた最後の幕です。頭を打たれる前にまだ一節《いつせつ》ありますから、先《まづ》それから御報知しようと思ひます。然し前にも申した通り、貴方と私とは丸《まる》で專門が違ひますので、私の筆にする事が、時によると變に物識《ものしり》めいた餘計《よけい》な云ひ草のやうに貴方の眼に映るかも知れません。それで貴方に關係のない片假名|抔《など》を入れる時は、猶更《なほさら》躊躇しがちになりますが、是でも必要と認めない限り、成るべくそんな性質《たち》の文字は、省いてゐるのですから、貴方も其|積《つもり》で虚心に讀んで下さい。少しでも貴方の心に輕薄といふ疑念が起る樣では、折角書いて上げたものが、前後を通じて、何の役にも立たなくなる恐れがありますから。
 私がまだ學校に居た時分、モハメツドに就いて傳へられた下《しも》のやうな物語を、何かの書物で讀んだ事があります。モハメツドは向ふに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるといふのださうです。それを見たいものは何月何日を期して何處へ集まれといふのださうです。
 
     四十
 
 期日になつて幾多の群衆が彼の周圍を取卷いた時、モハメツドは約束通り大きな聲を出して、向ふの山に此方《こつち》へ來いと命令しました。所が山は少しも動き出しません。モハメツドは澄ましたもので、又同じ號令を掛けました。それでも山は依然として凝《ぢつ》としてゐました。モハメツドはとう/\三度號令を繰返さなければならなくなりました。然し三度云つても、動く氣色《けしき》の見えない山を眺めた時、彼は群衆に向つて云ひました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。然し山の方では來たくないやうである。山が來て呉れない以上は、自分が行くより外に仕方があるまい」。彼はさう云つて、すた/\山の方へ歩いて行つたさうです。
 此話を讀んだ當時の私はまだ若う御座いました。私はいゝ滑稽《こつけい》の材料を得た積《つもり》で、それを方々へ持つて廻りました。すると其内に一人の先輩がありました。みんなが笑ふのに、その先輩|丈《だけ》は「あゝ結構な話だ。宗教の本義は其處にある。それで盡《つく》してゐる」と云ひました。私は解らぬながらも、その言葉に耳を傾けました。私が小田原で兄さんに同じ話を繰返したのは、それから何年目になりますか、話は同じ話でも、もう滑稽の爲ではなかつたのです。
 「何故《なぜ》山の方へ歩いて行かない」
 私が兄さんに斯う云つても、兄さんは黙つてゐます。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、附《つ》け足《た》しました。
 「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて來ないと怒る男だ。地團太《ぢだんだ》を踏んで口惜《くや》しがる男だ。さうして山を惡く批判する事|丈《だけ》を考へる男だ。何故《なぜ》山の方へ歩いて行かない」
 「もし向ふが此方《こつち》へ來るべき義務があつたら何うだ」と兄さんが云ひます。
 「向ふに義務があらうとあるまいと、此方《こつち》に必要があれば此方《こつち》で行くだけの事だ」と私が答へます。
 「義務のない所に必要のある筈がない」と兄さんが主張します。
 「ぢや幸福の爲に行くさ。必要のために行きたくないなら」と私が又答へます。
 兄さんは是で又黙りました。私のいふ意味はよく兄さんに解つてゐるのです。けれども是非、善惡、美醜の區別に於いて、自分の今日《こんにち》迄に養ひ上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きてゐられない兄さんは、さらりとそれを擲《なげう》つて、幸福を求める氣になれないのです。寧ろそれに振《ぶ》ら下《さ》がりながら、幸福を得ようと焦燥《あせ》るのです。さうして其矛盾も兄さんには能く呑み込めてゐるのです。
 「自分を生活の心棒《しんぼう》と思はないで、綺麗に投げ出したら、もつと樂《らく》になれるよ」と私が又兄さんに云ひました。
 「ぢや何を心棒にして生きて行くんだ」と兄さんが聞きました。
 「神さ」と私が答へました。
 「神とは何だ」と兄さんが又聞ました。
 私は此處で一寸自白しなければなりません。私と兄さんと斯う問答をしてゐる所を御讀みになる貴方には、私がさも宗教家らしく映ずるかも知れませんが、――私が何うかして兄さんを信仰の道に引き入れようと力《つと》めてゐるやうに見えるかも知れませんが、實を云ふと、私は耶蘇《ヤソ》にもモハメツドにも縁のない、平凡な唯の人間に過ぎないのです。宗教といふものを夫《それ》程《ほど》必要とも思はないで、漫然と育つた自然の野人なのです。話が兎角そちらへ向くのは、全く相手に兄さんといふ烈しい煩悶家《はんもんか》を控へてゐる爲だつたのです。
 
     四十一
 
 私が兄さんに遣られた原因も全く其處にあつたのです。事實私は神といふものを知らない癖に、神といふ言葉を口にしました。兄さんから反問された時に、それは天とか命《めい》とかいふ意味と同じものだと漠然《ばくぜん》答へて置いたら、まだ可《よ》かつたかも知れません。所が前後の行きがゝり上、私にはそんな説明の餘裕がなくなりました。其時の問答はたしか下《しも》の樣な順序で進行したかと思ひます。
私「世の中の事が自分の思ふ樣にばかりならない以上、そこに自分以外の意志が働いてゐるといふ事實を認めなくてはなるまい」
 「認めてゐる」
私「さうして其意志は君のよりも遙に偉大ぢやないか」
 「偉大かも知れない、僕が負けるんだから。けれども大概は僕のよりも不善《ふぜん》で不美《ふび》で不眞《ふしん》だ。僕は彼等に負かされる譯がないのに負かされる。だから腹が立つのだ」
私「それは御互に弱い人間同志の競合《せりあひ》を云ふんだらう。僕のはさうぢやない、もつと大きなものを指《さ》すのだ」
 「そんな曖昧《あいまい》なものが何處にある」
私「なければ君を救ふ事が出來ない丈《だけ》の話だ」
 「ぢや暫くあると假定して……」
私「萬事|其方《そつち》へ委任して仕舞ふのさ。何分宜しく御頼み申しますつて。君、俥《くるま》に乘つたら、落《おつ》ことさないやうに車夫《くるまや》が引いて呉れるだらうと安心して、俥《くるま》の上で寐る事は出來ないか」
 「僕は車夫《くるまや》程信用出來る神を知らないのだ。君だつて左右《さう》だらう。君のいふ事は、全く僕の爲に拵へた説教で、君自身に實行する經典ぢやないのだらう」
私「左右《さう》ぢやない」
 「ぢや君は全く我《が》を投げ出してゐるね」
私「まあ左右《さう》だ」
 「死なうが生きようが、神の方で好いやうに取計つて呉れると思つて安心してゐるね」
私「まあ左右《さう》だ」
 私は兄さんから斯う詰寄せられた時、段々|危《あや》しくなつて來るやうな氣がしました。けれども前後の勢ひが自分を支配してゐる最中《さいちゆう》なので、また何うする譯にも行きません。すると兄さんが突然手を擧げて、私の横面《よこつら》をぴしやりと打ちました。
 私は御承知の通り餘程神經の鈍《にぶ》く出來た性質《たち》です。御蔭で今日《こんにち》迄餘り人と爭つた事もなく、又人を怒らした試《ためし》も知らずに過ぎました。私の鈍《のろ》い所爲《せゐ》でもあつたでせうが、子供の時ですら親に打たれた覺えはありません。成人しては無論の事です。生れて始めて手を顔に加へられた私は其時われ知らずむつとしました。
 「何をするんだ」
 「それ見ろ」
 私には此「それ見ろ」が解らなかつたのです。
 「亂暴ぢやないか」と私が云ひました。
 「それ見ろ。少しも神に信頼してゐないぢやないか。矢張《やつぱ》り怒るぢやないか。一寸した事で氣分の平均を失ふぢやないか。落付が転覆するぢやないか」
 私は何とも答へませんでした。又何とも答へられませんでした。そのうちに兄さんはつと座を立ちました。私の耳にはどん/\階子段《はしごだん》を馳け下りて行く兄さんの足音|丈《だけ》が殘りました。
 
     四十二
 
 私は下女を呼んで伴《つれ》の御客さんは何うしたと聞いて見ました。
 「今しがた表へ御出になりました。大方《おほかた》濱でせう」
 下女の返事が私の想像と一致したので、私はそれ以上の掛念《けねん》を省いて、ごろりと其處に横になりました。すると衣桁《いかう》の端《はじ》に懸つてゐる兄さんの夏帽子がすぐ眼に着きました。兄さんは此暑いのに帽子も被らずに何處かへ飛び出して行つたのです。あなたの樣に、兄さんの一擧一動を心配する人から見たら、仰向けに寐そべつた其時の私の姿は、少し呑気《のんき》過ぎたかも知れません。是は固《もと》より私の鈍《のろ》い神經の仕業に違ないのです。けれども唯|鈍《のろ》い丈《だけ》で説明する以外に、もう少し御參考になる點も交つてゐるやうですから、夫《それ》を一寸申上げます。
 私は兄さんの頭を信じてゐました。私よりも鋭敏な兄さんの理解力に尊敬を拂つてゐました。兄さんは時々普通の人に解らない樣な事を出し拔けに云ひます。それが知らないものゝ耳や、教育の乏しい男の耳には、何處かに破目《われめ》の入つた鐘の音《ね》として、變に響くでせうけれども、能く兄さんを心得た私には、却つて習慣的な言説よりは難有《ありがた》かつたのです。私は平生から其處に兄さんの特色を認めてゐました。だから心配の必要はないと、あれ程強くあなたに斷言して憚らなかつたのです。それで一所に旅に出ました。旅へ出てからの兄さんは今迄私が叙述して來た通りですが、私は此旅行先の兄さんの爲に、少しづゝ故《もと》の考へを訂正しなければならない樣になつて來たのです。
 私は兄さんの頭が、私より判然《はつきり》と整《とゝの》つてゐる事に就いて、今でも少しの疑ひを挾《さしは》さむ餘地はないと思ひます。然し人間としての今の兄さんは、故《もと》に較《くら》べると、何處か亂れてゐるやうです。さうして其亂れる原因を考へて見ると、判然《はつきり》と整つた彼の頭の働き其物から來てゐるのです。私から云へば、整つた頭には敬意を表したいし、又亂れた心には疑ひを置きたいのですが、兄さんから見れば、整つた頭、取りも直さず亂れた心なのです。私はそれで迷ひます。頭は確《たしか》である、然し氣はことによると少し變かも知れない。信用は出來る、然し信用は出來ない。斯う云つたら貴方はそれを滿足な報道として受け取られるでせうか。それより外に云ひやうのない私は、自分自身で既に困つて仕舞つたのです。
 私は梯子段《はしごだん》をどん/\馳け下りて行つた兄さんを其儘にして、ごろりと横になりました。私は夫《それ》程《ほど》安心してゐたのです。帽子も被らずに出て行つた位だから、すぐ歸るに極《きま》つてゐると考へたのです。然し兄さんは豫想通りさう手輕くは戻りませんでした。すると私もつひに大の字になつて居られなくなりました。私は仕舞に明らかな不安を抱いて起《た》ち上りました。
 濱へ出ると、日は何時《いつ》か雲に隱れてゐました。薄どんよりと曇り掛けた空と、其下にある磯と海が、同じ灰色を浴びて、物憂く見える中を、妙に生温《なまぬる》い風が磯臭《いそくさ》く吹いて來ました。私は其灰色を彩《いろ》どる一點として、向ふの波打際に蹲踞《しやが》んでゐる兄さんの姿を、白く認めました。私は黙つて其方角へ歩いて行きました。私は後《うしろ》から聲を掛けた時、兄さんはすぐ立ち上つて「先刻《さつき》は失敬した」と云ひました。
 兄さんは目的《あて》もなくまた留度《とめど》もなく其處いらを歩いた揚句、仕舞に疲れたなりで疲れた場所に蹲踞《しやが》んでしまつたのださうです。
 「山に行かう。もう此處は厭になつた。山に行かう」
 兄さんは今にも山へ行きたい風でした。
 
     四十三
 
 我々は其晩とう/\山へ行く事になりました。山と云つても小田原からすぐ行かれる所は箱根の外にありません。私は此通俗な温泉場へ、最も通俗でない兄さんを連れ込んだのです。兄さんは始めから、屹度《きつと》騷々しいに違ないと云つてゐました。それでも山だから二三日は我慢出來るだらうと云ふのです。
 「我慢しに温泉場へ行くなんて勿體《もつたい》ない話だ」
 是も其時兄さんの口から出た自嘲《じてう》の言葉でした。果して兄さんは着いた晩からして、八釜しい隣室の客を我慢しなければならなくなりました。此客は東京のものか横濱のものか解りませんが、何でも言葉の使ひやうから判斷すると、商人とか請負師《うけおひし》とか仲買《なかがひ》とかいふ部に屬する種類の人間らしく思はれました。時々不調和に大きな聲を出します。傍若無人《ばうじやくぶじん》に騷ぎます。さういふ事に餘り頓着のない私さへ隨分|辟易《へきえき》しました。御蔭で其晩は兄さんも私も些《ちつ》とも六づかしい話をしずに寐て仕舞ました。つまり隣りの男が我々の思索を破壞するために騷いだ事に當るのです。
 翌《あく》る朝《あさ》私が兄さんに向つて、「昨夜《ゆうべ》は寐られたか」と聞きますと、兄さんは首を掉《ふ》つて、「寐られる所か。君は實に羨ましい」と答へました。私は何うしても寐つかれない兄さんの耳に、さかんな鼾聲《いびき》を終宵《よもすがら》聞かせたのださうでず。
 其日は夜明から小雨《こさめ》が降つてゐました。それが十時頃になると本降《ほんぶり》に變りました。午《ひる》少し過には、多少の暴模樣《あれもやう》さへ見えて來ました。すると兄さんは突然立ち上つて尻《しり》を端折《はしを》ります。是から山の中を歩くのだと云ひます。凄まじい雨に打たれて、谷《たに》崖《がけ》の容赦《ようしや》なく無暗に運動するのだと主張します。御苦勞千萬だとは思ひましたが、兄さんを思ひ留らせるよりも、私が兄さんに賛成した方が、手數《てかず》が省けますので、つい「宜からう」と云つて、私も尻《しり》を端折《はしを》りました。
 兄さんはすぐ呼息《いき》の塞《つま》るやうな風に向つて突進しました。水の音だか、空の音だか、何とも蚊とも喩へられない響の中を、地面から跳ね上る護謨球《ゴムだま》のやうな勢ひで、ぽん/\飛ぶのです。さうして血管の破裂する程大きな聲を出して、たゞわあつと叫びます。其勢ひは昨夜《ゆうぺ》の隣室の客より何層倍猛烈だか分りません。聲だつて彼よりも遙に野獣らしいのです。しかも其原始的な叫びは、口を出るや否や、すぐ風に攫《さら》つて行かれます。それを又雨が追ひ懸けて碎き盡します。兄さんは暫くして沈黙に歸りました。けれどもまだ歩き廻りました。呼息《いき》が切れて仕方なくなる迄歩き廻りました。
 我々が濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》のやうになつて宿へ歸つたのは、出てから一時間目でしたらうか、又二時間目に懸りましたらうか。私は臍《へそ》の底《そこ》まで冷えました。兄さんは唇の色を變へてゐました。湯に這入つて暖まつた時、兄さんはしきりに「痛快だ」と云ひました。自然に敵意がないから、いくら征服されても痛快なんでせう。私はたゞ「御苦勞な事だ」と云つて、風呂のなかで心持よく足を伸ばしました。
 其晩は豫期に反して、隣の室《へや》がひつそりと靜まつてゐました。下女に聞いて見ると、兄さんを惱ました昨夕《ゆうべ》の客は、何時《いつ》の間《ま》にかもう立つて仕舞つたのでした。私が兄さんから思ひ掛けない宗教觀を聞かされたのは其宵の事です。私は一寸驚きました。
 
     四十四
 
 貴方も現代の青年だから宗教といふ古めかしい言葉に對してあまり同情は持つて居られないでせう。私も小六《こむ》づかしい事は成るべく言はずに濟ましたいのです。けれども兄さんを理解するためには、是非共其處へ觸れて來なければなりません。あなたには興味もなからうし、又意外でもあらうけれども、それを遠慮する以上、肝腎の兄さんが不可解になる丈《だけ》だから、辛抱して此處のところを飛ばさずに讀んで下さい。辛抱さへなされば、貴方には能く解る事なんです。讀んでさうして善く兄さんを呑み込んだ上、御老人方の合點《がてん》の行《ゆ》かれるやうに御宅へ紹介して上げて下さい。私は兄さんに就いて過度の心勞をされる御年寄に對して實際御氣の毒に思つてゐます。然し今の處貴方を通してより外に、ありの儘の兄さんを、兄さんの家庭に知らせる手段はないのだから、貴方も少し眞面目になつて、聞き慣れない字面に眼を御注《おそゝ》ぎなさい。私は醉興で六づかしい事を書くのではありません。六づかしい事が活きた兄さんの一部分なのだから仕方がないのです。二つを引き離すと血や肉から出來た兄さんも亦存在しなくなるのです。
 兄さんは神でも佛でも何でも自分以外に權威のあるものを建立《こんりふ》するのが嫌ひなのです。(この建立《こんりふ》といふ言葉も兄さんの使つた儘を、私が踏襲するのです)。それではニイチエのやうな自我を主張するのかといふと左右《さう》でもないのです。
 「神は自己だ」と兄さんが云ひます。兄さんが斯う強い斷案を下す調子を、知らない人が蔭で聞いてゐると、少し變だと思ふかも知れません。兄さんは變だと思はれても仕方のないやうな激した云ひ方をします。
 「ぢや自分が絶對だと主張すると同じ事ぢやないか」と私が非難します。兄さんは動きません。
 「僕は絶對だ」と云ひます。
 斯ういふ問答を重《かさ》ねれば重《かさ》ねる程、兄さんの調子は益《ます/\》變になつて來ます。調子ばかりではありません、云ふ事も次第に尋常を外《はづ》れて來ます。相手が若し私のやうなものでなかつたならば、兄さんは最後|迄《まで》行かないうちに、純粋な氣違として早く葬られ去つたに違ありません。然し私はさう容易《たやす》く彼を見棄てる程に、兄さんを輕んじてはゐませんでした。私はとう/\兄さんを底迄押し詰めました。
 兄さんの絶對といふのは、哲學者の頭から割り出された空《むな》しい紙の上の數字ではなかつたのです。自分で其|境地《きやうち》に入つて親しく經驗する事の出來る判切《はつきり》した心理的のものだつたのです。
 兄さんは純粹に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然に此境地に入《はい》れるべきだと云ひます。一度《ひとたぴ》此|境界《きやうがい》に入《はい》れば天地も萬有も、凡《すべ》ての對象といふものが悉《こと/”\》くなくなつて、唯《たゞ》自分|丈《だけ》が存在するのだと云ひます。さうして其時の自分は有るとも無いとも片の付かないものだと云ひます。偉大なやうな又微細なやうなものだと云ひます。何とも名の付け樣のないものだと云ひます。即ち絶對だと云ひます。さうして其絶對を經驗してゐる人が、俄然として半鐘《はんしよう》の音を聞くとすると、其半鐘の音は即ち自分だといふのです。言葉を換へて同じ意味を表はすと、絶對即相對になるのだといふのです、從つて自分以外に物を置き他《ひと》を作つて、苦しむ必要がなくなるし、又苦しめられる掛念《けねん》も起らないのだと云ふのです。
 「棍本義《こんぽんぎ》は死んでも生きても同じ事にならなければ、何うしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといつた才人は兎に角、僕は是非共|生死《しやうじ》を超越しなければ駄目だと思ふ」
 兄さんは殆んど齒を喰ひしばる勢で斯う言明しました。
 
      四十五
 
 私は此場合にも自分の頭が兄さんに及ばないといふ事を自白しなければなりません。私は人間として、果して兄さんのいふ樣な境界《きやうがい》に達せられべきものかを未《ま》だ考へてゐなかつたのです。明瞭な順序で自然其處に歸着《きちやく》して行く兄さんの話を聞いた時、成程そんなものかと思ひました。又そんなものでも無からうかとも思ひました。何しろ私は兎角の是非を狹《さしは》さむ丈《だけ》の資格を有《も》つてゐない人間に過ぎませんでした。私は黙々として熱烈な言葉の前に坐りました。すると兄さんの態度が變りました。私の沈黙が鋭い兄さんの鋒先《ほこさき》を鈍《にぶ》らせた例は、今迄にも何遍かありました。さうして夫《それ》が悉《こと/”\》く偶然から來てゐるのです。尤も兄さんの樣な聰明《そうめい》な人に、一種の思はくから黙つて見せるといふ技巧《ぎかう》を弄《ろう》したら、すぐ觀破《くわんぱ》されるに極つてゐますから、私の鈍《のろ》いのも時には一得《いつとく》になつたのでせう。
 「君、僕を單に口舌《こうぜつ》の人《ひと》と輕蔑して呉れるな」と云つた兄さんは、急に私の前に手を突きました。私は挨拶に窮しました。
 「君のやうな重厚《ちようこう》な人間から見たら僕は如何にも輕薄な御喋舌《おしやべり》に違ない。然し僕は是でも口で云ふ事を實行したがつてゐるんだ。實行しなければならないと朝晩《あさばん》考へ續けに考へてゐるんだ。實行しなければ生きてゐられないと迄《まで》思ひ詰めてゐるんだ」
 私は依然として挨拶に困つた儘でした。
 「君、僕の考へを間違つてゐると思ふか」と兄さんが聞きました。
 「左右《さう》は思はない」と私が答へました。
 「徹底してゐないと思ふか」と兄さんが又聞きました。
 「根本的《こんぽんてき》の樣だ」と私が又答へました。
 「然し何《ど》うしたら此研究的な僕が、實行的な僕に變化出來るだらう。どうぞ教へて呉れ」と兄さんが頼むのです。
 「僕にそんな力があるものか」と、思ひも寄らない私は斷るのです。
 「いやある。君は實行的に生れた人だ。だから幸福なんだ。さう落付いてゐられるんだ」と兄さんが繰り返すのです。
 兄さんは眞劔のやうでした。私は其の時|憮然《ぶぜん》として兄さんに向ひました。
 「君の智慧は遙に僕に優《まさ》つてゐる。僕には到底《とて》も君を救ふ事は出來ない。僕の力は僕より鈍《のろ》いものになら、或は及ぼし得るかも知れない。然し僕より聰明な君には全く無效である。要するに君は瘠《や》せて丈《たけ》が長く生れた男で、僕は肥えてずんぐり育つた人間なんだ。僕の眞似をして肥《ふと》らうと思ふなら、君は君の脊丈《せい》を縮めるより外に途はないんだらう」
 兄さんは眼からぼろ/\涙を出しました。
 「僕は明かに絶對の境地を認めてゐる。然し僕の世界觀が明かになればなる程、絶對は僕と離れて仕舞ふ。要するに僕は圖《づ》を披《ひら》いて地理を調査する人だつたのだ。それでゐて脚絆《きやはん》を着けて山河《さんか》を跋渉《ばつせふ》する實地の人と、同じ經驗をしようと焦慮《あせ》り拔いてゐるのだ。僕は迂濶《うくわつ》なのだ。僕は矛盾なのだ。然し迂濶と知り矛盾と知りながら、依然として藻掻《もが》いてゐる。僕は馬鹿だ。人間としての君は遙に僕よりも偉大だ」
 兄さんは又私の前に手を突きました。さうして恰《あたか》も謝罪でもする時のやうに頭を下げました。涙がぽたり/\と兄さんの眼から落ちました。私は恐縮しました。
 
     四十六
 
 箱根を出る時兄さんは「二度と斯んな所は御免だ」と云ひました。今《いま》迄《まで》通つて來たうちで、兄さんの氣に入つた所はまだ一ケ所もありません。兄さんは誰と何處へ行つても直《すぐ》厭になる人なのでせう。夫《それ》も其筈です。兄さんには自分の身?《からだ》や自分の心からしてが既に氣に入つてゐないのですから。兄さんは自分の身?《からだ》や心が自分を裏切《うらぎ》る曲者《くせもの》の樣に云ひます。それが徒爾半分《いたづらはんぶん》の出放題《ではうだい》でない事は、今日《けふ》迄一所に寐泊りの日數《ひかず》を重ねた私には能く理解出來ます。其私から有の儘の報知を受ける貴方にも篤《とく》と御合點《ごがてん》が行く事だらうと思ひます。
 斯ういふ兄さんと、私がよく一所に旅が出來ると御思ひになるかも知れません。私にも考へると、それが不思議な位です。兄さんを上《かみ》に述べた樣に頭の中《なか》へ疊み込んだが最後、如何《いか》に遲鈍《ちどん》な私だつて、御相手は出來|惡《にく》い譯です。然し事實私は今兄さんと斯うして差向ひで暮してゐながら、左程《さほど》に苦痛を感じてはゐないのです。少くとも傍《はた》で想像するよりは餘程樂なのだらうと考へてゐます。さうして夫《それ》を何故《なぜ》だと聞かれたら、一寸返答に差支《さしつか》へるのです。貴方も同じ兄さんに就いて同じ經驗をなさりはしませんか。若し同じ經驗をなさらないならば、骨肉を分けた貴方よりも、他人の私の方が、兄さんに親《した》しい性質を有《も》つて生れて來たのでせう。親《した》しいといふのは、たゞ仲が好いと云ふ意味ではありません。和《わ》して納《をさ》まるべき特性をどこか相互に分擔して前へ進めるといふ積《つもり》なのです。
 私は旅へ出てから絶えず兄さんの氣に障《さは》る樣な事を云つたり爲《し》たりしました。ある時は頭さへ打《ぶ》たれました。それでも私は貴方の家庭の凡《すべ》ての人の前に立つて、私はまだ兄さんから愛想を盡かされてゐないといふ事を明言出來ると思ひます。同時に、一種の弱點を持つた此兄さんを、私は今でも衷心から敬愛してゐると固く信じて疑はないのであります。
 兄さんは私のやうな凡庸な者の前に、頭を下げて涙を流す程の正しい人です。それを敢てする程の勇氣を有《も》つた人です。それを敢てするのが當然だと判斷する丈《だけ》の識見を具へた人です。兄さんの頭は明か過ぎて、やゝともすると自分を置き去りにして先へ行きたがります。心の他《ほか》の道具が彼の理智と歩調を一つにして前へ進めない所に、兄さんの苦痛があるのです。人格から云へば其處に隙間があるのです。成功から云へば其處に破滅が潜んでゐるのです。此不調和を兄さんの爲に悲しみつゝある私は、凡《すべ》ての原因をあまりに働き過ぎる彼の理智の罪に歸《き》しながら、やつぱり、其理智に對する敬意を失ふ事が出來ないのです。兄さんを唯《たゞ》の氣六《きむ》づかしい人、唯の我儘な人とばかり解釋してゐては、何時《いつ》迄經つても兄さんに近寄る機會は來ないかも知れません。從つて少しでも兄さんの苦痛を柔《やはら》げる縁は、永劫《えいごふ》に去つたものと見なければなりますまい。
 我々は前《ぜん》申した通り箱根を立ちました。さうして直《すぐ》に此|紅《べに》が谷《やつ》の小別莊に入りました。私は其前一寸|國府津《こふづ》に泊つて見る積《つもり》で、暗に一人極《ひとりぎめ》のプログラムを立てゝゐたのですが、とう/\兄さんにはそれを云ひ出さずに仕舞つたのです。國府津《こふづ》でもまた「二度と斯んな所は御免だ」と怒られさうでしたから。其上兄さんは私から此別莊の話を聞いて、しきりに其處へ落ち付きたがつてゐたのです。
 
     四十七
 
 何にでも刺戟され易い癖に、何んな刺我にも堪へ切れないと云つた風の、今の兄さんには、草庵《さうあん》めいた此別莊が最も適してゐたのかも知れません。兄さんは物靜かな座敷から、谷一つ隔てゝ向ふの崖の高い松を見上げた時、「好いな」と云つて其處へ腰を卸しました。
 「あの松も君の所有だ」
 私は慰めるやうな句調で、わざと兄さんの口吻《こうふん》を眞似て見せました。修善寺では頓《とん》と解らなかつた「あの百合は僕の所有だ」とか、「あの山も谷も僕の所有だ」とか云つた兄さんの言葉を想ひ出したからです。
 別莊には留守番の爺さんが一人居ましたが、是は我々と出違《でちがひ》に自分の宅《うち》へ歸りました。夫《それ》でも拭掃除のためや水を汲むために朝夕《あさゆふ》一度位づゝは必ず來て呉れます。男二人の事ですから、※[者/火]炊《にたき》は無論出來ません。我々は爺さんに頼んで近所の宿屋から三度々々食事を運んで貰ふ事にしました。夜は電燈の設備がありますから、洋燈《ランプ》を點《とも》す手數《てかず》は要らないのです。斯ういふ譯で、朝起きてから夜寐る迄に、我々の是非遣らなければならない事は、まあ床を延べて蚊帳を釣る位なものです。
 「自炊よりも氣樂で閑靜だね」と兄さんが云ひます。實際|今《いま》迄《まで》通つて來た山や海のうちで、此處が一番靜に違ないのです。兄さんと差向ひで黙つてゐると、風の音さへ聞こえない事があります。多少|八釜《やかま》しいと思ふのは珊瑚樹《さんごじゆ》の葉隱れにぎい/\軋《きし》る隣の車井戸《くるまゐど》の響ですが、兄さんは案外それには無頓着です。兄さんは段々落付いて來るやうです。私はもつと早く兄さんを此處へ連れて來れば好かつたと思ひました。
 庭先に少しばかりの畠があつて、其處に茄子《なす》や唐《たう》もろこしが作つてあります。此茄子を?《も》いで食はうかと相談しましたが、漬物《つけもの》に拵へるのが面倒なので、つい已《や》めにしました。唐もろこしは未《ま》だ食べられる程|實《み》が入りません。勝手口の井戸の傍《そば》に、トマトーが植ゑてあります。それを朝、顔を洗ふ序《ついで》に、二人で食ひました。
 兄さんは暑い日盛に、此庭だか畑だか分らない地面の上に下りて、凝《ぢつ》と蹲踞《しやが》んでゐる事があります。時々かんなの花の香《にほひ》を嗅いで見たりします。かんなに香《にほひ》なんかありやしません。凋《しぼ》んだ月見草の花片《はなびら》を見詰めてゐる事もあります。着いた日|抔《など》は左隣の長者《ちやうじや》の別莊の境に生えてゐる薄《すゝき》の傍《そば》へ行つて、長い間立つてゐました。私は座敷から其樣子を眺めてゐましたが、何時《いつ》迄經つても兄さんが動かないので、仕舞に縁先にある草履を突掛《つつか》けて、わざ/\傍《そば》へ行つて見ました。隣と我々の住居《すまひ》との仕切になつてゐる其處は、高さ一間位の土堤《どて》で、時節柄一面の薄が蔽ひ被さつてゐるのです。兄さんは近づいた私を顧みて、下の方にある薄の根を指さしました。
 薄の根には蟹《かに》が這つてゐました。小さな蟹でした。親指の爪位の大きさしかありません。それが一匹ではないのです。しばらく見てゐるうちに、一匹が二匹になり、二匹が三匹になるのです。仕舞には彼處《あすこ》にも此處にも蒼蠅《うるさ》い程眼に着き出します。
 「薄の葉を渡る奴があるよ」
 兄さんは斯んな觀察をして、まだ動かずに立つてゐます。私は兄さんを其處へ殘して又|故《もと》の席へ歸りました。
 兄さんが斯ういふ些細《ささい》な事に氣を取られて、殆んど我を忘れるのを見る私は、甚だ愉快です。是でこそ兄さんを旅行に連れ出した甲斐があると思ふ位です。其晩私は其意味を兄さんに話しました。
 
     四十八
 
 「先刻《さつき》君は蟹を所有してゐたぢやないか」
 私が兄さんに突然斯う云ひ掛けますと、兄さんは珍らしくあはゝと聲を立てて愉快さうに笑ひました。修善寺以後、私が時々所有といふ言葉を、妙な意味に使つて見せるので、單にそれを滑稽と解釋してゐる兄さんには可笑《をか》しく響くのでせう。可笑《をか》しがられるのは、怒られるよりも餘つ程|増《ま》しですが、事實私の方ではもつと眞面目なのでした。
 「絶對に所有してゐたのだらう」と私はすぐ云ひ直しました。今度は兄さんも笑ひませんでした。然しまだ何とも答へません。口を開くのは矢張私の番でした。
 「君は絶對々々と云つて、此間《このあひだ》六づかしい議論をしたが、何もさう面倒な無理をして、絶對なんかに這入る必要はないぢやないか。あゝいふ風に蟹に見惚《みと》れてさへゐれば、少しも苦しくはあるまいがね。まづ絶對を意識して、それから其|絶對《ぜつたい》が相對《さうたい》に變《かは》る刹那《せつな》を捕《とら》へて、そこに二つの統一を見出すなんて、隨分骨が折れるだらう。第一人間に出來る事か何だか夫《それ》さへ判然しやしない」
 兄さんはまだ私を遮《さへぎ》らうとはしません。何時《いつ》もよりは大分《だいぶ》落付いてゐる樣でした。私は一歩先へ進みました。
 「それより逆《ぎやく》に行つた方が便利ぢやないか」
 「逆《ぎやく》とは」
 斯う聞き返す兄さんの眼には誠が輝いてゐました。
 「つまり蟹《かに》に見惚《みと》れて、自分を忘れるのさ。自分と對象とがぴたりと合へば、君の云ふ通りになるぢやないか」
 「左右《さう》かな」
 兄さんは心元なささうな返事をしました。
 「さうかなつて、君は現に實行してゐるぢやないか」
 「成程」
 兄さんの此言葉はやはり茫然《ばうぜん》たるものでした。私は此時|不圖《ふと》自分が今迄餘計な事を云つてゐたのに氣が付きました。實を云ふと、私は絶對といふものを丸《まる》で知らないのです。考へもしなかつたのです。想像もした覺がないのです。たゞ教育の御蔭でさう云ふ言葉を使ふ事|丈《だけ》を知つてゐたのです。けれども私は人間として兄さんよりも落付いてゐました。落付いてゐるといふ事が兄さんより偉いといふ意味に聞こえては面目ない位なものですから、私は兄さんより普通一般に近い心の状態を有《も》つてゐたと云ひ直しませう。朋友として私の兄さんに向つて働き掛ける仕事は、だから唯《たゞ》兄さんを私のやうな人並な立場に引き戻す丈《だけ》なのです。然しそれを別な言葉で云つて見ると非凡《ひぼん》なものを平凡《へいぼん》にするといふ馬鹿氣た意味にもなつて來ます。もし兄さんの方で苦痛の訴へがないならば、私のやうなものが、何で兄さんにこんな問答を仕懸けませう。兄さんは正直です。腑《ふ》に落ちなければ何處迄も問ひ詰めて來ます。問ひ詰めて來られゝば、私には解らなくなります。それ丈《だけ》ならまだしもですが、斯ういふ批評的な談話を交換してゐると、折角實行的になりかけた兄さんを、又もとの研究的態度に戻して仕舞ふ恐れがあるのです。私は何より先にそれを氣遣ました。私は天下にありとあらゆる藝術品、高山大河《かうざんたいが》、もしくは美人、何でも構はないから、兄さんの心を悉皆《しつかい》奪ひ盡して、少しの研究的態度も萠し得ない程なものを、兄さんに與へたいのです。さうして約一年ばかり、寸時の間斷なく、其全勢力の支配を受けさせたいのです。兄さんの所謂物を所有するといふ言葉は、必竟《ひつきやう》物に所有されるといふ意味ではありませんか。だから絶對に物から所有される事、即ち絶對に物を所有する事になるのだらうと思ひます。神を信じない兄さんは、其處に至つて始めて世の中に落付けるのでせう。
 
     四十九
 
 一昨日《をとゝひ》の晩は二人で濱を散歩しました。私たちの居る所から海邊《うみべ》迄は約三丁もあります。細い道を通つて、一旦街道へ出て、また夫《それ》を横切らなければ海の色は見えないのです。月の出にはまだ間《ま》がある時刻でした。波は存外暗く動いてゐました。眼がなれる迄は、水と磯《いそ》との境目《さかひめ》が判然《はつきり》分らないのです。兄さんは其中を容赦なくずん/\歩いて行きます。私は時々|生温《なまぬる》い水に足下《あしもと》を襲はれました。岸へ寄せる波の餘りが、のし餅の樣に平《たひ》らに擴がつて、思ひの外遠く迄押し上げて來るのです。私は後《うしろ》から兄さんに、「下駄が濡れやしないか」と聞きました。兄さんは命令でも下すやうに、「尻を端折《はしを》れ」と云ひました。兄さんは先刻《きつき》から足を汚す覺悟で、尻を端折《はしを》つてゐたものと見えます。二三間離れた私にはそれが分らない位|四圍《あたり》が暗いのでした。けれども時節柄なんでせう、避暑地|丈《だけ》あつて人に會ひます。さうして會ふ人も會ふ人も、必ず男女《なんによ》二人連《ふたりづれ》に限られてゐました。彼等は申し合せた樣に、黙つて闇の中を辿《たど》つて來ます。だから忽然《こつぜん》私たちの前へ現はれる迄は、丸《まる》で氣がつかないのです。彼等が摺《す》り拔けるやうに私たちの傍《そば》を通つて行く時、眼を上げて物色《ぶつしよく》すると、どれも是も若い男と若い女ばかりです。私は斯ういふ一對《いつつゐ》に何度か出合ひました。
 私が兄さんからお貞《さだ》さんといふ人の話を聞いたのは其時の事でした。お貞さんは近頃大阪の方へ御嫁に行つたんださうですから、兄さんは其宵に出逢つた幾組かの若い男や女から、お貞さんの花嫁姿を連想でもしたのでせう。
 兄さんはお貞《さだ》さんを宅中《うちぢゆう》で一番慾の寡《すく》ない善良な人間だと云ふのです。あゝ云ふのが幸福に生れて來た人間だと云つて羨ましがるのです。自分もあゝなりたいと云ふのです。お貞さんを知らない私は、何とも評しやうがありませんから、只さうか/\と答へて置きました。すると兄さんが「お貞さんは君を女にしたやうなものだ」と云つて砂の上へ立ち留りました。私も立ち留りました。
 向ふの高い所に微《かす》かな燈火《ともしび》が一つ眼に入りました。晝間見ると、其見當に赤い色の建物が樹《こ》の間隱《まがくれ》に眺められますから、此|燈火《ともしび》も大方其赤い洋館の主《ぬし》が點《つ》けてゐるのでせう。濃い夜陰の色の中にたつた一つ懸け離れて星のやうに光つてゐるのです。私の顔は其|燈火《ともしび》の方を向いてゐました。兄さんは又浪の來る海をまともに受けて立ちました。
 其時二人の頭の上で、ピアノの音《ね》が不意に起りました。其處は砂濱から一間の高さに、石垣を規則正しく積み上げた一構《ひとかまへ》で、庭から濱へぢかに通へるためでせう、石垣の端《はじ》には階段が筋違《すぢかひ》に庭先迄|刻《きざ》み上げてありました。私は其石段を上りました。
 庭には家を洩れる電燈の光が、線のやうに落ちてゐました。其弱い光で照されてゐた地面は一體の芝生でした。花もあちこちに咲いてゐるやうでしたが、是は暗い上に廣い庭なので、判然《はつきり》とは分りませんでした。ピアノの音《おと》は正面に見える洋館の、明るく照された一室から出るやうでした。
 「西洋人の別莊だね」
 「左右《さう》だらう」
 兄さんと私は石段の一番上の所に並んで腰を掛けました。聞こえない樣な又聞こえるやうなピアノの音《おと》が、時々二人の耳を掠《かす》めに來ます。二人共無言でした。兄さんの吸ふ煙草の先が時々赤くなりました。
 
     五十
 
 私はお貞《さだ》さんのつゞきでも出る事と思つて、暗い中でそれとなく兄さんの聲を待ち受けてゐたのですが、兄さんは煙草に魅《み》せられた人の樣に、時々紙卷の先を赤くする丈《だけ》で、中々口を開《ひら》きません。それを石段の下へ投げて私の方へ向いた時は、もう話題がお貞さんを離れてゐました。私は少し意外に思ひました。兄さんの題目は、お貞さんに關係のない許《ばかり》か、ピアノの音《おと》にも、廣い芝生にも、美しい別莊にも、乃至《ないし》は避暑にも旅行にも、凡《すべ》て我々の周圍と現在とは全く交渉を絶つた昔の坊さんの事でした。
 坊さんの名はたしか香嚴《きやうげん》とか云ひました。俗にいふ一を問へば十を答へ、十を問へば百を答へるといつた風の、聰明靈利《そうめいれいり》に生れ付いた人なのださうです。所が其|聰明靈利《そうめいれいり》が悟道《ごだう》の邪魔になつて、何時《いつ》迄經つても道に入《はい》れなかつたと兄さんは語りました。悟《さとり》を知らない私にも此意味は能く通じます。自分の智慧に苦しみ拔いてゐる兄さんには猶更《なほさら》痛切に解つてゐるでせう。兄さんは「全く多知多解《たちたげ》が煩《わづらひ》をなしたのだ」ととくに注意した位です。
 數年《すねん》の間|百丈禅師《ひやくぢやうぜんじ》とかいふ和尚さんに就いて參禅した此坊さんは遂に何の得る所もないうちに師に死なれて仕舞つたのです。それで今度は※[さんずい+爲]山《ゐさん》といふ人の許《もと》に行きました。※[さんずい+爲]山《ゐさん》は御前のやうな意解識想《いげしきさう》を振り舞はして得意がる男はとても駄目だと叱り付けたさうです。父も母も生れない先の姿になつて出て來いと云つたさうです。坊さんは寮舍に歸つて、平生讀み破つた書物上の知識を殘らず點檢した揚句、あゝ/\畫《ゑ》に描《か》いた餅はやはり腹の足《たし》にならなかつたと嘆息したと云ひます。そこで今迄集めた書物をすつかり燒き棄てて仕舞つたのです。
 「もう諦《あきら》めた。是からはたゞ粥《かゆ》を啜《すゝ》つて生きて行かう」
 斯う云つた彼は、それ以後禅のぜの字も考へなくなつたのです。善も投げ惡も投げ、父母《ちゝはゝ》の生れない先の姿も投げ、一切《いつさい》を放下《はうげ》し盡して仕舞つたのです。それからある閑寂《かんじやく》な所を選んで小さな庵《いほり》を建てる氣になりました。彼はそこにある草を芟《か》りました。そこにある株を掘り起しました。地ならしをするために、そこにある石を取つて除《の》けました。すると其石の一つが竹藪に中《あた》つて戞然《かつぜん》と鳴りました。彼は此|朗《ほがら》かな響を聞いて、はつと悟《さと》つたさうです。さうして一撃《いちげき》に所知《しよち》を亡《うしな》ふと云つて喜んだといひます。
 「何うかしで香嚴《きやうげん》になりたい」と兄さんが云ひます。兄さんの意味はあなたにも能く解るでせう。一切の重荷を卸して樂《らく》になりたいのです。兄さんは其重荷を預かつて貰ふ神を有《も》つてゐないのです。だから掃溜《はきだめ》か何かへ棄てて仕舞ひたいと云ふのです。兄さんは聰明な點に於いてよく此|香嚴《きやうげん》といふ坊さんに似てゐます。だから猶《なほ》のこと香嚴《きやうげん》が羨ましいのでせう。
 兄さんの話は西洋人の別莊や、ハイカラな樂器とは、全く縁の遠いものでした。何故《なぜ》兄さんが暗い石段の上で、磯《いそ》の香《か》を嗅ぎながら、突然こんな話をし出したか、それは私には解りません。兄さんの話が濟んだ頃はピアノの音《おと》ももう聞こえませんでした。潮に近いためか、夜露の所爲《せゐ》か、浴衣《ゆかた》が濕《しめ》つぽくなつてゐました。私は兄さんを促《うなが》して又|故《もと》の道へ引き返しました。往來へ出た時、私は行きつけの菓子屋へ寄つて饅頭を買ひました。それを食ひながら暗い中を黙つて宅《うち》迄《まで》歸つて來ました。留守を頼んで置いた爺さんの所の子供は、蚊に喰はれるのも構はずぐう/\寐てゐました。私は饅頭の餘りを遣つて、すぐ子供を歸してやりました。
 
     五十一
 
 昨日《きのふ》の朝食事をした時、飯櫃《めしびつ》を置いた位地の都合から、私が兄さんの茶碗を受けとつて、一膳目の御飯をよそつてやりますと、兄さんは又お貞《さだ》さんの名を私の耳に訴へました。お貞さんがまだ嫁に行かないうちは、丁度今私がしたやうに、始終兄さんのお給仕をしたものださうですね。昨夜《ゆうべ》は性格の點からお貞さんに比較され、今朝は又お給仕の具合で同じお貞さんにたとへられた私は、つい兄さんに向つて質問を掛けて見る氣になりました。
 「君は其お貞《さだ》さんとかいふ人と、斯うして一所に住んでゐたら幸福になれると思ふのか」
 兄さんは黙つて箸を口へ持つて行きました。私は兄さんの態度から推《お》して、大方返事をするのが厭なんだらうと考へたので、それぎり後《あと》を推《お》しませんでした。すると兄さんの答が、御飯を二口三口|嚥《の》み下《くだ》したあとで、不意に出て來ました。
 「僕はお貞《さだ》さんが幸福に生れた人だと云つた。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」
 兄さんの言葉は如何にも論理的に終始を貫いて眞直に見えます。けれども暗い奧には矛盾が既に漂《たゞ》よつてゐます。兄さんは何にも拘泥してゐない自然の顔をみると感謝したくなる程嬉しいと私に明言した事があるのです。それは自分が幸福に生れた以上、他《ひと》を幸福にする事も出來ると云ふのと同じ意味ではありませんか。私は兄さんの顔を見てにや/\と笑ひました。兄さんはさうなると只では濟まされない男です。すぐ食ひ付いて來ます。
 「いや本當にさうなのだ。疑ぐられては困る。實際僕の云つた事は云つた事で、云はない事は云はない事なんだから」
 私は兄さんに逆《さか》らひたくはありませんでした。けれども是程頭の明かな兄さんが、自分の平生から輕蔑してゐる言葉の上の論理を弄《もてあそ》んで、平氣でゐるのは少し可笑《をか》しいと思ひました。それで私の腹にあつた兄さんの矛盾を遠慮なく話して聞かせました。
 兄さんは又無言で飯を二口程頬張りました。兄さんの茶碗は其時|空《から》になりましたが、飯櫃《めしびつ》は依然として兄さんの手の屆かない私の傍《そば》にありました。私はもう一遍給仕をする考へで、兄さんの鼻の先へ手を出したのです。所が今度は兄さんが應じません。此方《こつち》へ寄こして呉れと云ひます。私は飯櫃《めしびつ》を向ふへ押して遣りました。兄さんは自分でしやも子《じ》を取つて、飯をてこ盛《もり》にもり上げました。それから其茶碗を膳の上に置いた儘、箸も執らずに私に問ひ掛けるのです。
 「君は結婚|前《まへ》の女と、結婚|後《ご》の女と同じ女だと思つてゐるのか」
 斯うなると私にはおいそれと返事が出來なくなります。平生そんな事を考へて見ないからでもありませうが。今度は私の方が飯を二口三口立て續けに頬張つて、兄さんの説明を待ちました。
 「嫁に行く前のお貞《さだ》さんと、嫁に行つたあとのお貞さんとは丸《まる》で違つてゐる。今のお貞さんはもう夫《をつと》の爲にスポイルされて仕舞つてゐる」
 「一體|何《ど》んな人の所へ嫁に行つたのかね」と私が途中で聞きました。
 「何《ど》んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫《をつと》のために邪《よこしま》になるのだ。さういふ僕が既に僕の妻《さい》を何《ど》の位惡くしたか分らない。自分が惡くした妻《さい》から、幸福を求めるのは押《おし》が強過ぎるぢやないか。幸福は嫁に行つて天眞《てんしん》を損《そこな》はれた女からは要求出來るものぢやないよ」
 兄さんはさういふや否や、茶碗を取り上げて、むしや/\てこ盛《もり》の飯を平《たひ》らげました。
 
     五十二
 
 私は旅行に出てから今日《こんにち》に至る迄の兄さんを、是で出來る丈《だけ》委しく書いた積《つもり》です。東京を立つたのはつい昨日《きのふ》のやうですが、指を折るともう十日あまりになります。私の書信《たより》を宛《あて》にして待つて居られる貴方や御年寄には、此十日が少し長過ぎたかも知れません。私もそれは察してゐます。然し此手紙の冒頭に御斷りしたやうな事情のために、此處へ來て落ち付く迄は、殆んど筆を執る餘裕がなかつたので、已《やむ》を得ず遲れました。其代り過去十日間のうち、此手紙に洩れた兄さんは一日もありません。私は念を入れて其日其日の兄さんを悉《こと/”\》く此一封のうちに書き込めました。それが私の申譯です。同時に私の誇りです。私は當初の豫期以上に、私の義務を果し得たといふ自信のもとに、此手紙を書き終るのですから。
 私の費やした時間は、時計の針で仕事の分量を計算して見ない努力だから、數字としては申し上げられませんが、隨分の骨折には違ありませんでした。私は生れて始めてこんな長い手紙を書きました。無論一氣には書けません、一日にも書けません。ひまの見付《みつか》り次第机に向つて書き掛けたあとを書き續けて行つたのです。然し夫《それ》は何でもありません。もし私の見た兄さんと、私の理解した兄さんが此一封のうちに動いてゐるならば、私は今より數層倍の手數《てかず》と努力を費やしても厭はない積《つもり》です。
 私は私の親愛するあなたの兄さんのために此手紙を書きます。それから同じく兄さんを親愛する貴方のために此手紙を書きます。最後には慈愛に充ちた御年寄、あなたと兄さんの御父さんや御母さんのためにも此手紙をかきます。私の見た兄さんは恐らく貴方方《あなたがた》の見た兄さんと違つてゐるでせう。私の理解する兄さんも亦《また》貴方方《あなたがた》の理解する兄さんではありますまい。もし此手紙が此努力に價するならば、其價は全くそこにあると考へて下さい。違つた角度から、同じ人を見て別樣の反射を受けた所にあると思つて御參考になさい。
 あなた方は兄さんの將來に就いて、とくに明瞭な知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、豫言者でない私は、未來に喙《くちばし》を挾《さしは》さむ資格を持つて居りません。雲が空に薄暗く被《かぶ》さつた時、雨になる事もありますし、又雨にならずに濟む事もあります。たゞ雲が空にある間《あひだ》、日の目の拜まれないのは事實です。あなた方は兄さんが傍《はた》のものを不愉快にすると云つて、氣の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせて居る樣ですが、自分が幸福でないものに、他《ひと》を幸福にする力がある筈がありません。雲で包まれてゐる太陽に、何故《なぜ》暖かい光を與へないかと逼《せま》るのは、逼《せま》る方が無理でせう。私は斯うして一所にゐる間、出來る丈《だけ》兄さんの爲に此雲を拂はうとしてゐます。貴方方《あなたがた》も兄さんから曖かな光を望む前に、まづ兄さんの頭を取り卷いてゐる雲を散らして上げたら可《い》いでせう。もし夫《それ》が散らせないなら、家族のあなた方には悲しい事が出來るかも知れません。兄さん自身にとつても悲しい結果になるでせう。斯ういふ私も悲しう御座います。
 私は過去十日間の兄さんを書きました。此の十日間の兄さんが、未來の十日間に何うなるかゞ問題で、その問題には誰も答へられないのです。よし次の十日間を私が受け合ふにした所で、次の一ケ月、次の半年《はんとし》の兄さんを誰が受け合へませう。私はたゞ過去十日間の兄さんを忠實に書いた丈《だけ》です。頭の鋭くない私が、讀み直すひまもなく唯《たゞ》書き流したものだから、そのうちには定めて矛盾があるでせう。頭の鋭い兄さんの言行にも氣の付かない所に矛盾があるかも知れません。けれども私は斷言します。兄さんは眞面目です。決して私を胡麻化《ごまか》さうとしては居ません。私も忠實です。貴方を欺《あざむ》く氣は毛頭《まうとう》ないのです。
 私が此手紙を書き始めた時、兄さんはぐう/\寐てゐました。此手紙を書き終る今も亦ぐう/\寐てゐます。私は偶然兄さんの寐てゐる時に書き出して、偶然兄さんの寐てゐる時に書き終る私を妙に考へます。兄さんが此眠から永久|覺《さ》めなかつたら嘸《さぞ》幸福だらうといふ氣が何處かでします。同時にもし此眠から永久覺めなかつたら嘸《さぞ》悲しいだらうといふ氣も何處かでします」
            (2007年6月15日、金、午前9時57分、入力終了。2014年2月26日(水)午前11時40分、校正終了。2020年8月29日(土)午前9時35分再校正終了。)
 
  こゝろ
大正三、四、二〇−三、八、一一
 
  上 先生と私
 
     一
 
 私《わたくし》は其《その》人を常に先生と呼んでゐた。だから此所《こゝ》でもたゞ先生と書く丈《だけ》で本名《ほんみやう》は打ち明けない。是は世間を憚《はゞ》かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其《その》人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。餘所々々《よそ/\》しい頭文字《かしらもじ》抔《など》はとても使ふ氣にならない。
 私《わたくし》が先生と知り合《あひ》になつたのは鎌倉である。其《その》時私はまだ若々しい書生であつた。暑中休暇を利用して海水浴に行つた友達から是非《ぜひ》來いといふ端書を受取つたので、私は多少の金を工面して、出掛《でかけ》る事にした。私は金の工面《くめん》に二三日を費やした。所が私が鎌倉に着いて三日と經《た》たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に國元から歸れといふ電報を受け取つた。電報には母が病氣だからと斷《ことわ》つてあつたけれども友達はそれを信じなかつた。友達はかねてから國元にゐる親達に勸《すゝ》まない結婚を強《し》ひられてゐた。彼は現代の習慣からいふと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の當人が氣に入らなかつた。夫《それ》で夏休みに當然歸るべき所を、わざと避《さ》けて東京の近くで遊んでゐたのである。彼は電報を私に見せて何《ど》うしやうと相談をした。私には何《ど》うして可《い》いか分らなかつた。けれども實際彼の母が病氣であるとすれば彼は固《もと》より歸るべき筈であつた。それで彼はとう/\歸る事になつた。折角來た私は一人《ひとり》取り殘された。
 學校の授業が始まるにはまだ大分《だいぶ》日數《ひかず》があるので、鎌倉に居つても可《よ》し、歸つても可《よ》いといふ境遇にゐた私《わたくし》は、當分元の宿に留《と》まる覺悟をした。友達は中國《ちゆうごく》のある資産家の息子《むすこ》で金に不自由のない男であつたけれども、學校が學校なのと年が年なので、生活の程度は私とさう變りもしなかつた。從つて一人坊《ひとりぼつ》ちになつた私は別に恰好な宿を探《さが》す面倒も有《も》たなかつたのである。
 宿は鎌倉でも邊鄙《へんぴ》な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷《なはて》を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其所此所にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極《ごく》近いので海水浴を遣《や》るには至極《しごく》便利な地位を占めてゐた。
 私《わたくし》は毎日海へ這入《はい》りに出掛けた。古い燻《くす》ぶり返つた藁葺《わらぶき》の間を通り拔けて磯《いそ》へ下りると、此《この》邊《へん》にこれ程の都會人種が住んでゐるかと思ふ程、避暑に來た男や女で砂の上が動いてゐた。ある時は海の中が錢湯の樣に黒い頭でごちゃ/\してゐる事もあつた。其《その》中《なか》に知つた人を一人《ひとり》も有《も》たない私も、斯ういふ賑やかな景色の中に裹《つゝ》まれて、砂の上に寐そべつて見たり、膝頭《ひざがしら》を波に打たして其所いらを跳《は》ね廻るのは愉快であつた。
 私《わたくし》は實に先生を此|雜沓《ざつたふ》の間《あひだ》に見付出《みつけだ》したのである。其《その》時《とき》海岸には掛茶屋が二軒あつた。私は不圖《ふと》した機會《はずみ》から其一軒の方に行き慣《な》れてゐた。長谷《はせ》邊《へん》に大きな別莊を構へてゐる人と違つて、各自《めい/\》に專有の着換場《きがへば》を拵《こしら》えてゐない此所《こゝ》いらの避暑客には、是非共《ぜひとも》斯うした共同着換所といつた風なものが必要なのであつた。彼等は此所《こゝ》で茶を飲み、此所《こゝ》で休息する外《ほか》に、此所《こゝ》で海水着を洗濯させたり、此所《こゝ》で鹹《しほ》はゆい身體《からだ》を清めたり、此所《こゝ》へ帽子や傘《かさ》を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあつたので、私は海へ這入《はい》る度《たび》に其茶屋へ一切《いつさい》を脱ぎ棄てる事にしてゐた。
 
     二
 
 私《わたくし》が其《その》掛茶屋で先生を見た時は、先生が丁度《ちやうど》着物を脱《ぬ》いで是から海へ入《はい》らうとする所であつた。私は其《その》時《とき》反對に濡れた身體《からだ》を風に吹かして水から上つて來た。二人《ふたり》の間には目を遮《さへ》ぎる幾多《いくた》の黒い頭が動いてゐた。特別の事情のない限り、私は遂に先生を見逃《みのが》したかも知れなかつた。それ程|濱邊《はまべ》が混雜し、それ程私の頭が放漫であつたにも拘《かゝ》はらず、私がすぐ先生を見付出《みつけだ》したのは、先生が一人《ひとり》の西洋人を伴《つ》れてゐたからである。
 其《その》西洋人の優《すぐ》れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入《はい》るや否や、すぐ私《わたくし》の注意を惹《ひ》いた。純粹の日本の浴衣《ゆかた》を着てゐた彼は、それを床凡《しやうぎ》の上にすぽりと放《はふ》り出した儘、腕組をして海の方を向いて立つてゐた。彼は我々の穿《は》く猿股《さるまた》一《ひと》つの外《ほか》何物も肌に着けてゐなかつた。私には夫《それ》が第一不思議だつた。私は其|二日前《ふつかまへ》に由井《ゆゐ》が濱《はま》迄行つて、砂の上にしゃがみながら、長い間《あひだ》西洋人の海へ入《はい》る樣子を眺めてゐた。私の尻を卸《おろ》した所は少し小高い丘の上で、其すぐ傍《わき》がホテルの裏口になつてゐたので、私の凝《ぢつ》としてゐる間に、大分多くの男が鹽《しほ》を浴びに出て來たが、いづれも胴《どう》と腕《うで》と股《もゝ》は出してゐなかつた。女は殊更《ことさら》肉を隱《かく》し勝《がち》であつた。大抵は頭に護謨製《ごむせい》の頭巾《づきん》を被《かぶ》つて、海老茶《えぴちや》や紺や藍の色を波間《なみま》に浮かしてゐた。さういふ有樣を目撃した許《ばかり》の私の眼には、猿股|一《ひと》つで濟まして皆《みん》なの前に立つてゐる此《この》西洋人が如何にも珍らしく見えた。
 彼はやがて自分の傍《わき》を顧《かへ》りみて、其所《そこ》にこゞんでゐる日本人に、一言《ひとこと》二言《ふたこと》何か云つた。其《その》日本人は砂の上に落ちた手拭を拾ひ上げてゐる所であつたが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。其人が即ち先生であつた。
 私《わたくし》は單に好奇心の爲に、並《なら》んで濱邊《はまべ》を下りて行く二人《ふたり》の後姿《うしろすがた》を見守つてゐた。すると彼等は眞直に波の中に足を踏み込んだ。さうして遠淺の磯近《いそぢか》くにわい/\騷いでゐる多人數《たにんず》の間《あひだ》を通り拔けて、比較的廣々した所へ來ると、二人《ふたり》とも泳ぎ出した。彼等の頭が小《ちひ》さく見える迄《まで》沖の方へ向いて行つた。夫《それ》から引き返して又一直線に濱邊|迄《まで》戻つて來た。掛茶屋へ歸ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身體を拭いて着物を着て、さつさと何處《どこ》へか行つて仕舞つた。
 彼等の出て行つた後《あと》、私《わたくし》は矢張《やはり》元の床几に腰を卸《おろ》して烟草を吹《ふ》かしてゐた。其時私はぽかんとしながら先生の事を考へた。どうも何處かで見た事のある顔の樣に思はれてならなかつた。然し何《ど》うしても何時《いつ》何處《どこ》で會つた人か想ひ出せずに仕舞つた。
 其時の私《わたくし》は屈託《くつたく》がないといふより寧ろ無聊《ぶれう》に苦しんでゐた。それで翌日《あくるひ》も亦《また》先生に會つた時刻を見計《みはか》らつて、わざ/\掛茶屋|迄《まで》出かけて見た。すると西洋人は來ないで先生|一人《ひとり》麥藁帽を被つて遣つて來た。先生は眼鏡《めがね》をとつて臺の上に置いて、すぐ手拭で頭を包んで、すた/\濱を下りて行つた。先生が昨日《きのふ》の樣に騷がしい浴客の中を通り拔けて、一人《ひとり》で泳ぎ出した時、私は急に其|後《あと》が追ひ掛けたくなつた。私は淺い水を頭の上迄|跳《はね》かして相當の深さの所|迄《まで》來て、其所から先生を目標《めじるし》に拔手を切つた。すると先生は昨日《きのふ》と違つて、一種の弧線《こせん》を描《ゑが》いて、妙な方向から岸の方へ歸り始めた。それで私の目的は遂に達せられなかつた。私が陸《をか》へ上つて雫《しづく》の垂れる手を振りながら掛茶屋に入《はい》ると、先生はもうちやんと着物を着て入違《いれちがひ》に外《そと》へ出て行つた。
 
      三
 
 私《わたくし》は次の日も同じ時刻に濱へ行つて先生の顔を見た。其《その》次の日にも亦《また》同じ事を繰《く》り返《かへ》した。けれども物を云ひ掛《か》ける機會も、挨拶をする場合も、二人《ふたり》の間には起らなかつた。其上《そのうへ》先生の態度は寧《むし》ろ非社交的であつた。一定の時刻に超然《てうぜん》として來て、また超然と歸つて行つた。周圍がいくら賑やかでも、それには殆んど注意を拂ふ樣子が見えなかつた。最初|一所《いつしよ》に來た西洋人は其後《そのご》丸で姿を見せなかつた。先生はいつでも一人《ひとり》であつた。
 或時先生が例の通りさつさと海から上《あが》つて來て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣《ゆかた》を着やうとすると、何うした譯か、其《その》浴衣に砂が一杯《いつぱい》着いてゐた。先生はそれを落《おと》すために、後向《うしろむき》になつて、浴衣を二三度|振《ふる》つた。すると着物の下に置いてあつた眼鏡《めがね》が板の隙間から下へ落ちた。先生は白絣《しろがすり》の上へ兵兒帶《へこおび》を締めてから、眼鏡の失《な》くなつたのに氣が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私《わたくし》はすぐ腰掛の下へ首と手を突ツ込んで眼鏡を拾ひ出した。先生は有難うと云つて、それを私の手から受取つた。
 次の日|私《わたくし》は先生の後《あと》につゞいて海へ飛び込んだ。さうして先生と一所の方角に泳いで行つた。二丁程沖へ出ると、先生は後《うしろ》を振り返つて私に話し掛けた。廣い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所に私等《わたくしら》二人《ふたり》より外《ほか》になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の屆く限り水と山とを照らしてゐた。私は自由と歡喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍《をど》り狂《くる》つた。先生は又ばたりと手足の運動を已《や》めて仰向《あふむけ》になつた儘《まゝ》浪の上に寐た。私も其眞似をした。青空の色がぎら/\と眼を射るやうに痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな聲を出した。
 しばらくして海の中で起き上がる樣に姿勢を改めた先生は、「もう歸りませんか」と云つて私《わたくし》を促《うな》がした。比較的強い體質を有《も》つた私は、もつと海の中で遊んでゐたかつた。然し先生から誘《さそ》はれた時、私はすぐ「えゝ歸りませう」と快よく答へた。さうして二人で又《また》元の路を濱邊へ引き返した。
 私《わたくし》は是から先生と懇意になつた。然し先生が何處にゐるかは未《ま》だ知らなかつた。
 夫《それ》から中|二日《ふつか》置いて丁度|三日目《みつかめ》の午後だつたと思ふ。先生と掛茶屋で出會つた時、先生は突然|私《わたくし》に向つて、「君はまだ大分《だいぶ》長く此所に居る積《つもり》ですか」と聞いた。考のない私は斯ういふ問に答へる丈《だけ》の用意を頭の中《なか》に蓄《たくは》えてゐなかつた。それで「何うだか分りません」と答へた。然しにやにや笑つてゐる先生の顔を見た時、私は急に極《きま》りが惡くなつた。「先生は?」と聞き返さずにはゐられなかつた。是が私の口を出た先生といふ言葉の始りである。
 私《わたくし》は其晩先生の宿を尋ねた。宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内にある別莊のやうな建物であつた。其所に住んでゐる人の先生の家族でない事も解つた。私が先生々々と呼び掛けるので、先生は苦笑《にがわら》ひをした。私はそれが年長者に對する私の口癖《くちくせ》だと云つて辯解した。私は此間の西洋人の事を聞いて見た。先生は彼《かれ》の風變《ふうがは》りの所や、もう鎌倉にゐない事や、色々の話をした末、日本人にさへあまり交際《つきあひ》を有《も》たないのに、さういふ外國人と近付《ちかづき》になつたのは不思議だと云つたりした。私は最後に先生に向つて、何處かで先生を見たやうに思ふけれども、何うしても思ひ出せないと云つた。若い私は其時|暗《あん》に相手も私と同じ樣な感じを持つてゐはしまいかと疑つた。さうして腹の中《なか》で先生の返事を豫期してかゝつた。所が先生はしばらく沈吟《ちんぎん》したあとで、「何うも君の顔には見覺《みおぼえ》がありませんね。人違《ひとちがひ》ぢやないですか」と云つたので私は變に一種の失望を感じた。
 
      四
 
 私《わたくし》は月の末に東京へ歸つた。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずつと前であつた。私は先生と別れる時に、「是から折々御宅へ伺つても宜《よ》ござんすか」と聞いた。先生は單簡《たんかん》にたゞ「えゝ入らつしやい」と云つた丈《だけ》であつた。其時分の私は先生と餘程《よほど》懇意になつた積《つもり》でゐたので、先生からもう少し濃《こまや》かな言葉を豫期して掛つたのである。それで此《この》物足りない返事が少し私の自信を傷《いた》めた。
 私《わたくし》は斯ういふ事でよく先生から失望させられた。先生はそれに氣が付いてゐる樣でもあり、又全く氣が付かない樣でもあつた。私は又《また》輕徴な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く氣にはなれなかつた。寧ろそれとは反對で、不安に搖《うご》かされる度にもつと前へ進みたくなつた。もつと前へ進めば、私の豫期するあるものが、何時《いつ》か眼の前に滿足に現はれて來るだらうと思つた。私は若かつた。けれども凡《すべ》ての人間に對して、若い血が斯う素直《すなほ》に働かうとは思はなかつた。私は何故先生に對して丈《だけ》斯んな心持が起《おこ》るのか解らなかつた。それが先生の亡《な》くなつた今日になつて、始めて解つて來た。先生は始めから私を嫌つてゐたのではなかつたのである。先生が私に示した時々の素氣《そつけ》ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠《とほざ》けやうとする不快の表現ではなかつたのである。傷《いた》ましい先生は、自分に近づかうとする人間に、近づく程の價値のないものだから止《よ》せといふ警告を與へたのである。他《ひと》の懷かしみに應じない先生は、他《ひと》を輕蔑する前に、まづ自分を輕蔑してゐたものと見える。
 私《わたくし》は無論先生を訪《たづ》ねる積《つもり》で東京へ歸つて來た。歸つてから授業の始まる迄にはまだ二週間の日數《ひかず》があるので、其うちに一度行つて置かうと思つた。然し歸つて二日三日《ふつかみつか》と經《た》つうちに、鎌倉に居た時の氣分が段々薄くなつて來た。さうして其上に彩《いろど》られる大都會の空氣が、記憶の復活に伴《ともな》ふ強い刺戟と共に、濃く私の心を染め付けた。私は往來で學生の顔を見るたびに新らしい學年に對する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
 授業が始まつて、一ケ月ばかりすると私《わたくし》の心に、又一種の弛《たる》みが出來てきた。私は何だか不足な顔をして往來を歩き始めた。物欲しさうに自分の室《へや》の中《なか》を見廻した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私は又先生に會ひたくなつた。
 始めて先生の宅《うち》を訪《たづ》ねた時、先生は留守であつた。二度目に行つたのは次の日曜だと覺えてゐる。晴れた空が身に沁《し》み込むやうに感ぜられる好《い》い日和《ひより》であつた。其日も先生は留守であつた。鎌倉にゐた時、私《わたくし》は先生自身の口から、何時《いつ》でも大抵|宅《うち》にゐるといふ事を聞いた。寧ろ外出嫌《ぐわいしゆつぎら》ひだといふ事も聞いた。二度來て二度とも會へなかつた私は、其言葉を思ひ出して、理由《わけ》もない不滿を何處かに感じた。私はすぐ玄關先を去らなかつた。下女の顔を見て少し躊躇して其所に立つてゐた。此前《このまへ》名刺を取次いだ記憶のある下女は、私を待たして置いて又|内《うち》へ這入《はい》つた。すると奧さんらしい人が代つて出て來た。美くしい奧さんであつた。
 私《わたくし》は其人から鄭寧《ていねい》に先生の出先を教へられた。先生は例月其日になると雜司《ざふし》ケ谷《や》の墓地にある或|佛《ほとけ》へ花を手向《たむ》けに行く習慣なのださうである。「たつた今出た許《ばか》りで、十分になるか、ならないかで御座います」と奧さんは氣の毒さうに云つて呉れた。私は會釋《ゑしやく》して外へ出た。賑かな町の方へ一丁程歩くと、私も散歩がてら雜司《ざふし》ケ谷《や》へ行つて見る氣になつた。先生に會へるか會へないかといふ好奇心も動いた。夫《それ》ですぐ踵《きびす》を囘《めぐ》らした。
 
     五
 
 私《わたくし》は墓地の手前にある苗畠《なへばたけ》の左側《ひだりがは》から這入《はい》つて、兩方に楓《かへで》を植ゑ付けた廣い道を奧の方へ進んで行つた。すると其|端《はづ》れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て來た。私は其人の眼鏡《めがね》の縁《ふち》が日に光る迄近く寄つて行つた。さうして出拔《だしぬ》けに「先生」と大きな聲を掛けた。先生は突然立ち留まつて私の顔を見た。
 「何《ど》うして……、何うして……」
 先生は同じ言葉を二遍|繰《く》り返した。其言葉は森閑とした晝の中《うち》に異樣な調子をもつて繰り返された。私《わたくし》は急に何とも應《こた》へられなくなつた。
 「私《わたくし》の後《あと》を跟《つ》けて來たのですか。何うして……」
 先生の態度は寧ろ落付いてゐた。聲は寧ろ沈んでゐた。けれども其表情の中《うち》には判然《はつきり》云へない樣な一種の曇《くもり》があつた。
 私《わたくし》は私が何《ど》うして此所へ來たかを先生に話した。
 「誰の墓へ參りに行つたか、妻《さい》が其人の名を云ひましたか」
 「いゝえ、其んな事は何も仰《おつ》しやいません」
 「さうですか。――さう、夫《それ》は云ふ筈がありませんね、始めて會つた貴方《あなた》に。いふ必要がないんだから」
 先生は漸く得心《とくしん》したらしい樣子であつた。然し私《わたくし》には其《その》意味が丸《まる》で解らなかつた。
 先生と私《わたくし》は通《とほり》へ出やうとして墓の間を拔けた。依撒伯拉《いさべら》何々の墓だの、神僕《しんぼく》ロギンの墓だのといふ傍《かたはら》に、一切衆生悉有佛生《いつさいしゆじやうしつうぶつしやう》と書いた塔婆《たふば》などが建《た》てゝあつた。全權公使何々といふのもあつた。私は安得烈と彫《ほ》り付けた小《ちひ》さい墓の前で、「是は何《なん》と讀むんでせう」と先生に聞いた。「アンドレとでも讀ませる積《つもり》でせうね」と云つて先生は苦笑《くせう》した。
 先生は是等の墓標が現《あら》はす人|種々《さま/”\》の樣式に對して、私《わたくし》程《ほど》に滑稽もアイロニーも認めてないらしかつた。私が丸《まる》い墓石だの細長い御影《みかげ》の碑《ひ》だのを指《さ》して、しきりに彼是《かれこれ》云ひたがるのを、始めのうちは黙つて聞いてゐたが、仕舞《しまひ》に「貴方《あなた》は死といふ事實をまだ眞面目に考へた事がありませんね」と云つた。私は黙つた。先生もそれぎり何《なん》とも云はなくなつた。
 墓地の區切《くぎ》り目に、大きな銀杏《いてふ》が一本空を隱《かく》すやうに立つてゐた。其下へ來た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。此木がすつかり黄葉《くわうえふ》して、こゝいらの地面は金色の落葉《おちば》で埋《うづ》まるやうになります」と云つた。先生は月に一度づゝは必ず此木の下を通るのであつた。
 向ふの方で凸凹《でこぼこ》の地面をならして新墓地《しんぼち》を作つてゐる男が、鍬《くは》の手を休めて私達《わたくしたち》を見てゐた。私達は其所から左へ切れてすぐ街道へ出た。
 是から何處へ行くといふ目的《あて》のない私《わたくし》は、たゞ先生の歩く方へ歩いて行つた。先生は何時《いつ》もより口數を利《き》かなかつた。それでも私は左程の窮屈《きゆうくつ》を感じなかつたので、ぶら/\一所に歩いて行つた。
 「すぐ御宅へ御歸りですか」
 「えゝ別に寄る所もありませんから」
 二人は又黙つて南の方へ坂を下りた。
 「先生の御宅の墓地はあすこにあるんですか」と私《わたくし》が又口を利き出した。
 「いゝえ」
 「何方《どなた》の御墓があるんですか。――御親類の御墓ですか」
 「いゝえ」
 先生は是以外に何も答へなかつた。私《わたくし》も其話はそれぎりにして切り上げた。すると一町程歩いた後《あと》で、先生が不意に其所へ戻つて來た。
 「あすこには私の友達の墓があるんです」
 「御友達の御墓へ毎月《まいげつ》御參りをなさるんですか」
 「さうです」
 先生は其日|是《これ》以外を語らなかつた。
 
      六
 
 私《わたくし》はそれから時々先生を訪問するやうになつた。行くたびに先生は在宅であつた。先生に會ふ度數が重なるに伴《つ》れて、私は益《ます/\》繁く先生の玄關へ足を運んだ。
 けれども先生の私《わたくし》に對する熊度は初めて挨拶をした時も、懇意になつた其|後《のち》も、あまり變りはなかつた。先生は何時《いつ》も靜《しづか》であつた。ある時は靜過ぎて淋《さび》しい位であつた。私は最初から先生には近づき難い不思議があるやうに思つてゐた。それでゐて、何《ど》うしても近づかなければ居られないといふ感じが、何處かに強く働らいた。斯ういふ感じを先生に對して有《も》つてゐたものは、多くの人のうちで或は私だけかも知れない。然し其|私《わたくし》丈《だけ》には此直感が後《のち》になつて事實の上に證據立てられたのだから、私は若々しいと云はれても、馬鹿氣てゐると笑はれても、それを見越した自分の直覺をとにかく頼もしく又嬉しく思つてゐる。人間を愛し得る人、愛せずにはゐられない人、それでゐて自分の懷《ふところ》に入らうとするものを、手をひろげて抱《だ》き締《し》める事の出來ない人、――是が先生であつた。
 今云つた通り先生は始終靜かであつた。落付いてゐた。けれども時として變な曇りが其顔を横切る事があつた。窓に黒い鳥影《とりかげ》が射《さ》すやうに。射《さ》すかと思ふと、すぐ消えるには消えたが。私《わたくし》が始めて其曇りを先生の眉間《みけん》に認めたのは、雜司《ざふし》ケ谷《や》の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であつた。私は其異樣の瞬間に、今迄快よく流れてゐた心臓の潮流を一寸《ちよつと》鈍らせた。然しそれは單に一時の結滯に過ぎなかつた。私の心は五分と經《た》たないうちに平素の彈力を回復した。私はそれぎり暗さうなこの雲の影を忘れてしまつた。ゆくりなくまた夫《それ》を思ひ出させられたのは、小春の盡きるに間《ま》のない或る晩の事であつた。
 先生と話してゐた私《わたくし》は、不圖《ふと》先生がわざ/\注意して呉れた銀杏《いてふ》の大樹《たいじゆ》を眼の前に想ひ浮べた。勘定して見ると、先生が毎月《まいげつ》例として墓參に行く日が、それから丁度三日目に當つてゐた。其三日目は私の課業が午《ひる》で終《をへ》る樂《らく》な日であつた。私は先生に向つて斯う云つた。
 「先生|雜司《ざふし》ケ谷《や》の銀杏《いてふ》はもう散つて仕舞つたでせうか」
 「まだ空坊主《からばうず》にはならないでせう」
 先生はさう答へながら私《わたくし》の顔を見守つた。さうして其所からしばし眼を離さなかつた。私はすぐ云つた。
 「今度|御墓參《おはかまゐ》りに入らつしやる時に御伴《おとも》をしても宜《よ》ござんすか。私《わたくし》は先生と一所に彼所《あすこ》いらが散歩して見たい」
 「私《わたくし》は墓參《はかまゐ》りに行くんで、散歩に行くんぢやないですよ」
 「然し序《つい》でに散歩をなすつたら丁度好いぢやありませんか」
 先生は何とも答へなかつた。しばらくしてから、「私《わたくし》のは本當の墓參り丈《だけ》なんだから」と云つて、何處迄も墓參《ぼさん》と散歩を切り離さうとする風に見えた。私《わたくし》と行きたくない口實だか何だが、私には其時の先生が、如何にも子供らしくて變に思はれた。私はなほと先へ出る氣になつた。
 「ぢや御墓參りでも好いから一所に伴《つ》れて行つて下さい。私《わたくし》も御墓參りをしますから」
 實際|私《わたくし》には墓參《ぼさん》と散歩との區別が殆んど無意味のやうに思はれたのである。すると先生の眉がちよつと曇つた。眼のうちにも異樣の光が出た。それは迷惑とも嫌惡《けんを》とも畏怖《ゐふ》とも片付けられない微《かす》かな不安らしいものであつた。私は忽《たちま》ち雜司《ざふし》ケ谷《や》で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思ひ起した。二つの表情は全く同じだつたのである。
 「私《わたくし》は」と先生が云つた。「私はあなたに話す事の出來ないある理由があつて、他《ひと》と一所にあすこへ墓參りには行《ゆ》きたくないのです。自分の妻《さい》さへまだ伴《つ》れて行つた事がないのです」
 
     七
 
 私《わたくし》は不思議に思つた。然し私は先生を研究する氣で其|宅《うち》へ出入《でい》りをするのではなかつた。私はたゞ其儘にして打過ぎた。今考へると其時の私の態度は、私の生活のうちで寧ろ尊《たつと》むべきものゝ一つであつた。私は全くそのために先生と人間らしい温《あたゝ》かい交際《つきあひ》が出來たのだと思ふ。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向つて、研究的に慟らき掛けたなら、二人《ふたり》の間を繋《つな》ぐ同情の糸は、何の容赦《ようしや》もなく其時ふつりと切れて仕舞つたらう。若い私は全く自分の態度を自覺してゐなかつた。それだから尊《たつと》いのかも知れないが、もし間違へて裏へ出たとしたら、何《ど》んな結果が二人《ふたり》の仲に落ちて來たらう。私は想像してもぞつとする。先生はそれでなくても、冷《つめ》たい眼《まなこ》で研究されるのを絶えず恐れてゐたのである。
 私《わたくし》は月に二度|若《もし》くは三度づゝ必ず先生の宅《うち》へ行くやうになつた。私の足が段々繁くなつた時のある日、先生は突然私に向つて聞いた。
 「あなたは何でさう度々《たび/\》私《わたくし》のやうなものの宅《うち》へ遣《や》つて來るのですか」
 「何でと云つて、そんな特別な意味はありません。――然し御邪魔なんですか」
 「邪魔だとは云ひません」
 成程迷惑といふ樣子は、先生の何處にも見えなかつた。私《わたくし》は先生の交際の範圍の極めて狹い事を知つてゐた。先生の元の同級生などで、其頃東京に居るものは殆んど二人《ふたり》か三人しかないといふ事も知つてゐた。先生と同郷の學生などには時たま座敷で同座する場合もあつたが、彼等のいづれもは皆《みん》な私程先生に親しみを有《も》つてゐないやうに見受けられた。
 「私《わたくし》は淋《さび》しい人間です」と先生が云つた。「だから貴方《あなた》の來て下さる事を喜こんでゐます。だから何故《なぜ》さう度々《たび/\》來るのかと云つて聞いたのです」
 「そりや又|何故《なぜ》です」
 私《わたくし》が斯う聞き返した時、先生は何とも答へなかつた。たゞ私の顔を見て「あなたは幾歳《いくつ》ですか」と云つた。
 此問答は私《わたくし》に取つて頗る不得要領のものであつたが、私は其時|底《そこ》迄《まで》押さずに歸つて仕舞つた。しかも夫《それ》から四日《よつか》と經《た》たないうちに又先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否や笑ひ出した。
 「又來ましたね」と云つた。
 「えゝ來ました」と云つて自分も笑つた。
 私《わたくし》は外《ほか》の人から斯う云はれたら屹度《きつと》癪《しやく》に觸《さは》つたらうと思ふ。然し先生に斯う云はれた時は、丸《まる》で反對であつた。癪《しやく》に觸《さは》らない許《ばかり》でなく却《かへ》つて愉快だつた。
 「私《わたくし》は淋《さび》しい人間です」と先生は其晩|又《また》此間の言葉を繰り返した。「私は淋《ざび》しい人間ですが、ことによると貴方《あなた》も淋《さび》しい人間ぢやないですか。私は淋《さび》しくつても年を取つてゐるから、動かずにゐられるが、若いあなたは左右《さう》は行《い》かないのでせう。動ける丈《だけ》動きたいのでせう。動いて何かに打《ぶ》つかりたいのでせう。……」
 「私《わたくし》はちつとも淋《さむ》しくはありません」
 「若いうち程|淋《さむ》しいものはありません。そんなら何故《なぜ》貴方はさう度々《たび/\》私《わたくし》の宅《うち》へ來るのですか」
 此所でも此間の言葉が又先生の口から繰り返された。
 「あなたは私《わたくし》に會《あ》つても恐らくまだ淋《さび》しい氣が何處かでしてゐるでせう。私にはあなたの爲に其|淋《さび》しさを根元《ねもと》から引き拔いて上げる丈《だけ》の力がないんだから。貴方は外《ほか》の方を向いて今に手を廣げなければならなくなります。今に私の宅《うち》の方へは足が向かなくなります」
 先生は斯う云つて淋《さび》しい笑ひ方をした。
 
     八
 
 幸《さいはひ》にして先生の豫言は實現されずに濟んだ。經驗のない當時の私《わたくし》は、此豫言の中《うち》に含まれてゐる明白な意義さへ了解し得なかつた。私は依然として先生に會ひに行つた。其内いつの間《ま》にか先生の食卓で飯を食ふやうになつた。自然の結果奧さんとも口を利かなければならないやうになつた。
 普通の人間として私《わたくし》は女に對して冷淡ではなかつた。けれども年の若い私の今《いま》迄《まで》經過して來た境遇からいつて、私は殆んど交際らしい交際を女に結んだ事がなかつた。それが源因《げんいん》か何《ど》うかは疑問だが、私の興味は往來で出合ふ知りもしない女に向つて多く働く丈《だけ》であつた。先生の奧さんには其前玄關で會つた時、美くしいといふ印象《いんしやう》を受けた。それから會ふたんびに同じ印象を受けない事はなかつた。然しそれ以外に私は是と云つてとくに奧さんに就いて語るべき何物も有《も》たないやうな氣がした。
 是は奧さんに特色がないと云ふよりも、特色を示す機會が來なかつたのだと解釋する方が正當かも知れない。然し私《わたくし》はいつでも先生に付屬《ふぞく》した一部分の樣な心持で奧さんに對してゐた。奧さんも自分の夫《をつと》の所へ來る書生だからといふ好意で、私を遇《ぐう》してゐたらしい。だから中間《ちゆうかん》に立つ先生を取り除《の》ければ、つまり二人《ふたり》はばら/\になつてゐた。それで始めて知《し》り合《あひ》になつた時の奧さんに就いては、たゞ美くしいといふ外《ほか》に何《なん》の感じも殘つてゐない。
 ある時|私《わたくし》は先生の宅《うち》で酒を飲まされた。其時奧さんが出て來て傍《そば》で酌《しやく》をして呉れた。先生はいつもより愉快さうに見えた。奧さんに「御前《おまへ》も一つ御上《おあが》り」と云つて、自分の呑《の》み干《ほ》した盃《さかづき》を差した。奧さんは「私《わたくし》は……」と辭退しかけた後《あと》、迷惑さうにそれを受取つた。奧さんは綺麗《きれい》な眉を寄せて、私の半分ばかり注《つ》いで上げた盃を、唇《くちびる》の先へ持つて行つた。奧さんと先生の間に下《しも》のやうな會話が始まつた。
 「珍らしい事。私《わたくし》に呑めと仰《おつ》しやつた事は滅多《めつた》にないのにね」
 「御前は嫌《きらひ》だからさ。然し稀《たま》には飲むといゝよ。好《い》い心持になるよ」
 「些《ちつ》ともならないわ。苦しいぎりで。でも貴夫《あなた》は大變《たいへん》御愉快さうね、少し御酒《ごしゆ》を召上ると」
 「時によると大變愉快になる。然し何時《いつ》でもといふ譯には行かない」
 「今夜は如何《いかゞ》です」
 「今夜は好《い》い心持だね」
 「是から毎晩少しづゝ召上ると宜《よ》ござんすよ」
 「左右《さう》は行《い》かない」
 「召上《めしや》がつて下さいよ。其《その》方《はう》が淋《さむ》しくなくつて好《い》いから」
 先生の宅《うち》は夫婦と下女だけであつた。行くたびに大抵はひそりとしてゐた。高い笑ひ聲などの聞こえる試《ため》しは丸《まる》でなかつた。或時は宅《うち》の中にゐるものは先生と私《わたくし》だけのやうな氣がした。
 「子供でもあると好いんですがね」と奧さんは私《わたくし》の方を向いて云つた。私は「左右《さう》ですな」と答へた。然し私の心には何の同情も起らなかつた。子供を持つた事のない其時の私は、子供をたゞ蒼蠅《うるさ》いものゝ樣に考へてゐた。
 「一人《ひとり》貰つて遣らうか」と先生が云つた。
 「貰《もらひ》ツ子《こ》ぢや、ねえあなた」と奧さんは又|私《わたくし》の方を向いた。
 「子供は何時《いつ》迄|經《た》つたつて出來つこないよ」と先生が云つた。
 奧さんは黙つてゐた。「何故《なぜ》です」と私《わたくし》が代りに聞いた時先生は「天罰《てんばつ》だからさ」と云つて高く笑つた。
 
     九
 
 私《わたくし》の知る限り先生と奧さんとは、仲の好い夫婦の一|對《つゐ》であつた。家庭の一員として暮《くら》した事のない私のことだから、深い消息《せうそく》は無論解らなかつたけれども、座敷で私と對坐してゐる時、先生は何かの序《ついで》に、下女を呼ばないで、奧さんを呼ぶ事があつた。(奧さんの名は靜《しづ》といつた)先生は「おい靜《しづ》」と何時《いつ》でも襖《ふすま》の方を振り向いた。その呼びかたが私には優《やさ》しく聞こえた。返事をして出て來る奧さんの樣子も甚だ素直《すなほ》であつた。ときたま御馳走になつて、奧さんが席へ現はれる場合|抔《など》には、此關係が一層|明《あき》らかに二人《ふたり》の間に描《ゑが》き出される樣であつた。
 先生は時々奧さんを伴《つ》れて、音樂會だの芝居だのに行つた。夫《それ》から夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私《わたくし》の記憶によると、二三度以上あつた。私は箱根から貰つた繪端書《ゑはがき》をまだ持つてゐる。日光へ行つた時は紅葉《もみぢ》の葉を一枚封じ込めた郵便も貰つた。
 當時の私《わたくし》の眼に映《うつ》つた先生と奧さんの間柄はまづ斯んなものであつた。そのうちにたつた一つの例外があつた。ある日私が何時《いつ》もの通り、先生の玄關から案内を頼まうとすると、座敷の方で誰かの話し聲がした。能《よ》く聞くと、それが尋常の談話でなくつて、どうも言逆《いさか》ひらしかつた。先生の宅《うち》は玄關の次がすぐ座敷になつてゐるので、格子の前に立つてゐた私の耳に其|言逆《いさか》ひの調子|丈《だけ》は略《ほゞ》分つた。さうして其うちの一人《ひとり》が先生だといふ事も、時々高まつて來る男の方の聲で解つた。相手は先生よりも低い音《おん》なので、誰だか判然《はつきり》しなかつたが、何《ど》うも奧さんらしく感ぜられた。泣いてゐる樣でもあつた。私はどうしたものだらうと思つて玄關先で迷つたが、すぐ決心をして其儘下宿へ歸つた。
 妙に不安な心持が私《わたくし》を襲《おそ》つて來た。私は書物を讀んでも呑み込む能力を失《うしな》つて仕舞つた。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開《あ》けた。先生は散歩しやうと云つて、下から私を誘つた。先刻《さつき》帶の間《あひだ》へ包《くる》んだ儘の時計を出して見ると、もう八時過であつた。私は歸つたなりまだ袴を着けてゐた。私は夫《それ》なりすぐ表へ出た。
 其晩|私《わたくし》は先生と一所に麥酒《ビール》を飲んだ。先生は元來《ぐわんらい》酒量に乏《とぼ》しい人であつた。ある程度|迄《まで》飲んで、それで醉へなければ、醉ふ迄飲んで見るといふ冒險の出來ない人であつた。
 「今日は駄目です」と云つて先生は苦笑した。
 「愉快になれませんか」と私《わたくし》は氣の毒さうに聞いた。
 私《わたくし》の腹の中《なか》には始終|先刻《さつき》の事が引つ懸つてゐた。肴《さかな》の骨が咽喉《のど》に刺さつた時の樣に、私は苦しんだ。打ち明《あ》けて見やうかと考へたり、止《よ》した方が好からうかと思ひ直したりする動搖《どうえう》が、妙に私の樣子をそは/\させた。
 「君、今夜は何《ど》うかしてゐますね」と先生の方から云ひ出した。「實《じつ》は私《わたくし》も少し變なのですよ。君に分りますか」
 私《わたくし》は何《なん》の答もし得なかつた。
 「實《じつ》は先刻《さつき》妻《さい》と少し喧嘩をしてね。それで下らない神經を昂奮《かうふん》させて仕舞つたんです」と先生が又云つた。
 「何《ど》うして……」
 私《わたくし》には喧嘩といふ言葉が口へ出て來なかつた。
 「妻《さい》が私《わたくし》を誤解するのです。それを誤解だと云つて聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
 「何《ど》んなに先生を誤解なさるんですか」
 先生は私《わたくし》の此《この》問に答へやうとはしなかつた。
 「妻《さい》が考へてゐるやうな人間なら、私《わたくし》だつて斯んなに苦しんでゐやしない」
 先生が何《ど》んなに苦しんでゐるか、是も私には想像の及ばない問題であつた。
 
     十
 
 二人《ふたり》が歸るとき歩きながらの沈黙が一丁も二丁もつゞいた。其|後《あと》で突然先生が口を利き出した。
 「惡い事をした。怒つて出たから妻《さい》は嘸《さぞ》心配をしてゐるだらう。考へると女は可哀さうなものですね。私《わたくし》の妻《さい》などは私より外《ほか》に丸《まる》で頼りにするものがないんだから」
 先生の言葉は一寸《ちよつと》其所で途切れたが、別に私《わたくし》の返事を期待する樣子もなく、すぐ其續きへ移つて行つた。
 「さう云ふと、夫《をつと》の方は如何にも心丈夫《こゝろぢやうぶ》の樣で少し滑稽だが。君、私《わたくし》は君の眼に何《ど》う映《うつ》りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
 「中位《ちゆうぐらゐ》に見えます」と私は答へた。此《この》答は先生に取つて少し案外らしかつた。先生は又口を閉《と》ぢて、無言で歩き出した。
 先生の宅《うち》へ歸るには私《わたくし》の下宿のつい傍《そば》を通るのが順路であつた。私は其所迄來て、曲《まが》り角《かど》で分れるのが先生に濟まない樣な氣がした。「序《ついで》に御宅の前まで御伴《おとも》しませうか」と云つた。先生は忽《たちま》ち手で私を遮《さへ》ぎつた。
 「もう遲いから早く歸り玉へ。私《わたくし》も早く歸つて遣るんだから、妻君《さいくん》の爲に」
 先生が最後に付け加へた「妻君の爲に」といふ言葉は妙に其時の私《わたくし》の心を暖かにした。私は其言葉のために、歸つてから安心して寐る事が出來た。私は其《その》後《ご》も長い間《あひだ》此「妻君の爲に」といふ言葉を忘れなかつた。
 先生と奧さんの間に起《おこ》つた波瀾《はらん》が、大《たい》したものでない事は是でも解つた。それが又|滅多《めつた》に起《おこ》る現象でなかつた事も、其《その》後《ご》絶えず出入《でいり》をして來た私《わたくし》には略《ほゞ》推察が出來た。それ所か先生はある時斯んな感想すら私に洩らした。
 「私《わたくし》は世の中で女といふものをたつた一人しか知らない。妻《さい》以外の女は殆んど女として私に訴へないのです。妻《さい》の方でも、私を天下にたゞ一人しかない男と思つて呉れてゐます。さういふ意味から云つて、私達は最も幸福に生れた人間の一|對《つゐ》であるべき筈です」
 私《わたくし》は今|前後《ぜんご》の行《ゆ》き掛《がゝ》りを忘れて仕舞《しまつ》たから、先生が何の爲に斯んな自白を私に爲《し》て聞かせたのか、判然《はつきり》云ふ事が出來ない。けれども先生の態度の眞面目であつたのと、調子の沈んでゐたのとは、今《いま》だに記憶に殘つてゐる。其時たゞ私の耳に異樣に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一|對《つゐ》であるべき筈です」といふ最後の一句であつた。先生は何故《なぜ》幸福な人間と云ひ切らないで、あるべき筈であると斷《こと》わつたのか。私にはそれ丈《だけ》が不審であつた。ことに其所《そこ》へ一種の力を入れた先生の語氣が不審であつた。先生は事實|果《はた》して幸福なのだらうか、又幸福であるべき筈でありながら、それ程幸福でないのだらうか。私は心の中《うち》で疑《うた》ぐらざるを得なかつた。けれども其|疑《うたが》ひは一時限《いちじかぎ》り何處《どこ》かへ葬むられて仕舞つた。
 私《わたくし》は其うち先生の留守に行つて、奧さんと二人《ふたり》差向《さしむか》ひで話をする機會に出合つた。先生は其日横濱を出帆する汽船に乘つて外國へ行《ゆ》くべき友人を新橋へ送りに行つて留守であつた。横濱から船に乘る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのは其頃の習慣であつた。私はある書物に就いて先生に話して貰ふ必要があつたので、豫《あらか》じめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行は前日わざ/\告別に來た友人に對する禮義として其日突然|起《おこ》つた出來事であつた。先生はすぐ歸るから留守でも私に待つてゐるやうにと云ひ殘して行つた。それで私は座敷へ上《あが》つて、先生を待つ間《あひだ》、奧さんと話をした。
 
     十一
 
 其時の私《わたくし》は既に大学生であつた。始めて先生の宅《うち》へ來た頃から見るとずつと成人した氣でゐた。奧さんとも大分《だいぶ》懇意になつた後《のち》であつた。私は奧さんに對して何の窮屈も感じなかつた。差向ひで色々の話をした。然しそれは特色のない唯の談話だから、今では丸《まる》で忘れて仕舞つた。そのうちでたつた一つ私の耳に留《と》まつたものがある。然しそれを話す前に、一寸《ちよつと》斷《ことわ》つて置きたい事がある。
 先生は大學出身であつた。是は始めから私《わたくし》に知れてゐた。然し先生の何もしないで遊んでゐるといふ事は、東京へ歸つて少し經《た》つてから始めて分つた。私は其時|何《ど》うして遊んでゐられるのかと思つた。
 先生は丸《まる》で世間に名前を知られてゐない人であつた。だから先生の學問や思想に就ては、先生と密切の關係を有《も》つてゐる私《わたくし》より外に敬意を拂ふもののあるべき筈がなかつた。それを私は常に惜《をし》い事だと云つた。先生は又「私《わたくし》のやうなものが世の中へ出て、口を利いては濟まない」と答へるぎりで、取り合はなかつた。私には其答が謙遜過ぎて却《かへ》つて世間を冷評する樣にも聞こえた。實際先生は時々|昔《むか》しの同級生で今|著名《ちよめい》になつてゐる誰彼を捉《とら》へて、ひどく無遠慮な批評を加へる事があつた。それで私は露骨に其|矛盾《むじゆん》を擧げて云々《うんぬん》して見た。私の精神は反抗の意味といふよりも、世間が先生を知らないで平氣でゐるのが殘念だつたからである。其時先生は沈んだ調子で、「何《ど》うしても私は世間に向つて働らき掛ける資格のない男だから仕方がありません」と云つた。先生の顔には深い一種の表情があり/\と刻《きざ》まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解らなかつたけれども、何しろ二の句の繼げない程に強いものだつたので、私はそれぎり何もいふ勇氣が出なかつた。
 私《わたくし》が奧さんと話してゐる間《あひだ》に、問題が自然先生の事から其所へ落ちて來た。
 「先生は何故《なぜ》あゝやつて、宅《うち》で考へたり勉強したりなさる丈《だけ》で、世の中へ出て仕事をなさらないんでせう」
 「あの人は駄目ですよ。さういふ事が嫌《きらひ》なんですから」
 「つまり下らない事だと悟《さと》つてゐらつしやるんでせうか」
 「悟《さと》るの悟らないのつて、――そりや女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味ぢやないでせう。矢つ張り何か遣りたいのでせう。それでゐて出來ないんです。だから氣の毒ですわ」
 「然し先生は健康からいつて、別に何處も惡い所はない樣ぢやありませんか」
 「丈夫《ぢやうぶ》ですとも。何にも持病はありません」
 「それで何故《なぜ》活動が出來ないんでせう」
 「それが解らないのよ、あなた。それが解る位なら私《もたくし》だつて、こんなに心配しやしません。わからないから氣の毒でたまらないんです」
 奧さんの語氣には非常に同情があつた。それでも口元|丈《だけ》には微笑が見えた。外側《そとがは》から云へば、私《わたくし》の方が寧ろ眞面目だつた。私は六《む》づかしい顔をして默つてゐた。すると奧さんが急に思ひ出した樣に又口を開《ひら》いた。
 「若い時はあんな人ぢやなかつたんですよ。若い時は丸《まる》で違つてゐました。それが全く變つて仕舞つたんです」
 「若い時つて何時《いつ》頃ですか」と私《わたくし》が聞いた。
 「書生時代よ」
 「書生時代から先生を知つてゐらつしやつたんですか」
 奧さんは急に薄赤《うすあか》い顔をした。
 
     十二
 
 奧さんは東京の人であつた。それは甞《かつ》て先生からも奧さん自身からも聞いて知つてゐた。奧さんは「本當いふと合《あひ》の子《こ》なんですよ」と云つた。奧さんの父親はたしか鳥取《とつとり》か何處かの出《で》であるのに、御母《おかあ》さんの方はまだ江戸《えど》といつた時分の市《いち》ケ谷《や》で生れた女なので、奧さんは冗談半分さう云つたのである。所が先生は全く方角|違《ちがひ》の新潟縣人《にひがたけんじん》であつた。だから奧さんがもし先生の書生時代を知つてゐるとすれば、郷里の關係からでない事は明《あき》らかであつた。然し薄赤い顔をした奧さんはそれより以上の話をしたくない樣だつたので、私《わたくし》の方でも深くは聞かずに置いた。
 先生と知合《しりあひ》になつてから先生の亡《な》くなる迄に、私《わたくし》は隨分色々の問題で先生の思想や情操《じやうさう》に觸《ふ》れて見たが、結婚當時の状況に就いては、殆んど何ものも聞き得なかつた。私は時によると、それを善意に解釋しても見た。年輩の先生の事だから、艶《なま》めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと愼《つゝし》んでゐるのだらうと思つた。時によると、又それを惡くも取つた。先生に限らず、奧さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代|前《まへ》の因襲《いんしふ》のうちに成人したために、さういふ艶《つや》つぽい問題になると、正直に自分を開放する丈《だけ》の勇氣がないのだらうと考へた。尤も何方《どちら》も推測に過ぎなかつた。さうして何方《どちら》の推測の裏《うら》にも、二人の結婚の奧に横たはる花やかなロマンスの存在を假定してゐた。
 私《わたくし》の假定は果《はた》して誤らなかつた。けれども私はたゞ戀の半面|丈《だけ》を想像に描《ゑが》き得たに過ぎなかつた。先生は美くしい戀愛の裏《うら》に、恐ろしい悲劇を持つてゐた。さうして其悲劇の何んなに先生に取つて見慘《みじめ》なものであるかは相手の奧さんに丸《まる》で知れてゐなかつた。奧さんは今でもそれを知らずにゐる。先生はそれを奧さんに隱《かく》して死んだ。先生は奧さんの幸福を破壞する前に、先づ自分の生命《せいめい》を破壞して仕舞つた。
 私《わたくし》は今此悲劇に就いて何事も語らない。其悲劇のために寧ろ生れ出たともいへる二人の戀愛に就いては、先刻《さつき》云つた通りであつた。二人とも私には殆んど何も話して呉れなかつた。奧さんは愼《つゝし》みのために、先生は又それ以上の深い理由のために。
 たゞ一つ私《わたくし》の記憶に殘つてゐる事がある。或時|花時分《はなじぶん》に私は先生と一所に上野へ行つた。さうして其所で美くしい一|對《つゐ》の男女《なんによ》を見た。彼等は睦《むつ》まじさうに寄添《よりそ》つて花の下《した》を歩いてゐた。場所が場所なので、花よりも其方《そちら》を向いて眼を峙《そば》だてゝゐる人が澤山あつた。
 「新婚の夫婦のやうだね」と先生が云つた。
 「仲が好ささうですね」と私《わたくし》が答へた。
 先生は苦笑さへしなかつた。二人の男女《なんによ》を視線の外《ほか》に置くやうな方角へ足を向けた。それから私《わたくし》に斯う聞いた。
 「君は戀をした事がありますか」
 私《わたくし》はないと答へた。
 「戀をしたくはありませんか」
 私《わたくし》は答へなかつた。
 「したくない事はないでせう」
 「えゝ」
 「君は今あの男と女を見て、冷評《ひやか》しましたね。あの冷評《ひやかし》のうちには君が戀を求めながら相手を得られないといふ不快の聲が交《まじ》つてゐませう」
 「そんな風《ふう》に聞こえましたか」
 「聞こえました。戀の滿足を味《あぢ》はつてゐる人はもつと暖かい聲を出すものです。然し……然し君、戀は罪惡ですよ。解つてゐますか」
 私《わたくし》は急に驚ろかされた。何とも返事をしなかつた。
 
     十三
 
 我々は群集の中《なか》にゐた。群集はいづれも嬉しさうな顔をしてゐた。其所《そこ》を通り拔けて、花も人も見えない森の中へ來る迄は、同じ問題を口にする機會がなかつた。
 「戀は罪惡ですか」と私《わたくし》が其時突然聞いた。
 「罪惡です。たしかに」と答へた時の先生の語氣は前と同じやうに強かつた。
 「何故《なぜ》ですか」
 「何故《なぜ》だか今に解ります。今にぢやない、もう解つてゐる筈です。あなたの心はとつくの昔から既に戀で動いてゐるぢやありませんか」
 私《わたくし》は一應自分の胸の中《なか》を調べて見た。けれども其所は案外に空虚であつた。思ひ中《あた》るやうなものは何にもなかつた。
 「私《わたくし》の胸の中《なか》に是といふ目的物は一つもありません。私は先生に何も隱してはゐない積《つもり》です」
 「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだらうと思つて動きたくなるのです」
 「今それ程動いちやゐません」
 「あなたは物足りない結果|私《わたくし》の所に動いて來たぢやありませんか」
 「それは左右《さう》かも知れません。然しそれは戀とは違ひます」
 「戀に上《のぼ》る階段なんです。異性と抱《だ》き合ふ順序として、まづ同性の私《わたくし》の所へ動いて來たのです」
 「私《わたくし》には二つのものが全く性質を異《こと》にしてゐるやうに思はれます」
 「いや同じです。私《わたくし》は男として何うしてもあなたに滿足を與へられない人間なのです。それから、ある特別の事情があつて、猶更《なほさら》あなたに滿足を與へられないでゐるのです。私は實際御氣の毒に思つてゐます。あなたが私から餘所《よそ》へ動いて行くのは仕方がない。私は寧ろそれを希望してゐるのです。然し……」
 私《わたくし》は變に悲しくなつた。
 「私《わたくし》が先生から離れて行くやうに御思ひになれば仕方がありませんが、私にそんな氣の起《おこ》つた事はまだありません」
 先生は私《わたくし》の言葉に耳を貸さなかつた。
 「然し氣を付けないと不可《いけ》ない。戀は罪惡なんだから。私《わたくし》の所では滿足が得られない代りに危險もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知つてゐますか」
 私《わたくし》は想像で知つてゐた。然し事實としては知らなかつた。いづれにしても先生のいふ罪惡といふ意味は朦朧《もうろう》としてよく解らなかつた。其上私は少し不愉快になつた。
 「先生、罪惡といふ意味をもつと判然《はつきり》云つて聞かして下さい。それでなければ此間題を此所で切り上げて下さい。私《わたくし》自身に罪惡といふ意味が判然《はつきり》解る迄」
 「惡い事をした。私《わたくし》はあなたに眞實《まこと》を話してゐる氣でゐた。所が實際は、あなたを焦慮《じら》してゐたのだ。私は惡い事をした」
 先生と私《わたくし》とは博物館の裏から鶯溪《うぐひすだに》の方角に靜かな歩調で歩いて行つた。垣の隙間《すきま》から廣い庭の一部に茂る熊笹《くまざゝ》が幽邃《いうすゐ》に見えた。
 「君は私《わたくし》が何故《なぜ》毎月《まいげつ》雜司ケ谷の墓地に埋《うま》つてゐる友人の墓へ參るのか知つてゐますか」
 先生の此問は全く突然であつた。しかも先生は私《わたくし》が此問に對して答へられないといふ事も能く承知してゐた。私はしばらく返事をしなかつた。すると先生は始めて氣が付いたやうに斯う云つた。
 「又惡い事を云つた。焦慮《じら》せるのが惡いと思つて、説明しやうとすると、其説明が又あなたを焦慮《じら》せるやうな結果になる。何《ど》うも仕方がない。此問題はこれで止《や》めませう。とにかく戀は罪惡ですよ、よござんすか。さうして神聖なものですよ」
 私《わたくし》には先生の話が益《ます/\》解らなくなつた。然し先生はそれぎり戀を口にしなかつた。
 
     十四
 
 年の若い私《わたく》は稍《やゝ》ともすると一圖《いちづ》になり易かつた。少なくとも先生の眼にはさう映つてゐたらしい。私には學校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであつた。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであつた。とゞの詰《つま》りをいへば、教壇に立つて私を指導して呉れる偉い人々よりも只《たゞ》獨《ひと》りを守つて多くを語らない先生の方が偉く見えたのであつた。
 「あんまり逆上《のぼせ》ちや不可《いけ》ません」と先生がいつた。
 「覺めた結果として左右《さう》思ふんです」と答へた時の私《わたくし》には充分の自信があつた。其自信を先生は肯《うけ》がつて呉れなかつた。
 「あなたは熱に浮かされてゐるのです。熱がさめると厭《いや》になります。私《わたくし》は今のあなたから夫《それ》程《ほど》に思はれるのを、苦しく感じてゐます。然し是から先の貴方に起るべき變化を豫想して見ると、猶《なほ》苦しくなります」
 「私《わたくし》はそれ程輕薄に思はれてゐるんですか。それ程不信用なんですか」
 「私《わたくし》は御氣の毒に思ふのです」
 「氣の毒だが信用されないと仰しやるんですか」
 先生は迷惑さうに庭の方を向いた。其庭に、此間|迄《まで》重さうな赤い強い色をぽた/\點じてゐた椿《つばき》の花はもう一つも見えなかつた。先生は座敷から此|椿《つばき》の花をよく眺める癖があつた。
 「信用しないつて、特にあなたを信用しないんぢやない。人間全體を信用しないんです」
 其時|生垣《いけがき》の向ふで金魚賣らしい聲がした。其|外《ほか》には何《なん》の聞こえるものもなかつた。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路《こうぢ》は存外靜かであつた。家《うち》の中《なか》は何時《いつ》もの通りひつそりしてゐた。私《わたくし》は次の間に奧さんのゐる事を知つてゐた。黙つて針仕事か何かしてゐる奧さんの耳に私の話し聲が聞こえるといふ事も知つてゐた。然し私は全くそれを忘れて仕舞つた。
 「ぢや奧さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。さうして直接の答を避けた。
 「私《わたくし》は私自身さへ信用してゐないのです。つまり自分で自分が信用出來ないから、人も信用できないやうになつてゐるのです。自分を呪《のろ》ふより外に仕方がないのです」
 「さう六《む》づかしく考へれば、誰だつて確かなものはないでせう」
 「いや考へたんぢやない。遣つたんです。遣つた後《あと》で驚ろいたんです。さうして非常に怖《こは》くなつたんです」
 私《わたくし》はもう少し先|迄《まで》同じ道を辿《たど》つて行きたかつた。すると襖《ふすま》の陰で「あなた、あなた」といふ奧さんの聲が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といつた。奧さんは「一寸《ちよつと》」と先生を次の間へ呼んだ。二人の間に何《ど》んな用事が起つたのか、私には解らなかつた。それを想像する餘裕を與へない程早く先生は又座敷へ歸つて來た。
 「兎に角あまり私《わたくし》を信用しては不可《いけ》ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺《あざ》むかれた返報《へんぱう》に、殘酷《ざんこく》な復讐《ふくしう》をするやうになるものだから」
 「そりや何《ど》ういふ意味ですか」
 「かつては其人の膝の前に跪《ひざま》づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載《の》せさせやうとするのです。私《わたくし》は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥《しり》ぞけたいと思ふのです。私は今より一層|淋《さび》しい未來の私を我慢する代りに、淋《さび》しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己《おの》れとに充ちた現代に生れた我々は、其|犠牲《ぎせい》としてみんな此|淋《さび》しみを味《あぢ》はわなくてはならないでせう」
 私《わたくし》はかういふ覺悟を有《も》つてゐる先生に對して、云ふべき言葉を知らなかつた。
 
     十五
 
 其《その》後《ご》私《わたくし》は奧さんの顔を見るたびに氣になつた。先生は奧さんに對しても始終斯ういふ態度に出るのだらうか。若しさうだとすれば、奧さんはそれで滿足なのだらうか。
 奧さんの樣子は滿足とも不滿足とも極《き》めやうがなかつた。私《わたくし》は夫《それ》程《ほど》近く奧さんに接觸する機會がなかつたから。それから奧さんは私に會ふたびに尋常であつたから。最後に先生の居る席でなければ私と奧さんとは滅多《めつた》に顔を合せなかつたから。
 私《わたくし》の疑惑はまだ其上にもあつた。先生の人間に對する此覺悟は何處から來るのだらうか。たゞ冷《つめ》たい眼で自分を内省したり現代を觀察したりした結果なのだらうか。先生は坐つて考へる質《たち》の人であつた。先生の頭さへあれば、斯ういふ態度は坐つて世の中を考へてゐても自然と出て來るものだらうか。私には左右《さう》ばかりとは思へなかつた。先生の覺悟は生きた覺悟らしかつた。火に燒けて冷却し切つた石造家屋《せきざうかをく》の輪廓《りんくわく》とは違つてゐた。私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であつた。けれども其思想家の纒《まと》め上げた主義の裏《うら》には、強い事實が織り込まれてゐるらしかつた。自分と切り離された他人の事實でなくつて、自分自身が痛切に味《あぢ》はつた事實、血が熱くなつたり脉《みやく》が止《と》まつたりする程の事實が、畳み込まれてゐるらしかつた。
 是は私《わたくし》の胸で推測するがものはない。先生自身既にさうだと告白してゐた。たゞ其告白が雲の峯《みね》のやうであつた。私の頭の上に正體の知れない恐ろしいものを蔽《おほ》ひ被《かぶ》せた。さうして何故《なぜ》それが恐ろしいか私にも解らなかつた。告白はぼうとしてゐた。それでゐて明《あき》らかに私の神經を震《ふる》はせた。
 私《わたくし》は先生の此人生觀の基點に、或強烈な戀愛事件を假定して見た。(無論先生と奧さんとの間に起つた)。先生がかつて戀は罪惡だといつた事から照らし合せて見ると、多少それが手掛《てがゝ》りにもなつた。然し先生は現に奧さんを愛してゐると私に告げた。すると二人の戀から斯んな厭世に近い覺悟が出やう筈がなかつた。「かつては其人の前に跪《ひぎま》づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載《の》せさせやうとする」と云つた先生の言葉は、現代一般の誰彼《たれかれ》に就いて用ひられるべきで、先生と奧さんの間には當てはまらないものゝやうでもあつた。
 雜司《ざふし》ケ谷《や》にある誰だか分らない人の墓、――是も私《わたくし》の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だといふ事を知つてゐた。先生の生活に近づきつゝありながら、近づく事の出來ない私は、先生の頭の中《なか》にある生命《いのち》の斷片として、其墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取つて其墓は全く死んだものであつた。二人の間にある生命《いのち》の扉を開《あ》ける鍵《かぎ》にはならなかつた。寧ろ二人の間に立つて、自由の往來を妨《さま》たげる魔物のやうであつた。
 さう斯うしてゐるうちに、私《わたくし》は又奧さんと差向ひで話しをしなければならない時機が來た。その頃は日の詰つて行くせわしない秋に、誰も注意を惹《ひ》かれる肌寒《はださむ》の季節であつた。先生の附近で盗難に罹《かゝ》つたものが三四日《さんよつか》續いて出た。盗難はいづれも宵の口であつた。大したものを持つて行かれた家《うち》は殆んどなかつたけれども、這入《はい》られた所では必ず何か取られた。奧さんは氣味をわるくした。そこへ先生がある晩|家《うち》を空《あ》けなければならない事情が出來てきた。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職してゐるものが上京したため、先生は外《ほか》の二三名と共に、ある所で其友人に飯を食はせなければならなくなつた。先生は譯を話して、私に歸つてくる間《あひだ》迄の留守番を頼んだ。私はすぐ引受けた。
 
     十六
 
 私《わたくし》の行つたのはまだ灯《ひ》の點《つ》くか點《つ》かない暮方であつたが、几帳面《きちやうめん》な先生はもう宅《うち》にゐなかつた。「時間に後《おく》れると惡いつて、つい今しがた出掛けました」と云つた奧さんは、私を先生の書齋へ案内した。
 書齋には洋机《テーブル》と椅子の外に、澤山の書物が美くしい背皮《せがは》を並《なら》べて、硝子越に電燈の光で照らされてゐた。奧さんは火鉢の前に敷いた座蒲團の上へ私《わたくし》を坐らせて、「ちつと其所いらにある本でも讀んでゐて下さい」と斷つて出て行つた。私は丁度主人の歸りを待ち受ける客のやうな氣がして濟まなかつた。私は畏《かし》こまつた儘|烟草《たばこ》を飲んでゐた。奧さんが茶の間で何か下女に話してゐる聲が聞こえた。書齋は茶の間の縁側を突き當つて折れ曲つた角にあるので、棟《むね》の位置からいふと、座敷よりも却《かへ》つて掛け離れた靜《しづか》さを領《りやう》してゐた。一しきりで奧さんの話聲が已《や》むと、後《あと》はしんとした。私は泥棒を待ち受ける樣な心持で、凝《ぢつ》としながら氣を何處かに配つた。
 三十分程すると、奧さんが又書齋の入口へ顔を出した。「おや」と云つて、輕く驚ろいた時の眼を私《わたくし》に向けた。さうして客に來た人のやうに鹿爪《しかつめ》らしく控えてゐる私を可笑《をか》しさうに見た。
 「それぢや窮屈《きゆうくつ》でせう」
 「いえ、窮屈ぢやありません」
 「でも退屈《たいくつ》でせう」
 「いゝえ。泥棒が來るかと思つて緊張してゐるから退屈でもありません」
 奧さんは手に紅茶々碗《こうちやぢやわん》を持つた儘、笑ひながら其所《そこ》に立つてゐた。
 「此所《こゝ》は隅つこだから番をするには好くありませんね」と私《わたくし》が云つた。
 「ぢや失禮ですがもつと眞中《まんなか》へ出て來て頂戴。御退屈だらうと思つて、御茶を入れて持つて來たんですが、茶の間で宜しければ彼方《あちら》で上げますから」
 私《わたくし》は奧さんの後《あと》に尾《つ》いて書齋を出た。茶の間には綺麗な長火鉢に鐵瓶が鳴つてゐた。私は其處で茶と菓子の御馳走になつた。奧さんは寐られないと不可《いけな》いといつて、茶碗に手を觸れなかつた。
 「先生は矢張《やつぱ》り時々|斯《こ》んな會へ御出掛になるんですか」
 「いゝえ滅多に出た事はありません。近頃は段々人の顔を見るのが嫌《きらひ》になるやうです」
 斯ういつた奧さんの樣子に、別段困つたものだといふ風も見えなかつたので、私《わたくし》はつい大膽になつた。
 「それぢや奧さん丈《だけ》が例外なんですか」
 「いゝえ私《わたくし》も嫌はれてゐる一人《ひとり》なんです」
 「そりや嘘です」と私《わたくし》が云つた。「奧さん自身嘘と知りながら左右《さう》仰《おつし》やるんでせう」
 「何故《なぜ》」
 「私《わたくし》に云はせると、奧さんが好きになつたから世間が嫌ひになるんですもの」
 「あなたは學問をする方《かた》丈《だけ》あつて、中々御上手ね。空《から》つぽな理窟を使ひこなす事が。世の中が嫌《きらひ》になつたから、私《わたくし》迄《まで》も嫌《きらひ》になつたんだとも云はれるぢやありませんか。それと同《おん》なじ理窟で」
 「兩方とも云はれる事は云はれますが、此場合は私《わたくし》の方が正しいのです」
 「議論はいやよ。よく男の方《かた》は議論だけなさるのね、面白さうに。空《から》の盃でよくああ飽きずに獻酬《けんしう》が出來ると思ひますわ」
 奧さんの言葉は少し手痛《てひど》かつた。然し其言葉の耳障《みゝざはり》からいふと、決して猛烈なものではなかつた。自分に頭腦のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出《みいだ》す程に奧さんは現代的でなかつた。奧さんはそれよりもつと底の方に沈んだ心を大事にしてゐるらしく見えた。
 
     十七
 
 私《わたくし》はまだ其|後《あと》にいふべき事を有《も》つてゐた。けれども奧さんから徒《いたづ》らに議論を仕掛ける男のやうに取られては困ると思つて遠慮した。奧さんは飲み干した紅茶々碗《こうちやぢやわん》の底を覗いて黙つてゐる私を外《そ》らさないやうに、「もう一杯上げませうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奧さんの手に渡した。
 「いくつ? 一《ひと》つ? 二《ふた》ッつ?」
 妙なもので角砂糖を撮《つま》み上げた奧さんは、私《わたくし》の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の數を聞いた。奧さんの態度は私に媚《こ》びるといふ程ではなかつたけれども、先刻《さつき》の強い言葉を力《つと》めて打ち消さうとする愛嬌《あいけう》に充《み》ちてゐた。
 私《わたくし》は黙つて茶を飲んだ。飲んでしまつても黙つてゐた。
 「あなた大變《たいへん》默り込んぢまつたのね」と奧さんが云つた。
 「何かいふと又《また》議論を仕掛けるなんて、叱り付けられさうですから」と私《わたくし》は答へた。
 「まさか」と奧さんが再び云つた。
 二人はそれを緒口《いとくち》に又《また》話を始めた。さうして又《また》二人に共通な興味のある先生を問題にした。
 「奧さん、先刻《さつき》の續きをもう少し云はせて下さいませんか。奧さんには空《から》な理窟と聞こえるかも知れませんが、私《わたくし》はそんな上《うは》の空《そら》で云つてる事ぢやないんだから」
 「ぢや仰《おつし》やい」
 「今奧さんが急に居なくなつたとしたら、先生は現在の通りで生きてゐられるでせうか」
 「そりや分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外《ほか》に仕方がないぢやありませんか。私《わたくし》の所へ持つて來る問題ぢやないわ」
 「奧さん、私《わたくし》は眞面目ですよ。だから逃げちや不可《いけ》ません。正直に答へなくつちや」
 「正直よ。正直に云つて私《わたくし》には分らないのよ」
 「ぢや奧さんは先生を何《ど》の位《くらゐ》愛してゐらつしやるんですか。これは先生に聞くより寧ろ奧さんに伺つていゝ質問ですから、あなたに伺ひます」
 「何もそんな事を開き直つて聞かなくつても好いぢやありませんか」
 「眞面目《まじめ》腐つて聞くがものはない。分り切つてると仰《おつし》やるんですか」
 「まあ左右《さう》よ」
 「その位《くらゐ》先生に忠實なあなたが急に居なくなつたら、先生は何《ど》うなるんでせう。世の中の何方《どつち》を向いても面白さうでない先生は、あなたが急にゐなくなつたら後《あと》で何《ど》うなるでせう。先生から見てぢやない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでせうか、不幸になるでせうか」
 「そりや私《わたくし》から見れば分つてゐます。(先生はさう思つてゐないかも知れませんが)。先生は私を離れゝば不幸になる丈《だけ》です。或《あるひ》は生きてゐられないかも知れませんよ。さういふと、己惚《おのぼれ》になるやうですが、私は今《いま》先生を人間として出來る丈《だけ》幸福にしてゐるんだと信じてゐますわ。どんな人があつても私程先生を幸福にできるものはないと迄《まで》思ひ込んでゐますわ。それだから斯うして落ち付いてゐられるんです」
 「その信念が先生の心に好く映《うつ》る筈だと私《わたくし》は思ひますが」
 「それは別問題ですわ」
 「矢張《やつぱ》り先生から嫌はれてゐると仰《おつし》やるんですか」
 「私《わたくし》は嫌はれてるとは思ひません。嫌はれる譯がないんですもの。然し先生は世間が嫌《きらひ》なんでせう。世間といふより近頃では人間が嫌《きらひ》になつてゐるんでせう。だから其人間の一人《いちにん》として、私も好かれる筈がないぢやありませんか」
 奧さんの嫌はれてゐるといふ意味がやつと私《わたくし》に呑み込めた。
 
     十八
 
 私《わたくし》は奧さんの理解力に感心した。奧さんの態度が舊式の日本の女らしくない所も私の注意に一種の刺戟《しげき》を與へた。それで奧さんは其頃|流行《はや》り始めた所謂《いはゆる》新らしい言葉などは殆んど使はなかつた。
 私《わたくし》は女といふものに深い交際《つきあひ》をした經驗のない迂濶《うくわつ》な青年であつた。男としての私は、異性に對する本能から、憧憬《どうけい》の目的物として常に女を夢みてゐた。けれどもそれは懷かしい春の雲を眺めるやうな心持で、たゞ漠然《はくぜん》と夢みてゐたに過ぎなかつた。だから實際の女の前へ出ると、私の感情が突然|變《かは》る事が時々あつた。私は自分の前に現はれた女のために引き付けられる代りに、其場に臨《のぞ》んで却《かへ》つて變な反撥力《はんぱつりよく》を感じた。奧さんに對した私にはそんな氣が丸《まる》で出なかつた。普通|男女《なんによ》の間《あひだ》に横《よこた》はる思想の不平均といふ考《かんがへ》も殆んど起らなかつた。私は奧さんの女であるといふ事を忘れた。私はたゞ誠實なる先生の批評家及び同情家として奧さんを眺めた。
 「奧さん、私《わたくし》が此前|何故《なぜ》先生が世間的にもつと活動なさらないのだらうと云つて、あなたに聞いた時に、あなたは仰《おつし》やつた事がありますね。元はあゝぢやなかつたんだつて」
 「えゝ云ひました。實際|彼《あ》んなぢやなかつたんですもの」
 「何《ど》んなだつたんですか」
 「あなたの希望なさるやうな、又|私《わたくし》の希望するやうな頼《たの》もしい人だつたんです」
 「それが何《ど》うして急に變化なすつたんですか」
 「急にぢやありません、段々あゝなつて來たのよ」
 「奧さんは其《その》間《あひだ》始終先生と一所にゐらしつたんでせう」
 「無論ゐましたわ。夫婦ですもの」
 「ぢや先生が左右《さう》變つて行かれる源因《げんいん》がちやんと解るべき筈ですがね」
 「それだから困るのよ。あなたから左右《さう》云はれると實に辛《つら》いんですが、私《わたくし》には何《ど》う考へても、考へやうがないんですもの。私は今《いま》迄《まで》何遍あの人に、何《ど》うぞ打ち明けて下さいつて頼んで見たか分りやしません」
 「先生は何と仰《おつ》しやるんですか」
 「何《なん》にも云ふ事はない、何《なん》にも心配する事はない、おれは斯ういふ性質になつたんだからと云ふ丈《だけ》で、取り合つて呉れないんです」
 私《わたくし》は默つてゐた。奧さんも言葉を途切《とぎ》らした。下女部屋にゐる下女はことりとも音をさせなかつた。私は丸《まる》で泥棒の事を忘れて仕舞つた。
 「あなたは私《わたくし》に責任があるんだと思つてやしませんか」と突然奧さんが聞いた。
 「いゝえ」と私《わたくし》が答へた。
 「何《ど》うぞ隱《かく》さずに云つて下さい。さう思はれるのは身を切られるより辛《つら》いんだから」と奧さんが又云つた。「是でも私《わたくし》は先生のために出來る丈《だけ》の事はしてゐる積《つもり》なんです」
 「そりゃ先生も左右《さう》認めてゐられるんだから、大丈夫です。御安心なさい、私《わたくし》が保證します」
 奧さんは火鉢の灰を掻《か》き馴《な》らした。それから水注《みづさし》の水を鐵瓶に注《さ》した。鐵瓶は忽ち鳴りを沈めた。
 「私《わたくし》はとう/\辛防《しんばう》し切れなくなつて、先生に聞きました。私に惡い所があるなら遠慮なく云つて下さい、改められる缺點なら改めるからつて、すると先生は、御前《おまへ》に缺點なんかありやしない、缺點はおれの方にある丈《だけ》だと云ふんです。さう云はれると、私《わたくし》悲しくなつて仕樣がないんです、涙が出て猶《なほ》の事自分の惡い所が聞きたくなるんです」
 奧さんは眼の中《うち》に涙を一抔|溜《た》めた。
 
     十九
 
 始め私《わたくし》は理解のある女性《によしやう》として奧さんに對してゐた。私が其氣で話してゐるうちに、奧さんの樣子が次第に變つて來た。奧さんは私の頭腦に訴へる代りに、私の心臓《ハート》を動かし始めた。自分と夫《をつと》の間《あひだ》には何《なん》の蟠《わだか》まりもない、又ない筈であるのに、矢張《やは》り何かある。それだのに眼を開《あ》けて見極《みきは》めやうとすると、矢張《やは》り何にもない。奧さんの苦にする要點は此所《こゝ》にあつた。
 奧さんは最初《さいしよ》世の中を見る先生の眼が厭世的《えんせいてき》だから、其結果として自分も嫌はれてゐるのだと斷言した。さう斷言して置きながら、ちつとも其所に落ち付いてゐられなかつた。底を割ると、却つて其|逆《ぎやく》を考へてゐた。先生は自分を嫌ふ結果、とう/\世の中迄|厭《いや》になつたのだらうと推測《すゐそく》してゐた。けれども何《ど》う骨を折つても、其《その》推測を突き留めて事實とする事が出來なかつた。先生の態度は何處《どこ》迄《まで》も良人《をつと》らしかつた。親切で優しかつた。疑《うたが》ひの塊《かたま》りを其日/\の情合《じやうあひ》で包んで、そつと胸の奧に仕舞つて置いた奧さんは、其晩その包みの中を私《わたくし》の前で開けて見せた。
 「あなた何《ど》う思つて?」と聞いた。「私《わたくし》からあゝなつたのか、それともあなたのいふ人世觀とか何《なん》とかいふものから、あゝなつたのか。隱《かく》さず云つて頂戴」
 私《わたくし》は何も隱《かく》す氣はなかつた。けれども私の知らないあるものが其所に存在してゐるとすれば、私の答が何であらうと、それが奧さんを滿足させる筈がなかつた。さうして私は其所に私の知らないあるものがあると信じてゐた。
 「私《わたくし》には解りません」
 奧さんは豫期《よき》の外《はづ》れた時に見る憐《あは》れな表情を其|咄嗟《とつさ》に現《あら》はした。私《わたくし》はすぐ私の言葉を繼《つ》ぎ足《た》した。
 「然し先生が奧さんを嫌つてゐらつしやらない事|丈《だけ》は保證します。私《わたくし》は先生自身の口から聞いた通りを奧さんに傳へる丈《だけ》です。先生は嘘を吐《つ》かない方《かた》でせう」
 奧さんは何とも答へなかつた。しばらくしてから斯う云つた。
 「實は私《わたくし》すこし思ひ中《あた》る事があるんですけれども……」
 「先生があゝ云ふ風になつた源因《げんいん》に就いてですか」
 「えゝ。もしそれが源因《げんいん》だとすれば、私《わたくし》の責任|丈《だけ》はなくなるんだから、夫《それ》丈《だけ》でも私|大變《たいへん》樂になれるんですが、……」
 「何《ど》んな事ですか」
 奧さんは云ひ澁《しぶ》つて膝の上に置いた自分の手を眺めてゐた。
 「あなた判斷して下すつて。云ふから」
 「私《わたくし》に出來る判斷なら遣ります」
 「みんなは云へないのよ。みんな云ふと叱られるから。叱られない所|丈《だけ》よ」
 私《わたくし》は緊張して唾液《つばき》を呑み込んだ。
 「先生がまだ大學にゐる時分、大變《たいへん》仲の好い御友達が一人あつたのよ。其《その》方《かた》が丁度卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
 奧さんは私《わたくし》の耳に私語《さゝや》くやうな小《ちひ》さな聲で、「實は變死したんです」と云つた。それは「何《ど》うして」と聞き返さずにはゐられない樣な云ひ方であつた。
 「それつ切りしか云へないのよ。けれども其事があつてから後《のち》なんです。先生の性質が段々變つて來たのは。何故《なぜ》其《その》方《かた》が死んだのか、私《わたくし》には解らないの。先生にも恐らく解つてゐないでせう。けれども夫《それ》から先生が變つて來たと思へば、さう思はれない事もないのよ」
 「其人の墓ですか、雜司《ざふし》ケ谷《や》にあるのは」
 「それも云はない事になつてるから云ひません。然し人間は親友を一人|亡《な》くした丈《だけ》で、そんなに變化できるものでせうか。私《わたくし》はそれが知りたくつて堪《たま》らないんです。だから其所《そこ》を一つ貴方に判斷して頂きたいと思ふの」
 私《わたくし》の判斷は寧ろ否定の方に傾いてゐた。
 
     二十
 
 私《わたくし》は私のつらまへた事實の許《ゆる》す限《かぎ》り、奧さんを慰めやうとした。奧さんも亦《また》出來る丈《だけ》私によつて慰さめられたさうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合つた。けれども私はもと/\事の大根《おほね》を攫《つか》んでゐなかつた。奧さんの不安も實は其所に漂《たゞ》よふ薄い雲に似た疑惑から出て來てゐた。事件の眞相になると、奧さん自身にも多くは知れてゐなかつた。知れてゐる所でも悉皆《すつかり》は私に話す事が出來なかつた。從つて慰さめる私も、慰さめられる奧さんも、共《とも》に波に浮いて、ゆら/\してゐた。ゆら/\しながら、奧さんは何處《どこ》迄《まで》も手を出して、覺束《おぼつか》ない私の判斷に縋《すが》り付かうとした。
 十時頃になつて先生の靴の音が玄關に聞こえた時、奧さんは急に今迄の凡《すべ》てを忘れたやうに、前に坐つてゐる私《わたくし》を其方退《そつちの》けにして立ち上つた。さうして格子を開ける先生を殆んど出合頭《であひがしら》に迎へた。私は取り殘されながら、後《あと》から奧さんに尾《つ》いて行つた。下女|丈《だけ》は假寐《うたゝね》でもしてゐたと見えて、ついに出て來なかつた。
 先生は寧ろ機嫌がよかつた。然し奧さんの調子は更によかつた。今しがた奧さんの美くしい眼のうちに溜つた涙の光と、それから黒い眉毛《まゆげ》の根に寄せられた八の字を記憶してゐた私《わたくし》は、其變化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐《いつは》りでなかつたならば、(實際それは詐《いつは》りとは思へなかつたが)、今迄の奧さんの訴へは感傷《センチメント》を玩《もてあそ》ぶためにとくに私を相手に拵《こしら》えた、徒《いたづ》らな女性の遊戯と取れない事もなかつた。尤《もつと》も其時の私には奧さんをそれ程《ほど》批評的に見る氣は起らなかつた。私は奧さんの態度の急に輝やいて來たのを見て、寧ろ安心した。是ならばさう心配する必要もなかつたんだと考へ直した。
 先生は笑ひながら「どうも御苦勞さま、泥棒は來ませんでしたか」と私《わたくし》に聞いた。それから「來ないんで張合《はりあひ》が拔けやしませんか」と云つた。
 歸る時、奧さんは「どうも御氣の毒さま」と會釋した。其|調子《てうし》は忙がしい處を暇《ひま》を潰《つぶ》させて氣の毒だといふよりも、折角來たのに泥棒が這入らなくつて氣の毒だといふ冗談《じようだん》のやうに聞こえた。奧さんはさう云ひながら、先刻《さつき》出した西洋菓子の殘りを、紙に包んで私《わたくし》の手に持たせた。私はそれを袂《たもと》へ入れて、人通りの少ない夜寒《よさむ》の小路《こうぢ》を曲折して賑やかな町の方へ急いだ。
 私《わたくし》は其晩の事を記憶のうちから抽《ひ》き拔いて此所《こゝ》へ詳《くは》しく書いた。是は書く丈《だけ》の必要があるから書いたのだが、實をいふと、奧さんに菓子を貰つて歸るときの氣分では、それ程當夜の會話を重く見てゐなかつた。私は其翌日|午飯《ひるめし》を食ひに學校から歸つてきて、昨夜《ゆうべ》机の上に載《の》せて置いた菓子の包を見ると、すぐ其中からチヨコレートを塗つた鳶色《とびいろ》のカステラを出して頬張《ほゝば》つた。さうしてそれを食ふ時に、必竟《ひつきやう》此菓子を私に呉れた二人の男女《なんによ》は、幸福な一|對《つゐ》として世の中に存在してゐるのだと自覺しつゝ味《あぢ》はつた。
 秋が暮れて冬が來《く》る迄《まで》格別の事もなかつた。私《わたくし》は先生の宅《うち》へ出這《ではい》りをする序《ついで》に、衣服の洗《あら》ひ張《はり》や仕立方などを奧さんに頼んだ。それ迄|襦袢《じゆばん》といふものを着た事のない私が、シヤツの上に黒い襟のかゝつたものを重ねるやうになつたのは此時からであつた。子供のない奧さんは、さういふ世話を燒くのが却《かへ》つて退屈凌《たいくつしの》ぎになつて、結句《けつく》身體《からだ》の藥だ位《ぐらゐ》の事を云つてゐた。
 「こりや手織《ており》ね。こんな地《ぢ》の好《い》い着物は今迄《いままで》縫つた事がないわ。其代り縫ひ惡《にく》いのよそりあ。丸で針が立たないんですもの。御蔭《おかげ》で針を二本折りましたわ」
 斯んな苦情をいふ時ですら、奧さんは別に面倒臭いといふ顔をしなかつた。
 
     二十一
 
 冬が來た時、私《わたくし》は偶然《ぐうぜん》國へ歸《か》へらなければならない事になつた。私の母から受取つた手紙の中に、父の病氣の經過が面白くない樣子を書いて、今が今といふ心配もあるまいが、年《とし》が年だから、出來るなら都合して歸つて來てくれと頼むやうに付け足してあつた。
 父はかねてから腎臓《じんざう》を病《や》んでゐた。中年《ちゆうねん》以後の人に?《しば/\》見る通り、父の此|病《やまひ》は慢性であつた。其代り要心さへしてゐれば急變のないものと當人も家族のものも信じて疑はなかつた。現《げん》に父は養生の御蔭《おかげ》一つで、今日《こんにち》迄《まで》何うか斯うか凌《しの》いで來たやうに客が來ると吹聽《ふいちやう》してゐた。其父が、母の書信によると、庭へ出て何かしてゐる機《はずみ》に突然|眩暈《めまひ》がして引《ひ》ツ繰《くり》返つた。家内のものは輕症の腦溢血《なういつけつ》と思ひ違へて、すぐその手當をした。後《あと》で醫者から何《ど》うも左右《さう》ではないらしい、矢張り持病の結果だらうといふ判斷を得て、始めて卒倒《そつたう》と腎臓病《じんざうびやう》とを結び付けて考へるやうになつたのである。
 冬休みが來るにはまだ少し間《ま》があつた。私《わたくし》は學期の終り迄《まで》待つてゐても差支《さしつかへ》あるまいと思つて一日|二日《ふつか》其儘にして置いた。すると其一日|二日《ふつか》の間《あひだ》に、父の寐てゐる樣子だの、母の心配してゐる顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを甞《な》めた私は、とう/\歸る決心をした。國から旅費を送らせる手數と時間を省くため、私は暇乞かた/”\先生の所へ行つて、要《い》る丈《だけ》の金を一時《いちじ》立て替へてもらふ事にした。
 先生は少し風邪《かぜ》の氣味で、座敷へ出るのが臆劫《おつくふ》だといつて、私《わたくし》をその書齋に通した。書齋の硝子戸《ガラスど》から冬に入《いつ》て稀《まれ》に見るやうな懷かしい和《やは》らかな日光が机掛の上に射してゐた。先生は此日あたりの好い室《へや》の中へ大きな火鉢を置いて、五コ《ごとく》の上に懸けた金盥《かなだらひ》から立ち上《あが》る湯氣で、呼吸の苦しくなるのを防いでゐた。
 「大病は好《い》いが、ちよつとした風邪《かぜ》などは却《かへ》つて厭《いや》なものですね」と云つた先生は、苦笑しながら私《わたくし》の顔を見た。
 先生は病氣といふ病氣をした事のない人であつた。先生の言葉を聞いた私《わたくし》は笑ひたくなつた。
 「私《わたくし》は風邪位《かぜぐらゐ》なら我慢しますが、それ以上の病氣は眞平《まつぴら》です。先生だつて同じ事でせう。試《こゝ》ろみに遣つて御覽になるとよく解ります」
 「左右《さう》かね。私《わたくし》は病氣になる位なら、死病《しびやう》に罹《かゝ》りたいと思つてる」
 私《わたくし》は先生のいふ事に格別注意を拂はなかつた。すぐ母の手紙の話をして、金《かね》の無心《むしん》を申し出た。
 「そりや困るでせう。其《その》位《くらゐ》なら今《いま》手元にある筈だから持つて行き玉へ」
 先生は奧さんを呼んで、必要の金額を私《わたくし》の前に並べさせて呉れた。それを奧の茶箪笥《ちやだんす》か何かの抽出《ひきだし》から出して來た奧さんは、白い半紙の上へ鄭寧《ていねい》に重ねて、「そりや御心配ですね」と云つた。
 「何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。
 「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引《ひ》ツ繰《く》り返るものですか」
 「えゝ」
 先生の奧さんの母親といふ人も私《わたくし》の父と同じ病氣で亡《な》くなつたのだと云ふ事が始めて私に解つた。
 「何《ど》うせ六《む》づかしいんでせう」と私《わたくし》が云つた。
 「左右《さう》さね。私が代られゝば代つて上げても好いが。――嘔氣《はきけ》はあるんですか」
 「何《ど》うですか、何とも書いてないから、大方ないんでせう」
 「吐氣《はきけ》さへ來《こ》なければまだ大丈夫ですよ」と奧さんが云つた。
 私《わたくし》は其晩の汽車で東京を立つた。
 
     二十二
 
 父の病氣は思つた程惡くはなかつた。それでも着いた時は、床《とこ》の上に胡坐《あぐら》をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢して斯《か》う凝《じつ》としてゐる。なにもう起きても好《い》いのさ」と云つた。然し其翌日からは母が止めるのも聞かずに、とう/\床を上げさせて仕舞つた。母は不承無性《ふしようぶしやう》に太織《ふとおり》の蒲團を疊みながら「御父さんは御前が歸つて來たので、急に氣が強くおなりなんだよ」と云つた。私《わたくし》には父の擧動がさして虚勢《きよせい》を張つてゐるやうにも思へなかつた。
 私《わたくし》の兄はある職《しよく》を帶《お》びて遠い九州にゐた。是は萬一の事がある場合でなければ、容易に父母《ちゝはゝ》の顔を見る自由の利かない男であつた。妹は他國へ嫁《とつ》いだ。是も急場の間に合ふ樣に、おいそれと呼び寄せられる女ではなかつた。兄妹《きやうだい》三人のうちで、一番便利なのは矢張り書生をしてゐる私|丈《だけ》であつた。其私が母の云ひ付け通り學校の課業を放《はふ》り出して、休み前《まへ》に歸つて來たといふ事が、父には大きな滿足であつた。
 「是しきの病氣に學校を休ませては氣の毒だ。御母《おかあ》さんがあまり仰山《ぎやうさん》な手紙を書くものだから不可《いけな》い」
 父は口では斯う云つた。斯ういつた許《ばかり》でなく、今迄敷いてゐた床《とこ》を上げさせて、何時《いつ》ものやうな元氣を示した。
 「あんまり輕はずみをして又|逆回《ぶりかへ》すと不可《いけ》ませんよ」
 私《わたくし》の此注意を父は愉快さうに然し極《きは》めて輕く受けた。
 「なに大丈夫、是で何時《いつ》もの樣に要心さへしてゐれば」
 實際父は大丈夫らしかつた。家《いへ》の中《なか》を自由に往來して、息も切れなければ、眩暈《めまひ》も感じなかつた。たゞ顔色|丈《だけ》は普通の人よりも大變惡かつたが、是は又|今《いま》始まつた症状でもないので、私達《わたくしたち》は格別それを氣に留めなかつた。
 私《わたくし》は先生に手紙を書いて恩借《おんしやく》の禮を述べた。正月上京する時に持參するからそれ迄待つてくれるやうにと斷《ことわ》つた。さうして父の病状の思つた程險惡でない事、此分なら當分安心な事、眩暈《めまひ》も嘔氣《はきけ》も皆無《かいむ》な事などを書き連《つら》ねた。最後に先生の風邪に就いても一言《いちごん》の見舞を附け加へた。私は先生の風邪を實際輕く見てゐたので。
 私《わたくし》は其手紙を出す時に決して先生の返事を豫期してゐなかつた。出した後《あと》で父や母と先生の噂などをしながら、遙《はる》かに先生の書齋を想像した。
 「こんど東京へ行くときには椎茸《しひたけ》でも持つて行つて御上げ」
 「えゝ、然し先生が干《ほ》した椎茸《しひたけ》なぞを食ふかしら」
 「旨くはないが、別に嫌《きらひ》な人もないだらう」
 私《わたくし》には椎茸《しひたけ》と先生を結び付けて考へるのが變であつた。
 先生の返事が來た時、私《わたくし》は一寸《ちよつと》驚ろかされた。ことにその内容が特別の用件を含んでゐなかつた時、驚ろかされた。先生はたゞ親切づくで、返事を書いてくれたんだと私は思つた。さう思ふと、その簡單な一本の手紙が私には大層な喜びになつた。尤も是は私が先生から受取つた第一の手紙には相違なかつたが。
 第一といふと私《わたくし》と先生の間《あひだ》に書信の往復がたび/\あつたやうに思はれるが、事實は決してさうでない事を一寸|斷《ことわ》つて置きたい。私は先生の生前にたつた二通の手紙しか貰つてゐない。其一通は今いふ此簡單な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私|宛《あて》で書いた大變長いものである。
 父は病氣の性質として、運動を愼《つゝ》しまなければならないので、床《とこ》を上げてからも、殆んど戸外《そと》へは出なかつた。一度天氣のごく穩《おだ》やかな日の午後庭へ下りた事があるが、其時は萬一を氣遣つて、私《わたくし》が引き添ふやうに傍《そば》に付いてゐた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせやうとしても、父は笑つて應じなかつた。
 
     二十三
 
 私《わたくし》は退屈な父の相手としてよく將碁盤《しやうぎばん》に向つた。二人とも無精《ぶしやう》な性質《たち》なので、炬燵《こたつ》にあたつた儘、盤《ばん》を櫓《やぐら》の上へ載せて、駒《こま》を動かすたびに、わざ/\手を掛蒲團の下から出すやうな事をした。時々|持駒《もちごま》を失《な》くして、次の勝負の來る迄《まで》双方とも知らずにゐたりした。それを母が灰の中から見付出して、火箸《ひばし》で挾《はさ》み上げるといふ滑稽《こつけい》もあつた。
 「碁《ご》だと盤《ばん》が高過ぎる上に、足が着いてゐるから、炬燵《こたつ》の上では打てないが、其所へ來ると將碁盤《しやうぎばん》は好いね、斯うして樂《らく》に差せるから。無精者《ぶしやうもの》には持つて來いだ。もう一番遣らう」
 父は勝つた時は必ずもう一番遣らうと云つた。其癖負けた時にも、もう一番遣らうと云つた。要するに、勝つても負けても、炬燵にあたつて、將碁を差したがる男であつた。始めのうちは珍らしいので、此|隱居《いんきよ》じみた娯樂が私《わたくし》にも相當の興味を與へたが、少し時日《じじつ》が經《た》つに伴《つ》れて、若い私の氣力は其位な刺戟で滿足出來なくなつた。私は金《きん》や香車《きやうしや》を握つた拳《こぶし》を頭の上へ伸《のば》して、時々思ひ切つたあくびをした。
 私《わたくし》は東京の事を考へた。さうして漲《みなぎ》る心臓の血潮《ちしほ》の奧に、活動々々《くわつどう/\》と打ちつゞける鼓動《こどう》を聞いた。不思議にも其|鼓動《こどう》の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められてゐるやうに感じた。
 私《わたくし》は心のうちで、父と先生とを比較して見た。兩方とも世間から見れば、生きてゐるか死んでゐるか分らない程|大人《おとな》しい男であつた。他《ひと》に認められるといふ點からいへば何方《どつち》も零《れい》であつた。それでゐて、此|將碁《しやうぎ》を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた。かつて遊興のために往來《ゆきき》をした覺《おぼえ》のない先生は、歡樂の交際から出る親しみ以上に、何時《いつ》か私の頭に影響を與へてゐた。たゞ頭といふのはあまりに冷《ひやゝ》か過ぎるから、私は胸と云ひ直したい。肉のなかに先生の力が喰《く》ひ込《こ》んでゐると云つても、血のなかに先生の命が流れてゐると云つても、其時の私には少しも誇張でないやうに思はれた。私は父が私の本當の父であり、先生は又いふ迄もなく、あかの他人であるといふ明白《めいはく》な事實を、ことさらに眼の前に並《なら》べて見て、始めて大きな眞理でも發見したかの如くに驚ろいた。
 私《わたくし》がのつそつし出《だ》すと前後して、父や母の眼にも今《いま》迄《まで》珍らしかつた私が段々|陳腐《ちんぷ》になつて來た。是は夏休みなどに國へ歸る誰でもが一樣に經驗する心持だらうと思ふが、當座の一週間位は下にも置かないやうに、ちやほや歡待《もてな》されるのに、其|峠《たうげ》を定規通《ていきどほ》り通り越すと、あとはそろ/\家族の熱が冷《さ》めて來て、仕舞には有つても無くつても構はないものゝやうに粗末《そまつ》に取扱かはれ勝《がち》になるものである。私も滯在中に其|峠《たうげ》を通り越した。其上私は國へ歸るたびに、父にも母にも解らない變な所を東京から持つて歸つた。昔でいふと、儒者《じゆしや》の家《いへ》へ切支丹《きりしたん》の臭《にほひ》を持ち込むやうに、私の持つて歸るものは父とも母とも調和しなかつた。無論私はそれを隱してゐた。けれども元々身に着いてゐるものだから、出すまいと思つても、何時《いつ》かそれが父や母の眼に留《とま》つた。私はつい面白くなくなつた。早く東京へ歸りたくなつた。
 父の病氣は幸ひ現状維持《げんじやうゐぢ》の儘で、少しも惡い方へ進む模樣は見えなかつた。念のためにわざ/\遠くから相當の醫者を招いたりして、愼重に診察して貰つても矢張《やはり》私《わたくし》の知つてゐる以外に異状は認められなかつた。私は冬休みの盡きる少し前に國を立つ事にした。立つと云ひ出すと、人情は妙なもので、父も母も反對した。
 「もう歸るのかい、まだ早いぢやないか」と母が云つた。
 「まだ四五日居ても間に合ふんだらう」と父が云つた。
 私《わたくし》は自分の極《き》めた出立の日を動かさなかつた。
 
     二十四
 
 東京へ歸つて見ると、松飾《まつかざり》はいつか取拂はれてゐた。町は寒い風の吹くに任《まか》せて、何處を見ても是といふ程の正月めいた景氣はなかつた。
 私《わたくし》は早速先生のうちへ金を返しに行つた。例の椎茸《しひたけ》も序《ついで》に持つて行つた。たゞ出すのは少し變だから、母が是を差上げて呉れといひましたとわざ/\斷《ことわ》つて奧さんの前へ置いた。椎茸《しひたけ》は新らしい菓子折に入れてあつた。鄭寧《ていねい》に禮を述べた奧さんは、次の間《ま》へ立つ時、其|折《をり》を持つて見て、輕いのに驚ろかされたのか、「こりや何の御菓子」と聞いた。奧さんは懇意になると、斯んな所に極《きは》めて淡泊《たんぱく》な小供らしい心を見せた。
 二人とも父の病氣について、色々|掛念《けねん》の問を繰り返してくれた中に、先生は斯んな事をいつた。
 「成程|容體《ようだい》を聞くと、今が今|何《ど》うといふ事もないやうですが、病氣が病氣だから餘程氣をつけないと不可《いけ》ません」
 先生は腎臓の病《やまひ》に就いて私《わたくし》の知らない事を多く知つてゐた。
 「自分で病氣に罹《かゝ》つてゐながら、氣が付かないで平氣でゐるのがあの病《やまひ》の特色です。私《わたくし》の知つたある士官は、とう/\それで遣られたが、全く嘘のやうな死に方《かた》をしたんですよ。何しろ傍《そば》に來てゐた細君が看病をする暇《ひま》もなんにもない位なんですからね。夜中《よなか》に一寸《ちよつと》苦しいと云つて、細君を起したぎり、翌《あく》る朝はもう死んでゐたんです。しかも細君は夫《をつと》が寐てゐるとばかり思つてたんだつて云ふんだから」
 今迄《いままで》樂天的に傾《かた》むいてゐた私《わたくし》は急に不安になつた。
 「私《わたくし》の父《おやぢ》もそんなになるでせうか。ならんとも云へないですね」
 「醫者は何と云ふのです」
 「醫者は到底《とても》治《なほ》らないといふんです。けれども當分の所心配はあるまいともいふんです」
 「夫《それ》ぢや好《い》いでせう。醫者が左右《さう》いふなら。私《わたくし》の今話したのは氣が付かずにゐた人の事で、しかもそれが隨分亂暴な軍人なんだから」
 私《わたくし》は稍《やゝ》安心した。私の變化を凝《じつ》と見てゐた先生は、それから斯う付け足した。
 「然し人間は健康にしろ病氣にしろ、どつちにしても脆《もろ》いものですね。いつ何《ど》んな事で何《ど》んな死にやうをしないとも限らないから」
 「先生もそんな事を考へて御出《おいで》ですか」
 「いくら丈夫の私《わたくし》でも、滿更《まんざら》考へない事もありません」
 先生の口元には微笑《びせう》の影が見えた。
 「よくころりと死ぬ人があるぢやありませんか。自然に。それからあつと思ふ間に死ぬ人もあるでせう。不自然な暴力で」
 「不自然な暴力つて何ですか」
 「何だかそれは私《わたくし》にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使ふんでせう」
 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」
 「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程|左右《さう》いへば左右《さう》だ」
 其日はそれで歸つた。歸つてからも父の病氣の事はそれ程|苦《く》にならなかつた。先生のいつた自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいふ言葉も、其場限《そのばかぎ》りの淺い印象を與へた丈《だけ》で、後《あと》は何等《なんら》のこだわりを私《わたくし》の頭に殘さなかつた。私は今迄|幾度《いくたび》か手を着けやうとしては手を引つ込めた卒業論文を、愈《いよ/\》本式に書き始めなければならないと思ひ出した。
 
     二十五
 
 其年の六月に卒業する筈の私《わたくし》は、是非共《ぜひとも》此論文を成規通《せいきどほ》り四月一杯に書き上げて仕舞はなければならなかつた。二、三、四と指を折つて餘る時日《じじつ》を勘定して見た時、私は少し自分の度胸《どきよう》を疑ぐつた。他《ほか》のものは餘程《よほど》前《まへ》から材料を蒐《あつ》めたり、ノートを溜《た》めたりして、餘所目《よそめ》にも忙がしさうに見えるのに、私|丈《だけ》はまだ何《なん》にも手を着けずにゐた。私にはたゞ年が改たまつたら大いに遣らうといふ決心|丈《だけ》があつた。私は其決心で遣り出した。さうして忽ち動けなくなつた。今迄大きな問題を空《くう》に描《ゑが》いて、骨組|丈《だけ》は略《ほゞ》出來上つてゐる位に考へてゐた私は、頭を抑えて惱み始めた。私はそれから論文の問題を小《ちひ》さくした。さうして練り上げた思想を系統的に纒《まと》める手數《てすう》を省くために、たゞ書物の中にある材料を並《なら》べて、それに相當な結論を一寸《ちよつと》付け加へる事にした。
 私《わたくし》の選擇した問題は先生の專門と縁故の近いものであつた。私がかつてその選擇に就いて先生の意見を尋《たづ》ねた時、先生は好いでせうと云つた。狼狽《らうばい》した氣味の私は、早速先生の所へ出掛けて、私の讀まなければならない參考書を聞いた。先生は自分の知つてゐる限りの知識を、快よく私に與へて呉れた上に、必要の書物を二三册貨さうと云つた。然し先生は此點について毫《がう》も私を指導する任に當らうとしなかつた。
 「近頃はあんまり書物を讀まないから、新らしい事は知りませんよ。學校の先生に聞いた方が好いでせう」
 先生は一時非常の讀書家であつたが、其《その》後《ご》何《ど》ういふ譯か、前程《まへほど》此方面に興味が働らかなくなつたやうだと、かつて奧さんから聞いた事があるのを、私《わたくし》は其時|不圖《ふと》思ひ出した。私は論文を餘所《よそ》にして、そゞろに口を開《ひら》いた。
 「先生は何故《なぜ》元のやうに書物に興味を有《も》ち得ないんですか」
 「何故《なぜ》といふ譯もありませんが。……つまり幾何《いくら》本を讀んでもそれ程えらくならないと思ふ所爲《せゐ》でせう。それから……」
 「それから、未《ま》だあるんですか」
 「まだあるといふ程の理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと耻のやうに極《きまり》が惡かつたものだが、近頃は知らないといふ事が、それ程の耻でないやうに見え出したものだから、つい無理にも本を讀んで見やうといふ元氣が出なくなつたのでせう。まあ早く云へば老《お》い込《こ》んだのです」
 先生の言葉は寧ろ平靜《へいせい》であつた。世間に脊中《せなか》を向けた人の苦味《くみ》を帶びてゐなかつた丈《だけ》に、私《わたくし》にはそれ程の手應《てごたへ》もなかつた。私は先生を老《お》い《こ》込んだとも思はない代りに、偉いとも感心せずに歸つた。
 それからの私《わたくし》は殆んど論文に祟《たゝ》られた精神病者の樣に眼を赤くして苦しんだ。私は一年前に卒業した友達に就いて、色々樣子を聞いて見たりした。そのうちの一人《いちにん》は締切《しめきり》の日に車で事務所へ馳《か》けつけて漸く間に合はせたと云つた。他の一人《いちにん》は五時を十五分程|後《おく》らして持つて行つたため、危《あや》うく跳《は》ね付けられやうとした所を、主任教授の好意でやつと受理して貰つたと云つた。私は不安を感ずると共に度胸を据ゑた。毎日机の前で精根《せいこん》のつゞく限り働らいた。でなければ、薄暗い書庫に這入つて、高い本棚のあちらこちらを見廻した。私の眼は好事家《かうずか》が骨董《こつとう》でも掘《ほ》り出《だ》す時のやうに背表紙《せびやうし》の金文字をあさつた。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々|向《むき》を南へ更《か》へて行つた。それが一仕切《ひとしきり》經《た》つと、櫻の噂がちらほら私《わたくし》の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬《ばしやうま》のやうに正面|許《ばかり》見て、論文に鞭《むちう》たれた。私はついに四月の下旬が來て、やつと豫定通りのものを書き上げる迄、先生の敷居を跨《また》がなかつた。
 
     二十六
 
 私《わたくし》の自由になつたのは、八重櫻《やへざくら》の散つた枝にいつしか青い葉が霞むやうに伸び始める初夏《しよか》の季節であつた。私は籠を拔け出した小鳥の心をもつて、廣い天地を一目《ひとめ》に見渡しながら、自由に羽搏《はばた》きをした。私はすぐ先生の家《うち》へ行つた。枳殻《からたち》の垣が黒ずんだ枝の上に、萌《もえ》るやうな芽を吹いてゐたり、柘榴《ざくろ》の枯れた幹から、つや/\しい茶褐色《ちやかつしよく》の葉が、柔《やは》らかさうに日光を映してゐたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るやうな珍らしさを覺えた。
 先生は嬉しさうな私《わたくし》の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といつた。私は「御蔭で漸《やう》やく濟みました。もう何《なん》にもする事はありません」と云つた。
 實際其時の私《わたくし》は、自分のなすべき凡《すべ》ての仕事が既に結了《けつれう》して、是から先は威張《ゐば》つて遊んで居ても構はないやうな晴やかな心持でゐた。私は書き上げた自分の論文に對して充分の自信と滿足を有《も》つてゐた。私は先生の前で、しきりに其内容を喋々《てふ/\》した。先生は何時《いつ》もの調子で、「成程」とか、「左右《さう》ですか」とか云つてくれたが、それ以上の批評は少しも加へなかつた。私は物足りないといふよりも、聊《いさゝ》か拍子《ひやうし》拔けの氣味であつた。それでも其日私の氣力は、因循《いんじゆん》らしく見える先生の態度に逆襲を試《こゝろ》みる程に生々《いき/\》してゐた。私は青く蘇生《よみがへ》らうとする大きな自然の中《なか》に、先生を誘ひ出さうとした。
 「先生何處かへ散歩しませう。外へ出ると大變好い心持です」
 「何處へ」
 私は何處でも構はなかつた。たゞ先生を伴《つ》れて郊外へ出たかつた。
 一時間の後《のち》、先生と私《わたくし》は目的通り市を離れて、村とも町とも區別の付かない靜かな所を宛《あて》もなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を?《も》ぎ取つて芝笛《しばぶえ》を鳴らした。ある鹿兒島人《かごしまじん》を友達にもつて、その人の眞似をしつゝ自然に習ひ覺えた私は、此|芝笛《しばぶえ》といふものを鳴らす事が上手であつた。私が得意にそれを吹きつゞけると、先生は知らん顔をして餘所《よそ》を向いて歩いた。
 やがて若葉に鎖《と》ざされたやうに蓊欝《こんもり》した小高い一構《ひとかまへ》の下に細い路が開《ひら》けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだら/\上《のぼ》りになつてゐる入口を眺めて、「這《は》入つて見やうか」と云つた。私《わたくし》はすぐ「植木屋ですね」と答へた。
 植込の中を一《ひと》うねりして奧へ上《のぼ》ると左側に家《うち》があつた。明け放つた障子の内はがらんとして人の影も見えなかつた。たゞ軒先に据ゑた大きな鉢の中に飼つてある金魚が動いてゐた。
 「靜かだね。斷《こと》わらずに這入《はい》つても構はないだらうか」
 「構はないでせう」
 二人は又奧の方へ進んだ。然しそこにも人影は見えなかつた。躑躅《つゝじ》が燃えるやうに咲き亂れてゐた。先生はそのうちで樺色《かばいろ》の丈《たけ》の高いのを指《さ》して、「是は霧島《きりしま》でせう」と云つた。
 芍藥《しやくやく》も十坪あまり一面に植付けられてゐたが、まだ季節が來ないので花を着けてゐるのは一本もなかつた。此|芍藥畠《しやくやくばたけ》の傍《そば》にある古びた縁臺のやうなものゝ上に先生は大《だい》の字《じ》なりに寐た。私《わたくし》は其餘つた端《はじ》の方に腰を卸《おろ》して烟草を吹かした。先生は蒼い透き徹《とほ》るやうな空を見てゐた。私は私を包む若葉の色に心を奪はれてゐた。其《その》若葉の色をよく/\眺めると、一々違つてゐた。同じ楓《かへで》の樹でも同じ色を枝に着けてゐるものは一つもなかつた。細い杉苗の頂《いたゞき》に投げ被《かぶ》せてあつた先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
 
     二十七
 
 私《わたくし》はすぐ其帽子を取り上げた。所々に着いてゐる赤土を爪で彈《はじ》きながら先生を呼んだ。
 「先生帽子が落ちました」
 「ありがたう」
 身體《からだ》を半分起してそれを受取つた先生は、起きるとも寐るとも片付かない其姿勢の儘で、變な事を私《わたくし》に聞いた。
 「突然だが、君の家《うち》には財産が餘程《よつぽど》あるんですか」
 「あるといふ程ありやしません」
 「まあ何《ど》の位《くらゐ》あるのかね。失禮の樣だが」
 「何《ど》の位《くらゐ》つて、山と田地《でんぢ》が少しある限《ぎり》で、金なんか丸《まる》で無いんでせう」
 先生が私《わたくし》の家《いへ》の經濟に就いて、問らしい問を掛けたのはこれが始めてゞあつた。私の方はまだ先生の暮《くら》し向《むき》に關して、何も聞いた事がなかつた。先生と知合《しりあひ》になつた始め、私は先生が何《ど》うして遊んでゐられるかを疑《うた》ぐつた。其《その》後《ご》も此疑ひは絶えず私の胸を去らなかつた。然し私はそんな露骨《あらは》な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけと許《ばかり》思つて何時《いつ》でも控えてゐた。若葉の色で疲れた眼を休ませてゐた私の心は、偶然また其《その》疑ひに觸れた。
 「先生は何《ど》うなんです。何《ど》の位《くらゐ》の財産を有《も》つてゐらつしやるんですか」
 「私《わたくし》は財産家と見えますか」
 先生は平生から寧ろ質素な服裝《なり》をしてゐた。それに家内《かない》は小人數《こにんず》であつた。從つて住宅も決して廣くはなかつた。けれども其生活の物質的に豐《ゆたか》な事は、内輪《うちわ》に這入《はい》り込まない私《わたくし》の眼にさへ明《あき》らかであつた。要するに先生の暮《くら》しは贅澤といへない迄も、あたぢけなく切り詰めた無彈力性のものではなかつた。
 「左右《さう》でせう」と私《わたくし》が云つた。
 「そりや其位の金はあるさ。けれども決して財産家ぢやありません。財産家ならもつと大きな家《うち》でも造るさ」
 此時先生は起き上つて、縁臺の上に胡坐《あぐら》をかいてゐたが、斯う云ひ終ると、竹の杖の先で地面の上へ圓《ゑん》のやうなものを描《か》き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直《まつすぐ》に立てた。
 「是でも元は財産家なんだがなあ」
 先生の言葉は半分|獨言《ひとりごと》のやうであつた。それですぐ後《あと》に尾《つ》いて行き損《そこ》なつた私《わたくし》は、つい黙つてゐた。
 「是でも元は財産家なんですよ、君」と云ひ直した先生は、次に私《わたくし》の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答へなかつた。寧ろ不調法で答へられなかつたのである。すると先生が又問題を他《よそ》へ移した。
 「あなたの御父さんの病氣は其《その》後《ご》何《ど》うなりました」
 私《わたくし》は父の病氣について正月以後|何《なん》にも知らなかつた。月々國から送つてくれる爲替《かはせ》と共に來る簡單な手紙は、例の通り父の手蹟であつたが、病氣の訴へはそのうちに殆んど見當らなかつた。其上書體も確《たしか》であつた。此種の病人に見る顫《ふるへ》が少しも筆の運《はこび》を亂してゐなかつた。
 「何とも云つて來ませんが、もう好いんでせう」
 「好ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
 「矢張《やつぱ》り駄目ですかね。でも當分は持ち合つてるんでせう。何《なん》とも云つて來ませんよ」
 「さうですか」
 私《わたくし》は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病氣を尋《たづ》ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだ儘を其通り口にする、普通の談話と思つて聞いてゐた。所が先生の言葉の底には兩方を結び付ける大きな意味があつた。先生自身の經驗を持たない私は無論其處に氣が付く筈がなかつた。
 
     二十八
 
 「君のうちに財産があるなら、今のうちに能く始末をつけて貰つて置かないと不可《いけな》いと思ふがね、餘計な御世話だけれども。君の御父さんが達者なうちに、貰うものはちやんと貰つて置くやうにしたら何《ど》うですか。萬一の事があつたあとで、一番|面倒《めんだう》の起るのは財産の問題だから」
 「えゝ」
 私《わたくし》は先生の言葉に大した注意を拂はなかつた。私の家庭でそんな心配をしてゐるものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じてゐた。其上先生のいふ事の、先生として、あまりに實際的なのに私は少し駕ろかされた。然し其所は年長者に對する平生《へいぜい》の敬意が私を無口にした。
 「あなたの御父さんが亡《な》くなられるのを、今から豫想して掛るやうな言葉遣《ことはづかひ》をするのが氣に觸つたら許して呉れ玉へ。然し人間は死ぬものだからね。何《ど》んなに達者なものでも、何時《いつ》死ぬか分らないものだからね」
 先生の口氣《こうき》は珍らしく苦々《にが/\》しかつた。
 「そんな事をちつとも氣に掛けちやゐません」と私《わたくし》は辯解した。
 「君の兄妹《きやうだい》は何人でしたかね」と先生が聞いた。
 先生は其上に私《わたくし》の家族の人數を聞いたり、親類の有無《うむ》を尋ねたり、叔父や叔母の樣子を問ひなどした。さうして最後に斯ういつた。
 「みんな善《い》い人ですか」
 「別に惡い人間といふ程のものもゐないやうです。大抵|田舍者《ゐなかもの》ですから」
 「田舍者《ゐなかもの》は何故《なぜ》惡くないんですか」
 私《わたくし》は此追窮に苦しんだ。然し先生は私に返事を考へさせる餘裕さへ與へなかつた。
 「田舍者《ゐなかもの》は都會のものより、却《かへ》つて惡い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中《うち》に、是といつて、惡い人間はゐないやうだと云ひましたね。然し惡い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思つてゐるんですか。そんな鑄型《いかた》に入れたやうな惡人《あくにん》は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際《まぎは》に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです」
 先生のいふ事は、此所で切れる樣子もなかつた。私は又此所で何か云はうとした。すると後《うしろ》の方で犬が急に吠え出した。先生も私も驚ろいて後《うしろ》を振り返つた。
 縁臺の横から後部《こうぶ》へ掛けて植ゑ付けてある杉苗の傍《そば》に、熊笹《くまざゝ》が三坪|程《ほど》地を隱《かく》すやうに茂つて生《は》えてゐた。犬はその顔と脊《せ》を熊笹の上に現はして、盛んに吠え立てた。そこへ十《とを》位《ぐらゐ》の小供が馳《か》けて來て犬を叱り付けた。小供は徽章《きしやう》の着いた黒い帽子を被《かぶ》つたまゝ先生の前へ廻つて禮をした。
 「叔父さん、這入《はい》つて來る時、家《うち》に誰もゐなかつたかい」と聞いた。
 「誰もゐなかつたよ」
 「姉《ねえ》さんやおつかさんが勝手の方に居たのに」
 「さうか、居たのかい」
 「あゝ。叔父さん、今日《こんち》はつて、斷つて這入《はい》つて來ると好かつたのに」
 先生は苦笑した。懷中《ふところ》から蟇口《がまぐち》を出して、五錢の白銅《はくどう》を小供の手に握らせた。
 「おつかさんに左右《さう》云つとくれ。少し此所《こゝ》で休まして下さいつて」
 小供は怜俐《りかう》さうな眼に笑を漲《みなぎ》らして、首肯《うなづ》いて見せた。
 「今|斥候長《せきこうちやう》になつてる所なんだよ」
 小供は斯《か》う斷《ことわ》つて、躑躅《つゝじ》の間《あひだ》を下の方へ駈《か》け下りて行つた。犬も尻尾を高く卷いて小供の後《あと》を追ひ掛けた。しばらくすると同じ位の年格好《としかつかう》の小供が二三人、是も斥候長の下りて行つた方へ駈《か》けていつた。
 
     二十九
 
 先生の談話は、此犬と小供のために、結末|迄《まで》進行する事が出來なくなつたので、私《わたくし》はついに其要領を得ないでしまつた。先生の氣にする財産|云々《うんぬん》の掛念《けねん》は其時の私には全くなかつた。私の性質として、又私の境遇からいつて、其時の私には、そんな利害の念に頭を惱ます餘地がなかつたのである。考へると是は私がまだ世間に出ない爲でもあり、又《また》實際|其《その》場《ば》に臨《のぞ》まない爲でもあつたらうが、兎に角若い私には何故《なぜ》か金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでたゞ一つ底|迄《まで》聞きたかつたのは、人間がいざといふ間際《まぎは》に、誰でも惡人になるといふ言葉の意味であつた。單なる言葉としては、是《これ》丈《だけ》でも私《わたくし》に解らない事はなかつた。然し私は此句に就いてもつと知りたかつた。
 犬と小供が去つたあと、廣い若葉の園は再び故《もと》の靜かさに歸つた。さうして我々は沈黙に鎖《と》ざされた人の樣にしばらく動かずにゐた。うるはしい空の色が其時次第に光を失《うし》なつて來た。眼の前にある樹は大概|楓《かへで》であつたが、其枝に滴《したゝ》るやうに吹いた輕い緑の若葉が、段々暗くなつて行く樣に思はれた。遠い往來を荷車を引いて行く響がごろ/\と聞こえた。私《わたくし》はそれを村の男が植木か何かを載《の》せて縁日《えんにも》へでも出掛けるものと想像した。先生は其音を聞くと、急に瞑想《めいさう》から呼息《いき》を吹き返した人のやうに立ち上つた。
 「もう、徐々《そろ/\》歸りませう。大分《だいぶ》日が永くなつたやうだが、矢張《やつぱり》斯う安閑としてゐるうちには、何時《いつ》の間《ま》にか暮れて行くんだね」
 先生の脊中《せなか》には、さつき縁臺の上に仰向《あふむき》に寐た痕《あと》が一杯着いてゐた。私《わたくし》は兩手でそれを拂ひ落した。
 「ありがたう。脂《やに》がこびり着いてやしませんか」
 「綺麗に落ちました」
 「此羽織はつい此間《こなひだ》拵らえた許《ばかり》なんだよ。だから無暗に汚《よご》して歸ると、妻《さい》に叱られるからね。有難う」
 二人は又だら/\坂の中途にある家《うち》の前へ來た。這入《はい》る時には誰もゐる氣色《けしき》の見えなかつた縁に、御上《おかみ》さんが、十五六の娘を相手に、糸卷へ糸を卷きつけてゐた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうも御邪魔をしました」と挨拶した。御上《おかみ》さんは「いゝえ御構ひ申しも致しませんで」と禮を返した後《あと》、先刻《さつき》小供に遣つた白銅の禮を述べた。
 門口を出て二三町來た時、私《わたくし》はついに先生に向つて口を切つた。
 「さき程先生の云はれた、人間は誰でもいざといふ間際《まぎは》に惡人になるんだといふ意味ですね。あれは何《ど》ういふ意味ですか」
 「意味といつて、深い意味もありません。――つまり事實なんですよ。理窟ぢやないんだ」
 「事實で差支《さしつかへ》ありませんが、私《わたくし》の伺ひたいのは、いざといふ間際《まぎは》といふ意味なんです。一體|何《ど》んな場合を指《さ》すのですか」
 先生は笑ひ出した。恰《あたか》も時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合《はりあひ》がないと云つた風《ふう》に。
 「金《かね》さ君。金《かね》を見ると、どんな君子でもすぐ惡人になるのさ」
 私《わたくし》には先生の返事があまりに平凡《へいぼん》過ぎて詰《つま》らなかつた。先生が調子に乘らない如く、私も拍子拔けの氣味であつた。私は澄ましてさつさと歩き出した。いきほひ先生は少し後《おく》れ勝《がち》になつた。先生はあとから「おい/\」と聲を掛けた。
 「そら見給へ」
 「何をですか」
 「君の氣分だつて、私《わたくし》の返事一つですぐ變るぢやないか」
 待ち合はせるために振り向いて立ち留まつた私《わたくし》の顔を見て、先生は斯う云つた。
 
     三十
 
 其時の私《わたくし》は腹の中《なか》で先生を憎らしく思つた。肩を並《なら》べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにゐた。しかし先生の方では、それに氣が付いてゐたのか、ゐないのか、丸《まる》で私の態度に拘泥《こだは》る樣子を見せなかつた。いつもの通り沈默がちに落付き拂つた歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹《ごふはら》になつた。何とかいつて一つ先生を遣つ付けて見たくなつて來た。
 「先生」
 「何ですか」
 「先生はさつき少し昂奮《かうふん》なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでゐる時に。私《わたくし》は先生の昂奮したのを滅多《めつた》に見た事がないんですが、今日は珍らしい所を拜見した樣な氣がします」
 先生はすぐ返事をしなかつた。私《わたくし》はそれを手應《てごたへ》のあつたやうにも思つた。また的《まと》が外《はづ》れたやうにも感じた。仕方がないから後《あと》は云はない事にした。すると先生がいきなり道の端《はじ》へ寄つて行つた。さうして綺麗に刈り込んだ生垣《いけがき》の下で、裾《すそ》をまくつて小便をした。私は先生が用を足《た》す間《あひだ》ぼんやり其所に立つてゐた。
 「やあ失敬」
 先生は斯ういつて又歩き出した。私《わたくし》はとう/\先生を遣り込める事を斷念した。私達の通る道は段々賑やかになつた。今迄ちらほらと見えた廣い畠の斜面や平地《ひらち》が、全く眼に入らないやうに左右の家並《いへなみ》が揃つてきた。それでも所々宅地の隅などに、豌豆《ゑんどう》の蔓《つる》を竹にからませたり、金網《かなあみ》で鷄《にはとり》を圍《かこ》ひ飼《が》ひにしたりするのが閑靜に眺められた。市中から歸る駄馬《だば》が仕切《しき》りなく擦《す》れ違つて行つた。こんなものに始終氣を奪《と》られがちな私は、さつき迄胸の中《なか》にあつた問題を何處かへ振り落して仕舞つた。先生が突然其所へ後戻《あともど》りをした時、私は實際それを忘れてゐた。
 「私《わたくし》は先刻《さつき》そんなに昂奮したやうに見えたんですか」
 「そんなにと云ふ程でもありませんが、少し……」
 「いや見えても構はない。實際昂奮するんだから。私《わたくし》は財産の事をいふと屹度昂奮するんです。君には何《ど》う見えるか知らないが、私は是で大變|執念《しふねん》深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから」
 先生の言葉は元よりも猶《なほ》昂奮してゐた。然し私《わたくし》の驚ろいたのは、決して其調子ではなかつた。寧ろ先生の言葉が私の耳に訴へる意味そのものであつた。先生の口から斯んな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかつた。私は先生の性質の特色として、斯んな執着力《しふぢやくりよく》を未《いま》だ甞《かつ》て想像した事さへなかつた。私は先生をもつと弱い人と信じてゐた。さうして其弱くて高い處に、私の懷《なつ》かしみの根《ね》を置いてゐた。一時《いちじ》の氣分で先生にちよつと盾《たて》を突いて見やうとした私は、此言葉の前に小《ちひ》さくなつた。先生は斯う云つた。
 「私《わたくし》は他《ひと》に欺《あざ》むかれたのです。しかも血のつゞいた親戚のものから欺《あざ》むかれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であつたらしい彼等は、父の死ぬや否《いな》や許《ゆる》しがたい不コ義漢に變つたのです。私は彼等から受けた屈辱と損害を小供の時から今日《けふ》迄|背負《しよ》はされてゐる。恐らく死ぬ迄|背負《しよ》はされ通《どほ》しでせう。私は死ぬ迄それを忘れる事が出來ないんだから。然し私はまだ復讐をしずにゐる。考へると私は個人に對する復讐以上の事を現《げん》に遣つてゐるんだ。私は彼等を憎む許《ばかり》ぢやない、彼等が代表してゐる人間といふものを、一般に憎む事を覺えたのだ。私はそれで澤山だと思ふ」
 私《わたくし》は慰籍《ゐしや》の言葉さへ口へ出せなかつた。
 
     三十−
 
 其日の談話も遂にこれぎりで發展せずにしまつた。私は寧ろ先生の態度に畏縮《ゐしゆく》して、先へ進む氣が起らなかつたのである。
 二人は市《し》の外《はづ》れから電車に乘つたが、車内では殆んど口を聞《き》かなかつた。電車を降《お》りると間もなく別れなければならなかつた。別れる時の先生は、又變つてゐた。常よりは晴やかな調子で、「是から六月迄は一番氣樂な時ですね。ことによると生涯で一番氣樂かも知れない。精出して遊び玉へ」と云つた。私《わたくし》は笑つて帽子を脱《と》つた。其時私は先生の顔を見て、先生は果して心の何處で、一般の人間を憎んでゐるのだらうかと疑《うたぐ》つた。その眼、その口、何處にも厭世的の影は射してゐなかつた。
 私《わたくし》は思想上の問題に就いて、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。然し同じ問題に就いて、利益を受けやうとしても、受けられない事が間々《まゝ》あつたと云はなければならない。先生の談話は時として不得要領《ふとくえうりやう》に終つた。其日二人の間に起つた郊外の談話も、此不得要領の一例として私の胸の裏《うち》に殘つた。
 無遠慮な私《わたくし》は、ある時遂にそれを先生の前に打ち明《あ》けた。先生は笑つてゐた。私は斯う云つた。
 「頭が鈍《にぶ》くて要領を得ないのは構ひませんが、ちやんと解つてる癖に、はつきり云つて呉れないのは困ります」
 「私《わたくし》は何《なん》にも隱してやしません」
 「隱してゐらつしゃいます」
 「あなたは私《わたくし》の思想とか意見とかいふものと、私の過去《くわこ》とを、ごちや/\に考へてゐるんぢやありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纒《まと》め上げた考を無暗に人に隱しやしません。隱す必要がないんだから。けれども私の過去を悉《こと/”\》くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それは又別問題になります」
 「別問題とは思はれません。先生の過去が生み出した思想だから、私《わたくし》は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私には殆んど價値のないものになります。私は魂《たましひ》の吹き込まれてゐない人形を與へられた丈《だけ》で、滿足は出來ないのです」
 先生はあきれたと云つた風に、私《わたくし》の顔を見た。卷烟草《まきたばこ》を持つてゐた其手が少し顫《ふる》へた。
 「あなたは大膽だ」
 「たゞ眞面目なんです。眞面目に人生から教訓を受けたいのです」
 「私《わたくし》の過去を訐《あば》いてもですか」
 訐《あば》くといふ言葉が、突然恐ろしい響を以て、私《わたくし》の耳を打つた。私は今《いま》私の前に坐つてゐるのが、一人の罪人《ざいにん》であつて、不斷から尊敬してゐる先生でないやうな氣がした。先生の顔は蒼かつた。
 「あなたは本當に眞面目《まじめ》なんですか」と先生が念を押した。「私《わたくし》は過去の因果で、人を疑《うたぐ》りつけてゐる。だから實はあなたも疑《うたぐ》つてゐる。然し何《ど》うもあなた丈《だけ》は疑りたくない。あなたは疑るには餘りに單純すぎる樣だ。私は死ぬ前にたつた一人《ひとり》で好いから、他《ひと》を信用して死にたいと思つてゐる。あなたは其たつた一人《ひとり》になれますか。なつて呉れますか。あなたは腹の底から眞面目ですか」
 「もし私《わたくし》の命《いのち》が眞面目なものなら、私の今いつた事も眞面目です」
 私《わたくし》の聲は顫へた。
 「よろしい」と先生が云つた。「話しませう。私《わたくし》の過去を殘らず、あなたに話して上げませう。其代り……。いやそれは構はない。然し私の過去はあなたに取つて夫程《それほど》有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増《まし》かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、其|積《つもり》でゐて下さい。適當の時機が來なくつちや話さないんだから」
 私《わたくし》は下宿へ歸つてからも一種の壓迫を感じた。
 
     三十二
 
 私《わたくし》の論文は自分が評價してゐた程に、教授の眼にはよく見えなかつたらしい。それでも私は豫定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭《かびくさ》くなつた古い冬服を行李《かうり》の中から出して着た。式場にならぶと、何《ど》れもこれもみな暑さうな顔ばかりであつた。私は風の通らない厚羅紗《あつらしや》の下に密封された自分の身體《からだ》を持て餘した。しばらく立つてゐるうちに手に持つたハンケチがぐしよ/\になつた。
 私《わたくし》は式が濟むとすぐ歸つて裸體《はだか》になつた。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡《とほめがね》のやうにぐる/\卷いた卒業證書の穴から、見える丈《だけ》の世の中を見渡した。それから其卒業證書を机の上に放《はふ》り出した。さうして大の字なりになつて、室《へや》の眞中《まんなか》に寐そべつた。私は寐ながら自分の過去を顧みた。又自分の未來を想像した。すると其|間《あひだ》に立つて一區切《ひとくぎり》を付けてゐる此卒業證書なるものが、意味のあるやうな、又意味のないやうな變な紙に思はれた。
 私《わたくし》は其晩先生の家へ御馳走に招かれて行つた。是はもし卒業したら其日の晩餐《ばんさん》は餘所《よそ》で喰はずに、先生の食卓で濟ますといふ前からの約束であつた。
 食卓は約束通り座敷の縁近くに据ゑられてあつた。模樣の織り出された厚い糊《のり》の硬《こは》い卓布《テーブルクロース》が美しく且《かつ》清らかに電燈の光を射返《いかへ》してゐた。先生のうちで飯を食ふと、屹度|此《この》西洋料理店に見るやうな白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。さうしてそれが必ず洗濯したての眞白なものに限られてゐた。
 「カラやカフスと同じ事さ。汚《よご》れたのを用ひる位なら、一層《いつそ》始から色の着いたものを使ふが好い。白ければ純白《じゆんぱく》でなくつちや」
 斯う云はれて見ると、成程先生は潔癖であつた。書齋なども實に整然《きちり》と片付《かたづ》いてゐた。無頓着な私《わたくし》には、先生のさういふ特色が折々|著《いちじ》るしく眼に留まつた。
 「先生は癇性《かんしやう》ですね」とかつて奧さんに告げた時、奧さんは「でも着物などは、それ程氣にしないやうですよ」と答へた事があつた。それを傍《そば》に聞いてゐた先生は、「本當をいふと、私《わたくし》は精神的に癇性《かんしやう》なんです。それで始終苦しいんです。考へると實に馬鹿々々しい性分だ」と云つて笑つた。精神的に癇性といふ意味は、俗にいふ神經質といふ意味か、又は倫理的に潔癖だといふ意味か、私《わたくし》には解らなかつた。奧さんにも能く通じないらしかつた。
 其晩|私《わたくし》は先生と向ひ合せに、例の白い卓布《たくふ》の前に坐つた。奧さんは二人を左右《さいう》に置いて、獨り庭の方を正面にして席を占めた。
 「御目出たう」と云つて、先生が私《わたくし》のために杯《さかづき》を上げて呉れた。私は此|盃《さかづき》に對して夫程《それほど》嬉しい氣を起さなかつた。無論私自身の心が此言葉に反響するやうに、飛び立つ嬉しさを有《も》つてゐなかつたのが、一つの源因《げんいん》であつた。けれども先生の云ひ方も決して私の嬉しさを唆《そゝ》る浮々《うき/\》した調子を帶びてゐなかつた。先生は笑つて杯《さかづき》を上げた。私は其笑のうちに、些《ちつ》とも意地の惡いアイロニーを認めなかつた。同時に目出たいといふ眞情も汲《く》み取る事が出來なかつた。先生の笑は、「世間はこんな場合によく御目出たうと云ひたがるものですね」と私に物語つてゐた。
 奧さんは私《わたくし》に「結構ね。嘸《さぞ》御父《おとう》さんや御母《おかあ》さんは御喜びでせう」と云つて呉れた。私は突然病氣の父の事を考へた。早くあの卒業證書を持つて行つて見せて遣らうと思つた。
 「先生の卒業證書は何《ど》うしました」と私《わたくし》が聞いた。
 「何《ど》うしたかね。――まだ何處かに仕舞つてあつたかね」と先生が奧さんに聞いた。
 「えゝ、たしか仕舞つてある筈ですが」
 卒業證書の在處《ありどころ》は二人とも能く知らなかつた。
 
     三十三
 
 飯になつた時、奧さんは傍《そば》に坐つてゐる下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめた。これが表立たない客に對する先生の家の仕來《しきた》りらしかつた。始めの一二回は私《わたくし》も窮屈を感じたが、度數《どすう》の重《かさ》なるにつけ、茶碗を奧さんの前へ出すのが、何でもなくなつた。
 「御茶? 御飯《ごはん》? 隨分よく食べるのね」
 奧さんの方でも思ひ切つて遠慮のない事を云ふことがあつた。然し其日は、時候が時候なので、そんなに調戯《からか》はれる程食慾が進まなかつた。
 「もう御仕舞。あなた近頃大變|小食《せうしよく》になつたのね」
 「小食《せうしよく》になつたんぢやありません。暑いんで食はれないんです」
 奧さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後《あと》へ、改めてアイスクリームと水菓子を運《はこ》ばせた。
 「是は宅《うち》で拵《こしら》えたのよ」
 用のない奧さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふだけの餘裕があると見えた。私《わたくし》はそれを二杯|更《か》へて貰つた。
 「君も愈《いよ/\》卒業したが、是から何をする氣ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際《しきゐぎは》で脊中《せなか》を障子に靠《も》たせてゐた。
 私《わたくし》にはたゞ卒業したといふ自覺がある丈《だけ》で、是から何をしやうといふ目的《あて》もなかつた。返事にためらつてゐる私を見た時、奧さんは「教師?」と聞いた。それにも答へずにゐると、今度は、「ぢや御役人?」と又聞かれた。私も先生も笑ひ出した。
 「本當いふと、まだ何をする考へもないんです。實は職業といふものに就いて、全く考へた事がない位なんですから。だいち何《ど》れが善いか、何《ど》れが惡いか、自分が遣つて見た上でないと解らないんだから、選擇に困る譯だと思ひます」
 「それも左右《さう》ね。けれどもあなたは必竟《ひつきやう》財産があるからそんな呑氣《のんき》な事を云つてゐられるのよ。是が困る人で御覽なさい。中々あなたの樣に落付いちや居られないから」
 私《わたくし》の友達には卒業しない前から、中學教師の口を探してゐる人があつた。私は腹の中《なか》で奧さんのいふ事實を認めた。然し斯う云つた。
 「少し先生にかぶれたんでせう」
 「碌《ろく》なかぶれ方をして下さらないのね」
 先生は苦笑した。
 「かぶれても構はないから、其代り此間|云《い》つた通り、御父さんの生きてるうちに、相當の財産を分けて貰つて御置きなさい。それでないと決して油斷はならない」
 私《わたくし》は先生と一所に、郊外の植木屋の廣い庭の奧で話した、あの躑躅《つゝじ》の咲いてゐる五月の初めを思ひ出した。あの時歸り途に、先生が昂奮した語氣で、私に物語つた強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、寧ろ凄《すご》い言葉であつた。けれども事實を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあつた。
 「奧さん、御宅の財産は餘ツ程あるんですか」
 「何だつてそんな事を御聞《おきゝ》になるの」
 「先生に聞いても教へて下さらないから」
 奧さんは笑ひながら先生の顔を見た。
 「教へて上げる程ないからでせう」
 「でも何《ど》の位あつたら先生のやうにしてゐられるか、宅《うち》へ歸つて一つ父に談判する時の參考にしますから聞かして下さい」
 先生は庭の方を向いて、澄まして烟草を吹かしてゐた。相手は自然《しぜん》奧さんでなければならなかつた。
 「何《ど》の位つて程ありやしませんわ。まあ斯うして何《ど》うか斯うか暮して行かれる丈《だけ》よ、あなた。――そりや何《ど》うでも宜《い》いとして、あなたは是から何か爲《な》さらなくつちや本當に不可《いけま》せんよ。先生のやうにごろ/\許《ばかり》してゐちや……」
 「ごろ/\許《ばかり》してゐやしないさ」
 先生はちよつと顔|丈《だけ》向け直して、奧さんの言葉を否定した。
 
     三十四
 
 私《わたくし》は其夜十時過に先生の家を辭した。二三日うちに歸國する筈になつてゐたので、座を立つ前に私は一寸《ちよつと》暇乞《いとまごひ》の言葉を述べた。
 「又當分御目にかゝれませんから」
 「九月には出て入らつしやるんでせうね」
 私《わたくし》はもう卒業したのだから、必ず九月に出て來る必要もなかつた。然し暑い盛《さか》りの八月を東京|迄《まで》來て送らうとも考へてゐなかつた。私には位置を求めるための貴重な時間といふものがなかつた。
 「まあ九月|頃《ごろ》になるでせう」
 「ぢや隨分御機嫌よう。私達《わたくしたち》も此夏はことによると何處かへ行くかも知れないのよ。隨分暑さうだから。行つたら又繪端書でも送つて上げませう」
 「何《ど》ちらの見當です。若《も》し入らつしやるとすれば」
 先生は此問答をにや/\笑つて聞いてゐた。
 「何まだ行くとも行かないとも極めてゐやしないんです」
 席を立たうとした時に、先生は急に私《わたくし》をつらまへて、「時に御父さんの病氣は何《ど》うなんです」と聞いた。私は父の健康に就いて殆んど知る所がなかつた。何とも云つて來ない以上、惡くはないのだらう位に考へてゐた。
 「そんなに容易《たやす》く考へられる病氣ぢやありませんよ。尿毒症《ねうどくしやう》が出ると、もう駄目なんだから」
 尿毒症《ねうどくしやう》といふ言葉も意味も私《わたくし》には解らなかつた。此前の冬休みに國で醫者と會見した時に、私はそんな術語《じゆつご》を丸《まる》で聞かなかつた。
 「本當に大事《だいじ》にして御上げなさいよ」と奧さんもいつた。「毒が腦へ廻るやうになると、もう夫《それ》つきりよ、あなた。笑ひ事ぢやないわ」
 無經驗な私《わたくし》は氣味を惡がりながらも、にや/\してゐた。
 「何《ど》うせ助からない病氣ださうですから、いくら心配したつて仕方がありません」
 「さう思ひ切りよく考へれば、夫迄《それまで》ですけれども」
 奧さんは昔同じ病氣で死んだといふ自分の御母さんの事でも憶ひ出したのか、沈んだ調子で斯ういつたなり下を向いた。私《わたくし》も父の運命が本當に氣の毒になつた。
 すると先生が突然奧さんの方を向いた。
 「靜《しづ》、御前《おまへ》はおれより先へ死ぬだらうかね」
 「何故《なぜ》」
 「何故《なぜ》でもない、たゞ聞いて見るのさ。それとも己《おれ》の方が御前より前《まへ》に片付くかな。大抵世間ぢや旦那が先で、細君が後《あと》へ殘るのが當り前のやうになつてるね」
 「さう極《きま》つた譯でもないわ。けれども男の方《はう》は何《ど》うしても、そら年が上でせう」
 「だから先へ死ぬといふ理窟なのかね。すると己《おれ》も御前より先にあの世へ行かなくつちやならない事になるね」
 「あなたは特別よ」
 「さうかね」
 「だつて丈夫なんですもの。殆んど煩《わづら》つた例《ためし》がないぢやありませんか。そりや何《ど》うしたつて私《わたくし》の方が先《さき》だわ」
 「先《さき》かな」
 「え、屹度|先《さき》よ」
 先生は私《わたくし》の顔を見た。私は笑つた。
 「然しもしおれの方が先《さき》へ行くとするね。さうしたら御前|何《ど》うする」
 「何《ど》うするつて……」
 奧さんは其所で口籠《くちごも》つた。先生の死に對する想像的な悲哀が、ちよつと奧さんの胸を襲つたらしかつた。けれども再び顔をあげた時は、もう氣分を更《か》へてゐた。
 「何《ど》うするつて、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定《らうせうふぢやう》つていふ位だから」
 奧さんはことさらに私《わたくし》の方を見て笑談《ぜうだん》らしく斯う云つた。
 
     三十五
 
 私《わたくし》は立て掛けた腰を又|卸《おろ》して、話の區切《くぎり》の付く迄二人の相手になつてゐた。
 「君は何《ど》う思ひます」と先生が聞いた。
 先生が先へ死ぬか、奧さんが早く亡《な》くなるか、固《もと》より私《わたくし》に判斷のつくべき問題ではなかつた。私はたゞ笑つてゐた。
 「壽命《じゆみやう》は分りませんね。私《わたくし》にも」
 「是ばかりは本當に壽命《じゆみやう》ですからね。生れた時にちやんと極《きま》つた年數《ねんすう》をもらつて來るんだから仕方がないわ。先生の御父さんや御母さんなんか、殆んど同《おん》なじよ、あなた、亡《な》くなつたのが」
 「亡《な》くなられた日がですか」
 「まさか日《ひ》迄《まで》同《おん》なじぢやないけれども。でもまあ同《おん》なじよ。だつて續いて亡《な》くなつちまつたんですもの」
 此知識は私《わたくし》にとつて新らしいものであつた。私は不思議に思つた。
 「何《ど》うしてさう一度に死なれたんですか」
 奧さんは私《わたくし》の問に答へやうとした。先生はそれを遮《さへぎ》つた。
 「そんな話は御止《およ》しよ。つまらないから」
 先生は手に持つた團扇《うちは》をわざとはた/\云はせた。さうして又奧さんを顧みた。
 「靜《しづ》、おれが死んだら此|家《うち》を御前に遣らう」
 奧さんは笑ひ出した。
 「序《ついで》に地面《ぢめん》も下さいよ」
 「地面《ぢめん》は他《ひと》のものだから仕方がない。其代りおれの持つてるものは皆《みん》な御前に遣るよ」
 「何《ど》うも有難う。けれども横文字《よこもじ》の本なんか貰つても仕樣がないわね」
 「古本屋に賣るさ」
 「賣ればいくら位になつて」
 先生はいくらとも云はなかつた。けれども先生の話は、容易に自分の死といふ遠い問題を離れなかつた。さうして其死は必ず奧さんの前に起るものと假定されてゐた。奧さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答へをしてゐるらしく見えた。それが何時《いつ》の間《ま》にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
 「おれが死んだら、おれが死んだらつて、まあ何遍|仰《おつ》しやるの。後生《ごしやう》だからもう好い加減にして、おれが死んだらは止《よ》して頂戴。縁喜《えんぎ》でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思ひ通りにして上げるから、それで好《い》いぢやありませんか」
 先生は庭の方を向いて笑つた。然しそれぎり奧さんの厭《いや》がる事を云はなくなつた。私《わたくし》もあまり長くなるので、すぐ席を立つた。先生と奧さんは玄關|迄《まで》送つて出た。
 「御病人を御大事に」と奧さんがいつた。
 「また九月に」と先生がいつた。
 私《わたくし》は挨拶をして格子《かうし》の外へ足を踏み出した。玄關と門の間にあるこんもりした木犀《もくせい》の一株が、私の行手《ゆくて》を塞《ふさ》ぐやうに、夜陰《やいん》のうちに枝を張つてゐた。私は二三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被《おほ》はれてゐる其|梢《こずゑ》を見て、來《きた》るべき秋の花と香《か》を想ひ浮《うか》べた。私は先生の宅《うち》と此|木犀《もくせい》とを、以前から心のうちで、離す事の出來ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅《うち》の玄關を跨《また》ぐべき次の秋に思《おもひ》を馳《は》せた時、今迄|格子《かうし》の間から射《さ》してゐた玄關の電燈がふつと消えた。先生夫婦はそれぎり奧へ這入《はいつ》たらしかつた。私は一人暗い表へ出た。
 私《わたくし》はすぐ下宿へは戻らなかつた。國へ歸る前に調《とゝ》のへる買物もあつたし、御馳走を詰めた胃袋にくつろぎを與へる必要もあつたので、たゞ賑やかな町の方へ歩いて行つた。町はまだ宵《よひ》の口《くち》であつた。用事もなささうな男女《なんによ》がぞろ/\動く中《なか》に、私は今日私と一所に卒業したなにがしに會つた。彼は私を無理やりにある酒場《バー》へ連れ込んだ。私は其所で麥酒《ビール》の泡のやうな彼の氣?《きえん》を聞かされた。私の下宿へ歸つたのは十二時過であつた。
 
     三十六
 
 私《わたくし》は其翌日も暑さを冒《をか》して、頼まれものを買ひ集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないやうに考へてゐたのが、いざとなると大變|臆劫《おつくふ》に感ぜられた。私は電車の中で汗を拭きながら、他《ひと》の時間と手數に氣の毒といふ觀念を丸《まる》で有《も》つてゐない田舍者《ゐなかもの》を憎らしく思つた。
 私《わたくし》は此|一夏《ひとなつ》を無爲《むゐ》に過ごす氣はなかつた。國へ歸つてからの日程《につてい》といふやうなものを豫《あらかじ》め作つて置いたので、それを履行《りかう》するに必要な書物も手に入れなければならなかつた。私は半日を丸善の二階で潰《つぶ》す覺悟でゐた。私は自分に關係の深い部門の書籍棚の前に立つて、隅から隅迄一冊づゝ點檢して行つた。
 買物のうちで一番|私《わたくし》を困らせたのは女の半襟《はんえり》であつた。小僧にいふと、いくらでも出しては呉れるが、偖《さて》何《ど》れを選んでいゝのか、買ふ段になつては、只《たゞ》迷ふ丈《だけ》であつた。其上|價《あたひ》が極《きは》めて不定であつた。安からうと思つて聞くと、非常に高かつたり、高からうと考へて、聞かずにゐると、却つて大變安かつたりした。或はいくら比《くら》べて見ても、何處から價格の差違が出るのか見當の付かないのもあつた。私は全く弱らせられた。さうして心のうちで、何故《なぜ》先生の奧さんを煩《わづら》はさなかつたかを悔いた。
 私《わたくし》は鞄《かばん》を買つた。無論和製の下等な品に過ぎなかつたが、それでも金具やなどがぴか/\してゐるので、田舍《ゐなか》ものを威嚇《おど》かすには充分であつた。此|鞄《かばん》を買ふといふ事は、私の母の注文であつた。卒業したら新らしい鞄《かばん》を買つて、そのなかに一切《いつさい》の土産《みやげ》ものを入れて歸るやうにと、わざ/\手紙の中に書いてあつた。私は其文句を讀んだ時に笑ひ出した。私には母の料簡《れうけん》が解らないといふよりも、其言葉が一種の滑稽《こつけい》として訴《うつた》へたのである。
 私《わたくし》は暇乞《いとまごひ》をする時先生夫婦に述《の》べた通り、それから三日目《みつかめ》の汽車で東京を立つて國へ歸つた。此冬以來父の病氣に就いて先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、何《ど》ういふものか、それが大して苦にならなかつた。私は寧ろ父が居なくなつたあとの母を想像して氣の毒に思つた。其位だから私は心の何處かで、父は既に亡くなるべきものと覺悟してゐたに違なかつた。九州にゐる兄へ遣つた手紙のなかにも、私は父の到底《とても》故《もと》の樣な健康體になる見込のない事を述べた。一度などは職務の都合もあらうが、出來るなら繰《く》り合《あは》せて此夏|位《ぐらゐ》一度顔|丈《だけ》でも見に歸つたら何《ど》うだと迄書いた。其上年寄が二人ぎりで田舍《ゐなか》にゐるのは定《さだ》めて心細いだらう、我々も子として遺憾の至《いたり》であるといふやうな感傷的な文句さへ使つた。私は實際心に浮《うか》ぶ儘を書いた。けれども書いたあとの氣分は書いた時とは違つてゐた。
 私《わたくし》はさうした矛盾《むじゆん》を汽車の中で考へた。考へてゐるうちに自分が自分に氣の變りやすい輕薄ものゝやうに思はれて來た。私は不愉快になつた。私は又先生夫婦の事を想ひ浮べた。ことに二三日前|晩食《ばんめし》に呼ばれた時の會話を憶ひ出した。
 「何《ど》つちが先へ死ぬだらう」
 私《わたくし》は其晩先生と奧さんの間に起つた疑問をひとり口の内で繰り返して見た。さうして此疑問には誰も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方《どつち》が先へ死ぬと判然《はつきり》分つてゐたならば、先生は何《ど》うするだらう。奧さんは何《ど》うするだらう。先生も奧さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控えながら、此《この》私が何《ど》うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢《はか》ないものに觀《くわん》じた。人間の何《ど》うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢《はか》ないものに觀《くわん》じた。
 
 中 兩親と私
 
     一
 
 宅《うち》へ歸つて案外に思つたのは、父の元氣が此前見た時と大《たい》して變つてゐない事であつた。
 「あゝ歸つたかい。さうか、それでも卒業が出來てまあ結構だつた。一寸《ちよつと》御待ち、今顔を洗つて來るから」
 父は庭へ出て何か爲《し》てゐた所であつた。古い麥藁帽の後《うしろ》へ、日除《ひよけ》のために括《くゝ》り付けた薄汚《うすぎた》ないハンケチをひら/\させながら、井戸のある裏手の方へ廻つて行つた。
 學校を卒業するのを普通の人間として當然のやうに考へてゐた私《わたくし》は、それを豫期以上に喜こんで呉れる父の前に恐縮した。
 「卒業が出來てまあ結構だ」
 父は此言葉を何遍も繰《く》り返《かへ》した。私《わたくし》は心のうちで此父の喜びと、卒業式のあつた晩先生の家《うち》の食卓で、「御目出たう」と云はれた時の先生の顔付とを比較した。私には口で祝つてくれながら、腹の底でけなしてゐる先生の方が、それ程にもないものを珍らしさうに嬉しがる父よりも、却つて高尚に見えた。私は仕舞に父の無知から出る田舍臭《ゐなかくさ》い所に不快を感じ出した。
 「大學|位《ぐらゐ》卒業したつて、それ程結構でもありません。卒業するものは毎年《まいとし》何百人だつてあります」
 私《わたくし》は遂に斯んな口の利きやうをした。すると父が變な顔をした。
 「何も卒業したから結構とばかり云ふんぢやない。そりや卒業は結構に違ないが、おれの云ふのはもう少し意味があるんだ。それが御前に解つてゐて呉れさへすれば、……」
 私《わたくし》は父から其|後《あと》を聞かうとした。父は話したくなささうであつたが、とう/\斯う云つた。
 「つまり、おれが結構といふ事になるのさ。おれは御前の知つてる通りの病氣だらう。去年の冬御前に會つた時、ことによるともう三月《みつき》か四月《よつき》位なものだらうと思つてゐたのさ。それが何《ど》ういふ仕合せか、今日《けふ》迄《まで》斯うしてゐる。起居《たちゐ》に不自由なく斯うしてゐる。そこへ御前が卒業して呉れた。だから嬉しいのさ。折角|丹精《たんせい》した息子《むすこ》が、自分の居なくなつた後《あと》で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに學校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだらうぢやないか。大きな考《かんがへ》を有《も》つてゐる御前から見たら、高《たか》が大學を卒業した位で、結構だ/\と云はれるのは餘り面白くもないだらう。然しおれの方から見て御覽、立場が少し違つてゐるよ。つまり卒業は御前に取つてより、此おれに取つて結構なんだ。解つたかい」
 私《わたくし》は一言《いちごん》もなかつた。詫《あや》まる以上に恐縮して仰向《うつむ》いてゐた。父は平氣なうちに自分の死を覺悟してゐたものと見える。しかも私の卒業する前に死ぬだらうと思ひ定めてゐたと見える。其卒業が父の心に何《ど》の位《くらゐ》響くかも考へずにゐた私は全く愚《おろか》ものであつた。私は鞄《かばん》の中から卒業證書を取り出して、それを大事さうに父と母に見せた。證書は何かに壓《お》し潰《つぶ》されて、元の形を失《うしな》つてゐた。父はそれを鄭寧《ていねい》に伸《の》した。
 「こんなものは卷いたなり手に持つて來るものだ」
 「中に心《しん》でも入れると好かつたのに」と母も傍《かたはら》から注意した。
 父はしばらくそれを眺めた後《あと》、起《た》つて床の間の所へ行つて、誰の目にもすぐ這入《はい》るやうな正面へ證書を置いた。何時《いつ》もの私《わたくし》ならすぐ何とかいふ筈であつたが、其時の私は丸《まる》で平生と違つてゐた。父や母に對して少しも逆《さか》らふ氣が起らなかつた。私はだまつて父の爲《な》すが儘に任《まか》せて置いた。一旦《いつたん》癖のついた鳥《とり》の子紙《こがみ》の證書は、中々《なか/\》父の自由にならなかつた。適當な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢《いきほひ》を得て倒れやうとした。
 
     二
 
 私《わたくし》は母を蔭へ呼んで父の病状を尋ねた。
 「御父さんはあんなに元氣さうに庭へ出たり何かしてゐるが、あれで可《い》いんですか」
 「もう何ともないやうだよ。大方《おほかた》好く御なりなんだらう」
 母は案外平氣であつた。都會から懸《か》け隔《へだ》たつた森や田の中に住んでゐる女の常として、母は斯ういふ事に掛けては丸《まる》で無知識であつた。それにしても此前父が卒倒した時には、あれ程驚ろいて、あんなに心配したものを、と私《わたくし》は心のうちで獨り異《い》な感じを抱いた。
 「でも醫者はあの時|到底《とても》六づかしいつて宣告したぢやありませんか」
 「だから人間の身體《からだ》ほど不思議なものはないと思ふんだよ。あれ程御醫者が手重《ておも》く云つたものが、今迄しやん/\してゐるんだからね。御母さんも始めのうちは心配して、成るべく動かさないやうにと思つてたんだがね。それ、あの氣性《きしやう》だらう。養生はしなさるけれども、強情でねえ。自分が好《い》いと思ひ込んだら、中々私のいふ事なんか、聞きさうにもなさらないんだからね」
 私《わたくし》は此前歸つた時、無理に床《とこ》を上げさして、髭を剃つた父の樣子と態度とを思ひ出した。「もう大丈夫、御母さんがあんまり仰山《ぎやうさん》過ぎるから不可《いけ》ないんだ」といつた其時の言葉を考へて見ると、滿更《まんざら》母ばかり責める氣にもなれなかつた。「然し傍《はた》でも少しは注意しなくつちや」と云はうとした私は、とう/\遠慮して何にも口へ出さなかつた。たゞ父の病《やまひ》の性質に就いて、私の知る限りを教へるやうに話して聞かせた。然し其大部分は先生と先生の奧さんから得た材料に過ぎなかつた。母は別に感動した樣子も見せなかつた。ただ「へえ、矢つ張り同《おん》なじ病氣でね。御氣の毒だね。いくつで御亡《おな》くなりかえ、其《その》方《かた》は」などゝ聞いた。
 私《わたくし》は仕方がないから、母を其儘にして置いて直接父に向つた。父は私の注意を母よりは眞面目に聞いてくれた。「尤もだ。御前のいふ通りだ。けれども、己《おれ》の身體《からだ》は必竟|己《おれ》の身體《からだ》で、其|己《おれ》の身體《からだ》に就いての養生法は、多年の經驗上、己《おれ》が一番能く心得てゐる筈だからね」と云つた。それを聞いた母は苦笑した。「それ御覽な」と云つた。
 「でも、あれで御父さんは自分でちやんと覺悟|丈《だけ》はしてゐるんですよ。今度|私《わたくし》が卒業して歸つたのを大變喜こんでゐるのも、全く其爲なんです。生きてるうちに卒業は出來まいと思つたのが、達者なうちに免状を持つて來たから、それが嬉しいんだつて、御父さんは自分でさう云つてゐましたぜ」
 「そりや、御前、口でこそさう御云ひだけれどもね。御腹《おなか》のなかではまだ大丈夫だと思つて御出《おいで》のだよ」
 「左右《さう》でせうか」
 「まだ/\十年も二十年も生きる氣で御出《おいで》のだよ。尤も時々はわたしにも心細いやうな事を御云ひだがね。おれも此《この》分《ぶん》ぢやもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、御前は何《ど》うする、一人で此|家《うち》に居る氣かなんて」
 私《わたくし》は急に父が居なくなつて母一人が取り殘された時の、古い廣い田舍家《ゐなかや》を想像して見た。此家から父一人を引き去つた後《あと》は、其儘で立ち行くだらうか。兄は何《ど》うするだらうか。母は何といふだらうか。さう考へる私は又此所の土を離れて、東京で氣樂に暮らして行けるだらうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でゐるうちに、分けて貰ふものは、分けて貰つて置けといふ注意を、偶然思ひ出した。
 「なにね、自分で死ぬ/\つて云ふ人に死んだ試《ためし》はないんだから安心だよ。御父さんなんぞも、死ぬ死ぬつて云ひながら、是から先まだ何年生きなさるか分るまいよ。夫《それ》よりか黙つてる丈夫の人の方が劔呑《けんのん》さ」
 私《わたくし》は理窟から出たとも統計から來たとも知れない、此|陳腐《ちんぷ》なやうな母の言葉を黙然《もくねん》と聞いてゐた。
 
     三
 
 私《わたくし》のために赤《あか》い飯《めし》を炊《た》いて客をするといふ相談が父と母の間に起つた。私は歸つた當日から、或は斯んな事になるだらうと思つて、心のうちで暗《あん》にそれを恐れてゐた。私はすぐ斷わつた。
 「あんまり仰山《ぎやうさん》な事は止して下さい」
 私《わたくし》は田舍《ゐなか》の客が嫌《きらひ》だつた。飲んだり食つたりするのを、最後の目的として遣つて來る彼等は、何か事があれば好《い》いといつた風の人ばかり揃つてゐた。私は子供の時から彼等の席に侍《じ》するのを心苦しく感じてゐた。まして自分のために彼等が來るとなると、私の苦痛は一層甚しいやうに想像された。然し私は父や母の手前、あんな野鄙《やひ》な人を集めて騷ぐのは止せとも云ひかねた。それで私はたゞあまり仰山《ぎやうさん》だからとばかり主張した。
 「仰山々々《ぎやうさん/\》と御云ひだが、些《ちつ》とも仰山ぢやないよ。生涯に二度とある事ぢやないんだからね、御客位するのは當り前だよ。さう遠慮を御爲《おし》でない」
 母は私《わたくし》が大學を卒業したのを、丁度嫁でも貰つたと同じ程度に、重く見てゐるらしかつた。
 「呼ばなくつても好《い》いが、呼ばないと又何とか云ふから」
 是は父の言葉であつた。父は彼等の陰口を氣にしてゐた。實際彼等はこんな場合に、自分達の豫期通りにならないと、すぐ何とか云ひたがる人々であつた。
 「東京と違つて田舍《ゐなか》は蒼蠅《うるさ》いからね」
 父は斯うも云つた。
 「御父さんの顔もあるんだから」と母が又付け加へた。
 私《わたくし》は我《が》を張る譯にも行かなかつた。何《ど》うでも二人の都合の好《い》いやうにしたらと思ひ出した。
 「つまり私《わたくし》のためなら、止して下さいと云ふ丈《だけ》なんです。陰で何か云はれるのが厭《いや》だからといふ御主意なら、そりや又別です。あなたがたに不利益な事を私が強ひて主張したつて仕方がありません」
 「さう理窟を云はれると困る」
 父は苦《にが》い顔をした。
 「何も御前の爲にするんぢやないと御父さんが仰しやるんぢやないけれども、御前だつて世間への義理位は知つてゐるだらう」
 母は斯うなると女だけにしどろもどろな事を云つた。其代り口數からいふと、父と私を二人寄せても中々|敵《かな》ふどころではなかつた。
 「學問をさせると人間が兎角理窟つぽくなつて不可《いけ》ない」
 父はたゞ是丈しか云はなかつた。然し私《わたくし》は此簡單な一句のうちに、父が平生から私に對して有《も》つてゐる不平の全體を見た。私は其時自分の言葉使ひの角張《かどば》つた所に氣が付かずに、父の不平の方ばかりを無理の樣に思つた。
 父は其夜また氣を更《か》へて、客を呼ぶなら何日《いつ》にするかと私《わたくし》の都合を聞いた。都合の好《い》いも惡いもなしに只ぶら/\古い家の中に寐起《ねおき》してゐる私に、斯んな問を掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であつた。私は此|穩《おだ》やかな父の前に拘泥《こだは》らない頭を下げた。私は父と相談の上|招待《せうだい》の日取《ひどり》を極めた。
 其|日取《ひどり》のまだ來ないうちに、ある大きな事が起つた。それは明治天皇の御病氣の報知であつた。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡つた此事件は、一軒の田舍家《ゐなかや》のうちに多少の曲折を經て漸く纒《まと》まらうとした私の卒業祝を、塵《ちり》の如くに吹き拂つた。
 「まあ御遠慮申した方が可《よ》からう」
 眼鏡《めがね》を掛けて新聞を見てゐた父は斯う云つた。父は黙つて自分の病氣の事も考へてゐるらしかつた。私《わたくし》はつい此間の卒業式に例年の通り大學へ行幸になつた陛下《へいか》を憶《おも》ひ出したりした。
 
      四
 
 小勢《こぜい》な人數には廣過ぎる古い家がひつそりしてゐる中《なか》に、私《わたくし》は行李《かうり》を解いて書物を繙《ひもと》き始めた。何故《なぜ》か私は氣が落ち付かなかつた。あの目眩《めまぐ》るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁《ページ》を一枚々々にまくつて行く方が、氣に張《はり》があつて心持よく勉強が出來た。
 私《わたくし》は稍《やゝ》ともすると机にもたれて假寐《うたゝね》をした。時にはわざ/\枕さへ出して本式に晝寐を貪《むさ》ぼる事もあつた。眼が覺めると、蝉の聲を聞いた。うつゝから續いてゐるやうな其聲は、急に八釜《やかま》しく耳の底を掻き亂した。私は凝《ぢつ》とそれを聞きながら、時に悲しい思《おもひ》を胸に抱《いだ》いた。
 私《わたくし》は筆を執つて友達のだれかれに短かい端書又は長い手紙を書いた。其友達のあるものは東京に殘つてゐた。あるものは遠い故郷《こきやう》に歸つてゐた。返事の來るのも、音信《たより》の屆かないのもあつた。私は固《もと》より先生を忘れなかつた。原稿紙へ細字で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つたのを送る事にした。私はそれを封じる時、先生は果《はた》してまだ東京にゐるだらうかと疑ぐつた。先生が奧さんと一所に宅《うち》を空《あ》ける場合には、五十|恰好《がつかう》の切下《きりさげ》の女の人が何處からか來て、留守番をするのが例になつてゐた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私は其人を先生の親類と思ひ違へてゐた。先生は「私には親類はありませんよ」と答へた。先生の郷里にゐる續きあひの人々と、先生は一向|音信《おんしん》の取り遣りをしてゐなかつた。私の疑問にした其留守番の女の人は、先生とは縁のない奧さんの方の親戚であつた。私は先生に郵便を出す時、不圖《ふと》幅の細い帶を樂《らく》に後《うしろ》に結んでゐる其人の姿を思ひ出した。もし先生夫婦が何處かへ避暑にでも行つたあとへ此郵便が屆いたら、あの切下《きりさげ》の御婆さんは、それをすぐ轉地先へ送つて呉れる丈の氣轉と親切があるだらうかなどと考へた。其癖その手紙のうちには是といふ程の必要の事も書いてないのを、私は能く承知してゐた。たゞ私は淋《さび》しかつた。さうして先生から返事の來るのを豫期してかゝつた。然し其返事は遂に來なかつた。
 父は此前の冬に歸つて來た時|程《ほど》將棋を差したがらなくなつた。將棋盤はほこりの溜《たま》つた儘、床の間の隅に片寄せられてあつた。ことに陛下の御病氣以後父は凝《ぢつ》と考へ込んでゐるやうに見えた。毎日新聞の來るのを待ち受けて、自分が一番先へ讀んだ。それから其|讀《よみ》がらをわざ/\私《わたくし》の居る所へ持つて來て呉れた。
 「おい御覽、今日も天子樣の事が詳《くは》しく出てゐる」
 父は陛下のことを、つねに天子さまと云つてゐた。
 「勿體《もつたい》ない話だが、天子さまの御病氣も、お父さんのとまあ似たものだらうな」
 斯ういふ父の顔には深い掛念《けねん》の曇《くもり》がかかつてゐた。斯う云はれる私《わたくし》の胸には又父が何時《いつ》斃《たふ》れるか分らないといふ心配がひらめいた。
 「然し大丈夫だらう。おれの樣な下らないものでも、まだ斯うしてゐられる位だから」
 父は自分の達者な保證を自分で與へながら、今にも己《おの》れに落ちかゝつて來さうな危險を豫感してゐるらしかつた。
 「御父さんは本當に病氣を怖《こは》がつてるんですよ。御母さんの仰《おつ》しやるやうに、十年も二十年も生きる氣ぢやなささうですぜ」
 母は私《わたくし》の言葉を聞いて當惑さうな顔をした。
 「ちつと又將棋でも差すやうに勸めて御覽な」
 私は床の間から將棋盤を取り卸《おろ》して、ほこりを拭いた。
 
     五
 
 父の元氣は次第に衰ろへて行つた。私《わたくし》を驚ろかせたハンケチ付の古い麥藁帽子が自然と閑却されるやうになつた。私は黒い煤《すゝ》けた棚の上に載《の》つてゐる其帽子を眺めるたびに、父に對して氣の毒な思《おもひ》をした。父が以前のやうに、輕々《かる/”\》と動く間《あひだ》は、もう少し愼《つゝし》んで呉れたらと心配した。父が凝《ぢつ》と坐り込むやうになると、矢張《やは》り元の方が達者だつたのだといふ氣が起《おこ》つた。私は父の健康に就いてよく母と話し合つた。
 「全《まつ》たく氣の所爲《せゐ》だよ」と母が云つた。母の頭は陛下の病《やまひ》と父の病《やまひ》とを結び付けて考へてゐた。私《わたくし》にはさう許《ばかり》とも思へなかつた。
 「氣ぢやない、本當に身體《からだ》が惡かないんでせうか。何《ど》うも氣分より健康の方が惡くなつて行くらしい」
 私《わたくし》は斯う云つて、心のうちで又遠くから相當の醫者でも呼んで、一つ見せやうかしらと思案した。
 「今年の夏は御前も詰らなからう。折角卒業したのに、御祝もして上げる事が出來ず、御父さんの身體《からだ》もあの通りだし。それに天子樣の御病氣で。――いつその事、歸るすぐに御客でも呼ぶ方が好かつたんだよ」
 私《わたくし》が歸つたのは七月の五六日で、父や母が私の卒業を祝ふために客を呼ばうと云ひだしたのは、それから一週間|後《ご》であつた。さうして愈《いよ/\》と極めた日はそれから又一週間の餘《よ》も先《きき》になつてゐた。時間に束縛を許さない悠長な田舍に歸つた私は、御蔭で好《この》もしくない社交上の苦痛から救はれたも同じ事であつたが、私を理解しない母は少しも其所に氣が付いてゐないらしかつた。
 崩御《ほうぎよ》の報知が傳へられた時、父は其新聞を手にして、「あゝ、あゝ」と云つた。
 「あゝ、あゝ、天子樣もとう/\御かくれになる。己《おれ》も……」
 父は其|後《あと》を云はなかつた。
 私《わたくし》は黒いうすものを買ふために町へ出た。それで旗竿《はたざを》の球《たま》を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひら/\を付けて、門《もん》の扉の横から斜《なゝ》めに往來へさし出した。旗も黒いひら/\も、風のない空氣のなかにだらりと下《さが》つた。私の宅《うち》の古い門の屋根は藁で葺《ふ》いてあつた。雨や風に打たれたり又吹かれたりした其藁の色はとくに變色して、薄く灰色を帶びた上に、所々の凸凹《でこぼこ》さへ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひら/\と、白いめりんすの地《ぢ》と、地《ぢ》のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺めた。それが薄汚ない屋根の藁に映《うつ》るのも眺めた。私はかつて先生から「あなたの宅《うち》の構《かまへ》は何《ど》んな體裁ですか。私の郷里の方とは大分《だいぶ》趣《おもむき》が違つてゐますかね」と聞かれた事を思ひ出した。私は自分の生れた此《この》古い家《いへ》を、先生に見せたくもあつた。又先生に見せるのが耻づかしくもあつた。
 私《わたくし》は又一人|家《いへ》のなかへ這入《はい》つた。自分の机の置いてある所へ來て、新聞を讀みながら、遠い東京の有樣を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、何《ど》んなに暗いなかで何《ど》んなに動いてゐるだらうかの畫面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなつた都會の、不安でざわ/\してゐるなかに、一點の燈火の如くに先生の家を見た。私は其時|此《この》燈火が音のしない渦《うづ》の中《なか》に、自然と捲《ま》き込まれてゐる事に氣が付かなかつた。しばらくすれば、其|灯《ひ》も亦ふつと消えてしまふべき運命を、眼の前に控《ひか》えてゐるのだとは固《もと》より氣が付かなかつた。
 私《わたくし》は今度の事件に就いて先生に手紙を書かうかと思つて、筆を執《と》りかけた。私はそれを十行ばかり書いて已《や》めた。書いた所は寸々《すん/”\》に引き裂いて屑籠《くづかご》へ投げ込んだ。(先生に宛てゝさう云ふ事を書いても仕方がないとも思つたし、前例に徴《ちよう》して見ると、とても返事を呉れさうになかつたから)。私は淋《さび》しかつた。それで手紙を書《かく》のであつた。さうして返事が來れば好《い》いと思ふのであつた。
 
     六
 
 八月の半《なかば》ごろになつて、私《わたくし》はある朋友《ほういう》から手紙を受け取つた。その中に地方の中學教員の口があるが行かないかと書いてあつた。此|朋友《ほういう》は經濟の必要上、自分でそんな位地を探し廻る男であつた。此口も始めは自分の所へかゝつて來たのだが、もつと好い地方へ相談が出來たので、餘つた方を私に讓る氣で、わざ/\知らせて來て呉れたのであつた。私はすぐ返事を出して斷《ことわ》つた。知り合ひの中《なか》には、隨分骨を折つて、教師の職にありつきたがつてゐるものがあるから、其《その》方《はう》へ廻して遣つたら好からうと書いた。
 私《わたくし》は返事を出した後《あと》で、父と母に其話をした。二人とも私の斷《ことわ》つた事に異存はないやうであつた。
 「そんな所へ行かないでも、まだ好《い》い口があるだらう」
 斯ういつて呉れる裏《うら》に、私《わたくし》は二人が私に對して有《も》つてゐる過分な希望を讀んだ。迂潤《うくわつ》な父や母は、不相當な地位と收入とを卒業したての私から期待してゐるらしかつたのである。
 「相當の口つて、近頃ぢやそんな旨い口は中々あるものぢやありません。ことに兄さんと私《わたくし》とは專門も違ふし、時代も違ふんだから、二人を同じやうに考へられちや少し困ります」
 「然し卒業した以上は、少くとも獨立して遣つて行つて呉れなくつちや此方《こつち》も困る。人からあなたの所の御二男《ごじなん》は、大學を卒業なすつて何をして御出《おいで》ですかと聞かれた時に返事が出來ない樣ぢや、おれも肩身が狹いから」
 父は澁面《しうめん》をつくつた。父の考へは古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかつた。其郷里の誰彼から、大學を卒業すればいくら位月給が取れるものだらうと聞かれたり、まあ百圓位なものだらうかと云はれたりした父は、斯ういふ人々に對して、外聞《ぐわいぶん》の惡くないやうに、卒業したての私《わたくし》を片付けたかつたのである。廣い都を根據地として考へてゐる私は、父や母から見ると、丸《まる》で足を空に向けて歩く奇體《きたい》な人間に異《こと》ならなかつた。私の方でも、實際さういふ人間のやうな氣特を折々起した。私はあからさまに自分の考へを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔《けんかく》の甚《はなはだ》しい父と母の前に黙然《もくねん》としてゐた。
 「御前のよく先生々々といふ方《かた》にでも御願《おねがひ》したら好《い》いぢやないか。斯んな時こそ」
 母は斯うより外に先生を解釋する事が出來なかつた。其先生は私《わたくし》に國へ歸つたら父の生きてゐるうちに早く財産を分けて貰へと勸める人であつた。卒業したから、地位の周旋をして遣らうといふ人ではなかつた。
 「其先生は何をしてゐるのかい」と父が聞いた。
 「何《なん》にもして居ないんです」と私《わたくし》が答へた。
 私《わたくし》はとくの昔から先生の何もしてゐないといふ事を父にも母にも告げた積《つもり》でゐた。さうして父はたしかに夫《それ》を記憶してゐる筈であつた。
 「何もしてゐないと云ふのは、また何《ど》ういふ譯かね。御前がそれ程尊敬する位な人なら何か遣つてゐさうなものだがね」
 父は斯う云つて、私《わたくし》を諷《ふう》した。父の考へでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相當の地位を得て働らいてゐる。必竟《ひつきやう》やくざだから遊んでゐるのだと結論してゐるらしかつた。
 「おれの樣な人間だつて、月給こそ貰つちやゐないが、是でも遊んでばかりゐるんぢやない」
 父はかうも云つた。私《わたくし》は夫《それ》でもまだ默つてゐた。
 「御前のいふ樣な偉い方なら、屹度何か口を探して下さるよ。頼んで御覽なのかい」と母が聞いた。
 「いゝえ」と私《わたくし》は答へた。
 「ぢや仕方がないぢやないか。何故《なぜ》頼まないんだい。手紙でも好いから御出しな」
 「えゝ」
 私《わたくし》は生返事《なまへんじ》をして席を立つた。
 
     七
 
 父は明《あき》らかに自分の病氣を恐れてゐた。然し醫者の來るたびに蒼蠅《うるさ》い質問を掛けて相手を困らす質《たち》でもなかつた。醫者の方でも亦《また》遠慮して何とも云はなかつた。
 父は死後の事を考へてゐるらしかつた。少なくとも自分が居なくなつた後《あと》のわが家《いへ》を想像して見るらしかつた。
 「小供に學問をさせるのも、好《よ》し惡《あし》しだね。折角修業をさせると、其小供は決して宅《うち》へ歸つて來ない。是ぢや手もなく親子を隔離するために學問させるやうなものだ」
 學問をした結果兄は今|遠國《ゑんごく》にゐた。教育を受けた因果で、私《わたくし》は又東京に住む覺悟を固くした。斯ういふ子を育てた父の愚痴《ぐち》はもとより不合理ではなかつた。永年《ながねん》住み古した田舍家《ゐなかや》の中に、たつた一人取り殘されさうな母を描《ゑが》き出す父の想像はもとより淋《さび》しいに違ひなかつた。
 わが家《いへ》は動かす事の出來ないものと父は信じ切つてゐた。其《その》中《なか》に住む母も亦《また》命のある間《あひだ》は、動かす事の出來ないものと信じてゐた。自分が死んだ後《あと》、この孤獨《こどく》な母を、たつた一人|伽藍堂《がらんだう》のわが家に取り殘すのも亦|甚《はなはだ》しい不安であつた。それだのに、東京で好い地位を求めろと云つて、私《わたくし》を強《し》ひたがる父の頭には矛盾があつた。私は其矛盾を可笑《をか》しく思つたと同時に、其御蔭で又東京へ出られるのを喜こんだ。
 私《わたくし》は父や母の手前、此地位を出來る丈《だけ》の努力で求めつゝある如くに裝《よそ》ほはなくてはならなかつた。私は先生に手紙を書いて、家《いへ》の事情を精《くは》しく述べた。もし自分の力で出來る事があつたら何でもするから周旋して呉れと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合ふまいと思ひながら此手紙を書いた。又取り合ふ積《つもり》でも、世間の狹い先生としては何《ど》うする事も出來まいと思ひながら此手紙を書いた。然し私は先生から此手紙に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた。
 私《わたくし》はそれを封じて出す前に母に向つて云つた。
 「先生に手紙を書きましたよ。あなたの仰《おつ》しやつた通り。一寸讀んで御覽なさい」
 母は私《わたくし》の想像したごとくそれを讀まなかつた。
 「さうかい、夫《それ》ぢや早く御出し。そんな事は他《ひと》が氣を付けないでも、自分で早く遣るものだよ」
 母は私《わたくし》をまだ子供のやうに思つてゐた。私も實際子供のやうな感じがした。
 「然し手紙ぢや用は足りませんよ。何《ど》うせ、九月にでもなつて、私《わたくし》が東京へ出てからでなくつちや」
 「そりや左右《さう》かも知れないけれども、又ひよつとして、何《ど》んな好い口がないとも限らないんだから、早く頼んで置くに越した事はないよ」
 「えゝ。兎に角返事は來るに極《きま》つてますから、さうしたら又御話ししませう」
 私《わたくし》は斯んな事に掛けて几帳面《きちやうめん》な先生を信じてゐた。私は先生の返事の來るのを心待に待つた。けれども私の豫期はついに外《はづ》れた。先生からは一週間|經《た》つても何《なん》の音信《たより》もなかつた。
 「大方《おほかた》どこかへ避暑にでも行つてゐるんでせう」
 私《わたくし》は母に向つて云譯《いひわけ》らしい言葉を使はなければならなかつた。さうして其言葉は母に對する言譯ばかりでなく、自分の心に對する言譯でもあつた。私は強《し》ひても何かの事情を假定して先生の態度を辯護しなければ不安になつた。
 私《わたくし》は時々父の病氣を忘れた。いつそ早く東京へ出てしまはうかと思つたりした。其父自身もおのれの病氣を忘れる事があつた。未來を心配しながら、未來に對する所置は一向《いつかう》取らなかつた。私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父に云ひ出す機會を得ずに過ぎた。
 
     八
 
 九月始めになつて、私《わたくし》は愈《いよ/\》又東京へ出やうとした。私は父に向《むか》つて當分|今迄《いままで》通《どほ》り學資を送つて呉れるやうにと頼んだ。
 「此所《こゝ》に斯うしてゐたつて、あなたの仰《おつ》しやる通りの地位が得られるものぢやないですから」
 私《わたくし》は父の希望する地位を得るために東京へ行くやうな事を云つた。
 「無論|口《くち》の見付かる迄で好いですから」とも云つた。
 私《わたくし》は心のうちで、其|口《くち》は到底私の頭の上に落ちて來ないと思つてゐた。けれども事情にうとい父はまた飽く迄も其反對を信じてゐた。
 「そりや僅の間《あひだ》の事だらうから、何《ど》うにか都合してやらう。其代り永くは不可《いけな》いよ。相當の地位を得《え》次第《しだい》獨立しなくつちや。元來學校を出た以上、出たあくる日から他《ひと》の世話になんぞなるものぢやないんだから。今の若いものは、金を使ふ道だけ心得てゐて、金を取る方は全く考へてゐないやうだね」
 父は此外にもまだ色々の小言《こごと》を云つた。その中《なか》には、「昔の親は子に食はせて貰つたのに、今の親は子に食はれる丈《だけ》だ」などゝいふ言葉があつた。それ等を私《わたくし》はたゞ默つて聞いてゐた。
 小言《こごと》が一通《ひととほり》濟んだと思つた時、私《わたくし》は靜かに席を立たうとした。父は何時《いつ》行くかと私に尋ねた。私には早い丈《だけ》が好かつた。
 「御母さんに日を見て貰ひなさい」
 「さう爲《し》ませう」
 其時の私《わたくし》は父の前に存外|大人《おとな》しかつた。私はなるべく父の機嫌に逆《さから》はずに、田舍を出やうとした。父は又私を引き留めた。
 「御前が東京へ行くと宅《うち》は又|淋《さみ》しくなる。何《なに》しろ己《おれ》と御母さん丈《だけ》なんだからね。そのおれも身體《からだ》さへ達者なら好《い》いが、この樣子ぢや何時《いつ》急に何《ど》んな事がないとも云へないよ」
 私《わたくし》は出來るだけ父を慰さめて、自分の机を置いてある所へ歸つた。私は取り散らした書物の間に坐つて、心細さうな父の態度と言葉とを、幾度か繰り返し眺めた。私は其時又蝉の聲を聞いた。其聲は此間中《このあひだぢゆう》聞いたのと違つて、つく/\法師《ぼふし》の聲であつた。私は夏郷里に歸つて、※[者/火]《に》え付くやうな蝉の聲の中に凝《ぢつ》と坐つてゐると、變に悲しい心持になる事がしば/\あつた。私の哀愁はいつも此虫の烈しい音《ね》と共に、心の底に沁《し》み込むやうに感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めてゐた。
 私《わたくし》の哀愁は此夏歸省した以後次第に情調を變へて來た。油蝉の聲がつく/\法師の聲に變《かは》る如くに、私を取り卷く人の運命が、大きな輪廻《りんゑ》のうちに、そろ/\動いてゐるやうに思はれた。私は淋しさうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶ひ浮べた。先生と父とは、丸で反對の印象を私に與へる點に於て、比較の上にも、連想の上にも、一所に私の頭に上《のぼ》り易《やす》かつた。
 私《わたくし》は殆んど父の凡《すべ》ても知り盡してゐた。もし父を離れるとすれば、情合《じやうあひ》の上に親子の心殘りがある丈《だけ》であつた。先生の多くはまだ私に解つてゐなかつた。話すと約束された其人の過去もまだ聞く機會を得ずにゐた。要するに先生は私にとつて薄暗かつた。私は是非とも其所を通り越して、明るい所迄行かなければ氣が濟まなかつた。先生と關係の絶えるのは私にとつて大いな苦痛であつた。私は母に日を見て貰つて、東京へ立つ日取《ひどり》を極《き》めた。
 
     九
 
 私《わたくし》が愈《いよ/\》立たうといふ間際《まぎは》になつて、(たしか二日前《ふつかまへ》の夕方の事であつたと思ふが、)父は又突然|引《ひ》つ繰《くり》返つた。私は其時書物や衣類を詰めた行李《かうり》をからげてゐた。父は風呂へ入《はい》つた所であつた。父の背中《せなか》を流しに行つた母が大きな聲を出して私を呼んだ。私は裸體《はだか》の儘母に後《うしろ》から抱《だ》かれてゐる父を見た。それでも座敷へ伴《つ》れて戻つた時、父はもう大丈夫だと云つた。念の爲に枕元に坐つて、濡手拭《ぬれてぬぐひ》で父の頭を冷《ひや》してゐた私は、九時頃になつて漸く形《かた》ばかりの夜食を濟ました。
 翌日になると父は思つたより元氣が好かつた。留めるのも聞かずに歩いて便所へ行つたりした。
 「もう大丈夫」
 父は去年の暮倒れた時に私《わたくし》に向《むか》つて云つたと同じ言葉を又繰り返した。其時は果《はた》して口で云つた通りまあ大丈夫であつた。私は今度も或は左右《さう》なるかも知れないと思つた。然し醫者はたゞ用心が肝要だと注意する丈《だけ》で、念を押しても判然《はつきり》した事を話して呉れなかつた。私は不安のために、出立の日が來てもついに東京へ立つ氣が起らなかつた。
 「もう少し樣子を見てからにしませうか」と私《わたくし》は母に相談した。
 「さうして御呉れ」と母が頼んだ。
 母は父が庭へ出たり脊戸《せど》へ下りたりする元氣を見てゐる間《あひだ》丈《だけ》は平氣でゐる癖に、斯んな事が起《おこ》るとまた必要以上に心配したり氣を揉《も》んだりした。
 「御前は今日東京へ行く筈ぢやなかつたか」と父が聞いた。
 「えゝ、少し延ばしました」と私《わたくし》が答へた。
 「おれの爲にかい」と父が聞き返した。
 私《わたくし》は一寸《ちよつと》躊躇《ちうちよ》した。さうだと云へば、父の病氣の重いのを裏書するやうなものであつた。私は父の神經を過敏にしたくなかつた。然し父は私の心をよく見拔いてゐるらしかつた。
 「氣の毒だね」と云つて、庭の方を向いた。
 私《わたくし》は自分の部屋に這入《はい》つて、其所に放《はふ》り出された行李《かうり》を眺めた。行李は何時《いつ》持ち出しても差支《さしつかへ》ないやうに、堅く括《くゝ》られた儘《まゝ》であつた。私はぼんやり其前に立つて、又繩を解かうかと考へた。
 私《わたくし》は坐つた儘《まゝ》腰を浮かした時の落付かない氣分で、又|三四日《さんよつか》を過ごした。すると父が又卒倒した。醫者は絶對に安臥《あんぐわ》を命じた。
 「何《ど》うしたものだらうね」と母が父に聞こえないやうな小《ちひ》さな聲で私《わたくし》に云つた。母の顔は如何にも心細さうであつた。私は兄と妹に電報を打つ用意をした。けれども寐てゐる父には、殆んど何の苦悶もなかつた。話をする所などを見ると、風邪《かぜ》でも引いた時と全く同じ事であつた。其上食慾は不斷よりも進んだ。傍《はた》のものが、注意しても容易に云ふ事を聞かなかつた。
 「何《ど》うせ死ぬんだから、旨いものでも食つて死ななくつちや」
 私《わたくし》には旨いものといふ父の言葉が滑稽《こつけい》にも悲酸《ひさん》にも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでゐなかつたのである。夜《よ》に入《い》つてかき餅などを燒いて貰つてぼり/\噛んだ。
 「何《ど》うして斯う渇《かわ》くのかね。矢張《やつぱり》心《しん》に丈夫の所があるのかも知れないよ」
 母は失望していゝ所に却《かへ》つて頼みを置いた。其《その》癖《くせ》病氣の時にしか使はない渇《かわ》くといふ昔風《むかしふう》の言葉を、何でも食べたがる意味に用ひてゐた。
 伯父が見舞に來たとき、父は何時《いつ》迄も引き留めて歸さなかつた。淋《さむ》しいからもつと居て呉れといふのが重《おも》な理由であつたが、母や私《わたくし》が、食べたい丈《だけ》物を食べさせないといふ不平を訴たへるのも、其目的の一つであつたらしい。
 
     十
 
 父の病氣は同じやうな状態で一週間以上つゞいた。私《わたくし》はその間《あひだ》に長い手紙を九州《きうしう》にゐる兄|宛《あて》で出した。妹《いもと》へは母から出させた。私は腹の中で、恐らく是が父の健康に關して二人へ遣る最後の音信《たより》だらうと思つた。それで兩方へ愈《いよ/\》といふ場合には電報を打つから出て來いといふ意味を書き込めた。
 兄は忙《いそ》がしい職にゐた。妹《いもと》は姙娠中《にんしんちゆう》であつた。だから父の危險が眼の前に逼《せま》らないうちに呼び寄せる自由は利かなかつた。と云つて、折角都合して來たには來たが、間に合はなかつたと云はれるのも辛《つら》かつた。私《わたくし》は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
 「さう判然《はつき》りした事になると私《わたくし》にも分りません。然し危険は何時《いつ》來るか分らないといふ事|丈《だけ》は承知してゐて下さい」
 停車場のある町から迎へた醫者は私《わたくし》に斯う云つた。私は母と相談して、其醫者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元へ來て挨拶《あいさつ》する白い服を着た女を見て變な顔をした。
 父は死病に罹《かゝ》つてゐる事をとうから自覺してゐた。それでゐて、眼前《がんぜん》にせまりつつある死そのものには氣が付かなかつた。
 「今に癒つたらもう一|返《ぺん》東京へ遊びに行つて見やう。人間は何時《いつ》死ぬか分らないからな。何でも遣りたい事は、生きてるうちに遣つて置くに限る」
 母は仕方なしに「其時は私《わたくし》も一所に伴《つ》れて行つて頂きませう」などゝ調子を合せてゐた。
 時とすると又非常に淋《さみ》しがつた。
 「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣つてくれ」
 私《わたくし》は此「おれが死んだら」といふ言葉に一種の記憶を有《も》つてゐた。東京を立つ時、先生が奧さんに向つて何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であつた。私は笑《わらひ》を帶びた先生の顔と、縁喜《えんぎ》でもないと耳を塞《ふさ》いだ奧さんの樣子とを憶ひ出した。あの時の「おれが死んだら」は單純な假定であつた。今私が聞くのは何時《いつ》起《おこ》るか分らない事實であつた。私は先生に對する奧さんの態度を學ぶ事が出來なかつた。然し口の先では何とか父を紛《まぎ》らさなければならなかつた。
 「そんな弱い事を仰《おつ》しやつちや不可《いけま》せんよ。今に癒つたら東京へ遊びに入らつしやる筈ぢやありませんか。御母さんと一所に。今度入らつしやると屹度|吃驚《びつくり》しますよ、變つてゐるんで。電車の新らしい線路|丈《だけ》でも大變|増《ふ》えてゐますからね。電車が通るやうになれば自然|町並《まちなみ》も變るし、その上に市區改正もあるし、東京が凝《ぢつ》としてゐる時は、まあ二六|時中《じちゆう》一|分《ぷん》もないと云つて可《い》い位です」
 私《わたくし》は仕方がないから云はないで可《い》い事迄|喋舌《しやべ》つた。父はまた、滿足らしくそれを聞いてゐた。
 病人があるので自然|家《いへ》の出入《でいり》も多くなつた。近所にゐる親類などは、二日に一人位の割で代《かは》る/”\見舞に來た。中には比較的遠くに居て平生《へいぜい》疎遠なものもあつた。「何《ど》うかと思つたら、この樣子ぢや大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちつとも瘠《や》せてゐないぢやないか」などゝ云つて歸るものがあつた。私《わたくし》の歸つた當時はひつそりし過ぎる程|靜《しづか》であつた家庭が、こんな事で段々ざわ/\し始めた。
 その中《なか》に動かずにゐる父の病氣は、たゞ面白くない方へ移つて行くばかりであつた。私《わたくし》は母や伯父と相談して、とう/\兄と妹《いもと》に電報を打つた。兄からはすぐ行くといふ返事が來た。妹《いもと》の夫《をつと》からも立つといふ報知《しらせ》があつた。妹《いもと》は此前|懷姙《くわいにん》した時に流産したので、今度こそは癖にならないやうに大事を取らせる積《つもり》だと、かねて云ひ越した其|夫《をつと》は、妹《いもと》の代りに自分で出て來るかも知れなかつた。
 
     十一
 
 斯うした落付のない間《あひだ》にも、私《わたくし》はまだ靜かに坐る餘裕《よゆう》を有《も》つてゐた。偶《たま》には書物を開《あ》けて十|頁《ページ》もつゞけざまに讀む時間さへ出て來た。一旦《いつたん》堅く括《くゝ》られた私の行李《かうり》は、何時《いつ》の間《ま》にか解かれて仕舞つた。私は要《い》るに任せて、其《その》中《なか》から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極《き》めた、此《この》夏中《なつぢゆう》の日課を顧みた。私の遣つた事は此日課の三《さん》ケ一《いち》にも足《た》らなかつた。私は今迄も斯ういふ不愉快を何度となく重ねて來た。然し此夏程思つた通り仕事の運《はこ》ばない例《ためし》も少なかつた。是が人の世の常だらうと思ひながらも私は厭《いや》な氣持に抑《おさ》え付けられた。
 私《わたくし》は此不快の裏《うち》に坐りながら、一方に父の病氣を考へた。父の死んだ後《あと》の事を想像した。さうして夫《それ》と同時に、先生の事を一方に思ひ浮《うか》べた。私は此不快な心持の兩端《りやうたん》に地位、教育、性格の全然|異《こと》なつた二人《ふたり》の面影を眺めた。
 私《わたくし》が父の枕元を離れて、獨り取り亂した書物の中に腕組をしてゐる所へ母が顔を出した。
 「少し午眠《ひるね》でもおしよ。御前も嘸《さぞ》草臥《くたび》れるだらう」
 母は私《わたくし》の氣分を了解《れうかい》してゐなかつた。私も母からそれを豫期する程の子供でもなかつた。私は單簡《たんかん》に禮を述べた。母はまだ室《へや》の入口に立つてゐた。
 「御父さんは?」と私《わたくし》が聞いた。
 「今よく寐て御出《おいで》だよ」と母が答へた。
 母は突然|這入《はい》つて來て私《わたくし》の傍《そば》に坐つた。
 「先生からまだ何《なん》とも云つて來ないかい」と聞いた。
 母は其時の私《わたくし》の言葉を信じてゐた。其時の私は先生から屹度《きつと》返事があると母に保證した。然し父や母の希望するやうな返事が來るとは、其時の私も丸《まる》で期待しなかつた。私は心得があつて母を欺《あざ》むいたと同じ結果に陷《おちい》つた。
 「もう一遍手紙を出して御覽な」と母が云つた。
 役に立たない手紙を何通《なんつう》書かうと、それが母の慰安になるなら、手數《てすう》を厭《いと》ふやうな私《わたくし》ではなかつた。けれども斯ういふ用件で先生にせまるのは私の苦痛であつた。私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下《みさ》げられるのを遙《はる》かに恐れてゐた。あの依頼に對して今迄返事の貰へないのも、或《あるひ》はさうした譯からぢやないかしらといふ邪推《じやすゐ》もあつた。
 「手紙を書くのは譯はないですが、斯ういふ事は郵便ぢやとても埒《らち》は明きませんよ。何《ど》うしても自分で東京へ出て、ぢかに頼んで廻らなくつちや」
 「だつて御父さんがあの樣子ぢや、御前《おまへ》、何時《いつ》東京へ出られるか分らないぢやないか」
 「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付《かたづか》ないうちは、ちやんと斯うしてゐる積です」
 「そりや解り切つた話だね。今にも六《む》づかしいといふ大病人《たいびやうにん》を放《ほう》ちらかして置いて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
 私《わたくし》は始め心のなかで、何も知らない母を憐《あは》れんだ。然し母が何故《なぜ》斯んな問題を此ざわ/\した際《さい》に持ち出したのか理解出來なかつた。私が父の病氣を餘所《よそ》に、靜かに坐つたり書見したりする餘裕のある如くに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考へる丈《だけ》、胸に空地《すきま》があるのか知らと疑《うたぐ》つた。其時「實はね」と母が云ひ出した。
 「實は御父さんの生きて御出《おいで》のうちに、御前の口が極《きま》つたら嘸《さぞ》安心なさるだらうと思ふんだがね。此樣子ぢや、とても間に合はないかも知れないけれども、夫《それ》にしても、まだあゝ遣つて口も慥《たしか》なら氣も慥《たしか》なんだから、あゝして御出《おいで》のうちに喜こばして上げるやうに親孝行をおしな」
 隣れな私《わたくし》は親孝行の出來ない境遇にゐた。私は遂に一|行《ぎやう》の手紙も先生に出さなかつた。
 
     十二
 
 兄が歸つて來た時、父は寐ながら新聞を讀んでゐた。父は平生から何を措《お》いても新聞|丈《だけ》には眼を通す習慣であつたが、床についてからは、退屈のため猶更《なほさら》それを讀みたがつた。母も私《わたくし》も強《し》ひては反對せずに、成るべく病人の思ひ通りにさせて置いた。
 「さういふ元氣なら結構なものだ。餘程《よつぽど》惡いかと思つて來たら、大變|好《い》いやうぢやありませんか」
 兄は斯んな事を云ひながら父と話をした。其《その》賑やか過ぎる調子が私《わたくし》には却つて不調和に聞こえた。それでも父の前を外《はづ》して私と差し向ひになつた時は、寧ろ沈んでゐた。
 「新聞なんか讀ましちや不可《いけ》なかないか」
 「私《わたし》もさう思ふんだけれども、讀まないと承知しないんだから、仕樣がない」
 兄は私《わたくし》の辯解を黙つて聞いてゐた。やがて、「能く解るのかな」と云つた。兄は父の理解力が病氣のために、平生よりは餘程《よつぽど》鈍つてゐるやうに觀察したらしい。
 「そりや慥《たしか》です。私《わたし》はさつき二十分|許《ばかり》枕元に坐つて色々話して見たが、調子の狂つた所は少しもないです。あの樣子ぢやことによると未《ま》だ中々持つかも知れませんよ」
 兄と前後して着いた妹《いもと》の夫《をつと》の意見は、我々よりもよほど樂觀的であつた。父は彼に向つて妹《いもと》の事をあれこれと尋ねてゐた。「身體《からだ》が身體だから無暗《むやみ》に汽車になんぞ乘つて搖れない方が好い。無理をして見舞に來られたりすると、却《かへ》つて此方《こつち》が心配だから」と云つてゐた。「なに今に治つたら赤ん坊の顔でも見に、久《ひさ》し振《ぶり》に此方《こつち》から出掛《でかけ》るから差支《さしつかへ》ない」とも云つてゐた。
 乃木大將の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知つた。
 「大變だ大變だ」と云つた。
 何事も知らない私達《わたくしたち》は此突然な言葉に驚ろかされた。
 「あの時は愈《いよ/\》頭が變になつたのかと思つて、ひやりとした」と後《あと》で兄が私《わたくし》に云つた。「私《わたし》も實は驚ろきました」と妹《いもと》の夫《をつと》も同感らしい言葉つきであつた。
 其頃の新聞は實際|田舍《ゐなか》ものには日毎に待ち受けられるやうな記事ばかりあつた。私《わたくし》は父の枕元に坐つて鄭寧《ていねい》にそれを讀んだ。讀む時間のない時は、そつと自分の室《へや》へ持つて來て、殘らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大將と、それから官女《くわんぢよ》見たやうな服裝《なり》をした其夫人の姿を忘れる事が出來なかつた。
 悲痛な風が田舍の隅《すみ》迄《まで》吹いて來て、眠《ねむ》たさうな樹や草を震《ふる》はせてゐる最中に、突然|私《わたくし》は一通の電報を先生から受取つた。洋服を着た人を見ると犬が吠《ほ》えるやうな所では、一通の電報すら大事件であつた。それを受取つた母は、果《はた》して驚ろいたやうな樣子をして、わざ/\私を人のゐない所へ呼び出した。
 「何だい」と云つて、私《わたくし》の封を開くのを傍《そば》に立つて待つてゐた。
 電報には一寸《ちよつと》會ひたいが來られるかといふ意味が簡單に書いてあつた。私《わたくし》は首を傾《かたむ》けた。
 「屹度|御頼《おたの》もうして置いた口の事だよ」と母が推斷して呉れた。
 私《わたくし》も或は左右《さう》かも知れないと思つた。然しそれにしては少し變だとも考へた。兎に角兄や妹《いもと》の夫《をつと》迄《まで》呼び寄せた私が、父の病氣を打遣《うちや》つて、東京へ行く譯には行かなかつた。私は母と相談して、行かれないといふ返電を打つ事にした。出來る丈《だけ》簡略な言葉で父の病氣の危篤に陷《おち》いりつゝある旨も付け加へたが、夫《それ》でも氣が濟まなかつたから、委細手紙として、細《こま》かい事情を其日のうちに認《した》ためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切つた母は、「本當に間《ま》の惡い時は仕方のないものだね」と云つて殘念さうな顔をした。
 
     十三
 
 私《わたくし》の書いた手紙は可なり長いものであつた。母も私も今度こそ先生から何とか云つて來るだらうと考へてゐた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私《わたくし》宛《あて》で屆いた。それには來ないでもよろしいといふ文句だけしかなかつた。私はそれを母に見せた。
 「大方手紙で何とか云つてきて下さる積《つもり》だらうよ」
 母は何處迄も先生が私《わたくし》のために衣食の口を周旋《しうせん》して呉れるものと許《ばかり》解釋してゐるらしかつた。私も或は左右《さう》かとも考へたが、先生の平生から推して見ると、何《ど》うも變に思はれた。「先生が口を探してくれる」。これは有り得べからざる事のやうに私には見えた。
 「兎に角|私《わたくし》の手紙はまだ向《むかふ》へ着いてゐない筈だから、此電報は其前に出したものに違《ちがひ》ないですね」
 私《わたくし》は母に向つて斯んな分り切つた事を云つた。母は又|尤《もつと》もらしく思案しながら「左右《さう》だね」と答へた。私の手紙を讀まない前に、先生が此電報を打つたといふ事が、先生を解釋する上に於て、何の役にも立たないのは知れてゐるのに。
 其日は丁度|主治醫《しゆぢい》が町から院長を連れて來る筈になつてゐたので、母と私《わたくし》はそれぎり此事件に就いて話をする機會がなかつた。二人の醫者は立ち合の上、病人に浣腸《くわんちやう》などをして歸つて行つた。
 父は醫者から安臥《あんぐわ》を命ぜられて以來、兩便とも寐たまゝ他《ひと》の手で始末して貰つてゐた。潔癖《けつぺき》な父は、最初の間《あひだ》こそ甚《はなはだ》しくそれを忌み嫌つたが、身體《からだ》が利《き》かないので、已《やむ》を得ずいや/\床《とこ》の上で用を足した。それが病氣の加減で頭がだん/\鈍《にぶ》くなるのか何だか、日を經《ふ》るに從つて、無精な排泄《はいせつ》を意としないやうになつた。たまには蒲團や敷布を汚《よご》して、傍《はた》のものが眉を寄せるのに、當人は却《かへ》つて平氣でゐたりした。尤も尿《ねう》の量は病氣の性質として、極《きは》めて少なくなつた。醫者はそれを苦にした。食慾も次第に衰へた。たまに何か欲しがつても、舌が欲しがる丈《だけ》で、咽喉《のど》から下へは極《ごく》僅《わづか》しか通らなかつた。好《すき》な新聞も手に取る氣力がなくなつた。枕の傍《そば》にある老眼鏡は、何時《いつ》迄《まで》も黒い鞘《さや》に納められた儘であつた。子供の時分から仲の好かつた作さんといふ今では一里ばかり隔《へだゝ》つた所に住んでゐる人が見舞に來た時、父は「あゝ作さんか」と云つて、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
 「作さんよく來て呉れた。作さんは丈夫で羨ましいね。己《おれ》はもう駄目だ」
 「そんな事はないよ。御前なんか子供は二人とも大學を卒業するし、少し位《ぐらゐ》病氣になつたつて、申し分《ぶん》はないんだ。おれを御覽よ。かゝあには死なれるしさ、子供はなしさ。たゞ斯うして生きてゐる丈《だけ》の事だよ。達者だつて何《なん》の樂しみもないぢやないか」
 浣腸《くわんちやう》をしたのは作さんが來てから二三日あとの事であつた。父は醫者の御蔭で大變|樂《らく》になつたといつて喜こんだ。少し自分の壽命に對する度胸が出來たといふ風に機嫌が直つた。傍《そば》にゐる母は、それに釣り込まれたのか、病人に氣力を付けるためか、先生から電報のきた事を、恰も私《わたくし》の位置が父の希望する通り東京にあつたやうに話した。傍《そば》にゐる私はむづがゆい心持がしたが、母の言葉を遮《さへぎ》る譯にも行かないので、黙つて聞いてゐた。病人は嬉しさうな顔をした。
 「そりや結構です」と妹《いもと》の夫《をつと》も云つた。
 「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
 私《わたくし》は今更それを否定する勇氣を失《うしな》つた。自分にも何とも譯の分らない曖昧《あいまい》な返事をして、わざと席を立つた。
 
     十四
 
 父の病氣は最後の一撃を待つ間際《まぎは》迄《まで》進んで來て、其所でしばらく躊躇《ちうちよ》するやうに見えた。家《いへ》のものは運命の宣告が、今日《けふ》下《くだ》るか、今日《けふ》下《くだ》るかと思つて、毎夜床に這入《はい》つた。
 父は傍《はた》のものを辛《つら》くする程の苦痛を何處にも感じてゐなかつた。其點になると看病は寧ろ樂《らく》であつた。要心のために、誰か一人位づゝ代る/”\起きてはゐたが、あとのものは相當の時間に各自《めい/\》の寐床へ引き取つて差支《さしつかへ》なかつた。何かの拍子で眠れなかつた時、病人の唸《うな》るやうな聲を微《かす》かに聞いたと思ひ誤《あや》まつた私《わたくし》は、一遍|半夜《よなか》に床を拔け出して、念のため父の枕元|迄《まで》行つて見た事があつた。其夜は母が起きてゐる番に當つてゐた。然し其母は父の横に肱《ひぢ》を曲げて枕としたなり寐入つてゐた。父も深い眠りの裏《うち》にそつと置かれた人のやうに靜にしてゐた。私は忍び足で又自分の寐床へ歸つた。
 私《わたくし》は兄と一所の蚊帳《かや》の中に寐た。妹《いもと》の夫《をつと》だけは、客扱ひを受けてゐる所爲《せゐ》か、獨り離れた座敷に入つて休んだ。
 「關さんも氣の毒だね。あゝ幾日《いくにち》も引つ張られて歸れなくつちあ」
 關といふのは其人の苗字《めうじ》であつた。
 「然しそんな忙がしい身體でもないんだから、あゝして泊つてゐて呉れるんでせう。關さんよりも兄さんの方が困るでせう、斯う長くなつちや」
 「困つても仕方がない。外《ほか》の事と違ふからな」
 兄と床を並《なら》べて寐る私《わたくし》は、斯んな寐物語《ねものがた》りをした。兄の頭にも私の胸にも、父は何《ど》うせ助からないといふ考があつた。何うせ助からないものならばといふ考もあつた。我々は子として親の死ぬのを待つてゐるやうなものであつた。然し子としての我々はそれを言葉の上に表《あら》はすのを憚《はゞ》かつた。さうして御互に御互が何《ど》んな事を思つてゐるかをよく理解し合つてゐた。
 「御父さんは、まだ治《なほ》る氣でゐるやうだな」と兄が私《わたくし》に云つた。
 實際兄の云ふ通りに見える所もないではなかつた。近所のものが見舞にくると、父は必ず會ふと云つて承知しなかつた。會へば屹度《きつと》、私《わたくし》の卒業祝ひに呼ぶ事が出來なかつたのを殘念がつた。其代り自分の病氣が治つたらといふやうな事も時々付け加へた。
 「御前の卒業祝ひは已《や》めになつて結構だ。おれの時には弱つたからね」と兄は私《わたくし》の記憶を突《つ》ツついた。私はアルコールに煽《あふ》られた其時の亂雜な有樣を想ひ出して苦笑した。飲むものや食ふものを強ひて廻る父の態度も、にが/\しく私の眼に映つた。
 私達《わたくしたち》はそれ程仲の好い兄弟ではなかつた。小《ち》さいうちは好く喧嘩をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。學校へ這入《はいつ》てからの專門の相違も、全く性格の相違から出てゐた。大學にゐる時分の私は、ことに先生に接觸した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思つてゐた。私は長く兄に會はなかつたので、又|懸《か》け隔《へだゝ》つた遠くに居たので、時から云つても距離からいつても、兄はいつでも私には近くなかつたのである。それでも久し振《ぶり》に斯う落ち合つてみると、兄弟の優しい心持が何處からか自然に湧いて出た。場合が場合なのもその大きな源因《げんいん》になつてゐた。二人に共通な父、其父の死なうとしてゐる枕元で、兄と私は握手したのであつた。
 「御前是から何《ど》うする」と兄は聞いた。私《わたくし》は又全く見當の違つた質問を兄に掛けた。
 「一體|家《うち》の財産は何うなつてるんだらう」
 「おれは知らない。御父さんはまだ何とも云はないから。然し財産つて云つた所で金としては高の知れたものだらう」
 母は又母で先生の返事の來るのを苦《く》にしてゐた。
 「まだ手紙は來ないかい」と私《わたくし》を責めた。
 
     十五
 
 「先生先生といふのは一體誰の事だい」と兄が聞いた。
 「こないだ話したぢやないか」と私《わたくし》は答へた。私は自分で質問して置きながら、すぐ他《ひと》の説明を忘れてしまふ兄に對して不快の念を起《おこ》した。
 「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟《ひつきやう》聞いても解らないと云ふのであつた。私《わたくし》から見ればなにも無理に先生を兄に理解して貰ふ必要はなかつた。けれども腹は立つた。又例の兄らしい所が出て來たと思つた。
 先生々々と私《わたくし》が尊敬する以上、其人は必ず著名《ちよめい》の士《し》でなくではならないやうに兄は考へてゐた。少なくとも大學の教授位だらうと推察してゐた。名もない人、何もしてゐない人、それが何處に價値を有《も》つてゐるだらう。兄の腹は此點に於て、父と全く同じものであつた。けれども父が何も出來ないから遊んでゐるのだと速斷《そくだん》するのに引きかへて、兄は何か遣れる能力があるのに、ぶら/\してゐるのは詰《つま》らん人間に限ると云つた風の口吻《こうふん》を洩《も》らした。
 「イゴイストは不可《いけな》いね。何もしないで生きてゐやうといふのは横着《わうちやく》な了簡《れうけん》だからね。人は自分の有《も》つてゐる才能を出來る丈《だけ》働らかせなくつちや嘘だ」
 私《わたくし》は兄に向つて、自分の使つてゐるイゴイストといふ言葉の意味が能く解るかと聞き返して遣りたかつた。
 「それでも其人の御蔭で地位が出來ればまあ結構だ。御父さんも喜こんでるやうぢやないか」
 兄は後《あと》から斯んな事を云つた。先生から明瞭な手紙の來ない以上、私《わたくし》はさう信ずる事も出來ず、またさう口に出す勇氣もなかつた。それを母の早呑込《はやのみこみ》でみんなにさう吹聽《ふいちやう》してしまつた今となつて見ると、私は急にそれを打ち消す譯に行かなくなつた。私は母に催促される迄もなく、先生の手紙を待ち受けた。さうして其手紙に、何《ど》うかみんなの考へてゐるやうな衣食の口の事が書いてあれば可《い》いがと念じた。私は死に瀕《ひん》してゐる父の手前、其父に幾分でも安心させて遣りたいと祈りつゝある母の手前、働らかなければ人間でないやうにいふ兄の手前、其他|妹《いもと》の夫《をつと》だの伯父だの叔母だのゝ手前、私のちつとも頓着してゐない事に、神經を惱まさなければならなかつた。
 父が變な黄色いものを嘔《は》いた時、私《わたくし》はかつて先生と奧さんから聞かされた危險を思ひ出した。「あゝして長く寐てゐるんだから胃も惡くなる筈だね」と云つた母の顔を見て、何も知らない其人の前に涙ぐんだ。
 兄と私《わたくし》が茶の間で落ち合つた時、兄は「聞いたか」と云つた。それは醫者が歸り際《ぎは》に兄に向つて云つた事を聞いたかといふ意味であつた。私には説明を待たないでも其意味が能く解つてゐた。
 「御前此所へ歸つて來て、宅《うち》の事を監理する氣はないか」と兄が私《わたくし》を顧みた。私は何とも答へなかつた。
 「御母さん一人《ひとり》ぢや、何《ど》うする事も出來ないだらう」と兄が又云つた。兄は私《わたくし》を土の臭《にほひ》を嗅《か》いで朽ちて行つても惜しくないやうに見てゐた。
 「本を讀む丈《だけ》なら、田舍《ゐなか》でも充分出來るし、それに働らく必要もなくなるし、丁度好いだらう」
 「兄さんが歸つて來るのが順ですね」と私《わたくし》が云つた。
 「おれにそんな事が出來るものか」と兄は一口に斥《しりぞ》けた。兄の腹の中《なか》には、世の中で是から仕事をしやうといふ氣が充《み》ち滿《み》ちてゐた。
 「御前が厭なら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、夫《それ》にしても御母さんは何方《どつち》かで引き取らなくつちやなるまい」
 「御母さんが此所を動くか動かないかゞ既に大きな疑問ですよ」
 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後《あと》に就いて、斯んな風に語り合つた。
 
     十六
 
 父は時々|?語《うはこと》を云ふ樣になつた。
 「乃木大將に濟まない。實に面目《めんぼく》次第がない。いへ私《わたくし》もすぐ御後《おあと》から」
 斯んな言葉をひよい/\出した。母は氣味《きみ》を惡がつた。成るべくみんなを枕元へ集めて置きたがつた。氣のたしかな時は頻りに淋《さび》しがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室《へや》の中《うち》を見廻して母の影が見えないと、父は必ず「御光《おみつ》は」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語つてゐた。私《わたくし》はよく起《た》つて母を呼びに行つた。「何か御用ですか」と、母が仕掛《しかけ》た用を其儘にして置いて病室へ來ると、父はたゞ母の顔を見詰める丈《だけ》で何も云はない事があつた。さうかと思ふと、丸《まる》で懸け離れた話をした。突然「御光《おみつ》御前にも色々世話になつたね」などと優しい言葉を出す時もあつた。母はさう云ふ言葉の前に屹度《きつと》涙ぐんだ。さうした後《あと》では又|屹度《きつと》丈夫であつた昔の父を其《その》對照として想ひ出すらしかつた。
 「あんな憐れつぽい事を御言ひだがね、あれでもとは隨分|酷《ひど》かつたんだよ」
 母は父のために箒《はうき》で背中《せなか》をどやされた時の事などを話した。今迄《いままで》何遍もそれを聞かされた私《わたくし》と兄は、何時《いつ》もとは丸《まる》で違つた氣分で、母の言葉を父の記念《かたみ》のやうに耳へ受け入れた。
 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言《ゆゐごん》らしいものを口に出さなかつた。
 「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」と兄が私《わたくし》の顔を見た。
 「左右《さう》だなあ」と私《わたくし》は答へた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好《よ》し惡《あし》しだと考へてゐた。二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた。伯父も首を傾けた。
 「云ひたい事があるのに、云はないで死ぬのも殘念だらうし、と云つて、此方《こつち》から催促するのも惡いかも知れず」
 話はとう/\愚圖々々になつて仕舞つた。そのうちに昏睡《こんすゐ》が來た。例の通り何も知らない母は、それをたゞの眼《ねむり》と思ひ違へて反《かへ》つて喜こんだ。「まああゝして樂に寐られゝば、傍《はた》にゐるものも助かります」と云つた。
 父は時々眼を開《あ》けて、誰は何《ど》うしたなどと突然聞いた。其《その》誰はつい先刻《さつき》迄そこに坐つてゐた人の名に限られてゐた。父の意識には暗い所と明るい所と出來て、その明るい所|丈《だけ》が、闇《やみ》を縫《ぬ》ふ白い糸のやうに、ある距離を置いて連續するやうに見えた。母が昏睡状態《こんすゐじやうたい》を普通の眼《ねむり》と取り違へたのも無理はなかつた。
 そのうち舌が段々|縺《もつ》れて來た。何か云ひ出しても尻が不明瞭に了《をは》るために、要領を得ないで仕舞ふ事が多くあつた。其《その》癖《くせ》話し始める時は、危篤の病人とは思はれない程、強い聲を出した。我々は固《もと》より不斷以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるやうにしなければならなかつた。
 「頭を冷《ひ》やすと好い心持ですか」
 「うん」
 私《わたくし》は看護婦を相手に、父の水枕を取り更《か》へて、それから新らしい水を入れた氷嚢《ひようなう》を頭の上へ載せた。がさ/\に割られて尖《とが》り切つた氷の破片が、嚢《ふくろ》の中で落ちつく間、私は父の禿《は》げ上《あが》つた額《ひたひ》の外《はづれ》でそれを柔らかに抑えてゐた。其時兄が廊下傳《らうかづたひ》に這入《はいつ》て來て、一通の郵便を無言の儘私の手に渡した。空《あ》いた方の左手《ひだりて》を出して、其郵便を受け取つた私はすぐ不審を起した。
 それは普通の手紙に比《くら》べると餘程目方の重いものであつた。並《なみ》の状袋にも入れてなかつた。また並《なみ》の状袋に入れられべき分量でもなかつた。半紙で包んで、封じ目を鄭寧《ていねい》に糊《のり》で貼《は》り付けてあつた。私《わたくし》はそれを兄の手から受け取つた時、すぐその書留である事に氣が付いた。裏を返して見ると其所に先生の名がつゝしんだ字で書いてあつた。手の放《はな》せない私は、すぐ封を切る譯に行かないので、一寸《ちよつと》それを懷《ふところ》に差し込んだ。
 
     十七
 
 其日は病人の出來《でき》がことに惡いやうに見えた。私《わたくし》が厠《かはや》へ行かうとして席を立つた時、廊下で行き合つた兄は「何所へ行く」と番兵のやうな口調《くてう》で誰何《すゐか》した。
 「何《ど》うも樣子が少し變だから成るべく傍《そば》にゐるやうにしなくつちや不可《いけ》ないよ」と注意した。
 私《わたくし》もさう思つてゐた。懷中した手紙は其儘にして又病室へ歸つた。父は眼を開《あ》けて、そこに並《なら》んでゐる人の名前を母に尋ねた。母があれは誰、これは誰と一々説明して遣ると、父は其度に首肯《うなづ》いた。首肯《うなづ》かない時は、母が聲を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
 「何うも色々御世話になります」
 父は斯ういつた。さうして又|昏睡状態《こんすゐじやうたい》に陷《おちい》つた。枕邊《まくらべ》を取り卷いてゐる人は無言の儘しばらく病人の樣子を見詰めてゐた。やがて其|中《うち》の一人が立つて次の間へ出た。すると又一人立つた。私《わたくし》も三人目にとう/\席を外《はづ》して、自分の室《へや》へ來た。私には先刻《さつき》懷へ入れた郵便物の中を開《あ》けて見やうといふ目的があつた。それは病人の枕元でも容易に出來る所作《しよさ》には違《ちがひ》なかつた。然し書かれたものゝ分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで讀み通す譯には行かなかつた。私は特別の時間を偸《ねす》んでそれに充《あ》てた。
 私《わたくし》は繊維《せんゐ》の強い包み紙を引き掻くやうに裂《さ》き破つた。中から出たものは、縱横《たてよこ》に引いた罫《けい》の中へ行儀よく書いた原稿樣のものであつた。さうして封じる便宜のために、四《よ》つ折《をり》に疊まれてあつた。私は癖のついた西洋紙を、逆《ぎやく》に折り返して讀み易いやうに平《ひら》たくした。
 私《わたくし》の心は此《この》多量の紙と印氣《いんき》が、私に何事を語るのだらうかと思つて驚ろいた。私は同時に病室の事が氣にかゝつた。私が此かきものを讀み始めて、讀み終らない前に、父は屹度《きつと》何《ど》うかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか、呼ばれるに極《きま》つてゐるといふ豫覺があつた。私は落ち付いて先生の書いたものを讀む氣になれなかつた。私はそわ/\しながらたゞ最初の一頁《ページ》を讀んだ。其|頁《ページ》は下《しも》のやうに綴られてゐた。
 「あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私《わたくし》は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又|失《うしな》はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として教へて上げる機會を永久に逸するやうになります。さうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸《まる》で嘘になります。私は已《やむ》を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしました」
 私《わたくし》は其所《そこ》迄《まで》讀んで、始めて此長いものが何のために書かれたのか、其理由を明《あき》らかに知る事が出來た。私の衣食《いしよく》の口《くち》、そんなものに就いて先生が手紙を寄こす氣遣《きづかひ》はないと、私は初手《しよて》から信じてゐた。然し筆を執ることの嫌《きらひ》な先生が、何《ど》うしてあの事件を斯う長く書いて、私に見せる氣になつたのだらう。先生は何故《なぜ》私の上京する迄待つてゐられないだらう。
 「自由が來たから話す。然し其自由はまた永久に失《うしな》はれなければならない」
 私《わたくし》は心のうちで斯う繰り返しながら、其意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲《おそ》はれた。私はつゞいて後《あと》を讀まうとした。其時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の聲が聞こえた。私は又驚ろいて立ち上つた。廊下を馳《か》け拔けるやうにしてみんなの居る方へ行つた。私は愈《いよ/\》父の上に最後の瞬間が來たのだと覺悟した。
 
     十八
 
 病室には何時《いつ》の間《ま》にか醫者が來てゐた。なるべく病人を樂にするといふ主意から又|浣腸《くわんちやう》を試みる所であつた。看護婦は昨夜《ゆうべ》の疲れを休める爲に別室で寐てゐた。慣れない兄は起《た》つてまご/\してゐた。私《わたくし》の顔を見ると、「一寸手を御貸し」と云つた儘、自分は席に着いた。私は兄に代つて、油紙《あぶらかみ》を父の尻の下に宛《あ》てがつたりした。
 父の樣子は少しくつろいで來た。三十分|程《ほど》枕元に坐つてゐた醫者は、浣腸《くわんちやう》の結果を認めた上、また來ると云つて、歸つて行つた。歸り際《ぎは》に、若しもの事があつたら何時《いつ》でも呼んで呉れるやうにわざ/\斷つてゐた。
 私《わたくし》は今にも變《へん》がありさうな病室を退《しりぞ》いて又先生の手紙を讀まうとした。然し私はすこしも寛《ゆつ》くりした氣分になれなかつた。机の前に坐るや否や、又兄から大きな聲で呼ばれさうでならなかつた。左右《さう》して今度呼ばれゝば、それが最後だといふ畏怖《ゐふ》が私の手を顫はした。私は先生の手紙をたゞ無意味に頁《ページ》丈《だけ》剥繰《はぐ》つて行つた。私の眼は凡帳面《きちやうめん》に枠《わく》の中に嵌《は》められた字畫を見た。けれどもそれを讀む餘裕はなかつた。拾ひ讀みにする餘裕すら覺束《おぼつか》なかつた。私は一番仕舞の頁《ペ−ジ》迄《まで》順々に開《あ》けて見て、又それを元の通りに疊んで机の上に置かうとした。其時|不圖《ふと》結末に近い一句が私の眼に這入《はい》つた。
 「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私《わたくし》はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」
 私《わたくし》ははつと思つた。今迄ざわ/\と動いてゐた私の胸が一度に凝結《ぎようけつ》したやうに感じた。私は又|逆《ぎやく》に頁《ページ》をはぐり返した。さうして一枚に一句位づゝの割で倒《さかさ》に讀んで行つた。私は咄嗟《とつさ》の間《あひだ》に、私の知らなければならない事を知らうとして、ちら/\する文字を、眼で刺し通さうと試みた。其時私の知らうとするのは、たゞ先生の安否だけであつた。先生の過去、かつて先生が私に話さうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取つて、全く無用であつた。私は倒《さかさ》まに頁《ページ》をはぐりながら、私に必要な知識を容易に與へて呉れない此長い手紙を自烈《じれつ》たさうに疊んだ。
 私《わたくし》は又父の樣子を見に病室の戸口迄行つた。病人の枕邊《まくらべ》は存外|靜《しづ》かであつた。頼《たよ》りなささうに疲れた顔をして其所に坐つてゐる母を手招《てまね》ぎして、「何《ど》うですか樣子は」と聞いた。母は「今少し持ち合つてるやうだよ」と答へた。私は父の眼の前へ顔を出して、「何《ど》うです、浣腸《くわんちやう》して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。父は首肯《うなづ》いた。父ははつきり「有難う」と云つた。父の精神は存外|朦朧《もうろう》としてゐなかつた。
 私《わたくし》は又病室を退《しり》ぞいて自分の部屋に歸つた。其所で時計を見ながら、汽車の發着表を調べた。私は突然立つて帶を締め直して、袂《たもと》の中へ先生の手紙を投げ込んだ。それから勝手口から表へ出た。私は夢中で醫者の家へ馳《か》け込んだ。私は醫者から父がもう二三日《にさんち》保《も》つだらうか、其所のところを判然《はつきり》聞かうとした。注射でも何でもして、保《も》たして呉れと頼まうとした。醫者は生僧《あいにく》留守であつた。私には凝《ぢつ》として彼の歸るのを待ち受ける時間がなかつた。心の落付もなかつた。私はすぐ俥《くるま》を停車場へ急がせた。
 私《わたくし》は停車場の壁へ紙片《かみぎれ》を宛《あ》てがつて、其上から鉛筆《えんぴつ》で母と兄あてゞ手紙を書いた。手紙はごく簡單なものであつたが、斷《ことわ》らないで走るよりまだ増しだらうと思つて、それを急いで宅《うち》へ屆けるやうに車夫に頼んだ。さうして思ひ切つた勢《いきほひ》で東京行の汽車に飛び乘つてしまつた。私はごう/\鳴る三等列車の中で、又|袂《たもと》から先生の手紙を出して、漸く始から仕舞|迄《まで》眼を通した。
 
   下 先生と遺書
 
     一
 
 「……私《わたくし》は此夏あなたから二三度手紙を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく頼むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時|何《なん》とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟《す》まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依頼に對して、丸《まる》で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位《くらゐ》の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何《ど》うすれば好《い》いのかと思ひ煩《わづ》らつてゐた所なのです。此儘人間の中《なか》に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも……其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰り返すたびにぞつとしました。馳足《かけあし》で絶壁の端《はじ》迄《まで》來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯《ひけふ》でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶《はんもん》したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆んど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一歩進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口《ここう》の資《し》、そんなものは私にとつて丸《まる》で無意味なのでした。何《ど》うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騷ぎでなかつたのです。私は状差へ貴方《あなた》の手紙を差したなり、依然として腕組をして考へ込んでゐました。宅《うち》に相應の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻掻《もが》き廻るのか。私は寧ろ苦々《にが/\》しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥《いちべつ》を與へた丈《だけ》でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾《ぶしつけ》な言葉を弄《ろう》するのではありません。私の本意は後《あと》を御覽になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべき所を黙つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思ひます。
 其《その》後《ご》私《わたくし》はあなたに電報を打ちました。有體《ありてい》に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷《ことわ》つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報|丈《だけ》では氣が濟まなかつたと見えて、又|後《あと》から長い手紙を寄《よ》こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退《そつちの》けにして、何であなたが宅《うち》を空《あ》けられるものですか。その御父さんの生死《しやうし》を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。――私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症《なんしやう》だからよく注意しなくつては不可《いけな》いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の腦髓《なうずゐ》よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我《が》を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。
 あなたの手紙、――あなたから來た最後の手紙――を讀んだ時、私《わたくし》は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに已《や》めました。何《ど》うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已《や》めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。
 
     二
 
 「私《わたくし》はそれから此手紙を書き出しました。平生《へいぜい》筆を持ちつけない私には、自分の思ふやうに、事件なり思想なりが運《はこ》ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に對する私の此義務を放擲《はうてき》する所でした。然しいくら止《よ》さうと思つて筆を擱《お》いても、何にもなりませんでした。私は一時間|經《た》たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行《すゐかう》を重んずる私の性格のやうに思はれるかも知れません。私もそれは否《いな》みません。私は貴方の知つてゐる通り、殆んど世間と交渉《かうせふ》のない孤獨な人間ですから、義務といふ程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張つて居りません。故意か自然か、私はそれを出來る丈《だけ》切り詰めた生活をしてゐたのです。けれども私は義務に冷淡だから斯うなつたのではありません。寧ろ鋭敏過ぎて刺戟に堪《た》へる丈《だけ》の精力がないから、御覽のやうに消極的な月日《つきひ》を送る事になつたのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大變|厭《いや》な心持です。私はあなたに對して此|厭《いや》な心持を避けるためにでも、擱《お》いた筆を又取り上げなければならないのです。
 其上|私《わたくし》は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私|丈《だけ》の經驗だから、私|丈《だけ》の所有と云つても差支《さしつかへ》ないでせう。それを人に與へないで死ぬのは、惜《をし》いとも云はれるでせう。私にも多少そんな心持があります。たゞし受け入れる事の出來ない人に與へる位なら、私はむしろ私の經驗を私の生命《いのち》と共に葬《はうむ》つた方が好《い》いと思ひます。實際こゝに貴方といふ一人の男が存在してゐないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで濟んだでせう。私は何千萬とゐる日本人のうちで、たゞ貴方|丈《だけ》に、私の過去を物語りたいのです。あなたは眞面目だから。あなたは眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから。
 私《わたくし》は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上ます。然し恐れては不可《いけま》せん。暗いものを凝《ぢつ》と見詰めて、その中《なか》から貴方の參考になるものを御攫《おつか》みなさい。私の暗いといふのは、固《もと》より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。又倫理的に育てられた男です。其倫理上の考は、今の若い人と大分《だいぶ》違つた所があるかも知れません。然し何《ど》う間違つても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着《そんれうぎ》ではありません。だから是から發達しやうといふ貴方には幾分か參考になるだらうと思ふのです。
 貴方は現代の思想問題に就いて、よく私《わたくし》に議論を向けた事を記憶してゐるでせう。私のそれに對する態度もよく解つてゐるでせう。私はあなたの意見を輕蔑《けいべつ》迄しなかつたけれども、決して尊敬を拂ひ得る程度にはなれなかつた。あなたの考へには何等の背景もなかつたし、あなたは自分の過去を有《も》つには餘りに若過ぎたからです。私は時/”\笑つた。あなたは物足《ものたり》なさうな顔をちよい/\私に見せた。其|極《きよく》あなたは私の過去を繪卷物《ゑまきもの》のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼《せま》つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中《なか》から、或《ある》生きたものを捕《つら》まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臓を立《た》ち割《わ》つて、温《あたゝ》かく流れる血潮《ちしほ》を啜《すゝ》らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭《いや》であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥《しり》ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臓を破つて、其血をあなたの顔に浴《あび》せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停《とま》つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です。
 
     三
 
 「私《わたくし》が兩親を亡《な》くしたのは、まだ私の廿歳《はたち》にならない時分でした。何時《いつ》か妻《さい》があなたに話してゐたやうにも記憶してゐますが、二人は同じ病氣で死んだのです。しかも妻《さい》が貴方に不審を起させた通り、殆んど同時といつて可《い》い位に、前後して死んだのです。實をいふと、父の病氣は恐るべき腸窒扶斯《ちやうちふす》でした。それが傍《そば》にゐて看護をした母に傳染《でんせん》したのです。
 私《わたくし》は二人の間に出來たたつた一人の男の子でした。宅《うち》には相當の財産があつたので、寧《むし》ろ鷹揚《おうやう》に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時兩親が死なずにゐて呉れたなら、少なくとも父か母か何方《どつち》か、片方で好《い》いから生きてゐて呉れたなら、私はあの鷹揚《おうやう》な氣分を今迄持ち續ける事が出來たらうにと思ひます。
 私《わたくし》は二人の後《あと》に茫然として取り殘されました。私には知識もなく、經驗もなく、また分別《ふんべつ》もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍《そば》に居る事が出來ませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さへまだ知らせてなかつたのです。母はそれを覺つてゐたか、又は傍《はた》のものゝ云ふ如く、實際父は回復期に向ひつゝあるものと信じてゐたか、それは分りません。母はたゞ叔父に萬事を頼んでゐました。其所に居合せた私を指《ゆび》さすやうにして、「此子をどうぞ何分」と云ひました。私は其前から兩親の許可を得て、東京へ出る筈になつてゐましたので、母はそれも序《ついで》に云ふ積《つもり》らしかつたのです。それで「東京へ」とだけ付け加へましたら、叔父がすぐ後《あと》を引き取つて、「よろしい決して心配しないがいゝ」と答へました。母は強い熱に堪へ得る體質の女なんでしたらうか、叔父は「確《しつ》かりしたものだ」と云つて、私に向つて母の事を褒《ほ》めてゐました。然しこれが果《はた》して母の遺言《ゆゐごん》であつたのか何《ど》うだか、今考へると分らないのです。母は無論父の罹《かゝ》つた病氣の恐るべき名前を知つてゐたのです。さうして、自分がそれに傳染《でんせん》してゐた事も承知してゐたのです。けれども自分は屹度此病氣で命を取られると迄信じてゐたかどうか、其所になると疑ふ餘地はまだ幾何《いくら》でもあるだらうと思はれるのです。其上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通つた明《あきら》かなものにせよ、一向《いつかう》記憶となつて母の頭に影さへ殘してゐない事がしば/\あつたのです。だから……然しそんな事は問題ではありません。たゞ斯ういふ風に物を解きほどいて見たり、又ぐる/\廻して眺めたりする癖は、もう其時分から、私にはちやんと備はつてゐたのです。それは貴方にも始めから御斷《おことわ》りして置かなければならないと思ひますが、其《その》實例としては當面の問題に大した關係のない斯んな記述が、却《かへ》つて役に立ちはしないかと考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に個人の行爲やら動作の上に及んで、私は後來《こうらい》益《ます/\》他《ひと》のコ義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです。それが私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へてゐるのは慥《たしか》ですから覺えてゐて下さい。
 話が本筋をはづれると、分り惡《にく》くなりますからまたあとへ引き返しませう。是でも私《わたくし》は此長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他《ほか》の人と比べたら、或は多少落ち付いてゐやしないかと思つてゐるのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響ももう途絶《とだ》えました。雨戸の外《そと》にはいつの間《ま》にか隣れな虫の聲が、露の秋をまた忍びやかに思ひ出させるやうな調子で微《かす》かに鳴いてゐます。何も知らない妻《さい》は次の室《へや》で無邪氣《むじやき》にすや/\寐入つてゐます。私が筆を執《と》ると、一字一劃が出來上りつゝペンの先で鳴つてゐます。私は寧ろ落付いた氣分で紙に向つてゐるのです。不馴《ふなれ》のためにペンが横へ外《そ》れるかも知れませんが、頭が惱亂《なうらん》して筆がしどろに走るのではないやうに思ひます。
 
    四
 
 「兎に角たつた一人取り殘された私《わたくし》は、母の云ひ付け通り、此叔父を頼《たよ》るより外《ほか》に途はなかつたのです。叔父は又|一切《いつさい》を引き受けて凡《すべ》ての世話をして呉れました。さうして私を私の希望する東京へ出られるやうに取り計《はから》つて呉れました。
 私《わたくし》は東京へ來て高等學校へ這入《はい》りました。其時の高等學校の生徒は今よりも餘程|殺伐《さつばつ》で粗野《そや》でした。私の知つたものに、夜中《よる》職人と喧嘩をして、相手の頭へ下駄で傷を負はせたのがありました。それが酒を飲んだ揚句《あげく》の事なので、夢中に擲《なぐ》り合《あひ》をしてゐる間に、學校の制帽をとう/\向ふのものに取られてしまつたのです。所が其帽子の裏には當人の名前がちやんと、菱形《ひしがた》の白いきれの上に書いてあつたのです。それで事が面倒になつて、其男はもう少しで警察から學校へ照會される所でした。然し友達が色々と骨を折つて、ついに表沙汰《おもてざた》にせずに濟むやうにして遣りました。斯んな亂暴な行爲を、上品な今の空氣のなかに育つたあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿々々しい感じを起すでせう。私も實際馬鹿々々しく思ひます。然し彼等は今の學生にない一種|質朴《しつぼく》な點をその代りに有《も》つてゐたのです。當時私の月々叔父から貰つてゐた金は、あなたが今、御父さんから送つてもらふ學資に比べると遙かに少ないものでした。(無論物價も違ひませうが)。それでゐて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず數ある同級生のうちで、經濟の點にかけては、決して人を羨《うらやま》しがる憐れな境遇にゐた譯ではないのです。今から回顧すると、寧ろ人に羨やましがられる方だつたのでせう。と云ふのは、私は月々|極《きま》つた送金の外に、書籍費、(私は其時分から書物を買ふ事が好《すき》でした)、及び臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずん/\それを自分の思ふ樣に消費する事が出來たのですから。
 何も知らない私《わたくし》は、叔父を信じてゐた許《ばかり》でなく、常に感謝の心をもつて、叔父をありがたいものゝやうに尊敬してゐました。叔父は事業家でした。縣會議員にもなりました。其關係からでもありませう、政黨にも縁故があつたやうに記憶してゐます。父の實の弟ですけれども、さういふ點で、性格からいふと父とは丸《まる》で違つた方へ向いて發達した樣にも見えます。父は先祖から讓られた遺産を大事に守つて行く篤實《とくじつ》一方の男でした。樂《たのし》みには、茶だの花だのを遣りました。それから詩集などを讀む事も好きでした。書畫骨董《しよぐわこつとう》といつた風のものにも、多くの趣味を有《も》つてゐる樣子でした。家《いへ》は田舍《ゐなか》にありましたけれども、二里ばかり隔《へだゝ》つた市、――其市には叔父が住んでゐたのです、――其市から時々道具屋が懸物《かけもの》だの、香爐《かうろ》だのを持つて、わざ/\父に見せに來ました。父は一口にいふと、まあマンオフミーンズとでも評したら好《い》いのでせう。比較的上品な嗜好《しかう》を有《も》つた田舍紳士だつたのです。だから氣性からいふと、濶達《くわつたつ》な叔父とは餘程の懸隔《けんかく》がありました。それでゐて二人は又《また》妙に仲が好かつたのです。父はよく叔父を評して、自分よりも遙《はる》かに働きのある頼《たの》もしい人のやうに云つてゐました。自分のやうに、親から財産を讓られたものは、何《ど》うしても固有の材幹《さいかん》が鈍《にぶ》る、つまり世の中と闘ふ必要がないから不可《いけな》いのだとも云つてゐました。此言葉は母も聞きました。私も聞きました。父は寧ろ私の心得になる積《つもり》で、それを云つたらしく思はれます。「御前もよく覺えてゐるが好《い》い」と父は其時わざ/\私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにゐます。此位私の父から信用されたり、褒《ほ》められたりしてゐた叔父を、私が何《ど》うして疑がふ事が出來るでせう。私にはたゞでさへ誇《ほこり》になるべき叔父でした。父や母が亡《な》くなつて、萬事其人の世話にならなければならない私には、もう單なる誇《ほこり》ではなかつたのです。私の存在に必要な人間になつてゐたのです。
 
     五
 
 「私《わたくし》が夏休みを利用して始めて國へ歸つた時、兩親の死に斷《た》えた私の住居《すまひ》には、新らしい主人として、叔父夫婦が入れ代つて住んでゐました。是は私が東京へ出る前からの約束でした。たつた一人取り殘された私が家にゐない以上、左右《さう》でもするより外《ほか》に仕方がなかつたのです。
 叔父は其頃市にある色々な會社に關係してゐたやうです。業務の都合から云へば、今迄の居宅《きよたく》に寐起《ねおき》する方が、二里も隔《へだゝ》つた私《わたくし》の家に移るより遙《はる》かに便利だと云つて笑ひました。是は私の父母《ふぼ》が亡くなつた後《あと》、何《ど》う邸を始末して、私が東京へ出るかといふ相談の時、叔父の口を洩れた言葉であります。私の家《いへ》は舊い歴史を有《も》つてゐるので、少しは其|界隈《かいわい》で人に知られてゐました。あなたの郷里でも同じ事だらうと思ひますが、田舍では由緒《ゆゐしよ》のある家を、相續人があるのに壞したり賣つたりするのは大事件です。今の私ならその位の事は何とも思ひませんが、其頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家《うち》は其儘にして置かなければならず甚だ所置に苦しんだのです。
 叔父は仕方なしに私《わたくし》の空家《あきや》へ這入《はい》る事を承諾して呉れました。然し市の方にある住居《すまひ》も其儘にして置いて、兩方の間を往つたり來たりする便宜を與へて貰はなければ困るといひました。私に固《もと》より異議のありやう筈がありません。私は何《ど》んな條件でも東京へ出られゝば好い位に考へてゐたのです。
 子供らしい私《わたくし》は、故郷《ふるさと》を離れても、まだ心の眼で、懷《なつ》かしげに故郷《ふるさと》の家を望んでゐました。固《もと》より其所にはまだ自分の歸るべき家があるといふ旅人の心で望んでゐたのです。休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は、いくら東京を戀しがつて出て來た私にも力強くあつたのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後《あと》、休みには歸れると思ふその故郷《ふるさと》の家をよく夢に見ました。
 私《わたくし》の留守の間、叔父は何《ど》んな風に兩方の間を往來《ゆきき》してゐたか知りません。私の着いた時は、家族のものがみんな一つ家《いへ》の内に集まつてゐました。學校へ出る子供などは平生《へいぜい》恐らく市の方にゐたのでせうが、是も休暇のために田舍《ゐなか》へ遊び半分といつた格《かく》で引き取られてゐました。
 みんな私《わたくし》の顔を見て喜こびました。私は又父や母の居た時より、却《かへ》つて賑やかで陽氣になつた家《いへ》の樣子を見て嬉しがりました。叔父はもと私の部屋になつてゐた一間《ひとま》を占領してゐる一番目の男の子を追ひ出して、私を其所へ入れました。座敷の數も少なくないのだから、私はほかの部屋で構はないと辭退したのですけれども、叔父は御前《おまへ》の宅《うち》だからと云つて、聞きませんでした。
 私《わたくし》は折々|亡《な》くなつた父や母の事を思ひ出す外《ほか》に、何の不愉快もなく、其|一夏《ひとなつ》を叔父の家族と共に過ごして、又東京へ歸つたのです。ただ一つ其夏の出來事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃へて、まだ高等學校へ入《はい》つたばかりの私に結婚を勸める事でした。それは前後で丁度三四回も繰《く》り返《かへ》されたでせう。私も始めはたゞ其突然なのに驚ろいた丈《だけ》でした。二度目には判然《はつきり》斷りました。三度目には此方《こつち》からとう/\其理由を反問しなければならなくなりました。彼等の主意は單簡《たんかん》でした。早く嫁を貰つて此所《こゝ》の家へ歸つて來て、亡《な》くなつた父の後《あと》を相續しろと云ふ丈《だけ》なのです。家《いへ》は休暇《やすみ》になつて歸りさへすれば、それで可《い》いものと私は考へてゐました。父の後《あと》を相續する、それには嫁が必要だから貰ふ、兩方とも理窟としては一通り聞こえます。ことに田舍《ゐなか》の事情を知つてゐる私には、能く解ります。私も絶對にそれを嫌つてはゐなかつたのでせう。然し東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡《とほめがね》で物を見るやうに、遙《はる》か先《さき》の距離に望まれる丈《だけ》でした。私は叔父の希望に承諾を與へないで、ついに又私の家を去りました。
 
     六
 
 「私《わたくし》は縁談の事をそれなり忘れてしまひました。私の周圍《ぐるり》を取り捲《ま》いてゐる青年の顔を見ると、世帶染《しよたいじ》みたものは一人もゐません。みんな自由です、さうして悉《こと/”\》く單獨らしく思はれたのです。斯ういふ氣樂な人の中にも、裏面に這入《はい》り込んだら、或は家庭の事情に餘儀なくされて、既に妻《つま》を迎へてゐたものがあつたかも知れませんが、子供らしい私は其所に氣が付きませんでした。それから左右《さう》いふ特別の境遇に置かれた人の方でも、四邊《あたり》に氣兼《きがね》をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪《うちわ》の話は爲《し》ないやうに愼しんでゐたのでせう。後から考へると、私自身が既に其組だつたのですが、私はそれさへ分らずに、たゞ子供らしく愉快に修學の道を歩いて行きました。
 學年の終りに、私《わたくし》は又|行李《かうり》を絡《から》げて、親の墓のある田舍《ゐなか》へ歸つて來ました。さうして去年と同じやうに、父母《ちゝはゝ》のゐたわが家《いへ》の中《なか》で、又叔父夫婦と其子供の變らない顔を見ました。私は再び其所で故郷《ふるさと》の匂《にほひ》を嗅《か》ぎました。其|匂《にほひ》は私に取つて依然として懷《なつ》かしいものでありました。一學年の單調を破る變化としても有難いものに違なかつたのです。
 然し此自分を育て上《あげ》たと同じ樣な匂《にほひ》の中《なか》で、私《わたくし》は又突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父の云ふ所は、去年の勸誘を再び繰《く》り返《かへ》したのみです。理由も去年と同じでした。たゞ此前勸められた時には、何等の目的物がなかつたのに、今度はちやんと肝心《かんじん》の當人を捕《つら》まへてゐたので、私は猶《なほ》困らせられたのです。其當人といふのは叔父の娘|即《すなは》ち私の從妹《いとこ》に當る女でした。その女を貰つて呉れゝば、御互のために便宜である、父も存生中《ぞんしやうちゆう》そんな事を話してゐた、と叔父が云ふのです。私もさうすれば便宜だとは思ひました。父が叔父にさういふ風な話をしたといふのも有り得べき事と考へました。然しそれは私が叔父に云はれて、始めて氣が付いたので、云はれない前から、覺《さと》つてゐた事柄ではないのです。だから私は驚ろきました。驚ろいたけれども、叔父の希望に無理のない所も、それがために能く解りました。私は迂濶《うくわつ》なのでせうか。或はさうなのかも知れませんが、恐らく其|從妹《いとこ》に無頓着《むとんぢやく》であつたのが、重《おも》な源因《げんいん》になつてゐるのでせう。私は小供のうちから市にゐる叔父の家《うち》へ始終遊びに行きました。ただ行く許《ばかり》でなく、能く其所《そこ》に泊りました。さうして此|從妹《いとこ》とは其時分から親しかつたのです。あなたも御承知でせう、兄妹《きやうだい》の間に戀の成立した例《ためし》のないのを。私は此公認された事實を勝手に布衍《ふえん》してゐるかも知れないが、始終《しじゆう》接觸して親しくなり過ぎた男女《なんによ》の間《あひだ》には、戀に必要な刺戟の起《おこ》る清新な感じが失《うし》なはれてしまふやうに考へてゐます。香《かう》をかぎ得るのは、香《かう》を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味《あぢ》はうのは、酒を飲み始めた刹那にある如く、戀の衝動にも斯ういふ際《きは》どい一點が、時間の上に存在してゐるとしか思はれないのです。一度平氣で其所を通り拔けたら、馴れゝば馴れる程、親しみが増す丈《だけ》で、戀の神經はだん/\麻痺《まひ》して來る丈《だけ》です。私は何《ど》う考へ直しても、此|從妹《いとこ》を妻《つま》にする氣にはなれませんでした。
 叔父はもし私《わたくし》が主張するなら、私の卒業迄結婚を延ばしても可《い》いと云ひました。けれども善は急げといふ諺《ことわざ》もあるから、出來るなら今のうちに祝言《しゆうげん》の盃《さかづき》丈《だけ》は濟ませて置きたいとも云ひました。當人に望《のぞみ》のない私には何方《どつち》にしたつて同じ事です。私は又|斷《ことわ》りました。叔父は厭な顔をしました。從妹《いとこ》は泣きました。私に添はれないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絶されたのが、女として辛《つら》かつたからです。私が從妹《いとこ》を愛してゐない如く、從妹《いとこ》も私を愛してゐない事は、私によく知れてゐました。私はまた東京へ出ました。
 
     七
 
 「私《わたくし》が三度目に歸國したのは、それから又一年|經《た》つた夏の取付《とつつき》でした。私は何時《いつ》でも學年試驗の濟むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷《ふるさと》がそれ程|懷《なつ》かしかつたからです。貴方にも覺《おぼえ》があるでせう、生れた所は空氣の色が違ひます、土地の匂《にほひ》も格別です、父や母の記憶も濃《こまや》かに漂《たゞよ》つてゐます。一年のうちで、七八の二月《ふたつき》を其|中《なか》に包《くる》まれて、穴に入《はい》つた蛇の樣に凝《ぢつ》としてゐるのは、私に取つて何よりも温かい好い心持だつたのです。
 單純な私《わたくし》は從妹《いとこ》との結婚問題に就いて、左程《さほど》頭を痛める必要がないと思つてゐました。厭《いや》なものは斷《ことわ》る、斷つてさへしまへば後《あと》には何も殘らない、私は斯う信じてゐたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかつたにも關《かゝは》らず、私は寧ろ平氣でした。過去一年の間いまだかつて其んな事に屈託《くつたく》した覺《おぼえ》もなく、相變らずの元氣で國へ歸つたのです。
 所が歸つて見ると叔父の態度が違つてゐます。元のやうに好《い》い顔をして私《わたくし》を自分の懷《ふところ》に抱《だ》かうとしません。それでも鷹揚《おうやう》に育つた私は、歸つて四五日の間は氣が付かずにゐました。たゞ何かの機會に不圖《ふと》變に思ひ出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。從妹《いとこ》も妙なのです。中學校を出て、是から東京の高等商業へ這入《はい》る積《つもり》だといつて、手紙で其樣子を聞き合せたりした叔父の男の子|迄《まで》妙なのです。
 私《わたくし》の性分として考へずにはゐられなくなりました。何《ど》うして私の心持が斯う變つたのだらう。いや何うして向ふが斯う變つたのだらう。私は突然死んだ父や母が、鈍《にぶ》い私の眼を洗つて、急に世の中が判然《はつきり》見えるやうにして呉れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後《あと》でも、居た時と同じやうに私を愛して呉れるものと、何處か心の奧で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理《り》に暗《くら》い質《たち》ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の塊《かたまり》も、強い力で私の血の中に潜《ひそ》んでゐたのです。今でも潜んでゐるでせう。
 私《わたくし》はたつた一人《ひとり》山へ行つて、父母《ふぼ》の墓の前に跪《ひざま》づきました。半《なかば》は哀悼の意味、半《なかば》は感謝の心持で跪《ひざまづ》いたのです。さうして私の未來の幸福が、此|冷《つめ》たい石の下に横《よこた》はる彼等の手にまだ握られてでもゐるやうな氣分で、私の運命を守《まも》るべく彼等に祈りました。貴方は笑ふかも知れない。私も笑はれても仕方がないと思ひます。然し私はさうした人間だつたのです。
 私《わたくし》の世界は掌《たなごゝろ》を翻《ひるが》へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑《うたぐ》つて、何遍も自分の眼を擦《こす》りました。さうして心の中《うち》であゝ美しいと叫《さけ》びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗《ぞく》にいふ色氣《いろけ》の付く頃です。色氣《いろけ》の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今《いま》迄《まで》其存在に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目《めくら》の眼が忽ち開《あ》いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。
 私《わたくし》が叔父の態度に心づいたのも、全く是と同じなんでせう。俄然《がぜん》として心づいたのです。何の豫感も準備もなく、不意に來たのです。不意に彼と彼の家族が、今迄とは丸《まる》で別物のやうに私の眼に映つたのです。私は驚ろきました。さうして此儘にして置いては、自分の行先が何《ど》うなるか分らないといふ氣になりました。
 
     八
 
 「私《わたくし》は今迄叔父|任《まか》せにして置いた家《いへ》の財産に就いて、詳《くは》しい知識を得なければ、死んだ父母《ちゝはゝ》に對して濟まないと云ふ氣を起したのです。叔父は忙《いそ》がしい身體だと自稱する如く、毎晩同じ所に寐泊《ねとまり》はしてゐませんでした。二日《ふつか》家《うち》へ歸ると三日《みつか》は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間《あひだ》を往來《ゆきき》して、其日其日を落付《おちつき》のない顔で過ごしてゐました。さうして忙《いそ》がしいといふ言葉を口癖《くちくせ》のやうに使ひました。何の疑《うたがひ》も起らない時は、私も實際に忙《いそ》がしいのだらうと思つてゐたのです。それから、忙がしがらなくては當世流《たうせいりう》でないのだらうと、皮肉にも解釋してゐたのです。けれども財産の事に就いて、時間の掛《かゝ》る話をしやうといふ目的が出來た眼で、この忙がしがる樣子を見ると、それが單に私を避ける口實としか受取れなくなつて來たのです。私は容易に叔父を捕《つら》まへる機會を得ませんでした。
 私《わたくし》は叔父が市の方に妾《めかけ》を有《も》つてゐるといふ噂《うはさ》を聞きました。私は其|噂《うはさ》を昔《むか》し中學の同級生であつたある友達から聞いたのです。妾《めかけ》を置く位の事は、此叔父として少しも怪《あや》しむに足らないのですが、父の生きてゐるうちに、そんな評判を耳に入れた覺《おぼえ》のない私は驚ろきました。友達は其《その》外《ほか》にも色々叔父に就いての噂を語つて聞かせました。一時事業で失敗しかゝつてゐたやうに他《ひと》から思はれてゐたのに、此二三|年來《ねんらい》又急に盛《も》り返して來たといふのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染め付けたものゝ一つでした。
 私《わたくし》はとう/\叔父と談判を開きました。談判といふのは少し不穩當かも知れませんが、話の成行《なりゆき》からいふと、そんな言葉で形容するより外《ほか》に途のない所へ、自然の調子が落ちて來たのです。叔父は何處迄も私を子供扱ひにしやうとします。私はまた始めから猜疑《さいぎ》の眼で叔父に對してゐます。穩《おだ》やかに解決のつく筈はなかつたのです。
 遺憾ながら私《わたくし》は今その談判の?末《てんまつ》を詳しく此所に書く事の出來ない程|先《さき》を急いでゐます。實をいふと、私は是より以上に、もつと大事なものを控えてゐるのです。私のペンは早くから其所へ辿《たど》りつきたがつてゐるのを、漸《やつ》との事で抑え付けてゐる位です。あなたに會つて靜かに話す機會を永久に失つた私は、筆を執る術《すべ》に慣れないばかりでなく、貴《たつと》い時間を惜《をし》むといふ意味からして、書きたい事も省《はぶ》かなければなりません。
 あなたは未《ま》だ覺えてゐるでせう、私《わたくし》がいつか貴方に造《つく》り付《つ》けの惡人《あくにん》が世の中にゐるものではないと云つた事を。多くの善人がいざといふ場合に突然惡人になるのだから油斷しては不可《いけ》ないと云つた事を。あの時あなたは私に昂奮してゐると注意して呉れました。さうして何《ど》んな場合に、善人が惡人に變化するのかと尋ねました。私がたゞ一口《ひとくち》金《かね》と答へた時、あなたは不滿な顔をしました。私はあなたの不滿な顔をよく記憶してゐます。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時此叔父の事を考へてゐたのです。普通のものが金を見て急に惡人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎惡《ぞうを》と共に私は此叔父を考へてゐたのです。私の答は、思想界の奧へ突き進んで行かうとするあなたに取つて物足りなかつたかも知れません、陳腐《ちんぷ》だつたかも知れません。けれども私にはあれが生きた答でした。現に私は昂奮してゐたではありませんか。私は冷《ひやゝ》かな頭で新らしい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きてゐると信じてゐます。血の力で體《たい》が動くからです。言葉が空氣に波動を傳へる許《ばかり》でなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける事が出來るからです。
 
     九
 
 「一口《ひとくち》でいふと、叔父は私《わたくし》の財産を胡魔化《ごまか》したのです。事は私が東京へ出てゐる三年の間《あひだ》に容易《たやす》く行《おこ》なはれたのです。凡《すべ》てを叔父|任《まか》せにして平氣でゐた私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地《けんち》から評すれば、或は純なる尊《たつと》い男とでも云へませうか。私は其時の己《おの》れを顧みて、何故《なぜ》もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜《くや》しくつて堪《たま》りません。然しまた何《ど》うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵《ちり》に汚《よご》れた後《あと》の私です。きたなくなつた年數《ねんすう》の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。
 若し私《わたくし》が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、其結果は物質的に私に取つて有利なものでしたらうか。是は考へる迄もない事と思ひます。叔父は策略《さくりやく》で娘を私に押し付けやうとしたのです。好意的に兩家の便宜を計《はか》るといふよりも、ずつと下卑《げび》た利害心に驅《か》られて、結婚問題を私に向けたのです。私は從妹《いとこ》を愛してゐない丈《だけ》で、嫌つてはゐなかつたのですが、後《あと》から考へて見ると、それを斷つたのが私には多少の愉快になると思ひます。胡魔化《ごまか》されるのは何方《どつち》にしても同じでせうけれども、載《の》せられ方《かた》からいへば、從妹《いとこ》を貰はない方が、向ふの思ひ通りにならないといふ點から見て、少しは私の我《が》が通つた事になるのですから。然しそれは殆んど問題とするに足りない些細《ささい》な事柄です。ことに關係のない貴方に云はせたら、さぞ馬鹿氣《ばかげ》た意地に見えるでせう。
 私《わたくし》と叔父の間《あひだ》に他の親戚のものが這入《はい》りました。その親戚のものも私は丸《まる》で信用してゐませんでした。信用しないばかりでなく、寧ろ敵視してゐました。私は叔父が私を欺《あざ》むいたと覺《さと》ると共に、他《ほか》のものも必ず自分を欺《あざむ》くに違《ちがひ》ないと思ひ詰めました。父があれ丈《だけ》賞め拔いてゐた叔父ですら斯うだから、他《ほか》のものはといふのが私の論理《ロジツク》でした。
 それでも彼等は私《わたくし》のために、私の所有にかゝる一切のものを纒《まと》めて呉れました。それは金額に見積ると、私の豫期より遙《はる》かに少ないものでした。私としては黙つてそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取つて公《おほや》け沙汰《ざた》にするか、二つの方法しかなかつたのです。私は憤《いきどほ》りました。又迷ひました。訴訟にすると落着《らくちやく》迄に長い時間のかゝる事も恐れました。私は修業中のからだですから、學生として大切な時間を奪はれるのは非常の苦痛だとも考へました。私は思案の結果、市に居る中學の舊友に頼んで、私の受け取つたものを、凡《すべ》て金《かね》の形に變へやうとしました。舊友は止《よ》した方が得《とく》だといつて忠告して呉れましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷を離れる決心を其時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓つたのです。
 私《わたくし》は國を立つ前に、又父と母の墓へ參りました。私はそれぎり其墓を見た事がありません。もう永久に見る機會も來ないでせう。
 私《わたくし》の舊友は私の言葉通《ことばどほ》りに取計《とりはか》らつて呉れました。尤もそれは私が東京へ着いてから餘程《よほど》經《た》つた後《のち》の事です。田舍《ゐなか》で畠地《はたち》などを賣らうとしたつて容易には賣れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取つた金額は、時價に比べると餘程少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懷《ふところ》にして家《いへ》を出た若干の公債と、後《あと》から此友人に送つて貰つた金|丈《だけ》なのです。親の遺産としては固《もと》より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶《なほ》心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした。此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷《おと》し入れたのです。
 
     十
 
 「金に不自由のない私《わたくし》は、騷々《さう/”\》しい下宿を出て、新らしく一戸《いつこ》を構《かま》へて見やうかといふ氣になつたのです。然しそれには世帶道具《しよたいだうぐ》を買ふ面倒もありますし、世話をして呉れる婆《ばあ》さんの必要も起りますし、其婆さんが又正直でなければ困るし、宅《うち》を留守《るす》にしても大丈夫なものでなければ心配だし、と云つた譯で、ちよくら一寸《ちよいと》實行する事は覺束《おぼつか》なく見えたのです。ある日私はまあ宅《うち》丈《だけ》でも探して見やうかといふそゞろ心《ごゝろ》から、散歩がてらに本郷臺を西へ下りて小石川の坂を眞直に傳通院《でんづうゐん》の方へ上がりました。電車の通路になつてから、あそこいらの樣子が丸《まる》で違つてしまひましたが、其頃は左手《ひだりて》が砲兵工廠《はうへいこうしやう》の土塀《どべい》で、右は原とも丘《をか》ともつかない空地《くうち》に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向《むかふ》の崖《がけ》を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつとあの西側の趣《おもむき》が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈《だけ》でも、神經が休まります。私は不圖《ふと》こゝいらに適當な宅《うち》はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を横切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好《い》い町になり切れないで、がたぴししてゐる彼《あ》の邊《へん》の家並《いへなみ》は、其時分の事ですから隨分汚ならしいものでした。私は露次を拔けたり、横丁を曲《まが》つたり、ぐる/\歩き廻りました。仕舞に駄菓子屋の上《かみ》さんに、こゝいらに小じんまりした貸家はないかと尋ねて見ました。上《かみ》さんは「左右《さう》ですね」と云つて、少時《しばらく》首をかしげてゐましたが、「かし家《や》はちよいと……」と全く思ひ當らない風でした。私は望のないものと諦《あき》らめて歸り掛けました。すると上《かみ》さんが又、「素人下宿《しろうとげしゆく》ぢや不可《いけ》ませんか」と聞くのです。私は一寸《ちよつと》氣が變りました。靜かな素人屋に一人で下宿してゐるのは、却《かへ》つて家《うち》を持つ面倒がなくつて結構だらうと考へ出したのです。それから其駄菓子屋の店に腰を掛けて、上《かみ》さんに詳しい事を教へてもらひました。
 それはある軍人の家族、といふよりも寧ろ遺族、の住んでゐる家でした。主人は何でも日清戰爭の時か何かに死んだのだと上《かみ》さんが云ひました。一年ばかり前までは、市《いち》ケ谷《や》の士官學校《しくわんがくかう》の傍《そば》とかに住んでゐたのだが、厩《うまや》などがあつて、邸《やしき》が廣過ぎるので、其所を賣り拂つて、此所へ引つ越して來たけれども、無人《ぶにん》で淋《さむ》しくつて困るから相當の人があつたら世話をして呉れと頼まれてゐたのださうです。私《わたくし》は上《かみ》さんから、其|家《いへ》には未亡人《びばうじん》と一人娘《ひとりむすめ》と下女より外にゐないのだといふ事を確《たし》かめました。私は閑靜で至極|好《よ》からうと心の中《うち》に思ひました。けれどもそんな家族のうちに、私のやうなものが、突然行つた處で、素性《すじやう》の知れない書生さんといふ名稱のもとに、すぐ拒絶されはしまいかといふ掛念《けねん》もありました。私は止《よ》さうかとも考へました。然し私は書生としてそんなに見苦しい服裝《なり》はしてゐませんでした。それから大學の制帽を被《かぶ》つてゐました。あなたは笑ふでせう、大學の制帽が何《ど》うしたんだと云つて。けれども其頃の大學生は今と違つて、大分《だいぶ》世間に信用のあつたものです。私は其場合此四角な帽子に一種の自信を見出した位です。さうして駄菓子屋の上《かみ》さんに教《をそ》はつた通り、紹介も何もなしに其軍人の遺族の家を訪ねました。
 私《わたくし》は未亡人《びばうじん》に會つて來意を告げました。未亡人は私の身元やら學校やら專門やらに就いて色々質問しました。さうして是なら大丈夫だといふ所を何所かに握つたのでせう、何時《いつ》でも引つ越して來て差支ないといふ挨拶を即坐に與へて呉れました。未亡人は正しい人でした、又|判然《はつきり》した人でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此氣性で何處が淋《さむ》しいのだらうと疑ひもしました。
 
     十一
 
 「私《わたくし》は早速|其《その》家《いへ》へ引き移りました。私は最初來た時に未亡人《びばうじん》と話をした座敷を借りたのです。其所は宅中《うちぢゆう》で一番好い室《へや》でした。本郷邊《ほんがうへん》に高等下宿《かうとうげしゆく》といつた風の家がぽつ/\建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好《い》い間《ま》の樣子を心得てゐました。私の新らしく主人となつた室《へや》は、それ等よりもずつと立派でした。移つた當座は、學生としての私には過ぎる位に思はれたのです。
 室《へや》の廣さは八疊でした。床の横に違ひ棚があつて、縁と反對の側には一間《いつけん》の押入《おしいれ》が付いてゐました。窓は一つもなかつたのですが、其代り南向の縁に明るい日が能く差しました。
 私《わたくし》は移つた日に、其|室《へや》の床に活けられた花と、其横に立て懸けられた琴を見ました。何方《どつち》も私の氣に入りませんでした。私は詩や書や煎茶を嗜《たし》なむ父の傍《そば》で育つたので、唐《から》めいた趣味を小供のうちから有《も》つてゐました。その爲でもありませうか、斯ういふ艶《なま》めかしい裝飾を何時《いつ》の間《ま》にか輕蔑《けいべつ》する癖が付いてゐたのです。
 私《わたくし》の父が存生中《ぞんしやうちゆう》にあつめた道具類は、例の叔父のために滅茶々々《めちや/\》にされてしまつたのですが、夫《それ》でも多少は殘つてゐました。私は國を立つ時それを中學の舊友に預かつて貰ひました。それから其《その》中《うち》で面白さうなものを四五|幅《ふく》裸にして行李《かうり》の底へ入れて來ました。私は移るや否や、それを取り出して床へ懸けて樂しむ積《つもり》でゐたのです。所が今いつた琴《こと》と活花《いけばな》を見たので、急に勇氣がなくなつて仕舞ひました。後《あと》から聞いて始めて此花が私に對する御馳走に活けられたのだといふ事を知つた時、私は心のうちで苦笑しました。尤も琴は前から其所にあつたのですから、是は置き所がないため、已《やむ》を得ず其儘に立て懸けてあつたのでせう。
 斯んな話をすると、自然|其《その》裏《うら》に若い女の影があなたの頭を掠《かす》めて通るでせう。移つた私《わたくし》にも、移らない初からさういふ好奇心が既に動いてゐたのです。斯うした邪氣《じやき》が豫備約に私の自然を損《そこ》なつたためか、又は私がまだ人慣《ひとな》れなかつたためか、私は始めて其所の御孃さんに會つた時、へどもどした挨拶をしました。其代り御孃さんの方でも赤い顔をしました。
 私《わたくし》はそれ迄未亡人の風采《ふうさい》や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測《すゐそく》は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顔を見た瞬間に、悉《こと/”\》く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性《いせい》の匂《にほひ》が新らしく入《はい》つて來ました。私はそれから床《とこ》の正面に活けてある花が厭《いや》でなくなりました。同じ床《とこ》に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 其花は又規則正しく凋《しを》れる頃になると活《い》け更《か》へられるのです。琴も度々|鍵《かぎ》の手《て》に折れ曲がつた筋違《すぢかひ》の室《へや》に運び去られるのです。私《わたくし》は自分の居間で机の上に頬杖《ほゝづゑ》を突きながら、其琴の音《ね》を聞いてゐました。私には其琴が上手なのか下手なのか能く解らないのです。けれども餘り込み入つた手を彈《ひ》かない所を見ると、上手なのぢやなからうと考へました。まあ活花《いけばな》の程度位なものだらうと思ひました。花なら私にも好く分るのですが、御孃さんは決して旨《うま》い方ではなかつたのです。
 それでも臆面なく色々の花が私《わたくし》の床《とこ》を飾つて呉れました。尤も活方《いけかた》は何時《いつ》見ても同じ事でした。それから花瓶《くわへい》もついぞ變つた例《ためし》がありませんでした。然し片方の音樂になると花よりももつと變でした。ぽつん/\糸を鳴らす丈《だけ》で、一向《いつかう》肉聲を聞かせないのです。唄《うた》はないのではありませんが、丸《まる》で内所話《ないしよばなし》でもするやうに小《ちひ》さな聲しか出さないのです。しかも叱られると全く出なくなるのです。
 私《わたくし》は喜んで此|下手《へた》な活花《いけばな》を眺めては、まづさうな琴の音《ね》に耳を傾むけました。
 
     十二
 
 「私《わたくし》の氣分は國を立つ時既に厭世的になつてゐました。他《ひと》は頼りにならないものだといふ觀念が、其時骨の中迄|染《し》み込んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する叔父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乘つてさへ隣のものゝ樣子を、それとなく注意し始めました。たまに向《むかふ》から話し掛けられでもすると、猶《なほ》の事《こと》警戒を加へたくなりました。私の心は沈欝《ちんうつ》でした。鉛《なまり》を呑んだやうに重苦しくなる事が時々ありました。それでゐて私の神經は、今云つた如くに鋭《する》どく尖《とが》つて仕舞つたのです。
 私《わたくし》が東京へ來て下宿を出やうとしたのも、是が大きな源因《げんいん》になつてゐるやうに思はれます。金に不自由がなければこそ、一戸を構へて見る氣にもなつたのだと云へばそれ迄ですが、元の通りの私ならば、たとひ懷中《ふところ》に餘裕が出來ても、好《この》んでそんな面倒な眞似はしなかつたでせう。
 私《わたくし》は小石川へ引き移つてからも、當分此緊張した氣分に寛《くつろ》ぎを與へる事が出來ませんでした。私は自分で自分が耻づかしい程、きよと/\周圍を見廻してゐました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反對に、段々動かなくなつて來ました。私は家《うち》のものゝ樣子を猫のやうによく觀察しながら、黙つて机の前に坐つてゐました。時々は彼等に對して氣の毒だと思ふ程、私は油斷のない注意を彼等の上に注いでゐたのです。おれは物を偸《ぬす》まない巾着切《きんちやくきり》見たやうなものだ、私は斯う考へて、自分が厭《いや》になる事さへあつたのです。
 貴方は定めて變に思ふでせう。其|私《わたくし》が其所の御孃さんを何《ど》うして好《す》く餘裕《よゆう》を有《も》つてゐるか。其御孃さんの下手《へた》な活花《いけばな》を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手《へた》な其人の琴を何うして喜こんで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に教へて上げるといふより外《ほか》に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言《いちごん》付け足して置きませう。私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから他《ひと》から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平氣で兩立してゐたのです。
 私《わたくし》は未亡人《びばうじん》の事を常に奧さんと云つてゐましたから、是から未亡人と呼ばずに奧さんと云ひます。奧さんは私を靜かな人、大人《おとな》しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めて呉れました。けれども私の不安な眼つきや、きよと/\した樣子については、何事も口へ出しませんでした。氣が付かなかつたのか、遠慮してゐたのか、どつちだかよく解りませんが、何しろ其所には丸《まる》で注意を拂つてゐないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚《おうやう》な方《かた》だと云つて、さも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。其時正直な私は少し顔を赤らめて、向ふの言葉を否定しました。すると奧さんは「あなたは自分で氣が付かないから、左右《さう》御仰《おつしや》るんです」と眞面目に説明して呉れました。奧さんは始め私のやうな書生を宅《うち》へ置く積《つもり》ではなかつたらしいのです。何處かの役所へ勤める人か何かに坐敷を貸す料簡で、近所のものに周旋を頼んでゐたらしいのです。俸給が豐《ゆたか》でなくつて、已《やむ》を得ず素人屋《しろうとや》に下宿する位の人だからといふ考へが、それで前かたから奧さんの頭の何處かに這入《はい》つてゐたのでせう。奧さんは自分の胸に描《ゑが》いた其想像の御客と私とを比較して、こつちの方を鷹揚《おうやう》だと云つて褒めるのです。成程そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金錢にかけて、鷹揚《おうやう》だつたかも知れません。然しそれは氣性《きしやう》の問題ではありませんから、私の内生活《ないせいくわつ》に取つて殆んど關係のないのと一般でした。奧さんはまた女|丈《だけ》にそれを私の全體に推《お》し廣《ひろ》げて、同じ言葉を應用しやうと力《つと》めるのです。
 
     十三
 
 「奧さんの此態度が自然|私《わたくし》の氣分に影響して來ました。しばらくするうちに、私の眼はもと程きよろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐つてゐる所に、ちやんと落付いてゐるやうな氣にもなれました。要するに奧さん始め家《うち》のものが、僻《ひが》んだ私の眼や疑ひ深い私の樣子に、てんから取り合はなかつたのが、私に大きな幸福を與へたのでせう。私の神經は相手から照り返して來る反射のないために段々靜まりました。
 奧さんは心得のある人でしたから、わざと私《わたくし》をそんな風に取り扱つて呉れたものとも思はれますし、又《また》自分で公言《こうげん》する如く、實際私を鷹揚《おうやう》だと觀察してゐたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中《なか》の現象で、それ程《ほど》外《そと》へ出なかつたやうにも考へられますから、或は奧さんの方で胡魔化《ごまか》されてゐたのかも解りません。
 私《わたくし》の心が靜まると共に、私は段々家族のものと接近して來ました。奧さんとも御孃さんとも笑談《ぜうだん》を云ふやうになりました。茶を入れたからと云つて向ふの室《へや》へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買つて來て、二人を此方《こつち》へ招いたりする晩もありました。私は急に交際の區域が殖《ふ》えたやうに感じました。それがために大切《たいせつ》な勉強の時間を潰《つぶ》される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害《ばうがい》が私には一向《いつかう》邪魔にならなかつたのです。奧さんはもとより閑人《ひまじん》でした。御孃さんは學校へ行く上に、花だの琴だのを習つてゐるんだから、定めて忙《いそ》がしからうと思ふと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に餘裕を有《も》つてゐるやうに見えました。それで三人は顔さへ見ると一所に集まつて、世間話をしながら遊んだのです。
 私《わたくし》を呼びに來るのは、大抵《たいてい》御孃さんでした。御孃さんは縁側を直角《ちよくかく》に曲《まが》つて、私の室《へや》の前に立つ事もありますし、茶の間を拔けて、次の室《へや》の襖《ふすま》の影から姿を見せる事もありました。御孃さんは、其所へ來て一寸《ちよつと》留まります。それから屹度私の名を呼んで、「御勉強?」と聞きます。私は大抵|六《む》づかしい書物を机の前に開《あ》けて、それを見詰めてゐましたから、傍《はた》で見たらさぞ勉強家のやうに見えたのでせう。然し實際を云ふと、夫程《それほど》熱心に書物を研究してはゐなかつたのです。頁《ページ》の上に眼は着けてゐながら、御孃さんの呼びに來るのを待つてゐる位なものでした。待つてゐて來ないと、仕方がないから私の方で立ち上《あが》るのです。さうして向ふの室《へや》の前へ行つて、此方《こつち》から「御勉強ですか」と聞くのです。
 御孃さんの部屋は茶の間と續いた六疊でした。奧さんはその茶の間にゐる事もあるし、又御孃さんの部屋にゐる事もありました。つまり此二つの部屋は仕切《しきり》があつても、ないと同じ事で、親子|二人《ふたり》が往つたり來たりして、どつち付かずに占領してゐたのです。私《わたくし》が外から聲を掛けると、「御這入《おはいん》なさい」と答へるのは屹度奧さんでした。御孃さんは其所にゐても滅多に返事をした事がありませんでした。
 時たま御孃さん一人で、用があつて私《わたくし》の室《へや》へ這入つた序《ついで》に、其所に坐つて話し込むやうな場合も其内に出て來ました。さういふ時には、私の心が妙に不安に冒《をか》されて來るのです。さうして若い女とたゞ差向《さしむか》ひで坐つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切《うらぎ》るやうな不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却つて平氣でした。これが琴を浚《さら》ふのに聲さへ碌《ろく》に出せなかつたあの女かしらと疑がはれる位、耻《は》づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をする丈《だけ》で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振舞《ふるま》つて見せる痕迹《こんせき》さへ明《あき》らかでした。
 
     十四
 
 「私《わたくし》は御孃さんの立つたあとで、ほつと一息《ひとひき》するのです。夫《それ》と同時に、物足りないやうな又|濟《す》まないやうな氣特になるのです。私は女らしかつたのかも知れません。今の青年の貴方《あなた》がたから見たら猶|左右《さう》見えるでせう。然し其頃の私達は大抵そんなものだつたのです。
 奧さんは滅多《めつた》に外出した事がありませんでした。たまに宅《うち》を留守《るす》にする時でも、御孃さんと私《わたくし》を二人ぎり殘して行くやうな事はなかつたのです。それがまた偶然《ぐうぜん》なのか、故意《こい》なのか、私には解らないのです。私の口からいふのは變ですが、奧さんの樣子を能く觀察してゐると、何だか自分の娘と私とを接近させたがつてゐるらしくも見えるのです。それでゐて、或場合には、私に對して暗《あん》に警戒する所もあるやうなのですから、始めて斯んな場合に出會《であ》つた私は、時々心持をわるくしました。
 私《わたくし》は奧さんの態度を何方《どつち》かに片付《かたづけ》て貰ひたかつたのです。頭の働きから云へば、それが明《あき》らかな矛盾に違ひなかつたからです。然し叔父に欺《あざ》むかれた記憶のまだ新らしい私は、もう一歩踏み込んだ疑ひを挾《さしは》さまずには居られませんでした。私は奧さんの此態度の何方《どつち》かが本當で、何方《どつち》かゞ僞《いつはり》だらうと推定しました。さうして判斷に迷ひました。たゞ判斷に迷ふばかりでなく、何でそんな妙な事をするか其意味が私には呑み込めなかつたのです。理由《わけ》を考へ出さうとしても、考へ出せない私は、罪を女といふ一字に塗《なす》り付けて我慢した事もありました。必竟《ひつきやう》女だからあゝなのだ、女といふものは何《ど》うせ愚《ぐ》なものだ。私の考《かんがへ》は行き詰《つま》れば何時《いつ》でも此所へ落ちて來ました。
 それ程女を見縊《みくび》つてゐた私《わたくし》が、また何うしても御孃さんを見縊《みくび》る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲《な》さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆んど信仰に近い愛を有《も》つてゐたのです。私が宗教だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗教心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。私は御孃さんの顔を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御孃さんの事を考へると、氣高《けだか》い氣分がすぐ自分に乘り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端《りやうはじ》があつて、其高い端《はじ》には神聖な感じが働《はたら》いて、低い端《はじ》には性慾が動《うご》いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕《つら》まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體《からだ》でした。けれども御孃さんを見る私の眼や、御孃さんを考へる私の心は、全く肉の臭《にほひ》を帶びてゐませんでした。
 私《わたくし》は母に對して反感を抱《いだ》くと共に、子に對して戀愛の度を増して行つたのですから、三人の關係は、下宿した始めよりは段々複雜になつて來ました。尤も其變化は殆んど内面的で外《そと》へは現れて來なかつたのです。そのうち私はあるひよつとした機會から、今迄奧さんを誤解してゐたのではなからうかといふ氣になりました。奧さんの私に對する矛盾した態度が、どつちも僞《いつは》りではないのだらうと考へ直して來たのです。其上、それが互違《たがひちがひ》に奧さんの心を支配するのでなくつて、何時《いつ》でも兩方が同時に奧さんの胸に存在してゐるのだと思ふやうになつたのです。つまり奧さんが出來るだけ御孃さんを私に接近させやうとしてゐながら、同時に私に警戒を加へてゐるのは矛盾の樣だけれども、其警戒を加へる時に、片方の態度を忘れるのでも翻《ひるが》へすのでも何でもなく、矢張依然として二人を接近させたがつてゐたのだと觀察したのです。たゞ自分が正當と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釋したのです。御孃さんに對して、肉の方面から近づく念の萌《きざ》さなかつた私は、其時入らぬ心配だと思ひました。しかし奧さんを惡く思ふ氣はそれから無くなりました。
 
     十五
 
 「私《わたくし》は奧さんの態度を色々|綜合《そうがふ》して見て、私が此所《こゝ》の家《うち》で充分信用されてゐる事を確めました。しかも其信用は初對面の時からあつたのだといふ證據さへ發見しました。他《ひと》を疑《うた》ぐり始めた私の胸には、此發見が少し寄異な位に響いたのです。私は男に比べると女の方がそれ丈直覺に富んでゐるのだらうと思ひました。同時に、女が男のために、欺《だ》まされるのも此所にあるのではなからうかと思ひました。奧さんを左右《さう》觀察する私が、御孃さんに對して同じやうな直覺を強く慟らかせてゐたのだから、今考へると可笑しいのです。私は他《ひと》を信じないと心に誓ひながら、絶對に御孃さんを信じてゐたのですから。それでゐて、私を信じてゐる奧さんを奇異に思つたのですから。
 私《わたくし》は郷里の事に就いて餘り多くを語らなかつたのです。ことに今度の事件に就いては何《なん》にも云はなかつたのです。私はそれを念頭に浮《うか》べてさへ既に一種の不愉快を感じました。私は成るべく奧さんの方の話だけを聞かうと力《つと》めました。所がそれでは向ふが承知しません。何かに付けて、私の國元の事情を知りたがるのです、私はとう/\何もかも話してしまひました。私は二度と國へは歸らない。歸つても何《なん》にもない、あるのはたゞ父と母の墓ばかりだと告げた時、奧さんは大變感動したらしい樣子を見せました。御孃さんは泣きました。私は話して好《い》い事をしたと思ひました。私は嬉しかつたのです。
 私《わたくし》の凡《すべ》てを聞いた奧さんは、果《はた》して自分の直覺が的中《てきちゆう》したと云はないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚《みより》に當る若いものか何かを取扱ふやうに待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。寧ろ愉快に感じた位です。所がそのうちに私の猜疑心《さいぎしん》が又起つて來ました。
 私《わたくし》が奧さんを疑《うた》ぐり始めたのは、極《ごく》些細《ささい》な事からでした。然し其|些細《ささい》な事を重《かさ》ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張つて來ます。私は何《ど》ういふ拍子か不圖《ふと》奧さんが、叔父と同じやうな意味で、御孃さんを私に接近させやうと力《つと》めるのではないかと考へ出したのです。すると今迄親切に見えた人が、急に狡猾《かうくわつ》な策略家《さくりやくか》として私の眼に映じて來たのです。私は苦々《にが/\》しい唇を噛みました。
 奧さんは最初から、無人《ぶにん》で淋《さむ》しいから、客を置いて世話をするのだと公言してゐました。私《わたくし》も夫《それ》を嘘とは思ひませんでした。懇意になつて色々打ち明け話を聞いた後《あと》でも、其所に間違はなかつたやうに思はれます。然し一般の經濟状態は大して豐《ゆたか》だと云ふ程ではありませんでした。利害問題から考へて見て、私と特殊の關係をつけるのは、先方に取つて決して損ではなかつたのです。
 私《わたくし》は又警戒を加へました。けれども娘に對して前云つた位の強い愛をもつてゐる私が、其母に對していくら警戒を加へたつて何《なん》になるでせう。私は一人で自分を嘲笑しました。馬鹿だなといつて、自分を罵《のゝし》つた事もあります。然しそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに濟んだのです。私の煩悶は、奧さんと同じやうに御孃きんも策略家ではなからうかといふ疑問に會つて始めて起るのです。二人が私の背後《はいご》で打ち合せをした上、萬事を遣つてゐるのだらうと思ふと、私は急に苦しくつて堪《たま》らなくなるのです。不愉快なのではありません、絶體絶命《ぜつたいぜつめい》のやうな行《ゆ》き詰《つま》つた心持になるのです。それでゐて私は、一方に御孃さんを固く信じて疑はなかつたのです。だから私は信念と迷ひの途中に立つて、少しも動く事が出來なくなつて仕舞ひました。私には何方《どつち》も想像であり、又|何方《どつち》も眞實であつたのです。
 
     十六
 
 「私《わたくし》は相變らず學校へ出席してゐました。然し教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるやうな心持がしました。勉強も其通りでした。眼の中へ這入《はい》る活字は心の底迄|浸《し》み渡らないうちに烟《けむ》の如く消えて行くのです。私は其上|無口《むくち》になりました。それを二三の友達が誤解して、冥想《めいさう》に耽《ふけ》つてでもゐるかのやうに、他の友達に傳へました。私は此誤解を解かうとはしませんでした。都合の好《い》い假面《かめん》を人が貸して呉れたのを、却つて仕合せとして喜びました。それでも時々は氣が濟まなかつたのでせう、發作的《ほつさてき》に焦燥《はしや》ぎ廻つて彼等を驚ろかした事もあります。
 私《わたくし》の宿は人出入《ひとでいり》の少ない家《うち》でした。親類も多くはないやうでした。御孃さんの學校友達がときたま遊びに來る事はありましたが、極《きは》めて小《ちひ》さな聲で、居るのだか居ないのだか分らないやうな話をして歸つてしまふのが常でした。それが私に對する遠慮からだとは、如何《いか》な私にも氣が付きませんでした。私の所へ訪ねて來るものは、大した亂暴者でもありませんでしたけれども、宅《うち》の人に氣兼をする程な男は一人もなかつたのですから。そんな所になると、下宿人の私は主人《あるじ》のやうなもので、肝心の御孃さんが却つて食客《ゐさふらふ》の位地にゐたと同じ事です。
 然しこれはたゞ思ひ出した序《ついで》に書いた丈《だけ》で、實は何《ど》うでも構はない點です。たゞ其所に何うでも可《よ》くない事が一つあつたのです。茶の間か、さもなければ御孃さんの室《へや》で、突然男の聲が聞こえるのです。其聲が又|私《わたくし》の客と違つて、頗《すこ》ぶる低いのです。だから何を話してゐるのか丸《まる》で分らないのです。さうして分らなければ分らない程、私の神經に一種の昂奮を與へるのです。私は坐つてゐて變《へん》にいら/\し出します。私はあれは親類なのだらうか、それとも唯《たゞ》の知り合ひなのだらうかとまづ考へて見るのです。夫《それ》から若い男だらうか年輩の人だらうかと思案して見るのです。坐つてゐてそんな事の知れやう筈がありません。さうかと云つて、起《た》つて行つて障子を開けて見る譯には猶|行《い》きません。私の神經は震へるといふよりも、大きな波動を打つて私を苦しめます。私は客の歸つた後《あと》で、屹度《きつと》忘れずに其人の名を聞きました。御孃さんや奧さんの返事は、又極めて簡單でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りる迄|追窮《つゐきゆう》する勇氣を有《も》つてゐなかつたのです。權利は無論|有《も》つてゐなかつたのでせう。私は自分の品格を重んじなければならないといふ教育から來た自尊心と、現《げん》に其自尊心を裏切《うらぎり》してゐる物欲しさうな顔付とを同時に彼等の前に示すのです。彼等は笑ひました。それが嘲笑《てうせう》の意味でなくつて、好意から來たものか、又好意らしく見せる積《つもり》なのか、私は即坐に解釋の餘地を見出《みいだ》し得ない程《ほど》落付を失《うしな》つてしまふのです。さうして事が濟んだ後《あと》で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです。
 私《わたくし》は自由な身體《からだ》でした。たとひ學校を中途で已《や》めやうが、又何處へ行つて何《ど》う暮らさうが、或は何處の何者と結婚しやうが、誰とも相談する必要のない位地に立つてゐました。私は思ひ切つて奧さんに御孃さんを貰ひ受ける話をして見やうかといふ決心をした事がそれ迄に何度となくありました。けれども其度毎に私は躊躇《ちうちよ》して、口へはとう/\出さずに仕舞つたのです。斷《ことわ》られるのが恐ろしいからではありません。もし斷《ことわ》られたら、私の連命が何《ど》う變化するか分りませんけれども、其代り今迄とは方角の違つた場所に立つて、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて來るのですから、其位の勇氣は出せば出せたのです。然し私は誘《おび》き寄せられるのが厭《いや》でした。他《ひと》の手に乘るのは何よりも業腹《ごふはら》でした。叔父に欺《だ》まされた私は、是から先|何《ど》んな事があつても、人には欺《だ》まされまいと決心したのです。
 
     十七
 
 「私《わたくし》が書物ばかり買ふのを見て、奧さんは少し着物を拵《こしら》えろと云ひました。私は實際|田舍《ゐなか》で織つた木綿ものしか有《も》つてゐなかつたのです。其頃の學生は絹《いと》の入《はい》つた着物を肌《はだ》に着けませんでした。私の友達に横濱の商人《あきんど》か何かで、宅《うち》は中々|派出《はで》に暮してゐるものがありましたが、其所へある時|羽二重《はぶたへ》の胴着《どうぎ》が配達で屆いた事があります。すると皆《みん》ながそれを見て笑ひました。其男は耻かしがつて色々辯解しましたが、折角の胴着《どうぎ》を行李《かうり》の底へ放《はふ》り込んで利用しないのです。それを又|大勢《おほぜい》が寄つてたかつて、わざと着せました。すると運惡く其胴着に蝨《しらみ》がたかりました。友達は丁度|幸《さいは》ひとでも思つたのでせう、評判の胴着をぐる/\と丸めて、散歩に出た序に、根津の大きな泥溝《どぶ》の中《なか》へ棄ててしまひました。其時一所に歩いてゐた私は、橋の上に立つて笑ひながら友達の所作《しよさ》を眺めてゐましたが、私の胸の何處にも勿體《もつたい》ないといふ氣は少しも起《おこ》りませんでした。
 其頃から見ると私《わたくし》も大分|大人《おとな》になつてゐました。けれども未《ま》だ自分で餘所行《よそゆき》の着物を拵《こしら》えるといふ程の分別《ふんべつ》は出なかつたのです。私は卒業して髯《ひげ》を生《は》やす時代が來なければ、服裝の心配などはするに及ばないものだといふ變な考《かんがへ》を有《も》つてゐたのです。それで奧さんに書物は要《い》るが着物は要《い》らないと云ひました。奧さんは私の買ふ書物の分量を知つてゐました。買つた本をみんな讀むのかと聞くのです。私の買ふものゝ中《うち》には字引《じびき》もありますが、當然眼を通すべき筈でありながら、頁《ページ゙》さへ切つてないのも多少あつたのですから、私は返事に窮《きゆう》しました。私は何《ど》うせ要《い》らないものを買ふなら、書物でも衣服でも同じだといふ事に氣が付きました。其上私は色々世話になるといふ口實の下《もと》に、御孃さんの氣に入るやうな帶か反物《たんもの》を買つて遣りたかつたのです。それで萬事を奧さんに依頼しました。
 奧さんは自分一人で行くとは云ひません。私《わたくし》にも一所《いつしよ》に來いと命令するのです。御孃さんも行かなくてはいけないと云ふのです。今と違つた空氣の中に育てられた私共は、學生の身分として、あまり若い女などと一所に歩き廻る習慣を有《も》つてゐなかつたものです。其頃の私は今よりもまだ習慣《しふくわん》の奴隷《どれい》でしたから、多少|躊躇《ちうちよ》しましたが、思ひ切つて出掛けました。
 御孃さんは大層|着飾《きかざ》つてゐました。地體《ぢたい》が色の白い癖に、白粉《おしろい》を豐富《ほうふ》に塗つたものだから猶《なほ》目立ちます。往來の人がじろじろ見て行くのです。さうして御孃さんを見たものは屹度《きつと》其視線をひるがへして、私《わたくし》の顔を見るのだから、變なものでした。
 三人は日本橋へ行つて買ひたいものを買ひました。買ふ間《あひだ》にも色々氣が變《かは》るので、思つたより暇《ひま》がかゝりました。奧さんはわざ/\私《わたくし》の名を呼んで何《ど》うだらうと相談をするのです。時々反物を御孃さんの肩から胸へ竪《たて》に宛《あ》てゝ置いて、私に二三歩|遠退《とほの》いて見て呉れろといふのです。私は其度ごとに、それは駄目だとか、それは能く似合ふとか、兎に角|一人前《いちにんまへ》の口を聞《き》きました。
 斯んな事で時間が掛《かゝ》つて歸りは夕飯《ゆふめし》の時刻になりました。奧さんは私《わたくし》に對する御禮に何か御馳走すると云つて、木原店《きはらだな》といふ寄席《よせ》のある狹い横丁へ私を連れ込みました。横丁も狹いが、飯を食はせる家《うち》も狹いものでした。此|邊《へん》の地理を一向《いつかう》心得ない私は、奧さんの知識に驚ろいた位です。
 我々は夜《よ》に入《い》つて家《うち》へ歸りました。其|翌日《あくるひ》は日曜でしたから、私《わたくし》は終日|室《へや》の中《うち》に閉《と》ぢ籠《こも》つてゐました。月曜になつて、學校へ出ると、私は朝つぱらさう/\級友の一人から調戯《からか》はれました。何時《いつ》妻《さい》を迎へたのかと云つてわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君は非常に美人だといつて賞めるのです。私は三人連で日本橋へ出掛けた所を、其男に何處かで見られたものと見えます。
 
     十八
 
 「私《わたくし》は宅《うち》へ歸つて奧さんと御孃さんに其話をしました。奧さんは笑ひました。然し定めて迷惑だらうと云つて私の顔を見ました。私は其《その》時《とき》腹のなかで、男は斯《こ》んな風にして、女から氣を引いて見られるのかと思ひました。奧さんの眼は充分私にさう思はせる丈《だけ》の意味を有《も》つてゐたのです。私は其時自分の考へてゐる通りを直截《ちよくせつ》に打ち明けて仕舞へば好かつたかも知れません。然し私にはもう狐疑《こぎ》といふ薩張《さつぱ》りしない塊《かたまり》がこびり付いてゐました。私は打ち明けやうとして、ひよいと留《と》まりました。さうして話の角度を故意に少し外《そ》らしました。
 私《わたくし》は肝心の自分といふものを問題の中《なか》から引き拔いて仕舞ひました。さうして御孃さんの結婚について、奧さんの意中《いちゆう》を探《さぐ》つたのです。奧さんは二三さういふ話のないでもないやうな事を、明《あき》らかに私に告げました。然しまだ學校へ出てゐる位で年が若いから、此方《こちら》では左程《さほど》急がないのだと説明しました。奧さんは口へは出さないけれども、御孃さんの容色に大分《だいぶ》重きを置いてゐるらしく見えました。極《き》めやうと思へば何時《いつ》でも極《き》められるんだからといふやうな事さへ口外しました。それから御孃さんより外《ほか》に子供がないのも、容易に手離したがらない源因《げんいん》になつてゐました。嫁《よめ》に遣《や》るか、聟《むこ》を取るか、それにさへ迷つてゐるのではなからうかと思はれる所もありました。
 話してゐるうちに、私《わたくし》は色々の知識を奧さんから得たやうな氣がしました。然しそれがために、私は機會を逸《いつ》したと同樣の結果に陷《おち》いつてしまひました。私は自分に就いて、ついに一言《いちごん》も口を開く事が出來ませんでした。私は好い加減な所で話を切り上げて、自分の室《へや》へ歸らうとしました。
 さつき迄|傍《そば》にゐて、あんまりだわとか何とか云つて笑つた御孃さんは、何時《いつ》の間《ま》にか向ふの隅に行つて、脊中《せなか》を此方《こつち》へ向けてゐました。私《わたくし》は立たうとして振り返つた時、其|後姿《うしろすがた》を見たのです。後姿《うしろすがた》だけで人間の心が讀める筈はありません。御孃さんが此問題について何《ど》う考へてゐるか、私には見當が付きませんでした。御孃さんは戸棚を前にして坐つてゐました。其戸棚の一尺ばかり開《あ》いてゐる隙間《すきま》から、御孃さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めてゐるらしかつたのです。私の眼はその隙間《すきま》の端《はじ》に、一昨日《をとゝひ》買つた反物《たんもの》を見付け出しました。私の着物も御孃さんのも同じ戸棚の隅《すみ》に重《かさ》ねてあつたのです。
 私《わたくし》が何とも云はずに席を立ち掛けると、奧さんは急に改たまつた調子になつて、私に何《ど》う思ふかと聞くのです。その聞き方は何をどう思ふのかと反問しなければ解らない程|不意《ふい》でした。それが御孃さんを早く片付《かたづ》けた方が得策だらうかといふ意味だと判然《はつきり》した時、私は成るべく緩《ゆつ》くらな方が可《い》いだらうと答へました。奧さんは自分もさう思ふと云ひました。
 奧さんと御孃さんと私《わたくし》の關係が斯うなつてゐる所へ、もう一人《ひとり》男が入《い》り込まなければならない事になりました。其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來《きた》してゐます。もし其男が私の生活の行路《かうろ》を横切《よこぎ》らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です。自白すると、私は自分で其男を宅《うち》へ引張《ひつぱ》つて來たのです。無論奧さんの許諾《きよだく》も必要ですから、私は最初何もかも隱《かく》さず打ち明けて、奧さんに頼んだのです。所が奧さんは止《よ》せと云ひました。私には連れて來なければ濟まない事情が充分あるのに、止《よ》せといふ奧さんの方には、筋の立つた理窟《りくつ》は丸《まる》でなかつたのです。だから私は私の善《い》いと思ふ所を強《し》ひて斷行してしまひました。
 
     十九
 
 「私《わたくし》は其友達の名を此所にKと呼んで置きます。私はこのKと小供の時からの仲好《なかよし》でした。小供の時からと云へば斷《ことわ》らないでも解つてゐるでせう、二人には同郷《どうきやう》の縁故《えんこ》があつたのです。Kは眞宗《しんしゆう》の坊《ばう》さんの子でした。尤も長男ではありません、次男でした。それである醫者の所へ養子に遣《や》られたのです。私の生れた地方は大變|本願寺派《ほんぐわんじは》の勢力の強い所でしたから、眞宗《しんしゆう》の坊《ばう》さんは他《ほか》のものに比《くら》べると、物質的に割《わり》が好かつたやうです。一例を擧げると、もし坊さんに女の子があつて、其女の子が年頃になつたとすると、檀家《だんか》のものが相談して、何處か適當な所へ嫁に遣つて呉れます。無論費用は坊さんの懷《ふところ》から出るのではありません。そんな譯で眞宗寺《しんしゆうでら》は大抵|有福《いうふく》でした。
 Kの生れた家《いへ》も相應に暮らしてゐたのです。然し次男を東京へ修業に出す程の餘力があつたか何《ど》うか知りません。又修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纒《まと》まつたものか何うか、其所も私には分りません。兎に角Kは醫者の家《うち》へ養子に行つたのです。それは私達がまだ中學にゐる時の事でした。私は教場で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に變つてゐたので驚ろいたのを今でも記憶してゐます。
 Kの養子|先《さき》も可なりな財産家でした。Kは其所から學資を貰つて東京へ出て來たのです。出て來たのは私《わたくし》と一所でなかつたけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入《はい》りました。其時分は一《ひと》つ室《へや》によく二人も三人も机を並《なら》べて寐起《ねおき》したものです。Kと私も二人で同じ間《ま》にゐました。山で生捕《いけど》られた動物が、檻《をり》の中で抱き合ひながら、外《そと》を睨《にら》めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏《おそ》れました。それでゐて六疊の間《ま》の中《なか》では、天下を脾睨《へいげい》するやうな事を云つてゐたのです。
 然し我々は眞面目でした。我々は實際偉くなる積《つもり》でゐたのです。ことにKは強かつたのです。寺に生れた彼は、常に精進《しやうじん》といふ言葉を使ひました。さうして彼の行爲《かうゐ》動作《どうさ》は悉《こと/”\》くこの精進の一語で形容されるやうに、私《わたくし》には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬してゐました。
 Kは中學にゐた頃から、宗教とか哲學とかいふ六《む》づかしい問題で、私《わたくし》を困らせました。是は彼の父の感化なのか、又は自分の生《うま》れた家、即《すなは》ち寺といふ一種特別な建物に屬する空氣の影響なのか、解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遙《はる》かに坊さんらしい性格を有《も》つてゐたやうに見受けられます。元來Kの養家では彼を醫者にする積《つもり》で東京へ出したのです。然《しか》るに頑固《ぐわんこ》な彼は醫者にはならない決心をもつて、東京へ出て來たのです。私は彼に向《むか》つて、それでは養父母を欺《あざ》むくと同じ事ではないかと詰《なじ》りました。大膽な彼は左右《さう》だと答へるのです。道《みち》のためなら、其位の事をしても構はないと云ふのです。其時彼の用ひた道《みち》といふ言葉は、恐らく彼にも能く解つてゐなかつたでせう。私は無論解つたとは云へません。然し年の若い私達には、この漠然とした言葉が尊《たつ》とく響いたのです。よし解らないにしても氣高《けだか》い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行かうとする意氣組《いきぐみ》に卑《いや》しい所の見える筈はありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKに取つて何《ど》の位《くらゐ》有力であつたか、それは私も知りません。一圖《いちづ》な彼は、たとひ私がいくら反對しやうとも、矢張自分の思ひ通りを貫《つら》ぬいたに違《ちがひ》なからうとは察せられます。然し萬一の場合、賛成の聲援を與へた私に、多少の責任が出來てくる位の事は、子供ながら私はよく承知してゐた積《つもり》です。よし其時にそれ丈《だけ》の覺悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起つた場合には、私に割り當てられただけの責任は、私の方で帶《お》びるのが至當になる位な語氣で私は賛成したのです。
 
     二十
 
 「Kと私《わたくし》は同じ科へ入學しました。Kは澄《す》ました顔をして、養家から送つてくれる金で、自分の好な道を歩《ある》き出したのです。知れはしないといふ安心と、知れたつて構《かま》ふものかといふ度胸《どきよう》とが、二つながらKの心にあつたものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平氣でした。
 最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込《こまごめ》のある寺の一間《ひとま》を借りて勉強するのだと云つてゐました。私《わたくし》が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果《はた》して大觀音《おほぐわんのん》の傍《そば》の汚《きた》ない寺の中《なか》に閉《と》ぢ籠《こも》つてゐました。彼の座敷は本堂のすぐ傍《そば》の狹い室《へや》でしたが、彼は其所で自分の思ふ通りに勉強が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々《だん/\》坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸《てくび》に珠數《じゆず》を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定《かんぢやう》する眞似《まね》をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數《じゆず》の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓《まる》い輪《わ》になつてゐるものを一粒《ひとつぶ》づゝ數《かぞ》へて行けば、何處迄《どこまで》數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰《つまぐ》る手を留《と》めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。
 私《わたくし》は又彼の室《へや》に聖書を見ました。私はそれ迄に御經《おきやう》の名を度々彼の口から聞いた覺がありますが、基督敦《キリストけう》に就いては、問はれた事も答へられた例《ためし》もなかつたのですから、一寸《ちよつと》驚ろきました。私は其|理由《わけ》を訊《たづ》ねずにはゐられませんでした。Kは理由《わけ》はないと云ひました。是程《これほど》人の有難がる書物なら讀んで見るのが當り前だらうとも云ひました。其上彼は機會があつたら、コーランも讀んで見る積《つもり》だと云ひました。彼はモハメツドと劍といふ言葉に大いなる興味を有《も》つてゐるやうでした。
 二年目の夏に彼は國から催促《さいそく》を受けて漸《やうや》く歸りました。歸つても專門の事は何にも云はなかつたものと見えます。家《うち》でも亦|其所《そこ》に氣が付かなかつたのです。あなたは學校教育を受けた人だから、斯ういふ消息《せうそく》を能く解してゐるでせうが、世間は學生の生活だの、學校の規則だのに關して、驚ろくべく無知なものです。我々に何でもない事が一向《いつかう》外部へは通じてゐません。我々は又比較的内部の空氣ばかり吸つてゐるので、校内の事は細大共《さいだいとも》に世の中に知れ渡つてゐる筈だと思ひ過ぎる癖があります。Kは其點にかけて、私《わたくし》より世間を知つてゐたのでせう、澄《す》ました顔で又《また》戻つて來ました。國を立つ時は私も一所でしたから、汽車へ乘るや否やすぐ何《ど》うだつたとKに問ひました。Kは何《ど》うでもなかつたと答へたのです。
 三度目の夏は丁度|私《わたくし》が永久に父母《ふぼ》の墳墓《ふんぼ》の地を去らうと決心した年です。私は其時Kに歸國を勸めましたが、Kは應じませんでした。さう毎年《まいとし》家《うち》へ歸つて何をするのだと云ふのです。彼はまた踏み留《とゞ》まつて勉強する積《つもり》らしかつたのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らした其二ケ月間が、私の運命にとつて、如何《いか》に波瀾《はらん》に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝《いううつ》と孤獨《こどく》の淋《さぴ》しさとを一つ胸に抱《いだ》いて、九月に入つて又Kに逢ひました。すると彼の蓮命も亦《また》私と同樣に變調を示してゐました。彼は私の知らないうちに、養家|先《さき》へ手紙を出して、此方《こつち》から自分の詐《いつはり》を白状してしまつたのです。彼は最初から其覺悟でゐたのださうです。今更《いまさら》仕方がないから、御前の好きなものを遣るより外に途はあるまいと、向ふに云はせる積《つもり》もあつたのでせうか。兎に角大學へ入《はい》つて迄も養父母を欺《あざ》むき通す氣はなかつたらしいのです。又|欺《あざ》むかうとしても、さう長く續くものではないと見拔いたのかも知れません。
 
     二十一
 
 「Kの手紙を見た養父は大變《たいへん》怒りました。親を騙《だま》すやうな不埒《ふらち》なものに學資を送る事は出來ないといふ嚴《きび》しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私《わたくし》に見せました。Kは又それと前後して實家から受取つた書翰《しよかん》も見せました。これにも前に劣らない程|嚴《きぴ》しい詰責《きつせき》の言葉がありました。養家|先《さき》へ對して濟まないといふ義理が加はつてゐるからでもありませうが、此方《こつち》でも一切《いつさい》構はないと書いてありました。Kが此事件のために復籍《ふくせき》してしまふか、それとも他に妥協《だけふ》の道《みち》を講じて、依然養家に留《とゞ》まるか、そこは是から起《おこ》る問題として、差し當り何《ど》うかしなければならないのは、月々に必要な學資でした。
 私《わたくし》は其點に就いてKに何か考《かんがへ》があるのかと尋ねました。Kは夜學校の教師でもする積《つもり》だと答へました。其時分は今に比《くら》べると、存外《ぞんぐわい》世の中が寛《くつ》ろいでゐましたから、内職の口は貴方《あなた》が考へる程|拂底《ふつてい》でもなかつたのです。私はKがそれで充分|遣《や》つて行《ゆ》けるだらうと考へました。然し私には私の責任があります。Kが養家の希望に背《そむ》いて、自分の行きたい道を行かうとした時、賛成したものは私です。私は左右《さう》かと云つて手を拱《こまぬ》いてゐる譯に行きません。私は其場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳《は》ね付《つ》けました。彼の性格から云つて、自活の方が友達の保護の下《もと》に立つより遙《はる》かに快《こゝろ》よく思はれたのでせう。彼は大學へ這入《はい》つた以上、自分|一人《ひとり》位《ぐらゐ》何うか出來なければ男でないやうな事を云ひました。私は私の責任を完《まつた》ふするために、Kの感情を傷《きず》つけるに忍びませんでした。それで彼の思ふ通りにさせて、私は事を引きました。
 Kは自分の望むやうな口を程なく探《さが》し出しました。然し時間を惜《をし》む彼にとつて、此仕事が何《ど》の位|辛《つら》かつたかは想像する迄もない事です。彼は今迄通り勉強の手をちつとも緩《ゆる》めずに、新らしい荷を脊負《しよ》つて猛進したのです。私《わたくし》は彼の健康を氣遣ひました。然し剛氣《がうき》な彼は笑ふ丈《だけ》で、少しも私の注意に取合ひませんでした。
 同時に彼と養家との關係は、段々こん絡《がら》がつて來ました。時間に餘裕のなくなつた彼は、前のやうに私《わたくし》と話す機會を奪《うば》はれたので、私はついに其|?末《てんまつ》を詳《くは》しく聞かずに仕舞ひましたが、解決の益《ます/\》困難になつて行く事|丈《だけ》は承知してゐました。人が仲に入《はい》つて調停を試みた事も知つてゐました。其人は手紙でKに歸國を促《うな》がしたのですが、Kは到底駄目だと云つて、應じませんでした。此剛情な所が、――Kは學年中で歸れないのだから仕方がないと云ひましたけれども、向ふから見れば剛情でせう。そこが事態を益《ます/\》險惡にした樣にも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、實家の怒《いかり》も買ふやうになりました。私が心配して双方を融和《ゆうわ》するために手紙を書いた時は、もう何の效果《きゝめ》もありませんでした。私の手紙は一言《ひとこと》の返事さへ受けずに葬られてしまつたのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛《ゆきがゝ》り上《じやう》、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否《りひ》を度外に置いてもKの味方をする氣になりました。
 最後にKはとうゝ復籍に決しました。養家から出して貰つた學資は、實家で辨償《べんしやう》する事になつたのです。其代り實家の方でも構はないから、是からは勝手にしろといふのです。昔の言葉で云へば、まあ勘當《かんだう》なのでせう。或はそれ程強いものでなかつたかも知れませんが、當人はさう解釋してゐました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面《いちめん》は、たしかに繼母《けいぼ》に育てられた結果とも見る事が出來るやうです。もし彼の實《じつ》の母が生きてゐたら、或は彼と實家との關係に、斯うまで隔《へだゝ》りが出來ずに濟んだかも知れないと私《わたくし》は思ふのです。彼の父は云ふ迄もなく僧侶《そうりよ》でした。けれども義理堅《ぎりがた》い點に於て、寧ろ武士《さむらひ》に似た所がありはしないかと疑はれます。
 
     二十二
 
 「Kの事件が一段落《いちだんらく》ついた後《あと》で、私《わたくし》は彼の姉の夫《をつと》から長い封書を受取りました。Kの養子に行つた先《さき》は、此人の親類に當るのですから、彼を周旋《しうせん》した時にも、彼を復籍《ふくせき》させた時にも、此人の意見が重きをなしてゐたのだと、Kは私に話して聞かせました。
 手紙には其《その》後《ご》Kが何《ど》うしてゐるか知らせて呉れと書いてありました。姉が心配してゐるから、成るべく早く返事を貰ひたいといふ依頼も付け加へてありました。Kは寺を嗣《つ》いだ兄よりも、他家《たけ》へ縁づいた此姉を好いてゐました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉弟《きやうだい》ですけれども、此姉とKの間には大分《だいぶ》年齒《とし》の差《さ》があつたのです。それでKの小供の時分には、繼母《まゝはゝ》よりも此姉の方が、却つて本當の母らしく見えたのでせう。
 私《わたくし》はKに手紙を見せました。Kは何とも云ひませんでしたけれども、自分の所へ此姉から同じやうな意味の書状が二三度來たといふ事を打ち明けました。Kは其度に心配するに及ばないと答へて遣つたのださうです。運惡く此姉は生活に餘裕《よゆう》のない家《いへ》に片付《かたづ》いたゝめに、いくらKに同情があつても、物質的に弟を何《ど》うして遣る譯にも行かなかつたのです。
 私《わたくし》はKと同じやうな返事を彼の義兄《ぎけい》宛《あて》で出しました。其《その》中《うち》に、萬一の場合には私が何《ど》うでもするから、安心するやうにといふ意味を強い言葉で書き現《あら》はしました。是は固《もと》より私の一存《いちぞん》でした。Kの行先《ゆくさき》を心配する此姉に安心を與へやうといふ好意《かうい》は無論含まれてゐましたが、私を輕蔑したとより外《ほか》に取りやうのない彼の實家や養家に對する意地もあつたのです。
 Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃《なかごろ》になる迄、約一年半の間《あひだ》、彼は獨力で己《おの》れを支《さゝ》へて行つたのです。所が此過度の努力が次第に彼の健康と精神の上に影響して來たやうに見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅《うるさ》い問題も手傳《てつだ》つてゐたでせう。彼は段々|感傷的《センチメンタル》になつて來たのです。時によると、自分|丈《だけ》が世の中の不幸を一人《ひとり》で脊負《しよ》つて立つてゐるやうな事を云ひます。さうして夫《それ》を打ち消せばすぐ激《げき》するのです。それから自分の未來に横はる光明が、次第に彼の眼を遠退《とほの》いて行くやうにも思つて、いら/\するのです。學問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負《はうふ》を有《も》つて、新らしい旅に上《のぼ》るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近《まぢか》になると、急に自分の足の運びの鈍《のろ》いのに氣が付いて、過半《くわはん》は其所で失望するのが當り前になつてゐますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮《あせ》り方《かた》は又普通に比《くら》べると遙かに甚《はなはだ》しかつたのです。私《わたくし》はついに彼の氣分を落ち付けるのが專一《せんいち》だと考へました。
 私《わたくし》は彼に向《むか》つて、餘計《よけい》な仕事をするのは止《よ》せと云ひました。さうして當分|身體《からだ》を樂《らく》にして、遊ぶ方が大きな將來のために得策《とくさく》だと忠告しました。剛情なKの事ですから、容易に私のいふ事などは聞くまいと、かねて豫期してゐたのですが、實際云ひ出して見ると、思つたよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはたゞ學問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養つて強い人になるのが自分の考《かんがへ》だと云ふのです。それには成るべく窮屈《きゆうくつ》な境遇にゐなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、丸《まる》で醉興《すゐきよう》です。其上|窮屈《きゆうくつ》な境遇にゐる彼の意志は、ちつとも強くなつてゐないのです。彼は寧ろ神經衰弱に罹《かゝ》つてゐる位なのです。私は仕方がないから、彼に向《むか》つて至極《しごく》同感であるやうな樣子を見せました。自分もさういふ點に向つて、人生を進む積《つもり》だつたと遂には明言しました。(尤も是は私に取つてまんざら空虚《くうきよ》な言葉でもなかつたのです。Kの説《せつ》を聞いてゐると、段々さういふ所に釣り込まれて來る位、彼には力があつたのですから)。最後に私はKと一所《いつしょ》に住んで、一所《いつしよ》に向上《かうじやう》の路《みち》を辿《たど》つて行《ゆ》きたいと發議《ほつぎ》しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に脆《ひざ》まづく事を敢《あへ》てしたのです。さうして漸《やつ》との事で彼を私の家《いへ》に連れて來ました。
 
     二十三
 
 「私《わたくし》の座敷には控《ひか》えの間《ま》といふやうな四疊が付屬してゐました。玄關を上《あが》つて私のゐる所へ通らうとするには、是非此四疊を横切《よこぎ》らなければならないのだから、實用の點から見ると、至極不便な室《へや》でした。私は此所へKを入れたのです。尤も最初は同じ八疊に二つ机を並《なら》べて、次の間《ま》を共有にして置く考へだつたのですが、Kは狹苦《せまくる》しくつても一人《ひとり》で居る方が好《い》いと云つて、自分で其方《そつち》のほうを擇《えら》んだのです。
 前《まへ》にも話した通り、奧さんは私《わたくし》の此|所置《しよち》に對して始めは不賛成だつたのです。下宿屋ならば、一人《ひとり》より二人《ふたり》が便利だし、二人《ふたり》より三人《さんにん》が得《とく》になるけれども、商賣でないのだから、成るべくなら止《よ》した方が好《い》いといふのです。私が決して世話《せわ》の燒ける人でないから構ふまいといふと、世話は燒けないでも、氣心《きごゝろ》の知れない人は厭《いや》だと答へるのです。それでは今|厄介《やくかい》になつてゐる私だつて同じ事ではないかと詰《なじ》ると、私の氣心《きごゝろ》は初めから能く分つてゐると辯解して已《や》まないのです。私は苦笑《くせう》しました。すると奧さんは又理窟の方向を更《か》へます。そんな人を連れて來るのは、私の爲に惡いから止《よ》せと云ひ直します。何故《なぜ》私のために惡いかと聞くと、今度は向ふで苦笑《くせう》するのです。
 實《じつ》をいふと私《わたくしだ》つて強《し》ひてKと一所にゐる必要はなかつたのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並《なら》べて見せると、彼は屹度《きつと》それを受取る時に躊躇《ちうちよ》するだらうと思つたのです。彼はそれ程獨立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅《うち》へ置いて、二人前《ふたりまへ》の食料を彼の知らない間《ま》にそつと奧さんの手に渡さうとしたのです。然し私はKの經濟問題について、一言《いちごん》も奧さんに打ち明ける氣はありませんでした。
 私《わたくし》はたゞKの健康に就いて云々《うんぬん》しました。一人で置くと益《ます/\》人間が偏窟《へんくつ》になるばかりだからと云ひました。それに付け足して、Kが養家と折合の惡かつた事や、實家と離れてしまつた事や、色々話して聞かせました。私は溺《おぼ》れかゝつた人を抱《だ》いて、自分の熱を向ふに移してやる覺悟で、Kを引き取るのだと告げました。其|積《つもり》であたゝかい面倒を見て遣つて呉れと、奧さんにも御孃さんにも頼みました。私はここ迄來て漸々《やう/\》奧さんを説き伏せたのです。然し私から何にも聞かないKは、此|?末《てんまつ》を丸《まる》で知らずにゐました。私も却《かへ》つてそれを滿足に思つて、のつそり引き移つて來たKを、知らん顔で迎へました。
 奧さんと御孃さんは、親切に彼の荷物を片付《かたづ》ける世話や何かをして呉れました。凡《すべ》てそれを私《わたくし》に對する好意から來たのだと解釋した私は、心のうちで喜びました。――Kが相變らずむつちりした樣子をしてゐるにも拘《かゝ》はらず。
 私《わたくし》がKに向つて新らしい住居《すまひ》の心持は何《ど》うだと聞いた時に、彼はたゞ一言《いちげん》惡くないと云つた丈《だけ》でした。私から云はせれば惡くない所《どころ》ではないのです。彼の今迄居た所は北向《きたむき》の濕《しめ》つぼい臭《にほひ》のする汚ない室《へや》でした。食物《くひもの》も室《へや》相應に粗末でした。私の家《いへ》へ引き移つた彼は、幽谷《いうこく》から喬木《けうぼく》に移つた趣《おもむき》があつた位です。それを左程《さほど》に思ふ氣色《けしき》を見せないのは、一つは彼の強情から來てゐるのですが、一つは彼の主張からも出てゐるのです。佛教の教義で養はれた彼は、衣食住《いしよくぢゆう》について兎角の贅澤《ぜいたく》をいふのを恰《あたか》も不道コのやうに考へてゐました。なまじい昔の高僧だとか聖徒《セーント》だとかの傳《でん》を讀んだ彼には、動《やゝ》ともすると精神と肉體とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻《べんたつ》すれば靈《れい》の光輝が増すやうに感ずる場合さへあつたのかも知れません。
 私《わたくし》は成るべく彼に逆《さから》はない方針を取りました。私は氷を日向《ひなた》へ出して溶《と》かす工夫をしたのです。今に融《と》けて温《あたゝ》かい水になれば、自分で自分に氣が付く時機が來るに違ないと思つたのです。
 
     二十四
 
 「私《わたくし》は奧さんからさう云ふ風に取扱かはれた結果、段々快活になつて來たのです。それを自覺してゐたから、同じものを今度はKの上に應用しやうと試みたのです。Kと私とが性格の上に於て、大分《だいぶ》相違のある事は、長く交際《つきあ》つて來た私に能く解つてゐましたけれども、私の神經が此家庭に入《はい》つてから多少|角《かど》が取れた如く、Kの心も此所に置けば何時《いつ》か沈まる事があるだらうと考へたのです。
 Kは私《わたくし》より強い決心を有《いう》してゐる男でした。勉強も私の倍|位《ぐらゐ》はしたでせう。其上持つて生れた頭の質《たち》が私よりもずつと可《よ》かつたのです。後《あと》では專門が違《ちがひ》ましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中學でも高等學校でも、Kの方が常に上席《じやうせき》を占めてゐました。私には平生から何をしてもKに及ばないといふ自覺があつた位です。けれども私が強ひてKを私の宅《うち》へ引張《ひつぱ》つて來た時には、私の方が能く事理《じり》を辨《わきま》へてゐると信じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐の區別を了解してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉體なり精神なり凡《すべ》て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壞されもするでせうが、何方《どつち》にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論|傍《はた》のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます。醫者の説明を聞くと、人間の胃袋|程《ほど》横着なものはないさうです。粥《かゆ》ばかり食つてゐると、それ以上の堅いものを消化《こな》す力が何時《いつ》の間《ま》にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食ふ稽古《けいこ》をして置けと醫者はいふのです。けれども是はたゞ慣れるといふ意味ではなからうと思ひます。次第に刺戟を増すに從つて、次第に榮養機能の抵抗力が強くなるといふ意味でなくてはなりますまい。もし反對に胃の力の方がぢり/\弱つて行つたなら結果は何《ど》うなるだらうと想像して見ればすぐ解《わか》る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此所に氣が付いてゐなかつたのです。たゞ困難に慣れてしまへば、仕舞に其困難は何でもなくなるものだと極めてゐたらしいのです。艱苦《かんく》を繰り返せば、繰り返すといふだけの功コ《くどく》で、其|艱苦《かんく》が氣にかゝらなくなる時機に邂逅《めぐりあ》へるものと信じ切つてゐたらしいのです。
 私《わたくし》はKを説くときに、是非|其所《そこ》を明《あき》らかにして遣りたかつたのです。然し云へば屹度《きつと》反抗されるに極《きま》つてゐました。また昔の人の例などを、引合《ひきあひ》に持つて來るに違ないと思ひました。さうなれば私だつて、其人達とKと違つてゐる點を明白に述べなければならなくなります。それを首肯《うけが》つて呉れるやうなKなら可《い》いのですけれども、彼の性質として、議論が其所迄行くと容易に後《あと》へは返りません。猶《なほ》先へ出ます。さうして、口で先へ出た通りを、行爲で實現しに掛《かゝ》ります。彼は斯うなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壞しつゝ進みます。結果から見れば、彼はたゞ自己の成功を打ち碎く意味に於て、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の氣性をよく知つた私はついに何とも云ふ事が出來なかつたのです。其上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少《たせう》神經衰弱に罹《かゝ》つてゐたやうに思はれたのです。よし私が彼を説き伏せた所で、彼は必ず激するに違ないのです。私は彼と喧嘩をする事は恐れてはゐませんでしたけれども、私が孤獨の感に堪《た》へなかつた自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤獨の境遇に置くのは、私に取つて忍びない事でした。一歩進んで、より孤獨な境遇に突き落すのは猶|厭《いや》でした。それで私は彼が宅《うち》へ引き移つてからも、當分の間は批評がましい批評を彼の上に加へずにゐました。たゞ穩《おだや》かに周圍の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
 
     二十五
 
 「私《わたくし》は蔭へ廻つて、奧さんと御孃さんに、成るべくKと話しをする樣に頼みました。私は彼の是迄|通《とほ》つて來た無言生活《むごんせいくわつ》が彼に祟《たゝ》つてゐるのだらうと信じたからです。使はない鐵が腐るやうに、彼の心には錆《さぴ》が出てゐたとしか、私には思はれなかつたのです。
 奧さんは取《と》り付《つ》き把《は》のない人だと云つて笑つてゐました。御孃さんは又わざ/\其例を擧げて私《わたくし》に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kは無いと答へるさうです。では持つて來《き》ようと云ふと、要《い》らないと斷《こと》わるさうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要《い》らないんだと云つたぎり應對をしないのださうです。私はたゞ苦笑してゐる譯にも行きません。氣の毒だから、何とか云つて其場を取り繕《つく》ろつて置かなければ濟まなくなります。尤もそれは春の事ですから、強ひて火にあたる必要もなかつたのですが、是では取《と》り付《つ》き把《は》がないと云はれるのも無理はないと思ひました。
 それで私《わたくし》は成るべく、自分が中心になつて、女|二人《ふたり》とKとの連絡をはかる樣に力《つと》めました。Kと私が話してゐる所へ家《うち》の人を呼ぶとか、又は家《うち》の人と私が一つ室《へや》に落ち合つた所へ、Kを引つ張り出すとか、何方《どつち》でも其場合に應じた方法をとつて、彼等を接近させやうとしたのです。勿論Kはそれをあまり好《この》みませんでした。ある時はふいと起《た》つて室《へや》の外へ出ました。又ある時はいくら呼んでも中々出て來ませんでした。Kはあんな無駄話をして何處が面白いと云ふのです。私はたゞ笑つてゐました。然し心の中《うち》では、Kがそのために私を輕蔑してゐる事が能く解りました。
 私《わたくし》はある意味から見て實際彼の輕蔑に價《あたひ》してゐたかも知れません。彼の眼の着《つ》け所《どころ》は私より遙かに高いところにあつたとも云はれるでせう。私もそれを否《いな》みはしません。然し眼だけ高くつて、外《ほか》が釣り合はないのは手もなく不具《かたは》です。私は何を措《お》いても、此際彼を人間らしくするのが專一《せんいち》だと考へたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像《イメジ》で埋《うづ》まつてゐても、彼自身が偉くなつて行かない以上は、何の役にも立たないといふ事を發見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まづ異性の傍《そば》に彼を坐らせる方法を講じたのです。さうして其所から出る空氣に彼を曝《さら》した上、錆《さ》び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試《こゝろ》みたのです。
 此|試《こゝろ》みは次第に成功しました。初《はじめ》のうち融合《ゆうがふ》しにくいやうに見えたものが、段々一つに纒《まと》まつて來出《きだ》しました。彼は自分以外に世界のある事を少しづゝ悟《さと》つて行くやうでした。彼はある日|私《わたくし》に向つて、女はさう輕蔑すべきものでないと云ふやうな事を云ひました。Kははじめ女からも、私同樣の知識と學問を要求してゐたらしいのです。左右《さう》してそれが見付からないと、すぐ輕蔑の念を生じたものと思はれます。今迄の彼は、性《せい》によつて立場を變へる事を知らずに、同じ視線で凡《すべ》ての男女《なんによ》を一樣に觀察してゐたのです。私は彼に、もし我等|二人《ふたり》丈《だけ》が男同志で永久に話を交換してゐるならば、二人はたゞ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだらうと云ひました。彼は尤もだと答へました。私は其時御孃さんの事で、多少《たせう》夢中になつてゐる頃でしたから、自然そんな言葉も使ふやうになつたのでせう。然し裏面の消息《せうそく》は彼には一口も打ち明けませんでした。
 今迄書物で城壁をきづいて其《その》中《なか》に立《た》て籠《こも》つてゐたやうなKの心が、段々打ち解けて來るのを見てゐるのは、私《わたくし》に取つて何よりも愉快でした。私は最初からさうした目的で事を遣り出したのですから、自分の成功に伴《ともな》ふ喜悦《きえつ》を感ぜずにはゐられなかつたのです。私は本人に云はない代りに、奧さんと御孃さんに自分の思つた通りを話しました。二人も滿足の樣子でした。
 
     二十六
 
 「Kと私《わたくし》は同じ科に居りながら、專攻の學問が違つてゐましたから、自然出る時や歸る時に遲速《ちそく》がありました。私の方が早ければ、たゞ彼の空室《くうしつ》を通り拔ける丈《だけ》ですが、遲いと簡單な挨拶をして自分の部屋《へや》へ這入《はい》るのを例にしてゐました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖《ふすま》を開《あ》ける私を一寸《ちよつと》見ます。さうして屹度《きつと》今歸つたのかと云ひます。私は何も答へないで點頭《うなづ》く事もありますし、或はたゞ「うん」と答へて行き過ぎる場合もありました。
 ある日|私《わたくし》は神田に用があつて、歸りが何時《いつ》もよりずつと後《おく》れました。私は急ぎ足に門前|迄《まで》來て、格子《かうし》をがらりと開《あ》けました。それと同時に、私は御孃さんの聲を聞いたのです。聲は慥《たしか》にKの室《へや》から出たと思ひました。玄關から眞直に行けば、茶の間、御孃さんの部屋《へや》と二つ續いてゐて、それを左へ折れると、Kの室《へや》、私の室《へや》、といふ間取《まどり》なのですから、何處で誰の聲がした位《ぐらゐ》は、久しく厄介《やくかい》になつてゐる私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御孃さんの聲もすぐ已《や》みました。私が靴を脱いでゐるうち、――私は其時分からハイカラで手數《てかず》のかゝる編上《あみあげ》を穿《は》いてゐたのですが、――私がこゞんで其|靴紐《くつひも》を解いてゐるうち、Kの部屋では誰の聲もしませんでした。私は變に思ひました。ことによると、私の疳違《かんちがひ》かも知れないと考へたのです。然し私がいつもの通りKの室《へや》を拔けやうとして、襖《ふすま》を開けると、其所に二人はちやんと坐つてゐました。Kは例の通り今歸つたかと云ひました。御孃さんも「御歸り」と坐つた儘で挨拶しました。私には氣の所爲《せゐ》か其簡單な挨拶が少し硬《かた》いやうに聞こえました。何處かで自然を踏み外《はづ》してゐるやうな調子として、私の鼓膜《こまく》に響いたのです。私は御孃さんに、奧さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家《いへ》のうちが平常より何だかひつそりしてゐたから聞いて見た丈《だけ》の事です。
 奧さんは果《はた》して留守でした。下女も奧さんと一所に出たのでした。だから家《うち》に殘つてゐるのは、Kと御孃さん丈《だけ》だつたのです。私《わたくし》は一寸《ちよつと》首を傾《かたむ》けました。今迄長い間《あひだ》世話になつてゐたけれども、奧さんが御孃さんと私だけを置《お》き去《ざ》りにして、宅《うち》を空《あ》けた例《ためし》はまだなかつたのですから。私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌《きらひ》でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顔色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸《ちよつと》用があつて出たのだと眞面目《まじめ》に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈黙しました。
 私《わたくし》が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奧さんも下女も歸つて來ました。やがて晩食《ばんめし》の食卓でみんなが顔を合せる時刻が來ました。下宿した當座は萬事|客扱《きやくあつか》ひだつたので、食事のたびに下女が膳を運んで來て呉れたのですが、それが何時《いつ》の間《ま》にか崩《くづ》れて、飯時《めしどき》には向ふへ呼ばれて行く習慣になつてゐたのです。Kが新らしく引き移つた時も、私が主張して彼を私と同じやうに取扱はせる事に極めました。其代り私は薄い板で造つた足の疊《たゝ》み込める華奢《きやしや》な食卓を奧さんに寄附しました。今では何處の宅《うち》でも使つてゐるやうですが、其頃そんな卓の周圍に並《なら》んで飯を食ふ家族は殆んどなかつたのです。私はわざ/\御茶の水の家具屋へ行つて、私の工夫通りにそれを造り上《あげ》させたのです。
 私《わたくし》は其卓上で奧さんから其日|何時《いつ》もの時刻に肴屋《さかなや》が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ説明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顔を見て又笑ひ出しました。然し今度は奧さんに叱られてすぐ已《や》めました。
 
     二十七
 
 「一週間ばかりして私《わたくし》は又Kと御孃さんが一所に話してゐる室《へや》を通り拔けました。其時御孃さんは私の顔を見るや否《いな》や笑ひ出しました。私はすぐ何が可笑《をか》しいのかと聞けば可《よ》かつたのでせう。それをつい黙つて自分の居間|迄《まで》來て仕舞つたのです。だからKも何時《いつ》ものやうに、今歸つたかと聲を掛ける事が出來なくなりました。御孃さんはすぐ障子を開けて茶の間へ入《はい》つたやうでした。
 夕飯《ゆふめし》の時、御孃さんは私《わたくし》を變な人だと云ひました。私は其時も何故《なぜ》變なのか聞かずにしまひました。たゞ奧さんが睨《にら》めるやうな眼を御孃さんに向けるのに氣が付いた丈《だけ》でした。
 私《わたくし》は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は傳通院《でんづうゐん》の裏手から植物園《しよくぶつゑん》の通りをぐるりと廻つて又|富坂《とみざか》の下へ出ました。散歩としては短《みじ》かい方ではありませんでしたが、其|間《あひだ》に話した事は極《きは》めて少なかつたのです。性質からいふと、Kは私よりも無口な男でした。私も多辯な方ではなかつたのです。然し私は歩きながら、出來る丈《だけ》話を彼に仕掛《しかけ》て見ました。私の問題は重《おも》に二人の下宿してゐる家族に就いてでした。私は奧さんや御孃さんを彼が何《ど》う見てゐるか知りたかつたのです。所が彼は海のものとも山のものとも見分《みわけ》の付かないやうな返事ばかりするのです。しかも其返事は要領を得ない癖に、極めて簡單でした。彼は二人の女に關してよりも、專攻の學科の方に多くの注意を拂つてゐる樣に見えました。尤もそれは二學年目の試驗が目の前に逼《せま》つてゐる頃でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が學生らしい學生だつたのでせう。其上彼はシユエデンボルグが何《ど》うだとか斯うだとか云つて、無學な私を驚ろかせました。
 我々が首尾よく試驗を濟ましました時、二人とももう後《あと》一年だと云つて奧さんは喜こんで呉れました。さう云ふ奧さんの唯一《ゆゐいつ》の誇《ほこり》とも見られる御孃さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐたのです。Kは私《わたくし》に向つて、女といふものは何にも知らないで學校を出るのだと云ひました。Kは御孃さんが學問以外に稽古《けいこ》してゐる縫針《ぬひはり》だの琴《こと》だの活花《いけばな》だのを、丸《まる》で眼中に置いてゐないやうでした。私は彼の迂濶《うくわつ》を笑つてやりました。さうして女の價値はそんな所にあるものでないといふ昔の議論を又彼の前で繰り返しました。彼は別段|反駁《はんばく》もしませんでした。其代り成程といふ樣子も見せませんでした。私には其所が愉快でした。彼のふんと云つた樣な調子が、依然として女を輕蔑してゐるやうに見えたからです。女の代表者として私の知つてゐる御孃さんを、物《もの》の數《かず》とも思つてゐないらしかつたからです。今から回顧すると、私のKに對する嫉妬《しつと》は、其時にもう充分|萌《きざ》してゐたのです。
 私《わたくし》は夏休みに何處かへ行かうかとKに相談しました。Kは行きたくないやうな口振《くちぶり》を見せました。無論彼は自分の自由意志で何處へも行《ゆ》ける身體《からだ》ではありませんが、私が誘《さそ》ひさへすれば、また何處《どこ》へ行つても差支《さしつか》へない身體《からだ》だつたのです。私は何故《なぜ》行《ゆ》きたくないのかと彼に尋ねて見ました。彼は理由も何《なん》にもないと云ふのです。宅《うち》で書物を讀んだ方が自分の勝手だと云ふのです。私が避暑地へ行つて涼しい所で勉強した方が、身體《からだ》の爲だと主張すると、それなら私一人行つたら可《よ》からうと云ふのです。然し私はK一人を此所《こゝ》に殘して行く氣にはなれないのです。私はたゞでさへKと宅《うち》のものが段々|親《した》しくなつて行《ゆ》くのを見てゐるのが、餘り好《い》い心持ではなかつたのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を惡くするのかと云はれゝば夫迄《それまで》です。私は馬鹿に違《ちがひ》ないのです。果《はて》しのつかない二人の議論を見るに見かねて奧さんが仲へ入《はい》りました。二人はとう/\一所に房州へ行く事になりました。
 
     二十八
 
 「Kはあまり旅へ出ない男でした。私《わたくし》にも房州は始《はじめ》てでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田《ほた》とか云ひました。今では何《ど》んなに變《かは》つてゐるか知りませんが、其頃は非道《ひど》い漁村でした。第一《だいち》何處も彼處《かしこ》も腥《なまぐ》さいのです。それから海へ入《はい》ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦《す》り剥《む》くのです。拳《こぶし》のやうな大きな石が打ち寄せる波に揉《も》まれて、始終ごろ/\してゐるのです。
 私《わたくし》はすぐ厭《いや》になりました。然しKは好いとも惡いとも云ひません。少なくとも顔付|丈《だけ》は平氣なものでした。其癖彼は海へ入《はい》るたんびに何處かに怪我《けが》をしない事はなかつたのです。私はとう/\彼を説き伏せて、其所から富浦《とみうら》に行きました。富浦《とみうら》から又|那古《なこ》に移りました。總て此沿岸は其時分から重に學生の集まる所でしたから、何處でも我々には丁度|手頃《てごろ》の海水浴場だつたのです。Kと私は能く海岸の岩の上に坐つて、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下《みおろ》す水は、又特別に綺麗なものでした。赤い色だの藍の色だの、普通|市場《しぢやう》に上《のぼ》らないやうな色をした小魚《こうを》が、透《す》き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮《あざ》やかに指《ゆび》さゝれました。
 私《わたくし》は其所に坐つて、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙つてゐる方が多かつたのです。私にはそれが考へに耽《ふけ》つてゐるのか、景色に見惚《みと》れてゐるのか、若しくは好きな想像を描《ゑが》いてゐるのか、全く解らなかつたのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしてゐるのだと聞きました。Kは何もしてゐないと一口《ひとくち》答へる丈《だけ》でした。私は自分の傍《そば》に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸《さぞ》愉快だらうと思ふ事が能《よ》くありました。それ丈《だけ》ならまだ可《い》いのですが、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱《いだ》いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然《こつぜん》疑ひ出すのです。すると落ち付いて其所に書物をひろげてゐるのが急に厭《いや》になります。私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴《どな》ります。纒《まと》まつた詩だの歌だのを面白さうに吟《ぎん》ずるやうな手緩《てぬる》い事は出來ないのです。只《たゞ》野蠻人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸《えりくび》を後《うしろ》からぐいと攫《つか》みました。斯うして海の中へ突き落したら何《ど》うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向《うしろむき》の儘、丁度|好《い》い、遣つて呉れと答へました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。
 Kの神經衰弱は此時もう大分|可《よ》くなつてゐたらしいのです。それと反比例《はんぴれい》に、私《わたくし》の方は段々|過敏《くわびん》になつて來てゐたのです。私は自分より落付いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎らしがりました。彼は何《ど》うしても私に取り合ふ氣色《けしき》を見せなかつたからです。私にはそれが一種の自信の如く映《うつ》りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一歩前へ出て、その性質を明《あき》らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にそれ丈《だけ》ならば、Kと私との利害に何の衝突の起《おこ》る譯はないのです。私は却《かへ》つて世話のし甲斐《がひ》があつたのを嬉しく思ふ位なものです。けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振《そぷり》に全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞《ふるま》ひませんでしたけれども。Kは元來さういふ點にかけると鈍《にぶ》い人なのです。私には最初からKなら大丈夫といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅《うち》へ連れて來たのです。
 
     二十九
 
 「私《わたくし》は思ひ切つて自分の心をKに打ち明けやうとしました。尤も是は其時に始まつた譯でもなかつたのです。旅に出ない前から、私にはさうした腹が出來てゐたのですけれども、打ち明ける機會をつらまへる事も、其機會を作り出す事も、私の手際《てぎは》では旨く行かなかつたのです。今から思ふと、其頃私の周圍にゐた人間はみんな妙でした。女に關して立ち入つた話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種《たね》を有《も》たないのも大分《だいぶ》ゐたでせうが、たとひ有《も》つてゐても黙つてゐるのが普通の樣でした。比較的自由な空氣を呼吸してゐる今の貴方がたから見たら、定めし變に思はれるでせう。それが道學《だうがく》の餘習《よしふ》なのか、又は一種のはにかみなのか、判斷は貴方の理解に任せて置きます。
 Kと私《わたくし》は何でも話し合へる中でした。偶《たま》には愛とか戀とかいふ問題も、口に上《のぼ》らないではありませんでしたが、何時《いつ》でも抽象的《ちうしやうてき》な理論に落ちてしまふ丈《だけ》でした。それも滅多には話題にならなかつたのです。大抵は書物の話と學問の話と、未來の事業と、抱負《はうふ》と、修養の話|位《ぐらゐ》で持ち切つてゐたのです。いくら親《した》しくつても斯う堅くなつた日には、突然調子を崩《くづ》せるものではありません。二人はたゞ堅いなりに親《した》しくなる丈《だけ》です。私は御孃さんの事をKに打ち明けやうと思ひ立つてから、何遍|齒掻《はが》ゆい不快に惱まされたか知れません。私はKの頭の何處か一ケ所を突き破つて、其所から柔らかい空氣を吹き込んでやりたい氣がしました。
 貴方《あなた》がたから見て笑止千萬《せうしせんばん》な事も其時の私《わたくし》には實際大困難だつたのです。私は旅先でも宅《うち》にゐた時と同じやうに卑怯《ひけふ》でした。私は始終機會を捕《とら》える氣でKを觀察してゐながら、變に高踏的《かうたふてき》な彼の態度を何《ど》うする事も出來なかつたのです。私に云はせると、彼の心臓の周圍は黒い漆《うるし》で重《あつ》く塗り固められたのも同然でした。私の注《そゝ》ぎ懸けやうとする血潮《ちしほ》は、一滴も其心臓の中《なか》へは入《はい》らないで、悉《こと/”\》く彈《はじ》き返されてしまふのです。
 或時はあまりにKの樣子が強くて高いので、私《わたくし》は却つて安心した事もあります。さうして自分の疑《うたがひ》を腹の中《なか》で後悔すると共に、同じ腹の中《なか》で、Kに詫《わ》びました。詫《わ》びながら自分が非常に下等な人間のやうに見えて、急に厭な心持になるのです。然し少時《しばらく》すると、以前の疑《うたがひ》が又|逆戻《ぎやくもど》りをして、強く打ち返して來ます。凡《すべ》てが疑《うたが》ひから割り出されるのですから、凡《すべ》てが私には不利益でした。容貌《ようばう》もKの方が女に好かれるやうに見えました。性質も私のやうにこせ/\してゐない所が、異性には氣に入るだらうと思はれました。何處か間が拔けてゐて、それで何處かに確《しつ》かりした男らしい所のある點も、私よりは優勢に見えました。學力《がくりき》になれば專門こそ違ひますが、私は無論Kの敵でないと自覺してゐました。――凡《すべ》て向ふの好い所|丈《だけ》が斯う一度に眼先へ散《ち》らつき出すと、一寸安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
 Kは落ち付かない私《わたくし》の樣子を見て、厭《いや》なら一先《ひとまづ》東京へ歸つても可《い》いと云つたのですが、さう云はれると、私は急に歸りたくなくなりました。實はKを東京へ歸したくなかつたのかも知れません。二人は房州の鼻《はな》を廻つて向ふ側へ出ました。我々は暑い日に射《い》られながら、苦しい思ひをして、上總《かづさ》の其所《そこ》一|里《り》に騙《だま》されながら、うん/\歩きました。私にはさうして歩いてゐる意味が丸《まる》で解らなかつた位です。私は冗談半分Kにさう云ひました。するとKは足があるから歩くのだと答へました。さうして暑くなると、海に入《はい》つて行かうと云つて、何處でも構はず潮《しほ》へ漬《つか》りました。その後《あと》を又強い日で照り付けられるのですから、身體《からだ》が倦怠《だる》くてぐた/\になりました。
 
     三十
 
 「斯んな風《ふう》にして歩いてゐると、暑さと疲弊とで自然|身體《からだ》の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他《ひと》の身體《からだ》の中《なか》へ、自分の靈魂が宿替《やどがへ》をしたやうな氣分になるのです。私《わたくし》は平生の通りKと口を利《き》きながら、何處《どこ》かで平生《へいぜい》の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限《りよちゆうかぎ》りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮《しほ》のため、又|歩行《ほかう》のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰《あたか》も道づれになつた行商《ぎやうしやう》のやうなものでした。いくら話をしても何時《いつ》もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。
 我々は此調子でとう/\銚子《てうし》迄行つたのですが、道中《だうちゆう》たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州《ばうしう》を離れない前、二人は小湊《こみなと》といふ所で、鯛《たひ》の浦《うら》を見物しました。もう年數《ねんすう》も餘程《よほど》經《た》つてゐますし、それに私《わたくし》には夫程《それほど》興味のない事ですから、判然とは覺えてゐませんが、何でも其所《そこ》は日蓮《にちれん》の生《うま》れた村だとか云ふ話でした。日蓮《にちれん》の生《うま》れた日に、鯛《たひ》が二|尾《び》磯《いそ》に打ち上げられてゐたとかいふ言傳《いひつた》へになつてゐるのです。それ以來村の漁師《れふし》が鯛《たひ》をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦《うら》には鯛《たひ》が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭《やと》つて、其|鯛《たひ》をわざ/\見に出掛けたのです。
 其時|私《わたくし》はたゞ一圖《いちづ》に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫《むらさき》がかつた鯛《たひ》の色を、面白い現象《げんしやう》の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有《も》ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮《にちれん》の方を頭の中《なか》で想像してゐたらしいのです。丁度其所に誕生寺《たんじやうじ》といふ寺がありました。日蓮《にちれん》の生れた村だから誕生寺《たんじやうじ》とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍《がらん》でした。Kは其寺に行つて住持《ぢゆうぢ》に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝《なり》をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠《すげがさ》を買つて被《かぶ》つてゐました。着物は固《もと》より双方とも垢《あか》じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會《あ》ふのは止《よ》さうと云ひました。Kは強情だから聞きません。厭なら私|丈《だけ》外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度|斷《ことわ》られるに違ないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外《あんぐわい》丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて呉れました。其時分の私はKと大分考が違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾《かたむ》ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮《にちれん》の事を聞いてゐたやうです。日蓮《にちれん》は草日蓮《さうにちれん》と云はれる位で、草書《さうしよ》が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙《まづ》いKは、何だ下《くだ》らないといふ顔をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮《にちれん》が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何《ど》うかは疑問ですが、彼は寺の境内《けいだい》を出ると、しきりに私に向つて日蓮《にちれん》の事を云々《うんぬん》し出しました。私は暑くて草臥《くたび》れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫《それ》も面倒になつてしまひには全く黙つてしまつたのです。
 たしかその翌《あく》る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寐やうといふ少し前になつてから、急に六《む》づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日《きのふ》自分の方から話しかけた日蓮《にちれん》の事に就いて、私《わたくし》が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心《かうじやうしん》がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄《けいはく》ものゝやうに遣《や》り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠《わだか》まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をたゞ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。
 
     三十一
 
 「其時|私《わたくし》はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡《すべ》てを隱《かく》してゐると云ふのです。成程|後《あと》から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得《なつとく》させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶《なほ》の事《こと》自説を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先|丈《だけ》では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。
 私《わたくし》が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他《ひと》にはさう見えるかも知れないと答へた丈《だけ》で、一向《いつかう》私を反駁しやうとしませんでした。私は張合《はりあひ》が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其所で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだらうと云つて悵然《ちやうぜん》としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論|英雄《えいゆう》でもなければ豪傑《がうけつ》でもないのです。靈《れい》のために肉を虐《しひた》げたり、道のために體《たい》を鞭《むちう》つたりした所謂|難行苦行《なんぎやうくぎやう》の人を指《さ》すのです。Kは私に、彼がどの位そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。
 Kと私《わたくし》とはそれぎり寐てしまひました。さうして其|翌《あく》る日から又普通の行商《ぎやうしやう》の態度に返つて、うん/\汗を流しながら歩き出したのです。然し私は路々《みち/\》其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好《い》い機會が與へられたのに、知らない振《ふり》をして何故《なぜ》それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的《ちうしやうてき》な言葉を用ひる代りに、もつと直截《ちよくせつ》で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜《じようりう》して拵《こし》らえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原《もと》の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自《おのづ》から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈《だけ》の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虚榮心《きよえいしん》が祟《たゝ》つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取《きど》るとか虚榮《きよえい》とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。
 我々は眞黒《まつくろ》になつて東京へ歸りました。歸つた時は私《わたくし》の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟《こりくつ》は殆んど頭の中《なか》に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈《れい》がどうの肉がどうのといふ問題は、其時|宿《やど》つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顔をして、忙《いそ》がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鷄《しやも》を食ひました。Kは其|勢《いきほひ》で小石川迄歩いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました。
 宅《うち》へ着いた時、奧さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黒くなつたばかりでなく、無暗に歩いてゐたうちに大變|瘠《や》せてしまつたのです。奧さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて呉れるのです。御孃さんは奧さんの矛盾が可笑《をか》しいと云つて又笑ひ出しました。旅行|前《まへ》時々腹の立つた私《わたくし》も、其時|丈《だけ》は愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久《ひさ》し振《ぶり》に聞いた所爲《せゐ》でせう。
 
     三十二
 
 「それのみならず私《わたくし》は御孃さんの態度の少し前《まへ》と變つてゐるのに氣が付きました。久《ひさ》し振《ぶり》で旅から歸つた私達が平生の通り落付く迄には、萬事に就いて女の手が必要だつたのですが、其世話をして呉れる奧さんは兎に角、御孃さんが凡《すべ》て私の方を先にして、Kを後廻《あとまは》しにするやうに見えたのです。それを露骨《ろこつ》に遣《や》られては、私も迷惑したかも知れません。場合によつては却つて不快の念さへ起しかねなかつたらうと思ふのですが、御孃さんの所作《しよさ》は其點で甚だ要領を得てゐたから、私は嬉しかつたのです。つまり御孃さんは私だけに解るやうに、持前の親切を餘分に私の方へ割り宛てゝ呉れたのです。だからKは別に厭《いや》な顔もせずに平氣でゐました。私は心の中《うち》でひそかに彼に對する凱歌《がいか》を奏しました。
 やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた學校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私《わたくし》とは各自の時間の都合で、出入《でいり》の刻限にまた遲速《ちそく》が出來てきました。私がKより後《おく》れて歸る時は一週に三度ほどありましたが、何時《いつ》歸つても御孃さんの影をKの室《へや》に認める事はないやうになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今歸つたのか」を規則の如く繰り返しました。私の會釋も殆んど器械の如く簡單で且《か》つ無意味でした。
 たしか十月の中頃と思ひます、私《わたくし》は寐坊《ねばう》をした結果、日本服の儘急いで學校へ出た事があります。穿物《はきもの》も編上《あみあげ》などを結んでゐる時間が惜しいので、草履《ざうり》を突つかけたなり飛び出したのです。其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐました。私は戻つて來ると、其|積《つもり》で玄關の格子をがらりと開《あ》けたのです。すると居ないと思つてゐたKの聲がひょいと聞こえました。同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響きました。私は何時《いつ》ものやうに手數《てかず》のかゝる靴を穿《は》いてゐないから、すぐ玄關に上《あ》がつて仕切の襖《ふすま》を開《あ》けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其所にはゐなかつたのです。私は恰《あたか》もKの室《へや》から逃《のが》れ出るやうに去る其|後妻《うしろすがた》をちらりと認めた丈《だけ》でした。私はKに何《ど》うして早く歸つたのかと問ひました。Kは心持が惡いから休んだのだと答へました。私が自分の室《へや》に這入つて其儘坐つてゐると、間もなく御孃さんが茶を持つて來て呉れました。其時御孃さんは始めて御歸りといつて私に挨拶をしました。私は笑ひながらさつきは何故《なぜ》逃げたんですと聞けるやうな捌《さば》けた男ではありません。それでゐて腹の中《なか》では何だか其事が氣にかゝるやうな人間だつたのです。御孃さんはすぐ座を立つて縁側|傳《づた》ひに向ふへ行つてしまひました。然しKの室《へや》の前に立ち留《ど》まつて、二言三言《ふたことみこと》内と外とで話しをしてゐました。それは先刻《さつき》の續きらしかつたのですが、前を聞かない私には丸《まる》で解りませんでした。
 そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來ました。Kと私《わたくし》が一所に宅《うち》にゐる時でも、よくKの室《へや》の縁側へ來て彼の名を呼びました。さうして其所へ入《はい》つて、ゆつくりしてゐました。無論郵便を持つて來る事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるのですから、其位の交通は同じ宅《うち》にゐる二人の關係上、當然と見なければならないのでせうが、是非御孃さんを專有したいといふ強烈な一念に動かされてゐる私には、何《ど》うしてもそれが當然以上に見えたのです。ある時は御孃さんがわざ/”\私の室《へや》へ來るのを回避して、Kの方ばかりへ行くやうに思はれる事さへあつた位です。それなら何故《なぜ》Kに宅《うち》を出て貰はないのかと貴方《あなた》は聞くでせう。然しさうすれば私がKを無理に引張《ひつぱ》つて來た主意が立たなくなる丈《だけ》です。私にはそれが出來ないのです。
 
     三十三
 
 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私《わたくし》は外套《ぐわいたう》を濡らして例の通り蒟蒻閻魔《こんにやくえんま》を拔けて細い坂路を上《あが》つて宅《うち》へ歸りました。Kの室《へや》は空虚《がらんど》うでしたけれども、火鉢には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳《かざ》さうと思つて、急いで自分の室《へや》の仕切《しきり》を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈《だけ》で、火種《ひだね》さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。
 其時|私《わたくし》の足音を聞いて出て來たのは、奧さんでした。奧さんは黙つて室《へや》の眞中《まんなか》に立つてゐる私を見て、氣の毒さうに外套《ぐわいたう》を脱がせて呉れたり、日本服を着せて呉れたりしました。それから私が寒いといふのを聞いて、すぐ次の間《ま》からKの火鉢を持つて來て呉れました。私がKはもう歸つたのかと聞きましたら、奧さんは歸つて又出たと答へました。其日もKは私より後《おく》れて歸る時間割だつたのですから、私は何《ど》うした譯かと思ひました。奧さんは大方《おほかた》用事でも出來たのだらうと云つてゐました。
 私《わたくし》はしばらく其所に坐つたまゝ書見をしました。宅《うち》の中《なか》がしんと靜まつて、誰の話し聲も聞こえないうちに、初冬《はつふゆ》の寒さと佗《わ》びしさとが、私の身體《からだ》に食ひ込むやうな感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不圖《ふと》賑やかな所へ行きたくなつたのです。雨はやつと歇《あが》つたやうですが、空はまだ冷たい鉛《なまり》のやうに重く見えたので、私は用心のため、蛇《じや》の目《め》を肩に擔《かつ》いで、砲兵工廠《はうへいこうしやう》の裏手の土塀について東へ坂を下《お》りました。其時分はまだ道路の改正が出來ない頃なので、坂の勾配《こうばい》が今よりもずつと急でした。道幅も狹くて、あゝ眞直ではなかつたのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞《ふさ》がつてゐるのと、放水《みづはき》がよくないのとで、往來《わうらい》はどろ/\でした。ことに細い石橋を渡つて柳町《やなぎちやう》の通りへ出る間《あひだ》が非道《ひど》かつたのです。足駄でも長靴でも無暗《むやみ》に歩く譯には行きません。誰でも路の眞中《まんなか》に自然と細長く泥が掻き分けられた所を、後生大事《ごしやうだいじ》に辿《たど》つて行《ゆ》かなければならないのです。其幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往來に敷いてある帶の上を踏んで向《むかふ》へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になつてそろ/\通り拔けます。私は此細帶の上で、はたりとKに出合ひました。足の方にばかり氣を取られてゐた私は、彼と向き合ふ迄、彼の存在に丸《まる》で氣が付かずにゐたのです。私は不意に自分の前が塞《ふさ》がつたので偶然眼を上げた時、始めて其所に立つてゐるKを認めたのです。私はKに何處へ行つたのかと聞きました。Kは一寸《ちよつと》其所迄と云つたぎりでした。彼の答へは何時《いつ》もの通りふんといふ調子でした。Kと私は細い帶の上で身體を替《かは》せました。するとKのすぐ後《うしろ》に一人の苦い女が立つてゐるのが見えました。近眼《きんがん》の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣《や》り越《こ》した後《あと》で、其女の顔を見ると、それが宅《うち》の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪《そくはつ》は今と違つて廂《ひさし》が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方《どつち》か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろ/\の中へ片足踏ん込《ご》みました。さうして比較的通り易い所を空《あ》けて、御孃さんを渡して遣りました。
 それから柳町の通りへ出た私《わたくし》は何處へ行つて好《い》いか自分にも分らなくなりました。何處へ行つても面白くないやうな心持がするのです。私は飛泥《はね》の上がるのも構はずに、糠《ぬか》る海《み》の中を自暴《やけ》にどし/\歩きました。それから直ぐ宅《うち》へ歸つて來ました。
 
     三十四
 
 「私《わたくし》はKに向つて御孃さんと一所に出たのかと聞きました。Kは左右《さう》ではないと答へました。眞砂町《まさごちやう》で偶然|出會《であ》つたから連れ立つて歸つて來たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入つた質問を控えなければなりませんでした。然し食事の時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました。すると御孃さんは私の嫌《きらひ》な例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中《あ》てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持《かんしやくもち》でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其所に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奧さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其所の區別が一寸《ちよつと》判然しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方《はう》でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌《きらひ》な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其|嫌《きらひ》な所は、Kが宅《うち》へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに對する私の嫉妬《しつと》に歸《き》して可《い》いものか、又は私に對する御孃さんの技巧《ぎかう》と見傚《みな》して然るべきものか、一寸|分別《ふんべつ》に迷ひました。私は今でも決して其時の私の嫉妬心《しつとしん》を打ち消す氣はありません。私はたび/\繰り返した通り、愛の裏面に此感情の働きを明《あき》らかに意識してゐたのですから。しかも傍《はた》のものから見ると、殆んど取るに足りない瑣事《さじ》に、此感情が屹度首を持ち上げたがるのでしたから。是は餘事ですが、かういふ嫉妬は愛の半面ぢやないでせうか。私は結婚してから、此感情がだん/\薄らいで行くのを自覺しました。其代り愛情の方も決して元のやうに猛烈ではないのです。私《わたくし》はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思《ひとおも》ひに相手の胸へ擲《たゝ》き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御孃さんではありません、奧さんの事です。奧さんに御孃さんを呉れろと明白な談判を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日《いちにち》/\と私は斷行の日を延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます、又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。kの來ないうちは、他《ひと》の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑え付けて、一歩も動けないやうにしてゐました。Kの來た後《のち》は、もしかすると御孃さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絶えず私を制するやうになつたのです。果して御孃さんが私よりもKに心を傾《かた》むけてゐるならば、此戀は口へ云ひ出す價値《かち》のないものと私は決心してゐたのです。耻を掻かせられるのが辛《つら》いなどゝ云ふのとは少し譯が違《ちがひ》ます。此方《こつち》でいくら思つても、向ふが内心|他《ほか》の人に愛の眼《まなこ》を注《そゝ》いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應《いやおう》なしに自分の好いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘《よ》つ程《ぽど》世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物《どんぶつ》のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何《ど》うか斯うか落ち付くものだ位の哲理では、承知する事が出來ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠《うゑん》な愛の實際家だつたのです。
 肝心《かんじん》の御孃さんに、直接|此《この》私《わたくし》といふものを打ち明ける機會も、長く一所にゐるうちには時々出て來たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、さういふ事は許されてゐないのだといふ自覺が、其頃の私には強くありました。然し決してそれ許《ばかり》が私を束縛したとは云へません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に氣兼なく自分の思つた通りを遠慮せずに口にする丈《だけ》の勇氣に乏しいものと私は見込んでゐたのです。
 
     三十五
 
 「斯んな譯で私《わたくし》はどちらの方面へ向つても進む事が出來ずに立ち辣《すく》んでゐました。身體《からだ》の惡い時に午睡《ひるね》などをすると、眼だけ覺めて周圍のものが判然《はつきり》見えるのに、何《ど》うしても手足の動かせない場合がありませう。私は時としてあゝいふ苦しみを人知れず感じたのです。
 其《その》内《うち》年が暮れて春になりました。ある日奧さんがKに歌留多《かるた》を遣るから誰か友達を連れて來ないかと云つた事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答へたので、奧さんは驚ろいてしまひました。成程Kに友達といふ程の友達は一人もなかつたのです。往來で會つた時挨拶をする位のものは多少ありましたが、それ等だつて決して歌留多《かるた》などを取る柄《がら》ではなかつたのです。奧さんはそれぢや私《わたくし》の知つたものでも呼んで來たら何《ど》うかと云ひ直しましたが、私も生憎《あいにく》そんな陽氣な遊びをする心持になれないので、好い加減な生返事《なまへんじ》をしたなり、打ち遣つて置きました。所が晩になつてKと私はとう/\御孃さんに引つ張り出されてしまひました。客も誰も來ないのに、内々《うち/\》の小人數《こにんず》丈《だけ》で取らうといふ歌留多《かるた》ですから頗る靜なものでした。其上斯ういふ遊技を遣り付けないKは、丸《まる》で懷手《ふところで》をしてゐる人と同樣でした。私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました。Kは能く知らないと答へました。私の言葉を聞いた御孃さんは、大方《おほかた》Kを輕蔑するとでも取つたのでせう。それから眼に立つやうにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆んど組になつて私に當《あた》るといふ有樣になつて來ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつたのです。幸ひにKの態度は少しも最初と變りませんでした。彼の何處にも得意らしい樣子を認めなかつた私は、無事に其場を切り上げる事が出來ました。
 それから二三日|經《た》つた後《のち》の事でしたらう、奧さんと御孃さんは朝から市《いち》ケ谷《や》にゐる親類の所へ行くと云つて宅《うち》を出ました。Kも私《わたくし》もまだ學校の始まらない頃でしたから、留守居《るすゐ》同樣あとに殘つてゐました。私は書物を讀むのも散歩に出るのも厭だつたので、たゞ漠然と火鉢の縁《ふち》に肱《ひぢ》を載せて凝《ぢつ》と顋《あご》を支へたなり考へてゐました。隣の室《へや》にゐるKも一向《いつかう》音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位靜でした。尤も斯ういふ事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかつたのですから、私は別段それを氣にも留めませんでした。
 十時頃になつて、Kは不意に仕切《しきり》の襖《ふすま》を開けて私《わたくし》と顔を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました。私はもとより何も考へてゐなかつたのです。もし考へてゐたとすれば、何時《いつ》もの通り御孃さんが問題だつたかも知れません。其御孃さんには無論奧さんも食つ付いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中《なか》をぐる/\回《めぐ》つて、此間題を複雜にしてゐるのです。Kと顔を見合せた私は、今迄朧氣に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右《さう》と答へる譯に行かなかつたのです。私は依然として彼の顔を見て黙つてゐました。するとKの方からつか/\と私の座敷へ入《はい》つて來て、私のあたつてゐる火鉢の前に坐りました。私はすぐ兩肱を火鉢の縁から取り除《の》けて、心持それをKの方へ押し遣るやうにしました。
 Kは何時《いつ》もに似合はない話を始めました。奧さんと御孃さんは市ケ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私《わたくし》は大方《おほかた》叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと教へて遣りました。すると女の年始は大抵十五日|過《すぎ》だのに、何故《なぜ》そんなに早く出掛けたのだらうと質問するのです。私は何故《なぜ》だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。
 
     三十六
 
 「Kは中々奧さんと御孃さんの話を已《や》めませんでした。仕舞には私《わたくし》も答へられないやうな立ち入つた事迄聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思ひ出すと、私は何《ど》うしても彼の調子の變つてゐる所に氣が付かずにはゐられないのです。私はとう/\何故《なぜ》今日《けふ》に限つてそんな事ばかり云ふのかと彼に尋ねました。其時彼は突然黙りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫《ふる》へるやうに動いてゐるのを注視しました。彼は元來無口な男でした。平生から何か云はうとすると、云ふ前に能《よ》く口のあたりをもぐ/\させる癖がありました。彼《かれ》の脣がわざと彼《かれ》の意志に反抗するやうに容易《たやす》く開《あ》かない所に、彼の言葉の重みも籠《こも》つてゐたのでせう。一旦《いつたん》聲が口を破つて出るとなると、其聲には普通の人よりも倍の強い力がありました。
 彼の口元を一寸《ちよつと》眺めた時、私《わたくし》はまた何か出て來るなとすぐ疳付《かんづ》いたのですが、それが果《はた》して何の準備なのか、私の豫覺は丸《まる》でなかつたのです。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切《せつ》ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒《まはふぼう》のために一度に化石《くわせき》されたやうなものです。口をもぐ/\させる働《はたらき》さへ、私にはなくなつて仕舞つたのです。
 其時の私《わたくし》は恐ろしさの塊《かたま》りと云ひませうか、又は苦しさの塊《かたま》りと云ひませうか、何しろ一つの塊《かたま》りでした。石か鐵のやうに頭から足の先までが急に固くなつたのです。呼吸をする彈力性さへ失《うしな》はれた位に堅くなつたのです。幸ひな事に其状態は長く續きませんでした。私は一瞬問の後《のち》に、また人間らしい氣分を取り戻しました。さうして、すぐ失策《しま》つたと思ひました。先《せん》を越されたなと思ひました。
 然し其《その》先《さき》を何《ど》うしやうといふ分別《ふんべつ》は丸《まる》で起《おこ》りません。恐らく起る丈《だけ》の餘裕《よゆう》がなかつたのでせう。私《わたくし》は腋の下から出る氣味のわるい汗が襯衣《しやつ》に滲《し》み透《とほ》るのを凝《ぢつ》と我慢して動かずにゐました。Kは其《その》間《あひだ》何時《いつ》もの通り重い口を切つては、ぽつり/\と自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくつて堪りませんでした。恐らく其苦しさは、大きな廣告のやうに、私の顔の上に判然《はつき》りした字で貼《は》り付けられてあつたらうと私は思ふのです。いくらKでも其所に氣の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中してゐるから、私の表情などに注意する暇《ひま》がなかつたのでせう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫《つら》ぬいてゐました。重くて鈍《のろ》い代りに、とても容易な事では動かせないといふ感じを私に與へたのです。私の心は半分其自白を聞いてゐながら、半分|何《ど》うしやう/\といふ念に絶えず掻き亂されてゐましたから、細《こま》かい點になると殆んど耳へ入《はい》らないと同樣でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前《まへ》いつた苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるやうになつたのです。つまり相手は自分より強いのだといふ恐怖の念が萌《きざ》し始めたのです。
 Kの話が一通り濟んだ時、私《わたくし》は何とも云ふ事が出來ませんでした。此方《こつち》も彼の前に同じ意味の自白をしたものだらうか、夫《それ》とも打ち明けずにゐる方が得策だらうか、私はそんな利害を考へて黙つてゐたのではありません。たゞ何事も云へなかつたのです。又云ふ氣にもならなかつたのです。
 午食《ひるめし》の時、Kと私《わたくし》は向ひ合せに席を占めました。下女に給仕をして貰つて、私はいつにない不味《まづ》い飯を濟ませました。二人は食事中も殆んど口を利きませんでした。奧さんと御孃さんは何時《いつ》歸るのだか分りませんでした。
 
     三十七
 
 「二人は各自《めい/\》の室《へや》に引き取つたぎり顔を合はせませんでした。Kの靜かな事は朝と同じでした。私《わたくし》も凝《ぢつ》と考へ込んでゐました。
 私《わたくし》は當然自分の心をKに打ち明けるべき筈だと思ひました。然しそれにはもう時機が後《おく》れてしまつたといふ氣も起りました。何故《なぜ》先刻《さつき》Kの言葉を遮ぎつて、此方《こつち》から逆襲しなかつたのか、其所が非常な手落《てぬか》りのやうに見えて來ました。責めてKの後《あと》に續いて、自分は自分の思ふ通りを其場で話して仕舞つたら、まだ好かつたらうにとも考へました。Kの自白に一段落が付いた今となつて、此方《こつち》から又同じ事を切り出すのは、何《ど》う思案しても變でした。私は此不自然に打ち勝つ方法を知らなかつたのです。私の頭は悔恨に搖《ゆ》られてぐら/\しました。
 私《わたくし》はKが再び仕切《しきり》の襖《ふすま》を開けて向ふから突進してきて呉れゝば好《い》いと思ひました。私に云はせれば、先刻《さつき》は丸《まる》で不意撃《ふいうち》に會《あ》つたも同じでした。私にはKに應ずる準備も何もなかつたのです。私は午前に失《うし》なつたものを、今度は取り戻さうといふ下心《したごゝろ》を持つてゐました。それで時々眼を上げて、襖《ふすま》を眺めました。然し其|襖《ふすま》は何時《いつ》迄|經《た》つても開《あ》きません。さうしてKは永久に靜なのです。
 其内|私《わたくし》の頭は段々此靜かさに掻き亂されるやうになつて來ました。Kは今|襖《ふすま》の向《むかふ》で何を考へてゐるだらうと思ふと、それが氣になつて堪《たま》らないのです。不斷も斯んな風に御互が仕切《しきり》一枚を間に置いて黙り合つてゐる場合は始終あつたのですが、私はKが靜であればある程、彼の存在を忘れるのが普通の状態だつたのですから、其時の私は餘程調子が狂つてゐたものと見なければなりません。それでゐて私は此方《こつち》から進んで襖《ふすま》を開ける事が出來なかつたのです。一旦《いつたん》云ひそびれた私は、また向ふから働らき掛けられる時機を待つより外に仕方がなかつたのです。
 仕舞に私《わたくし》は凝《ぢつ》として居《を》られなくなりました。無理に凝《ぢつ》としでゐれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私は仕方なしに立つて縁側へ出ました。其所から茶の間へ來て、何といふ目的もなく、鐵瓶の湯を湯呑《ゆのみ》に注《つ》いで一杯呑みました。それから玄關へ出ました。私はわざとKの室《へや》を回避するやうにして、斯んな風に自分を往來の眞中《まんなか》に見出したのです。私には無論何處へ行くといふ的《あて》もありません。たゞ凝《ぢつ》としてゐられない丈《だけ》でした。それで方角も何も構はずに、正月の町を、無暗に歩き廻つたのです。私の頭はいくら歩いてもKの事で一杯になつてゐました。私もKを振《ふる》ひ落《おと》す氣で歩き廻る譯ではなかつたのです。寧ろ自分から進んで彼の姿を咀嚼《そしやく》しながらうろついて居たのです。
 私《わたくし》には第一に彼が解《かい》しがたい男のやうに見えました。何《ど》うしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又|何《ど》うして打ち明けなければゐられない程に、彼の戀が募《つの》つて來たのか、さうして平生の彼は何處に吹き飛ばされてしまつたのか、凡《すべ》て私には解《かい》しにくい問題でした。私は彼の強い事を知つてゐました。又彼の眞面目な事を知つてゐました。私は是から私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有《も》つてゐると信じました。同時に是からさき彼を相手にするのが變に氣味が惡かつたのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の室《へや》に凝《ぢつ》と坐つてゐる彼の容貌を始終眼の前に描《ゑが》き出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かす事は到底出來ないのだといふ聲が何處かで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のやうに思へたからでせう。私は永久彼に祟《たゝ》られたのではなからうかといふ氣さへしました。
 私《わたくし》が疲れて宅《うち》へ歸つた時、彼の室《へや》は依然として人氣《ひとけ》のないやうに靜でした。
 
     三十八
 
 「私《わたくし》が家《うち》へ這入《はい》ると間もなく俥《くるま》の音が聞こえました。今のやうに護謨輪《ごむわ》のない時分でしたから、がら/\いふ厭《いや》な響が可《か》なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。
 私《わたくし》が夕飯《ゆふめし》に呼び出されたのは、それから三十分ばかり經《た》つた後《あと》の事でしたが、まだ奧さんと御孃さんの晴着《はれぎ》が脱ぎ棄てられた儘、次の室《へや》を亂雜に彩《いろ》どつてゐました。二人は遲くなると私達に濟まないといふので、飯の支度に間に合ふように、急いで歸つて來たのださうです。然し奧さんの親切はKと私とに取つて殆んど無效も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のやうに、素氣《そつけ》ない挨拶ばかりしてゐました。Kは私よりも猶|寡言《くわげん》でした。たまに親子連《おやこづれ》で外出《ぐわいしゆつ》した女二人の氣分が、また平生よりは勝《すぐ》れて晴やかだつたので、我々の熊度は猶《なほ》の事《こと》眼に付きます。奧さんは私に何《ど》うかしたのかと聞きました。私は少し心持が惡いと答へました。實際私は心持が惡かつたのです。すると今度は御孃さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のやうに心持が惡いとは答へません。たゞ口が利きたくないからだと云ひました。御孃さんは何故《なぜ》口が利きたくないのかと追窮しました。私は其時ふと重たい瞼《まぶた》を上げてKの顔を見ました。私にはKが何と答へるだらうかといふ好奇心があつたのです。Kの脣は例のやうに少し顫《ふる》へてゐました。それが知らない人から見ると、丸《まる》で返事に迷つてゐるとしか思はれないのです。御孃さんは笑ひながら又何か六《む》づかしい事を考へてゐるのだらうと云ひました。Kの顔は心持|薄赤《うすあか》くなりました。
 其晩|私《わたくし》は何時《いつ》もより早く床へ入《はい》りました。私が食事の時氣分が惡いと云つたのを氣にして、奧さんは十時頃|蕎麥湯《そばゆ》を持つて來て呉れました。然し私の室《へや》はもう眞暗《まつくら》でした。奧さんはおや/\と云つて、仕切りの襖《ふすま》を細目に開けました。洋燈《ランプ》の光がKの机から斜《なゝめ》にぼんやりと私の室《へや》に差し込みました。Kはまだ起きてゐたものと見えます。奧さんは枕元に坐つて、大方|風邪《かぜ》を引いたのだらうから身體を暖《あつ》ためるが可《い》いと云つて、湯呑を顔の傍《そば》へ突き付けるのです。私は已《やむ》を得ず、どろ/\した蕎麥湯《そばゆ》を奧さんの見てゐる前で飲みました。
 私《わたくし》は遲くなる迄暗いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈《だけ》で、外に何の效力もなかつたのです。私は突然Kが今隣りの室《へや》で何をしてゐるだらうと思ひ出しました。私は半《なか》ば無意識においと聲を掛けました。すると向ふでもおいと返事をしました。Kもまだ起きてゐたのです。私はまだ寐ないのかと襖《ふすま》ごしに聞きました。もう寐るといふ簡單な挨拶がありました。何をしてゐるのだと私は重ねて問ひました。今度はKの答がありません。其代り五六分|經《た》つたと思ふ頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るやうに聞こえました。私はもう何時《なんじ》かと又尋ねました。Kは一時二十分だと答へました。やがて洋燈《ランプ》をふつと吹き消す音がして、家中《うちぢゆう》が眞暗なうちにしんと靜まりました。
 然し私《わたくし》の眼は其暗いなかで愈《いよ/\》冴《さ》えて來るばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに聲を掛けました。Kも以前と同じやうな調子で、おいと答へました。私は今朝彼から聞いた事に就いて、もつと詳しい話をしたいが、彼の都合は何《ど》うだと、とう/\此方《こつち》から切り出しました。私は無論|襖越《ふすまごし》にそんな談話を交換する氣はなかつたのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考へたのです。所がKは先刻《さつき》から二度おいと呼ばれて、二度おいと答へたやうな素直な調子で、今度は應じません。左右《さう》だなあと低い聲で澁《しぶ》つてゐます。私は又はつと思はせられました。
 
     三十九
 
 「Kの生返事《なまへんじ》は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に觸れようとする氣色《けしき》を決して見せませんでした。尤も機會もなかつたのです。奧さんと御孃さんが揃つて一日|宅《うち》を空《あ》けでもしなければ、二人はゆつくり落付いて、左右《さう》いふ事を話し合ふ譯にも行かないのですから。私《わたくし》はそれを能《よ》く心得てゐました。心得てゐながら、變にいら/\し出すのです。其結果始めは向ふから來るのを待つ積《つもり》で、暗《あん》に用意をしてゐた私が、折があつたら此方《こつち》で口を切らうと決心するやうになつたのです。
 同時に私《わたくし》は黙つて家《うち》のものゝ樣子を觀察して見ました。然し奧さんの態度にも御孃さんの素振《そぶり》にも、別に平生《へいぜい》と變つた點はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼等の擧動に是といふ差違が生じないならば、彼の自白は單に私|丈《だけ》に限られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奧さんにも、まだ通じてゐないのは慥《たしか》でした。さう考へた時私は少し安心しました。それで無理に機會を拵《こしら》えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の與へて呉れるものを取り逃《にが》さないやうにする方が好からうと思つて、例の問題にはしばらく手を着《つ》けずにそつとして置く事にしました。
 斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえますが、さうした心の經過には、潮《しほ》の滿干《みちひ》と同じやうに、色々の高低《たかびく》があつたのです。私《わたくし》はKの動かない樣子を見て、それにさま/”\の意味を付け加へました。奧さんと御孃さんの言語動作《げんごどうさ》を觀察して、二人の心が果《はた》して其所に現はれてゐる通なのだらうかと疑つても見ました。さうして人間の胸の中《なか》に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指《さ》し得るものだらうかと考へました。要するに私は同じ事を斯うも取り、彼《あ》あも取りした揚句《あげく》、漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。更に六《む》づかしく云へば、落ち付くなどゝいふ言葉は、此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません。
 其《その》内《うち》學校がまた始まりました。私達《わたくしたち》は時間の同じ日には連れ立《だ》つて宅《うち》を出ます。都合が可《よ》ければ歸る時にも矢張り一所に歸りました。外部から見たKと私は、何にも前と違つた所がないやうに親しくなつたのです。けれども腹の中《なか》では、各自《てん/”\》に各自《てん/”\》の事を勝手に考へてゐたに違ありません。ある日私は突然往來でKに肉薄《にくはく》しました。私が第一に聞いたのは、此間の自白が私|丈《だけ》に限られてゐるか、又は奧さんや御孃さんにも通じてゐるかの點にあつたのです。私の是から取るべき熊度は、此問に對する彼の答次第で極めなければならないと、私は思つたのです。すると彼は外《ほか》の人にはまだ誰にも打ち明けてゐないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだつたので、内心嬉しがりました。私はKの私より横着なのを能く知つてゐました。彼の度胸にも敵《かな》はないといふ自覺があつたのです。けれども一方では又妙に彼を信じてゐました。學資の事で養家を三年も欺《あざ》むいてゐた彼ですけれども、彼の信用は私に對して少しも損《そこな》はれてゐなかつたのです。私はそれがために却つて彼を信じ出した位です。だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中《なか》で否定する氣は起《おこ》りやうがなかつたのです。
 私《わたくし》は又彼に向つて、彼の戀を何《ど》う取り扱かふ積《つもり》かと尋ねました。それが單なる自白に過ぎないのか、又は其自白についで、實際的の效果をも収《をさ》める氣なのかと問ふたのです。然るに彼は其所になると、何にも答へません。黙つて下を向いて歩き出します。私は彼に隱《かく》し立《だて》をして呉れるな、凡《すべ》て思つた通りを話して呉れと頼みました。彼は何も私に隱す必要はないと判然《はつきり》斷言しました。然し私の知らうとする點には、一言《いちごん》の返事も與へないのです。私も往來だからわざ/\立ち留《ど》まつて底迄突き留める譯に行きません。ついそれなりに爲《し》てしまひました。
 
     四十
 
 「ある日|私《わたくし》は久し振に學校の圖書館に入《はい》りました。私は廣い机の片隅で窓から射《さ》す光線を半身に受けながら、新着の外國雜誌を、あちら此方《こちら》と引繰《ひつく》り返して見てゐました。私は擔任教師《たんにんけうし》から專攻の學科に關して、次の週までにある事項を調べて來いと命ぜられたのです。然し私に必要な事柄が中々見付からないので、私は二度も三度も雜誌を借り替へなければなりませんでした。最後に私はやつと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを讀み出しました。すると突然幅の廣い机の向ふ側から小《ちひ》さな聲で私の名を呼ぶものがあります。私は不圖《ふと》眼を上げて其所に立つてゐるKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲《まげ》るやうにして彼の顔を私に近付けました。御承知の通り圖書館では他《ほか》の人の邪魔になるやうな大きな聲で話をする譯に行かないのですから、Kの此|所作《しよさ》は誰でも遣る普通の事なのですが、私は其時に限つて、一種變な心持がしました。
 Kは低い聲で勉強かと聞きました。私《わたくし》は一寸調べものがあるのだと答へました。それでもKはまだ其顔を私から放しません。同じ低い調子で一所に散歩をしないかといふのです。私は少し待つてゐれば爲《し》ても可《い》いと答へました。彼は待つてゐると云つた儘、すぐ私の前の空席に腰を卸《おろ》しました。すると私は氣が散つて急に雜誌が讀めなくなりました。何だかKの胸に一物《いちもつ》があつて、談判でもしに來られたやうに思はれて仕方がないのです。私は已《やむ》を得ず讀みかけた雜誌を伏せて、立ち上がらうとしました。Kは落付き拂つてもう濟んだのかと聞きます。私は何《ど》うでも可《い》いのだと答へて、雜誌を返すと共に、Kと圖書館を出ました。
 二人は別に行く所もなかつたので、龍岡町《たつをかちやう》から池《いけ》の端《はた》へ出て、上野《うへの》の公園《こうゑん》の中へ入《はい》りました。其時彼は例の事件について、突然向ふから口を切りました。前後の樣子を綜合《そうがふ》して考へると、Kはそのために私《わたくし》をわざ/\散歩に引《ひ》つ張《ぱり》出したらしいのです。けれども彼の態度はまだ實際的の方面へ向つてちつとも進んでゐませんでした。彼は私に向つて、たゞ漠然《ばくぜん》と、何《ど》う思ふと云ふのです。何う思ふといふのは、さうした戀愛の淵《ふち》に陷《おち》いつた彼を、何《ど》んな眼で私が眺めるかといふ質問なのです。一言《いちごん》でいふと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたい樣なのです。其所に私は彼の平生《へいぜい》と異《こと》なる點を確かに認める事が出來たと思ひました。度々《たび/\》繰り返すやうですが、彼の天性は他《ひと》の思《おも》はくを憚《はゞ》かる程弱く出來上つてはゐなかつたのです。斯うと信じたら一人でどん/\進んで行く丈《だけ》の度胸もあり勇氣もある男なのです。養家事件で其特色を強く胸の裏《うち》に彫《ほ》り付けられた私が、是は樣子が違ふと明らかに意識したのは當然の結果なのです。
 私《わたくし》がKに向つて、此際|何《な》んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼は何時《いつ》もにも似ない悄然《せうぜん》とした口調で自分の弱い人間であるのが實際|耻《は》づかしいと云ひました。さうして迷つてゐるから自分で自分が分らなくなつてしまつたので、私に公平な批評を求めるより外《ほか》に仕方がないと云ひました。私は隙《す》かさず迷《まよ》ふといふ意味を聞き糺《たゞ》しました。彼は進んで可《い》いか退《しり》ぞいて可《い》いか、それに迷ふのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。さうして退《しり》ぞかうと思へば退《しり》ぞけるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉が其所で不意に行き詰《つま》りました。彼はたゞ苦しいと云つた丈《だけ》でした。實際彼の表情には苦しさうな所があり/\と見えてゐました。もし相手が御孃さんでなかつたならば、私は何《ど》んなに彼に都合の好《い》い返事を、その渇《かわ》き切つた顔の上に慈雨《じう》の如く注《そゝ》いで遣つたか分りません。私はその位の美くしい同情を有《も》つて生れて來た人間と自分ながら信じてゐます。然し其時の私は違つてゐました。
 
     四十一
 
 「私《わたくし》は丁度|他流試合《たりうじあひ》でもする人のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼、私の心、私の身體《からだ》、すべて私といふ名の付くものを五|分《ぶ》の隙間《すきま》もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪のないKは穴だらけといふより寧ろ明け放しと評するのが適當な位に無用心《ぶようじん》でした。私は彼自身の手から、彼の保管してゐる要塞の地圖を受取つて、彼の眼の前でゆつくりそれを眺める事が出來たも同じでした。
 Kが理想と現實の問《あひだ》に彷徨《はうくわう》してふら/\してゐるのを發見した私《わたくし》は、たゞ一打《ひとうち》で彼を倒す事が出來るだらうといふ點にばかり眼を着けました。さうしてすぐ彼の虚《きよ》に付け込んだのです。私は彼に向つて急に嚴肅な改《あら》たまつた態度を示し出しました。無論|策略《さくりやく》からですが、其態度に相應する位な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽《こつけい》だの羞耻《しうち》だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先づ『精神的に向上心《かうじやうしん》のないものは馬鹿だ』と云ひ放《はな》ちました。是は二人で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使つた言葉です。私は彼の使つた通りを、彼と同じやうな口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讐《ふくしう》ではありません。私は復讐《ふくしう》以上に殘酷な意味を有《も》つてゐたといふ事を自白します。私は其|一言《いちごん》でKの前に横たはる戀の行手《ゆくて》を塞《ふさ》がうとしたのです。
 Kは眞宗寺《しんしゆうでら》に生れた男でした。然し彼の傾向は中學時代から決して生家《せいか》の宗旨に近いものではなかつたのです。教義上の區別をよく知らない私《わたくし》が、斯んな事をいふ資格に乏しいのは承知してゐますが、私はたゞ男女《なんによ》に關係した點についてのみ、さう認めてゐたのです。Kは昔《むか》しから精進《しやうじん》といふ言葉が好《すき》でした。私は其言葉の中に、禁慾《きんよく》といふ意味も籠《こも》つてゐるのだらうと解釋してゐました。然し後《あと》で實際を聞いて見ると、それよりもまだ嚴重な意味が含まれてゐるので、私は驚ろきました。道のためには凡《すべ》てを犠牲にすべきものだと云ふのが彼の第一信條なのですから、攝慾や禁慾は無論、たとひ慾を離れた戀そのものでも道の妨害《さまたげ》になるのです。Kが自活生活をしてゐる時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。其頃から御孃さんを思つてゐた私は、勢《いきほ》ひ何《ど》うしても彼に反對しなければならなかつたのです。私が反對すると、彼は何時《いつ》でも氣の毒さうな顔をしました。其所には同情よりも侮蔑の方が餘計に現はれてゐました。
 斯ういふ過去を二人の間に通り拔けて來てゐるのですから、精神的に向上心《かうじやうしん》のないものは馬鹿だといふ言葉は、Kに取つて痛いに違いなかつたのです。然し前にも云つた通り、私《わたくし》は此|一言《いちごん》で、彼が折角積み上げた過去を蹴散《けち》らした積《つもり》ではありません。却つてそれを今迄通り積み重ねて行かせやうとしたのです。それが道に達しやうが、天に屆かうが、私は構ひません。私はたゞKが急に生活の方向を轉換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は單なる利己心の發現でした。
 『精神的に向上心《かうじやうしん》のないものは、馬鹿だ』
 私《わたくし》は二度同じ言葉を繰り返しました。さうして、其言葉がKの上に何《ど》う影響するかを見詰めてゐました。
 『馬鹿だ』とやがてKが答へました。『僕は馬鹿だ』
 Kはぴたりと其所へ立ち留《どま》つた儘動きません。彼は地面の上を見詰めてゐます。私《わたくし》は思はずぎよつとしました。私にはKが其|刹那《せつな》に居直《ゐなほ》り強盗《がうたう》の如く感ぜられたのです。然しそれにしては彼の聲が如何にも力に乏しいといふ事に氣が付きました。私は彼の眼遣《めづかひ》を參考にしたかつたのですが、彼は最後迄私の顔を見ないのです。さうして、徐々《そろ/\》と又歩き出しました。
 
     四十二
 
 「私《わたくし》はKと並《なら》んで足を運《はこ》ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中《なか》で暗《あん》に待ち受けました。或は待《ま》ち伏《ぶ》せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙《だま》し打ちにしても構はない位に思つてゐたのです。然し私にも教育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍《そば》へ來て、御前は卑怯だと一言《ひとこと》私語《さゝや》いて呉れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面《せきめん》したでせう。たゞKは私を窘《たしな》めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其所に敬意を拂ふ事を忘れて、却つて其所に付け込んだのです。其所を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。
 Kはしばらくして、私《わたくし》の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留《と》めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向《まむき》に見る事が出來たのです。Kは私より脊《せい》の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顔を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした熊度で、狼《おほかみ》の如き心を罪のない羊に向けたのです。
 『もう其話は止《や》めやう』と彼が云ひました。彼の眼にも彼の言葉にも變に悲痛な所がありました。私《わたくし》は一寸《ちよつと》挨拶が出來なかつたのです。するとKは、『止《や》めて呉れ』と今度は頼むやうに云ひ直しました。私は其時彼に向つて殘酷な答を與へたのです。狼《おほかみ》が隙《すき》を見て羊の咽喉笛《のどぶえ》へ食《くら》ひ付くやうに。
 『止《や》めて呉れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もと/\君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止《や》めたければ、止《や》めても可《い》いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止《や》める丈《だけ》の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何《ど》うする積《つもり》なのか』
 私《わたくし》が斯う云つた時、脊《せい》の高い彼は自然と私の前に萎縮《ゐしゆく》して小《ちひ》さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頼る強情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平氣でゐられない質《たち》だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然『覺悟?』と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に『覺悟、――覺悟ならない事もない』と付け加へました。彼の調子は獨言《ひとりごと》のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖《あた》たかな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋《さび》しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味《あをみ》を失《うしな》つた杉の木立《こだち》の茶褐色《ちやかつしよく》が、薄黒《うすぐろ》い空の中に、梢《こずゑ》を並《なら》べて聳《そび》えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中《せなか》へ噛《かじ》り付いたやうな心持がしました。我々は夕暮の本郷臺《ほんがうだい》を急ぎ足でどし/\通り拔けて、又向ふの岡へ上《のぼ》るべく小石川の谷へ下りたのです。私《わたくし》は其頃になつて、漸やく外套《ぐわいたう》の下に體《たい》の温味《あたゝかみ》を感じ出した位です。
 急いだためでもありませうが、我々は歸り路には殆んど口を聞《き》きませんでした。宅《うち》へ歸つて食卓に向つた時、奧さんは何《ど》うして遲くなつたのかと尋ねました。私《わたくし》はKに誘はれて上野《うへの》へ行つたと答へました。奧さんは此寒いのにと云つて驚ろいた樣子を見せました。御孃さんは上野《うへの》に何があつたのかと聞きたがります。私は何もないが、たゞ散歩したのだといふ返事|丈《だけ》して置きました。平生《へいぜい》から無口《むくち》なKは、いつもより猶《なほ》黙つてゐました。奧さんが話しかけても、御孃さんが笑つても、碌《ろく》な挨拶はしませんでした。それから飯を呑み込むやうに掻き込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の室《へや》へ引き取りました。
 
     四十三
 
 「其頃は覺醒《かくせい》とか新らしい生活とかいふ文字《もんじ》のまだない時分でした。然しKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新らしい方角へ走り出さなかつたのは、現代人の考へが彼に缺けてゐたからではないのです。彼には投げ出す事の出來ない程|尊《たつ》とい過去があつたからです。彼はそのために今日《こんにち》迄生きて來たと云つても可《い》い位なのです。だからKが一直線に愛の目的物に向つて猛進しないと云つて、決して其愛の生温《なまぬる》い事を證據立てる譯には行きません。いくら熾烈《しれつ》な感情が燃えてゐても、彼は無暗《むやみ》に動けないのです。前後を忘れる程の衝動が起る機會を彼に與へない以上、Kは何《ど》うしても一寸踏み留《とゞ》まつて自分の過去を振り返らなければならなかつたのです。さうすると過去が指《さ》し示す路を今迄通り歩かなければならなくなるのです。其上彼には現代人の有《も》たない強情と我慢がありました。私《わたくし》は此双方の點に於て能く彼の心を見拔いてゐた積《つもり》なのです。
 上野から歸つた晩は、私《わたくし》に取つて比較的安靜な夜《よ》でした。私はKが室《へや》へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍《そば》に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳《かざ》した後《あと》、自分の室《へや》に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時|丈《だけ》は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有《も》つてゐたのです。
 私《わたくし》は程なく穩《おだ》やかな眠に落ちました。然し突然私の名を呼ぶ聲で眼を覺《さ》ましました。見ると、間の襖《ふすま》が二尺ばかり開《あ》いて、其所にKの黒い影が立つてゐます。さうして彼の室《へや》には宵《よひ》の通りまだ燈火《あかり》が點《つ》いてゐるのです。急に世界の變つた私は、少しの間《あひだ》口を利く事も出來ずに、ぼうつとして、其光景を眺めてゐました。
 其時Kはもう寐たのかと聞きました。Kは何時《いつ》でも遲く迄起きてゐる男でした。私《わたくし》は黒い影法師のやうなKに向つて、何か用かと聞き返しました。Kは大《たい》した用でもない、たゞもう寐たか、まだ起きてゐるかと思つて、便所へ行つた序《ついで》に聞いて見た丈《だけ》だと答へました。Kは洋燈《ランプ》の灯《ひ》を脊中《せなか》に受けてゐるので、彼の顔色《かほいろ》や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の聲は不斷よりも却つて落ち付いてゐた位でした。
 Kはやがて開けた襖《ふすま》をぴたりと立て切りました。私《わたくし》の室《へや》はすぐ元の暗闇《くらやみ》に歸りました。私は其|暗闇《くらやみ》より靜かな夢を見るべく又眼を閉《と》ぢました。私はそれぎり何も知りません。然し翌朝《よくあさ》になつて、昨夕《ゆうべ》の事を考へて見ると、何だか不思議でした。私はことによると、凡てが夢ではないかと思ひました。それで飯を食ふ時、Kに聞きました。Kはたしかに襖《ふすま》を開《あ》けて私の名を呼んだと云ひます。何故《なぜ》そんな事をしたのかと尋ねると、別に判然《はつきり》した返事もしません。調子の拔けた頃になつて、近頃は熟睡が出來るのかと却つて向ふから私に問ふのです。私は何だか變に感じました。
 其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅《うち》を出ました。今朝から昨夕《ゆうべ》の事が氣に掛つてゐる私《わたくし》は、途中でまたKを追窮《つゐきゆう》しました。けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません。私はあの事件に就いて何か話す積《つもり》ではなかつたのかと念を押して見ました。Kは左右《さう》ではないと強い調子で云ひ切りました。昨日《きのふ》上野で『其話はもう止《や》めよう』と云つたではないかと注意する如くにも聞こえました。Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有《も》つた男なのです。不圖《ふと》其所に氣のついた私は突然彼の用ひた『覺悟』といふ言葉を連想し出しました。すると今迄|丸《まる》で氣にならなかつた其二字が妙な力で私の頭を抑《おさ》え始めたのです。
 
     四十四
 
 「Kの果斷《くわだん》に富んだ性格は私《わたくし》によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしつかり攫《つら》まへた積《つもり》で得意だつたのです。所が『覺悟』といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼《そしやく》してゐるうちに、私の得意はだん/\色を失《うし》なつて、仕舞にはぐら/\搖《うご》き始めるやうになりました。私は此場合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡《すべ》ての疑惑《ぎわく》、煩悶《はんもん》、懊惱《あうなう》、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑《うた》ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若《も》し此驚きを以て、もう一|返《ぺん》彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可《よ》かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼《めつかち》でした。私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが即ち彼の覺悟だらうと一圖《いちづ》に思ひ込んでしまつたのです。
 私《わたくし》は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間《ま》に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極《き》めました。私は黙つて機會を覘《ねら》つてゐました。しかし二日《ふつか》經《た》つても三日《みつか》經《た》つても、私はそれを捕《つら》まへる事が出來ません。私はKのゐない時、又御孃さんの留守な折を待つて、奧さんに談判を開かうと考へたのです。然し片方がゐなければ、片方が邪魔をするといつた風《ふう》の日ばかり續いて、何《ど》うしても『今だ』と思ふ好都合が出て來て呉れないのです。私はいら/\しました。
 一週間の後《のち》私《わたくし》はとう/\堪《た》え切れなくなつて假病《けびやう》を遣ひました。奧さんからも御孃さんからも、K自身からも、起きろといふ催促を受けた私は、生返事《なまへんじ》をした丈《だけ》で、十時頃迄蒲團を被《かぶ》つて寐てゐました。私はKも御孃さんもゐなくなつて、家《いへ》の内《なか》がひつそり靜まつた頃を見計《みはから》つて寐床を出ました。私の顔を見た奧さんは、すぐ何處が惡いかと尋ねました。食物《たべもの》は枕元へ運んでやるから、もつと寐てゐたら可《よ》からうと忠告しても呉れました。身體《からだ》に異状のない私は、とても寐る氣にはなれません。顔を洗つて何時《いつ》もの通り茶の間で飯を食ひました。其時奧さんは長火鉢の向側《むかふがは》から給仕をして呉れたのです。私は朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片付かない茶椀を手に持つた儘、何《ど》んな風に問題を切り出したものだらうかと、そればかりに屈託《くつたく》してゐたから、外觀からは實際氣分の好くない病人らしく見えただらうと思ひます。
 私《わたくし》は飯を終《しま》つて烟草を吹《ふ》かし出しました。私が立たないので奧さんも火鉢の傍《そば》を離れる譯に行きません。下女を呼んで膳を下げさせた上、鐵瓶に水を注《さ》したり、火鉢の縁《ふち》を拭いたりして、私に調子を合はせてゐます。私は奧さんに特別な用事でもあるのかと問ひました。奧さんはいゝえと答へましたが、今度は向ふで何故《なぜ》ですと聞き返して來ました。私は實は少し話したい事があるのだと云ひました。奧さんは何ですかと云つて、私の顔を見ました。奧さんの調子は丸《まる》で私の氣分に這入《はい》り込めないやうな輕いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し澁《しぶ》りました。
 私《わたくし》は仕方なしに言葉の上で、好《い》い加減にうろつき廻つた末、Kが近頃何か云ひはしなかつたかと奧さんに聞いて見ました。奧さんは思ひも寄らないといふ風をして、『何を?』とまた反問して來ました。さうして私の答へる前に、『貴方には何か仰《おつし》やつたんですか』と却つて向《むかふ》で聞くのです。
 
     四十五
 
 「Kから聞かされた打ち明け話を、奧さんに傳へる氣のなかつた私《わたくし》は、『いゝえ』といつてしまつた後《あと》で、すぐ自分の嘘《うそ》を快《こゝろよ》からず感じました。仕方がないから、別段何も頼まれた覺《おぽえ》はないのだから、Kに關する用件ではないのだと云ひ直しました。奧さんは『左右《さう》ですか』と云つて、後《あと》を待つてゐます。私は何《ど》うしても切り出さなければならなくなりました。私は突然『奧さん、御孃さんを私に下さい』と云ひました。奧さんは私の豫期してかゝつた程《ほど》驚ろいた樣子も見せませんでしたが、それでも少時《しばらく》返事が出來なかつたものと見えて、黙つて私の顔を眺めてゐました。一度云ひ出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着《とんぢやく》などはしてゐられません。『下さい、是非《ぜひ》下さい』と云ひました。『私の妻《つま》として是非《ぜひ》下さい』と云ひました。奧さんは年を取つてゐる丈《だけ》に、私よりもずつと落付いてゐました。『上げてもいゝが、あんまり急ぢやありませんか』と聞くのです。私が『急に貰ひたいのだ』とすぐ答へたら笑ひ出しました。さうして『よく考へたのですか』と念を押すのです。私は云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然でないといふ譯を強い言葉で説明しました。
 それから未《ま》だ二つ三つの問答がありましたが、私《わたくし》はそれを忘れて仕舞ひました。男のやうに判然《はき/\》した所のある奧さんは、普通の女と違つて斯んな場合には大變心持よく話の出來る人でした。『宜《よ》ござんす、差し上げませう』と云ひました。『差し上げるなんて威張つた口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰つて下さい。御存じの通り父親のない隣れな子です』と後《あと》では向ふから頼みました。
 話は簡單でかつ明瞭に片付いてしまひました。最初から仕舞迄に恐らく十五分とは掛らなかつたでせう。奧さんは何の條件も持ち出さなかつたのです。親類に相談する必要もない、後《あと》から斷《ことわ》ればそれで澤山だと云ひました。本人の意嚮《いかう》さへたしかめるに及ばないと明言しました。そんな點になると、學問をした私《わたくし》の方が、却つて形式に拘泥《こうでい》する位に思はれたのです。親類は兎に角、當人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奧さんは『大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子を遣る筈がありませんから』と云ひました。
 自分の室《へや》へ歸つた私《わたくし》は、事のあまりに譯もなく進行したのを考へて、却つて變な氣特になりました。果《はた》して大丈夫なのだらうかといふ疑念さへ、どこからか頭の底に這ひ込んで來た位です。けれども大體の上に於て、私の未來の運命は、是で定《さだ》められたのだといふ觀念が私の凡《すべ》てを新たにしました。
 私《わたくし》は午頃《ひるごろ》又《また》茶の間へ出掛けて行つて、奧さんに、今朝の話を御孃さんに何時《いつ》通じてくれる積《つもり》かと尋ねました。奧さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何だか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奧さんが私を引き留めて、もし早い方が希望ならば、今日《けふ》でも可《い》い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。私はさうして貰ふ方が都合が好《い》いと答へて又自分の室《へや》に歸りました。然し黙つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被《かぶ》つて表へ出ました。さうして又坂の下で御孃さんに行き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脱《と》つて『今御歸り』と尋ねると、向ふではもう病氣は癒《なほ》つたのかと不思議さうに聞くのです。私は『えゝ癒りました、癒りました』と答へて、ずんずん水道橋《すゐだうばし》の方へ曲《まが》つてしまひました。
 
     四十六
 
 「私《わたくし》は猿樂町《さるがくちやう》から神保町《じんばうちやう》の通りへ出て、小川町《をがはまち》の方へ曲りました。私が此|界隈《かいわい》を歩くのは、何時《いつ》も古本屋《ふるほんや》をひやかすのが目的でしたが、其日は手摺《てずれ》のした書物などを眺める氣が、何《ど》うしても起《おこ》らないのです。私は歩きながら絶えず宅《うち》の事を考へてゐました。私には先刻《さつき》の奧さんの記憶がありました。夫《それ》から御孃さんが宅《うち》へ歸つてからの想像がありました。私はつまり此二つのもので歩かせられてゐた樣なものです。其上私は時々往來の眞中で我知らず不圖《ふと》立ち留まりました。さうして今頃は奧さんが御孃さんにもうあの話をしてゐる時分だらうなどと考へました。また或時は、もうあの話が濟んだ頃だとも思ひました。
 私《わたくし》はとう/\萬世橋《まんせいばし》を渡つて、明神《みやうじん》の坂《さか》を上《あが》つて、本郷臺《ほんがうだい》へ來て、夫《それ》から又|菊坂《きくざか》を下りて、仕舞に小石川《こいしかは》の谷《たに》へ下りたのです。私の歩いた距離は此三區に跨《また》がつて、いびつな圓《ゑん》を描《ゑが》いたとも云はれるでせうが、私は此長い散歩の間《あひだ》殆んどKの事を考へなかつたのです。今其時の私を回顧して、何故《なぜ》だと自分に聞いて見ても一向《いつかう》分りません。たゞ不思議に思ふ丈《だけ》です。私の心がKを忘れ得る位、一方に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかつたのですから。
 Kに對する私《わたくし》の良心が復活したのは、私が宅《うち》の格子《かうし》を開けて、玄關から坐敷へ通る時、即ち例のごとく彼の室《へや》を拔けやうとした瞬間でした。彼は何時《いつ》もの通り机に向つて書見をしてゐました。彼は何時《いつ》もの通り書物から眼を放して、私を見ました。然し彼は何時《いつ》もの通り今歸つたのかとは云ひませんでした。彼は『病氣はもう癒いのか、醫者へでも行つたのか』と聞きました。私は其|刹那《せつな》に、彼の前に手を突いて、詫《あや》まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時の衝動は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人|曠野《くわうや》の眞中にでも立つてゐたならば、私は屹度《きつと》良心の命令に從つて、其場で彼に謝罪したらうと思ひます。然し奧には人がゐます。私の自然はすぐ其所で食ひ留められてしまつたのです。さうして悲しい事に永久に復活しなかつたのです。
 夕飯《ゆふめし》の時Kと私《わたくし》はまた顔を合せました。何にも知らないKはたゞ沈んでゐた丈《だけ》で、少しも疑ひ深い眼を私に向けません。何にも知らない奧さんは何時《いつ》もより嬉しさうでした。私だけが凡《すべ》てを知つてゐたのです。私は鉛《なまり》のやうな飯を食ひました。其時御孃さんは何時《いつ》ものやうにみんなと同じ食卓に並《なら》びませんでした。奧さんが催促すると、次の室《へや》で只今と答へる丈《だけ》でした。それをKは不思議さうに聞いてゐました。仕舞に何《ど》うしたのかと奧さんに尋ねました。奧さんは大方《おほかた》極《きま》りが惡いのだらうと云つて、一寸《ちよつと》私の顔を見ました。Kは猶《なほ》不思議さうに、なんで極《きまり》が惡いのかと追窮《つゐきゆう》しに掛りました。奧さんは微笑しながら又私の顔を見るのです。
 私《わたくし》は食卓に着いた初《はじめ》から、奧さんの顔付で、事の成行《なりゆき》を略《ほゞ》推察してゐました。然しKに説明を與へるために、私のゐる前で、それを悉《こと/”\》く話されては堪《たま》らないと考へました。奧さんはまた其位の事を平氣でする女なのですから、私はひや/\したのです。幸《さいはひ》にKは又元の沈黙に歸りました。平生より多少機嫌のよかつた奧さんも、とう/\私の恐れを抱《いだ》いてゐる點までは話を進めずに仕舞ひました。私はほつと一息《ひといき》して室《へや》へ歸りました。然し私が是から先《さき》Kに對して取るべき態度は、何《ど》うしたものだらうか、私はそれを考へずにはゐられませんでした。私は色々の辯護を自分の胸で拵らえて見ました。けれども何《ど》の辯護もKに對して面《めん》と向ふには足りませんでした。卑怯な私は終《つひ》に自分で自分をKに説明するのが厭になつたのです。
 
     四十七
 
 「私《わたくし》は其儘二三日過ごしました。其二三日の間《あひだ》Kに對する絶えざる不安が私の胸を重くしてゐたのは云ふ迄もありません。私はたゞでさへ何とかしなければ、彼に濟まないと思つたのです。其上奧さんの調子や、御孃さんの態度が、始終私を突《つ》ツつくやうに刺戟するのですから、私は猶|辛《つら》かつたのです。何處か男らしい氣性を具へた奧さんは、何時《いつ》私の事を食卓でKに素《すつ》ぱ拔《ぬ》かないとも限りません。それ以來ことに目立つやうに思へた私に對する御孃さんの擧止動作《きよしどうさ》も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは斷言出來ません。私は何《なん》とかして、私と此家族との間《あひだ》に成り立つた新らしい關係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。然し倫理的に弱點をもつてゐると、自分で自分を認めてゐる私には、それがまた至難の事のやうに感ぜられたのです。
 私《わたくし》は仕方がないから、奧さんに頼んでKに改ためてさう云つて貰はうかと考へました。無論私のゐない時にです。然しありの儘を告げられては、直接と間接の區別がある丈《だけ》で、面目のないのに變りはありません。と云つて、拵《こしら》え事を話して貰はうとすれば、奧さんから其理由を詰問《きつもん》されるに極《きま》つてゐます。もし奧さんに總《すべ》ての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱點を自分の愛人と其母親の前に曝《さら》け出さなければなりません。眞面目な私には、それが私の未來の信用に關するとしか思はれなかつたのです。結婚する前から戀人の信用を失《うしな》ふのは、たとひ一分一厘でも、私には堪《た》え切れない不幸のやうに見えました。
 要《えう》するに私《わたくし》は正直な路を歩く積《つもり》で、つい足を滑《すべ》らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾《かうくわつ》な男でした。さうして其所に氣のついてゐるものは、今の所たゞ天と私の心だけだつたのです。然し立ち直つて、もう一歩前へ踏み出さうとするには、今滑つた事を是非共周圍の人に知られなければならない窮境《きゆうきやう》に陷《おち》いつたのです。私は飽《あ》くまで滑《すべ》つた事を隱したがりました。同時に、何《ど》うしても前へ出ずには居られなかつたのです。私は此間に挾《はさ》まつてまた立ち竦《すく》みました。
 五六日|經《た》つた後《のち》、奧さんは突然|私《わたくし》に向つて、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答へました。すると何故《なぜ》話さないのかと、奧さんが私を詰《なじ》るのです。私は此問の前に固くなりました。其時奧さんが私を驚ろかした言葉を、私は今でも忘れずに覺えてゐます。
 『道理で妾《わたし》が話したら變な顔をしてゐましたよ。貴方もよくないぢやありませんか、平生あんなに親しくしてゐる間柄だのに、黙つて知らん顔をしてゐるのは』
 私《わたくし》はKが其時何か云ひはしなかつたかと奧さんに聞きました。奧さんは別段何にも云はないと答へました。然し私は進んでもつと細《こま》かい事を尋ねずにはゐられませんでした。奧さんは固《もと》より何も隱す譯がありません。大した話もないがと云ひながら、一々Kの樣子を語つて聞かせて呉れました。
 奧さんの云ふ所を綜合《そうがふ》して考へて見ると、Kは此最後の打撃を、最も落付いた驚《おどろき》をもつて迎へたらしいのです。Kは御孃さんと私《わたくし》との間に結ばれた新らしい關係に就いて、最初は左右《さう》ですかとたゞ一口《ひとくち》云つた丈《だけ》だつたさうです。然し奧さんが、『あなたも喜こんで下さい』と述べた時、彼ははじめて奧さんの顔を見て微笑《びせう》を洩《も》らしながら、『御目出たう御座います』と云つた儘席を立つたさうです。さうして茶の間の障子を開ける前に、また奧さんを振り返つて、『結婚は何時《いつ》ですか』と聞いたさうです。それから『何かお祝ひを上げたいが、私《わたくし》は金がないから上げる事が出來ません』と云つたさうです。奧さんの前に坐つてゐた私は、其話を聞いて胸が塞《ふさが》るやうな苦しさを覺えました。
 
     四十八
 
 「勘定して見ると奧さんがKに話をしてからもう二日《ふつか》餘りになります。其《その》間《あひだ》Kは私《わたくし》に對して少しも以前と異《こと》なつた樣子を見せなかつたので、私は全くそれに氣が付かずにゐたのです。彼の超然《てうぜん》とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値《あたひ》すべきだと私は考へました。彼と私を頭の中《なか》で並《なら》べてみると、彼の方が遙《はる》かに立派に見えました。『おれは策略《さくりやく》で勝つても人間としては負けたのだ』といふ感じが私の胸に渦卷《うづま》いて起《おこ》りました。私は其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顔を赧《あか》らめました。然し今更Kの前に出て、耻を掻かせられるのは、私の自尊心にとつて大いな苦痛でした。
 私《わたくし》が進まうか止《よ》さうかと考へて、兎も角も翌日《あくるひ》迄待たうと決心したのは土曜の晩でした。所が其晩に、Kは自殺して死んで仕舞つたのです。私は今でも其光景を思ひ出すと慄然《ぞつ》とします。何時《いつ》も東枕《ひがしまくら》で寐る私が、其晩に限つて、偶然|西枕《にしまくら》に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風で不圖《ふと》眼を覺したのです。見ると、何時《いつ》も立て切つてあるKと私の室《へや》との仕切《しきり》の襖《ふすま》が、此間の晩と同じ位|開《あ》いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黒い姿は其所には立つてゐません。私は暗示《あんじ》を受けた人のやうに、床《とこ》の上に肱《ひぢ》を突いて起き上りながら、屹《きつ》とKの室《へや》を覗きました。洋燈《らんぷ》が暗く點《とも》つてゐるのです。それで床《とこ》も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返《はねかへ》されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突《つ》ツ伏《ぷ》してゐるのです。
 私《わたくし》はおいと云つて聲を掛けました。然し何の答もありません。おい何《ど》うかしたのかと私は又Kを呼びました。それでもKの身體《からだ》は些《ちつ》とも動きません。私はすぐ起き上つて、敷居際迄行きました。其所から彼の室《へや》の樣子を、暗い洋燈《らんぷ》の光で見廻して見ました。
 其時|私《わたくし》の受けた第一の感じは、Kから突然戀の自白を聞かされた時のそれと略《ほゞ》同じでした。私の眼は彼の室《へや》の中《なか》を一目《ひとめ》見るや否や、恰も硝子《がらす》で作つた義眼のやうに、動く能力を失ひました。私は棒立に立竦《たちすく》みました。それが疾風の如く私を通過したあとで、私は又あゝ失策《しま》つたと思ひました。もう取り返しが付かないといふ黒い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬問に私の前に横はる全生涯を物凄《ものすご》く照らしました。さうして私はがた/\顫《ふる》へ出したのです。
 それでも私《わたくし》はついに私を忘れる事が出來ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは豫期通り私の名宛《なあて》になつてゐました。私は夢中で封を切りました。然し中には私の豫期したやうな事は何にも書いてありませんでした。私は私に取つて何《ど》んなに辛《つら》い文句が其中に書き列《つら》ねてあるだらうと豫期したのです。さうして、もし夫《それ》が奧さんや御孃さんの眼に觸れたら、何《ど》んなに輕蔑されるかも知れないといふ恐怖があつたのです。私は一寸眼を通した丈《だけ》で、まづ助かつたと思ひました。(固《もと》より世間體《せけんてい》の上|丈《だけ》で助かつたのですが、其|世間體《せけんてい》が此場合、私にとつては非常な重大事件に見えたのです。)
 手紙の内容は簡單でした。さうして寧ろ抽象的《ちうしやうてき》でした。自分は薄志弱行《はくしじやくかう》で到底|行先《ゆくさき》の望みがないから、自殺するといふ丈《だけ》なのです。それから今迄|私《わたくし》に世話になつた禮が、極《ごく》あつさりした文句で其|後《あと》に付け加へてありました。世話序《せわついで》に死後の片付方《かたづけかた》も頼みたいといふ言葉もありました。奧さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫《わび》をして呉れといふ句もありました。國元へは私から知らせて貰ひたいといふ依頼もありました。必要な事はみんな一口づゝ書いてある中に御孃さんの名前|丈《だけ》は何處にも見えません。私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故《なぜ》今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。
 私《わたくし》は顫《ふる》へる手で、手紙を卷《ま》き収《をさ》めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆《みん》なの眼に着くやうに元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖《ふすま》に迸《ほと》ばしつてゐる血潮《ちしほ》を始めて見たのです。
 
     四十九
 
 「私《わたくし》は突然Kの頭を抱《かゝ》えるやうに兩手で少し持ち上げました。私はKの死顔《しにがほ》が一目《ひとめ》見たかつたのです。然し俯伏《うつぶし》になつてゐる彼の顔を、斯うして下から覗き込んだ時、私はすぐ其手を放してしまひました。慄《ぞつ》とした許《ばかり》ではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今|觸《さは》つた冷たい耳と、平生に變らない五分刈の濃い髪の毛を少時《しばらく》眺めてゐました。私は少しも泣く氣にはなれませんでした。私はたゞ恐ろしかつたのです。さうして其恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺戟して起《おこ》る單調な恐ろしさ許《ばかり》ではありません。私は忽然と冷たくなつた此友達によつて暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。
 私《わたくし》は何の分別もなくまた私の室《へや》に歸りました。さうして八疊の中《なか》をぐる/\廻り始めました。私の頭は無意味でも當分さうして動いてゐろと私に命令するのです。私は何《ど》うかしなければならないと思ひました。同時にもう何《ど》うする事も出來ないのだと思ひました。座敷の中をぐる/\廻らなければゐられなくなつたのです。檻《をり》の中《なか》へ入れられた熊の樣な態度で。
 私《わたくし》は時々奧へ行つて奧さんを起《おこ》さうといふ氣になります。けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮《さへぎ》ります。奧さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐる/\廻り始めるのです。
 私《わたくし》は其《その》間《あひだ》に自分の室《へや》の洋燈《らんぷ》を點《つ》けました。それから時計を折々見ました。其時の時計程|埒《らち》の明かない遲いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間《ま》もなかつた事|丈《だけ》は明らかです。ぐる/\廻りながら、其夜明を待ち焦《こが》れた私は、永久に暗い夜《よる》が續くのではなからうかといふ思ひに惱まされました。
 我々は七時前に起きる習慣でした。學校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合はないのです。下女は其關係で六時頃に起きる譯になつてゐました。然し其日|私《わたくし》が下女を起《おこ》しに行つたのはまだ六時前でした。すると奧さんが今日《けふ》は日曜だと云つて注意して呉れました。奧さんは私の足音で眼を覺《さま》したのです。私は奧さんに眼が覺めてゐるなら、一寸《ちよつと》私の室《へや》迄來て呉れと頼みました。奧さんは寐卷の上へ不斷着の羽織を引掛《ひつかけ》て、私の後《あと》に跟《つ》いて來ました。私は室《へや》へ這入《はい》るや否や、今迄|開《あ》いてゐた仕切の襖《ふすま》をすぐ立て切りました。さうして奧さんに飛んだ事が出來たと小聲で告げました。奧さんは何だと聞きました。私は顋《あご》で隣の室《へや》を指《さ》すやうにして、『驚ろいちや不可《いけ》ません』と云ひました。奧さんは蒼《あを》い顔をしました。『奧さん、Kは自殺しました』と私がまた云ひました。奧さんは其所に居竦《ゐすく》まつたやうに、私の顔を見て黙つてゐました。其時私は突然奧さんの前へ手を突いて頭を下げました。『濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御孃さんにも濟まない事になりました』と詫《あや》まりました。私は奧さんと向ひ合ふ迄、そんな言葉を口にする氣は丸《まる》でなかつたのです。然し奧さんの顔を見た時|不意《ふい》に我とも知らず左右《さう》云つて仕舞つたのです。Kに詑《あや》まる事の出來ない私は、斯うして奧さんと御孃さんに詫《わ》びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生《へいぜい》の私を出し拔いてふら/\と懺悔《ざんげ》の口を開《ひら》かしたのです。奧さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつたのは私にとつて幸《さいはひ》でした。蒼い顔をしながら、『不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか』と慰さめるやうに云つて呉れました。然し其顔には驚ろきと怖《おそ》れとが、彫《ほ》り付けられたやうに、硬《かた》く筋肉を攫《つか》んでゐました。
 
     五十
 
 「私《わたくし》は奧さんに氣の毒でしたけれども、また立つて今|閉《し》めたばかりの唐紙《からかみ》を開けました。其時Kの洋燈《らんぷ》に油が盡きたと見えて、室《へや》の中《なか》は殆んど眞暗でした。私は引き返して自分の洋燈《らんぷ》を手に持つた儘、入口に立つて奧さんを顧《かへり》みました。奧さんは私の後《うしろ》から隱れるやうにして、四疊の中を覗き込みました。然し這入《はい》らうとはしません。其所は其儘にして置いて、雨戸を開けて呉れと私に云ひました。
 それから後《あと》の奧さんの態度は、さすがに軍人の未亡人《びばうじん》だけあつて要領を得てゐました。私《わたくし》は醫者の所へも行きました。又警察へも行きました。然しみんな奧さんに命令されて行つたのです。奧さんはさうした手續の濟む迄、誰もKの部屋へは入れませんでした。
 Kは小《ちひ》さなナイフで頸動脈《けいどうみやく》を切つて一息《ひといき》に死んで仕舞つたのです。外《ほか》に創《きず》らしいものは何にもありませんでした。私《わたくし》が夢のやうな薄暗い灯《ひ》で見た唐紙《からかみ》の血潮は、彼の頸筋《くびすぢ》から一度に迸《ほと》ばしつたものと知れました。私は日中《につちゆう》の光で明らかに其|迹《あと》を再び眺めました。さうして人間の血の勢《いきほひ》といふものの劇《はげ》しいのに驚ろきました。
 奧さんと私《わたくし》は出來る丈《だけ》の手際《てぎは》と工夫を用ひて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸ひ彼の蒲團に吸収されてしまつたので、疊はそれ程|汚《よご》れないで濟みましたから、後始末《あとしまつ》はまだ樂《らく》でした。二人は彼の死骸を私の室《へや》に入れて、不斷の通り寐てゐる體《てい》に横にしました。私はそれから彼の實家へ電報を打ちに出たのです。
 私《わたくし》が歸つた時は、Kの枕元にもう線香が立てられてゐました。室《へや》へ這入るとすぐ佛臭《ほとけくさ》い烟で鼻を撲《う》たれた私は、其烟の中に坐つてゐる女二人を認めました。私が御孃さんの顔を見たのは、昨夜來《さくやらい》此時が始めてゞした。御孃さんは泣いてゐました。奧さんも眼を赤くしてゐました。事件が起つてからそれ迄泣く事を忘れてゐた私は、其時漸やく悲しい氣分に誘《さそ》はれる事が出來たのです。私の胸はその悲しさのために、何《ど》の位|寛《くつ》ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴《いつてき》の潤《うるほひ》を與へてくれたものは、其時の悲しさでした。
 私《わたくし》は黙つて二人の傍《そば》に坐つてゐました。奧さんは私にも線香を上げてやれと云ひます。私は線香を上げて又黙つて坐つてゐました。御孃さんは私には何とも云ひません。たまに奧さんと一口二口《ひとくちふたくち》言葉を換《か》はす事がありましたが、それは當座の用事に即《つ》いてのみでした。御孃さんにはKの生前に就いて語る程の餘裕がまだ出て來なかつたのです。私はそれでも昨夜《ゆうべ》の物凄い有樣を見せずに濟んでまだ可《よ》かつたと心のうちで思ひました。若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖《こは》かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端《まつたん》迄來た時ですら、私はその考《かんがへ》を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄《みだ》りに鞭《むち》うつと同じやうな不快がそのうちに籠《こも》つてゐたのです。
 國元からKの父と兄が出て來た時、私《わたくし》はKの遺骨を何處へ埋《う》めるかに就いて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雜司《ざふし》ケ谷《や》近邊をよく一所に散歩した事があります。Kには其所が大變氣に入つてゐたのです。それで私は笑談《ぜうだん》半分に、そんなに好《すき》なら死んだら此所へ埋めて遣らうと約束した覺《おぼえ》があるのです。私も今其約束通りKを雜司《ざふし》ケ谷《や》へ葬《はうむ》つたところで、何《ど》の位《くらゐ》の功コ《くどく》になるものかとは思ひました。けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪《ひざ》まづいて月々私の懺悔《ざんげ》を新たにしたかつたのです。今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて呉れました。
 
     五十−
 
 「Kの葬式の歸り路《みち》に、私《わたくし》はその友人の一人《ひとり》から、Kが何《ど》うして自殺したのだらうといふ質問を受けました。事件があつて以來私はもう何度となく此質問で苦しめられてゐたのです。奧さんも御孃さんも、國から出て來たKの父兄も、通知を出した知り合ひも、彼とは何の縁故もない新聞記者迄も、必ず同樣の質問を私に掛けない事はなかつたのです。私の良心は其度にちく/\刺されるやうに痛みました。さうして私は此質問の裏《うら》に、早く御前が殺したと白状してしまへといふ聲を聞いたのです。
 私《わたくし》の答は誰に對しても同じでした。私は唯《たゞ》彼の私|宛《あて》で書き殘した手紙を繰り返す丈《だけ》で、外《ほか》に一口も附加《つけくは》へる事はしませんでした。葬式の歸りに同じ問を掛けて、同じ答を得たKの友人は、懷から一枚の新聞を出して私に見せました。私は歩きながら其友人によつて指《さ》し示された箇所を讀みました。それにはKが父兄から勘當《かんだう》された結果厭世的な考《かんがへ》を起して自殺したと書いてあるのです。私は何にも云はずに、其新聞を疊んで友人の手に歸《かへ》しました。友人は此|外《ほか》にもKが氣が狂《くる》つて自殺したと書いた新聞があると云つて教へて呉れました。忙がしいので、殆んど新聞を讀む暇《ひま》がなかつた私は、丸《まる》でさうした方面の知識を缺いてゐましたが、腹の中《なか》では始終氣にかゝつてゐた所でした。私は何よりも宅《うち》のものゝ迷惑になるやうな記事の出るのを恐れたのです。ことに名前|丈《だけ》にせよ御孃さんが引合《ひきあひ》に出たら堪《たま》らないと思つてゐたのです。私は其友人に外《ほか》に何《なん》とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、たゞ其《その》二種ぎりだと答へました。
 私《わたくし》が今|居《を》る家《いへ》へ引越《ひつこ》したのはそれから間もなくでした。奧さんも御孃さんも前の所にゐるのを厭がりますし、私も其《その》夜《よ》の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だつたので、相談の上移る事に極めたのです。
 移つて二ケ月程してから私《わたくし》は無事に大學を卒業しました。卒業して半年《はんとし》も經《た》たないうちに、私はとう/\御孃さんと結婚しました。外側から見れば、萬事が豫期通りに運んだのですから、目出度《めでたい》と云はなければなりません。奧さんも御孃さんも如何にも幸福らしく見えました。私も幸福だつたのです。けれども私の幸福には黒い影が隨《つ》いてゐました。私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました。
 結婚した時御孃さんが、――もう御孃さんではありませんから、妻《さい》と云ひます。――妻《さい》が、何を思ひ出したのか、二人でKの墓參《はかまゐり》をしやうと云ひ出しました。私《わたくし》は意味もなく唯ぎよつとしました。何《ど》うしてそんな事を急に思ひ立つたのかと聞きました。妻《さい》は二人揃つて御參りをしたら、Kが嘸《さぞ》喜こぶだらうと云ふのです。私は何事も知らない妻《さい》の顔をしけじけ眺めてゐましたが、妻《さい》から何故《なぜ》そんな顔をするのかと問はれて始めて氣が付きました。
 私《わたくし》は妻《さい》の望通り二人連れ立つて雜司《ざふし》ケ谷《や》へ行きました。私は新らしいKの墓へ水をかけて洗つて遣りました。妻《さい》は其前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。妻《さい》は定めて私と一所になつた?末《てんまつ》を述べてKに喜こんで貰ふ積《つもり》でしたらう。私は腹の中《なか》で、たゞ自分が惡かつたと繰り返す丈《だけ》でした。
 其時|妻《さい》はKの墓を撫《な》でゝ見て立派だと評してゐました。其墓は大したものではないのですけれども、私《わたくし》が自分で石屋へ行つて見立《みたて》たりした因縁があるので、妻《さい》はとくに左右《さう》云ひたかつたのでせう。私は其新らしい墓と、新らしい私の妻《さい》と、それから地面の下に埋《うづ》められたKの新らしい白骨とを思ひ比べて、運命の冷罵を感ぜずにはゐられなかつたのです。私はそれ以後決して妻《さい》と一所にKの墓參りをしない事にしました。
 
     五十二
 
 「私《わたくし》の亡友に對する斯うした感じは何時《いつ》迄も續きました。實は私も初《はじめ》からそれを恐れてゐたのです。年來の希望であつた結婚すら、不安のうちに式を擧げたと云へば云へない事もないでせう。然し自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによると或は是が私の心持を一轉《いつてん》して新らしい生涯に入《はい》る端緒《いとくち》になるかも知れないとも思つたのです。所が愈《いよ/\》夫《をつと》として朝夕《あさゆふ》妻《さい》と顔を合せて見ると、私の果敢《はか》ない希望は手嚴《てきび》しい現實のために脆《もろ》くも破壞されてしまひました。私は妻《さい》と顔を合せてゐるうちに、卒然Kに脅《おびや》かされるのです。つまり妻《さい》が中間《ちゆうかん》に立つて、Kと私を何處迄も結び付けて離さないやうにするのです。妻《さい》の何處にも不足を感じない私は、たゞ此一點に於て彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐ夫《それ》が映《うつ》ります。映《うつ》るけれども、理由は解らないのです。私は時々|妻《さい》から何故そんなに考へてゐるのだとか、何か氣に入らない事があるのだらうとかいふ詰問を受けました。笑つて濟ませる時はそれで差支ないのですが、時によると、妻《さい》の癇《かん》も高《かう》じて來ます。しまひには『あなたは私を嫌つてゐらつしやるんでせう』とか、『何でも私に隱してゐらつしやる事があるに違ない』とかいふ怨言《ゑんげん》も聞かなくてはなりません。私は其度に苦しみました。
 私《わたくし》は一層《いつそ》思ひ切つて、有の儘を妻《さい》に打ち明けやうとした事が何度もあります。然しいざといふ間際になると自分以外のある力が不意に來て私を抑《おさ》え付けるのです。私を理解してくれる貴方の事だから、説明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます。其時分の私は妻《さい》に對して己《おのれ》を飾る氣は丸《まる》でなかつたのです。もし私が亡友に對すると同じやうな善良な心で、妻《さい》の前に懺悔《ざんげ》の言葉を並《なら》べたなら、妻《さい》は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻《さい》の記憶に暗黒な一點を印《いん》するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫《ひとしづく》の印氣《いんき》でも容赦《ようしや》なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい。
 一年|經《た》つてもKを忘れる事の出來なかつた私《わたくし》の心は常に不安でした。私は此不安を驅逐するために書物に溺《おぼ》れやうと力《つと》めました。私は猛烈な勢をもつて勉強し始めたのです。さうして其結果を世の中に公《おほや》けにする日の來るのを待ちました。けれども無理に目的を拵《こしら》えて、無理に其目的の達せられる日を待つのは嘘ですから不愉快です。私は何《ど》うしても書物のなかに心を埋《うづ》めてゐられなくなりました。私は又腕組をして世の中を眺めだしたのです。
 妻《さい》はそれを今日《こんにち》に困らないから心に弛《たる》みが出るのだと觀察してゐたやうでした。妻《さい》の家《いへ》にも親子二人位は坐つてゐて何《ど》うか斯うか暮して行ける財産がある上に私《わたくし》も職業を求めないで差支《さしつかへ》のない境遇にゐたのですから、さう思はれるのも尤もです。私も幾分かスポイルされた氣味がありませう。然し私の動かなくなつた原因の主《おも》なものは、全く其所にはなかつたのです。叔父に欺《あざ》むかれた當時の私は、他《ひと》の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他《ひと》を惡く取る丈《だけ》あつて、自分はまだ確《たしか》な氣がしてゐました。世間は何《ど》うあらうとも此|己《おれ》は立派な人間だといふ信念が何處かにあつたのです。それがKのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふら/\しました。他《ひと》に愛想《あいそ》を盡《つ》かした私は、自分にも愛想《あいそ》を盡かして動けなくなつたのです。
 
     五十三
 
 「書物の中《なか》に自分を生埋《いきうめ》にする事の出來なかつた私《わたくし》は、酒に魂《たましひ》を浸《ひた》して、己《おの》れを忘れやうと試みた時期もあります。私は酒が好きだとは云ひません。けれども飲めば飲める質《たち》でしたから、たゞ量を頼《たの》みに心を盛《も》り潰《つぶ》さうと力《つと》めたのです。此|淺薄《せんぱく》な方便はしばらくするうちに私を猶《なほ》厭世的にしました。私は爛醉《らんすゐ》の眞最中《まつさいちゆう》に不圖《ふと》自分の位置に氣が付くのです。自分はわざと斯んな眞似をして己《おの》れを僞《いつは》つてゐる愚物だといふ事に氣が付くのです。すると身振《みぶる》ひと共に眼も心も醒《さ》めてしまひます。時にはいくら飲んでも斯うした假裝状態《かさうじやうたい》にさへ入《はい》り込めないで無暗に沈んで行く場合も出て來ます。其上技巧で愉快を買つた後《あと》には、屹度《きつと》沈欝な反動があるのです。私は自分の最も愛してゐる妻《さい》と其母親に、何時《いつ》でも其所を見せなければならなかつたのです。しかも彼等は彼等に自然な立場から私を解釋して掛ります。
 妻《さい》の母は時々|氣拙《きまづ》い事を妻《さい》に云ふやうでした。それを妻《さい》は私《わたくし》に隱してゐました。然し自分は自分で、單獨に私を責めなければ氣が濟まなかつたらしいのです。責めると云つても、決して強い言葉ではありません。妻《さい》から何か云はれた爲に、私が激《げき》した例《ためし》は殆んどなかつた位ですから。妻《さい》は度々何處が氣に入らないのか遠慮なく云つて呉れと頼みました。それから私の未來のために酒を止《や》めろと忠告しました。ある時は泣いて『貴方は此頃人間が違つた』と云ひました。それ丈《だけ》なら未《まだ》可《い》いのですけれども、『Kさんが生きてゐたら、貴方もそんなにはならなかつたでせう』と云ふのです。私は左右《さう》かも知れないと答へた事がありましたが、私の答へた意味と、妻《さい》の了解した意味とは全く違つてゐたのですから、私は心のうちで悲しかつたのです。それでも私は妻《さい》に何事も説明する氣にはなれませんでした。
 私《わたくし》は時々|妻《さい》に詫《あや》まりました。それは多く酒に醉つて遲く歸つた翌日《あくるひ》の朝でした。妻《さい》は笑ひました。或は黙つてゐました。たまにぽろ/\と涙を落《おと》す事もありました。私は何方《どつち》にしても自分が不愉快で堪《たま》らなかつたのです。だから私の妻《さい》に詫《あや》まるのは、自分に詫《あや》まるのと詰《つま》り同じ事になるのです。私はしまひに酒を止《や》めました。妻《さい》の忠告で止《や》めたといふより、自分で厭になつたから止《や》めたと云つた方が適當でせう。
 酒は止《や》めたけれども、何もする氣にはなりません。仕方がないから書物を讀みます。然し讀めば讀んだなりで、打《う》ち遣《や》つて置きます。私《わたくし》は妻《さい》から何の爲に勉強するのかといふ質問を度々《たび/\》受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益《ます/\》悲しかつたのです。私は寂寞《せきばく》でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました。
 同時に私《わたくし》はKの死因を繰り返し/\考へたのです。其當座は頭がたゞ戀の一字で支配されてゐた所爲《せゐ》でもありませうが、私の觀察は寧ろ簡單でしかも直線的でした。Kは正《まさ》しく失戀のために死んだものとすぐ極《き》めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた氣分で、同じ現象に向つて見ると、さう容易《たやす》くは解決が着かないやうに思はれて來ました。現實と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋《さむ》しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決《しよけつ》したのではなからうかと疑がひ出しました。さうして又|慄《ぞつ》としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じやうに辿《たど》つてゐるのだといふ豫覺が、折々風のやうに私の胸を横過《よこぎ》り始めたからです。
 
     五十四
 
 「其《その》内《うち》妻《さい》の母が病氣になりました。醫者に見せると到底|癒《なほ》らないといふ診斷でした。私《わたくし》は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。是は病人自身の爲でもありますし、又愛する妻《さい》の爲でもありましたが、もつと大きな意味からいふと、ついに人間の爲でした。私はそれ迄にも何かしたくつて堪《たま》らなかつたのだけれども、何もする事が出來ないので已《やむ》を得ず懷手《ふところで》をしてゐたに違《ちがひ》ありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたといふ自覺を得たのは此時でした。私は罪滅《つみはろぼ》しとでも名づけなければならない、一種の氣分に支配されてゐたのです。
 母は死にました。私《わたくし》と妻《さい》はたつた二人ぎりになりました。妻《さい》は私に向つて、是から世の中で頼りにするものは一人しかなくなつたと云ひました。自分自身さへ頼りにする事の出來ない私は、妻《さい》の顔を見て思はず涙ぐみました。さうして妻《さい》を不幸《ふかう》な女だと思ひました。又|不幸《ふかう》な女だと口へ出しても云ひました。妻《さい》は何故だと聞きます。妻《さい》には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事が出來ないのです。妻《さい》は泣きました。私が不斷からひねくれた考《かんがへ》で彼女を觀察してゐるために、そんな事も云ふやうになるのだと恨みました。
 母の亡《な》くなつた後《あと》、私《わたくし》は出來る丈《だけ》妻《さい》を親切に取り扱かつて遣りました。たゞ當人を愛してゐたから許《ばかり》ではありません。私の親切には箇人《こじん》を離れてもつと廣い背景があつたやうです。丁度|妻《さい》の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻《さい》は滿足らしく見えました。けれども其滿足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な點が何處かに含《ふく》まれてゐるやうでした。然し妻《さい》が私を理解し得たにした所で、此《この》物足りなさは増すとも減る氣遣《きづかひ》はなかつたのです。女には大きな人道の立場から來る愛情よりも、多少義理をはづれても自分|丈《だけ》に集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いやうに思はれますから。
 妻《さい》はある時、男の心と女の心とは何《ど》うしてもぴたりと一つになれないものだらうかと云ひました。私《わたくし》はたゞ若い時ならなれるだらうと曖昧な返事をして置きました。妻《さい》は自分の過去を振り返つて眺めてゐるやうでしたが、やがて微《かす》かな溜息《ためいき》を洩らしました。
 私《わたくし》の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃《ひら》めきました。初めはそれが偶然|外《そと》から襲《おそ》つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中《うち》に、私の心が其物凄い閃《ひら》めきに應ずるやうになりました。しまひには外《そと》から來ないでも、自分の胸の底に生《うま》れた時から潜《ひそ》んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何《ど》うかしたのではなからうかと疑《うたぐ》つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診《み》て貰ふ氣にはなりませんでした。
 私《わたくし》はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ毎月《まいげつ》行かせます。其感じが私に妻《さい》の母の看護をさせます。さうして其感じが妻《さい》に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭《むちう》たれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭《むちう》たれるよりも、自分で自分を鞭《むちう》つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭《むちう》つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考《かんがへ》が起《おこ》ります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました。
 私《わたくし》がさう決心してから今日《こんにち》迄何年になるでせう。私と妻《さい》とは元の通り仲好く暮《くら》して來ました。私と妻《さい》とは決して不幸《ふかう》ではありません、幸福でした。然し私の有《も》つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻《さい》には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思ふと、私は妻《さい》に對して非常に氣の毒な氣がします。
 
     五十五
 
 「死んだ積《つもり》で生きて行かうと決心した私《わたくし》の心は、時々外界の刺戟で躍《をど》り上がりました。然し私が何《ど》の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握《にぎ》り締《し》めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に御前は何をする資格もない男だと抑《おさ》え付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其|一言《いちげん》で直《すぐ》ぐたりと萎《しを》れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又|締《し》め付けられます。私は齒を食ひしばつて、何で他《ひと》の邪魔をするのかと怒鳴《どな》り付けます。不可思議な力は冷《ひやゝ》かな聲で笑ひます。自分で能く知つてゐる癖にと云ひます。私は又ぐたりとなります。
 波瀾《はらん》も曲折《きよくせつ》もない單調な生活を續けて來た私《わたくし》の内面には、常に斯うした苦しい戰爭があつたものと思つて下さい。妻《さい》が見て齒痒《はがゆ》がる前に、私自身が何層倍《なんぞうばい》齒痒《はがゆ》い思ひを重ねて來たか知れない位です。私がこの牢屋の中《うち》に凝《ぢつ》としてゐる事が何《ど》うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟《ひつきやう》私にとつて一番|樂《らく》な努力で遂行《すゐかう》出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故《なぜ》と云つて眼を?《みは》るかも知れませんが、何時《いつ》も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道|丈《だけ》を自由に私のために開《あ》けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を歩いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。
 私《わたくし》は今日《こんにち》に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂《らく》な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時《いつ》でも妻《さい》に心を惹《ひ》かされました。さうして其|妻《さい》を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻《さい》に凡《すべ》てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犠牲として、妻《さい》の天壽を奪ふなどゝいふ手荒《てあら》な所作《しよさ》は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻《さい》には妻《さい》の廻り合せがあります。二人を一束《ひとたば》にして火に燻《く》べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした。
 同時に私《わたくし》だけが居なくなつた後《あと》の妻《さい》を想像して見ると如何にも不憫《ふびん》でした。母の死んだ時、是から世の中で頼りにするものは私より外になくなつたと云つた彼女の述懷を、私は腸《はらわた》に沁《し》み込むやうに記憶させられてゐたのです。私はいつも躊躇しました。妻《さい》の顔を見て、止《よ》して可《よ》かつたと思ふ事もありました。さうして又|凝《ぢつ》と竦《すく》んで仕舞ひます。さうして妻《さい》から時時《とき/”\》物足りなさうな眼で眺められるのです。
 記憶して下さい。私《わたくし》は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所《いつしよ》に郊外を散歩した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後《うしろ》には何時《いつ》でも黒い影が括《く》ツ付《つ》いてゐました。私は妻《さい》のために、命を引きずつて世の中を歩いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會《あ》はうと約束した私は、嘘を吐《つ》いたのではありません。全く會《あ》ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度《きつと》會《あ》ふ積《つもり》でゐたのです。
 すると夏の暑い盛りに明治天皇《めいぢてんのう》が崩御《ほうぎよ》になりました。其時|私《わたくし》は明治《めいぢ》の精神《せいしん》が天皇に始まつて天皇に終つたやうな氣がしました。最も強く明治《めいぢ》の影響《えいきやう》を受けた私どもが、其|後《あと》に生き殘つてゐるのは必竟時勢|遲《おく》れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白《あから》さまに妻《さい》にさう云ひました。妻《さい》は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死《じゆんし》でもしたら可《よ》からうと調戯《からか》ひました。
 
     五十六
 
 「私《わたくし》は殉死《じゆんし》といふ言葉を殆んど忘れてゐました。平生《へいぜい》使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻《さい》の笑談《ぜうだん》を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻《さい》に向つてもし自分が殉死《じゆんし》するならば、明治の精神に殉死《じゆんし》する積《つもり》だと答へました。私の答も無論|笑談《ぜうだん》に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛《も》り得たやうな心持がしたのです。
 それから約一ケ月程|經《た》ちました。御大葬《ごたいさう》の夜《よる》私《わたくし》は何時《いつ》もの通り書齋に坐つて、相圖《あひづ》の號砲《がうはう》を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後《あと》で考へると、それが乃木大將《のぎたいしやう》の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻《さい》に殉死《じゆんし》だ/\と云ひました。
 私《わたくし》は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭《せいなんせんさう》の時敵に旗を奪《と》られて以來、申し譯のために死なう/\と思つて、つい今日《こんにち》迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月《としつき》を勘定して見ました。西南戰爭《せいなんせんさう》は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう/\と思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた二十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那《いつせつな》が苦しいか、何方《どつち》が苦しいだらうと考へました。
 それから二三日して、私《わたくし》はとう/\自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明《あき》らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右《さう》だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有《も》つて生れた性格の相違と云つた方が確《たしか》かも知れません。私は私の出來る限り此《この》不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の敍述で己《おの》れを盡した積《つもり》です。
 私《わたくし》は妻《さい》を殘して行きます。私がゐなくなつても妻《さい》に衣食住《いしよくぢゆう》の心配がないのは仕合せです。私は妻《さい》に殘酷な驚怖を與へる事を好みません。私は妻《さい》に血の色を見せないで死ぬ積《つもり》です。妻《さい》の知らない間《ま》に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後《あと》で、妻《さい》から頓死したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。
 私《わたくし》が死なうと決心してから、もう十日《とをか》以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自敍傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却つて其方が自分を判然《はつきり》描《ゑが》き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞《いつは》りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山《わたなべくわざん》は邯鄲《かんたん》といふ畫を描《か》くために、死期を一週間繰り延べたといふ話をつい先達《せんだつ》て聞きました。他《ひと》から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中《うち》にあるのだから已《や》むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果《はた》すためばかりではありません。半《なか》ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
 然し私《わたくし》は今其要求を果《はた》しました。もう何《なん》にもする事はありません。此の手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世にはゐないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻《さい》は十日ばかり前から市《いち》ケ谷《や》の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸《すゝ》めて遣つたのです。私は妻《さい》の留守の間《あひだ》に、この長いものゝ大部分を書きました。時々|妻《さい》が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。
 私《わたくし》は私の過去を善惡ともに他《ひと》の參考に供する積《つもり》です。然し妻《さい》だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻《さい》には何にも知らせたくないのです。妻《さい》が己《おの》れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一《ゆゐいつ》の希望なのですから、私が死んだ後《あと》でも、妻《さい》が生きてゐる以上は、あなた限《かぎ》りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中《なか》に仕舞つて置いて下さい」
 
   道草
      大正四、六、三−四、九、一四
 
     一
 
 健三《けんざう》が遠い所から歸つて來て駒込《こまごめ》の奧に世帶《しよたい》を持つたのは東京を出てから何年目になるだらう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋《さび》し味《み》さへ感じた。
 彼の身體には新らしく後《あと》に見捨てた遠い國の臭《にほひ》がまだ付着してゐた。彼はそれを忌《い》んだ。一日も早く其臭を振ひ落さなければならないと思つた。さうして其臭のうちに潜んでゐる彼の誇りと滿足には却《かへ》つて氣が付かなかつた。
 彼は斯うした氣分を有《も》つた人に有勝《ありがち》な落付のない態度で、千駄木から追分《おひわけ》へ出る通りを日に二返《にへん》づゝ規則のやうに徃來《わうらい》した。
 ある日|小雨《こさめ》が降つた。其時彼は外套も雨具も着けずに、たゞ傘《かさ》を差した丈《だけ》で、何時《いつ》もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行つた。すると車屋の少しさきで思ひ懸けない人にはたりと出會つた。其人は根津權現の裏門の坂を上《あが》つて、彼と反對に北へ向いて歩いて來たものと見えて、健三が行手《ゆくて》を何氣なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入《はい》つたのである。さうして思はず彼の眼をわきへ外《そら》させたのである。
 彼は知らん顔をして其人の傍《そば》を通り拔けやうとした。けれども彼にはもう一遍此男の眼鼻立を確める必要があつた。それで御互が二三間の距離に近づいた頃又|眸《ひとみ》を其人の方角に向けた。すると先方ではもう疾《と》くに彼の姿を凝《ぢつ》と見詰めてゐた。
 徃來《わうらい》は靜《しづか》であつた。二人の間にはたゞ細い雨の糸が絶間なく落ちてゐる丈《だけ》なので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかつた。健三はすぐ眼をそらして又眞正面を向いた儘歩き出した。けれども相手は道端《みちばた》に立ち留まつたなり、少しも足を運ぶ氣色《けしき》なく、ぢつと彼の通り過ぎるのを見送つてゐた。健三は其男の顔が彼の歩調につれて、少しづゝ動いて回るのに氣が着いた位であつた。
 彼は此男に何年會はなかつたらう。彼が此男と縁を切つたのは、彼がまだ二十歳《はたち》になるかならない昔の事であつた。それから今日《こんにち》迄《まで》に十五六年の月日《つきひ》が經《た》つてゐるが、其間彼等はついぞ一度も顔を合せた事がなかつたのである。
 彼の位地も境遇もその時分から見ると丸《まる》で變つてゐた。黒い髭を生《はや》して山高帽を被《かぶ》つた今の姿と坊主頭の昔の面影《おもかげ》とを比べて見ると、自分でさへ隔世の感が起らないとも限らなかつた。然しそれにしては相手の方があまりに變らな過ぎた。彼は何《ど》う勘定しても六十五六であるべき筈の其人の髪の毛が、何故《なぜ》今でも元の通り黒いのだらうと思つて、心のうちで怪しんだ。帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通してゐる其人の特色も、彼には異《い》な氣分を與へる媒介《なかだち》となつた。
 彼は固《もと》より其人に出會ふ事を好まなかつた。萬一出會つても其人が自分より立派な服裝《なり》でもしてゐて呉れゝば好いと思つてゐた。然し今|目前《まのあたり》見た其人は、あまり裕福な境遇に居るとは誰が見ても決して思へなかつた。帽子を被らないのは當人の自由としても、羽織なり着物なりに就いて判斷したところ、何うしても中流以下の活計《くわつけい》を營んでゐる町家《ちやうか》の年寄としか受取れなかつた。彼は其人の差してゐた洋傘《かうもり》が、重さうな毛繻子《けじゆす》であつた事に迄氣が付いてゐた。
 其日彼は家へ歸つても途中で會つた男の事を忘れ得なかつた。折々は道端《みちばた》へ立ち止まつて凝《ぢつ》と彼を見送つてゐた其人の眼付に惱まされた。然し細君には何にも打ち明けなかつた。機嫌のよくない時は、いくら話したい事があつても、細君に話さないのが彼の癖であつた。細君も黙つてゐる夫《をつと》に對しては、用事の外決して口を利かない女であつた。
 
     二
 
 次の日健三は又同じ時刻に同じ所を通つた。其次の日も通つた。けれども帽子を被らない男はもう何處《どこ》からも出て來なかつた。彼は器械のやうに又義務のやうに何時《いつ》もの道を徃つたり來たりした。
 斯うした無事の日が五日《いつか》續いた後《あと》、六日目《むいかめ》の朝になつて帽子を被らない男は突然又根津權現の坂の蔭から現はれて健三を脅《おび》やかした。それが此前と略《ほゞ》同じ場所で、時間も殆ど此前と違はなかつた。
 其時健三は相手の自分に近付くのを意識しつゝ、何時《いつ》もの通り器械のやうに又義務のやうに歩かうとした。けれども先方の態度は正反對であつた。何人《なんぴと》をも不安にしなければ已《や》まない程な注意を双眼に集めて彼を凝視した。隙《すき》さへあれば彼に近付かうとする其人の心が曇《どん》よりした眸《ひとみ》のうちにあり/\と讀まれた。出來《でき》る丈《だけ》容赦なく其《その》傍《そば》を通り拔けた健三の胸には變な豫覺が起つた。
 「とても是《これ》丈《だけ》では濟むまい」
 然し其日|家《うち》へ歸つた時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまつた。
 彼と細君と結婚したのは今から七八年前で、もう其時分には此男との關係がとくの昔に切れてゐたし、其上結婚地が故郷の東京でなかつたので、細君の方ではぢかにその人を知る筈がなかつた。然し噂として丈《だけ》なら或は健三自身の口から既に話してゐたかも知れず、又彼の親類のものから聞いて知つてゐないとも限らなかつた。それは何《いづ》れにしても健三にとつて問題にはならなかつた。
 たゞ此事件に關して今でも時々彼の胸に浮んでくる結婚後の事實が一つあつた。五六年前彼がまだ地方にゐる頃、ある日|女文字《をんなもじ》で書いた厚い封書が突然彼の勤め先の机の上へ置かれた。其時彼は變な顔をして其手紙を讀んだ。然しいくら讀んでも/\讀み切れなかつた。半紙二十枚ばかりへ隙間なく細字《さいじ》で書いたものの、五分の一ほど眼を通した後《あと》、彼はついにそれを細君の手に渡してしまつた。
 其時の彼には自分|宛《あて》でこんな長い手紙をかいた女の素性《すじやう》を細君に説明する必要があつた。それから其女に關聯して、是非とも此帽子を被らない男を引合《ひきあひ》に出す必要もあつた。健三はさうした必要にせまられた過去の自分を記憶してゐる。然し機嫌買《きげんかひ》な彼がどの位綿密な程度で細君に説明してやつたか、その點になると、彼はもう忘れてゐた。細君は女の事だからまだ判然《はつきり》覺えてゐるだらうが、今の彼にはそんな事を改めて彼《か》の女《ぢよ》に問《と》ひ訊《たゞ》して見る氣も起らなかつた。彼は此長い手紙を書いた女と、此帽子を被らない男とを一所《いつしよ》に並べて考へるのが大嫌ひだつた。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介《なかだち》となるからであつた。
 幸ひ彼の目下《もくか》の状態はそんな事に屈托してゐる餘裕を彼に與へなかつた。彼は家《うち》へ歸つて衣服を着換へると、すぐ自分の書齋へ這入《はい》つた。彼は始終その六疊敷の狹い疊の上に自分のする事が山のやうに積んであるやうな氣持でゐるのである。けれども實際から云ふと、仕事をするよりも、しなければならないといふ刺戟の方が、遙に強く彼を支配してゐた。自然彼はいら/\しなければならなかつた。
 彼が遠い所から持つて來た書物の箱を此六疊の中で開けた時、彼は山のやうな洋書の裡《うち》に胡坐《あぐら》をかいて、一週間も二週間も暮らしてゐた。さうして何でも手に觸れるものを片端《かたはし》から取り上げては二三|頁《ページ》づゝ讀んだ。それがため肝心《かんじん》の書齋の整理は何時《いつ》迄《まで》經《た》つても片付かなかつた。しまひに此《この》體《てい》たらくを見るに見かねた或友人が來て、順序にも冊數にも頓着なく、ある丈《だけ》の書物をさつさと書棚の上に並べてしまつた。彼を知つてゐる多數の人は彼を神經衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じてゐた。
 
     三
 
 健三は實際其日々々の仕事に追はれてゐた。家《うち》へ歸つてからも氣樂に使へる時間は少しもなかつた。其上彼は自分の讀みたいものを讀んだり、書きたい事を書いたり、考へたい問題を考へたりしたかつた。それで彼の心は殆ど餘裕といふものを知らなかつた。彼は始終机の前にこびり着いてゐた。
 娯樂の場所へも滅多に足を踏み込めない位|忙《いそが》しがつてゐる彼が、ある時友達から謠《うたひ》の稽古を勸められて、體《てい》よくそれを斷つたが、彼は心のうちで、他人《ひと》には何うしてそんな暇《ひま》があるのだらうと驚いた。さうして自分の時間に對する態度が、恰《あたか》も守錢奴《しゆせんど》のそれに似通つてゐる事には、丸《まる》で氣がつかなかつた。
 自然の勢ひ彼は社交を避けなければならなかつた。人間をも避けなければならなかつた。彼の頭と活字との交渉が複雜になればなる程、人としての彼は孤獨に陷《おちい》らなければならなかつた。彼は朧氣《おぼろげ》にその淋《さび》しさを感ずる場合さへあつた。けれども一方ではまた心の底に異樣の熱塊があるといふ自信を持つてゐた。だから索寞たる曠野《あらの》の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却《かへ》つて本來だとばかり心得てゐた。温《あたゝ》かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思はなかつた。
 彼は親類から變人扱《へんじんあつかひ》にされてゐた。然しそれは彼に取つて大した苦痛にもならなかつた。
 「教育が違ふんだから仕方がない」
 彼の腹の中には常に斯ういふ答辯があつた。
 「矢つ張り手前味噌よ」
 是は何時《いつ》でも細君の解釋であつた。
 氣の毒な事に健三は斯うした細君の批評を超越する事が出來なかつた。さう云はれる度に氣不味《きまづ》い顔をした。ある時は自分を理解しない細君を心《しん》から忌々《いま/\》しく思つた。ある時は叱り付けた。又ある時は頭ごなしに遣り込めた。すると彼の癇癪が細君の耳に空威張《からゐばり》をする人の言葉のやうに響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷」の四字に訂正するに過ぎなかつた。
 彼には一人の腹違《はらちがひ》の姉と一人の兄があるぎりであつた。親類と云つた所で此二軒より外に持たない彼は、不幸にして其二軒ともとあまり親しく徃來《ゆきき》をしてゐなかつた。自分の姉や兄と疎遠になるといふ變な事實は、彼に取つても餘り氣持の好いものではなかつた。然し親類づきあひよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ歸つて以後既に三四回彼等と顔を合せたといふ記憶も、彼には多少の言譯になつた。もし帽子を被らない男が突然彼の行手を遮《さへぎ》らなかつたなら、彼は何時《いつ》もの通り千駄木の町を毎日|二返《にへん》規則正しく徃來《わうらい》する丈《だけ》で、當分|外《ほか》の方角へは足を向けずにしまつたらう。もし其間に身體の樂に出來る日曜が來たなら、ぐたりと疲れ切つた四肢を疊の上に横たへて半日の安息を貪《むさぼ》るに過ぎなかつたらう。
 然し次の日曜が來た時、彼は不圖《ふと》途中で二度會つた男の事を思ひ出した。さうして急に思ひ立つたやうに姉の宅《うち》へ出掛けた。姉の宅《うち》は四《よ》ツ谷《や》の津《つ》の守坂《かみざか》の横で、大通りから一町ばかり奧へ引込《ひつこ》んだ所にあつた。彼女の夫《をつと》といふのは健三の從兄《いとこ》にあたる男だから、つまり姉にも從兄《いとこ》であつた。然し年齡《とし》は同年《おないどし》か一つ違で、健三から見ると双方とも、一廻りも上であつた。此《この》夫《をつと》がもと四《よ》ツ谷《や》の區役所へ勤めた縁故で、彼が其處を已《や》めた今日《こんにち》でも、まだ馴染《なじみ》の多い土地を離れるのが厭だといつて、姉は今の勤先に不便なのも構はず、矢つ張り元の古ぼけた家《うち》に住んでゐるのである。
 
      四
 
 此姉は喘息持《ぜんそくもち》であつた。年《ねん》が年中《ねんぢゆう》ぜい/\云つてゐた。それでも生れ付が非常な癇性なので、餘程苦しくないと決して凝《ぢつ》としてゐなかつた。何か用を拵へて狹い家《うち》の中を始終ぐる/\廻つて歩かないと承知しなかつた。其落付のないがさつ〔三字傍点〕な態度が健三の眼には如何にも氣の毒に見えた。
 姉は又非常に喋舌《しやべ》る事の好《すき》な女であつた。さうして其|喋舌《しやべ》り方《かた》に少しも品位といふものがなかつた。彼女と對坐する健三は屹度《きつと》苦《にが》い顔をして黙らなければならなかつた。
 「是が己《おれ》の姉なんだからなあ」
 彼女と話をした後《あと》の健三の胸には何時《いつ》でも斯ういふ述懷が起つた。
 其日健三は例の如く襷《たすき》を掛けて戸棚の中を掻きまはしてゐる此姉を見出した。
 「まあ珍しく能《よ》く來て呉れたこと。さあ御敷きなさい」
 姉は健三に座蒲團を勸めて縁側へ手を洗ひに行つた。
 健三は其留守に座敷のなかを見廻した。欄間《らんま》には彼が子供の時から見覺えのある古ぼけた額が懸つてゐた。其|落款《らくくわん》に書いてある筒井憲《つゝゐけん》といふ名は、たしか旗本の書家か何かで、大變字が上手なんだと、十五六の昔此處の主人から教へられた事を思ひ出した。彼は其主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行つたものである。さうして年から云へば叔父甥程の相違があるのに、二人して能《よ》く座敷の中で相撲《すまふ》をとつては姉から怒《おこ》られたり、屋根へ登つて無花果《いちじく》を?《も》いで食つて、其皮を隣の庭へ投げたため、尻を持ち込まれたりした。主人が箱入りのコンパス〔四字傍点〕を買つて遣ると云つて彼を騙《だま》したなり何時《いつ》迄《まで》經《た》つても買つてくれなかつたのを非常に恨めしく思つた事もあつた。姉と喧嘩をして、もう向ふから謝罪《あやま》つて來ても勘忍してやらないと覺悟を極めたが、いくら待つてゐても、姉が詫まらないので、仕方なしに此方《こつち》からのこ/\出掛けて行つた癖に、手持無沙汰なので、向ふで御這入《おはい》りといふ迄、黙つて門口《かどぐち》に立つてゐた滑稽もあつた。……
 古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。さうして夫程《それほど》世話になつた姉夫婦に、今は大した好意を有《も》つ事が出來にくゝなつた自分を不快に感じた。
 「近頃は身體の具合はどうです。あんまり非道《ひど》く起る事もありませんか」
 彼は自分の前に坐つた姉の顔を見ながら斯う訊《たづ》ねた。
 「えゝ有難う。御蔭さまで陽氣が好いもんだから、まあ何うか斯うか家《うち》の事|丈《だけ》は遣《や》つてるんだけれども、――でも矢張《やつぱ》り年が年だからね。とても昔の樣にがせい〔三字傍点〕に働く事は出來ないのさ。昔健ちやんの遊《あす》びに來てくれた時分にや、隨分|尻《しり》つ端折《ぱしよ》りで、夫《それ》こそ御釜の御尻迄洗つたもんだが、今ぢやとてもそんな元氣はありやしない。だけど御蔭樣で斯う遣つて毎日牛乳も飲んでるし……」
 健三は些少ながら月々いくらかの小遣《こづかひ》を姉に遣る事を忘れなかつたのである。
 「少し痩せた樣ですね」
 「なに是《こり》や私《あたし》の持前だから仕方がない。昔から肥《ふと》つた事のない女なんだから。失ツ張り癇が強いもんだからね。癇で肥《ふと》る事が出來ないんだよ」
 姉は肉のない細い腕を捲《まく》つて健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半圓形の暈《かさ》が、怠《だる》さうな皮で物憂《ものう》げに染めてゐた。健三は黙つて其ぱさ/\した手《て》の平《ひら》を見詰めた。
 「でも健ちやんは立派になつて本當に結構だ。御前さんが外國へ行く時なんか、もう二度と生きて會ふ事は六《む》づかしからうと思つてたのに、それでもよくまあ達者で歸つて來られたのね。御父《おとつ》さんや御母《おつか》さんが生きて御出《おいで》だつたら嘸《さぞ》御喜びだらう」
 姉の眼にはいつか涙が溜つてゐた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出來たら、健ちやんに何でも好《すき》なものを買つて上げるよ」と口癖のやうに云つてゐた。さうかと思ふと、「こんな偏窟《へんくつ》ぢや此子はとても物にやならない」とも云つた。健三は姉の昔の言葉やら語氣やらを思ひ浮べて、心の中で苦笑《くせう》した。
 
      五
 
 そんな古い記憶を喚《よ》び起《お》こすにつけても、久しく會はなかつた姉の老《ふ》けた樣子が一層《ひとしほ》健三の眼についた。
 「時に姉さんは幾何《いくつ》でしたかね」
 「もう御婆さんさ。取つて一《いち》だもの御前さん」
 姉は黄色い疎《まば》らな齒を出して笑つて見せた。實際五十一とは健三にも意外であつた。
 「すると私《わたし》とは一廻《ひとまはり》以上違ふんだね。私《わたし》や又精々違つて十《とを》か十一だと思つてゐた」
 「どうして一廻どころか。健ちやんとは十六違ふんだよ、姉さんは。良人《うち》が羊の三碧《さんぺき》で姉さんが四緑《しろく》なんだから。健ちやんは慥《たし》か七赤《しちせき》だつたね」
 「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」
 「繰つて見て御覽、屹度《きつと》七赤だから」
 健三はどうして自分の星を繰《く》るのかそれさへ知らなかつた。年齡《とし》の話はそれぎり已《や》めてしまつた。
 「今日は御留守なんですか」と比田《ひだ》の事を訊《き》いて見た。
 「昨夕《ゆうべ》も宿直《とまり》でね。なに自分の分だけなら月に三度か四度で濟むんだけれども、他《ひと》に頼まれるもんだからね。それに一晩でも餘計泊りさへすればやつぱり若干《いくら》かになるだらう、それでつい他《ひと》の分迄引受ける氣にもなるのさ。此頃ぢや彼方《あつち》へ寢るのと此方《こつち》へ歸るのと、まあ半々位なものだらう。ことによると、向《むかふ》へ泊る方が却《かへ》つて多いかも知れないよ」
 健三は黙つて障子の傍《そば》に据ゑてある比田の机を眺めた。硯箱や状袋や卷紙がきちりと行儀よく並んでゐる傍《そば》に、簿記用の帳面が赤い脊皮を此方《こちら》へ向けて、二三冊立て懸けてあつた。それから綺麗に光つた小さい算盤《そろばん》も其下に置いてあつた。
 噂によると比田は此頃變な女に關係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに圍つてゐるといふ評判であつた。宿直《とまり》だ宿直《とまり》だと云つて宅《うち》へ歸らないのは、或はその所爲《せゐ》ぢやなからうかと健三には思へた。
 「比田さんは近頃どうです。大分《だいぶ》年を取つたから元とは違つて眞面目《まじめ》になつたでせう」
 「なに矢ツ張り相變らずさ。ありや一人で遊ぶために生れて來た男なんだから仕方がないよ。やれ寄席《よせ》だ、やれ芝居だ、やれ相撲《すまふ》だつて、御金さへありや年《ねん》が年中《ねんぢゆう》飛んで歩いてるんだからね。でも奇體なもんで、年の所爲《せゐ》だか何だか知らないが、昔に比《くら》べると、少しは優しくなつたやうだよ。もとは健ちやんも知つてる通りの始末で、隨分烈しかつたもんだがね。蹴つたり、敲いたり、髪の毛を持つて座敷中|引摺廻《ひきずりまは》したり……」
 「其代り姉さんも負けてる方ぢやなかつたんだからな」
 「なに妾《あたし》や手出しなんかした事あ、ついの一度だつてありやしない」
 健三は勝氣な姉の昔を考へ出してつい可笑《をか》しくなつた。二人の立ち廻りは今姉の自白するやうに受身のものばかりでは決してなかつた。ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だつた。それにしても此利かぬ氣の姉が、夫《をつと》に騙《だま》されて、彼が宅《うち》へ歸らない以上、屹度《きつと》會社へ泊つてゐるに違ひないと信じ切つてゐるのが妙に不憫《ふびん》に思はれて來た。
 「久し振に何か奢りませうか」と姉の顔を眺めながら云つた。
 「ありがと、今|御鮨《おすし》をさういつたから、珍らしくもあるまいけれども、食《た》べてつて御呉れ」
 姉は客の顔さへ見れば、時間に關係なく、何か食はせなければ承知しない女であつた。健三は仕方がないから尻を落付けてゆつくり腹の中に持つて來た話を姉に切り出す氣になつた。
 
     六
 
 近頃の健三は頭を餘計|遣《つか》ひ過《す》ぎる所爲《せゐ》か、どうも胃の具合が好くなかつた。時々思ひ出したやうに運動して見ると、胸も腹も却《かへ》つて重くなる丈《だけ》であつた。彼は要心《えうじん》して三度の食事以外には成るべく物を口へ入れないやうに心掛けてゐた。それでも姉の惡強《わるじひ》には敵《かな》はなかつた。
 「海苔卷《のりまき》なら身體に障《さは》りやしないよ。折角姉さんが健ちやんに御馳走しやうと思つて取つたんだから、是非食べて御呉れな。厭かい」
 健三は仕方なしに旨くもない海苔卷を頬張つて、好い加減煙草で荒らされた口のうちをもぐ/\させた。
 姉が餘り饒舌《しやべ》るので、彼は何時《いつ》迄《まで》も自分の云ひたい事が云へなかつた。訊きたい問題を持つてゐながら、斯う受身な會話ばかりしてゐるのが、彼には段々むづ痒《がゆ》くなつて來た。然し姉にはそれが一向《いつかう》通じないらしかつた。
 他《ひと》に物を食はせる事の好きなのと同時に、物を遣る事の好きな彼女は、健三が此前|賞《ほ》めた古ぼけた達磨《だるま》の掛物《かけもの》を彼に遣らうかと云ひ出した。
 「あんなものあ、宅《うち》にあつたつて仕方がないんだから、持つて御出《おい》でよ。なに比田だつて要《い》りやしないやね、汚《きた》ない達磨なんか」
 健三は貰ふとも貰はないとも云はずにたゞ苦笑してゐた。すると姉は何か秘密話でもするやうに急に調子を低くした。
 「實は健ちやん、御前さんが歸つて來たら、話さう/\と思つて、つい今日《けふ》迄《まで》黙つてたんだがね。健ちやんも歸りたてゞ嘸《さぞ》忙《いそが》しからうし、夫《それ》に姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住《おすみ》さんが居ちや、少し話《はな》し惡《にく》い事だしね。さうかつて、手紙を書かうにも御存じの無筆《むひつ》だらう、……」
 姉の前置は長たらしくもあり、又滑稽でもあつた。小さい時分いくら手習をさせても記憶《おぼえ》が惡くつて、どんなに平易《やさ》しい字も、とう/\頭へ這入《はい》らず仕舞《じまひ》に、五十の今日《こんにち》迄《まで》生きて來た女だと思ふと、健三にはわが姉ながら氣の毒でもあり又うら耻づかしくもあつた。
 「それで姉さんの話つてえな、一體《いつたい》どんな話なんです。實は私《わたし》も今日《けふ》は少し姉さんに話があつて來たんだが」
 「さうかい夫《それ》ぢやお前さんの方のから先へ聽くのが順だつたね。何故早く話さなかつたの」
 「だつて話せないんだもの」
 「そんなに遠慮しないでもいゝやね。姉弟《きやうだい》の間ぢやないか、お前さん」
 姉は自分の多辯が相手の口を塞いでゐるのだといふ明白な事實には毫も氣が付いてゐなかつた。
 「まあ姉さんの方から先へ片付けませう。何ですか、あなたの話つていふのは」
 「實は健ちやんにはまことに氣の毒で、云《い》ひ惡《にく》いんだけれども、あたしも段々年を取つて身體は弱くなるし、夫《それ》に良人《うち》があの通りの男で、自分一人さへ好けりや女房なんか何うなつたつて、己《おれ》の知つた事ぢやないつて顔をしてゐるんだから。――尤も月々の取高《とりたか》が少い上に、交際《つきあひ》もあるんだから、仕方がないと云へば夫迄《それまで》だけれどもね……」
 姉の云ふ事は女|丈《だけ》に隨分曲りくねつてゐた。中々容易な事で目的地へ達しさうになかつたけれども、其主意は健三によく解《わか》つた。つまり月々遣る小遣《こづかひ》をもう少し増して呉れといふのだらうと思つた。今でさへそれをよく夫《をつと》から借りられてしまふといふ話を耳にしてゐる彼には、此請求が憐れでもあり、又腹立たしくもあつた。
 「どうか姉さんを助けると思つてね。姉さんだつて此身體ぢやどうも長い事もあるまいから」
 是が姉の口から出た最後の言葉であつた。健三はそれでも厭だとは云ひかねた。
 
     七
 
 彼は是から宅《うち》へ歸つて今夜中に片付けなければならない明日《あした》の仕事を有《も》つてゐた。時間の價値といふものを少しも認めない此姉と對坐して、何時《いつい》迄《まで》も、べん/\と喋舌《しやべ》つてゐるのは、彼にとつて多少の苦痛に違なかつた。彼は好加減《いゝかげん》に歸らうとした。さうして歸る間際《まぎは》になつてやつと帽子を被らない男の事を云ひ出した。
 「實は此間島田に會つたんですがね」
 「へえ何處で」
 姉は吃驚《びつくり》したやうな聲を出した。姉は無教育な東京ものによく見るわざとらしい仰山《ぎやうさん》な表情をしたがる女であつた。
 「太田の原の傍《そば》です」
 「ぢや御前さんのぢき近所ぢやないか。どうしたい、何か言葉でも掛けたかい」
 「掛けるつて、別に言葉の掛けやうもないんだから」
 「さうさね。健ちやんの方から何とか云はなきや、向《むかふ》で口なんぞ利《き》けた義理でもないんだから」
 姉の言葉は出來《でき》る丈《だけ》健三の意を迎へるやうな調子であつた。彼女は健三に「どんな服裝《なり》をしてゐたい」と訊き足した後で、「ぢや矢ツ張り樂でもないんだね」と云つた。其處には多少の同情も籠つてゐるやうに見えた。然し男の昔を話し出した時にはさも/\惡《にく》らしさうな語氣を用ひ始めた。
 「なんぼ因業《いんごふ》だつて、あんな因業《いんごふ》な人つたらありやしないよ。今日が期限だから、是が非でも取つて行くつて、いくら言譯を云つても、坐り込んで動《いご》かないんだもの。仕舞に此方《こつち》も腹が立つたから、お氣の毒さま、お金はありませんが、品物で好ければ、お鍋でもお釜でも持つてつて下さいつて云つたらね、ぢや釜を持つてくつて云ふんだよ。あきれるぢやないか」
 「釜を持つて行くつたつて、重くつて到底《とても》持てやしないでせう」
 「ところがあの業突張《ごふつくばり》の事だから、どんな事をして持つてかないとも限らないのさ。そら其日の御飯をあたしに炊《た》かせまいと思つて、さういふ意地の惡い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄つて好い事あない筈だあね」
 健三の耳には此話がたゞの滑稽としては聞こえなかつた。其人と姉との間に起つた斯《こ》んな交渉のなかに引絡《ひつから》まつてゐる古い自分の影法師は、彼に取つて可笑《をか》しいといふよりも寧ろ悲しいものであつた。
 「私《わたし》や島田に二度會つたんですよ、姉さん。是から先又|何時《いつ》會ふか分らないんだ」
 「いゝから知らん顔をして御出《おいで》よ。何度會つたつて構はないぢやないか」
 「然しわざ/\彼處《あすこ》いらを通つて、私《わたし》の宅《うち》でも探してゐるんだか、また用があつて通りがかりに偶然出ツくはしたんだか、それが分らないんでね」
 此疑問は姉にも解けなかつた。彼女はたゞ健三に都合の好ささうな言葉を無意味に使つた。それが健三には空御世辭《からおせじ》のごとく響いた。
 「此方《こちら》へは其《その》後《ご》丸《まる》で來ないんですか」
 「あゝ此二三年は丸《まる》つきり來ないよ」
 「其前は?」
 「其前はね、ちよく/\つて程でもないが、それでも時々は來たのさ。それが又|可笑《をか》しいんだよ。來ると何時《いつ》でも十一時頃でね。鰻飯かなにか食《た》べさせないと決して歸らないんだからね。三度の御まんまを一かたけでも好いから他《ひと》の家《うち》で食べやうつて云ふのがつまりあの人の腹なんだよ。其癖|服裝《なり》なんか可なりなものを着てゐるんだがね。……」
 姉のいふ事は脱線しがちであつたけれども、それを聽いてゐる健三には、矢張り金錢上の問題で、自分が東京を去つたあとも、なほ多少の交際が二人の間に持續されてゐたのだといふ見當はついた。然しそれ以上何も知る車は出來なかつた。目下《もくか》の島田に就いては全く分らなかつた。
 
     八
 
 「島田は今でも元の處に住んでゐるんだらうか」
 斯《こ》んな簡單な質問さへ姉には判然《はつきり》答へられなかつた。健三は少し的《あて》が外《はづ》れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の居所《ゐどころ》を突き留めやうと迄は思つてゐなかつたので、大した失望も感じなかつた。彼は此場合まだそれ程の手數《てかず》を盡す必要がないと信じてゐた。たとひ盡すにした所で、一種の好奇心を滿足するに過ぎないとも考へてゐた。其上今の彼は斯ういふ好奇心を輕蔑しなければならなかつた。彼の時間はそんな事に使用するには餘りに高價すぎた。
 彼はたゞ想像の眼で、子供の時分見た其人の家と、其家の周圍とを、心のうちに思ひ浮べた。
 其處には徃來《わうらい》の片側《かたがは》に幅の廣い大きな堀が一丁も續いてゐた。水の變らない其堀の中は腐つた泥で不快に濁つてゐた。所々に蒼い色が湧いて厭な臭《にほひ》さへ彼の鼻を襲つた。彼はその汚《きた》ならしい一廓を――樣のお屋敷といふ名で覺えてゐた。
 堀の向ふ側には長屋がずつと並んでゐた。其長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあつた。石垣とすれ/\に建てられた此長屋が何處迄も續いてゐるので、お屋敷のなかは丸《まる》で見えなかつた。
 此お屋敷と反對の側《がは》には小さな平家《ひらや》が疎《まば》らに並んでゐた。古いのも新しいのもごちや/\に交《まじ》つてゐた其|町並《まちなみ》は無論不揃ひであつた。老人の齒のやうに所々が空《あ》いてゐた。その空《あ》いてゐる所を少し許《ばか》り買つて島田は彼の住居《すまひ》を拵へたのである。
 健三はそれが何時《いつ》出來上つたか知らなかつた。然し彼が始めてそこへ行つたのは新築後まだ間《ま》もないうちであつた。四間《よま》しかない狹い家《いへ》だつたけれども、木口《きぐち》抔《など》は可成《かなり》吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取《まどり》にも工夫があつた。六疊の座敷は東向《ひがしむき》で、松葉を敷き詰めた狹い庭に、大き過ぎる程立汲な御影《みかげ》の石燈籠が据ゑてあつた。
 綺麗好きな島田は、自分で尻端折《しりはしを》りをして、絶えず濡雜巾を縁側や柱へ掛けた。それから跣足《はだし》になつて、南向《みなみむき》の居間《ゐま》の前栽《せんざい》へ出て、草?《くさむし》りをした。あるときは鍬を使つて、門口《かどぐち》の泥溝《どぶ》も浚《さら》つた。其|泥溝《どぶ》には長さ四尺ばかりの木の橋が懸つてゐた。
 島田はまた此|住居《すまひ》以外に粗末な貸家を一軒建てた。さうして双方の家の間を通り拔けて裏へ出られるやうに三尺ほどの路を付けた。裏は野とも畠とも片のつかない濕地であつた。草を踏むとじく/\水が出た。一番|凹《へこ》んだ所などは始終《しょつちゆう》淺い池のやうになつてゐた。島田は追々其處へも小さな貸家を建てる積《つもり》でゐるらしかつた。然し其《その》企《くはだ》ては何時《いつ》迄《まで》も實現されなかつた。冬になると鴨が下りるから、今度は一つ捕《と》つてやらう抔《など》と云つてゐた。……
 健三は斯ういふ昔の記憶を夫《それ》から夫《それ》へと繰り返した。今其處へ行つて見たら定めし驚く程變つてゐるだらうと思ひながら、彼はなほ二十年前の光景を今日《こんにち》の事のやうに考へた。
 「ことによると、良人《うち》では年始状位まだ出してゐるかも知れないよ」
 健三の歸る時、姉は斯《こ》んな事を云つて、暗《あん》に比田の戻る迄話して行けと勸めたが、彼にはそれ程の必要もなかつた。
 彼は其日無沙汰見舞かた/”\市ケ谷の藥王寺前にゐる兄の宅《うち》へも寄つて、島田の事を訊いて見やうかと考へてゐたが、時間の遲くなつたのと、どうせ訊いたつて仕方がないといふ氣が次第に強くなつたのとで、それなり駒込へ歸つた。其晩は又|翌日《あくるひ》の仕事に忙殺《ばうさい》されなければならなかつた。さうして島田の事は丸《まる》で忘れてしまつた。
 
     九
 
 彼はまた平生《へいぜい》の我に歸つた。活力の大部分を擧げて自分の職業に使ふ事が出來た。彼の時間は靜かに流れた。然し其靜かなうちには始終いら/\するものがあつて、絶えず彼を苦しめた。遠くから彼を眺めてゐなければならなかつた細君は、別に手の出しやうもないので澄ましてゐた。それが健三には妻にあるまじき冷淡としか思へなかつた。細君はまた心の中《うち》で彼と同じ非難を夫《をつと》の上に投げ掛けた。夫《をつと》の書齋で暮らす時間が多くなればなる程、夫婦間の交渉は、用事以外に少くならなければならない筈だと云ふのが細君の方の理窟であつた。
 彼女は自然の勢ひ健三を一人書齋に遺《のこ》して置いて、子供|丈《だけ》を相手にした。其子供たちはまた滅多に書齋へ這入《はい》らなかつた。たまに這入ると、屹度《きつと》何か惡戯《いたづら》をして健三に叱られた。彼は子供を叱る癖に、自分の傍《そば》へ寄り付かない彼等に對して、やはり一種の物足りない心持を抱《いだ》いてゐた。
 一週間後の日曜が來た時、彼は丸《まる》で外出しなかつた。氣分を變へるため四時頃風呂へ行つて歸つたら、急にうつとりした好い氣持に襲はれたので、彼は手足を疊の上へ伸ばしたまゝ、つい假寢《うたゝね》をした。さうして晩飯の時刻になつて、細君から起される迄は、首を切られた人のやうに何事も知らなかつた。然し起きて膳に向つた時、彼には微《かす》かな寒氣《さむけ》が脊筋を上から下へ傳はつて行くやうな感じがあつた。その後《あと》で烈しい嚔《くさめ》が二つ程出た。傍《そば》にゐる細君は黙つてゐた。健三も何も云はなかつたが、腹の中では斯うした同情に乏しい細君に對する厭な心持を意識しつゝ箸を取つた。細君の方ではまた夫《をつと》が何故《なぜ》自分に何もかも隔意なく話して、能働的に細君らしく振舞はせないのかと、その方を却《かへ》つて不愉快に思つた。
 其晩彼は明かに多少|風邪氣味《かぜぎみ》であるといふ事に氣が付いた。用心して早く寢ようと思つたが、ついしかけた仕事に妨《さまた》げられて、十二時過迄起きてゐた。彼の床に入《はい》る時には家内《かない》のものはもう皆《みんな》寢《ね》てゐた。熱い葛湯《くずゆ》でも飲んで、發汗したい希望をもつてゐた健三は、已《やむ》を得《え》ず其儘|冷《つめた》い夜具の裏《うち》に潜《もぐ》り込《こ》んだ。彼は例にない寒さを感じて、寢付が大變惡かつた。然し頭腦の疲勞は程なく彼を深い眠りの境《きやう》に誘つた。
 翌日《あくるひ》眼を覺した時は存外安靜であつた。彼は床の中で、風邪《かぜ》はもう癒つたものと考へた。然し愈《いよ/\》起きて顔を洗ふ段になると、何時《いつ》もの冷水摩擦が退儀《たいぎ》な位身體が倦怠《だる》くなつてきた。勇氣を鼓して食卓に着いて見たが、朝食《あさめし》は少しも旨くなかつた。いつもは規定として三膳食べる所を、其日は一膳で濟ました後《あと》、梅干を熱い茶の中に入れてふう/\吹いて呑んだ。然し其意味は彼自身にも解らなかつた。此時も細君は健三の傍《そば》に坐つて給仕をしてゐたが、別に何にも云はなかつた。彼には其態度がわざと冷淡に構へてゐる技巧の如く見えて多少腹が立つた。彼はことさらな咳を二度も三度もして見せた。夫《それ》でも細君は依然として取り合はなかつた。
 健三はさつさと頭から白襯衣《ワイシヤツ》を被つて洋服に着換《きかへ》たなり例刻に宅《うち》を出た。細君は何時《いつ》もの通り帽子を持つて夫《をつと》を玄關迄送つて來たが、此時の彼にはそれがたゞ形式|丈《だけ》を重んずる女としか受取れなかつたので、彼は猶《なほ》厭な心持がした。
 外《そと》ではしきりに惡感《をかん》がした。舌が重々しくぱさついて、熱のある人のやうに身體全體が倦怠《けたる》かつた。彼は自分の脉を取つて見て、其早いのに驚いた。指頭《しとう》に觸れるピン/\いふ音が、秒を刻《きざ》む袂時計の音と錯綜《さくそう》して、彼の耳に異樣な節奏を傳へた。それでも彼は我慢して、爲《す》る丈《だけ》の仕事を外《そと》でした。
 
     十
 
 彼は例刻に宅《うち》へ歸つた。洋服を着換へる時、細君は何時《いつ》もの通り、彼の不斷着《ふだんぎ》を持つた儘、彼の傍《そば》に立つてゐた。彼は不快な顔をして其方《そちら》を向いた。
 「床を取つて呉れ。寐るんだ」
 「はい」
 細君は彼のいふが儘に床を延べた。彼はすぐ其中に入《はい》つて寐た。彼は自分の風邪氣《かぜけ》の事を一口も細君に云はなかつた。細君の方でも一向《いつかう》其處に注意してゐない樣子を見せた。それで双方とも腹の中には不平があつた。
 健三が眼を塞いでうつら/\してゐると、細君が枕元へ來て彼の名を呼んだ。
 「あなた御飯を召上がりますか」
 「飯なんか食ひたくない」
 細君はしばらく黙つてゐた。けれどもすぐ立つて部屋の外へ出て行かうとはしなかつた。
 「あなた、何うかなすつたんですか」
 健三は何にも答へずに、顔を半分ほど夜具の襟に埋《うづ》めてゐた。細君は無言のまゝ、そつと其手を彼の額の上に加へた。
 晩になつて醫者が來た。たゞの風邪《かぜ》だらうと云ふ診察を下して、水藥《すゐやく》と頓服《とんぷく》を呉れた。彼はそれを細君の手から飲まして貰つた。
 翌日《あくるひ》は熱が猶《なほ》高くなつた。醫者の注意によつて護謨《ゴム》の氷嚢を彼の頭の上に載せた細君は、蒲圃の下に差し込むニツケル製の器械を下女が買つてくる迄、自分の手で落ちないやうにそれを抑へてゐた。
 魔に襲はれたやうな氣分が二三日つゞいた。健三の頭には其間の記憶といふものが殆どない位であつた。正氣に歸つた時、彼は平氣な顔をして天井を見た。それから枕元に坐つてゐる細君を見た。さうして急に其細君の世話になつたのだといふ事を思ひ出した。然し彼は何にも云はずに又顏を背《そむ》けてしまつた。それで細君の胸には夫《をつと》の心持が少しも映《うつ》らなかつた。
 「あなた何うなすつたんです」
 「風邪を引いたんだつて、醫者が云ふぢやないか」
 「そりや解《わか》つてます」
 會話はそれで途切れてしまつた。細君は厭な顔をしてそれぎり部屋を出て行つた。健三は手を鳴らして又細君を呼び戻した。
 「己《おれ》が何うしたといふんだい」
 「何うしたつて、――あなたが御病氣だから、私だつて斯うして氷嚢を更《か》へたり、藥を注《つ》いだりして上げるんぢやありませんか。それを彼方《あつち》へ行けの、邪魔だのつて、あんまり……」
 細君は後《あと》を云はずに下を向いた。
 「そんな事を云つた覺えはない」
 「そりや熱の高い時|仰《おつ》しやつた事ですから、多分覺えちや居《ゐ》らつしやらないでせう。けれども平生《へいぜい》からさう考へてさへ居らつしやらなければ、いくら病氣だつて、そんな事を仰しやる譯がないと思ひますわ」
 斯《こ》んな場合に健三は細君の言葉の奧に果してどの位な眞實が潜んで居るだらうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑へつけたがる男であつた。事實の問題を離れて、單に論理の上から行くと、細君の方が此場合も負であつた。熱に浮かされた時、魔睡藥に醉つた時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思つて居る事ばかり物語るとは限らないのだから。然しさうした論理は決して細君の心を服するに足らなかつた。
 「よござんす。何《ど》うせあなたは私を下女同樣に取り扱ふ積《つもり》で居らつしやるんだから。自分一人さへ好ければ構はないと思つて、……」
 健三は座を立つた細君の後姿を腹立たしさうに見送つた。彼は論理の權威で自己を佯《いつは》つてゐる事には丸《まる》で氣が付かなかつた。學問の力で鍛へ上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に心底《しんそこ》から大人《おとな》しく從ひ得ない細君は、全くの解らずやに違なかつた。
 
      十一
 
 其の晩細君は土鍋《どなべ》へ入れた粥《かゆ》をもつて、また健三の枕元に坐つた。それを茶碗に盛《も》りながら、「御起になりませんか」と訊いた。
 彼の舌にはまだ苔が一杯|生《は》えてゐた。重苦しいやうな厚ぼつたいやうな口の中へ物を入れる氣には殆どなれなかつた。それでも彼は何故《なぜ》だか床の上に起き返つて、細君の手から茶碗を受取らうとした。然し舌障りの惡い飯粒が、ざら/\と咽喉《のど》の方へ滑り込んで行く丈《だけ》なので、彼はたつた一膳で口を拭《ぬぐ》つたなり、すぐ故《もと》の通り横になつた。
 「まだ食氣《しよくき》が出ませんね」
 「少しも旨くない」
 細君は帶の間から一枚の名刺を出した。
 「斯ういふ人が貴方《あなた》の寐て居らつしやるうちに來たんですが、御病氣だから斷つて歸しました」
 健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷《す》つた其名刺を受取つて、姓名を讀んで見たが、まだ會つた事も聞いた事もない人であつた。
 「何時《いつ》來たのかい」
 「たしか一昨日《をとゝひ》でしたらう。一寸《ちよつと》御話しやうと思つたんですが、まだ熱が下らないから、わざと黙つてゐました」
 「丸《まる》で知らない人だがな」
 「でも島田の事で一寸御主人に御目にかゝりたいつて、來たんださうですよ」
 細君はとくに島田といふ二字に力を入れて斯う云ひながら、健三の顔を見た。すると彼の頭に此間途中で會つた帽子を被らない男の影がすぐひらめいた。熱から覺めた彼には、それ迄此男の事を思ひ出す機會が丸《まる》でなかつたのである。
 「御前島田の事を知つてるのかい」
 「あの長い手紙がお常《つね》さんつて女から屆いた時、貴方が御話しなすつたぢやありませんか」
 健三は何とも答へずに一旦下へ置いた名刺を又取り上げて眺めた。島田の事を其時どれ程|詳《くは》しく彼女に話したかそれが彼には不確《ふたしか》であつた。
 「ありや何時《いつ》だつたかね。餘ツ程古い事だらう」
 健三は其長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思ひ出して苦笑した。
 「さうね。もう七年位になるでせう。私達《あたしたち》がまだ千本通《せんぼんどほ》りにゐた時分ですから」
 千本通りといふのは、彼等が其頃住んでゐた或都會の外《はづ》れにある町の名であつた。
 細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺はないでも、御兄《おあにい》さんからも聞いて知つてますわ」と云つた。
 「兄が何《ど》んな事を云つたかい」
 「何《ど》んな事つて、――なんでも餘《あんま》り善くない人だつていふ話ぢやありませんか」
 細君はまだ其男の事に就いて、健三の心を知りたい樣子であつた。然し彼にはまた反對にそれを避けたい意向があつた。彼は黙つて眼を閉ぢた。盆に載せた土鍋と茶碗を持つて席を立つ前、細君はもう一度斯う云つた。
 「其名刺の名前の人はまた來るさうですよ。いづれ御病氣が御癒《おなほ》りになつたら又伺ひますからつて、歸つて行つたさうですから」
 健三は仕方なしに又眼を開《あ》いた。
 「來るだらう。どうせ島田の代理だと名乘る以上は又來るに極つてるさ」
 「然しあなたお會ひになつて? 若し來たら」
 實をいふと彼は會ひたくなかつた。細君はなほの事|夫《をつと》を此變な男に會はせたくなかつた。
 「御會ひにならない方が好いでせう」
 「會つても好い。何も怖《こは》い事はないんだから」
 細君には夫《をつと》の言葉が、また例の我《が》だと取れた。健三はそれを厭だけれども正しい方法だから仕方がないのだと考へた。
 
     十二
 
 健三の病氣は日ならず全快した。活字に眼を曝《さら》したり、萬年筆を走らせたり、又は腕組をしてたゞ考へたりする時が再び續くやうになつた頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄關先に現れた。
 健三は鳥の子紙に刷《す》つた吉田虎吉《よしだとらきち》といふ見覺《みおぼえ》のある名刺を受取つて、しばらくそれを眺めてゐた。細君は小さな聲で「御會ひになりますか」と訊《たづ》ねた。
 「會ふから座敷へ通してくれ」
 細君は斷りたささうな顔をして少し躊躇してゐた。然し夫《をつと》の樣子を見てとつた彼女は、何も云はずにまた書齋を出て行つた。
 吉田《よしだ》といふのは、でつぷり肥《ふと》つた、かつぷくの好い、四十|恰好《がつかう》の男であつた。縞の羽織を着て、其頃迄|流行《はや》つた白縮緬《しろちりめん》の兵兒帶《へこおび》にぴか/\する時計の鎖を卷付けてゐた。言葉使ひから見ても、彼は全くの町人《ちやうにん》であつた。さうかと云つて、決して堅氣の商人《あきんど》とは受取れなかつた。「成程」といふべき所を、わざと「なある」と引張つたり、「御尤も」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答へたりした。
 健三には會見の順序として、まづ吉田の身元から訊いてかゝる必要があつた。然し彼よりは能辯な吉田は、自分の方で、聞かれない先に、素性《すじやう》の概略を説明した。
 彼はもと高崎に居た。さうして其處にある兵營に出入して、糧秣《かひば》を納めるのが彼の商賣であつた。
 「そんな關係から、段々將校方の御世話になるやうになりまして、其内でも柴野《しばの》の旦那には特別|御贔屓《ごひいき》になつたものですから」
 健三は柴野といふ名を聞いて急に思ひ出した。それは島田の後妻の娘が嫁に行つた先の軍人の姓であつた。
 「其縁故で島田を御承知なんですね」
 二人はしばらくその柴野といふ士官に就いて話し合つた。彼が今高崎にゐない事や、もつと遠くの西の方へ轉任してから幾年目になるといふ事や、相變らずの大酒で家計があまり裕《ゆたか》でないといふ事や、すべて是等は、健三に取つて耳新しい報知《たより》に違なかつたが、同時に大した興味を惹《ひ》く話題にもならなかつた。此夫婦に對して何等の惡感も抱《いだ》いてゐない健三は、たゞ左右《さう》かと思つて平氣に聞いてゐる丈《だけ》であつた。然し話が本筋に入《はい》つて、愈《いよ/\》島田の事を持ち出された時彼は、自然厭な心持がした。
 吉田はしきりに此老人の窮迫の状を訴へ始めた。
 「人間があまり好過《よす》ぎるもんですから、つい人に騙《だま》されてみんな損《す》つちまうんです。とても取れる見込のないのに無暗に金を出してやつたり何《なん》かするもんですからな」
 「人間が好過ぎるんでせうか。あんまり慾張るからぢやありませんか」
 たとひ吉田のいふ通り老人が困窮して居るとした所で、健三には斯うより外に解釋の道はなかつた。しかも困窮といふからしてが既に怪しかつた。肝心の代表者たる吉田も強ひて其點は辯護しなかつた。「或はさうかも知れません」と云つたなり、後《あと》は笑に紛《まぎ》らしてしまつた。其癖月々|若干《なにがし》か貢《みつ》いで遣つて呉れる譯には行くまいかといふ相談をすぐ其後から持ち出した。
 正直な健三はつい自分の經濟事状を打明けて、此一面識しかない男に話さなければならなくなつた。彼は自己の手に入《はい》る百二三十圓の月収が、何《ど》う消費されつゝあるかを詳しく説明して、月月《つき/”\》あとに殘るものは零《ぜろ》だと云ふ事を相手に納得《なつとく》させようとした。吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使つて、神妙に健三の辯解を聽いた。然し彼が何處迄彼を信用して、何處から彼を疑ひ始めてゐるか、其點は健三にも分らなかつた。たゞ先方は何處迄も下手《したで》に出る手段を主眼としてゐるらしく見えた。不穩の言葉は無論、強請《ゆすり》がましい樣子は噫《おくび》にも出さなかつた。
 
     十三
 
 是で吉田の持つて來た用件の片が付いたものと解釋した健三は、心のうちで暗《あん》に彼の歸るのを豫期した。然し彼の態度は明かに此豫期の裏を行つた。金の問題にはそれぎり觸れなかつたが、毒にも藥にもならない世間話を何時《いつ》迄《まで》も續けて動かなかつた。さうして自然天然話頭をまた島田の身の上に戻して來た。
 「何《ど》んなものでせう。老人も取る年で近頃は大變心細さうな事ばかり云つてゐますが、――元通りの御交際《おつきあひ》は願へないものでせうか」
 健三は一寸返答に窮した。仕方なしに黙つて二人の間に置かれた煙草盆を眺めてゐた。彼の頭のなかには、重たさうに毛繻子《けじゆす》の洋傘《かうもり》をさして、異樣の瞳を彼の上に据ゑた其老人の面影《おもかげ》があり/\と浮かんだ。彼は其人の世話になつた昔を忘れる譯に行かなかつた。同時に人格の反射から來る其人に對しての嫌惡《けんを》の情も禁ずる事が出來なかつた。兩方の間に板挾みとなつた彼は、しばらく口を開《ひら》き得《え》なかつた。
 「手前も折角斯うして上がつたものですから、是丈《これだけ》は何うぞ曲げて御承知を願ひたいもので」
 吉田の樣子は愈《いよ/\》丁寧になつた。何う考へても交際《つきあ》ふのは厭でならなかつた健三は、また何うしてもそれを斷るのを不義理と認めなければ濟まなかつた。彼は厭でも正しい方に從はうと思《おも》ひ極《きは》めた。
 「さういふ譯なら宜しう御座います。承知の旨を向《むかふ》へ傳へて下さい。然し交際《つきあひ》は致しても、昔のやうな關係ではとても出來ませんから、それも誤解のないやうに申し傳へて下さい。それから私《わたし》の今の状況では、私《わたし》の方から時々出掛けて行つて老人に慰藉を與へるなんて事は六《む》づかしいのですが……」
 「するとまあたゞ御出入《おでい》りをさせて戴くといふ譯になりますな」
 健三には御出入《おでいり》といふ言葉を聞くのが辛《つら》かつた。左右《さう》だとも左右《さう》でないとも云ひかねて、また口を閉ぢた。
 「いえなに夫《それ》で結構で、――昔と今とは事情も丸《まる》で違ひますから」
 吉田は自分の役目が漸く濟んだといふ顔付をして斯う云つた後《あと》、今迄持ち扱つてゐた煙草入を腰へさしたなり、さつさと歸つて行つた。
 健三は彼を玄關迄送り出すと、すぐ書齋へ入《はい》つた。其日の仕事を早く片付けやうといふ氣があるので、いきなり机へ向つたが、心の何處かに引懸《ひつかゝ》りが出來て、中々思ふ通りに捗取《はかど》らなかつた。
 其處へ細君が一寸《ちよつと》顔を出した。「あなた」と二遍ばかり聲を掛けたが、健三は机の前に坐つたなり振り向かなかつた。細君が其儘黙つて引込《ひつこ》んだ後《あと》、健三は進まぬながら仕事を夕方迄續けた。
 平生《へいぜい》よりは遲くなつて漸く夕飯《ゆふめし》の食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換《か》はした。
 「先刻《さつき》來た吉田つて男は一體|何《なん》なんですか」と細君が訊いた。
 「元《もと》高崎で陸軍の用達《ようたし》か何かしてゐたんださうだ」と健三が答へた。
 問答は固《もと》より夫丈《それだけ》で盡きる筈がなかつた。彼女は吉田と柴野との關係やら、彼と島田との間柄やらに就いて、自分に納得《なつとく》の行く迄|夫《をつと》から説明を求めやうとした。
 「何《ど》うせ御金か何か呉れつて云ふんでせう」
 「まあ左右《さう》だ」
 「それで貴方《あなた》何うなすつて、――どうせ御斷りになつたでせうね」
 「うん、斷つた。斷るより外に仕方がないからな」
 二人は腹の中で、自分等の家《うち》の經濟状態を別々に考へた。月々支出してゐる、また支出しなければならない金額は、彼に取つて隨分苦しい努力の報酬であると同時に、それで凡《すべ》てを賄《まかな》つて行く細君に取つても、少しも裕《ゆたか》なものとは云はれなかつた。
 
     十四
 
 健三はそれぎり座を立たうとした。然し細君にはまだ訊きたい事が殘つてゐた。
 「それで素直《すなほ》に歸つて行つたんですか、あの男は。少し變ね」
 「だつて斷られゝば仕方がないぢやないか。喧嘩をする譯にも行かないんだから」
 「だけど、又來るんでせう。あゝして大人《おとな》しく歸つて置いて」
 「來ても構はないさ」
 「でも厭ですわ、蒼蠅《うるさ》くつて」
 健三は細君が次の間《ま》で先刻《さつき》の會話を殘らず聽いてゐたものと察した。
 「御前聽いてたんだらう、悉皆《すつかり》」
 細君は夫《をつと》の言葉を肯定しない代りに否定もしなかつた。
 「ぢや夫《それ》で好いぢやないか」
 健三は斯う云つたなり又立つて書齋へ行かうとした。彼は獨斷家であつた。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じてゐた。細君もさうした點に於て夫《をつと》の權利を認める女であつた。けれども表向《おもてむき》夫《をつと》の權利を認める丈《だけ》に、腹の中には何時《いつ》も不平があつた。事々について出て來る權柄《けんぺい》づくな夫《をつと》の態度は、彼女に取つて決して心持の好いものではなかつた。何故《なぜ》もう少し打ち解けて呉れないのかといふ氣が、絶えず彼女の胸の奧に働いた。其癖|夫《をつと》を打ち解けさせる天分も技倆も自分に十分具へてゐないといふ事實には全く無頓着であつた。
 「あなた島田と交際《つきあ》つても好いと受合つて居らしつたやうですね」
 「あゝ」
 健三はそれが何うしたといつた風の顔付をした。細君は何時《いつ》でも此處迄來て黙つてしまふのを例にしてゐた。彼女の性質として、夫《をつと》が斯ういふ態度に出ると、急に厭氣《いやき》がさして、それから先一歩も前へ出る氣になれないのである。その不愛想《ぶあいさう》な樣子が又|夫《をつと》の氣質に反射して、益《ます/\》彼を權柄《けんぺい》づくにしがちであつた。
 「御前や御前の家族に關係した事でないんだから、構はないぢやないか、己《おれ》一人で極めたつて」
 「そりや私に對して何も構つて頂かなくつても宜《よ》ござんす。構つて呉れつたつて、どうせ構つて下さる方《かた》ぢやないんだから……」
 學問をした健三の耳には、細君のいふ事が丸《まる》で脱線であつた。さうして其脱線は何うしても頭の惡い證據としか思はれなかつた。「又始まつた」といふ氣が腹の中でした。然し細君はすぐ當《たう》の問題に立ち戻つて、彼の注意を惹《ひ》かなければならないやうな事を云ひ出した。
 「然し御父《おとう》さまに惡いでせう。今になつてあの人と御交際《おつきあひ》になつちやあ」
 「御父《おとう》さまつて己《おれ》のおやぢかい」
 「無論貴方の御父《おとう》さまですわ」
 「己《おれ》のおやぢはとうに死んだぢやないか」
 「然し御亡《おな》くなりになる前、島田とは絶交だから、向後《かうご》一切《いつさい》付合《つきあひ》をしちやならないつて仰しやつたさうぢやありませんか」
 健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した當時の光景をよく覺えてゐた。然し彼は自分の父に對して左程《さほど》情愛の籠《こも》つた優しい記憶を有《も》つてゐなかつた。其上絶交|云々《うんぬん》に就いても、さう嚴重に云ひ渡された覺《おぼえ》はなかつた。
 「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己《おれ》は話した積《つもり》はないがな」
 「貴方ぢやありません。御兄《おあにい》さんに伺つたんです」
 細君の返事は健三に取つて不思議でも何でもなかつた。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を與へなかつた。
 「おやぢは阿爺《おやぢ》、兄は兄、己《おれ》は己《おれ》なんだから仕方がない。己《おれ》から見ると、交際《つきあひ》を拒絶する丈《だけ》の根據がないんだから」
 斯う云ひ切つた健三は、腹の中で其|交際《つきあひ》が厭で/\堪《たま》らないのだといふ事實を意識した。けれどもその腹の中は丸《まる》で細君の胸に映らなかつた。彼女はたゞ自分の夫《をつと》が又例の頑固を張り通して、徒《いたづ》らに皆《みん》なの意見に反對するのだとばかり考へた。
 
     十五
 
 健三は昔其人に手を引かれて歩いた。其人は健三のために小さい洋服を拵へて呉れた。大人《おとな》さへあまり外國の服裝に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイル抔《など》には丸《まる》で頓着しなかつた。彼の上着には腰のあたりに釦《ぼたん》が二つ並んでゐて、胸は開《あ》いた儘であつた。霜降の羅紗《らしや》も硬くごは/\して、極めて手觸《てざは》りが粗《あら》かつた。ことに洋袴《ズボン》は薄茶色に竪溝《たてみぞ》の通つた調馬師でなければ穿《は》かないものであつた。然し當時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。
 彼の帽子も其頃の彼には珍らしかつた。淺い鍋底の樣な形をしたフエルトをすぽりと坊主頭へ頭巾《づきん》のやうに被《かぶ》るのが、彼に大した滿足を與へた。例の如く其人に手を引かれて、寄席《よせ》へ手品を見に行つた時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗《くろらしや》の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚きながら心配さうに、再びわが手に歸つた帽子を、何遍か撫でまはして見た事もあつた。
 其人は又彼のために尾の長い金魚をいくつも買つて呉れた。武者繪、錦繪、二枚つゞき三枚つゞきの繪も彼の云ふがまゝに買つて呉れた。彼は自分の身體にあふ緋縅《ひをど》しの鎧《よろひ》と龍頭《たつがしら》の兜《かぶと》さへ持つてゐた。彼は日に一度位づゝ其|具足《ぐそく》を身に着けて、金紙《きんがみ》で拵へた采配《さいはい》を振り舞はした。
 彼はまた子供の差す位な短い脇差《わきざし》の所有者であつた。その脇差の目貫《めぬき》は、鼠が赤い唐辛子《たうがらし》を引いて行く彫刻で出來上つてゐた。彼は銀で作つた此鼠と珊瑚《さんご》で拵へた此唐辛子とを、自分の寶物《たからもの》のやうに大事がつた。彼は時々此脇差が拔いて見たくなつた。また何度も拔かうとした。けれども脇差は何時《いつ》も拔けなかつた。――この封建時代の裝飾品も矢張其人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。
 彼はまた其人に連れられて、よく船に乘つた。船には屹度《きつと》腰蓑《こしみの》を着けた船頭が居て網を打つた。いな〔二字傍点〕だの鰡《ぼら》だのが水際迄來て跳《は》ね躍《をど》る樣が小さな彼の眼に白金《しろがね》のやうな光を興へた。船頭は時々一里も二里も沖へ漕いで行つて、海?《かいづ》といふもの迄|捕《と》つた。さういふ場合には高い波が來て舟を搖《ゆ》り動《うご》かすので、彼の頭はすぐ重くなつた。さうして舟の中へ寐てしまふ事が多かつた。彼の最も面白がつたのは河豚《ふぐ》の網にかゝつた時であつた。彼は杉箸で河豚《ふぐ》の腹をかんから〔四字傍点〕太鼓のやうに叩いて、その膨《ふく》れたり怒《おこ》つたりする樣子を見て樂しんだ。……
 吉田と會見した後《あと》の健三の胸には、不圖《ふと》斯うした幼時の記憶が續々湧いて來る事があつた。凡《すべ》てそれらの記憶は、斷片的な割に鮮明《あざやか》に彼の心に映《うつ》るもの許《ばか》りであつた。さうして斷片的ではあるが、どれもこれも決して其人と引離す事は出來なかつた。零碎《れいさい》の事實を手繰《たぐ》り寄《よ》せれば寄せる程、種が無盡藏にあるやうに見えた時、又其無盡藏にある種の各自《おの/\》のうちには必ず帽子を被らない男の姿が織り込まれてゐるといふ事を發見した時、彼は苦しんだ。
 「斯《こ》んな光景をよく覺えてゐる癖に何故自分の有《も》つてゐた其頃の心が思ひ出せないのだらう」
 これが健三にとつて大きな疑問になつた。實際彼は幼少の時分是程世話になつた人に對する當時のわが心持といふものを丸《まる》で忘れてしまつた。
 「然しそんな事を忘れる筈がないんだから、ことによると始めから其人に對して丈《だけ》は、恩義相應の情合《じやうあひ》が缺けてゐたのかも知れない」
 健三は斯うも考へた。のみならず多分《たぶん》此《この》方《はう》だらうと自分を解釋した。
 彼は此事情に就いて思ひ出した幼少の時の記憶を細君に話さなかつた。感情に脆《もろ》い女の事だから、もし左右《さう》でもしたら、或は彼女の反感を和《やは》らげるに都合が好からうとさへ思はなかつた。
 
     十六
 
 待ち設けた日がやがて來た。吉田と島田とはある日の午後連れ立つて健三の玄關に現れた。
 健三は此昔の人に對して何《ど》んな言葉を使つて、何《ど》んな應對をして好いか解らなかつた。思慮なしにそれ等《ら》を極《き》めて呉れる自然の衝動が今の彼には丸《まる》で缺けてゐた。彼は二十年|餘《よ》も會はない人と膝を突き合せながら、大した懷かしみも感じ得ずに、寧ろ冷淡に近い受答へばかりしてゐた。
 島田はかねて横風《わうふう》だといふ評判のある男であつた。健三の兄や姉は單にそれ丈《だけ》でも彼を忌み嫌つてゐる位であつた。實は健三自身も心のうちでそれを恐れてゐた。今の健三は、單に言葉遣ひの末でさへ、斯《こ》んな男から自尊心を傷《きずつ》けられるには、あまりに高過ぎると、自分を評價してゐた。
 然し島田は思つたよりも丁寧であつた。普通|初見《しよけん》の人が挨拶に用ひる「ですか」とか、「ません」とかいふてには〔三字傍点〕で、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないやうに見えた。健三はむかし其人から健坊々々と呼ばれた幼い時分を思ひ出した。關係が絶えてからも、會ひさへすれば、矢張り同じ健坊々々で通すので、彼はそれを厭に感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。
 「然しこの調子なら好いだらう」
 健三はそれで、出來《でき》る丈《だけ》不快の顔を二人に見せまいと力《つと》めた。向うも成るべく穩かに歸る積りと見えて、少しも健三の氣を惡くするやうな事は云はなかつた。それがために、當然双方の間に話題となるべき懷舊談|抔《など》も殆ど出なかつた。從つて談話はやゝともすると途切れ勝になつた。
 健三はふと雨の降つた朝の出來事を考へた。
 「此間二度程途中で御目にかゝりましたが、時々あの邊《へん》を御通りになるんですか」
 「實はあの高橋《たかはし》の總領の娘が片付いてゐる所がつい此先にあるもんですから」
 高橋といふのは誰の事だか健三には一向《いつかう》解らなかつた。
 「はあ」
 「そら知つてるでせう。あの芝の」
 島田の後妻の親類が芝にあつて、其處の家《うち》は何でも神主《かんぬし》か坊主だといふ事を健三は子供心に聞いて覺えてゐるやうな氣もした。然しその親類の人には、要《えう》さんといふ彼とおない年位な男に二三遍會つたぎりで、他《ほか》のものに顔を合せた記憶は丸《まる》でなかつた。
 「芝といふと、たしか御藤《おふぢ》さんの妹さんに當る方《かた》の御嫁に入らしつた所でしたね」
 「いえ姉ですよ。妹ではないんです」
 「はあ」
 「要三《えうざう》丈《だけ》は死にましたが、あとの姉妹《きやうだい》はみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら總領のは、多分知つておいでだらう、――へ行つたんです」
 ――といふ名前は成程健三に耳新しいものではなかつた。然しそれはもう餘程前に死んだ人であつた。
 「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、叔父さん/\て重寶《ちようはう》がられましてね。それに近頃は宅《うち》に手人をするんで監督の必要が出來たものだから、殆ど毎日のやうに此處の前を通ります」
 健三は昔此男につれられて、池《いけ》の端《はた》の本屋で法帖《はふでふ》を買つて貰つた事をわれ知らず思ひ出した。たとひ一錢でも二錢でも負けさせなければ物を買つた例《ためし》のない此人は、其時も僅か五厘の釣錢《つり》を取るべく店先へ腰を卸して頑《ぐわん》として動かなかつた。董其昌《とうきしやう》の折手本《をりでほん》を抱《かゝ》へて傍《そば》に佇立《たゝず》んでゐる彼に取つては其態度が如何にも見苦しくまた不愉快であつた。
 「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だらう」
 健三は斯う考へながら、島田の顔を見て苦笑を洩らした。しかし島田は一向《いつかう》それに氣が付かないらしかつた。
 
     十七
 
 「でも御蔭さまで、本を遺《のこ》して行つて呉れたもんですから、あの男が亡《な》くなつても、あとはまあ困らないで、何うにか斯うにか遣《や》つて行けるんです」
 島田は――の作つた書物を世の中の誰でもが知つてゐなければならない筈だといつた風の口調で斯う云つた。然し健三は不幸にして其著書の名前を知らなかつた。字引か教科書だらうとは推察したが、別に訊いて見る氣にもならなかつた。
 「本といふものは實に有難いもので、一つ作つて置くとそれが何時《いつ》迄《まで》も賣れるんですからね」
 健三は黙つてゐた。仕方なしに吉田が相手になつて、何でも儲けるには本に限るやうな事を云つた。
 「御祝儀《ごしうぎ》は濟んだが、――が死んだ時|後《あと》が女だけだもんだから、實は私《わたし》が本屋に懸け合ひましてね。それで年々|若干《いくら》と極めて、向うから収めさせるやうにしたんです」
 「へえ、大したもんですな。成程何うも學問をなさる時は、それ丈《だけ》資金《もとで》が要《い》るやうで、一寸損な氣もしますが、さて仕上げて見ると、つまり其《その》方《はう》が利廻りの好い譯になるんだから、無學のものはとても敵《かな》ひませんな」
 「結局|得《とく》ですよ」
 彼等の應對は健三に何の興味も與へなかつた。其上いくら相槌《あひづち》を打たうにも打たれないやうな變な見當へ向いて進んで行くばかりであつた。手持無沙汰な彼は、已《やむ》を得《え》ず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。
 其庭はまた見苦しく手入の屆かないものであつた。何時《いつ》緑をとつたか分らないやうな一本の松が、息苦しさうに蒼黒い葉を垣根の傍《そば》に茂らしてゐる外に、木らしい木は殆どなかつた。箒に馴染《なず》まない地面は小石交《こいしまじ》りに凸凹《でこぼこ》してゐた。
 「此方《こちら》の先生も一つ御儲けになつたら如何《いかゞ》です」 吉田は突然健三の方を向いた。健三は苦笑しない譯に行かなかつた。仕方なしに「えゝ儲けたいものですね」と云つて跋《ばつ》を合せた。
 「なに譯はないんです。洋行迄すりや」
 是は年寄の言葉であつた。それが恰《あたか》も自分で學資でも出して、健三を洋行させたやうに聞こえたので、彼は厭な顔をした。然し老人は一向《いつかう》そんな事に頓着する樣子も見えなかつた。迷惑さうな健三の體《てい》を見ても澄ましてゐた。仕舞に吉田が例の煙草入を腰へ差して、「では今日《こんにち》は是で御暇《おいとま》を致す事にしませうか」と催促したので、彼は漸く歸る氣になつたらしかつた。
 二人を送り出して又一寸座敷へ戻つた健三は、再び座蒲團の上に坐つたまゝ、腕組をして考へた。
 「一體何の爲に來たのだらう。是ぢや他《ひと》を厭がらせに來るのと同じ事だ。あれで向《むかふ》は面白いのだらうか」
 彼の前には先刻《さつき》島田の持つて來た手土産《てみやげ》が其儘置いてあつた。彼はぼんやり其粗末な菓子折を眺めた。
 何にも云はずに茶碗だの煙草盆を片付け始めた細君は、仕舞に黙つて坐つてゐる彼の前に立つた。
 「あなたまだ其處に坐つて居らつしやるんですか」
 「いやもう立つても好い」
 健三はすぐ立上らうとした。
 「あの人達はまた來るんでせうか」
 「來るかも知れない」
 彼は斯う言ひ放つた儘、また書齋へ入《はい》つた。一《ひと》しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが濟むと、菓子折を奪《と》り合《あ》ふ子供の聲がした。凡《すべ》てがやがて靜《しづか》になつたと思ふ頃、黄昏《たそがれ》の空から又雨が落ちて來た。健三は買はう/\と思ひながら、ついまだ買はずにゐるオ※[ワに濁点]ーシューの事を思ひ出した。
 
     十八
 
 雨の降る日が幾日《いくか》も續いた。それがからりと晴れた時、染付けられたやうな空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日|欝陶《うつたう》しい思ひをして、縫針《ぬひはり》にばかり氣をとられてゐた細君は、縁鼻へ出て此蒼い空を見上げた。それから急に箪笥の抽斗《ひきだし》を開けた。
 彼女が服裝を改めて夫《をつと》の顔を覗きに來た時、健三は頬杖を突いたまゝ盆槍《ぼんやり》汚《きた》ない庭を眺めてゐた。
 「あなた何を考へて居らつしやるの」
 健三は一寸振り返つて細君の餘所行姿《よそゆきすがた》を見た。其刹那に爛熟した彼の眼は不圖《ふと》した新《あた》らし味《み》を自分の妻の上に見出《みいだ》した。
 「何處かへ行くのかい」
 「えゝ」
 細君の答は彼に取つて餘りに簡潔過ぎた。彼はまたもとの佗《わ》びしい我《われ》に歸つた。
 「子供は」
 「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜《やかま》しくつて御蒼蠅《おうるさ》いでせうから」
 其日曜の午後を健三は獨り靜かに暮らした。
 細君の歸つて來たのは、彼が夕飯《ゆふめし》を濟まして又書齋へ引き取つた後《あと》なので、もう灯《あかり》が點《つ》いてから一二時間|經《た》つてゐた。
 「只今」
 遲くなりましたとも何とも云はない彼女の無愛嬌《ぶあいけう》が、彼には氣に入らなかつた。彼は一寸振り向いた丈《だけ》で口を利かなかつた。するとそれが又細君の心に暗い影を投げる媒介《なかだち》となつた。細君も其儘立つて茶の間の方へ行つてしまつた。
 話をする機會はそれぎり二人の間に絶えた。彼等は顔さへ見れば自然何か云ひたくなるやうな仲の好い夫婦でもなかつた。又それ丈《だけ》の親しみを現すには、御互が御互に取つてあまりに陳腐過ぎた。
 二三日|經《た》つてから細君は始めて其日外出した折の事を食事の時話題に上《のぼ》せた。
 「此間《こなひだ》宅《うち》へ行つたら、門司の叔父に會ひましてね。隨分驚いちまひました。まだ臺灣《たいわん》にゐるのかと思つたら、何時《いつ》の間《ま》にか歸つて來てゐるんですもの」
 門司の叔父といふのは油斷のならない男として彼等の間に知られてゐた。健三がまだ地方にゐる頃、彼は突然汽車で遣つて來て、急に入用《いりよう》が出來たから、是非共少し都合して呉れまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を些少ながら用立てたら、立派に印紙を貼つた證文を後から郵便で送つて來た。其中に「但し利子の儀は」といふ文句迄書き添へてあつたので、健三は寧ろ堅過ぎる人だと思つたが、貸した金はそれぎり戻つて來なかつた。
 「今何をしてゐるのかね」
 「何をしてゐるんだか分りやしません。何とかの會社を起すんで、是非健三さんにも賛成して貰ひたいから、其内|上《あが》る積《つもり》だつて云つてました」
 健三には其《その》後《あと》を訊く必要もなかつた。彼が昔《むかし》金を借りられた時分にも、此叔父は何かの會社を建てゝゐるとかいふので彼はそれを本當にしてゐた。細君の父もそれを疑はなかつた。叔父は其父を旨く説きつけて、門司迄引張つて行つた。さうして是が今建築中の會社だと云つて、縁もゆかりもない他人の建てゝゐる家を見せた。彼は實に此手段で細君の父から何千かの資本を捲き上げたのである。
 健三は此人に就いてこれ以上何も知りたがらなかつた。細君も云ふのが厭らしかつた。然し何時《いつ》もの通り會話は其處で切れてしまはなかつた。
 「あの日はあまり好い御天氣だつたから、久し振りで御兄《おあにい》さんの所へも廻つて來ました」
 「さうか」
 細君の里は小石川臺町で、健三の兄の家《うち》は市ケ谷藥王寺前だから、細君の訪問は大した迂回《まはりみち》でもなかつた。
 
     十九
 
 「御兄《おあにい》さんに島田の來た事を話したら驚いて居らつしやいましたよ。今更來られた義理ぢやないんだつて。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにつて」
 細君の顔には多少|諷諫《ふうかん》の意が現れてゐた。
 「それを聞きに、御前わざ/\藥王寺前へ廻つたのかい」
 「またそんな皮肉を仰しやる。あなたは何うしてさう他《ひと》のする事を惡くばかり御取りになるんでせう。妾《わたくし》あんまり御無沙汰をして濟まないと思つたから、たゞ歸りに一寸伺つた丈《だけ》ですわ」
 彼が滅多に行つた事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫《をつと》の代りに交際《つきあひ》の義理を立てゝゐるやうなものなので、いかな健三もそれには苦情をいふ餘地がなかつた。
 「御兄《おあにい》さんは貴夫《あなた》のために心配してゐらつしやるんですよ。あゝ云ふ人と交際《つきあ》ひだして、また何《ど》んな面倒が起らないとも限らないからつて」
 「面倒つて何んな面倒を指《さ》すのかな」
 「そりや起つて見なければ、御兄《おあにい》さんにだつて分《わか》りつ子《こ》ないでせうけれども、何しろ碌な事はないと思つてゐらつしやるんでせう」
 碌な事があらうとは健三にも思へなかつた。
 「然し義理が惡いからね」
 「だつて御金を遣《や》つて縁を切つた以上、義理の惡い譯はないぢやありませんか」
 手切れの金は昔養育料の名前の下《もと》に健三の父の手から島田に渡されたのである。それはたしか健三が廿二の春であつた。
 「其上その御金をやる十四五年も前から貴夫《あなた》は、もう貴夫《あなた》の宅《うち》へ引取られてゐらしつたんでせう」
 いくつの年からいくつの年迄彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも判然《はつきり》分らなかつた。
 「三つから七つ迄ですつて。御兄《おあにい》さんが左右《さう》御仰《おつしや》いましたよ」
 「左右《さう》かしら」
 健三は夢のやうに消えた自分の昔を回顧した。彼の頭の中には眼鏡《めがね》で見るやうな細《こま》かい繪が澤山出た。けれども其繪には何《ど》れを見ても日付がついてゐなかつた。
 「證文にちやんと左右《さう》書いてあるさうですから大丈夫間違はないでせう」
 彼は自分の離籍に關した書類といふものを見た事がなかつた。
 「見ない譯はないわ。屹度《きつと》忘れて居らつしやるんですよ」
 「然し八ツで宅《うち》へ歸つたにした所で復籍する迄は多少|徃來《わうらい》もしてゐたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたといふ譯でもないんだからね」
 細君は口を噤《つぐ》んだ。それが何故《なぜ》だだか健三には淋《さぴ》しかつた。
 「己《おれ》も實は面白くないんだよ」
 「ぢや御止《およ》しになれば好いのに。つまらないわ、貴夫《あなた》、今になつてあんな人と交際《つきあ》ふのは。一體何ういふ氣なんでせう、先方《むかふ》は」
 「それが己《おれ》には些《ちつ》とも解らない。向《むかふ》でも嘸《さぞ》詰らないだらうと思ふんだがね」
 「御兄《おあにい》さんは何でもまた金にしやうと思つて遣つて來たに違ひないから、用心しなくつちや不可《いけな》いつて云つて居らつしやいましたよ」
 「然し金は始めから斷つちまつたんだから、構はないさ」
 「だつて是から先何を云ひ出さないとも限らないわ」
 細君の胸には最初から斯うした豫想が働いてゐた。其處を既に防ぎ止めたとばかり信じてゐた理に強い健三の頭に、微《かす》かな不安が又新しく萌《きざ》した。
 
     二十
 
 其不安は多少彼の仕事の上に即《つ》いて廻つた。けれども彼の仕事はまた其不安の影を何處かへ埋《うづ》めてしまふ程|忙《いそが》しかつた。さうして島田が再び健三の玄關へ現れる前に、月は早くも末になつた。
 細君は鉛筆で汚《きた》ならしく書き込んだ會計簿を持つて彼の前に出た。
 自分の外で働いて取る金額の全部を擧げて細君の手に委《ゆだ》ねるのを例にしてゐた健三には、それが意外であつた。彼は未《いま》だ曾《かつ》て月末《げつまつ》に細君の手から支出の明細書《めいさいがき》を突き付けられた例《ためし》がなかつた。
 「まあ何うにかしてゐるんだらう」
 彼は常に斯う考へた。それで自分に金の要る時は遠慮なく細君に請求した。月々買ふ書物の代價|丈《だ》けでも隨分の多額に上《のぼ》る事があつた。それでも細君は澄ましてゐた。經濟に暗い彼は時として細君の放漫をさへ疑《うたぐ》つた。
 「月々の勘定はちやんとして己《おれ》に見せなければ不可《いけな》いぜ」
 細君は厭な顔をした。彼女自身から云へば自分程忠實な經濟家は何處にも居ない氣なのである。
 「えゝ」
 彼女の返事は是《これ》限《ぎり》であつた。さうして月末《つきずゑ》が來ても會計簿はつひに健三の手に渡らなかつた。健三も機嫌の好い時はそれを黙認した。けれども惡い時は意地になつてわざと見せろと逼《せま》る事があつた。其癖見せられるとごちや/\して中々解らなかつた。たとひ帳面づらは細君の説明を聽いて解るにしても、實際月に肴《さかな》をどれ丈《だけ》食つたものか、又は米がどれ程|要《い》つたものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見當が付かなかつた。
 此場合にも彼は細君の手から帳簿を受取つて、ざつと眼を通した丈《だけ》であつた。
 「何か變つた事でもあるのかい」
 「何うかして頂かないと……」
 細君は目下《もくか》の暮し向に就いて詳しい説明を夫にして聞かせた。
 「不思議だね。それで能《よ》く今日《けふ》迄《まで》遣《や》つて來られたものだね」
 「實は毎月《まいげつ》餘らないんです」
 餘らうとは健三にも思へなかつた。先月末に舊い友達が四五人で何處かへ遠足に行くとかいふので、彼にも勸誘の端書をよこした時、彼は二圓の會費がない丈《だけ》の理由で、同行を斷つた覺《おぼえ》もあつた。
 「然しかつかつ〔四字傍点〕位には行きさうなものだがな」
 「行つても行かなくつても、是《これ》丈《だけ》の収入で遣《や》つて行くより仕方がないんですけれども」
 細君は云《い》ひ惡《にく》さうに、箪笥の抽匣《ひきだし》に仕舞つて置いた自分の着物と帶を質に入れた?末を話した。
 彼は昔自分の姉や兄が彼等の晴着を風呂敷へ包んで、こつそり外《そと》へ持つて出たり又持つて入《はい》つたりしたのをよく目撃した。他《ひと》に知れないやうに氣を配りがちな彼等の態度は、恰《あたか》も罪を犯した日影者のやうに見えて、彼の子供心に淋《さび》しい印象を刻《きざ》み付《つ》けた。斯うした聯想が今の彼を殊更《ことさら》に佗《わ》びしく思はせた。
 「質を置いたつて、御前が自分で置きに行つたのかい」
 彼自身いまだ質屋の暖簾《のれん》を潜《くゞ》つた事のない彼は、自分より貧苦の經驗に乏しい彼女が、平氣でそんな所へ出入《でいり》する筈がないと考へた。
 「いゝえ頼んだんです」
 「誰に」
 「山野のうちの御婆さんにです。あすこには通ひつけの質屋の帳面があつて便利ですから」
 健三は其先を訊かなかつた。夫《をつと》が碌な着物一枚さへ拵へてやらないのに、細君が自分の宅《うち》から持つてきたものを質に入れて、家計の足《たし》にしなければならないといふのは、夫《をつと》の耻に相違なかつた。
 
     二十一
 
 健三はもう少し働かうと決心した。その決心から來る努力が、月々幾枚かの紙幣に變形して、細君の手に渡るやうになつたのは、それから間《ま》もない事であつた。
 彼は自分の新たに受取つたものを洋服の内隱袋《うちかくし》から出して封筒の儘疊の上へ放《はふ》り出《だ》した。黙つてそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐ其紙幣の出所《でところ》を知つた。家計の不足は斯《かく》の如《ごと》くにして無言のうちに補はれたのである。
 其時細君は別に嬉しい顔もしなかつた。然し若《も》し夫《をつと》が優しい言葉に添へて、それを渡して呉れたなら、屹度《きつと》嬉しい顔をする事が出來たらうにと思つた。健三は又若し細君が嬉しさうにそれを受取つてくれたら優しい言葉も掛けられたらうにと考へた。それで物質的の要求に應ずべく工面《くめん》された此金は、二人の間に存在する精神上の要求を充たす方便としては寧ろ失敗に歸《き》してしまつた。
 細君は其折の物足らなさを回復するために、二三日|經《た》つてから、健三に一反の反物《たんもの》を見せた。
 「あなたの着物を拵へやうと思ふんですが、是は何うでせう」
 細君の顔は晴々しく輝いてゐた。然し健三の眼にはそれが下手《へた》な技巧を交へてゐるやうに映つた。彼は其不純を疑つた。さうしてわざと彼女の愛嬌に誘はれまいとした。細君は寒さうに座を立つた。細君の座を立つた後で、彼は何故《なぜ》自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考へて益《ます/\》不愉快になつた。
 細君と口を利く次の機會が來た時、彼は斯う云つた。
 「己《おれ》は決して御前の考へてゐるやうな冷刻な人間ぢやない。たゞ自分の有《も》つてゐる温《あたゝ》かい情愛を堰《せ》き止《と》めて、外《そと》へ出られないやうに仕向けるから、仕方なしに左右《さう》するのだ」
 「誰もそんな意地の惡い事をする人は居ないぢやありませんか」
 「御前は始終《しよつちゆう》してゐるぢやないか」
 細君は恨めしさうに健三を見た。健三の論理《ロジツク》は丸《まる》で細君に通じなかつた。
 「貴夫《あなた》の神經は近頃餘つ程變ね。何うしてもつと穩當に私を觀察して下さらないのでせう」
 健三の心には細君の言葉に耳を傾《かたぶ》ける餘裕がなかつた。彼は自分に不自然な冷《ひやゝ》かさに對して腹立たしい程の苦痛を感じてゐた。
 「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでゐらつしやるんだから仕方がない」
 二人は互に徹底する迄話し合ふ事のつひに出來ない男女《なんによ》のやうな氣がした。從つて二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかつた。
 健三の新《あらた》に求めた餘分の仕事は、彼の學問なり教育なりに取つて、さして困難のものではなかつた。たゞ彼はそれに費やす時間と努力とを厭《いと》つた。無意味に暇を潰すといふ事が目下《もくか》の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きてゐるうちに、何か爲終《しおほ》せる、又|仕終《しおほ》せなければならないと考へる男であつた。
 彼が其餘分の仕事を片付けて家《いへ》に歸るときは何時《いつ》でも夕暮になつた。
 或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家《いへ》の玄關の格子《かうし》を手荒く開けた。すると奧から出て來た細君が彼の顔を見るなり、「あなた彼《あ》の人《ひと》が又來ましたよ」と云つた。細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでゐたので、健三も彼女の樣子と言葉から、留守のうちに誰が來たのか略《ほゞ》見當が付いた。彼は無言の儘茶の間へ上つて、細君に扶《たす》けられながら洋服を和服に改めた。
 
     二十二
 
 彼が火鉢の傍《そば》に坐つて、煙草を一本吹かしてゐると、間もなく夕飯《ゆふめし》の膳が彼の前に運ばれた。彼はすぐ細君に質問を掛けた。
 「上《あが》つたのかい」
 細君には何が上つたのか解らない位此質問は突然であつた。一寸驚いて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けてゐる夫《をつと》の樣子から始めて其意味を悟つた。
 「あの人ですか。――でも御留守でしたから」
 細君は座敷へ島田を上げなかつたのが、恰《あたか》も夫《をつと》の氣に障る事でもしたやうな調子で、言譯がましい答をした。
 「上げなかつたのかい」
 「えゝ。たゞ玄關で一寸」
 「何とか云つてゐたかい」
 「とうに伺ふ筈だつたけれども、少し旅行してゐたものだから御無沙汰をして濟みませんつて」
 濟みませんといふ言葉が一種の嘲弄のやうに健三の耳に響いた。
 「旅行なんぞするのかな、田舍《ゐなか》に用のある身體とも思へないが。御前にその行つた先を話したかい」
 「そりや何とも云ひませんでした。たゞ娘の所で來て呉れつて頼まれたから行つて來たつて云ひました。大方あの御縫《おぬひ》さんて人の宅《うち》なんでせう」
 御縫《おぬひ》さんの嫁《かたづ》いた柴野《しばの》といふ男には健三も其昔會つた覺《おぼえ》があつた。柴野の今の任地先も此間吉田から聞いて知つてゐた。それは師團か旅團のある中國邊の或都會であつた。
 「軍人なんですか、其御縫さんて人の御嫁に行つた所は」
 健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらく間《ま》を置いたあとで斯《こ》んな問を掛けた。
 「能《よ》く知つてるね」
 「何時《いつ》か御兄《おあにい》さんから伺ひましたよ」
 健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考へた。柴野は肩の張つた色の黒い人であつたが、眼鼻立からいふと寧ろ立派な部類に屬すべき男に違なかつた。御縫さんは又すらりとした恰好《かつかう》の好い女で、顔は面長《おもなが》の色白といふ出來であつた。ことに美しいのは睫毛《まつげ》の多い切長《きれなが》の其眼のやうに思はれた。彼等の結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であつた。健三は一度その新宅の門を潜《くゞ》つた記憶を有《も》つてゐた。其時柴野は隊から歸つて來た身體を大きくして、長火鉢の猫板《ねこいた》の上にある洋盃《コツプ》から冷酒《ひやざけ》をぐい/\飲んだ。御縫さんは白い肌をあらはに、鏡台の前で鬢《びん》を撫《な》でつけてゐた。彼はまた自分の分として取《と》り配《わけ》られた握《にぎ》り鮨《ずし》をしきりに皿の中から撮《つま》んで食べた。……
 「御縫さんて人はよつぽど容色《きりやう》が好いんですか」
 「何故」
 「だつて貴夫《あなた》の御嫁にするつて話があつたんださうぢやありませんか」
 成程そんな話もない事はなかつた。健三がまだ十五六の時分、ある友達を往來《わうらい》へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家《うち》へ寄らうとした時、偶然門前の泥溝《どぶ》に掛けた小橋の上に立つて往來《わうらい》を眺めてゐた御縫さんは、一寸微笑しながら出合頭《であひがしら》の健三に會釋した。それを目撃した彼の友達は獨逸語《ドイツご》を習ひ始めの子供であつたので、「フラウ門に倚《よ》つて待つ」と云つて彼をひやかした。然し御縫さんは年齒《とし》からいふと彼より一つ上であつた。其上その頃の健三は、女に對する美醜の鑑別もなければ好惡《かうを》も有《も》たなかつた。夫《それ》から羞耻《はにかみ》に似たやうな一種妙な情緒《じやうしよ》があつて、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球《ゴムだま》のやうに、却《かへ》つて女から彈《はじ》き飛《と》ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他《ほか》に面倒のあるなしを差措《さしお》いて、到底物にならないものとして放棄されてしまつた。
 
     二十三
 
 「貴夫《あなた》何うして其御縫さんて人を御貰ひにならなかつたの」
 健三は膳の上から急に眼を上げた。追憶の夢を愕《おど》ろかされた人のやうに。
 「丸《まる》で問題にやならない。そんな料簡は島田にあつた丈《だけ》なんだから。それに己《おれ》はまだ子供だつたしね」
 「あの人の本當の子ぢやないんでせう」
 「無論さ。御縫さんは御藤さんの連れつ子だもの」
 お藤さんと云ふのは島田の後妻の名であつた。
 「だけど、もし其御縫さんて人と一所《いつしよ》になつてゐらしつたら、何うでせう。今頃は」
 「何うなつてるか判《わか》らないぢやないか、なつて見なければ」
 「でも殊によると、幸福かも知れませんわね。其方が」
 「左右《さう》かも知れない」
 健三は少し忌々《いま/\》しくなつた。細君はそれぎり口を噤《つぐ》んだ。
 「何故そんな事を訊くのだい。詰らない」
 細君は窘《たし》なめられるやうな氣がした。彼女にはそれを乘り越す丈《だけ》の勇氣がなかつた。
 「どうせ私は始めつから御氣に入らないんだから……」
 健三は箸を放《はふ》り出《だ》して、手を頭の中に突込《つつこ》んだ。さうして其處に溜つてゐる雲脂《ふけ》をごし/\落し始めた。
 二人はそれなり別々の室《へや》で別々の仕事をした。健三は御機嫌ようと挨拶に來た子供の去つた後で例の如く書物を讀んだ。細君は其子供を寢かした後で、晝の殘りの縫物を始めた。
 御縫さんの話がまた二人の間の問題になつたのは、中一日《なかいちにち》置いた後《あと》の事で、それも偶然の切《き》ツ懸《か》けからであつた。
 其時細君は一枚の端書を持つて、健三の部屋へ這入《はい》つて來た。それを夫《をつと》の手に渡した彼女は、何時《いつ》ものやうに其儘立ち去らうともせずに、彼の傍《そば》に腰を卸した。健三が受取つた端書を手に持つたなり何時《いつ》迄《まで》も讀みさうにしないので、我慢しきれなくなつた細君はつひに夫《をつと》を促した。
 「あなた其端書は比田《ひだ》さんから來たんですよ」
 健三は漸く書物から眼を放した。
 「あの人の事で何か用事が出來たんですつて」
 成程端書には島田の事で會《あ》ひたいから一寸來てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあつた。わざ/\彼を呼び寄せる失禮も鄭寧に詫びてあつた。
 「何うしたんでせう」
 「丸《まる》で判明《わか》らないね。相談でもなからうし。此方《こつち》から相談を持ち懸けた事なんか丸《まる》でないんだから」
 「みんなで交際《つきあ》つちや不可《いけな》いつて忠告でもなさるんぢやなくつて。御兄《おあにい》さんも入らつしやると書いてあるでせう、其處に」
 端書には細君の云つた通りの事がちやんと書いてあつた。
 兄の名前を見た時、健三の頭に不圖《ふと》又御縫さんの影が差した。島田が彼と此女を一所にして、後《あと》まで兩家の關係をつながうとした如く、此女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいやうな希望を有《も》つてゐたらしかつたのである。
 「健ちやんの宅《うち》と斯《こ》んな間柄にならないとね。あたしも始終健ちやんの家《うち》へ行かれるんだけれども」
 御藤さんが健三に斯んな事を云つたのも、顧みれば古い昔であつた。
 「だつて御縫さんが今|嫁《かたづ》いてる先は元からの許嫁《いひなづけ》なんでせう」
 「許嫁《いひなづけ》でも場合によつたら斷る氣だつたんだらうよ」
 「一體御縫さんは何方《どつち》へ行きたかつたんでせう」
 「そんな事が判明《わか》るもんか」
 「ぢや御兄《おあにい》さんの方は何うなの」
 「それも判明《わか》らんさ」
 健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に應ぜられるやうな人情がゝつた材料が一つもなかつた。
 
     二十四
 
 健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答へた。さうして指定の日が來た時、約束通り又|津《つ》の守坂《かみざか》へ出掛けた。
 彼は時間に對して頗る正確な男であつた。一面に於て愚直に近い彼の性格は、一面に於て却《かへ》つて彼を神經的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。實際今の彼は起きると寐る迄、始終時間に追ひ懸けられてゐるやうなものであつた。
 彼は途々《みち/\》自分の仕事に就いて考へた。其仕事は決して自分の思ひ通りに進行してゐなかつた。一歩目的へ近付くと、目的は又一歩彼から遠ざかつて行つた。
 彼は又彼の細君の事を考へた。其當時強烈であつた彼女の歇私的里《ヒステリー》は、自然と輕くなつた今でも、彼の胸に猶《なほ》暗い不安の影を投げて已《や》まなかつた。彼はまた其細君の里の事を考へた。經濟上の壓迫が家庭を襲はうとしてゐるらしい氣配《けはひ》が、船に乘つた時の鈍《にぶ》い動搖を彼の精神に與へる種となつた。
 彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所に纒めて考へなければならなかつた。凡《すべ》てが頽廢の影であり凋落《てうらく》の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併《あは》せて考へなければならなかつた。
 姉の家へ來た時、彼の心は沈んでゐた。それと反對に彼の氣は興奮してゐた。
 「いや何うもわざ/\御呼び立て申して」と比田が挨拶した。是は昔の健三に對する彼の態度ではなかつた。然し變つて行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫《をつと》たる此人にだけ優者になり得たといふ誇りは、健三にとつて滿足であるよりも、寧ろ苦痛であつた。
 「一寸上がらうにも、何うにも斯うにも忙《いそが》しくつて遣り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も實は頼まれたんですけれども、貴方と御約束があるから、斷つてやつとの事で今歸つて來た所で」
 比田のいふ所を黙つて聽いてゐると、彼が變な女を其勤先の近所に圍《かこ》つてゐるといふ噂はまるで嘘のやうであつた。
 古風な言葉で形容すれば、たゞ算筆《さんぴつ》に達者だといふ事の外に、大した學問も才幹もない彼が、今時の會社で、さう重寶《ちようはう》がられる筈がないのに。――健三の心には斯《こ》んな疑問さへ湧いた。
 「姉さんは」
 「それに御夏《おなつ》が又例の喘息《ぜんそく》でね」
 姉は比田のいふ通り針箱の上に載せた括《くゝ》り枕《まくら》に倚《よ》りかゝつて、ぜい/\云つてゐた。茶の間を覗きに立つた健三の眼に、其亂れた髪の毛がむごたらしく映つた。
 「何うです」
 彼女は頭を眞直《まつすぐ》に上げる事さへ叶《かな》はないで、小さな顔を横にした儘健三を見た。挨拶をしやうと思ふ努力が、すぐ咽喉《のど》に障つたと見えて、今迄多少落ち付いてゐた咳嗽《せき》の發作《ほつさ》が一度に來た。其|咳嗽《せき》は一つがまだ濟まないうちに、後から/\仕切《しき》りなしに出て來るので、傍《はた》で見てゐても氣が退《ひ》けた。
 「苦しさうだな」
 彼は獨り言のやうに斯う呟《つぶ》やいて、眉を顰《ひそ》めた。見馴れない四十|恰好《がつかう》の女が、姉の後《うしろ》から脊を撫《さす》つてゐる傍《そば》に、一本の杉箸を添へた水飴の入物が盆の上に載せてあつた。女は健三に會釋した。
 「何うも一昨日《をとゝひ》からね、あなた」
 姉は斯うして三日も四日も不眠絶食の姿で衰へて行つたあと、又|活作用《くわつさよう》の彈力で、ぢり/\元へ戻るのを、年來の習慣としてゐた。それを知らない健三ではなかつたが、目前《まのあたり》此猛烈な咳嗽《せき》と消え入るやうな呼息遣《いきづかひ》とを見てゐると、病氣に罹《かゝ》つた當人よりも自分の方が却《かへ》つて不安で堪《たま》らなくなつた。
 「口を利かうとすると咳嗽《せき》を誘ひ出すのでせう。靜かにしてゐらつしやい。私《わたし》は彼方《あつち》へ行くから」
 發作《ほつさ》の一仕切《ひとしきり》収まつた時、健三は斯う云つて、またもとの座敷へ歸つた。
 
     二十五
 
 比田は平氣な顔をして本を讀んでゐた。「いえなに又例の持病ですから」と云つて、健三の慰問には丸《まる》で取り合はなかつた。同じ事を年に何度となく繰返して行くうちに、自然《じねん》と末枯《すが》れて來る氣の毒な女房の姿は、此男にとつて毫も感傷の種にならないやうに見えた。實際彼は三十年近くも同棲して來た彼の妻に、たゞの一つ優しい言葉を掛けた例《ためし》のない男であつた。
 健三の這入《はい》つて來るのを見た彼は、すぐ讀み懸けの本を伏せて、鐵縁《てつぶち》の眼鏡《めがね》を外《はづ》した。
 「今一寸貴方が茶の間へ行つてゐらしつた間に、下《くだ》らないものを讀み出したんです」
 比田と讀書――是は又極めて似つかはしくない取合はせであつた。
 「何ですか、それは」
 「なに健ちやんなんぞの讀むもんぢやありません、古いもんで」
 比田は笑ひながら、机の上に伏せた本を取つて健三に渡した。それが意外にも常山紀談《じやうざんきだん》だつたので健三は少し驚いた。それにしても自分の細君が今にも絶息しさうな勢ひで咳《せ》き込《こ》んでゐるのを、丸《まる》で餘所事《よそごと》のやうに聽いて、こんなものを平氣で讀んでゐられる所が、如何にも能《よ》く此男の性質をあらはしてゐた。
 「私《わたし》や舊弊だから斯ういふ古い講談物が好きでしてね」
 彼は常山紀談を普通の講談物と思つてゐるらしかつた。然しそれを書いた湯淺常山《ゆあさじやうざん》を講釋師と間違へる程でもなかつた。
 「矢ツ張り學者なんでせうね、其男は。曲亭馬琴《きよくていばきん》と何方《どつち》でせう。私《わたし》や馬琴の八犬傳《はつけんでん》も持つてゐるんだが」
 成程彼は桐の本箱の中に、日本紙へ活版で刷《す》つた豫約の八犬傳を綺麗に重ね込んでゐた。
 「健ちやんは江戸名所圖繪《えどめいしよづゑ》を御持ちですか」
 「いゝえ」
 「ありや面白い本ですね。私《わたし》や大好きだ。なんなら貸して上げませうか。なにしろ江戸と云つた昔の日本橋や櫻田がすつかり分るんだからね」
 彼は床の間の上にある別の本箱の中から、美濃紙版の淺黄《あさぎ》の表紙をした古い本を一二冊取り出した。さうして恰《あたか》も健三を江戸名所圖繪の名さへ聞いた事のない男のやうに取扱つた。其健三には子供の時分その本を藏から引き摺り出して來て、頁《ページ》から頁へと丹念に挿絵を拾つて見て行くのが、何よりの樂みであつた時代の懷かしい記憶があつた。中にも駿河町といふ所に描《か》いてある越後屋の暖簾《のれん》と富士山とが、彼の記憶を今代表する燒點《せうてん》となつた。
 「此分では迚《とて》もその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接關係のない本などを讀んでゐる暇は、藥にしたくつても出て來《こ》まい」
 健三は心のうちで斯う考へた。たゞ焦燥《あせり》に焦燥《あせ》つてばかりゐる今の自分が、恨めしくもあり又氣の毒でもあつた。
 兄が約束の時間迄に顔を出さないので、比田は其間を繋ぐためか、しきりに書物の話をつゞけようとした。書物の事なら何時《いつ》迄《まで》話してゐても、健三にとつて迷惑にならないといふ自信でも持つてゐるやうに見えた。不幸にして彼の知識は、常山紀談を普通の講談ものとして考へる程度であつた。それでも彼は昔出た風俗畫報を一冊殘らず綴《と》ぢて持つてゐた。
 本の話が盡きた時、彼は仕方なしに問題を變へた。
 「もう來さうなもんですね、長《ちやう》さんも。あれ程云つてあるんだから忘れる筈はないんだが。それに今日は明けの日だから、遲くとも十一時頃迄には歸らなきやならないんだから。何なら一寸|迎《むかへ》に遣りませうか」
 此時又變化が來たと見えて、火の着くやうに咳《せ》き入《い》る姉の聲が茶の間の方で聞こえた。
 
     二十六
 
 やがて門口《かどぐち》の格子《かうし》を開けて、沓脱《くつぬぎ》へ下駄を脱ぐ音がした。
 「やつと來たやうですぜ」と比田が云つた。
 然し玄關を通り拔けた其足音はすぐ茶の間へ這入《はい》つた。
 「また惡いの。驚いた。些《ちつ》とも知らなかつた。何時《いつ》から」
 短い言葉が感投詞のやうに又質問のやうに、座敷に坐つてゐる二人の耳に響いた。その聲は比田の推察通りやつぱり健三の兄であつた。
 「長《ちやう》さん、先刻《さつき》から待つてるんだ」
 性急な比田はすぐ座敷から聲を掛けた。女房の喘息《ぜんそく》などは何うなつても構はないといつた風の其調子が、如何にも此男の特性をよく現してゐた。「本當に手前勝手な人だ」とみんなから云はれる丈《だけ》あつて、彼は此場合にも、自分の都合より外に何《なんに》も考へてゐないやうに見えた。
 「今行きますよ」
 長太郎《ちやうたらう》も少し癪だと見えて、中々茶の間から出て來なかつた。
 「重湯《おもゆ》でも少し飲んだら好いでせう。厭? でもさう何にも食べなくつちや身體が疲れる丈《だけ》だから」
 姉が息苦しくつて、受答へが出來かねるので、脊中を撫《さす》つてゐた女が一口ごとに適宜な挨拶をした。平生《へいぜい》健三よりは親しく其《その》宅《うち》へ出入《でいり》する兄は、見馴れない此女とも近付《ちかづき》と見えた。其|所爲《せゐ》か彼等の應對は容易に盡きなかつた。
 比田はぷりつと膨《ふく》れてゐた。朝起きて顔を洗ふ時のやうに、兩手で黒い顔をごし/\擦《こす》つた。仕舞ひに健三の方を向いて、小さな聲で斯んな事を云つた。
 「健ちやんあれだから困るんですよ。口ばかり多くつてね。此方《こつち》も手がないから仕方なしに頼むんだが」
 比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。
 「何ですあの人は」
 「そら梳手《すきて》のお勢《せい》ですよ。昔健ちやんの遊びに來る時分、よく居たぢやありませんか、宅《うち》に」
 「ヘえゝ」
 健三には比田の家《うち》でそんな女に會つた覺えが全くなかつた。
 「知りませんね」
 「なに知らない事があるもんですか、お勢《せい》だもの。彼奴《あいつ》はね、御承知の通りまことに親切で實意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌《しやべ》るのが病《やまひ》なんだから」
 よく事情を知らない健三には、比田のいふ事が、たゞ自分|丈《だけ》に都合のいゝ誇張のやうに聞こえるばかりで、大した感銘も與へなかつた。
 姉はまた咳《せ》き出《だ》した。その發作《ほつさ》が一段落片付く迄は、さすがの比田も黙つてゐた。長太郎も茶の間を出て來なかつた。
 「何だか先刻《さつき》より劇《はげ》しい樣ですね」
 少し不安になつた健三は、さう云ひながら席を立たうとした。比田は一も二もなく留めた。
 「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見ると一寸|吃驚《びつくり》しますがね。私《わたし》なんざあもう年來|馴《な》れつ子《こ》になつてるから平氣なもんですよ。實際又あれを一々苦にしてゐるやうぢや、とても今日《こんにち》迄《まで》一所に住んでる事は出來ませんからね」
 健三は何とも答へる譯に行かなかつた。たゞ腹の中で、自分の細君が歇私的里《ヒステリー》の發作《ほつさ》に冒《をか》された時の苦しい心持を、自然の對照として描《ゑが》き出《だ》した。
 姉の咳嗽《せき》が一収《ひとをさま》り収《をさま》つた時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。
 「何うも濟みません。もつと早く來る筈だつたが、生憎《あいにく》珍らしく客があつたもんだから」
 「來たか長《ちやう》さん待つてたほい。冗談ぢやないよ。使でも出さうかと思つてた所です」
 比田は健三の兄に向つてこの位な氣安い口調で話の出來る地位にあつた。
 
     二十七
 
 三人はすぐ用談に取り掛つた。比田が最初に口を開いた。
 彼は一寸した相談事にも仔細《しさい》ぶる男であつた。さうして仔細ぶればぶる程、自分の存在が周圍から強く認められると考へてゐるらしかつた。「比田さん/\つて、立てゝ置きさへすりや好いんだ」と皆《みん》なが蔭で笑つてゐた。
 「時に長さん何うしたもんだらう」
 「さう」
 「何うもこりや天《てん》から筋が違ふんだから、健ちやんに話をする迄もなからうと思ふんだがね、私《わたし》や」
 「左右《さう》さ。今更そんな事を持ち出して來たつて、此方《こつち》で取り合ふ必要もないだらうぢやないか」
 「だから私《わたし》も突《つ》つ跳《ぱ》ねたのさ。今時分そんな事を持ち出すのは、丸《まる》で自分の殺した子供を、もう一返生かして呉れつて、御寺樣へ頼みに行くやうなものだからお止《よ》しなさいつて。だけど大將いくら何と云つても、坐り込んで動かないんだからね、仕方がない。然しあの男があゝやつて今頃|私《わたし》の宅《うち》へのんこのしやあで遣つて來るのも、實はといふと、矢つ張り昔|○《れこ》の關係があつたからの事さ。だつてそりや昔《むか》しも昔《むか》し、ずつと昔《むか》しの話でさあ。其上たゞで借りやしまいしね……」
 「またたゞで貸す風《ふう》でもなしね」
 「さうさ。口ぢや親類付合《しんるゐづきあひ》だとか何とか云つてる癖に、金にかけちやあかの他人より阿漕《あこぎ》なんだから」
 「來た時にさう云つて遣れば好いのに」
 比田と兄との談話は中々元へ戻つて來なかつた。ことに比田は其處に健三のゐるのさへ忘れてしまつたやうに見えた。健三は好加減《いゝかげん》に何とか口を出さなければならなくなつた。
 「一體何うしたんです。島田が此方《こちら》へでも突然伺つたんですか」
 「いやわざ/\お呼び立て申して置いて、つい自分の勝手ばかり喋舌《しやべ》つて濟みません。――ぢや長さん私《わたし》から健ちやんに一應其?末を御話しする事にしようか」
 「えゝ何うぞ」
 話しは意外にも單純であつた。――ある日島田が突然比田の所へ來た。自分も年を取つて頼《たよ》りにするものがゐないので心細いといふ理由の下《もと》に、昔通り島田姓に復歸して貰ひたいから何うぞ健三にさう取次いでくれと頼んだ。比田も其要求の突飛《とつぴ》なのに驚いて最初は拒絶した。然し何と云つても動かないので、兎も角も彼の希望|丈《だけ》は健三に通じようと受合つた。――たゞ是だけなのである。
 「少し變ですねえ」
 健三には何う考へても變としか思はれなかつた。
 「變だよ」
 兄も同じ意見を言葉にあらはした。
 「何うせ變にや違《ちがひ》ない、何しろ六十以上になつて、少しやきが廻つてるからね」
 「慾でやきが廻りやしないか」
 比田も兄も可笑《をか》しさうに笑つたが、健三は獨り其仲間へ入《はい》る事が出來なかつた。彼は何時《いつ》迄《まで》も變だと思ふ氣分に制せられてゐた。彼の頭から判斷すると、そんな事は到底ありやう筈がなかつた。彼は最初に吉田が來た時の談話を思ひ出した。次に吉田と島田が一所に來た時の光景を思ひ出した。最後に彼の留守に旅先から歸つたと云つて、島田が一人で訪ねて來た時の言葉を思ひ出した。然し何處を何《ど》う思ひ出しても、其處から斯《こ》んな結果が生れて來《き》やうとは考へられなかつた。
 「何うしても變ですね」
 彼は自分の爲に同じ言葉をもう一度繰返して見た。それから漸《やつ》と氣を換《か》へて斯う云つた。
 「然しそりや問題にやならないでせう。たゞ斷りさへすりや好いんだから」
 
     二十八
 
 健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合はなかつた。從つてそれを片付けるのも容易であつた。たゞ簡單に斷りさへすれば濟んだ。
 「然し一旦は貴方の御耳迄入れて置かないと、私《わたくし》の落度になりますからね」と比田は自分を辯護するやうに云つた。彼は何處迄も此會合を眞面目なものにしなければ氣が濟まないらしかつた。それで言ふ事も時によつて變化した。
 「それに相手が相手ですからね。まかり間違へば何をするか分らないんだから、用心しなくつちや不可《いけ》ませんよ」
 「燒《やき》が廻つてるなら構はないぢやないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田は猶《なほ》眞面目になつた。
 「燒が廻つてるから怖《こは》いんです。なに先が當り前の人間なら、私《わたし》だつて其場ですぐ斷つちまひまさあ」
 斯《こ》んな曲折《きよくせつ》は會談中に時々起つたが、要するに話は最初に戻つて、つまり比田が代表者として島田の要求を斷るといふ事になつた。それは三人が三人ながら始めから豫期してゐた結局なので、其處へ行き着く迄の筋道は、健三から見ると、寧ろ時間の空費に過ぎなかつた。然し彼はそれに對して比田に禮を述べる義理があつた。
 「いえ何御禮なんぞ御仰《おつしや》られると恐縮します」といつた比田の方は却《かへ》つて得意であつた。誰が見ても宅《うち》へも歸らずに忙《いそが》しがつてゐる人の樣子とは受取れない程、調子づいて來た。
 彼は其處にある塩煎餅を取つて矢鱈《やたら》にぼり/\噛んだ。さうしてその相間々々には大きな湯呑へ茶を何杯も注《つ》ぎ易《か》へて飲んだ。
 「相變らず能《よ》く食べますね。今でも鰻飯を二つ位遣るんでせう」
 「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちやんの見てゐる前で天《てん》ぷら蕎麥《そば》を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」
 比田は其頃から食氣《くひけ》の強い男であつた。さうして餘計食ふのを自慢にしてゐた。それから腹の太いのを賞《ほ》められたがつて、時機さへあれば始終叩いて見せた。
 健三は昔此人に連れられて寄席《よせ》などに行つた歸りに、能《よ》く二人して屋台店の暖簾《のれん》を潜《くゞ》つて、鮨《すし》や天麩羅《てんぷら》の立食《たちぐひ》をした當時を思ひ出した。彼は健三に其|寄席《よせ》で聽いたしかをどり〔五字傍点〕とかいふ三味線の手を教へたり、又はさば〔二字傍点〕を讀むといふ隱語などを習ひ覺えさせたりした。
 「どうも矢つ張り立食《たちぐひ》に限るやうですね。私《わたし》も此年になる迄、段々方々食つて歩いて見たが。健ちやん、一遍輕井澤で蕎麥《そば》を食つて御覽なさい騙《だま》されたと思つて。汽車の停《とま》つてるうちに、降りて食ふんです、プラツトフオームの上へ立つてね。流石《さすが》本場|丈《だ》けあつて旨うがすぜ」
 彼は信心を名として能《よ》く方々遊び廻る男であつた。
 「それよか、善光寺の境内に元祖|藤八拳《とうはちけん》指南所といふ看板が懸つてゐたには驚いたね、長《ちやう》さん」
 「這入《はい》つて一つ遣《や》つて來《き》やしないか」
 「だつて束修《そくしう》が要るんだからね、君」
 斯《こ》んな談話を聞いてゐると、健三も何時《いつ》か昔の我に歸つたやうな心持になつた。同時に今の自分が、何《ど》んな意味で彼等から離れて何處に立つてゐるかも明かに意識しなければならなくなつた。然し比田は一向《いつかう》そこに氣が付かなかつた。
 「健ちやんはたしか京都へ行つた事がありますね。彼處《あすこ》に、ちんちらでんき〔七字傍点〕皿|持《も》てこ汁《しる》飲ましよつて鳴く鳥がゐるのを御存じですか」などゝ訊いた。
 先刻《さつき》から落付いてゐた姉が、又|劇《はげ》しく咳《せ》き出《だ》した時、彼は漸く口を閉ぢた。さうして左《さ》もくさ/\したと云はぬ許《ばか》りに、左右の手《て》の平《ひら》を揃へて、黒い顔をごし/\擦《こす》つた。
 兄と健三は一寸茶の間の樣子を覗きに立つた。二人共|發作《ほつさ》の靜まる迄姉の枕元に坐つてゐた後《あと》で、別々に比田の家《いへ》を出た。
 
     二十九
 
 健三は自分の背後にこんな世界の控へてゐる事を遂に忘れることが出來なくなつた。此世界は平生《へいぜい》の彼にとつて遠い過去のものであつた。然しいざといふ場合には、突然現在に變化しなければならない性質を帶びてゐた。
 彼の頭には願仁坊主《ぐわんにんばうず》に似た比田の毯栗頭《いがぐりあたま》が浮いたり沈んだりした。猫のやうに顋《あご》の詰つた姉の息苦しく喘《あへ》いでゐる姿が薄暗く見えた。血の氣の竭《つ》きかけた兄に特有なひすばつた長い顔も出たり引込《ひつこ》んだりした。
 昔この世界に人となつた彼は、その後《ご》自然の力でこの世界から獨《ひと》り脱け出してしまつた。さうして脱け出したまゝ永く東京の地を踏まなかつた。彼は今再びその中へ後戻りをして、久し振に過去の臭《にほひ》を喚いだ。それは彼に取つて、三分の一の懷かしさと、三分の二の厭らしさとを齎《もたら》す混合物であつた。
 彼は又其世界とは丸《まる》で關係のない方角を眺めた。すると其處には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有《も》つた青年がゐた。彼は其人々の笑ひに耳を傾けた。未來の希望を打ち出す鐘のやうに朗かなその響が、健三の暗い心を躍らした。
 或日彼は其青年の一人に誘はれて、池《いけ》の端《はた》を散歩した歸りに、廣小路から切通《きりどほ》しへ拔ける道を曲つた。彼等が新しく建てられた見番《けんばん》の前へ來た時、健三は不圖《ふと》思ひ出したやうに青年の顔を見た。
 彼の頭の中には自分と丸《まる》で縁故のない或女の事が閃《ひらめ》いた。其女は昔藝者をしてゐた頃人を殺した罪で、二十年|餘《あまり》も牢屋の中で暗い月日を送つた後《あと》、漸《やつ》と世の中へ顔を出す事が出來るやうになつたのである。
 「嘸《さぞ》辛《つら》いだらう」
 容色《きりやう》を生命《せいめい》とする女の身になつたら、殆ど堪へられない淋《さび》しみが其處にあるに違ないと健三は考へた。然しいくらでも春が永く自分の前に續いてゐるとしか思はない伴《つれ》の青年には、彼の言葉が何程の效果にもならなかつた。此青年はまだ二十三四であつた。彼は始めて自分と青年との距離を悟つて驚いた。
 「さう云ふ自分も矢つ張り此藝者と同じ事なのだ」
 彼は腹の中で自分と自分に斯う云ひ渡した。若い時から白髪《しらが》の生えたがる性質《たち》の彼の頭には、氣の所爲《せゐ》か近頃めつきり白い筋が増して來た。自分はまだ/\と思つてゐるうちに、十年は何時《いつ》の間《ま》にか過ぎた。
 「然し他事《ひとごと》ぢやないね君。其實僕も青春時代を全く牢獄の裡《うち》で暮したのだから」
 青年は驚いた顔をした。
 「牢獄とは何です」
 「學校さ、それから圖書館さ。考へると兩方ともまあ牢獄のやうなものだね」
 青年は答へなかつた。
 「然し僕が若し長い間の牢獄生活をつゞけなければ、今日《こんにち》の僕は決して世の中に存在してゐないんだから仕方がない」
 健三の調子は半《なか》ば辯解的であつた。半ば自嘲的であつた。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、其現在の自分の上に是非共未來の自分を築き上げなければならなかつた。それが彼の方針であつた。さうして彼から見ると正しい方針に違なかつた。けれども其方針によつて前《さき》へ進んで行くのが、此時の彼には徒《いたづ》らに老ゆるといふ結果より外に何物をも持《も》ち來《きた》さないやうに見えた。
 「學問ばかりして死んでしまつても人間は詰らないね」
 「そんな事はありません」
 彼の意味はつひに青年に通じなかつた。彼は今の自分が、結婚當時の自分と、何《ど》んなに變つて、細君の眼に映《うつ》るだらうかを考へながら歩いた。其細君はまた子供を生むたびに老《ふ》けて行つた。髪の毛なども氣の引ける程拔ける事があつた。さうして今は既に三番目の子を胎内に宿してゐた。
 
     三十
 
 家《うち》へ歸ると細君は奧の六疊に手枕をしたなり寐てゐた。健三は其《その》傍《そば》に散らばつてゐる赤い片端《きれはし》だの物指《ものさし》だの針箱だのを見て、又かといふ顔をした。
 細君はよく寐る女であつた。朝もことによると健三より遲く起きた。健三を送り出してから又横になる日も少くはなかつた。斯うして飽く迄眠りを食《むさぼ》らないと、頭が痺《しぴ》れたやうになつて、其日一日何事をしても判然《はつきり》しないといふのが、常に彼女の辯解であつた。健三は或は左右《さう》かも知れないと思つたり、又はそんな事があるものかと考へたりした。ことに小言《こごと》を云つたあとで、寐られるときは、後《あと》の方の感じが強く起つた。
 「不貞寐《ふてね》をするんだ」
 彼は自分の小言《こごと》が、歇私的里性《ヒステリーしやう》の細君に對して、何《ど》う反應《はんのう》するかを、よく觀察してやる代りに、單なる面當《つらあて》のために、斯うした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釋して、苦々《にが/\》しい呟《つぶや》きを口の内で洩らす事がよくあつた。
 「何故夜早く寐ないんだ」
 彼女は宵《よひ》つ張《ぱり》であつた。健三に斯う云はれる度に、夜は眼が冴えて寐られないから起きてゐるのだといふ答辯を屹度《きつと》した。さうして自分の起きてゐたい時迄は必ず起きて縫物の手を已《や》めなかつた。
 健三は斯うした細君の態度を惡《にく》んだ。同時に彼女の歇私的里《ヒステリー》を恐れた。それからもしや自分の解釋が間違つてゐはしまいかといふ不安にも制せられた。
 彼は其處に立つた儘、しばらく細君の寐顔を見詰めてゐた。肱の上に載せられた其横顔は寧ろ蒼白かつた。彼は黙つて立つてゐた。お住《すみ》といふ名前さへ呼ばなかつた。
 彼は不圖《ふと》眼を轉じて、あらはな白い腕《かひな》の傍《そば》に放《はふ》り出《だ》された一束《ひとたば》の書物《かきもの》に氣を付けた。それは普通の手紙の重なり合つたものでもなければ、又新しい印刷物を一纒めに括《くゝ》つたものとも見えなかつた。總體が茶色がゝつて既に多少の時代を帶びてゐる上に、古風なかんじん撚《より》で丁寧な結び目がしてあつた。其《その》書《かき》ものゝ一端は、殆ど細君の頭の下に敷かれてゐると思はれる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎつてゐた。
 彼はわざ/\それを引き出して見る氣にもならずに、又眼を蒼白い細君の額の上に注いだ。彼女の頬は滑り落ちるやうにこけてゐた。
 「まあ御痩《おや》せなすつた事」
 久し振に彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚いたやうに、斯《こ》んな評を加へた事があつた。其時健三は何故《なぜ》だか此細君を痩せさせた凡《すべ》ての原因が自分一人にあるやうな心持がした。
 彼は書齋に入《はい》つた。
 三十分も經《た》つたと思ふ頃、門口《かどぐち》を開ける音がして、二人の子供が外から歸つて來た。坐つてゐる健三の耳には、彼等と子守との問答が手に取るやうに聞こえた。子供はやがて騷け込むやうに奧へ入《はい》つた。其處では又細君が蒼蠅《うるさ》いといつて、彼等を叱る聲がした。
 夫《それ》からしばらくして細君は先刻《さつき》自分の枕元にあつた一束《ひとたば》の書《かき》ものを手に持つた儘、健三の前にあらはれた。
 「先程《さきほど》御留守に御兄《おあに》いさんが入らつしやいましてね」
 健三は萬年筆の手を止《と》めて、細君の顔を見た。
 「もう歸つたのかい」
 「えゝ。今一寸散歩に出掛けましたから、もうぢき歸りませうつて御止《おと》めしたんですけれども、時間がないからつて御上りになりませんでした」
 「さうか」
 「何でも谷中《やなか》に御友達とかの御葬式があるんですつて。それで急いで行かないと間に合はないから、上つてゐられないんだと仰《おつし》やいました。然し歸りに暇があつたら、もしかすると寄るかも知れないから、歸つたら待つてるやうに云つて呉れつて、云ひ置いて行らつしやいました」
 「何の用なのかね」
 「矢つ張りあの人の事なんださうです」
 兄は島田の事で來たのであつた。
 
     三十−
 
 細君は手に持つた書付《かきつけ》の束《たば》を健三の前に出した。
 「是を貴夫《あなた》に上げて呉れと仰しやいました」
 健三は怪訝《けげん》な顔をしてそれを受取つた。
 「何だい」
 「みんなあの人に關係した書類なんださうです。健三に見せたら參考になるだらうと思つて、用箪笥の抽匣《ひきだし》の中に仕舞つて置いたのを、今日出して持つて來たつて仰《おつし》やいました」
 「そんな書類があつたのかしら」
 彼は細君から受取つた一括《ひとくゝ》りの書付を手に載せた儘、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。それから何の意味なしに、裏表を引繰返《ひつくりかへ》して見た。書類は厚さにして略《ほゞ》二寸もあつたが、風の通らない潟氣《しつけ》た所に長い間|放《はふ》り込《こ》んであつた所爲《せゐ》か、虫に食はれた一筋の痕が偶然健三の眼を懷古的にした。彼は其不規則な筋を指の先でざら/\撫《な》でゝ見た。けれども今更鄭寧に絡《から》げたかんじん撚《より》の結び目を解《ほど》いて、一々中を檢《あら》ためる氣も起らなかつた。
 「開けて見たつて何が出て來るものか」
 彼の心は此一句でよく代表されてゐた。
 「御父《おとう》さまが後々《のち/\》の爲にちやんと一纒めにして取つて御置になつたんですつて」
 「左右《さう》か」
 健三は自分の父の分別と理解力に對して大した尊敬を拂つてゐなかつた。
 「おやぢの事だから屹度《きつと》何でもかんでも取つて置いたんだらう」
 「然しそれもみんな貴夫《あなた》に對する御親切からなんでせう。あんな奴だから己《おれ》のゐなくなつた後《のち》に、何《ど》んな事を云つて來ないとも限らない、其時にはこれが役に立《たつ》つて、わざ/\一纒めにして、御兄《おあにい》さんに御渡《おわたし》になつたんださうですよ」
 「左右《さう》かね、己《おれ》は知らない」
 健三の父は中氣《ちゆうき》で死んだ。その父のまだ達者でゐるずつと前から彼はもう東京にゐなかつた。彼は親の死目にさへ會はなかつた。斯《こ》んな書付が自分の眼に觸れないで、長い間兄の手元に保管されてゐたのも、別段の不思議ではなかつた。
 彼は漸く書類の結目《むすびめ》を解いて一所《いつしよ》に重なつてゐるものを、一々ほごし始めた。手續き書と書いたものや、取《と》り替《かは》せ一札《いつさつ》の事と書いたものや、明治二十一年|子《ね》一月|約定金請取《やくぢやうきんうけとり》の證と書いた半紙二つ折の帳面やらが順々にあらはれて來た。其帳面の仕舞には、右本日受取右月賦金は皆濟《かいさい》相成候事と島田の手蹟で書いて黒い判がべたりと捺《お》してあつた。
 「おやぢは月々三圓か四圓づゝ取られたんだな」
 「あの人にですか」
 細君は其帳面を逆さまに覗き込んでゐた。
 「〆《しめ》て若干《いくら》になるかしら。然し此外にまだ一時に遣《や》つたものがある筈だ。おやぢの事だから、屹度《きつと》その受取を取つて置いたに違ない。何處かにあるだらう」
 書付は夫《それ》から夫《それ》へと續々《ぞく/\》出て來た。けれども、健三の眼には何《ど》れも是もごちや/\して容易に解らなかつた。彼はやがて四つ折にして一纒めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。
 「小學校の卒業證書迄入れてある」
 其小學校の名は時によつて變つてゐた。一番古いものには第一大學區第五中學區第八番小學などゝいふ朱印が押してあつた。
 「何ですかそれは」
 「何だか己《おれ》も忘れてしまつた」
 「よつぽど古いものね」
 證書のうちには賞状も二三枚|交《まじ》つてゐた。昇《のぼ》り龍《りゆう》と降《くだ》り龍《りゆう》で丸い輪廓を取つた眞中《まんなか》に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に斷つてあつた。
 「書物も貰つた事があるんだがな」
 彼は勸善訓蒙《くわんぜんくんもう》だの輿地誌略《よちしりやく》だのを抱《だ》いて喜びの餘り飛んで宅《うち》へ歸つた昔を思ひ出した。御褒美をもらふ前の晩夢に見た蒼い龍と白い虎の事も思ひ出した。是等の遠いものが、平生《へいぜい》と違つて今の健三には甚だ近く見えた。
 
     三十二
 
 細君には此古臭い免状が猶《なほ》の事《こと》珍らしかつた。夫《をつと》の一旦下へ置いたのを又取り上げて、一枚々々鄭寧に剥繰《はぐ》つて見た。
 「變ですわね。下等小學第五級だの六級だのつて。そんなものが在《あ》つたんでせうか」
 「在つたんだね」
 健三は其儘|外《ほか》の書付に手を着けた。讀みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。
 「之を御覽、迚《とて》も讀む勇氣がないね。只でさへ判明《わか》らない所へ持つて來て、無暗に朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」
 健三の父と島田との懸合《かけあひ》に就いて必要な下書《したがき》らしいものが細君の手に渡された。細君は女|丈《だけ》あつて、綿密にそれを讀《よ》み下《くだ》した。
 「貴夫《あなた》の御父さまはあの島田つて人の世話をなすつた事があるのね」
 「そんな話は己《おれ》も聞いてはゐるが」
 「此處に書いてありますよ。――同人幼少にて勤向《つとめむき》相成りがたく當方《たうかた》へ引き取り五箇年間養育|致候《いたしそろ》縁合《えんあひ》を以てと」
 細君の讀み上げる文章は、丸《まる》で舊幕時代の町人《ちやうにん》が町奉行《まちぶぎやう》か何かへ出す訴状のやうに聞えた。其口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴した。其父から、將軍の鷹狩に行く時の模樣などを、それ相當の敬語で聞かされた昔も思ひ合された。然し事實の興味が主として働きかけてゐる細君の方では丸《まる》で文體などに頓着しなかつた。
 「その縁故で貴夫《あなた》はあの人の所へ養子に遣られたのね。此處にさう書いてありますよ」
 健三は因果な自分を自分で憐んだ。平氣な細君は其續きを讀み出した。
 「右健三三歳の砌《みぎ》り養子に差遣はし置《おき》候《そろ》處《ところ》平吉儀|妻《さい》常《つね》と不和を生じ、遂に離別と相成《あひなり》候《そろ》につき當時八歳の健三を當方《たうかた》へ引き取り今日《こんにち》迄《まで》十四箇年間養育致し、――あとは眞赤《まつか》でごちや/\して讀めないわね」
 細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後《あと》を讀まうと企てた。健三は腕組をして黙つて待つてゐた。細君はやがてくす/\笑ひ出した。
 「何が可笑《をか》しいんだ」
 「だつて」
 細君は何にも云はずに、書付を夫《をつと》の方に向け直した。さうして人さし指の頭で、細かく割註《わりちゆう》のやうに朱で書いた所を抑へた。
 「一寸其處を讀んで御覽なさい」
 健三は八の字を寄せながら、其一行を六《む》づかしさうに讀《よ》み下《くだ》した。
 「取扱ひ所勤務中|遠山藤《とほやまふぢ》と申す後家《ごけ》へ通じ合ひ候が事の起り。――何だ下らない」
 「然し本當なんでせう」
 「本當は本當さ」
 「それが貴夫《あなた》の八ツの時なのね。それから貴夫《あなた》は御自分の宅《うち》ヘ御歸りになつた譯ね」
 「然し籍を返さないんだ」
 「あの人が?」
 細君はまた其書付を取り上げた。讀めない所は其儘にして置いて、讀める所|丈《だけ》眼を通しても、自分のまだ知らない事實が出て來るだらうといふ興味が、少からず彼女の好奇心を唆《そゝ》つた。
 書付の仕舞の方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて實家へ返さないのみならず、いつの間《ま》にか戸主に改めた彼の印形《いんぎやう》を濫用して金を借り散らした例などが擧げてあつた。
 愈《いよ/\》手を切る時に養育料として島田に渡した金の證文も出て來た。それには、然る上は健三離縁本籍と引替に當金《たうきん》――圓御渡し被下《くだされ》、殘金――圓は毎月三十日限り月賦にて御差入の積《つもり》御對談|云々《うんぬん》と長たらしく書いてあつた。
 「凡《すべ》て變梃《へんてこ》な文句|許《ばか》りだね」
 「親類取扱人|比田寅八《ひだとらはち》つて下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでせう」
 健三はつい此間會つた比田の萬事に心得顔な樣子と、此證文の文句とを引き比べて見た。
 
     三十三
 
 葬式の歸りに寄るかも知れないと云つた兄は遂に顔を見せなかつた。
 「あんまり遲くなつたから、すぐ御歸りになつたんでせう」
 健三には其方が便宜であつた。彼の仕事は前の日か前の晩を潰《つぶ》して調べたり考へたりしなければ義務を果す事の出來ない性質のものであつた。從つて必要な時間を他《ひと》に食《く》ひ削《けづ》られるのは、彼に取つて甚だしい苦痛になつた。
 彼は兄の置いて行つた書類をまた一纒めにして、元のかんじん撚《より》で括《くゝ》らうとした。彼が指先に力を入れた時、其かんじん撚《より》はぷつりと切れた。
 「あんまり古くなつて、弱つたのね」
 「まさか」
 「だつて書付の方は虫が食つてる位ですもの、貴夫《あなた》」
 「左右《さう》云へばさうかも知れない。何しろ抽斗《ひきだし》に投げ込んだなり、今日《こんにち》迄《まで》放《はふ》つて置いたんだから。然し兄貴《あにき》も能《よ》くまあ斯《こ》んなものを取つて置いたものだね。困つちや何でも賣る癖に」
 細君は健三の顔を見て笑ひ出した。
 「誰も買ひ手がないでせう。そんな虫の食つた紙なんか」
 「だがさ。能《よ》く紙屑籠の中へ入れてしまはなかつたと云ふ事さ」
 細君は赤と白で撚《よ》つた細い糸を火鉢の抽斗《ひきだし》から出して來て、其處に置かれた書類を新しく絡《から》げた上、それを夫《をつと》に渡した。
 「己《おれ》の方にや仕舞つて置く所がないよ」
 彼の周圍は書物で一杯になつてゐた。手文庫には文殻《ふみがら》とノートがぎつしり詰つてゐた。空地《くうち》のあるのは夜具蒲團の仕舞《しま》つてある一間の戸棚|丈《だけ》であつた。細君は苦笑して立ち上つた。
 「御兄《おあにい》さんは二三日うち屹度《きつと》また入らつしやいますよ」
 「あの事でかい」
 「それも左右《さう》ですけれども、今日御葬式に行らつしやる時に、袴が要《い》るから借してくれつて、此處で穿《は》いて入らしつたんですもの。屹度《きつと》又返しに入らつしやるに極つてゐますわ」
 健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、一寸考へさせられた。始めて學校を卒業した時彼は其兄から貰つたべろ/\の薄羽織を着て友達と一所に池《いけ》の端《はた》で寫眞を撮《と》つた事をまだ覺えてゐた。其友達の一人が健三に向つて、此中で一番先に馬車へ乘るものは誰だらうと云つた時に、彼は返事をしないで、たゞ自分の着てゐる羽織を淋《さぴ》しさうに眺めた。其羽織は古い絽《ろ》の紋付に違ひなかつたが、惡く云へば申し譯の爲めに破けずにゐる位な見すぼらしい程度のものであつた。懇意な友人の新婚披露に招《まね》かれて星が岡の茶寮《されう》に行つた時も、着るものがないので、袴羽織共|凡《すべ》て兄のを借りて間《ま》に合《あは》せた事もあつた。
 彼は細君の知らない斯《こ》んな記憶を頭の中に呼び起した。然しそれは今の彼を得意にするよりも却《かへ》つて悲しくした。今昔《こんじやく》の感――さう云ふ在來《ありきたり》の言葉で一番よく現せる情緒《じやうしよ》が自然と彼の胸に湧いた。
 「袴位ありさうなものだがね」
 「みんな長い間に失《な》くして御仕舞なすつたんでせう」
 「困るなあ」
 「どうせ宅《うち》にあるんだから、要《い》る時に貸して上げさいすりや夫《それ》で好いでせう。毎日使ふものぢやなし」
 「宅《うち》にある間はそれで好いがね」
 細君は夫《をつと》に内所《ないしよ》で自分の着物を質に入れたつい此間の事件を思ひ出した。夫《をつと》には何時《いつ》自分が兄と同じ境遇に陷《おちい》らないものでもないといふ悲觀的な哲學があつた。
 昔の彼は貧しいながら一人で世の中に立つてゐた。今の彼は切り詰めた餘裕のない生活をしてゐる上に、周圍のものからは、活力の心棒のやうに思はれてゐた。それが彼には辛《つら》かつた。自分のやうなものが親類中で一番好くなつてゐると考へられるのは猶更《なほさら》情なかつた。
 
     三十四
 
 健三の兄は小役人であつた。彼は東京の眞中にある或大きな局へ勤めてゐた。其宏壯な建物のなかに永い間憐れな自分の姿を見出《みいだ》す事が、彼には一種の不調和に見えた。
 「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くつて役に立つ人が後から/\と出て來るんだから」
 其建物のなかには何百といふ人間が日となく夜《よ》となく烈しく働いてゐた。氣力の盡きかけた彼の存在は丸《まる》で形のない影のやうなものに違なかつた。
 「あゝ厭だ」
 活動を好まない彼の頭には常に斯《こ》んな觀念が潜んでゐた。彼は病身であつた。年齒《とし》より早く老《ふ》けた。年齒《とし》より早く干乾《ひから》びた。さうして色澤《いろつや》の惡い顔をしながら、死ににでも行く人のやうに働いた。
 「何しろ夜寐ないんだから、身體に障つてね」
 彼はよく風邪を引いて咳嗽《せき》をした。ある時は熱も出た。すると其熱が必ず肺病の前兆でなければならないやうに彼を脅《おびや》かした。
 實際彼の職業は強壯な青年にとつても苦しい性質のものに違なかつた。彼は隔晩《かくばん》に局へ泊らせられた。さうして夜通し起きて働かなければならなかつた。翌日《あくるひ》の朝彼はぼんやりして自分の宅《うち》へ歸つて來た。其日一日は何をする勇氣もなく、只ぐたりと寢て暮らす事さへあつた。
 それでも彼は自分のため又家族のために働くべく餘儀なくされた。
 「今度《こんだ》は少し危險《あぶな》いやうだから、誰かに頼んで呉れないか」
 改革とか整理とかいふ噂のある度に、健三はよく斯《こ》んな言葉を彼の口から聞かされた。東京を離れてゐる時などは、わざ/\手紙で依頼して來た事も一遍や二遍ではなかつた。彼は其|都度《つど》誰それにと云つて、わざ/\要路の人を指名した。然し健三にはたゞ名前が知れてゐる丈《だけ》で、自分の兄の位置を保證してもらふ程の親しみのあるものは一人もなかつた。健三は頬杖を突いて考へさせられる許《ばか》りであつた。
 彼は斯うした不安を何度となく繰返しながら、昔から今日《こんにち》迄《まで》同じ職務に從事して、動きもしなければ發展もしなかつた。健三よりも七つ許《ばか》り年上な彼の半生は、恰《あたか》も變化を許さない器械の樣なもので、次第に消耗して行くより外には何の事實も認められなかつた。
 「二十四五年もあんな事をしてゐる間には何か出來さうなものだがね」
 健三は時々自分の兄を斯《こ》んな言葉で評したくなつた。其兄の派出好《はでずき》で勉強嫌ひであつた昔も眼の前に見えるやうであつた。三味線を彈いたり、一絃琴を習つたり、白玉《しらたま》を丸めて鍋の中へ放《はふ》り込《こ》んだり、寒天《かんてん》を※[者/火]て切溜《きりだめ》で冷したり、凡《すべ》ての時間は其頃の彼に取つて食ふ事と遊ぶ事ばかりに費されてゐた。
 「みんな自業自得《じごふじとく》だと云へば、まあそんなものさね」
 是が今の彼の折々|他《ひと》に洩らす述懷になる位彼は怠《なま》け者《もの》であつた。
 兄弟《きやうだい》が死に絶えた後《あと》、自然健三の生家の跡を襲《つ》ぐやうになつた彼は、父が亡《な》くなるのを待つて、家屋敷をすぐ賣り拂つてしまつた。それで元からある借金を濟《な》して、自分は小さな宅《うち》へ這入《はい》つた。それから其處に納まり切らない道具類を賣拂つた。
 間《ま》もなく彼は三人の子の父になつた。そのうちで彼の最も可愛《かあい》がつてゐた惣領《そうりやう》の娘が、年頃になる少し前から惡性の肺結核に罹《かゝ》つたので、彼は其娘を救ふために、あらゆる手段を講じた。然し彼のなし得る凡《すべ》ては殘酷な運命に對して全くの徒勞に歸した。二年越《にねんごし》煩《わづら》つた後《あと》で彼女が遂に斃《たふ》れた時、彼の家の箪笥は丸《まる》で空《から》になつてゐた。儀式に要《い》る袴は無論、一寸した紋付の羽織さへなかつた。彼は健三の外國で着古した洋服を貰つて、それを大事に着て毎日局へ出勤した。
 
     三十五
 
 二三日|經《た》つて健三の兄は果して細君の豫想通り袴を返しに來た。
 「何うも遲くなつて御氣の毒さま。有難う」
 彼は腰板の上に双方の端を折返して小さく疊んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。大の見榮坊《みえばう》で、一寸した包物を持つのも厭がつた昔に比べると、今の兄は全く色氣が拔けてゐた。其代り膏氣《あぶらつけ》もなかつた。彼はぱさ/\した手で、汚《よご》れた風呂敷の隅を抓《つま》んで、それを鄭寧に折つた。
 「こりや好い袴だね。近頃拵へたの」
 「いゝえ。中々そんな勇氣はありません。昔からあるんです」
 細君は結婚のとき此袴を着けて勿體《もつたい》らしく坐つた夫《をつと》の姿を思ひだした。遠い所で極《ごく》簡略に行はれた其結婚の式に兄は列席してゐなかつた。
 「へえゝ。左右《さう》かね。成程さう云はれると何處かで見たやうな氣もするが、然し昔のものは矢つ張り丈夫なんだね。ちつとも敗《いた》んでゐないぢやないか」
 「滅多《めつた》に穿《は》かないんですもの。それでも一人でゐるうちに能《よ》くそんな物を買ふ氣になれたのね、あの人が。私今でも不思議だと思ひますわ」
 「或は婚禮の時に穿く積《つもり》でわざ/\拵へたのかも知れないね」
 二人は其時の異樣な結婚式に就いて笑ひながら話し合つた。
 東京からわざ/\彼女を伴《つ》れて來た細君の父は、娘に振袖を着せながら、自分は一通りの禮裝さへ調へてゐなかつた。セルの單衣《ひとへ》を着流しの儘で仕舞には胡坐《あぐら》さへ掻《か》いた。婆さん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方では猶《なほ》の事《こと》困つた。彼は結婚の儀式に就いて全くの無方針であつた。もと/\東京へ歸つてから貰ふといふ約束があつたので、媒約人《なかうど》も其地にはゐなかつた。健三は參考のため此|媒約人《なかうど》が書いて送つて呉れた注意書《ちゆういしよ》のやうなものを讀んで見た。それは立派な紙に楷書で認《したゝ》められた嚴《いカ》めしいものには違なかつたが、中には東鑑《あづまかゞみ》などが例に引いてある丈《だけ》で、何の實用にも立たなかつた。
 「雌蝶《めてふ》も雄蝶《をてふ》もあつたもんぢやないのよ貴方。だいち御盃の縁《ふち》が缺けてゐるんですもの」
 「それで三々九度を遣《や》つたのかね」
 「えゝ。だから夫婦中が斯《こ》んなにがたぴしするんでせう」
 兄は苦笑した。
 「健三も中々の氣六《きむづ》かしやだから、お住さんも骨が折れるだらう」
 細君はたゞ笑つてゐた。別段兄の言葉に取り合ふ氣色《けしき》も見えなかつた。
 「もう歸りさうなものですがね」
 「今日は待つてゝ例の事件を話して行かなくつちや……」
 兄はまだ其《その》後《あと》を云はうとした。細君はふいと立つて茶の間へ時計を見に這入《はい》つた。其處から出て來た時、彼女は此間の書類を手にしてゐた。
 「是が要《い》るんでせう」
 「いえ夫《それ》はたゞ參考迄に持つて來たんだから、多分|要《い》るまい。もう健三に見せて呉れたんでせう」
 「えゝ見せました」
 「何と云つてたかね」
 細君は何とも答へやうがなかつた。
 「隨分澤山色々な書付《かきつけ》が這入《はい》つてゐますわね。此中には」
 「御父《おとつ》さんが、今に何か事があると不可《いけな》いつて、丹念に取つて置いたんだから」
 細君は夫《をつと》から頼まれて其《その》中《うち》の最も大切らしい一部分を彼の爲に代讀した事は云はなかつた。兄もそれぎり書類に就て語らなくなつた。二人は健三の歸る迄の時間をたゞの雜談に費した。其健三は約三十分程して歸つて來た。
 
     三十六
 
 彼が何時《いつ》もの通り服裝を改めて座敷へ出た時、赤と白と撚《よ》り合《あは》せた細い糸で括《くゝ》られた例の書類は兄の膝の上にあつた。
 「先達《せんだつ》ては」
 兄は油氣《あぶらけ》の拔けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。
 「今一寸見たら此中には君に不必要なものが紛れ込んでゐるね」
 「左右《さう》ですか」
 此大事さうに仕舞込まれてあつた書付に、兄が長い間眼を通さなかつた事を健三は知つた。兄は又自分の弟がそれ程熱心にそれを調べてゐない事に氣が付いた。
 「お由《よし》の送籍願が這入《はい》つてるんだよ」
 お由といふのは兄の妻《さい》の名であつた。彼が其人と結婚する當時に必要であつた區長|宛《あて》の願書が其處から出《て》て來《き》やうとは、二人とも思ひがけなかつた。
 兄は最初の妻《さい》を離別した。次の妻《さい》に死なれた。其二度目の妻《さい》が病氣の時、彼は大して心配の樣子もなく能《よ》く出歩いた。病症が惡阻《つはり》だから大丈夫といふ安心もあるらしく見えたが、容體《ようだい》が險惡になつて後《のち》も、彼は依然として其態度を改める樣子がなかつたので、人はそれを氣に入らない妻《つま》に對する仕打とも解釋した。健三も或は左右《さう》だらうと思つた。
 三度目の妻《さい》を迎へる時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。然し弟には一言《いちごん》の相談もしなかつた。それがため我《が》の強い健三の、兄に對する不平が、罪もない義姉《あね》の方に迄影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だと主張して、氣の弱い兄を苦しめた。
 「なんて捌《さば》けない人だらう」
 陰で批評の口に上《のぼ》る斯うした言葉は、彼を反省させるよりも却《かへ》つて頑固《かたくな》にした。習俗《コン?ンシヨン》を重んずるために學問をしたやうな惡い結果に陷つて自《みづか》ら知らなかつた彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる弊があつた。彼は慚愧《ざんき》の眼《め》をもつて當時の自分を回顧した。
 「送籍願が紛れ込んでゐるなら、それを御返しするから、持つて行つたら好いでせう」
 「いゝえ寫《うつし》だから、僕も要《い》らないんだ」
 兄は紅白の糸に手も觸れなかつた。健三は不圖《ふと》其日附が知りたくなつた。
 「一體|何時《いつ》頃《ごろ》でしたかね。それを區役所へ出したのは」
 「もう古い事さ」
 兄は是《これ》丈《だけ》云つたぎりであつた。其の唇には微笑の影が差した。最初も二返目も失敗《しくじ》つて、最後にやつと自分の氣に入つた女と一所になつた昔を忘れる程、彼は耄碌《まうろく》してゐなかつた。同時にそれを口へ出す程若くもなかつた。
 「御幾年《おいくつ》でしたかね」と細君が訊いた。
 「お由《よし》ですか。お由はお住さんと一つ違ですよ」
 「まだ御若いのね」
 兄はそれには何とも答へずに、先刻から膝の上に置いた書類の帶を急に解き始めた。
 「まだ斯《こ》んなものが這入《はい》つてゐたよ。是も君にや關係のないものだ。さつき見て僕もちょいと驚いたが、こら」
 彼はごた/\した故紙《こし》の中から、何の雜作《ざふさ》もなく一枚の書付を取出《とりだ》した。それは喜代子《きよこ》といふ彼の長女の出産屆の下書《したがき》であつた。「右者《みぎは》本月二十三日午前十一時五十分出生|致《いた》し※[候の草書]《そろ》」といふ文句の、「本月二十三日」丈《だけ》に棒が引懸《ひつか》けて消してある上に、虫の食つた不規則な線が筋違《すぢかひ》に入《はい》つてゐた。
 「是も御父《おとつ》さんの手蹟《て》だ。ねえ」
 彼は其一枚の反故《ほご》を大事らしく健三の方へ向け直して見せた。
 「御覽、虫が食つてるよ。尤も其筈だね。出産屆ばかりぢやない、もう死亡屆迄出てゐるんだから」
 結核で死んだ其子の生年月を、兄は口のうちで靜かに讀んでゐた。
 
     三十七
 
 兄は過去の人であつた。華美《はなやか》な前途はもう彼の前に横たはつてゐなかつた。何かに付けて後《うしろ》を振り返り勝な彼と對坐してゐる健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるやうな氣がした。
 「淋《さむ》しいな」
 健三は兄の道伴《みちづれ》になるには餘りに未來の希望を多く持ち過ぎた。其癖現在の彼も可なりに淋《さむ》しいものに違なかつた。其現在から順に推《お》した未來の、當然|淋《さむ》しかるべき事も彼にはよく解つてゐた。
 兄は此間の相談通り島田の要求を斷つた旨を健三に話した。然し何《ど》んな手續きでそれを斷つたのか、又先方がそれに對して何《ど》んな挨拶をしたのか、さういふ細《こま》かい點になると、全く要領を得た返事をしなかつた。
 「何しろ比田からさう云つて來たんだから慥《たしか》だらう」
 其比田が島田に會ひに行つて話を付けたとも、又は手紙で會見の始末を知らせて遣つたとも、健三には判明《わか》らなかつた。
 「多分行つたんだらうと思ふがね。それとも彼《あ》の人《ひと》の事だから、手紙|丈《だけ》で濟まして仕舞つたのか。其處はつい聽いて來るのを忘れたよ。尤もあの後《ご》一遍姉さんの見舞かた/”\行つた時にや、比田が相變らず留守だつたので、つい會ふ事が出來なかつたのさ。然し其時姉さんの話ぢや、何でも忙《いそが》しいんで、まだ其儘にしてあるやうだつて云つてたがね。あの男も隨分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」
 健三の知つてゐる比田も無責任の男に相違なかつた。其代り頼むと何でも引き受ける性質《たち》であつた。たゞ他《ひと》から頭を下げて頼まれるのが嬉しくつて物を受合ひたがる彼は、頼み方が氣に入らないと容易に動かなかつた。
 「然しこんだの事なんざあ、島田がぢかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」
 兄は暗《あん》に比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の惡いやうな事を云つた。其癖彼はこんな場合に決して自分で懸合事《かけあひごと》抔《など》に出掛ける人ではなかつた。少し氣を遣はなければならない面倒が起ると必ず顔を背《そむ》けた。さうして事情の許す限り凝《ぢつ》と辛防して獨《ひと》り苦しんだ。健三には此矛盾が腹立たしくも可笑《をか》しくもない代りに何となく氣の毒に見えた。
 「自分も兄弟《きやうだい》だから他《ひと》から見たら何處か似てゐるのかも知れない」
 斯う思ふと、兄を氣の毒がるのは、つまり自分を氣の毒がるのと同じ事にもなつた。
 「姉さんはもう好いんですか」
 問題を變へた彼は、姉の病氣に就て經過を訊《たづ》ねた。
 「あゝ。どうも喘息《ぜんそく》つてものは不思議だねえ。あんなに苦しんでゐても直《ぢき》癒るんだから」
 「もう話が出來ますか」
 「出來るどころか、中々|能《よ》く饒舌《しやべ》つてね。例の調子で。――姉さんの考へぢや、島田はお縫さんの所へ行つて、智慧を付けられて來たんだらうつて云ふんだがね」
 「まさか。それよりあの男だから彼《あ》んな非常識な事を云つて來るのだと解釋する方が適當でせう」
 「さう」
 兄は考へてゐた。健三は馬鹿らしいといふ顔付をした。
 「でなければね。屹度《きつと》年を取つて皆《みん》なから邪魔にされるんだらうつて」
 健三はまだ黙つてゐた。
 「何しろ淋《さむ》しいには違ないんだね。それも彼奴《あいつ》の事だから、人情で淋《さむ》しいんぢやない、慾で淋《さむ》しいんだ」
 兄はお縫さんの所から毎月《まいつき》彼女の母の方へ手當が屆く事を何《ど》うしてか知つてゐた。
 「何でも金鵄勲章の年金か何かをお藤さんが貰つてるんだとさ。だから島田も何處からか貰はなくつちや淋《さむ》しくつて堪《たま》らなくなつたんだらうよ。何《なん》しろあの位慾張つてるんだから」
 健三は慾で淋《さむ》しがつてる人に對して大した同情も起し得なかつた。
 
     三十八
 
 事件のない日が又少し續いた。事件のない日は、彼に取つて沈黙の日に過ぎなかつた。
 彼は其間に時々|己《おの》れの追憶を辿《たど》るべく餘儀なくされた。自分の兄を氣の毒がりつゝも、彼は何時《いつ》の間《ま》にか、其兄と同じく過去の人となつた。
 彼は自分の生命を兩斷しやうと試みた。すると綺麗に切り棄てられべき筈の過去が、却《かへ》つて自分を追掛《おつか》けて來た。彼の眼は行手を望んだ。然し彼の足は後《あと》へ歩きがちであつた。
 さうして其行き詰まりには、大きな四角な家が建つてゐた。家には幅の廣い階子段《はしごだん》のついた二階があつた。其二階の上も下も、健三の眼には同じやうに見えた。廊下で圍まれた中庭もまた眞四角《まつしかく》であつた。
 不思議な事に、其廣い宅《うち》には人が誰も住んでゐなかつた。それを淋《さみ》しいとも思はずにゐられる程の幼い彼には、まだ家といふものゝ經驗と理解が缺けてゐた。
 彼は幾つとなく續いてゐる部屋だの、遠く迄|眞直《まつすぐ》に見える廊下だのを、恰《あたか》も天井の付いた町のやうに考へた。さうして人の通らない徃來《わうらい》を一人で歩く氣でそこいら中騷け廻つた。
 彼は時々表二階へ上《あが》つて、細《ほそ》い格子《かうし》の間から下を見下《みおろ》した。鈴を鳴らしたり、腹掛《はらがけ》を掛けたりした馬が何匹も續いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた眞《ま》ん向《むか》ふには大きな唐金《からかね》の佛樣があつた。其佛樣は胡坐《あぐら》をかいて蓮台《れんだい》の上に坐つてゐた。太い錫杖《しやくぢやう》を擔《かつ》いでゐた、それから頭に笠を被つてゐた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其處からすぐ向側《むかふがは》の石段を下りるために、馬の通る徃來を横切つた。彼は斯うしてよく佛樣へ攀《よ》ぢ上《のぼ》つた。着物の襞《ひだ》へ足を掛けたり、錫杖《しやくぢやう》の柄《え》へ捉《つら》まつたりして、後《うしろ》から肩に手が屆くか、又は笠に自分の頭が觸れると、其先はもう何うする事も出來ずにまた下りて來た。
 彼はまた此四角な家と唐金《からかね》の佛樣の近所にある赤い門の家を覺えてゐた。赤い門の家は狹い徃來から細い小路《こうぢ》を二十間も折れ曲つて這入《はい》つた突き當りにあつた。其奧は一面の高藪《たかやぶ》で蔽はれてゐた。
 此狹い徃來を突き當つて左へ曲ると長い下り坂があつた。健三の記憶の中に出てくる其坂は、不規則な石段で下から上迄疊み上げられてゐた。古くなつて石の位置が動いた爲か、段の方々には凸凹《でこぼこ》があつた。石と石の罅隙《すきま》からは青草が風に靡《なび》いた。それでも其處は人の通行する路に違なかつた。彼は草履穿《ざうりばき》の儘で、何度か其高い石段を上《あが》つたり下《さが》つたりした。
 坂を下《お》り盡《つく》すと又坂があつて、小高い行手に杉の木立が蒼黒く見えた。丁度其坂と坂の間の、谷になつた窪地《くぼち》の左側に、又一軒の萱葺《かやぶき》があつた。家は表から引込《ひつこ》んでゐる上に、少し右側の方へ片寄つてゐたが、徃來に面した一部分には掛茶屋《かけぢやや》の樣な雜《ざつ》な構《かまへ》が拵へられて、常には二三脚の床几《しやうぎ》さへ體《てい》よく据ゑてあつた。
 葭簀《よしず》の隙から覗くと、奧には石で圍んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣つてあつた。水の上に差し出された兩端《りやうはし》を支へる二本の棚柱《たなばししら》は池の中に埋《う》まつてゐた。周圍《まはり》には躑躅《つゝじ》が多かつた。中には緋鯉の影があちこちと動いた。濁つた水の底を幻影《まぼろし》の樣に赤くする其魚を健三は是非|捕《と》りたいと思つた。
 或日彼は誰も宅《うち》にゐない時を見計《みはから》つて、不細工《ぶさいく》な布袋竹《ほていちく》の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く氣味の惡いものに脅《おびや》かされた。彼を水の底に引つ張り込まなければ已《や》まない其強い力が二の腕迄傳はつた時、彼は恐ろしくなつて、すぐ竿を放《はふ》り出《だ》した。さうして翌日《あくるひ》靜かに水面に浮いてゐる一尺餘りの緋鯉を見出《みいだ》した。彼は獨り怖《こは》がつた。……
 「自分は其時分誰と共に住んでゐたのだらう」
 彼には何等の記憶もなかつた。彼の頭は丸《まる》で白紙《はくし》のやうなものであつた。けれども理解力の索引に訴へて考へれば、何うしても島田夫婦と共に暮したと云はなければならなかつた。
 
     三十九
 
 それから舞台が急に變つた。淋《さみ》しい田舍が突然彼の記憶から消えた。
 すると表に櫺子窓《れんじまど》の付いた小さな宅《うち》が朧氣《おぼろげ》に彼の前にあらはれた。門のない其《その》宅《うち》は裏通りらしい町の中にあつた。町は細長かつた。さうして右にも左にも折れ曲つてゐた。
 彼の記憶がぼんやりしてゐるやうに、彼の家も始終薄暗かつた。彼は日光と其家とを連想する事が出來なかつた。
 彼は其處で疱瘡《はうさう》をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡《ほんばうさう》を誘ひ出したのだとかいふ話であつた。彼は暗い櫺子《れんじ》のうちで轉げ廻つた。總身《そうしん》の肉を所嫌はず掻《か》き?《むし》つて泣き叫んだ。
 彼はまた偶然廣い建物の中に幼い自分を見出《みいだ》した。區切られてゐる樣で續いてゐる仕切《しきり》のうちには人がちらほら居た。空《あ》いた場所の疊だか薄縁《うすべり》だかが、黄色く光つて、あたりを伽藍堂《がらんだう》の如く淋《さび》しく見せた。彼は高い所にゐた。其處で辨當を食つた。さうして油揚《あぶらげ》の胴を干瓢《かんぺう》で結《いは》へた稻荷鮨《いなりずし》の恰好《かつかう》に似たものを、上から下へ落した。彼は勾欄《てすり》につらまつて何度も下を覗いて見た。然し誰もそれを取つて呉れるものはなかつた。伴《つれ》の大人《おとな》はみんな正面に氣を取られてゐた。正面ではぐら/\と柱が搖れて大きな宅《うち》が潰れた。すると其の潰れた屋根の間から、髭を生やした軍人《いくさにん》が威張つて出て來た。――其頃の健三はまだ芝居といふものゝ觀念を有《も》つてゐなかつたのである。
 彼の頭には此芝居と外《そ》れ鷹《たか》とが何の意味なしに結び付けられてゐた。突然鷹が向ふに見える青い竹藪の方へ筋違《すぢかひ》に飛んで行つた時、誰だか彼の傍《そば》に居るものが、「外《そ》れた/\」と叫んだ。すると誰だかまた手を叩いて其鷹を呼び返さうとした。――健三の記憶は此處でぷつりと切れてゐた。芝居と鷹と何方《どつち》を先に見たのか、夫《それ》さへ彼には不分明《ふぶんみやう》であつた。從つて彼が田圃《たんぼ》や藪ばかり見える田舍に住んでゐたのと、狹苦しい町内の徃來《わうらい》に向いた薄暗い宅《うち》に住んでゐたのと、何方《どつち》が先になるのか、それも彼にはよく判明《わか》らなかつた。さうして其時代の彼の記憶には、殆ど人といふものゝ影が働いてゐなかつた。
 然し島田夫婦が彼の父母《ふぼ》として明瞭に彼の意識に上《のぼ》つたのは、それから間《ま》もない後《あと》の事であつた。
 其時夫婦は變な宅《うち》にゐた。門口《かどぐち》から右へ折れると、他《ひと》の塀際傳ひに石段を三《みつ》つ程《ほど》上《あが》らなければならなかつた。そこからは幅三尺ばかりの路地《ろぢ》で、拔けると廣くて賑やかな通りへ出た。左は廊下を曲つて、今度は反對に二三段下りる順になつてゐた。すると其處に長方形の廣間があつた。廣間に沿うた土間《どま》も長方形であつた。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。其上を白帆を懸けた船が何艘となく徃つたり來たりした。河岸《かし》には柵を結《い》つた中へ薪《まき》が一杯積んであつた。柵と柵の間にある空地《あきち》は、だら/\下《さが》りに水際迄續いた。石垣の隙間からは辨慶蟹《べんけいがに》がよく鋏を出した。
 島田の家は此細長い屋敷を三《みつ》つに區切つたものゝ眞中《まんなか》にあつた。もとは大きな町人の所有で、河岸《かし》に面した長方形の廣間が其店になつてゐたらしく思はれるけれども、その持主の何者であつたか、又何うして彼が其處を立《た》ち退《の》いたものか、それらは凡《すべ》て健三の知識の外《ほか》に横《よこた》はる秘密であつた。
 一頃《ひところ》その廣い部屋をある西洋人が借りて英語を教へた事があつた。まだ西洋人を異人《いじん》といふ昔の時代だつたので、島田の妻《さい》のお常は、化物と同居でもしてゐるやうに氣味を惡がつた。尤も此西洋人は上靴《スリツパー》を穿《は》いて、島田の借りてゐる部屋の縁側迄のそ/\歩いてくる癖を有《も》つてゐた。お常が癪の氣味だとか云つて蒼い顔をして寢てゐると、其處の縁側へ立つて座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、又はたゞ手眞似《てまね》丈《だけ》か、健三には丸《まる》で解つてゐなかつた。
 
     四十
 
 西洋人は何時《いつ》の間《ま》にか去つてしまつた。小さい健三が不圖《ふと》心付いて見ると、其廣い室《へや》は既に扱所《あつかひじよ》といふものに變つてゐた。
 扱所といふのは今の區役所の樣なものらしかつた。みんなが低い机を一列に並べて事務を執《と》つてゐた。テーブルや椅子が今日《こんにち》のやうに廣く用ひられない時分の事だつたので、疊の上に長く坐るのが、夫《それ》程《ほど》の不便でもなかつたのだらう、呼び出されるものも、また自分から遣つて來るものも、悉《こと/”\》く自分の下駄を土間へ脱ぎ捨てゝ掛《かゝ》り/\の机の前へ畏《かしこ》まつた。
 島田は此扱所の頭《かしら》であつた。從つて彼の席は入口からずつと遠い一番奧の突當りに設けられた。其處から直角に折れ曲つて、河の見える櫺子窓《れんじまど》の際《きは》迄《まで》に、人の數が何人ゐたか、机の數が幾脚あつたか、健三の記憶は慥《たしか》にそれを彼に語り得なかつた。
 島田の住居《すまひ》と扱所とは、もとより細長い一《ひと》つ家《いへ》を仕切《しき》つた迄の事なので、彼は出勤と云はず退出と云はず、少からぬ便宜を有《も》つてゐた。彼には天氣の好い時でも土を踏む面倒がなかつた。雨の降る日には傘《かさ》を差す億劫《おつくふ》を省《はぶ》く事が出來た。彼は自宅から縁側傳ひで勤めに出た。さうして同じ縁側を歩いて宅《うち》へ歸つた。
 斯ういふ關係が、小さい健三を少からず大膽にした。彼は時々|公《おほや》けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い氣になつて、書記の硯箱の中にある朱墨を弄《いぢ》つたり、小刀《こがたな》の鞘を拂つて見たり、他《ひと》に蒼蠅《うるさ》がられるやうな惡戯《いたづら》を續けざまにした。島田はまた出來る限りの專横をもつて、此|小暴君《せうばうくん》の態度を是認した。
 島田は吝嗇《りんしよく》な男であつた。妻《さい》のお常は島田よりも猶《なほ》吝嗇《りんしよく》であつた。
 「爪に火を點《とも》すつてえのは、あの事だね」
 彼が實家に歸つてから後《のち》、斯《こ》んな評が時々彼の耳に入《い》つた。然し當時の彼は、お常が長火鉢の傍《そば》へ坐つて、下女に味噌汁《おつけ》をよそつて遣るのを何の氣もなく眺めてゐた。
 「それぢや何ぼ何でも下女が可哀《かはい》さうだ」
 彼の實家のものは苦笑した。
 お常はまた飯櫃《おはち》や御菜《おかず》の這入《はい》つてゐる戸棚に、いつでも錠を卸した。たまに實家の父が訪ねて來ると、屹度《きつと》蕎麥《そば》を取寄せて食はせた。其時は彼女も健三も同じものを食つた。その代り飯時が來ても決して何時《いつ》ものやうに膳を出さなかつた。それを當然のやうに思つてゐた健三は、實家へ引き取られてから、間食《かんしよく》の上に三度の食事が重《かさ》なるのを見て、大いに驚いた。
 然し健三に對する夫婦は金の點に掛けて寧ろ不思議な位寛大であつた。外へ出る時は黄八丈《きはちぢやう》の羽織を着せたり、縮緬《ちりめん》の着物を買ふために、わざ/\越後屋迄引つ張つて行つたりした。其越後屋の店へ腰を掛けて、柄《がら》を擇《よ》り分《わ》けてゐる間に、夕暮の時間が逼《せま》つたので、大勢の小僧が廣い間口《まぐち》の雨戸を、兩側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなつて、大きな聲を揚げて泣き出した事もあつた。
 彼の望む玩具《おもちや》は無論彼の自由になつた。其中には寫し繪の道具も交《まじ》つてゐた。彼はよく紙を繼《つ》ぎ合《あ》はせた幕の上に、三番叟《さんばそう》の影を映して、烏帽子姿《ゑぼしすがた》に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜んだ。彼は新しい獨樂《こま》を買つて貰つて、時代を着けるために、それを河岸際《かしぎは》の泥溝《どぶ》の中に浸《つ》けた。所が其|泥溝《どぶ》は薪積場《まきつみば》の柵と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は獨樂《こま》の失《な》くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を拔けて行つて、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹の穴を棒で突ツついた。それから逃《に》げ損《そこ》なつたものゝ甲を抑へて、いくつも生捕《いけど》りにして袂へ入れた。……
 要するに彼は此|吝嗇《りんしよく》な島田夫婦に、餘所《よそ》から貰ひ受けた一人つ子として、異數の取扱ひを受けてゐたのである。
 
     四十一
 
 然し夫婦の心の奧には健三に對する一種の不安が常に潜んでゐた。
 彼等が長火鉢の前で差向ひに坐り合ふ夜寒《よさむ》の宵などには、健三によく斯《こ》んな質問を掛けた。
 「御前の御父《おとつ》さんは誰だい」
 健三は島田の方を向いて彼を指《ゆびさ》した。
 「ぢや御前の御母《おつか》さんは」
 健三はまたお常の顔を見て彼女を指さした。是で自分達の要求を一應滿足させると、今度は同じやうな事を外の形で訊いた。
 「ぢや御前の本當の御父《おとつ》さんと御母《おつか》さんは」
 健三は厭々ながら同じ答を繰返すより外に仕方がなかつた。然しそれが何故《なぜ》だか彼等を喜ばした。彼等は顏を見合せて笑つた。
 或時はこんな光景が殆ど毎日のやうに三人の間に起つた。或時は單に是《これ》丈《だけ》の問答では濟まなかつた。ことにお常は執濃《しつこ》かつた。
 「御前は何處で生れたの」
 斯う聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門 ――高藪《たかやぶ》で蔽はれた小さな赤い門の家《うち》を擧げて答へなければならなかつた。お常は何時《いつ》此質問を掛けても、健三が差支なく同じ返事の出來るやうに、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であつた。けれども彼女はそんな事には一向《いつかう》頓着しなかつた。
 「健坊、御前本當は誰の子なの、隱さずにさう御云ひ」
 彼は苦しめられるやうな心持がした。時には苦しいより腹が立つた。向ふの聞きたがる返事を與へずに、わざと黙つてゐたくなつた。
 「御前誰が一番好きだい。御父《おとつ》さん?御母《おつか》さん?」
 健三は彼女の意を迎へるために、向ふの望むやうな返事をするのが厭で堪《たま》らなかつた。彼は無言のまゝ棒のやうに立つてゐた。それを只|年齒《としは》の行かないためとのみ解釋したお常の觀察は、寧ろ簡單に過ぎた。彼は心のうちで彼女の斯うした態度を忌《い》み惡《にく》んだのである。
 夫婦は全力を盡して健三を彼等の專有物にしやうと力《つと》めた。また事實上健三は彼等の專有物に相違なかつた。從つて彼等から大事にされるのは、つまり彼等のために彼の自由を奪はれるのと同じ結果に陷つた。彼には既に身體の束縛があつた。然しそれよりも猶《なほ》恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不滿足の影を投げた。
 夫婦は何かに付けて彼等の恩惠を健三に意識させやうとした。それで或時は「御父《おとつ》さんが」といふ聲を大きくした。或時はまた「御母《おつか》さんが」といふ言葉に力を入れた。御父《おとつ》さんと御母《おつか》さんを離れたたゞの菓子を食つたり、たゞの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられてゐた。
 自分達の親切を、無理にも子供の胸に外部から叩き込まうとする彼等の努力は、却《かへ》つて反對の結果を其子供の上に引き起した。健三は蒼蠅《うるさ》がつた。
 「なんでそんなに世話を燒くのだらう」
 「御父《おとつ》さんが」とか「御母《おつか》さんが」とかが出るたびに、健三は己《おの》れ獨《ひと》りの自由を欲しがつた。自分の買つて貰ふ玩具《おもちや》を喜んだり、錦繪を飽かず眺めたりする彼は、却《かへ》つてそれ等を買つてくれる人を嬉しがらなくなつた。少くとも兩《ふた》つのものを綺麗に切り離して、純粹な樂みに耽《ふけ》りたかつた。
 夫婦は健三を可愛《かあい》がつてゐた。けれども其愛情のうちには變な報酬が豫期されてゐた。金の力で美しい女を圍つてゐる人が、其女の好きなものを、云ふが儘に買つて呉れるのと同じ樣に、彼等は自分達の愛情そのものゝ發現を目的として行動する事が出來ずに、たゞ健三の歡心を得るために親切を見せなければならなかつた。さうして彼等は自然のために彼等の不純を罸せられた。しかも自《みづか》ら知らなかつた。
 
     四十二
 
 同時に健三の氣質も損《そこな》はれた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行つた。さうして其|陷缺《かんけつ》を補ふものは強情《がうじやう》の二字に外ならなかつた。
 彼の我儘は日増《ひまし》に募《つの》つた。自分の好きなものが手に入《い》らないと、徃來でも道端《みちばた》でも構はずに、すぐ其處へ坐り込んで動かなかつた。ある時は小僧の脊中から彼の髪の毛を力に任《まか》せて?《むし》り取《と》つた。ある時は神社に放し飼の鳩を何うしても宅《うち》へ持つて歸るのだと主張して已《や》まなかつた。養父母の寵を欲しいまゝに專有し得る狹い世界の中《うち》に起きたり寢たりする事より外に何にも知らない彼には、凡《すべ》ての他人が、たゞ自分の命令を聞くために生きてゐるやうに見えた。彼は云へば通るとばかり考へるやうになつた。
 やがて彼の横着《わうちやく》はもう一歩深入りをした。
 ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を擦《こす》りながら縁側へ出た。彼は毎朝寢起きに其處から小便をする癖を有《も》つてゐた。所が其日は何時《いつ》もより眠かつたので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまつた。さうして其《その》後《あと》を知らなかつた。
 眼が覺めて見ると、彼は小便の上に轉げ落ちてゐた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かつた。大通りから河岸《かし》の方へ滑り込んでゐる地面の中途に當るので、普通の倍程あつた。彼はその出來事のためにとう/\腰を拔かした。
 驚いた養父母はすぐ彼を千住《せんぢゆ》の名倉《なぐら》へ伴《つ》れて行つて出來《でき》る丈《だけ》の治療を加へた。然し強く痛められた腰は容易に立たなかつた。彼は醋《す》の臭《にほひ》のする黄色いどろ/\したものを毎日局部に塗つて座敷に寐てゐた。それが幾日《いくか》續いたか彼は知らなかつた。
 「まだ立てないかい。立つて御覽」
 お常は毎日のやうに催促した。然し健三は動けなかつた。動けるやうになつてもわざと動かなかつた。彼は寐ながらお常のやきもきする顔を見てひそかに喜んだ。
 彼は仕舞に立つた。さうして平生《へいぜい》と何の異《こと》なる所なく其處いら中歩き廻つた。するとお常の驚いて嬉しがりやうが、如何にも芝居じみた表情に充ちてゐたので、彼はいつそ立たずにもう少し寐てゐればよかつたといふ氣になつた。
 彼の弱點がお常の弱點とまともに相搏《あひう》つ事も少なくはなかつた。
 お常は非常に嘘を吐《つ》く事の巧《うま》い女であつた。それから何《ど》んな場合でも、自分に利益があるとさへ見れば、すぐ涙を流す事の出來る重寶《ちようはう》な女であつた。健三をほんの子供だと思つて氣を許してゐた彼女は、其裏面をすつかり彼に曝露して自《みづか》ら知らなかつた。
 或日一人の客と相對して坐つてゐたお常は、其席で話題に上《のぼ》つた甲といふ女を、傍《はた》で聽いてゐても聽きづらい程|罵《のゝ》しつた、所が其客が歸つたあとで、甲が又偶然彼女を訪ねて來た。するとお常は甲に向つて、そら/”\しい御世辭を使ひ始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大變|賞《ほ》めてゐた所だといふやうな不必要な嘘迄|吐《つ》いた。健三は腹を立てた。
 「あんな嘘を吐《つ》いてらあ」
 彼は一徹な子供の正直を其儘甲の前に披瀝《ひれき》した。甲の歸つたあとでお常は大變に怒《おこ》つた。
 「御前と一所にゐると顔から火の出るやうな思ひをしなくつちやならない」
 健三はお常の顔から早く火が出れば好い位に感じた。
 彼の胸の底には彼女を忌み嫌ふ心が我知らず常に何處かに働いてゐた。いくらお常から可愛《かあい》がられても、それに酬いる丈《だけ》の情合《じやうあひ》が此方《こつち》に出て來得ないやうな醜いものを、彼女は彼女の人格の中に藏《かく》してゐたのである。さうして其醜くいものを一番|能《よ》く知つてゐたのは、彼女の懷に温《あたゝ》められて育つた駄々ツ子に外ならなかつたのである。
 
     四十三
 
 其《その》中《うち》變な現象が島田とお常との間に起つた。
 ある晩健三が不圖《ふと》眼を覺まして見ると、夫婦は彼の傍《そば》ではげしく罵《のゝしり》合《あ》つてゐた。出來事は彼に取つて突然であつた。彼は泣き出した。
 其翌晩も彼は同じ爭ひの聲で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。
 斯うした騷がしい夜が幾つとなく重《かさ》なつて行くに連れて、二人の罵《のゝし》る聲は次第に高まつて來た。仕舞には双方共手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すと已《や》んだ二人の喧嘩が、今では寢やうが覺めやうが、彼に用捨《ようしや》なく進行するやうになつた。
 幼稚な健三の頭では何の爲めに、ついぞ見馴れない此光景が毎夜深更に起るのか、丸《まる》で解釋出來なかつた。彼はたゞそれを嫌つた。道コも理非も持たない彼に、自然はたゞそれを嫌ふやうに教へたのである。
 やがてお常は健三に事實を話して聞かせた。其話によると、彼女は世の中で一番の善人であつた。これに反して島田は大變な惡ものであつた。然し最も惡いのはお藤さんであつた。「あいつが」とか「あの女が」とかいふ言葉を使ふとき、お常は口惜《くや》しくつて堪まらないといふ顔付をした。眼から涙を流した。然しさうした劇烈な表情は却《かへ》つて健三の心持を惡くする丈《だけ》で、外に何の效果もなかつた。
 「彼奴《あいつ》は讐《かたき》だよ。御母《おつか》さんにも御前にも讐《かたき》だよ。骨を粉《こ》にしても仇討《かたきうち》をしなくつちや」
 お常は齒をぎり/\噛《か》んだ。健三は早く彼女の傍《そば》を離れたくなつた。
 彼は始終自分の傍《そば》にゐて、朝から晩迄彼を味方にしたがるお常よりも、寧ろ島田の方を好いた。其島田は以前と違つて、大抵は宅《うち》にゐない事が多かつた。彼の歸る時刻は何時《いつ》も夜更《よふけ》らしかつた。從つて日中《につちゆう》は滅多《めつた》に顔を合せる機會がなかつた。
 然し健三は毎晩暗い灯火《ともしび》の影で彼を見た。其險惡な眼と怒《いか》りに顫へる唇とを見た。咽喉から渦捲《うづま》く煙のやうに洩れて出る其《その》憤《いきどほ》りの聲を聞いた。
 それでも彼は時々健三を伴《つ》れて以前の通り外へ出る事があつた。彼は一口も酒を飲まない代りに大變甘いものを嗜《たしな》んだ。ある晩彼は健三とお藤さんの娘のお縫さんとを伴《つ》れて、賑かな通りを散歩した歸りに汁粉屋《しるこや》へ寄つた。健三のお縫さんに會つたのは此時が始めてゞあつた。それで彼等は碌に顔さへ見合せなかつた。口は丸《まる》で利かなかつた。
 宅《うち》へ歸つた時、健三はお常から、まづ島田に何處へ伴《つ》れて行かれたかを訊かれた。それからお藤さんの宅《うち》へ寄りはしないかと念を押された。最後に汁粉屋へは誰と一所に行つたといふ詰問を受けた。健三は島田の注意に拘《かゝは》らず、事實を有《あり》の儘《まゝ》に告げた。然しお常の疑ひはそれでも中々解けなかつた。彼女はいろ/\な鎌を掛けて、それ以上の事實を釣り出さうとした。
 「彼奴《あいつ》も一所なんだらう。本當を御云ひ。云へば御母《おつか》さんが好いものを上げるから御云ひ。あの女も行つたんだらう。さうだらう」
 彼女は何うしても行つたと云はせやうとした。同時に健三は何うしても云ふまいと決心した。彼女は健三を疑《うたぐ》つた。健三は彼女を卑しんだ。
 「ぢや彼《あ》の子《こ》に御父《おとつ》さんが何と云つたい。彼《あ》の子《こ》の方に餘計口を利くかい、御前の方にかい」
 何の答もしなかつた健三の心には、たゞ不愉快の念のみ募つた。然しお常は其處で留《と》まる女ではなかつた。
 「汁粉屋で御前を何方《どつち》へ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」
 嫉妬から出る質問は何時《いつ》迄《まで》經《た》つても盡きなかつた。その質問のうちに自分の人格を會釋なく露《あら》はして顧《かへ》り見《み》ない彼女は、十《とを》にも足りないわが養ひ子から、愛想《あいそ》を盡かされて毫も氣が付かずにゐた。
 
     四十四
 
 間もなく島田は健三の眼から突然消えて失《な》くなつた。河岸《かし》を向いた裏通りと賑かな表通りとの間に挾まつてゐた今迄の住居《すまひ》も急に何處へか行つてしまつた。お常とたつた二人ぎりになつた健三は、見馴れない變な宅《うち》の中に自分を見出だした。
 其家の表には門口《かどぐち》に繩暖簾《なはのれん》を下げた米屋だか味噌屋だかがあつた。彼の記憶は此大きな店と、茄《ゆ》でた大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食つた事をいまだに忘れずにゐた。然し自分の新しく移つた住居《すまひ》については何の影像《イメジ》も浮かべ得なかつた。「時」は綺麗に此|佗《わ》びしい記念《かたみ》を彼のために拂ひ去つてくれた。
 お常は會ふ人毎に島田の話をした。口惜《くや》しい/\と云つて泣いた。
 「死んで祟《たゝ》つてやる」
 彼女の權幕は健三の心をます/\彼女から遠ざける媒介《なかだち》となるに過ぎなかつた。
 夫《をつと》と離れた彼女は健三を自分一人の專有物にしやうとした。また專有物だと信じてゐた。
 「是からは御前一人が依怙《たより》だよ。好いかい。確《しつ》かりして呉れなくつちや不可《いけな》いよ」
 斯う頼まれるたびに健三は云ひ澁つた。彼はどうしても素直《すなほ》な子供のやうに心持の好い返事を彼女に與へる事が出來なかつた。
 健三を物にしようといふお常の腹の中には愛に驅られる衝動よりも、寧ろ慾に押し出される邪氣が常に働いてゐた。それが頑是《ぐわんぜ》ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。然し其他の點について彼は全くの無我夢中であつた。
 二人の生活は僅《わづか》の間《ま》しか續かなかつた。物質的の缺乏が原因になつたのか、又はお常の再縁が現状の變化を餘儀なくしたのか、年齒《とし》の行かない彼には丸《まる》で解らなかつた。何しろ彼女は又突然健三の眼から消えて失《な》くなつた。さうして彼は何時《いつ》の間《ま》にか彼の實家へ引き取られてゐた。
 「考へると丸《まる》で他《ひと》の身の上のやうだ。自分の事とは思へない」
 健三の記憶に上《のぼ》せた事相は餘りに今の彼と懸隔してゐた。それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思ひ浮べなければならなかつた。しかも或る不快な意味に於て思ひ浮べなければならなかつた。
 「お常さんて人は其時にあの波多野《はたの》とか云ふ宅《うち》へ又御嫁に行つたんでせうか」
 細君は何年前か夫《をつと》の所へお常から來た長い手紙の上書《うはがき》をまだ覺えてゐた。
 「左右《さう》だらうよ。己《おれ》も能《よ》く知らないが」
 「其|波多野《はたの》といふ人は大方まだ生きてるんでせうね」
 健三は波多野《はたの》の顔さへ見た事がなかつた。生死《しやうし》抔《など》は無論考への中になかつた。
 「警部だつて云ふぢやありませんか」
 「何んだか知らないね」
 「あら、貴夫《あなた》が自分でさう仰つ《おつしや》た癖に」
 「何時《いつ》」
 「あの手紙を私に御見せになつた時よ」
 「左右《さう》かしら」
 健三は長い手紙の内容を少し思ひ出した。其中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立てゝあつた。乳がないので最初からおぢや〔三字傍点〕丈《だけ》で育てた事だの、下性《げしやう》が惡くつて寢小便の始末に困つた事だの、凡《すべ》てさうした?末を、飽きる程|委《くは》しく述べた中に、甲府とかにゐる親類の裁判官が、月々彼女に金を送つてくれるので、今では大變|仕合《しあはせ》だと書いてあつた。然し肝腎の彼女の夫《をつと》が警部であつたか何うか、其處になると健三には全く覺えがなかつた。
 「ことによると、もう死んだかも知れないね」
 「生きてゐるかも分りませんわ」
 二人の間には波多野の事ともつかず、又お常の事ともつかず、斯《こ》んな問答が取り換はされた。
 「あの人が不意に遣つて來たやうに、其女の人も、何時《いつ》突然訪ねて來ないとも限らないわね」
 細君は健三の顔を見た。健三は腕組をしたなり黙つてゐた。
 
     四十五
 
 健三も細君もお常の書いた手紙の傾向をよく覺えてゐた。彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月|若干《いくら》かづゝの送金をして呉れるのに、小さい時分あれ程世話になつて置きながら、今更知らん顔をしてゐられた義理でもあるまいと云つた風の筆意が、一|頁《ページ》ごとに見透かされた。
 其時彼は此手紙を東京にゐる兄の許《もと》に送つた。勤先へこんなものを度々《たび/\》寄こされては迷惑するから、少し氣を付けるやうに先方へ注意してくれと頼んだ。兄からはすぐ返事が來た。もと/\養家先を離縁になつて、他家へ嫁に行つた以上は他人である、其上健三はその養家さへ既に出て仕舞つた後《あと》なのだから、今になつて直接本人へ文通などされては困るといふ理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、其返事には書いてあつた。
 お常の手紙は其《その》後《ご》ふつつり來なくなつた。健三は安心した。然し何處かに心持の惡い所があつた。彼はお常の世話を受けた昔を忘れる譯に行かなかつた。同時に彼女を忌み嫌ふ念は昔の通り變らなかつた。要するに彼のお常に對する態度は、彼の島田に對する態度と同じ事であつた。さうして島田に對するよりも一層|嫌惡《けんを》の念が劇《はげ》しかつた。
 「島田一人でもう澤山な所へ、又新しくそんな女が遣つて來られちや困るな」
 健三は腹の中で斯う思つた。夫《をつと》の過去に就いて、それ程知識のない細君の腹の中は猶《なほ》の事《こと》であつた。細君の同情は今其生家の方にばかり注《そゝ》がれてゐた。もと可なりの地位にあつた彼女の父は、久しく浪人生活を續けた結果、漸々《だん/\》經濟上の苦境に陷つて來たのである。
 健三は時々|宅《うち》へ話しに來る青年と對坐して、晴々しい彼等の樣子と自分の内面生活とを對照し始めるやうになつた。すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ/\と歩いて行くやうに見えた。
 或日彼は其青年の一人に向つて斯う云つた。
 「君等は幸福だ。卒業したら何にならうとか、何をしやうとか、そんな事ばかり考へてゐるんだから」
 青年は苦笑した。さうして答へた。
 「それは貴方方《あなたがた》時代の事でせう。今の青年はそれ程|呑氣《のんき》でもありません。何にならうとか、何をしやうとか思はない事は無論ないでせうけれども、世の中が、さう自分の思ひ通りにならない事も亦|能《よ》く承知してゐますから」
 成程彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も世知辛《せちがら》くなつてゐた。然しそれは衣食住に關する物質的の問題に過ぎなかつた。從つて青年の答には彼の思《おも》はくと多少喰ひ違つた點があつた。
 「いや君等は僕のやうに過去に煩はされないから仕合せだと云ふのさ」
 青年は解《かい》しがたいといふ顔をした。
 「あなただつて些《ちつ》とも過去に煩はされてゐるやうには見えませんよ。矢つ張り己《おれ》の世界は是からだといふ所があるやうですね」
 今度は健三の方が苦笑する番になつた。彼は其青年に佛蘭西《フランス》のある學者が唱へ出した記憶に關する新説を話した。
 人が溺れかゝつたり、又は絶壁から落ちようとする間際《まぎは》に、よく自分の過去全體を一瞬間の記憶として、其頭に描《ゑが》き出《だ》す事があるといふ事實に、此哲學者は一種の解釋を下したのである。
 「人間は半生《へいぜい》彼等の未來ばかり望んで生きてゐるのに、其未來が咄嗟《とつさ》に起つたある危險のために突然|塞《ふさ》がれて、もう己《おれ》は駄目だと事が極ると、急に眼を轉じて過去を振り向くから、そこで凡《すべ》ての過去の經驗が一度に意識に上《のぼ》るのだといふんだね。その説によると」
 青年は健三の紹介を面白さうに聽いた。けれども事状を一向《いつかう》知らない彼は、それを健三の身の上に引直して見る事が出來なかつた。健三も一刹那にわが全部の過去を思ひ出すやうな危險な境遇に置かれたものとして今の自分を考へる程の馬鹿でもなかつた。
 
     四十六
 
 健三の心を不愉快な過去に捲き込む端緒《いとぐち》になつた島田は、それから五六日程して、つひに又彼の座敷にあらはれた。
 其時健三の眼に映じた此老人は正《まさ》しく過去の幽靈であつた。また現在の人間でもあつた。それから薄暗い未來の影にも相違なかつた。
 「何處迄此影が己《おれ》の身體に付いて回るだらう」
 健三の胸は好奇心の刺戟に促されるよりも寧ろ不安の漣?《さゞなみ》に搖れた。
 「此間比田の所を一寸訪ねて見ました」
 島田の言葉遣ひは此前と同じやうに鄭重であつた。然し彼が何で比田の家へ足を運んだのか、其點になると、彼は全く知らん顔をして澄ましてゐた。彼の口振は丸《まる》で無沙汰見舞かた/”\其方《そつち》へ用のあつた序《ついで》に立ち寄つた人の如くであつた。
 「あの邊《へん》も昔と違つて大分《だいぶ》變りましたね」
 健三は自分の前に坐つてゐる人の眞面目さの程度を疑《うたぐ》つた。果して此男が彼の復籍を比田迄頼み込んだのだらうか、又比田が自分達と相談の結果通り、斷然それを拒絶したのだらうか、健三は其明白な事實さへ疑はずには居られなかつた。
 「もとはそら彼處《あすこ》に瀑《たき》があつて、みんな夏になると能《よ》く出掛けたものですがね」
 島田は相手に頓着なくたゞ世間話を進めて行つた。健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に觸れる必要を認めないので、たゞ老人の迹《あと》に跟《つ》いて引つ張られて行く丈《だけ》であつた。すると何時《いつ》の間《ま》にか島田の言葉遣《ことばづかひ》が崩れて來た。仕舞に彼は健三の姉を呼び捨てにし始めた。
 「お夏も年を取つたね。尤ももう大分《だいぶ》久しく會はないには違《ちがひ》ないが。昔はあれで中々勝氣な女で、能《よ》く私《わたし》に喰つて掛つたり何《なん》かしたものさ。其代り元々|兄弟《きやうだい》同樣の間柄だから、いくら喧嘩をしたつて、仲の直るのも亦早いには早いが。何しろ困ると助けて呉れつて能く泣き付いて來るんで、私《わたし》や可哀想《かはいさう》だからその度《たん》びに若干《いくら》かづゝ都合して遣つたよ」
 島田の云ふ事は、姉が蔭で聽いてゐたら嘸《さぞ》怒《おこ》るだらうと思ふやうに横柄《わうへい》であつた。それから手前勝手な立場からばかり見た歪《ゆが》んだ事實を他《ひと》に押し付けやうとする邪氣に充《み》ちてゐた。
 健三は次第に言葉少《ことばずく》なになつた。仕舞には黙つたなり凝《ぢつ》と島田の顔を見詰めた。
 島田は妙に鼻の下の長い男であつた。其上徃來などで物を見るときは必ず口を開けてゐた。だから一寸馬鹿のやうであつた。けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかつた。落ち込んだ彼の眼は其底で常に反對の何物かを語つてゐた。眉は寧ろ險《けは》しかつた。狹くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられた例《ためし》がなかつた。法印《ほふいん》か何ぞのやうに常に後《うしろ》へ撫で付けられて居た。
 彼は不圖《ふと》健三の眼を見た。さうして相手の腹を讀んだ。一旦|横風《わうふう》の昔に返つた彼の言葉遣ひが又|何時《いつ》の間《ま》にか現在の鄭寧さに立ち戻つて來た。健三に對して過去の己《おの》れに返らう/\とする試みを遂に斷念してしまつた。
 彼は室《へや》の内をきよろ/\見廻し始めた。殺風景を極めた其《その》室《へや》の中には生憎《あいにく》額も掛物《かけもの》も掛つてゐなかつた。
 「李鴻章《りこうしやう》の書は好きですか」
 彼は突然|斯《こ》んな問を發した。健三は好きとも嫌ひとも云ひ兼ねた。
 「好きなら上げても好ござんす。あれでも價値《ねうち》にしたら今ぢや餘つ程するでせう」
 昔島田は藤田東湖《ふぢたとうこ》の僞筆に時代を着けるのだと云つて、白髪蒼顔萬死餘云々《はくはつさうがんばんしのようんぬん》と書いた半切《はんせつ》の唐紙《たうし》を、台所の竈《へつつひ》の上に釣るしてゐた事があつた。彼の健三に呉れるといふ李鴻章《りこうしやう》も、何處の誰が書いたものか頗る怪しかつた。島田から物を貰ふ氣の絶對になかつた健三は取り合はずにゐた。島田は漸く歸つた。
 
     四十七
 
 「何しに來たんでせう、あの人は」
 目的《あて》なしに只來る筈がないといふ感じが細君には強くあつた。健三も丁度同じ感じに多少支配されてゐた。
 「解らないね、何うも。一體|魚《さかな》と獣《けだもの》程《ほど》違ふんだから」
 「何が」
 「あゝ云ふ人と己《おれ》などとはさ」
 細君は突然自分の家族と夫《をつと》との關係を思ひ出した。兩者の間には自然の造つた溝があつて、御互を離隔してゐた。片意地な夫《をつと》は決してそれを飛び超えて呉れなかつた。溝を拵へたものゝ方で、それを埋めるのが當然ぢやないかと云つた風の氣分で何時《いつ》迄《まで》も押し通してゐた。里ではまた反對に、夫《をつと》が自分の勝手で此溝を掘り始めたのだから、彼の方で其處を平《たひら》にしたら好からうと云ふ考へを有《も》つてゐた。細君の同情は無論自分の家族の方に在《あ》つた。彼女はわが夫《をつと》を世の中と調和する事の出來ない偏窟な學者だと解釋してゐた。同時に夫《をつと》が里と調和しなくなつた原因の中《うち》に、自分が主《おも》な要素として這入《はい》つてゐる事も認めてゐた。
 細君は黙つて話を切上げやうとした。然し島田の方にばかり氣を取られてゐた健三には其意味が通じなかつた。
 「お前はさう思はないかね」
 「そりや彼《あ》の人《ひと》と貴夫《あなた》となら魚《さかな》と獣《けだもの》位《ぐらゐ》違ふでせう」
 「無論外の人と己《おれ》と比較してゐやしない」
 話はまた島田の方へ戻つて來た。細君は笑ひながら訊いた。
 「李鴻章の掛物《かけもの》を何うとか云つてたのね」
 「己《おれ》に遣らうかつて云ふんだ」
 「御止《およ》しなさいよ。そんな物を貰つてまた後から何《ど》んな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るつて云ふのは、大方口の先|丈《だけ》なんでせう。本當は買つて呉れつていふ氣なんですよ、屹度《きつと》」
 夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買ひたいものが澤山あつた。段々大きくなつて來る女の子に、相當の着物を着せて表へ出す事の出來ないのも、細君から云へば、夫《をつと》の氣の付かない心配に違なかつた。二圓五十錢の月賦で、此間拵へた雨合羽《あまがつぱ》の代を、月々洋服屋に拂つてゐる夫《をつと》も、あまり長閑《のどか》な心持になれやう筈がなかつた。
 「復籍の事は何にも云ひ出さなかつた樣ですね」
 「うん何にも云はない。丸《まる》で狐に抓《つま》まれたやうなものだ」
 始めから此方《こつち》の氣を引く爲にわざとそんな突飛な要求を持ち出したものか、又は眞面目《まじめ》な懸合《かけあひ》として、それを比田へ持ち込んだ後、比田からきつぱり斷られたので、始めて駄目だと覺つたものか、健三には丸《まる》で見當が付かなかつた。
 「何方《どつち》でせう」
 「到底解らないよ、あゝいふ人の考へは」
 島田は實際|何方《どつち》でも遣りかねない男であつた。
 彼は三日程して又健三の玄關を開けた。其時健三は書齋に灯火《あかり》を點《つ》けて机の前に坐つてゐた。丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の端緒《いとぐち》を見せかけた所であつた。彼は一圖《いちづ》にそれを手近迄|手繰《たぐ》り寄《よ》せやうとして骨を折つた。彼の思索は突然|截《た》ち切《き》られた。彼は苦《にが》い顔をして室《へや》の入口に手を突いた下女の方を顧みた。
 「何もさう度々來て、他《ひと》の邪魔をしなくつても好ささうなものだ」
 彼は腹の中で斯う呟《つぶや》いた。斷然面會を謝絶する勇氣を有《も》たない彼は、下女を見たなり少時《しばらく》黙つてゐた。
 「お通し申しますか」
 「うん」
 彼は仕方なしに答へた。それから「御奧《おく》さんは」と訊《たづ》ねた。
 「少し御氣分が惡いと仰しやつて先刻《さつき》から伏せつてゐらつしやいます」
 細君の寢るときは歇私的里《ヒステリー》の起つた時に限るやうに健三には思へてならなかつた。彼は漸く立ち上つた。
 
     四十八
 
 電氣燈のまだ戸毎《こごと》に點《とも》されない頃だつたので、客間には例《いつ》もの通《とほ》り暗い洋燈《ランプ》が點《つ》いてゐた。
 其|洋燈《ランプ》は細長い竹の台の上に油壺を嵌《は》め込《こ》むやうに拵へたもので、鼓の胴の恰好《かつかう》に似た平たい底が疊へ据わるやうに出來てゐた。
 健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて心《しん》を出したり引つ込ましたりしながら灯火《あかり》の具合を眺めてゐた。彼は改まつた挨拶もせずに、「少し油煙がたまる樣ですね」と云つた。
 成程|火屋《ほや》が薄黒く燻《くす》ぶつてゐた。丸心《まるじん》の切方《きりかた》が平《たひら》に行かない所を、無暗に灯《ひ》を高くすると、斯《こ》んな變調を來すのが此|洋燈《ランプ》の特徴であつた。
 「換へさせませう」
 家には同じ型のものが三つばかりあつた。健三は下女を呼んで茶の間にあるのと取り換へさせやうとした。然し島田は生返事《なまへんじ》をする限《ぎり》で、容易に煤《すゝ》で曇つた火屋《ほや》から眼を離さなかつた。
 「何ういふ加減だらう」
 彼は獨り言を云つて、草花の模樣|丈《だけ》を不透明に擦《す》つた丸い蓋《かさ》の隙間を覗き込んだ。
 健三の記憶にある彼は、斯《こ》んな事を能《よ》く氣にするといふ點に於て、頗る几帳面な男に相違なかつた。彼は寧ろ潔癖であつた。持つて生れた倫理上の不潔癖と金錢上の不潔癖の償ひにでもなるやうに、座敷や縁側の塵を氣にした。彼は尻をからげて、拭掃除をした。跣足《はだし》で庭へ出て要《い》らざる所迄掃いたり水を打つたりした。
 物が壞《こは》れると彼は屹度《きつと》自分で修復《なほ》した。或は修復《なほ》さうとした。それがために何《ど》の位《くらゐ》な時間が要《い》つても、又|何《ど》んな勞力が必要になつて來ても、彼は決して厭はなかつた。さういふ事が彼の性《しやう》にある許《ばか》りでなく、彼には手に握つた一錢銅貨の方が、時間や勞力よりも遙に大切に見えたのである。
 「なにそんなものは宅《うち》で出來る。金を出して頼むがものはない。損だ」
 損をするといふ事が彼には何よりも恐ろしかつた。さうして目に見えない損は幾何《いくら》しても解らなかつた。
 「宅《うち》の人はあんまり正直過ぎるんで」
 お藤さんは昔健三に向つて、自分の夫《をつと》を評するときに、斯《こ》んな言葉を使つた。世の中をまだ知らない健三にも其眞實でない事はよく解つてゐた。たゞ自分の手前、嘘と承知しながら、夫《をつと》の品性を取り繕ふのだらうと善意に解釋した彼は、其時お藤さんに向つて何にも云はなかつた。然し今考へて見ると、彼女の批評にはもう少し慥《たしか》な根柢があるらしく思へた。
 「必竟《ひつきやう》大きな損に氣のつかない所が正直なんだらう」
 健三はたゞ金錢上の慾を滿たさうとして、其慾に伴なはない程度の幼稚な頭腦を精一杯に働かせてゐる老人を寧ろ憐れに思つた。さうして凹《くぼ》んだ眼を今|擦《す》り硝子《ガラス》の蓋《かさ》の傍《そば》へ寄せて、研究でもする時のやうに、暗い灯《ひ》を見詰めてゐる彼を氣の毒な人として眺めた。
 「彼は斯うして老いた」
 島田の一生を煎じ詰めたやうな一句を眼の前に味はつた健三は、自分は果して何うして老ゆるのだらうかと考へた。彼は神といふ言葉が嫌《きらひ》であつた。然し其時の彼の心にはたしかに神といふ言葉が出た。さうして、若し其神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、此強慾な老人の一生と大した變りはないかも知れないといふ氣が強くした。
 其時島田は洋燈《ランプ》の螺旋《ねぢ》を急に廻したと見えて、細長い火屋《ほや》の中が、赤い火で一杯になつた。それに驚いた彼は、又|螺旋《ねぢ》を逆に廻し過ぎたらしく、今度はたゞでさへ暗い灯火《あかり》を猶《なほ》の事《こと》暗くした。
 「何うも何處か調子が狂つてますね」
 健三は手を敲いて下女に新しい洋燈《ランプ》を持つて來《こ》さした。
 
     四十九
 
 其晩の島田は此前來た時と態度の上に於て何の異《こと》なる所もなかつた。應對には何處迄も健三を獨立した人と認めるやうな言葉ばかり使つた。
 然し彼はもう先達《せんだつ》ての掛物《かけもの》に就いては丸《まる》で忘れてゐるかの如くに見えた。李鴻章《りこうしやう》の李《り》の字も口にしなかつた。復籍の事は猶更《なほさら》であつた。噫《おくび》にさへ出す樣子を見せなかつた。
 彼は成るべく唯の話をしやうとした。然し二人に共通した興味のある問題は、何處を何う探しても落ちてゐる筈がなかつた。彼のいふ事の大部分は、健三に取つて全くの無意味から餘り遠く隔たつてゐるとも思へなかつた。
 健三は退屈した。然し其退屈のうちには一種の注意が徹《とほ》つてゐた。彼は此老人が或日或物を持つて、今より判明《はつき》りした姿で、屹度《きつと》自分の前に現れてくるに違ないといふ豫覺に支配された。其或物がまた必ず自分に不愉快な若《もし》くは不利益な形を具へてゐるに違ないといふ推測にも支配された。
 彼は退屈のうちに細いながら可なり鋭い緊張を感じた。その所爲《せゐ》か、島田の自分を見る眼が、さつき擦硝子《すりガラス》の蓋《かさ》を通して油煙に燻《くす》ぶつた洋燈《ランプ》の灯《ひ》を眺めてゐた時とは全く變つてゐた。
 「隙《すき》があつたら飛び込まう」
 落ち込んだ彼の眼は鈍《にぶ》い癖に明かに此意味を物語つてゐた。自然健三はそれに抵抗して身構へなければならなくなつた。然し時によると、其身構へをさらりと投げ出して、飢えたやうな相手の眼に、落付を與へて遣りたくなる場合もあつた。
 其時突然奧の間《ま》で細君の唸《うな》るやうな聲がした。健三の神經は此聲に對して普通の人以上の敏感を有《も》つてゐた。彼はすぐ耳を峙《そば》だてた。
 「誰か病氣ですか」と島田が訊いた。
 「えゝ妻《さい》が少し」
 「左右《さう》ですか、それは不可《いけま》せんね。何處が惡いんです」
 島田はまだ細君の顔を見た事がなかつた。何時《いつ》何處から嫁に來た女かさへ知らないらしかつた。從つて彼の言葉にはたゞ挨拶がある丈《だけ》であつた。健三も此人から自分の妻《さい》に對する同情を求めやうとは思つてゐなかつた。
 「近頃は時候が惡いから、能《よ》く氣を付けないといけませんね」
 子供は疾《と》うに寢付いた後《あと》なので奧は寂《しん》としてゐた。下女は一番懸け離れた台所の傍《そば》の三疊にゐるらしかつた。斯んな時に細君をたつた一人で置くのが健三には何より苦しかつた。彼は手を叩いて下女を呼んだ。
 「一寸奧へ行つて奧さんの傍《そば》に坐つてて呉れ」
 「へえゝ」
 下女は何の爲だか解らないと云つた樣子をして間の襖《ふすま》を締めた。健三は又島田の方へ向き直つた。けれども彼の注意は寧ろ老人を離れてゐた。腹の中で早く歸つて呉れゝば好いと思ふので、其腹が言葉にも態度にもあり/\と現れた。
 夫《それ》でも島田は容易に立たなかつた。話の接穗《つぎほ》がなくなつて、手持無沙汰で仕方なくなつた時、始めて座蒲團から滑り落ちた。
 「何うも御邪魔をしました。御忙がしい所を。何《いづ》れまた其内」
 細君の病氣に就いては何事も云はなかつた彼は、沓脱《くつぬぎ》へ下りてから又健三の方を振り向いた。
 「夜分なら大抵御暇ですか」
 健三は生返事《なまへんじ》をしたなり立つてゐた。
 「實は少し御話ししたい事があるんですが」
 健三は何の御用ですかとも聞き返さなかつた。老人は健三の手に持つた暗い灯影《ひかげ》から、鈍い眼を光らして又彼を見上げた。其眼には矢つ張り何處かに隙があつたら彼の懷《ふところ》に潜《もぐ》り込《こ》まうといふ人の惡い厭な色が動いてゐた。
 「ぢや御免」
 最後に格子《かうし》を開けて外へ出た島田は斯う云つてとう/\暗がりに消えた。健三の門には軒燈さへ點《つ》いてゐなかつた。
 
     五十
 
 健三はすぐ奧へ來て細君の枕元に立つた。
 「何うかしたのか」
 細君は眼を開けて天井を見た。健三は蒲團の横からまた其眼を見下《みおろ》した。
 襖の影に置かれた洋燈《ランプ》の灯《ひ》は客間のよりも暗かつた。細君の眸《ひとみ》が何處に向つて注がれてゐるのか能《よ》く分らない位暗かつた。
 「何うかしたのか」
 健三は同じ問をまた繰返さなければならなかつた。それでも細君は答へなかつた。
 彼は結婚以來斯ういふ現象に何度となく遭遇した。然し彼の神經はそれに慣らされるには餘りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であつた。彼はすぐ枕元に腰を卸した。
 「もう彼方《あつち》へ行つても好い。此處には己《おれ》が居るから」
 ぼんやり蒲團の裾に坐つて、退屈さうに健三の樣子を眺めてゐた下女は無言の儘立ち上つた。さうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辭儀をしたなり襖を立て切つた。後《あと》には赤い筋を引いた光るものが疊の上に殘つた。彼は眉を顰《ひそ》めながら下女の振り落して行つた針を取り上げた。何時《いつ》もなら婢《をんな》を呼び返して小言《こごと》を云つて渡す所を、今の彼は黙つて手に持つたまゝ、しばらく考へてゐた。彼は仕舞に其針をぷつりと襖に立てた。さうして又細君の方へ向き直つた。
 細君の眼はもう天井を離れてゐた。然し判然《はつきり》何處を見てゐるとも思へなかつた。黒い大きな瞳子《ひとみ》には生きた光があつた。けれども生きた働きが缺けてゐた。彼女は魂と直接《ぢか》に繋がつてゐないやうな眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔《ひとみ》の向いた見當を眺めてゐた。
 「おい」
 健三は細君の肩を搖《ゆす》つた。細君は返事をせずに只首|丈《だけ》をそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども其處に夫《をつと》の存在を認める何等の輝きもなかつた。
 「おい、己《おれ》だよ。分るかい」
 斯ういふ場合に彼の何時《いつ》でも用ひる陳腐で簡略でしかもぞんざい〔四字傍点〕な此言葉のうちには、他《ひと》に知れないで自分にばかり解つてゐる憐憫と苦痛と悲哀があつた。それから跪《ひざ》まづいて天に祷《いの》る時の誠と願もあつた。
 「何うぞ口を利いて呉れ。後生だから己《おれ》の顔を見て呉れ」
 彼は心のうちで斯う云つて細君に頼むのである。然し其痛切な頼みを決して口へ出して云はうとはしなかつた。感傷的《センチメンタル》な氣分に支配され易い癖に、彼は決して外表的《デモンストラチーヴ》になれない男であつた。
 細君の眼は突然|平生《へいぜい》の我に歸つた。さうして夢から覺めた人のやうに健三を見た。
 「貴夫《あなた》?」
 彼女の聲は細くかつ長かつた。彼女は微笑しかけた。然しまだ緊張してゐる健三の顔を認めた時、彼女は其笑ひを止《と》めた。
 「あの人はもう歸つたの」
 「うん」
 二人はしばらく黙つてゐた。細君は又頸を曲げて、傍《そば》に寢てゐる子供の方を見た。
 「能《よ》く寢てゐるのね」
 子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすや/\寢てゐた。
 健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。
 「水で頭でも冷して遣らうか」
 「いゝえ、もう好《よ》ござんす」
 「大丈夫かい」
 「えゝ」
 「本當に大丈夫かい」
 「えゝ。貴夫《あなた》ももう御休みなさい」
 「己《おれ》はまだ寢る譯に行かないよ」
 健三はもう一遍書齋へ入《はい》つて靜《しづか》な夜《よ》を一人|更《ふ》かさなければならなかつた。
 
     五十−
 
 彼の眼が冴えてゐる割に彼の頭は澄み渡らなかつた。彼は思索の綱を中斷された人のやうに、考察の進路を遮《さへぎ》る霧の中で苦しんだ。
 彼は明日《あした》の朝多くの人より一段高い所に立たなければならない憐れな自分の姿を想ひ見た。其憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分の云ふ事を眞面目に筆記したりする青年に對して濟まない氣がした。白分の虚榮心や自尊心を傷《きずつ》けるのも、それらを超越する事の出來ない彼には、大きな苦痛であつた。
 「明日《あした》の講義もまた纒まらないのかしら」
 斯う思ふと彼は自分の努力が急に厭になつた。愉快に考への筋道が運んだ時、折々何者にか煽動されて起る、「己《おれ》の頭は惡くない」といふ自信も己惚《うぬぼれ》も忽ち消えてしまつた。同時に此頭の働きを攪《か》き亂《みだ》す自分の周圍に就いての不平も常時《ふだん》よりは高まつて來た。
 彼は仕舞に投げるやうに洋筆《ペン》を放《はふ》り出《だ》した。
 「もう已《や》めだ。何うでも構はない」
 時計はもう一時過ぎてゐた。洋燈《ランプ》を消して暗闇《くらやみ》を縁側傳ひに廊下へ出ると、突當りの奧の間《ま》の障子二枚|丈《だけ》が灯《ひ》に映つて明るかつた。健三は其一枚を開けて内に入《はい》つた。
 子供は犬ころのやうに塊《かた》まつて寐てゐた。細君も靜かに眼を閉ぢて仰向《あふむけ》に眠つてゐた。
 音のしないやうに氣を付けて其《その》傍《そば》に坐つた彼は、心持頸を延ばして、細君の顔を上から覗き込んだ。それからそつと手を彼女の寐顔の上に翳《かざ》した。彼女は口を閉ぢてゐた。彼の掌《てのひら》には細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息《いき》が微《かす》かに感ぜられた。其|呼息《いき》は規則正しかつた。また穩かだつた。
 彼は漸く出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出來ないといふ氣が彼の胸を衝《つ》いて起つた。けれども彼は直《すぐ》其衝動に打勝つた。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を搖《ゆす》り起《おこ》さうとしたが、それも已《や》めた。
 「大丈夫だらう」
 彼は漸く普通の人の斷案に歸着する事が出來た。然し細君の病氣に對して神經の鋭敏になつて居る彼には、それが何人《なんぴと》も斯ういふ場合に取らなければならない尋常の手續きのやうに思はれたのである。
 細君の病氣には熟睡が一番の藥であつた。長時間彼女の傍《そば》に坐つて、心配さうに其顔を見詰めて居る健三に、何よりも有難い其眠りが、靜かに彼女の瞼《まぶた》の上に落ちた時、彼は天から降る甘露《かんろ》をまのあたり見るやうな氣が常にした。然し其眠りがまた餘り長く續き過ぎると、今度は自分の視線から隱された彼女の眼が却《かへ》つて不安の種になつた。つひに睫毛《まつげ》の鎖《とざ》してゐる奧を見るために、彼は正體《たわい》なく寐入つた細君を、わざ/\搖《ゆす》り起《おこ》して見る事が折々あつた。細君がもつと寐かして置いて呉れゝば好いのにといふ訴へを疲れた顔色に現して重い瞼《まぶた》を開くと、彼は其時始めて後悔した。然し彼の神經は斯《こ》んな氣の毒な眞似をして迄も、彼女の實在を確めなければ承知しなかつたのである。
 やがて彼は寐衣《ねまき》を着換へて、自分の床に入《はい》つた。さうして濁りながら動いてゐるやうな彼の頭を、靜かな夜の支配に任せた。夜は其濁りを清めて呉れるには餘りに暗過ぎた、然し騷がしい其動きを止《とめ》るには十分靜かであつた。
 翌朝《あくるあさ》彼は自分の名を呼ぶ細君の聲で眼を覺ました。
 「貴夫《あなた》もう時間ですよ」
 まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取つた袂時計を眺めてゐた。下女が俎板《まないた》の上で何か刻《きざ》む音が台所の方で聞こえた。
 「婢《をんな》はもう起きてるのか」
 「えゝ。先刻《さつき》起しに行つたんです」
 細君は下女を起して置いて又床の中に這入《はい》つたのである。健三はすぐ起き上つた。細君も同時に立つた。
 昨夜《ゆうべ》の事は二人共|丸《まる》で忘れたやうに何にも云はなかつた。
 
     五十二
 
 二人は自分達の此態度に對して何の注意も省察《せいさつ》も拂はなかつた。二人は二人に特有な因果關係を有《も》つてゐる事を冥々《めい/\》の裡《うち》に自覺してゐた。さうして其因果關係が一切《いつさい》の他人には全く通じないのだといふ事も能《よ》く呑《のみ》込《こ》んでゐた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分達が或は變に映りはしまいかといふ疑念さへ起さなかつた。
 健三は黙つて外へ出て、例の通り仕事をした。然し其仕事の眞際中《まつさいちゆう》に彼は突然細君の病氣を想像する事があつた。彼の眼の前に夢を見てゐるやうな細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立つてゐる高い壇から降りて宅《うち》へ歸らなければならないやうな氣がした。或は今にも宅《うち》から迎《むかへ》が來るやうな心持になつた。彼は廣い室《へや》の片隅に居て眞《ま》ん向《むか》ふの突當りにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向《あふむ》いて兜《かぶと》の鉢金を伏せたやうな高い丸天井を眺めた。假漆《※[ワに濁点]ーニツシ》で塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるやうに工夫した其天井は、小さい彼の心を包むに足りなかつた。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼の云ふ事を聽いてゐる多くの青年の上に落ちた。さうして復《また》卒然として現實に歸るべく彼等から餘儀なくされた。
 是程細君の病氣に惱まされてゐた健三は、比較的島田のために祟られる恐れを抱《いだ》かなかつた。彼は此老人を因業《いんごふ》で強慾《がうよく》な男と思つてゐた。然し一方では又それ等の性癖を十分發揮する能力が無いものとして寧ろ見縊《みくび》つてもゐた。たゞ要《い》らぬ會談に惜しい時間を潰されるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩ひになつた。
 「何を云つて來る氣かしら、此次は」
 襲はれる事を豫期して、暗《あん》にそれを苦にするやうな健三の口振《くちぶり》が、細君《さいくん》の言葉を促した。
 「何うせ分つてゐるぢやありませんか。そんな事を氣になさるより早く絶交した方が餘つ程|得《とく》ですわ」
 健三は心の裡《うち》で細君のいふ事を肯《うけ》がつた。然し口では却《かへ》つて反對な返事をした。
 「それ程氣にしちや居ないさ、あんな者。もと/\恐ろしい事なんかないんだから」
 「恐ろしいつて誰も云やしませんわ。けれども面倒臭《めんどくさ》いにや違ひないでせう、いくら貴夫《あなた》だつて」
 「世の中にはたゞ面倒臭《めんどくさ》い位な單純な理由で已《や》める事の出來ないものが幾何《いくら》でもあるさ」
 多少片意地の分子を含んでゐる斯《こ》んな會話を細君と取《と》り換《か》はせた健三は、その次島田の來た時、例《いつも》よりは忙《いそが》しい頭を抱《かゝ》へてゐるにも拘らず、ついに面會を拒絶する譯に行かなかつた。
 島田のちと話したい事があると云つたのは、細君の推察通り矢つ張り金の問題であつた。隙があつたら飛び込まうとして、此間から覘《ねらひ》を付けてゐた彼は、何時《いつ》迄《まで》待つても際限がないとでも思つたものか、機會のあるなしに頓着なく、ついに健三に肉薄し始めた。
 「何うも少し困るので。外に何處と云つて頼みに行く所もない私《わたし》なんだから、是非一つ」
 老人の言葉の何處かには、義務として承知して貰はなくつちや困ると云つた風の横着さが潜んでゐた。然しそれは健三の神經を自尊心の一角に於て傷《いた》め付《つ》ける程強くも現れてゐなかつた。
 健三は立つて書齋の机の上から自分の紙入《かみいれ》を持つて來た。一家の會計を司《つかさ》どつてゐない彼の財嚢《ざいなう》は無論輕かつた。空《から》の儘《まゝ》硯箱の傍《そば》に幾日《いくか》も横たはつてゐる事さへ珍らしくはなかつた。彼は其中から手に觸れる丈《だけ》の紙幣を攫《つか》み出《だ》して島田の前に置いた。島田は變な顔をした。
 「何うせ貴方の請求通り上げる譯には行かないんです。それでも有《あり》つ丈《たけ》悉皆《みんな》上げたんですよ」
 健三は紙入の中を開けて島田に見せた。さうして彼の歸つたあとで、空《から》の財布を客間へ放《はふ》り出《だ》した儘また書齋へ入《はい》つた。細君には金を遣《や》つた事を一口も云はなかつた。
 
     五十三
 
 翌日《あくるひ》例刻に歸つた健三は、机の前に坐つて、大事らしく何時《いつ》もの所に置かれた昨日《きのふ》の紙入に眼を付けた。革で拵へた大型の此二つ折は彼の持物として寧ろ立派過ぎる位上等な品であつた。彼はそれを倫敦《ロンドン》の最も賑やかな町で買つたのである。
 外國から持つて歸つた記念が、何の興味も惹《ひ》かなくなりつゝある今の彼には、此紙入も無用の長物《ちやうぶつ》と見える外はなかつた。細君が何故《なぜ》丁寧にそれを元の場所へ置いて呉れたのだらうかとさへ疑つた彼は、皮肉な一瞥を空《から》つぽうの入物に與へたぎり、手も觸れずに幾日かを過ごした。
 其内何かで金の要る日が來た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。
 「おい少し金を入れて呉れ」
 細君は右の手で物指《ものさし》を持つた儘|夫《をつと》の顔を下から見上げた。
 「這入《はい》つてる筈ですよ」
 彼女は此間島田の歸つたあとで何事も夫《をつと》から聽かうとしなかつた。それで老人に金を奪《と》られたことも全く夫婦間の話題に上つてゐなかつた。健三は細君が事状を知らないで斯ういふのかと思つた。
 「あれはもう遣《や》つちやつたんだ。紙人は疾《と》うから空《から》つぽうになつてゐるんだよ」
 細君は依然として自分の誤解に氣が付かないらしかつた。物指《ものさし》を疊の上へ投げ出して手を夫《をつと》の方へ差し延べた。
 「一寸拜見」
 健三は馬鹿々々しいと云ふ風をして、それを細君に渡した。細君は中を檢《あらた》めた。中からは四五枚の紙幣《さつ》が出た。
 「そら矢つ張り入《はい》つてるぢやありませんか」
 彼女は手垢《てあか》の付いた雛だらけの紙幣《さつ》を、指の間に挾んで、一寸胸のあたり迄上げて見せた。彼女の擧動は自分の勝利に誇るものゝ如く微《かすか》な笑に伴《ともな》つた。
 「何時《いつ》入れたのか」
 「あの人の歸つた後《あと》でです」
 健三は細君の心遣《こゝろづかひ》を嬉しく思ふよりも寧ろ珍らしく眺めた。彼の理解してゐる細君は斯《こ》んな氣の利いた事を滅多《めつた》にする女ではなかつたのである。
 「己《おれ》が内所で島田に金を奪《と》られたのを氣の毒とでも思つたものかしら」
 彼は斯う考へた。然し口へ出して其|理由《わけ》を彼女に訊《き》き糺《たゞ》して見る事はしなかつた。夫《をつと》と同じ態度をついに失はずにゐた彼女も、自《みづか》ら進んで己《おの》れを説明する面倒を敢てしなかつた。彼女の填補《てんぽ》した金は斯くして黙つて受取られ、又黙つて消費されてしまつた。
 其内細君の御腹《おなか》が段々大きくなつて來た。起居《たちゐ》に重苦しさうな氣息《いき》をし始めた。氣分も能《よ》く變化した。
 「妾今度はことによると助からないかも知れませんよ」
 彼女は時々何に感じてか斯う云つて涙を流した。大抵は取り合はずにゐる健三も、時として相手にさせられなければ濟まなかつた。
 「何故だい」
 「何故だかさう思はれて仕方がないんですもの」
 質問も説明も是以上には上《のぼ》る事の出來なかつた言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでゐた。其或ものは單純な言葉を傳はつて、言葉の屆かない遠い所へ消えて行つた。鈴《りん》の音《ね》が鼓膜の及ばない幽《かす》かな世界に潜《もぐ》り込《こ》むやうに。
 彼女は惡阻《つはり》で死んだ健三の兄の細君の事を思ひ出した。さうして自分が長女を生む時に同じ病《やまひ》で苦しんだ昔と照らし合せて見たりした。もう二三日|食物《しよくもつ》が通らなければ滋養灌腸をする筈だつた際《きは》どい所を、よく通り拔けたものだなどと考へると、生きてゐる方が却《かへ》つて偶然の樣な氣がした。
 「女は詰らないものね」
 「それが女の義務なんだから仕方がない」
 健三の返事は世間並《せけんなみ》であつた。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目《でたらめ》に過ぎなかつた。彼は腹の中で苦笑した。
 
     五十四
 
 健三の氣分にも上《あが》り下《さが》りがあつた。出任せにもせよ細君の心を休めるやうな事ばかりは云つてゐなかつた。時によると、不快さうに寐てゐる彼女の體《てい》たらくが癪に障つて堪《たま》らなくなつた。枕元に突つ立つた儘、わざと慳貪《けんどん》に要《い》らざる用を命じて見たりした。
 細君も動かなかつた。大きな腹を疊へ着けたなり打つとも蹴るとも勝手にしろといふ態度をとつた。平生《へいぜい》からあまり口數を利かない彼女は益《ます/\》沈黙を守つて、それが夫《をつと》の氣を焦立《いらだ》たせるのを目の前に見ながら澄ましてゐた。
 「詰りしぶといのだ」
 健三の胸には斯《こ》んな言葉が細君の凡《すべ》ての特色でゞもあるかのやうに深く刻み付けられた。彼は外《ほか》の事を丸《まる》で忘れて仕舞はなければならなかつた。しぶといといふ觀念|丈《だけ》があらゆる注意の焦點になつて來た。彼は餘所《よそ》を眞闇《まつくら》にして置いて、出來《でき》る丈《だけ》強烈な憎惡《ぞうを》の光を此四字の上に投げ懸けた。細君は又|魚《さかな》か蛇のやうに黙つて其憎惡を受取つた。從つて人目には、細君が何時《いつ》でも品格のある女として映《うつ》る代りに、夫《をつと》は何うしても氣違染《きちがひじ》みた癇癪持として評價されなければならなかつた。
 「貴夫《あなた》がさう邪慳になさると、また歇私的里《ヒステリー》を起しますよ」
 細君の眼からは時々|斯《こん》な光が出た。何ういふものか健三は非道《ひど》くその光を怖れた。同時に劇《はげ》しくそれを惡《にく》んだ。我慢《がまん》な彼は内心に無事を祈りながら、外部《うはべ》では強ひて勝手にしろといふ風を裝《よそほ》つた。其強硬な態度の何處かに何時《いつ》でも假裝に近い弱點があるのを細君は能《よ》く承知してゐた。
 「どうせ御産で死んでしまふんだから構やしない」
 彼女は健三に聞えよがしに呟《つぶや》いた。健三は死んぢまへと云ひたくなつた。
 或晩彼は不圖《ふと》眼を覺まして、大きな眼を開《あ》いて天井を見詰めてゐる細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持つて歸つた髪剃《かみそり》があつた。彼女が黒檀《エボニー》の鞘に折り込まれた其刀を眞直に立てずに、たゞ黒い柄《え》丈《だけ》を握つてゐたので、寒い光は彼の視覺を襲はずに濟んだ。それでも彼はぎよつとした。半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃を?《も》ぎ取《と》つた。
 「馬鹿な眞似をするな」
 斯ういふと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子に嵌《は》め込《こ》んだ硝子《ガラス》に中《あた》つて其一部分を摧《くだ》いて向ふ側の縁に落ちた。細君は茫然として夢でも見てゐる人のやうに一口も物を云はなかつた。
 彼女は本當に情に逼《せま》つて刃物三昧《はものざんまい》をする氣なのだらうか、又は病氣の發作《ほつさ》に自已の意志を捧げべく餘儀なくされた結果、無我夢中で切《きれ》ものを弄《もてあそ》ぶのだらうか、或は單に夫《をつと》に打ち勝たうとする女の策略から斯うして人を驚かすのだらうか、驚かすにしても其眞意は果して何處にあるのだらうか。自分に對する夫《をつと》を平和で親切な人に立ち返らせる積《つもり》なのだらうか、又はたゞ淺墓《あさはか》な征服慾に驅られてゐるのだらうか、――健三は床の中で一つの出來事を五條《いつすぢ》にも六條《むすぢ》にも解釋した。さうして時々眠れない眼をそつと細君の方に向けて其動靜をうかゞつた。寐てゐるとも起きてゐるとも付かない細君は、丸《まる》で動かなかつた。恰《あたか》も死を衒《てら》ふ人のやうであつた。健三は又枕の上でまた自分の問題の解決に立ち歸つた。
 其解決は彼の實生活を支配する上に於て、學校の講義よりも遙に大切であつた。彼の細君に對する基調は、全く其解決一つでちやんと定められなければならなかつた。今よりずつと單純であつた昔、彼は一圖《いちづ》に細君の不可思議な擧動を、病《やまひ》の爲とのみ信じ切つてゐた。其時代には發作《ほつさ》の起るたびに、神の前に己《おの》れを懺悔する人の誠を以て、彼は細君の膝下《しつか》に跪《ひざまづ》いた。彼はそれを夫《をつと》として最も親切で又最も高尚な處置と信じてゐた
 「今だつて其原因が判然《はつきり》分《わか》りさへすれば」
 彼には斯ういふ慈愛の心が充《み》ち滿《み》ちてゐた。けれども不幸にして其原因は昔のやうに單純には見えなかつた。彼はいくらでも考へなければならなかつた。到底解決の付かない問題に疲れて、とろ/\と眠ると又すぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかつた。彼は昨夕《ゆうべ》の事に就いて、つひに一言《ひとこと》も細君に口を利く機會を得なかつた。細君も日の出と共にそれを忘れてしまつたやうな顔をしてゐた。
 
     五十五
 
 斯ういふ不愉快な場面の後《あと》には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入《はい》つて來た。二人は何時《いつ》となく普通夫婦の利くやうな口を利き出した。
 けれども或時の自然は全くの傍觀者に過ぎなかつた。夫婦は何處迄行つても脊中合《せなかあはせ》の儘で暮した。二人の關係が極端な緊張の度合《どあひ》に達すると、健三はいつも細君に向つて生家《せいか》へ歸れと云つた。細君の方ではまた歸らうが歸るまいが此方《こつち》の勝手だといふ顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰返して憚らなかつた。
 「ぢや當分子供を伴《つ》れて宅《うち》へ行つてゐませう」
 細君は斯う云つて一旦里へ歸つた事もあつた。健三は彼等の食料を毎月送つて遣るといふ條件の下《もと》に、また昔のやうな書生生活に立ち歸れた自分を喜んだ。彼は比較的廣い屋敷に下女とたつた二人ぎりになつた此突然の變化を見て、少しも淋《さび》しいとは思はなかつた。
 「あゝ晴々《せい/\》して好い心持だ」
 彼は八疊の座敷の眞中に小さな餉台《ちやぶだい》を据ゑて其上で朝から夕方迄ノートを書いた。丁度|極暑《ごくしよ》の頃だつたので、身體の強くない彼は、よく仰向《あふむけ》になつてばたりと疊の上に倒れた。何時《いつ》替へたとも知れない時代の着いた其疊には、彼の脊中を蒸すやうな黄色い古びが心《しん》迄《まで》透《とほ》つてゐた。
 彼のノートもまた暑苦しい程|細《こま》かな字で書《か》き下《くだ》された。蠅の頭といふより外に形容のしやうのない其原稿を、成る可くだけ餘計|拵《こしら》へるのが、其時の彼に取つては、何よりの愉快であつた。そして苦痛であつた。又義努であつた。
 巣鴨の植木屋の娘とかいふ下女は、彼のために二三の盆栽を宅《うち》から持つて來て呉れた。それを茶の間の縁に置いて、彼が飯を食ふ時給仕をしながら色々な話をした。彼は彼女の親切を喜んだ。けれども彼女の盆栽を輕蔑した。それは何處の縁日へ行つても、二三十錢出せば、鉢ごと買へる安價な代物《しろもの》だつたのである。
 彼は細君の事をかつて考へずにノートばかり作つてゐた。彼女の里へ顔を出さうなどゝいふ氣は丸《まる》で起らなかつた。彼女の病氣に對する懸念《けねん》も悉《こと/”\》く消えてしまつた。
 「病氣になつても父母《ふぼ》が付いてゐるぢやないか。もし惡ければ何とか云つて來るだらう」
 彼の心は二人一所にゐる時よりも遙に平靜であつた。
 細君の關係者に會はないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも會ひに行かなかつた。其代り向ふでも來なかつた。彼はたつた一人で、日中の勉強につゞく涼しい夜を散歩に費やした。さうして繼布《つぎ》のあたつた青い蚊帳《かや》の中に入《はい》つて寢た。
 一箇月あまりすると細君が突然遣つて來た。其時健三は日のかぎつた夕暮の空の下に、廣くもない庭先を逍遙《あちこち》してゐた。彼の歩みが書齋の縁側の前へ來た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸《しをりど》の影から急に姿を現した。
 「貴夫《あなた》故《もと》のやうになつて下さらなくつて」
 健三は細君の穿《は》いてゐる下駄の表が變にささくれて、其《その》後《うしろ》の方が如何にも見苦しく擦《す》り減《へ》らされてゐるのに氣が付いた。彼は憐れになつた。紙入の中から三枚の一圓紙幣を出して細君の手に握らせた。
 「見つともないから是で下駄でも買つたら好いだらう」
 細君が歸つてから幾日目《いくかめ》か經《た》つた後《のち》彼女の母は始めて健三を訪《おと》づれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼等を引取つて呉れといふ主意を疊の上で布衍《ふえん》したに過ぎなかつた。既に本人に歸りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な擧動《ふるまひ》であつた。彼は一も二もなく承知した。細君は又子供を連れて駒込へ歸つて來た。然し彼女の態度は里へ行く前と毫も違つてゐなかつた。健三は心のうちで彼女の母に騙《だま》されたやうな氣がした。
 斯うした夏中の出來事を自分|丈《だけ》で繰り返して見るたびに、彼は不愉快になつた。是が何時《いつ》迄《まで》續くのだらうかと考へたりした。
 
     五十六
 
 同時に島田はちょい/\健三の所へ顔を出す事を忘れなかつた。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれつ切《きり》だといふ懸念が猶更《なほさら》彼を蒼蠅《うるさ》くした。健三は時々書齋に入《はい》つて、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかつた。
 「好い紙入ですね。へえゝ。外國のものは矢つ張り何處か違ひますね」
 島田は大きな二つ折を手に取つて、左《さ》も感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。
 「失禮ながら是で何《ど》の位《くらゐ》します。彼方《あちら》では」
 「たしか十|志《シリング》だつたと思ひます。日本の金にすると、まあ五圓位なものでせう」
 「五圓?――五圓は隨分好い價《ね》ですね。淺草の黒船町に古くから私《わたし》の知つてる袋物屋《ふくろものや》があるが、彼處《あすこ》ならもつとずつと安く拵へて呉れますよ。こんだ要《い》る時にや、私《わたし》が頼んで上げませう」
 健三の紙入は何時《いつ》も充實してゐなかつた。全く空虚《から》の時もあつた。左《さ》ういふ場合には、仕方がないので何時《いつ》迄《まで》經《た》つても、立ち上がらなかつた。島田も何かに事寄せて尻を長くした。
 「小遣《こづかひ》を遣らないうちは歸らない。厭な奴だ」
 健三は腹の内で憤《いきどほ》つた。然しいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取つて老人に渡す事はしなかつた。細君も其位な事ならと云つた風をして別に苦情を鳴らさなかつた。
 左《さ》う斯《か》うしてゐるうちに、島田の態度が段々積極的になつて來た。二十三十と纒まつた金を、平氣に向ふから請求し始めた。
 「何うか一つ。私《わたし》も此年になつて倚《か》かる子《こ》はなし、依怙《たより》にするのは貴方一人なんだから」
 彼は自分の言葉遣ひの横着さ加減にさへ氣が付いてゐなかつた。それでも健三がむつとして黙つてゐると、凹《くぼ》んだ鈍い眼を狡猾らしく動かして、じろ/\彼の樣子を眺める事を忘れなかつた。
 「是《これ》丈《だけ》の生活《くらし》をしてゐて、十や二十の金の出來ない筈はない」
 彼は斯《こ》んな事迄口へ出して云つた。彼が歸ると、健三は厭な顔をして細君に向つた。
 「ありや成し崩しに己《おれ》を侵蝕する氣なんだね。始め一度に攻め落さうとして斷られたもんだから、今度は遠卷《とほまき》にしてぢり/\寄つて來《き》やうつてんだ。實に厭な奴だ」
 健三は腹が立ちさへすれば、よく實に〔二字傍点〕とか一番〔二字傍点〕とか大〔傍点〕とかいふ最大級を使つて欝憤の一端を洩らしたがる男であつた。斯《こ》んな點になると細君の方はしぶとい代りに大分《だいぶ》落付いてゐた。
 「貴夫《あなた》が引《ひ》つ掛《かゝ》るから惡いのよ。だから初めから用心して寄せ付けないやうになされば好いのに」
 健三は其位の事なら最初から心得てゐると云はぬばかりの樣子を、むつとした頬と唇とに見せた。
 「絶交しやうと思へば何時《いつ》だつて出來るさ」
 「然し今迄付合つた丈《だけ》が損になるぢやありませんか」
 「そりや何の關係もないお前から見れば左《さ》うさ。然し己《おれ》は御前とは違うんだ」
 細君には健三の意味が能《よ》く通じなかつた。
 「何うせ貴夫《あなた》の眼から見たら、私なんぞは馬鹿でせうよ」
 健三は彼女の誤解を正してやるのさへ面倒になつた。
 二人の間に感情の行違でもある時は是《これ》丈《だけ》の會話すら交換されなかつた。彼は島田の後影《うしろかげ》を見送つたまゝ黙つてすぐ書齋へ入《はい》つた。そこで書物も讀まず筆も執《と》らずたゞ凝《ぢつ》と坐つてゐた。細君の方でも、家庭と切り離されたやうな此孤獨な人に何時《いつ》迄《まで》も構ふ氣色《けしき》を見せなかつた。夫《をつと》が自分の勝手で座敷牢へ入《はい》つてゐるのだから仕方がない位に考へて、丸《まる》で取り合ずにゐた。
 
     五十七
 
 健三の心は紙屑を丸めた樣にくしや/\した。時によると肝癪の電流を何かの機會に應じて外《ほか》へ洩らさなければ苦しくつて居堪《ゐたゝ》まれなくなつた。彼は子供が母に強請《せび》つて買つて貰つた草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛《けと》ばして見たりした。赤ちやけた素燒の鉢が彼の思ひ通りにがら/\と破《わ》れるのさへ彼には多少の滿足になつた。けれども殘酷《むご》たらしく摧《くだ》かれた其花と莖の憐れな姿を見るや否や、彼はすぐ又一種の果敢《はか》ない氣分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、嬉しがつてゐる美しい慰みを、無慈悲に破壞したのは、彼等の父であるといふ自覺は、猶更《なほさら》彼を悲しくした。彼は半《なかば》自分の行爲を悔いた。然し其子供の前にわが非を自白する事は敢てし得なかつた。
 「己《おれ》の責任ぢやない。畢竟《ひつきやう》こんな氣違じみた眞似を己《おれ》にさせるものは誰だ。其奴《そいつ》が惡いんだ」
 彼の腹の底には何時《いつ》でも斯ういふ辯解が潜んでゐた。
 平靜な會話は波だつた彼の氣分を沈めるに必要であつた。然し人を避《さ》ける彼に、その會話の屆きやう筈はなかつた。彼は一人居て一人目分の熱で燻《くす》ぶるやうな心持がした。常でさへ有難くない保險會社の勸誘員などの名刺を見ると、大きな聲をして罪もない取次の下女を叱つた。其の聲は玄關に立つてゐる勸誘員の耳に迄明かに響いた。彼はあとで自分の態度を耻《は》ぢた。少くとも好意を以て一般の人類に接する事の出來ない己《おの》れを怒つた。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じやうな言譯を、堂々と心の裡《うち》で讀み上げた。
 「己《おれ》が惡いのぢやない。己《おれ》の惡くない事は、假令《たとひ》彼《あ》の男《をとこ》に解つてゐなくつても、己《おれ》には能《よ》く解つてゐる」
 無信心な彼は何うしても、「神には能く解つてゐる」と云ふ事が出來なかつた。もし左右《さう》いひ得たならばどんなに仕合せだらうといふ氣さへ起らなかつた。彼の道コは何時《いつ》でも自己に始まつた。さうして自己に終るぎりであつた。
 彼は時々金の事を考へた。何故《なぜ》物質的の富を目標《めやす》として今日《こんにち》迄《まで》働いて來なかつたのだらうと疑ふ日もあつた。
 「己《おれ》だつて、專門に其方ばかり遣りや」
 彼の心には斯《こ》んな己惚《おのぼれ》もあつた。
 彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に惱んでゐるのを氣の毒に思つた。極めて低級な慾望で、朝から晩迄|齷齪《あくせく》してゐるやうな島田をさへ憐れに眺めた。
 「みんな金が欲しいのだ。さうして金より外には何《なん》にも欲しくないのだ」
 斯う考へて見ると、自分が今迄何をして來たのか解らなくなつた。
 彼は元來儲ける事の下手な男であつた。儲けられても其方に使ふ時間を惜しがる男であつた。卒業したてに、悉《こと/”\》く他《ほか》の口を斷つて、たゞ一つの學校から四十圓貰つて、それで滿足してゐた。彼はその四十圓の半分を阿爺《おやぢ》に取られた。殘る二十圓で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚《あぶらげ》ばかり食つてゐた。然し彼は其《その》間《あひだ》に遂に何事も仕出かさなかつた。
 其時分の彼と今の彼とは色々な點に於て大分《だいぶ》變つてゐた。けれども經濟に餘裕《ゆとり》のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、何處迄行つても變りがなささうに見えた。
 彼は金持になるか、偉《えら》くなるか、二つのうち何方《どつち》かに中途半端な自分を片付けたくなつた。然し今から金持になるのは迂濶な彼に取つてもう遲かつた。偉くならうとすれば又色々な塵勞《わづらひ》が邪魔をした。其|塵勞《わづらひ》の種をよく/\調べて見ると、矢つ張り金のないのが大源因になつてゐた。何うして好いか解らない彼はしきりに焦《じ》れた。金の力で支配出來ない眞に偉大なものが彼の眼に這入《はい》つて來るにはまだ大分《だいぶ》間《ま》があつた。
 
     五十八
 
 健三は外國から歸つて來た時、既に金の必要を感じた。久し振にわが生れ故郷の東京に新しい世帶《しよたい》を持つ事になつた彼の懷中には一片《いつぺん》の銀貨さへなかつた。
 彼は日本を立つ時、其妻子を細君の父に託した。父は自分の邸内にある小さな家を空《あ》けて彼等の住居《すまひ》に充《あ》てた。細君の祖父母が亡《な》くなる迄居た其家は狹いながら左程《さほど》見苦しくもなかつた。張交《はりまぜ》の襖には南湖《なんこ》の畫《ゑ》だの鵬齋《ぼうさい》の書《しよ》だの、すべて亡《な》くなつた人の趣味を偲《しの》ばせる記念《かたみ》と見るぺきものさへ故《もと》の通り貼り付けてあつた。
 父は官吏であつた。大して派出《はで》な暮しの出來る身分ではなかつたけれども、留守中手元に預かつた自分の娘や娘の子に、苦しい思ひをさせる程窮してもゐなかつた。其上健三の細君へは月々|若干《いくら》かの手當が公《おほや》けから下《お》りた。健三は安心してわが家族を後《あと》に遺《のこ》した。
 彼が外國にゐるうち、内閣が變つた。其時細君の父は比較的安全な閑職からまた引張出《ひつぱりだ》されて劇《はげ》しく活動しなければならない或位置に就いた。不幸にして其新しい内閣はすぐ倒れた。父は崩壞の渦の中《うち》に捲《ま》き込《こ》まれなければならなかつた。
 遠い所で此變化を聽いた健三は、同情に充《み》ちた眼を故郷の空に向けた。けれども細君の父の經濟状態に關しては別に顧慮する必要のないものとして、殆ど心を惱ませなかつた。
 迂濶《うくわつ》な彼は歸つてからも其處に注意を拂はなかつた。また氣も付かなかつた。彼は細君が月々貰ふ二十圓|丈《だけ》でも子供二人に下女を使つて十分|遣《や》つて行ける位に考へてゐた。
 「何しろ家賃が出ないんだから」
 斯《こ》んな呑氣《のんき》な想像が、實際を見た彼の眼を驚愕《おどろき》で丸くさせた。細君は夫《をつと》の留守中に自分の不斷着《ふだんぎ》をこと/”\く着切《きき》つてしまつた。仕方がないので、仕舞には健三の置いて行つた地味《ぢみ》な男物を縫ひ直して身に纒つた。同時に蒲團からは綿が出た。夜具は裂けた。それでも傍《そば》に見てゐる父は何うして遣る譯にも行かなかつた。彼は自分の位地を失つた後、相場に手を出して、多くもない貯蓄を悉《こと/”\》く亡《な》くして仕舞つたのである。
 首の廻らない程高い襟《カラ》を掛けて外國から歸つて來た健三は、此|慘澹《みじめ》な境遇に置かれたわが妻子を黙つて眺めなければならなかつた。ハイカラな彼はアイロニーの爲めに手非道《てひど》く打ち据ゑられた。彼の唇は苦笑する勇氣さへ有《も》たなかつた。
 其内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買つて來なかつた彼の荷物は、書籍|丈《だけ》であつた。狹苦しい隱居所のなかで、彼は其箱の蓋《ふた》さへ開ける事の出來ないのを馬鹿らしく思つた。彼は新しい家《いへ》を捜し始めた。同時に金の工面《くめん》もしなければならなかつた。
 彼は唯一の手段として、今迄繼續して來た自分の職を辭した。彼は其行爲に伴つて起る必然な結果として、一時賜金《いちじしきん》を受け取る事が出來た。一年勤めれば役を已《や》めた時に月給の半額を呉れるといふ規定に從つて彼の手に入《はい》つた其金額は、無論大したものではなかつた。けれども彼はそれで漸《やつ》と日常生活に必要な家具家財を調《とゝの》へた。
 彼は僅《わづか》ばかりの金を懷《ふところ》にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。其の友達がまた品物の如何《いかん》に拘《かゝは》らず無暗に價切《ねぎ》り倒《たふ》す癖を有《も》つてゐるので、彼はたゞ歩くために少からぬ時間を費やさされた。茶盆、煙草盆、火鉢、丼鉢、眼に入《い》るものは幾何《いくら》でもあつたが、買へるのは滅多《めつた》に出て來なかつた。是《これ》丈《だけ》に負けて置けと命令するやうに云つて、もし主人が其通りにしないと、友達は健三を店先に殘したまゝ、さつさと先へ歩いて行つた。健三も仕方なしに後《あと》を追驅《おつかけ》なければならなかつた。たまに愚図々々してゐると、彼は大きな聲を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であつた。同時に自分の物を買ふのか他《ひと》の物を買ふのか、其區別を辨《わきま》へてゐないやうに猛烈な男であつた。
 
     五十九
 
 健三は又日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかつた。彼は洋風の指物《さしもの》を渡世《とせい》にする男の店先に立つて、しきりに算盤《そろばん》を彈《はじ》く主人と談判をした。
 彼の誂へた本棚には硝子戸《ガラスど》も後部《うしろ》も着いてゐなかつた。塵挨《ほこり》の積る位は懷中に餘裕のない彼の意とする所ではなかつた。木がよく枯れてゐないので、重い洋書を載せると、棚板が氣の引ける程|撓《しな》つた。
 斯《こ》んな粗末な道具ばかりを揃へるのにさへ彼は少からぬ時間を費やした。わざ/\辭職して貰つた金は何時《いつ》の間《ま》にかもう無くなつてゐた。迂濶《うくわつ》な彼は不思議さうな眼を開いて、索然《さくぜん》たる彼の新居を見廻した。さうして外國にゐる時、衣服を作る必要に逼《せま》られて、同宿の男から借りた金は何うして返して好いか分らなくなつて仕舞つた樣に思ひ出した。
 そこへ其男から若し都合が付くなら算段して貰ひたいといふ催促状が屆いた。健三は新しく拵へた高い机の前に坐つて、少時《しばらく》彼の手紙を眺めてゐた。
 僅《わづか》の間《あひだ》とは云ひながら、遠い國で一所に暮した其人の記憶は、健三に取つて淡い新しさを帶びてゐた。其人は彼と同じ學校の出身であつた。卒業の年もさう違はなかつた。けれども立派なお役人として、ある重要な事項取調の爲といふ名義の下《もと》に、官命で遣つて來た其人の財力と健三の給費との間には、殆ど比較にならない程の懸隔があつた。
 彼は寢室の外《ほか》に應接間も借りてゐた。夜になると繻子《しゆす》で作つた刺繍《ぬひとり》のある綺麗な寢衣《ナイトガウン》を着て、暖かさうに暖爐の前で書物などを讀んでゐた。北向の狹苦しい部屋で押込められたやうに凝《ぢつ》と竦《すく》んでゐる健三は、ひそかに彼の境遇を羨んだ。
 其健三には晝食《ちうじき》を節約した憐れな經驗さへあつた。ある時の彼は表へ出た歸《かへ》り掛《がけ》に途中で買つたサンドヰツチを食ひながら、廣い公園の中を目的《めあて》もなく歩いた。斜めに吹きかける雨を片々《かた/\》の手に持つた傘《かさ》で防《よ》けつゝ、片々の手で薄く切つた肉と?麭《パン》を何度にも頬張るのが非常に苦しかつた。彼はいくたびか其處にあるベンチへ腰を卸さうとしては躊躇した。ベンチは雨のために悉《こと/”\》く濡れてゐたのである。
 ある時の彼は町で買つて來たビスケットの罐を午《ひる》になると開いた。さうして湯も水も呑まずに、硬くて脆《もろ》いものをぼり/\噛《か》み摧《くだ》いては、生唾《なまつばき》の力で無理に嚥《の》み下《くだ》した。
 ある時の彼はまた馭者《ぎよしや》や勞働者と一處に如何《いかゞ》はしい一膳飯屋《いちぜんめしや》で形《かた》ばかりの食事を濟ました。其處の腰掛の後部《うしろ》は高い屏風のやうに切立《きつた》つてゐるので、普通の食堂の如く、廣い室《へや》を一目に見渡す事は出來なかつたが、自分と一列に並んでゐるものゝ顔|丈《だけ》は自由に眺められた。それは皆《みん》な何時《いつ》湯に入《はい》つたか分らない顔であつた。
 斯《こ》んな生活をしてゐる健三が、此同宿の男の眼には左《さ》も氣の毒に映つたと見えて、彼は能《よ》く健三を午餐《ひるめし》に誘ひ出した。錢湯へも案内した。茶の時刻には向ふから呼びに來た。健三が彼から金を借りたのは斯うして彼と大分《だいぶ》懇意になつた時の事であつた。
 其時彼は反故《ほご》でも棄てるやうに無雜作《むざふさ》な態度を見せて、五|磅《ポンド》のバンクノートを二枚健三の手に渡した。何時《いつ》返して呉れとは無論云はなかつた。健三の方でも日本へ歸つたら何うにかなるだらう位に考へた。
 日本へ歸つた健三は能《よ》く此バンクノートの事を覺えてゐた。けれども催促状を受取る迄は、それ程急に返す必要が出《で》て來《き》やうとは思はなかつた。行き詰つた彼は仕方なしに、一人の舊《ふる》い友達の所へ出掛けて行つた。彼は其友達の大した金持でない事を承知してゐた。然し自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでゐた。友達は果して彼の請求を容れて、要《い》る丈《だけ》の金を彼の前に揃へて呉れた。彼は早速それを外國で恩を受けた人の許《もと》へ返しに行つた。新しく借りた友達へは月に十圓|宛《づゝ》の割で成し崩しに取つて貰ふ事に極めた。
 
     六十
 
 斯《こ》んな具合にして漸《やつ》と東京に落付いた健三は、物質的に見た自分の、如何にも貧弱なのに氣が付いた。それでも金力を離れた他の方面に於て自分が優者であるといふ自覺が絶えず彼の心に徃來《わうらい》する間は幸福であつた。其自覺が遂に金の問題で色々に攪《か》き亂《みだ》されてくる時、彼は始めて反省した。平生《へいぜい》何心なく身に着けて外へ出る黒木綿の紋付さへ、無能力の證據のやうに思はれ出した。
 「此|己《おれ》をまた強請《せび》りに來る奴がゐるんだから非道《ひど》い」
 彼は最も質《たち》の惡い其種の代表者として島田の事を考へた。
 今の自分が何《ど》の方角から眺めても島田より好い社會的地位を占めてゐるのは明白な事實であつた。それが彼の虚榮心に少しの反響も與へないのも亦明白な事實であつた。昔《むか》し自分を呼び捨てにした人から今となつて鄭寧な挨拶を受けるのは、彼に取つて何の滿足にもならなかつた。小遣《こづかひ》の財源のやうに見込まれるのは、自分を貧乏人と見做《みな》してゐる彼の立場から見て、腹が立つ丈《だけ》であつた。
 彼は念のために姉の意見を訊《たづ》ねて見た。
 「一體|何《ど》の位《くらゐ》困つてるんでせうね、あの男は」
 「左右《さう》さね。さう度々無心を云つて來るやうぢや、隨分苦しいのかも知れないね。だけど健ちやんだつてさう/\他《ひと》にばかり貢《みつ》いでゐた日にや際限がないからね。いくら御金が取れたつて」
 「御金がそんなに取れるやうに見えますか」
 「だつて宅《うち》なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方ぢやないか」
 姉は自分の宅《うち》の活計《くらし》を標準にしてゐた。相變らず口數《くちかず》の多い彼女は、比田が月々貰ふものを滿足に持つて歸つた例《ためし》のない事や、俸給の少ない割に交際費の要る事や、宿直が多いので辨當代だけでも隨分の額《たか》に上《のぼ》る事や、毎月の不足はやつと盆暮の賞與で間に合はせてゐる事などを詳しく健三に話して聞かせた。
 「その賞與だつて、そつくり私《あたし》の手に渡して呉れるんぢやないんだからね。だけど近頃ぢや私達《あたしたち》二人はまあ隱居見たやうなもので、月々食料を彦《ひこ》さんの方へ遣《や》つて賄《まかな》つて貰つてるんだから、少しは樂にならなけりやならない譯さ」
 養子と經濟を別々にしながら一所の家《うち》に住んでゐた姉夫婦は、自分達の搗《つ》いた餅だの、自分達の買つた砂糖だのといふ特別な食物《くひもの》を有《も》つてゐた。自分達の所へ來た客に出す御馳走なども屹度《きつと》自分達の懷中から拂ふ事にしてゐるらしかつた。健三は殆ど考への及ばないやうな眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下《もと》に存在してゐる此一家の經濟状態を眺めた。然し主義も理窟も有《も》たない姉にはまた是程自然な現象はなかつたのである。
 「健ちやんなんざ、斯《こ》んな眞似《まね》をしなくつても濟むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりや幾何《いくら》でも欲しい丈《だけ》の御金は取れるしさ」
 彼女のいふ事を黙つて聞いてゐると、島田などは何處へ行つたか分らなくなつてしまひ勝であつた。それでも彼女は最後に付け加へた。
 「まあ好いやね。面倒臭《めんどくさ》くなつたら、其内都合の好い時に上げませうとか何とか云つて歸して仕舞へば。それでも蒼蠅《うるさ》いなら留守をお遣《つか》ひよ。構ふ事はないから」
 此注意は如何にも姉らしく健三の耳に響いた。
 姉から要領を得られなかつた彼はまた比田を捉《つら》まへて同じ質問を掛けて見た。比田はたゞ、大丈夫といふ丈《だけ》であつた。
 「何しろ故《もと》の通りあの地面と家作《かさく》を有《も》つてるんだから、さう困つてゐない事は慥《たしか》でさあ。それにお藤さんの方へはお縫さんの方からちやん/\と送金はあるしさ。何でも好い加減な事を云つて來るに違ないから放《はふ》つてお置きなさい」
 比田の云ふ事も矢つ張り好い加減の範圍を脱し得ない上《うは》つ調子《てうし》のものには相違なかつた。
 
     六十一
 
 仕舞に健三は細君に向つた。
 「一體何ういふんだらう、今の島田の實際の境遇つて云ふのは。姉に訊いても比田に訊いても、本當の所が能《よ》く分らないが」
 細君は氣のなささうに夫《をつと》の顔を見上げた。彼女は産に間《ま》もない大きな腹を苦しさうに抱《かゝ》へて、朱塗の船底枕《ふなぞこまくら》の上に亂れた頭を載せてゐた。
 「そんなに氣になさるなら、御自分で直《ぢか》に調べて御覽になるが好いぢやありませんか。左右《さう》すればすぐ分るでせう。御姉《おあね》えさんだつて、今あの人と交際《つきあ》つて居らつしやらないんだから、そんな確な事の知れてゐる筈がないと思ひますわ」
 「己《おれ》にはそんな暇なんかないよ」
 「それぢや放《はふ》つてお置きになれば夫《それ》迄《まで》でせう」
 細君の返事には、男らしくもないといふ意味で、健三を非難する調子があつた。腹で思つてゐる事もさう無暗に口へ出して云はない性質《たち》に出來上つた彼女は、自分の生家《さと》と夫《をつと》との面白くない間柄に就いてさへ、餘り言葉に現してつべこべ辯じ立てなかつた。自分と關係のない島田の事などは丸《まる》で知らない振をして澄ましてゐる日も少くなかつた。彼女の持つた心の鏡に映《うつ》る神經質な夫《をつと》の影は、いつも度胸のない偏窟な男であつた。
 「放《はふ》つて置け?」
 健三は反問した。細君は答へなかつた。
 「今迄だつて放《はふ》つて置いてるぢやないか」
 細君は猶《なほ》答へなかつた。健三はぷいと立つて書齋へ入《はい》つた。
 島田の事に限らず二人の間には斯ういふ光景が能《よ》く繰返された。其代り前後の關係で反對の場合も時には起つた。――
 「お縫さんが脊髄病なんださうだ」
 「脊髄病ぢや六《む》づかしいでせう」
 「到底《とても》助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配してゐるんだ。あの人が死ぬと柴野とお藤さんとの縁が切れてしまふから、今迄毎月送つてくれた例の金が來なくなるかも知れないつてね」
 「可哀想《かはいさう》ね今から脊髄病なんぞに罹《かゝ》つちや。まだ若いんでせう」
 「己《おれ》より一つ上だつて話したぢやないか」
 「子供はあるの」
 「何でも澤山あるやうな樣子だ。幾人《いくたり》だか能《よ》く訊いて見ないが」
 細君は成人しない多くの子供を後へ遺《のこ》して死にゝ行く、まだ四十に充《み》たない夫人の心持を想像に描いた。間近に逼《せま》つたわが産の結果も新たに氣遣はれ始めた。重さうな腹を眼の前に見ながら、それ程心配もして呉れない男の氣分が、情《なさけ》なくもあり又羨ましくもあつた。夫《をつと》は丸《まる》で氣が付かなかつた。
 「島田がそんな心配をするのも必竟《ひつきやう》は平生《へいぜい》が惡いからなんだらうよ。何でも嫌はれてゐるらしいんだ。島田に云はせると、其柴野といふ男が酒食《さけくら》ひで喧嘩《けんくわ》つ早《ぱや》くつて、それで何時《いつ》迄《まで》經《た》つても出世が出來なくつて、仕方がないんださうだけれども、何うも夫《それ》許《ばかり》ぢやないらしい。矢つ張島田の方が愛想《あいそ》を盡かされてゐるに違ないんだ」
 「愛想《あいそ》を盡かされなくつたつて、そんなに子供が澤山あつちや何うする事も出來ないでせう」
 「さうさ。軍人だから大方|己《おれ》と同じやうに貧乏してゐるんだらうよ」
 「一體あの人は何うして其お藤さんて人と――」
 細君は少し躊躇した。健三には意味が解らなかつた。細君は云ひ直した。
 「何うして其お藤さんて人と懇意になつたんでせう」
 お藤さんがまだ若い未亡人《びばうじん》であつた頃、何かの用で扱所《あつかひじよ》へ出なければならない事の起つた時、島田はさういふ場所へ出つけない女一人を、氣の毒に思つて、色々親切に世話をして遣つたのが、二人の間に關係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かゝら聽いて知つてゐた。然し戀愛といふ意味を何う島田に應用して好いか、今の彼には解らなかつた。
 「慾も手傳つたに違ないね」
 細君は何とも云はなかつた。
 
     六十二
 
 不治の病氣に惱まされてゐるといふお縫さんに就いての報知《たより》が健三の心を和《やはら》げた。何年振にも顔を合せた事のない彼と其人とは、度々會はなければならなかつた昔でさへ、殆ど親しく口を利いた例《ためし》がなかつた。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙禮を取り換はせる丈《だけ》で濟《す》ましてゐた。もし交際といふ文字を斯《こ》んな間柄にも使ひ得るならば、二人の交際は極めて淡くさうして輕いものであつた。強烈な好い印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されてゐない其人の面影《おもかげ》は、島田やお常のそれよりも、今の彼に取つて遙に尊《たつと》かつた。人類に對する慈愛の心を、硬くなりかけた彼から唆《そゝ》り得《う》る點に於て。また漠然として散漫な人類を、比較的|判明《はつきり》した一人の代表者に縮めて呉れる點に於て。――彼は死なうとしてゐる其人の姿を、同情の眼を開《ひら》いて遠くに眺めた。
 それと共に彼の胸には一種の利害心が働いた。何時《いつ》起るかも知れないお縫さんの死は、狡猾な島田にまた彼を強請《せび》る口實を與へるに違なかつた。明かにそれを豫想した彼は、出來る限りそれを避けたいと思つた。然し彼は此場合何うして避けるかの策略を講ずる男ではなかつた。
 「衝突して破裂する迄行くより外に仕方がない」
 彼は斯う觀念した。彼は手を拱《こま》ぬいて島田の來るのを待ち受けた。其島田の來る前に突然彼の敵《かたき》のお常が訪ねて來《き》やうとは、彼も思ひ掛けなかつた。
 細君は何時《いつ》もの通り書齋に坐つてゐる彼の前に出て、「あの波多野《はたの》つて御婆さんがとう/\遣つて來ましたよ」と云つた。彼は驚くよりも寧ろ迷惑さうな顔をした。細君には其態度が愚圖々々してゐる臆病ものゝ樣に見えた。
 「御會ひになりますか」
 それは、會ふなら會ふ、斷るなら斷る、早く何方《どつち》かに極めたら好からうといふ言葉の遣ひ方であつた。
 「會ふから上げろ」
 彼は島田の來た時と同じ挨拶をした。細君は重苦しさうに身を起して奧へ立つた。
 座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身に纒つて、丸まつちく坐つてゐる一人の婆さんを見た。彼の心で想像してゐたお常とは全く變つてゐる其質朴な風采が、島田よりも遙に強く彼を驚かした。
 彼女の態度も島田に比べると寧ろ反對であつた。彼女は丸《まる》で身分の懸隔でもある人の前へ出たやうな樣子で、鄭寧に頭を下げた。言葉遣《ことばづかひ》も慇懃を極《きは》めたものであつた。
 健三は子供の時分|能《よ》く聞かされた彼女の生家《さと》の話を思ひ出した。田舍にあつたその住居《すまひ》も庭園も、彼女の叙述によると、善を盡し美を盡した立派なものであつた。床《ゆか》の下を水が縱横《じゆうわう》に流れてゐるといふ特色が、彼女の何時《いつ》でも繰返す重要な點であつた。南天の柱――さういふ言葉もまだ健三の耳に殘つてゐた。然し小さい健三は其の宏大な屋敷が何處の田舍にあるのか丸《まる》で知らなかつた。それから一度も其處へ連れて行かれた覺《おぼえ》がなかつた。彼女自身も、健三の知つてゐる限り、一度も自分の生れた其の大きな家へ歸つた事がなかつた。彼女の性格を朧氣《おぼろげ》ながら見拔くやうに、彼の批評眼がだん/\肥えて來た時、彼はそれも亦彼女の空想から出る例の法螺《ほら》ではないかと考へ出した。
 健三は自分を出來る丈《だけ》富有に、上品に、そして善良に、見せたがつた其女と、今彼の前に畏まつて坐つてゐる白髪頭《しらがあたま》のお婆さんとを比較して、時間の齎《もたら》した對照に不思議さうな眼を注いだ。
 お常は昔から肥《ふと》り肉《じゝ》の女であつた。今見るお常も依然として肥つてゐた。何方《どつち》かといふと、昔よりも今の方が却《かへ》つて肥つてゐはしまいかと疑はれる位であつた。それにも拘《かゝは》らず、彼女は全く變化してゐた。何處から見ても田舍育ちのお婆さんであつた。多少誇張して云へば、籠に入れた麥焦《むぎこが》しを背中へ脊負《しよ》つて近在から出て來るお婆さんであつた。
 
     六十三
 
 「あゝ變つた」
 顏を見合せた刹那に双方は同じ事を一度に感じ合つた。けれどもわざ/\訪ねて來たお常の方には、此變化に對する豫期と準備が十分にあつた。所が健三にはそれが殆ど缺けてゐた。從つて不意に打たれたものは客よりも寧ろ主人であつた。それでも健三は大して驚いた樣子を見せなかつた。彼の性質が彼にさうしろと命令する外に、彼はお常の技巧から溢れ出る戯曲的動作を恐れた。今更此女の遣る芝居を事新しく觀《み》せられるのは、彼に取つて堪へがたい苦痛であつた。成るべくなら彼は先方の弱點を未然に防ぎたかつた。それは彼女の爲めでもあり、又自分の爲めでもあつた。
 彼は彼女から今迄の經歴をあらまし聞き取つた。其間には人世と切り離す事の出來ない多少の不幸が相應に纒綿してゐるらしく見えた。
 島田と別れてから二度目に嫁《かた》づいた波多野と彼女との間にも子が生れなかつたので、二人は或所から養女を貰つて、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、或はまだ生きてゐる時分にか、それはお常も云はなかつたが、其貰ひ娘に養子が來たのである。
 養子の商賣は酒屋であつた。店は東京のうちでも隨分繁華な所にあつた。何《ど》の位《くらゐ》な程度の活計《くらし》をしてゐたものか能《よ》く分らないが、困つたとか、窮したとかいふ弱い言葉はお常の口を洩れなかつた。
 其内養子が戰爭に出て死んだので、女|丈《だけ》では店が持ち切れなくなつた。親子は已《やむ》を得《え》ずそれを疊んで、郊外近くに住んでゐる或|身縁《みより》を頼りに、ずつと邊鄙な所へ引越《ひつこ》した。其處で娘に二度目の夫《をつと》が出來る迄は、死んだ養子の遺族へ毎年下がる扶助料|丈《だけ》で活計《くらし》を立てゝ行つた。……
 お常の物語りは健三の豫期に反して寧ろ平靜であつた。誇張した身振だの、仰山《ぎやうさん》な言葉遣《ことばづかひ》だの、當込《あてこみ》の臺詞《せりふ》だのは、それ程多く出て來なかつた。それにも拘《かゝ》はらず彼は自分と此お婆さんの間に、少しの氣脉も通じてゐない事に氣が付いた。
 「あゝ左右《さう》ですか、それは何うも」
 健三の挨拶は簡單であつた。普通の受答へとしても短過ぎる此一句を彼女に與へたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかつた。
 「昔の因果が今でも矢つ張り祟つてゐるんだ」
 斯う思つた彼は流石《さすが》に好い心持がしなかつた。何方《どつち》かといふと泣きたがらない質《たち》に生れながら、時々は何故《なぜ》本當に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て來て呉れないのかと考へるのが彼の持前であつた。
 「己《おれ》の眼は何時《いつ》でも涙が湧いて出るやうに出來てゐるのに」
 彼は丸まつちくなつて座蒲團の上に坐つてゐるお婆さんの姿を熟視した。さうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しく觀じた。
 彼は紙入の中にあつた五圓紙幣を出して彼女の前に置いた。
 「失禮ですが、車へでも乘つて御歸り下さい」
 彼女はさういふ意味で訪問したのではないと云つて一應辭退した上、健三からの贈りものを受け納めた。氣の毒な事に、其贈り物の中には、疎《うと》い同情が入《はい》つてゐる丈《だけ》で、露《あら》はな眞心《まごゝろ》は籠つてゐなかつた。彼女はそれを能《よ》く承知してゐるやうに見えた。さうして何時《いつ》の間《ま》にか離れ/”\になつた人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、諦めるより外に仕方がないといふ風に振舞つた。彼は玄關に立つて、お常の歸つて行く後姿を見送つた。
 「もしあの憐《あはれ》なお婆さんが善人であつたなら、私《わたし》は泣く事が出來たらう。泣けない迄も、相手の心をもつと滿足させる事が出來たらう。零落した昔の養ひ親を引き取つて死水《しにみづ》を取つて遣る事も出來たらう」
 黙つて斯う考へた健三の腹の中は誰も知る者がなかつた。
 
     六十四
 
 「とう/\遣つて來たのね、御婆さんも。今迄は御爺さん丈《だけ》だつたのが、御爺さんと御婆さんと二人になつたのね。是からは二人《ふたあり》に祟られるんですよ、貴夫《あなた》は」
 細君の言葉は珍らしく乾燥《はしや》いでゐた。笑談《ぜうだん》とも付かず、冷評《ひやかし》とも付かない其態度が、感想に沈んだ健三の氣分を不快に刺戟した。彼は何とも答へなかつた。
 「又あの事を云つたでせう」
 細君は同じ調子で健三に訊いた。
 「あの事た何だい」
 「貴夫《あなた》が小さいうち寐小便をして、あの御婆さんを困らしたつて事よ」
 健三は苦笑さへしなかつた。
 けれども彼の腹の中には、お常が何故《なぜ》それを云はなかつたかの疑問が既に横《よこた》はつてゐた。彼女の名前を聞いた刹那の健三は、すぐその辯口に思ひ到つた位、お常は能《よ》く喋舌《しやべ》る女であつた。ことに自分を護る事に巧みな伎倆を有《も》つてゐた。他《ひと》の口車に乘せられ易い、又見え透いた御世辭を嬉しがり勝な健三の實父は、何時《いつ》でも彼女を賞《ほ》める事を忘れなかつた。
 「感心な女だよ。だいち身上持《しんしやうもち》が好いからな」
 島田の家庭に風波の起つた時、彼女は有るだけの言葉を父の前に並べ立てた。さうして其言葉の上にまた悲しい涙と口惜《くや》しい涙とを多量に振り掛けた。父は全く感動した。すぐ彼女の味方になつて仕舞つた。
 御世辭が上手だといふ點に於て健三の父は彼の姉をも大變|可愛《かあい》がつてゐた。無心に來られるたんびに、「さう/\は己《おれ》だつて困るよ」とか何とか云ひながら、いつか入用《いりよう》丈《だ》けの金子《きんす》は手文庫から取出されてゐた。
 「比田はあんな奴だが、お夏が可愛想《かはいさう》だから」
 姉の歸つた後《あと》で、父は何時《いつ》でも辯解らしい言葉を傍《はた》のものに聞えるやうに云つた。
 然し是程父を自由にした姉の口先は、お常に比べると遙に下手《へた》であつた。眞《まこと》しやかといふ點に於て遠く及ばなかつた。實際十六七になつた時の健三は彼女と接觸した自分以外のもので、果してその性格を見拔いたものが何人あるだらうかと、一時疑つて見た位、彼女の口は旨かつた。
 彼女に會ふときの健三が、心中迷惑を感じたのは大部分此口にあつた。
 「御前を育てたものは此|私《わたし》だよ」
 この一句を二時間でも三時間でも布衍《ふえん》して、幼少の時分恩になつた記憶を又新らしく復習させられるのかと思ふと、彼は辟易した。
 「島田は御前の敵《かたき》だよ」
 彼女は自分の頭の中に殘つてゐる此古い主觀を、活動寫眞のやうに誇張して、又彼の前に露《さら》け出《だ》すに極つてゐた。彼はそれにも辟易しない譯に行かなかつた。
 何方《どつち》を聽くにしても涙が交《まじ》るに違なかつた。彼は裝飾的に使用される其涙を見るに堪へないやうな心持がした。彼女は話す時に姉のやうな大きな聲を出す女ではなかつた。けれども自分の必要と思ふ場合には、其言葉に厭らしい強い力を入れた。圓朝《ゑんてう》の人情噺《にんじやうばなし》に出て來る女が、長い火箸を灰の中に突き刺し/\、人に騙《だま》された恨みを述べて、相手を困らせるのと略《ほゞ》同じ態度で又同じ口調《くてう》であつた。
 彼の豫期が外《はづ》れた時、彼はそれを仕合せと考へるよりも寧ろ不思議に思ふ位、お常の性格が牢として崩すべからざる判明《はつきり》した一種の型になつて、彼の頭の何處かに入《はい》つてゐたのである。
 細君は彼の爲に説明した。
 「三十年近くにもなる古い事ぢやありませんか。向ふだつて今となりや少しは遠慮があるでせう。それに大抵の人はもう忘れてしまひまさあね。それから人間の性質だつて長い間には少しづゝ變つて行きますからね」
 遠慮、忘却、性質の變化、それ等のものを前に並べて考へて見ても、健三には少しも合點《がてん》が行かなかつた。
 「そんな淡泊《あつさり》した女ぢやない」
 彼は腹の中《なか》で斯う云はなければ何うしても承知が出來なかつた。
 
     六十五
 
 お常を知らない細君は却《かへ》つて夫《をつと》の執拗《しつあう》を笑つた。
 「それが貴方の癖だから仕方がない」
 平生《へいぜい》彼女の眼に映《うつ》る健三の一部分はたしかに斯うなのであつた。ことに彼と自分の生家《さと》との關係に就いて、夫《をつと》の此惡い癖《へき》が著るしく出てゐるやうに彼女は思つてゐた。
 「己《われ》が執拗《しつあう》なのぢやない、あの女が執拗《しつあう》なのだ。あの女と交際《つきあ》つた事のない御前には、己《おれ》の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべを云ふのだ」
 「だつて現に貴夫《あなた》の考へてゐた女とは丸《まる》で違つた人になつて貴夫《あなた》の前へ出て來た以上は、貴夫《あなた》の方で昔の考へを取り消すのが當然ぢやありませんか」
 「本當に違つた人になつたのなら何時《いつ》でも取消すが、左右《さう》ぢやないんだ。違つたのは上部《うはべ》丈《だけ》で腹の中は故《もと》の通りなんだ」
 「それが何うして分るの。新しい材料も何にもないのに」
 「御前に分らないでも己《おれ》にはちやんと分つてるよ」
 「隨分獨斷的ね、貴夫《あなた》も」
 「批評が中《あた》つてさへゐれば獨斷的で一向《いつかう》差支ないものだ」
 「然しもし中《あた》つてゐなければ迷惑する人が大分《だいぶ》出て來るでせう。あの御婆さんは私と關係のない人だから、何うでも構ひませんけれども」
 健三には細君の言葉が何を意味してゐるのか能《よ》く解つた。然し細君はそれ以上何も云はなかつた。腹の中で自分の父母兄弟《ふぼきやうだい》を辯護してゐる彼女は、表向《おもてむき》夫《をつと》と遣り合つて行ける所迄行く氣はなかつた。彼女は理智に富んだ性質《たち》ではなかつた。
 「面倒臭《めんどくさ》い」
 少し込《こ》み入《い》つた議論の筋道を辿《たど》らなければならなくなると、彼女は屹度《きつと》斯う云つて當面の問題を投げた。さうして解決を付ける迄進まないために起る面倒臭さは何時《いつ》迄《まで》も辛抱した。然し其辛抱は自分自身に取つて決して快《こゝろ》よいものではなかつた。健三から見ると猶更《なほさら》心持が惡かつた。
 「執拗《しつあう》だ」
 「執拗《しつあう》だ」
 二人は兩方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合つた。さうして御互に腹の中にある蟠《わだかまり》を御互の素振《そぶり》から能《よ》く讀んだ。しかも其の非難に理由のある事も亦御互に認め合はなければならなかつた。
 我慢な健三は遂に細君の生家《さと》へ行かなくなつた。何故《なぜ》行かないとも訊かず、又時々行つて呉れとも頼まずにたゞ黙つてゐた細君は、依然として「面倒臭《めんどくさ》い」を心の中《うち》に繰り返すぎりで、少しも其態度を改めやうとしなかつた。
 「是で澤山だ」
 「己《おれ》も是で澤山だ」
 また同じ言葉が双方の胸のうちで?《しば/\》繰り返された。
 それでも護謨紐《ごむひも》のやうに彈力性のある二人の間柄には、時により日によつて多少の伸縮《のびちゞみ》があつた。非常に緊張して何時《いつ》切れるか分らない程に行き詰つたかと思ふと、それがまた自然の勢ひで徐々《そろ/\》元へ戻つて來た。さうした日和《ひよ》の好い精神状態が少し繼續すると、細君の唇から暖かい言葉が洩れた。
 「是は誰の子?」
 健三の手を握つて、自分の腹の上に載せた細君は、彼に斯《こ》んな問を掛けたりした。其頃細君の腹はまだ今のやうに大きくはなかつた。然し彼女は此時既に自分の胎内に蠢《うご》めき掛《か》けてゐた生の脉搏を感じ始めたので、その微動を同情のある夫《をつと》の指頭に傳へやうとしたのである。
 「喧嘩をするのは詰り兩方が惡いからですね」
 彼女は斯《こ》んな事も云つた。夫《それ》程《ほど》自分が惡いと思つてゐない頑固な健三も、微笑するより外に仕方がなかつた。
 「離れゝばいくら親しくつても夫《それ》切《ぎり》になる代りに、一所にゐさへすれば、たとひ敵同志《かたきどうし》でも何うにか斯うにかなるものだ。つまりそれが人間なんだらう」
 健三は立派な哲理でも考へ出したやうに首を捻《ひね》つた。
 
     六十六
 
 お常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入《はい》つた。
 毎年《まいとし》時候が寒くなると屹度《きつと》身體に故障の起る兄は、秋口《あきぐち》から又|風邪《かぜ》を引いて一週間ほど局を休んだ揚句《あげく》、氣分の惡いのを押して出勤した結果、幾日《いくか》經《た》つても熱が除《と》れないで苦しんでゐた。
 「つい無理をするもんだから」
 無理をして月給の壽命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内|何方《どつち》かを擇《えら》ぶより外に仕方がない樣に見えたのである。
 「何うも肋膜《ろくまく》らしいつていふんだがね」
 彼は心細い顔をした。彼は死を恐れた。肉の消滅について何人《なんびと》よりも強い畏怖の念を抱《いだ》いてゐた。さうして何人《なんびと》よりも強い速度で、其肉塊を減らして行かなければならなかつた。
 健三は細君に向つて云つた。――
 「もう少し平氣で休んでゐられないものかな。責《せ》めて熱の失《な》くなる迄でも好いから」
 「左右《さう》したいのは山々なんでせうけれども、矢ツ張さうは出來ないんでせう」
 健三は時々兄が死んだあとの家族を、たゞ活計《くらし》の方面からのみ眺める事があつた。彼はそれを殘酷ながら自然の眺め方として許してゐた。同時にさういふ觀察から逃《のが》れる事の出來ない自分に對して一種の不快を感じた。彼は苦《にが》い塩を甞《な》めた。
 「死にやしまいな」
 「まさか」
 細君は取り合はなかつた。彼女はたゞ自分の大きな腹を持《も》て餘《あま》してばかりゐた。生家《さと》と縁故のある産婆が、遠い所から俥《くるま》に乘つて時々遣つて來た。彼は其産婆が何をしに來て、又何をして歸つて行くのか全く知らなかつた。
 「腹でも揉むのかい」
 「まあ左右《さう》です」
 細君ははかばかしい返事さへしなかつた。
 其内兄の熱がころりと除《と》れた。
 「御祈祷をなすつたんですつて」
 迷信家の細君は加持《かぢ》、祈祷、占ひ、神信心、大抵の事を好いてゐた。
 「御前が勸めたんだらう」
 「いゝえそれが私なんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。何でも髪刺《かみそり》を頭の上へ載せて遣るんですつて」
 健三には髪刺の御蔭で、しこじら〔四字傍点〕した體熟が除《と》れやうとも思へなかつた。
 「氣の所爲《せゐ》で熱が出るんだから、氣の所爲《せゐ》でそれが又直ぐ除《と》れるんだらうよ。髪剃でなくつたつて、杓子でも鍋葢《なべぶた》でも同じ事さ」
 「然しいくら御醫者の藥を飲んでも癒らないもんだから、試しに遣《や》つて見たら何うだらうつて勸められてとう/\遣る氣になつたんですつて。何うせ高い御祈祷代を拂つたんぢやないんでせう」
 健三は腹の中で兄を馬鹿だと思つた。また熱の除《と》れる迄藥を飲む事の出來ない彼の内状を氣の毒に思つた。髪刺の御蔭でも何でも熱が除《と》れさへすればまづ仕合せだとも思つた。
 兄が癒ると共に姉がまた喘息《ぜんそく》で惱み出した。
 「又かい」
 健三は我知らず斯う云つて、不圖《ふと》女房の持病を苦にしない比田の樣子を想ひ浮べた。
 「しかし今度《こんだ》は何時《いつ》もより重いんですつて。ことによると六《む》づかしいかも知れないから、健三に見舞に行くやうに左右《さう》云つて呉れつて仰《おつし》やいました」
 兄の注意を健三に傳へた細君は、重苦しさうに自分の尻を疊の上に着けた。
 「少し立つてゐると御腹《おなか》の具合が變になつて來て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載つてゐるものなんか到底《とても》取れやしません」
 産が逼《せま》る程姙婦は運動すべきものだ位に考へてゐた健三は意外な顔をした。下腹部だの腰の周圍の感じが何《ど》んなに退儀《たいぎ》であるかは全く彼の想像の外《ほか》にあつた。彼は活動を強《し》ひる勇氣も自信も失つた。
 「私とても御見舞には參れませんよ」
 「無論御前は行かなくつても好い。己《おれ》が行くから」
 
     六十七
 
 其頃の健三は宅《うち》へ歸ると甚だしい倦怠を感じた。たゞ仕事をした結果とばかりは考へられない此疲勞が、一層彼を出不精《でぶしやう》にした。彼はよく晝寐をした。机に倚《よ》つて書物を眼の前に開けてゐる時ですら、睡魔に襲はれる事が?《しば/\》あつた。愕然として假寢《うたゝね》の夢から覺めた時、失はれた時間を取り返さなければならないといふ感じが一層強く彼を刺戟した。彼は遂に机の前を離れる事が出來なくなつた。括《くゝ》り付《つ》けられた人のやうに書齋に凝《ぢつ》としてゐた。彼の良心はいくら勉強が出來なくつても、いくら愚圖々々してゐても、左右《さう》いふ風に凝《ぢつ》と坐つてゐろと彼に命令するのである。
 斯くして四五日は徒《いたづ》らに過ぎた。健三が漸く津《つ》の守坂《かみざか》へ出掛けた時は六《む》づかしいかも知れないと云つた姉が、もう回復期に向つてゐた。
 「まあ結構です」
 彼は尋常の挨拶をした。けれども腹の中では狐にでも抓《つま》まれたやうな氣がした。
 「あゝ、でも御蔭さまでね。――姉さんなんざあ、生きてゐたつて何うせ他《ひと》の厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、矢つ張持つて生れた壽命だと見えて是《これ》許《ばか》りは仕方がない」
 姉は自分の云ふ裏を健三から聽きたい樣子であつた。然し彼は黙つて煙草を吹かしてゐた。斯《こ》んな些細の點にも姉弟《きやうだい》の氣風の相違は現れた。
 「でも比田のゐるうちは、いくら病身でも無能《やくざ》でも私《あたし》が生きてゐて遣らないと困るからね」
 親類は亭主孝行といふ名で姉を評し合つてゐた。それは女房の心盡しなどに對して餘りに無頓着過ぎる比田を一方に置いて此姉の態度を見ると、寧ろ氣の毒な位親切だつたからである。
 「私《あたし》や本當に損な生れ付でね。良人《うち》とは丸《まる》であべこべ〔四字傍点〕なんだから」
 姉の夫思《をつとおも》ひは全く天性に違なかつた。けれども比田が時として理の徹《とほ》らない我儘を云ひ募るやうに、彼女は譯の解らない實意立《じついだて》をして却《かへ》つて夫《をつと》を厭がらせる事があつた。それに彼女は縫針《ぬひはり》の道を心得てゐなかつた。手習をさせても遊藝を仕込んでも何一つ覺える事の出來なかつた彼女は、嫁に來てから今日《こんにち》迄《まで》、つひぞ夫《をつと》の着物一枚縫つた例《ためし》がなかつた。それでゐて彼女は人一倍勝氣な女であつた。子供の時分強情を張つた罰として土藏の中に押し込められた時、小用《こよう》に行きたいから是非出して呉れ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかと云つて、網戸の内外《うちそと》で母と論判をした話はいまだに健三の耳に殘つてゐた。
 さう思ふと自分とは大變懸け隔たつたやうでゐて、其《その》實《じつ》何處か似通《にかよ》つた所のある此|腹違《はらちがひ》の姉の前に、彼は反省を強ひられた。
 「姉はたゞ露骨な丈《だけ》なんだ。教育の皮を剥《む》けば己《おれ》だつて大した變りはないんだ」
 平生《へいぜい》の彼は教育の力を信じ過ぎてゐた。今の彼は其教育の力で何うする事も出來ない野生的な自分の存在を明かに認めた。斯く事實の上に於て突然人間を平等に視た彼は、不斷《ふだん》から輕蔑してゐた姉に對して多少極りの惡い思ひをしなければならなかつた。然し姉は何にも氣が付かなかつた。
 「お住さんは何うです。もう直《ぢき》生れるんだらう」
 「えゝ落つこちさうな腹をして苦しがつてゐます」
 「御産は苦しいもんだからね。私《あたし》も覺《おぼえ》があるが」
 久しく不姙と思はれてゐた姉は、片付いて何年目かになつて始めて一人の男の子を生んだ。年齒《とし》を取つてからの初産《うひざん》だつたので、當人も傍《はた》のものも大分《だいぶ》心配した割に、それ程の危險もなく胎兒を分娩したが、其子はすぐ死んで仕舞つた。
 「輕はづみをしないやうに用心おしよ。――宅《うち》でも彼子《あれ》がゐると少しは依怙《たより》になるんだがね」
 
     六十八
 
 姉の言葉には昔|亡《な》くしたわが子に對する思ひ出の外に、今の養子に飽き足らない意味も含まれてゐた。
 「彦ちやんがもう少し確乎《しつかり》してゐて呉れると好いんだけれども」
 彼女は時々|傍《はた》のものに斯《こ》んな述懷を洩らした。彦ちやんは彼女の豫期するやうな大した働き手でないにせよ、至極穩かな好人物であつた。朝つぱらから酒を飲まなくつちやゐられない人だといふ噂を耳にした事はあるが、其他の點に就いて深い交渉を有《も》たない健三には、何處が不足なのか能《よ》く解らなかつた。
 「もう少し御金を取つて呉れると好いんだけどもね」
 無論彦ちやんは養父母を樂に養へる丈《だけ》の収入を得てゐなかつた。然し比田も姉も彼を育てた時の事を思へば、今更そんな贅澤の云へた義理でもなかつた。彼等は彦ちやんを何處の學校へも入れて遣らなかつた。僅《わづか》ばかりでも彼が月給を取るやうになつたのは、養父母に取つて寧ろ僥倖と云はなければならなかつた。健三は姉の不平に對して眼に見えるほどの注意を拂ひかねた。昔《むか》し死んだ赤ん坊については、猶《なほ》の事《こと》同情が起らなかつた。彼は其|生顔《いきがほ》を見た事がなかつた。其|死顔《しにがほ》も知らなかつた。名前さへ忘れてしまつた。
 「何とか云ひましたね、あの子は」
 「作太郎さ。あすこに位牌があるよ」
 姉は健三のために茶の間の壁を切り拔いて拵へた小さい佛壇を指《さ》し示《しめ》した。薄暗いばかりでなく小汚《こぎた》ない其中には先祖からの位牌が五つ六つ並んでゐた。
 「あの小さい奴がさうですか」
 「あゝ、赤ん坊のだからね、わざと小さく拵へたんだよ」
 立つて行つて戒名を讀む氣にもならなかつた健三は、失張|故《もと》の所に坐つた儘、黒塗の上に金字で書いた小形の札のやうなものを遠くから眺めてゐた。
 彼の顔には何の表情もなかつた。自分の二番目の娘が赤痢に罹つて、もう少しで命を奪《と》られる所だつた時の心配と苦痛さへ聯想し得なかつた。
 「姉さんも斯《こ》んなぢや何時《いつ》あゝなるか分らないよ、健ちやん」
 彼女は佛壇から眼を放して健三を見た。健三はわざと其視線を避けた。
 心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思つてゐない彼女の云ひ草には、世間並《せけんなみ》の年寄と少し趣《おもむき》を異《こと》にしてゐる所があつた。漫性の病氣が何時《いつ》迄《まで》も繼續するやうに、慢性の壽命が又|何時《いつ》迄《まで》も繼續するだらうと彼女には見えたのである。
 其處へ彼女の癇性が手傳つた。彼女は何《ど》んなに氣息苦《いきぐる》しくつても、いくら他《ひと》から忠告されても、何うしても居ながら用を足さうと云はなかつた。這ふやうにしてでも厠《かはや》迄《まで》行つた。それから子供の時からの習慣で、朝は屹度《きつと》肌拔《はだぬぎ》になつて手水《てうづ》を遣《つか》つた。寒い風が吹かうが冷たい雨が降らうが決して已《や》めなかつた。
 「そんな心細い事を云はずに、出來《でき》る丈《だけ》養生をしたら好いでせう」
 「養生はしてゐるよ。健ちやんから貰ふ御小遣ひの中で牛乳|丈《だけ》は屹度《きつと》飲む事に極めてゐるんだから」
 田舍ものが米の飯を食ふやうに、彼女は牛乳を飲むのが凡《すべ》ての養生でゞもあるかのやうな事を云つた。日に日に損《そこな》はれて行く吾健康を意識しつゝ、此姉に養生を勤める健三の心の中《うち》にも、「他事《ひとごと》ぢやない」といふ馬鹿らしさが遠くに働いてゐた。
 「私《わたし》も近頃は具合が惡くつてね。ことによると貴方より早く位牌になるかも知れませんよ」
 彼の言葉は無論根のない笑談《ぜうだん》として姉の耳に響いた。彼もそれを承知の上でわざと笑つた。然し自《みづか》ら健康を損《そこな》ひつゝあると確に心得ながら、それを何うする事も出來ない境遇に置かれた彼は、姉よりも却《かへ》つて自分の方を憐《あはれ》んだ。
 「己《おれ》のは黙つて成し崩しに自殺するのだ。氣の毒だと云つて呉れるものは一人もありやしない」
 彼はさう思つて姉の凹《くぼ》み込《こ》んだ眼と、痩《こ》けた頬と、肉のない細い手とを、微笑しながら見てゐた。
 
     六十九
 
 姉は細《こまか》い所に氣の付く女であつた。從つて細《こまか》い事に迄よく好奇心を働かせたがつた。一面に於て馬鹿正直な彼女は、一面に於てまた變な廻《まは》り氣《ぎ》を出す癖を有《も》つてゐた。
 健三が外國から歸つて來た時、彼女は自家の生計に就て、他《ひと》の同情に訴へ得るやうな憐れつぽい事實を彼の前に並べた。仕舞に兄の口を借りて、若干《いくら》でも好いから月々自分の小遣《こづかひ》として送つて呉れまいかといふ依頼を持ち出した。健三は身分相應な額を定めた上、また兄の手を經て先方へ其旨を通知して貰ふ事にした。すると姉から手紙が來た。長《ちやう》さんの話では御前さんが月々|若干々々《いくら/\》私《わたし》に遣るといふ事だが、實際御前さんの、呉れると云つた金高《かねだか》は何《ど》の位《くらゐ》なのか、長さんに内所で一寸知らせて呉れないかと書いてあつた。姉は是から毎月|中取次《なかとりつぎ》をする役に當るかも知れない兄の心事を疑《うた》ぐつたのである。
 健三は馬鹿々々しく思つた。腹立たしくも感じた。然し何より先に淺間しかつた。「黙つてゐろ」と怒鳴り付けて遣りたくなつた。彼の姉に宛てた返事は、一枚の端書に過ぎなかつたけれども、斯うした彼の氣分を能《よ》く現はしてゐた。姉はそれぎり何とも云つて來なかつた。無筆《むひつ》な彼女は最初の手紙さへ他《ひと》に頼んで書いて貰つたのである。
 此出來事が健三に對する姉を前よりは一層遠慮がちにした。何《なん》でも蚊《か》でも訊きたがる彼女も、健三の家庭に就ては、當り障りのない事の外、多く口を開かなかつた。健三も自分等夫婦の間柄を彼女の前で問題にしやうなどとは曾て想ひ到らなかつた。
 「近頃お住さんは何うだい」
 「まあ相變らずです」
 會話は此位で切り上げられる場合が多かつた。
 間接に細君の病氣を知つてゐる姉の質問には、好奇心以外に、親切から來る懸念《けねん》も大分《だいぶ》交《まじ》つてゐた。然し其懸念は健三に取つて何の役にも立たなかつた。從つて彼女の眼に見える健三は、何時《いつ》も親しみがたい無愛想《ぶあいそ》な變人に過ぎなかつた。
 淋《さみ》しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行つた。さうしてつひぞ見た事もない新開地のやうな汚《きた》ない、町の中へ入《はい》つた。東京で生れた彼は方角の上に於て、自分の今踏んでゐる場所を能《よ》く辨《わきま》へてゐた。けれども其處には彼の追憶を誘《いざな》ふ何物も殘つてゐなかつた。過去の記念が悉《こと/”\》く彼の眼から奪はれてしまつた大地の上を、彼は不思議さうに歩いた。
 彼は昔あつた青田と、其青田の間を走る眞直《まつすぐ》な經《こみち》とを思ひ出した。田の盡きる所には三四軒の藁葺屋根が見えた。菅笠《すげがさ》を脱いで床几《しやうぎ》に腰を掛けながら、心太《ところてん》を食つてゐる男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のやうに廣い紙漉場《かみすきば》があつた。其處を折れ曲つて町つゞきへ出ると、狹い川に橋が懸つてゐた。川の左右は高い石垣で積み上げられてゐるので、上から見下《みおろ》す水の流れには存外の距離があつた。橋の袂にある古風な錢湯の暖簾《のれん》や、其隣の八百屋の店先に並んでゐる唐茄子《たうなす》などが、若い時の健三によく廣重《ひろしげ》の風景畫を聯想させた。
 然し今では凡《すべ》てのものが夢のやうに悉《こと/”\》く消え失せてゐた。殘つてゐるのはたゞ大地ばかりであつた。
 「何時《いつ》斯《こ》んなに變つたんだらう」
 人間の變つて行く事にのみ氣を取られてゐた健三は、それよりも一層|劇《はげ》しい自然の變り方に驚かされた。
 彼は子供の時分比田と將棊《しやうぎ》を差した事を偶然思ひだした。比田は盤に向ふと、是でも所澤の藤吉さんの御弟子《おでし》だからなと云ふのが癖であつた。今の比田も將棊盤を前に置けば、屹度《きつと》同じ事を云ひさうな男であつた。
 「己自身《おれじしん》は畢竟《ひつきやう》何うなるのだらう」
 衰へる丈《だけ》で案外變らない人間のさまと、變るけれども日に榮えて行く郊外の樣子とが、健三に思ひがけない對照の材料を與へた時、彼は考へない譯に行かなかつた。
 
     七十
 
 元氣のない顔をして宅《うち》へ歸つて來た彼の樣子がすぐ細君の注意を惹《ひ》いた。
 「御病人は何うなの」
 あらゆる人間が何時《いつ》か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から判然《はつきり》聞かうとするやうに見えた。健三は答を與へる先に、まづ一種の矛盾を意識した。
 「何もう好いんだ。寐てはゐるが危篤でも何でもないんだ。まあ兄貴に騙《だま》されたやうなものだね」
 馬鹿らしいといふ氣が幾分か彼の口振に出た。
 「騙されても其方がいくら好いか知れやしませんわ、貴夫《あなた》。若しもの事でもあつて御覽なさい、それこそ……」
 「兄貴が惡いんぢやない。兄貴は姉に騙されたんだから。其姉は又病氣に騙されたんだ。つまり皆《みん》な騙されてゐるやうなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房が煩《わづら》つたつて、決して騙されないんだからね」
 「矢つ張|宅《うち》にゐないの」
 「居るもんか。尤も非道《ひど》く惡かつた時は何うだか知らないが」
 健三は比田の振《ぶ》ら下《さ》げてゐる金時計と金鎖の事を思ひ出した。兄はそれを天麩羅《てんぷら》だらうと云つて陰で評してゐたが、當人は何處迄も本物らしく見せびらかしたがつた。金着《きんき》せにせよ、本物《ほんもの》にせよ、彼が何處で幾何《いくら》で買つたのか知るものは誰もなかつた。斯ういふ點に掛けては無頓着でゐられない性分の姉も、たゞ好い加減に其|出處《しゆつしよ》を推察するに過ぎなかつた。
 「月賦で買つたに違ないよ」
 「ことによると質の流れかも知れない」
 姉は聽かれもしないのに、兄に向つて色々な説明をした。健三には殆ど問題にならない事が、彼等の間に想像の種を幾個《いくつ》でも卸した。左右《さう》されゝばされる程又比田は得意らしく見えた。健三が毎月送る小遣《こづかひ》さへ時々借りられてしまふ癖に、姉はつひに夫《をつと》の手元に入《はい》る又は現在手元にある、金高《きんだか》を決して知る事が出來なかつた。
 「近頃は何でも債券を二三枚持つてゐるやうだよ」
 姉の言葉は丸《まる》で隣の宅《うち》の財産でも云《い》ひ中《あて》るやうに夫《をつと》から遠ざかつてゐた。
 姉を斯ういふ地位に立たせて平氣でゐる比田は、健三から見ると領解しがたい人間に違なかつた。それが已《やむ》を得《え》ない夫婦關係のやうに心得て辛抱してゐる姉自身も健三には分らなかつた。然し金錢上飽く迄秘密主義を守りながら、時々姉の豫期に釣り合はないやうなものを買ひ込んだり着込んだりして、妄《みだ》りに彼女を驚かせたがる料簡に至つては想像さへ及ばなかつた。妻に對する虚榮心の發現、焦《じ》らされながらも夫《をつと》を腕利《うできゝ》と思ふ妻の滿足。――此二つのもの丈《だけ》では到底十分な説明にならなかつた。
 「金の要る時も他人、病氣の時も他人、それぢやたゞ一所にゐる丈《だけ》ぢやないか」
 健三の謎は容易に解けなかつた。考へる事の嫌ひな細君はまた何といふ評も加へなかつた。
 「然し己達《おれたち》夫婦も世間から見れば隨分變つてるんだから、さう他《ひと》の事ばかり兎や角云つちやゐられないかも知れない」
 「矢つ張り同《おん》なじ事ですわ。みんな自分|丈《だけ》は好いと思つてるんだから」
 健三はすぐ癪に障つた。
 「お前でも自分ぢや好い積《つもり》でゐるのかい」
 「ゐますとも。貴夫《あなた》が好いと思つてゐらつしやる通りに」
 彼等の爭ひは能《よ》く斯ういふ所から起つた。さうして折角穩かに靜まつてゐる双方の心を攪《か》き亂《みだ》した。健三はそれを愼みの足りない細君の責《せめ》に歸《き》した。細君はまた偏窟で強情《がうじやう》な夫《をつと》の所爲《せゐ》だとばかり解釋した。
 「字が書けなくつても、裁縫《しごと》が出來なくつても、矢つ張姉のやうな亭主孝行な女の方が己《おれ》は好きだ」
 「今時そんな女が何處の國にゐるもんですか」
 細君の言葉の奧には、男ほど手前勝手なものはないといふ大きな反感が横《よこた》はつてゐた。
 
     七十一
 
 筋道の通つた頭を有《も》つてゐない彼女には存外新らしい點があつた。彼女は形式的な昔風の倫理觀に囚《とら》はれる程嚴重な家庭に人とならなかつた。政治家を以て任じてゐた彼女の父は、教育に關して殆ど無定見であつた。母は又普通の女の樣に八釜《やかま》しく子供を育て上げる性質《たち》でなかつた。彼女は宅《うち》にゐて比較的自由な空氣を呼吸した。さうして学校は小学校を卒業した丈《だけ》であつた。彼女は考へなかつた。けれども考へた結果を野性的に能《よ》く感じてゐた。
 「單に夫《をつと》といふ名前が付いてゐるからと云ふ丈《だけ》の意味で、其人を尊敬しなくてはならないと強《し》ひられても自分には出來ない。もし尊敬を受けたければ、受けられる丈《だけ》の資質を有《も》つた人間になつて自分の前に出て來るが好い。夫《をつと》といふ肩書などは無くつても構はないから」
 不思議にも学問をした健三の方は此點に於て却《かへ》つて舊式であつた。自分は自分の爲に生きて行かなければならないといふ主義を實現したがりながら、夫《をつと》の爲にのみ存在する妻を最初から假定して憚からなかつた。
 「あらゆる意味から見て、妻は夫《をつと》に從屬すべきものだ」
 二人が衝突する大根《おほね》は此處にあつた。
 夫《をつと》と獨立した自己の存在を主張しやうとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。動《やゝ》ともすると、「女の癖に」といふ氣になつた。それが一段|劇《はげ》しくなると忽ち「何を生意氣な」といふ言葉に變化した。細君の腹には「いくら女だつて」といふ挨拶が何時《いつ》でも貯へてあつた。
 「いくら女だつて、さう踏み付にされて堪まるものか」
 健三は時として細君の顔に出る是《これ》丈《だけ》の表情を明かに讀んだ。
 「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬される丈《だけ》の人格を拵へるがいゝ」
 健三の論理《ロジツク》は何時《いつ》の間《ま》にか、細君が彼に向つて投げる論理《ロジツク》と同じものになつてしまつた。
 彼等は斯くして圓い輪の上をぐる/\廻つて歩いた。さうしていくら疲れても氣が付かなかつた。
 健三は其輪の上にはたりと立ち留る事があつた。彼の留る時は彼の激昂が靜まる時に外ならなかつた。細君は其輪の上で不圖《ふと》動かなくなる事があつた。然し細君の動かなくなる時は彼女の沈滯が融《と》け出《だ》す時に限つてゐた。其時健三は漸く怒號を已《や》めた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携へて談笑しながら、矢張り圓い輪の上を離れる譯に行かなかつた。
 細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。生憎《あいにく》留守だつた彼は、夕暮に歸つてから細君に其話を聞いて首を傾むけた。
 「何か用でもあつたのかい」
 「えゝ少し御話ししたい事があるんですつて」
 「何だい」
 細君は答へなかつた。
 「知らないのかい」
 「えゝ。また二三日うちに上つて能《よ》く御話をするからつて歸りましたから、今度參つたら直《ぢか》に聞いて下さい」
 健三はそれより以上何も云ふ事が出來なかつた。
 久しく細君の父を訪ねないでゐた彼は、用事のあるなしに拘はらず、向ふがわざ/\此方《こつち》へ出掛けて來《き》やうなどとは夢にも豫期しなかつた。その不審が例《いつも》より彼の口數を多くする源因になつた。それとは反對に細君の言葉は却《かへ》つて常よりも少かつた。然しそれは彼がよく彼女に於て發見する不平や無愛嬌から來る寡言《くわげん》とも違つてゐた。
 夜は何時《いつ》の間《ま》にやら全くの冬に變化してゐた。細い燈火《ともしび》の影を凝《ぢつ》と見詰めてゐると、灯《ひ》は動かないで風の音|丈《だけ》が烈しく雨戸に當つた。ひゆう/\と樹木の鳴るなかに、夫婦は靜かな洋燈《あかり》を間に置いて、しばらく森《しん》と坐つてゐた。
 
     七十二
 
 「今日《けふ》父が來ました時、外套がなくつて寒さうでしたから、貴方の古いのを出して遣りました」
 田舍の洋服屋で拵へた其二重廻しは、殆ど健三の記憶から消えかゝつてゐる位古かつた。細君が何うしてまたそれを彼女の父に與へたものか、健三には理解出來なかつた。
 「あんな汚《きた》ならしいもの」
 彼は不思議といふよりも寧ろ耻かしい氣がした。
 「いゝえ。喜んで着て行きました」
 「御父《おとつ》さんは外套を有《も》つてゐないのかい」
 「外套どころぢやない、もう何《なん》にも有《も》つちやゐないんです」
 健三は驚いた。細い灯《ひ》に照らされた細君の顔が急に憐れに見えた。
 「そんなに窮《こま》つてゐるのかなあ」
 「えゝ。もう何うする事も出來ないんですつて」
 口數の寡《すく》ない細君は、自分の生家に關する詳《くは》しい話を今迄|夫《をつと》の耳に入れずに通して來たのである。職に離れて以來の不如意《ふによい》を薄々知つてゐながら、まさか是程とも思はずにゐた健三は、急に眼を轉じて其人の昔を見なければならなかつた。
 彼は絹帽《シルクハツト》にフロツクコートで勇ましく官邸の石門《せきもん》を出て行く細君の父の姿を鮮やかに思ひ浮べた。堅木《かたぎ》を久《きう》の字形《じがた》に切り組んで作つた其玄關の床《ゆか》は、つる/\光つて、時によると馴れない健三の足を滑らせた。前に廣い芝生《しばふ》を控へた應接間を左へ折れ曲ると、それと接續《つゞ》いて長方形の食堂があつた。結婚する前健三は其處で細君の家族のものと一緒に晩餐の卓に着いた事を未《いま》だに覺えてゐた。二階には疊が敷いてあつた。正月の寒い晩、歌留多《かるた》に招かれた彼は、そのうちの一間《ひとま》で暖かい宵を笑ひ聲の裡《うち》に更《ふか》した記憶もあつた。
 西洋館に績いて日本建《にほんだて》も一棟付いてゐた此屋敷には、家族の外に五人の下女と二人の書生が住んでゐた。職務柄《しよくむがら》客の出入《でいり》の多い此家の用事には、それ丈《だけ》の召仕《めしつかひ》が必要かも知れなかつたが、もし經濟が許さないとすれば、其必要も充《み》たされる筈はなかつた。
 健三が外國から歸つて來た時ですら、細君の父は左程《さほど》困つてゐるやうには見えなかつた。彼が駒込の奧に住居《すまひ》を構へた當座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向つて斯う云つた。――
 「まあ自分の宅《うち》を有《も》つといふ事が人間には何うしても必要ですね。然しさう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精々貯蓄を心掛けたら好いでせう。二三千圓の金を有《も》つてゐないと、いざといふ場合に、大變困るもんだから。なに千圓位出來ればそれで結構です。それを私《わたし》に預けて御置きなさると、一年位|經《た》つうちには、ぢき倍にして上げますから」
 貨殖の道に心得の足りない健三は其時不思議の感に打たれた。
 「何うして一年のうちに千圓が二千圓になり得るだらう」
 彼の頭では此疑問の解決が迚《とて》も付かなかつた。利慾を離れる事の出來ない彼は、驚愕の念を以て、細君の父にのみあつて、自分には全く缺乏してゐる、一種の怪力《くわいりよく》を眺めた。しかし千圓拵へて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向つて其方法を訊く氣にもならずについ今日《こんにち》迄《まで》過ぎたのである。
 「そんなに貧乏する筈がないだらうぢやないか。何ぼ何だつて」
 「でも仕方がありませんわ、廻り合せだから」
 産といふ肉體の苦痛を眼前に控へてゐる細君の氣息遣《いきづかひ》はたゞでさへ重々しかつた。健三は默つて氣の毒さうな其腹と、光澤《つや》の惡い其頬とを眺めた。
 昔《むか》し田舍で結婚した時、彼女の父が何處からか浮世繪風の美人を描《か》いた下等な團扇《うちは》を四五本買つて持つて來たので、健三は其一本をぐる/\廻しながら、隨分俗なものだと評したら、父はすぐ「所《ところ》相應《さうおう》だらう」と答へた事があつたが、健三は今自分が其地方で作つた外套を細君の父に遣《や》つて、「阿爺《おやぢ》相應《さうおう》だらう」といふ氣には迚《とて》もなれなかつた。いくら困つたつて彼《あ》んなものをと思ふと寧ろ情《なさけ》なくなつた。
 「でもよく着られるね」
 「見つともなくつても寒いよりは好いでせう」
 細君は淋《さび》しさうに笑つた。
 
     七十三
 
 中一日《なかいちにち》置いて彼が來た時、健三は久し振で細君の父に會つた。
 年輩から云つても、經歴から見ても、健三より遙に世間馴れた父は、何時《いつ》も自分の娘婿に對して鄭寧であつた。或時は不自然に陷《おちい》る位鄭寧過ぎた。然しそれが彼を現はす凡《すべ》てではなかつた。裏側には反對のものが所々に起伏してゐた。
 官僚式に出來上つた彼の眼には、健三の態度が最初から頗る横着《わうちやく》に見えた。超えてはならない階段を無躾《ぶしつけ》に飛び越すやうにも思はれた。其上彼は無暗に自《みづか》ら任じてゐるらしい健三の高慢ちきな所を喜ばなかつた。頭にある事を何でも口外して憚らない健三の無作法《ぶさはふ》も氣に入らなかつた。亂暴とより外に取りやうのない一徹一圖《いつてついちづ》な點も非難の標的《まと》になつた。
 健三の稚氣《ちき》を輕蔑した彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いて來《き》やうとする健三を表面上鄭寧な態度で遮《さへぎ》つた。すると二人は其處で留まつたなり動けなくなつた。二人は或る間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかつた。だから相手の長所も判明《はつきり》と理解する事が出來惡《できにく》くなつた。さうして二人共自分の有《も》つてゐる缺點の大部分には決して氣が付かなかつた。
 然し今の彼は健三に對して疑ひもなく一時的の弱者であつた。他《ひと》に頭を下げる事の嫌ひな健三は窮迫の結果、餘儀なく自分の前に出て來た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない譯に行かなかつた。
 「如何《いか》にも苦しいだらう」
 健三は此一念に制せられた。さうして彼の持《も》ち來《きた》した金策談に耳を傾けた。けれども好い顔はし得なかつた。心のうちでは好い顔をし得ない其自分を呪つてゐた。
 「金の話だから好い顔が出來ないんぢやない。金とは獨立した不愉快の爲に好い顔が出來ないのです。誤解しては不可《いけ》ません。私は斯《こ》んな場合に敵討《かたきうち》をするやうな卑怯な人間とは違ひます」
 細君の父の前に是《これ》丈《だけ》の辯解がしたくつて堪《たま》らなかつた健三は、默つて誤解の危險を冒《をか》すより外に仕方がなかつた。
 此ぶつきら〔四字傍点〕棒な健三に比べると、細君の父は餘程鄭寧であつた。又落付いてゐた。傍《はた》から見れば遙に紳士らしかつた。
 彼は或人の名を擧げた。
 「向うでは貴方を知つてるといひますが、貴方も知つてるんでせうね」
 「知つてゐます」
 健三は昔《むか》し学校にゐた時分に其男を知つてゐた。けれども深い交際《つきあひ》はなかつた。卒業して獨逸《ドイツ》へ行つて歸つて來たら、急に職業がへをして或大きな銀行へ入《はい》つたとか人の噂に聞いた位より外に、彼の消息は健三に傳はつてゐなかつた。
 「まだ銀行にゐるんですか」
 細君の父は點頭《うなづ》いた。然し二人が何處で何う知《し》り合《あひ》になつたのか、健三には想像さへ付かなかつた。又それを詳しく訊いて見た所が仕方がなかつた。要點はたゞ其人が金を貸してくれるか、呉れないかの問題にあつた。
 「で當人の云ふには、貸しても好い、好いが慥《たしか》な人を證人に立てゝ貰ひたいと斯ういふんです」
 「成程」
 「ぢや誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向ふでわざ/\指名した譯なんです」
 健三は自分自身を慥《たしか》なものと認めるには躊躇しなかつた。然し自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上|他《ひと》に知れてゐなければならない筈だと考へた。其上細君の父は交際範圍の極めて廣い人であつた。平生《へいぜい》彼の口にする知合《しりあひ》のうちには、健三より何《ど》の位《くらゐ》世間から信用されて好いか分らない程有名な人がいくらでもゐた。
 「何故私の判が必要なんでせう」
 「貴方なら貸さうと云ふのです」
 健三は考へた。
 
     七十四
 
 彼は今日《こんにち》迄《まで》證書を入れて他《ひと》から金を借りた經驗のない男であつた。つい義理で判を捺《つ》いて遣《や》つたのが本《もと》で、立派な腕を有《も》ちながら、生涯社會の底に沈んだ儘、藻掻《もが》き通《どほ》しに藻掻《もが》いてゐる人の話は、いくら迂濶《うくわつ》な彼の耳にも?《しば/\》傳へられてゐた。彼は出來るなら自分の未來に關はるやうな所作《しよさ》を避けたいと思つた。然し頑固な彼の半面には至つて氣の弱い※[者/火]え切らない或物が能《よ》く働きたがつた。此場合斷然|連印《れんいん》を拒絶するのは、彼に取つて如何にも無情で、冷刻で、心苦しかつた。
 「私でなくつちや不可《いけな》いのでせうか」
 「貴方なら好いといふんです」
 彼は同じ事を二度訊いて同じ答へを二度受けた。
 「何うも變ですね」
 世事に疎《うと》い彼は、細君の父が何處へ頼んでも、もう判を押して呉れるものがないので、しまひに仕方なしに彼の所へ持つて來たのだといふ明白な事情さへ推察し得なかつた。彼は親しく交際《つきあ》つた事もない其銀行家から夫《それ》程《ほど》信用されるのが却《かへ》つて怖《こは》くなつた。
 「何《ど》んな目に逢はされるか分りやしない」
 彼の心には未來に於ける自己の安全といふ懸念《けねん》が十分に働いた。同時にたゞ夫《それ》丈《だけ》の利害心で此間題を片付けてしまふ程彼の性格は單純に出來て居なかつた。彼の頭が彼に適當な解決を與へる迄彼は逡巡しなければならなかつた。其解決が最後に來た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を拂つた。
 「印を捺《お》す事は何うも危險ですから已《や》めたいと思ひます。然し其代り私の手で出來《でき》る丈《だけ》の金を調《とゝの》へて上げませう。無論貯蓄のない私の事だから、調へるにした所で、どうせ何處からか借りるより外に仕方がないのですが、出來るなら證文を書いたり判を押したりするやうな形式上の手續きを踏む金は借りたくないのです。私の有《も》つてゐる狹い交際の方面で安全な金を工面《くめん》した方が私には心持が好いのですから、まづ其方《そつち》の方を一つ中《あた》つて見ませう。無論|御入用《おいりよう》丈《だけ》の額《たか》は駄目です。私の手で調へる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相當の借金は出來ません」
 幾何《いくら》でも融通が付けば付いた丈《だけ》助かるといつた風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を強《し》ひなかつた。
 「何うぞ夫《それ》ぢや何分」
 彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて歸つて行つた。書齋で話を濟ませた健三は、玄關から又同じ書齋に戻つたなり細君の顔を見なかつた。細君も父を玄關に送り出した時、夫《をつと》と並んで沓脱《くつぬぎ》の上に立つた丈《だけ》で、遂に書齋へは入《はい》つて來なかつた。金策の事は默々のうちに二人に了解されてゐながら、遂に二人の間の話題に上《のぼ》らずにしまつた。
 けれども健三の心には既に責任の荷があつた。彼はそれを果すために動かなければならなかつた。彼は世帶《しよたい》を持つときに、火鉢や煙草盆を一所に買つて歩いて貰つた友達の宅《うち》へ又出掛けた。
 「金を貸して呉れないかね」
 彼は藪から棒に質問を掛けた。金などを有《も》つてゐない友達は驚いた顔をして彼を見た。彼は火鉢に手を翳《かざ》しながら友達の前に逐一《ちくいち》事情を話した。
 「何うだらう」
 三年間支那のある學堂で教鞭を取つてゐた頃に蓄へた友達の金は、みんな電鐵か何かの株に變形してゐた。
 「ぢや清水《しみづ》に頼んで見て呉れないか」
 友達の妹婿に當る清水は、下町の可なり繁華な場所で、病院を開いてゐた。
 「さあ何うかなあ。彼奴《あいつ》も其位な金はあるだらうが、動かせるやうになつてゐるかしら。まあ訊いて見てやらう」
 友達の好意は幸ひ徒勞《むだ》にならずに濟んだ。健三の借り受けた四百圓の金が、細君の父の手に入《はい》つたのは、それから四五日|經《た》つて後《のち》の事であつた。
 
     七十五
 
 「己《おれ》は精一抔の事をしたのだ」
 健三の腹には斯ういふ安心があつた。從つて彼は自分の調達した金の價値《かち》に就いて餘り考へなかつた。嘸《さぞ》嬉しがるだらうとも思はない代りに、是位の補助が何の役に立つものかといふ氣も起さなかつた。それが何《ど》の方面に何う消費されたかの問題になると、全くの無智識で澄ましてゐた。細君の父も其處迄内情を打ち明ける程彼に接近して來なかつた。
 從來の牆壁《しやうへき》を取り拂ふには此機會があまりに脆弱《ぜいじやく》過《す》ぎた。若しくは二人の性格があまりに固着し過ぎてゐた。
 父は健三よりも世間的に虚榮心の強い男であつた。成るべく自分を他《ひと》に能《よ》く了解させようと力《つと》めるよりも、出來るだけ自分の價値を明るい光線に觸《あ》てさせたがる性質《たち》であつた。從つて彼を圍繞《ゐねう》する妻子近親に對する彼の樣子は幾分か誇大に傾きがちであつた。
 境遇が急に失意の方面に一轉した時、彼は自分の平生《へいぜい》を顧みない譯に行かなかつた。彼はそれを糊塗《こと》するため、健三に向つて能《あた》ふ限《かぎ》り左《さ》あらぬ態度を裝《よそほ》つた。それで遂に押し通せなくなつた揚句、彼はとう/\健三に連印を求めたのである。けれども彼が何《ど》の位《くらゐ》の負債に何う苦しめられてゐるかといふ巨細《こさい》の事實は、遂に健三の耳に入《い》らなかつた。健三も訊かなかつた。
 二人は今迄の距離を保つた儘で互に手を出し合つた。一人が渡す金を一人が受け取つた時、二人は出した手を又引き込めた。傍《はた》でそれを見てゐた細君は默つて何とも云はなかつた。
 健三が外國から歸つた當座の二人は、まだ是程に離れてゐなかつた。彼が新宅を構へて間《ま》もない頃、彼は細君の父がある鑛山事業に手を出したといふ話を聞いて驚いた事があつた。
 「山を掘るんだつて?」
 「えゝ、何でも新らしく會社を拵へるんださうです」
 彼は眉を顰《ひそ》めた。同時に彼は父の怪力《くわいりよく》に幾分かの信用を置いてゐた。
 「旨く行くのかね」
 「何うですか」
 健三と細君との間に斯《こ》んな簡單な會話が取《と》り換《か》はされた後《のち》、彼はその用事を帶びて北國のある都會へ向けて出發したといふ父の報知を細君から受け取つた。すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へ遣つて來た。父が旅先で急に病氣に罹《かゝ》つたので、是から自分も行かなければならないと思ふが、それに就いて旅費の都合は出來まいかといふのが母の用向《ようむき》であつた。
 「えゝ/\旅費位何うでもして上げますから、すぐ行つて御上げなさい」
 宿屋に寐てゐる苦しい人と、汽車で立つて行く寒い人とを心《しん》から氣の毒に思つた健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空の侘びしさ迄想像の眼に浮べた。
 「何しろ電報が來た丈《だけ》で、詳《くは》しい事は丸《まる》で分りませんのですから」
 「ぢや猶《なほ》御心配でせう。成るべく早く御立ちになる方が好いでせう」
 幸ひにして父の病氣は輕かつた。然し彼の手を着けかけたといふ鑛山事業はそれぎり立消《たちぎえ》になつてしまつた。
 「まだ何《なん》にも見付からないのかね、口は」
 「有るにはあるやうですけれども旨く纒まらないんですつて」
 細君は父がある大きな都會の市長の候補者になつた話をして聞かせた。其運動費は財力のある彼の舊友の一人が負擔して呉れてゐるやうであつた。然し市の有志家が何名か打ち揃つて上京した時に、有名な政治家のある伯爵に會つて、父の適不適を問《と》ひ訊《たゞ》したら、其伯爵が何うも不向《ふむき》だらうと答へたので、話はそれぎりで已《やめ》になつたのださうである。
 「何うも困るね」
 「今に何とかなるでせう」
 細君は健三よりも自分の父の方を遙に餘計信用してゐた。健三も例の怪力《くわいりよく》を知らないではなかつた。
 「たゞ氣の毒だからさう云ふ丈《だけ》さ」
 彼の言葉に嘘はなかつた。
 
     七十六
 
 けれども其次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の關係がもう變つてゐた。自《みづか》ら進んで母に旅費を用立つた女婿《むすめむこ》は、一歩|退《しりぞ》かなければならなかつた。彼は比較的遠い距離に立つて細君の父を眺めた。然し彼の眼に漂《たゞ》よふ色は冷淡でも無頓着でもなかつた。寧ろ黒い瞳から閃めかうとする反感の稻妻《いなづま》であつた。力《つと》めて其稻妻を隱さうとした彼は、已《やむ》を得《え》ず此鋭く光るものに冷淡と無頓着の假裝を着せた。
 父は悲境にゐた。まのあたり見る父は鄭寧であつた。此二つのものが健三の自然に壓迫を加へた。積極的に突《つ》ツ掛《かゝ》る事の出來ない彼は控へなければならなかつた。單なる無愛想《ぶあいさう》の程度で我慢すべく餘儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃な態度とが、却《かへ》つてわが天眞の流露を妨げる邪魔物になつた。彼から云へば、父は斯ういふ意味に於て彼を苦しめに來たと同じ事であつた。父から云へば、普通の人としてさへ不都合に近い愚劣な應對振を、自分の女婿《むすめむこ》に見出《みいだ》すのは、堪へがたい馬鹿らしさに違なかつた。前後と關係のない此場|丈《だけ》の光景を眺める傍觀者の眼にも健三は矢張馬鹿であつた。それを承知してゐる細君にすら、夫《をつと》は決して賢こい男ではなかつた。
 「私も今度といふ今度は困りました」
 最初に斯う云つた父は健三からはか/”\しい返事すら得なかつた。
 父はやがて財界で有名な或人の名を擧げた。其人は銀行家でもあり、又實業家でもあつた。
 「實は此間ある人の周旋で會つて見ましたが、何うか旨く出來さうですよ。三井と三菱を除けば日本ではまあ彼處《あすこ》位《ぐらゐ》なもんですから、使用人になつたからと云つて、別に私の體面に關はる事もありませんし、それに仕事をする區域も廣い樣ですから、面白く働けるだらうと思ふんです」
 此財力家によつて細君の父に豫約された位地といふのは、關西にある或私立の鐵道會社の社長であつた。會社の株の大部分を一人で所有してゐる其人は、自分の意志の儘に、其處の社長を選ぶ特權を有してゐたのである。然し何十株か何百株かの持主として、豫《あらかじ》め資格を作つて置かなければならない父は、何うして金の工面《くめん》をするだらう。事状に通じない健三には此疑問さへ解けなかつた。
 「一時必要な株數|丈《だけ》を私の名儀に書換へて貰ふんです」
 健三は父の言葉に疑ひを挾む程、彼の才能を見縊《みくび》つてゐなかつた。彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱《げだつ》させるといふ意味に於ても、其成功を希望しない譯に行かなかつた。然し依然として元の立場に立つてゐる事も改める譯に行かなかつた。彼の挨拶は形式的であつた。さうして幾分か彼の心の柔かい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父は丸《まる》で其處に注意を拂はないやうに見えた。
 「然し困る事に、是は今が今といふ譯に行かないのです。時機があるものですからな」
 彼は懷《ふところ》から又一枚の辭令見たやうなものを出して健三に見せた。それには或保險會社が彼に顧問を囑託するといふ文句と、其報酬として月々彼に百圓を贈與するといふ條件が書いてあつた。
 「今御話した一方の方が出來たら是は已《やめ》るか、又は出來ても續けてやるか、其邊はまだ分らないんですが、兎に角百圓でも當座の凌《しの》ぎにはなりますから」
 昔《むか》し彼が政府の内意で或官職を抛《なげう》つた時、當路の人は山陰道筋のある地方の知事なら轉任させても好いといふ條件を付けた事があつた。然し彼は斷然それを斥《しりぞ》けた。彼が今大して隆盛でもない保險會社から百圓の金を貰つて、別に厭な顔をしないのも、矢張境遇の變化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかつた。
 斯うした懸け隔てのない父の態度は、動《やゝ》ともすると健三を自分の立場から前へ押し出さうとした。其傾向を意識するや否や彼は又後戻りをしなければならなかつた。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。
 
     七十七
 
 細君の父は事務家であつた。動《やゝ》ともすると仕事本位の立場からばかり人を評價したがつた。乃木將軍が一時臺灣總督になつて間《ま》もなくそれを已《や》めた時、彼は健三に向つて斯《こ》んな事を云つた。
 「個人としての乃木さんは義に堅く情に篤《あつ》く實に立派なものです。然し總督としての乃木さんが果して適任であるか何うかといふ問題になると、議論の餘地がまだ大分《だいぶ》あるやうに思ひます。個人のコは自分に親しく接觸する左右のものには能《よ》く及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者《ひぢしや》に利益を與へやうとするには不十分です。其處へ行くと矢つ張手腕ですね。手腕がなくつちや、何《ど》んな善人でもたゞ坐つてゐるより外に仕方がありませんからね」
 彼は在職中の關係から或會の事務|一切《いつさい》を管理してゐた。侯爵を會頭に頂《いたゞ》く其會は、彼の力で設立の主意を綺麗に事業の上で完成した後《あと》、彼の手元に二萬圓程の剰餘金を委《ゆだ》ねた。官途に縁がなくなつてから、不如意に不如意の續いた彼は、つい其委託金に手を付けた。さうして何時《いつ》の間《ま》にか全部を消費してしまつた。然し彼は自家の信用を維持するために誰にもそれを打ち明けなかつた。從つて彼は此預金から當然生まれて來る百圓近くの利子を毎月調達して、體面を繕《つく》ろはなければならなかつた。自家の經濟よりも却《かへ》つて此方を苦に病んでゐた彼が、公生涯の持續に絶對に必要な其百圓を、月々保險會社から貰ふやうになつたのは、當時の彼の心中に立入つて考へて見ると、全く嬉しいに違なかつた。
 餘程|後《あと》になつて始めて此話を細君から聽いた健三は彼女の父に對して新たな同情を感じた丈《だけ》で、不コ義漢として彼を惡《にく》む氣は更に起らなかつた。さういふ男の娘と夫婦になつてゐるのが耻づかしいなどとは更に思はなかつた。然し細君に對しての健三は、此點に關して殆ど無言であつた。細君は時々彼に向つて云つた。
 「妾《わたし》、どんな夫《をつと》でも構ひませんわ、たゞ自分に好くして呉れさへすれば」
 「泥棒でも構はないのかい」
 「えゝえゝ、泥棒だらうが、詐欺師だらうが何でも好いわ。たゞ女房を大事にして呉れゝば、それで澤山なのよ。いくら偉《えら》い男だつて、立派な人間だつて、宅《うち》で不親切ぢや妾《わたし》にや何にもならないんですもの」
 實際細君は此の言葉通りの女であつた。健三も其意見には賛成であつた。けれども彼の推察は月の暈《かさ》の樣に細君の言外迄|滲《にじ》み出《だ》した。学問ばかりに屈託してゐる自分を、彼女が斯ういふ言葉で餘所《よそ》ながら非難するのだと云ふ臭《にほひ》が何處やらでした。然しそれよりも遙に強く、夫《をつと》の心を知らない彼女が斯《こ》んな態度で暗《あん》に自分の父を辯護するのではないかといふ感じが健三の胸を打つた。
 「己《おれ》はそんな事で人と離れる人間ぢやない」
 自分を細君に説明しやうと力《つと》めなかつた彼も、獨りで辯解の言葉を繰り返す事は忘れなかつた。
 然し細君の父と彼との交情に、自然の溝渠《みぞ》が出來たのは、やはり父の重きを置き過ぎてゐる手腕の結果としか彼には思へなかつた。
 健三は正月に父の所へ禮に行かなかつた。恭賀新年といふ端書|丈《だけ》を出した。父はそれを寛假《ゆる》さなかつた。表向《おもてむき》それを咎《とが》める事もしなかつた。彼は十二三になる末の子に、同じく恭賀新年といふ曲りくねつた字を書かして、其子の名前で健三に賀状の返しをした。斯ういふ手腕で彼に返報する事を巨細《こさい》に心得てゐた彼は、何故《なぜ》健三が細君の父たる彼に、賀正《がせい》を口づから述べなかつたかの原因に就いては全く無反省であつた。
 一事は萬事に通じた。利が利を生み、子に子が出來た。二人は次第に遠ざかつた。已《やむ》を得《え》ないで犯す罪と、遣らんでも濟むのにわざと遂行する過失との間に、大變な區別を立てゝゐる健三は、性質《たち》の宜しくない此餘裕を非常に惡《にく》み出《だ》した。
 
     七十八
 
 「與《くみ》し易《やす》い男だ」
 實際に於て與《くみ》し易《やす》い或物を多量に有《も》つてゐると自覺しながらも、健三は他《ひと》から斯う思はれるのが癪に障つた。
 彼の神經は此肝癪を乘《の》り超《こ》えた人に向つて鋭い懷しみを感じた。彼は群衆のうちにあつて直《すぐ》さういふ人を物色する事の出來る眼を有《も》つてゐた。けれども彼自身は何うしても其域に達せられなかつた。だから猶《なほ》さういふ人が眼に着いた。又さういふ人を餘計尊敬したくなつた。
 同時に彼は自分を罵つた。然し自分を罵らせるやうにする相手をば更に烈しく罵つた。
 斯くして細君の父と彼との間には自然の造つた溝渠《みぞ》が次第に出來上つた。彼に對する細君の態度も暗《あん》にそれを手傳つたには相違なかつた。
 二人の間柄が擦《す》れ/\になると、細君の心は段々|生家《さと》の方へ傾いて行つた。生家《さと》でも同情の結果、冥々の裡《うち》に細君の肩を持たなければならなくなつた。然し細君の肩を持つといふ事は、或場合に於て、健三を敵とするといふ意味に外ならなかつた。二人は益《ます/\》離れる丈《だけ》であつた。
 幸ひにして自然は緩和劑としての歇斯的里《ヒステリー》を細君に與へた。發作《ほつさ》は都合好く二人の關係が緊張した間際《まぎは》に起つた。健三は時々便所へ通ふ廊下に俯伏《うつぶせ》になつて倒れてゐる細君を抱《だ》き起《おこ》して床の上迄連れて來た。眞夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端《はじ》に蹲踞《うづくま》つてゐる彼女を、後《うしろ》から兩手で支へて、寢室へ戻つて來た經驗もあつた。
 そんな時に限つて、彼女の意識は何時《いつ》でも朦朧として夢よりも分別がなかつた。瞳孔が大きく開《ひら》いてゐた。外界《ぐわいかい》はたゞ幻影《まばろし》のやうに映《うつ》るらしかつた。
 枕邊《まくらべ》に坐つて彼女の顔を見詰めてゐる健三の眼には何時《いつ》でも不安が閃《ひら》めいた。時としては不憫の念が凡《すべ》てに打ち勝つた。彼は能《よ》く氣の毒な細君の亂れかゝつた髪に櫛を入れて遣つた。汗ばんだ額を濡れ手拭で拭いて遣つた。たまには氣を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。
 發作《ほつさ》の今よりも劇《はげ》しかつた昔の樣《さま》も健三の記憶を刺戟した。
 或時の彼は毎夜細い紐で自分の帶と細君の帶とを繋いで寐た。紐の長さを四尺程にして、寐返りが十分出來るやうに工夫された此用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。
 或時の彼は細君の鳩尾《みぞおち》へ茶碗の糸底《いとぞこ》を宛《あて》がつて、力任せに押し付けた。それでも踏《ふ》ん反《ぞ》り返《かへ》らうとする彼女の魔力を此一點で喰ひ留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。
 或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。
 「御天道《おてんたう》さまが來ました。五色《ごしき》の雲へ乘つて來ました。大變よ、貴夫《あなた》」
 「妾《わたし》の赤ん坊は死んぢまつた。妾《わたし》の死んだ赤ん坊が來たから行かなくつちやならない。そら其處にゐるぢやありませんか。桔桿《はねつるべ》の中に。妾《わたし》一寸行つて見て來るから放して下さい」
 流産してから間もない彼女は、抱《だ》き竦《すく》めにかゝる健三の手を振り拂つて、斯う云ひながら起き上がらうとしたのである。……
 細君の發作《ほつさ》は健三に取つての大いなる不安であつた。然し大抵の場合には其不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆《たなび》いてゐた。彼は心配よりも可哀想《かはいさう》になつた。弱い憐れなものゝ前に頭を下げて、出來得る限り機嫌を取つた。細君も嬉しさうな顔をした。
 だから發作《はつさ》に故意だらうといふ疑ひの掛からない以上、また餘りに肝癪が強過ぎて、何うでも勝手にしろといふ氣にならない以上、最後に其度數が自然の同情を妨げて、何でさう己《おれ》を苦しめるのかといふ不平が高まらない以上、細君の病氣は二人の仲を和《やは》らげる方法として、健三に必要であつた。
 不幸にして細君の父と健三との間には斯ういふ重寶《ちようはう》な緩和劑が存在してゐなかつた。從つて細君が本《もと》で出來た兩者の疎隔は、たとひ夫婦の關係が常に復した後《あと》でも、一寸埋める譯に行かなかつた。それは不思議な現象であつた。けれども事實に相違なかつた。
 
     七十九
 
 不合理な事の嫌ひな健三は心の中《うち》でそれを苦に病んだ。けれども別に何うする了簡も出さなかつた。彼の性質はむき〔二字傍点〕でもあり一圖《いちづ》でもあつたと共に頗る消極的な傾向を帶びてゐた。
 「己《おれ》にそんな義務はない」
 自分に訊いて、自分に答を得た彼は、其答を根本的なものと信じた。彼は何時《いつ》までも不愉快の中で起臥する決心をした。成行《なりゆき》が自然に解決を付けて呉れるだらうとさへ豫期しなかつた。
 不幸にして細君も亦此點に於て何處迄も消極的な態度を離れなかつた。彼女は何か事件があれば動く女であつた。他《ひと》から頼まれて男より邁進する場合もあつた。然しそれは眼前に手で觸れられる丈《だけ》の明瞭な或物を捉《つら》まへた時に限つてゐた。所が彼女の見た夫婦關係には、そんな物が何處にも存在してゐなかつた。自分の父と健三の間にも是といふ程の破綻は認められなかつた。大きな具象的な變化でなければ事件と認めない彼女は其他を閑却した。自分と、自分の父と、夫《をつと》との間に起る精神状態の動搖は手の着けやうのないものだと觀じてゐた。
 「だつて何にもないぢやありませんか」
 裏面に其動搖を意識しつゝ彼女は斯う答へなければならなかつた。彼女に最も正當と思はれた此答が、時として虚僞の響をもつて健三の耳を打つ事があつても、彼女は決して動かなかつた。仕舞に何うなつても構はないといふ投げ遣りの氣分が、單に消極的な彼女を猶《なほ》の事《こと》消極的に練り堅めて行つた。
 斯くして夫婦の態度は惡い所で一致した。相互の不調和を永續するためにと評されても仕方のない此一致は、根強い彼等の性格から割り出されてゐた。偶然といふよりも寧ろ必然の結果であつた。互に顔を見合せた彼等は、相手の人相で自分の運命を判斷した。
 細君の父が健三の手で調達《てうだつ》された金を受取つて歸つてから、それを特別の問題ともしなかつた夫婦は、却《かへ》つて餘事を話し合つた。
 「産婆は何時《いつ》頃《ごろ》生れると云ふのかい」
 「何時《いつ》つて判然《はつきり》云ひもしませんが、もう直《ぢき》ですわ」
 「用意は出來てるのかい」
 「えゝ奧の戸棚の中に入《はい》つてゐます」
 健三には何が這入《はい》つてゐるのか分らなかつた。細君は苦しさうに大きな溜息を吐《つ》いた。
 「何しろ斯う重苦しくつちや堪《たま》らない。早く生れてくれなくつちや」
 「今度《こんだ》は死ぬかも知れないつて云つてたぢやないか」
 「えゝ、死んでも何でも構はないから、早く生んぢまひたいわ」
 「どうも御氣の毒さまだな」
 「好いわ、死ねば貴夫《あなた》の所爲《せゐ》だから」
 健三は遠い田舍で細君が長女を生んだ時の光景を憶ひ出した。不安さうに苦《にが》い顔をしてゐた彼が、産婆から少し手を貸して呉れと云はれて産室へ入《はい》つた時、彼女は骨に應《こた》へるやうな恐ろしい力でいきなり健三の腕に獅噛《しが》み付《つ》いた。さうして拷問でもされる人のやうに唸《うな》つた。彼は自分の細君が身體の上に受けつゝある苦痛を精神的に感じた。自分が罪人ではないかといふ氣さへした。
 「産をするのも苦しいだらうが、それを見てゐるのも辛《つら》いものだぜ」
 「ぢや何處かへ遊びにでも入らつしやいな」
 「一人で生めるかい」
 細君は何とも答へなかつた。夫《をつと》が外國へ行つてゐる留守に、次の娘を生んだ時の事などは丸《まる》で口にしなかつた。健三も訊いて見やうとは思はなかつた。生れ付き心配性な彼は、細君の唸聲《うなりごゑ》を餘所《よそ》にして、ぶら/\外を歩いてゐられるやうな男ではなかつた。
 産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。
 「一週間以内かね」
 「いえもう少し後《あと》でせう」
 健三も細君も其氣でゐた。
 
     八十
 
 日取が狂つて豫期より早く産氣づいた細君は、苦しさうな聲を出して、側《そば》に寐てゐる夫《をつと》の夢を驚かした。
 「先刻《さつき》から急に御腹《おなか》が痛み出して……」
 「もう出さうなのかい」
 健三には何《ど》の位《くらゐ》な程度で細君の腹が痛んでゐるのか分らなかつた。彼は寒い夜の中に夜具から顔|丈《だけ》出して、細君の樣子をそつと眺めた。
 「少し撫《さす》つて遣らうか」
 起き上る事の臆劫《おつくふ》な彼は出來《でき》る丈《だけ》口先で間《ま》に合《あは》せやうとした。彼は産に就いての經驗をたゞ一度しか有《も》つてゐなかつた。其經驗も大方は忘れてゐた。けれども長女の生れる時には、斯ういふ痛みが、潮の滿干《みちひ》のやうに、何度も來たり去つたりしたやうに思へた。
 「さう急に生れるもんぢやないだらうな、子供つてものは。一仕切《ひとしきり》痛んではまた一仕切|治《をさ》まるんだらう」
 「何だか知らないけれども段々痛くなる丈《だけ》ですわ」
 細君の態度は明かに彼女の言葉を證據立てた。凝《ぢつ》と蒲團の上に落付いてゐられない彼女は、枕を外《はづ》して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けやうがなかつた。
 「産婆を呼ばうか」
 「えゝ、早く」
 職業柄産婆の宅《うち》には電話が掛つてゐたけれども、彼の家《いへ》にそんな氣の利いた設備のあらう筈はなかつた。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時《いつ》でも掛りつけの近所の醫者の所へ驅け付けるのを例にしてゐた。
 初冬《はつふゆ》の暗い夜はまだ明け離れるのに大分《だいぶ》間《ま》があつた。彼は其人と其人の門《かど》を敲く下女の迷惑を察した。然し夜明迄安閑と待つ勇氣がなかつた。寢室の襖を開けて、次の間《ま》から茶の間を通つて、下女部屋の入口迄來た彼は、すぐ召使の一人を急《せ》き立《た》てゝ暗い夜の中へ追ひ遣つた。
 彼が細君の枕元へ歸つて來た時、彼女の痛みは益《ます/\》劇《はげ》しくなつた。彼の神經は一分毎に門前で停《とま》る車の響を待ち受けなければならない程に緊張して來た。
 産婆は容易に來なかつた。細君の唸《うな》る聲が絶間なく靜かな夜の室《へや》を不安に攪《か》き亂《みだ》した。五分|經《た》つか經たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫《をつと》に宣告した。
 さうして今迄我慢に我慢を重ねて怺《こら》へて來たやうな叫び聲を一度に揚げると共に胎兒を分娩した。
 「確《しつ》かりしろ」
 すぐ立つて蒲團の裾の方に廻つた健三は、何うして好いか分らなかつた。其時例の洋燈《ランプ》は細長い火蓋《ほや》の中で、死のやうに靜かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落してゐる邊《あたり》は、夜具の縞柄さへ判明《はつきり》しないぼんやりした陰で一面に裹《つゝ》まれてゐた。
 彼は狼狽した。けれども洋燈《ランプ》を移して其處を照らすのは、男子の見るべからざるものを強ひて見るやうな心持がして氣が引けた。彼は已《やむ》を得《え》ず暗中に摸索した。彼の右手は忽ち一種異樣の觸覺をもつて、今迄經驗した事のない或物に觸れた。其或物は寒天《かんてん》のやうにぶり/\してゐた。さうして輪廓からいつても恰好《かつかう》の判然しない何かの塊《かたまり》に過ぎなかつた。彼は氣味の惡い感じを彼の全身に傳へる此|塊《かたまり》を輕く指頭で撫でゝ見た。塊《かたま》りは動きもしなければ泣きもしなかつた。たゞ撫でるたんびにぶり/\した寒天のやうなものが剥げ落ちるやうに思へた。若し強く抑へたり持つたりすれば、全體が屹度《きつと》崩れて仕舞ふに違ないと彼は考へた。彼は恐ろしくなつて急に手を引込《ひつこ》めた。
 「然し此儘にして放《はふ》つて置いたら、風邪《かぜ》を引くだらう、寒さで凍《こゞ》えてしまふだらう」
 死んでゐるか生きてゐるかさへ辨別《みわけ》のつかない彼にも斯ういふ懸念《けねん》が湧いた。彼は忽ち出産の用意が戸棚の中《うち》に入れてあるといつた細君の言葉を思ひ出した。さうしてすぐ自分の後部《うしろ》にある唐紙《からかみ》を開けた。彼は其處から多量の綿《わた》を引き摺り出した。脱脂綿といふ名さへ知らなかつた彼は、それを無暗に千切《ちぎ》つて、柔かい塊の上に載せた。
 
     八十一
 
 其内|待《まち》に待つた産婆が來たので、健三は漸く安心して自分の室《へや》へ引取つた。
 夜《よ》は間《ま》もなく明けた。赤子《あかご》の泣く聲が家の中の寒い空氣を顫はせた。
 「御安産で御目出たう御座います」
 「男かね女かね」
 「女の御子さんで」
 産婆は少し氣の毒さうに中途で句を切つた。
 「又女か」
 健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのも亦《また》女、都合三人の娘の父になつた彼は、さう同じものばかり生んで何うする氣だらうと、心の中《うち》で暗《あん》に細君を非難した。然しそれを生ませた自分の責任には思ひ到らなかつた。
 田舍で生れた長女は肌理《きめ》の濃《こま》やかな美しい子であつた。健三はよく其子を乳母車《うばぐるま》に乘せて町の中を後《うしろ》から押して歩いた。時によると、天使のやうに安らかな眠りに落ちた顔を眺めながら宅《うち》へ歸つて來た。然し當《あて》にならないのは想像の未來であつた。健三が外國から歸つた時、人に伴《つ》れられて彼を新橋に迎へた此娘は、久し振りに父の顔を見て、もつと好い御父《おとう》さまかと思つたと傍《はた》のものに語つた如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに惡い方に變化してゐた。彼女の顔は段々|丈《たけ》が詰つて來た。輪廓に角《かど》が立つた。健三は此娘の容貌の中《うち》にいつか成長しつゝある自分の相好《さうがう》の惡い所を明かに認めなければならなかつた。
 次女は年《ねん》が年中《ねんぢゆう》腫物《できもの》だらけの頭をしてゐた。風通しが惡いからだらうといふのが本《もと》で、とう/\髪の毛をぢよぎ/\に剪《き》つてしまつた。顋《あご》の短い眼の大きな其子は、海坊主の化物のやうな風をして、其處いらをうろ/\してゐた。
 三番目の子|丈《だけ》が器量好く育たうとは親の慾目にも思へなかつた。
 「あゝ云ふものが續々生れて來て、必竟《ひつきやう》何うするんだらう」
 彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、斯ういふ自分や自分の細君なども、必竟《ひつきやう》何うするんだらうといふ意味も朧氣《おほろげ》に交《まじ》つてゐた。
 彼は外へ出る前に一寸寢室へ顔を出した。細君は洗ひ立てのシーツの上に穩かに寐てゐた。子供も小さい付屬物のやうに、厚い綿《わた》の入《はい》つた新調の夜具蒲團に包《くる》まれたまゝ、傍《そば》に置いてあつた。其子供は赤い顔をしてゐた。昨夜《ゆうべ》暗闇で彼の手に觸れた寒天のやうな肉塊とは全く感じの違ふものであつた。
 一切《いつさい》も綺麗に始末されてゐた。其處いらには汚《よご》れ物《もの》の影さへ見えなかつた。夜來《やらい》の記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。
 「蒲團は換へて遣《や》つたのかい」
 「えゝ、蒲團も敷布も換へて上げました」
 「よく斯う早く片付けられるもんだね」
 産婆は笑ふ丈《だけ》であつた。若い時から獨身で通して來た此女の聲や態度は何處となく男らしかつた。
 「貴夫《あなた》が無暗に脱脂綿を使つて御仕舞になつたものだから、足りなくつて大變困りましたよ」
 「左右《さう》だらう。隨分驚いたからね」
 斯う答へながら健三は大して氣の毒な思ひもしなかつた。それよりも多量に血を失つて蒼い顔をしてゐる細君の方が懸念《けねん》の種になつた。
 「何うだ」
 細君は微《かす》かに眼を開けて、枕の上で輕く肯《うな》づいた。健三は其儘外へ出た。
 例刻に歸つた時、彼は洋服のまゝで又細君の枕元に坐つた。
 「何うだ」
 然し細君はもう肯《うな》づかなかつた。
 「何だか變な樣です」
 彼女の顔は今朝見た折と違つて熱で火照《ほて》つてゐた。
 「心持が惡いのかい」
 「えゝ」
 「産婆を呼びに遣らうか」
 「もう來るでせう」
 産婆は來る筈になつてゐた。
 
     八十二
 
 やがて細君の腋の下に驗温器が宛《あて》がはれた。
 「熱が少し出ましたね」
 産婆は斯う云つて度盛《どもり》の柱の中に上《のぼ》つた水銀を振り落した。彼女は比較的|言葉寡《ことばずく》なであつた。用心のため産科の醫者を呼んで診《み》て貰つたら何うだといふ相談さへせずに歸つてしまつた。
 「大丈夫なのかな」
 「何うですか」
 健三は全くの無知識であつた。熱さへ出ればすぐ産褥熱《さんじよくねつ》ぢやなからうかといふ危惧の念を起した。母から掛り付けて來た産婆に信頼してゐる細君の方が却《かへ》つて平氣であつた。
 「何うですかつて、お前の身體ぢやないか」
 細君は何とも答へなかつた。健三から見ると、死んだつて構はないといふ表情が其顔に出てゐるやうに思へた。
 「人が斯《こ》んなに心配して遣るのに」
 此感じを翌《あく》る日《ひ》迄《まで》持ち續けた彼は、何時《いつ》もの通り朝早く出て行つた。さうして午後に歸つて來て、細君の熟がもう退《さ》めてゐる事に氣が付いた。
 「矢つ張何でもなかつたのかな」
 「えゝ。だけど何時《いつ》又出て來るか分りませんわ」
 「産をすると、そんなに熱が出たり引つ込んだりするものかね」
 健三は眞面目であつた。細君は淋《さび》しい頬に微笑を洩らした。
 熱は幸ひにしてそれぎり出なかつた。産後の經過は先づ順當に行つた。健三は既定の三週間を床の上に過《す》ごすべく命ぜられた細君の枕元へ來て、時々話をしながら坐つた。
 「今度《こんだ》は死ぬ死ぬつて云ひながら、平氣で生きてゐるぢやないか」
 「死んだ方が好ければ何時《いつ》でも死にます」
 「それは御隨意だ」
 夫《をつと》の言葉を戯談半分《じやうだんはんぶん》に聽いてゐられるやうになつた細君は、自分の生命に對して鈍いながらも一種の危險を感じた其當時を顧みなければならなかつた。
 「實際|今度《こんだ》は死ぬと思つたんですもの」
 「何ういふ譯で」
 「譯はないわ、たゞ思ふのに」
 死ぬと思つたのに却《かへ》つて普通の人より輕い産をして、豫想と事實が丁度裏表になつた事さへ、細君は氣に留めてゐなかつた。
 「御前は呑気《のんき》だね」
 「貴夫《あなた》こそ呑氣《のんき》よ」
 細君は嬉しさうに自分の傍《そば》に寢てゐる赤ん坊の顔を見た。さうして指の先で小さい頬片《ほつぺた》を突《つツ》ついて、あやし始めた。其赤ん坊はまだ人間の體裁《ていさい》を具へた眼鼻を有《も》つてゐるとは云へない程變な顔をしてゐた。
 「産が輕い丈《だけ》あつて、少し小《ちひ》さ過《す》ぎる樣だね」
 「今に大きくなりますよ」
 健三は此小さい肉の塊《かたま》りが今の細君のやうに大きくなる未來を想像した。それは遠い先にあつた。けれども中途で命の綱が切れない限り何時《いつ》か來るに相違なかつた。
 「人間の運命は中々片付かないもんだな」
 細君には夫《をつと》の言葉があまりに突然過ぎた。さうして其意味が解らなかつた。
 「何ですつて」
 健三は彼女の前に同じ文句を繰返すべく餘儀なくされた。
 「それが何うしたの」
 「何うしもしないけれども、左右《さう》だから左右《さう》だといふのさ」
 「詰らないわ。他《ひと》に解らない事さへ云ひや、好いかと思つて」
 細君は夫《をつと》を捨てゝ又自分の傍《そば》に赤ん坊を引き寄せた。健三は厭な顔もせずに書齋へ入《はい》つた。
 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職にならうとしてならずにゐる兄の事があつた。喘息《ぜんそく》で斃《たふ》れやうとして未《ま》だ斃れずにゐる姉の事があつた。新らしい位地が手に入《い》るやうでまだ手に入《い》らない細君の父の事があつた。其他島田の事もお常の事もあつた。さうして自分と是等の人々との關係が皆《みん》なまだ片付かずにゐるといふ事もあつた。
 
     八十三
 
 子供は一番氣楽であつた。生きた人形でも買つて貰つたやうに喜んで、閑《ひま》さへあると、新しい妹の傍《そば》に寄りたがつた。其妹の瞬《またゝ》き一つさへ驚嘆の種になる彼等には、嚔《くさめ》でも欠《あくび》でも何でも彼《か》でも不可思議な現象と見えた。
 「今に何《ど》んなになるだらう」
 當面に忙殺《ばうさい》される彼等の胸には曾て斯うした問題が浮かばなかつた。自分達自身の今に何《ど》んなになるかをすら領解し得ない子供等は、無論今に何うする〔二字傍点〕だらう抔《など》と考へる筈がなかつた。
 此意味で見た彼等は細君よりも尚遠く健三を離れてゐた。外《そと》から歸つた彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやり是等の一團を眺めた。
 「又|塊《かたま》つてゐるな」
 彼はすぐ踵《きびす》を回《めぐ》らして部屋の外へ出る事があつた。
 時によると彼は服も改めずにすぐ其處へ胡坐《あぐら》をかいた。
 「斯う始終|湯婆《ゆたんぽ》ばかり入れてゐちや子供の健康に惡い。出してしまへ。第一|幾何《いくつ》入れるんだ」
 彼は何にも解らない癖に好い加減な小言《こごと》を云つて却《かへ》つて細君から笑はれたりした。
 日が重なつても彼は赤ん坊を抱《だ》いて見る氣にならなかつた。それでゐて一つ室《へや》に塊《かたま》つてゐる子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。
 「女は子供を專領してしまふものだね」
 細君は驚いた顔をして夫《をつと》を見返した。其處には自分が今迄無自覺で實行して來た事を、夫《をつと》の言葉で突然悟らされたやうな趣《おもむき》もあつた。
 「何で藪から棒にそんな事を仰《おつし》やるの」
 「だつて左右《さう》ぢやないか。女はそれで氣に入らない亭主に敵討《かたきうち》をする積《つもり》なんだらう」
 「馬鹿を仰《おつし》やい。子供が私の傍《そば》へばかり寄り付くのは、貴夫《あなた》が構ひ付けて御遣りなさらないからです」
 「己《おれ》を構ひ付けなくさせたものは、取も直さず御前だらう」
 「何うでも勝手になさい。何ぞといふと僻《ひが》みばかり云つて。どうせ口の達者な貴夫《あなた》には敵《かな》ひませんから」
 健三は寧ろ眞面目であつた。僻《ひが》みとも口巧者《くちがうしや》とも思はなかつた。
 「女は策略が好きだから不可《いけな》い」
 細君は床の上で寐返りをして彼方《あちら》を向いた。さうして涙をぽた/\と枕の上に落した。
 「そんなに何も私を虐《いぢ》めなくつても……」
 細君の樣子を見てゐた子供はすぐ泣き出しさうにした。健三の胸は重苦しくなつた。彼は征服されると知りながらも、まだ産縟を離れ得ない彼女の前に慰藉の言葉を並べなければならなかつた。然し彼の理解力は依然として此同情とは別物であつた。細君の涙を拭いてやつた彼は、其涙で自分の考へを訂正する事が出來なかつた。
 次に顔を合せた時、細君は突然|夫《をつと》の弱點を刺した。
 「貴夫《あなた》何故其子を抱いて御遣りにならないの」
 「何だか抱くと險呑《けんのん》だからさ。頸でも折ると大變だからね」
 「嘘を仰しやい。貴夫《あなた》には女房や子供に對する情合《じやうあひ》が缺けてゐるんですよ」
 「だつて御覽な、ぐた/\して抱《だ》き慣《つ》けない男に手なんか出せやしないぢやないか」
 寶際赤ん坊はぐた/\してゐた。骨などは何處にあるか丸《まる》で分らなかつた。それでも細君は承知しなかつた。彼女は昔一番目の娘に水疱瘡《みづばうさう》の出來た時、健三の態度が俄に一變した實例を證據に擧げた。
 「それ迄毎日抱いて遣つて居たのに、それから急に抱かなくなつたぢやありませんか」
 健三は事實を打消す氣もなかつた。同時に自分の考へを改めやうともしなかつた。
 「何と云つたつて女には技巧があるんだから仕方がない」
 彼は深く斯う信じてゐた。恰《あたか》も自分自身は凡《すべ》ての技巧から解放された自由の人であるかのやうに。
 
     八十四
 
 退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能《よ》く床の上で讀んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚《きた》ならしい其表紙が健三の注意を惹《ひ》く時、彼は細君に向つて訊いた。
 「斯《こ》んなものが面白いのかい」
 細君は自分の文学趣味の低い事を嘲けられるやうな氣がした。
 「可《い》いぢやありませんか、貴夫《あなた》に面白くなくつたつて、私にさへ面白けりや」
 色々な方面に於て自分と夫《をつと》の隔離を意識してゐた彼女は、すぐ斯《こ》んな口が利きたくなつた。
 健三の所へ嫁《とつ》ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入《でいり》する二三の男を知つてゐるぎりであつた。さうして其人々はみんな健三とは異《ちが》つた意味で生きて行くものばかりであつた。男性に對する觀念をその數人から抽象して健三の所へ持つて來た彼女は、全く豫期と反對した一個の男を、彼女の夫《をつと》に於て見出《みいだ》した。彼女は其|何方《どつち》かゞ正しくなければならないと思つた。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見えた。彼女の考へは單純であつた。今に此《この》夫《をつと》が世間から教育されて、自分の父のやうに、型が變つて行くに違ひないといふ確信を有《も》つてゐた。
 案に相違して健三は頑強であつた。同時に細君の膠着力《かうちやくりよく》も固かつた。二人は二人同士で輕蔑し合つた。自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、動《やゝ》ともすると心の中で夫《をつと》に反抗した。健三は又自分を認めない細君を忌々《いま/\》しく感じた。一刻《いつこく》な彼は遠慮なく彼女を眼下《がんか》に見下《みくだ》す態度を公けにして憚らなかつた。
 「ぢや貴夫《あなた》が教へて下されば好いのに。そんなに他《ひと》を馬鹿にばかりなさらないで」
 「御前の方に教へて貰はうといふ氣がないからさ。自分はもう是で一人前《いちにんまへ》だといふ腹があつちや、己《おれ》にや何うする事も出來ないよ」
 誰が盲從するものかといふ氣が細君の胸にあると同時に、到底啓發しやうがないではないかといふ辯解が夫《をつと》の心に潜んでゐた。二人の間に繰返される斯うした言葉爭ひは古いものであつた。然し古いだけで埒《らち》は一向《いつかう》開《あ》かなかつた。
 健三はもう飽きたといふ風をして、手摺《てずれ》のした貸本を投げ出した。
 「讀むなと云ふんぢやない。それはお前の隨意だ。然し餘《あん》まり眼を使はないやうにしたら好いだらう」
 細君は裁縫《しごと》が一番好きであつた。夜眼が冴えて寢られない時などは、一時でも二時でも構はずに、細い針の目を洋燈《ランプ》の下に運ばせてゐた。長女か次女が生れた時、若い元氣に任せて、相當の時期が經過しないうちに、縫物を取上げたのが本《もと》で、大變視力を惡くした經驗もあつた。
 「えゝ、針を持つのは毒ですけれども、本《ほん》位《ぐらゐ》構はないでせう。それも始終讀んでゐるんぢやありませんから」
 「然し疲れる迄讀み續けない方が好からう。でないと後で困る」
 「なに大丈夫です」
 まだ三十に足りない細君には過勞の意味が能《よ》く解らなかつた。彼女は笑つて取り合はなかつた。
 「お前が困らなくつても己《おれ》が困る」
 健三はわざと手前勝手らしい事を云つた。自分の注意を無《む》にする細君を見ると、健三はよく斯《こ》んな言葉遣ひをしたがつた。それが又|夫《をつと》の惡い癖の一つとして細君には數へられてゐた。
 同時に彼のノートは益《ます/\》細かくなつて行つた。
 最初蠅の頭位であつた字が次第に蟻の頭程に縮まつて來た。何故《なぜ》そんな小さな文字を書かなければならないのかとさへ考へて見なかつた彼は、殆ど無意味に洋筆《ペン》を走らせて已《や》まなかつた。日の光の弱つた夕暮の窓の下、暗い洋燈《ランプ》から出る薄い燈火《ともしび》の影、彼は暇さへあれば彼の視力を濫費して顧みなかつた。細君に向つてした注意をかつて自分に拂はなかつた彼は、それを矛盾とも何とも思はなかつた。細君もそれで平氣らしく見えた。
 
     八十五
 
 細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼等の庭に霜柱の錐を立てやうとしてゐた。
 「大變荒れた事、今年《ことし》は例《いつも》より寒いやうね」
 「血が少くなつた所爲《せゐ》で、さう思ふんだらう」
 「左右《さう》でせうかしら」
 細君は始めて氣が付いたやうに、兩手を火鉢の上に翳《かざ》して、自分の爪の色を見た。
 「鏡を見たら顔の色でも分りさうなものだのにね」
 「えゝ、そりや分つてますわ」
 彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白《あをしろ》い頬を二三度撫でた。
 「然し寒い事も寒いんでせう、今年《ことし》は」
 健三には自分の説明を聽かない細君が可笑《をか》しく見えた。
 「そりや冬だから寒いに極つてゐるさ」
 細君を笑ふ健三はまた人よりも一倍寒がる男であつた。ことに近頃の冬は彼の身體に嚴《きび》しく中《あた》つた。彼は已《やむ》を得《え》ず書齋に炬燵《こたつ》を入れて、兩膝から腰のあたりに浸《し》み込《こ》む冷《ひえ》を防いだ。神經衰弱の結果斯う感ずるのかも知れないとさへ思はなかつた彼は、自分に對する注意の足りない點に於て、細君と異《かは》る所がなかつた。
 毎朝|夫《をつと》を送り出してから髪に櫛を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく殘つた。彼女は梳《す》くたびに櫛の齒に絡《から》まる其拔毛を殘《のこ》り惜氣《をしげ》に眺めた。それが彼女には失はれた血潮よりも却《かへ》つて大切らしく見えた。
 「新しく生きたものを拵へ上げた自分は、其償ひとして衰へて行かなければならない」
 彼女の胸には微《かす》かに斯ういふ感じが湧いた。然し彼女は其|微《かす》かな感じを言葉に纒める程の頭を有《も》つてゐなかつた。同時に其感じには手柄をしたといふ誇りと、罸を受けたといふ恨みと、が交《まじ》つてゐた。いづれにしても、新しく生れた子が可愛《かあい》くなるばかりであつた。
 彼女はぐた/\して手應《てごた》へのない赤ん坊を手際よく抱《だ》き上《あ》げて、其丸い頬へ自分の唇を持つて行つた。すると自分から出たものは何うしても自分の物だといふ氣が理窟なしに起つた。
 彼女は自分の傍《わき》に其子を置いて、また裁《たち》もの板《いた》の前に坐つた。さうして時々針の手を已《や》めては、暖かさうに寢てゐるその顔を、心配さうに上から覗き込んだ。
 「そりや誰の着物だい」
 「失つ張此子のです」
 「そんなに幾何《いくつ》も要《い》るのかい」
 「えゝ」
 細君は黙つて手を運ばしてゐた。
 健三は漸《やつ》と氣が付いた樣に、細君の膝の上に置かれた大きな模樣のある切地《きれぢ》を眺めた。
 「それは姉から祝つて呉れたんだらう」
 「左右《さう》です」
 「下らない話だな。金もないのに止《よ》せば好いのに」
 健三から貰つた小遣《こづかひ》の中《うち》を割《さ》いて、斯ういふ贈り物をしなければ氣の濟まない姉の心持が、彼には理解出來なかつた。
 「つまり己《おれ》の金で己《おれ》が買つたと同じ事になるんだからな」
 「でも貴夫《あなた》に對する義理だと思つてゐらつしやるんだから仕方がありませんわ」
 姉は世間でいふ義理を克明《こくめい》に守り過ぎる女であつた。他《ひと》から物を貰へば屹度《きつと》それ以上のものを贈り返さうとして苦しがつた。
 「何うも困るね、さう義理々々つて、何が義理だか薩張《さつぱり》解りやしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣《こづかひ》を比田に借りられないやうな用心でもする方が餘程《よつぽど》増しだ」
 斯《こ》んな事に掛けると存外無神經な細君は、強ひて姉を辯護しやうともしなかつた。
 「今に又何か御禮をしますから夫《それ》で好いでせう」
 他《ひと》を訪問する時に殆ど土産《みやげ》ものを持參した例《ためし》のない健三は、それでもまだ不審さうに細君の膝の上にあるめりんす〔四字傍点〕を見詰めてゐた。
 
     八十六
 
 「だから元は御姉《おあねえ》さんの所へ皆《みん》なが色んな物を持つて來たんですつて」
 細君は健三の顔を見て突然|斯《こ》んな事を云ひ出した。
 「十《とを》のものには十五の返しをなさる御姉《おあねえ》さんの氣性を知つてるもんだから、皆《みん》な其御禮を目的《あて》に何か呉れるんださうですよ」
 「十のものに十五の返しをするつたつて、高が五十錢が七十五錢になる丈《だけ》ぢやないか」
 「夫《それ》で澤山なんでせう。さういふ人達は」
 他《ひと》から見ると醉興としか思はれない程|細《こま》かなノートばかり拵へてゐる健三には、世の中にそんな人間が生きてゐやうとさへ思へなかつた。
 「隨分厄介な交際《つきあひ》だね。だいち馬鹿々々しいぢやないか」
 「傍《はた》から見れば馬鹿々々しいやうですけれども、其中に入《はい》ると、矢つ張仕方がないんでせう」
 健三は此間|餘所《よそ》から臨時に受取つた三十圓を、自分が何う消費してしまつたかの問題に就て考へさせられた。
 今から一箇月餘り前、彼はある知人に頼まれて其男の經營する雜誌に長い原稿を書いた。それ迄細かいノートより外に何も作る必要のなかつた彼に取つての此の文章は、違つた方面に働いた彼の頭腦の最初の試みに過ぎなかつた。彼はたゞ筆の先に滴《したゝ》る面白い氣分に驅られた。彼の心は全く報酬を豫期してゐなかつた。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾つた樣に喜んだ。
 兼《かね》てからわが座敷の如何にも殺風景なのを苦に病んでゐた彼は、すぐ團子坂にある唐木《からき》の指物師《さしものし》の所へ行つて、紫檀《したん》の懸額《かけがく》を一枚作らせた。彼はその中に、支那から歸つた友達に貰つた北魏《ほくぎ》の二十品《にじつぴん》といふ石摺《いしずり》のうちにある一つを擇《え》り出《だ》して入れた。それから其額を環《くわん》の着いた細長い胡麻竹《ごまだけ》の下へ振《ぶ》ら下《さ》げて、床の間の釘へ懸けた。竹に丸味があるので壁に落付かないせいか、額は靜かな時でも斜に傾《かたぶ》いた。
 彼は又團子坂を下りて谷中《やなか》の方へ上《のぼ》つて行つた。さうして其處にある陶器店から一個の花瓶《はないけ》を買つて來た。花瓶《はないけ》は朱色であつた。中に薄い黄で大きな草花が描《ゑが》かれてゐた。高さは一尺餘りであつた。彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。大きな花瓶《はないけ》とふら/\する比較的小さい懸額《かけがく》とは何うしても釣合《つりあひ》が取れなかつた。彼は少し失望したやうな眼をして此の不調和な配合を眺めた。けれども丸《まる》で何にも無いよりは増しだと考へた。趣味に贅澤をいふ餘裕のない彼は、不滿足のうちに滿足しなければならなかつた。
 彼は又本郷通りにある一軒の呉服屋へ行つて反物を買つた。織物に就いて何の知識もない彼はたゞ番頭が見せて呉れるものゝうちから、好い加減な選擇をした。それは無暗に光る絣《かすり》であつた。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものゝ方が上等に見えた。番頭に揃ひの羽織と着物を拵へるべく勸められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙《いせぎきめいせん》を抱《かゝ》へて店を出た。其伊勢崎銘仙といふ名前さへ彼はそれ迄つひぞ聞いた事がなかつた。
 是等の物を買《か》ひ調《とゝの》へた彼は毫も他人に就いて考へなかつた。新しく生れる子供さへ眼中になかつた。自分より困つてゐる人の生活などはてんから忘れてゐた。俗社會の義理を過重《くわちよう》する姉に比べて見ると、彼は憐なものに對する好意すら失つてゐた。
 「さう損をして迄も義理が盡されるのは偉いね。然し姉は生れ付いての見榮坊《みえばう》なんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだらう」
 「親切氣は丸《まる》でないんでせうか」
 「左右《さう》さな」
 健三は一寸考へなければならなかつた。姉は親切氣のある女に違ひなかつた。
 「ことによると己《おれ》の方が不人情に出來てゐるのかも知れない」
 
     八十七
 
 此會話がまだ健三の記憶を新しく彩《いろど》つてゐた頃、彼はお常から第二回の訪問を受けた。
 先達《せんだつ》て見た時と略《ほゞ》同じやうに粗末な服裝《なり》をしてゐる彼女の恰好《かつかう》は、寒さと共に襦袢《じゆばん》胴着《どうぎ》の類《るゐ》でも重ねたのだらう、前よりは益《ます/\》丸まつちくなつてゐた。健三は客のために出した火鉢をすぐ其人の方へ押し遣つた。
 「いえもう御構ひ下さいますな。今日《けふ》は大分《だいぶ》御暖かで御座いますから」
 外部《そと》には穩かな日が、障子に嵌《は》めた硝子越《ガラスごし》に薄く光つてゐた。
 「あなたは年を取つて段々|御肥《おふと》りになるやうですね」
 「えゝ御蔭さまで身體の方はまことに丈夫で御座います」
 「そりや結構です」
 「其代り身上《しんしやう》の方はたゞ痩せる一方で」
 健三には老後になつてから斯うむく/\肥《ふと》る人の健康が疑はれた。少なくとも不自然に思はれた。何處か不氣味に見える處もあつた。
 「酒でも飲むんぢやなからうか」
 斯《こ》んな推察さへ彼の胸を横切つた。
 お常の肌身に着けてゐるものは悉《こと/”\》く古びてゐた。幾度《いくたび》水《みづ》を潜《くゞ》つたか分らない其着物なり羽織なりは、何處かに絹の光が殘つてゐるやうで、又變にごつ/\してゐた。たゞ何《ど》んなに時代を食つても、綺麗に洗張《あらひはり》が出來てゐる所に彼女の氣性が見える丈《だけ》であつた。健三は丸いながら如何にも窮屈さうな其人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知つた。
 「何處を見ても困る人だらけで弱りますね」
 「此方《こちら》などが困つてゐらしつちやあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」
 健三は辯解する氣にさへならなかつた。彼はすぐ考へた。
 「此人は己《おれ》を自分より金持と思つてゐるやうに、己《おれ》を自分より丈夫だとも思つてゐるのだらう」
 近頃の健三は實際健康を損《そこ》なつてゐた。それを自覺しつゝ彼は醫者にも診《み》て貰はなかつた。友達にも話さなかつた。たゞ一人で不愉快を忍んでゐた。然し身體の未來を想像するたんびに彼はむしやくしや〔六字傍点〕した。或時は他《ひと》が自分を斯《こ》んなに弱くしてしまつたのだといふ樣な氣を起して、相手のないのに腹を立てた。
 「年が若くつて起居《たちゐ》に不自由さへなければ丈夫だと思ふんだらう。門構《もんがまへ》の宅《うち》に住んで下女さへ使つてゐれば金でもあると考へるやうに」
 健三は黙つてお常の顔を眺めてゐた。同時に彼は新らしく床の間に飾られた花瓶《はないけ》と其《その》後《うしろ》に懸つてゐる懸額《かけがく》とを眺めた。近いうちに袖を通すべきぴか/\する反物も彼の心の中《うち》にあつた。彼は何故《なぜ》此年寄に對して同情を起し得ないのだらうかと怪しんだ。
 「ことによると己《おれ》の方が不人情なのかも知れない」
 彼は姉の上に加へた評をもう一遍腹の中で繰返した。さうして「何不人情でも構ふものか」といふ答へを得た。
 お常は自分の厄介になつてゐる娘婿の事に就いて色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、其人の手腕《うで》がすぐ彼女の問題になつた。彼女の手腕《うで》といふのは、つまり月々|入《はい》る金の意味で、其金より外に人間の價値を定めるものは、彼女に取つて、廣い世界に一つも見當らないらしかつた。
 「何しろ取高《とりだか》が少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し稼いで呉れると好いのですけれども」
 彼女は自分の娘婿を捉《つら》まへて愚圖だとも無能《やくざ》だとも云はない代りに、毎月彼の勞力が産み出す、収入の高を健三の前に並べて見せた。恰《あたか》も物指《ものさし》で反物の寸法さへ計《はか》れば、縞柄《しまがら》だの地質《ぢしつ》だのは、丸《まる》で問題にならないと云つた風に。
 生憎《あいにく》健三はさうした尺度で自分を計《はか》つて貰ひたくない商賣をしてゐる男であつた。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかつた。
 
     八十八
 
 好い加減な時分に彼は立つて書齋に入《はい》つた。机の上に載せてある紙入を取つて、そつと中を改めると、一枚の五圓札があつた。彼はそれを手に握つた儘元の座敷へ歸つて、お常の前へ置いた。
 「失禮ですがこれで俥《くるま》へでも乘つて行つて下さい」
 「そんな御心配を掛けては濟みません。さういふ積《つもり》で上つたのでは御座いませんから」
 彼女は辭退の言葉と共に紙幣を受け納めて懷《ふところ》へ入れた。
 小遣《こづかひ》を遣る時の健三が此前と同じ挨拶を用ひたやうに、それを貰ふお常の辭令も最初と全く違はなかつた。其上偶然にも五圓といふ金高《かねだか》さへ一致してゐた。
 「此次來た時に、もし五圓札が無かつたら何うしやう」
 健三の紙入がそれ丈《だけ》の實質で始終|充《み》たされてゐない事は其所有主の彼に知れてゐるばかりで、お常に分る筈がなかつた。三度目に來るお常を豫想した彼が、三度目に遣る五圓を豫想する譯に行かなかつた時、彼は不圖《ふと》馬鹿々々しくなつた。
 「是からあの人が來ると、何時《いつ》でも五圓遣らなければならないやうな氣がする。つまり姉が要《い》らざる義理立をするのと同じ事なのかしら」
 自分の關係した事ぢやないと云つた風に火慰斗《ひのし》を動かして居た細君は、手を休めずに斯ういつた。
 「無いときは遣らないでも好いぢやありませんか。何もさう見榮《みえ》を張る必要はないんだから」
 「無い時に遣らうつたつて、遣れないのは分つてるさ」
 二人の問答はすぐ途切《とぎ》れてしまつた。消えかゝつた炭を火熨斗《ひのし》から火鉢へ移す音が其間に聞こえた。
 「何うして又今日は五圓|入《はい》つてゐたんです。貴夫《あなた》の紙入に」
 健三は床の間に釣り合はない大きな朱色の花瓶《はないけ》を買ふのに四圓いくらか拂つた。懸額《かけがく》を誂へるとき五圓なにがしか取られた。指物師《さしものし》が百圓に負けて置くから買はないかと云つた立派な紫檀《したん》の書棚をじろ/\見ながら、彼は其二十分の一にも足らない代償を大事さうに懷中から出して匠人《しやうにん》の手に渡した。彼はまたぴか/\する一匹の伊勢崎銘仙《いせざきめいせん》を買ふのに十圓餘りを費やした。友達から受取つた原稿料が斯う形を變へたあとに、手垢《てあか》の付いた五圓札がたつた一枚殘つたのである。
 「實はまだ買ひたいものがあるんだがな」
 「何をお買ひになる積《つもり》だつたの」
 健三は細君の前に特別な品物の名前を擧げる事が出來なかつた。
 「澤山あるんだ」
 慾に際限のない彼の言葉は簡單であつた。夫《をつと》と懸け離れた好尚《かうしやう》を有《も》つてゐる細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。
 「あの御婆さんは御姉《おあねえ》さんなんぞより餘程《よつぽど》落ち付いてゐるのね。あれぢや島田つて人と宅《うち》で落ち合つても、さう喧嘩もしないでせう」
 「落ち合はないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいゝ、それこそ堪《たま》らないや。一人づゝ相手にしてゐるんでさへ澤山な所へ持つて來て」
 「今でも矢つ張喧嘩が姶まるでせうか」
 「喧嘩は兎に角、己《おれ》の方が厭ぢやないか」
 「二人ともまだ知らないやうね。片つ方が宅《うち》へ來る事を」
 「何うだか」
 島田はかつてお常の事を口にしなかつた。お常も健三の豫期に反して、島田に就ては何にも語らなかつた。
 「あの御婆さんの方がまだ彼《あ》の人《ひと》より好いでせう」
 「何うして」
 「五圓貰ふと默つて歸つて行くから」
 島田の請求慾の訪問|毎《ごと》に増長するのに比べると、お常の態度は尋常に違なかつた。
 
     八十九
 
 日ならず鼻の下の長い島田の顔が又健三の座敷に現れた時、彼はすぐお常の事を聯想した。
 彼等だつて生れ付いての敵同志《かたきどうし》でない以上、仲の好い昔もあつたに違ひない。他《ひと》から爪に灯《ひ》を點《とも》すやうだと云はれるのも構はずに、金ばかり溜めた當時は、何《ど》んなに樂しかつたらう。何んな未來の希望に支配されてゐただらう。彼等に取つて睦まじさの唯一の記念とも見るべき其金が何處かへ飛んで行つてしまつた後《あと》、彼等は夢のやうな自分達の過去を、果して何う眺めてゐるだらう。
 健三はもう少しでお常の話を島田にする所であつた。然し過去に無感覺な表情しか有《も》たない島田の顔は、何事も覺えてゐないやうに鈍かつた。昔の憎惡《ぞうを》、古い愛執《あいしふ》、そんなものは當時の金と共に彼の心から消《き》え失《う》せて仕舞つたとしか思はれなかつた。
 彼は腰から煙草入を出して、刻《きざ》み煙草《たばこ》を雁首《がんくび》へ詰めた。吸殻を落すときには、左の掌《てのひら》で煙管《きせる》を受けて、火鉢の縁《ふち》を敲かなかつた。脂《やに》が溜つてゐると見えて、吸ふ時にじゆ/\音がした。彼は無言で懷中《ふところ》を探《さぐ》つた。それから健三の方を向いた。
 「少し紙はありませんか、生憎《あいにく》煙管《きせる》が詰つて」
 彼は健三から受取つた半紙を割《さ》いて小撚《こより》を拵へた。それで二遍も三遍も羅宇《らう》の中を掃除した。彼は斯ういふ事をするのに最も馴れた人であつた。健三は默つて其手際を見てゐた。
 「段々暮になるんで嘸《さぞ》御忙《おいそが》しいでせう」
 彼は疏通《とほり》の好くなつた煙管《きせる》をぷつ/\と心持好ささうに吹きながら斯う云つた。
 「我々の家業は暮も正月もありません。年《ねん》が年中《ねんぢゆう》同じ事です」
 「そりや結構だ。大抵の人はさうは行きませんよ」
 島田がまだ何か云はうとしてゐるうちに、奧で子供が泣き出した。
 「おや赤ん坊のやうですね」
 「えゝ、つい此間《こなひだ》生れたばかりです」
 「そりや何うも。些《ちつ》とも知りませんでした。男ですか女ですか」
 「女です」
 「へえゝ、失禮だが是で幾人目《いくたりめ》ですか」
 島田は色々な事を訊いた。それに相當な受應《うけこたへ》をしてゐる健三の胸に何《ど》んな考へが浮かんでゐるか丸《まる》で氣が付かなかつた。
 出産率が殖えると死亡率も増すといふ統計上の議論を、つい四五日前ある外國の雜誌で讀んだ健三は、其時赤ん坊が何處かで一人生れゝば、年寄が一人何處かで死ぬものだといふやうな理窟とも空想とも付かない變な事を考へてゐた。
 「つまり身代りに誰かゞ死ななければならないのだ」
 彼の觀念は夢のやうにぼんやりしてゐた。詩として彼の頭をぼうつと侵《をか》す丈《だけ》であつた。それをもつと明瞭になる迄理解の力で押し詰めて行けば、其身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかつた。次には赤ん坊の父親でもあつた。けれども今の健三は其處迄行く氣はなかつた。たゞ自分の前にゐる老人にだけ意味のある眼《まなこ》を注いだ。何の爲に生きてゐるか殆ど意義の認めやうのない此年寄は、身代りとして最も適當な人間に違なかつた。
 「何ういふ譯で斯う丈夫なのだらう」
 健三は殆ど自分の想像の殘酷さ加減さへ忘れてしまつた。さうして人並《ひとなみ》でないわが健康状態に就いては、毫も責任がないものゝ如き忌々《いま/\》しさを感じた。其時島田は彼に向つて突然斯う云つた。――
 「お縫もとう/\亡《な》くなつてね。御祝儀《ごしうぎ》は濟んだが」
 迚《とて》も助からないといふ事|丈《だけ》は、脊髓病といふ名前から推《お》して、とうに承知してゐたやうなものゝ、改まつてさう云はれて見ると、健三も急に氣の毒になつた。
 「さうですか。可愛想《かはいさう》に」
 「なに病氣が病氣だから迚《とて》も癒りつこないんです」
 島田は平然としてゐた。死ぬのが當り前だといつたやうに煙草の輪を吹いた。
 
     九十
 
 然し此不幸な女の死に伴《ともな》つて起る經濟上の影響は、島田に取つて死そのものよりも遙に重大であつた。健三の豫想はすぐ事實となつて彼の前に現れなければならなかつた。
 「それに就て是非一つ聞いて貰はないと困る事があるんですが」
 此處迄來て健三の顔を見た島田の樣子は緊張してゐた。健三は聽かない先から其《その》後《あと》を推察する事が出來た。
 「又金でせう」
 「まあ左右《さう》で。お縫が死んだんで、柴野とお藤との縁が切れちまつたもんだから、もう今迄のやうに月々送らせる譯に行かなくなつたんでね」
 島田の言葉は變にぞんざい〔四字傍点〕になつたり、又鄭寧になつたりした。
 「今迄は金鵄勲章の年金だけはちゃん/\と此方《こつち》へ來たんですがね。それが急に無くなると、丸《まる》で目的《あて》が外《はづ》れる樣な始末で、私《わたし》も困るんです」
 彼はまた調子を改めた。
 「兎に角斯うなつちや、お前を措《お》いてもう外に世話をして貰ふ人は誰れもありやしない。だから何うかして呉れなくちや困る」
 「さう他《ひと》にのし懸つて來たつて仕方がありません。今の私にはそれ丈《だけ》の事をしなければならない因縁も何もないんだから」
 島田は凝《ぢつ》と健三の顔を見た。半《なか》ば探《さぐ》りを入れるやうな、半ば弱いものを脅《おびや》かすやうな其眼付は、單に相手の心を激昂させる丈《だけ》であつた。健三の態度から深入《ふかいり》の危險を知つた島田は、すぐ問題を區切《くぎ》つて小さくした。
 「永い間の事は又|緩々《ゆる/\》お話しをするとして、ぢや此急場|丈《だけ》でも一つ」
 健三には何ういふ急場が彼等の間に持ち上つてゐるのか解らなかつた。
 「此の暮を越さなくちやならないんだ。何處の宅《うち》だつて暮になりや百と二百と纒まつた金の要《い》るのは當り前だらう」
 健三は勝手にしろといふ氣に成つた。
 「私にそんな金はありませんよ」
 「笑談《ぜうだん》云つちや不可《いけ》ない。是《これ》丈《だけ》の構《かまへ》をしてゐて、其位の融通が利かないなんて、そんな筈はあるもんか」
 「有つても無くつても、無いから無いといふ丈《だけ》の話です」
 「ぢや云ふが、お前の収入は月に八百圓あるさうぢやないか」
 健三は此無茶苦茶な言掛りに怒《おこ》らされるよりは寧ろ驚かされた。
 「八百圓だらうが千圓だらうが、私の収入は私の収入です。貴方の關係した事ぢやありません」
 島田は其處迄來て默つた。健三の答へが自分の豫期に外《はづ》れたといふやうな風も見えた。づう/\しい割に頭の發達してゐない彼は、それ以上相手を何うする事も出來なかつた。
 「ぢやいくら困つても助けて呉れないと云ふんですね」
 「えゝ、もう一文も上げません」
 島田は立ち上つた。沓脱《くつぬぎ》へ下りて、開けた格子《かうし》を締める時に、彼は又振り返つた。
 「もう參上《あが》りませんから」
 最後であるらしい言葉を一句|遺《のこ》した彼の眼は暗い中《うち》に輝いた。健三は敷居の上に立つて明かに其の眼を見下《みおろ》した。然し彼はその輝きのうちに何等の凄さも怖ろしさも又不氣味さも認めなかつた。彼自身の眸《ひとみ》から出る怒《いか》りと不快とは優《いう》にそれらの襲撃を跳《は》ね返《かへ》すに十分であつた。
 細君は遠くから暗《あん》に健三の氣色《けしき》を窺つた。
 「一體何うしたんです」
 「勝手にするが好いや」
 「また御金でも呉れろつて來たんですか」
 「誰が遣るもんか」
 細君は微笑しながら、そつと夫《をつと》を眺めるやうな態度を見せた。
 「あの御婆さんの方が細く長く續くからまだ安全ね」
 「島田の方だつて、是で片付くもんかね」
 健三は吐出すやうに斯う云つて、來《きた》るべき次の幕さへ頭の中に豫想した。
 
     九十一
 
 同時に今迄眠つてゐた記憶も呼び覺まされずには濟まなかつた。彼は始めて新しい世界に臨む人の鋭い眼をもつて、實家へ引き取られた遠い昔を鮮明《あざや》かに眺めた。
 實家の父に取つての健三は、小さな一個の邪魔物であつた。何しに斯《こ》んな出來損《できそこな》ひが舞ひ込んで來たかといふ顔付をした父は、殆ど子としての待遇を彼に與へなかつた。今迄と打つて變つた父の此態度が、生《うみ》の父に對する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に對してにこ/\してゐた父と、厄介物を背負《しよ》ひ込《こ》んでからすぐ慳貪《けんどん》に調子を改めた父とを比較して一度は驚いた。次には愛想《あいそ》をつかした。然し彼はまだ悲觀する事を知らなかつた。發育に伴《ともな》ふ彼の生氣は、いくら抑へ付けられても、下からむく/\と頭を擡《もた》げた。彼は遂に憂欝にならずに濟んだ。
 子供を澤山|有《も》つてゐた彼の父は、毫も健三に依怙《かゝ》る氣がなかつた。今に世話にならうといふ下心のないのに、金を掛けるのは一錢でも惜しかつた。繋がる親子の縁で仕方なしに引き取つたやうなものゝ、飯を食はせる以外に、面倒を見て遣るのは、たゞ損になる丈《だけ》であつた。
 其上|肝心《かんじん》の本人は歸つて來ても籍は復《もど》らなかつた。いくら實家で丹精して育《そだ》て上《あ》げたにした所で、いざといふ時に、又|伴《つ》れて行かれゝば夫《それ》迄《まで》であつた。
 「食はす丈《だけ》は仕方がないから食はして遣る。然し其外の事は此方《こつち》ぢや構へない。先方《むかふ》でするのが當然だ」
 父の理窟は斯うであつた。
 島田は又島田で自分に都合の宜《い》い方からばかり事件の成行を觀望してゐた。
 「なに實家へ預けて置きさへすれば何うにかするだらう。其内健三が一人前《いちにんまへ》になつて少しでも働けるやうになつたら、其時表沙汰にしてゞも此方《こつち》へ奪還《ふんだ》くつてしまへば夫《それ》迄《まで》だ」
 健三は海にも住めなかつた。山にも居られなかつた。兩方から突き返されて、兩方の間をまご/\してゐた。同時に海のものも食ひ、時には山のものにも手を出した。
 實父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかつた。寧ろ物品であつた。たゞ實父が我樂多《がらくた》として彼を取り扱つたのに對して、養父には今に何かの役に立てゝ遣らうといふ目算《もくさん》がある丈《だけ》であつた。
 「もう此方《こつち》へ引き取つて、給仕でも何でもさせるから左右《さう》思ふが可《い》い」
 健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かの序《ついで》に斯《こ》んな事を云つた。健三は驚いて逃げ歸つた。酷薄といふ感じが子供心に淡い恐ろしさを與へた。其時の彼は幾歳《いくつ》だつたか能《よ》く覺えてゐないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になつて世間に出なければならないといふ慾が、もう十分|萌《きざ》してゐる頃であつた。
 「給仕になんぞされては大變だ」
 彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。幸ひにして其言葉は徒勞《むだ》に繰り返されなかつた。彼は何うか斯うか給仕にならずに濟んだ。
 「然し今の自分は何うして出來上つたのだらう」
 彼は斯う考へると不思議でならなかつた。其不思議のうちには、自分の周圍と能《よ》く闘《たゝか》ひ終《おほ》せたものだといふ誇りも大分《だいぶ》交《まじ》つてゐた。さうしてまだ出來上らないものを、既に出來上つたやうに見る得意も無論含まれてゐた。
 彼は過去と現在との對照を見た。過去が何うして此現在に發展して來たかを疑つた。しかも其現在の爲に苦しんでゐる自分には丸《まる》で氣が付かなかつた。
 彼と島田との關係が破裂したのは、此現在の御蔭であつた。彼がお常を忌むのも、姉や兄と同化し得ないのも此現在の御蔭であつた。細君の父と段々離れて行くのも亦此現在の御蔭に違なかつた。一方から見ると、他《ひと》と反《そり》が合はなくなるやうに、現在の自分を作り上げた彼は氣の毒なものであつた。
 
     九十二
 
 細君は健三に向つて云つた。――
 「貴夫《あなた》に氣に入る人は何うせ何處にもゐないでせうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」
 健三の心は斯うした諷刺を笑つて受ける程落付いてゐなかつた。周圍の事情は雅量に乏しい彼を益《ます/\》窮屈にした。
 「御前は役に立ちさへすれば、人間はそれで好いと思つてゐるんだらう」
 「だつて役に立たなくつちや何《なん》にもならないぢやありませんか」
 生憎《あいにく》細君の父は役に立つ男であつた。彼女の弟もさういふ方面にだけ發達する性質《たち》であつた。これに反して健三は甚だ實用に遠い生れ付であつた。
 彼には轉宅の手傳ひすら出來なかつた。大掃除《おほさうぢ》の時にも彼は懷手《ふところで》をしたなり澄ましてゐた。行李一つ絡《から》げるにさへ、彼は細紐《ほそびき》を何う渡すべきものやら分らなかつた。
 「男の癖に」
 動かない彼は、傍《はた》のものゝ眼に、如何にも氣の利かない鈍物のやうに映つた。彼は猶更《なほさら》動かなかつた。さうして自分の本領を益《ます/\》反對の方面に移して行つた。
 彼は此見地から、昔細君の弟を、自分の住んでゐる遠い田舍へ伴《つ》れて行つて教育しやうとした。其弟は健三から見ると如何にも生意氣であつた。家庭のうちを横行して誰にも遠慮會釋がなかつた。ある理學士に毎日自宅で課業の復習をして貰ふ時、彼は其人の前で構はず胡坐《あぐら》をかいた。又其人の名を何君《なにくん》/\と君《くん》づけに呼んだ。
 「あれぢや仕方がない。私に御預けなさい。私が田舍へ連れて行つて育てるから」
 健三の申出《まをしで》は細君の父によつて默つて受け取られた。さうして默つて捨てられた。彼は眼前に横暴を悉《ほしいま》まにする我子を見て、何といふ未來の心配も抱《いだ》いてゐないやうに見えた。彼ばかりか、細君の母も平氣であつた。細君も一向《いつかう》氣に掛ける樣子がなかつた。
 「若し田舍へ遣つて貴夫《あなた》と衝突したり何《なん》かすると、折合《をりあひ》が惡くなつて、後《あと》が困るから、それで已《や》めたんださうです」
 細君の辯解を聞いた時、健三は滿更《まんざら》の嘘とも思はなかつた。けれども其《その》他《ほか》にまだ意味が殘つてゐるやうにも考へた。
 「馬鹿ぢやありません。そんな御世話にならなくつても大丈夫です」
 周圍の樣子から健三は謝絶の本意が却《かへ》つて此處にあるのではなからうかと推察した。
 成程細君の弟は馬鹿ではなかつた。寧ろ怜悧過《りこうす》ぎた。健三にも其點はよく解つてゐた。彼が自分と細君の未來の爲に、彼女の弟を教育しやうとしたのは、全く見當の違つた方面にあつた。さうして遺憾ながら其方面は、今日《こんにち》に至る迄いまだに細君の父母にも細君にも了解されてゐなかつた。
 「役に立つばかりが能ぢやない。其位の事が解らなくつて何うするんだ」
 健三の言葉は勢ひ權柄《けんぺい》づくであつた。傷《きずつ》けられた細君の顔には不滿の色があり/\と見えた。
 機嫌の直つた時細君は又健三に向つた。――
 「さう頭からがみ/\云はないで、もつと解るやうに云つて聞かして下すつたら好いでせう」
 「解るやうに云はうとすれば、理窟ばかり捏《こ》ね返《かへ》すつていふぢやないか」
 「だからもつと解《わか》り易《やす》い樣に。私に解らないやうな小六《こむ》づかしい理窟は已《や》めにして」
 「それぢや何うしたつて説明しやうがない。數字を使はずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」
 「だつて貴夫《あなた》の理窟は、他《ひと》を捻《ね》ぢ伏《ふ》せるために用ひられるとより外に考へやうのない事があるんですもの」
 「御前の頭が惡いから左右《さう》思ふんだ」
 「私の頭も惡いかも知れませんけれども、中味《なかみ》のない空《から》つぽの理窟で捻《ね》ぢ伏《ふ》せられるのは嫌ひですよ」
 二人は又同じ輪の上をぐる/\廻り始めた。
 
     九十三
 
 面《めん》と向つて夫《をつと》としつくり融《と》け合《あ》ふ事の出來ない時、細君は已《やむ》を得《え》ず彼に脊中を向けた。さうして其處に寢てゐる子供を見た。彼女は思ひ出したやうに、すぐ其子供を抱《だ》き上《あ》げた。
 章魚《たこ》のやうにぐにや/\してゐる肉の塊《かたまり》と彼女との間には、理窟の壁も分別の牆《かき》もなかつた。自分の觸れるものが取も直さず自分のやうな氣がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌はず接吻した。
 「貴夫《あなた》が私のものでなくつても、此子は私の物よ」
 彼女の態度から斯うした精神が明かに讀まれた。
 其赤ん坊はまだ眼鼻立さへ判明《はつきり》してゐなかつた。頭には何時《いつ》迄《まで》待つても殆ど毛らしい毛が生えて來なかつた。公平な眼から見ると、何うしても一個の怪物であつた。
 「變な子が出來たものだなあ」
 健三は正直な所を云つた。
 「何處の子だつて生れたては皆《みん》な此通りです」
 「眞逆《まさか》左右《さう》でも無からう。もう少しは整つたのも生れる筈だ」
 「今に御覽なさい」
 細君は左《さ》も自信のあるやうな事を云つた。健三には何といふ見當も付かなかつた。けれども彼は細君が此赤ん坊のために夜中《やちゆう》何度となく眼を覺ますのを知つてゐた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知してゐた。彼は子供に對する母親の愛情が父親のそれに比べて何《ど》の位《くらゐ》強いかの疑問にさへ逢着《ほうちやく》した。
 四五日前少し強い地震のあつた時、臆病な彼はすぐ縁から庭へ飛下りた。彼が再び座敷へ上《あが》つて來た時、細君は思ひも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。
 「貴夫《あなた》は不人情ね。自分一人好ければ構はない氣なんだから」
 何故《なぜ》子供の安危《あんき》を自分より先に考へなかつたかといふのが細君の不平であつた。咄嗟《とつさ》の衝動から起つた自分の行爲に對して、斯《こ》んな批評を加へられやうとは夢にも思つてゐなかつた健三は驚いた。
 「女にはあゝいふ時でも子供の事が考へられるものかね」
 「當り前ですわ」
 健三は自分が如何にも不人情のやうな氣がした。
 然し今の彼は我物顔に子供を抱《だ》いてゐる細君を、却《かへ》つて冷《ひやゝ》かに眺めた。
 「譯の分らないものが、いくら束《たば》になつたつて仕樣がない」
 しばらくすると彼の思索がもつと廣い區域に亘《わた》つて、現在から遠い未來に延びた。
 「今に其子供が大きくなつて、御前から離れて行く時期が來るに極つてゐる。御前は己《おれ》と離れても、子供とさへ融《と》け合《あ》つて一つになつてゐれば、それで澤山だといふ氣でゐるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」
 書齋に落付いた時、彼の感想が又急に科學的色彩を帶《お》び出《だ》した。
 「芭蕉《ばせう》に實《み》が結《な》ると翌年《あくるとし》から其幹は枯れて仕舞ふ。竹も同じ事である。動物のうちには子を生む爲に生きてゐるのか、死ぬ爲めに子を生むのか解らないものが幾何《いくら》でもある。人間も緩慢ながらそれに準じた法則に矢ツ張支配されてゐる。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を與へた以上、また餘りのあらゆるものを犠牲にして、其生を守護しなければなるまい。彼女が天からさういふ命令を受けて此世に出たとするならば、其報酬として子供を獨占するのは當り前だ。故意《こい》といふよりも自然の現象だ」
 彼は母の立場を斯う考へ盡した後《あと》、父としての自分の立場をも考へた。さうしてそれが母の場合と何う違つてゐるかに思ひ到つた時、彼は心のうちで又細君に向つて云つた。
 「子供を有《も》つた御前は仕合せである。然し其|仕合《しあはせ》を享《う》ける前に御前は既に多大な犠牲を拂つてゐる。是から先も御前の氣の付かない犠牲を何《ど》の位《くらゐ》拂ふか分らない。御前は仕合せかも知れないが、實は氣の毒なものだ」
 
     九十四
 
 年は段々暮れて行つた。寒い風の吹く中に細《こま》かい雪片《せつぺん》がちら/\と見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ寢ると御正月」といふ唄をうたつた。彼等の心は彼等の口にする唱歌の通りであつた。來《きた》るべき新年の希望に充《み》ちてゐた。
 書齋にゐる健三は時々手に洋筆《ペン》を持つた儘、彼等の聲に耳を傾《かたぶ》けた。自分にもあゝ云ふ時代があつたのかしら抔《など》と考へた。
 子供は又「旦那の嫌ひな大晦日《おほみそか》」といふ毬歌《まりうた》をうたつた。健三は苦笑した。然しそれも今の自分の身の上には痛切に的中《あてはま》らなかつた。彼はたゞ厚い四つ折の半紙の束《たば》を、十《とを》も二十も机の上に重ねて、それを一枚毎に讀んで行く努力に惱まされてゐた。彼は讀みながら其紙へ赤い印氣《いんき》で棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細《こま》かい數字を並べて面倒な勘定もした。
 半紙に認《したゝ》められたものは悉《こと/”\》く鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字畫さへ判然《はんぜん》しないのが多かつた。亂暴で讀めないのも時々出て來た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束《たば》を見る健三は落膽《がつかり》した。「ペネロピーの仕事」といふ英語の俚言《ことわざ》が何遍となく彼の口に上《のぼ》つた。
 「何時《いつ》まで經《た》つたつて片付きやしない」
 彼は折々筆を擱《お》いて溜息をついた。
 然し片付かないものは、彼の周圍前後にまだ幾何《いくら》でもあつた。彼は不審な顔をして又細君の持つて來た一枚の名刺に眼を注がなければならなかつた。
 「何だい」
 「島田の事に就いて一寸御目に掛りたいつていふんです」
 「今|差支《さしつかへ》るからつて返して呉れ」
 一度立つた細君はすぐ又戻つて來た。
 「何時《いつ》伺つたら好いか御都合を聞かして頂きたいんですつて」
 健三はそれ所ぢやないといふ顔をしながら、自分の傍《そば》に高く積み重ねた半紙の束《たば》を眺めた。細君は仕方なしに催促した。
 「何と云ひませう」
 「明後日《あさつて》の午後に來て下さいと云つて呉れ」
 健三も仕方なしに時日を指定した。
 仕事を中絶された彼はぼんやり煙草を吹かし始めた。所へ細君が又|入《はい》つて來た。
 「歸つたかい」
 「えゝ」
 細君は夫《をつと》の前に廣げである赤い印《しるし》の付いた汚《きた》ならしい書きものを眺めた。夜中《よなか》に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないやうに、此半紙の山を綿密に讀み通す夫《をつと》の困難も細君には想像出來なかつた。――
 調べ物を度外に置いた彼女は、坐るとすぐ夫《をつと》に訊《たづ》ねた。――
 「また何か左右《さう》云つて來る氣でせうね。執《しつ》ツ濃《こ》い」
 「暮のうちに何うかしやうと云ふんだらう。馬鹿らしいや」
 細君はもう島田を相手にする必要がないと思つた。健三の心は却《かへ》つて昔の關係上多少の金を彼に遣る方に傾《かたぶ》いてゐた。然し話は其處迄發展する機會を得ずに餘所《よそ》へ外《そ》れてしまつた。
 「御前の宅《うち》の方は何うだい」
 「相變らず困るんでせう」
 「あの鐵道會社の社長の口はまだ出來ないのかい」
 「あれは出來るんですつて。けれども左右《さう》此方《こつち》の都合の好いやうに、ちよつくら一寸《ちよいと》といふ譯には行かないんでせう」
 「此暮のうちには六《む》づかしいかね」
 「迚《とて》も」
 「困るだらうね」
 「困つても仕方がありませんわ。何《なに》も彼《か》もみんな運命なんだから」
 細君は割合に落付いてゐた。何事も諦めてゐるらしく見えた。
 
     九十五
 
 見知らない名刺の持參者が、健三の指定した通り、中一日《なかいちにち》置いて再び彼の玄關に現れた時、彼はまださゝくれた洋筆先《ペンさき》で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかつた。彼の指頭《ゆびさき》は赤い印氣《いんき》で所々|汚《よご》れてゐた。彼は手も洗はずに其儘座敷へ出た。
 島田のために來た其男は、前の吉田に比べると少し型を異《こと》にしてゐたが、健三から云へば、双方共殆んど差別のない位懸け離れた人間であつた。
 彼は縞の羽織に角帶《かくおび》を締めて白足袋を穿《は》いてゐた。商人とも紳士とも片の付かない彼の樣子なり言葉遣《ことばづかひ》なりは、健三に差配《さはい》といふ一種の人柄を思ひ起させた。彼は自分の身分や職業を打明ける前に、卒然として健三に訊いた。
 「貴方は私の顔を覺えて御出《おいで》ですか」
 健三は驚ろいて其人を見た。彼の顔には何等の特徴もなかつた。強ひて云へば、今日《こんにち》迄《まで》たゞ世帶染《しよたいじ》みて生きて來たといふ位のものであつた。
 「何うも分りませんね」
 彼は勝ち誇つた人のやうに笑つた。
 「さうでせう。もう忘れても好い時分ですから」
 彼は區切を置いて又附け加へた。
 「然し私《わたくし》や是でも貴方の坊ちやん坊ちやんて云はれた昔をまだ覺えてゐますよ」
 「左右《さう》ですか」
 健三は素《そ》ツ氣《け》ない挨拶をしたなり、其人の顔を凝《ぢつ》と見守つた。
 「何うしても思ひ出せませんかね。ぢや御話しませう。私《わたくし》や昔島田さんが扱所《あつかひじよ》を遣《や》つてゐなすつた頃、あすこに勤めてゐたものです。ほら貴方が惡戯《いたづら》をして、小刀《こがたな》で指を切つて、大騷ぎをした事があるでせう。あの小刀は私の硯箱の中にあつたんでさあ。あの時金盥に水を取つて、貴方の指を冷したのも私ですぜ」
 健三の頭には左右《さう》した事實が明らかにまだ保存されてゐた。然し今自分の前に坐つてゐる人の其時の姿などは夢にも憶《おも》ひ出《だ》せなかつた。
 「その縁故で今度又私が頼まれて、島田さんの爲に上つたやうな譯合《わけあひ》なんです」
 彼は直《すぐ》本題に入《はい》つた。さうして健三の豫期して居た通り金の請求をし始めた。
 「もう再び御宅へは伺はないと云つてますから」
 「此間歸る時既に左右《さう》云つて行つたんです」
 「で、何うでせう、此所いらで綺麗に片を付ける事にしたら。それでないと何時《いつ》迄《まで》經《た》つても貴方が迷惑するぎりですよ」
 健三は迷惑を省《はぶ》いてやるから金を出せと云つた風な相手の口氣《こうき》を快よく思はなかつた。
 「いくら引つ懸つてゐたつて、迷惑ぢやありません。何うせ世の中の事は引つ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢してゐた方が、私《わたし》には餘程《よつぽど》心持が好いんです」
 其人はしばらく考へてゐた。少し困つたといふ樣子も見えた。然しやがて口を開いた時は思ひも寄らない事を云ひ出した。
 「それに貴方も御承知でせうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付《かきつけ》がまだ向ふの手にありますから、此際|若干《いくら》でも纒めたものを渡して、あの書付と引き替へになすつた方が好くはありませんか」
 健三は其書付を慥《たしか》に覺えてゐた。彼が實家へ復籍する事になつた時、島田は當人の彼から一札《いつさつ》入れて貰ひたいと主張したので、健三の父も已《やむ》を得《え》ず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執《と》つた。さうして今度離縁になつたに就いては、向後《かうご》御互に不義理不人情な事はしたくないものだといふ意味を僅《わづか》二行餘りに綴つて先方へ渡した。
 「あんなものは反故《ほご》同然《どうぜん》ですよ。向《むかふ》で持つてゐても役に立たず、私《わたし》が貰つても仕方がないんだ。もし利用出來る氣ならいくらでも利用したら好いでせう」
 健三にはそんな書付を賣り付けに掛る其人の態度が猶《なほ》氣に入らなかつた。
 
     九十六
 
 話が行き詰ると其人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。云ふ事は散漫であつた。理で押せなければ情《じやう》に訴へるといふ風でもなかつた。たゞ物にさへすれば好いといふ料簡が露骨に見透かされた。収束《しうそく》する所なく共に動いてゐた健三は仕舞に飽きた。
 「書付を買への、今に迷惑するのが厭なら金を出せのと云はれると此方《こつち》でも斷るより外に仕方がありませんが、困るから何うかして貰ひたい、其代り向後《かうご》一切《いつさい》無心がましい事は云つて來ないと保證するなら、昔の情義上少しの工面《くめん》はして上げても構ひません」
 「えゝそれが詰り私の來た主意なんですから、出來るなら何うかさう願ひたいもんで」
 健三はそんなら何故《なぜ》早くさう云はないのかと思つた。同時に相手も、何故もつと早くさう云つて呉れないのかといふ顔付をした。
 「ぢや何《ど》の位《くらゐ》出して下さいます」
 健三は默つて考へた。然し何《ど》の位《くらゐ》が相當の處だか判明《はつきり》した目安《めやす》の出て來やう筈はなかつた。其上成るべく少い方が彼の便宜であつた。
 「まあ百圓位なものですね」
 「百圓」
 其人は斯う繰り返した。
 「何うでせう、責《せ》めて三百圓位にして遣る譯には行きますまいか」
 「出すべき理由さへあれば何百圓でも出します」
 「御尤《ごもつと》もだが、島田さんもあゝして困つてるもんだから」
 「そんな事をいやあ、私《わたし》だつて困つてゐます」
 「さうですか」
 彼の語氣は寧ろ皮肉であつた。
 「元來一文も出さないと云つたつて、貴方の方ぢや何うする事も出來ないんでせう。百圓で惡けりや御止《およ》しなさい」
 相手は漸く懸引《かけひき》を已《や》めた。
 「ぢや兎も角も本人によくさう話して見ます。其上で又|上《あが》る事にしますから、どうぞ何分」
 其人が歸つた後《あと》で健三は細君に向つた。
 「とう/\來た」
 「何うしたつて云ふんです」
 「又金を取られるんだ。人さへ來れば金を取られるに極つてるから厭だ」
 「馬鹿らしい」
 細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかつた。
 「だつて仕方がないよ」
 健三の返事も簡單であつた。彼は其所へ落付く迄の筋道を委《くは》しく細君に話してやるのさへ面倒だつた。
 「そりや貴夫《あなた》の御金を貴夫《あなた》が御遣りになるんだから、私何も云ふ譯はありませんわ」
 「金なんかあるもんか」
 健三は擲《たゝ》き付《つ》けるやうに斯う云つて、又書齋へ入《はい》つた。其處には鉛筆で一面に汚《よご》された紙が所々赤く染つた儘机の上で彼を待つてゐた。彼はすぐ洋筆《ペン》を取り上げた。さうして既に汚《よご》れたものを猶更《なほさら》赤く汚さなければならなかつた。
 客に會ふ前と會つた後との氣分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起つた時、彼は一旦讀み了つたものを念のため又讀んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるか何うか、彼には全く分らなかつた。
 「神でない以上公平は保てない」
 彼はあやふや〔四字傍点〕な自分を辯護しながら、ずん/\眼を通し始めた。然し積重ねた半紙の束《たば》は、いくら速力を増しても盡きる期《き》がなかつた。漸く一組を元の樣に折ると又新しく一組を開かなければならなかつた。
 「神でない以上辛抱だつてし切れない」
 彼は又|洋筆《ペン》を放《はふ》り出《だ》した。赤い印氣《いんき》が血のやうに半紙の上に滲《にじ》んだ。彼は帽子を被つて寒い徃來《わうらい》へ飛び出した。
 
     九十七
 
 人通りの少い町を歩いてゐる間、彼は自分の事ばかり考へた。
 「御前は必竟《ひつきやう》何をしに世の中に生れて來たのだ」
 彼の頭の何處かで斯ういふ質問を彼に掛けるものがあつた。彼はそれに答へたくなかつた。成るべく返事を避けやうとした。すると其聲が猶《なほ》彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰返して已《や》めなかつた。彼は最後に叫んだ。
 「分らない」
 其聲は忽ちせゝら笑つた。
 「分らないのぢやあるまい。分つてゐても、其處へ行けないのだらう。途中で引懸つてゐるのだらう」
 「己《おれ》の所爲《せゐ》ぢやない。己《おれ》の所爲《せゐ》ぢやない」
 健三は逃るやうにずん/\歩いた。
 賑やかな通りへ來た時、迎年の支度に忙《いそが》しい外界《ぐわいかい》は驚異に近い新しさを以て急に彼の眼を刺戟した。彼の氣分は漸く變つた。
 彼は客の注意を惹《ひ》くために、あらゆる手段を盡して飾り立てられた店頭《みせさき》を、それからそれと覗き込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹の根懸《ねがけ》だの、蒔繪の櫛《くし》笄《かうがい》だのを、硝子越《ガラスごし》に何の意味もなく長い間眺めてゐた。
 「暮になると世の中の人は屹度《きつと》何か買ふものかしら」
 少くとも彼自身は何にも買はなかつた。細君も殆ど何にも買はないと云つて可《よ》かつた。彼の兄、彼の姉、細君の父、何《ど》れを見ても、買へるやうな餘裕のあるものは一人もなかつた。みんな年を越すのに苦しんでゐる連中ばかりであつた。中にも細君の父は一番|非道《ひど》さうに思はれた。
 「貴族院議員になつてさへゐれば、何處でも待つて呉れるんださうですけれども」
 借金取に責められてゐる父の事情を夫《をつと》に打ち明けた序《ついで》に、細君はかつて斯《こ》んな事を云つた。
 それは内閣の瓦解した當時であつた。細君の父を閑職から引張り出して、彼の辭職を餘儀なくさせた人は、自分達の退く間際《まぎは》に、彼を貴族院議員に推擧して、幾分か彼に對する義理を立てやうとした。然し多數の候補者の中《うち》から、限られた人員を選ばなければならなかつた絶理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまつた。彼はつひに選に洩れた。何かの意味で保險の付いてゐない人にのみ酷薄であつた債權者は直《たゞち》に彼の門に逼《せま》つた。官邸を引き拂つた時に召使の數《かず》を減らした彼は、少時《しばら》くして自用俥《じようぐるま》を廢した。仕舞にわが住宅を擧げて人手に渡した頃は、もう何うする事も出來なかつた。日を重ね月を追つて益《ます/\》悲境に沈んで行つた。
 「相場に手を出したのが惡いんですよ」
 細君は斯《こ》んな事も云つた。
 「御役人をしてゐる間は相場師の方で儲けさせて呉れるんですつて。だから好いけれども、一旦役を退《ひ》くと、もう相場師が構つて呉れないから、みんな駄目になるんださうです」
 「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さへ解らない」
 「貴方に解らなくつたつて、左右《さう》なら仕方がないぢやありませんか」
 「何を云つてるんだ。それぢや相場師は決して損をしつこないものに極つちまふぢやないか。馬鹿な女だな」
 健三は其時細君と取《と》り換《か》はせた談話迄|憶《おも》ひ出《だ》した。
 彼は不圖《ふと》氣が付いた。彼と擦れ違ふ人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙《いそが》しさうであつた。みんな一定の目的を有《も》つてゐるらしかつた。それを一刻も早く片付けるために、せつせと活動するとしか思はれなかつた。
 或者はまるで彼の存在を認めなかつた。或者は通り過ぎる時、ちょつと一瞥《いちべつ》を與へた。
 「御前は馬鹿だよ」
 稀《まれ》には斯《こ》んな顔付をするものさへあつた。
 彼は又|宅《うち》へ歸つて赤い印氣《いんき》を汚《きた》ない半紙へなすくり始めた。
 
     九十八
 
 二三日すると島田に頼まれた男が又|刺《し》を通じて面會を求めに來た。行掛り上斷る譯に行かなかつた健三は、座敷へ出て差配《さはい》じみた其人の前に再び坐るべく餘儀なくされた。
 「何うも御忙《おいそが》しい所を度々出まして」
 彼は世事慣《せじな》れた男であつた。口で氣の毒さうな事をいふ割に、それ程殊勝な樣子を彼の態度の何處にも現はさなかつた。
 「實は此間の事を島田によく話しました所、さういふ譯なら致し方がないから、金額はそれで宜しい、其代り何うか年内に頂戴致したい、と斯ういふんですがね」
 健三にはそんな見込がなかつた。
 「年内たつてもう僅かの日數《につすう》しかないぢやありませんか」
 「だから向ふでも急ぐ樣な譯でしてね」
 「あれば今すぐ上げても好いんです。然し無いんだから仕方がないぢやありませんか」
 「さうですか」
 二人は少時《しばらく》無言の儘でゐた。
 「何うでせう、其處のところを一つ御奮發は願はれますまいか。私も折角斯うして忙《いそが》しい中を、島田さんのために、わざ/\遣つて來たもんですから」
 それは彼の勝手であつた。健三の心を動かすに足る程の手數《てかず》でも面倒でもなかつた。
 「御氣の毒ですが出來ませんね」
 二人は又沈默を間に置いて相對した。
 「ぢや何時《いつ》頃《ごろ》頂けるんでせう」
 健三には何時《いつ》といふ目的《あて》もなかつた。
 「いづれ來年にでもなつたら何うにかしませう」
 「私も斯うして頼まれて上つた以上、何とか向《むかふ》へ返事をしなくつちやなりませんから、せめて日限でも一つ御取極めを願ひたいと思ひますが」
 「御尤もです。ぢや正月一杯とでもして置きませう」
 健三はそれより外に云ひやうがなかつた。相手は仕方なしに歸つて行つた。
 其晩寒さと倦怠を凌《しの》ぐために蕎麥湯《そばゆ》を拵へて貰つた健三は、どろ/\した鼠色のものを啜りながら、盆を膝の上に置いて傍《そば》に坐つてゐる細君と話し合つた。
 「又百圓何うかしなくつちやならない」
 「貴夫《あなた》が遣らないでも好いものを遣るつて約束なんぞなさるから後で困るんですよ」
 「遣らないでも可《い》いのだけれども、己《おれ》は遣るんだ」
 言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。
 「さう依故地《えこぢ》を仰しゃれば夫《それ》迄《まで》です」
 「お前は人を理窟ぽいとか何とか云つて攻撃する癖に、自分にや大變形式ばつた所のある女だね」
 「貴夫《あなた》こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」
 「理窟と形式とは違ふさ」
 「貴夫《あなた》のは同《おん》なじですよ」
 「ぢや云つて聞かせるがね、己《おれ》は口に丈《だけ》論理《ロジツク》を有《も》つてゐる男ぢやない。口にある論理《ロジツク》は己《おれ》の手にも足にも、身體全體にもあるんだ」
 「そんなら貴夫《あなた》の理窟がさう空《から》つぽうに見える筈がないぢやありませんか」
 「空《から》つぽうぢやないんだもの。丁度ころ柿の粉《こ》のやうなもので、理窟が中《うち》から白く吹き出す丈《だけ》なんだ。外部《そと》からくつ付けた砂糖とは違ふさ」
 斯《こ》んな説明が既に細君には空《から》つぽうな理窟であつた。何でも眼に見えるものを、しつかと手に※[手偏+國]《つか》まなくつては承知出來ない彼女は、此上|夫《をつと》と議論する事を好まなかつた。又しやうと思つても出來なかつた。
 「御前が形式張るといふのはね。人間の内側は何うでも、外部《そと》へ出た所|丈《だけ》を捉《つか》まへさへすれば、それで其人間が、すぐ片付けられるものと思つてゐるからさ。丁度御前の御父《おとつ》さんが法律家だもんだから、證據さへなければ文句を付けられる因縁がないと考へてゐるやうなもので……」
 「父はそんな事を云つた事なんぞありやしません。私だつてさう外部《うはべ》ばかり飾つて生きてる人間ぢやありません。貴夫《あなた》が不斷《ふだん》からそんな僻《ひが》んだ眼で他《ひと》を見てゐらつしやるから……」
 細君の瞼《まぶた》から涙がぽた/\落ちた。云ふ事が其間に斷絶した。島田に遣る百圓の話が、飛んだ方角へ外《そ》れた。さうして段々こんがらか〔五字傍点〕つて來た。
 
     九十九
 
 又二三日して細君は久し振に外出した。
 「無沙汰見舞|旁《かた/”\》少し歳暮《せいぼ》に廻つて來ました」
 乳呑兒《ちのみご》を抱《だ》いた儘健三の前へ出た彼女は、寒い頬を赤くして、暖かい空氣の裡《なか》に尻を落付けた。
 「御前の宅《うち》は何うだい」
 「別に變つた事もありません。あゝなると心配を通り越して、却《かへ》つて平氣になるのかも知れませんね」
 健三は挨拶の仕樣もなかつた。
 「あの紫檀《したん》の机を買はないかつて云ふんですけれども、縁起が惡いから止《よ》しました」
 舞葡萄《まひぶだう》とかいふ木の一枚板で中を張り詰めた其大きな唐机《たうづくゑ》は、百圓以上もする見事なものであつた。かつて親類の破産者からそれを借金の抵當《かた》に取つた細君の父は、同じ運命の下《もと》に、早晩それをまた誰かに持つて行かれなければならなかつたのである。
 「縁起はどうでも好いが、そんな高價《たか》いものを買ふ勇氣は當分|此方《こつち》にもなさゝうだ」
 健三は苦笑し乍ら煙草を吹かした。
 「さう云へば貴夫《あなた》、あの人に遣る御金を比田さんから借りなくつて」
 細君は藪から棒に斯《こん》な事《こと》を云つた。
 「比田にそれ丈《だけ》の餘裕があるのかい」
 「あるのよ。比田さんは今年《ことし》限《かぎ》り株式の方を已《や》められたんですつて」
 健三は此新らしい報知を當然とも思つた。又異樣にも感じた。
 「もう老朽だらうからね。然し已《や》められゝば、猶《なほ》困るだらうぢやないか」
 「追つては何うなるか知れないでせうけれども、差當り困るやうな事はないんですつて」
 彼の辭職は自分を引き立てゝ呉れた重役の一人が、社と關係を絶つた事に起因してゐるらしかつた。けれども永年勤續して來た結果、權利として彼の手に入《はい》るべき金は、一時彼の經濟状態を潤《うる》ほすには十分であつた。
 「居食《ゐぐひ》をしてゐても詰らないから、確かな人があつたら貸したいから何うか世話をして呉れつて、今日頼まれて來たんです」
 「へえ、とう/\金貸を遣るやうになつたのかい」
 健三は平生《へいぜい》から島田の因業《いんごふ》を嗤《わら》つてゐた比田だの姉だのを憶《おも》ひ浮《うか》べた。自分達の境遇が變ると、昨日《きのふ》迄《まで》輕蔑してゐた人の眞似をして恬《てん》として氣の付かない姉夫婦は、反省の足りない點に於て寧ろ子供染《こどもじ》みてゐた。
 「何うせ高利なんだらう」
 細君は高利だか低利だか丸《まる》で知らなかつた。
 「何でも旨く運轉すると月に三四十圓の利子になるから、それを二人の小遣《こづかひ》にして、是から先細く長く遣《や》つて行く積《つもり》だつて、御姉《おあね》えさんがさう仰《おつし》やいましたよ」
 健三は姉のいふ利子の高から胸算用《むなざんよう》で元金《もときん》を勘定して見た。
 「惡くすると、又みんな損《す》つちまふ丈《だけ》だ。それより左右《さう》慾張らないで、銀行へでも預けて置いて相當の利子を取る方が安全だがな」
 「だから確な人に貸したいつて云ふんでせう」
 「確な人はそんな金は借りないさ。怖《こは》いからね」
 「だけど普通の利子ぢや遣つて行けないんでせう」
 「それぢや己《おれ》だつて借りるのは厭ださ」
 「御兄《おあに》いさんも困つてゐらしつてよ」
 比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先づ其手始として、兄に金を借りて呉れと頼んだのださうである。
 「馬鹿だな。金を借りて呉れ、借りて呉れつて、此方《こつち》から頼む奴もないぢやないか。兄貴《あにき》だつて金は欲しいだらうが、そんな劔呑《けんのん》な思ひ迄して借りる必要もあるまいからね」
 健三は苦々しいうちにも滑稽を感じた。比田の手前勝手な氣性が此一事でもよく窺はれた。それを傍《はた》で見て澄ましてゐる姉の料簡も彼には不可思議であつた。血が續いてゐても姉弟《きやうだい》といふ心持は全くしなかつた。
 「御前|己《おれ》が借りるとでも云つたのかい」
 「そんな餘計な事云やしません」
 
      百
 
 利子の安い高いは別問題として、比田から融通して貰ふといふ事が、健三には迚《とて》も眞面目に考へられなかつた。彼は毎月《まいげつ》若干《いくら》か宛《づゝ》の小遣ひを姉に送る身分であつた。其姉の亭主から今度は此方《こつち》で金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映《うつ》る位明白であつた。
 「辻褄《つじつま》の合はない事は世の中に幾何《いくら》でもあるにはあるが」
 斯う云ひ掛けた彼は突然笑ひたくなつた。
 「何だか變だな。考へると可笑《をか》しくなる丈《だけ》だ。まあ好いや己《おれ》が借りて遣らなくつても何うにかなるんだらうから」
 「えゝ、そりや借手《かりて》はいくらでもあるんでせう。現にもう一口ばかり貸したんですつて。彼所《あすこ》いらの待合《まちあひ》か何かへ」
 待合といふ言葉が健三の耳に猶更《なほさら》滑稽に響いた。彼は我を忘れたやうに笑つた。細君にも夫《をつと》の姉の亭主が待合へ小金《こがね》を貸したといふ事實が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫《をつと》の名前に關はると思ふやうな性質《たち》ではなかつた。たゞ夫《をつと》と一所になつて面白さうに笑つてゐた。
 滑稽の感じが去つた後で反動が來た。健三は比田に就いて不愉快な昔迄思ひ出させられた。
 それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であつた。病人は平生《へいぜい》から自分の持つてゐる兩葢《りやうぶた》の銀側時計《ぎんがはどけい》を弟の健三に見せて、「是を今に御前に遣らう」と殆ど口癖のやうに云つてゐた。時計を所有した經驗のない若い健三は、欲しくて堪まらない其裝飾品が、何時《いつ》になつたら自分の帶に卷き付けられるのだらうかと想像して、暗《あん》に未來の得意を豫算に組み込みながら、一二箇月を暮した。
 病人が死んだ時、彼の細君は夫《をつと》の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡《な》くなつた人の記念《かたみ》とも見るべき此品物は、不幸にして質に入れてあつた。無論健三にはそれを受出す力がなかつた。彼は義姉《あね》から所有權|丈《だけ》を讓り渡されたと同樣で、肝心《かんじん》の時計には手も觸れる事が出來ずに幾日かを過ごした。
 或日|皆《みん》なが一つ所に落合つた。すると其席上で比田が問題の時計を懷中《ふところ》から出した。時計は見違へる樣に磨かれて光つてゐた。新しい紐に珊瑚樹の珠《たま》が裝飾として付け加へられた。彼はそれを勿體《もつたい》らしく兄の前に置いた。
 「それでは是は貴方に上げることにしますから」
 傍《そば》にゐた姉も殆ど比田と同じやうな口上を述べた。
 「どうも色々|御手數《おてかず》を掛けまして、有難う。ぢや頂戴します」
 兄は禮を云つてそれを受取つた。
 健三は默つて三人の樣子を見てゐた。三人は殆ど彼の其處にゐる事さへ眼中に置いてゐなかつた。仕舞迄|一言《いちごん》も發しなかつた彼は、腹の中で甚だしい侮辱を受けたやうな心持がした。然し彼等は平氣であつた。彼等の仕打《しうち》を仇敵の如く憎んだ健三も、何故《なぜ》彼等がそんな面中《つらあて》がましい事をしたのか、何うしても考へ出せなかつた。
 彼は自分の權利も主張しなかつた。又説明も求めなかつた。たゞ無言のうちに愛想《あいさう》を盡かした。さうして親身の兄や姉に對して愛想を盡かす事が、彼等に取つて一番|非道《ひど》い刑罰に違なからうと判斷した。
 「そんな事をまだ覺えてゐらつしやるんですか。貴夫《あなた》も隨分執念深いわね。御兄《おあに》いさんが御聽きになつたら嘸《さぞ》御驚きなさるでせう」
 細君は健三の顔を見て暗《あん》に其|氣色《けしき》を伺つた。健三はちつとも動かなかつた。
 「執念深からうが、男らしくなからうが、事實は事實だよ。よし事實に棒を引いたつて、感情を打ち殺す譯には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何處かで働いてゐるんだ。己《おれ》が殺しても天が復活させるから何にもならない」
 「御金なんか借りさへしなきあ、それで好いぢやありませんか」
 斯う云つた細君の胸には、比田達ばかりでなく、自分の事も、自分の生家《さと》の事も勘定に入れてあつた。
 
     百一
 
 歳が改たまつた時、健三は一夜のうちに變つた世間の外觀を、氣のなさゝうな顔をして眺めた。
 「すべて餘計な事だ。人間の小刀細工だ」
 實際彼の周圍には大晦日《おほみそか》も元日もなかつた。悉《こと/”\》く前の年の引續きばかりであつた。彼は人の顔を見て御目出たうといふのさへ厭になつた。そんな殊更《ことさら》な言葉を口にするよりも誰にも會はずに默つてゐる方がまだ心持が好かつた。
 彼は普通の服裝《なり》をしてぶらりと表へ出た。成るべく新年の空氣の通はない方へ足を向けた。冬木立と荒れた畠、藁葺屋根と細い流れ、そんなものが盆槍《ぼんやり》した彼の眼に入つた。然し彼は此の可憐な自然に對してももう感興を失つてゐた。
 幸ひ天氣は穩かであつた。空風《からかぜ》の吹《ふ》き捲《まく》らない野面《のづら》には春に似た靄が遠く懸つてゐた。其間から落ちる薄い日影もおつとりと彼の身體を包んだ。彼は人もなく路もない所へわざ/\迷ひ込んだ。さうして融《と》けかゝつた霜で泥だらけになつた靴の重いのに氣が付いて、しばらく足を動かさずにゐた。彼は一つ所に佇立《たゝず》んでゐる間に、氣分を紛らさうとして繪を描《か》いた。然し其繪があまり不味《まづ》いので、寫生は却《かへ》つて彼を自棄《やけ》にする丈《だけ》であつた。彼は重たい足を引摺つて又|宅《うち》へ歸つて來た。途中で島田に遣るべき金の事を考へて、不圖《ふと》何か書いて見やうといふ氣を起した。
 赤い印氣《いんき》で汚《きた》ない半紙をなすくる業《わざ》は漸く濟んだ。新しい仕事の始まる迄にはまだ十日の間があつた。彼は其十日を利用しようとした。彼は又|洋筆《ペン》を執つて原稿紙に向つた。
 健康の次第に衰へつゝある不快な事實を認めながら、それに注意を拂はなかつた彼は、猛烈に働いた。恰《あたか》も自分で自分の身體に反抗でもするやうに、恰《あたか》もわが衛生を虐待するやうに、又|己《おの》れの病氣に敵討《かたきうち》でもしたいやうに。彼は血に餓ゑた。しかも他《ひと》を屠《はふ》る事が出來ないので已《や》むを得《え》ず自分の血を啜《すゝ》つて滿足した。
 豫定の枚數を書き了へた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。
 「あゝ、あゝ」
 彼は獣《けだもの》と同じやうな聲を揚《あ》げた。
 書いたものを金に換《か》へる段になつて、彼は大した困難にも遭遇せずに濟んだ。たゞ何《ど》んな手續きでそれを島田に渡して好いか一寸迷つた。直接の會見は彼も好まなかつた。向うももう參上《あが》りませんと云ひ放つた最後の言葉に對して、彼の前へ出て來る氣のない事は知れてゐた。何うしても中へ入《はい》つて取り次ぐ人の必要があつた。
 「矢つ張|御兄《おあにい》さんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでせう。今迄の行掛りもあるんだから」
 「まあ左右《さう》でもするのが、一番適當な所だらう。あんまり有難くはないが。公《おほやけ》な他人を頼む程の事でもないから」
 健三は津守坂《つのかみざか》へ出掛けて行つた。
 「百圓遣るの」
 驚いた姉は勿體《もつたい》なさゝうな眼を丸くして健三を見た。
 「でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。さうしみつたれ〔五字傍点〕た眞似も出來まいし、それにあの島田つて爺さんが、たゞの爺さんと違つて、あの通りの惡黨《わる》だから、百圓位仕方がないだらうよ」
 姉は健三の腹にない事迄|一人合點《ひとりがてん》でぺら/\喋舌《しやべ》つた。
 「だけどお正月早々お前さんも隨分好い面《つら》の皮《かは》さね」
 「好い面《つら》の皮鯉の瀧登りか」
 先刻《さつき》から傍《そば》に胡坐《あぐら》をかいて新聞を見てゐた比田は、此時始めて口を利いた。然し其言葉は姉に通じなかつた。健三にも解らなかつた。それを左《さ》も心得顔にあはゝと笑ふ姉の方が、健三には却《かへ》つて可笑《をか》しかつた。
 「でも健ちゃんは好いね。御金を取らうとすれば幾何《いくら》でも取れるんだから」
 「此方《こち》とらとは少し頭の寸法が違ふんだ。右大将頼朝公《うだいしやうよりともこう》の髑髏《しやりかうべ》と來てゐるんだから」
 比田は變梃《へんてこ》な事ばかり云つた。然し頼んだ事は一も二もなく引き受けて呉れた。
 
     百二
 
 比田と兄が揃つて健三の宅《うち》を訪問《おとづ》れたのは月の半《なか》ば頃《ごろ》であつた。松飾の取り拂はれた徃來《わうらい》にはまだ何處となく新年の香《にほひ》がした。暮も春もない健三の座敷の中に坐つた二人は、落付かないやうに其處いらを見廻した。
 比田は懷《ふところ》から書付《かきつけ》を二枚出して健三の前に置いた。
 「まあ是で漸く片が付きました」
 其一枚には百圓受取つた事と、向後《かうご》一切《いつさい》の關係を斷つといふ事が古風な文句で書いてあつた。手蹟《て》は誰のとも判斷が付かなかつたが、島田の印は確に捺《お》してあつた。
 健三は「然る上は後日に至り」とか、「後日のため誓約|件《くだん》の如し」とかいふ言葉を馬鹿にしながら默讀した。
 「何うも御手數《おてすう》でした、ありがたう」
 「斯ういふ證文さへ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないと何時《いつ》迄《まで》蒼蠅《うるさ》く付《つ》け纒《まと》はられるか分つたもんぢやないよ。ねえ長《ちやう》さん」
 「さうさ。是で漸く一安心出來たやうなものだ」
 比田と兄の會話は少しの感銘も健三に與へなかつた。彼には遣らないでもいゝ百圓を好意的に遣《や》つたのだといふ氣ばかり強く起つた。面倒を避けるために金の力を藉《か》りたとは何うしても思へなかつた。
 彼は無言の儘もう一枚の書付を開いて、其處に自分が復籍する時島田に送つた文言《もんごん》を見出《みいだ》した。
 「私儀今般貴家御離縁に相成、實父より養育料差出|※[候の草書]《さふらふ》に就ては、今後とも互に不實不人情に相成ざる樣|心掛度《こゝろがけたく》と存|※[候の草書]《ぞんじさふらふ》」
 健三には意味も論理《ロジツク》も能《よ》く解らなかつた。
 「それを賣り付けやうといふのが向うの腹さね」
 「つまり百圓で買つて遣つたやうなものだね」
 比田と兄は又話し合つた。健三は其間に言葉を挾《さしはさ》むのさへ厭だつた。
 二人が歸つたあとで、細君は夫《をつと》の前に置いてある二通の書付を開いて見た。
 「此方《こつち》の方は虫が食つてますね」
 「反故《ほご》だよ。何にもならないもんだ。破いて紙屑籠へ入れてしまへ」
 「わざ/\破かなくつても好いでせう」
 健三は其儘席を立つた。再び顔を合はせた時、彼は細君に向つて訊いた。――
 「先刻《さつき》の書付は何うしたい」
 「箪笥の抽斗《ひきだし》に仕舞つて置きました」
 彼女は大事なものでも保存するやうな口振で斯う答へた。健三は彼女の所置を咎《とが》めもしない代りに、賞《ほ》める氣にもならなかつた。
 「まあ好かつた。あの人だけは是で片が付いて」
 細君は安心したと云はぬばかりの表情を見せた。
 「何が片付いたつて」
 「でも、あゝして證文を取つて置けば、それで大丈夫でせう。もう來る事も出來ないし、來たつて構ひ付けなければ夫《それ》迄《まで》ぢやありませんか」
 「そりや今迄だつて同じ事だよ。左右《さう》しやうと思へば何時《いつ》でも出來たんだから」
 「だけど、あゝして書いたものを此方《こつち》の手に入れて置くと大變違ひますわ」
 「安心するかね」
 「えゝ安心よ。すつかり片付いちやつたんですもの」
 「まだ中々片付きやしないよ」
 「何うして」
 「片付いたのは上部《うはべ》丈《だけ》ぢやないか。だから御前は形式張つた女だといふんだ」
 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
 「ぢや何うすれば本當に片付くんです」
 「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起った事は何時《いつ》迄《まで》も續くのさ。たゞ色々な形に變るから他《ひと》にも自分にも解らなくなる丈《だけ》の事さ」
 健三の口調は吐き出す樣に苦々しかつた。細君は默つて赤ん坊を抱上《だきあ》げた。
 「おゝ好い子だ/\。御父《おとう》さまの仰しやる事は何だかちつとも分りやしないわね」
 細君は斯う云ひ/\、幾度《いくたび》か赤い頻に接吻した。
(2007年12月16日(日)午後7時15分、入力終了、2014年4月13日(日)午前11時30分、校正終了、2021年1月22日(金)午前10時15分、再校終了)
 
 
 明暗 上
大正、五、五、二六−五、一二、一四
 
      一
 
 醫者は探《さぐ》りを入れた後《あと》で、手術台の上から津田《つだ》を下《おろ》した。
 「矢張《やつぱり》穴が腸|迄《まで》續いてゐるんでした。此《この》前《まへ》探つた時は、途中に瘢痕《はんこん》の隆起《りゆうき》があつたので、つい其所が行き留《どま》りだとばかり思つて、あゝ云つたんですが、今日《けふ》疎通を好くする爲に、其奴《そいつ》をがり/\掻き落して見ると、まだ奧があるんです」
 「さうして夫《それ》が腸迄續いてゐるんですか」
 「さうです。五分位だと思つてゐたのが約一寸程あるんです」
 津田の顔には苦笑の裡《うち》に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。醫者は白いだぶ/\した上着の前に兩手を組み合はせた儘、一寸首を傾けた。其樣子が「御氣の毒ですが事實だから仕方がありません。醫者は自分の職業に對して虚言《うそ》を吐《つ》く譯に行かないんですから」といふ意味に受取れた。
 津田は無言の儘帶を締め直して、椅子の背に投げ掛けられた袴を取り上げながら又醫者の方を向いた。
 「腸迄續いてゐるとすると、癒りつこないんですか」
 「そんな事はありません」
 醫者は活?にまた無雜作に津田の言葉を否定した。併《あは》せて彼の氣分をも否定する如くに。
 「たゞ今《いま》迄《まで》の樣に穴の掃除ばかりしてゐては駄目なんです。それぢや何時《いつ》迄《まで》經《た》つても肉の上《あが》りこはないから、今度は治療法を變へて根本的の手術を一思《ひとおも》ひに遣るより外に仕方がありませんね」
 「根本的の治療と云ふと」
 「切開《せつかい》です。切開して穴と腸と一所にして仕舞ふんです。すると天然《てんねん》自然《しぜん》割《さ》かれた面《めん》の兩側が癒着して來ますから、まあ本式に癒るやうになるんです」
 津田は默つて點頭《うなづ》いた。彼の傍《そば》には南側の窓下に据ゑられた洋卓《テーブル》の上に一台の顯微鏡が載《の》つてゐた。醫者と懇意な彼は先刻《さつき》診察所へ這入つた時、物珍らしさに、それを覗かせて貰つたのである。其時八百五十倍の鏡の底に映つたものは、丸《まる》で圖に撮影《と》つたやうに鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であつた。
 津田は袴を穿《は》いて仕舞つて、其|洋卓《テーブル》の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、不圖《ふと》此細菌の事を思ひ出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懷に収めた彼は既に出ようとして又躊躇した。
 「もし結核性のものだとすると、假令《たとひ》今仰しやつた樣な根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いて仕舞つても癒らないんでせう」
 「結核性なら駄目です。夫《それ》から夫《それ》へと穴を堀つて奧の方へ進んで行くんだから、口元|丈《だけ》治療したつて役にや立ちません」
 津田は思はず眉を寄せた。
 「私《わたし》のは結核性ぢやないんですか」
 「いえ、結核性ぢやありません」
 津田は相手の言葉にどれ程の眞實さがあるかを確かめやうとして、一寸眼を醫者の上に据ゑた。醫者は動かなかつた。
 「何うしてそれが分るんですか。たゞの診斷で分るんですか」
 「えゝ。診察《み》た樣子で分ります」
 其時看護婦が津田の後《あと》に廻つた患者の名前を室《へや》の出口に立つて呼んだ。待ち構へてゐた其患者はすぐ津田の背後に現はれた。津田は早く退却しなければならなくなつた。
 「ぢや何時《いつ》其根本的手術を遣つて頂けるでせう」
 「何時《いつ》でも。貴方の御都合の好い時で宜《よ》う御座んす」
 津田は自分の都合を善く考へてから日取を極める事にして室外に出た。
 
     二
 
 電車に乘つた時の彼の氣分は沈んでゐた。身動きのならない程客の込み合ふ中で、彼は釣革にぶら下りながら只《たゞ》自分の事ばかり考へた。去年の疼痛《とうつう》があり/\と記憶の舞台《ぶたい》に上《のぼ》つた。白いベツドの上に横《よこた》へられた無殘《みじめ》な自分の姿が明かに見えた。鎖を切つて逃げる事が出來ない時に犬の出すやうな自分の唸り聲が判然《はつきり》聽えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に觸れ合ふ音と、最後に突然兩方の肺臓から一度に空氣を搾《しぼ》り出《だ》すやうな恐ろしい力の壓迫と、壓《お》された空氣が壓されながらに収縮する事が出來ないために起るとしか思はれない劇《はげ》しい苦痛とが彼の記憶を襲《おそ》つた。
 彼は不愉快になつた。急に氣を換へて自分の周圍を眺めた。周圍のものは彼の存在にすら氣が付かずにみんな澄ましてゐた。彼は又考へつゞけた。
 「何うしてあんな苦しい目に會つたんだらう」
 荒川堤《あらかはづゝみ》へ花見に行つた歸り途から何等の豫告なしに突發した當時の疼痛《とうつう》に就いて、彼は全くの盲目漢《めくら》であつた。其原因はあらゆる想像の外《ほか》にあつた。不思議といふよりも寧ろ恐ろしかつた。
 「此肉體はいつ何時《なんどき》どんな變《へん》に會はないとも限らない。それどころか、今|現《げん》に何《ど》んな變《へん》が此肉體のうちに起りつゝあるかも知れない。さうして自分は全く知らずにゐる。恐ろしい事だ」
 此所迄働らいて來た彼の頭はそこで留《と》まる事が出來なかつた。どつと後《うしろ》から突き落すやうな勢で、彼を前の方に押し遣つた。突然彼は心の中《うち》で叫んだ。
 「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。何時《いつ》どう変るか分らない。さうして其變る所を己《おれ》は見たのだ」
 彼は思はず唇を固く結んで、恰《あたか》も自尊心を傷《きずつ》けられた人のやうな眼を彼の周圍に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつゝあるかを丸《まる》で知らない車中の乘客は、彼の眼遣《めづかひ》に對して少しの注意も拂はなかつた。
 彼の頭は彼の乘つてゐる電車のやうに、自分自身の軌道《レール》の上を走つて前へ進む丈《だけ》であつた。彼は二三日前《にさんちまへ》ある友達から聞いたポアンカレーの話を思ひ出した。彼の爲に「偶然」の意味を説明して呉れた其友達は彼に向つて斯う云つた。
 「だから君、普通世間で偶然だ偶然だといふ、所謂《いはゆる》偶然の出來事といふのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雜過ぎて一寸見當が付かない時に云ふのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精蟲の配合が必要で、其必要な配合が出來得るためには、又|何《ど》んな條件が必要であつたかと考へて見ると、殆んど想像が付かないだらう」
 彼は友達の言葉を、單に與へられた新らしい知識の斷片として聞き流す譯に行かなかつた。彼はそれをぴたりと自分の身の上に當《あ》て嵌《は》めて考へた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押し遣つたり、前に進むべき彼を後《うし》ろに引き戻したりするやうに思へた。しかも彼はついぞ今迄自分の行動に就いて他《ひと》から牽制を受けた覺《おぼえ》がなかつた。爲《す》る事はみんな自分の力で爲《し》、言ふ事は悉《こと/”\》く自分の力で言つたに相違なかつた。
 「何うして彼《あ》の女《をんな》は彼所《あすこ》へ嫁に行つたのだらう。それは自分で行かうと思つたから行つたに違ない。然し何うしても彼所《あすこ》へ嫁に行く筈ではなかつたのに。さうして此|己《おれ》は又何うして彼《あ》の女《をんな》と結婚したのだらう。それも己《おれ》が貰はうと思つたからこそ結婚が成立したに違ない。然し己《おれ》は未《いま》だ甞《かつ》て彼《あ》の女《をんな》を貰はうとは思つてゐなかつたのに。偶然? ポアンカレーの所謂《いはゆる》複雜の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考へながら宅《うち》の方へ歩いて行つた。
 
     三
 
 角《かど》を曲つて細い小路《こうぢ》へ這入つた時、津田はわが門前に立つてゐる細君の姿を認めた。其細君は此方《こつち》を見てゐた。然し津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直つた。さうして白い繊《ほそ》い手を額の所へ翳《かざ》す樣にあてがつて何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍《そば》へ寄つて來る迄其態度を改めなかつた。
 「おい何を見てゐるんだ」
 細君は津田の聲を聞くと左《さ》も驚ろいた樣に急に此方《こつち》を振り向いた。
 「あゝ吃驚《びつくり》した。――御歸り遊ばせ」
 同時に細君は自分の有《も》つてゐるあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫《をつと》の上に注《そゝ》ぎ掛《か》けた。それから心持腰を曲《かゞ》めて輕い會釋をした。
 半《なか》ば細君の矯態に應じやうとした津田は半《なか》ば逡巡《しゆんじゆん》して立ち留まつた。
 「そんな所に立つて何をしてゐるんだ」
 「待つてたのよ。御歸りを」
 「だつて何か一生懸命に見てゐたぢやないか」
 「えゝ。あれ雀よ。雀が御向ふの宅《うち》の二階の庇《ひさし》に巣を食つてるんでせう」
 津田は一寸向ふの宅《うち》の屋根を見上げた。然し其所には雀らしいものゝ影も見えなかつた。細君はすぐ手を夫《をつと》の前に出した。
 「何だい」
 「洋杖《ステツキ》」
 津田は始めて氣が付いた樣に自分の持つてゐる洋杖《ステツキ》を細君に渡した。それを受取つた彼女《かのぢよ》は又自分で玄關の格子戸を開けて夫《をつと》を先へ入れた。それから自分も夫《をつと》の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》つた。
 夫《をつと》に着物を脱ぎ換へさせた彼女《かのぢよ》は津田が火鉢の前に坐るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入《しやぼんいれ》を手拭に包んで持つて出た。
 「一寸今のうち一風呂《ひとふろ》浴びて入らつしやい。また其所へ坐り込むと臆劫《おくくふ》になるから」
 津田は仕方なしに手を出して手拭を受取つた。然しすぐ立たうとはしなかつた。
 「湯は今日は已《や》めにしようかしら」
 「何故。――薩張《さつぱ》りするから行つて入らつしやいよ。歸るとすぐ御飯にして上げますから」
 津田は仕方なしに又立ち上つた。室《へや》を出る時、彼は一寸細君の方を振り返つた。
 「今日歸りに小林さんへ寄つて診《み》て貰つて來たよ」
 「さう。さうして何うなの、診察の結果は。大方もう癒つてるんでせう」
 「所が癒らない。愈《いよ/\》厄介な事になつちまつた」
 津田は斯う云つたなり、後《あと》を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。
 同じ話題が再び夫婦の間《あひだ》に戻つて來たのは晩食《ゆふめし》が濟んで津田がまだ自分の室《へや》へ引き取らない宵の口であつた。
 「厭ね、切るなんて、怖《こは》くつて。今迄の樣にそつとして置いたつて宜《よ》かないの」
 「矢張《やつぱり》醫者の方から云ふと此儘ぢや危險なんだらうね」
 「だけど厭だわ、貴方。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好《かつかう》の好い眉を心持寄せて夫《をつと》を見た。津田は取り合ずに笑つてゐた。すると細君が突然氣が付いたやうに訊いた。
 「もし手術をするとすれば、又日曜でなくつちや不可《いけな》いんでせう」
 細君には此次の日曜に夫《をつと》と共に親類から誘はれて芝居見物に行く約束があつた。
 「まだ席を取つてないんだから構やしないさ、斷わつたつて」
 「でも夫《そり》や惡いわ、貴方。切角《せつかく》親切にあゝ云つて呉れるものを斷《ことわ》つちや」
 「惡かないよ。相當の事情があつて斷わるんなら」
 「でもあたし行きたいんですもの」
 「御前は行きたければ御出《おいで》な」
 「だから貴方も入らつしやいな、ね。御厭?」
 津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした。
 
      四
 
 細君は色の白い女であつた。その所爲《せゐ》で形の好い彼女の眉が一際《ひときは》引立つて見えた。彼女はまた癖のやうに能く其眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。御負《おまけ》に愛嬌のない一重瞼《ひとへまぶち》であつた。けれども其|一重瞼《ひとへまぶち》の中に輝やく瞳子《ひとみ》は漆黒であつた。だから非常に能く働らいた。或時は專横と云つてもいゝ位に表情を悉《ほしい》まゝにした。津田は我知らず此|小《ちひ》さい眼から出る光に牽き付けられる事があつた。さうして又突然何の原因もなしに其光から跳ね返される事もないではなかつた。
 彼が不圖《ふと》眼を上げて細君を見た時、彼は刹那的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今迄彼女の口にしつゝあつた甘い言葉とは全く釣り合はない妙な輝やきであつた。相手の言葉に對して返事をしやうとした彼の心の作用が此眼付の爲に一寸|遮斷《しやだん》された。すると彼女はすぐ美くしい齒を出して微笑した。同時に眼の表情が迹方《あとかた》もなく消えた。
 「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくつても可《い》いのよ。今のはたゞ甘つたれたのよ」
 黙つた津田は猶《なほ》しばらく細君から眼を放さなかつた。
 「何だつてそんな六づかしい顔をして、あたしを御覽になるの。――芝居はもう已《や》めるから、此次の日曜に小林さんに行つて手術を受けて入らつしやい。それで好いでせう。岡本へは二三日中《にさんちぢゆう》に端書を出すか、でなければ私が一寸行つて斷わつて來ますから」
 「御前は行つても可《い》いんだよ。折角《せつかく》誘つて呉れたもんだから」
 「いえ私も止《よ》しにするわ。芝居よりも貴方の健康の方が大事ですもの」
 津田は自分の受けべき手術に就いて猶《なほ》詳しい話を細君にしなければならなかつた。
 「手術つてたつて、さう腫物《できもの》の膿《うみ》を出すやうに簡單にや行かないんだよ。最初|下劑《げざい》を掛けて先づ腸を綺麗に掃除して置いて、それから愈《いよ/\》切開すると、出血の危險があるかも知れないといふので、創口《きずぐち》へガーゼを詰めた儘、五六日の間は凝《じつ》として寐てゐるんださうだから。だから假令《たとひ》此次の日曜に行くとした所で、何うせ日曜一日ぢや濟まないんだ。其代り日曜が延びて月曜にならうとも火曜にならうとも大した違にやならないし、又日曜を繰り上げて明日《あした》にした所で、明後日《あさつて》にした所で、矢張《やつぱり》同じ事なんだ。其所へ行くとまあ樂な病氣だね」
 「あんまり樂でもないわ貴方、一週間も寐たぎりで動く事が出來なくつちや」
 細君は又びく/\と眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着であると云つた風に、何か考へながら、二人の間に置かれた長火鉢の縁《ふち》に右の肘《ひぢ》を靠《も》たせて、其中に掛けてある鐵瓶の葢《ふた》を眺めた。朱銅《しゆどう》の葢の下では湯の沸《たぎ》る音が高くした。
 「ぢや何うしても御勤めを一週間ばかり休まなくつちやならないわね」
 「だから吉川《よしかは》さんに會つて譯を話して見た上で、日取を極めやうかと思つてゐる所だ。黙つて休んでも構はないやうなものゝ左《さ》うも行かないから」
 「そりや貴方御話しになる方が可《い》いわ。平生《ふだん》からあんなに御世話になつてゐるんですもの」
 「吉川さんに話したら明日《あした》からすぐ入院しろつて云ふかも知れない」
 入院といふ言葉を聞いた細君は急に細い眼を廣げるやうにした。
 「入院? 入院なさるんぢやないでせう」
 「まあ入院さ」
 「だつて小林さんは病院ぢやないつて何時《いつ》か仰やつたぢやないの。みんな外來の患者ばかりだつて」
 「病院といふ程の病院ぢやないが、診察所の二階が空《あ》いてるもんだから、其所へ入《は》いる事も出來るやうになつてるんだ」
 「綺麗?」
 津田は苦笑した。
 「自宅《うち》よりは少しあ綺麗かも知れない」
 今度は細君が苦笑した。
 
     五
 
 寐る前の一時間か二時間を机に向つて過ごす習慣になつてゐた津田はやがて立ち上つた。細君は今迄通りの樂な姿勢で火鉢に倚《よ》りかゝつた儘|夫《をつと》を見上げた。
 「又御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫《をつと》に向つて斯う云つた。彼女が斯ういふ時には、何時《いつ》でも其語調のうちに或物足らなさがあるやうに津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚《こ》びようとした。ある時の彼は却つて反感的にそれから逃《のが》れたくなつた。何方《どちら》の場合にも、彼の心の奧底には、「さう御前のやうな女とばかり遊んぢやゐられない。己《おれ》には己《おれ》でする事があるんだから」といふ相手を見縊《みくび》つた自覺がぼんやり働らいてゐた。
 彼が黙つて間《あひ》の襖《ふすま》を開けて次の室《へや》へ出て行かうとした時、細君は又彼の背後《うしろ》から聲を掛けた。
 「ぢや芝居はもう御已《おや》めね。岡本へは私から斷つて置きませうね」
 津田は一寸振り向いた。
 「だから御前は御出《おい》でよ、行きたければ。己《おれ》は今のやうな譯で、何うなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫《をつと》を見返さなかつた。返事もしなかつた。津田はそれぎり勾配《こうばい》の急な階子段《はしごだん》をぎし/\踏んで二階へ上《あが》つた。
 彼の机の上には比較的大きな洋書が一册|載《の》せてあつた。彼は坐るなりそれを開いて枝折《しをり》の挿んである頁《ページ》を目標《めあて》に其所から讀みにかゝつた。けれども三四日《さんよつか》等閑《なほざり》にして置いた咎《とが》が祟《たゝ》つて、前後の續き具合が能く解らなかつた。それを考へ出さうとするためには勢ひ前の所をもう一遍讀み返さなければならないので、氣の差《さ》した彼は、讀む事の代りに、たゞ頁をばら/\と翻《ひるがへ》して書物の厚味ばかりを苦にするやうに眺めた。すると前途遼遠といふ氣が自《おのづ》から起つた。
 彼は結婚後三四ケ月目に始めて此書物を手にした事を思ひ出した。氣が付いて見るとそれから今日《こんにち》迄《まで》にもう二ケ月以上も經《た》つてゐるのに、彼の讀んだ頁はまだ全體の三分の二にも足らなかつた。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかつて仕舞ふのを、左《さ》も下らない愚物《ぐぶつ》のやうに細君の前で罵つてゐた。それを夫《をつと》の口癖として聽かされた細君はまた彼を本當の勉強家として認めなければならない程比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠といふ氣と共に、面目ないといふ心持が何處からか出て來て、意地惡く彼の自尊心を擽《くすぐ》つた。
 然し今彼が自分の前に擴げてゐる書物から吸収しやうと力《つと》めてゐる知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかつた。それには餘りに專門的で、又あまりに高尚過ぎた。學校の講義から得た知識ですら滅多に實際の役に立つた例《ためし》のない今の勤め向きとは殆んど没交渉と云つても可《い》い位のものであつた。彼はたゞそれを一種の自信力として貯《たくは》へて置きたかつた。他の注意を惹く粧飾《しやうしよく》としても身に着けて置きたかつた。その困難が今の彼に朧氣《おぼろげ》ながら見えて來た時.彼は彼の己惚《おのぼれ》に訊いて見た。
 「さう旨くは行かないものかな」
 彼は黙つて煙草を吹かした。それから急に氣が付いた樣に書物を伏せて立ち上つた。さうして足早《あしばや》に階子段《はしごだん》を又ぎし/\鳴らして下へ降りた。
 
     六
 
 「おいお延《のぶ》」
 彼は襖越《ふすまご》しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙《からかみ》を開けて茶の間の入口に立つた。すると長火鉢の傍《わき》に坐つてゐる彼女の前に、何時《いつ》の間《ま》にか取り擴げられた美くしい帶と着物の色が忽ち彼の眼に映つた。暗い玄關から急に明るい電燈の點《つ》いた室《へや》を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立つて華麗《はなやか》に見えた時、彼は一寸立ち留まつて細君の顔と派出《はで》やかな模樣とを等分に見較べた。
 「今時分そんなものを出して何うするんだい」
 お延は檜扇模樣《ひあふぎもやう》の丸帶の端《はじ》を膝の上に載せた儘、遠くから津田を見遣《みや》つた。
 「たゞ出して見たのよ。あたし此帶まだ一遍も締めた事がないんですもの」
 「それで今度《こんだ》その服裝《なり》で芝居《しばや》に出掛けようと云ふのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴ふ或冷やかさがあつた。お延は何《なん》にも答へずに下を向いた。さうして何時《いつ》もする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。彼女に特異な此|所作《しよさ》は時として變に津田の心を唆《そゝの》かすと共に、時として妙に彼の氣持を惡くさせた。彼は黙つて縁側へ出て厠《かはや》の戸を開けた。それから又二階へ上がらうとした。すると今度は細君の方から彼を呼び留めた。
 「貴方、貴方」
 同時に彼女は立つて來た。さうして彼の前を塞ぐやうにして訊いた。
 「何か御用なの」
 彼の用事は今の彼に取つて細君の帶よりも長襦袢よりも寧ろ大事なものであつた。
 「御父さんからまだ手紙は來なかつたかね」
 「いゝえ來れば何時《いつ》もの通り御机の上に載せて置きますわ」
 津田は其豫期した手紙が机の上に載つてゐなかつたから、わざ/\下りて來たのであつた。
 「郵便函の中を探させませうか」
 「來れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行く筈はないよ」
 「さうね、だけど念の爲だから、あたし一寸《ちよいと》見て來るわ」
 御延は玄關の障子を開けて沓脱《くつぬぎ》へ下りようとした。
 「駄目だよ。書留がそんな中に入《はい》つてる譯がないよ」
 「でも書留でなくつて只のが入《はい》つてるかも知れないから、一寸待つて居らつしやい」
 津田は漸く茶の間へ引き返して、先刻《さつき》飯を食ふ時に坐つた座蒲團が、まだ火鉢の前に元の通り据ゑてある上に胡坐《あぐら》を掻いた。さうして其所に燦爛《さんらん》と取り亂された濃い友染模樣《いうぜんもやう》の色を見守つた。
 すぐ玄關から取つて返したお延の手には果して一通の書状があつた。
 「あつてよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」
 斯う云ひながら彼女は明るい電燈の光に白い封筒を照らした。
 「あゝ、矢張《やつぱり》あたしの思つた通り、御父さまからよ」
 「何だ書留ぢやないのか」
 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切つて讀み下した。然しそれを讀んでしまつて、又封筒へ収めるために卷き返した時には、彼の手がたゞ器械的に動く丈《だけ》であつた。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかつた。ぼんやり細君の餘所行着《よそゆきぎ》の荒い御召の縞柄を眺めながら獨りごとのやうに云つた。
 「困るな」
 「何うなすつたの」
 「なに大した事ぢやない」
 見榮《みえ》の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間《ま》もない細君に話したくなかつた。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあつた。
 
     七
 
 「今月は何時《いつ》も通り送金が出來ないから其方《そつち》で何うか都合して置けといふんだ。年寄は是だから困るね。そんなら左《さ》うともつと早く云つて呉れゝぱ可《い》いのに、突然金の要る間際になつて、斯《こ》んな事を云つて來て……」
 「一體何ういふ譯なんでせう」
 津田は一旦卷き収めた手紙をまた封筒から出して膝の上で繰り擴げた。
 「貸家が二軒先月末に空《あ》いちまつたんださうだ。それから塞がつてる分からも家賃が入《はい》つて來ないんださうだ。其所へ持つて來て、庭の手入だの垣根の繕《つくろ》ひだので、大分《だいぶ》臨時費が嵩《かさ》んだから今月は送れないつて云ふんだ」
 彼は開いた手紙を、其儘火鉢の向ふ側にゐるお延の手に渡した。御延は又何も云はずにそれを受取つたぎり、別に讀まうともしなかつた。此冷かな細君の態度を津田は最初から恐れてゐたのであつた。
 「なにそんな家賃なんぞ當《あて》にしないだつて、送つてさへ呉れようと思へば何うにでも都合は付くのさ。垣根を繕ふたつて若干《いくら》掛るものかね。煉瓦の塀を一丁も拵《こしら》えやしまいし」
 津田の言葉に僞《いつはり》はなかつた。彼の父はよし富裕でない迄も、毎月《まいげつ》息子《むすこ》夫婦のために其生計の不足を補《おぎな》つてやる位の出費に窮する身分ではなかつた。たゞ彼は地味な人であつた。津田から云へば地味過ぎる位質素であつた。津田よりもずつと派出好《はでず》きな細君から見れば殆ど無意味に近い節儉家であつた。
 「御父さまは屹度《きつと》私達《わたしたち》が要らない贅澤をして、無暗に御金をぱつ/\と遣ふ樣にでも思つてゐらつしやるのよ。屹度さうよ」
 「うん此前京都へ行つた時にも何だかそんな事を云つてたぢやないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計《くらし》を覺えて居て、同年輩の今の若いものも、萬事自分のして來た通りにしなければならない樣に考へるんだからね。そりや御父さんの三十も己《おれ》の三十も年齒《とし》に變りはないかも知れないが、周圍《ぐるり》は丸《まる》で違つてゐるんだから左《さ》うは行かないさ。何時《いつ》かも會へ行く時會費は幾何《いくら》だと訊くから五圓だつて云つたら、驚ろいて恐ろしい樣な顔をした事があるよ」
 津田は平生《ふだん》からお延が自分の父を輕蔑する事を恐れてゐた。それでゐて彼は彼女の前にわが父に對する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。それは本當に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に對して先手を打つといふ點で、自分と父の言譯にもなつた。
 「で今月は何うするの。たゞでさへ足りない所へ持つて來て、貴方が手術のために一週間も入院なさると、また其方《そつち》の方でも幾何《いくら》か掛るでせう」
 夫《をつと》の手前老人に對する批評を憚かつた細君の話頭は、すぐ實際問題の方へ入《はい》つて來た。津田の答は用意されてゐなかつた。しばらくして彼は小聲で獨語《ひとりごと》のやうに云つた。
 「藤井の叔父に金があると、彼所《あすこ》へ行くんだが……」
 お延は夫《をつと》の顔を見詰めた。
 「もう一遍御父さまの所へ云つて上げる譯にや行かないの。序《ついで》に病氣の事も書いて」
 「書いて遣れない事もないが、また何とか蚊とか云つて來られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりや中々|埒《らち》は開《あ》かないよ」
 「でも外《ほか》に當《あて》がなければ仕方なかないの」
 「だから書かないとは云はない。此方《こつち》の事情が好く向ふへ通じるやうにする事はする積《つもり》だが、何しろすぐの間《ま》には合はないからな」
 「さうね」
 其時津田は眞《ま》ともにお延の方を見た。さうして思ひ切つた樣な口調で云つた。
 「何うだ御前岡本さんへ行つて一寸融通して貰つて來ないか」
 
     八
 
 「厭よ、あたし」
 お延はすぐ斷つた。彼女の言葉には何の淀《よど》みもなかつた。遠慮と斟酌《しんしやく》を通り越した其語氣が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相當の速力で走つてゐる自動車を、突然|停《と》められた時のやうな衝撃《シヨツク》を受けた。彼は自分に同情のない細君に對して氣を惡くする前に、先づ驚ろいた。さうして細君の顔を眺めた。
 「あたし、厭よ。岡本へ行つてそんな話をするのわ」
 お延は再び同じ言葉を夫《をつと》の前に繰り返した。
 「左《さ》うかい。それぢや強《し》ひて頼まないでも可《い》い。然し……」
 津田が斯う云ひ掛けた時、お延は冷かな(けれども落付いた)夫《をつと》の言葉を、掬《すく》つて追《お》ひ退《の》けるやうに遮《さへぎ》つた。
 「だつて、あたし極りが惡いんですもの。何時《いつ》でも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行つて仕合せだ、厄介はなし、生計《くらし》に困るんぢやなしつて云はれ付けてゐる所へ持つて來て、不意にそんな御金の話なんかすると、屹度《きつと》變な顔をされるに極つてゐるわ」
 お延が一概に津田の依頼を斥《しりぞ》けたのは、夫《をつと》に同情がないといふよりも、寧ろ岡本に對する見榮《みえ》に制せられたのだといふ事が漸く津田の腑に落ちた。彼の眼のうちに宿つた冷やかな光が消えた。
 「そんなに樂な身分のやうに吹聽《ふいちやう》しちや困るよ。買ひ被られるのも可《い》いが、時によると却つてそれが爲に迷惑しないとも限らないからね」
 「あたし吹聽《ふいちやう》した覺《おぼえ》なんかないわ。たゞ向ふでさう極めてゐる丈《だけ》よ」
 津田は追窮もしなかつた。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかつた。二人は一寸會話を途切らした後で又實際問題に立ち戻つた。然し今迄自分の經濟に關して餘り心を痛めた事のない津田には、別に何うしやうといふ分別《ふんべつ》も出なかつた。「御父さんにも困つちまうな」といふ丈《だけ》であつた。
 お延は偶然思ひ付いた樣に、今迄|其方除《そつちの》けにしてあつた、自分の晴着と帶に眼を移した。
 「これ何うかしませうか」
 彼女は金《きん》の入《はい》つた厚い帶の端《はじ》を手に取つて、夫《をつと》の眼に映《うつ》るやうに、電燈の光に翳《かざ》した。津田には其意味が一寸呑み込めなかつた。
 「何うかするつて、何うするんだい」
 「質屋へ持つてつたら御金を貸して呉れるでせう」
 津田は驚ろかされた。自分が未だ甞て經驗した事のないやうな遣《や》り繰《く》り算段《さんだん》を、嫁に來たての若い細君が、疾《と》くの昔から承知してゐるとすれば、それは彼に取つて驚ろくべき價値のある発見に相違なかつた。
 「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
 「ないわ、そんな事」
 お延は笑ひながら、輕蔑《さげす》むやうな口調で津田の問を打ち消した。
 「ぢや質に入れるにした所で樣子が分らないだらう」
 「えゝ。だけどそんな事何でもないでせう。入れると事が極まれば」
 津田は極端な場合の外、自分の細君にさうした下卑《げび》た眞似をさせたくなかつた。お延は辯解した。
 「時《とき》が知つてるのよ。あの婢《をんな》は宅《うち》にゐる時分能く風呂敷包を抱へて質屋へ使ひに行つた事があるんですつて。それから近頃ぢや端書さへ出せば、向ふから品物を受取りに來て呉れるつていふぢやありませんか」
 細君が大事な着物や帶を自分のために提供して呉れるのは津田に取つて嬉しい事實であつた。然しそれを敢てさせるのは又彼に取つての苦痛に外ならなかつた。細君に對して氣の毒といふよりも寧ろ夫《をつと》の矜《ほこ》りを傷《きずつ》けるといふ意味に於て彼は躊躇した。
 「まあ能く考へて見よう」
 彼は金策上何等の解決も與へずに又二階へ上《あが》つて行つた。
 
     九
 
 翌日津田は例の如く自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひよつくり階子段《はしごだん》の途中で吉川に出會つた。然し彼は下《くだ》りがけ、向《むかふ》は上《のぼ》りがけだつたので、擦れ違に叮嚀な御辭儀をしたぎり、彼は何にも云はなかつた。もう午飯《ひるめし》に間《ま》もないといふ頃、彼はそつと吉川の室《へや》の戸を敲いて、遠慮がちな顔を半分程中へ出した。其時吉川は煙草を吹かしながら客と話をしてゐた。其客は無論彼の知らない人であつた。彼が戸を半分程開けた時、今迄調子づいてゐたらしい主客の會話が突然止まつた。さうして二人とも此方《こつち》を向いた。
 「何か用かい」
 吉川から先へ言葉を掛けられた津田は室《へや》の入口で立ち留つた。
 「一寸……」
 「君自身の用事かい」
 津田は固《もと》より表向の用事で、此|室《へや》へ始終|出入《しゆつにふ》すべき人ではなかつた。跋《ばつ》の惡さうな顔付をした彼は答へた。
 「さうです。一寸……」
 「そんなら後《あと》にして呉れ給へ。今少し差支へるから」
 「はあ。氣が付かない事をして失禮しました」
 音のしないやうに戸を締めた津田は又自分の机の前に歸つた。
 午後になつてから彼は二返《にへん》ばかり同じ戸の前に立つた。然し二返《にへん》共《とも》吉川の姿は其所に見えなかつた。
 「何處かへ行かれたのかい」
 津田は下へ降りた序《ついで》に玄關にゐる給使《きふじ》に訊いた。眼鼻だちの整つた其少年は、石段の下に寐てゐる毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術の如くに口笛を鳴らしてゐた。
 「えゝ先刻《きつき》御客さまと一所に御出掛になりました。ことによると今日はもう此方《こちら》へは御歸りにならないかも知れませんよ」
 毎日人の出入《でいり》の番ばかりして暮してゐる此|給使《きふじ》は、少なくとも此點にかけて、津田よりも確な豫言者であつた。津田はだれが伴《つ》れて來たか分らない茶色の犬と、それから其犬を友達にしやうとして大いに骨を折つてゐる此給使とを其儘にして置いて、又自分の机の前に立ち戻つた。さうして其所で定刻迄例の如く事務を執つた。
 時間になつた時、彼は外《ほか》の人よりも一足|後《おく》れて大きな建物を出た。彼は何時《いつ》もの通り停留所の方へ歩きながら、不圖《ふと》思ひ出したやうに、又|隱袋《ポツケツト》から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりも寧ろ自分の歩いて行く方向を決する爲であつた。歸りに吉川の私宅《うち》へ寄つたものか、止したものかと考へて、無意味に時計と相談したと同じ事であつた。
 彼はとう/\自分の家とは反對の方角に走る電車に飛び乘つた。吉川の不在勝な事をよく知り拔いてゐる彼は、宅《うち》迄《まで》行つた所で必ず會へるとも思つてゐなかつた。たまさか居たにした所で、都合が惡ければ會はずに歸される丈《だけ》だといふ事も承知してゐた。然し彼としては時々吉川家の門を潜《くゞ》る必要があつた。それは禮儀の爲でもあつた。義理の爲でもあつた。又利害の爲でもあつた。最後には單なる虚榮心のためでもあつた。
 「津田は吉川と特別の知り合である」
 彼は時々斯ういふ事實を背中に脊負《しよ》つて見たくなつた。それから其荷を脊負《しよ》つた儘みんなの前に立ちたくなつた。しかも自《みづか》ら重んずるといつた風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、此事實を脊負《しよ》つてゐたかつた。物をなるべく奧の方へ押し隱しながら、其押し隱してゐる所を、却つて他《ひと》に見せたがるのと同じやうな心理作用の下《もと》に、彼は今吉川の玄關に立つた。さうして彼自身は飽く迄も用事のためにわざ/\此所へ來たものと自分を解釋してゐた。
 
     十
 
 嚴《いか》めしい表玄關の戸は何時《いつ》もの通り締まつてゐた。津田は其|上半部《じやうはんぶ》に透《すか》し彫《ぼり》のやうに嵌《は》め込《こ》まれた厚い格《かう》子の中を何氣なく覗いた。中には大きな花崗石《みかげいし》の沓脱《くつぬぎ》が靜かに横たはつてゐた。それから天井の眞中から蒼黒い色をした鑄物の電燈笠が下がつてゐた。今迄ついぞ此所に足を踏み込んだ例《ためし》のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻つた。さうして書生部屋のすぐ傍《そば》にある内玄關《ないげんくわん》から案内を頼んだ。
 「まだ御歸りになりません」
 小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡單であつた。それですぐ相手が歸るものと呑み込んでゐるらしい彼の樣子が少し津田を弱らせた。津田はとう/\折り返して訊いた。
 「奧さんは御出《おいで》ですか」
 「奧さんは居らつしやいます」
 事實を云ふと津田は吉川よりも却つて細君の方と懇意であつた。足を此所迄運んで來る途中の彼の頭の中には、既に最初から細君に會はうといふ氣分が大分《だいぶ》働らいてゐた。
 「では何うぞ奧さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らない此新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭な顔もせずに奧へ入《はい》つた。それから又出て來た時、少し改まつた口調で、「奧さんが御目にお掛りになると仰しやいますから何うぞ」と云つて彼を西洋建の應接間へ案内した。
 彼が其所にある椅子に腰を掛けるや否や、まだ茶も莨盆《たばこぼん》も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
 「今御歸りがけ?」
 彼は卸ろした腰を又立てなければならなかつた。
 「奧さんは何うなすつて」
 津田の挨拶に輕い會釋をしたなり席に着いた細君はすぐ斯う訊いた。津田は一寸苦笑した。何と返事をして可《い》いか分らなかつた。
 「奧さんが出來た所爲《せゐ》か近頃はあんまり宅《うち》へ入らつしやらなくなつた樣ね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかつた。彼女は自分の前に年齡下《としした》の男を見る丈《だけ》であつた。さうして其|年齡下《としした》の男はかねて眼下《めした》の男であつた。
 「まだ嬉しいんでせう」
 津田は輕く砂を揚げて來る風を、凝《ぢつ》として遣り過ごす時のやうに、大人《おとな》しくしてゐた。
 「だけど、もう餘つ程になるわね、結婚なすつてから」
 「えゝもう半歳《はんとし》と少しになります」
 「早いものね、つい此間《このあひだ》だと思つてゐたのに。――それで何うなの此頃は」
 「何がです」
 「御夫婦仲がよ」
 「別に何うといふ事もありません」
 「ぢやもう嬉しい所は通り越しちまつたの。嘘を仰しやい」
 「嬉しい所なんか始めからないんですから、仕方がありません」
 「ぢや是からよ。もし始めからないなら、是からよ、嬉しい所の出て來るのは」
 「有難う、ぢや樂しみにして待つてゐませう」
 「時に貴方御いくつ?」
 「もう澤山です」
 「澤山ぢやないわよ。一寸伺ひたいから伺つたんだから、正直に淡泊《さつぱり》と仰《おつし》やいよ」
 「ぢや申し上げます。實は三十です」
 「すると來年はもう一ね」
 「順に行けばまあさうなる勘定です」
 「お延さんは?」
 「あいつは三です」
 「來年?」
 「いえ今年」
 
     十一
 
 吉川の細君は斯《こ》んな調子で能く津田に調戯《からか》つた。機嫌の好い時は猶更《なほさら》であつた。津田も折々は向ふを調戯《からか》ひ返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談《ぜうだん》とも眞面目とも片の付かない或物が閃《ひら》めく事が度々《たび/\》あつた。そんな場合に出會ふと、根強い性質《たち》に出來上つてゐる彼は、談話の途中でよく拘泥《こだは》つた。さうしてもし事情が許すならば、何處迄も話の根を堀《ほ》ぢつて、相手の本意を突き留めやうとした。遠慮のために其所迄行けない時は、黙つて相手の顔色|丈《だけ》を注視した。其時の彼の眼には必然の結果として何時《いつ》でも輕い疑ひの雲がかゝつた。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。又は自衛的に慢《たか》ぶる神經の光を放つかの如くにも見えた。最後に、「思慮に充ちた不安」とでも形容して然るべき一種の匂も帶びてゐた。吉川の細君は津田に會ふたんびに、一度か二度|屹度《きつと》彼を其所迄追ひ込んだ。津田は又それと自覺しながら何時《いつ》の間《ま》にか其所へ引き摺り込まれた。
 「奧さんは隨分意地が惡いですね」
 「何うして? 貴方方《あなたがた》の御年齒《おとし》を伺つたのが意地が惡いの」
 「さう云ふ譯でもないですが、何だか意味のあるやうな、又ないやうな訊き方をして置いて、わざと其《その》後《あと》を仰しやらないんだから」
 「後《あと》なんかありやしないわよ。一體貴方はあんまり研究家だから駄目ね。學問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物《きんもつ》よ。あなたが其癖を已《や》めると、もつと人好《ひとずき》のする好い男になれるんだけれども」
 津田は少し痛かつた。けれどもそれは彼の胸に來る痛さで、彼の頭に應《こた》へる痛さではなかつた。彼の頭は此露骨な打撃の前に冷然として相手を見下《みくだ》してゐた。細君は微笑した。
 「嘘だと思ふなら、歸つて貴方の奧さんに訊いて御覽遊ばせ。お延さんも屹度《きつと》私と同意見だから。お延さんばかりぢやないわ、まだ外にもう一人ある筈よ、屹度」
 津田の顔が急に堅くなつた。唇の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答へなかつた。
 「解つたでせう、誰だか」
 細君は彼の顔を覗き込むやうにして訊いた。彼は固《もと》より其誰であるかを能く承知してゐた。けれども細君の云ふ事を肯定する氣は毫もなかつた。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。其眼が無言の裡《うち》に何を語つてゐるか、細君には解らなかつた。
 「御氣に障つたら堪忍して頂戴。さう云ふ積《つもり》で云つたんぢやないんだから」
 「いえ何とも思つちやゐません」
 「本當に?」
 「本當に何とも思つちやゐません」
 「それでやつと安心した」
 細君はすぐ元の輕い調子を快復した。
 「貴方まだ何處か子供々々した所があるのね、斯うして話してゐると。だから男は損な樣で矢つ張り得《とく》なのね。貴方はそら今|仰《おつし》やつた通り丁度でせう、それからお延さんが今年三になるんだから、年齒《とし》でいふと、餘つ程違ふんだけれども、樣子からいふと、却つて奧さんの方が更《ふ》けてる位よ。更《ふ》けてると云つちや失禮に當るかも知れないけれども、何と云つたら可《い》いでせうね、まあ……」
 細君は津田を前に置いてお延の樣子を形容する言葉を思案するらしかつた。津田は多少の好奇心をもつて、それを待ち受けた。
 「まあ老成《らうせい》よ。本當に怜悧《りかう》な方《かた》ね、あんな怜悧《りかう》な方《かた》は滅多に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」
 細君の語勢からいふと、「大事にしてやれ」といふ代りに、「能く氣を付けろ」と云つても大した變りはなかつた。
 
     十二
 
 其時二人の頭の上に下《さが》つてゐる電燈がぱつと點《つ》いた。先刻《さつき》取次に出た書生がそつと室《へや》の中へ入《はい》つて來て、音のしないやうにブラインドを卸《お》ろして、又無言の儘出て行つた。瓦斯煖爐《ガスだんろ》の色の段々濃くなつて來るのを、最前《さいぜん》から注意して見てゐた津田は、黙つて書生の後姿を目送《もくそう》した。もう好い加減に話を切り上げて歸らなければならないといふ氣がした。彼は自分の前に置かれた紅茶々碗の底に冷たく浮いてゐる檸檬《レモン》の一切《ひときれ》を除《よ》けるやうにして其餘りを殘りなく啜《すゝ》つた。さうしてそれを相圖《あひづ》に、自分の持つて來た用事を細君に打ち明けた。用事は固《もと》より單簡《たんかん》であつた。けれども細君の諾否|丈《だけ》ですぐ決定されべき性質のものではなかつた。彼の自由に使用したいといふ一週間前後の時日を、月の何處へ置いて可《い》いか、其處は彼女にも丸《まる》で解らなかつた。
 「何時《いつ》だつて構やしないんでせう。繰合せさへ付けば」
 彼女はさも無雜作な口振で津田に好意を表して呉れた。
 「無論繰合せは付くやうにして置いたんですが……」
 「ぢや好いぢやありませんか。明日《あした》から休んだつて」
 「でも一寸伺つた上でないと」
 「ぢや歸つたら私から能く話して置きませう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。恰《あたか》も自分が他《ひと》の爲に働らいてやる用事が又一つ出來たのを喜こぶやうにも見えた。津田は此機嫌のいゝ、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉しかつた。自分の態度なり所作《しよさ》なりが原動力になつて、相手をさうさせたのだといふ自覺が彼を猶更《なほさら》嬉しくした。
 彼はある意味に於て、此細君から子供扱ひにされるのを好《す》いてゐた。それは子供扱ひにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事が出來たからである。さうして其親しみを能く能く立ち割つて見ると、矢張男女兩性の間にしか起り得ない特殊な親しみであつた。例へて云ふと、或人が茶屋女などに突然脊中を打《ど》やされた刹那に受ける快感に近い或物であつた。
 同時に彼は吉川の細君などが何うしても子供扱ひにする事の出來ない自己を裕《ゆたか》に有《も》つてゐた。彼は其自己をわざと押《お》し藏《かく》して細君の前に立つ用意を忘れなかつた。斯くして彼は心置なく細君から嬲《なぶ》られる時の輕い感じを前に受けながら、背後は何時《いつ》でも自分の築いた厚い重い壁に倚《よ》りかゝつてゐた。
 彼が用事を濟まして椅子を離れやうとした時、細君は突然口を開《ひら》いた。
 「また子供のやうに泣いたり唸つたりしちや不可《いけま》せんよ。大きな體《なり》をして」
 津田は思はず去年の苦痛を思ひ出した。
 「あの時は實際弱りました。唐紙《からかみ》の開閉《あけたて》が局部に應《こた》へて、其|度《たんび》にびくん/\と身體全體が寐床の上で飛び上つた位なんですから。然し今度《こんだ》は大丈夫です」
 「さう? 誰が受合つて呉れたの。何だか解つたもんぢやないわね。餘《あん》まり口幅つたい事を仰しやると、見屆けに行きますよ」
 「あなたに見舞に來て頂けるやうな所ぢやありません。狹くつて汚なくつて變な部屋なんですから」
 「一向《いつかう》構はないわ」
 細君の樣子は本氣なのか調戯《からか》ふのか一寸要領を得なかつた。醫者の專門が、自分の病氣以外の或方面に屬するので、婦人などはあまり其所へ近付かない方が可《い》いと云はうとした津田は、少し口籠《くちごも》つて躊躇した。細君は虚に乘じて肉薄した。
 「行きますよ、少し貴方に話す事があるから。お延さんの前ぢや話しにくい事なんだから」
 「ぢや其内又私の方から伺ひます」
 細君は逃げるやうにして立つた津田を、笑ひ聲と共に應接間から送り出した。
 
     十三
 
 徃來へ出た津田の足は次第に吉川の家を遠ざかつた。けれども彼の頭は彼の足程早く今迄居た應接間を離れる譯に行かなかつた。彼は比較的人通りの少ない宵闇《よひやみ》の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちら/\見た。
 冷たさうに燦《ぎら》つく肌合《はだあひ》の七寶製《しつぱうせい》の花瓶、其花瓶の滑《なめ》らかな表面に流れる華麗《はなやか》な模樣の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒い地《ぢ》の中に茶の唐草模樣を浮かした重さうな窓掛、三隅《みすみ》に金箔を置いた裝飾用のアルバム、――斯ういふものゝ強い刺戟が、既に明るい電燈の下《もと》を去つて、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に徃來した。
 彼は無論此渦まく色の中に坐つてゐる女主人公の幻影《げんえい》を忘れる事が出來なかつた。彼は歩きながら先刻《さつさ》彼女と取り換はせた會話を、ぽつり/\思ひ出した。さうして其或部分に來ると、恰《あたか》も炒豆《いりまめ》を口へ入れた人の樣に、咀嚼《そしやく》しつゝ味はつた。
 「あの細君はことによると、まだあの事件に就いて、己《おれ》に何か話をする氣かも知れない。其話を實は己《おれ》は聞きたくないのだ。然し又非常に聞きたいのだ」
 彼は此矛盾した兩面を自分の胸の中《うち》で自分に公言した時、忽ちわが弱點を曝露した人のやうに、暗い路の上で赤面した。彼は其赤面を通り拔ける爲に、わざとすぐ先へ出た。
 「若しあの細君があの事件に就いて己《おれ》に何か云ひ出す氣があるとすると、その主意は果して何處にあるだらう」
 今の津田は決して此問題に解決を與へる事が出來なかつた。
 「己《おれ》に調戯《からか》ふため?」
 それは何とも云へなかつた。彼女は元來|他《ひと》に調戯《からか》ふ事の好《すき》な女であつた。さうして二人の間柄は其方面の自由を彼女に與へるに充分であつた。其上彼女の地位は知らず/\の間に今の彼女を放慢にした。彼を焦《じ》らす事から受け得られる單なる快感のために、遠慮の埒《らち》を平氣で跨《また》ぐかも知れなかつた。
 「もし左《さ》うでないとしたら、……己《おれ》に對する同情のため? 己《おれ》を贔屓《ひいき》にし過ぎるため?」
 それも何とも云へなかつた。今迄の彼女は實際彼に對して親切でもあり、又|贔屓《ひいき》にもして呉れた。
 彼は廣い通りへ來て其所から電車へ乘つた。堀端《ほりばた》を沿ふて走る其電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、それから其土手の上に蟠《わだか》まる黒い松の木が見える丈《だけ》であつた。
 車内の片隅に席を取つた彼は、窓を透《すか》して此さむざむしい秋の夜《よ》の景色《けしき》に一寸眼を注いだ後《あと》、すぐ又|外《ほか》の事を考へなければならなかつた。彼は面倒になつて昨夕《ゆうべ》は其儘にして置いた金の工面を何うかしなければならない位地にあつた。彼はすぐ又吉川の細君の事を思ひ出した。
 「先刻《さつき》事情を打ち明けて此方《こつち》から云ひ出しさへすれば譯はなかつたのに」
 さう思ふと、自分が氣を利かした積《つもり》で、斯う早く席を立つて來てしまつたのが殘り惜しくなつた。と云つて、今更其用事|丈《だけ》で、また彼女に會ひに行く勇氣は彼には全くなかつた。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干の下に蹲踞《うづく》まる乞食を見た。其乞食は動く黒い影の樣に彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套を着けてゐた。季節からいふと寧ろ早過ぎる瓦斯煖爐の温かい?《ほのほ》をもう見て來た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中には殆んど入《はい》る餘地がなかつた。彼は窮した人のやうに感じた。父が例月の通り金を送つて呉れないのが不都合に思はれた。
 
     十四
 
 津田は同じ氣分で自分の宅《うち》の門前迄歩いた。彼が玄關の格子《かうし》へ手を掛けようとすると、格子のまだ開《あ》かない先に、障子の方がすうと開《あ》いた。さうしてお延の姿が何時《いつ》の間《ま》にか彼の前に現はれてゐた。彼は吃驚《びつくり》したやうに、薄化粧を施こした彼女の横顔を眺めた。
 彼は結婚後|斯《こ》んな事で能く自分の細君から驚ろかされた。彼女の行爲は時として夫《をつと》の先《せん》を越すといふ惡い結果を生む代りに、時としては非常に氣の利いた證據《しようこ》をも擧げた。日常|瑣末《さまつ》の事件のうちに、よく此特色を發揮する彼女の所作《しよさ》を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀《ナイフ》の光のやうに眺める事があつた。小さいながら冴えてゐるといふ感じと共に、何處か氣味の惡いといふ心持も起つた。
 咄嗟《とつさ》の場合津田はお延が何かの力で自分の歸りを豫感したやうに思つた。けれども其譯を訊く氣にはならなかつた。譯を訊いて笑ひながらはぐらかされるのは、夫《をつと》の敗北のやうに見えた。
 彼は澄まして玄關から上へ上がつた。さうしてすぐ着物を着換へた。茶の間の火鉢の前には黒塗の足の付いた膳の上に布巾《ふきん》を掛けたのが、彼の歸りを待ち受ける如くに据ゑてあつた。
 「今日も何處かへ御廻り?」
 津田が一定の時刻に宅《うち》へ歸らないと、お延は屹度《きつと》斯ういふ質問を掛けた。勢《いきほ》ひ津田は何とか返事をしなければならなかつた。然しさう用事ばかりで遲くなるとも限らないので、時によると彼の答は變に曖味なものになつた。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
 「中《あ》てゝ見ませうか」
 「うん」
 今日の津田は如何にも平氣であつた。
 「吉川さんでせう」
 「能く中《あた》るね」
 「大抵容子で解りますわ」
 「左《さ》うかね。尤も昨夜《ゆうべ》吉川さんに話をしてから手術の日取を極める事にしようつて云つたんだから、中《あた》る譯は譯だね」
 「そんな事がなくつたつて、妾《あたし》中《あ》てるわ」
 「さうか。偉いね」
 津田は吉川の細君に頼んで來た要點|丈《だけ》をお延に傳へた。
 「ぢや何時《いつ》から、その治療に取りかゝるの」
 「さういふ譯だから、まあ何時《いつ》からでも構はないやうなもんだけれども……」
 津田の腹には、其治療にとりかゝる前に、是非金の工面をしなければならないといふ屈託《くつたく》があつた。其額は無論大したものではなかつた。然し大した額でない丈《だけ》に、是といふ簡便な調達方《てうだつかた》の胸に浮ばない彼を、猶《なほ》焦《いら》つかせた。
 彼は神田にゐる妹《いもと》の事を一寸思ひ浮べて見たが、其所へ足を向ける氣には何うしてもなれなかつた。彼が結婚後家計膨脹といふ名義の下《もと》に、毎月《まいげつ》の不足を、都にゐる父から填補《てんぽ》して貰ふ事になつた一面には、盆暮《ぼんくれ》の賞與で、その何分《なんぶん》かを返濟するといふ條件があつた。彼は色々の事情から、此夏その條件を履行しなかつたために、彼の父は既に感情を害してゐた。それを知つてゐる妹は又大體の上に於て寧ろ父の同情者であつた。妹の夫《をつと》の手前.金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑《いさぎ》よしとしなかつた彼は、此事情のために、猶更《なほさら》堅くなつた。彼は已《やむ》を得なければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴へるより外に仕方がないと思つた。それには今の病氣を、少し手重《ておも》に書くのが得策だらうとも考へた。父母《ふぼ》に心配を掛けない程度で、實際の事實に多少の光澤《つや》を着ける位の事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでも出來る手加減であつた。
 「お延|昨夜《ゆうべ》お前の云つた通りもう一遍御父さんに手紙を出さうよ」
 「さう。でも……」
 お延は「でも」と云つたなり津田を見た。津田は構はず二階へ上《あが》つて机の前に坐つた。
 
     十五
 
 西洋流のレターペーパーを使ひつけた彼は、机の抽斗《ひきだし》からラ※[エに濁点]ンダー色の紙と封筒とを取り出して、其紙の上へ萬年筆で何心なく二三行書きかけた時、不圖《ふと》氣がついた。彼の父は洋筆《ペン》や萬年筆でだらしなく綴られた言文一致の手紙などを、自分の伜《せがれ》から受け取る事は平生《ひごろ》からあまり喜こんでゐなかつた。彼は遠くにゐる父の顔を眼の前に思ひ浮べながら、苦笑して筆を擱《お》いた。手紙を書いて遣つた所で到底|效能《きゝめ》はあるまいといふ氣が續いて起つた。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の餘りへ、山羊髭《やぎひげ》を生やした細面《ほそおもて》の父の顔をいたづらにスケツチして、何うしやうかと考へた。
 やがて彼は決心して立ち上つた。襖を開けて、二階の上《あが》り口《ぐち》の所に出て、其所から下にゐる細君を呼んだ。
 「お延お前の所に日本の卷紙と状袋があるかね。あるなら一寸《ちよいと》お貸し」
 「日本の?」
 細君の耳には此形容詞が變に滑稽に聞こえた。
 「女のならあるわ」
 津田は又自分の前に粹《いき》な模樣入の半切《はんきれ》を擴げて見た。
 「是なら氣に入るかしら」
 「中さへ能く解るやうに書いて上げたら紙なんか何うでも可《よ》かないの」
 「左《さ》うは行かないよ。御父さんはあれで中々六づかしいんだからね」
 津田は眞面目な顔をして猶《なほ》半切《はんきれ》を見詰めてゐた。お延の口元には薄笑ひの影が差《さ》した。
 「時《とき》を一寸《ちよいと》買はせに遣りませうか」
 「うん」
 津田は生返事《なまへんじ》をした。白い卷紙と無地の封筒さへあれば、必ず自分の希望が成功するといふ譯にも行かなかつた。
 「待つてゐらつしやい。ぢきだから」
 お延はすぐ下へ降りた。やがて潜《くゞ》り戸《ど》が開《あ》いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入《はい》る迄、何もせずに、たゞ机の前に坐つて煙草を吹かした。
 彼の頭は勢ひ彼の父を離れなかつた。東京に生れて東京に育つた其父は、何ぞといふとすぐ上方《かみがた》の惡口《わるくち》を云ひたがる癖に、何時《いつ》か永住の目的をもつて京都に落ち付いてしまつた。彼が其土地を餘り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩らした時.父は自分で買つた土地と自分が建てた家とを彼に示して、「是を何うする氣か」と云つた。今よりもまだ年の若かつた彼は、父の言葉の意味さへよく解らなかつた。所置はどうでも出來るのにと思つた。父は時々彼に向つて、「誰の爲でもない、みんな御前の爲だ」と云つた。「今は其|有難味《ありがたみ》が解らないかも知れないが、己《おれ》が死んで見ろ、屹度《きつと》解る時が來るから」とも云つた。彼は頭の中で父の言葉と、其言葉を口にする時の父の態度とを描《ゑが》き出した。子供の未來の幸福を一手《いつて》に引き受けたやうな自信に充ちた其樣子が、近づくべからざる豫言者のやうに彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向つて云ひたくなつた。
 「御父さんが死んだ後《あと》で、一度に御父さんの有難味が解るよりも、お父さんが生きてゐるうちから、毎月《まいげつ》正確にお父さんの有難味が少しづゝ解る方が、何《ど》の位《くらゐ》樂だか知れやしません」
 彼が父の機嫌を損《そこね》ないような卷紙の上へ、成るべく金を送つて呉れさうな文句を、堅苦しい候文で認《したゝ》め出したのは、それから約十分|後《ご》であつた。彼はぎごちない思ひをして、漸くそれを書き上げた後《あと》で、もう一遍讀み返した時に、自分の字の拙《まづ》い事につく/”\愛想《あいそ》を盡かした。文句はとにかく、斯んな字では到底成功する資格がないやうにも思つた。最後に、よし成功しても、此方《こつち》で要る期日迄に金はとても來ないやうな氣がした。下女にそれを投函させた後《あと》、彼は黙つて床の中へ潜《もぐ》り込みながら、腹の中《なか》で云つた。
 「其時は其時の事だ」
 
     十六
 
 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立つた。
 「昨日《きのふ》宅《うち》へ來たつてね」
 「えゝ一寸御留守へ伺つて、奧さんに御目に掛つて參りました」
 「また病氣ださうぢやないか」
 「えゝ少し……」
 「困るね。さう能く病氣をしちや」
 「何實は此前の續きです」
 吉川は少し意外さうな顔をして、今迄使つてゐた食後の小楊子を口から吐き出した。それから内隱袋《うちがくし》を探《さぐ》つて莨入《たばこいれ》を取り出さうとした。津田はすぐ灰皿の上にあつた燐寸《マツチ》を擦《す》つた。あまり氣を利かさうとして急《せ》いたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章《あわ》てゝ二本目を擦つて、それを大事さうに吉川の鼻の先へ持つて行つた。
 「何しろ病氣なら仕方がない、休んでよく養生したら可《い》いだらう」
 津田は禮を云つて室《へや》を出ようとした。吉川は煙《けむ》りの間から訊いた。
 「佐々木には斷つたらうね」
 「えゝ佐々木さんにも外の人にも話して、繰り合せをして貰ふ事にしてあります」
 佐々木は彼の上役《うはやく》であつた。
 「何うせ休むなら早い方が可《い》いね。早く養生して早く好くなつて、さうしてせつせと働らかなくつちや駄目だ」
 吉川の言葉は能く彼の氣性を現はしてゐた。
 「都合が可《よ》ければ明日《あした》からにし給へ」
 「へえ」
 斯う云はれた津田は否應《いやおう》なしに明日《あした》から入院しなければならないやうな心持がした。
 彼の身體が半分戸の外へ出掛かつた時、彼は又|後《うしろ》から呼び留められた。
 「おい君、お父さんは近頃何うしたね。相變らずお丈夫かね」
 振り返つた津田の鼻を葉卷の好い香《にほひ》が急に冒した。
 「へえ、有難う、お蔭さまで達者で御座います」
 「大方詩でも作つて遊んでるんだらう。氣樂で好いね。昨夕《ゆうべ》も岡本と或所で落ち合つて、君のお父さんの噂をしたがね。岡本も羨ましがつてたよ。彼《あ》の男も近頃少し閑暇《ひま》になつたやうなものの矢つ張、君のお父さんの樣にや行かないからね」
 津田は自分の父が決して是等の人から羨やましがられてゐるとは思はなかつた。もし父の境遇に彼等を置いてやらうといふものがあつたなら、彼等は苦笑して、少なくとももう十年は此儘にして置いて呉れと頼むだらうと考へた。それは固《もと》より自分の性格から割り出した津田の觀察に過ぎなかつた。同時に彼等の性格から割り出した津田の觀察でもあつた。
 「父はもう時勢後《じせいおく》れですから、あゝでもして暮らしてゐるより外に仕方が御座いません」
 津田は何時《いつ》の間《ま》にか又|室《へや》の中に戻つて、元通りの位置に立つてゐた。
 「何うして時勢後《じせいおく》れ所ぢやない、つまり時勢に先だつてゐるから、あゝした生活が送れるんだ」
 津田は挨拶に窮した。向ふの口の重賓《ちようはう》なのに比べて、自分の口の不重寶《ぶちようはう》さが荷になつた。彼は手持無沙汰の氣味で、緩《ゆる》く消えて行く葉卷の烟《けむ》りを見詰めた。
 「お父さんに心配を掛けちや不可《いけな》いよ。君の事は何でも此方《こつち》に分つてるから、もし惡い事があると、僕からお父さんの方へ知らせて遣るぜ、好いかね」
 津田は此子供に對するやうな、笑談《ぜうだん》とも訓戒とも見分《みわけ》のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、漸く室外に逃《のが》れ出《で》た。
 
     十七
 
 其日の歸りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑やかな通りを少し行つた所で横へ曲つた。質屋の暖簾《のれん》だの碁會所の看板だの鳶《とび》の頭《かしら》の居さうな格子戸作《かうしどづく》りだのを左右に見ながら、彼は彎曲《わんきよく》した小路《こうぢ》の中程にある擦硝子張《すりがらすばり》の扉を外から押して内へ入《はい》つた。扉の上部に取り付けられた電鈴《ベル》が鋭どい音を立てた時、彼は玄關の突き當りの狹い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のない其|室《へや》は狹い許《ばかり》でなく實際暗かつた。外部《そと》から急に入《はい》つて來た彼には丸《まる》で穴藏のやうな感じを與へた。彼は寒さうに長椅子の片隅へ腰を卸して、たつた今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼等の多くは室《へや》の眞中に出してある大きな瀬戸物火鉢の周圍《まはり》を取り卷くやうにして坐つてゐた。其《その》中《うち》の二人は腕組の儘、二人は火鉢の縁《ふち》に片手を翳《かざ》した儘、ずつと離れた一人は其所に取り散らした新聞紙の上へ甜《な》めるやうに顔を押し付けた儘、又最後の一人は彼の今腰を卸した長椅子の反對の隅に心持身體を横にして洋袴《ズボン》の膝頭を重ねた儘。
 電鈴《ベル》の鳴つた時申し合せた樣に戸口を振り向いた彼等は、一瞥《いちべつ》の後《のち》又申し合せた樣に靜かになつてしまつた。みんな黙つて何事をか考へ込んでゐるらしい態度で坐つてゐた。其樣子が津田の存在に注意を拂はないといふよりも、却つて津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。單に津田ばかりでなく、お互に注意され合ふ苦痛を憚かつて、わざとそつぽへ眼を落してゐるらしくも見えた。
 此陰氣な一群《いちぐん》の人々は、殆んど例外なしに似たり寄つたりの過去を有《も》つてゐるものばかりであつた。彼等は斯うして暗い控室の中で、靜かに自分の順番の來るのを待つてゐる間に、寧ろ華やかに彩《いろど》られたその過去の斷片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。さうして明るい所へ眼を向ける勇氣がないので、ぢつと其黒い影の中に立ち竦《すく》むやうにして閉ぢ籠つてゐるのである。
 津田は長椅子の肱掛《ひぢかけ》に腕を載せて手を額に中《あ》てた。彼は黙祷を神に捧げるやうな此姿勢のもとに、彼が去年の暮以來此醫者の家で思ひ掛なく會つた二人の男の事を考へた。
 其一人は事實彼の妹婿《いもとむこ》に外ならなかつた。此暗い室《へや》の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚《びつくり》した。そんな事に對して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、一寸挨拶に窮したらしかつた。
 他の一人は友達であつた。是は津田が自分と同性質の病氣に罹つてゐるものと思ひ込んで、向ふから平氣に聲を掛けた。彼等は其時二人一所に醫者の門を出て、晩飯を食ひながら、性《セツクス》と愛《ラヴ》といふ問題に就いて六づかしい議論をした。
 妹婿《いもとむこ》の事は一時の驚ろき丈《だけ》で、大した影響もなく濟んだが、それぎりで後《あと》のなささうに思へた友達と彼との間には、其《その》後《ご》異常な結果が生れた。
 其時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考へなければならなかつた津田は、突然|衝撃《シヨツク》を受けた人のやうに、眼を開いて額から手を放した。
 すると診察所から紺セルの洋服を着た三十|恰好《がつかう》の男が出て來て、すぐ藥局の窓の所へ行つた。彼が隱袋《かくし》から紙入を出して金を拂はうとする途端に、看護婦が敷居の上に立つた。彼女と見知《みし》り越《ごし》の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返さうとする彼女を呼び留めた。
 「順番を待つてゐるのが面倒だから一寸先生に訊いて下さい。明日《あした》か明後日《あさつて》手術を受けに來て好いかつて」
 奧へ入《はい》つた看護婦はすぐ又白い姿を暗い室《へや》の戸口に現はした。
 「今丁度二階が空《あ》いて居りますから、何時《いつ》でも御都合の宜しい時に何うぞ」
 津田は逃《のが》れるやうに暗い室《へや》を出た。彼が急いで靴を穿《は》いて、擦硝子張《すりがらすばり》の大きな扉を内側へ引いた時、今迄眞暗に見えた控室にぱつと電燈が點《つ》いた。
 
     十八
 
 津田の宅《うち》へ歸つたのは、昨日《きのふ》よりは稍《やゝ》早目であつたけれども、近頃急に短かくなつた秋の日脚は疾《と》くに傾いて、先刻《さつき》迄《まで》往來に丈《だけ》殘つてゐた肌寒《はださむ》の餘光が、一度に地上から拂ひ去られるやうに消えて行く頃であつた。
 彼の二階には無論火が點《つ》いてゐなかつた。玄關も眞暗であつた。今|角《かど》の車星の軒燈《けんとう》を明らかに眺めて來た許《ばかり》の彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子《かうし》を開けた。それでもお延は出て來なかつた。昨日の今頃待ち伏せでもするやうにして彼女から毒氣を拔かれた時は、餘り好い心持もしなかつたが、斯うして迎へる人もない眞暗な玄關に立たされて見ると、矢張《やつぱ》り昨日の方が愉快だつたといふ氣が彼の胸の何處かでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思ひ掛けない二階の方で「はい」といふ返事がした。それから階子段《はしごだん》を踏んで降りて來る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳け出して來た。
 「何をしてゐるんだ」
 津田の言葉には多少不滿の響きがあつた。お延は何にも云はなかつた。然し其顔を見上げた時、彼は何時《いつ》もの通り無言の裡《うち》に自分を牽き付けやうとする彼女の微笑を認めない譯に行かなかつた。白い齒が何より先に彼の視線を奪つた。
 「二階は眞暗ぢやないか」
 「えゝ。何だか盆槍《ぼんやり》して考へてゐたもんだから、つい御歸りに氣が付かなかつたの」
 「寐てゐたな」
 「まさか」
 下女が大きな聲を出して笑ひ出したので、二人の會話はそれぎり切れてしまつた。
 湯に行く時、お延は「一寸待つて」と云ひながら、石鹸と手拭を例の通り彼女の手から受け取つて火鉢の傍《そば》を離れやうとする夫《をつと》を引き留めた。彼女は後《うし》ろ向《むき》になつて、重ね箪笥の一番下の抽斗《ひきだし》から、ネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を出して夫《をつと》の前へ置いた。
 「一寸着て見て頂戴。まだ壓《おし》が好く利いてゐないかも知れないけども」
 津田は烟《けむ》に卷かれたやうな顔をして、黒八丈《くろはちぢやう》の襟のかゝつた荒い竪縞の褞袍《どてら》を見守《みま》もつた。それは自分の買つた品でもなければ、拵《こしら》へて呉れと誂《あつら》へた物でもなかつた。
 「何うしたんだい。是は」
 「拵えたのよ。貴方が病院へ入《はい》る時の用心に。あゝいふ所で、あんまり變な服裝《なり》をしてゐるのは見つともないから」
 「何時《いつ》の間《ま》に拵へたのかね」
 彼が手術のため一週間ばかり家《うち》を空《あ》けなければならないと云つて、其譯をお延に話したのは、つい二三日前《にさんちまへ》の事であつた。其上彼はその日から今日《けふ》に至る迄、ついぞ針を持つて裁物板《たちものいた》の前に坐つた細君の姿を見た事がなかつた。彼は不思議の感に打たれざるを得なかつた。お延は又|夫《をつと》の此驚きを恰《あたか》も自分の努力に對する報酬の如くに眺めた。さうしてわざと説明も何も加へなかつた。
 「布《きれ》は買つたのかい」
 「いゝえ、是あたしの御古《おふる》よ。此冬着やうと思つて、洗張《あらひはり》をした儘仕立てずに仕舞つといたの」
 成程若い女の着る柄|丈《だけ》に、縞がたゞ荒いばかりでなく、色合《いろあひ》も何方《どつち》かといふと寧ろ派出《はで》過ぎた。津田は袖を通したわが姿を、奴凧《やつこだこ》のやうな風をして、少し極り惡さうに眺めた後でお延に云つた。
 「とう/\明日《あした》か明後日《あさつて》遣つて貰ふ事に極めて來たよ」
 「さう。それであたしは何うなるの」
 「御前は何うもしやしないさ」
 「一所に隨《つ》いて行つちや不可《いけな》いの。病院へ」
 お延は金の事などを丸《まる》で苦にしてゐないらしく見えた。
 
     十九
 
 津田の明《あく》る朝《あさ》眼を覺ましたのは何時《いつ》もよりずつと遲かつた。家の内《なか》はもう一片付《ひとかたづき》かたづいた後《あと》のやうにひつそり閑《かん》としてゐた。座敷から玄關を通つて茶の間の障子を開けた彼は、其所の火鉢の傍《そば》にきちんと坐つて新聞を手にしてゐる細君を見た。穩やかな家庭を代表するやうな音を立てゝ鐵瓶が鳴つてゐた。
 「氣を許して寐ると、寐坊をする積《つもり》はなくつても、つい寐過ごすもんだな」
 彼は云ひ譯らしい事をいつて、暦の上に懸けてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指《さ》してゐた。
 顔を洗つて又茶の間へ戻つた時、彼は何氣なく例の黒塗の膳に向つた。其膳は彼の着席を待ち受けたといふよりも、寧ろ待ち草臥《くたび》れたといつた方が適當であつた。彼は膳の上に掛けてある布巾《ふきん》を除《と》らうとして不圖《ふと》氣が付いた。
 「是《こり》や不可《いけな》い」
 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて醫者から聞かされた事を思ひ出した。然し今の彼はそれを明らかに覺えてゐなかつた。彼は突然細君に云つた。
 「一寸訊いてくる」
 「今すぐ?」
 お延は吃驚《ぴつくり》して夫《をつと》の顔を見た。
 「なに電話でだよ。譯やない」
 彼は靜かな茶の間の空氣を自分で蹴散らす人のやうに立ち上ると、すぐ玄關から表へ出た。さうして電車通りを半丁程右へ行つた所にある自動電話へ馳け付けた。其所から又急ぎ足に取つて返した彼は玄關に立つた儘細君を呼んだ。
 「一寸二階にある紙入を取つて呉れ。御前の蟇口でも好い」
 「何《なん》になさるの」
 お延には夫《をつと》の意味が丸《まる》で解らなかつた。
 「何でも可《い》いから早く出して呉れ」
 彼はお延から受取つた蟇口を懷中《ふところ》へ放《はふ》り込《こ》んだ儘、すぐ大通りの方へ引き返した。さうして電車に乘つた。
 彼が可なり大きな紙包を抱へて又戻つて來たのは、それから約三四十分|後《ご》で、もう午《ひる》に間もない頃であつた。
 「あの蟇口の中にや少しつきや入《はい》つてゐないんだね。もう少しあるのかと思つたら」
 津田はさう云ひながら腋《わき》に抱へた包みを茶の間の疊の上へ放《はふ》り出《だ》した。
 「足りなくつて?」
 お延は細かい事に迄氣を遣はないではゐられないといふ眼付を夫《をつと》の上に向けた。
 「いや足りないといふ程でもないがね」
 「だけど何をお買ひになるかあたし些《ちつ》とも解らないんですもの。もしかすると髪結床《かみひどこ》かと思つたけれども」
 津田は二ケ月以上手を入れない自分の頭に氣が付いた。永く髪を刈らないと、心持|番《ばん》の小《ちひ》さい彼の帽子が、被《かぶ》るたんびに少しづゝきしんで來るやうだといふ、つい昨日《きのふ》の朝受けた新らしい感じ迄思ひ出した。
 「それに餘《あん》まり急いでゐらつしつたもんだから、つい二階迄取りに行けなかつたのよ」
 「實は己《おれ》の紙入の中にも、さう澤山|入《はい》つてる譯ぢやないんだから、まあ何方《どつち》にしたつて大した變りはないんだがね」
 彼は蟇口の惡口《わるくち》ばかり云へた義理でもなかつた。
 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の罐《くわん》と、?麭《パン》と牛酪《バタ》を取り出した。
 「おや/\是召しやがるの。そんなら時《とき》を取りに御遣りになれば可《い》いのに」
 「なに彼奴《あいつ》ぢや分らない。何を買つて來るか知れやしない」
 やがて好い香《にほひ》のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
 朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片のつかない、極めて單純な西洋流の食事を濟ました後で、津田は獨りごとのやうに云つた。
 「今日は病氣の報知|旁《かた/”\》無沙汰見舞に、一寸朝の内藤井の叔父の所迄行つて來《き》やうと思つてたのに、とう/\遲くなつちまつた」
 彼の意味は仕方がないから午後に此訪問の義務を果さうといふのであつた。
 
     二十
 
 藤井といふのは津田の父の弟であつた。廣島に三年長崎に二年といふ風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を餘儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地々々を巡禮のやうに經《へ》めぐる不便と不利益とに痛《いた》く頭を惱ました揚句、早くから彼を其弟に託して、一切の面倒を見て貰ふ事にした。だから津田は手もなく此叔父に育て上げられたやうなものであつた。從つて二人の關係は普通の叔父《をぢ》甥《をひ》の域《ゐき》を通り越してゐた。性質や職業の差違を問題の外《ほか》に置いて評すると、彼等は叔父甥といふよりも寧ろ親子であつた。もし第二の親子といふ言葉が使へるなら、それは最も適切に此二人の間柄を説明するものであつた。
 津田の父と違つて此叔父はついぞ東京を離れた事がなかつた。半生の間始終動き勝であつた父に比べると、單に此點|丈《だけ》でも其所に非常な相違があつた。少なくとも非常な相違があるやうに津田の眼には映じた。
 「緩慢《くわんまん》なる人世の旅行者」
 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちに斯ういふ文句があつた。それを何氣なく小耳に挾んだ津田は、すぐ自分の父をさういふ人だと思ひ込んでしまつた。さうして今日《こんにち》迄《まで》その言葉を忘れなかつた。然し叔父の使つた文句の意味は、頭の發達しない當時能く解らなかつたと同じやうに、今になつても判然《はつきり》しなかつた。たゞ彼は父の顏を見るたんびにそれを思ひ出した。肉の少ない細面《ほそおもて》の腮《あご》の下に、賣卜者《うらなひしや》見たやうな疎髯《そぜん》を垂らした其姿と、叔父の此言葉とは、彼に取つて殆んど同じものを意味してゐた。
 彼の父は今から十年ばかり前に、突然|遍路《へんろ》に倦《う》み果てた人のやうに官界を退いた。さうして實業に從事し出した。彼は最後の八年を神戸で費《つひ》やした後《あと》、其間に買つて置いた京都の地面へ、新らしい普請をして、二年前にとう/\其所へ引き移つた。津田の知らない間《ま》に、此|閑靜《かんせい》な古い都が、彼の父にとつて隱栖《いんせい》の場所と定められると共に、終焉《しゆうえん》の土地とも變化したのである。其時叔父は鼻の頭へ雛を寄せるやうにして津田に云つた。
 「兄貴はそれでも少し金が溜つたと見えるな。あの風船玉が、じつと落ち付けるやうになつたのは、全く金の重みのために違ない」
 然し金の重みの何時《いつ》迄《まで》經つてもかゝらない彼自身は、最初から動かなかつた。彼は始終東京にゐて始終貧乏してゐた。彼は未だかつて月給といふものを貰つた覺《おぼえ》のない男であつた。月給が嫌ひといふよりも、寧ろ呉れ手がなかつた程我儘だつたといふ方が適當かも知れなかつた。規則づくめな事に何でも反對したがつた彼は、年を取つて其考が少し變つて來た後《あと》でも、やはり以前の強情を押し通してゐた。是は今更自分の主義を改めた所で、たゞ人に輕蔑される丈《だけ》で、一向《いつかう》得《とく》にはならないといふ事を能く承知してゐるからでもあつた。
 實際の世の中に立つて、端的《たんてき》な事實と組み打ちをして働らいた經驗のない此叔父は、一面に於て當然|迂濶《うくわつ》な人生批評家でなければならないと同時に、一面に於ては甚だ鋭利な觀察者であつた。さうして其鋭利な點は悉《こと/”\》く彼の迂濶《うくわつ》な所から生み出されてゐた。言葉を換へていふと、彼は迂濶の御蔭で奇警《きけい》な事を云つたり爲《し》たりした。
 彼の知識は豐富な代りに雜駁《ざつばく》であつた。從つて彼は多くの問題に口を出したがつた。けれども何時《いつ》迄《まで》行つても傍觀者の態度を離れる事が出來なかつた。それは彼の位地が彼を餘儀なくする許《ばかり》でなく、彼の性質が彼を其所に抑え付けて置く所爲《せゐ》でもあつた。彼は或頭を有《も》つてゐた。けれども彼には手がなかつた。若《もし》くは手があつても、それを使はうとしなかつた。彼は始終|懷手《ふところで》をしてゐたがつた。一種の勉強家であると共に一種の不精者《ぶしやうもの》に生れ付いた彼は、遂に活字で飯を食はなければならない運命の所有者に過ぎなかつた。
 
     二十一
 
 斯ういふ人にありがちな場末生活《ばすゑせいくわつ》を、藤井は市の西北《にしきた》にあたる高台の片隅で、此六七年續けて來たのである。つい此間迄郊外に等しかつた其高台の此所彼所《こゝかしこ》に年々《ねん/\》建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪つて行くやうに感ぜられる時、彼は洋筆《ペン》を走らす手を止《や》めて、能く自分の兄の身の上を考へた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵へて見やうかしらといふ氣を起した。其金を兄はとても貸して呉れさうもなかつた。自分もいざとなると貸して貰ふ性分ではなかつた。「綬慢なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、實を云ふと、物質的に不安なる人生の旅行者であつた。さうして多數の人の場合に於て常に見出《みいだ》される如く、物質上の不安は、彼にとつてある程度の精神的不安に過ぎなかつた。
 津田の宅《うち》から此叔父の所へ行くには、半分道《はんぶんみち》程|川沿《かはぞひ》の電車を利用する便利があつた。けれどもみんな歩いた所で、一時間と掛らない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、却つて八釜《やかま》しい交通機關の援《たすけ》に依らない方が、彼の勝手であつた。
 一時少し前に宅《うち》を出た津田は、ぶら/\河縁《かはべり》を傳《つた》つて終點の方に近づいた。空は高かつた。日の光が至る所に充ちてゐた。向ふの高みを蔽つてゐる深い木立の色が、浮き出したやうに、くつきり見えた。
 彼は道々今朝買ひ忘れたリチネの事を思ひ出した。それを今日の午後四時頃に呑めと醫者から命令された彼には、一寸藥種屋へ寄つて此下剤を手に入れて置く必要があつた。彼は何時《いつ》もの通り終點を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反對な賑やかな町の方へ歩いて行かうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に當る徃來の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違《すぢかひ》に切斷されてゐた。彼は殘酷に在來の家屋を掻《か》き?《むし》つて、無理にそれを取り拂つたやうな凸凹《でこぼこ》だらけの新道路の角《かど》に立つて、其片隅に塊《かた》まつてゐる一群《いちぐん》の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列位の厚さで、眞中にゐる彼と畧《ほゞ》同年輩位な男の周圍に半圓形をかたちづくつてゐた。
 小肥《こぶと》りにふとつた其男は双子木綿《ふたこもめん》の羽織着物に角帶を締めて俎下駄《まないたげた》を穿《は》いてゐたが、頭には笠も帽子も被つてゐなかつた。彼の後《うしろ》に取り殘された一本の柳を盾に、彼は綿《めん》フラネルの裏の付いた大きな袋を兩手で持ちながら、見物人を見廻した。
 「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。此|空《から》つぽうの袋の中から屹度《きつと》出して見せる。驚ろいちや不可《いけな》い、種は懷中にあるんだから」
 彼は此種の人間としては寧ろ不相應な位|横風《わうふう》な言葉で斯《こ》んな事を云つた。夫《それ》から片手を胸の所で握つて見せて、其握つた拳をまたぱつと袋の方へぶつけるやうに開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙《だま》さない許《ばかり》に。然し彼は騙《だま》したのではなかつた。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちやんと其中に入《はい》つてゐた。彼はそれを親指と人さし指の間に挾んで、一應半圓形をかたちづくつてゐる見物にとつくり眺めさした後で地面の上に置いた。
 津田は輕蔑に嘆賞を交へた樣な顏をして、一寸首を傾けた。すると突然|後《うしろ》から彼の腰のあたりを突つつくものゝあるのに氣が付いた。輕い衝撃《シヨツク》を受けた彼は殆んど反射作用のやうに後《うしろ》を振り向いた。さうして其所にさも惡戯小僧《いたづらこぞう》らしく笑ひながら立つてゐる叔父の子を見出《みいだ》した。徽章《きしやう》の着いた制帽と、半洋袴《はんズボン》と、脊中にしよつた背嚢とが、其子の來た方角を彼に語るには充分であつた。
 「今學校の歸りか」
 「うん」
 子供は「はい」とも「えゝ」とも云はなかつた。
 
     二十二
 
 「お父さんは何うした」
 「知らない」
 「相變らずかね」
 「何うだか知らない」
 自分が十《とを》位であつた時の心理状態を丸《まる》で忘れてしまつた津田には、此返事が少し意外に思へた。苦笑した彼は、其所へ氣が付くと共に黙つた。子供は又一生懸命に手品遣《てづまつか》ひの方ばかり注意しだした。服裝から云ふと一夜作《いちやづく》りとも見られる其男は此時精一杯大きな聲を張り揚げた。
 「諸君もう一つ出すから見てゐたまへ」
 彼は例の袋を片手でぐつと締扱《しご》いて、再び何か投げ込む眞似を小器用にした後《あと》、麗々《れい/\》と第二の玉子を袋の底から取り出した。それでも飽き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ない棉《めん》フラネルの縞柄を遠慮なく群衆の前に示した。然し第三の玉子は同じ手眞似と共に安々と取り出された。最後に彼は恰《あたか》も貴重品でも取扱ふやうな樣子で、それを丁寧に地面の上へ並べた。
 「どうだ諸君斯うやつて出さうとすれば、何個《いくつ》でも出せる。然しさう玉子ばかり出しても詰らないから、今度《こんだ》は一つ生きた鷄《とり》を出さう」
 津田は叔父の子供を振り返つた。
 「おい眞事《まこと》もう行かう。小父《をぢ》さんは是からお前の宅《うち》へ行くんだよ」
 眞事《まこと》には津田よりも生きた鷄《とり》の方が大事であつた。
 「小父さん先へ行つてさ。僕もつと見てゐるから」
 「ありや嘘だよ。何時《いつ》迄《まで》經つたつて生きた鷄《とり》なんか出て來やしないよ」
 「何うして? だつて玉子はあんなに出たぢやないの」
 「玉子は出たが、鷄《とり》は出ないんだよ。あゝ云つて嘘を吐《つ》いて何時《いつ》迄《まで》も人を散らさないやうにするんだよ」
 「さうして何うするの」
 さうして何うするのか其《その》後《あと》の事は津田にも些《ちつ》とも解らなかつた。面倒になつた彼は、眞事を置き去りにして先へ行かうとした。すると眞事が彼の袂を捉《つらま》へた。
 「小父さん何か買つてさ」
 宅《うち》で強請《ねだ》られるたんびに、此次此次といつて逃げて置きながら、其次行く時には、つい買つてやるのを忘れるのが常のやうになつてゐた彼は、例の調子で「うん買つて遣るさ」と云つた。
 「ぢや自動車、ね」
 「自動車は少し大き過ぎるな」
 「なに小さいのさ。七圓五十錢のさ」
 七圓五十錢でも津田には慥《たし》かに大き過ぎた。彼は何にも云はずに歩き出した。
 「だつて此前も其前も買つて遣るつていつたぢやないの。小父さんの方があの玉子を出す人より餘つ程|嘘吐《うそつ》きぢやないか」
 「彼奴《あいつ》は玉子は出すが鷄《とり》なんか出せやしないんだよ」
 「何うして」
 「何うしてつて、出せないよ」
 「だから小父さんも自動車なんか買へないの」
 「うん。――まあ左右《さう》だ。だから何か外のものを買つて遣らう」
 「ぢやキツドの靴さ」
 毒氣を拔かれた津田は、返事をする前に又黙つて一二間歩いた。彼は眼を落して眞事《まこと》の足を見た。左程《さほど》見苦しくもない其靴は、茶とも黒とも付かない一種變な色をしてゐた。
 「赤かつたのを宅《うち》でお父さんが染めたんだよ」
 津田は笑ひだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたといふ事柄が、何だか彼には可笑《をか》しかつた。學校の規則を知らないで拵らへた赤靴を規則通りに黒くしたのだといふ説明を聞いた時、彼は又叔父の窮策《きゆうさく》を滑稽的に批判したくなつた。さうして其窮策から出た現在のお手際を擽《くす》ぐつたいやうな顔をしてぢろぢろ眺めた。
 
     二十三
 
 「眞事《まこと》、そりや好い靴だよ、お前」
 「だつて斯《こ》んな色の靴誰も穿《は》いてゐないんだもの」
 「色は何うでもね、お父さんが自分で染めて呉れた靴なんか滅多に穿けやしないよ。有難いと思つて大事にして穿かなくつちや不可《いけな》い」
 「だつてみんなが尨犬《むくいぬ》の皮だ/\つて揶揄《からか》ふんだもの」
 藤井の叔父と尨犬《むくいぬ》の皮、此二つの言葉をつなげると、結果は又新らしい可笑《をかし》みになつた。然し其|可笑《をかし》みは微《かす》かな哀傷を誘つて、津田の胸を通り過ぎた。
 「尨犬《むくいぬ》ぢやないよ、小父さんが受け合つてやる。大丈夫|尨犬《むくいぬ》ぢやない立派な……」
 津田は立派な何といつて可《い》いか一寸行き詰つた。其所を好い加減にして置く眞事ではなかつた。
 「立派な何さ」
 「立派な――靴さ」
 津田はもし懷中が許すならば、眞事のために、望み通りキツドの編上《あみあげ》を買つて遣りたい氣がした。それが叔父に對する恩返しの一端になるやうにも思はれた。彼は胸算《むなざん》で自分の懷にある紙入の中を勘定して見た。然し今の彼にそれ丈《だけ》の都合を付ける餘裕は殆んどなかつた。もし京都から爲替《かはせ》が屆くならばとも考へたが、まだ屆くか屆かないか分らない前に、苦しい思ひをして、それ丈《だけ》の實意を見せるにも及ぶまいといふ世間心《せけんしん》も起つた。
 「眞事、そんなにキツドが買ひたければね、今度《こんだ》宅《うち》へ來た時、小母《をば》さんに買つてお貰ひ。小父さんは貧乏だからもつと安いもので今日は負けといて呉れ」
 彼は賺《すか》すやうに又|宥《なだ》めるやうに眞事の手を引いて廣い徃來をぶら/\歩いた。終點に近い其通りは、電車へ乘り降りの必要上、無數の人の穿物《はきもの》で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方《かた》町並《まちなみ》が生れ變《かは》つたやうに立派に整のつて來た。所々のシヨーヰンドーには、一概に場末《ばすゑ》ものとして馬鹿に出來ないやうな品が綺麗に飾り立てられてゐた。眞事は其間を向ふ側へ馳け拔けて、朝鮮人の飴屋の前へ立つかと思ふと、又|此方側《こちらがは》へ戻つて來て、金魚屋の軒の下に佇立《たゝず》んだ。彼の馳け出す時には、隱袋《ポツケツト》の中でビー玉の音が屹度《きつと》ぢやら/\した。
 「今日學校で斯《こ》んなに勝つちやつた」
 彼は隱袋《ポツケツト》の中へ手をぐつと挿し込んで掌《てのひら》一杯に其ビー玉を載せて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子玉が迸《ほと》ばしる樣に徃來の眞中へ轉がり出した時、彼は周章《あわ》てゝそれを追ひ掛けた。さうして後《うしろ》を振り向きながら津田に云つた。
 「小父さんも拾つてさ」
 最後に此目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋《おもちやや》へ引き摺り込まれた津田は、とう/\其所で一圓五十錢の空氣銃を買つて遣らなければならない事になつた。
 「雀なら可《い》いが、無暗に人を狙《ねら》つちや不可《いけな》いよ」
 「こんな安い鐵砲ぢや雀なんか取れないだらう」
 「そりやお前が下手だからさ。下手ならいくら鐵砲が好くつたつて取れないさ」
 「ぢや小父さん是で雀打つてくれる? 是から宅《うち》へ行つて」
 好い加減をいふとすぐ後《あと》から實行を逼《せま》られさうな樣子なので、津田は生返事《なまへんじ》をしたなり話を外へそらした。
 眞事は戸田だの澁谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、其友達を片端《かたつぱし》から批評し始めた。
 「あの岡本つて奴、そりや狡猾《ずる》いんだよ。靴を三足も買つて貰つてるんだもの」
 話は又靴へ戻つて來た。津田はお延と關係の深い其岡本の子と、今自分の前で其子を評してゐる眞事とを心の中《うち》で比較した。
 
     二十四
 
 「御前《おまい》近頃岡本の所へ遊びに行くかい」
 「うゝん、行かない」
 「又喧嘩したな」
 「うゝん、喧嘩なんかしない」
 「ぢや何故行かないんだ」
 「何うしてでも――」
 眞事の言葉には後《あと》がありさうだつた。津田はそれが知りたかつた。
 「彼所《あすこ》へ行くと色んなものを呉れるだらう」
 「うゝん、そんなに呉れない」
 「ぢや御馳走するだらう」
 「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりや辛《から》かつたよ」
 ライスカレーの辛い位は、岡本へ行かない理由になりさうもなかつた。
 「それで行くのが厭になつた譯でもあるまい」
 「うゝん。だつてお父さんが止せつて云ふんだもの。僕岡本の所へ行つてブランコがしたいんだけども」
 津田は小首を傾けた。叔父が子供を岡本へ遣りたがらない理由《わけ》は何だらうと考へた。肌合《はだあひ》の相違、家風の相違、生活の相違、それ等のものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終机に向つて沈黙の間に活字的の氣?を天下に散布してゐる叔父は、實際の世間に於て決して筆程の有力者ではなかつた。彼は暗《あん》に其距離を自覺してゐた。其自覺は又彼を多少|頑固《かたくな》にした。幾分か排外的にもした。金力權力本位の社會に出て、他《ひと》から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、其金力權力のために、自己の本領を一分《いちぶ》でも冒されては大變だといふ警戒の念が絶えず何處かに働いてゐるらしく見えた。
 「眞事何故お父さんに訊いて見なかつたのだい。岡本へ行つちや何故|不可《いけな》いんですつて」
 「僕訊いたよ」
 「訊いたらお父さんは何と云つた。――何とも云はなかつたらう」
 「うゝん、云つた」
 「何と云つた」
 眞事は少し羞耻《はにか》んでゐた。しばらくしてから、彼はぽつり/\句切《くぎり》を置くやうな重い口調《くてう》で答へた。
 「あのね、岡本へ行くとね、何でも一《はじめ》さんの持つてるものをね、宅《うち》へ歸つて來てからね、買つて呉れ、買つて呉れつていふから、それで不可《いけな》いつて」
 津田は漸く氣が付いた。富の程度に多少等差のある二人の活計向《くらしむき》は、彼等の子供が持つ玩具《おもちや》の末に至る迄に、多少等差を付けさせなければならなかつたのである。
 「それで此奴《こいつ》自動車だのキツドの靴だのつて、無暗に高いもの許《ばかり》強請《ねだる》んだな。みんな一《はじめ》さんの持つてるのを見て來たんだらう」
 津田は揶揄《からか》ひ半分手を擧げて眞事の背中を打たうとした。眞事は跋《ばつ》の惡い眞相を曝露された大人《おとな》に近い表情をした。けれども大人の樣に言譯がましい事は丸《まる》で云はなかつた。
 「嘘だよ。嘘だよ」
 彼は先刻《さつき》津田に買つてもらつた一圓五十錢の空氣銃を擔いだ儘どん/\自分の宅《うち》の方へ逃げ出した。彼の隱袋《かくし》の中にあるビー玉が數珠《じゆず》を劇《はげ》しく揉むやうに鳴つた。背嚢の中では辨當箱だか教科書だかが互に打《ぶ》つかり合《あ》ふ音がごとり/\と聞こえた。
 彼は曲り角の黒板塀の所で一寸立ち留まつて鼬《いたち》のやうに津田を振り返つた儘、すぐ小さい姿を小路《こうぢ》のうちに隱した。津田が其小路を行き盡して突《つ》き中《あた》りにある藤井の門を潜《くゞ》つた時、突然ドンといふ銃聲が彼の一間ばかり前で起つた。彼は右手の生垣《いけがき》の間から大事さうに彼を狙撃《そげき》してゐる眞事の黒い姿を苦笑をもつて認めた。
 
     二十五
 
 座敷で誰かと話をしてゐる叔父の聲を聞いた津田は、格子《かうし》の間から一足の客靴を覗いて見たなり、わざと玄關を開けずに、茶の間の縁側の方へ廻つた。もと植木屋ででもあつたらしい其庭先には木戸の用心も竹垣の仕切《しきり》もないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻迄歩いて行けた。目隱しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶に何時《いつ》迄《まで》も殘つてゐる柿の樹の下を潜《くゞ》つた津田は、型の如く其所に叔母の姿を見出《みいだ》した。障子の嵌入硝子《はめがらす》に映《うつ》る其横顔が彼の眼に入《はい》つた時、津田は外部《そと》から聲を掛けた。
 「叔母さん」
 叔母はすぐ障子を開けた。
 「今日は何うしたの」
 彼女は子供が買つて貰つた空氣銃の禮も云はずに、不思議さうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越した此叔母の態度には、殆んど愛想《あいそ》といふものがなかつた。其代り時と場合によると世間並《せけんなみ》の遠慮を超越した自然が出た。其《その》中《うち》には殆んど性《セツクス》の感じを離れた自然さへあつた。津田は何時《いつ》でも此叔母と吉川の細君とを腹の中《なか》で比較した。さうして何時でも其相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齡《とし》のさう違はない二人の女が、何うして斯《こ》んなに違つた感じを他《ひと》に與へる事が出來るかといふのが、第一の疑問であつた。
 「叔母さんは相變らず色氣がないな」
 「此|年齡《とし》になつて色氣があつちや氣狂だわ」
 津田は縁側へ腰を掛けた。叔母は上《あが》れとも云はないで、膝の上に載せた紅絹《もみ》の片《きれ》へ輕い火慰斗《ひのし》を當てゝゐた。すると次の間からほどき物を持つて出て來たお金《きん》さんといふ女が津田にお辭儀をしたので、彼はすぐ言葉を掛けた。
 「お金《きん》さん、まだお嫁の口は極りませんか。まだなら一つ好い所を周旋しませうか」
 お金《きん》さんはえへゝと人の好ささうに笑ひながら少し顔を赤らめて、彼の爲に座蒲團を縁側へ持つて來《き》ようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
 「ねえ叔母さん」
 「えゝ」
 氣のなささうな生返事《なまへんじ》をした叔母は、お金さんが生温《なまぬ》るい番茶を形式的に津田の前へ注《つ》いで出した時、一寸首をあげた。
 「お金《きん》さん由雄《よしを》さんによく頼んでお置きなさいよ。此男は親切で嘘を吐《つ》かない人だから」
 お金さんはまだ逃げ出さずにもぢ/\してゐた。津田は何とか云はなければ濟まなくなつた。
 「お世辭ぢやありません、本當の事です」
 叔母は別に取り合ふ樣子もなかつた。其時裏で眞事の打つ空氣銃の音がぽん/\したので叔母はすぐ聽耳《きゝみゝ》を立てた。
 「お金《きん》さん、一寸見て來て下さい。バラ丸《だま》を入れて打つと危險《あぶな》いから」
 叔母は餘計なものを買つて呉れたと云はん許《ばかり》の顔をした。
 「大丈夫ですよ。能く云ひ聞かしてあるんだから」
 「いえ不可《いけま》せん。屹度《きつと》あれで面白半分にお隣の鷄《とり》を打つに違ないから。構はないから丸《たま》丈《だけ》取り上げて來て下さい」
 お金さんはそれを好い機《しほ》に茶の間から姿をかくした。叔母は黙つて火鉢に押し込んだ鏝《こて》を又取り上げた。皺だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗に平たく延びて行くのを何氣なく眺めて居た津田の耳に、客間の話し聲が途切れ/\に聞こえて來た。
 「時に誰です、お客は」
 叔母は驚ろいたやうに又顔を上げた。
 「今迄氣が付かなかつたの。妙ね貴方の耳も隨分。此所で聞いてたつて能く解るぢやありませんか」
 
     二十六
 
 津田は客間にゐる聲の主を、坐つたまゝ突き留めようと力《つと》めて見た。やがて彼は輕く膝を拍つた。
 「あゝ解つた。小林でせう」
 「えゝ」
 叔母は嫣然《にこり》ともせずに、簡單な答を落付いて與へた。
 「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿《は》き込んで厭にお客さん振《ぶ》つてるもんだから誰かと思つたら。そんなら僕も遠慮しずに彼方《あつち》へ行けば可《よ》かつた」
 想像の眼で見るにはあまりに陳腐過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て來た。此夏會つた時の彼の異《い》な服裝《なり》もおのづと思ひ出された。白縮緬の襟のかゝつた襦袢の上へ薩摩絣《さつまがすり》を着て、茶の千筋《せんすぢ》の袴に透綾《すきや》の羽織をはをつた其拵えは、丸《まる》で傘屋《かさや》の主人《あるじ》が町内の葬式の供に立つた歸りがけで、強飯《こはめし》の折でも懷に入れてゐるとしか受け取れなかつた。其時彼は泥棒に洋服を盗まれたといふ言譯を津田にした。それから金を七圓程貸して呉れと頼んだ。是はある友達が彼の盗難に同情して、若し自分の質に入れてある夏服を受け出す餘裕が彼にあるならば、それを彼に遣つても可《い》いと云つたからであつた。
 津田は微笑しながら叔母に訊いた。
 「彼奴《あいつ》又何だつて今日に限つて座敷なんかへ通つて、堂々とお客振を發揮してゐるんだらう」
 「少し叔父さんに話があるのよ。それが此所ぢや一寸云ひ惡《にく》い事なんでね」
 「へえ、小林にもそんな眞面目な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
 斯う云ひ掛けた津田は、不圖《ふと》眞面目な叔母の顔を見ると共に、後《あと》を引つ込ましてしまつた。叔母は少し聲を低くした。其聲は寧ろ彼女の落ち付いた調子に釣り合つてゐた。
 「お金《きん》さんの縁談の事もあるんだからね。此所であんまり何かいふと、彼《あ》の子《こ》が極りを惡くするからね」
 何時《いつ》もの高調子と違つて、茶の間で聞いてゐると一寸誰だか分らない位な紳士風の聲を、小林が出してゐるのは全くそれがためであつた。
 「もう極つたんですか」
 「まあ旨く行きさうなのさ」
 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥《はしや》ぎ氣味になつた津田はすぐ付け加へた。
 「ぢや僕が骨を折つて周旋しなくつても、もう可《い》いんだな」
 叔母は黙つて津田を眺めた。たとひ輕薄とまで行かないでも、斯ういふ巫山戯《ふざけ》た空虚《からつぽ》うな彼の態度は、今の叔母の生活氣分と丸《まる》で懸け離れたものらしく見えた。
 「由雄さん、お前さん自分で奧さんを貰ふ時、矢つ張りそんな料簡で貰つたの」
 叔母の質問は突然であると共に、何ういふ意味で掛けられたのかさへ津田には見當が付かなかつた。
 「そんな料簡つて、叔母さん丈《だけ》承知してゐるぎりで、當人の僕にや分らないんだから、一寸返事のしやうがないがな」
 「何も返事を聞かなくつたつて、叔母さんは困りやしないけれどもね。――女一人を片付ける方《はう》の身になつて御覽なさい。大抵の事ぢやないから」
 藤井は四年|前《ぜん》長女を片付ける時、仕度をして遣る餘裕がないので既に相當の借金をした。其借金が漸く片付いたと思ふと、今度はもう次女を嫁に遣らなければならなくなつた。だから此所でもしお金さんの縁談が纒まるとすれば、それは正に三人目の出費《ものいり》に違なかつた。娘とは格が違ふからといふ意味で、出來る丈《だけ》儉約した所で、現在の生計向《くらしむき》に多少苦しい負擔の暗影を投げる事は慥《たしか》であつた。
 
     二十七
 
 斯ういふ時に、責《せ》めて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事が出來たなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦に取つては定めし滿足な報酬であつたらう。けれども今の所財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々|眞事《まこと》の穿《は》きたがつてゐるキツドの靴を買つて遣る位なものであつた。それさへ彼は懷都合《ふところつがふ》で見合せなければならなかつたのである。まして京都から多少の融通を仰いで、彼等の經濟に幾分の潤澤《うるほひ》を付けて遣らう抔《など》といふ親切氣は天《てん》で起らなかつた。是は自分が事情を報告した所で動く父でもなし、父が動いた所で借りる叔父でもないと頭から極めてかゝつてゐる所爲《せゐ》でもあつた。それで彼はたゞ自分の所へさへ早く爲替《かはせ》が屆いて呉れゝば可《い》いといふ期待に縛られて、叔母の言葉には餘り感激した樣子も見せなかつた。すると叔母が「由雄《よしを》さん」と云ひ出した。
 「由雄さん、ぢや何《ど》んな料簡で奧さんを貰つたの、お前さんは」
 「まさか冗談に貰やしません。いくら僕だつて左《さ》う浮《ふは》ついた所ばかりから出來上つてるやうに解釋されちや可哀相《かはいさう》だ」
 「そりや無論本氣でせうよ。無論本氣には違なからうけれどもね、其本氣にも亦色々|段等《だんとう》があるもんだからね」
 相手次第では侮辱とも受け取られる此叔母の言葉を、津田は却つて好奇心で聞いた。
 「ぢや叔母さんの眼に僕は何う見えるんです。遠慮なく云つて下さいな」
 叔母は下を向いて、ほどき物をいぢくりながら薄笑ひをした。それが津田の顏を見ないせゐだか何だか、急に氣味の惡い心持を彼に與へた。然し彼は叔母に對して少しも退避《たじろ》ぐ氣はなかつた。
 「是でもいざとなると、中々眞面目な所もありますからね」
 「そりや男だもの、何處かちやんとした所がなくつちや、毎日會社へ出たつて、勤まりつこありやしないからね。だけども――」
 斯う云ひ掛けた叔母は、そこで急に氣を換へたやうに付け足した。
 「まあ止《よ》しませう。今更云つたつて始まらない事だから」
 叔母は先刻《さつき》火慰斗《ひのし》を掛けた紅絹《もみ》の片《きれ》を鄭寧に重ねて、濃い澁を引いた疊紙《たゝう》の中へ仕舞ひ出した。それから何となく拍子拔けのした、しかも何處かに物足らなさうな不安の影を宿してゐる津田の顔を見て、不圖《ふと》氣が付いたやうな調子で云つた。
 「由雄さんは一體贅澤過ぎるよ」
 學校を卒業してから以來の津田は叔母に始終斯う云はれ付けてゐた。自分でも亦さう信じて疑はなかつた。
 さうしてそれを大した惡い事のやうにも考へてゐなかつた。
 「えゝ少し贅澤です」
 「服裝《なり》や食物ばかりぢやないのよ。心が派出《はで》で贅澤に出來上つてるんだから困るつていふのよ。始終御馳走はないか/\つて、きよろ/\其所いらを見廻してる人見た樣で」
 「ぢや贅澤|所《どころ》か丸《まる》で乞食ぢやありませんか」
 「乞食ぢやないけれども、自然眞面目さが足りない人のやうに見えるのよ。人間は好い加減な所で落ち付くと、大變見つとも好いもんだがね」
 此時津田の胸を掠《かす》めて、自分の從妹《いとこ》に當る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。其娘は二人とも既婚の人であつた。四年|前《まへ》に片付いた長女は、其《その》後《のち》夫《をつと》に從つて台灣に渡つたぎり、今でも其所に暮してゐた。彼の結婚と前後して、つい此間嫁に行つた次女は、式が濟むとすぐ連れられて福岡へ立つてしまつた。其福岡は長男の眞弓《まゆみ》が今年から籍を置いた大學の所在地でもあつた。
 此二人の從妹《いとこ》の何方《どつち》も、貰はうとすれば容易《たやす》く貰へる地位にあつた津田の眼から見ると、決して自分の細君として適當の候補者ではなかつた。だから彼は知らん顔をして過ぎた。當時彼の取つた態度を、叔母の今の言葉と結び付けて考へた津田は、別に是ぞと云つて疾《や》ましい點も見出《みいだ》し得なかつたので、何氣ない風をして叔母の動作を見守つてゐた。其叔母はついと立つて戸棚の中にある支那鞄《しなカバン》の葢《ふた》を開けて、手に持つた疊紙《たゝう》を其中に仕舞つた。
 
     二十八
 
 奧の四疊半で先刻《さつき》からお金《きん》さんに學課の復習をして貰つてゐた眞事《まこと》が、突然お金さんには丸《まる》で解らない佛蘭西語《フランスご》の讀本を浚《さら》ひ始めた。ジユ、シユイ、ポリ、とか、チユ、エ、マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切《くぎり》を置いて讀み上げる小學二年生の頓狂《とんきやう》な聲を、例《いつも》ながら可笑《をか》しく聞いてゐる津田の頭の上で、今度は柱時計がボン/\と鳴つた。彼はすぐ袂に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくさうに、どろ/\した油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促《うな》がされた樣な叔父の聲がした。
 「ぢや彼方《あつち》へ行かう」
 叔父と小林は縁傳ひに茶の間へ入《はい》つて來た。津田は一寸|居住居《ゐずまひ》を直して叔父に挨拶をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
 「小林君|大分《だいぶ》景氣が好いやうだね。立派な服を拵へたぢやないか」
 小林はホームスパン見た樣なざら/\した地合《ぢあひ》の脊廣を着てゐた。何時《いつ》もと違つて其|洋袴《ズボン》の折目がまだ少しも崩れてゐないので、誰の眼にも仕立卸としか見えなかつた。彼は變《かは》り色《いろ》の靴下を後《うしろ》へ隱すやうにして、津田の前に坐り込んだ。
 「ヘゝ、冗談云つちや不可《いけな》い。景氣の好いのは君の事だ」
 彼の新調は何處かのデパートメント、ストアの窓硝子の中に飾つてある三《み》つ揃《ぞろひ》に括《くゝ》り付《つ》けてあつた正札を見付けて、其|價段《ねだん》通りのものを彼が注文して拵へたのであつた。
 「是で君二十六圓だから、隨分安いものだらう。君見たいな贅澤やから見たら何うか知らないが、僕なんぞにや是で澤山だからね」
 津田は叔母の手前重ねて惡口《わるくち》を云ふ勇氣もなかつた。黙つて茶碗を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。其所にゐるものがみんな不思議さうに彼の所作《しよさ》を眺めた。
 「何だいそれは。變なものを飲むな。藥かい」
 今日《こんにち》迄《まで》病氣といふ病氣をした例《ためし》のない叔父の醫藥に對する無知は又特別のものであつた。彼はリチネといふ名前を聞いてすら、それが何の爲に服用されるのか知らなかつた。あらゆる疾病《しつぺい》と殆んど絶交渉な此叔父の前に、津田が手術だの入院だのといふ言葉を使つて、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかつた。
 「それで其報知にわざ/\遣つて來た譯かね」
 叔父は御苦勞さまと云はぬばかりの顔をして、胡麻塩《ごましほ》だらけの髯を撫でた。生やしてゐると云ふよりも寧ろ生えてゐると云つた方が適當な其髯は、植木屋を入れない庭のやうに、彼の顔を所々|爺々《ぢゞ》むさく見せた。
 「一體今の若いものは、から駄目だね。下らん病氣ばかりして」
 叔母は津田の顔を見てにやりと笑つた。近頃急に「今の若いものは」といふ言葉を、癖のやうに使ひ出した叔父の歴史を心得てゐる津田も笑ひ返した。餘程以前此叔父から惑病《わくびやう》は同源《どうげん》だの疾患は罪惡だのと、さも偉さうに云ひ聞かされた事を憶ひ出すと、それが病氣に罹らない自分の自慢とも受け取れるので、猶《なほ》のこと滑稽に感ぜられた。彼は薄笑ひと共に又小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の豫期とは全くの反對を云つた。
 「何今の若いものだつて病氣をしないものもあります。現に私《わたくし》なんか近頃ちつとも寐た事がありません。私考へるに、人間は金が無いと病氣にや罹らないもんだらうと思ひます」
 津田は馬鹿々々しくなつた。
 「詰らない事をいふなよ」
 「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病氣をするのは、する丈《だけ》の餘裕があるからだよ」
 此|不論理《ふろんり》な斷案は、云ひ手が眞面目な丈《だけ》に、津田を猶《なほ》失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
 「さうだよ此上病氣にでも罹つた日にや何うにも斯うにも遣り切れないからね」
 薄暗くなつた室《へや》の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立つて電燈のスヰツチを捩《ねぢ》つた。
 
     二十九
 
 何時《いつ》の間《ま》にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢の音を立てゝゐた叔母が又茶の間へ顔を出した。
 「由雄さん久し振だから御飯を食べておいで」
 津田は明日《あした》の治療を控へてゐるので斷つて歸らうとした。
 「今日は小林と一所に飯を食ふ筈になつてゐる所へお前が來たのだから、ことによると御馳走が足りないかも知れないが、まあ付合つて行くさ」
 叔父に斯《こ》んな事を云はれつけない津田は、妙な心持がして、又尻を据ゑた。
 「今日は何事かあるんですか」
 「何ね、小林が今度――」
 叔父はそれ丈《だけ》云つて、一寸小林の方を見た。小林は少し得意さうににや/\してゐた。
 「小林君何うかしたのか」
 「何、君、なんでもないんだ。いづれ極つたら君の宅《うち》へ行つて詳しい話をするがね」
 「然し僕は明日《あした》から入院するんだぜ」
 「なに構はない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
 小林は追ひ掛けて、其病院のある所だの、醫者の名だのを、左《さ》も自分に必要な知識らしく訊いた。醫者の名が自分と同じ小林なので「はあそれぢやあの堀さんの」と云つたが急に黙つてしまつた。堀といふのは津田の妹婿の姓であつた。彼がある特殊な病氣のために、つい近所にゐる其醫者の許《もと》へ通《かよ》つたのを小林はよく知つてゐたのである。
 彼の詳しい話といふのを津田は一寸聞いて見たい氣がした。それは先刻《さつき》叔母の云つたお金さんの結婚問題らしくもあつた。又さうでないらしくも見えた。此|思《おも》はせ振《ぶり》な小林の態度から、多少の好奇心を唆《そゝ》られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに來いとは明言しなかつた。
 津田が手術の準備だと云つて、折角叔母の拵へて呉れた肉にも肴《さかな》にも、日頃大好な茸飯《たけめし》にも手を付けないので、流石《さすが》の叔母も氣の毒がつて、お金さんに頼んで、彼の口にする事の出來る?麭《パン》と牛乳を買つて來させようとした。ねと/\して無暗に齒の間に挾まる此所いらの?麭《パン》に内心|辟易《へきえき》しながら、又贅澤だと云はれるのが少し怖《こは》いので、津田はたゞ大人《おとな》しく茶の間を立つお金さんの後姿を見送つた。
 お金さんの出て行つた後で、叔母はみんなの前で叔父に云つた。
 「何うかまあ彼《あ》の子《こ》も今度《こんだ》の嫁が纒まるやうになると仕合せですがね」
 「纒まるだらうよ」
 叔父は苦《く》のなささうな返事をした。
 「至極宜ささうに思ひます」
 小林の挨拶も氣輕かつた。黙つてゐるのは津田と眞事|丈《だけ》であつた。
 相手の名を聞いた時、津田は其男に一二度叔父の家《うち》で會つたやうな心持もしたが、殆んど何等の記憶も殘つてゐなかつた。
 「お金さんは其人を知つてるんですか」
 「顔は知つてるよ。口は利いた事がないけれども」
 「ぢや向ふも口を利いた事なんかないんでせう」
 「當り前さ」
 「それでよく結婚が成立するもんだな」
 津田は斯ういつて然るべき理窟が充分自分の方にあると考へた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿々々しいといふよりも寧ろ不思議であるといふ顔付をした。
 「ぢや何うすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のやうにしなくつちや不可《いけな》いといふのかね」
 叔父は少し機嫌を損じたらしい語氣で津田の方を向いた。津田は寧ろ叔母に對する積《つもり》でゐたので、少し氣の毒になつた。
 「さういふ譯ぢやないんです。そういふ事情のもとにお金さんの結婚が成立しちや不都合だなんていふ氣は全くなかつたのです。たとひ何《ど》んな事情だらうと結婚が成立さへすれば、無論結構なんですから」
 
     三十
 
 それでも座は白けてしまつた。今迄心持よく流れて居た談話が、急に堰《せ》き止《と》められたやうに、誰も津田の言葉を受《う》け繼《つ》いで、順々に後《あと》へ送つて呉れるものがなくなつた。
 小林は自分の前にある麥酒《ビール》の洋盃《コツプ》を指《さ》して、内所《ないしよ》のやうな小さい聲で、隣りにゐる眞事に訊いた。
 「眞事《まこと》さん、お酒を上げませうか。少し飲んで御覽なさい」
 「苦《にが》いから僕厭だよ」
 眞事はすぐ跳《は》ね付《つ》けた。始めから飲ませる氣のなかつた小林は、それを機《しほ》にはゝと笑つた。好い相手が出來たと思つたのか眞事は突然小林に云つた。
 「僕一圓五十錢の空氣銃を有《も》つてるよ。持つて來て見せようか」
 すぐ立つて奧の四疊半へ馳け込んだ彼が、其所から新らしい玩具《おもちや》を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがゝり上、ぴか/\する空氣銃の嘆賞者とならなければ濟まなかつた。叔父も叔母も嬉しがつてゐるわが子のために、一言《いちごん》の愛矯を義務的に添へる必要があつた。
 「何うも時計を買への、萬年筆を買へのつて、貧乏な阿爺《おやぢ》を責めて困る。それでも近頃馬|丈《だけ》は何うか斯うか諦らめたやうだから、まだ始末が好い」
 「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六圓で立派なのが手に入《い》ります」
 「見て來たやうな事を云ふな」
 空氣銃の御蔭で、みんなが又|滿遍《まんべん》なく口を利くやうになつた。結婚が再び彼等の話頭に上《のぼ》つた。それは途切れた前の續きに相違なかつた。けれどもそれを口にする人々は、少しづゝ前と異《ちが》つた氣分によつて、彼等の表現を支配されてゐた。
 「是ばかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、一所になつたところで、屹度《きつと》不縁《ふえん》になるとも限らないしね、又いくら此人ならばと思ひ込んで出來た夫婦でも、未始終《すゑしじゆう》和合するとは限らないんだから」
 叔母の見て來た世の中を正直に纒めると斯うなるより外に仕方なかつた。此大きな事實の一隅《いちぐう》にお金さんの結婚を安全に置かうとする彼女の態度は、辯護的といふよりも寧ろ説明的であつた。さうして其説明は津田から見ると最も不完全で又最も不安全であつた。結婚に就いて津田の誠實を疑ふやうな口振《くちぶり》を見せた叔母こそ、此點にかけて根本的な眞面目さを缺いてゐるとしか彼には思へなかつた。
 「そりや樂な身分の人の云ひ草ですよ」と叔母は開き直つて津田に云つた。「やれ交際だの、やれ婚約だのつて、そんな贅澤な事を、我々|風情《ふぜい》が云つてられますか。貰つて呉れ手、來て呉れ手があれば、それで有難いと思はなくつちやならない位のものです」
 津田はみんなの手前今のお金さんの場合に就いて彼是《かれこれ》云ひたくなかつた。それをいふ程の深い關係もなく又興味もない彼は、たゞ叔母が自分に對して有《も》つ、不眞面目といふ疑念を塗り潰すために、向ふの不眞面目さを啓發して置かなくては不可《いけな》いといふ心持に制せられるので、黙つて仕舞ふ譯に行かなかつた。彼は首を捻つて考へ込む樣子をしながら云つた。
 「何もお金さんの場合を兎や角批評する氣はないんだが、一體結婚を、さう容易《たやす》く考へて構はないものか知ら。僕には何だか不眞面目な樣な氣がして不可《いけな》いがな」
 「だつて行く方で眞面目に行く氣になり、貰ふ方でも眞面目に貰ふ氣になれば、何處と云つて不眞面目な所が出て來《き》よう筈がないぢやないか。由雄さん」
 「さういふ風に手つとり早く眞面目になれるかゞ問題でせう」
 「なれゝばこそ叔母さんなんぞは此藤井家へお嫁に來て、ちやんと斯うしてゐるぢやありませんか」
 「そりや叔母さんは左右《さう》でせうが、今の若いものは……」
 「今だつて昔だつて人間に變りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
 「さう云つた日にや丸《まる》で議論にならない」
 「議論にならなくつても、事實の上で、あたしの方が由雄さんに勝つてるんだから仕方がない。色々|選《え》り好《ごの》みをした揚句、お嫁さんを貰つた後でも、まだ選り好みをして落ち付かずにゐる人よりも、此方《こつち》の方が何《ど》の位眞面目だか解りやしない」
 先刻《さつき》から肉を突ツついてゐた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のやうに、皿から眼を放した。
 
     三十一
 
 「大分《だいぶ》八釜《やかま》しくなつて來たね。黙つて聞いてゐると、叔母《をば》甥《をひ》の對話とは思へないよ」
 二人の間に斯う云つて割り込んで來た叔父は其《その》實《じつ》行司でも審判官でもなかつた。
 「何だか双方|敵愾心《てきがいしん》を以て云ひ合つてるやうだが、喧嘩でもしたのかい」
 彼の質問は、單に質問の形式を具へた注意に過ぎなかつた。眞事《まこと》を相手にビー珠《だま》を轉がしてゐた小林が偸《ぬす》むやうにして此方《こつち》を見た。叔母も津田も一度に黙つてしまつた。叔父は遂に調停者の態度で口を開かなければならなくなつた。
 「由雄、御前見たやうな今の若いものには、一寸理解出來|惡《にく》いかも知れないがね、叔母さんは嘘を吐《つ》いてるんぢやないよ。知りもしない己《おれ》の所へ來るとき、もうちやんと覺悟を極めてゐたんだからね。叔母さんは本當に來ない前から來た後《あと》と同じやうに眞面目だつたのさ」
 「そりや僕だつて伺はないでも承知してゐます」
 「所がさ、其叔母さんがだね。何ういふ譯でそんな大決心をしたかといふとだね」
 そろ/\醉《ゑひ》の廻つた叔父は、火熟《ほて》つた顔へ水分を供給する義務を感じた人のやうに、又|洋盃《コツプ》を取り上げて麥酒《ビール》をぐいと飲んだ。
 「實を云ふと其譯を今日《けふ》迄《まで》まだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
 「えゝ」
 津田も半分は眞面目であつた。
 「實はだね。此叔母さんはこれでこの己《おれ》に意《い》があつたんだ。つまり初めから己《おれ》の所へ來たかつたんだね。だからまだ來ないうちから、もう猛烈に自分の覺悟を極めてしまつたんだ。――」
 「馬鹿な事を仰《おつし》やい。誰が貴方のやうな醜男《ぶをとこ》に意《い》なんぞあるもんですか」
 津田も小林も吹き出した。獨りきよとんとした眞事《まこと》は叔母の方を向いた。
 「お母さん意があるつて何」
 「お母さんは知らないからお父さんに伺つて御覽」
 「ぢやお父さん、何さ、意《い》があるつてのは」
 叔父はにや/\しながら、禿げた頭の眞中を大事さうに撫で廻した。氣の所爲《せゐ》か其禿が普通の時よりは少し赤いやうに、津田の眼に映つた。
 「眞事、意があるつてえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
 「ふん。ぢや好いぢやないか」
 「だから誰も惡いと云つてやしない」
 「だつて皆《みん》な笑ふぢやないか」
 此問答の途中へお金《きん》さんが丁度歸つて來たので、叔母はすぐ眞事の床を敷かして、彼を寐間《ねま》の方へ追ひ遣つた。興に乘つた叔父の話は益《ます/\》發展するばかりであつた。
 「そりや昔《むか》しだつて戀愛事件はあつたよ。いくらお朝《あさ》が怖《こは》い顔をしたつてあつたに違ないが、だね。其所にまた今の若いものには到底解らない方面もあるんだから、妙だらう。昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方では決して女に惚れなかつたもんだ。――ねえお朝《あさ》さうだつたらう」
 「何うだか存じませんよ」
 叔母は眞事の立つた後《あと》へ坐つて、さつさと松茸飯《まつだけめし》を手盛《てもり》にして食べ始めた。
 「さう怒つたつて仕方がない。其所に事實があると同時に、一種の哲學があるんだから。今|己《おれ》が其哲學を講釋してやる」
 「もうそんな六づかしいものは、伺はなくつても澤山です」
 「ぢや若いもの丈《だけ》に教へてやる。由雄も小林も參考のために能く聽いとくが可《い》い。一體お前達は他《ひと》の娘を何だと思ふ」
 「女だと思つてます」
 津田は交《ま》ぜ返《かへ》し半分わざと返事をした。
 「さうだらう。たゞ女だと思ふ丈《だけ》で、娘とは思はないんだらう。それが己達《おれたち》とは大違ひだて。己達《おれたち》は父母《ふぼ》から獨立したたゞの女として他人の娘を眺めた事が未《いま》だ會《かつ》てない。だから何處のお孃さんを拜見しても、そのお孃さんには、父母《ふぼ》といふ所有者がちやんと食つ付いてるんだと始めから觀念してゐる。だからいくら惚れたくつても惚れられなくなる義理ぢやないか。何故と云つて御覽、惚れるとか愛し合ふとかいふのは、つまり相手を此方《こつち》が所有してしまふといふ意味だらう。既に所有權の付いてるものに手を出すのは泥棒ぢやないか。さういふ譯で義理堅い昔の男は決して惚れなかつたね。尤も女は慥《たし》かに惚れたよ。現に其所で松茸飯《まつだけめし》を食つてるお朝《あさ》なぞも實は己《おれ》に惚れたのさ。然し己《おれ》の方ぢやかつて彼女《あれ》を愛した覺《おばえ》がない」
 「何うでも可《い》いから、もう好い加減にして御飯になさい」
 眞事を寐かし付けに行つたお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいひつけて、みんなの茶碗に飯をよそはせた。津田は仕方なしに、ひとり下味《まづ》い食?麭《しょくぱん》をにちやにちや噛んだ。
 
     三十二
 
 食後の話はもうはづまなかつた。と云つて、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかつた。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のやうに、彼等はてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを會話の中心に纒めようと努力するものゝないのに氣が付いた。
 餉台《ちやぶだい》の上に兩肱を突いた叔父が醉後《すゐご》の欠《あくび》を續けざまに二つした。叔母が下女を呼んで殘物《ざんぶつ》を勝手へ運ばした。先刻《さつき》から重苦しい空氣の影響を少しづゝ感じてゐた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面《おもて》を過ぎる浮雲のやうに、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麥酒《ビール》の泡と共に消えてしまふべき筈の言葉を、津田は却つて意味ありげに自分で追ひ掛けて見たり、又自分で追ひ戻して見たりした。其所に氣の付いた時、彼は我ながら不愉快になつた。
 同時に彼は自分と叔母との間に取り換はされた言葉の投《な》げ合《あひ》も思ひ出さずにはゐられなかつた。其投げ合の間、彼は始終自分を抑へ付けて、成るべく心の色を外へ出さないやうにしてゐた。其所に彼の誇りがあると共に、其所に一種の不快も潜《ひそ》んでゐたことは、彼の氣分が彼に教へる事實であつた。
 半日以上の暇を潰した此久し振の訪問を、單に斯ういふ快不快の立場から眺めた津田は、すぐ其對照として活?な吉川夫人と其綺麗な應接間とを記憶の舞台に躍らした。つゞいて近頃漸く丸髷に結ひ出したお延《のぶ》の顔が眼の前に動いた。
 彼は座を立たうとして小林を顧みた。
 「君はまだゐるかね」
 「いや。僕ももう御暇《おいとま》しよう」
 小林はすぐ吸ひ殘した敷島の袋を洋袴《ズボン》の隱袋《かくし》へねぢ込んだ。すると彼等の立《た》ち際《ぎは》に、叔父が偶然らしく又口を開《ひら》いた。
 「お延は何うしたい。行かう/\と思ひながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰をしてゐる。宜しく云つて呉れ。お前の留守にや閑《ひま》で困るだらうね、彼《あ》の女《をんな》も。一體何をして暮してるかね」
 「何つて別にする事もないでせうよ」
 斯う散漫に答へた津田は、何と思つたか急に後《あと》から付け足した。
 「病院へ一所に入《はい》りたいなんて氣樂な事をいふかと思ふと、やれ髪を刈れの湯に行けのつて、叔母さんよりも餘つ程|八釜《やかま》しい事を云ひますよ」
 「感心ぢやないか。お前のやうなお洒落《しやれ》にそんな注意をしてくれるものは外にありやしないよ」
 「有難い仕合せだな」
 「芝居《しばや》は何うだい。近頃行くかい」
 「えゝ時々行きます。此間も岡本から誘はれたんだけれども、生憎《あいにく》此病氣の方の片を付けなけりやならないんでね」
 津田は其所で一寸叔母の方を見た。
 「何うです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しませうか。偶《たま》にやあゝいふ所へ行つて見るのも藥ですよ、氣がはれ/”\してね」
 「えゝ有難う。だけど由雄さんの御案内ぢや――」
 「お厭ですか」
 「厭より、何時《いつ》の事だか分らないからね」
 芝居場《しばゐば》などを餘り好まない叔母の此返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻いて見せた。
 「さう信用がなくなつた日にや僕もそれ迄だ」
 叔母はふゝんと笑つた。
 「芝居《しばや》は何うでも可《い》いが、由雄さん京都の方は何うして、それから」
 「京都から何とか云つて來ましたか此方《こつち》へ」
 津田は少し眞劍な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答へなかつた。
 「實は僕の所へ今月は金を送れないから、そつちで何うでも爲《し》ろつて、お父さんが云つて來たんだが、隨分亂暴ぢやありませんか」
 叔父は笑ふ丈《だけ》であつた。
 「兄貴《あにき》は怒つてるんだらう」
 「一體お秀《ひで》が又餘計な事を云つて遣るから不可《いけな》い」
 津田は少し忌々《いま/\》しさうに妹の名前を口にした。
 「お秀《ひで》に咎《とが》はありません。始めから由雄さんの方が惡いに極つてるんだもの」
 「そりや左《さ》うかも知れないけれども、何處の國にあなた阿爺《おやぢ》から送つて貰つた金を、きちん/\返す奴があるもんですか」
 「ぢや最初からきちん/\返すつて約束なんかしなければ可《い》いのに。それに……」
 「もう解りましたよ、叔母さん」
 津田はとても敵《かな》はないといふ心持を其樣子に見せて立ち上がつた。然し敗北の結果急いで退却する自分に景氣を添へるため、促がすやうに小林を引張つて、一所に表へ出る事を忘れなかつた。
 
     三十三
 
 戸外《そと》には風もなかつた。靜かな空氣が足早《あしばや》に歩く二人の頬に冷たく觸れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露がしと/\降りてゐるらしくも思はれた。津田は自分で外套の肩を撫でた。其外套の裏側に滲み込んでくるひんやりした感じを、はつきり指先で味はつて見た彼は小林を顧みた。
 「日中《につちゆう》は暖《あつた》かだが、夜になると矢張《やつぱ》り寒いね」
 「うん。何と云つてももう秋だからな。實際外套が欲しい位だ」
 小林は新調の三《み》つ揃《ぞろひ》の上に何にも着てゐなかつた。ことさらに爪先を厚く四角に拵へたいかつい亞米利加型《アメリカがた》の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖《ステツキ》をわざとらしく振り廻す彼の態度は、丸《まる》で冷たい空氣に抵抗する示威運動者に異《こと》ならなかつた。
 「君學校にゐた時分作つたあの自慢の外套は何うした」
 彼は突然意外な質問を津田に掛けた。津田は彼に其外套を見せびらかした當時を思ひ出さない譯に行かなかつた。
 「うん、まだあるよ」
 「まだ着てゐるのか」
 「いくら僕が貧乏だつて、書生時代の外套を、さう大事さうに何時《いつ》迄《まで》着てゐるものかね」
 「さうか、それぢや丁度好い。あれを僕に呉れ」
 「欲しければ遣つても好い」
 津田は寧ろ冷やかに答へた。靴足袋《くつたび》まで新らしくしてゐる男が、他《ひと》の着古した外套を貰ひたがるのは少し矛盾であつた。少くとも、其人の生活に横《よこた》はる、不規則な物質的の凸凹《たかびく》を證據立ててゐた。しばらくしてから、津田は小林に訊いた。
 「何故其|脊廣《せびろ》と一所に外套も拵へなかつたんだ」
 「君と同《おん》なじやうに僕を考へちや困るよ」
 「ぢや何うして其脊廣だの靴だのが出來たんだ」
 「訊き方が少し手酷《てきび》し過ぎるね。なんぼ僕だつてまだ泥棒はしないから安心して呉れ」
 津田はすぐ口を閉ぢた。
 二人は大きな坂の上に出た。廣い谷を隔てゝ向《むかふ》に見える小高い岡が、怪獣の背のやうに黒く長く横《よこた》はつてゐた。秋の夜の燈火が所々に點々と少量の暖かみを滴《したゝ》らした。
 「おい、歸りに何處かで一杯遣らうぢやないか」
 津田は返事をする前に、まづ小林の樣子を窺《うかゞ》つた。彼等の右手には高い土手があつて、其土手の上には蓊欝《こんもり》した竹藪が一面に生《お》ひ被《かぶ》さつてゐた。風がないので竹は鳴らなかつたけれども、眠つたやうに見える其笹の葉の梢は、季節相應な蕭索《せうさく》の感じを津田に與へるに充分であつた。
 「此所は厭に陰氣な所だね。何處かの大名華族の裏に當るんで、何時《いつ》迄《まで》も斯うして放《はふ》つてあるんだらう。早く切り開いちまへば可《い》いのに」
 津田は斯ういつて當面の挨拶を胡麻化《ごまか》さうとした。然し小林の眼に竹藪なぞは丸《まる》で入《はい》らなかつた。
 「おい行かうぢやないか、久し振で」
 「今飲んだ許《ばかり》だのに、もう飲みたくなつたのか」
 「今飲んだ許《ばかり》つて、あれつぱかり飲んだんぢや飲んだ部へ入《はい》らないからね」
 「でも君はもう充分ですつて斷つてゐたぢやないか」
 「先生や奧さんの前ぢや遠慮があつて醉へないから、仕方なしにあゝ云つたんだね。丸《まる》つきり飲まないんなら兎も角も、あの位飲ませられるのは却つて毒だよ。後から適當の程度迄醉つて置いて止《や》めないと身體に障るからね」
 自分に都合の好い理屈を勝手に拵らへて、何でも津田を引張らうとする小林は、彼に取つて少し迷惑な伴侶《つれ》であつた。彼は冷かし半分に訊いた。
 「君が奢るのか」
 「うん奢つても好い」
 「さうして何處へ行く積《つもり》なんだ」
 「何處でも構はない。おでん屋でも可《い》いぢやないか」
 二人は黙つて坂の下迄降りた。
 
     三十四
 
 順路からいふと、津田は其所を右へ折れ、小林は眞直に行かなければならなかつた。然し體《てい》よく分れやうとして帽子へ手を掛けた津田の顔を、小林は覗き込むやうに見て云つた。
 「僕も其方《そつち》へ行くよ」
 彼等の行く方角には飲み食ひに都合のいゝ町が二三町續いてゐた。其中程にある酒場めいた店の硝子戸《ガラスど》が、暖かさうに内側から照らされてゐるのを見付けた時、小林はすぐ立ち留まつた。
 「此所が好い。此所へ入《はい》らう」
 「僕は厭だよ」
 「君の氣に入りさうな上等の宅《うち》は此所いらにないんだから、此所で我慢しようぢやないか」
 「僕は病氣だよ」
 「構はん、病氣の方は僕が受け合つてやるから、心配するな」
 「冗談云ふな。厭だよ」
 「細君には僕が辯解してやるから可《い》いだらう」
 面倒になつた津田は、小林を其所へ置き去りにした儘、さつさと行かうとした。すると彼とすれ/\に歩を移して來た小林が、少し改まつた口調《くてう》で追究《つゐきう》した。
 「そんなに厭か、僕と一所に酒を飲むのは」
 實際そんなに厭であつた津田は、此言葉を聞くとすぐ留まつた。さうして自分の傾向とは丸《まる》で反對な決斷を外部《そと》へ現はした。
 「ぢや飲まう」
 二人はすぐ明るい硝子戸を引いて中へ入《はい》つた。客は彼等の外に五六人居たぎりであつたが、店があまり廣くないので、比較的込み合つてゐるやうに見えた。割合樂に席の取れさうな片隅を擇《えら》んで、差し向ひに腰を卸《お》ろした二人は、通した注文の來る間、多少物珍らしさうな眼を周圍《あたり》へ向けた。
 服裝から見た彼等の相客中《あひきやくちゆう》に、社會的地位のありさうなものは一人もなかつた。湯歸りと見えて、縞の半纒《はんてん》の肩へ濡れ手拭を掛けたのだの、木綿物に角帶を締めて、わざとらしく平打《ひらうち》の羽織の紐の眞中へ擬物《まがひもの》の翡翠《ひすゐ》を通したのだのは寧ろ上等の部であつた。ずつと非道《ひど》いのは、丸《まる》で紙屑買としか見えなかつた。腹掛《はらがけ》股引《もゝひき》も一人|交《まじ》つてゐた。
 「何うだ平民的で可《い》いぢやないか」
 小林は津田の猪口《ちよく》へ酒を注《つ》ぎながら斯う云つた。其言葉を打ち消すやうな新調したての派出《はで》な彼の脊廣が、すぐ殊更らしく津田の眼に映つたが、彼自身は丸《まる》で其所に氣が付いてゐないらしかつた。
 「僕は君と違つて何うしても下等社界の方に同情があるんだからな」
 小林は恰《あたか》もそこに自分の兄弟分でも揃つてゐるやうな顔をして、一同を見廻した。
 「見《み》玉《たま》へ。彼等はみんな上流社會より好い人相をしてゐるから」
 挨拶をする勇氣のなかつた津田は、一同を見廻す代りに、却つて小林を熟視した。小林はすぐ讓歩した。
 「少くとも陶然《たうぜん》としてゐるだらう」
 「上流社會だつて陶然とするからな」
 「だが陶然としかたが違ふよ」
 津田は昂然として兩者の差違を訊かなかつた。それでも小林は少しも悄氣《しよげ》ずに、ぐい/\杯《さかづき》を重ねた。
 「君は斯ういふ人間を輕蔑してゐるね。同情に價《あたひ》しないものとして、始めから見縊《みくび》つてゐるんだ」
 斯ういふや否や、彼は津田の返事も待たずに、向ふにゐる牛乳配達見たやうな若ものに聲を掛けた。
 「ねえ君。さうだらう」
 出し拔けに呼び掛けられた若者は倔強《くつきやう》な頸筋を曲げて一寸|此方《こつち》を見た。すると小林はすぐ杯《さかづき》をそつちの方へ出した。
 「まあ君一杯飲みたまへ」
 若者はにや/\と笑つた。不幸にして彼と小林との間には一間程の距離があつた。立つて杯《さかづき》を受ける程の必要を感じなかつた彼は、微笑する丈《だけ》で動かなかつた。しかしそれでも小林には滿足らしかつた。出した杯を引込めながら、自分の口へ持つて行つた時、彼は又津田に云つた。
 「そらあの通りだ。上流社會のやうに高慢ちきな人間は一人も居やしない」
 
     三十五
 
 イン※[ワに濁点]ネスを着た小作りな男が、半纒《はんてん》の角刈《かくがり》と入れ違に這入つて來て、二人から少し隔つた所に席を取つた。廂《ひさし》を深く卸《お》ろした鳥打《とりうち》を被《かぶ》つたまゝ、彼は一應ぐるりと四方《あたり》を見廻した後《あと》で、懷へ手を入れた。さうして其所から取り出した薄い小型の帳面を開けて、讀むのだか考へるのだか、ぢつと見詰めてゐた。彼は何時《いつ》迄《まで》經《た》つても、古ぼけたトンビを脱がうとしなかつた。帽子も頭へ載せた儘であつた。然し帳面はそんなに長くひろげてゐなかつた。大事さうにそれを懷へ仕舞ふと、今度は飲みながら、じろり/\と他《ほか》の客を、見ない樣にして見始めた。其|相間々々《あひま/\》には、ちんちくりんな外套の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭を撫でた。
 先刻《さつき》から氣を付けるともなしに此樣子に氣を付けてゐた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合つた時、ぴたりと眞向《まむき》になつて互に顔を見合せた。小林は心持前へ乘り出した。
 「何だか知つてるか」
 津田は元の通りの姿勢を崩さなかつた。殆んど返事に價《あたひ》しないといふ口調で答へた。
 「何だか知るもんか」
 小林は猶《なほ》聲を低くした。
 「彼奴《あいつ》は探偵《たんてい》だぜ」
 津田は答へなかつた。相手より酒量の強い彼は、却つて相手程平生を失はなかつた。黙つて自分の前にある猪口《ちよく》を干した。小林はすぐそれへなみ/\と注《つ》いだ。
 「あの眼付を見ろ」
 薄笑ひをした津田は漸く口を開《ひら》いた。
 「君見たいに無暗に上流社會の惡口をいふと、早速社會主義者と間違へられるぞ。少し用心しろ」
 「社會主義者?」
 小林はわざと大きな聲を出して、ことさらにイン※[ワに濁点]ネスの男の方を見た。
 「笑はかせやがるな。此方《こつち》や、かう見えたつて、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品振つて取り繕ろつてる君達の方が餘つ程の惡者だ。何方《どつち》が警察へ引つ張られて然るべきだか能く考へて見ろ」
 鳥打の男が黙つて下を向いてゐるので、小林は津田に喰つてかゝるより外に仕方がなかつた。
 「君は斯うした土方や人足をてんから人間扱ひにしない積《つもり》かも知れないが」
 小林は又斯う云ひ掛けて、其所いらを見廻したが、生憎《あいにく》どこにも土方や人足はゐなかつた。夫《それ》でも彼は一向《いつかう》構はずに喋舌《しやべ》りつづけた。
 「彼等は君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地《きぢ》をうぶの儘|有《も》つてるか解らないぜ。たゞ其人間らしい美しさが、貧苦といふ塵埃《ほこり》で汚《よご》れてゐる丈《だけ》なんだ。つまり湯に入《はい》れないから穢《きた》ないんだ。馬鹿にするな」
 小林の語氣は、貧民の辯護といふよりも寧ろ自家《じか》の辯護らしく聞こえた。然し無暗に取り合つて此方《こつち》の體面を傷《きずつ》けられては困るといふ用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けてゐた。すると小林がなほ追懸《おつか》けて來た。
 「君は黙つてるが僕のいふ事を信じないね。たしかに信じない顏付をしてゐる。そんなら僕が説明してやらう。君は露西亞《ロシア》の小説を讀んだらう」
 露西亞《ロシア》の小説を一冊も讀んだ事のない津田は矢張《やはり》何とも云はなかつた。
 「露西亞《ロシア》の小説、ことにドストエヴスキの小説を讀んだものは必ず知つてる筈だ。如何に人間が下賤《げせん》であらうとも、又如何に無教育であらうとも、時として其人の口から、涙がこぼれる程有難い、さうして少しも取り繕《つくろ》はない、至純至精の感情が、泉のやうに流れ出して來る事を誰でも知つてる筈だ。君はあれを虚僞と思ふか」
 「僕はドストエヴスキを讀んだ事がないから知らないよ」
 「先生に訊くと、先生はありや嘘だと云ふんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器《うつは》に盛つて、感傷的に讀者を刺戟する策畧《さくりやく》に過ぎない、つまりドストエヴスキが中《あ》たつた爲に、多くの模倣者が續出して、無暗に安つぽくしてしまつた一種の藝術的技巧に過ぎないといふんだ。然し僕はさうは思はない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齡《とし》を取つたつて、先生は書物の上で年齡《とし》を取つた丈《だけ》だ。いくら若からうが僕は……」
 小林の言葉は段々|逼《せま》つて來た。仕舞に彼は感慨に堪へんといふ顔をして、涙をぽた/\卓布《テーブルクロース》の上に落した。
 
     三十六
 
 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれる程の醉が廻つてゐなかつた。同化の埒外《らちぐわい》から此興奮状態を眺める彼の眼は遂に批判的であつた。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑つた。ドストエヴスキであるか、日本の下層社會であるかを疑つた。其|何方《どつち》にした所で、自分とあまり交渉のない事も能く心得てゐた。彼は詰らなかつた。又不安であつた。感激家によつて彼の前に振り落された涙の痕《あと》を、たゞ迷惑さうに眺めた。
 探偵《たんてい》として物色《ぶつしよく》された男は、懷から又薄い手帳を出して、其中へ鉛筆で何かしきりに書き付け始めた。猫のやうに物靜かでありながら、猫のやうに凡《すべ》てを注意してゐるらしい彼の擧動が、津田を變な氣持にした。けれども小林の醉は、もうそんな所を通り越して居た。探偵などは丸《まる》で眼中になかつた。彼は新調の脊廣の腕をいきなり津田の鼻の先へ持つて來た。
 「君は僕が汚ない服裝《なり》をすると、汚ないと云つて輕蔑するだらう。又|會《たま》に綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと云つて輕蔑するだらう。ぢや僕は何うすれば可《い》いんだ。何うすれば君から尊敬されるんだ。後生《ごしやう》だから教へて呉れ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にも其腕には抵抗力がなかつた。最初の勢が急に何處かへ拔けたやうに、大人《おとな》しく元の方角へ戻つて行つた。けれども彼の口は彼の腕程素直ではなかつた。手を引込ました彼はすぐ口を開《ひら》いた。
 「僕は君の腹の中《なか》をちやんと知つてる。君は僕が是程下層社會に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵へたので、それを矛盾だと云つて笑ふ氣だらう」
 「いくら貧乏だつて、洋服の一着位拵へるのは當り前だよ。拵へなけりや赤裸《はだか》で徃來を歩かなければなるまい。拵へたつて結構ぢやないか。誰も何とも思つてやしないよ」
 「所がさうでない。君は僕を唯めかすんだと思つてる。お洒落《しやれ》だと解釋してゐる。それが惡い」
 「さうか。そりや惡かつた」
 もう遣り切れないと觀念した津田は、とうとう降參の便利を悟つたので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と變つて來た。
 「いや僕も惡い。惡かつた。僕にも洒落氣《しやれけ》はあるよ。そりや僕も充分認める。認めるには認めるが、僕が何故今度この洋服を作つたか、其譯を君は知るまい」
 そんな特別の理由を津田は固《もと》より知らう筈がなかつた。又知りたくもなかつた。けれども行き掛り上訊いて遣らない譯にも行かなかつた。兩手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服裝《なり》を見越しながら、寧ろ心細さうに答へた。
 「實はこの着物で近々《きん/\》都落《みやこおち》をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。序《ついで》に先刻《さつき》から苦になつてゐた襟飾の横つちよに曲つてゐるのを注意して直させた後で、又彼の話を聽きつゞけた。
 長い間叔父の雜誌の編輯をしたり、校正をしたり、其間には自分の原稿を書いて、金を呉れさうな所へ方々持つて廻つたりして、始終忙がしさうに見えた彼は、とう/\東京に居たゝまれなくなつた結果、朝鮮へ渡つて、其所の或新聞社へ雇はれる事に、畧《ほゞ》相談が極つたのであつた。
 「斯う苦しくつちや、いくら東京に辛防《しんばう》してゐたつて、仕方がないからね。未來のない所に住んでるのは實際厭だよ」
 其未來が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待つてゐさうな事をいふ彼は、すぐ又前言を取り消すやうな口も利いた。
 「要するに僕なんぞは、生涯漂浪して歩く運命を有《も》つて生れて來た人間かも知れないよ。何うしても落ち付けないんだもの。たとひ自分が落ち付く氣でも、世間が落ち付かせて呉れないから殘酷だよ。駈落者《かけおちもの》になるより外に仕方がないぢやないか」
 「落付けないのは君ばかりぢやない。僕だつてちつとも落付いてゐられやしない」
 「勿體《もつたい》ない事をいふな。君の落ち付けないのは賛澤だからさ。僕のは死ぬ迄|?麭《パン》を追懸《おつか》けて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
 「然し落ち付けないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりぢやないよ」
 小林は津田の言葉から何等の慰藉《ゐしや》を受ける氣色《けしき》もなかつた。
 
     三十七
 
 先刻《さつき》から二人の樣子を眺めてゐた下女が、いきなり來て、わざとらしく食卓《テーブル》の上を片付け始めた。それを相圖のやうに、イン※[ワに濁点]ネスを着た男がすうと立ち上つた。疾《と》うに酒をやめて、たゞ話ばかりしてゐた二人も澄ましてゐる譯に行かなかつた。津田は機會を捉《とら》へてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、先づ彼等の間に置かれたM、C、C、の箱を取つた。さうして其中から又新らしい金口《きんぐち》を一本出してそれに火を點《つ》けた。行き掛けの駄賃らしい此|所作《しよさ》が、煙草の箱を受け取つて袂へ入れる津田の眼を、皮肉に擽《くす》ぐつたくした。
 時刻はそれ程でなかつたけれども、秋の夜《よ》の徃來は意外に更《ふ》け易かつた。晝は耳に付かない一種の音を立てゝ電車が遠くの方を走つてゐた。別々の氣分に働らき懸けられてゐる二人の黒い影が、まだ離れずに河の緑《ふち》をつたつて動いて行つた。
 「朝鮮へは何時頃《いつごろ》行くんだね」
 「ことによると君の病院へ入《は》いつてゐるうちかも知れない」
 「そんなに急に立つのか」
 「いやさうとも限らない。もう一遍先生が向ふの主筆に會つて呉れてからでないと、判然《はつきり》した事は分らないんだ」
 「立つ日がかい、或は行く事がかい」
 「うん、まあ――」
 彼の返事は少し曖昧であつた。津田がそれを追究《つゐきう》もしないで、さつさと行き出した時、彼は又云ひ直した。
 「實を云ふと、僕は行きたくもないんだがなあ」
 「藤井の叔父が是非行けとでも云ふのかい」
 「なにさうでもないんだ」
 「ぢや止《よ》したら可《い》いぢやないか」
 津田の言葉は誰にでも解り切つた理窟な丈《だけ》に、同情に飢えてゐさうな相手の氣分を殘酷に射貫《いぬ》いたと一般であつた。數歩の後《のち》、小林は突然津田の方を向いた。
 「津田君、僕は淋《さび》しいよ」
 津田は返事をしなかつた。二人は又黙つて歩いた。淺い河床《かはどこ》の眞中を、少しばかり流れてゐる水が、ぼんやり見える橋杭《はしぐひ》の下で黒く消えて行く時、幽《かす》かに音を立てゝ、電車の通る相間《あひま》/\に、ちよろ/\と鳴つた。
 「僕は矢つ張り行くよ。何うしても行つた方が可《い》いんだからね」
 「ぢや行くさ」
 「うん、行くとも。斯《こ》んな所にゐて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台灣に行つた方がよつぽど増しだ」
 彼の語氣は癇走《かんばし》つてゐた。津田は急に穩やかな調子を使ふ必要を感じた。
 「あんまりさう悲觀しちや不可《いけな》いよ。年齒《とし》さへ若くつて身體さへ丈夫なら、何處へ行つたつて立派に成效《せいかう》出來るぢやないか。――君が立つ前一つ送別會を開かう、君を愉快にするために」
 今度は小林の方が可《い》い返事をしなかつた。津田は重ねて跋《ばつ》を合はせる態度に出た。
 「君が行つたらお金さんの結婚する時困るだらう」
 小林は今迄頭のなかになかつた妹の事を、はつと思ひ出した人のやうに津田を見た。
 「うん、彼奴《あいつ》も可哀相《かはいさう》だけれども仕方がない。詰り斯《こ》んなやくざな兄貴《あにき》をもつたのが不仕合せだと思つて、諦らめて貰ふんだ」
 「君がゐなくつたつて、叔父や叔母が何うかして呉れるんだらう」
 「まあそんな事になるより外に仕方がないからな。でなければ此結婚を斷つて、何時《いつ》迄《まで》も下女代りに、先生の宅《ちち》で使つて貰ふんだが、――そいつは先《ま》あ何方《どつち》にしたつて同じやうなもんだらう。それより僕はまだ先生に氣の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
 「向ふぢや呉れないのか」
 「呉れさうもないな」
 「何うにかして出させたら好いだらう」
 「さあ」
 一分ばかりの沈黙を破つた時、彼は又|獨《ひと》り言《ごと》のやうに云つた。
 「旅費は先生から借りる、外套は君から貰ふ、たつた一人の妹は置《お》いてき堀《ぼり》にする、世話はないや」
 是が其晩小林の口から出た最後の台詞《せりふ》であつた。二人は遂に分れた。津田は後《あと》をも見ずにさつさと宅《うち》の方へ急いだ。
 
     三十八
 
 彼の門は例《いつも》の通り締まつてゐた。彼は潜《くゞ》り戸《ど》へ手を掛けた。所が今夜は其潜り戸も亦|開《あ》かなかつた。立て付けの惡い所爲《せゐ》かと思つて、二三度遣り直した揚句、力任せに戸を引いた時、ごとりといふ重苦しい?《かきがね》の抵抗力を裏側に聞いた彼は漸く斷念した。
 彼は此豫想外の出來事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立《たゞずん》んだ。新らしい世帶を持つてから今日《こんにち》に至る迄、一度も外泊した覺《おぼえ》のない彼は、たまに夜遲く歸る事があつても、まだ斯うした經驗には出會はなかつたのである。
 今日《けふ》の彼は灯點《ひとも》し頃から早く宅《うち》へ歸りたがつてゐた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食つたのも仕方なしに食つたのであつた。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に對する義理に過ぎなかつた。夕方以後の彼は、寧ろお延の面影《おもかげ》を心に置きながら外で暮してゐた。其薄ら寒い外から歸つて來た彼は、丁度暖かい家庭の燈火《ともしび》を慕つて、それを目標《めあて》に足を運んだのと一般であつた。彼の身體が土塀に行き當つた馬のやうに留《と》まると共に彼の期待も急に門前で喰ひ留められなければならなかつた。さうしてそれを喰ひ留めたものがお延であるか偶然であるかは、今の彼に取つて決して小さな問題でなかつた。
 彼は手を擧げて開《あ》かない潜《くゞ》り戸《ど》をとん/\と二つ敲《たゝ》いた。「此所を開けろ」といふよりも「此所を何故締めた」といつて詰問する樣な音が、更《ふ》け渡《わた》りつゝある徃來の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」といふ返事がした。殆んど反響に等しい位早く彼の鼓膜を打つた其聲の主《ぬし》は、下女でなくてお延であつた。急に靜まり返つた彼は戸の此方側《こちらがは》で耳を澄ました。用のある時|丈《だけ》使ふ事にしてある玄關先の電燈のスヰツチを捩《ひね》る音が明らかに聞こえた。格子《かうし》がすぐがらりと開《あ》いた。入口の開き戸がまだ閉《た》てゝない事は慥《たし》かであつた。
 「どなた?」
 潜《くゞ》りのすぐ向ふ側迄來た足音が止《と》まると、お延は先づ斯う云つて誰何《すゐか》した。彼は猶《なほ》の事《こと》急《せ》き込《こ》んだ。
 「早く開けろ、己《おれ》だ」
 お延は「あらツ」と叫んだ。
 「貴方だつたの。御免遊ばせ」
 ごと/\云はして?《かきがね》を外《はづ》した後で夫《をつと》を内へ入れた彼女は何時《いつ》もより少し蒼い顔をしてゐた。彼はすぐ玄關から茶の間へ通り拔けた。
 茶の間は何時《いつ》もの通りきちんと片付いてゐた。鐵瓶が約束通り鳴つてゐた。長火鉢の前には、例によつて厚いメリンスの座蒲團が、彼の歸りを待ち受ける如くに敷かれてあつた。お延の坐りつけた其《その》向《むかふ》には、彼女の座蒲團の外に、女持の硯箱《すゞりばこ》が出してあつた。青貝で梅の花を散らした螺細《らてん》の葢《ふた》は傍《わき》へ取《と》り除《の》けられて、梨地《なしぢ》の中に嵌《は》め込《こ》んだ小さな硯がつや/\と濡れてゐた。持主が急いで座を立つた證據に、細い筆の穗先が、卷紙の上へ墨を滲《にじ》ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚《けが》してゐた。
 戸締りをして夫《をつと》の後《あと》から入《はい》つてきたお延は寐卷の上へ平生着《ふだんぎ》の羽織を引つ掛けた儘其所へぺたりと坐つた。
 「何うも濟みません」
 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打つたばかりの所であつた。結婚後彼が此位な刻限に歸つたのは、例外にした所で、決して始めてではなかつた。
 「何だつて締め出しなんか喰はせたんだい。もう歸らないとでも思つたのか」
 「いゝえ、さつきから、もうお歸りか、もうお歸りかと思つて待つてたの。仕舞にあんまり淋《さむ》しくつて堪らなくなつたから、とう/\宅《うち》へ手紙を書き出したの」
 お延の兩親は津田の父母と同じやうに京都にゐた。津田は遠くから其書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得《なつとく》が出來なかつた。
 「待つてたものがなんで門なんか締めるんだ。物騷《ぶつさう》だからかね」
 「いゝえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
 「だつて現《げん》に締まつてゐたぢやないか」
 「時《とき》が昨夕《ゆうべ》締めつ放しにしたまんまなのよ、屹度《きつと》。いやな人」
 斯う云つたお延は何時《いつ》もする癖の通り、ぴく/\彼女の眉を動かして見せた。日中用のない潜《くゞ》り戸《ど》の?《かきがね》を、朝|外《はづ》し忘れたといふ辯解は、決して不合理なものではなかつた。
 「時は何うしたい」
 「もう先刻《さつき》寐かしてやつたわ」
 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかつた津田は、潜り戸の事を其儘にして寐た。
 
     三十九
 
 あくる朝の津田は、顔も洗はない先から、昨夜《ゆうべ》寐る迄全く豫想してゐなかつた不意の觀物《みもの》によつて驚ろかされた。
 彼の床を離れたのは九時頃であつた。彼は何時《いつ》もの通り玄關を拔けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟《あでやか》に盛粧《せいさう》したお延が澄まして其所に坐つてゐた。津田ははつと思つた。寐起の顔へ水を掛けられたやうな夫《をつと》の樣子に滿足したらしい彼女は微笑を洩らした。
 「今|御眼覺《おめざめ》?」
 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡《てがら》をかけた大丸髷《おほまるまげ》と、派出《はで》な刺?《ぬひ》をした半襟の模樣と、それから其眞中にある化粧後《けしやうご》の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るやうな新らしい眼付で眺めた。
 「一體何うしたんだい。朝つぱらから」
 お延は平氣なものであつた。
 「何うもしないわ。――だつて今日は貴方がお醫者樣へ入らつしやる日ぢやないの」
 昨夜《ゆうべ》遲く其所へ脱ぎ捨てて寐た筈の彼の袴も羽織も、疊んだなり、ちやんと取り揃へて、澁紙《しぶかみ》の上へ載せてあつた。
 「お前も一所に行く積《つもり》だつたのかい」
 「えゝ無論行く積《つもり》だわ。行つちや御迷惑なの」
 「迷惑つて譯はないがね。――」
 津田は又改めて細君の服裝《なり》を吟味する樣に見た。
 「餘《あん》まりおつくりが大袈裟《おほげさ》だからね」
 彼はすぐ心の中《うち》で此間見た薄暗い控室の光景を思ひ出した。其所に坐つてゐる患者の一群《ひとむれ》と此着飾つた若い奧樣とは、とても調和すべき性質のものでなかつた。
 「だつて貴方今日は日曜よ」
 「日曜だつて、芝居やお花見に行くのとは少し違ふよ」
 「だつて妾《あたし》……」
 津田に云はせれば、日曜は猶《なほ》の事《こと》患者が朝から込み合ふ丈《だけ》であつた。
 「何うも左右《さう》いふでこ/\な服裝《なり》をして、あのお醫者樣へ夫婦お揃ひで乘り込むのは、少し――」
 「辟易《へきえき》?」
 お延の漢語が突然津田を擽《くすぐ》つた。彼は笑ひ出した。一寸眉を動かしたお延はすぐ甘垂《あまつた》れるやうな口調を使つた。
 「だつて是から着物なんか着換へるのは時間が掛つて大變なんですもの。折角着ちまつたんだから、今日は是で堪忍して頂戴よ、ね」
 津田はとう/\敗北した。顔を洗つてゐるとき、彼は下女に俥《くるま》を二台云ひ付けるお延の聲を、恰《あたか》も自分が急《せ》き立《た》てられでもするやうに世話《せわ》しなく聞いた。
 普通の食事を取らない彼の朝飯《あさめし》は殆んど五分とかゝらなかつた。楊枝《やうじ》も使はないで立ち上つた彼はすぐ二階へ行かうとした。
 「病院へ持つて行くものを纒めなくつちや」
 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後《うしろ》にある戸棚を開けた。
 「此所に拵へてあるから一寸見て頂戴」
 餘所行着《よそゆきぎ》を着た細君を勞《いたは》らなければならなかつた津田は、稍《やゝ》重《おも》い手提鞄《てさげかばん》と小さな風呂敷包を、自分の手で戸棚から引き摺り出した。包の中には試しに袖を通した許《ばかり》の例の褞袍《どてら》と平絎《ひらぐけ》の寐卷紐が這入つてゐる丈《だけ》であつたが、鞄《かばん》の中からは、楊枝だの齒磨粉だの、使ひつけたラ※[エに濁点]ンダー色の書翰用紙だの、同じ色の封筒だの、萬年筆だの、小さい鋏だの、毛拔だのが雜然と現はれた。そのうちで一番重くて嵩張《かさば》つた大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云つた。
 「是は置いて行くよ」
 「さう、でも何時《いつ》でも机の上に乘つてゐて、枝折《しをり》が挾んであるから、お讀みになるのかと思つて入れといたのよ」
 津田は何にも云はずに、二ケ月以上もかゝつて未《ま》だ讀み切れない經濟學の濁逸書《ドイツしよ》を重さうに疊の上に置いた。
 「寐てゐて讀むにや重くつて駄目だよ」
 斯う云つた津田は、それが此|大部《たいぶ》の書物を殘して行く正當の理由であると知りながら、餘り好い心持がしなかつた。
 「さう、本は何《ど》れが要るんだか妾《あたし》分らないから、貴方自分でお好きなのを擇《よ》つて頂戴」
 津田は二階から輕い小説を二三冊持つて來て、經濟書の代りに鞄《かばん》の中へ詰め込んだ。
 
     四十
 
 天氣が好いので幌《ほろ》を疊ました二人は、鞄と風呂敷包を、各自《めい/\》の俥《くるま》の上に一つづゝ乘せて家を出た。小路《こうぢ》の角を曲つて電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に聲を掛けた。俥《くるま》は前後ともすぐ留つた。
 「大變。忘れものがあるの」
 車上で振り返つた津田は、何にも云はずに細君の顔を見守つた。念入《ねんいり》に身仕舞をした若い女の口から出る刺戟性《しげきせい》に富んだ言葉のために引き付けられたものは夫《をつと》ばかりではなかつた。車夫も梶棒《かぢぼう》を握つた儘、等しくお延の方へ好奇の視線を向けた。傍《そば》を通る徃來の人さへ一瞥の注意を夫婦の上へ與へないではゐられなかつた。
 「何だい。何を忘れたんだい」
 お延は思案するらしい樣子をした。
 「一寸待つてて頂戴。すぐだから」
 彼女は自分の俥《くるま》丈《だけ》を元へ返した。中《ちゆう》ぶらりんの心的状態で其所に取り殘された津田は、黙つて其後姿を見送つた。一旦|小路《こうぢ》の中に隱れた俥《くるま》がやがて又現はれると、劇《はげ》しい速力で又彼の待つてゐる所迄馳けて來た。それが彼の眼の前で留つた時、車上のお延は帶の間から一尺ばかりの鐵製の鎖《くさり》を出して長くぶら下げて見せた。其|鎖《くさり》の端《はじ》には環《わ》があつて、環の中には大小五六個の鍵《かぎ》が通してあるので、鎖を高く示さうとしたお延の所作《しよさ》と共に、ぢやら/\といふ音が津田の耳に響いた。
 「是忘れたの。箪笥《たんす》の上に置きつ放しにした儘」
 夫婦以外に下女しか居ない彼等の家庭では、二人揃つて外出する時の用心に、大事なものに錠《ぢやう》を卸して置いて、何方《どつち》かゞ鍵《かぎ》丈《だけ》持つて出る必要があつた。
 「お前預かつておいで」
 ぢやら/\するものを再び帶の間に押し込んだお延は、平手《ひらて》でぽんと其上を敲きながら、津田を見て微笑した。
 「大丈夫」
 俥《くるま》は再び走《か》け出《だ》した。
 彼等の醫者に着いたのは豫定の時刻より少し後《おく》れてゐた。然し午《ひる》迄《まで》の診察時間に間に合はない程でもなかつた。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄關を上ると、すぐ藥局の口へ行つた。
 「すぐ二階へ行つても可《い》いでせうね」
 藥局にゐた書生は奧から見習ひの看護婦を呼んで呉れた。まだ十六七にしかならない其看護婦は、何の造作《ざうさ》もなく笑ひながら津田にお辭儀をしたが、傍《そば》に立つてゐるお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた氣味で、一體此|孔雀《くじやく》は何處から入《はい》つて來たのだらうといふ顔付をした。お延が先《せん》を越して、「御厄介になります」と此方《こつち》から挨拶をしたので、始めて氣が付いたやうに、看護婦も頭を下げた。
 「君、此奴《こいつ》を一つ持つて呉れ玉へ」
 津田は車夫から受取つた鞄《かばん》を看護婦に渡して、二階の上《あが》り口《くち》の方へ廻つた。
 「お延|此方《こつち》だ」
 控室の入口に立つて、患者のゐる部屋の中を覗き込んでゐたお延は、すぐ津田の後《あと》に隨《つ》いて階子段《はしごだん》を上《あが》つた。
 「大變陰氣な室《へや》ね、あすこは」
 南東《みなみひがし》の開《あ》いた二階は幸《さいはひ》に明るかつた。障子を開けて縁側へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干を見ながら、津田を顧みた。
 「下と違つて此所は陽氣ね。さうして一寸|可《い》いお部屋ね。疊は汚《よご》れてゐるけれども」
 もと請負師《うけおひし》か何かの妾宅《せふたく》に手を入れて出來上つた其醫院の二階には、何處となく粋《いき》な昔の面影《おもかげ》が殘つてゐた。
 「古いけれども宅《うち》の二階より増しかも知れないね」
 日に照らされてきら/\する白い洗濯物の色を、秋らしい氣分で眺めてゐた津田は、斯う云つて、時代のために多少|燻《くす》ぶつた天井だの床柱だのを見廻した。
 
     四十一
 
 其所へ先刻《さつき》の看護婦が急須《きふす》へ茶を淹《い》れて持つて來た。
 「今仕度をして居りますから、少しの間何うぞ」
 二人は仕方なしに行儀よく差向ひに坐つたなり茶を飲んだ。
 「何だか氣がそわ/\して落ち付かないのね」
 「丸《まる》でお客さまに行つたやうだらう」
 「えゝ」
 お延は帶の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりも是から受ける手術の方が氣になつた。
 「一體何分位で濟むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物《はもの》の音|丈《だけ》聞いてゐると、好い加減變な心持になるからな」
 「あたし怖《こは》いわ、そんなもの見るのは」
 お延は實際怖さうに眉を動かした。
 「だからお前は此所に待つといでよ。わざ/\手術台の傍《そば》迄《まで》來て、穢《きた》ない所を見る必要はないんだから」
 「でも斯《こ》んな場合には誰か身寄《みより》のものが立ち合はなくつちや惡いんでせう」
 津田は眞面目なお延の顔を見て笑ひ出した。
 「そりや死ぬか生きるかつていふやうな重い病氣の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人《たちあひにん》なんか呼んで來る奴があるものかね」
 津田は女に穢《きた》ないものを見せるのが嫌《きらひ》な男であつた。ことに自分の穢《きた》ない所を見せるは厭であつた。もつと押し詰めていふと、自分で自分の穢ない所を見るのでさへ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であつた。
 「ぢや止《よ》しませう」と云つたお延は又時計を出した。
 「お午《ひる》迄《まで》に濟むでせうか」
 「濟むだらうと思ふがね。どうせ斯うなりや何時《いつ》だつて同《おん》なじこつちやないか」
 「そりや左右《さう》だけど……」
 お延は後を云はなかつた。津田も訊かなかつた。
 看護婦が又|階子段《はしごだん》の上へ顔を出した。
 「支度が出來ましたから何うぞ」
 津田はすぐ立ち上つた。お延も同時に立ち上らうとした。
 「お前は其所に待つといでと云ふのに」
 「診察室へ行くんぢやないのよ。一寸此所の電話を借りるのよ」
 「何處かへ用があるのかね」
 「用ぢやないけど、――一寸お秀さんの所へ貴方の事を知らせて置かうと思つて」
 同じ區内にある津田の妹の家は其所から餘り遠くはなかつた。今度の病氣に就いて妹《いもと》の事を餘り頭の中に入れてゐなかつた津田は、立たうとするお延を留めた。
 「可《い》いよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。それに彼奴《あいつ》が來ると八釜《やかま》しくつて不可《いけな》いからね」
 年は下でも、性質の違ふ此妹は、津田から見たある意味の苦手《にがて》であつた。
 お延は中腰《ちゆうごし》の儘答へた。
 「でも後《あと》でまた何か云はれると、あたしが困るわ」
 強ひて留《と》める理由も見出《みいだ》し得なかつた津田は仕方なしに云つた。
 「掛けても構はないが、何も今に限つた事はないだらう。彼奴《あいつ》は近所だから、屹度《きつと》すぐ來るよ。手術をしたばかりで、神經が過敏になつてる所へもつて來て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云はれるのは實際樂ぢやないからね」
 お延は微《かす》かな聲で階下《した》を憚かるやうな笑ひ方をした。然し彼女の露はした白い齒は、氣の毒だといふ同情よりも、滑稽だといふ單純な感じを明らかに夫《をつと》に物語つてゐた。
 「ぢやお秀さんへ掛けるのは止《よ》すから」
 斯う云つたお延は、とう/\津田と一所に立ち上つた。
 「まだ外《ほか》に掛ける所があるのかい」
 「えゝ岡本へ掛けるのよ。午《ひる》迄《まで》に掛けるつて約束があるんだから、可《い》いでせう、掛けても」
 前後して階子段《はしごだん》を下りた二人は、其所で別々になつた。一人が電話口の前に立つた時、一人は診察室の椅子へ腰を卸した。
 
     四十二
 
 「リチネはお飲みでしたらうね」
 醫者は糊の強い洗ひ立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。
 「飲みましたが思つた程|效目《きゝめ》がないやうでした」
 昨日《きのふ》の津田にはリチネの效目《きゝめ》を氣にする丈《だけ》の暇さへなかつた。夫《をれ》から夫《それ》へと忙がしく心を使はせられた彼が此|下劑《げざい》から受けた影響は、殆んど精神的に零《ゼロ》であつたのみならず、生理的にも案外微弱であつた。
 「ぢやもう一度|浣腸《くわんちやう》しませう」
 浣腸《くわんちやう》の結果も充分でなかつた。
 津田はそれなり手術台に上《のぼ》つて仰向《あふむけ》に寐た。冷たい防水布がぢかに皮膚に觸れた時.彼は思はず冷《ひや》りとした。堅い括《くゝ》り枕《まくら》に着けた彼の頭とは反對の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向つて寐る人のやうに、少しも落ち付けなかつた。彼は何度も瞬《まばた》きをして、何度も天井を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニツケル製の四角な淺い盆みたやうなものを持つて彼の横を通つたので、白い金屬性の光がちら/\と動いた。仰向けに寐てゐる彼には、それが自分の眼を掠《かす》めて通り過ぎるとしか思はれなかつた。見てならない氣味の惡いものを、ことさらに偸《ぬす》み見《み》たのだといふ心持が猶《なほ》のこと募つた。其時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今迄忘れてゐたお延の事を急に思ひ出した。彼女の岡本へ掛けた用事がやつと濟んだ時に、彼の療治は漸く始まつたのである。
 「コカイン丈《だけ》で遣ります。なに大して痛い事はないでせう。もし注射が駄目だつたら、奧の方へ藥を吹き込みながら進んで行く積《つもり》です。それで多分出來さうですから」
 局部を消毒しながら斯《こ》んな事を云ふ醫者の言葉を、津田は恐ろしいやうな又何でもないやうな一種の心持で聽いた。
 局部魔睡《きよくぶますゐ》は都合よく行つた。まぢ/\と天井を眺めてゐる彼は、殆んど自分の腰から下に、何《ど》んな大事件が起つてゐるか知らなかつた。たゞ時々自分の肉體の一部に、遠い所で誰かが壓迫を加へてゐるやうな氣がする丈《だけ》であつた。鈍《にぶ》い抵抗が其所に感ぜられた。
 「どんなです。痛かないでせう」
 醫者の質問には充分の自信があつた。津田は天井を見ながら答へた。
 「痛かありません。然し重い感じ丈《だけ》はあります」
 其重い感じといふのを、何う云ひ現はして可《い》いか、彼には適當な言葉がなかつた。無神經な地面が人間の手で掘り割られる時、ひよつとしたら斯《こ》んな感じを起しはしまいかといふ空想が、ひよつくり彼の頭の中に浮かんだ。
 「何うも妙な感じです。説明の出來ないやうな」
 「さうですか。我慢出來ますか」
 途中で腦貧血でも起されては困ると思つたらしい醫者の言葉つきが、何でもない彼を却つて不安にした。斯ういふ場合豫防のために葡萄酒などを飲まされるものか何うか彼は全く知らなかつたが、何しろ特別の手當を受ける事は厭であつた。
 「大丈夫です」
 「さうですか。もう直《ぢき》です」
 斯ういふ會話を患者と取り換はせながら、間斷なく手を働らかせてゐる醫者の態度には、熟練からのみ來る手際が閃《ひら》めいてゐさうに思はれた。けれども手術は彼の言葉通りさう早くは片付かなかつた。
 切物《きれもの》の皿に當つて鳴る音が時々した。鋏で肉をじよき/\切るやうな響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇《ゐかく》した。津田は其度にガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥《なまぐ》ささうに眺めた。ぢつと寐かされてゐる彼の神經はぢつとしてゐるのが苦になる程緊張して來た。むづ痒《かゆ》い虫のやうなものが、彼の身體を不安にするために、氣味惡く血管の中を這ひ廻つた。
 彼は大きな眼を開《あ》いて天井を見た。其天井の上には綺麗に着飾つたお延がゐた。其お延が今何を考へてゐるか、何をしてゐるか、彼には丸《まる》で分らなかつた。彼は下から大きな聲を出して、彼女を呼んで見たくなつた。すると足の方で醫者の聲がした。
 「やつと濟みました」
 無暗にガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後《あと》で、醫者は又云つた。
 「瘢痕《はんこん》が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、當分|凝《じつ》としてゐて下さい」
 最後の注意と共に、津田は漸く手術台から下《お》ろされた。
 
     四十三
 
 診察室を出るとき、後《うしろ》から隨《つ》いて來た看護婦が彼に訊いた。
 「いかゞです。氣分のお惡いやうな事は御座いませんか」
 「いゝえ。――蒼い顔でもしてゐるかね」
 自分自身に多少懸念のあつた津田は斯う云つて訊き返さなければならなかつた。
 創口《きずぐち》に出來る丈《だけ》多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他《ひと》が想像する倍以上に重苦しいものであつた。彼は仕方なしにのそ/\歩いた。それでも階子段《はしごだん》を上《あが》る時には、割《さ》かれた肉とガーゼとが擦《こす》れ合《あ》つてざら/\するやうな心持がした。
 お延は階段の上に立つてゐた。津田の顔を見ると、すぐ上から聲を掛けた。
 「濟んだの? 何うして?」
 津田ははつきりした返事も與へずに室《へや》の中に這入つた。其所には彼の豫期通り、白いシーツに裹《つゝ》まれた蒲團が、彼の安臥を待つべく長々と延べてあつた。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐ其上へ横になつた。鼠地のネルを重ねた銘仙の褞袍《どてら》を後《うしろ》から着せる積《つもり》で、兩手で襟の所を持ち上げたお延は、拍子拔《ひやうしぬ》けのした苦笑と共に、またそれを袖疊みにして床《とこ》の裾の方に置いた。
 「お藥は頂かなくつて可《い》いの」
 彼女は傍《そば》にゐる看護婦の方を向いて訊いた。
 「別に内用のお藥は召し上らないでも差支ないので御座います。お食事の方は只今拵へて此方《こちら》から持つて參ります」
 看護婦は立ち掛けた。黙つて寐てゐた津田は急に口を開《ひら》いた。
 「お延、お前何か食ふなら看護婦さんに頼んだら可《い》いだらう」
 「左右《さう》ね」
 お延は躊躇した。
 「あたし何うしようかしら」
 「だつて、もう畫過だらう」
 「えゝ。十二時二十分よ。貴方の手術は丁度二十八分掛つたのね」
 時計の葢《ふた》を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云つた。津田が手術台の上で俎《まないた》へ乘せられた魚《さかな》のやうに、大人《おとな》しく我慢してゐる間、お延は又彼の見詰めなければならなかつた天井の上で、時計と睨《にら》めつ競《くら》でもするやうに、手術の時間を計つてゐたのである。
 津田は再び訊いた。
 「今から宅《うち》へ歸つたつて仕方がないだらう」
 「えゝ」
 「ぢや此所で洋食でも取つて貰つて食つたら可《い》いぢやないか」
 「えゝ」
 お延の返事は何時《いつ》迄《まで》經つても捗々《はか/”\》しくなかつた。看護婦はとう/\下へ降りて行つた。津田は疲れた人が光線の刺戟《しげき》を避けるやうな氣分で眼をねむつた。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」といふので、又眼を開《あ》かなければならなかつた。
 「心持が惡いの?」
 「いゝや」
 念を押したお延はすぐ後《あと》を云つた。
 「岡本でよろしくつて。いづれ其内御見舞に上《あが》りますからつて」
 「さうか」
 津田は輕い返事をしたなり、又眼をつぶらうとした。するとお延が左右《さう》させなかつた。
 「あの岡本でね、今日是非芝居へ一所に來いつて云ふんですが、行つちや不可《いけな》くつて」
 氣の能く廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作《しよさ》が一度に閃《ひら》めいた。病院へ隨《つ》いて來るにしては派出過《はです》ぎる彼女の衣裳《いしやう》といひ、出る前に日曜だと斷つた彼女の注意といひ、此所へ來てから、そわ/\して岡本へ電話をかけた彼女の態度といひ、悉《こと/”\》く芝居の二字に向つて注《そゝ》ぎ込《こ》まれてゐるやうにも取れた。さういふ眼で見ると、手術の時間を精密に計つた彼女の動機さへ疑惑の種にならないでは濟まなかつた。津田は黙つて横を向いた。床の間の上に取り揃へて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙だの鋏だの書物だのが彼の眼に付いた。それは先刻《さつき》鞄《カバン》へ入れて彼が此所へ持つて來たものであつた。
 「看護婦に小さい机を借りて、其上へ載せやうと思つたんですけれども、まだ持つて來て呉れないから、しばらくの間、あゝして置いたのよ。本でも御覽になつて」
 お延はすぐ立つて床の間から書物を卸した。
 
     四十四
 
 津田は書物に手を觸れなかつた。
 「岡本へは斷つたんぢやないのか」
 不審よりも不平な顔をした彼が、向《むき》を變へて寐返りを打つた時に、堅固に出來てゐない二階の床《ゆか》が、彼の意を迎へるやうに、ずしんと鳴つた。
 「斷つたのよ」
 「斷つたのに是非來いつていふのかね」
 此時津田は始めてお延の顔を見た。けれども其所には彼の豫期した何物も現はれて來なかつた。彼女は却つて微笑した。
 「斷つたのに是非來いつていふのよ」
 「然し……」
 彼は一寸行き詰つた。彼の胸には云ふべき事がまだ殘つてゐるのに、彼の頭は自分の思はく通り迅速《じんそく》に働らいて呉れなかつた。
 「然し――斷つたのに是非來いなんていふ筈がないぢやないか」
 「それを云ふのよ。岡本も餘つ程の没分曉漢《わからずや》ね」
 津田は黙つてしまつた。何といつて彼女を追究《つゐきう》して可《い》いか見當が付かなかつた。
 「貴方まだ何かあたしを疑ぐつてゐらつしやるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちや」
 彼女の眉がさも/\厭さうに動いた。
 「疑ぐりやしないが、何だか變だからさ」
 「さう。ぢや其變な所を云つて頂戴な、いくらでも説明するから」
 不幸にして津田には其變な所が明瞭に云へなかつた。
 「やつぱり疑ぐつてゐらつしやるのね」
 津田ははつきり疑《うたが》つてゐないと云はなければ、何だか夫《をつと》として自分の品格に關《かゝ》はるやうな氣がした。と云つて、女から甘く見られるのも、彼に取つて少なからざる苦痛であつた。二つの我《が》が我《が》を張り合つて、彼の心のうちで闘ふ間、餘所目《よそめ》に見える彼は、比較的冷靜であつた。
 「あゝ」
 お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩らしてそつと立ち上つた。一旦|閉《た》て切《き》つた障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺《てすり》の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干に隙間《すきま》なく吊《つる》されたワイ襯衣《シヤツ》だのシーツだのが、先刻《さつき》見た時と同じ樣に、強い日光を浴びながら、乾いた風に搖れてゐた。
 「好いお天氣だ事」
 お延が小さな聲で獨りごとのやうに斯う云つた時、それを耳にした津田は、突然籠の中にゐる小鳥の訴へを聞かされたやうな心持がした。弱い女を自分の傍《そば》に縛り付けて置くのが少し可哀相《かはいさう》になつた。彼はお延に言葉を掛けやうとして、接穗《つぎほ》のないのに困つた。お延も欄干に身を倚《ょ》せた儘すぐ座敷の中へ戻つて來なかつた。
 其所へ看護婦が二人の食事を持つて下から上《あが》つて來た。
 「何うもお待遠さま」
 津田の膳には二個の鷄卵《けいらん》と一合のソツプと?麭《パン》が付いてゐる丈《だけ》であつた。其|?麭《パン》も半斤の二分ノ一と分量は何時《いつ》のまにか定められてゐた。
 津田は床の上に腹這になつた儘、むしや/\口を動かしながら、機會を見計らつて、お延に云つた。
 「行くのか、行かないのかい」
 お延はすぐ肉匙《フオーク》の手を休めた。
 「あなた次第よ。あなたが行けと仰《おつし》やれば行くし、止《よ》せと仰やれば止すわ」
 「大變柔順だな」
 「何時《いつ》でも柔順だわ。――岡本だつてあなたに伺つて見た上で、もし可《い》いと仰やつたら連れて行つて遣るから、御病氣が大した事でなかつたら、訊いて見ろつて云ふんですもの」
 「だつてお前の方から岡本へ電話を掛けたんぢやないか」
 「えゝそりや左右《さう》よ、約束ですもの。一返斷つたけれども、模樣次第では行けるかも知れないだらうから、もう一返其日の午《ひる》迄《まで》に電話で都合を知らせろつて云つて來たんですもの」
 「岡本からさういふ返事が來たのかい」
 「えゝ」
 然しお延は其手紙を津田に示してゐなかつた。
 「要するに、お前は何うなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答へた。
 「そりや行きたいわ」
 「とう/\白状したな。ぢやお出《いで》よ」
 二人は斯ういふ會話と共に午飯《ひるめし》を濟ました。
 
     四十五
 
 手術後の夫《をつと》を、やつと安靜状態に寐かして置いて、自分一人下へ降りた時.お延はもう約束の時間を大分《だいぶ》後《おく》らせてゐた。彼女は自分の行先を車夫に教へるために、たゞ一口《ひとくち》劇場の名を云つたなり、すぐ俥《くるま》に乘つた。門前に待たせて置いた其|俥《くるま》は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであつた。
 小路《こうぢ》を出た護謀輪《ゴムわ》は電車通りばかり走つた。何の意味なしに、たゞ賑やかな方角へ向けてのみ速力を出すといつた風の、景氣の好い車夫の駈方《かけかた》が、お延に感染した。ふつくらした厚い席の上で、彼女の身體が浮《うは》つきながら早く搖《うご》くと共に、彼女の心にも柔らかで輕快な一種の動搖が起つた。それは自分の左右前後に紛《ふん》として活躍する人生を、容赦なく横切つて目的地へ行く時の快感であつた。
 車上の彼女は宅《うち》の事を考へる暇がなかつた。機嫌よく病院の二階へ寐かして來た津田の影像《イメジ》が、今日一日位安心して彼を忘れても差支ないといふ保證を彼女に與へるので、夫《をつと》の事も丸《まる》で苦にならなかつた。たゞ目前の未來が彼女の俥《くるま》とともに動いた。芝居其物に大した嗜好《しかう》を始めから有《も》つてゐない彼女は、時間が後《おく》れたのを氣にするよりも、たゞ早く其所に行き着くのを氣にした。斯うして新らしい俥《くるま》で走つてゐる道中が現に刺戟であると同樣の意味で、其所へ行き着くのは更に一層の刺戟であつた。
 俥《くるま》は茶屋の前で留つた。挨拶をする下女にすぐ「岡本」と答へたお延の頭には、提灯《ちやうちん》だの暖簾《のれん》だの、紅白の造り花などがちら/\した。彼女は俥を降りる時一度に眼に入《はい》つた是等の色と形の影を、まだ片付ける暇もないうちに、すぐ廊下傳ひに案内されて、それよりも何層倍か錯綜《さくそう》した、又何層倍か濃厚な模樣を、縱横に織り擴げてゐる、海のやうな場内へ、ひよつこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「此方《こちら》へ」と云つた時、その隙間から遠くに前の方を眺めたお延の感じであつた。好んで斯ういふ場所へ出入《しゆつにふ》したがる彼女に取つて、別に珍らしくもない此感じは、彼女に取つて、永久に新らしい感じであつた。だから又永久に珍らしい感じであるとも云へた。彼女は暗闇を通り拔けて、急に明海《あかるみ》へ出た人の樣に眼を覺ました。さうして此|雰圍氣《ふんゐき》の片隅に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模樣の一部分となつて、擧止動作《きよしどうさ》共|悉《こと/”\》く是から其中に織り込まれて行くのだといふ自覺が、緊張した彼女の胸にはつきり浮んだ。
 席には岡本の姿が見えなかつた。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき餘地は充分あつた。それでも姉娘の繼子《つぎこ》は、お延の座が生憎《あいにく》自分の影になるのを氣遣ふ樣に、後《うしろ》を向いて筋違《すぢかひ》に身體を延ばしながらお延に訊いた。
 「見えて? 少し此所と換《かは》つて上げませうか」
 「有難う。此所で澤山」
 お延は首を振つて見せた。
 お延のすぐ前に坐つてゐた十四になる妹娘の百合子《ゆりこ》は左利《ひだりきゝ》なので、左の手に輕い小さな象牙製の双眼鏡を持つた儘、其肱を、赤い布《きれ》で裹《つゝ》んだ手摺《てすり》の上に載せながら、後《うしろ》を拭り返つた。
 「遲かつたのね。あたし宅《うち》の方へ入らつしやるのかと思つてたのよ」
 年の若い彼女は、まだ津田の病氣に就いて挨拶かた/”\お延に何か云ふ程の智慧を有《も》たなかつた。
 「御用があつたの?」
 「えゝ」
 お延はたゞ簡單な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻《さつき》から姉妹《きやうだい》の母親が傍目《わきめ》も振らず熱心に見詰めてゐる方角であつた。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、一寸黙禮を取り替はせた丈《だけ》で、拍子木の鳴る迄ついに一言《ひとこと》も口を利かなかつた。
 
     四十六
 
 「能く來られたのね。ことによると今日は六づかしいんぢやないかつて、先刻《さつき》繼《つぎ》と話してたの」
 幕が引かれてから、始めて打《う》ち寛《くつ》ろいだ樣子を示した細君は、漸くお延に口を利き出した。
 「そら御覽なさい、あたしの云つた通りぢやなくつて」
 誇り顔に母の方を見て斯う云つた繼子はすぐお延に向つて其《その》後《あと》を云ひ足した。
 「あたしお母さまと賭《かけ》をしたのよ。今日あなたが來るか來ないかつて。お母さまはことによると來ないだらうつて仰《おつし》やるから、あたし屹度《きつと》入らつしやるに違ないつて受け合つたの」
 「さう。又|御神籤《おみくじ》を引いて」
 繼子は長さ二寸五分幅六分位の小さな神籤箱《みくじばこ》の所有者であつた。黒塗の上へ篆書《てんしよ》の金文字で神籤《みくじ》と書いた其箱の中には、象牙を平たく削つた精巧の番號札が數通《かずどほ》り百本納められてゐた。彼女はよく「一寸見て上げませうか」と云ひながら、小楊枝入《こやうじいれ》を取り扱ふやうな手付で、短冊形《たんざくがた》の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合ふ樣に出來た文句入《もんくいり》の折手本《をりでほん》を繰りひろげて見た。さうして其所に書いてある蠅《はへ》の頭《あたま》程な細かい字を讀むために、是も附属品として始めから添へてある小さな蟲眼鏡を、羽二重の裏をつけた更紗《さらさ》の袋から取り出して、勿體《もつたい》らしく其上へ翳《かざ》したりした。お延が津田と淺草へ遊びに行つた時、玩具《おもちや》としては高過ぎる四圓近くの代償を拂つて、仲見世から買つて歸つた精巧な此贈物は、來年二十一になる繼子に取つて、處女の空想に神秘の色を遊戯的《いうぎてき》に着けて呉れる無邪氣な裝飾品であつた。彼女は時として帙入《ちついり》の儘それを机の上から取つて帶の間に挾《はさ》んで外出する事さへあつた。
 「今日も持つて來たの?」
 お延は調戯半分《からかひはんぶん》彼女に訊いて見たくなつた。彼女は苦笑しながら首を振つた。母が傍《そば》から彼女に代つて返事をする如くに云つた。
 「今日の豫言はお神籤《みくじ》ぢやないのよ。お神籤《みくじ》よりもつと偉い豫言なの」
 「さう」
 お延は後が聞きたさうにして、母子《おやこ》を見比べた。
 「繼《つぎ》はね……」と母が云ひかけたのを、娘はすぐ追被《おつかぶ》せるやうに留《と》めた。
 「止《よ》して頂戴よ、お母さま。そんな事此所で云つちや惡いわよ」
 今迄黙つて三人の會話を聽いてゐた妹娘の百合子が、くす/\笑ひ出した。
 「あたし云つて上げても可《い》いわ」
 「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の惡い事するのは。可いわ、そんなら、もうピヤノを浚《さら》つて上げないから」
 母は隣りにゐる人の注意を惹かないやうに、小さな聲を出して笑つた。お延も可笑《をか》しかつた。同時に猶《なほ》譯が訊きたかつた。
 「話して頂戴よ、お姉さまに怒られたつて構はないぢやないの。あたしが付いてるから大丈夫よ」
 百合子はわざと腮《あご》を前へ突き出すやうにして姉を見た。心持小鼻をふくらませた其態度は、話す話さないの自由を我に握つた人の勝利を、もの/\しく相手に示してゐた。
 「可いわ、百合子さん。何うでも勝手になさい」
 斯う云ひながら立つと、繼子は後《うしろ》の戸を開けてすぐ廊下へ出た。
 「お姉さま怒つたのね」
 「怒つたんぢやないよ。極りが惡いんだよ」
 「だつて極りの惡い事なんかなかないの。あんな事云つたつて」
 「だから話して頂戴よ」
 年齒《とし》の六つ程下な百合子の小供らしい心理状態を觀察したお延は、それを旨く利用しやうと試みた。けれども不意に座を立つた姉の擧動が、もう既に其状態を崩してゐたので、お延の慫慂《しようよう》は何の效目《きゝめ》もなかつた。
母はとう/\凡《すべ》てに對する責任を一人で背負《しよ》はなければならなかつた。
 「なに何でもないんだよ。繼がね、由雄さんはあゝいふ優しい好い人で、何でも延子さんのいふ通りになるんだから、今日は屹度《きつと》來るに違ないつて云つた丈《だけ》なんだよ」
 「さう。由雄が繼子さんにはそんなに頼母《たのも》しく見えるの。有難いわね。お禮を云はなくつちやならないわ」
 「さうしたら百合子が、そんならお姉樣も由雄さん見たやうな人の所へお嫁に行くと可《い》いつて云つたんでね、それをお前の前で云はれるのが耻づかしいもんだから、あゝやつて出て行つたんだよ」
 「まあ」
 お延は弱い感投詞《かんとうし》を寧ろ淋《さみ》しさうに投げた。
 
     四十七
 
 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上つた。自分の朝夕《あさゆふ》盡してゐる親切は、隨分精一杯な積《つもり》でゐるのに、夫《をつと》の要求する犠牲には際限がないのかしらんといふ、不斷からの疑念が、濃い色でぱつと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らして呉れる唯一《ゆゐいつ》の責任者が今自分の前にゐるのだといふ自覺と共に、岡本の細君を見た。其細君は、遠くに離れてゐる兩親を有《も》つた彼女から云へば、東京中で頼りにするたつた一人の叔母であつた。
 「良人《をつと》といふものは、たゞ妻の情愛を吸ひ込むためにのみ生存する海綿《かいめん》に過ぎないのだらうか」
 是がお延のとうから叔母にぶつかつて、質《たゞ》して見たい問であつた。不幸にして彼女には持つて生れた一種の氣位《きぐらゐ》があつた。見方次第では痩我慢《やせがまん》とも虚榮心とも解釋の出來る此氣位が、叔母に對する彼女を、此一點で強く牽制した。ある意味からいふと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲《すまふ》を取つてゐるやうな夫婦關係といふものを、内側の二人から眺めた時に、妻は何時《いつ》でも夫《をつと》の相手であり、又|會《たま》には夫《をつと》の敵であるにした所で、一旦《いつたん》世間に向つたが最後、何處迄も夫《をつと》の肩を持たなければ、體《てい》よく夫婦として結び付けられた二人の弱味を表へ曝《さら》すやうな氣がして、耻づかしくてゐられないといふのがお延の意地であつた。だから打ち明け話をして、何か訴へたくて堪らない時でも、夫婦から見れば、矢張《やつぱ》り「世間」といふ他人の部類に入れべき此叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が惡くつて何も云ふ氣にならなかつた。
 其上彼女は、自分の豫期通り、夫《をつと》が親切に親切を返して呉れないのを、足りない自分の不行屆《ふゆきとゞき》からでも出たやうに、傍《はた》から解釋されてはならないと日頃から掛念《けねん》してゐた。凡《すべ》ての噂のうちで、愚鈍といふ非難を、彼女は火のやうに恐れてゐた。
 「世間には津田よりも何層倍か氣六づかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さへあるのに、二十三にもなつて、自分の思ふやうに良人《をつと》を綾《あや》なして行けないのは、畢竟《ひつきやう》知惠《ちゑ》がないからだ」
 知惠とコとを殆んど同じやうに考へてゐたお延には、叔母から斯う云はれるのが、何よりの苦痛であつた。女として男に對する腕を有《も》つてゐないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白する位の屈辱として、お延の自尊心を傷《きずつ》けたのである。時と場合が、斯ういふ立ち入つた談話を許さない劇場でないにした所で、お延は黙つてゐるより外に仕方がなかつた。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外《そら》せた。
 舞台《ぶたい》一面に垂れてゐる幕がふわ/\動いて、繼目《つぎめ》の少し切れた間から誰かが見物の方を覗いた。氣の所爲《せゐ》かそれがお延の方を見てゐるやうなので、彼女は今向け換へたばかりの眼を又|餘所《よそ》に移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めてゐた。坐つたぎりの大多數も、前後左右に思ひ思ひの姿勢を取つたり崩したりして、片時も休まなかつた。無數の黒い頭が渦《うづ》のやうに見えた。彼等の或者の派出《はで》な扮裝《つくり》が、色彩の運動から來る落ち付かない快感を、亂雜にちら/\させた。
 土間《どま》から眼を放したお延は、ついに谷を隔てた向ふ側を吟味し始めた。すると丁度其時|後《うしろ》を振り向いた百合子が不意に云つた。
 「彼所《あすこ》に吉川さんの奧さんが來てゐてよ。見えたでせう」
 お延は少し驚ろかされた眼を、教はつた通りの見當へ付けて、其所に容易《たやす》く吉川夫人らしい人の姿を發見した。
 「百合子さん、眼が早いのね、何時《いつ》見付けたの」
 「見付けやしないのよ。先刻《さつき》から知つてるのよ」
 「叔母さんや繼子さんも知つてるの」
 「えゝ皆《みん》な知つてるのよ」
 知らないのは自分|丈《だけ》だつたのに漸く氣の付いたお延が、猶《なほ》其《その》方《はう》を百合子の影から見守つてゐると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあつた双眼鏡が、お延の席に向けられた。
 「あたし厭だわ。あんなにして見られちや」
 お延は隱れるやうに身を縮めた。それでも向側《むかふがは》の双眼鏡は、中々お延の見當から離れなかつた。
 「そんなら可《い》いわ。逃げ出しちまふ丈《だけ》だから」
 お延はすぐ繼子の後《あと》を追懸《おつか》けて廊下へ出た。
 
     四十八
 
 其所から見渡した外部《そと》の光景も場所柄|丈《だけ》に賑はつてゐた。裏へ貫《ぬき》を打つて取《と》り除《はづ》しの出來る樣に拵らへた透《すか》しの板敷を、絶間なく知らない人が徃つたり來たりした。廊下の端《はじ》に立つて、半《なか》ば柱に身を靠《も》たせたお延が、繼子の姿を見出《みいだ》す迄には多少の時間が掛かつた。それを向ふ側に並んでゐる賣店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。さうして輕く足早《あしばや》に板敷を踏んで、目指《めざ》す人のゐる方へ渡つた。
 「何を買つてるの」
 後《うしろ》から覗き込むやうにして訊いたお延の顔と、驚ろいて振り返つた繼子の顔とが、殆んど擦《す》れ/\になつて、微笑《ほゝゑ》み合つた。
 「今困つてる所なのよ。一《はじめ》さんが何かお土産《みやげ》を買つて呉れつて云ふから、見てゐるんだけれども、生憎《あいにく》何《なん》にもないのよ、あの人の喜びさうなものは」
 疳違ひをして、男の子の玩具《おもちや》を買はうとした繼子は、夫《それ》から夫《それ》へと色々なものを並べられて、買ふには買はれず、止《よ》すには止されず、弱つてゐる所であつた。役者に縁故のある紋などを着けた花簪《はなかんざし》だの、紙入だの、手拭だのゝ前に立つて、もぢ/\してゐた彼女は、何うしたら可《よ》からうといふ訴への眼をお延に向けた。お延はすぐ口を利いて遣つた。
 「駄目よ、彼《あ》の子《こ》は、拳銃《ピストル》とか木劍《ぼくけん》とか、人殺しの出來さうなものでなくつちや氣に入らないんだから。そんな物こんな粹《いき》な所にあらう筈がないわ」
 賣店の男は笑ひ出した。お延はそれを機《しほ》に年下の女の手を取つた。
 「兎に角叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお氣の毒さま、ぢや何《いづ》れ又|後程《のちほど》」
 斯う云つたなりさつさと歩き出した彼女は、氣の毒さうにしてゐる繼子を、廊下の端《はじ》迄《まで》引張るやうにして連れて來た。其所で留《と》まつた二人は、又一本の軒柱《のきばしら》を盾《たて》に立話をした。
 「叔父さんは何うなすつたの。今日は何故入らつしやらないの」
 「來るのよ、今に」
 お延は意外に思つた。四人でさへ窮屈な所へ、あの大きな男が割り込んで來るのはたしかに一事件《ひとじけん》であつた。
 「あの上叔父さんに來られちや、あたし見たいに薄つぺらなものは、壓《お》されてへしやげちまふわ」
 「百合子さんと入れ代るのよ」
 「何うして」
 「何うしてでも其方が都合が好いんでせう。百合子さんは居ても居なくつても構はないんだから」
 「さう。ぢやもし、由雄が病氣でなくつて、あたしと一所に來たら何うするの」
 「其時は其時で、また何うかする積《つもり》なんでせう。もう一間《いつけん》取るとか、それでなければ、吉川さんの方と一所になるとか」
 「吉川さんとも前から約束があつたの?」
 「えゝ」
 繼子は其後を云はなかつた。岡本と吉川の家族がそれ程接近してゐるとも考へてゐなかつたお延は、其所に何か意味があるのではないかと、一寸不審を打つて見たが、時間に餘裕のある人の間に起り勝な、單に娯樂のための約束として、それを眺める餘地も充分あるので、彼女は遂に何にも訊かなかつた。二人の話はたゞ吉川夫人の双眼鏡に觸れた丈《だけ》であつた。お延はわざと手眞似迄して見せた。
 「斯うやつて眞《ま》ともに向けるんだから、敵《かな》はないわね」
 「隨分無遠慮でせう。だけど、あれ西洋風なんだつて、宅《うち》のお父さまがさう仰《おつし》やつてよ」
 「あら西洋ぢや構はないの。ぢやあたしの方でも奧さんの顔をあゝ遣つてつけ/\見ても好い譯ね。あたし見て上げやうかしら」
 「見て御覽なさい、屹度《きつと》嬉しがつてよ。延子さんはハイカラだつて」
 二人が聲を出して笑ひ合つてゐる傍《そば》に、何處からか來た一人の若い男が一寸立ち留まつた。無地の羽織に友縫《ともぬひ》の紋を付けて、セルの行燈袴《あんどんばかま》を穿《は》いた其青年紳士は、彼等と顔を見合せるや否や、「失禮」と挨拶でもして通り過ぎるやうに、鄭重な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向ふへ行つた。繼子は赧《あか》くなつた。
 「もう這入りませうよ」
 彼女はすぐお延を促《うな》がして内へ入《はい》つた。
 
     四十九
 
 場中《ぢやうちゆう》の樣子は先刻《さつき》見た時と何の變りもなかつた。土間を歩く男女《なんによ》の姿が、丸《まる》で人の頭の上を渡つてゐるやうに煩らはしく眺められた。出來る丈《だけ》多くの注意を惹かうとする浮誇《ふこ》の活動さへ至る所に出現した。さうして次の色彩に席を讓るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はたゞ動搖であつた、亂雜であつた、さうして何時《いつ》でも粉飾《ふんしよく》であつた。
 比較的靜かな舞台《ぶたい》の裏側では、道具方の使ふ金槌の音が、一般の豫期を唆《そゝ》るべく、折々場内へ響き渡つた。合間々々には幕の後《うしろ》で拍子木を打つ音が、攪《か》き廻《まは》された注意を一點に纒めやうとする警柝《けいたく》の如《やう》に聞こえた。
 不思議なのは觀客であつた。何もする事のない此長い幕間《まくあひ》を、少しの不平も云はず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛つて、他愛《たわい》なく時間のために流されてゐた。彼等は穩和《おだや》かであつた。彼等は樂しさうに見えた。お互の吐く呼息《いき》に醉つ拂つた彼等は、少し醒めかけると、すぐ眼を轉じて誰かの顔を眺めた。さうしてすぐ其所に陶然たる或物を認めた。すぐ相手の氣分に同化する事が出來た。
 席に戻つた二人は愉快らしく四邊《あたり》を見廻した。それから申し合せたやうに問題の吉川夫人の方を見た。夫人の双眼鏡はもう彼等を覘《ねら》つてゐなかつた。其代り双眼鏡の主人も何處かへ行つて仕舞つた。
 「あら居らつしやらないわ」
 「本當ね」
 「あたし探して上げませうか」
 百合子はすぐ自分の手に持つた此方《こつち》のオペラグラスを眼へ宛《あ》てがつた。
 「居ない、居ない、何處かへ行つちまつた。あの奧さんなら二人前《ににんまへ》位肥つてるんだから、すぐ分る筈だけれども、矢張《やつぱ》り居ないわよ」
 さう云ひながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗な友染模樣の脊中が隱れる程、帶を高く背負《しよ》つた令孃としては、言葉が少しも餘所行《よそゆき》でないので、姉は可笑《をか》しさを堪《こら》へるやうな口元に、年上らしい威嚴を示して、妹を窘《たし》なめた。
 「百合子さん」
 妹は少しも應《こた》へなかつた。例の通り一寸小鼻を膨らませて、それが何うしたんだといつた風の表情をしながら、わざと繼子を見た。
 「あたしもう歸りたくなつたわ。早くお父さまが來てくれると好いんだけどな」
 「歸りたければお歸りよ。お父さまが入らつしやらなくつても構はないから」
 「でも居るわ」
 百合子は矢張り動かなかつた。子供でなくつては振舞《ふるま》ひにくい此腕白らしい態度の傍《かたはら》に、お延が年相應の分別《ふんべつ》を出して叔母に向つた。
 「あたし一寸行つて吉川さんの奧さんに御挨拶をして來ませうか。濟ましてゐちや惡いわね」
 實を云ふと彼女は此夫人をあまり好いてゐなかつた。向ふでも此方《こつち》を嫌つてゐるやうに思へた。しかも最初先方から自分を嫌ひ始めたために、此不愉快な現象が二人の間に起つたのだといふ朧氣《おぼろげ》な理由さへあつた。自分が嫌はれるべき何等のきつかけも與へないのに、向ふで嫌ひ始めたのだといふ自信も伴《ともな》つてゐた。先刻《さつき》双眼鏡を向けられた時、既に挨拶に行かなければならないと氣の付いた彼女は、即座にそれを斷行する勇氣を起し得なかつたので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、其義務を容易《たやす》く果させるために、叔母が自分と連れ立つて、夫人の所へ行つて呉れはしまいかと暗《あん》に願つてゐた。
 叔母はすぐ返事をした。
 「あゝ行つた方が可《い》いよ。行つといでよ」
 「でも今居らつしやらないから」
 「なに屹度《きつと》廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
 「でも、――ぢや行くから叔母さんも一所に入らつしやいな」
 「叔母さんは――」
 「入らつしやらない?」
 「行つても可《い》いがね。何うせ今に御飯を食べる時に、一所になる筈になつてるんだから、御免蒙つて其時にしやうかと思つてるのよ」
 「あらそんなお約束があるの。あたしちつとも知らなかつたわ。誰と誰が一所に御飯を召上《めしや》がるの」
 「みんなよ」
 「あたしも?」
 「あゝ」
 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答へた。
 「そんならあたしも其時にするわ」
 
     五十
 
 岡本の來たのはそれから間もなくであつた。茶屋の男に開けて貰つた戸の隙間から中を覗いた彼は、お出々々《いで/\》をして百合子を廊下へ呼び出した。其所で二人がみんなの邪魔にならないやうな小聲の立談《たちばなし》を、二言三言取り換はした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。さうして入れ代りに入《はい》つて來た彼が其《その》後《あと》へ窮屈さうに坐つた。こんな場所では一寸身體の位置を變《かへ》るのさへ臆劫《おくくふ》さうに見える肥滿な彼は、坐つてしまつてから不圖《ふと》氣の付いたやうに、半分ばかり背後《うしろ》を向いた。
 「お延、代つてやらうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だらう」
 一夜作《いちやづく》りの山が急に出來上つたやうな心持のしたお延は、舞台へ氣を取られてゐる四邊《あたり》へ遠慮して動かなかつた。毛織ものを肌へ着けた例《ためし》のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、是もお付合《つきあひ》だと云つた風に、みんなの見てゐる方角へ視線を向けた。そこでは色の生《なま》つ白《ちろ》い變な男が柳の下をうろ/\してゐた。荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帶をわざと下の方へ締めた其色男は、素足に雪駄《せつた》を穿《は》いてゐるので、歩く度にちやらちやらいふ不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍《そば》にある橋と、橋の向ふに並んでゐる土藏の白壁を見廻して、それから其《その》序《ついで》に觀客の方へ眼を移した。然るに觀客の顔は悉《こと/”\》く緊張してゐた。雪駄《せつた》をちやら/\鳴らして舞台の上を徃つたり來たりする此若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるやうに、滿場は靜まり返つて、咳一つするものがなかつた。急に表から入《はい》つて來《き》た彼に取つて、すぐ此特殊な空氣に感染する事が困難であつたのか、又馬鹿らしかつたのか、少時《しばらく》すると彼は又窮屈さうに半分|後《うしろ》を向いて、小聲でお延に話しかけた。
 「何うだ面白いかね。――由雄さんは何うだ。――」
 簡單な質問を次から次へと三つ四つ掛けて、一口づゝの返事をお延から受け取つた彼は、最後に意味ありげな眼をして更に訊いた。
 「今日は何うだつたい。由雄さんが何とか云やしなかつたかね。大方愚圖々々云つたんだらう。己《おれ》が病氣で寐てゐるのに貴樣一人|芝居《しばや》へ行くなんて不埒千萬《ふらちせんばん》だとか何とか。え? 屹度《きつと》さうだらう」
 「不埒千萬《ふらちせんばん》だなんて、そんな事云やしないわ」
 「でも何か云はれたらう。岡本は不都合な奴だ位云はれたに違あるまい。電話の樣子が何うも變だつたぜ」
 小聲でさへ話をするものが周圍《あたり》に一人もない所で、自分|丈《だけ》長い受け答をするのは極りが惡かつたので、お延はたゞ微笑してゐた。
 「構はないよ。叔父さんが後で話をして遣るから、そんな事は心配しないでも可《い》いよ」
 「あたし心配なんかしちやゐないわ」
 「さうか、それでも少しや氣がかりだらう。結婚早々旦那樣の御機嫌を損じちや」
 「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちやゐないつて云ふのに」
 お延は煩《うる》ささうに眉を動かした。面白半分|調戯《からか》つて見た岡本は少し眞面目になつた。
 「實は今日お前を呼んだのはね、たゞ芝居《しばや》を見せるためばかりぢやない、少し呼ぶ必要があつたんだよ。それで由雄さんが病氣の所を無理に來て貰つた樣な譯だが、其譯さへ由雄さんに後から話して置けば何でもない事さ。叔父さんが能く話して置くよ」
 お延の眼は急に舞台を離れた。
 「理由《わけ》つて一體何」
 「今此所ぢや話し惡《にく》いがね。いづれ後で話すよ」
 お延は黙るより外に仕方なかつた。岡本は付け足すやうに云つた。
 「今日は吉川さんと一所に食堂で晩食《ばんめし》を食べる事になつてるんだよ。知つてるかね。そら吉川も彼所《あすこ》へ來てゐるだらう」
 先刻《さつき》迄《まで》眼に付かなかつた吉川の姿がすぐお延の眼に入《はい》つた。
 「叔父さんと一所に來たんだよ。倶樂部《くらぶ》から」
 二人の會話は其所で途切れた。お延は又眞面目に舞台の方を見出《みだ》した。然し十分|經《た》つか經《た》たないうちに、彼女の注意が又そつと後《うしろ》の戸を開ける茶屋の男によつて亂された。男は叔母に何か耳語《さゝや》いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
 「あのね吉川さんから、食事の用意を致させて置きましたから、此次の幕間《まくあひ》に何うぞ食堂へ御出《おいで》下さいますようにつて」
 叔父はすぐ返事を傳へさせた。
 「承知しました」
 男は又戸をそつと閉《た》てゝ出て行つた。是から何が始まるのだらうかと思つたお延は、黙つて會食の時間を待つた。
 
     五十一
 
 彼女が叔父叔母の後《あと》に隨《つ》いて、繼子と一所に、二階の片隅にある奧行の深い食堂に入《はい》るべく席を立つたのは、それから小一時間|後《のち》であつた。彼女は自分と肩を並べて、すれ/\に廊下を歩いて行く從妹《いとこ》に小聲で訊いて見た。
 「一體是から何が始まるの」
 「知らないわ」
 繼子は下を向いて答へた。
 「たゞ御飯を食べるぎりなの」
 「左右《さう》なんでせう」
 訊かうとすれば訊かうとする程、繼子の返事が曖昧になつてくるやうに思はれたので、お延はそれぎり口を閉ぢた。繼子は前に行く父母《ちゝはゝ》に遠慮があるのかも知れなかつた。又自分は何《なん》にも承知してゐないのかも分らなかつた。或は承知してゐても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな聲で與へないとも限らなかつた。
 鋭い一瞥の注意を彼等の上に拂つて行きがちな、廊下で出逢ふ多數の人々は、みんなお延よりも繼子の方に餘分の視線を向けた。忽然お延の頭に彼女と自分との比較が閃《ひら》めいた。姿恰好《すがたかつかう》は繼子に立《た》ち優《まさ》つてゐても、服裝《なり》や顔形《かほかたち》で是非ひけを取らなければならなかつた彼女は、何時《いつ》迄《まで》も子供らしく羞耻《はにか》んでゐるやうな、又何所迄も氣苦勞のなささうに初々《うひ/\》しく出來上つた、處女としては水の滴《した》たる許《ばかり》の、此|從妹《いとこ》を輕い嫉妬の眼で視た。其所にはたとひ氣の毒だといふ侮蔑の意《こゝろ》が全く打ち消されてゐないにした所で、一寸|彼我《ひが》の地位を易へて立つて見たい位な羨望の念が、著《いちじ》るしく働らいてゐた。お延は考へた。
 「處女であつた頃、自分にもかつて斯んなお孃さんらしい時期があつたらうか」
 幸か不幸か彼女は其時期を思ひ出す事が出來なかつた。平生繼子を標準《めやす》に置かないで、何とも思はずに暮してゐた彼女は、今其|從妹《いとこ》と屑を並べながら、賑やかな電燈で明るく照らされた廊下の上に立つて、また曾て感じた事のない一種の哀愁に打たれた。それは輕いものであつた。然し涙に變化し易い性質《たち》のものであつた。さうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるやうな種類のものであつた。彼女は心の中で繼子に云つた。
 「あなたは私より純潔です。私が羨やましがる程純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未來の夫《をつと》に對して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のやうに手落なく仕向けてすら夫《をつと》は、決して此方《こつち》の思ふ通りに感謝して呉れるものではありません。あなたは今に夫《をつと》の愛を繋ぐために、其|貴《たつと》い純潔な生地《きぢ》を失はなければならないのです。それ丈《だけ》の羲牲を拂つて夫《をつと》のために盡してすら、夫《をつと》はことによるとあなたに辛《つら》く中《あた》るかも知れません。私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお氣の毒です。近いうちに破壞しなければならない貴《たつと》い寶物を、あなたはそれと心づかずに、無邪氣に有《も》つてゐるからです。幸か不幸か始めから私には今あなたの有《も》つてゐるやうな天然其儘の器《うつは》が完全に具はつて居りませんでしたから、それ程の損失もないのだと云へば、云はれないこともないでせうが、あなたは私と違ひます。あなたは父母《ふぼ》の膝下《しつか》を離れると共に、すぐ天眞の姿を傷《きずつ》けられます。あなたは私よりも可哀相《かはいさう》です」
 二人の歩き方は遲かつた。先に行つた岡本夫婦が人に遮《さへ》ぎられて見えなくなつた時、叔母はわざ/\取つて返した。
 「早くお出《いで》なね。何を愚圖々々してゐるの。もう吉川さんの方ぢや先へ來て待つて入らつしやるんだよ」
 叔母の眼は繼子の方にばかり注がれてゐた。言葉もとくに彼女に向つて掛けられた。けれども吉川といふ名前を聞いたお延の耳には、それが今迄の氣分を一度に吹き散らす風のやうに響いた。彼女は自分のあまり好いてゐない、又向ふでも自分をあまり好いてゐないらしい、吉川夫人の事をすぐ思ひ出した。彼女は自分の夫《をつと》が、平生から一方《ひとかた》ならぬ恩顧を受けてゐる勢力家の妻君として、今其人の前に、能《あた》ふ限《かぎ》りの愛嬌と禮儀とを示さなければならなかつた。平靜のうちに一種の緊張を包んだ彼女は、知らん顔をして、みんなの後《あと》に隨《つ》いて食堂に入《はい》つた。
 
     五十二
 
 叔母の云つた通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ來たものと見えて、お延の目標《まと》にする其夫人は、入口の方を向いて叔父と立談《たちばなし》をしてゐた。大きな叔父の後姿よりも、向ふ側に食み出してゐる大々《だい/\》した夫人のかつぷくが、まづお延の眼に入《はい》つた。それと同時に、肉付の豐かな頬に笑ひを漲《みなぎ》らしてゐた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。然し咄嗟《とつさ》の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換す迄、遂に互を認め合はなかつた。
 夫人に投げかけた一瞥についで、お延は又|其《その》傍《そば》に立つてゐる若い紳士を見ない譯に行かなかつた。それが聞違もなく、先刻《さつき》廊下で繼子と一所になつて、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合つた時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思はずひやりとした。
 簡單な挨拶が各自の間に行はれる間、控目にみんなの後《うしろ》に立つてゐた彼女は、やがて自分の番が廻つて來た時、たゞ三好《みよし》さんとして此未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であつたが、夫人の用ひる言葉が、叔父に對しても、叔母に對しても、又繼子に對しても、みんな自分に對するのと同じ事で、其《その》間《あひだ》に少しも變りがないので、お延は遂に其三好の何人《なんぴと》であるかを知らずに仕舞つた。
 席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐つた。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であつた。繼子のは三好の前であつた。餘つた一脚の椅子へ腰を下《お》ろすべく餘儀なくされたお延は、少し躊躇した。隣りには吉川がゐた。さうして前は吉川夫人であつた。
 「何うです掛けたら」
 吉川は催促するやうにお延を横から見上げた。
 「さあ何うぞ」と氣輕に云つた夫人は正面から彼女を見た。
 「遠慮しずにお掛けなさいよ。もうみんな坐つてるんだから」
 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先《せん》を越《こ》す積《つもり》でゐたのに、却つて先を越されたといふ拙《まづ》い感じが胸の何處かにあつた。自分の態度を禮儀から出た本當の遠慮と解釋して貰ふやうに、是から仕向けて行かなければならないといふ意志もすぐ働らいた。其意志は自分と正反對な繼子の初心《うぶ》らしい樣子を、食卓越《テーブルごし》に眺めた時、益《ます/\》強固にされた。
 繼子は又|何時《いつ》もより大人《おとな》し過ぎた。碌々《ろく/\》口も利かないで、下ばかり向いてゐる彼女の態度の中《うち》には、殆んど苦痛に近い或物が見透《みすか》された。氣の毒さうに彼女を一目|見遣《みや》つたお延は、すぐ前にゐる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。社交に慣れ切つた夫人も黙つてゐる人ではなかつた。
 調子の好い會話の斷片が、二三度二人の間を徃つたり來たりした。然しそれ以上に發展する餘地のなかつた題目は、其所でぴたりと留《と》まつてしまつた。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思つたお延が、それを自分から持ち出したものか何うかと遲疑《ちぎ》してゐるうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにゐる三好に向つた。
 「三好さん、黙つてゐないで、ちつと彼地《あつち》の面白い話でもして繼子さんに聞かせてお上げなさい」
 丁度叔母と話を途切らしてゐた三好は夫人の方を向いて靜かに云つた。
 「えゝ何でも致しませう」
 「えゝ何でもなさい。黙つてちや不可《いけま》せん」
 命令的な此言葉がみんなを笑はせた。
 「又|獨逸《ドイツ》を逃げ出した話でもするがいゝ」
 吉川はすぐ細君の命令を具體的にした。
 「獨逸《ドイツ》を逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他《ひと》よりも自分の方が陳腐《ちんぷ》になつてしまひました」
 「あなたの樣な落付いた方《かた》でも、少しは周章《あわて》たでせうね」
 「少し所なら好いですが、殆んど夢中でしたらう。自分ぢやよく分らないけれども」
 「でも殺されるとは思はなかつたでせう」
 「左樣《さやう》」
 三好が少し考へてゐると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
 「まさか殺されるとも思ふまいね。ことに此人は」
 「何故です。人間がづう/\しいからですか」
 「といふ譯でもないが、兎に角非常に命を惜しがる男だから」
 繼子が下を向いた儘くす/\笑つた。戰爭前後に獨逸《ドイツ》を引き上げて來た人だといふ事|丈《だけ》がお延に解つた。
 
     五十三
 
 三好を中心にした洋行談が一仕切《ひとしきり》彈《はず》んだ。相間々々《あひま/\》に巧みなきつかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙つて觀察してゐたお延は、夫人が何《ど》んな努力で、彼等|四人《よにん》の前に、此未知の青年紳士を押し出さうと試みつゝあるかを見拔いた。穩和《おだやか》といふよりも寧ろ無口な彼は、自分でさうと氣が付かないうちに、彼に好意を有《も》つた夫人の口車《くちぐるま》に乘せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明してゐた。
 彼女は此談話の進行中、殆んど一言《ひとこと》も口を挾《さしは》さむ餘地を與へられなかつた。自然の勢ひ沈黙の謹聽者たるべき地位に立つた彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味《くさみ》なしに、着々成功して行く段取《だんどり》を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない譯に行かなかつた。然しそれは上下の距離でなくつて、平面の距離だといふ氣がした。では恐るゝに足りないかといふと決して左右《さう》でなかつた。一部分は得意な現在の地位からも出て來るらしい命令的の態度の外に、夫人の技巧には時として恐るべき破壞力が伴《とも》なつて來はしまいかといふ危險の感じが、お延の胸の何所かでした。
 「此方《こつち》の氣の所爲《せゐ》かしらん」
 お延が斯う考へてゐると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
 「延子さんが呆れてゐらつしやる。あたしが餘《あん》まり饒舌《しやべ》るもんだから」
 お延は不意を打たれて退避《たじ》ろいだ。津田の前でかつて挨拶に困つた事のない彼女の智惠が、何う働いて好いか分らなくなつた。たゞ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。然しそれは御役目にもならない僞りの愛嬌に過ぎなかつた。
 「いゝえ、大變面白く伺《うかゞ》つて居ります」と後《あと》から付け足した時は、お延自分でももう時機の後《おく》れてゐる事に氣が付いてゐた。又|退《や》り損《そく》なつたといふ苦《にが》い感じが彼女の口の先迄湧いて出た。今日こそ夫人の機嫌を取り返して遣らうといふ氣込《きごみ》が一度に萎《な》へた。夫人は殘酷に見える程早く調子を易へて、すぐ岡本に向つた。
 「岡本さんあなたが外國から歸つて入らしつてから、もう餘程《よつぽど》になりますね」
 「えゝ。何しろ一昔前《ひとむかしまへ》の事ですからな」
 「一昔前《ひとむかしまへ》つて何年頃なの、一體」
 「左樣《さやう》西暦《せいれき》……」
 自然だか偶然だか叔父は勿體《もつたい》ぶつた考へ方をした。
 「普佛戰爭《ふふつせんさう》時分?」
 「馬鹿にしちや不可《いけま》せん。是でもあなたの旦那樣を案内して倫敦《ロンドン》を連れて歩いて上げた覺《おぼえ》があるんだから」
 「ぢや巴理《パリ》で籠城《ろうじやう》した組ぢやないのね」
 「冗談ぢやない」
 三好の洋行談を一仕切《ひとしきり》で切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと關係の深い他の方面へ持つて行つた。自然吉川は岡本の相手にならなければ濟まなくなつた。
 「何しろ自動車の出來たてで、あれが通ると、みんな振り返つて見た時分だつたからね」
 「うん、あの鈍臭《のろくさ》いバスがまだ幅を利かしてゐた時代だよ」
 其|鈍臭《のろくさ》いバスが、さういふ交通機關を自分で利用した記憶のない外の者に取つて、何の思ひ出にならなかつたにも關はらず、當時を回顧する二人の胸には、矢張《やつぱ》り淡い一種の感慨を惹《ひ》き起《おこ》すらしく見えた。繼子と三好を見較《みくら》べた岡本は、苦笑しながら吉川に云つた。
 「お互に年を取つたもんだね。不斷はちつとも氣が付かずに、まだ若い積《つもり》かなんかで、頻りに乾燥《はしや》ぎ廻つてゐるが、斯うして娘の隣に坐つて見ると、少し考へるね」
 「ぢや始終その子の傍《そば》に坐つてゐらつしつたら好いでせう」
 叔母はすぐ叔父に向つた。叔父もすぐ答へた。
 「全くだよ。外國から歸つて來た時にや、この子がまだ」と云ひかけて一寸考へた彼は、「幾つだつけかな」と訊いた。叔母がそんな呑氣《のんき》な人に返事をする義務はないといはぬ許《ばかり》の顔をして黙つてゐるので、吉川が傍《そば》から口を出した。
 「今度はお爺さま/\つて云はれる時機が、もう眼前《がんぜん》に逼《せま》つて來たんだ。油斷は出來ません」
 繼子が顔を赧《あか》くして下を向いた。夫人はすぐ夫《をつと》の方を見た。
 「でも岡本さんにや自分の年齒《とし》を計《はか》る生きた時計が付いてるから、まだ可《よ》いんです。あなたと來たら何《なん》にも反省器械《はんせいきかい》を持つてゐらつしやらないんだから、全く手に餘る丈《だけ》ですよ」
 「其代りお前だつて何時《いつ》迄《まで》もお若くつてゐらつしやるぢやないか」
 みんなが聲を出して笑つた。
 
     五十四
 
 彼等ほど多人數《たにんず》でない、從つて比較的靜かな外の客が、丸《まる》で舞台を餘所《よそ》にして、氣樂さうな話ばかりしてゐるお延の一群《いちぐん》を折々見た。時間を儉約するため、わざと輕い食事を取つたものたちが、珈琲《コヒー》も飲まずに、そろそろ立ち掛ける時が來ても、お延の前には夫《それ》から夫《それ》へと新らしい皿が運ばれた。彼等は中途で拭布《ナプキン》を放《はふ》り出《だ》す譯に行かなかつた。又そんな世話《せわ》しない眞似をする氣もないらしかつた。芝居を觀に來たといふよりも、芝居場へ遊びに來たといふ態度で、何處迄もゆつくり構へてゐた。
 「もう始まつたのかい」
 急に靜かになつた食堂を見廻した叔父は、斯う云つて白服のボイに訊いた。ボイは彼の前に温《あたゝ》かい皿を置きながら、鄭寧《ていねい》に答へた。
 「たゞ今|開《あ》きました」
 「いゝや開《あ》いたつて。此際眼よりも口の方が大事だ」
 叔父はすぐ皮付の鷄《とり》の股《もゝ》を攻撃し始めた。向ふにゐる吉川も、舞台で何が起つてゐやうと丸《まる》で頓着しないらしかつた。彼はすぐ叔父の後《あと》へついて、劇とは全く無關係な食物《くひもの》の挨拶をした。
 「君は相變らず旨さうに食ふね。――奧さん此岡本君が今よりもつと食つて、もつと肥つてた時分、西洋人の肩車《かたぐるま》へ乘つた話をお聞きですか」
 叔母は知らなかつた。吉川はまた同じ問を繼子に掛けた。繼子も知らなかつた。
 「さうでせうね、餘《あん》まり外聞《ぐわいぶん》の好い話ぢやないから、屹度《きつと》隱してゐるんですよ」
 「何が?」
 叔父は漸く皿から眼を上げて、不思議さうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍《そば》から口を出した。
 「大方《おほかた》重過ぎて其外國人を潰《つぶ》したんでせう」
 「そんならまだ自慢になるが、みんなに變な顔をしてじろ/\見られながら、倫敦《ロンドン》の群衆の中で、大男の肩の上へ噛《かじ》り付《つ》いてゐたんだ。行列を見るためにね」
 叔父はまだ笑ひもしなかつた。
 「何を捏造《ねつざう》する事やら。一體そりや何時《いつ》の話だね」
 「エドワード七世の戴冠式の時さ。行列を見やうとしてマンシヨンハウスの前に立つてた所が、日本と違つて向ふのものがあんまり君より脊丈《せい》が高過ぎるもんだから、苦し紛れに一所に行つた下宿の亭主に頼んで、肩車に乘せて貰つたつて云ふぢやないか」
 「馬鹿を云つちや不可《いけな》い。そりや人違だ。肩車へ乘つた奴はちやんと知つてるが、僕ぢやない、あの猿だ」
 叔父の辯解は寧ろ眞面目であつた。其眞面目な口から猿といふ言葉が突然出た時、みんなは一度に笑つた。
 「成程あの猿なら能く似合ふね。いくら英吉利人《イギリスじん》が大きいたつて、どうも君ぢや辻褄《つじつま》が合はな過ぎると思つたよ。――あの猿と來たら又隨分|矮小《わいせう》だからな」
 知つてゐながらわざと間違へた振《ふり》をして見せたのか、或は最初から事實を知らなかつたのか、とにかく吉川はやつと腑に落ちたらしい言葉遣ひをして、猶《なほ》其當人の猿といふ渾名《あざな》を、一座を賑はせる滑稽の餘音《よいん》の如く繰り返した。夫人は半《なか》ば好奇的で、半ば戒飭的《かいちよくてき》な態度を取つた。
 「猿だなんて、一體誰の事を仰《おつし》やるの」
 「なにお前の知らない人だ」
 「奧さん心配なさらないでも好ござんす。たとひ猿が此席にゐやうとも、我々は表裏《へうり》なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。其代り向ふぢや私の事を豚々つて云つてるから、同《おん》なじ事です」
 斯《こ》んな他愛《たわい》もない會話が取り換はされてゐる間、お延は遂に社交上の一員として相當の分前《わけまへ》を取る事が出來なかつた。自分を吉川夫人に賣り付ける機會は何時《いつ》迄《まで》經《た》つても來なかつた。夫人は彼女を眼中に置いてゐなかつた。或は寧ろ彼女を回避してゐた。さうして特に自分の一軒《いつけん》置いて隣りに坐つてゐる繼子にばかり話しかけた。たとひ一分間でも此|從妹《いとこ》を、注意の中心として、みんなの前に引き出さうとする努力の迹《あと》さへあり/\と見えた。それを利用する事の出來ない繼子が、感謝とは反對に、却つて迷惑さうな表情を、遠慮なく外部《そと》に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望の漣?《さゞなみ》が立つた。
 「自分がもしあの從妹《いとこ》の地位に立つたなら」
 會食中の彼女は?《しばし》ば斯う思つた。さうして其《その》後《あと》から暗《あん》に人馴れない繼子を憐れんだ。最後には何といふ氣の毒な女だらうといふ輕侮の念が例《いつ》もの通り起つた。
 
     五十五
 
 彼等の席を立つたのは、男達の燻《くゆ》らし始めた食後の葉卷に、白い灰が一寸近くも溜つた頃であつた。其時誰かの口から出た「もう何時《なんじ》だらう」といふきつかけが、偶然お延の位地に變化を與へた。立ち上る前の一瞬間を捉へた夫人は突然お延に話しかけた。
 「延子さん。津田さんは何うなすつて」
 いきなり斯う云つて置いて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐ其《その》後《あと》を自分で云ひ足した。
 「先刻《きつき》から伺はう/\と思つてた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
 此|云譯《いひわけ》をお延は腹の中《なか》で嘘らしいと考へた。それは相手の使ふ當座の言葉つきや態度から出た疑でなくつて、彼女に云はせると、もう少し深い根據のある推定であつた。彼女は食堂へ這入つて夫人に挨拶をした時、自分の使つた言葉を能く覺えてゐた。それは自分のためといふよりも、寧ろ自分の夫《をつと》のために使つた言葉であつた。彼女は此夫人を見るや否や、恭《うや/\》しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介になりまして」と云つた。けれども夫人は其時其津田については一言《ひとこと》も口を利かなかつた。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上其所にはそれ丈《だけ》の口を利く餘裕が充分あつたにも關はらず、夫人は、すぐ餘所《よそ》を向いてしまつた。さうして二三日前《にさんちまへ》津田から受けた訪問などは、丸《まる》で忘れてゐるやうな風をした。
 お延は夫人の此擧動を、自分が嫌はれてゐるからだと許《ばかり》解釋しなかつた。嫌はれてゐる上に、まだ何か理由があるに違ないと思つた。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するやうな素振《そぶり》を、彼の妻たるものに示す筈がないと思つた。彼女は自分の夫《をつと》が此夫人の氣に入つてゐるといふ事實を能く承知してゐた。然し單に夫《をつと》を贔屓《ひいき》にして呉れるといふ事が、何で其人を妻の前に談話の題目として憚《はゞ》かられるのだらう。お延は解らなかつた。彼女が會食中、當然|他《ひと》に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に發揮するために、二人の間に存在する唯一《ゆゐいつ》の共通點とも見られる津田から出立しやうと試みて、遂に出立し得なかつたのも、一つは是が胸に痞《つか》へてゐたからであつた。それを愈《いよ/\》席を立たうとする間際になつて、向ふから切り出された時のお延は、たゞ夫人の云譯に對してのみ、嘘らしいといふ疑を抱《いだ》く丈《だけ》では濟まなかつた。今頃になつて夫《をつと》の病氣の見舞をいつてくれる夫人の心の中には、已《やむ》を得《え》ない社交上の辭令以外に、まだ何か存在してゐるのではなからうかと考へた。
 「有難う御座います。お蔭さまで」
 「もう手術をなすつたの」
 「えゝ今日《こんち》」
 「今日《けふ》? それであなた能く斯《こ》んな所へ來られましたね」
 「大した病氣でも御座いませんものですから」
 「でも寐てゐらつしやるんでせう」
 「寐ては居ります」
 夫人はそれで構はないのかといふ樣子をした。少なくとも彼女の黙つてゐる樣子がお延にはさう見えた。他《ひと》に對して男らしく無遠慮に振舞つてゐる夫人が、自分に丈《だけ》は、丸《まる》で別な人間として出てくるのではないかと思はれた。
 「病院へ御入《おはい》りになつて」
 「病院と申す程の所では御座いませんが、丁度お醫者樣の二階が空《あ》いて居《を》るので、五六日《ごろくんち》其所へ置いて頂く事にして居ります」
 夫人は醫者の名前と住所《ところ》とを訊いた。見舞に行く積《つもり》だとも何とも云はなかつたけれども、實はそのために、わざ/\津田の話を持ち出したのぢやなからうかといふ氣のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたやうな心持もした。
 夫人と違つて最初から津田の事をあまり念頭に置いてゐなかつたらしい吉川は、此時始めて口を出した。
 「當人に聞くと、去年から病氣を持ち越してゐるんだつてね。今の若さにさう病氣ばかりしちや仕方がない。休むのは五六日《ごろくんち》に限つた事もないんだから、癒る迄よく養生するやうに、さう云つて下さい」
 お延は禮を云つた。
 食堂を出た七人は、廊下で又二組に分れた。
 
     五十六
 
 殘りの時間を叔母の家族とともに送つたお延には、それから何の波瀾も來なかつた。たゞ褞袍《どてら》を着て横臥した寐卷姿の津田の面影《おもかげ》が、熱心に舞台を見詰めてゐる彼女の頭の中に、不意に出て來る事があつた。其面影は今迄讀み掛けてゐた本を伏せて、此所に坐つてゐる彼女を、遠くから眺めてゐるらしかつた。然しそれは、彼女が喜こんで彼を見返さうとする刹那《せつな》に、「いや疳違ひをしちや不可《いけな》い、何をしてゐるか一寸覗いて見た丈《だけ》だ。お前なんかに用のある己《おれ》ぢやない」といふ意味を、眼付で知らせるものであつた。騙《だま》されたお延は何だ馬鹿らしいといふ氣になつた。すると同時に津田の姿も幽靈のやうにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もう貴方のやうな方の事は考へて上げません」と云ひ渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打《したうち》をしたくなつた。
 食堂へ入《はい》る前の彼女は未だかつて夫《をつと》の事を念頭に置いてゐなかつたので、お延に云はせると、斯ういふ不可抗な心の作用は、すべて夕飯後《ゆふめしご》に起つた新らしい經驗に外ならなかつた。彼女は黙つて前後|二樣《にやう》の自分を比較して見た。さうして此急劇な變化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰り返さない譯に行かなかつた。今夜もし夫人と同じ食卓《テーブル》で晩餐を共にしなかつたならば、こんな變な現象は決して自分に起らなかつたらうといふ氣が、彼女の頭の何處かでした。然し夫人の如何なる點が、此|苦《にが》い酒《さけ》を釀《かも》す?酵分子《はつかうぶんし》となつて、何《ど》んな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊かれると、彼女はとても判然《はつきり》した返事を與へることが出來なかつた。彼女はたゞ不明瞭な材料をもつてゐた。さうして比較的明瞭な斷案に到着してゐた。材料に不足な掛念《けねん》を抱《いだ》かない彼女が、其斷案を不備として疑ふ筈はなかつた。彼女は總《すべ》ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じてゐた。
 芝居が了《は》ねて一旦茶屋へ引き上げる時、お延は其所で又夫人に會ふ事を恐れた。然し會つてもう少し突ツ込んで見たいやうな氣もした。歸りを急ぐ混雜《ごた/\》した間際に、そんな機會の來る筈もないと、始めから諦らめてゐる癖に、さうした好奇の心が、會ひたくないといふ回避の念の蔭から、ちよい/\首を出した。
 茶屋は幸にして異《ちが》つてゐた。吉川夫婦の姿は何處にも見えなかつた。襟に毛皮の付いた重さうな二重廻《にぢゆうまは》しを引掛《ひつか》けながら岡本がコートに袖を通してゐるお延を顧みた。
 「今日は宅《うち》へ來て泊つて行かないかね」
 「え、有難う」
 泊るとも泊らないとも片付かない挨拶をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母は又「貴方の氣樂さ加減にも呆れますね」といふ表情で叔父を見た。其所に氣が付かないのか、或は氣が付いても無頓着なのか、彼は同じ事を、前よりはもつと眞面目な調子で繰り返した。
 「泊つて行くなら、泊つといでよ。遠慮は要らないから」
 「泊つていけつたつて、貴方、宅《うち》にや下女がたつた一人で、此子の歸るのを待つてるんですもの。そんな事無理ですわ」
 「はあ、左右《さう》かね、成程。下女一人ぢや不用心だね」
 そんなら止《よ》すが好からうと云つた風の樣子をした叔父は、無論最初から何方《どつち》でも構はないものを一寸問題にして見た丈《だけ》であつた。
 「あたし是でも津田へ行つてからまだ一晩も御厄介になつた事はなくつてよ」
 「はあ、左右《さう》だつたかね。それは感心に品行方正の至《いたり》だね」
 「厭だ事。――由雄だつて外へ泊つた事なんか、まだ有りやしないわ」
 「いや結構ですよ。御夫婦お揃で、お堅くつてゐらつしやるのは――」
 「何よりもつて恐悦至極《きようえつしごく》」
 先刻《さつき》聞いた役者の言葉を、小さな聲で後《あと》へ付け足した繼子は、さう云つた後で、自分ながら其大膽さに呆れたやうに、薄赤くなつた。叔父はわざと大きな聲を出した。
 「何ですつて」
 繼子は極りが惡いので、聞こえない振をして、どん/\門口《かどぐち》の方へ歩いて行つた。みんなも其《その》後《あと》に隨《つ》いて表へ出た。
 車へ乘る時、叔父はお延に云つた。
 「お前|宅《うち》へ泊れなければ、泊らないで可《い》いから、其代り何時《いつ》かお出《いで》よ、二三日中《にさんちちゆう》にね。少し訊きたい事があるんだから」
 「あたしも叔父さんに伺はなくつちやならない事があるから、今日のお禮|旁《かた/”\》是非上るわ。もしか都合が出來たら明日《あした》にでも伺つてよ、好くつて」
 「オー、ライ」
 四人の車は此英語を相圖《あひづ》に走《か》け出《だ》した。
 
     五十七
 
 津田の宅《うち》と畧《ほゞ》同じ方角に當る岡本の住居《すまひ》は、少し道程《みちのり》が遠いので、三人の後《あと》に隨《つ》いたお延の護謨輪《ゴムわ》は、小路《こうぢ》へ曲る例の角迄一所に來る事が出來た。其所で別れる時、彼女は幌《ほろ》の中から、前に行く人達に聲を掛けた。けれどもそれが向ふへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥《くるま》はもう電車通りを横に切れてゐた。しんとした小路の中で、急に一種の淋《さみ》しさが彼女の胸を打つた。今迄團體的に旋回してゐたものが、吾知らず調子を踏《ふ》み外《はづ》して、一人|圏外《けんぐわい》に振り落された時のやうに、淡いながら頼りを失つた心持で、彼女は自分の宅《うち》の玄關を上つた。
 下女は椅子《かうし》の音を聞いても出て來なかつた。茶の間には電燈が明るく輝やいてゐる丈《だけ》で、鐵瓶さへ何時《いつ》ものやうに快い音を立てなかつた。今朝見たと何の變りもない室《へや》の中を、彼女は今朝と違つた眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い氣分を抱擁《はうよう》し始めた。その瞬間が過ぎて、たゞの淋《さみ》しさが不安の念に變りかけた時、歡樂に疲れた身體を、長火鉢の前に投げ掛けやうとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いてゐる下女部屋の戸を開けた。
 二疊敷の眞中に縫物をひろげて、其上に他愛《たわい》なく突ツ伏してゐたお時は、急に顔を上げた。さうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」といふ返事を判然《はつきり》して立ち上つた。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電燈の笠へ、崩れかかつた束髪の頭を打《ぶ》つけたので、あらぬ方《かた》へ波をうつた電球が、猶《なほ》の事《こと》彼女を狼狽《らうばい》させた。
 お延は笑ひもしなかつた。叱る氣にもならなかつた。斯《こ》んな場合に自分ならといふ彼我の比較さへ胸に浮かばなかつた。今の彼女には寐ぼけたお時でさへ、其所にゐて呉れるのが頼母《たのも》しかつた。
 「早く玄關を締めてお寐。潜《くゞ》りの?《かきがね》はあたしが掛けて來たから」
 下女を先へ寐かしたお延は、着物も着換へずに又火鉢の前へ坐つた。彼女は器械的に灰をほぢくつて消えかゝつた火種に新らしい炭を繼《つ》ぎ足《た》した。さうして家庭としては缺くぺからざる要件のごとくに、湯を沸かした。然し夜更《よふけ》に鳴る鐵瓶の音に、一人耳を澄ましてゐる彼女の胸に、何處からともなく逼《せま》つてくる孤獨の感が、先刻《さつき》歸つた時よりも猶《なほ》劇《はげ》しく募つて來た。それが平生遲い夫《をつと》の戻りを待ちあぐんで起す淋《さび》しみに比べると、遙かに程度が違ふので、お延は思はず病院に寐てゐる夫《をつと》の姿を、懷かしさうに心の眼で眺めた。
 「矢つ張りあなたが居らつしやらないからだ」
 彼女は自分の頭の中に描き出した夫《をつと》の姿に向つて斯う云つた。さうして明日《あした》は何を置いても、まづ病院へ見舞に行かなければならないと考へた。然し次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫《をつと》の胸に食付《くつつ》いて居なかつた。二人の間に何だか挾まつてしまつた。此方《こつち》で寄り添わうとすればする程、中間《ちゆうかん》にある其邪魔ものが彼女の胸を突ツついた。しかも夫《をつと》は平氣で澄ましてゐた。半《なか》ば意地になつた彼女の方でも、そんなら宜しう御座いますといつて、夫《をつと》に脊中を向けたくなつた。
 斯ういふ立場迄來ると、彼女の空想は會釋《ゑしやく》なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかつた。芝居場で一度考へた通り、もし今夜あの夫人に會はなかつたなら、最愛の夫《をつと》に對して、是程不愉快な感じを抱《いだ》かずに濟んだらうにといふ氣ばかり強くした。
 仕舞に彼女は何處かにゐる誰かに自分の心を訴へたくなつた。昨夜《ゆうべ》書きかけた里へ遣る手紙の續《つゞき》を書かうと思つて、筆を執りかけた彼女は、何時《いつ》迄《まで》經つても、夫婦仲よく暮してゐるから安心して呉れといふ意味より外に、自分の思ひを卷紙の上に運ぶ事が出來なかつた。それは彼女が常に兩親に對して是非云ひたい言葉であつた。然し今夜は、何うしてもそれ丈《だけ》では物足らない言葉であつた。自分の頭を纒める事に疲れ果た彼女は、とう/\筆を投げ出した。着物も其所へ脱ぎ捨てた儘、彼女は遂に床へ入《はい》つた。長い間眼に映つた劇場の光景が、斷片的に幾通りもの強い色になつて、興奮した彼女の頭をちら/\刺戟するので、彼女は焦《じ》らされる人のやうに、何時《いつ》迄《まで》も眠に落ちる事が出來なかつた。
 
     五十八
 
 彼女は枕の上で一時を聽いた。二時も聽いた。それから何時《なんじ》だか分らない朝の光で眼を覺ました。雨戸の隙間から射し込んで來る其光は、明らかに例《いつ》もより寐過ごした事を彼女に物語つてゐた。
 彼女は其光で枕元に取り散らされた昨夕《ゆうべ》の衣裳を見た。上着と下着と長襦袢と重なり合つて、すぽりと脱ぎ捨てられたまゝ、疊の上に崩れてゐるので、其所には上下《うへした》裏表《うらおもて》の、しだらなく一度に入り亂れた色の塊《かたま》りがある丈《だけ》であつた。その色の塊《かたま》りの下から、細長く折目の付いた端《はじ》を出した金糸入りの檜扇模樣《ひあふぎもやう》の帶は、彼女の手の屆く距離迄延びてゐた。
 彼女は此亂雜な有樣を、聊《いさゝ》か呆れた眼で眺めた。是がかねてから、几帳面を女コ《ぢよとく》の一つと心掛て來た自分の所作《しよさ》かと思ふと、少し淺間《あさま》しいやうな心持にもなつた。津田に嫁いで以後、かつて斯《こ》んな不體裁《ふしだら》を夫《をつと》に見せた覺《おぼえ》のない彼女は、其|夫《をつと》が今自分と同じ室《へや》の中に寐てゐないのを見て、ほつと一息した。
 だらしのないのは着物の事ばかりではなかつた。もし夫《をつと》が入院しないで、例《いつ》もの通り宅《うち》にゐたならば、たとひ何《ど》んなに夜更《よふか》しをしようとも、斯う遲く迄、氣を許して寐てゐる筈がないと思つた彼女は、眼が覺めると共に跳ね起きなかつた自分を、何うしても怠けものとして輕蔑しない譯に行かなかつた。
 それでも彼女は容易に起き上らなかつた。昨夕《ゆうべ》の不首尾を償ふためか、自分の知らない間《ま》に起きて呉れたお時の足音が、先刻《さつき》から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女は何時《いつ》迄《まで》も肌觸りの暖かい夜具の中に包まれてゐた。
 其内眼を開けた瞬間に感じた、濟まないといふ彼女の心持が段々|弛《ゆる》んで來た。彼女はいくら女だつて、年に一度や二度此位の事をしても差支なからうと考へ直すようになつた。彼女の關節《ふし/”\》が樂々しだした。彼女は何時《いつ》にない暢《のん》びりした氣分で、結婚後始めて經驗する事の出來た此自由を有難く味はつた。是も畢竟《ひつきやう》夫《をつと》が留守のお蔭だと氣の付いた時、彼女は當分一人になつた今の自分を、寧ろ祝福したい位に思つた。さうして毎日|夫《をつと》と寐起を共にしてゐながら、つい心にも留めず、今日迄見過ごしてきた窮屈といふものが、彼女にとつて存外重い負擔であつたのに驚ろかされた。然し偶發的に起つた此瞬間の覺醒は無論長く續かなかつた。一旦解放された自由の眼で、やきもきした昨夕《ゆうべ》の自分を嘲《あざ》けるやうに眺めた彼女が床を離れた時は、もう既に違つた氣分に支配されてゐた。
 彼女は主婦として何時《いつ》も遣る通りの義務を遲いながら綺麗に片付けた。津田がゐないので、大分《だいぶ》省《はぶ》ける手數《てすう》を利用して、下女も煩はさずに、自分で自分の着物を疊んだ。それから輕い身仕舞をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁程行つた所にある、新らしい自動電話の箱の中に入《はい》つた。
 彼女は其所で別々の電話を三人へ掛けた。其三人のうちで一番先に擇《えら》ばれたものは、やはり津田であつた。然し自分で電話口へ立つ事の出來ない横臥状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くより外に仕方がなかつた。たゞ別に異状のある筈はないと思つてゐた彼女の豫期は外《はづ》れなかつた。彼女は「順當で御座います、お變りは御座いません」といふ保證の言葉を、看護婦らしい人の聲から聞いた後で、何《ど》の位《くらゐ》津田が自分を待ち受けてゐるかを知るために、今日は見舞に行かなくつても可《い》いかと尋ねて貰つた。すると津田が何故《なぜ》かと云つて看護婦に訊き返させた。夫《をつと》の聲も顔も分らないお延は、判斷に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非來てくれと頼むやうな男ではなかつた。然し行かないと、機嫌を惡くする男であつた。それでは行けば喜《よろ》こぶかといふと左右《さう》でもなかつた。彼はお延に親切の仕損《しぞん》をさせて置いて、それが女の義務ぢやないかといつた風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかつた。不圖《ふと》斯《こ》んな事を考へた彼女は、昨夕《ゆうべ》吉川夫人から受け取つたらしく自分では思つてゐる、夫《をつと》に對する一種の感情を、つい電話口で洩らしてしまつた。
 「今日は岡本へ行かなければならないから、其方《そちら》へは參りませんつて云つて下さい」
 それで病院の方を切つた彼女は、すぐ岡本へ掛け易へて、今に行つても可《い》いかと聞き合せた。さうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口《ひとくち》報告的に通じた丈《だけ》で、又|宅《うち》へ歸つた。
 
     五十九
 
 お時の御給仕で朝食兼帶《あさめしけんたい》の午《ひる》の膳《ぜん》に着くのも、お延にとつては、結婚以來始めての經驗であつた。津田の不在から起る此變化が、女王《クイーン》らしい氣持を新らしく彼女に與へると共に、毎日の習慣に反して貪《むさ》ぼり得た此自由が、何時《いつ》もよりは却つて彼女を囚《とら》へた。身體の悠《ゆつ》くりした割合に、心の落付けなかつた彼女は、お時に向つて云つた。
 「旦那樣が居らつしやらないと何だか變ね」
 「へえ、御淋《おさむ》しう御座います」
 お延はまだ云ひ足りなかつた。
 「こんな寐坊をしたのは始めてね」
 「えゝ、其代り何時《いつ》でもお早いんだから、偶《たま》には朝とお午《ひる》と一所でも、宜しう御座いませう」
 「旦那樣が居らつしやらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくつて」
 「誰がで御座います」
 「お前がさ」
 「飛んでもない」
 お時のわざとらしい大きな聲は、下手な話し相手よりも非道《ひど》くお延の趣味に應《こた》へた。彼女はすぐ黙つてしまつた。
 三十分ほど經つて、お時の沓脱《くつぬぎ》に揃へた餘所行《よそゆき》の下駄を穿《は》いて又表へ出る時、お延は玄關迄送つて來た彼女を顧みた。
 「よく氣を付けてお呉れよ。昨夕《ゆうべ》見たいに寐てしまふと、不用心だからね」
 「今夜も遲く御歸りになるんで御座いますか」
 お延は何時《いつ》歸るか丸《まる》で考へてゐなかつた。
 「あんなに遲くはならない積《つもり》だがね」
 たまさかの夫《をつと》の留守に、ゆつくり岡本で遊んで來たいやうな氣が、お延の胸の何處かでした。
 「成るたけ早く歸つて來て上げるよ」
 斯う云ひ捨てゝ通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向つた。
 岡本の住居《すまひ》は藤井の家と畧《ほゞ》同じ見當にあるので、途中迄は例の川沿《かはぞひ》の電車を利用する事が出來た。終點から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、其所に掛け渡した小さい木の橋を横切つて、向ふ側の通りを少し歩いた。其通りは二三日前《にさんちまへ》の晩、酒場《バー》を出た津田と小林とが、二人の境遇や性挌の差違から來る縺《もつ》れ合《あ》つた感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた徃來であつた。それを津田の口から聞かされてゐなかつた彼女は、二人の樣子を想像する迄もなく、彼等とは反對の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父の宅《うち》へ行くには是非共|上《のぼ》らなければならない細長い坂へ掛かつた。すると偶然向ふから來た繼子に言葉をかけられた。
 「昨日《さくじつ》は」
 「何處へ行くの」
 「お稽古」
 去年女學校を卒業した此|從妹《いとこ》は、餘暇《ひま》に任せて色々なものを習つてゐた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩畫だの、料理だの、何へでも手を出したがる其人の癖を知つてゐるので、お稽古といふ言葉を聞いた時お延は、つい笑ひたくなつた。
 「何のお稽古? トーダンス?」
 彼等は斯《こ》んな樂屋落《がくやおち》の笑談《ぜうだん》をいふ程親しい間柄であつた。然しお延から見れば、自分より餘裕のある相手の境遇に對して、多少の皮肉を意味しないとも限らない此|笑談《ぜうだん》が、肝心の當人には、一向《いつかう》諷刺《ふうし》としての音響を傳へずに濟むらしかつた。
 「まさか」
 彼女はたゞ斯う云つて機嫌よく笑つた。さうして彼女の笑は、如何《いか》に鋭敏なお延でも、無邪氣其物だと許さない譯に行かなかつた。けれども彼女は遂に何處へ何の稽古に行くかをお延に告げなかつた。
 「冷かすから厭よ」
 「又何か始めたの」
 「何うせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
 稽古事の上で、繼子が慾張といふ異名を取つてゐる事も、彼女の宅《うち》では隱れない事實であつた。最初妹から付けられて、忽ち家族のうちに傳播《でんぱん》した此|惡口《わるくち》は、近頃彼女自身によつて平氣に使用されてゐた。
 「待つてゐらつしやい。ぢき歸つて來るから」
 輕い足でさつさと坂を下りて行く繼子の後姿を一度振り返つて見たお延の胸に、又尊敬と輕侮とを搗《つ》き交《ま》ぜた其人に對する何時《いつ》もの感じが起つた。
 
     六十
 
 岡本の邸宅《やしき》へ着いた時、お延は又偶然叔父の姿を玄關前に見出《みいだ》した。羽織も着ずに、兵兒帶《へこおび》をだらりと下げて、其結び目の所に、後《うしろ》へ廻した兩手を重ねた彼は、傍《そば》で鍬を動かしてゐる植木屋としきりに何か話をしてゐたが、お延を見るや否や、すぐ向ふから聲を掛けた。
 「來たね。今庭いぢりを遣つてる所だ」
 植木屋の横には、大きな通草《あけぴ》の蔓《つる》が卷いた儘、地面の上に投げ出されてあつた。
 「そいつを今その庭の入口の門の上へ這はせようといふんだ。一寸好いだらう」
 お延は網代組《あじろぐみ》の竹垣の中程にある其|茅門《かやもん》を支へてゐる釿《てうな》なぐりの柱と丸太の桁《けた》を見較べた。
 「へえ。あの袖垣《そでがき》の所にあつたのを拔いて來たの」
 「うん其代り彼所《あすこ》へは玉縁《たまぶち》をつけた目關垣《めせぎがき》を拵へたよ」
 近頃身體に暇が出來て、自分の意匠通り住居《すまひ》を新築した此叔父の建築に關する單語は、何時《いつ》の間《ま》にか急に殖えてゐた。言葉を聽いた丈《だけ》ではとても解らない其|目關垣《めせきがき》といふものを、お延はたゞ「へえ」と云つて應答《あしら》つてゐるより外に仕方がなかつた。
 「食後の運動には好いわね。お腹《なか》が空《す》いて」
 「笑談《ぜうだん》ぢやない、叔父さんはまだ午飯前《ひるめしまへ》なんだ」
 お延を引張つて、わざ/\庭先から座敷へ上つた叔父は「住《すみ》、住」と大きな聲で叔母を呼んだ。
 「腹が減つて仕方がない、早く飯にして呉れ」
 「だから先刻《さつき》みんなと一所に召上《めしや》がれば好いのに」
 「所が、さう勝手元の御都合の可《い》いやうに許《ばかり》は參らんです、世の中といふものはね。第一|物《もの》に區切《くぎり》のあるといふ事をあなたは御承知ですか」
 自業自得な夫《をつと》に對する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶も相變らすであつた。久し振で故郷の空氣を吸つたやうな感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にゐる此|一對《いつつゐ》の老夫婦と、結婚してからまだ一年と經たない、云はば新生活の門出《かどで》にある彼等二人とを比較して見なければならなかつた。自分達も長《なが》の月日さへ踏んで行けば、斯うなるのが順當なのだらうか、又はいくら永く一所に暮らした所で、性格が違へば、互ひの立場も末始終《すゑしじゆう》迄《まで》變つて行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智惠と想像で解けない一種の疑問であつた。お延は今の津田に滿足してはゐなかつた。然し未來の自分も、此叔母のやうに膏氣《あぶらけ》が拔けて行くだらうとは考へられなかつた。もしそれが自分の未來に横《よこた》はる必然の運命だとすれば、何時《いつ》迄《まで》も現在の光澤《つや》を持ち續けて行かうとする彼女は、何時《いつ》か一度悲しい此打撃を受けなければならなかつた。女らしい所がなくなつて仕舞つたのに、まだ女として此世の中に生存するのは、眞《しん》に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかつた。
 そんな距離の遠い感想が、此若い細君の胸に湧いてゐるとは夢にも氣の付きやう筈のない叔父は、自分の前に据ゑられた膳に向つて胡坐《あぐら》を掻きながら、彼女を見た。
 「おい何をぼんやりしてゐるんだ。しきりに考へ込んでゐるぢやないか」
 お延はすぐ答へた。
 「久し振にお給仕でもしませう」
 飯櫃《おはち》が生憎《あいにく》其所にないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼び留めた。
 「御給仕をしたくつたつて、?麭《パン》だから出來ないよ」
 下女が皿の上に狐色に焦《こ》げたトーストを持つて來た。
 「お延、叔父さんは情《なさ》けない事になつちまつたよ。日本に生れて米の飯が食へないんだから可哀想《かはいさう》だらう」
 糖尿病《たうねうびやう》の叔父は既定の分量以外に澱粉質《でんぷんしつ》を攝取《せつしゆ》する事を主治醫から嚴禁されてしまつたのである。
 「斯うして豆腐ばかり食つてるんだがね」
 叔父の膳には到底《とても》一人では平らげ切れない程の白い豆腐が生《なま》の儘《まゝ》で供へられた。
 むく/\と肥え太つた叔父の、わざとする情《なさけ》なささうな顔を見たお延は、大して氣の毒にならない許《ばかり》か、却つて笑ひたくなつた。
 「少しや斷食でもした方が可《い》いんでせう。叔父さんみたいに肥つて生きてるのは、誰だつて苦痛に違ないから」
 叔父は叔母を顧みた。
 「お延は元から惡口やだつたが、嫁に行つてから一層達者になつたやうだね」
 
      六十一
 
 小さいうちから彼の世話になつて成長したお延は、色々の角度で出没《しゆつぼつ》する此叔父の特色を他人より能く承知してゐた。
 肥つた身體に釣り合はない神經質の彼には、時々自分の室《へや》に入《はい》つたぎり、半日位黙つて口を利かずにゐる癖がある代りに、他《ひと》の顔さへ見ると、また何かしら喋舌《しやべ》らないでは片時《かたとき》も居られないといつた氣作《きさく》な風があつた。それが元氣の遣り場所に困るからといふよりも、成るべく相手を不愉快にしたくないといふ對人的な想《おも》ひ遣《やり》や、又は客を前に置いて、唯のつそつしてゐる自分の手持無沙汰を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心掛から來る一種の興味的中心があつた。彼の成效《せいかう》に少なからぬ貢獻をもたらしたらしく思はれる、社交上極めて有利な彼のこの話術は、其所有者の天から禀《う》けた諧謔趣味《かいぎやくしゆみ》のために、一層|派出《はで》な光彩を放つ事が?《しば/\》あつた。さうして夫《それ》が子供の時分から彼の傍《そば》にゐたお延の口に、何時《いつ》の間《ま》にか乘り移つてしまつた。機嫌のいゝ時に、彼を向ふへ廻して輕口《かるくち》の吐《つ》き競《くら》をやる位は、今の彼女に取つて何の努力も要らない第二の天性のやうなものであつた。然し津田に嫁《とつ》いでからの彼女は、嫁ぐとすぐに此態度を改めた。所が最初|愼《つゝし》みのために控えた惡口《わるくち》は、二ケ月經つても、三ケ月經つても中々出て來なかつた。彼女は遂に此點に於て、岡本に居た時の自分とは別個の人間になつて、彼女の夫《をつと》に對しなければならなくなつた。彼女は物足らなかつた。同時に夫《をつと》を欺むいてゐるやうな氣がしてならなかつた。偶《たま》に來て、故《もと》に變らない叔父の樣子を見ると、其所に昔《むか》しの自由を憶ひ出させる或物があつた。彼女は生豆腐《なまどうふ》を前に、胡坐《あぐら》を掻いてゐる剽輕《へうきん》な彼の顔を、過去の記念のやうに懷かし氣に眺めた。
 「だつてあたしの惡口は叔父さんのお仕込《しこみ》ぢやないの。津田に教はつた覺《おぼえ》なんか、ありやしないわ」
 「ふん、左右《さう》でもあるめえ」
 わざと江戸つ子を使つた叔父は、さういふ種類の言葉を、一切家庭に入れてはならないものの如くに忌み嫌ふ叔母の方を見た。傍《はた》から注意すると猶《なほ》面白がつて使ひたがる癖を能く知つてゐるので、叔母は素知らぬ顔をして取り合はなかつた。すると目標《あて》が外《はづ》れた人のやうに叔父は又お延に向つた。
 「一體由雄さんはそんなに嚴格な人かね」
 お延は返事をしずに、唯にや/\してゐた。
 「はゝあ、笑つてる所を見ると、矢つ張嬉しいんだな」
 「何がよ」
 「何がよつて、そんなに白《しら》ばつくれなくつても、分つてゐらあな。――だが本當に由雄さんはそんなに嚴格な人かい」
 「何うだかあたし能く解らないわ。何故またそんな事を眞面目腐つてお訊きになるの」
 「少し此方《こつち》にも料簡があるんだ、返答次第では」
 「おゝ怖《こは》い事《こと》。ぢや云つちまうわ。由雄は御察しの通り嚴格な人よ。それが何うしたの」
 「本當にかい」
 「えゝ。隨分叔父さんも苦呶《くど》いのね」
 「ぢや此方《こつち》でも簡潔に結論を云つちまう。果して由雄さんが、お前のいふ通り嚴格な人ならばだ。到底惡口の達者なお前には向かないね」
 斯う云ひながら叔父は、其所に黙つて坐つてゐる叔母の方を、頷《あご》でしやくつて見せた。
 「此叔母さんなら、丁度お誂らへ向かも知れないがね」
 淋しい心持が遠くから來た風のやうに、不意にお延の胸を撫でた。彼女は急に悲しい氣分に囚《とら》へられた自分を見て驚ろいた。
 「叔父さんは何時《いつ》でも氣樂さうで結構ね」
 津田と自分とを、好過ぎる程仲の好い夫婦と假定してかゝつた、調戯半分《からかひはんぶん》の叔父の笑談《ぜうだん》を、たゞ座興から來た出鱈目《でたらめ》として笑つてしまふには、お延の心にあまり隙《すき》があり過ぎた。と云つて、其隙を飽く迄|取《と》り繕《つく》ろつて、他人の前に、何一つ不足のない夫《をつと》を持つた妻としての自分を示さなければならないとのみ考へてゐる彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由を有《も》つてゐなかつた。もう少しで涙が眼の中に溜まらうとした所を、彼女は瞬きで胡麻化《ごまか》した。
 「いくらお誂らへ向でも、斯う年を取つちや仕方がない。ねえお延」
 年の割に何處へ行つても若く見られる叔母が、斯う云つて水々した光澤《つや》のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云はなかつた。けれども自分の感情を隱すために、第一の機會を利用する事は忘れなかつた。彼女はたゞ面白さうに聲を出して笑つた。
 
     六十二
 
 親身《しんみ》の叔母よりも却つて義理の叔父の方を、心の中《なか》で好いてゐたお延は、其報酬として、自分も此叔父から特別に可愛《かはい》がられてゐるといふ信念を常に有《も》つてゐた。洒落《しやらく》でありながら神經質に生れ付いた彼の氣合《きあひ》を能く呑み込んで、その兩面に行き渡つた自分の行動を、寸分|違《たが》はず叔父の思ひ通りに樂々と運んで行く彼女には、何時《いつ》でも年齡《とし》の若さから來る柔軟性が伴つてゐたので、殆んど苦痛といふものなしに、叔父を喜《よろ》こばし、又自分に滿足を與へる事が出來た。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作《しよさ》を眺めてゐて呉れるやうに考へた彼女は、時とすると、變化に乏しい叔母の骨は何うしてあんなに堅いのだらうと怪しむ事さへあつた。
 如何にして異性を取り扱ふべきかの修養を、斯うして叔父からばかり學んだ彼女は、何處へ嫁に行つても、それを其儘|夫《をつと》に應用すれば成效《せいかう》するに違ないと信じてゐた。津田と一所になつた時、始めて少し勝手の違ふやうな感じのした彼女は、此生れて始めての經驗を、成程といふ眼付で眺めた。彼女の努力は、新らしい夫《をつと》を叔父のやうな人間に熟《こな》しつけるか、又は既に出來上つた自分の方を、新らしい夫《をつと》に合ふやうに改造するか、何方《どつち》かにしなければならない場合によく出合つた。彼女の愛は津田の上にあつた。然し彼女の同情は寧ろ叔父型の人間に注《そゝ》がれた。斯《こ》んな時に、叔父なら嬉しがつて呉れるものをと思ふ事がしば/\出て來た。すると自然の勢ひが彼女にそれを逐一《ちくいち》叔父に話してしまへと命令した。其命令に背くほど意地の強い彼女は、今迄何うか斯うか我慢して通して來たものを、今更告白する氣には到底《とても》なれなかつた。
 斯うして叔父夫婦を欺むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念《けねん》もなく彼女のために騙されてゐるといふ自信があつた。同時に敏感な彼女は、叔父の方でも亦彼女に打ち明けたくつて、しかも打ち明けられない、津田に對する、自分のと同程度位なある秘密を有《も》つてゐるといふ事を能く承知してゐた。有體《ありてい》に見透《みすか》した叔父の腹の中《なか》を、お延に云はせると、彼は決して彼女に大切な夫《をつと》としての津田を好いてゐなかつたのである。それが二人の間に横《よこた》はる氣質の相違から來る事は、たとひ二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかゝらない假定であつた。少くとも結婚後のお延はぢき其所に氣が付いた。然し彼女はまだ其上に材料を有《も》つてゐた。粗放のやうで一面に緻密《ちみつ》な、無頓着のやうで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切氣のある此叔父は、最初會見の當時から、既に直觀的に津田を嫌つてゐたらしかつた。「お前はあゝいふ人が好きなのかね」と訊かれた裏側に、「ぢや己《おれ》のやうなものは嫌《きらひ》だつたんだね」といふ言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思はずはつとした。然し「叔父さんの御意見は」と此方《こつち》から問ひ返した時の彼は、もう其|氣下味《きまづ》い關《せき》を通り越してゐた。
 「お出《いで》よ、お前さへ行く氣なら、誰にも遠慮は要らないから」と親切に云つて呉れた。
 お延の材料はまだ一つ殘つてゐた。自分に對して何にも云はなかつた叔父の、津田に關するもつと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事が出來たのである。
 「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくつちやならないやうな顔付をしてゐるぢやないか」
 不思議にも此言葉はお延にとつて意外でも何でもなかつた。彼女には自分が津田を精一杯《せいいつぱい》愛し得るといふ信念があつた。同時に、津田から精一杯愛され得るといふ期待も安心もあつた。又叔父の例の惡口《わるくち》が始まつたといふ氣が何より先に起つたので、彼女は聲を出して笑つた。さうして、此惡口はつまり嫉妬から來たのだと一人腹の中で解釋して得意になつた。叔母も「自分の若い時の己惚《おのぼれ》は、もう忘れてゐるんだからね」と云つて、彼女に相槌《あひづち》を打つて呉れた。……
 叔父の前に坐つたお延は自分の後《うしろ》にある斯《こ》んな過去を憶ひ出さない譯に行かなかつた。すると「嚴格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいふ下らない彼の笑談《ぜうだん》のうちに、何か眞面目な意味があるのではなからうかといふ氣さへ起つた。
 「己《おれ》の云つた通りぢやないかね。なければ仕合せだ。然し萬一何かあるなら、又今ないにした所で、是から先ひよつと出て來たなら遠慮なく打ち明けなけりや不可《いけな》いよ」
 お延は叔父の眼の中に、斯うした慈愛の言葉さへ讀んだ。
 
     六十三
 
 感傷的の氣分を笑に紛らした彼女は、その苦痛から逃《のが》れるために、すぐ自分の持つて來た話題を叔父叔母の前に切り出した。
 「昨日《きのふ》の事は全體何ういふ意味なの」
 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかつた。すると返答を與へる筈の叔父が却つて彼女に反問した。
 「お前は何う思ふ」
 特に「お前」といふ言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも讀むやうな眼遣ひをして彼女を凝《ぢつ》と見た。
 「解らないわ。藪から棒にそんな事訊いたつて。ねえ叔母さん」
 叔母はにやりと笑つた。
 「叔父さんはね、あたしの樣な空疎《うつかり》ものには解らないが、お延になら屹度《きつと》解る。あいつは貴樣より氣が利いてるからつて仰《おつし》やるんだよ」
 お延は苦笑するより外に仕方なかつた。彼女の頭には無論|朧氣《おぼろげ》ながらある臆測があつた。けれども強ひられないのに、悧巧振つてそれを口外する程、彼女の教育は蓮葉《はすは》でなかつた。
 「あたしにだつて解りつこないわ」
 「まあ中《あ》てゝ御覽。大抵見當は付くだらう」
 何うしてもお延の方から先に何か云はせようとする叔父の氣色《けしき》を見て取つた彼女は、二三度押問答の末、とう/\推察の通りを云つた。
 「見合ぢやなくつて」
 「何うして。――お前には左右《さう》見えるかね」
 お延の推測を首肯《うけが》ふ前に、彼女の叔父から受けた反問が夫《それ》から夫《それ》へと續いた。仕舞に彼は大きな聲を出して笑つた。
 「中《あた》つた、中《あた》つた。矢張《やつぱ》りお前の方が住《すみ》より悧巧だね」
 斯《こ》んな事で、二人の間に優劣を付ける氣樂な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評《ひやか》した。
 「ねえ、叔母さんだつて其位の事なら大抵見當が付くわね」
 「お前も御賞《おほめ》にあづかつたつて、あんまり嬉しくないだらう」
 「えゝ些《ちつ》とも有難かないわ」
 お延の頭に、一座を切り舞はした吉川夫人の斡旋振《あつせんぶり》が又|描《ゑが》き出《いだ》された。
 「何うもあたし左右《さう》だらうと思つたの。あの奧さんが始終繼子さんと、それからあの三好さんて方《かた》を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折つてゐらつしやるんですもの」
 「所があのお繼と來たら、又引き立たない事|夥《おびたゞ》しいんだからな。引き立てようとすれば、却つて引き下がる丈《だけ》で、丸《まる》で紙袋《かんぶくろ》を被《かぶ》つた猫見たいだね。其所へ行くと、お延のやうなのは何うしても得《とく》だよ。少くとも當世向《たうせいむき》だ」
 「厭にしやあ/\してゐるからでせう。何だか賞《ほ》められてるんだか、惡く云はれてるんだか分らないわね。あたし繼子さんのやうな大人《おとな》しい人を見ると、何うかしてあんなになりたいと思ふわ」
 斯う答へたお延は、叔父の所謂《いはゆる》當世向を發揮する餘地の自分に與へられなかつた、從つて自分から見れば寧ろ不成效《ふせいかう》に終つた、昨夕《ゆうべ》の會合を、不愉快と不滿足の眼で眺めた。
 「何で又あたしがあの席に必要だつたの」
 「お前は繼子の從姉《いとこ》ぢやないか」
 たゞ親類だからといふのが唯一の理由だとすれば、お延の外にも出席しなければならない人がまだ澤山あつた。其上相手の方では當人がたつた一人出て來た丈《だけ》で、紹介者の吉川夫婦を除くと、向ふを代表するものは誰もゐなかつた。
 「何だか變ぢやないの。さうすると若し津田が病氣でなかつたら、やつぱり親類として是非出席しなければ惡い譯になるのね」
 「それや又別口だ。外に意味があるんだ」
 叔父の目的中には、昨夕《ゆうべ》の機會を利用して、津田とお延を、一度でも餘計吉川夫妻に接近させて遣らうといふ好意が含まれてゐたのである。それを叔父の口から判切《はつきり》聽かされた時、お延は日頃自分が考へてゐる通りの叔父の氣性が其所に現はれてゐるやうに思つて、暗《あん》に彼の親切を感謝すると共に、そんなら何故《なぜ》あの吉川夫人ともつと親しくなれるやうに仕向けて呉れなかつたのかと恨んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果は却つて近づけない前より惡くなるかも知れないといふ特殊な心理を、叔父は丸《まる》で承知してゐないらしかつた。お延はいくら行き屆いても男はやつぱり男だと批評したくなつた。然し其《その》後《あと》から、吉川夫人と自分との間に横《よこた》はる一種微妙な關係を知らない以上は、誰が出て來ても畢竟《ひつきやう》何うする事も出來ないのだから仕方がないといふ、嘆息を交へた寛恕《くわんじよ》の念も起つて來た。
 
     六十四
 
 お延はその問題を其所へ放《はふ》り出《だ》した儘、まだ自分の腑に落ちずに殘つてゐる要點を片付けようとした。
 「成程さういふ意味合《いみあひ》だつたの。あたし叔父さんに感謝しなくつちやならないわね。だけどまだ外に何かあるんでせう」
 「あるかも知れないが、假令《たとひ》ないにした所で、單にそれ丈《だけ》でも、あゝしてお前を呼ぶ價値《ねうち》は充分あるだらう」
 「えゝ、有るには有るわ」
 お延は斯う答へなければならなかつた。然しそれにしては勸誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思つた。叔父は果して最後の一物《いちもつ》を胸に藏《しま》ひ込《こ》んでゐた。
 「實はお前にお婿さんの眼利《めきゝ》をして貰はうと思つたのさ。お前は能く人を見拔く力を有《も》つてるから相談するんだが、何うだらう彼《あ》の男《をとこ》は。お繼の未來の夫《をつと》として可《い》いだらうか惡いだらうか」
 叔父の平生から推して、お延は何處迄が眞面目な相談なのか、一寸判斷に迷つた。
 「まあ大變な御役目を承《うけたま》はつたのね。光榮の至りだ事」
 斯う云ひながら、笑つて自分の横にゐる叔母を見たが、叔母の樣子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑えた。
 「あたしの樣なものが眼利《めきゝ》をするなんて、少し生意氣よ。それにたゞ一時間位あゝして一所に坐つてゐた丈《だけ》ぢや、誰だつて解りつこないわ。千里眼ででもなくつちや」
 「いやお前には一寸千里眼らしい所があるよ。だから皆《みん》なが訊きたがるんだよ」
 「冷評《ひやか》しちや厭よ」
 お延はわざと叔父を相手にしない振《ふり》をした。然し腹の中では自分に媚びる一種の快感を味はつた。それは自分が實際|他《ひと》に左右《さう》思はれてゐるらしいといふ把捉《はそく》から來る得意に外ならなかつた。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面《てきめん》の事實で破壞されべき性質のものであつた。彼女は反對に近い例證としてその裏面にすぐ自分の夫《をつと》を思ひ浮べなければならなかつた。結婚前千里眼以上に彼の性質を見拔き得たとばかり考へてゐた彼女の自信は、結婚後|今日《こんにち》に至る迄の間に、明らかな太陽に黒い斑點の出來るやうに、思ひ違ひ疳違《かんちがひ》の痕迹《こんせき》で、既に其所此所|汚《よご》れてゐた。畢竟《ひつきやう》夫《をつと》に對する自分の直覺は、長い月日の經驗によつて、訂正されべく、補修されべきものかも知れないといふ心細い眞理に、漸く頭を下げ掛けてゐた彼女は、叔父に煽《あふ》られてすぐ圖に乘る程若くもなかつた。
 「人間はよく交際《つきあ》つて見なければ實際解らないものよ、叔父さん」
 「其位な事は御前に教はらないだつて、誰だつて知つてらあ」
 「だからよ。一度會つた位で何にも云へる譯がないつていふのよ」
 「そりや男の云ひ草だらう。女は一眼見ても、すぐ何かいふぢやないか。又よく旨い事を云ふぢやないか。それを云つて御覽といふのさ、たゞ叔父さんの參考迄に。何《な》にもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
 「だつて無理ですもの。そんな豫言者見たいな事。ねえ叔母さん」
 叔母は何時《いつ》ものやうにお延に加勢《かせい》しなかつた。さればと云つて、叔父の味方にもならなかつた。彼女の豫言を強ひる氣色《けしき》を見せない代りに、叔父の惡強《わるじ》ひも留《と》めなかつた。始めて嫁にやる可愛《かはい》い長女の未來の夫《をつと》に關する批判の材料なら、それが何《ど》んなに輕からうと、耳を傾むける値打《ねうち》は充分あるといつた風も見えた。お延は當り障りのない事を一口二口云つて置くより外に仕方がなかつた。
 「立派な方ぢやありませんか。さうして若い割に大變落ち付いてゐらつしやるのね。……」
 其《その》後《あと》を待つてゐた叔父は、お延が何にも云はないので、又催促するやうに訊いた。
 「それつ切かね」
 「だつて、あたし彼《あ》の方《かた》の一軒《いつけん》置いてお隣へ坐らせられて、碌々《ろく/\》お顔も拜見しなかつたんですもの」
 「豫言者をそんな所へ坐らせるのは惡かつたかも知れないがね。――何かありさうなもんぢやないか、そんな平凡な觀察でなしに、もつとお前の特色を發揮するやうな、たゞ一言《ひとこと》で、ずばりと向ふの急所へ中《あ》たるやうな……」
 「六づかしいのね。――何しろ一度位ぢや駄目よ」
 「然し一度|丈《だけ》で何か云はなければならない必要があるとしたら何うだい。何か云へるだらう」
 「云へないわ」
 「云へない? ぢやお前の直覺は近頃もう役に立たなくなつたんだね」
 「えゝ、お嫁に行つてから、段々直覺が擦《す》り減《へ》らされて仕舞つたの。近頃は直覺ぢやなくつて鈍覺《どんかく》丈《だけ》よ」
 
     六十五
 
 口先で斯《こ》んな押問答を長たらしく繰り返してゐたお延の頭の中には、又別の考へが絶えず並行して流れてゐた。
 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められてゐる津田と自分を疑はなかつた。けれども初對面の時から津田を好いて呉れなかつた叔父が、其後彼の好惡《かうを》を改める筈がないといふ事も能く承知してゐた。だから睦《むつま》しさうな津田と自分とを、彼は始終不思議な眼で、眺めてゐるに違ないと思つてゐた。それを他《ほか》の言葉で云ひ換へると、何うしてお延のやうな女が、津田を愛し得るのだらうといふ疑問の裏に、叔父は何時《いつ》でも、彼自身の先見に對する自信を持ち續けてゐた。人間を見損《みそく》なつたのは、自分でなくて、却つてお延なのだといふ斷定が、時機を待つて外部に搖曳《えうえい》するために、彼の心の下層にいつも沈澱してゐるらしかつた。
 「それだのに叔父は何故三好に對する自分の評を、こんなに執濃《しつこ》く聽かうとするのだらう」
 お延は解《げ》しかねた。既に自分の夫《をつと》を見損《みそく》なつたものとして、暗《あん》に叔父から目指《めざ》されてゐるらしい彼女に、其自覺を差し置いて、おいそれと彼の要求に應ずる勇氣はなかつた。仕方がないので、彼女は仕舞に黙つてしまつた。然し年來遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて來た叔父から見ると、此際彼女の沈黙は、不思議に近い現象に外ならなかつた。彼はお延を措《お》いて叔母の方を向いた。
 「この子は嫁に行つてから、少し人間が變つて來たやうだね。大分《だいぶ》臆病になつた。それもやつばり旦那樣の感化かな。不思議なもんだな」
 「貴方があんまり苛《いぢ》めるからですよ。さあ云へ、さあ云へつて、責めるやうに催促されちや、誰だつて困りますよ」
 叔母の態度は、叔父を窘《たしな》めるよりも寧ろお延を庇護《かば》ふ方に傾いてゐた。然しそれを嬉しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、一杯になり過ぎてゐた。
 「だけど是《こり》や第一が繼子さんの問題ぢやなくつて。繼子さんの考へ一つで極まる丈《だけ》だとあたし思ふわ、あたしなんかが餘計な口を出さないだつて」
 お延は自分で自分の夫《をつと》を擇んだ當時の事を憶ひ起さない譯に行かなかつた。津田を見出《みいだ》した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許《もと》に嫁《とつ》ぎたい希望を保護者に打ち明けた。さうして其許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至る迄.彼女は何時《いつ》でも彼女の主人公であつた。又責任者であつた。自分の料簡を餘所《よそ》にして、他人の考へなどを頼りたがつた覺《おぼえ》はいまだ甞てなかつた。
 「一體繼子さんは何と仰しやるの」
 「何とも云はないよ。あいつはお前より猶《なほ》臆病だからね」
 「肝心の當人がそれぢや、仕方がないぢやありませんか」
 「うん、あゝ臆病ぢや實際仕方がない」
 「臆病ぢやないのよ、大人《おとな》しいのよ」
 「何方《どつち》にしたつて仕方がない、何にも云はないんだから。或は何にも云へないのかも知れないね、種がなくつて」
 さういふ二人が漫然として結び付いた時に、夫婦らしい關係が、果して兩者の間に成立し得るものかといふのが、お延の胸に横《よこた》はる深い疑問であつた。「自分の結婚ですら斯うだのに」といふ論理《ロジツク》がすぐ彼女の頭に閃《ひら》めいた。「自分の結婚だつて畢竟《ひつきやう》は似たり寄つたりなんだから」といふ風に、此場合を眺める事の出來なかつた彼女は、一直線に自分の眼を付けた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい氣になつた。なんといふ氣樂な人だらうとも思つた。
 「叔父さん」と呼び掛けた彼女は、呆れたやうに細い眼を強く張つて彼を見た。
 「駄目だよ。あいつは初めつから何にも云ふ氣がないんだから。元來はそれでお前に立ち合つて貰つたやうな譯なんだ、實を云ふとね」
 「だつてあたしが立ち合へば何うするの」
 「兎に角|繼《つぎ》が是非さうして呉れつて己達《おれたち》に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方を餘つ程悧巧だと思つてるんだ。さうしてたとひ自分は解らなくつても、お前なら後から色々云つて呉れる事があるに違ないと思ひ込んでゐるんだ」
 「ぢや最初からさう仰しやれば、あたしだつて其氣で行くのに」
 「所が又それは厭だといふんだ。是非黙つてゝ呉れといふんだ」
 「何故でせう」
 お延は一寸叔母の方を向いた。「極りが惡いからだよ」と答へる叔母を、叔父は遮《さへぎ》つた。
 「なに極りが惡いばかりぢやない。成心《せいしん》があつちや、好い批評が出來ないといふのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰ひたいといふんだらう」
 お延は初めて叔父に強ひられる意味を理解した。
 
     六十六
 
 お延から見た繼子は特殊の地位を占めてゐた。此方《こちら》の利害を心に掛けて呉れるといふ點に於て、彼女は叔母に及ばなかつた。自分と氣が合ふといふ意味では叔父よりもずつと縁が遠かつた。其代り血統上の親和力や、異性に基《もとづ》く牽引性以外に、年齡の相似から來る有利な接觸面を有《も》つてゐた。
 若い女の心を共通に動かす色々な問題の前に立つて、興味に充ちた眼を見張る時.自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、繼子に近づかなければならなかつた。さうして其場合に於ける彼女は、天分から云つて、いつでも繼子の優者であつた。經驗から推せば、勿論繼子の先輩に違なかつた。少なくとも左右《さう》いふ人として、繼子から一段上に見られてゐるといふ事を、彼女は能く承知してゐた。
 此小さな嘆美者には、お延のいふ凡《すべ》てを何でも眞《ま》に受ける癖があつた。お延の自覺から云へば、一つ家に寐起を共にしてゐる長い間に、自分の優越を示す浮誇《ふこ》の心から、柔?性《じうなんせい》に富んだ此|從妹《いとこ》を、何時《いつ》の間《ま》にかさう育て上げてしまつたのである。
 「女は一目見て男を見拔かなければ不可《いけな》い」
 彼女はかつて斯《こ》んな事を云つて、無邪氣な繼子を驚ろかせた。彼女は又充分それを遣《や》り終《おほ》せるだけの活きた眼力《がんりき》を自分に具へてゐるものとして繼子に對した。さうして相手の驚きが、羨みから嘆賞に變つて、仕舞に崇拜の間際迄近づいた時、偶然彼女の自信を實現すべき、津田と彼女との間に起つた相思《さうし》の戀愛事件が、恰《あたか》も神秘の?《ほのほ》の如く、繼子の前に燃え上つた。彼女の言葉は繼子にとつて遂に永久の眞理其物になつた。一般の世間に向つて得意であつた彼女は、とくに繼子に向つて得意でなければならなかつた。
 お延の見た通りの津田が、すぐ繼子に傳へられた。日常接觸の機會を自分自身に有《も》つてゐない繼子は、わが眼わが耳の範圍外に食《は》み出《だ》してゐる未知の部分を、すべて彼女から與へられた間接の知識で補なつて、容易に津田といふ理想的な全體を造り上げた。
 結婚後半年以上を經過した今のお延の津田に對する考へは變つてゐた。けれども繼子の彼に對する考へは毫も變らなかつた。後女は飽く迄もお延を信じてゐた。お延も今更前言を取り消すやうな女ではなかつた。何處迄も先見の明によつて、天の幸福を享《う》ける事の出來た少數の果報者として、繼子の前に自分を標榜してゐた。
 過去から持ち越した斯ういふ二人の關係を、餘儀なく記憶の舞台に躍らせて、此事件の前に坐らなければならなくなつたお延は、辛《つら》いよりも寧ろ快よくなかつた。それは皆《み》んなが寄つてたかつて、今迄|糊塗《こと》して來た自分の弱點を、早く自白しろと間接に責めるやうに思へたからである。此方《こつち》の「我《が》」以上に相手が意地の惡い事をするやうに見えたからである。
 「自分の過失に對しては、自分が苦しみさへすれば夫《それ》で澤山だ」
 彼女の腹の中には、平生から貯藏してある斯ういふ辯解があつた。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や繼子に向つて叩き付ける事の出來ないものであつた。もし叩き付けるとすれば、彼等三人を無心に使嗾《しそう》して、自分に當擦《あてこす》りを遣らせる天に向つてするより外に仕方がなかつた。
 膳を引かせて、叔母の新らしく淹《い》れて來た茶をがぶ/\飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交《こ》み入つた蟠《わだか》まりが蜿蜒《うねく》つてゐやうと思ふ筈がなかつた。造りたての平庭《ひらには》を見渡しながら、晴々《せい/\》した顔付きで、叔母と二言三言、自分の考案になつた樹や石の配置に就いて批評しあつた。
 「來年はあの松の横の所へ楓《かへで》を一本植ゑようと思ふんだ。何だか此所から見ると、あすこ丈《だけ》穴が開《あ》いてるやうで可笑《をかし》いからね」
 お延は何の氣なしに叔父の指《さ》してゐる見當を見た。隣家《となり》と地續《ぢつゞ》きになつてゐる塀際の土をわざと高く盛り上げて、其所へ小さな孟宗藪をこんもり繁らした根の邊《あたり》が、叔父のいふ通り疎《まば》らに隙いてゐた。先刻《さつき》から問題を變へよう變へようと思つて、暗《あん》に機會を待つてゐた彼女は、すぐ氣轉を利かした。
 「本當ね。彼所《あすこ》を塞《ふさ》がないと、さも/\藪を拵へましたつて云ふやうで變ね」
 談話は彼女の豫期した通り餘所《よそ》の溝へ流れ込んだ。然しそれが再び故《もと》の道へ戻つて來た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかつた。
 
     六十七
 
 それは叔父が先刻《さつき》玄關先で鍬を動かしてゐた出入《でいり》の植木屋に呼ばれて、一寸席を外《はづ》した後《あと》、また庭口から座敷へ上つて來た時の事であつた。
 まだ學校から歸らない百合子や一《はじめ》の噂に始まつた叔母とお延の談話は、其時また偶然にも繼子の方に滑り込みつゝあつた。
 「慾張屋さん、もう好い加減に歸りさうなもんだのにね、何をしてゐるんだらう」
 叔母はわざ/\百合子の命《つ》けた渾名《あざな》で繼子を呼んだ。お延はすぐ其慾張屋の樣子を思ひ出した。自分に許された小天地のうちでは飽く迄|放悉《はうし》な癖に、其所から一歩踏み出すと、急に謹愼の模型見たやうに疎《すく》んでしまふ彼女は、丸《まる》で父母の監督によつて仕切られた家庭といふ籠の中で、さも愉快らしく囀《さへづ》る小鳥のやうなもので、一旦戸を開けて外へ出されると、却つて何う飛んで可《い》いか、何う鳴いて可いか解らなくなる丈《だけ》であつた。
 「今日は何のお稽古に行つたの」
 叔母は「中《あ》てゝ御覽」と云つた後で、すぐ坂の途中から持つて來たお延の好奇心を滿足させて呉れた。然しその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語學だと聞いた時に、彼女は又改めて從妹《いとこ》の多慾に驚ろかされた。そんなに色々なものに手を出して一體何にする積《つもり》だらうといふ氣さへした。
 「それでも語學|丈《だけ》には少し特別の意味があるんだよ」
 叔母は斯う云つて、辯護かたがた繼子の意味をお延に説明した。それが間接ながら矢張今度の結婚問題に關係してゐるので、お延は叔母の手前|殊勝《しゆしよう》らしい顔をして成程と首肯《うなづ》かなければならなかつた。
 夫《をつと》の好むもの、でなければ夫《をつと》の職業上妻が知つてゐると都合の好いもの、それ等を豫想して結婚前《けつこんまへ》に習つて置かうといふ女の心掛は、未來の良人《りやうじん》に對する親切に違なかつた。或は單に男の氣に入るためとしても有利な手段に違なかつた。けれども繼子にはまだそれ以上に、人間として又細君としての大事な稽古がいくらでも殘つてゐた。お延の頭に描き出された其稽古は、不幸にして女を善くするものではなかつた。然し女を鋭敏にするものであつた。惡く摩擦するには相違なかつた。然し怜悧に研《と》ぎ澄《すま》すものであつた。彼女は其初歩を叔母から習つた。叔父のお蔭でそれを今日《こんにち》に發達させて來た。二人はさういふ意味で育て上げられた彼女を、滿足の眼で眺めてゐるらしかつた。
 「それと同じ眼が何うしてあの繼子に滿足出來るだらう」
 從妹《いとこ》の何處にも不平らしい素振《そぶり》さへ見せた事のない叔父叔母は、此點に於てお延に不可解であつた。強ひて解釋しやうとすれば、彼等は姪と娘を見る眼に區別をつけてゐるとでも云ふより外に仕方がなかつた。斯ういふ考へに襲はれると、お延は突然|口惜《くや》しくなつた。さういふ考へが又時々|發作《ほつさ》のやうにお延の胸を※[手偏+國]《つか》んだ。然し城府を設けない行き屆いた叔父の態度や、取扱ひに公平を缺いた事のない叔母の親切で、それは何時《いつ》でも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖を顔へ中《あ》てゝ内部の赤面を隱しながら、矢つ張不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎のやうに不斷から見詰めてゐた。
 「でも繼子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性でないから」
 「あの子はお前よりもずつと心配性だよ。たゞ宅《うち》にゐると、いくら心配したくつても心配する種がないもんだから、あゝして平氣でゐられる丈《だけ》なのさ」
 「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になつてた時分から、もつと心配性だつたやうに思ふわ」
 「そりやお前と繼《つぎ》とは……」
 中途で止《や》めた叔母は何をいふ氣か解らなかつた。性質が違ふといふ意味にも、身分が違ふといふ意味にも、また境遇が違ふといふ意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははつと思つた。それは今迄氣の付かなかつた或物に、突然ぶつかつたやうな動悸《どうき》がしたからである。
 「昨日《きのふ》の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗《あん》に從妹《いとこ》の器量を引き立てるためではなかつたらうか」
 お延の頭に石火《せきくわ》のやうな此暗示が閃めいた時、彼女の意志も平常《へいぜい》より倍以上の力をもつて彼女に逼《せま》つた。彼女は遂に自分を抑え付けた。どんな色をも顔に現さなかつた。
 「繼子さんは得《とく》な方《かた》ね。誰にでも好かれるんだから」
 「左右《さう》も行かないよ。けれども是は人の好々《すき/”\》だからね。あんな馬鹿でも……」
 叔父が縁側へ上つたのと、叔母が斯う云ひ掛けたのとは、殆ど同時であつた。彼は大きな聲で「繼《つぎ》が何うしたつて」と云ひながら又座敷へ入《はい》つて來た。
 
     六十八
 
 すると今迄抑え付けてゐた一種の感情がお延の胸に盛り返して來た。飽く迄機嫌の好い、飽く迄元氣に充ちた、さうして飽く迄樂天的に肥え太つた其顔が、瞬間のお延を咄嗟《とつさ》に刺戟した。
 「叔父さんも隨分人が惡いのね」
 彼女は藪から棒に斯う云はなければならなかつた。今日《こんにち》迄《まで》二人の間に何百遍《なんびやつぺん》となく取り換はされた此常套な言葉を使つたお延の聲は、何時《いつ》もと違つてゐた。表情にも特殊な所があつた。けれども先刻《さつき》からお延の腹の中に何《ど》んな潮《うしほ》の滿干《みちひ》があつたか、其所に丸《まる》で氣の付かずにゐた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪氣であつた。
 「そんなに人が惡うがすかな」
 例の調子でわざと空つとぼけた彼は、澄まして刻烟草《きざみ》を雁首《がんくび》へ詰めた。
 「おれの留守に又叔母さんから何か聽いたな」
 お延はまだ黙つてゐた。叔母はすぐ答へた。
 「あなたの人の惡い位今更私から聽かないでも能く承知してるさうですよ」
 「成程ね。お延は直覺派だからな。左右《さう》かも知れないよ。何しろ一目見て此男の懷中には金が若干《いくら》あつて、彼はそれを犢鼻褌《ふんどし》の、ミツへ挾んでゐるか、又は胴卷《どうまき》へ入れて臍《へそ》の上に乘つけてゐるか、ちやんと見分ける女なんだから、中々油斷は出來ないよ」
 叔父の笑談《ぜうだん》は決して彼の豫期したやうな結果を生じなかつた。お延は下を向いて眉と睫毛《まつげ》を一所に動かした。其|睫毛《まつげ》の先には知らない間《ま》に涙が一杯溜つた。勝手を違へた叔父の惡口《わるくち》もばたりと留まつた。變な壓迫が一度に三人を抑え付けた。
 「お延何うかしたのかい」
 斯う云つた叔父は無言の空虚を充たすために、烟管《きせる》で灰吹を叩いた。叔母も何とか其場を取り繕ろはなければならなくなつた。
 「何だね小供らしい。此位な事で泣くものがありますか。何時《いつ》もの笑談《ぜうだん》ぢやないか」
 叔母の小言は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶とばかりは聞えなかつた。二人の關係を知り拔いた彼女の立場を認める以上、何處から見ても公平なものであつた。お延はそれを能く承知してゐた。けれども叔母の小言を尤もと思へば思ふ程、彼女は猶《なほ》泣きたくなつた。彼女の唇が顫へた。抑え切れない涙が後から後からと出た。それにつれて、今迄|堰《せ》き留《と》めてゐた口の關も破れた。彼女はついに泣きながら聲を出した。
 「何もそんなに迄して、あたしを苛《いぢ》めなくつたつて……」
 叔父は當惑さうな顔をした。
 「苛《いぢ》めやしないよ。賞《ほ》めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだらう。あれを皆《みん》な蔭で感心してゐるんだ。だから……」
 「そんな事|承《うかゞ》はなくつても、もう澤山です。つまりあたしが芝居へ行つたのが惡いんだから。……」
 沈黙がすこし續いた。
 「何だか飛んだ事になつちまつたんだね。叔父さんの調戯《からか》ひ方《かた》が惡かつたのかい」
 「いゝえ。皆《み》んなあたしが惡いんでせう」
 「さう皮肉を云つちや不可《いけな》い。何處が惡いか解らないから訊くんだ」
 「だから皆《みん》なあたしが惡いんだつて云つてるぢやありませんか」
 「だが譯を云はないからさ」
 「譯なんかないんです」
 「譯がなくつて、たゞ悲しいのかい」
 お延は猶《なほ》泣き出した。叔母は苦々しい顔をした。
 「何だね此人は。駄々ツ子ぢやあるまいし。宅《うち》にゐた時分、いくら叔父さんに調戯《からか》はれたつて、そんなに泣いた事なんか、ありやしない癖に。お嫁に行きたてゞ、少し旦那から大事にされると、すぐ左右《さう》なるから困るんだよ、若い人は」
 お延は唇を噛んで黙つた。凡《すべ》ての原因が自分にあるものとのみ思ひ込んだ叔父は却つて氣の毒さうな樣子を見せた。
 「そんなに叱つたつて仕樣がないよ。おれが少し冷評《ひやか》し過ぎたのが惡かつたんだ。――ねえお延さうだらう。屹度《きつと》さうに違ない。よし/\叔父さんが泣かした代りに、今に好い物を遣る」
 漸く發作《ほつさ》の去つたお延は、叔父から斯《こ》んな風に小供扱ひにされる自分を何う取り扱つて、跋《ばつ》の惡い此場面に、平靜な一轉化を與へたものだらうと考へた。
 
     六十九
 
 所へ何にも知らない繼子が、語學の稽古から歸つて來て、ひよつくり顔を出した。
 「只今」
 和解の心棒を失つて困つてゐた三人は、突然それを見出《みいだ》した人のやうに喜こんだ。さうして殆んど同時に挨拶を返した。
 「お歸んなさい」
 「遲かつたのね。先刻《さつき》から待つてたのよ」
 「いや大變なお待兼《まちかね》だよ。繼子さんは何うしたらう、何うしたらうつて」
 神經質な叔父の態度は、先刻《さつき》の失敗を取り戻す意味を帶びてゐるので、平生よりは一層|快豁《くわいくわつ》であつた。
 「何でも繼子さんに逢つて、是非話したい事があるんださうだ」
 斯《こ》んな餘計な事迄云つて、自分の目的とは反對な影を、お延の上に逆《さかさ》まに投げて置きながら、彼は却つて得意になつてゐるらしかつた。
 然し下女が襖越《ふすまごし》に手を突いて、風呂の沸いた事を知らせに來た時、彼は急に思ひ付いたやうに立ち上つた。
 「まだ湯なんかに入《はい》つちやゐられない。少し庭に用が殘つてるから。――お前達先へ入るなら入るがいゝ」
 彼は氣に入りの植木屋を相手に、殘りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立つた。
 けれども一旦脊中を座敷の方へ向けた後で又振り返つた。
 「お延、湯に入《はい》つて晩飯でも食べておいで」
 斯う云つて二三間歩いたかと思ふと彼は又引き返して來た。お延は頭の能く働くその世話《せわ》しない樣子を、如何にも彼の特色らしく感心して眺めた。
 「お延が來たから晩に藤井でも呼んで遣らうか」
 職業が違つても同じ學校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との關係上、今では以前より餘程叔父に縁の近い人であつた。是も自分に對する好意からだと解釋しながら、お延は別に嬉しいと思ふ氣にもなれなかつた。藤井一家と津田、二つのものが離れてゐるよりも、はるか餘計に、彼女は彼等より離れてゐた。
 「然し來るかな」といつた叔父の顔は、正にお延の腹の中を物語つてゐた。
 「近頃みんなおれの事を隱居々々つていふが、あの男の隱居主義と來たら、遠い昔からの事で、到底おれ抔《など》の及ぶ所ぢやないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食ひに來いつたら、來るかい」
 「そりや何うだかあたしにや解らないわ」
 叔母は婉曲《ゑんきよく》に白己を表現した。
 「大方入らつしやらないでせう」
 「うん、中々おいそれと遣つて來さうもないね。ぢや止《よ》すか。――だがまあ試しに一寸掛けて見るが可《い》い」
 お延は笑ひ出した。
 「掛けて見るつたつて、あすこにや電話なんかありやしないわ」
 「ぢや仕方がない。使でも遣るんだ」
 手紙を書くのが面倒だつたのか、時間が惜しかつたのか、叔父はさう云つたなりさつさと庭口の方へ歩いて行つた。叔母も「ぢやあたしは御免蒙つてお先へお湯に入《はい》らう」と云ひながら立ち上つた。
 叔父の潔癖を知つて、みんなが遠慮するのに、自分|丈《だけ》は平氣で、こんな場合に、叔父の言葉通り斷行して顧みない叔母の態度は、お延に取つて羨ましいものであつた。又|忌《いま》はしいものであつた。女らしくない厭なものであると同時に、男らしい好いものであつた。あゝ出來たら嘸《さぞ》好からうといふ感じと、いくら年を取つてもあゝは遣りたくないといふ感じが、彼女の心に何時《いつ》もの通り交錯《かうさく》した。
 立つて行く叔母の後姿を彼女がぼんやり目送《もくそう》してゐると、一人殘つた繼子が突然誘つた。
 「あたしのお部屋へ來なくつて」
 二人は火鉢や茶器で取り散らされた座敷を其儘にして外へ出た。
 
     七十
 
 繼子の居間は取りも直さず津田に行く前のお延の居間であつた。其所に机を並べて二人ゐた昔の心持が、まだ壁にも天井にも殘つてゐた。硝子戸を嵌《は》めた小さい棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形も其儘であつた。薔薇《ばら》の花を刺繍《ぬひ》にした籃入《かごいり》のピンクツシヨンも其儘であつた。二人してお對《つゐ》に三越から買つて來た唐草模樣の染付《そめつけ》の一輪挿も其儘であつた。
 四方を見廻したお延は、從妹《いとこ》と共に暮した處女時代の匂を至る所に嗅いだ。甘い空想に充ちた其匂が津田といふ對象を得て遂に實現された時、忽然《こつぜん》鮮やかな?に變化した自已の感情の前に抃舞《べんぶ》したのは彼女であつた。眼に見えないでも、瓦斯《ガス》があつたから、ぱつと火が點《つ》いたのだと考へたのは彼女であつた。空想と現實の間には何等の差違を置く必要がないと論斷したのは彼女であつた。顧みると其時からもう半年《はんとし》以上經過してゐた。何時《いつ》か空想は遂に空想に留《とゞ》まるらしく見え出して來た。何所迄行つても現實化されないものらしく思はれた。或は極めて現實化され惡《にく》いものらしくなつて來た。お延の胸の中《うち》には微《かす》かな溜息さへ宿つた。
 「昔は淡い夢のやうに、次第々々に確實な自分から遠ざかつて行くのではなからうか」
 彼女は斯ういふ觀念の眼で、自分の前に坐つてゐる從妹《いとこ》を見た。多分は自分と同じ徑路を踏んで行かなければならない、又ひよつとしたら自分よりもつと豫期に外《はづ》れた未來に突き當らなければならない此處女の運命は、叔父の手にある諾否の賽が、疊の上に轉がり次第、今明日中にでも、永久に片付けられてしまふのであつた。
 お延は微笑した。
 「繼子さん、今日はあたしがお神籤《みくじ》を引いて上げませうか」
 「なんで?」
 「何でもないのよ。たゞよ」
 「だつて唯ぢや詰らないわ。何か極めなくつちや」
 「さう。ぢや極めませう。何が可《い》いでせうね」
 「何が可《い》いか、そりやあたしにや解らないわ。あなたが極めて下さらなくつちや」
 繼子は容易に結婚問題を口へ出さなかつた。お延の方から無暗に云ひ出されるのも苦痛らしかつた。けれども間接に何處かで其所に觸れて貰ひたい樣子がありありと見えた。お延は從妹《いとこ》を喜《よろ》こばせて遣りたかつた。と云つて、後で自分の迷惑になるやうな責任を持つのは厭であつた。
 「ぢやあたしが引くから、あなた自分でお極めなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中《なか》で、一番知りたいと思つてる事があるでせう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。可《よ》くつて」
 お延は例の通り繼子の机の上に乘つてゐる彼等夫婦の贈物を取らうとした。すると繼子が急に其手を抑えた。
 「厭よ」
 お延は手を引込めなかつた。
 「何が厭なの。可《い》いから一寸《ちよいと》お借《か》しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
 神籤《みくじ》に何の執着もなかつたお延は、突然斯うして繼子と戯《たはむ》れたくなつた。それは結婚以前の處女らしい自分を、彼女に憶ひ起させる良《い》い媒介《なかだち》であつた。弱いものゝ虚を衝くために用ひられる腕の力が、彼女を男らしく活?にした。抑えられた手を跳ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れてゐた。たゞ神籤箱《みくじばこ》を繼子の机の上から奪ひ取りたかつた。若《もし》くはそれを言ひ前に、たゞ繼子と爭ひたかつた。二人は爭つた。同時に女性の本能から來るわざとらしい聲を憚りなく出して、遊技的《いうぎてき》な戰ひに興を添へた。二人は遂に硯箱の前に飾つてある大事な一輪挿を引つ繰り返した。紫檀の台からころ/\と轉がり出した其花瓶は、中にある水を所嫌はず打《う》ち空《あ》けながら疊の上に落ちた。二人は漸く手を引いた。さうして自然の位置から不意に放《はふ》り出《だ》された可愛らしい花瓶を、同じやうに黙つて眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事の出來ない衝動を受けた人のやうに、一度に笑ひ出した。
 
     七十一
 
 偶然の出來事がお延を猶《なほ》小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
 「繼子さん早く雜巾《ざふきん》を取つて入らつしやい」
 「厭よ。あなたが零《こぼ》したんだから、あなた取つて入らつしやい」
 二人はわざと讓り合つた。わざと押問答をした。
 「ぢやジャン拳《けん》よ」と云ひ出したお延は、繊《ほそ》い手を握つて勢よく繼子の前に出した。繼子はすぐ應じた。寶石の光る指が二人の間にちら/\した。二人は其たんびに笑つた。
 「狡猾《ずる》いわ」
 「あなたこそ狡猾《ずる》いわ」
 仕舞にお延が負けた時には零《こぼ》れた水がもう机掛と疊の目の中へ綺麗に吸ひ込まれてゐた。彼女は落付き拂つて袂から出した手巾《ハンケチ》で、濡れた所を上から抑え付けた。
 「雜巾《ざふきん》なんか要りやしない。斯うして置けば、それで澤山よ。水はもう引いちまつたんだから」
 彼女は轉がつた花瓶《はないけ》を元の位置に直して、摧《くだ》けかゝつた花を鄭寧に其中へ挿し込んだ。さうして今迄の頓興《とんきよう》を丸《まる》で忘れた人のやうに澄まし返つた。それが又|堪《たま》らなく可笑《をか》しいと見えて、繼子は何時《いつ》迄《まで》も一人で笑つてゐた。
 發作《ほつさ》が靜まつた時、繼子は帶の間に隱した帙入《ちついり》の神籤《みくじ》を取り出して、傍《そば》にある本箱の抽斗《ひきだし》へ仕舞ひ易《か》へた。しかも其上からぴちんと錠《ぢやう》を下《おろ》して、わざとお延の方を見た。
 けれども繼子に取つて何時《いつ》迄《まで》も續く事の出來るらしい此無意味な遊技的感興は、さう長くお延を支配する譯に行かなかつた。一仕切《ひとしきり》我を忘れた彼女は、從妹《いとこ》より早く醒めて仕舞つた。
 「繼子さんは何時《いつ》でも氣樂で好いわね」
 彼女は斯う云つて繼子を見返した。當り障りのない彼女の言葉は迚《とて》も繼子に通じなかつた。
 「ぢや延子さんは氣樂でないの」
 自分だつて氣楽な癖にと云はん許《ばかり》の語氣のうちには、誰からでも、世間見ずの御孃さん扱ひにされる兼《かね》ての不平も交つてゐた。
 「あなたとあたしと一體何處が違ふんでせう」
 二人は年齡《とし》が違つた。性質も違つた。然し氣兼苦勞といふ點にかけて二人の何處に何《ど》んな違があるか、それは繼子のまだ考へた事のない問題であつた。
 「ぢや延子さん何《ど》んな心配があるの。少し話して頂戴な」
 「心配なんかないわ」
 「そら御覽なさい。あなただつて矢張《やつぱり》氣樂ぢやないの」
 「そりや氣樂は氣樂よ。だけどあなたの氣樂さとは少し譯が違ふのよ」
 「何うしてでせう」
 お延は説明する譯に行かなかつた。又説明する氣になれなかつた。
 「今に解るわ」
 「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たつた」
 繼子は結婚前《けつこんぜん》と結婚後の差違を丸《まる》で勘定に入れてゐなかつた。
 「たゞ年齡《とし》ばかりぢやないのよ。境遇の變化よ。娘が人の奧さんになるとか、奧さんがまた旦那樣を亡《な》くなして、未亡人《びばうじん》になるとか」
 繼子は少し怪訝《けげん》な顏をしてお延を見た。
 「延子さんは宅《うち》にゐた時と、由雄さんの所へ行つてからと、何方《どつち》が氣樂なの」
 「そりや……」
 お延は口籠《くちごも》つた。繼子は彼女に返答を拵へる餘地を與へなかつた。
 「今の方が氣樂なんでせう。それ御覽なさい」
 お延は仕方なしに答へた。
 「さうばかりにも行かないわ。是で」
 「だつてあなたが御自分で望んで入らしつた方ぢやないの、津田さんは」
 「えゝ、だからあたし幸福よ」
 「幸福でも氣樂ぢやないの」
 「氣樂な事も氣樂よ」
 「ぢや氣樂は氣樂だけれども、心配があるの」
 「さう繼子さんの樣に押し詰めて來ちや敵《かな》はないわね」
 「押し詰める氣ぢやないけれども、解らないから、ついさうなるのよ」
 
     七十二
 
 段々|勾配《こうばい》の急になつて來た會話は、何時《いつ》の間《ま》にか繼子の結婚問題に滑り込んで行つた。成るべくそれを避けたかつたお延には、今迄の行き掛り上、またそれを避ける事の出來ない義理があつた。經驗に乏しい處女の期待するやうな豫言は兎も角も、男女《なんによ》關係に一日《いちじつ》の長ある年上の女として、相當の注意を與へて遣りたい親切もないではなかつた。彼女は差し障りのない際どい筋の上を婉曲《ゑんきよく》に渡つて歩いた。
 「そりや駄目よ。津田の時は自分の事だから、自分に能く解つたんだけれども、他《ひと》の事になると丸《まる》で勝手が違つて、些《ちつ》とも解らなくなるのよ」
 「そんなに遠慮しないだつて可《よ》かないの」
 「遠慮ぢやないのよ」
 「ぢや冷淡なの」
 お延は答へる前に少時《しばらく》間《ま》を置いた。
 「繼子さん、あなた知つてて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出會つた時、始めて能く働らく事が出來るのだといふ事を。眼が一秒で十年以上の手柄をするのは、其時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だつて生涯にさう澤山《たんと》ありやしないわ。ことによると生涯に一返も來ないで濟んでしまふかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ旨目《めくら》同然よ。少なくとも平生は」
 「だつて延子さんは左右《さう》いふ明るい眼をちやんと持つてゐらつしやるんぢやないの。そんなら何故それをあたしの場合に使つて下さらなかつたの」
 「使はないんぢやない、使へないのよ」
 「だつて岡目八目《をかめはちもく》つて云ふぢやありませんか。傍《はた》にゐるあなたには、あたしより餘計公平に分る筈だわ」
 「ぢや繼子さんは岡目八目《をかめはちもく》で生涯の運命を極めてしまふ氣なの」
 「さうぢやないけれども、參考にやなるでせう。ことに延子さんを信用してゐるあたしには」
 お延は又|少時《しばらく》黙つてゐた。それから少し前よりは改《あらたま》つた態度で口を利き出した。
 「繼子さん、あたし今あなたにお話ししたでせう、あたしは幸福だつて」
 「えゝ」
 「何故あたしが幸福だかあなた知つてて」
 お延は其所で句切《くぎり》を置いた。さうして繼子の何かいふ前に、すぐ後を繼《つ》ぎ足《た》した。
 「あたしが幸福なのは、外に何にも意味はないのよ。たゞ自分の眼で自分の夫《をつと》を擇ぶ事が出來たからよ。岡目八目でお嫁に行かなかつたからよ。解つて」
 繼子は心細さうな顔をした。
 「ぢやあたしのやうなものは、とても幸福になる望はないのね」
 お延は何とか云はなければならなかつた。然しすぐは何とも云へなかつた。仕舞に突然興奮したらしい急な調子が思はず彼女の口から迸《ほとば》しり出した。
 「あるのよ、あるのよ。たゞ愛するのよ、さうして愛させるのよ。さうさへすれば幸福になる見込は幾何《いくら》でもあるのよ」
 斯う云つたお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は繼子に話し掛けながら、殆んど三好《みよし》の影さへ思ひ浮べなかつた。幸ひそれを自分のためとのみ解釋した繼子は、眞《ま》ともにお延の調子を受ける程感激しなかつた。
 「誰を」と云つた彼女は少し呆《あき》れたやうにお延の顔を見た。「昨夕《ゆうべ》お目にかゝつたあの方《かた》の事?」
 「誰でも構はないのよ。たゞ自分で斯うと思ひ込んだ人を愛するのよ。さうして是非其人に自分を愛させるのよ」
 平生|包《つゝ》み藏《かく》してゐるお延の利かない氣性が、次第に鋒鋩《ほうばう》を露《あら》はして來た。大人《おとな》しい繼子はそのたびに少しづゝ後《あと》へ退《さが》つた。仕舞に近寄りにくい二人の間の距離を悟つた時、彼女は微《かす》かな溜息さへ吐《つ》いた。するとお延が忽然また調子を張り上げた。
 「あなたあたしの云ふ事を疑《うたぐ》つてゐらつしやるの。本當よ。あたし嘘なんか吐《つ》いちやゐないわ。本當よ。本當にあたし幸福なのよ。解つたでせう」
 斯う云つて絶對に繼子を首肯《うけが》はせた彼女は、後から又獨り言のやうに付け足した。
 「誰だつて左右《さう》よ。たとひ今其人が幸福でないにした所で、其人の料簡一つで、未來は幸福になれるのよ。屹度《きつと》なれるのよ。屹度なつて見せるのよ。ねえ繼子さん、左右《さう》でせう」
 お延の腹の中を知らない繼子は、此豫言をたゞ漠然と自分の身の上に應用して考へなければならなかつた。然しいくら考へても其意味は殆んど解らなかつた。
 
     七十三
 
 其時廊下傳ひに聞こえた忙がしい足音の主《ぬし》ががらりと室《へや》の入口を開けた。さうして學校から歸つた百合子が、遠慮なくつか/\入《はい》つて來た。彼女は重さうに肩から釣るした袋を取つて、自分の机の上に置きながら、たゞ一口「只今」と云つて姉に挨拶した。
 彼女の机を据ゑた場所は、丁度もとお延の坐つてゐた右手の隅であつた。お延が津田へ片付くや否や、すぐ其《その》後《あと》へ入《はい》る事の出來た彼女は、從姉《いとこ》のゐなくなつたのを、自分にとつて大變な好都合のやうに喜こんだ。お延はそれを知つてるので、わざと言葉を掛けた。
 「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。可《よ》くつて」
 百合子は「能く入らつしやいました」とも云はなかつた。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開《あ》きさうになつた黒い靴足袋《くつたび》の親指の先を、手で撫《な》でゝゐたが、足を疊の上へ卸すと共に答へた。
 「好いわ、來ても。追ひ出されたんでなければ」
 「まあ非道《ひど》い事」と云つて笑つたお延は、少し間《ま》を置いてから、また彼女を相手にした。
 「百合子さん、もしあたしが津田を追ひ出されたら、少しは可真相《かはいさう》だと思つて下さるでせう」
 「えゝ、そりや可哀相《かはいさう》だと思つて上げても可《い》いわ」
 「そんなら、其時は又此お部屋へ置いて下すつて」
 「さうね」
 百合子は少し考へる樣子をした。
 可《い》いわ、置いて上げても。お姉さまがお嫁に行つた後《あと》なら」
 「いえ繼子さんがお嫁にゐらつしやる前よ」
 「前に追ひ出されるの? そいつは少し――まあ我慢して成る可く追ひ出されないようにしたら可《い》いでせう、此方《こつち》の都合もある事だから」
 斯う云つた百合子は年上の二人と共に聲を揃へて笑つた。さうして袴も脱がずに、火鉢の傍《そば》へ來て其間に坐りながら、下女の持つてきた木皿を受取つて、すぐ其中にある餅菓子を食べ出した。
 「今頃お八《や》ツ? 此お皿を見ると思ひ出すのね」
 お延は自分が百合子位であつた當時を回想した。學校から歸ると、待ちかねて各自《めい/\》の前に置かれる木皿へ手を出した其頃の樣子があり/\と目に浮かんだ。旨さうに食べる妹の顔を微笑して見てゐた繼子も同じ昔を思ひ出すらしかつた。
 「延子さんあなた今でもお八ツ召しやがつて」
 「食べたり食べなかつたりよ。わざ/\買ふのは億劫《おつくふ》だし、さうかつて宅《うち》に何かあつても、昔《むか》しのやうに旨《おい》しくないのね、もう」
 「運動が足りないからでせう」
 二人が話してゐるうちに、百合子は綺麗に木皿を空《から》にした。さうして木に竹を接《つ》いだやうな調子で、二人の間に割り込んで來た。
 「本當よ、お姉さまはもうぢきお嫁に行くのよ」
 「さう、何處へ入らつしやるの」
 「何處だか知らないけれども行く事は行くのよ」
 「ぢや何といふ方の所へ入らつしやるの」
 「何といふ名だか知らないけれども、行くのよ」
 お延は根氣よく三度目の問を掛けた。
 「それは何《ど》んな方なの」
 百合子は平氣で答へた。
 「大方由雄さん見たいな方なんでせう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云ふ通りになつて、大變好い人だつて、さう云つててよ」
 薄赤くなつた繼子は急に妹《いもと》の方へ掛つて行つた。百合子は頓興《とんきよう》な聲を出してすぐ其所を飛《と》び退《の》いた。
 「おゝ大變々々」
 入口の所で一寸立ち留まつて斯う云つた彼女は、お延と繼子を其所へ殘した儘、一人で室《へや》を逃げ出して行つた。
 
     七十四
 
 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に繼子と共に席を立つたのは、それから間《ま》もなくであつた。
 一家のものは明るい室《へや》に晴々《はれ/”\》した顔を揃へた。先刻《さつき》何かに拗《す》ねて縁の下へ這入つたなり容易に出て來なかつたといふ一《はじめ》さへ、機嫌よく叔父と話をしてゐた。
 「一《はじめ》さんは犬見たいよ」と百合子がわざわざ知らせに來た時、お延は此小さい從妹《いとこ》から、彼がぱくりと口を開《あ》いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食ひ付いたといふ話を聞いたのであつた。
 お延は微笑しながら所謂《いはゆる》犬見たいな男の子の談話に耳を傾けた。
 「お父さま彗星《はうきぼし》が出ると何か惡い事があるんでせう」
 「うん昔の人はさう思つてゐた。然し今は學問が開《ひら》けたから、そんな事を考へるものは、もう一人もなくなつちまつた」
 「西洋では」
 西洋にも同じ迷信が古代に行はれたものか何うだか、叔父は知らないらしかつた。
 「西洋? 西洋にや昔からない」
 「でもシーザーの死ぬ前に彗星《はうきぼし》が出たつていふぢやないの」
 「うんシーザーの殺される前か」と云つた彼は、胡麻化《ごまか》すより外に仕方がないらしかつた。
 「ありや羅馬《ローマ》の時代だからな。たゞの西洋とは譯が違ふよ」
 一《はじめ》はそれで納得《なつとく》して黙つた。然しすぐ第二の質問を掛けた。前よりは一層奇拔な其質問は立波に三段論法の形式を具へてゐた。井戸を堀つて水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落《おつ》こちなければならない。然るに地面は何故《なぜ》落《おつ》こちないか。是が彼の要旨であつた。それに對する叔父の答辯が又頗るしどろもどろなので、傍《はた》のものはみんな可笑《をか》しがつた。
 「そりやお前落ちないさ」
 「だつて下が水なら落ちる譯ぢやないの」
 「さう旨くは行かないよ」
 女連《をんなれん》が一度に笑ひ出すと、一《はじめ》は忽ち第三の問題に飛び移つた。
 「お父さま、僕此|宅《うち》が軍艦だと好いな。お父さまは?」
 「お父さまは軍艦よりたゞの宅《うち》の方が好いね」
 「だつて地震の時|宅《うち》なら潰れるぢやないの」
 「はゝあ軍艦ならいくら地震があつても潰れないか。成程こいつは氣が付かなかつた。ふうん 成程」
 本式に感服してゐる叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻《さつき》藤井を晩餐に招待するといつた彼は、もう其事を念頭に置いてゐないらしかつた。叔母も忘れたやうに澄ましてゐた。お延はつい一《はじめ》に訊いて見たくなつた。
 「一《はじめ》さん藤井の眞事《まこと》さんと同級なんでせう」
 「あゝ」と云つた一《はじめ》は、すぐ眞事《まこと》に就いてお延の好奇心を滿足させた。彼の話は、到底子供でなくては云へない、觀察だの、批評だの、事實だのに富んでゐた。食卓は一時彼の力で賑はつた。
 みんなを笑はせた眞事《まこと》の逸話の中《うち》に、下《しも》のやうなのがあつた。
 ある時學校の歸りに、彼は一《はじめ》と一所に大きな深い穴を覗き込んだ。土木工事のために深く堀り返されて、徃來の眞中に出來上つた其穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあつた。一《はじめ》は眞事《まこと》に、其丸太の上を渡つたら百圓遣ると云つた。すると無錢砲な眞事は、背嚢を脊負《しよ》つて、尨犬《むくいぬ》の皮で拵へたといはれる例の靴を穿《は》いた儘、「屹度《きつと》呉れる?」と云ひながら、殆ど平たい幅を有《も》つてゐない、つる/\滑りさうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだらうと思つて見てゐた一《はじめ》は、相手が一歩々々と、危ないながらゆつくり/\自分に近づいて來るのを見て、急に怖《こは》くなつた。彼は深い穴の眞上にある友達を其所へ置《お》き去《ざ》りにして、どん/\逃げだした。眞事は又始終足元に氣を取られなければならないので、丸太を渡り切つてしまふ迄は、一《はじめ》が何處へ行つたか全く知らずにゐた。漸く冒險を仕遂げて、約束通り百圓貰はうと思つて始めて眼を上げると、相手は何時《いつ》の間《ま》にか逃げてしまつて、一《はじめ》の影も形も丸《まる》で見えなかつたといふのである。
 「一《はじめ》の方が少し小悧巧《こりかう》のやうだな」と叔父が評した。
 「藤井さんは近頃あんまり遊びに來ないやうね」と叔母が云つた。
 
     七十五
 
 小供が一つ學校の同級にゐる事の外に、お延の關係から近頃岡本と藤井の間に起つた交際には多少の特色があつた。否《いや》でも顔を合せなければならない祝儀不祝儀の席を未來に控へてゐる彼等は、事情の許す限り、双方から接近して置く便宜を、平生から認めない譯に行かなかつた。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも餘計此必要を認めなければならない地位に立つてゐた。其上岡本の叔父には普通の成功者に附隨する一種の如才《じよさい》なさがあつた。持つて生れた樂天的な廣い横斷面《わうだんめん》もあつた。神經質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向《くらしむき》に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なはれた健康を回復するために、當分閑地に就いた昨今の彼には、時間の餘裕も充分あつた。その時間の空虚な所を、自分の趣味に適ふ模細工《モザイツク》で毎日埋めて行く彼は、今迄自分と全く縁故のないものとして、平氣で通り過ぎた人や物に段々接近して見ようといふ意志も有《も》つてゐた。
 是等の原因が困絡《こんがら》がつて、叔父は時々藤井の宅《うち》へ自分の方から出掛けて行く事があつた。排外的に見える藤井は、律義に叔父の訪問を返さうともしなかつたが、左右《さう》かと云つて彼を厭がる樣子も見せなかつた。彼等は寧ろ快よく談じた。底迄打ち解けた話は出來ないにした所で、たゞ相互の世界を交換する丈《だけ》でも、多少の興味にはなつた。其世界は又妙に食ひ違つてゐた。一方から見ると如何にも迂濶なものが、他方から眺めると如何にも高尚であつたり、片側で卑俗と解釋しなければならないものを、向ふでは是非とも實際的に考へたがつたりする所に、思はざる發見がひよい/\出て來た。
 「つまり批評家つて云ふんだらうね、あゝ云ふ人の事を。然しあれぢや仕事は出來ない」
 お延は批評家といふ意味を能く理解しなかつた。實際の役に立たないから、口先で偉さうな事を云つて他《ひと》を胡麻化《ごまか》すんだらうと思つた。「仕事が出來なくつて、たゞ理窟を弄《もてあそ》んでゐる人、さういふ人に世間は何《ど》んな用があるだらう。さういふ人が物質上相當の報酬を得ないで困るのは當然ではないか」。これ以上進む事の出來なかつた彼女は微笑しながら訊いた。
 「近頃藤井さんへ入らしつて」
 「うん此間《こなひだ》も一寸散歩の歸りに寄つたよ。草臥《くたび》れた時、休むには丁度都合の好い所にある宅《うち》だからね、彼所《あすこ》は」
 「又何か面白いお話しでもあつて」
 「相變らず妙な事を考へてるね、あの男は。此間《こなひだ》は、男が女を引張り、女がまた男を引張るつて話をさかんに遣つて來た」
 「あら厭だ」
 「馬鹿らしい、好い年をして」
 お延と叔母はこもごも呆れたやうな言葉を出す間に、繼子|丈《だけ》は餘所《よそ》を向いた。
 「いや妙な事があるんだよ。大將中々調べてゐるから感心だ。大將のいふ所によると、斯うなんだ。何處の宅《うち》でも、男の子は女親を慕ひ、女の子はまた反對に男親を慕ふのが當り前だといふんだが、成程|左《さ》う云へば、さうだね」
 親身《しんみ》の叔母よりも義理の叔父を好いてゐたお延は少し眞面目になつた。
 「それで何うしたの」
 「それで斯うなんだ。男と女は始終引張り合はないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足な所が何處かにあつて、一人ぢやそれを何うしても充たす譯に行かないんだ」
 お延の興味は急に退《ひ》き掛《か》けた。叔父の云ふ事は、自分の疾《と》うに知つてゐる事實に過ぎなかつた。
 「昔から陰陽和合《いんやうわがふ》つていふぢやありませんか」
 「所が陰陽和合が必然でありながら、其反對の陰陽不和がまた必然なんだから面白いぢやないか」
 「何うして」
 「いゝかい。男と女が引張り合ふのは、互に違つた所があるからだらう。今云つた通り」
 「えゝ」
 「ぢや其違つた所は、つまり自分ぢやない譯だらう。自分とは別物だらう」
 「えゝ」
 「それ御覽。自分と別物なら、何うしたつて一所になれつこないぢやないか。何時《いつ》迄《まで》經つたつて、離れてゐるより外に仕方がないぢやないか」
 叔父はお延を征服した人のやうに呵々《から/\》と笑つた。お延は負けなかつた。
 「だけどそりや理窟よ」
 「無論理窟さ。何處へ出ても立派に通る理窟さ」
 「駄目よ、そんな理窟は。何だか變ですよ。丁度藤井の叔父さんが振り廻しさうな屁理窟《へりくつ》よ」
 お延は叔父を遣り込める事が出來なかつた。けれども叔父のいふ通りを信ずる氣にはなれなかつた。又何うあつても信ずるのは厭であつた。
 
     七十六
 
 叔父は面白半分まだ色々な事を云つた。
 男が女を得て成佛《じやうぶつ》する通りに、女も男を得て成佛する。然しそれは結婚前《けつこんまへ》の善男善女に限られた眞理である。一度《ひとたび》夫婦關係が成立するや否や、眞理は急に寐返りを打つて、今迄とは正反對の事實を我々の眼の前に突き付ける。即ち男は女から離れなければ成佛《じやうぶつ》出來なくなる。女も男から離れなければ成佛し惡《にく》くなる。今迄の牽引力が忽ち反撥性に變化する。さうして、昔から云ひ習はして來た通り、男はやつばり男同志、女は何うしても女同志といふ諺《ことわざ》を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の實を擧げるのは、やがて來《きた》るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。
 叔父の言葉の何處迄が藤井の受賣《うけうり》で、何處からが自分の考へなのか、又其考への何處迄が眞面目で、何處からが笑談《ぜうだん》なのか、お延には能く分らなかつた。筆を持つ術《すべ》を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であつた。一寸した心棒があると、其上に幾枚でも手製の着物を着せる事の出來る人であつた。俗にいふ警句といふ種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反對すればする程、膏《あぶら》が乘つて留度《とめど》なく出て來た。お延はとう/\好い加減にして切り上げなければならなかつた。
 「隨分のべつね、叔父さんも」
 「口ぢやとても敵《かな》ひつこないからお止《よ》しよ。此方《こつち》で何かいふと、猶《なほ》意地になるんだから」
 「えゝ、わざ/\陰陽不和を釀《かも》すやうに仕向けるのね」
 お延が叔母と斯《こ》んな批評を取り換はせてゐる間、叔父はにこ/\して二人を眺めてゐたが、やがて會話の途切れるのを待つて、徐《おもむ》ろに宣告を下した。
 「とう/\降參しましたかな。降參したなら、降參したで宜しい。敗《ま》けたものを追窮はしないから。――其所へ行くと男には又弱いものを憐れむといふ美點があるんだからな、斯う見えても」
 彼は左《さ》も勝利者らしい顔を粧《よそほ》つて立ち上がつた。障子を開けて室《へや》の外へ出ると、勿體振《もつたいぶ》つた足音が書齋の方に向いて段々遠ざかつて行つた。しばらくして戻つて來た時、彼は片手に小型の薄つぺらな書物を四五冊持つてゐた。
 「おいお延好いものを持つて來た。お前|明日《あした》にでも病院へ行くなら、是を由雄さんの所へ持つてツてお遣り」
 「何よ」
 お延はすぐ書物を受け取つて表紙を見た。英語の標題が、外國語に熟しない彼女の眼を少し惱ませた。彼女は拾《ひろ》ひ讀《よみ》にぽつ/\讀み下した。ブツク、オフ、ジ∃ークス。イングリツシ、ヰツト、エンド、ヒユモア。……
 「へえゝ」
 「みんな滑稽なもんだ。洒落《しやれ》だとか、謎だとかね。寐てゐて讀むには丁度手頃で好いよ、肩が凝らなくつてね」
 「成程叔父さん向《むき》のものね」
 「叔父さん向でも此位な程度なら差支あるまい。いくら由雄さんが嚴格だつて、まさか怒りやしまい」
 「怒るなんて、……」
 「まあ可《い》いや、是も陰陽和合のためだ。試しに持つてツて見るさ」
 お延が禮を云つて書物を膝の上に置くと、叔父は又|片々《かた/\》の手に持つた小さい紙片《かみぎれ》を彼女の前に出した。
 「是は先刻《さつき》お前を泣かした賠償金《ばいしやうきん》だ。約束だから序《ついで》に持つてお出で」
 お延は叔父の手から紙片《かみぎれ》を受取らない先に、その何であるかを知つた。叔父はことさらにそれを振り廻した。
 「お延、是は陰陽不和になつた時、一番よく利く藥だよ。大抵の場合には一服呑むとすぐ平癒する妙藥だ」
 お延は立つてゐる叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
 「陰陽不和ぢやないのよ。あたし達のは本當の和合なのよ」
 「和合なら猶《なほ》結構だ。和合の時に呑めば、精神が益《ます/\》健全になる。さうして身體は愈《いよ/\》強壯になる。何方《どつち》へ轉んでも間違のない妙藥だよ」
 叔父の手から小切手を受け取つて、じつとそれを見詰めてゐたお延の眼に涙が一杯溜つた。
 
     七十七
 
 お延は叔父の送らせるといふ俥《くるま》を斷《ことわ》つた。然し停留所迄自身で送つて遣るといふ彼の好意を斷りかねた。二人は遂に連れ立つて長い坂を河縁《かはべり》の方へ下りて行つた。
 「叔父さんの病氣には運動が一番|可《い》いんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
 肥つてゐて呼息《いき》が短いので、坂を上《のぼ》るとき可笑《をかし》い程苦しがる彼は、丸《まる》で歸りを忘れたやうな事を云つた。
 二人は途々夜の更《ふ》けた昨夕《ゆうべ》の話をした。假寐《うたゝね》をして突ツ伏してゐたお時の樣子などがお延の口に上つた。もと叔父の家《うち》にゐたといふ縁故で、新夫婦|二人限《ふたりぎり》の家庭に住み込んだ此下女に對して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかつた。
 「ありや叔母さんが能く知つてるが、正直で好い女なんだよ。留守なんぞさせるには持つて來いだつて受合つた位だからね。だが獨りで寐ちまつちや困るね、不用心で。尤もまだ年齒《とし》が年齒《とし》だからな。眠い事も眠いだらうよ」
 いくら若くつても、自分ならそんな場合にぐつすり寐込まれる譯のものでないといふ事を能く承知してゐたお延は、叔父の此想ひ遣りをたゞ笑ひながら聽いてゐた。彼女に云はせれば、斯うして早く歸るのも、あんなに遲くなつた昨日《きのふ》の結果を、今夜は繰り返させたくないといふ主意からであつた。
 彼女は急いで其所へ來た電車に乘つた。さうして車の中から叔父に向つて「左樣《さよ》なら」といつた。叔父は「左樣《さよ》なら、由雄さんによろしく」といつた。二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動搖がすぐ彼女を支配し始めた。
 車内のお延は別に纒まつた事を考へなかつた。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日《きのふ》からの關係者の顔や姿は、自分の乘つてゐる電車のやうに早く廻轉する丈《だけ》であつた。然し彼女はさうした目眩《めまぐる》しい影像《イメジ》を一貫してゐる或物を心のうちに認めた。若《もし》くは其或物が根調《こんてう》で、さうした斷片的な影像《イメジ》が眼の前に飛び廻るのだとも云へた。彼女は其或物を拈定《ねんてい》しなければならなかつた。然し彼女の努力は容易に成效《せいかう》をもつて酬ひられなかつた。團子を認めた彼女は、遂に個々を貫いてゐる串《くし》を見定める事の出來ないうちに電車を下りてしまつた。
 玄關の格子《かうし》を開ける音と共に、台所の方から駈け出して來たお時は、彼女の豫期通り「お歸り」と云つて、鄭寧な頭を疊の上に押し付けた。お延は昨日《きのふ》に違つた下女の判切《はつきり》した態度を、左《さ》も自分の手柄ででもあるやうに感じた。
 「今日は早かつたでせう」
 下女は夫《それ》程《ほど》早いとも思つてゐないらしかつた。得意なお延の顔を見て、仕方なささうに、「へえ」と答へたので、お延は又讓歩した。
 「もつと早く歸らうと思つたんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に疊ませる時、お延は彼女に訊いた。
 「あたしの居ない留守に何にも用はなかつたらうね」
 お時は「いゝえ」と答へた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
 「誰も來《き》やしなかつたらうね」
 するとお時が急に忘れたものを思ひ出したやうに調子高《てうしだか》な返事をした。
 「あ、入らつしやいました。あの小林さんと仰しやる方が」
 夫《をつと》の知人としての小林の名はお延の耳に初めてではなかつた。彼女には二三度其人と口を利いた記憶があつた。然し彼女はあまり彼を好いてゐなかつた。彼が夫《をつと》から甚だ輕く見られてゐるといふ事も能く呑み込んでゐた。
 「何しに來たんだらう」
 斯《こ》んなぞんざいな言葉さへ、つい口先へ出さうになつた彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
 「何か御用でもおありだつたの」
 「えゝあの外套を取りに入らつしやいました」
 夫《をつと》から何にも聞かされてゐないお延に、此言葉は丸《まる》で通じなかつた。
 「外套? 誰の外套?」
 周密なお延は色々な問をお時に掛けて、小林の意味を知らうとした。けれどもそれは全くの徒勞であつた。お延が訊けば訊く程、お時が答へれば答へる程、二人は迷宮に入《はい》る丈《だけ》であつた。仕舞に自分達より小林の方が變だといふ事に氣の付いた二人は、聲を出して笑つた。津田の時々使ふノンセンスと云ふ英語がお延の記憶に蘇生《よみが》へつた。「小林とノンセンス」斯う結び付けて考へると、お延は堪らなく可笑《をか》しくなつた。發作《ほつさ》のやうに込《こ》み上《あ》げてくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中《うち》から持ち越して歸つて來た、氣掛りな宿題を、しばらく忘れてゐた。
 
     七十八
 
 お延は其晩京都にゐる自分の兩親へ宛てゝ手紙を書いた。一昨日《をとゝひ》も昨日《きのふ》も書き掛けて止《や》めにしたその音信《たより》を、今日は是非共片付けて仕舞はなければならないと思ひ立つた彼女の頭の中には、決して兩親の事ばかり働いてゐるのではなかつた。
 彼女は落付けなかつた。不安から逃《のが》れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があつた。先刻《さつき》からの疑問を解決したいといふ切な希望もあつた。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纒めて見る事が出來さうに思へたのである。
 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶から始めて、無沙汰の申し譯迄を器械的に書き了つた後で、少時《しばらく》考へた。京都へ何か書いてやる以上は、是非共自分と津田との消息を的《まと》に置かなければならなかつた。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であつた。どの娘も亦|生家《せいか》の父母《ふぼ》に知らせなくつては濟まない事項であつた。それを差し措いて里へ手紙を遣る必要は殆んどあるまいと迄平生から信じてゐたお延は、筆を持つた儘、目下自分と津田との間柄が、果して何《ど》んな所に何ういふ風に關係してゐるかを考へなければならなかつた。彼女は有《あり》の儘《まゝ》其物を父母《ふぼ》に報知する必要に逼《せま》られてはゐなかつた。けれどもある男に嫁《とつ》いだ一個の妻として、それを見極めて置く要求を痛切に感じた。彼女は凝《ぢつ》と考へ込んだ。筆は其所で留つたぎり動かなくなつた。その動かなくなつた筆の事さへ忘れて、彼女は考へなければならなかつた。しかも知らうとすればする程、確《しか》とした所は手に※[手偏+國]《つか》めなかつた。
 手紙を書く迄の彼女は、ざわざわした散漫な不安に惱まされてゐた。手紙を書き始めた今の彼女は、漸く一つ所に落付いた。さうして又一つ所に落付いた不安に惱まされ始めた。先刻《さつき》電車の中で、ちら/\眼先に付き出した色々の影像《イメジ》は、みんな此一點に向つて集注するのだといふ事を、前後兩樣の比較から發見した彼女は、やつと自分を苦しめる不安の大根《おほね》に辿《たど》り付《つ》いた。けれども其|大根《おほね》の正體は何うしても分らなかつた。勢ひ彼女は問題を未來に繰り越さなければならなかつた。
 「今日《こんにち》解決が出來なければ、明日《みやうにち》解決するより外に仕方がない。明日《みやうにち》解決が出來なければ明後日《みやうごにち》解決するより外に仕方がない。明後日《みやうごにち》解決が出來なければ……」
 是が彼女の論法《ロジツク》であつた。又希望であつた。最後の決心であつた。さうして其決心を彼女は既に繼子の前で公言してゐたのである。
 「誰でも構はない、自分の斯うと思ひ込んだ人を飽く迄愛する事によつて、其人に飽迄《あくまで》自分を愛させなければ已《や》まない」
 彼女は此所迄行く事を改めて心に誓つた。此所迄行つて落付く事を自分の意志に命令した。
 彼女の氣分は少し輕《かろ》くなつた。彼女は再び筆を動かした。成るべく父母《ふぼ》の喜《よろ》こびさうな津田と自分の現況を憚りなく書き連ねた。幸福さうに暮してゐる二人の趣《おもむき》が、それからそれへと描出《べうしゆつ》された。感激に充ちた筆の穗先がさら/\と心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かつた。長い手紙がたゞ一息に出來上つた。其一息が何《ど》の位《くらゐ》の時間に相當してゐるかといふ事を、彼女は丸《まる》で知らなかつた。
 仕舞に筆を擱《お》いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から讀み直して見た。彼女の手を支配したと同じ氣分が、彼女の眼を支配してゐるので、彼女は訂正や添削の必要を何處にも認めなかつた。日頃苦にして、使ふ時には屹度|言海《げんかい》を引いて見る、うろ覺えの字さへ其儘で少しも氣に掛からなかつた。てには違のために意味の通じなくなつた所を、二三ケ所ちよい/\と取り繕つた丈《だけ》で、彼女は手紙を卷いた。さうして心の中でそれを受取る父母《ふぼ》に斷つた。
 「この手紙に書いてある事は、何處から何處迄本當です。嘘や、氣休《きやすめ》や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑ふ人があるなら、私は其人を憎みます、輕蔑します、唾《つばき》を吐き掛けます。其人よりも私の方が眞相を知つてゐるからです。私は上部《うはかは》の事實以上の眞相を此所に書いてゐます。それは今私に丈《だけ》解つてゐる眞相なのです。然し未來では誰にでも解らなければならない眞相なのです。私は決してあなた方を欺《あざ》むいては居りません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙《あざむき》の手紙を書いたのだといふものがあつたなら、其人は眼の明いた旨人《めくら》です。其人こそ嘘吐《うそつき》です。どうぞ此手紙を上げる私を信用して下さい。神樣は既に信用してゐらつしやるのですから」
 お延は封書を枕元へ置いて寐た。
 
     七十九
 
 始めて京都で津田に會つた時の事が思ひ出された。久し振に父母《ちゝはゝ》の顔を見に歸つたお延は、着いてから二三日《にさんち》して、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙《いつちつ》の唐本《たうほん》を持つて、彼女は五六町|隔《へだゝ》つた津田の宅《うち》迄行かなければならなかつた。輕い神經痛に惱まされて、寐たり起きたりぶら/\してゐた彼女の父は、病中の徒然《つれ/”\》を慰めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだといふ事を、お延は其時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて來るのが彼女の用向であつた。彼女は津田の玄關に立つて案内を乞ふた。玄關には大きな衝立《ついたて》が立てゝあつた。白い紙の上に躍つてゐるやうに見える變な字を、彼女が驚ろいて眺めてゐると、其|衝立《ついたて》の後《うしろ》から取次に現はれたのは、下女でも書生でもなく、丁度其時彼女と同じ樣に京都の家《うち》へ來てゐた由雄であつた。
 二人は固《もと》よりそれ迄に顔を合せた事がなかつた。お延の方ではたゞ噂で由雄を知つてゐる丈《だけ》であつた。近頃|家《うち》へ歸つて來たとか、又は歸つてゐるとかいふ話は、其朝始めて父から聞いた位のものであつた。それも父に新らしく本を借りようといふ氣が起つて、彼がそのための手紙を書いた、事の序《ついで》に過ぎなかつた。
 由雄は其時お延から帙入《ちついり》の唐本《たうほん》を受取つて、何故《なぜ》だか、明詩別裁《みんしべつさい》といふ嚴《いか》めしい字で書いた標題を長らくの間見詰めてゐた。その見詰めてゐる彼を、お延は又|何時《いつ》迄《まで》も眺めてゐなければならなかつた。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今迄熱心に彼を見てゐた事がすぐ發覺してしまつた。然し由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、是も已《やむ》を得《え》ない所作《しよさ》に違なかつた。顔を上げた由雄は、「父は生憎《あいにく》今留守ですが」と云つた。お延はすぐ歸らうとした。すると由雄が又呼び留めて、自分の父|宛《あて》の手紙を、お延の見てゐる前で、斷りも何にもせずに、開封した。此平氣な擧動がまたお延の注意を惹いた。彼の遣口《やりくち》は不作法であつた。けれども果斷に違なかつた。彼女は何うしても彼を粗野《がさつ》とか亂暴とかいふ言葉で評する氣にならなかつた。
 手紙を一目見た由雄は、お延を玄關先に待たせた儘、入用《いりよう》の書物を探しに奧へ這入つた。然し不幸にして父の借らうとする漢籍は彼の眼の付く所になかつた。十分ばかりして又出て來た彼は、お延を空《むな》しく引き留めて置いた詫《わび》を述べた。指定《してい》の本は一寸見付からないから、彼の父の歸り次第、此方《こつち》から屆けるようにすると云つた。お延は失禮だといふので、それを斷つた。自分が又|明日《あした》にでも取りに來るからと約束して宅《うち》へ歸つた。
 すると其日の午後由雄が向ふから望みの本をわざ/\持つて來て呉れた。偶然にもお延が其取次に出た。二人は又顔を見合せた。さうして今度はすぐ兩方で兩方を認め合つた。由雄の手に提《さ》げた書物は、今朝お延の返しに行つたものに比べると、約三倍の量があつた。彼はそれを更紗《さらさ》の風呂敷に包んで、恰《あたか》も鳥籠でもぶら下げてゐるやうな具合にしてお延に示した。
 彼は招ぜられるまゝに座敷へ上つてお延の父と話をした。お延から云へば、とても若い人には堪へられさうもない老人向の雜談を、別に迷惑さうな樣子もなく、方角違の父と取り換はせた。彼は自分の持つて來た本に就いては何事も知らなかつた。お延の返しに行つた本に就いては猶《なほ》知らなかつた。劃の多い四角な字の重なつてゐる書物は全く讀めないのだと斷つた。それでも此方《こちら》から借りに行つた呉梅村詩《ごばいそんし》といふ四文字《よもじ》を的《あて》に、書棚を彼方此方《あつちこつち》と探して呉れたのであつた。父はあつく彼の好意を感謝した。……
 お延の眼には其時の彼がちら/\した。其時の彼は今の彼と別人《べつにん》ではなかつた。といつて、今の彼と同人でもなかつた。平たく云へば、同じ人が變つたのであつた。最初無關心に見えた彼は、段々自分の方に牽き付けられるやうに變つて來た。一旦牽き付けられた彼は、また次第に自分から離れるやうに變つて行くのではなからうか。彼女の疑は殆んど彼女の事實であつた。彼女は其疑を拭ひ去るために、其事實を引ツ繰り返さなければならなかつた。
 
     八十
 
 強い意志がお延の身體全體に充ち渡つた。朝になつて眼を覺ました時の彼女には、怯懦《けふだ》ほど自分に縁の遠いものはなかつた。寐起の惡過ぎた前の日の自分を忘れたやうに、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳《は》ね退《の》けて、床を離れる途端に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒《あささむ》の刺戟と共に、締まつた筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
 彼女は自分の手で雨戸を手繰《たぐ》つた。戸外《そと》の模樣は何時《いつ》もよりまだ餘ツ程早かつた。昨日《きのふ》に引き換へて、今日は津田の居る時よりも却つて早く起きたといふ事が、何故《なぜ》だか彼女には嬉しかつた。怠けて寐過した昨日の償ひ、それも滿足の一つであつた。
 彼女は自分で床を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向つた。さうして結《ゆ》つてから四日目になる髪を解《と》いた。油で汚《よご》れた所へ二三度櫛を通して、癖が付いて自由にならないのを、無理に廂《ひさし》に束《つか》ね上《あ》げた。それが濟んでから始めて下女を起した。
 食事の出來る迄の時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大變お早う御座いましたね」と云はれた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいてゐるらしかつた。また自分が主人より遲く起きたのを濟まない事でもしたやうに考へてゐるらしかつた。
 「今日は旦那樣のお見舞に行かなければならないからね」
 「そんなにお早く入らつしやるんで御座いますか」
 「えゝ。昨日《きのふ》行かなかつたから今日は少し早く出掛けませう」
 お延の言葉遣《ことばづかひ》は平生より鄭寧で片付いてゐた。其所に或落付きがあつた。さうして其落付を裏切る意氣があつた。意氣に伴《とも》なふ果斷も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのづと態度にあらはれた。
 それでも彼女はすぐ出掛けようとはしなかつた。襷《たすき》を外《はづ》して盆を持つたお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になつた覺《おぼえ》のある其家族は、お時にとつても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すやうにして迄、よく彼等に就いて語り合つた。ことに津田のゐない時はさうであつた。といふのは、もし津田がゐると、ある場合には、彼一人が除外物《のけもの》にされたやうな變な結果に陷《おちい》るからであつた。不圖《ふと》した拍子からそんな氣下味《きまづ》い思ひを一二度經驗した後で、其所に氣を付け出したお延は、その外にまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聽したがる女と夫《をつと》から解釋される不快を避けなければならない理由もあつたので、お時にもかねて其旨を言ひ含めて置いたのである。
 「御孃さまはまだ何處へもお極りになりませんので御座いますか」
 「何だかそんな話もあるやうだけれどもね、まだ何うなるか能く解らない樣子だよ」
 「早く好い所へ入らつしやるやうになると、結構で御座いますがね」
 「大方もう直《ぢき》でせう。叔父さんはあんな性急《せつかち》だから。それに繼子さんはあたしと違つて、あゝいふ器量好しだしね」
 お時は何か云はうとした。お延は下女のお世辭を受けるのが苦痛だつたので、すぐ自分で其《その》後《あと》を付けた。
 「女は何うしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧でも、氣が利いてゐても、顔が惡いと男には嫌はれる丈《だけ》ね」
 「そんな事は御座いません」
 お時が辯護するやうに強く斯ういつたので、お延は猶《なほ》自分を主張したくなつた。
 「本當よ。男はそんなものなのよ」
 「でも、それは一時の事で、年を取ると左《さ》うは參りますまい」
 お延は答へなかつた。然し彼女の自信はそんな弱いものではなかつた。
 「本當にあたしのやうな不器量なものは、生れ變つてでも來なくつちや仕方がない」
 お時は呆れた顔をしてお延を見た。
 「奧樣が不器量なら、わたくしなんか何といへば可《い》いので御座いませう」
 お時の言葉はお世辭でもあり、眞實でもあつた。兩方の度合をよく心得てゐたお延は、それで滴足して立ち上つた。
 彼女が外出のため着物を着換へてゐると、戸外《そと》から誰か來たらしい足音がして玄關の號鈴《ベル》が鳴つた。取次に出たお時に、「一寸奧さんに」といふ聲が聞こえた。お延は其聲の主《ぬし》を判斷しょうとしで首を傾けた。
 
     八十−
 
 袖を口へ當ててくすくす笑ひながら茶の間へ駈け込んで來たお時は、容易に客の名を云はなかつた。彼女はたゞ可笑《をか》しさを噛み殺さうとして、お延の前で悶《もだ》え苦しんだ。わづか「小林」といふ言葉を口へ出すのでさへ餘程手間取つた。
 此不時の訪問者を何う取り扱つて可《い》いか、お延は解らなかつた。厚い帶を締めかけてゐるので、自分がすぐ玄關へ出る譯に行かなかつた。といつて、掛取《かけとり》でも待たせて置くやうに、何時《いつ》迄《まで》も彼を其所に立たせるのも不作法であつた。姿見《すがたみ》の前に立《た》ち竦《すく》んだ彼女は當惑の眉を寄せた。仕方がないので、今|出掛《でがけ》だから、ゆつくり會つてはゐられないがとわざわざ斷らした後で、彼を座敷へ上げた。然し會つて見ると、滿更《まんざら》知らない顔でもないので、用|丈《だけ》聽いてすぐ歸つて貰ふ事も出來なかつた。其上小林は斟酌だの遠慮だのを知らない點にかけて、大抵の人に引《ひけ》を取らないように、天から生み付けられた男であつた。お延の時間が逼《せま》つてゐるのを承知の癖に、彼は相手さへ惡い顔をしなければ、何時《いつ》迄《まで》坐り込んでゐても差支ないものと獨りで合點してゐるらしかつた。
 彼は津田の病氣を能く知つてゐた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいふ所によれば、其地位は未來に希望のある重要のものであつた。彼は又探偵に跟《つ》けられた話をした。それは津田と一所に藤井から歸る晩の出來事だと云つて、驚ろいたお延の顔を面白さうに眺めた。彼は探偵に跟《つ》けられるのが自慢らしかつた。大方社會主義者として目指《めざ》されてゐるのだらうといふ説明迄して聽かせた。
 彼の談話には氣の弱い女に衝撃《シヨツク》を與へるやうな部分があつた。津田から何にも聞いてゐないお延は、怖々《こは/”\》ながらつい其所に釣り込まれて大切な時間を度外に置いた。然し彼の云ふ事を素直にはいはい聽いてゐると何處迄行つても果《はて》しがなかつた。仕舞には此方《こつち》から催促して、早く向ふに用事を切り出させるように仕向けるより外に途がなくなつた。彼は少し極りの惡さうな樣子をして漸く用向を述べた。それは昨夕《ゆうべ》お延とお時をさんざ笑はせた外套の件に外ならなかつた。
 「津田君から貰ふつていふ約束をしたもんですから」
 彼の主意は朝鮮へ立つ前一寸其外套を着て見て、もしあんまり自分の身體に合はないやうなら今のうちに直させたいといふのであつた。
 お延はすぐ入用《いりよう》の品を箪笥の底から出して遺らうかと思つた。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いてゐなかつた。
 「何うせもう着る事なんかなからうとは思ふんですが」といつて逡巡《ためら》つた彼女は、こんな事に案外|八釜《やかま》しい夫《をつと》の氣性を能く知つてゐた。着古した外套一つが本《もと》で、他日細君の手落呼《ておちよば》はりなどをされた日には耐《たま》らないと思つた。
 「大丈夫ですよ、呉れるつて云つたに違ないんだから。嘘なんか吐《つ》きやしませんよ」
 出して遣らないと小林を嘘吐《うそつき》としてしまふやうなものであつた。
 「いくら醉拂つてゐたつて氣は確《たしか》なんですからね。どんな事があつたつて貰ふ物を忘れるやうな僕ぢやありませんよ」
 お延はとう/\決心した。
 「ぢや少時《しばらく》待つてゝ下さい。電話で一寸病院へ聞き合せに遣りますから」
 「奧さんは實に凡帳面ですね」と云つて小林は笑つた。けれどもお延の暗《あん》に恐れてゐた不愉快さうな表情は、彼の顔の何處にも認められなかつた。
 「たゞ念のためにですよ。あとでわたくしが又何とか云はれると困りますから」
 お延はそれでも小林が氣を惡くしない用心に、斯んな辯解がましい事を附け加へずにはゐられなかつた。
 お時が自働電話へ駈け付けて津田の返事を持つて來る間、二人は猶《なほ》對坐した。さうして彼女の歸りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。所が其談話は突然な閃《ひら》めきで、何にも豫期してゐなかつたお延の心臓を躍らせた。
 
     八十二
 
 「津田君は近頃|大分《だいぶ》大人《おとな》しくなつたやうですね。全く奧さんの影響でせう」
 お時が出て行くや否や、小林は藪から棒に斯《こ》んな事を云ひ出した。お延は相手が相手なので、當らず障らずの返事をして置くに限ると思つた。
 「さうですか。私自身ぢや影響なんか丸《まる》でないやうに思つて居りますがね」
 「何うして、何うして。丸で人間が生れ變つたやうなものです」
 小林の云ひ方が餘り大袈裟なので、お延は却つて相手を冷評《ひやか》し返して遣りたくなつた。然し彼女の氣位《きぐらゐ》がそれを許さなかつたので、彼女はわざと黙つてゐた。小林はまたそんな事を顧慮する男ではなかつた。秩序も段落も構はない彼の話題は、突飛《とつぴ》に此所彼所《こゝかしこ》を駈《か》け回《めぐ》る代りに、時としては不作法な位一直線に進んだ。
 「矢ツ張細君の力には敵《かな》いませんね、何《ど》んな男でも。――僕のやうな獨身ものには、殆んど想像が付かないけれども、何かあるんでせうね、其所に」
 お延はとう/\自分を抑える事が出來なくなつた。彼女は笑ひ出した。
 「えゝあるわ。小林さんなんかには迚《とて》も見當の付かない神秘的なものが澤山あるわ、夫婦の間には」
 「あるなら一つ教へて頂きたいもんですね」
 「獨りものが教はつたつて何にもならないぢやありませんか」
 「參考になりますよ」
 お延は細い眼のうちに、賢こさうな光りを見せた。
 「それよりあなた御自分で奧さんをお貰ひになるのが、一番|捷徑《ちかみち》ぢやありませんか」
 小林は頭を掻く眞似をした。
 「貰ひたくつても貰へないんです」
 「何故」
 「來て呉れ手がなければ、自然貰へない譯ぢやありませんか」
 「日本は女の餘つてる國よ、あなた。お嫁なんか何《ど》んなのでも其所いらにごろ/\轉がつてるぢやありませんか」
 お延は斯う云つたあとで、是は少し云ひ過ぎたと思つた。然し相手は平氣であつた。もつと強くて烈しい言葉に平生から慣れ拔いてゐる彼の神經は全く無感覺であつた。
 「いくら女が餘つてゐても、是から駈《か》け落《おち》をしようといふ矢先ですからね、來ツこありませんよ」
 駈落《かけおち》といふ言葉が、不圖《ふと》芝居で遣る男女《なんによ》二人《ふたり》の道行《みちゆき》をお延に想ひ起させた。左右《さう》した濃厚な戀愛を象《かた》どる艶《なま》めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他《ひと》の着古した外套を貰ふために、今自分の前に坐つてゐる小林を見て微笑した。
 「駈落《かけおち》をなさるのなら、一層《いつそ》二人でなすつたら可《い》いでせう」
 「誰とです」
 「そりや極つてゐますわ。奧さんの外に誰も伴《つ》れて入らつしやる方はないぢやありませんか」
 「へえ」
 小林は斯う云つたなり畏《かしこ》まつた。その態度が全くお延の豫期に外《はづ》れてゐたので、彼女は少し驚ろかされた。さうして却つて豫期以上|可笑《をか》しくなつた。けれども小林は眞面目であつた。しばらく間《ま》を置いてから獨り言のやうな口調で、彼は妙なことを云ひ出した。
 「僕だつて朝鮮|三界《さんがい》迄|駈落《かけおち》のお供をして呉れるやうな、實《じつ》のある女があれば、斯《こ》んな變な人間にならないで、濟んだかも知れませんよ。實を云ふと、僕には細君がないばかりぢやないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もつと廣く云へば人間がないんだとも云はれるでせうが」
 お延は生れて初めての人に會つたやうな氣がした。斯《こ》んな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、其表面上の意味を理解する丈《だけ》でも困難を感じた。相手を何う捌《こ》なして可《い》いかの點になると、全く方角が立たなかつた。すると小林の態度は猶《なほ》感慨を帶びて來た。
 「奧さん、僕にはたつた一人の妹《いもと》があるんです。外に何にもない僕には、其|妹《いもと》が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合より何《ど》の位《くらゐ》貴重だか分りやしません。それでも僕は其|妹《いもと》を置いて行かなければならないのです。妹《いもと》は僕のあとへ何處迄も喰ツ付いて來たがります。然し僕はまた妹《いもと》をどうしても伴《つ》れて行く事が出來ないのです。二人一所に居るよりも、二人離れ/”\になつてゐる方が、まだ安全だからです。人に殺される危險がまだ少ないからです」
 お延は少し氣味が惡くなつた。早く歸つて來て呉れゝばいゝと思ふお時はまだ歸らなかつた。仕方なしに彼女は話題を變へて此壓迫から逃《のが》れようと試みた。彼女はすぐ成功した。然しそれがために彼女はまた飛んでもない結果に陷《おちい》つた。
 
     八十三
 
 特殊の經過を有《も》つた其時の問答は、まづお延の言葉から始まつた。
 「然し貴方の仰しやる事は本當なんでせうかね」
 小林は果して沈痛らしい今迄の態度をすぐ改めた。さうしてお延の思はく通り向ふから訊き返して來た。
 「何がです、今僕の云つた事がですか」
 「いゝえ、そんな事ぢやないの」
 お延は巧みに相手を岐路《わきみち》に誘ひ込んだ。
 「貴方|先刻《さつき》仰《おつし》やつたでせう。近頃津田が大分《だいぶ》變つて來たつて」
 小林は元へ戻らなければならなかつた。
 「えゝ云ひました。それに違ないから、さう云つたんです」
 「本當に津田はそんなに變つたでせうか」
 「えゝ變りましたね」
 お延は腑《ふ》に落《お》ちないやうな顔をして小林を見た。小林はまた何か證據でも握つてゐるらしい樣子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せてゐる間、小林の口元には始終薄笑ひの影が射してゐた。けれどもそれは終《つひ》に本式の笑ひとなる機會を得ずに消えてしまはなければならなかつた。お延は小林なんぞに調戯《からか》はれる自分ぢやないといふ態度を見せたのである。
 「奧さん、あなた自分だつて大概氣が付きさうなものぢやありませんか」
 今度は小林の方から斯う云つてお延に働らき掛けて來た。お延はたしかに其所に氣が付いてゐた。けれども彼女の氣が付いてゐる夫《をつと》の變化は、全く別ものであつた。小林の考へてゐる、少なくとも彼の口にしてゐる、變化とは丸《まる》で反對の傾向を帶びてゐた。津田と一所になつてから、朧氣《おぼろげ》ながら次第々々に明るくなりつゝあるやうに感ぜられる其變化は、非常に見分けにくい色調《しきてう》の階段をそろり/\と動いて行く微妙なものであつた。何《ど》んな鋭敏な觀察者が外部《そと》から覗いても到底判りこない性質のものであつた。さうしてそれが彼女の秘密であつた。愛する人が自分から離れて行かうとする毫釐《がうりん》の變化、もしくは前から離れてゐたのだといふ悲しい事實を、今になつて、そろ/\認め始めたといふ心持の變化。それが何で小林如きものに知れよう。
 「一向《いつかう》氣が付きませんね。あれで何處か變つた所でもあるんでせうか」
 小林は大きな聲を出して笑つた。
 「奧さんは中々|空惚《そらツとぼ》ける事が上手だから、僕なんざあとても敵《かな》はない」
 「空惚《そらツとぼ》けるつていふのはあなたの事ぢやありませんか」
 「えゝ、まあ、そんなら左右《さう》にして置きませう。 ――然し奧さんはさういふ旨いお手際を有《も》つてゐられるんですね。漸く解つた。それで津田君がああ變化して來るんですね、何うも不思議だと思つたら」
 お延はわざと取り合はなかつた。と云つて別に煩《うる》さい顔もしなかつた。愛嬌を見せた平氣とでもいふやうな態度をとつた。小林はもう一歩前へ進み出した。
 「藤井さんでもみんな驚ろいてゐますよ」
 「何を」
 藤井といふ言葉を耳にした時、お延の細い眼が忽ち相手の上に動いた。誘《をび》き出《だ》されると知りながら、彼女はつい斯ういつて訊き返さなければならなかつた。
 「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの靈妙なお手際にです」
 小林の言葉は露骨過ぎた。然し露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露《ひろう》するらしかつた。お延はつんとして答へた。
 「さうですか。わたくしに夫《それ》丈《だけ》の力があるんですかね。自分にや解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがさう云つて下さるなら、大方本當なんでせうよ」
 「本當ですとも。僕が見たつて、誰が見たつて本當なんだから仕方がないぢやありませんか」
 「有難う」
 お延は左《さ》も輕蔑した調子で禮を云つた。其禮の中に含まれてゐた苦々《にが/\》しい響は、小林にとつて全く豫想外のものであるらしかつた。彼はすぐ彼女を宥《なだ》めるやうな口調で云つた。
 「奧さんは結婚前《けつこんまへ》の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覺なさらないんでせうが、――」
 「わたくしは結婚前《けつこんまへ》から津田を知つて居ります」
 「然し其前は御存じないでせう」
 「當り前ですわ」
 「所が僕は其前をちやんと知つてゐるんですよ」
 話は斯《こ》んな具合にして、とう/\津田の過去に溯《さかのぼ》つて行つた。
 
     八十四
 
 自分のまだ知らない夫《をつと》の領分に這入り込んで行くのはお延にとつて多大の興味に違なかつた。彼女は喜《よろ》こんで小林の談話に耳を傾けようとした。所がいざ聽かうとすると、小林は決して要領を得た事を云はなかつた。云つても肝心の所はわざと畧してしまつた。例へば二人が深夜非常線にかゝつた時の光景には一口觸れるが、さういふ出來事に出合ふ迄、彼等が何處で夜深《よふか》しをしてゐたかの點になると、彼は故意に暈《ぼか》し去《さ》つて、全く語らないといふ風を示した。それを訊けば意味ありげににや/\笑つて見せる丈《だけ》であつた。お延は彼がとくに斯うして自分を焦燥《じら》してゐるのではなからうかといふ氣さへ起した。
 お延は平生から小林を輕く見てゐた。半《なか》ば夫《をつと》の評價を標準に置き、半ば自分の直覺を信用して成立つた此侮蔑の裏には、まだ他《ひと》に向つて公言しない大きな因子《フアクトー》があつた。それは單に小林が貧乏であるといふ事に過ぎなかつた。彼に地位がないといふ點に外ならなかつた。賣れもしない雜誌の編輯、そんなものは極つた職業として彼女の眼に映《うつ》る筈がなかつた。彼女の見た小林は、常に無籍《むせき》ものゝやうな顔をして、世の中をうろ/\してゐた。宿なしらしい愚痴《ぐち》を零《こぼ》して、厭がらせに其所いらをまご付き歩く丈《だけ》であつた。
 然し此種の輕蔑に、ある程度の不氣味は何時《いつ》でも附《つき》物《もの》であつた。殊にさういふ階級に馴らされない女、しかも經驗に乏しい若い女には、猶更《なほさら》の事《こと》でなければならなかつた。少くとも小林の前に坐つたお延はさう感じた。彼女は今迄に彼位な貧しさの程度の人に出合はないとは云へなかつた。然し岡本の宅《うち》へ出入《ではい》りをするそれらの人々は、みんな其分を辨《わきま》へてゐた。身分には段等《だんとう》があるものと心得て、みんな己《おの》れに許された範圍内に於てのみ行動を敢てした。彼女は未だかつて小林のやうに横着な人間に接した例がなかつた。彼のやうに無遠慮に自分に近付いて來るもの、富も位地もない癖に、彼のやうに大きな事を云ふもの、彼のやうに無暗に上流社會の惡體《あくたい》を吐《つ》くものには決して會つた事がなかつた。
 お延は突然氣が付いた。
 「自分の今相手にしてゐるのは、平生考へてゐた通りの馬鹿でなくつて、或は手に餘る擦《す》れツ枯《か》らしぢやなからうか」
 輕蔑の裏に潜んでゐる不氣味な方面が強く頭を持上《もちや》げた時、お延の態度は急に改たまつた。すると小林はそれを見屆けた證據にか、又はそれに全くの無頓着でか、アはゝと笑ひ出した。
 「奧さんまだ色々殘つてますよ。あなたの知りたい事がね」
 「さうですか。今日はもう其位で澤山でせう。あんまり一度《いちど》きに伺つてしまふと、是から先の樂しみがなくなりますから」
 「さうですね、ぢや今日は是で切り上げときますかな。あんまり奧さんに氣を揉ませて、歇斯的里《ヒステリ》でも起されると、後《あと》でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれる丈《だけ》だから」
 お延は後《うしろ》を向いた。後《うしろ》は壁であつた。それでも茶の間に近い其見當に、彼女はお時の消息を聞かうとする努力を見せた。けれども勝手口は今迄通り靜かであつた。疾《と》うに歸るべき筈のお時はまだ歸つて來なかつた。
 「何うしたんでせう」
 「なに今に歸つて來ますよ。心配しないでも迷兒《まいご》になる氣遣《きづかひ》はないから大丈夫です」
 小林は動かうともしなかつた。お延は仕方がないので、茶を淹《い》れ代《か》へるのを口實に、席を立たうとした。小林はそれさへ遮ぎつた。
 「奧さん、時間があるなら、退屈凌《たいくつしの》ぎに幾らでも先刻《さつき》の續きを話しますよ。喋舌《しやべ》つて潰《つぶ》すのも、黙つて潰すのも、何うせ僕見たいな穀潰《ごくつぶ》しにや、同《おん》なし時間なんだから、ちつとも御遠慮にや及びません。何うです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないやうな水臭い所が大分《だいぶ》あるんでせう」
 「あるかも知れませんね」
 「あゝ見えて中々淡泊でないからね」
 お延ははつと思つた。腹の中で小林の批評を首肯《うけが》はない譯に行かなかつた彼女は、それが中《あた》つてゐる丈《だけ》に猶《なほ》の事《こと》感情を害した。自分の立場を心得ない何といふ不作法な男だらうと思つて小林を見た。小林は平氣で前の言葉を繰り返した。
 「奧さんあなたの知らない事がまだ澤山ありますよ」
 「あつても宜しいぢや御座いませんか」
 「いや、實はあなたの知りたいと思つてる事がまだ澤山あるんですよ」
 「あつても構ひません」
 「ぢや、あなたの知らなければならない事がまだ澤山あるんだと云ひ直したら何うです。それでも構ひませんか」
 「えゝ、構ひません」
 
     八十五
 
 小林の顔には皮肉の渦《うづ》が漲《みなぎ》つた。進んでも退《しりぞ》いても此方《こつち》のものだといふ勝利の表情がありありと見えた。彼は其瞬間の得意を永久に引き延ばして、何時《いつ》迄《まで》も自分で眺め暮したいやうな素振《そぶり》さへ示した。
 「何といふ陋劣《ろうれつ》な男だらう」
 お延は腹の中で斯う思つた。さうして少時《しばらく》の間|凝《じつ》と彼と睨《にら》めつ競《くら》をしてゐた。すると小林の方から又口を利き出した。
 「奧さん津田君が變つた例證として、是非あなたに聽かせなければならない事があるんですが、餘《あん》まりおびえてゐらつしやる樣だから、それは後廻しにして、其反對の方、即ち津田君がちつとも變らない所を少し御參考迄にお話して置きますよ。是は厭でも私《わたし》の方で是非奧さんに聽いて頂きたいのです。――何うです聽いて下さいますか」
 お延は冷淡に「何うともあなたの御隨意に」と答へた。小林は「有難い」と云つて笑つた。
 「僕は昔から津田君に輕蔑されてゐました。今でも津田君に輕蔑されてゐます。先刻《さつき》からいふ通り津田君は大變變りましたよ。けれども津田君の僕に對する輕蔑|丈《だけ》は昔も今も同樣なのです。毫も變らないのです。是丈《これだけ》はいくら怜俐《りこう》な奧さんの感化力でも何うする譯にも行かないと見えますね。尤もあなた方から見たら、それが理の當然なんでせうけれどもね」
 小林は其所で言葉を切つて、少し苦しさうなお延の笑ひ顏に見入つた。それから又續けた。
 「いや別に變つて貰ひたいといふ意味ぢやありませんよ。其點について奧さんの御盡力を仰ぐ氣は毛頭ないんだから、御安心なさい。實をいふと、僕は津田君にばかり輕蔑されてゐる人間ぢやないんです。誰にでも輕蔑されてゐる人間なんです。下らない女に迄輕蔑されてゐるんです。有體《ありてい》に云へば世の中全體が寄つてたかつて僕を輕蔑してゐるんです」
 小林の眼は据わつてゐた。お延は何といふ事も出來なかつた。
 「まあ」
 「それは事實です。現に奧さん自身でもそれを腹の中で認めてゐらつしやるぢやありませんか」
 「そんな馬鹿な事があるもんですか」
 「そりや口の先では、さう仰しやらなければならないでせう」
 「あなたも隨分|僻《ひが》んでゐらつしやるのね」
 「えゝ僻《ひが》んでるかも知れません。僻《ひが》まうが僻むまいが、事實は事實ですからね。然しそりや何うでも可《い》いんです。もと/\無能《やくざ》に生れ付いたのが惡いんだから、いくら輕蔑されたつて仕方がありますまい。誰を恨む譯にも行かないのでせう。けれども世間からのべつにさう取り扱はれ付けて來た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
 小林は何時《いつ》迄《まで》もお延の顔を見て返事を待つてゐた。お延には何もいふ事がなかつた。丸《まる》つ切《き》り同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の關係があらう。自分には又自分で考へなければならない問題があつた。彼女は小林のために想像の翼さへ伸ばして遣る氣にならなかつた。其樣子を見た小林はまた「奧さん」と云ひ出した。
 「奧さん、僕は人に厭がられるために生きてゐるんです。わざ/\人の厭がるやうな事を云つたり爲《し》たりするんです。左《さ》うでもしなければ苦しくつて堪らないんです。生きてゐられないのです。僕の存在を人に認めさせる事が出來ないんです。僕は無能《やくざ》です。幾ら人から輕蔑されても存分な讎討《かたきうち》が出來ないんです。仕方がないから責《せ》めて人に嫌はれてでも見ようと思ふのです。それが僕の志願なのです」
 お延の前に丸《まる》で別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、又誰からでも愛されるやうに仕向けて行きたい、ことに夫《をつと》に對しては、是非共|左右《さう》しなければならない、といふのが彼女の腹であつた。さうしてそれは例外なく世界中の誰にでも當《あ》て嵌《はま》つて、毫《がう》も悖《もと》らないものだと、彼女は最初から信じ切つてゐたのである。
 「吃驚《びつく》りした樣ぢやありませんか。奧さんはまだそんな人に會つた事がないんでせう。世の中には色々の人がありますからね」
 小林は多少|溜飲《りういん》の下りたやうな顏をした。
 「奧さんは先刻《さつき》から僕を厭がつてゐる。早く歸れば可《い》い、歸れば可いと思つてゐる。所が何うした譯か、下女が歸つて來ないもんだから、仕方なしに僕の相手になつてゐる。それがちやんと僕には分るんです。けれども奧さんはたゞ僕を厭な奴だと思ふ丈《だけ》で、何故僕がこんな厭な奴になつたのか、其原因を御承知ない。だから僕が一寸其所を説明して上げたのです。僕だつてまさか生れたてから斯《こ》んな厭な奴でもなかつたんでせうよ、よくは分りませんけれどもね」
 小林は又大きな聲を出して笑つた。
 
     八十六
 
 お延の心は此不思議な男の前に入り亂れて移つて行つた。一には理解が起らなかつた。二には同情が出なかつた。三には彼の眞面目さが疑がはれた。反抗、畏怖、輕蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌惡、好奇心、――雜然として彼女の胸に交錯《かうさく》した色々なものは決して一點に纒まる事が出來なかつた。從つてたゞ彼女を不安にする丈《だけ》であつた。彼女は仕舞に訊いた。
 「ぢやあなたは私を厭がらせるために、わざ/\此所へ入らしつたと言明なさるんですね」
 「いや目的は左右《さう》ぢやありません。目的は外套を貰ひに來たんです」
 「ぢや外套を貰ひに來た序《ついで》に、私を厭がらせようと仰しやるんですか」
 「いや左右《さう》でもありません。僕は是で天然自然の積《つもり》なんですからね。奧さんよりも餘程技巧は少ないと思つてるんです」
 「そんな事は何うでも、私の問にはつきりお答へになつたら可《い》いぢやありませんか」
 「だから僕は天然自然だと云ふのです。天然自然の結果、奧さんが僕を厭がられるやうになるといふ丈《だけ》なのです」
 「詰りそれがあなたの目的でせう」
 「目的ぢやありません。然し本望《はんまう》かも知れません」
 「目的と本望と何所が違ふんです」
 「違ひませんかね」
 お延の細い眼から憎惡の光が射した。女だと思つて馬鹿にするなといふ氣性《きしやう》がありありと瞳子《ひとみ》の裏《うち》に宿つた。
 「怒つちや不可《いけま》せん」と小林が云つた。「僕は自分の小さな料簡から敵打《かたきうち》をしてるんぢやないといふ意味を、奧さんに説明して上げた丈《だけ》です。天がこんな人間になつて他《ひと》を厭がらせて遣れと僕に命ずるんだから仕方がないと解釋して頂きたいので、わざ/\さう云つたのです。僕は僕に惡い目的はちつともない事をあなたに承認して頂きたいのです。僕自身は始めから無目的《むもくてき》だといふ事を知つて置いて頂きたいのです。然し天には目的があるかも知れません。さうして其目的が僕を動かしてゐるかも知れません。それに動かされる事が又僕の本望かも知れません」
 小林の筋の運び方は、少し困絡《こんがら》かり過ぎてゐた。お延は彼の論理《ロジツク》の間隙《すき》を突く丈《だけ》に頭が錬れてゐなかつた。といつて無條件で受け入れて可《い》いか惡いかを見分ける程整つた腦力も有《も》たなかつた。それでゐて彼女は相手の吹き掛ける議論の要點を※[手偏+國]《つか》む丈《だけ》の才氣を充分に具へてゐた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纒めて見せた。
 「ぢやあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに對する責任は決して負《お》はないといふんでせう」
 「えゝ其所です。其所が僕の要點なんです」
 「そんな卑怯な――」
 「卑怯ぢやありません。責任のない所に卑怯はありません」
 「ありますとも。第一此私があなたに對して何《ど》んな惡い事をした覺《おばえ》があるんでせう。まあそれから伺ひますから、云つて御覽なさい」
 「奧さん、僕は世の中から無籍もの扱ひにされてゐる人間ですよ」
 「それが私や津田に何の關係があるんです」
 小林は待つてたと云はぬ許《ばか》りに笑ひ出した。
 「あなた方から見たら大方ないでせう。然し僕から見れば、あり過ぎる位あるんです」
 「何《ど》うして」
 小林は急に答へなくなつた。其意味は宿題にして自分でよく考へて見たら可《よ》からうと云ふ顔付をした彼は、黙つて烟草を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に歸つて呉れと云ひたくなつた。同時に小林の意味もよく突き留めて置きたかつた。それを見拔いて、わざと高を括《くゝ》つたやうに落付いてゐる小林の態度がまた癪に障つた。其所へ先刻《さつき》から心待ちに待ち受けてゐたお時が漸く歸つて來たので、お延の蟠《わだか》まりは、一定した樣式の下《もと》に表現される機會の來ない先に又崩されて仕舞はなければならなかつた。
 
     八十七
 
 お時は縁側へ坐つて外部《そと》から障子を開けた。
 「只今。大變遲くなりました。電車で病院迄行つて參りましたものですから」
 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
 「ぢや電話は掛けなかつたのかい」
 「いゝえ掛けたんで御座います」
 「掛けても通じなかつたのかい」
 問答を重ねてゐるうちに、お時の病院へ行つた意味が漸くお延に呑み込めるやうになつて來た。――始め通じなかつた電話は、仕舞に通じる丈《だけ》は通じても用を辨ずる事が出來なかつた。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰はうとしたが、それすらお時の思ふようにはならなかつた。書生だか藥局員だかゞ始終相手になつて、何か云ふけれども、それが又ちつとも要領を得なかつた。第一言語が不明瞭であつた。それから判切《はつきり》聞こえる所も辻褄《つじつま》の合はない事だらけだつた。要するに其男はお時の用事を津田に取次いで呉れなかつたらしいので、彼女はとう/\諦らめて、電話箱を出てしまつた。然し義務を果さないで其儘|宅《うち》へ歸るのが厭だつたので、すぐ其足で電車へ乘つて病院へ向つた。
 「一旦歸つて、伺つてからにしようかと思ひましたけれども、たゞ時間が長く掛るぎりで御座いますし、それにお客さまが斯うして待つておいでの事をなまじい存じて居《を》るもので御座いますから」
 お時のいふ事は尤もであつた。お延は禮を云はなければならなかつた。然しそのために、小林から散々厭な思ひをさせられたのだと思ふと、氣を利かした下女が却つて恨めしくもあつた。
 彼女は立つて茶の間へ入《はい》つた。すぐ其所に据ゑられた銅《あか》の金具の光る重ね箪笥の一番下の抽斗《ひきだし》を開けた。さうして底の方から問題の外套を取り出して來て、それを小林の前へ置いた。
 「是でせう」
 「えゝ」と云つた小林はすぐ外套を手に取つて、品物を改める古着屋のやうな眼で、それを引ツ繰返した。
 「思つたより大分《だいぶ》汚《よご》れてゐますね」
 「あなたにやそれで澤山だ」と云ひたかつたお延は、何にも答へずに外套を見詰めた。外套は小林のいふ通り少し色が變つてゐた。襟を返して日に當らない所を他の部分と比較して見ると、それが著《いち》ぢるしく目立つた。
 「何うせたゞ貰ふんだからさう贅澤も云へませんかね」
 「お氣に召さなければ、何うぞ御遠慮なく」
 「置いて行けと仰しやるんですか」
 「えゝ」
 小林は矢ツ張り外套を放さなかつた。お延は痛快な氣がした。
 「奧さん一寸此所で着て見ても可《よ》ござんすか」
 「えゝ、えゝ」
 お延はわざと反對を答へた。さうして窮屈さうな袖へ、藻掻《もが》くやうにして手を通す小林を、坐つたまゝ皮肉な眼で眺めた。
 「何うですか」
 小林は斯う云ひながら、脊中をお延の方に向けた。見苦しい疊《たゝ》み皺《じわ》が幾筋もお延の眼に入《い》つた。アイロンの注意でもして遣るべき所を、彼女は又|逆《ぎやく》に行《い》つた。
 「丁度好いやうですね」
 彼女は誰も自分の傍《そば》にゐないので、折角出來上つた滑稽な後姿も、眼と眼で笑つて遣る事が出來ないのを物足りなく思つた。
 すると小林がまたぐるりと向き直つて、外套を着たなり、お延の前にどつさり胡坐《あぐら》をかいた。
 「奧さん、人間はいくら變な着物を着て人から笑はれても、生きてゐる方が可《い》いものなんですよ」
 「さうですか」
 お延は急に口元を締めた。
 「奧さんのやうな窮《こま》つた事のない方にや、まだ其意味が解らないでせうがね」
 「さうですか。私はまた生きてゝ人に笑はれる位なら、一層《いつそ》死んでしまつた方が好いと思ひます」
 小林は何にも答へなかつた。然し突然云つた。
 「有難う。御蔭で此冬も生きてゐられます」
 彼は立ち上つた。お延も立ち上つた。然し二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林は忽ち振り返つた。
 「奧さん、あなたさういふ考へなら、能く氣を付けて他《ひと》に笑はれないようにしないと不可《いけ》ませんよ」
 
     八十八
 
 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端、小林が後《うしろ》を向いた拍子、二人は其所で急に運動を中止しなければならなかつた。二人はぴたりと止まつた。さうして顔を見合せた。といふよりも寧ろ眼と眼に見入つた。
 其時小林の太い眉が一層|際立《きはだ》つてお延の視覺を侵《をか》した。下にある黒瞳《くろめ》は凝《じつ》と彼女の上に据ゑられた儘動かなかつた。それが何を物語つてゐるかは、此方《こつち》の力で動かして見るより外に途はなかつた。お延は口を切つた。
 「餘計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
 「注意を受ける必要がないのぢやありますまい。大方注意を受ける覺《おぼえ》がないと仰しやる積《つもり》なんでせう。そりやあなたは固《もと》より立派な貴婦人に違ないかも知れません。然し――」
 「もう澤山です。早く歸つて下さい」
 小林は應じなかつた。問答が咫尺《しせき》の間に起つた。
 「然し僕のいふのは津田君の事です」
 「津田が何うしたといふんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないと仰しやるんですか」
 「僕は紳士なんて何《ど》んなものか丸《まる》で知りません。第一そんな階級が世の中に存在してゐる事を、僕は認めてゐないのです」
 「認めようと認めまいと、そりやあなたの御隨意です。然し津田が何うしたといふんです」
 「聞きたいですか」
 鋭どい稻妻がお延の細い眼からまともに迸《ほとば》しつた。
 「津田はわたくしの夫《をつと》です」
 「さうです。だから聞きたいでせう」
 お延は齒を噛んだ。
 「早く歸つて下さい」
 「えゝ歸ります。今歸る所です」
 小林は斯う云つたなりすぐ向き直つた。玄關の方へ行かうとして縁側を二足ばかりお延から遠ざかつた。其後姿を見て堪らなくなつたお延は又呼び留めた。
 「お待ちなさい」
 「何ですか」
 小林はのつそり立ち留つた。さうして裄《ゆき》の長過ぎる古外套を着た兩手を前の方に出して、ポンチ檜に似た自分の姿を鑑賞でもするやうに眺め廻した後で、にやにやと笑ひながらお延を見た。お延の聲は猶《なほ》鋭くなつた。
 「何故黙つて歸るんです」
 「御禮は先刻《さつき》云つた積《つもり》ですがね」
 「外套の事ぢやありません」
 小林はわざと空々《そら/”\》しい樣子をした。はてなと考へる態度迄|粧《よそほ》つて見せた。お延は詰責《きつせき》した。
 「あなたは私の前で説明する義務があります」
 「何をですか」
 「津田の事をです。津田は私の夫《をつと》です。妻《さい》の前で夫《をつと》の人格を疑ぐるやうな言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗に説明するのは、あなたの義務ぢやありませんか」
 「でなければそれを取消す丈《だけ》の事でせう。僕は義務だの責任だのつて感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に耻を耻と思はない男として、一旦云つた事を取り消す位は何でもありません。――ぢや津田君に對する失言を取消しませう。さうしてあなたに詫《あや》まりませう。左右《さう》したら可《い》いでせう」
 お延は黙然として答へなかつた。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
 「こゝに改めて言明します。津田君は立派な人格を具へた人です。紳士です。(もし社會にさういふ特別な階級が存在するならば)」
 お延は依然として下を向いた儘口を利かなかつた。小林は語を續けた。
 「僕は先刻《さつき》奧さんに、人から笑はれないように能く氣をお付けになつたら可《よ》からうといふ注意を與へました。奧さんは僕の注意などを受ける必要がないと云はれました。それで僕も其《その》後《あと》を話す事を遠慮しなければならなくなりました。考へると是も僕の失言でした。併《あは》せて取消します。其他もし奧さんの氣に障つた事があつたら、總《すべ》て取消します。みんな僕の失言です」
 小林は斯う云つた後で、沓脱《くつぬぎ》に揃へてある自分の靴を穿《は》いた。さうして格子《かうし》を開けて外へ出る最後に、また振り向いて「奧さんさよなら」と云つた。
 微《かす》かに黙禮を返したぎり、お延は何時《いつ》迄《まで》もぼんやり其所に立つてゐた。それから急に二階の梯子段《はしごだん》を駈け上つて、津田の机の前に坐るや否や、其上に突ツ伏してわつと泣き出した。
 
     八十九
 
 幸ひにお時が下から上《あが》つて來なかつたので、お延は憚りなく當座の目的を達する事が出來た。彼女は他《ひと》に顔を見られずに思ふ存分泣けた。彼女が滿足する迄自分を泣き盡した時、涙はおのづから乾いた。
 濡れた手巾《ハンケチ》を袂へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗《ひきだし》を開けた。抽斗《ひきだし》は二つ付いてゐた。然しそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかつた。それも其筈であつた。彼女は津田が病院へ入《はい》る時、彼に入用《いりよう》の手荷物を纒めるため、二三日前《にさんちまへ》既に其所を捜したのである。彼女は殘された對筒だの、物指《ものさし》だの、會費の受取だのを見て、それを又一々鄭寧に揃へた。パナマや麥藁製の色々な帽子が石版で印刷されてゐる廣告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行つた初夏《しょか》の夕暮を思ひ出させた。其時夏帽を買ひに立寄つた店から津田が貰つて歸つた此見本には、眞赤《まつか》に咲いた日比谷公園の躑躅《つゝじ》だの、突當りに霞が關の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よはせてゐる高い柳などが、離れにくい過去の匂《にほひ》のやうに、聯想として付《つ》き纒《まつ》はつてゐた。お延はそれを開いた儘、しばらく凝《じつ》と考へ込んだ。それから急に思ひ立つたやうに机の抽斗《ひきだし》をがちやりと閉めた。
 机の横には同じく直線の多い樣式で造られた本箱があつた。其所にも抽斗《ひきだし》が二つ付いてゐた。机を棄てたお延は、すぐ本箱の方に向つた。然しそれを開けやうとして、手を環《くわん》に掛けた時、抽斗《ひきだし》は双方とも何の抵抗もなく、する/\と拔け出したので、お延は中を調べない先に、まづ失望した。手應《てごた》へのない所に、新らしい發見のある筈はなかつた。彼女は書き古したノートブツクのやうなものをいたづらに攪《か》き廻《まは》した。それを一々讀んで見るのは大變であつた。讀んだ所で自分の知らうと思ふ事が、そんな筆記の底に潜んでゐやうとは想像出來なかつた。彼女は用心深い夫《をつと》の性質を能く承知してゐた。錠《ぢやう》を卸さない秘密を其所いらへ放《はふ》り出《だ》して置くには、あまりに細《こま》か過《す》ぎるのが彼の持前であつた。
 お延は戸棚を開けて、錠《ぢやう》を掛けたものが何處かにないかといふ眼付をした。けれども中には何にもなかつた。上には殺風景な我樂多《がらくた》が、無器用に積み重ねられてゐる丈《だけ》であつた。下は長持で一杯になつてゐた。
 再び机の前に取つて返したお延は、其上に乘せてある状差《じやうさし》の中から、津田|宛《あて》で來た手紙を拔き取つて、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちてゐる筈がないとは思つた。然し一番最初眼に付きながら、手さへ觸れなかつた幾通の書信は、矢つ張り最後に眼を通すべき性質を帶びて、彼女の注意を誘《いざな》ひつゝ、何時《いつ》迄《まで》も其所に殘つてゐたのである。彼女はつい念のためといふ口實の下《もと》に、それへ手を出さなければならなくなつた。
 封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。或は四半分、或は半分、殘るものは全部、悉《こと/”\》くお延によつて黙讀された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復《もど》した。
 突然疑惑の?が彼女の胸に燃え上つた。一束《ひとたば》の古手紙へ油を濺《そゝ》いで、それを綺麗に庭先で燒き盡してゐる津田の姿が、あり/\と彼女の眼に映つた。其時めら/\と火に化して舞ひ上る紙片《かみきれ》を、津田は恐ろしさうに、竹の棒で抑へ付けてゐた。それは初秋《はつあき》の冷たい風が肌《はだへ》を吹き出した頃の出來事であつた。さうしてある日曜の朝であつた。二人差向ひで食事を濟ましてから、五分と經たないうちに起つた光景であつた。箸を置くと、すぐ二階から細い紐で絡《から》げた包を抱《かゝ》へて下りて來た津田は、急に勝手口から庭先へ廻つたと思ふと、もう其包に火を點《つ》けてゐた。お延が縁側へ出た時には、厚い上包が既に焦《こ》げて、中にある手紙が少しばかり見えてゐた。お延は津田に何でそれを燒き捨てるのかと訊いた。津田は嵩《かさ》ばつて始末に困るからだと答へた。何故《なぜ》反故《ほご》にして、自分達の髪を結《ゆ》ふ時などに使はせないのかと尋ねたら、津田は何とも云はなかつた。たゞ底から現はれて來る手紙を無暗に竹の棒で突ツついた。突ツつくたびに、火になり切れない濃い烟が渦を卷いて棒の先に起つた。渦《うづ》は青竹の根を隱すと共に、抑へつけられてゐる手紙をも隱した。津田は烟に咽《むせ》ぶ顔をお延から背《そむ》けた。……
 お時が午飯《ひるめし》の催促に上《あが》つて來る迄、お延は斯《こ》んな事を考へつゞけて作りつけの人形のやうに凝《じつ》と坐り込んでゐた。
 
     九十
 
 時間はいつか十二時を過ぎてゐた。お延は又お時の給仕で獨り膳に向つた。それは津田の會社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課に外ならなかつた。けれども今日のお延は何時《いつ》ものお延ではなかつた。彼女の樣子は剛張《こはば》つてゐた。其癖心は纒まりなく動いてゐた。先刻《さつき》出掛けようとして着換へた着物迄、平生《ふだん》と違つた餘所行《よそゆき》の氣持を餘分に添へる媒介《なかだち》となつた。
 若し今の自分に觸れる問題が、お時の口から洩れなかつたなら、お延は遂に一言《ひとこと》も言はずに、食事を濟ましてしまつたかも知れなかつた。其食事さへ、實を云ふと、丸《まる》で氣が進まなかつたのを、お時に疑ぐられるのが厭さに、ほんの形式的に片付けようとして、膳に着いた丈《だけ》であつた。
 お時も何だか遠慮でもするやうに、わざと談話を控へてゐた。然しお延が一膳で箸を置いた時、漸く「何うか遊ばしましたか」と訊いた。さうしてたゞ「いゝえ」といふ返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかつた。
 「何うも濟みませんでした」
 彼女は自分の專斷で病院へ行つた詫《わび》を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があつた。
 「先刻《さつき》は隨分大きな聲を出したでせう。下女部屋の方迄聞こえたかい」
 「いゝえ」
 お延は疑《うたぐ》りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるやうにすぐ云つた。
 「あのお客さまは、隨分――」
 然しお延は何にも答へなかつた。靜かに後を待つてゐる丈《だけ》なので、お時は自分の方で後を付けなければならなかつた。二人の談話は是が緒口《いとくち》で先へ進んだ。
 「旦那樣は驚ろいてゐらつしやいました。隨分|非道《ひど》い奴だつて。此方《こつち》から取りに來いとも何とも云はないのに、斷りもなく奧樣と直談判《ぢきだんぱん》を始めたり何かして、しかも自分が病院に入《はい》つてゐる事を能く承知してゐる癖につて」
 お延は輕蔑《さげす》んだ笑ひを微《かす》かに洩らした。然し自分の批評は加へなかつた。
 「まだ外に何か仰しやりやしなかつたかい」
 「外套|丈《だけ》遣つて早く返せつて仰しやいました。それから奧さんと話しをしてゐるかと御訊きになりますから、話しをしてゐらつしやいますと申し上げましたら、大變厭な顔をなさいました」
 「さうかい。それぎりかい」
 「いえ、何を話してゐるのかと御訊きになりました」
 「それでお前は何とお答へをしたの」
 「別にお答へをしようが御座いませんから、それは存じませんと申し上げました」
 「さうしたら」
 「さうしたら、猶《なほ》厭な顏をなさいました。一體座敷なんかへ無暗に上《あが》り込《こ》ませるのが間違つてゐる――」
 「そんな事を仰《おつし》やつたの。だつて昔からのお友達なら仕方がないぢやないの」
 「だから私もさう申し上げたので御座いました。それに奧さまは丁度お召換《めしかへ》をしてゐらつしやいましたので、すぐ玄關へお出《で》になる譯に行かなかつたのだから已《やむ》を得《え》ませんて」
 「さう。さうしたら」
 「さうしたら、お前はもと岡本さんにゐた丈《だけ》あつて、奧さんの事といふと、何でも熱心に辯護するから感心だつて、冷評《ひや》かされました」
 お延は苦笑した。
 「何うも御氣の毒さま。それつきり」
 「いえ、まだ御座います。小林は酒を飲んでやしなかつたかとお訊きになるんです。私は能く氣が付きませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝つぱらから醉拂つて、他《ひと》の家《うち》へお客に入らつしやる方もあるまいと思ひましたから、――」
 「醉つちやゐらつしやらないと云つたの」
 「えゝ」
 お延はまだ後があるだらうといふ樣子を見せた。お時は果して話を其所で切り上げなかつた。
 「奧さま、あの旦那樣が、歸つたら能く奧さまに左右《さう》云へと仰《おつし》やいました」
 「なんと」
 「あの小林つて奴は何をいふか分らない奴だ、ことに醉うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云つても決して取り合つちや不可《いけな》い。まあみんな嘘だと思つてゐれば間違はないんだからつて」
 「さう」
 お延は是以上何も云ふ氣にならなかつた。お時は一人でげら/\笑つた。
 「堀の奧さまも傍《そば》で笑つてゐらつしやいました」
 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に來てゐた事を知つた。
 
     九十一
 
 お延より一つ年上の其妹は、もう二人の子持であつた。長男は既に四年前に生れてゐた。單に母であるといふ事實が、彼女の自覺を呼び醒ますには充分であつた。彼女の心は四年以來|何時《いつ》でも母であつた。母でない日はたゞの一日もなかつた。
 彼女の夫《をつと》は道樂ものであつた。さうして道樂ものに能く見受けられる寛大の氣性を具へてゐた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にも六づかしい顔を見せない、と云つて無暗に可愛《かはい》がりもしない。是が彼のお秀に對する態度であつた。彼はそれを得意にしてゐた。道樂の修業を積んで始めてさういふ境界《きやうがい》に達せられるもののやうに考へてゐた。人世觀といふ嚴《いか》めしい名を付けて然るべきものを、もし彼が有《も》つてゐるとすれば、それは取りも直さず、物事に生温《なまぬる》く觸れて行く事であつた。微笑して過ぎる事であつた。何《なん》にも執着しない事であつた。呑氣《のんき》に、づぼらに、淡泊に、鷹揚《おうやう》に、善良に、世の中を歩いて行く事であつた。それが彼の所謂《いはゆる》通《つう》であつた。金に不自由のない彼は、今迄それ丈《だけ》で押し通して來た。又何處へ行つても不足を感じなかつた。此好成蹟が益《ます/\》彼を樂天的にした。誰からでも好かれてゐるといふ自信を有《も》つた彼は、無論お秀からも好かれてゐるに違ないと思ひ込んでゐた。さうしてそれは間違でも何でもなかつた。實際彼はお秀から嫌はれてゐなかつたのである。
 器量望みで貰はれたお秀は、堀の所へ片付いてから始めて夫《をつと》の性質を知つた。放蕩の酒で臓腑を洗濯されたやうな彼の趣《おもむき》も漸く解する事が出來た。斯《こ》んなに拘泥の少ない男が、また何の必要があつて、是非自分を貰ひたいなどと、眞面目に云ひ出したものだらうかといふ不審さへ、すぐ有耶無耶《うやむや》のうちに葬られてしまつた。お延ほど根強くない彼女は、其意味を覺る前に、もう妻としての興味を夫《をつと》から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注《そゝ》がなければならなくなつた。
 お秀のお延と違ふ所は是《これ》丈《だけ》ではなかつた。お延の新世帶《しんしよたい》が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れてゐるのに反して、堀には母があつた。弟も妹も同居してゐた。親類の厄介者迄ゐた。自然の勢ひ彼女は夫《をつと》の事ばかり考へてゐる譯に行かなかつた。中でも母には、他《ひと》の知らない氣苦勞をしなければならなかつた。
 器量望みで貰はれた丈《だけ》あつて、外側から見たお秀は何時《いつ》迄《まで》經つても若かつた。一つ年下のお延に比べて見ても矢つ張り若かつた。四歳《よつつ》の子持とは何うしても考へられない位であつた。けれどもお延と違つた家庭の事情の下《もと》に、過去の四五年を費やして來た彼女は、何處かにまたお延と違つた心得を有《も》つてゐた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云つて、慥《たしか》にお延よりも老《ふ》けてゐた。言語態度が老《ふ》けてゐるといふよりも、心が老《ふ》けてゐた。いはゞ、早く世帶染《しよたいじ》みたのである。
 斯ういふ世帶染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼等に對する不滿があつた。其不滿が、何か事さへあると、兎角彼女を京都にゐる父母《ちゝはゝ》の味方にしたがつた。彼女はそれでも成るべく兄と衝突する機會を避けるやうにしてゐた。ことに嫂《あによめ》に氣不味《きまづ》い事をいふのは、直接兄に當るよりも猶《なほ》惡いと思つて、平生から愼しんでゐた。然し腹の中は寧ろ反對であつた。何かいふ兄よりも何も云はないお延の方に、彼女はいつでも餘分の非難を投げ掛けてゐた。兄がもしあれ程|派手好《はでず》きな女と結婚しなかつたならばといふ氣が、始終胸の底にあつた。さうしてそれは身贔屓《みびいき》に過ぎない、お延に氣の毒な批判であるといふ事には、かつて思ひ至らなかつた。
 お秀は自分の立場を能く承知してゐる積《つもり》でゐた。兄夫婦から烟《けむ》たがられない迄も、決して快よく思はれてゐない位の事には、氣が付いてゐた。然し自分の立場を改めようといふ考は、彼女の頭の何處にも入《はい》つて來なかつた。第一には二人が厭がるから猶《なほ》改めないのであつた。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に歸着してくるので、彼女は其所に反抗の意地を出したくなつたのである。第二には正しいといふ良心が働らいてゐた。是はいくら厭がられても兄の爲だと思へば構はないといふ主張であつた。第三は單に派手好《はでずき》なお延が嫌《きらひ》だといふ一點に纒められて仕舞はなければならなかつた。お延より餘裕のある、又お延より贅澤の出來る彼女にして、其點では自分以下のお延が何故《なぜ》氣に喰はないのだらうか。それはお秀にとつて何の問題にもならなかつた。但しお秀には姑《しうと》があつた。さうしてお延は夫《をつと》を除けば全く自分自身の主人公であつた。然しお秀は此問題に闘聯して此相違すら考へなかつた。
 お秀がお延から津田の消息を電話で訊かされて、其翌日病院へ見舞に出掛けたのは、お時の行く小一時間前、丁度小林が外套を受取らうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であつた。
 
     九十二
 
 前の晩能く寐られなかつた津田は、其朝看護婦の運んで來て呉れた膳に一寸手を出したぎり、又|仰向《あふむけ》になつて、昨夕《ゆうべ》の不足を取り返すために、重たい眼を閉《つぶ》つてゐた。お秀の入《はい》つて來たのは、丁度彼がうと/\と半睡状態に入《い》り掛《か》けた間際だつたので、彼は襖《ふすま》の音ですぐ眼を覺ました。さうして病人に斟酌《しんしやく》を加へる積《つもり》で、わざとそれを靜かに開けたお秀と顔を見合せた。
 斯ういふ場合に彼等は決して愛嬌を賣り合はなかつた。嬉しさうな表情も見せ合はなかつた。彼等からいふと、それは寧ろ陳腐過《ちんぷす》ぎる社交上の形式に過ぎなかつた。それから一種の虚僞に近い努力でもあつた。彼等には自分等|兄妹《きやうだい》でなくては見られない、又自分等以外の他人には通用し惡《にく》い黙契があつた。何うせお互ひに好く思はれよう、好く思はれようと意識して、上部《うはべ》の所作《しよさ》丈《だけ》を人並に盡したところで、今更始まらないんだから、一層《いつそ》下手に騙し合ふ手數《てかず》を省いて、良心に背かない顔其儘で、面と向き合はうぢやないかといふ無言の相談が、多年の間に何時《いつ》か成立して仕舞つたのである。さうして其良心に背《そむ》かない顔といふのは、取《とり》も直《なほ》さず、愛嬌のない顔といふ事に過ぎなかつた。
 第一に彼等は普通の兄妹《きやうだい》として親しい間柄であつた。だから遠慮の要らないといふ意味で、不愛嬌な挨拶が苦にならなかつた。第二に彼等は何處かに調子の合はない所を有《も》つてゐた。それが災《わざはひ》の元で、互の顔を見ると、互に彈《はじ》き合《あ》ひたくなつた。
 不圖《ふと》首を上げて其所にお秀を見出《みいだ》した津田の眼には、正に斯うした二重の意味から來る不精《ぶしやう》と不關心があつた。彼は何物をか待ち受けてゐるやうに、一旦きつと上げた首を又枕の上に横たへて仕舞つた。お秀は又お秀で、それには一向《いつかう》頓着なく、言葉も掛けずに、そつと室《へや》の内に入《はい》つて來た。
 彼女は何より先にまづ、枕元にある膳を眺めた。膳の上は汚ならしかつた。横倒しに引ツ繰り返された牛乳の罎の下に、鷄卵《たまご》の穀《から》が一つ、其重みで押し潰されて居る傍《そば》に、齒痕《はがた》の付いた燒?麭《トースト》が食缺《くひかけ》の儘投げ出されてあつた。しかも外にまだ一枚手を付けないのが、綺麗に皿の上に載つてゐた。玉子もまだ一つ殘つてゐた。
 「兄さん、こりやもう濟んだの。まだ食べ掛けなの」
 實際津田の片付けかたは、何方《どつち》にでも取れる樣な、だらしのないものであつた。
 「もう濟んだんだよ」
 お秀は眉をひそめて、膳を階子段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》迄《まで》運び出した。看護婦の手が隙《す》かなかつたためか、何時《いつ》迄《まで》も兄の枕元に取り散らかされてゐる朝食《あさめし》の殘骸《なきがら》は、掃除の行き屆いた自分の家《うち》を今出掛けて來たばかりの彼女に取つて、餘り見つとも可《い》いものではなかつた。
 「汚ならしい事」
 彼女は誰に小言を云ふともなく、たゞ一人斯う云つて元の座に歸つた。然し津田は黙つて取り合はなかつた。
 「何うして己《おれ》の此所に居る事が知れたんだい」
 「電話で知らせて下すつたんです」
 「お延がかい」
 「えゝ」
 「知らせないでも可《い》いつて云つたのに」
 今度はお秀の方が取り合はなかつた。
 「すぐ來《き》ようと思つたんですけれども、生憎《あいにく》昨日《きのふ》は少し差支があつて――」
 お秀はそれぎり後を云はなかつた。結婚後の彼女には、斯ういふ風に物を半分ぎりしか云はない癖が何時《いつ》の間《ま》にか出て來た。場合によると、それが津田には變に受取れた。「嫁に行つた以上、兄さんだつてもう他人ですからね」といふ意味に解釋される事が時々あつた。自分達夫婦の間柄を考へて見ても、其所に無理はないのだと思ひ返せない程理窟の徹《とほ》らない頭を有《も》つた津田では無論なかつた。それどころか、彼は此妹のやうな態度で、お延が外《そと》へ對して振舞つて呉れゝば好いがと、暗《あん》に希望してゐた位であつた。けれども自分がお秀にさうした素振《そぶり》を見せられて見ると決して好い氣持はしなかつた。さうして自分こそ絶えずお秀に對してさういふ素振《そぶり》を見せてゐるのにと反省する暇も何にもなくなつて仕舞つた。
 津田は後を訊かずに思ふ通りを云つた。
 「なに今日だつて、忙がしい所をわざ/\來て呉れるには及ばないんだ。大した病氣ぢやないんだから」
 「だつて嫂《ねえ》さんが、もし閑《ひま》があつたら行つて上げて下さいつて、わざ/\電話で仰しやつたから」
 「さうかい」
 「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
 津田は漸く頭をお秀の方へ向けた。
 
     九十三
 
 手術後局部に起る變な感じが彼を襲つて來た。それはガーゼを詰め込んだ創口《きずぐち》の周圍にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかつたけれども、一旦始まつたが最後、恰《あたか》も呼吸か脉搏《みやくはく》のやうに、規則正しく進行して已《や》まない種類のものであつた。
 彼は一昨日《をとゝひ》の午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾を彼から得たお延が、階子段《はしごだん》を下へ降りて行つた拍子に起つた此經驗は、彼に取つて全然新らしいものではなかつた。此前療治を受けた時、既に同じ現象の發見者であつた彼は、思はず「又始まつたな」と心の中《うち》で叫んだ。すると苦《にが》い記憶をわざと彼の爲に繰り返して見せるやうに、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉が縮む、詰め込んだガーゼで荒々しく其肉を擦《こ》すられた氣持がする、次にそれが段々緩和されて來る、やがて自然の状態に戻らうとする、途端に一度引いた浪が又磯へ打ち上げるやうな勢で、収縮感が猛烈に振《ぶ》り返《かへ》してくる。すると彼の意志は其局部に對して全く平生の命令權を失つてしまふ。止《や》めさせようと焦慮《あせ》れば焦慮《あせ》る程、筋肉の方で猶《なほ》云ふ事を聞かなくなる。――是が過程であつた。
 津田は此變な感じとお延との間に何《ど》んな連絡があるか知らなかつた。彼は籠の中の鳥見たやうに彼女を取扱ふのが氣の毒になつた。何時《いつ》迄《まで》も彼女を自分の傍《そば》に引き付けて置くのを男らしくないと考へた。それで快よく彼女を自由な空氣の中に放して遣つた。然し彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分|丈《だけ》一人取り殘されたやうな氣がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄關の扉を開ける時、烈しく鳴らした號鈴《ベル》の音さへ彼には餘り無遠慮過ぎた。彼が局部から受ける厭な筋肉の感じは丁度此時に再發したのである。彼はそれを一種の刺戟に歸した。さうして其刺戟は過敏にされた神經のお蔭に外ならないと考へた。ではお延の行爲が彼の神經をそれ程過敏にしたのだらうか。お延の所作《しよさ》に對して突然不快を感じ出した彼も、其所迄は論斷する事が出來なかつた。然し全く偶然の暗合《あんがふ》でない事も、彼に云はせると、自明の理であつた。彼は自分|丈《だけ》の料簡で、二つの間にある關係を拵へた。同時に其闘係を後からお延に云つて聞かせて遣りたくなつた。單に彼女を氣の毒がらせるために、病氣で寐てゐる夫《をつと》を捨てゝ、一日の歡樂に走つた結果の惡かつた事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適當に云ひ現はす言葉を知らなかつた。たとひ云ひ現はしても彼女に通じない事は慥《たしか》であつた。通じるにしても、自分の思ひ通りに感じさせる事は六づかしかつた。彼は黙つて心持を惡くしてゐるより外に仕方がなかつた。
 お秀の方を向き直つた咄嗟《とつさ》に、又感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田に是《これ》丈《だけ》の?末《てんまつ》を思ひ起させた。彼は苦《にが》い顔をした。
 何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分る筈はなかつた。彼女はそれを兄が何時《いつ》でも自分に丈《だけ》して見せる例の表情に過ぎないと解釋した。
 「お厭なら病院をお出《で》になつてから後にしませうか」
 別に同情のある態度も示さなかつた彼女は、それでも幾分か斟酌《しんしやく》しなければならなかつた。
 「何處か痛いの」
 津田はたゞ首肯《うなづ》いて見せた。お秀はしばらく黙つて彼の樣子を見てゐた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に續いた。其沈黙の續いてゐる間彼は苦《にが》い顔を改めなかつた。
 「そんなに痛くつちや困るのね。嫂《ねえ》さんは何うしたんでせう。昨日《きのふ》の電話ぢや痛みも何にもないやうなお話しだつたのにね」
 「お延は知らないんだ」
 「ぢや嫂《ねえ》さんが歸つてから後で痛み始めたの」
 「なに本當はお延のお蔭で痛み始めたんだ」とも云へなかつた津田は、此時急に自分が自分に駄々《だゞ》つ子《こ》らしく見えて來た。上部《うはべ》は兎に角、腹の中が如何にも兄らしくないのが耻づかしくなつた。
 「一體お前の用といふのは何だい」
 「なに、そんなに痛い時に話さなくつても可《い》いのよ。又にしませう」
 津田は優に自分を僞《いつは》る事が出來た。しかし其時の彼は僞《いつは》るのが厭であつた。彼はもう局部の感じを忘れてゐた。収縮は忘れゝば已《や》み、已《や》めば忘れるのを其特色にしてゐた。
 「構はないからお話しよ」
 「何うせあたしの話だから碌《ろく》な事ぢやないのよ。可《よ》くつて」
 津田にも大よその見當は付いてゐた。
 
     九十四
 
 「またあの事だらう」
 津田はしばらく間《ま》を置いて、仕方なしに斯う云つた。然し其時の彼はもう例《いつも》の通り聽きたくもないといふ顏付に返つてゐた。お秀は心で此矛盾を腹立たしく感じた。
 「だからあたしの方ぢや先刻《さつき》から用は今度《こんだ》の次にしようかと云つてるんぢやありませんか。それを兄さんがわざ/\催促するように仰しやるから、ついお話しする氣にもなるんですわ」
 「だから遠慮なく話したら可《い》いぢやないか。どうせお前は其《その》積《つもり》で來たんだらう」
 「だつて、兄さんがそんな厭な顏をなさるんですもの」
 お秀は少くとも兄に對してなら厭な顏位で會釋を加へる女ではなかつた。從つて津田も氣の毒になる筈がなかつた。却つて妹の癖に餘計な所で自分を非難する奴だ位に考へた。彼は取り合はずに先へ通《とほ》り過《こ》した。
 「また京都から何か云つて來たのかい」
 「えゝまあそんな所よ」
 津田の所へは父の方から、お秀の許《もと》へは母の側《がは》から、京都の消息が重に傳へられる事に畧《ほゞ》極つてゐたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかつた。然し目下の境遇から云つて、お秀の母から受け取つたといふ手紙の中味にはまた冷淡であり得る筈がなかつた。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無《うむ》を心のうちで氣遣つてゐたのである。兄妹《きやうだい》の間に「あの事」として通用する事件は、成るべく聽くまいと用心しても、月末《げつまつ》の仕拂や病院の入費の出所《でどころ》に多大の利害を感じない譯に行かなかつた津田は、また此二つのものが互に困絡《こんがら》かつて、離す事の出來ない事情の下《もと》にある意味合《いみあひ》を、お秀よりも能く承知してゐた。彼は何うしても積極的に自分から押して出なければならなかつた。
 「何と云つて來たい」
 「兄さんの方へもお父さんから何か云つて來たでせう」
 「うん云つて來た。そりや話さないでも大抵お前に解つてるだらう」
 お秀は解つてゐるともゐないとも答へなかつた。たゞ微《かす》かに薄笑の影を締りの好い口元に寄せて見せた。それが如何にも兄に打ち勝つた得意の色をほのめかすやうに見えるのが津田には癪だつた。平生は單に妹であるといふ因縁づくで、少しも自分の眼に付かないお秀の器量が、斯う云ふ時に限つて、惡く彼を刺戟した。なまじい容色が十人並以上なので、此女は餘計|他《ひと》の感情を害するのではなからうかと思ふ疑惑さへ、彼に取つては一度や二度の經驗ではなかつた。「お前は器量望みで貰はれたのを、生涯自慢にする氣なんだらう」と云つて遣りたい事も?《しば/\》あつた。
 お秀はやがてきちりと整つた眼鼻を揃へて兄に向つた。
 「それで兄さんは何うなすつたの」
 「何うも仕樣がないぢやないか」
 「お父さんの方へは何にも云つてお上げにならなかつたの」
 津田はしばらく黙つてゐた。それから左《さ》も已《やむ》を得ないといつた風に答へた。
 「云つて遣つたさ」
 「さうしたら」
 「さうしたら、まだ何とも返事がないんだ。尤も家《うち》へはもう來てゐるかも知れないが、何しろお延が來て見なければ、其所も分らない」
 「然しお父さんが何《ど》んなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見當が付いて」
 津田は何とも答へなかつた。お延の拵らへて呉れた褞袍《どてら》の襟を手探りに探つて、黒八丈《くろはちぢやう》の下から拔き取つた小楊枝《こやうじ》で、頻りに前齒をほぢくり始めた。彼が何時《いつ》迄《まで》も黙つてゐるので、お秀は同じ意味の質問を外の言葉で掛け直した。
 「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思つてゐらつしやるの」
 「知らないよ」
 津田はぶつきら棒に答へた。さうして腹立たしさうに後を付け加へた。
 「だからお母さんはお前の所へ何と云つて來たかつて、先刻《さつき》から訊いてるぢやないか」
 お秀はわざと眼を反《そ》らして縁側の方を見た。それは彼の前であゝ、あゝと嘆息して見せる所作《しよさ》の代りに過ぎなかつた。
 「だから云はない事ぢやないのよ。あたし始から斯うなるだらうと思つてたんですもの」
 
     九十五
 
 津田は漸くお秀|宛《あて》で來た母の手紙の中に、何《ど》んな事柄が書いてあるかを聞いた。妹の口から傳へられた其内容によると、父の怒りは彼の豫期以上に烈しいものであつた。月末の不足を自分で才覺《さいかく》するなら格別、もしそれさへ出來ないといふなら、是から先の送金も、見せしめのため、當分見合せるかも知れないといふのが父の實際の考へらしかつた。して見ると、此間彼の所へさう云つて來た垣根の繕《つくろ》ひだとか家賃の滯《とゞこほ》りだとかいふのは嘘でなければならなかつた。よし嘘でないにした所で、單に口先の云ひ前と思はなければならなかつた。父がまた何で彼に對してそんなしらじらしい他人行儀を云つて寄こしたものだらう。叱るならもつと男らしく叱つたら宜ささうなものだのに。
 彼は沈吟《ちんぎん》して考へた。山羊髯を生やして、萬事に勿體《もつたい》を付けたがる父の顔、意味もないのに束髪を嫌つて髷《まげ》にばかり結《ゆ》ひたがる母の頭、その位の特色は此場合を解釋する何の手掛りにもならなかつた。
 「一體兄さんが約束通りになさらないから惡いのよ」とお秀が云つた。事件以後何度となく彼女によつて繰り返される此言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかつた。約束通りにしないのが惡い位は、妹に教はらないでも、能く解つてゐた。彼はたゞ其必要を認めなかつた丈《だけ》なのである。さうして其立場を他《ひと》からも認めて貰ひたかつたのである。
 「だつてそりや無理だわ」とお秀が云つた。「いくら親子だつて約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さん丈《だけ》の事なら、何うでも可《い》いでせうけれども」
 お秀には自分の良人《をつと》の堀がそれに關係してゐるといふ事が一番重要な問題であつた。
 「良人《うち》でも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
 學校を卒業して、相當の職にありついて、新らしく家庭を構へる以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、獨立した生計を營なんで行かなければならないといふ父の意見を翻《ひる》がへさせたものは堀の力であつた。津田から頼まれて、また無雜作にそれを引き受けた堀は、物價の騰貴、交際の必要、時代の變化、東京と地方との區別、色々都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤儉一方の父を口説《くど》き落《おと》したのである。其代り盆暮に津田の手に渡る賞與の大部分を割《さ》いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるといふ方針を立てたのも彼であつた。其案の成立と共に責任の出來た彼は又至極|呑氣《のんき》な男であつた。約束の履行などゝいふ事は、最初から深く考へなかつたのみならず、遂行の時期が來た時分には、もうそれを忘れてゐた。詰責《きつせき》に近い手紙を津田の父から受取つた彼は、殆んど此事件を念頭に置いてゐなかつた丈《だけ》に、驚ろかされた。然し現金の綺麗に消費されてしまつた後で、氣が付いた所で、何うする譯にも行かなかつた。樂天的な彼はたゞ申し譯の返事を書いて、それを終了と心得てゐた。所が世間は自分のヅボラに適當するやうに出來上つてゐないといふ事を、彼は津田の父から教へられなければならなかつた。津田の父は何時《いつ》迄《まで》經つても彼を責任者扱ひにした。
 同時に津田の財力には不相應と見える位な立派な指輪がお延の指に輝き始めた。さうして始めにそれを見付け出したものはお秀であつた。女同志の好奇心が彼女の神經を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を賞《ほ》めた。賞めた序《ついで》にそれを買つた時と所とを突き留めようとした。堀が保證して成立した津田と父との約束を丸《まる》で知らなかつたお延は、平生の用心にも似ず、其點にかけて、全く無邪氣であつた。自分が何《ど》の位《くらゐ》津田に愛されてゐるかを、お秀に示さうとする努力が、凡《すべ》ての顧慮に打ち勝つた。彼女は有《あり》の儘《まゝ》をお秀に物語つた。
 不斷から派手過《はです》ぎる女としてお延を多少惡く見てゐたお秀は、すぐ其?末を京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知してゐる癖に、わざと夫《をつと》を唆《そゝ》のかして、返される金を返さないやうにさせたのだといふ風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に對する虚榮心から、内状をお延に打ち明けなかつたのを、お秀はお延自身の虚榮心ででもあるやうに、頭から極めてかかつたのである。さうして自分の誤解を其儘京都へ傳へてしまつたのである。今でも彼女は其誤解から逃《のが》れる事が出來なかつた。從つて此事件に關係していふと、彼女の相手は兄の津田よりも寧ろ嫂《あによめ》のお延だと云つた方が適切かも知れなかつた。
 「一體|嫂《ねえ》さんは何ういふ積《つもり》でゐらつしやるんでせう。こんだの事に就いて」
 「お延に何にも關係なんかありやしないぢやないか。あいつにや何にも話しやしないんだもの」
 「さう。ぢや嫂《ねえ》さんが一番氣樂で可《い》いわね」
 お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云つて、ぴか/\する厚い帶を電燈の光に差し突けたお延の姿が、鮮かに見えた。
 
     九十六
 
 「一體何うしたら可《い》いんでせう」
 お秀の言葉は不謹愼な兄を困らせる意味にも取れるし、又自分の當惑を洩らす表現にもなつた。彼女には夫《をつと》の手前といふものがあつた。夫《をつと》よりも猶《なほ》遠慮勝な姑《しうと》さへ其奧には控へてゐた。
 「そりや良人《うち》だつて兄さんに頼まれて、口は利いたやうなものゝ、其所迄責任を有《も》つ積《つもり》でもなかつたんでせうからね。と云つて、何もあれは無責任だと今更お斷りをする氣でもないでせうけれども。兎に角萬一の場合には斯う致しますからつて證文を入れた譯でもないんだから、さうお父さんの樣に、法律づくめに解釋されたつて、あたしが良人《うち》へ對して困る丈《だけ》だわ」
 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるより外に道がなかつた。然し腹の中では彼女に對して氣の毒だといふ料簡が何處にも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して來た。彼女は自分の前に甚だ横着な兄を見た。其兄は自分の便利より外に殆んど何にも考へてゐなかつた。もし考へてゐるとすれば新らしく貰つた細君の事|丈《だけ》であつた。さうして彼は其細君に甘くなつてゐた。寧ろ自由にされてゐた。細君を滿足させるために、外部に對しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかつた。
 兄を斯う見てゐる彼女は、津田に云はせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取つて兄に向つた。それを遠慮のない言葉で云ひ現はすと、「兄さんの困るのは自業自得だから仕樣がないけれども、あたしの方の始末は何う付けて呉れるのですか」といふやうな露骨千萬なものになつた。
 津田は何うするとも云はなかつた。又何うする氣もなかつた。却つて想像に困難なものとして父の料簡をお秀の前に問題とした。
 「一體お父さんこそ何ういふ積《つもり》なんだらう。突然金を送らないとさへ宣告すれば、由雄は工面するに違ないとでも思つてゐるのか知ら」
 「其所なのよ、兄さん」
 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。さうして又付け加へた。
 「だからあたしが良人《うち》に對して困るつて云ふのよ」
 微《かす》かな暗示が津田の頭に閃めいた。秋口《あきぐち》に見る稻妻のやうに、それは遠いものであつた、けれども鋭どいものに違なかつた。それは父の品性に關係してゐた。今迄全く氣が付かずにゐたといふ意味で遠いといふ事も云へる代りに、一旦氣が付いた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるといふ點では、子としての津田に、隨分鋭どく切り込んで來る性質《たち》のものであつた。心のうちで劈頭《へきとう》に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云ひ直さなければならなくなつた。
 臆斷の鏡によつて照らし出された、父の心理状態は、下《しも》のやうな順序で、豫期通りの結果に到着すべく仕組まれてゐた。――最初に體《てい》よく送金を拒絶する。津田が困る。今迄の行掛《いきがゝ》り上《じやう》堀に譯を話す。京都に對して責任を感ずべく餘儀なくされてゐる堀は、津田の窮を救ふ事によつて、始めて父に對する保證の義務を果す事が出來る。それで否應《いやおう》なしに例月分を立て替へて呉れる。父はたゞ禮を云つて澄ましてゐる。
 斯う段落を付けて考へて見ると、そこには或種の要心があつた。相當な理窟もあつた。或程度の手腕は無論認められた。同時に何等の淡泊さがそこには存在してゐなかつた。下劣と迄行かないでも、狐臭い狡獪《かうくわい》な所も少しはあつた。小額の金に對する度外《どはづ》れの執着心が殊更に目立つて見えた。要するに凡《すべ》てが父らしく出來てゐた。
 外の點で何う衝突しやうとも、父の斯うした遣口《やりくち》に感心しないのは、津田と雖もお秀に讓らなかつた。有《あら》ゆる意味で父の同情者でありながら、此一點になると、流石《さすが》のお秀も津田と同じやうに眉を顰《ひそ》めなければならなかつた。父の品性。それは寧ろ別問題であつた。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思はなかつた。お秀は又兄夫婦に對して好い感情を有《も》つてゐなかつた。其上|夫《をつと》や姑《しうと》への義理もつらく考へさせられた。二人はまづ實際問題を何う片付けて可《い》いかに苦しんだ。其癖口では双方とも底の底迄突き込んで行く勇氣がなかつた。互ひの忖度《そんたく》から成立つた父の料簡は、たゞ會話の上で黙認し合ふ程度に發展した丈《だけ》であつた。
 
     九十七
 
 感情と理窟の縺《もつ》れ合《あ》つた所を解《ほ》ごしながら前へ進む事の出來なかつた彼等は、何處迄もうね/\歩いた。局所に觸るやうな又觸らないやうな双方の態度が、心のうちで双方を焦烈《じれ》つたくした。然し彼等は兄妹《きやうだい》であつた。二人共ねち/\した性質を共通に具へてゐた。相手の淡泊《さつぱり》しない所を暗《あん》に非難しながらも、自分の方から爆發するやうな不體裁《ふていさい》は演じなかつた。たゞ津田は兄|丈《だけ》に、又男|丈《だけ》に、話を一點に括《くゝ》る手際をお秀より餘計に有《も》つてゐた。
 「つまりお前は兄さんに對して同情がないと云ふんだらう」
 「左右《さう》ぢやないわ」
 「でなければお延に同情がないといふんだらう。そいつはまあ何方《どつち》にしたつて同《おん》なじ事だがね」
 「あら、嫂《ねえ》さんの事をあたし何とも云つてやしませんわ」
 「要するに此事件に就いて一番惡いものは己《おれ》だと、結局斯うなるんだらう。そりや今更説明を伺はなくつても能く兄さんには解つてる。だから好いよ。兄さんは甘んじて其罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰はないで生きて行くよ」
 「兄さんにそんな事が出來て」
 お秀の兄を冷笑《あざ》けるやうな調子が、すぐ津田の次の言葉を喚《よ》び起《おこ》した。
 「出來なければ死ぬ迄の事さ」
 お秀は遂にきりりと緊《しま》つた口元を少し緩めて、白い齒を微《かす》かに見せた。津田の頭には、電燈の下で光る厚帶を弄《いぢ》くつてゐるお延の姿が、再び現れた。
 「いつそ今迄の經濟事情を殘らずお延に打ち明けてしまはうか」
 津田に取つてそれ程|容易《たやす》い解決法はなかつた。然し行き掛りから云ふと、是程また困難な自白はなかつた。彼はお延の虚榮心をよく知り拔いてゐた。それに出來る丈《だけ》の滿足を與へる事が、また取《とり》も直《なほ》さず彼の虚榮心に外ならなかつた。お延の自分に對する信用を、女に大切な其|一角《いつかく》に於て突き崩すのは、自分で自分に打撲傷を與へるやうなものであつた。お延に氣の毒だからといふ意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないといふのが彼の大きな苦痛になつた。其《その》位《くらゐ》の事をと他《ひと》から笑はれるやうな斯《こ》んな小さな場合ですら、彼はすぐ動く氣になれなかつた。家《いへ》には現に金がある、お延に對して自己の體面を保つには有餘る程の金がある。のにといふ勝手な事實の方が何うしても先に立つた。
 其上彼は何《ど》んな時にでもむかつ腹を立てる男ではなかつた。己《おの》れを忘れるといふ事を非常に安つぽく見る彼は、また容易に己《おの》れを忘れる事の出來ない性質《たち》に父母から生み付けられてゐた。
 「出來なければ死ぬ迄さ」と放《はふ》り出《だ》すやうに云つた後で、彼はまだお秀の樣子を窺《うかゞ》つてゐた。腹の中に言葉通りの斷乎たる何物も出て來ないのが耻づかしいとも何とも思へなかつた。彼は寧ろ冷やかに胸の天秤を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量《しやうりやう》した。さうして一層《いつそ》二つのうちで後の方を冒したら何《ど》んなものだらうかと考へた。それに應ずる力を充分|有《も》つてゐたお秀は、第一兄の心から後悔してゐないのを慊《あきた》らなく思つた。兄の後《うしろ》に御本尊のお延が澄まして控へてゐるのを惡《にく》んだ。夫《をつと》の堀を此事件の責任者ででもあるやうに見傚《みな》して、京都の父が遠廻しに持ち掛けて來るのが如何にも業腹《ごふはら》であつた。そんなこんなの蟠《わだか》まりから、津田の意志が充分見え透いて來た後《あと》でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事を敢てしなかつた。
 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行つたお秀に對する津田の態度も、また一種の自尊心に充ちてゐた。彼は成上《なりあが》りものに近いある臭味《しうみ》を結婚後の此妹に見出《みいだ》した。或は見出したと思つた。何時《いつ》か兄といふ嚴《いか》めしい具足《ぐそく》を着けて彼女に對するやうな氣分に支配され始めた。だから彼と雖も妄《みだ》りにお秀の前に頭を下げる譯には行かなかつた。
 二人はそれで何方《どつち》からも金の事を云ひ出さなかつた。さうして兩方共兩方で云ひ出すのを待つてゐた。其※[者/火]え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで來て、二人の拵らへ掛けてゐた局面を、一度に崩してしまつたのである。
 
     九十八
 
 然しお時のぢかに來る前に、津田へ電話の掛つて來た事も慥《たしか》であつた。彼は階子段《はしごだん》の途中で藥局生の面倒臭さうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」といふ聲を聞いた。彼はお秀との對話を一寸|已《や》めて、「何處からです」と訊き返した。藥局生は下《お》りながら、「大方お宅からでせう」と云つた。冷淡な此挨拶が、つい込み入つた話に身を入れ過ぎた津田の心を横着にした。芝居へ行つたぎり、昨日《きのふ》も今日《けふ》も姿を見せないお延の仕うちを暗《あん》に快よく思つてゐなかつた彼を猶《なほ》不愉快にした。
 「電話で釣るんだ」
 彼はすぐ斯う思つた。昨日《きのふ》の朝も掛け、今日の朝も掛け、ことによると明日《あした》の朝も電話|丈《だけ》掛けて置いて、散々人の心を自分の方に惹き着けた後で、ひょつくり本當の顔を出すのが手だらうと鑑定した。お延の彼に對する平生の素振《そぶり》から推して見ると、此類測に滿更《まんざら》な無理はなかつた。彼は不用意の際に、突然としてしかも靜肅《しとやか》に自分を驚ろかしに這入つて來るお延の笑顔《ゑがほ》さへ想像した。その笑顔が又變に彼の心に影響して來る事も彼には能く解つてゐた。彼女は一刹那に閃めかす其鋭どい武器の力で、何時《いつ》でも即座に彼を征服した。今迄|持《も》ち應《こた》へに持《も》ち應《こた》へ拔いた心機をひらりと轉換させられる彼から云へば、見す/\彼女の術中に落ち込むやうなものであつた。
 彼はお秀の注意にも拘はらず、電話を其儘にして置いた。
 「なに何うせ用ぢやないんだ。構はないよ。放《はふ》つて置け」
 此挨拶が又お秀には丸《まる》で意外であつた。第一はヅボラを忌む兄の性質に釣り合はなかつた。第二には何でもお延の云ひなり次第になつてゐる兄の態度でなかつた。彼女は兄が自分の手前を憚かつて、不斷の甘い所を押し隱すために、わざと嫂《あによめ》に對して無頓着を粧《よそほ》ふのだと解釋した。心のうちで多少それを小氣味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする藥局生の大きな聲を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない譯に行かなかつた。彼女はわざ/\下迄降りて行つた。然しそれは何の役にも立たなかつた。藥局生が好い加減にあしらつて、荒らし拔いた後の受話器はもう不通になつてゐた。
 形式的に義務を濟ました彼女が元の座に歸つて、再び二人に共通な話題の緒口《いとくち》を取り上げた時、一方では急込《せきこ》んだお時が、とうとう我慢し切れなくなつて自働電話を棄てゝ電車に乘つたのである。それから十五分と經たないうちに、津田は又豫想外な彼女の口から豫想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
 お時の歸つた後の彼の心は容易に元へ戻らなかつた。小林の性格は能く知り拔いてゐるといふ自信はありながら、不意に自分の留守宅に押し掛けて來て、それ程懇意でもないお延を相手に、話し込まうとも思はなかつた彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、又考へざるを得なかつた。それは外套を遣る遣らないの問題ではなかつた。問題は、外套とは丸《まる》で縁のない、しかし他《ひと》の外套を、平氣で能く知りもしない細君の手からぢかに貰ひ受けに行くやうな彼の性格であつた。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であつた。もう一歩押して行くと、其性格がお延に向つて何う働らき掛けるかが彼の問題であつた。其所には突飛《とつぴ》があつた。自暴《やけ》があつた。滿足の人間を常に不滿足さうに眺める白い眼があつた。新らしく結婚した彼等二人は、彼の接觸し得る滿足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選擇される恐れがあつた。平生から彼を輕蔑する事に於て、何の容赦も加へなかつた津田には、又さういふ素地《したぢ》を作つて置いた自覺が充分あつた。
 「何をいふか分らない」
 津田の心には突然一種の恐怖が湧いた。お秀はまた反對に笑ひ出した。何時《いつ》迄《まで》も其小林といふ男を何とか彼《か》とか批評したがる兄の意味さへ彼女には殆んど通じなかつた。
 「何を云つたつて、構はないぢやありませんか、小林さんなんか。あんな人のいふ事なんぞ、誰も本氣にするものはありやしないわ」
 お秀も小林の一面を能く知つてゐた。然しそれは多く彼が藤井の叔父の前で出す一面|丈《だけ》に限られてゐた。さうして其一面は酒を呑んだ時|抔《など》とは、生れ變つたやうに打つて違つた穩やかな一面であつた。
 「左右《さう》でないよ、中々」
 「近頃そんなに人が惡くなつたの。あの人が」
 お秀は矢張《やつぱり》信じられないといふ顔付をした。
 「だつて燐寸《まつち》一本だつて、大きな家《うち》を燒かうと思へば、燒く事も出來るぢやないか」
 「其代り火が移らなければそれ迄でせう、幾箱|燐寸《まつち》を抱《かゝ》え込《こ》んでゐたつて。嫂《ねえ》さんはあんな人に火を付けられるやうな女ぢやありませんよ。それとも……」
 
     九十九
 
 津田はお秀の口から出た下半句《しもはんく》を聞いた時、わざと眼を動かさなかつた。餘所《よそ》を向いた儘、凝《じつ》と其《その》後《あと》を待つてゐた。然し彼の聞かうとする其《その》後《あと》は遂に出て來なかつた。お秀は彼の氣になりさうな事を半分云つたぎりで、すぐ句を改めてしまつた。
 「何だつて兄さんは又今日に限つて、そんな詰らない事を心配してゐらつしやるの。何か特別な事情でもあるの」
 津田は矢張元の所へ眼を付けてゐた。それは成可《なるべ》く妹に自分の心を氣取《けど》られないためであつた。眼の色を彼女に讀まれないためであつた。さうして現に其不自然な所作《しよさ》から來る影響を受けてゐた。彼は何となく臆病な感じがした。彼は漸くお秀の方を向いた。
 「別に心配もしてゐないがね」
 「たゞ氣になるの」
 此調子で押して行くと彼はたゞお秀から冷笑《ひや》かされるやうなものであつた。彼はすぐ口を閉ぢた。
 同時に先刻《さつき》から催ほしてゐた収縮感が又彼の局部に起つた。彼は二三度それを不愉快に經驗した後で、或は今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかといふ掛念《けねん》に制せられた。
 そんな事に氣の付かないお秀は、何故《なぜ》だか同じ問題を何時《いつ》迄《まで》も放さなかつた。彼女は一旦|緒口《いとくち》を失つた其問題を、すぐ別の形で彼の前に現はして來た。
 「兄さんは一體|嫂《ねえ》さんを何《ど》んな人だと思つてゐらつしやるの」
 「何故改まつて今頃そんな質問を掛けるんだい。馬鹿らしい」
 「そんなら可《い》いわ、伺はないでも」
 「然し何故訊くんだよ。其譯を話したら可《い》いぢやないか」
 「一寸必要があつたから伺つたんです」
 「だから其必要をお云ひな」
 「必要は兄さんのためよ」
 津田は變な顔をした。お秀はすぐ後を云つた。
 「だつて兄さんが餘《あん》まり小林さんの事を氣になさるからよ。何だか變ぢやありませんか」
 「そりやお前にや解らない事なんだ」
 「どうせ解らないから變なんでせうよ。ぢや一體小林さんが何《ど》んな事を何《ど》んな風に嫂《ねえ》さんに持ち掛けるつて云ふの」
 「持ち掛けるとも何とも云つてゐやしないぢやないか」
 「持ち掛ける恐れがあるといふ意味です。云ひ直せば」
 津田は答へなかつた。お秀は穴の開《あ》くやうに其顔を見た。
 「丸《まる》で想像が付かないぢやありませんか。たとへばいくらあの人が人が惡くなつたにした所で、何も云ひやうがないでせう。一寸考へて見ても」
 津田はまだ答へなかつた。お秀は何うしても津田の答へる所迄行かうとした。
 「よしんば、あの人が何か云ふにした所で、嫂《ねえ》さんさへ取り合はなければそれ迄ぢやありませんか」
 「そりや聽かないでも解つてるよ」
 「だからあたしが伺ふんです。兄さんは一體|嫂《ねえ》さんを何う思つてゐらつしやるかつて。兄さんは嫂《ねえ》さんを信用してゐらつしやるんですか、ゐらつしやらないんですか」
 お秀は急に疊みかけて來た。津田には其意味が能く解らなかつた。然し其所に相手の拍子を拔く必要があつたので、彼は判然《はつきり》した返事を避けて、わざと笑ひ出さなければならなかつた。
 「大變な權幕《けんまく》だね。丸《まる》で詰問でも受けてゐる樣ぢやないか」
 「胡麻化《ごまか》さないで、ちやんとした所を仰しやい」
 「云へば何うするといふんだい」
 「私はあなたの妹です」
 「それが何うしたといふのかね」
 「兄さんは淡泊でないから駄目よ」
 津田は不思議さうに首を傾けた。
 「何だか話が大變六づかしくなつて來たやうだが、お前少し癇違《かんちがひ》をしてゐるんぢやないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云ひ出したんでも何でもないよ。ただ彼奴《あいつ》は僕の留守にお延に會つて何をいふか分らない困つた男だといふ丈《だけ》なんだよ」
 「たゞそれ丈《だけ》なの」
 「うんそれ丈《だけ》だ」
 お秀は急に的《あて》の外《はづ》れたやうな樣子をした。けれども黙つてはゐなかつた。
 「だけど兄さん、もし堀のゐない留守に誰かあたしの所へ來て何か云ふとするでせう。それを堀が知つて心配すると思ってゐらつしつて」
 「堀さんの事は僕にや分らないよ。お前は心配しないと斷言する氣かも知れないがね」
 「えゝ斷言します」
 「結構だよ。――それで?」
 「あたしの方もそれ丈《だけ》よ」
 二人は黙らなければならなかつた。
 
     百
 
 然し二人はもう因果づけられてゐた。何うしても或物を或所迄、會話の手段で、互の胸から敲き出さなければ承知が出來なかつた。ことに津田には目前の必要があつた。當座に逼《せま》る金の工面、彼は今其財源を自分の前に控へてゐた。さうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻つて來さうもなかつた。勢ひ彼は其點だけでもお秀に對する弱者の形勢に陷《おちい》つてゐた。彼は失なはれた話頭を、何《ど》んな風にして取り返したものだらうと考へた。
 「お秀病院で飯を食つて行かないか」
 時間が丁度こんな愛嬌をいふに適してゐた。ことに今朝母と子供を連れて横濱の親類へ行つたといふ堀の家族は留守なので、彼は此愛嬌に特別な意味を有《も》たせる便宜もあつた。
 「何うせ家《うち》へ歸つたつて用はないんだらう」
 お秀は津田のいふ通りにした。話は容易《たやす》く二人の間に復活する事が出來た。然しそれは單に兄妹《きやうだい》らしい話に過ぎなかつた。さうして單に兄妹《きやうだい》らしい話は此場合彼等に取つて些《ちつ》とも腹の足《たし》にならなかつた。彼等はもつと相手の胸の中へ潜《もぐ》り込《こ》まうとして機會を待つた。
 「兄さん、あたし此所に持つてゐますよ」
 「何を」
 「兄さんの入用《いりよう》のものを」
 「左右《さう》かい」
 津田は殆んど取り合はなかつた。其冷淡さは正に彼の自尊心に比例してゐた。彼は精神的にも形式的にも此妹に頭を下げたくなかつた。然し金は取りたかつた。お秀はまた金は何うでも可《よ》かつた。然し兄に頭を下げさせたかつた。勢ひ兄の欲しがる金を餌《ゑば》にして、自分の目的を達しなければならなかつた。結果は何うしても兄を焦《じ》らす事に歸著した。
 「上げませうか」
 「ふん」
 「お父さんは何うしたつて下さりつこありませんよ」
 「ことによると、呉れないかも知れないね」
 「だつてお母さんが、あたしの所へちやんと左右《さう》云つて來てゐらつしやるんですもの。今日其手紙を持つて來て、お目に懸けやうと思つてて、つい忘れてしまつたんですけれども」
 「そりや知つてるよ。先刻《さつき》もうお前から聞いたぢやないか」
 「だからよ。あたしが持つて來たつて云ふのよ」
 「僕を焦《じ》らすためにかい、又は僕に呉れるためにかい」
 お秀は打たれた人のやうに突然黙つた。さうして見る/\うちに、美くしい眼の底に涙を一杯溜めた。津田にはそれが口惜涙《くやしなみだ》としか思へなかつた。
 「何うして兄さんは此頃そんなに皮肉になつたんでせう。何うして昔のやうに人の誠を受け入れて下さる事が出來ないんでせう」
 「兄さんは昔とちつとも違つてやしないよ。近頃お前の方が違つて來たんだよ」
 今度は呆れた表情がお秀の顔にあらはれた。
 「あたしが何時《いつ》何《ど》んな風に變つたと仰しやるの。云つて下さい」
 「そんな事は他《ひと》に訊かなくつても、よく考へて御覽、自分で解る事だから」
 「いゝえ、解りません。だから云つて下さい。どうぞ云つて聞かして下さい」
 津田は寧ろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで來るお秀の樣子を眺めてゐた。此所迄來ても、彼には相手の機嫌を取り返した方が得《とく》か、又はくしやりと一度に押し潰した方が得かといふ利害心が働らいてゐた。其中間を行かうと決心した彼は徐《おもむ》ろに口を開《ひら》いた。
 「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行つてつから以來、大分《だいぶ》變つたよ」
 「そりや變る筈ですわ、女が嫁に行つて子供が二人も出來れば誰だつて變るぢやありませんか」
 「だからそれで可《い》いよ」
 「けれども兄さんに對して、あたしが何《ど》んなに變つたと仰しやるんです。そこを聞かして下さい」
 「そりや……」
 津田は全部を答へなかつた。けれども答へられないのではないといふ事を、語勢からお秀に解るやうにした。お秀は少し間《ま》を置いた。それからすぐ押し返した。
 「兄さんのお腹《なか》の中《なか》には、あたしが京都へ告口《つげぐち》をしたといふ事が始終あるんでせう」
 「そんな事は何うでも可《い》いよ」
 「いゝえ、それで屹度《きつと》あたしを眼《め》の敵《かたき》にして居らつしやるんです」
 「誰が」
 不幸な言葉は二人の間に伏字《ふせじ》の如く潜在してゐたお延といふ名前に點火したやうなものであつた。お秀はそれを松明《たいまつ》のやうに兄の眼先に振り廻した。
 「兄さんこそ違つたのです。嫂《ねえ》さんをお貰ひになる前の兄さんと、嫂《ねえ》さんをお貰ひになつた後の兄さんとは、丸《まる》で違つてゐます。誰が見たつて別の人です」
 
     百一
 
 津田から見たお秀は彼に對する僻見《へきけん》で武裝されてゐた。ことに最後の攻撃は誤解其物の活動に過ぎなかつた。彼には「嫂《ねえ》さん、嫂《ねえ》さん」を繰り返す妹の聲が如何にも耳障りであつた。寧ろ自己を滿足させるための行爲を、悉《こと/”\》く細君を滿足させるために起つたものとして解釋する妹の前に、彼は尠からぬ不快を感じた。
 「己《おれ》はお前の考へてるやうな二本棒《にほんぼう》ぢやないよ」
 「そりや左右《さう》かも知れません。嫂《ねえ》さんから電話が掛つて來ても、あたしの前ぢやわざと冷淡を裝《よそほ》つて、打つちやつてお置きになる位ですから」
 斯ういふ言葉が所嫌はずお秀の口からひよい/\續發して來るやうになつた時、津田は殆んど眼前の利害を忘れるべく餘儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。
 「だから此奴《こいつ》に電話を掛けるなと、あれ丈《だけ》お延に注意して置いたのに」
 彼は神經の冗奮《かうふん》を紛《まぎ》らす人のやうに、しきりに短かい口髭を引張つた。次第々々に苦《にが》い顔をし始めた。さうして段々言葉少なになつた。
 津田の此態度が意外の影響をお秀に與へた。お秀は兄の弱點が自分のために一皮づつ赤裸《あかはだか》にされて行くので、仕舞に彼は耻ぢ入つて、黙り込むのだとばかり考へたらしく、猶《なほ》猛烈に進んだ。恰《あたか》ももう一息《ひといき》で彼を全然自分の前に後悔させる事が出來でもするやうな勢で。
 「嫂《ねえ》さんと一所になる前の兄さんは、もつと正直でした。少なくとももつと淡泊でした。私は證據のない事を云ふと思はれるのが厭だから、有體《ありてい》に事實を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答へて下さい。兄さんは嫂《ねえ》さんをお貰ひになる前、今度《こんだ》のやうな嘘をお父さんに吐《つ》いた覺《おぼえ》がありますか」
 此時津田は始めて弱つた。お秀の云ふ事は明らかな事實であつた。然し其事實は決してお秀の考へてゐるやうな意味から起つたのではなかつた。津田に云はせると、たゞ偶然の事實に過ぎなかつた。
 「それでお前は此事件の責任者はお延だと云ふのかい」
 お秀は左右《さう》だと答へたい所をわざと外《そら》した。
 「いゝえ、嫂《ねえ》さんの事なんか、あたし些《ちつ》とも云つてやしません。たゞ兄さんが變つた證據にそれ丈《だけ》の事實を主張するんです」
 津田は表向何うしても負けなければならない形勢に陷《おちい》つて來た。
 「お前がそんなに變つたと主張したければ、變つたで可《い》いぢやないか」
 「可《よ》かないわ。お父さんやお母さんに濟まないわ」
 すぐ「左右《さう》かい」と答へた津田は冷淡に「そんならそれでも可《い》いよ」と付け足した。
 お秀は是でもまだ後悔しないのかといふ顔付をした。
 「兄さんの變つた證據はまだあるんです」
 津田は素知らぬ風をした。お秀は遠慮なく其證據といふのを擧げた。
 「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ來て、嫂《ねえ》さんに何か云やしないかつて、先刻《さつき》から心配してゐるぢやありませんか」
 「煩《うる》さいな。心配ぢやないつて先刻《さつき》説明したぢやないか」
 「でも氣になる事は慥《たしか》なんでせう」
 「何うでも勝手に解釋するが可《い》い」
 「えゝ。――何方《どつち》でも、兎に角、それが兄さんの變つた證據ぢやありませんか」
 「馬鹿を云ふな」
 「いゝえ、證據よ。慥《たしか》な證據よ。兄さんはそれ丈《だけ》嫂《ねえ》さんを恐れてゐらつしやるんです」
 津田は不圖《ふと》眼を轉じた。さうして枕に頭を載せた儘、下からお秀の顔を覗き込むやうにして見た。それから好い恰好《かつかう》をした鼻柱に冷笑の皺を寄せた。此餘裕がお秀には全く突然であつた。もう一息《ひといき》で懺悔《ざんげ》の深谷《しんこく》へ眞《ま》ツ逆《さか》さまに突き落す積《つもり》でゐた彼女は、まだ兄の後《うしろ》に平坦な地面が殘つてゐるのではなからうかといふ疑ひを始めて起した。然し彼女は行ける所迄行かなければならなかつた。
 「兄さんはつい此間迄小林さんなんかを、丸《まる》で鼻の先であしらつてゐらつしつたぢやありませんか。何を云つても取り合はなかつたぢやありませんか。それを今日に限つて何故《なぜ》そんなに怖《こは》がるんです。高が小林なんかを怖がるやうになつたのは、其相手が嫂《ねえ》さんだからぢやありませんか」
 「そんならそれで可《い》いさ。僕がいくら小林を怖《こは》がつたつて、お父さんやお母さんに對する不義理になる譯でもなからう」
 「だからあたしの口を出す幕ぢやないと仰しやるの」
 「まあ其見當だらうね」
 お秀は赫《くわつ》とした。同時に一筋の稻妻が彼女の頭の中を走つた。
 
     百二
 
 「解りました」
 お秀は鋭どい聲で斯う云《い》ひ放《はな》つた。然し彼女の改まつた切口上《きりこうじやう》は外面上何の變化も津田の上に持ち來さなかつた。彼はもう彼女の挑戰に應ずる氣色《けしき》を見せなかつた。
 「解りましたよ、兄さん」
 お秀は津田の肩を搖《ゆす》ぶるやうな具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしに又口を開《ひら》いた。
 「何が」
 「何故|嫂《ねえ》さんに對して兄さんがそんなに氣を置いてゐらつしやるかといふ意味がです」
 津田の頭に一種の好奇心が起つた。
 「云つて御覽」
 「云ふ必要はないんです。たゞ私に其意味が解つたといふ事|丈《だけ》を承知して頂けば澤山なんです」
 「そんならわざ/\斷る必要はないよ。黙つて獨りで解つたと思つてゐるが可《い》い」
 「いゝえ可《よ》くないんです。兄さんは私を妹と見傚《みな》してゐらつしやらない。お父さんやお母さんに關係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいふ權利がないものとしてゐらつしやる。だから私も云ひません。然し云はなくつても、眼はちやんと付いてゐます。知らないで云はないと思つてお出《いで》だと間違ひますから、一寸お斷り致したのです」
 津田は話を此所いらで切り上げて仕舞ふより外に道はないと考へた。なまじい掛り合へば掛り合ふ程、事は面倒になる丈《だけ》だと思つた。然し彼には妹に頭を下げる氣が些《ちつ》ともなかつた。彼女の前に後悔するなどといふ芝居じみた眞似は夢にも思ひ付けなかつた。その位の事を敢てし得る彼は、平生から低く見てゐる妹に丈《だけ》は、思ひの外高慢であつた。さうして其高慢な所を、他人に對してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。從つていくら口先が和解的でも大して役に立たなかつた。お秀にはたゞ彼の中心にある輕蔑が、微温《なまぬる》い表現を通して傳はる丈《だけ》であつた。彼女はもう遣り切れないと云つた樣子を先刻《さつき》から見せてゐる津田を毫も容赦しなかつた。さうして又「兄さん」と云ひ出した。
 其時津田はそれ迄にまだ見出《みいだ》し得なかつたお秀の變化に氣が付いた。今迄の彼女は彼を通して常に鋒先《ほこさき》をお延に向けてゐた。兄を攻撃するのも嘘ではなかつたが、矢面《やおもて》に立つ彼を餘所《よそ》にしても、背後に控へてゐる嫂《あね》丈《だけ》は是非射留めなければならないといふのが、彼女の眞劍であつた。それが何時《いつ》の間《ま》にか變つて來た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。さうして一直線に兄の方へ向いて進んで來た。
 「兄さん、妹は兄の人格に對して口を出す權利がないものでせうか。よし權利がないにした所で、もし左右《さう》した疑《うたがひ》を妹が少しでも有《も》つてゐるなら、綺麗にそれを晴らして呉れるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でせう。私は今其人情を有《も》つてゐらつしやらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
 「何を生意氣な事を云ふんだ。黙つてゐろ、何にも解りもしない癖に」
 津田の癇癪は始めて破裂した。
 「お前に人格といふ言葉の意味が解るか。高が女學校を卒業した位で、そんな言葉を己《おれ》の前で人並に使ふのからして不都合だ」
 「私は言葉に重きを置いてゐやしません。事實を問題にしてゐるのです」
 「事實とは何だ。己《おれ》の頭の中にある事實が、お前のやうな教養に乏しい女に捕《つら》まへられると思ふのか。馬鹿め」
 「さう私を輕蔑なさるなら、御注意迄に申します。然し可《よ》ござんすか」
 「可《い》いも惡いも答へる必要はない。人の病氣の所へ來て何だ、其態度は。それでも妹だといふ積《つもり》か」
 「あなたが兄さんらしくないからです」
 「黙れ」
 「黙りません。云ふ丈《だけ》の事は云ひます。兄さんは嫂《ねえ》さんに自由にされてゐます。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂《ねえ》さんを大事にしてゐます」
 「妹より妻《さい》を大事にするのは何處の國へ行つたつて當り前だ」
 「それ丈《だけ》なら可《い》いんです。然し兄さんのはそれ丈《だけ》ぢやないんです。嫂《ねえ》さんを大事にしてゐながら、まだ外にも大事にしてゐる人があるんです」
 「何だ」
 「それだから兄さんは嫂《ねえ》さんを怖《こは》がるのです。しかも其怖がるのは――」
 お秀が斯う云ひかけた時、病室の襖《ふすま》がすうと開《あ》いた。さうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現はれた。
 
     百三
 
 彼女が醫者の玄關へ掛つたのは其三四分前であつた。醫者の診察時間は午前と午後に分れてゐて、午後の方は、役所や會社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時迄の規定になつてゐるので、お延は比較的閑靜な屏《ドアー》を開けて内へ入《はい》る事が出來たのである。實際彼女は三四日前《さんよつかまへ》に來た時のやうに、編上《あみあげ》だの疊付《たゝみつき》だのといふ雜然たる穿物《はきもの》を、一足も沓脱《くつぬぎ》の上に見出《みいだ》さなかつた。患者の影は無論の事であつた。時間外といふ考へを少しも頭の中に入れてゐなかつた彼女には、それが如何にも不思議であつた位|四圍《あたり》は寂寞《ひつそり》してゐた。
 彼女はその森《しん》とした玄關の沓脱の上に、行儀よく揃へられたたゞ一足の女下駄を認めた。價段《ねだん》から云つても看護婦|抔《など》の穿《は》きさうもない新らしい其下駄が突然彼女の心を躍らせた。下駄は正《まさ》しく若い婦人のものであつた。小林から受けた疑念で胸が一杯になつてゐた彼女は、しばらくそれから眼を放す事が出來なかつた。彼女は猛烈にそれを見た。
 右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。さうして其所に動かないお延の姿を認めた時、誰何《すゐか》でもする人のやうな表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への來客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊いた。それからわざと取次を斷つて、ひとりで階子段《はしごだん》の下迄來た。さうして上を見上げた。
 上では絶えざる話し聲が聞こえた。然し普通雜談の時に、言葉が對話者の間を、淀《よど》みなく徃つたり來たり流れてゐるのとは大分《だいぶ》趣《おもむき》を異《こと》にしてゐた。其所には強い感情があつた。亢奮《かうふん》があつた。しかもそれを抑へ付けやうとする努力の痕《あと》がありありと聞こえた。他聞《たぶん》を憚《はゞ》かるとしか受取れない其談話が、お延の神經を針のやうに鋭どくした。下駄を見詰めた時より以上の猛烈さが其所に現はれた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
 津田の部屋は診察室の眞上にあつた。家の構造から云ふと、階子段《はしごだん》を上《あが》つてすぐ取付《とつつき》が壁で、其右手が又四疊半の小さい部屋になつてゐるので、此部屋の前を廊下傳ひに通り越さなければ、津田の寐てゐる所へは出られなかつた。從がつてお延の聽かうとする談話は、聽くに都合の好くない見當、即ち彼女の後《うしろ》の方から洩れて來るのであつた。
 彼女はそつと階子段《はしごだん》を上《のぼ》つた。柔婉《しなやか》な體格《からだ》を有《も》つた彼女の足音は猫のやうに靜かであつた。さうして猫と同じやうな成效《せいかう》をもつて酬いられた。
 上《あが》り口《ぐち》の一方には、落ちない用心に、一間程の手欄《てすり》が拵へてあつた。お延はそれに倚つて、津田の樣子を窺つた。すると忽ち鋭どいお秀の聲が彼女の耳に入《い》つた。ことに嫂《ねえ》さんがといふ特殊な言葉が際立つて鼓膜に響いた。見事に豫期の外《はづ》れた彼女は、又はつと思はせられた。硬い緊張が弛《ゆる》む暇《いとま》なく再び彼女を襲つて來た。彼女は津田に向つてお秀の口から抛げ付けられる嫂《ねえ》さんといふ其言葉が、何《ど》んな意味に用ひられてゐるかを知らなければならなかつた。彼女は耳を澄ました。
 二人の語勢は聽いてゐるうちに急になつて來た。二人は明らかに喧嘩をしてゐた。其喧嘩の渦中《くわちゆう》には、知らない間《ま》に、自分が引き込まれてゐた。或は自分が此喧嘩の主《おも》な原因かも分らなかつた。
 然し前後の關係を知らない彼女は、たゞそれ丈《だけ》で自分の位置を極める譯に行かなかつた。それに二人の使ふ、といふよりも寧ろお秀の使ふ言葉は霰《あられ》のやうに忙がしかつた。後から後から落ちてくる單語の意味を、一粒づつ拾つて吟味してゐる閑などは到底なかつた。「人格」、「大事にする」、「當り前」、斯《こ》んな言葉が夫《それ》から夫《それ》へと其所に佇立《たゝず》んでゐる彼女の耳朶《みゝたぶ》を叩きに來る丈《だけ》であつた。
 彼女は事件が分明《ぶんみやう》になる迄|凝《じつ》と動かずに立つてゐようかと考へた。すると其時お秀の口から最後の砲撃のやうに出た「兄さんは嫂《ねえ》さんより外にもまだ大事にしてゐる人があるのだ」といふ句が、突然彼女の心を震はせた。際立つて明瞭に聞こえた此一句ほどお延に取つて大切なものはなかつた。同時に此一句程彼女にとつて不明瞭なものもなかつた。後を聞かなければ、それ丈《だけ》で獨立した役にはとても立てられなかつた。お延は何《ど》んな犠牲を拂つても、其後を聽かなければ氣が濟まなかつた。然し其後は又何うしても聽いてゐられなかつた。先刻《さつき》から一言葉毎《ひとことばごと》に一調子《ひとてうし》づゝ高まつて來た二人の遣取《やりとり》は、此所で絶頂に達したものと見傚《みな》すより外に途はなかつた。もう一歩も先へ前《すゝ》めない極端迄來てゐた。もし強ひて先へ出ようとすれば、何方《どつち》かで手を出さなければならなかつた。從つてお延は不體裁《ふていさい》を防ぐ緩和劑として、何うしても病室へ入《はい》らなければならなかつた。
 彼女は兄妹《きやうだい》の中を能く知つてゐた。彼等の不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解つてゐた。其所へ顔を出すには、出す丈《だけ》の手際が要つた。然し彼女には其自信がないでもなかつた。彼女は際どい刹那に覺悟を極めた。さうしてわざと靜かに病室の襖を開けた。
 
     百四
 
 二人は果してぴたりと黙つた。然し暴風雨が是から荒れようとする途中で、急に其進行を止《と》められた時の沈黙は、決して平和の象徴《シンボル》ではなかつた。不自然に抑えつけられた無言の瞬間には寧ろ物凄い或物が潜んでゐた。
 二人の位置關係から云つて、最初にお延を見たものは津田であつた。南向の縁側の方を枕にして寐てゐる彼の眼に、反對の側《がは》から入《はい》つて來たお延の姿が一番早く映《うつ》るのは順序であつた。其刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であつた。一つは彼の安堵《あんど》であつた。困つたといふ心持と、助かつたといふ心持が、包《つゝ》み藏《かく》す餘裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。さうしてそれが突然|入《はい》つて來たお延の豫期とぴたりと一致した。彼女は此時|夫《をつと》の面上に現はれた表情の一部分から、或物を疑つても差支ないといふ證左《しようさ》を、永く心の中《うち》に※[手偏+國]《つか》んだ。然しそれは秘密であつた。咄嗟《とつさ》の場合、彼女はたゞ夫《をつと》の他の半面に應ずるのを、此所へ來た刻下《こくか》の目的としなければならなかつた。彼女は蒼白い頬に無理な微笑を湛《たゝ》へて津田を見た。さうしてそれが丁度お秀の振り返るのと同時に起つた所作《しよさ》だつたので、お秀にはお延が自分を出し拔いて、津田と黙契を取り換はせてゐるやうに取れた。薄赤い血潮が覺えずお秀の頬に上《のぼ》つた。
 「おや」
 「今日《こんち》は」
 輕い挨拶が二人の間に起つた。然しそれが濟むと話は何時《いつ》ものやうに續かなかつた。二人とも手持無沙汰に壓迫され始めなければならなかつた。滅多な事の云へないお延は、脇に抱《かゝ》へて來た風呂敷包を開けて、岡本の貸して呉れた英語の滑稽本を出して津田に渡した。其指の先には、お秀が始終腹の中で問題にしてゐる例の指輪が光つてゐた。
 津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さら/\頁《ページ》を翻へして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さへ讀む氣にならなかつた。批評を加へる勇氣などは何處からも出て來なかつた。彼は黙つてゐた。お延は其間に又お秀と二言三言《ふたことみこと》ほど口を利いた。それもみんな彼女の方から話し掛けて、必要な返事|丈《だけ》を、云はゞ相手の咽喉から壓《お》し出《だ》したやうなものであつた。
 お延は又|懷中《ふところ》から一通の手紙を出した。
 「今|來掛《きがけ》に郵便函の中を見たら入《はい》つて居りましたから、持つて參りました」
 お延の言葉は几帳面に改たまつてゐた。津田と差向ひの時に比べると、丸《まる》で別人《べつにん》のやうに禮儀正しかつた。彼女は其形式的な餘所々々《よそ/\》しい所を暗《あん》に嫌つてゐた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、さうした不自然な言葉遣ひを、一種の意味から餘儀なくされるやうにも思つた。
 手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであつた。是も前便と同じやうに書留になつてゐないので、眼前の用を辨ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にも畧《ほゞ》見當|丈《だけ》は付いてゐた。
 津田は對筒を切る前に彼女に云つた。
 「お延駄目だとさ」
 「さう、何が」
 「お父さんはいくら頼んでももうお金を呉れないんださうだ」
 津田の云ひ方は珍らしく眞摯《しんし》の氣に充ちてゐた。お秀に對する反抗心から、彼は何時《いつ》の間《ま》にかお延に對して平《ひら》たい旦那樣になつてゐた。しかも其所に自分は丸《まる》で氣が付かずにゐた。衒《てら》ひ氣《け》のない其態度がお延には嬉しかつた。彼女は慰さめるやうな温味《あたゝかみ》のある調子で答へた。言葉遣ひさへ吾知らず、平生《ふだん》の自分に戻つてしまつた。
 「可《い》いわ、そんなら。此方《こつち》で何うでもするから」
 津田は黙つて封を切つた。中から出た父の手紙は左程《さほど》長いものではなかつた。其上一目見ればすぐ要領を得られる位な大きな字で書いてあつた。それでも女二人は滑稽本の場合のやうに口を利き合はなかつた。ひとしく注意の視線を卷紙の上に向けてゐる丈《だけ》であつた。だから津田がそれを讀み了つて、元通りに對筒の中へ入れたのを、其儘枕元へ投げ出した時には、二人にも大體の意味はもう呑み込めてゐた。それでもお秀はわざと訊いた。
 「何と書いてありますか、兄さん」
 氣のない顔をしてゐた津田は輕く「ふん」と答へた。お秀は一寸|餘所《よそ》を向いた。それから又訊いた。
 「あたしの云つた通りでせう」
 手紙には果して彼女の推察する通りの事が書いてあつた。然しそれ見た事かといつた樣な妹の態度が、津田には如何にも氣に喰はなかつた。それでなくつても先刻《さつき》からの行掛《いきがゝ》り上《じやう》、彼は天然自然の返事をお秀に與へるのが業腹《ごふはら》であつた。
 
     百五
 
 お延には夫《をつと》の氣持がありありと讀めた。彼女は心の中《うち》で再度の衝突を惧《おそ》れた。と共に、夫《をつと》の本意をも疑つた。彼女の見た平生の夫《をつと》には自制の念が何處へでも付いて廻つた。自制ばかりではなかつた。腹の奧で相手を下に見る時の冷かさが、それに何時《いつ》でも付け加はつてゐた。彼女は夫《をつと》の此特色中に、まだ自分の手に餘る或物が潜んでゐる事をも信じてゐた。それは未だに彼女に取つての未知數であるにも拘はらず、其所さへ明瞭に抑へれば、苦もなく彼を滿足に扱かひ得るものと迄彼女は思ひ込んでゐた。然し外部に現はれる丈《だけ》の夫《をつと》なら一口で評するのも夫《それ》程《ほど》六づかしい事ではなかつた。彼は容易に怒《おこ》らない人であつた。英語で云へば、テンパーを失なはない例にもならうといふ其人が、また何うして自分の妹の前に斯う破裂し掛るのだらう。もつと、嚴密に云へば、彼女が室《へや》に入《はい》つて來る前に、何うしてあれ程露骨に破裂したのだらう。兎に角彼女は退《ひ》き掛《か》けた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかつた。彼女は喧嘩の相手を自分に引き受けやうとした。
 「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信《たより》があつたんですか」
 「いゝえ母から」
 「さう、矢つ張此事に就いて」
 「えゝ」
 お秀はそれぎり何にも云はなかつた。お延は後を付けた。
 「京都でも色々お物費《ものいり》が多いでせうからね。それに元々|此方《こちら》が惡いんですから」
 お秀には此時程お延の指にある寶石が光つて見えた事はなかつた。さうしてお延は又|左《さ》も無邪氣らしくその光る指輪をお秀の前に出してゐた。お秀は云つた。
 「さういふ譯でもないんでせうけれどもね。年寄は變なもので、兄さんを信じてゐるんですよ。其位の工面は何うにでも出來る位に考へて」
 お延は微笑した。
 「そりや、いざとなれば何うにか斯うにかなりますよ、ねえ貴方」
 斯う云つて津田の方を見たお延は、「早くなると仰《おつし》やい」といふ意味を眼で知らせた。然し津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解つても、意味は全く通じなかつた。彼は何時《いつ》も繰り返す通りの事を云つた。
 「ならん事もあるまいがね、己《おれ》には何うもお父さんの云ふ事が變でならないんだ。垣根を繕《つく》ろつたの、家賃が滯《とゞこほ》つたのつて、そんな費用は元來|些細《ささい》なものぢやないか」
 「さうも行かないでせう、貴方。是で自分の家《うち》を一軒持つて見ると」
 「我々だつて一軒持つてるぢやないか」
 お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌を惜まずに答へた。
 「兄さんは其底に何か魂膽《こんたん》があるかと思つて、疑つてゐらつしやるんですよ」
 「そりや貴方惡いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂膽のある筈はないぢやありませんか、ねえ秀子さん」
 「いゝえ、父や母よりもね、外にまだ魂膽があると思つてるんですのよ」
 「外に?」
 お延は意外な顔をした。
 「えゝ、外にあると思つてるに違ないのよ」
 お延は再び夫《をつと》の方に向つた。
 「貴方、そりや又何ういふ譯なの」
 「お秀がさう云ふんだから、お秀に訊いて御覽よ」
 お延は苦笑した。お秀の口を利く順番が又廻つて來た。
 「兄さんはあたし達が陰《かげ》で、京都を突ツ付いたと思つてるんですよ」
 「だつて――」
 お延はそれより以上云ふ事が出來なかつた。さうして其云つた事は殆んど意味をなさなかつた。お秀はすぐ其《その》虚《きよ》を充たした。
 「それで先刻《さつき》から大變御機嫌が惡いのよ。尤もあたしと兄さんと寄ると屹度《きつと》喧嘩になるんですけれどもね。ことに此事件このかた」
 「困るのね」とお延は溜息交《ためいきまじ》りに答へた後で、又津田に訊き掛けた。
 「然しそりや本當の事なの、貴方。貴方だつて眞逆《まさか》そんな男らしくない事を考へてゐらつしやるんぢやないでせう」
 「何うだか知らないけれども、お秀にはさう見えるんだらうよ」
 「だつて秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、一體何の役に立つと、貴方思つてゐらつしやるの」
 「大方見せしめの爲だらうよ。己《おれ》には能く解らないけれども」
 「何の見せしめなの? 一體|何《ど》んな惡い事を貴方なすつたの」
 「知らないよ」
 津田は蒼蠅《うるさ》さうに斯う云つた。お延は取り付く島もないといつた風にお秀を見た。何うか助けて下さいといふ表情が彼女の細い眼と眉の間に現はれた。
 
     百六
 
 「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云ひ出した。嫂《あによめ》に對して何とか説明しなければならない位地に追ひ詰められた彼女は、斯う云ひながら腹の中で猶《なほ》の事《こと》其|嫂《あによめ》を憎んだ。彼女から見た其時のお延ほど、空々《そら/”\》しい又づう/\しい女はなかつた。
 「えゝ良人《うち》は強情よ」と答へたお延はすぐ夫《をつと》の方を向いた。
 「あなた本當に強情よ。秀子さんの仰しやる通りよ。其癖だけは是非お已《や》めにならないと不可《いけま》せんわ」
 「一體何が強情なんだ」
 「そりやあたしにも能く解らないけれども」
 「何でもかでもお父さんから金を取らうとするからかい」
 「さうね」
 「取らうとも何とも云つてゐやしないぢやないか」
 「さうね。そんな事仰しやる筈がないわね。又仰しやつた所で效目《きゝめ》がなければ仕方がありませんからね」
 「ぢや何處が強情なんだ」
 「何處がつてお聽きになつても駄目よ。あたしにも能く解らないんですから。だけど、何處かにあるのよ、強情な所が」
 「馬鹿」
 馬鹿と云はれたお延は却《かへ》つて心持ち好ささうに微笑した。お秀は堪《た》まらなくなつた。
 「兄さん、あなた何故あたしの持つて來たものを素直《すなほ》にお取りにならないんです」
 「素直にも義剛《ぎごは》にも、取るにも取らないにも、お前の方で天《てん》から出さないんぢやないか」
 「あなたの方でお取りになると仰しやらないから、出せないんです」
 「此方《こつち》から云へば、お前の方で出さないから取らないんだ」
 「然し取るやうにして取つて下さらなければ、あたしの方だつて厭ですもの」
 「ぢや何うすれば可《い》いんだ」
 「解つてるぢやありませんか」
 三人は少時《しばらく》黙つてゐた。
 突然津田が云ひ出した。
 「お延お前お秀に詫《あや》まつたら何うだ」
 お延は呆れたやうに夫《をつと》を見た。
 「なんで」
 「お前さへ詫まつたら、持つて來たものを出すといふ積《つもり》なんだらう。お秀の料簡では」
 「あたしが詫《あや》まるのは何でもないわ。貴方が詫まれと仰しやるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
 お延は此所で訴への眼をお秀に向けた。お秀は其《その》後《あと》を遮《さへぎ》つた。
 「兄さん、あなた何を仰しやるんです。あたしが何時《いつ》嫂《ねえ》さんに詫まつて貰ひたいと云ひました。そんな言掛りを捏造《ねつざう》されては、あたしが嫂《ねえ》さんに對して面目《めんぼく》なくなる丈《だけ》ぢやありませんか」
 沈黙が又三人の上に落ちた。津田はわざと口を利かなかつた。お延には利く必要がなかつた。お秀は利く準備をした。
 「兄さん、あたしは是でもあなた方に對して義務を盡してゐる積《つもり》です。――」
 お秀がやつと是《これ》丈《だけ》云ひ掛けた時、津田は急に質問を入れた。
 「一寸お待ち。義務かい、親切かい、お前の云はうとする言葉の意味は」
 「あたしには何方《どつち》だつて同《おん》なじ事です」
 「さうかい。そんなら仕方がない。それで」
 「それでぢやありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻つて、お父さんやお母さんを突ツ付いた結果、兄さんや嫂《ねえ》さんに不自由をさせるのだと思はれるのが、あたしには如何《いか》にも辛《つら》いんです。だからその額|丈《だけ》を何うかして上げようと云ふ好意から、今日わざ/\此所へ持つて來たと云ふんです。實は昨日《きのふ》嫂《ねえ》さんから電話が掛つた時、すぐ來《き》ようと思つたんですけれども、朝のうちは宅《うち》に用があつたし、午《ひる》からはその用で銀行へ行く必要が出來たものですから、つい來損《きそこ》なつちまつたんです。元々僅かな金額ですから、それについて兎や角云ふ氣は些《ちつ》ともありませんけれども、あたしの方の心遣ひは、丸《まる》で兄さんに通じてゐないんだから、それがたゞ殘念だと云ひたいんです」
 お延は猶《なほ》黙つてゐる津田の顔を覗き込んだ。
 「貴方何とか仰しやいよ」
 「何て」
 「何てつて、お禮をよ。秀子さんの親切に對してのお禮よ」
 「高がこれしきの金を貰ふのに、そんなに恩に着せられちや厭だよ」
 「恩に着せやしないつて今云つたぢやありませんか」とお秀が少し癇走《かんばし》つた聲で辯解した。お延は元通りの穩やかな調子を崩さなかつた。
 「だから強情を張らずに、お禮を仰しやいと云ふのに。もしお金を拜借するのがお厭なら、お金は頂かないで可《い》いから、たゞお禮|丈《だけ》を仰しやいよ」
 お秀は變な顔をした。津田は馬鹿を云ふなといふ態度を示した。
 
     百七
 
 三人は妙な羽目に陷《おちい》つた。行掛《ゆきがゝ》り上《じやう》一種の關係で因果づけられた彼等は次第に話を餘所《よそ》へ持つて行く事が困難になつてきた。席を外《はづ》す事は無論出來なくなつた。彼等は其所へ坐つたなり、何うでも斯うでも、此問題を解決しなければならなくなつた。
 しかも傍《はた》から見た其問題は決して重要なものとは云へなかつた。遠くから冷靜に彼等の身分と境遇を眺める事の出來る地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかつた。彼等は他《ひと》から注意を受ける迄もなく能くそれを心得てゐた。けれども彼等は爭はなければならなかつた。彼等の背後《せなか》に脊負《しよ》つてゐる因縁は、他人に解らない過去から複雜な手を延ばして、自由に彼等を操《あやつ》つた。
 仕舞に津田とお秀の間に下《しも》のやうな問答が起つた。
 「始めから黙つてゐれば、それ迄ですけれども、一旦云ひ出して置きながら、持つて來た物を渡さずに此儘歸るのも心持が惡う御座んすから、何うか取つて下さいよ。兄さん」
 「置いて行きたければ置いといでよ」
 「だから取るやうにして取つて下さいな」
 「一體何うすればお前の氣に入るんだか、僕には解らないがね、だから其條件をもつと淡泊に云つちまつたら可《い》いぢやないか」
 「あたし條件なんてそんな六づかしいものを要求してやしません。たゞ兄さんが心持よく受取つて下されば、それで宜《い》いんです。詰り兄妹《きやうだい》らしくして下されば、それで宜いといふ丈《だけ》です。それからお父さんに濟まなかつたと本氣に一口《ひとくち》仰しやりさへすれば、何でもないんです」
 「お父さんには、とつくの昔にもう濟まなかつたと云つちまつたよ。お前も知つてるぢやないか。しかも一口や二口ぢやないやね」
 「けれどもあたしの云ふのは、そんな形式的のお詫ぢやありません。心からの後悔です」
 津田は高が是しきの事にと考へた。後悔などとは思ひも寄らなかつた。
 「僕の詫樣《わびやう》が空々《そら/”\》しいとでも云ふのかね、なんぼ僕が金を欲しがるつたつて、是でも一人前《いちにんまへ》の男だよ。さうぺこ/\頭を下げられるものか、考へても御覽な」
 「だけれども、兄さんは實際お金が欲しいんでせう」
 「欲しくないとは云はないさ」
 「それでお父さんに謝罪《あやま》つたんでせう」
 「でなければ何も詫《あやま》る必要はないぢやないか」
 「だからお父さんが下さらなくなつたんですよ。兄さんは其所に氣が付かないんですか」
 津田は口を閉ぢた。お秀はすぐ乘《の》し掛《かゝ》つて行つた。
 「兄さんがさういふ氣で居らつしやる以上、お父さんばかりぢやないわ、あたしだつて上げられないわ」
 「ぢやお止《よ》しよ。何も無理に貰はうとは云はないんだから」
 「所が無理にでも貰はうと仰しやるぢやありませんか」
 「何時《いつ》」
 「先刻《さつき》からさう云つて居らつしやるんです」
 「言掛りを云ふな、馬鹿」
 「言掛りぢやありません。先刻《さつき》から腹の中でさう云ひ續けに云つてるぢやありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云へないんです」
 津田は一種|嶮《けは》しい眼をしてお秀を見た。其中には憎惡が輝やいた。けれども良心に對して耻づかしいといふ光は何處にも宿らなかつた。さうして彼が口を利いた時には、お延でさへ其意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配出來る最も冷靜な調子で、彼女の豫期とは丸《まる》で反對の事を云つた。
 「お秀お前の云ふ通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持つて來た金が絶對に入用《いりよう》だ。兄さんは又改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だから何うぞ其金を此枕元へ置いて行つて呉れ」
 お秀の手先が怒りで顫へた。兩方の頻に血が差した。其血は心の何處からか一度に顔の方へ向けて動いて來るやうに見えた。色が白いのでそれが一層鮮やかであつた。然し彼女の言葉遣ひ丈《だけ》は夫《それ》程《ほど》變らなかつた。怒りの中《うち》に微笑さへ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
 「嫂《ねえ》さん何うしませう。折角兄さんがあゝ仰しやるものですから、置いて行つて上げませうか」
 「さうね、そりや秀子さんの御隨意で可《よ》ござんすわ」
 「さう。でも兄さんは絶對に必要だと仰しやるのね」
 「えゝ良人《うち》には絶對に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
 「ぢや兄さんと嫂《ねえ》さんとは丸《まる》で別《べつ》ツこなのね」
 「それでゐて、些《ちつ》とも別《べつ》ツこぢやないのよ。是でも夫婦だから、何から何迄|一所《いつしよ》くたよ」
 「だつて――」
 お延は皆迄云はせなかつた。
 「良人《うち》に絶對に必要なものは、あたしがちやんと拵へる丈《だけ》なのよ」
 彼女は斯う云ひながら、昨日《きのふ》岡本の叔父に貰つて來た小切手を帶の間から出した。
 
     百八
 
 彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるやうに取扱ひながら、津田の手に渡した時、彼女には夫《をつと》に對する一種の注文があつた。前後の行掛《ゆきがゝ》りと自分の性格から割り出された其注文といふのは外でもなかつた。彼女は夫《をつと》が自分としつくり呼吸を合はせて、それを受け取つて呉れゝば好いがと心の中《うち》で祈つたのである。會心の微笑を洩らしながら首肯《うな》づいて、それを鷹揚《おうやう》に枕元へ放《はふ》り出《だ》すか、でなければ、ごく簡單な、然し細君に對して最も滿足したらしい禮をたゞ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、何《いづ》れにしても此小切手の出所《でどころ》に就いて、夫婦の間に夫婦らしい氣脉が通じてゐるといふ事實を、お秀に見せればそれで足りたのである。
 不幸にして津田にはお延の所作《しよさ》も小切手もあまりに突然過ぎた。其上|斯《こ》んな場合に遣る彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣《おもむき》を異《こと》にしてゐた。彼は不思議さうに小切手を眺めた。それから緩《ゆつ》くり訊いた。
 「こりや一體何うしたんだい」
 此冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩に於て既にお延の意氣込を恨めしく摧《くじ》いた。彼女の豫期は外《はづ》れた。
 「何うしもしないわ。たゞ要るから拵へた丈《だけ》よ」
 斯う云つた彼女は、腹の中でひや/\した。彼女は津田が眞面目腐つて其《その》後《あと》を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何等の氣脉が通じてゐない證據を、お秀の前に暴露するに過ぎなかつた。
 「譯なんか病氣中に訊かなくつても可《い》いのよ。何うせ後《あと》で解る事なんだから」
 是《これ》丈《だけ》云つた後《あと》でもまだ不安心でならなかつたお延は津田がまだ何とも答へない先に、すぐ其次を付け加へてしまつた。
 「よし解らなくつたつて構はないぢやないの。高が此位のお金なんですもの、拵へようと思へば、何處からでも出て來るわ」
 津田は漸く手に持つた小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であつた。然し金を珍重する男ではなかつた。使ふために金の必要を他人より餘計痛切に感ずる彼は、其金を輕蔑する點に於て、お延の言葉を心から肯定するやうな性質を有《も》つてゐた。それで彼は黙つてゐた。然しそれだから又お延に一口の禮も云はなかつた。
 彼女は物足らなかつた。たとひ自分に何とも云はない迄も、お秀には溜飲《りういん》の下《さが》るやうな事を一口でいゝから云つて呉れれば可《い》いのにと、腹の中《なか》で思つた。
 先刻《さつき》から二人の樣子を見てゐた其お秀は此時急に「兄さん」と呼んだ。さうして懷から綺麗な女持の紙入を出した。
 「兄さん、あたし持つて來たものを此所へ置いて行きます」
 彼女は紙入の中から白紙《はくし》で包んだものを拔いて小切手の傍《そば》へ置いた。
 「斯うして置けばそれで可《い》いでせう」
 津田に話し掛けたお秀は暗《あん》にお延の返事を待ち受けるらしかつた。お延はすぐ應じた。
 「秀子さんそれぢや濟みませんから、何うぞそんな心配はしないで置いて下さい。此方《こつち》で出來ないうちは、兎も角もですけれども、もう間に合つたんですから」
 「だけどそれぢやあたしの方が又心持が惡いのよ。斯うして折角包んで迄持つて來たんですから、何うかそんな事を云はずに受取つて置いて下さいよ」
 二人は讓り合つた。同じやうな問答を繰り返し始めた。津田は又|辛防強《しんばうづよ》く何時《いつ》迄《まで》もそれを聽いてゐた。仕舞に二人はとう/\兄に向はなければならなくなつた。
 「兄さん取つといて下さい」
 「貴方頂いてもよくつて」
 津田はにや/\と笑つた。
 「お秀妙だね。先刻《さつき》はあんなに強硬だつたのに、今度は又馬鹿に安つぽく貰はせようとするんだね。一體|何方《どつち》が本當なんだい」
 お秀は屹《きつ》となつた。
 「何方《どつち》も本當です」
 此答は津田に突然であつた。さうして其強い調子が、何處迄も冷笑的に構へようとする彼の機鋒《きほう》を挫《くじ》いた。お延には猶更《なほさら》であつた。彼女は驚ろいてお秀を見た。其顔は先刻《さつき》と同じやうに火熱《ほて》つてゐた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、たゞの怒りばかりではなかつた。口惜《くや》しいとか無念だとかいふ敵意の外に、まだ認めなければならない或物が其所に陽炎《かげろ》つた。然しそれが何であるかは、彼女の口を通して聽くより外に途がなかつた。二人は惹《ひ》き付《つ》けられた。今迄持續して來た心の態度に角度の轉換が必要になつた。彼等は遮《さへ》ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聽かうとした。彼等の豫期と同時に、其言葉はお秀の口を衝いて出た。
 
     百九
 
 「實は先刻《きつき》から云はうか止《よ》さうかと思つて、考へてゐたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑《ひや》かされて見ると、私だつて黙つて歸るのが厭になります。だから云ふ丈《だけ》の事は此所で云つて仕舞ひます。けれども一應お斷りして置きますが、是から申し上げる事は今迄のとは少し意味が違ひますよ。それを今迄通りの態度で聽いてゐられると、私だつて少し迷惑するかも知れません、といふのは、たゞ私が誤解されるのが厭だといふ意味でなくつて、私の心持があなた方に通じなくなるといふ譯合《わけあひ》からです」
 お秀の説明は斯ういふ言葉で始まつた。それが既に自分の態度を改めかゝつてゐる二人の豫期に一倍の角度を與へた。彼等は黙つて其《その》後《あと》を待つた。然しお秀はもう一遍念を押した。
 「少しや眞面目に聽いて下さるでせうね。私の方が眞面目になつたら」
 斯う云つたお秀は其強い眼を津田の上からお延に移した。
 「尤も今迄が不眞面目といふ譯でもありませんけれどもね。何しろ嫂《ねえ》さんさへ此所にゐて下《くだ》されば、まあ大丈夫でせう。何時《いつ》もの兄妹喧嘩《きやうだいげんくわ》になつたら、其時に止《と》めて頂けばそれ迄ですから」
 お延は微笑して見せた。然しお秀は應じなかつた。
 「私は何時《いつ》かつから兄さんに云はう/\と思つてゐたんです。嫂《ねえ》さんのゐらつしやる前でですよ。だけど、其機會がなかつたから、今日《けふ》迄《まで》云はずにゐました。それを今改めてあなた方のお揃ひになつた所で申してしまふのです。それは外でもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事より外に何《なん》にも考へてゐらつしやらない方《かた》だといふ事|丈《だけ》なんです。自分達さへ可《よ》ければ、いくら他《ひと》が困らうが迷惑しようが、丸《まる》で餘所《よそ》を向いて取り合はずにゐられる方《かた》だといふ丈《だけ》なんです」
 此斷案を津田は寧ろ冷靜に受ける事が出來た。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑はなかつたのだから。然しお延には又是程意外な批評はなかつた。彼女はたゞ呆《あき》れるばかりであつた。幸か不幸かお秀は彼女の口を開《ひら》く前にすぐ先へ行つた。
 「兄さんは自分を可愛《かはい》がる丈《だけ》なんです。嫂《ねえ》さんは又兄さんに可愛《かはい》がられる丈《だけ》なんです。あなた方の眼には外に何《なん》にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
 此所迄來たお秀は急に後を繼《つ》ぎ足《た》した。二人の中《うち》の一人が自分を遮《さへ》ぎりはしまいかと恐れでもするやうな樣子を見せて。
 「私はたゞ私の眼に映つた通りの事實を云ふ丈《だけ》です。それを何うして貰ひたいといふのではありません。もう其時機は過ぎました。有體《ありてい》にいふと、其時機は今日《けふ》過ぎたのです。實はたつた今過ぎました。あなた方の氣の付かないうちに、過ぎました。私は何事も因縁づくと諦らめるより外に仕方がありません。然し其事實から割り出される結果|丈《だけ》は是非共あなた方に聽いて頂きたいのです」
 お秀は又津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀の所謂《いはゆる》結果なるものに就いて、判然《はつきり》した觀念がなかつた。從つてそれを聽く好奇心があつた。だから黙つてゐた。
 「結果は簡單です」とお秀が云つた。「結果は一口で云へる程簡單です。然し多分あなた方には解らないでせう。あなた方は決して他《ひと》の親切を受ける事の出來ない人だといふ意味に、多分御自分ぢや氣が付いてゐらつしやらないでせうから。斯う云つても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分|丈《だけ》の事しか考へられないあなた方は、人間として他《ひと》の親切に應ずる資格を失なつてゐらつしやるといふのが私の意味なのです。つまり他《ひと》の好意に感謝する事の出來ない人間に切り下げられてゐるといふ事なのです。あなた方はそれで澤山だと思つてゐらつしやるかも知れません。何處にも不足はないと考へておいでなのかも分りません。然し私から見ると、それはあなた方自身に取つて飛んでもない不幸になるのです。人間らしく嬉しがる能力を天《てん》から奪はれたと同樣に見えるのです。兄さん、あなたは私の出した此お金は欲しいと仰《おつし》やるのでせう。然し私の此お金を出す親切は不用だと仰やるのでせう。私から見ればそれが丸《まる》で逆《ぎやく》です。人間として丸で逆なのです。だから大變な不幸なのです。さうして兄さんは其不幸に氣が付いてゐらつしやらないのです。嫂《ねえ》さんは又私の持つて來た此お金を兄さんが貰はなければ可《い》いと思つてゐらつしやるんです。さつきから貰はせまい/\としてゐらつしやるんです。つまり此お金を斷ることによつて、併せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。さうしてそれが嫂《ねえ》さんには大變なお得意になるのです。嫂《ねえ》さんも逆《ぎやく》です。嫂《ねえ》さんは妹の實意を素直《すなほ》に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、丸《まる》で御存じない方《かた》なのです」
 お延は黙つてゐられなくなつた。然しお秀はお延より猶《なほ》黙つてゐられなかつた。彼女を遮《さへ》ぎらうとするお延の出鼻を抑へ付けるやうな熱した語氣で、自分の云ひたい事|丈《だけ》云つて仕舞はなければ氣が濟まなかつた。
 
     百十
 
 「嫂《ねえ》さん何か仰しやる事があるなら、後で緩《ゆつ》くり伺ひますから、御迷惑でも我慢して私に云ふ丈《だけ》云はせてしまつて下さい。なにもう直《ぢき》です。そんなに長く掛りやしません」
 お秀の斷り方は妙に落ち付いてゐた。先刻《さつき》津田と衝突した時に比《くら》べると、彼女は丸《まる》で反對の傾向を帶びて、激昂から沈靜の方へ推し移つて來た。それが此場合|如何《いか》にも案外な現象として二人の眼に映つた。
 「兄さん」とお秀が云つた。「私は何故もつと早く此包んだ物を兄さんの前に出さなかつたのでせう。さうして今になつて又何で極りが惡くもなく、それをあなた方の前に出されたのでせう。考へて下さい。嫂《ねえ》さんも考へて下さい」
 考へる迄もなく、二人にはそれがお秀の詭辯《きべん》としか受取れなかつた。ことにお延にはさう見えた。然しお秀は眞面目であつた。
 「兄さん私は是であなたを兄さんらしくしたかつたのです。高がそれ程の金でかと兄さんはせゝら笑ふでせう。然し私から云へば金額《かねだか》は問題ぢやありません。少しでも兄さんを兄さんらしく出來る機會があれば、私は何時《いつ》でもそれを利用する氣なのです。私は今日《けふ》此所で出來る丈《だけ》の努力をしました。さうして見事に失敗しました。ことに嫂《ねえ》さんがお出《いで》になつてから以後、私の失敗は急に目立つて來ました。私が妹として兄さんに對する執着を永久に放《はふ》り出《だ》さなければならなくなつたのは其時です。――嫂《ねえ》さん、後生《ごしやう》ですから、もう少し我慢して聽いてゐて下さい」
 お秀は又斯う云つて何か云はうとするお延を制した。
 「あなた方の態度はよく私に解りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺ふより、今此所で拜見した丈《だけ》で、私が勝手に判斷する方が、却つてよく解るやうに思はれますから、私はもう何《なん》にも伺ひません。然し私には自分を説明する必要がまだあります。其所は是非聽いて頂かなければなりません」
 お延は隨分手前勝手な女だと思ひながら黙つてゐた。然し初手《しよて》から勝利者の餘裕が附着してゐる彼女には、黙つてゐても大した不足はなかつた。
 「兄さん」とお秀が云つた。「是を見て下さい。ちやんと紙に包んであります。お秀が宅《うち》から用意して持つて來たといふ證據にはなるでせう。其所にお秀の意味はあるのです」
 お秀はわざ/\枕元の紙包を取り上げて見せた。
 「是が親切といふものです。あなた方には何うしても其意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。さうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくつても、私は宅《うち》から持つて來た親切を此所へ置いて行くより外に途はないのだといふ事も一所に説明します。兄さん、是は妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻《さつき》さういふ問を私にお掛けになりました。私は何方《どつち》も同《おんな》じだと云ひました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだ其親切を盡くす氣でゐたら、その親切は義務と何所《どこ》が違ふんでせう。私の親切を兄さんの方で義務に變化させてしまふ丈《だけ》ぢやありませんか」
 「お秀もう解つたよ」と津田が漸く云ひ出した。彼の頭に妹のいふ意味は判然《はつきり》入《はい》つた。けれども彼女の豫期する感情は少しも起らなかつた。彼は先刻《さつき》から蒼蠅《うる》さいのを我慢して彼女の云ひ草を聽いてゐた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠實でもなかつた。愛嬌もなければ氣高《けだか》くもなかつた。たゞ厄介な丈《だけ》であつた。
 「もう解つたよ。それで可《い》いよ。もう澤山だよ」
 已《すで》に諦らめてゐたお秀は、別に恨《うら》めしさうな顔もしなかつた。たゞ斯う云つた。
 「これは良人《うち》が立て替へて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人《うち》が京都へ保證して成り立つた約束を、兄さんがお破りになつたために、良人《うち》ではお父さんの方へ義理が出來て、仕方なしに立て替へた事になるとしたら、なんぼ兄さんだつて、心持よく受け取る氣にはなれないでせう。私もそんな事で良人《うち》を煩はせるのは厭です。だからお斷りをして置きますが、是は良人《うち》とは關係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙つてお取りになれるでせう。私の親切はお受けにならないでも、お金|丈《だけ》はお取りになれるでせう。今の私はなまじいお禮を云つて頂くより、たゞ黙つて受取つて置いて下さる方が、却つて心持が好くなつてゐるのです。問題はもう兄さんの爲ぢやなくなつてゐるんです。單に私の爲です。兄さん、私の爲に何うぞそれを受取つて下さい」
 お秀は是《これ》丈《だけ》云つて立ち上つた。お延は津田の顔を見た。其顔には何《なん》といふ合圖《あひづ》の表情も見えなかつた。彼女は仕方なしにお秀を送つて階子段《はしごだん》を降りた。二人は玄關先で尋常の挨拶を交《と》り換《かは》せて別れた。
 
     百十一
 
 單に病院でお秀に出會ふといふ事は、お延に取つて意外でも何でもなかつた。けれども出會つた結果からいふと、又意外以上の意外に歸着した。自分に對するお秀の態度を平生から心得てゐた彼女も、まさか斯《こ》んな場面《シーン》で其相手にならうとは思はなかつた。相手になつた後《あと》でも、それが偶然の廻《まは》り合《あは》せのやうに解釋される丈《だけ》であつた。その必然性を認めるために、過去の因果を迹付《あとづ》けて見ようといふ氣さへ起らなかつた。この心理状態をもつと碎けた言葉で云ひ直すと、事件の責任は全く自分にないといふ事に過ぎなかつた。凡《すべ》てお秀が背負《しよ》つて立たなければならないといふ意味であつた。從つてお延の心は存外平靜であつた。少くとも、良心に對して疾《や》ましい點は容易に見出だされなかつた。
 此會見からお延の得た収獲は二つあつた。一つは事後に起る不愉快さであつた。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持《も》ち來《きた》されさうに見える葛藤《かつとう》さへ織り込まれてゐた。彼女は充分それを切り拔けて行く覺悟を有《も》つてゐた。但しそれには、津田が飽く迄自分の肩を持つて呉れなければ駄目だといふ條件が附帶してゐた。其所へ行くと彼女には七分通《しちぶどほ》りの安心と、三分方《さんぶがた》の不安があつた。其|三分方《さんぶがた》の不安を、今日《けふ》の自分が、どの位の程度に減らしてゐるかは、彼女に取つて重大な問題であつた。少くとも今日《けふ》の彼女は、夫《をつと》の愛を買ふために、もしくはそれを買ひ戻すために、出來る丈《だけ》の實《じつ》を津田に見せたといふ意味で、幾分かの自信を其方面に得た積《つもり》なのである。
 是はお延自身に解つてゐる側《がは》の消息中《せうそくちゆう》で、最も必要と認めなければならない一端であるが、其外にまだ彼女の一向《いつかう》知らない間《ま》に、自然自分の手に入《はい》るように仕組まれた収獲が出來た。無論それは一時的のものに過ぎなかつた。けれども當然自分の上に向けられるべき夫《をつと》の猜疑《さいぎ》の眼《め》から、彼女は運よく免《まぬ》かれたのである。といふのは、お秀といふ相手を引き受ける前の津田と、それに惱まされ出した後《あと》の彼とは、心持から云つても、意識の焦點になるべき對象から見ても、丸《まる》で違つてゐた。だから此變化の強く起つた際《きは》どい瞬間に姿を現はして、其變化の波を自然のままに擴げる役を勤めたお延は、吾知らず儲《まう》けものをしたのと同じ事になつたのである。
 彼女は何故《なぜ》岡本が強ひて自分を芝居へ誘つたか、又何故その岡本の宅《うち》へ昨日《きのふ》行かなければならなくなつたか、そんな内情に關する凡《すべ》ての自分を津田の前に説明する手數《てかず》を省《はぶ》く事が出來た。寧ろ自分の方から云ひ出したい位な小林の言葉に就いてすら、彼女は一口も語る餘裕を有《も》たなかつた。お秀の歸つたあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されてゐた。
 二人はそれを二人の顔付から知つた。さうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段《はしごだん》を上《あが》つて、又|室《へや》の入口に其すらりとした姿を現はした刹那であつた。お延は微笑した。すると津田も微笑した。其所には外に何《なん》にもなかつた。たゞ二人がゐる丈《だけ》であつた。さうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久し振に本來の津田を其所に認めたやうな氣がした。彼女は肉の上に浮び上つた其微笑が何の象徴《シムボル》であるかを殆んど知らなかつた。たゞ一種の恰好《かつかう》を取つて動いた肉其物の形が、彼女には嬉しい記念であつた。彼女は大事にそれを心の奧に仕舞ひ込んだ。
 其時二人の微笑は俄かに變つた。二人は齒を露《あら》はす迄に口を開《あ》けて、一度に聲を出して笑ひ合つた。
 「驚ろいた」
 お延は斯う云ひながら又津田の枕元へ來て坐つた。津田は寧ろ落ち付いて答へた。
 「だから彼奴《あいつ》に電話なんか掛けるなつて云ふんだ」
 二人は自然お秀を問題にしなければならなかつた。
 「秀子さんは、まさか基督教《キリストけう》ぢやないでせうね」
 「何故」
 「何故でも――」
 「金を置いて行つたからかい」
 「それ許《ばかり》ぢやないのよ」
 「眞面目腐つた説法をするからかい」
 「えゝまあ左右《さう》よ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんな六づかしい事を仰しやる所を拜見したのは」
 「彼奴《あいつ》は理窟屋だよ。つまりあゝ捏《こ》ね返《かへ》さなければ氣が濟まない女なんだ」
 「だつてあたし始めてよ」
 「お前は始めてさ。おれは何度だか分りやしない。一體何でもないのに高尚がるのが彼奴《あいつ》の癖なんだ。さうして生《なま》じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
 「何うして」
 「何うしてつて、藤井の叔父の傍《そば》にゐて、あの叔父の議論好きな所を、始終見てゐたもんだから、とう/\あんなに口が達者になつちまつたのさ」
 津田は馬鹿らしいといふ風をした。お延も苦笑した。
 
     百十二
 
 久し振に夫《をつと》と直《ぢか》に向き合つたやうな氣のしたお延は嬉しかつた。二人の間《あひだ》に何時《いつ》の間《ま》にか懸けられた薄い幕を、急に切つて落した時の晴々《はれ/”\》しい心持になつた。
 彼を愛する事によつて、是非共自分を愛させなければ已《や》まない。――是が彼女の決心であつた。其決心は多大の努力を彼女に促《うな》がした。彼女の努力は幸ひ徒勞に終らなかつた。彼女は遂に酬《むく》ひられた。少なくとも今後の見込を立て得る位の程度に於て酬《むく》ひられた。彼女から見れば不慮の出來事と云はなければならない此|破綻《はたん》は、取《とり》も直《なほ》さず彼女に取つて復活の曙光《しよくわう》であつた。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色の空を、薄明るく眺める事が出來た。さうして其暖かい希望の中《なか》に、此|破綻《はたん》から起る凡《すべ》ての不愉快を忘れた。小林の殘酷に殘して行つた正體の解らない黒い一點、それはいまだに彼女の胸の上にあつた。お秀の口から迸《ほと》ばしるやうに出た不審の一句、それも疑惑の星となつて、彼女の頭の中に鈍《にぶ》い瞬《まばた》きを見せた。然しそれらはもう遠い距離に退《しりぞ》いた。少くとも左程《さほど》苦《く》にならなかつた。耳に入れた刹那に起つた昂奮の記憶さへ、再び呼び戻す必要を認めなかつた。
 「若し萬一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
 夫《をつと》に對する斯ういふ自信さへ、其時のお延の腹には出來た。從つて、いざといふ場合に、何うでも臨機の所置を付けて見せるといふ餘裕があつた。相手を片付ける位の事なら譯はないといふ氣持も手傳つた。
 「相手? 何《ど》んな相手ですか」と訊かれたら、お延は何と答へただらう。それは朧氣《おぼろげ》に薄墨《うすずみ》で描《ゑが》かれた相手であつた。さうして女であつた。さうして津田の愛を自分から奪ふ人であつた。お延はそれ以外に何《なん》にも知らなかつた。然し何處かに此相手が潜んでゐるとは思へた。お秀と自分等夫婦の間に起つた波瀾が、あゝ迄|際《きは》どくならずに濟んだなら、お延は行掛《いきがゝ》り上《じやう》、是非共津田の腹のなかにゐる此相手を、遠くから探らなければならない順序だつたのである。
 お延は其プログラムを狂はせた自分を顧みて、寧ろ幸福だと思つた。氣掛りを後へ繰り越すのが辛《つら》くて耐《たま》らないとは決して考へなかつた。それよりも此機會を緊張出來る丈《だけ》緊張させて、親切な今の自分を、強く夫《をつと》の頭の中《なか》に叩き込んで置く方が得策だと思案した。
 斯う決心するや否や彼女は嘘を吐《つ》いた。それは些細《ささい》の嘘であつた。けれども今の場合に、夫《をつと》を物質的と精神的の兩面に亘《わた》つて、窮地から救ひ出したものは、自分が持つて來た小切手だといふ事を、深く信じて疑はなかつた彼女には、寧ろ重大な意味を有《も》つてゐた。
 其時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めてゐた。其所に書いてある額は彼の要求するものより却つて多かつた。然しそれを問題にする前、彼はお延に云つた。
 「お延|有難《ありがた》う。お蔭で助かつたよ」
 お延の嘘は此感謝の言葉の後に隨《つ》いて、すぐ彼女の口を滑つて出てしまつた。
 「昨日《きのふ》岡本へ行つたのは、それを叔父さんから貰ふためなのよ」
 津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行つて來いと夫《をつと》から頼まれた時、それを斷然|跳《は》ね付《つ》けたものは、此小切手を持つて來たお延自身であつた。一週間と經《た》たないうちに、何處からそんな好意が急に湧いて出たのだらうと思ふと、津田は不思議でならなかつた。それをお延は斯う説明した。
 「そりや厭なのよ。此上叔父さんにお金の事なんかで迷惑を掛けるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればその位の勇氣を出さなくつちや、妻としてのあたしの役目が濟みませんもの」
 「叔父さんに譯を話したのかい」
 「えゝ、そりや隨分|辛《つら》かつたの」
 お延は津田へ來る時の支度を大部分岡本に拵へて貰つてゐた。
 「其上お金なんかには、些《ちつ》とも困らない顔を今日《けふ》迄《まで》して來たんですもの。だから猶《なほ》極りが惡いわ」
 自分の性格から割り出して、斯ういふ場合の極りの惡さ加減は、津田にもよく呑み込めた。
 「能く出來たね」
 「云へば出來るわ、あなた。無いんぢやないんですもの。たゞ云《い》ひ惡《にく》い丈《だけ》よ」
 「然し世の中には又お父さんだのお秀だのつていふ、六づかしやも揃つてるからな」
 津田は却つて自尊心を傷《きずつ》けられたやうな顔付をした。お延はそれを取《と》り繕《つく》ろうやうに云つた。
 「なにさう云ふ意味ばかりで貰つて來た譯でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買つて呉れる約束があるのよ。お嫁に行くとき買つて遣らない代りに、今に買つて遣るつて、此間《こなひだ》から左右《さう》云つてたのよ。だから其《その》積《つもり》で呉れたんでせう大方。心配しないでも可《い》いわ」
 津田はお延の指を眺めた。其所には自分の買つて遣つた寶石がちやんと光つてゐた。
 
     百十三
 
 二人は何時《いつ》になく融《と》け合《あ》つた。
 今迄お延の前で體面を保つために武裝してゐた津田の心が吾知らず弛《ゆる》んだ。自分の父が鄙吝《ひりん》らしく彼女の眼に映りはしまいかといふ掛念《けねん》、或は自分の豫期以下に彼女が父の財力を見縊《みくび》りはしまいかといふ恐れ、二つのものが原因になつて、成る可く京都の方面に曖昧な幕を張り通さうとした警戒が解けた。さうして彼はそれに氣付かずにゐた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力で其所へ押し流されて來た。用心深い彼をそつと持ち上げて、事件がお延のために彼を其所迄運んで來て呉れたと同じ事であつた。お延にはそれが嬉しかつた。改めやうとする決心なしに、改たまつた夫《をつと》の態度には自然があつた。
 同時に津田から見たお延にも、亦それと同樣の趣《おもむき》が出た。餘事は暫らく問題外に措《お》くとして、結婚後彼等の間には、常に財力に關する妙な暗闘があつた。さうしてそれは斯う云ふ因果から來た。普通の人のやうに富を誇りとしたがる津田は、其點に於て、自分を成る可く高くお延から評價させるために、父の財産を實際より遙か餘計な額に見積つた所を、彼女に向つて吹聽《ふいちやう》した。それ丈《だけ》ならまだ可《よ》かつた。彼の弱點はもう一歩先へ乘り越す事を忘れなかつた。彼のお延に匂はせた自分は、今より大變樂な身分にゐる若旦那であつた。必要な場合には、幾何《いくら》でも父から補助を仰ぐ事が出來た。たとひ仰がないでも、月々の支出に困る憂は決してなかつた。お延と結婚した時の彼は、もう是《これ》丈《だけ》の言責《げんせき》を彼女に對して背負《しよ》つて立つてゐたのと同じ事であつた。利巧な彼は、財力に重きを置く點に於て、彼に優《まさ》るとも劣らないお延の性質を能く承知してゐた。極端に云へば、黄金《わうごん》の光りから愛其物が生れると迄信ずる事の出來る彼には、何うかしてお延の手前を取繕はなければならないといふ不安があつた。ことに彼は此點に於てお延から輕蔑されるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月《まいげつ》父から助《す》けて貰ふようにしたのも、實は必要以外に斯《こ》んな魂膽が潜んでゐたからでもあつた。それでさへ彼は何處かに烟《けむ》たい所を有《も》つてゐた。少くとも彼女に對する内と外には大分《だいぶん》の距離があつた。眼から鼻へ拔けるやうなお延にはまた其距離が手に取る如くに分つた。必然の勢ひ彼女は其所に不滿を抱かざるを得なかつた。然し彼女は夫《をつと》の虚僞を責めるよりも寧ろ夫《をつと》の淡泊でないのを恨んだ。彼女はたゞ水臭いと思つた。何故《なぜ》男らしく自分の弱點を妻の前に曝《さら》け出《だ》して呉れないのかを苦にした。仕舞には、それを敢てしないやうな隔《へだゝ》りのある夫《をつと》なら、此方《こつも》にも覺悟があると一人腹の中《なか》で極めた。すると其態度がまた木精《こだま》のやうに津田の胸に反響した。二人は何處迄行つても、直《ぢか》に向き合ふ譯に行かなかつた。しかも遠慮があるので、成るべく其所には觸れないやうに愼しんでゐた。所がお秀との悶着が、偶然にもお延の胸にある此扉を一度にがらりと敲き破つた。しかもお延自身|毫《がう》も其所に氣が付かなかつた。彼女は自分を夫《をつと》の前に開放しようといふ努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまつた。だから津田にも丸《まる》で別人《べつにん》のやうに快よく見えた。
 二人は斯ういふ風で、何時《いつ》になく融け合つた。すると二人が融《と》け合《あ》つた所に妙な現象がすぐ起つた。二人は今迄回避してゐた問題を平氣で取り上げた。二人は一所になつて、京都に對する善後策を講じ出した。
 二人には同じ豫感が働いた。此事件は是《これ》丈《だけ》で片付くまいといふ不安が双方の心を引き締めた。屹度《きつと》お秀が何かするだらう。すれば直接京都へ向つて遣るに違ひない。さうして其結果は自然二人の不利益となるに極つてゐる。――此所迄は二人の一致する點であつた。それから先が肝心の善後策になつた。然し其所へ來ると意見が區々《まち/\》で、容易に纒まらなかつた。
 お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。然し津田は首を掉《ふ》つた。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事を能く承知してゐた。次に津田の方から岡本は何うだらうと云ひ出した。けれども岡本は津田の父とそれ程深い交際がないと云ふ理由で、今度はお延が反對した。彼女は一層《いつそ》簡單に自分が和解の目的で、お秀の所へ行つて見ようかといふ案を立てた。是には津田も大した違存《ゐぞん》はなかつた。たとひ今度の事件の爲でなくとも、絶交を希望しない以上、何等かの形式のもとに、兩家の交際は復活されべき運命を有《も》つてゐたからである。然しそれはそれとして、彼等はもう少し有效な方法を同時に講じて見たかつた。彼等は考へた。
 仕舞に吾川の名が二人の口から同じやうに出た。彼の地位、父との關係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見て呉れてゐる目下の事情、――數へれば數へる程、彼には有利な條件が具《そなは》つてゐた。けれども其所には又一種の困難があつた。それ程親しく近付き惡《にく》い吉川に口を利いて貰はうとすれば、是非共其前に彼の細君を口説《くど》き落《おと》さなければならなかつた。所が其細君はお延に取つて大の苦手《にがて》であつた。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善《なかよし》の津田は又充分|成效《せいかう》の見込が其所に見えてゐるので、熱心にそれを主張した。仕舞にお延はとう/\我《が》を折つた。
 事件後の二人は打ち解けて斯《こ》んな相談をした後《あと》で心持よく別れた。
 
     百十四
 
 前夜よく寐られなかつた疲勞の加はつた津田は其晩案外氣易く眠る事が出來た。翌日《あくるひ》も亦透き通るやうな日差《ひざし》を眼に受けて、晴々《はれ/”\》しい空氣を嵌硝子《はめがらす》の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごし/\云はす音が、何處となしに秋の情趣を唆《そゝ》つた。
 「……へ行くなら着て行かしやんせ。シツシツシ」
 洗濯屋の男は、俗歌を唄ひながら、區切《くぎり》/\へシツシツシといふ言葉を入れた。それが如何にも忙がしさうに手を働かせてゐる彼等の姿を津田に想像させた。
 彼等は突然變な穴から白い物を擔いで屋根へ出た。それから物干へ上《のぼ》つて、其白いものを隙間なく秋の空へ廣げた。此所へ來てから、日毎に繰り返される彼等の所作《しよさ》は單調であつた。しかし勤勉であつた。それが果して何を意味してゐるか津田には解らなかつた。
 彼は今の自分にもつと親切な事を頭の中で考へなければならなかつた。彼は吉川夫人の姿を憶ひ浮べた。彼の未來、それを眼の前に描《ゑが》き出《だ》すのは、餘りに漠然過ぎた。それを纒めやうとすると、何時《いつ》でも吉川夫人が現はれた。平生から自分の未來を代表して呉れる此焦點には此際特別な意味が附着してゐた。
 一には此間訪問した時からの引掛《ひつかゝ》りがあつた。其時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に點じたのは彼女であつた。彼には其《その》後《あと》を聽くまいとする努力があつた。又聽かうとする意志も動いた。既に封を切つたものが彼女であるとすれば、中味を披《ひら》く權利は自分にあるやうにも思はれた。
 二には京都の事が氣になつた。輕重《けいちよう》を別にして考へると、此方が寧ろ急に逼《せま》つてゐた。一日も早く彼女に會ふのが得策のやうにも見えた。まだ四五日は何うしても動く事の出來ない身體を持ち扱つた彼は、昨日《きのふ》お延の歸る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へ遣らうとした位であつた。それはお延に斷られたので、成立しなかつたけれども、彼は今でも其方が適當な遣口だと信じてゐた。
 お延が何故《なぜ》斯ういふ用向《ようむき》を帶びて夫人を訪ねるのを嫌つたのか、津田は不思議でならなかつた。黙つてゐてもそんな方面へ出入《でいり》をしたがる女の癖に。と彼は其時考へた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵らへて貰つたのと同じ事だのにと迄、自分の動議を強調して見た。然し何うしても引き受けたがらないお延を、たつて強ひる氣も亦其場合の彼には起らなかつた。それは夫婦打ち解けた氣分にも起因してゐたが、一方から見ると、またお延の辭退しやうにも關係してゐた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云つた。然し其理由を述べる代りに、津田なら屹度《きつと》成效《せいかう》するに違ないからと云つた。成效するにしても、病院を出た後《あと》でなければ會ふ譯に行かないんだから、遲くなる虞《おそ》れがあると津田が注意した時、お延は又意外な返事を彼に與へた。彼女は夫人が屹度病院へ見舞に來るに違ないと斷言した。其時機を利用しさへすれば、一番自然に又一番簡單に事が運ぶのだと主張した。
 津田は洗濯屋の干物《ほしもの》を眺めながら、昨日《きのふ》の問答を斯《こ》んな風に、夫《それ》から夫《それ》へと手元へ手操《たぐ》り寄せて點檢した。すると吉川夫人は見舞に來て呉れさうでもあつた。又來て呉れさうにもなかつた。つまりお延が何故《なぜ》來る方をさう堅く主張したのか解らなくなつた。彼は芝居の食堂で晩餐の卓に着いたといふ大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間に何《ど》んな會話が取り換はされたかを、小説的に組み合せても見た。けれども其會話の何處から此豫言が出て來たかの點になると、自分に解らないものとして投げて仕舞ふより外に手はなかつた。彼は既に幾分の直覺、不幸にして天が彼に與へて呉れなかつた幾分の直覺を、お延に許してゐた。其點で何時《いつ》でも彼女を少し畏《おそ》れなければならなかつた彼には、杜撰《づさん》に其所へ觸れる勇氣がなかつた。と同時に、全然其直覺に信頼する事の出來ない彼は、何とかして此方《こつち》から吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考へた。彼はすぐ電話を思ひ付いた。横着にも見えず、殊更《ことさら》でもなし、自然に彼女が此所迄出向いて來るやうな電話の掛け方はなからうかと苦心した。然し其苦心は水の泡を製造する努力と畧《ほゞ》似たものであつた。いくら骨を折つて拵へても、すぐ後から消えて行く丈《だけ》であつた。根本的に無理な空想を實現させようと巧《たく》らんでゐるのだから仕方がないと氣が付いた時、彼は一人で苦笑して又|硝子越《がらすごし》に表を眺めた。
 表は何時《いつ》か風立《かぜだ》つた。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物《ほしもの》と一所になつて輕く搖れてゐた。それを掠《かす》めるやうに懸け渡された三本の電線も、餘所《よそ》と調子を合せるやうにふら/\と動いた。
 
     百十五
 
 下から上《あが》つて來た醫者には、其時の津田が如何にも退屈さうに見えた。顔を合せるや否や彼は「如何《いかゞ》です」と訊いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるやうに云つた。それから彼は津田のためにガーゼを取り易へて呉れた。
 「まだ創口《きずぐち》の方はそつとして置かないと、危險ですから」
 彼は斯う注意して、ぢかに局部を抑へ付けてゐる個所を少し緩めて見たら、血が※[者/火]染《にじ》み出したといふ話を用心のためにして聽かせた。
 取り易へられたガーゼは一部分に過ぎなかつた。要所を剥《は》がすと、血が迸《ほとば》しるかも知れないといふ身體では、津田も無理をして宅《うち》へ歸る譯に行かなかつた。
 「矢ツ張豫定通りの日數《につすう》は動かずにゐるより外に仕方がないでせうね」
 醫者は氣の毒さうな顔をした。
 「なに經過次第ぢや、それ程大事を取るにも及ばないんですがね」
 それでも醫者は、時間と經濟に不足のない、何處から見ても餘裕のある患者として、津田を取扱かつてゐるらしかつた。
 「別に大した用事がお有《あり》になる譯でもないんでせう」
 「えゝ一週間位は此所で暮らしても可《い》いんです。然し臨時に一寸事件が起つたので……」
 「はあ。――然しもう直《ぢき》です。もう少しの辛防《しんばう》です」
 是より外に云ひ樣のなかつた醫者は、外來患者の方がまだ込《こ》み合《あ》はないためか、其所へ坐つて二三の雜談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めてゐる頃に起つたといふ一口話《ひとくちばなし》が、思はず津田を笑はせた。看護婦が藥を間違へたために患者が死んだのだといふ嫌疑をかけて、是非其看護婦を毆らせろと、醫局へ逼《せま》つた人があつたといふ其話は、津田から見ると如何にも滑稽であつた。斯ういふ性質《たち》の人と正反對に生み付けられた彼は、其所に馬鹿らしさ以外の何物をも見出《みいだ》す事が出來なかつた。平たく云ひ直すと、彼は向ふの短所ばかりに氣を奪《と》られた。さうして其裏側へ暗《あん》に自分の長所を點綴《てんてつ》して喜んだ。だから自分の短所には決して思ひ及ばなかつたと同一の結果に歸着した。
 醫者の診察が濟んだ後で、彼は下らない病氣のために、一週間も一つ所に括《くゝ》り付《つ》けられなければならない現在の自分を悲觀したくなつた。氣の所爲《せゐ》か彼には其現在が大變貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かつたといふ後悔さへ腹の中には起つた。
 彼は又吉川夫人の事を考へ始めた。何うかして彼女を此所へ呼び付ける工夫はあるまいかと思ふよりも、何うかして彼女が此所へ來て呉れゝば可《い》いがと思ふ方に、心の調子が段々移つて行つた。自分を見破られるといふ意味で、平生からお延の直覺を惡く評價してゐたにも拘はらず、例外な此場合|丈《だけ》には、それが中《あた》つて欲しいやうな氣も何處かでした。
 彼はお延の置いて行つた書物の中《うち》から、其一冊を抽《ぬ》いた。岡本の所藏にかゝる丈《だけ》あるなと首肯《うな》づかせる樣な趣《おもむき》が其所此所に見えた。不幸にして彼は諧謔《ヒユーモア》を解する事を知らなかつた。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれ程|應《こた》へなかつた。頭にさへ呑み込めないのも續々出て來た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見付けやうとして、どし/\飛ばして行つた。すると偶然|下《しも》のやうなのが彼の眼に觸れた。
 「娘の父が青年に向つて、あなたは私《わたし》の娘を愛してお出《いで》なのですかと訊いたら、青年は、愛するの愛さないのつていふ段ぢやありません、お孃さんの爲なら死なうと迄思つてゐるんです。あの懷かしい眼で、優しい眼遣ひをたゞの一度でもして頂く事が出來るなら、僕はもうそれ丈《だけ》で死ぬのです。すぐあの二百尺もあらうといふ崖の上から、岩の上へ落ちて、滅茶苦茶な血だらけな塊《かたま》りになつて御覽に入れます。と答へた。娘の父は首を掉《ふ》つて、實を云ふと、私《わたし》も少し嘘を吐《つ》く性分だが、私《わたし》の家《うち》のやうな小人數《こにんず》な家族に、嘘付《うそつき》が二人出來るのは、少し考へものですからね。と答へた」
 嘘吐《うそつき》といふ言葉が何時《いつ》もより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中《なか》で、嘘吐《うそつき》な自分を肯《うけ》がふ男であつた。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であつた。それでゐて少しも厭世的にならない男であつた。寧ろ其反對に生活する事の出來るために、嘘が必要になるのだ位に考へる男であつた。彼は、今迄斯ういふ漠然とした人世觀の下《もと》に生きて來ながら、自分ではそれを知らなかつた。彼はたゞ行《おこな》つたのである。だから少し深く入《はい》り込《こ》むと、自分で自分の立場が分らなくなる丈《だけ》であつた。
 「愛と虚僞」
 自分の讀んだ一口噺《ひとくちばなし》から此二字を暗示された彼は、二つのものゝ關係を何う説明して可《い》いかに迷つた。彼は自分に大事なある問題の所有者であつた。内心の要求上是非共それを解決しなければならない彼は、實驗の機會が彼に與へられない限り、頭の中で徒らに考へなければならなかつた。哲學者でない彼は、自身に今迄|行《おこな》つて來た人世觀をすら、組織正しい形式の下《もと》に、わが眼の前に並べて見る事が出來なかつたのである。
 
     百十六
 
 津田は纒まらない事をそれからそれへと考へた。其うち何時《いつ》か午過《ひるす》ぎになつてしまつた。彼の頭は疲れてゐた。もう一つ事を長く思ひ續ける勇氣がなくなつた。然し秋とは云ひながら、獨り來てゐるには日が餘りに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。さうして又お延の方に想ひを馳《は》せた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に豫期してゐた彼は横着であつた。今迄彼女の手前|憚《はゞ》からなければならないやうな事ばかりを、散々考へ拔いた揚句《あげく》、それが厭になると、すぐお延はもう來さうなものだと思つて平氣でゐた。自然頭の中に湧いて出るものに對して、責任は有《も》てないといふ辯解さへ其時の彼にはなかつた。彼の見たお延に不可解な點がある代りに、自分もお延の知らない事實を、胸の中《うち》に納めてゐるのだ位の料簡は、遠くの方で働らいてゐたかも知れないが、それさへ、いざとならなければ判然《はつきり》した言葉になつて、彼の頭に現はれて來る筈がなかつた。
 お延は中々來なかつた。お延以上に待たれる吉川夫人は固《もと》より姿を見せなかつた。津田は面白くなかつた。先刻《さつき》から近くで誰かが遣《や》つてゐる、彼の最も嫌《きらひ》な謠《うたひ》の聲が、不快に彼の耳を刺戟した。彼の記憶にある謠曲指南《えうきよくしなん》といふ細長い看板が急に思ひ出された。それは洗濯屋の筋向ふに當る二階建の家《うち》であつた。二階が稽古をする座敷にでもなつてゐると見えて、距離の割に聲の方が無暗に大きく響いた。他《ひと》が勝手に遣《や》つてゐるものを止《や》めさせる權利を何處にも見出《みいだ》し得ない彼は、彼の不平を何うする事も出來なかつた。彼はたゞ早く退院したいと思ふ丈《だけ》であつた。
 柳の木の後《うしろ》にある赤い煉瓦造りの倉に、山形《やまがた》の下に一を引いた屋號のやうな紋が付いてゐて、其左右に何の爲とも解らない、大きな折釘《をれくぎ》に似たものが壁の中から突き出してゐる所を、津田が見るとも見ないとも片の付かない眼で、ぼんやり眺めてゐた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かゞ階子段《はしごだん》を、どし/\上《のぼ》つて來た。津田はおやと思つた。此足音の調子から、其主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されてゐた。
 彼の豫覺はすぐ事實になつた。彼が室《へや》の入口に眼を轉ずると、殆んどおツつかツつに、小林は貰ひ立ての外套を着た儘つか/\入《はい》つて來た。
 「何うかね」
 彼はすぐ胡坐《あぐら》をかいた。津田は寧ろ苦しさうな笑ひを挨拶の代りにした。何しに來たんだといふ心持が、顔を見ると共にもう起つてゐた。
 「是だ」と彼は外套の袖を津田に突き付けるやうにして見せた。
 「有難う、お蔭で此冬も生きて行かれるよ」
 小林はお延の前で云つたと同じ言葉を津田の前で繰り返した。然し津田はお延からそれを聽かされてゐなかつたので、別に皮肉とも思はなかつた。
 「奧さんが來たらう」
 小林は又斯う訊いた。
 「來たさ。來るのは當り前ぢやないか」
 「何か云つてたらう」
 津田は「うん」と答へようか、「いゝや」と答へようかと思つて、少し躊躇した。彼は小林が何《ど》んな事をお延に話したか、それを知りたかつた。それを彼の口から此所で繰り返させさへすれば、自分の答は「うん」だらうが、「いゝえ」だらうが、同じ事であつた。然し何方《どつち》が成功するか其所は咄嗟《とつさ》の際に極める譯に行かなかつた。所が其態度が意外な意味になつて小林に反響した。
 「奧さんが怒つて來たな。屹度《きつと》そんな事だらうと、僕も思つてたよ」
 容易に手掛りを得た津田は、すぐそれに縋《すが》り付《つ》いた。
 「君があんまり苛《いぢ》めるからさ」
 「いや苛めやしないよ。たゞ少し調戯《からか》ひ過《す》ぎたんだ、可哀想《かはいさう》に。泣きやしなかつたかね」
 津田は少し驚ろいた。
 「泣かせる樣な事でも云つたのかい」
 「なに何うせ僕の云ふ事だから出鱈目《でたらめ》さ。つまり奧さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育つたので、天下に僕のやうな愚劣な人間が存在してゐる事をまだ知らないんだ。それで一寸した事迄苦にするんだらうよ。あんな馬鹿に取り合ふなと君が平生から教へて置きさへすれば夫《それ》で可《い》いんだ」
 「さう教へてゐる事はゐるよ」と津田も負けずに遣り返した。小林はハヽと笑つた。
 「まだ少し訓練が足りないんぢやないか」
 津田は言葉を改めた。
 「然し君は一體|何《ど》んな事を云つて、彼奴《あいつ》に調戯《からか》つたのかい」
 「そりやもうお延さんから聽いたらう」
 「いゝや聽かない」
 二人は顔を見合せた。互ひの胸を忖度《そんたく》しようとする試みが、同時に其所に現はれた。
 
     百十七
 
 津田が小林に本音《ほんね》を吹《ふ》かせやうとする所には、ある特別の意味があつた。彼はお延の性質を其著るしい斷面に於て能く承知してゐた。お秀と正反對な彼女は、飽く迄|素直《すなほ》に、飽く迄|閑雅《しとやか》な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、何うしても亦彼の自由にならない點を、同樣な程度でちやんと有《も》つてゐた。彼女の才は一つであつた。けれども其應用は兩面に亘《わた》つてゐた。是は夫《をつと》に知らせてならないと思ふ事、又は隱して置く方が便宜だと極めた事、さういふ場合になると、彼女は全く津田の手に餘る細君であつた。彼女が柔順であればある程、津田は彼女から何にも堀り出す事が出來なかつた。彼女と小林の間に昨日《きのふ》何《ど》んな遣り取りが起つたか、それはお秀の騷ぎで委細を訊く暇もないうちに、時間が經つてしまつたのだから、事實|已《やむ》を得《え》ないとしても、もし左右《さう》いふ故障のない時に、津田から詳しい有《あり》の儘《まゝ》を問はれたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を滿足させたらうかと考へると、其所には大きな疑問があつた。お延の平生から推して、津田は寧ろ胡麻化《ごまか》されるに違ないと思つた。ことに彼がもしやと思つてゐる點を、小林が遠慮なく喋舌《しやべ》つたとすれば、お延は猶《なほ》の事《こと》、それを聽かない振をして、黙つて夫《をつと》の前を通り拔ける女らしく見えた。少くとも津田の觀察した彼女にはそれ丈《だけ》の餘裕が充分あつた。既にお延の方を諦らめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所《でどころ》を、小林に向つて求めるより外に仕方がなかつた。
 小林は何だか其所を承知してゐるらしかつた。
 「なに何にも云やしないよ。嘘だと思ふなら、もう一遍お延さんに訊いて見給へ。尤も僕は歸りがけに惡いと思つたから、詫《あや》まつて來たがね。實を云ふと、何で詫まつたか、僕自身にも解らない位のものさ」
 彼は斯う云つて嘯《うそぶ》いた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある讀み掛けの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙讀した。
 「斯《こ》んなものを讀むのかね」と彼は左《さ》も輕蔑した口調で津田に訊いた。彼はぞんざいに頁を剥繰《はぐ》りながら、終りの方から逆に始めへ來た。さうして其所に岡本といふ小さい見留印《みとめいん》を見出《みいだ》した時、彼は「ふん」と云つた。
 「お延さんが持つて來たんだな。道理で妙な本だと思つた。――時に君、岡本さんは金持だらうね」
 「そんな事は知らないよ」
 「知らない筈はあるまい。だつてお延さんの里《さと》ぢやないか」
 「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんぢやないよ」
 「さうか」
 此單純な「さうか」が變に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」といふ意味にさへ取れた。
 「岡本はお延の叔父だぜ、君知らないのか。里《さと》でも何でもありやしないよ」
 「さうか」
 小林は又同じ言葉を繰り返した。津田は猶《なほ》不愉快になつた。
 「そんなに岡本の財産が知りたければ、調べて遣らうか」
 小林は「えへゝ」と云つた。「貧乏すると他《ひと》の財産迄苦になつて仕樣がない」
 津田は取り合はなかつた。それで其問題を切り上げるかと思つてゐると、小林はすぐ元へ歸つて來た。
 「然し幾何《いくら》位あるんだらう、本當の所」
 斯う云ふ態度は正《まさ》しく彼の特色であつた。さうして何時《いつ》でも二樣に解釋する事が出來た。頭から向ふを馬鹿だと認定して仕舞へばそれ迄であると共に、一度|此方《こつち》が馬鹿にされてゐるのだと思ひ出すと、又際限もなく馬鹿にされてゐる譯にもなつた。彼に對する津田は實の所半信半疑の眞中に立つてゐた。だから其所に幾分でも自分の弱點が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釋に傾むかざるを得なかつた。たゞ相手を付《つ》け上《あが》らせない用心をするより外に仕方がなかつた彼は、たゞ微笑した。
 「少し借りて遣らうか」
 「借りるのは厭だ。貰ふなら貰つても可《い》いがね。――いや貰ふのも御免だ、何うせ呉れる氣遣《きづかひ》はないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林ははゝと笑つた。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取つて行くかな」
 津田はすぐ話を其朝鮮へ持つて行つた。
 「時に何時《いつ》立つんだね」
 「まだ確《しつ》かり判らない」
 「然し立つ事は立つのかい」
 「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくつても、立つ日が來ればちやんと立つ」
 「僕は催促をするんぢやない。時間があつたら君の爲に送別會を開いて遣らうといふのだ」
 今日小林から充分な事が聽けなかつたら、其送別會でも利用して遣らうと思ひ付いた津田は、斯う云つて豫備としての第二の機會を暗《あん》に作り上げた。
 
     百十八
 
 故意だか偶然だか、津田の持つて行かうとする方面へは中々持つて行かれない小林に對して、此注意は寧ろ必要かも知れなかつた。彼は何時《いつ》迄《まで》も津田の問に應ずるやうな又應じないやうな態度を取つた。さうして執着《しつこ》く自分自身の話題にばかり纒綿《つけまつ》はつた。それが又津田の訊《き》かうとする事と、間接ではあるが深い關係があるので、津田は蒼蠅《うるさ》くもあり、焦《じ》れつたくもあつた。何となく遠廻しに痛振《いたぶ》られるやうな氣もした。
 「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云ひ出した。
 津田には此質問が無邪氣とは思へなかつた。
 「親類ぢやない、たゞの友達だよ。何時《いつ》かも君が訊いた時に、さう云つて話したぢやないか」
 「さうか、あんまり僕に關係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまつた。然し彼等は友達にしても、たゞの友達ぢやあるまい」
 「何を云つてるんだ」
 津田はつい其《その》後《あと》へ馬鹿野郎と付け足したかつた。
 「いや、餘程の親友なんだらうといふ意味だ。そんなに怒らなくつても可《よ》からう」
 吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかつた。單なる事實はたゞそれ丈《だけ》であつた。然し其裏に、津田とお延を貼り付けて、裏表の意味を同時に眺める事は自由に出來た。
 「君は仕合せな男だな」と小林が云つた。「お延さんさへ大事にしてゐれば間違はないんだから」
 「だから大事にしてゐるよ。君の注意がなくつたつて、其位の事は心得てゐるんだ」
 「さうか」
 小林は又「さうか」といふ言葉を使つた。此眞面目腐つた「さうか」が重なるたびに、津田は彼から肴《おび》やかされるやうな氣がした。
 「然し君は僕などと違つて聰明《そうめい》だから可《い》い。他《ひと》はみんな君がお延さんに降參し切つてるやうに思つてるぜ」
 「他《ひと》とは誰の事だい」
 「先生でも奧さんでもさ」
 藤井の叔父や叔母から、さう思はれてゐる事は、津田にも畧《ほゞ》見當が付いてゐた。
 「降參し切つてゐるんだから、さう見えたつて仕方がないさ」
 「さうか。――然し僕のやうな正直者には、迚《とて》も君の眞似は出來ない。君は矢ツ張りえらい男だ」
 「君が正直で僕が僞物《ぎぶつ》なのか。其|僞物《ぎぶつ》が又偉くつて正直者は馬鹿なのか。君は何時《いつ》又そんな哲學を發明したのかい」
 「哲學は餘程前から發明してゐるんだがね。今度改めてそれを發表しようと云ふんだ、朝鮮へ行くに就いて」
 津田の頭に妙な暗示が閃めかされた。
 「君旅費はもう出來たのか」
 「旅費は何うでも出來る積《つもり》だがね」
 「社の方で出して呉れる事に極つたのかい」
 「いゝや。もう先生から借りる事にしてしまつた」
 「さうか。そりや好い具合だ」
 「些《ちつ》とも好い具合ぢやない。僕は是でも先生の世話になるのが氣の毒で堪らないんだ」
 斯ういふ彼は、平氣で自分の妹のお金《きん》さんを藤井に片付けて貰ふ男であつた。
 「いくら僕が耻知らずでも、此上金の事で、先生に迷惑を懸けては濟まないからね」
 津田は何とも答へなかつた。小林は無邪氣に相談でもするやうな調子で云つた。
 「君何處かに強奪《ゆす》る所はないかね」
 「まあないね」と云ひ放つた津田は、わざとそつぽを向いた。
 「ないかね。何處かにありさうなもんだがな」
 「ないよ。近頃は不景氣だから」
 「君は何うだい。世間は兎に角、君|丈《だけ》は何時《いつ》も景氣が好ささうぢやないか」
 「馬鹿云ふな」
 岡本から貰つた小切手も、お秀の置いて行つた紙包も、みんなお延に渡してしまつた後《あと》の彼の財布は空《から》と同じ事であつた。よしそれが手元にあつたにした所で、彼は此場合小林のために金錢上の犠牲を拂ふ氣は起らなかつた。第一事が其所迄切迫して來ない限り、彼は相談に應ずる必要を毫も認めなかつた。
 不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかつた。其代り突然妙な所へ話を切り出して彼を驚ろかした。
 其朝藤井へ行つた彼は、其所で例《いつ》もするやうに晝飯の馳走になつて、長い時間を原稿の整理で過ごしてゐるうちに、玄關の格子《かうし》が開《あ》いたので、ひよいと自分で取次に出た。さうして其所に偶然お秀の姿を見出《みいだ》したのである。
 小林の話を其所迄聽いた時、津田は思はず腹の中で「畜生ツ先廻りをしたな」と叫んだ。然したゞそれ丈《だけ》では濟まなかつた。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が殘つてゐた。
 
     百十九
 
 然し彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があつた。彼は一番始めに斯《こ》んな事を云つて津田に調戯《からか》つた。
 「兄妹喧嘩《きやうだいげんくわ》をしたんだつて云ふぢやないか。先生も奧さんも、お秀さんに喋舌《しやべ》り付《つ》けられて弱つてたぜ」
 「君はまた傍《そば》でそれを聽いてゐたのか」
 小林は苦笑しながら頭を掻いた。
 「なに聽かうと思つて聽いた譯でもないがね。まあ天然自然《てんねんしぜん》耳へ入《はい》つたやうなものだ。何しろ喋舌《しやべ》る人がお秀さんで、喋舌《しやべ》らせる人が先生だからな」
 お秀には何處か片意地で一本調子な趣《おもむき》があつた。それに一種の刺戟が加はると、平生の落付が全く無くなつて、不斷と打つて變つた猛烈さをひよつくり出現させる所に、津田とは丸《まる》で違つた特色があつた。叔父は又叔父で、何でも構はず底の底迄突き留めなければ承知の出來ない男であつた。單に言葉の上|丈《だけ》でも可《い》いから、前後一貫して俗にいふ辻褄《つじつま》が合ふ最後迄行きたいといふのが、斯ういふ場合相手に對する彼の態度であつた。筆の先で思想上の問題を始終取り扱かひ付けてゐる癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑《の》り移《うつ》つてしまつた結果は、其所によく現はれた。彼は相手に幾何《いくら》でも口を利かせた。其代り又|幾何《いくら》でも質問を掛けた。それが或程度迄行くと、質問といふ性質を離れて、詰問に變化する事さへ?《しば/\》あつた。
 津田は心の中《なか》で、此叔父と妹と對坐した時の樣子を想像した。ことによると其所で又一波瀾起したのではあるまいかといふ疑さへ出た。然し小林に對する手前もあるので、上部《うはべ》はわざと高く出た。
 「大方|滅茶苦茶《めちやくちや》に僕の惡口でも云つたんだらう」
 小林は御挨拶にたゞ高笑ひをした後で、斯《こ》んな事を云つた。
 「だが君にも似合はないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
 「僕だからしたのさ。彼奴《あいつ》だつて堀の前なら、もつと遠慮すらあね」
 「成程さうかな。世間ぢやよく夫婦喧嘩つていふが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩《きやうだいげんくわ》の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持つた經驗がないから、其方《そつち》のほうの消息は丸《まる》で解らないが、是でも妹はあるから兄妹《きやうだい》の味なら能く心得てゐる積《つもり》だ。君何だぜ。僕のやうな兄でも、妹と喧嘩なんかした覺《おぼえ》はまだないぜ」
 「そりや妹次第さ」
 「けれども其所は又兄次第だらう」
 「いくら兄だつて、少しは腹の立つ場合もあるよ」
 小林はにや/\笑つてゐた。
 「だが、いくら君だつて、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思つてやしまい」
 「そりや當り前だよ。好んで誰が喧嘩なんかするもんか。あんな奴と」
 小林は益《ます/\》笑つた。彼は笑ふたびに一調子《ひとてうし》づゝ餘裕を生じて來た。
 「蓋《けだ》し已《やむ》を得《え》なかつた譯だらう。然しそれは僕の云ふ事だ。僕は誰と喧嘩したつて構はない男だ。誰と喧嘩したつて損をしつこない境遇に沈淪《ちんりん》してゐる人間だ。喧嘩の結果がもし何處かにあるとすれば、それは僕の損にやならない。何となれば、僕は未だ曾て損になるべき何物をも最初から有《も》つてゐないんだからね。要するに喧嘩から起り得る凡《すべ》ての變化は、みんな僕の得《とく》になる丈《だけ》なんだから、僕は寧ろ喧嘩を希望しても可《い》い位なものだ。けれども君は違ふよ。君の喧嘩は決して得にやならない。さうして君程又損得利害をよく心得てゐる男は世間にたんとないんだ。たゞ心得てる許《ばかり》ぢやない、君はさうした心得の下《もと》に、朝から晩迄寐たり起きたりしてゐられる男なんだ。少くとも左右《さう》しなければならないと始終考へてゐる男なんだ。好いかね。其君にして――」
 津田は面倒臭さうに小林を遮《さへ》ぎつた。
 「よし解つた。解つたよ。つまり他《ひと》と衝突するなと注意して呉れるんだらう。ことに君と衝突しちや僕の損になる丈《だけ》だから、成るべく事を穩便にしろといふ忠告なんだらう、君の主意は」
 小林は惚《とぼ》けた顔をして濟まし返つた。
 「何僕と? 僕はちつとも君と喧嘩をする氣はないよ」
 「もう解つたといふのに」
 「解つたらそれで可《い》いがね。誤解のないやうに注意して置くが、僕は先刻《さつき》からお秀さんの事を問題にしてゐるんだぜ、君」
 「それも解つてるよ」
 「解つてるつて、そりや京都の事だらう。彼方《あつち》が不首尾になるといふ意味だらう」
 「勿論さ」
 「所が君それ丈《だけ》ぢやないぜ。まだ外にも響いて來るんだぜ、氣を付けないと」
 小林は其所で句を切つて、自分の言葉の影響を試驗するために、津田の顔を眺めた。津田は果して平氣でゐる事が出來なかつた。
 
     百二十
 
 小林はこゝだといふ時機を捕《つら》まへた。
 「お秀さんはね君」と云ひ出した時の彼は、もう津田を擒《とりこ》にしてゐた。
 「お秀さんはね君、先生の所へ來る前に、もう一軒|外《ほか》へ廻つて來たんだぜ。其一軒といふのは何處の事だか、君に想像が付くか」
 津田には想像が付かなかつた。少なくとも此事件に就いて彼女が足を運びさうな所は、藤井以外にある筈がなかつた。
 「そんな所は東京にないよ」
 「いやあるんだ」
 津田は仕方なしに、頭の中で又あれかこれかと物色して見た。然しいくら考へても、見當らないものは矢ツ張見當らなかつた。仕舞に小林が笑ひながら、其|宅《うち》の名を云つた時に、津田は果して驚ろいたやうに大きな聲を出した。
 「吉川? 吉川さんへ又何うして行つたんだらう。何にも關係がないぢやないか」
 津田は不思議がらざるを得なかつた。
 たゞ吉川と堀を結び付ける丈《だけ》の事なら、津田にも容易に出來た。強い空想の援《たすけ》に依る必要も何にもなかつた。津田夫婦の結婚するとき、表向《おもてむき》媒妁の勞を取つて呉れた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、其|夫《をつと》の堀とが社交的に關係を有《も》つてゐるのは、誰の眼にも明らかであつた。然しその縁故で、此間題を提《ひつ》さげたお秀が、とくに吉川の門に向ふ理由は何處にも發見出來なかつた。
 「たゞ訪問のために行つた丈《だけ》だらう。單に敬意を拂つたんだらう」
 「所が左右《さう》でないらしいんだ。お秀さんの話を聽いてゐると」
 津田は俄かに其話が聽きたくなつた。小林は彼を滿足させる代りに注意した。
 「然し君といふ男は、非常に用意周到なやうで何處か拔けてるね。あんまり拔けまい拔けまいとするから、自然手が廻りかねる譯かね。今度の事だつて、左右《さう》ぢやないか、第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ツ走らせるのは愚だよ。其上吉川の方へ向いて行く筈がないと思ひ込んで、初手《しよて》から高《たか》を括《くゝ》つてゐるなんぞは、君の平生にも似合はないぢやないか」
 結果の上から見た津田の隙間を探し出す事は小林にも容易であつた。
 「一體君のフアーザーと吉川とは友達だらう。さうして君の事はフアーザーから吉川に萬事宜しく願つてあるんだらう。其所へお秀さんが馳け込むのは當り前ぢやないか」
 津田は病院へ來る前、社の重役室で吉川から聽かされた「年寄に心配を掛けては不可《いけな》い。君が東京で何をしてゐるか、ちやんと此方《こつち》で解つてるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせて遣る丈《だけ》だ。用心しろ」といふ意味の言葉を思ひ出した。それは今から解釋して見ても冗談半分の訓戒に過ぎなかつた。然しもしそれを此所で眞面目一式な文句に轉倒するものがあるとすれば、其作者はお秀であつた。
 「隨分|突飛《とつぴ》な奴だな」
 突飛《とつぴ》といふ性格が彼の家傳にない丈《だけ》彼の批評には意外といふ觀念が含まれてゐた。
 「一體何を云やがつたらう、吉川さんで。――彼奴《あいつ》の云ふ事を眞向《まとも》に受けてゐると、可《い》いのは自分|丈《だけ》で、外のものはみんな惡くなつちまうんだから困るよ」
 津田の頭には直接の影響以上に、もつと遠くの方にある大事な結果がちら/\した。吉川に對する自分の信用、吉川と岡本との關係、岡本とお延との縁合《えんあひ》、それ等のものがお秀の遣口《やりくち》一つで何う變化して行くか分らなかつた。
 「女は淺墓《あさはか》なもんだからな」
 此言葉を聽いた小林は急に笑ひ出した。今迄笑つたうちで一番大きな其笑ひ方が、津田をはつと思はせた。彼は始めて自分が何を云つてゐるかに氣が付いた。
 「そりや何うでも可《い》いが、お秀が吉川へ行つて何《ど》んな事を喋舌《しやべ》つたのか、叔父に話してゐた所を君が聽いたのなら、教へて呉れ玉へ」
 「何かしきりに云つてたがね。實をいふと、僕は面倒だから碌《ろく》に聽いちやゐなかつたよ」
 斯う云つた小林は肝心な所へ來て、知らん顔をして圏外《けんぐわい》へ出てしまつた。津田は失望した。其失望を暫く味はつた後《あと》で、小林は又|圏内《けんない》へ歸つて來た。
 「しかしもう少し待つて玉へ。否《いや》でも應《おう》でも聽かされるよ」
 津田はまさかお秀が又來る譯でもなからうと思つた。
 「なにお秀さんぢやない。お秀さんは直《ぢか》に來《き》やしない。其代りに吉川の細君が來るんだ。嘘ぢやないよ。此耳で慥《たしか》に聽いて來たんだもの。お秀さんは細君の來る時間迄明言した位だ。大方もう少ししたら來るだらう」
 お延の豫言は中《あた》つた。津田が何うかして呼び付けたいと思つてゐる吉川夫人は、何時《いつ》の間《ま》にか來る事になつてゐた。
 
     百二十一
 
 津田の頭に二つのものが相繼いで閃《ひら》めいた。一つは是から此所へ來る其吉川夫人を旨く取扱はなければならないといふ事前《じぜん》の暗示《あんし》であつた。彼女の方から病院迄足を運んで呉れる事は、豫定の計畫から見て、彼の最も希望する所には違なかつたが、來訪の意味がこゝに新らしく付け加へられた以上、それに對する彼の應答振《おうたふぶり》も變へなければならなかつた。此場合に於ける夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注《つ》ぎ込《こ》まれた後の夫人と、まだ反感を煽《あふ》られない前の夫人とは、彼の眼に映《うつ》る所|丈《だけ》でも、大分《だいぶ》違つてゐた。けれども其所には平生の自信も亦伴なつてゐた。彼には夫人の持つてくる偏見と反感を、一場《いちぢやう》の會見で、充分|引繰《ひつく》り返《かへ》して見せるといふ覺悟があつた。少くとも此所で夫《それ》丈《だけ》の事をして置かなければ、自分の未來が危《あぶ》なかつた。彼は三分の不安と七分の信力をもつて、彼女の來訪を待ち受けた。
 殘る一つの閃《ひら》めきが、お延に對する態度を、もう一遍臨時に變更する便宜を彼に教へた。先刻《さつき》迄《まで》の彼は退屈の餘り彼女の姿を刻々に待ち設けてゐた。然し今の彼には別途の緊張があつた。彼は全然異なつた方面の刺戟を豫想した。お延はもう不用であつた。といふよりも、來られては却つて迷惑であつた。其上彼はたゞ二人、夫人と差向ひで話して見たい特殊な問題も控へてゐた。彼はお延と夫人が此所で一所に落ち合ふ事を、是非共防がなければならないと思ひ定めた。
 附帶條件として、小林を早く追拂《おつぱら》ふ手段も必要になつて來た。然るに其小林は今にも吉川夫人が見えるやうな事を云ひながら、自分の歸る氣色《けしき》を何處にも現はさなかつた。彼は他《ひと》の邪魔になる自分を苦にする男ではなかつた。時と場合によると、それと知つて、わざ/\邪魔迄しかねない人間であつた。しかも其所迄行つて、實際氣が付かずに迷惑がらせるのか、又は心得があつて故意に困らせるのか、其判斷を確《しか》と他《ひと》に與へずに平氣で切り拔けてしまふ焦慮《じれ》つたい人物であつた。
 津田は欠伸《あくび》をして見せた。彼の心持と全く釣り合はない此|所作《しよさ》が彼を二つに割つた。何處かそわ/\しながら、如何にも所在なささうに小林と應對する所に、中斷された氣分の特色が斑《まだら》になつて出た。それでも小林は濟ましてゐた。枕元にある時計を又取り上げた津田は、それを置くと同時に、已《やむ》を得《え》ず質問を掛けた。
 「君何か用があるのか」
 「ない事もないんだがね。なにそりや今に限つた譯でもないんだ」
 津田には彼の意味が畧《ほゞ》解つた。然しまだ降參する氣にはなれなかつた。と云つて、すぐ撃退する勇氣は猶更《なほさら》なかつた。彼は仕方なしに黙つてゐた。すると小林が斯《こ》んな事を云ひ出した。
 「僕も吉川の細君に會つて行かうかな」
 冗談ぢやないと津田は腹の中《なか》で思つた。
 「何か用があるのかい」
 「君は能く用々つて云ふが、何も用があるから人に會ふとは限るまい」
 「然し知らない人だからさ」
 「知らない人だから一寸會つて見たいんだ。何《ど》んな樣子だらうと思つてね。一體僕は金持の家庭へ入《はい》つた事もないし、又そんな人と交際《つきあ》つた例《ためし》もない男だから、つい斯ういふ機會に、一寸でも可《い》いから、會つて置きたくなるのさ」
 「見世物《みせもの》ぢやあるまいし」
 「いや單なる好奇心だ。それに僕は閑《ひま》だからね」
 津田は呆れた。彼は小林のやうなみすぼらしい男を、友達の内に有《も》つてゐるといふ證據を、夫人に見せるのが厭でならなかつた。あんな人と付合つてゐるのかと輕蔑された日には、自分の未來に迄關係すると考へた。
 「君も餘程|呑氣《のんき》だね。吉川の奧さんが今日此所へ何しに來るんだか、君だつて知つてるぢやないか」
 「知つてる。――邪魔かね」
 津田は最後の引導《いんだう》を渡すより外に途がなくなつた。
 「邪魔だよ。だから來ないうちに早く歸つて呉れ」
 小林は別に怒《おこ》つた樣子もしなかつた。
 「さうか、ぢや歸つても可《い》い。歸つても可いが、其代り用|丈《だけ》は云つて行かう、折角來たものだから」
 面倒になつた津田は、とう/\自分の方から其用を云つてしまつた。
 「金だらう。僕に相當の御用なら承《うけたまは》つても可《い》い。然し此所には一文も持つてゐない。と云つて、又外套のやうに留守へ取りに行かれちや困る」
 小林はにや/\笑ひながら、ぢや何うすれば可《い》いんだといふ問を顔色で掛けた。まだ小林に聽く事の殘つてゐる津田は、出立前《しゆつたつぜん》もう一遍彼に會つて置く方が便宜であつた。けれども彼とお延と落ち合ふ掛念《けねん》のある病院では都合が惡かつた。津田は送別會といふ名の下《もと》に、彼等の出會ふべき日と時と場所とを指定した後で、漸く此厄介者を退去させた。
 
     百二十二
 
 津田はすぐ第二の豫防策に取り掛つた。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取《と》り除《の》けて、其下から例のレターペーパーと同じラ※[エに濁点]ンダー色の封筒を引き拔くや否や、すぐ萬年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に來るのを見合せて呉れといふ意味を、簡單に書《か》き下《くだ》した手紙は一分掛るか掛らないうちに出來上つた。氣の急《せ》いた彼には、それを讀み直す暇さへ惜かつた。彼はすぐ封をしてしまつた。さうして中味の不完全なために、お延が何《ど》んな疑ひを起すかも知れないといふ事には、少しの顧慮も拂はなかつた。平生の用心を彼から奪つた此場合は、彼を忽卒《そゝか》しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければ已《や》まなかつた。彼は手紙を持つた儘、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
 「一寸急な用事だから、すぐ是を持たせて車夫を宅《うち》迄《まで》遣《や》つて下さい」
 看護婦は「へえ」と云つて封書を受け取つたなり、何處に急な用事が出來たのだらうといふ顔をして、宛名《あてな》を眺めた。津田は腹の中で徃復に費やす車夫の時間さへ考へた。
 「電車で行くやうにして下さい」
 彼は行き違ひになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ來ては折角の努力も無駄になる丈《だけ》であつた。
 二階へ歸つて來た後《あと》でも、彼はそれ許《ばかり》が苦になつた。さう思ふと、お延がもう宅《うち》を出て、電車へ乘つて、此方《こつち》の方角へ向いて動いて來るやうな氣さへした。自然それと一所に頭の中に纒付《まつは》るのは小林であつた。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段《はしごだん》の上に、すらりとした其姿を現はすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考へた。貴重な時間を無駄に費やさせられた揚句、頼むやうにして歸つて貰つた彼の後姿を見送つた津田は、それでももう少しで刻下《こくか》の用を辨ずるために、小林を利用する所であつた。「面倒でも歸りに一寸|宅《うち》へ寄つて、今日來てはいけないとお延に注意して呉れ」。斯ういふ言葉がつい口の先へ出掛つたのを、彼は驚ろいて、引ツ込ましてしまつたのである。もし是が小林でなかつたなら、此際|何《ど》んなに都合が可《よ》かつたらうにとさへ實は思つたのである。
 津田が神經を鋭どくして、今來るか今來るかといふ細かい豫期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けてゐる間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想ひ到らない運命に到着すべく餘儀なくされた。
 手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡つた。車夫は又看護婦の命令通り、それを手に持つた儘すぐ電車へ乘つた。それから教へられた通りの停留所で下りた。其所を少し行つて、大通りを例の細い徃來へ切れた彼は、何の苦もなく又|名宛《なあて》の苗字《めうじ》を小綺麗な二階建の一軒の門札《もんさつ》に見出《みいだ》した。彼は玄關へ掛つた。其所で手に持つた手紙を取次に出たお時に渡した。
 此所迄は凡《すべ》ての順序が津田の思ひ通りに行つた。然し其《その》後《あと》には、書面を認《したゝ》める時、丸《まる》で彼の頭の中に入《はい》つてゐなかつた事實が横《よこた》はつてゐた。手紙はすぐお延の手に落ちなかつた。
 然し津田の懸念したやうに、宅《うち》にゐなかつたお延は、彼の懸念したやうに病院へ出掛けたのではなかつた。彼女は別に行先を控へてゐた。しかもそれは際《きは》どい機會を旨く利用しようとする敏捷な彼女の手腕を充分に發揮した結果であつた。
 其日のお延は朝から通例のお延であつた。彼女は不斷のやうに起きて、不斷のやうに動いた。津田のゐる時と萬事變りなく働らいた彼女は、それでも夫《をつと》の留守から必然的に起る、時間の餘裕を持て餘す程|樂《らく》な午前を過ごした。午飯《ひるめし》を食べた後で、彼女は洗湯《せんたう》に行つた。病院へ顔を出す前一寸綺麗になつて置きたい考へのあつた彼女は、其所で隨分|念入《ねんいり》に時間を費やした後《あと》、晴々《せい/\》した好い心持を湯上りの光澤《つや/\》しい皮膚《はだ》に包みながら歸つて來ると、お時から嘘ではないかと思はれるやうな報告を聽いた。
 「堀の奧さんが入らつしやいました」
 お延は下女の言葉を信ずる事が出來ない位に驚ろいた。昨日《きのふ》の今日《けふ》、お秀の方からわざ/\自分を尋ねて來る。そんな意外な訪問があり得べき筈はなかつた。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で來たかをさへ訊かなければ氣が濟まなかつた。何故《なぜ》待たせて置かなかつたかも問題になつた。然し下女は何にも知らなかつた。たゞ藤井の歸りに通り路だから一寸寄つた迄だといふ事|丈《だけ》が、お秀の下女に殘して行つた言葉で解つた。
 お延は既定のプログラムを咄嗟《とつさ》の間に變更した。病院は拔いて、お秀の方へ行先を轉換しなければならないといふ覺悟を極《き》めた。それは津田と自分との間に取り換はされた約束に過ぎなかつた。何等の不自然に陷《おち》いる痕迹《こんせき》なしに其約束を履行するのは今であつた。彼女はお秀の後《あと》を追掛《おつか》けるやうにして宅《うち》を出た。
 
     百二十三
 
 堀の家《うち》は大畧《おほよそ》の見當から云つて、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた處から、すぐ右へ切れさへすれば、つい四五町の道を歩く丈《だけ》で、すぐ門前へ出られた。
 藤井や岡本の住居《すまひ》と違つて、郊外に遠い彼の邸には、殆んど庭といふものがなかつた。車廻し、馬車廻しは無論の事であつた。徃來に面して建てられたと云つても可《い》い其二階作りと門の間には、たゞ三間足らずの餘地がある丈《だけ》であつた。しかもそれが石で敷き詰められてゐるので、地面の色は何處にも見えなかつた。
 市區改正の結果、餘程以前に取り廣げられた徃來には、比較的|餘所《よそ》で見られない幅があつた。それでゐて商買をしてゐる店は、町内に殆んど一軒も見當らなかつた。辯護士、醫者、旅舘、そんなもの許《ばかり》が並んでゐるので、四邊《あたり》が繁華な割に、通りは何時《いつ》も閑靜であつた。
 其上路の左右には柳の立木が行儀よく植ゑ付けられてゐた。從つて時候の好い時には、殺風景な市内の風も、兩側に搖《うご》く緑《みど》りの裡《うち》に一種の趣《おもむき》を見せた。中で一番大きいのが、丁度|堀《ほり》の塀際から斜めに門の上へ長い枝を差し出してゐるので、餘所目《よそめ》にはそれが家と調子を取るために、わざと其所へ移されたやうに體裁《ていさい》が好かつた。
 其他の特色を云ふと、玄關の前に大きな鐵の天水桶《てんすゐをけ》があつた。丸《まる》で下町の質屋か何かを聯想させる此|長物《ちやうぶつ》と、そのすぐ横にある玄關の構《かまへ》とがまた能く釣り合つてゐた。比較的間口の廣い其玄關の入口は悉《こと/”\》く細《ほそ》い格子《かうし》で仕切られてゐる丈《だけ》で、唐戸《からと》だの扉《ドア》だのゝ裝飾は何處にも見られなかつた。
 一口でいふと、ハイカラな仕舞《しま》ふた屋《や》と評しさへすれば、それですぐ首肯《うなづ》かれる此家の職業は、少なくとも系統的に、家《いへ》の樣子を見た丈《だけ》で外部から判斷する事が出來るのに、不思議なのは其主人であつた。彼は自分が何《ど》んな宅《うち》へ入《はい》つてゐるか未だ會て知らなかつた。そんな事を苦にする神經を有《も》たない彼は、他《ひと》から自分の家業柄《かげふがら》を何とあげつらはれても一向《いつかう》平氣であつた。道樂者だが、滿更《まんざら》無教育なたゞの金持とは違つて、人柄からいへば、斯《こ》んな役者向の家《いへ》に住《すま》ふのは寧ろ不適當かも知れない位な彼は、極めて我《が》の少ない人であつた。惡く云へば自己の缺乏した男であつた。何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗も亦改めやうとしない氣樂ものであつた。斯くして彼は、彼の父、彼の母に云はせると即ち先代、の建てた土藏造《どざうづく》りのやうな、さうして何處かに藝人趣味のある家に住んで滿足してゐるのであつた。もし彼の美點がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がつてゐない彼の態度を賞《ほ》めるより外に仕方がなかつた。然し彼は又得意がる筈もなかつた。彼の眼に映《うつ》る彼の住宅は、得意がるにしては、彼に取つて餘りに陳腐過ぎた。
 お延は堀の家《うち》を見るたびに、自分と家《うち》との間に存在する不調和を感じた。家《うち》へ入《は》いつてからも其距離を思ひ出す事が?《しば/\》あつた。お延の考へによると、一番そこに落付いてぴたりと坐つてゐられるものは堀の母|丈《だけ》であつた。所が此母は、家族中でお延の最も好かない女であつた。好かないといふよりも、寧ろ應對しにくい女であつた。時代が違ふ、殘酷に云へば隔世の感がある、もしそれが當らないとすれば、肌が合はない、出が違ふ、其他評する言葉は幾何《いくら》でもあつたが、結果は何時《いつ》でも同じ事に歸着した。
 次には堀其人が問題であつた。お延から見た此主人は、此|家《うち》に釣り合ふやうでもあり、又釣り合はないやうでもあつた。それをもう一歩進めていふと、彼は何《ど》んな家《うち》へ行つても、釣り合ふやうでもあり、釣り合はないやうでもあるといふのと殆んど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した變りはなかつた。此曖昧な所が又お延の堀に對する好惡の感情を其儘に現はしてゐた。事實をいふと、彼女は堀を好いてゐるやうでもあり、又好いてゐないやうでもあつた。
 最後に來《きた》るお秀に關しては、たゞ要領を一口でいふ事が出來た。お延から見ると、彼女は此家の構造に最も不向《ふむき》に育て上げられてゐた。此斷案にもう少し勿體《もつたい》をつけ加へて、心理的に翻譯すると、彼女と此家庭の空氣とは何時《いつ》迄《まで》行つても一致しつこなかつた。堀の母とお秀、お延は頭の中に此二人を並べて見るたびに一種の矛盾を強ひられた。然し矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判斷が出來なかつた。
 家《いへ》と人とを斯う組み合せて考へるお延の眼に、不思議と思はれる事がたゞ一つあつた。
 「一番|家《うち》と釣《つ》り合《あひ》の取れてゐる堀の母が、最も彼女を手古摺《てこず》らせると同時に、其反對に出來上つてゐるお秀が又別の意味で、最も彼女に苦痛を與へさうな相手である」
 玄關の格子《かうし》を開けた時、お延の頭に平生からあつた斯《こ》んな考へを一度に蘇《よみが》へらさせるべく號鈴《ベル》がはげしく鳴つた。
 
     百二十四
 
 昨日《きのふ》孫を伴《つ》れて横濱の親類へ行つたといふ堀の母がまだ歸つてゐなかつたのは、座敷へ案内されたお延に取つて、意外な機會であつた。見方によつて、好い都合にもなり、又惡い跋《ばつ》にもなる此機會は、彼女から話しのしにくい年寄を追《お》ひ除《の》けて呉れたと同時に、たゞ一人|面《めん》と向き合つて、當の敵《かたき》のお秀と應對しなければならない不利をも與へた。
 お延に知れてゐない此情實は、訪問の最初から彼女の勝手を狂はせた。毎時《いつ》もなら何を置いても小さな髷に結《い》つた母が一番先へ出て來て、義理づくめにちやほやして呉れる所を、今日に限つて、劈頭《へきとう》にお秀が顔を出した許《ばかり》か、待ち設けた老女は其《その》後《あと》からも現はれる樣子を一向《いつかう》見せないので、お延は何時《いつ》もの豫期から出てくる自然の調子を先づ外《はづ》させられた。其時彼女はお秀を一目見た眼の中《うち》に、當惑の色を示した。然しそれは濟まなかつたといふ後悔の記念でも何でもなかつた。單に昨日《きのふ》の戰争に勝つた得意の反動からくる一種の極り惡さであつた。何《ど》んな敵《かたき》を打たれるかも知れないといふ微《かす》かな恐怖であつた。此場を何う切り拔けたら可《い》いか知らといふ思慮の惱亂でもあつた。
 お延は此|一瞥《いちべつ》をお秀に與へた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたといふ氣がした。然しそれは自分の有《も》つてゐる技巧の何うする事も出來ない高い源から此一瞥が突如として閃《ひら》めいてしまつた後であつた。自分の手の屆かない暗中から不意に來たものを、喰ひ止める威力を有《も》つてゐない彼女は、甘んじて其結果を待つより外に仕方がなかつた。
 一瞥は果してお秀の上に能く働いた。然しそれに反應してくる彼女の樣子は、又如何にも豫想外であつた。彼女の平生、其平生が破裂した昨日《きのふ》、津田と自分と寄つてたかつて其破裂を料理した始末、此等《これら》の段取を、不斷から一貫して傍《はた》の人の眼に着く彼女の性格に結び付けて考へると、何うしても無事に納まる筈はなかつた。大なり小なり次の波瀾が呼び起されずに片が付かうとは、如何に自分の手際に重きを置くお延にも信ぜられなかつた。
 だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違して何時《いつ》もより愛嬌の好い挨拶をした時には、殆んどわれを疑ふ位に驚ろいた。其疑ひをまた少しも後へ繰り越させないやうに、手拔《てぬか》りなく仕向けて來る相手の態度を眼の前に見た時、お延は寧ろ氣味が惡くなつた。何といふ變化だらうといふ驚ろきの後から、何ういふ意味だらうといふ不審が湧いて起つた。
 けれども肝心な其意味を、お秀はまた何時《いつ》迄《まで》もお延に説明しやうとしなかつた。そればかりか、昨日《きのふ》病院で起つた不幸な行《ゆ》き違《ちがひ》に就いても、遂に一言《ひとこと》も口を利く樣子を見せなかつた。
 相手に心得があつてわざと際どい問題を避けてゐる以上、お延の方からそれを切り出すのは變なものであつた。第一好んで痛い所に觸れる必要は何處にもなかつた。と云つて、何處かで區切《くぎり》を付けて、双方|薩張《さつぱり》して置かないと、自分は何のために、今日此所迄足を運んだのか、主意が立たなくなつた。然し和解の形式を通過しないうちに、もう和解の實を擧げてゐる以上、それを兎や角表面へ持ち出すのも馬鹿げてゐた。
 怜悧《りこう》なお延は弱らせられた。會話が滑《なめ》らかにすべつて行けば行く程、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡《もた》げて來た。仕舞に彼女は相手の何處かを突き破つて、其内側を覗いて見やうかと思ひ出した。斯《こ》んな點にかけると、頗る冒險的な所のある彼女は、萬一|遣《や》り損《そく》なつた曉に、此場合から起り得る危險を知らないではなかつた。けれども其所には自分の腕に對する相當の自信も伴《ともな》つてゐた。
 其上もし機會が許すならば、お秀の胸の格別なある一點に、打診を試ろみたいといふ希望が、お延の方にはあつた。其所を敲かせて貰つて局部から自然に出る本音《ほんね》を充分に聽く事は、津田と打ち合せを濟ました訪問の主意でも何でもなかつたけれども、お延自身からいふと、うまく媾和の役目を遣《や》り終《おほ》せて歸るよりも遙かに重大な用向《ようむき》であつた。
 津田に隱さなければならない此用向は、津田がお延に内所《ないしよ》にしなければならない事件と、其性質の上に於てよく似通つてゐた。さうして津田が自分の居ない留守に、小林がお延に何を話したかを氣にする如く、お延も亦自分のゐない留守に、お秀が津田に何を話したかを確《しか》と突き留めたかつたのである。
 何處に引掛《ひつかゝ》りを拵へたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の歸りに寄つて呉れたといふお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時既に、「先刻《さつき》入らしつて下すつたさうですが、生憎《あいにく》お湯に行つてゐて」といふ言葉を、會話の口切《くちきり》に使つた彼女が、今度は「何か御用でもおありだつたの」といふ質問で、それを復活させに掛つた時、お秀はたゞ簡單に「いゝえ」と答へた丈《だけ》で、綺麗にお延を跳ね付けてしまつた。
 
     百二十五
 
 お延は次に藤井から入《はい》つて行かうとした。今朝此叔父の所を訪ねたといふお秀の自白が、話しを其方《そつち》へ持つて行くに都合のいゝ便利を與へた。けれどもお秀の門構《もんがまへ》は依然として此方面にも嚴重であつた。彼女は必要の起《おこ》るたびに、わざ/\其門の外へ出て來て、愛想よくお延に應對した。お秀が此叔父の世話で人となつた事實は、お延にも能く知れてゐた。彼女が精神的に其感化を受けた點もお延に解つてゐた。それでお延は順序として先づ此叔父の人格やら生活やらに就いて、お秀の氣に入りさうな言辭《ことば》を弄さなければならなかつた。所がお秀から見ると、それが又一々誇張と虚僞の響きを帶びてゐるので、彼女は眞面目に取り合ふ緒口《いとくち》を何處にも見出《みいだ》す事が出來ないのみならず、長く同じ筋道を辿《たど》つて行くうちには、自然|氣色《きしよく》を惡くした樣子を外に現はさなければ濟まなくなつた。敏捷なお延は、相手を見縊《みくび》り過《す》ぎてゐた事に氣が付くや否や、すぐ取つて返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々《てふ/\》し始めた。お秀對藤井と丁度同じ關係にある其叔父は、お延に取つて大事な人であると共に、お秀からいふと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であつた。從つて彼女の言葉には滑つこい皮膚がある丈《だけ》で、肝心の中味に血も肉も盛られてゐなかつた。それでもお延はお秀の手料理になる此お世辭の返禮を左《さ》も旨《うま》さうに鵜呑《うのみ》にしなければならなかつた。
 然し再度自分の番が廻つて來た時、お延は二返目の愛嬌を手古盛《てこも》りに盛り返して、惡くお秀に強ひる程愚かな女ではなかつた。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽《あふ》つて行かうとした。然し前と同じ手段を用ひて、たゞ賞《ほ》めそやす丈《だけ》では、同じ不成蹟に陷《おち》いるかも知れないといふ恐れがあつた。そこで彼女は善惡の標準を度外に置いて、たゞ夫人の名前|丈《だけ》を二人の間に點出して見た。さうして其影響次第で後《あと》の段取を極めようと覺悟した。
 彼女はお秀が自分の風呂の留守へ藤井の歸りがけに廻つて來た事を知つてゐた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもう既に吉川夫人を訪問してゐる事には丸《まる》で想ひ到らなかつた。しかも昨日《きのふ》病院で起つた波瀾の結果として、彼女がわざ/\其所迄足を運んでゐやうとは、夢にも知らなかつた。此一點に掛けると、津田と同じ程度に無邪氣であつた彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、又お秀から驚ろかされなければならなかつた。然し驚ろかせられ方は二人共|丸《まる》で違つてゐた。小林のは明らさまな事實の報告であつた。お秀のは意味のありさうな無言であつた。無言と共に來た薄赤い彼女の顔色であつた。
 最初夫人の名前がお延の唇から洩れた時、彼女は二人の間に一滴の靈藥が天から落されたやうな氣がした。彼女はすぐ其效果を眼の前に眺めた。然し不幸にしてそれは彼女に取つて何の役にも立たない效果に過ぎなかつた。少くとも何う利用して可《い》いか解らない效果であつた。其豫想外な性質は彼女をはつと思はせる丈《だけ》であつた。彼女は名前を口へ出すと共に、或は其場ですぐ失言を謝さなければならないかしらと迄考へた。
 すると第二の豫想外が繼《つ》いで起つた。お秀が一寸顔を背《そむ》けた樣子を見た時に、お延は何うしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなつた。血色の變化は決して怒りのためでないといふ事が其時始めて解つた。年來|陳腐《ちんぷ》な位|見飽《みあ》きてゐる單純な極りの惡さだと評するより外に仕方のない此表情は、お延を更に驚ろかさざるを得なかつた。彼女は此表情の意味をはつきり確かめた。然し其意味の因《よ》つて來《きた》る所は、お秀の説明を待たなければまた確かめられる筈がなかつた。
 お延が何うしようかと迷つてゐるうちに、お秀は丸《まる》で木に竹を接《つ》いだやうに、突然話題を變化した。行掛《ゆきがゝ》り上《じやう》全然今迄と關係のない其話題は、三度目に又お延を驚ろかせるに充分な位|突飛《とつぴ》であつた。けれどもお延には自信があつた。彼女はすぐそれを受けて立つた。
 
     百二十六
 
 お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打つたのは「愛」といふ言葉であつた。此|陳腐《ちんぷ》な有來《ありきた》りの一語が、如何にお延の前に伏兵のやうな新らし味をもつて起つたかは、前後の連絡を缺いて單獨に突發したといふのが重な原因に相違なかつたが、一つにはまた、そんな言葉がまだ會話の材料として、二人の間に使はれてゐなかつたからである。
 お延に比べるとお秀は理窟つぽい女であつた。けれどもさういふ結論に達する迄には、多少の説明が要つた。お延は自分で自分の理窟を行爲の上に運んで行く女であつた。だから平生彼女の議論をしないのは、出來ないからではなくつて、する必要がないからであつた。其代り他《ひと》から注《つ》ぎ込《こ》まれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかつた。女學生時代に讀み馴れた雜誌さへ近頃は滅多に手にしない位であつた。それでゐて彼女は未だ曾て自分を貧弱と認めた事がなかつた。虚榮心の強い割に、其方面の欲望があまり刺戟されずに濟んでゐるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであつた。
 所がお秀は教育からしてが第一違つてゐた。讀書は彼女を彼女らしくする殆んど凡《すべ》てであつた。少なくとも、凡てゞなければならないやうに考へさせられて來た。書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善惡兩樣の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きを置くやうになつた。然しいくら自分を書物より輕く見るにした所で、自分は自分なりに、書物と獨立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかつた。だから勢ひ本と自分とは離れ離れになる丈《だけ》であつた。それをもつと適切な言葉で云ひ現はすと、彼女は折々|柄《がら》にもない議論を主張するやうな弊に陷《おちい》つた。然し自分が議論のために議論をしてゐるのだから詰らないと氣が付く迄には、彼女の反省力から見て、まだ大分《だいぶん》の道程《みちのり》があつた。意地の方から行くと、餘りに我《が》が強過ぎた。平たく云へば、其|我《が》がつまり自分の本體であるのに、其本體に副《そ》ぐはないやうな理窟を、わざわざ自分の尊敬する書物の中《うち》から引張り出して來て、其所に書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に歸着した。自然|彈丸《たま》を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分《くすんごぶ》の代りに、振り廻して見るやうな滑稽も時々は出て來なければならなかつた。
 問題は果して或雜誌から始まつた。月の發行にかゝる其雜誌に發表された諸家の戀愛觀を讀んだお秀の質問は、實をいふとお延にとつてそれ程與味のあるものでもなかつた。然しまだ眼を通してゐない事實を自白した時に、彼女の好奇心が突然起つた。彼女は此|抽象的《ちうしやうてき》な問題を、何處かで自分の思ひ通り活かして遣らうと決心した。
 彼女は稍《やゝ》ともすると空論に流れやすい相手の弱點を可成《かなり》能く呑み込んでゐた。際《きは》どい實際問題に是から飛び込んで行かうとする彼女に、それ程都合の惡い態度はなかつた。たゞ議論のために議論をされる位なら、最初から取り合はない方が餘つ程増しだつた。それで彼女には何うしても相手を地面の上に縛り付けて置く必要があつた。所が不幸にして此場合の相手は、最初からもう地面の上にゐなかつた。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至お延、お秀の愛でも何でもなかつた。たゞ漫然として空裏《くうり》に飛揚する愛であつた。從つてお延の努力は、風船玉のやうなお秀の話を、まづ下へ引き摺り卸さなければならなかつた。
 子供が既に二人もあつて、萬事自分より世帶染《しよたいじ》みてゐるお秀が、此意味に於て、遙かに自分より着實でない事を發見した時に、お延は口ではい/\向ふのいふ通りを首肯《うけが》ひながら、腹の中では、焦慮《じれつ》たがつた。「そんな言葉の先でなく、裸で入らつしやい、實力で相撲を取りますから」と云ひたくなつた彼女は、何うしたら此議論家を裸にする事が出來るだらうと思案した。
 やがてお延の胸に分別《ふんべつ》が付いた。分別とは外でもなかつた。此問題を活かすためには、お秀を犠牲にするか、又は自分を犠牲にするか、何方《どつち》かにしなければ、到底思ふ壺に入《はい》つて來る譯がないといふ事であつた。相手を犠牲にするのに困難はなかつた。たゞ何處からか向ふの弱點を突ツ付きさへすれば、それで事は足りた。其弱點が事實であらうとも假設的であらうとも、それはお延の意とする所ではなかつた。單に自然の反應を目的にして試みる刺戟に對して、眞僞の吟味などは、要らざる斟酌《しんしやく》であつた。然し其所には又それ相應の危險もあつた。お秀は怒《おこ》るに違なかつた。所がお秀を怒らせるといふ事は、お延の目的であつて、さうして目的でなかつた。だからお延は迷はざるを得なかつた。
 最後に彼女はある時機を※[手偏+國]《つか》んで起《た》つた。さうして其|起《た》つた時には、もう自分を犠牲にする方に決心してゐた。
 
     百二十七
 
 「さう云はれると、何と云つて可《い》いか解らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されてゐるんだか、愛されてゐないんだか、自分ぢや丸《まる》で夢中でゐるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちやんとした保證が付いてゐらつしやるんだから」
 お秀の器量望みで貰はれた事は、津田と一所にならない前から、お延に知れてゐた。それは一般の女、ことにお延のやうな女に取つては、羨やましい事實に違なかつた。始めて津田から其話を聽かされた時、お延はお秀を見ない先に、まづ彼女に對する輕い嫉妬《しつと》を感じた。中味の薄つぺらな事實に過ぎなかつたといふ意味があとで解つた時には、淡い冷笑のうちに、復讐をしたやうな快感さへ覺えた。それより以後、愛といふ問題に就いて、お秀に對するお延の態度は、いつも輕蔑であつた。それを表向《おもてむき》さも嬉しい消息ででもあるやうに取扱かつて、彼我《ひが》に共通する如くに見せ掛けたのは、無論一片のお世辭に過ぎなかつた。もつと惡く云へば、一種の嘲弄であつた。
 幸ひお秀は其所に氣が付かなかつた。さうして氣が付かない譯であつた。と云ふのは、言葉の上は兎に角、實際に愛を體得する上に於て、お秀はとてもお延の敵でなかつた。猛烈に愛した經驗も、生一本《きいつぽん》に愛された記憶も有《も》たない彼女は、此能力の最大限が何《ど》の位《くらゐ》強く大きなものであるかといふ事をまだ知らずにゐる女であつた。それでゐて夫《をつと》に滿足してゐる細君であつた。知らぬが佛といふ諺《ことわざ》が正に此場合の彼女を能く説明してゐた。結婚の當時、自分の未來に夫《をつと》の手で押し付けられた愛の判を、普通の證文のやうな積《つもり》で、何時《いつ》迄《まで》も胸の中《うち》へ仕舞ひ込んでゐた彼女は、お延の言葉を、其胸の中《うち》で、眞面目に受ける程無邪氣だつたのである。
 本當に愛の實體を認めた事のないお秀は、彼女のいたづらに使ふ胡亂《うろん》な言葉を通して、鋭どいお延から能く見透かされたのみではなかつた。彼女は津田とお延の關係を、自分達夫婦から割り出して平氣でゐた。それはお延の言葉を聽いた彼女が實際驚ろいた顔をしたのでも解つた。津田がお延を愛してゐるかゐないかが今頃何うして問題になるのだらう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だらう。况《ま》してそれを夫《をつと》の妹の前へ出すに至つては、何處に何《ど》んな意味があるのだらう。――是がお秀の表情であつた。
 實際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に滿足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んで置きながら、わざと其所に氣の付かないやうな振をする、空々《そら/”\》しい女に過ぎなかつた。彼女は「あら」と云つた。
 「まだ其上に愛されて見たいの」
 此挨拶は平生のお延の注文通りに來た。然し今の場合に於けるお延に滿足を與へる筈はなかつた。彼女は又何とか云つて、自分の意志を明らかにしなければならなかつた。所がそれを判然《はつきり》表現すると、「津田があたしの外にまだ思つてゐる人が別にあるとするなら、あたしだつて到底今のまゝで滿足出來る譯がないぢやありませんか」といふ露骨な言葉になるより外に途はなかつた。思ひ切つて、さう打つて出れば、自分で自分の計畫をぶち毀《こは》すのと一般だと感づいた彼女は、「だつて」と云ひ掛けた儘、其所で逡巡《ためら》つたなり動けなくなつた。
 「まだ何か不足があるの」
 斯う云つたお秀は眼を集めてお延の手を見た。其所には例の指環《ゆびわ》が遠慮なく輝やいてゐた。然しお秀の鋭どい一瞥《いちべつ》は何の影響もお延に與へる事が出來なかつた。指輪に對する彼女の無邪氣さは昨日《きのふ》と毫も變る所がなかつた。お秀は少しもどかしくなつた。
 「だつて延子さんは仕合せぢやありませんか。欲しいものは、何でも買つて貰へるし、行きたい所へは、何處へでも連れていつて貰へるし――」
 「えゝ。其所|丈《だけ》はまあ仕合せよ」
 他《ひと》に向つて自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現はすやうになつて、不都合だと許《ばかり》考へ付けて來たお延は、平生から持ち合せの挨拶をつい此場合にも使つて仕舞つた。さうして又行き詰つた。芝居に行つた翌日《あくるひ》、岡本へ行つて繼子と話をした時用ひた言葉を、其儘繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるといふ事に氣が付いた。其お秀は「そこ丈《だけ》が仕合せなら、それで澤山ぢやないか」といふ顔付をした。
 お延は自分がかりそめにも津田を疑つてゐるといふ形迹をお秀に示したくなかつた。さうかと云つて、何事も知らない風を粧《よそほ》つて、見す/\お秀から馬鹿にされるのは猶《なほ》厭だつた。從つて應對に非常な呼吸が要つた。目的地へ漕ぎ付ける迄には中々骨が折れると思つた。然し彼女は到底《とても》見込のない無理な努力をしてゐるといふ事には、ついに氣が付かなかつた。彼女は又態度を一變した。
 
     百二十八
 
 彼女は思ひ切つて一足飛びに飛んだ。情實に絡《から》まれた窮屈な云ひ廻し方を打《う》ち遣《や》つて、面《めん》と向き合つたまゝお秀に相見《しやうけん》しようとした。其代り言葉は何うしても抽象的にならなければならなかつた。それでも論戰の刺撃で、事實の面影《おもかげ》を突き留める方が、まだ増しだと彼女は思つた。
 「一體一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事が出來るものでせうか」
 此質問を基點として歩を進めに掛つた時、お秀はそれに對してあらかじめ準備された答を一つも有《も》つてゐなかつた。書物と雜誌から受けた彼女の知識は、たゞ一般戀愛に關する丈《だけ》で、毫も此特殊な場合に利用するに足らなかつた。腹に何の貯《たくは》へもない彼女は、考へる風をした。さうして正直に答へた。
 「そりや一寸解らないわ」
 お延は氣の毒になつた。「此人は生きた研究の材料として、堀といふ夫《をつと》を既に有《も》つてゐるではないか。其|夫《をつと》の婦人に對する態度も、朝夕《あさゆふ》傍《そば》にゐて、見てゐるではないか」。お延が斯う思ふ途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
 「解らない筈ぢやありませんか。此方《こつち》が女なんですもの」
 お延は是も愚答だと思つた。もしお秀の有《あり》の儘《まゝ》が斯うだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想ひ遣られた。しかしお延はすぐ此愚答を活かしに掛つた。
 「ぢや女の方から見たら何うでせう。自分の夫《をつと》が、自分以外の女を愛してゐるといふ事が想像できるでせうか」
 「延子さんにはそれが出來ないの?」と云はれた時、お延はおやと思つた。
 「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にゐるんでせうか」
 「そりや大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合つた。お延は直ちに相手の言葉を繰り返した。
 「大丈夫?!」
 疑問とも間投詞とも片の付かない其語尾は、お延にも何といふ意味だか解らなかつた。
 「大丈夫よ」
 お秀も再び同じ言葉を繰り返した。其瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇のあたりに認めた。然し彼女はすぐそれを切つて捨てた。
 「そりや秀子さんは大丈夫に極つてるわ。もと/\堀さんへ入らつしやる時の條件が條件ですもの」
 「ぢや延子さんは何うなの。矢つ張り津田に見込まれたんぢやなかつたの」
 「嘘よ。そりやあなたの事よ」
 お秀は急に應じなくなつた。お延も獲物のない同じ脉をそれ以上堀る徒勞を省いた。
 「一體津田は女に關して何《ど》んな考へを有《も》つてゐるんでせう」
 「それは妹より奧さんの方が能く知つてる筈だわ」
 お延は叩き付けられた後《あと》で、自分もお秀と同じやうな愚問を掛けた事に氣が付いた。
 「だけど兄妹《きやうだい》としての津田は、あたしより秀子さんの方に能く解つてるでせう」
 「えゝ、だけど、いくら解つてたつて、延子さんの參考にやならないわ」
 「參考に無論なるのよ。然し其事ならあたしだつて疾《と》うから知つてるわ」
 お延の鎌《かま》は際《きは》どい所で投げ掛けられた。お秀は果《はた》して掛つた。
 「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
 「大丈夫だけれども危險《あぶな》いのよ。何うしても秀子さんから詳しい話しを聽かして頂かないと」
 「あら、あたし何にも知らないわ」
 斯ういつたお秀は急に赧《あか》くなつた。それが何の羞恥《しうち》のために起つたのかは、いくら緊張したお延の神經でも揣摩《しま》できなかつた。しかも彼女は此訪問の最初に、同じ現象から受けた初度《しよど》の記憶をまだ忘れずにゐた。吉川夫人の名前を點じた時に見た其|薄赧《うすあか》い顔と、今彼女の面前に再現した此赤面の間に何《ど》んな關係があるのか、それはいくら物の異同を嗅ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見當が付かなかつた。彼女は此場合無理にも二つのものを繋いで見たくつて堪《たま》らなかつた。けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、何處を何う探したつて、金輪際《こんりんざい》出て來つこなかつた。お延に取つて最も不幸な點は、現在の自分の力に餘る此二つのものゝ間に、屹度《きつと》或る聯絡《れんらく》が存在してゐるに相違ないといふ推測《すゐそく》であつた。さうして其|聯絡《れんらく》が、今の彼女に取つて、頗る重大な意味を有《も》つてゐるに相違ないといふ一種の豫覺であつた。自然彼女は其所をもつと突ツついて見るより外に仕方がなかつた。
 
     百二十九
 
 咄嗟《とつさ》の衝動に支配されたお延は、自分の口を衝いて出る嘘を抑へる事が出來なかつた。
 「吉川の奧さんからも伺つた事があるのよ」
 斯う云つた時、お延は始めて自分の大膽さに氣が付いた。彼女は其所へ留まつて、冒險の結果を眺めなければならなかつた。するとお秀が今迄の赤面とは打つて變つた不思議さうな顔をしながら訊き返した。
 「あら何を」
 「その事よ」
 「その事つて、何《ど》んな事なの」
 お延にはもう後《あと》がなかつた。お秀には先があつた。
 「嘘でせう」
 「嘘ぢやないのよ。津田の事よ」
 お秀は急に應じなくなつた。其代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻《さつき》より著るしく目立つて外へ現はれた時、お延は路を誤まつて一歩|深田《ふかだ》の中へ踏み込んだやうな氣がした。彼女に特有な負け嫌ひな精神が強く働らかなかつたなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救を求めてゐたかも知れなかつた。お秀は云つた。
 「變ね。津田の事なんか、吉川の奧さんがお話しになる譯がないのにね。何うしたんでせう」
 「でも本當よ、秀子さん」
 お秀は始めて聲を出して笑つた。
 「そりや本當でせうよ。誰も嘘だと思ふものなんかありやしないわ。だけど何《ど》んな事なの、一體」
 「津田の事よ」
 「だから兄の何よ」
 「そりや云へないわ。あなたの方から云つて下さらなくつちや」
 「隨分無理な御注文ね。云へつたつて、見當が付かないんですもの」
 お秀は何處からでも入らつしやいといふ落付を見せた。お延の腋の下から膏汗《あぶらあせ》が流れた。彼女は突然飛びかゝつた。
 「秀子さん、あなたは基督教信者《キリストけうしんじや》ぢやありませんか」
 お秀は驚ろいた樣子を現はした。
 「いゝえ」
 「でなければ、昨日《きのふ》の樣な事を仰しやる譯がないと思ひますわ」
 昨日と今日の二人は、丸《まる》で地位を易へたやうな形勢に陷《おちい》つた。お秀は何處迄も優者の餘裕を示した。
 「さう。ぢやそれでも可《い》いわ。延子さんは大方|基督教《キリストけう》がお嫌ひなんでせう」
 「いゝえ好きなのよ。だからお願ひするのよ。だから昨日のやうな氣高《けだか》い心持になつて、此小さいお延を憐れんで頂きたいのよ。もし昨日のあたしが惡かつたら、斯うしてあなたの前に手を突いて詫《あや》まるから」
 お延は光る寶石入の指輪を穿《は》めた手を、お秀の前に突いて、口で云つた通り、實際に頭を下げた。
 「秀子さん、何うぞ隱さずに正直にして下さい。さうしてみんな打ち明けて下さい。お延は此通り正直にしてゐます。此通り後悔してゐます」
 持前の癖を見せて、眉を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝の上へ落ちた。
 「津田はあたしの夫《をつと》です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なやうに、津田はあたしにも大事です。たゞ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛してゐます。津田が妹としてあなたを愛してゐるやうに、妻としてあたしを愛してゐるのです。だから津田から愛されてゐるあたしは津田のために凡《すべ》てを知らなければならないのです。津田から愛されてゐるあなたも亦、津田のために萬《よろ》づをあたしに打ち明けて下さるでせう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに對する親切を、此場合お感じにならないでも、あたしは一向《いつかう》恨みとは思ひません。けれども兄さんとしての津田には、まだ盡して下さる親切を有《も》つてゐらつしやるでせう。あなたがそれを充分|有《も》つてゐらつしやるのは、あなたの顔付でよく解ります。あなたはそんな冷刻な人では決してないのです。あなたはあなたが昨日《きのふ》御自分で仰しやつた通り親切な方に違ひないのです」
 お延が是《これ》丈《だけ》云つて、お秀の顔を見た時、彼女は其所に特別な變化を認めた。お秀は赧《あか》くなる代りに少し蒼白くなつた。さうして度外《どはづ》れに急《せ》き込《こ》んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないといふ意味に取れる言葉遣ひをした。
 「あたしはまだ何にも惡い事をした覺《おぼえ》はないんです。兄さんに對しても嫂《ねえ》さんに對しても、有《も》つてゐるのは好意|丈《だけ》です。惡意はちつとも有りません。何うぞ誤解のないやうにして下さい」
 
     百三十
 
 お秀の言譯はお延に取つて意外であつた。又突然であつた。其言譯が何處から出て來たのか、また何の爲であるか丸《まる》で解らなかつた。お延はたゞはつと思つた。天惠の如く彼女の前に露出された此時のお秀の背後に何が潜んでゐるのだらう。お延はすぐ其|暗闇《くらやみ》を衝《つ》かうとした。三度目の嘘が安々と彼女の口を滑つて出た。
 「そりや解つてるのよ。あなたのなすつた事も、あなたのなすつた精神も、あたしにはちやんと解つてるのよ。だから隱《かく》し立《だて》をしないで、みんな打ち明けて頂戴な。お厭?」
 斯う云つた時、お延は出來得る限りの愛嬌を其細い眼に湛《たゝ》へて、お秀を見た。然し異性に對する場合の效果を豫想した此|所作《しよさ》は全く外《はづ》れた。お秀は驚ろかされた人のやうに、卒爾《そつじ》な質問を掛けた。
 「延子さん、あなた今日此所へお出《いで》になる前、病院へ行つて入らしつたの」
 「いゝえ」
 「ぢや何處か外《ほか》から廻つて入らしつたの」
 「いゝえ。宅《うち》からすぐ上つたの」
 お秀は漸く安心したらしかつた。其代り後は何にも云はなかつた。お延はまだ縋り付いた手を放さなかつた。
 「よう、秀子さん何うぞ話して頂戴よ」
 其時お秀の涼しい眼のうちに殘酷《ざんこく》な光が射した。
 「延子さんは隨分勝手な方ね。御自分|獨《ひと》り精一杯《せいいつぱい》愛されなくつちや氣が濟まないと見えるのね」
 「無論よ。秀子さんは左右《さう》でなくつても構はないの」
 「良人《うち》を御覽なさい」
 お秀はすぐ斯う云つて退《の》けた。お延は話頭からわざと堀を追《お》ひ除《の》けた。
 「堀さんは問題外よ。堀さんは何うでも可《い》いとして、正直の云ひつ競《くら》よ。なんぼ秀子さんだつて、氣の多い人が好きな譯はないでせう」
 「だつて自分より外の女は、有れども無きが如しつてやうな素直《すなほ》な夫《をつと》が世の中にゐる筈がないぢやありませんか」
 雜誌や書物からばかり知識の供給を仰いでゐたお秀は、此時突然卑近な實際家となつてお延の前に現はれた。お延は其矛盾を注意する暇さへなかつた。
 「あるわよ、あなた。なけりやならない筈ぢやありませんか、苟《いやし》くも夫《をつと》と名が付く以上」
 「さう、何處にそんな好い人がゐるの」
 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延は何うしても津田といふ名前を大きな聲で叫ぶ勇氣がなかつた。仕方なしに口の先で答へた。
 「それがあたしの理想なの。其所迄行かなくつちや承知が出來ないの」
 お秀が實際家になつた通り、お延も何時《いつ》の間《ま》にか理論家に變化した。今迄の二人の位地は轉倒した。さうして二人とも丸《まる》で其所に氣が付かずに、勢の運ぶが儘に前の方へ押し流された。あとの會話は理論とも實際とも片の付かない、出たとこ勝負になつた。
 「いくら理想だつてそりや駄目よ。その理想が實現される時は、細君以外の女といふ女が丸《まる》で女の資格を失つてしまはなければならないんですもの」
 「然し完全の愛は其所へ行つて始めて味ははれるでせう。其所迄行き盡さなければ、本式の愛情は生涯|經《た》つたつて、感ずる譯に行かないぢやありませんか」
 「そりや何うだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思はないで、あなた丈《だけ》を世の中に存在するたつた一人の女だと思ふなんて事は、理性に訴へて出來る筈がないでせう」
 お秀はとう/\あなたといふ字に點火した。お延は一向《いつかう》構はなかつた。
 「理性は何うでも、感情の上で、あたし丈《だけ》をたつた一人の女と思つてゐて呉れゝば、それで可《い》いんです」
 「あなた丈《だけ》を女と思へと仰しやるのね。そりや解るわ。けれども外の女を女と思つちや不可《いけな》いとなると丸《まる》で自殺と同じ事よ。もし外の女を女と思はずにゐられる位な夫《をつと》なら、肝心のあなただつて、矢ツ張り女とは思はないでせう。自分の宅《うち》の庭に咲いた花|丈《だけ》が本當の花で、世間にあるのは花ぢやない枯草だといふのと同じ事ですもの」
 「枯草で可《い》いと思ひますわ」
 「あなたには可いでせう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれてゐる方が、嫂《ねえ》さんに取つても却つて滿足ぢやありませんか。それが本當に愛されてゐるといふ意味なんですもの」
 「あたしは何うしても絶對に愛されて見たいの。比較なんか始めから嫌ひなんだから」
 お秀の顔に輕蔑の色が現はれた。其奧には何といふ理解力に乏しい女だらうといふ意味があり/\と見透《みす》かされた。お延はむら/\とした。
 「あたしは何うせ馬鹿だから理窟なんか解らないのよ」
 「たゞ實例をお見せになる丈《だけ》なの。其方が結構だわね」
 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奧で地團太《ぢだんだ》を踏んだ。折角の努力は是以上何物をも彼女に與へる事が出來なかつた。留守に彼女を待つ津田の手紙が來てゐるとも知らない彼女は、其儘堀の家を出た。
 
     百三十一
 
 お延とお秀が對坐して戰つてゐる間に、病院では病院なりに、また獨立した豫定の事件が進行した。
 津田の待ち受けた吉川夫人が其所へ顔を出したのは、お延|宛《あて》で書いた手紙を持たせて遣つた車夫がまだ歸つて來ないうちで、時間からいふと、丁度小林の出て行つた十分程|後《あと》であつた。
 彼は看護婦の口から夫人の名前を聽いた時、此|異人種《いじんしゆ》に近い二人が、狹い室《へや》で鉢合せをしずに濟んだ好都合を、何より先にまづ祝福した。其時の彼は此都合を付けるために拂ふべく餘儀なくされた物質上の犠牲を殆んど顧みる暇さへなかつた。
 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返らうとした。夫人は立ちながら、それを止《と》めた。さうして彼女を案内した看護婦の兩手に、抱《かゝ》へるやうにして持たせた植木鉢を一寸振り返つて見て、「何處へ置きませう」と相談するやうに訊いた。津田は看護婦の白い胸に映《うつ》る紅葉《もみぢ》の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈さうに三本の幹が調子を揃へて並んでゐる下に、恰好《かつかう》の好い手頃な石さへあしらつた其盆栽が床の間の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
 「どうです」
 先刻《さつき》から彼女の樣子を見てゐた津田は、此時始めて彼に對する夫人の態度を確かめる事が出來た。もしやと思つて、暗《あん》に心配してゐた彼の掛念《けねん》の半分は、此|一語《いちご》で吹き晴らされたと同じ事であつた。夫人は何時《いつ》も程陽氣ではなかつた。其代り何時も程|上《うは》つ調子《てうし》でもなかつた。要するに彼女は、津田が未だ曾て彼女に於て發見しなかつた一種の氣分で、彼の室《へや》に入《はい》つて來たらしかつた。それは一方で彼女の落付を極度に示してゐると共に、他方では彼女の鷹揚《おうやう》さを矢張最高度に現はすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。然し好い意味で驚ろかされた丈《だけ》に、氣味も惡くしなければならなかつた。たとひ此態度が、彼に對する反感を代表してゐないにせよ、其奧には何があるか解らなかつた。今其奧に恐るべき何物がないにしても、是から先話をしてゐるうちに、向ふの心持は何う變化して來るか解らなかつた。津田は他《ひと》から機嫌を取られ付けてゐる夫人の常として、手前勝手にいくらでも變つて行く、若《もし》くは變つて行つても差支ないと自分で許してゐる、此夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉つらなければならない地位にあつた。漢語でいふと彼女の一顰一笑《いつぴんいつせう》が津田には悉《こと/”\》く問題になつた。此際の彼にはことに左右《さう》であつた。
 「今朝秀子さんが入らしつてね」
 お秀の訪問はまづ第一の議事の如くに彼女の口から投げ出された。津田は固《もと》より相手に應じなければならなかつた。さうして其應じ方は夫人の來ない前からもう考へてゐた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知つて、知らない風をする積《つもり》であつた。誰から聽いたと問はれた場合に、小林の名を出すのが厭だつたからである。
 「へえ、左右《さう》ですか。平生あんまり御無沙汰をしてゐるので、たまにはお詫《わび》に上らないと惡いとでも思つたのでせう」
 「いえ左右《さう》ぢやないの」
 津田は夫人の言葉を聽いた後で、すぐ次の嘘を出した。
 「然しあいつに用のある譯もないでせう」
 「所があつたんです」
 「へえゝ」
 津田は斯う云つたなり其《その》後《あと》を待つた。
 「何の用だか中《あ》てゝ御覽なさい」
 津田は空《そら》つ惚《とぼ》けて、考へる眞似をした。
 「左右《さう》ですね、お秀の用事といふと、――さあ何でせうかしら」
 「分りませんか」
 「ちよつと何うも。――元來私とお秀とは兄妹《きやうだい》でゐながら、大分《だいぶん》質《たち》が違ひますから」
 津田は此所で餘計な兄妹關係《きやうだいくわんけい》をわざと仄《ほの》めかした。それは事の來《く》る前に、自分を遠くから辯護して置くためであつた。それから自分の言葉を、夫人が何う受けて呉れるか、其反響を一寸聽いて見るためであつた。
 「少し理窟ツぽいのね」
 此一語を聞くや否や、津田は得《え》たり賢《かし》こしと虚に付け込んだ。
 「あいつの理窟と來たら、兄の私でさへ惱まされる位ですもの。誰だつて、とても大人《おとな》しく辛抱して聽いてゐられたものぢや御座いません。だから私はあいつと喧嘩をすると、何時《いつ》でも好い加減にして投げてしまひます。するとあいつは好い氣になつて、勝つた積《つもり》か何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行つて觸れ散らかすのです」
 夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情を有《も》つた微笑と解釋する事が出來た。すると夫人の言葉が、却つて彼の思はくとは逆の見當を向いて出た。
 「まさか左右《さう》でもないでせうけれどもね。――然し中々筋の通つた好い頭を有《も》つた方ぢやありませんか。あたしあの方《かた》は好《すき》よ」
 津田は苦笑した。
 「そりやお宅なんぞへ上つて、無暗に地金《ぢがね》を出す程の馬鹿でもないでせうがね」
 「いえ正直よ、秀子さんの方が」
 誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかつた。
 
     百三十二
 
 津田の好奇心は動いた。想像も畧《ほゞ》付いた。けれども其所へ折れ曲つて行く事は彼の主意に背いた。彼はたゞ夫人對お秀の關係を堀り返せば可《よ》かつた。病氣見舞を兼た夫人の用向《ようむき》も、無論それに就いての懇談に極つてゐた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣《おもむき》があつた。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機會さへあれば、他《ひと》の内輪に首を突ツ込んで、なにかと眼下《めした》、ことに自分の氣に入つた眼下の世話を燒きたがる代りに、到る所で又道樂本位の本性を露《あら》はして平氣であつた。或時の彼女は無暗に急《せ》いて事を纒めやうと焦慮《あせ》つた。さうかと思ふと、ある時の彼女は、又正反對であつた。わざ/\べん/\と引ツ張る所に、左《さ》も興味でもあるらしい樣子を見せて濟ましてゐた。鼠を弄《もてあ》そぷ猫のやうな此時の彼女の態度が、たとひ傍《はた》から見て何うあらうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾を與へるために必要な優者の特權だと解釋してゐるらしかつた。此手に掛つた時の相手には、何よりも辛防《しんばう》が大切であつた。其代り辛防をし拔いた御禮は屹度《きつと》來た。又來る事を以て彼女は相手を奨勵した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換はされた此|黙契《もくけい》のために、津田の蒙つた重大な損失が、今迄にたつた一つあつた。其點で彼女が腹の中で如何に彼に對する責任を感じてゐるかは、怜俐《れいり》な津田の見逃《みのが》す所でなかつた。何事にも夫人の御意《ぎよい》を主眼に置いて行動する彼と雖も、暗《あん》に此強味|丈《だけ》は恃《たの》みにしてゐた。然しそれはいざといふ萬一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかつた。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となつて、先方の思ふ通りにぢやらされてゐなければならなかつた。此際の夫人も中々要點へ來る前に時間を費やした。
 「昨日《きのふ》秀子さんが來たでせう。此所へ」
 「えゝ。參りました」
 「延子さんも來たでせう」
 「えゝ」
 「今日は?」
 「今日はまだ參りません」
 「今に入らつしやるんでせう」
 津田には何うだか分らなかつた。先刻《さつき》來るなといふ手紙を出した事も、夫人の前では云へなかつた。返事を受け取らなかつた勝手違も、實は氣に掛つてゐた。
 「何うですかしら」
 「入らつしやるか、入らつしやらないか分らないの」
 「えゝ、よく分りません。多分來ないだらうとは思ふんですが」
 「大變冷淡ぢやありませんか」
 夫人は嘲《あざ》けるやうな笑ひ方をした。
 「私がですか」
 「いゝえ、兩方がよ」
 苦笑した津田が口を閉ぢるのを待つて、夫人の方で口を開《ひら》いた。
 「延子さんと秀子さんは昨日《きのふ》此所で落ち合つたでせう」
 「えゝ」
 「それから何かあつたのね、變な事が」
 「別に……」
 「空《そら》ツ惚《とぼ》けちや不可《いけま》せん。あつたらあつたと、判然《はつきり》仰しやいな、男らしく」
 夫人は漸く持前の言葉遣ひと特色とを、發揮し出した。津田は挨拶に困つた。黙つて少し樣子を見るより外に仕方がないと思つた。
 「秀子さんを散々|苛《いぢ》めたつて云ふぢやありませんか。二人して」
 「そんな事があるものですか。お秀の方が怒つてぷん/\腹を立てて歸つて行つたのです」
 「さう。然し喧嘩はしたでせう。喧嘩といつたつて毆《なぐ》り合《あひ》ぢやないけれども」
 「それだつてお秀のいふやうな大袈裟なものぢやないんです」
 「かも知れないけれども、多少にしろ有つたには有つたんですね」
 「そりや一寸した行違《いきちがひ》なら御座いました」
 「其時あなた方は二人掛りで秀子さんを苛《いぢ》めたでせう」
 「苛《いぢ》めやしません。あいつが耶蘇教《ヤソけう》のやうな氣?を吐いた丈《だけ》です」
 「兎に角貴方がたは二人、向ふは一人だつたに違ないでせう」
 「そりや左右《さう》かも知れません」
 「それ御覽なさい。それが惡いぢやありませんか」
 夫人の斷定には意味も理窟もなかつた。從つて何處が惡いんだか津田には一向《いつかう》通じなかつた。けれども斯ういふ場合に斯《こ》んな風になつて出て來る夫人の特色は、決して逆《さか》らへないものとして、もう津田の頭に叩き込まれてゐた。素直《すなほ》に叱られてゐるより外に彼の途はなかつた。
 「さういふ積《つもり》でもなかつたんですけれども、自然の勢で、何時《いつ》かさうなつて仕舞つたんでせう」
 「でせうぢや不可《いけま》せん。ですと判然《はつきり》仰しやい。一體斯ういふと失禮なやうですが、貴方があんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」
 津田は首を傾けた。
 
     百三十三
 
 怜俐な性分に似合はず夫人對お延の關係は津田に能く呑み込めてゐなかつた。夫人に津田の手前があるやうに、お延にも津田に置く氣兼《きがね》があつたので、それが眞向《まとも》に双方を了解出來る聰明な彼の頭を曇らせる原因になつた。女の挨拶に相當の割引をして見る彼も、其所にはつい氣が付かなかつたため、彼は自分の前でする夫人のお延評を眞《ま》に受《う》けると同時に、自分の耳に聽こえるお延の夫人評も亦疑がはなかつた。さうして其評は双方共に美くしいものであつた。
 二人の女性が二人|丈《だけ》で心の内に感じ合ひながら、今迄それを外に現はすまいとのみ力《つと》めて來た微妙な軋轢《あつれき》が、必然の要求に逼《せま》られて、次第々々に晴れ渡る靄のやうに、津田の前に展開されなければならなくなつたのは此時であつた。
 津田は夫人に向つて云つた。
 「別段大事にする程の女房でもありませんから、その邊の御心配は御無用です」
 「いゝえ左右《さう》でないやうですよ。世間ぢやみんな左右《さう》思つてますよ」
 世間といふ仰山《ぎやうさん》な言葉が津田を驚ろかせた。夫人は仕方なしに説明した。
 「世間つて、みんなの事よ」
 津田にはそのみんなさへ明瞭に意識する事が出來なかつた。然し世間だのみんなだのといふ誇張した言葉を強める夫人の意味は、決して推察に困難なものではなかつた。彼女は何うしても其點を津田の頭に叩き込まうとする積《つもり》らしかつた。津田はわざと笑つて見せた。
 「みんなつて、お秀の事なんでせう」
 「秀子さんは無論其内の一人よ」
 「其内の一人でさうして又代表者なんでせう」
 「かも知れないわ」
 津田は再び大きな聲を出して笑つた。然し笑つた後ですぐ氣が付いた。惡い結果になつて夫人の上に反響して來た其笑ひはもう取り返せなかつた。文句を云はずに伏罪《ふくざい》する事の便宜を悟つた彼は、忽ち容《かた》ちを改ためた。
 「兎に角是から能く氣を付けます」
 然し夫人はそれでもまだ滿足しなかつた。
 「秀子さん許《ばかり》だと思ふと間違ひですよ。貴方の叔父さんや叔母さんも、同《おん》なじ考へなんだから其《その》積《つもり》でゐらつしやい」
 「はあ左右《さう》ですか」
 藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に傳へられたのも明らかであつた。
 「外にもまだあるんです」と夫人が又付け加へた。津田はたゞ「はあ」と云つて相手の顔を見た拍子に、彼の豫期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩れた。
 「實を云ふと、私も皆さんと同《おん》なじ意見ですよ」
 權威ででもあるやうな調子で、最後に斯う云つた夫人の前に、彼は勿論反抗の聲を揚げる勇氣を出す必要を認めなかつた。然し腹の中では同時に妙な思はく違に想ひ到つた。彼は疑つた。
 「何で此人が急に斯《こ》んな態度になつたのだらう。自分のお延を鄭重に取扱ひ過ぎるのが惡いといつて非難する上に、お延自身をも其非難のうちに含めてゐるのではなからうか」
 此疑心は津田にとつて全く新らしいものであつた。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さへ彼には困難な位新らしいものであつた。彼は此疑問に立ち向ふ前に、まだ自分の頭の中に殘つてゐる一つの質問を掛けた。
 「岡本さんでも、そんな評判があるんでせうか」
 「岡本は別よ。岡本の事なんか私の關係する所ぢやありません」
 夫人が濟まして斯う云ひ切つた時、津田は思はずおやと思つた。「ぢや岡本とあなたの方は別つこだつたんですか」といふ次の問が、自然の順序として、彼の咽喉《のど》迄出掛つた。
 實を云ふと、彼は「世間」の取沙汰通り、お延を大事にするのではなかつた。誤解交《ごかいまじ》りの此評判が、何處から何うして起つたかを、他《ひと》に説明しようとすれば、隨分複雜な手數《てすう》が掛るにしても、彼の頭の中にはちやんとした明晰な觀念があつて、それを一々|掌《たなごゝろ》に指《さ》す事の出來る程に、事實の縞柄《しまがら》は解つてゐた。
 第一の責任者はお延其人であつた。自分が何《ど》の位《くらゐ》津田から可愛がられ、又津田を何の位自由にしてゐるかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際を到る所に發揮して憚からないものは彼女に違なかつた。第二の責任者はお秀であつた。既に一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬が手傳つて染めた。其嫉妬が何處から出て來るのか津田は知らなかつた。結婚後始めて小姑《こじうと》といふ意味を悟つた彼は、切角《せつかく》悟つた意味を、解釋の出來ないために持て餘した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であつた。此所には誇張も嫉妬もない代りに、浮華《ふくわ》に對する嫌惡があまり強く働らき過ぎた。だから結果は矢張り誤解と同じ事に歸着した。
 
     百三十四
 
 津田には此誤解を誤解として通して置く特別な理由があつた。さうしてその理由は既に小林の看破《かんぱ》した通りであつた。だから彼は此誤解から生じ易い岡本の好意を、出來る丈《だけ》自分の便宜になるやうに保留しようと試みた。お延を鄭寧に取扱ふのは、つまり岡本家の機嫌を取るのと同じ事で、其岡本と吉川とは、兄弟同樣に親しい間柄である以上、彼の未來は、お延を大事にすればする程確かになつて來る道理であつた。利害の論理《ロジツク》に拔目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向《おもてむき》の媒酌人として、自分達二人の結婚に關係して呉れた事實を、單なる名譽として喜こぶ程の馬鹿ではなかつた。彼は其所に名譽以外の重大な意味を認めたのである。
 然し是は寧ろ一般的の内情に過ぎなかつた。もう一皮|剥《む》いて奧へ入《はい》ると、底にはまだ底があつた。津田と吉川夫人とは、事件が此所へ來る迄に、他人の關知しない因果でもう結び付けられてゐた。彼等に丈《だけ》特有な内外の曲折を經過して來た彼等は、他人より少し複雜な眼をもつて、半年前に成立した此新らしい關係を眺めなければならなかつた。
 有體《ありてい》にいふと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛してゐた。さうして其女を愛させるやうに仕向けたものは吉川夫人であつた。世話好な夫人は、此若い二人を喰つ付けるやうな、又引き離すやうな閑手段《かんしゆだん》を縱《ほしい》まゝに弄して、そのたびに迷兒々々《まご/\》したり、又は逆《のぼ》せ上《あが》つたりする二人を眼の前に見て樂しんだ。けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がはなかつた。夫人も最後に來《きた》るべき二人の運命を斷言して憚からなかつた。のみならず時機の熟した所を見計つて、二人を永久に握手させようと企てた。所がいざといふ間際になつて、夫人の自信は見事に鼻柱を挫《くじ》かれた。津田の高慢も助かる筈はなかつた。夫人の自信と共に一棒に撲殺《ぼくさつ》された。肝心の鳥はふいと逃げたぎり、遂に夫人の手に戻つて來なかつた。
 夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。然し津田は感じなかつた。彼は今日《けふ》迄《まで》其意味が解らずに、まだ五里霧中に彷徨《はうくわう》してゐた。其所へお延の結婚問題が起つた。夫人は再び第二の戀愛事件に關係すべく立ち上つた。さうして夫《をつと》と共に、表向《おもてむき》の媒酌人として、綺麗な段落を其所へ付けた。
 其時の夫人の樣子を細《こま》かに觀察した津田は成程と思つた。
 「おれに對する賠償《ばいしやう》の心持だな」
 彼は斯う考へた。彼は未來の方針を大體の上に於て此心持から割り出さうとした。お延と仲善く暮す事は、夫人に對する義務の一端だと思ひ込んだ。喧嘩さへしなければ、自分の未來に間違はあるまいといふ鑑定さへ下した。
 斯ういふ心得に萬《ばん》遺?《ゐさん》のある筈はないと初手《しよて》から極めて掛つて吉川夫人に對してゐる津田が、たとひ遠廻しにでもお延を非難する相手の匂ひを嗅ぎ出した以上、おやと思ふのは當然であつた。彼は夫人に氣に入るやうに自分の立場を改める前に、先づ確かめる必要があつた。
 「私がお延を大事にし過ぎるのが惡いと仰しやる外に、お延自身に何か缺點でもあるなら、御遠慮なく忠告して頂きたいと思ひます」
 「實はそれで上つたのよ、今日は」
 此言葉を聽いた時、津田の胸は夫人の口から何が出て來るかの好奇心に充ちた。夫人は語を繼《つ》いだ。
 「是は私《あたし》でないと面《めん》と向《むか》つて誰も貴方に云へない事だと思ふから云ひますがね。――お秀さんに智慧を付けられて來たと思つては困りますよ。また後でお秀さんに迷惑を掛けるやうだと、私《あたし》が濟まない事になるんだから、可《よ》ござんすか。そりやお秀さんも其事でわざ/\來たには違ないのよ。然し主意は少し違ふんです。お秀さんは重《おも》に京都の方を心配してゐるの。無論京都は貴方から云へばお父さんだから、決して疎畧には出來ますまい。ことに良人《うち》でもあゝしてお父さんに貴方の世話を頼まれてゐて見ると、黙つて放《はふ》つても置く譯にも行かないでせう。けれどもね、詰り其方《そつち》は枝で、根は別にあるんだから、私《あたし》は根から先へ療治した方が遙かに有效だと思ふんです。でないと今度《こんだ》のやうな行違《いきちがひ》が又|屹度《きつと》出て來ますよ。たゞ出て來る丈《だけ》なら可《よ》ござんすけれども、そのたんびにお秀さんが遣《や》つて來《く》るやうだと、私《あたし》も口を利くのに骨が折れる丈《だけ》ですからね」
 夫人のいふ禍《わざはひ》の根といふのは慥《たしか》にお延の事に違なかつた。では其根を何うして療治しようといふのか。肉體上の病氣でもない以上、離別か別居を除いて療治といふ言葉は容易《たやす》く使へるものでもないのにと津田は考へた。
 
     百三十五
 
 津田は已《やむ》を得《え》ず訊いた。
 「要するに何うしたら可《い》いんです」
 夫人は此子供らしい質問の前に母らしい得意の色を見せた。けれどもすぐ要點へは來なかつた。彼女は其所だと云はぬ許《ばかり》にたゞ微笑した。
 「一體貴方は延子さんを何う思つてゐらつしやるの」
 同じ問が同じ言葉で咋日《きのふ》掛けられた時、お秀に何と答へたかを津田は思ひ出した。彼は夫人に對する特別な返事を用意して置かなかつた。其代り何とでも答へられる自由な地位にあつた。腹藏《ふくざう》のない所をいふと、何うなりとあなたの好きなお返事を致しますといふのが彼の胸中であつた。けれども夫人の頭にある其好きな返事は、全く彼の想像の外《ほか》にあつた。彼はへどもどするうちににや/\した。勢ひ夫人は一歩前へ進んで來る事になつた。
 「あなたは延子さんを可愛がつてゐらつしやるでせう」
 此所でも津田の備へは手薄であつた。彼は冗談半分に夫人をあしらふ事なら幾通《いくとほり》でも出來た。然し眞面目に改まつた、責任のある答を、夫人の氣に入る樣な形で與へようとすると、其答は決してさうすら/\出て來なかつた。彼に取つて最も都合の好い事で、又最も都合の惡い事は、何方《どつち》にでも自由に答へられる彼の心の状態であつた。といふのは、事實彼はお延を愛してもゐたし、又そんなに愛してもゐなかつたからである。
 夫人は愈《いよ/\》眞劍らしく構へた。さうして三度目の質問をのつぴきさせぬ調子で掛けた。
 「私《あたし》と貴方|丈《だけ》の間の秘密にして置くから正直に云つとしまひなさい。私《あたし》の聽きたいのは何でもないんです。たゞ貴方の思つた通りの所を一口伺へばそれで可《い》いんです」
 見當の立たない津田は愈《いよ/\》迷付《まごつ》いた。夫人は云つた。
 「貴方も隨分|焦慮《じれ》つたい方《かた》ね。云へる事は男らしく、さつさと云つちまつたら可《い》いでせう。そんな六づかしい事を誰も訊いてゐやしないんだから」
 津田はとう/\口を開《ひら》くべく餘儀なくされた。
 「お返事が出來ない譯でもありませんけれども、あんまり問題が漠然としてゐるものですから……」
 「ぢや仕方がないから私《あたし》の方で云ひませうか。可《よ》ござんすか」
 「何うぞさう願ひます」
 「貴方は」と云ひ掛けた夫人は此時一寸言葉を切つて又|繼《つ》いだ。
 「本當によござんすか。――あたしは斯ういふ無遠慮な性分だから、よく自分の思つたまゝをずば/\云つちまつた後《あと》で、取り返しの付かない事をしたと後悔する場合が能くあるんですが」
 「なに構ひません」
 「でも若しか、貴方に怒られると夫《それ》つ切《き》りですからね。後でいくら詫《あや》まつても追付《おつつ》かないなんて馬鹿はしたくありませんもの」
 「然し私の方で何とも思はなければそれで可《い》いでせう」
 「そこさへ確かなら無論|可《い》いのよ」
 「大丈夫です。僞《うそ》だらうが本當だらうが、奧さんの仰しやる事なら決して腹は立てませんから、遠慮なさらずに云つて下さい」
 凡《すべ》ての貴任を向ふに脊負《しよ》はせてしまふ方が遙かに樂だと考へた津田は、斯う受け合つた後で、催促するやうに夫人を見た。何度となく駄目を押して保險を付けた夫人は其時漸く口を開《ひら》いた。
 「もし間違つたら御免遊ばせよ。貴方はみんなが考へてゐる通り、腹の中ではそれ程延子さんを大事にしてゐらつしやらないでせう。秀子さんと違つて、あたしは疾《と》うからさう睨んでゐるんですが、何うです、あたしの觀測は中《あた》りませんかね」
 津田は何ともなかつた。
 「無論です。だから先刻《きつき》申し上げたぢやありませんか。そんなにお延を大事にしちやゐませんて」
 「然しそれは御挨拶に仰しやつた丈《だけ》ね」
 「いゝえ私は本當の所を云つた積《つもり》です」
 夫人は斷々乎として首肯《うけが》はなかつた。
 「胡麻化《ごまか》しつこなしよ。ぢや後《あと》を云つても可《よ》ござんすか」
 「えゝ何うぞ」
 「貴方は延子さんをそれ程大事にしてゐらつしやらない癖に、表では如何にも大事にしてゐるやうに、他《ひと》から思はれよう思はれようと掛つてゐるぢやありませんか」
 「お延がそんな事でも云つたんですか」
 「いゝえ」と夫人は切《き》つ張《ぱ》り否定した。「貴方が云つてる丈《だけ》よ。貴方の樣子なり態度なりがそれ丈《だけ》の事をちやんとあたしに解るやうにして下さる丈《だけ》よ」
 夫人は其所で一寸休んだ。それから後《あと》を付けた。
 「何うです中《あた》つたでせう。あたしは貴方が何故そんな體裁《ていさい》を作つてゐるんだか、其原因迄ちやんと知つてるんですよ」
 
     百三十六
 
 津田は今日迄斯ういふ種類の言葉をまだ夫人の口から聽いた事がなかつた。自分達夫婦の仲を、夫人が裏側から何《ど》んな眼で觀察してゐるだらうといふ問題に就いて、左程《さほど》神經を遣《つか》つてゐなかつた彼は、漸く其所に氣が付いた。そんならさうと早く注意して呉れれば可《い》いのにと思ひながら、彼は兎に角夫人の鑑定なり料簡なりを大人《おとな》しく結末迄聽くのが上分別《じやうふんべつ》だと考へた。
 「何うぞ御遠慮なく何でもみんな云つて下さい。私の向後《かうご》の心得にもなる事ですから」
 途中迄來た夫人は、たとひ津田から誘はれないでも、もう其所で止《と》まる譯に行かないので、すぐ殘りのものを津田の前に投げ出した。
 「貴方は良人《うち》や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでせう。もつと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだつて云へますよ。貴方は表向《おもてむき》延子さんを大事にする樣な風をなさるのね、内側は其《それ》程《ほど》でなくつても。左右《さう》でせう」
 津田は相手の觀察が眞逆《まさか》是程皮肉な點迄切り込んで來てゐやうとは思はなかつた。
 「私の性質なり態度なりが奧さんにさう見えますか」
 「見えますよ」
 津田は一刀《ひとかたな》で斬られたと同じ事であつた。彼は斬られた後《あと》で其理由を訊いた。
 「何うして? 何うして左右《さう》見えるんですか」
 「隱さないでも可《い》いぢやありませんか」
 「別に隱す積《つもり》でもないんですが……」
 夫人は自分の推定が十の十迄|中《あた》つたと信じて掛つた。心の中《うち》で其六|丈《だけ》を首肯《うけが》つた津田の挨拶は、自然何處かに曖昧な節《ふし》を殘さなければならなかつた。それが此場合誤解の種になるのは見易い道理であつた。夫人は何所迄も同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追ひ込んだ。
 「隱しちや駄目よ。貴方が隱すと後が云へなくなる丈《だけ》だから」
 津田は是非|其《その》後《あと》を聽きたかつた。其《その》後《あと》を聽かうとすれば、夫人の認定を一から十迄承知するより外に仕方がなかつた。夫人は「それ御覽なさい」と津田を遣り込めた後で歩を進めた。
 「貴方には天《てん》から誤解があるのよ。貴方は私《わたし》を良人《うち》と一所に見てゐるんでせう。それから良人《うち》と岡本をまた一所に見てゐるんでせう。それが大間違よ。岡本と良人《うち》を一所に見るのはまだしも、私《わたし》を良人《うち》や岡本と一所にするのは可笑《をかし》いぢやありませんか、此事件に就いて。學問をした方にも似合はないのね貴方も、そんな所へ行くと」
 津田は漸く夫人の立場を知る事が出來た。然し其立場の位置及びそれが自分に對して何《ど》んな關係になつてゐるのかまだ解らなかつた。夫人は云つた。
 「解り切つてるぢやありませんか。私《わたし》丈《だけ》は貴方と特別の關係があるんですもの」
 特別の關係といふ言葉のうちに、何《ど》んな内容が盛られてゐるか、津田には能く解つた。然しそれは目下の問題ではなかつた。何故《なぜ》と云へば、其特別な關係を能く呑み込んでゐればこそ、今日《こんにち》迄《まで》の自分の行動にも、それ相當な一種の色と調子を與へて來た積《つもり》だと彼は信じてゐたのだから。此特別な關係が夫人を何う支配してゐるか、そこをもつと明らかに突き留めた所に、新らしい問題は始めて起るのだと氣が付いた彼は、たゞ自分の誤解を認める丈《だけ》では濟まされなかつた。
 夫人は一口に云ひ拂つた。
 「私《わたし》は貴方の同情者よ」
 津田は答へた。
 「それは今迄ついぞ疑《うたぐ》つて見た例《ためし》もありません。私は信じ切つてゐます。さうして其點で深くあなたに感謝してゐるものです。然し何ういふ意味で? 何ういふ意味で同情者になつて下さる積《つもり》なんですか、此場合。私は迂潤《うくわつ》ものだから奧さんの意味が能く呑み込めません。だからもつと判然《はつき》り話して下さい」
 「此場合に同情者として私《わたし》が貴方にして上げる事がたゞ一つあると思ふんです。然し貴方は多分――」
 夫人は是《これ》丈《だけ》云つて津田の顔を見た。津田はまた焦《じ》らされるのかと思つた。然しさうでないと斷言した夫人の問は急に變つた。
 「私《わたし》の云ふ事を聽きますか、聽きませんか」
 津田にはまだ常識が殘つてゐた。彼は此所へ押し詰められた何人《なんぴと》も考へなければならない事を考へた。然し考へた通りを夫人の前で公然明言する勇氣はなかつた。勢ひ彼の態度は煮え切らないものであつた。聽くとも聽かないとも云ひかねた彼は躊躇した。
 「まあ云つて見て下さい」
 「まあぢや不可《いけま》せん。あなたがもつと判切《はつきり》しなくつちや、私《わたし》だつて云ふ氣にはなれません」
 「だけれども――」
 「だけれどもでも駄目よ。聽きますと男らしく云はなくつちや」
 
     百三十七
 
 何《ど》んな注文が夫人の口から出るか見當の付かない津田は、ひそかに恐れた。受け合つた後で撤回しなければならないやうな窮地に陷《おち》いればそれぎりであつた。彼は其場合の夫人を想像して見た。地位から云つても、性質から見ても、また彼に對する特別な關係から判斷しても、夫人は決して彼を赦《ゆる》す人ではなかつた。永久夫人の前に赦《ゆる》されない彼は、恰《あたか》も蘇生の活手段を奪はれた假死の形骸と一般であつた。用心深い彼は生還の望の確《しか》としない危地に入《はい》り込《こ》む勇氣を有《も》たなかつた。
 其上普通の人と違つて夫人は何《ど》んな難題を持ち出すか解らなかつた。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴れた彼女の眼には、殆んど自分の無理といふものが映らなかつた。云へば大抵の事は通つた。たまに通らなければ、意地で通す丈《だけ》であつた。ことに困るのは、自分の動機を明瞭に解剖して見る必要に逼《せま》られない彼女の餘裕であつた。餘裕といふよりも寧ろ放慢な心の持方であつた。他《ひと》の世話を燒く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の發現で、其外に何の私もないものと、天《てん》から極めて掛る彼女に、不安の來《く》る筈はなかつた。自分の批判は殆んど當初から働らかないし、他《ひと》の批判は耳へ入《はい》らず、また耳へ入れやうとするものもないとなると、此所へ落ちて來るのは自然の結果でもあつた。
 夫人の前に押し詰められた時、津田の胸に、是《これ》丈《だけ》の考へが蜿蜒《うねく》り廻つたので、埒《らち》は益《ます/\》開《あ》かなかつた。彼の樣子を見た夫人は、遂に笑ひ出した。
 「何をそんなに六づかしく考へてるんです。大方|私《わたし》が又無理でも云ひ出すんだと思つてるんでせう。なんぼ私《わたし》だつて貴方に出來つこないやうな不法は考へやしませんよ。あなたが遣《や》らうとさへ思へば、譯なく出來る事なんです。さうして結果は貴方の得《とく》になる丈《だけ》なんです」
 「そんなに雜作《ざふさ》なく出來るんですか」
 「えゝまあ笑談《ぜうだん》見たいなものです。ごくごく大袈裟に云つた所で、面白半分の惡戯《いたづら》よ。だから思ひ切つて遣《や》ると仰しやい」
 津田には凡《すべ》てが謎《なぞ》であつた。けれども高が惡戯《いたづら》ならといふ氣が漸く彼の腹に起つた。彼は遂に決心した。
 「何だか知らないがまあ遣《や》つて見ませう。話して見て下さい」
 然し夫人はすぐ其|惡戯《いたづら》の性質を説明しなかつた。津田の保證を※[手偏+國]《つか》んだ後《あと》で、また話題を變へた。所がそれは、あらゆる意味で惡戯《いたづら》とは全く懸け離れたものであつた。少くとも津田には重大な關係を有《も》つてゐた。
 夫人は下《しも》のやうな言葉で、まづそれを二人の間に紹介した。
 「貴方は其後|清子《きよこ》さんにお會ひになつて」
 「いゝえ」
 津田の少し吃驚《ぴつくり》したのは、たゞ問題の唐突《たうとつ》な許《ばかり》ではなかつた。不意に自分を振り棄てた女の名が、逃がした責任を半分|背負《しよ》つてゐる夫人の口から急に洩れたからである。夫人は語を繼《つ》いだ。
 「ぢや今何うしてゐらつしやるか、御存知ないでせう」
 「丸《まる》で知りません」
 「丸《まる》で知らなくつて可《い》いの」
 「可《よ》くないつたつて仕方がないぢやありませんか。もう餘所《よそ》へ嫁に行つてしまつたんだから」
 「清子さんの結婚の御披露《ごひろう》の時に貴方はお出《いで》になつたんでしたかね」
 「行きません。行かうたつて一寸|行《い》き惡《にく》いですからね」
 「招待状は來たの」
 「招待状は來ました」
 「貴方の結婚の御披露の時に、清子さんは入らつしやらなかつたやうね」
 「えゝ來《き》やしません」
 「招待状は出したの」
 「招待状|丈《だけ》は出しました」
 「ぢやそれつ切《きり》なのね、兩方共」
 「無論それつ切《きり》です。もしそれつ切《きり》でなかつたら問題ですもの」
 「さうね。然し問題にも寄り切りでせう」
 津田には夫人の云ふ意味が能く解らなかつた。夫人はそれを説明する前に又外の道へ移つた。
 「一體延子さんは清子さんの事を知つてるの」
 津田は塞《つか》へた。小林を研究し盡した上でなければ確《しか》とした返事は與へられなかつた。夫人は再び訊き直した。
 「貴方が自分で話した事はなくつて」
 「ありやしません」
 「ぢや延子さんは丸《まる》で知らずにゐるのね、あの事を」
 「えゝ、少くとも私からは何にも聽かされちやゐません」
 「さう。ぢや全く無邪氣なのね。それとも少しは癇付《かんづ》いてゐる所があるの」
 「さうですね」
 津田は考へざるを得なかつた。考へても斷案は控へざるを得なかつた。
 
     百三十八
 
 話してゐるうちに、津田は又思ひ掛けない相手の心理に突き當つた。今迄清子の事をお延に知らせないで置く方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釋して疑はなかつた彼は、此時始めて氣が付いた。夫人は何う考へてもお延にそれを氣《け》どつてゐて貰ひたいらしかつたからである。
 「大抵の見當は付きさうなものですがね」と夫人は云つた。津田はお延の性質を知つてゐる丈《だけ》に猶《なほ》答《こた》へ惡《にく》くなつた。
 「其所が分らないと不可《いけな》いんですか」
 「えゝ」
 津田は何故《なぜ》だか知らなかつた。けれども答へた。
 「もし必要なら話しても好ござんすが……」
 夫人は笑ひ出した。
 「今更貴方がそんな事をしちや打《ぶ》ち壞《こは》しよ。貴方は仕舞迄知らん顔をしてゐなくつちや」
 夫人は是《これ》丈《だけ》云つて、言葉に區切《くぎり》を付けた後で、新たに出直した。
 「私《わたし》の判斷を云ひませうか。延子さんはあゝいふ怜俐《りこう》な方《かた》だから、もう屹度《きつと》感づいてゐるに違ないと思ふのよ。何、みんな判る筈もないし、又みんな判つちや此方《こつち》が困るんです。判つたやうで又判らないやうなのが、丁度持つて來いといふ一番結構な頃合《ころあひ》なんですからね。そこで私《わたし》の鑑定から云ふと、今の延子さんは、都合よく私《わたし》のお誂《あつら》へ通《どほ》りの所にゐらつしやるに違ないのよ」
 津田は「左右《さう》ですか」といふより外に仕方がなかつた。然しさういふ結論を夫人に與へる材料は殆んどなからうにと、腹の中では思つた。然るに夫人はあると云ひ出した。
 「でなければ、あゝ虚勢を張る譯がありませんもの」
 お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてゞあつた。此二字の前に怪訝《けげん》な思ひをしなければならなかつた津田は、一方から見て、また其皮肉を第一に首肯《うけが》はなければならない人であつた。それにも拘はらず彼は躊躇なしに應諾を與へる事が出來なかつた。夫人はまた事もなげに笑つた。
 「なに構はないのよ。萬一全く氣が付かずにゐるやうなら、其時は又其時で此方《こつち》にいくらでも手があるんだから」
 津田は黙つて其《その》後《あと》を待つた。すると後《あと》は出ずに、急に清子の方へ話が逆轉して來た。
 「貴方は清子さんにまだ未練がおありでせう」
 「ありません」
 「ちつとも?」
 「ちつともありません」
 「それが男の嘘といふものです」
 嘘を云ふ積《つもり》でもなかつた津田は、全然本當を云つてゐるのでもないといふ事に氣が付いた。
 「是でも未練があるやうに見えますか」
 「そりや見えないわ、貴方」
 「ぢや何うしてさう鑑定なさるんです」
 「だからよ。見えないからさう鑑定するのよ」
 夫人の論議《ロジツク》は普通のそれと丸《まる》で反對であつた。と云つて、支離滅裂は何處にも含まれてゐなかつた。彼女は得意にそれを引き延ばした。
 「外《ほか》の人には外側も内側も同《おん》なじとしか見えないでせう。然し私《わたし》には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込《ひつこ》んでゐるとしか考へられませんもの」
 「奧さんは初手《しよて》から私に未練があるものとして、極めて掛つてゐらつしやるから、さう仰しやるんでせう」
 「極めて掛るのに何處に無理がありますか」
 「さう勝手に認定されてしまつちや堪《たま》りません」
 「私《わたし》がいつ勝手に認定しました。私《わたし》のは認定ぢやありませんよ。事實ですよ。貴方と私《わたし》丈《だけ》に知れてゐる事實を云ふのですよ。事實ですもの、それをちやんと知つてる私《わたし》に隱せる譯がないぢやありませんか、いくら外の人を騙《だま》す事が出來たつて。それもあなた丈《だけ》の事實ならまだしも、二人に共通な事實なんだから、兩方で相談の上、何處かへ埋《う》めちまはないうちは、記憶のある限り、消えつこないでせう」
 「ぢや相談づくで此所で埋《う》めちや何うです」
 「何故|埋《う》めるんです。埋《う》める必要が何處かにあるんですか。それより何故それを活かして使はないんです」
 「活かして使ふ? 私は是でもまだ罪惡には近寄りたくありません」
 「罪惡とは何です。そんな手荒《てあら》な事《こと》をしろと私《わたし》が何時《いつ》云ひました」
 「然し……」
 「貴方はまだ私《わたし》の云ふ事を仕舞迄聽かないぢやありませんか」
 津田の眼は好奇心をもつて輝やいた。
 
     百三十九
 
 夫人はもう未練のある證據を眼の前に突き付けて津田を抑へたと同じ事であつた。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合《しあひ》に一段落を付けたやうに夫人を強くした。けれども彼女は津田が最初に考へた程此點に於て獨斷的な暴君ではなかつた。彼女は思つたより細緻《さいち》な注意を拂つて、津田の心理状態を觀察してゐるらしかつた。彼女は其|實券《じつけん》を、一旦勝つた後《あと》で彼に示した。
 「たゞ未練々々つて、雲を※[手偏+國]《つか》むやうな騷ぎを遣《や》るんぢやありませんよ。私《わたし》には私《わたし》で又ちやんと握つてる所があるんですからね。是でも貴方の未練を斯《こ》んなものだといつて他《ひと》に説明する事が出來る積《つもり》でゐるんですよ」
 津田には何が何だか薩張《さつぱり》譯が解らなかつた。
 「一寸説明して見て下さいませんか」
 「お望みなら説明しても可《よ》ござんす。けれどもさうすると詰り貴方を説明する事になるんですよ」
 「えゝ構ひません」
 夫人は笑ひ出した。
 「さう他《ひと》の云ふ事が通じなくつちや困るのね。現在自分がちやんと其所に控へてゐながら、其自分が解らないで、他《ひと》に説明して貰ふなんてえのは馬鹿氣《ばかげ》てゐるぢやありませんか」
 果して夫人の云ふ通りなら馬鹿氣てゐるに違なかつた。津田は首を傾けた。
 「然し解りませんよ」
 「いゝえ解つてるのよ」
 「ぢや氣が付かないんでせう」
 「いゝえ氣も付いてゐるのよ」
 「ぢや何うしたんでせう。――つまり私が隱してゐる事にでも歸着するんですか」
 「まあ左右《さう》よ」
 津田は投げ出した。此所迄追ひ詰められながら、まだ隱《かく》し立《だて》をしようとは流石《さすが》の自分にも道理と思へなかつた。
 「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、何うぞ説明して下さい」
 夫人は微《かす》かに溜息を吐《つ》いた。
 「あゝあゝ張合《はりあひ》がないのね、それぢや。折角|私《わたし》が丹精《たんせい》して拵へて來て上げたのに、肝心の貴方がそれぢや、丸《まる》で無駄骨を折つたと同然ね。一層《いつそ》何にも話さずに歸らうか知ら」
 津田は迷宮《メーズ》に引き込まれる丈《だけ》であつた。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後《あと》を追懸《おつか》けなければならなかつた。其所には自分の好奇心が強く働いた。夫人に對する義理と氣兼《きがね》も、決して輕い因子ではなかつた。彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促がした。
 「ぢや云ひませう」と最後に應じた時の夫人の樣子は寧ろ得意であつた。「其代り訊きますよ」と斷つた彼女は、果して劈頭《へきとう》に津田の毒氣《どくき》を拔いた。
 「貴方は何故清子さんと結婚なさらなかつたんです」
 問は不意に來た。津田は俄かに息塞《いきづま》つた。黙つてゐる彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
 「ぢや質問を易へませう。――清子さんは何故貴方と結婚なさらなかつたんです」
 今度は津田が響の聲に應ずる如くに答へた。
 「何故だか些《ちつ》とも解らないんです。たゞ不思議なんです。いくら考へても何にも出て來ないんです」
 「突然|關《せき》さんへ行つちまつたのね」
 「えゝ、突然。本當を云ふと、突然なんてものは疾《とつく》の昔《むかし》に通り越してゐましたね。あつと云つて後《うしろ》を向いたら、もう結婚してゐたんです」
 「誰があつと云つたの」
 此質問程津田に取つて無意味なものはなかつた。誰があつと云はうと餘計なお世話としか彼には見えなかつた。然るに夫人は其所へ留まつて動かなかつた。
 「あなたがあつと云つたんですか。清子さんがあつと云つたんですか。或は兩方であつと云つたんですか」
 「さあ」
 津田は已《や》むなく考へさせられた。夫人は彼より先へ出た。
 「清子さんの方は平氣だつたんぢやありませんか」
 「さあ」
 「さあぢや仕方がないわ、貴方。貴方には何う見えたのよ、其時の清子さんが。平氣には見えなかつたの」
 「何うも平氣のやうでした」
 夫人は輕蔑の眼を彼の上に向けた。
 「隨分氣樂ね、貴方も。清子さんの方が平氣だつたから、貴方があつと云はせられたんぢやありませんか」
 「或は左右《さう》かも知れません」
 「そんなら其時のあつ〔二字傍点〕の始末は何う付ける氣なの」
 「別に付けようがないんです」
 「付けようがないけれども、實は付けたいんでせう」
 「えゝ。だから色々考へたんです」
 「考へて解つたの」
 「解らないんです。考へれば考へる程解らなくなる丈《だけ》なんです」
 「それだから考へるのはもう已《や》めちまつたの」
 「いゝえ矢張《やつぱ》り已《や》められないんです」
 「ぢや今でもまだ考へてるのね」
 「さうです」
 「それ御覽なさい。それが貴方の未練ぢやありませんか」
 夫人はとう/\津田を自分の思ふ所へ押し込めた。
 
     百四十
 
 準備は略《ほゞ》出來上つた。要點はそろ/\津田の前に展開されなければならなかつた。夫人は機を見て次第に其所へ入《はい》つて行つた。
 「そんならもつと男らしくしちや何うです」といふ漠然たる言葉が、最初に夫人の口を出た。其時津田は又かと思つた。先刻《さつき》から「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいふ文句を聽かされる度に、彼は心の中で暗《あん》に夫人を冷笑した。夫人の男らしいといふ意味は果して何處にあるのだらうと疑ぐつた。批判的な眼を拭《ぬぐ》つて見る迄もなく、彼女は自分の都合ばかりを考へて、津田を遣《や》り込《こ》めるために、勝手な所へ矢鱈《やたら》に此言葉を使ふとしか解釋出來なかつた。彼は苦笑しながら訊いた。
 「男らしくするとは? ――何うすれば男らしくなれるんですか」
 「貴方の未練を晴らす丈《だけ》でさあね。分り切つてるぢやありませんか」
 「何うして」
 「全體何うしたら晴らされると思つてるんです、貴方は」
 「そりや私には解りません」
 夫人は急に勢《きほ》ひ込《こ》んだ。
 「貴方は馬鹿ね。その位の事が解らないで何うするんです。會つて訊く丈《だけ》ぢやありませんか」
 津田は返事が出來なかつた。會ふのがそれ程必要にした所で、何《ど》んな方法で何處で何うして會ふのか。その方が先決問題でなければならなかつた。
 「だから私《わたし》が今日わざ/\此所へ來たんぢやありませんか」と夫人が云つた時、津田は思はず彼女の顔を見た。
 「實は疾《と》うから、貴方の料簡をよく伺つて見たいと思つてた所へね、今朝お秀さんがあの事で來たたんだから、それで丁度好い機會だと思つて出て來たやうな譯なんですがね」
 腹に支度の整はない津田の頭はたゞ迷兒《まご》/\する丈《だけ》であつた。夫人はそれを見澄《みすま》して斯ういつた。
 「誤解しちや不可《いけま》せんよ。私《わたし》は私《わたし》、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて來たからつて、屹度《きつと》あの方《かた》の肩ばかり持つとは限らない位は、貴方にだつて解るでせう。先刻《さつき》も云つた通り、私《わたし》は是でも貴方の同情者ですよ」
 「えゝそりや能く心得てゐます」
 此所で問答に一區切《ひとくぎり》を付けた夫人は、時を移さず要點に達する第二の段落に這入り込んで行つた。
 「清子さんが今何處にゐらつしやるか、貴方知つてらつしつて」
 「關の所にゐるぢやありませんか」
 「そりや不斷の話よ。私《わたし》のいふのは今の事よ。今何處にゐらつしやるかつていふのよ。東京か東京でないか」
 「存じません」
 「中《あ》てゝ御覽なさい」
 津田は中《あて》つ子《こ》をしたつて詰らないといふ風をして黙つてゐた。すると思ひ掛けない場所の名前が突然夫人の口から點出された。一日掛りで東京から行かれる可なり有名な其温泉場の記憶は、津田に取つても夫《それ》程《ほど》舊いものではなかつた。急に其《その》邊《あたり》の景色《けしき》を思ひ出した彼は、たゞ「へえゝ」と云つたぎり、後をいふ智惠が出なかつた。
 夫人は津田のために親切な説明を加へて呉れた。彼女の云ふ所によると、目的の人は靜養のため、當分其所に逗留してゐるのであつた。夫人は何で靜養が其人に必要であるかをさへ知つてゐた。流産後の身體を回復するのが主眼だと云つて聽かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。津田は腹の中《なか》で畧《ほゞ》其微笑を解釋し得たやうな氣がした。けれどもそんな事は、夫人に取つても彼に取つても、目前の問題ではなかつた。一口の批評を加へる氣にもならなかつた彼は、黙つて夫人の聽き手になる積《つもり》で大人《おとな》しくしてゐた。同時に夫人は第三の段落に飛び移つた。
 「貴方も入らつしやいな」
 津田の心は此言葉を聽く前から既に搖《うご》いてゐた。然し行かうといふ決心は、此言葉を聽いた後《あと》でも付かなかつた。夫人は一煽《ひとあふ》りに煽《あふ》つた。
 「入らつしやいよ。行つたつて誰の迷惑になる事でもないぢやありませんか。行つて澄ましてゐれば夫《それ》迄《まで》でせう」
 「それは左右《さう》です」
 「貴方は貴方で始めつから獨立なんだから構つた事はないのよ。遠慮だの氣兼《きがね》だのつて、なまじ餘計なものを荷にし出すと、事が面倒になる丈《だけ》ですわ。それに貴方の病氣には、此所を出た後で、あゝいふ所へ一寸行つて來る方が可《い》いんです。私《わたし》に云はせれば、病氣の方|丈《だけ》でも行く必要は充分あると思ふんです。だから是非入らつしやい。行つて天然自然來たやうな顔をして澄ましてゐるんです。さうして男らしく未練の片《かた》を付《つ》けて來るんです」
 夫人は旅費さへ出して遣《や》ると云つて津田を促《うな》がした。
 
     百四十一
 
 旅費を貰つて、勤向《つとめむき》の都合を付けて貰つて、病後の身體《からだ》を心持の好い温泉場で靜養するのは、誰に取つても望ましい事に違なかつた。ことに自己の快樂を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多《めつた》にない誂《あつら》へ向《む》きの機會であつた。彼に云はせると、見す/\それを取《と》り外《はづ》すのは愚の極であつた。然し此場合に附帶してゐる一種の條件は決して尋常のものではなかつた。彼は顧慮した。
 彼を引き留める心理作用の性質は一目瞭然《いちもくれうぜん》であつた。けれども彼は其働きの顯著な力に氣が付いてゐる丈《だけ》で、其意味を返照《へんせう》する遑《いとま》がなかつた。此點に於ても夫人の方が、彼自身よりも却つて確《しつ》かりした心理の觀察者であつた。二つ返事で斷行を誓ふと思つた津田の何處か澁つてゐる樣子を見た夫人は斯う云つた。
 「貴方《あなた》は内心行きたがつてる癖に、もぢ/\してゐらつしやるのね。それが私《わたし》に云はせると、男らしくない貴方の一番惡い所なんですよ」
 男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答へた。
 「左右《さう》かも知れませんけれども、少し考へて見ないと……」
 「其考へる癖が貴方の人格に祟《たゝ》つて來るんです」
 津田は「へえ?」と云つて驚ろいた。夫人は澄ましたものであつた。
 「女は考へやしませんよ。そんな時に」
 「ぢや考へる私は男らしい譯ぢやありませんか」
 此答へを聽いた時、夫人の態度が急に嶮《けは》しくなつた。
 「そんな生意氣《なまいき》な口應《くちごた》へをするもんぢやありません。言葉|丈《だけ》で他《ひと》を遣《や》り込《こ》めれば何處が何うしたといふんです、馬鹿らしい。貴方は學校へ行つたり學問をしたりした方《かた》の癖に、丸《まる》で自分が見えないんだからお氣の毒よ。だから畢竟《ひつきやう》清子さんに逃げられちまつたんです」
 津田は又「えツ?」と云つた。夫人は構はなかつた。
 「貴方に分らなければ、私《わたし》が云つて聽かせて上げます。貴方が何故行きたがらないか、私《わたし》にはちやんと分つてるんです。貴方は臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」
 「左右《さう》ぢやありません。私は……」
 「お待ちなさい。――貴方は勇氣はあるといふ氣なんでせう。然し出るのは見識《けんしき》に拘《かゝ》はるといふんでせう。私《わたし》から云へば、さう見識ばるのが取りも直さず貴方の臆病な所なんですよ、好《よ》ござんすか。何故と云つて御覽なさい。そんな見識はたゞの見榮《みえ》ぢやありませんか。能く云つた所で、上《うは》つ面《つら》の體裁《ていさい》ぢやありませんか。世間に對する手前と氣兼《きがね》を引いたら後に何が殘るんです。花嫁さんが誰も何とも云はないのに、自分で極りを惡くして、三度の御飯を控へるのと同《おん》なじ事よ」
 津田は呆氣《あつけ》に取られた。夫人の小言《こごと》はまだ續いた。
 「つまり色氣が多過ぎるから、そんな入らざる所に我《が》を立てゝ見たくなるんでせう。さうしてそれが貴方の己惚《おのぼれ》に生れ變つて變な所へ出て來るんです」
 津田は仕方なしに黙つてゐた。夫人は容赦なく一歩進んで其|己惚《おのぼれ》を説明した。
 「貴方は何時《いつ》迄《まで》も品《ひん》よく黙つてゐようといふんです。ぢつと動かずに濟まさうとなさるんです。それでゐて内心ではあの事が始終苦になるんです。そこをもう少し押して御覽なさいな。おれが斯うしてゐるうちには、今に清子の方から何か説明して來るだらう來るだらうと思つて――」
 「そんな事を思つてるもんですか、なんぼ私だつて」
 「いえ、思つてゐるのと同《おん》なじだといふのです。實際何處にも變りがなければ、さう云はれたつて仕樣《しやう》がないぢやありませんか」
 津田にはもう反抗する勇氣がなかつた。機敏な夫人は其所へ付け込んだ。
 「一體貴方は圖迂々々《づう/\》しい性質《たち》ぢやありませんか。さうして圖迂々々《づう/\》しいのも世渡りの上ぢや一コ《いつとく》だ位に考へてゐるんです」
 「まさか」
 「いえ、左右《さう》です。其所がまだ私《わたし》に解らないと思つたら、大間違です。好いぢやありませんか、圖迂々々《づう/\》しいで、私《わたし》は圖迂々々《づう/\》しいのが好きなんだから。だから此所で持前の圖迂々々《づう/\》しい所を男らしく充分發揮なさいな。そのために私《わたし》が折角骨を折つて拵へて來たんだから」
 「圖迂々々《づう/\》しさの活用ですか」と云つた津田は言葉を改めた。
 「あの人は一人で行つてるんですか」
 「無論一人です」
 「關は?」
 「關さんは此方《こつち》よ。此方《こつち》に用があるんですもの」
 津田は漸く行く事に覺悟を極《き》めた。
 
     百四十二
 
 然し夫人と津田の間には結末の付かないまだ一つの問題が殘つてゐた。二人は其所を振り返らないで話を切り上げる譯に行かなかつた。夫人が踵《きびす》を回《めぐ》らさないうちに、津田は歸つた。
 「それで私が行くとしたら、何うなるんです、先刻《さつき》仰しやつた事は」
 「其所《そこ》です。其所《そこ》を今云はうと思つてゐたのよ。私《わたし》に云はせると、是程好い療治はないんですがね。何うでせう、貴方のお考へは」
 津田は答へなかつた。夫人は念を押した。
 「解つたでせう。後《あと》は云はなくつても」
 夫人の意味は説明を待たないでも畧《ほゞ》津田に呑み込めた。然しそれを何《ど》んな風にして、お延の上に影響させる積《つもり》なのか、其所へ行くと彼には確《しか》とした觀念がなかつた。夫人は笑ひ出した。
 「貴方は知らん顔をしてゐれば可《い》いんですよ。後《あと》は私《わたし》の方で遣《や》るから」
 「左右《さう》ですか」と答へた津田の頭には疑惑があつた。後《あと》を擧げて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委《ゆだ》ねると同じ事であつた。多少夫人の手腕を恐れてゐる彼は危ぶんだ。何をされるか解らないといふ掛念《けねん》に制せられた。
 「お任せしても可《い》いんですが、手段や方法が解つてゐるなら伺つて置く方が便利かと思ひます」
 「そんな事は貴方が知らないでも可《い》いのよ。まあ見て入らつしやい、私《わたし》がお延さんをもつと奧さんらしい奧さんに屹度《きつと》育て上げて見せるから」
 津田の眼に映《うつ》るお延は無論不完全であつた。けれども彼の氣に入らない缺點が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかつた。それをちやんぽんに混同してゐるらしい夫人は、少くとも自分に都合の可《い》いお延を鍛へ上げる事が、即ち津田のために最も適當な細君を作り出す所以《ゆゑん》だと誤解してゐるらしかつた。それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入つて、其|眞底《しんそこ》を探ると、飛んでもない結論になるかも知れなかつた。彼女はたゞお延を好かないために、ある手段を拵へて、相手を苛《いぢ》めに掛るのかも分らなかつた。氣に喰はない丈《だけ》の根據で、敵を打ち懲らす方法を講じてゐるのかも分らなかつた。幸に自分で其所を認めなければならない程に世間からも己《おの》れからも反省を強ひられてゐない境遇にある彼女は、氣樂であつた。お延の教育。――斯ういふ言葉が臆面なく彼女の口を洩れた。夫人とお延の間柄を、内面から看破《みやぶ》る機會に出會つた事のない津田には又其言葉を疑ふ資格がなかつた。彼は大體の上で夫人の實意を信じて掛つた。然し實意の作用に至ると、勢ひ危惧《きぐ》の念が伴なはざるを得なかつた。
 「心配する事があるもんですか。細工はりう/\仕上を御覽《ごら》うじろつて云ふぢやありませんか」
 いくら津田が訊いても詳しい話しをしなかつた夫人は、斯《こ》んな高《たか》を括《くゝ》つた挨拶をした後で、教へるやうに津田に云つた。
 「あの方《かた》は少し己惚《おのぼ》れ過《す》ぎてる所があるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部《うはべ》は大變鄭寧で、お腹《なか》の中《なか》は確《しつ》かりし過ぎる位|確《しつ》かりしてゐるんだから。それに利巧だから外《そと》へは出さないけれども、あれで中々|慢氣《まんき》が多いのよ。だからそんなものを皆《み》んな取つちまはなくつちや……」
 夫人が無遠慮な評をお延に加へてゐる最中に、階子段《はしごだん》の中途で足を止《と》めた看護婦の聲が二人の耳に入《はい》つた。
 「吉川の奧さんへ堀さんと仰《おつし》やる方から電話で御座います」
 夫人は「はい」と應じてすぐ立つたが、敷居の所で津田を顧みた。
 「何の用でせう」
 津田にも解らなかつた其用を足すために下へ降りて行つた夫人は、すぐ又上つて來ていきなり云つた。
 「大變大變」
 「何が? 何うかしたんですか」
 夫人は笑ひながら落付いて答へた。
 「秀子さんがわざ/\注意して呉れたの」
 「何をです」
 「今迄延子さんが秀子さんの所へ來て話してゐたんですつて。歸りに病院の方へ廻るかも知れないから、一寸お知らせするつて云ふのよ。今秀子さんの門を出た許《ばかり》の所だつて。――まあ好かつた。惡口でも云つてる所へ來られやうもんなら、大耻《おほはぢ》を掻かなくつちやならない」
 一旦坐つた夫人は、間もなくまた立つた。
 「ぢや私《わたし》はもうお暇《いとま》にしますからね」
 斯《こ》んな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女に取つても極りが好くないらしかつた。
 「入らつしやらないうちに、早く退却しませう。何うぞよろしく」
 一言《ひとこと》の挨拶を彼女に殘したまゝ、夫人はついに病室を出た。
 
     百四十三
 
 此時お延の足は既に病院に向つて動いてゐた。
 堀の宅《うち》から醫者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、其所に丁字形《ていじけい》を描《ゑが》いてゐる大きな徃來を又一つ向ふへ越さなければならなかつた。彼女が此曲り角へ掛つた時、北から來た一台の電車が丁度彼女の前、方角から云へば少し筋違《すぢかひ》の所で留つた。何氣なく首を上げた彼女は見るともなしに此所側《こちらがは》の窓を見た。すると窓硝子を通して映《うつ》る乘客の中に一人の女がゐた。位地の關係から、お延はたゞ其女の横顔の半分|若《もし》くは三分一を見た丈《だけ》であつたが、見た丈《だけ》ですぐはつと思つた。吉川夫人ぢやないかといふ氣が忽ち彼女の頭を刺戟したからである。
 電車はぢきに動き出した。お延は自分の物色に滿足な時間を與へずに走り去つた其|後影《うしろかげ》を少時《しばらく》見送つたあとで、通りを東側へ横切つた。
 彼女の歩く徃來はもう横町|丈《だけ》であつた。其邊の地理に詳しい彼女は、幾何《いくつ》かの小路《こうぢ》を右へ折れたり左へ曲つたりして、一番近い道をはやく病院へ行き着く積《つもり》であつた。けれども電車に會つた後《あと》の彼女の足は急に重くなつた。距離にすればもう二三丁といふ所迄來た時、彼女は病院へ寄らずに、一旦|宅《うち》へ歸らうかと思ひ出した。
 彼女の心は堀の門を出た折から既に重かつた。彼女は無暗にお秀を突ツ付いて、却つて遣《や》り損《そく》なつた不快を胸に包んでゐた。そこには大事を明らさまに握る事が出來ずに、裏からわざ/\匂はせられた羽痒《はが》ゆさがあつた。なまじいそれを嗅ぎ付けた不安の色も、前よりは一層濃く染め付けられた丈《だけ》であつた。何よりも先だつのは、此方《こつち》の弱點を見拔かれて、逆《さかさ》まに相手から翻弄されはしなかつたかといふ疑惑であつた。
 お延はそれ以上にまだ敏《さと》い氣を遠くの方迄廻してゐた。彼女は自分に對して仕組まれた謀計《はかりごと》が、内密に何處かで進行してゐるらしいと迄|癇付《かんづ》いた。主謀者は誰にしろ、お秀が其一人である事は確であつた。吉川夫人が關係してゐるのも明かに推測された。――斯う考へた彼女は急に心細くなつた。知らないうちに重圖《ぢゆうゐ》のうちに自分を見出《みいだ》した孤軍《こぐん》のやうな心境が、遠くから彼女を襲つて來た。彼女は周圍《あたり》を見廻した。然し其所には夫《をつと》を除いて依《たよ》りになるものは一人もゐなかつた。彼女は何を置いてもまづ津田に走らなければならなかつた。其津田を疑ぐつてゐる彼女にも、まだ信力は殘つてゐた。如何な事があらうとも、夫《をつと》丈《だけ》は共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
 その心理作用が今喰ひ留められなければならなくなつた時、通りで會つた電車の影をお延は腹の底から呪《のろ》つた。もし車中の人が吉川夫人であつたとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行つたとすれば、もし見舞に行つた序《ついで》に、――。如何に怜俐《りこう》なお延にも考へる自由の與へられてゐない其《その》後《あと》は容易に出て來なかつた。けれども結果は一つであつた。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移つた。彼女は何がなしに、此三人を巴《ともゑ》のやうに眺め始めた。
 「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電氣を通はせ合つてゐるかも知れない」
 今迄避難場の積《つもり》で夫《をつと》の所へ駈け込まうとばかり思つてゐた彼女は考へざるを得なかつた。
 「此分ぢや、たゞ行つたつて不可《いけな》い。行つて何うしよう」
 彼女は何うしようといふ分別なしに歩いて來た事に氣が付いた。すると何《ど》んな態度で、何んな風に津田に會ふのが、此場合最も有效だらうといふ問題が、左《さ》も重要らしく彼女に見え出して來た。夫婦の癖に、そんな餘所行《よそいき》の支度なんぞして何になるといふ非難を何處にも聽かなかつたので、一旦|宅《うち》へ歸つて、能く氣を落ち付けて、それから又出直すのが一番の上策だと思《おも》ひ極《きは》めた彼女は、遂にもう五六分で病院へ行き着かうといふ小路《こうぢ》の中程から取つて返した。さうして柳の木の植《うわ》つてゐる大通りから賑やかな往來迄歩いてすぐ電車へ乘つた。
 
     百四十四
 
 お延は日のとぼ/\頃に宅《うち》へ歸つた。電車から降りて一丁程の所を、身に染《し》みるやうな夕暮の靄に包まれた後《あと》の彼女には、何よりも火鉢の傍《はた》が戀しかつた。彼女はコートを脱ぐなりまづ其所へ坐つて手を翳《かざ》した。
 然し彼女には殆んど一分の休憩時間も與へられなかつた。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取つた。手紙の文句は固《もと》より簡單であつた。彼女は封を切る手數《てすう》と殆んど同じ時間で、それを讀み下す事が出來た。けれども讀んだ後《あと》の彼女は、もう讀む前の彼女ではなかつた。僅か三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持つて歸つた氣分に火を點《つ》けた其書翰の前に彼女の心は躍つた。
 「今日病院へ來て不可《いけな》いといふ意味は何處にあるだらう」
 それでなくつても、もう一遍出直す筈であつた彼女は、時間に關《かま》ふ餘裕さへなかつた。彼女は台所から膳を運んで來たお時を驚ろかしで、すぐ立ち上がつた。
 「御飯は歸つてからにするよ」
 彼女は今脱いだばかりのコートを又羽織つて、門を出た。然し電車通り迄歩いて來た時、彼女の足は、又|小路《こうぢ》の角で留まつた。彼女は何故《なぜ》だか病院へ行くに堪《た》へないやうな氣がした。此樣子では行つた所で、役に立たないといふ思慮が不意に彼女に働らき掛けた。
 「夫《をつと》の性質では、とても卒直に此手紙の意味さへ説明しては呉れまい」
 彼女は心細くなつて、自分の前を右へ行つたり左へ行つたりする電車を眺めてゐた。其電車を右へ利用すれば病院で、左へ乘れば岡本の宅《うち》であつた。いつそ當初の計畫をやめて、叔父の所へでも行かうかと考へ付いた彼女は、考へ付くや否や、すぐ其方面に横《よこた》はる困難をも想像した。岡本へ行つて相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかつた。今迄隱してゐた夫婦關係の奧底を、曝《さら》け出《だ》さなければ、一歩も前へ出る譯には行かなかつた。叔父と叔母の前に、自分の眼が利かなかつた自白を綺麗にしなければならなかつた。お延はまだそれ程の耻を忍ぶ迄に事件は逼《せま》つてゐないと考へた。復活の見込が充分立たないのに、醉興で自分の虚榮心を打ち殺すやうな正直は、彼女の最も輕蔑する所であつた。
 彼女は決しかねて右と左へ少しづつ搖《ゆ》れた。彼女が斯《こ》んなに迷つてゐるとは丸《まる》で氣の付かない津田は、此時|床《とこ》の上に起き上つて、平氣で看護婦の持つて來た膳に向ひつゝあつた。先刻《さつき》お秀から電話の掛つた時、既にお延の來訪を豫想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗《あん》に心の調子を整へてゐた所が、其細君は途中から引き返してしまつたので、輕い失望の間に、夕食《ゆふめし》の時間が來る迄、待ち草臥《くたび》れた所爲《せゐ》か、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話し掛けた。
 「漸く飯か。何うも一人でゐると日が長くつて困るな」
 看護婦は體《なり》の小《ち》さい血色の好くない女であつた。然し年頃は何うしても津田に鑑定の付かない妙な顔をしてゐた。何時《いつ》でも白い服を着けてゐるのが、猶更《なほさら》彼女を普通の女の群《むれ》から遠ざけた。津田はつねに疑つた。――此人が通常の着物を着る時に、まだ肩上《かたあげ》を付けてゐるだらうか、又は除《と》つてゐるだらうか。彼はいつか眞面目に斯《こ》んな質問を彼女に掛けて見た事があつた。其時彼女はにやりと笑つて、「私はまだ見習です」と答へたので、津田は大凡《おほよそ》の見當を立てた位であつた。
 膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかつた。
 「御退屈さま」と云つて、にや/\笑つた彼女は、すぐ後《あと》を付け足した。
 「今日は奧さんはお見えになりませんね」
 「うん、來ないよ」
 津田の口の中にはもう焦げた?麭《パン》が一杯|入《はい》つてゐた。彼はそれ以上何も云ふ事が出來なかつた。然し看護婦の方は自由であつた。
 「其代り外のお客さまが入らつしやいましたね」
 「うん。あのお婆さんだらう。隨分肥つてるね、あの奧さんは」
 看護婦が惡口《わるくち》の相槌《あひづち》を打つ氣色《けしき》を見せないので、津田は一人で喋舌《しやべ》らなければならなかつた。
 「もつと若い綺麗な人が、どん/\見舞に來て呉れると病氣も早く癒るんだがな」と云つて看護婦を笑はせた彼は、すぐ彼女から冷嘲《ひや》かし返《かへ》された。
 「でも毎日女の方ばかり入らつしやいますね。餘つ程|間《ま》が可《い》いと見えて」
 彼女は小林の來た事を知らないらしかつた。
 「昨日《きのふ》入らしつた奧さんは大變お綺麗ですね」
 「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。何處か似てゐるかね、僕と」
 看護婦は似てゐるとも似てゐないとも答へずに、失つ張りにや/\してゐた。
 
     百四十五
 
 それは看護婦に取つて意外な儲《まう》け日《び》であつた。下痢の氣味で何時《いつ》もの通り診察場に出られなかつた醫者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けて呉れた丈《だけ》で、午後から夜へ掛けての時間には、もう顔を出さなかつた。
 「今日は當直だから晩には來られないんださうです」
 彼女は斯う云つて、不斷のやうな忙がしい樣子を何處にも見せずに、ゆつくり津田の膳の前に坐つてゐた。
 退屈凌《たいくつしの》ぎに好い相手の出來た氣になつた津田の舌には締りがなかつた。彼は面白半分色々な事を訊いた。
 「君の國は何處かね」
 「栃木縣です」
 「成程さう云はれて見ると、さうかな」
 「名前は何と云つたつけね」
 「名前は知りません」
 看護婦は中々名前を云はなかつた。津田は其所に發見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊いた。
 「ぢや是から君の事を栃木縣、栃木縣つて呼ぶよ。可《い》いかね」
 「えゝ可《よ》ござんす」
 彼女の名前の頭文字は|つ〔右○〕であつた。
 「露《つゆ》か」
 「いゝえ」
 「成程|霹《つゆ》ぢやあるまいな。ぢや土《つち》か」
 「いゝえ」
 「待ち玉へよ、露《つゆ》でもなし、土《つち》でもないとすると。――はゝあ、解つた。つや〔二字右○〕だらう。でなければ、常《つね》か」
 津田はいくらでも出鱈目《でたらめ》を云つた。云ふたびに看護婦は首を振つて、にや/\笑つた。笑ふたびに、津田は又彼女を追窮《つゐきゆう》した。仕舞に彼女の名がつき〔二字右○〕だと判然《わか》つた時、彼は此珍らしい名をまだ弄《もてあそ》んだ。
 「お月《つき》さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命《つ》けた」
 看護婦は返答を與へる代りに突然逆襲した。
 「あなたの奧さんの名は何と仰しやるんですか」
 「中《あ》てて御覽」
 看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後《あと》で云つた。
 「お延《のぶ》さんでせう」
 彼女は旨く中《あ》てた。といふよりも、何時《いつ》の間《ま》にかお延の名を聽いて覺えてゐた。
 「お月さんは何うも油斷がならないなあ」
 津田が斯う云つて興じてゐる所へ、本人のお延がひよつくり顔を出したので、振り返つた看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持つたなり立ち上つた。
 「あゝ、とう/\入らしつた」
 看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐つたお延は忽ち津田を見た。
 「來ないと思つて入らしつたんでせう」
 「いや左右《さう》でもない。然し今日はもう遲いから何うかとも思つてゐた」
 津田の言葉に僞《いつは》りはなかつた。お延にはそれを認める丈《だけ》の眼があつた。けれどもさうすれば事の矛盾は猶《なほ》募《つの》るばかりであつた。
 「でも先刻《さつき》手紙をお寄こしになつたのね」
 「あゝ遣《や》つたよ」
 「今日來ちや不可《いけな》いと書いてあるのね」
 「うん、少し都合の惡い事があつたから」
 「何故あたしが來ちや御都合が惡いの」
 津田は漸く氣が付いた。彼はお延の樣子を見ながら答へた。
 「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」
 「でも、わざ/\使に持たせてお寄こしになる位だから、何かあつたんでせう」
 津田は胡麻化《ごまか》して仕舞はうとした。
 「下らない事だよ。何で又そんな事を氣に掛けるんだ。お前も馬鹿だね」
 慰藉《ゐしや》の積《つもり》で云つた津田の言葉は却つて反對の結果をお延の上に生じた。彼女は黒い眉を動かした。無言の儘帶の間へ手を入れて、其所から先刻《さつき》の書翰を取り出した。
 「是をもう一遍見て頂戴」
 津田は黙つてそれを受け取つた。
 「別段何にも書いちやないぢやないか」と云つた時、彼の腹は漸く彼の口を否定した。手紙は簡單であつた。けれどもお延の疑ひを惹くには充分であつた。既に疑はれる丈《だけ》の弱味を有《も》つてゐる彼は、遣《や》り損《そく》なつたと思つた。
 「何にも書いてないから、其|理由《わけ》を伺ふんです」とお延は云つた。
 「話して下すつても可《い》いぢやありませんか。折角來たんだから」
 「お前はそれを聽きに來たのかい」
 「えゝ」
 「わざ/\?」
 「えゝ」
 お延は何處迄行つても動かなかつた。相手の手剛《てごは》さを悟《さと》つた時、津田は偶然好い嘘を思ひ付いた。
 「實は小林が來たんだ」
 小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。然しそれ丈《だけ》では濟まなかつた。彼はお延を滿足させるために、却つて其所を説明して遣《や》らなければならなくなつた。
 
     百四十六
 
 「小林なんかに逢ふのはお前も厭だらうと思つてね。それで氣が付いたからわざ/\知らして遣《や》つたんだよ」
 斯う云つてもお延はまだ得心した樣子を見せなかつたので、津田は已《やむ》を得《え》ず慰藉の言葉を延ばさなければならなかつた。
 「お前が厭でないにした所で、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合はせるのは。それに彼奴《あいつ》が又お前に聽かせたくないやうな厭な用事を持ち込んで來たもんだからね」
 「あたしの聽いて惡い用事? ぢやお二人の間の秘密なの?」
 「そんな譯のものぢやないよ」と云つた津田は、自分の上に寸分の油斷なく据ゑられたお延の細い眼を見た時に、周章《あわ》てゝ後を付け足した。
 「又金を強乞《せび》りに來たんだ。たゞそれ丈《だけ》さ」
 「ぢやあたしが聽いて何故惡いの」
 「惡いとは云やしない。聽かせたくないといふ迄さ」
 「するとたゞ親切づくで寄こして下すつた手紙なのね、是は」
 「まあさうだ」
 今迄|夫《をつと》に見入つてゐたお延の細い眼が猶《なほ》細くなると共に、微《かす》かな笑が唇を洩れた。
 「まあ有難い事」
 津田は澄ましてゐられなくなつた。彼は用意を缺いた文句を擇《よ》り除《の》ける餘裕を失つた。
 「お前だつて、あんな奴に會ふのは厭なんぢやないか」
 「いゝえ、些《ちつ》とも」
 「そりや嘘だ」
 「何うして嘘なの」
 「だつて小林は何かお前に云つたさうぢやないか」
 「えゝ」
 「だからさ。それでお前もあいつに會ふのは厭だらうと云ふんだ」
 「ぢや貴方はあたしが小林さんから何《ど》んな事を聽いたか知つてゐらつしやるの」
 「そりや知らないよ。だけど何うせ彼奴《あいつ》のことだから碌な事は云やしなからう。一體|何《ど》んな事を云つたんだ」
 お延は口へ出かゝつた言葉を殺してしまつた。さうして反問した。
 「此所で小林さんは何と仰《おつし》やつて」
 「何とも云やしないよ」
 「それこそ嘘です。貴方は隱してゐらつしやるんです」
 「お前の方が隱してゐるんぢやないかね。小林から好い加減な事を云はれて、それを眞《ま》に受《う》けてゐながら」
 「そりや隱してゐるかも知れません。貴方が隱し立てをなさる以上、あたしだつて仕方がないわ」
 津田は黙つた。お延も黙つた。二人とも相手の口を開《ひら》くのを待つた。然しお延の辛防《しんばう》は津田よりも早く切れた。彼女は急に鋭どい聲を出した。
 「嘘よ、貴方の仰しやる事はみんな嘘よ。小林なんて人は此所へ來た事も何にもないのに、貴方はあたしを胡麻化《ごまか》さうと思つて、わざ/\そんな拵へ事を仰しやるのよ」
 「拵へたつて、別におれの利益になる譯でもなからうぢやないか」
 「いゝえ外の人が來たのを隱すために、小林なんて人を、わざ/\引張り出すに極つてるわ」
 「外の人? 外の人とは」
 お延の眼は床の上に載せである楓《かへで》の盆栽《ぼんさい》に落ちた。
 「あれは何方《どなた》が持つてゐらしつたんです」
 津田は失敗《しくじ》つたと思つた。何故《なぜ》早く吉川夫人の來た事を自白して仕舞はなかつたかと後悔した。彼が最初それを口にしなかつたのは分別《ふんべつ》の結果であつた。話すのに譯はなかつたけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に對する彼を自然臆病にしたので、氣の咎《とが》める彼は、まあ遠慮して置く方が得策だらうと思案したのである。
 盆栽を振り返つた彼が吉川夫人の名を云はうとして一寸|口籠《くちごも》つた時、お延は機先を刺した。
 「吉川の奧さんが入らしつたぢやありませんか」
 津田は思はず云つた。
 「何うして知つてるんだ」
 「知つてますわ。其位の事」
 お延の樣子に注意してゐた津田は漸く度胸を取り返した。
 「あゝ來たよ。つまりお前の豫言《よげん》が中《あた》つた譯になるんだ」
 「あたしは奧さんが電車に乘つて入らしつた事迄ちやんと知つてるのよ」
 津田は又驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待つてゐたのかも知れないと思つた丈《だけ》で、彼は夫人の乘物にそれ以上細かい注意を拂はなかつた。
 「お前何處かで會つたのかい」
 「いゝえ」
 「ぢや何うして知つてるんだ」
 お延は答へる代りに訊き返した。
 「奧さんは何しに入らしつたんです」
 津田は何氣なく答へた。
 「そりや今話さうと思つてた所だ。――然し誤解しちや困るよ。小林はたしかに來たんだからね。最初に小林が來て、其後へ奧さんが來たんだ。だから丁度入れ違になつた譯だ」
 
     百四十七
 
 お延は夫《をつと》より自分の方が急《せ》き込《こ》んでゐる事に氣が付いた。此調子で乘《の》し掛《かゝ》つて行つた所で、夫《をつと》はもう壓《お》し潰《つぶ》されないといふ見切《みきり》を付けた時、彼女は自分の破綻《ぼろ》を出す前に身を翻《ひる》がへした。
 「さう、そんならそれでも可《い》いわ。小林さんが來たつて來なくつたつて、あたしの知つた事ぢやないんだから。其代り吉川の奧さんの用事を話して聽かして頂戴。無論只のお見舞でない事はあたしにも判つてるけれども」
 「といつた所で、大した用事で來た譯でもないんだよ。そんなに期待してゐると、又聽いてから失望するかも知れないから、一寸斷つとくがね」
 「構ひません、失望しても。たゞ有《あり》の儘《まゝ》を伺ひさへすれば、それで念晴《ねんばら》しになるんだから」
 「本來が見舞で、用事は付けたりなんだよ、可《い》いかね」
 「可《い》いわ、何方《どつち》でも」
 津田は夫人の齎《もたら》した温泉行《をんせんゆき》の助言《じよごん》丈《だけ》をごく淡泊《あつさ》り話した。お延にお延流の機畧《きりやく》がある通り、彼には彼相當の懸引《かけひき》があるので、都合の惡い所を巧みに省畧した、誰の耳にも眞卒で合理的な説明が容易《たやす》く彼の口からお延の前に描き出された。彼女は表向《おもてむき》それに對して一言《いちごん》の非難を挾《さしは》さむ餘地がなかつた。
 たゞ落ち付かないのは互の腹であつた。お延は此單純な説明を透《とほ》して、其奧を覗き込まうとした。津田は飽く迄もそれを見せまいと覺悟した。極めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかつた。然し守る夫《をつと》に弱點がある以上、攻める細君にそれ丈《だけ》の強味が加はるのは自然の理であつた。だから二人の天賦《てんぷ》を度外に置いて、たゞ二人の位地關係から見ると、お延は戰かはない先にもう優者であつた。正味《しやうみ》の曲直を標準にしても、競《せ》り合《あ》はない前に、彼女は既に勝つてゐた。津田にはさういふ自覺があつた。お延にも是と略《ほゞ》同じ意味で大體の見當が付いてゐた。
 戰争は、此内部の事實を、其儘表面へ追ひ出す事が出來るか出來ないかで、一段落《いちだんらく》付かなければならない道理であつた。津田さへ正直ならば是程|容易《たやす》い勝負はない譯でもあつた。然し若し一點不正直な所が津田に殘つてゐるとすると、是程又|落《おと》し惡《にく》い城は決してないといふ事にも歸着した。氣の毒なお延は、否應《いやおう》なしに津田を追ひ出す丈《だけ》の武器をまだ造り上げてゐなかつた。向うに開門を逼《せま》るより外に何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見て殆んど無能力者と擇《えら》ぶ所《ところ》がなかつた。
 何故《なぜ》心に勝つた丈《だけ》で、彼女は美くしく切り上げられないのだらうか。何故|凱歌《がいか》を形の上に迄運び出さなければ氣が濟まないのだらうか。今の彼女にはそんな餘裕がなかつたのである。此勝負以上に大事なものがまだあつたのである。第二第三の目的をまだ後《あと》に控えてゐた彼女は、此所を突き破らなければ、其《その》後《あと》を何うする譯にも行かなかつたのである。
 夫《それ》のみか、實をいふと、勝負は彼女に取つて、一義の位をもつてゐなかつた。本當に彼女の目指す所は、寧ろ眞實相であつた。夫《をつと》に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であつた。さうして其疑ひを晴らすのは、津田の愛を對象に置く彼女の生存上、絶對に必要であつた。それ自身が既に大きな目的であつた。殆んど方便とも手段とも云はれない程重い意味を彼女の眼先へ突き付けてゐた。
 彼女は前後の關係から、思量分別の許す限り、全身を擧げて其所へ拘泥《こだは》らなければならなかつた。それが彼女の自然であつた。然し不幸な事に、自然全體は彼女よりも大きかつた。彼女の遙か上にも續いてゐた。公平な光りを放《はな》つて、可憐な彼女を殺さうとしてさへ憚からなかつた。
 彼女が一口|拘泥《こだは》るたびに、津田は一足彼女から退ぞいた。二口|拘泥《こだは》れば、二足|退《しりぞ》いた。拘泥《こだは》るごとに、津田と彼女の距離はだん/\増して行つた。大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行爲を、遠慮なく蹂躙した。一歩ごとに彼女の目的を破壞して悔いなかつた。彼女は暗《あん》に其所へ氣が付いた。けれども其意味を悟る事は出來なかつた。彼女はたゞそんな筈はないとばかり思ひ詰めた。さうして遂にまた心の平靜を失つた。
 「あたしが是程貴方の事ばかり考へてゐるのに、貴方はちつとも察して下さらない」
 津田は遣《や》り切《き》れないといふ顔をした。
 「だからおれは何にもお前を疑《うたぐ》つてやしないよ」
 「當り前ですわ。此上貴方に疑ぐられる位なら、死んだ方が餘つ程増しですもの」
 「死ぬなんて大袈裟な言葉は使はないでも可《い》いやね。第一何にもないぢやないか、何所にも。もしあるなら云つて御覽な。さうすればおれの方でも辯解もしようし、説明もしようけれども、初手《しよて》から根のない苦情《くじやう》ぢや手の付けようがないぢやないか」
 「根は貴方のお腹《なか》の中《なか》にある筈ですわ」
 「困るなそれ丈《だけ》ぢや。――お前小林から何かしやくられたね。屹度《きつと》さうに違ない。小林が何を云つたか其所で話して御覽よ。遠慮は要らないから」
 
     百四十八
 
 津田の言葉つきなり樣子なりからして、お延は彼の心を明瞭に推察する事が出來た。――夫《をつと》は彼の留守に小林の來た事を苦にしてゐる。其小林が自分に何を話したかを猶《なほ》氣《き》に病《や》んでゐる。さうして其話の内容は、まだ判然《はつきり》※[手偏+國]《つか》んでゐない。だから鎌を掛けて自分を釣り出さうとする。
 其所に明らかな秘密があつた。材料として彼女の胸に蓄《たく》はへられて來た是迄の一切は、疑《うたがひ》もなく矛盾もなく、悉《こと/”\》く同じ方角に向つて注《そゝ》ぎ込《こ》んでゐた。秘密は確實であつた。青天白日のやうに明らかであつた。同時に青天白日と同じ事で、何處にも其影を宿さなかつた。彼女はそれを見詰める丈《だけ》であつた。手を出す術《すべ》を知らなかつた。
 惱亂《なうらん》のうちにまだ一分《いちぶん》の商量《しやうりやう》を餘した利巧な彼女は、夫《をつと》の掛けた鎌を外《はづ》さずに、すぐ向ふへ掛け返した。
 「ぢや本當を云ひませう。實は小林さんから詳しい話をみんな聽いてしまつたんです。だから隱したつてもう駄目よ。貴方も隨分|非道《ひど》い方《かた》ね」
 彼女の云ひ草は殆んど出鱈目《でたらめ》に近かつた。けれどもそれを口にする氣持からいふと、全くの眞劍沙汰《しんけんざた》と何の異《こと》なる所はなかつた。彼女は熱を籠めた語氣で、津田を「非道《ひど》い方《かた》」と呼ばなければならなかつた。
 反響はすぐ夫《をつと》の上に來た。津田は此|出鱈目《でたらめ》の前に退避《たじ》ろぐ氣色《けしき》を見せた。お秀の所で遣《や》り損《そく》なつた苦《にが》い經驗にも懲りず、又同じ冒險を試みたお延の度胸は酬《むく》いられさうになつた。彼女は一躍して進んだ。
 「何故斯うならない前に、打ち明けて下さらなかつたんです」
 「斯うならない前」といふ言葉は曖昧であつた。津田は其意味を捕捉《ほそく》するに苦しんだ。肝心のお延には猶《なほ》解らなかつた。だから訊かれても説明しなかつた。津田はたゞぼんやりと念を押した。
 「眞逆《まさか》温泉へ行く事をいふんぢやあるまいね。それが不都合だと云ふんなら、已《や》めても構はないが」
 お延は意外な顔をした。
 「誰がそんな無理をいふもんですか。會社の方の都合が付いて、病後の身體を回復する事が出來れば、それ程結構な事はないぢやありませんか。それが惡いなんて無茶苦茶を云ひ募《つの》るあたしだと思つてゐらつしやるの、馬鹿らしい。ヒステリーぢやあるまいし」
 「ぢや行つても可《い》いかい」
 「よござんすとも」と云つた時、お延は急に袂から手帛《ハンケチ》を出して顔へ當てたと思ふと、しく/\泣き出した。あとの言葉は、啜《すゝ》り上《あ》げる聲の間から、句をなさずに、途切れ途切れに、毀《こは》れ物《もの》のやうな形で出て來た。
 「いくらあたしが、……我儘だつて、……貴方の療養の……邪魔をするやうな、……そんな……あたしは不斷からあなたがあたしに許して下さる自由に對して感謝の念を有《も》つてゐるんです……のにあたしがあなたの轉地療養を……妨げるなんて……」
 津田は漸く安心した。けれどもお延にはまだ先があつた。發作《ほつさ》が靜まると共に、其先は比較的すら/\出た。
 「あたしはそんな小さな事を考へてゐるんぢやないんです。いくらあたしが女だつて馬鹿だつて、あたしには又あたし丈《だけ》の體面といふものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、其體面を維持して行きたいと思ふんです。もしそれを毀損《きそん》されると……」
 お延は是《これ》丈《だけ》云ひ掛けて又泣き出した。あとは又切れ切れになつた。
 「萬一……もしそんな事があると……岡本の叔父に對しても……叔母に對しても……面目《めんぼく》なくて、合はす顔がなくなるんです。……それでなくつても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切つてゐるんです。……それを貴方は傍《そば》で見てゐながら、……濟まして……濟まして……知らん顔をしてゐらつしやるんです」
 津田は急に口を開《ひら》いた。
 「お秀がお前を馬鹿にしたつて? 何時《いつ》? 今日お前が行つた時にかい」
 津田は我知らず飛んでもない事を云つてしまつた。お延が話さない限り、彼は其會見を知る筈がなかつたのである。お延の眼は果して閃《ひら》めいた。
 「それ御覽なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行つた事が、貴方にはもうちやんと知れてゐるぢやありませんか」
 「お秀が電話を掛けたよ」といふ返事がすぐ津田の咽喉から外へ滑り出さなかつた。彼は云はうか止《よ》さうかと思つて迷つた。けれども時に一寸《いつすん》の容赦《ようしや》もなかつた。反吐《へど》もどしてゐればゐる程形勢は危《あや》うくなる丈《だけ》であつた。彼は殆んど行き詰つた。然し間髪《かんはつ》を容《い》れずといふ際《きは》どい間際に、旨い口實が天から降つて來た。
 「車夫《くるまや》が歸つて來てさう云つたもの。大方お時が車夫《くるまや》に話したんだらう」
 幸ひお延がお秀の後を追懸《おつか》けて出た事は、下女にも解つてゐた。偶發の言譯が偶中《ぐうちゆう》の功《こう》を奏した時、津田は再度の胸を撫《な》で下《おろ》した。
 
     百四十九
 
 遮二無二《しやにむに》津田を突き破らうとしたお延は立ち留つた。夫《をつと》がそれ程自分を胡麻化《ごまか》してゐたのでないと考へる拍子に氣が拔けたので、一息《ひといき》に進むつもりの彼女は進めなくなつた。津田は其所を覘《ねら》つた。
 「お秀なんぞが何を云つたつて構はないぢやないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」
 お延は答へた。
 「そんなら小林なんぞがあたしに何を云つたつて構はないぢやありませんか。貴方は貴方、小林は小林なんだから」
 「そりや構はないよ。お前さへ確《しつ》かりしてゐて呉れゝば。たゞ疑ぐりだの誤解だのを起して、それを無暗に振り廻されると迷惑するから、此方《こつち》だつて黙つてゐられなくなる丈《だけ》さ」
 「あたしだつて同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、貴方さへ確《しつ》かりしてゐて下されば、苦になる筈はないんです。それを肝心の貴方が……」
 お延は行き詰つた。彼女には明瞭な事實がなかつた。從つて明瞭な言葉が口へ出て來なかつた。そこを津田が又|一掬《ひとすく》ひ掬《すく》つた。
 「大方お前の體面に關はるやうな不始末でもすると思つてるんだらう。それよりか、もう少しおれに憑《よ》り掛《かゝ》つて安心してゐたら可《い》いぢやないか」
 お延は急に大きな聲を揚げた。
 「あたしは憑《よ》り掛《かゝ》りたいんです。安心したいんです。何《ど》の位《くらゐ》憑《よ》り掛《かゝ》りたがつてゐるか、貴方には想像が付かない位、憑《よ》り掛《かゝ》りたいんです」
 「想像が付かない?」
 「えゝ、丸《まる》で想像が付かないんです。もし付けば、貴方も變つて來なくつちやならないんです。付かないから、そんなに澄ましてゐらつしやられるんです」
 「澄ましてやしないよ」
 「氣の毒だとも可哀相《かはいさう》だとも思つて下さらないんです」
 「氣の毒だとも、可哀相《かはいさう》だとも……」
 これ丈《だけ》繰り返した津田は一旦|塞《つか》へた。其《その》後《あと》で繼《つ》ぎ足《た》した文句は寧ろ蹣跚《まんさん》として搖《ゆら》めいてゐた。
 「思つて下さらないたつて。――いくら思はうと思つても。――思ふ丈《だけ》の因縁があれば、いくらでも思うさ。然しなけりや仕方がないぢやないか」
 お延の聲は緊張のために顫《ふる》へた。
 「あなた。あなた」
 津田は黙つてゐた。
 「何うぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思つて安心させて下さい。貴方以外にあたしは憑《よ》り掛《かゝ》り所《どころ》のない女なんですから。あなたに外《はづ》されると、あたしはそれぎり倒れてしまはなければならない心細い女なんですから。だから何うぞ安心しろと云つて下さい。たつた一口で可《い》いから安心しろと云つて下さい」
 津田は答へた。
 「大丈夫だよ。安心をしよ」
 「本當?」
 「本當に安心をしよ」
 お延は急に破裂するやうな勢で飛びかかつた。
 「ぢや話して頂戴。どうぞ話して頂戴。隱さずにみんな此所で話して頂戴。さうして一思ひに安心させて頂戴」
 津田は面喰《めんくら》つた。彼の心は波のやうに前後へ搖《うご》き始《はじ》めた。彼はいつその事思ひ切つて、何も彼《か》もお延の前に浚《さら》け出《だ》してしまはうかと思つた。と共に、自分はたゞ疑がはれてゐる丈《だけ》で、實證を握られてゐるのではないとも推斷した。もしお延が事實を知つてゐるなら、此所迄押して來て、それを彼の顔に叩き付けない筈はあるまいとも考へた。
 彼は氣の毒になつた。同時に逃げる餘地は彼にまだ殘つてゐた。道義心と利害心が高低《かうてい》を描いて彼の心を上下《うへした》へ動かした。すると其片方に温泉行の重みが急に加はつた。約束を斷行する事は吉川夫人に對する彼の義務であつた。必然から起る彼の要求でもあつた。少くともそれを濟ます迄打ち明けずにゐるのが得策だといふ氣が勝を制した。
 「そんなくだ/\しい事を云つてたつて、お互ひに顔を赤くする丈《だけ》で、際限がないから、もう止《よ》さうよ。其代りおれが受け合つたら可《い》いだらう」
 「受け合ふつて」
 「受け合ふのさ。お前の體面に對して、大丈夫だといふ證書を入れるのさ」
 「何うして」
 「何うしてつて、外に證文の入れやうもないから、たゞ口で誓ふのさ」
 お延は黙つてゐた。
 「つまりお前がおれを信用すると云ひさへすれば、それで可《い》いんだ。萬一の場合が出て來た時は引き受けて下さいつて云へば可いんだ。さうすればおれの方ぢや、よろしい受け合つたと、かう答へるのさ。どうだね其邊の所で妥協《だけふ》は出來ないかね」
 
     百五十
 
 妥協《だけふ》といふ漢語が此場合|如何《いか》に不釣合に聞こえようとも、其時の津田の心事《しんじ》を説明するには極めて穩當であつた。實際此言葉によつて代表される最も適切な意味が彼の肚《はら》にあつた事は慥《たしか》であつた。明敏なお延の眼にそれが映つた時、彼女の昂奮は漸く喰ひ留められた。感情の潮《うしほ》がまだ上《のぼ》りはしまいかといふ掛念《けねん》で、暗《あん》に頭を惱ませてゐた津田は助かつた。次の彼には喰ひ留めた潮《うしほ》の勢を、反對な方向へ逆用する手段を講ずる丈《だけ》の餘裕が出來た。彼はお延を慰めにかゝつた。彼女の氣に入りさうな文句を多量に使用した。沈着な態度を外部側《そとがは》に有《も》つてゐる彼は、又臨機に自分を相手なりに順應させて行く巧者《かうしや》も心得てゐた。彼の努力は果して空しくなかつた。お延は久し振に結婚以前の津田を見た。婚約當時の記憶が彼女の胸に蘇《よみが》へつた。
 「夫《をつと》は變つてるんぢやなかつた。やつぱり昔の人だつたんだ」
 斯う思つたお延の滿足は、津田を窮地から救ふに充分であつた。暴風雨にならうとして、なり損《そく》ねた波瀾は漸く収まつた。けれども事前《じぜん》の夫婦は、もう事後《じご》の夫婦ではなかつた。彼等は何時《いつ》の間《ま》にか吾知らず相互の關係を變へてゐた。
 波瀾の収まると共に、津田は悟つた。
 「畢竟《ひつきやう》女は慰撫し易いものである」
 彼は一場《いちぢやう》の風波《ふうは》が彼に齎《もたら》した此自信を抱《いだ》いてひそかに喜《よろ》こんだ。今迄の彼は、お延に對するごとに、苦手《にがて》の感を何處かに起さずにゐられた事がなかつた。女だと見下ろしながら、底氣味の惡い思ひをしなければならない場合が、日毎に現前《げんぜん》した。それは彼女の直覺であるか、又は直覺の活作用とも見傚《みな》される彼女の機畧《きりやく》であるか、或はそれ以外の或物であるか、慥《たし》かな解剖《かいばう》は彼にもまだ出來てゐなかつたが、何しろ事實は事實に違ひなかつた。しかも彼自身自分の胸に疊み込んで置くぎりで、未だ曾て他《ひと》に洩らした事のない事實に違ひなかつた。だから事實と云ひ條、其實は一個の秘密でもあつた。それならば何故《なぜ》彼がこの明白な事實をわざと秘密に附してゐたのだらう。簡單に云へば、彼はなるべく己《おの》れを尊《たふと》く考がへたかつたからである。愛の戰爭といふ眼で眺めた彼等の夫婦生活に於て、何時《いつ》でも敗者の位地に立つた彼には、彼でまた相當の慢心があつた。所がお延のために征服される彼は已《やむ》を得《え》ず征服されるので、心《しん》から歸服するのではなかつた。堂々と愛の擒《とりこ》になるのではなくつて、常に騙《だま》し打《うち》に會《あ》つてゐるのであつた。お延が夫《をつと》の慢心を挫《くじ》く所に氣が付かないで、たゞ彼を征服する點に於てのみ愛の滿足を感ずる通りに、負けるのが嫌《きらひ》な津田も、殘念だとは思ひながら、力及ばず組み敷かれるたびに降參するのであつた。此特殊な關係を、一夜《いちや》の苦説《くぜつ》が逆《さか》にして呉れた時、彼のお延に對する考へは變るのが至當であつた。彼は今迄是程猛烈に、又眞正面に、上手《うはて》を引く樣に見えて、實は僞りのない下手《したで》に出たお延といふ女を見た例《ためし》がなかつた。弱點を抱《だ》いて逃げまはりながら彼は始めてお延に勝つ事が出來た。結果は明瞭であつた。彼は漸く彼女を輕蔑する事が出來た。同時に以前よりは餘計に、彼女に同情を寄せる事が出來た。
 お延にはまたお延で波瀾後の變化が起りつゝあつた。今迄曾て斯ういふ態度で夫《をつと》に向つた事のない彼女は、一氣に津田の弱點を衝《つ》く方に心を奪はれ過ぎたため、ついぞ露《あら》はした事のない自分の弱點を、却つて夫《をつと》に示してしまつたのが、何より先に殘念の種になつた。夫《をつと》に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があつた。自分は自分の見識を立て通して見せるといふ覺悟があつた。勿論其見識は複雜とは云へなかつた。夫《をつと》の愛が自分の存在上、如何に必要であらうとも、頭を下げて憐みを乞ふやうな見苦しい眞似は出來ないといふ意地に過ぎなかつた。もし夫《をつと》が自分の思ふ通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるといふ堅い決心であつた。のべつに此決心を實行して來た彼女は、詰りのべつに緊張してゐると同じ事であつた。さうして其緊張の極度は何處かで破裂するに極つてゐた。破裂すれば、自分で自分の見識を打《ぶ》ち壞《こは》すのと同じ結果に陷《おち》いるのは明瞭であつた。不幸な彼女は此矛盾に氣が付かずに邁進《まいしん》した。それでとう/\破裂した。破裂した後で彼女は漸く悔いた。仕合せな事に自然は思つたより殘酷でなかつた。彼女は自分の弱點を浚《さら》け出《だ》すと共に一種の報酬を得た。今迄|何《ど》んなに勝ち誇つても物足りた例《ためし》のなかつた夫《をつと》の樣子が、少し變つた。彼は自分の滿足する見當に向いて一歩近づいて來た。彼は明らかに妥協といふ字を使つた。其裏に彼女の根限《こんかぎ》り掘り返さうと力《つと》めた秘密の潜在する事を暗《あん》に自白した。自白?。彼女は能く自分に念を押して見た。さうしてそれが黙認に近い自白に違ひないといふ事を確かめた時、彼女は口惜《くや》しがると同時に喜こんだ。彼女はそれ以上|夫《をつと》を押さなかつた。津田が彼女に對して氣の毒といふ念を起したやうに、彼女もまた津田に對して氣の毒といふ感じを持ち得たからである。
 
     百五十一
 
 けれども自然は思つたより頑愚《かたくな》であつた。二人は是《これ》丈《だけ》で別れる事が出來なかつた。妙な機《はず》みから一旦収まりかけた風波がもう少しで盛り返されさうになつた。
 それは昂奮したお延の心持が稍《やゝ》平靜に復した時の事であつた。今切り拔けて來た波瀾の結果は既に彼女の氣分に働らき掛けてゐた。醉を感ずる人が、其醉を利用するやうな態度で彼女は津田に向つた。
 「ぢや何時《いつ》頃《ごろ》其温泉へ入らつしやるの」
 「此所を出たらすぐ行かうよ。身體のためにも其方が都合が可《よ》ささうだから」
 「さうね。成るべく早く入らしつた方が可《い》いわ。行くと事が極つた以上」
 津田は是でまづ可《よ》しと安心した。所へお延は不意に出た。
 「あたしも一所に行つて可《い》いんでせう」
 氣の緩《ゆる》んだ津田は急にひやりとした。彼は答へる前にまづ考へなければならなかつた。連れて行く事は最初から問題にしてゐなかつた。と云つて、斷る事は猶《なほ》六づかしかつた。斷り方一つで、相手は何う變化するかも分らなかつた。彼が何と返事をしたものだらうと思つて分別《ふんべつ》するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。
 「ね、行つても可《い》いんでせう」
 「さうだね」
 「不可《いけな》いの」
 「不可《いけな》い譯もないがね……」
 津田は連れて行きたくない心の内を、次第々々に外へ押し出されさうになつた。もし猜疑《さいぎ》の眸《ひとみ》が一度《いちど》お延の眼の中に動いたら事はそれ限《ぎり》であると見て取つた彼は、實を云ふと、お延と同じ心理状態の支配を受けてゐた。先刻《さつき》の波瀾から來た影響は彼にもう憑《の》り移《うつ》つてゐた。彼は彼でそれを利用するより外に仕方がなかつた。彼はすぐ「慰撫《ゐぶ》」の二字を思ひ出した。「慰撫に限る。女は慰撫さへすれば何うにかなる」。彼は今得たばかりの此新らしい斷案を提《ひつ》さげて、お延に向つた。
 「行つても可《い》いんだよ。可い所ぢやない、實は行つて貰ひたいんだ。第一一人ぢや不自由だからね。世話をして貰ふ丈《だけ》でも、其方が都合が可いに極つてるからね」
 「あゝ嬉しい、ぢや行くわ」
 「所がだね。……」
 お延は厭な顔をした。
 「所が何うしたの」
 「所がさ。宅《うち》は何うする氣かね」
 「宅《うち》は時がゐるから好いわ」
 「好いわつて、そんな子供見たいな呑氣《のんき》な事を云つちや困るよ」
 「何故。何處が呑氣なの。もし時|丈《だけ》で不用心なら誰か頼んで來るわ」
 お延は續けざまに留守居として適當な人の名を二三擧げた。津田は拒《こば》める丈《だけ》それを拒《こば》んだ。
 「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く譯にや行かないからね」
 お延は笑ひ出した。
 「まさか。――間違なんか起りつこないわ、僅かの間ですもの」
 「左右《さう》は行かないよ。決して左右《さう》は行かないよ」
 津田は斷乎たる態度を示すと共に、考へる風もして見せた。
 「誰か適當な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあると丁度持つて來いだがな」
 藤井にも岡本にも其《その》他《た》の方面にも、そんな都合の好い手の空《あ》いた人は一人もなかつた。
 「まあ能く考へて見るさ」
 此《この》邊《へん》で話を切り上げようとした津田は的《あて》が外《はづ》れた。お延は※[手偏+國]《つか》んだ袖を中々放さなかつた。
 「考へてない時には、何うするの。もしお婆さんがゐなければ、あたしは何うしても行つちや惡いの」
 「惡いとは云やしないよ」
 「だつてお婆さんなんかゐる譯がないぢやありませんか。考へないだつて其位な事は解つてますわ。それより行つて惡いなら惡いと判然《はつきり》云つて頂戴よ」
 せつぱ詰つた津田は此時不思議に又好い云譯を思ひ付いた。
 「そりやいざとなれば留守番なんか何うでも構はないさ。然し時一人を置いて行くにした所で、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奧さんから旅費を貰ふんだからね。他《ひと》の金を貰つて夫婦連れで遊んで歩くやうに思はれても、あんまり可《よ》くないぢやないか」
 「そんなら吉川の奧さんから頂かないでも構はないわ。あの小切手があるから」
 「さうすると今月分の拂の方が差支へるよ」
 「それは秀子さんの置いて行つたのがあるのよ」
 津田は又行き詰つた。さうして又|危《あやう》い血路《けつろ》を開いた。
 「少し小林に貸して遣らなくつちやならないんだぜ」
 「あんな人に」
 「お前はあんな人にと云ふがね、あれでも今度《こんだ》遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想《かはいさう》だよ。それにもう約束してしまつたんだから、何うする譯にも行かないんだ」
 お延は固《もと》より滿足な顔をする筈がなかつた。然し津田はこれで何うか斯うか其場|丈《だけ》を切り拔ける事が出來た。
 
     百五十二
 
 後は話が存外樂に進行したので、程なく第二の妥協が成立した。小林に對する友誼《いうぎ》を滿足させるため、かつは一旦約束した言責《げんせき》を果すため、津田はお延の貰つて來た小切手の中《うち》から、其幾分を割《さ》いて朝鮮行の贐《はなむけ》として小林に贈る事にした。名義は固《もと》より貸すのであつたが、相手に返す腹のない以上、それを豫算に組み込んで今後の的《あて》にする譯には行かないので、結果はつまり遣る事になつたのである。勿論其所へ行き着く迄にはお延にも多少の難色があつた。小林のやうな横着な男に金錢を惠むのはおろか、ちやんとした證書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸の何《ど》の隅《すみ》からも出る筈はなかつた。のみならず彼女は稍《やゝ》ともすると、強ひてそれを斷行しようとする夫《をつと》の裏側を覗き込むので、津田は其度に少なからず冷々《ひや/\》した。
 「あんな人に何だつてそんな親切を盡してお遣りになるんだか、あたしには丸《まる》で解らないわ」
 斯ういふ意味の言葉が二度も三度も彼女によつて繰り返された。津田が人情|一點張《いつてんばり》でそれを相手にする氣色《けしき》を見せないと、彼女はもう一歩先の事迄云つた。
 「だから譯を仰しやいよ。斯ういふ譯があるから、斯うしなければ義理が惡いんだといふ事情さへ明瞭になれば、あの小切手をみんな上げても構はないんだから」
 津田には此所が何より大事な關所なので、何うしてもお延を通させる譯に行かなかつた。彼は小林を辯護する代りに、二人の過去にある舊《ふる》い交際と、其交際から出る懷《なつ》かしい記憶とを擧げた。懷かしいといふ字を使つて非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違に迄、説明の手を擴げた。それでも腑に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道《じんだう》迄云々した。然し彼の口にする人道は遂に一個の功利説《こうりせつ》に歸着するので、彼は吾知らず自分の拵へた陷穽《かんせい》に向つて進んでゐながら氣が付かず、危うくお延から足を取られて、突き落されさうになる場合も出て來た。それを代表的な言葉でごく簡單に例で現はすと下《しも》のやうになつた。
 「兎に角困つてるんだからね、内地に居たゝまれずに、朝鮮迄落ちて行かうてんだから、少しは同情して遣《や》つても可《よ》からうぢやないか。それにお前はあいつの人格を無暗に攻撃するが、其所に少し無理があるよ。成程あいつは仕樣《しやう》のない奴さ。仕樣のない奴には違ないけれども、彼奴《あいつ》が斯うなつた因《おこ》りをよく考へて見ると、何でもないんだ。たゞ不平だからだ。ぢや何故不平だといふと、金が取れないからだ。所が彼奴《あいつ》は愚圖でもなし、馬鹿でもなし、相當な頭を持つてるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかつたために、あゝなつたと思ふと、そりや氣の毒になるよ。つまり彼奴《あいつ》が惡いんぢやない境遇が惡いんだと考へさへすれば夫《それ》迄《まで》さ。要するに不幸な人なんだ」
 是《これ》丈《だけ》なら口先|丈《だけ》としてもまづ立派なのであるが、彼は遂に其所で止《とゞ》まる事が出來ないのである。
 「それにまだ斯ういふ事も考へなければならないよ。あゝ自暴糞《やけくそ》になつてる人間に逆《さか》らうと何をするか解らないんだ。誰とでも喧嘩がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得《とく》になる丈《だけ》だつて、現に此所へ來て公言して威張《えば》つてるんだからね、實際始末に了へないよ。だから今もしおれが彼奴《あいつ》の要求を跳《は》ね付《つ》けるとすると、彼奴《あいつ》は怒るよ。たゞ怒る丈《だけ》なら可《い》いが、屹度《きつと》何かするよ。復讐《かたきうち》を遣るに極つてるよ。所が此方《こつち》には世間體《せけんてい》があり、向ふにやそんなものが丸《まる》でないんだから、いざとなると敵《かな》ひつこないんだ。解つたかね」
 此所迄來ると最初の人道主義はもう大分《だいぶ》崩れてしまふ。然しそれにしても、此所で切り上げさへすれば、お延は黙つて點頭《うなづ》くより外に仕方がないのである。所が彼はまだ先へ出るのである。
 「それも彼奴《あいつ》が主義としてたゞ上流社會を攻撃したり、又は一般の金持を惡口《あくこう》する丈《だけ》なら可《い》いがね。彼奴《あいつ》のは、さうぢやないんだ、もつと實際的なんだ。まづ最初に自分の手の屆く所から段々に食ひ込んで行かうといふんだ。だから一番災難なのは此おれだよ。何う考へても此所でおれ相當の親切を見せて、彼奴《あいつ》の感情を美くして、さうして一日も早く朝鮮へ立つて貰ふのが上策なんだ。でないと何時《いつ》何《ど》んな目に逢ふか解つたもんぢやない」
 斯うなるとお延は何うしても又云ひたくなるのである。
 「いくら小林が亂暴だつて、貴方の方にも何かなくつちや、そんなに怖《こは》がる因縁がないぢやありませんか」
 二人が斯《こ》んな押問答をして、小切手の片を付ける丈《だけ》でも、ものゝ十分はかゝつた。然し小林の方が極ると共に、殘りの所置はすぐ付いた。それを自分の小遣《こづかひ》として、任意に自分の嗜慾《しよく》を滿足するといふ彼女の條件は直ちに成立した。其代り彼女は津田と一所に温泉へ行かない事になつた。さうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるといふ案に同意させられた。
 うそ寒《さむ》の宵に、若い夫婦間に起つた波瀾の消長はこれで漸く盡きた。二人は一先《ひとま》づ別れた。
 
     百五十三
 
 津田の辛防《しんばう》しなければならない手術後の經過は良好であつた。といふよりも寧ろ順當に行つた。五日目が來た時、醫者は豫定通り彼のために全部のガーゼを取り替へて呉れた後で、それを保證した。
 「至極好い具合です。出血も口元|丈《だけ》です。内部《なか》の方は何ともありません」
 六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になつてゐた。
 「出血は何うです。まだ止《と》まりませんか」
 「いや、もう殆んど止まりました」
 出血の意味を解し得ない津田は、此返事の意味をも解し得なかつた。好い加減に「もう癒りました」といふ解釋をそれに付けて大變喜こんだ。然し本式の事實は彼の考へる通りにも行かなかつた。彼と醫者の間に起つた一場《いちぢやう》の問答が其邊の消息を明らかにした。
 「是が癒《なほ》り損《そく》なつたら何うなるんでせう」
 「又切るんです。さうして前よりも輕く穴が殘るんです」
 「心細いですな」
 「なに十中八九は癒るに極つてます」
 「ぢや本當の意味で全癒といふと、まだ中々時間が掛るんですね」
 「早くて三週間遲くて四週間です」
 「此所を出るのは?」
 「出るのは明後日《みやうごにち》位で差支ありません」
 津田は有難がつた。さうして出たらすぐ温泉に行かうと覺悟した。なまじい醫者に相談して轉地を禁じられでもすると、却つて神經を惱ます丈《だけ》が損だと打算した彼はわざと黙つてゐた。それは殆んど平生の彼に似合はない粗忽《そこつ》な遣口《やりくち》であつた。彼は甘んじて此不謹愼を斷行しようと決心しながら、肚《はら》の中《なか》で既に自分の矛盾を承知してゐるので、何だか不安であつた。彼は訊かないでも可《い》い質問を醫者に掛けて見たりした。
 「括約筋《くわつやくきん》を切り殘したと仰しやるけれども、それで何うして下からガーゼが詰められるんですか」
 「括約筋《くわつやくきん》はとば口《くち》にやありません。五分程引つ込んでます。それを下から斜《はす》に三分程削り上げた所があるのです」
 津田は其晩から粥《かゆ》を食ひ出した。久しく?麭《パン》丈《だけ》で我慢してゐた彼の口には水ツぽい米の味も一種の新らしみであつた。趣味として夜寒《よさむ》の粥《かゆ》を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵の冷たさを對照に置く薄粥《うすがゆ》の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜《すゝ》る事が出來た。
 療治の必要上、長い事|止《と》められてゐた便の疎通を計るために、彼はまた輕い下劑を飲まなければならなかつた。左程《さほど》苦にもならなかつた腹の中が輕くなるに從つて、彼の氣分も何時《いつ》か輕くなつた。身體の樂になつた彼は、寐轉《ねこ》ろんでたゞ退院の日を待つ丈《だけ》であつた。
 其日も一晩明けるとすぐに來た。彼は車を持つて迎ひに來たお延の顔を見るや否や云つた。
 「やつと歸れる事になつた譯かな。まあ有難い」
 「あんまり有難くもないでせう」
 「いや有難いよ」
 「宅《うち》の方が病院よりはまだ増しだと仰しやるんでせう」
 「まあその邊かも知れないがね」
 津田は何時《いつ》もの調子で斯う云つた後で、急に思ひ出したやうに付け足した。
 「今度はお前の拵へて呉れた?袍《どてら》で助かつたよ。綿が新らしい所爲《せゐ》か大變着心地が好いね」
 お延は笑ひながら夫《をつと》を冷嘲《ひやか》した。
 「何うなすつたの。なんだか急にお世辭が旨くおなりね。だけど、違つてるのよ、貴方の鑑定は」
 お延は問題の?袍《どてら》を疊みながら、新らしい綿ばかりを入れなかつた事實を夫《をつと》に白状した。津田は其時着物を着換へてゐた。絞りの模樣の入《はい》つた縮緬《ちりめん》の兵兒帶《へこおび》をぐる/”\腰に卷く方が、彼には寧ろ大事な所作《しよさ》であつた。それ程輕く?袍《どてら》の中味を見てゐた彼の愛嬌は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかつた。彼はたゞ「はあさうかい」と云つたぎりであつた。
 「お氣に召したらどうぞ温泉へも持つて入らしつて下さい」
 「さうして時々お前の親切でも思ひ出すかな」
 「然し宿屋で貸して呉れる?袍《どてら》の方がずつと可《よ》かつたり何かすると、いゝ耻つ掻きね、あたしの方は」
 「そんな事はないよ」
 「いえあるのよ。品質《もの》が惡いと何うしても損ね、さういふ時には。親切なんかすぐ何處かへ飛んでつちまふんだから」
 無邪氣なお延の言葉は、彼女の意味する通りの單純さで津田の耳へは響かなかつた。其所には一種のアイロニーが顫動《せんどう》してゐた。?袍《どてら》は何かの象徴《シンボル》であるらしく受け取れた。多少氣味の惡くなつた津田は、お延に背中を向けた儘で、兵兒帶《へこおび》の先をこま結びに結んだ。
 やがて二人は看護婦に送られて玄關に出ると、すぐ其所に待たしてある車に乘つた。
 「さよなら」
 多事な一週間の病院生活は、此一語で漸く幕になつた。
 
     百五十四
 
 目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、先づ小林に會はなければならなかつた。約束の日が來た時、お延から入用《いりよう》の金を受け取つた彼は笑ひながら細君を顧みた。
 「何だか惜しいな、彼奴《あいつ》に是《これ》丈《だけ》取られるのは」
 「ぢや止《よ》した方が好いわ」
 「おれも止したいよ」
 「止したいのに何故止せないの。あたしが代りに行つて斷つて來て上げませうか」
 「うん、頼んでも可《い》いね」
 「何所であの人にお逢ひになるの。場所さへ仰しやれば、あたし行つて上げるわ」
 お延が本氣か何うかは津田にも分らなかつた。けれども斯ういふ場合に、大丈夫だと思つてつい笑談《ぜうだん》に押すと、押した此方《こつち》が却つて手古摺《てこず》らせられる位の事は、彼に困難な想像ではなかつた。お延はいざとなると口で云つた通りを眞面《まとも》に斷行する女であつた。たとひ違約であらうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかつた。彼は危險區域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不眞面目な方角へ流して仕舞つた。
 「お前は見掛《みかけ》に寄らない勇氣のある女だね」
 「是でも自分ぢやあると思つてるのよ。けれどもまだ出した例《ためし》がないから、寶際|何《ど》の位《くらゐ》あるか自分にも分らないわ」
 「いやお前に分らなくつても、おれにはちやんと分つてるから、それで澤山だよ。女の癖にさう無暗に勇氣なんか出された日にや、亭主が困る丈《だけ》だからね」
 「ちつとも困りやしないわ。御亭主のために出す勇氣なら、男だつて困る筈がないぢやないの」
 「そりや有難い場合もたまには出て來るだらうがね」
と云つた津田には固《もと》より本氣に受け答へをする積《つもり》もなかつた。「今日《こんにち》迄《まで》それ程感服に値する勇氣を拜見した覺《おぼえ》もないやうだね」
 「そりや其通りよ。だつて些《ちつ》とも外へ出さずにゐるんですもの。是でも内側へ入《はい》つて御覽なさい。なんぼあたしだつて貴方の考へてゐらつしやる程太平ぢやないんだから」
 津田は答へなかつた。然しお延は已《や》めなかつた。
 「あたしがそんなに氣樂さうに見えるの、貴方には」
 「あゝ見えるよ。大いに氣樂さうだよ」
 此好い加減な無駄口の前に、お延は微《かす》かな溜息を洩らした後で云つた。
 「詰らないわね、女なんて。あたし何だつて女に生れて來たんでせう」
 「そりや己《おれ》に掛け合つたつて駄目だ。京都にゐるお父さんかお母さんへ尻を持ち込むより外に、苦情の持つてきどころはないんだから」
 苦笑したお延はまだ黙らなかつた。
 「可《い》いから、今に見てゐらつしやい」
 「何を」と訊き返した津田は少し驚ろかされた。
 「何でも可《い》いから、今に見てゐらつしやい」
 「見てゐるが、一體何だよ」
 「そりや實際に問題が起つて來なくつちや云へないわ」
 「云へないのはつまりお前にも解らないといふ意味なんぢやないか」
 「えゝさうよ」
 「何だ下らない。それぢや丸《まる》で雲を※[手偏+國]《つか》むやうな豫言だ」
 「所が其豫言が今に屹度《きつと》中《あた》るから見てゐらつしやいといふのよ」
 津田は鼻の先でふんと云つた。それと反對にお延の態度は段々眞劍に近づいて來た。
 「本當よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終さう思つてるの、何時《いつ》か一度此お肚《なか》の中《なか》に有《も》つてる勇氣を、外へ出さなくつちやならない日が來るに違ないつて」
 「何時《いつ》か一度? だからお前のは妄想《まうざう》と同《おん》なじ事なんだよ」
 「いゝえ生涯のうちで何時《いつ》か一度ぢやないのよ。近いうちなの。もう少ししたらの何時か一度なの」
 「益《ます/\》惡くなる丈《だけ》だ。近き將來に於て蠻勇なんか亭主の前で發揮された日にや敵《かな》はない」
 「いゝえ、貴方のためによ。だから先刻《さつき》から云つてるぢやないの、夫《をつと》のために出す勇氣だつて」
 眞面目なお延の顔を見てゐると、津田も次第々々に釣り込まれる丈《だけ》であつた。彼の性格にはお延ほどの詩がなかつた。其代り多少氣味の惡い事實が遠くから彼を威壓してゐた。お延の詩、彼の所謂《いはゆる》妄想《まうざう》は、段々活躍し始めた。今迄死んでゐると許《ばか》り思つて、弄《いぢく》り廻《まは》してゐた鳥の翅《つばさ》が急に動き出すやうに見えた時、彼は變な氣持がして、すぐ會話を切り上げてしまつた。
 彼は帶の間から時計を出して見た。
 「もう時間だ、そろ/\出掛けなくつちや」
 斯う云つて立ち上がつた彼の後《あと》を送つて玄關に出たお延は、帽子掛《ばうしかけ》から茶の中折を取つて彼の手に渡した。
 「行つて入らつしやい。小林さんによろしくつてお延が云つてたと忘れずに傳へて下さい」
 津田は振り向かないで夕方の冷たい空氣の中に出た。
 
     百五十五
 
 小林と會見の場所は、東京で一番賑やかな大通りの中程を、一寸横へ切れた所にあつた。向ふから宅《うち》へ誘ひに寄つて貰ふ不快を避けるため、又|此方《こつち》で彼の下宿を訪ねてやる面倒を省くため、津田は時間を極めて其所で彼に落ち合ふ手順にしたのである。
 其時間は彼が電車に乘つてゐるうちに過ぎてしまつた。然し着物を着換へて、お延から金を受け取つて、少しの間坐談をしてゐたために起つた此遲刻は、何等の痛痒《つうやう》を彼に與へるに足りなかつた。有體《ありてい》に云へば、彼は小林に對して克明に律義を守る細心の程度を示したくなかつた。それとは反對に、少し時間を後《おく》らせても、放縱《はうしよう》な彼の鼻柱を挫いてやりたかつた。名前は送別會だらうが何だらうが、其實金を遣るものと貰ふものとが顔を合せる席に極つてゐる以上、津田はたしかに優者であつた。だから其優者の特權を出來る丈《だけ》緊張させて、主客《しゆかく》の位地をあらかじめ作つて置く方が、相手の驕慢を未前に防ぐ手段として、彼には得策であつた。利害を離れた單なる意趣返しとしても其方が面白かつた。
 彼はごう/\鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによると是でもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考へた。もし餘り早く行き着いたら、一通り夜店でも素見《ひやか》して、慾の皮で硬く張つた小林の豫期を、もう少し焦《じ》らしてやらうと迄思案した。
 停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光《あかり》の數は、夜の都の活動を目覺しく物語るに充分な位、右徃左徃へちら/\した。彼は其間に立つて、目的の横町へ曲る前に、此等の燭光《あかり》と共に十分位動いて歩かうか歩くまいかと迷つた。所が顔の先へ押し付けられた夕刊を除《よ》けて、四邊《あたり》を見廻した彼は、急におやと思はざるを得なかつた。
 もう大分《だいぶ》待《ま》ち草臥《くたび》れてゐるに違ないと假定してかゝつた小林は、案外にも向ふ側に立つてゐた。位地は津田の降りた舗床《ペーヴメント》と車道を一つ隔てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合はない以上、夜と人とちら/\する燭光《あかり》が、相互の認識を遮《さへ》ぎる便利があつた。のみならず小林は眞面《まとも》に此方《こつち》を向いてゐなかつた。彼は津田のまだ見知らない青年と立談《たちばなし》をしてゐた。青年の顔は三分の二程、小林のは三分の一程、津田の方角から見える丈《だけ》なので、彼は畧《ほゞ》露見の恐れなしに、自分の足の停《と》まつた所から、二人の模樣を注意して觀察する事が出來た。二人は決して餘所見《よそみ》をしなかつた。顔と顔を向き合せた儘、何時《いつ》迄《まで》も同じ姿勢を崩さない彼等の體《てい》が、あり/\と津田の眼に映《うつ》るにつれて、眞面目な用談の、互ひの間に取り換はされてゐる事は明瞭に解つた。
 二人の後《うしろ》には壁があつた。生憎《あいにく》横側に窓が付いてゐないので、強い光は何處からも射さなかつた。所へ南から來た自働車が、大きな音を立てゝ四つ角を曲らうとした。其時二人は自働車の前側に裝置してある巨大な燈光を滿身に浴びて立つた。津田は始めて青年の容貌を明かに認める事が出來た。蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れてゐる、幾ケ月となく刈り込まない?々《さん/\》たる髪の毛と共に、彼の視覺を冒した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵《きびす》を回《めぐ》らした。さうして二人の立つてゐる舗道《ほだう》を避ける樣に、わざと反對の方向へ歩き出した。
 彼には何の目的もなかつた。はなやかに電燈で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、たゞ都會的で美くしいといふ丈《だけ》に過ぎなかつた。商買が違ふにつれて品物が變化する以外に、何等の複雜な趣《おもむき》は見出《みいだ》されなかつた。それにも拘はらず彼は到る處に視覺の滿足を味はつた。しまひに或|唐物屋《たうぶつや》の店先に飾つてあるハイカラな襟飾《ネクタイ》を見た時に、彼はとう/\其《その》家《うち》の中へ入《はい》つて、自分の欲しいと思ふものを手に取つて、ひねくり廻したりなどした。
 もう可《よ》からうといふ時分に、彼は再び取つて返した。舗道《ほだう》の上に立つてゐた二人の影は果して何處かへ行つてしまつた。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かさうな光が徃來へ射してゐた。煉瓦作りで窓が高いのと、模樣のある玉子色の布《きぬ》に遮《さへ》ぎられて、間接に夜《よ》の中へ光線が放射されるので、通り際に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穩やかな瓦斯煖爐《ガスだんろ》を供へた品《ひん》の好い食堂であつた。
 大きなブロツクの片隅に、形容した言葉でいふと、寧ろひつそり構へてゐる其食堂は、大して廣いものではなかつた。津田が其所を知り出したのもつい近頃であつた。長い間|佛蘭西《フランス》とかに公使をしてゐた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教へられたのが原《もと》で、四五遍食ひに來た因縁を措《お》くと、小林を其所へ招き寄せる理由は他に何にもなかつた。
 彼は容赦《ようしや》なく扉《とぴら》を押して内へ入《はい》つた。さうして其所に案の如く少し手持無沙汰ででもある樣な風をして、眞面目な顔を夕刊か何かの前に向けてゐる小林を見出《みいだ》した。
 
     百五十六
 
 小林は眼を上げて一寸入口の方を見たが、すぐ其眼を新聞の上に落してしまつた。津田は仕方なしに無言の儘、彼の坐つてゐる食卓《テーブル》の傍《そば》迄近寄つて行つて此方《こつち》から聲を懸けた。
 「失敬。少し遲くなつた。餘つ程待たしたかね」
 小林は漸く新聞を疊んだ。
 「君時計を有《も》つてるだらう」
 津田はわざと時計を出さなかつた。小林は振り返つて正面の壁の上に掛つてゐる大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分程先へ出てゐた。
 「實は僕も今來た許《ばかり》の所なんだ」
 二人は向ひ合つて席に就いた。周圍には二組ばかりの客がゐる丈《だけ》なので、さうして其二組は双方ともに相當の扮裝《みなり》をした婦人づれなので、室内は存外靜かであつた。ことに一間程隔てゝ、二人の横に置かれた瓦斯煖爐《ガスストーブ》の火の色が、白いものゝ目立つ清楚《せいそ》な室《へや》の空氣に、恰好《かつかう》な温《ぬく》もりを與へた。
 津田の心には、變な對照が描き出された。此間の晩小林のお蔭で無理に引つ張り込まれた怪しげな酒場《バー》の光景があり/\と彼の眼に浮んだ。其時の相手を今度は自分の方で此所へ案内したといふ事が、彼には一種の意味で得意であつた。
 「何うだね、此所の宅《うち》は。一寸綺麗で心持が好いぢやないか」
 小林は氣が付いたやうに四邊《ぐるり》を見廻した。
 「うん。此所には探偵はゐないやうだね」
 「其代り美くしい人がゐるだらう」
 小林は急に大きな聲を出した。
 「ありやみんな藝者なんか君」
 一寸極りの惡い思ひをさせられた津田は叱るやうに云つた。
 「馬鹿云ふな」
 「いや何とも限らないからね。何處に何《ど》んなものがゐるか分らない世の中だから」
 津田はます/\聲を低くした。
 「だつて藝者はあんな服裝《なり》をしやしないよ」
 「さうか。君がさう云ふなら確だらう。僕のやうな田舍ものには第一其區別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さへ着てゐればすぐ藝者だと思つちまふんだからね」
 「相變らず皮肉《ひにく》るな」
 津田は少し惡い氣色《きしよく》を外へ出した。小林は平氣であつた。
 「いや皮肉《ひにく》るんぢやないよ。實際僕は貧乏の結果|其方《そつち》の方の眼がまだ開《あ》いてゐないんだ。たゞ正直にさう思ふ丈《だけ》なんだ」
 「そんならそれで可《い》いさ」
 「可《よ》くなくつても仕方がない譯だがね。然し事實何うだらう君」
 「何が」
 「事實當世に所謂《いはゆる》レデーなるものと藝者との間に、それ程區別があるのかね」
 津田は空《そら》つ惚《とぼ》ける事の得意な此相手の前に、眞面目な返事を與へる子供らしさを超越して見せなければならなかつた。同時に何とかして、ゴツンと喰《くら》はして遣りたいやうな氣もした。けれども彼は遠慮した。といふよりも、ゴツンと遣る丈《だけ》の言葉が口へ出て來なかつた。
 「笑談《ぜうだん》ぢやない」
 「本當に笑談《ぜうだん》ぢやない」と云つた小林はひよいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと氣が付いた。然し相手に何か考へがあるんだなと悟つた彼は、餘りに怜俐過《りこうす》ぎた。彼には澄まして其所を通り拔ける丈《だけ》の腹がなかつた。それでゐて當らず障らず話を傍《わき》へ流す位の技巧は心得てゐた。彼は小林に捕《つら》まらなければならなかつた。彼は云つた。
 「何うだ君此所の料理は」
 「此所の料理も何所の料理も大抵似たもんだね。僕のやうな味覺の發達しないものには」
 「不味《まづ》いかい」
 「不味《まづ》かない、旨いよ」
 「そりや好い案配《あんばい》だ。亭主が自分でクツキングを遣るんだから、外《ほか》よりや少しは増しかも知れない」
 「亭主がいくら腕を見せたつて、僕のやうな口に合つちや敵《かな》はないよ。泣く丈《だけ》だあね」
 「だけど旨けりやそれで可《い》いんだ」
 「うん旨けりやそれで可い譯だ。然し其旨さが十錢均一の一品料理《いつぴんれうり》と同《おん》なじ事だと云つて聞かせたら亭主も泣くだらうぢやないか」
 津田は苦笑するより外に仕方がなかつた。小林は一人で喋舌《しやべ》つた。
 「一體今の僕にや、佛蘭西料理《フランスれうり》だから旨いの、英吉利料理《イギリスれうり》だから不味《まづ》いのつて、そんな通《つう》を振り廻す餘裕なんか丸《まる》でないんだ。たゞ口へ入《はい》るから旨い丈《だけ》の事なんだ」
 「だつてそれぢや何故旨いんだか、理由《わけ》が解らなくなるぢやないか」
 「解り切つてるよ。たゞ飢《ひも》じいから旨いのさ。其《その》他《ほか》に理窟も糸瓜《へちま》もあるもんかね」
 津田は又黙らせられた。然し二人の間に續く無言が重く胸に應《こた》へるやうになつた時、彼は已《やむ》を得《え》ず又口を開かうとして、忽ち小林のために機先を制せられた。
 
      百五十七
 
 「君の樣な敏感者から見たら、僕如き鈍物《どんぶつ》は、あらゆる點で輕蔑に値《あたひ》してゐるかも知れない。僕もそれは承知してゐる、輕蔑されても仕方がないと思つてゐる。けれども僕には僕で又相當の云草《いひぐさ》があるんだ。僕の鈍《どん》は必ずしも天賦の能力に原因してゐるとは限らない。僕に時を與へよだ、僕に金を與へよだ。しかる後、僕が何《ど》んな人間になつて君等の前に出現するかを見よだ」
 此時小林の頭には酒がもう少し廻つてゐた。笑談《ぜうだん》とも眞面目とも片の付かない彼の氣?には、わざと醉の力を藉《か》らうとする欝散《うつさん》の傾《かたむ》きが見えて來た。津田は相手の口にする言葉の價値を正面から首肯《うけが》ふべく餘儀なくされた上に、多少彼の歩き方に付き合ふ必要を見出《みいだ》した。
 「そりや君のいふ通りだ。だから僕は君に同情してゐるんだ。君だつて其位の事は心得てゐて呉れるだらう。でなければ、斯《か》う遣《や》つて、わざ/\會食迄して君の朝鮮行《てうせんいき》を送る譯がないからね」
 「有難う」
 「いや嘘ぢやないよ。現に此間もお延に其譯をよく云つて聽かせた位だもの」
 胡散臭《うさんくさ》いなといふ眼が小林の眉の下で輝やいた。
 「へえゝ。本當《ほんと》かい。あの細君の前で僕を辯護して呉れるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは殘つてると見えるね。然しそりや……。細君は何と云つたね」
 津田は黙つて懷へ手を入れた。小林は其|所作《しよさ》を眺めながら、わざとそれを止《や》めさせる樣に追加した。
 「はゝあ。辯護の必要があつたんだな。何うも變だと思つたら」
 津田は懷へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事は此所にある」といつて、綺麗に持つて來た金を彼に渡す積《つもり》でゐた彼は躊躇した。其代り話頭を前へ押し戻した。
 「矢張人間は境遇次第だね」
 「僕は餘裕次第だといふ積りだ」
 津田は逆《さか》らはなかつた。
 「さうさ餘裕次第とも云へるね」
 「僕は生れてから今日《けふ》迄《まで》ぎり/\決着の生活をして來たんだ。丸《まる》で餘裕といふものを知らずに生きて來た僕が、贅澤三昧《ぜいたくざんまい》我儘三昧《わがまゝざんまい》に育つた人と何う違ふと君は思ふ」
 津田は薄笑ひをした。小林は眞面目であつた。
 「考へる迄もなく此所にゐるぢやないか。君と僕さ。二人を見較べればすぐ解るだらう、餘裕と切迫で代表された生活の結果は」
 津田は心の中《うち》で其幾分を點頭《うなづ》いた。けれども今更そんな不平を聽いたつて仕方がないと思つてゐる所へ後が來た。
 「それで何うだ。僕は始終君に輕蔑される、君ばかりぢやない、君の細君からも、誰からも輕蔑される。――いや待ち給へまだいふ事があるんだ。――それは事實さ、君も承知、僕も承知の事實さ。凡《すべ》て先刻《さつき》云つた通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事が此所に一つあるんだ。勿論今更それを君に話したつてお互ひの位地が變る譯でもないんだから仕方がない樣なものゝ、是から朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に會ふ折がないかも知れないから……」
 小林は此所迄來て少し昂奮したやうな氣色《けしき》を見せたが、すぐ其後から「いや僕の事だから、行つて見ると朝鮮も案外なので、厭になつて又すぐ歸つて來ないとも限らないが」と正直な所を付け加へたので、津田は思はず笑ひ出してしまつた。小林自身も一旦|頓挫《とんざ》してから又出直した。
 「まあ未來の生活上君の參考にならないとも限らないから聽き玉へ。實を云ふと、君が僕を輕蔑してゐる通りに、僕も君を輕蔑してゐるんだ」
 「そりや解つてるよ」
 「いや解らない。輕蔑の結果はあるひは解つてるかも知れないが、輕蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じてゐないよ。だから君の今夕《こんゆふ》の好意に對して、僕は又|留別《りうべつ》のために、それを説明して行かうてんだ。何うだい」
 「よからう」
 「よくないたつて、僕のやうな一文《いちもん》なしぢや外に何も置いて行くものがないんだから仕方がなからう」
 「だから可《い》いよ」
 「黙つて聽くかい。聽くなら云ふがね。僕は今君の御馳走になつて、斯うしてぱく/\食つてる佛蘭西料理《フラソスれうり》も、此間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場《バー》の酒も、どつちも無差別に旨い位味覺の發達しない男なんだ。そこを君は輕蔑するだらう。然るに僕は却つてそこを自慢にして、輕蔑する君を逆に輕蔑してゐるんだ。いゝかね、其意味が君に解つたかね。考へて見給へ、君と僕が此點に於て何方《どつち》が窮屈で、何方《どつち》が自由だか。何方《どつち》が幸福で、何方《どつち》が束縛を餘計感じてゐるか。何方《どつち》が太平で何方《どつち》が動搖してゐるか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐つてないよ。厭なものを何處迄も避けたがつて、自分の好きなものを無暗に追懸《おつか》けたがつてるよ。そりや何故だ。何故でもない、なまじいに自由が利くためさ。贅澤をいふ餘地があるからさ。僕のやうに窮地に突き落されて、何うでも勝手にしやがれといふ氣分になれないからさ」
 津田は天《てん》から相手を見縊《みくび》つてゐた。けれども事實を認めない譯には行かなかつた。小林は慥《たし》かに彼より圖迂々々《づう/\》しく出來上つてゐた。
 
     百五十八
 
 然し小林の説法にはまだ後があつた。津田の樣子を見澄ました彼は突然思ひ掛けない所へ舞ひ戻つて來た。それは會見の最初一寸二人の間に點綴《てんてつ》されながら、前後の勢ですぐ何處かへ流されてしまつた問題に外ならなかつた。
 「僕の意味はもう君に通じてゐる。然し君はまだ成程といふ心持になれないやうだ。矛盾だね。僕は其譯を知つてるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だといふ事が、聽明な君を煩《わづら》はしてゐるんだ。もし是が吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもつとずつと詰らない説でも、君は襟を正して聽くに違ないんだ。いや僕の僻《ひがみ》でも何でもない、爭ふべからざる事實だよ。けれども君考へなくつちや不可《いけな》いぜ。僕だから是《これ》丈《だけ》の事が云へるんだといふ事を。先生だつて奧さんだつて、其所へ行くと駄目だといふ事も心得て置き玉へ。何故だ? 何故でもないよ。いくら先生が貧乏したつて、僕だけの經驗は甞《な》めてゐないんだからね。况《いは》んや先生以上に樂をして生きて來た彼《かの》輩《はい》に於てをやだ」
 彼《かの》輩《はい》とは誰の事だか津田にも能く解らなかつた。彼はたゞ腹の中で、大方吉川夫人だの岡本だのを指《さ》すのだらうと思つたぎりであつた。實際小林は相手にそんな質問を掛けさせる餘地を與へないで、さつさと先へ行つた。
 「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云つたやうな助言《じよごん》――だか忠告だか、又は單なる知識の供給だか、それは何でも構はないが、兎に角そんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、然し胸では納得しない、是が現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれ丈《だけ》懸絶してゐるんだから仕方がないと跳ね付けられゝばそれ迄だが、其所に君の注意を拂はせたいのが、實は僕の目的だ、いゝかね。人間の境遇もしくは位地の懸絶といつた所で大したものぢやないよ。本式に云へば十人が十人ながら畧《ほゞ》同じ經驗を、違つた形式で繰り返してゐるんだ。それをもつと判然《はつきり》云ふとね、僕は僕で、僕に最も切實な眼でそれを見るし、君は又君で、君に最も適當な眼でそれを見る、まあその位の違だらうぢやないか。だからさ、順境にあるものが一寸面喰ふか、迷兒《まご》つくか、蹴爪《けつま》づくかすると、そらすぐ眼の球の色が變つて來るんだ。然しいくら眼の球の色が變つたつて、急に眼の位置を變へる譯には行かないだらう。つまり君に一朝《いつてう》事があつたとすると、君は僕の此|助言《じよごん》を屹度《きつと》思ひ出さなければならなくなるといふ丈《だけ》の事さ」
 「ぢや能く氣を付けて忘れないやうにして置くよ」
 「うん忘れずに居玉へ、必ず思ひ當る事が出て來るから」
 「よろしい。心得たよ」
 「所がいくら心得たつて駄目なんだから可笑《をかし》いや」
 小林は斯う云つて急に笑ひ出した。津田には其意味が解らなかつた。小林は訊かれない先に説明した。
 「其時ひょつと氣が付くとするぜ、いゝかね。さうしたら其時の君が、やつといふ掛聲《かけごゑ》と共に、早變りが出來るかい。早變りをして此僕になれるかい」
 「そいつは解らないよ」
 「解らなかない、解つてるよ。なれないに極つてるんだ。憚りながら此所迄來るには相當の修業が要るんだからね。いかに癡鈍《ちどん》な僕と雖も、現在の自分に對しては是で血《ち》の代《しろ》を拂つてるんだ」
 津田は小林の得意が癪に障つた。此奴《こいつ》が狗《いぬ》のやうな毒血を拂つて果して何物を※[手偏+國]《つか》んでゐる? 斯う思つた彼はわざと輕蔑の色を面《おもて》に現はして訊いて見た。
 「それぢや何のためにそんな話を僕にして聽かせるんだ。たとひ僕が覺えてゐたつて、いざといふ場合の役にや立たないぢやないか」
 「役にや立つまいよ。然し聽かないより増しぢやないか」
 「聽かない方が増しな位だ」
 小林は嬉しさうに身體を椅子の脊に靠《もた》せ掛《か》けて又笑ひ出した。
 「其所だ。さう來る所が此方《こつち》の思ふ壺なんだ」
 「何をいふんだ」
 「何も云やしない、たゞ事實を云ふのさ。然し説明|丈《だけ》はして遣らう。今に君が其所へ追ひ詰められて、何うする事も出來なくなつた時に、僕の言葉を思ひ出すんだ。思ひ出すけれども、ちつとも言葉通りに實行は出來ないんだ。これならなまじいあんな事を聽いて置かない方が可《よ》かつたといふ氣になるんだ」
 津田は厭な顔をした。
 「馬鹿、さうすりや何處が何うするんだ」
 「何うしもしないさ。つまり君の輕蔑に對する僕の復讐が其時始めて實現されるといふ丈《だけ》さ」
 津田は言葉を改めた。
 「それ程君は僕に敵意を有《も》つてるのか」
 「何うして、何うして、敵意どころか、好意精一杯といふ所だ。けれども君の僕を輕蔑してゐるのは何時《いつ》迄《まで》行つても事實だらう。僕がその裏を指摘して、此方《こつち》から見ると其君にも亦輕蔑すべき點があると注意しても、君は乙《おつ》に高く留つて平氣でゐるぢやないか。つまり口ぢや駄目だ、實戰で來いといふ事になるんだから、僕の方でも已《やむ》を得《え》ず其所迄行つて勝負を決しやうといふ丈《だけ》の話だあね」
 「さうか、解つた。――もうそれぎりかい、君のいふ事は」
 「いや何うして。是から愈《いよ/\》本論に入《はい》らうといふんだ」
 津田は一氣に洋盃《コツプ》を唇へあてがつて、ぐつと麥酒《ビール》を飲み干した小林の樣子を、少し呆れながら眺めた。
 
     百五十九
 
 小林は言葉を繼ぐ前に、洋盃《コツプ》を下へ置いて、先づ室内を見渡した。女伴《をんなづれ》の客のうち、一組の相手は洗指盆《フインガーボール》の中へ入れた果物を食つた後の手を、袂から出した美くしい手帛《ハンケチ》で拭いてゐた。彼の筋向ふに席を取つて、先刻《さつき》から時々自分達の方を偸《ぬす》むやうにして見る二十五六の方は、??茶碗《コーヒーぢやわん》を手にしながら、男の吹かす烟草の烟を眺めて、しきりに芝居の話をしてゐた。兩方とも彼等より先に來た丈《だけ》あつて、彼等より先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行してゐるらしく見えた時、小林は云つた。
 「やあ丁度好い。まだゐる」
 津田はまたはつと思つた。小林は屹度《きつと》彼等の氣を惡くする樣な事を、彼等に聽こえよがしに云ふに違なかつた。
 「おいもう好い加減に止《よ》せよ」
 「まだ何にも云やしないぢやないか」
 「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の惡口などは、ちつと愼しんで呉れ、斯《こ》んな所へ來て」
 「厭に小心だな。大方場末の酒場《バー》と此所と一所にされちや堪らないといふ意味なんだらう」
 「まあ左右《さう》だ」
 「まあ左右《さう》だなら、僕の如き無頼漢を斯《こ》んな所へ招待するのが間違だ」
 「ぢや勝手にしろ」
 「口で勝手にしろと云ひながら、内心ひや/\してゐるんだらう」
 津田は黙つてしまつた。小林は面白さうに笑つた。
 「勝つたぞ、勝つたぞ。何うだ降參したらう」
 「それで勝つた積《つもり》なら、勝手に勝つた積《つもり》でゐるがいゝ」
 「其代り今後|益《ます/\》貴樣を輕蔑して遣るからさう思へだらう。僕は君の輕蔑なんか屁とも思つちやゐないよ」
 「思はなけりや思はないでも可《い》いさ。五月蠅《うるさ》い男だな」
 小林はむつとした津田の顔を覗き込むやうにして見詰めながら云つた。
 「何うだ解つたか、おい。是が實戰といふものだぜ。いくら餘裕があつたつて、金持に交際があつたつて、いくら氣位を高く構へたつて、實戰に於て敗北すりや夫《それ》迄《まで》だらう。だから僕が先刻《さつき》から云ふんだ、實地を踏んで鍛へ上げない人間は、木偶《でく》の坊《ばう》と同《おん》なじ事だつて」
 「左右《さう》だ/\。世の中で擦《す》れつ枯《か》らしと醉拂ひに敵《かな》ふものは一人もないんだ」
 何か云ふ筈の小林は、此時返事をする代りに又|女伴《をんなづれ》の方を一順《いちじゆん》見廻した後で、云つた。
 「ぢや愈《いよ/\》第三だ。あの女の立たないうちに話してしまはないと氣が濟まない。好いかね、君、先刻《さつき》の續きだぜ」
 津田は黙つて横を向いた。小林は一向《いつかう》横はなかつた。
 「第三にはだね。即ち換言すると、本論に入《はい》つて云へばだね。僕は先刻《さつき》彼所《あすこ》にゐる女達を捕《つら》まへて、ありや藝者かつて君に聽いて叱られたね。君は貴婦人に對する禮義を心得ない野人として僕を叱つたんだらう。よろしい僕は野人だ。野人だから藝者と貴婦人との區別が解らないんだ。それで僕は君に訊いたね、一體藝者と貴婦人とは何所が何う違ふんだつて」
 小林は斯う云ひながら、三度目の視線をまた女伴《をんなづれ》の方に向けた。手帛《ハンケチ》で手を拭いてゐた人は、それを合圖のやうに立ち上つた。殘る一人《いちにん》も給仕を呼んで勘定を拂つた。
 「とう/\立つちまつた。もう少し待つてると面白い所へ來るんだがな、惜しい事に」
 小林は出て行く女伴《をんなづれ》の後影《うしろかげ》を見送つた。
 「おや/\うもう一人も立つのか。ぢや仕方がない、相手は矢つ張り君|丈《だけ》だ」
 彼は再び津田の方へ向き直つた。
 「問題は其所だよ、君。僕が佛蘭西料理《フランスれうり》と英吉利料理《イギリスれうり》を食ひ分ける事が出來ずに、糞と味噌を一所にして自慢すると、君は相手にしない。高が口腹《こうふく》の問題だといふ顔をして高《たか》を括《くゝ》つてゐる。然し内容は一つものだぜ、君。此味覺が發達しないのも、藝者と貴婦人を混同するのも」
 津田はそれが何うしたと云はぬばかりの眼を翻がへして小林を見た。
 「だから結論も一つ所へ歸着しなければならないといふのさ。僕は味覺の上に於て、君に輕蔑されながら、君より幸福だと主張する如く、婦人を識別する上に於ても、君に輕蔑されながら、君より自由な境遇に立つてゐると斷言して憚からないのだ。つまり、あれは藝者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればある程、其男の苦痛は増して來るといふんだ。何故と云つて見給へ。仕舞には、あれも厭、是も厭だらう。或は是でなくつちや不可《いけな》い、彼《あれ》でなくつちや不可《いけな》いだらう。窮屈千萬ぢやないか」
 「然し其窮屈千萬が好きなら仕方なからう」
 「來たな、とう/\。食物《くひもの》だと相手にしないが、女の事になると、矢つ張り黙つてゐられなくなると見えるね。其所だよ、其所を實際問題に就いて、是から僕が論じようといふんだ」
 「もう澤山だ」
 「いや澤山ぢやないらしいぜ」
 二人は顔を見合はせて苦笑した。
 
     百六十
 
 小林は旨く津田を釣り寄せた。それと知つた津田は考へがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとう/\際《きは》どい所へ入《はい》り込《こ》まなければならなくなつた。
 「例《たと》へばだね」と彼が云ひ出した。「君はあの清子《きよこ》さんといふ女に熱中してゐたらう。一《ひと》しきりは、何《なん》でも彼《か》でもあの女でなけりやならないやうな事を云つてたらう。それ許《ばかり》ぢやない、向ふでも天下に君一人より外に男はないと思つてるやうに解釋してゐたらう。所が何うだい結果は」
 「結果は今の如くさ」
 「大變|淡泊《さつぱ》りしてゐるぢやないか」
 「だつて外に仕樣《しやう》がなからう」
 「いや、あるんだらう。あつても乙《おつ》に氣取《きど》つて澄ましてゐるんだらう。でなければ僕に隱して今でも何か遣《や》つてるんだらう」
 「馬鹿いふな。そんな出鱈目《でたらめ》を無暗に口走ると飛んだ間違になる。少し氣を付けて呉れ」
 「實は」と云ひ掛けた小林は、其《その》後《あと》を知つてるかと云はぬ許《ばかり》の樣子をした。津田はすぐ訊きたくなつた。
 「實は何うしたんだ」
 「實は此間《このあひだ》君の細君にすつかり話しちまつたんだ」
 津田の表情が忽ち變つた。
 「何を?」
 小林は相手の調子と顔付を、噛んで味はひでもするやうに、少時《しばらく》間《ま》を置《お》いて黙つてゐた。然し返事を表へ出した時は、もう態度を一變してゐた。
 「嘘だよ。實は嘘だよ。さう心配する事はないよ」
 「心配はしない。今になつて其位の事を云付《いつ》けられたつて」
 「心配しない? さうか、ぢや此方《こつち》も本當だ。實は本當だよ。みんな話しちまつたんだよ」
 「馬鹿ツ」
 津田の聲は案外大きかつた。行儀よく椅子に腰を掛けてゐた給仕の女が、一寸首を上げて眼を此方《こつち》へ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
 「貴婦人《レデー》が驚ろくから少し靜かにして呉れ。君の樣な無頼漢と一所に酒を飲むと、どうも外聞が惡くて不可《いけな》い」
 彼は給使の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人|怒《おこ》る譯に行かなかつた。小林は又すぐ其機に付け込んだ。
 「一體あの?末は何うしたのかね。僕は詳しい事を聽かなかつたし、君も話さなかつた、のぢやない、僕が忘れちまつたのか。そりや何うでも構はないが、ありや向ふで逃げたのかね、或は君の方で逃げたのかね」
 「それこそ何うでも構はないぢやないか」
 「うん僕としては構はないのが當然だ。又實際構つちやゐない。が、君としてはさうは行くまい。君は大構《おほかま》ひだらう」
 「そりや當り前さ」
 「だから先刻《さつき》から僕が云ふんだ。君には餘裕があり過ぎる。其餘裕が君をして餘りに贅澤ならしめ過ぎる。其結果は何うかといふと、好きなものを手に入れるや否や、すぐ其次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地團太《ぢだんだ》を踏んで口惜《くや》しがる」
 「何時《いつ》そんな樣《ざま》を僕がした」
 「したともさ。それから現にしつゝあるともさ。それが君の餘裕に祟られてゐる所以《ゆゑん》だね。僕の最も痛快に感ずる所だね。貧賤が富貴に向つて復讐をやつてる因果應報の理だね」
 「さう頭から自分の拵《こしら》へた型《かた》で、他《ひと》を評價する氣ならそれ迄だ。僕には辯解の必要がない丈《だけ》だから」
 「ちつとも自分で型《かた》なんか拵へてゐやしないよ僕は。是でも實際の君を指摘してゐる積《つもり》なんだから。分らなけりや、事實で教へて遣らうか」
 教へろとも教へるなとも云はなかつた津田は、ついに教へられなければならなかつた。
 「君は自分の好みでお延《のぶ》さんを貰つたらう。だけれども今の君は決してお延さんに滿足してゐるんぢやなからう」
 「だつて世の中に完全なもののない以上、それも已《やむ》を得《え》ないぢやないか」
 「といふ理由を付けて、もつと上等なのを探し廻る氣だらう」
 「人聞の惡い事を云ふな、失敬な。君は實際自分でいふ通りの無頼漢だね。觀察の下卑《げび》て皮肉な所から云つても、言動の無遠慮で、粗野《そや》な所から云つても」
 「さうしてそれが君の輕蔑に値《あたひ》する所以《ゆゑん》なんだ」
 「勿論さ」
 「そらね。さう來るから畢竟《ひつきやう》口先ぢや駄目なんだ。矢ツ張り實戰でなくつちや君は悟れないよ。僕が豫言するから見てゐろ。今に戰ひが始まるから。其時漸く僕の敵でないといふ意味が分るから」
 「構はない、擦《す》れつ枯《か》らしに負けるのは僕の名譽だから」
 「強情だな。僕と戰ふんぢやないぜ」
 「ぢや誰と戰ふんだ」
 「君は今既に腹の中《なか》で戰ひつゝあるんだ。それがもう少しすると實際の行爲になつて外へ出る丈《だけ》なんだ。餘裕が君を煽動して無役《むえき》の負戰《まけいくさ》をさせるんだ」
 津田はいきなり懷中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別の用意に持つて來た金を小林の前へ突き付けた。
 「今渡して置くから受取つておけ。君と話してゐると、段々此約束を履行するのが厭になる丈《だけ》だから」
 小林は新らしい十圓|紙幣《さつ》の二つに折れたのを廣げて丁寧に、枚數を勘定した。
 「三枚あるね」
 
     百六十一
 
 小林は受け取つたものを、赤裸《あかはだか》の儘無雜作に脊廣の隱袋《ポケツト》の中へ投げ込んだ。彼の所作《しよさ》が平淡であつた如く、彼の禮の云ひ方も横着であつた。
 「サンクス。僕は借りる氣だが、君は呉れる積《つもり》だらうね。如何《いかん》となれば、僕に返す手段のない事を、又返す意志のない事を、君は最初から輕蔑の眼をもつて、認めてゐるんだから」
 津田は答へた。
 「無論|遣《や》つたんだ。然し貰つて見たら、如何《いか》な君でも自分の矛盾に氣が付かずにはゐられまい」
 「いや一向《いつかう》氣が付かない。矛盾とは一體何だ。君から金を貰ふのが矛盾なのか」
 「左右《さう》でもないがね」と云つた津田は上から下を見下《みおろ》すやうな態度をとつた。「まあ考へて見給へ。其金はつい今迄僕の紙入の中にあつたんだぜ。さうして轉瞬《てんしゆん》の間《あひだ》に君の隱袋《ポケツト》の裏に移轉してしまつたんだぜ。そんな小説的の言葉を使ふのが厭なら、もつと判然《はつきり》云はうか。其金の所有權を急に僕から君に移したものは誰だ。答へて見ろ」
 「君さ。君が僕に呉れたのさ」
 「いや僕ぢやないよ」
 「何を云ふんだな禅坊主の寐言《ねごと》見たいな事を。ぢや誰だい」
 「誰でもない、餘裕さ。君の先刻《さつき》から攻撃してゐる餘裕が呉れたんだ。だから黙つてそれを受け取つた君は、口で無茶苦茶に餘裕を打《ぶ》ちのめしながら、其實餘裕の前にもう頭を下げてゐるんだ。矛盾ぢやないか」
 小林は眼をぱち/\させた後《あと》で斯う云つた。
 「成程な、さう云へばそんなものか知ら。然し何だか可笑《をかし》いよ。實際僕はちつとも其餘裕なるものゝ前に、頭を下げてる氣がしないんだもの」
 「ぢや返して呉れ」
 津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女の樣に柔らかさうな其|掌《てのひら》を見た。
 「いや返さない。餘裕は僕に返せと云はないんだ」
 津田は笑ひながら手を引き込めた。
 「それ見ろ」
 「何がそれ見ろだ。餘裕は僕に返せと云はないといふ意味が君にはよく解らないと見えるね。氣の毒なる貴公子《きこうし》よだ」
 小林は斯う云ひながら、横を向いて戸口の方を見つゝ、又一句を付け加へた。
 「もう來さうなものだな」
 彼の樣子を能く見守つた津田は、少し驚ろかされた。
 「誰が來るんだ」
 「誰でもない、僕よりもまだ餘裕の乏しい人が來るんだ」
 小林は裸のまゝ紙幣を仕舞ひ込んだ自分の隱袋《ポケツト》を、わざとらしく輕く叩いた。
 「君から僕に是を傳へた餘裕は、再び是を君に返せとは云はないよ。僕よりもつと餘裕の足りない方へ順送《じゆんおく》りに送れと命令するんだよ。餘裕は水のやうなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行《ぎやくかう》しないよ」
 津田は畧《ほゞ》小林の言葉を、意解《いかい》する事が出來た。然し事解《じかい》する事は出來なかつた。從つて半醒半醉のやうな落ち付きのない状態に陷《おちい》つた。其所《そこ》へ小林の次の挨拶がどさ/\と侵入して來た。
 「僕は餘裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭辯《きべん》を首肯《しゆこう》するよ。何でも構はないよ。禮を云ふよ、感謝するよ」
 彼は突然ぽた/\と涙を落し始めた。此急劇な變化が、少し驚ろいてゐる津田を一層不安にした。先達《せんだつ》ての晩|手古摺《てこず》らされた酒場《バー》の光景を思ひ出さざるを得なくなつた彼は、眉をひそめると共に、相手を利用するのは今だといふ事に氣が付いた。
 「僕が何で感謝なんぞ豫期するものかね、君に對して。君こそ昔を忘れてゐるんだよ。僕の方が昔の儘でしてゐる事を、君はみんな逆《さか》に解釋するから、交際が益《ます/\》面倒になるんぢやないか。例へばだね、君が此間僕の留守へ外套を取りに行つて、其|序《ついで》に何か妻《さい》に云つたといふ事も――」
 津田は是《これ》丈《だけ》云つて暗《あん》に相手の樣子を窺つた。然し小林が下を向いてゐるので、彼は丸《まる》で其心持の轉化作用を忖度《そんたく》する事が出來なかつた。
 「何も好んで友達の夫婦仲を割《さ》くやうな惡戯《いたづら》をしなくつても可《い》い譯ぢやないか」
 「僕は君に關して何も云つた覺《おぼえ》はないよ」
 「然し先刻《きつき》……」
 「先刻《さつき》は笑談《ぜうだん》さ。君が冷嘲《ひやか》すから僕も冷嘲《ひやか》したんだ」
 「何方《どつち》が冷嘲《ひやか》し出したんだか知らないが、そりや何うでも可《い》いよ。たゞ本當の所を僕に云つて呉れたつて好ささうなものだがね」
 「だから云つてるよ。何にも君に關して云つた覺《おぼえ》はないと何遍も繰り返して云つてるよ。細君を訊《き》き糺《たゞ》して見れば解る事ぢやないか」
 「お延は……」
 「何と云つたい」
 「何とも云はないから困るんだ。云はないで腹の中《うち》で思つてゐられちや、辯解も出來ず説明も出來ず、困るのは僕|丈《だけ》だからね」
 「僕は何にも云はないよ。たゞ君が是から夫《をつと》らしくするかしないかが問題なんだ」
 「僕は――」
 津田が斯う云ひ掛けた時、近寄る足音と共に新らしく入《はい》つて來た人が、彼等の食卓の傍《そば》に立つた。
 
     百六十二
 
 それが先刻《きつき》大通りの角で、小林と立談《たちばなし》をしてゐた長髪の青年であるといふ事に氣の付いた時、津田は更に驚ろかされた。けれども其驚ろきのうちには、暗《あん》に此男を待ち受けてゐた期待も交《まじ》つてゐた。明らさまな津田の感じを云へば、斯《こ》んな人が此所へ來る筈はないといふ斷案と、もし此所へ誰か來るとすれば、此人より外にあるまいといふ豫想の矛盾であつた。
 實を云ふと、自働車の燭光《あかり》で照らされた時、彼の眸《ひとみ》の裏《うち》に映つた此人の影像《イメジ》は津田に取つて奇異なものであつた。自分から小林、小林から此青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服裝なり、種々な點に於て隨分な距離があつた。勢ひ津田は彼を遠くに眺めなければならなかつた。然し遠くに眺めれば眺める程、強く彼を記憶しなければならなかつた。
 「小林はあゝいふ人と交際《つきあ》つてるのかな」
 斯う思つた津田は、其時さういふ人と交際《つきあ》つてゐない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考へた後《あと》なので、新來者に對する彼の態度も自《おの》づから明白であつた。彼は突然|胡散臭《うさんくさ》い人間に挨拶をされたやうな顔をした。
 上へ反《そ》つ繰《く》り返《かへ》つた細い鍔《つば》の、ぐにや/\した帽子を脱《と》つて手に持つた儘、小林の隣りへ腰を卸した青年の眼には異樣の光りがあつた。彼は津田に對して現に不安を感じてゐるらしかつた。それは一種の反感と、恐怖と、人馴れない野育ちの自尊心とが錯雜して起す神經的な光りに見えた。津田は益《ます/\》厭な氣持になつた。小林は青年に向つて云つた。
 「おいマントでも取れ」
 青年は黙つて再び立ち上つた。さうして釣鐘のやうな長い合羽《かつぱ》をすぽりと脱いで、それを椅子の脊に投げ掛けた。
 「是は僕の友達だよ」
 小林は始めて青年を津田に紹介《ひきあは》せた。原といふ姓と藝術家といふ名稱が漸く津田の耳に入《はい》つた。
 「何うした。旨く行つたかね」
 是が小林の次に掛けた質問であつた。然し此質問は充分な返事を得る暇がなかつた。小林は後からすぐ斯う云つてしまつた。
 「駄目だらう。駄目に極つてるさ、あんな奴。あんな奴に君の藝術が分つて堪《たま》るものか。いゝからまあ緩《ゆつ》くりして何か食ひ給へ」
 小林は忽ちナイフを倒《さか》さまにして、やけに食卓《テーブル》を叩いた。
 「おい此人の食ふものを持つて來い」
 やがて原の前にあつた洋盃《コツプ》の中に麥酒《ビール》がなみ/\と注《つ》がれた。
 此樣子を黙つて眺めてゐた津田は、自分の持つて來た用事のもう濟んだ事に漸く氣が付いた。斯《こ》んなお付合《つきあひ》を長くさせられては大變だと思つた彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。
 「原君は好い繪を描《か》くよ、君。一枚買つて遣り給へ。今困つてるんだから、氣の毒だ」
 「さうか」
 「何うだ、此次の日曜位に、君の家《うち》へ持つて行つて見せる事にしたら」
 津田は驚ろいた。
 「僕に繪なんか解らないよ」
 「いや、そんな筈はない、ねえ原。何しろ持つて行つて見せて見給へ」
 「えゝ御迷惑でなければ」
 津田の迷惑は無論であつた。
 「僕は繪だの彫刻だのゝ趣味の丸《まる》でない人間なんですから、何うぞ」
 青年は傷《きずつ》けられたやうな顔をした。小林はすぐ應援に出た。
 「嘘を云ふな。君位鑑賞力の豐富な男は實際世間に少ないんだ」
 津田は苦笑せざるを得なかつた。
 「又下らない事を云つて、――馬鹿にするな」
 「事實を云ふんだ、馬鹿にするものか。君のやうに女を鑑賞する能力の發達したものが、藝術を粗末にする譯がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、藝術も好きに極つてるね。いくら隱したつて駄目だよ」
 津田は段々|辛防《しんばう》し切れなくなつて來た。
 「大分《だいぶ》話が長くなりさうだから、僕は一足《ひとあし》先へ失敬しよう、――おい姉さん會計だ」
 給仕が立ちさうにする所を、小林は大きな聲を出して止《と》めながら、又津田の方へ向き直つた。
 「丁度今一枚|素敵《すてき》に好いのが描《か》いてあるんだ。それを買はうといふ望手《のぞみて》の所へ價直《ねだん》の相談に行つた歸《かへ》り掛《がけ》に、原君は此所へ寄つたんだから、旨い機會ぢやないか。是非買ひ給へ。藝術家の足元へ付け込んで、無暗に價切《わぎ》り倒《たふ》すなんて失敬な奴へは賣らないが好いといふのが僕の意見なんだ。其代り屹度《きつと》買手を周旋して遣るから、歸りに此所へ寄るがいゝと、先刻《さつき》彼所《あすこ》の角で約束して置いたんだ、實を云ふと。だから一つ買つて遣るさ、譯やないやね」
 「他《ひと》に繪も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたつて仕樣《しやう》がないぢやないか」
 「繪は見せるよ。――君今日持つて歸らなかつたのか」
 「もう少し待つて呉れつていふから置いて來た」
 「馬鹿だな、君は。仕舞にロハで捲き上げられてしまふ丈《だけ》だぜ」
 津田は此問答を聽いてほつと一息|吐《つ》いた。
 
     百六十三
 
 二人は津田を差し置いて、しきりに繪畫の話をした。時々耳にする三角派《さんかくは》とか未來派《みらいは》とかいふ奇怪な名稱の外に、彼は今迄曾て聽いた事のないやうな片假名をいくつとなく聽かされた。その何處《いづこ》にも興味を見出《みい》だし得なかつた彼は、會談の圏外《けんぐわい》へ放逐される迄もなく、自分から埒《らち》を脱《ぬ》け出《だ》したと同じ事であつた。是《これ》丈《だけ》でも一通り以上の退屈である上に、津田を厭がらせる積極的なものがまだ一つあつた。彼は自分の眼前に見る此二人、ことに小林を、無暗に新らしい藝術を振り廻したがる半可通《はんかつう》として、最初から取扱つてゐた。彼は此|偏見《プレジユヂス》の上へ、乙に識者ぶる彼等の態度を追加して眺めた。此點に於て無知な津田を羨やましがらせるのが、殆んど二人の目的ででもあるやうに見え出した時、彼は無理に一旦落ち付けた腰を又浮かしに掛つた。すると小林が又抑留した。
 「もう直《ぢき》だ、一所に行くよ、少し待つてろ」
 「いや餘《あん》まり遲くなるから……」
 「何もそんなに他《ひと》に耻を掻かせなくつても宜《よ》からう。それとも原君が食つちまふ迄待つてると、紳士の體面に關はるとでも云ふのか」
 原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉《フオーク》で突き差した手を止《や》めた。
 「何うぞお構ひなく」
 津田が輕く會釋を返して、愈《いよ/\》立ち上がらうとした時、小林は殆んど獨りごとのやうに云つた。
 「一體この席を何と思つてるんだらう。送別會と號して他《ひと》を呼んで置きながら、肝心のお客さんを殘して、先へ歸つちまふなんて、侮辱を與へる奴が世の中にゐるんだから厭になるな」
 「そんな積《つもり》ぢやないよ」
 「積《つもり》でなければ、もう少《すこし》居ろよ」
 「少《すこ》し用があるんだ」
 「此方《こつち》にも少《すこ》し用があるんだ」
 「繪なら御免だ」
 「繪も無理に買へとは云はないよ。吝《けち》な事を云ふな」
 「ぢや早く其用を片付けて呉れ」
 「立つてちや駄目だ、紳士らしく坐らなくつちや」
 仕方なしに又腰を卸した津田は、袂から烟草を出して火を點《つ》けた。不圖《ふと》見ると、灰皿は敷島の殘骸でもう一杯になつてゐた。今夜の記念として是程適當なものはないといふ氣が、偶然津田の頭に浮かんだ。是から呑まうとする一本も、三分經つか經たないうちに、灰と煙と吸口|丈《だけ》に變形して、役にも立たない冷たさを皿の上に留めるに過ぎないと思ふと、彼は何となく厭な心持がした。
 「何だい、其用事といふのは。眞逆《まさか》無心ぢやあるまいね、もう」
 「だから吝《けち》な事を云ふなと、先刻《さつき》から云つてるぢやないか」
 小林は右の手で脊廣の右前を※[手偏+國]《つか》んで、左の手を隱袋《ポケツト》の中へ入れた。彼は暗闇《くらやみ》で物を探《さぐ》るやうに、しばらく入れた手を、脊廣の裏側で動かしながら、其間始終眼を津田の顔へぴつたり付けてゐた。すると急に突飛な光景《シーン》が、津田の頭の中に描き出された。同時に變な妄想が、今呑んでゐる烟草の烟のやうに、淡く彼の心を掠《かす》めて過ぎた。
 「此奴《こいつ》は懷から短銃《ピストル》を出すんぢやないだらうか。さうしてそれを己《おれ》の鼻の先へ突き付ける積《つもり》ぢやないかしら」
 芝居じみた一刹那が彼の豫感を微《かす》かに搖振《ゆすぶ》つた時、彼の神經の末梢は、眼に見えない風に弄《なぶ》られる細い小枝のやうに顫動《せんどう》した。それと共に、妄《みだ》りに自分で拵へた此|一場《いちぢやう》の架空劇を餘所目《よそめ》に見て、その荒誕《くわうたん》を冷笑《せゝらわら》ふ理智の力が、もう彼の中心に働らいてゐた。
 「何を探してゐるんだ」
 「いや色々なものが一所に入《はい》つてるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多に君の前へは出されないんだ」
 「間違へて先刻《さつき》放り込んだ札《さつ》でも出すと、厄介だらう」
 「なに札《さつ》は大丈夫だ。外の紙片《かみぎれ》と違つて活きてるから。斯う遣《や》つて、手で障つて見るとすぐ分るよ。隱袋《ポケツト》の中で、ぴち/\跳ねてる」
 小林は減らず口を利きながら、わざと空《むな》しい手を出した。
 「おやないぞ。變だな」
 彼は左胸部にある表隱袋《おもてかくし》へ再び右の手を突き込んだ。然し其所から彼の撮《つま》み出《だ》したものは皺だらけになつた薄汚ない手帛《ハンケチ》丈《だけ》であつた。
 「何だ手品《てづま》でも使ふ氣なのか、其|手帛《ハンケチ》で」
 小林は津田の言葉を耳にも掛けなかつた。眞面目な顔をして、立ち上りながら、兩手で腰の左右を同時に叩いた後で、いきなり云つた。
 「うん此所にあつた」
 彼の洋袴《ズボン》の隱袋《ポケツト》から引き摺り出したものは、一通の手紙であつた。
 「實は此奴《こいつ》を君に讀ませたいんだ。それももう當分君に會ふ機會がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話してゐる間に、一寸讀んで呉れ。何|譯《わけ》やないやね、少し長いけれども」
 封書を受取つた津田の手は、殆んど器械的に動いた。
 
     百六十四
 
 ペンで原稿紙へ書きなぐるやうに認《したゝ》められた其手紙は、長さから云つても、無論普通の倍以上あつた。のみならず宛名《あてな》は小林に違なかつたけれども、差出人は津田の見た事も聽いた事もない全く未知の人であつた。津田は封筒の裏表を讀んだ後で、それが果して自分に何の關係があるのだらうと思つた。けれども冷やかな無關心の傍《かたはら》に起つた一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘《さそ》つた。封筒から引き拔いた十行二十字詰の罫紙《けいし》の上へ眼を落した彼は一氣に讀み下した。
 「僕は此所へ來た事をもう後悔しなければならなくなつたのです。貴方《あなた》は定めて飽《あき》つぽいと思ふでせう、然し是は貴方と僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。またかと云はずに、まあ僕の訴へを聞いて下さい。女ばかりで夜《よる》が不用心《ぶようじん》だから銀行の整理のつくまで泊りに來て留守番をしてくれ、小説が書きたければ自由に書くが可《い》い、圖書館へ行くなら辨當を持つて行くがいゝ、牛後は畫《ゑ》を習ひに行くが可い。今に銀行を東京へ持つて來ると外國語學校へ入れて遣る、家《うち》の始末は心配するな、轉居の金は出してやる。――僕は斯《こ》んな有難い條件に誘惑されたのです。尤も一から十迄|當《あて》にした譯でもないんですが、其何割かは本當に違ひないと思ひ込んだのです。所が來て見ると、本當は一つもないんです、頭から尻迄嘘の皮なんです。叔父は東京にゐる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩迄使ひ歩きをさせられる丈《だけ》なのです。叔父は僕の事を「宅《うち》の書生」といひます、しかも客の前でです、僕のゐる前でです。斯《こ》んな譯で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になつてしまふのです。金はまだ一錢も貰つたことがありません。僕の穿《は》いてゐた一圓の下駄が割れたら十二錢のやつを買つて穿《は》かせました。叔父は明日《あした》金を遣ると云つて、僕の家族を姉の所へ轉居させたのですが、越してしまつたら、金の事は噫《おくび》にも出さないので、僕は歸る宅《うち》さへなくなりました。
 叔父の仕事は丸《まる》で山です。金なんか少しもないのです。さうして彼等夫婦は極めて冷やかな極めて吝嗇《りんしよく》な人達です。だから來た當座僕は空腹に堪へかねて、三日に一遍位姉の家《うち》へ歸つて飯を食はして貰ひました。兵糧が盡きて燒芋《やきいも》や馬鈴薯《じやがいも》で間に合せてゐたこともあります。尤もこれは僕|丈《だけ》です。叔母は極めて感じの惡い女です。萬事が打算的で、體裁《ていさい》ばかりで、いやにこせ/\突ツ付き廻したがるんで、僕はちく/\刺されどうしに刺されてゐるんです。叔父は金のない癖に酒|丈《だけ》は飲みます。さうして田舍へ行けば殿樣だなどと云つて威張るんです。然し裏側へ入《はい》つて見ると驚ろく事ばかりです。訴訟事件さへ澤山起つてゐる位です。出發のたびに汽車賃がなくつて、質屋へ駈けつけたり、姉の家《うち》へ行つて、苦しい所を算段して來て遣《や》つたりしてゐますが、叔父の方ぢや、僕の食費と差引にする氣か何かで澄ましてゐるのです。
 叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持《くひぶち》でも入れるものとでも思つてるんでせう、僕がペンを持つてゐると、そんなにして書いたものは一體何うなるの、なんて當擦《あてこす》りを云ひます。新聞の職業案内欄に出てゐる「事務員募集」の廣告を突き付けて謎《なぞ》を掛けたりします。
 斯ういふ事が繰り返されて見ると、僕は何しに此所へ來たんだか、丸《まる》で譯が解らなくなる丈《だけ》です。僕は變に考へさせられるのです。全く形を成さない此家の奇怪な生活と、變幻|窮《きはま》りなき此妙な家庭の内情が、朝から晩迄恐ろしい夢でも見てゐるやうな氣分になつて、僕の頭に祟つてくるんです。それを他《ひと》に話したつて、到底通じつこないと思ふと、世界のうちで自分|丈《だけ》が魔に取り卷かれてゐるとしか考へられないので、猶《なは》心細くなるのです、さうして時々は氣が狂ひさうになるのです。といふよりももう氣が狂つてゐるのではないかしらと疑がひ出すと、堪《たま》らなく恐《こは》くなつて來るのです。土の牢の中で苦しんでゐる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないやうな氣がします。何となれば、手を擧げても足を動かしても、四方は眞黒だからです。いくら訴へても、厚い冷たい壁が僕の聲を遮《さへ》ぎつて世の中へ聽えさせないやうにするからです。今の僕は天下にたつた一人です。友達はないのです。あつても無いと同じ事なのです。幽靈のやうな僕の心境に觸れて呉れる事の出來る頭腦を有《も》つたものは、有るべき筈がないからです。僕は苦しさの餘りに此手紙を書きました。救を求める爲に書いたのではありません。僕は貴方の境遇を知つてゐます。物質上の補助、そんなものを貴方の方角から受け取る氣は毛頭ないのです。たゞ此苦痛の幾分が、貴方の脉管《みやくくわん》の中に流れてゐる人情の血潮《ちしほ》に傳はつて、其所に同情の波を少しでも立てて呉れる事が出來るなら、僕はそれで滿足です。僕はそれによつて、僕がまだ人間の一員として社會に存在してゐるといふ確證を握る事が出來るからです。此惡魔の重圍の中から、廣々した人間の中へ屆く光線は一縷《いちる》もないのでせうか。僕は今それさへ疑つてゐるのです。さうして僕は貴方から返事が來るか來ないかで、其疑ひを決したいのです」
 手紙は此所で終つてゐた。
 
     百六十五
 
 其時|先刻《さつき》火を點《つ》けて吸ひ始めた卷烟草の灰が、何時《いつ》の間《ま》にか一寸近くの長さになつて、ぽたりと罫紙の上に落ちた。津田は竪横に走る藍色の枠の上に崩れ散つた此粉末に視覺を刺撃されて、不圖《ふと》氣が付いて見ると彼は烟草を持つた手をそれ迄動かさずにゐた。といふより彼の口と手がいつか烟草の存在を忘れてゐた。其上手紙を讀み終つたのと烟草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまる茫乎《ぼんやり》したたゞの時間を認めなければならなかつた。
 その空虚な時間は果して何の爲に起つたのだらう。元來をいふと、此手紙ほど津田に縁の遠いものはなかつた。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との關係が何うなってゐるのか皆目《かいもく》解らなかった。中に述べ立てゝある事柄に至ると、丸《まる》で別世界の出來事としか受け取れない位、彼の位置及び境遇とは懸け離れたものであつた。
 然し彼の感想は其所で盡きる譯に行かなかつた。彼は何處かでおやと思つた。今迄前の方ばかり眺めて、此所に世の中があるのだと極めて掛つた彼は、急に後《うしろ》を振り返らせられた。さうして自分と反對な存在を注視すべく立ち留まつた。するとあゝあゝ是も人間だといふ心持が、今日《こんにち》迄《まで》まだ會つた事もない幽靈のやうなものを見詰めてゐるうちに起つた。極めて縁の遠いものは却つて縁の近いものだつたといふ事實が彼の眼前に現はれた。
 彼は其所で留まつた。さうして?徊《ていくわい》した。けれどもそれより先へは一歩も進まなかつた。彼は彼相應の意味で、此氣味の惡い手紙を了解したといふ迄であつた。
 彼が原稿紙から烟草の灰を拂ひ落した時、原を相手に何か話し續けてゐた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がたゞ一句彼の耳に響いた。
 「なに大丈夫だ。そのうち何うにかなるよ、心配しないでも可《い》いや」
 津田は黙つて手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
 「讀んだか」
 「うん」
 「何うだ」
 津田は何とも答へなかつた。然し一應相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
 「一體何のためにそれを僕に讀ませたんだ」
 小林は反問した。
 「一體何の爲に讀ませたと思ふ」
 「僕の知らない人ぢやないか、それを書いた人は」
 「無論知らない人さ」
 「知らなくつても可《い》いとして、僕に何か關係があるのか」
 「此男がか、此手紙がか」
 「何方《どつち》でも構はないが」
 「君は何う思ふ」
 津田は又躊躇した。實を云ふと、それは手紙の意味が彼に通じた證據であつた。もつと明瞭にいふと、自分は自分なりに其手紙を解釋する事が出來たといふ自覺が彼の返事を鈍《にぶ》らせたのと同樣であつた。彼はしばらくして云つた。
 「君のいふ意味なら、僕には全く無關係だらう」
 「僕のいふ意味とは何だ?」
 「解らないか」
 「解らない。云つて見ろ」
 「いや、――まあ止《よ》さう」
 津田は先刻《さつき》の繪と同じ意味で、小林が此手紙を自分の前に突き付けるのではなからうかと疑つた。何でも彼《か》でも彼を物質上の犠牲者にし終《おほ》せた上で、後《あと》から樣《ざま》を見《み》ろ、とう/\降參したぢやないかといふ態度に出られるのは、彼に取つて忍ぶべからざる侮辱であつた。いくら貧乏の幽靈で威嚇《おどか》したつて其手に乘るものかといふ彼の氣慨が、自然小林の上に働らき掛けた。
 「それより君の方で其主意を男らしく僕に説明したら可《い》いぢやないか」
 「男らしく? ふん」と云つて一旦言葉を句切つた小林は、後《あと》から付け足した。
 「ぢや説明して遣らう。此人も此手紙も、乃至此手紙の中味も、凡《すべ》て君には無關係だ。但し世間的に云へばだぜ、可《い》いかね。世間的といふ意味をまた誤解すると不可《いけな》いから、序《ついで》にそれも説明して置かう。君は此手紙の内容に對して、俗社會に所謂《いはゆる》義務といふものを帶びてゐないのだ」
 「當り前ぢやないか」
 「だから世間的には無關係だと僕の方でも云ふんだ。然し君の道コ觀をもう少し大きくして眺めたら何うだい」
 「いくら大きくしたつて、金を遣らなければならないといふ義務なんか感じやしないよ」
 「さうだらう、君の事だから。然し同情心はいくらか起るだらう」
 「そりや起るに極つてるぢやないか」
 「それで澤山なんだ、僕の方は。同情心が起るといふのは詰り金が遣りたいといふ意味なんだから。それでゐて實際は金が遣りたくないんだから、其所に良心の闘ひから來る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられてゐるんだ」
 斯う云つた小林は、手紙を隱袋《ポケツト》へ仕舞ひ込むと同時に、同じ場所から先刻《さつき》の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並《なら》べた。
 「さあ取り給へ。要る丈《だけ》取り給へ」
 彼は斯う云つて原の方を見た。
 
     百六十六
 
 小林の所作《しよさ》は津田に取つて全くの意外であつた。突然毒氣を拔かれた所に十分以上の皮肉を味ははせられた彼の心は、相手に向つて躍つた。憎惡の電流とでも云はなければ形容の出來ないものが、咄嗟《とつさ》の間に彼の身體を通過した。
 同時に聽明な彼の頭に一種の疑《うたがひ》が閃《ひら》めいた。
 「此奴等《こいつら》二人は共謀《ぐる》になつて先刻《さつき》からおれを馬鹿にしてゐるんぢやないかしら」
 斯う思ふのと、大通りの角で立談《たちばなし》をしてゐた二人の姿と、此所へ來てからの小林の擧動と、途中から入《はい》つて來た原の樣子と、其《その》後《ご》三人の間に起つた談話の遣取《やりとり》とが、何方《どれ》が原因とも何方《どれ》が結果とも分らないやうな迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火《しかけはなび》のやうにくる/\と廻轉した。彼は白い食卓布《テーブルクロース》の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十圓紙幣を見て、思はず腹の中で叫んだ。
 「是が此|摺《す》れツ枯《か》らしの拵《こしら》へ上《あ》げた狂言の落所《おち》だつたのか。馬鹿奴《ばかめ》、さう貴樣の思はく通りにさせて堪《たま》るものか」
 彼は傷《きずつ》けられた自分のプライドに對しても、此不名譽な幕切《まくぎれ》に一轉化を與へた上で、二人と別れなければならないと考へた。けれども何うしたら斯う最後迄押し詰められて來た不利な局面を、今になつて、旨くどさりと引繰《ひつく》り返《かへ》す事が出來るかの問題になると、豫《あらかじ》め其邊の準備をして置かなかつた彼は、全くの無能力者であつた。
 外觀上の落付を比較的平氣さうに保つてゐた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく徃來した。けれどもその混雜はただの混雜に終る丈《だけ》で、何等の歸着點を彼に示して呉れないので、むら/\とした後《あと》の彼の心は、徒《いた》づらにわく/\する丈《だけ》であつた。其わく/\が何時《いつ》の間《ま》にか狼狽の姿に進化しつゝある事さへ、殘念ながら彼には意識された。
 此危機一髪といふ間際に、彼は又思ひ懸けない現象に逢着した。それは小林の並べた十圓紙幣が青年藝術家に及ぼした影響であつた。紙幣の上に落された彼の眼から出る異樣の光であつた。其所には驚ろきと喜びがあつた。一種の飢渇があつた。※[手偏+國]《つか》み掛《かゝ》らうとする慾望の力があつた。さうして其驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々|眞《しん》其《その》物《もの》の發現であつた。作りもの、拵へ事、馴れ合ひの狂言とは、何うしても受け取れなかつた。少くとも津田にはさうとしか思へなかつた。
 其上津田の此判斷を確めるに足る事實が後《あと》から繼《つ》いで起つた。原はそれ程欲しさうな紙幣《さつ》へ手を出さなかつた。と云つて斷然小林の親切を斥《しり》ぞける勇氣も示さなかつた。出したさうな手を遠慮して出さずにゐる苦痛の色が、あり/\と彼の顔付で讀まれた。もし此蒼白い青年が、遂に紙幣《さつ》の方へ手を出さないとすると、小林の拵へた折角の狂言も半分は打《ぶ》ち壞《こは》しになる譯であつた。もし又小林が一旦|隱袋《ポケツト》から出した紙幣《さつ》を、當初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再び故《もと》へ収めたなら、結果は一層の喜劇に變化する譯であつた。何方《どつち》にしても自分の體面を繕《つくろ》ふのには便宜な方向へ發展して行きさうなので、其所に一縷《いちる》の望を抱《いだ》いた津田は、もう少し黙つて事の成行を見る事に極めた。
 やがて二人の間に問答が起つた。
 「何故取らないんだ、原君」
 「でも餘《あん》まり御氣の毒ですから」
 「僕は僕で又君の方を氣の毒だと思つてるんだ」
 「えゝ、何うも有難う」
 「君の前に坐つてる其男は男で又僕の方を氣の毒だと思つてるんだ」
 「はあ」
 原はさつぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
 「其|紙幣《さつ》は三枚共、僕が今其男から貰つたんだ。貰ひ立てのほや/\なんだ」
 「ぢや猶《なほ》何うも‥…」
 「猶《なほ》何うもぢやない。だからだ。だから僕も安々と君に遣れるんだ。僕が安々と君に遣れるんだから、君も安々と取れるんだ」
 「さういふ論理《ロジツク》になるかしら」
 「當り前さ。もし是が徹夜して書き上げた一枚三十五錢の原稿から生れて來た金なら、何ぼ僕だつて、少しは執着が出るだらうぢやないか。額からぽた/\垂れる膏汗《あぶらあせ》に對しても濟まないよ。然し是は何でもないんだ。餘裕が空間に吹き散らして呉れる淨財《じやうざい》だ。拾つたものが功コ《くどく》を受ければ受ける程餘裕は喜こぶ丈《だけ》なんだ。ねえ津田君さうだらう」
 忌々《いま/\》しい關所をもう通り越してゐた津田は、却つて好い所で相談を掛けられたと同じ事であつた。鷹揚《おうやう》な彼の一諾は、今夜此所に落ち合つた不調和な三人の會合に、少くとも形式上|體裁《ていさい》の好い結末を付けるのに充分であつた。彼は醜陋《しうろう》に見える自分の退却を避けるために眼前の機會を捕へた。
 「さうだね。それが一番|可《い》いだらう」
 小林は押問答の末、とう/\三枚のうち一枚を原の手に渡した。殘る二枚を再び故《もと》の隱袋《ポケツト》へ収める時、彼は津田に云つた。
 「珍らしく餘裕が下から上へ流れた。けれども此所から上へはもう逆戻りをしないさうだ。だから矢つ張り君に對してサンクスだ」
 表へ出た三人は濠端《ほりばた》へ來て、電車を待ち合せる間大きな星月夜《ほしづきよ》を仰いだ。
 
      百六十七
 
 間《ま》もなく三人は離れ離れになつた。
 「ぢや失敬、僕は停車場《ステーシヨン》へ送つて行かないよ」
 「さうか、來たつて可《よ》ささうなものだがね。君の舊友が朝鮮へ行くんだぜ」
 「朝鮮でも台灣でも御免だ」
 「情合《じやうあひ》のない事夥だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍|此方《こつち》から暇乞《いとまごひ》に行くよ、可《い》いかい」
 「もう澤山だ、來て呉れなくつても」
 「いや行く。でないと何だか氣が濟まないから」
 「勝手にしろ。然し僕は居ないよ、來ても。明日《あした》から旅行するんだから」
 「旅行? 何處へ」
 「少し靜養の必要があるんでね」
 「轉地《てんち》か、洒落《しやれ》てるな」
 「僕に云はせると、是も餘裕の賜物《たまもの》だ。僕は君と違つて飽く迄も此餘裕に感謝しなければならないんだ」
 「飽く迄も僕の注意を無意味にして見せるといふ氣なんだね」
 「正直の所を云へば、まあ其所いらだらうよ」
 「よろしい、何方《どつち》が勝つかまあ見てゐろ。小林に啓發《けいはつ》されるよりも、事實其物に戒飭《かいしよく》される方が、遙かに覿面《てきめん》で切實で可《い》いだらう」
 是が別れる時二人の間に起つた問答であつた。然しそれは宵から持ち越した惡感情、津田が小林に對して日暮以來貯藏して來た惡感情、の發現に過ぎなかつた。是で幾分か溜飲《りういん》が下りたやうな氣のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考へる餘地がなかつた。彼は理非の如何《いかん》に關はらず、意地にも小林如きものの思想なり議論なりを、切つて棄てなければならなかつた。一人になつた彼は、電車の中ですぐ温泉場の樣子などを想像に描き始めた。
 明《あく》る朝《あさ》は風が吹いた。其風が疎《まば》らな雨の糸を筋違《すぢかひ》に地面の上へ運んで來た。
 「厄介だな」
 時間通りに起きた津田は、縁鼻《えんばな》から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があつた。さうして其雲は眼に見える風のやうに斷えず動いてゐた。
 「ことによると、お午位《ひるぐらゐ》から晴れるかも知れないわね」
 お延は既定の計畫を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
 「だつて一日|後《おく》れると一日|徒爲《むだ》になる丈《だけ》ですもの。早く行つて早く歸つて來て頂く方が可《い》いわ」
 「おれも其《その》積《つもり》だ」
 冷たい雨によつて亂されなかつた夫婦間の取極《とりきめ》は、出立間際になつて、始めて少しの行違を生じた。箪笥の抽斗《ひきだし》から自分の衣裳を取り出したお延は、それを夫《をつと》の洋服と並べて澁紙の上へ置いた。津田は氣が付いた。
 「お前は行かないでも可《い》いよ」
 「何故」
 「何故つて譯もないが、此雨の降るのに御苦勞千萬ぢやないか」
 「ちつとも」
 お延の言葉があまりに無邪氣だつたので、津田は思はず失笑した。
 「來て貰ふのが迷惑だから斷るんぢやないよ。氣の毒だからだよ。高《たか》が一日と掛らない所へ行くのに、わざ/\送つて貰ふなんて、少し滑稽だからね。小林が朝鮮へ立つんでさへ、おれは送つて行かないつて、昨夜《ゆうべ》斷つちまつた位だ」
 「さう、でもあたし宅《うち》にゐたつて、何にもする事がないんですもの」
 「遊んでおいでよ。構はないから」
 お延がとう/\苦笑して、爭ふ事を已《や》めたので、津田は一人|俥《くるま》を驅つて宅《うち》を出る事が出來た。
 周圍の混雜と對照を形成《かたちづく》る雨の停車場《ステーシヨン》の佗《わび》しい中に立つて、津田が今買つたばかりの中等切符《ちゆうとうきつぷ》を、ぼんやり眺めてゐると、一人の書生が突然彼の前へ來て、舊知己のやうな挨拶をした。
 「生憎《あいにく》なお天氣で」
 それは此間始めて見た吉川の書生であつた。取次に出た時玄關で會つた餘所々々《よそ/\》しさに引き換へて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であつた。津田は何の意味だか一向《いつかう》氣が付かなかつた。
 「何方《どなた》かどちらへか入らつしやるんですか」
 「いゝえ、一寸お見送りに」
 「だから何方《どなた》を」
 書生は弱らせられたやうな樣子をした。
 「實は奧さまが、今日は少し差支があるから、これを持つて代りに行つて來て呉れと仰しやいました」
 書生は手に持つた果物《くだもの》の籃《かご》を津田に示した。
 「いやそりや何うも、恐れ入りました」
 津田はすぐ其|籃《かご》を受け取らうとした。然し書生は渡さなかつた。
 「いえ私が列車の中迄持つて參ります」
 汽車が出る時、黙つて丁寧に會釋をした書生に、「何うぞ宜しく」と挨拶を返した津田は、比較的|込《こ》み合《あ》はない車室の一隅に、ゆつくりと腰を卸しながら、「矢つ張りお延に來て貰はない方が可《よ》かつたのだ」と思つた。
 
     百六十八
 
 お延の氣を利かして外套の隱袋《かくし》へ入れて呉れた新聞を津田が取り出して、何時《いつ》もより念入りに眼を通してゐる頃に、窓外《さうぐわい》の空模樣は段々惡くなつて來た。先刻《さつき》迄《まで》疎《まば》らに眺められた雨の糸が急に數を揃へて、見渡す限の空間を一度に充たして來る樣子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層|凄《すさ》まじく感ぜられた。
 雨の上には濃い雲があつた。雨の横にも眼界の遮ぎられない限りは雲があつた。雲と雨との隙間なく連續した廣い空間が、津田の視覺を一杯に冒した時、彼は荒凉《くわうりやう》なる車外の景色と、其反對に心持よく設備の行き屆いた車内の愉快とを思ひ較べた。身體を安逸の境に置くといふ事を文明人の特權のやうに考へてゐる彼は、此雨を衝《つ》いて外部《そと》へ出なければならない午後の心持を想像しながら、獨り肩を竦《すく》めた。すると隣りに腰を掛けて、ぽつり/\と窓硝子を打つたびに、點滴の珠《たま》を表面に殘して碎けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めてゐた四十恰好《しじふがつかう》の男が少し上半身を前へ屈《かゞ》めて、向側《むかふがは》に胡坐《あぐら》を掻いてゐる伴侶《つれ》に話し掛けた。然し雨の音と汽車の音が重なり合ふので、彼の言葉は一度で相手に通じなかつた。
 「非道《ひど》く降つて來たね。此樣子ぢやまた輕便の路が壞れやしないかね」
 彼は仕方なしに津田の耳へも入《はい》るやうな大きな聲を出して斯う云つた。
 「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が輕便だつて、さう輕便に壞れられた日にや乘るものが災難だあね」
 是が相手の答であつた。相手といふのは羅紗《ラシヤ》の道行《みちゆき》を着た六十恰好《ろくじふがつかう》の爺さんであつた。頭には唐物屋《たうぶつや》を探しても見當りさうもない變な鍔なしの帽子を被つてゐた。烟草入だの、唐棧《たうざん》の小片《こぎれ》だの、古代更紗《こだいさらさ》だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てゝ見世を張る袋物屋《ふくろものや》へでも行つて、わざ/\注文しなければ、到底頭へ載せる事の出來さうもない其帽子の主人は、彼の言葉遣ひで東京生れの證據を充分に擧げてゐた。津田は服裝に似合はない思ひの外濶達な此爺さんの元氣に驚ろくと同時に、何方《どつち》かといふと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
 此挨拶のうちに偶然使用された輕便といふ語は、津田に取つてたしかに一種の暗示であつた。彼は午後の何時間かを其輕便に搖られる轉地者であつた。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思つた津田の耳は、彼等の談話に對して急に鋭敏になつた。轉席の餘地がないので、不便な姿勢と圖拔《づぬ》けた大聲を忍ばなければならなかつた二人の云ふ事は一々津田に聽こえた。
 「斯《こ》んな天氣にならうとは思はなかつたね。これならもう一日延ばした方が樂だつた」
 中折《なかをれ》に駱駝《らくだ》の外套を着た落付のある男の方が斯ういふと、爺さんはすぐ答へた。
 「何|高《たか》が雨だあね。濡れると思やあ、何でもねえ」
 「だが荷物が厄介だよ。あの輕便へ雨曝《あまざら》しの儘載せられる事を考へると、少し心細くなるから」
 「ぢやおいらの方が雨曝《あまざら》しになつて、荷物|丈《だけ》を室《へや》の中へ入れて貰ふ事にしよう」
 二人は大きな聲を出して笑つた。其後で爺さんが又云つた。
 「尤も此前のあの騷ぎがあるからね。途中で汽罐《かま》へ穴が開《あ》いて動《いご》けなくなる汽車なんだから、全くの所心細いにや違ない」
 「あの時や何うして向ふへ着いたつけ」
 「なに彼方《あつち》から來る奴を山の中程で待ち合せてさ。其方の汽罐《かま》で引つ張り上げて貰つたぢやないか」
 「成程ね、だが汽罐《かま》を取り上げられた方の車は何うしたつけね」
 「違《ちげ》えねえ、此方《こつち》で取り上げりや、向ふは困らあ」
 「だからさ、取り殘された方の車は何うしたらうつていふのさ。まさか他《ひと》を救つて、自分は立往生つて譯もなからう」
 「今になつて考へりや、それも左右《さう》だがね、あの時や、てんで向ふの車の事なんか考へちやゐられなかつたからね。日は暮れかゝるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫《ふる》へちまはあね」
 津田の推測は段々|慥《たしか》になつて來た。二人は其輕便の通じてゐる線路の左右にある三ケ所の温泉場のうち、何處かへ行くに違ないといふ鑑定さへ付いた。それにしても是から自分の身を二時間なり三時間なり委《まか》せようとする其輕便が、彼等のいふ通り亂暴至極のものならば、此雨中|何《ど》んな災難に會はないとも限らなかつた。けれども其所には東京ものゝ持つて生れた誇張といふものがあつた。そんなに不完全なものですかと訊いて見ようとして其所に氣の付いた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問を掛ける手數《てすう》を省いた。さうして今度は清子と其輕便とを聯結して「女一人でさへ樂々往來が出來る所だのに」と思ひながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかつた。
 
     百六十九
 
 汽車が目的の停車場《ステーシヨン》に着く少し前から、三人によつて氣遣はれた天候が次第に穩かになり始めた時、津田は雨の収《をさ》まり際《ぎは》の空を眺めて、其所に忙がしさうな雲の影を認めた。其雲は汽車の走る方角と反對の側《がは》に向つて、ずんずん飛んで行つた。さうして後《あと》から後《あと》からと、恰《あたか》も前に行くものを追懸《おつかけ》るやうに、隙間なく詰め寄せた。其内動く空の中に、稍《やゝ》明るい所が出來てきた。外《ほか》の部分より比較的薄く見える箇所が次第に多くなつた。就中《なかんづく》一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしさうな氣配《けはい》を示した。
 思つたより自分に好意を有《も》つて呉れた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、其所からすぐ乘り換へた電車の中で、又|先刻《さつき》會つた二人伴《ふたりづれ》の男を見出《みいだ》した。果して彼の思はく通り、自分と同じ見當へ向いて、同じ交通機關を利用する連中だと知れた時、津田は氣を付けて彼等の手荷物を注意した。けれども彼等の雨曝《あまざら》しになるのを苦に病んだ程の大嵩《おほがさ》なものは何處にも見當らなかつた。のみならず、爺さんは自分が先刻《さつき》云つた事さへもう忘れてゐるらしかつた。
 「有難い、大當りだ。だから矢つ張行かうと思つた時に立つちまふに限るよ。是で愚圖々々して東京にゐて御覺な。あゝ詰らねえ、斯うと知つたら、思ひ切つて今朝立つちまへば可《よ》かつたと後悔する丈《だけ》だからね」
 「さうさ。だが東京も今頃は此位好い天氣になつてるんだらうか」
 「そいつあ行つて見なけりや、一寸《ちよいと》分らねえ。何なら電話で訊いて見るんだ。だが大體《たいてい》間違はないよ。空は日本中何處へ行つたつて續いてるんだから」
 津田は少し可笑《をか》しくなつた。すると爺さんがすぐ話し掛けた。
 「貴方も湯治場《たうぢば》へ入らつしやるんでせう。何うも大方さうだらうと思ひましたよ、先刻《さつき》から」
 「何故ですか」
 「何故つて、さういふ所へ遊びに行く人は、樣子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
 彼は斯う云つて隣りにゐる自分の伴侶《つれ》を顧みた。中折《なかをれ》の人は仕方なしに「あゝ」と答へた。
 此|天眼通《てんがんつう》に苦笑を禁じ得なかつた津田は、それぎり會話を切り上げようとした所、快豁《くわいくわつ》な爺さんの方で中々彼を放さなかつた。
 「だが旅行も近頃は便利になりましたね。何處へ行くにも身體一つ動かせば澤山なんですから、有難い譯さ。ことに此方徒等《こちとら》見たいな氣の早いものにはお誂向《あつらへむき》だあね。今度だつて荷物なんか何にも持つて來やしませんや、此|合切袋《がつさいぶくろ》とこの大將のあの鞄《カバン》を差し引くと殘るのは命ばかりといひたい位のものだ。ねえ大將」
 大將の名をもつて呼ばれた人は又「あゝ」と答へたぎりであつた。是《これ》丈《だけ》の手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼等の所謂《いはゆる》「輕便」なるものは、餘程|込《こ》み合《あ》ふのか、左《さ》もなければ、常識をもつて測るべからざる程度に於て不完全でなければならなかつた。其所を確かめて見ようかと思つた津田は、すぐ確かめても仕方がないといふ氣を起して黙つて仕舞つた。
 電車を下りた時、津田は二人の影を見失つた。彼は停留所の前にある茶店で、寫眞版だの石版だのと、思ひ/\に意匠を凝《こ》らした温泉場の廣告繪を眺めながら、晝食《ちうじき》を認《した》ためた。時間から云つて、平常より一時間以上も後《おく》れてゐた其晝食は、膳を貪ぼる人としての彼を思ふ存分に發揮させた。けれども發車は目前に逼《せま》つてゐた。彼は箸を投げると共にすぐまた輕便に乘り移らなければならなかつた。
 基點に當る停車場《ステーシヨン》は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあつた。彼は電車よりも狹い其車を眼の前に見つゝ、下女から支度料の剰錢《つり》を受取つてすぐ表へ出た。切符に鋏を入れて貰ふ所と、プラツトフオームとの間には距離といふものが殆んどなかつた。五六歩動くとすぐ足を掛ける階段へ屆いてしまつた。彼は車室のなかで、又|先刻《さつき》の二人連れと顔を合せた。
 「やあお早うがす。此方《こつち》へお掛けなさい」
 爺さんは腰をずらして津田の爲に、彼の腕に抱《かゝ》へて來た膝掛を敷く餘地を拵へて呉れた。
 「今日は空《す》いてゝ結構です」
 爺さんは避寒避暑二樣の意味で、暮から正月へ掛けて、それから七八|二月《ふたつき》に渉《わた》つて、此線路に集つてくる湯治客《たうぢきやく》の、何《ど》んなに雜沓するかを左《さ》も面白さうに例の調子で話して聽《き》かせた後《あと》で、自分の同伴者を顧みた。
 「あんな時に女なんか伴《つ》れてくるのは實際罪だよ。尻が大きいから第一乘り切れねえやね。さうしてすぐ醉ふから困らあ。鮨《すし》のやうに押し詰められてる中で、吐いたり戻したりさ。見つともねえ事つたら」
 彼は自分の傍《そば》に腰を掛けてゐる若い婦人の存在を丸《まる》で忘れてゐるらしい口の利き方をした。
 
      百七十
 
 輕便の中でも、津田の平和は稍《やゝ》ともすると年を取つたこの樂天家のために亂されさうになつた。是から目的地へ着いた時の樣子、其樣子次第で取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの溪流だのゝ光景のうちに、取り留めもなくちら/\動いてゐる際《さい》などに、老人は急に彼を夢の裡《うち》から叩き起した。
 「まだ假橋《かりばし》のまゝで遣《や》つてるんだから、呑氣《のんき》なものさね。御覽なさい、土方があんなに働らいてるから」
 本式の橋が去年の出水《でみづ》で押し流された儘まだ出來上らないのを、老人はさも會社の怠慢ででもあるやうに罵つた後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構《ひとかまへ》の家を指《さ》して、又津田の注意を誘ひ出さうとした。
 「あの家《うち》も去年波で浚《さら》はれちまつたんでさあ。でもすぐあんなに建てやがつたから、輕便より少しや感心だ」
 「此夏の避暑客を取り逃さないためでせう」
 「此所《こゝ》いらで一夏休むと、大分《だいぶ》應《こた》へるからね。矢つ張り慾がなくつちや、何でも手つ取り早く仕事は片付かないものさね。この輕便だつて左右《さう》でせう、貴方、なまじい彼《あ》の假橋で用が足りてるもんだから、會社の方で、何時《いつ》迄《まで》も横着を極め込みやがつて、掛《か》け易《か》へねえんでさあ」
 津田は老人の人世觀に一も二もなく調子を合すべく餘儀なくされながら、談話の途切《とぎ》れ目《め》には、眼を眠るやうに構へて、自分自身に勝手な事を考へた。
 彼の頭の中は纒まらない斷片的な映像《イメジ》のために絶えず徃來された。其中には今朝見たお延の顔もあつた。停車場《ステーシヨン》迄來て呉れた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んで呉れた果物《くだもの》の籃《かご》もあつた。其|葢《ふた》を開けて二人の伴侶《つれ》に夫人の贈物を配《わか》たうかといふ意志も働いた。其|所作《しよさ》から起る手數《てかず》だの煩はしさだの、此方《こつち》の好意を受け取る時、相手の遣りかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。すると爺さんも中折《なかをれ》も急に消えて、其代り肥つた吉川夫人の影法師が頭の闥《たつ》を排してつか/\這入つて來た。連想はすぐ是から行かうとする湯治場《たうぢば》の中心點になつてゐる清子に飛び移つた。彼の心は車と共に前後へ搖れ出した。
 汽車といふ名を付けるのは勿體《もつたい》ない位な車は、すぐ海に續いてゐる勾配《こうばい》の急な山の中途を、危なかしくがた/\云はして驅けるかと思ふと、何時《いつ》の間《ま》にか山と山の間に割り込んで、幾度《いくたび》も上《あが》つたり下《さが》つたりした。其山の多くは隙間なく植付けられた蜜柑の色で、暖かい南國の秋を、美くしい空の下に累々と點綴《てんてつ》してゐた。
 「あいつは旨さうだね」
 「なに根つから旨くないんだ、此所から見てゐる方が餘つ程綺麗だよ」
 比較的|嶮《けは》しい曲りくねつた坂を一つ上《あが》つた時、車は忽ち留まつた。停車場《ステーシヨン》でもない其所に見えるものは、多少の霜に彩どられた雜木《ざふき》丈《だけ》であつた。
 「何うしたんだ」
 爺さんが斯う云つて窓から首を出してゐると、車掌だの運轉手だのが急に車から降りて、しきりに何か云ひ合つた。
 「脱線です」
 此言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にゐる中折《なかをれ》を見た。
 「だから云はねえこつちやねえ。屹度《きつと》何かあるに違ねえと思つてたんだ」
 急に豫言者らしい口吻《こうふん》を洩らした彼は、愈《いよ/\》自分の駄辯を弄する時機が來たと云はぬ許《ばか》りに乾燥《はしや》ぎ出した。
 「何うせ家《うち》を出る時に、水盃《みづさかづき》は濟まして來たんだから、覺悟はとうから極《き》めてるやうなものゝ、いざとなつて見ると、こんな所で辨慶《べんけい》の立徃生《たちわうじやう》は御免蒙りたいからね。といつて何時《いつ》迄《まで》斯う遣《や》つて待つてたつて、中々元へ戻して呉れさうもなしと。何しろ日の短かい上へ持つて來て、氣が短かいと來てるんだから、安閑としちやゐられねえ。――何うです皆さん一つ降りて車を押して遣らうぢやありませんか」
 爺さんは斯う云ひながら元氣よく眞先に飛び降りた。殘るものは苦笑しながら立ち上つた。津田も獨り室内に坐つてゐる譯に行かなくなつたので、みんなと一所に地面の上へ降り立つた。さうして黄色に染められた芝草の上に、あつけらかんと立つてゐる婦人を後《うしろ》にして、うん/\車を押した。
 「や、不可《いけね》え、行き過ぎちやつた」
 車は又引き戻された。夫《それ》から又前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線は漸く片付いた。
 「又|後《おく》れちまつたよ、大將、お蔭で」
 「誰のお蔭でさ」
 「輕便のお蔭でさ。だが斯んな事でもなくつちや眠くつて不可《いけね》えや」
 「折角遊びに來た甲斐がないだらう」
 「全くだ」
 津田は後《おく》れた時間を案じながら、教へられた停車場《ステーシヨン》で、此元氣の好い老人と別れて、一人|薄暮《ゆふぐれ》の空氣の中に出た。
 
     百七十一
 
 靄《もや》とも夜《よる》の色とも片付かないものゝ中にぼんやり描き出された町の樣は丸《まる》で寂寞《せきばく》たる夢であつた。自分の四邊《しへん》にちら/\する弱い電燈の光と、その光の屆かない先に横《よこた》はる大きな闇《やみ》の姿を見較べた時の津田には慥《たし》かに夢といふ感じが起つた。
 「おれは今この夢見たやうなものゝ續きを辿《たど》らうとしてゐる。東京を立つ前から、もつと几帳面に云へば、吉川夫人に此温泉行を勸められない前から、いやもつと深く突き込んで云へば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云ひ足りない、實は突然清子に脊中を向けられた其|刹那《せつな》から、自分はもう既にこの夢のやうなものに祟《たゝ》られてゐるのだ。さうして今丁度その夢を追懸《おつか》けやうとしでゐる途中なのだ。顧《かへり》みると過去から持ち越した此|一條《ひとすぢ》の夢が、是から目的地へ着くと同時に、からりと覺めるのかしら。それは吉川夫人の意見であつた。從つて夫人の意見に賛成し、またそれを實行する今の自分の意見でもあると云はなければなるまい。然しそれは果して事實だらうか。自分の夢は果して綺麗に拭《ぬぐ》ひ去《さ》られるだらうか。自分は果してそれ丈《だけ》の信念を有《も》つて、此夢のやうにぼんやりした寒村《かんそん》の中に立つてゐるのだらうか。眼に入《い》る低い軒、近頃|砂利《じやり》を敷いたらしい狹い道路、貧しい電燈の影、傾《かた》むきかゝつた藁屋根、黄色い幌《ほろ》を下《おろ》した一頭立《いつとうだて》の馬車、――新とも舊とも片の付けられない此|一塊《ひとかたまり》の配合を、猶《なほ》の事《こと》夢らしく粧《よそほ》つてゐる肌寒《はださむ》と夜寒《よさむ》と闇暗《くらやみ》、――すべて朦朧《もうろう》たる事實から受ける此感じは、自分が此所迄運んで來た宿命の象徴ぢやないだらうか。今迄も夢、今も夢、是から先も夢、その夢を抱《だ》いてまた東京へ歸つて行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はさうなりさうだ。ぢや何のために雨の東京を立つてこんな所迄出掛けて來たのだ。畢竟《ひつきやう》馬鹿だから? 愈《いよ/\》馬鹿と事が極まりさへすれば、此所からでも引き返せるんだが」
 此感想は一度に來た。半分《はんぶん》と掛らないうちに、是《これ》丈《だけ》の順序、段落と、論理と、空想を具へて、抱《だ》き合《あ》ふやうに彼の頭の中を通過した。然しそれから後《あと》の彼はもう自分の主人公ではなかつた。何處から來たとも知れない若い男が突然現はれて、彼の荷物を受け取つた。一分《いつぷん》の猶豫《いうよ》なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行かうとする宿屋の名を訊いたり、馬車に乘るか俥《くるま》にするかを確かめたりした上に、彼の豫期してゐないやうな愛嬌さへ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縱《さうじゆう》して退《の》けた。
 彼はやがて否應《いやおう》なしにズツクの幌《ほろ》を下《おろ》した馬車の上へ乘せられた。さうして御免といひながら自分の前に腰を掛ける先刻《さつき》の若い男を見出《みいだ》すべく驚ろかされた。
 「君も一所に行くのかい」
 「へえ、御邪魔でも、どうか」
 若い男は津田の目指《めざ》してゐる宿屋の手代《てだい》であつた。
 「此所に旗が立つてゐます」
 彼は首を曲げて御者台《ぎよしやだい》の隅に挿し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め拔かれた文字は津田の眼に入《はい》らなかつた。旗はたゞ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれる丈《だけ》であつた。彼は首を縮めて外套の襟を立てた。
 「夜中《やちゆう》はもう大分《だいぶ》お寒くなりました」
 御者台《ぎよしやだい》を脊中に背負《しよ》つてる手代は、位地の關係から少しも風を受けないので、此云ひ草は何となく小賢《こざか》しく津田の耳に響いた。
 道は左右に田を控へてゐるらしく思はれた。さうして道と田の境目《さかひめ》には小河の流れが時々聞こえるやうに感ぜられた。田は兩方とも狹く細く山で仕切られてゐるやうな氣もした。
 津田は帽子と外套の襟で隱し切れない顔の一部分|丈《だけ》を風に曝《さら》して、寒さに抵抗でもするやうに黙想の態度を手代に示した。手代も其方が便利だと見えて、強ひて向ふから口を利かうともしなかつた。
 すると突然津田の心が搖《うご》いた。
 「お客は澤山ゐるかい」
 「へえ有難う、お蔭さまで」
 「何人位《なんにんぐらゐ》」
 何人とも答へなかつた手代は、却つて辯解がましい返事をした。
 「只今は生憎《あいにく》季節が季節だもんでげすから、あんまりお出《いで》が御座いません。寒い時は暮からお正月へ掛けまして、それから夏場になりますと、まあ七八|二月《ふたつき》ですな、繁昌《はんじやう》するのは。そんな時にや臨時のお客さまを御斷りする事が、毎日のやうに御座います」
 「ぢや今が丁度|閑《ひま》な時なんだね、さうか」
 「へえ、何うぞ御緩《ごゆつ》くり」
 「有難う」
 「やつぱり御病氣のためにわざ/\お出《いで》なんで」
 「うんまあ左右《さう》だ」
 清子の事を訊く目的で話し始めた津田は、此所へ來て急に痞《つか》へた。彼は氣がさした。彼女の名前を口にするに堪へなかつた。其上|後《あと》で面倒でも起ると惡いとも思ひ返した。手代から顔を離して馬車の脊に倚りかゝり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
 
     百七十二
 
 馬車はやがて黒い大きな岩のやうなものに突き當らうとして、其裾をぐるりと廻り込んだ。見ると反對の側《がは》にも同じ岩の破片とも云ふべきものが不行儀に路傍《みちばた》を塞《ふさ》いでゐた。台上《だいうへ》から飛び下りた御者《ぎよしや》はすぐ馬の口を取つた。
 一方には空を凌《しの》ぐほどの高い樹が聳えてゐた。星月夜《ほしづきよ》の光に映《うつ》る物凄い影から判斷すると古松《こしよう》らしい其木と、突然一方に聞こえ出した奔湍《ほんたん》の音とが、久しく都會の中を出なかつた津田の心に不時《ふじ》の一轉化を與へた。彼は忘れた記憶を思ひ出した時のやうな氣分になつた。
 「あゝ世の中には、斯んなものが存在してゐたのだつけ、何うして今迄それを忘れてゐたのだらう」
 不幸にして此述懷は孤立の儘消滅する事を許されなかつた。津田の頭にはすぐ是から會ひに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以來一年近く經《た》つ今日《こんにち》迄《まで》、いまだ此女の記憶を失《な》くした覺《おぼえ》がなかつた。斯うして夜路《よみち》を馬車に搖《ゆ》られて行くのも、有體《ありてい》に云へば、其人の影を一圖《いちづ》に追懸《おつか》けてゐる所作《しよさ》に違なかつた。御者《ぎよしや》は先刻《さつき》から時間の遲くなるのを恐れる如く、止《よ》せば可《い》いと思ふのに、濫《みだ》りなる鞭《むち》を鳴らして、しきりに痩馬《やせうま》の尻を打つた。失はれた女の影を追ふ彼の心、其心を無遠慮に翻譯すれば、取りも直さず、此痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いてゐる憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加へるものは誰なのだらう。吉川夫人? いや、さう一概《いちがい》に斷言する譯には行かなかつた。では失つ張彼自身? 此點で精確な解決を付ける事を好まなかつた津田は、問題を其所で投げながら、依然としてそれより先を考へずにはゐられなかつた。
 「彼女《かのぢよ》に會ふのは何の爲だらう。永く彼女を記憶するため? 會はなくても今の自分は忘れずにゐるではないか。では彼女を忘れるため? 或はさうかも知れない。けれども會へば忘れられるだらうか。或はさうかも知れない。或はさうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れてゐた山と溪《たに》の存在を憶ひ出させた。全く忘れてゐない彼女、想像の眼先にちら/\する彼女、わざ/\東京から後《あと》を跟《つ》けて來《き》た彼女、は何《ど》んな影響を彼の上に起すのだらう」
 冷たい山間《やまあひ》の空氣と、其山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、其夜の色の中に自分の存在を呑み盡された津田とが一度に重なり合つた時、彼は思はず恐れた。ぞつとした。
 御者《ぎよしや》は馬の轡《くつわ》を取つたなり、白い泡を岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架け渡した橋の上をそろ/\通つた。すると幾點の電燈がすぐ津田の眸《ひとみ》に映つたので、彼は忽ちもう來たなと思つた。或は其光の一つが、今清子の姿を照らしてゐるのかも知れないとさへ考へた。
 「運命の宿火《しゆくくわ》だ。それを目標《めあて》に辿りつくより外に途はない」
 詩に乏しい彼は固《もと》より斯《こ》んな言葉を口にする事を知らなかつた。けれども斯う形容して然るべき氣分はあつた。彼は首を手代の方へ延ばした。
 「着いたやうぢやないか。君の家《うち》は何《ど》れだい」
 「へえ、もう一丁程奧になります」
 漸く馬車の通れる位な温泉《ゆ》の町は狹かつた。お負に不規則な故意《わざ》とらしい曲折を描《ゑが》いて、御者《ぎよしや》をして再び車台の上に鞭を鳴らす事を許さなかつた。それでも宿へ着く迄に五六分しか掛らなかつた。山と谷がそれ程廣いといふ意味で、町はそれ程狹かつたのである。
 宿は手代の云つた通り森閑《しんかん》としてゐた。夜の爲ばかりでもなく、家の廣いためばかりでもなく、全く客の少ない爲としか受け取れない程の靜かさのうちに、自分の室《へや》へ案内された彼は、好時季に邂逅《めぐりあ》はせて呉れた此偶然に感謝した。性質から云へば寧ろ人中《ひとなか》を擇ぶべき筈の彼には都合があつた。彼は膳の向ふに坐つてゐる下女に訊いた。
 「晝間も此通りかい」
 「へえ」
 「何だかお客は何處にもゐないやうぢやないか」
 下女は新館とか別館とか本館とかいふ名前を擧げて、津田の不審を説明した。
 「そんなに廣いのか。案内を知らないものは迷兒《まひご》にでもなりさうだね」
 彼は清子のゐる見當を確かめなければならなかつた。けれども手代に露骨な質問が掛けられなかつた通り、下女にも卒直な尋ね方は出來なかつた。
 「一人で來る人は少ないだらうね、斯んな所へ」
 「さうでも御座いません」
 「だが男だらう、そりや。まさか女一人で逗留《とうりう》してゐるなんてえのはなからう」
 「一人ゐらつしやいます、今」
 「へえ、病氣ぢやないか。そんな人は」
 「さうかも知れません」
 「何といふ人だい」
 受持が違ふので下女は名前を知らなかつた。
 「若い人かね」
 「えゝ、若いお美くしい方です」
 「さうか、一寸見せて貰ひたいな」
 「お湯に入らつしやる時、此|室《へや》の横をお通りになりますから、御覽になりたければ、何時《いつ》でも――」
 「拜見出來るか、そいつは有難い」
 津田は女のゐる方角|丈《だけ》教はつて、膳を下げさせた。
 
     百七十三
 
 寐る前に一風呂浴びる積《つもり》で、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻《さつき》彼女から聽かされた此家の廣さに氣が付いた。意外な廊下を曲つたり、思ひも寄らない階子段《はしごだん》を降りたりして、目的の湯壺を眼の前に見出《みいだ》した彼は、實際一人で自分の座敷へ歸れるだらうかと疑つた。
 風呂場は板と硝子戸《ガラスど》でいくつにか仕切られてゐた。左右に三つ宛《づゝ》向ふ合せに並んでゐる小型な浴槽《よくさう》の外《ほか》に、一つ離れて大きいのは、普通の洗場に比べて倍以上の尺があつた。
 「是が一番大きくつて心持が可《い》いでせう」と云つた下女は、津田の爲に擦硝子《すりがらす》の嵌《はま》つた戸をがら/\と開けて呉れた。中には誰もゐなかつた。湯氣が籠るのを防ぐためか、座敷で云へば欄間《らんま》と云つたやうな部分にも、矢張り硝子戸《ガラスど》の設けがあつて、半分程|隙《す》かされた其二枚の間から、冷たい一道の夜氣が、?袍《どてら》を脱ぎにかゝつた津田の身體を、山里らしく襲ひに來た。
 「あゝ寒い」
 津田はざぶんと音を立てゝ湯壺の中へ飛び込んだ。
 「御緩《ごゆつ》くり」
 戸を閉めて出ようとした下女は一旦斯う云つた後で、又戻つて來た。
 「まだ下にもお風呂場が御座いますから、もし其方《そちら》の方がお氣に入るやうでしたら、何うぞ」
 來る時もう階子段《はしごだん》を一つか二つ下りてゐる津田には、此浴槽の階下《した》がまだあらうとは思へなかつた。
 「一體何階なのかね、此|家《うち》は」
 下女は笑つて答へなかつた。然し用事|丈《だけ》は云ひ殘さなかつた。
 「此所の方が新らしくつて綺麗は綺麗ですが、お湯は下の方が能く利くのださうです。だから本當に療治の目的でお出《いで》の方はみんな下へ入らつしやいます。それから肩や腰を瀧でお打たせになる事も下なら出來ます」
 湯壺から首|丈《だけ》出した儘で津田は答へた。
 「有難う。ぢや今度《こんだ》そつちへ入《はい》るから連れてつて呉れ玉へ」。
 「えゝ。旦那樣は何處かお惡いんですか」
 「うん、少し惡いんだ」
 下女が去つた後《あと》の津田は、しばらくの間、「本當に療治の目的で來た客」といつた彼女の言葉を忘れる事が出來なかつた。
 「おれは果してさういふ種類の客なんだらうか」
 彼は自分をさう思ひたくもあり、又さう思ひたくもなかつた。何方本位《どつちほんゐ》で來たのか、それは彼の心が能く承知してゐた。けれども雨を凌《しの》いで此所迄來た彼には、まだ商量《しやうりやう》の隙間があつた。躊躇があつた。幾分の餘裕が殘つてゐた。さうして其餘裕が彼に教へた。
 「今のうちならまだ何うでも出來る。本當に療治の目的で來た客にならうと思へばなれる。ならうとなるまいと今のお前は自由だ。自由は何處迄行つても幸福なものだ。其代り何處迄行つても片付かないものだ、だから物足りないものだ。それでお前は其自由を放り出さうとするのか。では自由を失つた曉《あかつき》に、お前は何物を確《しか》と手に入れる事が出來るのか。それをお前は知つてゐるのか。御前の未來はまだ現前《げんぜん》しないのだよ。お前の過去にあつた一條《ひとすぢ》の不可思議より、まだ幾倍かの不可思議を有《も》つてゐるかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分の思ひ通りのものを未來に要求して、今の自由を放り出さうとするお前は、馬鹿かな利巧かな」
 津田は馬鹿とも利巧とも判斷する譯に行かなかつた。萬事が結果|如何《いかん》で極《き》められようといふ矢先に、其結果を疑がひ出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であつた。
 彼には最初から三つの途があつた。さうして三つより外に彼の途はなかつた。第一は何時《いつ》迄《まで》も煮え切らない代りに、今の自由を失はない事、第二は馬鹿になつても構はないで進んで行く事、第三即ち彼の目指《めざ》す所は、馬鹿にならないで自分の滿足の行くやうな解決を得る事。
 此三ケ條のうち彼はたゞ第三|丈《だけ》を目的にして東京を立つた。所が汽車に搖られ、馬車に搖られ、山の空氣に冷やされ、烟《けむ》の出る湯壺に漬けられ、愈《いよ/\》目的の人は眼前にゐるといふ事實が分り、目的の主意は明日《あした》からでも實行に取り掛れるといふ間際になつて、急に第一が顔を出した。すると第二も何時《いつ》の間《ま》にか、微笑して彼の傍《かたはら》に立つた。彼等の到着は急であつた。けれども騷々しくはなかつた。眼界を遮《さへ》ぎる靄が、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着實に見る事が出來たのである。
 思ひの外に浪漫的《ロマンチツク》であつた津田は、また思ひの外に着實であつた。さうして彼は其兩面の對照に氣が付いてゐなかつた。だから自己の矛盾を苦にする必要はなかつた。彼はたゞ決すれば可《よ》かつた。然し決する迄には胸の中で一戰争しなければならなかつた。――馬鹿になつても構はない、いや馬鹿になるのは厭だ、さうだ馬鹿になる筈がない。――戰爭で一旦片付いたものが、又斯ういふ風に三段となつて、最後迄落ちて來た時、彼は始めて立《た》ち上《あが》れるのである。
 人のゐない大きな浴槽《よくさう》のなかで、洗ふとも摩《こす》るとも片の付かない手を動かして、彼はしきりに綺麗な温泉《ゆ》をざぶ/\使つた。
 
     百七十四
 
 其時不意にがら/\と開けられた硝子戸《ガラスど》の音が、周圍《あたり》を丸《まる》で忘れて、自分の中《なか》にばかり頭を突込《つつこ》んでゐた津田をはつと驚ろかした。彼は思はず首を上げて入口を見た。さうして其所に半身を現はしかけた婦人の姿を湯氣うちに認めた時、彼の心臓は、合圖の警鐘のやうに、どきんと打つた。けれども瞬間に起つた彼の豫感は、また瞬間に消える事が出來た。それは本當の意味で彼を驚ろかせに來た人ではなかつた。
 生れてからまだ一度も顔を合せた覺《おぼえ》のない其婦人は、寐掛《ねがけ》と見えて、白晝なら人前を憚るやうな愼しみの足りない姿を津田の前に露はした。尋常の場合では小袖の裾の先にさへ出る事を許されない、長い襦袢の派手《はで》な色が、惜氣《をしげ》もなく津田の眼をはなやかに照した。
 婦人は温泉烟《ゆけむり》の中に乞食の如く蹲踞《うづくま》る津田の裸體姿《はだかすがた》を一目見るや否や、一旦|入《はい》り掛《か》けた身體をすぐ後《あと》へ引いた。
 「おや、失禮」
 津田は自分の方で詫《あや》まるべき言葉を、相手に先へ奪《と》られたやうな氣がした。すると階子段《はしごだん》を下りる上靴《スリツパー》の音が又聽こえた。それが硝子戸《ガラスど》の前で留まつたかと思ふと男女の會話が彼の耳に入《はい》つた。
 「何うしたんだ」
 「誰か入《はい》つてるの」
 「塞がつてるのか。好いぢやないか、込《こ》んでさへゐなければ」
 「でも……」
 「ぢや小さい方へ入《はい》るさ。小さい方ならみんな空《あ》いてるだらう」
 「勝《かつ》さんはゐないかしら」
 津田は此二人づれのために早く出て遣りたくなつた。同時に是非彼の入《はい》つてゐる風呂へ入らなければ承知が出來ないといつた調子の何處かに見える婦人の態度が氣に喰はなかつた。彼は此所へ入りたければ御勝手にお入《はい》んなさい、御遠慮には及びませんからといふ度胸を据ゑて、又浴槽の中へ身體を漬《つ》けた。
 彼は脊《せい》の高い男であつた。長い足を樂に延ばして、それを温泉《ゆ》の中で上下《うへした》へ動かしながら、透《す》き徹《とほ》るものゝうちに、浮いたり沈んだりする肉體の下肢を得意に眺めた。
 時に突然婦人の要する勝さんらしい人の聲がし出した。
 「今晩は。大變お早う御座いますね」
 勝さんの此挨拶には男の答があつた。
 「うん、あんまり退屈だから今日は早く寐ようと思つてね」
 「へえ、もうお稽古はお濟みですか」
 「お濟みつて譯でもないが」
 次には女の言葉が聽こえた。
 「勝さん、其所は塞《ふさ》がつてるのね」
 「おやさうですか」
 「何處か新らしく拵へたのはないの」
 「御座います。其代り少し熱いかも知れませんよ」
 二人を案内したらしい風呂場の戸の開《あ》く音が、向ふの方でした。かと思ふと、又津田の浴槽の入口ががらりと鳴つた。
 「今晩は」
 四角な顔の小作りな男が、又斯う云ひながら入《はい》つて來た。
 「旦那流しませう」
 彼はすぐ流しへ下り立つて、小判なりの桶へ湯を汲んだ。津田は否應《いやおう》なしに彼に脊中を向けた。
 「君が勝さんてえのかい」
 「えゝ旦那はよく御承知ですね」
 「今聽いたばかりだ」
 「成程。さう云へば旦那も今見た許《ばかり》ですね」
 「今來た許《ばかり》だもの」
 勝さんははゝあと云つて笑ひ出した。
 「東京からお出《いで》ですか」
 「さうだ」
 勝さんは何時《なんじ》の下りだの、上りだのといふ言葉を遣《つか》つて、津田に正確な答へをさせた。それから一人で來たのかとか、何故《なぜ》奧さんを伴《つ》れて來なかつたのかとか、今の夫婦ものは濱の生糸屋《きいとや》さんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習つてゐるんだとか、宅《うち》のお上《かみ》さんは長唄が上手だとか、色々の問を掛けると共に、色々の知識を供給した。聽かないでも可《い》い事迄聽かされた津田には、勝さんの觸れないものが、たつた一つしかないやうに思はれた。さうして其觸れないものは取《とり》も直《なほ》さず清子といふ名前であつた。偶然から來た此結果には、津田に取つて多少の物足らなさが含まれてゐた。勿論津田の方でも水を向ける用意もなかつた。そんな暇のないうちに、勝さんはさつさと喋舌《しやべ》る丈《だけ》喋舌《しやべ》つて、洗ふ方を切り上げてしまつた。
 「何うぞ御緩《ごゆつ》くり」
 斯う云つて出て行つた勝さんの後影を見送つた津田にも、もう緩《ゆつ》くりする必要がなかつた。彼はすぐ身體を拭いて硝子戸《ガラスど》の外へ出た。然し濡手拭をぶら下げて、風呂場の階子段《はしごだん》を上《あが》つて、其所にある洗面所と姿見《すがたみ》の前を通り越して、廊下を一曲り曲つたと思つたら、果して何處へ歸つて可《い》いのか解らなくなつた。
 
     百七十五
 
 最初の彼は殆んど氣が付かずに歩いた。是が先刻《さつき》下女に案内されて通つた路なのだらうかと疑ふ心さへ、淡い夢のやうに、彼の記憶を暈《ぼか》すだけであつた。然し廊下を踏んだ長さに比較して、中々自分の室《へや》らしいものゝ前に出られなかつた時に、彼は不圖《ふと》立ち留まつた。
 「はてな、もつと後《あと》かしら。もう少し先かしら」
 電燈で照らされた廊下は明るかつた。何方《どつち》の方角でも行かうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音は何處にも聽えなかつた。用事で徃來《ゆきき》をする下女の姿も見えなかつた。手拭と石鹸《シヤボン》を其所へ置いた津田は、宅《うち》の書齋でお延を呼ぶ時のやうに手を鳴らして見た。けれども返事は何處からも響いて來なかつた。不案内な彼は、第一下女の溜りのある見當を知らなかつた。個人の住宅と殆んど區別の付かない、植込《うゑこみ》の突當りにある玄關から上つたので、勝手口、台所、帳場などの所在《ありか》は、凡《すべ》て彼に取つての秘密と何の擇ぶ所もなかつた。
 手を鳴らす所作《しよさ》を一二度繰り返して見て、誰も應ずるものゝないのを確かめた時、彼は苦笑しながら又|石鹸《シヤボン》と手拭を取り上げた。是も一興だといふ氣になつた。ぐる/\廻つてゐるうちには、何時《いつ》か自分の室《へや》の前に出られるだらうといふ醉興も手傳つた。彼は生れて以來旅館に於ける始めての經驗を故意に味はう人のやうな心になつてまた歩き出した。
 廊下はすぐ盡きた。其所から筋違《すぢかひ》に二三段|上《あが》ると又洗面所があつた。きら/\する白い金盥が四つ程並んでゐる中へ、ニツケルの栓《せん》の口から流れる山水《やまみづ》だか清水《しみづ》だか、絶えずざあ/\落ちるので、金盥は四つが四つとも一杯になつてゐるばかりか、縁《ふち》を溢れる水晶のやうな薄い水の幕の綺麗に滑つて行く樣が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後《あと》から押されるのと、上から打たれるのとの兩方で、靜かなうちに微細な震盪《しんたう》を感ずるものゝ如くに搖れた。
 水道ばかりを使ひ慣れて來た津田の眼は、すぐ自分の居場所《をりばしよ》を彼に忘れさせた。彼はたゞ勿體《もつたい》ないと思つた。手を出して栓《せん》を締めて置いて遣らうかと考へた時、漸く自分の迂濶さに氣が付いた。それと同時に、白い瀬戸張《せとばり》のなかで、大きくなつたり小さくなつたりする不定な渦《うづ》が、妙に彼を刺戟した。
 あたりは靜かであつた。膳に向つた時下女の云つた通りであつた。といふよりも事實は彼女の言葉を一々|首肯《うけが》つて、大方此位だらうと暗《あん》に想像したよりも遙かに靜かであつた。客が何處にゐるのかと怪しむどころではなく、人が何處にゐるのかと疑ひたくなる位であつた。其靜かさのうちに電燈は隈《くま》なく照り渡つた。けれども是はたゞ光る丈《だけ》で、音もしなければ、動きもしなかつた。たゞ彼の眼の前にある水|丈《だけ》が動いた。渦らしい形を描いた。さうして其渦は伸びたり縮んだりした。
 彼はすぐ水から視線を外《そら》した。すると同じ視線が突然人の姿に行き當つたので、彼ははつとして、眼を据ゑた。然しそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映《うつ》る自分の影像《イメジ》に過ぎなかつた。鏡は等身と云へない迄も大きかつた。少くとも普通床屋に具へ付けてあるもの位の尺はあつた。さうして位地の都合上、やはり床屋のそれの如くに直立してゐた。從つて彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合つた儘で映つた。彼は相手の自分である事に氣が付いた後でも、猶《なほ》鏡から眼を放す事が出來なかつた。湯上りの彼の血色は寧ろ蒼かつた。彼には其意味が解《げ》せなかつた。久しく刈込《かりこみ》を怠つた髪は亂れた儘で頭に生《お》ひ被《かぶ》さつてゐた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のやうに光つた。何故《なぜ》だかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思へた。
 彼は眼鼻立の整つた好男子であつた。顔の肌理《きめ》も男としては勿體《もつたい》ない位|濃《こまや》かに出來上つてゐた。彼は何時《いつ》でも其所に自信を有《も》つてゐた。鏡に對する結果としては此自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に殘つてゐた。だから何時《いつ》もと違つた不滿足な印象が鏡の中に現はれた時に、彼は少し驚ろいた。是が自分だと認定する前に、是は自分の幽靈だといふ氣が先づ彼の心を襲つた。凄くなつた彼には、抵抗力があつた。彼は眼を大きくして、猶《なほ》の事《こと》自分の姿を見詰めた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛を取上げた。それからわざと落付いて綺麗に自分の髪を分けた。
 然し彼の所作《しよさ》は櫛を投げ出すと共に盡きてしまつた。彼は再び自分の室《へや》を探す故《もと》の我に立ち返つた。彼は洗面所と向ひ合せに付けられた階子段《はしごだん》を見上げた。さうして其階子段には一種の特徴のある事を發見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一程廣かつた。第二に象が乘つても音がしまいと思はれる位|巖丈《がんぢやう》に出來てゐた。第三に尋常のものと違つて、擬《まが》ひの西洋舘らしく、一面に假漆《ニス》が塗《かゝ》つてゐた。
 胡亂《うろん》なうちにも、此階子段|丈《だけ》は決して先刻《さつき》下りなかつたといふ慥《たし》かな記憶が彼にあつた。其所を上《のぼ》つても自分の室《へや》へは歸れないと氣が付いた彼は、もう一遍|後戻《あともど》りをする覺悟で、鏡から離れた身體を横へ向け直した。
 
     百七十六
 
 すると其二階にある一室の障子を開けて、開けた後《あと》を又|閉《た》て切《き》る音が聽えた。階子段《はしごだん》の構へから見ても、上にある室《へや》の數は一つや二つではないらしく思はれる程廣い建物だのに、今津田の耳に入《はい》つた音は、手に取るやうに判切《はつきり》してゐるので、彼はすぐ其|確的《たしか》さの度合から押して、室《へや》の距離を定める事が出來た。
 下から見上げた階子段《はしごだん》の上は、普通料理屋の建築などで、人の?《しば/\》目撃する所と何の異《こと》なる所もなかつた。
 其所には廣い板の間があつた。目の屆かない幅は問題外として、突き當りを遮《さへ》ざる壁を目標《めやす》に置いて、大凡《おほよそ》の見當を付けると、疊一枚を竪に敷く丈《だけ》の長さは充分あるらしく見えた。此板の間から、廊下が三方へ分れてゐるか、或は二方に折れ曲つてゐるか、其所は階段を上《のぼ》らない津田の想像で判斷するより外に途はないとして、今聽えた障子の音の出所《でどころ》は、一番階段に近い室《へや》、即ち下《し》たから見える壁のすぐ後《うしろ》に違なかつた。
 ひつそりした中《なか》に、突然此音を聞いた津田は、始めて階上にも客のゐる事を悟つた。といふより、彼は漸く人間の存在に氣が付いた。今迄|丸《まる》で方角違ひの刺戟に氣を奪《と》られてゐた彼は驚ろいた。勿論其驚きは微弱なものであつた。けれども性質からいふと、既に死んだと思つたものが急に蘇《よみがへ》つた時に感ずる驚ろきと同じであつた。彼はすぐ逃げ出さうとした。それは部屋へ歸れずに迷兒《まご》ついてゐる今の自分に付着する間拔《まぬけ》さ加減《かげん》を他《ひと》に見せるのが厭だつたからでもあるが、實を云ふと、此|驚《おど》ろきによつて、多少なりとも度を失なつた己《おの》れの醜くさを人前に曝《さら》すのが耻づかしかつたからでもある。
 けれども自然の成行はもう少し複雜であつた。一旦|歩《ほ》を回《めぐ》らさうとした刹那に彼は氣が付いた。
 「ことによると下女かも知れない」
 斯う思ひ直した彼の度胸は忽ち回復した。既に驚ろきの上を超える事の出來た彼の心には、續いて、なに客でも構はないといふ餘裕が生れた。
 「誰でも可《い》い、來たら方角を教へて貰はう」
 彼は決心して姿見《すがたみ》の横に立つた儘、階子段《はしごだん》の上を見詰めた。すると靜かな足音が彼の豫期通り壁の後で聽え出した。其足音は實際靜かであつた。踵《かゝと》へ跳ね上る上靴《スリツパー》の薄い尾がなかつたなら、彼は遂にそれを聽《き》き逃《にが》して仕舞はなければならない程靜かであつた。其時彼の心を卒然として襲つて來たものがあつた。
 「是は女だ。然し下女ではない。ことによると……」
 不意に斯う感付いた彼の前に、若しやと思つた其本人が容赦なく現はれた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚はれた津田の足は忽ち立《た》ち竦《すく》んだ。眼は動かなかつた。
 同じ作用が、それ以上強烈に清子を其場に抑へ付けたらしかつた。階上の板の間迄來て其所でぴたりと留まつた時の彼女は、津田に取つて一種の繪であつた。彼は忘れる事の出來ない印象の一つとして、それを後々《のち/\》迄《まで》自分の心に傳へた。
 彼女が何氣なく上から眼を落したのと、其所に津田を認めたのとは、同時に似て實は同時でないやうに見えた。少くとも津田にはさう思はれた。無心《むしん》が有心《いうしん》に變る迄にはある時が掛つた。驚ろきの時、不可思議の時、疑ひの時、それ等を經過した後《あと》で、彼女は始めて棒立になつた。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作つた人形を倒すより容易《たやす》く倒せさうな姿勢で、硬くなつた儘棒立に立つた。
 彼女は普通の湯治客《たうぢきやく》のする通り、寐しなに一風呂|入《はい》つて温《あたゝ》まる積《つもり》と見えて、手に小型のタウエルを提《さ》げてゐた。それから津田と同じ樣にニツケル製の石鹸入《シヤボンいれ》を裸の儘持つてゐた。棒のやうに硬く立つた彼女が、何故《なぜ》それを床の上へ落さなかつたかは、後から其刹那の光景を辿るたびに、何時《いつ》でも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であつた。
 彼女の姿は先刻《さつき》風呂場で會つた婦人程|縱《ほしい》まゝではなかつた。けれども斯ういふ場所で、客同志が互ひに黙認しあふ丈《だけ》の自由は既に利用されてゐた。彼女は正式に幅の廣い帶を結んでゐなかつた。赤だの青だの黄だの、色々の縞が綺麗に通つてゐる派手《はで》な伊達卷《だてまき》を、寧ろずる/\に卷き付けた儘であつた。寐卷の下に重ねた長襦袢の色が、薄い羅紗製《ラシヤせい》の上靴《スリツパー》を突掛《つつか》けた素足《すあし》の甲を被《おほ》つてゐた。
 清子の身體が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなつた。さうして兩方の頬と額の色が見る/\うちに蒼白く變つて行つた。其變化があり/\と分つて來た中頃で、自分を忘れてゐた津田は氣が付いた。
 「何うかしなければ不可《いけな》い。何處迄蒼くなるか分らない」
 津田は思ひ切つて聲を掛けやうとした。すると其途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかつた。津田を階下に殘した儘、廊下を元へ引き返したと思ふと、今迄明らかに彼女を照らしてゐた二階の上《あが》り口《くち》の電燈がぱつと消えた。津田は暗闇《くらやみ》の中で開けるらしい障子の音を又聽いた。同時に彼の氣の付かなかつた、自分の立つてゐるすぐ傍《そば》の小さな部屋で呼鈴《よびりん》の返しの音がけたゝましく鳴つた。
 やがて遠い廊下をばた/\馳けて來る足音が聽こえた。彼は其足音の主《ぬし》を途中で喰ひ留めて、清子の用を聽きに行く下女から自分の室《へや》の在所《ありどころ》を教へて貰つた。
 
     百七十七
 
 其晩の津田は能く眠れなかつた。雨戸の外でするさら/\いふ音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事の出來ない彼は疑つた。雨が來たのだらうか、谿川《たにがは》が軒の近くを流れてゐるのだらうか。雨としては庇《ひさし》に響がないし、谿川《たにがは》としては勢《いきほひ》が緩漫過ぎると迄考へた彼の頭は、同時にそれより遙か重大な主題のために惱まされてゐた。
 彼は室《へや》に歸ると、何時《いつ》の間《ま》にか氣を利かせた下女の暖かさうに延べて置いて呉れた床を、わが座敷の眞中に見出《みいだ》したので、すぐ其中へ潜《もぐ》り込《こ》んだ儘、偶然にも今自分が經過して來た冒險に就いて思ひ耽つたのである。
 彼は此宵の自分を顧りみて、殆んど夢中歩行者《ソムナンビユリスト》のやうな氣がした。彼の行爲は、目的《あて》もなく家中《うちぢゆう》彷徨《うろつ》き廻《まは》つたと一般であつた。ことに階子段《はしごだん》の下で、靜中に渦を廻轉させる水を見たり、突然|姿見《すがたみ》に映《うつ》る氣味の惡い自分の顔に出會つたりした時は、事後一時間と經《た》たない近距離から判斷して見ても、慥《たし》かに常軌を逸した心理作用の支配を受けてゐた。常識に見捨てられた例《ためし》の少ない彼としては珍らしい此氣分は、今床の中に安臥する彼から見れば、耻づべき状態に違なかつた。然し外聞が惡いといふ事を外《ほか》にして、何故《なぜ》あんな心持になつたものだらうかと、たゞ其原因を考へる丈《だけ》でも、説明は出來なかつた。
 それはそれとして、何故《なぜ》あの時清子の存在を忘れてゐたのだらうといふ疑問に推し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかつた。
 「それ程自分は彼女に對して冷淡なのだらうか」
 彼は無論|左右《さう》でないと信じてゐた。彼は食事の時、既に清子のゐる方角を、下女から教へて貰つた位であつた。
 「然しお前はそれを念頭に置かなかつたらう」
 彼は實際廊下を烏鷺々々《うろ/\》歩行《ある》いてゐるうちに、清子を何處かへ振り落した。けれども自分の何處を歩いてゐるか知らないものが、他《ひと》が何處にゐるか知らう筈はなかつた。
 「此見當だと心得てさへゐたならば、あゝ不意打《ふいうち》を食ふんぢやなかつたのに」
 斯う考へた彼は、もう第一の機會を取り逃したやうな氣がした。彼女が後を向いた樣子、電氣を消して上《あが》り口《くち》の案内を閉塞《へいそく》した所作《しよさ》、忽ち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴《ベル》の音、是等のものを綜合して考へると、凡《すべ》てが警戒であつた。注意であつた。さうして絶縁であつた。
 然し彼女は驚ろいてゐた。彼よりも遙か餘計に驚ろいてゐた。それは單に女だからとも云へた。彼には不意の裡《うち》に豫期があり、彼女には突然の中《うち》にたゞ突然がある丈《だけ》であつたからとも云へた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し盡せてゐるだらうか。彼女はもつと複雜な過去を覿面《てきめん》に感じてはゐないだらうか。
 彼女は蒼くなつた。彼女は硬くなつた。津田は其所に望みを繋いだ。今の自分に都合の好いやうにそれを解釋して見た。それから又其解釋を引繰返《ひつくりかへ》して、反對の側《がは》からも眺めて見た。兩方を眺め盡した次には何方《どつち》が合理的だらうといふ批判をしなければならなくなつた。其批判は材料不足のために、容易に纒まらなかつた。纒つてもすぐ打ち崩された。一方に傾くと彼の自信が壞しに來た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下《ひげ》して用ひる彼自身の言葉でいふと彼の己惚《おのぼれ》は、胸の中《うち》にあるやうな氣がした。それを攻めに來る幻滅の半鐘は又反對に何時《いつ》でも頭の外から來るやうな心持がした。兩方を公平に取扱かつてゐる積《つもり》でゐながら、彼は常に親疎《しんそ》の區別を其|間《あひだ》に置いてゐた。といふよりも、遠近の差等が自然天然屬性として二つのものに元から具はつてゐるらしく見えた。結果は分明《ぶんみやう》であつた。彼は叱りながら己惚《おのぼれ》の頭を撫でた。耳を傾けながら、半鐘の音を忌んだ。
 斯くして互ひに追《おつ》つ追《お》はれつしてゐる彼の心に、靜かな眠は來《き》ようとしても來られなかつた。萬事を明日《あす》に讓る覺悟を極《き》めた彼は、幾度《いくたび》かそれを招き寄せようとして失敗《しくじ》つた揚句、右を向いたり、左を下にしたり、たゞ寐返りの數を重ねる丈《だけ》であつた。
 彼は烟草へ火を點《つ》けようとして枕元にある燐寸《マツチ》を取つた。其時袖疊みにして下女が衣桁《いかう》へ掛けて行つた?袍《どてら》が眼に入《い》つた。氣が付いて見ると、お延の鞄《カバン》へ入れて呉れたのは其儘にして、先刻《きつき》宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入《はい》つてゐた。彼は病院を出る時、新調の?袍《どてら》に對してお延に使つたお世辭を忽ち思ひ出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
 「何方《どつち》が好いか比べて御覽なさい」
 ?袍《どてら》は果して宿の方が上等であつた。銘仙と糸織の區別は彼の眼にも一目瞭然《いちもくれうぜん》であつた。?袍《どてら》を見較べると共に、細君を前に置いて、内々心の中《うち》で考へた當時の事が再び意識《いしき》の域上《ゐきじやう》に現はれた。
 「お延と清子」
 獨り斯う云つた彼は忽ち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、其底から出るじいといふ音を聽いたなり、すぐ夜具を頭から被《かぶ》つた。
 強ひて寐ようとする決心と努力は、其決心と努力が疲れ果てゝ何處かへ行つてしまつた時に始めて酬ひられた。彼はとう/\我知らず夢の中に落ち込んだ。
 
     百七十八
 
 朝早く男が來て雨戸を引く音のために、一旦破り掛けられた其夢は、半醒半睡の間に、辛うじて持續した。室《へや》の四角《よすみ》が寐てゐられない程明るくなつて、外部《そと》に朝日の影が充ち渡ると思ふ頃、始めて起き上つた津田の瞼はまだ重かつた。彼は楊枝《やうじ》を使ひながら障子を開けた。さうして昨夜來の魔境から今漸く覺醒した人のやうな眼を放つて、其所いらを見渡した。
 彼の室《へや》の前にある庭は案外にも山里らしくなかつた。不規則な池を人工的に拵へて、其周圍に稚《わか》い松だの躑躅《つゝじ》だのを普通の約束通り配置した景色は平凡といふより寧ろ卑俗であつた。彼の室《へや》に近い築山の間から、谿水《たにみづ》を導いて小さな瀧を池の中へ落してゐる上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のやうに吹き上げる噴水迄添へてあつた。昨夜《ゆうべ》彼の睡眠を惱ました細工の源を、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想はすぐ此水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推し移つた。大根《おほね》を洗へばそれも此噴水同樣に殺風景なものかも知れない、いやもしそれが此噴水同樣に無意味なものであつたら堪《たま》らないと彼は考へた。
 彼が銜《くは》へ楊枝《やうじ》の儘《まゝ》懷手をして敷居の上にぼんやり立つてゐると、先刻《さつき》から高箒《たかばうき》で庭の落葉を掃いてゐた男が、彼の傍《そば》へ寄つて來て丁寧に挨拶をした。
 「お早う、昨夜《さくや》はお疲れ樣で」
 「君だつたかね、昨夕《ゆうべ》馬車へ乘つて此所迄一所に來て呉れたのは」
 「へえ、お邪魔樣で」
 「成程君の云つた通り閑靜だね。さうして無暗に廣い家《うち》だね」
 「いえ、御覽の通り平地《ひらち》の乏しい所でげすから、地ならしをしては其上へ建て建てして、家が幾段にもなつて居りますので、――廊下|丈《だけ》は仰せの通り無暗に廣くつて長いかも知れません」
 「道理で。昨夕《ゆうべ》僕は風呂場へ行つた歸りに迷兒《まひご》になつて弱つたよ」
 「はあ、そりや」
 二人が斯《こ》んな會話を取り換はせてゐる間に、庭續の小山の上から男と女が是も二人づれで下りて來た。黄葉《くわうえふ》と枯枝の隙間を動いてくる彼等の路は、稻妻形《いなづまがた》に林の裡《うち》を拔けられるやうに、又比較的急な勾配《こうばい》を樂に上《のぼ》られるやうに、作つてあるので、つい其所に見えてゐる彼等の姿も中々庭先迄出るのに暇がかゝつた。それでも手代《てだい》は凝《じつ》として彼等を待つてゐなかつた。忽ち津田を放り出した現金な彼は、すぐ岡の裾迄駈け出して行つて、下から彼等を迎ひに來たやうな挨拶を與へた。
 津田は此時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕《ゆうべ》艶《なま》めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違なかつた。風呂場で彼を驚ろかした大きな髷を何時《いつ》の間《ま》にか崩して、尋常の束髪に結《ゆ》ひ更《か》へたので、彼はつい同じ人と氣が付かずにゐた。彼は更に聲を聽いた丈《だけ》で顔を知らなかつた伴《つれ》の男の方を、餘所《よそ》ながらの初對面といつた風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ當世風の髭を鼻の下に生やした其男は、成程風呂番の云つた通り、何處かに商人らしい面影《おもかげ》を宿してゐた。津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫《をつと》を憶ひ出した。堀庄太郎、もう少し畧《りやく》して堀の庄さん、もつと詰めて當人のしば/\用ひる堀庄《ほりしやう》といふ名前が、如何にも妹婿の樣子を代表してゐる如く、此男の名前も屹度《きつと》其髭を虐殺する樣に町人染《ちやうにんじ》みてゐはしまいかと思はれた。瞥見《べつけん》の序《ついで》に纒められた津田の想像は此所に留《とゞ》まらなかつた。彼はもう一歩皮肉な所迄切り込んで、彼等が果して本當の夫婦であるかないかをさへ疑問の中《うち》に置いた。從つて早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼等は、津田に取つての違例な現象に外ならなかつた。彼は楊枝《やうじ》で齒を磨《こす》りながらまだ元の所に立つてゐた。彼が餘所見《よそみ》をしてゐるにも拘はらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聽えた。
 女は番頭に訊いた。
 「今日は別館の奧さんは何うかなすつて」
 番頭は答へた。
 「いえ、手前はちつとも存じませんが、何か――」
 「別に何つて事もないんですけれどもね、何時《いつ》でも朝風呂場でお目にかゝるのに、今日は入らつしやらなかつたから」
 「はあ左樣《さやう》で――、ことによるとまだお休みかも知れません」
 「左右《さう》かも知れないわね。だけど何時《いつ》でも兩方の時間がちやんと極つてるのよ、朝お風呂に行く時の」
 「へえ、成程」
 「それに今朝御一所に裏の山へ散歩に參りませうつてお約束をしたもんですからね」
 「ぢや一寸伺つて參りませう」
 「いゝえ、もう可《い》いのよ。散歩は此通り濟んぢまつたんだから。たゞもしや何處かお加減でも惡いのぢやないかしらと思つて、一寸番頭さんに訊いて見た丈《だけ》よ」
 「多分たゞのお休みだらうと思ひますが、それとも――」
 「それともなんて、さう眞面目腐らなくつても可《い》いのよ。たゞ訊いて見た丈《だけ》なんだから」
 二人はそれぎり行き過ぎた。津田は齒磨粉で口中《こうちゆう》を一杯にしながら、又|昨夜《ゆうべ》の風呂場を探しに廊下へ出た。
 
     百七十九
 
 然し探す抔《など》といふ大袈裟な言葉は、今朝の彼に取つて全く無用であつた。路に曲折の難はあつたにせよ、一足《ひとあし》の無駄も踏まずに、自然|昨夜《ゆうべ》の風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜來の自分を我ながら馬鹿々々しいと思ふ心が更に新らしく湧いて出た。
 風呂場には軒下に嵌《は》めた高い硝子戸《がらすど》を通して、秋の朝日がかん/\差し込んでゐた。其硝子戸|越《ごし》に岩だか土堤《どて》だかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉《ゆ》に浸《つ》けながら、如何に浴槽《よくさう》の位置が、大地の平面以下に切り下げられてゐるかを發見した。さうして此崖と自分のゐる場所との間には、高さから云つて隨分の相違があると思つた。彼は目分量で其距離を一間半乃至二間と鑑定した後で、もし此下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中《うち》に幾層もある筈だといふ事に氣が付いた。
 崖の上には石蕗《つは》があつた。生憎《あいにく》其所に朝日が射してゐないので、時々風に搖れる硬く光つた葉の色が、如何にも寒さうに見えた。山茶花《さゞんくわ》の花の散つて行く樣も湯壺から眺められた。けれども景色は斷片的であつた。硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかつた。不可知な世界は無論平凡に違なかつた。けれどもそれが何故《なぜ》だか彼の好奇心を唆《そゝ》つた。すぐ崖の傍《そば》へ來て急に鳴き出したらしい鵯《ひよどり》も、聲が聽える丈《だけ》で姿の見えないのが物足りなかつた。
 然しそれはほんの付けたりの物足りなさであつた。實を云ふと、津田は腹のうちで遙かそれ以上氣にかゝる事件を捏《こ》ね返《かへ》してゐたので、彼は風呂場へ下りた時から既にある不足を暗々《あん/\》のうちに感じなければならなかつた。明るい浴室に人影一つ見出《みいだ》さなかつた彼は、萬事君の跋扈《ばつこ》に任せるといつた風に寂寞《せきばく》を極《きは》めた建物の中《うち》に立つて、廊下の左右に並んでゐる小さい浴槽《よくさう》の戸を、念のため一々開けて見た。尤も是は其うちの一つの入口に、スリツパーが脱ぎ棄てゝあつたのが、彼に或暗示を與へたので、それが機縁になつて、彼を動かした所作《しよさ》に過ぎないとも云へば云へない事もなかつた。だから順々に戸を開けた手の番が廻つて來て、愈《いよ/\》スリツパーの前に閉《た》て切《き》られた戸に掛つた時、彼は急に躊躇した。彼は固《もと》より無心ではなかつた。其上失禮といふ感じが何處かで手傳つた。仕方なしに外部《そと》から耳を峙《そばだ》てたけれども、中は森《しん》としてゐるので、それに勢《いきほひ》を得た彼の手は、思ひ切つてがらりと戸を開ける事が出來た。さうして外《ほか》と同じ樣に空虚な浴室が彼の前に見出《みいだ》された時に、まあ可《よ》かつたといふ感じと、何だ詰らないといふ失望が一度に彼の胸に起つた。
 既に裸になつて、湯壺の中に浸《つか》つた後《あと》の彼には、此引續きから來る一種の豫期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕《ゆうべ》と今朝の間に自分の經過した變化を比較した。昨夕《ゆうべ》の彼は丸髷の女に驚ろかされる迄は寧ろ無邪氣であつた。今朝の彼はまだ誰も來ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じてゐた。
 それは主《ぬし》のないスリツパーに唆《そゝ》のかされた罪かも知れなかつた。けれどもスリツパーが何故《なぜ》彼を唆《そゝ》のかしたかといふと、寐起に横濱の女と番頭の噂さに上《のぼ》つた清子の消息を聽かされたからであつた。彼女はまだ起きてゐなかつた。少くともまだ湯に入《はい》つてゐなかつた。若し入《はい》るとすれば今入つてゐるか、是から入りに來るか何方《どつち》かでなければならなかつた。
 鋭敏な彼の耳は、不圖《ふと》誰か階段を下りて來るやうな足音を聽いた。彼はすぐぢやぶ/\やる手を止《や》めた。すると足音は聽えなくなつた。然し氣の所爲《せゐ》か一旦留まつた其足音が今度は逆に階段を上《のぼ》つて行くやうに思はれた。彼は其源因を想像した。他《ひと》の例にならつて、自分のスリツパーを戸の前に脱ぎ捨てて置いたのが惡くはなかつたらうかと考へた。何故《なぜ》それを浴室の中迄|穿《は》き込《こ》まなかつたのだらうかといふ後悔さへ萌《きざ》した。
 しばらくして彼は又意外な足音を今度は浴槽の外側に聞いた。それは彼が石蕗《つは》の花を眺めた後《あと》、鵯鳥《ひよどり》の聲を聽いた前であつた。彼の想像はすぐ前後の足音を結び付けた。風呂場を避けた前の足音の主《ぬし》が、わざと外へ出たのだといふ解釋が容易に彼に與へられた。すると忽ち女の聲がした。然しそれは足音と全く別な方角から來た。下から見上げた外部の樣子によつて考へると、崖の上は幾坪かの平地《ひらち》で、其|平地《ひらち》を前に控えた一棟の建物が、風呂場の方を向いて建てられてゐるらしく思はれた。何しろ聲は其方《そつち》の見當から來た。さうして其|主《ぬし》は、慥《たし》かに先刻《さつき》散歩の歸りに番頭と清子の話をした女であつた。
 昨夕《ゆうべ》湯氣を拔くために隙《す》かされた庇《ひさし》の下の硝子戸《ガラスど》が今日は閉《た》て切《き》られてゐるので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入《はい》らなかつた。けれども語勢其他から推して、一事は慥《たし》かであつた。彼女は崖の上から崖の下へ向けて話し掛けてゐた。だから順序を云へば、崖の下からも是非|受《う》け應《こた》への挨拶が出なければならない筈であつた。所が意外にもその方は丸《まる》で音沙汰なしで、互ひ違ひに起る普通の會話は決して聽かれなかつた。喋舌《しやべ》る方はたゞ崖の上に限られてゐた。
 其代り足音|丈《だけ》は先刻《さつき》のやうに留まらなかつた。疑ひもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上《のぼ》つて行つた。それが上《のぼ》り切《き》つたと思ふ頃に、足を運ぶ女の裾が硝子戸《ガラスど》の上部の方に少し現はれた。さうしてすぐ消えた。津田の眼に殘つた瞬間の印象は、たゞうつくしい模樣の翻がへる樣であつた。彼は動き去つた其模樣のうちに、昨夕《ゆうべ》階段の下から見たと同じ色を認めたやうな氣がした。
 
     百八十
 
 室《へや》に歸つて朝食《あさめし》の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
 「濱のお客さんのゐる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だらう」
 「えゝ。あちらへ行つて御覽になりましたか」
 「いゝや、大方さうだらうと思つた丈《だけ》さ」
 「よく當りましたね。ちとお遊びに入らつしやいまし、旦那も奧さんも面白い方です。退屈だ/\つて毎日困つてらつしやるんです」
 「よつぽど長く居るのかい」
 「えゝもう十日|許《ばかり》になるでせう」
 「あれだね、義太夫を遣るつてえのは」
 「えゝ、能く御存じですね、もうお聽きになりましたか」
 「まだだよ。たゞ勝さんに教はつた丈《だけ》だ」
 彼の聽くがまゝに、二人に就いての知識を惜氣《をしげ》もなく供給した下女は、それでも分を心得てゐた。急所へ來るとわざと津田の問を外《はづ》した。
 「時にあの女の人は一體何だね」
 「奧さんですよ」
 「本當の奧さんかね」
 「えゝ、本當の奧さんでせう」と云つた彼女は笑ひ出した。「まさか嘘の奧さんてのもないでせう、何故ですか」
 「何故つて、素人《しろうと》にしちやあんまり粹過《いきす》ぎるぢやないか」
 下女は答へる代りに、突然清子を引合《ひきあひ》に出した。
 「もう一人奧にゐらつしやる奧さんの方がお人柄《ひとがら》です」
 間取《まどり》の關係から云つて、清子の室《へや》は津田の後《うしろ》、二人づれの座敷は津田の前に當つた。兩方の中間に自分を見出《みいだ》した彼は漸く首肯《うなづ》いた。
 「すると丁度|眞中邊《まんなかへん》だね、此所は」
 眞中《まんなか》でも室《へや》が少し折れ込んでゐるので、兩方の通路にはなつてゐなかつた。
 「其奧さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
 「えゝ御懇意です」
 「元から?」
 「さあ何うですか、其所《そこ》は能く存じませんが、――大方此所へ入らしつてからお知合におなんなすつたんでせう。始終行つたり來たりして入らつしやいます、兩方ともお閑《ひま》なもんですから。昨日《きのふ》も公園へ一所にお出掛《でかけ》でした」
 津田は問題を取り逃がさないやうにした。
 「其奧さんは何故一人でゐるんだね」
 「少し身體がお惡いんです」
 「旦那さんは」
 「入らつしやる時は旦那さまも御一所でしたが、すぐお歸りになりました」
 「置《お》いてき堀《ばり》か、そりや非道《ひど》いな。それつきり來ないのかい」
 「何でも近いうちにまた入らつしやるとかいふ事でしたが、何うなりましたか」
 「退屈だらうね、奧さんは」
 「ちと話しに行つて、お上げになつたら如何《いかゞ》です」
 「話しに行つても可《い》いかね、後で聽いといて呉れ玉へ」
 「へえ」と答へた下女はにや/\笑ふ丈《だけ》で本氣にしなかつた。津田は又訊いた。
 「何をして暮してゐるのかね、其奧さんは」
 「まあお湯に入《はい》つたり、散歩をしたり、義太夫を聽かされたり、――時々は花なんかお活《い》けになります、それから夜よく手習をしてゐらつしやいます」
 「さうかい。本は?」
 「本もお讀みになるでせう」と中途半端に答へた彼女は、津田の質問が餘り煩瑣《はんさ》にわたるので、とう/\あはゝと笑ひ出した。津田は漸く氣が付いて、少し狼狽《あわて》たやうに話を外《そ》らせた。
 「今朝風呂場へスリツパーを忘れていつたものがあるね、塞《ふさ》がつてるのかと思つてはじめは遠慮してゐたが、開けて見たら誰もゐなかつたよ」
 「おやさうですか、ぢや又あの先生でせう」
 先生といふのは書の專門家であつた。方々に掛つてゐる額や看板で其|落款《らくくわん》を覺えてゐた津田は「へええ」と云つた。
 「もう年寄だらうね」
 「えゝお爺さんです。斯《こ》んなに白い髯を生やして」
 下女は胸のあたりへ自分の手を遣《や》つて書家に相應《ふさ》はしい髯の長さを形容して見せた。
 「成程。矢つ張字を書いてるのかい」
 「えゝ何だかお墓に彫り付けるんだつて、大變大きなものを毎日少しづゝ書いてゐらつしやいます」
 書家は其墓碑銘を書くのが目的で、わざ/\此所へ來たのだと下女から聽かされた時、津田は驚ろいて感心した。
 「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人《しろうと》は半日位で、すぐ出來上りさうに考へてるんだが」
 此感想は全く下女に響かなかつた。然し津田の胸には口へ出して云はないそれ以上の或物さへあつた。彼は暗《あん》に此老先生の用向《ようむき》と自分の用向とを見較べた。無事に苦しんで義太夫の稽古をするといふ濱の二人を更に其|傍《かたはら》に並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活《い》けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考へた。最後に、殘る一人の客、其客は話もしなければ運動もせず、たゞぽかんと座敷に坐つて山を眺めてゐるといふ下女の觀察を聽いた時、彼は云つた。
 「いろんな人がゐるんだね。五六人寄つてさへ斯うなんだから。夏や正月になつたら大變だらう」
 「一杯になると何うしても百三四十人は入《はい》りますからね」
 津田の意味をよく了解しなかつたらしい下女は、たゞ自分達の最も多忙を極めなければならない季節に、此|家《うち》へ入《い》り込《こ》んでくる客の人數《にんず》を擧げた。
 
     百八十一
 
 食後の津田は床の脇に置かれた小机の前に向つた。下女に頼んで取り寄せた繪端書へ一口づゝ文句を書き足して、其表へ名宛《なあて》を記《しる》した。お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は濟んでしまつたのに、下女の持つて來た繪端書はまだ幾枚も餘つてゐた。
 彼は漫然と萬年筆を手にした儘、不動の瀧だの、ルナ公園《パーク》だのと、山里に似合はない變な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。それから又|印氣《インキ》を走らせた。今度はお秀の夫《をつと》と京都にゐる兩親|宛《あて》の分がまたたく間《ま》に出來上つた。斯う書き出して見ると、序《ついで》だからといふ氣も手傳つて、あり丈《たけ》の繪端書をみんな使つて仕舞はないと義理が惡いやうにも思はれた。最初は考へてゐなかつた岡本だの、岡本の子供の一《はじめ》だの、其|一《はじめ》の學校友達といふ連想から、又自分の親戚《みうち》の方へ逆戻りをして、甥《をひ》の眞事《まこと》だの、色々な名が澤山並べられた。初手《しよて》から氣が付いてゐながら、最後迄名を書かなかつたのは小林|丈《だけ》であつた。他《ほか》の意味は別として、たゞ在所《ありか》を嗅ぎつけられるといふ恐れから、津田は何うしても此旅行先を彼に知らせたくなかつたのである。其小林は不日《ふじつ》朝鮮へ行くべき人であつた。無檢束をもつて自《みづか》ら任ずる彼は、海を渡る覺悟で既にもう汽車に搖られてゐるかも知れなかつた。同時に不規律な彼は又出立と公言した日が來ても動かずにゐないとも限らなかつた。繪端書を見て、(若し津田がそれを出すとすると、)すぐ此所へ遣《や》つて來ないといふ事は決して斷言出來なかつた。
 津田は陰晴定めなき天氣を相手にして戰ふやうに厄介な此友達、もつと適切にいふと此敵、の事を考へて、思はず眉を峙《そば》だてた。すると一旦|緒口《いとくち》の開《あ》いた想像の光景《シーン》は其所で留《と》まらなかつた。彼を拉《らつ》してずん/\先へ進んだ。彼は突然玄關へ馬車を横付にする、さうして怒鳴《どな》り込《こ》むやうな大きな聲を出して彼の室《へや》へ入《はい》つてくる小林の姿を眼前に髣髴《はうふつ》した。
 「何しに來た」
 「何しにでもない、貴樣を厭がらせに來たんだ」
 「何ういふ理由《わけ》で」
 「理由《わけ》も糸瓜《へちま》もあるもんか。貴樣がおれを厭がる間は、何時《いつ》迄《まで》經《た》つても何處へ行つても、たゞ追掛《おつか》けるんだ」
 「畜生ツ」
 津田は突然|拳《こぶし》を固めて小林の横ツ面を撲《なぐ》らなければならなかつた。小林は抵抗する代りに、忽ち大の字になつて室《へや》の眞中へ踏《ふ》ん反《ぞ》り返《かへ》らなければならなかつた。
 「撲《なぐ》つたな、此野郎。さあ何うでもしろ」
 丸《まる》で舞台の上でなければ見られないやうな活劇が演ぜられなければならなかつた。さうしてそれが宿中《やどぢゆう》の視聽を脅《おびや》かさなければならなかつた。其中には是非とも清子が交《まじ》つてゐなければならなかつた。萬事は永久に打ち碎かれなければならなかつた。
 事實よりも明瞭な想像の一幕《ひとまく》を、描くともなく頭の中《なか》に描き出した津田は、突然ぞつとして我に返つた。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが實際生活の表面に現はれたら何うしようと考へた。彼は羞耻と屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬の内側が熱《ほて》つて來るやうな氣さへした。
 然し彼の批判はそれぎり先へ進めなかつた。他《ひと》に對して面目《めんぼく》を失ふ事、萬一そんな不始末をしでかしたら大變だ。これが彼の倫理觀の根柢に横《よこた》はつてゐる丈《だけ》であつた。それを切り詰めると、遂に外聞が惡いといふ意味に歸着するより外に仕方がなかつた。だから惡い奴はたゞ小林になつた。
 「おれに何の不都合がある。彼奴《あいつ》さへゐなければ」
 彼は斯う云つて想像の幕に登場した小林を責めた。さうして自分を不面目にする凡《すべ》ての責任を相手に背負《しよ》はせた。
 夢のやうな罪人に宣告を下した後《あと》の彼は、すぐ心の調子を入れ代へて、紙入の中から一枚の名刺を出した。其裏に萬年筆で、「僕は靜養のため昨夜《さくや》此所へ來ました」と書いたなり首を傾けた。それから「貴女《あなた》がお出《いで》の事を今朝聽きました」と付け足して又考へた。
 「是ぢや空々しくつて不可《いけな》い、昨夜《ゆうべ》會つた事も何とか書かなくつちや」
 然し當り障りのないやうに其所へ觸れるのは一寸困難であつた。第一書く事が複雜になればなる程、文字が多くなつて一枚の名刺では事が足りなくなる丈《だけ》であつた。彼は成るべく淡泊《あつさり》した口上を傳へたかつた。從つて小面倒な封書などは使ひたくなかつた。
 思ひ付いたやうに違ひ棚の上を眺めた彼は、まだ手を付けなかつた吉川夫人の贈物が、昨日《きのふ》の儘でちやんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸した。彼は果物籃《くだものかご》の蓋《ふた》の間へ、「御病氣は如何《いかゞ》ですか。是は吉川の奧さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿し込んだ後《あと》で、下女を呼んだ。
 「宅《うち》に關さんといふ方がお出《いで》だらう」
 今朝給仕をしたのと同じ下女は笑ひ出した。
 「關さんが先刻《さつき》お話した奧さんの事ですよ」
 「左右《さう》か。ぢや其奧さんで可《い》いから、是を持つて行つて上げて呉れ。さうしてね、もしお差支がなければ一寸お目に掛りたいつて」
 「へえ」
 下女はすぐ果物籃《くだものかご》を提《さ》げて廊下へ出た。
 
     百八十二
 
 返事を待ち受ける間の津田は居据りの惡い置物のやうに落ち付かなかつた。ことにすぐ歸つて來《く》べき筈の下女が思つた通りすぐ歸つて來ないので、彼は猶《なほ》の事《こと》心を遣《つか》つた。
 「まさか斷るんぢやあるまいな」
 彼が吉川夫人の名を利用したのは、既に萬一を顧慮したからであつた。夫人とさうして彼女の見舞品、此二つは、それを屆ける津田に對して、清子の束縛を解く好い方便に違なかつた。單に彼と應接する煩はしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑を避けようとするのが彼女の當體《たうたい》であつたにした所で、果物籃《くだものかご》の禮はそれを持つて來た本人に會つて云ふのが、順であつた。誰が何う考へても無理のない名案を工夫したと信ずる丈《だけ》に下女の遲いのを一層苦にしなければならなかつた彼はふかし掛けた烟草を捨てゝ、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙つて池の中を動いてゐる緋鯉《ひごひ》を眺めたり、其所へしやがんで、軒下に來てゐる犬の鼻面《はなづら》へ手を延ばして見たりした。やつとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聽えた時に、わざと取り繕つた餘裕を外側へ示したくなる程、彼の心はそわ/\してゐた。
 「何うしたね」
 「お待遠さま。大變遲かつたでせう」
 「なに左右《さう》でもないよ」
 「少しお手傳ひをしてゐたもんですから」
 「何の?」
 「お部屋を片付けてね、それから奧さんの御髪《おぐし》を結《い》つて上げたんですよ。それにしちや早いでせう」
 津田は女の髷がそんなに雜作なく結《ゆ》へる譯のものでないと思つた。
 「銀杏返《いてふがへ》しかい、丸髷かい」
 下女は取り合はずにたゞ笑ひ出した。
 「まあ行つて御覽なさい」
 「行つて御覽なさいつて、行つても好いのかい。其返事を先刻《さつき》から斯うして待つてるんぢやないか」
 「おや何うも濟みません、肝心のお返事を忘れてしまつて。――どうぞお出《いで》下さいましつて」
 漸《やつ》と安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分に駄目を押した。
 「本當かい。迷惑ぢやないかね。向《むかふ》へ行つてから氣の毒な思ひをさせられるのは厭だからね」
 「旦那樣は隨分|疑《うたぐ》り深《ぶか》い方《かた》ですね。それぢや奧さんも嘸《さぞ》――」
 「奧さんとは誰だい、關の奧さんかい、それとも僕の奧さんかい」
 「何方《どつち》だか解つてるぢやありませんか」
 「いや解らない」
 「さうで御座いますか」
 兵兒帶《へこおび》を締め直した津田の後《うし》ろへ廻つた下女は、室《へや》を出ようとする脊中から羽織を掛けて呉れた。
 「此方《こつち》かい」
 「今御案内を致します」
 下女は先へ立つた。夢遊病者《むいうびやうしや》として昨夕《ゆうべ》彷徨《さまよ》つた記憶が、例の姿見《すがたみ》の前へ出た時、突然津田の頭に閃《ひら》めいた。
 「あゝ此所だ」
 彼は思はず斯う云つた。事情を知らない下女は無邪氣に訊き返した。
 「何がです」
 津田はすぐ胡麻化《ごまか》した。
 「昨夕《ゆうべ》僕が幽靈に出會つたのは此所だといふのさ」
 下女は變な顔をした。
 「馬鹿を仰しやい。宅《うち》に幽靈なんか出るもんですか。そんな事を仰しやると――」
 客商賣をする宿に對して惡い洒落《しやれ》を云つたと悟つた津田は、賢《かし》こく二階を見上げた。
 「此上だらう、關さんのお室《へや》は」
 「えゝ、よく知つてらつしやいますね」
 「うん、そりや知つてるさ」
 「天眼通《てんがんつう》ですね」
 「天眼通ぢやない、天鼻通《てんびつう》と云つて萬事鼻で喚《か》ぎ分《わ》けるんだ」
 「丸《まる》で犬見たいですね」
 階子段《はしごだん》の途中で始まつた此會話は、上《あが》り口《くち》の一番近くにある清子の部屋からもう聽き取れる距離にあつた。津田は暗《あん》にそれを意識した。
 「序《ついて》に僕が關さんの室《へや》を喚ぎ分けて遣るから見てゐろ」
 彼は清子の室《へや》の前へ來て、ぱたりとスリツパーの音を止《と》めた。
 「此所だ」
 下女は横眼で津田の顔を睨めるやうに見ながら吹き出した。
 「どうだ當つたらう」
 「成程貴方の鼻は能く利きますね。獵犬《れふけん》より慥《たし》かですよ」
 下女は又面白さうに笑つたが、室《へや》の中からは此賑やかさに對する何の反應も出て來なかつた。人がゐるかゐないか丸《まる》で分らない内側は、始めと同じやうに索寞《ひつそり》してゐた。
 「お客さまが入らつしやいました」
 下女は外部《そと》から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子をすうと開けて呉れた。
 「御免下さい」
 一言《いちごん》の挨拶と共に室《へや》の中に入《はい》つた津田はおやと思つた。彼は自分の豫期通り清子をすぐ眼の前に見出《みいだ》し得《え》なかつた。
 
     百八十三
 
 室《へや》は二間續《ふたまつゞ》きになつてゐた。津田の足を踏み込んだのは、床《とこ》のない控への間の方であつた。黒柿の縁《ふち》と台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞の厚い座蒲團を据ゑて、其|傍《かたはら》に桐で拵らへた小型の長火鉢が、普通の家庭に見る茶の間の體裁《ていさい》を、小規模ながら髣髴せしめた。隅には黒塗の衣桁《いかう》があつた。異性に附着する花やかな色と手觸りの滑《すべ》こさうな絹の縞が、折り重なつて其所に投げ掛けられてゐた。
 間《あひ》の襖は開け放たれた儘であつた。津田は正面に當る床の間に活立《いけたて》らしい寒菊の花を見た。前には座蒲團が二つ向ひ合せに敷いてあつた。濃茶《こげちや》に染めた縮緬《ちりめん》のなかに、牡丹か何かの模樣をたつた一つ丸く白に殘した其敷物は、品柄から云つても、また來客を待ち受ける準備としても、物々しいものであつた。津田は席に就かない先にまづ直感した。
 「凡《すべ》てが改《あらた》まつてゐる。是が今日會ふ二人の間に横《よこた》はる運命の距離なのだらう」
 突然としてこゝに氣の付いた彼は、今此|室《へや》へ入《はい》り込《こ》んで來た自分を咄嗟《とつさ》に悔いようとした。
 然し此距離は何處から起つたのだらう? 考へれば起るのが當り前であつた。津田はたゞそれを忘れてゐた丈《だけ》であつた。では、何故《なぜ》それを忘れてゐたのだらう? 考へれば、是も忘れてゐるのが當り前かも知れなかつた。
 津田が斯《こ》んな感想に囚《とら》へられて、控《ひかへ》の間《ま》に立つたまゝ、室《へや》を出るでもなし、席に就くでもなし、うつかり眼前の座蒲團を眺めてゐる時に、主人側の清子は始めて其姿を縁側の隅から現はした。それ迄《まで》彼女が其所で何をしてゐたのか、津田には一向《いつかう》解《げ》せなかつた。又何のために彼女がわざ/\其所へ出てゐたのか、それも彼には通じなかつた。或は室《へや》を片付けてから、彼の來るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚《よ》りかゝりでもして、山に重《かさ》なる黄葉《くわうえふ》の色でも眺めてゐたのかも知れなかつた。それにしても樣子が變であつた。有體《ありてい》に云へば、客を迎へるといふより偶然客に出喰《でつく》はしたといふのが、此時の彼女の態度を評するには適當な言葉であつた。
 然し不思議な事に、此態度は、鹿爪《しかつめ》らしく彼の着席を待ち受ける座蒲團や、二人の間を堰《せ》くためにわざと眞中に置かれたやうに見える角火鉢程彼の氣色《きしよく》に障らなかつた。といふのは、それが元から彼の頭に描き出されてゐる清子と、全く釣り合はない迄に懸け離れた態度ではなかつたからである。
 津田の知つてゐる清子は決してせゝこましい女でなかつた。彼女は何時《いつ》でも優悠《おつとり》してゐた。何方《どつち》かと云へば寧ろ緩漫といふのが、彼女の氣質、又は其氣質から出る彼女の動作に就いて下し得る特色かも知れなかつた。彼は常に其特色に信を置いてゐた。さうして其特色に信を置き過ぎたため、却つて裏切られた。少くとも彼はさう解釋した。さう解釋しつゝも當時に出來上つた信はまだ不自覺の間に殘つてゐた。突如として彼女が關と結婚したのは、身を翻《ひる》がへす燕《つばめ》のやうに早かつたかも知れないが、それはそれ、是は是であつた。二つのものを結び付けて矛盾なく考へようとする時、惱亂は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事實であつた如く、乙も矢ツ張り本當でなければならなかつた。
 「あの緩《のろ》い人は何故《なぜ》飛行機へ乘つた。彼は何故《なぜ》宙返りを打つた」
 疑ひは正《まさ》しく其所に宿るべき筈であつた。けれども疑はうが疑ふまいが、事實は遂に事實だから、決してそれ自身に消滅するものでなかつた。
 反逆者の清子は、忠實なお延より此點に於て仕合せであつた。もし津田が室《へや》に入《はい》つて來《き》た時、彼の氣合《きあひ》を拔いて、間《ま》の合はない時分に、わざと縁側の隅から顔を出したものが、清子でなくつて、お延だつたなら、それに對する津田の反應は果して何うだらう。
 「又何か細工をするな」
 彼はすぐ斯う思ふに違なかつた。所がお延でなくつて、清子によつて同じ所作《しよさ》が演ぜられたとなると結果は全然別になつた。
 「相變らず緩漫だな」
 緩漫と思ひ込んだ揚句、現に眼覺しい早技《はやわざ》で取つて投げられてゐながら、津田は斯う評するより外に仕方がなかつた。
 其上清子はたゞ問《ま》を外《はづ》した丈《だけ》ではなかつた。彼女は先刻《さつき》津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃《くだものかご》を兩手でぶら提《さ》げたまゝ、縁側の隅から出て來たのである。どういふ積《つもり》か、今迄それを荷厄介にしてゐるといふ事自身が、津田に對しての冷淡さを示す度盛《どもり》にならないのは明かであつた。それから其重い物を今迄縁側の隅で持つてゐたとすれば無論、一旦下へ置いて更に取り上げたと解釋しても、彼女の所作《しよさ》は變に違なかつた。少くとも不器用であつた。何だか子供染《こどもじ》みてゐた。然し彼女の平生を能く知つてゐる津田は、其所に如何にも清子らしい或物を認めざるを得なかつた。
 「滑稽だな。如何にも貴女らしい滑稽だ。さうして貴女はちつとも其滑稽な所に氣が付いてゐないんだ」
 重さうに籃《かご》を提《さ》げてゐる清子の樣子を見た津田は、殆んど斯う云ひたくなつた。
 
     百八十四
 
 すると清子は其|籃《かご》をすぐ下女に渡した。下女は何うして可《い》いか解らないので、器械的に手を出してそれを受取つたなり、黙つてゐた。此單純な所作《しよさ》が双方の間に行はれるあひだ、津田は依然として立つてゐなければならなかつた。然し普通の場合に起る手持無沙汰の感じの代りに、却つて一種の氣樂さを味はつた彼には何の苦痛も來《こ》ずに濟んだ。彼はたゞ間《ま》の延びた擧動の引續きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。だから昨夜《ゆうべ》の記憶からくる不審も一倍に強かつた。此|逼《せま》らない人が、何うしてあんなに蒼くなつたのだらう。何うしてああ硬く見えたのだらう。あの驚ろき具合と此落付方、それ丈《だけ》は何う考へても調和しなかつた。彼は夜と晝の區別に生れて初めて氣が付いた人のやうな心持がした。
 彼は招ぜられない先に、まづ自分から設けの席に着いた。さうして立ちながら果物《くだもの》を皿に盛るべく命じてゐる清子を見守つた。
 「何うもお土産《みやげ》を有難う」
 是が始めて彼女の口を洩れた挨拶であつた。話頭は其お土産を持つて來た人から、其土産を呉れた人の好意に及ばなければならなかつた。もとより嘘を吐《つ》く覺悟で吉川夫人の名前を利用した其時の津田には、もう胡麻化《ごまか》すといふ意識すらなかつた。
 「道伴《みちづれ》になつたお爺さんに、もう少しで蜜柑を遣《や》つちまふ所でしたよ」
 「あら何うして」
 津田は何と答へようが平氣であつた。
 「あんまり重くつて荷になつて困るからです」
 「ぢや來る途中始終手にでも提《さ》げてゐらしつたの」
 津田には此質問が如何にも清子らしく無邪氣に聽えた。
 「馬鹿にしちや不可《いけま》せん。貴女ぢやあるまいし、斯《こ》んなものを提《さ》げて、縁側を彼方《あつち》へ行つたり此方《こつち》へ來たりしてゐられるもんですか」
 清子はたゞ微笑した丈《だけ》であつた。其微笑には辯解がなかつた。云ひ換へれば一種の餘裕があつた。嘘から出立した津田の心は益《ます/\》平氣になる許《ばかり》であつた。
 「相變らず貴女は何時《いつ》でも苦がなささうで結構ですね」
 「えゝ」
 「些《ちつ》とももとと變りませんね」
 「えゝ、だつて同《おん》なじ人間ですもの」
 此挨拶を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云ひたくなつた。其時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けてゐた下女が突然笑ひ出した。
 「何を笑ふんだ」
 「でも、奧さんの仰しやる事が可笑《をかし》いんですもの」と辯解した彼女は、眞面目な津田の樣子を見て、後からそれを具體的に説明すべく餘儀なくされた。
 「成程、さうに違ひ御座いませんね。生きてるうちはどなたも同《おん》なじ人間で、生れ變りでもしなければ、誰だつて違つた人間になれつこないんだから」
 「所が左右《さう》でないよ。生きてる癖に生れ變る人がいくらでもあるんだから」
 「へえ左右《さう》ですかね、そんな人があつたら、ちつとお目に掛りたいもんだけれども」
 「お望みなら逢はせて遣《や》つても可《い》いがね」
 「何うぞ」といつた下女は又げら/\笑ひ出した。「又是でせう」
 彼女は人指指《ひとさしゆび》を自分の鼻の先へ持つて行つた。
 「旦那樣の是にはとても敵《かな》ひません。奧さまのお部屋をちやんと臭《にほひ》で嗅《か》ぎ分《わ》ける方《かた》なんですから」
 「部屋|所《どころ》ぢやないよ。お前の年齡《とし》から原籍から、生れ故郷から、何から何迄|中《あ》てるんだよ。此鼻一つあれば」
 「へえ恐ろしいもんで御座いますね。――何うも敵《かな》はない、旦那樣に會つちや」
 下女は斯う云つて立ち上つた。然し室《へや》を出掛《でがけ》に又一句の揶揄《やゆ》を津田に浴びせた。
 「且郵樣は嘸《さぞ》獵がお上手で入らつしやいませうね」
 日當りの好い南向《みなみむき》の座敷に取り殘された二人は急に靜かになつた。津田は縁側に面して日を受けて坐つてゐた。清子は欄干を脊にして日に背いて坐つてゐた。津田の席からは向ふに見える山の襞《ひだ》が、幾段にも重なり合つて、日向《ひなた》日裏《ひうら》の區別を明らさまに描き出す景色が手に取るやうに眺められた。それを彩《いろ》どる黄葉《くわうえふ》の濃淡が又鮮やかな陰影の等差を彼の眸中《ぼうちゆう》に送り込んだ。然し眼界の豁《ひろ》い空間に對してゐる津田と違つて、清子の方は何の見るものもなかつた。見れば北側の障子と、其障子の一部分を遮《さへ》ぎる津田の影像《イメジ》丈《だけ》であつた。彼女の視線は窮屈であつた。然し彼女はあまりそれを苦にする樣子もなかつた。お延ならすぐ姿勢を改めずにはゐられないだらうといふ所を、彼女は寧ろ落付いてゐた。
 彼女の顔は、昨夕《ゆうべ》と反對に、津田の知つてゐる平生の彼女よりも少し紅かつた。然しそれは強い秋の光線を直下《ぢか》に受ける生理作用の結果とも解釋された。山を眺めた津田の眼が、端《はし》なく上氣した時の樣に紅く染つた清子の耳朶《みゝたぶ》に落ちた時、彼は腹のうちでさう考へた。彼女の耳朶は薄かつた。さうして位置の關係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、其所に寄つた彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映つてくるやうに思はれた。
 
     百八十五
 
 斯《こ》んな場合に何方《どつち》が先へ口を利き出すだらうか、もし相手がお延だとすると、事實は考へる迄もなく明瞭であつた。彼女は津田に一寸《いつすん》の餘裕も與へない女であつた。其代り自分にも五分《ごぶ》の寛《くつろ》ぎさへ殘して置く事の出來ない性質《たち》に生れ付いてゐた。彼女はたゞ隨時隨所に精一杯の作用を悉《ほしい》まゝにする丈《だけ》であつた。勢ひ津田は始終受身の働きを餘儀なくされた。さうして彼女に應戰すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを嘗《な》めなければならなかつた。
 所が清子を前へ据ゑると、其所に全く別種の趣《おもむき》が出て來た。段取は急に逆になつた。相撲《すまふ》で云へば、彼女は何時《いつ》でも津田の聲を受けて立つた。だから彼女を向ふへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十迄樂々と出來た。
 二人取り殘された時の彼は、取り殘された後で始めて此特色に氣が付いた。氣が付くと昔の女に對する過去の記憶が何時《いつ》の間《ま》にか蘇生してゐた。今迄彼の豫想しつゝあつた手持無沙汰の感じが、丁度其手持無沙汰の起らなければならないと云ふ間際へ來て、不思議にも急に消えた。彼は伸び/\した心持で清子の前に坐つてゐた。さうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に經驗したものと大して變つてゐなかつた。少くとも同じ性質のものに違ないといふ自覺が彼の胸のうちに起つた。從つて談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であつた。然も昔《むか》しの通りな氣分で動けるといふ事自身が、彼には思ひ掛けない滿足になつた。
 「關君は何うしました。相變らず御勉強ですか。其《その》後《ご》御無沙汰をして一向《いつかう》お目に掛りませんが」
 津田は何の氣も付かなかつた。會話の皮切《かはきり》に清子の夫《をつと》を問題にする事の可否は、利害關係から見ても、今日《こんにち》迄《まで》自分等二人の間に起つた感情の行掛《ゆきがゝ》り上《じやう》から考へても、又それ等の纒綿した情實を傍《かたはら》に置いた、自然不自然の批判から云つても、實は一思案《ひとしあん》しなければならない點であつた。それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念《けねん》さへなく、たゞ無雜作に話頭に上せた津田は、正に居常《きよじやう》お延に對する時の用意を取り忘れてゐたに違なかつた。
 然し相手は既にお延でなかつた。津田が其用心を忘れても差支なかつたといふ證據は、すぐ清子の挨拶振《あいさつぶり》で知れた。彼女は微笑して答へた。
 「えゝ有難う。まあ相變らずです。時々二人して貴方のお噂を致して居ります」
 「あゝさうですか。僕も始終忙がしいもんですから、方々へ失禮ばかりして……」
 「良人《うち》も同《おん》なじよ、あなた。近頃ぢや閑暇《ひま》な人は、丸《まる》で生きてゐられないのと同《おん》なじ事ね。だから自然御互ひに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」
 「さうですね」
 斯う答へた津田は、「さうですね」といふ代りに「さうですか」と訊いて見たいやうな氣がした。「さうですか、たゞそれ丈《だけ》で疎遠になつたんですか。それが貴女《あなた》の本音ですか」といふ詰問は此時既に無言の文句となつて彼の腹の中《なか》に藏《かく》れてゐた。
 然も彼は殆んど以前と同じやうに單純な、もしくは單純とより解釋の出來ない清子を眼前に見出《みいだ》した。彼女の態度には二人の間に關を話題にする丈《だけ》の餘裕がちやんと具《そなは》つてゐた。それを口にして苦にならない程の淡泊さが現はれてゐた。たゞそれは津田の暗《あん》に豫期して掛つた所のもので、同時に彼の曾て豫想し得なかつた所のものに違なかつた。昔の儘の女主人公に再び會ふ事が出來たといふ滿足は、彼女が其|昔《むか》しの儘の鷹揚《おうやう》な態度で、關の話を平氣で津田の前にし得るといふ不滿足と一所に來なければならなかつた。
 「何うしてそれが不滿足なのか」
 津田は面と向つて此質問に對する丈《だけ》の勇氣がなかつた。關が現に彼女の夫《をつと》である以上、彼は敬意をもつて彼女の此態度を認めなければならなかつた。けれどもそれは表通りの沙汰であつた。偶然徃來を通る他人のする批評に過ぎなかつた。裏には別な見方があつた。其所には無關心な通り掛りの人と違つた自分といふものが頑張つてゐた。さうして其自分に「私」といふ名を命《つ》ける事の出來なかつた津田は、飽く迄もそれを「特殊な人」と呼ばうとしてゐた。彼の所謂《いはゆる》特殊な人とは即ち素人《しろうと》に對する黒人《くろうと》であつた。無知者に對する有識者であつた。もしくは俗人に對する專門家であつた。だから通り一遍のものより餘計に口を利く權利を有《も》つてゐるとしか、彼には思へなかつた。
 表で認めて裏で首肯《うけが》はなかつた津田の清子に對する心持は、何かの形式で外部へ發現するのが當然であつた。
 
     百八十六
 
 「昨夕《ゆうべ》は失禮しました」
 津田は突然斯う云つて見た。それが何《ど》んな風に相手を動かすだらうかといふのが、彼の覘《ねら》ひ所《どころ》であつた。
 「私《わたくし》こそ」
 清子の返事はすら/\と出た。其所に何の苦痛も認められなかつた時に津田は疑つた。
 「此女は今朝になつてもう夜の驚ろきを繰り返す事が出來ないのかしら」
 もしそれを憶ひ起す能力すら失つてゐるとすると、彼の使命は善にもあれ惡にもあれ、果敢《はか》ないものであつた。
 「實は貴女《あなた》を驚ろかした後で、濟まない事をしたと思つたのです」
 「ぢや止《よ》して下されば可《よ》かつたのに」
 「止《よ》せば可《よ》かつたのです。けれども知らなければ仕方がないぢやありませんか。貴女《あなた》が此所に入らつしやらうとは夢にも思ひ掛けなかつたのですもの」
 「でも私への御土産《おみやげ》を持つて、わざ/\東京から來て下すつたんでせう」
 「それは左右《さう》です。けれども知らなかつた事も事實です。昨夕《ゆうぺ》は偶然お眼に掛つた丈《だけ》です」
 「さうですか知ら」
 故意《こい》を昨夕《ゆうべ》の津田に認めてゐるらしい清子の口吻《こうふん》が、彼を驚ろかした。
 「だつて、わざとあんな眞似をする譯がないぢやありませんか、なんぼ僕が醉興だつて」
 「だけど貴方は大分《だいぶ》彼所《あすこ》に立つてゐらしつたらしいのね」
 津田は水盤に溢《あふ》れる水を眺めてゐたに違なかつた。姿見《すがたみ》に映《うつ》るわが影を見詰めてゐたに違なかつた。最後に其所にある櫛を取つて頭迄|梳《か》いて愚圖々々してゐたに違なかつた。
 「迷兒《まひご》になつて、行先が分らなくなりや仕方がないぢやありませんか」
 「さう。そりや左右《さう》ね。けれども私には左右《さう》思へなかつたんですもの」
 「僕が待ち伏せをしてゐたとでも思つてるんですか、冗談《じようだん》ぢやない。いくら僕の鼻が萬能《まんのう》だつて、貴女《あなた》の湯泉《ゆ》に入《はい》る時間迄分りやしませんよ」
 「成程、そりや左右《さう》ね」
 清子の口にした成程といふ言葉が、如何にも成程と合點したらしい調子を帶びてゐるので、津田は思はず吹き出した。
 「一體何だつて、そんな事を疑《うたぐ》つてゐらつしやるんです」
 「そりや申し上げないだつて、お解りになつてる筈ですわ」
 「解りつこないぢやありませんか」
 「ぢや解らないでも構はないわ。説明する必要のない事だから」
 津田は仕方なしに側面から向つた。
 「それでは、僕が何のために貴女《あなた》を廊下の隅で待ち伏せてゐたんです。それを話して下さい」
 「そりや話せないわ」
 「さう遠慮しないでも可《い》いから、是非話して下さい」
 「遠慮ぢやないのよ、話せないから話せないのよ」
 「然し自分の胸にある事ぢやありませんか。話さうと思ひさへすれば、誰にでも話せる筈だと思ひますがね」
 「私の胸に何にもありやしないわ」
 單純な此|一言《いちごん》は急に津田の機鋒《きほう》を挫《くじ》いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。
 「なければ何處から其疑ひが出て來たんです」
 「もし疑ぐるのが惡ければ、謝《あや》まります。さうして止《よ》します」
 「だけど、もう疑《うたぐ》つたんぢやありませんか」
 「だつてそりや仕方がないわ。疑《うたぐ》つたのは事實ですもの。其事實を白状したのも事實ですもの。いくら謝まつたつて何うしたつて事實を取り消す譯には行かないんですもの」
 「だから其事實を聽かせて下されば可《い》いんです」
 「事實は既に申し上げたぢやないの」
 「それは事實の半分か、三分一です。僕は其全部が聽きたいんです」
 「困るわね。何といつてお返事をしたら可《い》いんでせう」
 「譯ないぢやありませんか、斯ういふ理由があるから、さういふ疑ひを起したんだつて云ひさへすれば、たつた一口《ひとくち》で濟んぢまう事です」
 今迄困つてゐたらしい清子は、此時急に腑に落ちたといふ顔付をした。
 「あゝ、それがお聽きになりたいの」
 「無論です。先刻《さつき》からそれが伺ひたければこそ、斯うして執濃《しつこ》く貴女《あなた》を煩はせてゐるんぢやありませんか。それを貴女《あなた》が隱さうとなさるから――」
 「そんならさうと早く仰《おつし》やれば可《い》いのに、私隱しも何にもしませんわ、そんな事。理由《わけ》は何でもないのよ。たゞ貴方はさういふ事をなさる方なのよ」
 「待伏せをですか」
 「えゝ」
 「馬鹿にしちや不可《いけま》せん」
 「でも私の見た貴方はさういふ方なんだから仕方がないわ。嘘《うそ》でも僞《いつは》りでもないんですもの」
 「成程」
 津田は腕を拱《こまぬ》いて下を向いた。
 
     百八十七
 
 しばらくして津田は又顔を上げた。
 「何だか話が議論のやうになつてしまひましたね。僕はあなたと問答をするために來たんぢやなかつたのに」
 清子は答へた。
 「私にもそんな氣はちつともなかつたの。つい自然其所へ持つて行かれてしまつたんだから故意《こい》ぢやないのよ」
 「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまり貴女《あなた》を問ひ詰めたからなんでせう」
 「まあさうね」
 清子は又微笑した。津田は其微笑のうちに、例の通りの餘裕を認めた時、我慢しきれなくなつた。
 「ぢや問答|序《ついで》に、もう一つ答へて呉れませんか」
 「えゝ何なりと」
 清子はあらゆる津田の質問に應ずる準備を整へてゐる人のやうな答へ振をした。それが質問を掛けない前に、少なからず彼を失望させた。
 「何もかももう忘れてゐるんだ、此人は」
 斯う思つた彼は、同時にそれが又清子の本來の特色である事にも氣が付いた。彼は駄目を押すやうな心持になつて訊いた。
 「然し昨夕《ゆうべ》階子段《はしごだん》の上で、貴女《あなた》は蒼くなつたぢやありませんか」
 「なつたでせう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、貴方が蒼くなつたと仰しやれば、それに違ないわ」
 「へえ、すると貴女《あなた》の眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐《うそつき》でもなかつたんですね、有難い。僕の認めた事實を貴女《あなた》も承認して下さるんですね」
 「承認しなくつても、實際蒼くなつたら仕方がないわ、貴方」
 「さう。――それから硬《かた》くなりましたね」
 「えゝ、硬《かた》くなつたのは自分にも分つてゐましたわ。もう少しあの儘で我慢してゐたら倒れたかも知れないと思つた位ですもの」
 「つまり驚ろいたんでせう」
 「えゝ隨分|吃驚《びつくり》したわ」
 「それで」と云ひ掛けた津田は、俯向加減《うつむきかげん》になつて鄭寧に林檎の皮を剥《む》いてゐる清子の手先を眺めた。滴るやうに色付いた皮が、ナイフの刃を洩れながら、ぐる/\と剥《む》けて落ちる後に、水氣の多さうな薄蒼い肉が次第に現はれて來る變化は彼に一年以上|經《た》つた昔を憶ひ起させた。
 「あの時この人は、丁度斯ういふ姿勢で、斯ういふ林檎を剥いて呉れたんだつけ」
 ナイフの持ち方、指の運び万、兩肘を膝とすれ/\にして、長い袂を外へ開いてゐる具合、ことごとく其時の模寫であつたうちに、たゞ一つ違ふ所のある點に津田は氣が付いた。それは彼女の指を飾る美くしい二個《ふたつ》の寶石であつた。若しそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、其ぎら/\した小さい光程、津田と彼女の間を鋭どく遮《さへ》ぎるものはなかつた。柔婉《しなやか》に動く彼女の手先を見詰めてゐる彼の眼は、當時を回想するうつとりした夢の消息のうちに、燦然たる警戒の閃めきを認めなければならなかつた。
 彼はすぐ清子の手から眼を放して、其髪を見た。然し今朝下女が結つて遣《や》つたといふ其髪は通例の庇であつた。何の奇も認められない黒い光澤《つや》が、櫛の齒を入れた痕《あと》を、行儀正しく竪《たて》に殘してゐる丈《だけ》であつた。
 津田は思ひ切つて、一旦捨てやうとした言葉を又取り上げた。
 「それで僕の訊きたいのはですね――」
 清子は顔を上げなかつた。津田はそれでも構はずに後を續けた。
 「昨夕《ゆうべ》そんなに驚ろいた貴女《あなた》が、今朝は又何うしてそんなに平氣でゐられるんでせう」
 清子は俯向《うつむ》いた儘答へた。
 「何故」
 「僕にや其心理作用が解らないから伺ふんです」
 清子は矢つ張り津田を見ずに答へた。
 「心理作用なんて六づかしいものは私にも解らないわ。たゞ昨夕《ゆうべ》はあゝで、今朝は斯うなの。それ丈《だけ》よ」
 「説明はそれ丈《だけ》なんですか」
 「えゝそれ丈《だけ》よ」
 もし芝居をする氣なら、津田は此所で一つ溜息を吐《つ》く所であつた。けれども彼には押し切つてそれを遣る勇氣がなかつた。此女の前にそんな眞似をしても始まらないといふ氣が、技巧に走らうとする彼を何處となく抑へ付けた。
 「然し貴女《あなた》は今朝|何時《いつ》もの時間に起きなかつたぢやありませんか」
 清子は此問を掛けるや否や顔を上げた。
 「あら何うしてそんな事を御承知なの」
 「ちやんと知つてるんです」
 清子は一寸津田を見た眼をすぐ下へ落した。さうして綺麗に剥《む》いた林檎に刃を入れながら答へた。
 「成程貴方は天眼通《てんがんつう》でなくつて天鼻通《てんびつう》ね。實際能く利くのね」
 冗談《じようだん》とも諷刺《ふうし》とも眞面目とも片の付かない此|一言《いちごん》の前に、津田は退避《たじろ》いだ。
 清子は漸く剥き終つた林檎を津田の前へ押《お》し遣《や》つた。
 「貴方いかゞ」
 
     百八十八
 
 津田は清子の剥《む》いてくれた林檎に手を觸れなかつた。
 「貴女《あなた》いかゞです、折角吉川の奧さんが貴女《あなた》のためにといつて贈つてくれたんですよ」
 「さうね、さうして貴方が又わざ/\それを此所迄持つて來て下すつたんですね。その御親切に對しても頂かなくつちや惡いわね」
 清子は斯う云ひながら、二人の間にある林檎の一片《ひときれ》を手に取つた。然しそれを口へ持つて行く前に又訊いた。
 「然し考へると可笑《をかし》いわね、一體何うしたんでせう」
 「何が何うしたんです」
 「私吉川の奧さんにお見舞を頂かうとは思はなかつたのよ。それから其お見舞をまた貴方が持つて來て下さらうとは猶更《なほさら》思はなかつたのよ」
 津田は口のうちで「さうでせう、僕でさへそんな事は思はなかつたんだから」と云つた。其顔を昵《じつ》と見守つた清子の眼に、判然《はつきり》した答を津田から待ち受けるやうな豫期の光が射した。彼は其光に對する特殊な記憶を呼び起した。
 「あゝ此眼だつけ」
 二人の間に何度も繰り返された過去の光景《シーン》が、あり/\と津田の前に浮き上つた。其時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じてゐた。だから凡《すべ》ての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未來を擧げて、彼の上に投げ掛けるやうに見えた。從つて彼女の眼は動いても靜であつた。何か訊かうとするうちに、信と平和の輝きがあつた。彼は其輝きを一人で專有する特權を有《も》つて生れて來たやうな氣がした。自分があればこそ此眼も存在するのだとさへ思つた。
 二人は遂に離れた。さうして又會つた。自分を離れた以後の清子に、昔の儘の眼が、昔と違つた意味で、矢つぱり存在してゐるのだと注意されたやうな心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
 「それは貴女《あなた》の美くしい所です。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなつたのですか。判然《はつきり》教へて下さい」
 津田の疑問と清子の疑問が暫時視線の上で行き合つた後《あと》、最初に眼を引いたものは清子であつた。津田は其|退《ひ》き方《かた》を見た。さうして其所にも二人の間にある意氣込《いきごみ》の相違を認めた。彼女は何處迄も逼《せま》らなかつた。何うでも構はないといふ風に、眼を餘所《よそ》へ持つて行つた彼女は、それを床の間に活けてある寒菊の花の上に落した。
 眼で逃げられた津田は、口で追掛《おつか》けなければならなかつた。
 「なんぼ僕だつて唯吉川の奧さんの使に來た丈《だけ》ぢやありません」
 「でせう、だから變なのよ」
 「ちつとも變な事はありませんよ。僕は僕で獨立して此所へ來《き》ようと思つてる所へ、奧さんに會つて、始めて貴女《あなた》の此所にゐらつしやる事を聽かされた上に、ついお土産《みやげ》迄頼まれちまつたんです」
 「さうでせう。さうでもなければ、何う考へたつて變ですからね」
 「いくら變だつて偶然といふ事も世の中にはありますよ。さう貴女《あなた》のやうに……」
 「だからもう變ぢやないのよ。譯さへ伺へば、何でも當り前になつちまふのね」
 津田はつい「此方《こつち》でも其譯を訊きに來たんだ」と云ひたくなつた。然し何にも其所に頓着してゐないらしい清子の質問は正直であつた。
 「それで貴方も何處かお惡いの」
 津田は言葉少なに病氣の?末を説明した。清子は云つた。
 「でも結構ね、貴方は。さういふ時に會社の方の御都合が付くんだから。其所へ行くと良人《うち》なんか氣の毒なものよ、朝から晩迄忙がしさうにして」
 「關君こそ醉興なんだから仕方がない」
 「可哀想《かはいさう》に、まさか」
 「いや僕のいふのは善い意味での醉興ですよ。つまり勉強家といふ事です」
 「まあ、お上手だ事」
 此時下から急ぎ足で階子段《はしごだん》を上《のぼ》つて來る草履の音が聽えたので、何か云はうとした津田は黙つて樣子を見た。すると先刻《さつき》とは違つた下女が其所へ顔を出した。
 「あの濱のお客さまが、奧さまにお午《ひる》から瀧の方へ散歩にお出《いで》になりませんか、伺つて來いと仰しやいました」
 「お供しませう」清子の返事を聽いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那樣も一所に入らつしやいまし」と云つた。
 「有難う。時にもうお午《ひる》なのかい」
 「えゝ只今御飯を持つて參ります」
 「驚ろいたな」
 津田は漸く立ち上つた。
 「奧さん」と云はうとして、云《い》ひ損《そく》なつた彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
 「貴女《あなた》は何時頃《いつごろ》迄《まで》お出《いで》です」
 「豫定なんか丸《まる》でないのよ。宅《うち》から電報が來れば、今日にでも歸らなくつちやならないわ」
 津田は驚ろいた。
 「そんなものが來るんですか」
 「そりや何とも云へないわ」
 清子は斯う云つて微笑した。津田は其微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室《へや》に歸つた。
 
                ――未完――