小品

　

京に着ける夕

文鳥

夢十夜

永日小品

長谷川君と余

滿韓ところどころ

思ひ出す事など

子規の畫

ケーベル先生

變な音

手紙

三山居士

初秋の一日

ケーベル先生の告別

戰爭からきた行き違ひ

硝子戸の中

　

評論

　

作物の批評

写生文

文藝の哲学的基礎

創作家の態度

田山花袋君に答ふ

文壇の趨勢

コンラツドの描きたる自然に就て

明治座の所感を虚子君に問れて

虚子君へ

太陽雜誌募集名家投票に就て

「額の男」を讀む

「夢の如し」を讀む

日英博覽会の美術品

『東洋美術圖譜』

客觀描寫と印象描寫

草平氏の論文に就て

長塚節氏の小説「土」

文藝とヒロイツク

艇長の遺書と中佐の詩

鑑賞の統一と獨立

イズムの功過

好惡と優劣

博士問題とマードツク先生と余

マードツク先生の『日本歴史』

博士問題の成行

文藝委員は何をするか

田中王堂氏の「書齋より街頭へ」

坪内博士とハムレツト

學者と名譽

道樂と職業

現代日本の開化

中味と形式

文藝と道�ｺ

文展と藝術

素人と黒人

私の個人主義

津田青楓君の畫

点頭録

　

雜篇

　

入社の辭

　

『虞美人草』豫告

〔自著を贈る言葉〕

『三四郎』豫告

『それから』豫告

元日

霞寶會設立主旨

稟告

〔子規書幅添書〕

〔學位問題に就いて〕

余と萬年筆

明治天皇奉悼之辭

『彼岸過迄』獻辭

『心』廣告文

〔咄哉帖自題〕

　

序文

　

小羊物語に題す十首−小松武治譯『沙翁物語集』序−

【浦瀬白雨】譯『ウォルヅヲォスの詩』序

『我輩は猫である』上篇自序

『漾虚集』自序

『我輩は猫である』中篇自序

『鶉籠』自序

【鈴木三重吉作】『千代紙』序

【平井晩村】著『野葡萄』序

『吾輩は猫である』下篇自序

【藪野椋十】著『東京見物』序

【本間久四郎譯】『名著新譯』序

【森田草平 川下江村 生田長江】著『草雲雀』序

【生田長江】著『文學入門』序

【高濱虚子】著『鷄頭』序

【松根東洋城選】『新春夏秋冬』春之部序

【沼波瓊音天生目杜南】共編『古今名流俳句談』序

【松根東洋城選】『新春夏秋冬』夏之部序

【松根東洋城選】『新春夏秋冬』秋之部序

【樋口銅牛】著『俳諧新研究』序

【森田草平】著『煤煙』第一卷序

【中村不折】畫『不折俳畫』上序

自然を離れんとする藝術――『新日本畫譜』の序――

池邊君の史論に就て――『明治維新三大政治家』再版序――

『土』に就て――長塚節著『土』序――

【秋元梧樓】編『三愚集』序

【秋元梧樓】編『明治百俳家短冊帖』天之卷序

【高原蟹堂】著『極北日本』序

『社會と自分』自序

【ふぢ子作】『相模の埃』紹介

【野上八重子譯】『傳説の時代』序

【想田秋曉】編『高岳』題言

【米窪太刀雄著】『海のロマンス』序

【保坂歸一】著『吾輩の見たる亞米利加』下篇序

【岡本一平畫】『探訪畫趣』序

『心』自序

【木村恒譯】『南國へ』再版序

【木下杢太郎著】『唐草表紙』序

『硝子戸の中』自序

【植松安譯】『文藝批評論』序

縮刷に際して――縮刷『社會と自分』自序――

『金剛草』自序

題丙辰?墨――不折山人著『丙辰?墨』第一集序――

　

倫敦消息

倫敦消息

自轉車日記

　

　　　京に着ける夕

　

　汽車は流星の疾《はや》きに、二百里の春を貫《つらぬ》いて、行くわれを七條《しちでう》のプラツトフオームの上に振り落す。余《よ》が踵《かゝと》の堅き叩《たゝ》きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火《ひ》の粉《こ》をぱつと吐《は》いて、暗い國へ轟《ぐわう》と去つた。

　唯《たゞ》さへ京《きやう》は淋《さび》しい所である。原に眞葛《まくず》、川に加茂《かも》、山に比叡《ひえ》と愛宕《あたご》と鞍馬《くらま》、ことごとく昔の儘の原と川と山である。昔の儘の原と川と山の間《あひだ》にある、一條、二條、三條をつくして、九條に至つても十條に至つても、皆昔の儘である。數へて百條に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋《さび》しからう。此の淋《さび》しい京を、春寒《はるさむ》の宵に、疾《と》く走る汽車から會釋《ゑしやく》なく振り落された余は、淋《さび》しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が盡きて、家が盡きて、燈《ひ》が盡きる北の果《はて》迄《まで》通らねばならぬ。

　「遠いよ」と主人が後《うしろ》から云ふ。「遠いぜ」と居士《こじ》が前から云ふ。余は中の車に乘つて顫《ふる》へてゐる。東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思はなかつた。昨日《きのふ》迄《まで》は擦《す》れ合《あ》ふ身體から火花が出て、むく／＼と血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて總身《そうみ》に※［者／火］浸《にじ》み出はせぬかと感じた。東京は左程《さほど》に烈《はげ》しい所である。此の刺激の強い都を去つて、突然と太古《たいこ》の京《きやう》へ飛び下りた余は、恰《あたか》も三伏《さんぷく》の日に照り附けられた燒石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだ樣なものだ。余はしゆつと云ふ音と共に、倏忽《しゆくこつ》とわれを去る熱氣《ねつき》が、靜なる京《きやう》の夜《よ》に震動を起しはせぬかと心配した。

　「遠いよ」と云つた人の車と、「遠いぜ」と云つた人の車と、顫《ふる》へて居る余の車は長き轅《かぢ》を長く連《つら》ねて、狹《せば》く細い路を北へ北へと行く。靜かな夜《よ》を、聞かざるかと輪《りん》を鳴らして行く。鳴る音は狹《せば》き路《みち》を左右に遮《さへぎ》られて、高く空に響く。かんからゝん、かんからゝん、と云ふ。石に逢へばかゝん、かゝらんと云ふ。陰氣な音ではない。然し寒い響である。風は北から吹く。

　細い路を窮屈に兩側から仕切る家は悉《こと／”＼》く黒い。戸は殘りなく鎖《とざ》されてゐる。所々《ところ／”＼》の軒下に大きな小田原提燈《をだはらぢやうちん》が見える。赤くぜんざいとかいてある。人氣《ひとけ》のない軒下にぜんざいは抑《そもそ》も何を待ちつゝ赤く染まつて居るのかしらん。春寒《はるさむ》の夜《よ》を深み、加茂川の水さへ死ぬ頃を見計らつて桓武天皇《くわんむてんのう》の亡魂でも食ひに來る氣かも知れぬ。

　桓武天皇《くわんむてんのう》の御宇《ぎよう》に、ぜんざいが軒下に赤く染め拔かれてゐたかは、わかり易《やす》からぬ歴史上の疑問である。然し赤いぜんざいと京都とは到底離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。ぜんざいを召し給へる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い因縁で互に結びつけられて居る。始めて京都に來たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規《まさをかしき》と一所《いつしよ》であつた。麩屋町《ふやちやう》の柊屋《ひゝらぎや》とか云ふ家《いへ》へ着いて、子規《しき》と共に京都の夜《よる》を見物に出たとき、始めて余の目に映つたのは、此の赤いぜんざいの大提燈《おほぢやうちん》である。此の大提燈《おほぢやうちん》を見て、余は何故《なにゆゑ》か是れが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日《こんにち》に至る迄決して動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が當時に受けた第一印象で又最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食つた事がない。實はぜんざいの何物たるかをさへ辨《わきま》へぬ。汁粉《しるこ》であるか※［煮／火］小豆《ゆであづき》であるか眼前《がんぜん》に髣髴《はうふつ》する材料もないのに、あの赤い下品な肉太《にくぶと》な字を見ると、京都を稻妻の迅《すみや》かなる閃《ひらめ》きのうちに思ひ出す。同時に――ああ子規は死んで仕舞つた。糸瓜《へちま》の如く干枯《ひから》びて死んで仕舞つた。――提燈は未だに暗い軒下にぶら／＼してゐる。余は寒い首を縮めて京都を南から北へ拔ける。

　車はかんからゝんに桓武天皇の亡魂を驚《おどろ》かし奉《たてまつ》つて、しきりに馳ける。前なる居士《こじ》は黙つて乘つて居る。後《うしろ》なる主人も言葉をかける氣色《けしき》がない。車夫は只細長い通りを何處迄もかんからゝんと北へ走る。成程遠い。遠い程風に當らねばならぬ。馳ける程｜顫《ふる》へねばならぬ。余の膝掛《ひざかけ》と洋傘《やうがさ》とは余が汽車から振り落されたとき居士《こじ》が拾《ひろ》つて仕舞つた。洋傘《やうがさ》は拾はれても雨が降らねば入らぬ。此の寒いのに膝掛を拾はれては東京を出るとき二十二圓五十餞を奮發《ふんぱつ》した甲斐《かひ》がない。

　子規と來たときは斯樣《かやう》に寒くはなかつた。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行《ある》いた事を記憶してゐる。其の時子規はどこからか夏蜜柑《なつみかん》を買うて來て、之を一つ食へと云つて余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥《む》いて、一房《ひとふさ》毎《ごと》に裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようて居ると、いつの間《ま》にやら幅一間位の小路《せうぢ》に出た。此の小路《せうぢ》の左右に並ぶ家には門並《かどなみ》方一尺｜許《ばか》りの穴を戸にあけてある。さうして其の穴の中から、もし／＼と云ふ聲がする。始めは偶然だと思うてゐたが行く程に、穴のある程に、申し合せた樣に、左右の穴からもし／＼と云ふ。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕《とら》まへさうに烈《はげ》しい呼び方をする。子規を顧《かへり》みて何だと聞くと妓樓《ぎろう》だと答へた。余は夏蜜柑を食ひながら、目分量《めぶんりやう》で一間幅の道路を中央から等分して、其の等分した線の上を、綱渡りをする氣分で、不偏不黨《ふへんふたう》に練《ね》つて行つた。穴から手を出して制服の尻でも捕《とら》まへられては容易ならんと思つたからである。子規は笑つて居た。膝掛をとられて顫へてゐる今の余を見たら、子規は又笑ふであらう。然し死んだものは笑ひたくても、顫へてゐるものは笑はれたくても、相談にはならん。

　かんからゝんは長い橋の袂《たもと》を左へ切れて長い橋を一つ渡つて、ほのかに見える白い河原《かはら》を越えて、藁葺《わらぶき》とも思はれる不揃《ふそろひ》な家の間を通り拔けて、梶棒《かぢぼう》を横に切つたと思つたら、四抱《よかゝへ》か五抱《いつかゝへ》もある大樹《たいじゆ》の幾本となく提燈の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まつた。寒い町を通り拔けて、よく／＼寒い所へ來たのである。遙なる頭の上に見上げる空は、枝の爲に遮《さへぎ》られて、手《て》の平《ひら》程の奧に料峭《れうせう》たる星の影がきらりと光を放《はな》つた時、余は車を降りながら、元來何處へ寢るのだらうと考へた。

　「是れが加茂《かも》の森《もり》だ」と主人が云ふ。「加茂の森がわれ／＼の庭だ」と居士が云ふ。大樹《たいじゆ》を繞《め》ぐつて、逆《ぎやく》に戻ると玄關に燈《ひ》が見える。成程｜家《いへ》があるなと氣がついた。

　玄關に待つ野明《のあき》さんは坊主頭《ばうずあたま》である。臺所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲學者である。居士は洪川和尚《こうせんをしやう》の會下《ゑか》である。さうして家《いへ》は森の中にある。後《うしろ》は竹藪である。顫へながら飛び込んだ客は寒がりである。

　子規と來て、ぜんざいと京都を同じものと思つたのはもう十五六年の昔になる。夏の夜《よ》の月｜圓《まる》きに乘じて清水《きよみづ》の堂を徘徊《はいくわい》して、明《あきら》かならぬ夜《よる》の色をゆかしきものゝ樣に、遠く眼《まなこ》を微茫《びばう》の底に放《はな》つて、幾點の紅燈《こうとう》に夢の如く柔《やはら》かなる空想を縱《ほしい》まゝに醉《ゑ》はしめたるは、制服の釦《ぼたん》を眞鍮《しんちゆう》と知りつゝも、黄金《こがね》と強ひたる時代である。眞鍮は眞鍮と悟つたとき、われ等は制服を捨てゝ赤裸《まるはだか》の儘世の中へ飛び出した。子規は血を嘔《は》いて新聞屋となる、余は尻を端折《はしよ》つて西國《さいこく》へ出奔《しゆつぽん》する。御互の世は御互に物騷《ぶつさう》になつた。物騷の極《きよく》子規はとう／＼骨になつた。其の骨も今は腐れつゝある。子規の骨が腐れつゝある今日《こんにち》に至つて、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋にならうとは思はなかつたらう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに來たと聞いたら、圓山《まるやま》へ登つた時を思ひ出しはせぬかと云ふだらう。新聞屋になつて、糺《たゞす》の森《もり》の奧に、哲學者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、一所に、ひつそり閑《かん》と暮して居ると聞いたら、それはと驚くだらう。矢つ張り氣取つてゐるんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であつた。

　若い坊さんが「御湯に御這入《おはい》り」と云ふ。主人と居士は余が顫へてゐるのを見兼ねて「公《こう》、まづ這入れ」と云ふ。加茂の水の透《す》き徹《とほ》るなかに全身を浸《つ》けたときは齒の根が合はぬ位であつた。湯に入《い》つて顫へたものは古徃今來《こわうこんらい》澤山あるまいと思ふ。湯から出たら「公《こう》先づ眠《ねぶ》れ」と云ふ。若い坊さんが厚い蒲團を十二疊の部屋に擔《かつ》ぎ込《こ》む。「郡内《ぐんない》か」と聞いたら「太織《ふとおり》」だと答へた。「公《こう）》の爲に新調したのだ」と説明がある上は安心して、わがものと心得て、差支なしと考へた故、御免を蒙《かうぶ》つて寢る。

　寢心地は頗る嬉しかつたが、上に掛ける二枚も、下へ敷く二枚も、悉《こと／”＼》く蒲團なので肩のあたりへ糺《たゞす》の森《もり》の風がひやり／＼と吹いて來る。車に寒く、湯に寒く、果《はて》は蒲團に迄寒かつたのは心得ぬ。京都では袖のある夜着《よぎ》はつくらぬものゝ由を主人から承《うけたまは》つて、京都はよく／＼人を寒がらせる所だと思ふ。

　眞夜中頃に、枕頭《まくらもと》の違棚に据ゑてある、四角の紫檀製《したんせい》の枠に嵌《は》め込《こ》まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀《ぎんわん》を象牙《ざうげ》の箸で打つ樣な音を立てゝ鳴つた。夢のうちに此の聲を聞いて、はつと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴《な》り已《や》んだが、頭のなかはまだ鳴つてゐる。しかも其の鳴りかたが、次第に細く、次第に遠く、次第に濃《こまや》かに、耳から、耳の奧へ、耳の奧から、腦のなかへ、腦のなかゝら、心の底へ浸《し》み渡《わた》つて、心の底から、心のつながる所で、しかも心の尾《つ》いて行く事の出來ぬ、遐《はる》かなる國へ拔け出して行く樣に思はれた。此凉しき鈴《りん》の音《ね》が、わが肉體を貫《つらぬ》いて、わが心を透《すか》して無限の幽境に赴《おもむ》くからは、身も魂も氷盤の如く清く、雪甌《せつおう》の如く冷《ひやゝ》かでなくてはならぬ。太織の夜具のなかなる余は愈《いよ／＼》寒かつた。

　曉《あかつき》は高い欅《けやき》の梢に鳴く烏で再度の夢を破られた。此の烏はかあとは鳴かぬ。きやけえ、くうと曲折して鳴く。單純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂の明神《みやうじん》がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉ふの神意かも知れぬ。

　かくして太織の蒲團を離れたる余は、顫へつゝ窓を開けば、依稀《いき》たる細雨《さいう》は、濃《こまや》かに糺《たゞす》の森《もり》を罩《こ》めて、糺《たゞす》の森《もり》はわが家《や》を繞《めぐ》りて、わが家《や》の寂然《せきぜん》たる十二疊は、われを封じて、余は幾重《いくへ》ともなく寒いものに取り圍まれてゐた。

　　春寒《はるさむ》の社頭に鶴を夢みけり

　　　　　　　　　　　　　　　　　明治四〇、四、九−一一

　

　　　文鳥

　

　十月早稻田に移る。伽藍《がらん》の樣な書齋に只一人、片附けた顔を頬杖で支へて居ると、三重吉《みへきち》が來て、鳥を御飼《おか》ひなさいと云ふ。飼つてもいゝと答へた。然し念の爲だから、何を飼ふのかねと聞いたら、文鳥《ぶんてう》ですと云ふ返事であつた。

　文鳥《ぶんてう》は三重吉《みへきち》の小説に出て來る位だから奇麗な鳥に違なからうと思つて、ぢや買つて呉れ玉へと頼んだ。所が三重吉は是非御飼ひなさいと、同じ樣な事を繰り返してゐる。うむ買ふよ／＼と矢張り頻杖を突いた儘で、むにや／＼云つてるうちに三重吉は黙つて仕舞つた。大方頬杖に愛想を盡かしたんだらうと、此時始めて氣が附いた。

　すると三分ばかりして、今度は籠を御買ひなさいと云ひだした。是れも宜しいと答へると、是非御買ひなさいと念を押す代りに、鳥籠の講釋を始めた。其の講釋は大分《だいぶ》込《こ》み入《い》つたものであつたが、氣の毒な事に、みんな忘れて仕舞つた。只《たゞ》好いのは二十圓位すると云ふ段になつて、急にそんな高價《たかい》のでなくつても善からうと云つて置いた。三重吉はにや／＼して居る。

　夫《それ》から全體何所で買ふのかと聞いて見ると、なに何所の鳥屋にでもありますと、實に平凡な答をした。籠はと聞き返すと、籠ですか、籠はその何ですよ、なに何所にかあるでせう、と丸《まる》で雲を攫《つか》む樣な寛大な事を云ふ。でも君あてがなくつちや不可《いけ》なからうと、恰《あたか》も不可《いけ》ない樣な顔をして見せたら、三重吉は頬《ほつ》ぺたへ手を宛《あ》てゝ、何でも駒込に籠の名人があるさうですが、年寄ださうですから、もう死んだかも知れませんと、非常に心細くなつて仕舞つた。

　何しろ言ひだしたものに責任を負はせるのは當然の事だから、早速萬事を三重吉に依頼する事にした。すると、すぐ金を出せと云ふ。金は慥《たしか》に出した。三重吉はどこで買つたか、七子《なゝこ》の三《み》つ折《をれ》の紙入を懷中してゐて、人の金でも自分の金でも悉皆《しつかい》此の紙入の中に入れる癖がある。自分は三重吉が五圓札を慥《たしか》に此の紙入の底へ押し込んだのを目撃した。

　斯樣《かやう》にして金は慥《たしか》に三重吉の手に落ちた。然し鳥と籠とは容易にやつて來ない。

　其のうち秋が小春《こはる》になつた。三重吉は度々《たび／＼》來る。よく女の話などをして歸つて行く。文鳥と籠の講釋は全く出ない。硝子戸《ガラスど》を透《すか》して五尺の縁側には日が好く當る。どうせ文鳥を飼ふなら、こんな暖かい季節に、此の縁側へ鳥籠を据ゑてやつたら、文鳥も定めし鳴き善からうと思ふ位であつた。

　三重吉の小説によると、文鳥は千代々々《ちよ／＼》と鳴くさうである。其の鳴き聲が大分《だいぶん》氣に入つたと見えて、三重吉は千代々々を何度となく使つてゐる。或は千代と云ふ女に惚れて居た事があるのかも知れない。然し當人は一向《いつかう》そんな事を云はない。自分も聞いて見ない。只縁側に日が善く當る。さうして文鳥が鳴かない。

　そのうち霜が降《ふ》り出《だ》した。自分は毎日｜伽藍《がらん》の樣な書齋に、寒い顔を片附けて見たり、取亂して見たり、頬杖を突いたり已《や》めたりして暮してゐた。戸は二重《にぢゆう》に締め切つた。火鉢に炭ばかり繼《つ》いでゐる。文鳥は遂に忘れた。

　所へ三重吉が門口《かどぐち》から威勢よく這入つて來た。時は宵の口であつた。寒いから火鉢の上へ胸から上を翳《かざ》して、浮かぬ顔をわざとほてらして居たのが、急に陽氣になつた。三重吉は豐隆《ほうりゆう》を從へてゐる。豐隆《ほうりゆう》はいゝ迷惑である。二人が籠を一つ宛《づゝ》持つてゐる。其の上に三重吉が大きな箱を兄《あに》き分《ぶん》に抱《かゝ》へてゐる。五圓札が文鳥と籠と箱になつたのは此の初冬《はつふゆ》の晩であつた。

　三重吉は大得意である。まあ御覽なさいと云ふ。豐隆其の洋燈《ランプ》をもつと此方《こつち》へ出せ抔《など》と云ふ。其癖寒いので鼻の頭が少し紫色になつてゐる。

　成程立派な籠が出來た。臺が漆で塗つてある。竹は細く削つた上に、色が染《つ》けてある。それで三圓だと云ふ。安いなあ豐隆と云つてゐる。豐隆はうん安いと云つてゐる。自分は安いか高いか判然《はんぜん》と判らないが、まあ安いなあと云つてゐる。好いのになると二十圓もするさうですと云ふ。二十圓は是で二返目である。二十圓に比べて安いのは無論である。

　此の漆はね、先生、日向《ひなた》へ出して曝《さら》して置くうちに黒味《くろみ》が取れて段々朱の色が出て來ますから、――さうして此の竹は一返《いつぺん》善く※［者／火］たんだから大丈夫ですよ抔《など》と、しきりに説明をしてくれる。何が大丈夫なのかねと聞き返すと、まあ鳥を御覽なさい、奇麗でせうと云つてゐる。

　成程奇麗だ。次の間《ま》へ籠を据ゑて四尺｜許《ばか》り此方《こつち》から見ると少しも動かない。薄暗い中に眞白に見える。籠の中にうづくまつて居なければ鳥とは思へない程白い。何だか寒さうだ。

　寒いだらうねと聞いて見ると、其の爲に箱を作つたんだと云ふ。夜になれば此の箱に入れてやるんだと云ふ。籠が二つあるのはどうするんだと聞くと、此粗末な方へ入れて時々｜行水《ぎやうずゐ》を使はせるのだと云ふ。是は少し手數《てすう》が掛るなと思つてゐると、夫《それ》から糞《ふん》をして籠を汚《よご》しますから、時々掃除をして御遣りなさいとつけ加へた。三重吉は文鳥の爲には中々強硬である。

　それをはい／＼引受けると、今度は三重吉が袂から粟《あは》を一袋出した。是を毎朝食はせなくつちや不可《いけ》ません。もし餌《ゑ》をかへてやらなければ、餌壺《ゑつぼ》を出して殻《から》丈《だけ》吹いて御遣んなさい。さうしないと文鳥が實《み》のある粟を一々拾ひ出さなくつちやなりませんから。水も毎朝かへて御遣んなさい。先生は寢坊だから丁度好いでせうと大變文鳥に親切を極《きは》めてゐる。そこで自分もよろしいと萬事受合つた。所へ豐隆が袂から餌壺《ゑつぼ》と水入を出して行儀よく自分の前に並《なら》べた。かう一切萬事を調へて置いて、實行を逼《せま》られると、義理にも文鳥の世話をしなければならなくなる。内心では餘程｜覺束《おぼつか》なかつたが、まづやつて見やうと迄は決心した。もし出來なければ家《うち》のものが、どうかするだらうと思つた。

　やがて三重吉は鳥籠を叮嚀に箱の中へ入れて、縁側へ持ち出して、此所へ置きますからと云つて歸つた。自分は伽藍《がらん》の樣な書齋の眞中に床を展《の》べて冷《ひやゝ》かに寢た。夢に文鳥を背負《しよ》ひ込《こ》んだ心持は、少し寒かつたが眠《ねぶ》つて見れば不斷の夜《よる》の如く穩《おだや》かである。

　翌朝《よくあさ》眼が覺めると硝子戸《ガラスど》に日が射してゐる。忽ち文鳥に餌をやらなければならないなと思つた。けれども起きるのが退儀《たいぎ》であつた。今に遣らう、今に遺らうと考へてゐるうちに、とう／＼八時過になつた。仕方がないから顔を洗ふ序《ついで》を以て、冷《つめ》たい縁を素足《すあし》で踏みながら、箱の葢《ふた》を取つて鳥籠を明海《あかるみ》へ出した。文鳥は眼をぱちつかせてゐる。もつと早く起きたかつたらうと思つたら氣の毒になつた。

　文鳥の眼は眞黒である。瞼《まぶた》の周圍《まはり》に細い淡紅色《ときいろ》の絹糸を縫ひ附けた樣な筋が入《はい》つてゐる。眼をぱちつかせる度に絹糸が急に寄つて一本になる。と思ふと又丸くなる。籠を箱から出すや否や、文鳥は白い首を一寸｜傾《かたぶ》けながら此の黒い眼を移して始めて自分の顔を見た。さうしてちゝと鳴いた。

　自分は靜かに鳥籠を箱の上に据ゑた。文鳥はぱつと留《とま》り木《ぎ》を離れた。さうして又｜留《とま》り木《ぎ》に乘つた。留り木は二本ある。黒味がゝつた青軸《あをぢく》を程よき距離に橋と渡して横に並《なら》べた。其一本を輕く踏まへた足を見ると如何にも華奢《きやしや》に出來てゐる。細長い薄紅《うすくれなゐ》の端に眞珠を削つた樣な爪が着いて、手頃な留《とま》り木《ぎ》を甘《うま》く抱《かゝ》へ込《こ》んでゐる。すると、ひらりと眼先が動いた。文鳥は既に留り木の上で方向《むき》を換へてゐた。しきりに首を左右に傾《かたぶ》ける。傾《かたぶ》けかけた首を不圖《ふと》持ち直して、心持前へ伸《の》したかと思つたら、白い羽根が又ちらりと動いた。文鳥の足は向ふの留り木の眞中あたりに具合よく落ちた。ちゝと鳴く。さうして遠くから自分の顔を覗き込んだ。

　自分は顔を洗ひに風呂場へ行つた。歸りに臺所へ廻つて、戸棚を明けて、昨夕《ゆうべ》三重吉の買つて來て呉れた粟の袋を出して、餌壺《ゑつぼ》の中へ餌《ゑ》を入れて、もう一つには水を一杯入れて、又書齋の縁側へ出た。

　三重吉は用意周到な男で、昨夕《ゆうべ》叮嚀に餌《ゑ》を遣る時の心得を説明して行つた。其の説によると、無暗に籠の戸を明けると文鳥が逃げ出して仕舞ふ。だから右の手で籠の戸を明けながら、左の手を其の下へ宛《あ》てがつて、外から出口を塞《ふさ》ぐ樣にしなくつては危險だ。餌壺《ゑつぼ》を出す時も同じ心得で遣らなければならない。と其の手つき迄して見せたが、かう兩方の手を使つて、餌壺をどうして籠の中へ入れる事が出來るのか、つい聞いて置かなかつた。

　自分は已《や》むを得《え》ず餌壺を持つた儘手の甲で籠の戸をそろりと上へ押し上げた。同時に左の手で開《あ》いた口をすぐ塞《ふさ》いだ。鳥は一寸振り返つた。さうして、ちゝと鳴いた。自分は出口を塞《ふさ》いだ左の手の處置に窮した。人の隙を窺《うかゞ》つて逃げる樣な鳥とも見えないので、何となく氣の毒になつた。三重吉は惡い事を教へた。

　大きな手をそろ／＼籠の中へ入れた。すると文鳥は急に羽搏《はばたき》を始めた。細く削つた竹の目から暖いむく毛が、白く飛ぶ程に翼《つばさ》を鳴らした。自分は急に自分の大きな手が厭になつた。粟の壺と水の壺を留り木の間に漸く置くや否や、手を引き込ました。籠の戸ははたりと自然《ひとりで》に落ちた。文鳥は留り木の上に戻つた。白い首を半《なか》ば横に向けて、籠の外にゐる自分を見上げた。それから曲げた首を眞直にして足の下《もと》にある粟と水を眺めた。自分は食事をしに茶の間へ行つた。

　其の頃は日課として小説を書いて居る時分であつた。飯と飯の間は大抵机に向つて筆を握つて居た。靜かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事が出來た。伽藍《がらん》の樣な書齋へは誰も這入つて來ない習慣であつた。筆の音に淋《さび》しさと云ふ意味を感じた朝も晝も晩もあつた。然し時々は此の筆の音がぴたりと已《や》む、又｜已《や》めねばならぬ、折も大分《だいぶ》あつた。其の時は指の股に筆を挾んだ儘｜手《て》の平《ひら》へ顎を載せて硝子越《ガラスごし》に吹き荒れた庭を眺めるのが癖であつた。夫《そ》れが濟むと載せた顎を一應｜撮《つま》んで見る。夫《そ》れでも筆と紙が一所にならない時は、撮《つま》んだ顎を二本の指で伸《の》して見る。すると縁側で文鳥が忽ち千代々々《ちよ／＼》と二聲鳴いた。

　筆を擱《お》いて、そつと出て見ると、文鳥は自分の方を向いた儘、留り木の上から、のめりさうに白い胸を突き出して、高く千代《ちよ》と云つた。三重吉が聞いたら嘸《さぞ》喜ぶだらうと思ふ程な美《い》い聲で千代と云つた。三重吉は今に馴れると千代と鳴きますよ、屹度《きつと》鳴きますよ、と受合つて歸つて行つた。

　自分は又籠の傍《そば》へしやがんだ。文鳥は膨《ふく》らんだ首を二三度｜竪《たて》横《よこ》に向け直した。やがて一團《ひとかたまり》の白い體《からだ》がぽいと留《とま》り木《ぎ》の上を拔け出した。と思ふと奇麗な足の爪が半分程｜餌壺《ゑつぼ》の縁《ふち》から後《うしろ》へ出た。小指を掛けてもすぐ引つ繰り返りさうな餌壺は釣鐘の樣に靜かである。流石《さすが》に文鳥は輕いものだ。何だか淡雪《あはゆき》の精《せい》の樣な氣がした

　文鳥はつと嘴《くちばし》を餌壺の眞中に落した。さうして二三度左右に振つた。奇麗に平《なら》して入れてあつた粟がはら／＼と籠の底に零《こぼ》れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で徴《かすか》な音がする。又｜嘴《くちばし》を粟の眞中に落す。又｜微《かすか》な音がする。其の音が面白い。靜かに聽いて居ると、丸くて細《こま》やかで、しかも非常に速かである。董《すみれ》程な小《ちひ》さい人が、黄金《こがね》の槌で瑪瑙《めなう》の碁石でもつゞけ樣に敲《たゝ》いて居る樣な氣がする。

　嘴の色を見ると紫を薄く混《ま》ぜた紅《べに》の樣である。其の紅《べに》が次第に流れて、粟をつゝく口尖《くちさき》の邊《あたり》は白い。象牙を半透明にした白さである。此の嘴が粟の中へ這入る時は非常に早い。左右に振り蒔く粟の珠《たま》も非常に輕さうだ。文鳥は身を逆さまにしない許《ばか》りに尖つた嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、膨《ふ》くらんだ首を惜氣《をしげ》もなく右《みぎ》左《ひだり》へ振る。籠の底に飛び散る粟の數は幾粒だか分らない。それでも餌壺《ゑつぼ》丈《だけ》は寂然《せきぜん》として靜かである。重いものである。餌壺《ゑつぼ》の直徑は一寸五分程だと思ふ。

　自分はそつと書齋へ歸つて淋《さび》しくペンを紙の上に走らしてゐた。縁側では文鳥がちゝと鳴く。折々は千代々々とも鳴く。外では木枯《こがらし》が吹いてゐた。

　夕方には文鳥が水を飲む所を見た。細い足を壺の縁《ふち》へ懸けて、小《ちさ》い嘴に受けた一雫《ひとしづく》を大事さうに、仰向いて呑《の》み下《くだ》してゐる。此の分では一杯の水が十日位續くだらうと思つて又書齋へ歸つた。晩には箱へ仕舞つて遣《や》つた。寢る時｜硝子戸《ガラスど》から外を覗いたら、月が出て、霜が降つて居た。文鳥は箱の中でことりともしなかつた。

　明《あく》る日《ひ》も亦氣の毒な事に遲く起きて、箱から籠を出してやつたのは、矢つ張り八時過ぎであつた。箱の中ではとうから目が覺めて居たんだらう。それでも文鳥は一向《いつかう》不平らしい顔もしなかつた。籠が明るい所へ出るや否や、いきなり眼をしばたゝいて、心持首をすくめて、自分の顔を見た。

　昔《むか》し美しい女を知つて居た。此の女が机に凭《もた》れて何か考へてゐる所を、後《うしろ》から、そつと行つて、紫《むらさき》の帶上げの房《ふさ》になつた先を、長く垂らして、頸筋《くびすぢ》の細いあたりを、上から撫《な》で廻《まは》したら、女はものう氣《げ》に後《うしろ》を向いた。其の時女の眉は心持八の字に寄つて居た。夫《それ》で眼尻と口元には笑が萌《きざ》して居た。同時に恰好《かつかう》の好い頸を肩迄すくめて居た。文鳥が自分を見た時、自分は不圖《ふと》此の女の事を思ひ出した。此の女は今嫁に行つた。自分が紫の帶上《おびあげ》でいたづらをしたのは縁談の極《きま》つた二三日｜後《あと》である。

　餌壺にはまだ粟が八分通り這入つてゐる。然し殻も大分《だいぶ》混《まじ》つてゐた。水入には粟の殻が一面に浮いて、苛《いた》く濁つて居た。易《か》へて遣らなければならない。又大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにも拘《かゝは》らず、文鳥は白い翼を亂して騷いだ。小《ちさ》い羽根が一本拔けても、自分は文鳥に濟まないと思つた。殻は奇麗に吹いた。吹かれた殻は木枯《こがらし》が何處かへ持つて行つた。水も易《か》へてやつた。水道の水だから大變冷たい。

　其の日は一日｜淋《さび》しいペンの音を聞いて暮した。其の間には折々千代々々と云ふ聲も聞えた。文鳥も淋《さび》しいから鳴くのではなからうかと考へた。然し縁側へ出て見ると、二本の留《とま》り木《ぎ》の間を、彼方《あちら》へ飛んだり、此方《こちら》へ飛んだり、絶間なく行きつ戻りつしてゐる。少しも不平らしい樣子はなかつた。

　夜は箱へ入れた。明《あく》る朝《あさ》目が覺めると、外は白い霜だ。文鳥も眼が覺めてゐるだらうが、中々起きる氣にならない。枕元にある新聞を手に取るさへ難儀だ。それでも煙草は一本ふかした。此の一本をふかして仕舞つたら、起きて籠から出して遣らうと思ひながら、口から出る煙《けぶり》の行方《ゆくへ》を見詰めて居た。すると此の煙《けぶり》の中に、首をすくめた、眼を細くした、しかも心持眉を寄せた昔の女の顔が一寸見えた。自分は床の上に起き直つた。寢卷の上へ羽織を引掛《ひつか》けて、すぐ縁側へ出た。さうして箱の葢《ふた》をはづして、文鳥を出した。文鳥は箱から出ながら、千代々々と二聲鳴いた。

　三重吉の説によると、馴れるに從つて、文鳥が人の顔を見て鳴く樣になるんださうだ。現に三重吉の飼つて居た文鳥は、三重吉が傍《そば》にゐさへすれば、しきりに千代々々と鳴きつゞけたさうだ。のみならず三重吉の指の先から餌《ゑ》を食べると云ふ。自分もいつか指の先で餌《ゑ》をやつて見たいと思つた。

　次の朝は又｜怠《なま》けた。昔の女の顔もつい思ひ出さなかつた。顔を洗つて、食事を濟まして、始めて、氣が附いた樣に縁側へ出て見ると、いつの間《ま》にか籠が箱の上に乘つてゐる。文鳥はもう留り木の上を面白さうにあちら、こちらと飛び移つてゐる。さうして時々は首を伸《の》して籠の外を下の方から覗いてゐる。其樣子が中々無邪氣である。昔｜紫《むらさき》の帶上《おびあげ》でいたづらをした女は襟の長い、脊《せい》のすらりとした、一寸首を曲げて人を見る癖があつた。

　粟はまだある。水もまだある。文鳥は滿足してゐる。自分は粟も水も易《か》へずに書齋へ引込《ひつこ》んだ。

　晝過ぎ又縁側へ出た。食後の運動かた／”＼、五六間の廻り縁を、あるきながら書見する積《つもり》であつた。所が出て見ると粟がもう七分がた盡きてゐる。水も全く濁つて仕舞つた。書物を縁側へ抛《はふ》り出《だ》して置いて、急いで餌《ゑ》と水を易《か》へて遣《や》つた。

　次の日も亦遲く起きた。しかも顔を洗つて飯を食ふまでは縁側を覗かなかつた。書齋に歸つてから、或は昨日《きのふ》の樣に、家人《うちのもの》が籠を出して置きはせぬかと、一寸縁へ顔｜丈《だけ》出して見たら、果して出してあつた。其の上｜餌《ゑ》も水も新しくなつて居た。自分はやつと安心して首を書齋に入れた。途端に文鳥は千代々々《ちよ／＼》と鳴いた。それで引込《ひつこ》めた首を又出して見た。けれども文鳥は再び鳴かなかつた。けげんな顔をして硝子越《ガラスごし》に庭の霜を眺めてゐた。自分はとう／＼机の前に歸つた。

　書齋の中では相變らずペンの音がさら／＼する。書きかけた小説は大分《だいぶん》はかどつた。指の先が冷たい。今朝｜埋《い》けた佐倉炭《さくらずみ》は白くなつて、薩摩五�ｺ《さつまごとく》に懸けた鐵瓶が殆ど冷《さ》めてゐる。炭取は空《から》だ。手を敲いたが一寸臺所迄｜聽《きこ》えない。立つて戸を明けると、文鳥は例に似ず留り木の上にぢつと留つてゐる。よく見ると足が一本しかない。自分は炭取を縁に置いて、上からこゞんで籠の中を覗き込んだ。いくら見ても足は一本しかない文鳥は此｜華奢《きやしや》な一本の細い足に總身《そうみ》を託して黙然《もくねん》として、籠の中に片附いてゐる。

　自分は不思議に思つた。文鳥に就て萬事を説明した三重吉も此の事｜丈《だけ》は拔いたと見える。自分が炭取に炭を入れて歸つた時、文鳥の足はまだ一本であつた。しばらく寒い縁側に立つて眺めて居たが、文鳥は動く氣色《けしき》もない。音を立てないで見詰めて居ると、文鳥は丸い眼を次第に細くし出した。大方｜眠《ねむ》たいのだらうと思つて、そつと書齋へ這入らうとして、一歩足を動かすや否や、文鳥は又眼を開《あ》いた。同時に眞白な胸の中から細い足を一本出した。自分は戸を閉《た》てて火鉢へ炭をついだ。

　小説は次第に忙《いそが》しくなる。朝は依然として寢坊をする。一度｜家《うち》のものが文鳥の世話をしてくれてから、何だか自分の責任が輕くなつた樣な心持がする。家《うち》のものが忘れる時は、自分が餌《ゑ》をやる水をやる。籠の出し入れをする。しない時は、家《うち》のものを呼んでさせる事もある。自分は只文鳥の聲を聞く丈《だけ》が役目の樣になつた。

　それでも縁側へ出る時は、必ず籠の前へ立留《たちどま》つて文鳥の樣子を見た。大抵は狹い籠を苦《く》にもしないで、二本の留り木を滿足さうに往復して居た。天氣の好い時は薄い日を硝子越《ガラスごし》に浴びて、しきりに鳴き立てゝゐた。然し三重吉の云つた樣に、自分の顔を見てことさらに鳴く氣色《けしき》は更になかつた。

　自分の指からぢかに餌《ゑ》を食ふ抔《など》と云ふ事は無論なかつた。折々機嫌のいゝ時は?麭《パン》の粉《こ》などを人指指《ひとさしゆび》の先へつけて竹の間から一寸出して見る事があるが文鳥は決して近づかない。少し無遠慮に突き込んで見ると、文鳥は指の太いのに驚いて白い翼を亂して籠の中を騷ぎ廻るのみであつた。二三度試みた後《のち》、自分は氣の毒になつて、此の藝｜丈《だけ》は永久に斷念して仕舞つた。今の世にこんな事の出來るものが居るかどうだか甚だ疑はしい。恐らく古代の聖徒《せいんと》の仕事だらう。三重吉は嘘を吐《つ》いたに違ない。

　或日の事、書齋で例の如くペンの音を立てゝ佗《わ》びしい事を書《か》き連《つら》ねてゐると、不圖《ふと》妙な音が耳に這入つた。縁側でさら／＼、さら／＼云ふ。女が長い衣《きぬ》の裾を捌《さば》いてゐる樣にも受取られるが、只の女のそれとしては、餘りに仰山《ぎやうさん》である。雛段《ひなだん》をあるく、内裏雛《だいりびな》の袴の襞《ひだ》の擦《す》れる音とでも形容したらよからうと思つた。自分は書きかけた小説を餘所《よそ》にして、ペンを持つた儘縁側へ出て見た。すると文鳥が行水《ぎやうずゐ》を使つて居た。

　水は丁度｜易《か》へ立《た》てであつた。文鳥は輕い足を水入の眞中に胸毛《むなげ》迄｜浸《ひた》して、時々は白い翼を左右にひろげながら、心持水入の中にしやがむ樣に腹を壓《お》し附《つ》けつゝ、總身《そうみ》の毛を一度に振《ふ》つて居る。さうして水入の縁《ふち》にひょいと飛び上る。しばらくして又飛び込む。水入の直徑は一寸五分位に過ぎない。飛び込んだ時は尾も餘り、頭も餘り、背は無論餘る。水に浸《つ》かるのは足と胸だけである。夫《そ》れでも文鳥は欣然《きんぜん》として行水《ぎやうずゐ》を使つてゐる。

　自分は急に易籠《かへかご》を取つて來た。さうして文鳥を此の方へ移した。それから如露《じよろ》を持つて風呂場へ行つて、水道の水を汲んで、籠の上からさあ／＼と掛けてやつた。如露《じよろ》の水が盡きる頃には白い羽根から落ちる水が珠《たま》になつて轉《ころ》がつた。文鳥は絶えず眼をぱち／＼させてゐた。

　昔紫の帶上《おびあげ》でいたづらをした女が、座敷で仕事をしてゐた時、裏二階から懷中鏡《ふところかゞみ》で女の顔へ春の光線を反射させて樂しんだ事がある。女は薄紅《うすあか》くなつた頬を上げて、繊《ほそ》い手を額の前に翳《かざ》しながら、不思議さうに瞬《まばたき》をした。此の女と此の文鳥とは恐らく同じ心持だらう。

　日數《ひかず》が立つに從つて文鳥は善く囀《さへ》づる。然し能く忘れられる。或る時は餌壺が粟の穀《から》丈《だけ》になつてゐた事がある。ある時は籠の底が糞《ふん》で一杯になつてゐた事がある。ある晩宴會があつて遲く歸つたら、冬の月が硝子越《ガラスごし》に差し込んで、廣い縁側がほの明るく見えるなかに、鳥籠がしんとして、箱の上に乘つて居た。其の隅に文鳥の體が薄白く浮いた儘留り木の上に、有るか無きかに思はれた。自分は外套の羽根《はね》を返して、すぐ鳥籠を箱のなかへ入れてやつた。

　翌日文鳥は例の如く元氣よく囀《さへづ》つてゐた。夫《それ》からは時々寒い夜《よる》も箱に仕舞つてやるのを忘れることがあつた。ある晩いつもの通り書齋で專念にペンの音を聞いて居ると、突然縁側の方でがたりと物の覆《くつがへ》つた音がした。然し自分は立たなかつた。依然として急ぐ小説を書いてゐた。わざ／＼立つて行つて、何でもないと忌々《いま／＼》しいから、氣にかゝらないではなかつたが、矢張り一寸｜聞耳《きゝみゝ》を立てた儘知らぬ顔で濟ましてゐた。其の晩寢たのは十二時過ぎであつた。便所に行つた序《ついで》、氣掛りだから、念の爲一應縁側へ廻つて見ると――

　籠は箱の上から落ちて居る。さうして横に倒れてゐる。水入も餌壺も引繰返《ひつくりかへ》つてゐる。粟は一面に縁側に散らばつてゐる。留り木は拔け出してゐる。文鳥はしのびやかに鳥籠の棧《さん》にかぢり附いて居た。自分は明日《あした》から誓つて此の縁側に猫を入れまいと決心した。

　翌日《あくるひ》文鳥は鳴かなかつた。粟を山盛《やまもり》入れてやつた。水を漲《みなぎ》る程入れてやつた。文鳥は一本足の儘長らく留り木の上を動かなかつた。牛飯《ひるめし》を食つてから、三重吉に手紙を書かうと思つて、二三行書き出すと、文鳥がちゝと鳴いた。自分は手紙の筆を留めた。文鳥が又ちゝと鳴いた。出て見たら粟も水も大分《だいぶん》減つてゐる。手紙は夫《それ》限《ぎり》にして裂いて捨てた。

　翌日《よくじつ》文鳥が又鳴かなくなつた。留り木を下りて籠の底へ腹を座《お》し附《つ》けて居た。胸の所が少し膨《ふく》らんで、小《ちひ》さい毛が漣《さゞなみ》の樣に亂れて見えた。自分は此の朝、三重吉から例の件で某所迄來て呉れと云ふ手紙を受取つた。十時迄にと云ふ依頼であるから、文鳥を其の儘にして置いて出た。三重吉に逢つて見ると例の件が色々長くなつて、一所に午飯《ひるめし》を食ふ。一所に晩飯《ばんめし》を食ふ。其の上｜明日《あす》の會合｜迄《まで》約束して宅《うち》へ歸つた。歸つたのは夜の九時頃である。文鳥の事は悉皆《すつかり》忘れて居た。疲れたから、すぐ床へ這入つて寢て仕舞つた。

　翌日《あくるひ》眼が覺めるや否や、すぐ例の件を思ひだした。いくら當人が承知だつて、そんな所へ嫁に遣るのは行末《ゆくすゑ》よくあるまい、まだ子供だから何處へでも行けと云はれる所へ行く氣になるんだらう。一旦行けば無暗に出られるものぢやない。世の中には滿足しながら不幸に陷《おちい》つて行く者が澤山ある。抔《など》と考へて楊枝《やうじ》を使つて、朝飯を濟まして又例の件を片附けに出掛けて行つた。

　歸つたのは午後三時頃である。玄關へ外套を懸けて廊下傳ひに書齋へ這入る積りで例の縁側へ出て見ると、鳥籠が箱の上に出してあつた。けれども文鳥は籠の底に反《そ》つ繰《く》り返《かへ》つて居た。二本の足を硬く揃へて、胴と直線に伸ばしてゐた。自分は籠の傍《わき》に立つて、じつと文鳥を見守つた。黒い眼を眠《ねぶ》つてゐる。瞼《まぶた》の色は薄蒼く變つた。

　餌壺には粟の殻ばかり溜つてゐる。啄《ついば》むべきは一粒もない。水入は底の光る程｜涸《か》れてゐる。西へ廻つた日が硝子戸《ガラスど》を洩れて斜めに籠に落ちかゝる。臺に塗つた漆は、三重吉の云つた如く、いつの間《ま》にか黒味が脱けて、朱《しゆ》の色が出て來た。

　自分は冬の日に色づいた朱の臺を眺めた。空《から》になつた餌壺を眺めた。空《むな》しく橋を渡してゐる二本の留り木を眺めた。さうして其の下に横《よこた》はる硬い文鳥を眺めた。

　自分はこゞんで兩手に鳥籠を抱《かゝ》へた。さうして、書齋へ持つて這入つた。十疊の眞中へ鳥籠を卸《おろ》して、其前へかしこまつて、籠の戸を開いて、大きな手を入れて、文鳥を握つて見た。柔《やはら》かい羽根は冷切《ひえき》つてゐる。

　拳《こぶし》を籠から引き出して、握つた手を開けると、文鳥は靜に掌《てのひら》の上にある。自分は手を開けたまゝ、しばらく死んだ鳥を見詰めて居た。それから、そつと座布團の上に卸した。さうして、烈《はげ》しく手を鳴らした。

　十六になる小女《こをんな》が、はいと云つて敷居際に手をつかへる。自分はいきなり布團の上にある文鳥を握つて、小女《こをんな》の前へ抱《はふ》り出《だ》した。小女《こをんな》は仰向《うつむ》いて疊を眺めた儘黙つてゐる。自分は、餌《ゑ》を遣らないから、とう／＼死んで仕舞つたと云ひながら、下女の顔を睥《にら》めつけた。下女は夫《そ》れでも黙つてゐる。

　自分は机の方へ向き直つた。さうして三重吉へ端書をかいた。「家人《うちのもの》が餌《ゑ》を遣らないものだから、文鳥はとう／＼死んで仕舞つた。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さへ盡くさないのは殘酷の至りだ」と云ふ文句であつた。

　自分は、之れを投函《だ》して來い、さうして其の鳥をそつちへ持つて行けと下女に云つた。下女は、どこへ持つて參りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持つて行けと怒鳴《どな》りつけたら、驚いて臺所の方へ持つて行つた。

　しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋めるんだ／＼と騷いでゐる。庭掃除に頼んだ植木屋が、御孃さん、此處いらが好いでせうと云つてゐる。自分は進まぬながら、書齋でペンを動かしてゐた。

　翌日《よくじつ》は何だか頭が重いので、十時頃になつて漸く起きた。顔を洗ひながら裏庭を見ると、昨日《きのふ》植木屋の聲のしたあたりに、小《ち》さい公札《こうさつ》が、蒼い木賊《とくさ》の一株と並《なら》んで立つてゐる。高さは木賊《とくさ》よりもずつと低い。庭下駄を穿《は》いて、日影の霜を踏み碎いて、近附いて見ると、公札《こうさつ》の表《おもて》には、此の土手登るべからずとあつた。筆子《ふでこ》の手蹟である。

　午後三重吉から返事が來た。文鳥は可愛想《かはいさう》な事を致しましたとある許《ばか》りで家人《うちのもの》が惡いとも殘酷だとも一向《いつかう》書いてなかつた。

　　　　　　　　　　明治四一、六、一三−二一

　

　　　夢十夜

　

　　　　第一夜

　

　こんな夢を見た。

　腕組をして枕元に坐つて居ると、仰向《あふむき》に寢た女が、靜かな聲でもう死にますと云ふ。女は長い髪を枕に敷いて、輪廓《りんくわく》の柔《やは》らかな瓜實顔《うりざねがほ》を其の中に横たへてゐる。眞白な頬の底に温かい血の色が程よく差して、唇の色は無論赤い。到底死にさうには見えない。然し女は靜かな聲で、もう死にますと判然《はつきり》云つた。自分も確《たしか》に是れは死ぬなと思つた。そこで、さうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込む樣にして聞いて見た。死にますとも、と云ひながら、女はぱつちりと眼を開《あ》けた。大きな潤《うるほひ》のある眼で、長い睫《まつげ》に包まれた中は、只一面に眞黒であつた。其の眞黒な眸《ひとみ》の奧に、自分の姿が鮮《あざやか》に浮かんでゐる。

　自分は透《す》き徹《とほ》る程深く見える此の黒眼の色澤《つや》を眺めて、是でも死ぬのかと思つた。それで、ねんごろに枕の傍《そば》へ口を付けて、死ぬんぢやなからうね、大丈夫だらうね、と又聞き返した。すると女は黒い眼を眠さうに?《みは》つた儘、矢張《やつぱ》り靜かな聲で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云つた。

　ぢや、私《わたし》の顔が見えるかいと一心《いつしん》に聞くと、見えるかいつて、そら、そこに、寫つてるぢやありませんかと、にこりと笑つて見せた。自分は黙つて、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思つた。

　しばらくして、女が又かう云つた。

　「死んだら、埋めて下さい。大きな眞珠貝で穴を掘つて。さうして天から落ちて來る星の破片《かけ》を墓標《はかじるし》に置いて下さい。さうして墓の傍《そば》に待つてゐて下さい。又逢ひに來ますから」

　自分は、何時《いつ》逢ひに來るかねと聞いた。

　「日が出るでせう。それから日が沈むでせう。それから又出るでせう、さうして又沈むでせう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待つてゐられますか」

　自分は黙つて首肯《うなづ》いた。女は靜かな調子を一段張り上げて、

　「百年待つてゐて下さい」と思ひ切つた聲で云つた。

　「百年、私の墓の傍《そば》に坐つて待つてゐて下さい。屹度《きつと》逢ひに來ますから」

　自分は只待つてゐると答へた。すると、黒い眸《ひとみ》のなかに鮮《あざやか》に見えた自分の姿が、ぼうつと崩れて來た。靜かな水が動いて寫る影を亂した樣に、流れ出したと思つたら、女の眼がぱちりと閉ぢた。長い睫《まつげ》の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んで居た。

　自分は夫《そ》れから庭へ下りて、眞珠貝で穴を掘つた。眞珠貝は大きな滑《なめら》かな縁《ふち》の鋭《する》どい貝であつた。土をすくふ度に、貝の裏に月の光が差してきら／＼した。濕つた士の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女を其の中に入れた。さうして柔らかい土を、上からそつと掛けた。掛ける毎《たび》に眞珠貝の裏に月の光が差した。

　それから星の破片《かけ》の落ちたのを拾つて來て、かろく土の上へ乘せた。星の破片《かけ》は丸かつた。長い間大空を落ちてゐる間《ま》に、角《かど》が取れて滑《なめら》かになつたんだらうと思つた。抱《だ》き上《あ》げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなつた。

　自分は苔《こけ》の上に坐つた。是から百年の間かうして待つてゐるんだなと考へながら、腕組をして、丸い墓石《はかいし》を眺めてゐた。そのうちに、女の云つた通り日が東から出た。大きな赤い日であつた。それが又女の云つた通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのつと落ちて行つた。一つと自分は勘定した。

　しばらくすると又｜唐紅《からくれなゐ》の天道《てんたう》がのそりと上《のぼ》つて來た。さうして黙つて沈んで仕舞つた。二つと又勘定した。

　自分はかう云ふ風に一つ二つと勘定して行くうちに赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせない程赤い日が頭の上を通り越して行つた。それでも百年がまだ來ない。仕舞には、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなからうかと思ひ出した。

　すると石の下から斜《はす》に自分の方へ向いて青い莖が伸びて來た。見る間に長くなつて丁度自分の胸のあたり迄來て留まつた。と思ふと、すらりと搖《ゆら》ぐ莖の頂《いたゞき》に、心持首を傾《かたぶ》けてゐた細長い一輪の蕾が、ふつくらと瓣《はなびら》を開いた。眞白な百合《ゆり》が鼻の先で骨に徹《こた》へる程匂つた。そこへ遙《はるか》の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふら／＼と動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴《したゝ》る、白い花瓣《はなびら》に接吻《せつぷん》した。自分が百合から顔を離す拍子に思はず、遠い空を見たら、曉《あかつき》の星がたつた一つ瞬《またゝ》いてゐた。

　「百年はもう來てゐたんだな」と此の時始めて氣が付いた。

　

　　　　　第二夜

　

　こんな夢を見た。

　和尚《をしやう》の室を退《さ》がつて、廊下傳ひに自分の部屋へ歸ると行燈《あんどう》がぼんやり點《とも》つてゐる。片膝を座蒲團の上に突いて、燈心を掻き立てたとき、花の樣な丁子《ちやうじ》がぱたりと朱塗の臺に落ちた。同時に部屋がぱつと明かるくなつた。

　襖《ふすま》の畫《ゑ》は蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近《をちこち》とかいて、寒《さ》むさうな漁夫が笠を傾《かたぶ》けて土手の上を通る。床《とこ》には海中文珠《かいちゅうもんじゆ》の軸《ぢく》が懸《かゝ》つてゐる。焚き殘した線香が暗い方でいまだに臭《にほ》つてゐる。廣い寺だから森閑として、人氣《ひとけ》がない。黒い天井に差す丸行燈《まるあんどう》の丸い影が、仰向く途端に生きてる樣に見えた。

　立膝《たてひざ》をした儘、左の手で座蒲團を捲《めく》つて、右を差し込んで見ると、思つた所に、ちやんとあつた。あれば安心だから、蒲團をもとの如く直して、其上にどつかり座つた。

　お前は侍《さむらひ》である。侍《さむらひ》なら悟れぬ筈はなからうと和尚《をしやう》が云つた。さう何日《いつ》迄《まで》も悟れぬ所を以て見ると、御前は侍《さむらひ》ではあるまいと言つた。人間の屑《くづ》ぢやと言つた。はゝあ怒つたなと云つて笑つた。口惜《くや》しければ悟つた證據を持つて來いと云つてぷいと向《むかふ》をむいた。怪《け》しからん。

　隣の廣間の床《とこ》に据ゑてある置時計が次の刻《とき》を打つ迄には、屹度《きつと》悟つて見せる。悟つた上で、今夜又｜入室《にふしつ》する。さうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。

　もし悟れなければ自刃《じじん》する。侍が辱《はづか》しめられて、生きて居る譯には行かない。奇麗に死んで仕舞ふ。

　かう考へた時、自分の手は又思はず布團の下へ這入つた。さうして朱鞘《しゆざや》の短刀を引き摺り出した。ぐつと束《つか》を握つて、赤い鞘《さや》を向《むかふ》へ拂つたら、冷たい刃《は》が一度に暗い部屋で光つた。凄いものが手元から、すう／＼と逃げて行く樣に思はれる。さうして、悉《こと／”＼》く切先《きつさき》へ集まつて、殺氣《さつき》を一點に籠めてゐる。自分は此の鋭い刃《は》が、無念にも針の頭の樣に縮められて、九寸五分《くすんごぶ》の先へ來て已《やむ》を得《え》ず尖《とが》つてるのを見て、忽ちぐさりと遣り度くなつた。身體の血が右の手首の方へ流れて來て、握つてゐる束《つか》がにちや／＼する。唇が顫へた。

　短刀を鞘《さや》へ収めて右脇へ引きつけて置いて、それから全伽《ぜんが》を組んだ。――趙州《でうしう》曰く無《む》と。無とは何だ。糞坊主めと齒噛《はがみ》をした。

　奧齒を強く咬《か》み締《し》めたので、鼻から熱い息が荒く出る。米噛《こめかみ》が釣つて痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやつた。

　懸物《かけもの》が見える。行燈が見える。疊が見える。和尚の藥罐頭《やくわんあたま》があり／＼と見える。鰐口《わにぐち》を開《あ》いて嘲笑《あざわら》つた聲まで聞える。怪《け》しからん坊主だ。どうしてもあの藥罐《やくわん》を首にしなくてはならん。悟つてやる。無《む》だ、無《む》だと舌の根で念じた。無《む》だと云ふのに矢つ張り線香の香《にほひ》がした。何だ線香の癖に。

　自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云ふ程｜擲《なぐ》つた。さうして奧齒をぎり／＼と噛んだ。兩腋から汗が出る。脊中が棒の樣になつた。膝の接目《つぎめ》が急に痛くなつた。膝が折れたつてどうあるものかと思つた。けれども痛い。苦しい。無《む》は中々出て來ない。出て來ると思ふとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜《くや》しくなる。涙がほろ／＼出る。一《ひ》と思《おもひ》に身を巨巖《おほいは》の上に打《ぶ》つけて、骨も肉も滅茶々々《めちや／＼》に碎いて仕舞ひたくなる。

　それでも我慢して凝《ぢつ》と坐つてゐた。堪へがたい程切ないものを胸に盛《い》れて忍んでゐた。其切ないものが身體中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出やう／＼と焦《あせ》るけれども、何處も一面に塞《ふさ》がつて、丸《まる》で出口がない樣な殘刻極まる状態であつた。

　其の内に頭が變になつた。行燈も蕪村の畫《ゑ》も、疊も、違棚《ちがひだな》も有つて無い樣な、無くつて有る樣に見えた。と云つて無《む》はちつとも現前《げんぜん》しない。たゞ好加減《いゝかげん》に坐つてゐた樣である。所へ忽然《こつぜん》隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。

　はつと思つた。右の手をすぐ短刀に掛けた。時計が二つ目をチーンと打つた。

　

　　　　　第三夜

　

　こんな夢を見た。

　六つになる子供を負《おぶ》つてる。慥《たしか》に自分の子である。只不思議な事には何時《いつ》の間《ま》にか眼が潰《つぶ》れて、青坊主になつてゐる。自分が御前の眼は何時《いつ》潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答へた。聲は子供の聲に相違ないが、言葉つきは丸《まる》で大人《おとな》である。しかも對等《たいとう》だ。

　左右は青田《あをた》である。路は細い。鷺《きぎ》の影が時々闇に差す。

　「田圃へ掛つたね」と背中で云つた。

　「どうして解る」と顔を後《うし》ろへ振り向ける樣にして聞いたら、

　「だつて鷺が鳴くぢやないか」と答へた。

　すると鷺が果して二聲程鳴いた。

　自分は我子ながら少し怖《こは》くなつた。こんなものを背負《しよ》つてゐては、此の先どうなるか分らない。どこか打遣《うつち》やる所はなからうかと向ふを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考へ出す途端に、脊中で、

　「ふゝん」と云ふ聲がした。

　「何を笑ふんだ」

　子供は返事をしなかつた。只

　「御父《おとつ》さん、重いかい」と聞いた。

　「重かあない」と答へると

　「今に重くなるよ」と云つた。

　自分は黙つて森を目標《めじるし》にあるいて行つた。田の中の路が不規則にうねつて中々思ふ樣に出られない。しばらくすると二股《ふたまた》になつた。自分は股《また》の根に立つて、一寸休んだ。

　「石が立つてる筈だがな」と小僧が云つた。

　成程八寸角の石が腰程の高さに立つてゐる。表には左《ひだ》り日《ひ》ケ窪《くぼ》、右｜堀田原《ほつたはら》とある。闇だのに赤い字が明《あきら》かに見えた。赤い字は井守《ゐもり》の腹の樣な色であつた。

　「左が好いだらう」と小僧が命令した。左を見ると最先《さつき》の森が闇の影を、高い空から自分等の頭の上へ抛《な》げかけてゐた。自分は一寸躊躇した。

　「遠慮しないでもいゝ」と小僧が又云つた。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目《めくら》の癖に何でも知つてるなと考へながら一筋道を森へ近づいてくると、脊中で、「どうも盲目《めくら》は不自由で不可《いけな》いね」と云つた。

　「だから負《おぶ》つてやるから可《い》いぢやないか」

　「負《お》ぶつて貰つて濟まないが、どうも人に馬鹿にされて不可《いけな》い。親に迄馬鹿にされるから不可《いけな》い」

　何だか厭になつた。早く森へ行つて捨てゝ仕舞はふと思つて急いだ。

　「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だつたな」と脊中で獨言《ひとりごと》の樣に云つてゐる。

　「何が」と際《きは》どい聲を出して聞いた。

　「何がつて、知つてるぢやないか」と子供は嘲《あざ》ける樣に答へた。すると何だか知つてる樣な氣がし出した。けれども判然《はつきり》とは分らない。只こんな晩であつた樣に思へる。さうしてもう少し行けば分る樣に思へる。分つては大變だから、分らないうちに早く捨てゝ仕舞つて、安心しなくつてはならない樣に思へる。自分は益《ます／＼》足を早めた。

　雨は最先《さつき》から降つてゐる。路はだん／＼暗くなる。殆んど夢中である。只脊中に小さい小僧が食付《くつつ》いてゐて、其の小僧が自分の過去、現在、未來を悉《こと／”＼》く照して、寸分の事實も洩らさない鏡の樣に光つてゐる。しかもそれが自分の子である。さうして盲目《めくら》である。自分は堪《たま》らなくなつた。

　「此處だ、此處だ。丁度其の杉の根の處だ」

　雨の中で小僧の聲は判然《はつきり》聞えた。自分は覺えず留つた。何時《いつ》しか森の中へ這入つてゐた。一間ばかり先にある黒いものは慥《たしか》に小僧の云ふ通り杉の木と見えた。

　「御父《おとつ》さん、其の杉の根の處だつたね」

　「うん、さうだ」と思はず答へて仕舞つた。

　「文化五年｜辰年《たつどし》だらう」

　成程文化五年｜辰年《たつどし》らしく思はれた。

　「御前がおれを殺したのは今から丁度百年｜前《まへ》だね」

　自分は此の言葉を聞くや否や、今から百年｜前《まへ》文化五年の辰年《たつどし》のこんな闇の晩に、此の杉の根で、一人の盲目《めくら》を殺したと云ふ自覺が、忽然《こつぜん》として頭の中に起つた。おれは人殺《ひとごろし》であつたんだなと始めて氣が附いた途端に、背中の子が急に石地藏の樣に重くなつた。

　

　　　　　第四夜

　

　廣い土間の眞中に凉み臺の樣なものを据ゑて、其｜周圍《まはり》に小さい床几《しやうぎ》が並《なら》べてある。臺は黒光りに光つてゐる。片隅には四角な膳を前に置いて爺さんが一人で酒を飲んでゐる。肴《さかな》は※［者／火］しめらしい。

　爺さんは酒の加減で中々赤くなつてゐる。其の上顔中｜澤々《つや／＼》して皺《しわ》と云ふ程のものはどこにも見當らない。只白い髯《ひげ》をありたけ生やしてゐるから年寄《としより》と云ふ事｜丈《だけ》は別《わか》る。自分は子供ながら、此の爺さんの年は幾何《いくつ》なんだらうと思つた。所へ裏の筧《かけひ》から手桶《てをけ》に水を汲んで來た神さんが、前垂《まへだれ》で手を拭きながら、

　「御爺さんは幾年《いくつ》かね」と聞いた。爺さんは頬張つた※［者／火］〆《にしめ》を呑み込んで、

　「幾年《いくつ》か忘れたよ」と澄ましてゐた。神さんは拭いた手を、細い帶の間に挾んで横から爺さんの顔を見て立つてゐた。爺さんは茶碗の樣な大きなもので酒をぐいと飲んで、さうして、ふうと長い息を白い髭の間から吹き出した。すると神さんが、

　「御爺さんの家《うち》は何處かね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切つて、

　「臍《へそ》の奧だよ」と云つた。神さんは手を細い帶の間に突込《つつこ》んだ儘、

　「どこへ行くかね」と又聞いた。すると爺さんが、又茶碗の樣な大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前の樣な息をふうと吹いて、

　「あつちへ行くよ」と云つた。

　「眞直かい」と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子を通り越して柳の下を拔けて、河原《かはら》の方へ眞直に行つた。

　爺さんが表へ出た。自分も後《あと》から出た。爺さんの腰に小さい瓢箪《へうたん》がぶら下がつてゐる。肩から四角な箱を腋《わき》の下へ釣るしてゐる。淺黄《あさぎ》の股引《もゝひき》を穿《は》いて、淺黄《あさぎ》の袖無しを着てゐる。足袋《たび》丈《だけ》が黄色い。何だか皮で作つた足袋の樣に見えた。

　爺さんが眞直に柳の下迄來た。柳の下に子供が三四人居た。爺さんは笑ひながら腰から淺黄の手拭《てぬぐひ》を出した。それを肝心綯《かんじんより》の樣に細長く綯《よ》つた。さうして地面《ぢびた》の眞中に置いた。それから手拭の周圍《まはり》に、大きな丸い輪を描《か》いた。しまひに肩にかけた箱の中から眞鍮《しんちゆう》で製《こし》らへた飴屋の笛を出した。

　「今に其の手拭《てぬぐひ》が蛇になるから、見て居らう。見て居らう」と繰返して云つた。

　子供は一生懸命に手拭《てぬぐひ》を見て居た。自分も見て居た。

　「見て居らう、見て居らう、好いか」と云ひながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐる／＼廻り出した。自分は手拭｜許《ばか》り見て居た。けれども手拭は一向《いつかう》動かなかつた。

　爺さんは笛をぴい／＼吹いた。さうして輪の上を何遍も廻つた。草鞋《わらぢ》を爪立《つまだ》てる樣に、拔足をする樣に、手拭に遠慮をする樣に、廻つた。怖《こは》さうにも見えた。面白さうにもあつた。

　やがて爺さんは笛をぴたりと已《や》めた。さうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと撮《つま》んで、ぽつと放《はふ》り込《こ》んだ。

　「かうして置くと、箱の中で蛇になる。今に見せてやる。今に見せてやる」と云ひながら、爺さんが眞直に歩き出した。柳の下を拔けて、細い路を眞直に下りて行つた。自分は蛇が見たいから、細い道を何處迄も追《つ》いて行つた。爺さんは時々「今になる」と云つたり、「蛇になる」と云つたりして歩いて行く。仕舞には、

　　「今になる、蛇になる、

　　　屹度《きつと》なる、笛が鳴る、」

と唄ひながら、とう／＼河の岸へ出た。橋も舟もないから、此處で休んで箱の中の蛇を見せるだらうと思つてゐると、爺さんはざぶ／＼河の中へ這入り出した。始めは膝位の深さであつたが、段々腰から、胸の方迄水に浸《つか》つて見えなくなる。それでも爺さんは

　　「深くなる、夜になる、

　　　眞直になる」

と唄ひながら、どこ迄も眞直に歩いて行つた。さうして聲も顔も頭も頭巾《づきん》も丸《まる》で見えなくなつて仕舞つた。

　自分は爺さんが向岸《むかふぎし》へ上がつた時に、蛇を見せるだらうと思つて、蘆の鳴る所に立つて、たつた一人｜何時《いつ》迄《まで》も待つてゐた。けれども爺さんは、とう／＼上がつて來なかつた。

　

　　　　　第五夜

　

　こんな夢を見た。

　何でも餘程古い事で、神代《かみよ》に近い昔と思はれるが、自分が軍《いくさ》をして運惡く敗北《まけ》た爲に、生擒《いけどり》になつて、敵の大將の前に引き据ゑられた。

　其の頃の人はみんな脊《せ》が高かつた。さうして、みんな長い髯《ひげ》を生《は》やしてゐた。革の帶を締めて、それへ棒の樣な劔《つるぎ》を釣るしてゐた。弓は藤蔓《ふぢづる》の太いのを其の儘用ひた樣に見えた。漆も塗つてなければ磨《みが》きも掛けてない。極めて素撲《そぼく》なものであつた。

　敵の大將は、弓の眞中を右の手で握つて、其弓を草の上へ突いて、酒甕《さかがめ》を伏せた樣なものゝ上に腰を掛けてゐた。其顔を見ると、鼻の上で、左右の眉が太く接續《つなが》つてゐる。其頃｜髪刺《かみそり》と云ふものは無論なかつた。

　自分は虜《とりこ》だから、腰を掛ける譯に行かない。草の上に胡坐《あぐら》をかいてゐた。足には大きな藁沓《わらぐつ》を穿《は》いてゐた。此の時代の藁沓《わらぐつ》は深いものであつた。立つと膝頭《ひざがしら》迄來た。其の端《はし》の所は藁を少し編殘して、房の樣に下げて、歩くとばら／＼動く樣にして、飾りとしてゐた。

　大將は篝火《かゞりび》で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。是れは其の頃の習慣で、捕虜《とりこ》にはだれでも一應はかう聞いたものである。生きると答へると降參した意味で、死ぬと云ふと屈服《くつぷく》しないと云ふ事になる。自分は一言《ひとこと》死ぬと答へた。大將は草の上に突いてゐた弓を向ふへ抛《な》げて、腰に釣るした棒の樣な劔《けん》をするりと拔き掛けた。それへ風に靡《なび》いた篝火《かゞりび》が横から吹きつけた。自分は右の手を楓《かへで》の樣に開いて、掌《たなごゝろ》を大將の方へ向けて、眼の上へ差し上げた。待てと云ふ相圖である。大將は太い劔をかちやりと鞘《さや》に収めた。

　其の頃でも戀《こひ》はあつた。自分は死ぬ前に一目思ふ女に逢ひたいと云つた。大將は夜が明けて鷄《とり》が鳴く迄なら待つと云つた。鷄《とり》が鳴く迄に女を此處へ呼ばなければならない。鷄が鳴いても女が來なければ、自分は逢はずに殺されて仕舞ふ。

　大將は腰を掛けた儘、篝火《かゞりび》を眺めてゐる。自分は大きな藁沓《わらぐつ》を組み合はした儘、草の上で女を待つてゐる。夜は段々更ける。

　時々｜篝火《かゞりび》が崩れる音がする。崩れる度に狼狽《うろた》へた樣に?《ほのほ》が大將になだれかゝる。眞黒な眉の下で、大將の眼がぴか／＼と光つてゐる。すると誰やら來て、新しい枝を澤山火の中へ抛《な》げ込《こ》んで行く。しばらくすると、火がぱち／＼と鳴る。暗闇《くらやみ》を彈《はじ》き返《かへ》す樣な勇ましい音であつた。

　此時女は、裏の楢《なら》の木に繋《つな》いである、白い馬を引き出した。鬣《たてかみ》を三度｜撫《な》でゝ高い脊《せ》にひらりと飛び乘つた。鞍《くら》もない鐙《あぶみ》もない裸馬《はだかうま》であつた。長く白い足で、太腹《ふとばら》を蹴ると、馬は一散《いつさん》に驅け出した。誰かゞ篝《かゞ》りを繼ぎ足したので、遠くの空が薄明るく見える。馬は此の明るいものを目懸けて闇の中を飛んで來る。鼻から火の柱の樣な息を二本出して飛んで來る。それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴つてゐる。馬は蹄《ひづめ》の音が宙で鳴る程早く飛んで來る。女の髪は吹流しの樣に闇《やみ》の中に尾を曳《ひ》いた。それでもまだ篝《かゞり》のある所迄來られない。

　すると眞闇《まつくら》な道の傍《はた》で、忽《たちま》ちこけこつこうと云ふ鷄《とり》の聲がした。女は身を空樣《そらざま》に、兩手に握つた手綱《たづな》をうんと控へた。馬は前足の蹄を堅い岩の上に發矢《はつし》と刻《きざ》み込んだ。

　こけこつこうと鷄《にはとり》がまた一聲《ひとこゑ》鳴いた。

　女はあつと云つて、緊《し》めた手綱《たづな》を一度に緩めた。馬は諸膝《もろひざ》を折る。乘つた人と共に眞向《まとも》へ前へのめつた。岩の下は深い淵であつた。

　蹄《ひづめ》の跡はいまだに岩の上に殘つて居る。鷄《とり》の鳴く眞似をしたものは天探女《あまのじやく》である。此の蹄の痕《あと》の岩に刻みつけられてゐる間、天探女《あまのじやく》は自分の敵《かたき》である。

　

　　　　　第六夜

　

　運慶《うんけい》が護國寺《ごこくじ》の山門で仁王《にわう》を刻んでゐると云ふ評判だから、散歩ながら行つて見ると、自分より先にもう大勢集まつて、しきりに下馬評《げばひやう》をやつてゐた。

　山門の前五六間の所には、大きな赤松があつて、其幹が斜《なゝ》めに山門の甍《いらか》を隱して、遠い青空迄伸びて居る。松の緑と朱塗《しゆぬり》の門が互ひに照《うつ》り合《あ》つて美事に見える。其の上松の位地が好い。門の左の端を眼障《めざはり》にならない樣に、斜《はす》に切つて行つて、上になる程幅を廣く屋根迄｜突出《つきだ》してゐるのが何となく古風である。鎌倉時代とも思はれる。

　所が見て居るものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。其の中《うち》でも車夫が一番多い。辻待《つじまち》をして退屈だから立つてゐるに相違ない。

　「大きなもんだなあ」と云つてゐる。

　「人間を拵へるよりも餘つ程骨が折れるだらう」とも云つてゐる。

　さうかと思ふと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫《ほ》るのかね。へえさうかね。私《わつし》や又仁王はみんな古いのばかりかと思つてた」と云つた男がある。

　「どうも強さうですね。なんだつてえますぜ。昔から誰が強いつて、仁王程強い人あ無いつて云ひますぜ。何でも日本武尊《やまとだけのみこと》よりも強いんだつてえからね」と話しかけた男もある。此の男は尻を端折《はしよ》つて、帽子を被らずにゐた。餘程無教育な男と見える。

　運慶は見物人の評判には委細｜頓着《とんぢやく》なく鑿《のみ》と槌《つち》を動かしてゐる。一向《いつかう》振り向きもしない。高い所に乘つて、仁王の頭の邊《あたり》をしきりに彫《ほ》り拔《ぬ》いて行く。

　運慶は頭に小《ちひ》さい烏帽子《ゑぼし》の樣なものを乘せて、素砲《すはう》だか何だか別らない大きな袖を脊中で括《くゝ》つてゐる。其の樣子が如何にも古くさい。わい／＼云つてる見物人とは丸《まる》で釣り合が取れない樣である。自分はどうして今時分迄運慶が生きてゐるのかなと思つた。どうも不思議な事があるものだと考へながら、矢張り立つて見てゐた。

　然し運慶の方では不思議とも奇體とも頓《とん》と感じ得ない樣子で一生懸命に彫《ほ》つてゐる。仰向いて此の態度を眺めて居た一人の若い男が、自分の方を振り向いて、

　「流石《さすが》は運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はたゞ仁王と我れとあるのみと云ふ態度だ。天晴《あつぱ》れだ」と云つて賞《ほ》め出《だ》した。

　自分は此の言葉を面白いと思つた。それで一寸若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、

　「あの鑿《のみ》と槌《つち》の使ひ方を見給へ。大自在《だいじざい》の妙境に達してゐる」と云つた。

　運慶は今太い眉を一寸《いつすん》の高さに横へ彫《ほ》り拔《ぬ》いて、鑿《のみ》の齒を竪《たて》に返すや否や斜《は》すに、上から槌を打《う》ち下《おろ》した。堅い木を一《ひ》と刻《きざ》みに削つて、厚い木屑が槌の聲に應じて飛んだと思つたら、小鼻のおつ開《ぴら》いた怒り鼻の側面が忽ち浮き上がつて來た。其の刀《たう》の入れ方が如何にも無遠慮であつた。さうして少しも疑念を挾《さしはさ》んで居らん樣に見えた。

　「能くあゝ無造作に鑿《のみ》を使つて、思ふ樣な眉《まみえ》や鼻が出來るものだな」と自分はあんまり感心したから獨言《ひとりごと》の樣に言つた。するとさつきの若い男が、

　「なに、あれは眉《まみえ》や鼻を鑿《のみ》で作るんぢやない。あの通りの眉《まみえ》や鼻が木の中に埋《うま》つてゐるのを、鑿《のみ》と槌の力で掘り出す迄だ。丸《まる》で土の中から石を掘り出す樣なものだから決して間違ふ筈はない」と云つた。

　自分は此の時始めて彫刻とはそんなものかと思ひ出した。果してさうなら誰にでも出來る事だと思ひ出した。それで急に自分も仁王が彫《ほ》つて見たくなつたから見物をやめて早速｜家《うち》へ歸つた。

　道具箱から鑿《のみ》と金槌《かなづち》を持ち出して、裏へ出て見ると、先達《せんだつ》ての暴風《あらし》で倒れた樫《かし》を、薪《まき》にする積りで、木挽《こびき》に挽《ひ》かせた手頃な奴が、澤山積んであつた。

　自分は一番大きいのを選んで、勢ひよく彫《ほ》り始めて見たが、不幸にして、仁王は見當らなかつた。其の次のにも運惡く掘り當てる事が出來なかつた。三番目のにも仁王は居なかつた。自分は積んである薪《まき》を片《かた》つ端《ぱし》から彫つて見たが、どれもこれも仁王を藏《かく》してゐるのはなかつた。遂に明治の木には到底仁王は埋《うま》つてゐないものだと悟つた。それで運慶が今日《けふ》迄《まで》生きてゐる理由も略《ほゞ》解つた。

　

　　　　　第七夜

　

　何でも大きな船に乘つてゐる。

　此の船が毎日毎夜すこしの絶間なく黒い煙《けぶり》を吐いて浪を切つて進んで行く。凄《すさま》じい音である。けれども何處へ行くんだか分らない。只波の底から燒火箸の樣な太陽が出る。それが高い帆柱の眞上迄來てしばらく挂《かゝ》つてゐるかと思ふと、何時《いつ》の間《ま》にか大きな船を追ひ越して、先へ行つて仕舞ふ。さうして、仕舞には燒火箸の樣にぢゆつといつて又波の底に沈んで行く。其の度《たんび》に蒼い波が遠くの向ふで、蘇枋《すはう》の色に沸き返る。すると船は凄じい音を立てゝ其の跡を追掛《おつか》けて行く。けれども決して追附《おつつ》かない。

　ある時自分は、船の男を捕《つら》まへて聞いて見た。

　「此の船は西へ行くんですか」

　船の男は怪訝《けげん》な顔をして、しばらく自分を見て居たが、やがて、

　「何故《なぜ》」と問ひ返した。

　「落ちて行く日を追懸《おつか》ける樣だから」

　船の男は呵々《から／＼》と笑つた。さうして向ふの方へ行つて仕舞つた。

　「西へ行く日の、果《はて》は東か。それは本眞《はんま》か。東《ひがし》出る日の、御里《おさと》は西か。それも本眞《ほんま》か。身は波の上。?枕《かぢまくら》。流せ／＼」と囃《はや》してゐる。舳《へさき》へ行つて見たら、水夫が大勢寄つて、太い帆綱を手繰《たぐ》つてゐた。

　自分は大變心細くなつた。何時《いつ》陸《をか》へ上がれる事か分らない。さうして何處へ行くのだか知れない。只黒い煙《けぶり》を吐いて波を切つて行く事｜丈《だけ》は慥《たし》かである。其の波は頗る廣いものであつた。際限もなく蒼く見える。時には紫にもなつた。只船の動く周圍《まはり》丈《だけ》は何時《いつ》でも眞白に泡を吹いてゐた。自分は大變心細かつた。こんな船にゐるより一層《いつそ》身を投げて死んで仕舞はうかと思つた。

　乘合《のりあひ》は澤山居た。大抵は異人の樣であつた。然し色々な顔をしてゐた。空が曇つて船が搖れた時、一人の女が欄《てすり》に倚《よ》りかゝつて、しきりに泣いて居た。眼を拭く半巾《ハンケチ》の色が白く見えた。然し身體には更紗《さらさ》の樣な洋服を着てゐた。此女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと氣が附いた。

　ある晩｜甲板《かんぱん》の上に出て、一人で星を眺めてゐたら、一人の異人が來て、天文學を知つてるかと尋ねた。自分は詰らないから死なうとさへ思つてゐる。天文學｜抔《など》を知る必要がない。黙つてゐた。すると其の異人が金牛宮《きんぎうきゆう》の頂《いたゞき》にある七星《しちせい》の話をして聞かせた。さうして星も海もみんな神の作つたものだと云つた。最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙つて居た。

　或時サローンに這入つたら派出《はで》な衣裳を着た若い女が向ふむきになつて、洋琴《ピアノ》を彈いてゐた。其の傍《そば》に背《せい》の高い立派な男が立つて、唱歌を唄つてゐる。其口が大變大きく見えた。けれども二人は二人以外の事には丸《まる》で頓着《とんぢやく》してゐない樣子であつた。船に乘つてゐる事さへ忘れてゐる樣であつた。

　自分は益《ます／＼》詰らなくなつた。とう／＼死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人の居ない時分、思ひ切つて海の中へ飛び込んだ。所が――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れた其の刹那に、急に命が惜しくなつた。心の底からよせばよかつたと思つた。けれども、もう遲い。自分は厭でも應でも海の中へ這入《はい》らなければならない。只大變高く出來てゐた船と見えて、身體《からだ》は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。然し捕《つか》まへるものがないから、次第々々に水に近附いて來る。いくら足を縮めても近附いて來る。水の色は黒かつた。

　そのうち船は例の通り黒い煙《けぶり》を吐いて、通り過ぎて仕舞つた。自分は何處へ行くんだか判らない船でも、矢つ張り乘つて居る方がよかつたと始めて悟りながら、しかも其の悟りを利用する事が出來ずに、無限の後悔と恐怖とを抱《いた》いて黒い波の方へ靜かに落ちて行つた。

　

　　　　　第八夜

　

　床屋の敷居を跨《また》いだら、白い着物を着てかたまつて居た三四人が、一度に入らつしやいと云つた。

　眞中に立つて見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開《あ》いて、殘る二方に鏡が懸《かゝ》つてゐる。鏡の數を勘定したら六つあつた。

　自分は其一つの前へ來て腰を卸した。すると御尻《おしり》がぶくりと云つた。餘程坐り心地が好く出來た椅子である。鏡には自分の顔が立派に映つた。顔の後《うしろ》には窓が見えた。それから帳場格子《ちやうばがうし》が斜《はす》に見えた。格子の中には人がゐなかつた。窓の外を通る徃來《わうらい》の人の腰から上がよく見えた。

　庄太郎が女を連れて通る。庄太郎は何時《いつ》の間《ま》にかパナマの帽子を買つて被つてゐる。女も何時の間に拵《こし》らへたものやら。一寸解らない。双方共得意の樣であつた。よく女の顔を見やうと思ふうちに通り過ぎて仕舞つた。

　豆腐屋が喇叭《らつぱ》を吹いて通つた。喇叭《らつぱ》を口へ宛《あ》てがつてゐるんで、頬《ほつ》ぺたが蜂《はち》に螫《さ》された樣に膨《ふく》れてゐた。膨《ふく》れたまんまで通り越したものだから、氣掛りで堪《たま》らない。生涯｜蜂《はち》に螫《さ》されてゐる樣に思ふ。

　藝者が出た。まだ御化粧《おつくり》をしてゐない。島田の根が緩《ゆる》んで、何だか頭に締りがない。顔も寢ぼけてゐる。色澤《いろつや》が氣の毒な程惡い。それで御辭儀《おじぎ》をして、どうも何とかですと云つたが、相手はどうしても鏡の中へ出て來ない。

　すると白い着物を着た大きな男が、自分の後《うし》ろへ來て、鋏《はさみ》と櫛《くし》を持つて自分の頭を眺め出した。自分は薄い髭《ひげ》を捩《ひね》つて、どうだらう物になるだらうかと尋ねた。白い男は、何《な》にも云はずに、手に持つた琥珀色《こはくいろ》の櫛で輕く自分の頭を叩いた。

　「さあ、頭もだが、どうだらう、物になるだらうか」と自分は白い男に聞いた。白い男は矢張り何も答へずに、ちやき／＼と鋏を鳴らし始めた。

　鏡に映《うつ》る影を一つ殘らず見る積りで眼を?《みは》つてゐたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで來るので、恐ろしくなつて、やがて眼を閉ぢた。すると白い男が、かう云つた。

　「旦那は表の金魚賣を御覽なすつたか」

　自分は見ないと云つた。白い男はそれぎりで、頻《しきり》と鋏を鳴らしてゐた。すると突然大きな聲で危險《あぶねえ》と云つたものがある。はつと眼を開けると、白い男の袖の下に自轉車の輪が見えた。人力の梶棒《かぢぼう》が見えた。と思ふと、白い男が兩手で自分の頭を押へてうんと横へ向けた。自轉車と人力車は丸《まる》で見えなくなつた。鋏の音がちやき／＼する。

　やがて、白い男は自分の横へ廻つて、耳の所を刈り始めた。毛が前の方へ飛ばなくなつたから、安心して眼を開けた。粟餅《あはもち》や、餅やあ、餅や、と云ふ聲がすぐ、そこでする。小さい杵《きね》をわざと臼《うす》へ中《あ》てゝ、拍子を取つて餅を搗《つ》いてゐる。粟餅屋《あはもちや》は子供の時に見たばかりだから、一寸樣子が見たい。けれども粟餅屋は決して鏡の中に出て來ない。只餅を搗《つ》く音｜丈《だけ》する。

　自分はあるたけの視力で鏡の角《かど》を覗き込む樣にして見た。すると帳場挌子のうちに、いつの間《ま》にか一人の女が坐つてゐる。色の淺黒い眉毛《まみえ》の濃い大柄な女で、髪を銀杏返《いてふがへ》しに結《ゆ》つて、黒繻子《くろじゆす》の半襟の掛つた素袷《すあはせ》で、立膝《たてひざ》の儘、札《さつ》の勘定をしてゐる。札《さつ》は十圓札らしい。女は長い睫《まつげ》を伏せて薄い唇を結んで一生懸命に、札《さつ》の數《かず》を讀《よ》んでゐるが、其の讀み方がいかにも早い。しかも札の數はどこ迄行つても盡きる樣子がない。膝の上に乘つてゐるのは高々《たか／”＼》百枚位だが、其百枚がいつ迄勘定しても百枚である。

　自分は茫然として此女の顔と十圓札を見詰めて居た。すると耳の元で白い男が大きな聲で「洗ひませう」と云つた。丁度うまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子の方を振り返つて見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかつた。

　代《だい》を拂つて表へ出ると、門口《かどぐち》の左側に、小判《こばん》なりの桶が五つ許《ばか》り並《なら》べてあつて、其の中に赤い金魚や、斑入《ふいり》の金魚や、痩せた金魚や、肥《ふと》つた金魚が澤山入れてあつた。さうして金魚賣が其の後《うしろ》にゐた。金魚賣は自分の前に並《なら》べた金魚を見詰めた儘、頬杖を突いて、じつとして居る。騷がしい徃來《わうらい》の活動には殆ど心を留めてゐない。自分はしばらく立つて此の金魚賣を眺めて居た。けれども自分が眺めてゐる間、金魚賣はちつとも動かなかつた。

　

　　　　　第九夜

　

　世の中が何となくざわつき始めた。今にも戰爭《いくさ》が起りさうに見える。燒け出された裸馬《はだかうま》が、夜晝となく、屋敷の周圍《まはり》を暴《あ》れ廻《まは》ると、それを夜晝となく足輕《あしがる》共《ども》が犇《ひしめ》きながら追掛《おつか》けてゐる樣な心持がする。それでゐて家のうちは森《しん》として靜かである。

　家《いへ》には若い母と三つになる子供がゐる。父は何處かへ行つた。父が何處かへ行つたのは、月の出てゐない夜中であつた。床《とこ》の上で草鞋《わらぢ》を穿《は》いて、黒い頭巾《づきん》を被つて、勝手口から出て行つた。其の時母の持つてゐた雪洞《ぼんぼり》の灯《ひ》が暗い闇に細長く射して、生垣《いけがき》の手前にある古い檜《ひのき》を照らした。

　父はそれ限《きり》歸つて來なかつた。母は毎日三つになる子供に「御父樣は」と聞いてゐる。子供は何とも云はなかつた。しばらくしてから「あつち」と答へる樣になつた。母が「何日《いつ》御歸り」と聞いても矢張り「あつち」と答へて笑つてゐた。其時は母も笑つた。さうして「今に御歸り」と云ふ言葉を何遍となく繰返して教へた。けれども子供は「今に」丈《だけ》を覺えたのみである。時々は「御父樣は何處」と聞かれて「今に」と答へる事もあつた。

　夜になつて、四隣《あたり》が靜まると、母は帶を締め直して、鮫鞘《さめざや》の短刀を帶の間へ差して、子供を細帶で脊中へ脊負《しよ》つて、そつと潜《くゞ》りから出て行く。母はいつでも草履を穿《は》いてゐた。子供は此の草履の音を聞きながら母の脊中で寢て仕舞ふ事もあつた。

　土塀《つちべい》の續いてゐる屋敷町を西へ下《くだ》つて、だら／＼坂を降《お》り盡《つ》くすと、大きな銀杏《いてふ》がある。此の銀杏《いてふ》を目標《めじるし》に右に切れると、一丁｜許《ばか》り奧に石の鳥居がある。片側は田圃《たんぼ》で、片側は熊笹《くまざゝ》ばかりの中を鳥居迄來て、それを潜《くゞ》り拔《ぬ》けると、暗い杉の木立《こだち》になる。それから二十間｜許《ばか》り敷石傳ひに突き當ると、古い拜殿の階段の下に出る。鼠色に洗ひ出された賽錢箱《さいせんばこ》の上に、大きな鈴の紐がぶら下つて晝間見ると、其の鈴の傍《そば》に八幡宮《はちまんぐう》と云ふ額が懸《かゝ》つてゐる。八の字が、鳩が二羽向ひあつた樣な書體に出來てゐるのが面白い。其の外《ほか》にも色々の額がある。大抵は家中《かちゆう》のものゝ射拔いた金的《きんてき》を、射拔いたものゝ名前に添へたのが多い。偶《たま》には太刀《たち》を納めたのもある。

　鳥居を潜ると杉の梢《こずゑ》で何時《いつ》でも梟《ふくろふ》が鳴いてゐる。さうして、冷飯草履《ひやめしざうり》の音がぴちや／＼する。それが拜殿の前で已《や》むと、母は先づ鈴を鳴らして置いて、直《すぐ》にしやがんで柏手《かしはで》を打つ。大抵は此時｜梟《ふくろふ》が急に鳴かなくなる。それから母は一心不亂に夫《をつと》の無事を祈る。母の考へでは、夫《をつと》が侍《さむらひ》であるから、弓矢の神の八幡へ、かうやつて是非ない願《ぐわん》を掛けたら、よもや聽かれぬ道理はなからうと一圖《いちづ》に思ひ詰めて居る。

　子供は能く此の鈴の音で眼を覺まして、四邊《あたり》を見ると眞暗だものだから、急に脊中で泣き出す事がある。其の時母は口の内で何か祈りながら、脊を振つてあやさうとする。すると旨《うま》く泣《な》き已《や》む事もある。又｜益《ます／＼》烈《はげ》しく泣き立てる事もある。いづれにしても母は容易に立たない。

　一通《ひととほ》り夫《をつと》の身の上を祈つて仕舞ふと、今度は細帶を解いて、脊中の子を摺《ず》り卸《お》ろすやうに、脊中から前へ廻して、兩手に抱《だ》きながら拜殿を上《のぼ》つて行つて、「好い子だから、少しの間《ま》、待つて御出《おいで》よ」と屹度《きつと》自分の頬を子供の頬へ擦《す》り附《つ》ける。さうして細帶を長くして、子供を縛つて置いて、其の片端を拜殿の欄干《らんかん》に括《くゝ》り附《つ》ける。それから段々を下りて來て二十間の敷石を徃つたり來たり御百度《おひやくど》を踏む。

　拜殿に括《くゝ》りつけられた子は、暗闇《くらやみ》の中で、細帶の丈《たけ》のゆるす限り、廣縁の上を這ひ廻つてゐる。さう云ふ時は母に取つて、甚だ樂《らく》な夜である。けれども縛つた子にひい／＼泣かれると、母は氣が氣でない。御百度の足が非常に早くなる。大變息が切れる。仕方のない時は、中途で拜殿へ上《あが》つて來て、色々すかして置いて、又御百度を踏み直す事もある。

　かう云ふ風に、幾晩となく母が氣を揉《も》んで、夜《よ》の目《め》も寢ずに心配してゐた父は、とくの昔に浪士の爲に殺されてゐたのである。

　こんな悲《かなし》い話を、夢の中で母から聞いた。

　

　　　　　第十夜

　

　庄太郎が女に攫《さら》はれてから七日目の晩にふらりと歸つて來て、急に熱が出てどつと、床に就いてゐると云つて健《けん》さんが知らせに來た。

　庄太郎は町内一の好男子《かうだんし》で、至極善良な正直者である。たゞ一つの道樂がある。パナマの帽子を被《かぶ》つて、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、徃來《わうらい》の女の顔を眺めてゐる。さうして頻に感心してゐる。其の外には是と云ふ程の特色もない。

　あまり女が通らない時は、徃來を見ないで水菓子を見てゐる。水菓子には色々ある。水蜜桃《すゐみつたう》や、林檎《りんご》や、枇杷《ぴは》や、バナヽを奇麗に籠《かご》に盛つて、すぐ見舞物《みやげもの》に持つて行ける樣に二列に並《なら》べてある。庄太郎は此の籠を見ては奇麗だと云つてゐる。商賣をするなら水菓子屋に限ると云つてゐる。其の癖自分はパナマの帽子を被つてぶら／＼遊んでゐる。

　此の色がいゝと云つて、夏蜜柑｜抔《など》を品評する事もある。けれども、曾《かつ》て錢《ぜに》を出して水菓子を買つた事がない。只では無論食はない。色｜許《ばか》り賞《ほ》めて居る。

　ある夕方一人の女が、不意に店先に立つた。身分のある人と見えて立派な服裝をしてゐる。其の着物の色がひどく庄太郎の氣に入つた。其の上庄太郎は大變女の顔に感心して仕舞つた。そこで大事なパナマの帽子を脱《と》つて丁寧に挨拶をしたら、女は籠詰の一番大きいのを指《さ》して、是を下さいと云ふんで、庄太郎はすぐ其の籠を取つて渡した。すると女はそれを一寸｜提《さ》げて見て、大變重い事と云つた。

　庄太郎は元來｜閑人《ひまじん》の上に、頗る氣作《ききく》な男だから、ではお宅｜迄《まで》持つて參りませうと云つて、女と一所に水菓子屋を出た。それぎり掃つて來なかつた。

　如何《いか》な庄太郎でも、餘《あん》まり呑氣《のんき》過ぎる。只事ぢや無からうと云つて、親類や友達が騷ぎ出して居ると、七日目の晩になつて、ふらりと歸つて來た。そこで大勢寄つてたかつて、庄さん何處へ行つてゐたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乘つて山へ行つたんだと答へた。

　何でも餘程長い電車に違ひない。庄太郎の云ふ所によると、電車を下りるとすぐと原へ出たさうである。非常に廣い原で、何處を見廻しても青い草ばかり生えてゐた。女と一所に草の上を歩いて行くと、急に絶壁《きりぎし》の天邊《てつぺん》へ出た、其の時女が庄太郎に、此處から飛び込んで御覽なさいと云つた。底を覗いて見ると、切岸《きりぎし》は見えるが底は見えない。庄太郎は又パナマの帽子を脱いで再三辭退した。すると女が、もし思ひ切つて飛び込まなければ、豚《ぶた》に舐《な》められますが好う御座んすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だつた。けれども命には易《か》へられないと思つて、矢つ張り飛び込むのを見合せてゐた。所へ豚が一匹鼻を鳴らして來た。庄太郎は仕方なしに、持つて居た細い檳榔樹《びんらうじゆ》の洋杖《ステツキ》で、豚の鼻頭《はなづら》を打《ぶ》つた。豚はぐうと云ひながら、ころりと引つ繰り返つて、絶壁《きりぎし》の下へ落ちて行つた。庄太郎はほつと一《ひ》と息《いき》接《つ》いでゐると又一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦《す》り附《つ》けに來た。庄太郎は已《やむ》を得《え》ず又｜洋杖《ステツキ》を振り上げた。豚はぐうと鳴いて又｜眞逆樣《まつさかさま》に穴の底へ轉げ込んだ。すると又一匹あらはれた。此の時庄太郎は不圖《ふと》氣が附いて、向ふを見ると、遙の青草原の盡きる邊《あたり》から幾萬匹か數へ切れぬ豚が、群《むれ》をなして一直線に、此｜絶壁《きりぎし》の上に立つてゐる庄太郎を見懸《めが》けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心《しん》から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄つてくる豚の鼻頭《はなづら》を、一つ一つ丁寧に檳榔樹《びんらうじゆ》の洋杖《ステツキ》で打《ぶ》つてゐた。不思議な事に洋杖《ステツキ》が鼻へ觸《さは》りさへすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗いて見ると底の見えない絶壁《きりぎし》を、逆さになつた豚が行列して落ちて行く。自分が此の位多くの豚を谷へ落したかと思ふと、庄太郎は我ながら怖《こは》くなつた。けれども豚は續々くる。黒雲に足が生えて、青草を踏み分ける樣な勢ひで無盡藏に鼻を鳴らしてくる。

　庄太郎は必死の勇を振《ふる》つて、豚の鼻頭《はなづら》を七日六晩《なのかむばん》叩いた。けれども、とう／＼精根が盡きて、手が蒟蒻《こんにやく》の樣に弱つて、仕舞に豚に舐められてしまつた。さうして絶壁《きりぎし》の上へ倒れた。

　健さんは、庄太郎の話を此處迄して、だから餘《あんま》り女を見るのは善くないよと云つた。自分も尤もだと思つた。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰ひたいと云つてゐた。

　庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだらう。

　　　　　　　　　明治四一、七、二五−八、五

　

　　　永日小品

　

　　　　　元日

　

　雜※［者／火］《ざふに》を食つて、書齋に引き取ると、しばらくして三四人來た。いづれも若い男である。其内の一人がフロツクを着てゐる。着なれない所爲《せゐ》か、メルトンに對して妙に遠慮する傾きがある。あとのものは皆和服で、かつ不斷着の儘だから頓《とん》と正月らしくない。此連中がフロツクを眺めて、やあ――やあと一ツづゝ云つた。みんな驚いた證據である。自分も一番あとで、やあと云つた。

　フロツクは白い手巾《ハンケチ》を出して、用もない顔を拭いた。さうして、頻《しきり》に屠蘇《とそ》を飲んだ。ほかの連中も大いに膳のものを突《つツ》ついてゐる。所へ虚子《きよし》が車で來た。是は黒い羽織に黒い紋付を着て、極《きは》めて舊式に極《きま》つてゐる。あなたは黒紋付を持つてゐますが、矢張｜能《のう》をやるから其必要があるんでせうと聞いたら、虚子が、えゝ左《さ》うですと答へた。さうして、一つ謠《うた》ひませんかと云ひ出した。自分は謠《うた》つても宜《よ》う御座んすと應じた。

　それから二人して東北《とうぼく》と云ふものを謠《うた》つた。餘程以前に習つた丈《だけ》で、殆《ほとん》ど復習と云ふ事をやらないから、所々甚だ曖昧である。其上、我ながら覺束《おぼつか》ない聲が出た。漸く謠《うた》つて仕舞ふと、聞いてゐた若い連中が、申し合せた樣に自分を不味《まづ》いと云ひ出した。中にもフロツクは、あなたの聲はひよろ／＼してゐると云つた。此連中は元來｜謠《うたひ》のうの字も心得ないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分らないだらうと思つてゐた。然し、批評をされて見ると、素人《しろうと》でも理の當然な所だから已《やむ》を得《え》ない。馬鹿を云へといふ勇氣も出なかつた。

　すると虚子が近來｜鼓《つゞみ》を習つてゐるといふ話しを始めた。謠《うたひ》のうの字も知らない連中が、一つ打つて御覽なさい、是非御聞かせなさいと所望してゐる。虚子は自分に、ぢや、あなた謠《うた》つて下さいと依頼した。是は囃《はやし》の何物たるを知らない自分に取つては、迷惑でもあつたが、又｜斬新《ざんしん》といふ興味もあつた。謠《うた》ひませうと引き受けた。虚子は車夫を走らして鼓を取り寄せた。鼓がくると、臺所から七輪を持つて來さして、かん／＼いふ炭火の上で鼓の皮を焙《あぶ》り始めた。みんな驚いて見てゐる。自分も此猛烈な焙《あぶ》りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、えゝ大丈夫ですと答へながら、指の先で張切つた皮の上をかんと彈《はじ》いた。一寸好い音《ね》がした。もう宜《い》いでせうと、七輪から卸して、鼓《つゞみ》の緒《を》を締めにかゝつた。紋服の男が、赤い緒をいぢくつてゐる所が何となく品《ひん》が好い。今度はみんな感心して見てゐる。

　虚子はやがて羽織を脱いだ。さうして鼓を抱《か》い込《こ》んだ。自分は少し待つて呉れと頼んだ。第一彼が何處いらで鼓を打つか見當が付かないから一寸打ち合せをしたい。虚子は、こゝで掛聲《かけごゑ》をいくつ掛けて、こゝで鼓をどう打つから、御遣りなさいと懇《ねんごろ》に説明して呉れた。自分にはとても呑み込めない。けれども合點の行く迄研究してゐれば、二三時間はかゝる。已《やむ》を得《え》ず、好い加減に領承《りやうしよう》した。そこで羽衣《はごろも》の曲《くせ》を謠《うた》ひ出《だ》した。春霞《はるがすみ》たなびきにけりと半行程來るうちに、どうも出が好くなかつたと後悔し始めた。甚だ無勢力である。けれども途中から急に振るひ出しては、總體の調子が崩れるから、萎靡因循《ゐびいんじゆん》の儘、少し押して行くと、虚子が矢庭《やには》に大きな掛聲をかけて、鼓をかんと一つ打つた。

　自分は虚子が斯う猛烈に來やうとは夢にも豫期してゐなかつた。元來が優美な悠長なものと許《ばか》り考へてゐた掛聲は、丸《まる》で眞劔勝負のそれの樣に自分の鼓膜を動かした。自分の謠《うたひ》は此掛聲で二三度波を打つた。それが漸く靜まりかけた時に、虚子が又腹一杯に横合から威嚇《おどか》した。自分の聲は威嚇《おどか》される度によろ／＼する。さうして小さくなる。しばらくすると聞いてゐるものがくす／＼笑ひ出した。自分も内心から馬鹿々々しくなつた。其時フロツクが眞先に立つて、どつと吹き出した。自分も調子につれて、一所に吹き出した。

　それから散々な批評を受けた。中にもフロツクのは尤も皮肉であつた。虚子は微笑しながら、仕方なしに自分の鼓に、自分の謠《うたひ》を合せて、目出度《めでたく》謠《うた》ひ納《をさ》めた。やがて、まだ廻らなければならない所があると云つて車に乘つて歸つて行つた。あとから又色々若いものに冷かされた。細君迄一所になつて夫《をつと》を貶《くさ》した末、高濱さんが鼓を御打ちなさる時、襦袢の袖がぴら／＼見えたが、大變好い色だつたと賞《ほ》めてゐる。フロツクは忽ち賛成した。自分は虚子の襦袢の袖の色も、袖の色のぴら／＼する所も決して好いとは思はない。

　

　　　　　蛇

　

　木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足迹《あしあと》の中に雨が一杯｜湛《たま》つてゐた。土を踏むと泥の音が蹠裏《あしのうら》へ飛び附いて來る。踵《かゝと》を上げるのが痛い位に思はれた。手桶を右の手に提《さ》げてゐるので、足の拔《ぬ》き差《さし》に都合が惡い。際どく踏《ふ》み應《こた》へる時には、腰から上で調子を取る爲に、手に持つたものを放《はふ》り出《だ》したくなる。やがて手桶の尻をどつさと泥の底に据ゑて仕舞つた。危《あやふ》く倒れる所を手桶の柄《え》に乘《の》し懸《かゝ》つて向ふを見ると、叔父さんは一間｜許《ばか》り前にゐた。蓑《みの》を着た肩の後《うしろ》から、三角に張つた網の底がぶら下がつてゐる。此の時被つた笠が少し動いた。笠のなかゝら非常《ひど》い路だと云つた樣に聞えた。蓑《みの》の影はやがて雨に吹かれた。

　石橋の上に立つて下を見ると、黒い水が草の間から推されて來る。不斷は黒節《くろぶし》の上を三寸とは超《こ》えない底に、長い藻《も》が、うつら／＼と搖《うご》いて、見ても奇麗な流れであるのに、今日は底から濁つた。下から泥を吹き上げる、上から雨が叩く、眞中を渦《うづ》が重なり合つて通る。しばらく此の渦を見守つて居た叔父さんは、口の内で、

　「獲《と》れる」と云つた。

　二人は橋を渡つて、すぐ左へ切れた。渦は青い田の中を蜿蜒《うね／＼》と延びて行く。どこ迄押して行くか分らない流れの迹《あと》を跟《つ》けて一町程來た。さうして廣い田の中にたつた二人｜淋《さび》しく立つた。雨｜許《ばか》り見える。叔父さんは笠の中から空を仰いだ。空は茶壺《ちやつぼ》の蓋《ふた》の樣に暗く封じられてゐる。その何處からか、隙間《すきま》なく雨が落ちる。立つてゐると、ざあつと云ふ音がする。是は身に着けた笠と蓑に中《あた》る音である。夫《そ》れから四方の田に中《あた》る音である。向ふに見える貴王《きわう》の森《もり》に中《あた》る音も遠くから交つて來るらしい。

　森の上には、黒い雲が杉の梢《こずゑ》に呼び寄せられて奧深く重なり合つてゐる。夫《そ》れが自然《じねん》の重みでだらりと上の方から下《さが》つて來る。雲の足は今杉の頭に絡《から》み附《つ》いた。もう少しすると、森の中へ落ちさうだ。

　氣が附いて足元を見ると、渦は限《かぎり》なく水上《みなかみ》から流れて來る。貴王樣《きわうさま》の裏の池の水が、あの雲に襲はれたものだらう。渦《うづ》の形が急に勢《いきほ》ひづいた樣に見える。叔父さんは又｜捲《ま》く渦《うづ》を見守つて、

　「獲《と》れる」と左《さ》も何物をか取つた樣に云つた。やがて蓑を着た儘水の中に下りた。勢ひの凄《すさま》じい割には、左程《さほど》深くもない。立つて腰迄｜浸《つか》る位である。叔父さんは河の眞中に腰を据ゑて、貴王《きわう》の森《もり》を正面に、川上に向つて、肩に擔《かつ》いだ網を卸した。

　二人は雨の音の中に凝《じつ》として、まともに押して來る渦《うづ》の恰好《かつかう》を眺めてゐた。魚《さかな》が此の渦の下を、貴王《きわう》の池《いけ》から流されて通るに違ひない。うまく懸《かゝ》れば大きなのが獲《と》れると、一心に凄《すご》い水の色を見詰めてゐた。水は固《もと》より濁つてゐる。上皮《うはかは》の動く具合｜丈《だけ》で、どんなものが、水の底を流れるか全く分りかねる。夫《それ》でも瞬《まばたき》もせずに、水際迄｜浸《つか》つた叔父さんの手首の動くのを待つてゐた。けれどもそれが中々に動かない。

　雨脚《あまあし》は次第に黒くなる。河の色は段々重くなる。渦《うづ》の紋《もん》は劇《はげ》しく水上《みなかみ》から回《めぐ》つて來る。此の時どす黒い波が鋭く眼の前を通《とほ》り過《すご》さうとする中に、ちらりと色の變つた模樣が見えた。瞬《まばたき》を容《ゆる》さぬ咄嗟《とつさ》の光を受けた其の模樣には長さの感じがあつた。是は大きな鰻《うなぎ》だなと思つた。

　途端に流れに逆《さか》らつて、網の柄《え》を握つてゐた叔父さんの右の手首が、蓑《みの》の下から肩の上まで彈《は》ね返《かへ》る樣に動いた。續いて長いものが叔父さんの手を離れた。それが暗い雨のふりしきる中に、重たい繩の樣な曲線を描《ゑが》いて、向ふの土手の上に落ちた。と思ふと、草の中からむくりと鎌首を一尺｜許《ばか》り持上げた。さうして持上げた儘｜屹《きつ》と二人を見た。

　「覺えてゐろ」

　聲は慥《たし》かに叔父さんの聲であつた。同時に鎌首は草の中に消えた。叔父さんは蒼い顔をして、蛇を投げた所を見てゐる。

　「叔父さん、今、覺えてゐろと云つたのは貴方《あなた》ですか」

　叔父さんは漸く此方《こつち》を向いた。さうして低い聲で、誰だか能く分らないと答へた。今でも叔父に此の話をする度に、誰だか能く分らないと答へては妙な顔をする。

　

　　　　　泥棒

　

　寢やうと思つて次の間へ出ると、炬燵《こたつ》の臭《にほひ》がぷんとした。厠《かはや》の歸りに、火が強過ぎる樣だから、氣を付けなくては不可《いけ》ないと妻《さい》に注意して、自分の部屋へ引取つた。もう十一時を過ぎてゐる。床の中の夢は常の如く安らかであつた。寒い割に風も吹かず、半鐘《はんしよう》の音も耳に應《こた》へなかつた。熟睡が時の世界を盛《も》り潰《つぶ》した樣に正體を失つた。

　すると忽然《こつぜん》として、女の泣聲で眼が覺めた。聞けばもよと云ふ下女の聲である。此の下女は驚いて狼狽《うろた》へると何時《いつ》でも泣聲を出す。此の間｜家《うち》の赤ん坊を湯に入れた時、赤ん坊が湯氣《ゆけ》に上《あが》つて、引き付けたといつて五分｜許《ばかり》泣聲を出した。自分が此下女の異樣な聲を聞いたのは、それが始めてゞある。啜《すゝ》り上《あ》げる樣にして早口に物を云ふ。訴へる樣な、口説《くど》く樣な、詫《わび》を入れる樣な、情人《じやうじん》の死を悲しむ樣な――到底普通の驚愕の場合に出る、鋭くつて短い感投詞《かんとうし》の調子ではない。

　自分は今云ふ通り此の異樣の聲で、眼が覺めた。聲は慥《たし》かに妻《さい》の寢てゐる、次の部屋から出る。同時に襖《ふすま》を洩れて赤い火が颯《さつ》と暗い書齋に射した。今開ける瞼《まぶた》の裏に、此の光が屆くや否や自分は火事だと合點《がつてん》して飛び起きた。さうして、突然《いきなり》隔ての唐紙をがらりと開けた。

　其の時自分は?覆返《ひつくりかへ》つた炬燵を想像してゐた。焦《こ》げた蒲團を想像してゐた。漲《みな》ぎる煙と、燃える疊とを想像してゐた。所が開けて見ると、洋燈《ランプ》は例の如く點《とも》つてゐる。妻《さい》と子供は常の通り寢てゐる。炬燵は宵の位地にちやんとある。凡《すべ》てが、寢る前に見た時と同じである。平和である。暖かである。たゞ下女｜丈《だけ》が泣いて居る。

　下女は妻《さい》の蒲團の裾を抑へる樣にして早口に物を云ふ。妻《さい》は眼を覺まして、ぱち／＼させる許《ばか》りで別に起きる樣子もない。自分は何事が起つたのか殆ど判じかねて、敷居際に突立《つつた》つた儘、ぼんやり部屋の中を見回《みまは》した。途端に下女の泣聲のうちに、泥棒といふ二字が出た。それが自分の耳に這入るや否や、凡《すべ》てが解決された樣に自分は忽ち妻《さい》の部屋を大股に横切つて、次の間に飛び出しながら、何だ――と怒鳴《どな》りつけた。けれども飛び出した次の部屋は眞暗である。續く臺所の雨戸が一枚｜外《はづ》れて、美しい月の光が部屋の入口迄射し込んでゐる。自分は眞夜中に人の住居《すまひ》の奧を照らす月影を見て、おのづから寒いと感じた。素足《すあし》の儘板の間へ出て臺所の流元《ながしもと》迄來て見ると、四邊《あたり》は寂《しん》としてゐる。表を覗くと月｜許《ばか》りである。自分は、戸口から一歩も外へ出る氣にならなかつた。

　引き返して、妻《さい》の所へ來て、泥棒は逃げた、安心しろ、何も竊《と》られやしない、と云つた。妻《さい》は此の時漸く起き上つてゐた。何も云はずに洋燈《ランプ》を持つて暗い部屋迄出て來て、箪笥の前に翳《かざ》した。觀音開《くわんのんびら》きが取《と》り外《はづ》されてゐる。抽斗《ひきだし》が明けた儘になつてゐる。妻《さい》は自分の顔を見て、矢つ張り竊《と》られたんですと云つた。自分も漸く泥棒が竊《と》つた後で逃げたんだと氣が付いた。何だか急に馬鹿々々しくなつた。片方を見ると、泣いて起しに來た下女の蒲團が取つてある。其の枕元にもう一つ箪笥がある。其の箪笥の上に又用箪笥が乘つてゐる。暮の事なので醫者の藥禮《やくれい》其の他が此内に這入つてゐるのださうだ。妻《さい》に調べさせると此方《こつち》の方は元の通りだと云ふ。下女が泣いて縁側の方から飛び出したので、泥棒も已《やむ》を得《え》ず仕事の中途で逃げたのかも知れない。

　其の内、外の部屋に寢て居たものもみんな起きて來た。さうしてみんな色々な事を云ふ。もう少し前に小用《こよう》に起きたのにとか、今夜は寢つかれないで、二時頃迄は眼が冴えてゐたのにとか、悉《こと／”＼》く殘念さうである。そのなかで、十《とを》になる長女は、泥棒が臺所から這入つたのも、泥棒がみし／＼縁側を歩いたのも、すつかり知つてゐると云つた。あらまあとお房《ふさ》さんが驚いてゐる。お房さんは十八で、長女と同じ部屋に寢る親類の娘である。自分は又床へ這入つて寢た。

　明くる日は此騷動で、例よりは少し遲く起きた。顔を洗つて、朝食《あさめし》を遣《や》つてゐると、臺所で下女が泥棒の足痕《あしあと》を見付けたとか、見付けないとか騷いでゐる。面倒だから書齋へ引き取つた。引き取つて十分も經《た》つたかと思ふと、玄關で頼むと云ふ聲がした。勇ましい聲である。臺所の方へ通じない樣だから、自分で取次に出て見たら、巡査が格子《かうし》の前に立つてゐた。泥棒が這入つたさうですねと笑つてゐる。戸締《とじま》りは好くしてあつたのですかと聞くから、いや、何うも餘り好くありませんと答へた。ぢや仕方がない、締《しま》りが惡いと何處からでも這入りますよ、一枚々々雨戸へ釘《くぎ》を差さなくちや不可《いけ》ませんと注意する。自分ははあ／＼と返事をして置いた。此の巡査に遇《あ》つてから、惡いものは、泥棒ぢやなくつて、不取締《ふとりしまり》な主人である樣な心持になつた。

　巡査は臺所へ廻つた。其處で妻《さい》を捉《つら》まへて、紛失《ふんじつ》した物を手帳に書き付けて居る。繻珍《しゆちん》の丸帶が一本ですね、――丸帶と云ふのは何ですか、丸帶と書いて置けば解るですか、さう、それでは繻珍の丸帶が一本と、夫《それ》から……

　下女がにや／＼笑つてゐる。此の巡査は丸帶《まるおび》も腹合《はらあは》せも一向《いつかう》知らない。頗る單簡《たんかん》な面白い巡査である。やがて紛失《ふんじつ》の目録を十點ばかり書き上げて其の下に價格を記入して、すると〆《しめ》て百五十圓になりますねと念を押して歸つて行つた。

　自分は此の時始めて、何を竊《と》られたかを明瞭に知つた。失《な》くなつたものは十點、悉《こと／”＼》く帶である。昨夜《ゆうべ》這入つたのは帶泥棒であつた。御正月を眼前に控へた妻《さい》は異《い》な顔をしてゐる。子供が三箇日《さんがにち》にも着物を着換へる事が出來ないのださうだ。仕方がない。

　晝過には刑事が來た。座敷へ上《あが》つて色々見てゐる。桶の中に?燭《らふそく》でも立てゝ仕事をしやしないかと云つて、臺所の小桶迄｜檢《しら》べてゐた。まあ御茶でも御上がんなさいと云つて、日當りの好い茶の間へ坐らせて話をした。

　泥棒は大抵下谷、淺草｜邊《あたり》から電車でやつて來て、明くる日の朝又電車で歸るのださうだ。大抵は捉《つか》まらないものださうだ。捉《つか》まへると刑事の方が損になるものださうだ。泥棒を電車に乘せると電車賃が損になる。裁判に出ると、辨當代が損になる。機密費《きみつひ》は警視廳が半分取つて仕舞ふのださうだ。餘りを各警察へ割り振るのださうだ。牛込には刑事がたつた三四人しかゐないのださうだ――警察の力なら大抵の事は出來る者と信じてゐた自分は、甚だ心細い氣がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしてゐた。

　出入《でいり》のものを呼んで戸締りを直さうと思つたら生僧《あやにく》、暮で用が立て込んでゐて來られない。其うちに夜《よる》になつた。仕方がないから、元の通りにして置いて寢る。みんな氣味が惡さうである。自分も決して好い心持ではない。泥棒は各自勝手に取締るべきものであると警察から宣告されたと一般だからである。

　夫《それ》でも昨日《きのふ》の今日《けふ》だから、まあ大丈夫だらうと、氣を樂に持つて枕に就いた。すると又夜中に妻《さい》から起された。さつきから、臺所の方ががた／＼云つてゐる。氣味がわるいから起きて見て下さいと云ふ。成程がた／＼いふ。妻はもう泥棒が這入つた樣な顔をしてゐる。

　自分はそつと床を出た。忍び足に妻《さい》の部屋を横切つて、隔《へだ》ての襖の傍《そば》迄くると、次の間では下女が鼾《いびき》をかいてゐる。自分は出來る丈《だけ》靜かに襖を開けた。さうして、眞暗な部屋の中に一人立つた。ごとり／＼と云ふ音がする。慥《たし》かに臺所の入口である。暗いなかを影の動く樣に三歩《みあし》程音のする方へ近《ちかづ》くと、もう部屋の出口である。障子が立つてゐる。そとはすぐ板敷になる。自分は障子に身を寄せて、暗がりで耳を立てた。やがて、ごとりと云つた。しばらくして又ごとりと云つた。自分は此の怪しい音を約四五遍聞いた。さうして、これは板敷の左にある、戸棚の奧から出るに違ないといふ事を慥《たしか》めた。忽ち普通の歩調と、尋常の所作《しよさ》をして、妻《さい》の部屋へ歸つて來た。鼠が何か噛《かじ》つてゐるんだ、安心しろと云ふと、妻《さい》はさうですかと難有《ありがた》さうな返事をした。夫《そ》れからは二人とも落付いて寢て仕舞つた。

　朝になつて又顔を洗つて、茶の間へ來ると、妻《さい》が鼠の噛つた鰹節《かつぶし》を、膳の前へ出して、昨夜《ゆうべ》のは是れですよと説明した。自分ははあ成程と、一晩中無慘に遣られた鰹節《かつぶし》を眺めて居た。すると妻《さい》は、あなた序《ついで》に鼠を追つて、鰹節《おかゝ》を仕舞つて下されば好いのにと少し不平がましく云つた。自分もさうすれば好かつたと此の時始めて氣が付いた。

　

　　　　　柿

　

　喜《き》いちやんと云ふ子がゐる。滑《なめ》らかな皮膚と、鮮《あざや》かな眸《ひとみ》を持つてゐるが、頬の色は發育の好い世間の子供の樣に冴々《さえ／”＼》してゐない。一寸見ると一面に黄色い心持ちがする。御母《おつか》さんが餘り可愛《かはい》がり過ぎて表へ遊びに出さない所爲《せゐ》だと、出入りの女髪結《をんなかみゆひ》が評した事がある。御母《おつか》さんは束髪の流行《はや》る今の世に、昔風の髷《まげ》を四日目々々に屹度《きつと》結《ゆ》ふ女で、自分の子を喜《き》いちやん／＼と、何時《いつ》でも、ちやん付《づけ》にして呼んでゐる。此お母《つか》さんの上に、又｜切下《きりさげ》の御祖母《おばあ》さんがゐて、其｜御祖母《おばあ》さんが又｜喜《き》いちやん／＼と呼んでゐる。喜いちやん御琴の御稽古に行く時間ですよ。喜いちやん無暗に表へ出て、其處いらの子供と遊んでは不可《いけ》ません抔《など》と云つてゐる。

　喜《き》いちやんは、是が爲に滅多に表へ出て遊んだ事がない。尤も近所はあまり上等でない。前に塩煎餅屋がある。其隣に瓦師がある。少し先へ行くと下駄の齒入と、鑄《い》かけ錠前直《ぢやうまへなほ》しがある。所が喜《き》いちやんの家《うち》は銀行の御役人である。塀のなかに松が植ゑてある。冬になると植木屋が來て狹い庭に枯松葉《かれまつば》を一面に敷いて行く。

　喜《き》いちやんは仕方がないから、學校から歸つて、退屈になると、裏へ出て遊んでゐる。裏は御母《おつか》さんや、御祖母《おばあ》さんが張物をする所である。よしが洗濯をする所である。暮になると向鉢卷《むかふはちまき》の男が臼《うす》を擔《かつ》いで來て、餅《もち》を搗《つ》く所である。夫《それ》から漬菜《つけな》に塩を振つて樽《たる》へ詰込む所である。

　喜《き》いちやんは此處へ出て、御母《おつか》さんや御祖母《おばあ》さんや、よしを相手にして遊んでゐる。時には相手の居ないのに、たつた一人で出てくる事がある。其の時は淺い生垣《いけがき》の間から、よく裏の長屋を覗き込む。

　長屋は五六軒ある。生垣の下が三四尺｜崖《がけ》になつてゐるのだから、喜《き》いちやんが覗き込むと、丁度上から都合よく見下《みおろ》す樣に出來てゐる。喜いちやんは子供心に、かうして裏の長屋を見下《みおろ》すのが愉快なのである。造兵へ出る辰《たつ》さんが肌を拔いで酒を呑んでゐると、御酒を呑んでゝよと御母《おつか》さんに話す。大工の源坊《げんばう》が手斧《てをの》を磨《と》いでゐると、何か磨《と》いでゝよと御祖母《おばあ》さんに知らせる。其の外喧嘩をしてゝよ、燒芋を食べてゝよ抔《など》と、見下《みおろ》した通りを報告する。すると、よしが大きな聲を出して笑ふ。御母《おつか》さんも、御祖母《おばあ》さんも面白さうに笑ふ。喜いちやんは、かうして笑つて貰ふのが一番得意なのである。

　喜《き》いちやんが裏を覗いてゐると、時々源坊の倅《せがれ》の與吉と顔を合はす事がある。さうして、三度に一度位は話をする。けれども喜いちやんと與吉だから、話の合ふ譯がない。何時《いつ》でも喧嘩になつて仕舞ふ。與吉が何《な》んだ蒼《あを》ん膨《ぶく》れと下から云ふと、喜いちやんは上から、やあい鼻垂らし小僧、貧乏人、と輕侮《さげすむ》やうに丸い顎をしやくつて見せる。一遍は與吉が怒つて下から物干竿を突き出したので、喜いちやんは驚いて家《うち》へ逃げ込んで仕舞つた。其の次には、喜いちやんが、毛糸で奇麗に縢《かゞ》つた護謨毬《ゴムまり》を崖下《がけした》へ落したのを、與吉が拾つて中々渡さなかつた。御返しよ、放《はふ》つて御呉れよ、よう、と精一杯に焦付《せつつ》いたが與吉は毬《まり》を持つた儘、上を見て威張つて突立《つつた》つてゐる。詫《あや》まれ、詫《あや》まつたら返してやると云ふ。喜いちやんは、誰が詫《あや》まるものか、泥棒と云つた儘、裁縫《しごと》をしてゐる御母《おつか》さんの傍《そば》へ來て泣き出した。御母《おつか》さんは向《むき》になつて、表向《おもてむき》よしを取りに遣ると、與吉の御袋がどうも御氣の毒さまと云つたぎりで毬《まりはとう／＼喜いちやんの手に歸らなかつた。

　それから三日｜經《た》つて、喜《き》いちやんは大きな赤い柿を一つ持つて、又裏へ出た。すると與吉が例の通り崖下へ寄つて來た。喜いちやんは生垣《いけがき》の間から赤い柿を出して、これ上げやうかと云つた。與吉は下から柿を睨めながら、なんでえ、なんでえ、其んなもの要《い》らねえやと凝《じつ》と動かずにゐる。要らないの、要らなきや、御廢《およ》しなさいと、喜いちやんは、垣根から手を引つ込めた。すると與吉は、矢つ張りなんでえ、なんでえ、擲《な》ぐるぞと云ひながら猶《なほ》と崖の下へ寄つて來た。ぢや欲しいのと喜いちやんは又柿を出した。欲しいもんけえ、そんなものと與吉は大きな眼をして、見上げてゐる。

　こんな問答を四五遍繰返したあとで、喜いちやんは、ぢや上げやうと云《い》ひ乍《なが》ら、手に持つた柿をばたりと崖の下に落した。與吉は周章《あわて》て、泥の着いた柿を拾つた。さうして、拾ふや否や、がぶりと横に食付いた。

　其の時與吉の鼻の穴が震へる樣に動いた。厚い唇が右の方に歪《ゆが》んだ。さうして、食ひかいた柿の一片《いつぺん》をぺつと吐いた。さうして懸命の憎惡を眸《ひとみ》の裏《うち》に萃《あつ》めて、澁《しぶ》いや、こんなものと言ひながら、手に持つた柿を、喜《き》いちやんに放《はふ》り付《つ》けた。柿は喜いちやんの頭を通り越して裏の物置に當つた。喜いちやんは、やあい食辛抱《くひしんばう》と云ひながら、走《か》け出《だ》して家《うち》へ這入つた。しばらくすると喜いちやんの家《うち》で大きな笑聲が聞えた。

　

　　　　　火鉢

　

　眼が覺めたら、昨夜《ゆうべ》抱《だ》いて寢た懷爐が腹の上で冷たくなつてゐた。硝子戸越《ガラスどごし》に、廂《ひさし》の外を眺めると、重い空が幅三尺程｜鉛《なまり》の樣に見えた。胃の痛みは大分《だいぶ》除《と》れたらしい。思ひ切つて、床の上に起き上がると、豫想よりも寒い。窓の下には昨日《きのふ》の雪が其の儘である。

　風呂場は氷でかち／＼光つてゐる。水道は凍《こほ》り着《つ》いて、栓《せん》が利かない。漸くの事で温水摩擦《をんすゐまさつ》を濟まして、茶の間で紅茶を茶碗に移してゐると、二つになる男の子が例の通り泣き出した。この子は一昨日《をとゝひ》も一日泣いてゐた。昨日《きのふ》も泣き續けに泣いた。妻《さい》にどうかしたのかと聞くと、どうもしたのぢやない、寒いからだと云ふ。仕方がない。成程泣き方がぐづ／＼で痛くも苦しくもない樣である。けれども泣く位だから、どこか不安な所があるのだらう。聞いてゐると、仕舞には此方《こつち》が不安になつて來る。時によると小惡《こにく》らしくなる。大きな聲で叱り付け度い事もあるが、何しろ、叱るには餘り小《ちひ》さ過ぎると思つて、つい我慢をする。一昨日《をとゝひ》も昨日《きのふ》も左《さ》うであつたが、今日も亦一日｜左《さ》うなのかと思ふと、朝から心持が好くない。胃が惡いので此の頃は朝飯《あさめし》を食はぬ掟《おきて》にしてあるから、紅茶茶碗を持つた儘、書齋へ退《しりぞ》いた。

　火鉢に手を翳《かざ》して、少し曖《あつ》たまつてゐると、子供は向ふの方でまだ泣いてゐる。其うち掌《てのひら》丈《だけ》は煙《けむ》が出る程熱くなつた。けれども、背中から肩へ掛けては無暗に寒い。殊に足の先は冷え切つて痛い位である。だから仕方なしに凝《じつ》としてゐた。少しでも手を動かすと、手が何處か冷たい所に觸れる。それが刺《とげ》にでも觸《さは》つた程神經に應《こた》へる。首をぐるりと回してさへ、頸の付根が着物の襟にひやりと滑るのが堪へ難い感じである。自分は寒さの壓迫を四方から受けて、十疊の書齋の眞中に疎《すく》んでゐた。此の書齋は板の間である。椅子を用ひべき所を、絨?《じゆうたん》を敷いて、普通の疊の如くに想像して坐つてゐる。所が敷物が狹いので、四方とも二尺がたは、つる／＼した板の間が剥《む》き出《だ》しに光つてゐる。凝《じつ》として此の板の間を眺めて、疎《すく》んでゐると、男の子がまだ泣いてゐる。とても仕事をする勇氣が出ない。

　所へ妻《さい》が一寸時計を拜借と這入つて來て、又雪になりましたと云ふ。見ると、細《こま》かいのが何時《いつ》の間《ま》にか、降り出した。風もない濁つた空の途中から、靜かに、急がずに、冷刻に、落ちて來る。

　「おい、去年、子供の病氣で、煖爐《ストーブ》を焚いた時には炭代が幾何《いくら》要《い》つたかな」

　「あの時は月末《つきずゑ》に廿八圓拂ひました」

　自分は妻《さい》の答を聞いて、座敷《ざしきストーブ》を斷念した。座敷煖爐《ざしきストーブ》は裏の物置に轉がつてゐるのである。

　「おい、もう少し子供を靜かに出來ないかな」

　妻《さい》は已《やむ》を得《え》ないと云ふ樣な顔をした。さうして、云つた。

　「お政《まさ》さんが御腹《おなか》が痛いつて、大分《だいぶ》苦しさうですから、林さんでも頼んで見て貰ひませうか」

　お政《まさ》さんが二三日寢てゐる事は知つてゐたが夫《それ》程《ほど》惡いとは思はなかつた。早く醫者を呼んだら可《よ》からうと、此方《こつち》から促す樣に注意すると、妻《さい》は左《さ》うしませうと答へて、時計を持つた儘出て行つた。襖を閉《た》てるとき、どうも此の部屋の寒い事と云つた。

　まだ、かぢかんで仕事をする氣にならない。實を云ふと仕事は山程ある。自分の原稿を一回分書かなければならない。ある未知の青年から頼まれた短篇小説を二三篇讀んで置く義務がある。ある雜誌へ、ある人の作《さく》を手紙を付けて紹介する約束がある。此の二三箇月中に讀む筈で讀めなかつた書籍は机の横に堆《うづた》かく積んである。此の一週間程は仕事をしやうと思つて机に向ふと人が來る。さうして、皆何か相談を持ち込んでくる。その上に胃が痛む。其の點から云ふと今日は幸ひである。けれども、どう考へても、寒くて億劫《おつくふ》で、火鉢から手を離す事が出來ない。

　すると玄關に車を横付けにしたものがある。下女が來て長澤さんが御出《おいで》になりましたと云ふ。自分は火鉢の傍《そば》に竦《すく》んだ儘、上眼遣《うはめづかひ》をして、這入つて來る長澤を見上げながら、寒くて動けないよと云つた。長澤は懷中《ふところ》から手紙を出して、此の十五日は舊の正月だから、是非都合して呉れとか何とか云ふ手紙を讀んだ。相變らず金の相談である。長澤は十二時過に歸つた。けれども、まだ寒くて仕樣がない。いつそ湯にでも行つて元氣を付けやうと思つて、手拭を提《さ》げて玄關へ出掛かると、御免下さいと云ふ吉田に出つ食はした。座敷へ上げて、色々身の上話を聞いてゐると、吉田はほろ／＼涙を流して泣き出した。其内奧の方では醫者が來て何だかごた／＼してゐる。吉田が漸く歸ると、子供が又泣き出した。とう／＼湯に行つた。

　湯から上つたら始めて暖《あ》つたかになつた。晴々《せい／＼》して家《うち》へ歸つて書齋に這入ると、洋燈《ランプ》が點《つ》いて窓掛《まどかけ》が下りてゐる。火鉢には新しい切炭《きりずみ》が活《い》けてある。自分は座布團の上にどつかりと坐つた。すると、妻《さい》が奧から寒いでせうと云つて蕎麥湯《そばゆ》を持つて來て呉れた。お政さんの容體《ようだい》を聞くと、ことによると盲腸炎になるかも知れないんださうですよと云ふ。自分は蕎麥湯を手に受けて、もし惡い樣だつたら、病院に入れてやるが可《い》いと答へた。妻はそれが宜《い》いでせうと茶の間へ引き取つた。

　妻《さい》が出て行つたらあとが急に靜かになつた。全くの雪の夜《よ》である。泣く子は幸ひに寢たらしい。熱い蕎麥湯を啜《すゝ》りながら、あかるい洋燈《ランプ》の下で、繼ぎ立ての切炭《きりずみ》のぱち／＼鳴る音に耳を傾けてゐると、赤い火氣《くわつき》が、圍《かこ》はれた灰の中で仄《ほのか》に搖れてゐる。時々薄青い?《ほのほ》が炭の股から出る。自分は此の火の色に、始めて一日の暖味《あたゝかみ》を覺えた。さうして次第に白くなる灰の表を五分程見守つてゐた。

　

　　　　　下宿

　

　始めて下宿をしたのは北の高臺である。赤煉瓦の小じんまりした二階建が氣に入つたので、割合に高い一週二｜磅《ポンド》の宿料《しゆくれう》を拂つて、裏の部屋を一間《ひとま》借り受けた。其の時表を專領《せんりやう》してゐるK氏は目下｜蘇格蘭《スコツトランド》巡遊中で暫くは歸らないのだと主婦の説明があつた。

　主婦と云ふのは、眼の凹《くぼ》んだ、鼻のしやくれた、顎と頬の尖つた、鋭い顔の女で、一寸見ると、年恰好《としかつかう》の判斷が出來ない程、女性を超越して居る。疳《かん》、僻《ひが》み、意地、利かぬ氣、疑惑、あらゆる弱點が、穩かな眼鼻を散々に弄《もてあそ》んだ結果、かう拗《ひ》ねくれた人相になつたのではあるまいかと自分は考へた。

　主婦は北の國に似合はしからぬ黒い髪と黒い眸《ひとみ》を有《も》つてゐた。けれども言語は普通の英吉利人《イギリスじん》と少しも違つた所がない。引き移つた當日、階下《した》から茶の案内があつたので、降りて行つて見ると、家族は誰もゐない。北向の小さい食堂に、自分は主婦とたつた二人｜差向《さしむか》ひに坐つた。日の當つた事のない樣に薄暗い部屋を見回すと、マントルピースの上に淋《さび》しい水仙が活《い》けてあつた。主婦は自分に茶だの燒?麭《トースト》を勸めながら、四方山《よもやま》の話をした。其の時何かの拍子で、生れ故郷は英吉利《イギリス》ではない、佛蘭西《フランス》であるといふ事を打ち明けた。さうして黒い眼を動かして、後《うしろ》の硝子壜《ガラスびん》に挿してある水仙を顧りみながら、英吉利《イギリス》は曇つてゐて、寒くて不可《いけ》ないと云つた。花でも此の通り奇麗でないと教へた積りなのだらう。

　自分は肚《はら》の中で此の水仙の乏《とぼ》しく咲いた模樣と、此の女のひすばつた頬の中を流れてゐる、色の褪《さ》めた血の瀝《したゝり》とを比較して、遠い佛蘭西《フランス》で見るべき暖かな夢を想像した。主婦の黒い髪や黒い眼の裏《うち》には、幾年《いくねん》の昔に消えた春の匂の空《むな》しき歴史があるのだらう。あなたは佛蘭西語《フランスご》を話しますかと聞いた。いゝやと答へやうとする舌先を遮《さへぎ》つて、二三句續け樣に、滑らかな南の方の言葉を使つた。斯ういふ骨の勝つた咽喉から、どうして出るだらうと思ふ位美しいアクセントであつた。

　其夕、晩餐の時は、頭の禿げた髯の白い老人が卓に着いた。是が私の親父《おやぢ》ですと主婦から紹介されたので始めて主人は年寄であつたんだと氣が附いた。此の主人は妙な言葉遣《ことばづかひ》をする。一寸聞いても決して英人ではない。成程親子して、海峽を渡つて、倫敦《ロンドン》へ落ち附いたものだなと合點した。すると老人が私は獨逸人《ドイツじん》であると、尋ねもせぬのに向ふから名乘つて出た。自分は少し見當が外《はづ》れたので、さうですかと云つた限《き》りであつた。

　部屋へ歸つて、書物を讀んでゐると、妙に下の親子が氣に懸つて堪《たま》らない。あの爺さんは骨張つた娘と較べて何處も似た所がない。顔中は腫《は》れ上《あが》つた樣に膨《ふく》れてゐる眞中に、ずんぐりした肉の多い鼻が寢轉んで、細い眼が二つ着いてゐる。南亞《なんあ》の大統領にクルーゲルと云ふのがあつた。あれによく似てゐる。すつきりと心持よく此方《こつち》の眸《ひとみ》に映《うつ》る顔ではない。其の上娘に對しての物の云ひ方が和氣《わき》を缺いてゐる。齒が利かなくつて、もご／＼してゐる癖に何となく調子の荒い所が見える。娘も阿爺《おやぢ》に對するときは、險相《けんさう》な顔がいとゞ險相になる樣に見える。どうしても普通の親子ではない。――自分は斯う考へて寢た。

　翌日朝飯を食ひに下りると、昨夕《ゆうべ》の親子の外に、又一人家族が殖《ふ》えてゐる。新しく食卓に連《つら》なつた人は、血色の好い、愛嬌のある、四十｜恰好《がつかう》の男である。自分は食堂の入口で此の男の顔を見た時、始めて、生氣のある人間社會に住んでゐる樣な心持ちがした。my《マイ》　brother《ブラザー》と主婦が其の男を自分に紹介した。矢つ張り亭主では無かつたのである。然し兄弟とはどうしても受取れない位｜顔立《かほだち》が違つてゐた。

　其の日は中食《ちゆうじき》を外でして、三時過ぎに歸つて、自分の部屋へ這入ると間もなく、茶を飲みに來いと云つて呼びにきた。今日も曇つてゐる。薄暗い食堂の戸を開けると、主婦がたつた一人｜煖爐《ストーブ》の横に茶器を控へて坐つてゐた。石炭を燃《もや》して呉れたので、幾分か陽氣な感じがした。燃えついた許《ばか》りの?《ほのほ》に照らされた主婦の顔を見ると、うすく火熱《ほて》つた上に、心持｜御白粉《おしろい》を塗《つ》けてゐる。自分は部屋の入り口で化粧の淋《さび》しみと云ふ事を、しみ／”＼と悟つた。主婦は自分の印象を見拔いた樣な眼遣《めづか》ひをした。自分が主婦から一家の事情を聞いたのは此の時である。

　主婦の母は、二十五年の昔、ある佛蘭西人《フランスじん》に嫁《とつ》いで、此の娘を擧げた。幾年か連れ添つた後《のち》夫《をつと》は死んだ。母は娘の手を引いて、再び濁逸人《ドイツじん》の許《もと》に嫁いだ。その獨逸人《ドイツじん》が昨夜《ゆうべ》の老人である。今では倫敦《ロンドン》のヱスト・エンドで仕立屋の店を出して、毎日々々そこへ通勤してゐる。先妻の子も同じ店で働いてゐるが、親子非常に仲が惡い。一《ひと》つ家《うち》にゐても、口を利いた事がない。息子《むすこ》は夜｜屹度《きつと》遲く歸る。玄關で靴を脱いで足袋跣足《たびはだし》になつて、爺《おやぢ》に知れない樣に廊下を通つて、自分の部屋へ這入つて寢て仕舞ふ。母は餘程前に失《な》くなつた。死ぬ時に自分の事を呉々も云ひ置いて死んだのだが、母の財産はみんな阿爺《おやぢ》の手に渡つて、一錢も自由にする事が出來ない。仕方がないから、かうして下宿をして小遣《こづかひ》を拵へるのである。アグニスは――

　主婦は夫《そ》れより先を語らなかつた。アグニスと云ふのは此處のうちに使はれてゐる十三四の女の子の名である。自分は其の時今朝見た息子《むすこ》の顔と、アグニスとの間に何處か似た所がある樣な氣がした。恰《あたか》もアグニスは燒?麭《トースト》を抱《かゝ》へて厨《くりや》から出て來た。

　「アグニス、燒?麭《トースト》を食べるかい」

　アグニスは黙つて、一片《いつぺん》の燒?麭《トースト》を受けて又｜厨《くりや》の方へ退いた。

　一箇月の後《のち》自分は此の下宿を去つた。

　

　　　　　過去の匂ひ

　

　自分が此下宿を出る二週間程前に、K君は蘇格蘭《スコツトランド》から歸つて來た。其時自分は主婦によつてK君に紹介された。二人の日本人が倫敦《ロンドン》の山の手の、とある小さな家に偶然落ち合つて、しかも、まだ互に名乘《なの》り換《かは》した事がないので、身分も、素性《すじやう》も、經歴も分らない外國婦人の力を藉《か》りて、どうか何分と頭を下げたのは、考へると今以て妙な氣がする。其の時此の老令孃は黒い服を着て居た。骨張つて膏《あぶら》の脱けた樣な手を前へ出して、Kさん、是れがNさんと云つたが、全く云ひ切らない先に、又一本の手を相手の方へ寄せて、Nさん、是れがKさんと、公平に双方を等分に引き合せた。

　自分は老令孃の態度が、如何にも、嚴《おごそか》で、一種重要の氣に充ちた形式を具へてゐるのに、尠《すくな》からず驚かされた。K君は自分の向《むかふ》に立つて、奇麗な二重瞼《ふたへまぶち》の尻に皺を寄せながら、微笑を洩らしてゐた。自分は笑ふと云はんよりは寧ろ矛盾の淋《さび》しみを感じた。幽靈の媒妁《ばいしやく》で、結婚の儀式を行つたら、斯《こ》んな心持ではあるまいかと、立ちながら考へた。凡《すべ》て此の老令孃の黒い影の動く所は、生氣を失つて、忽ち古蹟に變化する樣に思はれる。誤つて其の肉に觸れゝば、觸れた人の血が、其所｜丈《だけ》冷たくなるとしか想像出來ない。自分は戸の外に消えてゆく女の足音に半《なか》ば頭《かうべ》を回《めぐ》らした。

　老令孃が出て行つたあとで、自分とK君は忽ち親しくなつて仕舞つた。K君の部屋は美くしい絨?《じゆうたん》が敷いてあつて、白絹《しらぎぬ》の窓掛《まどかけ》が下がつてゐて、立派な安樂椅子とロツキング・チエアが偏へ附けてある上に、小さな寢室が別に附屬してゐる。何より嬉しいのは斷えず煖爐《ストーブ》に火を焚いて、惜氣《をしげ》もなく光つた石炭を崩してゐる事である。

　是れから自分はK君の部屋で、K君と二人で茶を飲むことにした。晝はよく近所の料理店《れうりや》へ一所に出掛けた。勘定は必ずK君が拂つて呉れた。K君は何でも築港の調査に來てゐるとか云つて、大分《だいぶ》金を持つてゐた。家《うち》にゐると、海老茶《えびちや》の繻子《しゆす》に花鳥の刺繍《ぬひとり》のあるドレツシング・ガウンを着て、甚だ愉快さうであつた。之《これ》に反して自分は日本を出た儘の着物が大分《だいぶ》汚《よご》れて、見共《みとも》ない始末であつた。K君は餘りだと云つて新調の費用を貸して呉れた。

　二週間の間K君と自分とは色々な事を話した。K君が、今に慶應内閣《けいおうないかく》を作るんだと云つた事がある。慶應年間に生れたもの丈《だけ》で内閣を作るから慶應内閣と云ふんださうである。自分に、君は何時《いつ》の生れかと聞くから慶應三年だと答へたら、それぢや、閣員の資格があると笑つてゐた。K君は慥《たし》か慶應二年か元年生れだと覺えてゐる。自分はもう一年の事で、K君と共に樞機《すうき》に參する權利を失ふ所であつた。

　こんな面白い話をしてゐる間に、時々下の家族が噂に上《のぼ》る事があつた。するとK君は何時《いつ》でも眉をひそめて、首を振つてゐた。アグニスと云ふ小さい女が一番｜可愛想《かはいさう》だと云つてゐた。アグニスは朝になると石炭をK君の部屋に持つて來る。晝過には茶とバタと?麭《パン》を持つて來る。だまつて持つて來て、だまつて置いて歸る。いつ見ても蒼褪《あをざ》めた顔をして、大きな潤《うるほひ》のある眼で一寸挨拶をする丈《だけ》である。影の樣にあらはれては影の樣に下りて行く。甞《かつ》て足音のした試しがない。

　ある時自分は、不愉快だから、此の家《うち》を出やうと思ふとK君に告げた。K君は賛成して、自分はかうして調査の爲方々飛び歩いてゐる身體だから、構はないが、君｜抔《など》は、もつとコンフオタブルな所へ落ち着いて勉強したら可《よ》からうと云ふ注意をした。其の時K君は地中海の向側《むかふがは》へ渡るんだと云つて、しきりに旅裝をとゝのへてゐた。

　自分が下宿を出るとき、老令孃は切《せつ》に思ひとまる樣にと頼んだ。下宿料は負ける、K君のゐない間は、あの部屋を使つても構はないと迄云つたが、自分はとう／＼南の方へ移つて仕舞つた。同時にK君も遠くへ行つて仕舞つた。

　二三箇月してから、突然K君の手紙に接した。旅から歸つて來た。當分此處にゐるから遊びに來いと書いてあつた。すぐ行きたかつたけれども、色々都合があつて、北の果《はて》迄《まで》推し掛ける時間がなかつた。一週間程して、イスリントン迄行く用事が出來たのを幸ひに、歸りにK君の所へ回つて見た。

　表二階の窓から、例の羽二重の窓掛が引き絞つた儘｜硝子《ガラス》に映つてゐる。自分は暖かい煖爐《ストーブ》と、海老茶《えびちや》の繻子《しゆす》の刺繍《ぬひとり》と、安樂椅子と、快活なK君の旅行談を豫想して、勇んで、門を入《はい》つて、階段を驅《か》け上《あが》る樣に敲子《ノツカー》をとん／＼と打つた。戸の向側《むかふがは》に足音がしないから、通じないのかと思つて、再び敲子《ノツカー》に手を掛けやうとする途端に、戸が自然《じねん》と開《あ》いた。自分は敷居から一歩なかへ足を踏み込んだ。さうして、詫《わ》びる樣に自分をじつと見上げてゐるアグニスと顔を合はした。其の時此の三箇月程忘れてゐた、過去の下宿の匂が、狹い廊下の眞中で、自分の嗅覚を、稻妻《いなづま》の閃《ひら》めく如く、刺激した。其の匂のうちには、黒い髪と黒い眼と、クルーゲルの樣な顔と、アグニスに似た息子《むすこ》と、息子の影の樣なアグニスと、彼等の間に蟠《わだか》まる秘密を、一度に一齊《いつせい》に含んでゐた。自分は此の匂を嗅いだ時、彼等の情意、動作、言語、顔色を、あざやかに暗い地獄の裏《うち》に認めた。自分は二階へ上がつてK君に逢ふに堪へなかつた。

　

　　　　　猫の墓

　

　早稻田へ移つてから、猫が段々｜瘠《や》せて來た。一向《いつかう》に小供と遊ぶ氣色《けしき》がない。日が當ると縁側に寢てゐる。前足を揃へた上に、四角な顎を載せて、じつと庭の植込《うゑこみ》を眺めた儘、いつ迄も動く樣子が見えない。小供がいくら其の傍《そば》で騷いでも、知らぬ顔をしてゐる。小供の方でも、初めから相手にしなくなつた。此猫はとても遊び仲間に出來ないと云はん許《ばか》りに、舊友を他人扱ひにしてゐる。小供のみではない、下女はたゞ三度の食《めし》を、臺所の隅に置いてやる丈《だけ》で其の外には、殆《ほとん》ど構ひ附けなかつた。しかも其の食《めし》は大抵近所にゐる大きな三毛猫が來て食つて仕舞つた。猫は別に怒《おこ》る樣子もなかつた。喧嘩をする所を見た試《ため》しもない。たゞ、じつとして寢てゐた。然し其の寢方に何所となく餘裕《ゆとり》がない。伸《の》んびり樂々と身を横に、日光を領《りやう》してゐるのと違つて、動くべきせき〔二字傍点〕がないために――是れでは、まだ形容し足りない。懶《ものう》さの度《ど》をある所迄通り越して、動かなければ淋《さび》しいが、動くと猶《なほ》淋《さび》しいので、我慢して、じつと辛抱してゐる樣に見えた。其の眼附は、何時《いつ》でも庭の植込を見てゐるが、彼《か》れは恐らく木の葉も、幹の形も意識してゐなかつたのだらう。青味がゝつた黄色い瞳子《ひとみ》を、ぼんやり一《ひ》と所《ところ》に落ち附けてゐるのみである。彼《か》れが家《うち》の小供から存在を認められぬ樣に、自分でも、世の中の存在を判然《はつきり》と認めてゐなかつたらしい。

　夫《そ》れでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。すると何時《いつ》でも近所の三毛猫から追懸《おつか》けられる。さうして、怖《こは》いものだから、縁側を飛び上がつて、立て切つてある障子を突き破つて、圍爐裏《ゐろり》の傍《そば》迄《まで》逃げ込んで來る。家《うち》のものが、彼《か》れの存在に氣が附くのは此の時丈《だけ》である。彼《か》れも此の時に限つて、自分が生きてゐる事實を、滿足に自覺するのだらう。

　是れが度重なるにつれて、猫の長い尻尾《しつぽ》の毛が段々拔けて來た。始めは所々がぽく／＼穴の樣に落ち込んで見えたが、後《のち》には赤肌《あかはだ》に脱け廣がつて、見るも氣の毒な程にだらりと垂れてゐた。彼《か》れは萬事に疲れ果てた、體?《からだ》を壓《お》し曲《ま》げて、しきりに痛い局部を舐《な》め出《だ》した。

　おい猫がどうかしたやうだなと云ふと、さうですね、矢つ張り年を取つた所爲《せゐ》でせうと、妻《さい》は至極冷淡である。自分も其の儘にして放《はふ》つて置いた。すると、しばらくしてから、今度は三度のものを時々吐く樣になつた。咽喉の所に大きな波を打たして、嚔《くしやみ》とも、しやくりとも附かない苦しさうな音をさせる。苦しさうだけれども、已《やむ》を得《え》ないから、氣が附くと表へ追ひ出す。でなければ疊の上でも、布團の上でも容赦なく汚《よご》す。來客の用意に拵へた八反《はつたん》の座布團は、大方｜彼《か》れの爲に汚されて仕舞つた。

　「どうも仕樣がないな。腸胃《ちやうゐ》が惡いんだらう、寶丹《はうたん》でも水に溶《と》いて飲まして遣れ」

　妻《さい》は何とも云はなかつた。二三日してから、寶丹《はうたん》を飲ましたかと聞いたら、飲ましても駄目です、口を開《あ》きませんといふ答をした後《あと》で、魚《さかな》の骨を食べさせると吐くんですと説明するから、ぢや食はせんが好いぢやないかと、少し嶮《けん》どんに叱りながら書見をしてゐた。

　猫は吐氣《はきけ》がなくなりさへすれば、依然として、大人《おとな》しく寢てゐる。此の頃では、じつと身を竦《すく》める樣にして、自分の身を支へる縁側｜丈《だけ》が便《たより》であるといふ風に、如何にも切り詰めた蹲踞《うづく》まり方をする。眼附も少し變つて來た。始めは近い視線に、遠くのものが映《うつ》る如く、悄然《せうぜん》たるうちに、どこか落付が有つたが、それが次第に怪しく動いて來た。けれども眼の色は段々沈んで行く。日が落ちて微《かす》かな稻妻《いなづま》があらはれる樣な氣がした。けれども放《はふ》つて置いた。妻《さい》も氣にも掛けなかつたらしい。小供は無論猫のゐる事さへ忘れてゐる。

　ある晩、彼は小供の寢る夜具の裾に腹這になつてゐたが、やがて、自分の捕《と》つた魚《さかな》を取り上げられる時に出す樣な唸聲《うなりごゑ》を擧げた。此の時變だなと氣が附いたのは自分｜丈《だけ》である。小供はよく寢てゐる。妻《さい》は針仕事に餘念がなかつた。しばらくすると猫が又唸つた。妻《さい》は漸く針の手を已《や》めた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛《かじ》られちや大變だと云つた。まさかと妻《さい》は又襦袢の袖を縫ひ出した。猫は折々唸つてゐた。

　明くる日は圍爐裏《ゐろり》の縁《ふち》に乘つたなり、一日唸つてゐた。茶を注《つ》いだり、藥罐《やくわん》を取つたりするのが氣味が惡い樣であつた。が、夜になると猫の事は自分も妻《さい》も丸《まる》で忘れて仕舞つた。猫の死んだのは實に其の晩である。朝になつて、下女が裏の物置に薪《まき》を出しに行つた時は、もう硬くなつて、古い竈《へつつひ》の上に倒れて居た。

　妻《さい》はわざ／＼其の死態《しにざま》を見に行つた。夫《そ》れから今迄の冷淡に引《ひ》き更《か》へて急に騷ぎ出した。出入《でいり》の車夫を頼んで、四角な墓標を買つて來て、何か書いて遣《や》つて下さいと云ふ。自分は表に猫の墓と書いて、裏に此の下に稻妻起る宵あらんと認《したゝ》めた。車夫は此の儘、埋めても好いんですかと聞いてゐる。まさか火葬にも出來ないぢやないかと下女が冷《ひや》かした。

　小供も急に猫を可愛《かはい》がり出した。墓標の左右に硝子《ガラス》の罎を二つ活《い》けて、萩《はぎ》の花を澤山挿した。茶碗に水を汲んで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替へられた。三日目の夕方に四つになる女の子が――自分は此の時書齋の窓から見てゐた。――たつた一人墓の前へ來て、しばらく白木の棒を見てゐたが、やがて手に持つた、おもちやの杓子《しやくし》を卸して、猫に供へた茶碗の水をしやくつて飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝《したゝ》りは、靜かな夕暮の中に、幾度《いくたび》か愛子《あいこ》の小さい咽喉を潤《うる》ほした。

　猫の命日には、妻《さい》が屹度《きつと》一切《ひとき》れの鮭《さけ》と、鰹節《かつぶし》を掛けた一杯の飯を墓の前に供へる。今でも忘れた事がない。たゞ此の頃では、庭迄持つて出ずに、大抵は茶の間の箪笥の上へ載せて置くやうである。

　

　　　　　暖かい夢

　

　風が高い建物に當つて、思ふ如く眞直に拔けられないので、急に稻妻《いなづま》に折れて、頭の上から、斜《はす》に舗石《しきいし》迄吹き卸して來る。自分は歩きながら被《かぶ》つてゐた山高帽を右の手で抑《おさ》へた。前に客待の御者《ぎよしや》が一人ゐる。御車臺《ぎよしやだい》から、此有樣を眺めて居たと見えて、自分が帽子から手を離して、姿勢を正すや否や、人指指《ひとさしゆび》を竪《たて》に立てた。乘らないかと云ふ符徴《ふちよう》である。自分は乘らなかつた。すると御者《ぎよしや》は右の手に拳骨《げんこつ》を固めて、烈《はげ》しく胸の邊《あたり》を打ち出した。二三間離れて聞いてゐても、とん／＼音がする。倫敦《ロンドン》の御者《ぎよしや》はかうして、己《おの》れとわが手を暖めるのである。自分は振り返つて一寸此の御者《ぎよしや》を見た。剥《は》げ懸《かゝ》つた堅い帽子の下から、霜《しも》に侵《をか》された厚い髪の毛が食《は》み出《だ》してゐる。毛布《ケツト》を繼ぎ合せた樣な粗《あら》い茶の外套の脊中の右に其の肱を張つて、肩と平行になる迄｜怒《いか》らしつゝ、とん／＼胸を敲いてゐる。まるで一種の器械の活動する樣である。自分は再び歩き出した。

　道を行くものは皆追ひ越して行く。女でさへ後《おく》れてはゐない。腰の後部《うしろ》でスカートを輕く撮《つま》んで、踵《かゝと》の高い靴が曲るかと思ふ位｜烈《はげ》しく輔石《しきいし》を鳴らして急いで行く。よく見ると、何《ど》の顔も何《ど》の顔も切齒詰《せつぱつま》つてゐる。男は正面を見たなり、女は傍目《わきめ》も觸らず、ひたすらにわが志《こゝろざ》す方《かた》へと一直線に走る丈《だけ》である。其の時の口は堅く結んでゐる。眉は深く鎖《とざ》してゐる。鼻は險《けは》しく聳えてゐて、顔は奧行｜許《ばか》り延びてゐる。さうして、足は一文字に用のある方へ運んで行く。恰《あたか》も徃來《わうらい》は歩くに堪へん、戸外は居るに忍《しの》びん、一刻も早く屋根の下へ身を隱さなければ、生涯の恥辱である、かの如き態度である。

　自分はのそ／＼歩きながら、何となく此の都に居づらい感じがした。上を見ると、大きな空は、何時《いつ》の世からか、仕切られて、切岸《きりぎし》の如く聳える左右の棟に餘された細い帶｜丈《だけ》が東から西へかけて長く渡つてゐる。其の帶の色は朝から鼠色であるが、次第々々に鳶色《とびいろ》に變じて來た。建物は固《もと》より灰色である。それが暖かい日の光に倦《う》み果《は》てた樣に、遠慮なく兩側を塞《ふさ》いでゐる。廣い土地を狹苦しい谷底の日影にして、高い太陽が屆く事の出來ない樣に、二階の上に三階を重ねて、三階の上に四階を積んで仕舞つた。小さい人は其の底の一部分を、黒くなつて、寒さうに徃來《わうらい》する。自分は其の黒く動くものゝうちで、尤も緩漫《くわんまん》なる一分子である。谷へ挾まつて、出端《では》を失つた風が、此の底を掬《すく》ふ樣にして通り拔ける。黒いものは網の目を洩れた雜魚《ざこ》の如く四方にぱつと散つて行く。鈍《のろ》い自分も遂に此の風に吹き散らされて、家《いへ》のなかへ逃げ込んだ。

　長い廻廓をぐる／＼廻つて、二つ三つ階子段《はしごだん》を上《のぼ》ると、彈力仕掛《ばねじかけ》の大きな戸がある。身?《からだ》の重みをちよつと寄せ掛けるや否や、音もなく、自然《じねん》と身は大きなガレリーの中に滑《すべ》り込《こ》んだ。眼の下は眩《まばゆ》い程明かである。後《うしろ》を振り返ると、戸は何時《いつ》の間《ま》にか締つて、居る所は春の樣に暖かい。自分はしばらくの間、瞳《ひとみ》を慣らす爲に、眼をぱち／＼させた。さうして、左右を見た。左右には人が澤山ゐる。けれども、みんな靜かに落ち附いてゐる。さうして顔の筋肉が殘らず緩《ゆる》んで見える。澤山の人がかう肩を並《なら》べてゐるのに、いくら澤山ゐても、一向《いつかう》苦にならない。悉《こと／”＼》く互ひと互ひを和《やはら》げてゐる。自分は上を見た。上は大穹窿《おほまるがた》の天井で極彩色《ごくさいしき》の濃く眼に應《こた》へる中に、鮮《あざや》かな金箔《きんぱく》が、胸を躍らす程に、燦《さん》として輝いた。自分は前を見た。前は手欄《てすり》で蓋きてゐる。手欄《てすり》の外《そと》には何《な》にもない。大きな穴である。自分は手欄《てすり》の傍《そば》迄《まで》近寄つて、短い首を伸《のば》して穴の中を覗いた。すると遙《はるか》の下は、繪にかいた樣な小さな人で埋《うま》つてゐた。其の數の多い割に鮮《あざやか》に見えた事。人の海とはこの事である。白、黒、黄、青、紫、赤、あらゆる明かな色が、大海原《おほうなばら》に起る波紋の如く、簇然《そうぜん》として、遠くの底に、五色の鱗《うろこ》を并《なら》べた程、小さく且《かつ》奇麗に、蠢《うごめ》いてゐた。

　其の時此の蠢《うごめ》くものが、ぱつと消えて、大きな天井から、遙かの谷底迄一度に暗くなつた。今迄何千となく居ならんでゐたものは闇の中に葬られたぎり、誰あつて聲を立てるものがない。恰《あたか》も此の大きな闇に、一人殘らず其の存在を打ち消されて、影も形もなくなつたかの如くに寂《しん》としてゐる。と、思ふと、遙かの底の、正面の一部分が四角に切り拔かれて、闇の中から浮き出した樣に、ぼうつと何時《いつ》の間《ま》にやら薄明るくなつて來た。始めは、たゞ闇の段取《だんどり》が違ふ丈《だけ》の事と思つてゐると、それが次第々々に暗がりを離れてくる。慥《たし》かに柔かな光を受けて居《を》るなと意識出來る位になつた時、自分は霧の樣な光線の奧に、不透明な色を見出《みいだ》す事が出來た。其の色は黄と紫と藍であつた。やがて、そのうちの黄と紫が動き出した。自分は兩眼の視神經を疲れる迄緊張して、此の動くものを瞬きもせず凝視《みつめ》て居た。靄は眼の底から忽ち晴れ渡つた。遠くの向ふに、明かな日光の暖かに照り輝く海を控へて、黄《き》な上衣《うはぎ》を着た美しい男と、紫の袖を長く牽《ひ》いた美しい女が、青草の上に、判然《はつきり》あらはれて來た。女が橄欖《かんらん》の樹の下に据ゑてある大理石の長椅子に腰を掛けた時に、男は椅子の横手に立つて、上から女を見下《みおろ》した。其時南から吹く温かい風に誘はれて、閑和《のどか》な樂《がく》の音《ね》が、細く長く、遠くの波の上を渡つて來た。

　穴の上も、穴の下も、一度にざわつき出した。彼等は闇の中に消えたのではなかつた。闇の中で曖かな希臓《ギリシヤ》を夢みてゐたのである。

　

　　　　　印象

　

　表へ出ると、廣い通りが眞直に家の前を貫《つらぬ》いてゐる。試みに其の中央に立つて見廻して見たら、眼に入《い》る家は悉《こと／”＼》く四階で、又｜悉《こと／”＼》く同じ色であつた。隣も向ふも區別のつきかねる位似寄つた構造なので、今自分が出て來たのは果してどの家であるか、二三間行過ぎて、後戻りをすると、もう分らない。不思議な町である。

　昨夕《ゆうべ》は汽車の音に包《くる》まつて寢た。十時過ぎには、馬の蹄《ひづめ》と鈴の響に送られて、暗いなかを夢の樣に馳《か》けた。其の時美しい燈《ともしび》の影が、點々として何百となく眸《ひとみ》の上を徃來《わうらい》した。其の外には何も見なかつた。見るのは今が始めてゞある。

　二三度此の不思議な町を立ちながら、見上《みあげ》、見下《みおろ》した後《のち》、遂に左へ向いて、一町程來ると、四ツ角へ出た。能く覺えをして置いて、右へ曲つたら、今度は前よりも廣い徃來へ出た。其の徃來の中を馬車が幾輌となく通る。何《いづ》れも屋根に人を載せてゐる。其の馬車の色が赤であつたり黄であつたり、青や茶や紺であつたり、仕切《しき》りなしに自分の横を追ひ越して向ふへ行く。遠くの方を透かして見ると、何處迄五色が續いてゐるのか分らない。振り返れば、五色の雲の樣に動いて來る。何處から何處へ人を載せて行くものかしらんと立ち止まつて考へてゐると、後《うしろ》から脊《せ》の高い人が追《お》ひ被《かぶ》さる樣に、肩のあたりを押した。避《よ》け樣《やう》とする右にも脊の高い人がゐた。左《ひだ》りにもゐた。肩を押した後《うしろ》の人は、其の又｜後《うしろ》の人から肩を押されてゐる。さうしてみんな黙つてゐる。さうして自然のうちに前へ動いて行く。

　自分は此の時始めて、人の海に溺れた事を自覺した。此の海は何處迄廣がつてゐるか分らない。然し廣い割には極めて靜かな海である。たゞ出る事が出來ない。右を向いても痞《つか》へてゐる。左を見ても塞《ふさ》がつてゐる。後《うしろ》を振り返つても一杯である。それで靜かに前の方へ動いて行く。只一筋の運命より外に、自分を支配するものがないかの如く、幾萬の黒い頭が申し合せた樣に歩調を揃へて一歩｜宛《づゝ》前へ進んで行く。

　自分は歩きながら、今出て來た家の事を想ひ浮べた。一樣の四階建の、一樣の色の、不思議な町は、何でも遠くにあるらしい。何處をどう曲つて、何處をどう歩いたら歸れるか、殆《ほとん》ど覺束《おぼつか》ない氣がする。よし歸れても、自分の家は見出《みいだ》せさうもない。その家は昨夕《ゆうべ》暗い中に暗く立つてゐた。

　自分は心細く考へながら、脊《せ》の高い群集に押されて仕方なしに大通を二つ三つ曲がつた。曲るたんびに、昨夕《ゆうべ》の暗い家とは反對の方角に遠ざかつて行く樣な心持がした。さうして眼の疲れる程人間の澤山ゐるなかに、云ふべからざる孤獨を感じた。すると、だら／＼坂へ出た。此處は大きな道路が五つ六つ落ち合ふ廣場の樣に思はれた。今迄一筋に動いて來た波は、坂の下で、色々な方角から寄せるのと集まつて、靜かに廻轉し始めた。

　坂の下には、大きな石刻《いしぼり》の獅子がある。全身灰色をして居つた。尾の細い割に、鬣《たてがみ》に渦を捲いた深い頭は四斗樽《しとだる》程もあつた。前足を揃へて、波を打つ群集の中に眠つてゐた。獅子は二つゐた。下は舗石《しきいし》で敷き詰めてある。其の眞中に太い銅の柱があつた。自分は、靜かに動く人の海の間に立つて、眼を擧げて、柱の上を見た。柱は眼の屆く限り高く眞直に立つてゐる。其の上には大きな空が一面に見えた。高い柱は此の空を眞中で突き拔いてゐる樣に聳えてゐた。此の柱の先には何があるか分らなかつた。自分は又人の波に押されて廣場から、右の方の通りを何所《いづく》ともなく下《さが》つて行つた。しばらくして、振返つたら、竿の樣な細い柱の上に、小さい人間がたつた一人立つてゐた。

　

　　　　　人間

　

　御作《おさく》さんは起きるが早いか、まだ髪結《かみゆひ》は來ないか、髪結は來ないかと騷いでゐる。髪結は昨夕《ゆうべ》慥《たし》かに頼んで置いた。外《ほか》さまで御座いませんから、都合をして、是非九時迄には上《あが》りますとの返事を聞いて、漸く安心して寢た位である。柱時計を見ると、もう九時には五分しかない。何うしたんだらうと、如何《いか》にも焦《じ》れつたさうなので、見兼ねた下女は、一寸見て參りませうと出て行つた。御作《おさく》さんは及《およ》び腰《ごし》になつて、障子の前に取り出した鏡臺を、立ちながら覗き込んで見た。さうして、わざと唇を開けて、上下《うへした》とも奇麗に揃つた白い齒を殘らず露《あら》はした。すると時計が柱の上でボン／＼と九時を打ち出した。御作《おさく》さんは、すぐ立ち上つて、間《あひ》の襖を開けて、どうしたんですよ、貴方《あなた》もう九時過ぎですよ。起きて下さらなくつちや、晩《おそ》くなるぢやありませんかと云つた。御作さんの旦那は九時を聞いて、今床の上に起き直つた所である。御作さんの顔を見るや否や、あいよと云ひながら、氣輕に立ち上がつた。

　御作《おさく》さんは、すぐ臺所の方へ取つて返して、楊枝《やうじ》と齒磨と石鹸《しやぼん》と手拭を一《ひ》と纒《まと》めにして、さあ、早く行つて入らつしやい、と旦那に渡した。歸りに一寸髯を剃《す》つて來るよと、銘仙《めいせん》のどてら〔三字傍点〕の下へ浴衣《ゆかた》を重ねた旦那は、沓脱《くつぬぎ》へ下りた。ぢや、一寸《ちよいと》御待ちなさいと、御作さんは又奧へ驅け込んだ。其の間に且那は楊枝を使ひ出した。御作さんは用箪笥の抽出《ひきだし》から小さい慰斗袋《のしぶくろ》を出して、中へ銀貨を入れて、持つて出た。且那は口が利けないものだから、黙つて、袋を受取つて格子《かうし》を跨《また》いだ。御作さんは旦那の肩の後《うしろ》へ、手拭の餘りがぶら下がつてゐるのを、少しの間眺めてゐたが、やがて、又奧へ引込《ひつこ》んで、一寸鏡臺の前へ坐つて、再び我が姿を映して見た。それから箪笥の抽出《ひきだし》を半分開けて、少し首を傾《かたむ》けた。やがて、中から何か二三點取り出して、それを疊の上へ置いて考へた。が、折角取り出したものを、一つ丈《だけ》殘して、あとは丁寧に仕舞つてしまつた。それから又二番目の抽出《ひきだし》を開けた。さうして又考へた。御作さんは、考へたり、出したり、又は仕舞つたりするので約三十分程費やした。其の間も始終心配さうに柱時計を眺めてゐた。漸く衣裳を揃へて、大きな欝金木綿《うこんもめん》の風呂敷にくるんで、座敷の隅に押し遣ると、髪結《かみゆひ》が驚いた樣な大きな聲を出して勝手口から這入つて來た。何うも遲くなつて濟みません、と息を喘《はず》ませて言譯を云つてゐる。御作さんは、本當に、御忙がしい所を御氣の毒さまでしたねえと、長い煙管《きせる》を出して髪結に煙草を呑ました。

　梳手《すきて》が來ないので、髪を結《ゆ》ふのに大分《だいぶ》暇が取れた。旦那は湯に入《い》つて、髭を剃《す》つて、やがて歸つて來た。其間に、御作さんは、髪結に今日は美《み》いちやんを誘つて、旦那に有樂座《いうらくざ》へ連れて行つて貰ふんだと話した。髪結はおや／＼私も御伴《おとも》をしたいもんだ抔《など》と、大分《だいぷ》冗談交りの御世辭を使つた末、どうぞ御緩《ごゆつく》りと歸つて行つた。

　旦那は欝金木綿《うこんもめん》の風呂敷を、ちょつと剥《はぐ》つて見て、是を着て行くのかい、是よりか、此間の方がお前には似合ふよと云つた。でも、あれは、もう暮に、美《み》いちやんの所へ着て行つたんですものと御作さんが答へた。さうか、ぢや是が好いだらう。己《おれ》は彼方《あつち》の綿入羽織を着て行かうか、少し寒い樣だねと、旦那が又云ひ出すと、御廢《およ》しなさいよ、見つともない、一つもの許《ばか》り着てと、御作さんは絣《かすり》の綿入羽織を出さなかつた。

　やがて、御化粧が出來上つて、流行の鶉縮緬《うづらちりめん》の道行《みちゆき》を着て、毛皮の襟卷をして、御作さんは旦那と一所に表へ出た。歩きながら旦那にぶら下がる樣にして話をする。四つ角迄出ると交番の所に人が大勢立つてゐた。御作さんは旦那の廻套《まはし》の羽根《はね》を捕《つら》まへて、伸び上がりながら、群集《ぐんじゆ》の中を覗き込んだ。

　眞中に印袢天《しるしばんてん》を着た男が、立つとも坐るとも片附かずに、のらくらしてゐる。今迄も泥の中へ何度も倒れたと見えて、たゞさへ色の變つた袢天がびた／＼に濡れて寒く光つてゐる。巡査が御前は何だと云ふと、呂律《ろれつ》の回らない舌で、お、おれは人間だと威張つてゐる。其のたんびに、みんなが、どつと笑ふ。御作さんも旦那の顔を見て笑つた。すると醉つ拂ひは承知しない。怖《こは》い眼をして、あたりを見廻しながら、な、なにが可笑《をか》しい。己《おれ》が人間なのが、何處が可笑《をか》しい。かう見《め》えたつて、と云つて、だらりと首を垂れて仕舞ふかと思ふと、突然《いきなり》思ひ出した樣に、人間だいと大きな聲を出す。

　所へ又｜印袢天《しるしばんてん》を着た脊《せ》の高い黒い顔をした男が荷車を引いて何處からか、遣《や》つて來た。人を押し分けて巡査に何か小さな聲で云つてゐたが、やがて、醉つ拂ひの方を向いて、さあ、野郎連れて行つて遣るから、此の上へ乘れと云つた。醉拂ひは嬉しさうな顔をして、難有《ありが》てえと云ひながら荷車の上に、どさりと仰向けに寢た。明《あ》かるい空を見て、しよぼ／＼した眼を、二三度ぱちつかせたが、箆棒《べらばう》め、かう見《め》えたつて人間でえと云つた。うん人間だ、人間だから大人《おとな》しくしてゐるんだよと、脊の高い男は藁の繩で醉拂ひを荷車の上へ緊《しつ》かり縛り附けた。さうして屠《ほふ》られた豚の樣に、がら／＼と大通りを引いて行つた。御作さんは矢つ張り廻套《まはし》の羽根《はね》を捕《つら》まへた儘、注目飾《しめかざ》りの間を、向ふへ押されて行く荷車の影を見送つた。さうして、是から美いちやんの所へ行つて、美いちやんに話す種が一つ殖《ふ》えたのを喜んだ。

　

　　　　　山鳥

　

　五六人寄つて、火鉢を圍みながら話をしてゐると、突然一人の青年が來た。名も聞かず、會つた事もない、全く未知の男である。紹介状も携へずに、取次を通じて、面會を求めるので、座敷へ招《せう》じたら、青年は大勢ゐる所へ、一羽の山鳥《やまどり》を提《さ》げて這入《はい》つて來た。初對面の挨拶《あいさつ》が濟むと、其《その》山鳥を座の眞中に出して、國から屆きましたからといつて、それを當座の贈物にした。

　其日は寒い日であつた。すぐ、みんなで山鳥の羮《あつもの》を拵《こしら》へて食つた。山鳥を料《れう》る時、青年は袴《はかま》ながら、臺所へ立つて、自分で毛を引いて、肉を割《さ》いて、骨をこと／＼と敲《たゝ》いて呉れた。青年は小作りの面長《おもなが》な質《たち》で、蒼白《あをじろ》い額の下に、度の高さうな眼鏡を光らしてゐた。尤《もつと》も著るしく見えたのは、彼の近眼よりも、彼の薄黒い口髭《くちひげ》よりも、彼の穿《は》いてゐた袴であつた。それは小倉織で、普通の學生には見出《みいだ》し得《う》べからざる程に、太い縞柄《しまがら》の派出《はで》なものであつた。彼は此《この》袴の上に兩手を載せて、自分は南部《なんぶ》のものだと云つた。

　青年は一週間程經つて又來た。今度は自分の作つた原稿を携へてゐた。餘り佳《よ》く出來てゐなかつたから、遠慮なく其旨を話すと、書き直して見ませうと云つて持つて歸つた。歸つてから一週間の後《のち》、又原稿を懷にして來た。斯樣《かやう》にして彼は來る度ごとに、書いたものを何か置いて行かない事はなかつた。中には三册續きの大作さへあつた。然《しか》しそれは尤も不出來なものであつた。自分は彼の手に成つたものゝうちで、尤も傑《すぐ》れたと思はれるのを、一二度雜誌へ周旋した事がある。けれども、それは、たゞ編輯者の御情けで誌上にあらはれた丈《だけ》で、一錢の稿料にもならなかつたらしい。自分が彼の生活難を耳にしたのは此時である。彼はこれから文を賣つて口を糊《のり》する積《つもり》だと云つてゐた。

　或《ある》時《とき》妙なものを持つて來て呉れた。菊の花を乾《ほ》して、薄い海苔《のり》の樣に一枚々々に堅《かた》めたものである。精進《しやうじん》の疊鰯《たゝみいわし》だと云つて、居合《ゐあは》せた甲子《かふし》が、早速｜浸《ひた》しものに湯がいて、箸《はし》を下しながら、酒を飲んだ。それから、鈴蘭の造花を一枝持つて來て呉れた事もある。妹が拵らへたんだと云つて、指の股《また》で、枝の心になつてゐる針金をぐる／＼廻轉《くわいてん》さしてゐた。妹と一所《いつしよ》に家を持つてゐる事は此時始めて知つた。兄妹《きやうだい》して薪屋《まきや》の二階を一間借りて、妹は毎日｜刺?《ぬひとり》の稽古《けいこ》に通《かよ》つてゐるのださうである。其次來た時には御納戸《おなんど》の結び目に、白い蝶《てふ》を刺?《ぬひと》つた襟飾《えりかざ》りを、新聞紙にくるんだ儘《まゝ》、もし御掛けなさるなら上げませうと云つて置いて行つた。それを安野《やすの》が私に下さいと云つて取つて歸つた。

　そのほか彼は時々來た。來る度に自分の國の景色《けいしよく》やら、習慣やら、傳説やら、古めかしい祭禮の模樣やら、色々の事を話した。彼の父は漢學者であると云ふ事も話した。篆刻《てんこく》が旨いといふ事も話した。御祖母《おばあ》さんは去る大名の御屋敷に奉公してゐた。申《さる》の年の生れだつたさうだ。大變殿樣の御氣に入りで、猿《さる》に縁《ちな》んだものを時々下さつた。其中に崋山《くわざん》の畫《か》いた手長猿《てながざる》の幅《ふく》がある。今度持つて來て御覽に入れませうと云つた。青年はそれぎり來なくなつた。

　すると春が過ぎて、夏になつて、此青年の事も何時《いつ》か忘れる樣になつた或日、――其日は日に遠い座敷の眞中に、單衣《ひとへ》を唯一枚つけて、じつと書見《しよけん》をしてゐてさへ堪へがたい程に暑かつた。――彼は突然｜遣《や》つて來た。

　相變らず例の派出な袴を穿《は》いて、蒼白い額に※［者／火］染《にじ》んだ汗をこくめいに手拭《てぬぐひ》で拭《ふ》いてゐる。少し瘠《や》せたやうだ。甚《はなは》だ申し兼ねたが金を貳拾圓《にじふゑん》貸して下さいといふ。實は友人が急病に罹《かゝ》つたから、早速病院へ入れたのだが、差し當り困るのは金で、色々奔走もして見たが、ちよつと出來ない。已《やむ》を得ず上がつた。と説明した。

　自分《じぶん》は書見をやめて、青年の顔をじつと見た。彼は例の如く兩手を膝《ひざ》の上に正しく置いた儘《まゝ》、どうぞと低い聲で云つた。あなたの友人の家《うち》はそれ程貧しいのかと聞き返したら、いや左《さ》うではない、たゞ遠方で急の間に合はないから御願《おねがひ》をする、二週間經てば、國から屆く筈《はず》だから其時はすぐと御返しするといふ答である。自分は金の調達《てうだつ》を引き受けた。其時彼は風呂敷包《ふろしきづゝみ》の中から一幅の懸物《かけもの》を取り出して、是《これ》が先達《せんだつ》て御話をした崋山《くわざん》の軸ですと云つて、紙表裝の半切《はんせつ》ものを展《の》べて見せた。旨いのか不味《まづ》いのか判然《はつきり》とは解《わか》らなかつた。印譜をしらべて見ると、渡邊崋山《たなべくわざん》にも横山華山《よこやまくわざん》にも似寄つた落款《らくくわん》がない。青年は是を置いて行きますと云ふから、夫《それ》には及ばないと辭退したが、聞かずに預けて行つた。翌日又金を取りに來た。それつきり音沙汰《おとさた》がない。約束の二週間が來ても影も形も見せなかつた。自分は欺《だま》されたのかも知れないと思つた。猿の軸は壁へ懸けた儘秋になつた。

　袷《あはせ》を着て氣の緊《し》まる時分に、長塚《ながつか》が例の如く金を借《か》して呉れと云つて來た。自分はさう度々｜借《か》すのが厭《いや》であつた。不圖《ふと》例の青年の事を思ひ出して、かう云ふ金があるが、もし、それを君が取りに行く氣なら取りに行け、取れたら貸してやらうと云ふと、長塚は頭を掻《か》いて、少し逡巡《しゆんじゆん》してゐたが、やがて思ひ切つたと見えて、行きませうと答へた。それから、先達ての金を此者に渡して呉れろといふ手紙を書いて、それに猿の懸物を添へて、長塚に持たせてやつた。

　長塚はあくる日又車でやつて來た。來るや否や懷から手紙を出したから、受け取つて見ると昨日《きのふ》自分の書いたものである。まだ封が切らずにある。行かなかつたのかと聞くと、長塚は額に八の字を寄せて、行つたんですけれども、到底《とても》駄目《だめ》です、慘澹《さんたん》たるものです、汚ない所でしてね、妻君《さいくん》が刺?《ぬひ》をしてゐましてね、本人が病氣でしてね、――金の事なんぞ云ひ出せる譯のものぢやないんだから、決して御心配には及びませんと安心させて、掛物《かけもの》丈《だけ》歸して來ましたと云ふ。自分はへえゝ、さうかと少し驚ろいた。

　翌《あく》る日《ひ》、青年から、どうも嘘言《うそ》を吐《つ》いて濟まなかつた、軸は慥《たし》かに受取つたと云ふ端書《はがき》が來た。自分は其端書を他の信書と一所《いつしよ》に重ねて、亂箱《みだればこ》の中に入れた。さうして、又青年の事を忘れる樣になつた。

　そのうち冬が來た。例の如く忙《せは》しい正月を迎へた。客の來ない隙間《すきま》を見て、仕事をして居ると、下女《げぢよ》が油紙《あぶらがみ》に包んだ小包を持つて來た。どさりと音のする丸いものである。差出人《さしだしにん》の名前は、忘れてゐた、いつぞやの青年である。油紙を解いて新聞紙を剥《は》ぐと、中から一羽の山鳥が出た。手紙が付いてゐる。其《その》後《のち》色々の事情があつて、今國へ歸つてゐる。御恩借《ごおんしやく》の金子《きんす》は三月頃上京の節是非御返しをする積りだとある。手紙は山鳥の血で堅《かた》まつて容易に剥《はが》れなかつた。

　其日は又木曜で、若い人の集まる晩であつた。自分は又五六人と共に、大きな食卓を圍んで、山鳥の羮《あつもの》を食つた。さうして、派出な小倉の袴を着けた蒼白い青年の成功を祈つた。五六人の歸つたあとで、自分は此青年に禮状を書いた。其なかに先年の金子《きんす》の件御介意に及ばずと云ふ一句を添へた。

　

　　　　　モナリサ

　

　井深《ゐぶか》は日曜になると、襟卷に懷手《ふところで》で、其所等《そこいら》の古道具屋を覗き込んで歩るく。そのうちで尤《もつと》も汚《きた》ならしい前代の廢物｜許《ばか》り並《なら》んでゐさうな見世《みせ》を選《よ》つては、あれの、これのと捻《ひね》くり廻《まは》す。固《もと》より茶人でないから、好いの惡いのが解る次第ではないが、安くて面白さうなものを、ちよい／＼買つて歸るうちには、一年に一度位掘り出し物に、あたるだらうとひそかに考へてゐる。

　井深《ゐぶか》は一箇月程前に十五錢で鐵瓶の葢《ふた》丈《だけ》を買つて文鎭《ぶんちん》にした。此の間の日曜には二十五錢で鐵の鍔《つば》を買つて、是亦文鎭にした。今日はもう少し大きい物を目懸《めが》けてゐる。懸物《かけもの》でも額でもすぐ人の眼に附く樣な、書齋の裝飾が一つ欲しいと思つて、見廻してゐると、色摺《いろずり》の西洋の女の畫《ゑ》が、挨だらけになつて、横に立て懸けてあつた。溝《みぞ》の磨《す》れた井戸車の上に、何とも知れぬ花瓶が載つてゐて、其の中から黄色い尺八の歌口《うたぐち》が此の畫《ゑ》の邪魔をしてゐる。

　西洋の畫《ゑ》は此の古道具屋に似合はない。たゞ其の色具合が、とくに現代を超越して、上昔《そのかみ》の空氣の中に黒く埋《うま》つてゐる。如何にも此の古道具屋にあつて然るべき調子である。井深は屹度《きつと》安いものだと鑑定した。聞いて見ると一圓と云ふのに、少し首を捻《ひね》つたが、硝子《ガラス》も割れてゐないし、額縁《がくぶち》も慥《たしか》だから、爺さんに談判して、八十錢迄に負けさせた。

　井深が此の半身の畫像を抱《いだ》いて、家《うち》へ歸つたのは、寒い日の暮方であつた。薄暗い部屋へ入《はい》つて、早速｜額《がく》を裸《はだか》にして、壁へ立て懸けて、じつと其の前へ坐り込んでゐると、洋燈《ランプ》を持つて細君《さいくん》が遣《や》つて來た。井深は細君に灯《ひ》を畫の傍《そば》へ翳《かざ》さして、もう一遍とつくりと八十錢の額を眺めた。總體に澁く黒ずんでゐる中に、顔だけが黄《き》ばんで見える。是れも時代の所爲《せゐ》だらう。井深は坐つた儘細君を顧《かへり》みて、どうだと聞いた。細君は洋燈《ランプ》を翳《かざ》した片手を少し上に上げて、しばらく物も言はずに黄ばんだ女の顔を眺めてゐたが、やがて、氣味の惡い顔です事ねえと云つた。井深は只笑つて、八十錢だよと答へた限《ぎ》りである。

　飯を食つてから、踏臺をして欄間《らんま》に釘を打つて、買つて來た額を頭の上へ掛けた。其の時細君は、此の女は何をするか分らない人相だ。見てゐると變な心持になるから、掛けるのは廢《よ》すが好いと云つて頻《しきり》に止《と》めたけれども、井深はなあに御前の神經だと云つて聞かなかつた。

　細君は茶の間へ下《さが》る。井深は机に向つて調べものを始めた。十分｜許《ばかり》すると、不圖《ふと》首を上げて、額の中が見たくなつた。筆を休めて、眼を轉ずると、黄色い女が、額の中で薄笑ひをしてゐる。井深はじつと其の口元を見詰めた。全く畫工《ゑかき》の光線の附け方である。薄い唇が兩方の端《はじ》で少し反《そ》り返《かへ》つて、其の反り返つた所に一寸｜凹《くぼみ》を見せてゐる。結んだ口を是から開けやうとする樣にも取れる。又は開《あ》いた口をわざと、閉《と》ぢた樣にも取れる。但し何故《なぜ》だか分らない。井深は變な心持がしたが、又机に向つた。

　調べものとは云《い》ひ條《でう》、半分は寫しものである。大して注意を拂ふ必要もないので、少し經《た》つたら、又首を擧げて畫の方を見た。矢張り口元に何か曰くがある。けれども非常に落ち附いてゐる。切れ長の一重瞼《ひとへまぶち》の中から靜かな眸《ひとみ》が座敷の下に落ちた。井深は又机の方に向き直つた。

　其の晩井深は何遍となく此の畫を見た。さうして、何處となく細君の評が當つてゐる樣な氣がし出した。けれども明《あく》る日《ひ》になつたら、左《さ》うでもない樣な顔をして役所へ出勤した。四時頃｜家《うち》へ歸つて見ると、昨夕《ゆうべ》の額は仰向けに机の上に乘せてある。午《ひる》少し過に、欄間《らんま》の上から突然落ちたのだといふ。道理で硝子《ガラス》が減茶々々に破《こは》れてゐる。井深は額の裏を返して見た。昨夕《ゆうべ》紐を通した環《くわん》が、どうした具合か拔けてゐる。井深は其の序《ついで》に額の裏を開けて見た。すると畫と脊中合せに、四つ折の西洋紙が出た。開けて見ると、印氣《いんき》で妙な事が書いてある。

　「モナリサの唇には女性《によしやう》の謎《なぞ》がある。原始以降此｜謎《なぞ》を描《ゑが》き得たものはダ　※［ヰに濁点］ンチ丈《だけ》である。此の謎《なぞ》を解き得たものは一人もない。」

　翌日《あくるひ》井深は役所へ行つて、モナリサとは何だと云つて、皆《みんな》に聞いた。然し誰も分らなかつた。ぢやダ　※［ヰに濁点］ンチとは何だと尋ねたが、矢つ張り誰も分らなかつた。井深は細君の勸《すゝめ》に任せて此の縁喜《えんぎ》の惡い畫を、五錢で屑屋《くづや》に賣り拂つた。

　

　　　　　火事

　

　息が切れたから、立ち留まつて仰向くと、火《ひ》の粉《こ》がもう頭の上を通る。霜を置く空の澄み切つて深い中に數を盡くして飛んで來ては卒然《そつぜん》と消えて仕舞ふ。かと思ふと、すぐあとから鮮《あざやか》なやつが、一面に吹かれながら、追掛《おつか》けながら、ちら／＼しながら、熾《さかん》にあらはれる。さうして不意に消えて行く。其の飛んでくる方角を見ると、大きな噴水を集めた樣に、根が一本になつて、隙間《すきま》なく寒い空を染めてゐる。二三間先に大きな寺がある。長い石段の途中に太い樅《もみ》が靜かな枝を夜《よ》に張つて、土手から高く聳えてゐる。火は其の後《うしろ》から起る。黒い幹と動かぬ枝を殊更《ことさら》に殘して、餘る所は眞赤《まつか》である。火元は此の高い土手の上に違ない。もう一町程行つて左へ坂を上《あが》れば、現場《げんば》へ出られる。

　又急ぎ足に歩き出した。後《うしろ》から來るものは皆追越して行く。中には擦《す》れ違《ちがひ》に大きな聲を掛けるものがある。暗い路は自《おの》づと神經的に活《い》きて來た。坂の下迄歩いて、愈《いよ／＼》上《のぼ》らうとすると、胸を突く程急である。其の急な傾斜を、人の頭が一杯に埋《うづ》めて、上から下迄｜犇《ひしめ》いてゐる。?《ほのほ》は坂の眞上から容赦なく舞《ま》ひ上《あが》る。此の人の渦に捲かれて、坂の上迄押し上げられたら、踵《くびす》を回《めぐ》らすうちに焦《こ》げて仕舞さうである。

　もう半町程行くと、同じく左へ折れる大きな坂がある。上《のぼ》るなら此方《こちら》が樂で安全であると思ひ直して、出合頭《であひがしら》の人を煩《わづら》はしく避《よ》けて、漸く曲り角迄出ると、向ふから劇《はげ》しく號鈴《ベル》を鳴らして蒸汽喞筒《じようきポンプ》が來た。退《の》かぬものは悉《こと／”＼》く敷《し》き殺《ころ》すぞと云はぬ許《ばかり》に人込の中を全速力で驅り立てながら、高い蹄《ひづめ》の音と共に、馬の鼻面《はなづら》を坂の方へ一捻《ひとひねり》に向直《むけなほ》した。馬は泡を吹いた口を咽喉に摺《す》り附《つ》けて、尖つた耳を前に立てたが、いきなり前足を揃へてもろに飛び出した。其の時栗毛の胴が、袢天《はんてん》を着た男の提燈《ちやうちん》を掠《かす》めて、天鷲絨《びろうど》の如く光つた。紅色《べにいろ》に塗つた太い車の輪が自分の足に觸れたかと思ふ程際どく回つた。と思ふと、喞筒《ポンプ》は一直線に坂を馳け上がつた。

　坂の中途へ來たら、前は正面にあつた?《ほのほ》が今度は筋違《すぢかひ》に後《うしろ》の方に見え出した。坂の上から又左へ取つて返さなければならない。横丁を見附けてゐると、細い路次の樣なのが一つあつた。人に押されて入《はい》り込《こ》むと眞暗である。たゞ一寸《いつすん》のセキ〔二字傍点〕もない程｜詰《つ》んでゐる。さうして互に懸命な聲を揚げる。火は明かに向ふに燃えてゐる。

　十分の後《のち》漸く路次を拔けて通りへ出た。其の通りも亦｜組屋敷《くみやしき》位な幅で、既に人で一杯になつてゐる。路次を出るや否や、先《さつ》き地《ぢ》を蹴つて、馳け上がつた蒸汽喞筒《じようきポンプ》が眼の前にじつとしてゐた。喞筒《ポンプ》は漸く此處迄馬を動かしたが、二三間先きの曲り角に妨《さまた》げられて、何うする事も出來ずに、?を見物してゐる。?は鼻の先から燃え上がる。

　傍《そば》に押し詰められてゐるものは口々に何處だ、何處だと號《さけ》ぶ。聞かれるものは、其處だ其處だと云ふ。けれども兩方共に?の起《おこ》る所迄は行かれない。?は勢ひを得て、靜かな空を煽る樣に、凄《すさま》じく上《のぼ》る。……

　翌日｜午過《ひるすぎ》散歩の序《ついで》に、火元を見屆《みとゞけ》樣《やう》と思ふ好奇心から、例の坂を上《のぼ》つて、昨夕《ゆうべ》の路次を拔けて、蒸汽喞筒《じようきポンプ》の留まつてゐた組屋敷へ出て、二三間先の曲角をまがつて、ぶら／＼歩いて見たが、冬籠りと見える家が軒を並べてひそりと靜まつてゐる許《ばか》りである。燒け跡は何處にも見當らない。火の揚《あ》がつたのは此邊だと思はれる所は、奇麗な杉垣ばかり續いて、其のうちの一軒からは微《かす》かに琴の音《ね》が洩れた。

　

　　　　　霧

　

　咋宵《ゆうべ》は夜中《よぢゆう》枕の上で、ばち／＼云ふ響を聞いた。是は近所にクラパム・ジヤンクシヨンと云ふ大停車場《おほステーシヨン》のある御蔭である。此のジヤンクシヨンには一日のうちに、汽車が千いくつか集まつてくる。それを細《こま》かに割附けて見ると、一分に一と列車位｜宛《づゝ》出入《でいり》をする譯になる。その各列車が霧の深い時には、何かの仕掛《しかけ》で、停車場間際《ステーシヨンまぎは》へ來ると、爆竹《ばくちく》の樣な音を立てゝ相圖をする。信號の燈光は青でも赤でも全く役に立たない程暗くなるからである。

　寢臺《ねだい》を這ひ下りて、北窓の日蔽《ブラインド》を捲き上げて外面《そと》を見卸すと、外面《そと》は一面に茫《ばう》としてゐる。下は芝生の底から、三方煉瓦の塀に圍《かこ》はれた一間｜餘《よ》の高さに至る迄、何も見えない。たゞ空《むな》しいものが一杯詰つてゐる。さうして、それが寂《しん》として凍《こほ》つてゐる。隣の庭も其通りである。此庭には奇麗なローンがあつて、春先の暖かい時分になると、白い髯を生《はや》した御爺さんが日向《ひなた》ぼつこをしに出て來る。其時此御爺さんは、何時《いつ》でも右の手に鸚鵡《あうむ》を留まらしてゐる。さうして自分の目を鸚鵡《あうむ》の嘴《くちばし》で突つかれさうに近く、鳥の傍《そば》へ持つて行く。鸚鵡《あうむ》は羽搏《はばた》きをして、しきりに鳴き立てる。御爺さんの出ないときは、娘が長い裾を引いて、斷え間なく芝刈器械をローンの上に轉がしてゐる。此の記憶に富んだ庭も、今は全く霧に埋《うま》つて、荒果《あれは》てた自分の下宿のそれと、何の境もなくのべつに續いてゐる。

　裏通りを隔てゝ向ふ側に高いゴシック式の教會の塔がある。其の塔の灰色に空を刺す天邊《てつぺん》で何時《いつ》でも鐘が鳴る。日曜は殊に甚だしい。今日は鋭く尖つた頂きは無論の事、切石を不揃《ふそろひ》に疊み上げた胴中《どうなか》さへ所在《ありか》が丸《まる》で分らない。それかと思ふ所が、心持黒いやうでもあるが、鐘の音《ね》は丸で響かない。鐘の形の見えない濃い影の奧に深く鎖された。

　表へ出ると二間｜許《ばか》り先は見える。其の二間を行き盡くすと又二間｜許《ばか》り先が見えて來る。世の中が二間四方に縮まつたかと思ふと、歩けば歩《あ》るく程新しい二間四方が露《あら》はれる。其の代り今通つて來た過去の世界は通るに任せて消えて行く。

　四つ角でバスを待ち合せてゐると、鼠色の空氣が切り拔かれて急に眼の前へ馬の首が出た。それだのにバスの屋根に居る人は、まだ霧を出切らずにゐる。此方《こつち》から霧を冒《をか》して、飛乘つて下を見ると、馬の首はもう薄ぼんやりしてゐる。バスが行き逢ふときは、行き逢つた時｜丈《だけ》奇麗だなと思ふ。思ふ間もなく色のあるものは、濁つた空《くう》の中に消えて仕舞ふ。漠々として無色の裡《うち》に包まれて行つた。ヱストミンスター橋を通るとき、白いものが一二度眼を掠《かす》めて翻がへつた。眸《ひとみ》を凝《こ》らして、其の行方《ゆくへ》を見詰めてゐると、封じ込められた大氣の裡《うち》に、?《かもめ》が夢の樣に微《かす》かに飛んでゐた。其の時頭の上でビツグベンが嚴《おごそか》に十時を打ち出した。仰ぐと空の中でたゞ音《おん》丈《だけ》がする。

　※［ヰに濁点］クトリヤで用を足して、テート畫館の傍《はた》を河沿《かはぞひ》にバタシー迄來ると、今迄鼠色に見えた世界が、突然と四方からばつたり暮れた。泥炭《ピート》を溶いて濃く、身の周圍《まはり》に流した樣に、黒い色に染められた重たい霧が、目と口と鼻とに逼《せま》つて來た。外套は抑へられたかと思ふ程｜濕《しめ》つてゐる。輕い葛湯《くずゆ》を呼吸する許《ばか》りに氣息《いき》が詰まる。足元は無論穴藏の底を踏むと同然である。

　自分は此の重苦しい茶褐色の中に、しばらく茫然と佇立《たゝず》んだ。自分の傍《そば》を人が大勢通る樣な心持がする。けれども肩が觸れ合はない限りは果して、人が通つてゐるのか何うだか疑はしい。其の時此の濛々《もう／＼》たる大海の一點が、豆位の大きさにどんよりと黄色く流れた。自分は夫《それ》を目標《めあて》に、四歩｜許《ばか》りを動かした。するとある店先の窓硝子《まどガラス》の前へ顔が出た。店の中では瓦斯《ガス》を點《つ》けてゐる。中は比較的明かである。人は常の如く振舞つて居る。自分はやつと安心した。

　バタシーを通り越して、手探《てさぐ》りをしない許《ばか》りに向ふの岡へ足を向けたが、岡の上は仕舞屋許《しもたやばか》りである。同じ樣な横町が幾筋も並行《へいかう》して、青天の下《もと》でも紛れ易い。自分は向つて左の二つ目を曲つた樣な氣がした。夫《それ》から二町程眞直に歩いた樣な心持がした。夫《それ》から先は丸《まる》で分らなくなつた。暗い中にたつた一人立つて首を傾けてゐた。右の方から靴の音が近寄つて來た。と思ふと、それが四五間手前迄來て留まつた。夫《それ》から段々｜遠退《とほの》いて行く。仕舞には、全く聞えなくなつた。あとは寂《しん》としてゐる。自分は又暗い中にたつた一人立つて考へた。どうしたら下宿へ歸れるかしらん。

　

　　　　　懸物

　

　大刀老人《だいたうらうじん》は亡妻の三回忌迄には屹度《きつと》一基の石碑を立てゝやらうと決心した。けれども倅《せがれ》の痩腕《やせうで》を便《たより》に、漸く今日《こんにち》を過《すご》すより外には、一錢の貯蓄も出來かねて、又春になつた。あれの命日も三月八日だがなと、訴へるやうな顔をして、倅《せがれ》に云ふと、はあ、さうでしたつけと答へた限《ぎ》りである。大刀老人は、とう／＼先祖傳來の大切な一幅を賣拂つて、金の工面をしやうと極《き》めた。倅《せがれ》に、どうだらうと相談すると、倅《せがれ》は恨めしい程無雜作に夫《それ》が可《い》いでせうと賛成して呉れた。倅《せがれ》は内務省の社寺局へ出て四十圓の月給を貰つてゐる。女房に二人の子供がある上に、大刀老人に孝養を盡くすのだから骨が折れる。老人がゐなければ大切な懸物《かけもの》も、とうに融通の利くものに變形した筈である。

　此の懸物《かけもの》は方一尺程の絹地で、時代の爲に煤竹《すゝだけ》の樣な色をしてゐる。暗い座敷へ懸けると、暗澹《あんたん》として何が畫《か》いてあるか分らない。老人はこれを王若水《わうじやくすゐ》の畫いた葵《あふひ》だと稱してゐる。さうして、月に一二度位｜宛《づゝ》袋戸棚《ふくろとだな》から出して、桐の箱の塵を拂つて、中のものを丁寧に取り出して、直《ぢか》に三尺の壁へ懸けては、眺めてゐる。成程眺めてゐると、煤《すゝ》けたうちに、古血の樣な大きな模樣がある。緑青《ろくしやう》の剥《は》げた迹《あと》かと怪しまれる所も微《かす》かに殘つてゐる。老人は此の模糊《もこ》たる唐畫《たうぐわ》の古蹟に對《むか》つて、生き過ぎたと思ふ位に住み古した世の中を忘れて仕舞ふ。ある時は懸物をじつと見詰めながら、煙草を吹かす。又は御茶を飲む。でなければ只見詰めてゐる。御爺さん、これ、なあにと小供が來て指を觸《つ》けやうとすると、始めて月日に氣が附いた樣に、老人は、觸つては不可《いけ》ないよと云ひながら、靜かに立つて、懸物を卷きにかゝる。すると、小供が御爺さん鐵砲玉はと聞く。うん錢砲玉を買つて來るから、惡戯《いたづら》をしては不可《いけ》ないよと云ひながら、そろ／＼と懸物を卷いて、桐の箱へ入れて、袋戸棚へ仕舞つて、さうして其處等《そこいら》を散歩しに出る。歸りには町内の飴屋へ寄つて、薄荷入《はくかいり》の鐵砲玉を二袋買つて來て、そら鐡砲玉と云つて、小供にやる。倅《せがれ》が晩婚なので小供は六つと四つである。

　倅《せがれ》と相談をした翌日、老人は桐の箱を風呂敷に包んで朝早くから出た。さうして四時頃になつて、又桐の箱を持つて歸つて來た。小供が上り口迄出て、御爺さん鐵砲玉はと聞くと、老人は何にも云はずに、座敷へ來て、箱の中から懸物を出して、壁へ懸けて、ぼんやり眺め出した。四五軒の道具屋を持つて廻つたら、落款《らくくわん》がないとか、畫《ゑ》が剥《は》げてゐるとか云つて、老人の豫期した程の尊敬を、懸物に拂ふものがなかつたのださうである。

　倅《せがれ》は道具屋は廢《よ》しになさいと云つた。老人も道具屋は不可《いか》んと云つた。二週間程してから、老人は又桐の箱を抱《かゝ》へて出た。さうして倅《せがれ》の課長さんの友達の所へ、紹介を得て見せに行つた。其の時も鐵砲玉を買つて來なかつた。倅《せがれ》が歸るや否や、あんな眼の明《あ》かない男にどうして讓れるものか、あすこに有るものは、みんな贋物《にせもの》だ、と左《さ》も倅《せがれ》の不�ｺ義の樣に云つた。倅《せがれ》は苦笑してゐた。

　二月の初旬に偶然旨い傳手《つて》が出來て、老人は此の幅《ふく》を去る好事家《かうずか》に賣つた。老人は直《たゞち》に谷中《やなか》へ行つて、亡妻の爲に立派な石碑を誂《あつら》へた。さうして其の餘りを郵便貯金にした。それから五日程立つて、常の如く散歩に出たが、いつもよりは二時間程｜後《おく》れて歸つて來た。其の時兩手に大きな鐵砲玉の袋を二つ抱《かゝ》へてゐた。賣り拂つた懸物が氣にかゝるから、もう一遍見せて貰ひに行つたら、四疊半の茶座敷にひつそりと懸かつてゐて、其の前には透《す》き徹《とほ》る樣な臘梅《らふばい》が活《い》けてあつたのださうだ。老人は其處で御茶の御馳走になつたのだといふ。おれが持つてゐるよりも安心かも知れないと老人は倅に云つた。倅はさうかも知れませんと答へた。小供は三日間鐵砲玉ばかり食つてゐた。

　

　　　　　紀元節

　

　南向きの部屋であつた。明《あ》かるい方を脊中にした三十人｜許《ばか》りの小供が黒い頭を揃へて、塗板《ぬりばん》を眺めてゐると、廊下から先生が這入つて來た。先生は脊の低い、眼の大きい、瘠せた男で、顎から頬へ掛けて、髯が爺汚《ぢゞむさ》く生えかゝつてゐた。さうして其のざら／＼した顎の觸《さは》る着物の襟が薄黒く垢附《あかづ》いて見えた。此の着物と、此の髯の不精《ぶしやう》に延びるのと、それから、甞《かつ》て小言《こごと》を云つた事がないのとで、先生はみなから馬鹿にされてゐた。

　先生はやがて、白墨を取つて、黒板に記元節と大きく書いた。小供はみんな黒い頭を机の上に押し附けるやうにして、作文を書き出した。先生は低い脊《せい》を伸ばして、一同を見廻してゐたが、やがて廊下傳ひに部屋を出て行つた。

　すると、後《うしろ》から三番目の机の中程にゐた小供が、席を立つて先生の洋卓《テーブル》の傍《そば》へ來て、先生の使つた白墨を取つて、塗板《ぬりばん》に書いてある記元節の記の字へ棒を引いて、其の傍《わき》へ新しく紀と肉太《にくぶと》に書いた。外の小供は笑ひもせずに驚いて見てゐた。さきの小供が席へ歸つてしばらく立つと、先生も部屋へ歸つて來た。さうして塗板《ぬりばん》に氣が附いた。

　「誰か記を紀と直した樣だが、記と書いても好いんですよ」と云つて又一同を見廻した。一同は黙つてゐた。

　記を紀と直したものは自分である。明治四十二年の今日《こんにち》でも、それを思ひ出すと下等な心持がしてならない。さうして、あれが爺《ぢゞ》むさい福田先生でなくつて、みんなの怖《こは》がつてゐた校長先生であればよかつたと思はない事はない。

　

　　　　　儲口

　

　「彼方《あつち》は栗の出る所でしてね。まあ相場がざつと兩《りやう》に四升位のもんでせうかね。それを此方《こつち》へ持つて來ると、升《しよう》に一圓五十錢もするんですよ。それでね、私が丁度向ふに居た時分でしたが、濱から千八百俵｜許《ばかり》注文がありました。旨く行くと一升二圓以上に付くんですから、早速遣りましたよ。千八百俵拵へて、私が自分で栗と一所に濱迄持つて行くと、――なに相手は支那人で、本國へ送り出すんでさあ。すると、支那人が出て來て、宜しいと云ふから、もう濟んだのかと思ふと、藏の前へ高さ一間もあらうと云ふ大きな樽を持ち出して、水をその中へどん／＼汲み込ませるんです。――いえ何の爲だか私にも一向《いつかう》分らなかつたんで。何しろ大きな樽ですからね、水を張るんだつて容易なこつちや有りません。彼是《かれこれ》半日｜懸《かゝ》つちまいました。それから何をするかと思つて見てゐると、例の栗をね、俵《へう》をほどいて、どん／＼樽の中へ放《はふ》り込《こ》むんですよ。――私も實に驚いたが、支那人てえ奴は本當に食へないもんだと後《あと》になつて、漸く氣が付いたんです。栗を水の中に打《ぶ》ち込《こ》むとね、慥《たしか》な奴は尋常に沈みますが、蟲の食つた奴｜丈《だけ》はみんな浮いちまうんです。それを支那人の野郎｜笊《ざる》でしやくつてね、ペケ〔二字傍点〕だつて、俵《へう》の目方から引いて仕舞うんだから堪《たま》りません。私は傍《そば》で見てゐてはら／＼しました。何しろ七分通り蟲が入《い》つてたんだから弱りました。大變な損でさあ。――蟲の食つたんですか。忌々《いま／＼》しいから、みんな打遣《うつちや》つて來ました。支那人の事ですから、矢つ張り知らん顔をして、俵にして、大方本國へ送つたでげせう。

　「夫《そ》れから薩摩芋《さつまいも》を買ひ込んだこともありまさあ。一俵四圓で、二千俵の契約でね。所が注文の來たのが月半《つきなかば》、十四日でして二十五日迄にと云ふんだから、どう骨を折つたつて二千俵と云ふ數《かず》が寄りつこありませんや。到底駄目だからつて、一應斷りました。實を云ふと殘念でしたがな。すると商館の番頭がいふには、否《いや》契約書には廿五日とあるけれども、決して其通りには嚴行しないからと、再三勸めるもんだから、つい其の氣になりましてね。――いえ芋は支那へ行くんぢやありません。亞米利加《アメリカ》でした。矢《や》ツぱり亞米利加《アメリカ》にも薩摩芋を食ふ奴があると見えるんですよ。妙な事があるもんで、――で、早速買収に掛りました。埼玉《さいたま》から川越《かはごえ》の方をな。だが口でこそ二千俵ですが、いざ買ひ占めるとなると中々大したもんですからな。でも漸くの事で、とう／＼二十八日過ぎに約束通りの俵《へう》を持つて、行きますと、――實に狡猾《かうくわつ》な奴が居るもんで、約定書《やくぢやうがき》のうちに、もし甚だしい日限の違約があるときは、八千圓の損害賠償を出すと云ふ項目があるんですよ。所が彼は其｜條款《でうくわん》を應用しちまつて、どうしても代金を渡さないんです。尤も手附《てづけ》は四千圓取つて置きましたがね。さうかうして居る内に、先方《むかふ》では芋を船へ積み込んぢまつたから、何うする事も出來ない譯になりました。あんまり業腹《ごふはら》だから、千圓の保護金を納めましてね、現物取押《げんぶつとりおさへ》を申請して、とう／＼芋を取り押へてやりました。所が上には上があるもんで、先方《むかふ》は八千圓の保證金を納めて、構はず船を出しちまつたんです。で愈《いよ／＼》裁判になつたには爲《な》つたんですが、何しろ約定書《やくぢやうしよ》が入れてあるもんだから、仕樣がない。私は裁判官の前で泣きましたね。芋はたゞ取られる、裁判には負ける、こんな馬鹿な事はない、少しは、まあ私の身になつて考へて見て下さいつて。裁判官も腹のなかでは、大分《だいぶ》私の方に同情した樣子でしたが、法律の力ぢや、どうする事も出來ないもんですからな。とう／＼負けました」

　

　　　　　行列

　

　不圖《ふと》机から眼を上げて、入口の方を見ると、書齋の戸が何時《いつ》の間《ま》にか、半分明いて、廣い廊下が二尺｜許《ばかり》見える。廊下の盡きる所は唐《から》めいた手摺《てすり》に遮《さへぎ》られて、上には硝子戸《ガラスど》が立て切つてある。青い空から、まともに落ちて來る日が、軒端《のきば》を斜《はす》に、硝子《ガラス》を通して、縁側の手前｜丈《だけ》を明るく色づけて、書齋の戸口迄ぱつと暖かに射した。しばらく日の照る所を見詰めてゐると、眼の底に陽炎《かげろふ》が湧いた樣に、春の思ひが饒《ゆた》かになる。

　其の時此の二尺あまりの隙間に、空《くう》を踏んで、手摺の高さ程のものがあらはれた。赤に白く唐草を浮き織りにした絹紐《リボン》を輪に結んで、額から髪の上へすぽりと嵌《は》めた間に、海棠《かいだう》と思はれる花を青い葉ごと、ぐるりと挿した。黒髪の地《ぢ》に薄紅《うすくれなゐ》の莟《つぼみ》が大きな雫《しづく》の如くはつきり見えた。割合に詰つた顎の眞下から、一襞《ひとひだ》になつて、たゞ一枚の紫が縁《えん》迄《まで》ふわ／＼と動いてゐる。袖も手も足も見えない。影は廊下に落ちた日を、するりと拔ける樣に通つた。後《あと》から、――

　今度は少し低い。眞紅《しんく》の厚い織物を腦天から肩先迄被つて、餘る脊中に筋違《すぢかひ》の笹の葉の模樣を脊負《しよ》つてゐる。胴中《どうなか》にたゞ一葉《ひとは》、消炭色の中に取り殘された緑が見える。夫《それ》程《ほど》笹の模樣は大きかつた。廊下に置く足よりも大きかつた。其の足が赤くちら／＼と三足程動いたら、低いものは、戸口の幅を、音なく行き過ぎた。

　第三の頭巾《づきん》は白と藍の辨慶《べんけい》の格子《かうし》である。眉廂《まびさし》の下にあらはれた横顔は丸く膨《ふく》らんでゐる。其の片頻の眞中が林檎の熟した程に濃い。尻｜丈《だけ》見える茶褐色の眉毛《まみえ》の下が急に落ち込んで、思はざる邊《あたり》から丸い鼻が膨《ふく》れた頬を少し乘り越して、先｜丈《だけ》顔の外へ出た。顔から下は一面に黄色い縞で包まれてゐる。長い袖を三寸餘も縁《えん》に牽《ひ》いた。是れは頭より高い胡麻竹《ごまだけ》の杖を突いて來た。杖の先には光を帶びた鳥の羽《は》をふさ／＼と着けて、照る日に輝かした。縁に牽《ひ》く黄色い縞の、袖らしい裏が、銀の樣に光つたと思つたら是も行き過ぎた。

　すると、すぐ後《あと》から眞白な顔があらはれた。額から始まつて、平たい頬を塗つて、顎から耳の附根迄｜遡《さかの》ぼつて、壁の樣に靜かである。中に眸《ひとみ》丈《だけ》が活きてゐた。唇は紅《べに》の色を重ねて、青く光線を反射した。胸のあたりは鳩の色の樣に見えて、下は裾迄ばつと視線を亂してゐる中に、小さな※［ワに濁点］イオリンを抱《かゝ》へて、長い弓を嚴《おごそ》かに擔《かつ》いでゐる。二足で通り過ぎる後《うしろ》には、脊中へ黒い繻子《しゆす》の四角な片《きれ》を中《あ》てゝ、其の眞中にある金糸《きんし》の刺繍《ぬひ》が、一度に日に浮いた。

　最後に出たものは、全く小《ち》さい。手摺の下から轉げ落ちさうである。けれども大きな顔をしてゐる。其《その》中《うち》でも頭は殊に大きい。それへ五色の冠《かんむり》を戴《いたゞ》いてあらはれた。冠の中央にあるぽつちが高く聳えてゐる樣に思はれる。身には井の字の模樣のある筒袖に、藤鼠《ふぢねずみ》の天鵞絨《びろうど》の房の下《さが》つたものを、脊から腰の下迄三角に垂れて、赤い足袋を踏んでゐた。手に持つた朝鮮の團扇《うちは》が身體の半分程ある。團扇には赤と青と黄で巴《ともゑ》を漆で描《か》いた。

　行列は靜かに自分の前を過ぎた。開け放しになつた戸が、空《むな》しい日の光を、書齋の入口に送つて、縁側に幅四尺の寂《さび》しさを感じた時、向ふの隅で急に※［ワに濁点］イオリンを擦《こす》る音がした。ついで、小《ち》さい咽喉が寄り合つてどつと笑ふ聲がした。

　宅《うち》の小供は毎日母の羽織や風呂敷を出して、こんな遊戯《いたづら》をしてゐる。

　

　　　　　昔

　

　ピトロクリの谷は秋の眞下《ました》にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寢たり起きたりしてゐる。十月の日は靜かな谷の空氣を空の半途《はんと》で包《くる》んで、ぢかには地にも落ちて來ぬ。と云つて、山向《やまむかふ》へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落附いて、凝《じつ》と動かずに靄《かす》んでゐる。其の間に野と林の色が次第に變つて來る。酸いものがいつの間《ま》にか甘くなる樣に、谷全體に時代が附く。ピトロクリの谷は、此の時百年の昔《むか》し、二百年の昔にかへつて、安々《やす／＼》と寂《さ》びて仕舞ふ。人は世に熟《う》れた顔を揃へて、山の脊を渡る雲を見る。其の雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地《ぢ》を透《す》かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。

　自分の家《いへ》は此の雲と此の谷を眺めるに都合好く、小さな丘《をか》の上に立つてゐる。南から一面に家《いへ》の壁へ日があたる。幾年《いくねん》十月の日が射したものか、何處も彼處《かしこ》も鼠色に枯れてゐる西の端に、一本の薔薇《ばら》が這ひかゝつて、冷たい壁と、暖かい日の間に挾まつた花をいくつか着けた。大きな瓣《べん》は卵色に豐かな波を打つて、萼《がく》から翻へる樣に口を開《あ》けた儘、ひそりと所々《ところ／”＼》に靜まり返つてゐる。香《にほひ》は薄い日光に吸はれて、二間の空氣の裡《うち》に消えて行く。自分は其の二間の中に立つて、上を見た。薔薇《ばら》は高く這《は》ひ上《のぼ》つて行く。鼠色の壁は薔薇《ばら》》の蔓の屆かぬ限りを盡くして眞直に聳えてゐる。屋根が盡きた所にはまだ塔がある。日は其の又上の靄《もや》の奧から落ちて來る。

　足元は丘《をか》がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の屆く遙《はるか》の下が、平《ひら》たく色で埋《うづ》まつてゐる。其の向ふ側の山へ上《のぼ》る所は層々と樺《かば》の黄葉《きば》が段々に重なり合つて、濃淡の坂が幾階となく出來てゐる。明《あきら》かで寂《さ》びた調子が谷一面に反射して來る眞中を、黒い筋が横に蜿《うね》つて動いてゐる。泥炭《でいたん》を含んだ溪水《たにみづ》は、染粉《そめこ》を溶いた樣に古びた色になる。此山奧に來て始めて、こんな流を見た。

　後《うしろ》から主人が來た。主人の髯は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。形裝《なり》も尋常ではない。腰にキルトといふものを着けてゐる。俥《くるま》の膝掛《ひざかけ》の樣に粗《あら》い縞の織物である。それを行燈袴《あんどんばかま》に、膝頭迄｜裁《た》つて、竪《たて》に襞《ひだ》を置いたから、膝脛《ふくらはぎ》は太い毛糸の靴足袋で隱すばかりである。歩くたびにキルトの襞《ひだ》が搖れて、膝と股《もゝ》の間がちら／＼出る。肉の色に耻を置かぬ昔の袴である。

　主人は毛皮で作つた、小さい木魚《もくぎよ》程の蟇口を前にぶら下げてゐる。夜｜煖爐《だんろ》の傍《そば》へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、此の木魚《もくぎよ》の中から、パイプを出す、煙草を出す。さうしてぷかり／＼と夜長《よなが》を吹かす。木魚《もくぎよ》の名をスポーランと云ふ。

　主人と一所に崖《がけ》を下りて、小暗《をぐら》い路に這入つた。スコツチ・ファーと云ふ常磐木《ときはぎ》の葉が、刻《きざ》み昆布《こんぶ》に雲が這ひかゝつて、拂つても落ちない樣に見える。其の黒い幹をちよろ／＼と栗鼠《りす》が長く太つた尾を搖《ふ》つて、驅《か》け上《のぼ》つた。と思ふと古く厚みのついた苔の上を又一匹、眸《ひとみ》から疾《と》く驅け拔けたものがある。苔は膨《ふく》れた儘動かない。栗鼠《りす》の尾は蒼黒い地《ぢ》を拂子《ほつす》の如くに擦《す》つて暗《くら》がりに入《はい》った。

　主人は横を振り向いて、ピトロクリの明るい谷を指《ゆび》さした。黒い河は依然として其の眞中を流れてゐる。あの河を一里半北へ溯《さかのぼ》るとキリクランキーの峽間《はざま》があると云つた。

　高地人《ハイランダース》と低地人《ローランダース》とキリクランキーの峽間《はざま》で戰つた時、屍《かばね》が岩の間に挾《はさま》つて、岩を打つ水を塞《せ》いた。高地人《ハイランダース》と低地人《ローランダース》の血を飲んだ河の流れは色を變へて三日の間ピトロクリの谷を通つた。

　自分は明日《あす》早朝キリクランキーの古戰場を訪《と》はうと決心した。崖から出たら足の下に美しい薔薇の花瓣《はなびら》が二三片散つてゐた。

　

　　　　　聲

　

　豐三郎《とよさぶらう》が此の下宿へ越して來てから三日になる。始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片附《かたづけ》やら、書物の整理やらで、忙しい影の如く動いてゐた。それから町の湯に入《はい》つて、歸るや否や寢て仕舞つた。明《あく》る日《ひ》は、學校から戻ると、机の前へ坐つて、しばらく書見をして見たが、急に居所《ゐどころ》が變つた所爲《せゐ》か、全く氣が乘らない。窓の外でしきりに鋸《のこぎり》の音がする。

　豐三郎は坐つた儘手を延《のば》して障子を明けた。すると、つい鼻の先で植木屋がせつせと梧桐《あをぎり》の枝を卸してゐる。可なり大きく延びた奴を、惜氣《をしげ》もなく股の根から、ごし／＼引いては、下へ落して行く内に、切口の白い所が目立つ位｜夥《おびたゞ》しくなつた。同時に空《むな》しい空《そら》が遠くから窓にあつまる樣に廣く見え出した。豐三郎は机に頬杖を突いて、何氣《なにげ》なく、梧桐《ごとう》の上を高く離れた秋晴を眺めてゐた。

　豐三郎が眼を梧桐《あをぎり》から空へ移した時は、急に大きな心持がした。其の大きな心持が、しばらくして落附いて來るうちに、懷《なつ》かしい故郷《ふるさと》の記憶が、點を打つた樣に、其の一角にあらはれた。點は遙かの向《むかふ》にあるけれども、机の上に乘せた程明らかに見えた。

　山の裾に大きな藁葺《わらぶき》があつて、村から二町程｜上《のぼ》ると、路は自分の門の前で蓋きてゐる。門を這入る馬がある。鞍の横に一叢《ひとむら》の菊を結附《ゆはひつ》けて、鈴を鳴らして、白壁の中へ隱れて仕舞つた。日は高く屋《や》の棟《むね》を照らしてゐる。後《うしろ》の山を、こんもり隱す松の幹が悉《こと／”＼》く光つて見える。茸《たけ》の時節である。豐三郎は机の上で今｜採《と》つた許《ばかり》の茸《たけ》の香《か》を嘆いだ。さうして、豐《とよ》、豐《とよ》といふ母の聲を聞いた。其の聲が非常に遠くにある。それで手に取る樣に明らかに聞える。――母は五年前に死んで仕舞つた。

　豐三郎は不圖《ふと》驚いて、わが眼を動かした。すると先刻《さつき》見た梧桐《ごとう》の先が又｜眸《ひとみ》に映つた。延びやうとする枝が、一所《ひとところ》で伐り詰められてゐるので、股の根は、瘤《こぶ》で埋《うづ》まつて、見惡《みにく》い程窮屈に力が入《い》つてゐる。豐三郎は又急に、机の前に押し附けられた樣な氣がした。梧桐《ごとう》を隔てゝ、垣根の外を見下《みおろ》すと、汚《きた》ない長屋が三四軒ある。綿の出た蒲團が遠慮なく秋の日に照り附けられてゐる。傍《そば》に五十餘りの婆さんが立つて、梧桐《ごとう》の先を見てゐた。

　所々縞の消えかゝつた着物の上に、細帶を一筋卷いたなりで、乏《とも》しい髪を、大きな櫛のまはりに卷きつけて、茫然《ぼんやり》と、枝を透かした梧桐《ごとう》の頂邊《てつぺん》を見た儘立つてゐる。豐三郎は婆さんの顔を見た。其の顔は蒼くむくんでゐる。婆さんは腫《は》れぼつたい瞼《まぶち》の奧から細い眼を出して、眩《まぼ》しさうに豐三郎を見上げた。豐三郎は急に自分の眼を机の上に落した。

　三日目に豐三郎は花屋へ行つて菊を買つて來た。國の庭に咲く樣なのをと思つて、探して見たが見當らないので、已《やむ》を得《え》ず花屋のあてがつたのを、其の儘三本程｜藁《わら》で括《くゝ》つて貰つて、�ｺ利の樣な花瓶へ活《い》けた。行李《かうり》の底から、帆足萬里《ほあしばんり》の書いた小さい軸を出して、壁へ掛けた。是れは先年歸省した時、裝飾用の爲にわざ／＼持つて來たものである。それから豐三郎は座布團の上へ坐つて、しばらく軸と花を眺めてゐた。其の時窓の前の長屋の方で、豐々《とよ／＼》と云ふ聲がした。其の聲が調子と云ひ、音色《ねいろ》といひ、優しい故郷《ふるさと》の母に少しも違はない。豐三郎は忽ち窓の障子をがらりと開けた。すると昨日《きのふ》見た蒼《あを》ぶくれの婆さんが、落ちかゝる秋の日を額《ひたひ》に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きして居た。がらりと云ふ音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻《ひるが》へして下から豐三郎を見上げた。

　

　　　　　金

　

　劇烈《げきれつ》な三面記事を、寫眞版にして引き伸ばした樣な小説を、のべつに五六冊讀んだら、全く厭になつた。飯を食つてゐても、生活難《せいくわつなん》が飯と一所に胃の腑迄押し寄せて來さうでならない。腹が張れば、腹が切齒詰《せつぱつま》つて、如何にも苦しい。そこで帽子を被《かぶ》つて空谷子《くうこくし》の所へ行つた。此の空谷子《くうこくし》と云ふのは、斯ういふ時に、話しをするのに都合よく出來上つた、哲學者見た樣な占者《うらなひしや》見た樣な、妙な男である。無邊際《むへんざい》の空間には、地球より大きな火事が所々《ところ／”＼》にあつて、其の火事の報知が吾々の眼に傳はるには、百年も掛るんだからなあと云つて、神田の火事を馬鹿にした男である。尤も神田の火事で空谷子《くうこくし》の家が燒けなかつたのは慥《たし》かな事實である。

　空谷子《くうこくし》は小さな角火鉢に倚《もた》れて、眞鍮《しんちゆう》の火箸で灰の上へ、しきりに何か書いてゐた。どうだね、相變らず考へ込んでるぢやないかと云ふと、さも面倒くささうな顔附をして、うん今｜金《かね》の事を少し考へてゐる所だと答へた。折角｜空谷子《くうこくし》の所へ來て、又金の話なぞを聞かされては堪《たま》らないから、黙つて仕舞つた。すると空谷子が、さも大發見でもしたやうに、斯う云つた。

　「金は魔物だね」

　空谷子の警句としては甚だ陳腐《ちんぷ》だと思つたから、さうさね、と云つたぎり相手にならずにゐた。空谷子は火鉢の灰の中に大きな丸を描《か》いて、君｜茲《こゝ》に金があるとするぜ、と丸の眞中を突ツついた。

　「これが何にでも變化する。衣服《きもの》にもなれば、食物《くひもの》にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」

　「下らんな。知れ切つてるぢやないか」

　「否《いや》、知れ切つて居ない。此の丸がね」と又大きな丸を描《か》いた。

　「此の丸が善人にもなれば惡人にもなる。極樂へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が發達すると、金の融通に制限を附ける樣になるのは分り切つてゐるんだがな」

　「何うして」

　「何うしても好いが、――例《たと》へば金を五色《ごしき》に分けて、赤い金、青い金、白い金などゝしても好からう」

　「左《さ》うして、何うするんだ」

　「何うするつて。赤い金は赤い區域内｜丈《だけ》で通用する樣にする。白い金は白い區域内｜丈《だけ》で使ふ事にする。もし領分外へ出ると、瓦の破片《かけら》同樣｜丸《まる》で幅が利かない樣にして、融通の制限を附けるのさ」

　もし空谷子《くうこくし》が初對面の人で、初對面の最先《さいさき》から斯《こ》んな話をしかけたら、自分は空谷子を以て、或《あるひ》は腦の組織に異状のある論客《ろんかく》と認めたかも知れない。然し空谷子は地球より大きな火事を想像する男だから、安心して其の譯を聞いて見た。空谷子の答は斯うであつた。

　「金はある部分から見ると、努力の記號だらう。所が其の努力が決して同種類のものぢやないから、同じ金で代表さして、彼是《ひし》相通ずると、大變な間違になる。例へば僕がこゝで一萬噸の石炭を掘つたとするぜ。其の努力は器械的の努力に過ぎないんだから、之を金に代へたにした所が、其の金は同種類の器械的の努力と交換する資格がある丈《だけ》ぢやないか。然るに一度《ひとたび》此の器械的の努力が金に變形するや否や、急に大自在《だいじざい》の神通力《じんづうりき》を得て、道�ｺ的の努力とどん／＼引き換へになる。さうして、勝手次第に精神界が攪亂《かくらん》されて仕舞ふ。不都合｜極《きは》まる魔物ぢやないか。だから色分《いろわけ》にして、少し其の分《ぶん》を知らしめなくつちや不可《いか》んよ」

　自分は色分説《いろわけせつ》に賛成した。それから暫くして、空谷子《くうこくし》に尋ねて見た。

　「器械的の努力で道�ｺ的の努力を買収するのも惡からうが、買収される方も好かあないんだらう」

　「さうさな。今の樣な善知善能《ぜんちぜんのう》の金を見ると、神も人間に降參するんだから仕方がないかな。現代の神は野蠻だからな」

　自分は空谷子と、こんな金にならない話をして歸つた。

　

　　　　　心

　

　二階の手摺《てすり》に湯上りの手拭を懸けて、日の目の多い春の町を見下《みおろ》すと、頭巾《づきん》を被《かむ》つて、白い髭を疎《まば》らに生やした下駄の齒入が垣の外を通る。古い鼓を天秤棒《てんびんぼう》に括《くゝ》り附《つ》けて、竹のへらでかん／＼と敲くのだが、其の音は頭の中で不圖《ふと》思ひ出した記憶の樣に、鋭いくせに、何所か氣が拔けてゐる。爺さんが筋向《すぢむかふ》の醫者の門の傍《わき》へ來て、例の冴《さ》え損《そこ》なつた春の鼓をかんと打つと、頭の上に眞白に咲いた梅の中から、一羽の小鳥が飛び出した。齒入は氣が附かずに、青い竹垣をなぞへに向《むかふ》の方へ廻り込んで見えなくなつた。鳥は一搏《ひとはゞたき》に手摺の下迄飛んで來た。しばらくは柘榴《ざくろ》の細枝に留つてゐたが、落ち附かぬと見えて、二三度｜身振《みぶり》を易《か》へる拍子に、不圖《ふと》欄干に倚《よ》り掛《かゝ》つてゐる自分の方を見上げるや否や、ぱつと立つた。枝の上が煙《けむ》る如くに動いたと思つたら、小鳥はもう奇麗な足で手摺の棧《さん》を踏《ふ》まへてゐる。

　まだ見た事のない鳥だから、名前を知らう筈はないが、其色合が著《いちじ》るしく自分の心を動かした。鶯に似て少し澁味《しぶみ》の勝つた翼に、胸は燻《くす》んだ、煉瓦の色に似て吹けば飛びさうに、ふわついてゐる。其の邊《あたり》には柔《やはら》かな波を時々打たして、凝《じつ》と大人《おとな》しくしてゐる。怖《おど》すのは罪だと思つて、自分もしばらく、手摺に倚《よ》つた儘、指一本も動かさずに辛抱してゐたが、存外鳥の方は平氣なやうなので、やがて思ひ切つて、そつと身を後《うしろ》へ引いた。同時に鳥はひらりと手摺の上に飛び上がつて、すぐと眼の前に來た。自分と鳥の間は僅か一尺程に過ぎない。自分は半《なか》ば無意識に右手《めて》を美しい鳥の方に出した。鳥は柔《やはら》かな翼と、華奢《きやしや》な足と、漣《さゞなみ》の打つ胸の凡《すべ》てを擧げて、其の運命を自分に託するものゝ如く、向ふからわが手の中《うち》に、安らかに飛び移つた。自分は其の時丸味のある頭を上から眺めて、此の鳥は……と思つた。然し此の鳥は……の後《あと》はどうしても思ひ出せなかつた。たゞ心の底の方に其の後《あと》が潜んでゐて、總體を薄く暈《ぼか》す樣に見えた。此の心の底一面に※［者／火］染《にじ》んだものを、ある不可思議の力で、一所《ひとところ》に集めて判然《はつきり》と熟視したら、其の形は、――矢つ張り此の時、此の場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であつたらうと思ふ。自分は直《たゞち》に籠の中に鳥を入れて、春の日影の傾く迄眺めてゐた。さうして此の鳥はどんな心持で自分を見てゐるだらうかと考へた。

　やがて散歩に出た。欣々然《きん／＼ぜん》として、あてもないのに町の數をいくつも通り越して、賑かな徃來《わうらい》を行ける所迄行つたら、徃來は右へ折れたり左へ曲つたりして、知らない人の後《あと》から、知らない人がいくらでも出て來る。いくら歩いても賑かで、陽氣で、樂々してゐるから、自分は何處の點で世界と接觸して、其接觸するところに一種の窮屈を感ずるのか、殆ど想像も及ばない。知らない人に幾千人となく出逢ふのは嬉しいが、たゞ嬉しい丈《だけ》で、その嬉しい人の眼附も鼻附も頓《とん》と頭に映らなかつた。すると何處かで、寶鈴《はうれい》が落ちて廂瓦《ひさしがはら》に當る樣な音がしたので、はつと思つて向ふを見ると、五六間先の小路《こうぢ》の入口に一人の女が立つてゐた。何を着てゐたか、どんな髷に結《ゆ》つてゐたか、殆ど分らなかつた。たゞ眼に映つたのは其の顔である。其の顔は、眼と云ひ、口と云ひ、鼻と云つて、離れ離れに叙述する事の六づかしい――否、眼と口と鼻と眉と額と一所になつて、たつた一つ自分の爲に作り上げられた顔である。百年の昔から此處に立つて、眼も鼻も口もひとしく自分を待つてゐた顔である。百年の後《のち》迄自分を從へて何處迄も行く顔である。黙つて物を云ふ顔である。女は黙つて後《うしろ》を向いた。追附いて見ると、小路《こうぢ》と思つたのは露次《ろじ》で、不斷の自分なら躊躇する位に細くて薄暗い。けれども女は黙つて其の中へ這入《はい》つて行く。黙つてゐる。けれども自分に後《あと》を跟《つ》けて來いと云ふ。自分は身を穿《すぼ》める樣にして、露次《ろじ》の中に這入《はい》つた。

　黒い暖簾《のれん》がふわ／＼して居る。白い字が染拔いてある。其の次には頭を掠《かす》める位に軒燈が出てゐた。眞中に三階松《さんがいまつ》が書いて下に本《もと》とあつた。其の次には硝子《ガラス》の箱に輕燒《かるやき》の霰《あられ》が詰つてゐた。其の次には軒の下に、更紗《さらさ》の小片《こぎれ》を五つ六つ四角な枠《わく》の中に並《なら》べたのが懸けてあつた。それから香水の瓶が見えた。すると露次は眞黒な土藏の壁で行き留つた。女は二尺程前に居た。と思ふと、急に自分の方を振り返つた。さうして急に右へ曲つた。其の時自分の頭は突然｜先刻《さつき》の鳥の心持に變化した。さうして女に尾《つ》いて、すぐ右へ曲つた。右へ曲ると、前よりも長い露次が、細く薄暗く、ずつと續いてゐる。自分は女の黙つて思惟する儘に、此の細く薄暗く、しかもずつと續いてゐる露次の中を鳥の樣にどこ迄も跟《つ》いて行つた。

　

　　　　　變化

　

　二人は二疊敷の二階に机を並《なら》べてゐた。其の疊の色の赤黒く光つた樣子が有々《あり／＼》と、二十餘年後の今日《こんにち》迄《まで》も、眼の底に殘つて居る。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰つ附ける程窮屈な姿勢で下調《したしらべ》をした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思ひ切つて、窓障子を明け放つたものである。其の時窓の眞下の家《うち》の、竹格子《たけがうし》の奧に若い娘がぼんやり立つてゐる事があつた。靜かな夕暮｜抔《など》は其の娘の顔も姿も際立つて美しく見えた。折々はあゝ美しいなと思つて、しばらく見下《みおろ》してゐた事もあつた。けれども中村には何にも言はなかつた。中村も何にも言はなかつた。

　女の顔は今は全く忘れて仕舞つた。たゞ大工か何かの娘らしかつたといふ感じ丈《だけ》が殘つてゐる。無論｜長屋住居《ながやずまひ》の貧しい暮しをしてゐたものゝ子である。我等二人の寢起《ねおき》する所も、屋根に一枚の瓦さへ見る事の出來ない古長屋の一部であつた。下には學僕《がくぼく》と幹事を混《ま》ぜて十人｜許《ばか》り寄宿してゐた。さうして吹《ふ》き曝《さら》しの食堂で、下駄を穿《は》いた儘、飯を食つた。食料は一箇月に二圓であつたが、其代り甚だ不味《まづ》いものであつた。それでも、隔日に牛肉の汁を一度｜宛《づゝ》食はした。勿論肉の膏《あぶら》が少し浮いて、肉の香《か》が箸に絡《から》まつて來る位な所であつた。それで塾生は幹事が狡猾《かうくわつ》で、旨いものを食はせなくつて不可《いか》んと頻《しきり》に不平をこぼしてゐた。

　中村と自分は此の私塾《しじゆく》の教師であつた。二人とも月給を五圓づゝ貰つて、日に二時間ほど教へてゐた。自分は英語で地理書や幾何學を教へた。幾何の説明をやる時に、どうしても一所になるべき線が、一所にならないで困つた事がある。所が込《こ》み入《い》つた圖を、太い線で書いてゐるうちに、其の線が二つ、黒板の上で重なり合つて一所になつて呉れたのは嬉しかつた。

　二人は朝起きると、兩國橋を渡つて、一つ橋の豫備門に通學した。其の時分豫備門の月謝は二十五錢であつた。二人は二人の月給を机の上にごちや／＼に攪《か》き交《ま》ぜて、其の内から二十五錢の月謝と、二圓の食料と、それから湯錢｜若干《そくばく》を引いて、あまる金を懷に入れて、蕎麥《そば》や汁粉《しるこ》や壽司《すし》を食ひ廻つて歩いた。共同財産が盡きると二人とも全く出なくなつた。

　豫備門へ行く途中兩國橋の上で、貴樣の讀んでゐる西洋の小説のなかには美人が出て來るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て來ると答へた。然し其の小説は何の小説で、どんな美人が出て來たのか、今では一向《いつかう》覺えない。中村は其の時から小説｜抔《など》を讀まない男であつた。

　中村が端艇競争《ボートきやうさう》のチヤンピヨンになつて勝つた時、學校から若干《そくばく》の金を呉れて、その金で書籍を買つて、其の書籍へある教授が、これ／＼の記念に贈ると云ふ文句を書き添へた事がある。中村は其の時おれは書物なんか入らないから、何でも貴樣の好《すき》なものを買つてやると云つた。さうしてアーノルドの論文と沙翁《さをう》のハムレツトを買つて呉れた。其の本は未《いま》だに持つてゐる。自分は其の時始めてハムレツトと云ふものを讀んで見た。些《ちつ》とも分らなかつた。

　學校を出ると中村はすぐ臺灣に行つた。それぎり丸《まる》で逢はなかつたのが、偶然｜倫敦《ロンドン》の眞中で又ぴたりと出喰《でく》はした。丁度七年程｜前《まへ》である。其の時中村は昔の通りの顔をしてゐた。さうして金を澤山持つてゐた。自分は中村と一所に方々遊んで歩いた。中村も以前と異《かは》つて、貴樣の讀んでゐる西洋の小説には美人が出て來るか抔《など》とは聞かなかつた。却つて向ふから西洋の美人の話を色々した。

　日本へ歸つてから又逢はなくなつた。すると今年の一月の末、突然使をよこして、話がしたいから築地の新喜樂《しんきらく》迄來いと云つて來た。正午《ひる》迄にといふ注文だのに、時計はもう十一時過である。さうして其の日に限つて北風が非常に強く吹いてゐた。外へ出ると、帽子も車も吹き飛ばされさうな勢ひである。自分は其日の午後に是非片附けなくてはならない用事を控へてゐた。妻《さい》に電話を懸けさせて、明日《あす》ぢや都合が惡いかと聞かせると、明日になると出立の準備や何かで、此方《こつち》も忙《いそが》しいから……と云ふ所で、電話が切れて仕舞つた。いくら、どうしても懸《かゝ》らない。大方風の所爲《せゐ》でせうと、妻《さい》が寒い顔をして歸つて來た。それでとう／＼逢はずに仕舞つた。

　昔の中村は滿鐵の總裁になつた。昔の自分は小説家になつた。滿鐡の總裁とはどんな事をするものか丸《まる》で知らない。中村も自分の小説を未《いま》だ曾《かつ》て一頁《ページ》も讀んだ事はなからう。

　

　　　クレイグ先生

　

　クレイグ先生は燕の樣に四階の上に巣をくつてゐる。舗石《しきいし》の端に立つて見上げたつて、窓さへ見えない。下から段々と昇つて行くと、股《もゝ》の所が少し痛くなる時分に、漸く先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に眞鍮の敲子《ノツカー》がぶら下がつてゐる丈《だけ》である。しばらく門前で休息して、此の敲子《ノツカー》の下端《かたん》をこつ／＼と戸板へぶつけると、内から開けて呉れる。

　開けて呉れるものは、何時《いつ》でも女である。近眼《ちかめ》の所爲《せゐ》か眼鏡を掛けて、絶えず驚いてゐる。年は五十位だから、隨分久しい間世の中を見て暮した筈だが、矢つ張りまだ驚いてゐる。戸を敲くのが氣の毒な位大きな眼をして入らつしやいと云ふ。

　這入ると女はすぐ消えて仕舞ふ。さうして取附《とつつき》の客間――始めは客間とも思はなかつた。別段裝飾も何もない。窓が二つあつて、書物が澤山｜並《なら》んでゐる丈《だけ》である。クレイグ先生は大抵其處に陣取つてゐる。自分の這入つて來るのを見ると、やあと云つて手を出す。握手をしろといふ相圖だから、手を握る事は握るが、向《むかふ》ではかつて握り返した事がない。此方《こつち》もあまり握り心地が好い譯でもないから、一層《いつそ》廢《よ》したら可《よ》からうと思ふのに、失つ張りやあと云つて毛だらけな皺だらけな、さうして例によつて消極的な手を出す。習慣は不思議なものである。

　この手の所有者は自分の質問を受けて呉れる先生である。始めて逢つた時報酬はと聞いたら、左《さ》うさな、と一寸窓の外を見て、一回七｜志《シルリング》ぢやどうだらう。多過ぎればもつと負けても好いと云はれた。それで自分は一回七｜志《シルリング》の割で月末に全額を拂ふ事にしてゐたが、時によると不意に先生から催促を受ける事があつた。君、少し金が入るから拂つて行つて呉れんか抔《など》と云はれる。自分は洋袴《ズボン》の隱《かく》しから金貨を出して、むき出しにへえと云つて渡すと、先生はやあ濟まんと受取りながら、例の消極的な手を擴げて、一寸｜掌《てのひら》の上で眺めた儘、やがて是れを洋袴《ズボン》の隱《かく》しへ収められる。困る事には先生決して釣を渡さない。餘分を來月へ繰り越さうとすると、次の週に又、ちょつと書物を買ひたいから抔《など》と催促される事がある。

　先生は愛蘭土《アイヤランド》の人で言葉が頗る分らない。少し焦《せ》き込《こ》んで來ると、東京者が薩摩人と喧嘩をした時位に六づかしくなる。それで大變｜疎忽《そゝつか》しい非常な焦《せ》き込《こ》み屋《や》なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔｜丈《だけ》見てゐた。

　其の顔が又決して尋常ぢやない。西洋人だから鼻は高いけれども、段があつて、肉が厚過ぎる。其處は自分に善く似てゐるのだが、こんな鼻は一見した所がすつきりした好い感じは起らないものである。其の代り其處《そこ》いら中《ぢゆう》むしやくしやしてゐて、何となく野趣がある。髯｜抔《など》はまことに御氣の毒な位｜黒白《こくびやく》亂生《らんせい》してゐた。いつかベーカーストリートで先生に出合つた時には、鞭《むち》を忘れた御者《カブマン》かと思つた。

　先生の白襯衣《しろシヤツ》や白襟を着けたのは未だ曾て見た事がない。いつでも縞のフラネルをきて、むくむくした上靴《うはぐつ》を足に穿《は》いて、其の足を煖爐《ストーブ》の中へ突き込む位に出して、さうして時々短い膝を敲いて――其の時始めて氣が附いたのだが、先生は消極的の手に金の指輪を嵌《は》めてゐた。――時には敲く代りに股《もゝ》を擦《こす》つて、教へて呉れる。尤も何を教へて呉れるのか分らない。聞いてゐると、先生の好きな所へ連れて行つて、決して歸してくれない。さうして其の好きな所が、時候の變り目や、天氣都合で色々に變化する。時によると昨日《きのふ》と今日《けふ》で兩極へ引越しをする事さへある。わるく云へば、まあ出鱈目《でたらめ》で、よく評すると文學上の座談をして呉れるのだが、今になつて考へて見ると、一回七｜志《シルリング》位で纒つた規則正しい講義｜抔《など》の出來る譯のものではないのだから、是は先生の方が尤もなので、それを不平に考へた自分は馬鹿なのである。尤も先生の頭も、其の髯の代表する如く、少しは亂雜に傾いてゐた樣でもあるから、寧ろ報酬の値上をして、えらい講義をして貰はない方が可《よ》かつたかも知れない。

　先生の得意なのは詩であつた。詩を讀むときには顔から眉の邊《あたり》が陽炎《かげろふ》の樣に振動する。――嘘ぢやない。全く振動した。其の代り自分に讀んで呉れるのではなくつて、自分が一人で讀んで樂んでゐる事に歸着して仕舞ふから詰りは此方《こつち》の損になる。いつかスヰンバーンのロザモンドとか云ふものを持つて行つたら、先生一寸見せ玉へと云つて、二三行朗讀したが、忽ち書物を膝の上に伏せて、鼻眼鏡をわざ／＼はづして、あゝ駄目々々スヰンバーンも、こんな詩を書く樣に老い込んだかなあと云つて嘆息された。自分がスヰンバーンの傑作アタランタを讀んで見樣《みやう》と思ひ出したのは此の時である。

　先生は自分を小供の樣に考へてゐた。君かう云ふ事を知つてるか、あゝ云ふ事が分つてるか抔《など》と愚《ぐ》にも附かない事を度々質問された。かと思ふと、突然えらい問題を提出して急に同輩扱《どうはいあつかひ》に飛び移る事がある。いつか自分の前でワトソンの詩を讀んで、是はシエレーに似た所があると云ふ人と、全く違つてゐると云ふ人とあるが、君はどう思ふと聞かれた。どう思ふたつて、自分には西洋の詩が、先づ眼に訴へて、しかる後《のち》耳を通過しなければ丸《まる》で分らないのである。そこで好い加減な挨拶をした。シエレーに似てゐる方だつたか、似てゐない方だつたか、今では忘れて仕舞つた。が可笑《をか》しい事に、先生は其の時例の膝を叩いて僕もさう思ふと云はれたので、大いに恐縮した。

　ある時窓から首を出して、遙かの下界を忙《いそが》しさうに通る人を見下《みおろ》しながら、君あんなに人間が通るが、あの内で詩の分るものは百人に一人もゐない、可愛相《かはいさう》なものだ。一體｜英吉利人《イギリスじん》は詩を解する事の出來ない國民でね。其處へ行くと愛蘭土人《アイヤランドじん》はえらいものだ。はるかに高尚だ。――實際詩を味《あぢは》ふ事の出來る君だの僕だのは幸福と云はなければならない。と云はれた。自分を詩の分る方の仲間へ入れてくれたのは甚だ難有《ありがた》いが、其の割合には取扱が頗る冷淡である。自分は此の先生に於て未だ情合《じやうあひ》といふものを認めた事がない。全く器械的に喋舌《しやべ》つてる御爺さんとしか思はれなかつた。

　けれども斯《こ》んな事があつた。自分の居る下宿が甚だ厭になつたから、此の先生の所へでも置いて貰はうかしらと思つて、ある日例の稽古を濟ましたあと、頼んで見ると、先生忽ち膝を敲いて、成程、僕のうちの部屋を見せるから、來給へと云つて、食堂から、下女部屋から、勝手から、一應すつかり引つ張り回して見せて呉れた。固《もと》より四階裏の一隅だから廣い筈はない。二三分かゝると、見る所はなくなつて仕舞つた。先生は其處で、元の席へ歸つて、君斯ういふ家《うち》なんだから、何處へも置いて上げる譯には行かないよと斷るかと思ふと、忽ちワルト・ホイツトマンの話を始めた。昔ホイツトマンが來て自分の家《うち》へ少時《しばらく》逗留して居た事がある――非常に早口だから、よく分らなかつたが、どうもホイツトマンの方が來たらしい――で、始めあの人の詩を讀んだ時は丸《まる》で物にならない樣な心持がしたが、何遍も讀《よ》み過《すご》してゐるうちに段々面白くなつて、仕舞には非常に愛讀する樣になつた。だから……

　書生に置いて貰ふ件は、丸《まる》で何處かへ飛んで行つて仕舞つた。自分はたゞ成行《なりゆき》に任せてへえ／＼と云つて聞いてゐた。何でも其の時はシエレーが誰とかと喧嘩をしたとか云ふ事を話して、喧嘩はよくない、僕は兩方共好きなんだから、僕の好きな二人が喧嘩をするのは甚だよくないと故障を申し立てゝ居られた。いくら故障を申し立てゝも、もう何十年か前に喧嘩をして仕舞つたのだから仕方がない。

　先生は疎忽《そゝつ》かしいから、自分の本｜抔《など》をよく置き違へる。さうして夫《それ》が見當らないと、大いに焦《せ》き込《こ》んで、臺所に居る婆さんを、ぼやでも起つた樣に、仰山《ぎやうさん》な聲をして呼び立てる。すると例の婆さんが、是れも仰山《ぎやうさん》な顔をして客間へあらはれて來る。

　『お、おれの「ウオーヅウオース」は何處へ遣《や》つた』

　婆さんは依然として驚いた眼を皿の樣にして一應書棚を見廻してゐるが、いくら驚いても甚だ慥《たし》かなもので、すぐに、「ウオーヅウオース」を見附け出す。さうして、「ヒヤ、サー」と云つて、聊《いさゝ》かたしなめる樣に先生の前に突き附ける。先生はそれを引つたくる樣に受け取つて、二本の指で汚《きた》ない表紙をぴしや／＼敲きながら、君、ウオーヅウオースが……と遣り出す。婆さんは、益《ます／＼》驚いた眼をして臺所へ退《さが》つて行く。先生は二分も三分も「ウオーヅウオース」を敲いてゐる。さうして折角捜して貰つた「ウオーヅウオース」を遂に開けずに仕舞ふ。

　先生は時々手紙を寄こす。其の字が決して讀めない。尤も二三行だから、何遍でも繰返して見る時間はあるが、どうしたつて判定は出來ない。先生から手紙がくれば差支があつて稽古が出來ないと云ふことゝ斷定して始めから讀む手數《てすう》を省《はぶ》く樣にした。たまに驚いた婆さんが代筆をする事がある。其の時は甚だよく分る。先生は便利な書記を抱《かゝ》へたものである。先生は、自分に、どうも字が下手で困ると嘆息してゐられた。さうして君の方が餘程上手だと云はれた。

　かう云ふ字で原稿を書いたら、どんなものが出來るか心配でならない。先生はアーデン・シエクスピヤの出版者である。よくあの字が活版に變形する資格があると思ふ。先生は、それでも平氣に序文をかいたり、ノートを附けたりして濟《すま》してゐる。のみならず、此の序文を見ろと云つてハムレツトへ附けた緒言《しよげん》を讀まされた事がある。其の次行つて面白かつたと云ふと、君日本へ歸つたら是非此の本を紹介して呉れと依頼された。アーデン・シエクスビヤのハムレットは自分が歸朝後大學で講義をする時に非常な利益を受けた書物である。あのハムレツトのノート程周到にして要領を得たものは恐らくあるまいと思ふ。然し其の時は左程《さほど》にも感じなかつた。然し先生のシエクスピヤ研究には其の前から驚かされてゐた。

　客間を鍵の手に曲ると六疊程な小さな書齋がある。先生が高く巣をくつてゐるのは、實を云ふと、此の四階の角で、其の角の又角に先生に取つては大切な寶物がある。――長さ一尺五寸幅一尺程な青表紙の手帳を約十冊ばかり併《なら》べて、先生はまがな隙《すき》がな、紙片《かみぎれ》に書いた文句を此の青表紙の中へ書き込んでは、吝坊《けちんばう》が穴の開《あ》いた錢《ぜに》を蓄《ため》る樣に、ぽつり／＼と殖やして行くのを一生の樂みにして居る。此の青表紙が沙翁字典《さをうじてん》の原稿であると云ふ事は、こゝへ來出《きだ》して暫く立つとすぐに知つた。先生は此の字典を大成する爲に、ウエールスのさる大學の文學の椅子を抛《なげう》つて、毎日ブリチツシ・ミユージアムヘ通ふ暇をこしらへたのださうである。大學の椅子さへ抛《なげう》つ位だから、七志《シルリング》の御弟子を疎末《そまつ》にするのは無理もない。先生の頭のなかには此の字典が終日終夜｜槃桓磅?《ばんくわんはうはく》してゐるのみである。

　先生、シユミツドの沙翁字彙《さをうじゐ》がある上にまだそんなものを作るんですかと聞いた事がある。すると先生はさも輕蔑を禁じ得ざる樣な樣子で是れを見給へと云ひながら、自己所有のシユミツドを出して見せた。見ると、さすがのシユミツドが前後二卷一頁として完膚なき迄眞黒になつてゐる。自分はへえと云つたなり驚いてシユミツドを眺めてゐた。先生は頗る得意である。君、もしシユミツドと同程度のものを拵へる位なら僕は何もこんなに骨を折りはしないさと云つて、又二本の指を揃へて眞黒なシユミツドをぴしや／＼敲き始めた。

　「全體｜何時頃《いつごろ》から、こんな事を御始めになつたんですか」

　先生は立つて向ふの書棚へ行つて、しきりに何か捜し出したが、又例の通り焦《じ》れつたさうな聲でジエーン、ジエーン、おれのダウデンは何うしたと、婆さんが出て來ないうちから、ダウデンの在所《ありか》を尋ねてゐる。婆さんは又驚いて出て來る。さうして又例の如くヒヤ、サーと窘《たしな》めて歸つて行くと、先生は婆さんの一拶《いつさつ》には丸《まる》で頓着なく、餓《ひも》じさうに本を開けて、うん此處にある。ダウデンがちやんと僕の名を此處へ擧げて呉れてゐる。特別に沙翁《さをう》を研究するクレイグ氏と書いて呉れてゐる。此の本が千八百七十……年の出版で僕の研究は夫《それ》よりずつと前なんだから……自分は全く先生の辛抱に恐れ入つた。序《つい》でに、ぢや何時《いつ》出來上るんですかと尋ねて見た。何時《いつ》だか分るものか、死ぬ迄遣る丈《だけ》の事さと先生はダウデンを元の所へ入れた。

　自分は其《そ》の後《ご》暫くして先生の所へ行かなくなつた。行かなくなる少し前に、先生は日本の大學に西洋人の教授は要らんかね。僕も若いと行くがなと云つて、何となく無常を感じた樣な顔をしてゐられた。先生の顔にセンチメントの出たのは此の時｜丈《だ》けである。自分はまだ若いぢやありませんかといつて慰めたら、いや／＼何時《いつ》どんな事があるかも知れない。もう五十六だからと云つて、妙に沈んで仕舞つた。

　日本へ歸つて二年程したら、新着の文藝雜誌にクレイグ氏が死んだと云ふ記事が出た。沙翁《さをう》の專門學者であると云ふことが、二三行書き加へてあつた丈《だけ》である。自分は其の時雜誌を下へ置いて、あの字引はつひに完成されずに、反故《ほご》になつて仕舞つたのかと考へた。

　　　　　　　　　明治四二、一、一−三、一二

　

　　　長谷川君と余

　

　長谷川君《はせがはくん》と余は互ひに名前を知る丈《だけ》で、其《その》他《た》には何の接觸もなかつた。余が入社の當時すらも、長谷川君が既にわが朝日の社員であるといふ事を知らなかつた樣に記憶してゐる。それを知り出したのは、どう云《い》ふ機會であつたか今は忘却して仕舞つた。兎《と》に角《かく》入社しても暫らくの間は顔を合せずにゐた。しかも長谷川君の家《うち》は西片町《にしかたまち》で、余も當時は同じ阿部《あべ》の屋敷内《やしきうち》に住んでゐたのだから、住居《すまひ》から云へばつい鼻の先である。だから本當を云ふと、此方《こつち》から名刺でも持つて訪問するのが世間並《せけんなみ》の禮であつたんだけれども、そこをつい怠《なま》けて、何處《どこ》が長谷川君の家《いへ》だか聞き合せもせずに横着を極《き》めて仕舞つた。すると間もなく大阪から鳥居君《とりゐくん》が來たので、主筆《しゆひつ》の池邊君《いけべくん》が我々十餘人を有樂町《いうらくちやう》の倶樂部《クラブ》へ呼んで御馳走《ごちそう》をしてくれた。余は新入の社員として、其時始めてわが社の重《おも》なる人と食卓を共にした。そのうちに長谷川君もゐたのである。是《これ》が長谷川君でと紹介された時には、かねて想像してゐた所を、あまりに隔たつてゐたので、心のうちでは驚ろきながら挨拶《あいさつ》をした。始め長谷川君の這入《はい》つて來た姿を見たときは――又長谷川君が他の昵懇《ぢつこん》な社友とやあといふ言葉を交換する調子を聞いた時は――全く長谷川君だとは氣が付かなかつた。たゞ重な社員の一人なんだらうと思つた。余は若い時から色々｜愚《ぐ》な事を想像する癖《くせ》があるが、未知の人の容貌《ようばう》態度｜抔《など》はあまり腦中に描かない。ことに中年からは、此《この》方面にかけると全く散文的になつて仕舞つてゐる。だから長谷川君に就《つい》ても別段に鮮明な豫想は持つて居なかつたのであるけれども、冥々《めい／＼》のうちに、漠然《ばくぜん》とわが腦中に、長谷川君として迎へるあるものが存在して居たと見えて、長谷川君といふ名を聞くや否やおやと思つた。尤《もつと》も其驚ろき方を解剖して見るとみんな消極的である。第一あんなに脊《せ》の高い人とは思はなかつた。あんなに頑丈《ぐわんぢやう》な骨骼《こつかく》を持つた人とは思はなかつた。あんなに無粹《ぶいき》な肩幅のある人とは思はなかつた。あんなに角張つた顎《あご》の所有者とは思はなかつた。君の風?《ふうぼう》はどこからどこ迄《まで》四角である。頭迄四角に感じられたから今考へると可笑《をか》しい。其當時「その面影《おもかげ》」は讀んでゐなかつたけれども、あんな艶《つや》つぽい小説を書く人として自然が製作した人間とは、とても受取れなかつた。魁偉《くわいゐ》といふと少し大袈裟《おほげさ》で惡いが、いづれかといふと、それに近い方で、到底細い筆｜抔《など》を握つて、机の前で呻吟《しんぎん》してゐさうもないから實は驚ろいたのである。然《しか》し其上にも余を驚ろかしたのは君の音調である。白状すれば、もう少しは浮いてるだらうと思つた。所が非常な呂音《りよおん》で大變落ち付いて、緩《ゆつ》くりした、少しも逼《せま》る所のない話し方をする。しかも余に紹介された時、君はたゞ一二語しか云はなかつた。（尤《もつと》も余も同じ分量位しか挨拶に費やさなかつたのは事實である。）其言葉は今全く忘れてゐるが、普通にありふれた空虚な辭令でなかつたのは慥《たし》かである。寧《むし》ろ双方で無愛想に頭を下げたのだつたらうが、自分の事は分らないから、相手の容子《ようす》丈《だけ》に驚ろくのである。文學者だから御世辭を使ふとなると、外《ほか》の諸君に濟まないけれども、實を云へば長谷川君と余の挨拶が、あゝ單簡《たんかん》至極に片付かうとは思はなかつた。――是《これ》等《ら》は皆豫想外である。

　此席上で余は長谷川君と話す機會を得なかつた。たゞ黙つて君の話を聞いてゐた。其時余の受けた感じは、品位のある紳士らしい男――文學者でもない、新聞社員でもない、又政客でも軍人でもない、あらゆる職業以外に嚴然として存在する一種品位のある紳士から受くる社交的の快味であつた。さうして、此品位は單に門地階級から生ずる貴族的のものではない、半分は性情、半分は修養から來てゐるといふ事を悟つた。しかも其修養のうちには、自制とか克己とかいふ所謂《いはゆる》漢學者から受襲《うけつ》いで、強いて己れを矯《た》めた痕迹《こんせき》がないと云ふ事を發見した。さうして其幾分は學問の結果｜自《おのづ》から此《こゝ》に至つたものと鑑定した。又幾分は學問と反封の方面、即ち俗に云ふ苦勞をして、野暮《やぼ》を洗ひ落して、さうして再び野暮に安住してゐる所から起つたものと判斷した。

　其うち、君は池邊君と露西亞《ロシア》の政黨談をやり出した。大變興味があると見えて、何時《いつ》迄立つても已《や》めない。?々《びゞ》數千言と云ふと無暗《むやみ》に能辯に喋舌《しやべ》る樣に聞えてわるいが、時間から云へば、斯《こ》んな形容詞でも使はなくつてはならなくなる位論じてゐた。其知識の詳密精細なる事は又格別なもので、向つて左《ひだ》りの何《ど》の邊に誰《だれ》がゐて、其反對の側に誰の席がある抔《など》と、丸《まる》で露西亞へ昨日《きのふ》行つて見て來た樣に、例の六《む》づかしい何々スキー抔《など》と云ふ名前がいくつも出た。然し不思議にも此談話は、物知り振つた、又｜通《つう》がつた陋惡《ろうあく》な分子を一點も含んでゐなかつた。余は固《もと》より政黨政治に無頓着《むとんぢやく》な質《たち》で、かつて今の衆議院の議長は誰だつたかねと聞いて友達から笑はれた位の男だから、露西亞に議會があるかないかさへ知らない。從つて此談話には何等の興味もなかつた。それで、あんまり長いから、談話の途中で失敬して家《うち》へ歸つて仕舞つた。是が余の長谷川君と初對面の時の感想である。

　それから、幾日か立つて、用が出來て社へ行つた。汚ない階子段《はしごだん》を上がつて、編輯局《へんしふきよく》の戸を開《あ》けて這入《はい》ると、北側の窓｜際《ぎは》に寄せて据ゑた洋机《テーブル》を圍んで、四五人話をしてゐるものがある。外《ほか》の人の顔は、戸を開けるや否やすぐ分つたが、たつた一人余に背中を向けて椅子《いす》に腰を卸ろして、鼠色の脊廣《せびろ》を着て、長い胴を椅子の脊から食《は》み出さしてゐたものは誰だか見當が付かなかつた。横へ回つて見ると、それが長谷川君であつた。其時余は長谷川君に向つて、「一寸《ちよつと》御訪《おたづ》ねをしやうと思ふんだが」と言ひ出して、まだ句を切らないうちに、君は「いや低氣壓のある間は來客謝絶だ」と云つた。低氣壓とは何の事だか、君の平生《へいぜい》を知らない余には不得要領であつたけれど、來客謝絶の四字の方が重く響いたので、聞き返しもしなかつた。たゞ好い加減に頭の惡い事を低氣壓と洒落《しや》れてゐるんだらう位に解釋してゐたが、後《あと》から聞けば實際の低氣壓の事で、苟《いや》しくも低氣壓の去らないうちは、君の頭は始終｜懊惱《あうなう》を離れないんだといふ事が分つた。當時余も君の向ふを張つて來客謝絶の看板を懸けてゐた。尤《もつと》も是《これ》は創作の低氣壓の爲であつたけれども、來客謝絶は表向き双方同じ事なんだから、此看板を引き下させる丈の縁故も親しみもない兩人は、夫《それ》切《き》り面談をする機會がなかつた。

　所がある日の午后《ごご》湯に行つた。着物を脱いで、流しへ這入らうとして、不圖《ふと》向ふむきになつて洗つてゐる人の横顔を見ると、長谷川君である。余は長谷川さんと聲を掛けた。夫《それ》迄《まで》は丸で氣が付かなかつた君は、顔を上げて、やあと云つた。湯の中では夫《そ》れぎりしか口｜利《き》かなかつた。何でも暑い時分の事と覺えてゐる。余が身體《からだ》を拭《ふ》いて、茣蓙《ござ》の敷いてある縁先で、團扇《うちは》を使つて凉《すゞ》んでゐると、やがて長谷川君が上《あが》つて來た。まづ眼鏡を掛けて、余を見付け出して、向ふから話を始めた。双方とも眞赤裸《まつぱだか》の樣に記憶してゐる。然し長谷川君の話し方は初對面の折露西亞の政當を論じた時と毫《がう》も異なる所なく、呂音《りよおん》で落ち付いて、緩《ゆつ》くりしてゐるものだから、全く赤裸《はだか》と釣り合はない。君は少しも顧慮する氣色《けしき》も見えず醇々《じゆん／＼》として頭の惡い事を説かれた。何でも去年とか一度卒倒して、しばらく田端《たばた》邊で休養してゐたので、今ぢや少しは好い樣だとかいふ話であつた。「それぢや、まだ來客謝絶だらう」と冗談半分に聞いて見たら、「まあ……」とか何とか云ふ返事であつた。「それぢや、行くのはまあ見合せ樣」と云つて分れた。

　其秋余は西片町を引き上げて早稻田《わせだ》へ移つた。長谷川君と余とは此引越のため益《ます／＼》縁が遠くなつて仕舞つた。其代り君の著作にかゝる「其面影《そのおもかげ》」を買つて來て讀んだ。さうして大いに感服した。（ある意味から云へば、今でも感服してゐる。こゝに余の所謂《いはゆる》ある意味を説明する事の出來ないのは遺憾であるが、作物《さくぶつ》の批評を主《おも》にして書いたものでないから已《やむ》を得ない。）そこで、手紙を認《したゝ》めて、聊《いさゝ》かながら早稻田から西片町へ向けて賛辭を郵送した。實は腦病が氣の毒でならなかつたから、こんな餘計な事をしたのである。其當時君は文學者を以《もつ》て自《みづ》から任じてゐないなどゝは夢にも知らなかつたので、同業者同社員たる余の言葉が、少しは君に慰藉《ゐしや》を與へはしまいかといふ己惚《うぬぼれ》があつたんだが、文士たる事を恥《は》づといふ君の立場を考へて見ると、これは實際入らざる差し出た所爲《しよゐ》であつたかも知れない。返事には端書《はがき》が一枚來た。其文句は、難有《ありがた》う、いづれ拜顔の上とか何とかある丈《だけ》で、頗《すこぶ》る簡單｜且《か》つあつさりしてゐた。ちつとも「其面影」流でないのには驚ろいた。長谷川君の書に一種の風韻のある事も其時始めて知つた。然し其書體も決して「其面影」流ではなかつた。

　それから、ずつと打絶えた。次に逢《あ》つたのは君が露西亞へ行く事が略《ほゞ》内定した時のことである。大阪の鳥居君が出て來て、長谷川君と余を呼んで午餐《ごさん》を共にした。所は神田川《かんだがは》である。旅館に落合つて、彼處《あすこ》にしやう、此所《こゝ》にしやうと評議をして居る時に、君はしきりに食ひ物の話しを持ち出した。中華亭《ちゆうくわてい》とはどう書いたかねと余に聞いた事を覺えてゐる。神田川では、滿洲へ旅行した話やら、露西亞人に捕《つら》まつて牢《らう》へ打《ぶ》ち込まれた話をしてゐた。夫《それ》から、現今の露西亞文壇の趨勢《すうせい》の斷えず變つてゐる有樣やら、知名の文學者の名やら（其名は澤山あつたが、みんな余の知らないもの許《ばか》りであつた、）日本の小説の賣れない事やら、露西亞へ行つたら、日本人の短篇を露語に譯して見たいといふ希望やら、色々述べた。何しろ三人｜寐《ね》そべつて、二三時間暮してゐたのだから、隨分ゆつくり話も出來た。最後にダンチエンコのために宴會をやる積《つもり》だから出席して呉れろといふ事と、それから物集《もづめ》の御孃さんを、自分がゐなくなつたら托《たく》したいといふ二件を依頼した。それで分れた。

　最後に逢《あ》つたのは、出立《しゆつたつ》の數日｜前《ぜん》暇乞《いとまごひ》に來られた時である。長谷川君が余の家へ足を入れたのは是《これ》が最初であつて又最終である。座敷へ通つて、室内を見渡して、何だか伽藍《がらん》の樣だねと云つた。暇乞の爲だから別段の話も出なかつたが、たゞ門弟としての物集《もづめ》の御孃さんと今一人北國の人の事を繰り返して頼んで行つた。一日越えて、余が答禮に行つた時は、不在で逢へなかつた。見送りにはつい行かなかつた。長谷川君とは、それ限《ぎ》り逢へない事になつて仕舞つた。露都《ろと》在留中たゞ一枚の端書をくれた事がある。それには、弱い話だが此方《こつち》の寒さには敵《かな》はないとあつた。余は其端書を見て氣の毒のうちにも一種の可笑味《をかしみ》を覺えた。まさか死ぬ程寒いとは思はなかつたからである。然し死ぬ程寒かつたものと見える。長谷川君はとう／＼死んで仕舞つた。長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しないで死んで仕舞つた。生きてゐても、あれ限《ぎ》りの交際であつたかも知れないが、あるひは、もつと親密になる機會が來たかも分らない。余は以上の長谷川君を、長谷川君として記憶するより外に仕方のない遠い朋友《ほういう》である。君の托されて行った物集《もづめ》の御孃さんは時々見える。北國の人に至つては音信《たより》さへない。

　　　　　　　　−明治四二、八、一−

　

　　　滿韓ところ／”＼

　

　　　　　一

　

　南滿鐵道會社《なんまんてつだうくわいしや》つて一體何をするんだいと眞面目に聞いたら、滿鐵《まんてつ》の總裁も少し呆《あき》れた顔をして、御前も餘つ程馬鹿だなあと云つた。是公《ぜこう》から馬鹿と云はれたつて怖《こは》くも何ともないから黙つてゐた。すると是公が笑ひながら、何《どう》だ今度《こんだ》一所に連れてつて遣らうかと云ひ出した。是公の連れて行つて遣らうかは久しいもので二十四五年｜前《ぜん》、神田の小川亭《をがはてい》の前にあつた怪しげな天麩羅屋《てんぷらや》へ連れて行つて呉れた以來時々連れてつて遣らうかを余に向つて繰返す癖がある。其癖｜未《いま》だ大した所へ連れて行つて呉れた試《ためし》がない。「今度《こんだ》一所に連れてつて遣らうか」も大方《おほかた》其｜格《かく》だらうと思つてたゞうんと答へて置いた。此氣のない返事を聞いた總裁は、まあ海外に於ける日本人がどんな事をしてゐるか、ちつと見て來るが可《い》い。御前見た樣に何にも知らないで高慢な顔をしてゐられては傍《はた》が迷惑するからと頗る適切めいた事を云ふ。何でも是公に聞いて見ると馬關《ばくわん》や何かで我々の不必要と認める程の御茶代｜抔《など》を宿屋へ置くんださうだから、是公と一所に歩いて、此｜尨大《ばうだい》な御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるか一寸見たくなつた。そこで、ぢや君の供をしてへい／＼云つて歩いて見たいなと注文を付けたら、そりや何うでも構はない、一所が厭なら別でも差支ないと云ふ返事であつた。

　夫《それ》から御供をするのは何時《いつ》だらうかと思つて、面白半分に待つてゐると、八月｜半《なか》ばに使が來て何時《いつ》でも立てる用意が出來てるかと念を押した。立てると云へば立てる樣な身上《しんじやう》だから立てると答へた。すると又十日程して何時何日《いついつか》の船で馬關《ばくわん》から乘るが、好いかと云ふ手紙が來た。それも、ちやんと心得た。次には用事が出來たから一船《ひとふね》延ばすが何うだと云ふ便《たよ》りがあつた。これも譯なく承知した。然し承知してゐる最中に、突然｜急性《きふせい》胃カタールでどつと遣られて仕舞つた。かうなると如何《いか》に約束を重んずる余も、出發迄に全快するかしないか自分で保證し惡《にく》くなつて來た。胸へ差し込みが來ると、約束どころぢやない。馬關も御茶代も、是公も大連も滅茶々々になつて仕舞ふ。世界がたゞ眞黒な塊《かたまり》に見えた。夫《それ》でも御供旅行の好奇心はどこかに潜んで居たと見えて、先へ行つてくれと云ふ事は一口も是公に云はなかつた。

　そのうち胃の處が瓦斯《ガス》か何かで一杯になつた。茶碗の音｜抔《など》を聞くと腹が立つた。人間は何の必要があつて飯｜抔《など》を食ふのか氣の知れない動物だ、斯うして氷さへ噛《かじ》つて居れば清淨潔白《しやうじやうけつぱく》で何も不足はないぢやないかと云ふ氣になつた。枕元で人が何か云ふと、話をしなくつちあ生きてゐられない御喋舌《おしやべり》程情ない下賤なものはあるまいと思つた。眼を開《ひら》いて本棚を見渡すと書物がぎつしり詰つてゐる。其書物が一々違つた色をしてさうして悉《こと／”＼》く別々な名を持つてゐる。煩《わづら》はしい事｜夥《おびたゞ》しい。何の醉興でこんな差別を付けたものだらう、又何の因果でそれを大事さうに列《なら》べ立《た》てたものだらう。實にしち面倒臭い世の中だ。早く死んぢまへと云ふ氣になつた。

　禎二《ていじ》さんが蒲團の横へ來て、どうですと尋ねたが、返事をするのが馬鹿氣てゐて何とも云ふ了見にならない。代診が來て、是ぢや旅行は無理ですよ、醫者として是非｜止《と》めなくつちやならないと説諭したが、御尤《ごもつと》もだとも不尤《ふもつと》もだとも答へるのが厭だつた。

　そのうち日は容赦なく經《た》つた。病氣は依然として元の所に逗留してゐた。とう／＼出發の前日になつて、電話で中村へ斷つた。中村は御大事になさいと云つて先へ立つて仕舞つた。

　

　　　　　二

　

　小蒸氣《こじようき》を出て鐵嶺丸《てつれいまる》の舷側を上《のぼ》るや否や、商船會社の大河平《おこひら》さんが、どうか總裁と御一所の樣に伺ひましたがと云はれる。船が動き出すと、事務長の佐治君《さぢくん》が總裁と同じ船で御出《おいで》になると聞いてゐましたがと聞かれる。船長さんにサルーンの出口で出逢ふと總裁と御同行の筈だと誰か云つてた樣でしたがと質問を受ける。斯うみんなが總裁々々と云ふと是公《ぜこう》と呼ぶのが急に恐ろしくなる。仕方がないから、えゝ總裁と一所の筈でしたが、えゝ總裁と同じ船に乘る約束でしたがと、忽ち二十五年來用ひ慣れた是公《ぜこう》を儉約し始めた。此儉約は鐵嶺丸《てつれいまる》に始まつて、大連から滿洲一面に廣がつて、とう／＼安東縣《あんとうけん》を經て、韓國《かんこく》に迄及んだのだから少からず恐縮した。總裁といふ言葉は、世間には何う通用するか知らないが、余が舊友｜中村是公《なかむらぜこう》を代表する名詞としては、餘りにえら過ぎて、餘りに大袈裟で、餘りに親しみがなくつて、餘りに角《かど》が出過ぎてゐる。一向《いつかう》味《あぢはひ》がない。たとひ世間が何う云はうと、余一人は矢張り昔の通り是公々々と呼び棄てにしたかつたんだが、衆寡《しゆうくわ》敵《てき》せず、已《やむ》を得《え》ず、折角の友達を、他人扱ひにして五十日間通して來たのは遺憾である。

　船の中は比較的樂だつた。二百十日《にひやくとをか》の明《あく》る日《ひ》に神戸を立つたのだから、多少の波風は無論｜御出《おいで》なさるんだらうと思つてちやんと覺悟を極《き》めてゐた所が、天氣は存外｜呑氣《のんき》に出來たもので、神戸から大連に着く迄大抵は鈍《にぶ》り返《かへ》つてゐた。甲板の上に若い英吉利《イギリス》の男が犬を抱《だ》いて穩《おだや》かに寢てゐたと云つたら、海の容子《ようす》も大抵は想像されるだらうと思ふ。

　ありや何ですかと事務長の佐治さんに聞くと、え、あれは英國の副領事《ふくりやうじ》ださうですと、佐治さんが答へた。副領事かも知れないが余には美しい二十一二の青年としか思はれなかつた、之に反して犬は頗る妙な顔をしてゐた。尤もブルドッグだから兩親からして既に普通の顔とは縁の遠い方に違ひない。從つて特に此奴《こいつ》丈《だけ》を責めるのは殘酷だが、一方から云ふと、また不思議に妙な顔をしてゐるんだから已《やむ》を得《え》ない。此犬は其《その》後《ご》大連に渡つて大和《やまと》ホテルに投宿した。さうとは些《ちつ》とも知らずに、食堂に入《はい》つて飯を食つてゐると、突然此顔に出食《でつく》はして一驚《いつきやう》を喫《きつ》した。固《もと》より犬の食堂ぢやないんだけれども、犬の方で間違へて這入つて來たものと見える。尤も彼の主人も其時食堂にゐた。主人は多數の人間のゐる所で、犬と高聲に談判するのを非紳士的と考へたと見えて、いきなり彼《か》の妙な顔を胴ぐるみ脇の下に抱《かゝ》へて食堂の外に出て行つた。其退却の模樣は頗る優美であつた。彼は重い犬を恰《あたか》も風呂敷包の如く安々と小脇に抱《かゝ》へて、多くの人の並《なら》んでゐる食卓の間を、足音も立てず大股《おほまた》に歩んで戸の外に身體を隱した。其時犬はわんとも云はなかつた。ぐうとも云はなかつた。恰《あたか》も彈力ある暖かい器械の、素直《すなほ》に自然の力に從ふ樣に、大人《おとな》しく抱《だ》かれて行つた。顔は度々云ふ通り甚だ妙だが、行状《ぎやうじやう》に至つては頗る氣高いものであつた。余は其《その》後《ご》遂に此犬に逢ふ機會を得なかつた。

　

　　　　　三

　

　退屈だから甲板に出て向ふを見ると、晴れたとも曇つたとも方《かた》の付かない天氣の中《うち》に、黒い影が烟を吐いて、靜かな空を濁しながら動いて行く。少時《しばらく》其痕を眺めてゐたが、やがて又｜籐椅子《といす》の上に腰を卸した。例の英吉利《イギリス》の男が、今日は犬を椅子の足に鎖で縛り付けて、長い脛《すね》を其上に延ばして書物を讀んでゐる。もう一人の異人はサルーンで何か頻りに認《したゝ》め物《もの》をしてゐる。其妻君は何處へ行つたか見えない。亞米利加《アメリカ》の宣教師夫婦は席を船長室の傍《わき》へ移した。甲板の上は何時《いつ》もの通り無事であつた。たゞ機關の音｜丈《だけ》が足の裏へ響ける程猛烈に鳴り渡つた。其響の中で何時《いつ》の間《ま》にかうと／＼した。

　眼が覺めてから、サルーンに入《はい》つて亞米利加《アメリカ》の繪入りの雜誌を引《ひ》つ剥《ぺ》がして見た。傍《そば》には日本の雜誌も五六冊片寄せてあつた。いづれも佐治文庫《きぢぶんこ》と云ふ判が押してある。是は事務長の佐治さんが、自分で讀む爲めに上陸の際に買入れて、讀んで仕舞ふと船の圖書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。佐治さんは文學好と見えて、余の著書｜抔《など》も讀んでゐる。友人の畔柳芥舟《くろやなきかいしう》と同郷だと云ふから、差し向ひで芥舟《かいしう》の評判を少しやつた。

　又｜室《へや》を出て海を眺めた。すると先刻《さつき》黒い影を波の上に殘して、遠くの向ふを動いてゐた船が、すぐ眼の前に見える。大きさは鐵嶺丸《てつれいまる》と略《ほゞ》同じ位に思はれるが、船足《ふなあし》が大分《だいぶ》遲《のろ》いと見えて、少時《しはらく》の間《ま》にもう是程｜追付《おつつ》かれたのである。欄干に頬杖を突いて、見てゐると鐵嶺丸が刻一刻と後《うしろ》から逼《せま》つて行くのが能く分る。仕舞には黄色い文字で書いた營口丸《えいこうまる》の三字さへ明《あきら》かに讀める樣になつた。やがて余の船の頭が營口丸の尻より先へ出た。さうして、尻から胴の方へぢり／＼と競《せ》り上《あ》げて行つた。船は約一丁を隔てゝ殆んど並行《へいかう》の姿勢で進行してゐる。もう七八分すると、余の船は全く營口丸を乘り切る事が出來さうに思はれた。時に約一丁もあらうと云ふ船と船の間隔が妙に逼《せま》つて來た。向ふの甲板に居る乘客《じようかく》の影が確《たしか》に勘定が出來る樣になつた。見ると悉《こと／”＼》く西洋人である。中には眼鏡を出して此方《こつち》を眺めてゐるのもあつた。けれども見るうちに眼鏡は不必要になつた。髪の色も眼鼻立《めはなだち》も甲板に立つてゐる人は御互に鮮《あざや》かな顔を見合せる程船は近くなつた。其時は全く美しかつた。と思ふと、船は今迄よりも倍以上の速力を鼓《こ》して刹那に近寄り始めた。海の水を細い谷川の樣に仕切つて、營口丸の船體が、六尺程の眼の前に黒く切つ立つた時は、あゝ打《ぶ》つかるなと思つた。途端に向ふの舳《へさき》は余の眼を掠《かす》めて過ぎ去りつゝ、逼《せま》りつゝ、とう／＼中等甲板の角《かど》の所迄行つてどさりと當つた。同時に甲板の上に釣るしてあつた端艇《ボート》が二艘程でんぐり返つた。端艇《ボート》を繋いであつた鐵の棒は無雜作に曲つた。營口丸の船員は手を拍《う》つてわあと囃《はや》し立《た》てた。余と並《なら》んで立つてゐた異人が、妙な聲を出してダム何とか云つた。

　一時間の後《のち》佐治さんが遣つて來て、夏目さん身をかはす〔三字傍点〕のかはす〔三字傍点〕と云ふ字は何う書いたら好いでせうと聞くから、左樣《さう》ですねと云つて見たが、實は余も知らなかつた。爲替《かはせ》の替《かは》せると云ふ字ぢや不可《いけ》ませんかと甚だ文學者らしからぬ事を答へると、佐治さんは承知出來ない顔をして、だつてあれは物を取《と》り替《か》へる時に使ふんでせうと遣り込めるから、已《やむ》を得《え》ず、ぢや假名《かな》が好いでせうと忠告した。佐治さんは呆《あき》れて出て行つた。後で聞くと、衝突の始末を書くので、其｜中《なか》に、本船は身をかはしと云ふ文句を入れたかつたのださうである。

　

　　　　　　　四

　

　船が飯田河岸《いひだがし》の樣な石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思へない。河岸《かし》の上には人が澤山｜並《なら》んでゐる。けれども其大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚《きた》ならしいが、二人寄ると猶《なほ》見苦しい。斯う澤山｜塊《かたま》ると更に不體裁《ふていさい》である。余は甲板の上に立つて、遠くから此群集を見下《みおろ》しながら、腹の中で、へえー、此奴《こいつ》は妙な所へ着いたねと思つた。其《その》中《うち》船が段々｜河岸《かし》に近づいてくるに從つて、陸《をか》の方で帽子を振つて知人に挨拶をするもの抔《など》が出來て來た。宣教師のヰンといふ人の妻君が、中村さんが多分迎へに來て御出《おいで》でせうと、笑ひながら御世辭を云つたが、電報も打たず、何時《いつ》着くとも知らせなかつた余の到着を、いくら權威赫々《けんゐかく／＼》たる總裁だつて豫知し得る道理がない。余は欄干に頬杖を突きながら、成程｜此奴《こいつ》は何うしたものかな、一先《ひとまづ》是公の家《うち》へ行つて宿を聞いて、それから其宿へ移る事にでもするかなと思つてるうちに、船は鷹揚《おうやう》にかの汚《きた》ならしいクーリー團の前に横付《よこづけ》になつて止まつた。止まるや否や、クーリー團は、怒《おこ》つた蜂の巣の樣に、急に鳴動《めいどう》し始めた。其鳴動の突然なのには、一寸膽力を奪はれたが、何しろ早晩地面の上へ下りるべき運命を持つた身體なんだから、仕舞には何うかして呉れるだらうと思つて、矢つ張り頬杖を突いて河岸《かし》の上の混戰を眺めてゐた。すると佐治さんが來て、夏目さん何處へ御出《おいで》になりますと聞いて呉れた。まあ一先《ひとまづ》總裁の家《うち》へでも行つて見ませうと答へてゐると、其處へ背の高い、紺色の夏服を着た立派な紳士が出て來て、懷中から名刺を出して叮嚀に挨拶をされた。それが秘書の沼田《ぬまた》さんだつたので、頬杖を突いて、いつ迄も鳴動を眺めてゐる余には、大變な好都合になつた。沼田さんは今度郷里から呼び迎へられた老人を、自宅へ案内される爲に、船迄來られたのださうだが、同じ鐵嶺丸に余の乘つてゐる事を聞いて、わざ／＼刺《し》を通じられたのである。

　ぢやホテルの馬車でと沼田さんが佐治さんに話してゐる。河岸《かし》の上を見ると、成程馬車が並《なら》んでゐた。力車《りきしや》も澤山ある、所が力車はみんな鳴動連《めいどうれん》が引くので、内地のに比べると甚だ景氣が好くない。馬車の大部分も亦鳴動連によつて、御《ぎよ》せられてゐる樣子である。從つて何《いづ》れも鳴動流に汚《きた》ないもの許《ばかり》であつた。ことに馬車に至つては、其昔日露戰争の當時、露助《ろすけ》が大連を引上げる際に、此儘日本人に引渡すのは殘念だと云ふので、御叮嚀に穴を掘つて、土の中に埋《う》めて行つたのを、チヤンが土の臭《にほひ》を喚いで歩いて、とう／＼嗅《か》ぎ中《あ》てゝ、一つ掘つては鳴動させ、二つ掘つては鳴動させ、とう／＼大連を縱横《たてよこ》十文字に鳴動させる迄に掘り盡くしたと云ふ評判のある、――評判だから、本當の事は分らないが、此評判があらゆる評判のうちで尤も巧妙なものと、誰しも認めざるを得ない程の泥だらけの馬車である。

　其中に東京の眞中でも容易に見る事の出來ない位、新しい奇麗なのが二臺あつた。御者《ぎよしや》が立派なリ?リーを着て、光つた長靴を穿《は》いて、哈爾賓産《ハルビンさん》の肥えた馬の手綱を取つて控へてゐた。佐治さんは、船から河岸《かし》へ掛けた橋を渡つて、鳴動の中を突き切つて、わざ／＼余を其奇麗な馬車の傍《そば》迄連れて行つた。さあ御乘んなさいと勸めながら、すぐ御者臺の方へ向いて、總裁の御宅迄と注意を與へた。御者はすぐ鞭を執つた。車は鳴動の中《うち》を搖《ゆる》ぎ出《だ》した。

　

　　　　　　五

　

　門を這入つて馬車の輪が砂利の上を二三間｜軋《きし》つたかと思ふと、馬は大きな玄關の前へ來て靜かに留まつた。石段を上《あが》つて、入口の所に立つや否や、色の白い十四五の給仕が、頑丈《ぐわんぢやう》な樫《かし》の戸を内から開いて、余の顔を見ながら挨拶をした。もう御歸りかと尋ねると、まだで御座いますと云ふ。留守では仕方がない。何うしたものだらうと思つて、石の上に佇《たゝ》ずんで首を傾《かたぶ》けてゐる所へ、後《うしろ》に足音がする樣だから振り向くと、先刻《さつき》鐵嶺丸で知己《ちかづき》になつた沼田さんである。さあ、どうぞと云はれるので、中《うち》に入《はい》つた。沼田さんは先へ立つて、ホールの突き當りにある厚い戸を開いた。其戸の中へ首を突つ込んで、室《へや》の奧を見渡した時に、こりや滅法廣いなと思つた。數字の觀念に乏しい性質《たち》だから何疊敷だか頓《とん》と要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂の樣な心持がした。其廣い座敷が只一枚の絨毯《じゆうたん》で敷き詰められて、四角《よすみ》丈《だけ》が僅《わづか》許《ばか》り華やかな織物の色と映《て》り合《あ》ふ爲めに、薄暗く光つてゐる。此大きな絨毯《じゆうたん》の上に、應接用の椅子と卓《テーブル》がちよんぼり二所《ふたところ》に並《なら》べてある。一方の卓《テーブル》と一方の卓《テーブル》とは、丸《まる》で隣家《りんか》の座敷位離れてゐる。沼田さんは余を其一方に導いて席を與へられた。仰向いて見ると天井が無暗に高い。高い筈である。室《へや》の入口には二階が付いてゐて、其二階の手摺《てすり》から、余の坐つてゐる所が一目に見下《みおろ》される樣な構造なんだから、詰る所は、余の頭の上が、一階の天井｜兼《けん》二階の天井である。後《のち》に人の説明を聞いて始めて知つたのだが、此だゞつ廣い應接間は、實は舞踏室で、それを見下《みくだ》してゐる手摺付《てすりつき》の二階は、樂隊の樂を奏する所に出來て居るのださうだ。そんなら、さうと早くから教へて呉れゝば、安心するものを、斷りなしに急に佛樣のない本堂へ案内されたものだから先づ一番に吃驚《びつくり》した。余は大連滯在中何度となく此部屋を横切つて、是公《ぜこう》の書齋へ通つたので、喫驚《びつくり》する事は、最初の一度｜丈《だけ》で濟んだが、通るたんびに、居りもせぬ阿彌陀樣を思ひ出さない事はなかつた。

　室《へや》を這入つて右は、徃來を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れてゐる。正面に五尺程の盆栽を二鉢置いて、横に奇麗な象の置物が据ゑてある。大きさは豚の子程ある。是は狸穴《まみあな》の支社の客間で見たものと同じだから、一對《いつつゐ》を二つに分けたものだらうと思つた。其《その》外《ほか》には長い幕の上に、大《おほき》な額が懸つてゐた。其｜左《ひだ》りの端に、小さく南滿鐡路會社總裁後藤新平と書いてある。書體から云ふと、上海《シヤンハイ》邊《へん》で見る看板の樣な字で、筆畫《ひつくわく》が頗る整つてゐる。後藤さんも滿洲へ來てゐた丈《だけ》に、字が旨くなつたものだと感心したが、其《その》實《じつ》感心したのは、後藤さんの揮毫ではなくつて、清國皇帝の御筆《おふで》であつた。右の肩に賜ふと云ふ字があるのを見落した上に後藤さんの名前が小《ち》さ過《す》ぎるのでつい失禮をしたのである。後藤さんも清國皇帝に逢つて、斯う小《ち》さく呼《よ》び棄《ずて》に書かれちや堪《たま》らない。えらい人からは、滅多に賜はつたり何《なん》かされない方が可《い》いと思つた。

　沼田さんは給仕を呼んで、處々方々へ電話を掛けさして、是公《ぜこう》の行方《ゆくへ》を聞き合せて呉れたが全く分らない。米國の艦隊が港内に碇泊《ていはく》してゐるので、驩迎《くわんげい》の爲、今日はベースボールがある筈だから、或は夫《それ》を觀に行つてるかも知れないと云ふ話であつた。

　其内廣い部屋が漸く暗くなりかけた。ぢや何處ぞ宿屋へでも行つて待ちませうと云ふと、社の宿屋ですから、矢つ張り大和《やまと》ホテルが宜《い》いでせうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内して呉れた。

　

　　　　　六

　

　湯を立てゝもらつて、久し振に塩氣《しほけ》のない眞水《まみづ》の中に長くなつて寐てゐる最中に、湯殿の戸をこつ／＼叩くものがある。風呂場で訪問を受けた試《ため》しは未だ曾てないんだから、湯槽《ゆぶね》の中で身を浮かしながら少々｜逡巡《しゆんじゆん》してゐると、叩く方では何うあつても訪問の禮を盡くさねば已《や》まぬといふ決心と見えて、猶《なほ》のこと、こつ／＼やる。いくらこつ／＼遣つたつて、まさか赤裸《はだか》で飛び出して、室《へや》の錠《ぢやう》を明ける譯にも行かないから、風呂の中から大きな聲で、おい何だと用事を聞いて見た。すると摺硝子《すりガラス》の向側《むかふがは》で、一寸明けなさいと云ふ聲がする。此聲なら明けても差支ないと思つて、身體全體から雫《しづく》を垂らしながら、素裸《すつぱだか》でボールトを外《はづ》すと、果して是公が杖を突いて戸口に立つて居た。來るなら電報でも一寸掛ければ好いものをと云ふ。何處へ行つてゐたんだと聞くと、ベースボールを觀て、夫《それ》から舟を漕いでゐたと云ふ挨拶である。飯を食つたら遊びに來なさいと案内をするから、よろしいと答へて又戸を締めた。締めながら、おい此宿は少し窮屈だね、浴衣《ゆかた》でぶら／＼する事は禁制なんだらうと聞いたら、此處が厭なら遼東《れうとう》ホテルへでも行けと云つて歸つて行つた。

　例刻に食堂へ下りて飯を食つたら、知らない西洋人と一所の卓《テーブル》へ坐らせられた。其男が御免なさい、どうも嚔《くしやみ》が出てと、手帛《ハンケチ》を鼻へ當てたが、嚔《くしやみ》の音はちつともしなかつたから、余はさあ／＼と、暗《あん》に嚔《くしやみ》を奬勵して置いた。此男は自分で英人だと名乘つた。さうして御前は旅順《りよじゆん》を見たかと余に尋ねた。旅順を見ないなら教へるが、何時《いつ》の汽車で行つて、何處と何處を見て、夫《それ》から何時《いつ》の汽車で歸るが好いと、自分の遣つた通りを委《くは》しく語つて聞かせた。余は成程々々と聞いてゐた。次に御前は門司《もじ》を見たかと聞いた。次にあすこの石炭は最早《もう》澤山《たんと》は出まいと聞いた。澤山《たんと》は出まいと答へた。實は澤山《たんと》出るか出ないか知らなかつたのである。

　少時《しばらく》して、君は旅順に行つた事があるかと又同じ事を尋ね出した。少々變だが面倒だから、いやまだゞと、此方《こつち》も前《ぜん》同樣な返事をして置いた。すると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があつて……と又｜先刻《さつき》と寸分《すんぶん》違はない樣な案内者めいた事を云つて聞かせた。先が先だから余も依然として成程々々を繰り返した。最後に突然御前は日本人かと尋ねた。余はさうだと正直な所を答へた樣なものゝ、今迄は何國人《どこじん》と思はれてゐたんだらうかと考へると、多少心細かつた。

　余は日本人なりの答を得るや否や、此男が、おれも四十年前横濱に行つた事があるが、どうも日本人は叮嚀で親切で慇懃《いんぎん》で實に模範的國民だ抔《など》としきりに御世辭を振り廻し始めた。折角だとは思つたが、是公《ぜこう》との約束もある事だから、好い加減な所で談話を切り上げて、此老人と別れた。

　表へ出るとアカシヤの葉が朗《ほが》らかな夜の空氣の中にしんと落ち付いて、人道を行く靴の音が向ふから響いて來る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現《あらは》れた。ホテルへ歸つて行くのだらう。馬の蹄《ひづめ》は玄關の前で留まつたらしい。是公の家の屋根から突出《つきだ》した細長い塔が、瑠璃色《るりいろ》の大空の一部分を黒く染拔いて、大連の初秋《はつあき》が、内地では見る事の出來ない深い色の奧に、數へる程の星を輝《きら》つかせてゐた。

　

　　　　　七

　

　此間から米國の艦隊が四艘來てゐるんで、毎日色々な事をして遊ばせるのだが、翌日《あす》の晩は舞踏會をやる筈になつてゐるから出て見ろと是公が勸めた。出て見ろつたつて、燕尾服《えんびふく》も何も持つて來《き》やしないから駄目だよと斷ると、是公が希知《けち》な奴だなと云つた。燕尾服は其《その》上《かみ》倫敦《ロンドン》留學中トテナムコートロードの怪しげな洋服屋で、尤も安い奴を拵へた覺《おぼえ》があるが、爾來《じらい》箪笥の底に深く藏してゐるのみで、親友と雖も、持つてるか持つてないか知らない位である。いくら大連がハイカラだつて、東京を立つ時に、此古燕尾服が役に立たうとは思《おも》ひ掛《がけ》ないから、矢つ張り箪笥の底に仕舞つたなりで出て來た。ぢや、おれの袴羽織を貸してやるから、日本服で出ろ、出て、まあ、何《ど》んな容子《ようす》だか見るが好いと、是公は何でも引き摺り出さうとする。一層《いつそ》出る位なら踴《をど》らなくつちや詰らないから、日本服ならまあ止《よ》さうと云ひたかつたが、是公は正直だから本當にすると好くないと思つて、たゞ羽織袴は不可《いけ》ないよと斷つた。是公は夫《それ》でも舞踏會を見せる氣と見えて、翌日《あくるひ》の午《ひる》、社の二階で上田君を捕《つらま》へて、君の燕尾服を此奴《こいつ》に貸してやらないか、君のなら丁度合ひさうだと云つて居た。上田君も此突然な相談には辟易したに違ない。笑ひながら、いえ私のは誰にも合ひませんと謙遜された。

　舞踏會は夫《それ》で濟んだが、しばらくすると、今度は是から倶樂部《くらぶ》に連れて行つて遣らうと、例の如く連れて行つて遣らうを出し始めた。大分《だいぶ》遲い樣だとは思つたが、座にある國澤君も、行かうと云はれるので、三人で凉しい夜の電燈の下《もと》に出た。廣い通りを一二丁來ると日本橋《にほんばし》である。名は日本橋だけれども其實は純然たる洋式で、しかも歐洲の中心でなければ見られさうもない程に、雅《が》にも丈夫《ぢやうぶ》にも出來てゐる。三人は橋の手前にある一棟の煉瓦造りに這入つた。誰か居るかなと、玉突場を覗いたが、たゞ電燈が明るく點《つ》いてゐる丈《だけ》で玉の鳴る音はしなかつた。讀書室へ這入つたが、西洋の雜誌が、秩序よく列《なら》べてあるばかりで、ページを繰る手の影はどこにも見えなかつた。將棋｜歌留多《かるた》を遣る所へ這入つて腰をかけて見たが、三人の尻を卸した外は、椅子も洋卓《テーブル》も悉《こと／”＼》く空《あ》いてゐた。今日は遲いので西洋人が居ないから詰まらないと是公が云ふ。是公の會話の下手な事は天品《てんぴん》と云ふ位なものだから、不思議に思つて、御前は平生此處に出入《でいり》して赤髯《あかひげ》と交際するのかと聞いたら、まあ來た事はないなと澄ましてゐる。夫《それ》ぢや西洋人がゐなくつて詰まらない所《どころ》か、居なくつて仕合せな位なものだらうと聞いて見ると、夫《それ》でもおれは此｜倶樂部《くらぶ》の會長だよ、出席しないでも好いと云ふ條件で會長になつたんだと呑氣《のんき》な説明をした。

　會員の名札は成程外國流の綴が多い。國澤君は大きな本を擴げて、余の姓名を書き込ました上、是公に君此處へと催促した。是公はよろしいと答へて、自分の名の前に proposed by と付けた。夫《それ》へ國澤君が、同《おなじ》く seconded by と加へて呉れたので、大連滯在中は何時《いつ》でも、倶樂部《くらぶ》に出入《しゆつにふ》する資格が出來た。

　夫《それ》から三人でバーへ行つた。バーは支那人が遣《や》つてゐる。英語だか支那語だか日本語だか分らない言葉で注文を通して、妙に赤い酒を飲みながら話をした。醉つて外へ出ると濃い空が益《ます／＼》濃く澄み渡つて、見た事のない深い高さの裡《うち》に星の光を認めた。國澤君がわざ／＼ホテルの玄關迄送られた。玄關を入《はい》ると、正面の時計が丁度十二時を打つた。國澤君は此十二時を聞きながら、では御休みなさいと云つて、戻られた。

　

　　　　　八

　

　ホテルの玄關で、是公が馬車をと云ふと、ブローアムに致しますかと給仕が聞いた。いや開《ひら》いた奴が好いと命じてゐる。余は石段の上に立つて、玄關から一直線に日本橋《にほんばし》迄續いてゐる、廣い徃來を眺めた。大連の日は日本《につぽん》の日よりも慥《たし》かに明るく眼の前を照らした。日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したら可《よ》からうと思ふ程空氣が透《す》き徹《とほ》つて、路も樹も屋根も煉瓦も、夫々《それ／”＼》鮮やかに眸《ひとみ》の中に浮き出した。

　やがて蹄《ひづめ》の音がして、是公の馬車は二人の前に留まつた。二人は此｜麗《うらゝ》かな空氣の中をふわ／＼搖られながら日本橋を渡つた。橋向ふは市街である。それを通り越すと滿鐵の本社になる。馬車は市街の中へ這入らずに、すぐ右へ切れた。氣が付いて見ると、遙《はるか》向《むか》ふの岡の上に高いオベリスクが、白い劔《つるぎ》の樣に切つ立つて、青空に聳えてゐる。其奧に同じく白い色の大きな棟が見える。屋根は鈍《にぶ》い赤で塗つてあつた。オベリスクの手前には奇麗な橋が懸つてゐた。家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くから此三つの建築の位地と關係と恰好《かつかう》とを眺めて其釣合のうまく取れてゐるのに感心した。

　あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電氣公園と云つて、内地にも無いものだ。電氣仕掛で色々な娯樂を遣つて、大連の人に保養をさせる爲に、會社で拵へてるんだと云ふ説明である。電氣公園には恐縮したが、内地にもない位のものなら、頗る珍らしいに違ないと思つて、娯樂つてどんな事を遣るんだと重ねて聞き返すと、娯樂とは字の如く娯樂でさあと、何だか少々｜危《あや》しくなつて來た。能《よ》く／＼糾明《きうめい》して見ると、實は今月《こんげつ》末《すゑ》とかに開場するんで、何をやるんだか、其日になつて見なければ、總裁にも分らないのださうである。

　其内馬車が、電車の軌道《レール》を敷いてゐる所へ出た。電車も電氣公園と同じく、今月《こんげつ》末《すゑ》に開業するんだとか云つて、會社では今支那人の車掌運轉手を雇つて、訓練のために、ある局部｜丈《だけ》の試運轉を遣らしてゐる。御忘れものはありませんか、ちん／＼動きますを支那の口で稽古してゐる最中なのだから、軌道《レール》が此處迄延長して來るのは、別段怪しい事もないが、氣が付いて見ると、鐵軌《レール》の据ゑ方が少々違ふ樣である。第一内地の樣に石を敷かない計畫らしい。御影石《みかげいし》が拂底なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云つちや不可《いけ》ないと遣られて仕舞つた。是が最新式の敷方《しきかた》なんで、土臺を何うとかして、何うとかして、鐵軌《レール》と鐵軌《レール》の間を混合金屬で塗り固めて全線をたつた一本の長い棒にして仕舞つて……と恰《あたか》も自分が技師であるかの如き自慢である。内地から來たものは成程田舍もの取扱にされても仕方がない。そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、何うでも自分の思つた通りを遣らせるから、そんな仕事も出來るのさと云つた。内地では何でも八釜敷《やかまし》く干渉する奴が澤山出て來るものと見える。

　馬車が岡の上へ出た。其處はまだ道路が完成してゐないので、滿洲特有の黄土《くわうど》が、見るうちに靴の先から洋袴《ズボン》の膝の上迄｜細《こま》かに積もつた。此邊ももう少しすると、ホテルの前の樣に、カン／＼した路に變化する事だらうが、そんな事を口外すれば、是公が益《ます／＼》得意になる許《ばかり》だから、わざと黙つてゐた。

　

　　　　　九

　

　これが豆油《まめあぶら》の精製しない方で、此方《こつち》が精製した方です。色が違ふ許《ばか》りぢやない、香《にほひ》も少し變つてゐます。嗅《か》いで御覽なさいと技師が注意するので嗅いで見た。

　用ひる途《みち》ですか、まあ料理用ですね。外國では動物性の油が高價ですから、斯う云ふのが出來たら便利でせう。第一大變安いのです。是でオリーブ油の何分の一にしか當らないんだから。さうして效用は兩方共｜略《ほゞ》同じです。其點から見ても甚だ重寶《ちようはう》です。それに此油の特色は他の植物性のものゝ樣に不消化でないです。動物性と同じ位に消化《こな》れますと云はれたので急に豆油が難有《ありがた》くなつた。矢張り天麩羅《てんぷら》抔《など》に出來ますかと聞くと、無論出來ますと答へたので、近き將來に於て一つ豆油の天麩羅《てんぷら》を食つて見《み》樣《やう》と思つて其室を出た。

　出掛《でがけ》に御邪魔でもこれをお持ちなさいと云つて細長い箱を呉れたから、何だらうと思つて、即座に開けて見ると、石鹸《しやぼん》が三つ並んでゐた。是が矢つ張り同じ材料から製造した石鹸《しやぼん》ですと説明されたが、普通の石鹸《しやぼん》と別に變つた所もない樣だから、たゞ成程と云つたなり眺めてゐた。すると、この石鹸《しやぼん》に面白い所は、塩水に溶解するから奇體ですよとの追加があつたので、急に貰つて行く氣になつて葢《ふた》をした。

　柞蠶《さくさん》から取つた糸を並べて、是が從來の奴ですと云ふのを見ると、成程色が黒い。此方《こつち》は精製した方でと傍《そば》に出されると全く白い。且《かつ》節なしに出來上つてゐる。是で織つたのがありますかと聞いて見ると、生憎《あいにく》有りませんと云ふ答である。然しもし織つたらどんなものが出來るでせうと聞くと、羽二重の樣なものが出來る積《つもり》ですと云ふ。其上｜價段《ねだん》が半分だと云ふ。柞蠶《さくさん》から羽二重が織れて、それが内地の半額で買へたら嘸《さぞ》善からう。

　高粱酒《かうりやうしゆ》を出して洋盃《コツプ》に注《つ》ぎながら、此方《こつち》が普通の方で、此方《こつち》が精製した方でと、又遣りだしたから、いや御酒は澤山ですと斷つた。さすが酒好きの是公も高粱酒《かうりやうしゆ》の比較飲みは、思はしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。是公の話によると、此間｜高峯讓吉《たかみねじやうきち》さんが來て、高粱《かうりやう》からヰスキーを採るとか採らないとか頻りに研究してゐたさうである。ヰスキーが此試驗場で出來る樣になつたら是公が嘸《さぞ》喜んで飲む事だらう。

　陶器を作つてゐる部屋もあつた樣だが、是はほんの試驗中で、並製も上製もない樣であつた。

　中央試驗所を出て、五六町來ると、馬車を下りて草の中に迷ひ込んだ。路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ上《のぼ》つたりするので、汗が出て、顔の皮がひり／＼して來た。其上胃が頻りに痛む。是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行つてやるんだと云ふから、例の連れて行つてやると云ふ厚意に免じて、腹の痛いのを我慢して目的の家迄行つてすぐ椅子の上へ腰を掛けて仕舞つた。是公が頻りに鐵砲の話をする樣であつたが、頓《とん》と頭に響かない。何でも此家｜丈《だけ》は會社から寄附して遣つた。是でも二千圓とか三千圓とか掛かつたといふ事｜丈《だけ》が漸く耳に這入つた。

　そこへ汚《きた》ない支那人が二三人、奇麗な鳥籠を提《さ》げて遣つて來た。支那人て奴は風雅《ふうが》なものだよ。着るものもない貧乏人の癖に、あゝやつて、鳥をぶら下げて、山の中をまご付いて、鳥籠を樹の枝に釣るして、其下に坐つて、食ふものも食はずに大人《おとな》しく聞いてゐるんだよ。夫《それ》がもし二人集まれば鳴《な》き競《くらべ》をするからね。あゝ實に風雅《ふうが》なものだよ。と頻りに支那人を賞《ほ》めてゐる。余はポツケツトからゼムを出して呑んだ。

　

　　　　　十

　

　政樹公《まさきこう》が大連の税關長になつてゐると聞いて一寸驚いた。政樹公《まさきこう》には十年｜前《ぜん》上海《シヤンハイ》で出逢つたきりである。其時｜政樹公《まさきこう》は、サー・ロバート・ハートの子分になつて、矢張り其處の税關に勤務してゐた。政樹公の大學を卒業したのは余より二年｜前《まへ》で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違ひであるに拘はらず、比較的縁が近いのである。

　政樹公《まさきこう》の姓は立花《たちばな》と云つて柳川藩《やながははん》だから、立派な御侍《おさむらひ》に違ない。それを何故《なぜ》立花さんと云はないで、政樹公と呼ぶかと云ふに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がゐた。しかも双方共寄宿舍に這入つてゐたものだから、立花君や立花さんでは紛《まぎ》れ易《やす》くて不可《いけ》ない。で一方は政樹といふ名だから政樹公と呼び、一方は銑三郎《せんざぶらう》といふ俗稱だから銑《せん》さん銑さんと云つた。何故《なぜ》片つ方が公《こう》なのに、片つ方はさん〔二字傍点〕付《づけ》にされて仕舞つたのか、一寸分らない。銑《せん》さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に罹つて、歸り路に香港《ホンコン》で死んで仕舞つた。そこで殘るは政樹公ばかりになつた。從つて政樹公をやめて立花君と云つたつて、少しも混雜はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。矢つ張り中村とも總裁とも云はないで是公と云ひ馴れた樣なものだらう。

　此處だと云ふので、二人馬車を下りて税關に這入つて見ると、生憎《あいにく》政樹公は先刻《さつき》具合が惡いとかで家《うち》へ歸つた後《あと》であつた。此方《こつち》の都合もあるし、所勞《しよらう》の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税關を出た。すると今度は馬車が滿鐡の本社へ横附《よこづけ》になつた。廣い階子段《はしごだん》を二階へ上がつて、右へ折れて、突き當りを又左へ行くと、取付《とつつき》が重役の部屋である。重役は東京に行つてるものゝ外は皆出てゐた。夫《それ》に一々紹介された。其《その》中《うち》で昔見た田中君《たなかくん》の顔を覺えてゐた。何うです始めて大連に御着きになつた時の感想はと聞かれるから、左樣《さう》です船から上がつて此方《こつち》へ來る所は、丸《まる》で燒迹《やけあと》の樣ぢやありませんかと、正直な事を答へると、あすこはね、軍用地だものだから建物を拵《こしら》へる譯に行かないんで、誰もさう云ふ感じがするんですと教へられた。

　しばらく椅子に腰を掛けて、大人《おとな》しく執務の樣子を見てゐると、ぢき午《ひる》になつた。さあ飯を食はうと、食堂へ案内された。此處へと云ふ席へ坐つて、サー※［ヰに濁点］エツトを取り上げると、給仕が來て、夫《それ》は國澤さんのですから、只今新しいのを持つて參りますと云つた。食堂は社の表二階にあたる大廣間で、晩になれば、それが舞踏室に變化する程の大きなものであつた。是は社員全體に向つて公開してあるのださうだが、同じ食卓に着いた人の數《かず》を云ふと、約三十人に過ぎなかつた。此｜人數《にんず》から推して、或《あるひ》は制限でもありはせぬのかと思つたのは余の想像に過ぎなかつた。

　料理は大和《やまと》ホテルから持つて來るのださうで、同席の三十餘人が、みな一樣の皿を平らげてゐた。胃が痛いので肉刀《ナイフ》と肉匙《フオーク》は人並《ひとなみ》に動かした樣なものゝ、其《その》實《じつ》は肉も野菜も咽喉の奧へ詰め込んだ姿である。一つ何うですと向ふ側の田中君から瓢箪形《へうたんがた》の西洋梨を勸《すゝめ》られた時は、手を出す勇氣すらなかつた。

　

　　　　　十−

　

　河村調査課長の前へ行つて挨拶をすると、河村さんは、まあお掛けなさいと椅子を勸めながら、何を御調べになりますかと叮嚀に聞かれる。何を調べる程の人間でもないんだから、此問に逢つた時は實は弱つた。先刻《さつき》重役室へ河村さんが這入つて來たとき、是公が余を紹介して、河村さん滿鐵の事業の種類其他に就て、あとで此男にすつかり説明して遣つて下さいと云つたのが本《もと》で、とう／＼余は調査課へ來る樣な譯になつたものゝ、其《その》實《じつ》世間の知る如き人間なんだから、斯う眞面目に、何《ど》う云《い》ふ方面の研究をやる氣かと尋ねられると甚だ迷付《まごつ》いて仕舞ふ。さうかと云つて、決して惡氣があつて冷《ひや》かしに來た次第でない事も亦、世間の知る通りなんだから、河村さんに對して敬意を失する樣な冗談は云へた義理のものでない。已《やむ》を得《え》ず、鹿爪《しかつめ》らしい顔をして、滿徹のやつてゐる色々な事業一般に就て知識を得たいと述べた。――何でも述べた積《つもり》である。固《もと》より内心に確乎たる覺悟があつて述べる事でないんだから、顔｜丈《だけ》は鹿爪《しかつめ》らしいが、述べる事の内容は、頗る赤毛布式《あかげつとしき》に縹緲《へうべう》とふわついてゐたに違ない。たゞ今から顧みても、少し得意なのは、其時余の態度擧動は非常に落ち付いて、魂がさも丹田《たんでん》に膠着《かうちやく》してゐるかの如く河村さんには見えたらうといふ自覺である。人を欺《だま》し終《おほ》せて知らん顔をしてゐるのは善くない事だから、此處で全く懺悔して仕舞ふが、實を云ふと、其時は胃がしく／＼痛んで、言葉に抑揚を付け樣《やう》にも、聲に張りを見せ樣《やう》にも、身體に活氣を漲ぎらせやうにも、到底自己が自己以上に沈着して仕舞つて、一寸《いつすん》も足掻《あが》きが取れなかつたのである。

　其處へ大きな印刷ものが五六冊出て來た。一番上には第一回營業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の營業報告に違ない。此大冊子を机の上に置いて、大抵是で分りますがねと河村さんが云ひ出した時は、さあ大變だと思つた。今此胃の痛い最中に此大部の營業報告を研究しなければ濟まない事になつては、到底持ち切れる譯のものではない。余は末《ま》だ營業報告を開《あ》けないうちに、早速｜一工夫《ひとくふう》して斯う云つた。――私は專門家でないんですから、さう詳《くはし》い事を調査しても、とても分りますまいと思ひますので、たゞ諸君が色々な方面でどんな風に働いてゐられるか、ざあつと其状況を目撃さして頂けば澤山ですから、縱覽《じゆうらん》すべき箇所を御面倒でも一寸書いて下さいませんか。

　河村さんははあ左樣《さう》ですかと、氣輕にすぐ筆を執つて呉れた。所へ何處からか突然妙な小さな男があらはれて、やあと聲を掛けた。見ると股野義郎《またのよしらう》である。昔「猫」を書いた時、其中に筑後《ちくご》の國は久留米《くるめ》の住人に、多々羅三平《たゝらさんぺい》といふ畸人《きじん》がゐると吹聽《ふいちやう》した事がある。當時｜股野《またの》は三池《みいけ》の炭坑に在勤してゐたが、どう云ふ間違か、多々羅三平《たゝらさんぺい》は即ち股野義郎《またのよしらう》であると云ふ評判がぱつと立つて、仕舞には股野《またの》を捕《つか》まへて、おい多々羅君《たゝらくん》抔《など》と云ふものが澤山出て來たさうである。其處で股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消して呉れと請求に及んだ。余も氣の毒に思つたが、多々羅三平の件を悉《こと／”＼》削除《さくぢよ》しては、全卷を改板《かいはん》する事になるから、簡潔明瞭に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に廣告しちや不可《いけ》ないかと照會したら、不可《いけ》ないと云つて來た。夫《それ》から三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とう／＼斯う云ふ條件を出した。自分が三平と誤られるのは、双方とも筑後《ちくご》久留米《くるめ》の住人だからである。幸ひ、肥前《ひぜん》唐津《からつ》に多々羅《たゝら》の濱《はま》と云ふ名所があるから、責《せ》めて三平の戸籍｜丈《だけ》でもそつちへ移して呉れ。是《これ》丈《だけ》は是非御願するとあつたんで、余はとう／＼三平の方を肥前《ひぜん》唐津《からつ》の住人に改めて仕舞つた。今でも「猫」を御讀みになれば分る。肥前の國は唐津《からつ》の住人多々羅三平とちやんと訂正してある。

　斯う云ふ譯で余と因縁の淺からざる股野《またの》に、此處でひよつくり出逢ふとは全く思ひがけなかつた。しかも、其｜家《いへ》へ呼ばれて御馳走になつたり、二三日間朝から晩迄懇切に連れて歩いて貰つたり、昔日《せきじつ》の紛議《ふんぎ》を忘れて、舊歡《きうくわん》を暖める事が出來たのは望外《ばうぐわい》の仕合《しあはせ》である。實を云ふと、余は股野がまだ撫順《ぶじゆん》に居る事とばかり思つてゐた。

　余は大連で見物すべき滿鐵の事業其他を、此處で河村さんと股野に、表《へう》の樣な形に拵へて貰つた。

　

　　　　　十二

　

　腹がしきりに痛むので、寢室へ退いて、長椅子の上に横になつてゐると、窓を撲《う》つ雨の音が次第に繁くなつた。是ぢや舞踏會に行く連中も、大分《だいぶ》御苦勞樣な事になつたものだと思つて、ポツケツトから招待状を出して寐ながら、又眺めて見た。繪葉書位の大きさの厚紙の一面には、歌麿《うたまろ》の美人が好い色に印刷されてゐる。一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待してゐる。能くこんなものを拵へる時間があつたなと感心して、うと／＼しかけた所へ、ボーイ頭《がしら》が來て、只今總裁からの電話で、今夜舞踏會へ御出《おいで》になるか伺《うかゞ》へと云ふ事で御座いますがと云ふから、行かないと返事をして呉れと頼んで、本當に寢て仕舞つた。眼が覺めたら雨は何時《いつ》の間《ま》にか歇《や》んで、奇麗な空が磨き上げた樣に一色《ひといろ》に廣く見える中に、明かな月が出て居た。余は硝子越《ガラスごし》に此大きな色を覗いて、思はず是公の爲に、舞踏會の成功を祝した。

　後で本人に聞いて見ると、是公は其夜舞踏の濟んだ後で、多數の亞米利加士官《アメリカしくわん》と共に倶樂部《くらぶ》のバーに繰り込んだのださうだ。そこで、士官達が是公に向つて、今夜の會は大成功であるとか、非常に盛であつたとか、口々に賛辭を呈《てい》したものだから、是公は已《やむ》を得《え》ず、大聲《たいせい》を振り絞つて gentlemen《ゼントルメン》！と叫んだ。すると今迄がや／＼云つてゐた連中が、總裁の演説でも始まる事と思つて、一度に口を閉《と》ぢて、滿場は水を打つた樣に靜かになつた。是公は固《もと》よりゼントルメンの後《あと》を何とか付けなければならない。所がゼントルメン以外の英語が生憎《あいにく》一言《ひとこと》も出て來なかつた。英語と云ふ英語は頭の底から悉《こと／”＼》く酒で洗ひ去られて仕舞つてゐるので、仕方なしに、急に日本語に鞍換《くらがへ》をして、ゼントルメンの次へもつてきて、すぐ大いに飲みませうと怒鳴《どな》つた。ゼントルメン大いに飲みませうは、大抵の亞米利加人《アメリカじん》に通じる譯のものではないが、其處がバーのバーたる所で、ゼントルメン大いに飲みませうと遣るや否や、士官連がわあつと云つて主人公を胴上《どうあげ》にしたさうである。

　明治二十年の頃だつたと思ふ。同じ下宿にごろ／＼してゐた連中が七人程、江の島迄｜日着日歸《ひづきひがへ》りの遠足を遣つた事がある。赤毛布《あかげつと》を背負《しよ》つて辨當をぶら下げて、懷中には各《おの／＼》二十錢づゝ持つて、さうして夜の十時頃迄かゝつて、漸く江の島の此方側《こつちがは》迄着いた事は着いたが、思ひ切つて海を渡るものは誰もなかつた。申し合せた樣に毛布《けつと》に包《くる》まつて砂濱の上に寐た。夜中に眼が覺《さ》めると、ぽつり／＼と雨が顔へ中《あた》つてゐた。其上犬が來て眞水英夫《まみづひでを》の脚絆《きやはん》を啣《くは》へて行つた。夜が白んで物の色が仄《ほのか》に明るくなつた頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗に砂だらけになつてゐる。眼を擦《こす》ると砂が出る。耳を掘《ほじ》くると砂が出る。頭を掻いても砂が出る。七人は夫《それ》で江の島へ渡つた。其時夜明けの風が島を繞《めぐ》つて、山にはびこる樹がさあと靡《なび》いた。すると余の傍《そば》に立つてゐた是公が何と思つたものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戰々兢々《せん／＼きよう／＼》としてゐるぢやないかと云つた。

　草木の風に靡《なび》く樣《さま》を戰々兢々《せん／＼きよう／＼》と眞面目に形容したのは是公が嚆矢《はじめ》なので、夫《そ》れから當分の間は是公の事を、みんなが戰々兢々《せん／＼きよう／＼》と號してゐた。當人｜丈《だけ》は、未《いま》だに戰々兢々で差支ないと信じてゐるかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みませうも、此際｜亞米利加語《アメリカご》として士官側に通用したと心得てゐるんだらう。通じた證據には胴上《どうあげ》にしたぢやないか位、醉《ゑ》ふと云ひかねない男である。

　

　　　　　十三

　

　昨夕《ゆうべ》は川崎造船所の須田君《すだくん》から一所に晩食《はんめし》でも食はうと云ふ案内があつたが、例の如く腹が痛むので、殘念ながら辭退して、寢室で肉汁《ソツプ》を飲んで寢て仕舞つた。朝起きるや否や、もう好からうと思つて、腹の近所へ神經を遣《や》つて、探《さぐ》りを入れて見ると、矢ツ張り變だ。何だか自分の胃が朝から自分を裏切らうと工《たく》んでゐる樣な不安がある。さて何處が不安だらうと、局所を押へに掛ると、何處も應じない。たゞ曇つた空の樣に、鈍痛《どんつう》が薄く一面に廣がつてゐる。苦《にが》い顔をして食堂へ下りて飯を濟まして又｜室《へや》へ歸つてぼんやりしてゐると、河村さんが戸口迄來て、今夜滿鐡のものが主人役になつて貴方がた二三名を扇芳亭《せんばうてい》へ招待したいからと云ふ叮嚀な御挨拶である。どうも折角ですが、實は是々でと斷ると、さうですか、實は總裁も今夜は所勞で出られませんと答へて歸られた。

　河村君が歸るや否や股野が案内もなく遣つて來た。今日は襟の開《あ》いた着物を着て、ちやんと白い襯衣《しやつ》と白い襟を掛けてゐるから感心した。股野と少し話してゐる所へ、又御客があらはれた。ボイの持つて來た名刺には東北大學教授｜橋本左五郎《はしもとさごらう》とあつたので、おやと思つた。

　橋本左五郎《はしもとさごらう》とは、明治十七年の頃、小石川の極樂水《ごくらくみづ》の傍《そば》で御寺の二階を借りて一所に自炊《じすゐ》をしてゐた事がある。其時は間代《まだい》を拂つて、隔日に牛肉を食つて、一等米を焚いて、夫《それ》で月々二圓で濟んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵へて、其中に浮かして食つた。十錢の牛《ぎう》を七人で食ふのだから、斯うしなければ食ひ樣がなかつたのである。飯は釜から杓《しやく》つて食つた。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であつた。余は此處で橋本と一所に豫備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や數學に於て先輩であつた。入學試驗のとき代數が六づかしくつて途方に暮れたから、そつと隣席の橋本から教へて貰つて、其御蔭でやつと入學した。所が教へた方の橋本は見事に落第した。入學をした余もすぐ盲腸炎に罹《かゝ》つた。是は毎晩寺の門前へ賣りに來る汁粉を、規則の如く毎晩食つたからである。汁粉屋は門前迄來た合圖に、屹度《きつと》團扇《うちは》をばた／＼と鳴らした。其ばた／＼云ふ音を聞くと、どうしても汁粉を食はずにはゐられなかつた。從つて、余は此汁粉屋の爺《おやぢ》の爲に盲腸炎にされたと同然である。

　其《その》後《のち》左五《さご》は――當時余等は橋本を呼んで、左五《さご》／＼と云つてゐた。實際彼は岡山の農家の生れであつた。――左五《さご》は其《その》後《のち》追試驗に及第したにはしたが、するかと思ふと又落第した。さうして、何だ下らないと云つて北海道へ行つて農學校へ這入つて仕舞つた。夫《それ》から獨逸《ドイツ》へ行つた。獨逸《ドイツ》へ行つて、何時《いつ》迄《まで》經《た》つても歸らない。とう／＼五年か六年か居た。つまり留學期限の倍か倍以上も向ふで暮した事になる、其費用は何うして拵へたものか頓《とん》と分らない。

　此橋本が不思議にも余より二三月前に滿鐵の依頼に應じて、蒙古の畜産事状を調査に來て、其調査が濟んで今大連に歸つた許《ばか》りの所へ出つ食はしたのである。顔を見ると、昔から剽悍《へうかん》の相《さう》があつたのだが、其｜剽悍《へうかん》が今蒙古と新しい關係が付いた爲、頗る活躍してゐる。闥《ドーア》を排《はい》して這入つて來るや否や、どうだ相變らず頑健かねと聞かざるを得なかつた位である。

　

　　　　　十四

　

　えゝまあ相變らずでと、橋本は案に相違した落ち付方である。昔豫傭門に這入つて及第だとか落第だとか騷いでゐた時分には決して斯う穩《おだや》かぢやなかつた。彼の鼻の先が反返《そりかへ》つてゐる如く、彼は剽輕《へうきん》で且《かつ》苛辣《からつ》であつた。余は此鼻の爲によく凹《へこ》まされた事を記憶してゐる。

　其頃は大勢で猿樂町《さるがくちやう》の末富屋《すゑとみや》といふ下宿に陣取つてゐた。此同勢は前後を通じると約十人近くあつたが、みんな揃ひも揃つた馬鹿の腕白で、勉強を輕蔑するのが自己の天職であるかの如くに心得てゐた。下讀｜抔《など》は殆んど遣らずに、一學期から一學期へ辛《から》うじて綱渡りをしてゐた。英語は教場で中《あ》てられた時に、分らない譯《やく》を好い加減に付ける丈《だけ》であつた。數學は出來る迄｜塗板《ボールド》の前に立つてゐるのを常としてゐた。余の如きは毎々一時間ぶつ通しに立往生をしたものだ。みんなが代數書を抱《かゝ》へて今日も脚氣《かつけ》になるかなど云つては出掛けた。

　かう云ふ連中だから、大概は級の尻の方に塊《かた》まつて、何時《いつ》でも雜然と陳列《ちんれつ》されてゐた。余の如きは、入學の當時こそ芳賀矢一《はがやいち》の隣に坐つてゐたが、試驗のあるたんびに下落して、仕舞には土俵際《どへうぎは》からあまり遠くない所でやつと踏《ふ》み應《こた》へてゐた。それでも、みんな得意であつた。級の上にゐるものを見て、なんだ點取がと云つて威張つてゐた位である。さうして、稍《やゝ》ともすると、我々はポテンシヤル・エナージーを養ふんだと云つて、無暗に牛肉を喰つて端艇《ボート》を漕いだ。試驗が濟むと其晩から机を重ねて縁側の隅へ積み上げて、誰も勉強の出來ない樣な工夫をして、比較的廣くなつた座敷へ集つて腕押《うでおし》をやつた。岡野《をかの》といふ男は何處からか、玩具《おもちや》の大砲を買つて來て、それをポン／＼座敷の壁へ向つて發射した。壁には穴が澤山｜開《あ》いた。試驗の成績が出ると、一人では恐《こは》いからみんなを驅《か》り催《もよほ》して揃つて見に行つた。すると悉《こと／”＼》く六十代で際《きは》どく引つ掛つてゐる。橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作つて連中一同に示した。韻《ゐん》も平仄《ひやうそく》もない長い詩であつたが、其中に、何ぞ憂へん席序下算《せきじよかさん》の便《べん》と云ふ句が出て來たので、誰にも分らなくなつた。段々聞いて見ると席序下算《せきじよかさん》の便《べん》とは、席順を上から勘定しないで、下から計算する方が早分りだと云ふ意味であつた。丸《まる》で御籤《おみくじ》見た樣な文句である。我々はみんな此｜御籤《おみくじ》に中《あた》つてひや／＼してゐた。

　其内｜下算《かさん》にも上算《じやうさん》にも丸《まる》で勘定に這入らないものが、ぽつ／＼出來て來た。一人消え、二人消えるうちに橋本がゐた。是公がゐた。斯う云ふ自分もゐた。大連で是公に逢つて、此落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴樣も落第したのかな。そいつは頼母《たのも》しいやと大いに嬉しがるから、落第だつて、落第の質《たち》が違はあ。己《おれ》のは名譽の負傷だと答へて置いた。

　是公だの、余だの、今の旅順の警視總長《けいしそうちやう》だのが落ちながら、ぶら下がつてゐる間に、左五｜丈《だけ》は決然として北海道へ落ち延びたのである。其落第の張本《ちやうほん》とも云ふべき彼が、いくら年を取つたつて、斯程《かほど》に慇懃《いんぎん》にならうとは思ひも寄らぬ事であつた。今日は午後から滿鐵の社へ行つて、蒙古旅行に關する話をするんだと云つてゐる。

　

　　　　　十五

　

　河村さんの書いて呉れた表《へう》を見ると、娯樂機關といふ題目のもとに、倶樂部《くらぶ》とか會とか名のつくものが十ばかり並《なら》べてある。中にはゴルフ會だの、ヨツト倶樂部《くらぶ》だのと、名前からして洒落《しやれ》たのさへ、ちらほら見える。ヨツト倶樂部《くらぶ》の下に（但し一艘）と括弧《くわつこ》で註がついてゐるのは、新設だからまだ一艘しかないといふ意味なんだらう。

　參觀すべき場所と云ふ標題《みだし》のもとには、山城町《やまぎちやう》の大連醫院だの、兒玉町《こだまちやう》の從事員養成所だの近江町《あふみちやう》の合宿所だの、濱町《はまちやう》の發電所だの、何だの蚊《か》だのみんなで十五六程ある。成程是では大連に一週間位居なければ、滿鐵の事業も一通り觀る譯に行かないと云はれる筈だ。しかも是公は是非共萬遍なくよく觀て行かなくつちやいけないよと命令的に注意するんだから、容易ぢやない。其上よく觀て、何でも氣が付いた事があるなら、さう云ひなさいと、恰《あたか》も余を視察家扱にするんだから猶更《なほさら》痛み入る。余は手に持つた表《へう》に一通り眼を通しながら、傍《そば》にゐる股野に、おい少し出て見るかなと云つた。股野は固《もと》より余を連れて、大連中ぐる／＼引き廻す氣で來てゐる。尤も別段社から付けて呉れたといふ譯ぢやないんだが、本人の特志で社の用事をすつぽかす了見らしい。さうして何時《いつ》の間《ま》にか、ホテルへ馬車を云ひ付けてゐる。

　余は股野と相乘りで立派な馬車を走らして北公園に行つた。と云ふと大層だが、車の輪が五六度回轉すると、もう公園で、公園に這入つたかと思ふと、もう突き拔けて仕舞つた。夫《それ》から社員｜倶樂部《くらぶ》と云ふのに連れて行かれて、謠《うたひ》の先生の月給が百五十圓だと云ふ事を聞いて、又馬車へ乘つて、今度は川崎造船所の須田君の所の工場を外から覗き込んで、すぐ隣の事務所に這入つて、須田君に昨日《きのふ》の御禮を述べた。事務所の前がすぐ海で、船渠《ドツク》の中が蒼く澄んでゐる。あれで何噸《なんトン》位《ぐらゐ》の船が這入りますかと聞いたら、三千噸位迄は入れる事が出來ますといふ須田君の答であつた。船渠《ドツク》の入口は四十二尺だとか云つた。余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じつと締め付けてゐる樣に靜かな船渠《ドツク》の中を、窓から見下《みおろ》しながら、夏の盛りに、此大きな石で疊んだ風呂へ這入つて泳ぎ回つたら嘸《さぞ》結構だらうと思つた。

　今度は何處だと股野に聞いて見ると、今度は電氣の工場へ行きませうといふ事である。鐵嶺丸《てつれいまる》が大連の港へ這入つたとき先づ第一に余の眼に、高く赤く眞直に映じたものは此工場の煙突であつた。船のものはあれが東洋第一の煙突だと云つてゐた。成る程東洋第一の煙突を持つてゐる丈《だけ》に、中へ這入ると、凄《すさま》じいものである。其一部分では、天井を突き拔いて、青空が見える樣にして、四方の壁を高く積み上げてゐた。屋根の高さを増す必要があつての事だらうが、青空が煉瓦の上に遠く見える許《ばか》りか、尋常の會話は到底聞えない位に、恐ろしい音が響いてゐる中に、塵を浴びて立つた時は、妙な心持がした。ある所は足の下も掘り下げて、暗い所に樣々の仕掛が猛烈に活動してゐた。工業世界にも、文學者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐ其棟を飛び出した位である。詮《せん》ずるに要領は只凄まじい音を聞いて、同じく凄まじい運動を見たのみである。

　股野は其間を馳《か》け回《まは》つて、おい誰さんは居ないかねと、頻《しきり》に技師を探してゐた。技師は股野に捕《つら》まる程｜閑《ひま》でなかつたと見えて、とう／＼見當らなかつた。

　

　　　　　十六

　

　今日は化物屋敷を見て來たと云ふと、田中君が笑ひながら、夏目さん、何故《なぜ》化物屋敷といふんだか譯を知つてゐますかと聞いた。余は固《もと》より下級社員合宿所の標本として、化物屋敷の中を一覽した迄で、化物の因縁はまだ詮議《せんぎ》してゐなかつた。けれども化物屋敷は是だと云はれた時には、うんさうかと云つて、少しも躊躇なく足を踏込《ふんご》んだ。何故《なぜ》そんな恐ろしい名が、此建物に付纒《つけまと》つてゐるのかと、立ち留まつて疑つて見る暇も何もなかつた。所謂《いはゆる》化物屋敷はそれ程陰氣に出來上がつてゐた。出來上つたといふと新規に拵へた意味を含んでゐるから、此建築の形容としては、寧ろ不適當であるかも知れない。化物屋敷は其位古い色をしてゐる。壁は煉瓦だらうが、外部は一面の灰色で、中には日の透《とほ》りさうもない、薄暗い空氣を湛《たゝ》へる如くに思はれた。

　余は此屋敷の長い廊下を一階二階三階と幾返《いくかへり》か徃來《わうらい》した。歩けば固い音がする。階段《はしごだん》を上《あが》るときは猶更《なほさら》こつ／＼鳴つた。階段《はしごだん》は鐵で出來てゐた。廊下の左右は悉《こと／”＼》く部屋で、部屋といふ部屋は皆締め切つてあつた。其戸の上に、室《しつ》の所有者の標札が懸つてゐる。烈しい光線に慣れた眼で、すぐ其標札を讀まうとすると、判然《はつきり》讀めない位廊下は暗かつた。余は一寸立ち留つて室《へや》の中を見る譯には行かないのかなと股野に聞いて見た。股野はすぐ持つてゐた洋杖《ステツキ》で右手の戸をとんと叩いた。然しはい〔二字傍点〕とも、這入れとも應《こた》へるものはなかつた。股野は又二番目の戸をとん／＼叩いた。是も中は森《しん》としてゐる。股野は毫も辟易した氣色《けしき》なく無遠慮に其所いら中こつ／＼叩いて歩いたが、仕舞迄｜人氣《ひとけ》のする室《へや》には打《ぶ》つからなかつた。恰《あたか》も立《た》ち退《の》いた町の中を歩いてゐる樣な感じがした。三階に來た時、細い廊下の曲り角で一人の女が鍋で御菜《おさい》を煮てゐるのに出逢つた。其所には臺所があつた。化物屋敷では五六軒寄つて一つの臺所を持つてゐるのださうだ。御神さん水は上にありますかと尋ねたら、いえ下から汲んで揚げますと答へた。余は此暗い町内に、便所が何處に幾何《いくつ》あるか不審に思つたが、つい聞きもせず、女の前を行き過ぎて通らうとすると、其方《そつち》は行き留りで御座いますと注意された。道理で眞闇《まつくら》であつた。

　田中君の話によると、此建物は日露戰争の當時の病院だとか云ふ事である。戰争が烈しくなつて、負傷者の數が増して來るに從つて、収容した人間に充分の手當が出來ない許《ばかり》でなく、氣の毒ながら見殺しにしなければならない兵士が澤山に出來て、其等《それら》の創口《きすぐち》から出る怨《うら》みの聲が大連中に響き渡る程｜凄《すさま》じかつたので、その以後は此｜一廓《ひとくるわ》を化物屋敷と呼ぶ樣になつた。然し本當だか嘘だか實は僕も保證しないと、田中君自身が笑つてゐたから、余は尚更《なほさら》保證しない。

　たゞ滿鐵の重役が始めて大連に渡つたとき、此化物屋敷に陣を構へた事《こと》丈《だけ》は事實である。其時此建物は化物さへ住みかねる程に荒れ果てゝ、殘燒家屋《ざんせうかをく》として、骸骨《がいこつ》の如くに突つ立つてゐたさうである。陣取つた連中は死物狂で、天候と缺乏と不便に對して戰後の戰争を開始した。汽車の中で炭を焚《た》いて死《し》に損《そく》なつたり、貨車へ乘つて、カンテラを點《つ》けて用を足さうとすると、其カンテラが搖振《ゆすぶ》れてすぐ消えて仕舞つたり、サイホンを呑むと二三滴口へ這入る丈《だけ》であとはすぐ氷の棒に變化したり、凡《すべ》てが探險と同樣であつた。

　「清野《せいの》が毛織の襯衣《シヤツ》を半ダース重ねて着たのは彼《あの》時《とき》だよ」

　「清野《せいの》は驚いて、あれつ限《き》り遣つて來ない」

　余は田中君と是公がこんな話をするのを聞いて、つい化物屋敷の事を忘れて仕舞つた。

　

　　　　　十七

　

　三階へ上《あが》つて見ると豆｜許《ばか》りである。只窓際｜丈《だけ》が人の通る幅位裸の床《ゆか》になつてゐる。余は靜かに豆と壁の間をぐる／＼廻つて歩いた。氣を付けないと、足の裏で豆を踏み潰す恐れがある上に、人の居ない天井裏を無益に響かすのが苦になつたからである。豆は砂山の如く脚下に起伏してゐる。此方《こちら》の端から向ふの端迄眺めて見ると、隨分と長い豆の山脈が出來上つてゐた。其眞中を通して三ケ所程に井桁《ゐげた》に似た恰好《かつかう》の穴が掘つてある。豆は其中から斷えず下へ落ちて行つて、平たく引割られるのださうだ。時々どさつと音がして、三階の一隅《ひとすみ》に新しい砂山が出來る。是はクーリーが下から豆の袋を背負《しよ》つて來て、加減の好い場所を見計らつて袋の口から、ばらに打《ぶ》ち撒《ま》けて行くのである。其時はぼうと咽《むせ》る樣な烟《けむ》が立つて、數へ切れぬ程の豆と豆の間に潜んでゐる塵が一度に踊《をど》り上《あが》る。

　クーリーは大人《おと》なしくて、丈夫で、力があつて、よく働いて、たゞ見物するのでさへ心持が好い。彼等の脊中に擔いでゐる豆の袋は、米俵の樣に輕いものではないさうである。夫《それ》を遙《はるか》の下から、のそ／＼背負《しよ》つて來ては三階の上へ空《あ》けて行く。空《あ》けて行つたかと思ふと又｜空《あ》けに來る。何人掛りで順々に運んでくるのか知れないが、其歩調から態度から時間から、間隔から悉《こと／”＼》く一樣である。通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階迄を、普請《ふしん》の足場の樣に拵へてある。彼等は此坂の一つを登つて來て、其一つを又下りて行く。上《のぼ》るものと下りるものが左右の坂の途中で顔を見合せても殆んど口を利いた事がない。彼等は舌のない人間の樣に黙々として、朝から晩迄、此重い豆の袋を擔ぎ續けに擔いで、三階へ上《のぼ》つては、又三階を下《くだ》るのである。其沈黙と、其規則づくな運動と、其忍耐と其精力とは殆んど運命の影の如くに見える。實際立つて彼等を觀察してゐると、しばらくするうちに妙に考へたくなる位である。

　三階から落ちた豆が下へ回るや否や、大きな麻風呂敷が受取つて、忽ち釜の中に運び込む。釜の中で豆を蒸すのは實に早いものである。入れるかと思ふと、すぐ出してゐる。出すときには、風呂敷の四隅を攫《つか》んで濛々《もう／＼》と湯氣の立つやつを床《ゆか》の上に放《はふ》り出《だ》す。赤銅《しやくどう》の樣な肉の色が煙の間から、汗で光々《ぴか／＼》するのが勇ましく見える。この素裸《すはだか》なクーリーの體格を眺めたとき、余は不圖《ふと》漢楚軍談《かんそぐんだん》を思ひ出した。昔｜韓信《かんしん》に股を潜《くゞ》らした豪傑は屹度《きつと》こんな連中に違ひない。彼等は胴から上の筋肉を逞《たくま》しく露《あら》はして、大きな足に牛の生皮《きがは》を縫合せた堅い靴を穿《は》いてゐる。蒸した豆を藺《ゐ》で圍んで、丸い枠を上から穿《は》めて、二尺｜許《ばかり》の高さになつた時、クーリーは忽ち此靴の儘枠の中に這入つて、ぐん／＼豆を踏み固める。さうして、夫《それ》を螺旋《らせん》の締棒《しめぼう》の下に押込んで、把《て》をぐる／＼と廻し始める。油は同時に搾《しぼ》られて床下《ゆかした》の溝にどろ／＼に流れ込む。豆は全くの糟《かす》丈《だけ》になつて仕舞ふ。凡《すべ》てが約二三分の仕事である。

　此油が喞筒《ポンプ》の力で一丈四方もあらうといふ大きな鐵の桶に吸上げられて、靜に深さうに淀《よど》んでゐる所を、二階へ上がつて三つも四つも覗き込んだときには、恐ろしくなつた。この中に落ちて死ぬ事がありますかと、案内に聞いたら、案内は平氣な顔をして、まあ滅多に落ちる樣な事はありませんねと答へたが、余はどうしても落ちさうな氣がしてならなかつた。

　クーリーは實に美事《みごと》に働きますね、且《かつ》非常に靜肅だ。と出掛《でがけ》に感心すると、案内は、とても日本人には眞似も出來ません。あれで一日五六錢で食つてゐるんですからね。どうしてあゝ強いのだか全く分りませんと、左《さ》も呆れた樣に云つて聞かせた。

　

　　　　　十八

　

　股野が先生私の宅《うち》へ來なさらんか、八疊の間が空《あ》いてゐます、夜具も蒲團もあります。ホテルにゐるより呑気《のんき》で好いでせうと親切に云つて呉れる。何でも股野の家の座敷からは、大連が一目に見渡されるのみならず、海が手に取る樣に眺められるのみならず、海の向ふに連《つら》なる突兀《とつこつ》極まる山脈さへ、坐つてゐると、窓の中に向ふから這入つて來て呉れるといふ重寶《ちようはう》な家《うち》なんださうである。

　始めのうちは股野の自慢を好加減《いゝかげん》に聞き流して、左樣《さう》か左樣かと答へてゐたが、折角の好意ではあるし、もと／＼氣の多い男だから、都合によつては少し厄介になつても好い位に思つて、序《ついで》の時是公に此話をすると、そんな所へ行つちや不可《いか》んと忽《たちま》ち叱られて仕舞つた。もしホテルが厭なら、おれの宅《うち》へ來い、あの部屋へ入れてやるからと云ふんで、書齋の次の疊の敷いてある間《ま》を見せて呉れるんだが、別に西洋流の宿屋に愛想《あいそ》をつかした譯でもないんだから、ぢや厄介にならうとも云はなかつた。

　是公は書齋の大きな椅子の上に胡坐《あぐら》をかいて、河豚《ふぐ》の干物《ひもの》を噛《かじ》つて酒を呑んでゐる。どうして、あんな堅いものが胃に収容出來るかと思ふと、實に恐ろしくなる。さうかうする内に、おいゼムを持つてゐるなら少し呉れ、何だかおれも胃が惡くなつたやうだと手を出した。さうして、胃が惡いときは、河豚《ふぐ》の干物《ひもの》でも何でも、ぐん／＼喰つて、胃病を驚かしてやらなければ駄目だ。さうすれば屹度《きつと》癒ると云つた。醉つてゐたに違ない。

　余はポツケツトから注文の藥を出して相手にあてがつた。これは二三日｜前《まへ》是公と一所に馬車に乘つて、市中を乘り廻した時、是公の御者《ぎよしや》から二十錢借りて大連の藥屋で買つたものである。其時は是公の御者に對する態度の頗る叮嚀なのに氣が附いて少しく驚かされた。君ちょつと其處いらの藥屋へ寄つて、ゼムを買つて遣つて下さいと云ふんだから非凡である。

　君は御者に對して叮嚀過ぎるよと忠告して遣つたら、うんあの時の二十餞をまだ拂はなかつたつけと思ひ出した樣に河豚《ふぐ》の干物《ひもの》を又噛つてゐた。

　是公の御者《ぎよしや》には廿錢｜借《かり》がある丈《だけ》だが、其｜別當《べつたう》に至つては全く奇拔である。第一日本人ぢやない。辮髪《べんぱつ》を自慢さうに垂らして、黄色の洋袴《ずぼん》に羅紗《らしや》の長靴を穿《は》いて、手に三尺程の拂子《ほつす》をぶら下げてゐる。さうして馬の先へ立つて驅ける。よくあんな紳士的な服裝《なり》をして汗も出さずに走《かけ》られる事だと思ふ位に早く走《か》ける。尤も足も長かつた。身の丈は六尺近くある。

　別當《べつたう》と御者《ぎよしや》は此位にして又股野にかへるが、余は是公に叱られたため、とう／＼股野の家へは移らなかつた。けれども遊びには行つた。成程小山の上に建てられた好い社宅である。尤も一軒立《いつけんだて》ではない。長い棟がいくつも灰色に並んでゐるうちの一番はづれの棟の、一番最後の番號の其二階が彼の家族の領分であつた。岡の下から見ると、丸《まる》で英國の避暑地へ行つた樣だとある西洋人が評した程、外部は厚い壁で洋式に出來てゐるが、中には日本の香《にほひ》がする奇麗な疊が敷いてあつた。成程｜景色《けしき》が好い。大連の市街が見える、大連の海が見える、大連の向ふの山が見える。股野の家には勿體《もつたい》ない位である。余は其處で村井君に逢つて、股野の細君に逢つて、手厚い御馳走になつて歸つた。

　

　　　　　十九

　

　支那の宿屋を一つ見ませうと云ひながら、股野は路の左側にある戸を開けて中へ這入つた。其處には日本人が三人程机を並べて事務を執つてゐた。股野は其うちの紺の洋服を着た人を捕《つら》まへて、話を始めた。君此處は宿屋だらうと聞いてゐる。宿屋ぢやないよと立ちながら返事をしてゐる。何だか樣子が變になつて來た。やがて余は此｜紺服《こんふく》の人に紹介された。紹介されて見ると、是は商業學校出の谷村君《たにむらくん》で、無論｜旅屋《やどや》の亭主ではなかつた。谷村君は此地で支那人と組んで豆の商賣を營んでゐる。從つて取引上の必要があつて、奧の方から大連へ出て來る豆の荷主《にぬし》と接觸しなければならないのだが、此方《こつち》の習慣として、斯う云ふ荷主は決して普通の旅籠《はたご》を取らない。出て來れば屹度《きつと》取引先へ宿《とま》つて、用の濟む迄は何時《いつ》迄《まで》でも其處に滯在してゐる。しかも其｜數《かず》は一人や二人ではない。從つて谷村君の奧座敷は一種の宿屋見た樣な組織に出來てゐる。

　ぢや其奧座敷を一寸拜見出來ますかと云ふと、谷村君はさあ／＼と自分から席を離れて、快よく案内に立たれる。余は谷村君の後《うしろ》へ追《つ》いて事務室の裏へ出た。股野も食付《くつつ》いて出た。裏は眞四角な庭になつてゐる。無論樹も草も花も見當らない、たゞの平たい場所である。其處を突き拔けた正面の座敷が應接間であつた。應接間の入口は低い板間《いたま》で、突當りの高い所に蒲團が敷いてある。其上に腰を掛けて談判をするのださうだが、横着な事には大きな括枕《くゝりまくら》さへ備へ付けてある。然し肱《ひぢ》を突く爲か、頭を載せる爲かは聞《き》き糺《たゞ》して見なかつた。彼等は談判をし乍《なが》ら阿片《あへん》を飲む。でなければ煙草を吸ふ。其｜煙管《きせる》は煙管と云ふよりも一種の器械と評した方が好い位である。錫《すゞ》の胴《どう》に水を盛つて雁首《がんくび》から洩れる煙が此水の中を通つて吸口迄登つてくる仕掛なのだから、慣れないうちは水を吸ひ上げて口中へ入れる恐れがある。一服｜遣《や》つて御覽なさいと勸められたから、遣つて見たが、ごぼ／＼音がして丸《まる》で脂《やに》を呑む樣な心持がした。

　二階が荷主《にぬし》の室《へや》だと云ふんで、二階へ上《あが》つて見ると、成程｜室《へや》が澤山並んでゐる。其《その》中《うち》の一つでは四人《よつたり》で博奕《ばくち》を打つてゐた。博奕《ばくち》の道具は頗る雅《が》なものであつた。厚みも大きさも將棋の飛車角《ひしやかく》位に當る札を五六十枚程｜四人《よつたり》で分けて、それを色々に並《なら》べ更《か》へて勝負を決してゐた。其札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合せに接《つ》いだもので、其象牙の方には色々の模樣が彫刻してあつた。此模樣の揃つた札を何故か並べて出すと勝になる樣にも思はれたが、要するに、竹と象牙がぱち／＼觸れて鳴る許《ばか》りで、何處が博奕《ばくち》なんだか、實は一向《いつかう》解らなかつた。たゞ此象牙と竹を接《つ》ぎ合《あ》はした札を二三枚貰つて來たかつた。

　一つの室《へや》では五六人寄つて、そのうちの一人が笛を吹くのを聞いてゐた。幕を開けて首を出したら、ぱたりと笛を歇《や》めて仕舞つた。又吹き始めるかと思つて、しばらく室《へや》の中に立つてゐたが、とう／＼吹かなかつた。室《へや》の中には妙な書が麗々と壁に貼り付けてある。いづれも下手《まづ》いものだのに、何々先生の爲に何々書すと云つた樣に勿體振《もつたいぶ》つたの許《ばかり》であつた。股野が何か云ふと、向ふの支那人も何か云ふ。然し兩方の云ふ事は兩方へ通じない樣である。

　

　　　　　二十

　

　波止場《はとば》から上《あが》つて眞直に行くと、大連の町へ出る。それを眞直に行かずに、すぐ左へ折れて長い上屋《うはや》の影を向ふへ、三四町通り越した所に相生《あひおひ》さんの家がある。西洋館の二階を客間にして古い佛像やら鏡やら銅器陶器の類を奇麗に飾つてゐるから、客間を見た丈《だけ》ではたゞ一通りの風流人としか見えない。相生さんは滿鐵の社員として埠頭事務所《ふとうじむしよ》の取締である。

　もつと卑近な言葉で云ふと、荷物の揚卸《あげおろし》に使はれる仲仕《なかし》の親方をやつてゐる。かつて門司の勞働者が三井に對してストライキを遣つたときに、相生さんが進んで其衝に當つた爲、手際よく解決が着いたとか云ふので、滿鐵から仲仕の親分として招聘された樣なものである。實際相生さんは親分氣質《おやぶんかたぎ》に出來上つてゐる。滿鐵から任用の話があつたとき、子供が病氣で危篤であつたのに、相生さんはさつさと大連へ來て仕舞つた。來て一週間すると子供が死んだと云ふ便《たよ》りがあつた。相生さんは内地を去る時、既に此悲報を手にする覺悟をしてゐたのださうだ。

　相生さんは大連に來るや否や、仲仕其他｜凡《すべ》て埠頭《ふとう》に關する事務を取り扱ふ連中を集めて此處に一部落を築き上げた。相生さんの家を通り越すと、左右に並んでゐる建物は皆自分の經営になつたもの許《ばかり》である。其中には圖書館がある。倶樂部《くらぶ》がある。運動場がある。演武場がある。部下の住宅は無論ある。

　倶樂部《くらぶ》では玉を突いてゐた。圖書舘には沙翁全集《さをうぜんしふ》があつた。ポルグレーヴの經濟字彙《けいざいじゐ》があつた。余の著書も二三冊あつた。

　此處は柔道の道場に使つてゐますが、時によると講談を遣つたり演説を遣つたりしますと云ふ相生さん自身の説明に就いて、中を覗き込むと、成程道場には丁度好い建物がある。其奧に高座《かうざ》が出來てゐて、何時《いつ》でも寄席《よせ》もしくは講演を聞く樣な設備もある。講演てどんな講演ですかと聞き返したら、相生さんは、まあ内地から來られた人だとか何とかいふのを頼んでやりますと答へられた。ことによると、遠からぬうちに捕《つか》まつて、此處へ引つ張り出されはしまいかと、其時すぐ氣が付いたが、眞逆《まさか》私《わたし》はどうぞ廢《よ》しにして下さいと、頼まれもしないうちに斷るのも失禮だと思つて、はあ成程と首肯《うなづ》いて通り過ぎた。

　最後に尤も長い二階建の一棟の前に出た。是が共同生活を遣らしてゐる所でと、相生《あひおひ》さんが先へ這入る。中は勸工場《くわんこうば》の樣に眞中を往來にして、同《おなじ》く勸工場の見世《みせ》に當る所を長屋の上り口にしてある。だから長屋と長屋とは壁一重《かべひとへ》で仕切られながら、約一丁も並んでゐる許《ばかり》か、三尺の徃來を越すとすぐ向ふの家《うち》になる。上り口を枕にして寐れば、吸付莨《すひつけたばこ》の遣り取り位は出來る程近い。相生さんが先へ立つて、此狹い往來を通ると、裁縫《しごと》をしたり、子供を寢かしたりしてゐる神さん達が、みんな叮嚀に挨拶をする。然し中には氣が付かずに何か話して居るのも見える。

　此部落に住んでゐる人間が總掛《そうがゝ》りになつた上に、其何十倍か何百倍のクーリーを使つても、豆の出盛《でさか》りには持《も》て餘《あま》す程荷が後から／＼と出てくる。相生さんの話によると、多い時は着荷《ちやくに》の量が一日ならし五千｜噸《トン》あるさうである。是がため去年｜雨期《うき》を持ち越した噸數《トンすう》は四萬｜噸《トン》で、今年《こんねん》はそれが十五萬噸に上《のぼ》つたとか聞いた。

　南北千五百尺東西四千二百尺の埠頭の側《そば》に此位豆を積んだら隨分｜盛《さかん》なものだらう。

　

　　　　　二十一

　

　旅順から電話が掛つて此方《こつち》へは何時《いつ》來るかといふ問合はせである。おい誰が掛けて呉れるんだらうなと橋本に聞いて見ると、橋本は左樣《さう》だなあと云ふ丈《だけ》で要領を得ない。おい名前は分らないのかと已《やむ》を得《え》ずボイに尋ね返したら、ボイは依然として、たゞ民政署《みんせいしよ》だと云つて掛けて參りましたと同じ事を繰返してゐる。大方｜友熊《ともくま》だらう位に橋本と二人で見當をつけて返事をさせた。是が白仁長官《しらにちやうくわん》の好意から出た聞き合せであつた事は旅順に着いて後《のち》始めて知つた。

　旅順には佐藤友熊《さとうともくま》と云ふ舊友があつて、警視總長と云ふ嚴《いかめ》しい役を勤めてゐる。これは友熊の名前が廣告する通りの薩州人《さつしうじん》で、顔も氣質も看板の如く精悍《せいかん》に出來上がつてゐる。始めて彼を知つたのは駿河臺の成立學舍といふ汚《きた》ない學校で、其學校へは佐藤も余も豫備門に這入る準備の爲めに通學したのであるから餘程古い事になる。佐藤は其頃｜筒袖《つゝそで》に、脛《すね》の出る袴を穿《は》いて遣つて來た。余の如く東京に生れたものゝ眼には、此姿が頗る異樣に感ぜられた。丁度｜白虎隊《びやくこたい》の一人《いちにん》が、腹を切り損なつて、入學試驗を受けに東京に出たとしか思はれなかつた。教場へは無論下駄を穿いた儘｜上《あが》つた。尤も是は佐藤｜許《ばかり》ぢやない。我等も悉《こと／”＼》く下駄の儘あがつた。上草履や素足《すあし》で歩く樣な學校ぢやないのだから仕方がない。床《ゆか》に穴が開《あ》いてゐて、氣を付けないと、縁の下へ落ちる拍子に、向脛《むかふずね》を摺剥《すりむ》く丈《だけ》が、普通の徃來より惡い位のものである。

　古い屋敷を其儘學校に用ひてゐるので玄關からが既に教場であつた。ある雨の降る日余は此玄關に上つて時間の來るのを待つてゐると、黒い桐油《とうゆ》を着て饅頭笠《まんぢゆうがさ》を被つた郵便脚夫が門から這入つて來た。不思議な事に此郵便屋が鐵瓶を提《さ》げてゐる。しかも全くの素足である。足袋は無論の事、草鞋《わらぢ》さへ穿《は》いてゐない。さうして、普通なら玄關の前へ來て、郵便と大きな聲を出すべき所を、無言の儘すた／＼敷臺から教場の中へ這入つて來た。此郵便屋が即ち佐藤であつたので大いに感心した。何故《なぜ》鐵瓶を提げてゐたものか其｜理由《わけ》は今日《こんにち》迄《まで》遂に聞く機會がない。

　其《その》後《ご》佐藤は成立學舍の寄宿へ這入つた。そこで賄征伐《まかなひせいばつ》を遣つた時、何うした機勢《はずみ》か額に創《きず》をして、しばらくの間｜白布《しろぬの》で頭を卷いてゐたが、それが、後鉢卷《うしろはちまき》の樣に如何にも勇ましく見えた。賄《まかなひ》に擲《なぐ》られたなと調戯《からか》つて苛《ひど》い目に逢つたので今に其｜颯爽《さつさう》たる姿を覺えてゐる。

　佐藤は其頃頭に毛の乏《とぼし》い男であつた。無論老朽した禿《はげ》ではないのだが、まあ土質《どしつ》の惡い草原の樣に、一面に青々とは茂らなかつたのである。漢語でいふと短髪種々《たんぱつしよう／＼》とでも形容したら好いのかも知れない。風が吹けば毛の方で一本々々に靡《なび》く傾《かたむき》があつた。此頭は豫備門へ這入つても黒くならなかつた。夫《それ》で皆《みんな》して佐藤の事を寒雀《かんすゞめ》々々《／＼》と囃《はや》してゐた。當時余は寒雀とはどんなものか知らなかつた。けれども佐藤の頭の樣なものが寒雀なんだらうと思つて、一所になつて矢張《やつぱ》り寒雀《かんすゞめ》々々《／＼》と調戯《からか》つた。此｜渾名《あだな》を發明した男は其《その》後《ご》技師になつて今は北海道にゐる。

　話が前後する樣だが、旅順に來て十何年振かに佐藤に逢つて、例の頭を注意して見ると、不思議な事に、其頭には萬遍なく綿密に毛が生えてゐた。尤も黒いのばかりではなかつた。近頃は正當防禦の爲めに、斯う短く刈つてゐるんだと云つて、三分刈の濃い頭を笑ひながら掻いて見せた。

　旅順から二度目の電話が掛つた翌日の朝、橋本と余は、此舊友に逢ふ爲．又日露の戰跡を觀る爲、大連から汽車に乘つた。乘る時、是公が友熊《ともくま》によろしくと云つた。是公は何か用事があつたと見えて、國澤君と二人で停車場《ステーシヨン》の構内を横切つて妙な方角へ向いて歩いて行つた。やがて二人の影は物に遮《さへ》ぎられて、汽車の窓から見えなくなつた。さうして滿洲に有名な高粱《かうりやう》の色が始めて眼底に映じ出した。汽車は廣い野の中に出たのである。

　

　　　　　二十二

　

　おい旅順に着いたら久し振りに日本流の宿屋へ泊らうかと橋本に相談を掛けるとさうだな浴衣《ゆかた》を着てごろ／＼するのも好いねといふ同意である。橋本は新しく蒙古から歸つたので、頻りに支那宿に降參した話を始めた。其支那宿には、名は塞北《さいほく》に馳せ、味《あぢはひ》は江南を壓す抔《など》といふ廣告の文字がべた／＼壁に貼り付けてあるさうだ。橋本はかう云ふ文句を澤山手帳に控へてゐる。外に使《つか》ひ路《みち》のない文句だものだから、汽車の中で、それを殘らず余に讀んで聞かせて仕舞つた。二人は笑ひながら日本流の奇麗な宿屋を想像して旅順のプラツトフオームに降りた。降りると其處に馬車がある。我々の名前を聞くものがある。

　此馬車が民政署の馬車で、我々を尋ねて呉れた人が、渡邊秘書《わたなべひしよ》であるといふ事を發見した時は兩人《りやうにん》とも大分《だいぶ》恐縮した。橋本を振り返ると相變らず鼻の先を反《そ》らして、臺灣パナマだか何だかペコ／＼になつた帽子を被つてゐる。おい宿屋は何うするんだいと小さな聲で聞くと、うん左樣《さう》さなと云つたが、其内二人とも馬車へ乘らなければならない段になつた。一體橋本と一所にあるくときは、何でも橋本が進んで始末を付けて呉れる事に昔から極つてゐるんだから此際もどうかするだらうと思つて放《はふ》つて置いた。すると豫想通、日本流の宿屋へ行く積《つもり》で來たんですがと渡邊さんに相談し始めた。所が渡邊さんはどうも御泊りになられる樣な日本の宿屋は一軒もありませんから、矢つ張り大和《やまと》ホテルに爲《な》さつた方が好いでせうと忠告してゐる。

　やがて馬車は新市街の万へ向いて動き出した。二人は十五分の後《のち》ホテルの二階に導《みちび》かれて、行き通ひの出來る室《へや》を二つ並べて取つた。そこで革鞄《かばん》の中から刷毛《はけ》を出して塵だらけの服を拂つたあとで、しばらく休息のため安樂椅子に腰を卸して見ると、急に氣が付いた樣に四邊《あたり》が森閑《しんかん》としてゐる。ホテルの中には一人も客がゐない樣に見える。ホテルの外《そと》にも一切《いつさい》人が住んでゐる樣には思はれない。開廊《ヴエランダ》へ出て徃來を眺めると、徃來は大分《だいぶ》廣い。手摺《てすり》の眞下にある人道の石の中から草が生えて、莖の長さが一尺餘りになつたのが二三本見える。日中だけれども蟲の音《ね》が微《かす》かに聞える。隣は主《ぬし》のない家と見えて、締め切つた門やら戸やらに蔦《つた》が一面に絡《から》んでゐる。徃來を隔てゝ向ふを見ると、ホテルよりは廣い赤煉瓦の家が一棟ある。けれども煉瓦が積んである丈《だけ》で屋根も葺《ふ》いてなければ窓硝子《まどガラス》も付いてない。足場に使つた材木さへ處々に殘つてゐる位の半建《はんだて》である。淋しい事には、工事を中止してから何年になるか知らないが、何年になつても此儘の姿で、到底變る事はあるまいと云ふ感じが起る。さうして其感じが家にも徃來にも、美しい空にも、一面に充ちてゐる。余は開廊《ヴエランダ》の手摺《てすり》を掌《てのひら》で抑へながら、奧にゐる橋本に、淋《さび》しいなあと云つた。旅順の港は鏡の如く暗緑に光つた。港を圍《かこ》む山は悉《こと／”＼》く坊主であつた。

　丸《まる》で廢墟《ルインス》だと思ひながら、又｜室《へや》の中に這入ると、寢床には雪の樣な敷布《シート》が掛つてゐる。床《ゆか》には柔かい絨毯《じゆうたん》が敷いてある。豐かな安樂椅子が据ゑてある。器物は悉《こと／”＼》く新式である。一切《いつさい》が整つてゐる。外と内とは全く反對である。滿鐵の經營にかゝる此ホテルは、固《もと》より算盤《そろばん》を取つての儲け仕事でないと云ふ事を思ひ出す迄は、どうしても矛盾の念が頭を離れなかつた。

　食堂に下りて、窓の外に簇《むら》がる草花の香《にほひ》を嗅《か》ぎながら、橋本と二人靜かに午餐の卓に着いたときは、機會があつたら、此處へ來て一夏氣樂に暮したいと思つた。

　

　　　　　二十三

　

　旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、圓柱の樣な高い塔が見えた。それが餘り高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に仰向かなくては頂點《てつぺん》迄見上げる譯に行かなかつた。

　馬車が新市街を通り越して又此塔の眞下に出た時に、これが白玉山《はくぎよくざん》で、あの上の高い塔が表忠塔だと説明して呉れた。能く見ると高い燈臺の樣な恰好《かつかう》である。二百何尺とかと云ふ話であつた。此山の麓を通り越して、舊市街を拔けると、又山路に掛る。其登り口を少し右へ這入つた所に、戰利品陳列所がある。佐藤は第一番にそれを見せる積《つもり》で兩人《ふたり》を引張つて來た。

　陳列所は固《もと》より山の上の一軒家で、其山には樹と名の付く程の青いものが一本も茂つてゐないのだから、甚だ淋《さび》しい。當時の戰争に從事したと云ふ中尉のA君がたゞ獨り番をしてゐる。此尉官は陳列所に幾十種となく並べてある戰利品に就いて、一々叮嚀に説明の勞を取つて呉れるのみならず、兩人《ふたり》を鷄冠山《けいくわんざん》の上迄連れて行つて、草も木もない高い所から、遙の麓を指さしながら、自分の從軍當時の實歴譚《じつれきだん》を悉《こと／”＼》く語つて聞かせて呉れた人である。始め佐藤から砲臺案内を依頼したときには、今日は些《ち》と差支があるから四時頃迄ならと云ふ條件であつたが、山の出鼻へ立つて洋劔《サーベル》を鞭《むち》の代りにして、彼方此方《あちらこちら》と方角を教へる段になると、肝心の要事は丸《まる》で其方退《そつちのけ》にして、滿洲の赤い日が、向ふの山の頂《いたゞき》に、大きくなつて近づく迄歸らうとは云はなかつた。もし忘れたんぢや氣の毒だと思つて、此方《こつち》から注意すると、何｜宜《よ》う御座います、構ひませんと斷りながら、益々講釋をしてくれる。あんまり不思議だから、全體何の御用事が御有りなのですかと、詮索《せんさく》がましからぬ程度に聞いて見ると、實は妻《さい》が病氣でと云ふ返事である。流石《さすが》横着な兩人《ふたり》も、此際｜丈《だけ》は、それぢや御迷惑でも折角だから序《ついで》にもう少し案内を願はうと云ふ氣にもなれなかつた。言葉は無論出なかつた。長い日が山の途中で暮れて、電氣の力を借りなければ人の顔が判然《はつきり》分らない頃になつて、我々の馬車が漸く舊市街迄戻つた時、中尉はある煉瓦塀の所で、それぢや私は此處で失禮しますと挨拶して、馬車から下りて、門の中へ急いで這入つて行かれた。此煉瓦の塀を回《めぐ》らした一構《ひとかまへ》は病院であつた。さうして中尉の妻君は此病院の一室に寢て居たのである。

　是程世話になり、面倒を掛けた人の名前を忘れるのは甚だ濟まん事だが、どうしても思ひ出せない。佐藤に、よろしくと傳言を頼んだ時は、たゞ、あの中尉君と書いた。此處に某中尉《ぼうちゆうゐ》などと餘所《よそ》／＼しく取り扱ふのはあまり失禮だから、已《やむ》を得《え》ずA君として置いた。

　A君の親切に説明して呉れた戰利品の一々を叙述したら、此陳列所｜丈《だけ》の記載でも、二十枚や三十枚の紙數では足るまいと思ふが、殘念な事に大抵忘れて仕舞つた。然したつた一つ覺えてゐるものがある。夫《それ》は女の穿《は》いた靴の片足である。地《ぢ》が繻子《しゆす》で、色は薄鼠であつた。其他の手投彈《てなげだん》や、鐵條網や、魚形水雷や、僞造の大砲は、たゞ單なる言葉になつて、今は頭の底に判然《はつきり》殘つてゐないが、此一足の靴｜丈《だけ》は色と云ひ、形と云ひ、何時《いつ》なん時《どき》でも意志の起り次第｜鮮《あざやか》に思ひ浮べる事が出來る。

　戰争後ある露西亞《ロシア》の士官が此陳列所一覽の爲わざ／＼旅順迄來た事がある。其時彼は此靴を一目｜觀《み》て非常に驚いたさうだ。さうしてA君に、これは自分の妻の穿《は》いてゐたものであると云つて聞かしたさうだ。此小さな白い華奢《きやしや》な靴の所有者は、戰争の際に死んで仕舞つたのか、又はいまだに生存してゐるものか、その點はつい聞き洩らした。

　

　　　　　二十四

　

　今迄は白馬《しろうま》を着けた佐藤の馬車に澄まして乘つてゐたが、山へ掛るや否や、例の泥だらけの掘出しものゝ中へ放《はふ》り込《こ》まれて仕舞つた。到底普通の馬車では上がれないと云ふんだから已《やむ》を得《え》ない。夫《それ》でも露西亞人《ロシアじん》丈《だけ》あつて、眼にあまる山の悉《こと／”＼》くに砲臺を構へて、其砲臺の悉《こと／”＼》くに、馬車を驅つて頂邊《てつぺん》迄登れる樣な廣い路を付けたのは感心ですとA君が語られる。實際其當時は奇麗な馬車を傷《いた》めずに、心持よく砲臺のある地點迄乘り付けられたものと見える。所が戰争が濟んで徃復の必要がなくなつたので、折角出來た山路《やまみち》に手を入れる機會を失つた爲、我々如き物數奇《ものずき》は、斯樣に零落《れいらく》した馬車をさへ、時々復活させる始末になるのである。元來旅順程小山が四方《よも》に割據《かつきよ》して、禿頭を炎天に曝《さら》し合《あ》つてゐる所はない。樹が乏しい土質《どしつ》へ、遠慮のない強雨《がうう》がどつと突き通ると、傾斜の多い山路の側面が、すぐ徃來へ崩れ出す。其崩れるものが決して尋常の土ぢやない。堅い石である。しかも頑固に角張《かどば》つてゐる。ある所｜抔《など》は、五寸から一尺程もあらうと云ふ火打石のために、累々《るゐ／＼》と徃來を塞《ふさ》がれてゐる。零落《れいらく》した馬車は容赦なく鳴動《めいどう》して其上を通るのだから、凸凹《でこぼこ》の多い川床《かはどこ》を渡るよりも危險である。二百三高地《にひやくさんかうち》へ行く途中などでは、とう／＼此火打石に降參して、馬車から下りて仕舞つた。さうして痛い腹を抱《かゝ》へながら、膏汗《あぶらあせ》になつて歩いた位である。鷄冠山《けいくわんざん》を下りるとき、馬の足掻《あがき》が何だか變になつたので、氣を付けて見ると、左の前足の爪の中に大きな石が一杯に詰《はま》つてゐた。餘程厚い石と見えて爪から餘つた先が一寸《いつすん》程もある。從つて馬は一寸《いつすん》がた跛《ちんば》を引いて車體を前へ運んで行く譯になる。席から首を延ばして、此樣子を見た時は、安んじて車に乘つてゐるのが氣の毒な位、馬に對して痛わしい心持がした。御者《ぎよしや》に注意してやると、御者は支那語で何とか云ひながら、鞭を棄てゝ下へ下りたが、非常に固く詰《つま》つてゐたと見えて、叩いても引つ張つても石が取れないので、又のそ／＼御者臺へ上がつた。さうして、後《うしろ》にゐる余の方を振《ふ》り返《む》いて、にや／＼笑ひながら、又鞭を鳴らし出した。馬も存外平氣なもので、其儘とう／＼大和《やまと》ホテル迄歸つて來た。

　橋本と余は斯う云ふ馬車の中で、斯う云ふ路の上に搖振《ゆすぶ》られべく舊市街から出立した。あれがステツセル將軍の家でと云ふのを遠くから見ると、中々立派に出來てゐる。戰争の烈しくならない時は、將軍が見事な馬車を驅つて其處いらを乘り廻してゐるのが遙《はるか》の先から見えたさうである。A君の指《ゆびさ》して教へられた中《うち》で、たゞ一つ質素な板圍《いたがこひ》の小さい家があつた。それが丸《まる》で日本の内地で見る普通の木造なのだから珍らしかつた。何とか云ふ有名な將軍の住宅だと説明されたが、不幸にして其有名な將軍の名を忘れて仕舞つた。何でも非常に人望のある人で、戰争のときも一番先に打死《うちじに》をしたのださうである。あゝ云ふ質素の家に住んで居られたのも、一つは人望のあつた原因になつてゐるのでありませうとA君は丁寧に敬慕の意を表《へう》される。此將軍は戰争｜丈《だけ》には熱心で、外の事には餘程無頓着であつた人らしい。此邊にある露國の將軍｜抔《など》の住宅は皆それ相應に立派なもの許《ばかり》である。新市街の白仁長官《しらにちやうくわん》の家を訪ねた時、結構な御住居《おすまひ》だが、もとは誰の居た所ですかと聞いたら、何でもある大佐の家ださうですと答へられた。斯う云ふ家に住んで、斯ういふ景色《けしき》を眼の下に見れば、内地を離れる賠償《ばいしやう》には充分なりますねと云つたら、白仁君も笑ひながら、日本ぢや到底《とても》這入れませんと云はれた位である。

　其内馬車は無鐵砲に山路《やまみち》を上つて、旅順の市街を遙の下に打遣《うちや》る樣になつた。A君は坂の途中で車を留めて、私は近路を歩いて、御先へ行つて御待ち申しますと云ひながら、左手の急な岨路《そばみち》をずん／＼登つて行つた。我々の車は又のそ／＼動き出した。

　

　　　　　二十五

　

　下を見下《みおろ》すと、山の側面は夫《それ》程《ほど》急でないが、樹と名の付く樣な青いものは丸《まる》で眸《ひとみ》を遮《さへぎ》らない。一眼に麓迄｜透《す》かされるのみならず、麓からさき一里餘の畠が眞直に眉の下に集まつて來る。此《この》邊《へん》の空氣は内地よりも遙《はるか》に澄んでゐるから、遠くのものが、つい鼻の先にある樣に鮮《あざやか》である。其うちで高粱《かうりやう》の色が一番多く眼を染めた。

　あの先に、小指の頭の樣な小さい白いものが見えるでせう、あすこから此方《こつち》の方へ向いて對溝《たいこう》を掘出したのですとA君が遠くの方を指さしながら云つた。此邊に穴を掘るのは石を割ると一般なのだから一町掘るのだつて容易な事ではない。現に外濠《そとぼり》から窖道《かうだう》へ通ずる路をつけるとき抔《など》は、朝から晩迄一日働いて四十五サンチ掘つたのが一番の手柄であつたさうだ。

　余は余の立つてゐる高い山の鼻と、遠くの先にある白いものとを見較べて、其中間に横《よこた》はる距離を胸算用《むなざんよう》で割り出して見て、軍人の根氣の好いのに悉《こと／”＼》く敬服した。全體何處迄掘つて來たのですかと聞き返すと、つい其處ですと洋劔《サーベル》を向けて教へてくれた。何でも九月二日から十月二十日とか迄掘つてゐたと云ふのだから恐るべき忍耐である。其時敵も砲臺の方から反對窖道《はんたいかうだう》と云ふのを掘つて來た．日本の兵卒が例の如く工事をしてゐると何處かでかん／＼石を割る音が聞えたので、敵も暗い中を一寸二寸と近寄つて來た事が知れたのだと云ふ。爆發藥の御蔭で外濠《そとぼり》を潰したのは此時の事でありますと、中尉は其潰れた土山の上に立つて我々を顧みた。我々も無論其上に立つてゐる。此下を掘ればいくらでも死骸が出て來るのだと云ふ。

　土山の一隅《ひとすみ》が少し缺けて、下の方に暗い穴が半分見える。其天井が厚さ六尺もあらうと云ふセメントで出來上つてゐる。身を横にして、其穴に這ひ込みながら、だら／＼と石の廻廓《くわいらう》に降りた時に、仰向いて見て始めて其堅固なのに氣が付いた。外濠《そとぼり》を崩した上に、此厚い壁を破壞しなければ、砲臺を何うする事も出來ないのは攻手に取つて非常な困難である。しかも此小さな裂け目から無理に割り込んで、一寸二寸とぢり／＼にセメントで築上げた窖道《かうだう》を專領《せんりやう》するに至つては、全く人間以上の辛抱比《しんばうくら》べに違ない。其時兩軍の兵士は、此暗い中で、僅の仕切りを界《さかひ》に、たゞ一尺程の距離を取つて戰《いくさ》をした。仕切《しきり》は土嚢《どなう》を積んで作つたとかA君から聞いた樣に覺えてゐる。上から頭を出せばすぐ撃たれるから身體を隱して亂射したさうだ。それに疲れると鐵砲をやめて、兩側で話を遣つた事もあると云つた。酒があるなら呉れと強請《ねだ》つたり、死體の収容をやるから少し待てと頼んだり、あんまり下らんから、もう喧嘩は已《や》めにしやうと相談したり、色々の事を云ひ合つたと云ふ話である。

　三人は暗い廻廓を這ひ出して、又土山の上に立つた。日は透《す》き徹《とほ》る樣に明かるく坊主山《ばうずやま》を照らしてゐる。野菊に似た小さな花が處々に見える。凝《ぢつ》と日を浴びて佇《たゝず》んでゐると、微《かす》かに蟲の音《ね》がする。草の裏で鳴いてゐるのか、崩れ掛つた窖内《かうない》で鳴いてゐるのか分らなかつた。向ふの方《かた》に支那人の影が二人見えたが、我々の姿を認めるや否や、草の中に隱れた。あゝ遣つて、何か掘りに來るんです。捕《つら》まると怖《こは》いものだから、すぐに逃げます、中々取り抑へるのが困難ですとA君が苦笑した。

　後側《うしろがは》へ回ると廣い空堀《からぼり》の中に立派な二階建の兵舍がある。もとは橋を掛けて渡つたものと思はれるが、今では下りる事も出來ない。兵舍の脊はもとより、山に圍《かこ》はれて、外からは見えなくなつてゐる。三人は空濠《からぼり》を横に通り越して猶《なほ》高く上つた。とう／＼四方にあるものは山の頭｜許《ばかり》になつた。さうして夫《それ》が一つ殘らず昔の砲臺であつた。中尉はそれ等の名前を悉《こと／”＼》く諳《そら》んじてゐた。余は遮《さへぎ》るものゝない高い空の眞下に立つて、數限りもない山の背を見渡しながら、砲臺巡《はうだいめぐ》りも容易な事ではないと思つた。

　

　　　　　二十六

　

　大連に着いてから二三日すると、滿洲日々《まんしうにち／＼》の伊藤君から滯留中《たいりうちゆう》に是非一度講演をやつて貰ひたいといふ依頼であつた。えゝ都合が出來ればと受合つた樣な又斷つた樣な輕い挨拶をして旅順に來た。すると其伊藤君が我々より一日前に同じ大和《やまと》ホテルに泊つてゐたので、たゞ、やあ來てゐるね位では事が濟まなくなつた。伊藤君の話によると、余の承諾を得て講演を開くと云ふ事を、もう自分の新聞に廣告して仕舞つたと云ふんだから、忽《たちま》ち弱つた。何うしても遣らなければならない樣に伊藤君は頼むし、何だか遣れさうもない氣分ではあるし、かた／”＼安樂椅子に尻を埋《うづ》めて、苦《にが》く澁り出した。すると橋本がにや／＼笑ひながら、まあ遣つてやるさと傍《はた》から餘計な事を云ふ。實を云ふと、講演は馬車でホテルに着くや否や、此處の和木君《わきくん》からも頼まれてゐる。尤も此《この》方《はう》は暇がないので、頼《たの》まれ放《ぱな》しの體《てい》であるが、大連に歸ればさう多忙らしく見せる譯には行かない。橋本は其處をよく見破つてゐるので、君さう云ふときには快よく承諾するものだよとか君の樣な人は遣る義務があるさとか色々な口を出す。余の大連で喋舌《しやべ》らせられたのは全く此男の御蔭である。しかも短い時日のうちに二遍も遣らせられた。その内の一遍では、云ふ事が無くつて仕方がなかつたから、私は今晩、何故《なぜ》講演といふものが、さう容易に出來るものでないか、即ち講演が出來ない譯を講演致しますと云つて、妙な事を辯じて仕舞つた。それを是公が聞きに來てゐて、うん貴樣は中々旨い、是から何處へ出て演説しやうと勝手だ、おれが許して遣ると評したから難有《ありがた》い。けれども勸告の本人たる橋本は、平氣な顔をして、何處か遊んで歩いてゐて聞きに來なかつた。其癖營口で又頼まれると早速、君遣るさ、折角頼むんだものと例の通り遣り出したので、已《やむ》を得《え》ず痛い腹の上に掛けてゐた蒲團を跳《は》ね退《の》けて、演説をしに行つた。其代りおれが先へ遣るよと斷つて、橋本のは聞かずに、すぐ宿屋へ歸つて來て、又腹の上に蒲團を掛けてゐた。橋本は斯う云ふ所を見ると、君演説を遣つてる間は苦しいか抔《など》と氣樂な質問をする。尤も招待を斷つたり何かするときには、いや實際此男は胃病でと何時《いつ》でも證人に立つて呉れた。して見ると、橋本はたゞ演説に對してだけ冷刻《れいこく》なのかも知れない。奉天でも危うく高い所へ乘せられる所を、一日｜日取《ひどり》が狂つた爲、如何な橋本にも、君頼まれたときには遣つてやるべきだよを繰返す餘地がなかつた。京城では發着が前後した上に、宿屋さへ違つたものだから、泰然と講演を謝絶する餘裕があつた。是は偏《ひとへ》に橋本の居なかつた御蔭である。

　面白い事に、此演説の勸誘家は其《その》後《ご》札幌《さつぽろ》へ歸るや否や、自身と烈しい胃病に罹《かゝ》つて、急に苦しみ出した。夫《それ》で普通ならば毎週十時間餘も講義を持たせられる所を、僅《わづか》一時間に減らして貰つて、其一時間が濟むとすぐに藥を呑むさうだ。旅行中は君の病氣である事を知りながら、無理に講演を勸めて大いに惡かつた。何事も自分で經驗しないうちは分らぬもので、斯うして胃病に惱まされて始めて氣が付いたが、痛いときに演説などが出來る譯のものでは、決してない。君があの際奮つて演壇に立つたのは實際感心である、と大いに褒《ほ》めたり詫《あや》まつたりして來た。實際橋本の云ふ通りである。然し果して橋本の推察する程胃が痛かつたら、如何《いか》な余も、いくら折角だから君出るが好いよを繰返されたつて、遂に講演を斷つて仕舞つたらう。

　

　　　　　二十七

　

　白仁《しらに》さんから正餐《せいさん》の御馳走になつたときは、民政部内の諸君が大分《だいぶ》見えた。みんな揃つてカーキー色の制服を着てゐた。食事が濟んで別室へ戻つて話してゐると佐藤が、あしたは朝のうち二百三高地《にひやくさんかうち》の方を見たら好からう、案内を出すからと云つて呉れる。余も好からうと答へた。すると、大した案内にも及ぶまいと笑ひながら相談を掛けた。我々は一私人で、たゞ遊覽に來たのだから、公《おほやけ》の職務を帶びてゐる人を使つては濟まないが、折角案内を付けて呉れると云ふなら、小使でも何でも構はない。非番《ひばん》か閑散の人を一人世話して呉れと頼んだ。是は正直恐れ入つた本當の謙遜である。其時佐藤は懷中から自分の名刺を出して、端《はし》の方に鉛筆で何か書いて、ぢや明日《あした》の朝八時に此人が來るから、來たら一所に行くが好いと云つて分れた。

　明日《あした》の朝の八時は例《いつも》の通り強い日が空にも山にも港にも一面に輝いてゐた。馬車を棄てゝ山に掛つたとき抔《など》は、其強い日の光が毛孔《けあな》から總身《そうしん》に浸込《しみこ》む樣に空氣が澄徹《ちようてつ》してゐた。相變らず樹のない山で、山の上には日がある許《ばかり》だから、眼の向く所は、左右ともに、又前後ともに、何處迄も朗らかである。其明かな足元から、ばつと音がして、何物だか飛び出した。案内の市川君《いちかはくん》が鶉《うづら》ですと云つたので始めてさうかと氣がついた位早く、鶉《うづら》は眼を掠《かす》めて、空濶《くうくわつ》の中《うち》に消えて仕舞つた。其｜迹《あと》を見上げると、遙なる大きい鏡である。

　其時我々はもう頂《いたゞき》近くにゐた。此處いらへも砲丸《たま》が飛んで來たんでせうなと聞くと、此處で遣られたものは、多く味方の砲丸《たま》自身のためです。それも砲丸《たま》自身のためと云ふより、砲丸《たま》が山へ當つて、石の碎けたのを跳《は》ね返《かへ》した爲です。斯う云ふ傾斜の甚だしい所ですから、いざと云ふ時に、すぐ遠くから騷け寄せて敵を追《お》ひ退《の》ける譯に行きませんので、みんな斯う云ふ處へ平たくなつて噛《かじ》り付《つ》いてゐるのであります。さうして味方の砲丸《たま》が眼の前へ落ちて、一度に砂烟《すなけむり》が揚がると其｜虚《きよ》に乘じて一間か二間づゝ這ひ上がるのですから、勢ひ砂煙に交《まじ》る石の爲に身體中創だらけになるのです。と市川君は詳しい説明を與へられた。

　味方の砲彈《たま》で遣られなければ、勝負の付かない樣な烈しい戰《いくさ》は苛過《つらす》ぎると思ひながら、天邊《てつぺん》迄｜上《のぼ》つた。其處には道標《だうへう》に似た御影《みかげ》の角柱《かくちゆう》が立つてゐた。其右を少しだら／＼と降《お》りた處が新《あらた》に土を掘返した如く白茶《しらちや》けて見える。不思議な事には所々が黒ずんで色が變つてゐる。これが石油を襤褸《ぼろ》に浸《し》み込《こ》まして、火を着けて、下から放《はふ》り抛《な》げた處ですと、市川君はわざ／＼崩れた土饅頭《どまんぢゆう》の上迄｜降《お》りて來た。其時｜遙《はるか》下の方を見渡して、山やら、谷やら、畠やら、一々實地の地形に就いて、當時の日本軍がどう云ふ徑路《けいろ》をとつて、此處へぢり／＼攻め寄せたかを序《ついで》ながら物語られた。不幸にして、二百三高地の上迄は來た樣なものゝ、何方《どつち》が東で何地《どつち》が西か、方角が丸《まる》で分らない。たゞ廣々として、山の頭がいくつとなく起伏してゐる一角に、藍色の海が二ケ處程｜平《ひら》たく見える丈《だけ》である。余はたゞ朗かな空の下に立つて、市川君の指さす方《かた》を眺めてゐた。

　自分で此處へ攻め寄せて來た經驗を有《も》つてゐる市川君の話は、甚だ詳しいものであつた。市川君の云ふ所によると、六月から十二月迄屋根の下に寢た事は一度もなかつたさうである。あるときは水の溜つた溝《みぞ》の中に腰から下を濡らして何時間でも唇の色を變へて竦《すく》んでゐた。食事は鐵砲を打たない時を見計《みはから》つて、何時《いつ》でも構はず口中に運んだ。其食事さへ雨が降つて車の輪が泥の中に埋《うま》つて、馬の力ではどうしても運搬《うんぱん》が出來なかつた事もある。今あんな眞似をすれば一週間｜經《た》たないうちに大病人になるに極つてゐますが、醫者に聞いて見ると、戰争のときは身體の組織《そしよく》が暫らくの間に變つて、全く犬や猫と同樣になるんださうですと笑つて居た。市川君は今旅順の巡査部長を勤めてゐる。

　

　　　　　二十八

　

　旅順の港は袋の口を括《くゝ》つた樣に狹くなつて外洋に續いてゐる。袋の中は何時《いつ》見ても油を注《さ》したと思はれる程平らかである。始めて此色を遠くから眺めたときは嬉しかつた。然し水の光が強く照り返して、灣内が只一枚に堅く見えたので、あの上を舟で漕ぎ廻つて見たいと云ふ氣は少しも起らなかつた。魚《さかな》を捕《と》る料簡は無論無かつた。露西亞《ロシア》の軍艦が何處で沈没したらうか抔《など》と思ひ浮かべる暇も出なかつた。たゞ頭へぴか／＼と、平たい研《と》ぎ燈《すま》したものが映つた。

　余は大和《やまと》ホテルの二階からも此晴やかな色を眺めた。ホテルの玄關を出たり這入つたりするときにも此鋭い光の斷片に眼を何度となく射られた。それでも單に烈しい奇麗な色と光だなと感ずる丈《だけ》であつた。佐藤から港内を見せてやるからと案内される迄は、到底港内は人間の這入る處ではない位に、頭の底で、無意識ながら分別してゐたらしい。

　さあ行くんだと催促された時は、成程旅順に來る以上、催促されなければならん筈の場處へ行くんだと思つた。今日の同勢は朝大連から來た田中君を入れて五人である。港務部を這入るときに水兵が此五人に禮をした。兵隊に禮をされたのは生れて是が初《はじめ》てゞあつた。佐藤が眞先に中へ這入つて、やがて出て來たから、もう舟に乘れるのかと思つたら、おい這入れ／＼といふ。我々は石垣の上に立つてゐた。足元にはすぐ小蒸氣が繋《つな》いである。我々の足は、家の方より、寧ろ水の方に向いてゐた。

　十分の後《のち》五人は又｜河野中佐《かうのちゆうさ》と一所に家を出てすぐ小蒸氣に移つた。海軍の將校が下士や水兵を使ふのは實に簡潔明瞭である。船は河野中佐の云ひなり次第の速力で、思ふ通りの方角へ出た。港の入口では此處彼處《こゝかしこ》の潜水器へ船の上から空氣を送つてゐる。船の數《かず》は十艘近くあつた。みんな波に搖られて上《あが》つたり下《さが》つたりしてゐる。我々五人のも固《もと》より平《たひら》ではない。鏡の樣に見えた灣の入口が斯う迄動いてゐるとは思ひ掛けなかつた。波で身體の調子が浮いたり沈んだりする上に、強い日が頭から射《い》り付《つ》けるので、少し胸が惡くなつた。河野さんは軍人だから、そんな事に氣の付く筈がない。あゝ云ふ喞筒《ポンプ》で空氣を送るのは舊式でね、時々潜水夫を殺して仕舞ひますよと講釋をしてゐる。田中君はふうんとさも感心したらしく聞いてゐる。

　河野さんの話によると、日露戰争の當時、此附近に沈んだ船は何艘あるか分らない。日本人が好んで自分で沈めに來た船｜丈《だけ》でも餘程の數《かず》になる。戰争後何年かの今日《こんにち》いまだに引揚げ切れない所を見ても大凡《おほよそ》の見當は付く。器械水雷なぞになると此近海に三千も裝置したのださうだ。

　ぢや今でも危險ですねと聞くと、危險ですともと答へられたので成る程そんなものかと思つた。沈んだ船を引揚げる方法も聞いて見たが、是は委《くは》しく覺えてゐる、百キロ位な爆發藥で船體を部分々々に切り壞して、それを六|吋《インチ》の針金で結《ゆは》へて、さうして六百｜噸《トン》のブイアンシーのある船を、水で重くした上、干潮《かんてう》に乘じて作事《さくじ》をして置いて、夫《それ》から滿潮の勢ひと喞筒《ポンプ》の力で引き揚げるのださうだ。然し我々が眺めてゐた時は、いつ迄立つても、何も揚つて來さうになかつた。

　港の入口は左右から續いた山を掘り割つた樣に岸が聳えてゐて、其上に砲臺がある。彼處《あすこ》から探海燈《たんかいとう》で照らされると、一番困る。丸《まる》で方角も何も分らなくなつて仕舞ふと河野さんが高い處を指さした。

　やがて小蒸氣は烟りを逆《ぎやく》に吐いて港内に引返した。戰闘艦が並んで撃沈されたといふ前を横に曲つて又元の石垣の下《もと》へ着いた。向ふ岸には戰利品のブイや錨《いかり》が澤山並んでゐる。あれで約三十萬圓の價格ですと河野さんが云つた。門の出口には防材《ばうざい》の標本が一本寢かしてあつた。其先から尖《とが》つた劔《けん》の樣なものが出てゐた。

　

　　　　　二十九

　

　風呂を注文して置いたら、用意が出來たと見えて、向ふの部屋で、湯の迸《ほと》ばしる音が盛《さかん》にする。靴を脱いで、スリツパアを突つ掛けて、戸を開けに掛ると、まだ廊下に出ないうちに給仕が遣つて來た。田中さんが一所にスキ燒を食べに入らつしやいませんかと云ふ案内である。スキ燒の名は此際兩人に取つて珍らしい響がした。けれども白状すると、毫《がう》も食ふ氣にはならなかつた。スキ燒つて家《うち》で拵へるのかいと尋ねると、いえ近所の料理屋ですと云ふ。近所の料理屋はスキ燒よりも一層不思議な言葉である。ホテルの窓から往來《わうらい》を一日眺めてゐたつて、通行人は滅多に眼に觸れない處である。外へ出て廣い路を岡の上迄見通すと、左右の家《うち》は數へる程しか並んでゐない。さうして夫《それ》が悉《こと／”＼》く西洋館である。しかも三分の一は半建《はんだて》の儘《まゝ》雨露《あめつゆ》に曝《さら》されてゐる。他の三分の一は空家《あきや》である。殘る三分の一には無論人が住んでゐる。けれども其主人は大抵月給を取つて衣食するものとしか受け取れない構《かまへ》である。新市街といふ名はあるにしても、其《その》實《じつ》は閑靜な寂《さび》れた屋敷町に過ぎない。其屋敷のどこにスキ燒を食はす家《うち》があるかと思ふと、一種小説に近い心持が起る。

　たゞ、晝の疲れを忘れるため、胃の不安を逃《のが》れるため、早く湯に入《はい》つて、レースの蚊帳《かや》の中で、穩《おだや》かに寢たかつた。そこで給仕に、今湯に這入り掛けてゐるからね、少し時間が取れるかも知れないから、田中さんに、どうか御先《おさき》へと云つて呉れと頼んだ。すると傍《そば》にゐる橋本が例の如く、そりや不可《いか》んよと云ひ出した。折角誘つて呉れるものを、そんな挨拶をする法はないぜと、又長い説教が始まりさうで恐ろしくなつたので仕方がないからうんよし／＼、夫《それ》ぢやあね、今湯に這入つてゐますから、すぐ行きますつて左樣《さう》云つて呉れ、よく云ふんだよ、分つたかねと念を押してすぐ風呂に飛込んだ。

　さうして、少しも弱つた顔も見せずにみんなと連れ立つて、ホテルを出た。空はよく晴れて、星が遠くに見える晩であつたが、月がないので往來《わうらい》は暗かつた。危なう御座いますから御案内を致しませうと云つて、ホテルの小僧が付いて來た。草の生えた四角な空地《あきち》を横切つて、瓦斯《がす》も電氣もない所を、茫漠《ばうばく》と二丁程來ると、門の奧から急に強い光が射した。玄關に女が二三人出てゐる。我々の來るのを待つてゐた樣な挨拶をした。座敷は疊が敷いて胡坐《あぐら》がかける樣になつてゐた。窓を見ると、壁の厚さが一尺程あつたので、始めて普通の日本家屋でないと云ふ事が解つた。窓の高さは疊から一尺に足りないから、足を掛けると厚い壁の上に乘る事が出來る。女が危なう御座いますと云つた。外を覗いたら眞闇《まつくら》に靜かであつた。

　女は三四人で、いづれも東京の言葉を使はなかつた。田中君はわざと名古屋訛《なごやなまり》を眞似て調戯《からか》つてゐた。女は御上手だ事とか、御上手やなとか、何とか云つて賞《ほ》めてゐた。所が前觸《まへぶれ》のスキ燒は中々出て來ない。酒を飲まないで、肴《さかな》を突つついて手持無沙汰であつた。スキ燒があらはれても、胃の加減で旨くも何ともなかつた。天下に何が旨いつてスキ燒程旨いものは無いと思ふがねと田中君が云つた。田中君はスキ燒の主唱者｜丈《だけ》あつて、大變食べた。傍《はた》で見てゐて羨ましい程食べた。余は仕樣《しやう》がないから疊の上に仰向《あふむき》に寐てゐた。すると女の一人が枕を御貸し申しませうかと云ひながら、自分の膝を余の頭の傍《そば》へ持つて來た。此枕では御氣に入りますまいとか何とか辯じてゐる。結構だから、もう少し此方《こつち》の方へ出してくれと頼んで、其女の膝の上に頭を乘せて寐てゐた。不思議な事に、橋本も活動の餘地がないものと見えて、余と同樣の眞似をして、向ふの方に長くなつてゐる。枕元では田中君が女を相手に碁石でキシヤゴ彈《はじ》きを遣つて大騷ぎをしてゐる。余があまり靜だものだから、膝を貸した女は眠つたのだと思つて、顎《あご》の下をくすぐつた。

　歸るときには、神さんらしいものが、頻りに泊つて行けと勸めた。門を出ると又急に暗くなつた。森閑《しんかん》として人の氣合《けはひ》のない徃來をホテル迄、影の樣に歩いて來て、今迄の派出《はで》なスキ燒を眼前《がんぜん》に浮かべると、矢張り小説じみた心持がした。

　

　　　　　三十

　

　朝食《あさめし》に鶉《うづら》を食はすから來いといふ案内である。朝飯《あさめし》の御馳走には、ケムブリヂに行つたとき慥《たし》か濱口君《はまぐちくん》に呼ばれた事があると云ふ記憶がぼんやり殘つてゐる丈《だけ》だから、大變珍らしかつた。尤も午前十一時に立つ客に晩餐を振舞ふ方法は、世界にないんだから仕方がない。鶉《うづら》に至つては生れてからあんまり食つた事がない。昔｜正岡子規《まさをかしき》に、手紙を以てわざ／＼大宮公園《おほみやこうゑん》に呼び寄せられたとき、鶉《うづら》だよと云つて喰はせられたのが初めて位なものである。其｜鶉《うづら》の朝飯《あさめし》を拵へるからと云つて、特に招待するんだから、佐藤は物數奇《ものずき》に違ひない。さうして、好いか外に何にもない、鶉《うづら》ばかりだよと念を押した。一體｜鶉《うづら》を何羽喰はせる積《つもり》か知らんと思つて、何處から貰つたのかと聞くと、いや鶉《うづら》は旅順の名物だ、もう出る時分だから丁度好からうと既に鶉《うづら》を捕《と》つた樣な事を云つてゐた。

　白仁さんの處へ暇乞《いとまごひ》に行つたので少し後《おく》れて着くと、スキ燒を推擧した田中君がもう來てゐた。田中君も鶉《うづら》の御相伴《おしやうばん》と見える。佐藤は食卓の準備を見るために、出たり這入つたりする。立派な仙臺平《せんだいひら》の袴を着けてはゐるが、腰板《こしいた》の所が妙に口を開《あ》いて、丸《まる》で蛤《はまぐり》を割つた樣である。さうして、夫《それ》を後下《うしろさが》りに引き摺つてゐる。それでもつて、さあ食はうと云つて、次の間の食堂へ案内した。西洋流の食卓の上に、會席膳を四つ並べて、愈《いよ／＼》鶉《うづら》の朝飯《あさめし》となつた。

　まづ御椀《おわん》の葢《ふた》を取ると、鶉《うづら》がゐる。所謂《いはゆる》鶉《うづら》の御椀《おわん》だから不思議もなく食べて仕舞つた。皿の上にもゐるが、是は慥《たし》か醤油で燒かれた樣だ。是も旨《うま》く食べた。第三は何でも芋か何かと一所に※［者／火］られた樣に記憶してゐる。然し遺憾ながら、判然《はつきり》と其味を覺えてゐない。是等を漸次《ぜんじ》に平《たひら》げると、佐藤はまだあるよと云つて、次の皿を取り寄せた。それも無論｜鶉《うづら》には相違なかつた。けれども只西洋流の油揚《あぶらあげ》にしてある許《ばかり》で、稍《やゝ》ともすると前の附燒《つけやき》と紛《まぎ》れ易《やす》かつた。しかも此｜紛《まぎ》れ易《やす》い油揚《あぶらあげ》は大分《だいぶ》仕込んで有つたと見えて、まだ喰ひ切らない先に御代りが出て來た。

　斯《かく》の如《ごと》く鶉《うづら》が豐富であつた爲、つい食べ過ぎた。余の胃の中に這入つた骨｜丈《だけ》の分量でも隨分ある。大連へ歸つて胃の痛みが増したとき、あまり鶉《うづら》の骨を喰つた所爲《せゐ》ぢやなからうかと橋本に相談したら、橋本は全くさうだらうと答へた。食事が終つてから應接間へ歸つて來ると、佐藤が突然、時に君は何かやるさうぢやないかと聞いた。是公に東京で逢つたとき、是公はにや／＼笑ひながら、一體貴樣は新聞社員だつて、何か書いてるのかと聞いた。斯う云ふ質問になると、是公も友熊も同程度のものである。

　何か遣るなら一つ書いて行くが好いと云つて、妙な短冊を出した。それを傍《そば》へ置いて話をしてゐると、一つ書かうぢやないかと催促する。今考へてゐる所だと辯解すると、あゝさうかと云つて、又話をする。仕舞に墨を磨つて、とう／＼手《て》を分《わか》つ古《ふる》き都《みやこ》や鶉《うづら》鳴《な》くと書いた。佐藤の事だから何を書いたつて解るまいと思つたが、佐藤は短冊を取上げて、何だ年《とし》を分《わか》つ古《ふる》き都《みやこ》やと讀んでゐた。

　鶉《うづら》の腹《はら》を抱《かゝ》へたなり、ホテルへ歸つて勘定を濟まして、停車場《ステーシヨン》へ驅付けると、プラツトフオームに大きな網籠《あみかご》があつた。其中に鶉《うづら》の生きたのが一杯這入つて雛鳥《ひよつこ》を詰めた樣にむく／＼動いてゐる。發車の時間に少し間《ま》があつたので、田中君は籠の傍《そば》へ行つて所有主と談判を始めた。余が近寄つたときは、一羽が三錢だとか四錢だとか云つてゐた。所へ驛員が來て、宜しう御座います、此汽車へ積込んで御屆け申しますと受合つた。三人はとう／＼鶉《うづら》と別れて汽車へ乘つた。

　

　　　　　三十一

　

　愈《いよ／＼》腹が痛んだ。ゼムを噛んだり、寶丹《はうたん》を呑んだり、通じ藥を遣《や》つたり、内地から持つて來た散藥を用ひたりする。毎日飯を食つて呑氣《のんき》に出歩いてゐる樣なものゝ、内心では是りや堪まらないと思ふ位であつた。大連の病院を見に行つたとき、苦《くる》し紛《まぎ》れに、案内をして呉れた院長の河西君《かさいくん》に向つて、僕も一つ診察を願はうかなと云つたら、河西君は飛んだお客樣だといふやうな顔もせず、明日《あした》の十時頃入らつしやいと親切に引き受けて呉れた。所が明日《あした》の十時頃になると、診察の事は丸《まる》で忘れて仕舞つて、相變らず鳥打帽子を被つて、強い日の下を焦《こ》げながら、騷け廻つた。

　橋本が、全體何處迄行く積《つもり》なんだいと聞くから、さうさまあ哈爾賓《ハルビン》位迄行かなくつちや義理が惡い樣だなと答へたが、其橋本は何うする料簡か些《ちつ》とも分らない。考へて見ると、内地ではもう九月の學期が始《はじま》つて、教授連がそろ／＼講義に取り掛る頃である。君は是から何うするんだと反問して見た。さあ僕も哈爾賓《ハルビン》位迄行つて見たいのだが、何しろ六月から學校を空《あ》けてゐるんだからねと決心しかねてゐる。かやうに義務心の強い男を唆《そゝの》かして見當違の方角へ連れて行つたのは、全く余の力である。其代り哈爾賓《ハルビン》を見て奉天へ歸るや否や、橋本は札幌《さつぽろ》から電報を掛けられた。愈《いよ／＼》催促を受けたと電報を見ながら苦笑してゐるので、可《い》いや、急ぎ歸りつゝありと掛けて置くさと、他《ひと》の事だから甚だ洒落《しやらく》な助言《じよごん》をした。

　橋本が愈《いよ／＼》一所に北へ行くと云ふ事になつてから、余は凡《すべ》てのプログラムを橋本に委任してぶら／＼してゐた。橋本は汽車の時間表を見たり、宿泊地の里程を計算したり二三日の間はしきりに手帳へ鉛筆で何か付け込んでゐた。とき／”＼、おい何うも旨く行かんよ、此所を火曜の急行で出るとすると抔《など》と相談を掛けるから、いゝさ火曜が不可《いけ》なければ水曜の急行にしようと、丸《まる》で無學な事を云つてゐるので、橋本も呆《あき》れてゐた。よく聞いて見て始めて了解したが、實は哈爾賓《ハルビン》へ接續する急行は、一週にたつた二回しかないのださうである。普通の客車《かくしや》でも、京濱間の樣に無暗には出ない。一日に僅《わづか》二度か三度らしい。だから君の樣に呑氣《のんき》な事を云つたつて駄目だよと橋本から叱られた。成程駄目である。しかも余の駄目は汽車にとゞまらない。地理｜道程《みちのり》に至つても悉皆《しつかい》眞闇《まつくら》であつた。さすが遼陽《れうやう》だの奉天だのと云ふ名前は覺えてゐるが、それが何《ど》の邊《へん》にあつて、何方《どつち》が近いのだか一切《いつさい》知らなかつた。其上、是から先何處と何處へ泊つて、何處と何處を通り拔けるのかに至る迄、全く無頓着であつたのだから橋本も呆れる筈である。然し、おい鐵嶺《てつれい》へは降《お》りるのかと聞いて、いや降《お》りないと答へられゝば、はあ、さうかと云つたなりで濟ましてゐた。別に降りて見たい氣にもならなかつたからである。從つて橋本は實に順良な道伴《みちづれ》を得た譯で、同時に余は結構な御供を雇つた事になる。

　愈《いよ／＼》プログラムが極つたので、是公に出立の事を持ち出すと、奉天へ行つて、夫《それ》から北京《ペキン》へ出て、上海《シヤンハイ》へ來て、上海《シヤンハイ》から滿鐵の船で大連迄歸つて、夫《それ》から又奉天へ行つて、今度は安奉線《あんぽうせん》を通つて、朝鮮へ拔けたら好いだらうと頗る大袈裟《おほげさ》な助言《じよごん》を與へる。其上、錢《ぜに》が無ければやるよと註釋を付けた。錢が無くなれば無論貰ふ氣でゐた。然し餘つても困るから、無暗には手を出さなかつた。

　余は錢問題《ぜにもんだい》を離れて、單に時間の點から、此｜大袈裟《おほげさ》な旅行の計畫を、實行しなかつた。其癖奉天を去つて愈《いよ／＼》朝鮮に移るとき、紙入の内容の充實してゐないのに氣が付いて、少々是公に無心をした。もとより返す氣があつての無心でないから、今以て使《つか》ひ放《ぱな》しである。

　立つ時には、是公はもとより、新たに近付《ちかづき》になつた滿鐵の社員諸氏に至るまで、こと／”＼く停車場《ステーシヨン》迄送られた。貴樣が生れてから、まだ乘つた事のない汽車に乘せてやると云つて、是公は橋本と余を小さい部屋へ案内して呉れた。汽車が動き出してから、橋本が時間表を眺めながら、おい此部屋は上等切符を買つた上に、外に二十五｜弗《ドル》拂はなければ這入れない所だよと云つた。成程｜表《へう》にちやんとさう書いてある。專有の便所、洗面所、化粧室が附屬した立派な室《へや》であつた。余は痛い腹を忘れて其中に横になつた。

　

　　　　　三十二

　

　トロと云ふものに始めて乘つて見た。停車場《ステーシヨン》へ降りた時は、柵《さく》の外《そと》に五六軒長屋の樣な低い家が見える許《ばかり》なので、何だか汽車から置き去りにされた樣な氣特であつたが、是からトロで十五分掛るんだと聞いて、やつと納得《なつとく》した。

　トロは昔軍人の拵へたのを、手入れもせずに、其儘利用してゐるらしい。軌道《レール》の間から草が生えてゐる。軌道《レール》の外にも草が生えてゐる。先迄見渡すと、鐵色の筋が二本｜榮《は》えない草の中を眞直に貫《つら》ぬいてゐる。然し細い筋が草に隱れて、行方知《ゆきがたし》れずになる迄眺め盡しても、建物らしいものは一軒も見當らなかつた。さうして軌道《レール》の兩側は悉《こと／”＼》く高粱《かうりやう》であつた。其大きな穗先は、眼の屆く限り代赭《たいしや》で染めた樣に日の光を吸つてゐる。橋本と余と荷物とは、此｜廣漠《くわうばく》な畠の中を、トロに搖られながら、眩《まぶ》しさうに動いた。トロは頑丈《ぐわんぢやう》な細長い凉み臺に、鐵の車を着けたものと思へば差支ない。軌道《レール》の上を轉《ころ》がす所を、餘所《よそ》から見てゐると、甚だ滑《なめ》らかで輕快に走るが、實地に乘れば、胃に響ける程搖れる。押すものは無論支那人である。勢ひよく二三十間突いて置いて、ひよいと腰を掛ける。汗臭い淺黄色《あさぎいろ》の股引《もゝひき》が脊廣の裾に解《さは》るので氣味が惡い事がある。すると、速力の鈍つた頃を見計《みはか》らつて、又｜素足《すあし》の儘飛び下りて、肩と手を一所にして、うん／＼押す。押さなければ可《い》いと思ふ位、車が早く廻るので、乘つてる人の臓器《ざうき》は少からず振盪《しんたう》する。余は此トロに運搬されたため、惡い胃を著るしく惡くした。車の上では始終ゼムを含んで早く目的地へ着けば好いと思つてゐた。勢ひよく驅けられゝば、驅けられる程｜猶《なほ》辛《つら》かつた。夫《それ》でも臺からぶら下げた足を折らなかつたのが、まだ仕合せである。實際酒に醉つて腰を掛けた儘｜脛《すね》を折つぺしよつた人があるさうだ。見ると橋本の帽子の鍔《つば》が風に吹かれてひら／＼と靡《なび》いてゐる。余は鳥打の前廂《まへびさし》を深く下げて成るべく日に脊《せな》を向ける樣にしてゐた。

　苦しい十五分か廿分の後《のち》車は漸く留まつた。軌道《レール》の左側｜丈《だけ》が、畠《はた》を切り開いて平らにしてある。眼を蔽ふ高粱《かうりやう》の色を、百坪餘り刈り取つて、黒い砂地にした迹《あと》へ、左右に長い平屋を建てた。壁の色もまだ新しかつた。玄關を這入つて座敷へ通ると、窓の前は二間程しかない。其｜縁《ふち》に朝顔の樣な草が繁つてゐるが、絡《から》まる竹も杖もないので、蔓と云はず、葉と云はず、花を包んで雜然と簇《むら》がる許《ばかり》である。朝顔の下はすぐ崖で、崖の向ふは廣い河原《かはら》になる。水は崖の眞下を少し流れる丈《だけ》であつた。

　橋本と余は、申し合せた樣に立つて窓から外を眺めて居た。首を出すと、崖下にも家が一軒ある。然し屋根瓦しか見えない。支那流の古い建物で、廻廓の樣な段々を藉《か》りて、余のゐる部分に續いてゐるらしく思はれる。あれは何だいと聞いて見た。料理場と子供を置く所になつてゐますと答へた。子供とは酌婦《しやくふ》藝妓《げいしや》の類を指《さ》すものだらうと推察した。眼の下に橋が渡してある。厚くはあるが幅一尺足らずの板を八《や》つ橋《はし》に繼《つ》いだものに過ぎない。水は只砂を洗ふ程に流れてゐる。足の甲を濡らしさへすれば徒歩渉《かちわた》るのは容易である。橋本の後《あと》に食付《くつつ》いて手拭をぶら下げて、此橋を渡つた時、板の眞中で立ち留まつて、下を覗き込んで見たら、砂が動く許《ばかり》で水の色は丸《まる》でなかつた。十里程｜上《かみ》に遡《さかの》ぼると鮎が漁《と》れるさうだ。余は汽車の中で鮎のフライを食つて滿洲には珍らしい肴《さかな》だと思つた。恐らく此上流からクーリーが賣りに來たものだらう。

　

　　　　　三十三

　

　足駄《げた》を踏むとざぐりと這入る。踵《くびす》を上げるとばら／＼と散る。渚《なぎさ》よりも恐ろしい砂地である。冷たくさへなければ、跣足《はだし》になつて歩いた方が心持が好い。俎《まないた》を引摺《ひきず》つて居ては一足《ひとあし》毎《ごと》に後《あと》しざる樣で齒痒《はがゆ》くなる。それを一町程行つて板圍《いたがこひ》の小屋の中を覗き込むと、温泉《ゆ》があつた。大きい四角な桶《をけ》を縁《ふち》迄地の中に埋《い》け込《こ》んだと同じ樣な槽《ふね》である。温泉《ゆ》は一杯溜つてゐたが、澄み切つて底迄見える。何時《いつ》の間《ま》に附着したものやら底も縁《ふち》も青い苔《こけ》で色取られてゐる。橋本と余は容赦なく湯の穴へ飛び込んだ。さうして遠くから見ると、砂の中へ生理《いきうめ》にされた人間の樣に、頭｜丈《だけ》地平線の上に出してゐた。支那人の中には、實際｜生埋《いきうめ》になつて湯治《たうぢ》をやるものがある。此｜河原《かはら》の幅は、向ふに見える高粱《かうりやう》の畠迄行き詰めた事がないから何《ど》の位《くらゐ》か分らないが、兎に角眼が平《たひら》になる程廣いものである。其｜平《たひ》らな何處を、何う掘つても、湯が湧いて來るのだから、裸體《はだか》になつて、手で砂を掻き分けて、凹《くぼ》んだ處へ横になれば、一文も使はないで事は濟む。其上寢ながら腹の上へ砂を掛ければ、温泉の掻卷《かいまき》が出來る譯である。たゞ砂の中を潜《もぐ》つて出る湯が如何《いか》にも熱い。ぢく／＼湧いたものを、大きな湯槽《ゆぶね》に溜めて見ると、色｜丈《だけ》は非常に奇麗だが、それに騙《だま》されて迂豁《うつかり》飛び込まうものなら苛《ひど》い目に逢ふ。橋本と余は、勢ひよく浴衣《ゆかた》を抛げて、競争的に毛脛《けずね》を突込《つつこ》んで、急に顔を見合せながら縮んだ事がある。大の男がわざ／＼裸《はだか》になつて、其｜裸《はだか》の始末を付けかねるのは極《きま》りが好いものぢやないから、兩人《ふたり》は顔を見合せて苦笑しながら小屋を飛び出して、四半丁《しはんちやう》程先の共同風呂迄行つて、平氣な風にどぼりと浸《つか》つた。

　風呂から出て砂の中に立ちながら、河の上流を見渡すと、河がぐるりと緩《ゆる》く折れ曲つてゐる。其向ふ側に五六本の大きな柳が見える。奧には村があるらしい。牛と馬が五六頭水を渉《わた》つて來た。距離が遠いので小さく動いてゐるが、色｜丈《だけ》は判然《はつきり》分る。皆《みな》茶褐色をして柳の下に近づいて行く。牛追は牛よりも猶《なほ》小《ちひ》さかつた。凡《すべ》てが世間で云ふ南畫《なんぐわ》と稱するものに髣髴《はうふつ》として面白かつた。中にも高い柳が細い葉を悉《こと／”＼》く枝に収めて、靜まり返つてゐる所は、全く支那めいてゐた。遠くから望んでも日本の柳とは趣《おもむき》が違ふ樣に思はれた。水は柳の茂る處で見えなくなつて居るが、猶《なほ》其先を辿《たど》つて行くと、忽ち眼に打《ぶ》つかる樣な大きな山脈がある。襞《ひだ》が鋭く刻まれてゐる所爲《せゐ》か、ある部分は雪が積つた程白く映《うつ》る。其位に周圍はどす黒かつた。漢語には崔嵬《さいくわい》とか??《さんぐわん》とか云つて、斯う云ふ山を形容する言葉が澤山あるが、日本には一つも見當らない。あれは何と云ふ山だらうと傍《そば》に居る大重君《おほしげくん》に尋ねたら、大重君《おほしげくん》も知らなかつた。大重君は支那語の通譯として橋本に隨《つ》いて蒙古迄行つた男である。余の質問を受けるや否や何處かへ消えて無くなつたが、やがて歸つて來て、高麗城子《こまじやうし》と云ふんださうですと教へて呉れた。土人を捕《つら》まへて聞いて來たのださうである。固《もと》より支那音《しなおん》で教《をそ》はつたのだが、それは忘れて仕舞つた。

　濡れ手拭を下げて、砂の中をぼく／＼橋の傍《そば》迄歸つて來ると、崖の上から若い女が跣足《はだし》で降りて來た。橋は一尺に足らぬ幅だからどつちかで待ち合せなければなるまいと思つたが、向ふはまだ土堤《どて》を下《お》り切《き》らないので、此方《こつち》は躊躇せず橋板《はしいた》に足をかけた。下駄を二三度鳴らして、一間程來たとき、女も余と同じ平面に立つた。そこで留まると思ひの外、ひら／＼と板の上を舞ふ樣に進んで余に近づいた。余と女とは板と板の繼目《つぎめ》の所で行き合つた。危ないよと注意すると、女は笑ひながら輕い御辭儀をして、余の肩を擦《こす》つて行き過ぎた。

　

　　　　　三十四

　

　明日《あした》は梨畑《なしばたけ》を見に行くんだと橋本から申し渡されたので、宜しいと受合つた上、床に就いた樣なものゝ實を云ふと例のトロで搖られるのが内心｜苦《く》になつた。其｜所爲《せゐ》でもなからうが、容易に寢つかれない。橋本はもう鼾《いびき》をかいてゐる。しかも豪宕《がうたう》な鼾《いびき》である。緞子《どんす》の夜具《やぐ》の中から出るべき聲ぢやない。まして裾《すそ》の方には金屏風《きんびやうぷ》が立て回してある。

　明日《あした》になると、空が曇つて小雨《こさめ》が落ちてゐる。窓から首を出して、一面に濡れた河原《かはら》の色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しやうかしらと云ひ出した。橋本は合羽《かつぱ》も有《も》つてゐるし、オ?ーシユーも用意して來てゐるので中々景氣が好い。ことに農科の教授｜丈《だけ》あつて、梨を見たがつたり、栗を見たがつたり、豚や牛を見たがる事人一倍である。早速用意をして大重君《おほしげくん》を伴《つ》れて出て行つた。余はたゞつくねんとして、窓の中に映《うつ》る山と水と河原と高粱《かうりやう》とを眼の底に陳列さしてゐた。薄く流れる河の厚さは昨日《きのふ》と同じ樣に殆んど二三寸しかないが、其眞中に鐵の樋竹《とひだけ》が、砂に埋《うも》れながら首を出してゐるのに氣が付いたので、あれは何だいと下女に聞いて見た。あれはボアリングを遣《や》つた迹《あと》ですと下女が答へた。滿洲の下女｜丈《だけ》あつて、術語《じゆつご》を知つてゐる。つい此間雨が降つて、上《かみ》の方から砂を押し流して來る迄は、河の流れが丸《まる》で違つた見當を通つてゐたので、あすこへ湯場《ゆば》を新築する積《つもり》であつたのだと云ふ。河の流れが一雨《ひとあめ》毎《ごと》に變る樣では、滅多な處へ風呂を建てる譯にも行くまい。現に窓の前の崖｜抔《など》も水に大分《だいぶん》喰はれてゐる。

　其内雨が歇《や》んだ。退屈だから横になつた。約十分も立つたと思ふ頃、下女が又遣つて來て、只今驛から電話が掛りまして、是から梨畑へ御出《おいで》になるなら、驛からトロを仕立てますがと云ふ問ひ合せである。雨が歇《や》んだので、座敷に寢てゐる口實はもう消滅して仕舞つたが、此上トロを仕立てられては敵《かな》はないと思つて、わざ／＼晴掛《はれかゝ》つた空を見上げて、八の字を寄せた。

　今から行つて間に合ふのかなと尋ねると、器械トロだから汽車と同じ位早いんだと云ふ話である。胃は固《もと》より切《せつ》ない程不安であるが、汽車と同じ速度の器械トロなるものにも、心得のため一寸乘つて見たい樣な氣がしたので、つい手輕に仕度を始めた。すると隣の部屋に泊つてゐた御客さんが三四人、十一時の汽車で大連へ行くとか云つて、同じ樣に仕度を始めた。それを送る下女も仕度を始めた。從つて同勢は大分《だいぶん》になつた。其中に昨日《きのふ》橋の途中で行き合つた女が居た。それが余と尻合《しりあは》せに同じ車に乘る事になつた。互に尻を向けてゐるので、別段口も利かなかつた。顔もよくは見なかつた。が、其言葉｜丈《だけ》は慥《たし》かに聞いた。しかも支那語である。固《もと》より意味は通じない。然し盛んにクーリーを極《き》め付《つ》けてゐた。其達辯なのは又驚く許《ばかり》である。昨日《きのふ》微笑しながら御辭儀をして、余の傍《わき》を摺《す》り拔《ぬ》けた女とは何うしても思へなかつた。此女は我々の立つ前の晩に、始めて御給仕に出て來た。洋燈《ランプ》の影で御白粉《おしろい》を着けてゐる事は分つたが、依然として口は利かなかつた。

　苦しい十五分の後《のち》車は又｜停車場《ステーシヨン》に着いた。御客はすぐ汽車に乘つて大連の方へ去つた。下女はみんな温泉宿へ歸つた。余は獨り構内を徘徊《はいくわい》した。所謂《いはゆる》器械トロなるものは姿さへ見せない。そこへ驛員が來て、今｜松山《まつやま》を出たさうですからと斷つた。其｜松山《まつやま》は遙《はるか》向ふにある。余は軌道《レール》の上に立つて、一直線の平たい路を視力のつゞく限り眺めた。然しトロの來る氣色《けしき》は丸《まる》でなかつた。

　

　　　　　三十五

　

　宿屋の者ともつかず、驛の者ともつかない洋服を着た男が附いて來た。此男の案内で村へ這入ると、路は全く砂である。深さは五六寸もあらうと思はれた。土で造つた門の外に女が立つてゐたが、我々の影を見るや否や逃げ込んだ。手に持つた長い煙管《きせる》が眼に着いた。犬が門の奧で頻りに吠える。其うちに村は盡きて松山に掛かつた。と云ふと大層だが、實は飛鳥山《あすかやま》の大きいのに、櫻を拔いて松を植替へた樣なものだから、心持の好い平庭《ひらには》を歩るくと同じである。松も三四十年の若い木ばかり芝の上に並んでゐる。春先《はるさき》辨當でも持つて遊《あそび》に來るには至極結構だが、處が滿洲｜丈《だけ》に猶《なほ》珍らしい。余は痛い腹を抑へて、とう／＼天邊《てつぺん》まで登つた。すると其處に小さな廟《べう》があつた。正面に向つて、聯《れん》などを讀んでゐると、すぐ傍《そば》で梭《をさ》の音がする。廟守《べうもり》でも居りさうなので、白壁を切り拔いた入口を潜《くゞ》つて中へ這入つた。暗い土間を通り越して、奧を覗いて見たら、窓の傍《そば》に機《はた》を据ゑて、白い疎髯《そぜん》を生やした爺さんが、せつせと梭《をさ》を抛《な》げてゐた。織つてゐたものは粗《あら》い白布《しろぬの》である。案内の男が二言三言《ふたことみこと》支那語で何か云ふと、老人は手を休めて、暢氣《のんき》な大きい聲で返事をする。七十ださうですと案内が通譯して呉れた。たつた一人で此處にゐて、飯はどうするのだらうと、序《ついで》に通譯を煩《わづら》はして見た。下の家から運んでくるものを食つてゐるさうであつた。其下の家と云ふのが即ち梨畠の主人の處だと案内は説明した。

　やがて、山を降りて梨畠へ行かうとしたが、正門から這入るのが面倒なので、どうです土堤《どて》を乘り越さうぢやありませんかと案内が云ひ出した。余はすぐ賛成して蒲鉾形《かまぼこがた》の土塀《どべい》を向側《むかふがは》へ馳《は》せ下《お》りた。胃は實に痛かつた。樹の下を潜《くゞ》つて二十間も來ると、向ふの方に橋本始め連中が床凡《しやうぎ》に腰を掛けて梨を食つてゐる。腕に金筋《きんすぢ》を入れた驛長迄一所である。余も同勢に交《まじ》つて一つ二つ食つた。是は胃の中に何か入れると、一時痛みが止むからである。さうして又畠の中をぐる／＼歩き出した。此處の梨は丸《まる》で林檎の樣に赤い色をしてゐる。大きさは日本の梨の半分もない。然し小さい丈《だけ》あつて、鈴なりに枝を撓《しな》はして、累々《るゐ／＼》とぶら下つてゐる所が如何にも見事《みごと》に見える。主人が其｜中《うち》で一番旨い奴を　――何と云つたか名は思ひ出せないが、下男に云ひ付けて、笊《ざる》に一杯取り出さして、みんなに御馳走した。主人は脊の高い大きな男で、支那人らしく落付拂つて立つてゐる。案内の話では二千萬とか二億萬とかの財産家ださうだが、それは嘘だらう。脂《やに》の強い亞米利加煙草《アメリカたばこ》を吹かしてゐた。

　梨にも喰ひ飽きた頃、橋本が通譯の大重君に、色々御世話になつて難有《ありがた》いから、御禮のため梨を三十錢程買つて歸りたいと云ふ樣な事を話して呉れと頼んでゐる。それを大重君が頗る嚴肅な顔で支那語に譯してゐると、主人は中途で笑ひ出した。三十錢位なら上げるから持つて御歸りなさいと云ふんださうである。橋本はぢや貰つて行かうとも云はず、又三十錢を三十圓に改めやうともしなかつた。宿へ歸つたら、下女がある御客さんと一所に梨畠へ行つて、梨を七圓程｜御土産《おみやげ》に買つて歸つた話をして聞かせた。其時橋本は、うんさうか、己《おれ》は又三十錢がた買つて來やうと思つたら、三十錢位なら進上《しんじやう》すると云つたよと澄ましてゐた。

　

　　　　　三十六

　

　壁と云ふと鏝《こて》の力で塗り固めた樣な心持がするが、此壁は普通の泥《どろ》が天日《てんぴ》で干上《ひあが》つたものである。たゞ大地《だいち》と直角《ちよくかく》に出來上つてゐる所｜丈《だけ》が泥でなくつて壁に似てゐる。其上部には西洋の御城の樣に、形儀《ぎやうぎ》よく四角な孔《あな》をいくつも開けて、一ぱし櫓《やぐら》の體裁《ていさい》を示してゐる。然し一番人の注意を惹くのは、此｜孔《あな》から見える赤い旗である。旗の數は孔《あな》の數｜丈《だけ》あつて、孔《あな》の數は一つや二つではないから、一寸賑かに思はれる。始めて此｜景色《けしき》が眼に觸れた時には、村のお祭りで、若いものが、面白半分に作り物でも拵へたのぢやなからうかと推測した。所が此｜櫓《やぐら》は馬賊の來襲に備へるために、梨畑の主人が、わざ／＼家の四隅《よすみ》に打ち建てたのだと聞いて、半分は驚いたが、半分は可笑《をか》しかつた。たゞ何故《なぜ》あんな赤い旗を孔の間から一つ宛《づゝ》出して居るかゞ、薩張《さつぱり》分らなかつた。裏側へ廻つて、段々を上《のぼ》つて見て、始めて此赤旗の一つが一挺の鐵砲を代表して居る事を知つた。鐵砲は博物館にでもありさうな古風な大きいもので、どれも是も錆《さぴ》を吹いてゐた。彈丸《たま》を込めても恐らく筒《つゝ》から先へ出る氣遣《きづかひ》はあるまいと思はれる程、安全に立て掛けられてゐた。尤も赤い旗｜丈《だけ》は丁寧に括《くゝ》り付《つ》けてある。さうして丁度｜壁孔《かべあな》から外に見える位な所にぶら下げてある。番兵は汚《きた》ない顔を揃へて、後《うしろ》の小屋の中にごろ／＼してゐた。馬賊の來襲に備へるために雇はれたればこそ番兵だが、其實は、日當三四十錢の苦力《クーリ−》である。櫓《やぐら》を下りて門を出る前に、家の内部を觀る譯に行くまいかと通譯を以て頼んだら、主人はかぶりを振つて聞かなかつた。女の居る所は見せる譯に行かないと云ふんださうである。其代り客間へ案内して遣らうと番頭を一人付けて呉れた。其客間といふのは往來を隔てゝ向ふ側にある一軒建の家であつた。外には大きな柳が、靜な葉を細長く空に曳いてゐた。長屋門《ながやもん》を這入ると鼠色の騾馬《らば》が木の株に繋いである。余は此｜騾馬《らば》を見るや否や、三國志《さんごくし》を思ひ出した。何だか玄�ｺ《げんとく》の乘つた馬に似てゐる。全體｜騾馬《らば》といふのを滿洲へ來て始めて見たが、腹が太くつて、背《せい》が低くつて、總體が丸く逞《たくま》しくつて、萬事《ばんじ》邪氣のない樣な好い動物である。橋本に騾馬《らば》の講義を聞くと、先づ騾《ら》と??《けつてい》の區別から始めるので、眞率《しんそつ》な頭腦をたゞ徒《いたづ》らに混亂させる許《ばかり》だから、黙つて鞍のない裸姿を眺めてゐた。騾馬《らば》は首を伏せて頻りに短い草を食つてゐた。

　門の突き當りが所謂《いはゆる》客間であるが、觀音扉《くわんのんびらき》を左右に開けて這入る所なぞは御寺に似て居る。中は汚《きた》ないものであつた。客でも招待するときには、臨時に掃除をするのかと聞いたら、左《さ》うだと答へてゐた。主人に挨拶をして又松山を拔けたら、松の間に牛が放してあつた。驛長が行く／＼初茸《はつだけ》を取つた。何處から目付《めつ》け出《だ》すか不思議な位｜目付《めつ》け出《だ》した。橋本も余も面白半分少し探して見たが、全く駄目であつた。山を下《くだ》るとき、おい滿洲を汽車で通ると、甚だ不毛《ふまう》の地の樣であるが、斯うして高い所に登つて見ると、沃野《よくや》千里といふ感《かん》があるねと、橋本に話しかけたが、橋本にはそんな感がなかつたと見えて、別に要領の好い返事をしなかつた。余の沃野千里は全く色から割り出した感じであつた。松山の上から見渡すと、高い日に映《うつ》る、茶色や黄色が、縞《しま》になつたり、段になつたり、模樣になつたり、霞で薄くされて、雲に接《つゞ》く迄、一面に平野を蔽ふてゐる。滿洲は大きな所であつた。

　宿へ歸つたら、御神《おかみ》さんが驛長の贈つて來た初茸《はつだけ》を汁《つゆ》にして、晩に御膳の上へ乘せて呉れた。それを食つて、梨畑や、馬賊や、土の櫓《やぐら》や、赤い旗の話しなぞをして寐た。

　

　　　　　三十七

　

　立つ用意をしてゐる所へ御神《おかみ》さんが帳面を持つて出て來た。是へ何か書いて行つて下さいと云ふ。御神さんは余を二つ接《つ》ぎ合《あは》せた樣に肥えてゐる。それで病氣ださうだ。始めは何處のものだか分らなかつたが、御神《おかみ》さんと知つて、調子の下女と違つてゐるのに驚いた。御神さんは其體格の示す如き好い女であつた。どうしてあんな摺《す》れつ枯《か》らしの下女を使ひこなすかが疑問になつた位である。帳面を前へ置いて、どうぞと手を膝の上に重ねた。其膝の厚さは八寸位ある。

　帳面を開けると、第一頁《ページ》に林學博士のH君が「本邦《ほんぱう》の山水《さんすゐ》に似たり」と揮《ふる》つて仕舞つたあとである。其次にはどこ／＼聯隊長何のなにがしと書いてある。宿帳だか、書畫帖《しよぐわてふ》だか判然しないものゝ、第三｜頁《ページ》に記念を遺《のこ》す事に差《さ》し逼《せま》つて來た。橋本は帳面を見るや否や、向《むかふ》を向いて澄ましてゐる。余は仕方がないから、書くには書くが、少し待つて呉れと頼んだ。すると御神さんが、さう仰しやらずに、どうぞ／＼と二遍も繰返して御辭儀をする。無論嘘を吐《つ》く氣は始めからないのだが、かう拜む樣にされて書いて遣る程の名筆でもあるまいと思ふと、困却《こんきやく》と慚愧《ざんき》でほと／＼持《も》て餘《あま》して仕舞ふ。時に橋本が例の如く口を利いて呉れた。此人は嘘を云ふ男ぢやないから、大丈夫ですよ今に何か書きますよと笑つてゐる。余は又世間話をしながら、其間に發句《ほつく》でも考へ出さなければならなくなつた。

　同情してくれる人は大分《だいぶ》あると思ふから白状するが、旅をして惡筆を懇望《こんまう》される程厄介な事はない。それも句作に熱心で壁《かべ》柱《はしら》へでも書き散らしかねぬ時代なら兎に角、書く材料の拂底になつた今頃、何か記念の爲にと、短冊《たんじやく》でも出された日には、節季《せつき》に無心を申し込まれるよりも苛《つら》い。大連を立つとき、手荷物を悉皆《しつかい》革鞄《かばん》の中へ詰め込んで仕舞つて、さあ大丈夫だと立ち上つた時、不圖《ふと》氣が付いて見ると、化粧臺の鏡の下に、細長い紙包があつた。不思議に思つて、折目を返して中を改めると、短冊《たんじやく》である。何時《いつ》誰が持つて來て載せたものか分らないが、其意味は大抵推察が出來る。俳句を書かせやうと思つて來た所が、生憎《あいにく》留守なので、又出直して頼む氣になつて、わざと短冊《たんじやく》丈《だけ》置いて行つたに違ない。余は此時化粧臺から紙包を取り卸して、革鞄《かばん》の中へ押し込んで、ホテルを出た。此｜短冊《たんじやく》はいまだに誰のものか分らない。數は五六枚で雲形《くもがた》の洒落《しやれ》たものであつたが、朝鮮へ來て、句を懇望されるたびに、それへ書いて遣つて仕舞つたから今では一枚も殘つて居ない。長春の宿屋でも御神《おかみ》さんに捕《つら》まつた。此御神さんは濱のものだとか云つて、意氣な言葉使ひをしてゐたが、新しい折手本《をりでほん》を二冊出して、是へどうぞ同《おん》なじものを二つ書いて下さいと云つた。同《おな》じでなければ不可《いけ》ないのかと尋ねると、えゝと答へる。其理由は、夫婦別れをしたときに、夫婦が一冊づゝ持つてゐる事が出來るためださうだ。

　斯う書いて行くと、朝鮮の宴會で絖《ぬめ》を持出された事迄云はなくてはならないから、好い加減に切り上げて、話を元へ戻して、肥《ふと》つた御神さんの始末を付けるが、余は切ない思ひをして、汽車の時間に間に合ふ樣に一句浮かんだ。浮かぶや否や、帳面の第三｜頁《ページ》へ熊岳城《ゆうがくじやう》にてと前書《まへがき》をして、黍《きび》遠《とほ》し河原《かはら》の風呂《ふろ》へ渡《わた》る人《ひと》と認《したゝ》めて、ほつと一息｜吐《つ》いた。さうして御神さんの御禮も何も受ける暇のない程急いでトロに乘つた。電話の柱に柳の幹を使つたのが、何時《いつ》の間《ま》にか根を張つて、針金の傍《そば》から青い葉を出してゐるのに氣が付いて、あれでも句にすれば可《よ》かつたと思つた。

　

　　　　　三十八

　

　窓から覗いて見ると、何時《いつ》の間《ま》にか高粱《かうりやう》が無くなつてゐる。先刻《さつき》迄《まで》は遠くの方に黄色い屋根が處々眺められたが、夫《それ》もつひに消えて仕舞つた。此黄色い屋根は奇麗であつた。あれは玉蜀黍《たうもろこし》が干してあるんだよと、橋本が説明して呉れたので、漸く左樣《さう》かと想像し得た位、玉蜀黍《たうもろこし》を離れて余の頭に映つた。朝鮮では同じく屋根の上に唐辛子《たうがらし》を干してゐた。松の間から見える孤《ひと》つ家《や》が、秋の空の下で、燃え立つ樣に赤かつた。然しそれが唐辛子《たうがらし》であると云ふ事｜丈《だけ》は一目《ひとめ》ですぐ分つた。滿洲の屋根は距離が遠い所爲《せゐ》か、たゞ茫漠《ばうばく》たる單調を破るための色彩としか思はれなかつた。所が其屋根も高粱《かうりやう》も悉《こと／”＼》く影を隱して仕舞つて、あるものは只の地面｜丈《だけ》になつた。其地面には赤黒い茨《いばら》の樣な草が限りなく生えてゐる。始めは蓼《たで》の種類かと思つて、橋本に聞いて見たら橋本はすぐ冠《かむり》を横に振つた。蓼《たで》ぢやない海草《かいさう》だよと云ふ。成程平原の盡きる邊《あた》りを、眼を細くして、見究《みきは》めると、暗くなつた奧の方に、一筋鈍く光るものがある樣に思はれる。海邊《うみべ》かなと橋本に聞いて見た。其時日はもう暮れ掛つてゐた。際限もなく蔓《はびこ》つてゐる赤い草のあなたは薄い靄《もや》に包まれて、幾らか蒼くなりかけた頃である。明《あか》ら樣《さま》に目に映《うつ》るすぐ傍《そば》を能々《よく／＼》見詰めると、乾いた土ではない。踏めば靴の底が濡れさうに水氣《みづけ》を含んでゐる。橋本は鹹氣《しほけ》があるから穀物の種が卸せないのだと云つた。豚も出ない樣だねと余は橋本に聞き返した。汽車に乘つて始めて滿洲の豚を見たときは、實際一種の怪物に出逢つた樣な心持がした。あの黒い妙な動物は何だと眞面目に質問した位、異な感じに襲はれた。それ以來滿洲の豚と怪物とは離せない樣になつた。此薄暗い、苔の樣に短い草ばかりの、不毛の澤地《たくち》の何處かに、あの怪物は屹度《きつと》點綴《てんてつ》されるに違ないと云ふ氣が中々拔けなかつた。けれども一匹の怪物に出逢ふ前に、日は全く暮れて仕舞つた。目に餘る赤黒い草の影は次第に一色《ひといろ》の夜《よ》に變化した。たゞ北の方の空に、夕日の名殘《なごり》の樣な明るい所が殘つたのである。さうして其明るい雲の下が目立つて黒く見える。恰《あたか》も高い城壁の影が空を遮《さへぎ》つて長く續いてゐる樣である。余は高い此影を眺めて、何時《いつ》の間《ま》にか萬里の長城に似た古迹《こせき》の傍《そば》でも通るんだらう位の空想を逞《たくまし》うしてゐた。すると誰だか此城壁の上を驅けて行くものがある。はてなと思つて少時《しばらく》するうちに、又誰か驅けて行く。不思議だと覺つて瞬《またゝき》もせず城壁の上を見詰めて居ると、又誰か驅けて行く。何う考へても人が通るに違ひない。無論夜の事だから、どんな顔のどんな身裝《みなり》の人かは判然しないが、比較的明かな空を背景にして、黒い影法師が規則正しく壁の上を馳け拔ける事は確である。余は橋本の意見を問ふ暇もない程面白くなつて、一生懸命に、眼前を徃來《わうらい》する此黒い人間を眺めてゐた。同時に汽車は、刻々と城壁に向つて近寄つて來た。それが一定の距離迄來ると、俄然《がぜん》として失笑した。今迄｜慥《たし》かに人間だと思ひ込んでゐたものは急に電信柱の頭に變化した。城壁らしく横長に續いてゐたのは大きな雲であつた。汽車は容赦なく電信柱を追ひ越した。高い所で動くものが漸く眼底を拂つた。

　

　　　　　三十九

　

　狹い小路《こうぢ》の左右は煉瓦の塀で、一寸見ると屋敷町の樣に人通りが少い。それを二十間程來て左手の門を這入つた。只偶然に這入つたのだから、家の名も主人《あるじ》の名も知る筈がない。今から考へると、小路《こうぢ》のうちには同じ樣な家が何軒となく並んでゐて、同じ樣な門が亦｜幾何《いくつ》でも開《あ》いてゐるのだから、とくに此處｜丈《だけ》を覗くべき誘致《インデユースメント》は少しもなかつたのである。余はたゞ案内者の後《あと》に跟《つ》いて何の氣なしに這入つた。其案内者も亦好い加減に這入つた。案内者は清林館《せいりんくわん》と云ふ宿の主人《あるじ》である。かつて二葉亭《ふたばてい》と一所に北の方を旅行して、露西亞人《ロシアじん》に苛《ひど》い目に逢つたと話した。

　門を這入ると、右も室《へや》、突き當りも室《へや》である。左《ひだ》りも隣の壁に隔てられなければ室《へや》であるべき筈なのだから、中の一筋｜丈《だけ》が頭の上に空を仰ぐ譯になる。其處に立つて右手の部屋を覗くと、狹い路次から淺草の仲店《なかみせ》を看る樣な趣《おもむき》がある。實際仲店よりも低く小さい部屋であつた。其一番目には幕が垂れてゐて、中は判然《はつきり》と分らなかつたが、次を覗いて見る段になつて驚いた。二疊敷位の土間の後《うしろ》の方を、上《あが》り框《がまち》の樣に、腰を掛ける丈《だけ》の高さに仕切つて、其處に若い女が三人ゐた。三人共腰を掛けるでもなく、寐縛ぶでもなく、互に靠《もた》れ合《あ》つて身體を支へる如くに、後《うしろ》の壁を一杯にした。三人の着物が隙間《すきま》なく重なつて、柔かい絹をしなやかに壓《お》し付《つ》けるので、少し誇張して形容すると、三人が一枚の上衣を引き廻してゐる樣に見える。其間から小さな繻子《しゆす》の靴が出てゐた。

　三人の身體が並んでゐる通り、三人の顔も並んでゐた。其左右が比較的尋常なのに引きかへて、眞中のは不思議に美しかつた。色が白いので、眉がいかにも判然《はつきり》してゐた。眼も朗《ほがら》かであつた。頬から顎《あご》を包む弧線《こせん》は春の樣に軟《やはらか》かつた。余が驚きながら、見惚《みと》れてゐるので、女は眼を反《そ》らして、空《くう》を見た。余が立つてゐる間、三人は少しも口を利かなかつた。

　清林館の主人《あるじ》は自分程此女に興味がなかつたと見えて、好加減《いゝかげん》に歩を移して、突き當りの部屋に這入つた。其處も狹い土間で、中央には普通の卓上《テーブル》が据ゑてあつた。それを圍《かこ》んで三人の男が食事をしてゐる。皿小鉢《さらこばち》から箸茶碗に至る迄｜汚《きた》ない事甚だしい。卓に着いてゐる男に至つては尚更汚なかつた。丸《まる》で大連の埠頭《ふとう》で見る苦力《クーリー》と同樣である。余は此｜體裁《ていさい》を一見するや否や、臺所で下男が飯《めし》を掻き込んでるんぢやなからうかと考へた。所がつい隣の室《へや》でしきりに音樂を遣つてゐる。今見た美人のゐる所とはつい三間とは離れてゐない。實に矛盾な感じである。

　余は二歩ばかり洋卓《テーブル》を遠退《とほの》いて、次の室《へや》の入口を覗いて見た。さうして又驚いた。向《むかふ》の壁に倚添《よりそ》へて一脚の机を置いて、其右に一人の男が腰を掛けてゐる。其左に女が三人立つてゐる。其前には十二三の少女が男の方を向いて立《たつ》てゐる。少し離れて室《へや》の入口には盲目《めくら》が床几《しやうぎ》に腰を掛けてゐる。調子の高い胡弓《こきゆう》と歌の聲は此一團から出るのである。歌の意味も節も分らない余の耳には此音樂が一種異樣に凄《すさま》じい響を傳へた。机の右に居る男が、右の手に筮竹《ぜいちく》の樣な物を持つて、時々机の上を敲くと同時に左の掌《てのひら》に八橋《やつはし》と云ふ菓子に似た竹の片《きれ》を二つ入れて、それをかちかちと打合せながら、歌の調子を取る。趣向はスペインの女の用ひるカスタネツトに似てゐるが、其男の顔を見ると、アルハンブラの昔を思ひ出す所ではない。蒼黒《あをぐろ》く土氣付《つちけづ》いた色を一心不亂に少女の頭の上に乘《の》しかける樣に翳《かざ》して、腸《はらわた》を絞《しぼ》る程恐ろしい聲を出す。少女は又｜瞬《またゝ》きもせず、此男の方を見詰めて、細い咽喉を合してゐる。それが怖《こは》い魔物に魅入《みい》られて身動きの出來ない樣子としか受取れない。盲目《めくら》は彼の眼の暗い如く、暗い顔をして、悲しい陰氣な、しかも高い調子の胡弓《こきゆう》を擦《す》り續《つゞ》けに擦《す》つてゐる。左の方に立つてゐる女の一人が余を見た。それが忌むべき藪睨《やぶにらみ》であつた。日の目の乏しくつて暮易《くれやす》い室《へや》のうちで、此怪しい團體は此怪しい音樂を奏して夢中である。余は案内の袖を引いてすぐ外へ出た。

　

　　　　　四十

　

　橋本は遠い所へ豚を見に行つた。何でも市街《まち》から一里餘もあるとか云ふ話である。こんな痛い腹を抱《かゝ》へて今更豚でもあるまいと思つて止《や》めた。其代りに其處いらをぶら付くべく主人《あるじ》と一所に馬車で出た。主人《あるじ》がまあ遼河《れうが》を御覽なさいと云ふ。馬車を乘り棄てゝ河岸《かし》へ出ると眼一杯に見えた。色は出水《でみづ》の後《あと》の大川に似てゐる。灰の樣に動くものが、空を呑む勢で遠くから流れて來る。哈爾賓《ハルピン》に行く途中で、木戸さんに聞いた話だが、滿洲の黄土は其昔中央｜亞細亞《アジア》の方から風の力で吹き寄せたもので、それを年々河の流れが御叮嚀に海へ押出してゐるのださうである。地質學者の計算によると、五萬年の後《のち》には今の渤海灣《ぼつかいわん》が全く埋《うま》つて仕舞ふ都合になつてゐますと木戸君が語られた。河邊《かはべ》に立つて岸と岸との間を眺めてゐると、水の量が泥の量より少い位濁つたものが際限なく押し寄せて來る。五萬年は愚か、一二ケ月で河口は悉皆《すつかり》塞がつて仕舞ひさうである。それでも三千｜噸《トン》位な汽船は苦《く》もなくのそ／＼上《のぼ》つて來ると云ふんだから支那の河は無神經である。人間に至つては固《もと》より無神經で、古來から此泥水を飲んで、悠然と子を生んで今日《こんにち》迄《まで》榮えてゐる。

　サンパンと云ふ船が此處彼處《こゝかしこ》に浮かんで形《なり》に合しては大き過ぎる位な帆を上げてゐる。帆の裏には細い竹を何本となく横に渡してあるから、帆に角《かど》が立つのみか、捲《ま》き上《あ》げる時にはがらがら鳴る。日本では見られない繪である。其間を横切つて向岸《むかふぎし》へ着いた。向岸《むかふぎし》には何にもない。たゞ停車場《ステーシヨン》が一つある。北京《ペキン》への急行が出るとか云ふので、客が澤山列車に乘り込んでゐる。下等室を覗いたら、腰掛も何もない平土間《ひらどま》に、みんなごろ／＼寢ころんでゐた。歸りにはサンパンに乘つて、泥の流《ながれ》を押し渡つた。風が出ると難儀ださうである。春の初めには山の樣な氷が流れてくる。先が見えないので、氷と氷の間に挾まれると命を取られる。ある時氷に路を塞《ふさ》がれて仕方がないから、船を棄てゝ氷の上へ上《あが》つて、乘り捨てた船を引き摺つて向ふ側へ出て、漸く又船に乘つたと云ふ話がある。是は主人《あるじ》の實歴談《じつれきだん》である。

　サンパンは妙な處へ着いた。岸は蘆を疊んで出來てゐる。石垣ではなくて蘆垣《あしがき》である。かうしなければ水の力で浚《さら》はれる恐れがあると云ふ。蘆は幾何《いくら》でも水を吸ひ込んで平氣でゐるから無難だと見える。細い小路《こうぢ》を突き拔けると、支那町の眞中へ出た。妙な臭がする。先刻《さつき》から胸が痛むのでポツケツトから、粉藥《こぐすり》を出して飲まうとするが生憎《あいにく》水がない。一滴の飲料も用ひずに散藥を呑《の》み下《くだ》す方法は、その後《ご》苦《くる》し紛《まぎ》れに發見した分別《ふんべつ》だが、此時はまだ夫《それ》程《ほど》老練な患者でないので、拜む樣に主人《あるじ》を煩はした。主人《あるじ》はえゝ譯はありませんと云ひつゝも、隨分烈しく引張り廻した上、殆んど苦しくつて道傍《みちばた》に竦《すく》みさうになつた頃、漸く一軒の店へ這入つた。盆栽《ぼんさい》抔《など》の据ゑてある中庭を通り拔けて角《かど》の一部星へ案内されたが、水は中々出る樣子がない。そのうち、此方《こちら》へと云つて又二階へ招《せう》ぜられた。蟲の樣に段々を上《あが》つて廊下から室《へや》へ這入ると、日本人が二三人事務を執つてゐる。さあどうぞと椅子を與へられたので、挨拶をして始めて解つたが、水を貰ひに飛び込んだ處は日清豆粕會社《につしんまめかすくわいしや》で、さあどうぞと迎へてくれたのは、社員の倉田君である。倉田君は固《もと》より日本から漫遊《まんいう》もしくは視察の目的を以てわざ／＼營口《えいこう》迄遣つて來たものと余を信じてゐる。服藥の爲に通りがゝりの序《ついで》ながら、日清豆粕會社の奧二階へ水を貰ひに立ち寄つたと判じやう筈がない。そこで水は容易に出ない。湯も出ない。今御茶を上げると云つて、ボイが頻りに支度をしてゐる。余は清林館の主人《あるじ》が恨めしくなつた。けれども倉田君に對しては相應に體裁《ていさい》を具へた應對をしなければならない。豆が汽車で大連へ出る樣になつてから、河を下つてくる豆の量が減つたでせうかて樣《やう》な事を、眞面目腐つて質問してゐた。

　

　　　　　四十一

　

　橋本が博士になつたり、ならなかつたりした話がある。大連の大和《やまと》ホテルにゐる時分、滿鐵から封書が屆いた。其表に橋本農學博士殿と叮嚀に書いてあつたのを乙《おつ》に眺めながら、是だから厭になつちまうと云つて余の方を向いて苦笑したから、先生は學者ぶつて、無暗《むやみ》に博士呼《はかせよば》はりをされるのを苦にする意味なんだらうと鑑定して、取り合つて遣らなかつた。實際こんな事が苦になる位なら、始めから博士にならなければ好いと思つたからである。其時は夫《それ》で濟んだ。

　余は橋本を以て固《もと》より農学博士と信じてゐた。是公《ぜこう》もさう信じてゐた。現にある人に向つて橋本つて農學博士さと説明してゐるのを聞いた。余に至つては、何時《いつ》かの新聞で、本人の博士になつた事を慥《たし》かに承知した記憶がある。それで大連を立つて北に行く時も、榮譽ある博士の同伴者だと云ふ自覺がちやんとあつた。所が毎日毎晩一つ鍋のものを突《つ》ついて進行してゐるうちに、何かの拍子だつたが、いや己《おれ》は博士ぢやないよと急に橋本が云ひ出した。其時はいくら本人が證明したつて成程と云ふ氣になれない位驚いた。第一、十年近くも大學の教授をしてゐる男を、博士にしない法はないと考へてる上、何うしても新聞で其授與式を拜見したとしか思はれないんだから、余も出來る丈《だけ》は抗辯したが、矢つ張り博士ぢやないと頑固を張つて云ふ事を聞かない。余も已《やむ》を得《え》ず、さうかと云つて我《が》を折つた。此時から橋本は氣の毒ながらとう／＼、たゞの人間になつて仕舞つた。

　けれども、世間には迂濶《うくわつ》ものが多いと見えて、何處へ行つても橋本博士、橋本博士と云ふ。新聞を折々讀むと屹度《きつと》橋本博士と出てゐる。仕舞にはおい又博士だよと注意するのが面倒になつた。橋本も澄《すま》し返《かへ》つてゐる。尤も澄まし返さなくつたつて、一々博士ぢやありませんと訂正して歩く譯に行くものぢやない。斯う云ふ余にも覺《おぼえ》がある。釜山《ふざん》から馬關へ渡る船中で、拓殖會社《たくしよくくわいしや》の峰八郎君《みねはちらうくん》の妻君に逢つたとき、八郎君は眞面目な顔をして、是は夏目博士と引き合した。すると妻君が御名前はかねて伺つて居りますと叮嚀に御辭儀をされるから、余も已《やむ》を得《え》ず、はあと云つたなり博士らしく挨拶をした。だから橋本が博士に慣れ切つて滿洲を朝鮮へ渡るに何も不思議はない。余も一旦は彼の博士を撤回した樣なものゝ、日を重ねるに從つて又何だか博士らしい氣特がし出した。それで道中｜恙《つゝが》なく安奉線《あんぽうせん》を通つて、安東縣《あんとうけん》迄遣つて來た。所がこゝで橋本の博士が一寸氣に食はなくなつた。安東縣の宿屋の番頭がどう云ふ不料簡か、橋本博士御手荷物のうちと云ふ札を余の革鞄《かばん》にぴた／＼結《いは》ひ付《つ》けて仕舞つた。腹が立つたが面倒だから其儘にして置くと次の宿屋で橋本と分れる事になつて、向ふの手荷物を停車場《ステーシヨン》へ運び出す際に、余の奇麗な革鞄《かばん》を橋本のものだと思ひ込んで、宿屋の小僧がずん／＼停車場《ステーシヨン》迄持つて行つて仕舞つた。余は冗談ぢやないぜと云つた。橋本は面白がつて笑つて居た。それだから、まだ博士にならない。

　

　　　　　四十二

　

　此處だと云ふので、降りたには降りたが、夜の事だから方角も見當も丸《まる》で分らない。頼りに思ふ停車場《ステーシヨン》は縁日の夜店程に小さいものであつた。其軒を離れると猶更《なほさら》淋しい。空には星があるが、高い所に己《おのれ》と光るのみで、足元の景氣にはならなかつた。汽車路を通つて行くと、鐵軌《レール》の色が前後五六尺ばかり、提灯《ちやうちん》の灯《ひ》に照らされて、露の如く映つては又消えて行く。其外に何も見えなかつた。やがて右へ切れて堤の樣なものをだら／＼と下りる心持がしたが、それも六七歩を超えると、靴を置く土の感じが不斷《ふだん》に戻つたので、又｜平地《ひらち》へ出たなと氣が付いた。すると蟲の音《ね》が聞えだした。足元で少しばかり鳴いてる樣な家庭的なものではない。蟲の音《ね》だと云ふ分別《ふんべつ》が出た時には、其聲がもう左右前後に遠く續いてゐた。我々は一つの提灯を先にして、平原にはびこる無燼藏の蟲の音《ね》に包まれながら歩いた。

　今考へると、中々風流である。筆を執つて書いてゐても、魏叔子《ぎしゆくし》の大鐵椎《だいてつつゐ》の傳《でん》にある曠野《くわうや》の景色《けいしよく》が眼の前に浮んでくる。けれども歩いてゐる途中は實に苦しかつた。飯の菜《さい》に奴豆腐《やつこどうふ》を一丁食つた所が、其豆腐が腹へ這入るや否や急に石灰《いしばひ》の塊に變化して、胃の中を塞《ふさ》いでゐる樣な心持である。腮《あご》の奧から締め付けられて、已《やむ》を得《え》ない性質《たち》の唾液《つばき》が流れ出す。それに誘《いざな》はれる儘にして置くと、嘔《は》きたくなる。せめて口中の折合《をりあひ》でもと思つて、少し抵抗しに掛かると、足が竦《すく》んで動けなくなる。余は幾度《いくたび》か蟲の音《ね》の中に苦しい尻を落ち付けやうかと思つた。たゞ橋本に心配させるのが、氣の毒である。支那の荷特《にもち》に野糞《のぐそ》を垂《た》れてると誤解されたつて手柄にもならない。そこで無理に歩いた。

　遙《はるか》向ふに灯《ひ》が一つ見える。余が歩いてゐる路は平らである。灯は其眞正面に當る。彼處《あすこ》へ行くんだらうと推測して星の下を無言に辿《たど》つた。今日の午《ひる》は營口で正金銀行の杉原君の御馳走を斷《ことわ》つた。晩は天春君《あまかすくん》の斡旋《あつせん》で既に準備の出來てゐる宴會を斷つた。さうして逃げる樣に汽車に乘つた。乘る時橋本に此樣子ぢや千山行《せんざんゆき》は撤回だと云つた。實際撤回しなければならない程、容體《ようだい》が危《あや》しくなつて來た。たゞ向ふに見える一點の灯火《ともしび》が、今夜の運命を決する孤《ひと》つ家《や》であると覺悟して、寂寞たる原を眞直に横切つた。原のなかには、此｜灯火《ともしび》より外に當《あて》になるものは一つも見付からないのだから心細かつた。宿屋はたつた一軒かと聞いたら、案内がえゝと答へた。湯崗子《たうかうし》は温泉場だと橋本のプログラムの中にちやんと出てゐるのだから、温泉が此｜茫々《ばう／＼》たる原の底から湧いて出るのだらうとは、始めから想像する事が出來たが、是程｜淋《さび》しい野の面《おもて》に、たゞ一軒の宿屋がひつそり立つてゐやうとは思ひがけなかつた。

　其うち漸く灯《ひ》のある所へ着いた。平家作《ひらやづくり》の西洋館で、床《ゆか》の高さが地面とすれ／＼になる程低い。板間《いたま》ではあるが無論靴で出入《でいり》をする。宿の女は草履を穿《は》いてゐた。遠くから見たと同じ樣に浮き立たない家であつた。造作《ざうさく》の付かない廣い空家《あきや》へ洋燈《ランプ》を點《とも》して住《すま》つてゐるのかと思つた。這入るとすぐの大廣間に置いてあつたオルガンさへ、先の持主が忘れて置いて行つたものとしか受取れなかつた。暗い廊下を突き當つて右へ折れた翼《ヰング》の端《はじ》の室《へや》へ案内された。中を二つに仕切つてある。低い床には、椅子と洋卓《テーブル》と色の褪《さ》めた長椅子とが置いてあつた。高い方は疊を敷いて、日本らしく取《と》り繕《つくろ》つてあつた。丁度土間から座敷へ上《あが》る樣にして、甲から乙に移る構造である。余はいきなり疊の上に倒れた。三四十分の後《のち》膳が出た。橋本がしきりに起きて食へと勸めたが、遂に起きなかつた。第一食卓に何が盛られたかをさへ見なかつた。眼を開ける勇氣すら無かつたのである。

　

　　　　　四十三

　

　朝起きると、馬が來たとか來ないとか云つて橋本の連中が騷いでゐる。連中は三人だから、一人が一つの馬に乘るとすれば、三匹要る譯になる。此茫漠たる原の中で、生きた馬を三匹｜生捕《いけど》るとなると、手數《てすう》のかゝるのは一通りではあるまい。連中は格別早起きもしない癖に、今更苦情を並べたつて始まらないと思つて、同行を斷念した余は、冷然と落付いてゐた。本來を云ふと、千山《せんざん》へ行くのが目的で、わざ／＼此處に降りたには相違ないが、一旦自分が千山行《せんざんゆき》を諦《あきら》めたとなると、外の連中が豫定通《よていどほり》に行動するのが、忌々《いま／＼》しくなる。第一橋本なんて農科の男は、千山を見る必要も何もないのである。千山は唐《たう》の時代に開いた梵刺《ぼんさつ》で、今だに殘つてゐるのは、牛でもなければ豚でもない、たゞ山と谷と巖《いは》と御寺と坊主｜丈《だけ》であるから、農科の教授がわざ／＼馬に乘つて見物に行くべき處では決してない。と云つて折角行くと云ふものを、意見迄して思《おも》ひ止《と》まらせる程の口實は無論考へ出せないから、爲すが儘にさせて放《はふ》つて置《お》いた。そのうち不思議な事に、注文通《ちゆうもんどほり》馬が三匹出て來た。何處から出て來たものか聞いても見なかつたが、慥《たし》かに出て來た。三人は癪に障る程勇んで外へ飛び出した。余は仕方がないから西洋間と日本間の唯一の主人として、此一日を物靜かに休養すべく準備した。先づ何よりも横になるのが藥だらうと思つて、狸だか狐だか分らない毛皮の上にごろりと轉がつた。すると窓の外から橋本の聲で、おい／＼一寸出て見ろと呼んでゐる。彼《か》れまだ其處いらを迷付《まごつ》いてるなと思ふと、少し面白くなつたから、請求通《せいきゆうどほり》原の中へ草履の儘出た。すると廣い牧場の樣な處に、馬が三匹立つてゐた。それが孰《いづ》れも小汚《こぎた》ない駄馬《だうま》だつたので甚だ愉快であつた。のみならず、其《その》中《うち》の一匹が何うしても大重君を乘せやうと云はない。傍《そば》へ行くと、飛んだり蹴《け》たりする。馬が怖《こは》がるからだと云つて、手拭で眼隱しをして、支那の小僧が兩手で轡《くつわ》を確《しつか》り抑へてゐる。遠くから見ると、馬が鉢卷をした樣で可笑《をか》しかつた。其｜傍《そば》へ大重君が苦笑ひをしながら近寄つて行く所は、一層面白かつた。しかも一度や二度ではない。餘程馬に遠慮する性質《たち》と見えて、容易に埒《らち》を明けないから、みんなが猶《なほ》喝采《かつさい》する。橋本は北海道の住人だから苦もなく鞍に跨《またが》つた。もう一人――名前を忘れたから、もう一人といふより外に仕方がないが――是は熊岳城《ゆうがくじやう》の苗圃《べうほ》の長《ちやう》で、もと橋本に教はつた事があると云ふ丈《だけ》に、手綱を執る術《すべ》を心得てゐる。余は此時立ちながら心の中《うち》で、要するに千山行を撤回した方が、馬術家としての余の名譽を完《まつた》うする所以《ゆゑん》ではなからうかと考へた。

　けれども、そんな氣色《けしき》は顔にも出さず、たゞ殘り惜しげに三人の後姿を眺めてゐた。さうして大重君の腰つきから推測して、千山《せんざん》迄あれで乘り通すのは、定めて心配な事だらうと同情した。橋本は今夜のうちに歸るんだとか號して、しきりに馬を急がせるらしい。苗圃長《べうほちやう》も負けずに、續いて行く。獨り大重君｜丈《だけ》が後《おく》れた。馬はまだ眼隱《めかくし》をしてゐる。やがて二人の影が高粱《かうりやう》に遮《さへ》ぎられて、何方《どつち》へ向いて行くか一寸分らなくなつた。先刻《さつき》からそこいらを徘徊《はいくわい》してゐた脊の高い支那人も亦｜高粱《かうりやう》の裡《うち》に姿を隱した。此支那人は肩から脊へ掛けて長い鐵砲を釣つてゐた。人數《にんず》は二人であつた。始めて氣が付いたときは咄嗟《とつさ》の際に馬賊といふ聯想が起つた。橋本と前後して高粱の底に没して、しばらくすると、どんと云ふ砲聲が聞えて、又しばらくすると、三人の馬の前に何處からかあの脊の高い奴が現はれて來たら大事件だと想像して、又｜室《へや》の中へ歸つて狸の皮の上に寐た。

　

　　　　　四十四

　

　手拭を下げて風呂に行く。一町ばかり原の中を歩かなければならない。四方を石で疊上《たゝみあ》げた中へ段々を三つ程｜床《ゆか》から下へ降りると湯泉《ゆ》に足が屆く。軍政時代に軍人が建てたものだから可なり立派に出來てゐる代りに頗る殺風景《さつぷうけい》である。入浴時間は十五分を超ゆべからず抔《など》と云ふ布告《ふこく》めいたものがまだ入口に貼付けてある通りの構造である。犯則を承知の上で、石段に腰を掛けたり、腹這に身を浮かしたり、頬杖を突いて倚《よ》りかゝつたり、色々の工夫を盡くした上、表へ出て風呂場の後へ廻ると、大きな池があつた。若い男が破舟《やれぶね》の中へ這入つてしきりに竿を動かしてゐる。おい此池は湯か水かと聞くと、若い男は類《たぐひ》稀《まれ》なる佛頂面《ぶつちやうづら》をして湯だと答へた。あまり厭な奴だから、夫《それ》限《ぎり》口を利くのを已《や》めにした。岸の上から底を覗くと、時々泡の樣なものが浮いて來る。少しは湯氣が立つてるかとも思はれる。實は魚《さかな》がゐないかと、念の爲聞いて見たかつたのだけれども、相手が相手だから歩を回《めぐ》らして宿の方へ歸つた。後で、此池に魚が泳いでゐる由を承知して甚だ奇異の思ひをなした。其上此處には水が一滴も出ないのだと教へられたときには全く驚いた。

　驚いた事はまだある。湯から歸り掛に入口の大廣間を通り拔けて、自分の室《へや》へ行かうとすると、其處に見慣れない女がゐた。何處から來たものか分らないが、紫の袴を穿《は》いて、深い靴を鳴らして、其《その》邊《へん》を徃つたり來たりする樣子が、どうしても學校の教師か、女生徒である。東京でこそ外へさへ出れば、向ふから眼の中へ飛び込んでくる國だが、渺茫《べうばう》たる草原《くさはら》のいづくを物色したつて、斯樣な文采《ぶんさい》は眸《ひとみ》に落ちるべき筈でない。余は寧ろ怪しい趣《おもむき》を以て、此女の姿をしばらく見詰めてゐた。

　室《へや》に歸つて又寢た。眼が覺めると窓の外で蟲の聲がする。淋《さび》しくなつたから、西洋間へ出て、長椅子の上に腰を掛けて、謠《うたひ》をうたつた。無論出鱈目である。そこへ下女が來た。先刻《さつき》の女の事を聞いたら、何でも宅《うち》で知つてる人なんでせうと云つた丈《だけ》で、ちつとも要領を得ない。咋夕《ゆうべ》飯を濟まして煙草を呑んでゐると急に廣間の方で、オルガンを彈く音がしたが、あの女が遣《や》つたんぢやないかと聞くと、いゝえ昨夕《ゆうべ》のは宅《うち》の下女ですと云ふ。此原のなかに、夫《それ》程《ほど》ハイカラな下女が居やうとは思ひがけなかつた。先刻《さつき》の袴はもう歸つたさうである。

　余は一人長椅子の上に坐つた。さうして永い日が傾《かたむ》き盡して、原の色が寒く變る迄ぽかんとしてゐた。すると靜かな野の中でどうぞ、ちと御遊びに、私一人ですからと云ふ嬌《なまめ》かしい聲がした。其音調は全くの東京ものである。余は突然立つて、窓の外を眺めた。生僧《あいにく》窓には寒冷紗《かんれいしや》が張つてあつた。手早く硝子《ガラス》を開けて首を外へ出すと、外はもう一面に夕暮れてゐて、蒼い煙が女の姿を包んで仕舞つたので誰だか分らなかつた。

　橋本の連中は其晩歸つて來た。下女のしらせで、暗い脊戸《せど》に出て見ると、豆の樣な灯《ひ》が一つ遠くに見えた。下女はあれが連中だと云ふ。いくら野廣《のびろ》い處だつて、橋本以外にも灯が見える事もあるだらうと尋ねても、矢つ張りあれだと云ふ。果してさうであつた。灯は夕方宿から迎に出した支那人の持つて行つた提灯《ちやうちん》である。脊戸口に馬を乘り捨てた橋本は、さう骨を折つて見に行く所でもないよと云つた。大重君は馬から三度落ちたさうである。

　

　　　　　四十五

　

　奉天へ行つたら滿鐵公所《まんてつこうしよ》に泊《とま》るが可《い》いと、立つ前に是公が教へて呉れた。滿鐵公所には俳人｜肋骨《ろくこつ》がゐる筈だから、世話になつても構はない位のずるい腹は無論あつたのだが、橋本が一所なので、多少遠慮した方が紳士だらうといふ事に相談がいつか一決して仕舞つた。停車場《ステーシヨン》には宿屋の馬車が迎へに來てゐた。矢張り泥の中から掘出して、炎天で乾かした樣に色が變つてゐる。荷物と人間をぐるに乘せて、構内を離れるや否や、御者《ぎよしや》が凄《すさま》じく鞭を鳴らした。峠を越す田舍の乘合馬車よりも手荒な取扱方である。廣い通りは夫《それ》程《ほど》でもないが、次第に城内に近づくに從つて、今迄野原同然に茫々としてゐた徃來《わうらい》が、左右の店の立込《たてこ》んで來ると共に狹くなる上に、鐵道馬車が其眞中を驅けつゝあるにも拘《かゝは》らず、烈しい鞭《むち》の影は一分に一度位は屹度《きつと》頭の上で閃《ひら》めいた。馬は無理にも急がなければならない。けれども奉天｜丈《だけ》あつて、徃來《わうらい》の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いてゐる。其處へ騾馬《らば》を六頭も着けた荷車がくるのだから、牛を驅る樣にのろく歩いたつて危ない。それだのに無人《むにん》の境《さかひ》を行くが如くに飛ばして見せる。我々の樣な平和を喜ぶ輩《ともがら》は此車に乘つてゐるのが既に苦痛である。御者《ぎよしや》は勿論チャン／＼で、油に埃の食ひ込んだ辮髪《べんぱつ》を振り立てながら、時々滿洲の聲を出す。余は八の字を寄せて、馬の尻をすかしつゝ眺めた。さうして、みだりに鞭を瘠せ骨に加へて、旅客の御機嫌を取るのは、女房を叱つて佳賓《まらうど》をもてなすの類《たぐひ》だと思つた。

　現に北陵《ほくりよう》から歸りがけに、宿近く乘付けると、左り側に人が黒山の樣にたかつてゐる。其邊は支那の豆腐やら、肉饅頭やら、豆素?《まめそうめん》抔《など》を賣る汚《きた》ない店の隙間《すきま》なく並んでゐる所であつたが、黒い頭の塊《かた》まつた下を覗くと、六十｜許《ばかり》の爺さんが大地に腰を据ゑて、兩脛《りやうずね》を折つたなり前の方へ出してゐた。其右の膝と足の甲の間を二寸程、強い力で刳《ゑぐ》り拔《ぬ》いた樣に、脛の肉が骨の上を滑つて、下の方迄行つて、一所に縮れ上つてゐる。丸《まる》で柘榴《ざくろ》を潰して叩き付けた風に見えた。斯う云ふ光景には慣れてゐるべき筈の案内も、少し寒くなつたと見えて、すぐに馬車を留めて、支那語で何か尋ね出した。余も分らない乍《なが》ら耳を立てゝ、何だ／＼と繰返して聞いた。不思議な事に、黒くなつて集《あつま》つた支那人はいづれも口も利かずに老人の創《きず》を眺めてゐる。動きもしないから至つて靜かなものである。猶《なほ》感じたのは、地面の上に手を後《うしろ》へ突いて、創口をみんなの前に曝《さら》してゐる老人の顔に、何等の表情もない事であつた。痛みも刻まれてゐない。苦しみも現れてゐない。と云つて、別に平然ともしてゐない。氣が付いたのは、たゞ其眼である。老人は曇《どん》よりと地面の上を見てゐた。

　馬車に引かれたのださうですと案内が云つた。醫者はゐないのかな、早く呼んでやつたら可《い》いだらうにと間接ながら窘《たし》なめたら、えゝ今に何うかするでせうといふ答である。此時案内はもう本來の氣分を回復してゐたと見える。鞭の影は間もなく又｜閃《ひら》めいた。埃だらけの御者《ぎよしや》は人にも車にも往來にも遠慮なく、滅法無頼《めつぱふぶらい》に馬を追つた。帽も着物も黄色な粉《こ》を浴びて、宿の玄關へ下りた時は、漸く殘酷な支那人と縁を切つた樣な心持がして嬉しかつた。

　

　　　　　四十六

　

　支那の古家《ふるいへ》を其《その》儘《まゝ》使つてるから、御寺の本堂を客間に仕切つたと同じ樣である。釣り廊下を渡つて正面の座敷を覗くと、骨董《こつとう》が一杯並べてあつたので、何事かと思つたら、北京《ペキン》へ買出しに行つた道具屋が、歸り途に此處で逗留中の見世《みせ》を張つたのだと分つたから、冷《ひやか》し半分《はんぶん》這入つて見てゐるうちに、時間が來たので、外へ出た。今度は車だから好からうと安心して、一寸ハイカラに膝頭《ひざがしら》を重ねて反《そ》り返《かへ》つて見たが、矢張決して無難ではない。人力は日本人の發明したものであるけれども、引子《ひきこ》が支那人もしくは朝鮮人である間は決して油斷しては不可《いけ》ない。彼等はどうせ他《ひと》の拵へたものだといふ料簡で、毫も人力に對して尊敬を拂はない引き方をする。海城《かいじやう》といふ處で高麗《こま》の故跡《こせき》を見に行つた時なぞは、尻が蒲團の上に落ち付く暇がない程搖れた。一尺ばかり跳ね上げられる事は、一丁の間に一度は必ずあつた。仕舞に朝鮮人の頭をこきんと張付けて遣りたくなつた位殘酷に取扱はれた。奉天の道路は海城程｜凸凹《でこぼこ》に出來上つてゐないから、無暗に車の上で踊ををどる苦痛はないが、其引き方の如何にも無技巧で、たゞ見境《みさかひ》なく走《か》けさへすれば車夫の能事《のうじ》畢《をは》ると心得てゐる點に至つては、全く朝鮮流である。余は車に搖られながら、乘客《じょうかく》の神經に相應の注意を拂はない車夫は、如何《いか》に能《よ》く走《か》けたつて、遂に成功しない車夫だと考へた。

　そのうち大きな門の下へ出た。奉天へ前後四泊した間に、此門を何度となく潜《くゞ》つた覺《おぼえ》がある。其名前も幾度《いくたび》となく耳にした。所がそれを忘れて仕舞つた。其｜恰好《かつかう》も甚だ暖味に頭に映《うつ》る丈《だけ》である。然し奉天の市街《まち》に入《い》つて始めて挨だらけの屋根の上に、高く此門を見上げた時は、はあと思つた。其時の印象はいまだに消えない。橋本と一所に此門の傍《そば》にある小さな店に筆と墨を買ひに行つた折の事も、寂《さ》びた經驗の一つとしてよく覺えてゐる。其時橋本は敷居を跨《また》いで、中へ這入つた。余も橋本に續かうとして身體を半分｜廂《ひさし》から奧へ差し込んだが、支那の家に固有な一種の臭《にほひ》が、忽ち鼻に感じたので、一二歩徃來の方へ出て佇《たゝず》んでゐた。今云ふ門は十間ばかり先の四辻《よつつじ》にあるので、余は鳥打帽の廂《ひさし》に高い角度を與へてわざ／＼仰むいて見た。時刻は暮に近い頃だつたから、日の色は瓦にも棟にも射さないで、眩《まぼ》しい局部もなく、總體が肅然と喧《かま》びすしい十字の街《まち》の上に超越してゐた。此門は色としては、古い心持を起す以外に、特別な采《あや》を一向《いつかう》具へてゐなかつた。木も瓦も土も略《ほゞ》一色《ひといろ》に映《うつ》る中に、風鈴《ふうりん》丈《だけ》が器用に緑を吹いてゐた丈《だけ》である。瓦の崩れた間から長い草が見えた。廂《ひさし》の暗い影を掠《かす》めて白い鳩が二羽飛んだ。余は久し振りに漢詩といふものが作りたくなつた。待つてゐる間少し工夫して見たが、一句も纒まらないうちに、橋本が筆と墨を抱《かゝ》えて出て來たので興趣《きようしゆ》は破れて仕舞つた。

　此外に此門から得た經驗は、暗い穴倉のなかで、車に突き當りはしまいかと云ふ心配と、煉瓦に封じ込められた塵《ちり》埃《ほこり》を一度に頭から浴びると云ふ苦痛｜丈《だけ》であつた。余の車屋は此暗い門の下を潜《くゞ》つて、城内の滿鐵公所迄、惡辣無双《あくらつむさう》に引いて行つた。余は生きた風呂敷包の如く車の上で浮沈《ふちん》した。

　

　　　　　四十七

　

　茶を飲むと、酸《す》い樣な塩はゆい樣な一種の味がする。少し妙だと思つて、茶碗を下へ置いて緩《ゆつく》り橋本の講釋を聞いた。其講釋によると、奉天には昔から今日《こんにち》に至る迄下水と云ふたのがない。兩便の始末は無論不完全である。そこで古來から何百年となく奉天の民が垂れ流した糞小便が歳月の力で自然天然《じねんてんねん》に地《ぢ》の底に浸み込んで、いまだに飲料水に祟《たゝ》りをなしてゐるんだと云ふ。一應は尤もだが、説明が少し科學的でない樣である。第一それ程の所なら穀類野菜ともに、もつと能く出來なければならない筈だと思つたが、馬鹿氣《はかげ》てゐるから議論もしなかつた。橋本も是は傳説だよと斷つた。傳説と云へば日本武尊《やまとだけのみこと》の東夷征伐と同種類に屬すべきもので、眞僞以外に、重く取扱はねばならぬ筋の來歴を有してゐるに違ひない。如何《いか》にも汚《きた》ない國民である。

　湯を立てて貰つて這入つて見ると、濁つてゐる。別に黄色く濁つてゐる譯ではないが、御茶の味から演繹《えんえき》すれば矢つ張り酸つぱい湯に浸《つか》つてゐるとより外に考へ樣がない。鹹水《しほみづ》にも溶《と》けるとか云つて大連で呉れた豆石鹸《まめしやぼん》でも、行李《かうり》の底から出せば可《よ》かつたと思つた。風呂場も風呂桶も小さいものである。其上下女が出て來て脊中を流して呉れる。窮屈に身體を曲げながら、御前は日本人だらう。日本は何處の生れだい抔《など》と話をした。此下女は始めて宿へ着いた時、余を橋本の隨行と間違へて、そら何とかさんも一所に入らしつたと云つた。其何とかさんは橋本が蒙古へ行くとき、彼と同じく此處へ泊つた事があるのださうだ。顔が似てゐるから間違へたのか、樣子が御供らしいから間違へたのかは、つい聞《き》き糺《たゞ》して見なかつた。窓の外に大きな甕《かめ》が埋《い》けてある。我々の汗や垢が例の酸つぱい水と一所になつて、朝に晩に流れ込んでゐるのだから、時々汲み出さなければ溢《あふ》れる程溜つて仕舞ふ。それを支那の下男が石油罐へ移して天秤棒《てんびんぼう》で擔《かつ》いで、何處かへ持つて行く。風呂に浸《つか》りながら、何處へ持つて行くんだらうなと考へた。餘計な心配の樣だが余は此汚水が結局どう片付けられるかの處置を想像して見て、少しく恐ろしくなつた。

　是でゐて御馳走が無暗に出る。胃の惡い余の如きものは、御膳の上を眺めた丈《だけ》で、腹が一杯になつて仕舞ふ。夜は緞子《どんす》の夜具に寢かして呉れる。店の方では電話が仕切なしにちりん／＼と鳴つてゐる。品《ひん》の好《い》い御神《おかみ》さんが、はあもし／＼を乃別《のべつ》に繰返す。或時チヨコレートの菓子が食ひたくなつたから、下女に有るかいと聞いて見ると、すぐもし／＼で取り寄せて呉れた。のみならず滿鐵公所へ御馳走を受けに行けば、三鞭《シヤンパン》が現れる。領事館へ挨拶に行けば、英吉利《イギリス》の王樣の寫眞などが恭々《うや／＼》しく飾つてあつて、丸《まる》で倫敦《ロンドン》の樣な氣持になる。さうかと思ふと、宿の座敷の廊下の向ふが白壁で、高い窓から光線が横に這入つて來るのは仕方がないが、其窓に嵌《は》めてある障子は、北齋《ほくさい》の畫《か》いた繪入の三國志《さんごくし》に出てくる樣な唐《から》めいたものである。しかも餘り綺麗ではない。其上｜室《へや》の中が妙な臭《にほひ》を放つ。支那人が執拗《しふね》く置《お》き去《ざり》にして行つた臭だから、いくら綺麗好きの日本人が掃除をしたつて、依然として臭い。宿では近々《きん／＼》停車場《ステーシヨン》附近へ新築をして引移る積《つもり》だと云つてゐた。さうしたら、此臭｜丈《だけ》は落ちるだらう。然し酸つぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に祟《たゝ》るものと覺悟しなければならない。

　

　　　　　四十八

　

　黒い柱が二本立つてゐる。扉も黒く塗つてある。鋲《びやう》は飯茶碗を伏せた樣に大きく見える。支那町の眞中に斯《こ》んな大名屋敷に似た門があらうとは思ひがけなかつた。門を這入ると又門がある。是は支那流に出來てゐた。それを通り越すと幅一間程の三和土《たゝき》が眞直に正面迄通つてゐる。尤も左右共に家續きであるから、四角な箱の中をがらん胴《どう》にして、其屋根のない眞中を、三和土《たゝき》を辿《たど》つて突き當る譯になる。肋骨君《ろくこつくん》の説明を聞いて知つたのだが、此突當りが正房《せいばう》で、左右が廂房《しやうばう》である。肋骨君は此｜正房《せいばう》の一棟に純粹の日本間さへ設けてゐる。一寸見給へと云つて案内するから、後《あと》に跟《つ》いて行くと、思はざる所に玄關があつて、次の間が見えて、其奧の座敷には立派な掛物が掛つてゐた。かと思ふと左の廂房《しやうばう》の扉を開いて此處が支那流の應接間だと云ふ。成程｜紫檀《したん》の椅子ばかり並んでゐる。尤も西洋の客間と違つて室《へや》の眞中は塞《ふさ》いでゐない。周圍に行儀よく据ゑ付けてある。是ぢや客が來ても向ひ合つて坐る事は出來ない譯だから、みんな隣同志で話をする男｜許《ばか》りでなければならない。中にも正面の二脚は、玉座《ぎよくざ》とも云ふべき程に手數《てすう》の込《こ》んだもので、上に赤い角枕《かくまくら》が一つ宛《づゝ》乘せてあつた。支那人てえものは呑氣《のんき》なものでね、斯うして倚《よ》つ掛《かゝ》つて談判をするんですと肋骨君《ろくこつくん》が教へて呉れた。肋骨君は支那通｜丈《だけ》あつて、支那の事は何でも心得てゐる。あるとき余に向つて、辮髪《べんぱつ》迄辯護した位である。肋骨君の説によると、あゝ云ふぶく／＼の着物を着て、派出《はで》な色の脊中へ細い髪を長く垂らした所は、振《ふる》へ付《つ》きたくなる程好いんださうだから仕方がない。實際肋骨君が振へ付きたくなると云ふ言葉を使つたには驚いた。今でも此言葉を考へ出しては驚いてゐる。一返《いつぺん》汚《きた》ない爺さんが泥鰌《どぢやう》の樣な奴をあたじけなく頸筋へ垂らしてゐたのを見て、ひどく興を覺《さま》した所爲《せゐ》だらう。

　是程の肋骨君も正房《せいばう》の應接間は西洋流で我慢してゐる。其隣の食堂では西洋料理を御馳走した。夫《それ》から襯衣《シヤツ》一枚で玉を突く。其樣子は決して支那ぢやない。萬事橋本から聞いたより倍以上活?に出來てゐる所を以て見ると、振へ付きたいは少々言ひ過ぎたのかも知れない。肋骨君は戰争で右か左か何方《どつち》かの足を失《な》くなした。所がそれが何方《どつち》だか分らない位、自由自在に起《た》つたり坐つたりする。さうして軍人に似合はない樣な東京辯を使ふ。何處で生れたか聞いて見たら、神田だと云つた。神田ぢや其筈である。要するに肋骨君は支那好であると同時に、尤も支那に縁の遠い性質《たち》の人である。

　室《へや》は空《あ》いてるから來給へとしきりに云つて呉れるので、ぢや歸りに厄介になるかも知れないと云ふとすぐ宜しいと快諾した所だけは旨かつたが、歸りには夜半《よなか》の汽車で奉天へ着く時間割だと橋本から聞くや否や、肋骨君は忽ち宿泊を斷つた。いや、あの汽車ぢや御免だと云ふ。もう一つの汽車が好いぢやないかと勸めるんだが、プログラムの全權が生憎《あいにく》此方《こつち》にないので、已《やむ》を得《え》ず、そんなら、もし夜半《よなか》の汽車でなかつたら泊めて貰はうと云ふ條件を付けた。すると肋骨君は又宜しいと答へた。所が歸りには矢つ張り豫定通｜夜半着《やはんちやく》の汽車へ乘つたのでとう／＼滿鐵公所へは泊まれない事になつた。滿鐵公所で余の知らない所は寢室｜丈《だけ》である。

　

　　　　　四十九

　

　右へ折れると徃來とは云はれない位廣い所へ出たので漸く安心した。是ならば人を引殺す心配もなからうと思つて、案内をしてくれる、宿の番頭を相手に、行く／＼話をした。滿洲の日は例によつて秋毫《しうがう》の先を鮮《あざや》かに照らす程に思ひ切つたものである。眉深《まぶか》に鳥打帽を被つても、三日月形《みかづきがた》の廂《ひさし》では頬から下を何うする事も出來ないので、直下《ぢか》に射《い》りつけられる所は痛い位ほてる。そこへ馬の蹄《ひづめ》に掻き立てられた輕い埃《ほこり》が、車の下から濛々《もう／＼》と飛んで來る。番頭は、結構な御日和《おひより》です、少し風でも吹いたら斯《こ》んなものぢやありませんと喜んでゐる。其うち馬車が家を離れて廣い原へ出た。原だから無論樹も草も見えないのは當然だが、遠く眺めると、季節｜丈《だけ》に青いものが際限のない地の上皮《うはかは》に、幾色かの影になつて、一面に吹き出してゐる。何故《なぜ》是程の地面を空《むな》しく明けて置くかは、家屋の發展に忙殺《ばうさい》されつゝある東京ものゝ眼には即時の疑問として起《おこ》る譯であるが、此際は夫《それ》よりも窮屈な人間を通り拔けて晴々《せい／＼》したと云ふ意識の方が一度に余の頭を照らした。路は固《もと》より付いてゐない。東西南北共に天の作つた路であるから、轍《わだち》の迹《あと》は行く人の心任せに思ひ／＼の見當に延びて行く。

　支那人の馬車が來た。屋根に蒲鉾形《かまぼこがた》の丸味を取つた棺《くわん》の樣なものゝなかに、髪を油で練固《ねりかた》めた女が坐つてゐる。長柄《ながえ》は短いが、車の輪は厚く丈夫なものであつた。云ふ迄もなく騾馬《らば》に引かしてゐる。まづ日本の昔に流行《はや》つた牛車《うしぐるま》の小ぢんまりしたものと思へば差支ないが、見た所は牛車《うしぐるま》よりも却つて雅《が》である。其代り乘つてる人間は苦しいさうだ。余は此車のごろ／＼行く所を見て、?《げい》たり�ｲ《げつ》たりと形容したくなつた。?《げい》の字も�ｲ《げつ》の字も判然たる意味を知らないのだが、乘つてる人は定めて?�ｲ《げいげつ》たるものに相違なからうと思つたからである。實を云ふと?�ｲ《げいげつ》たるものは支那の車ばかりではない。斯う云ふ自分も甚だ危《あや》しかつた。一望して原だよと澄ましてゐれば夫《それ》迄《まで》の事で、仰《おほせ》の如く平《たひ》らにも見えるが、いざ時間に制限を切つて、突切《つつき》つて見ろと云はれると、恐ろしく凸凹《でこぼこ》が出來てくる。おい此所で馬車の引つくり返る事はあるまいなと番頭に念を押すと、番頭はえゝ、まあ大抵大丈夫でせうと云ふ丈《だけ》で、決して萬一を受け合はない。どうも並んでゐる番頭の座が急に高くなつて、番頭そのものが余の方に摺落《ずりお》ちて來さうになつたり、又はあべこべに、余が番頭のシヤツポの上に?《ころ》び落《お》ちさうになるのは心好《こゝろよ》くないものである。余は神經質で臆病な性分だから、車が傾くたんびに飛《と》び降《お》りたくなる。然るに人の氣も知らないで、例の御者《ぎよしや》が無敵に馬を馳《か》けさせる。入らぬ事だと冷《ひ》や／＼してゐるうちに、一ケ所路の惡い所へ出た。原因は解らないが、轍《わだち》の迹《あと》が際立《きはだ》つて三四十本並んでゐる。しかも其幅が何《いづ》れも五六寸ある。さうして見るからに深さうに、日影を遮《さへぎ》つて、奧の方を黒く且《かつ》暗くしてゐる。我々の御者は平氣に其所へ乘り込んだ。順當に乘り込んだのならまだ可《よ》かつたけれども、片方の輪｜丈《だけ》が泥の中へぐしや／＼と滅《め》り込《こ》むと同時に、片方は依然として固い土に支《さゝ》へられてゐる。余は泥側《どろがは》に席を占めてゐた。すると足が土と擦れ／＼になる迄車が濘海《ぬかるみ》に沈んで來た。番頭は余の頭の上にある如く感ぜられた。余は堪《たま》らなくなつて、泥の中へ飛び下りた。

　

　　　　　五十

　

　原が急に叢《くさむら》に變化するのは不思議であつた。此處に是《これ》丈《だけ》の樹が生えるなら、原の中ももう少し茂つて然るべきであると氣が付いた時は既に車の兩側が塞《ふさ》がつてゐた。竹こそないが、藪と云ふのが適當と思はれる位な緑の高さだから、日本の田舍道を歩く樣な大人《おとな》しい感じである。所々細い枝などが列を外《はづ》れて徃來へ差し出てゐるのを、通りながら潜《くゞ》り拔《ぬ》けたり、撓《しな》はしたりして行き過ぎるのが何より愉快だつた。路も先刻《さき》よりは平《ひら》たくなつて、眞白に草と木の間を貫《つらぬ》いてゐる。ある所には大きな松があつた。葉の長さが日本の倍もあつて色は海邊《うみべ》のそれよりも黒い。ある所は荒れ果てた庭園の體《てい》に見えた。さう云ふ場所へ來ると、馬車の上から低い雜木《ざふき》を一目《ひとめ》に二丁も眺められる。向ふに細長い石碑が立つてゐた。模樣｜丈《だけ》が薄く見えるが、刻字《こくじ》は無論分らなかつた。

　しばらくすると、路が盡きて高い門の下へ出た。門は石を疊んだ三つのアーチから出來上つてゐるが、アーチの下迄行くには大分《だいぶ》高い石段を登らなくてはならない。門の左右には大きな龍が壁に彫《ほ》り込《こ》んであつた。是が正門ですがね、締切りだから壁へ添《つ》いて廻るんですと云つて、馬を土堤《どて》の樣な高い所へ上げた。右は煉瓦の壁である。それが所々崩れ掛つてゐる。左はだら／＼の谷で野葡萄《のぶだう》や雜木が隙間なく立て込んだ。路は馬車が辛《から》うじて通れる位狹い。其處を廻つて横手の門から車を捨てゝ這入ると、眼がすつきりと靜まつた。一抱《ひとかゝへ》もある松ばかりが遙《はるか》の向《むかふ》迄《まで》並んでゐる下を、長方形の石で敷き詰めた間から、短い草が物寂《ものさ》びて生えてゐる。靴の底が石に落ちて一歩毎に鳴つた。一丁｜許《ばかり》行つて正面に曲ると、左右に石の象がゐた。大きくつて、鷹揚《おうやう》で、しかも石だから甚だ靜かである。突き當りにある樓門の樣な所へ這入つたら、今度は大きな龜の脊に頌�ｺ碑《しようとくひ》が立てゝあつた。龜も大きかつたが、碑も高い。蒙古と滿洲と支那の三國語で文章が刻《ほ》つてある。後《うしろ》へ出ると隆恩門《りゆうおんもん》と云ふのが空に聳えてゐた。積み上げたアーチの上を見ると三層あつた。左右に回《めぐ》らしてある壁も尋常ではない。あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、えゝ今乘つて見ませうと云つて中へ這入つた。中は眞四角に仕切つてある。正面にある廟《べう》の横から石段を登つて壁の上へ出ると、廟《べう》の後《うしろ》丈《だけ》が半月形《はんげつけい》になつて所謂《いはゆる》北陵《ほくりよう》を取り卷いてゐる。

　支那の小僧が跣足《はだし》で跟《つ》いて來た。番頭を捕《つら》まへて頻りにこそ／＼何か云つてゐる。番頭に聞くと、えゝなにと曖昧《あいまい》な答をする。又聞き返したら斯う云つた。――屋根の廂《ひさし》の所に着けてある金の玉を、此間一つ落ちた時に、拾つて置いたから、買つて呉れと云ふんです。表向《おもてむき》にすると嚴《きび》しいものですから、斯うして見物に來た時、そうつと賣付けやうてんで、支那人は實《じつ》に狡猾《かうくわつ》ですからね。

　支那の陵守《りようもり》も無論｜狡猾《かうくわつ》だらうが、金の玉を安く買はうと云ふ番頭もあまり正直な方ぢやない。番頭はそつと錢《ぜに》を遣《や》つて金の玉をボツケツトへ入れた樣である。

　壁の上を歩くと太い樹が眼の下に見える。桑があんなに大きくなつてますと番頭が指《ゆびさ》した。成程｜一抱《ひとかゝへ》もある。此四角な壁の一側《ひとかは》は長さどの位かねと尋ねると、へえ今勘定して見ませうと云ひながら、一歩《ひとあし》二尺の割で一二三四と歩いて行つた。余は壁の外を見下《みおろ》して、其處らを絡《から》んでゐる赤い木の實を眺めてゐた。折角番頭の勘定した壁の長さは忘れて仕舞つた。

　

　　　　　五十一

　

　撫順《ぶじゆん》は石炭の出る所である。そこの坑長《かうちやう》を松田さんと云つて、橋本が滿洲に來る時、船中で知己《ちかづき》になつたとかで、其折の勸誘通り明日《あす》行くと云ふ電報を打つた。汽車に乘ると西洋人が二人居た。朝早いので、客車内で持參の辨當か何か食つてゐたが、撫順に着いたら我々と一所に汽車を降りた。出迎へのものが挨拶してゐる所を聞いて見ると、其内の一人は奉天の英國領事であつた。我々も此英人等と一所に炭坑の事務室に行つて、二階で松田さんに逢つた。松田さんは縞《しま》の縮《ちゞみ》の襯衣《しやつ》の上に薄い脊廣を着てゐた。脊《せい》の低い氣輕な人なので、到底｜坑長《かうちやう》とは思へなかつた。我々と英國人を二所《ふたところ》に置いて、双方へ向けて等分に話をした。橋本も余も英語は一切《いつさい》口にしなかつた。從つて英人とは言葉を交《まじ》へなかつた。

　やがて松田さんが案内になつて表へ出た。貯水池《ちよすゐち》の土堤《どて》へ上《あが》ると、市街が一目に見える。まだ完全には出來上つて居ないけれども、悉《こと／”＼》く煉瓦作りである上に、スチユヂオにでも載《の》りさうな建築ばかりなので、全く日本人の經營したものとは思はれない。しかも其｜洒落《しやれ》た家が殆んど一軒毎に趣《おもむき》を異《こと》にして、十軒｜十色《といろ》とも云ふべき風に變化してゐるには驚いた。其中には教會がある、劇場がある、病院がある、學校がある、坑員の邸宅は無論あつたが、いづれも東京の山の手へでも持つて來て眺めたいもの許《ばか》りであつた。松田さんに聞いたら皆日本の技師の拵《こしら》へたものだと云はれた。

　市街から眼を放して反對の方角を眺めると、低い丘の起伏《きふく》してゐる向ふに煙突の頭が二ケ所程｜微《かす》かに見える。双方共距離はたしかに一里以上あるんだから廣い炭坑に違ない。松田さんの話しによると、何處を何う掘つても一面の石炭だから、それを掘盡くすには百年でも二百年でも掛かるんださうである。我々の立つてゐるつい傍《そば》でも、八百尺と九百尺のシヤフトを拔いてゐた。

　事務所へ歸つて午餐《ひるめし》の御馳走になつたとき英國人は箸も持てず米も喰へず氣の毒なものであつた。此領事は支那に十八年とかゐたと云ふのに、二本の箸を如何《いかん》ともする事の出來ないのは案外である。其代り官話《くわんわ》は達者ださうだ。松田さんは用事が忙《いそが》しいとかで、食卓へは出て來られなかつた。接待役《せつたいやく》として松田さんに代つた人は、英語で英國人に話したり、日本語で余等に話したり甚だ多事であつた。けれども橋本氏も余も此時迄英語は一切《いつさい》使はなかつた。元來英人と云ふものはプラウドな氣風を帶びてゐて、紹介されない以上は、他《ひと》に向つて容易に口を利かない。だから我々も英人に對しては同樣にプラウドである。

　食後は坑内を見物する事になつた。田島君といふ技師が案内をして呉れた。入口で安全燈《あんぜんとう》を五つ點《とも》して、杖を五本用意して、それを各自《めい／＼》に分けて、一間四方位の穴をだら／＼と下りた。十四五間行くか行かないに坑《あな》のなかは眞暗《まつくら》になつた。カンテラの灯《ひ》は足元を照らすにさへ不足である。けれども路は存外平らで、天井も可なり高かつた。右へ曲つて、探る樣に下りて行くと、余のすぐ前に居る田島君がぴたりと留つた。余も留つた。案内が留つたから、あとから續いて來たものも悉《こと／”＼》く留つた。此處に腰掛があります。坑《あな》へ這入るものは此處で五六分休んで眼を慣《な》らすんですと云つた。五人は休みながらカンテラの灯で互の顔を見合はした。みんな立つて黙つてゐる。腰を卸すものは一人もない。靜かな中で時の移るのは多少｜凄《すご》かつた。其内暗い所が自然と明るくなつて來た。田島君はやがて、もう可《よ》からうと云つて、又すぐ右へ曲つて、奧へ奧へと下りて行つた。余も續いて下りた。あとの三人も續いて下りて來た。

　　茲處まで新聞に書いて來ると、大晦日になつた。二年に亘るのも變だから一先やめる事にした。

　　　　　　明治四二、一〇、二一−一二、三〇

　

　　　思ひ出す事など

　

　　　　　一

　

　漸くの事で又病院迄歸つて來た。思ひ出すと此處で暑い朝夕《あさゆふ》を送つたのも最早《もう》三ケ｜月《げつ》の昔になる。其頃は二階の廂《ひさし》から六尺に餘る程の長い葭簀《よしず》を日除《ひよけ》に差し出して、熱《ほて》りの強い縁側を幾分か暗くしてあつた。其縁側に是公《ぜこう》から貰つた楓《かへで》の盆栽《ぼんさい》と、時々人の見舞に持つて來て呉れる草花｜抔《など》を置いて、退屈も凌《しの》ぎ暑さも紛《まぎ》らして居た。向《むかふ》に見える高い宿屋の物干《ものほし》に眞裸《まつぱだか》の男が二人出て、日盛《ひざかり》を事ともせず、欄干の上を危《あぶ》なく渡つたり、又は細長い横木の上にわざと仰向《あふむけ》に寢たりして、巫山戯廻《ふざけまは》る樣子を見て自分も何時《いつ》か一度はもう一遍あんな逞《たくま》しい體格になつて見たいと羨んだ事もあつた。今は凡《すべ》てが過去に化して仕舞つた。再び眼の前に現れぬと云ふ不慥《ふたしか》な點に於て、夢と同じく果敢《はか》ない過去である。

　病院を出る時の余は醫師の勸めに從つて轉地する覺悟はあつた。けれども、轉地先で再度の病《やまひ》に罹《かゝ》つて、寐たまゝ東京へ戻つて來《こ》ようとは思はなかつた。東京へ戻つてもすぐ自分の家の門は潜《くゞ》らずに釣臺《つりだい》に乘つたまゝ、又當時の病院に落ち付く運命にならうとは猶更《なほさら》思ひ掛けなかつた。

　歸る日は立つ修善寺《しゆぜんじ》も雨、着く東京も雨であつた。扶《たす》けられて汽車を下りるときわざ／＼出迎へて呉れた人の顔は半分も眼に入らなかつた。目禮《もくれい》をする事の出來たのは其《その》中《うち》の二三に過ぎなかつた。思ふ程の會釋もならないうちに余は早く釣臺の上に横《よこた》へられてゐた。黄昏《たそがれ》の雨を防ぐ爲に釣臺には桐油《とうゆ》を掛けた。余は坑《あな》の底に寐かされた樣な心持で、時々暗い中で眼を開《あ》いた。鼻には桐油《とうゆ》の臭がした。耳には桐油を撲《う》つ雨の音と、釣臺に付添うて來るらしい人の聲が微《かす》かながらとぎれ／＼に聞えた。けれども眼には何物も映らなかつた。汽車の中で森成《もりなり》さんが枕元の信玄袋の口に挿し込んで呉れた大きな野菊の枝は、降りる混雜の際に折れて仕舞つたらう。

　　釣臺に野菊も見えぬ桐油《とうゆ》哉《かな》

　是は其時の光景を後から十七字にちゞめたものである。余は此釣臺に乘つた儘病院の二階へ舁《か》き上《あ》げられて、三ケ｜月前《げつぜん》に親しんだ白いベツドの上に、安らかに瘠せた手足を延べた。雨の音の多い靜かな夜であつた。余の病室のある棟《むね》には患者が三四名しか居ないので、人聲も自然絶え勝に、秋は修善寺よりも却つてひつそりしてゐた。

　此靜かな宵を心地《こゝち》よく白い毛布の中に二時間程送つた時、余は看護婦から二通の電報を受取つた。一通を開けて見ると「無事御歸京を祝す」と書いてあつた。さうして其差出人は滿洲に居る中村是公《なかむらぜこう》であつた。他の一通を開けて見ると、矢張り無事御歸京を祝すと云ふ文句で、前のと一字の相違もなかつた。余は平凡ながら此の暗合《あんがふ》を面白く眺めつゝ、誰が打つて呉れたのだらうと考へて差出人の名前を見た。所がステトとある許《ばかり》で一向《いつかう》に要領を得なかつた。たゞ掛けた局が名古屋とあるので漸く判斷が付いた。ステトと云ふのは、鈴木禎次《すゞきていじ》と鈴木時子《すゞきときこ》の頭文字《かしらもじ》を組み合はしたもので、妻《さい》の妹《いもと》と其｜夫《をつと》の事であつた。余は二ツの電報を折り重ねて、明朝《あす》又｜來《きた》るべき妻《さい》の顔を見たら、先づ此話をしようかと思ひ定めた。

　病室は疊も青かつた。襖《ふすま》も張《は》り易《か》へてあつた。壁も新《あらた》に塗つた許《ばかり》であつた。萬《よろづ》居心よく整つてゐた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に來た時、疊替をして待つてゐますと妻《さい》に云ひ置かれた言葉をすぐに思ひ出した程奇麗である。其約束の日から指を折つて勘定して見ると、既に十六七日目になる。青い疊も大分《だいぶ》久しく人を待つたらしい。

　　思ひけり既に幾夜《いくよ》の蟋蟀《きり／”＼す》

　其《その》夜《よ》から余は當分又此病院を第二の家とする事にした。

　

　　　　　二

　

　病院に歸り着いた十一日の晩、回診の後藤さんに此頃院長の御病氣は何うですかと聞いたら、えゝ一仕切《ひとしきり》は大分《だいぶ》好い方でしたが、近來又少し寒くなつたものですから……と云ふ答だつたので、余は何うぞ御逢ひの節は宜しくと挨拶した。其晩はそれ限《ぎり》何の氣も付かずに來て仕舞つた。すると明日《あくるひ》の朝｜妻《さい》が來て枕元に坐るや否や、實は貴方《あなた》に隱して居りましたが長與《ながよ》さんは先月《せんげつ》五日《いつか》に亡《な》くなられました。葬式には東《ひがし》さんに代理を頼みました。惡くなつたのは八月末丁度貴方の危篤だつた時分ですと云ふ。余は此時始めて附添《つきそひ》のものが、院長の訃《ふ》をことさらに秘して、余に告げなかつた事と、又其告げなかつた意味とを悟つた。さうして生き殘る自分やら、死んだ院長やらを兎角に比較して、少時《しばらく》は茫然とした儘黙つてゐた。

　院長は今年の春から具合が惡かつたので、此《この》前《ぜん》入院した時にも六週間の間つひぞ顔を見合せた事がなかつた。余の病氣の由を聞いて、夫《それ》は殘念だ、自分が健康でさへあれば治療に盡力して上げるのにと云ふ言傳《ことづて》があつた。其《その》後《ご》も副院長を通じて、よろしくと云ふ言傳《ことづて》が時々あつた。

　修善寺《しゆぜんじ》で病氣がぶり返して、社から見舞のため森成《もりなり》さんを特別に頼んで呉れた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云つてゐる其晩に、院長はわざ／＼直接森成さんに電報を打つて、出來る丈《だけ》余の便宜を計《はか》らつて呉れた。其文句は寐てゐる余の目には無論觸れなかつた。けれども枕元にゐる雪鳥君《せつてうくん》から聞いた其文句の音《おん》丈《だけ》は、未《いま》だに好意の記憶として余の耳に殘つてゐる。それは當分其地に留《とゞ》まり、充分看護に心を盡くすべしとか云ふ、森成さんに取つては隨分｜嚴《おごそ》かに聞える命令的なものであつた。

　院長の容態《ようだい》が惡くなつたのは余の危篤に陷《おちい》つたのと略《ほゞ》同時ださうである。余が鮮血を多量に吐いて傍人《ばうじん》から到底回復の見込がない樣に思はれた二三日｜後《あと》、森成さんが病院の用事だからと云つて、一寸東京へ歸つたのは、生前に一度院長に會ふためで、夫《それ》から十日程｜經《た》つて、又病院の用事が出來て二度東京へ戻つたのは院長の葬式に列する爲であつたさうである。

　當初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をして呉れた院長は斯くの如く次第に死に近づきつゝある間に、余は不思議にも命の幅《はゞ》の縮まつて殆んど絹糸の如く細くなつた上を、漸く無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く確《たしか》められたとき、辛抱強く骨の上に絡《から》み付《つ》いてゐて呉れた余の命の根は、辛うじて冷たい骨の周圍に、血の通ふ新しい細胞を營み初めた。院長の墓の前に供へられる花が、幾度《いくたび》か枯れ、幾度《いくたび》か代つて、萩、桔梗《ききやう》、女郎花《をみなへし》から白菊と黄菊に秋を進んで來た一ケ｜月餘《げつよ》の後《のち》、余は又其一ケ月餘の間に盛返し得る程の血潮を皮下に盛得《もりえ》て、再び院長の建てた此胃腸病院に歸つて來た。さうして其間いまだ曾て院長の死んだと云ふ事を知らなかつた。歸る明《あく》る朝《あさ》妻《さい》が來て實は是々でと話をする迄、院長は余の病氣の經過を東京にゐて承知してゐるものと信じてゐた。さうして回復の上病院を出たら禮にでも行かうと思つてゐた。もし病院で會へたら篤く謝意でも述べやうと思つてゐた。

　　逝《ゆ》く人に留《とゞ》まる人に來《きた》る雁《かり》

　考へると余が無事に東京まで歸れたのは天幸《てんかう》である。斯うなるのが當り前の樣に思ふのは、未だに生きてゐるからの惡度胸《わるどきよう》に過ぎない。生き延びた自分｜丈《だけ》を頭に置かずに、命の綱を踏《ふ》み外《はづ》した人の有樣も思ひ浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わが難有《ありがた》さも分らない、人の氣の毒さも分らない。

　　たゞ一羽｜來《く》る夜ありけり月の雁《かり》

　

　　　　　　三

　

　ジエームス教授の訃《ふ》に接したのは長與院長の死を耳にした明日《あくるひ》の朝である。新着の外國雜誌を手にして、五六｜頁《ページ》繰《く》つて行くうちに、不圖《ふと》教授の名前が眼に留《とま》つたので、又新らしい著書でも公《おほや》けにしたのか知らんと思ひながら讀んで見ると、意外にもそれが永眠《えいみん》の報道であつた。その雜誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳を以て逝《ゆ》かるとあるから、指を折つて勘定して見ると、丁度院長の容體《ようだい》が次第に惡い方へ傾いて、傍《はた》のものが晝夜《ちうや》眉を顰《ひそ》めてゐる頃である。又余が多量の血を一度に失つて、死生《しせい》の境《さかひ》に彷徨《はうくわう》してゐた頃である。思ふに教授の呼息《いき》を引き取つたのは、恐らく余の命が、瘠《や》せこけた手頸《てくび》に、有るとも無いとも片付《かたづ》かない脈を打たして、看護の人をはら／＼させてゐた日であらう。

　教授の最後の著書「多元的宇宙《たげんてきうちう》」を讀み出したのは今年の夏の事である。修善寺《しゆぜんじ》へ立つとき、向《むかふ》へ持つて行つて讀み殘した分を片付けやうと思つて、それを五六卷の書物とともに鞄《かばん》の中に入れた。所が着いた明日《あくるひ》から心持が惡くて、出歩く事もならない始末になつた。けれども宿の二階に寐轉《ねころ》びながら、一日二日《いちにちふつか》は少しづゝでも前の續きを讀む事が出來た。無論病勢の募《つの》るに伴《つ》れて讀書は全く廢《よ》さなければならなくなつたので、教授の死ぬ日迄教授の書を再び手に取る機會はなかつた。

　病牀《びやうしやう》にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目《いくかめ》になるだらう。今から顧みると當時の余は恐ろしく衰弱してゐた。仰向《あふむけ》に寐て、兩方の肘《ひぢ》を蒲團に支《さゝ》へて、あの位の本を持《も》ち應《こた》へてゐるのに隨分と骨が折れた。五分と經《た》たないうちに、貧血の結果手が麻痺《しび》れるので、持ち直して見たり、甲を撫《な》でゝ見たりした。けれども頭は比較的疲れてゐなかつたと見えて、書いてある事は苦もなく會得《ゑとく》が出來た。頭｜丈《だけ》はもう使へるなと云ふ自信の出たのは大吐血以後此時が始《はじめ》てであつた。嬉しいので、妻《さい》を呼んで、身體《からだ》の割に頭は丈夫なものだねと云つて譯を話すと、妻《さい》が一體貴方の頭は丈夫過ぎます。あの危篤《あぶな》かつた二三日の間｜抔《など》は取り扱ひ惡《にく》くて大變弱らせられましたと答へた。

　多元的宇宙は約半分程殘つてゐたのを、三日｜許《ばかり》で面白く讀み了つた。ことに文學者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具體的の事實を土臺として、類推《アナロジー》で哲學の領分に切り込んで行く所を面白く讀《よ》み了《をは》つた。余はあながちに辯證法《ダイアレクチツク》を嫌ふものではない。又｜妄《みだ》りに理知主義《インテレクチユアリズム》を厭《いと》ひもしない。たゞ自分の平生文學上に抱《いだ》いてゐる意見と、教授の哲學に就いて主張する所の考とが、親しい氣脈を通じて彼此《ひし》相倚《あひよ》る樣な心持がしたのを愉快に思つたのである。ことに教授が佛蘭西《フランス》の學者ベルグソンの説を紹介する邊《あた》りを、坂に車を轉がす樣な勢で馳け拔けたのは、まだ血液の充分に通ひもせぬ余の頭に取つて、どの位嬉しかつたか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのは此時である。

　今でも覺えてゐる。一間《ひとま》置いて隣にゐる東君《ひがしくん》をわざ／＼枕元へ呼んで、ジエームスは實に能文家《のうぶんか》だと教へる樣に云つて聞かした。其時東君は別に是といふ明瞭な答をしなかつたので、余は、君、西洋人の書物を讀んで、此人のは流暢《りうちやう》だとか、彼《あの》人《ひと》のは細緻《さいち》だとか、凡《すべ》て特色のある所がその書き振りで、讀みながら解るかいと失敬な事を問《と》ひ糺《たゞ》した。

　教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難澁《なんじふ》な文章を書く男である。ヘンリーは哲學の樣な小説を書き、ヰリアムは小説の樣な哲學を書く、と世間で云はれてゐる位ヘンリーは讀みづらく、又｜其《その》位《くらゐ》教授は讀み易くて明快なのである。――病中の日記を檢《しら》べて見ると九月二十三日の部に、「午前ジエームスを讀《よ》み了《をは》る。好い本を讀んだと思ふ」と覺束《おぼつか》ない文字《もんじ》で認《したゝ》めてある。名前や標題に欺《だま》されて下らない本を讀んだ時程殘念な事はない。此日記は正に此裏を云つたものである。

　余の病氣に就て治療上色々好意を表してくれた長與病院長《ながよびやうゐんちやう》は、余の知らない間《ま》にいつか死んでゐた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離《りくり》の光彩を抛《な》げ込《こ》んでくれたジエームス教授も余の知らない間《ま》にいつか死んでゐた。二人に謝すべき余はたゞ一人《ひとり》生き殘つてゐる。

　　菊の雨われに閑《かん》ある病《やまひ》哉《かな》

　　菊の色｜縁《えん》に未《いまだ》し此《この》晨《あした》

　　（ジェームス教授の哲學思想が、文學の方面より見て、どう面白いかこゝに詳説する餘地がないのは余の遺憾とする所である。又教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一卷は昨今漸く英譯になつてゾンネンシヤインから出版された。其標題は Time and　Free Will（時と自由意思）と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派《はんりちは》である。）

　

　　　四

　

　病《やまひ》の重かつた時は、固《もと》より其日々々に生きてゐた。さうして其日々々に變つて行つた。自分にもわが心の水の樣に流れ去る樣がよく分つた。自白すれば雲と同じく且《か》つ去《さ》り且《か》つ來《きた》るわが腦裡の現象は、極めて平凡なものであつた。それも自覺してゐた。生涯に一度か二度の大患に相應する程の深さも厚さもない經驗を、耻とも思はず無邪氣に重ねつゝ移つて行くうちに、夫《それ》でも他日の參考に日毎の心を日毎に書いて置く事が出來たならと思ひ出した。其時の余は無論手が利《き》かなかつた。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。さうして余の頭を掠《かす》めて去る心の波紋は、隨《したが》つて起《おこ》るかと思へば隨《したが》つて消《き》えて仕舞つた。余は薄ぼけて微《かす》かに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寐ながらそれを呼び返したいやうな心持がした。ミユンステルベルグと云ふ學者の家《いへ》に賊が入《はい》つた引合《ひきあひ》で、他日彼が法庭《はふてい》へ呼び出されたとき、彼の陳述は殆んど事實に相違する事｜許《ばかり》であつたと云ふ話がある。正確を旨とする凡帳面《きちやうめん》な學者の記憶でも、記憶は是程に不慥《ふたしか》なものである。「思ひ出す事など」の中に思ひ出す事が、日を經《ふ》れば經《ふ》るに從つて色彩を失《うしな》ふのは勿論である。

　わが手の利《き》かぬ先にわが失へるものは既に多い。わが手《て》筆を持つの力を得てより逸《いつ》するもの亦《また》少からずと云つても嘘にはならない。わが病氣の經過と、病氣の經過に伴《つ》れて起《おこ》る内面の生活とを、不秩序ながら斷片的にも叙して置きたいと思ひ立つたのは是が爲である。友人のうちには、もう夫《それ》程《ほど》好くなつたかと喜んで呉れたものもある。或は又あんな輕擧《かるはずみ》をして遣《や》り損《そこ》なはなければ可《い》いがと心配して呉れたものもある。

　其中で一番｜苦《にが》い顔をしたのは池邊三山君《いけべさんざんくん》であつた。余が原稿を書いたと聞くや否や、忽ち餘計な事だと叱り付けた。しかも其聲は尤も無愛想《ぶあいさう》な聲であつた。醫者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌《たいくつしの》ぎ位な所と見たらよからうと余は辯解した。醫者の許可も去《さ》る事だが、友人の許可を得なければ不可《いか》んと云ふのが三山君《さんざんくん》の挨拶であつた。それから二三日して三山君《さんざんくん》が宮本博士に會つて此話をすると、博士は、成程退屈をすると胃に酸《さん》が湧く恐れがあるから却《かへ》つて惡いだらうと調停して呉れたので、余は漸く助かつた。

　其時余は三山君に、　

　　遺却新詩無處尋。　?然隔?對遙林。

　　斜陽滿徑照僧遠。　黄葉一村藏寺深。

　　懸偈壁間焚佛意。　見雲天上抱琴心。

　　人間至樂江湖老。　犬吠鷄鳴共好音。〔五十六字右○〕

と云ふ詩を遺《おく》つた。巧拙《かうせつ》は論外として、病院に居る余が窓から寺を望む譯もなし、又室内に琴を置く必要もないから、此詩は全くの實況に反してゐるには違《ちがひ》ないが、たゞ當時の余の心持を咏《えい》じたものとしては頗る恰好《かつかう》である。宮本博士が退屈をすると酸《さん》がたまると云つた如く、忙殺《ばうさつ》されて酸《さん》が出過ぎる事も、余は親しく經驗してゐる。詮《せん》ずる所、人間は閑適《かんてき》の境界《きやうがい》に立たなくては不幸だと思ふので、其｜閑適《かんてき》を少時《しばらく》なりとも貪《むさぼ》り得《う》る今の身の嬉しさが、此五十六字に形を變じたのである。

　尤も趣《おもむき》から云へばまことに舊い趣《おもむき》である。何の奇もなく、何の新もないと云つても可《よ》い。實際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもシヨウでもない。其代り此｜趣《おもむき》は彼等作家の未《いま》だ甞《かつ》て知らざる興味に屬してゐる。又彼等の決して與《あづ》からざる境地に存してゐる。現今の吾等が苦しい實生活に取り卷かれる如く、現今の吾等が苦しい文學に取り付かれるのも、已《やむ》を得《え》ざる悲しき事實ではあるが、所謂《いはゆる》「現代的氣風」に煽《あふ》られて、三百六十五日の間、傍目《わきめ》も振らず、しかく人世を觀《くわん》じたら、人世は定めし窮屈で且《か》つ殺風景なものだらう。たまにはこんな古風の趣《おもむき》が却つて一段の新意《しんい》を吾等の内面生活上に放射するかも知れない。余は病《やまひ》に因《よ》つて此｜陳腐《ちんぷ》な幸福と爛熟な寛裕《くつろぎ》を得て、初めて洋行から歸つて平凡な米の飯に向つた時の樣な心持がした。

　「思ひ出す事など」は忘れるから思ひ出すのである。漸く生き殘つて東京に歸つた余は、病《やまひ》に因《よ》つて纔《わづ》かに享《う》け得《え》た此｜長閑《のどか》な心持を早くも失はんとしつゝある。まだ床《とこ》を離れる程に足腰が利かないうちに、三山君に遺《おく》つた詩が、既に此太平の趣《おもむき》をうたふべき最後の作ではなからうかと、自分ながら掛念《けねん》してゐる位である。「思ひ出す事など」は平凡で低調な個人の病中に於ける述懷《じゆつくわい》と叙事に過ぎないが、其《その》中《うち》には此陳腐ながら拂底《ふつてい》な趣《おもむき》が、珍らしく大分《だいぶ》這入つて來る積《つもり》であるから、余は早く思ひ出して、早く書いて、さうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、此古い香《かをり》を懷《なつ》かしみたいと思ふ。

　

　　　　　五

　

　修善寺《しゆぜんじ》に居る間《あひだ》は仰向《あふむけ》に寐たまゝよく俳句を作つては、それを日記の中に記《つ》け込《こ》んだ。時々は面倒な平仄《ひやうそく》を合はして漢詩さへ作つて見た。さうして其漢詩も一つ殘らず未定稿《みていかう》として日記の中に書き付けた。

　余は年來俳句に疎《うと》くなりまさつた者である。漢詩に至つては、殆んど當初からの門外漢と云つても可《い》い。詩にせよ句にせよ、病中に出來上つたものが、病中の本人にはどれ程得意であつても、それが專門家の眼に整《とゝの》つて（ことに現代的に整つて）映《うつ》るとは無論思はない。

　けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の價値は、余自身から云ふと、全く其｜出來不出來《できふでき》に關係しないのである。平生《へいぜい》は如何《いか》に心持の好くない時でも、苟《いやし》くも塵事に堪へ得るだけの健康を有《も》つてゐると自信する以上、又｜有《も》つてゐると人から認められる以上、われは常住日夜《じやうぢゆうにちや》共に生存競争裏《せいぞんきやうそうり》に立つ惡戰の人である。佛語で形容すれば絶えず火宅《くわたく》の苦《く》を受けて、夢の中でさへ焦々《いら／＼》してゐる。時には人から勸められる事もあり、偶《たま》には自《みづか》ら進む事もあつて、不圖《ふと》十七字を並べて見たり又は起承轉結《きしようてんけつ》の四句位組み合せないとも限らないけれども何時《いつ》もどこかに間隙《すき》がある樣な心持がして、隈《くま》も殘さず心を引《ひ》き包《くる》んで、詩と句の中に放《はふ》り込《こ》む事が出來ない。それは歡樂を嫉《ねた》む實生活の鬼の影が風流に纒《まつは》る爲かも知れず、又は句に熟し詩に狂するのあまり、却つて句と詩に翻弄されて、いら／＼すまじき風流にいら／＼する結果かも知れないが、夫《それ》ではいくら佳句《かく》と好詩《かうし》が出來たにしても、贏《か》ち得《う》る當人の愉快はたゞ二三｜同好《どうかう》の評判｜丈《だけ》で、其評判を差し引くと、後《あと》に殘るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に歸着して仕舞ふ。

　所が病氣をすると大分《だいぶ》趣《おもむき》が違つて來る。病氣の時には自分が一歩現實の世を離れた氣になる。他《ひと》も自分を一歩社會から遠ざかつた樣《やう》に大目に見て呉れる。此方《こちら》には一人前《いちにんまへ》働かなくても濟むといふ安心が出來、向ふにも一人前《いちにんまへ》として取り扱ふのが氣の毒だといふ遠慮がある。さうして健康の時にはとても望めない長閑《のど》かな春が其《その》間《あひだ》から湧いて出る。此安らかな心が即ちわが句、わが詩である。從つて、出來榮《てきばえ》の如何《いかん》は先づ措《お》いて、出來たものを太平の記念と見る當人にはそれがどの位｜貴《たふと》いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛《まぎ》らすため、閑《かん》に強《し》ひられた仕事ではない。實生活の壓迫を逃《のが》れたわが心が、本來の自由に跳ね返つて、むつちりとした餘裕を得た時、油然《いうぜん》と漲《みな》ぎり浮かんだ天來《てんらい》の彩紋《さいもん》である。吾ともなく興の起るのが既に嬉しい、其興を捉《とら》へて横に咬《か》み竪に碎いて、之を句なり詩なりに仕立上げる順序過程が又嬉しい。漸く成つた曉には、形のない趣《おもむき》を判然《はつきり》と眼の前に創造した樣な心持がして更に嬉しい。果してわが趣《おもむき》とわが形に眞の價値があるかないかは顧みる遑《いとま》さへない。

　病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な見舞を受けた。衰弱の今の身では其一々に一々の好意に背《そむ》かない程に詳しい禮状を出して、自分がつい死にもせず今日《こんにち》に至つた經過を報ずる譯にも行かない。「思ひ出す事など」を牀上《しやうじやう》に書き始めたのは、是が爲である。――各々《めい／＼》に向けて云ひ送るべき筈の所を、略して文藝欄の一隅にのみ載せて、余の如きものゝために時と心を使はれた難有《ありがた》い人々にわが近況を知らせる爲である。

　從つて「思ひ出す事など」の中に詩や俳句を挾《はさ》むのは、單に詩人俳人としての余の立場を見て貰ふ積《つもり》ではない。實を云ふと其善惡などは寧ろ何《どう》でも好《い》いと迄思つてゐる。たゞ當時の余は此《かく》の如《ごと》き情調に支配されて生きてゐたといふ消息が、一瞥の迅《と》きうちに、讀者の胸に傳はれば滿足なのである。

　　秋の江《え》に打ち込む杭《くひ》の響かな

　是は生き返つてから約十日｜許《ばかり》して不圖《ふと》出來た句である。澄み渡る秋の空、廣き江、遠くよりする杭《くひ》の響、此三つの事相《じさう》に相應した樣な情調が當時絶えずわが微《かす》かなる頭の中を徂徠《そらい》した事は未だに覺えて居る。

　　秋の空｜淺黄《あさぎ》に澄めり杉に斧《をの》

　是も同じ心の耽《ふけ》りを他《ほか》の言葉で云ひ現《あらは》したものである。

　　別るゝや夢《ゆめ》一筋《ひとすぢ》の天《あま》の川《がは》

　何といふ意味か其時も知らず、今でも分らないが、或は仄《ほのか》に東洋城《とうやうじやう》と別れる折の連想が夢の樣な頭の中に這回《はひまは》つて、恍惚《くわうこつ》と出來上つたものではないかと思ふ。

　當時の余は西洋の語に殆《ほと》んど見當らぬ風流と云ふ趣《おもむき》をのみ愛してゐた。其風流のうちでも茲《こゝ》に擧げた句に現れる樣な一種の趣《おもむき》丈《だけ》をとくに愛してゐた。

　　秋風《あきかぜ》や唐紅《からくれなゐ》の咽喉佛《のどぼとけ》

といふ句は寧ろ實況であるが、何だか殺氣があつて含蓄《がんちく》が足りなくて、口に浮かんだ時から既に變な心持がした。

　　風流人未死。病裡領清閑。

　　日々山中事。朝々見碧山。〔二十字右○〕

　詩《し》に圏點《けんてん》のないのは障子に紙が貼つてない樣な淋《さび》しい感じがするので、自分で丸《まる》を付けた。余の如き平仄《ひやうそく》もよく辨《わきま》へず、韻脚《ゐんきやく》もうろ覺えにしか覺えてゐないものが何を苦しんで、支那人に丈《だけ》しか利目《きゝめ》のない工夫《くふう》を敢てしたかと云ふと、實は自分にも分らない。けれども（平仄《ひやうそく》韻字《ゐんじ》は偖置《さておいて）、詩の趣《おもむき》は王朝以後の傳習で久しく日本化されて今日《こんにち》に至つたものだから、吾々位の年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪ひ去る事が出來ない。余は平生事に追はれて簡易な俳句すら作らない。詩となると億劫《おつくふ》で猶《なほ》手を下《くだ》さない。たゞ斯樣に現實界を遠くに見て、杳《はるか》な心に些《すこし》の蟠《わだかま》りのないとき丈《だけ》、句も自然と湧き、詩も興に乘じて種々な形のもとに浮んでくる。さうして後《あと》から顧みると、夫《それ》が自分の生涯の中《うち》で一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき器《うつは》が、無作法な十七字と、佶屈《きつくつ》な漢字以外に日本で發明されたらいざ知らず、左《さ》もなければ、余は斯かる時、斯かる場合に臨んで、何時《いつ》でも其無作法と其｜佶屈《きつくつ》とを忍んで、風流を這裏《しやり》に樂しんで悔いざるものである。さうして日本に他の恰好《かつかう》な詩形のないのを憾《うら》みとは決して思はないものである。

　

　　　　　六

　

　始めて讀書欲の萌《きざ》した頃、東京の玄耳君《げんじくん》から小包で醉古堂劔掃《すゐこだうけんさう》と列仙傳《れつせんでん》を送つて呉れた。此｜列仙傳《れつせんでん》は帙入《ちついり》の唐本《たうほん》で、少し手荒に取扱ふと紙がぴり／＼破れさうに見える程の古い――古いと云ふよりも寧ろ汚《きた》ない――本であつた。余は寐ながら此汚ない本を取り上げて、其中にある仙人の挿畫《さしゑ》を一々丁寧に見た。さうして是等仙人の髯の模樣だの、頭の恰好《かつかう》だのを互に比較して樂んだ。其時は畫工《ゑかき》の筆癖から來る特色を忘れて、かう云ふ頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだらうと思つたり、又かう云ふ疎《まばら》な髯を風に吹かせなければ仙人の群《むれ》に入《い》る事は覺束《おぼつか》ないのだらうと思つたりして、ひたすら彼等の容貌に表はれてくる共通な骨相を飽かず眺めた。本文も無論讀んで見た。平生氣の短かい時にはとても見出《みいだ》す事の出來ない悠長な心を目出度《めでたく》意識しながら讀んで見た。――余は今の青年のうちに列仙傳《れつせんでん》を一枚でも讀む勇氣と時間を有《も》つてゐるものは一人もあるまいと思ふ。年を取つた余も實を云ふと此時始めて列仙傳と云ふ書物を開けたのである。

　けれども惜しい事に本文は挿畫《さしゑ》程｜雅《が》に行かなかつた。中には欲の塊《かたまり》が羽化《うくわ》した樣な俗な仙人もあつた。それでも讀んで行くうちには多少氣に入つたのも出來てきた。一番無雜作で且《かつ》可笑《をか》しいと思つたのは、何ぞと云ふと、手の垢《あか》や鼻糞を丸めて丸藥《ぐわんやく》を作つて、それを人に遣る道樂のある仙人であつたが、今では其名を忘れて仕舞つた。

　然し挿畫《さしゑ》よりも本文よりも余の注意を惹《ひ》いたのは卷末にある附録であつた。是は手輕にいふと長壽法《ちやうじゆはふ》とか養生訓《やうじやうくん》とか稱するものを諸方から取り集めて來て、一所《いつしよ》に並べたものゝ樣に思はれた。尤も仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違つて、頗る抽象的で、實際解るとも解らぬとも片の付かぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かつたと見えて、其二三節をわざ／＼日記の中に書き拔いてゐる。日記を檢《しら》べて見ると「靜《せい》これを性《せい》となせば心｜其《その》中《うち》にあり、動《どう》これを心となせば性｜其《その》中《うち》にあり、心《こゝろ》生《しやう》ずれば性《せい》滅《めつ》し、心《こゝろ》滅《めつ》すれば性《せい》生《しやう》ず」といふ樣な六づかしい漢文が曲がりくねりに半頁《はんページ》ばかりを埋《うづ》めてゐる。

　其時の余は印氣《インキ》の切れた萬年筆《まんねんふで》の端《はし》を撮《つま》んで、ペン先へ墨の通ふ樣に一二度｜揮《ふ》るのが頗る苦痛であつた。實際健康な人が片手で樫《かし》の六尺棒を振り廻すよりも辛《つら》い位であつた。夫《それ》程《ほど》衰弱の劇《はげ》しい時にですら、わざ／＼と斯《こ》んな道經《だうきやう》めいた文句を寫す餘裕が心にあつたのは、今から考へても眞《まこと》に愉快である。子供の時｜聖堂《せいだう》の圖書館へ通つて、徂徠《そらい》の?園十筆《けんゑんじつぴつ》を無暗に寫し取つた昔を、生涯にたゞ一度繰り返し得た樣な心持が起つて來る。昔の余の所作《しよさ》が單に寫すといふ以外には全く無意味であつた如く、病後の余の所作も亦殆んど同樣に無意味である。さうしてその無意味な所に、余は一種の價値を見出《みいだ》して喜んでゐる。長生《ながいき》の工夫のための列仙傳が、長生もしかねまじきほど悠長な心の下《もと》に、病後の余から斯く氣樂に取扱はれたのは、余に取つて全くの偶然であり、又再び來《きた》るまじき奇縁である。

　佛蘭西《フランス》の老畫家アルピニーはもう九十一二の高齡である。夫《それ》でも人並《ひとなみ》の氣力はあると見えて、此間のスチユーヂオには目醒《めざま》しい木炭畫が十種程｜載《の》つてゐた。國朝六家詩鈔《こくてうりくかしせう》の初にある沈�ｺ潜《しんとくせん》の序には、乾隆《けんりゆう》丁亥《ていがい》夏《か》五｜長洲沈�ｺ潜《ちやうしうしんとくせん》書《しよ》す時に年九十有五。とわざ／＼斷つてある。長生《ながいき》の結構な事は云ふ迄もない。長生をしてこの二人の樣に頭が慥《たし》かに使へるのは猶更《なほさら》目出たい。不惑《ふわく》の齡《よはひ》を越すと間もなく死なうとして、纔《わづ》かに助かつた余は、これから何時《いつ》迄《まで》生きられるか固《もと》より分らない。思ふに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であらう。其上頭が使へたら猶《なほ》難有《ありがた》いと云はなければなるまい。ハイヅンは世間から二返も死んだと評判された。一度は弔詩《てうし》迄作つてもらつた。夫《それ》にも拘《かゝ》はらず彼は依然として生きて居た。余も當時はある新聞から死んだと書かれたさうである。それでも實は死なずにゐた。さうして列仙傳を讀んで子供の時の無邪氣な努力を繰り返し得る程に生き延びた。夫《それ》丈《だけ》でも弱い余に取つては非常な幸福である。其頃ある知らない人から、先生死に給ふ事なかれ、先生死に給ふことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙傳を讀むべく生き延びた余を悦ぶと同時に、此同情ある青年の爲に生き延びた余を悦《よろこ》んだ。

　

　　　　　七

　

　ウオードの著はした社會學の標題には力學的《ダイナミツク》といふ形容詞をわざ／＼冠《くわん》してあるが、是は普通の社會學でない、力學的《ダイナミツク》に論じたのだといふ事を特に斷つたものと思はれる。所が此本の甞《かつ》て魯西亞語《ロシアご》に翻譯された時、魯國《ろこく》の當局者は直《たゞ》ちにその發賣を禁止してしまつた。著者は不審の念に打たれて、其理由を在魯《ざいろ》の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にも能《よ》くは分らぬが、恐らく標題に力學的《ダイナミツク》といふ字と社會學《ソシオロジー》といふ字があるので、當局者は一も二もなくダイナマイト及び社會主義に關係のある恐ろしい著述と速斷して、この暴擧を敢てしたのだらうといふ返事が來たさうである。

　魯國《ろこく》の當局者ではないが、余も此｜力學的《ダイナミツク》といふ言葉には少からぬ注意を拂つた一人である。平生から一般の學者が此一字に着眼しないで、恰《あたか》も動きの取れぬ死物の樣に、研究の材料を取り扱ひながら却つて平氣でゐるのを、常に飽き足らず眺めてゐたのみならず、自分と親密の關係を有する文藝上の議論が、ことに此《この》弊《へい》に陷《おちい》り易《やす》く、又｜陷《おちい》りつゝある樣に見えるのを遺憾と批判してゐたから、參考のため、一度は魯國《ろこく》當局者を恐れしめたといふこの力學的社會學《ダイナミツクソシオロジー》なるものを一讀したいと思つてゐた。實は自分の耻を白状する樣で甚だ極《きま》りが惡いが、是は決して新しい本ではない。製本の體裁《ていさい》からしてが既にスペンサーの綜合哲學《そうがふてつがく》に類した古風なものである。けれども亦恐ろしく分厚《ぶあつ》に書き上げた著作で、上下二卷を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日は愚か一週間掛つても樂《らく》に讀みこなす事は出來惡《できにく》い。それで已《やむ》を得《え》ず時機の來る迄と思つて、本箱の中へ仕舞つて置いたのを、小説類に興味を失《しつ》した此頃の讀物としては適當だらうと不圖《ふと》考へ付いたので、それを宅《うち》から取り寄せてとう／＼力學的《ダイナミツク》に社會學《ソシオロジー》を病院で研究する事にした。

　所が讀み出して見ると、恐ろしく玄關の廣い前置の長い本であつた。さうして肝心の社會學《ソシオロジー》そのものになると頗る不完全で、且つ折角の頼みと思つてゐる所謂《いはゆる》力學的《ダイナミツク》が甚だ心細くなる程に手荒に取扱はれてゐた。今更ウオードの著述に批評を下《くだ》すのは余の目的でない、たゞ序《ついで》に云ふ丈《だけ》ではあるが、今に本當の力學的《ダイナミツク》が出るだらう、今に高潮の力學的《ダイナミツク》が出るだらうと、何處迄も著者を信用して、とう／＼千五百頁の最後の一頁の最後の文字迄讀み拔けて、さうして期待した程のものが何處からも出て來なかつた時には、丁度ハレー彗星《すゐせい》の尾で地球が包まれべき當日を、何の變化もなく無事に經過した程あつけない心持がした。

　けれども道中は、道草を食ふべく餘儀なくされる丈《だけ》それ丈《だけ》多趣多樣で面白かつた。其《その》中《うち》で宇宙創造論《コスモジエニー》と云ふ嚴《いか》めしい標題を掲げた所へ來た時、余は覺えず昔《むか》し學校で先生から教はつた星雲説《せいうんせつ》の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかつた。さうして不圖《ふと》考へた。――

　自分は今危險な病氣からやつと回復しかけて、それを非常な仕合《しあはせ》の樣に喜んでゐる。さうして自分の癒りつゝある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かして置きたいとのみ冀《こひねが》つてゐる。自分の介抱《かいはう》を受けた妻や醫者や看護婦や若い人達を難有《ありがた》く思つてゐる。世話をしてくれた朋友やら、見舞に來てくれた誰彼《たれかれ》やらには篤い感謝の念を抱《いだ》いてゐる。さうして此所に人間らしいあるものが潜んでゐると信じてゐる。其證據には此處に始めて生き甲斐のあると思はれる程深い強い快よい感じが漲《みなぎ》つてゐるからである。

　然し是は人間相互の關係である。よし吾々を宇宙の本位と見ない迄も、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰である。三世《さんぜ》に亘る生物全體の進化論と、（ことに）物理の原則に因つて無慈悲に運行し情義なく發展する太陽系の歴史を基礎として、其《その》間《あひだ》に微《かす》かな生を營む人間を考へて見ると、吾等如きものの一喜一憂は無意味と云はん程に勢力のないといふ事實に氣が付かずには居られない。

　限りなき星霜を經て固《かた》まり掛《かゝ》つた地球の皮が熱を得て溶解し、尚《なほ》膨脹して瓦斯《ガス》に變形すると同時に、他の天體も亦これに等《ひと》しき革命を受けて、今日《こんにち》迄《まで》分離して運行した軌道と軌道の間が隙間なく充たされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰《じつげつせいしん》の區別を失つて、爛《らん》たる一大火雲の如くに盤旋《ばんせん》するだらう。更に想像を逆さまにして、此星雲が熱を失つて収縮し、収縮すると共に回轉し、回轉しながらに外部の一片《いつぺん》を振りちぎりつゝ進行するさまを思ふと、海陸空氣歴然と整《とゝの》へるわが地球の昔は、凡《すべ》て是《これ》?々たる一塊《いつくわい》の瓦斯《ガス》に過ぎないといふ結論になる。面目の髣髴《はうふつ》たる今日《こんにち》から溯《さかのぼ》つて、科學の法則を、想像だも及ばざる昔に引張《ひつぱ》れば、一糸《いつし》も亂れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となつたものには違なからうが、此山と此水と此空氣と太陽の御蔭によつて生息する吾等人間の運命は、吾等が生くべき條件の備はる間の一瞬時――永劫《えいがふ》に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪《むさ》ぼるに過ぎないのだから、果敢《はか》ないと云はんよりも、ほんの偶然の命と評した方が當つてゐるかも知れない。

　平生の吾等はたゞ人を相手にのみ生きてゐる。其生きる爲の空氣に就ては、あるのが當然だと思つて未《いま》だ甞《かつ》て心遣《こゝろづかひ》さへした事がない。其｜心根《こゝろね》を糺《たゞ》すと、吾等が生れる以上、空氣は無ければならない筈だ位に觀じてゐるらしい。けれども、此空氣があればこそ人間が生れるのだから、實を云へば、人間のために出來た空氣ではなくて、空氣のために出來た人間なのである。今にもあれ此空氣の成分に多少の變化が起るならば、――地球の歴史は既に此變化を豫想しつゝある――活?なる酸素が地上の固形物と抱合《はうがふ》して次第に減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるゝならば、月球《げつきう》の表面に瓦斯《ガス》の懸《かゝ》らぬ如くに、吾等の世界も亦冷却し盡くすならば、吾等は悉《こと／”＼》く死んで仕舞はねばならない。今の余の樣に生き延びた自分を祝ひ、遠く逝《ゆ》く他人を悲しみ、友を懷《なつか》しみ敵を惡《にく》んで、内輪｜丈《だけ》の活計《くわつけい》に甘んじて得意に其日を渡る譯には行くまい。

　進んで無機有機を通じ、動植兩界を貫《つらぬ》き、それ等を萬里一條の鐵の如くに隙間なく發展して來た進化の歴史と見傚《みな》すとき、さうして吾等人類が此大歴史中の單なる一｜頁《ページ》を埋《うづ》むべき材料に過ぎぬ事を自覺するとき、百尺竿頭《ひやくせきかんとう》に上《のぼ》り詰《つ》めたと自任する人間の自惚《うぬぼれ》は又急に脱落しなければならない。支那人が世界の地圖を開いて、自分の居る所｜丈《だけ》が中華でないと云ふ事を發見した時よりも、無氣味な黒船が來て日本｜丈《だけ》が神國でないといふ事を覺つた時よりも、更に溯《さかのぼ》つては天動説が打《う》ち壞《こは》されて、地球が宇宙の中心でなかつた事を無理に合點せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾等は辛《から》きヂスイリユージヨンを甞《な》めてゐる。

　種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。學者の例證する所によると、一疋の大口魚《たら》が毎年《まいねん》生む子の數《かず》は百萬疋とか聞く。牡蠣《かき》になるとそれが二百萬の倍數に上《のぼ》るといふ。其うちで生長するのは僅か數匹《すひき》に過ぎないのだから、自然は經濟的に非常な濫費者《らんぴしや》であり、�ｺ義上には恐るべく殘酷な父母《ふぼ》である。人間の生死も人間を本位とする吾等から云へば大事件に相違ないが、しばらく立場を易《か》へて、自己が自然になり濟ました氣分で觀察したら、たゞ至當の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟は毫も存在してゐないだらう。

　斯う考へた時、余は甚だ心細くなつた。又甚だ詰らなくなつた。そこで殊更に氣分を易へて、此間｜大磯《おほいそ》で亡《な》くなつた大塚夫人の事を思ひ出しながら、夫人のために手向《たむけ》の句を作つた。

　　有る程の菊｜抛《な》げ入《い》れよ棺《くわん》の中《なか》

　

　　　　　八

　

　忘るべからざる八月二十四日の來《きた》る二週間程前から余は既に病んでゐた。縁側を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦になつて、蒸し暑い時ですら障子は常に閉《た》て切《き》つてゐた。三度々々｜獻立《こんだて》を持つて誂《あつらへ》を聞きにくる婆さんに、二品三品《ふたしなみしな》口に合ひさうなものを注文はしても、膳の上に揃つた皿を眺めると共に、何處からともなく反感が起つて、箸を執《と》る氣には丸《まる》でなれなかつた。其内に嘔氣《はきけ》が來た。

　始めは煎藥《せんやく》に似た黄黒《きぐろ》い水をしたゝかに吐いた。吐いた後《あと》は多少氣分が癒るので、聊《いさゝか》の物は咽喉を越した。然し越した嬉しさがまだ消えないうちに、又其｜聊《いさゝか》の胃に滯《とゞこ》うる重き苦しみに堪へ切れなくなつて來た。さうして又吐いた。吐くものは大概水である。其色が段々變つて、仕舞には緑青《ろくしやう》の樣な美くしい液體になつた。しかも一粒《いちりふ》の飯さへ敢て胃に送り得ぬ恐怖と用心の下《もと》に、卒然として容赦なく食道を逆《さか》さまに流れ出た。

　青いものが又色を變へた。始めて熊《くま》の膽《ゐ》を水に溶き込んだ樣に黒ずんだ濃い汁を、金盥《かなだらひ》になみ／＼と反《もど》した時、醫者は眉を寄せて、斯ういふものが出る樣では、今のうち安靜にして東京に歸つた方が好からうと注告した。余は金盥《かなだらひ》の中を指《ゆびさ》して一體何が出るのかと質問した。醫者は興のない顔付で、是は血だと答へた。けれども余の眼には此黒いものが血とは思へなかつた。すると又吐いた。其時は熊《くま》の膽《ゐ》の色が少し紅《くれなゐ》を含んで咽喉を出る時｜腥《なまぐさ》い臭《かをり》がぷんと鼻を衝いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云つた。玄耳君《げんじくん》が驚ろいて森成《もりなり》さんに坂元君《さかもとくん》を添へてわざ／＼修善寺《しゆぜんじ》迄寄こして呉れたのは、此報知が長距離電話で胃腸病院へ傳《つたは》つて、其所から又｜直《すぐ》に社へ通じたからである。別館から馳けて來た東洋城《とうやうじやう》が枕邊《まくらべ》に立つて、今日東京から醫者と社員が來る筈になつたと知らして呉れた時は全く救はれた樣な氣がした。

　此時の余は殆んど人間らしい複雜な命を有して生きてはゐなかつた。苦痛の外は何事をも容《い》れ得《え》ぬ程に烈しく活動する胸を懷《いだ》いて朝夕《あさゆふ》惱んでゐたのである。四十年來の經驗を刻んで猶《なほ》餘りあると見えた余の頭腦は、たゞ此｜截然《せつぜん》たる一苦痛を秒毎に深く印《いん》し來《く》るばかりを能事とする樣に思はれた。從つて余の意識の内容はたゞ一色《ひといろ》の悶《もだえ》に塗抹《とまつ》されて、臍上方三寸《さいじやうはうさんずん》の邊《あたり》を日夜にうね／＼行きつ戻りつするのみであつた。余は明け暮れ自分の身體の中《うち》で、此部分｜丈《だけ》を早く切り取つて犬に投げて遣りたい氣がした。夫《それ》でなければ此恐ろしい單調な意識を、一刻も早く何處へか打ち遣つて仕舞ひたい氣がした。又出來るならば、此儘睡魔に冒《をか》されて、前後も知らず一週間程寐込んで、しかる後｜鷹揚《おうやう》な心持をゆたかに抱《いだ》いて、爽《さはや》かな秋の日の光りに、兩の眼を颯《さつ》と開《あ》けたかつた。少くとも汽車に搖られもせず車に乘せられもせず、すうと東京へ歸つて、胃腸病院の一室に這入つて、其所に仰向けに倒れてゐたかつた。

　森成さんが來ても此苦しみは一寸｜除《と》れなかつた。胸の中を棒で攪《か》き混《ま》ぜられる樣な、又胃の腑が不規則な大波を其全面に向つて層々と描《ゑが》き出《だ》す樣な、異《い》な心持に堪へかねて、床の上に起き返りながら、吐いて見ませうかと云つて、腥《なまぐさ》いものを面《ま》のあたり咽喉の奧から金盥《かなだらひ》の中に傾けた事もあつた。森成さんの御蔭で此苦しみが大分《だいぶ》退《ひ》いた時ですら、動くたびに腥《なまぐさ》い噫《おくび》は常に鼻を貫《つら》ぬいた。血は絶えず腸に向つて流れてゐたのである。

　此煩悶に比《くら》べると、忘るべからざる二十四日の出來事以後に生きた余は、如何に安住の地を得て靜穩に生を營んだか分らない。其靜穩の日が即ち余の一生涯にあつて最も恐るべき危險の日であつたのだと云ふ事を後から知つた時、余は下《しも》の樣な詩を作つた。

　　圓覺曾參棒喝神。瞎兒何處觸機縁。

　　青山不拒庸人骨。回首九原月在天。〔二十八字右○〕

　

　　　　　九

　

　忘るべからざる二十四日の出來事を書かうと思つて、原稿紙に向ひかけると、何だか急に氣が進まなくなつたので又記憶を逆《さかさ》まに向け直して、後戻《あともど》りをした。

　東京を立つときから余は劇《はげ》しく咽喉を痛めてゐた。一所に來《く》るべき筈でつい乘《の》り後《おく》れた東洋城の電報を汽車中で受け取つて、其意の如くに御殿場《ごてんば》で一時間程待ち合せてゐた間《ま》に、余は不用になつた一枚の切符代を割り戻して貰ふために、驛長室へ這入つて行つた。すると其所に腰圍《えうゐ》何尺《なんじやく》とでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅子に腰を掛けて頻りに繪端書の表に何か認《したゝ》めてゐた。余は驛長に向つて當用を辨ずる傍《かたはら》、思ひがけない所に思ひがけない人がゐるものだといふ好奇心を禁じ得なかつた。すると其大男が突然立ち上がつて、貴方《あなた》は英語を話すかと聞くから、嗄《か》れた聲で纔《わづか》にイエスと答へた。男は次に是から京都へ行くにはどの?車へ乘つたら好いか教へて呉れと云つた。甚だ簡單な用向《ようむき》であるから平生ならば何うとも挨拶が出來るのだけれども、聲量を全く失つてゐた當時の余には、それが非常の困難であつた。固《もと》より云ふ事はあるのだから、何か云はうとするのだが、その云はうとする言葉が咽喉を通るとき千條《ちすぢ》に擦《す》り切《き》れでもする如くに、口へ出て來る時分には全く光澤《つや》を失つて殆んど用をなさなかつた。余は英語に通ずる驛員の助《たすけ》を藉《か》りて、漸くのこと此大男を無事に京都へ送り屆けた事とは思ふが、其時の不愉快は未《いま》だに忘れない。

　修善寺《しゆぜんじ》に着いてからも咽喉は一向《いつかう》好くならなかつた。醫者から藥を貰つたり、東洋城《とうやうじやう》の拵《こしら》えてくれた手製の含漱《がんそう》を用ひたりなどして、辛《から》く日常の用を辨ずる丈《だけ》の言葉を使つて濟ましてゐた。其頃｜修善寺《しゆぜんじ》には北白川《きたしらかは》の宮《みや》が御出《おいで》になつてゐた。東洋城は始終そちらの方の務《つとめ》に追はれて、つい一丁程しか隔つてゐない菊屋の別館からも、容易に余の宿迄は來る事が出來ない樣子であつた。凡《すべ》てを片付けてから、夜の十時過になつて、始めて蚊※［巾＋厨］《かや》の外迄來て、一言《ひとこと》見舞を云ふのが常であつた

　さういふ夜《よ》の事であつたか、又は晝の話であつたか今は忘れたが、ある時｜何時《いつ》もの樣に顔を合はせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰ひたいといふ御注文があつたと云ひ出した。この思ひ掛けない御所望《ごしよまう》を耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさへ聞かずに濟めば、聞かずにゐたい樣な不愉快な聲を出して、殿下に御話などをする勇氣はとても出なかつた。其上羽織も袴も持ち合せなかつた。さうして余の如き位階のないものが、妄《みだ》りに貴《たつと》い殿下の前に出て然るべきであるかないか夫《それ》が第一分らなかつた。實際は東洋城も獨斷で先例のない事を敢てするのを憚《はゞか》つて、確《しか》とした御受はしなかつたのださうである。

　余の苦痛が咽喉から胃に移る間《ま》もなく、東洋城は故郷《ふるさと》にある母の病《やまひ》を見舞ふべく、去《さ》る人と入れ代つて一先づ東京に歸つた。殿下も夫《それ》から程なく御立《おたち》になつた。さうして忘るべからざる二十四日の來た頃、東洋城は余に關する何の消息も知らずに、又東海道を汽車で西へ下つて行つた。其時彼は四五分の停車時間を偸《ぬす》んで、三島から余にわざ／＼一通の手紙を書いた。其手紙は途中で紛失してしまつて、つい宿へ着かなかつたけれども、東洋城が御暇乞《おいとまごひ》に上がつた時、余の病氣の事を御忘れにならなかつた殿下から、もし逢ふ機會があつたなら、どうか大事にする樣にといふ樣な篤い意味の御言葉を承《うけたまは》つたため、それをわざ／＼病中の余に知らせたのださうである。咽喉の病も癒え、胃の苦しみも去つた今の余は、謹んで殿下に御禮を申上げなければならない。又殿下の健康を祈らなければならない。

　

　　　　　十

　

　雨が頻りに降つた。裏山の絶壁を眞逆《まさか》に下《くだ》る筧《かけひ》の竹が、青く冷たく光つて見えた幾日を、物憂く室《へや》の中に呻吟《しんぎん》しつゝ暮してゐた。人が寐靜まると始めて夢を襲ふ（欄干から六尺餘りの所を流れる）水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなつた。其うち水が出るとか出たとか云ふ聲が何處からともなく耳に響いた。

　お仙《せん》と云ふ下女が來て、昨夕《ゆうべ》桂川《かつらがは》の水が増したので門の前の小家《こいへ》では大方の荷を拵へて、預けに來たといふ話をした。序《ついで》に何處とかでは家が丸《まる》で流されて仕舞つて、さうして其《その》家《いへ》の寶物《たからもの》が何處とかゝら掘り出されたと云ふ話もした。此下女は伊東の生れで、濱邊か畑中に立つて人を呼ぶやうな大きな聲を出す癖のある頗る殺風景な女であつたが、雨に鎖《とざ》された山の中の宿屋で、斯ういふ昔の物語めいた、嘘か眞《まこと》か分らないことを聞かされたときは、御伽噺《おとぎばなし》でも讀んだ子供の時の樣な氣がして、何となく古めかしい香《にほひ》に包まれた。其上家が流されたのが何處で、寶物《たからもの》を掘出したのが何處か、丸《まる》で不明なのを一向《いつかう》構《かま》はずに、それが當然である如くに話して行く樣子が、如何にも自分の今居る温泉《ゆ》の宿を、浮世から遠くへ離隔《りかく》して、どんな便《たよ》りも噂の外《ほか》には這入つてこられない山里に變化して仕舞つた所に一種の面白味があつた。

　兎角するうちに此｜樂《たのし》い空想が、不便な事實となつて現《あらは》れ始めた。東京から來る郵便も新聞も悉《こと／”＼》く後《おく》れ出《だ》した。たま／＼着くものは墨が※［者／火］染《にじ》む程びしよ／＼に濡れてゐた。濕つた頁《ページ》を破けない樣に開けて見て、始めて都には今｜洪水《こうずゐ》が出盛《でさか》つてゐるといふ報道を、鮮やかな活字の上にまのあたり見たのは、何日《いつか》の事であつたか、今｜慥《たし》かには覺えてゐないけれども、不安な未來を眼先に控へて、其日其日の出來榮《できばえ》を案じながら病む身には、決して嬉しい便りではなかつた。夜中に胃の痛みで自然と眼が覺めて、身體の置所がない程｜苦《くるし》い時には、東京と自分とを繋《つな》ぐ交通の縁が當分切れた其頃の状態を、多少心細いものに觀じない譯に行かなかつた。余の病氣は歸るには餘り劇《はげ》し過《す》ぎた。さうして東京の方から余の居る所迄來るには、道路が餘り打壞れ過ぎた。のみならず東京其物が既に水に浸《つか》つてゐた。余は殆ど崖と共に崩れる吾家《わがや》の光景と、茅《ち》が崎《きき》で海に押し流されつゝある吾子供等を、夢に見ようとした。雨のしたゝか降る前に余は妻《さい》に宛てて手紙を出して置いた。それには好い部屋がないから四五日したら歸ると書いた。又病氣が再發して苦《くるし》んでゐると云ふ事はわざと知らせずに置いた。さうして其手紙も着いたか着かないか分らない位に考へて寐てゐた。

　其處へ電報が來た。それは恐るべき長い時間と勞力を費《つひや》して、やつとの事無事に宛名《あてな》の人に通ずるや否や、其宛名の人をして封を切らぬ先に少しはつと思はせた電報であつた。然し中は、今度の水害で此方《こちら》は無事だが、其方《そちら》はどうかといふ、見舞と平信《へいしん》をかねたものに過ぎなかつた。出した局の名が本郷とあるのを見て是は草平君《さうへいくん》を煩《わづら》はしたものと知つた。

　雨は益《ます／＼》降り續いた。余の病氣は次第に惡い方へ傾《かたぶ》いて行つた。其時、余は夜の十二時頃長距離電話を掛けられて、硬《かた》い胸を抑へながら受信器を耳に着けた。茅《ち》ケ崎《さき》の子供も無事、東京の家も無事といふ事｜丈《だけ》が微《かす》かに分つた。然し其他は全く不得要領で、殆んど風と話をする如くに纒まらない雜音がぼう／＼と鼓膜に響くのみであつた。第一掛けた當人がわが妻《さい》であるといふ事さへ覺らずに此方《こちら》から貴方といふ敬語を何遍か繰返した位｜漠然《ぼんやり》した電話であつた。東京の音信《たより》が雨と風と洪水の中に、惱んでゐる余の眼に始めて瞭然と映つたのは、坐る暇もない程｜忙《いそが》しい思ひをした妻《さい》が、當時の事情を有《あり》の儘《まゝ》に認《したゝ》めた巨細《こさい》の手紙が漸く余の手に落ちた時の事であつた。余は其手紙を見て自分の病《やまひ》を忘れる程驚いた。

　　病んで夢む天《あま》の川《がは》より出水《でみづ》かな

　

　　　　　十一

　

　妻《さい》の手紙は全部の引用を許さぬ程長いものであつた。冒頭に東洋城から余の病氣の報知を受けた由と、それが爲め少からず心を惱ましてゐる旨を記して、看病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめて電話｜丈《だけ》でもと思つて、其日の中には通じかねる所を、無理な至急報にして貰つて、夜半《やはん》に山田の奧さんの所から掛けたといふ説明が書いてあつた。茅《ち》ケ崎《さき》にゐる子供の安否に就ても一方《ひとかた》ならぬ心配をしたものらしかつた。十間坂下《じつけんざかした》といふ所は水害の恐れがないけれども、もし萬一の事があれば、郵便局から電報で宅迄知らせて貰ふ筈になつてゐると、余に安心させるため、わざ／＼斷つてあつた。其《その》外《ほか》市中大抵の平地《ひらち》は水害を受けて、現に江戸川通｜抔《など》は矢來《やらい》の交番の少し下迄｜浸《つか》つた爲め、舟に乘つて徃來《ゆきき》をしてゐるといふ報知も書き込んであつた。然し其頃は後れながらも新聞が着いたから、一般の模樣は妻《さい》の便りがなくても略《ほゞ》分つてゐた。余の心を動かすべき現象は漠然たる大社會の雨や水やと戰ふ有樣にあると云ふよりも、寧ろ己《おのれ》丈《だけ》に密接の關係ある個人の消息にあつた。さうして其個人の二人迄に、此雨と水が命の間際迄｜祟《たゝ》つた?末を、余は此書面の中《うち》に見出《みいだ》したのである。

　一つは横濱に嫁《とつ》いだ妻《さい》の妹の運命に關した報知であつた。手紙には斯う書いてある。――

　「……梅子事｜末《すゑ》の弟を伴《つ》れて塔《たふ》の澤《さは》の福住《ふくずみ》へ參り居り※［候の草書］《さふらふ》處、水害のため福住《ふくずみ》は浪に押し流され、浴客《よくかく》六十名のうち十五名｜行方不明《ゆくへふめい》との事にて、生死の程も分らず、如何《いかん》とも致し方なく、横濱へは汽車不通にて參る事｜叶《かな》はず、電話は申込者多數にて一日を待たねば通じ不申《まをさず》……」

　後《あと》には、色々｜込《こ》み入つた工面をして電話を掛けた手續が書いてあつて、其末に會社の小使とかゞ徒歩で箱根迄探しに行つた揚句、幽靈の樣に哀れな姿をした彼《かの》女《をんな》を伴《つ》れて戻つた模樣が述べてあつた。余は其處迄讀んで來て、つい二三日前宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、其家の寶物《たからもの》が又ある所から掘り出されたといふ昔話の樣な物語を聞きながら、其裏には自分と利害の糸を絡《から》み合《あは》せなければならない恐ろしい事實が潜んでゐるとも氣が付かずに、尾頭《をかしら》もない夢とのみ打ち興じて濟ましてゐた自分の無智に驚いた。又其無智を人間に強ひる運命の威力を恐れた。

　もう一つ余の心を躍らしたのは、草平君に關する報知《しらせ》であつた。妻《さい》が本郷の親類で用を足した歸りとかに、水見舞の積《つもり》で柳町《やなぎちやう》の低い町から草平君の住んでゐる通り迄來て、此處らだがと思ひながら、表から奧を覗いて見ると、かねて見覺《みおぼえ》のある家がくしやりと潰れてゐたさうである。

　「家《うち》の人達は無事ですか、何處へ行きましたかと聞いたら、薪屋《まきや》の御上《おかみ》さんが、昨晩の十二時頃に崖が崩れましたが、幸ひに何方《どなた》も御怪我《おけが》は御座いません。一先づ柳町の斯ういふ所へ御引移りになりましたと、教へて呉れましたから、柳町へ來て見ると、まだ水の引き切らない床下《ゆかした》のぴた／＼に濡れた貸家に疊《たゝみ》建具《たてぐ》も何も入れずに、荷物｜丈《だけ》運んでありました。實に何と云つて好いか憐れな姿でお種《たね》さんが、私《わたし》の顔を見ると馳け出して來ました。……晩の御飯を拵へる事も出來ないだらうと思つて、御壽司を誂《あつら》へて御夕飯の代りに上げました……」

　草平君は平生《ふだん》から崖崩れを恐れて、出來《でき》る丈《だけ》表へ寄つて寢るとか聞いてゐたが、家《うち》の潰れた時には、外のものが丸《まる》で無難であつたにも拘はらず、自分｜丈《だけ》は少し顔へ怪我《けが》をしたさうである。其｜怪我《けが》の事も手紙の中《うち》に書いてあつた。余はそれを讀んで怪我｜丈《だけ》でまづ仕合せだと思つた。

　家を流し崖を崩す凄まじい雨と水の中に都のものは幾萬となく恐るべき叫び聲を揚げた。同じ雨と同じ水の中《うち》に余と關係の深い二人は身を以て免《まぬか》れた。さうして余は毫も二人の災難を知らずに、遠い温泉《でゆ》の村に雲と煙《けぶり》と、雨の糸を眺め暮してゐた。さうして二人の安全であるといふ報知《しらせ》が着いたときは、余の病《やまひ》が次第々々に危險の方へ進んで行つた時であつた。

　　風に聞け何《いづ》れか先に散る木《こ》の葉《は》

　

　　　　　十二

　

　つゞく雨の或宵に、すこし病《やまひ》の閑《ひま》を偸《ねす》んで、下の風呂場へ降りて見ると、半切《はんきれ》を三尺ばかりの長《ながさ》に切つて、それを細長く竪に貼り付けた壁の色が、暗く映《うつ》る灯《ひ》の陰に、不圖《ふと》余の視線を惹《ひ》いた。余は湯壺《ゆつぼ》の傍《わき》に立ちながら、身體を濡《し》めす前に、まづ此異樣の廣告めいたものを讀む氣になつた。眞中に素人《しろうと》落語大會と書いて、其下に催主《さいしゆ》裸連《はだかれん》と記してある。場所は「山莊にて」と斷つて、催《もよほ》しのあるべき日取を其《その》傍《わき》に書き添へた。余はすぐ裸連《はだかれん》の何人《なんぴと》なるかを覺り得た。裸連とは余の隣座敷にゐる泊り客の自撰にかゝる異名《いみやう》である。昨日《きのふ》の午《ひる》襖越《ふすまごし》に聞いてゐると、太郎冠者《たらうくわじや》が何うの斯うのと長い評議の末、そこん所でやるまいぞ、やるまいぞにしたら好いぢやねえかと云ふ樣な相談があつた。其｜趣向《しゆかう》は寐てゐる余とは固《もと》より無關係だから、知らう筈もなかつたが、兎に角此議決が山莊での催《もよほ》しに一異彩を加へた事は慥《たし》かに違ないと思つた。余は風呂場の貼紙《はりがみ》に注意してある日付と、裸連《はだかれん》の趣向を凝《こ》らしてゐた時刻を照らし合せつゝ、此落語會なるものゝ、既に滯《とゞこほ》りなく濟んだ昨日の午後を顧みて、裸連――少くとも裸連の首腦を構成《かたちづく》る隣座敷の泊り客……の成功を祝せざるを得なかつた。

　此泊り客は五人連《ごにんづれ》で一間《ひとま》に這入つてゐた。其《その》中《うち》の一番｜年嵩《としかさ》に見える三十代の男に、その妻君と娘を合せると既に三人になる。妻君は品《ひん》のいゝ靜かな女であつた。子供は猶更《なほさら》大人《おとな》しかつた。其代り夫《をつと》は頗る騷々しかつた。あとの二人はいづれも二十代の青年で、その一人は一行のうちで尤も八釜《やかま》しく振舞つてゐた。

　誰でも中年以後になつて、二十一二時代の自分を眼の前に憶ひ浮べて見ると、色々回想の簇《むら》がる中に、氣耻かしくて冷汗の流れさうな一斷面を見出《みいだ》すものである。余は隣の室《へや》に呻吟《しんぎん》しながら、此若い男の言葉使ひや起居《たちゐ》を注意すべく餘儀なくされた結果として、二十年の昔に經過した、自分の生涯のうちで、甚だ不面目と思はざるを得ない生意氣さ加減を今更の樣に恐れた。

　此男は何の必要があつてか知らないけれども、絶えず大道《だいだう》で講演でもする樣に大きな聲を出して得意であつた。さうして下女が來ると、必ず通客《つうかく》めいた粹《いき》がりを連發した。それを隣坐敷で聞いてゐると、ヰツトにもならなければヒユーモーにもなつてゐないのだから、如何にも無理やりに、（しかも大得意に、）半可《はんか》もしくは四半可《しはんか》を殺風景に怒鳴《どな》りつけてゐるとしか思はれなかつた。所が下女の方では、又それを聞くたびに不必要にふんだんな笑ひ方をした。本氣とも御世辭とも片の付かない笑ひ方だけれども、聲帶に異状のある樣な恐ろしい笑ひ方をした。病氣にのみ屈託《くつたく》する余も、是には少からず惱まされた。

　裸連《はだかれん》の一部は下座敷にも居た。凡《すべ》てゞ九人ゐるので、自《みづか》ら九人組とも稱《とな》へてゐた。其九人組が丸裸になつて幅六尺の縁側へ出て踴《をどり》ををどつて一晩跳ね廻つた。便所へ行く必要があつて、障子の外へ出たら、九人組は躍《をど》り草臥《くたび》れて、素裸《すはだか》の儘縁側に胡坐《あぐら》をかいてゐた。余は邪魔になる尻や脛《すね》の間を跨《また》いで用を足して來た。

　長い雨が漸く歇《や》んで、東京への汽車が略《ほゞ》通ずる樣になつた頃、裸連は九人とも申し合せた樣に、どつと東京へ引き上げた。それと入れ代りに、森成さんと雪鳥君と妻《さい》とが前後して東京から來てくれた。さうして裸連のゐた部屋を借り切つた。其次の部屋も亦借り切つた。仕舞には新築の二階座敷を四間《よま》ともに吾《わが》有《いう》とした。余は比較的閑寂な月日の下《もと》に、吸飲《すひのみ》から牛乳を飲んで生きてゐた。一度は匙《さじ》で突き碎いた水瓜《すゐくわ》の底から湧いて出る赤い汁を飲まして貰つた。弘法樣《こうぼふさま》で花火の揚《あが》つた宵は、縁近く寐床を摺《ず》らして、横になつたまゝ、初秋《はつあき》の天《そら》を夜半近《やはんぢか》く迄見守つてゐた。さうして忘るべからざる二十四日の來るのを無意識に待つてゐた。

　　萩に置く露の重きに病む身かな

　

　　　　　十三

　

　其日は東京から杉本さんが診察に來る手筈になつてゐた。雪鳥君《せつてうくん》が大仁《おほひと》迄迎に出たのは何時頃《なんじごろ》か覺えてゐないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隱れない午過《ひるすぎ》であつたと思ふ。其山の中を照らす日を、床を離れる事の出來ない、又｜室《へや》を出る事の叶《かな》はない余は、朝から晩迄殆んど仰ぎ見た試しがないのだから、斯う云ふのも實は廂《ひさし》の先に餘る空の端《はし》丈《だけ》を目當《めあて》に想像した刻限《こくげん》である。――余は修善寺《しゆぜんじ》に二月《ふたつき》と五日《いつか》ほど滯在しながら、何方《どちら》が東で、何方《どちら》が西か、どれが伊東《いとう》へ越す山でどれが下田《しもだ》へ出る街道か、丸《まる》で知らずに歸つたのである。

　杉本さんは豫定の如く宿へ着いた。余は其少し前に妻《さい》の手から吸飲《すひのみ》を受け取つて、細長い硝子《がらす》の口から生温《なまぬる》い牛乳を一合程飲んだ。血が出てから、安靜状態と流動食事とは固く守らなければならない掟《おきて》の樣になつてゐたからである。其上出來る丈《だけ》病人に營養を與へて、體力の回復の方から、潰瘍《くわいやう》の出血を抑へ付けるといふ療治法を受けつゝあつた際だから、否應《いやおう》なしに飲んだ。實を云ふと此日は朝から食慾が萌《きざ》さなかつたので、吸飲の中に、動く事の出來ぬほど濁つた白い色の漲《みな》ぎる樣を見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先に溜《たま》るしつ濃《こ》い乳の味を豫想して、手に取らない前から既に反感を起した。強ひられた時、余は已《や》むなく細長く反《そ》り返《かへ》つた硝子《がらす》の管《くだ》を傾けて、湯とも水とも捌《さば》けない液《しる》を、舌の上に、辷《すべ》らせやうと試みた。それが流れて咽喉を下《くだ》る後《あと》には、潔《いさぎ》よからぬ粘《ねば》り強《づよ》い香《か》が妄《みだ》りに殘つた。半分は口直しの積りであとから氷《アイス》クリームを一杯取つて貰つた。所が何時《いつ》もの爽《さはや》かさに引き更へて、咽喉を越すとき一旦溶けたものが、胃の中で再び固まつた樣に妙に落ち付が惡かつた。夫《それ》から二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。

　診察の結果として意外にも左程《さほど》惡くないと云ふ報告を得た時、平生森成さんから病氣の質《たち》が面白くないと聞いてゐた雪鳥君《せつてうくん》は、喜びの餘りすぐ社へ向けて好いといふ電報を打つて仕舞つた。忘るべからざる八百グラムの吐血は、此吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起つたのである。

　斯く多量の血を一度に吐いた余は、其暮方の光景から、日のない眞夜中を通して、明《あく》る日《ひ》の天明に至る有樣を巨細《こさい》殘らず記憶してゐる氣でゐた。程經て妻《さい》の心覺《こゝろおぼえ》に付けた日記を讀んで見て、其中に、ノウヒンケツ（狼狽した妻《さい》は腦貧血を斯《かく》の如《ごと》く書いてゐる）を起し人事不省に陷《おちい》るとあるのに氣が付いた時、余は妻《さい》を枕邊《まくらべ》に呼んで、當時の模樣を委《くは》しく聞く事が出來た。徹頭徹尾明瞭な意識を有して注射を受けたとのみ考へてゐた余は、實に三十分の長い間死んでゐたのであつた。

　夕暮間近く、俄かに胸苦《むなぐる》しい或物のために襲はれた余は、悶えたさの餘りに、折角親切に床の傍《わき》に坐つてゐて呉れた妻《さい》に、暑苦しくて不可《いけ》ないから、もう少し其方《そつち》へ退《ど》いて呉れと邪慳《じやけん》に命令した。夫《それ》でも堪へられなかつたので、安靜に身を横《よこた》ふべき醫師からの注意に背《そむ》いて、仰向《あふむけ》の位地から右を下に寐返らうと試みた。余の記憶に上《のぼ》らない人事不省の状態は、寐ながら向《むき》を換へにかゝつた此努力に伴《ともな》ふ腦貧血の結果だと云ふ。

　余は其時さつと迸《ほとば》しる血潮を、驚ろいて余に寄り添はうとした妻《さい》の浴衣《ゆかた》に、べつとり吐き懸けたさうである。雪鳥君は聲を顫はしながら、奧さん確《しつ》かりしなくては不可《いけ》ませんと云つたさうである。社へ電報を懸けるのに、手が戰《わなゝ》いて字が書けなかつたさうである。醫師は追つ懸け追つ懸け注射を試みたさうである。後から森成さんに其《その》數《かず》を聞いたら、十六｜筒《とう》迄は覺えてゐますと答へた。

　　淋漓絳血腹中文。嘔照黄昏漾綺紋。

　　入夜空疑身是骨。臥牀如石夢寒雲。〔二十八字右○〕

　

　　　　　十四

　

　眼を開けて見ると、右向《みぎむき》になつた儘、瀬戸引《せとびき》の金盥《かなだらひ》の中に、べつとり血を吐いてゐた。金盥が枕に近く押付けてあつたので、血は鼻の先に鮮かに見えた。其色は今日《こんにち》迄《まで》の樣に酸の作用を蒙つた不明瞭なものではなかつた。白い底に大きな動物の肝《きも》の如くどろりと固まつてゐた樣に思ふ。其時枕元で含嗽《うがひ》を上げませうといふ森成さんの聲が聞えた。

　余は黙つて含嗽《うがひ》をした。さうして、つい今しがた傍《そば》にゐる妻《さい》に、少し其方《そつち》へ退《ど》いてくれと云つた程の煩悶が忽然何處かへ消えてなくなつた事を自覺した。余は何より先にまあ可《よ》かつたと思つた。金盥に吐いたものが鮮血であらうと何であらうと、そんな事は一向《いつかう》氣に掛からなかつた。日頃からの苦痛の塊《かたまり》を一度にどさりと打ち遣り切つたといふ落付をもつて、枕元の人がざわ／＼する樣子を殆んど餘所事《よそごと》の樣に見てゐた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されて夫《それ》から多量の食塩水を注射された。其時、食塩を注射される位だから、多少危險な容體《ようだい》に逼《せま》つてゐるのだらうとは思つたが、それも殆んど心配にはならなかつた。たゞ管《くだ》の先から水が洩れて肩の方へ流れるのが厭であつた。左右の腕にも注射を受けた樣な氣がした。然し夫《それ》は確然《はつきり》覺えてゐない。

　妻《さい》が杉本さんに、是でも元の樣になるでせうかと聞く聲が耳に入《い》つた。左樣《さやう》潰瘍《くわいやう》では是まで隨分多量の血を止《と》めた事もありますが……と云ふ杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電氣燈がぐら／＼と動いた。硝子《ガラス》の中に彎曲した一本の光が、線香煙花《せんかうはなび》の樣に疾《と》く閃《きら》めいた。余は生れてから此時程強く又恐ろしく光力を感じた事がなかつた。其｜咄嗟《とつさ》の刹那《せつな》にすら、稻妻《いなづま》を眸《ひとみ》に燒き付けるとは是だと思つた。時に突然電氣燈が消えて氣が遠くなつた。

　カンフル、カンフルと云ふ杉本さんの聲が聞えた。杉本さんは余の右の手頸をしかと握つてゐた。カンフルは非常に能《よ》く利くね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんが又森成さんに云つた。森成さんはえゝと答へた許《ばか》りで、別にはか／”＼しい返事はしなかつた。夫《それ》からすぐ電氣燈に紙の蔽《おほひ》をした。

　傍《はた》が一《ひと》しきり靜かになつた。余の左右の手頸は二人の醫師に絶えず握られてゐた。其二人は眼を閑ぢてゐる余を中に挾んで下《しも》の樣な話をした（其單語は悉《こと／”＼》く燭逸語《ドイツご》であつた）。

　「弱い」

　「えゝ」

　「駄目だらう」

　「えゝ」

　「子供に會《あ》はしたら何うだらう」

　「さう」

　今迄落付いてゐた余は此時急に心細くなつた。何う考へても余は死にたくなかつたからである。又決して死ぬ必要のない程、樂な氣持でゐたからである。醫師が余を昏睡の状態にあるものと思ひ誤つて、忌憚《きたん》なき話を續けてゐるうちに、未練《みれん》な余は、瞑目不動の姿勢にありながら、半《なかば》無氣味な夢に襲はれてゐた。そのうち自分の生死に關する斯樣に大膽な批評を、第三者として床の上にぢつと聞かせられるのが苦痛になつて來た。仕舞には多少腹が立つた。�ｺ義上もう少しは遠慮しても可《よ》ささうなものだと思つた。遂に先がさう云ふ料簡なら此方《こつち》にも考へがあるといふ氣になつた。――人間が今死なうとしつゝある間際にも、まだ是程に機略を弄し得るものかと、回復期に向つた時、余はしば／＼當夜の反抗心を思ひ出しては微笑《ほゝゑ》んでゐる。――尤も苦痛が全く取れて、安臥の地位を平靜に保つてゐた余には、充分｜夫《それ》丈《だけ》の餘裕があつたのであらう。

　余は今迄閉ぢてゐた眼を急に開けた。さうして出來る丈《だけ》大きな聲と明瞭な調子で、私《わたし》は子供｜抔《など》に會ひたくはありませんと云つた。杉本さんは何事をも意に介せぬ如く、さうですかと輕く答へたのみであつた。やがて食ひ掛けた食事を濟まして來るとか云つて室《へや》を出て行つた。夫《それ》からは左右の手を左右に開いて、其一つ宛《づゝ》を森成さんと雪鳥君に握られた儘、三人とも無言のうちに天明に達した。

　　冷やかな脈を護りぬ夜明方《よあけがた》

　

　　　　　　十五

　

　強ひて寐返りを右に打たうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分《いちぶ》の隙《すき》もなく連續してゐるとのみ信じてゐた。其《その》間《あひだ》には一本の髪毛《かみげ》を挾《はさ》む餘地のない迄に、自覺が働いて來たとのみ心得てゐた。程經て妻《さい》から、左樣《さう》ぢやありません、あの時三十分｜許《ばかり》は死んで入らしつたのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき惡戯《いたづら》をして氣絶をした事は二三度あるから、夫《それ》から推測して、死とは大方《おほかた》斯《こ》んなものだらう位にはかねて想像してゐたが、半時間の長き間、其經驗を繰返しながら、少しも氣が付かずに一ケ月あまりを當然の如くに過したかと思ふと、甚だ不思議な心持がする。實を云ふと此經驗――第一經驗と云ひ得るかゞ疑問である。普通の經驗と經驗の間に挾まつて毫も其連結を妨《さまた》げ得《え》ないほど内容に乏しい此――余は何と云つてそれを形容して可《い》いか遂に言葉に窮して仕舞ふ。余は眠から醒めたといふ自覺さへなかつた。陰《かげ》から陽《ひ》に出たとも思はなかつた。微《かす》かな羽音《はおと》、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂ひ、古い記憶の影、消える印象の名殘《なごり》――凡《すべ》て人間の神秘を叙述すべき表現を數へ盡して漸く髣髴すべき靈妙な境界《きやうがい》を通過したとは無論考へなかつた。たゞ胸苦《むなぐる》しくなつて枕の上の頭を右に傾むけ樣とした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めた丈《だけ》である。其《その》間《あひだ》に入《い》り込《こ》んだ三十分の死は、時間から云つても、空間から云つても經驗の記憶として全く余に取つて存在しなかつたと一般である。妻《さい》の説明を聞いた時余は死とは夫《それ》程《ほど》果敢《はか》ないものかと思つた。さうして余の頭の上にしかく卒然と閃《きら》めいた生死二面の對照の、如何にも急劇で且《かつ》没交渉なのに深く感じた。何う考へても此｜懸隔《かけへだ》つた二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得《なつとく》出來なかつた。よし同じ自分が咄嗟《とつさ》の際に二つの世界を横斷したにせよ、其二つの世界が如何なる關係を有するがために、余をして忽ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考へると、茫然として自失せざるを得なかつた。

　生死とは緩急、大小、寒暑と同じく、對照の連想からして、日常｜一束《ひとたば》に使用される言葉である。よし輓近《ばんきん》の心理學者の唱ふる如く、この二つのものも亦《また》普通の對照と同じく同類連想の部に屬すべきものと判ずるにした所で、かく掌《てのひら》を翻《ひるが》へすと一般に、唐突《たうとつ》なる懸け離れた二｜象面《フエーゼス》が前後して我を擒《とりこ》にするならば、我は此懸け離れた二｜象面《フユーゼス》を、何うして同性質のものとして、其關係を迹付《あとづ》ける事が出來よう。

　人が余に一個の柿を與へて、今日は半分喰へ、明日《あす》は殘りの半分の半分を喰へ、其｜翌日《あくるひ》は又其半分の半分を喰へ、かくして毎日現に餘れるものゝ半分づゝを喰へと云ふならば、余は喰ひ出してから幾日目《いくかめ》かに、遂に此命令に背《そむ》いて、殘る全部を悉《こと／”＼》く喰ひ盡すか、又は半分に割る能力の極度に達した爲め、手を拱《こまぬ》いて空《むな》しく餘《のこ》れる柿の一片《いつぺん》を見詰めなければならない時機が來るだらう。もし想像の論理を許すならば、斯《こ》の條件の下《もと》に與へられたる一個の柿は、生涯喰つても喰ひ切れる譯がない。希臘《ギリシヤ》の昔ゼノが足の疾《と》きアキリスと歩みの鈍《のろ》い龜との間に成立する競爭に辭《ことば》を託して、如何なるアキリスも決して龜に追ひ付く事は出來ないと説いたのは取も直さず此消息である。わが生活の内容を構成《かたちづく》る個々の意識も亦｜此《かく》の如《ごと》くに、日毎か月毎に、其｜半《なかば》宛《づゝ》を失つて、知らぬ間《ま》に何時《いつ》か死に近づくならば、いくら死に近付いても死ねないと云ふ非事實な論理に愚弄されるかも知れないが、斯う一足飛びに片方から片方に落ち込む樣な思索上の不調和を免かれて、生から死に行く徑路《けいろ》を、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだらう。俄然として死し、俄然として吾に還るものは、否、吾に還つたのだと、人から云ひ聞かさるゝものは、たゞ寒くなる許《ばかり》である

　　縹緲玄黄外。死生交謝時。寄託冥然去。

　　我心何所之。歸來覓命根。杳?竟難知。

　　孤愁空遶夢。宛動蕭瑟悲。江山秋已老。

　　粥藥?將衰。廓寥天尚在。高樹獨餘枝。

　　晩懷如此澹。風露入詩遲。〔七十字右○〕

　

　　　　　十六

　

　安らかな夜は次第に明けた。室《へや》を包む影法師が床を離れて遠退《とほの》くに從つて、余は又常の如く枕邊に寄る人々の顔を見る事が出來た。其顔は常の顔であつた。さうして余の心も亦常の心であつた。病《やまひ》の何處にあるかを知り得ぬ程に落ち付いた身を床の上に横《よこた》へて、少しだに動く必要を有《も》たぬ余に、死の猶《なほ》近く徘徊《はいくわい》して居やうとは全く思ひ設けぬ所であつた。眼を開けた時余は昨夕《ゆうべ》の騷ぎを（たとひ忘れない迄も）たゞ過去の夢の如く遠くに眺めた。さうして死は明け渡る夜と共に立《た》ち退《の》いたのだらう位の度胸でも据つたものと見えて、何等の掛念《けねん》もない氣分を、障子から射し込む朝日の光に、心地《こゝち》よく曝《さら》してゐた。實は無知な余を詐《いつ》はり終《おほ》せた死は、何時《いつ》の間《ま》にか余の血管に潜《もぐ》り込《こ》んで、乏《とも》しい血を追ひ廻しつゝ流れてゐたのださうである。「容體《ようだい》を聞くと、危險なれど極《ごく》安靜にしてゐれば持ち直すかも知れぬといふ」とは、妻《さい》の此日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明迄生きやうとは、誰も期待して居なかつたのだとは後から聞いて始めて知つた。

　余は今でも白い金盥の底に吐き出された血の色と恰好《かつかう》とを、あり／＼とわが眼の前に思ひ浮べる事が出來る。況《ま》して其當分は寒天《かんてん》の樣に固まり掛けた腥《なまぐさ》いものが常に眼先に散ら付いてゐた。さうして吾が想像に映《うつ》る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれ丈《だけ》の出血が、斯う劇《はげ》しく身體に應《こた》へるのだらうと何時《いつ》でも不審に堪へなかつた。人間は脈の中の血を半分失ふと死に、三分の一失ふと昏睡するものだと聞いて、それに吾とも知らず妻《さい》の肩に吐き掛けた生血《なまち》の容積《かさ》を想像の天秤《てんびん》に盛つて、命の向ふ側に重《おも》りとして付け加へた時ですら、余は是程無理な工面をして生き延びたのだとは思へなかつた。

　杉本さんが東京へ歸るや否や、――杉本さんは其朝すぐ東京へ歸つた。もつと居りたいが忙がしいから失禮します、其代り手當は充分する積《つもり》でありますと云つて、新らしい襟と襟飾を着け易へて、余の枕邊に坐つたとき、余は昨夕《ゆうべ》夜半《よなか》に、裄丈《ゆきたけ》の足りない宿の浴衣《ゆかた》を着たまゝ、そつと障子を開けながら、どうかと一言《ひとこと》森成さんに余の樣子を聞いてゐた彼《かの》人《ひと》の樣子を思ひ出した。余の記憶にはたゞそれ丈《だけ》しか留まらなかつた杉本さんが、出掛《でがけ》に妻《さい》を顧みて、もう一遍吐血があれば、何うしても回復の見込はないものと御諦《おあき》らめなさらなければ不可《いけ》ませんと注意を與へたさうである。實は昨夕《ゆうべ》にも此恐るべき再度の吐血が來さうなので、態々《わざ／＼》モルヒネ迄注射してそれを防ぎ止めたのだとは、後《のち》になつて其?末を審《つまび》らかにした余に取つて、全く思ひ掛けない報知であつた。あれ程胸の中《うち》は落ち付いてゐたものをと云ひたい位に、余は平常《へいぜい》の心持で苦痛なく其《その》夜《よ》を明したのである。――話がつい外《そ》れて仕舞つた。

　杉本さんは東京へ歸るや否や、自分で電話を看護婦會へ掛けて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送る樣に頼んで呉れた。其時、早く行かんと間に合はないかも知れないからと電話口で急《せ》いたので、看護婦は汽車で走る途々《みち／＼》も、もう不可《いけ》ない頃ではなからうかと、絶えず余の生命に疑ひを挾《さしは》さんでゐた。折角行つても、行き着いて見たら、遲過ぎて間に合はなかつたと云ふ樣な事があつては詰らないと語り合つて來た。――是も回復期に向いた頃、病牀《びやうしやう》の徒然《つれ／”＼》に看護婦と世間話をした序《ついで》に、彼等の口からぢかに聞いたたよりである。

　斯く凡《すべ》ての人に十の九迄見放された眞中《まなか》に、何事も知らぬ余は、曠野《くわうや》に捨てられた赤子《あかご》の如く、ぽかんとして居た。苦痛なき生は余に向つて何等の煩悶をも與へなかつた。余は寐ながらたゞ苦痛なく生きて居《を》るといふ一事實を認める丈《だけ》であつた。さうして此事實が、はからざる病《やまひ》のために、周圍の人の丁重《ていちよう》な保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風の當《あた》り惡《にく》い安全な地に移つて來た樣に感じた。實際余と余の妻《さい》とは、生存競争の辛《から》い空氣が、直《ぢか》に通はない山の底に住んでゐたのである。

　　露けさの里にて靜《しづか》なる病《やまひ》

　

　　　　　十七

　

　臆病者の特權として、余はかねてより妖怪《えうくわい》に逢ふ資格があると思つてゐた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れてゐる。文明の肉が社會の鋭どき鞭《むち》の下《もと》に萎縮するとき、余は常に幽靈を信じた。けれども虎烈刺《これら》を畏《おそ》れて虎烈刺《これら》に罹《かゝ》らぬ人の如く、神に祈つて神に棄てられた子の如く、余は今日《けふ》迄《まで》是と云ふ不思議な現象に遭遇する機會もなく過ぎた。それを殘念と思ふ程の好奇心もたまには起るが、平生はまづ出逢はないのを當然と心得て濟まして來た。

　自白すれば、八九年前アンドリユ・ラングの書いた「夢と幽霊」といふ書物を床の中に讀んだ時は、鼻の先の燈火《ともしび》を一時に寒く眺めた。一年程前にも「靈妙なる心力」と云ふ標題に引かされてフランマリオンといふ人の書籍を、わざ／＼外國から取り寄せた事があつた。先頃は又オリ?ー・ロツヂの「死後の生」を讀んだ。

　死後の生！　名からしてが既に妙である。我々の個性が我々の死んだ後《のち》迄《まで》も殘る、活動する、機會があれば、地上の人と言葉を換《かは》す。スピリチズムの研究を以て有名であつたマイエルは慥《たし》かに斯う信じて居たらしい。其マイエルに自己の著述を捧げたロツヂも同じ考への樣に思はれる。つい此間出たポドモアの遺著も恐らくは同系統のものだらう。

　獨乙《ドイツ》のフエヒナーは十九世紀の中頃既に地球其物に意識の存すべき所以《ゆゑん》を説いた。石と土と鑛《あらがね》に靈があると云ふならば、有るとするを妨《さまた》げる自分ではない。然し責《せ》めて此假定から出立して、地球の意識とは如何なる性質のものであらう位の想像はあつて然るべきだと思ふ。

　吾々の意識には敷居の樣な境界線があつて、其線の下は暗く、其線の上は明らかであるとは現代の心理學者が一般に認識する議論の樣に見えるし、又わが經驗に照らしても至極《しごく》と思はれるが、肉體と共に活動する心的現象に斯樣の作用があつたにした所で、わが暗中の意識即ち是死後の意識とは受取れない。

　大いなるものは小さいものを含んで、其小さいものに氣が付いてゐるが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己《おのれ》等《ら》の寄り集つて拵らえてゐる全部に對しては風馬牛《ふうばぎう》の如く無頓着であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、又結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全體の意識も亦《また》より大いなる意識の中《うち》に含まれながら、しかも其存在を自覺せずに、孤立する如くに考へてゐるのだらうとは、彼が此｜類推《るゐすゐ》より下《くだ》し來《きた》るスピリチズムに都合よき假定である。

　假定は人々の隨意であり、又時にとつて研究上必要の活力でもある。然したゞ假定だけでは、如何《いか》に臆病の結果幽靈を見やうとする、又迷信の極《きよく》不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずる事が出來ない。

　物理學者は分子の容積を計算して蠶の卵にも及ばぬ（長さ高さともに一ミリメターの）立方體に一千萬を三乘した數《かず》が這入ると斷言した。一千萬を三乘した數《かず》とは一の下に零《れい》を二十一付けた莫大のものである。想像を悉《ほしいま》まにするの權利を有する吾々も此一の下に二十一の零を付けた數《かず》を思ひ浮べるのは容易でない。

　形而下《けいじか》の物質界にあつてすら、――相當の學者が綿密な手續を經て發表した數字上の結果すら、吾々はたゞ數理的の頭腦にのみ尤もと首肯《うなづ》く丈《だけ》である。數量のあらましさへ應用の利かぬ心の現象に關しては云ふ迄もない。よし物理學者の分子に對する如き明瞭な知識が、吾人の内面生活を照らす機會が來たにした所で、余の心は遂に余の心である。自分に經驗の出來ない限り、如何《どん》な綿密な學説でも吾を支配する能力は持ち得まい。

　余は一度死んだ。さうして死んだ事實を、平生からの想像通りに經驗した。果して時間と空間を超越した。然し其超越した事が何の能力をも意味さなかつた。余は余の個性を失つた。余の意識を失つた。たゞ失つた事｜丈《だけ》が明白な許《ばかり》である。どうして幽靈となれやう。どうして自分より大きな意識と冥合《めいがふ》出來やう。臆病にして且つ迷信強き余は、たゞ此不可思議を他人《ひと》に待つばかりである。

　　迎火《むかひび》を焚いて誰《たれ》待つ絽《ろ》の羽織

　

　　　　　十八

　

　たゞ驚ろかれたのは身體の變化である。騷動のあつた明《あく》る朝《あさ》、何かの必要に促《うな》がされて、肋《あばら》の左右に横たへた手を、顔の所迄持つて來《き》ようとすると、急に持主でも變つた樣に、自分の腕ながら丸《まる》で動かなかつた。人を煩らはす手數《てかず》を厭《いと》つて、無理に肘を杖として、手頸から起し掛けたは掛けたが、僅か何寸かの距離を通して、宙に短かい弧線を描く弩力と時間とは容易のものでなかつた。漸く浮《う》き上《あが》つた筋《きん》の力を利用して、高い方へ引く丈《だけ》の精氣に乏しいので、途中から斷念して、再び元の位置にわが腕を落さうとすると、それが又安くは落ちなかつた。無論其儘にして心を放せば、自然の重みで故《もと》に倒れる丈《だけ》の事ではあるが、其倒れる時の激動が、如何《いか》に全身に響き渡るかと考へると、非常に恐ろしくなつて、ついに思ひ切る勇氣が出なかつた。余は卸す事も上げる事も、又半途に支へる事も出來ない腕を意識しつゝ其遣り所に窮した。漸く傍《はた》のものの氣が付いて、自分の手をわが手に添へて、無理のない樣に顔の所迄持つて來てくれて、歸りにも亦二つ腕を一所《いつしよ》にしてやつと床の上まで戻した時には、何うして斯う自己が空虚になつたものか、我ながら殆んど想像が付かなかつた。後から考へて見て、あれは全く護謨風船《ゴムふうせん》に穴が開《あ》いて、その穴から空氣が一度に走り出したため、風船の皮が忽ちしゅつといふ音と共に収縮したと一般の吐血だから、夫《それ》であゝ身體に應《こた》へたのだらうと判斷した。夫《それ》にしても風船はたゞ縮まる丈《だけ》である。不幸にして余の皮は血液の外《ほか》に大きな長い骨を澤山に包んでゐた。其骨が――

　余は生れてより以來此時程に吾骨の硬さを自覺した事がない。其朝眼が覺めた時の第一の記憶は、實にわが全身に滿ち渡る骨の痛みの聲であつた。さうして其痛みが、宵に、酒を被《かうぶ》つた勢《いきほひ》で、多數を相手に劇《はげ》しい喧嘩を挑《いど》んだ末、散々に打ち据ゑられて、手も足も利かなくなつた時の如くに吾を鈍《にぶ》く叩きこなしてゐた。砧《きぬた》に擣《う》たれた布《ぬの》は、斯うもあらうかと迄考へた。夫《それ》程《ほど》正體なく極《き》め付《つ》けられ了《おは》つた状態を適當に形容するには、ぶちのめす〔五字傍点〕と云ふ下等社會で用ひる言葉が、たゞ一つある許《ばかり》である。少しでも身體を動かさうとすると、關節《ふし／”＼》がみし／＼と鳴つた。

　昨日《きのふ》迄《まで》狹い布團に劃された余の天地は、急に又狹くなつた。其布團のうちの一部分より外《ほか》に出る能力を失つた今の余には、昨日《きのふ》迄《まで》狹く感ぜられた布團が更に大きく見えた。余の世界と接觸する點は、こゝに至つてたゞ肩と脊中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなつた。――頭は無論枕に着いてゐた。

　是程に切り詰められた世界に住む事すら、昨夕《ゆうべ》は許されさうに見えなかつたのにと、傍《はた》のものは心の中《うち》で余の爲に觀じて呉れたらう。何事も辨へぬ余にさへ夫《それ》が憐れであつた。たゞ身の布團に觸れる所のみがわが世界である丈《だけ》に、さうして其觸れる所が少しも變らないために、我と世界との關係は、非常に單純であつた。全くスタチツク（靜《せい》）であつた。從つて安全であつた。綿《わた》を敷いた棺《くわん》の中に長く寐て、われ棺《くわん》を出でず、人｜棺《くわん》を襲はざる亡者《まうじや》の氣分は――もし亡者《まうじや》に氣分が有り得るならば、――此時の余のそれと餘り懸《か》け隔《へだ》つては居なかつたらう。

　しばらくすると、頭が麻痺《しび》れ始めた。腰の骨が骨｜丈《だけ》になつて板の上に載せられてゐる樣な氣がした。足が重くなつた。かくして社會的の危險から安全に保護された余｜一人《いちにん》の狹い天地にも亦相應の苦しみが出來た。さうして其苦痛を逃《のが》れるべく余は一寸《いつすん》の外《ほか》にさへ出る能力を持たなかつた。枕元に何《ど》んな人が何うして坐つてゐるか、丸《まる》で氣が付かなかつた。余を看護する爲に、余の視線の屆かぬ傍《かたは》らを占めた人々の姿は、余に取つて神のそれと一般であつた。

　余はこの安らかながら痛み多き小世界にじつと仰向《あふむけ》に寐た儘、身の及ばざる所に時々眼を走らした。さうして天井から釣つた長い氷嚢の糸を?《しば／＼》見詰めた。其糸は冷たい袋と共に、胃の上でぴくり／＼と鋭どい脈を打つてゐた。

　　朝寒《あささむ》や生きたる骨を動かさず

　

　　　　　十九

　

　余は此の心持を何う形容すべきかに迷ふ。

　力を商《あきな》ひにする相撲《すまふ》が、四つに組んで、かつきり合つた時、土俵の眞中に立つ彼等の姿は、存外靜かに落ち付いてゐる。けれども其腹は一分と經《た》たないうちに恐るべき波を上下《じやうげ》に描《ゑが》かなければ已《や》まない。さうして熱さうな汗の球《たま》が幾條《いくすぢ》となく背中を流れ出す。

　最も安全に見える彼等の姿勢は、此波と此汗の辛うじて齎らす努力の結果である。靜かなのは相剋《あひこく》する血と骨の、僅に平均を得た象徴である。之を互殺《ごさつ》の和《わ》といふ。二三十秒の現状を維持するに、彼等が何《ど》れほどの氣魄《きはく》を消耗《せうかう》せねばならぬかを思ふとき、看る人は始めて殘酷の感を起すだらう。

　自活の計《はかりごと》に追はれる動物として、生を營む一點から見た人間は、正に此｜相撲《すまふ》の如く苦しいものである。吾等は平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の滿足を、吾等と吾等の妻子《さいし》とに與へんがために、此｜相撲《すまふ》に等しい程の緊張に甘んじて、日々《にち／＼》自己と世間との間に、互殺《ごさつ》の平和《へいわ》を見出《みいだ》さうと力《つと》めつゝある。戸外《そと》に出て笑ふわが顔を鏡に映すならば、さうして其笑ひの中《うち》に殺伐の氣に充ちた我を見出《みいだ》すならば、更に此笑ひに伴《ともな》ふ恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院《ゑかうゐん》のそれの樣に、一分足《いつぷんた》らずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生續かなければならないといふ苦しい事實に想ひ至るならば、我等は神經衰弱に陷《おちい》るべき極度に、わが精力を消耗《せうかう》するために、日に生き月に生きつゝあると迄言ひたくなる。

　かく單に自活自営の立場に立つて見渡した世の中は悉《こと／”＼》く敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社會は不正で人情のある敵である。もし彼對我の觀を極端に引延ばすならば、朋友もある意味に於て敵であるし、妻子《さいし》もある意味に於て敵である。さう思ふ自分さへ日に何度となく自分の敵になりつゝある。疲れても已《や》め得《え》ぬ戰ひを持續しながら、※［煢から冖を取る］然《けいぜん》として獨り其《その》間《あひだ》に老ゆるものは、見慘《みじめ》と評するより外に評しやうがない。

　古臭い愚癡《ぐち》を繰返すなといふ聲が頻りに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚癡を繰返すのは、しみ／”＼さう感じたから許《ばか》りではない、しみ／”＼さう感じた心持を、急に病氣が來て?覆《くつがへ》したからである。

　血を吐いた余は土俵の上に仆《たふ》れた相撲《すまふ》と同じ事であつた。自活のために戰ふ勇氣は無論、戰はねば死ぬといふ意識さへ持たなかつた。余はたゞ仰向けに寢て、纔《わづか》な呼吸《いき》を敢てしながら、怖《こは》い世間を遠くに見た。病氣が床の周圍《ぐるり》を屏風の樣に取り卷いて、寒い心を暖かにした。

　今迄は手を打たなければ、わが下女さへ顔を出さなかつた。人に頼まなければ用は辨じなかつた。いくら仕《し》ようと焦慮《あせ》つても、調《とゝの》はない事が多かつた。それが病氣になると、がらりと變つた。余は寢てゐた。黙つて寢てゐた丈《だけ》である。すると醫者が來た。社員が來た。妻《さい》が來た。仕舞には看護婦が二人來た。さうして悉《こと／”＼》く余の意志を働かさないうちに、ひとりでに來た。

　「安心して療養せよ」と云ふ電報が滿洲から、血を吐いた翌日に來た。思ひがけない知己や朋友が代る／”＼枕元に來た。あるものは鹿兒島から來た。あるものは山形から來た。又あるものは眼の前に逼《せま》る結婚を延期して來た。余は是等の人に、どうして來たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病氣を知つて來たと云つた。仰向《あふむけ》に寢た余は、天井を見詰めながら、世の人は皆自分より親切なものだと思つた。住《す》み惡《にく》いとのみ觀じた世界に忽ち暖かな風が吹いた。

　四十を越した男、自然に淘汰《たうた》せられんとした男、左《さ》したる過去を持たぬ男に、忙《いそが》しい世が、是程の手間《てま》と時間と親切を掛けてくれようとは夢にも待設けなかつた余は、病《やまひ》に生き還ると共に、心に生き還つた。余は病《やまひ》に謝した。又余のために是程の手間《てま》と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。さうして願はくは善良な人間になりたいと考へた。さうして此幸福な考へをわれに打壞《うちこは》す者を、永久の敵とすべく心に誓つた。

　　馬上青年老。鏡中白髪新。

　　幸生天子國。願作太平民。〔二十字右○〕

　

　　　　　二十

　

　ツルゲニエフ以上の藝術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつゝあるドストイエフスキーには、人の知る如く、小供の時分から癲癇《てんかん》の發作《ほつさ》があつた。われ等日本人は癲癇《てんかん》と聞くと、たゞ白い泡を連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾《やまひ》と稱《とな》へてゐた。此神聖なる疾《やまひ》に冒《を》かされる時、或は其少し前に、ドストイエフスキーは普通の人が大音樂を聞いて始めて到り得るやうな一種微妙の快感に支配されたさうである。それは自己と外界との圓滿に調和した境地で、丁度天體の端《はし》から、無限の空間に足を滑らして落ちるやうな心持だとか聞いた。

　「神聖なる疾《やまひ》」に罹《かゝ》つた事のない余は、不幸にして此年になるまで、さう云ふ趣《おもむき》に一瞬間も捕《とら》はれた記憶を有《も》たない。たゞ大吐血後五六日――經《た》つか經《た》たないうちに、時々一種の精神状態に陷《おちい》つた。それからは毎日の樣に同じ状態を繰り返した。遂には來ぬ先にそれを豫期する樣になつた。さうして自分とは縁の遠いドストイエフスキーの享けたと云ふ不可解の歡喜をひそかに想像して見た。それを想像するか思ひ出す程に、余の精神状態は尋常を飛び越えてゐたからである。ドクインセイの細《こま》かに書き殘した驚くべき阿片《あへん》の世界も余の連想に上《のぼ》つた。けれども讀者の心目《しんもく》を眩惑するに足る妖麗な彼の叙述が、鈍《にぶ》い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思ふと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭になつた。

　余は當時十分と續けて人と話をする煩《わづら》はしさを感じた。聲となつて耳に響く空氣の波が心に傳《つたは》つて、平らかな氣分をことさらに騷《ざわ》つかせるやうに覺えた。口を閉ぢて黄金《こがね》なりといふ古い言葉を思ひ出して、ただ仰向けに寐てゐた。難有《ありがた》い事に室《へや》の廂《ひさし》と、向ふの三階の屋根の間に、青い空が見えた。其空が秋の露に洗はれつゝ次第に高くなる時節であつた。余は黙つて此空を見詰めるのを日課の樣にした。何事もない、又何物もない此大空は、其靜かな影を傾むけて悉《こと／”＼》く余の心に映じた。さうして余の心にも何事もなかつた、又何物もなかつた。透明な二つのものがぴたりと合つた。合つて自分に殘るのは、縹渺とでも形容して可《よ》い氣分であつた。

　其内穩かな心の隅が、何時《いつ》か薄く暈《ぼか》されて、其所を照らす意識の色が微《かす》かになつた。すると、?イルに似た靄が輕く全面に向つて萬遍《まんべん》なく展《の》びて來た。さうして總體の意識が何處も彼處《かしこ》も稀薄になつた。それは普通の夢の樣に濃いものではなかつた。尋常の自覺の樣に混雜したものでもなかつた。又其中間に横《よこた》はる重い影でもなかつた。魂が身體を拔けると云つては既に語弊がある。靈が細かい神經の末端に迄行き亘つて、泥で出來た肉體の内部を、輕く清くすると共に、官能の實覺から杳《はる》かに遠からしめた状態であつた。余は余の周圍に何事が起りつゝあるかを自覺した。同時に其自覺が窈窕《えうてう》として地の臭《にほひ》を帶びぬ一種特別のものであると云ふ事を知つた。床《ゆか》の下に水が廻つて、自然と疊が浮き出すやうに、余の心は己《おのれ》の宿る身體と共に、蒲團から浮き上がつた。より適當に云へば、腰と肩と頭に觸れる堅い蒲團が何處かへ行つて仕舞つたのに、心と身體は元の位置に安く漂《ただよ》つて居た。発作前《ほつさぜん》に起るドストイエフスキーの歡喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭しても然るべき性質のものとか聞いてゐる。余のそれは左樣《さやう》に強烈のものではなかつた。寧ろ恍惚として幽《かす》かな趣《おもむき》を生活面の全部に輕くかつ深く印《いん》し去《さ》つたのみであつた。從つて余にはドストイエフスキーの受けた樣な憂欝性の反動が來なかつた。余は朝から?《しば／＼》此状態に入《い》つた。午過《ひるすぎ》にもよく此｜蕩漾《たうやう》を味《あぢは》つた。さうして覺めたときは何時《いつ》でも其樂しい記憶を抱《いだ》いて幸福の記念とした位であつた。

　ドストイエフスキーの享《う》け得《え》た境界《きやうがい》は、生理上彼の病《やまひ》の將《まさ》に至らんとする豫言である。生を半《なかば》に薄めた余の興致は、單に貧血の結果であつたらしい。

　　仰臥人如?。　黙然見大空。

　　大空雲不動。　終日杳相同。〔二十字右○〕

　

　　　　　二十一

　

　同じドストイエフスキーもまた死の門口《かどぐち》迄《まで》引《ひ》き摺《ず》られながら、辛《から》うじて後戻りをする事の出來た幸福な人である。けれども彼の命を危《あや》めにかゝつた災《わざはひ》は、余の場合に於けるが如き惡辣《あくらつ》な病氣ではなかつた。彼は人の手に作り上げられた法と云ふ器械の敵となつて、どんと心臓を打《う》ち貫《ぬ》かれやうとしたのである。

　彼は彼の倶樂部《くらぶ》で時事を談じた。已《や》むなくんば只｜一揆《いつき》あるのみと叫んだ。さうして囚《とら》はれた。八ケ月の長い間｜薄暗《うすくら》い獄舍の日光に浴したのち、彼は蒼空の下《もと》に引き出されて、新たに刑壇の上に立つた。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜に、襯衣《しやつ》一枚の裸姿《はだかすがた》となつて、申渡《まをしわたし》の終るのを待つた。さうして銃殺に處すの一句を突然として鼓膜に受けた。「本當に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍《かたはら》に立つ同囚《どうしう》に問ふた言葉である。……白い手帛《はんけち》を合圖に振つた。兵士は覘《ねらひ》を定めた銃口《つゝぐち》を下に伏せた。ドストイエフスキーは斯くして法律の捏《こ》ね丸《まる》めた熱い鉛《なまり》の丸《たま》を呑まずに濟んだのである。其代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。

　彼の心は生から死に行き、死から又生に戻つて、一時間と經《た》たぬうちに三たび鋭どい曲折を描《ゑが》いた。さうして其三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。其變化｜丈《だけ》でも驚くべき經驗である。生きつゝあると固く信ずるものが、突然是から五分のうちに死ななければならないと云ふ時、既に死ぬと極つてから、猶《なほ》餘る五分の命を提《ひつさ》げて、將《まさ》に來《きた》るべき死を迎へながら、四分、三分、二分と意識しつゝ進む時、更に突き當ると思つた死が、忽ちとんぼ返りを打つて、新たに生と名づけられる時、――余の如き神經質では此三｜象面《フエーゼス》の一つにすら堪へ得まいと思ふ。現にドストイエフスキーと運命を同じくした同囚の一人《いちにん》は、是がために其場で氣が狂つて仕舞つた。

　夫《それ》にも拘《かゝ》はらず、回復期に向つた余は、病牀《びやうしやう》の上に寐ながら、?《しばし》ばドストイエフスキーの事を考へた。ことに彼が死の宣告から蘇《よみが》へつた最後の一幕を眼に浮べた。――寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣《しやつ》一枚の儘顫へてゐる彼の姿、――悉《こと／”＼》く鮮やかな想像の鏡に映つた。獨り彼が死刑を免かれたと自覺し得た咄嗟《とつさ》の表情が、何うしても判然《はつきり》映らなかつた。しかも余はたゞ此咄嗟の表情が見たい許《ばかり》に、凡《すべ》ての畫面を組み立てゝて居たのである。

　余は自然の手に罹《かゝ》つて死なうとした。現に少しの間死んでゐた。後から當時の記憶を呼び起した上、猶《なほ》所々《ところ／”＼》の穴へ、妻《さい》から聞いた?末を埋《う》めて、始めて全く出來上る構圖を振り返つて見ると、所謂《いはゆる》慄然《りつぜん》と云ふ感じに打たれなければ已《や》まなかつた。其恐ろしさに比例して、九仞《きうじん》に失つた命を一簣《いつき》に取り留める嬉しさは又特別であつた。此死此生に伴《ともな》ふ恐ろしさと嬉しさが紙の裏表の如く重なつたため、余は連想上常にドストイエフスキーを思ひ出したのである。

　「もし最後の一節を缺いたなら、余は決して正氣ではゐられなかつたらう」と彼自身が物語つてゐる。氣が狂ふほどの緊張を幸ひに受けずと濟んだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料《はか》り得《え》ぬと云ふ方が寧ろ適當かも知れぬ。夫《それ》であればこそ、畫龍点睛《ぐわりゆうてんせい》とも云ふべき肝心の刹那の表情が、何う想像しても漠《ばく》として眼の前に描《ゑが》き出《だ》せないのだらう。運命の擒縱《きんしょう》を感ずる点に於て、ドストイエフスキーと余とは、殆ど詩と散文ほどの相違がある。　夫《それ》にも拘《かゝ》はらず、余は?《しばし》ばドストイエフスキーを想像して已《や》まなかつた。さうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣《しやつ》一枚で顫《ふる》へてゐる彼の姿とを、根氣よく描《ゑが》き去《さ》り描《ゑが》き來《きた》つて已《や》まなかつた。

　今は此想像の鏡も何時《いつ》となく曇つて來た。同時に、生き返つたわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかつて行く。あの嬉しさが始終わが傍《かたはら》にあるならば、――ドストイエフスキーは自己の幸福に對して、生涯感謝する事を忘れぬ人であつた。

　

　　　　　二十二

　

　余はうと／＼しながら何時《いつ》の間《ま》にか夢に入《い》つた。すると鯉の跳《は》ねる音で忽ち眼が覺めた。

　余が寐てゐる二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉が澤山に飼つてあつた。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしやりと水を打つ。晝のうちでも折々は耳に入つた。夜はことに甚《はなはだ》しい。隣りの部屋も、下の風呂場も、向うの三階も、裏の山もことごとく靜まり返つた眞中《まなか》に、余は絶えずこの音で眼を覺ました。　犬の眠りと云ふ英語を知つたのはいつの昔か忘れてしまつたが、犬の眠りと云ふ意味を實地に經驗したのはこの頃が始めてであつた。余は犬の眠りのために夜《よ》ごと惱まされた。ようやく寐ついてありがたいと思う間もなく、すぐ眼が開《あ》いて、まだ空は白まないだろうかと、幾度《いくたび》も曉《あかつき》を待《ま》ち佗《わ》びた。床《とこ》に縛《しば》りつけられた人の、しんとした夜半《よなか》に、ただ獨《ひと》り生きてゐる長さは存外な長さである。――鯉が勢《いきおい》よく水を切つた。自分の描いた波の上を叩《たた》く尾の音で、余は眼を覺ました。

　室《へや》の中は夕暮よりも猶《なほ》暗い光で照らされていた。天井から下がつてゐる電氣灯の珠《たま》は黒布《くろぬの》で隙間《すきま》なく掩《おい》がしてあつた。弱い光りはこの黒布の目を洩《も》れて、微《かす》かに八疊の室を射た。そうしてこの薄暗い灯影《ひかげ》に、眞白な着物を着た人間が二人｜坐《すわ》つていた。二人とも口を利《き》かなかつた。二人とも動かなかつた。二人とも膝《ひざ》の上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじつとしていた。

　黒い布で包んだ球を見たとき、余は紗《しや》で金箔《きんぱく》を卷いた弔旗《ちょうき》の頭を思い出した。この喪章《もしょう》と關係のある球の中から出る光線によつて、薄く照らされた白衣《はくい》の看護婦は、靜かなる點において、行儀の好い點において、幽靈の雛《ひな》のように見えた。そうしてその雛は必要のあるたびに無言のまま必ず動いた。

　余は聲も出さなかつた。呼びもしなかつた。それでも余の寐てゐる位置に、少しの變化さえあれば彼等はきつと動いた。手を毛布《けつと》のうちで、もじつかせても、心持肩を右から左へ搖《ゆす》つても、頭を――頭は眼が覺《さ》めるたびに必ず麻痺《しび》れていた。あるいは麻痺れるので眼が覺めるのかも知れなかつた。――その頭を枕の上で一寸《いつすん》摺《ず》らしても、あるいは足――足はよく寐覺《ねざ》めの種となつた。平生《ふだん》の癖で時々、片方《かたかた》を片方の上へ重ねて、そのままとろとろとなると、下になつた方の骨が沢庵石《たくわんいし》でも載せられたように、みしみしと痛んで眼が覺めた。そうして余は必ず強い痛さと重たさとを忍んで足の位置を變えなければならなかつた。――これらのあらゆる場合に、わが變化に応じて、白い着物の動かない事はけつしてなかつた。時にはわが動作を予期して、向うから動くと思われる場合もあつた。時には手も足も頭も動かさないのに、眠りが尽きてふと眼を開けさえすれば、白い着物はすぐ顔の傍《そば》へ來た。余には白い着物を着てゐる女の心持が少しも分らなかつた。けれども白い着物を着てゐる女は余の心を善《よ》く悟つた。そうして影の形に隨《したが》うごとくに變化した。響の物に応ずるごとくに働らいた。黒い布《ぬの》の目から洩《も》れる薄暗い光の下《もと》に、眞白な着物を着た女が、わが肉体の先《せん》を越して、ひそひそと、しかも規則正しく、わが心のままに動くのは恐ろしいものであつた。

　余はこの氣味の惡い心持を抱いて、眼を開けると共に、ぼんやり眸《ひとみ》に映る室《へや》の天井を眺めた。そうして黒い布で包んだ電氣灯の珠《たま》と、その黒い布の織目から洩れてくる光に照らされた白い着物を着た女を見た。見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいて來た。

　　秋風鳴萬木。　山雨撼高樓。

　　病骨稜如劍。　一燈青欲愁。〔二十字右○〕

　　　　　二十三

　

　余は好意の干乾《ひから》びた社會に存在する自分を甚だぎごちなく感じた。

　人が自分に對して相應の義務を盡くして呉れるのは無論｜有難《ありがた》い。けれども義務とは仕事に忠實なる意味で、人間を相手に取つた言葉でも何でもない。從つて義務の結果に浴する自分は、有難《ありがた》いと思ひながらも、義務を果した先方に向つて、感謝の念を起《おこ》し惡《にく》い。夫《それ》が好意となると、相手の所作《しよさ》が一擧一動｜悉《こと／”＼》く自分を目的にして働いてくるので、活物《いきもの》の自分に其一擧一動が悉《こと／”＼》く應《こた》へる。其所に互を繋ぐ暖い糸があつて、器械的な世を頼母《たのも》しく思はせる。電車に乘つて一區を瞬《またゝ》く間《ま》に走るよりも、人の背に負はれて淺瀬を越した方が情《なさけ》が深い。

　義務さへ素直《すなほ》》には盡くして呉れる人のない世の中に、又自分の義務さへ碌《ろく》に盡くしもしない世の中に、斯《こ》んな贅澤《ぜいたく》を並べるのは過分である。さうとは知りながら余は好意の干乾《ひから》びた社會に存在する自分を切《せつ》にぎごちなく感じた。――或る人の書いたものゝ中に、余りせち辛《がら》い世間だから、自用車《じようしや》を節儉する格で、當分良心を質に入れたとあつたが、質に入れるのは固《もと》より一時の融通を計る便宜に過ぎない。今の大多數は質に置くべき好意さへ天《てん》で持つて居るものが少なさうに見えた。如何《いか》に工面が付いても受出さうとは思へなかつた。とは悟りながら矢張り好意の干乾《ひから》びた社會に存在する自分をぎごちなく感じた。

　今の青年は、筆を執つても、口を開《あ》いても、身を動かしても、悉《こと／”＼》く「自我の主張」を根本義にしてゐる。夫《それ》程《ほど》世の中は切り詰められたのである。夫《それ》程《ほど》世の中は今の青年を虐待してゐるのである。「自我の主張」を正面から承《うけたまは》れば、小憎《こにくら》しい申《まを》し分《ぶん》が多い。けれども彼等をして此「自我の主張」を敢てして憚《はゞ》かる所なき迄に押し詰めたものは今の世間である。ことに今の經濟事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊《くゝ》つたり身を投げたりすると同程度に悲慘な煩悶が含まれてゐる。ニーチエは弱い男であつた。多病な人であつた。又孤獨な書生であつた。さうしてザラツストラは斯《かく》の如《ごと》く叫んだのである。

　斯うは解釋する樣なものゝ、依然として余は常に好意の干乾《ひから》びた社會に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向つてぎごちなく振舞ひつゝあるにも拘《かゝ》はらず、自《みづか》らぎごちなく感じた。さうして病《やまひ》に罹《かゝ》つた。さうして病の重い間、此ぎごちなさを何處へか忘れた。

　看護婦は五十グラムの粥《かゆ》をコツプの中に入れて、それを鯛味噌と混《ま》ぜ合《あ》はして、一匙《ひとさじ》づつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か烏の子の樣な心持がした。醫師は病の遠ざかるに連れて、殆んど五日目位｜毎《ごと》に、余のために食事の獻立表《こんだてへう》を作つた。ある時は三通りも四通りも作つて、夫《それ》を比較して一番病人に好ささうなものを撰んで、あとは夫《それ》限《ぎり》反故《ほご》にした。

　醫師は職業である。看護婦も職業である。禮も取れば、報酬も受ける。たゞで世話をして居ない事は勿論である。彼等を以て、單に金錢を得るが故に、其義務に忠實なるのみと解釋すれば、まことに器械的で、實《み》も葢《ふた》もない話である。けれども彼等の義務の中《うち》に、半分の好意を溶《と》き込《こ》んで、それを病人の眼から透《す》かして見たら、彼等の所作《しょさ》がどれ程｜尊《たつ》とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一點の好意によつて、急に生きて來るからである。余は當時さう解釋して獨りで嬉しかつた。さう解釋された醫師や看護婦も嬉しからうと思ふ。

　子供と違つて大人《たいじん》は、なまじい一つの物を十筋《とすぢ》二十筋の文《あや》から出來た樣に見窮《みきは》める力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情を恣《ほしい》ままに吸収する場合が極《きは》めて少ない。本當に嬉しかつた、本當に難有《ありがた》かつた、本當に尊《たつと》かつたと、生涯に何度思へるか、勘定すれば幾何《いくばく》もない。たとひ純潔でなくても、自分に活力を添へた當時の此感情を、余は其儘長く余の心臓の眞中《まんなか》に保存したいと願つてゐる。さうして此感情が遠からず單に一片《いつぺん》の記憶と變化して仕舞さうなのを切《せつ》に恐れてゐる。――好意の干乾《ひから》びた社會に存在する自分を甚だぎごちなく感ずるからである。

　　天下自多事。　被吹天下風。　高秋悲鬢白。

　　衰病夢顔紅。　送鳥天無盡。　看雲道不窮。

　　殘存吾骨貴。　愼勿妄磨?。〔四十字右○〕

　

　　　　　二十四

　

　小供のとき家に五六十幅の畫《ゑ》があつた。ある時は床の間の前で、ある時は藏の中で、又ある時は虫干《むしぼし》の折に、余は交《かは》る／”＼それを見た。さうして懸物《かけもの》の前に獨り蹲踞《うづく》まつて、黙然と時を過すのを樂《たのしみ》とした。今でも玩具箱《おもちやばこ》を引繰《ひつく》り返《かへ》した樣に色彩の亂調な芝居を見るよりも、自分の氣に入つた畫《ゑ》に對して居る方が遙かに心持が好い。

　畫《ゑ》のうちでは彩色《さいしき》を使つた南畫《なんぐわ》が一番面白かつた。惜しい事に余の家の藏幅《ざうふく》には其南畫が少なかつた。子供の事だから畫の巧拙などは無論分らう筈はなかつた。好き嫌ひと云つたところで、構圖の上に自分の氣に入つた天然の色と形が表はれてゐれば夫《それ》で嬉しかつたのである。

　鑑識上の修養を積む機會を有《も》たなかつた余の趣味は、其後別段に新らしい變化を受けないで生長した。從つて山水によつて畫を愛するの弊《へい》はあつたらうが、名前によつて畫を論ずるの譏《そし》りも犯《をか》さずに濟んだ。丁度畫と前後して余の嗜好に上《のぼ》つた詩と同じく、如何《いか》な大家の筆になつたものでも、如何《いか》に時代を食つたものでも、自分の氣に入らないものは一向《いつかう》顧みる義理を感じなかつた。（余は漢詩の内容を三分して、いたく其一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしてゐる。殘る三分の一に對しては、好むべきか惡《にく》むべきか何《いづ》れとも意見を有してゐない。）

　或時、青くて丸い山を向ふに控えた、又｜的?《てきれき》と春に照る梅を庭に植へた、又｜柴門《さいもん》の眞前《まんまへ》を流れる小河を、垣に沿ふて緩《ゆる》く繞《めぐ》らした、家を見て――無論｜畫絹《ゑぎぬ》の上に――何うか生涯に一遍で好いから斯《こ》んな所に住んで見たいと、傍《そば》にゐる友人に語つた。友人は余の眞面目な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どの位不便なものだか知つてゐるかと左《さ》も氣の毒さうに云つた。此友人は岩手《いはて》のものであつた。余は成程と始めて自分の迂濶《うくわつ》を愧《は》づると共に、余の風流心に泥を塗つた友人の實際的なのを惡《にく》んだ。

　それは二十四五年も前の事であつた。其二十四五年の間に、余も已《やむ》を得《え》ず岩手出身の友人の樣に次第に實際的になつた。崖《がけ》を降りて溪川《たにがは》へ水を汲みに行くよりも、臺所へ水道を引く方が好くなつた。けれども南畫に似た心持は時々夢を襲つた。ことに病氣になつて仰向《あふむけ》に寐てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。

　すると小宮君が歌麿《うたまろ》の錦繪《にしきゑ》を葉書に刷つたのを送つて呉れた。余は其｜色合《いろあひ》の長い間に自《おのづ》と寂《さ》びたくすみ方に見惚《みと》れて、眼を放さずそれを眺めてゐたが、不圖《ふと》裏を返すと、私はこの畫の中にある樣な人間に生れたいとか何とか、當時の自分の情調とは似ても似付かぬ事が書いてあつたので、斯《こ》んなやにつこい色男《いろをとこ》は大嫌だ、おれは暖かな秋の色と其色の中から出る自然の香《か》が好きだと答へて呉れと傍《はた》のものに頼んだ。所が今度は小宮君が自身で枕元へ坐つて、自然も好いが人間の背景にある自然でなくつちやとか何とか病人に向つて古臭い説を吐《は》き掛《か》けるので、余は小宮君を捕《つらま》へて御前は青二才《あをにさい》だと罵つた。――其《それ》位《くらゐ》病中の余は自然を懷《なつ》かしく思つてゐた。

　空が空の底に沈み切つた樣に澄んだ。高い日が蒼い所を目の屆くかぎり照らした。余は其｜射返《いかへ》しの大地に洽《あま》ねき内にしんとして獨《ひと》り温《ぬく》もつた。さうして眼の前に群がる無數の赤蜻蛉《あかとんぼ》を見た。さうして日記に書いた。――「人よりも空、語《ご》よりも黙《もく》。……肩に來て人｜懷《なつ》かしや赤蜻蛉《あかとんぼ》」

　是は東京へ帰つた以後の景色《けしき》である。東京へ帰つたあとも暫らくは、絶えず美くしい自然の畫が、子供の時と同じ樣に、余を支配してゐたのである。

　　秋露下南?。　黄花粲照顔。

　　欲行沿澗遠。　却得与雲還。〔二十字右○〕

　

　　　　　二十五

　

　子供が來たから見てやれと妻《さい》が耳の傍《そば》へ口を着けて云ふ。身體を動かす力がないので余は元の姿勢のまゝ唯《たゞ》視線｜丈《だけ》を其方に移すと、子供は枕を去る六尺程の所に坐つてゐた。

　余の寐てゐる八疊に付いた床の間は、余の足の方にあつた。余の枕元は隣の間を仕切る襖《ふすま》で半《なかば》塞いであつた。余は左右に開かれた襖の間から敷居越しに余の子供を見たのである。

　頭の上の方にゐるものを室《へや》を隔てゝ見る視力が、不自然な努力を要するためか、其處に坐つてゐる子供の姿は存外遠方に見えた。無理な一瞥の下《もと》に余の眸に映つた顔は、逢ふたと記すよりも寧ろ眺めたと書く方が適當な位離れてゐた。余は此一瞥より外《ほか》に復《また》子供の影を見なかつた。余の眸《ひとみ》はすぐと自然の角度に復した。けれども余は此一瞥の短きうちに凡《すべ》てを見た。

　子供は三人ゐた。十二から十《とを》、十から八つと順に一列になつて隣座敷の眞中に並ばされてゐた。さうして三人ともに女であつた。彼等は未來の健康のため、一夏《ひとなつ》を茅《ち》が崎《さき》に過すべく、父母《ふぼ》から命ぜられて、兄弟五人で昨日《きのふ》迄《まで》海邊《うみべ》を驅け廻つてゐたのである。父が危篤の報知によつて、親戚のものに伴《つ》れられて、わざ／＼砂深い小松原を引き上げて、修善寺《しゆぜんじ》迄見舞に來たのである。

　けれども危篤の何を意味してゐるかを知るには彼らは餘り小《ち》さ過《す》ぎた。彼等は死と云ふ名前を覺えてゐた。けれども死の恐ろしさと怖《こは》さとは、彼等の若い額《ひたひ》の奧に、未だ甞て影さへ宿さなかつた。死に捕《とら》へられた父の身體が、是から何う變化するか彼等には想像が出來なかつた。父が死んだあとで自分等の運命に何《ど》んな結果が來るか、彼等には無論考へ得られなかつた。彼等はたゞ人に伴《ともな》はれて父の病氣を見舞ふべく、父の旅先迄汽車に乘つて來たのである。

　彼等の顔には此會見が最後かも知れぬと云ふ愁《うれひ》の表情が丸《まる》でなかつた。彼等は親子の哀別以上に無邪氣な顔を有《も》つてゐた。さうして色々人のゐる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、嚴肅な空氣に凝《じつ》と行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じてゐるらしく思はれた。

　余はたゞ一瞥の努力に彼等を見た丈《だけ》であつた。さうして病《やまひ》を解し得ぬ可憐な小《ち》さいものを、わざ／＼遠く迄引張り出して、殊勝《しゆしよう》に枕元に坐らせて置くのを却つて殘酷に思つた。妻《さい》を呼んで、折角來たものだから、其處《そこ》い等《ら》を見物させて遣れと命じた。もし其時の余に、或《あるひ》は是が親子の見納めになるかも知れないと云ふ懸念があつたならば、余はもう少ししみ／”＼彼等の姿を見守つたかも知れなかつた。然し余は醫師や傍《はた》のものが余に對して抱《いだ》いてゐた樣な危險を余の病の上に自《みづか》ら感じていなかつたのである。

　子供はぢきに東京へ歸つた。一週間程してから、彼等は各々《めい／＼》に見舞状を書いて、それを一つ封に入れて、余の宿に屆けた。十二になる筆子《ふでこ》のは、四角な字を入れた整はない※［候の草書］文《さふらふぶん》で、「御祖母樣《おばゞさま》が雨がふつても風がふいても毎日々々一日もかゝさず御しやか樣へ御詣《おまゐり》を遊ばす御百度《おひやくど》をなされ御父樣《おとうさま》の御病氣一日も早く御全快を祈り遊ばされ又高田の御伯母樣《おんをばさま》何處かの御宮へか御詣り遊ばすとのことに御座※［候の草書］《ござさふらふ》ふさ、きよみ、むめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかへ花を差し上げて早く御父樣《おとうさま》の全快を御祈りに居り※［候の草書］《さふらふ》」とあつた。十《とを》になる恒子《つねこ》のは尋常であつた。八《やつ》になるえい子のは全く片假名｜丈《だけ》で書いてあつた。字を埋《う》めて讀み易くすると、「御父樣の御病氣は如何《いかゞ》で御座いますか、私は無事に暮して居りますから御安心なさいませ。御父樣も私の事を思はずに御病氣を早く直して早く御歸りなさいませ。私は毎日休まずに學校へ行つて居ります。又御母樣によろしく」と云ふのである。

　余は日記の一｜頁《ページ》を寐ながら割《さ》いて、それに、留守の中《うち》は大人《おとな》しく御祖母樣《おばゞさま》の云ふ事を聞かなくては不可《いけ》ない、今に序《ついで》のあつた時｜修善寺《しゆぜんじ》の御土産《おみやげ》を屆けてやるからと書いて、すぐ郵便で妻《さい》に出さした。子供は余が東京へ歸つてからも、平氣で遊んでゐる。修善寺の土産《みやげ》はもう壞して仕舞つたらう。彼等が大きくなつたとき父の此文を讀む機會がもしあつたなら、彼等は果して何《ど》んな感じがするだらう。　　傷心秋已到。　嘔血骨猶存。

　　病起期何日。　夕陽還一村。〔二十字右○〕

　

　　　　　二十六

　

　五十グラムと云ふと日本の二勺半にしか當らない。たゞ夫《それ》丈《だけ》の飲料で、此身體を終日｜持《も》ち應《こた》へてゐたかと思へば、自分ながら氣の毒でもあるし、可愛《かはい》らしくもある。又馬鹿らしくもある。

　余は五十グラムの葛湯《くずゆ》を恭《うやう》やしく飲んだ。さうして左右の腕に朝夕《あさゆふ》二回｜宛《づゝ》の注射を受けた。腕は兩方とも針の痕《あと》で埋《う》まつてゐた。醫師は余に今日は何方《どつち》の腕にするかと聞いた。余は何方《どつち》にもしたくなかつた。藥液を皿に溶いたり、夫《それ》を注射器に吸ひ込ましたり、針を丁寧に拭《ぬぐ》つたり、針の先に泡の樣に細《こま》かい藥を吹かして眺めたりする注射の準備は甚だ物奇麗《ものぎれい》で心持が好いけれども、其針を腕にぐさと刺して、其所へ無理に藥を注射するのは不愉快で堪《たま》らなかつた。余は醫師に全體其｜鳶色《とびいろ》の液は何だと聞いた。森成《もりなり》さんはブンベルンとかブンメルンとか答へて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。

　やがて日に二回の注射が一回に減じた。其一回も亦しばらくすると廢《や》めになつた。さうして葛湯《くずゆ》の分量が少しづゝ増して來た。同時に口の中が執拗《しふね》く粘《ねば》り始《はじ》めた。爽《さはや》かな飲料で絶えず舌と顋《あご》と咽喉《のど》を洗つてゐなくては居たゝまれなかつた。余は醫師に氷を請求した。醫師は固い片《かけ》らが滑つて胃の腑に落ち込む危險を恐れた。余は天井を眺めながら、腹膜炎を患《わづ》らつた廿歳《はたち》の昔を思ひ出した。其時は病氣に障るとかで、凡《すべ》ての飲物を禁ぜられてゐた。たゞ冷水で含嗽《うがひ》をする丈《だけ》の自由を醫師から得たので、余は一時間のうちに、何度となく含嗽《うがひ》をさせて貰つた。さうして其つど人に知れない樣に、そつと含嗽《うがひ》の水を幾分かづゝ胃の中に飲み下して、やつと熬《い》り付《つ》く樣な渇《かわき》を紛《まぎ》らしてゐた。

　昔の計《はかりごと》を繰り返す勇氣のなかつた余は、口中《こうちゅう》を潤《うるほ》すための氷を齒で噛み碎いては、正直に殘らず吐き出した。其代り日に數回｜平野水《ひらのすゐ》を一口づゝ飲まして貰ふ事にした。平野水がくんくんと音を立てる樣な勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であつた。けれども咽喉を通り越すや否やすぐと又飲みたくなつた。余は夜半《よなか》に?《しばし》ば看護婦から平野水を洋盃《こつぷ》に注《つ》いで貰つて、それを有難《ありがた》さうに飲んだ當時を能《よ》く記憶してゐる。

　渇《かつ》は次第に歇《や》んだ。さうして渇《かつ》よりも恐ろしい餓《ひも》じさが腹の中を荒して歩く樣になつた。余は寐ながら美くしい食膳を何通《なんとほ》りとなく想像で拵らえて、それを眼の前に並べて樂んでゐた。夫《それ》許《ばかり》ではない、同じ獻立を何人前も調《とゝの》へて置いて、多數の朋友にそれを想像で食はして喜こんだ。今考へると普通のものゝ嬉しがる樣な食物《くひもの》はちつともなかつた。斯う云ふ自分にすら餘り有難《ありがた》くはない御膳《ごぜん》ばかりを眼の前に浮べてゐたのである。

　森成さんがもう葛湯《くずゆ》も厭《あ》きたらうと云つて、わざ／＼東京から米を取り寄せて重湯《おもゆ》を作つて呉れた時は、重湯《おもゆ》を生れて始めて啜《すゝ》る余には大いな期待があつた。けれども一口飲んで始めて其｜不味《まづ》いのに驚ろいた余は、夫《それ》限《ぎ》り重湯といふものを近づけなかつた。其代りカジノビスケツトを一片《ひときれ》貰つた折の嬉しさは未だに忘れられない。わざ／＼看護婦を醫師の室《へや》まで遣《や》つて、特に禮を述べた位である。

　やがて粥《かゆ》を許された。其旨さはたゞの記憶となつて冷やかに殘つてゐる丈《だけ》だから實感としては今思ひ出せないが、斯《こ》んな旨いものが世にあるかと疑ひつゝ舌を鳴らしたのは確かである。夫《それ》からオートミールが來た。ソーダビスケツトが來た。余は凡《すべ》てを有難《ありがた》く食つた。さうして、より多く食ひたいと云ふ事を日課の樣に繰り返して森成さんに訴へた。森成さんは仕舞に余の病床に近づくのを恐れた。東君《ひがしくん》はわざ／＼妻《さい》の所へ行つて、先生はあんな尤もな顔をしてゐる癖に、子供の樣に始終｜食物《くひもの》の話ばかりしてゐて可笑《をか》しいと告げた。

　　腸《はらわた》に春｜滴《したゝ》るや粥《かゆ》の味

　

　　　　　二十七

　

　オイツケンは精神生活と云ふ事を眞向《まむき》に主張する學者である。學者の習慣として、自己の説を唱《とな》ふる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼の所謂《いはゆる》精神生活を新たならしむるため、其用意として、現代生活に影響を與ふる在來からの處生上の主義に一も二もなく非難を加へた。自然主義も遣られる、社會主義も叩かれる。凡《すべ》ての主義が彼の眼から見て存在の權利を失つたかの如くに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字を拈出《ねんしゅつ》した。さうして精神生活の特色は自由である、自由であると連呼《れんこ》した。

　試みに彼に向つて自由なる精神生活とは何《ど》んな生活かと問へば、端的《たんてき》に斯《こ》んなものだとは決して答へない。たゞ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。六づかしさうな理窟を蜿蜒《ゑんえん》と幾重《いくへ》にも重ねて行く。そこに學者らしい手際《てぎは》はあるかも知れないが、とぐろの中に卷き込まれる素人《しろうと》は茫然《ぼんやり》して仕舞ふ丈《だけ》である。

　しばらく哲學者の言葉を平民に解る樣に翻譯して見ると、オイツケンの所謂《いはゆる》自由なる精神生活とは、斯《こ》んなものではなからうか。――我々は普通衣食の爲に働らいてゐる。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好惡《かうを》撰擇を許さない強制的の苦しみを含んでゐる。さう云ふ風に外《ほか》から壓《お》し付《つ》けられた仕事では精神生活とは名づけられない。苟《いや》しくも精神的に生活しやうと思ふなら、義務なき所に向つて自《みづか》ら進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、己《おの》れ一個の意志で自由に營む生活でなければならない。

　斯う解釋した時、誰も彼の精神生活を評して詰らないとは云ふまい。コムトは倦怠《アンニユイ》を以て社會の進歩を促《うな》がす原因と見た位である。倦怠《アンニユイ》の極｜已《やむ》を得《え》ずして仕事を見付け出すよりも、内に抑えがたき或るものが蟠《わだか》まつて、凝《じつ》と持《も》ち應《こた》へられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出《べうしゆつ》し來《きた》る方が實際｜實《み》の入《い》つた生《い》き法《かた》と云はなければなるまい。舞踏でも音樂でも詩歌《しいか》でも、凡《すべ》て芸術の價値は茲《こゝ》に存してゐると評しても差支ない。

　けれども學者オイツケンの頭の中で纒め上げた精神生活が、現に事實となつて世の中に存在し得るや否やに至つては自《おのづ》から別問題である。彼オイツケン自身が純一無雜に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても分明《ぶんみやう》な話ではないか。間斷なき此種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早く既に職業なき閑人として存在しなければならない筈である。

　豆腐屋が氣に向ゐた朝｜丈《だけ》石臼を回して、心の機《はず》まないときは決して豆を挽《ひ》かなかつたなら商買《しやうばい》にはならない。更に進んで、己《おの》れの好いた人｜丈《だけ》に豆腐を賣つて、いけ好かない客を悉《こと／”＼》く謝絶したら猶《なほ》の事《こと》商買《しやうばい》にはならない。凡《すべ》ての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯《ともし》を點《つ》けなければならない。公平と云ふ美しさうな�ｺ義上の言葉を裏から言ひ直すと、器械的と云ふ醜い本體を有してゐるに過ぎない。一分《いつぷん》の遲速なく發着する汽車の生活と、所謂《いはゆる》精神的生活とは、正に兩極に位する性質のものでなければならない。さうして普通の人は十が十迄此兩端を七分三分《しちぶさんぶ》とか六分四分《ろくぶしぶ》とかに交《ま》ぜ合《あ》はして自己に便宜な樣に又世間に都合の好い樣に（即ち職業に忠實なる樣に）生活すべく天《てん》から餘儀なくされてゐる。是が常態である。たま／＼藝術の好きなものが、好きな藝術を職業とする樣な場合ですら、其藝術が職業となる瞬間に於て、眞の精神生活は既に汚《けが》されて仕舞ふのは當然である。藝術家としての彼は己《おの》れに篤き作品を自然の氣乘りで作り上げやうとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、賣高《うれだか》の多いものを公《おほや》けにしなくてはならぬからである。　既に個人の性格及び教育次第で融通の利かなくなりさうなオイツケンの所謂《いはゆる》自由なる精神生活は、現今の社會組織の上から見ても、是程應用の範圍の狹いものになる。それを一般に行《ゆ》き亘《わた》つて實行の出來る大主義の如くに説き去る彼は、學者の通弊として統一病に罹《かゝ》つたのだと酷評を加えても可《よ》いが、たま／＼文藝を好んで文藝を職業としながら、同時に職業としての文藝を忌《い》んでゐる余の如きものの注意を呼び起して、其批評心を刺戟する力は充分ある。大患に罹《かゝ》つた余は、親の厄介になつた子供の時以來｜久振《ひさしぶり》で始めて此精神生活の光に浴した。けれどもそれは僅か一二ケ月の中であつた。病《やまひ》が癒《なほ》るに伴《つ》れ、自己が次第に實世間に押し出されるに伴《つ》れ、斯う云ふ議論を公けにして得意なオイツケンを羨やまずには居られなくなつて來た。

　

　　　　　二十八

　

　學校を出た當時小石川のある寺に下宿をしてゐた事がある。其處の和尚《をしやう》は内職に身の上判斷をやるので、薄暗い玄關の次の間に、算木《さんぎ》と筮竹《ぜいちく》を見るのが常であつた。固《もと》より看板を懸けての公表《おもてむき》な商買《しやうばい》でなかつた所爲《せゐ》か、占《うらなひ》を頼《たのみ》に來るものは多くて日に四五人、少ない時は丸《まる》で筮竹《ぜいちく》を揉《も》む音さへ聞えない夜もあつた。易斷《えきだん》に重きを置かない余は、固《もと》より斯《こ》の道に於て和尚と無縁の姿であつたから、たゞ折々｜襖越《ふすまご》しに、和尚の、夫《そり》や當人の望み通りにした方が好うがすな抔《など》と云ふ縁談に關する助言《じよごん》を耳に挾《さしは》さむ位なもので、面と向き合つては互に何も語らずに久しく過ぎた。

　或時何かの序《ついで》に、話がつい人相とか方位とか云ふ和尚の繩張り内に摺《ず》り込《こ》んだので、冗談半分｜私《わたし》の未來は何うでせうと聞いて見たら、和尚は眼を据ゑて余の顔を凝《じつ》と眺めた後《あと》で、大して惡い事もありませんなと答へた。大して惡い事もないと云ふのは、大して好い事もないと云つたも同然で、即ち御前の運命は平凡だと宣告した樣なものである。余は仕方がないから黙つてゐた。すると和尚が、貴方《あなた》は親の死目には逢へませんねと云つた。余はさうですかと答へた。すると今度は貴方は西へ西へと行く相があると云つた。余は又｜左樣《さう》ですかと答へた。最後に和尚は、早く顋《あご》の下へ髯を生やして、地面を買つて居宅《うち》を御建てなさいと勸めた。余は地面を買つて居宅《うち》を建て得る身分なら何も君の所に厄介になつちや居ないと答へたかつた。けれども顋《あご》の下の髯と、地面｜居宅《やしき》とは何《ど》んな關係があるか知りたかつたので、それ丈《だけ》一寸聞き返して見た。すると和尚は眞面目な顔をして、貴方の顔を半分に割ると上の方が長くつて、下の方が短か過ぎる。從つて落ち付かない。だから早く顋髯《あごひげ》を生やして上下《うへした》の釣合《つりあひ》を取る樣にすれば、顔の居坐りが可《よ》くなつて動かなくなりますと答へた。余は余の顔の雜作《ざふさく》に向つて加へられた此物理的もしくは美學的の批判が、優に余の未來の運命を支配するかの如く容易に説き去つた和尚を少し可笑《をか》しく感じた。さうして成程と答へた。

　一年ならずして余は松山に行つた。それから又熊本に移つた。熊本から又｜倫敦《ロンドン》に向つた。和尚の云つた通り西へ西へと赴《おもむ》いたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。其時は同じ東京に居りながら、つい臨終の席には侍《はんべ》らなかつた。父の死んだ電報を東京から受け取つたのは、熊本に居る頃の事であつた。是で見ると、親の死目に逢へないと云つた和尚の言葉も何うか斯うか的中してゐる。たゞ顋の髯に至つては其時から今日《こんにち》に至る迄、寧日《ねいじつ》なく剃《そ》り續けに剃つてゐるから、地面と居宅《やしき》が果して髯と共にわが手に入《い》るか何うか未《いま》だに判然《はんぜん》せずにゐた。

　所が修善寺《しゆぜんじ》で病氣をして寐付くや否や、頬がざら／＼し始めた。それが五六日すると一本々々に撮《つま》める樣になつた。又しばらくすると、頬から顋が隙間なく隱れる樣になつた。和尚の助言《じよごん》は十七八年振で始めて役に立ちさうな氣色《けしき》に髯は延びて來た。妻《さい》は一層《いつそ》御生《おは》やしなすつたら好いでせうと云つた。余も半分其氣になつて、頻りに其邊を撫で廻してゐた。所が幾日《いくか》となく洗ひも櫛《くしけ》づりもしない髪が、膏《あぶら》と垢《あか》で余の頭を埋《うづ》め盡《つ》くさうとする汚苦《むさくる》しさに堪へられなくなつて、或日床屋を呼んで、不充分ながら寐たまゝ頭に手を入れて顔に髪剃を當てた。其時地面と居宅《やしき》の持主たるべき資格を又奇麗に失つて仕舞つた。傍《はた》のものは若くなつた／＼と云つて頻りに囃《はや》し立《た》てた。獨り妻《さい》丈《だけ》はおや悉皆《すつかり》剃《す》つて御仕舞になつたんですかと云つて、少し殘り惜しさうな顔をした。妻《さい》は夫《をつと》の病氣が本復した上にも、猶《なほ》地面と居宅《やしき》が欲しかつたのである。余と雖《いへど》も、髯を落さなければ地面と居宅《やしき》が屹度《きつと》手に入《い》ると保證されるならば、あの顋《あご》は其儘に保存して置いた筈である。

　其《その》後《ご》髯は始終｜剃《そ》つた。朝早く床の上に起き直つて、向ふの三階の屋根と吾《わが》室《へや》の障子の間に僅かばかり見える山の頂《いたゞき》を眺めるたびに、わが頬の潔《いさぎ》よく剃り落してある滑《なめ》らかさを撫で廻しては嬉しがつた。地面と居宅《やしき》は當分斷念したか、又は老後の樂しみにあと／＼迄取つて置く積《つもり》だつたと見える。

　　客夢回時一鳥鳴。　夜來山雨曉來晴。

　　孤峯頂上孤松色。　早映紅暾欝々明。〔二十八字右○〕

　

　　　　　二十九

　

　修善寺《しゆぜんじ》が村の名で兼《かね》て寺の名であると云ふ事は、行かぬ前から疾《とく》に承知してゐた。然し其寺で鐘の代りに太鼓を叩かうとは甞《かつ》て想ひ至らなかつた。それを始めて聞いたのは何時《いつ》の頃であつたか全く忘れて仕舞つた。たゞ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病氣を憶ひ出す。

　余は去年の病氣と共に、新らしい天井と、新らしい床の間にかけた大島將軍の從軍の詩を憶ひ出す。さうして其詩を朝から晩迄に何遍となく讀み返した當時を明らさまに憶ひ出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎて開閉《あけたて》の不自由な障子は、今でも眼の前にあり／＼と浮べる事が出來るが、朝から晩迄に何遍となく讀み返した大島將軍の詩は、讀んでは忘れ、讀んでは忘れして、今では白壁《しらかべ》の樣に白い絹の上を、何處迄も同じ幅で走つて、尾頭《をかしら》ともにぷつりと折れて仕舞ふ黒い線を認める丈《だけ》である。句に至つては、始めの劍戟《けんげき》といふ二字より外《ほか》憶ひ出せない。

　余は余の鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと響く度に、凡《すべ》て是等のものを憶ひ出す。是等のものゝ中に、凝《じつ》と仰向《あふむ》いて、尻の痛さを紛らしつゝ、のつそつ夜明を待ち佗びた其當時を回顧すると、修禅寺《しゆぜんじ》の太鼓の音《ね》は、一種云ふべからざる連想を以て、何時《いつ》でも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。

　其太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間｜丈《だけ》を、自暴《やけ》に夜陰に向つて擲《たゝ》きつける樣に、ぶつきら棒な鳴り方をした。さうして、一つどんと素氣《そつけ》なく鳴ると共にぱたりと留つた。余は耳を峙《そば》だてた。一度靜まつた夜の空氣は容易に動かうとはしなかつた。良《やゝ》久《しば》らくして、今のは錯覺ではなからうかと思ひ直す頃に、又一つどんと鳴つた。さうして愛想《あいそ》のない音は、水に落ちた石の樣に、急に夜《よる》の中《なか》に消えたぎり、しんとした表に何の活動も傳へなかつた。寐られない余は、待ち伏せをする兵士の如く次の音《ね》の至るを思ひ詰めて待つた。其次の音《ね》は矢張り容易には來なかつた。漸くのこと第一第二と同じく極めて乾《から》び切《き》つた響が――響とは云《い》ひ惡《にく》い。黒い空氣の中に、突然無遠慮な點をどつと打つて直《すぐ》筆を隱した樣な音が、余の耳朶《じだ》を叩いて去る後《あと》で、余はつく／”＼と夜を長いものに觀じた。

　尤も夜は長くなる頃であつた。暑さも次第に過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思ひ切つて朝から袷《あはせ》を着るかしなければ、肌寒《はださむ》を防ぐ便《たより》とならなかつた時節である。山の端《はし》に落ち込む日は、常の短かい日よりも猶《なほ》の事《こと》短かく晝を端折《はしを》つて、灯《ひ》は容易に點《つ》いた。さうして夜《よ》は中中明けなかつた。余はじり／＼と晝に食ひ入る夜長を夜毎に恐れた。眼が開《あ》くと屹度《きつと》夜であつた。是から何時間位斯うしてしんと夜の中に生きながら埋《うづ》もつて居る事かと思ふと、我ながらわが病氣に堪へられなかつた。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見詰めるに堪へなかつた。眞白な絹に書いた大きな字の懸物《かけもの》には最も堪へなかつた。あゝ早く夜が明けて呉れゝば可《い》いのにと思つた。

　修禅寺《しゆぜんじ》の太鼓は此時にどんと鳴るのである。さうして殊更に余を待ち遠しがらせる如く疎《まば》らな間隔を取つて、暗い夜《よ》をぽつりぽつりと縫ひ始める。それが五分と經《た》ち七分と經《た》つうちに、次第に調子付いて、遂に夕立の雨滴《あまだれ》よりも繁く逼《せま》つて來る變化は、余から云ふともう日の出に間《ま》もないと云ふ報知であつた。太鼓を打ち切つてしばらくの後《のち》に、看護婦がやつと起きて室《へや》の廊下の所｜丈《だけ》雨戸を開けて呉れるのは何よりも嬉しかつた。外は何時《いつ》でも薄暗く見えた。

　修善寺《しゆぜんじ》に行つて、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。其結果として余は今でも時々どんと云ふ餘音《よいん》のないぶつ切つた樣な響を余の鼓膜の上に錯覺の如く受ける。さうして一種云ふべからざる心持を繰り返してゐる。

　　夢繞星??露幽。　夜分形影暗燈愁。

　　旗亭病近修禅寺。　一?疎鐘已九秋。〔二十八字右○〕

　

　　　　　三十

　

　山を分けて谷一面の百合《ゆり》を飽く迄眺めやうと心に極めた翌日《あくるひ》から床の上に仆《たふ》れた。想像は其時限りなく咲き續く白い花を碁石の樣に點々と見た。それを小暗《をぐら》く包まうとする緑の奧には、重い香《か》が沈んで、風に搖られる折々を待つ程に、葉は息苦しく重なり合つた。――此間宿の客が山から取つて來て瓶《へい》に挿した一輪の白さと大きさと香《かをり》から推して、余は有るまじき廣々とした畫《ゑ》を頭の中に描《ゑが》いた。

　聖書にある野の百合とは今云ふ唐菖蒲《たうしやうぶ》の事だと、其唐菖蒲を床に活けて置いた時、始めて芥舟君《かいしうくん》から教はつて、夫《それ》では丸《まる》で野の百合の感じが違ふ樣だがと話し合つた一月前《ひとつきまへ》も思ひ出された。聖書と關係の薄い余にさへ、檜扇《ひあふぎ》を熱帶的に派出《はで》に仕立てた樣な唐菖蒲は、深い沈んだ趣《おもむき》を表《あら》はすには餘り強過ぎるとしか思はれなかつた。唐菖蒲は何うでも可《よ》い。余が想像に描《ゑが》いた幽《かす》かな花は、一輪も見る機會のないうちに立秋に入《い》つた。百合は露と共に摧《くだ》けた。

　人は病むものゝ爲に裏の山に入《い》つて、此所彼所《こゝかしこ》から手の屆く幾莖《いくくき》の草花を折つて來た。裏の山は余の室《へや》から廊下傳ひにすぐ上《のぼ》る便《たより》のある位近かつた。障子さへ明けて置けば、寐ながら縁側と欄間《らんま》の間を埋《うづ》める一部分を鼻の先に眺める事も出來た。其一部分は岩と草と、岩の裾を縫ふて迂回して上《のぼ》る小徑《こみち》とから成り立つてゐた。余は余の爲に山に上《のぼ》るものゝ姿が、縁の高さを辭して欄間の高さに達する迄に、一遍影を隱して、又反對の位地から現はれて、遂に余の視線の外《ほか》に没して仕舞ふのを大いなる變化の如くに眺めた。さうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して下《くだ》つて來るのを疎《うと》い眼で眺めた。彼等は必ず粗《あら》い縞の貸浴衣《かしゆかた》を着て、日の照る時は手拭で頬冠《ほゝかむ》りをしてゐた。岨道《そばみち》を行くべきものとも思はれない其姿が、花を抱《かゝ》へて岩の傍《そば》にぬつと現はれると、一種芝居にでも有りさうな感じを病人に與へる位｜釣合《つりあひ》が可笑《をか》しかつた。

　彼等の採つて來て呉れるものは色彩の極めて乏しい野生の秋草であつた。

　或日しんとした眞晝に、長い薄《すゝき》が疊に伏さる樣に活けてあつたら、何時《いつ》何處から來たとも知れない蟋蟀《きり／”＼す》がたつた一つ、大人《おとな》しく中ほどに宿《とま》つてゐた。其時薄は虫の重みで撓《しな》ひさうに見えた。さうして袋戸《ふくろど》に張つた新らしい銀の上に映《うつ》る幾分かの緑が、暈《ぼか》した樣に淡くかつ不分明《ふぶんみやう》に、眸《ひとみ》を誘ふので、猶更《なほさら》運動の感覺を刺戟した。

　薄《すゝき》は大概すぐ縮《ちゞ》れた。比較的長く持つ女郎花《をみなへし》さへ眺めるには餘り色素が足りなかつた。漸く秋草の淋《さみ》しさを物憂く思ひ出した時、始めて蜀紅葵《しよくこうあふひ》とか云ふ燃える樣な赤い花瓣《はなびら》を見た。留守居の婆さんに錢《ぜに》を遣《や》つて、もつと折らせろと云つたら、錢は要りません、花は預かり物だから上げられませんと斷はつたさうである。余は其話を聞いて、何《ど》んな所に花が咲いてゐて、何《ど》んな婆さんが何《ど》んな顔をして花の番をしてゐるか、見たくて堪《たま》らなかつた。蜀紅葵《しよくこうあふひ》の花瓣《はなびら》は燃えながら、翌日《あくるひ》散つて仕舞つた。

　桂川《かつらがは》の岸傳ひに行くといくらでも咲いてゐると云ふコスモスも時々病室を照らした。コスモスは凡《すべ》ての中《うち》で最も單簡《たんかん》でかつ長く持つた。余は其薄くて規則正しい花片《はなびら》と、空《くう》に浮んだ樣に超然と取り合はぬ咲き具合とを見て、コスモスは干菓子《ひぐわし》に似てゐると評した。何故ですかと聞いたものがあつた。範頼《のりより》の墓守《はかもり》の作つたと云ふ菊を分けて貰つて來たのは夫《それ》から余程｜後《のち》の事である。墓守は鉢に植ゑた菊を貸して上げやうかと云つたさうである。此墓守の顔も見たかつた。仕舞には畠山の城趾《しろあと》からあけびと云ふものを取つて來て瓶《へい》に挿《はさ》んだ。それは色の褪《さ》めた茄子《なす》の色をしてゐた。さうして其一つを鳥が啄《つゝ》いて空洞《うつろ》にしてゐた。――瓶《へい》に挿す草と花が次第に變るうちに氣節は漸く深い秋に入《い》つた。

　　日似三春永。　心隨野水空。

　　牀頭花一片。　閑落小眠中。〔二十八字右○〕

　

　　　　　三十一

　

　若い時兄を二人失つた。二人とも長い間｜床《とこ》に就いてゐたから、死んだ時は何《いづ》れも苦しみ抜いた病《やまひ》の影を肉の上に刻《きざ》んでゐた。けれども其長い間に延びた髪と髯は、死んだ後《あと》迄《まで》も漆の樣に黒くかつ濃かつた。髪は夫《それ》程《ほど》でもないが、剃《そ》る事の出來ないで不本意らしく爺々汚《ぢゝむさ》さうに生えた髯に至つては、見るから憐れであつた。余は一人の兄の太く逞《たくま》しい髯の色を未だに記憶してゐる。死ぬ頃の彼の顔が如何にも氣の毒な位｜瘠《や》せ衰《おとろ》へて小《ちひ》さく見えるのに引き易へて、髯｜丈《だけ》は健康な壯者を凌《しの》ぐ勢《いきほひ》で延びて來た一種の對照を、氣味惡く又｜情《なさけ》なく感じた爲でもあらう。

　大患に罹《かゝ》つて生か死かと騷がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片付かぬ空裏《くうり》に過ぎた。存亡の領域が稍《やゝ》明かになつた頃、まづ吾存在を確めたいと云ふ願から、取り敢へず鏡を取つてわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去つた兄の面影《おもかげ》が、卒然として冷かな鏡の裏を掠《かす》めて去つた。骨｜許《ばかり》意地惡く高く殘つた頬、人間らしい暖味《あたゝかみ》を失つた蒼く黄色い皮、落ち込んで動く餘裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であつた。

　たゞ兄の髪と髯が死ぬ迄漆の樣に黒かつたのに拘《かゝ》はらず、余の夫等《それら》には何時《いつ》の間《ま》にか銀の筋が疎《まば》らに交つてゐた。考へて見ると兄は白髪《しらが》の生へる前に死んだのである。死ぬとすれば其方が屑《いさぎ》よいかも知れない。白髪《しらが》に鬢《びん》や頬《ほゝ》をぽつ／＼冒《をか》され乍《なが》ら、まだ生き延びる工夫に餘念のない余は、今を盛《さか》りの年頃に容赦なく世を捨てゝ逝く壯者に比《くら》べると、何だか極りが惡い程未練らしかつた。鏡に映《うつ》るわが表情のうちには、無論｜果敢《はか》ないと云ふ心持もあつたが、死《し》に損《そく》なつたと云ふ耻も少しは交つてゐた。又「ヴアージニバス・ピユエリスク」の中に、人はいくら年を取つても、少年の時と同じ樣な性情を失はないものだと書いてあつたのを、成程と首肯《うなづ》いて讀んだ當時を憶ひ出して、たゞ其當時に立ち戻りたい樣な氣もした。

　「ヴアージニバス・ピユエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よく其快活の性情を終焉《しゆうえん》迄《まで》持ち續けたから、嘘は云はない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んで仕舞つた。もし彼が生きて六十七十の高齡に達したら、或《あるひ》は斯うは云ひ切れなかつたらうと思へば、思はれない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大變に懸隔がある樣に思ひながら、何時《いつ》か三十が來ると、二十の昔と同じ氣分な事が分つたり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活きつゝある自己を悟つたりするので、スチーヴンソンの言葉も尤《もつと》もと受けて、今日《けふ》迄《まで》世を經《へ》た樣なものゝ、外部から萌《きざ》して來る老頽《らうたい》の徴候を、幾莖《いくけい》かの白髪《しらが》に認めて、健康の常時とは心意の趣《おもむき》を異《こと》にする病裡の鏡に臨んだ刹那の感情には、若い影は更に射《さ》さなかつたからである。

　白髪《しらが》に強いられて、思ひ切りよく老《おい》の敷居を跨いで仕舞はうか、白髪《しらが》を隱して、猶《なほ》若い街巷《ちまた》に徘徊《はいくわい》しやうか、――其所迄は鏡を見た瞬間には考へなかつた。又考へる必要のない迄に、病める余は若い人々を遠くに見た。病氣に罹《かゝ》る前、ある友人と會食したら、其友人が短かく刈つた余の揉上《もみあげ》を眺めて、其所から白髪《しらが》に冒《をか》されるのを苦にして段々上の方へ剃《す》り上《あ》げるのではないかと聞いた。其時の余には斯う聞かれる丈《だけ》の色氣は充分あつた。けれども病《やまひ》に罹《かゝ》つた余は、白髪《しらが》を看板にして事をしたい位迄に諦めよく落ち付いてゐた。

　病の癒えた今日《こんにち》の余は、病中の余を引き延ばした心に活きてゐるのだらうか、又は友人と食卓に就いた病氣前《びやうきぜん》の若さに立ち戻つてゐるだらうか。はたしてスチーヴンソンの云つた通りを歩く氣だらうか、又は中年に死んだ彼の言葉を否定して漸く老境に進むつ積《つもり》だらうか。――白髪《しらが》と人生の間に迷ふものは若い人たちから見たら可笑《をか》しいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立つて去就を決しかねる時期が來るだらう。

　　桃花馬上少年時。　笑據銀鞍拂柳枝。

　　緑水至今迢遞去。　月明來照鬢如絲。〔二十八字右○〕

　

　　　　　三十二

　

　初めはたゞ漠然と空を見て寐てゐた。それから暫くして何時《いつ》歸れるのだらうと思ひ出した。或時はすぐにも歸りたい樣な心持がした。けれども床の上に起き直る氣力すらないものが、何うして汽車に搖られて半日の遠きを行くに堪へ得やうかと考へると、歸りたいと念ずる自分が可成《かなり》馬鹿氣て見えた。從つて傍《はた》のものに自分は何時《いつ》歸れるかと問《と》ひ糺《たゞ》した事もなかつた。同時に秋は幾度の晝夜を卷いて、わが心の前を過ぎた。空は次第に高く且《かつ》蒼くわが上を掩ひ始めた。

　もう動かしても大事なからうと云ふ頃になつて、東京から別に二人の醫者を迎へて其意見を確めたら、今二週間の後《のち》にと云ふ挨拶であつた。挨拶があつた翌日《あくるひ》から余は自分の寐てゐる地と、寐てゐる室《へや》を見捨《みすて》るのが急に惜しくなつた。約束の二週間がなるべく緩《ゆつ》くり廻轉する樣にと冀《ねが》つた。曾《かつ》て英國に居た頃、精一杯《せいいつぱい》英國を惡《にく》んだ事がある。それはハイネが英國を惡《にく》んだ如く因業《いんごふ》に英國を惡んだのである。けれども立つ間際になつて、知らぬ人間の渦を卷いて流れてゐる倫敦《ロンドン》の海を見渡したら、彼等を包む鳶色《とびいろ》の空氣の奧に、余の呼吸に適する一種の瓦斯《ガス》が含まれてゐる樣な氣がし出した。余は空を仰いで町の眞中《まなか》に佇《たゝ》ずんだ。二週間の後《のち》此地を去るべき今の余も、病む?《からだ》を横《よこた》へて、床《とこ》の上に獨《ひと》り佇《たゝ》ずまざるを得なかつた。余は特に余の爲に造つて貰つた高さ一尺五寸程の偉大な藁蒲團《わらぶとん》に佇《たゝ》ずんだ。靜かな庭の寂寞を破る鯉の水を切る音に佇《たゝ》ずんだ。朝露《あさつゆ》に濡れた屋根瓦の上を遠近《をちこち》と尾を搖《うご》かし歩く鶺鴒《せきれい》に佇《たゝ》ずんだ。枕元の花瓶《くわへい》にも佇《たゝ》ずんだ。廊下のすぐ下をちよろ／＼と流れる水の音《ね》にも佇《たゝ》ずんだ。斯くわが身を繞《めぐ》る多くのものに?徊《ていくわい》しつゝ、豫定の通り二週間の過ぎ去るのを待つた。

　其二週間は待ち遠い齒痒《はがゆ》さもなく、又あつけない不足もなく普通の二週間の如くに來て、尋常の二週間の如くに去つた。さうして雨の濛々《もう／＼》と降る曉《あかつき》を最後の記念として與へた。暗い空を透《す》かして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答へた。

　人は余を運搬する目的を以て、一種妙なものを拵《こし》らえて、それを座敷の中《うち》に舁《か》き入《い》れた。長さは六尺もあつたらう、幅は僅か二尺に足らない位狹かつた。其一部は疊を離れて一尺ほどの高さ迄上に反《そ》り返《かへ》る樣に工夫してあつた。さうして全部を白い布《ぬの》で捲いた。余は抱《いだ》かれて、此高く反《そ》つた前方に脊を託して、平たい方に足を長く横たへた時、是は葬式だなと思つた。生きたものに葬式と云ふ言葉は穩當でないが、此白い布で包んだ寐臺《ねだい》とも寐棺《ねぐわん》とも片の付かないものゝ上に横になつた人は、生きながら葬《とむら》はれるとしか余には受け取れなかつた。余は口の中《うち》で、第二の葬式と云ふ言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ず遣《や》つて貰ふ葬式を、余｜丈《だけ》はどうしても二返《にへん》執行しなければ濟まないと思つたからである。

　舁《か》かれて室《へや》を出るときは平《たひら》であつたが、階子段《はしごだん》を降りる際《きは》には、臺が傾いて、急に輿《こし》から落ちさうになつた。玄關に來ると同宿の浴客《よくかく》が大勢並んで、左右から白い輿を目送《もくそう》してゐた。何《いづ》れも葬式の時の樣に靜かに控えてゐた。余の寐臺《ねだい》は其間を通り拔けて、雨の降る庇《ひさし》の外《そと》に擔ぎ出された。外《そと》にも見物人は澤山居た。やがて輿《こし》を竪《たて》に馬車の中に渡して、前後相對する席と席とで支へた。豫《あら》かじめ寸法を取つて拵らえたので、輿《こし》はきつしりと旨く馬車の中に納《をさま》つた。馬は降る中を動き出した。余は寐ながら幌《ほろ》を打つ雨の音を聞いた。さうして、御者臺《ぎよしやだい》と幌《ほろ》の間に見える窮屈な空間《くうかん》から、大きな岩や、松や、水の斷片を難有《ありがた》く拜した。竹藪の色、柿紅葉《かきもみぢ》、芋の葉、槿垣《むくげがき》、熟した稲の香《か》、凡《すべ》てを見るたびに、成程今は斯《こ》んなものゝ有るべき季節であると、生れ返つた樣に憶ひ出しては嬉しがつた。更に進んでわが歸るべき所には、如何なる新らしい天地が、寐ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構へてゐるだらうかと想像して獨り樂しんだ。同時に昨日《きのふ》迄《まで》?徊《ていくわい》した藁蒲團も鶺鴒《せきれい》も秋草も鯉も小河も悉《こと／＼》く消えて仕舞つた。

　　萬事休時一息回。　余生豈忍比殘灰。

　　風過古澗秋聲起。　日落幽篁瞑色來。

　　漫道山中三月滯。　?知門外一天開。

　　歸期勿後黄花節。　恐有羇魂夢舊苔。〔五十六字右○〕

　

　　　　　三十三

　

　正月を病院で爲《し》た經驗は生涯にたつた一遍《いつぺん》しかない。

　松飾りの影が眼先に散らつく程暮が押しつまつた頃、余は始めて此珍らしい經驗を目前に控えた自分を異樣に考へ出した。同時に其《その》考《かんがへ》が單に頭｜丈《だけ》に働らいて、毫も心臓の鼓動に響を傳へなかつたのを不思議に思つた。

　余は白い寢床《ベツド》の上に寐ては、自分と病院と來《きた》るべき春とを斯《かく》の如く一所《いつしよ》に結び付ける運命の醉興さ加減を懇《ねんご》ろに商量《しやうりやう》した。けれども起き直つて机に向つたり、膳に着いたりする折は、もうここが我《わが》家《いへ》だと云ふ氣分に心を任《まか》して少しも怪しまなかつた。それで歳は暮れても春は逼《せま》つても別に感慨と云ふ程のものは浮ばなかつた。余は夫《それ》程《ほど》長く病院に居て、夫《それ》程《ほど》親しく患者の生活に根を卸したからである。

　兪《いよ／＼》大晦日《おほみそか》が來た時、余は小《ち》さい松を二本買つて、それを自分の病室の入口に立てやうかと思つた。然し松を支へる爲に釘を打ち込んで美くしい柱に創《きず》を付けるのも惡いと思つて已《や》めにした。看護婦が表へ出て梅でも買つて參りませうと云ふから買つて貰ふ事にした。

　此看護婦は修善寺《しゆぜんじ》以來余が病院を出る迄｜半年《はんねん》の間始終余の傍《そば》に附き切りに附いてゐた女である。余は故《ことさ》らに彼の本名を呼んで町井石子孃《まちゐいしこぢやう》々々々《／＼》と云つてゐた。時々は間違へて苗字《めうじ》と名前を?倒《てんだう》して、石井町子孃《いしゐまちこぢやう》とも呼んだ。すると看護婦は首を傾《かし》げながらさう改めた方が好い樣で御座いますねと云つた。仕舞いには遠慮がなくなつて、とう／＼鼬《いたち》と云ふ渾名《あだな》をつけて遣つた。或時何かの序《ついで》に、時に御前の顔は何かに似てゐるよと云つたら、何うせ碌《ろく》なものに似てゐるのじや御座いますまいと答へたので、凡《およ》そ人間として何かに似てゐる以上は、まづ動物に極つてゐる。外に似やうたつて容易に似られる譯のものじやないと言つて聞かせると、夫《そり》や植物に似ちや大變ですと絶叫《ぜつけう》して以來、とう／＼鼬《いたち》と極《きま》つて仕舞つたのである。

　鼬《いたち》の町井《まちゐ》さんはやがて紅白の梅を二枝｜提《さ》げて歸つて來た。白い方を藏澤《ざうたく》の竹の畫《ゑ》の前に挿して、紅い方は太い竹筒《たけづゝ》の中に投げ込んだなり、袋戸《ふくろど》の上に置いた。此間人から貰つた支那水仙もくる／＼と曲つて延びた葉の間から、白い香《か》をしきりに放つた。町井さんは、もう大分《だいぶん》病氣が可《よ》くおなりだから、明日《あした》は屹度《きつと》御雜煮《おざふに》が祝へるに違ないと云つて余を慰めた。

　除夜《ぢよや》の夢は例年の通り枕の上に落ちた。斯う云ふ大患に罹《かゝ》つた揚句《あげく》、病院の人となつて幾つの月を重ねた末、雜煮迄こゝで祝ふのかと考へると、頭の中にはアイロニーと云ふ羅馬字《ローマじ》が明らかに綴られて見える。夫《それ》にも拘《かゝ》はらず、感に堪えぬ趣《おもむき》は少しも胸を刺さずに、四十四年の春は自《おの》づから南向の縁から明け放れた。さうして町井さんの豫言の通り形《かた》ばかりとは云ひながら、小《ち》さい一切《ひときれ》の餅が元日らしく病人の眸《ひとみ》に映じた。余は此一椀の雜煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小《ち》さな餅の片《きれ》を平凡にかつ一口に、ぐいと食つて仕舞つた。

　二月の末になつて、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は醫師の許《ゆるし》を得て、再び廣い世界の人となつた。振り返つて見ると、入院中に、余と運命の一角《いつかく》を同じくしながら、遂に廣い世界を見る機會が來ないで亡《な》くなつた人は少なくない。ある北國《ほくこく》の患者は入院以後病勢が次第に募るので、附添《つきそひ》の息子《むすこ》が心配して、大晦日《おほみそか》の夜《よ》になつて、無理に郷里に連れて歸つたら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んで仕舞つた。一間《ひとま》置いて隣りの人は自分で死期を自覺して、諦らめてしまへば死ぬと云ふ事は何でもないものだと云つて、氣の毒な程｜大人《おとな》しい往生を遂げた。向ふの外《はづ》れにゐた潰瘍患者《くわいやうかんじや》の高い咳嗽《せき》が日毎に薄らいで行くので、大方落ち付いたのだらうと思つて町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果｜何時《いつ》の間《ま》にか死んでゐた。さうかと思ふと、癌《がん》で見込のない病人の癖に、から景氣をつけて、回診の時に醫師の顔を見るや否や、すぐ起き直つて尻《しり》を捲《まく》るといふのがあつた。附添の女房を蹴《け》たり打《ぶ》つたりするので、女房が洗面所へ來て泣いてゐるのを、看護婦が見兼《みかね》て慰めてゐましたと町井さんが話した事も覺えてゐる。ある食道狹窄《しよくだうけふさく》の患者は病院には這入つてゐる樣なものゝ迷ひに迷ひ拔いて、灸點師《きうてんし》を連れて來て灸《きう》を据ゑたり、海草《かいさう》を採つて來て煎じて飲んだりして、ひたすら不治の癌症《がんしやう》を癒さうとしてゐた。……

　余は是等の人と、一つ屋根の下に寐て、一つ賄《まかなひ》の給仕を受けて、同じく一つ春を迎へたのである。退院後一ケ月｜餘《よ》の今日《こんにち》になつて、過去を一攫《ひとつかみ》にして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語は益《ます／＼》鮮やかに頭の中に拈出《ねんしゆつ》される。さうして何時《いつ》の間《ま》にか此アイロニーに一種の實感が伴《ともな》つて、兩《ふた》つのものが互に纒綿《てんめん》して來た。鼬《いたち》の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雜※［者／火］も、――あらゆる尋常の景趣は悉《こと／＼》く消えたのに、たゞ當時の自分と今の自分との對照｜丈《だけ》がはつきりと殘る爲だらうか。

−明治四四、四、一三−

　

　　　子規の畫

　

　余は子規《しき》の描《か》ゐた畫《え》をたつた一枚持つてゐる。亡友の記念《かたみ》だと思つて長い間それを袋の中に入れて仕舞つて置いた。年數《ねんすう》の經《た》つに伴《つ》れて、ある時は丸《まる》で袋の所在を忘れて打ち過ぎる事も多かつた。近頃｜不圖《ふと》思ひ出して、あゝして置いては轉宅の際などに何處へ散逸するかも知れないから、今のうちに表具屋へ遣《や》つて懸物《かけもの》にでも仕立てさせやうと云ふ氣が起つた。澁紙の袋を引き出して塵を拂《はた》いて中を檢《しら》べると、畫は元の儘｜濕《しめ》つぽく四折《よつをり》に疊んであつた。畫の外に、無いと思つた子規の手紙も幾通か出て來た。余は其《その》中《うち》から子規が余に宛てゝ寄こした最後のものと、夫《それ》から年月の分らない短いものとを選び出して、其中間に例の畫を挾んで、三つを一纒《ひとまと》めに表裝させた。

　畫は一輪花瓶《いちりんざし》に挿した東菊《あづまぎく》で、圖柄《づがら》としては極めて單簡《たんかん》な者である。傍《わき》に「是は萎《しぼ》み掛《か》けた所と思ひ玉へ。下手《まづ》いのは病氣の所爲《せゐ》だと思ひ玉へ。嘘だと思はゞ肱を突いて描《か》いて見玉へ」といふ註釋が加へてある所を以て見ると、自分でもさう旨いとは考へて居なかつたのだらう。子規が此畫を描《か》いた時は、余はもう東京には居なかつた。彼は此畫に、東菊《あづまぎく》活けて置きけり火の國に住みける君の歸り來るがねと云ふ一首の歌を添へて、熊本迄送つて來たのである。

　壁に懸けて眺めて見ると如何にも淋《さび》しい感じがする。色は花と莖と葉と硝子《ガラス》の瓶とを合せて僅かに三色《みいろ》しか使つてない。花は開いたのが一輪に蕾《つぼみ》が二つだけである。葉の數を勘定して見たら、凡《すべ》てゞやつと九枚あつた。夫《それ》に周圍が白いのと、表裝の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲つて來てならない。

　子規は此｜簡單《かんたん》な草花を描《ゑが》くために、非常な努力を惜しまなかつた樣に見える。僅か三莖《みくき》の花に、少くとも五六時間の手間《てま》を掛けて、何處から何處迄丹念に塗り上げてゐる。是程の骨折は、たゞに病中の根氣仕事として餘程の決心を要するのみならず、如何にも無雜作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云つても、明かな矛盾である。思ふに畫と云ふ事に初心《しょしん》な彼は當時繪畫に於ける寫生の必要を不折《ふせつ》などから聞いて、それを一草一花の上にも實行しやうと企《くはだ》てながら、彼が俳句の上で既に悟入した同一方法を、此方面に向つて適用する事を忘れたか、又は適用する腕がなかつたのであらう。

　東菊《あづまぎく》によつて代表された子規の畫は、拙《まづ》くて且《かつ》眞面目である。才を呵《か》して直ちに章をなす彼の文筆が、繪の具皿に浸《ひた》ると同時に、忽ち堅くなつて、穗先の運行がねつとり竦《すく》んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子《きよし》が來て此《この》幅《ふく》を見た時、正岡の繪は旨いぢやありませんかと云つたことがある。余は其時、だつてあれ丈《だけ》の單純な平凡な特色を出すのに、あの位時間と勞力を費さなければならなかつたかと思ふと、何だか正岡の頭と手が、入らざる働きを餘儀なくされた觀がある所に、隱し切れない拙《せつ》が溢《あふ》れてゐると思ふと答へた。馬鹿律義《ばかりちぎ》なものに厭味《いやみ》も利《き》いた風もあり樣はない。其處に重厚な好所《かうしよ》があるとすれば、子規の畫は正に働きのない愚直ものゝ旨さである。けれども一線一畫の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、咄嗟《とつさ》に辨ずる手際がない爲めに、已《やむ》を得《え》ず省略の捷徑《せふけい》を棄てゝ、几帳面な塗抹主義を根氣に實行したとすれば、拙《せつ》の一字は何うしても免れ難い。

　子規は人間として、又文學者として、最も「拙《せつ》」の缺乏した男であつた。永年《えいねん》彼と交際をした何《ど》の月にも、何《ど》の日にも、余は未だ曾て彼の拙《せつ》を笑ひ得るの機會を捉《とら》へ得《え》た試《ためし》がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有《も》たなかつた。彼の歿後殆ど十年にならうとする今日《こんにち》、彼のわざ／＼余の爲に描《ゑが》いた一輪の東菊《あづまぎく》の中《うち》に、確に此一拙字を認める事の出來たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋《さび》しい。出來得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に發揮させて、淋《さび》しさの償《つぐなひ》としたかつた。

−明治四四、七、四−

　

　　　ケーベル先生

　

　木《こ》の葉《は》の間から高い窓が見えて、其窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。傍《わき》から濃い藍色の煙が立つた。先生は煙草を呑んでゐるなと余は安倍君《あべくん》に云つた。

　此前此處を通つたのは何時《いつ》だか忘れて仕舞つたが、今日見ると僅かの間《ま》にもう大分《だいぶ》樣子が違つてゐる。甲武線の崖上《がけうへ》は角並《かどなみ》新らしい立派な家に建て易へられて、何《いづ》れも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事の出來ない門構《もんがまへ》許《ばかり》である。其《その》中《なか》に先生の住居《すまひ》だけが過去の記念《かたみ》の如くたつた一軒古ぼけたなりで殘つてゐる。先生は此｜燻《くす》ぶり返《かへ》つた家の書齋に這入つたなり滅多に外へ出た事がない。其書齋はとりも直さず先生の頭が見えた木《こ》の葉《は》の間の高い所であつた。

　余と安倍君とは先生に導《みち》びかれて、敷物も何も足に觸れない素裸《すはだか》の儘の高い階子段《はしごだん》を薄暗がりにがたがた云はせながら上《のぼ》つて、階上の右手にある書齋に入《はい》つた。さうして先生の今迄腰を卸して窓から頭｜丈《だけ》を出してゐた一番光に近い椅子に余は坐つた。そこで外面《そと》から射《さ》す夕暮に近い明りを受けて始めて先生の顔を熟視した。先生の顔は昔と左迄《さまで》違つて居なかつた。先生は自分で六十三だと云はれた。余が先生の美學の講義を聽きに出たのは、余が大學院に這入つた年で、慥《たし》か先生が日本へ來て始めての講義だと思つてゐるが、先生は其時から已《すで》に斯う云ふ顔であつた。先生に日本へ來てもう二十年になりますかと聞いたら、左樣《さう》はならない、たしか十八年目だと答へられた。先生の髪も髯も英語で云ふとオーバーンとか形容すべき、ごく薄い麻の樣な色をしてゐる上に、普通の西洋人の通り非常に細くつて柔かいから、少しの白髪《しらが》が生えても丸《まる》で目立たないのだらう。夫《それ》にしても血色が元の通りである。十八年を日本で住み古した人とは思へない。

　先生の容貌が永久にみづ／＼してゐる樣に見えるのに引き易へて、先生の書齋は耄《ぼ》け切《き》つた色で包まれてゐた。洋書といふものは唐本《たうほん》や和書よりも裝飾的な背皮《せがは》に學問と藝術の派出《はで》やかさを偲《しの》ばせるのが常であるのに、此部屋は余の眼を射る何物をも藏してゐなかつた。たゞ大きな机があつた。色の褪《さ》めた椅子が四脚あつた。マツチと埃及煙草《エヂプトたばこ》と灰皿があつた。余は埃及煙草《エヂプトたばこ》を吹かしながら先生と話をした。けれども部屋を出て、下の食堂へ案内される迄、余は遂に先生の書齋にどんな書物がどんなに並んでゐたかを知らずに過ぎた。

　花やかな金文字や赤や青の背表紙が余の眼を刺激しなかつた許《ばか》りではない。純潔な白色でさへ遂に余の眼には觸れずに濟んだ。先生の食卓には常の歐洲人が必要品と迄認めてゐる白布が懸つてゐなかつた。其代りにくすんだ更紗形《さらさがた》を置いた布《きれ》が一杯に被《かぶ》さつてゐた。さうして其《その》布《きれ》は此間迄余の家《うち》に預かつてゐた娘の子を嫁《かた》づける時に新調して遣《や》つた布團の表と同じものであつた。此卓を前にして坐つた先生は、襟も襟飾も着けてはゐない。千筋《せんすぢ》の縮みの襯衣《しやつ》を着た上に、玉子色の薄い脊廣を一枚｜無造作に引掛《ひつか》けた丈《だけ》である。始めから儀式ばらぬ樣にとの注意ではあつたが、あまり失禮に當つてはと思つて、余は白い襯衣《しやつ》と白い襟と紺の着物を着てゐた。君が正裝をしてゐるのに私《わたし》はこんな服《なり》でと先生が最前《さいぜん》云はれた時、正裝の二字を痛み入る許《ばかり》であつたが、成程洗ひ立ての白いものが手と首に着いてゐるのが正裝なら、余の方が先生よりもよほど正裝であつた。

　余は先生に一人で淋《さび》しくはありませんかと聞いたら、先生は少しも淋《さび》しくはないと答へられた。西洋へ歸りたくはありませんかと尋ねたら、夫《それ》程《ほど》西洋が好いとも思はない、然し日本には演奏會と芝居と圖書館と畫館がないのが困る、それ丈《だけ》が不便だと云はれた。一年位暇を貰つて遊んで來ては何うですと促《うな》がして見たら、そりや無論｜遣《や》つて貰へる、けれども夫《それ》は好まない。私《わたし》がもし日本を離れる事があるとすれば、永久に離れる。決して二度とは歸つて來ないと云はれた。

　先生は斯ういふ風に夫《それ》程《ほど》故郷を慕《した》ふ樣子もなく、あながち日本を嫌ふ氣色《けしき》もなく、自分の性格とは容《い》れ惡《にく》い程に矛盾な亂雜な空虚にして安つぽい所謂《いはゆる》新時代の世態《せたい》が、周圍の過渡層の底から次第々々に浮き上つて、自分を其中心に陷落せしめねば已《や》まぬ勢を得つゝ進むのを、日毎眼前に目撃しながら、それを別世界に起る風馬牛の現象の如く餘所《よそ》に見て、極めて落ち付いた十八年を吾《わが》邦《くに》で過ごされた。先生の生活はそつと煤煙の巷《ちまた》に棄てられた希臘《ぎりしや》の彫刻に血が通ひ出した樣なものである。雜鬧《ざつたう》の中に己《おの》れを動かして如何にも靜かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲《びやう》の響がない。先生は紀元前の半島の人の如くに、しなやかな革で作つたサンダルを穿《は》いて音《おと》なしく電車の傍《そば》を歩《あ》るいてゐる。

　先生は昔《むか》し烏を飼つて居られた。何處から來たか分らないのを餌《ゑ》を遣《や》つて放し飼にしたのである。先生と烏とは妙な因縁《いんえん》に聞える。此二つを頭の中で結び付けると一種の氣持が起《おこ》る。先生が大學の圖書館で書架の中からポーの全集を引き卸したのを見たのは昔の事である。先生はポーもホフマンも好きなのだと云ふ。此《この》夕《ゆふべ》其烏の事を思ひ出して、あの烏は何うなりましたと聞いたら、あれは死にました、凍《こゞ》えて死にました。寒い晩に庭の木の枝に留つたまんま、翌日《あくるひ》になると死んでゐましたと答へられた。

　烏の序《ついで》に蝙蝠《かうもり》の話が出た。安倍君が蝙蝠《かうもり》は懷疑《スケプチツク》な鳥だと云ふから、何故《なぜ》と反問したら、でも薄暗がりにはた／＼飛んでゐるからと謎《なぞ》の樣な答をした。余は蝙蝠《かうもり》の翼《はね》が好《すき》だと云つた。先生はあれは惡魔の翼《はね》だと云つた。成程｜畫《ゑ》にある惡魔は何時《いつ》でも蝙蝠の羽根を脊負《しよ》つてゐる。

　其時夕暮の窓際に近く日暮しが來て朗らに鋭どい聲を立てたので、卓を圍《かこ》んだ四人《よつたり》はしばらくそれに耳を傾けた。あの鳴聲にも以太利《イタリヤ》の連想があるでせうと余は先生に尋ねた。是は先生が少し前に蜥蜴《とかげ》が美くしいと云つたので、青く澄んだ以太利《イタリヤ》の空を思ひ出させやしませんかと聞いたら、左樣《さう》だと答へられたからである。然し日暮しの時には、先生は少し首を傾《かた》むけて、いや彼《あれ》は以太利《イタリヤ》じやない、何うも以太利《イタリヤ》では聞いた事がない樣に思ふと云はれた。

　余等は熱い都の中心に誤つて點ぜられたとも見える古い家の中で、靜かにこんな話をした。夫《それ》から菊の話と椿の話と鈴蘭の話をした。果物の話もした。其果物のうちで尤も香りの高い遠い國から來たレモンの露を搾《しぼ》つて水に滴《したゝ》らして飲んだ。珈琲《コーヒー》も飲んだ。凡《すべ》ての飲料のうちで珈琲《コーヒー》が一番旨いといふ先生の嗜好も聞いた。夫《それ》から靜かな夜《よ》の中《なか》に安倍君と二人で出た。

　先生の顔が花やかな演奏會に見えなくなつてから、もう餘程になる。先生はピヤノに手を觸れる事すら日本に來ては口外せぬ積《つもり》であつたと云ふ。先生は夫《それ》程《ほど》浮いた事が嫌《きらひ》なのである。凡《すべ》ての演奏會を謝絶した先生は、たゞ自分の部屋で自分の氣に向いたとき丈《だけ》樂器の前に坐る、さうして自分の音樂を自分｜丈《だけ》で聞いてゐる。其外にはたゞ書物を讀んでゐる。

　文科大學へ行つて、此處で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の學生が九十人迄は、數ある日本の教授の名を口にする前に、まずフオン・ケーベルと答へるだらう。斯《か》程《ほど》に多くの學生から尊敬される先生は、日本の學生に對して終始｜渝《かは》らざる興味を抱《いだ》いて、十八年の長い間哲學の講義を續けてゐる。先生が疾《と》くに索寞《さくばく》たる日本を去るべくして、未《いま》だに去らないのは、實に此愛すべき學生あるが爲である。

　京都の深田教授が先生の家《いへ》にゐる頃、何時《いつ》でも閑《ひま》な時に晩餐を食べに來いと云はれてから、行かずに經過した月日を數へるともう四年以上になる。漸く其約を果して安倍君と一所に大きな暗い夜《よ》の中《なか》に出た時、余は先生は是から先、もう何年位日本に居る積《つもり》だらうと考へた。さうして一度日本を離れゝばもう歸らないと云はれた時、先生の引用した“no more《ノーモアー》, never more《ネ?ーモアー》.”というポーの句を思ひ出した。

明治四四、七、一六−一七

　

　　　變な音

　

　　　　　上

　

　うと／＼したと思ふうちに眼が覺《さ》めた。すると、隣の室《へや》で妙な音がする。始めは何の音とも又何處から來るとも判然《はつきり》した見當が付かなかつたが、聞いてゐるうちに、段々耳の中へ纒まつた觀念が出來てきた。何でも山葵卸《わさびおろ》しで大根《だいこ》かなにかをごそごそ擦《す》つてゐるに違ない。自分は確に左樣《さう》だと思つた。夫《それ》にしても今頃何の必要があつて、隣りの室《へや》で大根卸《だいこおろし》を拵えてゐるのだか想像が付かない。

　いひ忘れたが此處は病院である。賄《まかなひ》は遙か半町も離れた二階下の臺所に行かなければ一人もゐない。病室では炊事《すゐじ》割烹《かつぱう》は無論菓子さへ禁じられてゐる。況《ま》して時ならぬ今時分何しに大根卸《だいこおろし》を拵えやう。是は屹度《きつと》別の音が大根卸《だいこおろし》の樣に自分に聞えるのに極つてゐると、すぐ心の裡《うち》で覺つたやうなものゝ、偖《さて》それなら果して何處から何うして出るのだらうと考へると矢《や》ツ張《ぱり》分らない。

　自分は分らないなりにして、もう少し意味のある事に自分の頭を使はうと試みた。けれども一度耳に付いた此不可思議な音は、それが續いて自分の鼓膜に訴へる限り、妙に神經に祟《たゝ》つて、何うしても忘れる譯に行かなかつた。あたりは森《しん》として靜かである。此《この》棟《むね》に不自由な身を託した患者は申し合せた樣に黙つてゐる。寐てゐるのか、考へてゐるのか話をするものは一人もない。廊下を歩く看護婦の上草履《うはざうり》の音さへ聞えない。その中に此ごし／＼と物を擦り減らす樣な異《い》な響｜丈《だけ》が氣になつた。

　自分の室《へや》はもと特等として二間《ふたま》つゞきに作られたのを病院の都合で一つ宛《づゝ》に分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になつてゐるが、寢床の敷いてある六疊の方になると、東側に六尺の袋戸棚《ふくろとだな》があつて、其《その》傍《わき》が芭蕉布《ばせうふ》の襖《ふすま》ですぐ隣へ徃來《ゆきかよひ》が出來るやうになつてゐる。此一枚の仕切をがらりと開けさへすれば、隣室で何を爲《し》てゐるかは容易《たやす》く分るけれども、他人に對して夫《それ》程《ほど》の無禮を敢てするほど大事な音でないのは無論である。折から暑さに向ふ時節であつたから縁側は常に明け放した儘であつた。縁側は固《もと》より棟一杯細長く續いてゐる。けれども患者が縁端《えんばた》へ出て互を見透《みとほ》す不都合を避けるため、わざと二部屋毎に開き戸を設けて御互の關とした。夫《それ》は板の上へ細い棧《さん》を十文字に渡した洒落《しやれ》たもので、小使が毎朝拭掃除をするときには、下から鍵を持つて來て、一々此戸を開けて行くのが例になつてゐた。自分は立つて敷居の上に立つた。かの音は此｜妻戸《つまど》の後《うしろ》から出る樣である。戸の下は二寸程｜空《す》いてゐたが其處には何も見えなかつた。

　此音は其《その》後《ご》もよく繰返された。ある時は五六分續いて自分の聽神經を刺激する事もあつたし、又ある時は其《その》半《なかば》にも至らないでぱたりと已《や》んで仕舞ふ折もあつた。けれども其何であるかは、つひに知る機會なく過ぎた。病人は靜かな男であつたが、折々｜夜半《よなか》に看護婦を小さい聲で起してゐた。看護婦が又｜殊勝《しゆしよう》な女で小さい聲で一度か二度呼ばれると快よい優しい「はい」と云ふ受け答へをして、すぐ起きた。さうして患者の爲に何かしてゐる樣子であつた。

　ある日回診の番が隣へ廻つてきたとき、何時《いつ》もよりは大分《だいぶ》手間が掛ると思つてゐると、やがて低い話し聲が聞え出した。それが二三人で持ち合つて中々｜捗取《はかど》らないやうな濕《しめ》り氣《け》を帶びてゐた。やがて醫者の聲で、どうせ、さう急には御癒りにはなりますまいからと云つた言葉｜丈《だけ》が判然《はつきり》聞えた。夫《それ》から二三日して、かの患者の室《へや》にこそ／＼出入《ではい》りする人の氣色《けしき》がしたが、孰《いづ》れも己《おの》れの活動する立居《たちゐ》を病人に遠慮する樣に、ひそやかに振舞つてゐたと思つたら、病人自身も影の如く何時《いつ》の間《ま》にか何處かへ行つて仕舞つた。さうして其《その》後《あと》へはすぐ翌《あく》る日《ひ》から新しい患者が入《はい》つて、入口の柱に白く名前を書いた黒塗の札が懸易《かけか》へられた。例のごし／＼云ふ妙な音はとう／＼見極はめる事が出來ないうちに病人は退院して仕舞つたのである。其うち自分も退院した。さうして、彼《か》の音に對する好奇の念は夫《それ》ぎり消えて仕舞つた。

　　　　　下

　三ケ月｜許《ばかり》して自分は又同じ病院に入《はい》つた。室《へや》は前のと番號が一つ違ふ丈《だけ》で、つまり其西隣であつた。壁｜一重《ひとへ》隔てた昔の住居《すまひ》には誰が居るのだらうと思つて注意して見ると、終日かたりと云ふ音もしない。空《あ》いてゐたのである。もう一つ先が即ち例の異樣の音の出た所であるが、此處には今誰がゐるのだか分らなかつた。自分は其《その》後《のち》受けた身體の變化のあまり劇《はげ》しいのと、其劇しさが頭に映つて、此間からの過去の影に與へられた動搖が、絶えず現在に向つて波紋を傳へるのとで、山葵卸《わさびおろし》の事などは頓《とん》と思ひ出す暇もなかつた。夫《それ》よりは寧ろ自分に近い運命を持つた在院の患者の經過の方が氣に掛つた。看護婦に一等の病人は何人ゐるのかと聞くと、三人｜丈《だけ》だと答へた。重いのかと聞くと重さうですと云ふ。夫《それ》から一日二日して自分は其三人の病症を看護婦から確めた。一人は食道癌《しよくだうがん》であつた。一人は胃癌《ゐがん》であつた、殘る一人は胃潰瘍《ゐくわいやう》であつた。みんな長くは持たない人｜許《ばかり》ださうですと看護婦は彼等の運命を一纒《ひとまと》めに豫言した。

　自分は縁側に置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。實は菊を買ふ筈の所を、植木屋が十六貫だと云ふので、五貫に負けろと値切つても相談にならなかつたので、歸りに、じや六貫やるから負けろと云つても矢つ張り負けなかつた、今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持つて來た人の話を思ひ出して、賑やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどして見た。

　やがて食道癌《しよくだうがん》の男が退院した。胃癌《ゐがん》の人は死ぬのは諦めさへすれば何でもないと云つて美しく死んだ。潰瘍《くわいやう》の人は段々惡くなつた。夜半《よなか》に眼を覺すと、時々東のはづれで、付添《つきそひ》のものが氷を摧《くだ》く音がした。其の音が已《や》むと同時に病人は死んだ。自分は日記に書き込んだ。――「三人のうち二人死んで自分｜丈《だ》け殘つたから、死んだ人に對して殘つてゐるのが氣の毒の樣な氣がする。あの病人は嘔氣《はきけ》があつて、向ふの端から此方《こつち》の果《はて》迄《まで》響くやうな聲を出して始終げえ／＼吐いてゐたが、此二三日｜夫《それ》がぴたりと聞えなくなつたので、大分《だいぶ》落ち付いてまあ結構だと思つたら、實は疲勞の極《きよく》聲を出す元氣を失つたのだと知れた。」

　其《その》後《のち》患者は入れ代り立ち代り出たり入《はい》つたりした。自分の病氣は日を積むに從つて次第に快方に向つた。仕舞には上草履《うはざうり》を穿《は》いて廣い廊下をあちこち散歩し始めた。其時｜不圖《ふと》した事から、偶然ある附添の看護婦と口を利く樣になつた。暖かい日の午過《ひるすぎ》食後の運動がてら水仙の水を易へてやらうと思つて洗面所へ出て、水道の栓《せん》を捩《ねじ》つてゐると、其看護婦が受持の室《へや》の茶器を洗ひに來て、例の通り挨拶をしながら、しばらく自分の手にした朱泥《しゅでい》の鉢《はち》と、其中に盛り上げられた樣に膨《ふく》れて見える珠根《たまね》を眺めてゐたが、やがて其眼を自分の横顔に移して、此前御入院の時よりもうずつと御顔色が好くなりましたねと、三ケ月｜前《まへ》の自分と今の自分を比較した樣な批評をした。

　「此前つて、あの時分君も矢張り附添で此處に來てゐたのかい」

　「えゝつい御隣でした。しばらく○○さんの所に居りましたが御存じはなかつたかも知れません」

　○○さんと云ふと例の變な音をさせた方の東隣である。自分は看護婦を見て、これがあの時｜夜半《よなか》に呼ばれると、「はい」といふ優しい返事をして起き上つた女かと思ふと、少し驚かずにはゐられなかつた。けれども、其頃自分の神經をあの位刺激した音の原因に就ては別に聞く氣も起らなかつた。で、あゝ左様《さう》かと云つたなり朱泥の鉢を拭いてゐた。すると女が突然少し改まつた調子で斯《こ》んな事を云つた。

　「あの頃貴方の御室で時々變な音が致しましたが……」

　自分は不意に逆襲を受けた人の樣に、看護婦を見た。看護婦は續けて云つた。

　「毎朝六時頃になると屹度する樣に思ひましたが」

　「うん、彼《あ》れか」と自分は思ひ出した樣につい大きな聲を出した。「あれはね、自働革砥《オートストロツプ》の音だ。毎朝髭を剃《そ》るんでね、安全髪剃を革砥《かはど》へ掛けて磨《と》ぐのだよ。今でも遣《や》つてる。嘘だと思ふなら來て御覽」

　看護婦はたゞへえゝと云つた。段々聞いて見ると、○○さんと云ふ患者は、ひどく其｜革砥《かはど》の音を氣にして、あれは何の音だ何の音だと看護婦に質問したのださうである。看護婦が何うも分らないと答へると、隣の人は大分《だいぶん》快《い》いので朝起きるすぐと、運動をする、其器械の音なんぢやないか羨ましいなと何遍も繰り返したと云ふ話である。

　「夫《そり》や好いが御前の方の音は何だい」

　「御前の方の音つて？」

　「そら能《よ》く大根《だいこ》を卸《おろ》す樣な妙な音がしたぢやないか」

　「えゝ彼《あ》れですか。あれは胡瓜《きうり》を擦《す》つたんです。患者さんが足が熱《ほて》つて仕方がない、胡瓜《きうり》の汁《つゆ》で冷してくれと仰しやるもんですから私《わたし》が始終｜擦《す》つて上げました」

　「じや矢張《やつぱり》大根卸《だいこおろし》の音なんだね」

　「えゝ」

　「さうか夫《それ》で漸く分つた。――一體○○さんの病氣は何だい」

　「直腸癌《ちよくちやうがん》です」

　「ぢや到底《とて》も六づかしいんだね」

　「えゝもう疾《と》うに。此處を退院なさると直《ぢき》でした、御亡《おな》くなりになつたのは」

　自分は黙然《もくねん》としてわが室《へや》に歸つた。さうして胡瓜《きうり》の音で他《ひと》を焦《じ》らして死んだ男と、革砥《かはど》の音を羨ましがらせて快《よ》くなつた人との相違を心の中で思ひ比べた。

明治四四、七、一九−二〇

　

　　　手紙

　

　　　　　一

　

　モーパサンの書いた「二十五日間」と題する小品には、ある温泉場の宿屋へ落ち付いて、着物や白襯衣《しろしやつ》を衣裝棚《いしやうだな》へ仕舞はうとする時に、其｜抽出《ひきだし》を開けてみたら、中から卷いた紙が出たので、何氣なく引き延ばして讀むと「｜私の二十五日《メ?ンサンジユール》」といふ標題が目に觸れたといふ冒頭が置いてあつて、其次に此無名氏の所謂《いはゆる》二十五日間が一字も變へぬ元の姿で轉載された體になつてゐる。

　プレ?ーの「不在」と云ふ端物《はもの》の書出《かきだし》には、巴里《パリー》のある雜誌に寄稿の安受合《やすうけあひ》をしたため、獨逸《ドイツ》の去《さ》る避暑地へ下りて、其處の宿屋の机か何かの上で、しきりに構想に惱みながら、何か種はないかといふ風に、机の抽出《ひきだし》を一々開けて見ると、最終の底から思ひがけなく手紙が出て來たとあつて、是にも其手紙がそつくり其儘出してある。

　二つとも能《よ》く似た趣向なので、或《あるひ》は新しいほうが古い人の遣《や》つた迹を踏襲したのではなからうかといふ疑ひさへ挾《さしは》さめる位だが、夫《それ》は自分には何うでも宜しい。たゞ自分もつい近ごろ、是と同樣の經驗をした事がある。その所爲《せゐ》か今迄は成程小説家｜丈《だけ》あつて旨く拵へるなと許《ばか》り感心してゐたのが、それ以後實際世の中には隨分似たことが澤山あるものだといふ氣になつて、寧ろ偶然の重複《ちようふく》に咏嘆《えいたん》する樣な心持が幾分かあるので、つい二人の作をこゝに並べて擧げたくなつたのである。

　尤もモーパサンのは標題の示す如く、逗留《とうりう》二十五日間の印象記と云ふ種類に屬すべきもので、プレ?ーのは滯在中の女客《をんなきやく》に宛てた艶《なま》めかしい男の文《ふみ》だから、双方とも無名氏の文字《もんじ》それ自身が興味の眼目である。自分の經驗も矢張｜不圖《ふと》した場所で意外な手紙の發見をしたと云ふ事にはなるが、それが導火線になつて、思ひがけなくある實際上の效果を收め得たのであるから、手紙其物には夫《それ》》程《ほど》興味がない。少くとも、小説的な情調の下《もと》に、それを讀み得なかつた自分には左《さ》ういふ興味はなかつた。其處が前にあげた佛蘭西《フランス》の二作家と違ふ所で、其處が又彼等よりも散文的な自分をして、彼等の例にならつて、其手紙を此話の中心として、一字殘らず寫さしめなかつた原因になる。

　手紙は疑ひもなく宿屋で發見されたのである。場所も場合も殆んど佛蘭西《フランス》の作家の筆にした所と殆んど變りはない。けれども何うしてか何《ど》んな手紙をとか云ふ問に答へるためには、それを發見した當時から約一週間程前に溯《さかの》ぼつて説明する必要がある。

　愈《いよ／＼》Ｋ市へ立つといふ前の晩に成つて、妻《さい》が丁度好い序《ついで》だから、歸りに重吉《ぢゆうきち》さんの所へ寄つて入らつしやい、さうして重吉さんに會つて、あの事をもつと判然《はつきり》極《き》めて入らつしやい。何だか紙鳶《たこ》が木の枝へ引懸《ひつかゝ》てゐながら、途中で揚がつてる樣な氣がして不可《いけ》ませんからと云つた。重吉の事は自分も同感であつた。夫《それ》にしても妻《さい》によく斯《こ》んな氣の利いた言葉が使へると思つて、御前誰かに教はつたのかいと、何も答へない先に、まづ冗談半分の疑ひを仄《ほの》めかして見た。すると妻《さい》は存外眞面目切つた顔付きで、何をですと問ひ返した。開き直つたといふ程でもないが、此方《こつち》の意味が通じなかつた事｜丈《だけ》は慥《たしか》な樣に見えたから、自分は紙鳶《たこ》の話は夫《それ》切《ぎり》にして、直接重吉の事を談合した。

　重吉といふのは自分の身内《みうち》とも厄介者とも片の付かない一種の青年であつた。一時は自分の家《うち》に寐起きをして迄學校へ通つた位關係は深いのであるが、大學へ這入つて以來下宿をしたぎり、四年の課程を終るまで、とう／＼家《うち》へは歸らなかつた。尤も別に疎遠になつたと云ふ譯ではない、日曜や土曜もしくは平日でさへ氣に向いた時は遣つて來て長く遊んで行つた。元來が鷹揚《おうやう》な性質《たち》で、素直《すなほ》に男らしく打《う》ち寛《くつ》ろいでゐる樣に見えるのが、持つて生れた此人の得《とく》であつた。それで自分も妻《さい》も甚だ重吉を好いてゐた。重吉の方でも自分等を叔父さん叔母さんと呼んでゐた。

　

　　　　二

　

　重吉は學校を出た許《ばかり》である。さうして出るや否やすぐ田舍へ行つて仕舞つた。何故《なぜ》そんな所へ行くのかと聞いたら別に大した意味もないが、唯《たゞ》口を頼んで置いた先輩が、行つたら何うだと勸めるから其氣になつたのだと答へた。それにしてもＨはあんまりぢやないか、責《せ》めて大阪とか名古屋とかなら地方でも仕方がないけれどもと、自分は當人が既に極《き》めたといふにも拘《かゝ》はらず一應彼のＨ｜行《ゆき》に反對して見た。其時重吉はたゞにや／＼笑つてゐた。さうして今急にあすこに缺員が出來て困つてると云ふから、當分の約束で行くのです、直《ぢき》又歸つて來ますと、恰《あたか》も未來が自分の勝手になる樣な物の云ひ方をした。自分は其場で重吉の「又歸つて來ます」を「歸つて來る積《つもり》です」に訂正して遣りたかつたけれども左《さ》う思ひ込んでゐるものゝ心を、無益にざわ付かせる必要もないからそれは夫《それ》なりにして置いて、ぢやあの事は何うする積《つもり》だと尋ねた。「あの事」は今迄の行き掛り上、重吉の立つ前に是非共聞いて置かなければならない問題だつたからである。すると重吉は別に氣に掛ける樣子もなく、萬事貴方に御任せするから宜敷《よろしく》願ひますと言つたなり、平氣でゐた。刺激に對して急劇な反應を示さないのは此男の天分であるが、夫《それ》にしても彼の年齡と、此問題の性質から一般的に見た所で、重吉の態度はあまり冷靜過ぎて、定量未滿の興味しか有《も》ち得《え》ないといふ風に思はれた。自分は少し不審を抱《いだ》いた。

　元來自分と妻《さい》と重吉の間にたゞ「あの事」として一種の符牒《ふてふ》の樣に通用してゐるのは、實を云ふと、彼の縁談に關する件であつた。卒業の少し前から話が續いてゐるので、自分達｜丈《だけ》には單なる「あの事」で一切《いつさい》の經過が明かに頭に浮《うか》む所爲《せゐ》か、別段改まつて相手の名前などは口へ出さないで濟ます事が多かつたのである。

　女は妻《さい》の遠縁に當たるものゝ次女であつた。其關係で時々自分の家《いへ》に出入《ではい》る所から自然重吉とも知合《しりあひ》になつて、會へば互に挨拶する位の交際が成立した。けれども二人の關係は夫《それ》以上に接近する機會も企てもなく、殆ど同じ距離で進行するのみに見えた。さうして二人共｜夫《それ》以上に何物をも求むる氣色《けしき》がなかつた。要するに二人の間は、年長者の監督の下《もと》に立つある少女と、まだ修業中の身分を自覺するある青年とが一種の社會的な事情から、互と顔を見合せて、禮儀に戻《もと》らない丈《だけ》の應對をするに過ぎなかつた。

　だから自分は驚いたのである。重吉が昂《あが》らず逼《せま》らず、常と少しも違はない平面な調子で、あの人を妻《さい》に貰ひたい、話して呉れませんかと云つた時には、君本當かと實際聞き返した位であつた。自分はすぐ重吉の擧止動作《きよしどうさ》が不斷に大抵は眞面目である如く、此の問題に對しても亦眞面目であるのを發見した。さうして過渡期の日本の社會道�ｺに背《そむ》いて、私《わたくし》の歩《ほ》を相互に進める事なしに、意志の重みを初から監督者たる父母《ふぼ》に寄せ掛けた彼の行ひ振りを快よく感じた。其處で彼の依頼を引き受けた。

　早速｜妻《さい》を遣《や》つて先方へ話をさせて見ると、妻《さい》は女の母の挨拶だといつて、妙な返事を齎《もたら》した。金はなくつても構はないから道樂をしない保證の付いた人でなければ遣らないと云ふのである。さうして何故《なぜ》そんな注文を出すかの、理由《いはれ》が説明として其返事に伴《ともな》つてゐた。

　女には一人の姉があつて、其姉は二、三年｜前《まへ》既にある資産家の所へ嫁に行つた。今でも行つてゐる。世間並《せけんなみ》の夫婦として別に他《ひと》の注意を惹く程の波瀾もなく、まづ平穩に納まつてゐるから、人目には夫《それ》で差支えない樣に見えるけれども、姉娘の父母《ふぼ》は此二三年の間に、苦々しい思ひを斷えず陰で舐《な》めさせられたのである。其｜凡《すべ》ては娘の片付いた先の夫《をつと》の不身持《ふみもち》から起こつたのだと云へば夫《それ》迄《まで》であるが、父母《ふぼ》だつて、娘の亭主を、業務上必要の交際《つきあひ》から追ひ出して迄、娘の權利と幸福を庇護しやうと試みる程｜捌《さば》けない人達ではなかつた。

　

　　　　三

　

　實を云ふと、父母《ふぼ》は始めから夫《それ》を承知の上で娘を嫁にやつたのである。それのみか、腕利《うできゝ》の腕を最も敏活に働かすといふ意味に解釋した酒と女は、仕事の上に缺くべからざる交際社會の必要條件と迄認めてゐた。夫《それ》だのに彼等はやがて眉を顰《ひそ》めなければならなくなつて來た。かねて丈夫であつた娘の健康が、嫁に入《い》つて暫くすると、目に付くやうに衰へ出したときに、彼等はもう相應に胸を傷めた。娘に會ふたびに母親は何處か惡くはないかと聞いた。娘はたゞ微笑して、別段何ともないと許《ばかり》答へてゐた。けれども其血色は次第に蒼くなる丈《だけ》であつた。さうして仕舞にはとう／＼病氣だと云ふ事が分つた。しかも其病氣があまり質《たち》の好いものでないといふ事が分つた。猶《なほ》よく探究すると、公《おほや》けに云ひ難い夫《をつと》の疾《やまひ》が何時《いつ》の間《ま》にか妻に感染したのだと云ふ事迄分つた。父母《ふぼ》の懸念が道�ｺ上の着色を帶びて、好惡《かうを》の意味で、娘の夫《をつと》に反射する樣になつたのは此時からである。彼等は氣の毒な長女を見るにつけて、是から嫁に遣る次女の夫《をつと》として、姉のそれと同型の道樂ものを想像するに堪へなくなつた。それで金はなくても構はないから、何うしても道樂をしない保險付の堅い人に貰つてもらはうと、夫婦の間に相談が纒まつたのである。

　自分の妻《さい》は先方から聞いてきた通りを斯う云ふ風に詳しく繰返して自分に話した後《のち》、重吉さんなら間違ひはなからうと思ふんですが、何うでせうと云つた。自分は只｜左様《さう》さと答へた儘、疊の上を見詰めてゐた。すると妻《さい》は稍《やゝ》疑ぐつたやうな調子で、重吉さんでも道樂をするんでせうかと聞いた。

　「まあ大丈夫だらうよ」

　「まあぢや困るは。本當に大丈夫でなくつちや。だつて若しか、嘘《うそ》でも吐《つ》いたら、私濟まないんですもの。私｜許《ばかし》ぢやない、貴方だつて責任が御有りぢやありませんか」

　斯う云はれて見ると成程先方へ好加減《いゝかげん》な返事をするのも如何《いかゞ》なものである。と云つて、あの重吉が遊ぶとは、何うしても考へられない。無論彼の容子《ようす》には爺々汚《ぢゞむさ》いとか無骨過ぎるとか、凡《すべ》て粹《いき》の裏へ廻るものは一つもなかつた。けれども全面が平たく尋常に出來上がつてゐる所爲《せゐ》か、何處と指《さ》して、此處が道樂臭いといふ點も亦｜丸《まる》で見當たらなかつた。自分は妻《さい》と色々話した末、斯う云つた。

　「まあ大抵｜宜《よ》からうぢやないか。道樂の方は受け合ひますと云つといでよ」

　「道樂の方つて――。爲《し》ない方をでせう」

　「當り前さ。爲《す》る方を受け合つちや大變だ」

　妻《さい》は又先方へ行つて、決して道樂をする樣な男ぢや御座いませんと受け合つた。話は夫《それ》から發展し始めたのである。重吉が地方へ行くと云ひだした時には、夫《それ》がずつと進行して、もう十の九迄は纒つてゐた。自分は重吉のＨへ立つ前に、わざ／＼先方へ出掛けて行つて、父母《ふぼ》の同意を求めた上で重吉を立たせた。

　重吉とお靜《しづ》さんとの關係は其處迄行つて、ぴたりと停《とま》つたなり今日《こんにち》に至つてまだ動かずにゐる。尤も自分は夫《それ》程《ほど》氣にも掛からない、今に何方《どつち》からか動きだすだらう、萬事は其時の事と覺悟を極めてゐたが、妻《さい》は女｜丈《だけ》に心配して、此間も長い手紙を重吉に遣《や》つて、一體あの事は何うなさる積《つもり》ですかと尋ねたら、重吉は萬事｜宜敷《よろしく》願ひますと例の通りの返事を寄こした。其前聞き合はせた時には、私はまだ道樂を始めませんから、大丈夫ですといふ端書が來た。妻《さい》は其端書を自分の所へ持つて來て、重吉さんも隨分｜呑氣《のんき》ね、まだ始めませんつて、今に始められた日にや、大丈夫でも何でもないぢやありませんか、冗談ぢやあるまいし、と少し怒《おこ》つた樣な語氣を洩らした。自分にも重吉の用ひた此まだと云ふ字が如何にも可笑《をか》しく思はれた。妻《さい》に、當人本氣なのかなと云つた位である。

　妻《さい》が評した如く、斯う云ふ風に、いつ迄も、紙鳶《たこ》が木の枝に引掛つて中途から揚がつてゐる樣な状態《ありさま》で推《お》して行かれては間へ這入つた自分達の責任としても、仕舞には放《はふ》つて置かれなくなるのは明らかだから、今度の旅行を幸ひ、歸りにＨへ寄つて、所謂《いはゆる》「あの事」をもつと判然《はつきり》片付けて來たら好からうと云ふ妻《さい》の意見に從ふ事に極めて家を出た。

　

　　　　四

　

　汽車中では重吉の地方生活を色々に想像する暇もあつたが、目的地へ下りるや否や、すぐ當用の爲に忙殺《ばうさい》されて、「あの事」抔《など》は殆ど考へもしなかつた。やう／＼四、五日掛つて、一段落が付いた時、自分は又汽車に搖られながら、まだ見ないＨの町や、其町の中にある重吉の下宿してゐる旅館などを、頭の奧に漂《たゞ》よふ畫《ゑ》の樣に眺めた。固《もと》より物數奇《ものずき》のさせる業《わざ》だから、煙草の煙《けぶり》に似て、取留める事の出來ないうちに、また煙草の煙《けむり》に似た淡い愉快があつた。とかくする内に汽車はとうとうＨへ着いた。

　自分はすぐ俥《くるま》を雇つて、重吉のゐる宿屋の玄關へ乘付けた。番頭に此處に佐野といふ人が下宿して居る筈だがと聞くと番頭は御辭儀を二つばかりして、佐野さんは先達《せんだつ》て迄《まで》御出《おいで》になりましたが、つい此間御引移りになりましたと云ふ。怪《け》しからん事だと思ひながらも、猶《なほ》引越先の模樣を尋ねて見ると、到底自分などの行つて、一晩でも二晩でも厄介になれさうな所ではないらしい。一層《いつそ》此處へ泊る方が樂だらうと思つて、ぢや空《あ》いた部屋へ案内して呉れと云ふと、番頭は又御辭儀を一つして、誠に御氣の毒様で御座いますが、招魂祭で何《ど》の室《へや》も塞《ふさ》がつて居りますのでと叮嚀に斷つた。自分は傘を突いた儘、しばらく玄關の前に立つてゐた。正式に云ふと、あらかじめ重吉に通知をした上、猶Ｈ着の時間を電報で云つて遣るべきであるが、可成《なるべく》御互の面倒を省いて簡略に事を濟ますのが當世だと思つて、わざと前觸《まへぶれ》なしに重吉を襲つたのであるが、愈《いよ／＼》來て見ると、自分の遣口《やりくち》はたゞの不注意から、出る不都合な結果を、自分の上に投げ掛けたと同じ事になつて仕舞つた。

　自分はＨにどんな宿屋が何軒あるか丸《まる》で知らなかつたが、此旅館が其内で一番善いのだと云ふ事｜丈《だけ》は、かねて受取つた重吉の手紙によつて心得てゐた。成程奧を覗いて見ると、廊下が折れ曲がつたり、中庭の先に新しい棟が見えたりして、さも廣さうで且《かつ》物綺麗であつた。自分は番頭に何處か都合が出來るだらうと云つた。番頭は當惑した樣な顔をして、暫く考へてゐたが、甚だ見苦しい所で、一夜泊《いちやどまり》の御客樣には御氣の毒で御座いますが、佐野さんの入らしつた御座敷なら、何うか致しませうと答へた。其｜口振《くちぶり》から察すると、何でも餘程｜汚《きた》ない所らしいので、又少し躊躇し掛けたが、もとより此地へ來て體裁《ていさい》を顧みる必要もない身だから、一晩や二晩は何《ど》んな室《へや》で明かしたつて構はないと云ふ氣になつて、此間迄重吉のゐたと云ふ其部屋へ案内して貰つた。

　室《へや》は第一の廊下を右へ折れて、其處の縁側から庭下駄を穿《は》いて、二足三足｜三和土《たゝき》の上を渡らなければ這入れない代りに何處とも續いていない所が、丸《まる》で一軒立《いつけんだち》の觀を與へた。天井の低いのや柱の細いのが、さも茶がかつた空氣を作ると共に、如何にも濕《しめ》つぽい陰氣な感じがした。さうして疊と云はず襖と云はず甚しく古びてゐた。向《むかふ》の藤棚の陰に見える少し出張つた新築の中二階｜抔《など》と較べると、丸《まる》で比較にならない程｜趣《おもむき》が違つてゐた。

　「斯《こ》んな所に這入つてゐたのか」と思ひながら、自分は茶を呑んで暫く座敷を見廻して居たが、やがて硯《すゞり》を借りて、重吉の所へやる手紙を書いた。たゞ簡單にＫ市へ用があつて來た序《ついで》に此處へ寄つたから、すぐ來いといふ丈《だけ》に留《とゞ》めた。夫《それ》から湯に入《はい》つて出ると、もう食事の時間になつた。自分は成るべく重吉と一所に晩飯を食はうと思つて、煙草を何本も吹かしながら、彼の來るのを心待ちに待つてゐるうちに、向ふの中二階に電氣燈が點《つ》いて、賑やかな人聲が聞こえ出した。自分はとう／＼待ち切れず一人《ひとり》膳に向つた。給仕に出た女が、招魂祭で何處の宿屋でも込《こ》み合《あ》つてゐるとか、町では色々の催しがあるとか、佐野さんも今晩は屹度《きつと》何處かへお呼ばれなすつたんでせうとか云ふのを聞きながら、麥酒《ビール》を一、二杯呑んだ。下女は重吉の事を大人《おと》なしい好い方だと云つた。女に惚れられるかと聞いたら、えへゝと笑つてゐた。道樂をするだらうと聞いたら、下を向いて小さな聲をしていゝえと答へた。

　

　　　　五

　

　食事が濟んで下女が膳を下げたのは、もう九時近くであつた。夫《それ》でも重吉はまだ顔を見せなかつた。自分はひとりで縁鼻へ座布團を運んで、手摺《てす》りに靠《もた》れながら向座敷《むかふざしき》の明るい電氣燈や派出《はで》な笑ひ聲を濕《しめ》つぽい空氣の中から遠く窺《うかゞ》つて詰らない心持を詰らないなりに引摺る樣な態度で、煙草｜許《ばかり》吹かしてゐた。そこへ先刻《さつき》の下女が襖を開けて、漸《やつ》と入らつしやいましたと案内をした。其《その》後《あと》から重吉が赤い顔をして入《はい》つて來た。自分は重吉の赤い顔を此時始めて見た。けれども席に着いて挨拶をする彼の樣子と云ひ、言葉數《ことばかず》と云ひ、抑揚《あげさげ》の調子と云ひ、凡《すべ》てが平生の重吉其儘でつた。自分は彼の言語動作のいづれの點にも、酒氣に驅られて動くのだと評して然るべき際立つた何物をも認めなかつたので、異常な彼の顔色に就いては、別に云ふ所もなく濟ました。少時《しばらく》して彼は茶器を代へに來た下女の名を呼んで、洋盃《コツプ》に水を一杯呉れと頼んだ。さうして自分の方を見ながら、何うも咽喉が渇いてと間接な辨解をした。

　「大分《だいぶ》飲んだんだね」

　「ええ御祭りで、少し飲まされました」

　赤い顔の事は簡單に是で濟んで仕舞つた。夫《そ》れから何處を何う話が通つたか覺えてゐないが、三十分｜許《ばかり》經《た》つうちに、自分も重吉も何時《いつ》の間《ま》にか、所謂《いはゆる》「あの事」の圏内《けんない》で受け答へをする樣になつた。

　「一體何うする氣なんだい」

　「何うする氣だつて、――無論貰ひたいんですがね」

　「眞劔の所を白状しなくつちや不可《いけ》ないよ。好加減《いゝかげん》な事を云つて引張る位なら、一層《いつそ》きつぱり今のうちに斷る方が得策だから」

　「今更斷るなんて、僕は御免だなあ。實際叔父さん、僕はあの人が好きなんだから」

　重吉の樣子に何處と云つて嘘らしい所は見えなかつた。

　「ぢや、もつと早くどし／＼片付けるが好いぢやないか、何時《いつ》迄《まで》立つても愚圖々々で、傍《はた》から見ると、如何にも煮え切らないよ」

　重吉は小さな聲で左樣《さう》かなと云つて、しばらく休んでゐたが、やがて元の調子に戻つて、斯う聞いた。

　「だつて貰つてこんな田舍へ連れてくるんですか」

　自分は田舍でも何でも構はない筈だと答へた。重吉は先方が夫《それ》を承知なのかと聞き返した。自分は其時一寸困つた。實はそんな細かな事迄先方の意見を確めた上で、談判に來た譯ではなかつたのだからである。けれども行き掛り上｜已《やむ》を得《え》ないので、

　「さう話したら、承知するだらうぢやないか」と勢ひよく云つて退《の》けた。

　すると、重吉は問題の方向を變へて、目下の經濟事情が、到底暖かい家庭を物質的に形づくる程の餘裕を有《も》つてゐないから、しばらくの間獨りで辛抱する積《つもり》でゐたのだといふ辯解をした上、最初の約束によれば、此年《ことし》の暮には月給が上がつて東京へ歸れる筈だから、其時は先さへ承知なら、どんな小さな家でも構へて、お靜《しづ》さんを迎へる考へだと話した。もし事が約束通りに運ばない爲、月給も上らず、東京へも歸れなかつた曉《あかつき》には、其時こそ、先方さへ異存がなければ、自分の云つた樣にする氣だから、何分｜宜敷《よろしく》頼むといふ事も附け加へた。自分は一應尤もだと思つた。

　「さうお前の腹が極まつてるなら、夫《それ》でいい。叔母さんも安心するだらう。御靜《おしづ》さんの方へも、よくさう話して置かう」

　「えゝ何うぞ――。然し僕の腹は大抵貴方がたには分つてる筈ですがねえ」

　「そんなら、あんな返事を寄こさないが好いよ。たゞ宜敷《よろしく》願ひます丈《だけ》ぢや何だか一向《いつかう》分らないぢやないか。さうして、あの端書は何だい。私はまだ道樂を始めませんから、大丈夫ですつて。本氣だか冗談だか丸《まる》で見當が付かない」

　「どうも濟みません。――然し全く本氣なんです」と云ひながら、重吉は苦笑して頭を掻いた。

　「あの事」は夫《それ》で切り上げて、あとは纒まらない四方山《よもやま》の話に夜《よ》を更《ふ》かした。折角だから二三日逗留して緩《ゆつ》くりして入らつしやいと勸めて呉れるのを斷つて、矢張｜翌日《あくるひ》立つ事にしたので、重吉はそんなら御疲れでせう、早く御休みなさいと挨拶して歸つて行つた。

　

　　　　六

　

　翌朝《あくるあさ》顔を洗つて室《へや》へ歸ると、棚の上の鏡臺が麗々《れい／＼》と障子の前に据ゑ直してある。自分は何氣《なにげ》なく其前に坐ると共に鏡の下の櫛を取り上げた。さうして其櫛を拭く積《つもり》か何かで、鏡臺の抽出《ひきだし》を力任せに開けて見た。すると淺い桐の底に、奧の方で、何か引掛《ひつかか》る樣な手應《てごたへ》がしたのが、忽ち輕くなつて、する／＼と、拔けて來た途端に、捲き納めて捩《ねぢ》れたやうな手紙の端が筋違《すぢかひ》に見えた。自分は引手繰《ひつたく》るやうに其手紙を取つて、直《すぐ》五六寸破いて櫛を拭かうとして見ると、細かい女の字で白紙《しらかみ》の闇《やみ》を辿《たど》ると云つたやうに、細長くひよろ／＼と何か書いてあるのに氣が付いた。自分は一寸《ちよつと》一二行讀んで見る氣になつた。然し此ひよろ／＼した文字が言文一致で綴られてゐるのを發見した時、自分の好奇心は最初の一二行では滿足する事が出來なくなつた。自分は知らず知らず、先に裂き破つた五六寸を一息《ひといき》に讀み盡くした。さうして裂き殘しの分へ迄もどん／＼進んで行つた。斯う進んで行くうちにも、自分は絶えず微笑を禁じ得なかつた。實をいふと手紙はある女から男に宛てた艶書なのである。

　艶書だけに一方から云ふと甚だ陳腐には相違ないが、それが又形式の極らない言文一致で勝手に書き流してあるので、隨分奇拔だと思ふ文句がひよい／＼と出て來た。ことに字違ひや假名違が眼に付いた。夫《それ》から感情の現はし方が如何にも露骨でありながら一種の型に入《はい》つてゐるといふ意味で誠《まこと》が却つて出てゐない樣にも見えた。最も恐るべく下手な戀の都々一《どゞいつ》なども遠慮なく引用してあつた。凡《すべ》てを綜合して、書き手の黒人《くろうと》である事が、誰の眼にも何より先にまづ映《うつ》る手紙であつた。どうせ無關係な第三者が他《ひと》の艶書の偸《ぬす》み讀《よみ》をするときに滑稽の興味が加はらない筈はない譯であるが、書き手が節操上の�ｺ義を負擔しないで濟む黒人《くろうと》の樣な場合には、此興味が他の嚴肅な社會的觀念に妨げられる虞《おそれ》がない丈《だけ》に、讀み手は甚だ氣樂なものである。

　さう云ふ譯で、自分は多大の興味を以て此長い手紙をくす／＼笑ひながら讀んだ。さうして讀みながら、こんなに女から思はれてゐる色男は、一體何者だらうかとの好奇心を、最後の一行が盡きて、名宛《なあて》の名が自分の眼の前に現れる迄引摺つて行つた。所が此好奇心が遺憾なく滿足されべき畫龍點睛《ぐわりゆうてんせい》の名前迄｜愈《いよ／＼》讀み進んだ時、自分は突然驚いた。名宛には重吉の姓と名が判然書いてあつた。

　自分は少しの間ぼんやり庭の方を見てゐた。夫《それ》から手に持つた手紙をさら／＼と卷いて浴衣《ゆかた》の懷《ふところ》へ入れた。さうして鏡の前で髪を分けた。時計を見ると、まだ七時である。然し自分は十時何分かの汽車で立つ筈になつてゐた。手を敲いて下女を呼んで、すぐ重吉を車で迎へに遣るやうに命じた。其間に飯を食ふ事にした。　何だか可笑《をか》しいといふ氣分も幾分か混《まじ》つてゐた。けれども惣體《そうたい》に「あの野郎」といふ心持の方が勝つてゐた。其あの野郎として重吉を眺めると、宿を易へて何時《いつ》迄《まで》も知らせなかつたり、散々人を待たせて、氣の毒さうな顔もしなかつたり、漸《やつ》と這入つて來たかと思ふと、一面アルコールに彩《いろ》どられてゐたり、凡《すべ》て不都合だらけである。が、平生｜何《ど》の角度に見ても尋常一式な彼《あの》男《をとこ》が、何時《いつ》の間《ま》に女から手紙などを貰つて濟まし返つてゐるのだらうと考へると、當り前過ぎる不斷の重吉と、色男として別に通用する特製の重吉との矛盾が頗る滑稽に見えた。從つて自分は何方《どつち》の感じで重吉に對して好いか分らなかつた。けれども何方《どつち》かに極めて、これを根本調《こんぽんてう》として會見しなければならないと云ふ事に氣が付いた。自分は食後の茶を飲んで楊枝《やうじ》を使ひながら、此處へ重吉が來たらどう取扱つたものだらうと考へた。

　

　　　　七

　

　其處へ宿から迎へに遣つた車に乘つて、彼はすぐ馳け付けて來た。彼に對する態度をまだ能《よ》く定めてゐない自分には、彼の來かたが寧ろ早過ぎる位、現れやうが今度は迅速であつた。彼は簡單に、早いぢやありませんか、今朝起きたら直《すぐ》上《あが》る積《つもり》でゐた所を御迎へで――と云つた儘、其處へ坐つて、自分の顔を正視した。此時｜傍《はた》から二人の樣子を虚心に觀察したら、重吉の方が自分より遙に無邪氣に見えたに違ない。自分は黙つてゐた。彼は白足袋に角帶で單衣《ひとへ》の下から鼠色の羽二重を掛けた襦袢《じゅばん》の襟を出してゐた。

　「今日は大分《だいぶ》洒落《しやれ》てるぢやないか」

　「昨夕《ゆうべ》も此｜服裝《なり》ですよ。夜だから分らなかつたんでせう」

　自分は又黙つた。それから又｜斯《こ》んな會話を二三度取り換はしたが、何時《いつ》でも其間に妙な穴が出來た。自分は此穴を故意に拵へてゐる樣な感じがした。けれども重吉にはそんな蟠《わだか》まりがないから、いくら口數《くちかず》を減らしても其態度が自《おのづ》から天然《てんねん》であつた。仕舞に自分は眞面目になつて、斯う云つた。

　「實は昨夕《ゆうべ》もあんなに話した、あの事だがね。何うだ、一層《いつそ》の事きつぱり斷つて仕舞つちや」

　重吉はちよつと腑に落ちないといふ顔付をしたが、それでも何時《いつ》もの樣なおつとりした調子で、何故ですかと聞き返した。

　「何故つて、君の樣な道樂ものは向《むかふ》の夫《をつと》になる資格がないからさ」

　今度は重吉が黙つた。自分は重ねて云つた。

　「己《おれ》はちやんと知つてるよ。お前の遊ぶ事は天下に隱れもない事實だ」

　斯う云つた自分は、急に自分の言葉が可笑《をか》しくなつた。けれども重吉が苦笑ひさへせずに控へてゐて呉れたので、此方《こつち》も眞面目に進行する事が出來た。

　「元來男らしくないぜ。人を胡麻化《ごまか》して自分の得《とく》ばかり考へるなんて。丸《まる》で詐欺だ」

　「だつて叔父さん、僕は病氣なんかに、まだ罹《かゝ》りやしませんよ」と重吉が割り込む樣に辯解したので、自分は又｜可笑《をか》しくなつた。

　「そんな事が他《ひと》に分るもんか」

　「いえ、全くです」

　「兎に角遊ぶのが既に條件違反だ。御前はとても御靜《おしづ》さんを貰ふ譯に行かないよ」

　「困るなあ」

　重吉は本當に困つた樣な顔をして、色々泣き付いた。自分は頑《ぐわん》として破談を主張したが、最後に、それならば、彼が女を迎へる迄の間、謹愼と後悔を表する證據として、月々俸給のうちから十圓｜宛《づゝ》自分の手本《てもと》へ送つて、それを結婚費用の一端とするなら、此事件は内濟にして勘辨してやらうと云ひ出した。重吉は十圓を五圓に負けてくれと云つたが、自分は聞き入れないで、とう／＼此方《こつち》の云ひ條通り十圓づゝ送らせる事に取り極めた。

　間もなく時間が來たので、自分は早速起つて着物を着換へた。さうして俥《くるま》を命じて停車場《ステーシヨン》へ急がした。重吉は無論付いて來た。けれども鞄《かばん》膝掛《ひざかけ》其他｜一切《いつさい》の手荷物は既に宿屋の番頭が始末をして、ちやんと列車内に運び込んであつたので、彼はたゞ手持無沙汰にプラツトフオームの上に立つて居た。自分は窓から首を出して、重吉の羽二重の襟と角帶と白足袋を、得意氣に眺めてゐた。愈《いよ／＼》發車の時刻になつて、車の輪が廻り始めたと思ふ際どい瞬間をわざと見計《みはから》つて、自分は隱袋《かくし》の中から今朝讀んだ手紙を出して、おい御土産《おみやげ》を遣ろうと云ひながら、出來る丈《だけ》長く手を重吉の方に伸《のば》した。重吉がそれを受取る時分には、汽車がもう動き出してゐた。自分は夫《それ》限《ぎり》首を列車内に引込《ひつこ》めたまゝ、停車場《ステーシヨン》を外《はづ》れる迄決してプラツトフオームを見返らなかつた。

　宅《うち》へ歸つても、手紙の事は妻《さい》には話さなかつた。旅行後一ケ月目に重吉から十圓屆いた時、妻《さい》はでも感心ねと云つた。二ケ月目に十圓屆いた時には、全く感心だわと云つた。三ケ月目には七圓しか來なかつた。すると妻《さい》は重吉さんも苦しいんでせうと云つた。自分から見ると、重吉の御靜さんに對する敬意は、此過去三ケ月間に於て、既に三圓がた缺乏してゐると云はなければならない。將來の敬意に至つては無論疑問である。

明治四四、七、二五−三一

　

　　　三山居士

　

　二月二十八日には生暖《なまあた》たかい風が朝から吹いた。其風が土の上を渡る時、地面は一度に濡れ盡くした。外を歩くと自分の踏む足の下から、熱に冒された病人の呼息《いき》の樣なものが、下駄の齒に蹴返される毎に、行く人の眼鼻口を惱ますべく、風の爲に吹き上げられる氣色《けしき》に見えた。家へ歸つて護謨合羽《ごむがつぱ》を脱ぐと、肩當《かたあて》の裏側が何時《いつ》の間《ま》にか濡れて、電燈の光に露の樣な光を投げ返した。不思議だから又羽織を脱ぐと、同じ場所が大きく二ケ所程汗で染め拔かれてゐた。余は其下に綿入《わたいれ》を重ねた上、フラネルの襦袢《じゆばん》と毛織の襯衣《しやつ》を着てゐたのだから、いくら不愉快な夕暮でも、肌に※［者／火］染《にじ》んだ汗の珠が此所迄浸み出さうとは思へなかつた。試《こゝ》ろみに綿入の脊中を撫で廻して貰ふと、果して何處も濕《しめ》つてゐなかつた。余は何うして一番上に着た護謨合羽と羽織｜丈《だけ》が、是程烈しく濡れたのだらうかと考へて、私《ひそ》かに不審を抱いた。

　池邊君《いけべくん》の容體《ようだい》が突然變つたのは、其日の十時半頃からで、一時は注射の利目《きゝめ》が見える位、落《お》ち付掛《つきか》けたのださうである。夫《それ》が午過《ひるすぎ》になつて又段々險惡に陷《おちい》つた揚句、とう／＼絶望の状態迄進んで來た時は、余が毎日の日課として筆を執りつゝある「彼岸過迄」を漸く書き上げたと同じ刻限である。池邊君が胸部に末期《まつご》の苦痛を感じて膏汗《あぶらあせ》を流しながら藻掻《もが》いてゐる間、余は池邊君に對して何らの顧慮も心配も拂ふ事が出來なかつたのは、君の朋友として、朋友にあるまじき無頓着な心持を抱《いだ》いてゐたと云ふ點に於て、如何にも殘念な氣がする。余が修善寺《しゅぜんじ》で生死の間に迷ふ程の心細い病み方をして居た時、池邊君は例《いつも》の通りの長大な?幹《からだ》を東京から運んで來て、余の枕邊《まくらべ》に坐つた。さうして苦《にが》い顔をしながら、醫者に騙《だま》されて來て見たと云つた。醫者に騙されたといふ彼は、固《もと》より余を騙す積《つもり》で斯ういふ言葉を發したのである。彼の死ぬ時には、斯《かう》いふ言葉を考へる餘地すら余に與へられなかつた。枕邊《まくらべ》に坐つて目禮をする一分時《いつぷんじ》さへ許されなかつた。余はたゞ其晩の夜半《やはん》に彼の死顔《しにがほ》を一目見た丈《だけ》である。

　其夜は吹荒《ふきす》さむ生温《なまぬる》い風の中に、夜着の數を減《へ》して、常よりは早く床に就いたが、容易に寢つかれない晩であつた。締りをした門《かど》を搖り動かして、使ひのものが、余を驚かすべく池邊君の訃《ふ》をもたらしたのは十一時過であつた。余はすぐに白い毛布《けつと》の中から出て服を改めた。車に乘るとき曇《どん》よりした不愉快な空を仰いで、風の吹く中へ車夫を駈けさした。路は齒の廻らない程｜泥濘《ぬか》つてゐるので、車夫のはあ／＼いふ息遣《いきづかひ》が、風に攫《さら》はれて行く途中で、折々余の耳を掠《かす》めた。不斷なら月の差すべき夜《よ》と見えて、空を蔽ふ氣味の惡い灰色の雲が、明らさまに東から西へ大きな幅の廣い帶を二筋｜許《ばかり》渡してゐた。其間が白く曇つて左右の鼠を却つて浮き出す樣に彩《いろど》つた具合が殊更《ことさら》に凄かつた。余が池邊邸《いけべてい》に着く迄空の雲は死んだ樣に丸《まる》で動かなかつた。

　二階へ上《あが》つて、姑《しばら》く社のものと話した後《あと》、余は口の利けない池邊君に最後の挨拶をする爲に、階下の室《へや》へ下りて行つた。其處には一人の僧が經を讀んでゐた。女が三四人次の間に黙つて控へて居た。遺骸は白い布《ぬの》で包んで其上に池邊君の平生《ふだん》着たらしい黒紋付が掛けてあつた。顔も白い晒《さら》しで隱してあつた。余が枕邊《まくらべ》近く寄つて、其｜晒《さら》しを取《と》り除《の》けた時、僧は讀經《どきやう》の聲をぴたりと止《と》めた。夜半《やはん》の燈《ひ》に透《す》かして見た池邊君の顔は、常と何の變る事もなかつた。刈り込んだ髯に交る白髪《しらが》が、忘る可からざる彼の特徴の如くに余の眼を射た。たゞ血の漲《みな》ぎらない兩頬の蒼褪《あおざ》めた色が、冷たさうな無常の感じを余の胸に刻《きざ》んだ丈《だけ》である。

　余が最後に生きた池邊君を見たのは、その母堂の葬儀の日であつた。柩《ひつぎ》の門を出やうとする間際に駈け付けた余が、門側《もんがは》に佇《たゝず》んで、葬列の通過を待つべく餘儀なくされた時、余と池邊君とは端《はし》なく目禮《もくれい》を取り換はしたのである。其時池邊君が帽を被らずに、草履の儘質素な服裝《なり》をして柩《ひつぎ》の後《あと》に續いた姿を今見る樣に覺えてゐる。余は生きた池邊君の最後の記念として其姿を永久に深く頭の奧に仕舞つて置かなければならなくなつたかと思ふと、其時言葉を交はさなかつたのが、甚だ名殘惜《なごりを》しく思はれてならない。池邊君は其時から既に血色が大變惡かつた。けれども其時なら口を利く事が充分出來たのである。

−明治四五、三、一−

　

　　　初秋の一日

　

　汽車の窓から怪しい空を覗いてゐると降り出して來た。それが細《こま》かい糠雨《ぬかあめ》なので、雨としてよりは寧ろ草木を濡らす淋《さび》しい色として自分の眼に映つた。三人は此の頃の天氣を恐れてみんな護謨合羽《ゴムがつぱ》を用意してゐた。けれども夫《それ》がいざ役に立つとなると決して嬉しい顔はしなかつた。彼等は其の日の佗《わ》びしさから推《お》して、二日後《ふつかご》に來る暗い夜《よる》の景色を想像したのである。

　「十三日に降つたら大變だなあ」とＯが獨言《ひとりごと》のやうに云つた。

　「天氣の時より病人が増えるだらう」と自分も氣のなさゝうに返事をした。

　Ｙは停車場前《ステーシヨンまへ》で買つた新聞に讀《よ》み耽《ふけ》つた儘一口も物を云はなかつた。雨は何時《いつ》の間《ま》にか強くなつて、窓硝子《まどガラス》に、碎けた露の球《たま》のやうなものが見え始めた。自分は閑靜な車輛のなかで、先年英國のエドワード帝を葬《はうぶ》つた時、五千人の卒倒者を出《いだ》した事などを思ひ出したりした。

　汽車を下りて車に乘つた時から、秋の感じは猶《なほ》強くなつた。幌《ほろ》の間から見ると車の前にある山が青く濡れ切つてゐる。其の青いなかの切通《きりどほ》しへ三人の車が靜かに掛つて行く。車夫は草鞋《わらぢ》も足袋も穿《は》かずに素足《すあし》を柔かさうな土の上に踏み附けて、腰の力で車を爪先上《つまさきのぼ》りに引き上げる。すると左右を鎖《とざ》す一面の芒《すゝき》の根から爽《さはや》かな蟲の音《ね》が聞え出した。それが幌《ほろ》を打つ雨の音に打ち勝つやうに高く自分の耳に響いた時、自分は此の果《はて》しもない蟲の音《ね》に伴《つ》れて、果《はて》しもない芒《すゝき》の簇《むらが》りを眼も及ばない遠くに想像した。さうしてそれを自分が今取り卷かれてゐる秋の代表者の如くに感じた。

　此の青い秋のなかに、三人は又｜眞赤《まつか》な鷄頭《けいとう》を見附けた。其の鮮やかな色の傍《そば》には掛茶屋《かけぢやや》めいた家があつて、縁臺の上に枝豆の殻《から》を干した儘積んであつた。木槿《むくげ》かと思はれる眞白な花も此處《こゝ》彼處《かしこ》に見られた。

　やがて車夫が梶棒《かぢぼう》を下《おろ》した。暗い幌《ほろ》の中を出ると、高い石段の上に萱葺《かやぶき》の山門が見えた。Ｏは石段を上《のぼ》る前に、門前の稻田《いなだ》の縁に立つて小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍《そば》へ行つて顰《ひん》に倣《なら》つた。夫《それ》から三人前後して濡れた石を踏《ふ》み乍《なが》ら典座寮《てんぞれう》と書いた懸札《かけふだ》の眼に附く庫裡《くり》から案内を乞うて座敷へ上つた。

　老師に會ふのは約二十年振である。東京からわざ／＼會ひに來た自分には、老師の顔を見るや否や、席に着かぬ前から、すぐ夫《それ》と解つたが先方では自分を全く忘れて居た。私はと云つて挨拶をした時老師はいや丸《まる》で御見逸《おみそ》れ申しましたと、改めて久濶《きうくわつ》を叙したあとで、久しい事になりますな、もう彼是二十年になりますから抔《など》と云つた。けれども其の二十年後の今、自分の眼の前に現れた小作りな老師は、二十年｜前《まへ》と大して變つてはゐなかつた。たゞ心持色が白くなつたのと、年の所爲《せゐ》か顔にどこか愛嬌が附いたのが自分の豫期と少し異《こと》なる丈《だけ》で、他は昔の儘のＳ禅師であつた。

　「私ももう直《ぢき》五十二になります」

　自分は老師の此の言葉を聞いた時、成程若く見える筈だと合點が行つた。實をいふと今迄腹の中では老師の年齒《とし》を六十位に勘定してゐた。然し今漸く五十一二とすると、昔自分が相見《しやうけん》の禮を執つた頃はまだ三十を超えた許《ばか》りの壯年だつたのである。夫《それ》でも老師は知識であつた。知識であつたから、自分の眼には比較的｜老《ふ》けて見えたのだらう。

　一所に連れて行つた二人を老師に引き合せて、巡錫《じゆんしやく》の打ち合せ抔《など》を濟ました後《あと》、しばらく雜談をしてゐるうちに、老師から縁切寺《えんきりでら》の由來やら、時頼夫人の開基《かいき》の事やら、どうして其んな尼寺へ住むやうになつた譯やら、色々聞いた。歸る時には玄關迄送つてきて、「今日は二百二十日ださうで……」と云はれた。三人は其の二百二十日の雨の中を、また切通《きりどほ》し越《ごえ》に町の方へ下《くだ》つた。

　翌朝《あくるあさ》は高い二階の上から降るでもなく晴れるでもなく、たゞ夢のやうに煙るＫの町を眼の下に見た。三人が車を並べて停車場《ステーシヨン》に着いた時、プラツトフオームの上には雨合羽を着た五六の西洋人と日本人が七時二十分の上り列車を待つべく無言の儘｜徘徊《はいくわい》してゐた。

　御大葬と乃木大將の記事で、都下で發行するあらゆる新聞の紙面が埋《うづ》まつたのは、夫《それ》から一日置いて次の朝の出來事である。

−大正一、九、二二−

　

　　　ケーベル先生の告別

　

　ケーベル先生は今日（八月十二日）日本を去る筈になつてゐる。然し先生はもう二三日｜前《まへ》から東京にはゐないだらう。先生は虚儀虚禮を嫌ふ念の強い人である。二十年前大學の招聘《せうへい》に應じて独逸《ドイツ》を立つ時にも、先生の氣性を知つてゐる友人は一人《ひとり》も停車場《ステーシヨン》へ送りに來なかつたといふ話である。先生は影の如く靜かに日本へ來て、又影の如くこつそり日本を去る氣らしい。

　靜な先生は東京で三度居を移した。先生の知つてゐる所は恐らく此の三軒の家《いへ》と、其處から學校へ通ふ道路位なものだらう。かつて先生に散歩をするかと聞いたら、先生は散歩をする處がないから、爲《し》ないと答へた。先生の意見によると、町は散歩すべきものでないのである。

　斯ういふい先生が日本といふ國について何も知らう筈がない。また知らうとする好奇心を有《も》つてゐる道理もない。私《わたし》が早稻田にゐると云つてさへ、先生には早稻田の方角が分らない位である。深田君に大隈伯《おほくまはく》の宅《うち》へ呼ばれた昔を注意されても、先生は既に忘れてゐる。先生には大隈伯の名さへ初めてゞあつたかも知れない。

　私《わたし》が先月十五日の夜《よ》晩餐の招待を受けた時、先生に國へ歸つても朋友がありますかと尋ねたら、先生は南極と北極とは別だが、外の處なら何處へ行つても朋友はゐると答へた。是は固《もと》より冗談《ぜうだん》であるが、先生の頭の奧に、區々たる場所を超越した世界的の觀念が潜んでゐればこそ斯《こ》んな挨拶も出來るのだらう。又斯んな挨拶が出來ればこそ、大した興味もない日本に二十年も永くゐて、不平らしい顔を見せる必要もなかつたのだらう。

　場所ばかりではない、時間の上でも先生の態度は全く普通の人と違つてゐる。郵船會社の汽船は半分｜荷物船《にもつぶね》だから船足が遲いのに、何故《なぜ》それを撰んだのかと私《わたし》が聞いたら、先生はいくら永く海の中に浮いてゐても苦にはならない、それよりも日本から伯林《ベルリン》迄《まで》十五日で行けるとか十四日で着けるとか云つて、旅行が一日でも早く出來るのを、非常の便利らしく考へてゐる人の心持が解らないと云つた。

　先生の金錢上の考へも、全く西洋人とは思はれない位無頓着である。先生の宅《うち》に厄介になつてゐたものなどは、隨分經濟の點にかけて、普通の家《いへ》には見るべからざる自由を與へられてゐるらしく思はれた。此前會つた時、ある蓄財家の話が出たら、一體あんなに金を溜めて何うする料簡だらうと云つて苦笑してゐた。先生はこれから先、日本政府から貰ふ恩給と、今迄の月給の餘りとで、暮らして行くのだが、其月給の餘りといふのは、天然自然に出來た本當の餘りで、用意の結果でも何でもないのである。

　總《すべ》て斯《こ》んな風に出來上つてゐる先生に一番大事なものは、人と人を結びつける愛と情《なさけ》だけである。ことに先生は自分の教へて來た日本の學生が一番好きらしく見える。私《わたし》が十五日の晩に、先生の家を辭して歸らうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、たゞ簡單に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた學生に、「左樣なら御機嫌よう」といふ一句を殘して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生は其外の事を云ふのは厭だといふのである。又いふ必要がないと云ふのである。同時に廣告欄に其文句を出すのも好まないといふのである。私《わたし》は已《やむ》を得《え》ないから、こゝに先生の許諾を得て、「さよなら御機嫌よう」の外に、私《わたし》自身の言葉を蛇足ながら付け加へて、先生の告別の辭が、先生の希望通り、先生の薫陶《くんたう》を受けた多くの人々の目に留まるやうに取り計らふのである。さうして其多くの人々に代つて、先生に恙《つゝが》なき航海と、穩やかな餘生とを、心から祈るのである。

−大正三、八、一二−

　

　　　戰争から來た行違ひ

　

　十一日の夜《よ》床に着いてから間もなく電話口へ呼び出されて、ケーベル先生が出發を見合すやうになつたといふ報知を受けた。然し其時はもう「告別の辭」を社へ送つてしまつた後なので私《わたし》は何うする譯にも行かなかつた。先生がまだ横濱の露西亞《ロシア》の總領事の許《もと》に泊つてゐて、日本を去る事の出來ないのは、全く今度の戰争のためと思はれる。從つて私《わたし》に此正誤を書かせるのも其戰争である。つまり戰争が正直な二人を嘘吐《うそつき》にしたのだと云はなければならない。

　然し先生の告別の辭は十二日に立つと立たないとで變る譯もなし、私《わたし》のそれに付け加へた蛇足な文句も、先生の去留によつて其價値に狂ひが出て來る筈もないのだから、我々は書いた事云つた事について取消しをだす必要は、固《もと》より認めてゐないのである。たゞ「自分の指導を受けた學〔右○〕生《せい》によろしく」とあるべきのを、「自分の指導を受けた先〔右○〕生《せい》によろしく」と校正が誤つてゐるの丈《だけ》は是非取り消して置きたい。斯《こ》んな間違の起るのも亦校正掛を忙殺《ばうさつ》する今度の戰争の罪かも知れない。

−大正三、八、一三−

　

　　　硝子戸の中

　

　　　　　　　　一

　

　硝子戸《がらすど》の中《うち》から外を見渡すと、霜除《しもよけ》をした芭蕉《ばせう》だの、赤い實《み》の結《な》つた梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、其《その》他《ほか》に是と云つて數へ立てる程のものは殆んど視線に入《はい》つて來《こ》ない。書齋にゐる私の眼界は極めて單調でさうして又極めて狹いのである。

　其上私は去年の暮から風邪《かぜ》を引いて殆んど表へ出ずに、毎日此硝子戸の中《うち》にばかり坐つてゐるので、世間の樣子はちつとも分らない。心持が惡いから讀書もあまりしない。私はたゞ坐つたり寐たりして其日其日を送つてゐる丈《だけ》である。

　然し私の頭は時々動く。氣分も多少は變る。いくら狹い世界の中でも狹いなりに事件が起つて來る。それから小さい私と廣い世の中とを隔離してゐる此｜硝子戸《がらすど》の中へ、時々人が入《はい》つて來《く》る。それが又私に取つては思ひ掛けない人で、私の思ひ掛けない事を云つたり爲《し》たりする。私は興味に充ちた眼をもつて夫《それ》等《ら》の人を迎へたり送つたりした事さへある。

　私はそんなものを少し書きつゞけて見やうかと思ふ。私はさうした種類の文字《もんじ》が、忙がしい人の眼に、どれ程つまらなく映《うつ》るだらうかと懸念してゐる。私は電車の中でポツケツトから新聞を出して、大きな活字｜丈《だけ》に眼を注《そゝ》いでゐる購讀者の前に、私の書くやうな閑散な文字《もんじ》を列《なら》べて紙面をうづめて見せるのを耻づかしいものゝ一つに考へる。是等の人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべて其日／＼の出來事のうちで、自分が重大と思ふ事件か、若《も》しくは自分の神經を相當に刺戟し得る辛辣《しんらつ》な記事の外には、新聞を手に取る必要を認めてゐない位、時間に餘裕を有《も》たないのだから。――彼等は停留所で電車を待ち合はせる間に、新聞を買つて、電車に乘つてゐる間に、昨日《きのふ》起つた社會の變化を知つて、さうして役所か會社へ行き着くと同時に、ポツケツトに収めた新聞紙の事は丸《まる》で忘れて仕舞はなければならない程忙がしいのだから。

　私は今是程切り詰められた時間しか自由に出來ない人達の輕蔑を冒《をか》して書くのである。

　去年から歐洲では大きな戰争が始まつてゐる。さうして其戰争が何時《いつ》濟むとも見當が付かない模樣である。日本でも其戰争の一小部分を引き受けた。それが濟むと今度は議會が解散になつた。來《きた》るべき總選擧は政治界の人々に取つての大切な問題になつてゐる。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入《はい》らないので、何處でも不景氣だと零《こぼ》してゐる。年中行事で云へば、春の相撲《すまふ》が近くに始まらうとしてゐる。要するに世の中は大變多事である。硝子戸《がらすど》の中《なか》に凝《ぢつ》と坐つてゐる私なぞは一寸新聞に顔が出せないやうな氣がする。私が書けば政治家や軍人や實業家や相撲狂《すまふきやう》を押《お》し退《の》けて書く事になる。私｜丈《だけ》ではとても夫《それ》》程《ほど》の膽力が出て來ない。たゞ春に何か書いて見ろと云はれたから、自分以外にあまり關係のない詰らぬ事を書くのである。それが何時《いつ》迄《まで》つゞくかは、私の筆の都合と、紙面の編輯の都合とできまるのだから、判然《はつきり》した見當は今付きかねる。

　

　　　　　　　　二

　

　電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがつて用事を訊いて見ると、ある雜誌社の男が、私の寫眞を貰ひいのだが、何時《いつ》撮《と》りに行つて好いか都合を知らして呉れろといふのである。私は「寫眞は少し困ります」と答へた。

　私は此雜誌と丸《まる》で關係を有《も》つてゐなかつた。それでも過去三四年の間に其一二冊を手にした記憶はあつた。人の笑つてゐる顔ばかりを澤山｜載《の》せるのが其特色だと思つた外に、今は何にも頭に殘つてゐない。けれども其所にわざとらしく笑つてゐる顔の多くが私に與へた不快の印象はいまだに消えずにゐた。夫《それ》で私は斷《こと》わらうとしたのである。

　雜誌の男は、卯年《うどし》の正月號だから卯年《うどし》の人の顔を並べたいのだといふ希望を述べた。私は先方のいふ通り卯年《うどし》の生れに相違なかつた。それで私は斯う云つた。――

　「あなたの雜誌へ出すために撮《と》る寫眞は笑はなくつては不可《いけな》いのでせう」

　「いえそんな事はありません」と相手はすぐ答へた。恰《あたか》も私が今迄其雜誌の特色を誤解してゐた如くに。

　「當り前の顔で構ひませんなら載《の》せてゐ頂《いた》だいても宜しう御座います」

　「いえそれで結構で御座いますから、何《ど》うぞ」

　私は相手と期日の約束をした上、電話を切つた。

　中一日《なかいちにち》置いて打ち合せをした時間に、電話を掛けた男が、綺麗な洋服を着て寫眞機を携へて私の書齋に這入つて來た。私はしばらく其人と彼の從事してゐる雜誌について話をした。それから寫眞を二枚｜撮《と》つて貰つた。一枚は机の前に坐つてゐる平生の姿、一枚は寒い庭前《にはさき》の霜の上に立つてゐる普通の態度であつた。書齋は光線が能《よ》く透《とほ》らないので、機械を据ゑ付けてからマグネシアを燃《も》した。其火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束では御座いますが、少し何うか笑つて頂けますまいか」と云つた。私は其時突然｜微《かす》かな滑稽を感じた。然し同時に馬鹿な事をいふ男だといふ氣もした。私は「是で好いでせう」と云つたなり先方の注文には取り合はなかつた。彼が私を庭の木立《こだち》の前に立たして、レンズを私の方へ向けた時も亦前と同じ樣な鄭寧な調子で、「御約束では御座いますが、少し何うか……」と同じ言葉を繰り返した。私は前よりも猶《なほ》笑ふ氣になれなかつた。

　それから四日ばかり經《た》つと、彼は郵便で私の寫眞を届けて呉れた。然し其寫眞は正《まさ》しく彼の注文通りに笑つてゐたのである。其時私は中《あて》が外《はづ》れた人のやうに、しばらく自分の顔を見詰めてゐた。私にはそれが何うしても手を入れて笑つてゐるやうに拵《こしら》へたものとしか見えなかつたからである。

　私は念のため家《うち》へ來る四五人のものに其寫眞を出して見せた。彼等はみんな私と同樣に、何《ど》うも作つて笑はせたものらしいといふ鑑定を下《くだ》した。

　私は生れてから今日《こんにち》迄《まで》に、人の前で笑ひたくもないのに笑つて見せた經驗が何度となくある。その偽《いつは》りが今此寫眞師のために復讐《ふくしう》を受けたのかも知れない。

　彼は氣味のよくない苦笑を洩らしてゐる私の寫眞を送つて呉れたけれども、其寫眞を載せると云つた雜誌は遂に届けなかつた。

　　　　　三

　

　私がＨさんからヘクトーを貰つた時の事を考へると、もう何時《いつ》の間《ま》にか三四年の昔になつてゐる。何だか夢のやうな心持もする。

　其時彼はまだ乳離《ちばな》れのした許《ばかり》の小供であつた。Ｈさんの御弟子は彼を風呂敷に包んで電車に載《の》せて宅《うち》迄《まで》連れて來てくれた。私は其《その》夜《よ》彼を裏の物置の隅に寐かした。寒くないやうに藁を敷いて、出來《でき》る丈《だけ》居心地の好い寐床を拵えてやつたあと、私は物置の戸を締めた。すると彼は宵《よひ》の口《くち》から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破つて外へ出ようとした。彼は暗い所にたつた獨り寐るのが淋しかつたのだらう、翌《あく》る朝《あさ》迄《まで》まんじり〔四字傍点〕ともしない樣子であつた。

　此不安は次の晩もつゞいた。其《その》次《つぎ》の晩もつゞいた。私は一週間餘りかゝつて、彼が與へられた藁の上に漸く安らかに眠るやうになる迄、彼の事が夜《よる》になると必ず氣に掛つた。

　私の小供は彼を珍らしがつて、間《ま》がな隙《すき》がな玩弄物《おもちや》にした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事が出來なかつた。所が生きたものを相手にする彼等には、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があつた。それで彼等は私に向つて犬に名を命《つ》けて呉れとせがみ出した。私はとう／＼ヘクトーといふ偉い名を、此小供達の朋友《ほういう》に與へた。

　それはイリアツドに出てくるトロイ一の勇將の名前であつた。トロイと希臘《ギリシヤ》と戰爭をした時、ヘクトーは遂にアキリスの爲に打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達の讐《かたき》を取つたのである。アキリスが怒《いか》つて希臘方《ギリシヤがた》から躍り出した時に、城の中に逃げ込まなかつたものはヘクトー一人であつた。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐつてアキリスの鋒先《ほこさき》を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐつて其《その》後《あと》を追ひ懸けた。さうして仕舞にとう／＼ヘクトーを槍《やり》で突き殺した。それから彼の死骸を自分の軍車《チヤリオツト》に縛り付けて又トロイの城壁を三度引き摺り廻した。……

　私は此偉大な名を、風呂敷包にして持つて來た小さい犬に與へたのである。何にも知らない筈の宅《うち》の小供も、始めは變な名だなあと云つてゐた。然しぢきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれる度に、嬉しさうに尾を振つた。仕舞には流石《さすが》の名もジヨンとかジオージとかいふ平凡な耶蘇教信者《ヤソけうしんじや》の名前と一樣に、毫《がう》も古典的《クラシカル》な響を私に與へなくなつた。同時に彼は次第に宅《うち》のものから元《もと》程《ほど》珍重されないやうになつた。

　ヘクトーは多くの犬が大抵｜罹《かゝ》るジステンパーといふ病氣の爲に一時入院した事がある。其時は子供がよく見舞に行つた。私も見舞に行つた。私の行つた時、彼はさも嬉しさうに尾を振つて、懷《なつ》かしい眼を私の上に向けた。私はしやがんで私の顔を彼の傍《そば》へ持つて行つて、右の手で彼の頭を撫でて遣つた。彼は其返禮に私の顔を所嫌はず舐《な》めやうとして已《や》まなかつた。其時彼は私の見てゐる前で、始めて醫者の勸める小量の牛乳を呑んだ。夫《それ》迄《まで》首を傾《かし》げてゐた醫者も、此分なら或は癒《なほ》るかも知れないと云つた。ヘクトーは果して癒つた。さうして宅《うち》へ歸つて來て、元氣に飛び廻つた。

　

　　　　　四

　

　日ならずして、彼は二三の友達を拵えた。其《その》中《うち》で最も親しかつたのはすぐ前の醫者の宅《うち》にゐる彼と同年輩位の惡戯者《いたづらもの》であつた。是は基督教徒《キリストけうと》に相應《ふさは》しいジヨンといふ名前を持つてゐたが、其性質は異端者《いたんしや》のヘクトーよりも遙《はるか》に劣つてゐたやうである。無暗に人に噛み付く癖があるので、仕舞にはとう／＼打《う》ち殺《ころ》されてしまつた。

　彼は此惡友を自分の庭に引き入れて勝手な狼藉を働らいて私を困らせた。彼等はしきりに樹の根を堀つて用もないのに大きな穴を開《あ》けて喜んだ。綺麗な草花の上にわざと寐轉んで、花も莖も容赦《ようしや》なく散らしたり、倒したりした。

　ジヨンが殺されてから、無聊《ぶれう》な彼は夜遊《よあそ》び晝遊びを覺えるやうになつた。散歩｜抔《など》に出掛る時、私はよく交番の傍《そば》に日向《ひなた》ぼつこをしてゐる彼を見る事があつた。それでも宅《うち》にさへゐれば、能《よ》くうさん臭いものに吠え付いて見せた。其内で最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所邊から來る十歳《とを》ばかりになる角兵衛獅子《かくべゑじし》の子であつた。此子は何時《いつ》でも「今日《こんち》は御祝ひ」と云つて入《はい》つて來る。さうして家《うち》の者から、?麭《パン》の皮と一錢銅貨を貰はないうちは歸らない事に一人で極めてゐた。だからヘクトーが幾何《いく》ら吠えても逃げ出さなかつた。却つてヘクトーの方が、吠えながら尻尾《しつぽ》を股の間に挾んで物置の方へ退却するのが例になつてゐた。要するにヘクトーは弱虫であつた。さうして操行からいふと、殆んど野良犬《のらいぬ》と擇《えら》ぶ所のない程に墮落してゐた。夫《それ》でも彼等に共通な人懷《ひとなつ》つこい愛情は何時《いつ》迄《まで》も失はずにゐた。時々顔を見合せると、彼は必ず尾を掉《ふ》つて私に飛び付いて來た。或は彼の脊を遠慮なく私の身體に擦《す》り付《つ》けた。私は彼の泥足の爲に、衣服や外套を汚《よご》した事が何度あるか分らない。

　去年の夏から秋へ掛けて病氣をした私は、一ケ月ばかりの間《あひだ》つひにヘクトーに會ふ機會を得ずに過ぎた。病《やまひ》が漸く怠《おこた》つて、床《とこ》の外へ出られるやうになつてから、私は始めて茶の間の縁《えん》に立つて彼の姿を宵闇《よひやみ》の裡《うち》に認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。然し生垣《いけがき》の根に凝《じつ》とうづくまつてゐる彼は、いくら呼んでも少しも私の情《なさ》けに應じなかつた。彼は首も動かさず、尾も振らず、たゞ白い塊《かたまり》のまゝ垣根にこびり付いてる丈《だけ》であつた。私は一ケ月ばかり會《あ》はないうちに、彼がもう主人の聲を忘れてしまつたものと思つて、微《かす》かな哀愁を感ぜずには居られなかつた。

　まだ秋の始めなので、何處《どこ》の間《ま》の雨戸も締められずに、星の光が明け放たれた家《いへ》の中からよく見られる晩であつた。私の立つてゐた茶の間の縁には、家《うち》のものが二三人居た。けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼等は振り向きもしなかつた。私がヘクトーに忘れられた如くに、彼等も亦ヘクトーの事を丸《まる》で念頭に置いてゐないやうに思はれた。

　私は黙つて座敷へ歸つて、其處に敷いてある布團の上に横になつた。病後の私は季節に不相當な黒八丈の襟のかゝつた銘仙のどてらを着てゐた。私はそれを脱ぐのが面倒だから、其儘｜仰向《あふむけ》に寐て、手を胸の上で組み合せたなり黙つて天井を見詰めてゐた。

　

　　　　　五

　

　翌朝《あくるあさ》書齋の縁に立つて、初秋《はつあき》の庭の面《おもて》を見渡した時、私は偶然又彼の白い姿を苔の上に認めた。私は昨夕《ゆうべ》の失望を繰り返すのが厭さに、わざと彼の名を呼ばなかつた。けれども立つたなり凝《じつ》と彼の樣子を見守らずにはゐられなかつた。彼は立木《たちき》の根方《ねがた》に据ゑつけた石の手水鉢《てうづばち》の中に首を突き込んで、其處に溜つてゐる雨水《あまみづ》をぴちや／＼飲んでゐた。

　此｜手水鉢《てうづばち》は何時《いつ》誰が持つて來たとも知れず、裏庭の隅に轉がつてゐたのを、引越した當時植木屋に命じて今の位置に移させた六角形《ろくかくがた》のもので、其頃は苔が一面に生えて、側面に刻み付けた文字《もんじ》も全く讀めないやうになつてゐた。然し私には移す前一度｜判然《はつきり》とそれを讀んだ記憶があつた。さうして其記憶が文字として頭に殘らないで、變な感情としていまだに胸の中を徃來してゐた。其所には寺と佛と無常の匂《にほひ》が漂《たゞよ》つてゐた。

　ヘクトーは元氣なささうに尻尾《しつぽ》を垂れて、私の方へ脊中を向けてゐた。手水鉢《てうづばち》を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎《よだれ》を見た。

　「何うかして遣らないと不可《いけな》い。病氣だから」と云つて、私は看護婦を顧みた。私は其時まだ看護婦を使つてゐたのである。

　私は次の日も木賊《とくさ》の中に寐てゐる彼を一目見た。さうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。然しヘクトーは夫《それ》以來《いらい》姿を隱したぎり再び宅《うち》へ歸つて來なかつた。

　「醫者へ連れて行かうと思つて、探したけれども何處にも居りません」

　家《うち》のものは斯う云つて私の顔を見た。私は黙つてゐた。然し腹の中《なか》では彼を貰ひ受けた當時の事さへ思ひ起された。届書《とゞけしよ》を出す時、種類といふ下へ混血兒《あひのこ》と書いたり、色といふ字の下へ赤斑《あかまだら》と書いた滑稽も微《かす》かに胸に浮んだ。

　彼が居なくなつて約一週間も經《た》つたと思ふ頃、一二丁｜隔《へだゝ》つたある人の家から下女が使に來た。其人の庭にある池の中に犬の死骸が浮いてゐるから引き上げて頸輪《くびわ》を改ためて見ると、私の家《いへ》の名前が彫《ほ》り付《つ》けてあつたので、知らせに來たといふのである。下女は「此方《こちら》で埋《う》めて置きませうか」と尋ねた。私はすぐ車夫《くるまや》を遣《や》つて彼を引き取らせた。

　私は下女をわざ／＼寄こしてくれた宅《うち》が何處にあるか知らなかつた。たゞ私の子供の時分から覺えてゐる古い寺の傍《そば》だらうと許《ばかり》考へてゐた。それは山鹿素行《やまがそかう》の墓のある寺で、山門の手前に、舊幕時代の記念のやうに、古い榎《えのき》が一本立つてゐるのが、私の書齋の北の縁から數多《あまた》の屋根を越して能《よ》く見えた。

　車夫《くるまや》は筵《むしろ》の中にヘクトーの死骸を包《くる》んで歸つて來た。私はわざとそれに近付かなかつた。白木《しらき》の小さい墓標を買つて來《こ》さして、それへ「秋風の聞えぬ土に埋《う》めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家《うち》のものに渡して、ヘクトーの眠つてゐる土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北《ひがしきた》に當つて、ほゞ一間ばかり離れてゐるが、私の書齋の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸《がらすど》のうちから、霜に荒された裏庭を覗くと、二つとも能《よ》く見える。もう薄黒く朽ち掛けた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々《なま／＼》しく光つてゐる。然し間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼に付かなくなるだらう。

　

　　　　　六

　

　私は其女に前後四五回會つた。

　始めて訪ねられた時私は留守であつた。取次のものが紹介状を持つて來るやう注意したら、彼女は別にそんなものを貰ふ所がないといつて歸つて行つたさうである。

　それから一日程經つて、女は手紙で直接《ぢか》に私の都合を聞き合せに來た。其手紙の封筒から、私は女がつい眼と鼻の間に住んでゐる事を知つた。私はすぐ返事を書いて面會日を指定して遣つた。

　女は約束の時間を違《たが》へず來た。三《み》つ柏《がしは》の紋のついた派出《はで》な色の縮緬の羽織を着てゐるのが、一番先に私の眼に映つた。女は私の書いたものを大抵讀んでゐるらしかつた。それで話は多くそちらの方面へばかり延びて行つた。然し自分の著作に就いて初見の人から賛辭ばかり受けてゐるのは、有難いやうで甚だこそばゆいものである。實をいふと私は辟易した。

　一週間置いて女は再び來た。さうして私の作物《さくぶつ》をまた賞《ほ》めて呉れた。けれども私の心は寧ろさういふ話題を避けたがつてゐた。三度目に來た時、女は何かに感激したものと見えて、袂から手帛《ハンケチ》を出して、しきりに涙を拭《ぬぐ》つた。さうして私に自分の是迄經過して來た悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。然し其話を聽かない私には何といふ返事も與へられなかつた。私は女に向つて、よし書くにした所で迷惑を感ずる人が出て來はしないかと訊いて見た。女は存外｜判然《はつきり》した口調で、實名《じつみやう》さへ出さなければ構はないと答へた。それで私はとにかく彼女の經歴を聽くために、とくに時間を拵へた。

　すると其日になつて、女は私に會ひたいといふ別の女の人を連れて來て、例の話は此次に延ばして貰ひたいと云つた。私には固《もと》より彼女の違約を責める氣はなかつた。二人を相手に世間話をして別れた。

　彼女が最後に私の書齋に坐つたのは其次の日の晩であつた。彼女は自分の前に置かれた桐の手焙《てあぶり》の灰を、眞鍮《しんちゆう》の火箸で突ツつきながら、悲しい身の上話を始める前、黙つてゐる私に斯う云つた。

　「此間は昂奮して私の事を書いて頂きたいやうに申し上げましたが、それは止《や》めに致します。たゞ先生に聞いて頂く丈《だけ》にして置きますから、何うか其｜御積《おつもり》で……」

　私はそれに對して斯う答へた。

　「あなたの許諾を得ない以上は、たとひどんなに書きたい事柄が出て來ても決して書く氣遣《きづかひ》はありませんから御安心なさい」

　私が充分な保證を女に與へたので、女はそれではと云つて、彼女の七八年前からの經歴を話し始めた。私は黙然《もくねん》として女の顔を見守つてゐた。然し女は多く眼を伏せて火鉢の中ばかり眺めてゐた。さうして綺麗な指で、眞鍮の火箸を握つては、灰の中へ突き刺した。

　時々腑に落ちない所が出てくると、私は女に向つて短かい質問を掛けた。女は單簡《たんかん》に又私の納得《なつとく》出來るやうに答をした。然し大抵は自分一人で口を利いてゐたので、私は寧ろ木像のやうに凝《じつ》としてゐる丈《だけ》であつた。

　やがて女の頬は熱《ほて》つて赤くなつた。白粉《おしろい》をつけてゐない所爲《せゐ》か、その熱《ほて》つた頬の色が著るしく私の眼に着いた。俯向《うつむき》になつてゐるので、澤山ある黒い髪の毛も自然私の注意を惹《ひ》く種になつた。

　

　　　　　七

　

　女の告白は聽いてゐる私を息苦しくした位に悲痛を極めたものであつた。彼女は私に向つて斯《こ》んな質問を掛けた。――

　「もし先生が小説を御書きになる場合には、其女の始末を何うなさいますか」

　私は返答に窮した。

　「女の死ぬ方が宜《い》いと御思ひになりますか、それとも生きてゐるやうに御書きになりますか」

　私は何方《どちら》にでも書けると答へて、暗《あん》に女の氣色《けしき》をうかヾつた。女はもつと判然《はつきり》した挨拶を私から要求するやうに見えた。私は仕方なしに斯う答へた。――

　「生きるといふ事を人間の中心點として考へれば、其儘にして居て差支ないでせう。然し美くしいものや氣高いものを一義に置いて人間を評價すれば、問題が違つて來るかも知れません」

　「先生はどちらを御擇《おえら》びになりますか」

　私は又躊躇した。黙つて女のいふ事を聞いてゐるより外に仕方がなかつた。

　「私は今持つてゐる此美しい心持が、時間といふものゝ爲に段々薄れて行くのが怖《こは》くつて堪《たま》らないのです。此記憶が消えてしまつて、たゞ漫然と魂の拔殻《ぬけがら》のやうに生きてゐる未來を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくつて堪らないのです」

　私は女が今廣い世間《せかい》の中にたつた一人立つて、一寸《いつすん》も身動きの出來ない位置にゐる事を知つてゐた。さうして夫《それ》が私の力で何うする譯にも行かない程に、せつぱ詰《つま》つた境遇である事も知つてゐた。私は手の付けやうのない人の苦痛を傍觀する位置に立たせられて凝《じつ》としてゐた。

　私は服藥の時間を計るため、客の前も憚からず常に袂時計《たもとどけい》を座蒲團の傍《わき》に置く癖を有《も》つてゐた。

　「もう十一時だから御歸りなさい」と私は仕舞に女に云つた。女は厭な顔もせずに立ち上つた。私は又「夜が更《ふ》けたから送つて行つて上げませう」と云つて、女と共に沓脱《くつぬぎ》に下りた。

　其時美くしい月が靜かな夜《よ》を殘る隈《くま》なく照らしてゐた。徃來へ出ると、ひつそりした土の上にひゞく下駄の音は丸《まる》で聞こえなかつた。私は懷手をした儘帽子も被らずに、女の後《あと》に跟《つ》いて行つた。曲り角の所で女は一寸會釋して、「先生に送つて頂いては勿體《もつたい》なう御座います」と云つた。「勿體ない譯がありません。同じ人間です」と私は答へた。

　次の曲り角へ來たとき女は「先生に送つて頂くのは光榮で御座います」と又云つた。私は「本當に光榮と思ひますか」と眞面目に尋ねた。女は簡單に「思ひます」とはつきり答へた。私は「そんなら死なずに生きて居らつしやい」と云つた。私は女が此言葉を何う解釋したか知らない。私はそれから一丁ばかり行つて、又｜宅《うち》の方へ引き返したのである。

　むせつぽいやうな苦しい話を聞かされた私は、其《その》夜《よ》却つて人間らしい好い心持を久し振に經驗した。さうしてそれが尊《たつ》とい文藝上の作物《さくぶつ》を讀んだあとの氣分と同じものだといふ事に氣が付いた。有樂座や帝劇へ行つて得意になつてゐた自分の過去の影法師が何となく淺ましく感ぜられた。

　

　　　　　八

　

　不愉快に充ちた人生をとぼ／＼辿《たど》りつゝある私は、自分の何時《いつ》か一度到着しなければならない死といふ境地に就いて常に考へてゐる。さうして其死といふものを生よりは樂なものだとばかり信じてゐる。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思ふ事もある。

　「死は生よりも尊《たつ》とい」

　斯ういふ言葉が近頃では絶えず私の胸を徃來《わうらい》するやうになつた。

　然し現在の私は今まのあたりに生きてゐる。私の父母《ふぼ》、私の祖父母《そふぼ》、私の曾祖父母《そうそふぼ》、それから順次に溯《さかの》ぼつて、百年、二百年、乃至千年萬年の間に馴致《じゅんち》された習慣を、私一代で解脱《げだつ》する事が出來ないので、私は依然として此生に執着してゐるのである。

　だから私の他《ひと》に與へる助言《じよごん》は何うしても此生の許す範圍内に於てしなければ濟まない樣に思ふ。何ういふ風に生きて行くかといふ狹い區域のなかでばかり、私は人類の一人《いちにん》として他の人類の一人に向はなければならないと思ふ。既に生の中に活動する自分を認め、又其生の中に呼吸する他人を認める以上は、互ひの根本義は如何に苦しくても如何に醜くても此生の上に置かれたものと解釋するのが當り前であるから。

　「もし生きてゐるのが苦痛なら死んだら好いでせう」

　斯うした言葉は、どんなに情《なさけ》なく世を觀ずる人の口からも聞き得ないだらう。醫者などは安らかな眠に赴むかうとする病人に、わざと注射の針を立てゝ、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝《こ》らしてゐる。こんな拷問《がうもん》に近い所作《しよさ》が、人間の�ｺ義として許されてゐるのを見ても、如何に根強く我々が生の一字に執着してゐるかゞ解る。私はつひに其人に死をすゝめる事が出來なかつた。

　其人はとても回復の見込みのつかない程深く自分の胸を傷《きずつ》けられてゐた。同時に其傷が普通の人の經驗にないやうな美くしい思ひ出の種となつて其人の面《おもて》を輝やかしてゐた。

　彼女はその美くしいものを寶石の如く大事に永久彼女の胸の奧に抱《だ》き締《し》めてゐたがつた。不幸にして、その美くしいものは取も直さず彼女を死以上に苦しめる手傷《てきず》其物《そのもの》であつた。二つの物は紙の裏表の如く到底引き離せないのである。

　私は彼女に向つて、凡《すべ》てを癒《いや》す「時」の流れに從つて下《くだ》れと云つた。彼女は若しさうしたら此大切な記憶が次第に剥げて行くだらうと嘆いた。

　公平な「時」は大事な寶物《たからもの》を彼女の手から奪ふ代りに、其傷口も次第に療治して呉れるのである。烈しい生の歡喜を夢のやうに暈《ぼか》してしまふと同時に、今の歡喜に伴なふ生々《なま／＼》しい苦痛も取《と》り除《の》ける手段を怠たらないのである。

　私は深い戀愛に根ざしてゐる熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口《きずぐち》から滴《したゝ》る血潮を「時」に拭はしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適當だつたからである。

　斯くして常に生よりも死を尊《たつと》いと信じてゐる私の希望と助言《じよごん》は、遂に此不愉快に充ちた生といふものを超越する事が出來なかつた。しかも私にはそれが實行上に於ける自分を、凡庸な自然主義者として證據立てたやうに見えてならなかつた。私は今でも半信半疑の眼で凝《じつ》と自分の心を眺めてゐる。

　

　　　　　九

　

　私が高等學校にゐた頃、比較的親しく交際《つきあ》つた友達の中にＯといふ人がゐた。其時分から餘り多くの朋友を持たなかつた私には、自然Ｏと徃來《ゆきき》を繁くするような傾向があつた。私は大抵一週に一度位の割で彼を訪ねた。ある年の暑中休暇などには、毎日缺かさず眞砂町《まさごちやう》に下宿してゐる彼を誘つて、大川《おほかは》の水泳場迄行つた。

　Ｏは東北の人だから、口の利き方に私などゝ違つた鈍《どん》でゆつたりした調子があつた。さうして其調子が如何にも能《よ》く彼の性質を代表してゐるやうに思はれた。何度となく彼と議論をした記憶のある私は、遂に彼の怒《おこ》つたり激したりする顔を見る事が出來ずにしまつた。私はそれ丈《だけ》でも充分彼を敬愛に價《あたひ》する長者《ちやうしや》として認めてゐた。

　彼の性質が鷹揚《おうやう》である如く、彼の頭腦も私よりは遙かに大きかつた。彼は常に當時の私には、考への及ばないやうな問題を一人で考へてゐた。彼は最初から理科へ入《はい》る目的を有《も》つてゐながら、好んで哲學の書物などを繙《ひもと》いた。私は或時彼からスペンサーの第一原理といふ本を借りた事を未だに忘れずにゐる。

　空の澄み切つた秋日和《あきびより》などには、能《よ》く二人連れ立つて、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行つた。さうした場合には、徃來へ塀越に差し出た樹の枝から、黄色に染まつた小《ち》さい葉が、風もないのに、はら／＼と散る景色《けしき》を能く見た。それが偶然彼の眼に觸れた時、彼は「あツ悟つた」と低い聲で叫んだ事があつた。唯秋の色の空《くう》に動くのを美くしいと觀ずるより外に能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密の符徴として怪しい響を耳に傳へるばかりであつた。「悟りといふものは妙なものだな」と彼は其《その》後《あと》から平生のゆつたりした調子で獨言《ひとりごと》のやうに説明した時も、私には一口の挨拶も出來なかつた。

　彼は貧生であつた。大觀音《おほぐわんのん》の傍《そば》に間借をして自炊してゐた頃には、よく干鮭《からざけ》を燒いて佗びしい食卓に私を着かせた。ある時は餅菓子の代りに※［者／火］豆を買つて來て、竹の皮の儘双方から突つ付き合つた。

　大學を卒業すると間もなく彼は地方の中學に赴任した。私は彼のためにそれを殘念に思つた。然し彼を知らない大學の先生には、それが寧ろ當然と見えたかも知れない。彼自身は無論平氣であつた。それから何年かの後《のち》に、たしか三年の契約で、支那のある學校の教師に雇はれて行つたが、任期が充ちて歸るとすぐ又内地の中學校長になつた。それも秋田から横手に遷《うつ》されて、今では樺太《かばふと》の校長をしてゐるのである。

　去年上京した序《ついで》に久し振で私を訪ねてくれた時、取次のものから名刺を受取つた私は、すぐ其足で座敷へ行つて、いつもの通り客より先に席に着いてゐた。すると廊下傳《らうかづたひ》に室《へや》の入口迄來た彼は、座蒲團の上にきちんと坐つてゐる私の姿を見るや否や、「いやに澄ましてゐるな」と云つた。

　其時｜向《むかふ》の言葉が終るか終らないうちに「うん」といふ返事が何時《いつ》か私の口を滑つて出てしまつた。何うして私の惡口《わるくち》を自分で肯定するやうな此挨拶が、それ程自然に、それ程雜作なく、それ程｜拘泥《こだ》はらずに、する／＼と私の咽喉を滑り越したものだらうか。私は其時透明な好い心持がした。

　

　　　　　十

　

　向ひ合つて座を占めたＯと私とは、何より先に互の顔を見返して、其所にまだ昔《むか》しの儘の面影《おもかげ》が、懷かしい夢の記念のやうに殘つてゐるのを認めた。然しそれは恰《あたか》も古い心が新しい氣分の中にぼんやり織り込まれてゐると同じ事で、薄暗く一面に霞んでゐた。恐ろしい「時」の威力に抵抗して、再び故《もと》の姿に返る事は、二人に取つてもう不可能であつた。二人は別れてから今會ふ迄の間に挾まつてゐる過去といふ不思議なものを顧みない譯に行かなかつた。

　Ｏは昔《むか》し林檎のやうに赤い頬と、人一倍大きな丸い眼と、それから女に適した程ふつくりした輪廓に包まれた顔を有《も》つてゐた。今見ても矢張り赤い頬と丸い眼と、同じく骨張らない輪廓の持主ではあるが、それが昔しとは何處か違つてゐる。

　私は彼に私の口髭と揉み上げを見せた。彼は又私の爲に自分の頭を撫でゝ見せた。私のは白くなつて、彼のは薄く禿げかゝつてゐるのである。

　「人間も樺太《かばふと》迄行けば、もう行く先はなからうな」と私が調戯《からか》ふと、彼は「まあ其んなものだ」と答へて、私のまだ見た事のない樺太の話を色々して聞かせた。然し私は今それをみんな忘れて仕舞つた。夏は大變好い所だといふ事を覺えてゐる丈《だけ》である。

　私は幾年ぶりかで、彼と一所に表へ出た。彼はフロツクの上へ、とんび〔三字傍点〕のやうな外套をぶわ／＼に着てゐた。さうして電車の中で釣革にぶら下りながら、隱袋《かくし》から手帛《はんけち》に包んだものを出して私に見せた。私は「なんだ」と訊いた。彼は「栗饅頭だ」と答へた。栗饅頭は先刻《さつき》彼が私の宅《うち》にゐた時に出した菓子であつた。彼が何時《いつ》の間《ま》に、それを手帛《はんけち》に包んだらうかと考へた時、私は一寸驚かされた。

　「あの栗饅頭を取つて來たのか」

　「さうかも知れない」

　彼は私の驚いた樣子を馬鹿にするやうな調子で斯う云つたなり、その手帛《はんけち》の包を又｜隱袋《かくし》に収めてしまつた。

　我々は其晩帝劇へ行つた。私の手に入れた二枚の切符に北側から入《はい》れといふ注意が書いてあつたのを、つい間違へて、南側へ廻らうとした時、彼は「其方《そつち》ぢやないよ」と私に注意した。私は一寸立ち留まつて考へた上、「成程方角は樺太《かばふと》の方が確《たしか》なやうだ」と云ひながら、又指定された入口の方へ引き返した。

　彼は始めから帝劇を知つてゐると云つてゐた。然し晩餐を濟ました後《あと》で、自分の席へ歸らうとするとき、誰でも遣る通り、二階と一階の扉《ドアー》を間違へて、私から笑はれた。

　折々｜隱袋《かくし》から金縁《きんぶち》の眼鏡を出して、手に持つた摺物《すりもの》を讀んで見る彼は、其眼鏡を除《はづ》さずに遠い舞臺を平氣で眺めてゐた。

　「それは老眼鏡ぢやないか。よくそれで遠い所が見えるね」

　「なにチヤブドー〔五字傍点〕だ」

　私には此チヤブドーといふ意味が全く解らなかつた。彼はそれを大差なしといふ支那語だと云つて説明して呉れた。

　其夜の歸りに電車の中で私と別れたぎり、彼は又遠い寒い日本の領地の北の端《はづ》れに行つてしまつた。

　私は彼を想ひ出すたびに、達人《たつじん》といふ彼の名を考へる。すると其名がとくに彼のために天から與へられたやうな心持になる。さうして其達人が雪と氷に鎖《と》ざされた北の果《はて》に、まだ中學校長をしてゐるのだなと思ふ。

　

　　　　　十一

　

　ある奧さんがある女の人を私に紹介した。

　「何か書いたものを見て頂きたいのださうで御座います」

　私は奧さんの此言葉から、頭の中で色々の事を考へさせられた。今迄私の所へ自分の書いたものを讀んで呉れと云つて來たものは何人となくある。其中には原稿紙の厚さで、一寸又は二寸位の嵩《かさ》になる大部のものも交つてゐた。それを私は時間の都合の許す限り成るべく讀んだ。さうして簡單な私はたゞ讀みさへすれば自分の頼まれた義務を果したものと心得て滿足してゐた。所が先方では後から新聞に出して呉れと云つたり、雜誌へ載せて貰ひたいと頼んだりするのが常であつた。中には他《ひと》に讀ませるのは手段で、原稿を金に換へるのが本來の目的であるやうに思はれるのも少なくはなかつた。私は知らない人の書いた讀みにくい原稿を好意的に讀むのが段々厭になつて來た。

　尤も私の時間に教師をしてゐた頃から見ると、多少の彈力性が出來てきたには相違なかつた。夫《それ》でも自分の仕事にかゝれば腹の中は隨分多忙であつた。親切づくで見て遣らうと約束した原稿すら、中々｜埒《らち》のあかない場合もないとは限らなかつた。

　私は私の頭で考へた通りの事を其儘奧さんに話した。奧さんはよく私のいふ意味を領解して歸つて行つた。約束の女が私の座敷へ來て、座蒲團の上に坐つたのは夫《それ》から間もなくであつた。佗びしい雨が今にも降り出しさうな暗い空を、硝子戸越《がらすどごし》に眺めながら、私は女に斯《こ》んな話をした。――

　「是は社交ではありません。御互に體裁《ていさい》の好い事ばかり云ひ合つてゐては、何時《いつ》迄《まで》經つたつて、啓發される筈も、利益を受ける譯もないのです。貴方は思ひ切つて正直にならなければ駄目ですよ。自分さへ充分に開放して見せれば、今貴方が何處に立つて何方《どつち》を向いてゐるかといふ實際が、私に能《よ》く見えて來るのです。さうした時、私は始めて貴方を指導する資格を、貴方から與へられたものと自覺しても宜しいのです。だから私が何か云つたら、腹に答へべき或物を持つてゐる以上、決して黙つていては不可《いけ》ません。こんな事を云つたら笑はれはしまいか、耻を掻きはしまいか、又は失禮だといつて怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分といふ正體を黒く塗り潰した所ばかり示す工夫をするならば、私がいくら貴方に利益を與へやうと焦慮《あせつ》ても、私の射る矢は悉《こと／”＼》く空矢《あだや》になつて仕舞ふ丈《だけ》です。

　「是は私の貴方に對する注文ですが、其代り私の方でも此私といふものを隱しは致しません。有《あり》の儘《まゝ》を曝《さら》け出《だ》すより外に、あなたを教へる途はないのです。だから私の考への何處かに隙があつて、其隙をもし貴方から見破られたら、私は貴方に私の弱點を握られたといふ意味で敗北の結果に陷るのです。教を受ける人｜丈《だけ》が自分を開放する義務を有《も》つてゐると思ふのは間違つてゐます。教へる人も己《おの》れを貴方の前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて勘破《かんぱ》し合《あ》ふのです。

　「さういふ譯で私は是から貴方の書いたものを拜見する時に、隨分手ひどい事を思ひ切つて云ふかも知れませんが、然し怒つては不可《いけ》ません。貴方の感情を害する爲にいふのではないのですから。其代り貴方の方でも腑に落ちない所があつたら何處迄も切り込んで入らつしやい。貴方が私の主意を了解してゐる以上、私は決して怒る筈はありませんから。

　「要するに是はたゞ現状維持を目的として、上滑《うはすべ》りな圓滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。解りましたか」

　女は解つたと云つて歸つて行つた。

　

　　　　　十二

　

　私に短冊《たんざく》を書けの、詩を書けのと云つて來る人がある。さうして其短冊やら絖《ぬめ》やらをまだ承諾もしないうちに送つて來る。最初のうちは折角の希望を無にするのも氣の毒だといふ考から、拙《まづ》い字とは思ひながら、先方の云ふなりになつて書いてゐた。けれども斯うした好意は永續しにくいものと見えて、段々多くの人の依頼を無にするやうな傾向が強くなつて來た。

　私は凡《すべ》ての人間を、毎日々々耻を掻く爲に生れてきたものだとさへ考へる事もあるのだから、變な字を他《ひと》に送つてやる位の所作《しよさ》は、敢てしやうと思へば、遣れないとも限らないのである。然し自分が病氣のとき、仕事の忙がしい時、又はそんな眞似のしたくない時に、さういふ注文が引き續いて起つてくると、實際弱らせられる。彼等の多くは全く私の知らない人で、さうして自分達の送つた短冊を再び送り返す此方《こちら》の手數《てすう》さへ、丸《まる》で眼中に置いてゐないやうに見えるのだから。

　其うちで一番私を不愉快にしたのは播州《ばんしう》の坂越《さごし》にゐる岩崎といふ人であつた。此人は數年前よく端書で私に俳句を書いてくれと頼んで來たから、其｜都度《つど》向ふのいふ通り書いて送つた記憶のある男である。其《その》後《のち》の事であるが、彼は又四角な薄い小包を私に送つた。私はそれを開けるのさへ面倒だつたから、つい其儘にして書齋へ放《ほふ》り出《だ》して置いたら、下女が掃除をする時、つい書物と書物の間へ挾み込んで、まづ體《てい》よく仕舞失《しまいな》くした姿にしてしまつた。

　此小包と前後して、名古屋から茶の罐が私《わたくし》宛《あて》で届いた。然し誰が何の爲に送つたものか其意味は全く解らなかつた。私は遠慮なく其茶を飲んでしまつた。すると程なく坂越《さごし》の男から、富士登山の畫《ゑ》を返してくれと云つてきた。彼からそんなものを貰つた覺《おぼえ》のない私は、打《う》ち遣《や》つて置いた。然し彼は富士登山の畫を返せ／＼と三度も四度も催促して已《や》まない。私はついに此男の精神状態を疑ひ出した。「大方氣違だらう。」私は心の中《なか》で斯う極めたなり向ふの催促には一切《いつさい》取り合はない事にした。

　それから二三ケ月經つた。たしか夏の初の頃と記憶してゐるが、私はあまり亂雜に取り散らされた書齋の中に坐つてゐるのが欝陶敷《うつたうしく》なつたので、一人でぽつ／＼其所いらを片付け始めた。其時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や參考書を、一冊づゝ改めて行くと、思ひ掛けなく坂越《さごし》の男が寄こした例の小包が出て來た。私は今迄忘れてゐたものを、眼《ま》のあたり見て驚ろいた。早速封を解《と》いて中を檢《しら》べたら、小さく疊んだ畫が一枚｜入《はい》つてゐた。それが富士登山の圖だつたので、私は又｜吃驚《びつくり》した。

　包のなかには此畫の外に手紙が一通添へてあつて、それに畫の賛をして呉れといふ依頼と、御禮に茶を送るといふ文句が書いてあつた。私は愈《いよ／＼》驚ろいた。

　然し其時の私は到底富士登山の圖などに賛をする勇氣を有《も》つてゐなかつた。私の氣分が、そんな事とは遙か懸け離れた所にあつたので、其畫に調和するやうな俳句を考へてゐる暇がなかつたのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御禮を云つた。最後に富士登山の圖を小包にして返した。

　

　　　　　十三

　

　私はこれで一段落《いちだんらく》付いたものと思つて、例の坂越《さごし》の男の事を、それぎり念頭に置かなかつた。すると其男が又短冊を封じて寄《よ》こした。さうして今度は義士に關係のある句を書いてくれといふのである。私は其《その》内《うち》書かうと云つて遣《や》つた。然し中々書く機會が來《こ》なかつたので、つい其儘になつてしまつた。けれども執濃《しつこ》い此男の方では決して其儘に濟ます氣はなかつたものと見えて、無暗に催促を始め出した。其催促は一週に一遍か、二週に一遍の割で屹度《きつと》來た。それが必ず端書に限つてゐて、其書き出しには、必ず「拜啓失敬申し候へども」とあるに極つてゐた。私は其人の端書を見るのが段々不愉快になつて來た。

　同時に向ふの催促も、今迄私の予期してゐなかつた變な特色を帶びるやうになつた。最初には茶を遣《や》つたではないかといふ言葉が見えた。私がそれに取り合はずにゐると、今度はあの茶を返してくれといふ文句に改たまつた。私は返す事は容易《たやす》いが、其｜手數《てかず》が面倒だから、東京迄取りに來れば返して遣ると云つてやりたくなつた。けれども坂越《さごし》の男にさういふ手紙を出すのは、自分の品格に關はるやうな氣がして敢てし切れなかつた。返事を受け取らない先方は猶《なほ》の事《こと》催促をした。茶を返さないならそれでも好いから、金一圓を其代價として送つて寄こせといふのである。私の感情は此男に對して次第に荒《すさ》んで來た。仕舞にはとう／＼自分を忘れるやうになつた。茶は飲んでしまつた、短冊は失《な》くして仕舞つた、以來端書を寄こす事は一切《いつさい》無用であると書いて遣《や》つた。さうして心のうちで、非常に苦々しい氣分を經驗した。こんな非紳士的な挨拶をしなければならない樣な穴の中へ、私を追ひ込んだのは、此｜坂越《さごし》の男であると思つたからである。こんな男の爲に、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の墮落を忍ばなければならないのかと考へると情《なさけ》なかつたからである。

　然し坂越《さごし》の男は平氣であつた。茶は飲んでしまひ、短冊は失《な》くしてしまふとは、餘りと申せば……と又端書に書いて來た。さうして其冒頭には依然として拜啓失敬申し※［候の草書］へどもといふ文句が規則通り繰り返されてゐた。

　其時私はもう此男には取り合ふまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に對して何の效果のある筈はなかつた。彼は相變らず催促をやめなかつた。さうして今度は、もう一度書いて呉れゝば、また茶を送つてやるが何うだと云つて來た。それから事｜苟《いやし》くも義士に關するのだから、句を作つても好いだらうと云つて來た。

　しばらく端書が中絶したと思ふと、今度はそれが封書に變つた。尤も其封筒は區役所などで使ふ極めて安い鼠色のものであつたが、彼はわざとそれに切手を貼《は》らないのである。其代り裏に自分の姓名も書かずに投函してゐた。私はそれが爲に、倍の郵税を二度程拂はせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教へて、封のまゝ先方へ逆送して貰つた。彼はそれで六錢取られた所爲《せゐ》か、漸く催促を斷念したらしい態度になつた。

　所が二ケ月ばかり經つて、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。それが私を一寸感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る氣になつた。然し其贈物は彼を滿足させるに足りなかつた。彼は短冊が折れたとか、汚《よご》れたとか云つて、しきりに書き直しを請求して已《や》まない。現に今年の正月にも、「失敬申し※［候の草書］へども……」といふ依頼状が七八日《なゝやうか》頃に屆いた。

　私がこんな人に出會つたのは生れて始めてである。

　

　　　　　十四

　

　つい此間｜昔《むか》し私の家《うち》へ泥棒の入《はい》つた時の話を比較的詳しく聞いた。

　姉がまだ二人とも嫁《かた》づかずにゐた時分の事だといふから、年代にすると、多分私の生れる前後に當るのだらう、何しろ勤王とか佐幕とかいふ荒々しい言葉の流行《はや》つた八釜《やかま》しい頃なのである。

　ある夜一番目の姉が、夜中《よなか》に小用《こよう》に起きた後《あと》、手を洗ふために、潜戸《くゞりど》を開けると、狹い中庭の隅に、壁を壓《お》し付《つ》ける樣な勢《いきほひ》で立つてゐる梅の古木の根方《ねがた》が、赫《かつ》と明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇《いとま》もないうちに、すぐ潜戸《くゞりど》を締めてしまつたが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさを其所に立ちながら考へたのである。

　私の幼心に映つた此姉の顔は、いまだに思ひ起さうとすれば、何時《いつ》でも眼の前に浮ぶ位｜鮮《あざや》かである。然し其幻像は既に嫁に行つて齒を染めたあとの姿であるから、其時縁側に立つて考へてゐた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描《ゑが》き出《だ》す事は一寸困難である。

　廣い額、淺黒い皮膚、小さいけれども明確《はつきり》した輪廓を具へてゐる鼻、人並《ひとなみ》より大きい二重瞼《ふたへまぶち》の眼、それから御澤《おさは》といふ優しい名、――私はたゞ是等を綜合して、其場合に於ける姉の姿を想像する丈《だけ》である。

　少時《しばらく》立つた儘考へてゐた彼女の頭に、此時もしかすると火事ぢやないかといふ懸念が起つた。それで彼女は思ひ切つて又｜切戸《きりど》を開けて外を覗かうとする途端に、一本の光る拔身《ぬきみ》が、闇の中から、四角に切つた潜戸《くゞりど》の中へすうと出た。姉は驚いて身を後《あと》へ退《ひ》いた。其《その》隙《ひま》に、覆面をした、龕燈提燈《がんどうぢようちん》を提《さ》げた男が、拔刀の儘、小《ち》さい潜戸《くゞりど》から大勢｜家《うち》の中《なか》へ入《はい》つて來たのださうである。泥棒の人數《にんず》はたしか八人とか聞いた。

　彼等は、他《ひと》を殺《あや》める爲に來たのではないから、大人《おとな》しくして居て呉れさへすれば、家《うち》のものに危害は加へない、其代り軍用金を借《か》せと云つて、父に迫つた。父はないと斷つた。然し泥棒は中々承知しなかつた。今｜角《かど》の小倉屋《こくらや》といふ酒屋へ入《はい》つて、其處で教へられて來たのだから、隱しても駄目だと云つて動かなかつた。父は不精無性《ふしやうぶしやう》に、とう／＼何枚かの小判を彼等の前に並べた。彼等は金額があまり少《すく》な過《す》ぎると思つたものか、それでも中々歸らうとしないので、今迄床の中に寐てゐた母が、「貴方の紙入に入《はい》つてゐるのも遣《や》つて御仕舞なさい」と忠告した。其紙入の中には五十兩ばかりあつたとかいふ話である。泥棒が出て行つたあとで、「餘計な事をいふ女だ」と云つて、父は母を叱り付けたさうである。

　その事があつて以來、私の家では柱を切《き》り組《くみ》にして、其中へあり金を隱す方法を講じたが、隱す程の財産も出來ず、又｜黒裝束《くろさうぞく》を着けた泥棒も、それぎり來《こ》ないので、私の生長する時分には、どれが切組《きりくみ》にしてある柱か丸《まる》で分らなくなつてゐた。

　泥棒が出て行く時、「此《この》家《うち》は大變締りの好い宅《うち》だ」と云つて賞《ほ》めたさうだが、其締りの好い家《うち》を泥棒に教へた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦《かす》り傷《きず》がいくつとなく出來た。是は金はありませんと斷わる度に、泥棒がそんな筈があるものかと云つては、拔身の先でちよい／＼半兵衛さんの頭を突ツついたからだといふ。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅《うち》にはありません、裏の夏目さんには澤山あるから、あすこへ入らつしやい」と強情を張り通して、とう／＼金は一文も奪《と》られずにしまつた。

　私は此話を妻《さい》から聞いた。妻《さい》は又それを私の兄から茶受話《ちやうけばなし》に聞いたのである。

　

　　　　　十五

　

　私が去年の十一月學習院で講演をしたら、薄謝と書いた紙包を後から届けてくれた。立派な水引《みづひき》が掛かつてゐるので、それを除《はづ》して中を改めると、五圓札が二枚｜入《はい》つてゐた。私は其金を平生から氣の毒に思つてゐた、或懇意な藝術家に贈らうかしらと思つて、暗《あん》に彼の來るのを待ち受けてゐた。所が其藝術家がまだ見えない先に、何か寄附の必要が出來てきたりして、つい二枚とも消費してしまつた。 一口でいふと、此金は私に取つて決して無用なものではなかつたのである。世間の通り相場で、立派に私のために消費されたといふより外に仕方がないのである。けれどもそれを他《ひと》に遣らうと迄思つた私の主觀から見れば、そんなに有難味の附着してゐない金には相違なかつたのである。打ち明けた私の心持をいふと、斯うした御禮を受けるより受けない時の方が餘程｜颯爽《さつぱり》してゐた。

　畔柳芥舟君《くろやなぎかいしうくん》が樗牛會《ちよぎうくわい》の講演の事で見えた時、私は話の序《ついで》として一通り其理由を述べた。

　「此場合私は勞力を賣りに行つたのではない。好意づくで依頼に應じたのだから、向ふでも好意｜丈《だけ》で私に酬ひたらよからうと思ふ。もし報酬問題とする氣なら、最初から御禮はいくらするが、來て呉れるか何うかと相談すべき筈でせう」

　其時Ｋ君は納得《なつとく》出來ないといつたやうな顔をした。さうして斯う答へた。

　「然し何うでせう。其十圓は貴方の勞力を買つたといふ意味でなくつて、貴方に對する感謝の意を表する一つの手段と見たら。さう見る譯には行かないのですか」

　「品物なら判然《はつきり》さう解釋も出來るのですが、不幸にも御禮が普通營業的の賣買《ばいばい》に使用する金なのですから、何方《どつち》とも取れるのです」

　「何方《どつち》とも取れるなら、此際善意の方に解釋した方が好くはないでせうか」

　私は尤もだとも思つた。然し又斯う答へた。

　「私は御存じの通り原稿料で衣食してゐる位ですから、無論富裕とは云へません。然し何うか斯うか、それ丈《だけ》で今日《こんにち》を過ごして行かれるのです。だから自分の職業以外の事に掛けては、成るべく好意的に人の爲に働いてやりたいといふ考へを持つてゐます。さうして其好意が先方に通じるのが、私に取つては、何よりも尊《たつ》とい報酬なのです。從つて金などを受けると、私が人の爲に働いてやるといふ餘地、――今の私には此餘地が又極めて狹いのです。――其貴重な餘地を腐蝕させられたやうな心持になります」

　Ｋ君はまだ私の云ふ事を肯《うけが》はない樣子であつた。私も強情であつた。

　「もし岩崎とか三井とかいふ大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十圓の御禮を持つて行くでせうか、或は失禮だからと云つて、たゞ挨拶｜丈《だけ》にとゞめて置くでせうか。私の考では恐らく金錢は持つて行くまいと思ふのですが」

　「さあ」といつた丈《だけ》でＫ君は判然《はつきり》した返事を與へなかつた。私にはまだ云ふ事が少し殘つてゐた。

　「己惚《おのぼれ》かは知りませんが、私の頭は三井岩崎に比《くら》べる程富んでゐないにしても、一般學生よりはずつと金持に違ひないと信じてゐます」

　「さうですとも」とＫ君は首肯《うなづ》いた。

　「もし岩崎や三井に十圓の御禮を持つて行く事が失禮ならば、私の所へ十圓の御禮を持つて來るのも失禮でせう。それも其十圓が物質上私の生活に非常な潤澤《うるほひ》を與へるなら、また外の意味から此問題を眺める事も出來るでせうが、現に私はそれを他《ひと》に遣らうと迄思つたのだから。――私の現下の經濟的生活は、此十圓のために、殆んど目に立つ程の影響を蒙らないのだから」

　「よく考へて見ませう」といつたＫ君はにや／＼笑ひながら歸つて行つた。

　

　　　　　十六

　

　宅《うち》の前のだら／＼坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、其橋向ふのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度其所で髪を刈つて貰つた事がある。

　平生は白い金巾《かなきん》の幕で、硝子戸《がらすど》の奧が、徃來から見えないやうにしてあるので、私は其床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占める迄、亭主の顔を丸《まる》で知らずにゐた。

　亭主は私の入《はい》つてくるのを見ると、手に持つた新聞紙を放《はふ》り出《だ》してすぐ挨拶をした。其時私は何うも何處かで會つた事のある男に違ないといふ氣がしてならなかつた。それで彼が私の後《うしろ》へ廻つて、鋏をちよき／＼鳴らし出した頃を見計らつて、此方《こつち》から話を持ち掛けて見た。すると私の推察通り、彼は昔《むか》し寺町の郵便局の傍《そば》に店を持つて、今と同じやうに、散髪を渡世としてゐた事が解つた。

　「高田の旦那などにも大分《だいぶ》御世話になりました」

　其高田といふのは私の從兄《いとこ》なのだから、私も驚いた。

　「へえ高田を知つてるのかい」

　「知つてる所ぢや御座いません。始終｜�ｺ《とく》、�ｺ《とく》、つて贔屓《ひいき》にして下すつたもんです」

　彼の言葉遣ひ斯ういふ職人にしては寧ろ丁寧な方であつた。

　「高田も死んだよ」と私がいふと、彼は吃驚《びつくり》した調子で「へツ」と聲を揚げた。

　「いゝ旦那でしたがね、惜しい事に。何時《いつ》頃《ごろ》御亡《おな》くなりになりました」

　「なに、つい此間《こなひだ》さ。今日で二週間になるか、ならない位《ぐらゐ》のものだらう」

　彼はそれから此死んだ從兄《いとこ》に就いて、色々覺えてゐる事を私に語つた末、「考へると早いもんですね旦那、つい昨日《きのふ》の事としつきや思はれないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云つた。

　「あのそら求友亭《きういうてい》の横町に居らしつてね、……」と亭主は又言葉を繼ぎ足した。

　「うん、あの二階のある家《うち》だらう」

　「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々樣《はう／”＼さま》から御祝ひ物なんかあつて、大變｜御盛《ごさかん》でしたがね。それから後《あと》でしたつけか、行願寺《ぎやうぐわんじ》の寺内《じない》へ御引越なすつたのは」

　此質問は私にも答へられなかつた。實は餘り古い事なので、私もつい忘れてしまつたのである。

　「あの寺内《じない》も今ぢや大變變つた樣だね。用がないので、それからつい入《はい》つて見た事もないが」

　「變つたの變らないのつて貴方、今ぢや丸《まる》で待合ばかりでさあ」

　私は肴町《さかなまち》を通るたびに、其寺内へ入《はい》る足袋屋の角の細い小路《こうぢ》の入口に、ごた／＼掲げられた四角な軒燈の多いのを知つてゐた。然し其數を勘定して見る程の道樂氣も起らなかつたので、つい亭主のいふ事には氣が付かずにゐた。

　「成程さう云へば誰《た》が袖《そで》なんて看板が通りから見えるやうだね」

　「えゝ澤山出來ましたよ。尤も變る筈ですね、考へて見ると。もうやがて三十年にもならうと云ふんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は藝者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家《あづまや》つてね。丁度そら高田の旦那の眞向《まんむかふ》でしたらう、東家《あづまや》の御神燈《ごじんとう》のぶら下がつてゐたのは」

　

　　　　　十七

　

　私は其｜東家《あづまや》をよく覺えてゐた。從兄《いとこ》の宅《うち》のつい向《むかふ》なので、兩方のものが出入《ではい》りの度に、顔を合はせさへすれば挨拶をし合ふ位《ぐらゐ》の間柄であつたから。

　其頃｜從兄《いとこ》の家《いへ》には、私の二番目の兄がごろ／＼してゐた。此兄は大の放蕩もので、よく宅《うち》の懸物《かけもの》や刀劍類を盗み出しては、それを二束三文に賣り飛ばすといふ惡い癖があつた。彼が何で從兄《いとこ》の家に轉がり込んでゐたのか、其時の私には解らなかつたけれども、今考へると、或はさうした亂暴を働らいた結果、しばらく家《うち》を追ひ出されてゐたかも知れないと思ふ。其兄の外に、まだ庄さんといふ、是も私の母方の從兄《いとこ》に當る男が、そこいらにぶら／＼してゐた。

　斯ういふ連中がいつでも一つ所に落ち合つては、寐そべつたり、縁側へ腰を掛けたりして、勝手な出放題を並べてゐると、時々向ふの藝者屋の竹格子《たけがうし》の窓から、「今日《こんち》は」などと聲を掛けられたりする。それを又待ち受けてゞもゐる如くに、連中は「おい一寸《ちよいと》御出で、好いものあるから」とか何とか云つて、女を呼び寄せやうとする。藝者の方でも晝間は暇だから、三度に一度は御愛嬌に遊びに來る。といつた風の調子であつた。

　私は其頃まだ十七八だつたらう、其上大變な羞耻屋《はにかみや》で通つてゐたので、そんな所に居合はしても、何にも云はずに黙つて隅の方に引込《ひつこ》んでばかりゐた。それでも私は何かの拍子で、此等の人々と一所に、其藝者屋へ遊びに行つて、トランプをした事がある。負けたものは何か奢らなければならないので、私は人の買つた壽司や菓子を大分《だいぶ》食つた。

　一週間ほど經つてから、私は又此のらくらの兄に連れられて同じ宅《うち》へ遊びに行つたら、例の庄さんも席に居合はせて話が大分《だいぶ》はづんだ。其時｜咲松《さきまつ》といふ若い藝者が私の顔を見て、「又トランプをしませう」と云つた。私は小倉の袴を穿《は》いて四角張つてゐたが、懷中には一錢の小遣《こづかひ》さへ無かつた。

　「僕は錢《ぜに》がないから厭だ」

　「好いわ、私《わたし》が持つてるから」

　此女は其時眼を病んででもゐたのだらう、斯ういひ／＼、綺麗な襦袢の袖でしきりに薄赤くなつた二重瞼《ふたへまぶち》を擦《こす》つてゐた。

　其《その》後《ご》私は「御作《おさく》が好い御客に引かされた」といふ噂を、從兄《いとこ》の家《うち》で聞いた。從兄《いとこ》の家《うち》では、此女の事を咲松《さきまつ》と云はないで、常に御作《おさく》御作《おさく》と呼んでゐたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に會ふ機會も來《こ》ないだらうと考へた。

　所がそれから大分《だいぶ》經つて、私が例の達人《たつじん》と一所に、芝の山内《さんない》の勸工場《くわんこうば》へ行つたら、其處で又ぱつたり御作に出會つた。此方《こちら》の書生姿に引《ひ》き易《か》へて、彼女はもう品《ひん》の好い奧樣に變つてゐた。旦那といふのも彼女の傍《そば》に付いてゐた。……

　私は床屋の亭主の口から出た東家《あづまや》といふ藝者屋の名前の奧に潜んでゐる是《これ》丈《だけ》の古い事實を急に思ひ出したのである。

　「あすこに居た御作といふ女を知つてるかね」と私は亭主に聞いた。

　「知つてる所か、ありや私の姪《めひ》でさあ」

　「さうかい」

　私は驚ろいた。

　「それで、今何處にゐるのかね」

　「御作は亡《な》くなりましたよ、旦那」

　私は又驚ろいた。

　「何時《いつ》」

　「何時《いつ》ゝて、もう昔の事になりますよ。慥《たし》かあれが二十三の年でしたらう」

　「へえゝ」

　「然も浦塩《うらじお》で亡《な》くなつたんです。旦那が領事館に關係のある人だつたもんですから、彼地《あつち》へ一所に行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」

　私は歸つて硝子戸《ガラスど》の中に坐つて、まだ死なずに居るものは、自分とあの床屋の亭主｜丈《だけ》のやうな氣がした。

　

　　　　　十八

　

　私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周圍《まはり》がきちんと片付かないで困りますが、何うしたら宜しいものでせう」と聞いた。

　此女はある親戚の宅《うち》に寄寓してゐるので、其所が手狹《てぜま》な上に、子供などが蒼蠅《うるさ》いのだらうと思つた私の答は、すこぶる簡單であつた。

　「何處か薩張《さつぱり》した家《うち》を探して下宿でもしたら好いでせう」

　「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片付づかないで困るのです」

　私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなつた。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。

　「外《そと》からは何でも頭の中に入《はい》つて來ますが、それが心の中心と折合が付かないのです」

　「貴方のいふ心の中心とは一體どんなものですか」

　「どんなものと云つて、眞直な直線なのです」

　私は此女の數學に熱心な事を知つてゐた。けれども心の中心が直線だといふ意味は無論私に通じなかつた。其上中心とは果して何を意味するのか、それも殆んど不可解であつた。女は斯う云つた。

　「物には何でも中心がございませう」

　「それは眼で見る事が出來、尺度《ものさし》で計る事の出來る物體に就いての話でせう。心にも形があるんですか。そんなら其中心といふものを此所へ出して御覽なさい」

　女は出せるとも出せないとも云はずに、庭の方を見たり、膝の上で兩手を擦《す》つたりしてゐた。

　「貴方の直線といふのは比喩《たとへ》ぢやありませんか。もし比喩《たとへ》なら、圓《まる》と云つても四角と云つても、詰り同じ事になるのでせう」

　「さそうかも知れませんが、形や色が始終變つてゐるうちに、少しも變らないものが、何うしてもあるのです」

　「其變るものと變らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある譯になりますが、それで好いのですか。變るものは即ち變らないものでなければならない筈ぢやありませんか」

　斯う云つた私はまた問題を元に返して女に向つた。

　「凡《すべ》て外界のものが頭のなかに入《はい》つて、すぐ整然と秩序なり段落なりがはつきりするやうに納まる人は、恐らくないでせう。失禮ながら貴方《あなた》の年齡《とし》や教育や學問で、さうきちん〔三字傍点〕と片付けられる譯がありません。もし又そんな意味でなくつて、學問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりを付けたいなら、私の樣なものゝ所へ來ても駄目です。坊さんの所へでも入らつしやい」

　すると女が私の顔を見た。

　「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はさういふ點で、普通の人以上に整《とゝ》のつてゐらつしやるやうに思ひました」

　「そんな筈がありません」

　「でも私にはさう見えました。内臓の位置迄が調《とゝの》つてゐらつしやるとしか考へられませんでした」

　「もし内臓がそれ》程具合よく調節されてゐるなら、こんなに始終病氣などはしません」　「私は病氣にはなりません」と其時女は突然自分の事を云つた。

　「それは貴方が私より偉い證據です」と私も答へた。

　女は蒲團を滑り下りた。さうして、「何うぞ御身體を御大切《ごたいせつ》に」と云つて歸つて行つた。

　

　　　　　十九

　

　私の舊宅は今私の住んでゐる所から、四五町奧の馬場下といふ町にあつた。町とは云ひ條、其《その》實《じつ》小さな宿場としか思はれない位、小供の時の私には、寂《さび》れ切《き》つて且《かつ》淋《さむ》しく見えた。もと／＼馬場下とは高田の馬場の下にあるといふ意味なのだから、江戸繪圖で見ても、朱引内《しゆびきうち》か朱引外《しゆびきそと》か分らない邊鄙《へんぴ》な隅の方にあつたに違ないのである。

　それでも内藏造《くらづくり》の家《うち》が狹い町内に三四軒はあつたらう。坂を上《あが》ると、右側に見える近江屋傳兵衛《あふみやでんべゑ》といふ藥種屋《やくしゆや》などは其一つであつた。それから坂を下《お》り切《き》つた所に、間口の廣い小倉屋といふ酒屋もあつた。尤も此方は倉造りではなかつたけれども、堀部安兵衛《ほりべやすべゑ》が高田の馬場で敵《かたき》を打つ時に、此處へ立ち寄つて、枡酒《ますざけ》を飲んで行つたといふ履歴のある家柄であつた。私はその話を小供の時分から覺えてゐたが、ついぞ其所に仕舞つてあるといふ噂の安兵衛が口を着けた枡《ます》を見たことがなかつた。其代り娘の御北《おきた》さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だか丸《まる》で解らなかつたけれども、私の宅《うち》の玄關から表へ出る敷石の上に立つて、通りへでも行かうとすると、御北《おきた》さんの聲が其所からよく聞こえたのである。春の日の午過《ひるすぎ》などに、私はよく恍惚《うつとり》とした魂を、麗《うらゝ》かな光に包みながら、御北《おきた》さんの御浚《おさら》ひを聽くでもなく聽かぬでもなく、ぼんやり私の家の土藏の白壁に身を靠《も》たせて、佇立《たゝず》んでゐた事がある。其御蔭で私はとう／＼「旅の衣は篠懸《すゞかけ》の」などといふ文句を何時《いつ》の間《ま》にか覺えてしまつた。

　此《この》外《ほか》には棒屋が一軒あつた。それから鍛冶屋も一軒あつた。少し八幡坂《はちまんざか》の方へ寄つた所には、廣い土間を屋根の下に圍ひ込んだやつちや〔四字傍点〕場《ば》もあつた。私の家《うち》のものは、其處の主人を、問屋《とんや》の仙太郎さんと呼んでゐた。仙太郎さんは何でも私の父と極《ごく》遠い親類つゞきになつてゐるんだとか聞いたが、交際《つきあひ》からいふと、丸《まる》で疎濶であつた。徃來で行き會ふ時だけ、「好い御天氣で」などと聲を掛ける位の間柄に過ぎなかつたらしく思はれる。此仙太郎さんの一人娘が講釋師の貞水《ていすゐ》と好い仲になつて、死ぬの生きるのといふ騷ぎのあつた事も人聞《ひとぎゝ》に聞いて覺えてはゐるが、纒まつた記憶は今頭の何處にも殘つてゐない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い臺の上に腰を掛けて、矢立《やたて》と帳面を持つた儘、「いーやつちや若干《いくら》」と威勢の好い聲で下にゐる大勢の顔を見渡す光景の方が餘程《よつぽど》面白かつた。下からは又二十本も三十本もの手を一度に擧げて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ〔三字傍点〕だのがれん〔三字傍点〕だのといふ符徴を、罵しるやうに呼び上げるうちに、薑《しやうが》や茄子《なす》や唐茄子の籠が、夫《それ》等《ら》の節太《ふしぶと》の手で、どし／＼何處《どこ》かへ運び去られるのを見てゐるのも勇ましかつた。

　どんな田舍へ行つてもありがちな豆腐屋は無論あつた。其豆腐屋には油の臭の染《し》み込《こ》んだ繩暖簾《なはのれん》がかゝてゐて門口《かどぐち》を流れる下水の水が京都へでも行つたやうに綺麗だつた。其豆腐屋について曲ると半町程先に西閑寺《せいかんじ》といふ寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後《うしろ》は、深い竹藪で一面に掩《おほ》はれてゐるので、中に何《ど》んなものがあるか通りからは全く見えなかつたが、其奧でする朝晩の御勤《おつとめ》の鉦《かね》の音《ね》は、今でも私の耳に殘つてゐる。ことに霧の多い秋から木枯《こがらし》の吹く冬へかけて、カン／＼と鳴る西閑寺の鉦《かね》の音《おと》は、何時《いつ》でも私の心に悲しくて冷《つめ》たい或物を叩き込むやうに小さい私の氣分を寒くした。

　

　　　　　二十

　

　此豆腐屋の隣に寄席《よせ》が一軒あつたのを、私は夢幻《ゆめうつゝ》のやうにまだ覺えてゐる。こんな場末に人寄場《ひとよせば》のあらう筈がないといふのが、私の記憶に霞をかける所爲《せゐ》だらう、私はそれを思ひ出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議さうな眼を見張つて、遠い私の過去を振り返るのが常である。

　其席亭の主人《あるじ》といふのは、町内の鳶頭《とびがしら》で、時々｜目暗縞《めくらじま》の腹掛に赤い筋の入《はい》つた印袢纒《しるしばんてん》を着て、突つ掛け草履か何かでよく表を歩いてゐた。其所にまた御藤《おふぢ》さんといふ娘があつて、其人の容色《きりやう》が能《よ》く家《うち》のものゝ口に上《のぼ》つた事も、まだ私の記憶を離れずにゐる。後《のち》には養子を貰つたが、それが口髭を生やした立派な男だつたので、私は一寸驚ろかされた。御藤《おふぢ》さんの方でも自慢の養子だといふ評判が高かつたが、後から聞いて見ると、此人は何處かの區役所の書記だとかいふ話であつた。

　此養子が來る時分には、もう寄席《よせ》も已《や》めて、仕舞《しま》ふた屋《や》になつてゐたやうであるが、私は其所の宅《うち》の軒先にまだ薄暗い看板が淋《さむ》しさうに懸つてゐた頃、よく母から小遣《こづかひ》を貰つてそこへ講釋を聞きに出掛けたものである。講釋師の名前はたしか、南麟《なんりん》とかいつた。不思議な事に、此｜寄席《よせ》へは南麟《なんりん》より外に誰も出なかつた樣である。此男の家《うち》は何處にあつたか知らないが、何《ど》の見當から歩いて來るにしても、道普請《みちぶしん》が出來て、家並《いへなみ》の揃つた今から見れば大事業に相違なかつた。其上客の頭數は何時《いつ》でも十五か二十位なのだから、何《ど》んなに想像を逞《たく》ましくしても、夢としか考へられないのである。「もうし／＼花魁《おいらん》へ、と云はれて八《や》ツ橋《はし》なんざますえと振り返る、途端に切り込む刃《やいば》の光」といふ變な文句は、私が其時分｜南麟《なんりん》から教《おす》はつたのか、夫《それ》とも後《あと》になつて落語家《はなしか》の遣る講釋師の眞似から覺えたのか、今では混雜してよく分らない。

　當時私の家《うち》からまづ町らしい町へ出やうとするには、何うしても人氣のない茶畠とか、竹藪とか又は長い田圃路《たんぼみち》とかを通り拔けなければならなかつた。買物らしい買物は大抵｜神樂坂《かぐらざか》迄《まで》出る例になつてゐたので、さうした必要に馴らされた私に、左《さ》した苦痛のある筈もなかつたが、それでも矢來の坂を上《あが》つて酒井樣の火《ひ》の見櫓《みやぐら》を通り越して寺町へ出やうといふ、あの五六町の一筋道などになると、晝でも陰森として、大空が曇つたやうに始終薄暗かつた。

　あの土手の上に二抱《ふたかゝへ》も三抱《みかゝ》へもあらうといふ大木が、何本となく並んで、其｜隙間《すきま》々々《／＼》を又大きな竹藪が塞いでゐたのだから、日の目を拜む時間と云つたら、一日のうちにおそらくたゞの一刻もなかつたのだらう。下町へ行かうと思つて、日和下駄《ひよりげた》などを穿《は》いて出やうものなら、屹度《きつと》非道《ひど》い目にあふに極つてゐた。あすこの霜融《しもどけ》は雨よりも雪よりも恐ろしいものゝやうに私の頭に染《し》み込《こ》んでゐる。

　其位不便な所でも火事の虞《おそれ》はあつたものと見えて、矢張《やつぱ》り町の曲り角に高い梯子《はしご》が立つてゐた。さうして其上に古い半鐘も型の如く釣るしてあつた。私は斯うした有《あり》の儘《まゝ》の昔をよく思ひ出す。其半鐘のすぐ下にあつた小さな一膳飯屋もおのづと眼先に浮かんで來る。繩暖簾《なはのれん》の隙間からあたゝかさうな｜煮〆《にしめ》の香《にほひ》が煙《けむり》と共に徃來へ流れ出して、それが夕暮の靄に融け込んで行く趣《おもむき》なども忘れる事が出來ない。私が子規のまだ生きてゐるうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」といふ句を作つたのは、實は此半鐘の記念のためであつた。

　

　　　　　二十一

　

　私の家に關する私の記憶は、惣《そう》じて斯ういふ風に鄙《ひな》びてゐる。さうして何處かに薄ら寒い憐れな影を宿してゐる。だから今生き殘つてゐる兄から、つい此間《こなひだ》、うちの姉達が芝居に行つた當時の樣子を聽いた時には驚ろいたのである。そんな派出《はで》な暮しをした昔もあつたのかと思ふと、私は愈《いよ／＼》夢の樣な心持になるより外はない。

　其頃の芝居小屋はみんな猿若町《さるわかちやう》にあつた。電車も俥《くるま》もない時分に、高田の馬場の下から淺草の觀音樣の先迄朝早く行き着かうと云ふのだから、大抵の事ではなかつたらしい。姉達はみんな夜半《よなか》に起きて支度をした。途中が物騷だといふので、用心のため、下男が屹度《きつと》供をして行つたさうである。

　彼等は筑土《つくど》を下りて、柿の木横町から揚場《あげば》へ出て、かねて其所の船宿にあつらへて置いた屋根船に乘るのである。私は彼等が如何《いか》に豫期に充ちた心をもつて、のろ／＼砲兵工厰の前から御茶の水を通り越して柳橋迄漕がれつゝ行つただらうと想像する。しかも彼等の道中は決して其所で終りを告げる譯に行かないのだから、時間に制限を置かなかつた其昔が猶更《なほさら》回顧の種になる。

　大川へ出た船は、流を溯《さかのぼ》つて吾妻橋を通り拔けて、今戸《いまど》の有明樓《いうめいろう》の傍《そば》に着けたものだといふ。姉達は其所から上《あが》つて芝居茶屋迄歩いて、それから漸く設けの席に就くべく、小屋へ送られて行く。設けの席といふのは必ず高土間《たかどま》に限られてゐた。是は彼等の服裝《なり》なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいゝ場所なので、派出《はで》を好む人達が、爭つて手に入れたがるからであつた。

　幕の間には役者に隨《つ》いてゐる男が、何うぞ樂屋へお遊びに入らつしやいましと云つて案内に來る。すると姉達は此縮緬の模樣のある着物の上に袴を穿《は》いた男の後《あと》に跟《つ》いて、田之助《たのすけ》とか訥升《とつしよう》とかいふ贔屓《ひいき》の役者の部屋へ行つて、扇子《せんす》に畫《ゑ》などを描《か》いて貰つて歸つてくる。是が彼等の見榮《みえ》だつたのだらう。さうして其見榮は金の力でなければ買へなかつたのである。

　歸りには元來た路を同じ舟で揚場迄漕ぎ戻す。無要心《ぶえうじん》だからと云つて、下男が又｜提燈《ちやうちん》を點《つ》けて迎《むかへ》に行く。宅《うち》へ着くのは今の時計で十二時位にはなるのだらう。だから夜半《よなか》から夜半《よなか》迄《まで》掛つて彼等は漸く芝居を見る事が出來たのである。……

　斯《こ》んな華麗《はなやか》な話を聞くと、私は果してそれが自分の宅《うち》に起つた事か知らんと疑ひたくなる。何處か下町の富裕な町家の昔を語られたやうな氣もする。

　尤も私の家《いへ》も侍分《さむらひぶん》ではなかつた。派出《はで》な付合《つきあひ》をしなければならない名主《なぬし》といふ町人であつた。私の知つてゐる父は、禿頭の爺さんであつたが、若い時分には、一中節《いつちゆうぶし》を習つたり、馴染《なじみ》の女に縮緬の積夜具《つみやぐ》をして遣《や》つたりしたのださうである。青山に田地があつて、其所から上つて來る米｜丈《だけ》でも、家《うち》のものが食ふには不足がなかつたとか聞いた。現に今生き殘つてゐる三番目の兄などは、其米を舂《つ》く音を始終聞いたと云つてゐる。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄關《げんか》々々《／＼》と稱《とな》へてゐた。其時分の私には、何ういふ意味か解らなかつたが、今考へると、式臺のつゐた嚴《いか》めしい玄關付の家《いへ》は、町内にたつた一軒しかなかつたからだらうと思ふ。其式臺を上つた所に、突棒《つくぼう》や、袖搦《そでがらみ》や刺股《さつまた》や、又古ぼけた馬上提燈などが、並んで懸けてあつた昔なら、私でもまだ覺えてゐる。

　

　　　　　二十二

　

　此二三年來私は大抵年に一度位の割で病氣をする。さうして床に就いてから床を上げる迄に、畧《ほゞ》一月《ひとつき》の日數《ひかず》を潰してしまふ。

　私の病氣と云へば、何時《いつ》も極つた胃の故障なので、いざとなると、絶食療法より外に手の着《つ》けやうがなくなる。醫者の命令ばかりか、病氣の性質そのものが、私に此絶食を餘儀なくさせるのである。だから病み始めより回復期に向つた時の方が、餘計痩せこけてふら／＼する。一ケ月以上掛るのも重《おも》に此衰弱が祟るからのやうに思はれる。

　私の立居《たちゐ》が自由になると、黒枠《くろわく》のついた摺物が、時々私の机の上に載《の》せられる。私は運命を苦笑する人の如く、絹帽《シルクハツト》などを被つて、葬式の供に立つ、俥《くるま》を驅つて齋場《さいぢやう》へ駈けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年齒《とし》が若くつて、平生から其健康を誇つてゐた人も交《まじ》つてゐる。

　私は宅《うち》へ歸つて机の前に坐つて、人間の壽命は實に不思議なものだと考へる。多病な私は何故《なぜ》生き殘つてゐるのだらうかと疑つて見る。あの人は何ういふ譯で私より先に死んだのだらうかと思ふ。

　私として斯ういう黙想に耽《ふけ》るのは寧ろ當然だといはなければならない。けれども自分の位地や、身體や、才能や――凡《すべ》て己《おの》れといふものゝ居り所を忘れがちな人間の一人《いちにん》として、私は死なないのが當り前だと思ひながら暮らしてゐる場合が多い。讀經《どきやう》の間ですら、燒香の際ですら、死んだ佛のあとに生き殘つた、此私といふ形骸を、ちつとも不思議と心得ずに澄ましてゐる事が常である。

　或人が私に告げて、「他《ひと》の死ぬのは當り前のやうに見えますが、自分が死ぬといふ事｜丈《だけ》は到底《とても》考へられません」と云つた事がある。戰爭に出た經驗のある男に、「そんなに隊のものが續々｜斃《たふ》れるのを見てゐながら、自分｜丈《だけ》は死なないと思つてゐられますか」と聞いたら、其人は「居られますね。大方死ぬ迄は死なないと思つてるんでせう」と答へた。それから大學の理科に關係のある人に、飛行機の話を聽かされた時に、斯《こ》んな問答をした覺えもある。

　「あゝして始終落ちたり死んだりしたら、後から乘るものは怖《こは》いだらうね。今度はおれの番だといふ氣になりさうなものだが、さうでないかしら」

　「所がさうでないと見えます」

　「何故」

　「何故つて、丸《まる》で反對の心理状態に支配されるやうになるらしいのです。矢ツ張り彼奴《あいつ》は墜落して死んだが、己《おれ》は大丈夫だといふ氣になると見えますね」

　私も恐らく斯ういう人の氣分で、比較的平氣にしてゐられるのだらう。それも其筈である。死ぬ迄は誰しも生きてゐるのだから。

　不思議な事に私の寐てゐる間には、黒枠《くろわく》の通知が殆んど來ない。去年の秋にも病氣が癒つた後《あと》で、三四人の葬儀に列したのである。其三四人の中《なか》に社の佐藤君も這入つてゐた。私は佐藤君がある宴會の席で、社から貰つた銀盃《ぎんぱい》を持つて來て、私に酒を勸《すゝ》めてくれた事を思ひ出した。其時彼の踴《をど》つた變な踴《をどり》もまだ覺えてゐる。この元氣な崛強《くつきやう》な人の葬式《とむらひ》に行つた私は、彼が死んで私が生殘つてゐるのを、別段の不思議とも思はずにゐる時の方が多い。然し折々考へると、自分の生きてゐる方が不自然のやうな心持にもなる。さうして運命がわざと私を愚弄するのではないかしらと疑ひたくなる。

　

　　　　　二十三

　

　今私の住んでゐる近所に喜久井町《きくゐちやう》といふ町がある。是は私の生れた所だから、外の人よりもよく知つてゐる。けれども私が家を出て、方々漂浪して歸つて來た時には、其喜久井町が大分《だいぶ》廣がつて、何時《いつ》の間《ま》にか根來《ねごろ》の方迄延びてゐた。

　私に縁故の深い此町の名は、餘り聞き慣れて育つた所爲か、ちつとも私の過去を誘ひ出す懷かしい響を私に與へて呉れない。然し書齋に獨り坐つて、頬杖を突いた儘、流れを下る舟のやうに、心を自由に遊ばせて置くと、時々私の聯想が、喜久井町の四字にぱたりと出會つたなり、其所でしばらく?徊《ていくわい》し始める事がある。

　此町は江戸と云つた昔には、多分存在してゐなかつたものらしい。江戸が東京に改まつた時か、それともずつと後《のち》になつてからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵へたものに相違ないのである。

　私の家の定紋《ぢやうもん》が井桁《ゐげた》に菊なので、夫《それ》にちなんだ菊に井戸を使つて、喜久井町としたといふ話は、父自身の口から聽いたのか、又は他《ほか》のものから教《をす》はつたのか、何しろ今でもまだ私の耳に殘つてゐる。父は名主《なぬし》がなくなつてから、一時區長といふ役を勤めてゐたので、或はそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇《ほこり》にした彼の虚榮心を、今になつて考へて見ると、厭な心持は疾《と》くに消え去つて、只微笑したくなる丈《だけ》である。

　父はまだ其上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目といふ名をつけた。不幸にして是は喜久井町程有名にならずに、只の坂として殘つてゐる。然し此間、或人が來て、地圖で此《この》邊《へん》の名前を調べたら、夏目坂《なつめざか》といふのがあつたと云つて話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立つてゐるのかも知れない。

　私が早稻田《わせだ》に歸つて來たのは、東京を出てから何年振になるだらう。私は今の住居《すまひ》に移る前、家《うち》を探す目的であつたか、又遠足の歸り路であつたか、久し振で偶然私の舊家の横へ出た。其時表から二階の古瓦が少し見えたので、まだ生き殘つてゐるのかしらと思つたなり、私は其儘通り過ぎてしまつた。

　早稻田に移つてから、私は又其門前を通つて見た。表から覗くと、何だか故《もと》と變らないやうな氣もしたが、門には思ひも寄らない下宿屋の看板が懸つてゐた。私は昔の早稻田田圃《わせだたんぼ》が見たかつた。然し其所はもう町になつてゐた。私は根來《ねごろ》の茶畠と竹藪を一目《ひとめ》眺めたかつた。然し其痕迹は何處にも發見する事が出來なかつた。多分此邊だらうと推測した私の見當は、當つてゐるのか、外《はづ》れてゐるのか、それさへ不明であつた。

　私は茫然として佇立した。何故《なぜ》私の家｜丈《だけ》が過去の殘骸の如くに存在してゐるのだらう。私は心のうちで、早くそれが崩れて仕舞へば好いのにと思つた。

　「時」は力であつた。去年私が高田の方へ散歩した序《ついで》に、何氣なく其所を通り過ぎると、私の家は綺麗に取り壞されて、其あとに新らしい下宿屋が建てられつゝあつた。其《その》傍《そば》には質屋も出來てゐた。質屋の前に疎《まば》らな圍《かこひ》をして、其中に庭木が少し植ゑてあつた。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、殆んど畸形兒《きけいじ》の樣になつてゐたが、何處か見覺《みおぼえ》のあるやうな心持を私に起させた。昔《むか》し「影｜參差《しんし》松三本の月夜かな」と咏《うた》つたのは、或は此松の事ではなかつたらうかと考へつゝ、私はまた家に歸つた。

　

　　　　　二十四

　

　「そんな所に生《お》ひ立《た》つて、よく今日《こんにち》迄《まで》無事に濟んだものですね」

　「まあ何うか斯うか無事に遣《や》つて來ました」

　私達の使つた無事といふ言葉は、男女《なんによ》の間に起る戀の波瀾がないといふ意味で、云はゞ情事の反對を指《さ》したやうなものであるが、私の追窮心は簡單な此一句の答で滿足出來なかつた。

　「よく人が云ひますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものゝ好な男でも、菓子が厭になるつて、御彼岸《おひがん》に御萩《おはぎ》などを拵えてゐる所を宅《うち》で見てゐても分るぢやありませんか、拵えるものは、たゞ御萩《おはぎ》を御重《おぢゆう》に詰める丈《だけ》で、もうげんなり〔四字傍点〕した顔をしてゐる位だから。あなたの場合もそんな譯なんですか」

　「さういふ譯でもないやうです。兎に角｜廿歳《はたち》少し過ぎ迄は平氣でゐたのですから」

　其人はある意味に置いて好男子であつた。

　「たとひ貴方が平氣でゐても、相手が平氣でゐない場合がないとも限らないぢやありませんか。そんな時には、何うしたつて誘《さそ》はれ勝《がち》になるのが當り前でせう」

　「今から振り返つて見ると、成程斯ういふ意味であゝいふ事をしたのだとか、あんな事を云つたのだとか、色々思ひ當る事がないでもありません」

　「ぢや全く氣が付かずにゐたのですね」

　「まあ左右《さう》です。それから此方《こちら》で氣の付いたのも一つありました。然し私の心はどうしても、其相手に惹《ひ》き付《つ》けられる事が出來なかつたのです」

　私はそれが話の終りかと思つた。二人の前には正月の膳が据ゑてあつた。客は少しも酒を飲まないし、私も殆んど盃に手を觸れなかつたから、献酬といふものは全くなかつた。

　「それ丈《だけ》で今日《こんにち》迄《まで》經過して來られたのですか」と私は吸物をすゝりながら念の爲に訊いて見た。すると客は突然｜斯《こ》んな話を私にして聞かせた。

　「まだ使用人であつた頃に、ある女と二年ばかり會つてゐた事があります。相手は無論｜素人《しろうと》ではないのでした。然し其女はもう居ないのです。首を縊《くゝ》つて死んでしまつたのです。年は十九でした。十日ばかり會はないでゐるうちに死んでしまつたのです。その女にはね、旦那が二人あつて、双方が意地づくで、身受の金を競《せ》り上《あ》げに懸つたのです。それに双方共老妓を味方にして、此方《こつち》へ來い、彼方《あつち》へ行くなと義理責《ぎりぜめ》にもしたらしいのです。……」

　「貴方はそれを救つてやる譯に行かなかつたのですか」

　「當時の私は丁稚《でつち》の少し毛の生えた樣なもので、とても何うも出來ないのです」

　「然し其｜藝妓《げいしや》は貴方の爲に死んだのぢやありませんか」

　「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる譯に行かなかつたからかも知れませんが。……然し私等二人の間に、何處へも行かないといふ約束はあつたに違ないのです」

　「すると貴方が間接に其女を殺した事になるのかも知れませんね」

　「或はさうかも知れません」

　「貴方は寐覺《ねざめ》が惡かありませんか」

　「何うも好くないのです」

　元日に込《こ》み合《あ》つた私の座敷は、二日になつて淋《さび》しい位靜かであつた。私は其淋しい春の松の内に、斯ういふ憐れな物語りを、其年賀の客から聞いたのである。客は眞面目な正直な人だつたから、それを話すにも、殆んど艶つぽい言葉を使はなかつた。

　

　　　　　二十五

　

　私がまだ千駄木にゐた頃の話だから、年數にすると、もう大分《だいぶ》古い事になる。

　或日私は切通《きりどほ》しの方へ散歩した歸りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲つた。其曲り角には其頃あつた牛屋《ぎうや》の傍《そば》に、寄席《よせ》の看板が何時《いつ》でも懸つてゐた。

　雨の降る日だつたので、私は無論｜傘《かさ》をさしてゐた。それが鐡御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張《ふかばり》で、上から洩つてくる雫《しづく》が、自然木《じねんぼく》の柄《え》を傳はつて、私の手を濡らし始めた。人通りの少ない此｜小路《こうぢ》は、凡《すべ》ての泥を雨で洗ひ流したやうに、足駄の齒に引つ懸る汚《きた》ないものは殆んどなかつた。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗《わ》びしかつた。始終通りつけてゐる所爲《せゐ》でもあらうが、私の周圍には何一つ私の眼を惹《ひ》くものは見えなかつた。さうして私の心は能《よ》く此天氣と此周圍に似てゐた。私には私の心を腐蝕するやうな不愉快な塊が常にあつた。私は陰欝な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いてゐた。

　日蔭町《ひかげちやう》の寄席《よせ》の前まで來た私は、突然一臺の幌俥《ほろぐるま》に出合つた。私と俥《くるま》の間には何の隔《へだゝ》りもなかつたので、私は遠くから其中に乘つてゐる人の女だといふ事に氣がついた。まだセルロイドの窓などの出來ない時分だから、車上の人は遠くから其白い顔を私に見せてゐたのである。

　私の眼には其白い顔が大變美しく映《うつ》つた。私は雨の中を歩きながら凝《じつ》と其人の姿に見惚《みと》れてゐた。同時に是は藝者だらうといふ推察が、殆んど事實のやうに、私の心に働らきかけた。すると俥《くるま》が私の一間ばかり前へ來た時、突然私の見てゐた美しい人が、鄭寧な會釋を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なう其挨拶とともに、相手が、大塚楠緒《おほつかくすを》さんであつた事に、始めて氣が付いた。

　次に會つたのは夫《それ》から幾日目《いくかめ》だつたらうか、楠緒《くすを》さんが私に、「此間は失禮しました」と云つたので、私は私の有《あり》の儘《まゝ》を話す氣になつた。

　「實は何處の美くしい方《かた》かと思つて見てゐました。藝者ぢやないかしらとも考へたのです」

　其時｜楠緒《くすを》さんが何と答へたか、私はたしかに覺えてゐないけれども、楠緒《くすを》さんは些《ちつ》とも顔を赧《あか》らめなかつた。それから不愉快な表情も見せなかつた。私の言葉をたゞ其儘に受け取つたらしく思はれた。

　それからずつと經つて、ある日｜楠緒《くすを》さんがわざ／＼早稻田へ訪ねて來て呉れた事がある。然るに生憎《あいにく》私は妻《さい》と喧嘩をしてゐた。私は厭な顔をした儘、書齋に凝《じつ》と坐つてゐた。楠緒《くすを》さんは妻《さい》と十分ばかり話をして歸つて行つた。

　其日は夫《それ》で濟んだが、程なく私は西片町へ詫《あや》まりに出かけた。

　「實は喧嘩をしてゐたのです。妻《さい》も定めて無愛想でしたらう。私は又苦々しい顔を見せるのも失禮だと思つて、わざと引込《ひつこ》んでゐたのです」

　是に對する楠緒《くすを》さんの挨拶も、今では遠い過去になつて、もう呼び出す事の出來ない程、記憶の底に沈んでしまつた。

　楠緒《くすを》さんが死んだといふ報知の來たのは、たしか私が胃腸病院にゐる頃であつた。死去の廣告中に、私の名前を使つて差支ないかと電話で問ひ合された事｜抔《など》もまだ覺えてゐる。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺《くわん》の中《なか》」といふ手向《たむけ》の句を楠緒さんの爲に咏《よ》んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがつて、わざ／＼私に頼んで、短冊に書かせて持つて行つたのも、もう昔になつてしまつた。

　

　　　　　二十六

　

　益《ます》さんが何うしてそんなに零落《おちぶれ》たものか私には解らない。何しろ私の知つてゐる益《ます》さんは郵便脚夫であつた。益さんの弟の庄さんも、家《うち》を潰して私の所へ轉がり込んで食客《ゐさふらう》になつてゐたが、是はまだ益さんよりは社會的地位が高かつた。小供の時分本町の鰯屋《いわしや》へ奉公に行つてゐた時、濱の西洋人が可愛《かはい》がつて、外國へ連れて行くと云つたのを斷つたのが、今考へると殘念だなどゝ始終話してゐた。

　二人とも私の母方の從兄《いとこ》に當る男だつたから、其縁故で、益さんは弟《おとゝ》に會ふため、又私の父に敬意を表するため、月に一遍位は、牛込の奧迄煎餅の袋などを手土産《てみやげ》に持つて、よく訪ねて來た。

　益さんは其時何でも芝の外《はづ》れか、又は品川近くに世帶を持つて、一人暮しの呑氣《のんき》な生活を營んでゐたらしいので、宅《うち》へ來るとよく泊まつて行つた。たまに歸らうとすると、兄達が寄つてたかつて、「歸ると承知しないぞ」などゝ威嚇《おどか》したものである。

　當時二番目と三番目の兄は、まだ南校《なんかう》へ通つてゐた。南校《なんかう》といふのは今の高等商業學校の位置にあつて、そこを卒業すると、開成學校即ち今日《こんにち》の大學へ這入る組織《そしよく》になつてゐたものらしかつた。彼等は夜になると、玄關に桐の机を並べて、明日《あした》の下讀《したよみ》をする。下讀と云つた所で、今の書生の遣るのとは大分《だいぶ》違つてゐた。グードリツチの英國史といつたやうな本を、一節位づゝ讀んで、それからそれを机の上へ伏せて、口の内で今讀んだ通りを暗誦するのである。

　其｜下讀《したよみ》が濟むと、段々｜益《ます》さんが必要になつて來る。庄さんも何時《いつ》の間《ま》にか其所へ顔を出す。一番目の兄も、機嫌の好い時は、わざ／＼奧から玄關迄｜出張《でば》つて來る。さうしてみんな一所になつて、益さんに調戯《からか》ひ始める。

　「益《ます》さん、西洋人の所へ手紙を配達する事もあるだらう」

　「そりや商賣だから厭だつて仕方がありません、持つて行きますよ」

　「益さんは英語が出來るのかね」

　「英語が出來る位なら斯《こ》んな眞似をしちやゐません」

　「然し郵便ツとか何とか大きな聲を出さなくつちやならないだらう」

　「そりや日本語で間に合ひますよ。異人だつて、近頃は日本語が解りますもの」

　「へえゝ、向《むかふ》でも何とか云ふのかね」

　「云ひますとも。ペロリの奧さんなんか、貴方よろしい有難うと、ちやんと日本語で挨拶をする位です」

　みんなは益さんを此處迄おびき出して置いて、どつと笑ふのである。それから又「益さん何て云ふんだつて、其奧さんは」と何遍も一つ事を訊いては、何時《いつ》迄《まで》も笑ひの種にしやうと巧《たく》らんでかゝる。益さんも仕舞には苦笑ひをして、とう／＼「貴方よろしい」を已《や》めにしてしまふ。すると今度は「ぢや益さん、野中《のなか》の一本杉《いつぽんすぎ》を遣《や》つて御覽よ」と誰かが云ひ出す。

　「やれつたつて、左右《さう》おいそれと遣れるもんぢやありません」

　「まあ好いから、お遣りよ。愈《いよ／＼》野中の一本杉の所迄參りますと……」

　益さんは夫《それ》でもにや／＼して應じない。私はとう／＼益さんの野中の一本杉といふものを聽かずにしまつた。今考へると、それは何でも講釋か人情噺《にんじやうばなし》の一節ぢやないかしらと思ふ。

　私の成人する頃には益さんももう宅《うち》へ來なくなつた。大方死んだのだらう。生きてゐれば何か消息《たより》のある筈である。然し死んだにしても、何時《いつ》死んだのか私は知らない。

　

　　　　　二十七

　

　私は芝居といふものに餘り親しみがない。ことに舊劇は解らない。是は古來から其方面で發達して來た演藝上の約束を知らないので、舞台の上に開展《かいてん》される特別の世界に、同化する能力が私に缺けてゐる爲だとも思ふ。然しそれ許《ばかり》ではない。私が舊劇を見て、最も異樣に感ずるのは、役者が自然と不自然の間を、どつち付かずにぶら／＼歩いてゐる事である。それが私に、中腰《ちゆうごし》と云つた樣な落ち付けない心持を引き起させるのも恐らく理の當然なのだらう。

　然し舞台の上に子供などが出て來て、甲《かん》の高い聲で、憐れつぽい事などを云ふ時には、いかな私でも知らず／＼眼に涙が滲《にじ》み出《で》る。さうしてすぐ、あゝ騙《だま》されたなと後悔する。何故《なぜ》あんなに安つぽい涙を零《こぼ》したのだらうと思ふ。

　「何う考へても騙されて泣くのは厭だ」と私はある人に告げた。芝居好の其相手は、「それが先生の常態なのでせう。平生涙を控え目にしてゐるのは、却つて貴方の餘所行《よそゆき》ぢやありませんか」と注意した。

　私は其説に不服だつたので、色々の方面から向《むかふ》を納得させやうとしてゐるうちに、話題がいつか繪畫の方に滑つて行つた。其男は此間參考品として美術協會に出た若冲《じやくちゆう》の御物《ぎよぶつ》を大變に嬉しがつて、其評論を何處かの雜誌に載せるとかいふ噂であつた。私はまた彼《あ》の鷄の圖が頗る氣に入らなかつたので、此所でも芝居と同じ樣な議論が二人の間に起つた。

　「一體君に畫《ゑ》を論ずる資格はない筈だ」と私は遂に彼を罵倒した。すると此｜一言《いちごん》が本《もと》になつて、彼は藝術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんで云ふと、凡《すべ》ての藝術は同じ源《みなもと》から湧いて出るのだから、その内の一つさへうんと腹に入れて置けば、他は自《おの》づから解し得られる理窟だといふのである。座にゐる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかつた。

　「ぢや小説を作れば、自然柔道も旨《うま》くなるかい」と私が笑談半分《ぜうだんはんぶん》に云つた。

　「柔道は藝術ぢやありませんよ」と相手も笑ひながら答へた。

　藝術は平等觀《びやうどうくわん》から出立するのではない。よし其所から出立するにしても、差別觀《さべつくわん》に入《い》つて始めて、花が咲くのだから、それを本來の昔へ返せば、繪も彫刻も文章も、すつかり無に歸してしまふ。其所に何で共通のものがあらう。たとひ有つたにした所で、實際の役には立たない。彼我共通の具體的のものなどの發見も出來る筈がない。

　斯ういふのが其時の私の論旨であつた。さうして其論旨は決して充分なものではなかつた。もつと先方の主張を取り入れて、周到な解釋を下《くだ》して遣る餘地はいくらでもあつたのである。

　然し其時座にゐた一人《いちにん》が、突然私の議論を引き受けて相手に向ひ出したので、私も面倒だからつい其儘にして置いた。けれども私の代りになつた其男といふのは大分《だいぶ》醉つてゐた。それで藝術がどうだの、文藝が何うだのと、しきりに辯ずるけれども、あまり要領を得た事は云はなかつた。言葉遣ひさへ少しへべれけであつた。初めのうちは面白がつて笑つてゐた人達も、遂には黙つてしまつた。

　「ぢや絶交しやう」などと醉つた男が仕舞に云ひ出した。私は「絶交するなら外《そと》で遣《や》つてくれ、此所では迷惑だから」と注意した。

　「ぢや外へ出て絶交しやうか」と醉つた男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とう／＼夫《それ》限《ぎり》になつてしまつた。

　これは今年の元日の出來事である。醉つた男はそれからちよい／＼來るが、其時の喧嘩については一口も云はない。

　

　　　　　二十八

　

　ある人が私の家《うち》の猫を見て、「是は何代目の猫ですか」と訊いた時、私は何氣なく「二代目です」と答へたが、あとで考へると、二代目はもう通り越して、其《その》實《じつ》三代目になつてゐた。

　初代は宿なしであつたに拘らず、ある意味からして、大分《だいぶ》有名になつたが、それに引きかへて、二代目の生涯は、主人にさへ忘れられる位、短命だつた。私は誰がそれを何處から貰つて來たか能《よ》く知らない。然し手《て》の掌《ひら》に載せれば載せられるやうな小さい恰好《かつかう》をして、彼が其所いら中《ぢゆう》這ひ廻つてゐた當時を、私はまだ記憶してゐる。此可憐な動物は、ある朝｜家《うち》のものが床を揚げる時、誤つて上から踏み殺してしまつた。ぐうといふ聲がしたので、蒲團の下に潜《もぐ》り込《こ》んでゐる彼をすぐ引き出して、相當の手當をしたが、もう間に合はなかつた。彼はそれから一日《いちんち》二日《ふつか》して遂に死んでしまつた。其《その》後《あと》へ來たのが即ち眞黒な今の猫である。

　私は此黒猫を可愛《かはい》がつても憎がつてもゐない。猫の方でも宅中《うちぢゆう》のそ／＼歩き廻るだけで、別に私の傍《そば》へ寄り付かうといふ好意を現はした事がない。

　或時彼は臺所の戸棚へ這入つて、鍋の中へ落ちた。其鍋の中には胡麻《ごま》の油が一杯あつたので、彼の身體はコスメチツクでも塗り付けたやうに光り始めた。彼はその光る身體で私の原稿紙の上に寐たものだから、油がずつと下迄｜滲《し》み通《とほ》つて私を隨分な目に逢はせた。

　去年私の病氣をする少し前に、彼は突然皮膚病に罹《かゝ》つた。顔から額へかけて、毛が段々拔けて來る。それを頻りに爪で掻くものだから、瘡葢《かさぶた》がぼろ／＼落ちて、痕《あと》が赤裸《あかはだか》になる。私はある日食事中此見苦しい樣子を眺めて厭な顔をした。

　「あゝ瘡葢《かさぶた》を零《こぼ》して、もし小供にでも傳染すると不可《いけ》ないから、病院へ連れて行つて早く療治をして遣るがいゝ」

　私は家《うち》のものに斯ういつたが、腹の中では、ことによると病氣が病氣だから全治しまいとも思つた。昔《むか》し私の知つてゐる西洋人が、ある伯爵から好い犬を貰つて可愛《かはい》がつてゐた所、何時《いつ》かこんな皮膚病に惱まされ出したので、氣の毒だからと云つて、醫者に頼んで殺して貰つた事を、私はよく覺えてゐたのである。

　「クロロフオームか何かで殺して遣《や》つた方が、却つて苦痛がなくつて仕合せだらう」

　私は三四度《さんよたび》同じ言葉を繰り返して見たが、猫がまだ私の思ふ通りにならないうちに、自分の方が病氣でどつと寐てしまつた。其間私はついに彼を見る機會を有《も》たなかつた。自分の苦痛が直接自分を支配するせゐか、彼の病氣を考へる餘裕さへ出なかつた。

　十月に入《い》つて、私は漸く起きた。さうして例の如く黒い彼を見た。すると不思議な事に、彼の醜い赤裸《あかはだか》の皮膚に故《もと》の樣な黒い毛が生えかゝつてゐた。

　「おや癒るのかしら」

　私は退屈な病後の眼を絶えず彼の上に注いでゐた。すると私の衰弱が段々回復するにつれて、彼の毛も段々濃くなつて來た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。

　私は自分の病氣の經過と彼の病氣の經過とを比較して見て、時々其所に何かの因縁があるやうな暗示を受ける。さうしてすぐ其後から馬鹿らしいと思つて微笑する。猫の方では唯にや／＼鳴く許《ばかり》だから、何《ど》んな心持でゐるのか私には丸《まる》で解らない。

　

　　　　　二十九

　

　私は兩親の晩年になつて出來た所謂｜末《すゑ》ツ子《こ》である。私を生んだ時、母はこんな年齒《とし》をして懷姙するのは面目ないと云つたとかいふ話が、今でも折々は繰り返されてゐる。

　單に其爲ばかりでもあるまいが、私の兩親は私が生れ落ちると間《ま》もなく、私を里に遣《や》つてしまつた。其里といふのは、無論私の記憶に殘つてゐる筈がないけれども、成人の後《のち》聞いて見ると、何でも古道具の賣買を渡世《とせい》にしてゐた貧しい夫婦ものであつたらしい。

　私は其道具屋の我樂多《がらくた》と一所に、小さい笊《ざる》の中に入れられて、毎晩｜四谷《よつや》の大通りの夜店に曝《さら》されてゐたのである。それを或晩私の姉が何かの序《ついで》に其所を通り掛つた時見付けて、可哀想《かはいさう》とでも思つたのだらう、懷へ入れて宅《うち》へ連れて來たが、私は其夜どうしても寐付かずに、とう／＼一晩中泣き續けに泣いたとかいふので、姉は大いに父から叱られたさうである。

　私は何時《いつ》頃《ごろ》其里から取り戻されたか知らない。然しぢき又ある家へ養子に遣られた。それは慥《たしか》私の四つの歳であつたやうに思ふ。私は物心のつく八九歳迄其所で成長したが、やがて養家に妙なごた／＼が起つたため、再び實家へ戻る樣な仕儀となつた。

　淺草から牛込へ遷《うつ》された私は、生れた家《うち》へ歸つたとは氣が付かずに、自分の兩親をもと通り祖父母とのみ思つてゐた。さうして相變らず彼等を御爺さん、御婆さんと呼んで毫も怪しまなかつた。向《むかふ》でも急に今迄の習慣を改めるのが變だと考へたものか、私にさう呼ばれながら澄ました顔をしてゐた。

　私は普通の末《すゑ》ツ子《こ》のやうに決して兩親から可愛《かはい》がられなかつた。是は私の性質が素直《すなほ》でなかつた爲だの、久しく兩親に遠ざかつてゐた爲だの、色々の原因から來てゐた。とくに父からは寧ろ苛酷に取扱かはれたといふ記憶がまだ私の頭に殘つてゐる。それだのに淺草から牛込へ移された當時の私は、何故《なぜ》か非常に嬉しかつた。さうして其嬉しさが誰の目にも付く位に著るしく外へ現はれた。

　馬鹿な私は、本當の兩親を爺《ぢい》婆《ばゞ》とのみ思ひ込んで、何《ど》の位《くらゐ》の月日を空《くう》に暮らしたものだらう、それを訊かれると丸《まる》で分らないが、何でも或夜｜斯《こ》んな事があつた。

　私がひとり座敷に寐てゐると、枕元の所で小さな聲を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼を覺ましたが、周圍《あたり》が眞暗《まつくら》なので、誰が其所に蹲踞《うづくま》つてゐるのか、一寸判斷が付かなかつた。けれども私は小供だから唯｜凝《ぢつ》として先方の云ふ事｜丈《だけ》を聞いてゐた。すると聞いてゐるうちに、それが私の家《うち》の下女の聲である事に氣が付いた。下女は暗い中で私に耳語《みゝこすり》をするやうに斯ういふのである。――

　「貴方《あなた》が御爺さん御婆さんだと思つてゐらつしやる方は、本當はあなたの御父《おとつ》さんと御母《おつか》さんなのですよ。先刻《さつき》ね、大方その所爲《せゐ》であんなに此方《こつち》の宅《うち》が好なんだらう、妙なものだな、と云つて二人で話してゐらしつたのを私が聞いたから、そつと貴方《あなた》に教へて上げるんですよ。誰にも話しちや不可《いけ》ませんよ。よござんすか」

　私は其時たゞ「誰にも云はないよ」と云つたぎりだつたが、心の中《うち》では大變嬉しかつた。さうして其嬉しさは事實を教へて呉れたからの嬉しさではなくつて、單に下女が私に親切だつたからの嬉しさであつた。不思議にも私はそれ程嬉しく思つた下女の名も顔も丸《まる》で忘れてしまつた。覺えてゐるのはたゞ其人の親切｜丈《だけ》である。

　

　　　　　三十

　

　私が斯うして書齋に坐つてゐると、來る人の多くが「もう御病氣はすつかり御癒りですか」と尋ねてくれる。私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答に躊躇した。さうして其《その》極《きよく》何時《いつ》でも同じ言葉を繰り返す樣になつた。それは「えゝまあ何うか斯うか生きてゐます」といふ變な挨拶に異《こと》ならなかつた。

　何うか斯うか生きてゐる。――私は此一句を久しい間使用した。然し使用するごとに、何だか不穩當な心持がするので、自分でも實は已《や》められるならばと思つて考へて見たが、私の健康状態を云ひ現はすべき適當な言葉は、他《た》に何うしても見付からなかつた。

　ある日Ｔ君が來たから、此話をして、癒つたとも云へず、癒らないとも云へず、何と答へて好いか分らないと語つたら、Ｔ君はすぐ私に斯《こ》んな返事をした。

　「そりや癒つたとは云はれませんね。そう時々再發する樣ぢや。まあ故《もと》の病氣の繼續なんでせう」

　此繼續といふ言葉を聞いた時、私は好い事を教へられたやうな氣がした。それから以後は、「何うか斯うか生きてゐます」といふ挨拶を已《や》めて、「病氣はまだ繼續中です」と改ためた。さうして其繼續の意味を説明する場合には、必ず歐洲の大亂を引合《ひきあひ》に出した。

　「私は丁度｜獨乙《ドイツ》が聯合軍と戰爭をしてゐるやうに、病氣と戰爭をしてゐるのです。今斯うやつて貴方と對坐して居られるのは、天下が太平になつたからではないので、塹壕《ざんがう》の中《うち》に這入つて、病氣と睨《にら》めつくらをしてゐるからです。私の身體は亂世です。何時《いつ》どんな變《へん》が起らないとも限りません」

　或人は私の説明を聞いて、面白さうにはゝと笑つた。或人は黙つてゐた。また或人は氣の毒らしい顔をした。

　客の歸つたあとで私は又考へた。――繼續中のものは恐らく私の病氣ばかりではないだらう。私の説明を聞いて、笑談《ぜうだん》だと思つて笑ふ人、解らないで黙つてゐる人、同情の念に驅られて氣の毒らしい顔をする人、――凡《すべ》て是等の人の心の奧には、私の知らない、又自分達さへ氣の付かない、繼續中のものがいくらでも潜んでゐるのではなからうか。もし彼等の胸に響くやうな大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果して何う思ふだらう。彼等の記憶は其時｜最早《もはや》彼等に向つて何物をも語らないだらう。過去の自覺はとくに消えてしまつてゐるだらう。今と昔と又其昔の間に何等の因果を認める事の出來ない彼等は、さういふ結果に陷つた時、何と自分を解釋して見る氣だらう。所詮我々は自分で夢の間《ま》に製造した爆裂彈を、思ひ／＼に抱《いだ》きながら、一人殘らず、死といふ遠い所へ、談笑しつゝ歩いて行くのではなからうか。唯どんなものを抱《だ》いてゐるのか、他《ひと》も知らず自分も知らないので、仕合せなんだらう。

　私は私の病氣が繼續であるといふ事に氣が付いた時、歐洲の戰爭も恐らく何時《いつ》の世からかの繼續だらうと考へた。けれども、それが何處から何う始まつて、何う曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、繼續といふ言葉を解しない一般の人を、私は却つて羨ましく思つてゐる。

　

　　　　　三十一

　

　私がまだ小學校に行つてゐた時分に、喜《き》いちやんといふ仲の好い友達があつた。喜《き》いちやんは當時｜中町《なかちやう》の叔父さんの宅《うち》にゐたので、そう道程《みちのり》の近くない私の所からは、毎日會ひに行く事が出來惡《できにく》かつた。私は重《おも》に自分の方から出掛けないで、喜《き》いちやんの來るのを宅《うち》で待つてゐた。喜《き》いちやんはいくら私が行かないでも、屹度《きつと》向ふから來るに極つてゐた。さうして其來る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を賣る松さんの許《もと》であつた。

　喜《き》いちやんには父母《ちゝはゝ》がない樣だつたが、小供の私には、それが一向《いつかう》不思議とも思はれなかつた。恐らく訊いて見た事もなかつたらう。從つて喜いちやんが何故《なぜ》松さんの所へ來るのか、其譯さへも知らずにゐた。是はずつと後で聞いた話であるが、此｜喜《き》いちやんの御父《おとつ》さんといふのは、昔《むか》し銀座の役人か何かをしてゐた時、贋金《にせがね》を造つたとかいふ嫌疑を受けて、入牢《じふらう》した儘死んでしまつたのだといふ。それであとに取り殘された細君が、喜《き》いちやんを先夫《せんぷ》の家へ置いたなり、松さんの所へ再縁したのだから、喜《き》いちやんが時々｜生《うみ》の母に會ひに來るのは當り前の話であつた。

　何にも知らない私は、此事情を聞いた時ですら、別段變な感じも起さなかつた位だから、喜いちやんと巫山戯廻《ふざけまは》つて遊ぶ頃に、彼の境遇などを考へた事はたゞの一度もなかつた。

　喜いちやんも私も漢學が好きだつたので、解りもしない癖に、能《よ》く文章の議論などをして面白がつた。彼は何處から聽いてくるのか、調べてくるのか、よく六づかしい漢籍の名前などを擧げて、私を驚ろかす事が多かつた。

　彼はある日私の部屋同樣になつてゐる玄關に上り込んで、懷から二冊つゞきの書物を出して見せた。それは確に寫本であつた。しかも漢文で綴つてあつた樣に思ふ。私は喜いちやんから、其書物を受け取つて、無意味に其所此所を引つ繰返して見てゐた。實は何が何だか私には薩張《さつぱ》り解らなかつたのである。然し喜いちやんは、それを知つてるかなどゝ露骨な事をいふ性質《たち》ではなかつた。

　「これは太田南畝《おほたなんぼ》の自筆なんだがね。僕の友達がそれを賣りたいといふので君に見せに來たんだが、買つて遣らないか」

　私は太田南畝といふ人を知らなかつた。

　「太田南畝つて一體何だい」

　「蜀山人《しよくさんじん》の事さ。有名な蜀山人さ」

　無學な私は蜀山人といふ名前さへまだ知らなかつた。然し喜いちやんにさう云はれて見ると、何だか貴重の書物らしい氣がした。

　「若干《いくら》なら賣るのかい」と訊いて見た。

　「五十錢に賣りたいと云ふんだがね。何うだらう」

　私は考へた。さうして何しろ價切《ねぎ》つて見るのが上策だと思ひついた。

　「二十五錢なら買つても好い」

　「それぢや二十五錢でも構はないから、買つて遣り給へ」

　喜いちやんは斯う云ひつゝ私から二十五錢受取つて置いて、又しきりに其本の效能を述べ立てた。私には無論其書物が解らないのだから、それ程嬉しくもなかつたけれども、何しろ損はしないのだらうといふ丈《だけ》の滿足はあつた。私は其夜｜南畝莠言《なんぼいうげん》――たしかそんな名前だと記憶してゐるが、それを机の上に載せて寐た。

　

　　　　　三十二

　

　翌日《あくるひ》になると、喜いちやんが又ぶらりと遣《や》つて來た。

　「君｜昨日《きのふ》買つて貰つた本の事だがね」

　喜いちやんはそれ丈《だけ》云つて、私の顔を見ながら愚圖々々してゐる。私は机の上に載せてあつた書物に眼を注いだ。

　「あの本かい。あの本が何うかしたのかい」

　「實はあすこの宅《うち》の阿爺《おやぢ》に知れたものだから、阿爺《おやぢ》が大變怒つてね。どうか返して貰つて來てくれつて僕に頼むんだよ。僕も一遍君に渡したもんだから厭だつたけれども仕方がないから又來たのさ」

　「本を取りにかい」

　「取りにつて譯でもないけれども、もし君の方で差支がないなら、返して遣《や》つて呉れないか。何しろ二十五錢ぢや安過ぎるつていふんだから」

　此最後の一言《いちごん》で、私は今迄安く買ひ得たといふ滿足の裏に、ぼんやり潜んでゐた不快、――不善の行爲から起る不快――を判然《はつきり》自覺し始めた。さうして一方では狡猾《ずる》い私を怒《いか》ると共に、一方では二十五錢で賣つた先方を怒《いか》つた。何うして此二つの怒《いか》りを同時に和《やは》らげたものだらう。私は苦《にが》い顔をしてしばらく黙つてゐた。

　私の此心理状態は、今の私が小供の時の自分を回顧して解剖するのだから、比較的明瞭に描《ゑが》き出《だ》されるやうなものゝ、其場合の私には殆んど解らなかつた。私さへたゞ苦い顔をしたといふ結果だけしか自覺し得なかつたのだから、相手の喜いちやんには無論それ以上解る筈がなかつた。括弧《くわつこ》の中でいふべき事かも知れないが、年齡《とし》を取つた今日《こんにち》でも、私には能《よ》く斯《こ》んな現象が起つてくる。それで能《よ》く他《ひと》から誤解される。

　喜いちやんは私の顔を見て、「二十五錢では本當に安過ぎるんだとさ」と云つた。

　私はいきなり机の上に載せて置いた書物を取つて、喜いちやんの前に突き出した。

　「ぢや返さう」

　「どうも失敬した。何しろ安公《やすこう》の持つてるものでないんだから仕方がない。阿爺《おやぢ》の宅《うち》に昔からあつたやつを、そつと賣つて小遣《こづかひ》にしやうつて云ふんだからね」

　私はぷり／＼して何とも答へなかつた。喜いちやんは袂から二十五錢出して私の前へ置き掛けたが、私はそれに手を觸れやうともしなかつた。

　「其金なら取らないよ」

　「何故」

　「何故でも取らない」

　「左右《さう》か。然し詰らないぢやないか、たゞ本｜丈《だけ》返すのは。本を返す位なら二十五錢も取り給ひな」

　私は堪《たま》らなくなつた。

　「本は僕のものだよ。一旦買つた以上は僕のものに極つてるぢやないか」

　「そりや左右《さう》に違ひない。違ひないが向《むかふ》の宅《うち》でも困つてるんだから」

　「だから返すと云つてるぢやないか。だけど僕は金を取る譯がないんだ」

　「そんな解らない事を云はずに、まあ取つて置き給ひな」

　「僕は遣るんだよ。僕の本だけども、欲しければ遣らうといふんだよ。遣るんだから本だけ持つてつたら好いぢやないか」

　「左右《さう》かそんなら、左樣《さう》しよう」

　喜いちやんは、とう／＼本だけ持つて歸つた。さうして私は何の意味なしに二十五錢の小遣を取られてしまつたのである。

　

　　　　　三十三

　

　世の中に住む人間の一人《いちにん》として、私は全く孤立して生存する譯に行かない。自然｜他《ひと》と交渉の必要が何處からか起つてくる。時候の挨拶、用談、それからもつと込《こ》み入《い》つた懸合《かけあひ》――是等から脱却する事は、如何に枯淡な生活を送つて居る私にも六づかしいのである。

　私は何でも他《ひと》のいふ事を眞《ま》に受けて、凡《すべ》て正面から彼等の言語動作を解釋すべきものだらうか。もし私が持つて生れた此單純な性情に自己を託して顧みないとすると、時々飛んでもない人から騙《だま》される事があるだらう。其結果蔭で馬鹿にされたり、冷評《ひや》かされたりする。極端な場合には、自分の面前でさへ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。

　それでは他《ひと》はみな擦《す》れ枯《か》らしの嘘吐《うそつき》ばかりと思つて、始めから相手の言葉に耳も借《か》さず、心も傾《かたむ》けず、或時は其裏面に潜んでゐるらしい反對の意味｜丈《だけ》を胸に収めて、それで賢い人だと自分を批評し、又其所に安住の地を見出《みいだ》し得《う》るだらうか。さうすると私は人を誤解しないとも限らない。其上恐るべき過失を犯す覺悟を、初手《しよて》から假定して、掛からなければならない。或時は必然の結果として、罪のない他《ひと》を侮辱する位の厚顔を準備して置かなければ、事が困難になる。

　もし私の態度を此兩面の何方《どつち》かに片付けやうとすると、私の心にまた一種の苦悶が起る。私は惡い人を信じたくない。それから又善い人を少しでも傷《きずつ》けたくない。さうして私の前に現はれて來る人は、悉《こと／”＼》く惡人でもなければ、又みんな善人とも思へない。すると私の態度も相手次第で色々に變つて行かなければならないのである。

　此變化は誰にでも必要で、また誰でも實行してゐる事だらうと思ふが、それが果して相手にぴたりと合つて寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いてゐるだらうか。私の大いなる疑問は常に其所に蟠《わだか》まつてゐる。

　私の僻《ひがみ》を別にして、私は過去に於て、多くの人から馬鹿にされたといふ苦《にが》い記憶を有《も》つてゐる。同時に、先方の云ふ事や爲《す》る事を、わざと平たく取らずに、暗《あん》に其人の品性に恥を掻かしたと同じ樣な解釋をした經驗も澤山ありはしまいかと思ふ。

　他《ひと》に對する私の態度はまづ今迄の私の經驗から來る。それから前後の關係と四圍の状况から出る。最後に、曖昧な言葉ではあるが、私が天から授かつた直覺が何分か働らく。さうして、相手に馬鹿にされたり、又相手を馬鹿にしたり、稀には相手に彼相當な待遇を與へたりしてゐる。

　然し今迄の經驗といふものは、廣いやうで、其《その》實《じつ》甚だ狹い。ある社會の一部分で、何度となく繰り返された經驗を、他の一部分へ持つて行くと、丸《まる》で通用しない事が多い。前後の關係とか四圍の状况とか云つた所で、千差萬別なのだから、その應用の區域が限られてゐるばかりか、其《その》實《じつ》千差萬別に思慮を廻らさなければ役に立たなくなる。しかもそれを廻らす時間も、材料も充分給與されてゐない場合が多い。

　それで私はともすると事實あるのだか、又ないのだか解らない、極めてあやふやな自分の直覺といふものを主位に置いて、他《ひと》を判斷したくなる。さうして私の直覺が果して當つたか當らないか、要するに客觀的《かくくわんてき》事實《じじつ》によつて、それを確める機會を有《も》たない事が多い。其所に又私の疑ひが始終｜靄《もや》のやうにかゝつて、私の心を苦しめてゐる。

　もし世の中に全知全能《ぜんちぜんのう》の神があるならば、私は其神の前に跪《ひざま》づいて、私に毫髪の疑《うたがひ》を挾《さしはさ》む餘地もない程明らかな直覺を與へて、私を此苦悶から解脱《げだつ》せしめん事を祈る。でなければ、此不明な私の前に出て來る凡《すべ》ての人を、玲瓏透徹《れいろうとうてつ》な正直ものに變化して、私と其人との魂がぴたりと合ふ樣な幸福を授け給はん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙《だま》されるか、或は疑ひ深くて人を容《い》れる事が出來ないか、此兩方だけしかない樣な氣がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちてゐる。もしそれが生涯つゞくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだらう。

　

　　　　　三十四

　

　私が大學にゐる頃教へたある文學士が來て、「先生は此間高等工業で講演をなすつたさうですね」といふから、「ああ遣つた」と答へると、其男が「何でも解らなかつたようですよ」と教へて呉れた。

　それ迄自分の云つた事に就いて、其方面の掛念《けねん》を丸《まる》で有《も》つてゐなかつた私は、彼の言葉を聞くとひとしく、意外の感に打たれた。

　「君は何うしてそんな事を知つてるの」

　此疑問に對する彼の説明は簡單であつた。親戚だか知人だか知らないが、何しろ彼に關係のある或《ある》家《うち》の青年が、その學校に通つてゐて、當日私の講演を聽いた結果を、何だか解らないといふ言葉で彼に告げたのである。

　「一體どんな事を講演なすつたのですか」

　私は席上で、彼のために又其講演の梗※［既／木」《かうがい》を繰り返した。

　「別に六《む》づかしいとも思へない事だらう君。何うしてそれが解らないかしら」

　「解らないでせう。何うせ解りやしません」

　私には斷乎たる此返事が如何《いか》にも不思議に聞こえた。然しそれよりも猶強く私の胸を打つたのは、止《よ》せば可《よ》かつたといふ後悔の念であつた。自白すると、私は此學校から何度となく講演を依頼されて、何度となく斷つたのである。だからそれを最後に引き受けた時の私の腹には、何うかして其所に集まる聽衆に、相當の利益を與へたいといふ希望があつた。その希望が、「何うせ解りやしません」といふ簡單な彼の一言《いちごん》で、美事《みごと》に粉碎されてしまつて見ると、私はわざ／＼淺草迄行く必要がなかつたのだと、自分を考へない譯に行かなかつた。

　是はもう一二年前の古い話であるが去年の秋またある學校で、何うしても講演を遣らなければ義理が惡い事になつて、ついに其所へ行つた時、私は不圖《ふと》私を後悔させた前年を思ひ出した。それに私の論じた其時の題目が、若い聽衆の誤解を招き易い内容を含んでゐたので、私は演壇を下りる間際《まぎは》に斯う云つた。――

　「多分誤解はないつもりですが、若し私の今御話したうちに、判然《はつきり》しない所があるなら、何うぞ私宅迄來て下さい。出來《でき》る丈《だけ》貴方がたに御納得《ごなつとく》の行くやうに説明して上げる積《つもり》ですから」

　私の此言葉が、何《ど》んな風に反響をもたらすだらうかといふ豫期は、當時の私には殆んど無かつた樣に思ふ。然しそれから四五日經つて、三人の青年が私の書齋に這入つて來たのは事實である。そのうちの二人は電話で私の都合を聞き合せた。一人は鄭寧な手紙を書いて、面會の時間を拵へて呉れと注文して來た。

　私は快《こゝろ》よくそれ等の青年に接した。さうして彼等の來意を確かめた。一人の方は私の豫想通り、私の講演に就いての筋道の質問であつたが、殘る二人の方は、案外にも彼等の友人が其家庭に對して採るべき方針に就いての疑義を私に訊かうとした。從つて是は私の講演を、何う實社會に應用して好いかといふ彼等の目前に逼《せま》つた問題を持つて來たのである。

　私は是等三人のために、私の云ふべき事を云ひ、説明すべき事を説明した積《つもり》である。それが彼等に何《ど》れ程《ほど》の利益を與へたか、結果からいふと此私にも分らない。然しそれ丈《だけ》にした所で私には滿足なのである。「貴方の講演は解らなかつたさうです」と云はれた時よりも遙に滿足なのである。

　　〔此稿が新聞に出た二三日あとで、私は高等工業の學生から四五通の手紙を受取つた。その人々はみんな私の講演を聽いたものばかりで、いづれも私が此處で述べた失望を打ち消すやうな事實を、反證として書いて來て呉れたのである。だから其手紙はみな好意に充ちてゐた。何故《なぜ》一學生の云つた事を、聽衆全體の意見として速斷するかなどといふ詰問的のものは一つもなかつた。それで私はこゝに一言を附加して、私の不明を謝し、併せて私の誤解を正して呉れた人々の親切を有難く思ふ旨を公けにするのである。〕

　

　　　　　三十五

　

　私は小供の時分｜能《よ》く日本橋の瀬戸物町《せとものちやう》にある伊勢本《いせもと》といふ寄席《よせ》へ講釋を聽きに行つた。今の三越の向側《むかふがは》に何時《いつ》でも晝席の看板が掛かつてゐて、其角を曲ると、寄席《よせ》はつい小半町行くか行かない右手にあつたのである。

　此席は夜になると、色物《いろもの》丈《だけ》しか掛けないので、私は晝より外に足を踏み込んだ事がなかつたけれども、度數からいふと一番多く通《かよ》つた所の樣に思はれる。當時私のゐた家は無論高田の馬場の下ではなかつた。然しいくら地理の便が好かつたからと云つて、何うしてあんなに講釋を聽きに行く時間が私にあつたものか、今考へると寧ろ不思議な位である。

　是も今から振り返つて遠い過去を眺める所爲《せゐ》いでもあらうが、其所は寄席《よせ》としては寧ろ上品な氣分を客に起させる樣に出來てゐた。高座《かうざ》の右側《みぎわき》には帳場格子《ちやうばがうし》のやうな仕切《しきり》を二方に立て廻して、其中に定連《ぢやうれん》の席が設けてあつた。それから高座の後《うしろ》が縁側で、その先がまた庭になつてゐた。庭には梅の古木が斜めに井桁《ゐげた》の上に突き出たりして、窮屈な感じのしない程の大空が、縁から仰がれる位に餘分の地面を取り込んでゐた。其庭を東に受けて離れ座敷のやうな建物も見えた。

　帳場格子のうちにゐる連中は、時間が餘つて使い切れない有福な人達なのだから、みんな相應な服裝《なり》をして、時々｜呑氣《のんき》さうに袂から毛拔《けぬき》などを出して根氣よく鼻毛を拔いてゐた。そんな長閑《のどか》な日には、庭の梅の樹に鶯が來て啼くやうな氣持もした。

　中入《なかいり》になると、菓子を箱入の儘茶を賣る男が客の間へ配つて歩くのが此席の習慣になつてゐた。箱は淺い長方形のもので、まづ誰でも欲しいと思ふ人の手の届く所に一つと云つた風に都合よく置かれるのである。菓子の數は一箱に十位の割だつたかと思ふが、それを食べたい丈《だけ》食べて、後から其代價を箱の中に入れるのが無言の規約になつてゐた。私は其頃此習慣を珍らしいものゝやうに興がつて眺めてゐたが、今となつて見ると、斯うした鷹揚《おうやう》で呑氣《のんき》な氣分は、何處の人寄場《ひとよせば》へ行つても、もう味はう事が出來まいと思ふと、それが又何となく懷しい。

　私はそんなおつとりと物寂《ものさ》びた空氣の中で、古めかしい講釋といふものを色々の人から聽いたのである。其中には、すととこ、のん／＼、ずい／＼〔十二字傍点〕、などといふ妙な言葉を使ふ男もゐた。是は田邊南龍《たなべなんりゆう》と云つて、もとは何處かの下足番であつたとかいふ話である。其すととこ、のん〔六字傍点〕／＼、ずい〔二字傍点〕／＼は甚だ有名なものであつたが、其意味を理解するものは一人もなかつた。彼はたゞそれを軍勢の押し寄せる形容詞として用ひてゐたらしいのである。

　此南龍はとつくの昔に死んでしまつた。其外のものも大抵は死んでしまつた。其《その》後《ご》の樣子を丸《まる》で知らない私には、其時分私を喜こばせて呉れた人のうちで生きてゐるものが果して何人あるのだか全く分らなかつた。

　所がいつか美音會の忘年會のあつた時、其番組を見たら、吉原の幇間《たいこもち》の茶番だの何だのが列《なら》べて書いてあるうちに、私はたつた一人の當時の舊友を見出《みいだ》した。私は新富座《しんとみざ》へ行つて、其人を見た。又其聲を聞いた。さうして彼の顔も咽喉も昔とちつとも變つてゐないのに驚ろいた。彼の講釋も全く昔の通りであつた。進歩もしない代りに、退歩もしてゐなかつた。廿世紀の此急劇な變化を、自分と自分の周圍に恐ろしく意識しつゝあつた私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想に耽つてゐた。

　彼といふのは馬琴《ばきん》の事で、昔｜伊勢本《いせもと》で南龍《なんりゆう》の中入前《なかいりまへ》をつとめてゐた頃には、琴凌《きんりよう》と呼ばれた若手だつたのである。

　

　　　　　三十六

　

　私の長兄はまだ大學とならない前の開成校《かいせいかう》にゐたのだが、肺を患《わづら》つて中途で退學してしまつた。私とは大分《だいぶ》年齒《とし》が違ふので、兄弟としての親しみよりも、大人《おとな》對小供としての關係の方が、深く私の頭に浸《し》み込《こ》んでゐる。ことに怒《おこ》られた時は左右《さう》した感じが強く私を刺戟したやうに思ふ。

　兄は色の白い鼻筋の通つた美くしい男であつた。然し顔だちから云つても、表情から見ても、何處かに峻《けは》しい相《さう》を具へてゐて、無暗に近寄れないと云つた風の逼《せま》つた心持を他《ひと》に與へた。

　兄の在學中には、まだ地方から出て來た貢進生《こうしんせい》などの居る頃だつたので、今の青年には想像の出來ないやうな氣風が校内の其所此所に殘つてゐたらしい。兄は或上級生に艶書《ふみ》を付けられたと云つて、私に話した事がある。其上級生といふのは、兄などよりもずつと年齒上《としうへ》の男であつたらしい。斯《こ》んな習慣の行なはれない東京で育つた彼は、果して其《その》文《ふみ》を何う始末したものだらう。兄はそれ以後學校の風呂で其男と顔を見合せるたびに、極りの惡い思をして困つたと云つてゐた。

　學校を出た頃の彼は、非常に四角四面で、始終堅苦しく構へてゐたから、父や母も多少彼に氣を置く樣子が見えた。其上病氣の所爲《せゐ》でもあらうが、常に陰氣臭い顔をして、宅《うち》にばかり引込《ひつこ》んでゐた。

　それが何時《いつ》となく融《と》けて來て、人柄が自《おの》づと柔らかになつたと思ふと、彼は能《よ》く古渡唐棧《こわたりたうざん》の着物に角帶などを締めて、夕方から宅《うち》を外にし始めた。時々は紫色で龜甲型《きつかふがた》を一面に摺つた龜清《かめせい》の團扇《うちは》などが茶の間に放《はふ》り出《だ》される樣になつた。それ丈《だけ》ならまだ好いが、彼は長火鉢の前へ坐つた儘、しきりに假聲《こはいろ》を遣ひ出した。しかし宅《うち》のものは別段それに頓着する樣子も見えなかつた。私は無論平氣であつた。假色《こわいろ》と同時に藤八拳《とうはちけん》も始まつた。然し此《この》方《はう》は相手が要るので、さう毎晩は繰り返されなかつたが、何しろ變に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心に遣《や》つてゐた。相手は重《おも》に三番目の兄が勤めてゐた樣である。私は眞面目な顔をして、たゞ傍觀してゐるに過ぎなかつた。　此兄はとう／＼肺病で死んでしまつた。死んだのは慥《たし》か明治二十年だと覺えてゐる。すると葬式も濟み、待夜《たいや》も濟んで、まづ一片付《ひとかたづき》といふ所へ一人の女が尋ねて來た。三番目の兄が出て應接して見ると、其女は彼に斯《こ》んな事を訊いた。

　「兄さんは死ぬ迄、奧さんを御持ちになりやしますまいね」

　兄は病氣のため、生涯妻帶しなかつた。

　「いゝえ仕舞迄獨身で暮らしてゐました」

　「それを聞いてやつと安心しました。妾《わたくし》のやうなものは、どうせ旦那がなくつちや生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」

　兄の遺骨の埋《う》められた寺の名を教《をす》はつて歸つて行つた此女は、わざ／＼甲州から出て來たのであるが、元柳橋の藝者をしてゐる頃、兄と關係があつたのだといふ話を、私は其時始めて聞いた。

　私は時々此女に會つて兄の事などを物語つて見たい氣がしないでもない。然し會つたら定めし御婆《おばあ》さんになつて、昔とは丸《まる》で違つた顔をしてゐはしまいかと考へる。さうして其心も其顔同樣に皺が寄つて、から／＼に乾いてゐはしまいかとも考へる。もし左右《さう》だとすると、彼《かの》女《をんな》が今になつて兄の弟の私に會ふのは、彼《かの》女《をんな》にとつて却つて辛《つら》い悲しい事かも知れない。

　

　　　　　三十七

　

　私は母の記念の爲に此所で何か書いて置きたいと思ふが、生憎《あいにく》私の知つてゐる母は、私の頭に大した材料を遺《のこ》して行つて呉れなかつた。

　母の名は千枝《ちえ》といつた。私は今でも此千枝といふ言葉を懷かしいものゝ一つに數へてゐる。だから私にはそれがたゞ私の母｜丈《だけ》の名前で、決して外の女の名前であつてはならない樣な氣がする。幸ひに私はまだ母以外の千枝といふ女に出會つた事がない。

　母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿《たど》つて行つても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覺えてゐる特權が遂に與へられずにしまつたのである。

　私の知つてゐる母は、常に大きな眼鏡を掛けて裁縫《しごと》をしてゐた。其眼鏡は鐡縁の古風なもので、球《たま》の大きさが直徑《さしわたし》二寸以上もあつた樣に思はれる。母はそれを掛けた儘、すこし顋《あご》を襟元へ引き付けながら、私を凝《ぢつ》と見る事が?《しば／＼》あつたが、老眼の性質を知らない其頃の私には、それがたゞ彼女の癖とのみ考へられた。私は此眼鏡と共に、何時《いつ》でも母の背景になつてゐた一間《いつけん》の襖を想ひ出す。古びた張交《はりまぜ》の中《うち》に、生死事大無常迅速《しやうじじだいむじやうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》なども鮮やかに眼に浮んで來る。

　夏になると母は始終｜紺無地《こんむぢ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》を着て、幅の狹い黒繻子《くろじゆす》の帶を締めてゐた。不思議な事に、私の記憶に殘つてゐる母の姿は、何時《いつ》でも此眞夏の服裝《なり》で頭の中に現はれる丈《だけ》なので、それから紺無地の絽の着物と幅の狹い黒繻子の帶を取り除くと、後に殘るものはたゞ彼女の顔ばかりになる。母がかつて縁鼻へ出て、兄と碁を打つてゐた樣子などは、彼等二人を組み合はせた圖柄《づがら》として、私の胸に収めてある唯一の記念《かたみ》なのだが、其所でも彼女は矢張同じ帷子《かたびら》を着て、同じ帶を締めて坐つてゐるのである。

　私はついぞ母の里へ伴《つ》れて行かれた覺《おぼえ》がないので、長い間母が何處から嫁に來たのか知らずに暮らしてゐた。自分から求めて訊きたがるやうな好奇心は更になかつた。それで其點も矢張ぼんやり霞んで見えるより外に仕方がないのだが、母が四《よ》ツ谷大番町《やおほばんまち》で生れたといふ話｜丈《だけ》は確かに聞いてゐた。宅《うち》は質屋であつたらしい。藏が幾戸前《いくとまへ》とかあつたのだと、かつて人から教へられたやうにも思ふが、何しろ其大番町といふ所を、此年になる迄今だに通つた事のない私の事だから、そんな細かな點は丸《まる》で忘れてしまつた。たとひそれが事實であつたにせよ、私の今｜有《も》つてゐる母の記念のなかに藏屋敷などは決して現はれて來ないのである。大方其頃にはもう潰れて仕舞つたのだらう。

　母が父の所へ嫁にくる迄御殿奉公をしてゐたといふ話も朧氣《おぼろげ》に覺えてゐるが、何處の大名の屋敷へ上つて、何《ど》の位《くらゐ》長く勤めてゐたものか、御殿奉公の性質さへ能《よ》く辨《わきま》へない今の私には、たゞ淡《あは》い薫《かをり》を殘して消えた香《かう》のやうなもので、殆んどとり留めようのない事實である。

　然しさう云へば、私は錦繪に描《か》いた御殿女中の羽織つてゐるやうな華美《はで》な總模樣の着物を宅《うち》の藏の中で見た事がある。紅絹裏《もみうら》を付けた其着物の表には、櫻だか梅だかが一面に染め出されて、所々に金糸や銀糸の刺?《ぬひ》も交《まじ》つてゐた。是は恐らく當時の裲襠《かいどり》とかいふものなのだらう。然し母がそれを打ち掛けた姿は、今想像しても丸《まる》で眼に浮かばない。私の知つてゐる母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであつたから。それのみか私は此美くしい裲襠《かいどり》が其《その》後《ご》小掻卷《こがいまき》に仕立直されて、其頃｜宅《うち》に出來た病人の上に載せられたのを見た位だから。

　

　　　　　三十八

　

　私が大學で教《をす》はつたある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別を贈らうと思つて、宅《うち》の藏から高蒔繪《たかまきゑ》に緋の房《ふさ》の付いた美しい文箱《ふばこ》を取り出して來た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持つて行つて貰ひ受けた時の私は、全く何の氣も付かなかつたが、今斯うして筆を執つて見ると、その文箱《ふばこ》も小掻卷《こがいまき》に仕立直された紅絹裏《もみうら》の裲襠《かいどり》同樣に、若い時分の母の面影《おもかげ》を濃《こまや》かに宿してゐるやうに思はれてならない。母は生涯父から着物を拵へて貰つた事がないといふ話だが、果して拵へて貰はないでも濟む位な支度をして來たものだらうか。私の心に映《うつ》るあの紺無地《こんむぢ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》も、幅の狹い黒繻子《くろじゆす》の帶も、矢張嫁に來た時から既に箪笥の中にあつたものなのだらうか。私は再び母に會つて、萬事を悉《こと／”＼》く口づから訊いて見たい。

　惡戯《いたずら》で強情な私は、決して世間の末《すゑ》ツ子《こ》のやうに母から甘く取扱かはれなかつた。それでも宅中《うちぢゆう》で一番私を可愛《かはい》がつて呉れたものは母だといふ強い親しみの心が、母に對する私の記憶の中《うち》には、何時《いつ》でも籠つてゐる。愛憎を別にして考へて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかつた。さうして父よりも賢こさうに誰の目にも見えた。氣六づかしい兄も母｜丈《だけ》には畏敬の念を抱《いだ》いてゐた。

　「御母《おつか》さんは何にも云はないけれども、何處かに怖《こは》いところがある」

　私は母を評した兄の此言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出《ひつぱりだ》してくる事が今でも出來る。然しそれは水に融《と》けて流れかゝつた字體を、屹《きつ》となつて漸《やつ》と元の形に返したやうな際《きは》どい私の記憶の斷片に過ぎない。其外の事になると、私の母はすべて私に取つて夢である。途切《とぎ》れ途切《とぎ》れに殘つてゐる彼女の面影《おもかげ》をいくら丹念に拾い集めても、母の全體はとても髣髴する譯に行かない。其｜途切《とぎれ》／＼に殘つてゐる昔さへ、半《なか》ば以上はもう薄れ過ぎて、しつかりとは※［手偏＋國］めない。

　或時私は二階へ上《あが》つて、たつた一人で、晝寐をした事がある。其頃の私は晝寐をすると、よく變なものに襲はれがちであつた。私の親指が見る間に大きくなつて、何時《いつ》迄《まで》經《た》つても留らなかつたり、或は仰向《あふむき》に眺めてゐる天井が段々上から下りて來て、私の胸を抑へ付けたり、又は眼を開《あ》いて普段と變らない周圍を現に見てゐるのに、身體｜丈《だけ》が睡魔の擒《とりこ》となつて、いくら藻掻《もが》いても、手足を動かす事が出來なかつたり、後で考へてさへ、夢だか正氣だか譯の分らない場合が多かつた。さうして其時も私は此變なものに襲はれたのである。

　私は何時《いつ》何處で犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金錢を多額に消費してしまつた。それを何の目的で何に遣《つか》つたのか、其邊も明瞭でないけれども、小供の私には到底《とて》も償ふ譯に行かないので、氣の狹い私は寐ながら大變苦しみ出した。さうして仕舞に大きな聲を揚げて下にゐる母を呼んだのである。

　二階の梯子段《はしごだん》は、母の大眼鏡と離す事の出來ない、生死事大無常迅速《しやうじじだいむじやうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》の張交《はりまぜ》にしてある襖の、すぐ後《うしろ》に附いてゐるので、母は私の聲を聞き付けると、すぐ二階へ上《あが》つて來て呉れた。私は其所に立つて私を眺めてゐる母に、私の苦しみを話して、何うかして下さいと頼んだ。母は其時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母《おつか》さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云つて呉れた。私は大變嬉しかつた。それで安心してまたすや／＼寐てしまつた。

　私は此出來事が、全部夢なのか、又は半分｜丈《だけ》本當なのか、今でも疑つてゐる。然し何うしても私は實際大きな聲を出して母に救を求め、母は又實際の姿を現はして私に慰藉の言葉を與へて呉れたとしか考へられない。さうして其時の母の服裝《なり》は、いつも私の眼に映《うつ》る通り、やはり紺無地の絽の帷子《かたびら》に幅の狹い黒繻子の帶だつたのである。

　

　　　　　三十九

　

　今日は日曜なので、小供が學校へ行かないから、下女も氣を許したものと見えて、何時《いつ》もより遲く起きたやうである。夫《それ》でも私の床を離れたのは七時十五分過であつた。顔を洗つてから、例の通り燒?麭《トースト》と牛乳と半熟の鷄卵《たまご》を食べて、厠《かはや》に上《のぼ》らうとすると、生憎《あいにく》肥取《こいとり》が來てゐるので、私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置の中で何か片付ものをしてゐた。不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周圍に、女の子が三人ばかり心持よささうに煖を取つてゐる樣子が私の注意を惹いた。

　「そんなに焚火に當ると顔が眞黒になるよ」と云つたら、末の子が、「いやあーだ」と答へた。私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦の融《と》けつくした霜に濡れて、朝日にきらつく色を眺めたあと、又｜家《うち》の中へ引き返した。

　親類の子が來て掃除をしてゐる書齋の整頓するのを待つて、私は机を縁側に持ち出した。其所で日當りの好い欄干に身を靠《も》たせたり、頬杖を突いて考へたり、又｜少時《しばらく》は凝《じつ》と動かずにたゞ魂を自由に遊ばせて置いて見たりした。

　輕い風が時々鉢植の九花蘭《きうくわらん》の長い葉を動かしにきた。庭木の中で鶯が折々下手な囀《さへづ》りを聽かせた。毎日硝子戸の中に坐つてゐた私は、まだ冬だ冬だと思つてゐるうちに、春は何時《いつ》しか私の心を蕩搖《たうえう》し始めたのである。

　私の冥想は何時《いつ》迄《まで》坐つてゐても結晶しなかつた。筆をとつて書かうとすれば、書く種は無盡藏にあるやうな心持もするし、彼《あれ》にしようか、是にしようかと迷ひ出すと、もう何を書いても詰らないのだといふ呑氣《のんき》な考も起つてきた。しばらく其所で佇ずんでゐるうちに、今度は今迄書いた事が全く無意味のやうに思はれ出した。何故《なぜ》あんなものを書いたのだらうといふ矛盾が私を嘲弄し始めた。有難い事に私の神經は靜まつてゐた。此嘲弄の上に乘つてふわ／＼と高い冥想の領分に上《のぼ》つて行くのが自分には大變な愉快になつた。自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下《みおろ》して笑ひたくなつた私は、自分で自分を輕蔑する氣分に搖られながら、搖籃《えうらん》の中で眠《ねむ》る小供に過ぎなかつた。

　私は今迄｜他《ひと》の事と私の事をごちや／＼に書いた。他《ひと》の事を書くときには、成《な》る可《べ》く相手の迷惑にならないやうにとの掛念《けねん》があつた。私の身の上を語る時分には、却つて比較的自由な空氣の中に呼吸する事が出來た。それでも私はまだ私に對して全く色氣を取り除き得る程度に達してゐなかつた。嘘を吐《つ》いて世間を欺く程の衒氣《げんき》がないにしても、もつと卑しい所、もつと惡い所、もつと面目を失する樣な自分の缺點を、つい發表しずに仕舞つた。聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿つて行つても、本當の事實は人間の力で叙述出來る筈がないと誰かゞ云つた事がある。况《ま》して私の書いたものは懺悔ではない。私の罪は、――もしそれを罪と云ひ得るならば、――頗る明るい處からばかり寫されてゐただらう。其所に或人は一種の不快を感ずるかも知れない。然し私自身は今其不快の上に跨がつて、一般の人類をひろく見渡しながら微笑してゐるのである。今迄詰らない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、恰《あたか》もそれが他人であつたかの感を抱きつゝ、矢張り微笑してゐるのである。

　まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思ひ出したやうに九花蘭の葉を搖《うご》かしに來る。猫が何處かで痛く噛まれた米噛《こめかみ》を日に曝して、あたゝかさうに眠つてゐる。先刻《さつき》迄《まで》庭で護謨風船《ゴムふうせん》を揚げて騷いでゐた小供達は、みんな連れ立つて活動寫眞へ行つてしまつた。家《いへ》も心もひつそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放つて、靜かな春の光に包まれながら、恍惚《うつとり》と此稿を書き終るのである。さうした後で、私は一寸肱を曲げて、此縁側に一眠り眠《ねむ》る積《つもり》である。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　大正四年、一、一三−二、二三

　

　　　作物の批評

　

　中學には中學の課目があり、高等學校には高等學校の課目があつて、之を修了せねば卒業の資格はないとしてある。その課目の數やその按排の順は皆文部省が制定するのだから各擔任の教師は委託をうけたる學問を其時間の範圍内に於て出來得る限りの力を盡すべきが至當と云はねばならぬ。

　然るに各課擔任の教師は其學問の專門家であるが爲め、專門以外の部門に無識にして無頓着なるが爲め、自己研究の題目と他人教授の課業との權衡を見るの明なきが爲め、往々わが範圍以外に飛び超えて、わが學問の有效を、他の領域内に侵入して迄も主張しやうとする事がある。たとへば英語の教師が英語に熱心なるの餘り學生を鞭撻して、地理數學の研修に利用すべき當然の時間を割いて迄も難句集を暗誦させる樣なものである。たゞに夫のみではない、わが專攻する課目の外、わが擔任する授業の外には天下又一の力を用ゐるに足るものなきを吹聽し來るのである。吹聽し來る丈ならまだいゝ。果はあらゆる他の課目を罵倒し去るのである。

　かゝる行動に出づる人の中で、相當の論據があつて公然文部省所定の課目に服せぬものはこゝに引き合に出す限りではない。それ程の見識のある人ならば結構である。四角に仕切つた芝居小屋の枡見た樣な時間割のなかに立て籠つて、土龍の如く働いてゐる教師より遙かに結構である。然し英語丈の本城に生涯の尻を落ちつけるのみならず、櫓から首を出して天下の形勢を視察する程の能力さへなきものが、徒らに自尊の念と固陋の見を綯り合せたる如き没分曉の鞭を振つて學生を精根のつゞく限りたゝいたなら、見じめなのは學生である。熱心は敬服すべきである。精神は嘉すべきである。其善意的なるも又多とすべきである。あるにも拘らず學生は迷惑である。當該課目に於ける智識が缺乏する爲めではない、當該課目以外の智識が全然缺乏してゐるからである。たゞ缺乏してゐるからではない。其結果として入らぬ所迄のさばり出て、要もない課目を打ちのめさねば已まぬ底の勇氣があるから迷惑なのである。

　是等の人は自己の主張を守るの點に於て志士である。主張を貫かんとするの點に於て勇士である。主張の長所を認むるの點に於て智者である。他意なく人の爲め盡さんとするの點に於て善人である。只自他の關係を知らず、眼を全局に注ぐ能はざるが爲め、わが繩張りを設けて、いゝ加減なところに幅を利かして滿足すべき所を、足に任せて天下を横行して、憚からぬのが災になる。人が咎めれば云ふ。おれの地面と君の地面との境はどこだ。境は自分がきめぬ丈で、人の方ではとうから定めてゐる。再び咎めれば云ふ。此通り足が達者でどこへでも歩いて行かれるぢやないか。足の達者なのは御意の通りである。足に任せて人の畠を荒らされては困ると云ふのである。かの志士と云ひ、勇士と云ひ、智者と云ひ、善人と云はれたるものも是《こゝ》に於てか忽ちに浪人となり、暴士となり、盲者となり、惡人となる。

　今の評家のあるものは、ある點に於て此教師に似て居ると思ふ。尤も尊敬すべき言語を以て評家を飜譯すれば教師である。尤も謙遜したる意義に於て作家を解釋すれば生徒である。生徒の點數は教師によつて定まる。生徒の父兄朋友と雖も此權利を奈何ともする事は出來ん。學業の成蹟は一に教師の判斷に任せて、不平をさしはさまざるのみならず、却つて之によつて彼等の優劣を定めんとしつゝある。一般の世間が評家に望む所は正に是に外ならぬ。

　たゞ學校の教師には專門がある。擔任がある。評家はこゝ迄發達して居らぬ。たまには詩のみ評するもの、劇のみ品するものもあるが、然しそれすら寥々たるものである。のみならずこれらの分類は形式に屬する分類であるから、專門として獨立する價値があるかないか既に疑問である。して見ると、つまりは純文學の批評家は純文學の方面に關するあらゆる創作を檢閲して採點しつゝある事になる。前例を布衍して云ふと地理、數學、物理、歴史、語學の試驗を只一人で擔任すると同樣な結果になる。

　純文學と云へば甚だ單簡である。然し其内容を論ずれば千差萬別である。實は文學の標榜する所は何と何で其表現し得る題目は如何なる範圍に跨がつて、其人を動かす點は幾ケ條あつて、是等が未來の開化に觸るゝときどこ迄押擴げ得るものであるか、未だ何人も組織的に研究したものが居らんのである。又頗る出來にくいのである。

　かう云ふては分らんかも知らぬ。例を擧げて二三を語ればすぐに合點が行く。古い話であるが昔しの人は劇の三統一と云ふ事を必要條件の樣に説いた。所が沙翁の劇は是を破つてゐる。しかも立派に出來てゐる。してみると統一が劇の必要であると云ふ趣味から沙翁の作物を見れば失望するにきまつてゐる。或は駄作になるかも知れぬ。然し是が爲めに統一論の價値がなくなつたのではない。其價値がモヂフハイされたのであると思ふ。だから此條件を充たした劇を見れば矢張それなりに面白い。其代り沙翁の劇を賞翫する態度でかゝつてはならぬ。讀者の方で融通を利かして、其作物と同じ平面に立つ丈の餘裕がなくてはならぬ。外に一例をあげる。又沙翁を引合に出すが、あの男のかいたものは頗る亂暴な所がある。劇の一段《シーン》がたつた五六行で、始まるかと思ふとすぐ仕舞はねばならぬと思ふのに、作者は大膽にも平氣でいくらでも、こんな連鎖を設けてゐる。無論マクベスの發端の樣に行數は短かくても、興味の上に於て全篇を貫く重みのあるものは論外であるが、平々凡々たる而も十行内外の一段を設けるのは、話しの續きをあらはす爲め已を得ず插入したのだと見え透く樣に思はれる。換言すれば彼の戯曲のあるものは齣幕の組織に於て明かに比例を失してゐる。だから比例丈を眼中に置いてマーチヤント・オブ・?ニスを讀むものは必ず失敗の作だと云ふだらう。マーチヤント・オブ・?ニスは此點から讀むべきものでないと云ふ事がわかる。又沙翁を引き合に出す。オセロは四大悲劇の一である。然し讀んで決して好い感じの起るものではない。不愉快である。（今は其理由を説明する餘地がないから略す）もし感じ一方を以てあの作に對すれば全然愚作である。幸にしてオセロは事件の綜合と人格の發展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際がある。讀者は夫を見ればいゝ。日本の芝居の仕組は支離滅裂である。馬鹿々々しい。結構とか性格とか云ふ點からあれを見たならば抱腹するのが多いだらう。然し幕に變化がある。出來事が走馬燈の如く人を驚かして續々出る。こゝ丈を面白がつて、その外を忘れて居れば矢張り幾分の興味がある。一九は御覽の通りの作者である。一九を讀んで崇高の感がないと云ふのは非難しやうもない。崇高の感がないから排斥すべしと云ふのは、文學と崇高の感と内容に於て全部一致した曉でなければ云へぬ事である。一九に點を與へるときには滑稽が下卑であるから五十とか、諧謔が自然だから九十とかきめなければならぬ。メリメのカルメンはカルメンと云ふ女性を描いて躍然たらしめてゐる。あれを讀んで人生問題の根元に觸れてゐないから駄作だと云ふのは數學の先生が英語の答案を見て方程式にあてはまらないから落第だと云ふ樣なものである。デフオーは一種の寫實家である。ロビンソンクルーソーを讀んでテニソンのイノツク・アーデンの樣に詩趣がないと云ふ。こゝ迄は成程と降參せねばならぬ。然し夫だからロビンソンクルーソーは作物にならないと云ふのは歌麿の風俗畫には美人があるが、ギド、レニのマグダレンは女になつて居らんと主張する樣なものである。――例を擧げれば際限がないから已める。

　作家が評家に呈出する答案は斯の如く多種多面である。評家は中學の教師の如く部門をわけて採點するか又は一人で物理、數學、地理、歴史の智識を兼ねなければならぬ。今の評家は後者である。苟も評家であつて、專門の分岐せぬ今の世に立つからには、多樣の作家が呈出する答案を檢閲するときに方つて、色々に立場を易へて、作家の精神を汲まねばならぬ。融通のきかぬ一本調子の趣味に固執して、其趣味以外の作物を一氣に抹殺せんとするのは、英語の教師が物理、化學、歴史を受け持ちながら、凡ての答案を英語の尺度で採點して仕舞ふと一般である。其尺度に合せざる作家は悉く落第の悲運に際會せざるを得ない。世間は學校の採點を信ずる如く、評家を信ずるの極遂に其落第を當然と認定するに至るだらう。

　是に於て評家の責任が起る。評家は先づ世間と作家とに向つて文學は如何なる者ぞと云ふ解決を與へねばならん。文學上の述作を批判するに方つて（詩は詩、劇は劇、小説は小説、凡てに共有なる點は共有なる點として）批判すべき條項を明かに備へねばならぬ。恰も中學及び高等學校の規定が何と何と、これ／＼とを修め得ざるものは學生にあらずと宣告するが如くせねばならん。此條項を備へたる評家は此條項中のあるものに就て百より〇に至る迄の點數を作家に附與せねばならん。此條項のうちわが趣味の缺乏して自己に答案を檢査するの資格なしと思惟するときは作家と世間とに遠慮して點數を付與する事を差し控へねばならん。評家は自己の得意なる趣味に於て專門教師と同等の權力を有するを得べきも、其繩張以外の諸點に於ては知らぬ、わからぬと云ひ切るか、又は何事をも云はぬが禮であり、�ｺ義である。

　是等の條項を机の上に貼り附けるのは、學校の教師が、學校の課目全體を承知の上で、自己の受持に當る樣なもので、自他の關係を明かにして、文學の全體を一目に見渡すと同時に、自己の立脚地を知るの便宜になる。今の評家は此便宜を認めてゐない。認めても作つていない。只手當り次第にやる。述作に對すると思ひ付いた事をいゝ加減に述べる。だから評し盡したのだか、まだ殘つてゐるのか當人にも判然しない。西洋も日本も同じ事である。

　是等の條項を遺憾なく揃へる爲めには過去の文學を材料とせねばならぬ。過去の批評を一括して其變遷を知らねばならぬ。從つて上下數千年に渉つて抽象的の工夫を費やさねばならぬ。右から見てゐる人と左から眺めてゐる人との關係を同じ平面にあつめて比較せねばならぬ。昔しの人の述作した精神と、今の人の支配を受くる潮流とを地圖の樣に指《ゆびさ》し示さねばならぬ。要するに一人の事業ではない。一日の事業でもない。

　此條項を備へたる人にして始めて、此條項中に差等を付ける事を考へてもよいと思ふ。人力も人を載せる。電車も人も載せる。兩者を知つたものが始めて兩者の利害長短を比較するの權利を享ける。中學の課目は數に於て極つてゐる。時間の多少は一樣ではない。必要の度の高い英語の如きは比較的多くの時間を占領してゐる。批評の條項に就いても諸人の合意で此等《これら》の高下を定める事が出來るかも知れぬ。（出來ぬかも知れぬ）崇高感を第一位に置くもよい。純美感を第一にするもよい。或は人間の機微に觸れた内部の消息を傳へた作品を第一位に据ゑてもいゝ。或は平々淡々のうちに人を引き着ける垢拔けのした著述を推すもいゝ。猛烈なものでも、沈靜なものでも、形式の整つたものでも、放縱にしてまとまらぬうちに面白味のあるものでも、精緻を極めたものでも、一氣に呵成したものでも、神秘的なものでも、寫實的なものでも、朧のなかに影を認める樣な糢糊たるものでも、青天白日の下に掌をさすが如き明暸なものでもいゝ――。相當の理由があつて第一位に置かんとならば、相當の理由があつて等差を附するならば差支ない。但し出來るか出來ぬかは疑問である。

　是等の條項に差等を付けると同時に是等の條項中のあるものは性質に於て併立して存在すべきも、甲乙と從屬せしむべきものでないと云ふ事に氣が付くかも知れぬ。然も其併立せるものが一見反對の趣味で相容れぬと云ふ事實も認め得るかも知れぬ――批評家は反對の趣味も同時に胸裏に蓄へる必要がある。

　物理學者が物質を材料とする如く、動物學者が動物を材料とする如く、批評家も又過去〔二字右○〕の文學を材料として以上の條項と此條項に從て起る趣味の法則を得ねばならぬ。去れども此條項と此法則とは過去の材料〔五字傍点〕より得たる事實を忘れてはならぬ。從つて古《ふるき》に拘泥してあらゆる未來の作物に是等を應用して得たりと思ふは誤りである。死したる自然は古今來を通じて同一である。活動せる人間精神の發現は版行で押した樣には行かぬ。過去の文學は未來の文學を生む。生まれたものは同じ譯には行かぬ。同じ譯に行かぬものを、同じ法則で品隲せんとするのは舟を刻んで劍を求むるの類である。過去を綜合して得たる法則は批評家の參考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文學が衰へるとはこの爲めである。法則がわるいのではない。法則を利用する評家が變通の理を解せんのである。

　作家は造物主である。造物主である以上は評家の豫期するものばかりは拵らへぬ。突然として破天荒の作物を天降《あまくだ》らせて評家の腦を奪ふ事がある。中學の課目は文部省で來めてある。課目以外の答案を出して採點を求める生徒は一人もない。從つて教師は融通が利かなくてもよい。造物主は白い烏を一夜に作るかも知れぬ。動物學者は白い烏を見た以上は烏は黒いものなりとの定義を變ずる必要を認めねばならぬ如く、批評家も亦古來の法則に遵はざる、又過去の作中より擧げ盡したる評價的條項以外の條項を有する文辭に接せぬとは限らぬ。之に接したるとき、白い烏を烏と認むる程の、見識と勇氣と説明がなくてはならぬ。之が出來る爲めには以上の條項と法則を知らねばならぬ。知つて融通の才を利かさねばならぬ。拘泥すれば夫迄である。

　現代評家の弊は此條項と此法則を知らざるにある。ある人は煩悶を描かねば文學でないと云ふ。あるものは他にいか程の採るべき點があつても、事件に少しでも不自然があれば文學でないと云ふ。あるものは人間交渉の際卒然として起る際どき眞味〔二字右○〕がなければ文學でないと云ふ。あるものは平淡なる寫生文に事件の發展がないのを見て文學でないと云ふ。然して評家が從來の讀書及び先輩の薫陶、若くは自己の狹隘なる經驗より出でたる一縷の細長き趣味中に含まるゝものゝみを見て眞の文學だ、眞の文學だと云ふ。余は之を不快に思ふ。

　余は評家ではない。前段に述べたる資格を有する評家では無論ない。從つて評家としての余の位地を高めんが爲めに此篇を草したのではない。時間の許す限り世の評家と共に過去を研究して、出來得る限り此根據地を作りたいと思ふ。思ふに付いては自分一人でやるより廣く天下の人と共にやる方がわが文界の慶事であるから云ふのである。今の評家は斯程の事を知らぬ譯ではあるまいから、御互にかう云ふ了見で過去を研究して、御互に得た結果を交換して自然と吾邦將來の批評の土臺を築いたらよからうと相談をするのである。實は西洋でも左程進歩して居らんと思ふ。

　余は今日迄に多少の創作をした。此創作が世間に解せられずして不平だから此言をなすのでないのは無論である。余の作物は余の予期以上に歡迎されて居る。たとひある人々から種々の注文が出ても、其注文者の立場は余によくわかつて居る。從つて是等の人に對して不平は猶更ない。だから余の云ふ事は自己の作物の爲めでない事は明かである。余は只吾邦未來の文運の爲めに云ふのである。

−明治四〇、一、一『讀賣新聞』−

　

　　　寫生文

　

　寫生文の存在は近頃漸く世間から認められた樣であるが、寫生文の特色に就てはまだ誰も明暸に説破したものが居らん。元來存在を認めらるゝと云ふ事は既に認められる丈の特色を有して居ると云ふ意味に過ぎんのだから、存在を認められる以上は特色も認められた譯に相違ない。然し認めらるゝと云ふのは説明されるとは一樣でない。櫻と海棠の感じに相違のあるのは何人も認めて居る。其相違を説明しろと云はれると一寸出來惡い。寫生文と普通の文章の差違は認められて居るにも拘はらず明かに道破されて居らんのも此理である。かの寫生文を標榜する人々と雖ども單にわが特色を冥々裡に識別すると云ふ迄で、明かに指摘したものは今日に至る迄見當らぬ樣である。虚子、四方太の諸君は折々此點に向つて肯綮に中る議論をされる樣であるが、余の見る所では矢張り物足らぬ心地がする。余の云ふ事も諸君から見れば依然として物足らぬかも知れぬ。然し云はぬより參考になると思ふ。單に寫生文を生命とする諸君の參考になるのみならず、汎く文章に興味を有する人々の耳には或は物珍らしく聞えるかも知れぬ。

　寫生文と普通の文章との差違を算《かぞ》へ來ると色々ある。色々あるうちで余の尤も要點だと考へるにも關らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である〔十字右○〕。他の點は此一源泉より流露するのであるから、此源頭に向つて工夫を下せば他は悉く刃を迎へて向ふから解決を促がす譯である。

　社會は人間の塊まりである。其人間を區別すれば色々出來る。貴と賤ともなる。賢と不肖ともなる。正と邪ともなる。男と女ともなる。貧と富ともなる。老と若、長と幼ともなる。其他色々に區別が出來る。區別が出來る以上は、區別された一のものが他を視る態度は、一のうちにある甲が、同じく一のうちにある乙を視る態度とは異ならなければならぬ。人生觀といふと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。然し煎じつめれば此態度である。隣りの法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自から違ふ。大袈裟な言葉で云ふと彼此の人生觀が、ある點に於て一樣でない。と云ふに過ぎん。

　人事に關する文章は此視察の表現である。從つて人事に關する文章の差違は此視察の差違に歸着する。此視察の差違は視察の立場によつて岐れてくる。すると此立場が文章の差違を生ずる源になる。今の世に云ふ寫生文家といふものの文章は如何なる事をかいても皆共有の點を有して、他人のそれとは截然と區別の出來る樣な特色を帶びてゐる。すると此等の團體は其特色の共有なる點に於て、同じ立場に根據地を構へてゐると云ふてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生觀を有して同じ穴から隣りの御孃さんや、向ふの御爺さんを覗いて居るに相違ない。此穴を紹介するのが余の責任である。否此穴から浮世を覗けばどんなに見えるかと云ふ事を説明するのが余の義務である。

　寫生文家の人事に對する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。兩親が兒童に對するの態度である。世人はさう思ふて居るまい。寫生文家自身もさう思ふて居るまい。しかし解剖すれば遂にこゝに歸着して仕舞ふ。

　小供はよく泣くものである。小供の泣く度に泣く親は氣違である。親と小供とは立場が違ふ。同じ平面に立つて、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼等は隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做して、擦つたもんだの社會に吾自身も擦つたり揉んだりして、飽く迄も、其社會の一員であると云ふ態度で筆を執る。從つて隣りの御孃さんが泣く事をかく時は、當人自身も泣いてゐる。自分が泣きながら、泣く人の事を敍述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いて居るのとは記敍の題目其物は同じでも其精神は大變違ふ。寫生文家は泣かずして他の泣くを敍するものである。

　そんな不人情な立場に立つて人を動かす事が出來るかと聞くものがある。動かさんでもいゝのである。隣りの御孃さんも泣き、寫す文章家も泣くから、讀者は泣かねばならん仕儀となる。泣かなければ失敗の作となる。然し筆者自身がぽろ／＼涙を落して書かぬ以上は御孃さんが、どれ程泣かれても、讀者がどれ程泣かれなくても失敗にはならん。小供が駄菓子を買ひに出る。途中で犬に吠えられる。ワーと泣いて歸る。御母さんが一所になつてワーと泣かぬ以上は、傍人が泣かんでも出來損ひの御母さんとは云はれぬ。御母さんは駄菓子を犬に取られる度に泣き得る樣な平面に立つて社會に生息して居られるものではない。寫生文家は思ふ。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いてゐる。世の中に泣くべき事がどれ程あると思ふ。隣りのお孃さんが泣くのを拜見するのは面白い。之を記述するのも面白い。然し同じ樣に泣くのは御免蒙りたい。だからある男が泣く樣を文章にかいた時にたとひ讀者が泣いてくれんでも失敗したとは思はない。無暗に泣かせる抔は幼稚だと思ふ。

　夫では人間に同情がない作物を稱して寫生文家の文章といふ樣に思はれる。然しさう思ふのは誤謬である。親は小兒に對して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大聲を揚げて泣く樣な同情は持たぬのである。寫生文家の人間に對する同情は敍述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無體に號泣し、直角に跳躍し、一散に狂奔する底の同情ではない。傍から見て氣の毒の念に堪えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかない許である。

　從つて寫生文家の描く所は多く深刻なものでない。否如何に深刻な事をかいても此態度で押して行くから、一寸見ると底迄行かぬ樣な心持ちがするのである。しかのみならず此態度で世間人情の交渉を視るから大抵の場合には滑稽の分子を含んだ表現となつて文章の上にあらはれて來る。

　人によると寫生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしてゐると云ふ。茶化してゐると云ふ。もし兩親の小供に對する態度が小供を馬鹿にして居る、茶化して居ると云ひ得べくんば寫生文家も亦此非難を免かれぬかも知れぬ。多少の道化たるうちに一點の温情を認め得ぬものは親の心を知らぬもので、又寫生文家を解し得ぬものであらう。

　此故に寫生文家は地團太を踏む熱烈な調子を避ける。恁《かゝ》る狂的の人間を寫すのを避けるのではない。寫生文家自身迄が寫さるゝ狂的な人間と同一になるを避けるのである。避けるのではない。そこ迄引き込まるゝ事が可笑しくて出來惡いのである。

　そこで寫生文家なるものは眞面目に人世を觀じて居らぬかの感が起る。成程さうかも知れぬ。然し一方から見れば作者自身が戀に全精神を奪はれ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、さうして戀と金と、名を求めつゝある人物を描くよりも比較的に眞面目かも知れぬ。描き出ださるべき一人に同情して理否も、前後も辨へぬ程の熱情を以て文をやる男よりも慥かな所があるかも知れぬ。

　吾が精神を篇中の人物に一圖に打ち込んで、其人物になり濟まして、戀を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なものが出來るかも知れぬが、如何にも餘裕がない作が現れるに相違ない。寫生文家のかいたものには何となくゆとり〔三字傍点〕がある。逼つて居らん。屈托氣が少ない。從つて讀んで暢び／＼した氣がする。全く寫生文家の態度が人事を寫し行く際に全精神を奪はれて仕舞はぬからである。

　寫生文家は自己の精神の幾分を割いて人事を視る。餘す所は常に遊んでゐる。遊んでゐる所がある以上は、寫すわれと、寫さるゝ彼との間に一致する所と同時に離れてゐる局部があると云ふ意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は寫さるゝ彼になり切つて、彼を寫す譯には行かぬ。依然として彼我の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。是に於て寫生文家の描寫は多くの場合に於て客觀的である。大人は小兒を理解する。然し全然小兒に成り濟ます譯には行かぬ。小兒の喜怒哀樂を寫す場合には勢客觀的でなければならぬ。こゝに客觀的と云ふは我〔右○〕を寫すにあらず彼〔右○〕を寫すといふ態度を意味するのである。此の氣合で押して行く以上は如何に複雜に進むとも如何に精緻に赴くとも又如何に解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。

　余は最初より大人と小兒の譬喩《たとへ》を用ゐて寫生文家の立場を説明した。然し是は單に彼等の態度を尤もよく云ひあらはす爲めの言語である。決して彼等の人生觀の高下を示すものではない。大人だからえらい。えらい〔六字傍点〕見方をして人事に對するのが寫生文家だと云ふ意義に解釋されては余の本旨に背く。えらい、えらくない〔八字傍点〕は問題外である。只彼等の態度がかうだと云ふ迄に過ぎぬ。

　此故に寫生文家は自己の心的行動を敍する際にも矢張り同一の筆法を用ゐる。彼等も喧嘩をするだらう。煩悶するだらう。泣くだらう。その平生を見れば毫も凡衆と異なる所なく振舞つてゐるかも知れぬ。然し一度び筆を執つて喧嘩する吾、煩悶する吾、泣く吾、を描く時は矢張り大人が小兒を視る如き立場から筆を下す。平生の小兒を、作家の大人が敍述する。寫生文家の筆に依怙の沙汰はない。紙を展べて思を構ふるときは自然とさう云ふ氣合になる。此氣合が彼等の人生觀である。少なくとも文章を作る上に於ての人生觀である。人生觀が自然と出來てゐるのだから、自己が意識せざるうちに筆は既に着々として其方向に進んで行く。

　彼等は何事をも寫すを憚からぬ。只拘泥せざるを特色とする、人事百端、遭逢纏綿の限りなき波瀾は悉く喜怒哀樂の種で、其喜怒哀樂は必竟するに拘泥するに足らぬものであると云ふ樣な筆致が彼等の人生に齎し來る福音である。彼等のかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雜然たる光景を雜然と敍べて知らぬ顔をしてゐる。飛鳥山の花見をかく、踴つたり、跳ねたり、酣醉狼藉の體を寫して頭も尾もつけぬ。夫で好い積りである。普通の小説の讀者から云へば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫いて居らん。然し彼等から云ふとかうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないものゝうちに筋を立てゝ見たつて始まらないぢやないか。どんな複雜な趣向で、どんな纏つた道行を作らうとも畢竟は、雜然たる進水式、紛然たる御花見と異なる所はないぢやないか。喜怒哀樂が材料となるにも關はらず拘泥するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋の樣なものも、亦拘泥するに足らん譯だ。筋がなければ文章にならんと云ふのは窮窟に世の中を見過ぎた話しである。――今の寫生文家がこゝ迄極端な説を有して居るか居ないかは余と雖ども保證せぬ。然し事實上彼等はパノラマ的のものをかいて平氣でゐる所を以て見ると公然と無筋を標榜せぬ迄も冥々のうちにかう云ふ約束を遵奉してゐると見ても差支なからう。

　寫生文家もかう極端になると全然小説家の主張と相容れなくなる。小説に於て筋は第一要件である。文章に苦心するよりも背景に苦心するよりも趣向に苦心するのが小説家の當然の義務である。從つて巧妙な趣向は傑作たる上に大なる影響を與ふるものと、誰も考へてゐる。所が寫生文家はそんな事を主眼としない。のみならず極端に行くと力めて筋を拔いて迄其態度を明かにしやうとする。

　かくの如き態度は全く俳句から脱化して來たものである。泰西の潮流に漂ふて、横濱へ到着した輸入品ではない。淺薄なる余の知る限りに於ては西洋の傑作として世にうたはるゝものゝうちに此態度で文をやつたものは見當らぬ。（尤も寫生文家のかいたものにも是ぞといふ傑作はまだない樣である）オーステンの作物、ガスケルのクランフオード或は有名なるジツキンスのピクヰツク又はフイールヂングのトムジヨーンス及びセル?ンテスのドン・キホテの如きは多少此態度を得たる作品である。然し全く同じとは誰が眼にも受け取れぬ。

　然し此態度が述作の上に於て唯一の態度と云ふのではない。又是が最上等と云ふのではない。只こんな態度もあると云ふ事を紹介したいと思ふのである。近頃寫生文の存在が漸く認められるにつけて、寫生文家の態度はかうであると、云ひ纏めるのは一般の人の參考になる事と思ふから此篇を草した迄である。

　俳句は俳句、寫生文は寫生文で面白い。其態度も亦東洋的で頗る面白い。面白いには違ないが、二十世紀の今日こんな立場のみに籠城して得意になつて他を輕蔑するのは誤つてゐる。かゝる立場から出來上つた作物にはそれ相當の長所があると同時に短所も亦多く含まれてゐる。作家は身邊の状况と天下の形勢に應じて時々其立場を變へねばならん。評家も亦眼界を廣くして必要の場合には作物に對する毎に其見地を改めねば活きた批評は出來まい。讀者は無論の事、色々な種類のものを手に應じて賞翫する趣味を養成せねば損であらう。余は先に「作物の批評」と題する一篇を草して批評すべき條項の複雜なる由を説明した。此篇は寫生文を品評するに當つて其條項の一となるべき者を指摘してわが所論の應用を試みたものである。

−明治四〇、一、二〇『讀賣新聞』−

　

　　　文藝の哲學的基礎

　−明治四十年四月東京美術學校に於て述−

　

　　東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依頼された余は、朝日新聞社員として、同紙に自説を發表すべしと云ふ條件で引き受けた上、面倒ながら其速記を會長に依頼した。會長は快よく承諾されて、四五日の後丁寧なる口上を添へて、速記を余のもとに送付された。見ると腹案の不充分であつた爲めか、或は言ひ廻し方の不適當であつた爲めか、其儘では殆んど紙上に載せて讀者の一覽を煩はすに堪へぬ位混雜して居る。そこで已を得ず全部を書き改める事にして、偖速記を前へ置いて遣り出して見ると、至る處に布衍の必要を生じて、遂には原稿の約二倍位長いものにして仕舞つた。

　　題目の性質としては一氣に讀み下さないと、思索の縁を時々に切斷せられて、理路の曲折、自然の興趣に伴はざるの憾はあるが、新聞の紙面には固より限りのある事だから、不都合を忍んで、是を一二欄宛日毎に分載する積である。

　　この事情のもとに成れる左の長篇は、講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず、實は講演者たる余が特に余が社の爲めに新に起草したる論文と見て差支なからうと思ふ。是より朝日新聞社員として、筆を執つて讀者に見えんとする余が入社の辭に次いで、余の文藝に關する所信の大要を述べて、余の立脚地と抱負とを明かにするは、社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信ずる。

　

　私はまだ演説といふ事を餘り――餘りではない殆んど遣つた事のない男で、頼まれた事は今迄大分ありましたけれどもみんな斷つて仕舞ひました。どうも嫌《いや》なんですな。それに出來ないのです。其代り講義の方は此間迄毎日やつて來ましたから、恐らく上手だらうと思ふのですけれども生憎御頼みが演説でありますから定めて拙《まづ》いだらうと存じます。

　實は先達て大村さんが態々御出になつて何か演説を一つと云ふ御注文でありましたが、もと／＼拙いと知りながら御引受をするのも御氣の毒の至りと心得て先づは御辭退に及びました。所が中々御承知になりません。是非やれ、何でもいゝからやれ、どうかやれ、と頻りにやれ／＼と御勸めになります。それでもと云つて首を捻つて居ると、仕舞には演説はやらんでもいゝと申されます。演説をやらんで何を致しますかと伺ふと、只出席してみんなに顔さへ見せれば勘辨すると云ふ恩命であります。そこで私も大決心を起して、その位の事なら恐るゝに及ばんと快く御受合を致しました。――今日《こんにち》はさう云ふ條件の下に此處《こゝ》に出現した譯であります。けれども不幸にして餘り御覽に入れる程な顔でもない。顔丈では餘り輕少と思ひますから序に何か御話を致しませう。もとより演説と名の付く諸君よ諸君〔五字傍点〕はとても出來ませんから演説と云つても其實は講義になるでせう。講義になるとすると、私の講義は暗《そら》ではやらない、云ふ事は悉く文章にして、教場でそれをのべつに話す方針であります。所が今日は夫程の閑暇《ひま》もなし、又考へも纏まつて居りません。だから上手であるべき講義も今日に限つて存外拙い譯であります。

　美術學校で斯う云ふ文學的の會を設立して、諸君の專門技藝以外に、一般文學の知識と趣味を養成せられるのは大變に面白い事と思ひます。唯今正木校長の御話の樣に文學と美術は大變關係の深いものでありますから、其一方を代表なさる諸君が文學の方面にも一種の興味を有《も》たれて、われ／＼の樣な不調法ものゝ講話を御參考に供して下さるのは、此兩者の接觸上から見て、諸君の前に卑見を開陳すべき第一の機會を捕へた私は多大の名譽と感ずる次第であります。出來ない演説を無理にやるのは全くこの爲で、遣り付けないものを受け合つたからと云つて、決して恩に着せる譯ではありません。全く大なる光榮と心得て此處へ出て來たのである。が繰返して云ふ通り、演説は出來ず講義としては纏まらず、定めて聞苦しい事もあるだらうと思ひます。其邊はあらかじめ御容赦を願ひます。

　先づこれからそろ／＼遣り始めます。遣り始めますよと斷ると何だかえらさうに聞えるが、其實は何でもない。こゝに三四頁許り書いたノートがあります。是から御話をする事は此三四頁の内容に過ぎんのでありますからすら／＼とやつて仕舞ふと十五分位ですぐ濟んで仕舞ふ。いくら序《ついで》にする演説でも夫では餘り情ない。から此三四頁を口から出まかせに敷衍して進行して行きます。敷衍しかたを豫め考へて居ないから、どこをどつちへ敷衍するか分らない。時によると飛んだ寄り道をして、出る所へも出られず、歸る所へも歸れないかも知れないと云ふ頗る心細い敷衍法を用ひます。のみならず冒頭《はじめ》が何だか譯の分らない事から始まるかも知れないから、決して驚いてはいけません。いづれ結末には美術とか文學とか御互に縁の深い方面へずり落ちて行く事と安心して聽いて戴きたい。――唯今正木會長の御演説中に市氣匠氣と云ふ語がありましたが、私の御話も出立地こそぼうつとして何となく稀有《けう》の思はあるが、落ち行く先はと云ふと、是でも會長と一所に市氣匠氣迄行く積りであります。

　先づ――私は此所《こゝ》に立つて居ります。さうして貴所方《あなたがた》は其所《そこ》に坐つて居られる。私は低い所に立つて居る、あなた方は高い所に坐つて居られる、斯樣に私が立つて居るといふ事と、あなた方が坐つて居らるゝと云ふ事が――事實であります。此事實と云ふのを他の言葉で現して見やうならば、私は我〔右○〕と云ふもの、貴所方は私に對して私以外のものと云ふ意味であります。もつと六かしい表現法を用ひると物我對立と云ふ事實であります。即ち世界は我と物との相待の關係で成立して居ると云ふ事になる。あなた方も定めてさう思はれるでありませう、私もさう思うて居ります。誰しも左樣《さう》心得て居るのである。それから私が、かうやつて此處に立つて居り、あなた方が、さうして、其所に坐つて御座ると、其間に距離と云ふものがある。一間の距離とか、二間の距離とか或は十間二十間――此講堂の大きさはどの位ありますか――兎に角幾坪かの廣がりがあつて、其中に私が立つて居り、其中にあなた方が坐つて居ることになる。此廣がりを空間と申します。（申さなくつても御承知である）つまりはスペースと云ふものがあつて、萬物は其中に、各、ある席を占めて居る。次に今日の演説は一時から始まります。さうして何時《いつ》終るか分りませんが、まあ何時か終るでせう。大概は日が暮れる前に終る事と思ひます。私がかうやつて好《いゝ》加減な事を喋舌《しやべ》つて、それが濟むとあとから、上田さんが代つて又面白い講話がある。それから散會となる。私の講話も、上田さんの演説も皆經過する事件でありまして、此經過は時間と云ふものがなければ、どうしても起る譯に參りません。是も明暸な事で別段改めて申上げる必要はない。最後に、なぜ私が此所にかうやつて出て來て、頻に口を動かして居るかと云へば、是は醉狂や物數奇《ものずき》で飛出して來たと思はれては少し迷惑であります。そこにはそれ相當な因縁、即ち先刻申上げた大村君の鄭重なる御依頼とか、私の安受合とか、受合つたあとの義務心とか、色々の因縁が和合した其結果かくの如くフロツクコートを着て參りました。此關係を（人事、自然に通じて）因果の法則と稱へて居ります。

　すると、かうですな。此世界には私と云ふものがありまして、貴所方と云ふものがありまして、さうして廣い空間の中に居りまして、此空間の中で御互に芝居をしまして、此芝居が時間の經過で推移して、此推移が因果の法則で纏められて居る。と云ふのでせう。そこで夫には先づ私と云ふものがあると見なければならぬ、貴所方があると見なければならぬ。空間といふものがあると見なければならぬ。時間と云ふものがあると見なければならぬ。又因果の法則と云ふものがあつて、吾人を支配して居ると見なければならん。是は誰も疑ふものはあるまい。私もさう思ふ。

　所が能く／＼考へて見ると、それが甚だ怪しい。餘程怪しい。通俗には誰もさう考へて居る。私も通俗にさう考へてゐる。然し退いて不通俗に考へて見るとそれが頗る可笑しい。どうもさうでないらしい。何故かと云ふと元來此私と云ふ――かうしてフロツクコートを着て高襟《ハイカラ》をつけて、髭を生やして嚴然と存在して居るかの如くに見える、此私の正體が甚だ怪しいものであります。フロツクも高襟も目に見える、手に觸れると云ふ迄で自分でないには極つてゐる。此手、此足、痒いときには掻き、痛いときには撫でる此｜身體《からだ》が私かと云ふと、さうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云ふ心持ちはある。然し夫より以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜の爲に手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云ふ意識現象であります。要するに意識はある。又意識すると云ふ働きはある。是丈けは慥であります、是以上は證明する事は出來ないが、是丈けは證明する必要もない位に炳乎として爭ふ可からざる事實であります。して見ると普通に私と稱して居るのは客觀的に世の中に實在して居るものではなくして、只意識の連續して行くものに便宜上私と云ふ名を與へたのであります。何が故に平地に風波を起して、余計な私〔右○〕と云ふものを建立するのが便宜かと申すと、「私〔右○〕」と、一たび建立すると其裏には、「貴所方」と、私以外のものも建立する譯になりますから、物我の區別が是で付きます。そこが入らざる葛藤で、又必要な便宜なのであります。

　かう云ふと、私は自分（普通に云ふ自分）の存在を否定するのみならず、かねて貴所方の存在をも否定する譯になつて、斯樣に大勢傍聽して居られるにも拘はらず、有れども無きが如くで甚だ御氣の毒の至りであります。御腹も御立ちになるでせうが、根本的の議論なのだから、先づ議論として御聽きを願ひたい。根本的に云ふと失禮な申條だが貴所方は私を離れて客觀的に存在しては居られません。――私を離れてと申したが、其私さへ所謂私としては存在しないのだから、況んや貴所方に於てをやであります。いくら怒られても駄目であります。貴所方はそこに御座る。御座ると思つて御座る。私もまあ一寸とさう思つて居ます。居ます事は、居ますが只かりにさう思つて差し上げる迄の事であります。と云ふものは、いくらそれ以上に思つて上げたくても夫丈の證據がないのだから仕方がありません。普通に物の存在を確めるには先づ眼で見ますかね。眼で見た上で手で觸れて見る。手で觸れたあとで、嗅いで見る、或は舐めて見る。――貴所方の存在を確めるには夫程手數はかゝらぬかも知れぬが。けれども前にも申した通り眼で見やうが、耳できかうが、根本的に云へば、只視覺と聽覺を意識する迄で、此意識が變じて獨立した物とも、人ともなりやう譯がない。見るときに觸るゝときに、黒い制服を着た、金釦《きんボタン》の學生の、姿を、私の意識中に現象としてあらはし來《きた》ると云ふ迄に過ぎないのであります。是を外にしてあなた方の存在と云ふ事實を認める事が出來やう筈がない。すると煎じ詰めた所が私もなければ、貴所方もない。あるものは、眞にあるものは、只意識ばかりである。金釦が眼に映ずる、金釦を意識する。講堂の天井が黒くなつて居る、其黒い所を意識する。――是は惡口ではありません。美術學校の天井が黒いと云ふのではない、只黒いと意識するので、客觀的存在は認めて居らん惡口だから構はないでせう。

　まづ是丈の話であります。すると通俗の考へを離れて物我の世界を見た所では、物が自分から獨立して現存してゐると云ふ事も云へず、自分が物を離れて生存して居ると云ふ事も申されない。換言して見ると己を離れて物はない、又物を離れて己はない筈となりますから、所謂物我なるものは契合一致しなければならん譯になります。物我の二字を用ひるのは既に分り易い爲めにするのみで、根本義から云ふと、實は此兩面を區別し樣がない、區別する事が出來ぬものに一致抔と云ふ言語も必要ではないのであります。だから只明かに存在して居るのは意識であります。さうして此意識の連續を稱して俗に命《いのち》と云ふのであります。

　連續と云ふ字を使用する以上は意識が推移して行くと云ふ意味を含んで居つて、推移と云ふ意味がある以上は（一）意識に單位がなければならぬと云ふ事と（二）此單位が互に消長すると云ふ事と（三）は消長が分明である位に單位意識が明暸でなければならぬと云ふ事と（四）意識の推移がある法則に支配せらるゝやと云ふ事になりますから、問題が餘程込入つて來ますが、今はそんな面倒な事を御話する場合でないから、諸君の御研究に一任する事として講話を進めます。尤も今申した四ケ條のうち、意識推移の原則に就ては私の「文學論」の第五篇に不完全ながら自分の考へ丈は述べて置きましたから、御參考を願ひたいと思ひます。序に「文學論」も一部宛御求めを願ひたいと思ひます。――とに角意識がある。物もない、我もないかも知れないが意識丈は慥にある。さうして此意識が連續する。何故連續するかは哲學的に又は進化的に説明が付くにしても、付かぬにしても連續するのは慥であるから、之を事實として歩を進めて行く。

　そこで一寸留まつて、此講話の冒頭を顧みると少々妙であります。最初には私と云ふものがあると申しました。貴所方も慥かに御出になると申しました。さうして、御互に空間と云ふ怪しいものゝ中に這入り込んで、時間と云ふ分らぬものゝ流れに棹さして、因果の法則と云ふ恐ろしいものに束縛せられて、ぐう／＼云つて居ると申しました。所が不通俗に考へた結果によると丸で反對になつて仕舞ひました。物我抔と云ふ關門は最初からない事になりました。天地即ち自己と云ふえらい事になりました。いつの間にかう豹變したのか分らないが、全く矛盾して仕舞ひました。（空間、時間、因果律も矢張り此豹變のうちに含んで居ます。それは講話の都合で後廻しにしましたから、今に段々わかります）

　何故こんな矛盾が起つたのだらうか。能く考へると何にもないのに、通俗では森羅萬象色々なものが掃蕩しても掃蕩しきれぬ程雜然として宇宙に充?して居る。戸張君ではないが天地前にあり、竹風こゝにありと云ひたくなる位であります。――何故こんな矛盾が起つたのであらうか。これは頗る大問題である。面倒に六かしく論じて來たら大分暇が掛りませう。私は必要上、極《ごく》粗末な所を、甚だ短い時間内に御話するのであるから、無論｜豪《えら》い哲學者などが聞いて居られたら、不完全だと云つて攻撃せられるだらうと思ひます。然し此短い時間内に、こんな大袈裟な問題を片づけるのだから、無論完全な事を云ふ筈がない、不完全は無論不完全だが、あの度胸が感心だと賞めて戴きたい。尤も時間は幾らでも與へるから、もつと立派に言へと注文されても私の手際では覺束ないかも知れない。まあ丁度宜いのです。

　どうして、こんな矛盾が起るかと云ふ問題に對して、只一口に説明して仕舞へば譯はない。前に申す通り吾々の生命は――吾々と云ふと自他を樹立する語弊はあるが暫らく便宜の爲めに使用します――吾々の生命は意識の連續であります。さうしてどういふものか此連續を切斷する事を欲しないのであります。他の言葉で云ふと死ぬ事を希望しないのであります。もう一つ他の言葉で云ふと此連續をつゞけて行く事が大好きなのであります。何故好むかとなると説明は出來ない。誰が出て來ても説明は出來ない。唯それが事實であると認めるより外に道はない。勿論進化論者に云はせると此願望も長い間に馴致發展し來つたのだと幾分か其發展の順序を示す事が出來るかも知れない。と云ふものはそんな傾向を有つて居らない樣なもの、其の傾向に應じて世の中に處して來なかつたものは皆死んで仕舞つたので、今殘つて居る奴は命の欲しい欲張り許りになつたのだと論ずる事も出來るからであります。御互の樣に命に就ては極めて執着の多い、奇麗でない、思ひ切りのわるい連中が、かうしてぴん／＼して居る樣な譯かも知れません。是でも多少の説明にはなります。然しもつと進んで此傾向の大原因を極めやうとすると駄目であります。萬法一に歸す、一何れの所にか歸すと云ふ樣な禅學の公案工夫に似たものを指定しなければならん樣になります。シヨペンハウワーと云ふ人は生欲の盲動的意志と云ふ語で此傾向をあらはして居ります。まことに重寶な文句であります。私も一寸拜借しやうと思ふのですが、前に述べた意識の連續以外にこんな變挺《へんてこ》なものを建立すると、意識の連續以外に何《なん》にもないと申した言質に對して申譯が立ちませんから、殘念ながらやめに致して、此傾向は意識の内容を構成して居る一部分即ち屬性と見做して仕舞ひます。さうして「此傾向」と云ふ樣な概念は抽象の結果、餘程發達した後に「此傾向」として放出したものと認めるのであります。それは、とも角も「吾人は意識の連續を求〔右○〕める」と云ふ事丈を事實として受けとらねばならぬのであります。もつと明暸に云ふと「意識には連續的傾向がある」と云ひ切つて之を事實として受けとるのであります。

　意識と云ひ、連續と云ひ、連續的傾向と云ふと其うちに意識の分化と云ふ事と統一と云ふ事は自然と含まつて居ります。既に連續とある以上は甲と乙と連續したと云ふ事實を意識せねばならぬ、即ち甲と乙と差別がつく程に兩意識が明暸でなければなりません。差別がつくと云ふのは、同時に同じ意識若くは類似の意識を統一し得ると云ふ意味と同じ事になります。例へてみれば視覺となづける意識は、分化の結果、觸覺や味覺と差別がつくと、同時にあらゆる視覺的意識を統一する事が出來て始めて出來る言語であります。意識に是丈の分化作用が出來て、其分化した意識と、眼球《めだま》と云ふ器械を結びつけて、此種の意識は眼球が司どるのだと思ひつく。しばらく視覺の意識と眼球の作用を混同して云ふと、昔し分化作用の行はれぬうちは視力は必ずしも眼球に集中して居らなかつたらう。私も遠い昔では、からだ全體で物を見てゐたかも知れぬ、或は脊中で物を舐めてゐたかも知れぬ。眼《め》耳《みゝ》鼻《はな》舌《した》と分業が行はれ出したのは、つい近頃の事であると思ひます。かう分業が行はれだすと融通が利かなくなります。一寸舌癌にかゝつたからと云ふて踵で飯を食ふ譯には行かず、不幸にして痳疾を患《うれ》ひたからと申して臍で用を辨ずる事が出來なくなりました。甚だ不都合であります。然し意識の連續〔二字右○〕と云ふ以上は、――連續〔二字右○〕の意義が明暸になる以上は、――連續を形ちづくる意識の内容が明暸でなければならぬ筈であります。明暸でない意識は連續して居るか、連續してゐないか判然しない。つまり吾人の根本的傾向に反する。否《いな》意識そのものゝ根本的傾向に反するのであります。意識の分化と統一とは此根本的傾向から自然と發展して參ります。向後どこ迄分化と統一が行はれるか殆んど想像がつかない。而して之に應ずる官能もどの位複雜になるか分りません。今日では目に見えぬもの、手に觸れる事の出來ぬもの、或は五感以上に超然たるものが次第に意識の舞臺に上る事であらうと思ひますから、先づ氣を長くして待つて居たらよからうと思ひます。

　もう一遍繰返して「意識の連續」と申します。此句を割つて見ると意識と云ふ字と連續と云ふ字になります。かうして意識の内容の如何と、此連續の順序の如何と二つに分れて問題は提起される譯であります。是を合すれば、如何なる内容の意識を如何なる順序に連續させるかの問題に歸着します。吾人が此問題に逢着したとき――吾人は必ず此問題に逢着するに相違ない。意識及其連續を事實と認める裏には既に此問題が含まれて居ります。さうして此問題の裏面には選擇と云ふ事が含まれて居ります。ある程度の自由がない以上は、又幾分か選擇の餘裕がないならば此問題の出やう筈がない。此問題が出るのは此問題が一通り以上に解決され得るからである。此解決の標準を理想〔二字右○〕といふのであります。之を纏めて一口に云ふと吾人は生きたいと云ふ傾向を有つてゐる。（意識には連續的傾向があると云ふ方が明確かも知れぬが）此傾向からして選擇が出る。此選擇から理想が出る。すると今迄は只生きればいゝと云ふ傾向が發展して、ある特別の意義を有する命が欲しくなる。即ち如何なる順序に意識を連續させやうか、又如何なる意識の内容を選ばうか、理想は此二つになつて漸々と發展する。後に御話をする文學者の理想もこゝから出て參るのであります。

　次に連續と云ふ字義をもう一遍吟味して見ますと、前にも申す通り、はゝあ連續して居る哩《わい》と相互の區別が出來る位に、連續しつゝある意識は明暸でなければならぬ筈であります。さうして、かやうに區別し得る程度に於て明暸なる意識が、新陳代謝すると見ると、甲が去〔右○〕つて乙が來〔右○〕ると云ふ順序がなければならぬ筈であります。順序があるからには甲乙が共に意識せられるのではない。甲が去つた後で、乙を意識するのであるから、乙を意識して居るときは既に甲は意識して居らん譯です。それにも拘らず甲と乙とを區別する事が出來るならば、明暸なる乙の意識の下には、比較的不明暸かは知らぬが、矢張り甲の意識が存在して居ると見做さなければなりません。俗に此不明暸な意識を稱して記憶と云ふのであります。だからして記憶の最高度は尤も明暸なる上層の意識で、その最低度は尤も不明暸なる下層の意識に過ぎんのであります。

　すると意識の連續は是非共記憶を含んで居らねばならず、記憶といふと是非共時間を含んで來なければならなくなります。からして時間と云ふものは内容のある意識の連續を待つて始めて云ふべき事で、之と關係なく時間が獨立して世の中に存在するものではない。換言すれば意識と意識の間に存する一種の關係であつて、意識があつてこそ此關係が出るのであります。だから意識を離れて此關係のみを獨立させると云ふ事は便宜上の抽象として差支ないが、それ自身に存在するものと見る譯には參りません。丁度こゝにある水指《みづさし》のなかから白い色丈をとつて、さうして物質を離れて白い色が存在すると主張する樣なものであります。一寸考へると時間と云ふものが流れて居て、其永劫の流れのなかに事件が發展推移する樣に見えますが、それは前に申した分化統一の力が、こゝ迄進んだ結果時間と云ふものを抽象して便宜上之に存在を許したとの意味に外ならんのであります。薔薇の中から香水を取つて、香水のうちに薔薇があると云つた樣な論鋒と思ひます。私の考へでは薔薇のなかに香水があると云つた方が適當と思ひます。尤も此時間及びあとから御話をする空間と云ふのは大分六づかしい問題で、哲學者に云はせると大變八釜しいものでありますから、私の樣な粗末な考へを好い加減に云ふ時は、あまり御信じにならん方がよいかも知れませんが、――然しあまり信じなくつてもいけません。まづ演説の終る迄信じて居つて、御宅へ御歸りになる頃に信じなくなるのが丁度どいゝ加減であらうと思ひます。

　次に今云ふ意識の連續――即ち甲が去つて乙がくるときに、かう云ふ場合がある。先づ甲を意識して、それから乙を意識する。今度は其順を逆にして、乙を意識してから甲に移る。さうして此｜兩《ふた》つのものを意識する時間を延しても縮めても、兩意識の關係が變らない。すると此關係は比較的時間と獨立した關係であつて、しかもある一定の關係であると云ふ事がわかる。其時に吾人は之を時間の關係に歸着せしむる事が出來ない事を悟つて、之に空間的關係の名を與へるのであります。だからして是も兩意識の間に存する一種の關係であつて、意識其物を離れて空間なるものが存在して居る筈がない。空間自存の概念が起るのは矢張發達した抽象を認めて實在と見做した結果に外ならぬ。文法と云ふものは言葉の排列上に於ける相互の關係を法則にまとめたものであるが、小兒は文法があつて、夫から文章がある樣に考へてゐる。文法は文章があつて、言葉があつて、其言葉の關係を示すものに過ぎんのだからして、文法こそ文章のうちに含まれて居ると云つて然るべきである如く空間の概念も具體的なる兩意識のうちに含まれて居ると云つてもよろしいと思ふ。それを便宜の爲めに抽象して離して仕舞つて廣い空間を勝手次第に抛り出すと、無邊際のうちにぽつり／＼と物が散點して居る樣な心持ちになります。尤も此空間論も大分難物のようで、ニユートンと云ふ人は空間は客觀的に存在してゐると主張したさうですし、カントは直覺だとか云つたさうですから、私の云ふ事は、あまり當にはなりません。あなた方が當になさらんでも、私は慥にさう思つてるんだから毫も差支はありません。只自分丈で、さう思つて居れば濟む事を、斯樣に何の彼のと申し上げるのは、演説を御頼みになつた因果で已を得ず申し上げるので、もし之を申し上げないと、いつ迄立つても文學談に移る事は出來ないのであります。

　偖抽象の結果として、時間と空間に客觀的存在を與へると、之を有意義ならしむる爲めに數《すう》と云ふものを製造して、此兩つのものを測る便宜法を講ずるのであります。世の中に單に數と云ふ樣な間《ま》の拔けた實質のないものは甞て存在した試しがない。今でもありません。數と云ふのは意識の内容に關係なく、只其連續的關係を前後に左右に尤も簡單に測る符牒で、こんな正體のない符牒を製造するには餘程骨が折れたらうと思はれます。

　それから意識の連續のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながつて出て來るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序に於て毫も變る事がない。すると此一種の關係に對して吾人は因果の名を與へるのみならず、此關係丈を切り離して因果の法則と云ふものを捏造するのであります。捏造と云ふと妙な言葉ですが、實際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない。意識現象に附着しない因果はから〔二字傍点〕の因果であります。因果の法則抔と云ふものは全くから〔二字傍点〕のもので、矢張り便宜上の假定に過ぎません。之を知らないで天地の大法に支配せられて……抔と云つて濟ましてゐるのは、自分で張子の虎を造つて其前で慄へてゐる樣なものであります。所謂因果法と云ふものは只今迄が斯うであつたと云ふ事を一目《いちもく》に見せる爲めの索引に過ぎんので、便利ではあるが、未來に此法を超越した連續が出て來ない抔と思ふのは愚の極であります。夫だから、よく分つた人は俗人の不思議に思ふ樣な事を毫も不思議と思はない。今迄知れた因果以外にいくらでも因果があり得るものだと承知してゐるからであります。ドンが鳴ると必ず晝飯《ひるめし》だと思ふ連中とは少々違つて居ます。

　こゝいらで前段に述べた事を總括して置いて、夫から先へ進行しやうと思ひます。（一）吾々は生きたいと云ふ念々《ねん／＼》に支配せられて居ります。意識の方から云ふと、意識には連續的傾向がある。（二）此傾向が選擇を生ずる。（三）選擇が理想を孕む。（四）次に此理想を實現して意識が特殊〔二字右○〕なる連續的方向を取る。（五）其結果として意識が分化する、明暸になる、統一せられる。（六）一定の關係を統一して時間に客觀的存在を與へる。（七）一定の關係を統一して空間に客觀的存在を與へる。（八）時間、空間を有意義ならしむる爲めに數を抽象して之を使用する。（九）時間内に起る一定の連續を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。

　まづざつと、斯んなものであります。してみると空間と云ふものも時間と云ふものも因果の法則と云ふものも皆便宜上の假定であつて、眞實に存在して居るものではない。是は私がさう云ふのです。諸君がさうでないと云へば夫でも宜い。御隨意である。兎に角今日丈はさう假定したいものだと思ひます。夫でないと話が進行しません。何故こんな余計な假定をして平氣で居るかと云ふと、そこが人間の下司《げす》な了簡で、我々は只生きたい／＼とのみ考へて居る。生きさへすれば、どんな嘘でも吐《つ》く、どんな間違でも構はず遂行する、眞《まこと》に淺間しいものどもでありますから、空間があるとしないと生活上不便だと思ふと、すぐ空間を捏造して仕舞ふ。時間がないと不都合だと勘づくと、よろしい、夫ぢや時間を製造してやらうと、すぐ時間を製造して仕舞ひます。だから色々な抽象や種々な假定は、みんな背に腹は代へられぬ切なさの餘りから割り出した嘘であります。さうして嘘から出た眞實《まこと》であります。如何に此嘘が便宜であるかは、何年となく嘘をつき習つた、末世澆季の今日では、私も此嘘を眞實《しんじつ》と思ひ、あなた方も此嘘を眞實と思つて、誰も怪しむものもなく、疑ふものもなく、公々然憚る所なく、假定を實在と認識して嬉しがつて居るのでも分ります。貧して鈍すとも、窮すれば濫すとも申して、生活難に追はれるとみんなかう墮落して參ります。要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じ位な實《まこと》は含んで居ります。なぜと云つて御覽なさい。もし時間があると思はなければ、又時間を計る數と云ふものがなければ、土曜に演説を受け合つて日曜に來るかも知れない。御互の損になります。空間があると心得なければ、又空間を計る數と云ふものがなければ、電車を避ける事も出來ず、二階から下りる事も出來ず、交番へ突き當つたり、犬の尾を踏んだり、甚だ嬉しくない結果になります。普通に知れ渡つた因果の法則も此通りであります。だから凡て是等に存在の權利を與へないと吾身が危ふいのであります。わが身が危ふければどんな無理な事でもしなければなりません。そんな無法があるものかと力味《りきん》で居る人は死ぬ許であります。だから現今ぴん／＼生息して居る人間は皆不正直もので、律義《りちぎ》な連中はとくの昔に、汽車に引かれたり、川へ落ちたり、巡査につかまつたりして、悉く死んで仕舞つたと御承知になれば大した間違はありません。

　既に空間が出來、時間が出來れば意識を割《さ》いて我と物との二つにする事は容易であります。容易な所の騷ぎぢやない。實は我と物を區別して之を手際よく安置する爲に空間と時間の御堂《みだう》を建立したも同然である。御堂が出來るや否や待ち構へて居た我々は意識を攫んでは抛げ、攫んでは抛げ、恰も粟餅屋が餅をちぎつて黄ナ粉の中へ放り込む樣な勢で抛げつけます。此黄ナ粉が時間だと、過去の餅、現在の餅、未來の餅になります。此黄ナ粉が空間だと、遠い餅、近い餅、こゝの餅、あすこの餅になります。今でも私の前にあなた方が百五十人許りならんで居られる。是は失禮ながら私が便宜の爲、そこへ抛げ出したのであります。既に空間の出來た今日であるから、嘘にもせよ折角出來上つたものを使はないのも寶の持腐れであるから、都合により、ぴしや／＼投出すと約百餘人ちやんと、そこに行儀よく竝んで居られて至極便利であります。投げると申すと失敬に當りますが、粟餅とは認めて居ないのだから、大した非禮にはなるまいと思ひます。

　此放射作用と前に申した分化作用が合併して我以外のものを、單に我以外のものとして置かないで、之に色々な名稱を與へて互に區別する樣になります。例へば感覺的なものと超感覺的なもの（あるかないか知らないが幽靈とか神とか云ふ正體の分らぬものを指すのです）に分類する。其感覺的なものを又眼で見る色や形、耳で聽く音や響、鼻で嗅ぐ香、舌でしる味などに區別する。此《かく》の如く區別されたものを、また段々に細かく割つて行く。分化作用が行はれて、感覺が鋭敏になれば成程此區別は微精になつて來ます。のみならず同一に統一作用が行はれるからして、一方では草となり、木となり、動物となり、人間となるのみならず。草は菫となり、蒲公英となり、櫻草となり、木は梅となり、桃となり、松となり、檜となり、動物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、商、或は老、若、男、女、もしくは貴、賤、長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐して來ます。現に今日でも植物學者の見分け得る草や花の種類は殆んど吾人の幾百倍に上るであらうと思ひます。又諸君の樣な畫家の鑑別する色合は普通人の何十倍に當るか分らんでせう。それも何の爲めかと云へば、元に還つて考へて見ると、つまりは、うまく生きて行かうの一念に、此分化を促されたに過ぎないのであります。ある一種の意識連續を自由に得んが爲めに（選擇の區域に出來得る丈の餘裕を與へんが爲めに）あらかじめ意識の範圍を廣くすると云ふ意味に外ならんのであります。私共はどの草を見ても皆一樣に青く見える。青のうちで色々な種類を意識したいと思つても、如何せん分化作用がそこ迄達して居らんから皆無駄目である。少くとも色に就て變化に富んだ複雜の生活は送れない事に歸着する。盲眼《めくら》の毛の生えたものであります。情ない次第だと思ひます。或る評家の語に吾人が一色を認むる所に於てチチアンは五十色を認めるとあります。是は單に畫家だから重寶だと云ふ許りではありません。人間として比較的融通の利く生活が遂げらるゝと云ふ意味になります。意識の材料が多ければ多い程、選擇の自由が利いて、ある意識の連續を容易に實行出來る――即ち自己の理想を實行し易い地位に立つ――人と云はなければならぬから、融通の利く人と申すのであります。單に色許ではありません。例へば思想の乏しい人の送る内生涯と云ふものも色に於ける吾々と同じく、氣の毒な程憐なものです。いくら金錢に不自由がなくても、いくら地位門閥が高くても、意識の連續は單調で、平凡で、毫も理想がなくて、高、下、雅、俗、正、邪、曲、直の區別さへ分らなくて昏々濛々としてアミーバの樣な生活を送ります。こんな連中は人間さへ見れば誰も彼もみな同じ物だと思つて働きかけます。それは頭が不明暸なんだからだと注意してやると、却つて吾々を輕蔑したり、罵倒したりするから厄介です――然し是はこゝで云ふ事ではない。演説の足が滑つて泥溝《どぶ》の中へ一寸落ちたのです。すぐ這ひ上つて眞直に進行します。

　吾人は今申す通り我〔右○〕に對する物〔右○〕を空間に放射して、分化作用で之を精細に區別して行きます。同時に我〔右○〕に對しても又同樣の分化作用を發展させて、身體と精神とを區別する。其精神作用を知、情、意、の三に區別します。それから此知を割り、情を割り、其作用の特性によつて又色々に識別して行きます。此方面は主として心理學者と云ふものが專門として擔任して居るから、此等の人に聞くのが一番わかり易い。尤も心理學者のやる事は心の作用を分解して抽象して仕舞ふ弊がある。知情意は當を得た分類かも知れぬが、三つの作用が各獨立して、他と交渉なく働いて居るものではありません。心の作用はどんなに立入つて細かい點に至つても、之を全體として見ると矢張り知情意の三つを含んで居る場合が多い。だから此三作用を截然と區別するのは全く便宜上の抽象である。此抽象法を用ひないで、しかも極度の分化作用による微細なる心の働き（全體として）を寫して人に示すのは重に文學者がやつて居る。だから文學者の仕事も此分化發展につれて段々と、朦朧たるものを明暸に意識し、意識したるものを仔細に區別して行きます。例へば昔の竹取物語とか、太平記とかを見ると、色々な人間が出て來るがみんな同じ人間の樣であります。西鶴抔に至つても矢張りさうであります。つまりあゝ云ふ著者には人間が大抵同樣にぼうつと見えたのでありませう。分化作用の發展した今日になると人間觀がさう鷹揚ではいけない。彼等の精神作用に就いて微妙な細《こまか》い割り方をして、しかも其割つた部分を明細に描寫する手際がなければ時勢に釣り合はない。これ丈の眼識のないものが人間を寫さうと企てるのは、恰も色盲が繪をかゝうと發心する樣なもので到底成功はしないのであります。畫を專門になさる、貴所方の方から云ふと、同じ白色を出すのに白紙の白さと、食卓布の白さを區別する位な視覺力がないと視覺の發達した今日に於て充分理想通りの色を表現する事が出來ないと同樣の意義で、――文學者の方でも同性質、同傾向、同境遇、同年輩の男でも、其間に微妙な區別を認め得る位な眼光がないと、人を視る力の發達した今日に於ては、性格を描寫したとは申されないのであります。從つて人間をかく文學者は、單に文學者ではならん、要するに人間を識別する能力が發達した人でなくてはならんのです。進んだる世の中に、尤も進んだる眼識を具へた男――特に文學者としてゞはない、一般人間として此方面に立派な腕前のある男――でなければ手は出せぬ筈であります。世の中はさう思つて居りません。何《なん》の小説家がと、小説家を以て恰も指物師とか經師屋の如く單に筆を舐《ねぶ》つて衣食する人の樣に考へてゐる。小説家よりも大學の先生の方が遙にえらいと考へて居る。内務省の地方局長の方が猶遙にえらいと思つて居る。大臣や金持や華族樣は猶々遙にえらいと思つてゐる。妙な事であります。もし我々が小説家から、人間と云ふものは、こんなものであると云ふ新事實を教へられたならば、我々は我々の分化作用の徑路に於て、此小説家の爲め一歩の發展を促されて、開化の進路にあたる一叢の荊棘を切り開いて貰つたと云はねばならんだらうと思ひます。（小説家の功力は此一點に限ると云ふ意味ではない。此一點を擧げて考へても局長さんや博士さんに劣るものでないと云ふのであります）もし諸君がそんな小説家は現今日本に一人もないではないかと云はれるならば、私はかう答へる。それは小説家の罪ではない。現今日本の小説家（私も其一人と御認めになつてよろしい）の罪である。局長にでも〔二字傍点〕がある如く、博士にでも〔二字傍点〕がある如く、小説家にでも〔二字傍点〕があるのも御互樣と申さねばならぬのであります。――又｜泥溝《どぶ》の中へ落ちました。

　實はまだ文學の御話をする程に講演の歩を進めて居らんのであります。分化作用を述べる際につい口が滑つて文學者事に小説家の眼識に論及して仕舞つたのであります。だから是を以て彼等の使命の全般をつくしたとは申されない。前にも云ふ通り序だから分化作用に即して彼等の使命の一端を擧げたのに過ぎんのである。從つて文學全體に渉つての御話をするときには今少し概括的に出て來なければならぬ譯です。是から追々そこ迄漕ぎ付けて行きます。

　かく分化作用で、吾々は物と我とを分ち、物を分つて自然と人間（物として觀たる人間）と超感覺的な神（我を離れて神の存在を認める場合に云ふのであります）とし、我を分つて知、情、意の三とします。此我〔右○〕なる三作用と我以外の物〔右○〕とを結び付けると、明かに三の場合が成立します。即ち物に向つて知を働かす人と、物に向つて情を働かす人と、それから物に向つて意を働かす人であります。無論此三作用は元來獨立して居らんのだから、こゝで知を働かし、情を働かし、意を働かすと云ふのは重〔右○〕に働かすと云ふ意味で、全然他の作用を除却して、それのみを働かすと云ふ積ではありません。そこで此うちで知を働かす人は、物の關係を明《あきら》める人で俗に之を哲學者もしくは科學者と云ひます。情を働かす人は、物の關係を味はふ人で俗に之を文學者もしくは藝術家と稱へます。最後に意を働かす人は、物の關係を改造する人で俗に之を軍人とか、政治家とか、豆腐屋とか、大工とか號して居ります。

　斯樣に意識の内容が分化して來ると、内容の連續も多種多樣になるから、前に申した理想、即ち如何なる意識の連續を以て自己の生命を構成しやうかと云ふ選擇の區域も大分自由になります。ある人は比較的知の作用のみを働かす意識の連續を得て生存せんと冀ひ、遂に學者になります。又ある人は比較的情を働かす意識の連續を以て生活の内容としたいと云ふ理想からとう／＼文士とか、畫家とか、音樂家になつて仕舞ひます。又ある人は意志を多く働かし得る意識の連續を希望する結果百姓になつたり、車引になつたり――是はたんとないかも知れぬが、軍《いくさ》をしたり、冒險に出たり、革命を企てたりするのは大分あるでせう。

　かく人間の理想を三大別した所で、我々、即ち今日此席で講演の榮譽を有して言る私と、其講演を御聽き下さる諸君の理想は何であるかと云ふと、云ふ迄もなく第二に屬するものであります。情を働かして生活したい、知意を働かせたくないと云ふのではないが、情を離れて活きて言たくないと云ふのが我々の理想であります。然し只「情が理想」では合點が行かない。御互に成程と合點が參る爲めには、今少し詳細に「情を理想とする」とは、こんなものだと小《こま》かく割つて御話しをしなければなるまいと思ひます。

　情を働かす人は物の關係を味はふんだと申しました。物の關係を味はふ人は、物の關係を明《あきら》めなくてはならず、又場合によつては此關係を改造しなくては味が出て來ないからして、情の人はかねて、知意の人でなくてはならず、文藝家は同時に哲學者で同時に實行的の人（創作家）であるのは無論であります。然し關係を明める方を專らにする人は、明め易くする爲に、味はふ事の出來ない程度迄に此關係を抽象して仕舞ふかも知れません。林檎が三つあると、三と云ふ關係を明かにさへすればよいと云ふので、肝心の林檎は忘れて、只三の數《すう》丈に重きを置く樣になります。文藝家に取つても關係を明かにする必要はあるが、之を明かにするのは從前よりよく此關係を味はひ得る爲めに、明かにするのだからして、いくら明かになるからと云うて、此關係を味はひ得ぬ程度迄に明かにしては何にもならんのであります。だから三と云ふ關係を知るのは結構だが林檎と云ふ果物を忘るゝ事は到底文藝家には出來んのであります。文藝家の意志を働かす場合も其通りであります。物の關係を改造するのが目的ではない、よりよく情を働かし得る爲に改造するのである。からして情の活動に反する程度迄に此關係を新《あらた》にして仕舞ふのは、文藝家の斷じてやらぬ事であります。松の傍《かたはら》に石を添へる事はあるでせうが、松を切つて湯屋に賣拂ふ事は餘程貧乏しないと出來｜惡《にく》い。折角の松を一片の烟として仕舞ふともう、情を働かす餘地がなくなるからであります。して見ると文藝家は「物の關係を味はふものだ」と云ふ句の意味が聊か明暸になつた樣であります。即ち物の關係を味はひ得んが爲めには、其物がどこ迄も具體的でなくてはならぬ、知意の働きで、具體的のものを打ち壞して仕舞ふや否や、文藝家は此關係を味はふ事が出來なくなる。從つてどこ迄も具體的のものに即して、情を働かせる、具體の性質を破壞せぬ範圍内に於て知、意を働かせる。――先づかうなります。

　すると文藝家の理想は到底感覺的なものを離れては成立せんと云ふ事になります。（此事を詳しく論ずると色々の疑問が起つて來ますが、今は時間がありませんから述べません。先づ大體の上に於て此命題は確然たる根據のあるものと御考へになつても差支はなからうと思ひます）早い話しが無臭無形の神の事でもかゝうとすると何か感覺的なものを借りて來ないと文章にも繪にもなりません。だから舊約全書の神樣や希臘の神樣はみんな聲とか形とか或は其他の感覺的な力を有して居ます。それだから吾人文藝家の理想は感覺的なる或物を通じて一種の情をあらはすと云うても宜しからうと存じます。そこで問題は二つになります。一は感覺的なものとは何だと云ふ問題で二は所謂一種の情とは、感覺的なものゝ、どの部分によつて、どんな具合にあらはされるか又、「感覺的なものを通じて」と云ふのは感覺的なものを使つて、此道具の方便である情をあらはすと云ふのか、然らずんば感覺的なもの、それ自身が此情をあらはす目的物かといふ問題であります。此問題を解釋すると文藝家の理想の分化する模樣が大體見當がつきます。第一問の解釋、第二問の解釋として順を追うては述べませんが、只秩序を立てゝ分り易くする爲めに矢張り一二の番號を振つて説明して行きます。

　（一）私は最前《さいぜん》空間、時間の建立からして、物我の二世界を作ると申しました。其物〔右○〕なるものは自然である、人間である、（單に物として見たる）神である（我以外〔二字右○〕に存在するとすれば）と申しました。このうちで神は感覺的なものでないから問題になりません。もし文藝に神が出現するときは感覺的な或物を通じてくるのだから、出現するとしても、他と同じ分類のなかに這入るからして矢張り問題にする必要はありません。すると殘るものは自然と人間であります。さうして我々は自然と此人間とに對して一種の情を有して居ります。換言すれば感覺的なる自然と感覺的なる人間其物の色合やら、線の配合やら、大小やら、比例やら、質の軟硬やら、光線の反射具合やら、彼等の有する音聲やら、凡て此等の感覺的なるものに對して趣味、即ち好惡、即ち情、を有して居ります。だから此等の感覺的な物の關係を味はふ事が出來ます。のみならず其うちで尤も優れたる關係を意識したくなります。其意識したい理想を實現する一方法として詩が出來ます、畫が出來ます。此理想に對する情の尤も著しきものを稱して美的情操と云ひます。（實は美的理想以外にも色々な理想が起る譯であります。或は一種の關係に突兀と云ふ名を與へ、或は他種の關係に飄逸と云ふ名を與へて、突兀的情操、飄逸的情操と云ふのを作つても差支ない。分化作用が發達すれば自然と此處へ來るに極まつて居ます。西洋人の唱へ出した美とか美學とか云ふものゝ爲めに我々は大に迷惑します）かやうにして美的理想を自然物の關係で實現しやうとするものは山水專門の畫家になつたり、天地の景物を咏ずる事を好む支那詩人もしくは日本の俳句家の樣なものになります。それから又、此美的理想を人物の關係に於て實現しやうとすると、美人を咏ずる事の好きな詩人が出來たり、之を寫す事の御得意な畫家になります。現今西洋でも日本でも八釜しく騷いでゐる裸體畫抔と云ふものは全く此局部の理想を生涯の目的として苦心してゐるのであります。技術としては六づかしいかも知れぬが文藝家の理想としては、ほんの一部分に過ぎんのであります。人によると裸體畫さへかけば、畫の能事は盡きた樣に吹聽してゐる。私は畫の方は心得がないから、何《なん》とも申しかねるが、あれは佛國の現代の風潮が東漸した結果ではないでせうか。とにかく、畫でも詩でも文でも構はない。感覺物として見たる人間が既に感覺物の一部分に過ぎん上に、美的情操と云ふのが又、此感覺物として見たる人間に對する情操の一部に過ぎんと判然した以上は、裸體美と云ふものは尊いものかは知れぬが、狹いものには相違ないでせう。

　美的にせよ、突兀的にせよ、飄逸的にせよ、皆吾人の物の關係を味ふ時の味ひ方で、其いづれを選ぶかは文藝家の理想できまるべき問題でありますから、分化の結果理想が殖えれば、どこ迄割れて行くか分りません。然し幾ら割れても、こゝに云ふ理想は、感覺物を感覺物として見た時に其關係から生ずるのであります。即ち此際に於ける情操は、感覺物其ものを目的物として見た時に起るので、之を道具に使つて、その媒介によつて、感覺物以外の或るものに對して起す情操と混同してはならんのであります。

　（二）物我のうち物に對する理想と情操とは以上で大抵御分りになつたらうと思ひます。すると今度は我〔右○〕の番でありますから、此方を少々説明します。

　（い）我〔右○〕の作用を知情意に區別する事は前に述べた通りで、此知の働きを主にして物の關係を明かにするものは哲學者もしくは科學者だと申しました。成る程關係を明かにすると云ふ點より見れば哲學科學の領分に相違ないが、關係を明かにする爲に一種の情が起るならば、情が起ると云ふ點に於て、知の働きであるにも拘はらず文藝的作用と云はねばならんかと思ひます。ところが知を働かして情の滿足を得る爲めには前に説明した通り感覺的なものを離れて、單に物の關係のみを抽象してあらはしてはならんのであります。換言すると文藝的に知を働かせる爲め感覺的の具體を藉りて來なければ成立しない、具體を藉りて其媒介を待てば知の働きと雖も之を文藝化するを得べしと云ふ事になります。さうすると、こゝに新しい文藝上の理想が出來上ります。即ち物を道具に使つて、知を働かし、其關係を明かにして情の滿足を得ると云ふ理想であります。此理想を眞《しん》に對する理想と云ひます。だからして眞に對する理想は哲學者及び科學者の理想であると同時に文藝家の理想にもなります。但し後者は具體を通じて〔六字傍点〕眞をあらはすと云ふ條件に束縛されたゞけが、前者と異なるのであります。さうして此眞のあらはし方、即ち知を働かす具合も分化して色々になりますが、重に人間の精神作用が、（此場合には（一）に於ける如く人間を純感覺物と見做さないのである）あらかじめ吾人の豫想した因果律と一致するか、又は此因果律に一歩の分化を加へたる新意義に應じて發展する場合に多く用ひられるのであります。たとへば父子《おやこ》が激論をして居ると、急に火事が起つて、家が烟につゝまれる。其時今迄激論をして居た親子が、急に喧嘩を忘れて、互に相援けて門外に逃げる所を小説にかく。すると書いた人は無論讀む人も成程さもありさうだと思ふ。即ち此小説はある地位にある親子の關係を明かにしたと云ふ點に於て、作者及び讀者の知を働かし得て、眞に對する情の滿足を得せしむるのであります。又は反對に、大變｜中《なか》のよかつた夫婦が飢饉のときに、平生の愛を忘れて、妻の食ふべき粥を夫が奪つて食ふと云ふ事を小説にかく。すると是もある位地境遇にある夫婦の關係を明かにすると云ふ點で同樣の滿足を作者と讀者に與へるかも知れない。（人間の精神作用から云ふと眞は色々である。時には相反しても依然として雙方共眞である）好んでかう言ふ事をかく文藝家を眞を理想にする文藝家と云ひます。

　（ろ）吾人の有する第二の精神作用は情であります。此情を理想として働かせる人を文藝家と云ふ事は前に述べた通りでありますが、説いてこゝに至ると混雜を生じ易いからして、少々辨じた上進行します。單に情と云ふと曖昧であります。何故《なぜ》なれば我々が情の活動を得んが爲めに、文藝上の作物を仕上げたり、又は之を味ふ時に働かしむる情は、作物中に材料として使用する情とは區別する必要があるからであります。我々は感覺物を感覺物として見るときに一種の情を起します、此情は即ち文藝家の理想の一であります。我々は又感覺物を通じて知を働かせるときに一種の情を起します。此情も亦文藝家の理想の一であります。次に我々は同じく感覺物を通じて情を働かせるときに亦一種の情を得ねばならぬ譯であります。此｜兩《ふたつ》の情は假令其内容に於て彼此《ひし》相一致するとしても、之を同體同物としては議論の上に於て混雜を生ずる譯であります。例へばある感覺物を通じて怒《いかり》と云ふ情をあらはすとすれば、此作物より得る吾人の情も又同性質の怒かも知れぬけれども（時には異性質の情を起す事あるは勿論である）兩者同物ではない。前の怒りは原因で後の怒りは結果である。わかり易く言ひ直すと、前の怒りは感覺物に附着した怒である。（たとひ其源は我の有する作用中の怒りを我以外に放射して創設せるものにもせよ）後の怒は我と云ふ自己中に起る怒りである。だから混同を防ぐ爲めに此二つを區別して置いて歩を進めます。然し其論法は大體に於て（い）の場合、即ち吾人は知の働きを愛して、之に一種の情を付與すと云ふ條《くだ》りに説明したものと變りはありません。吾人の心裏に往來する喜怒哀樂は、それ自身に於て、吾人の意識の大部分を構成するのみならず、其發現を客觀的にして、之を所謂物（多くの場合に於ては人間であります）に於て認めた時にも亦大に吾人の情を刺激するものであります。けれども此刺激は前に述べた條件に基いて、ある具體、事に人間を通じて情があらはるゝときに始めて享受する事が出來るのであります。情に於て興味を有するからと云うて心理學者の樣に情丈を抽象して、之を死物として取扱へば文藝的にはなり兼ねるのであります。尤も當體が情である丈に、知意に比すると比較的抽象化しても物にならんとは限りませんが、之を詳しく説明する餘裕がないから略します。

　そこで此種の理想に在つても分化の結果色々になりますが、先づ標準を云ふと、物を通して――物と云ふより人と云ふ方が分り易いから人としませう。――人を通じて愛の關係をあらはすもの、是は十中八九所謂小説家の理想になつて居ります。其愛の關係も分化すると色々になります。相愛《あひあい》して夫婦になつたり、戀の病に罹つたり――尤も近頃の小説にはそんな古風なのは滅多にない樣ですが、それからもつと皮肉なのになると、嫁に行きながら他の男を慕つて見たり、漸く思が遂げて一所になる明くる日から喧嘩を始めたり、色々な理想――理想と云ふのも可笑しい樣だ――とにかく色々出來ます。次には忠、孝、義?心、友情、重な�ｺ義的情操は其分化した變形と共に皆標準になります。此�ｺ義的情操を標準にしたものを總稱して善の理想と呼ぶ事が出來ます。此事はもつと委細に御話したいが時間がないから略して次に移ります。

　（は）精神作用の第三は意志であります。此意志が文藝的にあらはれ得る爲めには、矢張り前述の條件に從つて、感覺的な物を通じて具體化されなくてはなりません。さうすると、感覺的な物は道具であつて、此道具の爲に意志の働きが判然とあらはれてくる。然し道具はどこ迄も道具で、意志があらはれるから道具も尊くなる。例へば�ｺ利の樣なものであります。�ｺ利自身に貴重な陶器がないとは限らぬが、底が拔けて酒を盛るに堪へなかつたならば、杯盤の間に周旋して主人の御意に入る事は出來んのであります。今かりに大彈丸の空裏を飛ぶ樣を寫すとする。すると之を見る方《はう》に二通りある。一は單に感覺的で、第一に述べた樣な場合に屬する。一は此感覺的なるものを通して非常に猛烈な勢――只の勢では寫す事もどうする事も出來んから――をあらはす。すると彈丸は客で、實の目的は彈丸のあらはす猛勢である。自然ながら、器械的ながら一種の意志の作用である。冬富士山へ登るものを見ると人は馬鹿と云ひます。成程馬鹿には相違ないが、此馬鹿を通して一種の意志が發現されるとすれば、馬鹿全體に眼をつける必要はない、只其意志のあらはれる所、文藝的なる所丈を見てやればよいかも知れません。貴重な生命を賭して海峽を泳いで見たり、沙漠を横ぎつて見たりする馬鹿は、みんな意志を働かす意識の連續を得んが爲めに他を犠牲に供するのであります。從つて之を文藝的にあらはせば矢張り文藝的にならんとは斷言出來ません。況んや國の爲めとか、道の爲めとか、人の爲めとか、（ろ）の場合に述べた�ｺ義的理想と合する樣に意志が發現してくると非常な高尚な情操を引き起します。所謂懦夫をして起たしむとは此時の事であります。英語ではこれを heroism と名づけます。吾人の heroism に對して起す情緒は實際偉大なものに相違ありません。私は今日此處へ參りがけに砲兵工厰の高い烟突から黒煙が無暗《むやみ》にむく／＼立ち騰るのを見て一種の感を得ました。考へると煤烟抔は俗なものであります。世の中に何が汚ないと云つて石炭たき程きたないものは滅多にない。さうして、あの黒いものはみんな金がとりたい／＼と云つて烟突が吐く呼吸だと思ふと猶いやです。其上あの烟は肺病によくない。――然し私はそんな事は忘れて一種の感を得た。其感じは取も直さず、意志の發現に對して起る感じの一部分であります。砲兵工厰の烟ですらかうだから、眞正の heroism に至つては實に壯烈な感じがあるだらうと思ひます。文藝家のうちでは此種の情緒を理想とするものは現代に於ては殆んどない樣に思ひます。此理想にも分化があるのは無論です。楠公が湊川で、願くは七たび人間に生れて朝敵を亡ぼさんと云ひながら刺しちがへて死んだのは一例であります。跛で結伽の出來なかつた大燈國師が臨終に、今日こそ、わが言ふ通りになれと滿足でない足をみしりと折つて鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅の儘往生したのも一例であります。分化は色々出來ます。然し其標準を云ふと先づ莊嚴に對する情操と云ふてよろしからうと思ひます。

　是で文藝家の理想の種類及び其説明は先づ一と通り濟みました。概括すると、一が感覺物其ものに對する情緒。（其代表は美的理想）二が感覺物を通じて知、情、意の三作用が働く場合で之を分つて、（い）知の働く場合（代表は眞に對する理想）（ろ）情の働く場合（代表は愛に對する理想及び道義に對する理想）（は）意志の働く場合（代表は莊嚴に對する理想）となります。此四大別の上に連想から來る情緒が如何にして混入するかを論じなければならんのですが、是も時間がないからやめます。

　文藝家の理想を漸く此四種に分けました。此分類は私が文學論のなかに分けて置いたものとは少々違ひますが、是は出立地が違ふのだから仕方がありません。尤もこの分け方の方が、明暸で適切の樣に思はれますから、雙方違つてゐても決して諸君の御損にはなりません。偖前にも申す通り、知、情、意なる我々の精神的作用は區別の出來るにもかゝはらず、區別された儘、他と關係なく發現するものでない、のみならず文藝にあつては皆感覺物を通じて其作用を現すのであるからして、此四種の理想に對する情操も、互に混合錯雜して、事實上は斯樣に明暸に區劃を受けて、作物中に出てくるものではありません。それにも拘はらず理想は四種あるので、四種以下にはならんのであります。しかも或る格段なる作物を取つて檢して見ると、四種のうちの孰れかゞ尤も著しく眼に付きます。從つて此作はどの理想に屬するものだと云ふ事はある程度迄云へます。さうして此四種の理想が、時代により、個人により、其勢力の消長遷移に影響を受けつゝあるは疑ふ可からざる事實であります。ある時代には、美の要求を滿足しなければ文藝上の作品でないと迄見做される事もありませう。又次の時代には理想が推移して美はとにかく眞は是非共あらはさなくては文藝の二字を冠らする資格がないと評します。又ある人はどこかで道義心に滿足を與へない作物は、作り度くない讀み度くないと斷言します。又他の人は意思の發現に伴ふ莊嚴の情緒を得なければ、文藝上のあるものを味ふた氣がしないと迄主張するかも知れない。是等の時代も是等の人々も悉く正しいのであります。又四種の何れでも構はないと云ふ人があれば、其人の趣味は尤も廣い人で又尤も正しい人と判斷してもよからうと思ひます。此四種の何れが如何なる時勢に流行し、いづれが如何なる人に尤も歡迎さるゝかは大分興味ある問題でありますが、是も時間がないから拔きに致します。只一寸御斷りをして置きたいのは、此四種は名前の示す如く四種であつて互にそれ相當の主張を有して、文藝の理想となつて居るものでありますから、甲を以て乙に隷屬すべき理由はどうしても發見出來んのであります。此四つのうちに、重要の度からして差等の點數をつけて見ろと云はれた時に、何人《なんぴと》も之を敢てする事は出來ない筈と思ひます。もしあるとすれば答案を調べずに點數をつける亂暴な教員と同じもので、言語道斷の不心得であります。只吾は時勢の影響を受けて居るから、しか／”＼の理想に屬するものを好むと云ふならばそれでよろしい。吾は個性として斯く／＼の理想の下に包含せらるべきものを擇むと云ふならば、夫で勘辨してもよい。好惡は理窟にはならんのだから、いやとか好きとか云ふなら夫迄であるが、根據のない好惡を發表するのを恥ぢて、理窟もつかぬ所に、いたづらな理窟をつけて、辨解するのは、消化がわるいから僕は蛸が嫌だといふ樣な口上で、もし好物であつたなら、如何程不消化でも、だまつて、足は八本共に平げる程な覺悟だらうと思ひます。

　此故に此等四種の理想は、互に平等な權利を有して、相冒すべからざる標準であります。だから美の標準のみを固執して眞の理想を評隲するのは疝氣筋《せんきすぢ》の飛車取り王手の樣なものであります。朝起を標準として人の食慾を批判する樣なものでせう。御前は朝寐坊だ、朝寐坊だから無暗に食ふのだと判斷されては誰も心服するものはない。枡を持ち出して、反物の尺を取つてやるから、さあ持つて來いと號令を下したつて誰も號令に應ずるものはありません。寒暖計を眺めて、どうもあの山の高さは餘程あるよと云ふ連中は、寒暖計を驗温器の代りにして逆上の程度でも計つたらよからうと思ふ。尤もこゝに見當違ひの批評と云ふのは、美をあらはした作物を見て、こゝには眞がないと否定する意味ではない。眞がないから駄目だ作物にならん〔九字傍点〕と云ふ批評を云ふのである。眞はないかも知れぬ、なければないでよい。無いものを有ると云うて貰ひたいとは誰も云はないでせう。然し現にある美丈は見てやらなくつては、折角作つた作物の生命がなくなる譯であります。頭は藥罐だが鬚丈は白いと云へば公平であるが、藥罐ぢや御話しにならんよと、一言で退けられたなら、鬚こそいゝ災難である。運慶の仁王は意志の發動をあらはして居る。然し其體格は解剖には叶つて居らんだらうと思ひます。あれを評して眞を缺いてるから駄目〔二字傍点〕だと云ふのは、云ふ方が駄目です。ミレーの晩祈の圖は一種の幽遠な情をあらはして居る。そこに目がつけば、それで澤山である。此畫には意志の發動がないと云ふのは、我慢して聞いてやつても好い。發動がないから畫にならんと云ふなら、發動の管《くだ》から文藝の世界を見る蛙の樣なものであります。

　然しながら、一の理想をあらはすときに、他の理想を缺いて居る場合と、積極的に他の理想を打ち崩して居る場合とは少々違ふのであります。缺いて居るのは只含んで居らんと云ふ迄で、打ち壞すとなると明かに其理想に違背して居るのですからして、此場合には作家の標準にした理想が、凡ての他を忘却せしめ得る程な手際でうまく作物にあらはれて居らねばならん。けれども是は天才でも甚だ六《むづ》かしい。從つて普通の場合には功罪が帳消しになつて餘す所は棒丈になります。いくら藤村の羊羹でもおまるの中に入れてあると、少し答へます。其おまるたると否とを問はず、むしや／＼食ふものに至つては非常稀有の羊羹好きでなければなりません。あれも學才があつて教師には至極だが、どうも放蕩をしてと云ふ事になると到底及第は出來かねます。品行が方正でないと云ふだけなら、まだしもだが、大に駄々羅遊びをして、二尺に餘る料理屋のつけ〔二字傍点〕を懷中に呑んで、蹣跚として登校される樣では、教場内の令名に關はるのは無論であります。だから如何な長所があつても、此長所を傷ける短所があつて、此短所を忘れ得せしむる丈に長所が卓然としてゐない作物は、惜しいけれども文句がつきます。私はとくに惜しいけれども〔七字傍点〕と云ひたい。惜しいと云ふのは、既に長所を認めた上の批評であり、且短所をも知り拔いた上の判斷で、一本調子に搦手ばかり、五年も六年も突《つ》ついて居る陣笠連とは歩調を一にしたくないからかう云ふのであります。

　そこで愈現代文藝の理想に移つて、少々氣?を述べたいと思ひます。現代文藝の理想は何でありませう。美？　美ではない。畫の方、彫刻の方でも恐らく、單純な美ではないかも知れないが、それは不案内だから、諸君の御一考を煩はすとして、文學に就て申すと決して美ではない。美と云ふものを唯一の生命にしてかいたものは、短詩の外にはないだらうと思ひます。小説には無論ありますまい。脚本は固よりです。詳しく云ふと、暇がかゝるから、此位で御免蒙つて先へ進みます。現代の理想が美でなければ、善であらうか、愛であらうか。此種の理想は無論幾多の作物中に經となり緯となりて織り込まれて居るには相違ないが、是れが現代の理想だと云ふには、遙に微弱すぎると思ひます。それでは莊嚴だらうか。莊嚴が現代の理想ならば聊か頼母《たのも》しい氣持もするが、實際は却つて反對である。現代の世程 heroism に缺乏した世はなく、又現代の文學程 heroism を發揚しない文學は少からうと思ひます。現代の世に莊嚴の感を起す悲劇は一つも出ないのでも分ります。現代文藝の理想が美にもあらず、善にもあらず又莊嚴にもあらざる以上は、其理想は眞の一字にあるに相違ない。例を引けば長くなる、證を擧げれば大變である。仕方がないから、只眞の一字が現代文藝ことに文學の理想であると云ひ放つて置きます。しばらく之を事實と御承認を願ひたい。所で此眞なるものも、所謂分化作用で、色々の種類と程度を有して居るには相違ない、英佛獨露の諸書を獵渉したらば其變形の重なものを指摘する事は出來る事になりませう。私はそれに對して決して不平を云ふ積ではありません。前に云ふ如く、眞は四理想の一であつて、其一たる眞が勢を得て、他の三理想が比較的下火になるのも、時勢の推移上銀杏返しがすたれて束髪が流行すると同じ樣に、已むを得ぬ次第と考へられます。然し是に就いて一言御參考の爲めに申し上げて置きたいのは、外でありませんが、斯う云ふ事なんです。

　人間の觀察と云ふ者は深くなると狹くなるものです。世の中に何が狹いと云つて專門家程狹いものはないのでも御分りになるでせう。狹いと云ふ事は別段わるいと云ふ意味は含んで居りませんから、構はないと主張されるかも知れませんが、狹いと云ふと不都合な事になります。醫者があまり熱心になつて狹い專門の範圍を、寢ても覺めても出る事が出來ないと、遂には妻に毒藥を飲まして、其結果を實驗して見たい抔と飛んでもない事を工夫するかも知れません。世の中は廣いものです、廣い世の中に一本の木綿絲をわたして、傍目《わきめ》も觸らず、其上を御叮嚀にあるいて、さうして、是が世界だと心得るのは既に氣の毒な話であります。只氣の毒な丈なら本人さへ我慢すれば夫で濟みますが、かう一本調子に行かれては、大にはたのものが迷惑する樣な譯になります。往來をあるくのでも分ります。いくら巡査が左へ／＼と、月給を時間割にした程な聲を出して、制しても、東西南北へ行く人を悉く一直線に、同方向に、同速力に向ける事は出來ません。廣い世界を、廣い世界に住む人間が、隨意の歩調で、勝手な方角へあるいて居るとすれば、御互に行き合ふとき、突き當りさうなときは、格別の理由のない限り、兩方で路を讓り合はねばならない。四種の理想は皆同等の權利を有して人生をあるいて居る。あるくのは御隨意だが、權利が同等であると極まつたなら、衝突しさうな場合には御互に示談をして、好い加減に折り合を付けなければならない譯です。此折り合を付ける爲めには、自分が一人合點で、自分一人の路をあるいて居ては出來ない。つまり向ふから來る人、横から來る人も、それ／”＼相當の用事もあり、理由もあるんだと認める丈に、世間が廣くなければなりません。所が狹く深くなると前に云うた御醫者の樣にそれが出來なくなる。抽出法と云つて、自分の熱心な所丈へ眼をつけて他の事は皆抽出して度外に置いて仕舞ふ。度外に置く譯である。他の事は頭から眼に這入つて來ないのであります。さうなると本人の爲めには至極結構であるが、他人即ち同方向に進んで行かない人には隨分妨害になる事があります。妨害になると云ふ事を知つて居れば改良もするだらうが、自己の世界が狹くて、此狹い世界以外に住む人のある事を認識しない原因から起るとすれば、どうする事も出來ません。現代の文藝で眞を重んずるの弊は、かうなりはしまいかと思ふのであります。否現にかうなりつゝあると私は認めて居るのであります。

　眞を重んずるの結果、眞に到着すれば何を書いても構はない事となる。眞を發揮するの結果、美を構はない、善を構はない、莊嚴を構はない迄はよいが、一歩を超えて眞の爲めに美を傷付ける、善をそこなふ、莊嚴を踏み潰すとなつては、眞派の人は夫で萬歳をあげる氣かも知れぬが美黨、善黨、莊嚴黨は指を啣へて、御尤もと屏息して居る譯には行くまいと思ひます。目的が違ふんだから仕方がないと云ふのは、他に累を及ぼさない範圍内に於て云ふ事であります。他に累を及ぼさゞるものが嚴として存在して居ると云ふ事すら自覺しないで、眞の世界だ、眞の世界だと騷ぎ廻るのは、交通便利の世だ、交通便利の世だと、鈴をふり立てゝ、電車が自分勝手な道路を、無茶苦茶に驅ける樣なものである。電車に乘らなければ動かないと云ふ程な電車贔屓の人なら、夫で滿足かも知れぬが、あるいたり、只の車へ乘つたり、自轉車を用ひたりするものゝ爲めには不都合此上もない事と存じます。

　尤も文藝と云ふものは鑑賞の上に於ても、創作の上に於ても、多少の抽出法を含むものであります。（抽出法に就ては文學論中に愚見を述べてありますから御參考を願ひたい）其極端に至ると妙な現象が生じます。たとへば、かの裸體畫が公々然と青天白日の下に曝される樣なものであります。一般社會の風紀から云ふと裸體と云ふものは、見苦しい不體裁であります。西洋人が何と云はうと、さうに違ありません。私が保證します。然しながら、人體の感覺美をあらはす爲には、是非共裸體にしなければならん、此不體裁を冒さねばならん事となります。衝突はこゝに存するのです。此衝突は文明が進むに從つて、益｜烈敷《はげしく》なる許で決して調停のしやうがないに極つて居ます。之を折り合はせる爲には社會の習慣を變へるか、肉體の感覺美を棄てるか、どつちかにしなければなりません、が兩方共強情だから、收まりがつき惡《にく》い所を、無理に收まりをつけて、頓珍漢な一種の約束を作りました。其約束はかうであります。「肉體の感覺美に打たれてゐるうちは、裸體の社會的不體裁を忘るべし」と云ふのであります。最前《さいぜん》用ひた難《むづ》かしい言葉を使ふと不體裁の感を抽出して、裸體畫は見るべきものであると云ふ事に歸着します。此約束が成立してから裸體畫は漸く其生命を繋ぐ事が出來たのであつて、ある畫工や文藝批評家の考へる樣に、世間晴れて裸體畫が大きな顔をされた義理ではありません。電車は危險だが、交通に便だから、一定の道路に限つて、危險の念を抽出して、あるいてやらうと云ふ條件の下に、東鐡や電鐡が存在すると同じ事であります。裸體畫も、東鐡も、電鐡も、餘り威張れば存在の權利を取上げてよい位のものであります。然し一度び抽出の約束が成り立てば構はない。眞も其通りであります。眞を發揮した作物に對して、他の理想を悉く忘れる、抽出すると云ふ條件さへ成立すればそれで宜しい。――宜しいと云つたつて大きな顔をして宜しいと云ふのではない、存在しても宜しいと云ふのであります。他の理想諸君へは御氣の毒だが、僕も困るから、少し辛抱して呉れ玉へ位の態度なら宜しいと云ふのであります。然し此條件を成立せしむる爲めには眞に對して起す情緒が強烈で、他の理想を忘れ得る程に、うまく發揮されなくてはならん譯であります。今の作物に是丈の仕事が出來て居るかゞ疑問であります。

　あまり議論が抽象的になりますから、實例に就て少々自分の考へを述べて見ませう。こゝに贋の?が一人あるとします。何か不審の件があつて警察へ拘引される。尋問に答へるのが不利益だと悟つて、愈?の眞似をする。警官も已を得ず、其儘繋留して置くと、翌朝になつて、?は大變腹が減つて來た。始めは?だから黙つて辛抱したが、とう／＼堪へられなくなつて、飯を食はして呉れろと大きな聲を出すと云ふ筋をかいたら、どんなものでせう。面白い小説になる、ならんの手際は、問題として、兎に角ある境遇に於ける、ある男に就て、一種の眞をあらはす事は出來る。面白味はそこにあるでせう。然し是丈では美な所も、善な所も、又莊嚴な所も無論ない。即ち眞以外の理想は毫も含んで居らんのです。そこが疵《きず》かと云ふと私はさうは認めません。と云ふものは他の理想を含んで居らんと云ふ迄で、毫もこれを害しては居りません。從つて眞に對する面白味を感ずるのみで、他の理想は悉く抽出して讀み終る事が出來得るからであります。

　次にこんな事を書いたら、どうなりませう。一人の乞食が居る。諸所放浪してゐるうちに、或日、或時、或村へ差しかゝると、しきりに腹が減る。幸《さいはひ》ひつそりとした一構へに、人の氣《け》はいもない樣子を見屆けて、?麭と葡萄酒を盗み出して、口腹の慾を充分充たした上、村外れへ出ると、眠くなつて、うと／＼して居る所へ、村の女が通りかゝる。腹が張つて、酒の氣《け》が廻つて、當分の間外の慾がなくなつた乞食は、女を見るや否や急に獣慾を遂行する。――此話しはモーパツサンの書いたものにあるさうですが、私は讀んだ事がありません。私に此話をして聞かした人は頻りに面白いと云つて居ました。成程面白いでせう。然し其面白いと云ふのは、矢張りある境遇にあるものが、ある境遇に移ると、それ相應な事をやると云ふ眞相を、臆面なく書いた所にあるのでせう。然し此面白味は、前の?の話と違つて、只眞を發揮した許りではない。他の理想を打ち壞して居ます。其打ち壞された理想を全然忘れない以上は、折角の面白味は打ち消されて仕舞ふから役に立たんのみか、他の理想を主にする人から散々に惡口される場合が多いだらうと思ひます。かう云ふ場合に抽出の約束は成立しさうにもない。約束が成立しない以上は、此作物の生命はないと云ふより、生命を許し得ないと云ふ方がよからうと思ひます。一般の世の中が腐敗して道義の觀念が薄くなればなる程此種の理想は低くなります。つまり一般の人間の�ｺ義的感覺が鈍くなるから、作家批評家の理想も他の方面へ走つて、こちらは御留守になる。遂に善抔はどうでも眞さへあらはせばと云ふ氣分になるんではありますまいか。日本の現代がさう云ふ社會なら致し方もないが、西洋の社會がかく腐敗して文藝の理想が眞の一方に傾いたものとすれば、前後の考へもなく、すぐ夫を擔いで、神戸や横濱から輸入するのは隨分氣の早い話であります。外國からペストの種を輸入して喜ぶ國民は古來多くあるまいと考へる。私がかう云ふとあまり極端な言語を弄する樣でありますが、實際外國人の書いたものを見ると、私等には抽出法がうまく行はれない爲めに不快を感ずる事が?あるのだから仕方がありません。

　現代の作物ではないが沙翁のオセロ抔は其一例であります。事件の發展や、性格の描寫は眞を得て居りませう、私も二三度講じた事があるから、其邊はよく心得て居る。然し讀んで仕舞つて如何にも感じがわるい。悲壯だの芳烈だのと云ふ考へは出て來ない、只妙な壓迫を受ける。ひまがあつたら、此感じを明暸に解剖して御目にかけたいと思ふが今では、そこ迄に頭が整うて居りませんから一言にして不愉快な作だと申します。沙翁の批評家があれ程あるのに、今迄なぜ此事に就いて何にも述べなかつたか不思議に思はれる位であります。必竟ずるに只眞と云ふ理想丈を標準にして作物に對する爲ではなからうかと思ひます。現代の作物に至ると、此弊を受けたものは枚擧に遑あらざる程だらうと考へる。ヘダ、ガブレルと云ふ女は何の不足もないのに、人を欺いたり、苦しめたり、馬鹿にしたり、ひどい眞似をやる、徹頭徹尾不愉快な女で、此不愉快な女を書いたのは有名なイブセン氏であります。大變に虚榮心に富んだ女房を持つた腰辨がありました。或時大臣の夜會か何かの招待状を、ある手蔓で貰ひまして、女房を連れて行つたら嘸喜ぶだらうと思ひの外、細君は中々強硬な態度で、着物がかうだの、簪がかうだのと駄々を捏ねます。折角の事だから亭主も無理な工面をして一々奧さんの御意に召す樣に取り計ひます。夫で御同伴になるかと云ふと、まだ強硬に構へてゐます。最後に金剛石《ダイヤモンド》とかルビーとか何か寶石を身に着けなければ夜會へは出ませんよと斷然申します。さすがの御亭主も是には辟易致しましたが、遂に一計を案じて、朋友の細君に、かういふ飾り一切の品々を所持して居るものがあるのを幸ひ、たゞ一晩丈と云ふので、大切な金剛石の首輪をかり受けて、急の間を合せます。所が細君は恐悦の餘り、夜會の當夜、踊つたり跳ねたり、飛んだり、笑つたり、した揚句の果、とう／＼貴重な借物をどこかへ振り落して仕舞ひました。兩人は蒼くなつて、あまり跳ね過ぎたなと勘づいたが、是より以後跳方を儉約しても金剛石が出る譯でもないので、已むを得ず夫婦相談の結果、無理算段の借金をした上、巴里中かけ廻つて漸く、借用品と一對とも見違へられる首飾を手に入れて、時を違へず先方へ、何知らぬ顔で返却して、其場は無事に濟ましました。が借金は中々濟みません。借りたものは巴里だつて返す習慣なのだから、如何な見え坊の細君も茲に至つて飜然節を折つて、臺所へ自身出張して、飯も焚いたり、水仕事もしたり、霜燒をこしらへたり、馬鈴薯を食つたりして、何年かの後漸く負債丈は皆濟《かいさい》したが、同時に下女から發達した奧樣の樣に、妙な顔と、變な手と、卑しい服裝の所有者となり果てました。話はもう一段で濟みます。

　ある日此細君が例の如く笊か何かを提げて、西洋の豆腐でも買ふ積で表へ出ると、不圖《ふと》先年金剛石を拜借した婦人に出逢ひました。先方は立派な奧樣で、當方《こちら》は年期の明けた模範下女よろしくと云ふ有樣だから、挨拶をするのも、一寸面はゆげに見えたんでせうが、思ひ切つて、おやまあ御珍らしい事とか何とか話かけて見ると案の如く、先方では、もうとくの昔に忘れて居ます。下女に近付はない筈だがと云ふ風に構へて居た所を、しよげ返りもせず、實は是々で、あなたの金剛石を辨償する爲め、こんな無理をして、其無理が祟つて、今でも此通りだと、逐一を述べ立てると先方の女は笑ひながら、あの金剛石は練物ですよと云つたさうです。夫で御仕舞です。是は例のモーパツサン氏の作であります。最後の一句は大に振つたもので、定めてモーパツサン氏の大得意な所と思はれます。輕薄な巴里の社會の眞相はさもかうあるだらう穿ち得て妙だと手を拍ち度くなるかも知れません。そこが此作の理想のある所で、そこが此作の不愉快な所であります。よくせきの場合だから細君が虚榮心を折つて、田舍育ちの山出し女と迄成り下がつて、何年の間か苦心の末、身に釣り合はぬ借金を奇麗に返したのは立派な心掛で立派な行動であるからして、もしモーパツサン氏に一點の道義的同情があるならば、少くとも此細君の心行きを活かしてやらなければ濟まない譯でありませう。所が奧さんの折角の丹精が一向活きて居りません。積極的にと云ふと言ひ過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでも濟んだ所を、無理に馬鹿氣《ばかげ》た働きをした事になつて居るから、奧さんの實着な勤勉は、精神的にも、物質的にも何等の報酬をモーパツサン氏もしくは讀者から得る事が出來ない樣になつて仕舞ひます。同情を表してやりたくても馬鹿氣てゐるから、表されないのです。それと云ふのは最後の一句があつて、作者が妙に穿つた輕薄な落ちを作つたからであります。此一句の爲めに、モーパツサン氏は�ｺ義心に富める天下の讀者をして、適當なる目的物に同情を表する事が出來ない樣にして仕舞ひました。同情を表すべき善行をかきながら、同情を表してはならぬと禁じたのが此作であります。いくら眞相を穿つにしても、善の理想をかう害しては、私には賛成出來ません。もう一つ例を擧げます。今度はゾラ君の番であります。御爺さんが年の違つた若い御嫁さんを貰ひます。結婚は致しましたが、どう云ふものか夫婦の間に子が出來ません。夫を苦に病んで御爺さんが醫者に相談をかけますと、醫者は何でも答辯する義務がありますから、左樣、海岸へ御出でになつて何とか云ふ貝を召し上がつたら子供が出來ませうよと妙な返事をしました。爺さんは大喜びで、早速細君携帶で佛蘭西の大磯邊に出かけます。すると其處に細君と年齡から其他の點に至るまで夫婦として、如何にも釣り合のいゝ男が逗留して居まして細君とすぐ懇意になります。兩人は毎日海の中へ飛び込んで一所に泳ぎ廻ります。爺さんは濱邊の砂の上から、毎日遠く之を拜見して、中々若いものは活?だと、心中ひそかに嘆賞して居りました。ある日の事三人で海岸を散歩する事になります。時に、お爺さんは老體の事ですから、石の多い濱邊を嫌つて土堤《どて》の上を行きます。若い人々は波打際を遠慮なくさつさとあるいて參ります。所が約《およそ》五六丁も來ると、磯際に大きな洞穴《ほらあな》があつて、兩人がそれへ這入ると、うまい具合と申すか、折惡《をりあし》くと申すか、潮が上げて來て出る事が六づかしくなりました。老人は洞穴の上へ坐つた儘、沖の白帆を眺めて、潮が引いて兩人の出て來るのを待つて居ります。そこであまり退屈だものだから、不圖《ふと》思出して、例の醫者から勸められた貝を出して、此貝を食つては待ち、食つては待つて、とう／＼潮が引いて、兩人が出てくる迄には餘程多量の貝を平げました。其場は夫れで濟みまして、愈細君を連れて宅へ歸つて見ますと、貝の利目《きゝめ》は忽ちあらはれて、細君は其月から懷妊して、玉の樣な男子か女子か知りませんが生み落して老人は大滿足を表すると云ふのが大團圓であります。ゾラ君は何を考へて此著作を公けにされたものか存じませんが、私の考では前に擧げたモーパツサン氏よりもある方面に向つて一歩進んだ理想がなくつては到底書きこなせない作物だと思ひます。よく下民の聚合する寄席抔へ參ると、時々妙な所で喝采する事があります。普通の人が眉を顰める所に限つて喝采するから妙であります。ゾラ君抔も日本へ來て寄席へでも出られたら、定めし大入を取られる事であらうと存じます。

　現代文學は皆此弊に陷つて居るとは無論斷言しませんが、色々な點に於て此傾向を帶びて居る事は疑ひもないと思ひます。さうして此傾向は眞の一字を偏重視するからして起つた多少病的の現象だと云うてもよいだらうと思ひます。諸君は探偵と云ふものを見て、齒《よはひ》するに足る人間とは思はんでせう。探偵だつて家《うち》へ歸れば妻もあり、子もあり、隣近所の付合は人並にして居る。丸で道�ｺ的觀念に缺乏した動物ではない。たまには夜店で掛物をひやかしたり、盆栽の一鉢位眺める風流心はあるかも知れない。然しながら探偵が探偵として職務にかゝつたら、只事實をあげると云ふより外に彼等の眼中には何もない。眞を發揮すると云ふと勿體ない言葉でありますが、まづ彼等の職業の本分を云ふと、尤も下劣な意味に於て眞を探ると申しても差支ないでせう。それで彼等の職務にかゝつた有樣を見ると一人前の人間ぢやありません。道�ｺもなければ美感もない。莊嚴の理想抔は固よりない。如何なる、うつくしいものを見ても、如何なる善に對しても、又如何なる崇高な場合に際しても一向感ずる事が出來ない。出來れば探偵なんかする氣になれるものではありません。探偵が出來るのは人間の理想の四分の三が全く缺亡して、殘る四分の一の尤も低度なものが無暗《むやみ》に働くからであります。かゝる人間は人間としては無論通用しない。人間でない器械としてなら、ある場合にあつては重寶でせう。重寶だから、警視廳でも澤山使つて、月給を出して飼つて置きます。然し彼等の職業はもと／＼器械の代りをするのだから、本人共も其積で、職業をして居る内は人間の資格はないものと斷念してやらなくては、普通の人間に對して不敬であります。現代の文學者を以て探偵に比するのは甚だ失禮でありますが、唯眞の一字を標榜して、其他の理想はどうなつても構はないと云ふ意味な作物を公然發表して得意になるならば、其作家は個人としては、いざ知らず、作家として陷缺のある人間でなければなりません。病的と云はなければなりません。（四種の理想は同等の權利を有して相冒すべきものでないと、先に述べて置きました。四種を同等に滿足せしむる事は困難かも知れません。多少は冒す場合があるでせう。其場合には冒されたものが、屏息し得る樣に、冒す方に偉大な特色がなければならぬのであります。此點に於ては、先に例證したオセロが一番辯護し易い樣に思はれます。ゾラとモーパツサンの例に至つては殆んど探偵と同樣に下品な氣持がします）

　文藝に四種の理想があるのは毎度繰返した通りでありまして、其四種が又色々に分化して行く事も前に述べた如くであります。此四種の理想は文藝家の理想ではあるが、ある意味から云ふと一般人間の理想でありますからして、此四面に渉つて尤も高き理想を有して居る文藝家は同時に人間としても尤も高く且つ尤も廣き理想を有した人であります。人間として尤も廣く且つ高き理想を有した人で始めて他を感化する事が出來るのでありますから、文藝は單なる技術ではありません。人格のない作家の作物は、卑近なる理想、もしくは、理想なき内容を與ふるのみだからして、感化力を及ぼす力も極めて薄弱であります。偉大なる人格を發揮する爲めにある技術を使つて之を他の頭上に浴せかけた時、始めて文藝の功果は炳焉として末代迄も輝き渡るのであります。輝き渡るとは何も作家の名前が傳はるとか、世間からわい／＼騷がれると云ふ意味で云ふのではありません。作家の偉大なる人格が、讀者、觀者もしくは聽者の心に浸み渡つて、其血となり肉となつて彼等の子々孫々迄傳はると云ふ意味であります。文藝に從事するものは此意味で後世に傳はらなくては、傳はる甲斐がないのであります。人名辭書に二行や三行かゝれる事は傳はるのではない。自分が傳はるのではない。活版丈が傳はるのであります。自己が眞の意味に於て一代に傳はり、後世に傳はつて、始めて我々が文藝に從事する事の閑事業でない事を自覺するのであります。始めて自己が一個人でない、社會全體の精神の一部分であると云ふ事實を意識するのであります。始めて文藝が世道人心に至大の關係があるのを悟るのであります。我々は生慾の念から出立して、分化の理想を今日迄持續したのでありますから、此理想をある手段によつて實現するものは、我々生存の目的を、一層高く且つ大いにした功蹟のあるものであります。尤も偉大なる理想を尤もよく實現するものは我々生存の目的を尤もよく助長する功蹟のあるものであります。文藝の士は此意味に於て決して閑人《かんじん》ではありません。芭蕉の如く消極的な俳句を造るものでも李白の樣な放縱な詩を詠ずるものでも決して閑人ではありません。普通の大臣豪族よりも、有意義な生活を送つて、皆夫れ／”＼に人生の大目的に貢獻して居ります。

　理想とは何でもない。如何にして生存するが尤もよきかの問題に對して與へたる答案に過ぎんのであります。畫家の畫、文士の文、は皆此答案であります。文藝家は世間から此問題を呈出されるからして、色々の方便によつて各自が解釋した答案を呈出者に與へてやるに過ぎんのであります。答案が有力である爲には明暸でなければならん、折角の名答も不明暸であるならば、相互の意志が疏通せぬ樣な不都合に陷ります。所謂技巧と稱するものは、此答案を明暸にする爲めに文藝の士が利用する道具であります。道具は固より本體ではない。

　そこで諸君はわかつたと云はれるかも知れぬ。又はわからぬと云はれるかも知れぬ。分つた方《かた》はそれでよろしいが、分らぬ方には少々説明をしなければなりません。只今技巧は道具だと申しました。さう一概に云ふと明暸な樣であるが退いて考へると中々わかり惡《にく》い。技巧とは何だと聽かれた時に、大抵困ります。普通は思想をあらはす、手段だと云ひますが、其手段によつて發表される思想だからして、思想を離れて、手段丈を考へる譯には行かず、又手段を離れて思想丈を拜見する譯には無論行きません。夫で段々論じ詰めて行くと、どこ迄が手段で、どこからが思想だか甚だ曖昧になります。丁度此白墨に即いて云ふと、白い色と白墨の形とを切離す樣なもので此格段な白墨を目安《めやす》にして論ずると白い色をとれば形はなくなつて仕舞ひますし、又此形をとれば白い色も消えて仕舞ひます。兩《ふた》つのものは二にして一、一にして二と云つても然るべきものであります。そこで哲理的に論ずると中々面倒ですから、分り易い爲めに實例で説明しやうと思ひます。先達《せんだつ》て大學で講義の時に引用した例がありますから、一寸それで用を辨じて置きます。

　茲に二つの文章があります。最初のは沙翁の句で、次のはデフオーと云ふ男の句であります。

　之を比較すると技巧と内容の區別が自《おのづか》ら判然するだらうと思ひます。

　Uneasy lies the head that wears a crown.

　Kings frequently lamented the miserable consequences of being born to great things, and wished they had been in the middle of the two extremes, between the mean and the great.

　大體の意味は説明する必要もない迄に明暸であります。即ち冠《かんむり》を戴く頭《かしら》は安きひまなしと云ふのが沙翁の句で、高貴の身に生れたる不幸を悲しんで、兩極の中《うち》、上下の間に世を送りたく思ふは帝王の習ひなりと云ふのがデフオーの句であります。無論前者は韻語の一行で、後者は長い散文小説中の一句であるから、前後に關係して云ふと、種々な議論も出來ますが、此二句丈を獨立させて評して見ると、其技巧の點に於て大變な差違があります。それはあとから説明するとして、二句の内容は、二句共に大同小異である事は、誰も疑はぬ程に明かでありませう。だから思想から見ると双方共に同樣と見ても差支ないとします。思想が同樣であるにも關はらず、此二句を讀んで得る感じには大變な違があります。私は先達《せんだつ》て中《ぢゆう》デフオーの作物を批評する必要があつて、其作物を讀直すときに偶然此句に出合ひまして、不圖《ふと》沙翁のヘンリー四世中の語を思ひ出して、其内容の同じきにも關らず、其感じに大變な相違のあるに驚きましたが、何故こんな相違があるかに至つては解剖して見る迄は判然と自分にもわからなかつたのであります。そこで是から御話しをするのは私の當時の感じを解剖した所であります。

　沙翁の方から述べますと――彼《あ》の句は帝王が年中（十年でもよい、二十年でもよい。苟も彼が位にある間丈）の身心状態を、長い時間に通ずる言葉であらはさないで、之を一刻につゞめて示して居る。そこが一つの手際であります。其意味をもつと詳しく説明するとかうなります。uneasy（不安）と云ふ語は漠然たる心の状態をあらはす樣であるが實は非常に鋭敏なよく利く言葉であります。例へば椅子の足の折れかゝたのに腰をかけて uneasy であるとか、ヅボン釣りを忘れた爲めヅボンが擦《ず》り落ちさうで uneasy であるとか、凡て落ち付かぬ樣子であります。勿論落ち付かぬ樣子と云ふのは、ある時間の經過を含む状態には相違ないが、長時間の經過を待たないで、すぐ眼に映る状態であります。だから此 uneasy と云ふ語は、長い間持續する状態でも、之を一刻もしくは一分に縮めて畫の樣に咄嗟の際《きは》に頭腦の裏《うち》に描き出し得る状態であります。

　ある人はかう云つて、私の説を攻撃するかも知れぬ。――成程君の云ふ樣な uneasy な状態もあるかも知れない。然しそれは身體の uneasy な場合で心の uneasy な場合ではない。身體の uneasy な状態は長い時間を切つて斷面的に之を想像の鏡に寫す事も出來やうが、心の uneasy な場合即ち心配とか、氣がゝりといふ樣なものは、さういう風に印象を構成する譯には行かんだらうと。私は其攻撃に對しては、かう答へる。――さういふ uneasy な状態はあるに相違ない。ないが、こゝにはそんな事を考へる必要はない。よし帝王の uneasiness が精神的であつても、さう考へる必要はない。必要はないと云ふよりもそんな餘裕はない。uneasy の下《もと》に lies 即ち横はるとある。lies と云ふと有形的な物體に適用せらるゝ文字である。だから uneasy と讀んで、どちらの uneasy かと迷ふ間もなく、直 lies と云ふ字に接續するからして uneasy の意味は明確になつてくる。すると又かう非難する人が出るかも知れぬ。――lies にも兩樣がある。有形物に就て云ふ事は無論であるが無形物に就ても能《よ》く使ふ字である。だから uneasy lies では君の云ふ樣に判然たる印象は起つて來ないと。此非難に對する私の辯解はかうであります。 uneasy lies では印象が起らぬと云ふなら第三字目の head といふ字を讀んで見るがよからう。head は具體的のものである。よし head 迄も比喩的な意味に解せられるとしても uneasy lies the head と續けて讀んで、しかも此 head を抽象的な能力とか知力とか解釋する者はあるまい。誰でも具體的の髪の生えた頭と解釋するであらう。head を具體的と解する以上は lies も無論有形物の lie する有樣に相違ない。して見ると uneasy も又形態に關係のない目に見えぬ意味とは取りにくい。しかも其 uneasy な有樣はいつまで續くか無論わからないが、よし長時間續く状態にしても、苟も續いてゐる間は、何時《いつ》でも目に見える状態である。いつでも見える状態であるからして、其いづれの一瞬間を截ち切つても其斷面は長い全部を代表する事が出來る、語を換へて云へば、十年二十年の状態を一瞬の間につゞめたもの、※［者／火］詰めたもの、煎じ詰めたものを腦裏に呼び起すことが出來ると。そこで此※［者／火］詰めた所、煎じ詰めた所が沙翁の詩的な所で、讀者に電光の機鋒をちらつと見せる所かと思ひます。是は時間の上の話であります。長い時間の状態を一時に示す詩的な作用であります。

　所で沙翁には今一つの特色があります。上述のが時間的なるに對して是は空間的と云うてもよからうと思ひます。即ちかう云ふ解剖なのです。帝王と云ふ字は具體の名詞か抽象の名詞かと問へば、誰も具體と答へるだらうと思ひます。成程具體名詞に相違ないです。けれども只具體的だと承知する許りで、明暸な印象は比較的出にくいのです。帝王の畫を眼前でかいて見ろと云はれても、すぐと圖案は拵へられんだらうと思ひます。私共の腦中には此帝王と云ふものが頗る漠然として纒らない圖になつて疊み込まれて居ます。所へ the head that wears a corwn と云はれると、帝王と云ふ觀念が急に判然とします。なぜかと云ふと、今迄は具體であるといふ事丈が解つて居たけれど、局部の知識は頗る曖昧で取とめがつかなかつたのであります。恰も度の合はぬ眼鏡で物を見る樣に、其物は獨立して存在して居るが他の物と獨立してゐる事丈が明暸で、其物の内容は朦朧として居つたのであります。所が uneasy lies the head that wears a crown と云はれたので燒點が急に極つた樣な心持がするのであります。帝王と云へば個人として帝王の全部を想像せねばならん、全部を想像すると勢《いきほひ》ぼんやりする。ぼんやりしない爲に、局部を想像しやうとすると、局部が澤山あるので、どこを想像してよいか分りません。そこで沙翁は多くある局部のうちで、こゝを想像するのが一番いゝと教へて呉れたのであります。其教へて呉れたのは、帝王の足でもない、手でもない。乃至は脊骨《せぼね》でもない。もしくは帝王の腹の中でもない。彼が指さして、あすこ丈を注意して御覽、king がよく見えると教へて呉れた所は、燦爛たる冠を戴く彼の頭であります。此注意をうけた吾々は今迄全局に眼をちらつかせて要領を得んのに苦しんでゐたのに、かく注意を受けたから、試みに其方へ視線をむけると、成程 king が見えたのであります。明暸なのは局部に過ぎぬけれども、此局部が king を代表して然るべき精髄であるからして、こゝが明暸に見えれば全體を明暸に見たと同じ事になる。取も直さず物を見るべき要點を沙翁が我々に教へて呉れたのであります。此要點は全體を明かにするに於て功力があるのみならず、要點以外に氣を散らす必要がなく、不要の部分を悉く切り棄てる事も出來るからして、讀者から云へば注意力の經濟になる。此要點を空間に配して云ふと、沙翁は king と云ふ大きなものを縮めて、單なる「冠を戴く頭」に變化さして呉れたのであります。かくして六尺の人は一尺に足らぬ頭と煎じ詰められたのであります。

　して見ると沙翁の句は一方に於て時間を煎じ詰め、一方では空間を煎じつめて、さうして鮮かに長時間と廣空間とを見せて呉れて居ります。恰も肉眼で遠景を見ると漠然として居るが、一たび双眼鏡をかけると大きな尨大なものが奇麗に縮まつて眸裡に印する樣なものであります。さうして此雙眼鏡の度を合はして呉れるのが即ち沙翁なのであります。是が沙翁の句を讀んで詩的だと感ずる所以であります。

　所がデフオーの文章を讀んで見ると丸で違つて居ります。此男のかき方は長いものは長いなり、短いものは短いなりに書き放して毫も煎じ詰めた所がありません。遠景を見るのに肉眼で見て居ます。度を合せぬのみか、雙眼鏡を用ひやうともしません。まあ智慧のない敍方と云つてよいでせう。或は心配して讀者の便宜をはかつて呉れぬ書き方、呑氣もしくは不親切な書き方と云つても惡くはありますまい。もしくは伸縮方を解せぬ、彈力性のない文章と評しても構はないでせう。汽車電車は無論人力さへ工夫する手段を知らないで、どこ迄も親讓りの二本足でのそ／＼歩いて行く文章であります。從つて散文的の感があるのです。散文的な文章とは馬へも乘れず、車へも乘れず、何等の才覺がなくつて、只｜地道《ぢみち》に御拾ひで御出になる文章を云ふのであります。是は決して惡口ではありません、御拾ひも時々は結構であります。只年が年中足を擂木《すりこぎ》にして、火事見舞に行くんでも、葬式の供に立つんでも同じ心得で、てく／＼やつて居るのは、本人の勝手だと云へば云ふ樣なものゝ、餘り器量のない話であります。デフオーは甚だ達筆で生涯に三百何部と云ふ書物をかきました。まあ車夫の樣な文章家なのです。

　是で二家の文章の批評は了ります。此批評によつて、我々の得た結論は何であるかと云ふと、文藝に在つて技巧は大切なものであると云ふ事であります。もし技巧がなければ折角の思想も、氣の毒な事に、左程な利目が出て來ない。沙翁とデフオーは同じ思想をあらはしたのでありますが、其結果は以上の如く、大變な相違を來します。思想が同じいのに是程な相違が出るのは全く技巧の爲めだと結論します。近頃日本の文學者のある人々は技巧は無用だとしきりに主張するさうですが、未だ明暸なる御考へを承つた事がないから、何とも申されませんが、以上の説明によると、文藝家である以上は、技巧はどうしても捨てる譯には、參るまいと信じます。さうして以上の説明は決して論理其他の誤謬を含んで居らんと信じます。有名な人の作曲さへやれば、どんな下手が奏しても構はないと云ふ御主意ならば文章も技巧は無用かも知れませんが、私にはさうは思はれません。さうして技巧を無用視せらるゝ方《かた》のうちには人生に觸れなくては駄目だ、技巧はどうでもよい、人生に觸れるのが目的だと言はれる人が大分ある樣ですが、是も未だ明暸な説明を承つた事がないから何の意味だか了解出來ませんが、此言葉を承はる度に何だか妙な心持がします。只觸れろ／＼と仰《おほせ》があつても、觸れる見當がつかなければ、作家は途方に暮れます。無暗《むやみ》に人生だ／＼と騷いでも、何が人生だか御説明にならん以上は、火の見えないのに半鐘を擦る樣なもので、一寸景氣はいゝ樣だが、どいた／＼と驅けて行く連中は、あとから大に迷惑致すだらうと察せられます。人生に觸れろと御注文が出る前に、人生とはこんなもの、觸れるとはあんなもの、凡てのあんな、こんなを明暸にして置いて偖斯樣な譯だから技巧は無用ぢやないかと仰せられたなら、其時始めて御相手を致しても遲くはなからうと思つて、それ迄は差し控へる事に致して居ります。もし私の方で申す人生に觸れると云ふ意味が御承知になりたければ今ぢきに明暸なる御答へを仕つてもよろしいが、序もある事だから、次の節迄待つて戴きませう。

　御待遠だといかぬから、すぐ樣次の節に移つて辯じます。文學者の一部分で、しきりに觸れろ／＼と云ひ、技巧は無用だ／＼と云つて居るに反して、畫家の方では――畫家は我々の樣に騷々しくない、大人しく勉強して居られるから、無暗に三《み》つ番《ばん》は敲かれぬ樣であるが――然し其實行して居られる所を拜見すると、觸れるの觸れぬのと云ふ事は頓着なく只熱心に技術を研いて居られる樣に見受けます。申す迄もなく私は極めて畫道には暗い人間であります。だから畫の事に關して嘴を容れる權利は無論ないのですが、門外漢の云ふ事も時には御參考になるだらうし、かうして諸君に御目にかゝる機會も滅多にありませず、且文藝全體に通じての議論ですから、大膽な所を述べて仕舞ひます。――あなた方の方では人間を御かきになるときはモデルを御使ひになります、草や木を御かきになるときは野外もしくは室内で寫生をなさいます。是はまことに結構な事で、我々文學者が四疊半のなかで、夢の樣な不都合な人物、景色、事件を想像して好《いゝ》加減な事を竝べて平氣で居るよりも遙に熱心な御研究であります。其效能は固より御承知の事で、私抔が彼是申すのも釋迦に何とか云ふ類《たぐひ》になりますが、先《まづ》講話の順序として分らぬ乍ら、分つたと思ふ事丈を述べます。かう云ふ修業で得る點は私の考へでは先づ二通りになるだらうと思ひます。一つは物の大小形状及び其色合抔について知覺が明暸になりますのと、此明暸になつたものを、精細に寫し出す事が巧者に且つ迅速に出來る事だと信じます。二は之を描き出すに當つて使用する線及び點が、描き出される物の形状や色合とは比較的獨立して、それ自身に於て、一種の手際を帶びて來る事であります。此第二の技術は技術であり且つ理想をもあらはして居るからして純然たる技巧と見る譯には參りません。現に日本在來の繪畫は重に此技巧丈で價値を保つたものであります。それにも關はらず、之に對して鑑賞の眼を恣にすると、それ／”＼に一種の理想をあらはしてゐる、即ち畫家の人格を示して居る、爲めに大なる感興を引く事が多いのであります。たとへば一線の引き方でも、（其一線丈では畫は成立せぬにも關はらず）勢ひがあつて畫家の意志に對する理想を示す事も出來ますし、曲り具合が美に對する理想をあらはす事も出來ますし、又は明暸で太い細いの關係が明かで知的な意味も含んで居りませうし、或は婉約の情、温厚な感を蓄へる事もありませう。（知、情の理想が比較的顯著でないのは性質上已を得ません）かうなると線と點丈が理想を含む樣になります。丁度金石文字や法帖と同じ事で、書を見ると人格がわかる抔と云ふ議論は全く是から出るのであらうと考へられます。だから、此技巧はある程度の修養につれて、理想を含蓄して參ります。然し前種の技巧、即ち物に對する明暸なる知覺を其儘にあらはす手際は、全然理想と没交渉と云ふ譯には參りませんが、比較的に之とは獨立したものであります。之をわかり易く申しますと、物をかいて、現物の樣に出來上つても、知、情、意、の働きのあらはれて居らんのがあります。何《なん》だか氣乘りのしないのがあります。どことなく機械的なのがあります。私の技巧と云ふのは、此種の技巧を云ふのであります。私の非難したいのは、此種の技巧丈で畫工にならうと云ふ希望を抱く人々であります。無論諸君は、畫工になるには此種の技巧丈で充分だと御考へになつては居られますまい。然し技巧を重にして研究を重ねて行かれるうちには、時によると知らぬ間に、つい此弊に陷る事がないとは限らんと思ひます。再び前段に立ち歸つて根本的に申しますと、前に述べた通り、文藝は感覺的な或物を通じて、ある理想をあらはすものであります。だからして其第一主義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來なければ、存在の意義が薄くなる譯であります。此理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價値が出てくるものと存じます。此理想のない技巧家を稱して、所謂市氣匠氣のある藝術家と云ふのだらうと考へます。市氣匠氣のある繪畫が何故下品かと云ふと、其畫面に何等の理想があらはれて居らんからである。或はあらはれて居ても淺薄で、狹小で、卑俗で、毫も人生に觸れて居らんからであります。

　私は近頃流行する言語を拜借して、人生に觸れて居らんと申しました。私の所謂人生に觸れると申す意味は、前段からの議論で大概は御分りになつたらうとは思ひますが、御約束だから形式的に説明致しますと、比較的簡單で明暸であります。少くとも私丈にはさう思はれます。我々は意識の連續を希望します。連續の方法と意識の内容の變化とが吾人に選擇の範圍を與へます。此範圍が理想を與へます。さうして此理想を實現するのを、人生に觸れると申します。是以外に人生に觸れたくても觸れられやう譯がありません。さうして此理想は眞、美、善、壯の四種に分れますからして、此四種の理想を實現し得る人は、同等の程度に人生に觸れた人であります。眞の理想をあらはし得る人は、美の理想をあらはし得る人と、同樣の權利と重みとを以て、人生に觸れるのであります。善の理想を示し得る人は壯の理想を示し得る人と、同樣の權利と重みを以て、人生に觸れたものであります。何れの理想をあらはしても、同じく人生に觸れるのであります。其一つ丈が觸れて、他は觸れぬものだと斷言するのは、論理的にかく證明し來つた所で、成立せぬ出放題の廣言であります。眞は深くもなり、廣くもなり得る理想であります。然しながら、眞が獨り人生に觸れて、他の理想は觸れぬとは、眞以外に世界に道路がある事を認め得ぬ色盲者の云ふ事であります。東西南北悉く道路で、悉く通行すべき筈で、大切と云へば悉く大切であります。

　四種の理想は分化を受けます。分化を受けるに從つて變形を生じます。變形を生じつゝ進歩する機會を早めます。此變形のうち、尤も新しい理想を實現する人を人生に於て新意義を認めた人と云ひます。變形のうち尤も深き理想を實現する人を、深刻に人生に觸れた人と申します。（云ふ迄もなく深刻とは眞、善、美、壯の四面にわたつて申すべき形容詞であります。悲慘だから深刻だとか、暗黒だから深刻だとか云ふのは無意味の言語であります）變形のうち尤も廣き理想を實現する人を、廣く人生に觸れた人と申します。此三つを兼ねて、完全なる技巧によりて之を實現する人を、理想的文藝家、即ち文藝の聖人と云ふのであります。文藝の聖人は只の聖人で、之に技巧を加へるときに、始めて文藝の聖人となるのであります。聖人の理想と申して別段の事もありません。たゞ如何にして生存すべきかの問題を解釋する迄であります。

　發達した理想と、完全な技巧と合した時に、文藝は極致に達します。（それだから、文藝の極致は、時代によつて推移するものと解釋するのが、尤も論理的なのであります）文藝が極致に達したときに、之に接するものはもし之に接し得る丈の機縁が熟して居れば、還元的感化を受けます。此還元的感化は文藝が吾人に與へ得る至大至高の感化であります。機縁が熟すと云ふ意味は、此極致文藝のうちにあらはれたる理想と、自己の理想とが契合する場合か、もしくは之に引つけられたる自己の理想が、新しき點に於て、深き點に於て、もしくは廣き點に於て、啓發を受くる刹那に大悟する場合を云ふのであります。縁なき衆生は度し難しとは單に佛法のみで言ふ事ではありません。段違ひの理想を有して居るものは、感化してやり度くても、感化を受けたくても到底どうする事も出來ません。

　還元的感化と云ふ字が少々妙だから、御分りにならんかと思ひます。之を説明すると、かういふ意味になります。文藝家は今申す通り自己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらはすので、其現はされる理想は、ある種の意識が、ある種の連續をなすのを、其儘に寫し出したものに過ぎません。だから之に對して享樂の境《さかひ》に達すると云々ふ意味は、文藝家のあらはした意識の連續に隨伴すると云ふ事になります。だから我々の意識の連續が、文藝家の意識の連續とある度迄一致しなければ、享樂と云ふ事は行はれる筈がありません。所謂還元的感化とは此一致の極度に於て始めて起る現象であります。

　一致の意味は固より明暸で、此一致した意識の連續が我々の心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後迄も痕迹を殘すのが所謂感化であります。すると説明すべきものは唯還元の二字になります。然し此二字も又一致と云ふ字面のうちに含まれて居ります。一致と云ふと我の意識と彼の意識があつて、此二つのものが合して一となると云ふ意味でありますが、それは一致せぬ前に言ふべき事で、既に一致した以上は一もなく二もない譯でありますからして、此境界に入れば既に普通の人間の状態を離れて、物我の上に超越して居ります。所が此物我の境を超越すると云ふ事は、此講演の出立地であつて、又あらゆる思索の根據本源になります。從つて文藝の作物に對して、我を忘れ彼を忘れ、無意識に（反省的でなくと云ふ意なり）享樂を擅《ほしいまゝ》にする間は、時間も空間もなく、唯意識の連續があるのみであります。尤もこゝに時間も空間もないと云ふのは作物中にないと云ふのではない、自己が作物に對する時間、又自己が占めてゐる空間がないといふ意味であつて、讀んで何時間かゝるか、又讀んでゐる場所は書齋の裡か郊外か蓐中かを忘れると云ふのと同じ事であります。普通の場合に於て此を忘れる事が出來んのは、ある間は作者の意識連續と一致し、あるときは之を離れるから、我は依然として我、彼は依然として彼なのであります。一致して居る際に蚤に食はれて急に我に歸り、時計が鳴つて俄に我に歸ると云ふ樣であるから、間髪を容れざる完全の一致より生ずる享樂を擅まにする事が出來んのであります。かくの如く自己の意識と作家の意識が離れたり合つたりする間は、讀書でも觀畫でも、純一無雜と云ふ境遇に達する事は出來ません。之を俗に邪魔が這入るとも、油を賣るとも、散漫になるとも云ひます。人によると、生涯に一度も無我の境界に點頭し、恍惚の域に逍遙する事のないものがあります。俗に之を物に役せられる男と云ひます。斯樣な男が、何かの因縁で、急に此還元的一致を得ると、非常な醜男子が絶世の美人に惚れられた樣に喜びます。

　「意識の連續」のうちで比較的連續と云ふ事を主にして理想があらはれてくると、重に文學が出來ます。比較的意識其ものゝ内容を主にして理想があらはれて來ると繪畫が成立します。だからして前者の理想はおもに意識の推移する有樣であらはれて來ます。從つて此推移法が理想的に行く作物は、讀者をして還元的感化をうけ易くします。之を動の還元的感化と云ひます。夫から後者の理想はおもに意識の停留する有樣であらはれて來ます。だから停留法がうまく行くと、即ち意識が停留したい所を見計つて、其刹那を捕へると、觀者をして還元的感化をうけ易くします。之を靜の還元的感化と云ひます。然しながら是は重なる傾向から文學と繪畫を分つた迄で、其實は截然とかう云ふ區別は出來んのであります。しばらく此二要素を文學の方へかためて申しますと、推移の法則は文學の力學として論ずべき問題で、逗留の状態は文學の材料として考へるべき條項であります。雙方とも批評學の發達せぬ今日は誰も手を着けて居りませんから、研究の余地は幾らでもあります。私は自分の文學論のうちに、不完全ながら自分の考へ丈は述べて置きましたから、御參考を願ひます。固より新たに開拓する領土の事でありますから、御參考になる程には出來て居りません。けれども、あの議論の上へ／＼と是からの人が、新知識を積んで行つて、私の疎漏な所を補ひ、誤謬のある所を正して下さつたならば、批評學が學問として未來に成立せんとは限らんだらうと思ひます。私はある事情から重に創作の方をやる考へでありますから、向後此方面に向つて、どの位の貢獻が出來るか知れませんが、もし篤實な學者があつて、鋭意にそちらを開拓して行かれたならば、學界は此人の爲めに大いなる利益を享けるに相違なからうと確信して居ります。

　最後に一言を加へます。我々は生きたい／＼と云ふ下司《げす》な念を本來持つて居ります。此下司な了見からして、物我の區別を立てます。さうして如何なる意識の連續を得んかといふ選擇の念を生じ、此選擇の範圍が廣まるに從つて一種の理想を生じ、其理想が分岐して、哲學者（又は科學者）となり、文藝家となり實行家となり、其文藝家が又四種の理想を作り、且つ之を分岐せしめて、各自に各自の欲する意識の連續を實現しつゝあるのであります。要するに皆如何にして存在せんかの生活問題から割り出したものに過ぎません。だからして何をやらうと決して實際的の利害を外れた事は一つもないのであります。世の中では藝術家とか文學家とか云ふものを閑人《ひまじん》と號して、何か入らざる事でもして居るものゝ樣に考へています。實を云ふと藝術家よりも文學家よりも入らぬ事をして居る人間はいくらでもあるのです。朝から晩迄車を飛ばせて馳け廻つて居る連中のうちで、文學者や藝術家よりも入らざる事をして居る連中がいくらあるか知れません。自分丈が國家有用の材だ抔と己惚れて急がしげに生存上十人前位の權利があるかの如く振舞つても到底駄目なのです。彼等の有用とか無用とか云ふ意味は極めて幼稚な意味で云ふのですから駄目であります。怒るなら、怒つてもよろしい、いくら怒つても駄目であります。怒るのは理窟が分らんから怒るのです。怒るよりも頭を下げて其譯でも聞きに來たらよからうと思ひます。恐れ入つて聞きに呉ればいつでも教へてやつてよろしい。――私抔も學校をやめて、縁側にごろ／＼晝寐をして居ると云つて、友達がみんな笑ひます。――笑ふのぢやない、實は羨ましいのかも知れません。――成る程晝寐は致します。晝寐ばかりではない、朝寐も宵寐も致します。然し寐ながらにして、えらい理想でも實現する方法を考へたら、二六時中車を飛ばして電車と競爭して居る國家有用の才よりえらいかも知れない。私は只寐てゐるのではない、えらい事を考へやうと思つて寐て居るのである。不幸にしてまだ考へ付かない丈である。中々以て閑人《ひまじん》ではない。諸君も閑人ではない。閑人と思ふのは、思ふ方が閑人である、でなければ愚人である。文藝家は閑《ひま》が必要かも知れませんが、閑人ぢやありません。ひま人と云ふのは世の中に貢獻する事の出來ない人を云ふのです。如何に生きて然るべきかの解釋を與へて、平民に生存の意義を教へる事の出來ない人を云ふのです。かう云ふ人は肩で呼吸《いき》をして働いて居たつて閑人です。文藝家はいくら縁側に晝寐をして居たつて閑人ぢやない。文藝家のひま〔二字傍点〕とのらくら華族や、づぼら金持のひま〔二字傍点〕と一所にされちや大變だ。だから藝術家が自分を閑人と考へる樣ぢや、自分で自分の天職を抛つ樣なもので、御天道樣に濟まない事になります。藝術家はどこ迄も閑人ぢやないと極めなくつちやいけない。いくら縁側に晝寐をしても閑人ぢやないと極めなくつちやいけない。然し是丈大膽にひま人ぢやないと主張する爲めには、主張する丈の確信がなければなりません。言葉を換へて云ふと如何にして活きべきかの問題を解釋して、誰が何と云つても、自分の理想の方が、ずつと高いから、ちつとも動かない、驚かない、何だ人生の意義も理想もわからぬ癖に、生意氣を云ふなと超然と構へる丈に腹が出來てゐなければなりません。是丈に出來て居なければ、いくら技巧があつても、書いたものに品位がない。ない筈である。かう書いたら笑はれるだらう、あゝ云つたら叱られるだらうと、びく／＼して筆を執るから、あの男は腹の中がかたまつて居らん、理想が生※［者／火］《なまにえ》だ、と云ふ弱點が書物の上に見え透く樣に寫つて居る、從つて如何にも意氣地《いくぢ》がない。いくら技巧があつたつて、是ぢや人を引きつける事も出來ん、況んや感化をやであります。又況んや還元的感化をやであります。こんな文藝家を稱して閑人と云ふのであります。正木君の云はれた市氣匠氣と云ふのは、かゝる閑人の文藝家に着いて廻るのであります。要するに我々に必要なのは理想である。理想は文に存するものでもない、繪に存するものでもない、理想を有して居る人間に着いて居るものである。だからして技巧の力を藉りて理想を實現するのは人格の一部を實現するのである。人格にない事を、只句を綴り章を繋いで、上滑りのする樣にかきこなしたつて、閑人に過ぎません。俗にこれを柄《がら》にないと申します。柄にない事は、やつても閑人でやらなくても閑人だから、やらない方が手數が省ける丈得になります。只新しい理想か、深い理想か、廣い理想があつて、之を世の中に實現しやうと思つても、世の中が馬鹿で之を實現させない時に、技巧は始めて此人の爲め至大な用をなすのであります。一般の世が自分が實世界に於ける發展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文藝上の作物としてあらはるゝ外に路がないのであります。さうして百人に一人でも、千人に一人でも、此作物に對して、ある程度以上に意識の連續に於て一致するならば、一歩進んで全然其作物の奧より閃めき出づる眞と善と美と壯に合して、未來の生活上に消えがたき痕跡を殘すならば、猶進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文藝家の精神氣魄は無形の傳染により、社會の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、茲に自己の使命を完うしたるものであります。

　　　　　　　　　　　　　　　　　明治四〇、五、四−六、四『東京朝日新聞』

　

　　　創作家の態度

――明治四十一年二月東京青年會館に於て述――

　

　演題は「創作家の態度」と云ふのであります。態度と云ふのは心の持ち方、物の觀方《みかた》位に解釋して置いて下されば宜しい。此、心の持ち方、物の觀方で十人、十色｜樣々《さま／”＼》の世界が出來又樣々の世界觀が成り立つのは申す迄もない。一例を上げて申すと、もし諸君が私に向つて月の形はどんなだと聞かれゝば、私はすぐに丸いと答へる。諸君も定めし御異存はなからうと思ふ。所が此間ある西洋人の書いたものを見たら、我々は普通月を半圓形のものと解して居るとあつたのみか、何故｜眞丸《まんまる》なものと思つてゐぬかと云ふ譯迄が二三行つけ加へてあつたんで、少し驚いた位であります。我々は教育の結果、習慣の結果、ある眼識で外界を觀、ある態度で世相を眺め、さうして夫が眞《しん》の外界で、又眞の世相と思つてゐる。所が何かの拍子で全然種類の違つた人――商人でも、政事家でも或は宗教家でも何でもよろしい。成るべく縁の遠い關係の薄い先生方に逢つて、其人々の意見を聞いて見ると驚ろく事があります。夫等の人の世界觀に誤謬があるので驚くと云ふよりも、世の中はかうも觀られるものかと感心する方の驚ろき方であります。丁度前に述べた我々が月の恰好に對する考への差と同じであります。かう云ふと人間がばら／＼になつて、相互の心に統一がない、極めて不安な心持になりますが、其代り、誰がどう見ても變らない立場に居つて、申し合せた樣に一致した態度に出る事も澤山あるから、さう苦になる程の混雜も起らないのであります。（少なくとも實際上）ジエームスと云ふ人が吾人の意識する所の現象は皆撰擇を經たものだと云ふ事を論じてゐるうちに、こんな例を擧げてゐます。――撰擇の議論は兎に角、其例が此所の説明には尤も適切だと思ひますから、一寸借用して辯じます。今こゝに四角があるとする。すると此四角を見る立場は色々である。横からも、竪からも、筋違《すぢかひ》からも、眼の位置と、角度を少し變へれば千差萬別に見る事が出來る。さうして其｜度々《たび／＼》に四角の恰好が違ふ。けれども我々が四角に對する考は申し合せた樣に一致して居る。あらゆる見方、あらゆる恰好のうちで、たつた一つ。――即ち吾人の視線が四角形の面に直角に落ちる時に映じた形を正當な四角形だと心得てゐる。是を私の都合の好い樣に言ひ換へると、吾人は四角形を觀る態度に於て悉く一致して居るのであります。又別の例を申しますと彫刻抔で云ふ foreshortening と云ふ事があります。誰でも心得て居る事でありますが、人が手でも足でも前の方に出してゐる姿勢を、こちらから眺めると、實際の手や足よりも短かく見えます。けれども本來はあれより長いものだと思つて見てゐます。だから畫心のない吾々が手や足を描かうとすると本來其儘の足や手を、方向の如何に拘はらず、紙の上にあらはしたくなる。あらはして見るとどうも釣合がわるい。惡いけれども腹が承知をしないで妙な矛盾を感ずる。小供のかいた畫を見ると此心持ちが思ひ切つて正直に出てゐます。是も此際都合のいゝ樣に翻譯して云ひますと、吾々が手や足の長さに對する態度はちやんと申し合せた樣に一致して居ると云ふ事になります。

　してみると世界は觀樣《みやう》で色々に見られる。極端に云へば人々《にん／＼》個々別々の世界を持つてゐると云つても差支ない。同時に其世界のある部分は誰が見ても一樣である。始めから相談して、かう見やうぢやありませんかと、規約の束縛を冥々のうちに受けてゐる。そこで人間の頭が複雜になればなる程、觀察される事物も複雜になつて來る。複雜になるんではないが、單純なものを複雜な頭で色々に見るから、つまりは物自身が複雜に變化すると同樣の結果に陷るのであります。是を前の言葉に戻して云ふと、世が進むに從つて、複雜な世界と複雜な世界觀が出來て、さうして一方では此複雜なものが統一される區域も擴《ひろ》がつて來るのであります。

　そこで創作家も一種の人間でありますから各々《めい／＼》勝手な世界觀を持つて、勝手な世界を眺めてゐるに違ない。然しながら既に創作家と云ふ名を受けて、官吏とか商人とか、法律家とかから區別される以上は、此名稱は單に鈴木とか、山田とか云ふ空名と見る譯には行かない。内實に於てそれ相當の特性があつて他の職業と區別されて居るのかも知れない。だから、此人々の立場を研究して見たらば、多少の御參考になりはすまいかと思つて此演題を掲げた譯であります。

　そこで、此問題を研究するの方法に就て述べますと、第一には歴史的の研究があります。是は創作家の世界觀の纏つてあらはれた著作其物を比較して、其特性を綜合した上で、之に一種の名稱（自然派とか浪漫派とか）を與へて、夫から年代を追つて其發展を迹付《あとづ》けるのであります。所謂文學史であります。此間中からして、日本で大分自然派の論が盛になりまして色々の雜誌に其説明抔が澤山出て、私抔も大分利益を受けました。我々日本人が佛蘭西の自然派はかう發達したの、獨乙の自然派は今こんな具合だのと云ふ事を承知したのは、全く此歴史的研究の御蔭で至極結構な事と思ひます。

　唯此種の研究に就て私の飽き足らない所を云ふと、或は下の樣な弊がありはすまいかと思はれます。

　（一）　歴史の研究によつて、自家を律せんとすると、相當の根據を見出す前に、現在即ち新と云ふ事と、價値といふ事を同一視する傾が生じ易くはないかと思はれます。凡ての心的現象は過程であるからして、Ｂといふ現象は、Ａといふ現象に次いで〔三字傍点〕起るのは勿論であります。從つてＢの價値はＢの性質のみによつて定まらない、Ｂの前に起つたＡと云ふ現象の爲めに支配せられて居る事も勿論であります。腹が減るといふ現象が心に起ればこそ飯《めし》が旨いと云ふ現象が次いで起るので、必ずしも料理が上等だから旨かつたと許りは斷言出來にくいのであります。そこで吾々はＡと云ふ現象を心裡に認めると、之に次いで起るべきＢに就ては、其性質やら、強度やら、色々な條件について出來得る限りの撰擇をする、又せねばならぬ譯であります。丁度車を引いて坂を下りかけた樣なもので前の一歩は後の一歩を支配する。後の一歩は前の一歩の趨勢に應ずる樣な調子で出て行かなければ旨く行かない。人間の歴史はかう云ふ連鎖で結び付けられて居るのだから、決して切り放して見ても其價値は分りません。仰山に言ふと一時間の意識は其人の生涯の意識を包含して居ると云つても不條理ではありません。從つて人には現在が一番價値がある樣に思はれる。一番意味がある如く感ぜられる。現在が凡ての標準として適當だと信じられる。だから明日《あした》になると何だ馬鹿々々しい、どうして、あんな氣になれたかと思ふ事がよくあります。昔し戀をした女を十年立つて考へると、なぜまあ、あれ程｜逆上《のぼせ》られたものかなあと感心するが、當時は其逆上が尤もで、理の當然で、實に自然で、絶對に價値のある事としか思はれなかつたのであります。一國の歴史で申しても、一國内の文學丈の歴史で申しても是と同樣の因果に束縛されてゐるのは勿論であります。現代の佛蘭西人が革命當時の事を考へたら無茶だと思ふかも知れず。又浪漫派の勝利を奏したエルナニ事件を想像しても、あゝ熱中しないでもよからう位には感ずるだらうと思ひます。が是が因果であつて見れば致し方がない。唯氣をつけて然るべき事は、自分の心的状態がまだそんな廻り合せにならないのに、人の因果を身に引き受けて、やきもき焦《あせ》るのは、多少｜他《ひと》の疝氣を頭痛に病むの傾きがある樣に思ひます。所が歴史的研究丈を根本義として自己の立脚地を定めやうとすると、わるくすると此弊に陷り安い樣であります。と云ふものは現に研究してゐる事が自分の歴史なら善からうが人の歴史である。人は夫々勝手な因を蒔いて果を得て、現在を標準として得意である。夫を遠くから研究して、彼の現在が、かうだから自分の現在もさうしなければならないとなると、少し無理が出來ます。自己の傾向がそこへ向いてゐないのに、向いて居ると同樣の仕事をしなければならなくなる。云はゞ御付合になる。酷評を加へると自分から出た行爲動作もしくは立場でなくつて、模傚になる。物眞似に歸着する。もとより我々は物眞似が好《す》きに出來上つてゐるから、しても構はない。時と場合によると物眞似をする方が其間の手數と手續と、煩瑣な過程を拔きにして、すぐさま結局丈を應用する事が出來るから非常に調法で便利であります。現に電信、電話、汽車、汽船を始めとして、凡そ我國に行はれる所謂文明の利器といふものは悉く物眞似から出來上つたものであります。至極よろしい。人に餅を搗かして、自分が寐ながらにして之を平げるの觀があつて、頗る痛快であります。が此現象をすぐ應用して、文學抔にも持つて行ける、又持つて行かなければならないと結論しては、少し寸法が違つてる樣に思ひます。と云ふものは理學工學其他の科學もしくは其應用は研究の年代を重ねるに從つて、一定の方向に向つて發達するもので、どの國民がやり出しても、同程度の頭で同程度の勉強をする以上は一日早くやれば早くやつた方が勝になる樣な學問で、しかも一日後れたものは、必ず、一日早く進んだものゝ後《あと》を（一筋道である）通過しなければならない性質のものであります。歩く道が一筋で、さきが進んでゐる以上は、此方《こつち》の到着點も明らかに分つてゐるんだから、出來る丈早く甲《かぶと》を脱いで降參する方が得策であります。眞似をすると云ふと人聞《ひとぎゝ》が惡いが骨を折らないで、旨い汁を吸ふ程結構な事はない。此點に於て私は模傚に至極賛成である。然し人間の内部の歴史になると、又其内部の歴史が外面にあらはれた現象になると、さう簡單には行きません樣です。風俗でも習慣でも、情操でも、西洋の歴史にあらはれたもの丈が風俗と習慣と情操であつて、外に風俗も習慣も情操もないとは申されない。又西洋人が自己の歴史で幾多の變遷を經て今日に至つた最後の到着點が必ずしも標準にはならない。（彼等には標準であらうが）ことに文學に在つてはさうは參りません。多くの人は日本の文學を幼稚だと云ひます。情けない事に私もさう思つてゐます。然しながら、自國の文學が幼稚だと自白するのは、今日の西洋文學が標準だと云ふ意味とは違ひます。幼稚なる今日の日本文學が發達すれば必ず現代の露西亞文學にならねばならぬものだとは斷言出來ないと信じます。又は必ずユーゴーからバルザツク、バルザツクからゾラと云ふ順序を經て今日の佛蘭西文學と一樣な性質のものに發展しなければならないと云ふ理由も認められないのであります。幼稚な文學が發達するのは必ず一本道で、さうして落ち付く先は必ず一點であると云ふ事を理論的に證明しない以上は現代の西洋文學の傾向が、幼稚なる日本文學の傾向とならねばならんとは速斷であります。又此傾向が絶體に正しいとも論結は出來｜惡《にく》いと思ひます。一本道の科學では新即ち正と云ふ事が、ある程度に於て言はれるかも知れませんが、發展の道が入り組んで色々分れる以上は又分れ得る以上は西洋人の新が必ずしも日本人に正しいとは申し樣がない。而して其文學が一本道に發達しないものであると云ふ事は、理窟は偖置いて、現に當代各國の文學――尤も進歩してゐる文學――を比較して見たら一番よく分るだらうと思ひます。近頃の樣に交通機關の備つた時代ですら、露西亞文學は依然として露西亞風で、佛蘭西文學はやはり佛蘭西流で、獨乙、英吉利も亦それ／”＼に獨乙英吉利的な特長があるだらうと思ひます。從つて文學は汽車や電車と違つて、現今の西洋の眞似をしたつて、左程痛快な事はないと思ひます。夫よりも自分の心的状態に相當して、自然と無理をしないで胸中に起つて來る現象を表現する方が却つて、自分のものらしくつて生命があるかも知れません。

　尤も日本だつて孤立して生存してゐる國柄ではない。矢つ張り西洋と御付合をして大分ばた〔二字傍点〕臭くなりつゝある際だから、西洋の現代文學を研究して、其歴史的の由來を視て、ははあ西洋人は、今こんな立場で書いてるな位は心得て置かなくつちやなりません。假令夢中に眞似をするのが惡いと云つても、先方の立場其他を參考にするのは勿論必要であります。文學は前《ぜん》申した樣な特色のものではありますが、其特色の中《うち》には一本調子に發達する科學の影響が澤山流れ込んで來ますから、定數として動かすべからざる此要素が、如何に科學の進歩に連れて文學の各局部を冒して居るかを見るのは、科學思想の發達しない日本人が、徒らに自己の傾向ばかり振り廻して居ては、分らないので、さう頑張つてゐては遂には正宗の名刀で速射砲と立合をする樣な奇觀を呈出するかも知れません。

　して見ると歴史的研究は前の樣な弊もあるが、決して閑却すべからざるものでありますから、私の希望を云ふと、歴史を研究するならば其研究の結果して、綜合的に現代精神とはこんなもので、此精神がないものは殆んど文學として通用しないものだと云ふ事を指摘して事實の上に證明したいのであります。私の現代精神と云ふのは、今月もしくは先月新らしく出來た作物其ものに就て、此作物は現代精神をあらはして居る云々と云ふ樣な論じ方ではありません。過去一二世紀に渡つて、（もしくはもつと溯つても、よろしい）、人の心を動かした有名な傑作を通覽して其特性（一つでなくてもよろしい。又矛盾併立してゐても差支ない）を見出して行く事であります。さうすると一年や十年の流行以上に比較的永久な創作の要素がざつと明暸になるだらうと思ひます。少なくとも吾々の子もしくは孫時代迄は變らない特性が出てくるだらうと思ひます。もし標準が必要とあるならば、これでこそ多少の標準が出來るとも云ひ得るでせう。かう云ふ手數をして現代精神を極めたからと云つて、夫より以前に出たものには現代精神がないと云ふ譯にはならない。たとへばダンテの神曲に見える樣な考を持つてゐる人は今の世には澤山ない。又神曲の眞似をした作物を出さうと云ふ男もありますまい。然しあの神曲のうちから、現代精神を引き出せばいくらでも出て來るに極つてゐる。今の人の心に訴へる箇所は即ち現代精神であります。デカメロン其儘を春陽堂から出版したつて讀み手はないに極つてゐる。然しあの中に現代精神即ち種々な點に於て吾人を動かす自然派の樣な所はいくらでもあります。ずつと昔に溯つてホーマーはどうです。全體から云ふと寧ろ馬鹿氣てゐる。誰もイリアツドが書いて見たいと云ふ人もあるまいが、其イリアツドが矢張り現代の人に讀み得る所、讀んで面白い所、讀んで拍案の概がある所、浪漫的《ロマンチツク》な所、が少なくはなからうと思ふ。かう考へて見ると作物は時代の新舊ばかりで評をするよりも現代精神にリフアーして評價すべき事となります。さうして此現代精神は實を云ふと、讀者がめい／＼胸の中に有つてゐる。たゞ茫乎漠然たるある標準になつて這入つてゐるのだから、私の申出しは此茫乎漠然たるものを歴史的の研究で、もつと明暸に、もつと一般に通用するものにしたいと云ふ動議に外ならんのであります。諸君の御存じのブランデスと云ふ人の書いた十九世紀文學の潮流といふ書物があります。讀んで見ると中々面白い。獨乙の浪漫派だとか、英吉利の自然派だとか表題をつけて、其表題の下に、いくたりも人間の頭數を竝べて論じてあります。これで面白いのでありますが、私が讀んで妙に思つたのは、かう一題目の下に括られて仕舞つては括られた本人が押し込められたなり出る事が出來ない樣な氣がした事です。英吉利の自然派は決して獨乙の浪漫派と一致する事は許さぬ。一點も共通な所があつてはならぬと云はぬ許りの書き方の樣に感じられました。無論ブランデスの評した作家はかくの如く水と油の樣に區別のあつたものかも知れない。然しながら、かう書かれると自然派へ屬するものは浪漫派を覗いちやならない。浪漫派へ押し込めたものは自然派へ足を出しちや駄目だと、恰も先天的にこんな區別のある如く感ぜられて、後世の筆を執つて文壇に立つものも截然とどつちかに片付けなければならんかの如き心持がしますからして、一寸誤解を生じ易くなります。さればと云つて此二派が先天的に哲理上かう違ふから微塵も一致するものでないと云ふ理窟も書いてなし、又理論上文藝の流派は是非かう分化するものだとも教へて呉れない。只著者が諸家の詩歌文章を説明する條《くだ》りを、さうですか／＼と聞いてゐる樣なものでありました。然し是は少し困る。例へば學派を分けてあれは早稻田派だ、是は大學派だとして濟ましてゐる樣なものであります。夫程判然たる區別があるかないか分らないが、よしあつたにしても早稻田派と大學派は或る點に於て同じ説を吐いてはならないと壓し付けるのみか、たとひ實際は同じ説でも、なに違つてるよ。早稻田だもの、大學だものと只名前丈で極めて仕舞ふ弊が起り易い。私の現代精神の綜合と云ふのは、此弊を救ふ爲めで、一方では此窮窟な束縛を解くと同時に、名に叶ふたる實を有する主義主張を竝立せしめやうとする爲であります。

　けれども、かう云ふ研究は私には一寸臆劫で中々出來ないから、歴史的に行くと自然現代の西洋作家を實價以上に買ひ被る弊が起り易いだらうと思ひます。そこで歴史的研究以外の立場から創作家の態度を御話する事にしました。

　（二）　もう一つ歴史的研究に對して非難したいのは、ちと哲學者｜染《じ》みますが、斯う云ふ事であります。凡ての歴史は與へられた事實であります。既に事實である以上は人間の力でどうする事も出來ない。儼として存在して居るから、此點に於て爭ふべからざる眞であります。然しながら是が唯一の眞であるかと云ふのが問題なのであります。言葉を改めて云ふと人類發展の痕迹はみんな一筋道に伸びて來るものだらうかとの疑問であります。もしさうだと云ふ斷定が出來れば日本の歴史即ち西洋の歴史、西洋の歴史即ち希臘の歴史と云ふ事に歸着します。けれども多數の人は、是等各國の歴史を皆事實と首肯すると共に、悉く差違あるものと見傚すだらうと考へます。尤も此各國の歴史から共通の徑路を抽象して人類の發展の方向は必ず〔二字傍点〕、かういう筋を通るものだとは云はれませう。然し夫だからと云つて日本も、支那も、英吉利も、獨乙も、同じ現象を同じ順序に過去で繰り返して居るとは參らんのであります。あまり雲を攫む樣な議論になりますから、もう少し小さな領分で例を引いて御話を致しますが、日本の繪畫のある派は西洋へ渡つて向ふの畫家に甚だ珍重されてゐるし、又日本からは態々留學生を海外に出して西洋の畫を稽古してゐます。さうして御互に敬服しあつてゐます。兩方で及ばない所があるからでせう。それは、どうでも善いが、日本の畫を元の儘で抛つて置いて、西洋の畫を今の通打ち遣つて置いたら、兩方の歴史がいつか一度は、どこかで出逢ふ事があるでせうか。日本にラフアエルとか?ラスケスの樣な人間が出て、西洋に歌麿や北齋の如き豪傑があらはれるでせうか。ちと無理な樣であります。夫よりも適當な解釋は、西洋にラフアエルや?ラスケスが出たればこそ今日の樣な歴史が成立し、又歌麿や北齋が日本に生れたから、浮世繪の歴史があゝ云ふ風に爲つたと逆に論じて行く方がよくはないかと存じます。從つてラフアエルが一人出なかつたら、西洋の繪畫史は夫丈變化を受けるし、歌麿が居なかつたら、風俗畫の樣子も餘程趣が異なつてゐるでせう。すると同じ繪の歴史でもラフアエルが出ると出ないとで二通り出來上ります。（事實が一通り、想像が一通り）風俗畫の方も其通り、歌麿のあるなしで事實の歴史以外にもう一つ想像史が成立する譯であります。所で此ラフアエルや歌麿は必ず出て來なければならない人間であらうか。神の思召だと云へば夫迄だが、もしさう云ふ御幣を擔がずに考へて見ると、三分の二は僥倖で生れたと云つても差支ない。もしラフアエルの母が、ラフアエルの父の所へ嫁に行く代りに外の男へ嫁いだら、もうラフアエルは生れつこない。ラフアエルが小さい時腕でも挫《くじ》いたら、もう畫工にはなれない。父母が坊主にでもして仕舞つたら、矢張りあれ丈の事業は出來ない。よしあれ丈の事業をしても生涯人に知らせなかつたら決して後世には殘らない。して見ると西洋の繪畫史が今日の有樣になつてゐるのは、まことに危うい、綱渡りと同じ樣な藝當をして來た結果と云はなければならないのでせう。少しでも金合《かねあひ》が狂へばすぐ外《ほか》の歴史になつて仕舞ふ。議論としてはまだ不充分かも知れませんが實際的には、前に云つた樣な意味から歸納して繪畫の歴史は無數無限にある、西洋の繪畫史は其一筋である、日本の風俗畫の歴史も單に其一筋に過ぎないと云ふ事が云はれる樣に思ひます。是は單に繪畫丈を例に引いて御話をしたのでありますが、必ずしも繪畫には限りますまい。文學でも同じ事でありませう。同じ事であるとすると、與へられた西洋の文學史を唯一の眞と認めて、萬事之に訴へて決し樣とするのは少し狹くなり過ぎるかも知れません。歴史だから事實には相違ない。然し與へられない歴史はいく通りも頭の中で組み立てる事が出來て、條件さへ具足すれば、いつでも之を實現する事は可能だと迄主張しても差支ない位だと私は信じて居ります。

　そこで西洋の文學史を唯一の眞と認めてかゝるのは誤つて居ると、私は申したいのでありますが、只《たゞ》夫《それ》丈《だけ》なら別にこゝに述べ立てる必要もない。いざとなると西洋の歴史に支配されるかも知れませんが、普通頭の中で判斷すれば西洋の文學史と日本の文學史とは現に二筋であつて、兩方とも事實で兩方とも眞であるのは誰が見ても分り易い事でありますから、其邊はどうでも構ひません。又一般に申して西洋の方が進んでゐるから萬事手本にするんだと言ふ人があつても構ひません。私も至極御同感であります。只歴史の解釋を私の樣にした上で、西洋を手本にしたら間違が少なからうと思ふのであります。さうしないと弊が出てくる。さうして其弊に陷つて悟らずに居る事があります。

　たとへば十九世紀の前半に英國にスコツトなる人があらはれて、澤山小説をかきました。此人の作が一時期を畫する樣な新現象である爲めに世人はこれをロマンチシズムの代表者と見傚しました。それで差し支ないのですけれども、一度かう云ふ風に推し立てられると、スコツトは浪漫主義で浪漫主義はスコツトであると云ふ風にアイデンチフアイされる樣になります。アイデンチフアイされると、スコツトの作に見《あら》はれた要素は悉く浪漫主義を構成するに必要で且つ充分（necessary and sufficient）なものと認められます。成程スコツトの作中には中世主義もあります、冒險談もあります。種々な意味に解釋される浪漫主義の特色を含んで居りますが、困る事には多少の寫實的分子も交つて居るのです。所が寫實主義と云ふものは別に旗幟を翻がへして浪漫派の向を張つてるんだから、兩々對立の勢の爲めに折角スコツトの有つてゐる寫實的分子を引き拔いて寫實派の中へ入れてやる事が出來なくなつて仕舞ふ。又寫實派の中に散見し得る浪漫的分子を切り放して、浪漫派の中に入れる事も困難になつて仕舞ふ。そこで此名稱の爲め誤まられて彼等の作品は精製した金や銀の樣に純粹な性質で自然に存在してゐると思ふ樣になります。所が實際は大概まざりものなのであります。だから本來を云ふなら、こゝに浪漫主義なら浪漫主義、自然主義なら自然主義の定義があつて、何人の作物でも構はないからして、此定義に叶つた丈を持つて來て此主義のうちへ打《ぶ》ち込むのが當然であらうと思はれます。例へば白なら白と云ふ屬性の概念があつて、白墨、白紙、白旗、雪抔と云ふ出來上つたものゝうちから白と云ふ屬性丈を引き拔いて此概念の下に詰め込むのが至當でありませう。然るに只色丈が白いからと云つて、色の白いものは形や質や温度其他の如何に關せず悉く白のうちへ入れて、しかも外へ出る事を許さなかつたら、統一の出來るのは白といふ屬性丈であるにも關せず、人は凡ての點に於て統一されて居るかの如く誤解を抱くのであります。白いものは白で區別しても差し支ないから、之と同時に、形や質の點に於ても區別して、一個の具體を二重にも三重にも融通の利く樣に取り扱はなくつては眞相には達せられん筈であります。又一例を云ふと、こゝに一人の男がある。此人は學校へ出る。其時には教師の仲間へ入れて見なければなりません。筆を執る。其時には著作家の群に伍するものと認めるのが至當であります。家へ歸る。すると夫とも親ともして種類別をしなければならない。此人は一人であるけれども是程の種類へ編入される資格があるのであります。作物も其通りであります。之を分解し、之を綜合して、同一物のある部分を各適當な主義に編入するのが穩當であります。そんな錯雜した作物がないと云ふのは過去の歴史丈を眼中に置いた議論で是から先に作物の性質が、どの位に複雜な性質をかねてくるかを窮めない早計の議論かと思ひます。よし過去の作物丈に就て檢して見ても其作全體もしくは其人の作物總體をある一主義のもとに一括し得て妥當と認めらるゝ程の單調なもの許りはない筈であります。然るに歴史に束縛されると此分類が旨く行かない。何故と云ふと文學史で云ふ何々主義と云ふのは理論から出たのでなくして、個人の作物から出たのであつて、其作物の大體を鷲攫みにして、さうして尤も顕著に見える特性丈を目懸けて名を下した迄であります。元祖が既にさうであるからして、繼いで起るものゝ分類も、みんな此格で何主義のもとに押し込められて仕舞ふ。嚴正な類別でなくつて、人別になつて仕舞ふ。嚴正な類別をやるには人を離れて、作をほごして、出來上つたものを取り崩して掛らなければなりません。因襲の結果歴史的の研究は此方法を吾人に教へないのであります。つまりは幾通りとなく成立し得べき歴史のうちで實際に發展した歴史丈に重きを置いて、しかも殆んど偶然に出現した人間の作其ものを全き成體で取り崩す事の出來ないものと見傚した上で其特色の著るしきもの丈に何主義の名を以てする弊であります。だから此際理論の方から這入れば成立し得るあらゆる歴史に通用する議論が立てられますし、又はユーゴーとか、バルザツクとか云ふ名前で代表してゐる作物を、一塊りの堅牢體で、塊まりとして取り扱ふより外に手の付けられないものだと云ふ觀念を脱する便宜もあり、又從來實際に發展した歴史から出て來た何々主義より以外には主義は存在し得べからざるものであるとの誤解もなくなるだらうと思ひます。

　（三）　もう一つ歴史的研究に就ての危險を一言單簡に述べて置きたいと思ひます。主義を本位にして動かすべからざるものと見ますと、前《ぜん》申した通り作家（即ち作物）を取り崩して掛らんと不都合が生ずる如く、作家（即ち作物）を本位として動かすべからざるものとすると、今度は主義の方にもつと融通をつけなければなりますまい。融通をつけると云ふと、一つの作物のうちには同時に色々な主義を含んで居る場合が多い、少なくとも含んで居る場合があり得るのですから、斯樣な作物を批評したり分解したり説明したりする際には、一主義のもとに窮窟に律し去る習慣を改めて、歴史的には矛盾する如くに見傚されて居る主義でも構はないから、之を併立せしめて、苟しくも其作物のある部分を説明するに足る以上は之を列擧して憚からん樣にしなければ、矢張り前段同樣の不都合に陷る譯であります。然し歴史的關係から作物は夫自身に whole なものとして取り扱はれて居りますし、何主義と云ふ名は此 whole な作物を掩ふ名稱として用ひられて居りますから、妙な現象が起つて參ります。茲に甲の人があつてＡと云ふ作物を出す。すると此作物にＢ主義と云ふ名がつく。（多くの場合に於てはかう一言に纏められないにも拘はらず）次に乙なる人が出て來てＡ′と云ふ作物を公けにする。すると批評家がＡとＡ′の類似の點を認めて、矢張りＢ主義に入れて仕舞ふ。或は作家自身が自らＢ主義と名乘る場合もありませう。どちらでも同じ事であります。第三に丙と云ふ男が出てＡ″を書く。Ａ′とＡ″と似て居る所から矢張りＢ主義に纏められる。かう云ふ風にして、漸次にＡn※［nはn乗のn］迄行つたとすると、どんなものでありませう。甲と乙とは別人であります。乙と丙とも別人であります。別人である以上はいくら眞似を仕合つた所で全然同性質のものが出來る譯がない。況んや各自が本來の傾向に從つて、個性を發揮して懸つた日には、どこかに異分子が混入して來る譯になります。しかも此異分子も又Ｂ主義の名に掩はれて次第々々に流轉して行くうちには、Ｂ主義の意味が一歩ごとに摺《ず》れて、摺れる度に定義が變化して、變化の極は空名に歸着するか、夫でなければ徒らに紛々たる擾亂を文壇に喚起する道具に過ぎなくなります。芭蕉が死んでから弟子共が正風《しやうふう》の本家はおれだ我だと爭つた話があります。成程正風の旗を翻へすのは、天下を挾んで事を成す樣なもので當時にあつて實利上大切であつたかも知れませんが其爭奪の渦中から一歩退いて眺めたら全く無意味としか思はれません。今私の申す弊は全く理知的の事で實利問題とは全く没交渉ではありますが、轉々承繼した主義を一徹に主張すると、少なくとも其形迹丈は芭蕉以後の正風爭ひと同價値に終る樣になりはせぬかと思はれます。尤もこんな事は我々の日常よくある事で、友人と一時間も議論をしてゐると何時の間にか出立地を忘れて、飛んでもない無關係の問題に火花を散らしながら毫も氣が付かない場合は珍しくない樣です。ＡとＡ′とは似てゐる。だから双方共Ｂ主義でもまあよろしい。Ａ′とＡ″とも似てゐる。だから双方共まあＢ主義でよろしい。降《くだ》つてＡn-1※［n-1は乗のn-1］とＡn※［nは乗のn］とを比較すると矢張り似てゐる。だから双方とも依然としてＢ主義で差支ない樣なものの、最初のＡと最終のＡn※［nは乗のn］を對照した時に始めて困る。何だかＢ主義では足りない樣な心持がします。スコツトの浪漫趣味とモリスの浪漫趣味とは大分違ふ樣です。モリスはチヨーサーに似てゐると云ひます。其チヨーサーは詩人ではあるが寫實派と云ふ方が適當であります。すると浪漫主義を中世主義と解釋せぬ以上はスコツトとモリスとを同じ浪漫派に入れるのが妙になつて來ます。今度はモリスとゴーチエを比較する。誰が見ても同じ範疇では律せられさうもない。夫でも雙方共浪漫家で通用してゐます。ある人の説によると佛蘭西の自然派は浪漫派を極端迄發展させたもので、決して別途の徑路をたどるものではないと申します。さうなると自然派は浪漫派の出店見た樣なものになつて仕舞ひます。イブセンを捕《つら》まへて自然派だと云ふ人があります。どうもイブセンとモーパサンとは一所にならない樣に思はれます。さうかと思ふとイブセンを浪漫派だと申す人があります。然しイブセンとユーゴーとは到底同じ畠のものぢやない樣であります。要するに二三の主義をどこ迄も押し通して、あらゆる作物をどつちかへ片付け樣とする無理から起つたものぢやないかと考へられます。イブセンならイブセンを本位として、説明するには、在來の何々主義（しかも其うちの一つ）で足りると思ふのは、又足りなければならないと思ひ定めてかゝるのは、矢張り歴史的研究の弊を受けたものではなからうかと愚考致します。夫で少々出立地を變へて見たら、此窮屈を破ると同時に此曖昧をも幾分か避けられるだらうと思ひます。

　（四）　もう一つ申して本題に入る積りでありますが、是は純粹なる歴史的研究とは云へないかも知れません。今迄述べた三ケ條はみな文學史に連續した發展があるものと認めて、舊を棄てゝ漫りに新を追ふ弊とか、偶然に出て來た人間の作の爲めに何主義と云ふ名を冠して、作其物を是非此主義を代表する樣に取り扱つた結果、妥當を缺くにも拘はらず之を飽く迄も取り崩し難き whole と見傚す弊や、或は漸移の勢につれて此主義の意義が變化を受けて混雜を來す弊を述べたのであります。こゝに申す事は歴史に關係はありますが、歴史の發展とは左程交渉はない樣に思はれます。即ち作物を區別するのに、ある時代の、ある個人の特性を本として成り立つた某々主義を以てする代りに、古今東西に渉つてあてはまる樣に、作家も時代も離れて、作物の上にのみあらはれた特性を以てする事であります。既に時代を離れ、作家を離れ、作物の上にのみあらはれた特性を以てすると云ふ以上は、作物の形式と題目とに因つて分つより外に致し方がありません。まづ形式からして作物を區別すると詩と散文とになります。是は誰でも知つてゐる事で改めて云ふ程の必要も認めません。詩と散文と區別したからと云つて創作家の態度が一寸髣髴しにくいのです。分けないより増しかも知れないが、分けた所で大した利益も出て來ない樣です。次に問題からして作物の種類別をすると、先づ出來事を書いたものを敍事詩（これは希臘の作を土臺にして付けた名だから、我々は敍事文と云つても構ひません）と名づけたり。自己の感情を咏じたものだから抒情詩（是も抒情文としてもよろしい）と申したり。性格を描いたり、人生を寫したりするんで、小説とか戯曲とかの部類に編入したり。或は靜物を模寫するんで敍景文と號する樣な分類法であります。此分類になると多少細かになりますから、詩と散文の區別より幾分か創作家の態度を窺《うかゞ》ふ事が出來て、隨分重寶ではありますが、是れとても與へられた作物を與へられたなりに取り扱ふ丈で、其特性を概括するにとゞまつて仕舞ひやすいから、夫より以上に溯つて、もう少し奧から、かう云ふ立場で、かう變化すると小説が出來る、かう變化すると抒情詩が出來ると迄は漕ぎ付けてゐないのが多い。そこ迄漕ぎ付けない以上は、頭から、結果と見られべき作物を棄てゝ源因と認めべき或物の方から説明して、溯る代りに、流を下つてくる方が善い譯になります。つまり角があるから牛で、鱗があるから魚だと云ふ代りに、發生學から出立して、どんな具合に牛が出來、どんな具合に魚が出來るかを究めた方が、何だか事件が落着した樣な心持が致します。

　私が創作家の態度と題して、歴史の發展に論據を置かず、又通俗の分類法なる敍事詩抒情詩等の區別を眼中に置かないで、單に心理現象から説明に取りかゝらうと思ふのは之が爲めであります。

　夫で創作家の態度と云ふと、前申した通り創作家が如何なる立場から、どんな風に世の中を見るかと云ふ事に歸着します。だから此態度を檢するには二つのものゝ存在を假定しなければなりません。一つは作家自身で、かりに之を我《が》と名づけます。一つは作家の見る世界で、かりに之を非我と名づけます。是は常識の許す所であるから、別に抗議の出樣譯がない。又此際は常識以上に溯つて研究する必要を認めませんから、これから出立する積でありますが、今申した我と云ふものに就て一言辯じて後の伏線を張つて置きたいと思ひます。尤も辯ずると申しても哲學者の云ふ‘Transcendental I’だの、心理學者の論ずる Ego の感じだのといふ六づかしい事ではありません。只我と云ふものは常に動いてゐるもので（意識の流が）さうして續いてゐるものだから、之を區別すると過去の我と現在の我とになる譯であります。尤もどこで過去が始まつて、どこから現在になるんだと議論をし出すと際限がありません。古代の哲學者の樣に、空を飛んで行く矢へ指をさして今｜何處《どこ》に居ると人に示す事が出來ないから、必竟矢は動いて居ないんだ抔と云ふ議論もやれないでもありません。さう、こだわつて來ては際限がありませんが、十年前の自分と十年後の自分を比較して過去と現在に區別の出來ないものはありませんから、かう分けて差し支ないだらうと思ひます。そこで――現在の我が過去の我を振り返つて見る事が出來る。是は當然の事で記憶さへあれば誰でも出來る。其時に、我が經驗した内界の消息を他人の消息の如くに觀察する事が出來る。事が出來ると云ふのですから、必ずさうなると云ふのでもなければ、又さう見なくてはならないと云ふのでもありません。例へば私が今日｜此所《こゝ》で演説をする。其時の光景を家《うち》へ歸つてから寢ながら考へて見ると、私が演説をしたんぢやない、自分と同じ別人がした樣に思ふ事も出來る――出來ませんか。それぢや、斯う云ふなあどうでせう。去年の暮に年が越されない苦しまぎれに、友人から金を借りた。借りる當時は痛切に借りた樣な氣がしたが、今となつてみると何だか自分が借りたやうな氣がしない。――不可《いけ》ませんか。それぢや私が小供の時に寢小便をした。夫を今日考へてみると、其時の心持は幾分か記憶で思ひ出せるが、どうも髯をはやした今の自分がやつた樣には受取れない。是はあなた方も御同感だらうと思ひます。猶溯りますと――もう澤山ですか、然し序でだから、もう一つ申しませう。私は此年になるが、未だ甞て生れた樣な心持がした事がない。然し回顧して見ると慥かに某年某月の午の刻か、寅の時に、母の胎内から出産して居るに違ひない。違ひないとは申しながら、泣いた覺もなければ、浮世の臭もかいだ氣がしません。親に聞くと慥かに泣いたと申します。が私から云はせると、冗談云つちや不可《いけ》ません。大方そりや人違ひでせうと云ひ度なります。そこで我々内界の經驗は、現在を去れば去る程、恰も他人の内界の經驗であるかの如き態度で觀察が出來る樣に思はれます。かう云ふ意味から云ふと、前に申した我のうちにも、非我と同樣の趣で取り扱はれ得る部分が出て參ります。即ち過去の我は非我と同價値だから、非我の方へ分類しても差し支ないと云ふ結論になります。

　斯樣に我と非我とを區別して置いて、夫から我が非我に對する態度を檢査して懸ります。心理學者の説によりますと、我々の意識の内容を構成する一刻中の要素は雜然尨大なものでありまして、其うちの一點が注意に伴《つ》れて明暸になり得るのだと申します。是は時を離れて云ふ事であります。前に一刻中と云つたのは、まあ形容の語と思つて頂けばよろしい。例へば私が此演壇に立つて一寸見廻はすと、千餘人の顔が一度に眼に這入る。這入つたと云ふ感じはありますが、何となく同じ顔で、惡く云ふと眼も鼻も揃つて居ない人が竝んで御出になる。あながち私が度胸が据らないで眼がちら／＼する許ではない。かう、漠然たるのが本來で、心理學者の保證する所であります。然し此際は不幸にして、別段私の注意を惹くものがないから、只漠然たるのみで、別に明暸なる所がありません。もし演壇のすぐ前に美くしい衣裝を着けた美くしい婦人でも居られたら、その周圍六尺許りは大いに明暸になるかも知れませんが、惜しい事に御出にならんから、完全に私の心理状態を説明する譯に參りません。そこで此漠然たる限界の廣い内容を意識界と云つて、其うちで比較的明暸な點を焦點と申します。是は前《ぜん》申した通り時間の經過に重きを置かない simultaneous の場合でありますが、時間の經過上に就ても同樣の事が申されます。然し之を説明するとくどくなりますから略します。又想像で心に思ひ浮べる事物も略同樣に見傚されるだらうと考へますから略します。夫から前に申した例は單に分り易い爲めに視覺から受ける印象のみに就て説明したものでありますから、實際は非常に區域の廣いものと御承知を願ひます。

　先づ我々の心を、幅のある長い河と見立ると、此幅全體が明らかなものではなくつて、其うちのある點のみが、顕著になつて、さうして此顕著になつた點が入れ代り立ち代り、長く流を沿ふて下つて行く譯であります。さうして此顕著な點を連ねたものが、我々の内部經驗の主腦で、此經驗の一部分が種々な形で作物にあらはれるのであるから、此焦點の取り具合と續き具合で、創作家の態度もきまる譯になります。一尺幅を一尺幅丈に取らないで、其うちの一點のみに重きを置くとすると勢ひ取捨と云ふ事が出來て參ります。さうして此取捨は我々の注意（故意もしくは自然の）に伴つて決せられるのでありますから、此注意の向き〔二字傍点〕案排もしくは向け〔二字傍点〕具合が即ち態度であると申しても差支なかろうと思ひます。（注意其ものゝ性質や發達は茲には述べません）私が先年倫敦に居つた時、此間亡くなられた淺井先生と市中を歩いた事があります。其時淺井先生はどの町へ出ても、どの建物を見ても、あれは好い色だ、これは好い色だ、と、とう／＼家へ歸る迄色盡しでお仕舞になりました。流石畫伯丈あつて、違つたものだ、先生は色で世界が出來上がつてると考へてるんだなと大に悟りました。すると又私の下宿に退職の軍人で八十許になる老人が居りました。毎日同じ時間に同じ所を散歩をする器械の樣な男でしたが、此老人が外《そと》へ出ると屹度杓子を拾つて來る。尤も日本の飯《めし》杓子の樣な大きなものではありません。小供の玩具にするブリツキ製の匙であります。下宿の婆さんに聞いて見ると往來に落ちてゐるんだと申します。然し私が散歩したつて、未だ甞て落ちてゐた事がありません。然るに爺さん丈は不思議に拾つて來る。さうして、これを叮嚀に室の中へ竝べます。何でも餘程の數になつて居りました。で私は感心しました。外の事に感心した譯でもありませんが、此爺さんの世界觀が杓子から出來上つてるのに尠なからず感心したのであります。是はたゞに一例であります。詳しく云ふと講演の冒頭に述べた如く十人十色で、いくらでも不思議な世界を任意に作つて居る樣であります。中にもカントとかヘーゲルとか云ふ哲學者になると到底普通の人には解し得ない世界を建立されたかの如く思はれます。

　かう複雜に發展した世界を、出來上つたものとして、一々御紹介する事は、とても出來ませんから、分り易いため、極めて單純な經驗で一般の人に共通なものを取つて、經驗者の態度が如何に分岐して行くかと云ふ事を御話して、其態度の變化が即ち創作家の態度の變化にも應用が出來るものだと云ふ意味を説明し樣と思ひます。極めて單純な所丈、大體の點のみしか申されませんが、幾分か根本義の解釋にもならうかと存じて、思ひ立つた譯であります。

　先づ吾人の經驗で尤も單純なものは sensation であります。近頃の心理學では、此字に一種限定的の意味を附して、ある單純なる全部經驗の一方面をあらはす事になつて居りますが、私は便宜の爲め全部經驗の意義に用ひます。只便宜の爲めに用ひるのですから、實際の衝突のない事は私の説明を御聞になれば御分りになるだらうと思ひます。夫からある心理學者は sensation は分解の結果到着する單純な經驗で、現實な吾人の經驗はもつと複雜な所から始まつてゐるぢやないかと云つてる樣ですが、夫も構ひません。只 sensation が單純な經驗をあらはせば、私の目的には宜しいのであります。もし不都合なら、そんな字を借用しないでもよろしい。面倒な事を云はないで、例で以て御話をすれば、早く合點が行かれますから、すぐさま例に取りかゝります。

　時々｜酒問屋《さかどんや》の前抔を御通りになると、目暗縞の着物で唐棧の前垂を三角に、小倉の帶へ挾んだ番頭さんが、菰被りの飲口《のみぐち》をゆるめて、樽の中から僅か許りの酒を、勿體なさうに猪口に受けて舌の先へ持つて行く所を御覽になる事があるでせう。商賣柄丈に旨い事をするなと見て居ると、酒の雫が舌へ觸《さは》るか、觸らないうちにぷつと吐いて仕舞ひます。さうして次の樽から又同じ樣に受けて、同じ樣に舌の先へ落しては、次へ次へと移つて行きます。けれども何遍同じ事を繰り返しても決して飲まない。飲んだら好ささうなものですが、悉く吐き出して仕舞ひます。そこで今度は同じ番頭が店から家《うち》へ歸つて、神さんと御取膳《おとりぜん》か何かで、晩酌をやる。すると今度は飲みますね。決して吐き出しません。ことによると飲み足りないで、もう一本なんて、赤い手で�ｺ久利を握つて、細君の眼の前へぶらつかせる事があるかも知れません。先づ此二た通りの酒の呑み方（尤も一方は呑み方ではない、吐いて仕舞ふから吐き方かも知れませんが）――吐き方なら吐き方でもよろしい。此呑み方と吐き方を比較して見ると面白い。研究と申す程の大袈裟な文字は如何はしいが、説明の仕樣によると、中々えらく聞える樣に出來ますから御慰みになります。先づ第一には、御店《おたな》で舐めた酒と、長火鉢の傍《わき》でぐび／＼遣《や》つた酒とは、此番頭に取つて同じ經驗であります。尤も燒酎とベルモツト、ビールと白酒《しろざけ》では同じ經驗とも申されませんが、同種、同類、同價の酒を店で吐いて、家《うち》で飲んだとすれば、吐くと飲むとの相違がある丈で、舌の當りは同じ事だと見るのが順當だから、つまり此男は同じ味覺の經驗を繰り返した譯になります。此所《こゝ》迄は誰《だれ》が見ても同じ經驗であります。それなら何所《どこ》迄も同じだらうかと云ふと、違つてゐます。店で試しに口へ當てゝ見るのは、此酒はどんな質《たち》で、どう口當りがして、賣れば幾何《いくら》位の相場で、舌觸りがぴりゝとして、後《あと》が淡泊《さつぱり》して、頭へぴんと答へて、灘か、伊丹か、地酒《ぢざけ》か濁酒《どぶろく》かが分る爲め、言ひ換れば酒の資格を鑑別する爲めであります。これが晩酌の方で見ると趣が違ひます。そりや時と場合によると、今日《けふ》の酒は大分善いね、一升九十錢位するね位の事は云ひながら、舌をぴちや／＼鳴らすかも知れませんが、何も九十錢を研究してゐる譯でも何でもありやしないのです。だから九十錢が一圓でも只旨く飲めさへすりや結構なんです。かういふ點から云ふと、兩方が變つて居ます。酒の味を利用して酒の性質を知らうといふのが番頭の仕事で、酒の味を旨がつて、口舌の滿足を得ると云ふのが晩酌の状態であります。雙方とも同じ經驗に違ひない。只其經驗の處置が異なつてゐます。言葉を換へて云ふと同樣の經驗に就て、眼の付け所が違ふ、注意の向け方が違つてゐる。最後に此講演に大事な言葉を用ひて申しますと、態度〔二字傍点〕が違つて居ります。（こゝの所が少しヴント抔と違つてるかも知れません。ヴントの樣な專門の大家に對して異説を立てるのは甚だ恐縮ですが、私のは、かう行かないと説明になりませんから、かうして置きます。又かうしても、實際上差支ないと信じます）

　もう一歩進んで、此態度が違つて居ると云ふ事を説明しますと、番頭の方は酒の味を外《そと》へ抛《な》げ出す態度であります。即ち自分の味覺を以て、自分以外のもの、（最前申した非我）の一部分を知る料に使ふのであります。譬喩で云ふと、酒の味が舌の先から飛び出して、酒の中へ潜んで落ち着く方角に働くのであります。晩酌の方は之が反對の方向に働いて居ります。非我のうちに酒と云ふものがあつて、其酒が、ある因縁で、外から飛び込んで來て、我を冒かした、もしくは我が冒されたと承知するのであります。詰めて云ふと、一は我から非我へ移る態度で、一は非我から我へ移る態度であります。一は非我が主、我が賓といふ態度で、一は我が主、非我が賓と云ふ態度とも云へます。番頭から云ふと酒の味自身が酒の屬性になるのだから、之を屬性的の經驗とも云へませう。晩酌から云ふと酒の味が自己の幸不幸（餘り大袈裟なら快不快）になるんだから感受的とでも云へませう。洋語で云ふと affective と申したら妥當だらうと思ひます。或は番頭の、自己にあらざる酒に重きを置く點から云へば客觀的態度とも名づけられませうし、晩酌の、自己に受くる刺激を、密切な自己の一部分と見傚す點から云へば、主觀的とも申されませう。又は番頭の態度が非我を明らめやうとする態度であるから、主知主義と云つて善からうと思ひますし、晩酌の態度が、我に感ずる態度であるから、主感主義と云つて善からうと思ひます。（こゝに云ふ兩主義は便宜の爲め私が拵へたのだから、かの心理學の一派を代表する主意説とは切り離して見て頂きたい）

　これで大抵御分りになつたらうと思ひますが、猶念の爲に、もう少し複雜で時間の經過を含んで居る例を御話しして置きたいと考へます。甞て西洋の石版業の事を書いたものを見た事がありますが、其中に彼等の技巧は驚ろくべきものだとありました。何故驚ろくべきものかと申すと、彼等は原畫を一目見るや否や、此色と此色を、是丈の割合で、かう混ぜれば、此調子が出ると、すぐに呑み込んで仕舞ふ。それから其通りにやる、果して其通りの調子が出る。まづこんな具合なんださうです。所が畫工の方は何うかと云ふと、先づ腹の中で、此所へこんな調子を出して、面白味を付け樣と思ふ。夫から繪の具を交ぜる――もしイムプレシヨニストなら單純な色を竝べて、すぐに畫布へ塗り付ける。さうして思ひ通りの調子を出す。今此兩人を比較して見ますと、ある手段に訴へて、目的（即ち思ひ通りの色）に到着するのだから、其所迄は同じ事と見傚して差支ないのです。然し兩人が工夫の結果同じ色彩に到着しても、到着した時の態度は大に違ふと云はなければなりません。畫工の方は此色彩を樂しむのであります。いゝ effect が出たと云つて嬉しがるのであります。此樂みを除いては、色々の工夫を積んで此結果に達する迄の知識は無用なのであります。然し此知識をある意味に於て自得してゐないと、どうあつても此結果が出せない。出せなければ樂しむ譯に參らんから已を得ず此過程を冥々のうちに或は理論的に覺え込むのであります。然るに、石版屋の方では、注文を受けて原畫と同じ樣な調子を出せば、夫で萬事が了するので、其結果が網膜を刺激し樣が、連想を呼び起さうが一向構はんので、必竟ずるに彼の興味は色彩其ものに存するのであります。何と何と何がどんな割合に調合されて此色彩が出來上つたんだなと見分けがつけばよろしいのであります。從つて彼の重んずる所は色彩から受ける樂みよりも、如何にして此色彩を生じ得るかの知識もつと纏めて云へば此色彩の知識にあると云つても無理ではありません。偖此兩人も出來上つた色を經驗すると云へば同じ經驗をしたに違ひない。只石版屋の方は此經驗を我から放出して、非我の屬性たる色と認め、且つ屬性として他の色と區別するに引き易へて、畫家は同一經驗を、畫面より我に向つて反射し來つたる一種の刺激と見傚し、此色が如何に我を冒すかの點にのみ留意するのであります。だから石版屋の方を客觀的態度で主知主義とし、畫工の方を主觀的態度で主感主義と名けてよからうと思ひます。

　先づ是で客觀、主觀、主知、主感の解釋が出來ましたが、是は極めて單純なる經驗に就て云ふ事で、其經驗は一の全き經驗でありますから、此經驗に對する注意の向け方、即ち態度一つで、かう兩面に分解は出來ます樣なものゝ、此兩極端の態度を取つて、いづれへか片付けなければならない樣に人間が出來上つて居ると思ふのは中庸を失した議論であります。分り易い爲めにこそ、かう截然たる區別はつけましたが、かう明暸に離れる場合は、あらゆる場合の兩端に各一つ宛しかないと合點しても間違ではなからうと思ひます。其中間に横《よこたは》つてゐる多數の場合は皆此兩面を兼ねて居るでせう。もし兼ねて居るのが不都合ならば或る比例に於て入り交つてゐると云ふが好いでせう。

　さうすると私は、何だか入らざる駄辯を弄した、獨りよがりの心理學者の樣になります。夫では少々心細いから、もう少し此兩方面を研究して御話ししたいと思ふ。即ち此單純な經驗に於て兩面を區別して置く方が適當であると御納得の參る樣に、此兩面が漸々右と左へ分れて發展する結果遂には大變違つたものに爲り得ると云ふ事を説明したいと思ひます。

　説明はなるべく單簡な方が宜ろしいから、茲に一つの物でも、人でもあるとする。此物か人は與へられたものとします。すると、以上の兩態度で之に對すると、之を敍述する方法が雙方共にどう發展するかと云ふ問題であります。

　其前に一寸御斷わりをして置きますが、こゝではＡならＡを與へてあると見て、其與へられたＡを如何に敍述して行くかと云ふのですから、敍述家にＡを撰擇する權利がない事になります。然しながら前に我々の心を幅のある河に喩へた時、此川幅の一點丈が明暸になるから、明暸になつた一點丈が意識の焦點になつて、他は皆茫々の裡に通過して仕舞ふ。さうして其焦點は注意の尤も強い所に出來る、さうして注意は即ち態度であると申しました。だから心の態度は撰擇淘汰の權を有して居ります。茲にＡを與へられたとするのは、心の態度にＡを撰擇する權利がないと云ふ意味ではありません。既に撰擇せられたるＡに就ての話であります。

　本來ならば前に申した兩態度が如何なる風に、如何なる性質の焦點を作るかを論じなければならん筈であります。然しさうすると大變複雜な問題になりますし、又撰擇の態度は、即ち撰擇されたものを敍述する態度と同じ事で、雙方とも傾向に相違はないと考へます。前に云つた色好きの淺井先生の樣な人に、エストミンスター、アベーが眼に着いたとすると、先生は自分の勝手で此寺院を撰擇した譯になりますが、偖之を敍述する段になれば（腹の中で敍述しても、口で敍述しても、又は筆で敍述しても）撰擇した時の態度を以て細かに局部に向ふ丈の事であります。只敍述の際にある連想だとか、ある概念だとかある記號だとかアベー以外の材料を以て來て、アベーの色を説明するかも知れませんが、説明の道具に使はれる材料も亦同じ態度で撰擇したものでありますから、つまりは同じ事だらうと思ひます。（尤も例外は出て來ます。態度が中途で代る事もあり得ます。然し是は些細の事として御見逃しを願ひたい）

　そこでＡを與へられたものと見て、之を敍述する樣子が段々に分れて遠ざかる所丈を御話しをしたい。Ａ其ものは何だか分らないのですが、之を敍述する方法は主知（客觀）の態度に三つ、主感（主觀）の態度に三つ、さうして兩方を一つづゝ結び付けて對にする事が出來るかと思ひます。當つてゐる當つてゐないは勿論大切でありますが、比較すると、よく對がとれて居る所に私は興味があるのでありますし、敍述となると既に文學の領分に、いつの間にか這入つて居りますから、私の思ひ付いた儘を御參考に供します。

　第一段は敍述が、一歩客觀主觀の兩面へ展開した時の状態で、此左右の扉を對と見る所に興味があるのであります。此時期に於ける客觀的敍述を私は perceptual と名づけ樣かと思ひます。即ち前に申した酒の味よりも稍複雜な感覺的屬性が纏まつて一體を構成してゐるものを、綜合された一體と認めて、認めた儘を敍述する意味に用ひる積であります。例へば茲に洋卓《テーブル》があると、此｜洋卓《テーブル》は堅い、黒い、ニスの臭のする、四角で足のある、云々と一々に其屬性を認めて、認めた屬性を綜合して始めて敍述が成立する譯であります。所が斯樣に屬性を結びつけると云ふ事が、前に申した酒の味のときよりも一層客觀性を慥かにする事だらうと思はれます。と云ふものは視覺、聽覺其他を單に主觀的態度で取り扱つてゐると色は遂に色で、音はどこ迄も音で、此色と此音は同一體の非我が兼ね有して居ると云ふ事實には比較的無頓着で居られます。從つて色も非我の屬性であり、音も非我の屬性であると云ふ以上に、此色も此音も同一非我の屬性であると綜合すれば、前よりは一段と其物の存在を確かにする意味になるから、客觀的態度に重きを置いた敍述と云はねばなりません。只注意すべき事は此際主觀的分子が無くなつたと解釋してはならんのであります。現に色を視、音を聞く以上は、此經驗を綜合して我以外に抛げ出すと、抛げ出さざるとに論なく、色も音も依然として、一方では主觀的事實であります。

　是で私の所謂 perceptual な敍述の意味は大概御分りになりましたらう。所が、屬性が複雜になるに從つて、敍述が長たらしくなります。長たらしくなると、敍述をする當人も迷惑であり、敍述を聽くものは一度に纏めかねる樣になります。從つて此敍述を簡單にする爲めには、勢ひ敍述されべき物に類似のもので、聞く人の頭の中に、既に纏つて這入つてゐるものを持ち出して代理をさせるのが便利になります。例へば柿を見た事のない西洋人に柿を説明するよりも赤茄子の樣だと話す方が早解りがする樣なものであります。勿論此代理になる赤茄子の考が先方の頭のなかになくては駄目で、考がある以上は、其考へ次第では、第二段に述べる conceptual な敍述を予想した事になりますが、是は其場合に至つて成るべく不都合のない樣に説明してみませう。兎角に此代理のものを用ひると云ふ事は、純粹の敍述ではない、方便であるから、餘り嚴密に考へると少しは破綻が出さうであります。然し實際的には殆んど、私の主意を害する事のないのみか、却つて私の考を明暸に御分らせ申す結果になりますから、かう致して置きたい。のみならず、斯うして置くと、片一方の主觀的の方と比較するときに大變な好都合になるのであります。

　さうすると、歸着する所は、perceptual な敍述の尤も簡便な形式は洋卓《テーブル》は唐机《たうづくゑ》の如しとか、柿は赤茄子の如しとか、驢は騾の如しとか、凡て眼に見、耳に聞き、手に觸れ、口に味はい、鼻に嗅いで得たる形相《ぎやうさう》を以て敍述する事になります。其一般の形式をＡはＢの如しとして置きます。

　Perceptual な敍述に對する、主觀的方面の敍述は何であるかと云ふと、私は一寸名前に窮するから、暫らく在來の修辭學に用ひてゐる直喩（simile）と云ふ語を借用致します。然し全然從來の simile とも思はれない樣ですから、其積で聞いて頂きたい。普通修辭學者の説によると、似たものを似たもので説明するんださうです。是丈ならば柿を赤茄子で説明したり、洋卓《テーブル》を唐机で説明するのと別段の相違もない樣です。所が實際の例を見ると、大分之とは趣を異にしてゐるのがあります。あの人の心は石の樣だ。あの男は虎の樣だ。抔と云ふのがあります。そこでは私は第一段の主觀的敍述をあらはすに simile と云ふ字を借用しました。是は普通 simile の下に取り扱はれて居る敍述のあるものが、私の所謂第一段の主觀的敍述と同傾向を有してゐるからと云ふ丈に過ぎません。偖今申した、あの人の心は石の樣だと云ふ例をとつて、調べて見ると、心と石を竝べても比較し樣がありません。又あの男は虎の樣だと云ふ例にしても其通り、虎と人間とは到底一所になり樣がない。けれども別に無理とも思はないで使つてゐます。して見ると何所か似た所があるに違ない。其似た所を考へて見たら此兩面の敍述の差が判然するだらうと思ひます。人の心を石に比較するのに、比較にならん樣に思ふのは、我々が石に就ての經驗を、我から非我の世界に抛げ出す態度、即ち我以外に一塊の動かすべからざる石と名づくるものが存在して居ると見傚すからではありますまいか。既に抛げ出されて石と名づけられたる以上、我の態度が我から非我に向つて働らく以上は、石は何處迄も石で、どうしても人の心に比較され樣譯がないのであります。我々の石に就ての經驗は堅いとか、冷たいとか、素氣《そつけ》ないとか云ふ屬性から構成されて居るのは無論でありますが、苟しくも此屬性が石の屬性で、石の意義を明暸ならしむるものと相場が極つて仕舞へば、もう融通は利きません。どうしても石を離れる事が出來なくなります。石を離れる事が出來ないとすると、丸で性質の違つた心を形容する譯には參りません。堅いのは石が堅いので、冷たいのも矢張り石が冷たいんだから、其堅さ冷さを石から奪つて、心に與へる譯には參りません。然し一度び立場を變へて、其堅さ冷たさを石から〔二字傍点〕經驗したとすれば、自分が石を認めたんでなくつて、石が自分を冒したとすれば、冷たいのは自分の冷たさで、堅いのも自分の堅さであるから、一度び石の經驗に觸れるや否や、石を離れて冷たい、堅いと云ふ心持ち丈になるから、苟しくも之と同じ心持を起すものならば、移して何へでも使ふ事が出來ます。それで、あの人の心は石の樣だと云ふ敍述が意味のあるものとなります。是は全く性質の違つた比較をする場合で、寧ろ極端であります。比較するものと比較されるものとの屬性が一點もしくは一以上の諸點に於て、似て居れば似て居る丈客觀的比較に近づく譯ですからして、漸々 perceptual の敍述に縁が付いて參ります。例へば先刻のあの人は虎の樣だと云ふ樣な simile でも石と心の比較に比べると、幾分かは perceptual の方面へ向いて居ります。何故《なぜ》と云ふと、虎は動物であり、人も動物であるといふ點に於て、既に客觀的價値のある比較であります。何も動物と云ふ概念がなくても構ひません、寐る所が似てゐる、物を食ふ所が似てゐる、歩く所が似てゐる以上は、客觀的價値があります。いくら皮膚が似てゐなくつても、足の恰好が似て居なくつても、髯の數が似て居なくつても、似てゐる所がある丈夫丈客觀的價値のある比較であります。然しながら、もし以上の點に於て類似を主張するならば、よりよき類似を主張する比較物はいくらでもある筈であります。例へばあの人は父に似てゐるとか又は母の如しとか云ふ方が虎の如しと云ふよりも遙かに穩當であります。立派な perceptual な敍述が出來る筈であります。然るに之を棄てゝ客觀的價値の尤も少ない〔十一字傍点〕虎を持つて來たのは、凡ての不類似のうちに獰猛の一點を撰擇〔二字傍点〕して尤も大切な類似と認めたからであります。偖此撰擇〔二字傍点〕は前に云つた通り我々の注意できまるので、云ひ換へると我々の態度で決せられるのであります。では此際の態度は客觀か主觀かと云ふ問題になります。獰猛を客觀的に虎の屬性と見傚せば獰猛は遂に虎の獰猛であつて、どうしても虎を離れる事は出來ません。其代り人間の獰猛も亦客觀視する事が出來ますからして雙方共我を離れたものとして比較が出來ます。然し同一經驗の方向を逆にして虎より受くる獰猛、人より受くる獰猛として、雙方から來る心持丈を比較すると、主觀の態度であります。だから此場合に於ては、兩方に見る事が出來て、兩方共正しいのであります。然しながら實際はどうかと云ふと、個人の習慣及び其時の模樣によつて、變化のあるのは無論でありますが、多くの場合に、多くの人が、多く主觀の方に重きを置いて居る樣に思はれます。だから私は此種の比較に用ひる虎なら虎を、客觀的價値の尤も少ないものであると云ふ譯で、又客觀的價値のある局部をも主觀的態度で注意する傾向があると云ふ譯で、此方面の敍述と見るのであります。石の例と虎の例でも分る如く既に主觀の程度には厚薄があります。猶進んで月が鎌の樣だと云ふ敍述に至ると又一歩 perceptual の方へ近付いて居ります。（面倒だから解剖は致しません）。斯樣にして漸々客觀的價値を増すに從つて、遂には perceptual の敍述に達するのであります。

　Perceptual の敍述と、simile（私の所謂）との對は先づ斯樣なものであります。前者は客觀で知を主とし、後者は主觀で感を主とするのが特性であります。然し常態を申すと雙方が幾分か交り合つて居る事は、例に因つて説明した通であります。

　是から第二段の對に移ります。第二段の片扉《かたとびら》で客觀態度の方を conceptual な敍述と名づけたいと思ひます。夫から片扉の主觀態度の方を矢張り在來の修辭學の言葉を借りて metaphor として置きます。意味は是から説明します。

　あるものを二度見てはゝああれだなと合點するのを recognition と申します。二度以上度々見て、矢つ張りあれだなと承知するのを cognition と申します。もし一つものを度々見る代りに同種類の甲乙を度々見た上で、矢張り同種類の丙に逢つた時、是は此種類の代表者もしくは其一つであると認めるのは conception の力であります。隣りの斑《ぶち》はかうであつた。向ふの白《しろ》はかうであつた。どこそこの犬はかうであつたの經驗が重なると、凡ての犬はかうであつたと纏つて參ります。夫れがもう一層固まると、かうであつたが變じて、斯くあらねばならぬと迄高じて參ります。斯くあらねばならぬとなつた時に、犬なら犬全體に通じての考が出來ます。斯くあらねばならぬ考だから、本人はまだ見ぬ犬にも、未だ生れぬ犬にも之を適用致します。偖此概念を抱いて往來を歩いて居ると、忽ちわんと吠えられる事があります。當人は早速にはゝあ鳴いたな。是れ犬なりと斷じます。私は此これ犬なりの敍述を conceptual な敍述と申したいのであります。犬は一匹であります。耳が垂れて、尾が卷いて、わん／＼云ふ聲を出して居るかも知れません。然し單に夫丈見たり聞いたりした丈では、種屬全體に通用する犬と云ふ斷案は出て來ません。だから此際に於ける犬は、頭の中に前から存在してゐる犬の一匹もしくは代表者であります。固より頭のなかに這入つてゐる犬は、犬と云ふ名前で這入つてゐるか、又は抽象的な關係的知識になつて這入つてゐる丈だから、形を具へては居りません、形を具へてゐる犬はいつでも代表的な一匹の犬になつて仕舞ふのは無論でありますが、個々特別の場合を綜合して成立つたものであると云ふ點に於て、既に密切な主觀的意味を失つて居ります。personal element が亡《な》くなつて居ります。犬はかくあるべきものと云ふ事を云ひ換へると、凡ての人は犬をかく考ふべき筈だと云ふ事になります。即ち他人はどうでも自分はかうと云ふ立場を離れて居ります。誰にでも通用するもの、結局は客觀的に慥かなものと云ふ事になります。夫だから犬の概念は頭の中にある丈にも拘はらず、其價値は頭以外即ち非我の世界に抛出されて始めて分るものであります。其代り例の主觀的な分子は、perceptual の敍述に比べると全く缺乏して參ります。只吾人の知識が非我の世界に於て廣くなつたと云ふ事は云はれます。けれども犬と云へば、すぐに一匹の犬を思ひ出すのが通例であるから、理窟から云ふ程主觀的分子は缺けて居ない場合が多いので、其點に於ては第一段の perceptual な敍述とつながつて居ります。（此場合に於ても是は犬なりと云ふのは尤も單簡なる形式を撰んだものであります）。

　今度は對の片扉なる主觀の方面即ち metaphor に移つて申します。是は御承知の通り simile の變化したもので、修辭學者は大膽なる simile と評して居ります。あの人の心は石の樣だと云ふ代りに、あの人の心は石だと斷じ、あの人は虎だと云ひ切る類《たぐひ》であります。第一段の比較に對して、こゝでは心を石と同一視し、人を虎と同一視するのであります。だから simile よりも一層客觀的不類似の點を無視した譯になります。だから其點に於て一層主觀的態度の敍述と見傚して差支ありますまい。（其他の點は simile の所と同樣の議論でありますから略します）

　第三段になると妙な對が出來ると思ひます。此所になると雙方共が象徴に歸して仕舞ふのであります。本來を云ふと、犬と云ふのも記號で、心を石だと云ふのも一種の象徴でありますから、第三段になつて正式にあらはれるのは既に前から胚胎して居つたものであります。客觀の態度から出る象徴の、尤も面白い例は數字の記號であるものを代表する事であります。例へば ｜x2＋y2＝r2※［2はみな上付き小書き］とあれば此關係で圓を敍述する事になるさうです。私の知つてゐる數學者は此式さへ見れば圓が眼に浮ぶと云ひました。恐ろしいものです。然し此式の意味を解しても、圓が眼に浮ぶ樣になるのは一寸暇がかゝるだらうと思はれます。夫れから x＝A cos 2πnt は一種の振動をあらはしたり、λ＝597μμ とあると光波の長さで光の色をあらはすのださうで、洵に不可思議の至の樣に思はれますが、いづれも長くかゝつて説明すべきものを、手數を省く爲めに、斯樣に詰めたものであります。だから比較的に非常に込み入つた、客觀的關係が疊み込まれて居るには相違ありません。夫が爲め是等を了解する非我の世界に於ける知識は大分廣く深くなるでありませうが、其代り我《が》自身丈に關する經驗即ち主觀の部分は全くないと云つても差し支ありません。只し x2＋y2＝r2※［2はみな上付き小書き］は如何な圓でも圓でさへあればあらはして居るのだから、取も直さず圓の概念に當ります。のみならずある人は此式を見ればすぐに一個の圓が眼に浮ぶと云ふのですから、此人に取つては、此公式は perceptual な敍述の代りにもなります。まことに重寶な式であります。然し如何な數學好きの友人も此式を見て好い心持だとか不愉快だとか申さない所を以て見ますと、主觀的方面の敍述とは殆んど縁がない式の樣に思はれます。是から翻つて主觀の方の象徴を述べます。是は歴史的に申すと、私の知らない佛蘭西の詩人や何かを引用しなければなりませんので、少々迷惑致します。然し前以て申し上げた通り、是は文學史上の御話でないのだから、相成るべくは手製の例で御勘辨を願ひたいと思ひます。つまりは、此態度にかなつて居れば、どんな例でも構はん位で御聞き下さい。既にあの人の心は石の樣だと云つても、あの人の心は石だと云つても、石を以て心を代表すると云ふ點から見ますと、矢張り主觀方面に屬する一種の象徴に違ありません。けれども、それが一歩進んで、心と石を竝べないで、石と云つてすぐ心を思ひ起させる敍述に至つたときに、私は之を始めて第三段の主觀的象徴と申したいと思ひます。勿論形式は此敍述に叶つて居ましても一向主觀の分子を含んで居らんのがありますが夫は御注意を致して置きます。例へば茶柱が來客を代表したり、嚏が人の噂を代表したりする樣なものであります。是は偶然の約束から成立した象徴でありますから、茲に云ふ種類には屬しない譯であります。尤も器械的の象徴も馬鹿にならんもので、習慣の結果茶柱を見て來客の時の樣な心持になつたり、嚏をして、人の噂を耳にする樣な氣分が起る人がないとも限りません。さう云ふ人にはこんな象徴も矢張り主觀的價値のあるものであります。だから本人の氣の持ち樣一つでは、仁參《にんじん》が御三どんの象徴になつて瓢箪が文學士の象徴になつても、悉く信心からの鰯の頭と同じ樣な利目があります。猶進むと、烏鳴きが凶事の記號になつたり、波の音が永劫をあらはす響と聞えたり、星の輝きが人間の運命を黙示する光りに見えたりします。かうなると漸々主觀的價値が増してくるのみならず、解剖の結果全く得手勝手な象徴でないと云ふ事も證明が出來ます。此位ならばまだ、大した事はありません。第二段第一段とつながつて居る位のものでありますが、層々展開して極端に至ると妙な現象に到着します。一寸其説明を致します。我々は我々の氣分（主觀の内容）を非我の世界から得ます。然し非我の世界は器械的法則の平衡を待つて始めて落ち付くものであります。もし此平衡を失へばすぐに崩れて仕舞ひます。從つて自分がかう云ふ氣分になりたいと思つた時に、其氣分を起してくれる非我の世界の形相が具つて居らん事があります。つまり非我の世界を支配する器械的法則が我《が》の氣分に應じて働いては呉れません。そこで此法則の運行と、自分の氣分と合體した時、即ち自分がかくなりたいと兼々希望してゐたかの如き氣分を生ずるときの非我の形相を、常住の公式に翻譯しやうとするのが我々の欲望であります。例へば時鳥平安城を筋違《すじかひ》にと云ふ俳句があります。平安城は器械的法則の平衡を保つて存在して居るのだから、さう無暗に崩れてはしまひません。それすら明治の今日には見る事が出來ません。況んや時鳥は早い鳥であります。又其鳥が筋違に通る所も、始終はありません。おやといふうちに時鳥も筋違も消えて仕舞ひます。消えて仕舞ふ以上は其時の氣分になりたくつても一寸なれないから、平安城を筋違にといふ瞬間の働きをさも永久の状態の如く、保存に便にする樣に纏めて置きます。偖斯樣に纏つた氣分が（客觀的に云ふと形相）段々頭のなかへ溜つて參ると假定します。さうして夫が入り亂れるとします。廣くなり深くなると見ます。すると一種奇妙な氣分になります。此氣分を構成する一部一部は、非我の世界に之に相應する形相を發見しもしくは想像する事が出來ますが、此全體の氣分に應じたものを客觀的に拈出しやうとすると到底駄目であります。花でも足りない。女でも面白くない。あゝでもない、かうでもない、ともがく樣になります。之を形容して、よく西洋人抔の云ふ口調を借りて申しますと、無限の憧憬（infinite longing）とかになるのでせう。私は昔し大學に居つた頃此字を見て何の事だか分りませんでした。それでも有難がつてふり廻してゐました。今でも實は分りません。私は解釋丈は出來ますが、本當の所 infinite longing と云ふものを持つてゐないのだから、是非も御座いません。然し私の樣に説明すればともかくも形容の詞《ことば》なのですから、それで差支御座いますまい。とにかく、そんな形容を使はなければならない氣分が起りまして、煩悶致します。煩悶してどうか發表したいとするが發表出來ない。出來ないで仕舞へば夫迄でありますが、せめて不完全ながら十の一でもあらはさうとすると、是非とも象徴に訴へなければなりません。十のものを十丈あらはさないで――あらはさないと云つては間違になります。あらはせないのです。で已を得ず一丈にして已めて置く敍述であります。無論氣分を氣分としてあらはすなら、大に悲しいとか、少々嬉しいとか云ふ丈で、始めから表はせる表はせないの議論をする必要がないのですが、此深い樣な、廣い樣な、複雜な樣な氣分の對象を、客觀的なる非我の世界に見出さうとすると十の氣分を一の形相で代表させて、殘る九は此象徴を通じて思ひ起す樣にしなければなりません。然しながら元來之は本人すら無理な事をしてゐるのですから、他人には餘程通用し惡《にく》くなる譯であります。一を聞いて十を知ると云ふ事がありますが、一を見て十を感ずる人でなければ出來ない事です。しかも一を見て十を感ずる、其感じかたが、云ひあらはした本人と一致してゐるかどうかに至ると甚だ六づかしい問題であります。要するに象徴として使ふものは非我の世界中のものかも知れませんが、其暗示する所は自己〔二字傍点〕の氣分であります。要するにおれ〔二字傍点〕の氣分であつて、非常に嚴密に言ふと他人の氣分ではない、外物の氣分では無論ない。と云ふ傾向のある所から、此種の象徴を主觀的態度の第三段に置いて、數學の公式抔の對と見立てました。（シモンズの佛蘭西の象徴派を論じた文のなかに、こんな句があります。「我々が林中の木を一本々々に敍述するの煩を避けて、自然を怖れて逃がれんとするが如くもてなすと、益自然に近くなります。又普通の俗人は日常の雜事を捉へて實在に觸れてゐると考へて居りますが、是等の煩瑣な事件を掃蕩して仕舞ふと、益人間に近くなるものであります。世界に先《さきだ》つて生じ、世界に後れて殘るべき人間の本體に近づくものであります」此人は又カーライルの語を引用して居ます。「眞正の象徴は明らかに又直接に、無限をあらはして居る。無限は象徴によつて有限と合體する。眼に見える樣になる。恰も達せらるゝかの如くに見える」此二人の言葉は多少 infinite longing と同じく、聊か形容の言葉の樣にも思はれますが、御參考の爲に、こゝに引いて置きます）

　是で主觀客觀の三對併せて、六通りの敍述の説明を濟ましました。そこで是丈説明すればあらゆる文學書中に出て來る凡てのものを説明し盡したとは決して申す積ではありません。然しながら是丈説明すれば、吾人の經驗の取扱ひ方の一般は分るだらうと思ひます。客觀主觀の兩態度の意味と、其態度によつて、敍述の樣子が段々に左右へ離れて行く模樣が分るだらうと思ひます。それが普通の人の分れ具合で又創作家の分れ具合であります。だから詰る所は創作家の態度も常人の態度も同じ事に歸着して仕舞ひます。何だ詰らない、夫がどうしたんだと仰しやる方が、あるかも知れません。成程詰らない。私も詰らないと思ひます。然し此所迄解剖して見て始めて詰らない事が分つたので、夫迄は私も諸君と同じ樣に一向不得要領であつたのです。然し詰らないながらも斯う云ふ事丈は云ひ得る樣になりました。此六通りの敍述は極端から極端迄ずうとつながつて居ます。どこで、どれが終つて、どこで、どれが始まつたと云ふ事が出來ない樣に續いてゐます。それを外の言葉で翻譯すると、客觀主觀いづれの態度にしても、このうちの一と通りに限らねばならないと云ふ理由もなし、又限つたが便利だと云ふ事もなし、其時其場合で變化しても差支ないのみならず、變化するのが順當で、變化しなければ窮窟であると云ふ事丈は慥かの樣に思はれます。尤も客觀の極端に至ると科學者丈に通用する敍述になり、主觀の極端になると、少數の詩人のみに限られる敍述になりますから、例外になります。然し常人は此兩極の間を自由勝手にうろ／＼して居るものであります。さうして創作家も又常人と同じ樣に其邊のいゝ加減な所を上下して居るものであります。

　そこで、かの西洋の文學史に起つた何派もしくは何主義と云ふものは、其傾向から推して、此等の客觀的態度の三敍述、もしくは主觀的態度の三敍述の左右へ排列されるものだらうかと思ひます。先づ寫實派、自然派、の樣なものは前者に屬し、浪漫派、理想派抔と云ふものは後者に屬するのではなからうかと思ひます。私は是等の諸派を歴史的に研究して、こんなものだと斷定するのではありません。私が創作家の態度を極端迄左右に展開さして其傾向を確めてゐると、西洋にはかう云ふ派がある、あゝ云ふ派があると云ふ話だから、それならばと其性質を大略聞いて見て、夫ならば、私の解剖した兩翼の方へ其派の名前を結び付けて排列して見樣、見ればかう左右に割つて置かれはしないかと云ふ迄であります。從つて私は此解剖によつて、歴史的に起つた自然派や浪漫派の定義を下す意は毛頭ありません。即ち此左右の兩翼が自然派若くは浪漫派とアイデンチカルのものと云ふ考は丸でないのであります。私は心理状態の解剖から出立する。だから出來る丈單純に又出來る丈根本的に片付け得る樣に解剖して來たのであります。然るにかの自然派もしくは浪漫派と名くるものは其中に含まれたる多くの書物の特性をあらはして居つて、大分複雜であるのみならず、其内容を形づくつて居る文章が既に純粹に〔三字傍点〕何々派をあらはして居らんから、到底私の展開させた兩翼と全然一致し樣がないのであります。けれども大體の傾向を云へば、かう分布排列しても無理はないと思ひます。

　所で普通の人間は今申す通り、此兩極端の間をうろついて居ります。それのみならず、此六通りのうちの一敍述を擢んだ所で、擢んだのは當人で、之を聞くもの又は讀むものは其隣りの敍述と受取るかも知れません。例へば月が眉の樣だと云ふ敍述を本人は perceptual と思つて述べて居ても、聞く人は simile と受けるかも知れません。第三者が之を見て、どつちが間違つてゐるとも評されません。雙方共正しいとしなければなりません。そこでかう云ふ事は云はれないでせうか。自然派と浪漫派とは本來の傾向から云ふと矢張り左右に展開してゐる樣ですが或る所になると、どつちとでも解釋が出來るもので、要は讀者の態度如何によつて決せられるものだと云ふ事は。一句や二句の例ではありません。ちと比例を失する樣な大きな例になるかも知れませんが、一寸御判斷を願ふ爲に御話を致します。獨乙で浪漫主義の熾に起つた時、御承知の通り、有名なカロリーネと云ふシユレーゲルの細君がありました。此細君が夫《をつと》の朋友のシエリングと親しい仲になりまして、とう／＼夫《をつと》と手を切つて、シエリングと一所になります。しかも其時此女は自分の手紙のうちに、縁は是にて切れ申※［候の草書］。始めより二世かけてとは固より思ひ設けず※［候の草書］と書きました。しかもシユレーゲルと一所になつたのが既に二度目なのですから、シエリングの所へ行くと三度目の細君になるのです。夫《それ》で亭主の方はどうかと云ふと、離婚を申し込まれた時は侠氣を起して早速承知したのみならず、離別後も常にシエリングと親密な音信をして居たさうであります。もう一つこんな御話があります。東京近傍の在ですが、ある宿《しゆく》に一軒の荒物屋がありまして、荒物屋の向ふに反物屋がありましたさうで。所が其荒物屋の神さんが、どう云ふ仔細か、その家《うち》を離別致して、すぐ向ふの反物屋へ嫁に行つたさうです。それで、嫁に行つた明くる日から、店先へ坐つて、もとの亭主と往來を隔てゝ向きあつて居るんださうです。私に此話をして聞かせたものは淺間しいと云はぬ許りな顔をして、田舍のものは呑氣なものだと云つて笑つてゐました。此二つの話を取つて調べて見ますと餘程似て居ります。然し前のは浪漫派の中心で起つた事で、後のは――何派だか一寸困りますが、まあ自然派の作にでもありさうに見えます。然し事實はどうしても同じなんだから致し方がない。それぢや同じものが、どうして浪漫派になつたり、自然派になつたりするんでせう。まあ説明するとこんな譯ぢやありませんか。浪漫派の人は主觀的傾向に重きを置くもので、愛は其傾向の尤も顕著なるもので從つて尤も神聖なものであります。愛と云ふ分子があればこそ結婚とか夫婦同棲とか云ふ形式の内容に意味がある譯だから、此内容がなくなる以上は、どんな形式だつて構やしません。三下り半を請求する方も其覺悟、遣る方も其了見だから雙方共洒然として形式の爲めに煩はされないのであります。所が反物屋の方になると愛に重きを置いた出來事かも知れないが、始めから愛のない結婚で出ても引いても同じ事なのかも知れない。それはどう解釋するにしても、我々はさう云ふ動機を見るのぢやない、普通の約束的の�ｺ義を破壞した行爲だと云ふ點を認めるのであります。�ｺ義を棄てた露骨の人性かもしくは野性が其儘出た所作だと見るのであります。カロリーネの方は離縁したり結婚したりするのを善い事、美くしい姿と思つてやるのです。反物屋の神さんはそんな事を考へちや――まあ居ないでせう。だから見るものゝ方でも、そんな人間もあるかね、はあさうかねと一つの事實として認めるのであります。だから此二つの話を敍述する時には、只敍する時の態度が違ふのであります。所が先つき申した通り「眉の樣な月」と云ふ敍述が、どつちの態度にもなる譯ですから、此結婚問題の敍述も亦どつちの態度にも受け取られるかも知れない。いくら反物屋の神さんを書いても主觀的の敍述だと人が讀むかも知れず、カロリーネの嫁入事件を寫しても客觀的の敍述だと解されないとも限りません。して見ると自然派と浪漫派もある場合には、客觀主觀の敍述が合し得る如くに合し得るものと見ても差支ない、かと思ひます。（尤も是は一句や二句の敍述でありませんから、「眉の樣な月」の樣に、きつぱりとは參りません。只兩態度の傾向を推して極端迄持つて行つた御話ですから其邊は御斟酌を願ひます）

　是は一つの態度が兩樣に認められ得ると云ふ例でありますが、もう一つ前節の最初に申した我々の態度は常に兩極の間をぶらついて、居るもので、決して片つ方づけられるものでないと云ふ事を御話をして夫から、議論の歩を進めたいと思ひます。是も分りやすい爲めに成るべく單簡に通俗な例で説明致します。普通用談の際は無論雜談の際でも、我々は滅多に主觀的な敍述を用ひては居ないと思つてゐます。詩的な、浪漫的な句は筆を執つて紙にでも咏懷の辭を書き下す時に限る樣に考へてゐます。所が實際は大違で、談笑の際始終此種の敍述をやつて居ります。腹の虫が承知しない抔と云ふのも其一つであります。腹のなかに虫は居りません。よし居つた所で、承知しない虫は居りません。承知しない虫が居たつて誰が相談なんかするものですか。或は腹が立つと申します。腹が立つと云つたつて、元來坐りもしない腹が立ち樣がないぢやありませんか。或は眼が廻るとも云ふ樣ですが、今日迄未だ眼玉の廻轉してゐる人に逢つた事がありません。それにも拘はらず三句とも皆通用してゐます。是は皆主觀的態度で話し主觀的態度で聞いて居るのであります。此態度で話せばこそ、聞けばこそ通用するのであります。大袈裟に云ふと御互が浪漫派だから合點が出來るのであります。簡單を尊んで、短かい句丈で説明しましたが、もつと長くなつても精神に變りはありません。此態度で行く方が大分便利な事があります。其代り徹頭徹尾浪漫派では矢張り辟易します。「君富士山へ登つたさうぢやないか」「うん登つた」「どんなだい」「どんなの、こんなのつて大變さ」「どうして」「先づ足は棒になる、腹は豆腐になる」「へえー」「それから耳の底でダイナマイトが爆發して、眼の奧で大火事が始まつたかと思ふと頭葢骨の中で大地震が搖り出した」こんな人に逢つたら堪りません。少々氣が觸れてるんぢやないかしらと聊か警戒を加へたくなります。して見ると、我々の文句長く云へば敍述は矢つ張り前に説明した六通りの中間を左へ出たり右へ出たりして好い加減に都合の好い所で用を足して居るに違ない。創作家も矢つ張り其通りであります。論より證據自然派でも浪漫派でも構はないから、一冊の本を取つて來て、一句毎に五六頁順々に調べて見ると分ります。浪漫的な句は澤山出て來ます。浪漫的な句が嫌な人だつて、腹を立てちや不可《いけ》ない、眼が廻つては怪しからん、是非腹の蟲を殺して仕舞へと迄主張する人はないでせう。浪漫派の書物も其通り、決して、のべつ浪漫づくめでは濟まないのです。諸君は、或は、そりや唯句の話ぢやないか、一篇一章も其議論で行けるかいと御尋ねになるかも知れません。左樣一篇一章一卷となると私も少し困却致します。然し降參する必要もないだらうと思ひます。と云ふのは私の考では一句でも敍述、二句でも敍述、三句續いても敍述の氣なので、しかも其敍述には前に説明した樣な種類以外の敍述即ち回想とか批判とか云ふもの迄も含められる丈含める積なのですから、應用は是で思つたよりも存外廣いのであります。

　此處で一歩進めます。客觀的態度の三敍述を通じて考へて見ますと、何れも非我の世界に於ける（冒頭に説明した如く我も非我と見傚す事が出來ますが）ある關係を明かにする用を務めて居ります。知識を與ふるのが主になつて居ります。だからして一言にして云ふと眞〔右○〕を發揮するのが本職であります。本職と云ふ意味は、同時に主觀的の内職も出來ると云ふ積で用ひた言葉であります。もし此内職がある程度迄併行して居なければ、此種の敍述の價値は大分減じます。大學の教授が私立大學をやめると收入が餘程違ふ樣なものであります。現に眞〔右○〕專門の x2＋y2＝r2※［2はすべて上付き小書き］氏の如きに至つては、殆んど文學を休《や》めて、理學の方で月給を貰はなければ立行かん姿であります。唯眞を本職とする創作家の爲めに都合の好い事は眞其物に付着してゐる別途の感情を有して居る事であります。例へば（前の例で説明して見ますと）柿は赤茄子の如しと云ふと無論 simile を内職の内職位にして居りますが、本職は固より柿の性質を明かにする爲めです。柿を葡萄や梨と區別する爲めであります。今柿を赤茄子で説明すると、其説明がうまく出來たか出來ないか、よく柿をあらはし得たか得ないか、うまい比較物を以て來たか來ないか、柿と赤茄子が實によく似てゐる似ないで、はあ成程と思ふ程度が大分違ひます。此はあ成程〔四字傍点〕が何時でも色々な程度で食つ付いて廻るのであります。simile の方でも此はあ成程〔四字傍点〕は無論必要でありますが、それは内職で、本業を云ふと、石の冷たさ堅さを自得して、其自得した氣分で人の心を感ずるのでありますから、石と人の心を比較して何處迄妥當なりや否やは寧ろ第二義の問題かも知れないのであります。柿と赤茄子の例は尤も簡單なものでありますが、もう少し複雜になると、このはあ成程〔四字傍点〕丈で一篇の小説が出來ます。（因果律を發揮した場合）。之に反して馬琴の樣な小説は主觀的分子はいくらでもありますが、この方面の融通が利かないから、つまりは靜御前は虎の如し抔と云ふ simile を使つてゐる樣なもので、遂に讀む事が出來なくなるのであります。君の云ふはあ成程〔四字傍点〕は成程分つたが、夫りや矢張り主觀ぢやないかと云はれるかも知れない。さうだと申すより外に致し方がないが、是は客觀的關係を明めるにつけて出るので、似る、移る、因が果になる等の事實を認めて感心した時の話であつて、既に明らめられたる客觀的關係を味ふのとは方向が違ふのであります。三勝半七酒屋の段といふものを知らないから、始めて聞いて見てはゝあと感心するのと、もう一遍酒屋を聞いて來ようかと出掛けて、はゝあと感心するのとは、同じ感心でも、性質が違ひます。此客觀的に非我の關係を明めるにつけて生ずる付屬物を intellectual sentiment と云ひます。付屬物とは下等なものと云ふ意味ではありません。否寧ろ此方が文學の領域内では必要なのであります。然し客觀的態度を主として、眞の發揮に追陪して起るものでありますし、且は創作家の態度を主觀（主感）、客觀（主知）と分けた以上は、今又此 intellectual sentiment を主觀の部に編入すると徒らに混雜を引き起しますから矢張り付屬物として置きます。夫でも少し混雜して御分りにくいかも知れません。私の説明の下手な所は御詫を致します。（場合に依つては intellectual sentiment と云ふのが餘り仰山でありますが面倒だから、之で凡てを兼ねさせます）

　客觀即ち主知の方は以上の通りであるが、主觀即ち主感の方はと申すと、眞を發揮するに對して、美、善、壯に對する情操を維持するか涵養するか助長するのが目的であります。此三者の解釋は詳しく述べる事が出來ません。美と云ふ事を大きく解すると、善も壯も掩つても構ひません。のみならず眞をさへ包んでもいゝでせう。夫は人の勝手であります。受持の範圍を極めて名をつける丈の事であります。私はごく單純に耳目を喜ばす美しいもの、美しい音位で御免蒙ります。尤も美醜を通じて同範圍のものを入れます。善も其通り善惡を通じ含ませるのみならず、直接に道�ｺに關係のない希望とか、愛とか云ふものも入れる積です。壯は意志の發現（發現でなくつても發現のポテンシヤリチーを認めた時も無論入れます）に對する情操を入れます。上は壯烈もしくは壯大より下は卑劣もしくは繊弱に至る迄入れます。すると是は前の善の範圍に或所迄入り込みます。凡ての感情が多くの場合に於て意志を促がすもの、又は意志に變化する傾向のあるものとの學説に從へば、此二範疇はある點に於て一所に出合ふものでせうが、壯とは行爲所作に對するこちらの受け方を本位として立てたので、善とは善惡其他の諸情其物に對するこちらの受け方を本位として立てた、範疇の積であります。御相談では片つ方へ編入してもよろしう御座います。夫れから人間の所爲を離れて所謂物質界に意志の發現もしくは其ポテンシヤリチーを認めた場合には、此意志は變じて物理上の energy の樣なものになります。少なくとも人間の意志とは趣を異にして參ります。斯樣に壯の發現もしくは潜伏が物質界に移るとすると、美の範疇と接近して參ります。それ故時宜によつては、是も美のなかへ押し込んでも構ひません。まづ不完全ながら善、美、壯、の解釋はかうと致して、此三者に對する我の受け方を敍述するのが此方面の文學の目的であります。所が我の受け方は千差萬別に錯雜して參りますが、總括すると快不快の二字に歸着致します、好惡の二字に落ちて參ります。即ち善に逢つて善を好み、惡を見て惡を惡《にく》み、美に接して美を愛し、醜に近づいて醜を忌み、壯を仰ひで壯を慕ひ、弱を目して弱を賤しむの類であります。固より善、美、壯の考は人により時により、相違はあります、又、三が冒《おか》し合はないとも限りますまい。現に前に述べたカロリーネの話でも愛に從ふのを善とすれば、あの話を讀んで充分滿足の氣分になれませうし、又｜夫《をつと》に從ふのを善とすれば、どうも不快な話になります。然しどう浮世が引つ繰り返つても、三者に對する情操のない世はない筈で、如何に無頓着な人間でも此點に於て全然好惡を持つて居ない人はありません。もしあれば社會が維持出來ない許りであります。一歩進んで云へば社會は改良出來ない譯であります。器械的の改良即ち法律が細かくなるとか巡査の數を殖す事は出來ますが、肝心の人間の行爲を支配する根本の大部分を閑却して世の中が運轉する譯がありません。是が爲めに、此等の情操を維持し、助長する事を目的にする文學が成立するのであります。

　私は客觀主觀兩方面の文學の目的とする所を一言述べました。こゝに目的と云ふのは敍述家自らが、敍述以前にかゝる目的を有して居らなければならんと云ふ意味ではありません。其結果丈がかう云ふ目的に叶つて居る丈でも一向差支ないのであります。我々が結婚する樣なもので、何も必ず子を産む了見で嫁を貰ふとは限りません。然し事實は多くの場合に於て、恰も子を産む事を目的にして結婚をした樣に見えます。去ればと云つて子孫を作る目的で嫁を貰つてならんと云ふ理由もありませんから、結果が同じならどうでも構はないでせう。私は此目的を眼中に置かないで、おのづから此目的に叶ふ樣な述作をやる人を art for art 派の藝術家と云ひたいと思ひます。俗に art for art 派と云ふと何だか、ことさらに道�ｺを無視する作家のみを指す樣ですが、たとひ道�ｺ的情操を鼓吹したつて、始めから、此目的を本位として、述作にとりかゝらずに、出來上つた結果丈がおのづから此目的にかなつて居たら矢張り art for art の作家かと思ひます。ユーゴーの攻撃の如きは固より歴史的にあゝ云ふ必要もあつたのでせうが、私の樣に解釋したらあれ程議論をする必要もなからうと思ひます。同時に最初から一定の目的を以て出立したつて構はない譯かと存じます。普通此立場を非難する人の説はかうなんだらうと思ひます。作其ものが藝術家の目的であるのに、作以前にある目的を立てゝ置いて、其目的の爲めに、作を道具に使へば無理が出來るから、作の價値に影響を及ぼしてくる所に弊がある。――果してかうならば至極御尤もであります。然しあらかじめ胸中にある目的を立てるのと、作そのものを目的にするのとは此場合に於て、そんなに判然たる區別はありません。刀は人を殺す道具であります。すると人を殺すと云ふ所作が目的になります。だから二つのものは全く違ひます。然し斬ると云ふ働きを考へたらばどうでせう。方便でせうか目的でせうか。刀を使ふと云ふ方から云へば方便でありますが、殺す方から見れば、目的にもなりませう。云ひ換へると、斬ると云ふ働きが一歩進む毎に、殺すと云ふ目的が一歩づゝ達せられるので、斬り了つた時に目的は終局に歸するのだからして、斬るのと殺すのはさう差違はありません。述作と述作の目的とは斬ると殺す位の差ぢやなからうかと思ひます。述作其物を方便としたつて、方便と共に目的も修了せられる譯ではないでせうか。少なくとも、今述べた樣な目的を以てならば最初から其心得で述作に取り掛つても、只述作丈を目懸けて取り掛つても同じ事だと私は思つてるのであります。だから art for art 派でも、さうでなくつても差支ない。要するに述作の目的は以上の樣に區別が出來ると云ふのであります。

　述作の二態度と其目的とする所は今申した通でありますが、只御注意迄に一言して置きたいのは、こんな事であります。かう分けると一寸、一方に屬するものは、他方に屬してはならん。どつちか片付けて旗幟を鮮明にしなければ濟まない樣に見えるかも知れませんが、さう見えては却つて迷惑なので、既に誤解を防ぐ爲めカロリーネの例や馬琴の例をひいて、機會のあるたびに二三度辯じて置きましたが、改めて御斷わりを致して置きたいのは、眞を寫すものは純粹なる眞のみを寫しては居ません。また居られんのであります。又如何に情緒に訴へる人でも全く眞を離れての敍述は――少なくとも長い敍述は――出來ないのであります。ズーデルマンのマグダと云ふ脚本をつい近頃になつて讀みましたが、是はマグダといふ女が、父の意に悖つて、押し付けられた御聟さんを嫌つて、家を出奔した話であります。偖家を飛び出してから諸所を流浪する間に、ある男と親しい仲になつて、子を生んで、夫から其男に棄てられます。男はマグダの故郷に歸つて、立派な紳士になり澄ましてゐると同時に、マグダは以太利で有名な唄ひ手になる。回《めぐ》り回つて故郷へ興行に來る。父母と和解する。所が流浪中の不品行が曝露して、又騷動が起らうとすると、昔し棄てた男が出て來て正當に婚儀を申し込む。こゝで目出度市が榮へれば平凡極まる趣向でありますが、いざと云ふ間際になつて、聟にならうといふ男が昔の事――互の間に子があると云ふ事――丈は、今の身分にかゝはるから、どうか公けにしずに置いてくれと頼む。マグダは此所迄は納得した樣なものゝ、そんな關係を内々にして夫婦になれるものかと大いに怒つて、どう頼んでも聞き入れない。父は御前が承知して呉れないと、家の恥辱になる。いたづら娘を持つたと云はれては、世間へ顔向けが出來ない。妹だつて御前の身内だと云はれては、誰も貰ひ手がない。だから、どうか承知して男の云ふ事を承知してやれと逼る。マグダはどうあつても聞かない。父は遂に憤死する。是が結末であります。此一段があるので、昔から見馴れた戀愛談の陳腐なものとは趣を異にする樣になりますが、結婚問題が破裂する所があればこそはあ成程と云はせる事が出來るのです。はあ成程と云ふのは取も直さず新らしかつたと云ふ意味であります。新らしい因果を見て尤もだ今の世の中にはこんな因果があるだらうと思ふからです。今の人々の腹の中には行爲にこそ、此所迄出さなくつても、約束的な姑息手段に堪へないで、マグダと同じ樣な似たものが、あるだらう、あり得る筈だと認める丈の眼を以て讀んで行くからであります。此點に於て此劇は固より眞を發揮したものであります。然し此劇はそれ丈より外に能事のないものであらうかと考へてみますると、大にあるでせう。第一は此相手の男の我儘な所、過去の非を塗り潰して好い子にならうと云ふ精神が出てゐるから、讀者はその點に於て憎惡とか輕蔑とかの念を起さなければならない筈でせう。然し世の中は虚僞でも上部《うはべ》さへ形式に合つてゐれば、人が許すものだから、互の終りを全くして幸福を得樣とするには、過去の不品行を藏《かく》すに若くはないと云ふ男の苦心を察して見ると多少は氣の毒であります。どこ迄も習慣的制裁を墨守して娘の恥を雪ぐ爲めには、とも角も公けに結婚させて仕舞はなければならないと思ひ亂れる父親にも同情があります。最後に娘が一徹に、たとひ世間からどう云はれても、社會的地位を失つても、そんな俗習に壓しつけられて、僞はりの結婚をして、可愛い子を生涯日蔭ものにするのは決していやだと、飽く迄も約束的習慣に抵抗する所は、たとひ其情操に全然一致しない人迄も、幾分か壯と感ずるでせう。此數者があればこそ劇も面白くなるのでありますが、これは、みんな主觀の方の情操であります。是で見ますと眞丈の作と思つてたものに存外、他の分子が這入てゐる事が御分りになりませう。之に反して如何に主觀的の作物でも全然眞を含んで居ないものはありません。もし含んでゐなかつたら到底讀み得ないに極つてゐます。かの infinite longing ですら之を敍述する時には單に吁《あゝ》とか嗟乎《あゝ》では云ひつくせないので、不足ながら客觀的形相をかりて之を髣髴させ樣とするのであります。それに就いてこんな話があります。是は小説ではありません。實事だとして、あるものに書いてありましたが、私は單に自分に都合のいゝ例として御話を致します。以太利のさる?アイオリニストが旅行をして、しばらく、ポートサイドに逗留して居りました時、妙齡の埃及の美人に見染められまして親しき仲となつたさうで御座います。所が此男は本國に許嫁の娘があるので、愈結婚の期が逼つた頃、ポートサイドを出帆して歸國の途に上りました。所が其夜になると、船足で波が割れて長く尾を曳いてゐる上に忽然とかの美人があらはれました。身體も服裝も透き通つて居りますが、顔丈は慥かに其女だと分る位に鮮かであります。只常よりは非常に蒼白いのであります。此女が波の上から船の方へ手を伸して、舷を見上げながら美くしい聲で唄をうたひました。それが奇麗に波の上へ響くので、船の中の人は悉く物凄い心持になりましたが、やがて夜が明けると共にかの美人はふつと消えました。やれ／＼と安心してゐると其晩又あらはれました。さうして手を伸して、首を上げて、波の上を滑つて、船のあとをつけて、如何にも淋しい聲で、夜もすがら唄をうたひます。それから夜が明けると、又ふつと消えます。さうして夜になると又出ます。そのうち船がとう／＼ネープルスへ着きましたので、かの音樂家はそこで上陸致して、自分の郷里へ歸ると、手紙が來て居ります。差出し人はと見ると、ポートサイドに居る友人で、かねて自分と彼の女との間を知つてゐるものでありました。すぐに開封して見ると、あの女は君が船へ乘つて出帆するや否や、海の中へざぶ／＼這入つて行つて、とう／＼行き方知れずになつたとありました。――話は是でお仕舞ひです。私は此話を讀むと何となく妙な氣分になりました。其氣分が妙になる所に此話の價値はあるのですから、どの畠のものであるかは分つて居ります。然し眞には乏しい。實事物語としてかいてありましたが、どうも其方の價値は乏しい。眞とか眞でないと云ふ事は、澤山の人の經驗が一致して存在してゐると認めるか、又天下に一人でもいゝから其存在を認めたものがあつて、これが眞だと云つた時に、他のものが之を認識しなくてはならんものであります、又本人は眞だと證明し得るものでなくてはなりません。出來得るものならば實驗でゞも證明し得るものゝ方が慥かには相違ないのであります。所が此幽靈談になると中々容易には證明出來ない。出來る樣になるかも知れませんが、今の所ではまず嘘に近い方であります。然しながら胸中の戀とか、なつかしさとか云ふものは、たとひ人に見せられない迄も、よし人が想像してくれない迄も、又好い加減に甲、乙、丙、丁のだれの胸の中にも存在して居るんだらう位に推察して居るにも拘はらず、自分丈に取つては是程慥かなものはありません。是程切實な經驗はありません。だから矢つ張り眞だらうと云はれると、御尤もと云はなければなりません。只自分に眞なもの即ち人に眞なものになつて、始めて世間に通用する眞が成立するのだから、此切實な經驗を誰が見ても動かすべからざる眞にもり立て樣とするには、之を客觀的に安置する必要が起つて參ります。そこで私は此演説の冒頭に自分の過去の經驗も非我の經驗と見傚す事が出來ると云つてあらかじめ豫防線を張つて置きました。刻下の感じこそ、我の所有で、又我一人の所有でありますが、回顧した感じは他人のものであると申しました。少なくとも自分に縁故の尤も近い他人のものとして取り扱ふ事が出來ると申しました。愛と云ふと一字であります。自分の愛と人の愛と云へば、たとひ分量性質が同じでも遂に所有者が違つて參ります。愛の見當が違ひます。方角が違ひます。從つて自己の過去の愛と他人の愛とは等しく非我の經驗と見傚し得ます。此點に於て主觀的なる愛そのものを一歩離れて眺める事が出來ます。只困る事は、時により場合により増減があつて、變化の度が著るしく眼につくんで、それが爲め客觀的價値が大分下落致します。のみならず悲しい事には、いくら客觀的に見る事が出來ても、客觀的に寫す事が出來ない性質のものであります。ある坊さんに、あなた一寸魂を手の平へ乘せて見せて御呉れんかと云はれて、弱つた人があります。是が私なら、魂と云ふ字を手の平へ書いて坊さんに見せてやらうと思ひます。それと同じ事で客觀的に愛が見られるなら、客觀的に愛を書いて見ろと云はれるなら、只｜愛〔右○〕とかいて見せます。甘〔右○〕いとか、辛〔右○〕いとか書くのと同じ意味で書いて見せます。白〔右○〕いとか黒〔右○〕いとか云ふ意味で書いて見せます。然し｜愛〔右○〕の一字ぢやいけないから、もつと長く分る樣に書いて見ろと云はれるなら、それぢや小説でもかゝうと申します。それが茶かす樣で氣に入らなければ、そんな無理を云はないで、誰それの愛を書けと明暸に所有主を示して貰ひたい、いくら僕が愛の客觀的存在を認めても、只の愛はかけない、根こぎにして引つこ拔いた愛丈はかけない、根こぎにして引つこ拔いた鉢植の松を描けといふ難題と同じ事だからと云つて御免蒙ります。それぢや主觀の敍述は殆んどなくなる譯だと又仰しやるかも知れませぬが、前から何遍も申す通り無論ある所では主觀も客觀も雙方一致してゐるので、書き手の心持、讀み手の心持で判ずるより外に手の付け樣のない場合がいくらでもあります。だから形式の上では遂に要領を得なくなります。然し丁度好い機會だから、今の幽靈の話を説明かた／”＼此疑點をも明らかにして置きませう。今申す如くたとひ愛の客觀的存在を公認しても、之を敍述する時には、其愛の所有者と結び付けなければなりません。五官に訴へ得る樣に取り扱はなければなりません。同時に愛を主觀的の經驗としても矢張り同樣の手段に訴へなければ敍述が出來ません。然し夫だから同じ事に歸着すると結論するのは少し誤つて居ります。前の方は非我の事相のうちに愛を認めて、之を描出するので、後の方は我の愛を認めたる上、之を非我の世界に抛げ出すのであります。即ち其本位とする所は、我が味ふ所の愛と云ふ情操で、此無形無臭の情操に相應する樣な非我の事相を創設〔二字右○〕するのであります。非我の事相は自然から與へられたもので、一厘も動かすべからずとして、其一分子たる愛を敍して來るのと、我の切實に經驗する愛を與へられたるものとして、尤も適當に之を敍述せんが爲めに、非我の事相を任意に建立するのとの差になります。從つて兩者はある點に於て一致するのは勿論でありますが、極端に至ると大に趣を異にするのであります。先程述べた幽靈の戀物語の樣なものは其極端の例の一つだと思ひます。こゝに、こんな切な戀がある。之をどう云ひあらはしたらば、云ひ終《おほ》せるかとの試問に應じて出來上つた答案と見なければなりません。世の中へ出て行つて、どんな戀があるか探索して來いと云ふ命令に基いた、報告書と見ては見當が違ひます。從つて客觀的價値の少ないものが出來たのであります。眞と認められないものになりました。だから此話を聞くと、マグダの結末程には、はあ成程、かうもあらうとか、かうあるかも知れないねと云ふ氣にはなりません。然しながら其代りに、御尤もだ、かうもありたいね、斯うあれかしだと云ふ氣には慥かになれます。あれかしと云ふ語は裏面に事實ぢやないと云ふ意味を含んで居りますから、つまりは嘘だと云ふ事に下落して仕舞ひます。此下落が烈しくなると到底讀めなくなります。馬鹿々々しくなります。例へば今の話しでも、もし船のあとを跟けるものが、幽靈でなくつて、本當の女が、波の上をあるいて來て、ちよいと、あなたとか何とか云つて手招ぎでもしたら夫こそ奇蹟になります。幽靈ならば、有るとも無いとも證明が出來ない丈で濟みますが、生きた人間が波の上を歩いては明かに自然の法則を破つて居ります。いくら、かくあれかしと思つたつて、冗談ぢやない、おのろけも好い加減にした方がよからうと申したくなります。人を馬鹿にするにも程があらあね、丸で小供だと思つてゐやがると本を抛げ出すかも知れません。（西遊記、アレビヤン・ナイト、もしくはシエー?ング・オブ・シヤグパツトの樣なものゝ面白味は別問題として論じなければなりません）して見ると私が前段に申した意味が自《おのづ》から御明暸になりましたらう。即ち如何な主觀的な敍述でも、ある程度迄眞を含んで居らんと讀みにくいものである、さう截然と片つ方づけられるものぢやないと云ふ事であります。此幽靈の如きは極端の極端の例であるから、積極的に眞を含んで居らんとも云へませうが、無暗に眞を打ち壞して居るものでないと云ふ事丈は、さきの説明で明らかでありませう。しかも讀んで馬鹿々々しくならんのは全く其お蔭である以上は、眞の分子が如何に敍述の上に大切であるかゞ分るでありませう。

　客觀、主觀、兩態度の目的と關係は略説きつくしましたから、これから兩者の特性に就て少し述べたいと思ひます。既に兩者の關係やら目的を述べる際にも自然の勢で、不知不識《しらずしらず》の間に此問題に觸れてゐるのは勿論でありますから、其邊は御斟酌の上御聞を願ひます。

　偖客觀的態度から出た句もしくは節、もしくは章、大きく云へば一篇――さう純粹に行くものでないのは大抵御分りになりましたらうが、まああると假定して――それからかの歴史的に發達した自然派寫實派――これも嚴密に議論したら純粹のものが、あるかどうか存じませんが、まああるとして、此二派を此方面に編入して置いて論じます。尤も自然派も寫實派も、眞本位ではないと主張されると、夫迄で、やめにする丈であります。又は眞本位だけれど御前の所謂眞ぢやないと云はれると、矢つ張りやめにしなければなりません。が大抵の所で眞の解釋は折合がつきさうに思ひますし、且歴史を眼中に置かないで立てた私の議論と、全く歴史的に起つた流派とを、結びつけられゝば、結び付けて考へますと、大分諸君にも私にも興味があるからかう致したので、よしや自然派や寫實派が此部門から脱走致しても、私の議論は矢つ張り議論になるだらうとは思はれます。そこで此部門の主要な目的は前に申す如く眞を發揮するに存する事は別に繰り返す必要も御座いますまい。既に眞が目的である以上は好惡の念を取りのけなければなりません。取捨と云ふ事を廢《よ》さなくつてはなりません。と云ふと諸君はかう仰しやるかも知れない。眞が目的なら眞を好むのだらう、よし好まない迄も、僞を惡む譯だらう。眞を取り僞を棄てるのは自然の數《すう》ぢやないか。成程さうであります。然し文字の上でこそ眞僞はありますが、非我の世界、即ち自然の事相には眞僞はありません。昨日は雨が降つた、今日は天氣になつた。雨が眞で、天氣が僞だとなると少し、天氣が迷惑する樣に思はれます。これを逆にして、それぢや雨の方が僞だと云つても、雨の方が苦情を云ふだらうと思ひます。だから大千世界の事實は、既に其事實たるの點に於て悉く眞なのであります。此事實は眞だから好きだ、此事實は僞だから嫌だと、どうしても取捨は出來ない譯であります。眞僞取捨の生ずる場合は、此客觀の事相を寫し取つた作物其ものに就てこそ云はれべきものであります。詳しく云へば、傍觀者が此作物を自然其ものと比較するとき、もしくは甲の作と乙の作とを自然を標準として對照する時に始めて眞僞が出來、取捨が出來、好惡が生ずるのであります。だから客觀的態度で敍述した詩文には僞があるかも知れません、又ある筈であります。けれども客觀的態度で向ふ世界には、僞は始めから存在して居らん、少なくとも眞丈だとしなければ、最初から眞の價値を認めないのと同樣の結果に陷ります。だから苟しくも眞を本位として筆をとる以上は好惡の念を挾む餘地がない事になります。從つて取捨はないと一般に歸着致します。たとへば隣りに醜くい女がゐる。見ても厭になると仰しやる。それはどうでも御隨意でありませうが、いくら醜くつても何でも現に居るものは居るに相違ありません。醜くいから戸籍に載せないとなつた日には、區役所の調べは丸で當にならない事になります。僞りになります。氣に喰はない生徒だからと云つて點數表から省いたら、學校程信用の出來ない所はなくなるでせう。して見ると、眞を寫す文字程公平なものはない。一視同仁の態度で、忌憚なく容赦なく押して行くべき筈のものであります。ブルンチエルがバルザツクを論じたうちにこんな句があります。自然派作家には、蛆よりも象の方を大切だと考へる權利がない。勿論生物學上の發達から云つたら、象の方が重要な位地を占めてゐるかも知れないが、何も是は自然派作家が自分の意志で隨意に重要にした譯ではない。――面白い句であります。（ブルンチエルのバルザツク論は勿論一人の著者に就ての議論でありますから系統的に理論は述べてありませんが、かう云ふ點に關して甚だ有益の參考書でありますから御一讀を願ひます。この取捨のない意味なども、實はバルザツク論の所々にあるのを私が、纏めて布衍して行く位なものであります。此人は同書に又、我《が》、浪漫派、抒情主義抔と云ふ字を使つて説明をして居ります。然し二者を截然區別のある如く論じて居るのが缺點かと思はれます。）既に公平無視の立場でありますから、問題の撰擇がない。撰擇がないと云ふのは、意識界に落つるものが悉く焦點になつて仕舞ふと云ふ譯ではありません。意識界のどの部分も比較的自由に焦點になり得ると云ふ意味であります。毛嫌をしないと云ふ事であります。あるもの丈に注意が向いて、其他には頑強の抵抗があつて、氣が向けられないと云ふ樣な状態に居らない事を指すのであります。だからもう一つ言葉を換えて云ふと敍述すべき事相に自己の評價を與へて優劣の差別をつけないと云ふ事にもなります。例へば美くしい女と差し向ひになる。――有難い。――女が戀の物語をする。――嬉しい。――所で急に女が欠伸をする。――と急に厭になる。厭になつたからと云つて、そこ丈拔きにしてしまつたら、拔かした丈が事實に叶はなくなる。然し事實を書くからには、眞を寫すと云ふからには、徒らに好惡の念丈で欠伸を棄てべきものではない筈でありませう。眞に妨げなきものとして略すとこそ云ふべきでありませう。又別の例を擧げて見ますと、こゝに一人の醫者があります。ある患者の病症を確める爲めに檢尿をやる、或は檢便をやる。わきから見ると隨分きたない話であります。然し本人は別に留意する氣色もなく、熱心に檢査をする。尿なり便なりの成分を確める迄は是非やります。もし、きたないから好《いゝ》加減にして已めると云ふ醫者があつたら夫こそ大變であります。醫者の職分を忘れたものであります。醫者ばかりではありません、學者でもさうであります。動物學者が御苦勞にも泥溝《どぶ》の中から一滴の水を取つて來て、しきりに顕微鏡で眺めてゐます。澤山虫が見えるでせう。然しみんな裸體に違ない、のみならず時々は如何はしい状態をするかもしれない。覗き込んでゐる動物學者が此有樣を見て、いや是は大變だ風紀に害があるから、もう研究を已めやう。と云ふ馬鹿もないでせうが、あつたらどうでせう。非常に道�ｺ心の高い動物學者には相違ないでせうが、然し眞理の研究者としては殆んど三文の價値もないと申さなければなりません。文學者も其通りかと存じます。眞を目的とする以上は、眞を回避するのは卑怯であります。露骨に書かなければなりません。大膽に忌憚なく筆を着けなくつては、眞に對して面目のない事になります。（此點に於て善、美、壯に對する情操と時々衝突を起す事は文藝の哲學的基礎に於て述べましたし、前段に於ても一方が強くなると、一方が弱くなる事實を例證しましたから御記憶を願ひます）けれども眞に向つて進む人が必ずしも好惡のない人とは申されません。眞に向つて進む間丈好惡の念を脱却するのであります。尿を檢査する醫師がいつでも尿に無頓着とは受け取れません。無頓着ならば食卓の上に便器があつても平然として食事が出來る筈であります。虫の交尾する所を研究する動物學者だつて、虫以外の萬事迄に其態度を應用する勇氣はないでせう。たゞ眞を研究する時丈他を忘れ得る程に眞に熱中するのであると解釋しなければなりません。眞を寫す文學者も此醫者や動物學者と同じ態度で、平生は依然として善惡に拘泥し、美醜に頓着し、壯劣に留意する人間である事は爭ふべからざるの事實であります。柳は緑、花は紅、其外に何の奇があると云ひます。然し實際はかう素氣《そつけ》ない世の中ではありません。柳に舟を繋ぎたくなつたり、花の下で扇を翳したくなるのが人情であります。

　そこでかう云ふ事が起ります。眞を描く文學は、眞を究めさへすればよろしいとなる。其結果他の情操と衝突しても、まあ好いとする。――讀者の方では好いとしないかも知れませんが――然しながら眞は取捨なき事相であります。公平の敍述であります。好惡の念を離れたる描寫であります。從つて褒貶の私意を寓しては自家撞着の窮地に陷いります。ことに作以外の實際に於て、約束的にせよ善に與《くみ》し惡を忌み、美を愛し、醜を嫌ふものが、單に作物の上に於てのみ矛を逆《さかさ》まにして惡を鼓吹し、醜を奬勵する態度を示すのは、たゞに標準を誤まるのみならず、誤まつた標準を逆に使用して居る點に於て二重の自殺と云はれても仕方がありますまい。書籍を買ふ條件で國から爲替を取り寄せて、之を別途に支辨するからが、既に間違つてゐるのに、使ひ道もあらうに身を持ち崩す爲めに使ひ果したとあつては、申し譯が立つ立たないの段ではありません、頭のよくない人だと云はれても仕方があるまいと思ひます。幸ひ今日の日本には、かう云ふ作家は見當りませんが、自然派の趨勢一つでは、向後この種の作物がいつ何時あらはれて來ないとも限りませんから、御互に用心をしたら善からうと存じて聊か愚存をつけ加へました。

　眞を寫す文學の特性は略是で明暸になりましたから、進んで善、美、壯を敍して之に對する情操を維持しもしくは助長する文學の特性に移ります。然し是は前段と相待つて分明になるべき關係的のものでありますから、私の申し上げべき事の影法師は既に諸君の御認めになつた筈であります。即ち客觀的態度の公平なるに對して、此態度の不公平――不公平と云ふと可笑しく聞えますが、好惡に支配せられる事であります。意識の幅の一ケ所丈が焦點にならなくてはならないのが原則で、此焦點は注意できまるのでありますから、もし好惡が注意に關係するとすれば、好惡のはげしいものには注意が餘計集まる譯になります。從つて好惡が焦點を支配致します。偖此意識の内容を紙へ寫す際には好は好、惡《を》は惡で判然と明暸に意識された事でありますから、勢ひ惡の方即ち嫌な事、厭なもの、は避ける樣になるか、もしくは之を敍述するにしても嫌ひな樣に寫します。厭だと云ふ意味が分る樣にして寫します。最後には自己の好きなもの、面白いものを引き立てる爲めの道具として寫します。從つて敍述が評價的敍述になります。尤も評價はあらはでない含蓄的の場合が多いかも知れませんが、ともかくも好惡の兩面を記述して、しかも公平に記述すると云ふ事は、恰も冷熱の二性を寫して、湯と水を同一視しろと云ふ注文と同じ事で、それ自身に於て矛盾であります。もし雙方を敍する以上は勢ひ評價せねばならぬ事となります。のみか、たとひ好きな方面丈を撰ぶにしても、撰ばれたものが悉く一樣の價値として作者の眼に映らない以上は、矢張り表向きでも、内々でもいゝから、評價のあらはれる樣にしなければなりません。此意味で（差等を付けると云ふ意味）、此種の文學ではブルンチエルの所謂無取捨と云ふ事が不可能になるのであります。撰擇と云ふ事が、あながちに甲はとる、乙は捨てると云ふ意味だと思ふと誤解が生じやすう御座いますから一寸辯じて置きました。かう云ふ性質の文學であるからして、此種の文學には、眞を寫す文學に見出し難い特徴が出て參ります。即ち作物を通じて著者の趣味を洞察する事が出來ると云ふ便宜であります。もし我々の趣味が所謂人格の大部を構成するものと見傚し得るならば、作を通して著者自身の面影を窺がう事が出來ると云つても差し支ないでありませう。それで著書の趣味が深厚博大であればある程、深厚博大の趣味があらはれる譯になりますから、えらい人が此種の文學をかいて、えらい人の人格に感化を受けたいと云ふ人が出て來て、雙方がぴたり合へば、深厚博大の趣味が波動的に傳つて行つて、一篇の著書も大いなる影響を與へる事が出來ます。然し個人に重きを置かない社會にあつては、ヒーローを首肯《うけが》はない世に於ては、自他の懸隔差等を無視する平等觀の盛んな時代に於ては、崇拜畏敬の念を迷信の殘り物の如く取り扱ふ國柄に於ては、思ふ程の功果の出て來ないのは勿論であります。從つて著作家は立派な趣味を育成したり、高尚な嗜好を涵養したり、通俗以上の氣品を修得する事が不必要になつて參ります。つまりは事相に對する評價を、世間が著作家に對して要求しないからであります。御前方は眞相を與へればいゝ、評價の方は此方で引き受けるからと云ふ讀者許りになるからであります。我々の知りたいのは事實である、著者は事實を與へる媒介者として、重きを置く必要はあらうが、著者自身の人格や、趣味や、評價は、却つて迷惑だと云ふ讀者許りになるからであります。迷惑は聞えて居りますが、迷惑と感じる人が、各々自己に相當の評價的標準を具して、其標準で評價しつゝ作に向ふか向はないかが疑問であります。もし向はないとすると、（全然此態度を滅却する事は不可能でありますが、もし眞を本位として著作に向ふと、思つたよりも評價的神經は遲鈍になります）其結果は人間が段々不具になります。自己の趣味は――趣味のない人は全然ありませんが――同趣味のものと、接觸する爲めに、涵養を受けるので、又異趣味のものに逢着する爲めに啓發されるので、又高い趣味に引き付けられるが爲めに、向上化するのであります。さうして世の中の運轉は七分以上此趣味の發現に因るのでありますから、此趣味が孤立して立枯れの姿になると、世の中の進行はとまります。とまらない部分は器械の樣に進行するのみであります。「誰さんは金が欲しいために、奧さんを離別しました」「さうか、それも一つの事實さね」「あの男は藝者を受け出す爲に泥棒をしたさうです」「はあ、それも一つの事實さね」「誰さんは、ちつとも約束を守らないで困りますよ」「成程それも一つの事實だね」――かう事實づくめで、ひどい奴だとも感心な男だとも思はなかつた日には、懷手をして、世の中を眺めてゐる丈で、善にも移らないし、惡をも避けないし、壯擧をも企て得ないし、下劣をも恥ぢないし、花晨月夕の興も盡きはてやうし、夫婦としても、朋友としても、親子としても、通用しない人間になるでせう。

　こゝ迄來て、氣が付いて見ると、客觀、主觀兩方面の文學には妙な差違が籠つて居ります。純乎として眞のみをあとづけ樣とする文學に在つては、人間の自由意思を否定して居ります。たとへばこゝに甲があつて、ある憤りの結果、乙を殺す。罪を恐れて逃げる。後悔して自殺する。と假定すると、憤りが源因で人を殺して、人を殺したのが源因で、罪を恐れる樣になつて、それが又源因になつて、後悔して、後悔の結果遂に自殺した事になりますから、かくの如く層々發展して來る因果の纏綿は皆自然の法則によつて出來たものと見なければなりません。殺すのも、恐れるのも、悔ゆるのも、自殺するのも、決して當人が勝手にやつた譯ではない。殺して見ると、厭でも應でも恐れなくつちや居られなくなり、恐れると、どんなに避けやうとしても悔恨の念が生じ、悔恨の念は是非共自殺させなければ已まない樣に逼つて來る。此階段を踏んで死なゝければならない樣な運命を以て生れた男と見傚すより外に致し方がなくなります。さつき用ひた言葉で分る樣に申しますと、此男の所作は評價を離れたものになります。毀誉褒貶の外に立つべき所作であります。柳は緑花は紅流の死に方であります。從つて人殺しをした本人を責める譯にも、自殺をした本人を褒める譯にも參らなくなります。若し責めるなら自然を責めなくつてはなりません。褒めるにしても自然を褒めるより致し方がなくなります。人間に義務を負はせる代りに、神か何かに義務を負はせなければならなくなります。所が情操を本位とする文學になると、好惡があり、評價があるんだから、篇中人物の行爲は自由意志で發現されたものと判じてかゝらなければならない。右へも行ける。左へも行ける。のに彼は右を棄てゝ左へ行つた。だから、えらいとなります。感心だとなります。彼自身の意志の働らきで、やつた行爲であればこそ、其行爲者に全部の責任を負はせる事が出來、出來るから其責任者たる當人が責められる資格もあり、又褒められる資格もあるのであります。もし自分がやつたんぢやない、因果の法則がしでかしたのだと、高を括つて居たらば、行爲其ものに善惡其他の屬性を認め得るにしても、行爲を敢てしたる本人には罪も�ｺもない譯になります。かうなつて來ると人間の考が大分違つて來なければなりません。自分は自然に生み付けられて、自然の命ずる通りをやるんだから、罪を犯しても、惡を働らいても仕方がない。恨んでくれるな、嫉んで貰ふまいと落ちて來る。だから大きな顔をして、不都合な事を立ち振舞ふ樣になるでせう。夫では御互が迷惑する。社會が崩れて來る。文學の目的が直接に此弊を救ふにあるかどうかは問題外としても情操文學が此間缺を補ふ效果を有し得る事は慥かであります。しかも此情操の供給を杜絶すれば、吾人に大切な涵養物を奪はれたると一般で日に日に痩せ果てる許りであります。

　兩種の文學の特性は以上の如くであります。以上の如くでありますから、雙方共大切なものであります。決して一方ばかりあれば他方は文壇から驅逐してもよい抔と云はれる樣な根柢の淺いものではありません。又名前こそ兩種でありますから自然派と浪漫派と對立させて、壘を堅ふし濠を深かうして睨み合つてる樣に考へられますが、其實敵對させる事の出來るのは名前丈で、内容は雙方共に往つたり來たり大分入り亂れて居ります。のみならず、あるものは見方讀方ではどつちへでも編入の出來るものも生ずる筈であります。だから詳しい區別を云ふと、純客觀態度と純主觀態度の間に無數の變化を生ずるのみならず、此變化の各のものと他と結びつけて雜種を作れば又無數の第二變化が成立する譯でありますから、誰の作は自然派だとか、誰の作は浪漫派だとか、さう一概に云へたものではないでせう。それよりも誰の作のこゝの所はこんな意味の浪漫的趣味で、こゝの所は、こんな意味の自然派趣味だと、作物を解剖して一々指摘するのみならず、其指摘した場所の趣味迄も、單に浪漫、自然の二字を以て單簡に律し去らないで、どの位の異分子が、どの位の割合で交つたものかを説明する樣にしたら今日の弊が救はれるかも知れないと思ひます。今日の日本の批評は山県は長州人だ大山は薩州人だと云ふ樣な具合に傾いて居はしないかと考へられます。それよりも山県はこんな人、大山はこんな人と解剖し又綜合する方が二元帥を評する適當の方法かと存じます。それでも長州薩州は地圖の上で動かすべからざる面積を持つて居りますから、まだ混雜が少ない樣ですが、歴史の流を沿ふて漂ひ付いた二派は名前は昔の通りですが内容は始終變つて居りますから猶不都合であります。だから、もし作物を本位としないで、主義を本位とするならば主義の意義を確然と定めて、さうして其主義のもとに、其主義に叶ふ局部（作物の）を排列して、此主義の實例とするが適當だらうと思ひます。一つの作物と、一つの主義をアイデンチフワイしなければ氣が濟まない樣な考は是非共改める事に致したいと思ひます。是から先き文學上の作物の性質は異分子の結合で愈複雜になつて參りますから、幾多の變態を認めなければならないのは無論の事であります。從つて、二三の主義を終古一定のものとして、萬事を是で律せんとするのみならず、律せんとする尺度の年々に移り行くのを咎めないのは、將來出現の作家には不便宜の極で、且つ批評家の無責任を表白するものではないかと存じます。

　客觀、主觀兩面の目的、特性、必要、關係等は略述べ終りました。以上は大體の御話であります。固より普遍的の論で一般に通ずる説とは信じますが、今日の日本に於ていづれが比較的必要かと云ふと、少しは特別の問題になりますから、此點を一應調べた上、演説の局を結ばうかと思ひます。情操文學の目的は情操を維持し、啓發し、又向上化するにあるとは私の前に述べた通りであります。偖與へられたる情操は與へられたる事相に附着して居ります。たとへば孝と云ふ情操は親子の關係に附着して居ります。所が親子の關係は社會上複雜な源因からして、わが日本では著るしく變つて參りました。此關係が變はれば、孝と云ふ情操の評價も次第に變らなければならない譯になります。然るに舊來の親子關係に附着した儘の評價を與へて、孝を敍述して居ると、在來の孝心を維持するか、もしくは不孝のものを啓發するか、又は一層孝心を深くする爲めの敍述になります。今日は孝の時代でないから親を粗末にして好いと誰も云ふものはありませんが、昔の樣に絶對的評價をつけて敍述するのは、どうでありませう。孝と云ふ字は現に勅語にもあつて大切な情操には相違御座いませんが、昔日の樣に親が絶對的權威を弄する事を社會の有樣が許さない以上は、多少其邊に注意を拂つた適度の評價をしなければなりますまい。もし是を在來の儘で絶對評價を以て敍述すると時勢後れになります。折角の目的が達せられなくなります。昔は親の爲めに身を苦海に沈めるのを孝と云つたかも知れない。今日の我々から見ても孝かも知れないが、よし娘が拒絶したつて、事柄が事柄だから不孝とは思ひますまい。夫丈孝の評價が下落したのであります。之を西洋人に云はせると、頭からてんで想像し得られないと云ひます。西洋へ行くと孝の評價が又一段下がるのであります。こう云ふ風に評價が變つて行くのはつまる所、前に云つた社會状態の變化に基いた結果に外ならんのでありますから、此状態の變化を知りさへすれば、舊來の評價を墨守する必要がなくなります。之を知らねばこそ煩悶が起つたり矛盾が起つたりして苦しむのであります。かう云ふ時に誰か眼の明きらかな人が、此状態の變化を知〔右○〕らせる、――即ち客觀的に敍述すれば、讀者ははあ成程〔四字傍点〕と思ふので、大變な解脱になります。（こんな單純な場合では解脱にもなりますまいが、まあ例ですから其積で御聞きを願ひます）それで讀む人は難有がる。書く人は成功する。ばかりぢやない、傍《はた》から見ても、舊來の評價を無理に維持しやうとする情操文學よりも必要の度が多いでせう。

　次に日本では情操文學も揮眞文學も雙方發達して居りませんのは、いくら己惚の強い私も充分に認めねばなりませんが、昔から今日迄出版された文學書の統計を取つて見たら、無論情操文學に屬するものが過半でありませう。のみならず作物の價値から云つても此系統に屬する方が優つてゐる樣であります。それは當然の事で客觀的敍述は觀察力から生ずるもので、觀察力は科學の發達に伴つて、間接に其空氣に傳染した結果と見るべきであります。所が殘念な事に、日本人には藝術的精神はありあまる程あつた樣ですが、科學的精神は之と反比例して大いに缺乏して居りました。それだから、文學に於ても、非我の事相を無我無心に觀察する能力は全く發達して居らなかつたらしいと思ひます。くどくなりますから、例も引きませんが、是丈で充分御合點は參るだらうと存じます。是を別方面の言葉で云ふと、子はみんな孝行のもの、妻は必ず貞節あるものと認めて居たらしいのであります。だから芝居でも小説でも非常な孝行ものや貞節ものが、恰かも隣り近所に何人でも居るかの如き樣子であらはれて參るのみならず、見物や讀者も亦實際にいくたりでも存在してゐるうちの代表者だと云はぬ許りの顔付で、之に對して居たのであります。居たのでありますと云ふと私が元禄時代から生きてゐた樣に當りますが、どうもさうに違ひないと思ひます。あんな芝居や書物を見る人は、眞面目《まじめ》に熱心に我を忘れて釣り込まれてゐたに違ないんでせう。それでなければ今日迄傳はる前にとくに湮滅して仕舞ふ筈であります。さうすると、ある御孃さんは朝顔になつたり、ある細君は御園になつたり、又ある若旦那は信乃や權八の氣でゐたんでせう。そりや滿足でせう。自己の情操を滿足させると云ふ點から云つたら滿足に違ない。自分ばかりぢやない、自分の子や女房や夫をこんなものだと考へてゐたら定めし滿足に違ひない。尤もあの時代に出てくる惡黨は又非常なもので到底想像が出來ない樣な惡黨が出て來ますが、是は善人を引き立てる爲なんだから、此方には誰もならうと志願するものはないから安心です。それぢや善と惡の混血兒《あひのこ》はと云ふと殆んど出て來ないんだから、至極單簡で重寶であります。かう云ふ譯で一家町内芝居へ出てくる樣な善人で成り立つてゐたのであります。それぢや天下太平なものでありさうだのに、矢つ張り夫婦喧嘩も兄弟喧嘩もありました。あつたに違なからうと、まあ思ふのです。しかも此喧嘩が彼等が完全なる善人であつたと云ふ證據になるから、不思議であります。ちとパラドツクスになり過ぎますが、凡そ喧嘩のもとは御互を完全の人間と認めて、さてやつてみると案外予期に反するから起るのであります。だから喧嘩をする爲めには理想が必要であります。次に此理想と實際とは一致してゐるものだと認める事が必要であります。今日も喧嘩は毎日ありますが、何も理想的人物でないから癪に障ると云ふ樣な野暮は中學生徒のうちにも、まあない樣で至極便利になりました。其代り人間の相場は聊か下落致した樣なものゝ結句此方が住み安いかの樣に存ぜられます。所が舊幕時代には、みんな理想的人物を以て目され、理想的人物を以て任じて居たのでありますから、大變窮屈で御座いましたらう。何ぞと云ふと、町人の癖になかと胸打抔を喰ひます。女房の癖に何だ無暗《むやみ》にふくれて抔とどやされます。子供の癖に何だ親に向つて口答をして抔と遣り込められます。兎角何々の癖にと、癖が流行した世の中であります。癖に〔二字傍点〕の流行《はや》る世の中程理想の一定した世の中はないのであります。町人はかくあるべきもの、女房はかくすべきもの、子供はかく仕へべきものと、杓子定規で相場が極つて居ります。尤も是は雙方合意の上でなければ成立しない譯でありますから、町人の方でも、子供の方でも、女房の方でも、どんな理想的人物を以て予期されても、立派に其予期を充たす積りで居たのであります。從つて自分は天下一の孝行者で、天下一の貞女で、天下一の町人――は、ちと可笑しいが、何しろ立派なものと心得て居たんでせう。かう己惚れてゐれば世話はない。大抵の事が否應《いやおう》なしに進行します。萬事が腹の底で濟んで仕舞ひます。それで上部《うはべ》丈はどこ迄も理想通りの人物を標榜致します。ちと僞善になるやうですが、惡�ｺの天眞瀾漫よりは取り扱ひ易いから結構です。中には腹の底で濟んだなとさへ氣が付かないでゐるものも澤山あつたさうです。

　この有樣で御維新迄進んで參りました。それから科學が泰西から飛んで參りました。今日迄約四十年立つたので、大分趣が變つて參りました。科學の訓練を經た眼で、人を見たり、自分を見たりする事が大分｜流行《はや》つて參りました。然し此精神が一般に行き渡つて居ない爲め、且つは餘り大切でない爲め今日迄あまり進歩して居りません。なぜ大切でないかと考へて見ると面白いのであります。自分で自分の腹の中を檢査して見ると、さう自慢になる事ばかりはありやしません。自分ながら淺間しい事も澤山出て來ます。然しいくら淺間しいものが見當つた／＼と云つて觸れて歩いたつて、自分の恥になるばかりで、あまり發明家として尊敬を拂つては貰へません。だから折角發見しても黙つてる方が得策であります。骨を折つて、探がし當てゝ、自分一人で氣持をわるくして、さうして苦い顔をして塞いでゐるのも、あまり景氣のいゝものでもありませんから、つい遠慮が無沙汰になりがちで、吾身で吾身が分つた樣な、分らない樣な心持で其日／＼とぶらついて居ります。かうしてゐれば、いつ迄己惚れてゐたつて、變事が起らない限りは大丈夫、己惚れつゞけに己惚れて死ねますから、折角土をかけた所を掘り返して腐つた死骸をふん／＼嗅いで見るなんて、むく犬の所作をするには及ばん仕儀になります。私も其一人であります。私の妻も其一人であります。折々はあれでも令夫人かと思ふ事もありますから、向ふでも、あれがわが郎君かと愛想をつかす事もあるんでせう。夫《それ》でも私は立派な夫《をつと》の積で濟まして居ますから、奧方の方でも天下の賢妻を以て自任して居られる事と存じます。斯樣の己惚は存外多いもので、諸君迄私共の仲間へ引き入れるのは恐縮でありますが、可成《なるべく》勢力範圍を擴張して置く方が勝手でありますから、遠慮のない所を申しますと、滔々たる天下皆然りと申しても差支ないかも知れません。腹の奧の方では博士を宛にしてゐながら、口の先では熱烈な戀だ抔と云ふのがあります。さうかと思ふと持參金が欲しい樣な氣分を打ち消して、なにあの令孃の淑�ｺを慕ふのさと濟まし切つてゐます。それで僞善でも何でもない、兩方共｜眞面目《まじめ》だから面白いものです。そこで我々の樣な觀察力の鈍いものは、なるべく修養の功を積んで、それから、大膽な勇猛心を起して、赤裸々な所を恐れずに書く事を力める必要が出て參ります。

　それでは今日の文學に客觀的態度が必要ならば、客觀的態度によつて、どんな事を研究したらよからうと云ふ問題になります。私は私の氣の付いた數ケ條を御參考の爲めに述べて、結末をつけます。

　第一は性格の描寫に就てゞあります。是は小説とか劇とかに必要なもので、作家が此點に於て成功すれば、過半の仕事は既に結了したものと迄思はれて居ります。そこで俗に成功した性格とはどんなものかと調べて見ると活動の二字に歸着して仕舞ひます。又どう考へても此二字以外には出られない樣に思ひます。しかし、活動にも色々あるが如何なる意味の活動か一と口に云へるかと聞かれると、少し臆斷過ぎる樣ですが、私は斯う答へても差支ないと考へます。普通の小説で、成功したものと稱せられてゐる性格の活動は大概矛盾のないと云ふ事と同一義に歸着する。之を他の言葉で云いますと、ある人が根本的にあるものを握つてゐて、千態萬状の所作に悉く此あるものを應用する。從つて所作は千態萬状であるが、之を奇麗に統一する事が出來る。しかも之を統一すると此あるものに落ちて仕舞ふ。猶言ひ換えると、描寫された性格が一字もしくは二三字の記號につゞまつて仕舞ふ。勇氣のある人、親切な人、吝嗇な人と云つた風に簡單になる、即ち覺え易くなる。まあ、こんなものではなからうかと思ひます。つまりは、一篇の小説に一定の意味があつて、此意味を一句につゞめ得るのを愉快に思ふ樣に、同じく一句につゞめ得る性格をかき終せたものが成功した樣な趣が大分あります。然し此意味で成功した性格は、個人性格の全面を寫し出したものではありません。（特別の場合を除いては）個人の全面性格のある顕著な特性を任意に抽出して、抽出した丈を始めから終迄貫ぬかして、作家にも讀者にも都合のいゝ性格を創造したものであります。しかも自然の法則に從つて創造したものではなくつて、小説の世界に便宜を與ふる爲めに、ある程度迄自然の法則を破つて、創造したものであります。普通の場合に於て、個人の性格中のある特性が、其個人の生涯を貫ぬいて居る事は事實であります。が此特性丈で人物が出來上つて居らん事も事實であります。のみか、此特性に矛盾反對する樣な形相を澤山備へて居るのが一般の事實であります。だから諺にも近侍の眼から見れば英雄も又凡人に過ぎずと申します。極めて簡單で例にならん程の例でありますが、人事には大變冷淡な人が、健康丈には恐ろしく神經過敏に見える事があります。家族には無愛想極まつても朋友には此上なく叮嚀な男も御座います。かう云ふ點を詳しく調べて見たらば、或は矛盾のある方が自然の性格で、ない方が小説の性格と迄云はれはしますまいか。

　そこで小説家、戯曲家うちでも此點に注意し出して、遂に矛盾の性行をかく樣になりました。さうして讀者も之を首肯する樣になりました。柔順であつた妻君が、ある事情のもとに、急に夫《をつと》に反抗して、今迄に夢想し得なかつた女丈夫になると云ふ樣な例であります。然し是は在來の敍述を一歩複雜の方面へ進めたものに過ぎません。と云ふのは、明かに矛盾した特性をことさらに竝べて、對照の結果讀者の注意を此二焦點に集注するからであります。だから性格の複雜と云ふ事丈を眼中に置いて見ると、是はまだ／＼單調のものであります。だから飽迄も客觀的に性格の全局面を描出しやうとすれば、今迄の小説や戯曲にあらはれたよりも遙かに種々な形相が出て來る譯であります。さうして形相が異なるに從つて、相互の間に一致がない樣に見えて來るのは、已を得ぬ結果であります。從つて描寫が客觀的に微妙であればある程、纏まりがつかぬ性格が出來安いでせう。一言にして蔽ふ事の出來ない性格になり易い、記憶に不便な性格になり易いでせう。要するに大變出來のわるい、下手にかいた性格の樣に見えてくるでせう。從來のかき方は、こゝに風邪を引いた人があるとすると、其人の生涯を通じて、風邪を引いた部分丈を抽き拔いて書くのですから、分り易く明暸になる代りには甚だ單調にして有名なる風邪引き男が創造されて仕舞ひます。本來を云ふと病氣の時と、丈夫な時と、病氣でも丈夫でもない時と三通りかいて、始めて其人の健康の全局面が、あらはれると云はなければなりません。しかし、さうすると、どうしても散漫に見えます。要領を得ない樣に見えて來ます。風邪でも此通りですが、性格は是よりも遙かに複雜であります。例へばＡなる性格の第一行爲をＡ1※［1は上付き小書き］とすると、Ａ1※［１は上付き小書き］からして類推の出來るＡ2Ａ3Ａ4※［234は上付き小書き］を順次に描出して行けば、全局面は無論出て來ない。大抵は一特質の重複に近くなります。もしＡ1Ａ2Ａ3Ａ4※［1234は上付き小書き］が因果の法則で連結されて居つて、此諸行爲の内容に密接な類似を示すときは、重複が變じて發展となります。發展ではあるがＡ1※［1は上付き小書き］が基點であつて、其Ａ1※［1は上付き小書き］は全性格の一特性であるからして、Ａ1※［1は上付き小書き］の發展も又全性格の發展と見傚す譯には參りません。私は此種の重複でも發展でも文學上價値のないものと斷言するのではないのですが、其方は既に大分ある事だから、全性格の描寫と云ふ方に客觀的態度を以て少しく進んでみたら開拓の余地が澤山あるだらうと思ひます。其代り在來の小説を讀んだ眼から見れば、散漫になります、滅裂になり易いです、又は神秘的に變じませう。然し吾人が客觀的描寫に興味を有してくると、漸々此散漫と滅裂と神秘を妙に思はない樣な時機が到着しはせまいかと思はれます。言葉を換えて云ふと形式の打破をある程度迄意に留めなくなりはせまいかと考へるのです。然し一應は御斷りを致して置きます。吾々の世界は既に冒頭に於て述べた通り撰擇の世界であります。光線にしても、音響にしても、一定の振動數以上もしくは以下のものは、見る事も聞く事も出來ない有樣で御座います。性格の全部と云つた所で、全部が悉く觀察され得るとは申しません。無論比較的と云ふ文字を挿入して御考を願ふより外に致し方がありません。夫から客觀的態度で時間の内容を寫して行くと（ある一物につき）此連續が因果になるには相違ありませんから、いくら散漫でも滅裂でも神秘でも因果を離れるとは申されません。只其因果が、因果の律にまとめられる程に、經驗上熟知されてゐないから、散漫で滅裂で神秘と見る迄の事であります。だから此種の因果の經驗を繰り返して、其中から因果の律を抽象する事が出來ると同時に、散漫は統一に歸し、神秘は明白になります。（性格の描寫に關連して研究の價あるのはムードの觀察であります。ムードの描寫は昔の小説には殆んどないと思ひます。しかも此ムードから面白い行爲が出て、慥かに興味のある結果を生じます。ムードと性格の關係其他は今は述べません。又述べられる丈に頭が整つて居りません）

　性格の解剖についでは、心理状態の解剖であります。最も性格と關係があるのは無論でありますが、一言にして云ふと今日の人の心的状態は昔しの人の心的状態より大分複雜になつて居りますからして、同一の行爲でも、其動機が遙かに趣を異にしてゐる譯で、そこを觀察したら、充分開拓の餘地があると申す意味で御座います。例へばこゝに一人の男があつて人殺しをする。何故人殺しをしたかと云ふに人殺しが目的ではない、ほんの方便で、人殺しをしたあとの心持ちを痛切に味はつて見たいといふ樣な藝術家が出て來たとするならば――まだあんまり出ない樣ですが――どうでせう。いくら説明したつて元禄時代の人物には分らないに極つてゐる。と云ふものは此男の人殺しに對する評價は、人殺しから生ずる自己の心裏の經驗に對する評價より遙かに相場が安いのであります。平たく云へば人殺しと云ふ事を左程わるく思つてゐない。のみならずわざと罪を犯して置いて、犯したあとの心持を痛切に味はうといふ樣な込み入つた考へは到底大石良雄や室鳩巣などに分るものではありません。勿論今の人にでも分らんかも知れませんが、今の人ならば略想像はつきますから、夫迄複雜なのに違ありません。又戀と云ふ一字でも此頃になると戀といふ一字では不充分な位種類が出來はしまいかと思はれます。既に沙翁のかいたものでも分ければ幾通りにも分けられる戀が書いてありますが、近代に至ると其區別が益微細になりはせぬかと思はれます。ゴンクールの書いたラフオースタンと云ふ小説のなかにはこんなのがあります。有名な女優があつて、此女優がある英國の貴族と慇懃を通じた儘｜夫《それ》限《ぎり》幾年か音信不通の姿で居りました所、貴族の方では急に親が死んで、莫大の遺産を相續する樣な都合になつたので、今は結婚其他の點に就ても何人も喙を挾む事の出來ない身分でありますから、多年戀着して居た婦人を正式に迎へるのは此時と云ふので、狂ふ許りに喜んで、佛蘭西へ渡りますと、女の方も固より深い仲の事でありましたから、泣いて分れた其日の通り大事に男の事を思ひつゞけてゐた折で、無論異存のある筈は御座いません。目出度結婚致します。それ丈だと是も陳腐なのですが、是から先が山であります。偖結婚をして見ると夫の方では金に不足のない身ではあるし、女房を女優にして置くのは何となく心配ですから、もう廢業したら善からうと云ふ相談を持ち懸けます。所が細君の方はもと／＼役者が性《しやう》に合つてゐる譯なんだからかどうか分りませんが、何となく廢《や》めたくなかつたのであります。然し可愛い男の云ふ事だから、厭な心を抑へて亭主の意に從ひます。夫から二人で非常な贅澤をやります。嬉しい中で一所になつて、金を使ひたい丈使ふんだから、幸福でなければならない筈ですが、そこが妙なもので、細君が女優をやめてからと云ふものは何となく氣色が勝れなくなります。いくら夫が機嫌をとつても浮き立ちません。と云つて固々《もと／＼》憎い男ではないんだから粗略にする譯はない。眞底《しんそこ》夫の事はいとしく思つてゐるのであります。只心が陽氣になれない丈なのですが、夫の方では最愛の細君の一顰一笑も千金より重い譯ですから、捨て置かれんと云ふので慰藉旁以太利へ旅行に出掛けます。然るに男は出先で病氣に罹ります。細君は看病に怠りは御座いませんが、定業はしかたのないものでとう／＼死んでしまひます。其死ぬ少し前に例の通り細君が看病の爲め枕邊へ寄り添ひますと、男は何時になく荒々しい調子で、手を以て細君を突き退《の》ける許りに、押し返して、御前は必竟藝術家だ。本當の戀は出來ない女だと云ふのです。夫が結末であります。御前は必竟藝術家だ本當の戀は出來ない女だ。是が一種の戀でありませう。有名なルーヂンの戀も普通一般の戀ではありません。ルーヂン一流の戀であります。ズーデルマンの書いたフエリシタスの戀抔は尤も特色を帶びた一種の戀の樣に思ひます。是が日本の昔であつて見ると、大概似たものゝ樣に見えます。八重垣姫の戀も、御駒才三の戀も、御染久松の戀も、まあ似たり寄つたりであります。何故似たり寄つたりかと云ふと、異種類の戀はなかつたと解釋する事も出來ますし又、觀察力が鈍かつたからだと斷定する事が出來ますが、まづ兩方と見て置きませう。がまづざつと、こんな譯でありますから、斯樣に複雜になりつゝある吾々の心のうちをよく觀察したら、色々面白い描寫が出來る事だらうと思ひます。

　あまり長くなりますから、あとは可成《なるべく》手短かに指摘して通り過ぎる位に致します。次には、人生の局部を描寫して、之を一句にまとめ得る樣な意味を與へる事であります。落語家の所謂落ちをつけた小説の樣なものになります。是は近頃大分流行致して居りますから、別段布衍する必要も御座いますまい。唯御注意丈に留めて置きます。前の例抔も此所に應用が出來ます。「御前は必竟藝術家だ。本當の戀は出來ない」是が一篇の主意の落着する所であります。但し落ちを取る目的は綜合にあるので、前の二ケ條は解剖が主でありますから、目的の方角は反對になります。だから一寸區別して置きました。

　次には、人生に於て、容易に注意を拂つて置かなかつた現象、從つて滅多にない事と云ふ意味にもなりますが、此方面にも大分新らしい材料がある事と思はれます。此間友人からこんな話を聞きました。其男の國での事でありますが、ある藝妓がある男と深い關係になつてゐたのださうで。其兩人がある時船遊びに出ました。そこいらを漕ぎ廻つた末、都合のいゝ磯へ船をもあひまして、男が舟を棄てゝ岸へ上りました。所が岸邊に神社か何かあると見えて、磯からすぐに崖になつて、崖のなかゝら石段が海の方へ細長くついて居ります。男は其石段を登つたんださうです。女は船のなかゝら、石段を上つて行く男の後姿を見て居たさうです。其後姿を見てゐた時、急に自分の情夫に愛想をつかして仕舞つたんだと友人は話しましたが、其源因は私にも、友人にも、本人の藝者にも無論分りません。是と類似の例をゼームスの宗教的經驗と云ふ本や、スターバツクの宗教心理學で見た事がありますが、個人の經歴譚として聞いたのは是が始めてゞあります。これは餘り突飛な例かも知れませんが、こんな經驗で文學の形になつてあらはれて居らないものが大分あるだらうから、さう云ふ研究をしたら材料は隨分出て來はすまいかと思つて居ります。

　此外因果の關係で人の氣につかなかつた事やら、類型を脱した個性をかく方面やら色々あるだらうと思ひますが、此三四ケ條は理論上是々に分れると云ふのでなくつて、只思ひ付いた事を列べた迄でありますが、どこで切つても同じ事でありますからこれで已めて置きませう。然し今日の吾邦に比較的客觀態度の敍述が必要であると云ふ事は、向後何年つゞく事か明らかには分りません。西洋では illuminism が盛に行はれた、十八世紀の反動として十九世紀の前半に浪漫的趣味の勃興を來しました。それが變化して又客觀的態度に復して參りました。二十世紀はどうなるか分りません。此二潮流が押しつ押されつして居るうちに、つまりは兩方が一種の意味に於て一樣に發達して參ります。さうして發達した兩方が交り合つて雜種の雜種と云ふ樣なものが、いくらでも其間に起つて參ります。右へ行つたり左へ寄つたりするのは、つまり態度丈の話で、此態度から出る敍述は決して繰り返されるものではありません。どこか變つて參ります。杜撰ながら自分の考では、世間一般の科學的精神が、情操の勢力より比較的強くなつて、平衡を失ひかけるや否や、文壇では情操文學が隆起して參りますし、又情操の勢力が科學的精神を壓迫する程に隆起してくると、客觀文學が是非とも起つて參る譯だと考へます。文壇は此二つの勢力が互に消長して、平衡を回復し、回復するかと思ふと平衡を失して永久に發展するものでありませう。であるから同時同刻にせよ西洋の文學にあらはれた態度が、必ず日本の態度の模範になる理由は認められません。前段に申した今日吾邦に於ける客觀文學の必要とは、我邦現在の一般の教育状態からして案出した愚考に過ぎんのであります。然しながら、矢張り同一の立場から見て、殆んど純客觀に近い態度の文學を必要と認める程情操の勢力は社會を威壓してゐる樣には思はれませんから、徒らに客觀にのみ重きを置く文學は不必要に近い樣に思はれます。維新後今日迄の趨勢を見ますと、猛烈なる情操に始まつて四十年間次第々々に情操の降下を經驗して居りますから、現時はまだ客觀に重きを置く方を至當と存じますが、向後日清戰役もしくは日露戰爭の如き不規則なる情操の勃張を促がす機會なく日本の歴史が平靜に進行するときは、情操は久しからずして科學的精神の壓迫を蒙る事は明らかでありますから、情操文學は近き未來に於て必ず起るべき運命を有つて居る事と存じます。但し未來の情操文學は如何なる内容を以て、如何なる評價をなすやに至つては固より測り難いのは勿論でありますが、夫迄に發展した客觀描寫を利用して之を評價の方面に使ふのは爭ふべからざる運命と存じます。これを結末の一句として此講演を終ります。

　　　　　　　　　　　　　−明治四一、四、一『ホトトギス』−

　

　　　田山花袋君に答ふ

　

　本月の「趣味」に田山花袋君が小生に關して斯んな事を云はれた。――「夏目漱石君はズーデルマンの『カツツエンステツヒ』を評して、其益々序を逐うて迫り來るが如き點をひどく感服して居られる。氏の近作『三四郎』は此筆法で往く積りだとか聞いて居る。然し云々」

　小生は未だ曾て『三四郎』をズーデルマンの筆法で書くと云つた覺えなし。誰かの話し違か、花袋君の聞違だらう。疎忽なものが花袋君の文を讀むと、小生がズーデルマンの眞似でもしてゐるやうで聞苦しい。『三四郎』は拙作かも知れないが、模擬踏襲の作ではない。

　花袋君は六年前にカツツエンステツヒを翻譯せられて、翻譯の當時は非常に感服せられたが、今日から見ると、作爲の痕迹ばかりで、全篇作者の拵へものに過ぎないと貶せられた。褒貶は固より花袋君の自由である。然し今日より六年後に、小生の趣味が現今の花袋君の趣味に達すると、達せざるとも固より小生の自由である。是も疎忽ものが讀むと、花袋君と小生の嗜好が一直線の上に於て六年の相違がある樣に受取られるから、御斷りを致して置きたい。

　花袋君がカツツエンステツヒに心醉せられた時分、同書を獨歩君に見せたら、拵らへものぢやないかと云つて通讀しなかつたと云つて、痛く獨歩君の眼識に敬服して居られる。花袋君が獨歩君に敬服せらるゝと云ふ意味を漱石が獨歩君に敬服すると云ふ意味に解釋するものはないから此點は安心である。

　愚見によると、獨歩君の作物は「巡査」を除くの外悉く拵へものである。（小生の讀んだものに就て云ふ）只しズーデルマンのカツツエンステツヒより下手な拵へものである。花袋君の「蒲團」も拵へものである。「生」は「蒲團」程拵へて居られない。其代り滿谷國四郎君の「車夫の家」のやうな出來榮えである。

　拵へものを苦にせらるゝよりも、活きて居るとしか思へぬ人間や、自然としか思へぬ脚色を拵へる〔三字右・〕方を苦心したら、どうだらう。拵らへた人間が活きてゐるとしか思へなくつて、拵らへた脚色が自然としか思へぬならば、拵へた作者は一種のクリーエーターである。拵へた事を誇りと心得る方が當然である。只下手でしかも巧妙に拵へた作物（例へばヂユーマのブラツク・チユーリツプの如きもの）は花袋君の御注意を待たずして駄目である。同時にいくら糊細工の臭味が少くても、凡ての點に於て存在を認むるに足らぬ事實や實際の人間を書くのは、同等の程度に於て駄目である。花袋君も御同感だらうと思ふ。

　小生は小説を作る男である。さうして所々で惡口を云はれる男である。自分が惡口を云はれる口惜し紛れに他人の惡口を云ふ樣に取られては、惡口の功力がないと心得て今日迄謹愼の意を表してゐた。然し花袋君の説を拜見して一寸辯解する必要が生じた序に、端なく獨歩花袋兩君の作物に妄評を加へたのは恐縮である。

　小生は日本の文藝雜誌を悉く通讀する餘裕と勇氣に乏しいものである。現に花袋君の主宰して居らるゝ「文章世界」の如きも拜見して居らん。向後花袋君及び其他の諸君の高説に對して、一々御答辯を致す機會を逸するかも知れない。其時漱石は花袋君及び其他の諸君の高説に御答辯が出來かねる程感服したなと誤解する疎忽ものがあると困る。序を以て、必ずしも然ざる旨を豫じめ天下に廣告して置く。

−明治四一、一一、七『國民新聞』−

　

　　　文壇の趨勢

　

　近頃は大分方々の雜誌から談話をしろ／＼と責められて、頭ががらん胴になつたから、當分品切れの看板でも懸けたい位に思つてゐます。現に今日も一軒斷わりました。向後日本の文壇はどう變化するか抔といふ大問題は中々分りにくい。況んや二三日前迄『文學評論〔四字傍点〕』の訂正をしてゐて、頭が痺れた樣に疲れてゐるから、早速に分別も浮びません。夫に似寄つた事を先達てごく簡略に『秀才文壇〔四字傍点〕』の人に話して仕舞つた。生憎此方面も種切れです。が、まあ折角だから――いつ御出になつても、私の談話が御役に立つた試がない樣だから――詰らん事でも責任逃れに話しませう。

　私が小説を書き出したのは、何年前からか確と覺えてもゐないが、決して古くはない。見方によれば極近頃であると云つてもよろしい。然るに我が文壇の潮流は非常に急なもので、私よりあとから、小説家として、世にあらはれ、又一般から作家として認められたものが大分ある。今も續々出つゝある樣に思はれる。私は多忙な身だから、外の人の作を一々通讀する暇がない。立て籠んで來ると、つい讀み損つて、夫れ切りにする事もあるが、出來る丈は參考の爲め、研究の爲め、或は興味の爲め、目を通して見る。所が年一年と日を經るに從つて、みんな面白い。段々老熟の手腕が短篇のうちに行き渡つて來た樣に思はれる。妙な比較をする樣だけれども近來日本の雜誌に出る創作物の價値は、英國の通俗雜誌に掲載せられる短篇ものよりも、ずつと程度の高いものと自分は信じてゐる。だから日本の文壇は前途多望、大いに樂觀すべき現象に充ちてゐると思ひます。

　そこで今云つた通り新參の私のあとから、既に四五人の新進作家が出る位だから、其あとからも又出て來るに違ない。現に出つゝあるんでせう。又未來に出やうとして待ち構へてゐる人も定めて多い事だらうと思ひます。して見ると是等の四五の新進作家――必ずしも是等の人に限る必要はないが――は又新らしい競爭者を得らるゝ事と信ずる。

　此競爭者の出かたである。出かたに二た通りある。一つは自分の繩張うちへ這入つて來て、似寄つた武器と、同種の兵法劍術で競爭をやる。元來競爭となると大抵の場合は同種同類に限る樣です。同種同類でないと、本當の比較が出來ないからでもあるし、ひとつ、あいつを乘り越してやらうと云ふ時は、裏道があつても却つて氣が付かないで、矢つ張り當の敵の向ふに見える本街道をあとを慕つて走け出すのが心理的に普通な状態であります。すると同圏内で競爭が起ります。此競爭の刺激によつて、作物が段々深さを増して來る。種類が同じだから深さ以外に競爭の仕樣がないのであります。

　今一つの競爭は圏外に新手が出る事であります。是から新たに文壇に顔を出さうと機を覗つてゐる人、もしくは既に打つて出た人のうちで、今迄のものとは徑路を同じうする事を好まない事がないとも限らない。是は今迄の作物に飽き足らぬか、もしくは、おれはおれだから是非一派を立てゝ見せると自己の特色に自信を置くか、または世間の注意を惹くには何か異樣な武者振を見せないと效力が少ないとか、色々の動機から起るだらうが、要するに模擬者でもなければ、同圏内の競爭者でもない。即ち圏外の敵である。此種の競爭者が出て來ると、文壇の刺激は種類と種類の間に起る。種類が多ければ多い程文壇は多趣多樣になつて、互に競り合が始まる譯である。

　もし此二種類の競爭即ち圏の内外に互に競爭が同時に起るとすると、向後吾人の受くる作物は、此兩個の刺激からして、在來のは益在來の方向で深く發達したもの、新興のは新興の領分で出來得る限りを開拓して變化を添へる樣なものになる。尤も圏外の競爭が烈しくなると、圏内の競爭は比較的穩かになる。又圏内の競爭が烈しい時は、比較的圏外が平和である。

　圏内の競爭が烈しくなるか、圏外の競爭が烈しくなるか、どちらに傾くかは、讀書界の傾向で大部極められる問題であります。もし讀書界が把住性が強くつて、在來の作物から猶或物を豫期しつゝある間は、圏内の競爭の方が烈しい。又讀書界が推移性に支配されつゝあつて、何か新發展を希望する場合には圏外に優勢なものがあらはれ勝になる。もし讀書界が兩分されて半々になるときは圏内圏外共に相應の競爭があつて、相應の讀者を有する譯になります。私は實際の作物にあたつて、兎角の評をする事をしない。從つて向後の讀書界がどういふ作物をどう歡迎するかも云へない。たゞ形式ばかりの話で甚だつまらないが、各自此形式を實地にあてはめて見たら色々な鑑定が出來るだらうと思ふ。

　競爭は到底免がれない。又競爭がなければ作物は進歩しない。今日の作物が是迄進歩したのは作家の天分にもよるだらうけれども大部分は競爭の賜物だらうと考へます。英國の政黨が立憲政治の始まつた時から二派に分れてゐる。あれは偶然の樣な必然の樣な歴史を有してゐるが相互に相互を研究し啓發すると云ふ大原則を政治上にうまく應用したものであります。尤も是は圏外の競爭の意味である。さうして、日本の作物が輓近四五年間に大變進歩したのは、全く此圏外の競爭心の結果ではなかろうかと思はれる。

　圏外の競爭は一方に於て反撥を意味してゐる。けれども其反撥の裏面には同化の芽を含んでゐる。反撥すると云ふ事が既に對者を知らねば出來ない事になる。對者を知る爲には一種の研究をしなければならない。其研究をして反撥し合つてゐるうちに對者の立場やら長所やらを自然と認めなければならない樣になる。其時にある程度の同化はどうしても起るべき筈である。文壇が此期に達した時には混戰の状態に陷いる。混戰の状態に陷ると一騎打の競爭より外になくなつて仕舞ふ。日本の文壇が既に混戰時代に達したか、あるひは達せんとしつゝあるかは讀者の判斷に任せて置きます。

　所謂文明社界に住む人の特色は何だと纏めて云つて御覽なさい。私にはかう見える。所謂文明社會に住む人は誰を捉まへても大抵同じである。教育の程度、知識の範圍、其他色々の資格に於て、畧似通つてゐる。だから誰かれの差別はない。皆同じである。が同時に一方から見ると文明社會に住む人程個人主義なものはない。どこ迄も我は我で通してゐる。人の威壓やら束縛を決して肯はない。信仰の點に於ても、趣味の點に於ても、あらゆる意見に於ても、甞て雷同附和の必要を認めない。又阿諛迎合の必要を認めない。してみると所謂文明社界に生息してゐる人間程平等的なるものはなく、又個人的なるものはない。既に平等的である以上は圏を畫して圏内圏外の別を説く必要はない。英國の二大政黨の如きは單に採決に便宜なる約束的の團隊と見傚して差支ない。又既に個人的である以上はどこ迄も自己の特色を自己の特色として保存する必要がある。

　文壇の諸公を所謂文明社會に住む人と見傚せば、勢ひ此性質を具して居なければならない。人間として此性質を帶びてゐる以上は作物の上にも早晩此性質を發揮するのが天下の趨勢である。所謂混戰時代が始まつて、彼我相通じ、しかも彼我相守り、自己の特色を失はざると共に、同圏異圏の臭味を帶びざる樣になつた曉が、わが文壇の歴史に一段落を告げる時ではなからうかと思ひます。

　　　　　　　　−明治四二、一、一『趣味』−

　

　　　コンラツドの描きたる自然に就て

　

　一月二十七日の讀賣新聞で日高未徹君は、余の國民記者に話した、コンラツドの小説は自然に重きを置き過ぎるの結果主客?倒の傾があると云ふ所見を非難せられた。

　日高君の説によると、コンラツドは背景として自然を用ゐたのではない、自然を人間と對等に取扱つたのである、自然の活動が人間の活動と相交渉し、相對立する場合を寫した作物である。是を主客?倒と見るのは始めから自然は客であるべき筈との僻目から起るのである。――まあ斯ういふのが非難の要點である。

　如何にも御尤な御説で、余は之に反對すると云はんよりは、寧ろ大賛成を表したい位である。先《せんだつて》もある人がコンラツドの樣なものを描いて何所が面白いかと聞いたから、余は、自然の經過は人情の經過と同じ樣な興味を以て讀む事の出來るものだ、普通のが人情小説なら、コンラツドのは自然情小説だと答へた位だから、余は日高君よりは一歩極端に走つて、自然と人間を對等に取扱ふ境を通り越して、自然を主、人間を客と見た面白味をさへ解してゐる積りである。

　現にタイフーンの如き又、舟火事（名前を忘れたり）の如きは單にタイフーンを寫し、單に舟火事を寫したものとして立派な雄篇である。首尾一貫前後相待つて渾然と出來上がつてゐる。何故かと云ふと、篇中に出て來る人間の心状、及び動作が悉くタイフーンと舟火事なる自然力を離れずに、何所迄も密接な關係を以て展化進行するから、自然と人間が打つて一丸となされて、偉大なる自然力の裏に副へ物として人間が調子よく活動するからである。

　所が同じ船と海の事を書たものでも、船長が眼病で、船の操縱が出來ないのを、眼の見える振でどこ迄も押し通す樣子抔になると、筋は海を離れて、船長自身の個人の身の上話しに移つて仕舞ふ。だから斯う云ふ場合にいくら海が活動しても夫程役に立たない。夫よりか船長の一身上の生活の行路の方が氣にかゝる、其方を旨く取り扱つてくれる方が極力海を描出するよりも大切であり、且讀者に有難いのである。余の見る所ではコンラツドは其調子を取らない。

　是ではまだ日高君は首肯されないかも知れないから尤も著しい例を擧げると、ゼ・ニガー・オブ・ゼ・ナーシツサスの樣なものである。是は一人の黒奴が、ナーシツサスと云ふ船に乘り込んで航海の途中に病死する物語であるが、黒奴の船中生活を敍したものとしては、如何にも幼稚で、出來が惡い。然し航海の描寫としては例の通り雄健蒼勁の極を盡したものである。だから、余の希望から云ふと、なまじひに普通の小説じみた黒奴といふ主人公の經歴はやめて、全くの航海描寫としたらば好からうと思ふのである。然らざれば入らざる風濤の描寫を割いて、主人公の身邊に起る波瀾成行をもう少し上手に手際よく敍したらば好からうと思ふ。

　普通の小説の樣な脚色がありながら、其方の筋は一向出來てゐないで、却て自然力の活動ばかり目醒しいので、余は之を主客?倒と評したのである。所が短かい談話で、國民文學記者にコンラツド丈けを詳しく話す餘地がなかつたので、つひに日高君の誤解を招くに至つたのは殘念である。

　要するに日高君の御説は甚だ御尤もなのである。けれども余のコンラツドを非難した意味、及び此意味に於て非難すべき作物をコンラツドが書いたと云ふ事も、日高君が承認されん事を希望する。

　此答辯は日高君に對してのみならず、世間の讀者のうちで、まだコンラツドを知らずして、余の説と日高君の説の矛盾丈けを見て其調和に苦しむ人の爲め草したのである。

−明治四二、一、三〇『國民新聞』−

　

　　　明治座の所感を虚子君に問れて

　

○虚子に誘はれて珍らしく明治座を見に行つた。芝居といふものには全く無知無識であるから、どんな印象を受けるか自分にも丸で分らなかつた。虚子も其所が聞きたいので、わざ／＼誘つたのである。尤も幼少の頃は澤村田之助とか訥升とかいふ名を?耳にした事を覺えてゐる。それから猿若町に芝居小屋が澤山あつたかの樣に、何となく夢ながら承知してゐる。しかも、あとから聞くと訥升が贔屓だつたといふ話であるから驚ろく。それは大方嘘だらうと思ふ。物心がついてからは全く芝居には足を入れなかつた。然し自分の兄共は揃も揃つて芝居好で、家にゐると不斷｜假色《こわいろ》抔を使つてゐるから、自分は此假色を通して役者を知つてゐた。夫から今日迄に團十郎をたつた一遍見た事がある許である。尤も新派劇は歸朝後三四遍見たが、決して好ぢやない。何時でも虚子に誘はれて行く丈で、行つたあとでは大いに辟易する位である。

○夫で明治座へ行つて、自分の枡へ這入つて見ると、たゞ四方八方ざわ／＼して色々な色彩が眼に映る感じが一番強かつた。尤も是は能と左程性質に於て差違はないが、正面の舞臺で女の生首を抱いたり箱へ入れたりしてゐるのに其所作には一向同情がない。萬事餘計な事をしてゐる樣に思はれる。丸で西洋人が始めて日本の芝居を見たら、かうだらうと想像される位妙な心持であつた。全く魚《さかな》の陸見物《をかけんぶつ》である。

○夫から段々慣れて來たら、漸く役者の主意の存する所も略分つて來たので、幾分か彼我の胸裏に呼應する或ものを認める事が出來たが、奈何せん、彼等のやつてゐる事は、到底今日の開明に伴つた筋を演じてゐないのだから甚だ氣の毒な心持がした。

○其特色を一言で概括したら、どうなるだらうと考へると、――固より色々あり、又例の如く長々と説明したくなるが――極めて低級に屬する頭腦をもつた人類で、同時に比較的藝術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に應ずるために作つたものを遣つてるからだらうと思ふ。例を擧げると、いくらもあるが、丸橋忠彌とかいふ男が、酒に醉ひながら、濠の中へ石を抛げて、水の深淺を測る所が、如何にも大事件である如く、又如何にも豪さうな態度で、又如何にも天下の智者でなくつちや、こんな眞似は出來ないぞと云はぬ許りに勿體振つてやる。其勿體振る所を見物がわつと喝采するのである。が、常識から判斷すれば誰にでも考へつく事で、誰にでも遣れる事で、遣つたつて仕樣のない事である。だから勿體振り方はいくら藝術的にうまく出來たつて、うまく出來れば出來る程可笑しくする丈である。それを心から感心して見るのは、どうしたつて、本町の生藥屋の御神さんと同程度の頭腦である。こんな謀反人なら幾百人出て來たつて、�ｺ川の天下は今日迄つゞいてゐる筈である。松平伊豆守なんてえ男も是と同程度である。番傘を忠彌に差し懸けて見たりなんかして、丸で利口振つた十五六の少年位な頭腦しか有つてゐない。だから、是等は丸で野蛮人の藝術である。子供がまゝ事に天下を取り競《くら》をしてゐる所を書いた脚本である。世間見ずの坊ちやんの淺薄愚劣なる世界觀を、さも／＼大人ぶつて表白した筋書である。こんなものを演ぜねばならぬ役者は嘸かし迷惑な事だらうと思ふ。あの藝は、あれより數十倍利用の出來る藝である。

○油屋御こん抔も無暗に刀をすり更へたり、手紙を奪ひ合つたり、丸で眞面目な顔をして、いたづらをして見せると同じである。

○祐天なぞでも、あれ丈の思付があれば、もう少しハイカラに出來る譯だ。不動の御利益《ごりやく》が蠻からなんぢやない。神が出ても佛が出ても一向差支ないが、たかが如是我聞の一二句で、あれ程の人騷がせをやるのみならず、不動樣迄騷がせるのは、開明の今日甚だ穩かならぬ事と思ふ。あれぢや不動樣が安つぽくなる許りだ。不動をあらたか〔四字傍点〕にしようと思つたら、もう少し深い事情を原因に置かなくつちや不可《いけ》ない。其上祐天がちつとも愚鈍らしくない。いやに色氣があつて、さうして黄色い聲を出す。のみならず無暗に泣いて愚痴ばかり竝べてゐる。あの山を上る所抔は一起一仆悉く誇張と虚僞である。鬘の上から水抔を何杯浴びたつて、ちつとも同情は起らない。あれを眞面目に見てゐるのは、虚僞の因襲に囚はれた愚かな見物である。

○立ち廻りとか、だんまり〔四字傍点〕とか號するものは、前後の筋に關係なき、獨立したる體操、もしくは滑稽踊として賞翫されてゐるらしい。筋の發展もしくは危機切逼といふ點から見たら、如何にも常識を缺いた暢氣《のんき》な行動である。若くは過長の運動である。其代り單なる體操若くは踊として見れば中々發達したものである。

○御俊傳兵衛は大層面白かつた。あれは他《ほか》のものゝ樣に馬鹿氣た點がない。藝術と、人情と、頭腦が、平均を保つてゐる。又渾然融合してゐる。幕の開いた時の感じもよかつた。幕の閉まる時の人物の位置態度も大變よかつた。さうして御俊も傳兵衛も綺麗であつた。只與次郎なるものが少々遣過ぎる。今一歩うち場に控へればあんな厭味は出ない筈である。

○仕舞の踊は綺麗で愉快だつた。見てゐて人情も頭腦も入らない。たゞ藝術的に眼を喜ばせる單純なものであるから、そこが自分には頗る結構であつた。

○最後に一言するが、自分は午後の一時から、夜の十一時迄明治座の中で暮した。時間から云ふと大變なものである。是は日本の芝居が安過ぎるか、又は見物が慾張り過ぎる證據である。實を云ふと自分はもつと早く濟む方が便利であつた。たゞ、まだあるものを途中で出るのは勿體ないから、消極的に慾張つて仕舞迄ゐたのである。自分と同感の人も大分あるだらうと思ふ。然し見物が積極的に、此長時間に比例する程慾張るが故、役者も已を得ず働らくとすれば役者は甚だ氣の毒である。同盟してもつと見物賃を上げるが好い。牛肉でも葱でも外の諸式はもつとぐつと高くなりつゝある。

−明治四二、五、一五『國民新聞』−

　

　　　虚子君へ

　

　昨日は失敬。斯う續け樣に芝居を見るのは私の生涯に於て未曾有の珍象ですが、私が、私に固有な因循極まる在來の軌道をぐれ出して、一寸でも陽氣な御交際《おつきあひ》をするのは全く貴方の所爲ですよ。それにも飽き足らず、此上相撲へ連れて行つて、それから招魂社の能へ誘ふと云ふんだから、貴方は偉い。實際善人か惡人か分らない。

　私は妙な性質《たち》で、寄席興行其他娯樂を目的とする場所へ行つて坐つてゐると、其間に一種荒涼な感じが起るんです。左右前後の綺羅が頭の中へ反映して、心理學に所謂反照聯想を起す爲かとも思ひますが、全くさうでもないらしいです。あんな場所で周圍の人の顔や樣子を見てゐると、みんな浮いて見えます。男でも女でも左も得意です。其時ふと此顔と此樣子から、自分の住む現在の社會が成立してゐるのだといふ考が何處からか出て來て急に不安になるのです。さうして早々自分の穴へ歸りたくなるんです。

　そのときは未だ好いが、次に屹度自分も人から見れば、矢つ張り浮いた顔をして、得意な調子を振舞はしてゐるんだらうと氣が付くのです。そうすると如何にも自分に對して面目なくなります。其次には、自分の浮氣や得意は此場限りで、もう少しすると平生の我に歸るのだが、外の人のは、是が常態であつて、家へ歸つても、職務に從事しても、あれで遣つてゐるんだと己惚れます。すると自分はどうしても此所に居るべきではないとなる。宅《うち》へ歸つて、一二時間黙坐して見たいなんて氣が起ります。

　其の癖周圍の空氣には名状すべからざる派出な刺激があつて、一方からいふと前後を忘れ、自我を没して、此派出な刺激を痛切に味ひたいのだから困ります。其意味からいふと、美々しい女や華奢な男が、天地神明を忘れて、當面の春色に醉つて、優越な都會人種を以て任ずる樣や、或は天下をわがもの顔に得意に振舞ふのが羨ましいのです。さうかと云つて此人造世界に向つて猪進する勇氣は無論ないです。年來の生活状態からして、私は始終山の手の竹藪の中へ招かれてゐる。のみならず、此竹藪や書物のなかに、丸で趣の違つた巣を食つて生きて來たのです。其方が私の性《しやう》に合ふ。それから直接に官能に訴へる人巧的な刺激を除くと、此巣の方が遙かに意義がある樣に思はれるんだから、四邊の空氣に快よく耽溺する事が出來ないで迷つちまいます。こんな中腰《ちゆうごし》の態度で、芝居を見物する原因は複雜の樣ですが、其五割乃至七割は舞臺で演ずる劇そのものに歸着するのかも知れません。あの劇がね、私の巣の中の世界とは丸で別物で、しかも餘り上等でないからだらうと思ふんです。かう云ふと、役者や見物を一概に罵倒する樣でわるいから、一寸説明します。

　此間帝國座の二宮君が來て、あなたの明治座の所感と云ふものを讀んだが、我々の神經は痲痺してゐる所爲だか何だかあなたの口にする樣な非難は到底持ち出す餘地がない、芝居になれたものゝ眼から見ると、筋なぞはどんなに無理だつて、妙だつて、丸で忘れて見てゐますと云ひました。成程それが僕の素人である所かも知れないと答へた樣なものゝ、私は二宮君に斯んな事を反問しました。僕は芝居は分らないが小説は君よりも分つてゐる。其僕が小説を讀んで、第一に感ずるのは大體の筋即ち構造である。筋なんかどうでも、局部に面白い所があれば構はないと云ふ氣にはとても成れない。從つて僕が如何程芝居通になつた所で、全然君と同じ觀察點に立つて、芝居を見得るかどうだか疑問であるが、其邊はどうだらう。――話は要領を得ずに濟んで仕舞つたが、私には矢ツ張り構造、譬へば波瀾、衝突から起る因果とか、此因果と、あの因果の關係とか云ふものが第一番に眼につくんです。所がそれがあんまり善く出來てゐないぢやありませんか。あるものは私の理性を愚弄する爲に作つたと思はれますね。太功記などは全くさうだ。あるものは平板のべつ、のつぺらぽうでせう。楠なんとかいふのは、誰が見たつてのつぺらぽうに違ない。あるものに至つては、私の人情を傷けようと思つて故意に殘酷に拵へさしたと思はれる位です。きられ與三郎の――そう、尤も是は純然たる筋ぢやないが、まあ殘酷な所がゆすりの原因になつてゐるでせう。

　生涯の大勢は構はない其日々々を面白く暮して行けば好いといふ人があるやうに、芝居も大體の構造なんか眼中に置く必要がない、局部局部を斷片的に賞翫すれば可いといふ説――二宮君のやうな説ですが、まあ其説に同意して見たらどんなものでせう。

　夫でも賞翫は出來ますが、それを賞翫するに、局部の内容を賞翫するのと、其内容を發現する爲に用ふる役者の藝を賞翫するのと、殆んど内容を離れた、内容の發現には比較的效能のない役者の藝を賞翫するのと三つある樣ですね。

　斯うなつても芝居の好な人は、矢つ張り内容に重きを置いて居ない樣ぢやありませんか。お富が海へ飛び込む所なぞは内容として、私には見るに堪へない。演《や》り方が旨いとか下手《まづ》いとか云ふ藝術上の鑑賞の餘地がない位厭です。中村不折が隣りにゐて、あのとき藝術上の批評を加へてゐたのを聞いて實に意外に思ひました。所が芝居の好きな人には私の厭だと思ふ所は一向應へない樣に見えますがどうでせう。

　光秀が妹から刀を受取つて一人で引込む所は、内容として不都合がない。だから藝術上の上手下手を云ふ餘地があつたのです。あすこは貴方がたも旨いと云つた。私も旨いと思ひます。たゞし、あすこの藝術は内容を發現する爲めの藝術でしよう。

　第三の、内容とは比較的關係のない藝術になると、妙ですな。内容を賞翫して好いんだか、藝術を賞翫して好いんだか分りません。十段目に、初菊が、あんまり聞えぬ光よし樣とか何とかいふ所で品《しな》をしてゐると、私の隣の枡にゐた御婆さんが誠實に泣いてたには感心しました。あの位單純な内容で泣ける人が今の世にもあるかと思つたら難有かつた。我々はもつとずつと、擦れてるから始末が惡い。と云つてあすこが詰らないんぢやない。可なり面白かつた。けれども其面白味はあの初菊といふ女の胴や手が蛇の樣に三味線につれて、ひな／＼するから面白かつたんで、人情の發現として泣く了簡は毛頭なかつたんです。此點に於て私と芝居通の諸君と一致してゐるかどうだか伺ひます。御婆さんに賛成なさるか、私に同意なさるかで事は極ります。

　忘れました。局部内容發現の藝術で尤も旨かつたのは蝙蝠安ですな。あれは旨い。本當に出來てる。ゆすりをした經驗のある男が正業に就て役者になつたんでなければ、あゝは行くまいと思ひました。顔もごろつきさうな顔でせう。あれが髭を生やして狩衣を着て楠正成の家來になつてたから驚いた。

　次に内容と全く獨立した。と云ふより内容のない藝術がありますが、あれは私にも少々分る。鷺娘が無暗に踊つたり、それから吉原仲の町へ男性、中性、女性の三性が出て來て各々特色を發揮する運動をやつたりするのは可《い》いですね。運動術としては男性が一番旨いんださうですが、私はあの女性が好きだ、好い恰好をしてゐるぢやありませんか。それに色彩が好い。

　色彩は私には大變な影響を及ぼします。太功記の色彩などは甚だ不調和極まつて見えます。加藤清正が金釦《きんぼたん》のシヤツを着てゐましたが、可笑しかつたですよ。光秀のうちは長屋ですな。あの中にあんな綺麗な着物を着た御嫁さんなんかゞゐるんだから、勿體ない。光秀は何故百姓みた樣に竹槍を製造するんですか。

　木更津汐干の場の色彩はごちや／＼して一見厭になりました。御成街道にペンキ屋の長い看板があるから見て、御覽なさい。

　楠一族の色彩は甚だよろしい。第一調和してゐる樣です。正成の細君は品があつてよござんす、あの子も好い。みんな好い色だ。

　私の厭な所と、好な所を性質から區別して竝べて御覽に入れました。是で私が芝居を見てゐる時の順慶流の氣持が少し説明が出來た積りですが、まだこの外にも中々あります。それは他日御面會の節に讓ります。不折は男性、女性、中性を見ずに歸りましたね。不折は奴的《やつこてき》の畫が好きなんだらうと思ひます。凡鳥君によろしく。以上。六月十二日

−明治四二、六、一五‐一六『國民新聞』−

　

　　　太陽雜誌募集名家投票に就て

　

　新聞や雜誌でよく藝人や美人の投票をやる事がある。是は餘程以前から行はれた樣で、現に余は小供の時、是等の投票の結果に支配せられて、當選者を實際夫丈の價値があるやうに思つて、私かにえらいものだと考へてゐた時期もあつた位である。成長して見ると、多くの場合に於て此投票なるものが、一種の運動から出來上つてゐるといふ事が分つた。是等の場合に於て、投票を受けるものゝ性質は、大抵人氣を大切にする家業か、もしくは人氣を苦にする虚榮家である。だから營業上の必要もしくは心理上の滿足の爲め、當選の名譽を擔ひたくなる。從つて色々な工面をして當選されやうとする。然るに投票なるものは、勝負を決する尤も簡單な方法で、何等の内容なき白紙の數で運命が決せられるのであるからして、此際の票券は丁度紙幣の效用を帶びて來る。さうすると被投票者は自己の眞實價で競爭する必要がなくなつて來て、只表面上の數字で競爭さへすれば濟む譯になるから、其競爭は内容の優劣ではなくつて、金力の勝負に歸着して仕舞ふ。誰も金を出して白紙を買ひたがるものはないけれども、投票の結果が、直接に自家の生活に影響を及ぼすか、或は本能的とも見られべき弱點に至大な關係を及ぼす以上は、――又其性質が金力に換算せられる事を許す以上は――彼等は已を得ず、或は喜んで買收の策を回らすのが當然である。從つて現今投票などを募集する新聞雜誌は其主意の何たるに係《かゝ》はらず、此口實のもとに財幣を吸收するものと一概に見做されて仕舞ふ。中には眞面目なのがあるに相違ないけれども、其手段が右の如き特長を有してゐるのだから、此手段即其主義を代表するものと認定されるのは已を得ない。しかも新聞雜誌が一種の營業である以上は、ある場合にはかゝる方針を取るのも（營業としては）正當である。

　すると金で投票を買ふのも尤もな事で、金で投票を賣り付けるのも尤もである。實際問題として考へると、――生活問題虚榮問題もしくは營業問題として考へると、是程尤もな事はない。但し�ｺ義問題から云へば、雙方共不尤である。雙方共に信用がないからである。他《ひと》を馬鹿にしてゐるからである。詐欺を働らいてゐるからである。

　そこで此投票の手段やら、此投票の結果やらを、どつちの問題として見るのが好からうと云ふ事になる。つまり見方は二つあるけれども實行する際には、どつちか片付けてかゝらなければ、動きが取れないんだから、此兩面ある見方の一方に眼をつぶつて、一方丈で推して行くのは事實の發展が證明してゐる。從つて事實として發展させる前に、どつちの心持で取り掛るべきだらうと云ふのである。かう云ふと道學者から叱られるかも知れないが、�ｺ義と云ふものは一般の生活状態に安慰幸福を與へるのが目的であるからして、生活其物が根本的に杜絶せらる場合には到底顧慮する事は出來ないものである。日露戰爭のとき雙方が�ｺ義問題で戰爭を始めたら小銃一つすら放す事が六づかしい譯である。從つてある事件を�ｺ義的に取り捌く爲には、しか取り捌く丈の餘裕がなければならない。生活状態がそれ程壓迫を受けて居らんと假定しなければならない。もし生活に相當のユトリ〔三字傍点〕があるにも係はらず、どこ迄も實利問題で押し通したら、押し通す方が強《がう》つく張りである。若し明日の命も危ういといふ場合に、版行《はんこ》で押した樣に�ｺ義問題を逼つたら、逼まられたものは可哀相である。嘘を吐いても、詐欺をしても、�ｺ義の眼は塞いでやるべきものである。

　日本の現在の状態は、一般生活にユトリ〔三字傍点〕がないので、色々の問題を、�ｺ義の方面から解釋しない人の多く出て來るのは御互に悲むべき現象であるが、是も前の樣に考へて見ると、單に悲しむべき現象にとゞまつて、あながち強《がう》つく張計りが寄り合つて國家を建設してゐると斷言する必要もないだらう。たゞ御互の運が惡くて、せち辛い世に生れたと諦らめるより仕方がない。

　だから太陽雜誌の投票も、一般投票と見做され易いのは已を得ない。よし見做されても今日日本の状態に於て、太陽雜誌たるものは毫も恥づる所はない譯である。當選の諸公も其通り。金力で萬、二萬の點數を得たと思はれても一向差支ないと思ふ。

　たゞ「太陽」投票の一般と異なる所は、博文館の信用が比較的堅固なのと、當選される人が、未來の總理大臣とか、未來の外務大臣とか云ふ、金を使つて投票される程の必要のない資格者である事である。たゞ文藝家及び未來の大關君抔の投票に至ると、一般藝人の投票と紛れ易い。といふものは、我々文藝家は、取りも直さず、高等藝人である。一方から見れば人氣家業である。だから生活の必要上から云つても當選を利益とすべきである。のみならず、文藝家は皆虚榮心で活動してゐるもの計りである。（文藝家諸君のうちで、もし抗議を申し込まれる方があれば、申し込まれた方丈は取り除く）其點から見ても當選は滿足の至である。だから普通の原則に從つて、此部の投票には金力の競爭が始まるべきが至當である。所が文藝家は申し合せた樣に貧乏である。漱石が一萬圓で家を作ると聞いて驚ろく樣な連中ばかりである。だから手の出し樣がない。太陽を一萬部買ふには二三千圓の金が入る。そんな金があれば原稿を書かずに當分寢て暮らせる譯である。其上博文館の投票が全然自己の未來を支配するに足る程有力とも思へない。のみならず我々文藝家は普通の藝人より、より以上の教育を受けてゐる。此教育のうちには、前申した物を�ｺ義問題として觀る眼を含んでゐる。是等の原因が合併して、文藝家は金力の競爭は出來なかつた、又遣らなかつたらう。博文館の坪谷君が來て、此事丈を特に證明された所を見ると、少なくとも金力競爭の痕迹はなかつたものと認めて差支ない。

　さうすると、此投票の結果は公平なものでなくてはならぬと云ふ結論に到着するかも知れない。所が自分は平生から投票に就て一種の主義を抱いてゐる。五月初め「太陽」の寄贈を受けた時、自分は自分の考を認《したゝ》めてこれを「朝日新聞」に掲載した。文句は左の通り

である。

　　二三日前太陽雜誌第五月號の寄贈を受けた。見ると、同誌上にかねて募集しつゝあつた「名家投票」の結果が發表になつてゐる。さうして、そのうちの文藝家といふ名の下に、余の姓名が見えた。余は今日迄太陽雜誌の讀者でなかつた爲め、殘念ながら此投票募集の主意を知ることが出來ないが、一般投票と云ふものに對しては常に善くないことだと云ふ考へを抱いてゐる。それで我朝日紙上を借りて、一應余の意見を述べる。

　天下に投票の種類も多からうし、又其主意も澤山あらうが、如何なる場合でも、其結果は優劣の相場を定める事に歸着して仕舞ふ。然るに文明人は決して自己を以て、他よりも小なり若くは下等なりと肯ふ程に英雄崇拜の惰性を帶びて居らぬものである。萬一他を以て己れの上に置くときは、必ず己れの自由意志によつて、相當の根據を、強ひられざるわが一隻眼に求める外はない。然るに投票なるものは、己れの相場を、勝手次第に、無遠慮に、毫も自家意志の存在を認める事なしに他人が極めて仕舞ふ、多數の暴君が同盟したと同じ事である。是を公平と云ふのは、他を自分よりえらいと認めた場合か、然らずんばたゞ投票するものゝ言草で、投票されるものは、自分の主意の少しも貫徹しない點から見て、尤も不公平な運動（ある場合には）と號して差支ない。議會の投票抔も公平だから遣ると思ふのは間違である。あゝしなければ決着が付かないから仕方なしに不公平な事を敢てしてゐるのである。從つて今日開明の世に於て、人々自意識を有して、己れを評價し得る自由を與へられつゝある以上は、成るべく此自由を奪はない樣にするのが正當である。投票は多數の聲を借りて間接に此自由に壓迫を加へる手段になり易い。だから已を得ぬ場合の外は遣らん方が好からうと思ふ。

　余は少年の頃よく、西郷隆盛と楠正成とどつちが偉らからうの、ワシントンとナポレオンとどつちが優れてゐるだらうのと云ふ質問を發して、年寄を困らせた事がある。今考へて見ると優劣なんか到底分りやしない。文藝界に於ても其通りである。余は「太陽」の投票結果によると中村不折君より上に居る。其中村不折君は幸田延子さんより上に居る。さうして三人共皆門違である。此三人が寄つて御互の價値は斯う極つたさうですが、果してさうでせうかと相談したつて纏まる譯のものぢやない。幸ひに余は點數が多いから、是が公平だと主張するかも知れないが、中村君がどうして黙つてゐるものか。つまる所は、余の名聲は、幾分か中村君の名譽を削つて來て、さうして自分の上に食付けた傾きがあるから、――しかも何等の理由もないのに削つて來たんだから、中村君は承知しない譯である。幸田さんも同じ事だらうと思ふ。

　同じ當選者の内に島村抱月君がゐる。是は略同商賣だから優劣が付け安いと考へる人があるかも知れない。それが大間違である。全體人に對して誰と誰とは何方がえらい抔と聞くのは必ず、其道に暗い素人である。素人は眞暗だから、何でも自分に覺え安い樣に無理無體に物の地位關係を知りたがるの結果として、かゝる簡單極まるとば〔二字傍点〕口の返答を得て滿足するのである。つまりは自分は到底知る權利のない問題に首を出して、知つたか振りをしたがるので、要するにどつちがえらいのかと活版で極めて貰はなくては不安心なのである。

　同じ文藝でも多趣多樣である。文藝上の作物も亦多趣多樣である。團子を串で貫いた樣に容易く上下順序が付けられる譯のものではない。苟くも筆を執て文壇に衣食する以上は、余の如きものでも、相當の自信と抱負のあるのは勿論である。その自信あり抱負ある點に於ては敢て何人にも讓らぬ丈の覺悟は己惚にもせよ有してゐる。けれども、（西洋の大家は暫らく云はずとして）現代日本の諸作家たるもの、何れも同樣同程度の覺悟はある筈である。のみならず余は實際是等の諸君の如何なる作物に接しても、到底余の及ぶ能はざる點を認め得ない事は少い、して見ると我々は畢竟平地の上に散點すべき人間である。將棋の駒の樣に積みかさねらるべきものでは無からう。人の肩の上に乘るのは無禮である。且危險である。人の足をわが肩の上に載せるのは難儀である。かつ腹が立つ。何方《どつち》にしても等級階段をつけられて一直線に竝ぶべき商賣とは思へない。相撲は別物である。あれは相手があつて勝負を付けなければ立ち行かない家業だから仕方がない。文藝家の作品は單獨な作品として立派に通用する。もし比較する必要があれば其道の人が出て相互の複雜な特長を明かにすれば夫で濟む。文藝の批評家は相撲の行司の樣に勝負を名乘る必要は毫もない。

　余は太陽雜誌の讀者ではないが、太陽雜誌及び記者に對して決して惡意を抱藏するものではない。太陽雜誌及記者が四ケ月の日子を費して、廣く私なき投票を募られたのみならず、十數名の當選者へ金盃贈與の計畫さへ立てられたのは種々の方面から見て賞讃に價する美擧とは認めるけれども、以上の理由で、遺憾ながら、余の平生の主義と反するから、折角の光榮を擔ひながら、その紀念とも見るべき贈品を受ける事が出來ないのを殘念に思ふのである。

　余は、余若くは余の作品に對する同情の紀念として、今日迄贈與の物品を受た事は?ある。是等の人は皆當初より余一人を眼中に置て眞直に余を目がけたのである。從つて彼等贈與の品は甲より乙を優れりとし、若くは丙を丁の上に置く御褒美の意味を毫も含まざる好意の發現であつた。又褒己貶他の痕迹なくして、只余が好きである。余の作物が好きであるからして呉たもの許りである。だからして余は快よく貰ふ事が出來たのである。

　太陽雜誌の寄贈を受た後、余は此意見を發表する事の、或は穩當ならざるかを疑つた。又同雜誌に對して禮を缺きはせぬかとも懸念した。けれども是は余の眞直な考へである。さうして其眞直な考へを公にするのが此際一般の爲にも自分の爲にも善いと信じた。夫で思ひ切つて、これを朝日の紙上に載せる事にした、萬一此數言が太陽雜誌の所信及び所期に反するのみならず、同雜誌の折角な計畫に寸毫の煩ひを及ぼすならば余は謹んで同雜誌に對して謝罪する覺悟である。

　自分の所論新紙掲載の翌日、坪谷さんが雨を冒して來訪されて、あなたの考は昨日新聞で見たが、此方の計畫もある事だから、金盃丈は受けたらどうだらう。もし人が何とか聞いたら坪谷が來て無理に押し付けて行つたと答へれば差支なからうとの親切な勸誘であつた。其時自分は坪谷さんに自分の突飛な行動を散々詫びて、「金盃丈は不可《いけ》ませんよ。あんな事を書いて、投票には反對だが、金盃の方はもらふと云ふ事になると、私の主意が立たないから」と御氣の毒だつたけれども、とう／＼謝絶した。それでも坪谷さんが首を傾げてゐられるので、「どうでせう。夏目漱石といふ變人がゐて、たつた獨り頑固を云つて、金盃を貰はなかつたといふ紀念に、私の分丈を博文館へ保存して置いて下すつたら」といふ樣な妙な説迄持ち出したが、坪谷さんは矢つ張り納得されない。自分一人が金盃を受けない爲めに、折角の計畫に狂ひが出來る事だから、自分は坪谷さんに對して、甚だ濟まない氣がした。がもと／＼自分の主義から出た事が、「太陽」に對しても、坪谷さんに對しても、其他の同誌記者諸君に對しても、別段惡感情を抱いてゐる譯でも何でもないのだから、では、いつそ大びらに投票反對の意見を、「太陽」の次號に載せて、當選者に關する議論、傳記、等の中へ加へたら宜からうと云ふ事に相談が極つた。此篇はさういふ因縁で金盃を貫はない罰として書いたのである。寫眞も其時坪谷さんに約束をしたものである。

　　　　　　　　　−明治四二、六、一五『太陽』−

　

　　　「額の男」を讀む

　

　「それから」を脱稿したから取あへず前約を履行しやうと思つて「額の男」を讀んだ。讀んで仕舞つて愈批評をかく段になると忽ち胃に打撃を受けた。さうして二三日の間は殆ど人と口を利く元氣もない程の苦痛に囚へられた。漸く床の上に起き直つて、小机を蒲團の傍まで引張つて來て胃の膨滿を抑へながら、原稿紙に向かつた時は、もう世の中が秋の色を帶びてゐた。時機を失して著者に對しては甚だ濟まないと思つたが、書かないよりは増しだらうと己惚れて所感を記す事にした。

　「額の男」の著者が普通の小説家を以て任ずる人でない事は云ふまでもない。從つて尋常の小説を書く積りで、「額の男」を書いたのでない事丈は誰の目にも明かである。こゝ迄は此の書を一寸二三頁でも引剥がしたものにはすぐ氣がつく。けれども其れ以上の問題になると中々分らない、「額の男」を通讀して其の批評を書くつもりの余にも述作上にあらはれたる如是閑とは如何なる人で、如何なる意味で此の書を著はして、又何が故にかゝる調子の變つたものを公にして、又何が故に斯う云ふ變り方を選んだものであるか甚だ不明瞭である。それ所ではない。此書の普通の小説と變つてゐる所はどこが特色だらうと思つて、一寸人に説明したくても容易に判然たる即答が浮んで來ない位である。

　して見ると、此の書が普通の小説と、どういふ風に違つてゐるといふ箇所を擧げる丈でも既に一角《ひとかど》の批評である。決して無益な事とは思はれない。それを極粗末ながら一言で述べて見たい。

　普通の小説に於て興味の中心となるものは篇中人物の關係甲が如何にして乙に移り行くかを讀者に指示する所にある。此の關係甲が移らんとして移り得ぬ場合や、又は乙に行くべくして却て丙に行く場合や、又は甲から動いて再び甲に戻る場合は皆此のうちに含まれる特別の場合にある。偖此甲が乙に移るには昔風の運命といふものが手傳ふかも知れない、又今の人が唱へる神秘的な要素が働くかも知れない、或は偶然な外界の事情に制せられるかも知れない、若しくは篇中人物の主義の有無、教育の高低、地位の上下と其の意志の強弱とによつて制せられるかも知れない。

　此れ等の要素が入り亂れて、人物がどう動くかといふ有樣を、篤と納得させる樣に書き卸して行く所に、讀者の興味が集中して來るのである。

　して見ると普通の小説では、移る〔二字右○〕と云ふ事が主眼になる。如何に旨く移る、如何に自然に移る、如何に讀者を啓發する樣に移る、如何に讀者を驚かす樣に移る、如何に讀者の頭を屈伏させる樣に必然に移る、――是等が此の興味を圍繞する諸條件である。

　所が「額の男」を見ると此の移るといふ事が殆どない。篇中人物の關係は始めから終り迄略同樣である。よし多少の變化があつても、書中に書いてある諸條件から因果律で推し轉がされて移つたものではない。頁以外から抛げ込まれた外發的の因數で移つて居る。だから「額の男」の興味は、普通の小説のそれの如く、篇中人物の關係甲が乙に移る所に存すとは云はれない。

　では「額の男」の興味は何處にあるか、余の見る所では、全く篇中人物の意見《オピニオン》其のものゝ興味である。篇中人物の意見《オピニオン》と云ふ意味は、まあ斯うである。――普通の小説の中で第一流の作と稱せられるものゝうちでも篇中人物の抱いてゐる意見《オピニオン》丈拾つて讀むと極めて詰らないものがある。それはその筈で、隨分下等社會の勞働者や、山の中の無教育ものが雄篇大作の主人公にならんとは限らぬからである。必竟は以上述べた理由で、普通の小説の面白味は篇中人物の意見《オピニオン》で左迄に支配されないからそんな事は第二義第三義に落ちて仕舞ふのである。だから若し昔風の婆さんや姐さん、もしくは裏店の神さん、もしくは黒人上りの女房抔を捕へるとすると、其の會話の内容は自然貧弱でなければならない。唯其の貧弱な會話が、前後相竢つて始めて人間として有意義な一種の響を傳へるからそれで凡てが償はれるのである。

　もし其の斷片的の意見《オピニオン》（會話にあらはれたる）を拾つて其の價値を穿鑿したら實に馬鹿氣たものになつて仕舞ふ。

　所が「額の男」に出て來る會話――しかも此會話は常に人物の意見《オピニオン》を代表する以外に何事をも進行させてゐないが此の會話は會話としてそれ丈に色彩がある。無論｜意見《オピニオン》としての色彩だから他の色彩と混同してはならんが、あんなに社會上、人事上、學問上に於て意見《オピニオン》を持つた人が寄り合つて、さうして始めから仕舞迄｜意見《オピニオン》の交換を遣つて居る小説はあるまい。さうして其｜意見《オピニオン》が悉く奇拔なひねくれたもの許りである。眼新しい耳新しいもの許りである。「額の男」の興味は全く此連續した一調子變つた意見《オピニオン》から出る刺激だと云はなければならない。

　余は此の連續不斷の意見《オピニオン》を逐一に讀みながら、深く如是閑君の才氣の換發縱横なるに感服した一人である。他の作家をして片言隻句すら容易に纏めしむる餘裕を與へぬ先に如是閑君は滔々として常人の思も寄らぬ事を、五頁でも六頁でも繋げて行く、實に驚くべき才力である。

　然し一言如是閑君に忠告したい。あの意見《オピニオン》は、世の中を傍觀する、頭腦的《インテレクチユアル》な遊藝に似た所がある。ヰツトは無論あり餘る程あるが、惜いかな眞正の意味に於ての眞理、摯實なる觀察としての概括とはどうも受けとり惡い。

　いくら社會上人事上重大な問題に渉つても、派出で華奢な感が先へ立つてならない。無論さう云ふ場所も場面も必要には相違なからうが「額の男」はあまりに其の色彩で蹂躙されて居る。

　だから讀者の方では、難有い教訓を得て啓發されたと思ふよりも、やあ又面白く地口《ぢくつ》たな才子だなと感ずる。又警句を吐いて人を驚かさうとして居るものと考へる。

　尤も此警句の中には決して安つぽいもの許はない。且君の學問の範圍、知識の領域に至つては我々老生をして眞に感服せしむる丈の素養は十分認められるが如何にせん一面から話すと以上の弊を帶びてゐる樣な氣がするから已むを得ない。

　もう一つ申したいのは、――普通の小説でも篇中の人物が中々｜意見《オピニオン》家である場合がある。其の意見《オピニオン》家の場合が單に意見《オピニオン》として興味を惹く場合は如是閑君の場合と同一であるが、其の時は此の意見《オピニオン》なるものは單に裝飾的道具に使用されてゐる。だから小説の本義とは殆ど没交渉である。最前《さいぜん》述べた、小説の興味の中心に影響してくる樣な意見《オピニオン》になると、單なる意見《オピニオン》では濟まなくなる。其の人物の意見《オピニオン》が篇中人物の關係を動かして來なくてはならなくなる。言葉を換へていふと、意見《オピニオン》が人物の頭の奧へ飛び込んで其處で、一仕事しでかさなければ效目《きゝめ》がなくなつてくる。斯うなつた時に、平面で敍述された意見《オピニオン》が漸く立方體に變化して奧行のある樣な心持がするのである。余は如是閑君の篇中の人物の取り／”＼に面白い意見《オピニオン》を面白いと思つたから讀んだにも拘らず其｜意見《オピニオン》は遂に仕舞迄平面でのべつに平たい感じがした。それは全く此の原因だらうと思ふ。然し既に普通の小説でないと斷りながら、普通の小説の資格を以て再び「額の男」に向ふのは我ながら矛盾である。たゞ是は如是閑君の御參考に申す迄である。

　以上は「額の男」を讀んだ時の感じを後から考へて理窟を附したものである。斯う明らさまに理窟を附けて見ると、如是閑君に濟まない樣な失禮な箇條も出て來たが仕方がない。我々批評家は好い加減な事を云つて作家に媚びるよりも、自分の思ひ通りを、作家の前に披瀝して、潔く罪を作家に得た方が自分に對しても作家に對しても義務ある所爲と考へる。

　夫れから余も批評もやるが創作もやる。此の「額の男」の批評中で移して余自身の小説の上に持つて來て非難しても構はないものもあるかも知れない。如是閑君も其の邊は御容赦あつて、一體御前の小説は何うだ抔と遣り込められざらん事を希望する。

　　　　　−明治四二、九、五『大阪朝日新聞』−

　

　　　「夢の如し」を讀む

　

　四方太君の「夢の如し」はホトヽギスに出た時分に一應は通讀して面白いと思つた。殊に其初の方を面白いと思つたが、其後纏めて一卷の書物にするといふ話を聞いて、書物にして通讀したら其興味が或は削減せられはしまいかと、餘所ながら心配した。是は何故といふ説明よりも、寧ろ其企てを聞いた時、はたと感じた事なのだから、其通りを今正直に白状するのである。それも只の白状なら四方太君に取つて却て迷惑かも知れないが、此白状の裏には、想像の掛念が實際の鑑賞の爲に見事に打ち消されたといふ、朋友としては愉快な事實を含んでゐるのだから、殊更に夫を公けにするのである。

　實は「夢の如し」が本になつて出たら、批評をしようと云ふ約束であつた。處が約束丈で本がまだ出來上らない先に旅行をして仕舞つた。比較的長い旅行であつたので、「夢の如し」の評も時機が後れたらうから、どんなものかと思つて歸つて來た。すると留守中に溜つた西洋の雜誌やら書物やら、手紙やらが氣を腐らす程積もつてゐて、何時是等に對する義務を果す事が出來るだらうと、竊かに自分の課程を自分から狂はした無頓着を後悔し始めた。小冊子「夢の如し」は實に此書冊堆積の間に潜んでゐて、人の注意を受ける迄は、余自身にも何處にあるか氣が付かなかつたのである。

　余は此非廣告的な冊子を二三日前漸く手にするの閑を得た。さうして、近來にない一種の趣を把持しつゝ、長い夜を燈火に親しみ盡す事を得た。心意雜亂の際はからずも「夢の如し」に逢着して、此境地に住する事を得たのは余の深く四方太君に感謝する所である。

　「夢の如し」の好い所を一言にして云ふのは少々六づかしいが、強ひて云へと云はれゝば、故意《わざ》とらしい所が丸でないと答へたい。普通の文學者の回想録とか追憶記といふものは、みんな、己は文學者だぞといふ覺悟で書きに掛る。即ち普通の人間ぢやない、文學者と申す普通の人間以上の種類に屬するものであるといふ自覺で筆を執つてゐる。さうして其自覺がいやに頁ごとに付け廻る。何處を讀んでもどうだ文學者らしからうと云ふ顔が出て來る。其顔が御白粉をつけたり、隈をとつたり、甚だ氣障である。從つて泣かないでも好い所に涙を零す。性慾問題を引張り出さないでも關《かま》はないのに、何だとか蚊んだとか流行の文字を使ひたがる。そんなに景色に憧憬しない方が結構だのに一人で憧憬したがつてゐる。甚だしきに至るとツルゲネーフと云ふ字を使はなければ文章にならないと思つてゐる。或は技巧を避ける爲と力《りき》んでゐる。さうして西洋人から衣服《きもの》を借りて來て、是が本來の面目だと云つてゐる。人のものを借りて來て自分のものらしくするのは、是亦悉く技巧の力であると云ふ事には全く氣が付かない。

　我は普通の人間以上の文學者であると自覺して書いたものは、甚だ厭味なものである。（此自覺を離れて、實際普通以外の人が普通以外の事を書くのは仕方がない）。四方太君の「夢の如し」は毫も此厭味を帶びてゐない。たゞ昔しの幼少の時の事が其通り、衒はず、慢《たかぶ》らず、ぶらず、がらず、平々淡々と書いてある。だから其空氣が如何にも質實で、單純で、可憐で結構である。其點に於ては、恐らく四方太君の人間以上に枯れたものだらう。

　「夢の如し」の中にある事實其物は、余の如く東京に生れたものには非常に興味がある。又四方太君に類似の境遇を經過したものにも、愉快なる過去の思ひ出であらう。是等の材料の趣味ある事に就て、もう少し論じたいがあまり長くなるから、これで止めにする。只「夢の如し」とはよく付けた題であると申して置きたい。

　余は甞て四方太君の文字を評して白紙文學だと罵倒した事がある。今では此罵倒を逆まにして賞讃の辭として「夢の如し」の一篇に呈したい。余の如き色氣の多いものは、ことに白紙文學の價値を認めなければならない。四方太君は「長靴」といふ短篇と、それから其續篇を書いた。其續篇を朝鮮の汽車の中で讀んで大いに失望した。其失望の反動として「夢の如し」が猶更旨い樣に思はれる。

　　　　　　−明治四二、一一、九『國民新聞』−

　

　　　日英博覽會の美術品

　

　上野に行つて日英博覽會に出る美術品を見たが、其點數の少ない事は驚く程であつた。あの位の物を大きな建物のうちにちよんぼり陳べて、是が東洋美術を代表したものだと英人に誇る事は到底出來ない。事務官の話しでは、此外に六十點程大阪方面からの出品が加はつた上に、文部省の買上品を六點丈打込で、始めて送り出すのださうであるが、よし夫丈増した所で總體の量に於て大した變化のある樣にも思へない。當日陳列室を無雜作に通り越して、何だかあつけなかつたと感じたものは、恐らく自分一人ではあるまい。陳列室は僅に二つしかなかつた。さうして其一つは個人の客間程に狹いものであつた。

　自分は斯な事に不案内な人間だから、實際の事情は能く知らないが、たゞ此陳列室を通り拔けた丈では、今回の博覽會が美術の方面に重きを置いて計畫されてゐなかつた樣にも思はれる。それが或は眞相かも知れない。然しいくら大袈裟に美術の出品を奬勵したつて、矢張り物足りない樣な顔をして陳列室を出るのが、我々の運命ぢや無からうかと考へ付いたら、大分元氣が沮喪した。成程奬勵やら勸誘やらの結果｜一昨日《をとゝひ》自分の見た十倍もしくは百倍の美術品を海外の博覽會に送り出す方針は、時日さへあれば容易に立て得られるだらう。けれども其十倍なり百倍なりの陳列品が竝んだ所を眼中に想像して見ると、徒らに參觀の際根氣を疲らす丈で、存外變化に乏しい重複を示されるのが、我邦美術界の今日らしい。

　本當の事を云ふと、一昨日見た丈で、今日の日本に産出し得る美術品の九割以上はすつかり網羅してゐるのである。しかも各部門にわたつての代表的出品は、多少の例外はあるにしても、まあ精華を萃めたものと云つても宜しい。それが何故あんなに物足りなかつたと云ふと、全く美術の性質に因ると云ふの外はない。

　日本の美術は殆んど、手に取つて撫摩すべきものであつて、一定の距離に立つて鑑賞すべきものでない。吾々の着物が既にさうである。四疊半の座敷で差向ひの相手に賞めらるべく三越を煩はすの外殆んど何の取柄もないと云つて宜しい。日光の廟舍が既にさうである。局部々々を吟味すると御念の入つた精巧を盡してゐる。然しあれ丈の殿堂を望むに適當な距離に遠退いて見ると、折角の局部の苦心は犬死をして仕舞ふ。一昨日陳列された美術品の多くは、呉服物や日光の御宮と同じく、好んで椽の下で力持をしてゐる。狩野芳崖の觀音樣を一生懸命に刺?にしたつて、觀音樣を見やうとすれば刺?の手際は眼に入らない位離れなくつちやならない。無線七寶で鮮やかに鴨の色を染め出したつて、額にして下から見る以上は、絹に畫いたものと何處が違つてゐる。大きな銀瓶に寒山拾得を彫り付けた手際の冴えてゐるのは、たゞ筆力を一層困難な刀力に移したといふ迄で、それ以外に何等の特色のないのみか、花瓶の見頃な所に立ち留つてゐれば、寒山も拾得もてんで顔さへ明瞭には分らない。

　全部と局部と比例を失した勞力の損はまづ何うでも構はないとして、大抵の出品は皆手先の器用からのみ出來上つてゐる。勿論それが日本人の長所だから結構には相違ないが、あまり器用過ぎるから、針の先で指が出來てゐるかの如き細かな仕事ばかり爲終《しおほ》せてゐる。從つて精緻では有らうけれども、あの西洋の大きな客間の隅へでも置かうものなら、蟲眼鏡を掛けてゐない以上、誰も氣が付かずに濟んで仕舞ふ。今の世に用もない鍔を拵へて、それに小さい不動樣なんか喰つ付けてゐる。丸で玩具である。西洋人が鍔を珍重するのは昔の遺物として、其當時相應の理由があつて出來上つたものゝうちに、一種の手際を認めて、喜ぶのである。卷莨入だつてさうである。僅か五六寸四方のうちにあんな七面倒な惡戯《いたづら》をして幾日《いくか》も潰すには當るまい。

　要するに頭に一種の精神があつて、其精神が手を働かすのでなくつて、手の筋肉の使用法丈を繊細に呑込んだのが日本の美術家である。彼等は頭を使ふんぢやない、指の方が修練の結果器械的にうまく動いてくれるのである。如何にも器用だとは思ふ。然し向ふの頭が此方の頭に感應する事は少い。だから手に取て能くほぢくつて見ても物足りないのである。まして適當な距離から大きく觀察するに於てをやである。況や英吉利へ持つて行つて廣大な建物の隅にちよんぼり竝べらるゝに於てをやである。

　自分は日本の美術に就いて專門家の口にする樣な巧拙は分らない。自分の云ふ所は、技藝の巧拙如何に拘はらず存在する、日本美術に殆んど固有とも云ふべき特色に關してゞある。勿論自分の非難に相當しない物品はいくらでも出て來るだらう。現に陳列品のうちにも隨分あつた。自分は敢て是等の佳作に對して敬意を表するに躊躇するものではない。

　　　　　　−明治四二、一二、一六『東京朝日新聞』−

　

　　　『東洋美術圖譜』

　

　偉大なる過去を背景に持つてゐる國民は勢ひのある親分を控へた個人と同じ事で、何かに付けて心丈夫である。あるときは此自覺の爲に驕慢の念を起して、當面の務を怠つたり未來の計を忘れて、落ち付いてゐる割に意氣地が無くなる恐れはあるが、成上りものゝ一生懸命に奮闘する時の樣に、齷齪とこせつく必要なく鷹揚自若と衆人環視の裡に立つて世に處する事の出來るのは全く祖先が骨を折つて置いてくれた結果と云はなければならない。

　余は日本人として、神武天皇以來の日本人が、如何なる事業をわが歴史上に發展せるかの大問題を、過去に控へて生息するものである。固より余一人の仕事は、余一人の仕事に違ひないのだから、余一人の意志で成就もし破壞もする積ではあるが、余の過去、――もつと大きく云へば、わが祖先が余の生れぬ前に殘して行つて呉れた過去が、余の仕事の幾分かを既に余の生れた時に限定して仕舞つた樣な心持がする。自分は自分の爲る事に就て飽迄も責任を負ふ料簡ではあるが、自分をして此責任を負はしむるものは自己以外には遠い背景が控へてゐるからだらうと思ふ。

　さう考へながら、新しい眼で日本の過去を振り返つて見ると、少し心細い樣な所がある。一國の歴史は人間の歴史で、人間の歴史はあらゆる能力の活動を含んでゐるのだから政治に軍事に宗教に經濟に各方面にわたつて一望したら何う云ふ頼母しい回顧が出來ないとも限るまいが、とくに余に密接の關係ある部門、即ち文學丈で云ふと、殆んど過去から得るインスピレーシヨンの乏しきに苦しむと云ふ有樣である。人は源氏物語や近松や西鶴を擧げて吾等の過去を飾るに足る天才の發揮と見認《みと》めるかも知れないが、余には到底そんな己惚は起せない。

　余が現在の頭を支配し余が將來の仕事に影響するものは殘念ながら、わが祖先のもたらした過去でなくつて、却て異人種の海の向ふから持つて來てくれた思想である。一日余は余の書齋に坐つて、四方に竝べてある書棚を見渡して、其中に詰まつてゐる金文字の名前が悉く西洋語であるのに氣が付いて驚いた事がある。今迄は此五彩の眩ゆいうちに身を置いて、少しは得意であつたが、氣が付いて見ると、是等は皆異國産の思想を青く綴ぢたり赤く綴ぢたりしたものゝみである。單に所有と云ふ點から云へば聊か富といふ念も起るが、それは親の遺産を受け繼いだ富ではなくつて、他人の家へ養子に行つて、知らぬものから得た財産である。自分に利用するのは養子の權利かも知れないが、こんなものの御蔭を蒙るのは一人前の男としては氣が利かな過ぎると思ふと、有り余る本を四方に積みながら非常に意氣地のない心持がした。

　『東洋美術圖譜』は余にかう云ふ料簡の起つた當時に出版されたものである。是は友人滝君が京都大學で本邦美術史の講演を依託された際、聽衆に説明の必要があつて、建築、彫刻、繪畫の三門にわたつて、古來から保存された實物を寫眞にしたものであるから、一枚々々に觀て行くと、此方面に於て、わが日本人が如何なる過去を吾々の爲に拵へて置いて呉れたかゞ善く分る。余の如き財力の乏しいものには參考として甚だ重寶な出版である。文學に於て悲觀した余は此圖譜を得たために多少心細い氣分を取り直した。圖譜中にある建築彫刻繪畫ともに、あるものは公平に評したら下らないだらうと思ふ。あるものは源氏物語や近松や西鶴以下かも知れない。然し其優れたものになると決して文學程度のものとは云へない。われ／＼日本の祖先がわれ／＼の背景として作つて呉れたと云つて恥づかしくないものが大分ある。

　西洋の物數奇がしきりに日本の美術を云々する。然し是は千人のうちの一人で、飽迄も物數奇の説だと心得て聞かなければならない。大體の上から云ふと、さう云ふ物數奇も矢張り西洋の方が日本より偉いと思つてゐるのだらう。余も殘念ながら左樣考へる。もし日本に文學なり美術なりが出來るとすれば是からである。が、過去に於て日本人が既に是丈の仕事をして置いてくれたといふ自覺は、未來の發展に少からぬ感化を與へるに違ひない。だから余は喜んで『東洋美術圖譜』を讀者に紹介する。このうちから東洋にのみあつて、西洋の美術には見出し得べからざる特長を觀得する事が出來るならば、たとひ其特長が全體にわたらざる一種の風致にせよ、觀得し得た丈それだけ其人の過去を偉大ならしむる譯である。從つて其人の將來を其丈インスパイヤーする譯である。

　　　　　　−明治四三、一、五『東京朝日新聞』−

　

　　　客觀描寫と印象描寫

　

　是は近頃の小説家のよく用ひたがる言葉であるから無論小説の描寫即ち書き方に關した術語に違ないが、無暗に用ひる割合に使用方が頗る茫漠としてゐるので、了解に苦しまされるものが大分多い。中には客觀描寫と印象描寫を兩刀の如く心得て同時に振り廻す事が出來る樣に説いてゐるものも有る樣だが、是は恰も金貨本位と銀貨本位を同時に採用すると一般で、甚だしき亂暴である。わが文藝欄の讀者の多數はとうから氣が付いてゐるだらうとは思ふが、世間には批評家の好い加減な出鱈目術語に迷はされて困るものも少くなさゝうだから一寸辯じたい。

　元來純客觀な描寫と稱するものは嚴密に云ふと小説の上で行はれべき筈のものでないが、それは兎に角俗に客觀的な事柄と云ふのは、我々の頭の中に映る現象のうちで、甲にも乙にも丙にも共通の點丈を引き抽いて、便宜名づけた約束に過ぎない。云ひ直すと、主觀のうちの一般に共通な部分が即ち客觀なのである。自分の頭の中に花が赤く映る事實は勿論主觀である、（自分の頭の中に起る現象で他人《ひと》の頭の中に起る現象でないから）けれども此赤と云ふ事實に就て、十人が十人、百人が百人悉く一致した時には、甲なる自分と乙なる他人を離れて、赤い花が獨立して存在するものと見做す事が出來る。即ち漱石の頭に映る花は赤いと斷る必要がなくなつて、唯花が赤いと云へば濟むから、それを客觀の價値が生じたと稱するのである。所が印象描寫々々々々と頻に振廻されてゐる印象と云ふ字は、全く反對の性質を帶びたものである。印象とあるからには必ず誰の印象と附加しなくては意味が完全しない言葉である。もと印象と云ふ語はイムプレツシヨンの譯であつて、印象と二字竝べて使ふ以上は、何人も此裏面に原語のイムプレツシヨンを繰返さないものはない位に明瞭な譯字である。試みに西洋人の此字を使ふ場合を調べて見るが好い。必ず私のイムプレツシヨンとか、あの人のイムプレツシヨンとか、ある格段な人の特別に所有した印象と斷つてない事はない。（ない場合は印象〔二字傍点〕と他の同種類の言葉、例へば感覺〔二字傍点〕とか情操〔二字傍点〕とかに對立させた時に限る。丁度だれの父と云はねば父と云ふ言葉の意味は完全しないけれども子に對したり伯父に對したりして用ひる時は單に父と云ひ放しにする樣なものである。）

　既に甲の〔二字傍点〕印象と斷らなくつても通用しない字ならば、甲の〔二字傍点〕印象であつて、必ずしも乙の〔二字傍点〕印象ぢやないと限定したと同然である。從つて印象的の事實と云ふものは十人が十人、百人が百人に共通であるとは限らない。否十人十色と云ふ位に違ふべき筋のものである。自分の頭に映る花が赤いと迄は誰も一致するが、此赤い花から受ける心持〔二字傍点〕はめい／＼違つてゐるかも知れないからである。

　だから客觀描寫の�ｺは一般に通ずる點にあつて、印象描寫の趣は作家の特有な點に存するのである。無論一篇の小説を作るうちに兩描寫を兼用する事は出來るが、主張として是を併立させる事は性質上不可能である。一行の描寫を見て、是が客觀的描寫で且印象的描寫だ抔と云ふのは恰も是が君主獨裁で同時に民衆同決だと騷ぐ樣なもので、頭のある人の口にするを憚るべき云ひ分である。

　其上嚴密に論じると、前にも言つた通り、純客觀の敍述なるものは科學以外には殆んどあり得べからざる事である。もし客觀的描寫を主張して極端迄行くとすると、彼は頭を下げたとは云へるが、彼は感謝したとは書けない譯になる。感謝の積りで頭を下げたのだか、人を茶化する積りで頭を下げたかは、向ふの心理状態をこちらで好い加減に想像したに過ぎないからである。だれが見ても頭を下げさへすれば感謝の精神が現れたんだと斷定する程、吾人は此客觀的現象の裏面に固定した心理状態を附着してゐない。それはドンが鳴つても必ずしも午飯だと極めない樣なものである。是と同じく只笑つたとは書けるが苦〔右○〕笑したとか冷〔右○〕笑したとかは決して書いてならん事になる。苦笑とか冷笑とか云ふや否や吾人は先方の心理を揣摩する事になつて半ば客觀の現象を離れるからである。

　小説の批評や議論が盛になるのは文藝界に住する一人として余の尤も喜ぶ所である。けれども自分の使用する用語の意味をもよく考へずに、無暗に頭の確でない青年を吹きに掛るのは、はたから見てゐても青年に氣の毒である。一般の讀者には餘り狹過ぎる題目とは思つたが、以上の理由で數言を費した。

　　　　　−明治四三、二、一『東京朝日新聞』−

　

　　　草平氏の論文に就て

　

　三月九日の本欄に出した草平氏の自然主義者の用意と云ふ論文の中に、余の「創作家の態度」と云ふ論文を引いて、「頗る明快で異論を挾む餘地のないもの」と斷ぜられたのは、感謝の至りであるが、其次に「凡て主義又は説と云ふものは、それが科學の基礎の上に置かれてゐる間は大抵異論がない」と概論せられる所が一寸分り惡かつた。事實問題として考へても科學的に基礎を有してゐると目せられてゐる主義や説が始終論爭の點になる事はいくらでもある。かのダーヰニズムだつて、異論を挾む餘地がなかつたら今日の樣に發展する譯がない。然し是はまだ可いが、其次の所へ行つて、草平氏は主義も説も「哲學の上へ移されてこそ、始めて議論を生ずるものである」と附加されたのは余に取つて愈難解である。一體草平氏は科學と哲學をどう區別してゐらるゝか、余は此一句を讀みながら切に承はりたくなつた。範圍の差か、取扱法の差か、もつと根本的なあるものゝ差か、如何なる新因數が加はつて、科學的に異議なしと認らるゝものゝ、急に哲學の上に移されると異議が生ずるのであるか。

　その哲學の上迄持つて行かない所が、余の持論だと草平氏はわざ／＼斷つて居らるゝが、既に草平氏の科學哲學の區別が判然しない以上、余自身は氏の説を肯定する譯にも、否定する譯にも行きかねる。從つて哲學の方面へ入らないのは余の持説でも何でもなくなる。

　余は余の人格を支配する意見、もしくは余の人格全體を支配するに至らざる程の意見を、（單なる意見として）發表する爲に、理智を重ずる余の精神に適ふ樣な表現法を用ひて、世に問ふ考へはあるが、それが科學的と哲學的なるとを論ずるの暇は今日迄未だ嘗て有しなかつた。又其意見に理情兩面のいづれかに渉つて、陷缺ありとすれば、余の意見そのものゝ空疎なるか、放漫なるかに基因するものと信じて、これを科學哲學の區別から生ずるとは未だ嘗て思ひ至らなかつた。

　然しもし哲學と云ふ字をメタフヒジツクの意味に解釋して、カント其他の唱道した一派の學問を指すならば、草平氏の所謂そこ迄行かぬのが漱石の持説であると云ふ文句は、當に妥當である。余は余に關し、社會に關し、人間に關して、未だ嘗て彼等一派の純正哲學者の云々する絶對とか、無限とかいふ意義を使用する必要を認めた事がない。況や自然主義を論ずるに於てをやである。草平氏の胸に響くと感服せられる安倍能成氏の自然主義論と雖も、そんなメタフヒジカルな點は少しも認められない樣である。して見ると草平氏の胸に響くといふ哲學的な議論とは如何なる意味に於て哲學的なるかゞ愈承知したくなる。氏の所謂哲學とは、或は哲學にあらずして宗教（宗教學にあらず）に近いものではないか。

　余は余の境遇上職業上比較的世間の人の眼に留まる樣にしば／＼筆を執つてゐる。從つて余の意見、主張、其他に關して誤解を招く事は何遍でもある。然しさう一々辯解する程の必要も認めないから、大抵はそれなりにしてある。然し朝日文藝欄は余の擔任だから、其紙上で草平氏が、余の持説は斯うであるの、何のと論ぜられると、氏と余の關係上、余は余の擔任する欄内に於て、余に關する誤解を黙認したと一般になつて、後日意見を發表する時の邪魔になるから此際一言して置きたいと思ふのである。

　余は文藝欄の擔任記者として、欄内に掲載する文字には大抵眼を通してゐるが、草平氏の原稿が後れた爲通讀の機會を得ずして、すぐ直接に編輯へ廻されたため、つい斯云ふ事を公けにいふ樣になつた。それでなければ以上の諸項に就て一々氏と押問答をして裏面で埒を明ける筈であつた。

　　　　　　−明治四三、三、一八『東京朝日新聞』−

　

　　　長塚節氏の小説「土」

　

　一方に斯んな考へがあつた。――

　好い所を世間から認められた諸作家の特色を胸に藏して、其標準で新しい作物に向ふと、まだ其作物を讀まないうちに、早く既に型に墮在してゐる。從つてわが評論は誠實でも、わが態度は獨立でも、又わが言説の内容は妥當でも、始めから此方に定まつた尺度を持つてゐて、其尺度で測つてならないもの迄も律したがる弊が出る。其結果は働きのない死んだ批評に陷つて仕舞ふ事がよくある。

　夫よりか、今日迄文壇に認められなかつた、若くは顧みられなかつた、新しい特殊な趣味を、ある作物のうちに發見して、それを天下に紹介する方が評家に取つて痛快な場合が多い。又其特殊な趣味が容易に多數に肯はれない所を、決然身を挺して唱道する所が、評家會心の點らしい。文壇はこれがために、新領土を手に入れたと同じ譯になるからである。

　一方に又斯んな事實があつた。――

　近頃文藝の雜誌がしきりに殖える。毎月活版に組まれる創作の數も餘程の數に上つて來た。評論の筆を執るものが、一一それを熟讀する機會を失つた。余の如き自家の職業上、文藝の諸雜誌に一應眼を通すべき義務を感じてゐてさへ、多忙のため果さゞる月が多い。

　漸く手の隙いた頃を見計つて、讀み落した諸家の短篇物を讀んで行くうちに、無名の人の筆に成つたもので、名聲のある大家の作と比べて遜色のないもの、或はある意味から云つて、却てそれよりも優れてゐると思はれるものが間々出て來た。さうして當時の評論を調べて見ると、是等の作物が全く問題になつて居ない。青木健作氏の「虻」抔は好例である。

　型に入つた批評家のために閑却され、多忙のため不公平を甘んずる批評家のために閑却されては、作家（ことに新進作家）は氣の毒である。時と場合の許す限りさういう弊は矯正したい。「朝日」に長塚節氏の「土」を掲げるのも幾分か此主意である。

　二三年前節氏の佐渡記行を讀んで感服した事がある。記行文であつたけれども普通の小説よりも面白いと思つた。氏はまだ若い人である。しかも若い人に似合はず落ち付き拂つて、行くべき路を行つて、少しも時好を追はない。是はわざと流行に反對したの何のといふ六づかしい意味ではなくて、氏には本來藝術的な一片の性情があつて、氏はたゞ其性情に從ふの外、他を顧みる暇を有たないのである。余は其態度を床しく思つた。

　尤も今度載せる「土」の出來榮は、今から先を見越した樣な豫言が出來る程進行してゐない。最初余から交渉した時、節氏は自分の責任の重いのを氣遣つて長い間返事を寄こさなかつた。夫から漸く遣つて見樣といふ挨拶が來た。夫から四十枚程原稿が來た。豫告は此原稿と、氏の書信によつて、草平氏が書いた。今の所余は「土」の一篇がうまく成功する事を氏のために、讀者のために、且新聞のために祈るのみである。

　有名な英國の碩學ミルは若い時、同じく若いテニソンをロンドン・リポジトリ紙上に紹介して、猶其次號にブラウニングを紹介しやうとした。主筆から彼の批評は既に前號に載せたといふ返書を得て調べて見ると、頁の最後の一行にたゞ「ポーリン是は譫言なり」とあつた。同雜誌の編輯者が一行餘つた處へ埋草に入れたものである。ブラウニングは後年人に語つて、あの批評のために自分が世間に知られる機會が二十年後れたと云つた。

　余が新しい作家を紹介するのは、ミルを以て自ら任ずると云ふより、かゝる無責任な評論家の手から、望みのある人を救はうとする老婆心である。

−明治四三、六、九『東京朝日新聞』−

　

　　　文藝とヒロイツク

　

　自然主義といふ言葉とヒロイツクと云ふ文字は仙臺平の袴と唐棧の前掛の樣に懸け離れたものである。從つて自然主義を口にする人はヒロイツクを描かない。實際そんな形容のつく行爲は二十世紀には無い筈だと頭から極てかゝつてゐる。尤もである。

　けれども實際世の中にない又は少ないと云ふ事實と、馬鹿げてゐる、滑稽であると云ふ事實とは違ふべき筈である。吾々の見渡した世間にさう眼につく程ごろ／＼してゐない物のうちには、常人さへ唾棄して顧みなくなつた（從つて存在の權利を失つた）のも澤山あるだらうが、貴重な爲容易に手に入りかねるのも隨分あるべき譯である。ヒロイツクは後者に屬すべきものと思ふ。

　自然派の人が滅多にないからと云ふ理由でヒロイツクを描かないのは當を得てゐる。然し滅多にないからと云ふ言辭のもとにヒロイツクを輕蔑するのは論理の昏亂である。此派の人々は現實を描くと云ふ。さうして現實曝露の悲哀を感ずるといふ。客觀の眞相に着して主觀の苦悶を覺ゆるといふ。一々賛成である。けれども此の苦悶は意の如くならざる事相に即し、思ひの儘に行かぬ現象の推移に即し、もしくは斯くあれかし、斯くありたしとの希望を容れぬ自然の器械的なる進行に即して起る矛盾扞格の意に外ならぬ。云ひ換れば客觀の世界が主觀の世界と一致をかくが爲である。現實が吾れに伴はざるの恨みである。又云ひ換ればわが理想がわが頭の中に孤立して、世態とあまりに没交渉なるがためである。冷刻なる自然がわが知識と情操と意志を侮蔑して勝手に横着に非人間的に社會を動かして行くからである。

　自然主義者の所謂主觀の苦悶を斯く解釋するとき、理想の二字を彼等の主觀中より取去る事は困難とならねばならぬ。廣義に於ける理想を抱かざるものが、自己又は他人の經過した現實を顧みて、之を悲しむの必要もなければ之に悶ゆるの理由もない筈である。

　一たび此論斷を肯つたとき、彼等は彼等の主觀のうちに、又彼等の理想のうちに、彼等の平素排斥しつゝあるが如く見ゆる諸々の善、諸々の美、又もろ／＼の壯と烈との存在を肯はねばならぬ。從つてヒロイツクは彼等の主張せんと欲して、現實に見出しがたきが爲めに、これを描くを憚り、もしくは之を描くを恐るゝ一種の行爲と云はねばならぬ。

　彼等にしてもし現實中に此行爲を見出し得たるとき、彼等の憚りも彼等の恐れも一掃にして拭ひ去るを得べきである。況や彼等の輕蔑をや虚僞呼はりをやである。余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を讀んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同くする日本の軍人によつて、器械的の社會の中に赫として一時に燃燒せられたるを喜ぶものである。自然派の諸君子に、此文字の、今日の日本に於て猶眞個の生命あるを事實の上に於て證據立て得たるを賀するものである。彼等の腦中よりヒロイツクを描く事の憚りと恐れとを取り去つて、隨意に此方面に手を着けしむるの保證と安心とを與へ得たるを慶するものである。

　往時英國の潜航艇に同樣不幸の事のあつた時、艇員は爭つて死を免れんとするの一念から、一所にかたまつて水明りの洩れる窓の下に折り重なつたまゝ死んでゐたといふ。本能の如何に義務心より強いかを證明するに足るべき有力な出來事である。本能の權威のみを説かんとする自然派の小説家はこゝに好個の材料を見出すであらう。さうして或る手腕家によつて、此一事實から傑出した文學を作り上る事が出來るだらう。けれども現實は是丈である。其他は嘘であると主張する自然派の作家は、一方に於て佐久間艇長と其部下の死と、艇長の遺書を見る必要がある。さうして重荷を擔ふて遠きを行く獣類と撰ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議の行爲があると云ふ事を知る必要がある。自然派の作物は狹い文壇の中にさへ通用すれば差支ないと云ふ自殺的態度を取らぬ限りは、彼等と雖も亦自然派のみに專領されてゐない廣い世界を知らなければならない。

　病院生活をして約一ケ月になる。人から佐久間艇長の遺書の濡れたのを其儘寫眞版にしたのを貰つて、床の上で其名文を讀み返して見て「文藝とヒロイツク」と云ふ一篇が書きたくなつた。

−明治四三、七、一九『東京朝日新聞』−

　

　　　艇長の遺書と中佐の詩

　

　昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた廣瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月竝なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人の腦裏に一種痛ましい對照を印した。

　露骨に云へば中佐の詩は拙惡と云はんより寧ろ陳套を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥の正氣の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨家列傳に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出來榮である。文字の素養がなくとも誠實な感情を有してゐる以上は（又如何に高等な翫賞家でも此誠實な感情を離れて翫賞の出來ないのは無論であるが）誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉れたならと思ふだらう。

　まづいと云ふ點から見れば雙方ともに下手いに違ない。けれども佐久間大尉のは已を得ずして拙く出來たのである。呼吸が苦しくなる。部屋が暗くなる。鼓膜が破れさうになる。一行書くすら容易ではない。あれ丈文字を連らねるのは超凡の努力を要する譯である。從つて書かなくては濟まない、遺さなくては惡いと思ふ事以外には一畫と雖も漫りに手を動かす餘地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏はる自己廣告の衒氣は殆ど意識に上る權威を失つてゐる。從つて艇長の聲は最も苦しき聲である。又最も拙な聲である。いくら苦しくても拙でも云はねば濟まぬ聲だから、最も娑婆氣を離れた邪氣のない事である。殆んど自然と一致した私の少い聲である。そこに吾人は艇長の動機に、人間としての極度の誠實心を吹き込んで、其一言一句を眞《まこと》の影の如く讀みながら、今の世にわが欺かれざるを難有く思ふのである。さうして其文の拙なれば拙なる丈眞の反射として意を安んずるのである。

　其上艇長の書いた事には嘘を吐く必要のない事實が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等の現象に自己廣告は平時と雖ども無益である。從つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡ての苦悶を忍んだので、他《ひと》によく思はれるがために、徒らな言句を連ねたのでないと云ふ結論に歸着する。又其報告が實際當局者の參考になつた效果から見ても、彼は自分のために書き殘したのでなくて他の爲に苦痛に堪へたと云ふ證據さへ立つ。

　廣瀬中佐の詩に至つては毫も以上の條件を具へてゐない。已を得ずして拙な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已を得るにも拘はらず俗な句を竝べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き殘した。又自分でなければ書けない事を書き殘した。中佐の詩に至つては作らないでも濟むのに作つたものである。作らないでも濟む時に詩を作る唯一の辨護は、詩を職業とするからか、又は他人に眞似の出來ない詩を作り得るからかの場合に限る。（其外徒然であつたり、氣が向いたりして作る場合は無論あるだらうが）中佐は詩を殘す必要のない軍人である。しかも其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼《あ》の樣な詩を作るものに限つて決して壯烈の擧動を敢てし得ない、即ち單なる自己廣告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事實の上に於て矛盾しない最期を遂げた。さうして銅像迄建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗惡で陳腐で生きた個人の面影がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが氣の毒だと思ふ。

　道義的情操に關する言辭（詩歌感想を含む）は其言辭を實現し得たるとき始めて他をして其誠實を肯はしむるのが常である。余に至つては、更に懷疑の方向に一歩を進めて、其言辭を實現し得たる時にすら、猶且其誠實を殘りなく認むる能はざるを悲しむものである。微かなる陷缺は言辭詩歌の奧に潜むか、又はそれを實現する行爲の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行爲に一點虚僞の疑ひを挾むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁するのである。

−明治四三、七、二〇『東京朝日新聞』−

　

　　　鑑賞の統一と獨立

　

　アーサー、バルフオアーの書いた「批評と美」と云ふ講演を讀んで見た。バルフオアーが本職外に斯う云ふ講演をした事が余の好奇心を釣つたので、わざ／＼注文してそれを取り寄せたのである。

　講演は短いもので僅五十頁に盡きてゐる。しかし彼自身が小序に於て斷つた如く、文字の使用方も議論の遣り口も寧ろ通俗に近いものである。其上彼の到着した結論は遂に消極的であつた。けれども其消極的な點が余の感興を動かした。

　往年余が英國に留學して、文學といふ茫漠たるものを研究してゐる際に、作物の評價上、大に彼此の差に迷つて困却した事がある。例へば向うの人が悉く許して傑作と見做してゐるものが、此方には左程に思はれなかつたり、或ひは微妙の音樂があるとして強ひられる詩歌に、何物をも迎へ入れる耳がなかつたり、そんな矛盾が毎日の樣にあるので、不愉快な日ばかり重ねてゐた。仕舞に自家の味はふべきものに、他人の味覺を標準とするは?倒である、文藝の翫賞は善かれ惡かれ自分の持つてゐる舌でやるべき仕事である、いくら信用して然るべき男がゐるにしても、此道ばかりは代理を頼む譯に行かないものだと悟つた。

　それから自分の立場を正當にするために、「趣味の差違」と云ふ題目の下にあらゆる類例を集めにかゝつた。類例の範圍は文學美術習慣道�ｺ其他苟も趣味の附着し得る限りあらゆる方面に渉つて取捨する所なく、集め得る丈のものを集めて、しかる後に概括的に論斷を下す積であつた。無論出立點が國民により、時代により、流行により、年齡により、個人の性情と教育によつて好尚に差違のある事を根底から證據立てたいといふ希望であつたのだから、たとひ思ひ通に計畫は成就しなかつたにしても、結論の方は例を集める前既に半分は出來上つてゐたと云つても差支はない。當時余の反抗心は所謂權威ある傳流的《トラヂシヨナル》な批評、若くは他《ひと》の定めたる藝術的範疇に因つて、雷同を強ひらるゝ屈辱を避けんがために起つたのであるから、今バルフオアーによつて拈出せられたる（美の標準は客觀的に定めにくい、嚴密に云へば人々別々であるといふ）頗る常套な結論を讀んでも、當時予の親しく經過した不安やら、此不安に次いで起つた決斷やらを憶ひ起さしめる點に於て余は頗る興味を感ずるのである。

　同時に余は現在の自己を顧みて、ひそかに當年の余と比較するの機會を、バルフオアーによつてサジエストされた樣な心持がする。余は近來若い人々と接觸して、近代の作物又は現今の日本で出版になる創作に就いて批判的の意見を交換する事が多い。中には運よく一致する事がある。たまには首尾よく先方で余の評價を容れてくれる事がある。けれども左樣容易く埒のあかない時が往々ある。さうして雙方とも下らないで分れて仕舞ふ。そんな時に余はどうしても余に反對する若い人の評價が間違つてゐて、自分の方が正しい氣がしてならぬ。或場合にはあれの云ふ事は飛んでもない誤謬だと確信する事もある。新聞雜誌に出る月々の創作に對する批評などに關してはことに此感が深い。余は此等の評壇を擔任する專門家に對して惡意を抱くがためにことさらに自白するのではないが、稀にはよくあんな事が云へたものだと思ふ事さへあつた。

　此心持の底には彼より我の方が、評價に於て優つてゐるといふ自信がある。彼も正しかるべき筈であるし、我も間違つて居らぬと公平に主張するよりも、彼は自家の見地を棄てゝ我に從ふのが當然だといふ斷定がある。少くともさう云ふ希望がある。それ所ではない、彼にして我ほどの鑑賞力があつたなら必ず我に一致するだらうにと云ふ己惚がある。一言にして蔽へば、作物の評價には統一がありたきものである。又統一があるべき筈であるといふ氣に充ちてゐる。然らざれば文壇は滅茶々々だと云ふ感がある。紛糾支離の結果どうなるだらうといふ恐れが潜んでゐる。

　昔は他の權威に堪へぬ結果、自己の舌で冷暖を味はねばならぬと主張して、人は人、我は我の極差別觀を立てようとした余が、夫で正鵠を得たものと思ひ過ごした今日迄も立脚地を立て直す必要も見認《みと》めないのに自身はいつか冥々のうちに自分一個の批判を大なる權威として他の鑑賞力の上に被らさうと冀つてゐた。しかも夫は正しい事と信じてゐた。

　バルフオアーの講義を讀んで、今昔の自分を同時に對照するの機會を得た時、余は此自家頭上の矛盾を一度に意識した。意識しながらも何方か一方に片付けなければなるまいと云ふ理由を發見するに苦しんでゐるのは不思議である。各自《めい／＼》の舌は他の奪ひがたき獨立した感覺を各自に鳴らす自由を有つてゐるに相違ない。けれども各自は遂に各自勝手で終るべきものであらうか。己れの文藝が己れだけの文藝で遂に天下のものとなり得ぬであらうか。それでは情ない、心細い。散り／”＼ばら／”＼である。何とかして各自の舌の底に一味の連絡をつけたい。さうして少しでも統一の感を得て落ち付きたい。消極的の結論に到着したバルフオアーには此積極的な希望も暗示もないのであらうか。余は此暗示を今確的に客觀的に指摘する程頭の燒點が整はないのを憾みとする。さうして此矛盾を理路を辿つて調和する力のないのを殘念に思ふ。けれども一方に於て個人の趣味の獨立を説く余は、近來一方に於てどうしても此統一感を驅逐する事が出來なくなつたのである。

　　　　−明治四三、七、二一『東京朝日新聞』−

　

　　　イズムの功過

　

　大抵のイズムとか主義とかいふものは無數の事實を几帳面な男が束にして頭の抽出へ入れ易い樣に拵へてくれたものである。一纏めにきちりと片付いてゐる代りには、出すのが臆劫になつたり、解《ほど》くのに手數がかゝつたりするので、いざと云ふ場合には間に合はない事が多い。大抵のイズムは此點に於て、實生活上の行爲を直接に支配するために作られたる指南車といふよりは、吾人の知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくつて字引である。

　同時に多くのイズムは、零碎の類例が、比較的緻密な頭腦に濾過されて凝結した時に取る一種の形である。形と云はんよりは寧ろ輪廓である。中味《なかみ》のないものである。中味を棄てゝ輪廓丈を疊み込むのは、天保錢を脊負ふ代りに紙幣を懷にすると同じく小さな人間として輕便だからである。

　此意味に於てイズムは會社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の學年成績に匹敵すべきものである。僅一行の數字の裏面に、僅か二位の得點の背景に殆ど有の儘には繰返しがたき、多くの時と事と人間と、其人間の努力と悲喜と成敗とが潜んでゐる。

　從つてイズムは既に經過せる事實を土臺として成立するものである。過去を總束するものである。經驗の歴史を簡略にするものである。與へられたる事實の輪廓である。型である。此型を以て未來に臨むのは、天の展開する未來の内容を、人の頭で拵へた器に盛｜終《おほ》せやうと、あらかじめ待ち設けると一般である。器械的な自然界の現象のうち、尤も單調な重複を厭はざるものには、すぐ此型を應用して實生活の便宜を計る事が出來るかも知れない。科學者の研究が未來に反射するといふのはこの爲である。然し人間精神上の生活に於て、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直に與へられたる輪廓の爲に生存するの苦痛を感ずるものである。單に與へられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸の爲に器械の用をなすと一般だからである。其時わが精神の發展が自個天然の法則に遵つて、自己に眞實なる輪廓を、自らと自らに付與し得ざる屈辱を憤る事さへある。

　精神が此屈辱を感ずるとき、吾人はこれを過去の輪廓が將に崩れんとする前兆と見る。未來に引き延ばしがたきものを引き延ばして無理に或は盲目的に利用せんとしたる罪過と見る。

　過去は是等のイズムに因つて支配せられたるが故に、是からも又此イズムに支配せられざるべからずと臆斷して、一短期の過程より得たる輪廓を胸に藏して、凡てを斷ぜんとするものは、升を抱いて高さを計り、かねて長さを量らんとするが如き暴擧である。

　自然主義なるものが起つて既に五、六年になる。これを口にする人は皆それ／”＼の根據あつての事と思ふ。わが知る限りに於ては、又わが了解し得たる限りに於ては（了解し得ざる論議は暫く措いて）必ずしも非難すべき點ばかりはない。けれども自然主義も亦一つのイズムである。人生上藝術上、ともに一種の因果によつて、西洋に發展した歴史の斷面を、輪廓にして舶載した品物である。吾人が此輪廓の中味を充?するために生きて居るのでない事は明かである。吾人の活力發展の内容が、自然に此輪廓を描いた時、始めて自然主義に意義が生ずるのである。

　一般の世間は自然主義を嫌つてゐる。自然主義者は之を永久の眞理の如くに云ひなして吾人生活の全面に渉つて強ひんとしつゝある。自然主義者にして今少し手強く、又今少し根氣よく猛進したなら、自ら覆るの未來を早めつゝある事に氣がつくだらう。人生の全局面を蔽ふ大輪廓を描いて、未來を其中に追ひ込まうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して、其處に自然主義の恆久を認識してもらう方が彼等のために得策ではなからうかと思ふ。

　　　　　　　−明治四三、七、二三『東京朝日新聞』−

　

　　　好惡と優劣

　

　　　　　上

　

　作物の評價に好惡の辯を用ひる限り、作物そのものは是非の煩から脱却してゐる。といふ意味は、好惡とは遂に評家の頭にのみ存する印象で、云はゞ作物から反射した光線の影が、彼の胸に宿つた主觀的の感じに過ぎないからである。之に反して、もし翫賞の上に優劣の文字を使用すると、前とは趣が大分違つてくる。既に優劣といふ以上は、評家の受取つた個人的の感じに滿足しないで、其感じを自己以外の讀者にも通用するものと見做すか、又は通用せしめんとする一種の努力である。他の方面から説明すると、優劣と云ふ言葉は、既に評家の頭を離れて作其物に附着した區別である。優劣の二字で批判された作物は、其批評を自家の屬性の如くに背負つて歩かなければならない。客觀的にさう云ふ資格を評家から附與されたと云つてもよし、もつと鮮明に述べると、在來客觀的に作中に存在してゐたさう云ふ資格を、評家によつて今發見されたといふ事にもなる。

　だから只自分は甲の作が乙の作より好きだとか嫌ひだとか云つてゐるうちは、評家として作物に對する責任は甚だ輕いのである。即ち其裏面には、常に人は異見もあらうが自分は斯う思ふと云ふ條件が附帶してある。謙遜の美�ｺに富んだ人、もしくは作家に敬意を表する人が、好んで此態度に出るのは、この爲である。（今の評壇に此種の人は甚だ少い）

　之に反して優劣を斷言する人は、自分の評價は單に自分にのみ正當なのではない、他の人にも是非通用しなければならないといふ假定から出立してゐる。云はゞ權威ある批評である。甲は乙よりも優つてゐる或は劣つてゐるとは、即ち評者一家の好惡ではない、作そのものが既に優つてゐる、劣つてゐると云ふ意味なのだから、天下一般に通用しなくてはならない頗る強いもので、殆んど他に反對を許さぬ性質を帶びてゐる。從つて其責任は甚だ重くなければならない。是非共客觀的に論證して、此作は斯う云ふ長所特色、もしくは、斯う云ふ短所陷缺があるから、優つてゐる、もしくは劣つてゐると、自分の頭に受けた好惡を、更に作そのものゝ上に放射して、誰にでも見える作中の事相に本づいて、それを材料として絮説しなければならない。しかも云ふ所はコン?ンシングでなければならない。然らざれば既に自家出立當時の假定を、蔑如せる矛盾に陷るからである。（今の評家の多くが、態度から云ふと作物の優劣を論ずる如くに見せて、其實は單に好惡の評を繰返すのは、たゞに作家を侮辱するのみならず、かねて天下を瞞着せんとするものである。）

　優劣の論議は一個の好惡を擴大して、これを出來る丈普遍的ならしめんとするの努力である。自己の好惡を直下《ぢきげ》に他に感染せしむるの方法なき故に、已を得ず一先づ之を客觀的に翻譯して、それを納得する他人に、自己同樣の好惡を把捉せしむる方便である。二重に手間のかゝる廻りくどい方法ではあるが、翫賞の上に於ては各翫賞家の間に以心傳心の法を缺く人間の所作として、手ぬるくとも仕方がないのである。

　

　　　　　下

　

　此間接手段（自分の主觀を一返客觀に翻譯して、其翻譯の力で、又もとの主觀に似たあるものを人の頭に起させる手段）に於て、自他の感情に交通の途をつける中間の連鎖が至要の使命を帶びるのは當然である。比喩的に云へば、此導線はわが電流を彼に送るに堪へる程丈夫でなければならない、又デリケートでなければならない。平たく説破すれば、兩者の中間に横たはる客觀的絮説は有力で明瞭で秩序があつて、聞く人に納得の出來るやうなものでなければならない。即ち普遍的の傾向を有する點に於て相應の實力を具へてゐなければならない。

　けれども吾人が作物の優劣を論ずるとき、自家の好惡を擴大して更にこれを他人の好惡となさんと試みるとき、其試みの成敗は一にかゝつて此中間の絮説にあるが如く考へるのは、それが唯一の方便だからである。よく／＼自分の心理状態を反省して見ると、自分の本氣に重きを置いてゐる所のものは、依然として矢張り當初の主觀即ち好惡にある。此好惡の念が鮮かに隈どられて、強烈に燃燒するとき、これを傳ふる導體も亦必ず有力であり、コン?ンシングであらねばならぬとの感が潜んでゐる。主觀を翻譯する客觀的絮説の價値こそ却て懸つて此主觀の強弱にあるかの信念がある。好惡の取捨赫灼として眼を射る如く明かなるときはこれを布衍する第二義の説明も、亦それに相應する權威を以て上下に徹底し得ざるべからずとの自信に支配される。即ち直覺が強ければ強い程それを代表する議論も堅牢であるとの念が深い。だから客觀の辯説が作の優劣を決するとは云ひながら、其實は既に一個の好惡が早く既に其優劣を決してゐるのである。好惡が優劣に變化せねばやまぬ程、（自己が多數に傳染せねばやまぬ程）主觀が強ければこそ、客觀的の導線も自然に流出するのである。

　個人の主觀が個人的の制限に甘んぜずして、これを普通ならしめんとの活動を試みるのは、取も直さず、趣味に統一がなくてはならぬとの努力に外ならぬのである。自分の好惡は同時に甲の好惡であり、乙の好惡であり、竝せて丙丁の好惡であり得べし、もしくは然あらざるべからずとの念力であつて、此念力を果す方法が即ち誰にでも通用する客觀的論辯の形になつて發現するのである。

　「鑑賞の統一と獨立」中に述べた統一と獨立との關係は、實を云ふと斯う云ふものであつたのである。從つて此統一といふ字面の裏には、必ずしも俗に所謂藝術上のカノン（法規）を含んでゐない。藝術上のカノンは希臘のアリストートル以後幾多の哲學者と批評家によつて建立せられ又破壞された。昔より今日に至る迄、永久不變の價値を有するカノンは未だ曾て一つもないと云つて差支ない。其理由を説明するのは、先に述べた「イズムの功過」中にある議論を繰返す丈だから、重説しない。ケヤードと云ふ學者は、天才は自ら法規を制定するの權利を有すと云つてゐる。余の言葉に從へば、自己の生命は自己に適當なる輪廓を自然に構造するが故に、一代前の輸廓を何時の間にか脱却すると云ふ事である。だから此處に辯じて來た統一と古來から幾度も唱道されたカノンと同樣式のものとすると、一方に統一を説き一方にイズムを排する、余は明らさまに矛盾を冒した譯になる。だから其處を明かにして置きたい。

　余の云つた趣味の統一とは、多種多樣の作物の個々〔三字右○〕を翫賞する場合に甲乙が其評價に於て一致する事を指して多く云つたのである。苟くも或程度迄此統一を許さぬ以上は、文藝界に在つて同じ空氣を吸ひながら、同じ飯を食ひながら、同じ文明と社會に住みながら、友人と他人とに論なく、人は皆石片の如く何等精神的に交渉なく只ごろ／＼してゐるといふ不合理な結論に到着しなければならない。さうすれば文藝の成立に必要なる相互の同情といふ本義を滅して仕舞ふと云ひたいのである。好惡を以て滿足の出來ぬ程主觀が強烈に働くとき、これを客觀化して優劣とし、其處に趣味の統一を要求して始めて落ち付くのは單に自我を吹聽する許でない、わが主觀に對する同情を天下に求むる自然の聲であると提唱したいのである。

　　　明治四三、七、三一-八、一『東京朝日新聞』

　

　　　博士問題とマードツク先生と余

　

　　　　　上

　

　余が博士に推薦されたといふ報知が新聞紙上で世間に傳へられたとき、余を知る人のうちの或者は特に書を寄せて余の榮選を祝した。余が博士を辭退した手紙が同じく新聞紙上で發表されたときも亦余は故舊新知もしくは未知の或ものからわざ／＼賛成同情の意義に富んだ書状を幾通も受取つた。伊豫にゐる一舊友は余が學位を授與されたといふ通信を讀んで賀状を書かうと思つてゐた所に、辭退の報知を聞いて今度は辭退の方を目出度思つたさうである。貰つても辭しても何方《どつち》にしても賀すべき事だといふのが此友の感想であるとか云つて來た。さうかと思ふと惡戯好の社友は、余が辭退したのを承知の上で、故《こと》さらに余を厭がらせる爲に、夏目文學博士殿と上書をした手紙を寄こした。此手紙の内容は御退院を祝すといふ丈なんだから一行で用が足りてゐる。從つて夏目文學博士殿と宛名を書く方が本文よりも少し手數《てすう》が掛つた譯である。

　然し凡て是等の手紙は受取る前から豫期してゐなかつたと同時に、受取つても夫程意外とも感じなかつたもの許である。たゞ舊師マードツク先生から同じく此事件に就て突然封書が屆いた時丈は全く驚ろかされた。

　マードツク先生とは二十年前に分れたぎり顔を合せた事もなければ信書の往復をした事もない。全くの疎遠で今日迄打ち過ぎたのである。けれども其當時は毎週五六時間必ず先生の教場へ出て英語や歴史の授業を受けた許でなく、時々は私宅迄押し懸けて行つて話を聞いた位親しかつたのである。

　先生はもと母國の大學で希臘語の教授をして居られた。それがある事情のため斷然英國を後にして單身日本へ來る氣になられたので、余等の教授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇國語《スコツトランドご》を使つて講義やら説明やら談話やらを見境《みさかひ》なく遣られた。それが爲め同級生は悉く辟易の體で、たゞ烟に捲かれるのを生徒の分と心得てゐた。先生も夫で平氣の樣に見えた。大方どうせこんな下らない事を教へてゐるんだから、生徒なんかに分つても分らなくつても構はないといふ氣だつたのだらう。けれども先生の性質が如何にも淡泊で丁寧で、立派な英國風の紳士と極端なボヘミアニズムを合併した樣な特殊の人格を具へてゐるのに敬服して教授上の苦情を云ふものは一人もなかつた。

　先生の白襯衣《ホワイトシヤート》を着た所は滅多に見る事が出來なかつた。大抵は鼠色のフラネルに風呂敷の切れ端の樣な襟飾《ネクタイ》を結んで濟まして居られた。しかも其風呂敷に似た襟飾《ネクタイ》が時々｜胴着《チヨツキ》の胸から拔け出して風にひら／＼するのを見受けた事があつた。高等學校の教授が黒いガウンを着出したのは其頃からの事であるが、先生も當時は例の鼠色のフラネルの上へ繻子か何かのガウンを法衣《ころも》の樣に羽織《はおつ》てゐられた。ガウンの袖口には黄色い平打の紐が、ぐるりと縫ひ廻してあつた。是は裝飾の爲とも見られるし、又は袖口を括る用意とも受取れた。たゞし先生には全く兩樣の意義を失つた紐に過ぎなかつた。先生が教場で興に乘じて自分の面白いと思ふ問題を講じ出すと、殆んどガウンも鼠の襯衣《シヤツ》も忘れて仕舞ふ。果はわが居る所が教場であると云ふ事さへ忘れるらしかつた。斯んな時には大股で教壇を下りて余等の前へ髯だらけの顔を持つてくる。もし余等の前に缺席者でもあつて、一脚の机が空《あ》いてゐれば、必ず其上へ腰を掛ける。さうして例のガウンの袖口に着いてゐる黄色い紐を引張つて、一尺程の長さを拵らへて置いて、それでぴしやり／＼と机の上を敲いたものである。

　當時余はほんの小供であつたから、先生の學殖とか造詣とかを批判する力は丸でなかつた。第一先生の使ふ言葉からが余自身の英語とは頗る縁の遠いものであつた。それでも余は他の同級生よりも比較的熱心な英語の研究者であつたから、分らないながらも出來得る限りの耳と頭を整理して先生の前へ出た。時には先生の家《うち》迄も出掛けた。先生の家は先生のフラネルの襯衣《シヤツ》と先生の帽子――先生はくしや／＼になつた中折帽に自分勝手に變な鉢卷を卷き付けて被《かむ》つてゐた事があつた。――凡て是等先生の服裝に調和する程に、先生の生活は單純なものであるらしかつた。

　

　　　　　　　中

　

　其頃の余は西洋の禮式と云ふものを殆んど心得なかつたから、訪問時間などと云ふ觀念を少しも挾《さしは》さむ氣兼なしに、時ならず先生を襲ふ不作法を敢てして憚からなかつた。ある日朝早く行くと、先生は丁度｜朝食《あさめし》を認《したゝ》めてゐる最中であつた。家が狹いためか、又は余を別室に導く手數《てかず》を省いた爲か、先生は余を自分の食卓の前に坐らして、君はもう飯を食つたかと聞かれた。先生は其時卵のフライを食つてゐた。成程西洋人と云ふものは斯んなものを朝食ふのかと思つて、余はひたすら食事の進行を眺めてゐた。實は今考へると其時迄卵のフライと云ふものを味はつた事がない樣な氣がする。卵のフライと云ふ言葉も夫からずつと後に覺えた樣に思はれる。

　先生はやがて肉刀《ナイフ》と肉匙《フオーク》を中途で置いた。さうして椅子を立ち上がつて、書棚の中から黒い表紙の小形の本を出して、そのうちの或頁を朗々と讀み始めた。暫くすると、本を伏せて何うだと聞かれた。正直の所余には一言《ひとこと》も解らなかつたから、一體夫は英語ですかと聞いた。すると先生は天來の滑稽を不用意に感得した樣に憚りなく笑ひ出した。さうして是は希臘の詩だと答へられた。英國の表現《エキスプレツシヨン》に、珍紛漢《ちんぷんかん》の事を、それは希臘語さと云ふのがある。希臘語は彼地でも其位六づかしい物にしてあるのだらう。高等學校生徒の余などに解る筈は無論ない。それを何故《なぜ》先生が讀んで聞かせたのかと云ふと、詳しい理由は今思ひ出せないが、何でも希臘の文學を推稱した揚句の事ではなかつたかと思ふ。兎に角先生はさう云ふ性質《たち》の人なのである。

　先生の作つた「日本に於るドン・ジユアンの孫」といふ長詩も慥か聞かされた樣に思ふ。けれども其うちの或行にアラス、アラツク、といふ感投詞が二つ續いてゐたと記憶する丈で、あとは丸で忘れて仕舞つた。

　ベインの論理學を讀めと云つて先生が貸して呉れた事もあつた。余はそれを通讀する積りで宅《うち》へ持つて歸つたが、何分課業其他が忙がしいので段々延び／＼になつて、何時迄立つても目的を果し得なかつた。程經て先生が、久しい前《ぜん》君に貸したベインの本は僕の先生の著作だから保存して置きたいから、もし讀んで仕舞つたなら返して呉れと云はれた。其本は大分丹念に使用したものと見えて裏表とも表紙が千切れてゐた。それを借りたときにも返した時にも、先生は哲學の方の素養もあるのかと考へて、小供心に羨ましかつた。

　あるとき何んな英語の本を讀んだら宜からうと云ふ余の問に應じて、先生は早速手近にある紙片に、十種程の書目を認《したゝ》めて余に與へられた。余は時を移さず其内の或物を讀んだ。即座に手に入らなかつたものは、機會を求めて得る度にこれを讀んだ。どうしても眼に觸れなかつたものは、倫敦へ行つたとき買つて讀んだ。先生の書いて呉れた紙片が、余の袂に落ちてから、約十年の後に余は始めて先生の擧げた凡てを讀む事が出來たのである。先生はあの紙片にそれ程の重きを置いて居なかつたのだらう。凡てを讀んでから又十年も經つた今日から見れば、それ程先生の紙片に重きを置いた余の方でも可笑しい氣がする。

　外國から歸つた當時、先生の消息を人傳《ひとづて》に聞いて、先生は今鹿兒島の高等學校に相變らず英語を教へて居るといふ事が分つた。鹿兒島から人が出てくる度に余はマードツクさんは何うしたと尋ねない事はなかつた。けれども音信は其後二人の間に全く絶えてゐたのである。たゞ余が先生に就いて得た最後の報知は、先生がとう／＼學校を已めて仕舞つて、市外の高臺に居を卜しつゝ、果樹の栽培に餘念がないらしいと云ふ事であつた。先生は「日本に於る英國の隱者」と云ふやうな高尚な生活を送つてゐるらしく思はれた。博士問題に關して突然余の手元に屆いた一封の書翰は、實に此隱者が二十餘年來の無音を破る價ありと信じて、とくに余のために認めて呉れたものと見える。

　

　　　　　　　下

　

　手紙には日常の談話と異ならない程度の平易な英語で、眞率《まじめ》に余の學位辭退を喜こぶ旨が書いてあつた。其内に、今回の事は君がモラル、バツクボーンを有してゐる證據になるから目出度《めでたい》と云ふ句が見えた。モラル、バツクボーンといふ何でもない英語を翻譯すると、�ｺ義的脊髄といふ新奇でかつ趣のある字面が出來る。余の行爲が此有用な新熟語に價するか何うかは、先生の見識に任せて置く積である。（余自身は夫程新らしい脊髓がなくても、不便宜なしに誰にでも出來る所作だと思ふけれども）

　先生は又グラツドストーンやカーライルやスペンサーの名を引用して、君の御仲間も大分あると云はれた。是には恐縮した。余が博士を辭する時に、是等前人の先例は、毫も余が腦裏に閃めかなかつたからである。――余が決斷を促がす動機の一部分をも形づくらなかつたからである。尤も先生が是等知名の人の名を擧げたのは、辭任の必ずしも非禮でないと云ふ實證を余に紹介された迄で、是等知名の人を余に比較する爲でなかつたのは無論である。

　先生云ふ、――吾等が流俗以上に傑出しやうと力めるのは、人として當然である。けれども吾等は社會に對する榮譽の貢獻によつてのみ傑出すべきである。傑出を要求するの最上權利は、凡ての時に於て、吾等の人物如何と吾等の仕事如何によつてのみ決せらるべきである。

　先生の此主義を實行してゐる事は、先生の日常生活を別にしても、其著作日本歴史に於て明かに窺ふ事が出來る。自白すれば余はまだ此｜標準的述作《スタンダードウオーク》を讀んで居ないのである。夫にも拘はらず、先生が十年の歳月と、十年の精力と、同じく十年の忍耐を傾け盡して、悉くこれを此一書の中に注ぎ込んだ過去の苦心談は、先生の愛弟子山県五十雄君から精く聞いて知つてゐる。先生は稿を起すに當つて、殆んどあらゆる國語で出版された日本に關する凡ての記事を讀破したといふ事である。山県君は第一其語學の力に驚ろいてゐた。和蘭語でも何でも自由に讀むと云つて呆れた樣な顔をして余に語つた。述作の際非常に頭を使ふ結果として、仕舞には天を仰いで昏倒多時に亙る事があるので、奧さんが大變心配したと云ふ話も聞いた。夫許ではない、先生は單に此著作を完成する爲に、日本語と漢字の研究迄積まれたのである。山県君は先生の技倆を疑つて、六づかしい漢字を先生に書かして見たら、旨くはないが、劃丈は間違なく立派に書いたと云つて感心してゐた。此等の準備からなる先生の日本歴史は、悉く材料を第一の源から拾ひ集めて大成したもので、儲からない保證があると同時に、學者の良心に對して毫も疚ましからぬ�ｺ義的な著作であるのは云ふ迄もない。

　「余は人間に能ふ限りの公平と無私とを念じて、榮誉ある君の國の歴史を今に猶述作しつゝある。從つて余の著書は一部人士の不滿を招くかも知れない。けれども夫は已を得ない。ジヨン・モーレーの云つた通り何人にもあれ誠實を妨ぐるものは、人類進歩の活力を妨ぐると一般であつて、其眞正なる日本の進歩は余の心を深くかつ眞面目に動かす題目に外ならぬからである。」

　余は先生の人となりと先生の目的とを信じて、茲に先生の手紙の一節を有の儘に譯出した。先生は新刊第三卷の冒頭にある緒論をとくに思慮ある日本人に見て貰ひたいと云はれる。先生から同書の寄贈を受ける日それを一讀して滿足な批評を書き得るならば、さうして先生の著書を天下に紹介する事が出來得るならば余の幸である。先生の意は、學位を辭退した人間としての夏目なにがしに自分の著述を讀んで貰つて、同じく博士を辭退した人間としての夏目なにがしに、その著述を天下に紹介して貰ひたいといふ所にあるのだらうと思ふからである。

　　　　　　−明治四四、三、六-八『東京朝日新聞』−

　

　　　マードツク先生の日本歴史

　

　　　　　　　上

　

　先生は約の如く横濱總領事を通じてケリー・エンドウオルシから自著の日本歴史を余に送るべく取り計はれたと見えて、約七百頁の重い書物が其後日ならずして余の手に落ちた。たゞし夫は第一卷であつた。さうして卷末に明治四十三年五月發行と書いてあるので、余は始めて此書に對する出版順序に關しての余の誤解を覺つた。

　先生は吾邦歴史のうちで、葡萄牙人が十六世紀に始めて日本を發見して以來織田、豐臣、�ｺ川三氏を經て島原の内亂に至る迄の間、所謂西歐交通の初期とも稱して然るべき時期を擇んで、其部分丈を先年出版されたのである。だから順序から云ふと、第二卷が最初に公けにされた譯になる。さうして去年五月發行とある新刊の方は、却つて第一卷に相當する上代以後の歴史であつた。最後の卷、即ち十七世紀の中頃から維新の變に至る迄の沿革は、今猶述作中にかゝる未成品に過ぎなかつた。其上去年の第一卷と是から出る第三卷目は、先生一個の企てでなく、日本の亞細亞協會が引き受けて刊行するのだと云ふ事が分つた。從つて先生の讀んで呉れと云つた新刊の緒論は、第三卷にあるのではなくて、矢張り第一卷の第一篇の事だと知れた。夫で先づ寄贈された大冊子の冒頭にある緒言丈を取り敢ず通覽した。

　維新の革命と同時に生れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。余自身の歴史が天然自然に何の苦もなく今日迄發展して來たと同樣に、明治の歴史も亦尋常正當に四十何年を重ねて今日迄進んで來たとしか思はれない。自分が世間から受ける待遇や、一般から蒙る評價には、案外な點も或はあると云はれるかも知れないが、自分が如何にして斯んな人間に出來上つたかといふ徑路や因果や變化に就ては、善惡に拘はらず不思議を挾む餘地がちつとも無い。たゞ斯の如く生れ、斯の如く成長し、斯の如き社會の感化を受けて、斯の如き人間に片付いた迄と自覺する丈で、其自覺以上に何等の驚ろくべき點がないから、從つて何等の好奇心も起らない、從つて何らの研究心も生じない。かゝる理の當然一片の判斷が自己を支配する如くに、同じく當り前さといふ觀念が、矢張り自己の生息する明治の歴史にも付け纏つてゐる。海軍が進歩した、陸軍が強大になつた、工業が發達した、學問が隆盛になつたとは思ふが、それを認めると等しく、しかあるべき筈だと考へる丈で、未だ甞て「如何にして」とか「何故に」とか不審を打つた試しがない。必竟吾等は一種の潮流の中に生息してゐるので、其潮流に押し流されてゐる自覺はありながら、斯う流されるのが本當だと、筋肉も神經も腦髄も、凡てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか變だとかいふ疑の起る餘地が天で起らないのである。丁度葉裏に隱れる蟲が、鳥の眼を晦ます爲めに青くなると一般で、虫自身はたとひ青くならうとも赤くならうとも、そんな事に頓着すべき所以《いはれ》がない。かう變色するのが當り前だと心得てゐるのは無論である。たゞ不思議がるのは當の虫ではなくて、虫の研究者である、動物學者である。

　マードツク先生の吾等日本人に對する態度は恰も動物學者が突然青く變化した虫に對すると同樣の驚嘆である。維新前は殆んど歐洲の十四世紀頃のカルチユアーにしか達しなかつた國民が、急に過去五十年間に於て、二十世紀の西洋と比較すべき程度に發展したのを不思議がるのである。僅か五隻のペリー艦隊の前に爲す術《すべ》を知らなかつた吾等が、日本海の海戰でトラフアルガー以來の勝利を得たのに心を躍らすのである。

　

　　　　　　　下

　

　先生は此驚嘆の念より出立して、好奇心に移り、夫から又研究心に落ち付いて、此大部の著作を公けにするに至つたらしい。だから日本歴史全部のうちで尤も先生の心を刺戟したものは、日本人がどうして西洋と接觸し始めて、又其影響がどう働らいて、黒船着後に至つて全局面の劇變を引き起したかと云ふ點にあつたものと見える。それを一通り調べてもまだ足らぬ所があるので、矢張り上代から漕ぎ出して、順次に根氣よく人文發展の流を下つて來ないと、此突如たる勃興の眞髓が納得出來ないと云ふ意味から、次に上代以後足利氏に至る迄を第一卷として發表されたものと思はれる。さうは斷つてないけれども、緒論を讀むと其邊の消息が多少窺はれる樣な氣もする。

　從つて緒論に現はれた先生は、出來得る限りの範圍に於て、吾等が最近五十年間の豹變に對する説明を、箇條がきの如くに與へて居られる。其内には一寸吾等の思ひ設けぬ解釋さへある。西洋人が豫期せざる日本の文明に驚ろくのは、彼等が開化といふ觀念を誤まり傳へて、耶蘇教的カルチユアーと同意義のものでなければ、開化なる語を冠すべきものでないと自信してゐたからであると云ふが如きは其一例である。西洋の開化と耶蘇教的カルチユアーと密切の關係のある事は誰でも知つてゐるが、耶蘇教的カルチユアーでなければ開化と云へないとは、普通の日本人に何うしても考へ得られない點である。けれども夫が西洋人一般の判斷だと、先生から注意されて見ると、成程と首肯せざるを得ない。斯う云ふ意味に於て、先生の著述は日本を外國に紹介する上に非常な利益がある許でなく、研究心に富んだ外國人が、吾等自身を如何に觀察してゐるかを知る便宜も亦甚だ少なくないのである。

　西洋の雜誌を見ると、日本に關した著述の廣告は、一週に一二冊は屹度出てゐる。近頃では是等の書籍を蒐集した丈でも優に相應の圖書館は一杯になるだらうと思はれる位である。けれども眞の觀察と、眞の努力と、眞の同情と、眞の研究から成つたものは極めて乏しいと斷言しても差支はあるまい。余は此乏しいものゝ一として、先生の歴史を吾等日本人に紹介する機會を得たのを愉快に思ふ。

　歴史は過去を振返つた時始めて生れるものである。悲しいかな今の吾等は刻々に押し流されて、瞬時も一所に?徊して、吾等が歩んで來た道を顧みる暇を有たない。吾等の過去は存在せざる過去の如くに、未來の爲に蹂躙せられつゝある。吾等は歴史を有せざる成り上りものゝ如くに、たゞ前へ前へと押されて行く。財力、腦力、體力、道�ｺ力、の非常に懸け隔たつた國民が、鼻と鼻とを突き合せた時、低い方は急に自己の過去を失つて仕舞ふ。過去などは何うでもよい、只此高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在をも失ふに至るべしとの恐ろしさが彼等を眞向《まとも》に壓迫するからである。

　吾等はたゞ二つの眼《め》を有つてゐる。さうして其二つの眼は二つながら、晝夜ともに前を望んでゐる。さうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮《あせり》に焦慮《あせつ》て、汗を流したり呼息《いき》を切らしたりする。恐るべき神經衰弱はペストよりも劇しき病毒を社會に植付けつゝある。夜番の爲に正宗の名刀と南蛮鐡の具足とを買ふべく餘儀なくせられたる家族は、澤庵の尻尾を噛《かじ》つて日夜｜齷齪《あくせく》するにも拘はらず、夜番の方では頻りに刀と具足の不足を訴へてゐる。吾等は渾身の氣力を擧げて、吾等が過去を破壞しつゝ、斃れる迄前進するのである。しかも吾等が斃れる時、吾等の烟突が西洋の烟突の如く盛んな烟りを吐き、吾等の汽車が西洋の汽車の如く廣い鐡軌を走り、吾等の資本が公債となつて西洋に流用せられ、吾等の研究と發明と精神事業が畏敬を以て西洋に迎へらるゝや否やは、どう己惚れても大いなる疑問である。マードツク先生が吾等の現在に驚嘆して吾等の過去を研究されると同時に、吾等は吾等の現在から刻々に追ひ捲《まく》られて、吾等の未來を斯くの如く悲觀してゐる。余は吾等の過去に對する先生の著書を紹介するの序を以て、吾等の運命に關しての未來觀をも一言先生に告げて置きたいと思ふ。

　　　　　　明治四四、三、一六-一七『東京朝日新聞』

　

　　　博士問題の成行

　

　二月二十一日に學位を辭退してから、二カ月近くの今日に至る迄、當局者と余とは何らの交渉もなく打過ぎた。所が四月十一日に至つて、余は圖らずも上田萬年、芳賀矢一二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を當局に傳へたる結果として、同日午後に、余は又福原專門學務局長の來訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余は又局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾とする旨を述べ合つて別れた。

　翌十二日に至つて、福原局長は文部省の意志を公けにする爲、余に左の書翰を送つた。實は二ケ月前に、余が局長に差出した辭退の申し出に對する返事なのである。

　「復啓二月二十一日付を以て學位授與の儀御辭退相成度趣御申出相成候處已に發令濟につき今更御辭退の途も無之候間御了知相成度大臣の命により別紙學位記御返付旁此段申進候敬具」

　余も又余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。

　「拜啓學位辭退の儀は既に發令後の申出にかゝる故、小生の希望通り取計らひかぬる旨の御返事を領し、再應の御答を致します。

　「小生は學位授與の御通知に接したる故に、辭退の儀を申し出でたのであります。夫より以前に辭退する必要もなく、又辭退する能力もないものと御考へにならん事を希望致します。

　「學位令の解釋上、學位は辭退し得べしとの判斷を下すべき餘地あるにも拘はらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一圖に辭退し得ずと定められたる文部大臣に對し小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。

　「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を學位あるものと御認めになるのは已を得ぬ事とするも、小生は學位令の解釋上、小生の意思に逆つて、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。

　「最後に小生は目下我邦に於ける學問文藝の兩界に通ずる趨勢に鑒みて、現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。

　「右大臣に御傳へを願ひます。學位記は再應御手許迄御返付致します。敬具」

　要するに文部大臣は授與を取り消さぬと云ひ、余は辭退を取り消さぬといふ丈である。世間が余の辭退を認むるか、又は文部大臣の授與を認むるかは、世間の常識と、世間が學位令に向つて施す解釋に依つて極まるのである。たゞし余は文部省の如何と、世間の如何とに拘らず、余自身を余の思ひ通に認むるの自由を有してゐる。

　余が進んで文部省に取消を求めざる限り、又文部省が余に意志の屈從を強ひざる限りは、此問題は此より以上に纏まる筈がない。從つて落ち付かざる所に落ち着いて、歳月を此儘に流れて行くかも知れない。解決の出來ぬ樣に解釋された一種の事件として統一家、徹底家の心を惱ます例となるかも分らない。

　博士制度は學問奬勵の具として、政府から見れば有效に違ひない。けれども一國の學者を擧げて悉く博士たらんがために學問をすると云ふ樣な氣風を養成したり、又は左樣思はれる程にも極端な傾向を帶びて、學者が行動するのは、國家から見ても弊害の多いのは知れてゐる。余は博士制度を破壞しなければならんと迄は考へない。然し博士でなければ學者でない樣に、世間を思はせる程博士に價値を賦與したならば、學問は少數の博士の專有物となつて、僅かな學者的貴族が、學權を掌握し盡すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の續出せん事を余は切に憂ふるものである。余は此意味に於て佛蘭西にアカデミーのある事すらも快よく思つて居らぬ。

　從つて余の博士を辭退したのは徹頭徹尾主義の問題である。此事件の成行を公けにすると共に、余は此一句丈を最後に付け加へて置く。

　　　　　　−明治四四、四、一五『東京朝日新聞』−

　

　　　文藝委員は何をするか

　

　　　　　　　上

　

　政府が官選文藝委員の名を發表するの日は近きにありと傳へられてゐる。何人が進んで其囑に應ずるかは余の知る限りでない。余はたゞ文壇のために一言して諸君子の一考を煩はしたいと思ふ丈である。

　政府はある意味に於て國家を代表してゐる。少くとも國家を代表するかの如き顔をして萬事を振舞ふに足る位の權力家である。今政府の新設せんとする文藝院は、此點に於てまさしく國家的機關である。從つて文藝院の内容を構成する委員らは、普通文士の格を離れて、突然國家を代表すべき文藝家とならなければならない。しかも自家に固有なる作物と評論と見識との齎した價値によつて、國家を代表するのではない。實行上の權力に於て自己より遙に偉大なる政府と云ふものを背景に控へた御蔭で、忽ち魚が龍となるのである。自ら任ずる文藝家及び文學者諸君に取つては、定めて大いなる苦痛であらうと思はれる。

　諸君がもし、國家のためだから、此苦痛を甘んじても遣ると云はれるなら、まことに敬服である。其代り何處が國家の爲だか、明かに諸君の立脚地を吾等に誨へられる義務が出て來るだらうと考へる。

　政府が國家的事業の一端として、保護奬勵を文藝の上に與へんとするのは、文明の當局者として固より當然の考へである。けれども一文藝院を設けて優に其目的が達せられるやうに思ふならば、恰も果樹の栽培者が、肝心の土壌を問題外に閑却しながら、自分の氣に入つた枝丈に袋を被せて大事を懸ける小刀細工と一般である。文藝の發達は、その發達の對象として、文藝を歡迎し得る程度の社會の存在を假定しなければならないのは無論の事で、其程度の社會を造り出す事が、即ち文藝を保護奬勵しようと云ふ政府の第一目的でなければならない事も亦知れ切つた話である。さうして夫は根の深い國民教育の結果として、始めて一般世間の表面に浮遊して來るより外に途のないものである。既に根本が此處で極まりさへすれば、他の設備は殆んど裝飾に過ぎない。（其弊害を勘定に入れない時ですら）。余は政府が文藝保護の最急政策として、何故にまづ學校教育の遠き源から手を下さなかつたかを怪むのである。夫程大仕掛の手數を厭ふ位なら、序に文藝院を建てる手數をも厭つた方が經濟であると考へる。國家を代表するかの觀を裝ふ文藝委員なるものは、其性質上直接社會に向つて、以上の樣な大勢力を振舞かねる團體だからである。

　もし文藝院がより多く卑近なる目的を以て、文藝の産出家に對して、個々別々の便宜を、其作物上の評價に應じて、零細にかつ隨時に與へようとするならば、余は其效果の比較的少きに反して、其弊害の思つたよりも大いなる事を斷言するに憚らぬものである。

　我々は自ら相應に鑑賞力のある文士と自任して、常住他の作物に對して、自己の正當と信ずる評價を公けにして憚らないのみか、藝術上に於て相互發展進歩の餘地は是より外にないと迄考へてゐる。けれども我々の批判は飽迄も我々一家の批判である。もし夫が一家の批判を超越する場合には、批判其物の性質として普遍ならざるべからざる權威を内に具へてゐるが爲で、云はゞ相手と熟議の結果から得た自然の勢力に過ぎない。我々の背後にはたゞ他より優秀なる鑑賞力と、他より超越せる判斷力があるのみで、單に是が爲にわが言辭にそれ相應の權威を生ずるのである。

　此權威を最後最上の權威であれかしと冀ふのは、我々の欲望であつて、一般に通ずる事實ではない。之を事實にして呉れるものは、相手と公平なる三者である。苟くも二者の許諾を得ざるものは、どこ迄も一家の批判に過ぎない。夫が當然である。然るに一家の批判を以て任ずべき文藝家もしくは文學家が、國家を代表する政府の威信の下に、突如として國家を代表する文藝家と化するの結果として、天下をして彼等の批判こそ最終最上の權威あるものとの誤解を抱かしむるのは、其起因する所が文藝其物と何等の交渉なき政府の威力に本づくだけに、猶更の惡影響を一般社會――ことに文藝に志ざす青年――に與ふるものである。是を文藝の墮落といふのは通じる。保護と云ふに至つては其意味を知るに苦しまざるを得ない。

　

　　　　　　　中

　

　一家の批判を、一家として最後最上の批判と信ずるのに、何人も喙を容れやうがない。けれども夫をして比較的普遍ならしめんがため、――夫を世間に通用する事實と變化せしめんがために、文藝の鑑賞に縁もゆかりもない政府の力を藉りるのは卑怯の振舞である。自己の所信を客觀化して公衆にしか認めしむべき根據を有せざる時に於てすら、彼等は自由に天下を欺くの權利をあらかじめ占有《アツシユーム》するからである。

　弊害は是許りではない。既に文藝委員が政府の威力を背景に置いて、個人的ならざるべからざる文藝上の批判を國家的に膨脹して、自己の勢力を張るの具となすならば、政府は又文藝委員を文藝に關する最終の審判者の如く見立てゝ、此機關を通して、尤も不愉快なる方法によつて、健全なる文藝の發達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物のみを奬勵して、其他を壓迫するは見やすき道理である。公平なる文藝の鑑賞家は自己の所謂健全と政府の所謂健全と一致せざる多くの場合に於て、文藝院の設立を迷惑に思ふだらう。

　是等の弊害を別にしても、文藝院の建設は依然として文藝の發達上效力がある、即ちある種類の好い作物は出るに違ないと主張する人があるかも知れない。余はさう云ふ人に向つて、たとひ日本に文藝院がなくつても好い作物は出るのだと云ひたい。甞て文部省の展覽會の審査員の某氏に會つた時、日本の繪畫も近頃は大分上手になりましたと云つたら、其人は文部省の展覽會が出來てから大變好くなりましたと答へた。日本の繪畫の年々進歩するのは爭ふべからざる事實ではあるが、其原因を某氏のやうに一概に文部省の展覽會に歸するのは間違つてゐる樣に思はれる。果して日本の畫家があの位の刺激に挑撥されて人工的に向上したとすれば、彼等は文部省の御蔭で腕が上がると同時に、同じく文部省の御蔭で頭が下がつたので、一方から云ふと氣の毒な程不見識な集合體だと評しなければならない。

　余が某氏の言に疑を挾むのは、自分に最も密接の關係のある文壇の近状に徴して、決して左樣ではあるまいとの自信があるからである。政府は今日迄わが文藝に對して何等の保護を與へてゐない。寧ろ干渉のみを事とした形迹がある。それにも拘はらず、わが文學は過去數年の間に著るしい發展をした。余の見る所を以てすると、現今毎月刊行の文學雜誌に載る幾多の小説の大部分は、英國のヰンゾー抔に續々現れてくる愚劣な小説よりも、何の位藝術的に書き流されてゐるか分らない。既に此數年の間に斯程進歩の機運が熟するとしたなら、突然それを阻害する事情の起らない限りは、文藝院抔と云ふ不自然な機關の助けを藉りて無理に温室へ入れなくても、野生の儘で放つて置けば、此先順當に發展する丈である。我々文士から云つても、好い加減な選り好みをされた上に、生中《なまなか》もやし扱ひにされるのは有難いものではない。

　現代の文士が述作の上に於て要求する所のものは、國家を代表する文藝委員諸君の注意や批判や評價だと思ふのは、政府の己惚である。それ等は皆｜各自《めい／＼》に有つてゐる筈である。疑はしいときは、個人としての先輩やら朋友やら、信用のある外國人の著はした書物やらに聽いて、自分の考へを纏めれば澤山である。現代の文士が述作の上に於て最も要求する所のものは夫等ではない。金である。比較的容易なる生活である。彼等は見苦しい程金に困つてゐる。所謂文壇の不振とは、文壇に提供せられたる作物の不振ではない。作物を買つてやる財嚢の不振である。文士から云へば米櫃の不振である。新設されべき文藝院が果して此不振の救濟を急務として適當の仕事を遣り出すならば、よし永久の必要はなしとした所で、刻下の困難を救ふ一時の方便上、文壇に縁の深い我々は折れ合つて無理にも賛成の意を表したいが、何うして夫を仕終《しおほ》せるかの實行問題になると、余には全然見込が立たないのである。

　

　　　　　　　下

　

　近時のわが文壇は殆んど小説の文壇である。脚本と批評は之に次ぐべき重要の因數《フアクトー》に相違ないが、分量から云つても、一般の注意を惹く點から云つても、遂に小説には及ばない。其小説に就て、斯道に關係ある我々の見逃し能はざる特殊の現象が毎月刊行の雜誌の上に著るしく現れて來た。それは全體の小説が藝術的作品として、或る水平に達しつゝあるといふ事實である。又其水平が年々に高くなりつゝあると云ふ事實である。此二つの事實を左右の翼として、論理的に一段の交渉を前方に進めるならば、我々は局外者に向つて興趣ある一種の結論を提供する事が出來る。其結論とは斯うである。――

　わが小説界は偉大なる一二の天才を有する代りに、優劣のしかく懸隔せざる多數の天才（もしくは人才）の集合努力によつて進歩しつゝある。

　此傾向を首肯ひつゝ、文藝委員のすると云ふ選拔賞與の實際問題に向ふならば、公平にして眞に文界の前途を思ふものは、誰しも其事業に伴ふ危險と困難とを感ずべき筈である。左迄優劣の階段を設くる必要なき作品に對して、國家的代表者の權威と自信とを以て、敢て上下の等級を天下に宣告して憚らざるさへあるに、文明の趨勢と教化の均霑とより來る集合團體の努力を無視して、全部に與ふべき筈の報酬を、強ひて個人の頭上に落さんとするは、殆んど惡意ある取捨と一般の行爲だからである。

　好惡は人々の隨意である。好惡より生ずる物品金錢の贈與も亦人々の隨意である。英國の王家が月桂詩人の稱號をスヰンバーンに與へないで、オースチンに年々二三百磅の恩給を贈るのは、單に王家が此詩人に對する好惡の表現と見れば夫迄である。けれども國家の與ふべき報酬は、一錢一厘たりとも好惡によつて支配さるべきではない。必ず優劣によつて決せらるべきである。しかも其優劣が判然と公衆の眼に映らなければならない。此必要條件を具備しない國家的保護と奬勵とは無きに優ると寛假するよりも、寧ろ有に劣る（もし左樣いふ言葉が意味をなすならば）と非難する方が當然である。

　作物の現状と文士の窮状とは既に上説の如くであつて、茲に保護の爲に使用すべき金が若干でもあるとすれば、それを分配すべき比較的無難な方法はたゞ一つある丈である。余は毎月刊行の雜誌に掲載される凡ての小説とは云はない積であるが、其大部分、即ち或る水平以上に達したる作物に對しては此保護金なり奬勵金なりを平等に割り宛て、當分原稿料の不足を補ふ樣にしたら可からうと思ふ。固より各人に割り宛てれば僅かなものに違ないけれども、一つの短篇に就て、三十圓乃至五十圓位な賞與を受ける事が出來たなら、賞與に伴ふ名誉抔は何うでも可いとして、實際の生活上に多少の便宜はある事と信ぜられるからである。斯うすれば雜誌の編輯者とか購買者とかには丸で影響を及ぼさずに、たゞ雜誌を飾る作家丈が寛容《くつろ》ぐ利益のある事だから、一雜誌に載る小説の數が無暗に殖える氣遣はない。尤も自分で書いて自分で雜誌を出す道樂な文士は多少増かも知れないが、それは實施の上になつて見なければ分らない。

　余は以上の如く根本に於て文藝院の設置に反對を唱ふるものであるが、もし保護金の使用法に就て、幸ひにも文藝委員が此公平なる手段を講ずるならば、其局部に對しては大に賛成の意を表するに吝かならざる積である。其他の企畫に就ても悉く非難する必要は無論認めない。けれども大體の筋から云つて、凡て是等は政府から獨立した文藝組合又は作家團といふ樣な組織の下に案出され、又其組織の下に行政者と協商されべきである。惜いかな今の日本の文藝家は、時間から云つても、金錢から云つても、又精神から云つても、同類保存の途を講ずる餘裕さへ持ち得ぬ程に貧弱なる孤立者又はイゴイストの寄合である。自己の劃したる檻内に咆哮して、互に噛み合ふ術は心得て居る。一歩でも檻外に向つて社會的に同類全體の地位を高めやうとは考へてゐない。互を輕蔑した文字を恬として六號活字に竝べ立てたり抔して、故さらに自分等が社會から輕蔑される樣な地盤を固めつゝ澄まし返つてゐる有樣である。日本の文藝家が作家倶樂部《オーソースクラブ》といふ程の單純な組織すらも構成し得ない卑力な徒である事を思へば、政府の計畫した文藝院の優に成立するのも無理はないかも知れぬ。

　　　　　明治四四、五、一八-二〇『東京朝日新聞』

　

　　　田中王堂氏の「書齋より街頭へ」

　

　日本語としては珍らしい書名である。書齋より街頭へ打つて出るの意だと王堂氏自身が註釋を施してゐる。學者の見識を書齋に蓄へて、志士の功名を街頭に樹てようとするのが、氏の希望ださうである。賛成である。

　たゞ氏の説く所の三分の二は、人事現象の空間的辯明に過ぎないのは如何なるものであらう。たとへば政府とは斯う、個人とは斯う、理想とは斯う、道�ｺとは斯う、と一々彼等に割り宛てられた社會上又は心理上の役目を、一場内に陳列して、相互の關係やら、其物の特色やらを鄭重に指摘する丈に止まつてゐる。從つて讀者の是等の講釋より得る知識は辨別上の知識である。大いなる概念である。人間活力の種々なる表現に就ての長い定義である。尤も此方面に於て、氏の眼界は中々に廣いのみならず、氏の分類には立派な見識が一貫してゐるには相違ないが、夫は氏が書齋の人として尤も得意な方面を發揮した丈で、實行の人、街頭へ打つて出た志士としての價値とは何等の交渉もない。單に書齋の研究を以て世に問ふと云はずして別に社會的使命を帶ぶる著述と宣言する以上は、單なる學識を標榜する丈では濟むまい。其學識が必然社會的に齎らし得る實際上の效果を豫想するに足る要素を胚胎して居なくてはなるまい。必ずや純粹の理學でなくて理學の應用である工學を孕むべき筈であらう。理想とか、道�ｺとか、知覺とか、概念とか云ふものを空間的に排列して順序を整へた丈では不可《いけ》まい。此整つた隊伍を勇ましく繰出して、實世間に一戰《ひといくさ》をしなければなるまい。王堂氏の陣立は成程立派であるが、たゞ兵隊が規律正しく竝んでゐる丈で、それが別段の働きもせず、徒らに奇麗にして且無用なる長物とのみ見える場合が多い樣に見受けられるのは甚だ殘念である。空間的に排列された計りで、時間的に動かない兵隊が裝飾に過ぎないのは云ふ迄もあるまい。

　王堂氏の論文の過半は辯難攻撃の聲で充滿してゐる。辯難攻撃は他の立場を否定するのを根本の能事とするものだから、美しく成功した時ですら、其效果は消極的に過ぎない。惜しいかな王堂氏は十字街頭に立つて汝等斯くすべし、斯くせざるぺからずと積極的に呼號し得る底の特殊なる何物をも把持して居らぬやに見受けられる。王堂氏はわれ生活の定義を下して剴切なり、道�ｺの動力《ダイナミツクス》を論じて肯綮を得たり、理想を説いて自然派の蒙を啓けり、是等は皆われに積極的の或物ある證據にあらずやと詰問されるかも知れない。御尤もである。余と雖も王堂氏が積極的の見解に富んで居られる事は疑はない。しかも其見解の豪邁にして精緻なる事を優に認むるものである。たゞ積極的の見解を山程積み疊《かさ》ねても、吾々の現代生活中に原動力を與ふる積極的の方針とも活作用とも變ずる術のないのを悲しむのである。氏の論文の間口の非常に廣大なのに驚いて、這入つて見ると、存外奧行が詰つてゐる感じがしたり、又は全くの吹き拔けで何處で建物が盡きてゐるのか分らない氣持がするのは、要するに是が爲だらうと思ふ。氏が余の「文藝の哲學的基礎」を評せらるゝに百六十六頁を費されたるは、余の深く光榮とする所で、氏の學界に貢献せんとする意氣も目醒しきものではあるが、うんと踏まへられた余に、何うもうんと踏まへられた樣な氣が起らないのが缺點である。氏の論鋒は、恰も區役所の戸籍掛りが、出産屆に對して、出産の事實を不問に付しながら、たゞ其書式の法に叶はない事丈をくどく長く主張して、いつ迄も屆書を受取らない樣な觀がある。

　けれども今の見すぼらしき批評界に在つて、是程時間と勞力と精神と學問と見識を惜まずに、堂々と觀兵の偉典を擧げ得るものはたゞ一の王堂學人あるのみであらう。表へ仁丹を買ひに出る準備として、先づ鐡《かね》の草鞋を誂へるのは、一寸異樣ではあるが、外の人はそんな用意をする金も時もないからの苦がりから、只着のみ着の儘で飛んで出るのだと思へば、王堂學人の方が遙に餘裕のある大人學者である。隨つて王堂學人は隨分自尊卑他の言語を極端まで使用されるけれども、丁度大名が町人を呼び捨にすると同じ事で、時として滑稽に響くかも知れないが、少しも陋劣の調を傳へない。余は余の敬愛する王堂學人のために特に此美點を指摘して、此書を世間に薦むるものである。王堂學人の武器を以て、王堂學人の著述を學究的に批評する事が、わが文藝欄の性質上出來｜惡《にく》かつたのは返す／”＼遺憾であるが、夫は已を得ないのだからさう御承知を願ひたい。

　　　　−明治四四、五、二三『東京朝日新聞』−

　

　　　坪内博士とハムレツト

　

　　　　　上

　

　一週日にわたる「ハムレツト」の公演は文壇最近の出來事として藝術に關係ある多數のものゝ興味を惹き起した新らしい色彩である。余も招待を受けて、觀に行つた。一寸した差支のため、後れて席に着いたのみならず早く席を立つたから、全部の連續した光景が、眼にも耳にも展開的に收まらなかつたのは遺憾であるけれども、長い卷物の中間丈は慥かに鮮明に切り拔いて宅へ持つて歸つた。其印象の中には坪内博士にも登場の諸君にも面と向つては云ひ惡《にく》い所が大分あるので、少なくとも公演中はと差控えてゐた。今これを公けにするのは、博士の熱心と諸君の努力に對する余の敬意に、誠實なる内容を與へんとする心苦しき試みに過ぎない。

　根本的に云ふと、「ハムレツト」は英國で出來たもの、三百年も昔に成つたもの、無韻ではあるが一行五疊の律から割り出した所謂ブランク?ースで書き綴られたもの――既に外面的にも是程の特色を具へてゐる以上は、今日の日本に生れた我々の此劇に對する態度が、鑑賞的であるべきか、はた批評的であるべきかは讀まぬ前から略極まるべき筈である。と云ふ意味は、「ハムレツト」と我々が必ずぴたりと一致すべきものとの迷信に近い信念を以て讀み始めるよりは、寧ろ我々は我々として何處迄「ハムレツト」に引つ張つて行かれ得るだらうかと云ふ批判的態度で、研究に取り掛らなければなるまいと論定したいのである。

　これを事實に訴へれば、余の意味は更に一倍の光度を高め得るかも知れない。あの一週間の公演の間に來た何千かの觀客に向つて、自分が舞臺の裡に吸收せられる程我を忘れて面白く見物して來たかと聞いたら、左樣と斷言し得るものは恐らく一人もなからうと思ふ。夫程劇と彼等の間には興味の間隔があつたのだと余は憚りなく信じてゐる。

　それでは其間隔を説明しろと坪内博士が云はれるなら、余は英國が劇と我等の間に挾まつてゐると答へたい。三百年の月日が挾まつてゐると答へたい。使ひ慣れない詩的な言葉がのべつに挾まつてゐるとも答へたい。要するに沙翁と云ふ一人の男が間へ立つて、凡て鑑賞の邪魔をしてゐるのだと憚なく云ひ切りたい。我等と劇の間に寸分の隙間なく、二つがぴたりと合ふならば、其劇に英國だの、三百年の昔だの、詩的な言葉だのと云ふ面倒な形容詞は要らぬ筈である。「ハムレツト」はたゞの「ハムレツト」で充分通用しなければならない筈である。

　坪内博士の譯は忠實の模範とも評すべき鄭重なものと見受けた。あれだけの骨折は實際翻譯で苦しんだ經驗のあるものでなければ、殆んど想像するさへ困難である。余は此點に於て深く博士の勞力に推服する。けれども、博士が沙翁に對して餘りに忠實ならんと試みられたがため、遂に我等觀客に對して不忠實になられたのを深く遺憾に思ふのである。我等の心理上又習慣上要求する言語は一つも採用の榮を得ずして、片言隻句の末に至るまで、悉く沙翁の云ふが儘に無理な日本語を製造された結果として、此矛盾に陷たのは如何にも氣の毒に堪へない。沙翁劇は其劇の根本性質として、日本語の翻譯を許さぬものである。其翻譯を敢てするのは、これを敢てすると同時に、我等日本人を見棄たも同樣である。翻譯は差支ないが、其翻譯を演じて、我等日本人に藝術上の滿足を與へやうとするならば、葡萄酒を正宗と交換したから甘黨でも飲めない事はなからうと主張すると等しき不條理を犯すことになる。博士はたゞ忠實なる沙翁の翻譯者として任ずる代りに、公演を斷念するか、又は公演を遂行するために、不忠實なる沙翁の翻案者となるか、二つのうち一つを選ぶべきであつた。

　

　　　　　下

　

　沙翁の作物が自然の鏡に映る明かなる影の如くに無理のないものだと、一概に西洋人のいふ通りを眞《ま》に受けて、自己の味覺をわざと客位に置いては、我々の不見識になるばかりか、現に御互の損である。沙翁を寫實の泰斗の樣に云ひ觸らすのは眞《まこと》でもあるが又大いなる嘘でもあると余は主張したい位に思つてゐる。成程喜怒哀樂の因果的に流露する段落關係には普遍の趣を具へてゐるかも知れないが、其喜怒哀樂の中に盛られる表現には寄り付けない程に不自然で且突飛なものがある。今日の日本人は無論、今日の英國人も無論、當時エリザベス朝の人間と雖も決してこんな思想を意志疏通の道具として用ひはしなかつたらうと考へられる。

　此不自然で突飛な、我々とは尤も人間的交渉の少ない思想が、即ち沙翁の詩想なので、平凡と常套を脱した普通以上の別世界に行はるべき巧みなる表現なのだと云ふ事實に氣が付くならば、所謂沙翁劇なるものは、普遍なる脚色の波瀾から觀客に刺戟を與へる外に、一種獨特の詩國を建立して、其詩國の市民でなければ到底これを享樂する權利を有して居らぬと規定された六つかしい條件付の芝居であると云ふ事が解るだらう。

　從つて日常の人間としても猶且つ鑑賞の餘地ある脚色にのみ追伴して、同時に一方の條件を充たす事を忘れたもの、又は充たすに意なきものには、一種云ふべからざる不徹底な齒痒さと、片付ける事の出來ない矛盾の苦痛を與へざるを得ない。我等は全く之が爲に惱まされたのである。けれども坪内博士と登場の諸君は、夫程詩的な表現を悉まにする沙翁に跟いて來得ない我等の方が、趣味の程度に於て稚《をさ》ないのだと云はれるかも知れない。余は特に其所を辯じて置きたいのである。

　余の經驗に訴へると、沙翁の建立したと云ふ詩國は、歐洲の評家が一致する如くに、しかく普遍な性質を帶びてゐるものではない。我等が相應にこれを味はひ得るのは、年來修養の結果として、順應の境地を意識的に把捉した半ば有意の鑑賞である。縁の遠い所になると依然として我等と沙翁との間には何等の血も脈も共通に搏つてはゐない。其上我等は字面に?徊して、其内部に潜在する情味を掬しながら徐々と進行するものである。單なる俳句の如きですら詩と名のつく以上は廣告を讀み流す勢で進行しては頭も情緒も字義に伴ふ餘裕を見出し得ないのは經驗の教へる所である。況して本來から己れを異境の土に移しての鑑賞に、日常談話の速力は、汽車で箱根を馳け拔けるよりも無理な見物である。今の普通教育を受けた英人にすら沙翁の言葉は舞臺の文句としては餘りに詩的で、殆んど意義を構成してゐない所が多い。もし此不足を補ふにアクセントの特別な組織から生ずる朗詠吟誦の調子に伴つて起る快感を以てしなかつたら、彼等は殆んど長時間の席に堪へないだらうと思ふ。沙翁は詩人である、詩人の言葉は常識以上の天地を馳け回つてゐる、と許した以上、之を口にするものも亦常識以上の調子で觀客を釣り込む魔力と覺悟とを具へなければならない。要するに沙翁劇のセリフは能とか謠とかの樣な別格の音調によつて初めて、興味を支持されべきであると極めて懸らなければならない。こゝに注意を拂はないで、「晴嵐梢を吹き拂つて」と云ふ樣な言葉を、「おい一寸來てくれ」と云ふ日常の調子で遣つては、雙方共崩れに終る丈である。

　西洋でも沙翁劇は今猶?演ぜられる。其都度評家の苦情は、今の役者が詩を理解しないで、普通の散文と選ぶ所なく口から出任せに遣つて退《の》けるから、折角の美くしいものを臺なしに打ち壞して仕舞ふと云ふにある。既に音律の整つた原詩に對してすら斯う云ふ非難がある。坪内博士の「ハムレツト」は寫實を遠かる埋合せとして沙翁の與へたる詩美を、單に聲調の上に於てすら再演する事が出來なかつたため、我々は高雅な幻境に誘《いざな》はれる心持に幾分でもなり得ず、又普通の人間を舞臺の上に見る樣な切實な面白味を味はひ得なかつたのである。

　　　　　　明治四四、六、五‐六『東京朝日新聞』

　

　　　學者と名誉

　

　木村項の發見者木村博士の名は驚くべき速力を以て旬日を出ないうちに日本全國に廣がつた。博士の功績を表彰した學士會院と其表彰を飽迄緊張して報道する事を忘れなかつた都下の各新聞は、久し振りにと云はんよりは寧ろ初めて、純粹の科學者に對して、政客、軍人、及び實業家に讓らぬ注意を一般社會から要求した。學問のためにも賀すべき事で、博士の爲にも喜ばしき事に違ない。

　けれども今より一ケ月前に、此木村博士が何處に何をしてゐるかを知つてゐたものは、全國を通じて僅か百人を出ぬ位であつたらう。博士が忽然と著名になつたのは、今迄丸で人の眼に觸れないで經過した科學界といふ暗黒な人世の象面に、一點急に輝やく場所が出來たと同じ事である。其所が明るくなつたのは仕合せである。然し其所丈が明るくなつたのは不都合である。

　一般の社會はつい二三週間前迄博士の存在に就て全く神經を使はなかつた。一般の社會は今日と雖科學といふ世界の存在に就ては殆んど不關心に打ち過ぎつゝある。彼等から見て闇に等しい科學界が、一樣の程度で彼等の眼に暗く映る間は、彼等が根柢ある人生の活力の或物に對して公平に無感覺であつたと非難される丈で濟むが、苟しくも此暗い中の一點が木村項の名で輝やき渡る以上、又他が依然として暗がりに靜まり返る以上、彼等が今迄所有してゐた公平の無感覺は、俄然として不公平な感覺と變性しなければならない。是迄は只無知で濟んでゐたのである。それが急に不�ｺ義に轉換するのである。問題は單に智愚を界《さかひ》する理性一遍の墻を乘り超えて、道義の圏内に落ち込んで來るのである。

　木村項だけが炳として俗人の眸を燒くに至つた變化につれて、木村項の周圍にある暗黒面は依然として、木村項の知られざる前と同じ樣に人から其存在を忘れられるならば、日本の科學は木村博士一人の科學で、他の物理學者、數學者、化學者、乃至動植物學者に至つては、單位をすら充たす事の出來ない出來損なひでなければならない。貧弱なる日本ではあるが、余には是程迄に愚圖が揃つて科學を研究してゐるとは思へない。其方面の知識に疎い寡聞なる余の頭にさへ、此斷見を否定すべき材料は充分あると思ふ。

　社會は今迄科學界をたゞ漫然と暗く眺めてゐた。さうして其科學界を組織する學者の研究と發見とに對しては、其比較的價値｜所《どころ》か、全く自家の着衣喫飯と交渉のない、徒事《いたづらごと》の如く見傚して來た。さうして學士會院の表彰に驚ろいて、急に木村氏をえらく吹聽し始めた。吹聽の程度が木村氏の偉《えら》さと比例するとしても、木村氏と他の學者とを合せて、一樣に坑中に葬り去つた一ケ月前の無知なる公平は、全然破れて仕舞つた譯になる。一旦木村博士を賞揚するならば、木村博士の功績に應じて、他の學者も亦適當の名誉を荷ふのが正當であるのに、他の學者は木村博士の表彰前と同じ暗黒な平面に取り殘されて、たゞ一の木村博士のみが、今日迄學者間に維持せられた比較的位地を飛び離れて、衆目の前に獨り偉大に見える樣になつたのは少なくとも道義的の不公平を敢てして、一般の社會に妙な誤解を與ふる好意的な惡結果である。

　社會はたゞ新聞紙の記事を信じてゐる。新聞紙はたゞ學士會院の所置を信じてゐる。學士會院は固より己れを信じてゐるのだらう。余と雖ども木村項の名誉ある發見たるを疑ふものではない。けれども學士會院が其發見者に比較的の位置を與へる工夫を講じないで、徒らに表彰の儀式を祭典の如く見せしむるため被賞者に絶對の優越權を與へるかの如き擧に出でたのは、思慮の周密と辨別の細緻を標榜する學者の所置としては、余の提供にかゝる不公平の非難を甘んじて受ける資格があると思ふ。

　學士會院が榮譽ある多數の學者中より今年はまず木村氏丈を選んで、他は年々順次に表彰するといふ意を當初から持つてゐるのだと辯解するならば、木村氏を表彰すると同時に、其主意が一般に知れ渡るやうに取り計ふのが學者の用意といふものであらう。木村氏が五百圓の賞金と直徑三寸大の賞牌に相當するのに、他の學者はたゞの一錢の賞金にも直徑一分の賞牌にも値せぬやうに俗衆に思はせるのは、木村氏の功績を表するがために、他の學者に屈辱を與へたと同じ事に歸着する。

　　　　　−明治四四、七、一四『東京朝日新聞』−

　

　　　道樂と職業

――明治四十四年八月明石に於て述――

　

　只今は牧君の滿洲問題――滿洲の過去と滿洲の未來といふやうな問題に就いて、大變條理の明かな、さうして秩序のよい演説がありました。そこで牧君の披露に依ると、其あとへ出る私は一段と面白い話をするといふやうになつて居るが、なか／＼牧君のやうに旨く出來ませぬ。殊に秩序が無からうと思ふ。唯今本社の人が明日の新聞に出すんだから、講演の梗概を二十行ばかりにつゞめて書けといふ注文でしたが、それは書けないと言つて斷つた位です。それじやア饒舌《しやべ》らないかといふと、現に斯うやつて饒舌りつゝある。饒舌る事はあるのですが、秩序とか何とか云ふ事が、ハツキリ句切《くぎ》りが附いて頭に疊み込んでありませぬから、或は前後したり、混雜したり、いろ／＼お聽きにくい所があるだらうと思ひます。殊にあなた方の頭も大分勞れておいでゞせうから、先づ成るべく短かく申さうと思ふ。

　私の申すのは少しもむづかしい事ではありません。滿洲とか安南とかいふ對外問題とは違つて極《ごく》やさしい「道樂と職業」といふ至極簡單なみだしです。内容も從つて簡單なものであります。まあそれを一寸僅かばかり御話をしやうと思ふ。

　元來こんな所へ來て講演をしやうなどゝは全く思ひもよらぬ事でありましたが、「是非出て來い」と斯ういふ譯で、それでは何か問題を考へなければならぬから其問題を考へる時間を與へて呉れと言ひましたら、社の方では宜しいと云つて相應の日子を與へて呉れました。ですから考へて來ないといふことも言へず、出て來ないといふことも無論言へず、それでとう／＼此所へ現はれる事になりました。けれども明石といふ所は、海水浴をやる土地とは知つて居ましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまでも知りませんでした。どうしてあゝいふ所で講演會を開く積りか、一寸其意を得るに苦しんだ位であります。ところが來て見ると非常に大きな建物があつて、彼處で講演をやるのだと人から教へられて始めて尤もだと思ひました。成程あれ程の建物を造れば其中で講演をする人を何處からか呼ばなければ所謂寶の持腐れになる許でありませう。從つて西日がカン／＼照つて暑くはあるが、折角の建物に對しても、あなた方は來て見る必要があり、又我々は講演をする義務があるとでも言はうか、まアあるものとして此壇上に立つた譯である。

　そこで「道樂と職業」といふ題。道樂と云ひますと、惡い意味に取るとお酒を飲んだり、又は何か花柳社會へ入《はい》つたりする、俗に道樂息子と云ひますね、あゝいふ息子のする仕業、それを形容して道樂といふ。けれども私の此處で云ふ道樂は、そんな狹い意味で使ふのではない、もう少し廣く應用の利く道樂である。善い意味、善い意味の道樂といふ字が使へるか使へないか、それは知りませぬが、段々話して行く中《うち》に分るだらうと思ふ。若し使へなかつたら惡い意味にすればそれで宜いのであります。

　道樂と職業、一方に道樂といふ字を置いて、一方に職業といふ字を置いたのは、丁度東と西といふやうなもので、南北或は水火、つまり道樂と職業が相闘ふ所を話さうと、斯ういう譯である。即ち道樂と職業といふものは、どういうやうに關係して、どういふやうに食ひ違つて居るかといふ事を先づ話して――尤も其道樂も職業も、既に御承知のあなた方にさういふ事を言ふ必要もなし、私も強ひてやりたくはないが、併し前《ぜん》申した樣な譯でわざ／＼出て來たものだから、そこはあなた方に既に御分りになつて居る程度以上に、一歩でももう少し明かに分らせる事が、私の力で出來れば夫で私の役目は濟んだものと内々高を括つてゐるのであります。

　夫で我々は一口によく職業と云ひますが、私此間も人に話したのですが、日本に今職業が何種類あつて、それが昔に比べてどの位の數に殖えて居るかといふ事を知つて居る人は、恐らく無いだらうと思ふ。現今の世の中では職業の數は煩雜になつて居る。私は曾て大學に職業學といふ講座を設けてはどうかといふ事を考へた事がある。建議しやしませぬが、唯考へた事があるのです。何故だといふと、多くの學生が大學を出る。最高等の教育の府を出る。勿論天下の秀才が出るものと假定しまして、さうして其秀才が出てから何をして居るかといふと、何か糊口の口がないか何か生活の手蔓はないかと朝から晩迄捜して歩いて居る。天下の秀才を何かないか何かないかと血眼にさせて遊ばせて置くのは不經濟の話で、一日遊ばせて置けば一日の損である。二日遊ばせて置けば二日の損である。殊に昨今の樣に米價の高い時は尚更の損である。一日も早く職業を與へれば、父兄も安心するし當人も安心する。國家社會も夫丈利益を受ける。それで四方八方良い事だらけになるのであるけれども、其秀才が夢中に奔走して、汗をダラ／＼垂らしながら捜して居るにも拘はらず、所謂職業といふものが餘り無い樣です。餘り所かなか／＼無い。今言ふ通り天下に職業の種類が何百種何千種あるか分らない位分布配列されてゐるに拘らず、何處へでも融通が利くべき筈の秀才が懸命に馳け廻つてゐるにも拘らず、自分の生命を託すべき職業がなか／＼無い。三箇月も四箇月も遊んで居る人があるので是は氣の毒だと思ふと、豈計らんや既に一年も二年もボンヤリして下宿に入《はい》つて爲す事もなく暮して居るものがある。現に私の知つてゐる者のうちで、一年以上も下宿に立て籠つて、未だに下宿料を一文も拂はないで茫然としてゐる男がある。尤も下宿の方でも信用して居るから貸して置くし、當人もどうかなるだらうと思つて安心はして居るらしいが國家の經濟からいふと隨分馬鹿氣た話であります。私も多少知つて居る間柄だから氣の毒に思つて、職業は無いか職業は無いか位人に尋ねて見るが、何處にもさう云ふ口が轉がつてゐないので殘念ながらまだ其儘になつてゐます。けれども今言ふ通り職業の種類が何百通りもあるのだから、理窟から云へば何處かへ打付《ぶつ》かつて然るべき筈だと思ふのです。丁度嫁を貰ふやうなもので自分の嫁は何處かにあるに極つてるし、又向ふでも捜して居るのは明らかな話しだが、つい旨く行かないと何時迄も結婚が後れて仕舞ふ。それと同じでいくら秀才でも職業に打付《ぶつ》からなければ仕樣がないのでせう。だから大學に職業學といふ講座があつて、職業は學理的にどういふやうに發展するものである。又どういふ時世にはどんな職業が自然の進化の原則として出て來るものである。と一々明細に説明してやつて、例へば東京市の地圖が牛込區とか小石川區とか何區とかハツキリ分つてるやうに、職業の分化發展の意味も區域も盛衰も一目の下に暸然會得出來るやうな仕掛にして、さうして自分の好きな所へ飛び込ましたら洵に便利ぢやないかと思ふ。まあ是は空想です。實際やつて見ないから分らぬが、恐らく出來ますまい。出來たら宜からうと思ふ丈です。非常に經濟な事にはなるでせう。

　斯んな考を起す程に私は今の日本に職業が非常に澤山あるし、又其職業が混亂錯雜してゐる樣に思ふのです。現に此間も往來を通つたら妙な商賣がありました。それは家とか土藏とかを引きずつて行くといふ商賣なんだから私は驚いたのであります。此の公會堂を此儘他の場所へ持つて行くといふ商賣です。いくら東京に市區改正が激しく行はれたつて、さう毎年建てたばかりの家の位置を動かさなければならぬといふやうに變化して居やアしない。現に私の家などは建つた時から今日迄市區改正に掛らずに居る。餘程邊鄙な所にあるのだからでせう。けれども縱令《たとひ》繁華な所に居たつて、さう始終家を引ツ張ツてツて貰はなければならぬといふ人はない。然るにそれを專門に商賣にして居る者があるから、東京は廣いと思つたのです。馬琴の小説には耳の垢取り長官とか云ふ人がゐますが、他《ひと》の耳垢を取る事を職業にでもしてゐたのでせうか。西洋には爪を綺麗に掃除したり恰好をよくするといふ商賣があります。近頃日本でも美顔術といつて顔の垢を吸出して見たり、クリームを塗抹して見たりいろ／＼の化粧をしてくれる專門家が出て來ましたが、あゝいふ商賣は恐らく昔はないのでせう。今日のやうに職業が芋の蔓見たやうに夫から夫へと延びて行つていろ／＼種類が殖えなければ、美顔術などといふ細かな商賣は存在が出來なかろうと思ふ。尤も昔は却つて今にない商賣がありました。私の幼少の時は「柳の蟲や赤蛙」などゝ云つて賣りに來た。何にしたものか今はたゞ賣聲丈覺えてゐます。それから「いたづらものは居ないかな」と云つて、旗を擔《かつ》いで往來を歩いて來たのもありました。子供の時分ですから其の聲を聞くと、ホラ來たと云つて逃げたものである。よく／＼聞いて見ると鼠取りの藥を賣りに來たのださうです。鼠のいたづらもので人間のいたづらものではないといふのでやつと安心した位のものである。そんな妙な商賣は近頃頓と無くなりましたが、締括つた總體の高から云へば、どうも今日の方が職業といふものは餘程多いだらうと思ふ。單に職業に變化があるばかりでなく、細かくなつて居る。現に唐物屋といふものは此間迄何でも賣つて居た。襟とか襟飾りとか或はズボン下、靴足袋、傘、靴、大抵なものがありました。身體《からだ》へ附ける一切の舶來品を賣つて居たと云つても差支ない。所が近頃になるとそれが變つてシヤツ屋はシヤツ屋の專門が出來る、傘屋は傘屋、靴屋は靴屋とちやんと分れて仕舞ました。靴足袋屋……是はまだ專門は出來ないやうだが、今に出來るだらうと思ひます。現に日本の足袋屋は專門になつてゐます。十文のを呉れと云へば十文のを呉れる、十一文のを呉れろと云へば十一文のを呉れる。私が演説を頼まれて即席に引受けないのは、足袋屋みたいに一寸出來合ひがないからです。どうか十文の講演をやつて呉れ、彼處は十一文｜甲高《かふだか》の講演でなければ困る抔と注文される。其の位に私が演説の專門家になつて居れば譯はありませんが私の御手際は夫程專門的に發達してゐない。素人が義理に東京から態々明石邊迄やつて來るといふ位の話でありますから、なか／＼さう旨くはいきませぬ。足袋屋は偖置いて食物屋《たべものや》の方でもチヤンとした專門家があります。例へば牛肉も鳥の肉も食はせる所があるかと思ふと、牛肉ばかりの家《うち》があるし、又鳥の肉でなければ食はせないといふ家もある。或はそれが一段細かくなつて家鴨《あひがも》より外に食はせない店もある。しまひには鳥の爪だけ食はせる所とか牛の肝臓だけ料理する家が出來るかも知れない。分れて行けば何處まで行くか分りません。こんなに劇しい世間だから仕舞ひには大變な事になるだらうと思ふ。兎に角職業は開化が進むにつれて非常に多くなつて居る事が驚くばかり眼に付くやうです。所が是は當り前の事で學問の研究の上から世の中の變化とでも云ひませうか、漠然たる社會の傾向とでも云ひませうか、必然の勢さういふ樣に割れて細かになつて來るのであります。是は何も私の發明した事實でも何でもない、昔から人の言つて居ることであります。昔の職業といふものは大まかで、何でも含んで居る。丁度田舍の呉服屋みたいに、反物を賣つてゐるかと思ふと傘を賣つて居つたり油も賣るといふ、何屋だか分らぬ萬事一切を賣る家といふやうなものであつたのが、段々專門的に傾いていろ／＼に分れる末は殆ど想像が附かない所迄細かに延びて行くのが一般の有樣と云つて差支ないでせう。

　所で此事實をずつと想像に訴へて遠い過去に溯つたらどうなるでせう。或は想像でも溯れないかも知れないけれども、此事實の中《うち》に含まれてゐる論理の力で後ろの方へ逆行したらどんなものでせう。今言ふ通り昔は商賣といふものの數が少なかつた。職業の數が少なくつて、世間の人も其僅かな商賣を以て滿足して居つたといふ譯なのだから、或は傘を買ひに行つても傘がない、衣物《きもの》を買ひに行つても衣物《きもの》がないといふ時代がないとも限らない。私は甞て熊本に居りましたが、或る時灰吹を買ひに行つた事がある。所が灰吹はないと云ふ。熊本中何處を尋ねても無いかと云つたら無いだらうと云ふ。ぢや熊本では煙草を喫まないか痰を吐かないかといふと現に煙草を喫んで居る。それでは灰吹はどうするんだと聞くと、裏の藪へ行つて竹を伐つて來て拵へるんだと教へて呉れました。裏の藪から伐つて來て、青竹の灰吹で間に合はして置けば宜いと思つてゐる所では灰吹は賣れない譯である。從つて賣つてゐる筈がないのである。さういう風に自分で人の厄介にならずに裏の藪へ行つて竹を伐つて灰吹を造る如く、人のお世話にならないで自分の身の圍《まは》りを成るべく多く足す、又足さなければならない時代があつたものでせう。偖其事實を極端まで辿つて行くと、一切萬事自分の生活に關した事は衣食住とも如何なる方面にせよ人のお蔭を被らないで、自分丈で用を辨じて居つた時期があり得るといふ推測になる。人間がたつた一人で世の中に存在して居るといふ事は、殆ど想像も出來ないかも知れないし、又其處まで論理を頼りに推詰めて考へる必要もない話ですが、其處まで行かないと一寸講話にならないから、まあさうして置くのです。即ち誰のお世話にもならないで人間が存在してゐたといふ時代を思ひ浮べて見る。例へば私が此着物を自分で織つて、此の襟を自分で拵へて、總て自分だけで用を辨じて、何も人のお世話にならないといふ時期があつたとする。又有つたとしても宜いでせう。さういふ時期が何時かあつたらどうするといふ意味ではないが、まああると假定して御覽なさい。さうしたらさういふ時期こそ本當の獨立獨行といふ言葉の適當に使へる時期ぢやないでせうか。人から月給を貰ふ心配もなければ朝起きて人にお早うと言はなければ機嫌が惡いといふ苦勞もない。生活上寸毫も人の厄介にならずに暮して行くのだから平氣なものである。人に些とも迷惑を掛けないし、又人に聊かの恩義も受けないで濟むのだから、是れ程都合の好いことはない。さういふ人が本當の意味で獨立した人間と謂はなければならないでせう。實際我々は時勢の必要上さうは行かない樣なものゝ腹の中では人の世話にならないでどこ迄も一本立で遣つて行きたいと思つてゐるのだから詰りはこんな太古の人を一面には理想として生きてゐるのである。けれども事實已むを得ない、仕方がないから先づ衣物《きもの》を着る時には呉服屋の厄介になり、お菜を拵へる時には豆腐屋の厄介になる。米も自分で搗くよりも人の搗いたのを買ふといふ事になる。其の代りに自分は自分で米を搗き自分で着物を織ると同程度の或る專門的の事を人に向つてしつゝあるといふ譯になる。私は未だ甞て衣物《きもの》を織つたこともなければ、靴足袋を縫つたこともないけれども、自ら縫はぬ靴足袋、或は自ら織らぬ衣物《きもの》の代りに、新聞へ下らぬ事を書くとか、或は斯ういふ所へ出て來てお話をするとかして埋合せを付けて居るのです。私ばかりぢやない、誰でもさうです。すると此一歩專門的になるといふのは外の意味でも何でもない、即ち自分の力に餘りある所、即ち人よりも自分が一段と抽んでゝ居る點に向つて人よりも仕事を一倍にして、其の一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰つて相互の平均を保ちつゝ生活を持續するといふ事に歸着する譯であります。それを極むづかしい形式に現はすといふと、自分の爲にする事は即ち人の爲にする事だといふ哲理をほのめかした樣な文句になる。是でもまだ一寸分らないなら、それをもつと數學的に言い現はしますと、己の爲にする仕事の分量は人の爲にする仕事の分量と同じであるといふ方程式が立つのであります。人の爲にする分量即ち己の爲にする分量であるから、人の爲にする分量が少なければ少ない程自分の爲にはならない結果を生ずるのは自然の理であります。之に反して人の爲になる仕事を餘計すればする程、それだけ己の爲になるのも亦明かな因縁であります。此關係を最も簡單に且明暸に現はして居るのは金ですな。つまり私が月給を拾五圓なら拾五圓取ると、拾五圓｜方《がた》人の爲に盡して居るといふ譯で取りも直さず其拾五圓が私の人に對して爲し得る仕事の分量を示す符丁《ふちやう》になつて居ます。拾五圓方人に對する勞力を費す、さうして拾五圓現金で入《はい》れば即ち其拾五圓は己の爲になる拾五圓に過ぎない。同じ譯で人の爲に千圓の働きが出來れば、己の爲にも千圓使ふ事が出來るのだから誠に結構なことで、諸君も成るべく精出《せいだ》して人の爲にお働きになればなる程、自分にも益々贅澤の出來る餘裕を御作りになると變りはないから、成る可く人の爲に働く分別をなさるが宜しからうと思ふ。

　尤も自分の爲になると云つても爲になり方は色々ある。第一其の中《うち》から税抔を拂はなければならない。税を出して人に月給をやつたり、巡査を雇つて置いたり、或は國務大臣を馬車に乘せてやつたりする。尤も一人ぢやア是丈の事は出來ませぬ、我々大勢で金を出してやるのですが、畢竟ずるにあの税抔も矢張り自分の爲に出すのです。國務大臣が馬車や自動車に乘つて怪《け》しからんと言つたつて夫は野暮の云ふ事です。我々が税を出して乘らして置いてやるので國務大臣の爲ぢやない、つまり己の爲だと思へば間違はない。だから時々自動車ぐらゐ借りに行つても宜からうと思ふ。税は其位にして此外己の爲にするものは衣食住と他の贅澤費になります。それを合算すると、つまり銀行の帳簿の樣に收入と支出と平均します。即ち人の爲にする仕事の分量は取りも直さず己の爲にする仕事の分量といふ方程式がちやんと數字の上に現はれて參ります。尤も吝《けち》で蓄《た》めて居る奴があるかも知れないが、是は例外である。例外であるが蓄めて居ればそれだけの勞力といふものを後《あと》へ繰越すのだから、矢張り同じ理窟になります。よく彼奴《あいつ》は遊んで居て憎らしいとか又はごろ／＼してゐて羨ましいとか金持の評判をする樣ですが、抑も人間は遊んで居て食へる譯のものではない。遊んで居るやうに見えるのは懷にある金が働いて呉れて居るからのことで、其の金といふものは人の爲にする事なしにたゞ遊んで居て出來たものではない。親父《おやぢ》が額に汗を出した記念だとか或は婆さんの臍繰だとか中には因縁付きの惡い金もありませうけれども、兎に角何等か人の爲にした符徴、人の爲にしてやつた其報酬といふものが、つまり自分の金になつて、さうして自分は其お蔭でもつて懷手をして遊んで居られるといふ譯でせう。職業の性質といふものはまあざつと斯んなものです。

　そこでネ、人の爲にするといふ意味を間違へてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的に又道義的に働きかけて其人の爲になるといふ事だと解釋されると一寸困るのです。人の爲にといふのは、人の言ふが儘にとか、欲するが儘にといふ所謂卑俗の意味で、もつと手短かに述べれば人の御機嫌を取ればと云ふ位の事に過ぎんのです。人にお世辭を使へばと云ひ變へても差支ない位のものです。だから御覽なさい。世の中には�ｺ義的に觀察すると隨分｜怪《け》しからぬと思ふやうな職業がありませう。しかも其の怪しからぬと思ふやうな職業を渡世にしてゐる奴は我々よりは餘程《よつぽど》えらい生活をして居るのがあります。然し一面から云へば怪しからぬにせよ、道�ｺ問題として見れば不埒にもせよ、事實の上から云へば最も人の爲になる事をして居るから、それが又最も己の爲になつて、最も贅澤を極めて居ると言はなければならぬのです。道�ｺ問題ぢやない、事實問題である。現に藝妓《げいしや》といふやうなものは、私は餘り關係しないからして精しい事は知らんけれども兎に角一流の藝妓とか何とかなると一寸指環を買ふのでも千圓とか五百圓といふ高價なものゝ中から撰取《よりどり》をして餘裕があるやうに見える。私は今茲にニツケルの時計しか持つて居らぬ。高尚な意味で云つたら藝妓よりも私の方が人の爲にする事が多くはないだらうかといふ疑もあるが、どうも藝妓ほど人の氣に入らない事も亦慥からしい。つまり藝妓は有�ｺな人だからあゝ云ふ贅澤が出來る、いくら學問があつても�ｺの無い人間、人に好かれない人間といふものは、ニツケルの時計ぐらゐ持つて我慢して居るより外仕方がないといふ結論に落ちて來る。だから私のいふ人の爲にするといふ意味は、一般の人の弱點嗜好に投ずると云ふ大きな意味で、小さい道�ｺ――道�ｺは小さくありませぬが、まず事實の一部分に過ぎないのだから小さいと云つても差支ないでせう。さう云ふ高尚ではあるが偏狹な意味で人の爲にするといふのではなく、天然の事實其ものを引きくるめて何でも蚊でも人に歡迎されるといふ意味の「爲にする」仕事を指したのであります。

　そこで職業上に於る己のため人の爲と云ふ事は以上の樣に御記憶を願つて置いて、話が又後戻りをする恐れがあるかも知れないが、前《ぜん》申した通り人文發達の順序として職業が大變割れて細かくなると妙な結果を我々に與へるものだから其結果を一口御話をして、さうして先へ進みたいと思ひます。私の見る所によると職業の分化錯綜から我々の受ける影響は種々ありませうが、其内に見逃す事の出來ない一種妙な者があります。といふのは外でもないが開化の潮流が進めば進む程、又職業の性質が分れゝば分れる程、我々は片輪な人間になつて仕舞ふといふ妙な現象が起るのであります。言い換へると自分の商賣が次第に專門的に傾いてくる上に、生存競爭の爲に、人一倍の仕事で濟んだものが二倍三倍乃至四倍と段々速力を早めて逐付《おひつ》かなければならないから、其の方だけに時間と根氣を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒置いたお隣りの事が皆目《かいもく》分らなくなつて仕舞ふのであります。斯ういふやうに人間が千筋も萬筋もある職業線の上のたゞ一線しか往來しないで濟む樣になり、又他の線へ移る餘裕がなくなるのはつまり吾人の社會的知識が狹く細く切りつめられるので、恰も自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云へば現代の文明は完全な人間を日に／＼片輪者に打崩しつゝ進むのだと評しても差支ないのであります。極《ごく》の野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身に纏ふものを捜し出し、自分で井戸を掘つて水を飲み、又自分で木の實か何かを拾つて食つて、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をして居れば、それこそ萬事人に待つ所なき點に於て、又生活上の知識を一切自分に備へたる點に於て完全な人間と云はなければなりますまい。所が今の社會では人のお世話にならないで、一人前に暮らして居るものは何所をどう尋ねたつて一人もない。此意味からして皆不完全なもの許である。のみならず自分の專門は、日に月に、年には無論のこと、たゞ狹く細くなつて行きさへすれば夫で濟むのである。丁度針で掘拔《ほりぬき》井戸を作るとでも形容して然るべき有樣になつて行くばかりです。何商賣を例に取つても説明は出來ますが、此状態を最も能く證明して居るものは專門學者などだらうと思ひます。昔の學者は凡ての知識を自分一人で脊負《しよ》つて立つた樣に見えますが、今の學者は自分の研究以外には何も知らない私が前《ぜん》申した意味の不具が揃つてゐるのであります。私の樣な者でも世間ではたまに學者扱にして呉れますが、さうすると矢張《やつぱ》り不具の一人であります。成程私などは不具に違ない、どうも些とも普通の事を知らない。區役所へ出す轉居屆の書き方も分らなければ、地面を賣るにはどんな手續をしていゝかさへ分らない。綿は綿の木のどんな所をどうして拵へるかも解し得ない。玉子豆腐はどうして出來るか是亦不明である。食ふ事は知つて居るが拵へる事は全く知らない。其他味淋にしろ、醤油にしろ、何《なん》にしろ蚊《か》にしろ凡て知らないことだらけである。知識の上に於て非常な不具と云はなければなりますまい。けれども凡てを知らない代りに一ケ所か二ケ所人より知つて居ることがある。さうして生活の時間をたゞ其方面にばかり使つたものだから、完全な人間を益々遠ざかつて、實に突飛なものになり終《おほ》せて仕舞ひました。私ばかりではない、かの博士とか何とか云ふものも同樣であります。あなた方は博士と云ふと諸事萬端人間一切天地宇宙の事を皆知つて居るやうに思ふかも知れないが全く其反對で、實は不具の不具の最も不具な發達を遂げたものが博士になるのです。それだから私は博士を斷りました。併しあなた方は――手を叩いたつて駄目です。現に博士といふ名に胡魔化れて居るのだから駄目です。例へば明石なら明石に醫學博士が開業する、片方に醫學士があるとする。さうすると醫學博士の方へ行くでせう。いくら手を叩いたつて仕方がない、胡魔化されるのです。内情を御話すれば博士の研究の多くは針の先きで井戸を掘るやうな仕事をするのです。深いことは深い。掘拔きだから深いことは深いが、如何せん面積が非常に狹い。それを世間では凡ての方面に深い研究を積んだもの、全體の知識が萬遍なく行き渡つてゐると誤解して信用を置きすぎるのです。現に博士論文と云ふのを見ると存外細かな題目を捕へて、自分以外には興味もなければ知識もない樣な事項を穿鑿してゐるのが大分あるらしく思はれます。所が世間に向つては唯醫學博士、文學博士、法學博士として通つてゐるから恰も總ての知識を有つて居るかの樣に解釋される。あれは文部省が惡いのかも知れない。虎列剌病博士とか腸窒扶斯博士とか赤痢博士とかもつと判然と領分を明らかにした方が善くはないかと思ふ。肺病患者が赤痢の論文を出して博士になつた醫者の所へ行つたつて差支はないが、其人に博士たる名誉を與へたのは肺病とは没交渉の赤痢であつて見れば、單に博士の名で肺病を擔ぎ込んでは勘違になるかも知れない。博士の事は其位にしてたゞ以上をかい撮んで云ふと、吾人は開化の潮流に押し流されて日に／＼不具になりつゝあるといふことだけは確かでせう。それを外の言葉でいふと自分一人では迚も生きて居られない人間になりつゝあるのである。自分の專門にして居る事に掛けては、不具的に非常に深いかも知れぬが、其代り一般的の事物に就ては、大變に知識が缺乏した妙な變人ばかり出來つゝあるといふ意味です。

　私は職業上己の爲とか人の爲とか云ふ言葉から出立して其先へ進む筈の所をツイわき道へそれて職業上の片輪といふ事を御話しゝ出したから、序に其片輪の所置について一言申上げて、又己の爲人の爲の本論に立ち歸りたい。順序の亂れるのは口に驅られる講演の常として御許しを願ひます。

　そこで世の中では――ことに昔の道�ｺ觀や昔堅氣《むかしかたぎ》の親の意見や又は一般世間の信用などから云ひますと、あの人は家業に精を出す、感心だと云つて賞めそやします。所謂家業に精を出す感心な人といふのは取も直さず眞黒になつて働いて居る一般的の知識の缺乏した人間に過ぎないのだから面白い。露骨に云へば自ら進んで不具になるやうな人間を世の中では賞めて居るのです。それは兎に角として現今のやうに各自の職業が細く深くなつて知識や興味の面積が日に／＼狹められて行くならば、吾人は表面上社會的共同生活を營んでゐるとは申しながら、其實銘々孤立して山の中に立て籠つてゐると一般で、隣り合せに居を卜して居ながら心は天涯に懸け離れて暮して居るとでも評するより外に仕方がない有樣に陷つて來ます。是では相互を了解する知識も同情も起りやうがなく、折角かたまつて生きて居ても内部の生活は寧ろバラ／＼で何の連鎖もない。丁度｜乾涸《ひから》びた糒《ほしひ》の樣なもので一粒《ひとつぶ》々々《／＼》に孤立してゐるのだから根ツから面白くないでせう。人間の職業が專門的になつて又各々自分の專門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す餘裕がなくなると當面の事以外は何も分らなくなる。又分らせやうといふ興味も出て來にくい。夫で差支ないと云へば夫迄であるが、現に家業にはいくら精通しても又いくら勉強しても夫《それ》許《ばかり》ぢやどこか不足な訴が内部から萌して來て何となく充分に人間的な心持が味へないのだから已を得ない。從つて此孤立支離の弊を何とかして矯めなければならなくなる。夫を矯める方法を御話しするために態々此壇上に現はれたのではないから詳しい事は述べませんが、又述べるにした所で大體は既に諸君も御承知の事であるが、まあ物の序だから一言それに觸れて置きませう。既に個々介立の弊が相互の知識の缺乏と同情の稀薄から起つたとすれば、我々は自分の家業商賣に逐はれて日も亦足らぬ時間しか有たない身分であるにも拘はらず、其乏しい餘裕を割いて一般の人間を廣く了解し又之に同情し得る程度に互の温味《あたゝかみ》を釀す法を講じなければならない。夫には斯ういふ公會堂の樣なものを作つて時々講演者などを聘して知識上の啓發をはかるのも便法でありますし、又さう知的の方面ばかりでは窮屈すぎるから、所謂社交機關を利用して、互の歡情を?《つく》すのも良法でありませう。時としては方便の道具として酒や女を用ひても好い位のものでせう。實業家などが六づかしい相談をするのに却つて見當違の待合などで落合つて要領を得てゐるのも、全く酒色といふ人間の窮屈を融かし合ふ機械の具つた場所で、其影響の下に、角の取れた同情のある人間らしい心持で相互に所置が出來るからだらうと思ひます。現に事が纏るといふ實用上の言葉が人間として彼我打ち解けた非實用の快感状態から出立しなければならないのでも分りませう。斯う云ふと私が酒や女を無暗に推薦する樣で一寸可笑しいが、私の申上げる主意はたとひ弊害の多い酒や女や待合などが交際の機關として上流の人に用ひられるのでも、人間は個々別々に孤立して互の融和同情を眼中に置かず、たゞ自家專門の職業にのみ腐心しては居られないものだと云ふ例に御話した位のものであります。本來を云ふと私はさう云ふ社交機關よりも、諸君が本業に費やす時間以外の餘裕を擧げて文學書を御讀みにならん事を希望するのであります。是は我が田へ水を引く樣な議論にも見えますが、元來文學上の書物は專門的の述作ではない、多く一般の人間に共通な點に就て批評なり敍述なり試みた者であるから、職業の如何に拘らず、階級の如何に拘らず赤裸々の人間を赤裸々に結び付けて、さうして凡ての他の墻壁を打破する者でありますから、吾人が人間として相互に結び付くためには最も立派で又最も弊の少ない機關だと思はれるのです。少くとも藝妓を上げて酒を飲んだと同等以上の效果がありさうに思はれるのであります。あなた方も斯ういふ公會堂へわざ／＼此の暑いのに集まつて、私のやうな者の言ふ事を黙つて聽くやうな勇氣があるのだから、さう云ふ樂な時間を利用して少し御讀みになつたら如何だらうと申したいのです。職業が細かくなり又忙がしくなる結果我々が不具になるが、夫はどうして矯正するかといふ問題はまづ此位にして、此講演の冒頭に述べた己の爲とか人の爲とかいふ議論に立ち歸つて其｜約《つゞま》りを付けて此講演を結びたいと思ひます。

　それで前申した己の爲にするとか人の爲にするとかいふ見地からして職業を觀察すると、職業といふものは要するに人の爲にするものだといふ事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人の爲にする結果が己の爲になるのだから、元はどうしても他人本位である。既に他人本位であるからには種類の選擇分量の多少凡て他を目安《めやす》にして働かなければならない。要するに取捨興廢の權威共に自己の手中にはない事になる。從つて自分が最上と思ふ製作を世間に勸めて世間は一向顧みなかつたり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日の如く要求を恣にしたり凡て己を曲げて人に從はなくては商賣にはならない。この自己を曲げるといふ事は成功には大切であるが心理的には甚だ厭なものである。就中最も厭なものは如何な好な道でもある程度以上に強ひられて其性質が次第に嫌惡に變化する時にある。所が職業とか專門とかいふものは前申す通り自分の需用以上其方面に働いてさうして其自分に不要な部分を擧げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云へば當初から不必要でもあり、厭でもある事を強ひて遣るといふ意味である。よく人が商賣となると何でも厭になるものだと云ひますが其厭になる理由は全く之が爲なのです。苟も道樂である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、其道樂が職業と變化する刹那に今迄自己にあつた權威が突然他人の手に移るから快樂が忽ち苦痛になるのは已を得ない。打ち明けた御話が己の爲にすればこそ好なので人の爲にしなければならない義務を括り付けられゝば何うしたつて面白くは行かないに極つてゐます。元來己を捨てるといふことは、道�ｺから云へば已を得ず不�ｺも犯さうし、知識から云へば己の程度を下げて無知な事も云はうし、人情から云へば己の義理を低くして阿漕《あこぎ》な仕打もしやうし、趣味から云へば己の藝術眼を下げて下劣な好尚に投じやうし、十中八九の場合惡い方に傾き易いから困るのである。例へば新聞を拵へて見ても、あまり下品な事は書かない方が宜いと思ひながら、既に商賣であれば販賣の形勢から考へ營業の成立する位には俗衆の御機嫌を取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以上は趣味でも�ｺ義でも知識でも凡て一般社會が本尊になつて自分は此本尊の鼻息を伺つて生活するのが自然の理である。

　たゞ茲にどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科學者哲學者もしくは藝術家の樣なもので、是等はまあ特別の一階級とでも見做すより外に仕方がないのです。哲學者とか科學者といふものは直接世間の實生活に關係の遠い方面をのみ研究してゐるのだから、世の中に氣に入らうとしたつて氣に入れる譯でもなし、世の中でも是等の人の態度如何で其研究を買つたり買はなかつたりする事も極めて少ないには違ないけれども、あゝ云ふ種類の人が物好きに實驗室へ入《はい》つて朝から晩迄仕事をしたり、又は書齋に閉ぢ籠つて深い考に沈んだりして萬事を等閑に附してゐる有樣を見ると、世の中にあれ程己の爲にして居るものはないだらうと思はずにはゐられない位です。それから藝術家もさうです。かうもしたらもつと評判が好くなるだらう、あゝもしたらまだ活計向《くらしむき》の助けになるだらうと傍《はた》の者から見れば色々忠告のしたいところもあるが、本人は決してそんな作略はない、たゞ自分の好な時に好なものを描いたり作つたりする丈である。尤も當人が既に人間であつて相應に物質的嗜欲のあるのは無論だから多少世間と折合つて歩調を改める事がないでもないが、まあ大體から云ふと自我中心で、極《ご》く卑近の意味の道�ｺから云へば是れ程我儘のものはない、是れ程道樂なものはない位です。既に御話をした通り凡そ職業として成立する爲には何か人の爲にする、即ち世の嗜好に投ずると一般の御機嫌を取る所がなければならないのだが、本來から云ふと道樂本位の科學者とか哲學者とか又藝術家とかいふものは其立場からして既に職業の性質を失つてゐると云はなければならない。實際今の世で彼等は名前には職業として存在するが實質の上では殆んど職業として認められない程割に合はない報酬を受けてゐるので此邊の消息はよく分るでせう。現に科學者哲學者抔は直接世間と取引しては食つて行けないから大抵は政府の保護の下に大學教授とか何とかいふ役になつてやつと露命をつないで居る。藝術家でも時に容れられず世から顧みられないで自然本位を押し通す人は隨分慘澹たる境遇に沈淪してゐるものが多いのです。御承知の大雅堂でも今でこそ大した畫工であるが其當時毫も世間向の畫をかゝなかつた爲に生涯眞葛が原の陋居に潜んで丸で乞食と同じ一生を送りました。佛蘭西のミレーも生きてゐる間は常に物質的の窮乏に苦しめられてゐました。又是は個人の例ではないが日本の昔に盛んであつた禅僧の修行抔と云ふものも極端な自然本位の道樂生活であります。彼等は見性のため究眞のため凡てを抛つて坐禅の工夫をします。黙然と坐してゐる事が何で人の爲になりませう。善い意味にも惡い意味にも世間とは没交渉である點から見て彼等禅僧は立派な道樂ものであります。從つて彼等は其苦行難行に對して世間から何等の物質的報酬を得てゐません。麻の法衣を着て麥の飯を食つて飽迄道を求めてゐました。要するに原理は簡單で、物質的に人の爲にする分量が多ければ多い程物質的に己の爲になり、精神的に己の爲にすればする程物質的には己の不爲になるのであります。

　以上申し上げた科學者哲學者もしくは藝術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、是は自己本位でなければ到底成功しないことだけは明かな樣であります。何故なれば是等が人の爲にすると己といふものは無くなつて仕舞ふからであります。ことに藝術家で己の無い藝術家は蝉の脱殻《ぬけがら》同然で、殆んど役に立たない。自分に氣の乘つた作が出來なくてたゞ人に迎へられたい一心で遣る仕事には自己といふ精神が籠る筈がない。凡てが借り物になつて魂の宿る餘地がなくなる許です。私は藝術家と云ふ程のものでもないが、まあ文學上の述作をやつて居るから、矢張り此種類に屬する人間と云つて差支ないでせう。しかも何か書いて生活費を取つて食つて居るのです。手短かに云へば文學を職業としてゐるのです。けれども私が文學を職業とするのは、人の爲にする即ち己を捨てゝ世間の御機嫌を取り得た結果として職業として居ると見るよりは、己の爲にする結果即ち自然なる藝術的心術の發現の結果が偶然人の爲になつて、人の氣に入つた丈の報酬が物質的に自分に反響して來たのだと見るのが本當だらうと思ひます。若し是が天から人の爲ばかりの職業であつて、根本的に己を枉げて始て存在し得る場合には、私は斷然文學を止めなければならないかも知れぬ。幸ひにして私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の氣に合つて、其氣に合つた人だけに讀まれ、氣に合つた人だけから少なくとも物質的の報酬、（或は感謝でも宜しい）を得つゝ今日迄押して來たのである。いくら考へても偶然の結果である。此偶然が壞れた日には何方《どつち》本位にするかといふと、私は私を本位にしなければ作物が自分から見て物にならない。私ばかりぢやない誰しも藝術家である以上はさう考へるでせう。從てかういふ場合には、世間が藝術家を自分に引付けるよりも自分が藝術家に食付いて行くより外に仕樣がないのであります。食付いて行かなければそれまでといふ話である。藝術家とか學者とかいふものは、此點に於て我儘のものであるが、其の我儘な爲に彼等の道に於て成功する。他の言葉で云ふと、彼等にとつては道樂即ち本職なのである。彼等は自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵へもしない。至つて横着な道樂者であるが既に性質上道樂本位の職業をして居るのだから已むを得ないのです。さういふ人をして己を捨てなければ立ち行かぬ樣に強ひたり又は否應《いやおう》なしに天然を枉げさせたりするのは、まづ其の人を殺すと同じ結果に陷るのです。私は新聞に關係がありますが、幸にして社主からしてモツと賣れ口の宜いやうな小説を書けとか、或はモツと澤山書かなくちや不可《いか》んとか、さう云ふ外壓的の注意を受けたことは今日迄頓とありませぬ。社の方では私に私本位の下に述作する事を大體の上で許して呉れつゝある。其の代り月給も昇げて呉れないが、いくら月給を昇げて呉れても斯う云ふ取扱を變じて萬事營業本位丈で作物の性質や分量を指定されては夫こそ大いに困るのであります。私ばかりではない凡ての藝術家科學者哲學者はみなさうだらうと思ふ。彼等は一も二もなく道樂本位に生活する人間だからである。大變我儘のやうであるけれども、事實さうなのである。從つて恒産のない以上科學者でも哲學者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧位の生活を標準として暮さなければならない筈である。直接世間を相手にする藝術家に至つてはもし其述作なり製作がどこか社會の一部に反響を起して、其反響が物質的報酬となつて現はれて來ない以上は餓死するより外に仕方がない。己を枉げるといふ事と彼等の仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。

　私は職業の性質やら特色に就て首《はじめ》に一言を費やし、開化の趨勢上其社會に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道樂の關係を説き、其末段に道樂的職業といふやうな一種の變體のある事を御吹聽に及んで私抔の職業がどの點迄職業でどの點迄が道樂であるかを諸君に大體理會せしめた積りであります。これで此講演を終ります。

　　　　−明治四四、一一、一〇『朝日講演集』−

　

　　　現代日本の開化

　　　　　――明治四十四年八月和歌山に於て述――

　

　甚だお暑い事で、斯う暑くては多人數お寄合ひになつて演説などお聽きになるのは定めしお苦しいだらうと思ひます。事に承れば昨日も何か演説會があつたさうで、さう同じ催しが續いてはいくら中らない保證のあるものでも多少は流行過《はやりすぎ》の氣味で、お聽きになるのも餘程御困難だらうと御察し申します。が演説をやる方の身になつて見てもさう樂ではありません。事に只今牧君の紹介で漱石君の演説は迂餘曲折の妙があるとか何とかいふ廣告めいた賛辭を頂戴した後に出て同君の吹聽通りを遣らうとすると恰も迂餘曲折の妙を極める爲の藝當を御覽に入れる爲に登壇したやうなもので、苟も其妙を極めなければ降りる事が出來ないやうな氣がして、いやが上に遣りにくい羽目に陷つて仕舞ふ譯であります。實は此處へ出て參る前一寸先番の牧君に相談を掛けた事があるのです。是は内々ですが思ひ切つて打明けて御話しゝて仕舞ひます。と云ふ程の秘密でもありませんが、全くの所今日の講演は長時間諸君に對して御話をする材料が不足のやうな氣がしてならなかつたから、牧さんにあなたの方は少しは伸ばせますかと聞いたのです。すると牧君は自分の方は伸ばせば幾らでも伸びると氣丈夫な返事をして呉れたので、忽ち親船に乘つたやうな心持になつて、それぢやア少し伸ばして戴きたいと頼んで置きました。其の結果として冒頭だか序論だかに私の演説の短評を試みられたのはもと／＼私の注文から出た事で甚だ有難いには違ないけれども、其代り厭に遣り惡くなつて仕舞つた事も又爭はれない事實です。元來がさう云ふ情ない依頼を敢てする位ですから曲折どころではない、眞直《まつすぐ》に行き當つてピタリと終《しま》ひになるべき演説であります。なか／＼もつて抑揚頓挫波瀾曲折の妙を極めるだけの材料抔は藥にしたくも持合せて居りません。とさう言つた所で何も唯ボンヤリ演壇に登つた譯でもないので、此處へ出て來る丈の用意は多少準備して參つたには違ないのです。尤も私が此和歌山へ參るやうになつたのは當初からの計畫ではなかつたのですが、私の方で近畿地方を所望したので社の方では和歌山を其｜中《うち》へ割り振つて呉れたのです。御蔭で私もまだ見ない土地や名所抔を捜る便宜を得ましたのは好都合です。其序に演説をする――のではない演説の序に玉津島だの紀三井寺抔を見た譯でありますから此等の故跡や名勝に對しても空手《からて》では參れません。御話をする題目はちやんと東京表で極めて參りました。

　其題目は「現代日本の開化」と云ふので、現代と云ふ字は下へ持つて來ても上へ持つて來ても同じ事で、「現代日本の開化」でも「日本現代の開化」でも大して私の方では構ひません。「現代」と云ふ字があつて「日本」と云ふ字があつて「開化」と云ふ字があつて、其の間へ「の」の字が入《はい》つて居ると思へば夫丈の話です。何の雜作もなく唯だ現今の日本の開化と云ふ、斯う云ふ簡單なものです。其開化をどうするのだと聞かれゝば、實は私の手際ではどうも仕樣がないので、私はたゞ開化の説明をして後はあなた方の御高見に御任せする積であります。では開化を説明して何になる？　と斯う御聞きになるかも知れないが、私は現代の日本の開化といふ事が諸君によく御分りになつて居るまいと思ふ。御分りになつて居なからうと思ふと云ふと失禮ですけれども、どうもこれが一般の日本人に能く呑み込めて居ない樣に思ふ。私だつて夫程分つても居ないのです。けれどもまづ諸君よりもそんな方面に餘計頭を使ふ餘裕のある境遇に居りますから、斯ういふ機會を利用して自分の思つた所丈をあなた方に聞いて頂かうといふのが主眼なのです。どうせあなた方も私も日本人で、現代に生れたもので、過去の人間でも未來の人間でも何でもない上に現に開化の影響を受けて居るのだから、現代と日本と開化と云ふ三つの言葉は、どうしても諸君と私とに切つても切れない離すべからざる密接な關係があるのは分り切つた事ですが、夫にも拘らず、御互に現代の日本の開化に就て無頓着であつたり、又は餘りハツキリした理會を有つてゐなかつたならば、萬事に勝手が惡い譯だから、まあ互に研究もし、又分る丈は分らせて置く方が都合が好からうと思ふのであります。それに就ては少し學究めきますが、日本とか現代とかいふ特別な形容詞に束縛されない一般の開化から出立して其性質を調べる必要があると考へます。御互ひに開化と云ふ言葉を使つて居つて、日に何遍も繰返して居るけれども、果して開化とはどんなものだと煎じ詰めて聞き糺されて見ると、今迄互に了解し得たと許り考へて居た言葉の意味が存外喰違つて居たり或は以ての外に漠然と曖昧であつたりするのはよく有る事だから私は先づ開化の定義から極めて懸りたいのです。

　尤も定義を下すに就ては餘程氣を付けないと飛んでもない事になる。之をむづかしく言ひますと、定義を下せば其定義の爲に定義を下されたものがピタリと糊細工の樣に硬張《こはば》つてしまふ。複雜な特性を簡單に纏める學者の手際と腦力とには敬服しながらも一方に於て其迂濶を惜まなければならない樣な事が彼等の下した定義を見るとよくあります。其弊所を極《ごく》分り易く一口に御話すれば生きたものを故《わざ》と四角四面の棺の中へ入れて殊更に融通が利かない樣にするからである。尤も幾何學抔で中心から圓周に到る距離が悉く等しいものを圓と云ふといふ樣な定義はあれで差支ない、定義の便宜があつて弊害のない結構なものですが、是は實世間に存在する圓いものを説明すると云はんより寧ろ理想的に頭の中にある圓といふものを斯く約束上とり極めた迄であるから古往今來變りつこないので何處迄も此定義一點張りで押して行かれるのです。其他四角だらうが三角だらうが幾何的に存在して居る限りは夫々の定義で一旦纏めたら決して動かす必要もないかも知れないが、不幸にして現實｜世《よ》の中《なか》にある圓とか四角とか三角とかいふもので過去現在未來を通じて動かないものは甚だ少ない。ことに夫自身に活動力を具へて生存するものには變化消長が何處迄も付け纏つて居る。今日の四角は明日の三角にならないとも限らないし、明日の三角が又いつ圓く崩れ出さないとも云へない。要するに幾何學の樣に定義があつて其定義から物を拵へ出したのでなくつて、物があつて其物を説明する爲に定義を作るとなると勢ひ其物の變化を見越して其意味を含ましたものでなければ所謂杓子定規とかで一向氣の利かない定義になつて仕舞ひます。丁度汽車がゴーツと馳けて來る、其運動の一瞬間即ち運動の性質の最も現はれ惡《にく》い刹那の光景を寫眞に取つて、是が汽車だ／＼と云つて恰も汽車の凡てを一枚の裏《うち》に寫し得た如く吹聽すると一般である。成程何處から見ても汽車に違ありますまい。けれども汽車に見逃してはならない運動といふものが此寫眞のうちには出てゐないのだから實際の汽車とは到底比較の出來ない位懸絶してゐると云はなければなりますまい。御存じの琥珀と云ふものがありませう。琥珀の中に時々蠅が入《はい》つたのがある。透かして見ると蠅に違ありませんが、要するに動きのとれない蠅であります。蠅でないとは言へぬでせうが活きた蠅とは云へますまい。學者の下す定義には此寫眞の汽車や琥珀の中の蠅に似て鮮かに見えるが死んでゐると評しなければならないものがある。夫で注意を要するといふのであります。つまり變化をするものを捉へて變化を許さぬかの如くピタリと定義を下す。巡査と云ふものは白い服を着てサーベルを下げて居るものだ抔と天から極められた日には巡査も遣り切れないでせう。家《うち》へ歸つて浴衣《ゆかた》も着換へる譯に行かなくなる。此の暑いのに劍ばかり下げて居なければ濟まないのは可哀想だ。騎兵とは馬に乘るものである。是も御尤には違ないが、幾ら騎兵だつて年が年中馬に乘りつゞけに乘つて居る譯にも行かないぢやありませんか。少しは下りたいでさア。斯う例を擧げれば際限がないから好《いゝ》加減に切り上げます。實は開化の定義を下す御約束をして喋舌《しやべ》つてゐた處が何時の間にか開化はそつち退けになつて六づかしい定義論に迷ひ込んで甚だ恐縮です。が此位注意をした上でさて開化とは何者だと纏めて見たら幾分か學者の陷り易い弊害を避け得られるし又其便宜をも受ける事が出來るだらうと思ふのです。

　で愈開化に出戻りを致しますが、開化と云ふものも、汽車とか蠅とか巡査とか騎兵とか云ふやうなものゝ如くに動いて居る。それで開化の一瞬間を取つてカメラにピタリと入れて、さうして是が開化だと提げて歩く譯には行きません。私は昨日和歌の浦を見物しましたが、あすこを見た人のうちで和歌の浦は大變浪の荒い所だと云ふ人がある。かと思ふと非常に靜かな所だと云ふ人もある。どつちが宜いのか分らない。段々聞いて見ると、一方は浪の非常に荒い時に行き、一方は非常に靜かな時に行つた違から話がかう表裏して來たのである。固より見た通なんだから兩方とも嘘ではない。が又兩方とも本當でもない。是に似寄りの定義は、あつても役に立たぬことはない。が、役に立つと同時に害を爲す事も明かなんだから、開化の定義と云ふものも、可成《なるべく》はさう云ふ不都合を含んでゐない樣に致したいのが私の希望であります。が、さうするとボンヤリして來る。恨むらくはボンヤリして來る。けれどもボンヤリしても外のものと區別が出來ればそれで宜いでせう。さつき牧君の紹介があつた樣に夏目君の講演は其文章の如く時とすると門口から玄關へ行く迄にうんざりする事があるさうで誠に御氣の毒の話だが、成程遣つて見ると其通り、是で漸く玄關迄着きましたから思ひきつて本當の定義に移りませう。

　開化は人間活力の發現の經路である。と私は斯う云ひたい。私許ぢやない、あなた方だつてさういふでせう。尤もさう云つた所で別に書物に書いてある譯でも何でもない、私がさう言ひたい迄の事であるが其代り珍らしくも何ともない。が是れ頗る漠然として居る。前口上を長々述べ立てた後で此位の定義を御吹聽に及んだ丈では餘り人を馬鹿にしてゐるやうですが、まあ其處から定めて掛らないと曖昧になるから、實は已を得ないのです。それで人間の活力と云ふものが今申す通り時の流を沿うて發現しつゝ開化を形造つて行くうちに私は根本的に性質の異つた二種類の活動を認めたい、否確かに認めるのであります。

　其二通りのうち一つは積極的のもので、一つは消極的のものである。何か月並の樣な講釋をして濟みませんが、人間活力の發現上積極的と云ふ言葉を用ひますと、勢力の消耗を意味する事になる。又もう一つの方は是とは反對に勢力の消耗を出來る丈防がうとする活動なり工夫なりだから前のに對して消極的と申したのであります。此二つの互ひに喰違つて反《そり》の合はないやうな活動が入り亂れたりコンガラカツたりして開化と云ふものが出來上るのであります。是でもまだ抽象的で能くお分りにならないかも知れませんが、もう少し進めば私の意味は自ら明暸になるだらうと信じます。元來人間の命《いのち》とか生《せい》とか稱するものは解釋次第で色々な意味にもなり又六づかしくもなりますが要するに前《ぜん》申した如く活力の示現とか進行とか持續とか評するより外に致し方のない者である以上、此活力が外界の刺戟に對してどう反應するかといふ點を細かに觀察すればそれで吾人人類の生活状態も略了解が出來る樣な譯で、其生活状態の多人數の集合して過去から今日に及んだものが所謂開化に外ならないのは今更申上げる迄もありますまい。偖吾々の活力が外界の刺戟に反應する方法は刺戟の複雜である以上固より多趣多樣千差萬別に違ないが、要するに刺戟の來るたびに吾が活力を成るべく制限節約して出來る丈使ふまいとする工夫と、又自ら進んで適意の刺戟を求め能ふ丈の活力を這裏に消耗して快を取る手段との二つに歸着して仕舞ふやう私は考へてゐるのであります。で前のを便宜のため活力節約の行動と名づけ後者をかりに活力消耗の趣向とでも名づけて置きませうが、此活力節約の行動はどんな場合に起るかと云へば現代の吾々が普通用ひる義務といふ言葉を冠して形容すべき性質の刺戟に對して起るのであります。從來の�ｺ育法及び現今とても教育上では好んで義務を果す敢爲邁往の氣象を奬勵する樣ですが是は道�ｺ上の話で道�ｺ上しかなくてはならぬ若しくはしかする方が社會の幸福だと云ふ迄で、人間活力の示現を觀察して其組織の經緯一つを司どる大事實から云へば何うしても今私が申し上げた樣に解釋するより外仕方がないのであります。吾々もお互に義務は盡さなければならんものと始終思ひ、又義務を盡した後は大變心持が好いのであるが、深く其裏面に立ち入つて内省して見ると、願くは此義務の束縛を免かれて早く自由になりたい、人から強ひられて已を得ずする仕事は出來る丈分量を壓搾して手輕に濟ましたいといふ根性が常に胸の中《うち》に付け纏つてゐる。其根性が取も直さず活力節約の工夫となつて開化なるものゝ一大原動力を構成するのであります。

　斯く消極的に活力を節約しやうとする奮闘に對して一方では又積極的に活力を任意隨所に消耗しやうといふ精神が又開化の一半を組み立てゝ居る。其發現の方法も亦世が進めば進む程複雜になるのは當然であるが、之を極《ごく》約《つゞ》めてどんな方面に現はれるかと説明すれば先づ普通の言葉で道樂といふ名の付く刺戟に對し起るものだとして仕舞へば一番早分りであります。道樂と云へば誰も知つてゐる。釣魚《つり》をするとか玉を突くとか、碁を打つとか、又は鐡砲を擔いで獵に行くとか、いろ／＼のものがありませう。是等は説明するがものはない悉く自から進んで強ひられざるに自分の活力を消耗して嬉しがる方であります。尚進んでは此精神が文學にもなり科學にもなり又は哲學にもなるので、一寸見ると甚だ六づかしげなものも皆道樂の發現に過ぎないのであります。

　此二樣の精神即ち義務の刺戟に對する反應としての消極的な活力節約と又道樂の刺戟に對する反應としての積極的な活力消耗とが互に竝び進んで、コンガラカツて變化して行つて、此複雜極りなき開化と云ふものが出來るのだと私は考へてゐます。其結果は現に吾々が生息してゐる社會の實况を目撃すればすぐ分ります。活力節約の方から云へば出來るだけ勞働を少なくして可成《なるべく》僅かな時間に多くの働きをしやう／＼と工夫する。其の工夫が積り積つて汽車汽船は勿論電信電話自動車大變なものになりますが、元を糺せば面倒を避けたい横着心の發達した便法に過ぎないでせう。此和歌山市から和歌の浦迄一寸使ひに行つて來いと言はれた時に、出來得るなら誰しも御免蒙りたい。がどうしても行かなければならないとすれば可成《なるべく》樂に行きたい、さうして早く歸りたい。出來る丈｜身體《からだ》は使ひ度ない。其所で人力車も出來なければならない譯になります。其上に贅澤を云へば自轉車にするでせう。尚我儘を云ひ募れば是が電車にも變化し自動車又は飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の數であります。是に反して電車や電話の設備があるにしても是非今日は向ふ迄歩いて行きたいといふ道樂心の増長する日も年に二度や三度は起らないとも限りません。好んで身體を使つて疲勞を求める。吾々が毎日やる散歩といふ贅澤も要するに此活力消耗の部類に屬する積極的な命の取扱方の一部分なのであります。が此の道樂氣の増長した時に幸に行つて來いといふ命令が下れば丁度好いが、まあ大抵はそう旨くは行かない。云ひ付かつた時は多く歩きたくない時である。だから歩かないで用を足す工夫をしなければならない。となると勢ひ訪問が郵便になり、郵便が電報になり、其電報が又電話になる理窟です。詰る所は人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、ならう事ならしないで用を足してさうして滿足に生きてゐたいといふ我儘な了簡、と申しませうか又はさう／＼身を粉にして迄働いて生きてゐるんぢや割に合はない、馬鹿にするない冗談ぢやねえといふ發憤の結果が怪物の樣に辣腕な器械力と豹變したのだと見れば差支ないでせう。

　此怪物の力で距離が縮まる、時間が縮まる、手數が省ける、凡て義務的の勞力が最少低額に切詰められた上に又切詰められて何處迄押して行くか分らないうちに、彼の反對の活力消耗と名づけて置いた道樂根性の方も亦自由我儘の出來る限りを盡して、是亦瞬時の絶間なく天然自然と發達しつゝ留め度《ど》もなく前進するのである。此道樂根性の發展も道�ｺ家に言はせると怪《け》しからんとか言ひませう。が夫は�ｺ義上の問題で事實上の問題にはなりません。事實の大局から云へば活力を吾好む所に消費するといふ此工夫精神は二六時中休みつこなく働いて、休みつこなく發展してゐます。元々社會があればこそ義務的の行動を餘儀なくされる人間も放り出して置けば何處迄も自我本位に立脚するのは當然だから自分の好《す》いた刺戟に精神なり身體なりを消費しやうとするのは致し方もない仕儀である。尤も好いた刺戟に反應して自由に活力を消耗すると云つたつて何も惡い事をするとは限らない。道樂だつて女を相手にする許が道樂ぢやない。好きな眞似をするとは開化の許す限りのあらゆる方面に亙《わた》つての話であります。自分が畫がかきたいと思へば出來る丈畫ばかりかゝうとする。本が讀みたければ差支ない以上本ばかり讀まうとする。或學問が好だと云つて、親の心も知らないで、書齋へ入《はい》つて青くなつて居る子息《むすこ》がある。傍から見れば何の事か分らない。親父が無理算段の學資を工面して卒業の上は月給でも取らせて早く隱居でもしたいと思つてゐるのに、子供の方では活計《くらし》の方なんか丸で無頓着で、たゞ天地の眞理を發見したい抔と太平樂を竝べて机に靠れて苦《にが》り切つてゐるのもある。親は生計の爲の修業と考へてゐるのに子供は道樂の爲の學問とのみ合點してゐる。斯う云ふ樣な譯で道樂の活力は如何なる道�ｺ學者も杜絶する譯にいかない。現に其の發現は世の中にどんな形になつて、どんなに現れて居るかと云ふことは、此競爭劇甚の世に道樂なんどとてんで其存在の權利を承認しない程家業に勵精な人でも少し注意されゝば肯定しない譯に行かなくなるでせう。私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ行つて見ると、さがり松だの權現樣だの紀三井寺だのいろ／＼のものがありますが、其中に東洋第一海拔二百尺と書いたエレ?ーターが宿の裏から小高い石山の巓《いたゞき》へ絶えず見物を上げたり下げたりしてゐるのを見ました。實は私も動物園の熊の樣にあの鐡の格子の檻の中に入《はい》つて山の上へ上げられた一人であります。があれは生活上別段必要のある場所にある譯でもなければ又夫程大切な器械でもない、まあ物數奇である。唯上つたり下つたりする丈である。疑もなく道樂心の發現で、好奇心兼廣告欲も手傳つてゐるかも知れないが、まあ活計向《くらしむき》とは關係の少ないものです。これは一例ですが開化が進むにつれて斯う云ふ贅澤なものゝ數が殖えて來るのは誰でも認識しない譯に行かないでせう。加之此贅澤が日に増し細かくなる。大きなものゝ中に輪が幾つも出來て漏斗《じようご》みた樣に段々深くなる。と同時に今迄氣の付かなかつた方面へ段々發展して範圍が年々廣くなる。

　要するに只今申し上げた二つの入り亂れたる經路、即ち出來るだけ勞力を節約したいと云ふ願望から出て來る種々の發明とか器械力とか云ふ方面と、出來るだけ氣儘に勢力を費したいと云ふ娯樂の方面、是が經となり緯となり千變萬化錯綜して現今の樣に混亂した開化と云ふ不可思議な現象が出來るのであります。

　そこでさう云ふものを開化とすると、茲に一種妙なパラドツクスとでも云ひませうか、一寸聞くと可笑しいが、實は誰しも認めなければならない現象が起ります。元來何故人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を發現しつゝ今日に及んだかと云へば生れながらさう云ふ傾向を有つて居ると答へるより外に仕方がない。之を逆に申せば吾人の今日あるは全く此本來の傾向あるがために外ならんのであります。猶進んで云ふと元の儘で懷手をしてゐては生存上どうしても遣り切れぬから、夫れから夫れへと順々に押され／＼て斯く發展を遂げたと言はなければならないのです。して見れば古來何千年の勞力と歳月を擧げて漸くの事現代の位置迄進んで來たのであるからして、苟くも此二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が樂になつてゐなければならない筈であります。けれども實際は何うか？　打明けて申せば御互の生活は甚だ苦しい。昔の人に對して一歩も讓らざる苦痛の下に生活してゐるのだと云ふ自覺が御互にある。否開化が進めば進む程競爭が益劇しくなつて生活は愈困難になるやうな氣がする。成程以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化は贏ち得たに相違ない。然し此開化は一般に生活の程度が高くなつたといふ意味で、生存の苦痛が比較的柔げられたといふ譯ではありません。丁度小學校の生徒が學問の競爭で苦しいのと、大學の學生が學問の競爭で苦しいのと、其の程度は違ふが、比例に至つては同じ事である如く、昔の人間と今の人間がどの位幸福の程度に於て違つて居るかと云へば――或は不幸の程度に於て違つて居るかと云へば――活力消耗活力節約の兩工夫に於て大差はあるかも知れないが、生存競爭から生ずる不安や努力に至つては決して昔より樂になつてゐない。否昔より却つて苦しくなつてゐるかも知れない。昔は死ぬか生きるかの爲に爭つたものである。夫丈の努力を敢てしなければ死んで仕舞ふ。已むを得ないからやる。加之道樂の念は兎に角道樂の途はまだ開けて居なかつたから、斯うしたい、あゝしたいと云ふ方角も程度も至つて微弱なもので、たまに足を伸したり手を休めたりして、滿足してゐた位のものだらうと思はれる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越してゐる。それが變化して寧ろ生きるか生きるかと云ふ競爭になつて仕舞つたのであります。生きるか生きるかと云ふのは可笑しうございますが、Ａの状態で生きるかＢの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないといふ意味であります。活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽いて渡世にするか、又は自動車のハンドルを握つて暮すかの競爭になつたのであります。どつちを家業にしたつて命に別條はないに極つてゐるが、どつちへ行つても勞力は同じだとは云はれません。人力車を挽く方が汗が餘程多分に出るでせう。自動車の御者になつてお客を乘せれば――尤も自動車を有つ位ならお客を乘せる必要もないが――短い時間で長い所が走れる。糞力《くそぢから》はちつとも出さないで濟む。活力節約の結果樂に仕事が出來る。されば自動車のない昔はいざ知らず、苟くも發明される以上人力車は自動車に負けなければならない。負ければ追付かなければならない。と云ふ譯で、少しでも勞力を節減し得て優勢なるものが地平線上に現はれて茲に一つの波瀾を誘ふと、丁度一種の低氣壓と同じ現象が開化の中に起つて、各部の比例がとれ平均が回復される迄は動搖して已められないのが人間の本來であります。積極的活力の發現の方から見ても此波動は同じことで、早い話が今迄は敷島か何か吹かして我慢して居つたのに、隣りの男が旨さうに埃及煙草を喫んで居ると矢つ張りそつちが喫みたくなる。又喫んで見れば其の方が旨いに違ない。仕舞には敷島などを吹かすものは人間の數へ入《はい》らないやうな氣がして、どうしても埃及へ喫み移らなければならぬと云ふ競爭が起つて來る。通俗の言葉で云へば人間が贅澤になる。道學者は倫理的の立場から始終奢侈を戒しめてゐる。結構には違ないが自然の大勢に反した訓戒であるから何時でも駄目に終るといふ事は昔から今日迄人間がどの位贅澤になつたか考へて見れば分る話である。斯く積極消極兩方面の競爭が激しくなるのが開化の趨勢だとすれば、吾々は長い時日のうちに種々樣々の工夫を凝し智慧を絞つて漸く今日迄發展して來たやうなものゝ、生活の吾人の内生に與へる心理的苦痛から論ずれば今も五十年前も又は百年前も、苦しさ加減の程度は別に變りはないかも知れないと思ふのです。それだからして此位勞力を節減する器械が整つた今日でも、又活力を自由に使ひ得る娯樂の途が備つた今日でも生存の苦痛は存外｜切《せつ》なもので或は非常といふ形容詞を冠らしても然るべき程度かも知れない。是程勞力を節減出來る時代に生れても其｜忝《かたじ》けなさが頭に應《こた》へなかつたり、是程娯樂の種類や範圍が擴大されても全く其有難味が分らなかつたりする以上は苦痛の上に非常といふ字を附加しても好いかも知れません。是が開化の産んだ一大パラドツクスだと私は考へるのであります。

　これから日本の開化に移るのですが、果して一般的の開化がそんなものであるならば、日本の開化も開化の一種だからそれで宜からうぢやないかで此講演は濟んで仕舞ふ譯であります。が其處に一種特別な事情があつて、日本の開化はさういかない。何故さうは行かないか。夫れを説明するのが今日の講演の主眼である。と申すと玄關を上つて漸く茶の間あたりへ來た位の氣がして驚くでせう。然しさう長くはありません、奧行は存外短かい講演です。やつてる方だつて長いのは疲れますから出來る丈勞力節約の法則に從つて早く切り上げる積ですから、もう少し辛抱して聽いて下さい。

　それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化と何處が違ふかと云ふのが問題です。若し一言にして此問題を決しやうとするならば私はかう斷じたい、西洋の開化（即ち一般の開化）は内發的であつて、日本の現代の開化は外發的である。こゝに内發的と云ふのは内から自然に出て發展すると云ふ意味で丁度花が開くやうにおのづから蕾が破れて花辨が外に向ふのを云ひ、又外發的とは外からおつかぶさつた他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。もう一口説明しますと、西洋の開化は行雲流水の如く自然に働いてゐるが、御維新後外國と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違ひます。勿論何處の國だつて隣づき合がある以上は其影響を受けるのが勿論の事だから吾日本と雖も昔からさう超然として只自分丈の活力で發展した譯ではない。ある時は三韓又或時は支那といふ風に大分外國の文化にかぶれた時代もあるでせうが、長い月日を前後ぶつ通しに計算して大體の上から一瞥して見るとまあ比較的内發的の開化で進んで來たと云へませう。少なくとも鎖港排外の空氣で二百年も麻醉した揚句突然西洋文化の刺戟に跳ね上つた位強烈な影響は有史以來まだ受けてゐなかつたと云ふのが適當でせう。日本の開化はあの時から急劇に曲折し始めたのであります。又曲折しなければならない程の衝動を受けたのであります。之を前の言葉で表現しますと、今迄内發的に展開して來たのが、急に自己本位の能力を失つて外から無理押しに押されて否應《いやおう》なしに其云ふ通りにしなければ立ち行かないといふ有樣になつたのであります。夫が一時ではない。四五十年前に一押し押されたなりじつと持ち應《こた》へてゐるなんて樂《らく》な刺戟ではない。時々に押され刻々に押されて今日に至つた許りでなく向後何年の間か、又は恐らく永久に今日の如く押されて行かなければ日本が日本として存在出來ないのだから外發的といふより外に仕方がない。其理由は無論明白な話で、前《ぜん》詳しく申上げた開化の定義に立戻つて述べるならば、吾々が四五十年間始めて打《ぶ》つかつた、又今でも接觸を避ける譯に行かないかの西洋の開化といふものは我々よりも數十倍勞力節約の機關を有する開化で、又我々よりも數十倍娯樂道樂の方面に積極的に活力を使用し得る方法を具備した開化である。粗末な説明ではあるが、詰り我々が内發的に展開して十の複雜の程度に開化を漕ぎつけた折も折、圖らざる天の一方から急に二十三十の複雜の程度に進んだ開化が現はれて俄然として我等に打つて懸つたのである。此壓迫によつて吾人は已を得ず不自然な發展を餘儀なくされるのであるから、今の日本の開化は地道にのそり／＼と歩くのでなくつて、やツと氣合を懸けてはぴよい／＼と飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る餘裕をもたないから、出來る丈大きな針でぼつ／＼縫つて過ぎるのである。足の地面に觸れる所は十尺を通過するうちに僅か一尺位なもので、他の九尺は通らないのと一般である。私の外發的といふ意味は是で略御了解になつたらうと思ひます。

　さう云ふ外發的の開化が心理的にどんな影響を吾人に與ふるかと云ふと一寸變なものになります。心理學の講筵でもないのに六づかしい事を申上げるのも如何と存じますが、必要の個所丈を極簡易に述べて再び本題に戻る積でありますから、暫く御辛抱を願ひます。我々の心は絶間なく動いて居る。あなた方は今私の講演を聽いておいでになる、私は今あなた方を前に置いて何か言つて居る、雙方共に斯う云ふ自覺がある。それに御互の心は動いてゐる。働いてゐる。これを意識と云ふのであります。此意識の一部分、時に積れば一分間位の所を絶間なく動いてゐる大きな意識から切り取つて調べて見ると矢張り動いてゐる。其動き方は別に私が發明した譯でも何でもない、只西洋の學者が書物に書いた通りを尤もと思ふから紹介するだけでありますが、凡て一分間の意識にせよ三十秒間の意識にせよ其内容が明暸に心に映ずる點から云へば、のべつ同程度の強さを有して時間の經過に頓着なく恰も一つ所にこびり付いた樣に固定したものではない。必ず動く。動くにつれて明かな點と暗い點が出來る。其高低を線で示せば平たい直線では無理なので、矢張り幾分か勾配の付いた弧線即ち弓形《ゆみがた》の曲線で示さなければならなくなる。こんなに説明すると却つて込み入つて六づかしくなるかも知れませんが、學者は分つた事を分りにくゝ言ふもので、素人は分らない事を分つた樣に呑込んだ顔をするものだから非難は五分々々である。今云つた弧線とか曲線とかいふ事をもそつと碎いてお話をすると、物を一寸見るのにも、見て是が何であるかと云ふ事がハツキリ分るには或る時間を要するので、即ち意識が下の方から一定の時間を經て頂點へ上つて來てハツキリして、あゝ是だなと思ふ時がくる。それを猶見詰めて居ると今度は視覺が鈍くなつて多少ぼんやりし始めるのだから一旦上の方へ向いた意識の方向が又下を向いて暗くなり懸ける。是は實驗して御覽になると分る。實驗と云つても機械抔は要らない。頭の中がさうなつて居るのだから只｜試《ため》しさへすれば氣が付くのです。本を讀むにしてもＡと云ふ言葉とＢと云ふ言葉と夫からＣといふ言葉が順々に竝んで居れば此三つの言葉を順々に理解して行くのが當り前だからＡが明かに頭に映る時はＢはまだ意識に上らない。Ｂが意識の舞臺に上り始める時にはもうＡの方は薄ぼんやりして段々識域の方に近づいてくる。ＢからＣへ移るときは是と同じ所作を繰返すに過ぎないのだから、いくら例を長くしても同じ事であります。是は極めて短時間の意識を學者が解剖して吾々に示したものでありますが、此解剖は個人の一分間の意識のみならず、一般社會の集合意識にも、夫から又一日一月もしくは一年乃至十年の間の意識にも應用の利く解剖で、其特色は多人數になつたつて、長時間に亙つたつて、一向變りはない事と私は信じてゐるのであります。例へて見ればあなた方といふ多人數の團體が今此處で私の講演を聽いておいでになる。聽いて居ない方もあるかも知れないが、まア聽いて居るとする。さうすると其個人でない集合體のあなた方の意識の上には今私の講演の内容が明かに入《はい》る。と同時に、此講演に來る前あなた方が經驗された事、即ち途中で雨が降り出して着物が濡れたとか、又蒸し暑くて途中が難儀であつたとかいふ意識は講演の方が心を奪ふにつれて、段々不明暸不確實になつてくる。又此講演が終つて場外に出て涼しい風に吹かれでもすれば、あゝ好い心持だといふ意識に心を專領されて仕舞つて講演の方はピツタリ忘れて仕舞ふ。私から云へば全く有難くない話だが事實だから已を得ないのである。私の講演を行住坐臥共に覺えていらつしやいと言つても、心理作用に反した注文なら誰も承知する者はありません。是と同じ樣にあなた方と云ふ矢張り一箇の團體の意識の内容を檢して見ると假令一ケ月に亙らうが一年に亙らうが一ケ月には一ケ月を括るべき炳乎たる意識があり、又一年には一年を纏めるに足る意識があつて、夫から夫へと順次に消長してゐるものと私は斷定するのであります。吾々も過去を顧みて見ると中學時代とか大學時代とか皆特別の名のつく時代で其時代々々の意識が纏つて居ります。日本人總體の集合意識は過去四五年前には日露戰爭の意識丈になり切つて居りました。其後日英同盟の意識で占領された時代もあります。斯く推論の結果心理學者の解剖を擴張して集合の意識や又長時間の意識の上に應用して考へて見ますと、人間活力の發展の經路たる開化といふものの動くラインも又波動を描いて弧線を幾個《いくつ》も幾個も繋ぎ合せて進んで行くと云はなければなりません。無論描かれる波の數は無限無數で、其一波々々の長短も高低も千差萬別でありませうが、矢張り甲の波が乙の波を呼出し、乙の波が又丙の波を誘ひ出して順次に推移しなければならない。一言にして云へば開化の推移はどうしても内發的でなければ嘘だと申上げたいのであります。一寸した話が私は今此處で演説をして居る。すると夫を御聞きになる貴方がたの方から云へば初めの十分間位は私が何を主眼に云ふか能く分らない、二十分目位になつて漸く筋道が付いて、三十分目位には漸く油がのつて少しは一寸面白くなり、四十分目には又ぼんやりし出し、五十分目には退屈を催し、一時間目には欠伸が出る。とさう私の想像通り行くか行かないか分りませんが、もしさうだとするならば、私が無理に此處で二時間も三時間も喋舌《しやべ》つては、あなた方の心理作用に反して我《が》を張ると同じ事で決して成功は出來ない。何故かと云へば此講演が其場合あなた方の自然に逆つた外發的のものになるからであります。いくら咽喉を絞り聲を嗄らして怒鳴《どな》つて見たつて貴方がたはもう私の講演の要求の度を經過したのだから不可《いけ》ません。あなた方は講演よりも茶菓子が食ひたくなつたり酒が飲みたくなつたり氷水が欲しくなつたりする。其方が内發的なのだから自然の推移で無理のない所なのである。

　是丈説明して置いて現代日本の開化に後戻をしたら大抵大丈夫でせう。日本の開化は自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すやうに内發的に進んでゐるかと云ふのが當面の問題なのですが殘念ながらさう行つて居ないので困るのです。行つて居ないと云ふのは、先程も申した通り活力節約活力消耗の二大方面に於て丁度複雜の程度二十を有して居つた所へ、俄然外部の壓迫で三十代迄飛び付かなければならなくなつたのですから、恰も天狗にさらはれた男の樣に無我夢中で飛び付いて行くのです。其經路は殆んど自覺してゐない位のものです。元々開化が甲の波から乙の波へ移るのは既に甲は飽いて居たゝまれないから内部欲求の必要上ずるりと新らしい一波を開展するので甲の波の好所も惡所も酸いも甘いも甞め盡した上に漸く一生面を開いたと云つて宜しい。從つて從來經驗し盡した甲の波には衣を脱いだ蛇と同樣未練もなければ殘り惜しい心持もしない。のみならず新たに移つた乙の波に揉まれながら毫も借り着をして世間體を繕つてゐるといふ感が起らない。所が日本の現代の開化を支配してゐる波は西洋の潮流で其波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せる度に自分が其中で食客《ゐさふらふ》をして氣兼をしてゐる樣な氣持になる。新らしい波は兎に角、今しがた漸くの思で脱却した舊い波の特質やら眞相やらも辨へるひまのないうちにもう棄てなければならなくなつて仕舞つた。食膳に向つて皿の數を味ひ盡す所《どころ》か元來どんな御馳走が出たかハツキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを竝べられたと同じ事であります。斯う云ふ開化の影響を受ける國民はどこかに空虚の感がなければなりません。又どこかに不滿と不安の念を懷かなければなりません。夫を恰も此開化が内發的でゞもあるかの如き顔をして得意でゐる人のあるのは宜しくない。それは餘程ハイカラです、宜しくない。虚僞でもある。輕薄でもある。自分はまだ煙草を喫《す》つても碌に味さへ分らない子供の癖に、煙草を喫つてさも旨さうな風をしたら生意氣でせう。夫を敢てしなければ立ち行かない日本人は隨分悲酸な國民と云はなければならない。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見ても一寸氣が付くでせう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくとも宜いと云へば夫迄であるが、情けないかな交際しなければ居られないのが日本の現状でありませう。而して強いものと交際すれば、どうしても己を棄てゝ先方の習慣に從はなければならなくなる。我々があの人は肉刺《フオーク》の持ち樣も知らないとか、小刀《ナイフ》の持ち樣も心得ないとか何とか云つて、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、たゞ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければ彼方に此方の眞似をさせて主客の位地を易へるのは容易の事である。がさう行かないから此方で先方の眞似をする。しかも自然天然に發展して來た風俗を急に變へる譯にいかぬから、たゞ器械的に西洋の禮式抔を覺えるより外に仕方がない。自然と内に醗酵して釀された禮式でないから取つてつけた樣で甚だ見苦しい。是は開化ぢやない、開化の一端とも云へない程の些細な事であるが、さう云ふ些細な事に至るまで、我々の遣《や》つてゐる事は内發的でない、外發的である。是を一言にして云へば現代日本の開化は皮相｜上滑《うはすべ》りの開化であると云ふ事に歸着するのである。無論一から十まで何から何までとは言はない。複雜な問題に對してさう過激の言葉は愼まなければ惡いが我々の開化の一部分、或は大部分はいくら己惚れて見ても上滑りと評するより致し方がない。併しそれが惡いからお止《よ》しなさいと云ふのではない。事實已むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑つて行かなければならないと云ふのです。

　それでは子供が背《せな》に負はれて大人と一所に歩くやうな眞似をやめて、じみちに發展の順序を盡して進む事はどうしても出來まいかといふ相談が出るかも知れない。さういふ御相談が出れば私は無い事もないと御答をする。が西洋で百年かゝつて漸く今日に發展した開化を日本人が十年に年期をつゞめて、しかも空虚の譏《そしり》を免かれるやうに、誰が見ても内發的であると認める樣な推移をやらうとすれば是亦由々しき結果に陷るのであります。百年の經驗を十年で上滑りもせず遣りとげやうとするならば年限が十分一に縮まる丈わが活力は十倍に増さなければならんのは算術の初歩を心得たものさへ容易く首肯する所である。是は學問を例に御話をするのが一番早分りである。西洋の新らしい説などを生噛《なまかじ》りにして法螺を吹くのは論外として、本當に自分が研究を積んで甲の説から乙の説に移り又乙から丙に進んで、毫も流行を追ふの陋態なく、又ことさらに新奇を衒ふの虚榮心なく、全く自然の順序階級を内發的に經て、しかも彼等西洋人が百年も掛つて漸く到着し得た分化の極端に、我々が維新後四五十年の教育の力で達したと假定する。體力腦力共に吾らよりも旺盛な西洋人が百年の歳月を費したものを、如何に先驅の困難を勘定に入れないにした所で僅か其｜半《なかば》に足らぬ歳月で明々地に通過し了るとしたならば吾人は此驚くべき知識の收穫を誇り得ると同時に、一敗また起つ能はざるの神經衰弱に罹つて、氣息奄々として今や路傍に呻吟しつゝあるは必然の結果として正に起るべき現象でありませう。現に少し落ち付いて考へて見ると、大學の教授を十年間一生懸命にやつたら、大抵の者は神經衰弱に罹りがちぢやないでせうか。ピン／＼して居るのは、皆嘘の學者だと申しては語弊があるが、まあ何方かと云へば神經衰弱に罹る方が當り前の樣に思はれます。學者を例に引いたのは單に分り易い爲で、理窟は開化のどの方面へも應用が出來る積です。

　既に開化と云ふものが如何に進歩しても、案外其開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競爭其他からいら／＼しなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とさう變りはなさゝうである事は前《ぜん》御話しゝた通りである上に、今言つた現代日本が置かれたる特殊の状况に因つて吾々の開化が機械的に變化を餘儀なくされる爲にたゞ上皮《うはかは》を滑つて行き、又滑るまいと思つて踏張《ふんば》る爲に神經衰弱になるとすれば、どうも日本人は氣の毒と言はんか憐れと言はんか、誠に言語道斷の窮状に陷つたものであります。私の結論は夫丈に過ぎない。あゝなさいとか、斯うしなければならぬとか云ふのではない。どうする事も出來ない、實に困つたと嘆息する丈で極めて悲觀的の結論であります。こんな結論には却つて到着しない方が幸であつたのでせう。眞と云ふものは、知らない中《うち》は知りたいけれども、知つてからは却つてアヽ知らない方が宜かつたと思ふ事が時々あります。モーパサンの小説に、或男が内縁の妻に厭氣《いやき》がさした所から、置手紙か何かして、妻を置き去りにした儘友人の家へ行つて隱れて居たといふ話があります。すると女の方では大變怒つてとう／＼男の所在《ありか》を捜し當てゝ怒鳴り込みましたので男は手切金を出して手を切る談判を始めると、女は其金を床《ゆか》の上に叩きつけて、こんなものが欲しいので來たのではない、若し本當にあなたが私を捨てる氣ならば私は死んで仕舞ふ、そこにある（三階か四階の）窓から飛下りて死んで仕舞ふと言つた。男は平氣な顔を裝つてどうぞと云はぬ許りに女を窓の方へ誘う所作をした。すると女はいきなり馳《か》けて行つて窓から飛下りた。死にはしなかつたが生れも付かぬ不具になつて仕舞ひました。男も是程女の赤心が眼の前へ證據立てられる以上、普通の輕薄な賣女同樣の觀をなして、女の貞節を今迄疑つてゐたのを後悔したものと見えて、再び故《もと》の夫婦に立ち歸つて、病妻の看護に身を委ねたといふのがモーパサンの小説の筋ですが、男の疑も好い加減な程度で留めて置けば是程の大事には至らなかつたかも知れないが、さうすれば彼の懷疑は一生徹底的に解ける日は來なかつたでせう。又此所迄押して見れば女の眞心《まごゝろ》が明かになるにはなるが、取返しの付かない殘酷な結果に陷つた後から回顧して見れば、矢張り眞實｜懸價《かけね》のない實相は分らなくても好いから、女を片輪にさせずに置きたかつたでありませう。日本の現代開化の眞相も此話と同樣で、分らないうちこそ研究もして見たいが、斯う露骨に其性質が分つて見ると却つて分らない昔の方が幸福であるといふ氣にもなります。兎に角私の解剖した事が本當の所だとすれば我々は日本の將來といふものに就てどうしても悲觀したくなるのであります。外國人に對して乃公《おれ》の國には富士山があると云ふやうな馬鹿は今日は餘り云はない樣だが、戰爭以後一等國になつたんだといふ高慢な聲は隨所に聞くやうである。中々氣樂な見方をすれば出來るものだと思ひます。ではどうして此｜急場《きふば》を切り拔けるかと質問されても、前《ぜん》申した通り私には名案も何もない。只出來るだけ神經衰弱に罹らない程度に於て、内發的に變化して行くが好からうといふやうな體裁の好い事を言ふより外に仕方がない。苦《にが》い眞實を臆面なく諸君の前にさらけ出して、幸福な諸君にたとひ一時間たりとも不快の念を與へたのは重々御詫を申し上げますが、又私の述べ來つた所も亦相當の論據と應分の思索の結果から出た生眞面目の意見であると云ふ點にも御同情になつて惡い所は大目に見て頂きたいのであります。

−明治四四、一一、一〇『朝日講演集』−

　

　　　中味と形式

　　　　　――明治四十四年八月堺に於て述――

　

　私は此地方に居るものではありません、東京の方に平生住つて居ります。今度大阪の社の方で講演會を諸所で開きますに就て、助勢をしろといふ命令――だか通知だか依頼だか兎に角催しに參加しなければならない樣な相談を受けました。それでわざ／＼出て參りました。尤もこの堺だけで御話をしてすぐ東京表へ立ち歸るといふ譯でもないので、現に明石の方へ行きましたり、和歌山の方へ參りましたり、明日は又大阪でやる手順になつて居ります。無論話す事さへあれば、何處へ行つて何を遣つても差支ない筈ですが、暑中の際さう／＼身體《からだ》も續きませぬから、好い加減の所で斷りたいと思つて居ります。然しこの堺は當初からの約束で是非何か講話をすべき筈になつて居りましたから私の方も夫は覺悟の上で參りました。從つてしつかりした御話らしい御話をしなければならない譯でありますが、どうもさう旨く行かないから甚だ御氣の毒です。唯今は高原君が樺太旅行談つけたり海豹島《かいへうたう》などの話をされましたが實地の見聞談で誠に有益でもあり、且面白く聽いて居りました。私のは諸君に興味又は利益を與へるといふ點に於て、迚も高原君ほどに參りませぬ。高原君は御覽の通りフロツクコートを着て居りましたが、私は此通り背廣で御免蒙る樣な譯で、御話の面白さも亦此服裝の相違位懸隔して居るかも知れませんから、先づ其邊の所と思つて辛抱してお聽きを願ひます。高原君は頻りに聽衆諸君に向つて厭になつたら遠慮なく途中で御歸りなさいと云はれた樣ですが私は厭になつても是非聽いて居て戴きたいので、其代り高原君ほど長くは遣りません。此暑いのにさう長く遣つては何だか腦貧血でも起しさうで危險ですから出來るだけ縮めてさつさと片付けますから、其の間は歸らずに、暑くても我慢をして、終つた時に拍手喝采をして、さうして目出たく閉會をして下さい。

　私は先年堺へ來た事があります。是は餘程前私がまだ書生時代の事で、明治二十何年になりますか、何でも餘程久しい事のやうに記憶して居ります。實を言ふと今登つた高原君、あれは私が高等學校で教へてゐた時分の御弟子であります。あゝ云ふ立派なお弟子を持つて居る位でありますから、私も餘程年を取りました。其私がまだ若い時の事ですからまあ昔といつても宜しう御座いませう。今考へると殆んど其時に見た堺の記憶と云ふものはありませんが、何でも妙國寺と云ふお寺へ行つて蘇鐡を探したやうに覺えて居ります。それから其御寺の傍に小刀や庖丁を賣る店があつて記念のため一寸した刃物を其所で求めたやうにも覺えてゐます。夫から海岸へ行つたら大きな料理店があつたやうにも記憶してゐます。其料理店の名はたしか一力《いちりき》とか云ひました。凡てがぼんやりして思ひ出すと丸で夢のやうであります。其夢のやうな堺へ今日圖らずも來て再び昔の町を車に搖られながら通つてみると非常に廣い樣な心持がする。停車場から此會場迄の道程《みちのり》も大分ある。斯う申しては失禮であるが昔見た時は極くケチな所であつたかのやうにしか、頭に映じないのであります。夫で車の上で感服したやうな驚いた樣な顔をして、きよろ／＼見廻して來ると所々の辻々に講演の看板と云ひますか、廣告と云ひますか、夏目漱石君などと云ふやうな名前が墨黒々と書いて壁に貼り付けてある。何だか雲右衛門か何かが興行のため乘り込んだやうである。社の方から云へばあの方が宜いのでせうが、夏目漱石氏から云へばあゝ曝《さら》しものになるのは餘り難有くない。猶車の上で觀察すると往來の幅が甚だ狹い。が夫は問題ではない、私の妙に感じたのは其細い往來がヒツソリして非常に靜かに晝寐でもしてゐるやうに見えた事であります。尤も夏の眞午《まひる》だからあまり人が戸外に出る必要のない時間だつたのでせう、私が此所に着いたのは丁度十二時少し過でありました。二階へ上つて長い廊下のはづれに見える會場の入口から中の方を見渡すと、少し人の頭が黒く見えた位で、市内がヒツソリして居る如く聽衆も亦ヒツソリして居る。是は幸ひだ――とは思ひません、又困つたと迄も思ひません。けれどもまあ不入りだらうと考へながら控席へ入《はい》つて休息してゐると、何時の間にやらこんなに人が集つて來た。此講堂に斯く迄詰め懸けられた人數の景况から推すと堺と云ふ所は決して吝《けち》な所ではない、偉《えら》い所に違ひない。市中があれ程ヒツソリして居るに拘はらず、時間が來さへすれば是程多數の聽衆がお集まりになるのは偉い、餘程講演趣味の發達した所だらうと思はれる。私も折角東京からわざ／＼出て來たものでありますから、成らうことならば講演趣味の最も發達した堺のやうな所で、一度でも講演をすれば誠に心持が好い。だから諸君も其の志を諒として、終《しま》ひ迄靜肅にお聽きにならん事を希望します。此位にして此所に張り出した「中味《なかみ》と形式」といふ題にでも移りますかな。

　第一、題からして餘り面白さうには見えません。中味は無論詰らなさうです。私は學會の演説は時々依頼を受けて遣る事がありますが、斯う云ふ公衆、即ち種々の職業を有つた方がお集まりになつた席では餘り御話をした經驗がありません。又頼みにも來ません。頼まれても大抵は斷ります。と申すのは種々の職業を有つて居られる方々の總てに興味のあるやうなことは、私の研究の範圍、或は興味の範圍からして迚も力に及ばないといふ掛念があるからです。で成るべくは避けて居りますが、已むを得ず今日のやうな場合には、出來るだけ一般の人に興味のある爲に、社會問題と云ふやうなものを擇みます。けれども其社會の見方とか或は人間の觀察の仕方とかが又自然私の今日までやつた學問やら研究に煩はされて何うも好きな方許へ傾き易いのは免かれ難い所でありますから、職業の如何、興味の如何に依つては、誠に面白くない駄辯に始つて下らない饒舌に終る事だらうと思ふのです。のみならず是から遣る中味と形式といふ問題が今申した通り餘り乾燥して光澤氣《つやけ》の乏しいみだしなので殊更懸念をいたします。が言譯は此位で澤山でせうからそろ／＼先へ進みませう。

　私は家に子供が澤山居ります。女が五人に男が二人、〆めて七人、夫で一番上の子供が十三ですから赤ん坊に至る迄ズツと順よく竝んでまあ體裁よく揃つて居ります。夫は何うでも宜しいが斯樣に子供が多うございますから、時々色々の請求を受けます。跳ねる馬を買つて呉れとか動く電車を買つて呉れとか色々｜強請《ねだ》られるうちに、活動寫眞へ連れて行けと云ふ注文が折々出ます。元來私は活動寫眞と云ふものを餘り好きません。どうも芝居の眞似などをしたり變な聲色《こわいろ》を使つたりして厭氣のさすものです。其上何ぞといふと擲つたり蹴飛したり慘酷な寫眞を入れるので子供の教育上甚だ宜しくないから可成《なるべく》遣り度くないのですが、子供の方では頻りに行きたがるので――尤も活動寫眞と云つたつて必ず女が出て來て妙な科《しな》をするとは極つてゐない、中には馬鹿氣て滑稽なのも澤山ありますから子供の見たがるのも無理ではないかも知れません。で三度に一度は頑固な私もつい連れ出される事があります。監督者と云ひますか、何と云ひますか、先づ案内者或はお傅《もり》とでも云ふ格なんでせう。暑い所へ入《はい》つて鼻の頭へ汗の玉を竝べて我慢をして動かずに居る事があります。すると子供からよく質問を受けて弱るのです。尤も滑稽物や何かで帽子を飛ばして町内中逐かけて行くと云つた樣な仕草《しぐさ》は、只其儘の可笑味《をかしみ》で子供だつて見てゐさへすれば分りますから質問の出る譯もありませんが、人情物、芝居がかつた續き物になると時々聞かれます。其問は甚だ簡單で唯何方が善人で何方が惡人かと云ふ丈なんです。私から云へば何方も人間にはなつて居ない、善人にも惡人にもなつて居らない。よしなつてゐたつて、幼稚にしろ筋は子供の頭より込入つてゐるからさう一口に判斷を下してやる譯には行かない。夫でどうも迷兒《まご》つかされる事が度々出て來るのです。大人から云へば、只見てゐて事件の進行と筋の運び方さへ腑に落ちれば夫で濟むのですけれども、悲しいかな子供には夫程一部始終を呑み込む頭がない。と云つてたゞ茫然と幕に映る人物の影が頻りに活動するのを眺めてゐる譯にも行かない。どうかして此込み入つた畫の配合や人間の立ち廻りを鷲抓《わしづか》みに引つくるめて其特色を最も簡明な形式で頭へ入れたいに就ては已に幼稚な頭の中に幾分でも髣髴出來る倫理上の二大性質――善か惡かを取り極めて此の錯雜した光景を締め括りたい希望から斯ういふ質問を掛けるものと思はれます。活動寫眞はまだ宜い。所がお伽噺や歴史の本などを見て、昔の英雄などに就いて矢張り同樣に簡單な質問を掛けられる事がある。太閤樣と正成と何方が偉いとか、ワシントンとナポレオンと何方が強いとか、常陸山と辨慶と相撲を取つたら何方が勝つとか、中には返答に困らないのもあるが、多くは挨拶に窮する問題である。要するに複雜な内容を纏め得る程度以上に纏めた簡略な形式にして見せろと逼られるのだから困ります。尤も近來は小學校などでも生徒に問題を出して日本の現代の人物中で誰が一番偉いか抔と聞く先生がある。此間私が或る地方へ行つたらある新聞でさう云ふ問題を出して小學生徒から答案の投書を募つて居ました。其中で自分の御父さんが一番偉いといふ答を寄こしたのがあると聞いて甚だ面白く感じました。自分の親父が天下一の人物だなどは至極好い了見で結構です。夫は餘事であるが、兎に角先生や新聞抔からして、日本に唯《た》つた一人偉い人があつて、其の人は甲にも乙にも丙にも凌駕して居るから中てゝ見ろといふ樣な數學的の問題を出す世の中だから子供から質問が出るのも無理はない。然し困ります。楠正成と豐臣秀吉と何方が偉いと云ふが、見方で色々な結論も出來るし、さう白でなければ黒といつた風に手早く相場をつける譯にも行かないし、要するに複雜な智識があればある程面喰ふ樣になります。

　斯んな例を御話しするのは唯馬鹿らしいから御笑草に御聞きに入れる迄の事だと御思ひになるかも知れんが、實はさうではない。斯う批評して見ると成程子供は幼稚で氣の毒なものだとしか取れませんが、其幼稚で氣の毒の事を大人たる我々が敢てしてゐるのだから甚だ情ない次第で、私は大人として子供は斯くの如くたわいないものだといふ證據に自分の娘や何かを例に引いたのではなく、却て大人も亦此例に洩れぬ迂愚なものだといふ事を證明したいと思つて一寸分り易い小兒を例に用ひたのであります。凡て政治家なり文學者なり或は實業家なりを比較する場合に誰より誰の方が偉いとか優つてゐるとか云つて、一概に上下の區別を立てやうとするのは大抵の場合に於て其道に暗い素人のやる事であります。專門の智識が豐かでよく事情が精しく分つてゐると、さう手短かに纏めた批評を頭の中に貯へて安心する必要もなく、又批評をしやうとすれば複雜な關係が頭に明暸に出てくるから中々「甲より乙が偉い」といふ簡潔な形式によつて判斷が浮んで來ないのであります。幼稚な智識を有つた者、没分曉漢或は門外漢になると知らぬ事を知らないで濟まして居るのが至當であり、又本人も其積で平氣で居るのでせうが、何うも處世上の便宜からさう無頓着で居にくゝなる場合があるのと、一つは物數奇にせよ問題の要點丈は胸に疊み込んで置く方が心丈夫なので、兎角最後の判斷のみを要求したがります。偖其最後の判斷と云へば善惡とか優劣とかさう範疇は澤山ないのですが無理にも此尺度に合ふ樣に何んな複雜なものでも委細御構なく切り約《つゞ》められるものと假定してかゝるのであります。中味は込入つて居て眼がちら／＼する丈だから責めて締括つた總勘定丈知りたいと云ふなら、まだ穩當な點もあるが、何んな動物を見ても要するに是は牛かい馬かい牛馬一點張りで凡て四つ足を品隲されては大分無理が出來る。門外漢といふものは此無理に氣が付かない、又氣が付いても構はない。どんな無理な判斷でも與へてくれさへすれば安心する。だからお上でも高等官一等を拵へて見たり、二等を拵へて見たり、或は學士、博士を拵へて見たりして門外漢に對して便宜を與へ、一種の締括りある二字か三字の記號を本來の區別と心得て滿足する連中に安慰を與へてゐる。以上を一口にして云へば物の内容を知り盡した人間、中味の内に生息してゐる人間は夫程形式に拘泥しないし、又無理な形式を喜ばない傾があるが、門外漢になると中味が分らなくつても兎に角形式丈は知りたがる、さうして其形式が如何に其物を現すに不適當であつても何でも構はずに一種の智識として尊重すると云ふ事になるのであります。

　是は複雜の事を簡略の例で御話をするのでありますから、其積りでお聽きを願ひますが、茲に一つの平面があつて、それに他の平面が交叉して居るとすると、此二つの平面の關係は何で示すかといふと、申す迄もなく其兩面の喰違つた角度である。何方が高いのでもない何方が低いのでもない。三十度の角度を爲して居るとか、六十度の角度を爲して居るとか云へば極めて明暸で夫より以外に説明する事も質問する事も何《なん》にもないのであります。夫を此二面が何時でも偶然平らに竝行でもしてゐるかの如き了見で、全體どつちが高いのですと聞かなければ承知が出來ないのは痛み入ります。人間と人間、事件と事件が衝突したり、捲き合つたり、ぐる／＼回轉したりする時其優劣上下が明かに分るやうな性質程度で、其成行が比較さへ出來れば宜《い》い譯だが、惜しい哉この比較をするだけの材料、比較をするだけの頭、纏めるだけの根氣がない爲に、即ち門外漢であるが爲に、どうしても角度を知る事が出來ない爲に、上下とか優劣とか持ち合せの定規で間に合せたくなるのは今申す通り門外漢の通弊でありますが、私の見る所では豈獨り門外漢のみならんやで、專門の學者も亦さう威張れた義理でもないやうな概括をして平氣で居るのだから驚かれるのです。

　學者と云ふものは、色々の事實を集めて法則を作つたり概括を致します。或は何主義とか號して其主義を一纏めに致します。是は科學にあつても哲學にあつても必要の事であり、又便宜な事で誰しも夫に異存のある筈は御座いません。例へば進化論とか、勢力保存とか云ふと其言葉自身が必要である許りでなく、實際の事實の上に於て役に立つてゐます。けれども惡くすると前《ぜん》申した子供や門外漢と同じ樣に、内容に餘り合はない形式を拵へて唯表面上の纏りで滿足してゐる事が往々ある樣に思ひます。此間私は或學者の書いた本を讀みました。夫はオイケンと云つて、近頃獨逸で、有名な學者の著はしたものであります。尤も澤山の著述のうちで極く短かい一冊を讀んだ丈でありますが、兎に角其人の説の中に斯う云ふ事が書いてありました。現代の人は頻りに自由とか開放と云ふ樣な事を主張する。同時に秩序とか組織とか云ふものを要求して居る。一方では束縛を解いて自由にして貰はければ堪らないと云つて居ながら、一方では（例へば資本家と云ふ樣なものが）秩序とか組織を立てなければ事業が發展しないと騷いで居る。が、此二つの要求を較べると明かに矛盾である。――此處迄は宜しいのです。然しオイケンは此矛盾は何方かに片付けなければならず、又片付けらるべきものであるかの如き語氣で論じてゐた樣に記憶してゐますが――即ちさう云ふ樣に相反する事を同時に唱へて居つては矛盾だから、モツと一纏めにして、意味のある生活を人がやつて行かなければならぬと云ふ樣な事を言ふのです。ですが貴方方《あなたがた》はまあどうお考へになりますか。オイケンの云ふ通りで宜いと御思ひですか、果して此矛盾が一纏めになるものとお思ひになりますか。又明かに矛盾して居ると云ふお考へでありますか。貴方方にこんな質問を掛けたつて詰らない、又掛ける必要もありません。が私は何う考へてもオイケンの説は無理だと思ふのです。何故無理だと言ひますと、資本家とか或は政府とか、或は教育者とか云ふものが、總て多數の人間を相手にしてさうして、何か事を手早く運び、手際よく片付けやうと云ふ爲には、どうしたつて統一と云ふ事と、組織と云ふ事と、秩序と云ふ事を眞向《まつかう》に振翳さなければ出來ない話である。例へば實業家が事業をする。其爲に人夫を百人雇ふ。職工を千人雇ふ。さうして彼等の間に規律と云ふものが無かつたならば、――彼等のうちには今日は頭が痛いから休むといふものも出來やうし、朝の七時からは厭だから己は午後から出ると我儘を云ふものも出來やうし、或は今日は少し早く切り上げて寄席へ行くとか、或は今日は朝出掛に酒を飲むんだとか各々勝手な事を、ばら／＼に行動されては折角一箇月で出來る事業も一年掛るか二年掛るか見込が立たなくなります。けれども何うでせう斯う云ふ軍人教育者實業家などが公務を仕舞つて家へ歸つてさあ是からが己《おれ》の身體《からだ》だといふ場合に、矢張同じ樣な窮屈極まる生活に甘んずるでせうか。人によつては寢食の時間抔大變規則正しい人もあるかも知れないが、原則から云へば樂に自由な骨休めをしたいと願ひ又出來る丈其呑氣主義を實行するのが一般の習慣であります。すると彼等には明かに背馳した兩面の生活がある事になる。業務に就いた自分と業務を離れた自分とはどう見たつて矛盾である。然し此矛盾は生活の性質から出る已を得ざる矛盾だから、形式から云へば如何にも矛盾の樣であるけれども、實際の内面生活から云へばかく二樣になる方が却つて本來の調和であつて、無理にそれを片付けやうとするならば夫こそ眞の矛盾に陷る譯ぢやなからうかと思ひます。何故《なぜ》といふと、一つは人を支配する爲の生活で、一つは自分の嗜慾を滿足させる爲の生活なのだから、意味が全く違ふ。意味が違へば樣子も違ふのが尤もだと云つた樣な話であります。反對の例を擧げて今度は同じ事を逆に説明して見ませう。世間には藝術家といふ一種の職業がある。是は頗る氣まぐれ商賣で、共同的には決して仕事が出來ない性質のものであります。幾ら八ケ間敷小言を云はれても個人的にこつ／＼遣つて行くのが原則になつてゐます。而も其個人が氣の向いた時でなければ決して働けない。又働かないといふ甚だ我儘な自己本位の家業になつてゐる。だから朝七時から十二時迄働かなければならないと云ふ秩序や組織や順序があつた所で、それだけ手際の良い仕事は出來るものでない。即ち自分の氣の向いた時にやつたものが一番氣の乘つた製作となつて現はれる。從つて藝術家に對しては今申した資本家教育者抔の執務ぶりや授業ぶりは當嵌らない。が其個人的に出來上つた藝術家でも、彼等同業者の利益を團體として保護する爲には、會なり倶樂部なり、組合なりを組織して、規則其他の束縛を受ける必要が出來てくる。彼等の或者は今現に之を實行しつゝある。してみれば放縱不羈を生命とする藝術家ですらも時と場合には組織立つた會を起し、秩序ある行動を取り、統一のある機關を備へるのである。私は是を生活の兩面に伴ふ調和と名づけて、決して矛盾の名を下したくない。矛盾には違なからうが夫は單に形式上の矛盾であつて内面の消息から云へば却つて生活の融合なのである。

　茲に學者なるものがあつて、突然聲を大にして、それは明かに矛盾である、どつちか一方が善くつて一方が惡いに極つてゐる、或は一方が一方より小さくて一方が大きいに違ひないから、一纏めにしてモツと大きなもので括らなければならないと云つたならば、此學者は統一好きな學者の精神はあるにも拘はらず、實際には疎い人と云はなければならない。現にオイケンと云ふ人の著述を數多くは讀んで居りませんが、私の讀んだ限りで云へば、こんな非難を加へる事が出來るやうにも思ひます。斯う論じてくると何だか學者は無用の長物の樣にも見えるでせうが私は決してそんな過激の説を抱いてゐるものではありません。學者は無論有益のものであります。學者のやる統一、概括と云ふものゝ御蔭で我々は日常どの位便宜を得てゐるか分りません。前に擧げた進化論と云ふ三字の言葉だけでも大變重寶なものであります。併しながら彼等學者には凡てを統一したいといふ念が強い爲に、出來得る限り何でも蚊でも統一しやうとあせる結果、又學者の常態として冷然たる傍觀者の地位に立つ場合が多いため、たゞ形式丈の統一で中味の統一にも何にもならない纏め方をして得意になる事も少なくないのは爭ふ可らざる事實であると私は斷言したいのです。　冷然たる傍觀者の態度が何故に此弊を釀すかとの御質問があるなら私は斯う説明したい。一寸考へると、彼等は常人より判明《はつきり》した頭を有つて、普通の者より根氣強く、確乎《しつかり》考へるのだから彼等の纏めたものに間違はない筈だと、斯う云ふ事になりますが、彼等は彼等の取扱ふ材料から一歩退いて佇立《たゝず》む癖がある。云ひ換へれば研究の對象を何處迄も自分から離して眼の前に置かうとする。徹頭徹尾觀察者である。觀察者である以上は相手と同化する事は殆んど望めない。相手を研究し相手を知るといふのは離れて知るの意で其物になりすまして之を體得するのとは全く趣が違ふ。幾ら科學者が綿密に自然を研究したつて、必竟ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、決して自分が自然に變化する時期が來ない如く、哲學者の研究も又永久局外者としての研究で當の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしてゐない場合が多い。學校の倫理の先生が幾ら偉い事を言つたつて、詰り生徒は生徒、自分は自分と離れてゐるから生徒の動作丈を形式的に研究する事は出來ても、事實生徒になつて考へる事は覺束ないのと一般である。傍觀者と云ふものは岡目八目とも云ひ、當局者は迷ふと云ふ諺さへある位だから、冷靜に構へる便宜があつて觀察する事物がよく分る地位には違ありませんが、其分り方は要するに自分の事が自分に分るのとは大いに趣を異にしてゐる。斯う云ふ分り方で纏め上げたものは器械的に流れ易いのは當然でありませう。換言すれば形式の上ではよく纏まるけれども、中味から云ふと一向纏つてゐないといふ樣な場合が出て來るのであります。が詰り外からして觀察をして相手を離れて其形を極める丈で内部へ入り込んで其裏面の活動からして自《おのづ》から出る形式を捉へ得ないといふ事になるのです。

　之に反して自から活動してゐるものは其活動の形式が明かに自分の頭に纏つて出て來ないかも知れない代りに、觀察者の態度を維持しがちの學者のやうに表面上の矛盾などを無理に纏めやうとする弊害には陷る憂がない。先程オイケンの批評をやつて形式上の矛盾を中味の矛盾と取り違へて是非纏めやうとするは迂濶だと云つて非難しましたが、あの例にしてからが、もしオイケン自身が此矛盾の如く見える生活の兩面を親しく體現して、一方では秩序を重んじ一方では開放の必要を同時に感じて居たならば、たとひ形式上斯う云ふ結論に到着した所で、何うも變だ何處かに手落がある筈だと先づ自から疑ひを起して内省もし得たらうと思ふのです。いくら哲學的でも、概括的でも、自分の生活に親しみのない以上は、此概括を敢てすると同時にハテ可笑しいぞ變だなと勘づかなければなりません。勘づいて内省の結果段々分解の歩を進めて見ると、成程形式の方にはそれだけの手落があり、拔目があると云ふ事が判然して來るべきです。だからして中味を持つて居るもの即ち實生活の經驗を嘗めてゐるものは其實生活が如何なる形式になるか能く考へる暇さへないかも知れないけれども、内容丈は慥かに體得してゐるし、又外形を纏める人は、誠に綺麗に手際よく纏めるかも知れぬけれども、何處かに手落があり勝である。丁度文法といふものを中學の生徒抔が習ひますが、文法を習つたからと云つて夫がため會話が上手にはなれず、文法は不得意でも話は達者にもやれる通辯などいふものもあつて、其方が實際役に立つと同じ事です。同じ樣な例ですが歌を作る規則を知つて居るから、和歌が上手だと云つたら可笑しいでせう、上手の作つた歌が其内に自然と歌の規則を含んでゐるのでせう。文法家に名文家なく、歌の規則抔を研究する人に歌人が乏しいとはよく人のいふ所ですが、もしさうすると折角拵へた文法に妙に融通の利かない杓子定規のところが出來たり、又苦心して纏めた歌の法則も時には好い歌を殺す道具になる樣に、實地の生活の波濤をもぐつて來ない學者の概括は中味の性質に頓着なくたゞ形式的に纏めた樣な弱點が出てくるのも已を得ない譯であります。尚此理を適切に申しますと、幾ら形と云ふものがはつきり頭に分つて居つても、どれ程斯うならなければならぬといふ確信があつても、單に形式の上でのみ纏つてゐる丈で、事實それを實現して見ないときには、何時でも不安心のものであります。それは貴方方の御經驗でも分りませう。四五年前日露戰爭と云ふものがありました。露西亞と日本と何方《どつち》が勝つかといふ隨分な大戰爭でありました。日本の國是は詰り開戰説で、とう／＼あの露西亞と戰をして勝ちましたが、あの戰を開いたのは決して無謀にやつたのではありますまい。必ず相當の論據があり、研究もあつて、露西亞の兵隊が何萬滿洲へ繰出すうちには、日本では是だけ繰出せるとか、或は大砲は何門あるとか、兵糧はどの位あるとか、軍資はどの位であるとか大抵の見込は立てたものでありませう。見込が立たなければ戰爭抔は出來る筈のものではありません。が其戰爭を遣る前、遣る間際、及びやりつゝある間、どの位心配をしたか分らない。と云ふのは如何に見込のちやんと明かに立つたものにせよたゞ形式の上で纏つた丈では不安で堪らないのであります。當初の計畫通りを實行してさうして旨く見込に違はない成績をふり返つて見て、成程と始めて合點して納得の行つた樣な顔をするのは、いくら綺麗に形丈が纏つてゐても實際の經驗がそれを證據立てゝ呉れない以上は大いに心細いのであります。つまり外形と云ふものはそれ程の強味がないといふ事に歸着するのです。近頃｜流行《はや》る飛行機でも其通りで、いろ／＼學理的に考へた結果、斯う云ふ風《ふう》に羽翼を附けて斯う云ふやうに飛ばせば飛ばぬ筈はないと見込がついた上で偖雛形を拵へて飛ばして見れば果して飛ぶ。飛ぶことは飛ぶので一應安心はするやうなものゝそれに自分が乘つていざといふ時飛べるかどうかとなると飛んで見ないうちは矢張《やつぱり》不安心だらうと思ひます。學理通り飛行機が自分を乘せて動いて呉れた所で、始めて形式に中味がピツタリ喰付いてゐる事を證明するのだから、經驗の裏書を得ない形式はいくら頭の中で完備してゐると認められても不完全な感じを與へるのであります。

　して見ると、要するに形式は内容の爲の形式であつて、形式の爲に内容が出來るのではないと云ふ譯になる。もう一歩進めて云ひますと、内容が變れば外形と云ふものは自然の勢ひで變つて來なければならぬといふ理窟にもなる。傍觀者の態度に甘んずる學者の局外の觀察から成る規則法則乃至凡ての形式や型のために我々生活の内容が構造されるとなると少しく筋が逆になるので、我々の實際生活が寧ろ彼等學者（時によれば法律家と云つても政治家といつても教育家と云つても構ひません。兎に角學者的態度で觀察一方から形式を整へる方面の人を指すのです）に向つて研究の材料を與へ其結果として一種の形式を彼等が抽象する事が出來るのです。其形式が未來の實施上參考にならんとは限らんけれども本來から云へばどうしても是が原則でなければならない。然るに今此順序主客を逆まにして豫め一種の形式を事實より前に備へて置いて、其形式から我々の生活を割出さうとするならば、ある場合には其處に大變な無理が出なければならない。しかも其無理を遂行しやうとすれば、學校なら騷動が起る、一國では革命が起る。政治にせよ教育にせよ或は會社にせよ、わが朝日社の如き新聞にあつてすらさうである。だから世間でもさう規則づくめにされちや堪らないとよく云ひます。規則や形式が惡いのぢやない。其規則を當嵌められる人間の内面生活は自然に一つの規則を布衍してゐる事は前《ぜん》申し上げた説明で既に明かな事實なのだから、其内面生活と根本義に於て牴觸しない規則を抽象して標榜しなくては長持がしない。徒らに外部から觀察して綺麗に纏め上げた規則をさし突けて是は學者の拵へたものだから間違はないと思つては却つて間違になるのです。

　お前の云ふ通りにすると、大變可笑しい事がある。例へて見れば芝居の型だ。又音樂の型とも云ふべき譜である。又は謠曲のごま節や何かの樣なものである。是等には凡て一定の型があつて、其形式をまづ手本にして却つて形式の内容をかたちづくる聲とか身振とか云ふ方を此型にあて嵌《はま》るやうに拵らへて行くではないか。さうして其聲なり身振なりが自然と安らかに毫も不滿を感ぜずに示された型通り旨く合ふやうに練習の結果として出來るではないか。或は舊派の芝居を見ても、能の仕草を見ても、此所で足を此位前へ出すとか、又手を此位上へ擧げると一々型の通りにして、しかも自分の活力を其所に打込んで少しも困らないではないか。型を手本に與へて置いて其中に精神を打ち込んで働けない法はない。と斯う云ふ人があるかも知れない。けれども斯ういふ場合には此型なり形式なりの盛らるべき實質、即ち音樂で云へば聲、芝居で云へば手足などだが、是等の實質は何時も一樣に働き得る、いはゞ變化のないものと見ての話であります。若し形式の中に盛らるべき内容の性質に變化を來すならば、昔の型が今日の型として行はるべき筈のものではない、昔の譜が今日に通用して行く筈はないのであります。例へて見れば人間の聲が鳥の聲に變化したらどうしたつて今日迄の音樂の譜は通用しない。四肢胸腰の運動だつても人間の體質や構造に今迄とは違つた所が出來て筋肉の働き方が一筋間違つて來たつて、從來の能の型などは崩れなければならないでせう。人間の思想や其思想に伴つて推移する感情も石や土と同じやうに、古今永久變らないものと看做したなら一定不變の型の中に押込めて教育する事も出來るし支配する事も容易でせう。現に封建時代の平民と云ふものが、どの位長い間一種の型の中に窮屈に身を縮めて、辛抱しつゝ、是は自分の天性に合つた型だと認めて居つたか知れません。佛蘭西の革命の時に、バステユと云ふ牢屋を打壞して中から罪人を引出してやつたら、喜こぶと思ひの外、却つて日の眼を見るのを恐れて、依然として暗い中に這入《はい》つてゐたがつたといふ話があります。一寸可笑しな話であるが、日本でも乞食を三日すれば忘れられないと云ひますから或は本當かも知れません。乞食の型とか牢屋の型とか云ふのも妙な言葉ですが、長い年月の間には人間本來の傾向もさういう風に矯める事が出來ないとも限りません。こんな例ばかり見れば既成の型で何處迄も押して行けるといふ結論にもなりませうが、夫なら何故�ｺ川氏が亡びて、維新の革命がどうして起つたか。つまり一つの型を永久に持續する事を中味の方で拒むからなんでせう。成程一時は在來の型で抑へられるかも知れないが、どうしたつて内容に伴れ添はない形式は何時か爆發しなければならぬと見るのが穩當で合理的な見解であると思ふ。

　元來此型そのものが、何の爲に存在の權利を持つてゐるかといふと、前にもお話した通り内容實質を内面の生活上經驗することが出來ないにも拘はらずどうでも纏めて一括りにして置きたいといふ念に外ならんので、會社の決算とか學校の點數と同じ樣に表の上で早呑込をする一種の智識慾、若くは實際上の便宜の爲に外ならんのでありますから、嚴密な意味でいふと、型自身が獨立して自然に存在する譯のものではない。例へば茲に茶碗がある。茶碗の恰好といへば誰にでも分るが、其恰好丈を殘して實質を取り去らうとすれば、到底取り去る事は出來ない。實質を取れば形も無くなつて仕舞ふ。強ひて形を存しやうとすればたゞ想像的な抽象物として頭の中に殘つて居る丈である。丁度家を造る爲に圖面を引くと一般で、八疊、十疊、床の間と云ふやうに仕切はつてゐても圖面はどこまでも圖面で、家としては存在出來ないに極つてゐる。要するに圖面は家の形式なのである。從つていくら形式を拵へてもそれを構成する物質次第では思ひの儘の家は出來かぬるかも知れないのです。況んや活きた人間、變化のある人間と云ふものは、さう一定不變の型で支配される筈がない。政を爲す人とか、教育をする人とかは無論、總て多くの人を統御して行かうと云ふ人も無論、個人が個人と交渉する場合に在つてすら型は必要なものである。會ふ時にお時儀をするとか手を握るとか云ふ型がなければ、社交は成立しない事さへある。けれども相手が物質でない以上は、即ち動くものである以上は、種々の變化を受ける以上は、時と場合に應じて無理のない型を拵へてやらなければ到底此方の要求通りに運ぶ譯のものではない。

　そこで現今日本の社會状態と云ふものは何うかと考へてみると目下非常な勢ひで變化しつゝある。それに伴れて我々の内面生活と云ふものも亦、刻々と非常な勢ひで變りつゝある。瞬時の休息なく運轉しつゝ進んで居る。だから今日の社會状態と、二十年前、三十年前の社會状態とは、大變趣きが違つて居る。違つて居るからして、我々の内面生活も違つてゐる。既に内面生活が違つてゐるとすれば、それを統一する形式と云ふものも、自然ズレて來なければならない。若し其形式をズラさないで、元の儘に据ゑて置いて、さうして何處までも其中に我々のこの變化しつゝある生活の内容を押込めやうとするならば失敗するのは眼に見えてゐる。我々が自分の娘若くは妻に對する關係の上に於て御維新前と今日とはどの位違ふかと云ふことを、貴方方が御認めになつたならば、此邊の消息はすぐ御分りになるでせう。要するに斯くの如き社會を總べる形式と云ふものはどうしても變へなければ社會が動いて行かない。亂れる、纏まらないといふ事に歸着するだらうと思ふ。自分の妻女に對してさへも前《ぜん》申した通りである。否わが家《や》の下女に對しても昔とは趣きが違ふならば、教育者が一般の學生に向ひ、政府が一般の人民に對するのも無論手心がなければならない筈である。内容の變化に注意もなく頓着もなく、一定不變の型を立てゝ、さうして其型は唯だ在來あるからと云ふ意味で、又其型を自分が好いて居るといふだけで、さうして傍觀者たる學者の樣な態度を以て、相手の生活の内容に自分が觸れることなしに推して行つたならば危《あぶ》ない。

　一言にして云へば、明治に適切な型と云ふものは、明治の社會的状况、もう少し進んで言ふならば、明治の社會的状况を形造る貴方方の心理状態、夫にピタリと合ふやうな、無理の最も少ない型でなければならないのです。此頃は個人主義がどうであるとか、自然派の小説がどうであるとか云つて、甚だやかましいけれども、斯う云ふ現象が出て來るのは、皆我々の生活の内容が昔と自然に違つて來たと云ふ證據であつて、在來の型と或る意味で何處かしらで衝突する爲に、昔の型を守らうと云ふ人は、それを押潰さうとするし、生活の内容に依つて自分自身の型を造らうと云ふ人は、それに反抗すると云ふやうな場合が大變ありはしないかと思ふのです。丁度音樂の譜で、聲を譜の中に押込めて、聲自身が如何に自由に發現しても、其の型に背かないで行雲流水と同じく極めて自然に流れると一般に、我々も一種の型を社會に與へて、其の型を社會の人に則らしめて、無理がなく行くものか、或はこゝで大いに考へなければならぬものかと云ふことは、貴方方の問題でもあり、又一般の人の問題でもあるし、最も多く人を教育する人、最も多く人を支配する人の問題でもある。我々は現に社會の一人である以上、親ともなり子ともなり、朋友ともなり、同時に市民であつて、政府からも支配され、教育も受け又或る意味では教育もしなければならない身體である。其邊の事を能く考へて、さうして相手の心理状態と自分とピツタリと合せるやうにして、傍觀者でなく、若い人などの心持にも立入つて、其人に適當であり、又自分にも尤もだと云ふやうな形式を與へて教育をし、又支配して行かなければならぬ時節ではないかと思はれるし、又受身の方から云へば斯の如き新らしい形式で取扱はれなければ一種云ふべからざる苦痛を感ずるだらうと考へるのです。

　中味と形式と云ふ事に就て、何故お話をしたかと云ふと、以上のやうな譯で此問題に就て我々が考ふべき必要があるやうに思つたからであります。それを具體的にどう現はして宜いかと云ふことは、諸君の御判斷であります。下らぬ事を大分《だいぶ》長く述べ立てまして御氣の毒です。大分御疲れでせう。最後迄靜肅に御聽き下すつたのは講演者として深く謝する所であります。

−明治四四、一一、一〇『朝日講演集』−

　

　　　文藝と道�ｺ

　　　　　　−明治四四年八月大阪に於て述−

　

　私は此大阪で講演を遣るのは初めてゞあります。又斯う云ふ大勢の前に立つのも初めてゞあります。實は演説をやる積りではない、寧ろ講義をする氣で來たのですが、講義と云ふものは斯んな多人數を相手にする性質のものでありません。是丈の聽衆全體に通るやうな聲を出さうとすれば――第一出る譯がないけれども、萬一出るにしても十五分位で壇を降りなければ遣り切れないだらうと思ひます。從つて、始めての事でもあるし是程御集りになつた諸君の御厚意に對しても成るべく御滿足の行くやうに、十分面白い講演をして歸りたいのは山々であるけれども、然し餘り大勢お出になつたから――と云つて、決して詰らぬ演説をわざ／＼しやう抔といふ惡意は毛頭無いのですけれども、まあ成るべく短かく切上げる事にして、さうして――まだ後にも面白いのが大分ありますから、其方で埋め合せをして、先づ數でコナすやうなことにしやうと思ふ。實際此の暑いのに斯うお集まりになつて竹の皮へ包んだ壽司《すし》の樣に押し合つてゐては堪りますまい。又講演者の方でも周圍前後左右から出る人の息だけでも――一寸此所へ立つて御覽になればすぐ分りますが――實際容易なものではありません。實は斯う云ふやうに原稿紙へノートが取つてありますから、時々之を見ながら進行すれば順序もよく整ひ遺漏も少なく、大變都合が好いのですけれども、そんな手温《てぬる》い事をしてゐては迚も諸君がおとなしく聽いて居て下さるまいと思ふから、所々――ではない大部分｜端折《はしよ》つて仕舞つてやる積りであります。併し若しおとなしく聽いて下されば十分にやるかも知れない。遣らうと思へば遣れるのです。

　問題は彼處《あすこ》に書いてある通り「文藝と道�ｺ」と云ふのですが、御承知の通り私は小説を書いたり批評を書いたり大體文學の方に從事して居る爲に文藝の方の事をお話する傾きが多うございます。大阪へ來て文藝を談ずると云ふことの可否は知りません。儲ける話でもしたら一番宜からうと思つて居るんですが、「文藝と道�ｺ」では題をお聽きになつた丈でも儲かりません。其内容をお聽きになつては尚儲かりません。けれども別に損をするといふ程の縁喜《えんぎ》の惡い題でもなからうと思ふのです。勿論御聽になる時間ぐらゐは損になりますが、其位な損は不運と諦めて辛抱して聽いて戴きたい。

　昔の道�ｺと今の道�ｺと云ふものゝ區別、それからお話をしたいと思ひますが――どうも落ち付いてやつて居られない樣な氣がして堪らない。其前に一寸此題の説明をしますが、「道�ｺと文藝」とある以上、つまり文藝と道�ｺとの關係に歸着するのだから、道�ｺの關係しない方面、或は部分の文藝と云ふものは此所に論ずる限りでない。從つて文藝の中《うち》でも道�ｺの意味を帶びた倫理的の臭味を脱却する事の出來ない文藝上の述作に就てのお話と云つても宜《よ》し、文藝と交渉のある道�ｺのお話と云つても宜いのです。夫で先づ道�ｺと云ふものに就て昔と今の區別からお話を始めて段々進行する事に致します。

　昔の道�ｺ、是は無論日本での御話ですから昔の道�ｺといへば維新前の道�ｺ、即ち�ｺ川氏時代の道�ｺを指すものでありますが、其昔の道�ｺはどんなものであるかと云ふと、貴方方も御承知の通り、一口に申しますと、完全な一種の理想的の型を拵へて、其型を標準として其型は吾人が努力の結果實現の出來るものとして出立したものであります。だから忠臣でも孝子でも若くは貞女でも、悉く完全な模範を前へ置いて、我々如き至らぬものも意思の如何、努力の如何に依つては、此模範通りの事が出來るんだと云つたやうな教へ方、�ｺ義の立て方であつたのです。尤も一概に完全と云ひましても、意味の取り方で、いろ／＼になりますけれども、此所に云ふのは佛語《ぶつご》などで使ふ純一無雜先づ混《まじ》り氣《け》のない所と見たら差支ないでせう。例へば鑛《あらがね》の樣に種々な異分子を含んだ自然物でなくつて純金と云つたやうに精錬した忠臣なり孝子なりを意味して居ります。斯く完全な模型を標榜して、それに達し得る念力を以て修養の功を積むべく餘儀なくされたのが昔の�ｺ育であります。もう少し細かく申す筈ですが、略して先づ其位にして次に移ります。

　偖斯う云ふ風の倫理觀や�ｺ育がどんな影響を個人に與へどんな結果を社會に生ずるかを考へて見ますと、まづ個人にあつては既に模範が出來上り又その模範が完全といふ資格を具へたものとしてあるのだから、どうしても此模範通りにならなければならん、完全の域に進まなければならんと云ふ内部の刺激やら外部の鞭撻があるから、模倣といふ意味は離れますまいが、其代り生活全體としては、向上の精神に富んだ氣概の強い邁往の勇を鼓舞される樣な一種感激性の活計を營むやうになります。又社會一般から云ふと、既にかういふ風な模範的な間然するところなき忠臣孝子貞女を押し立てゝ、それらの存在を認める位だから、個人に對する一般の倫理上の要求は隨分苛酷なものである。又個人の過失に對しては非常に嚴格な態度をもつて居る。少しの過ちがあつても許さない、すぐ命に關係してくる。さうでせう、昔の人は何ぞと云ふと腹を切つて申譯をしたのは諸君も御承知である。今では容易に腹を切りません。是は腹を切らないで濟むからして切らないので、昔だつて切りたい腹では決してなかつたんでせう。けれども切らせられる。所謂｜詰腹《つめばら》で、社會の制裁が非常に惡辣苛酷なため生きて人に顔が合はされないから無暗に安く命を棄てるのでせう。

　今の人から見れば、完全かも知れないが實際あるかないか分らない理想的人物を描いて、それらの偶像に向つて瞬間の絶間なく努力し感激し、發憤し、又隨喜し渇仰して、さうして社會からは�ｺ義上の弱點に對して微塵の容赦もなく嚴重に取扱はれて、よく人が辛抱して居つたものだといふ疑も起るが、是にはいろ／＼の原因もありませう。第一には今のやうに科學的の觀察が行屆かなかつた。つまり人間はどう教育したつて不完全なものであると云ふ事に氣が付かなかつた。不完全なのは、我々の心掛が至らぬからの横着に起因するのだからして、もう少し修養して黒砂糖を白砂糖に精製するやうな具合に向上しなければならんといふ考で一生懸命に努力したのである。即ち昔の人には批判的精神が乏しかつた。昔から云ひ傳へてゐる孝子とか貞女とか稱するものが、そつくり其儘の姿で再現出來るといふ信念が強くて、批判的に是等の模範を視る精神に乏しかつたと云ふのが重なる原因でありませう。一口に云へば科學と云ふものが餘り開けなかつたからと云つて宜うございます。のみならず其當時は交通が非常に不便でありまして、東京から大阪へ一寸手紙一本で呼出されて來て講演をすると云ふやうなことすら、出來ないとは限りませんが、中々億劫で斯う手輕には行きません。來るにしても駕籠に搖られて五十三次を順々に越すのだから、容易《たやす》くは間に合ひかねます。間に合はないで濟むとすれば、私がどんな人間であるかは、諸君に知れずに濟んで仕舞ふ譯である。知られなければ餘程えらい人だと思つて呉れやしないかと思ふ。斯うやつて演壇に立つて、フロツクコートも着ず、妙な神戸邊の商館の手代が着る樣な背廣などを着てひよこ／＼して居ては安つぽくて不可《いけ》ない。ウンあんな奴かといふ氣が起るに極つてゐる。が駕籠の時代ならさう迄器量を下げずに濟んだかも知れない。交通の不便な昔は、山の中に仙人が居ると思つて居つた位だから、江戸には漱石といつて仙人ではないが、まあ仙人に近い人間が居るさうだ位の評判で持ち切つて下されば私も甚だ滿足の至りであつたらうが、今日汽車電話の世の中では既に仙人其物が消滅したから、仙人に近い人間の價値も自然下落して、商館の手代其儘の風采を殘念ながら諸君の御覽に入れなければならない始末になります。次に、昔は階級制度で社會が括られてゐたのだから、階級が違ふと容易に接觸すら出來なくなる場合も多かつた。今でも天子樣などには無暗には近づけません。私はまだ拜謁をしませんが、昔は一般から見て今の天皇陛下以上に近づき難い階級のものが澤山居つたのです。一國の領主に言葉を交へるのすら平民には大變な異例でせう。土下座とか云つて地面《ぢべた》へ坐つて、ピタリと頭を下げて、肝腎の駕籠が通る時にはどんな顔の人がゐるのか丸で物色する事が出來なかつた。第一駕籠の中には化物がゐるのか人間がゐるのかさへ分らなかつた位のものと聞いてゐます。してみると階級が違へば種類が違ふといふ意味になつて其極はどんな人間が世の中にあらうと不思議を挾む餘地のない位に自他の生活に懸隔のある社會制度であつた。從つて突拍子もない偉い人間即ち模範的な忠臣孝子其他が世の中には現に居るといふ觀念が何處かにあつたに違ない。

　以上の諸原因からして自然模範的の道�ｺを一般に強ひて怪しまなかつたのでありませう。又強ひられて黙つて居もし、或は自から進んで己に強ひもしたのでせう。所が維新以後四十四五年を經過した今日になつて、此道�ｺの推移した經路を振返つて見ると、ちやんと一定の方向があつて、たゞ其方向にのみ遲疑なく流れて來たやうに見えるのは、社會の現象を研究する學者に取つて甚だ興味のある事柄と云はなければなりません。然らば維新後の道�ｺが維新前とどういふ風に違つて來たかと云ふと、かのピタリと理想通りに定つた完全の道�ｺと云ふものを人に強ふる勢力が漸々微弱になる許でなく、昔渇仰した理想其物が何時の間にか偶像視せられて、其代り事實と云ふものを土臺にして夫から道�ｺを造り上げつゝ今日迄進んで來たやうに思はれる。人間は完全なものでない、初めは無論、何時迄行つても不純であると、事實の觀察に本《もとづ》いた主義を標榜したと云つては間違になるが、自然の成行を逆に點檢して四十四年の道�ｺ界を貫いてゐる潮流を一句につゞめて見ると此主義に外ならん樣に思はれるから、つまりは吾々が知らず／＼の間に此主義を實行して今日に至つたと同じ結果になつたのであります。偖自然の事實を其儘に申せば、たとひ如何な忠臣でも孝子でも貞女でも、一方から云へばそれ／”＼相當の美�ｺを具へてゐるのは無論であるが之と同時に一方であ髄分如何はしい缺點を有つてゐる。即ち忠であり孝であり貞であると共に、不忠でもあり不孝でも不貞でもあると云ふ事であります。斯う言葉に現はして云ふと何だか非常に惡くなりますが、如何に至�ｺの人でも何處かしらに惡い所があるやうに、人も解釋し自分でも認めつゝあるのは疑もない事實だらうと思ふのです。現に私が斯うやつて演壇に立つのは全然諸君の爲に立つのである、只諸君の爲に立つのである、と救世軍のやうな事を言つたつて諸君は承知しないでせう。誰の爲に立つて居るかと聞かれたら、社の爲に立つて居る、朝日新聞の廣告の爲に立つて居る、或は夏目漱石を天下に紹介する爲に立つて居ると答へられるでせう。夫で宜しい。決して純粹な生一本《きいつぽん》の動機から此所に立つて大きな聲を出してゐるのではない。此暑さに襟のグタ／＼になる程汗を垂らして迄諸君の爲に有益な話をしなければ今晩眠られないといふ程奇特な心掛は實の所ありません。と云つた所で斯う見えても、滿更好意も人情も無い我儘一方の男でもない。打ち明けた所を申せば今度の講演を私が斷つたつて免職になる程の大事件ではないので、東京に寐てゐて、差支があるとか健康が許さないとか何とか蚊とか言譯の種を拵へさへすれば、夫で濟むのです。けれども諸君の爲を思ひ、又社の爲を思ひ、と云ふと急に僞善めきますが、まあ義理やら好意やらを加味した動機から早速出て來たとすれば矢張幾分か善人の面影もある。有體に白状すれば私は善人でもあり惡人でも――惡人と云ふのは自分ながら少々｜非道《ひど》い樣だが、先づ善惡とも多少｜混《まじ》つた人間なる一種の代物《しろもの》で、砂も附き泥もつき汚《きた》ない中に金と云ふものが有るか無いか位に含まれて居る位の所だらうと思ふ。私が斯ういふ事を平氣で諸君の前で述べて、それで貴方方は笑つて聽いて居る位なのだから、今の人は昔に比べると餘程倫理上の意見に就ても寛大になつてゐる事が分ります。是が制裁の嚴重で模範的行動を他に強ひなければ已まない舊幕時代であつたら、斯んな露骨を無遠慮にいふ私は屹度社長に叱られます。もし社長が大名だつたなら叱られる許でなく切腹を仰付かるかも知れない所ですけれど、明治四十四年の今日は社長だつて黙つて居る。さうして貴方方は笑つて居る。是程世の中は穩かになつて來たのです。倫理觀の程度が低くなつて來たのです。段々住み易い世の中になつて御互に仕合でせう。

　斯く社會が倫理的動物としての吾人に對して人間らしい卑近な�ｺ義を要求して夫で我慢する樣になつて、完全とか至極とか云ふ理想上の要求を漸次に撤回してしまつた結果はどうなるかと云ふと、先づ從前から存在してゐた評價率（道�ｺ上の）が自然の間に違つて來なければならない譯になります。世の中は恐ろしいもので、段々と道�ｺが崩れてくるとそれを評價する眼が違つて來ます。昔はお辭儀の仕方が氣に入らぬと刀の束へ手を懸けた事もありましたらうが、今ではたとひ親密な間柄でも手數のかゝるやうな挨拶は遣らないやうであります。夫で自他共に不愉快を感ぜずに濟む所が私の所謂評價率の變化といふ意味になります。御辭儀抔はほんの一例ですが、凡て倫理的意義を含む個人の行爲が幾分か從前よりは自由になつたため、窮屈の度が取れたため、即ち昔のやうに強ひて行ひ、無理にも爲すといふ瘠我慢も壓迫も微弱になつたため、一言にして云へば�ｺ義上の評價が何時となく推移したため、自分の弱點と認めるやうな事を恐れもなく人に話すのみか、其弱點を行爲の上に露出して我も怪しまず、人も咎めぬと云ふ世の中になつたのであります。私は明治維新の丁度前の年に生れた人間でありますから、今日此聽衆諸君の中《うち》に御見えになる若い方とは違つて、どつちかといふと中途半端の教育を受けた海陸兩棲動物のやうな怪しげなものでありますが、私等のやうな年輩の過去に比べると、今の若い人は餘程自由が利いて居るやうに見えます。又社會が夫丈の自由を許して居るやうに見えます。漢學塾へ二年でも三年でも通《かよ》つた經驗のある我々には豪《えら》くもないのに豪さうな顔をして見たり、性を矯めて瘠我慢を言ひ張つて見たりする癖が能くあつたものです。――今でも大分其氣味があるかも知れませんが。――所が今の若い人は存外淡泊で、昔の樣な感激性の詩趣を倫理的に發揮する事は出來ないかも知れないが、大體吹き拔けの空筒《からづゝ》で何でも隱さない所が宜い。是は自分を取り繕ろひたくないといふ結構な精神の働いてゐる場合もありませうし、又隱さない明けツ放しの内臓を見せても世間で別段鼻を抓んで苦い顔をするものがないからでもありませうが、私の所へ時々若い人などが初めて訪問に來て、後から手紙などに其時の感想を有の儘に書いて送つて呉れる場合などでさへ思ひもよらぬ告白をする事があるから面白いです。と云つて大した弱點を見て呉れと云はん許に書く譯でもないが、兎に角此方から頼みはしないので、先方から勝手に寄こす位の醉興的な閑文字即ち一種の意味に於ける藝術品なのだから、もし我々の若い時分の氣持で書くとすれば、天下の英雄君と我とのみと迄豪がらないにせよ、習俗的に高雅な觀念を會釋なく文字の上に羅列して快よい一種の刺戟を自己の倫理性が受ける樣に詩趣を發揮するのが通例であるが、今例に引かうとする手紙などにはそんな面影は丸でない。先づ門を入《はい》つたら胸騷ぎがしたとか、格子を開ける時にベルが鳴つて益驚いたとか、頼むと案内を乞うて置きながら取次に出て來た下女が不在《るす》だと言つて呉れゝば宜かつたと沓脱《くつぬぎ》の前で感じたとか、夫が御宅ですといふ一言で急に歸りたい心持に變化したとか、所へ此方へ上れと又取次に出て來られて益恐縮したとか、凡てさう云ふ弱い神經作用が些の飾り氣もなく出てゐる。�ｺ義的批判を含んだ言葉で云へば臆病とか度胸がないとか云ふべき弱點を自由に白状してゐる。高が夏目漱石の所へ來るのに斯うビク／＼する必要はあるまいとお思ひかも知れませんが實際あるのです。然し私は是が今の青年だからあるのだと信じます。舊幕時代の文學のどこをどう尋ねてもこんな意味の訪問感想録は決して見當るまいと信じます。此春でしたがある所に音樂會がありました。其時に私の知つた人が演奏臺に立つて歌をうたひました。私は招待を受けて一番前の列の眞中《まんなか》に居て聽いて居ました。所が其歌は下手でした。私は音樂を聞く耳も何も持たない素人ではあるが其人のうたひ振は頗る不味《まづ》い樣に感じました。あとで其人に會つて感じた通り不味いと云ひました。所が其音樂家はあの演奏臺に立つた時、自分の足がブル／＼顫へるのに氣が着いたかと私に聞きます。私は氣が着かなかつたけれども當人自身は足が顫へたと自白する。昔なら縱令《たとひ》足が顫へても顫へないと云ひ張つたでせう。何とか負惜みでも言ひたい位の所へ持つて來て、人の氣が付きもしないのに自分の口から足がガク／＼したと自白する。それだけ今の人が淡泊になつたのぢやないでせうか。又是程淡泊になれる丈世間の批判が寛大になつたのぢやないでせうか。人間に其位な弱點は有勝の事だとテンから認めてゐるのぢやないでせうか。私は昔と今と比べて何方《どつち》が善いとか惡いとかいふ積りではない、只是丈の區別があると申したいのであります。又過去四十何年間の道�ｺの傾向は明かに斯う云ふ方向に流れつゝあるといふ事實を御認めにならん事を希望するのであります。

　古今道�ｺの區別はこれで切上げて置いて話は突然文藝の方へ移ります。尤も文藝の方の話を詳しく云ふ積りではないから、必要な説明丈に留めて、極《ごく》ざつとした所を申しますが、近年文藝の方で浪漫主義及び自然主義即ちロマンチシズムとナチユラリズムと云ふ二つの言葉が廣く行はれて參りました。さうして此二つの言葉は文藝界專有の術語で其他の方面には全く融通の利かないものであるかの如く取扱はれて居ります。所が私は是から此二つの言葉の意味性質を極めて簡略に述べて、さうしてそれを前《ぜん》申上げた昔と今の道�ｺに結び付けて兩方を綜合して御覽に入れやうと思ふのです。つまり浪漫主義も自然主義も文藝家專有の言語ではないと云ふ意味が分れば其結果自然の勢ひで是等が又前説明した二種の道�ｺと關係して來ると云ふのであります。

　此浪漫主義自然主義の文學に就て一寸申上げる前に豫め諸君の御注意を煩はして置きたい事がありますが、前《ぜん》も御斷り申した如く今日のお話は凡て道�ｺと文藝との交渉關係でありますから、二種類の文學のうち（殊に浪漫主義の文學のうち）道�ｺの分子の交つて來ないものは頭から取除《とりの》けて考へて頂きたい。夫からよし道�ｺの分子が交つてゐても倫理的觀念が何等の挑撥を受けない――否受け得べからざる底の文學も亦取り除けて考へて頂きたい。夫等を除いた上で此二種類の文學を見渡して見ると浪漫主義の文學にあつては其中に出てくる人物の行爲心術が我々より偉大であるとか、公明であるとか、或は感激性に富んでゐるとかの點に於て、讀者が倫理的に向上遷善の刺戟を受けるのが其特色になつてゐます。此影響は昔し流行《はや》つた勸善懲惡といふ言葉と關係はありますが、決して同じではない。ずつと高尚の意味で云ふのですから誤解のない樣に願ひます。又自然主義の文學では人間をさう傳説的の英雄の末孫か何かであるやうに勿體をつけて有難さうには書かない。從つて讀者も作者も倫理上の感激には乏しい。ことによると人間の弱點丈を綴り合せた樣に見える作物も出來るのみならず往々其弱點がわざとらしく誇張される傾むきさへあるが、詰りは普通の人間を只有りの儘の姿に描くのであるから、道�ｺに關する方面の行爲も疵瑕交出するといふ事は免かれない。たゞ斯う云ふ淺間しい所のあるのも人間本來の眞相だと自分でも首肯《うなづ》き他《ひと》にも合點《がてん》させるのを特色としてゐる。此二つの文學を詳しく説明すればそれだけで大分時間が經ちますから、まあ誰も知つてゐる位の説明で御免を蒙つて、此二つの文學が前の二傾向の道�ｺを其作物中に反射して居るといふ事にさへ氣がつけば、茲に始めて文藝と道�ｺとが何《いづ》れの點に於て關係があるかと云ふことも明かになつて來やうと思ひます。

　返す／”＼申すやうですが題が既に文藝と道�ｺでありますから、道�ｺの關係しない文藝のことは全然論外に置いて考へないと誤解を招き易いのであります。道�ｺに關係の無い文藝の御話をすれば幾らでもありますが、例へば今私が此處へ立つて六《むづ》かしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をして居る最中に何かの拍子で、卑陋な御話ではあるが、大きな放屁をするとする。さうすると諸君は笑ふだらうか、怒《おこ》るだらうか。其所《そこ》が問題なのである。と云ふと如何にも人を馬鹿にしたやうな申し分であるが、私は諸君が笑ふか怒るかで此事件を二樣に解釋出來ると思ふ。先づ私の考では相手が諸君の如き日本人なら笑ふだらうと思ふ。尤も實際遣つて見なければ分らない話だから何方《どつち》でも構はん樣なものだけれども、どうも諸君なら笑ひさうである。之に反して相手が西洋人だと怒りさうである。どうして斯う云ふ結果の相違を來すかといふと、それは同じ行爲に對する見方が違ふからだと言はなければならない。即ち西洋人が相手の場合には私の卑陋の振舞を一圖に�ｺ義的に解釋して不�ｺ義――何も不�ｺ義と云ふ程の事もないでせうが、兎に角禮を失してゐると見て、其方面から怒るかも知れません。所が日本人だと存外單純に見做して、�ｺ義的の批判を下す前に先づ滑稽を感じて噴き出すだらうと思ふのです。私の鹿爪らしい態度と堂々たる演題とに心を傾けて、ある程度迄嚴肅の氣分を未來に延長しやうといふ豫期のある矢先へ、突然人前では憚るべき異な音を立てられたので其矛盾の刺激に堪へないからです。此笑ふ刹那には倫理上の觀念は毫も頭を擡げる餘地を見出し得ない譯ですから、たとひ道�ｺ的批判を下すべき分子が混入してくる事件に就ても、是を�ｺ義的に解釋しないで、�ｺ義とは丸で關係のない滑稽とのみ見る事も出來るものだと云ふ例證になります。けれども若し倫理的の分子が倫理的に人を刺戟するやうに又それを無關係の他の方面にそらす事が出來ぬやうに作物中に入込んで來たならば、道�ｺと文藝と云ふものは、決して切り離す事の出來ないものであります。兩者は元來別物であつて各獨立したものであると云ふ樣な説も或る意味から云へば眞理ではあるが、近來の日本の文士の如く根柢のある自信も思慮もなしに道�ｺは文藝に不必要であるかの如く主張するのは甚だ世人を迷はせる盲者の盲論と云はなければならない。文藝の目的が�ｺ義心を鼓吹するのを根本義にしてゐない事は論理上然るべき見解ではあるが、�ｺ義的の批判を許すべき事件が經となり緯となりて作物中に織り込まれるならば、又其事件が�ｺ義的平面に於て吾人に善惡邪正の刺戟を與へるならば、どうして兩者を以て没交渉とする事が出來やう。

　道�ｺと文藝の關係は大體に於て斯くの如きものであるが、猶前に擧げた浪漫自然二主義に就て是等がどういう風に道�ｺと交渉してゐるかをもう少し明暸に調べて見る必要があると思ひます。即ち此の二種の文學に就て何處が道�ｺ的で何處が藝術的であるかを分解比較して一々點檢するのであります。かうすれば文藝と道�ｺの關係が一層明暸になるのみならず、又浪漫自然二文學の關係も亦一段と判然《はつきり》するだらうと思ひます。第一、浪漫派の内容から言ふと、前《ぜん》申した通り忠臣が出て來たり、孝子が出て來たり、貞女が出て來たり、其他いろ／＼の人物が出て來て、凡て讀者の�ｺ性を刺激して其刺激に依つて事を爲す、即ち讀者を動かさうと云ふ方法を講じますから、其刺激を與へる點は取りも直さず道義的であると同時に藝術的に違ない。（文學と云ふものが感情性のものであつて、吾人の感情を挑撥喚起するのが其根本義とすれば）斯く浪漫派は内容の上から云つて藝術的であるけれども、其内容の取扱方に至ると或は非藝術的かも知れません。と云ふ意味はどうも其書き方によくない目的があるらしい。斯う云ふ事件を斯う寫して斯う感動させてやらうとか斯う鼓舞してやらうとか、述作其物に興味があるよりも、豫め胸に一物があつて、夫を土臺に人を乘せやうとしたがる。どうも稍ともすると其所に厭味が出て來る。私が今晩斯うやつて演説をするにしても、私の一字一句に私と云ふものが附きまつわつて居つてどうかして笑はせてやらう、どうかして泣かせてやらうと擽つたり辛子を甞めさせるやうな故意の痕跡が見え透いたら定めし御聽き辛いことで、爲に藝術品として見たる私の講演は大いに價値を損ずる如く、如何に内容が良くても、言ひ方、取扱ひ方、書き方が、讀者を釣つてやらうとか、挑撥してやらうとか凡て故意の趣があれば、其｜故意《わざ》とらしい所不自然な所は即ち藝術としての品位に關つて來るのです。斯ういふ缺點を藝術上には厭味といつて非難するのです。之に反して自然主義から云へば道義の念に訴へて藝術上の成功を收めるのが本領でないから、作中には隨分汚ない事も出て來る、鼻持のならない事も書いてある。けれども夫が道心を沈滯せしめて向下墮落の傾向を助長する結果を生ずるならば夫は作家か讀者かどつちかが惡いので、不善挑撥も亦決して此種の文學の主意でない事は論理的に證明出來るのである。從て善惡兩面ともに感激性の素因に乏しいといふ點から見て、其所が藝術的でないと難を打つ事は出來る。其代り其書振りや事件の取扱方に至つては本來が唯有の儘の姿を淡泊に寫すのであるから厭味に陷る事は少ない。厭味とか厭味でないとかいふ事は前にも藝術上の批判であると御斷りして置きましたが、是が同時に�ｺ義上の批判にもなるからして自然主義の文藝は内容の如何に拘はらず矢張り道�ｺと密接な縁を引いて居るのであります。と云ふのはたゞ有の儘を衒はないで眞率に書くといふのが厭味のない描寫としての好所であるのであるが、その有の儘を衒はないで眞率に書く所を藝術的に見ないで道義的に批判したら矢張り正直と云ふ言葉を同じ事象に對して用ひられるのだからして、藝術と道�ｺも非常に接續してゐる事が分りませう。のみならず藝術的に厭味がなく道�ｺ的に正直であると云ふ事が此際同じ物を指してゐるばかりではなく理知の方面から見れば眞と云ふ資格に相當するのだから、つまりは一つの物を人間の三大活力から分察したと異なる所はないのであります。三位一體と申しても可いでせう。

　斯う分解して見ると、一見道義的で貫ぬいてゐる浪漫派の作物に存外不�ｺ義の分子が發見されたり、又一寸考へると�ｺ義の方面に何等の注意を拂はない自然派の流を汲んだものに妙に倫理上の佳所があつたり、さうして其道義的であるや否やが一に其藝術的であるや否やで決せられるのだから、二者の關係は一層明暸になつて來た譯であります。又浪漫、自然と名づけられる二種の文藝上の作物中にこの道�ｺの分子が如何に織り込まれるかも大抵説明し得た積であります。

　猶余論として以上二種の文藝の特性に就て一寸比較して見ますと、浪漫派は人の氣を引立てるやうな感激性の分子に富んでゐるには違ないが、どうも現世現在を飛び離れてゐるの憾みを免かれない。妄りに理想界の出來事を點綴したやうな傾があるかも知れない。よし其理想が實現出來るにしても之を未來に待たなければならない譯であるから、書いてある事自身は道義心の飽滿悦樂を買ふに十分であるとするも、其の實己には切實の感を與へ惡《にく》いものである。之れに反して自然主義の文藝には、如何に倫理上の弱點が書いてあつても、其弱點は即ち作者讀者共通の弱點である場合が多いので、必竟ずるに自分を離れたものでないといふ意味から、汚い事でも何でも切實に感ずるのは吾人の親しく經驗する所であります。今一つ注意すべきことは、普通一般の人間は平生何も事の無い時に、大抵浪漫派でありながら、いざとなると十人が十人迄皆自然主義に變ずると云ふ事實であります。と云ふ意味は傍觀者である間は、他に對する道義上の要求が隨分と高いものなので、一寸した紛紜でも過失でも局外から評する場合には大變｜苛《から》い。即ち己《おれ》が彼の地位にゐたらこんな失體は演じまいと云ふ己を高く見積る浪漫的な考がどこかに潜んで居るのであります。偖て自分が其局に當つてやつて見ると、却つて自分の見縊《みくび》つた先任者よりも烈しい過失を犯しかねないのだから、其時其場合に臨むと本來の弱點だらけの自己が遠慮なく露出されて、自然主義で何處迄も押して行かなければ遣り切れないのであります。だから私は實行者は自然派で批評家は浪漫派だと申したい位に考へてゐます。次に御話したいのは先年來自然主義をある一部の人が唱へ出して以後世間一般ではひどく之を嫌つて果は自然主義といへば墮落とか猥褻とかいふものゝ代名詞の樣になつて仕舞ひました。然し何もさう恐れたり嫌つたりする必要は毫もないので、其結果の健全な方も少しは見なければなりません。元來自分と同じやうな弱點が作物の中に書いてあつて、己と同じやうな人物が其所に現はれて居るとすれば、其弱點を有する人間に對する同情の念は自然起るべき筈であります。又自分も何時斯う云ふ過失を犯さぬとも限らぬと云ふ寂寞の感も同時に之に伴ふでせう。己惚の面を剥ぎ取つて眞直な腰を低くするのは寧ろさう云ふ文學の影響と言はなければなりません。若し自然派の作物でありながら斯ういふ健全な目的を達する事が出來なければ、夫こそ作物自身が惡いのであると云はなければならない。惡いといふ意味は作物が出來損つて居るのです、何處か缺點があると云ふのです。前《ぜん》説明した言葉を用ひて評すれば、さう云ふ作物には何處か不道�ｺの分子がある、即ち何處か非藝術の所がある、即ち何處か僞りを書いてゐるのだといふ事に歸着するのです。有の儘の本當を有の儘に書く正直といふ美�ｺがあれば夫が自然と藝術的になり、其藝術的の筆が又自然善い感化を人に與へるのは前段の分解的記述によつてもう御會得になつた事と思ひます。自然主義に道義の分子があるといふ事はあまり人の口にしない所ですから態々長々と辨じました。尤もたゞ新らしい私の考だから御吹聽をすると云ふ次第ではありません。御承知の通り演題が「文藝と道�ｺ」といふのですから特に此點に注意を拂ふ必要があつたのです。

　是で浪漫主義の文學と自然主義の文學とが等しく道�ｺに關係があつて、さうして此二種の文學が、冒頭に述べた明治以前の道�ｺと明治以後の道�ｺとをちやんと反射して居る事が明暸になりましたから、我々は此二つの舶來語を文學から切り離して、直に道�ｺの形容詞として用ひ、浪漫的道�ｺ及び自然主義的道�ｺといふ言葉を使つて差支ないでせう。

　そこで私は明治以前の道�ｺをロマンチツクの道�ｺと呼び明治以後の道�ｺをナチユラリスチツクの道�ｺと名づけますが、偖吾々が眼前に此二大區別を控へて向後我邦の道�ｺはどんな傾向を帶びて發展するだらうかの問題に移るならば私は下の如く敢て云ひたい。「ロマンチツクの道�ｺは大體に於て過ぎ去つたものである」貴方方《あなたがた》が何故かと詰問なさるならば人間の智識がそれだけ進んだからと唯一言答へる丈である。人間の智識がそれだけ進んだ。進んだに違ない。元は眞《まこと》しやかに見えたものが、今はどう考へても眞とは見えない。嘘としか思はれないからである。從つて實在の權威を失つて仕舞ふからである。單に實在の權威を失ふのみならず、實行の權利すら失つて仕舞ふのである。人間の智識が發達すれば昔のやうにロマンチツクな道�ｺを人に強ひても、人は誰も躬行するものではない。出來ない相談だといふ事がよく分つて來るからである。是丈でもロマンチツクの道�ｺは既に廢れたと云はなければならない。其上今日のやうに世の中が複雜になつて、教育を受ける者が皆第一に自治の手段を目的とするならば、天下國家は餘り遠過ぎて直接に我々の眸には映りにくゝなる。豆腐屋が豆を潰したり、呉服屋が尺を度つたりする意味で我々も職業に從事する。上下擧つて奔走に衣食するやうになれば經世利民仁義慈悲の念は次第に自家活計の工夫と兩立しがたくなる。よし其局に當る人があつても單に職業として義務心から公共の爲に畫策遂行するに過ぎなくなる。加之日露戰爭も無事に濟んで日本も當分は先づ安泰の地位に置かれるやうな結果として、天下國家を憂としないでも、其暇に自分の嗜欲を滿足する計をめぐらしても差支ない時代になつてゐる。夫や是やの影響から吾々は日に月に個人主義の立場からして世の中を見渡す樣になつてゐる。從つて吾々の道�ｺも自然個人を本位として組み立てられるやうになつてゐる。即ち自我からして道�ｺ律を割り出さうと試みるやうになつてゐる。是が現代日本の大勢だとすればロマンチツクの道�ｺ換言すれば我が利益の凡てを犠牲に供して他の爲に行動せねば不�ｺ義であると主張する樣なアルトルイスチツク一方の見解は何うしても空疎になつて來なければならない。昔の道�ｺ即ち忠とか孝とか貞とか云ふ字を吟味して見ると、當時の社會制度にあつて絶對の權利を有して居つた片方にのみ非常に都合の好いやうな義務の負擔に過ぎないのであります。親の勢が非常に強いとどうしても孝を強ひられる。強ひられるとは常人として無理をせずに自己本來の情愛丈では堪へられない過重の分量を要求されるといふ意味であります。獨り孝ばかりではない、忠でも貞でも亦同樣の觀があります。何しろ人間一生のうちで數へるほどしかない僅少の場合に道義の情火がパツと燃燒した刹那を捉へて、其熱烈純厚の氣象を前後に長く引き延ばして、二六時中凡てあの如くせよと命ずるのは事實上有り得べからざる事を無理に注文するのだから、冷靜な科學的觀察が進んで其僞りに氣が付くと同時に、權威ある道�ｺ律として存在出來なくなるのは已むを得ない上に、社會組織が段々變化して餘儀なく個人主義が發展の歩武を進めてくるならば猶更打撃を蒙るのは明かであります。

　斯ういふと何だか現在に甘んずる成行《なりゆき》主義のやうに御取りになるかも知れないが、さう誤解されては遺憾なので、私は近時の或人の樣に理想は要らないとか理想は役に立たないとか主張する考は毛頭ないのです。私はどんな社會でも理想なしに生存する社會は想像し得られないと迄信じてゐるのです。現に我々は毎日或る理想、其理想は低くもあり小くもありませう、が兎に角或る理想を頭の中に描き出して、さうしてそれを明日實現しやうと努力しつゝ又實現しつゝ生きて行くのだと評しても差支ないのです。人間の歴史は今日の不滿足を次日物足りる樣に改造し次日の不平を又其翌日柔らげて、今日迄つゞいて來たのだから、一方から云へば正しく是れ理想發現の經路に過ぎんのであります。苟も理想を排斥しては自己の生活を否定するのと同樣の矛盾に陷りますから、私は決してさう云ふ方面の論者として諸君に誤解されたくない。唯私の御注意申し上げたいのは輓近科學上の發見と、科學の進歩に伴つて起る周密公平の觀察の爲に道�ｺ界に於る吾々の理想が昔に比べると低くなつた、或は狹くなつたと云ふだけに過ぎない。だから昔の樣な理想の持ち方立て方も結構であるかも知れぬが、又我々も昔の樣なロマンチシストでありたいが、周圍の社會組織と内部の科學的精神にも亦相當の權利を持たせなければ順應調節の生活が出來にくゝなるので、自然ナチユラリスチツクの傾向を帶びるべく餘儀なくされるのである。けれども自然主義の道�ｺと云ふものは、人間の自由を重んじ過ぎて好きな眞似をさせるといふ虞がある。本來が自己本位であるから、個人の行動が放縱不羈になればなる程、個人としては自由の悦樂を味ひ得る滿足があると共に、社會の一人としてはいつも不安の眼を?つて他を眺めなければならなくなる、或る時は恐ろしくなる。其結果一部的の反動としては、浪漫的の道�ｺが是から起らなければならないのであります。現に今小さい波動として、夫が起りつゝあるかも知れません。けれども要するに小波瀾の曲折を描く一部分に過ぎないので大體の傾向から云へばどうしても自然主義の道�ｺがまだ／＼展開して行くやうに思はれます。以上を總括して今後の日本人にはどう云ふ資格が最も望ましいかと判じて見ると、實現の出來る程度の理想を懷いて、こゝに未來の隣人同胞との調和を求め、又從來の弱點を寛容する同情心を持して現在の個人に對する接觸面の融合劑とするやうな心掛――是が大切だらうと思はれるのです。

　今日の有樣では道�ｺと文藝と云ふものは、大變離れてゐるやうに考へてゐる人が多數で、道�ｺを論ずるものは文藝を談ずるを屑しとせず、又文藝に從事するものは道�ｺ以外の別天地に起臥してゐるやうに獨り極めで悟つてゐる如く見受けますが、蓋し兩方とも嘘である。其嘘である理由は今迄やつて來た分解で御合點が行つた筈であります。尤も社會と云ふものは何時でも一元では滿足しない。物は極まれば通ずとかいふ諺の通り、浪漫主義の道�ｺが行き詰れば自然主義の道�ｺが段々頭を擡げ、又自然主義の道�ｺの弊が顕著になつて人心が漸く厭氣に襲はれると又浪漫主義の道�ｺが反動として起るのは當然の理であります。歴史は過去を繰返すと云ふのは此所の事に外ならんのですが、嚴密な意味でいふと、學理的に考へても又實際に徴して見ても、一遍過ぎ去つたものは決して繰返されないのです。繰返されるやうに見えるのは素人だからである。だから今若し小波瀾として此自然主義の道�ｺに反抗して起るものがあるならば、それは浪漫派に違ひないが、維新前の浪漫派が再び勃興する事は到底困難である、又駄目である。同じ浪漫派にしても我々現在生活の陷缺を補ふ新らしい意義を帶びた一種の浪漫的道�ｺでなければなりません。

　道�ｺに於ける向後の大勢及び局部の波瀾として目前に起るべき小反動は要するに斯くの如き性質のものであつて、道�ｺと文藝との密接なる關係も亦上説の如しとすれば、是からわが社會の要する文藝といふものも亦同じ方向に同じ意味に於て發展しなければならないのも、亦多言を要せずして明かな話であります。若し活社會の要する道�ｺに反對した文藝が存在するならば……存在するならばではない、そんなものは死文藝としてより外に存在は出來ないものである、枯れて仕舞はなければならないのである。人工的に幾ら聲を嗄らして天下に呼號しても殆んど無益かと考へます。社會が文藝を生むか、又は文藝に生まれるか何方かはしばらく措いて、苟も社會の道�ｺと切つても切れない縁で結び付けられてゐる以上、倫理面に活動する底の文藝は決して吾人内心の欲する道�ｺと乖離して榮える譯がない。

　我々人間として此世に存在する以上どう藻掻いても道�ｺを離れて倫理界の外に超然と生息する譯には行かない。道�ｺを離れる事が出來なければ、一見道�ｺとは没交渉に見える浪漫主義や自然主義の解釋も一考して見る價値がある。此二つの言葉は文學者の專有物ではなくつて、貴方方と切り離し得べからざる道�ｺの形容詞としてすぐ應用が出來ると云ふのが私の意見で、何故さう應用が出來るかといふ譯と、かく應用された言葉の表現する道�ｺが日本の過去現在に興味ある陰影を投げてゐるといふ事と、夫から其陰影がどういふ具合に未來に放射されるであらうかといふ豫想と――まづ是等が私の演題の主眼な點なのであります。

　　　　　　−明治四四、一一、一〇『朝日講演集』−

　

　　　文展と藝術

　

一

　

　藝術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。

　唯斯ういつた丈では人に通じ惡《にく》いかも知れない。よし通じた所で誤解されるかも知れない。自分は近頃述作に從事するごとに、自分の懷に往來して已まぬ此信條の意味を、機會があつたら理論的に布衍して、自分と同じ傾向を有つてゐる文藝家に相談して見たいと思つてゐた。

　文展公開の當日場に入るや否や自分の頭に閃めいた第一の色彩も亦金文字で飾られた此一句に過ぎなかつた。其時自分は卒然として、丁度好い折だから、平生の考に、推論の練と磨きとを加へて、理知の首肯《うなづ》く程度迄エラボレーシヨンの歩を進めて見やうかと思つた。然し此一句の後《うしろ》には餘りに多くの背景が潜んでゐることをも發見した。此一二行の中に孕まれてゐる可成《かなり》複雜な内容を、明かな秩序と段落の援の下に、水の流れて滯らざる滑らかさで結び終《おほ》せるのは一寸手間が掛る。それのみか餘程の紙面が必要になつてくる。――自分は斯うも考へ直して見た。それで折角の好機會ではあるが、自分の信條に明白な理路を與へる努力丈は又の日に繰り延す事にした。

　けれども唯「藝術は自己の表現に始つて自己の表現に終るものである」と云つた丈では、黙つてゐた時よりも、好んで誤解を買ふといふ點に於て、自ら罪を釀したと同然の出過ぎ口になる。自分が文展に關聯して云ひ出した此一句に、簡易なしかも尤もと認められ得べき意義を付けることは、自分の文展に對する責任かもしれない。

　自分の冒頭に述べた信條を、外の言葉で云ひ易へると、藝術の最初最終の大目的は他人とは没交渉であるといふ意味である。親子兄弟は無論の事、廣い社會や世間とも獨立した、全く個人的のめい／＼丈の作用と努力に外ならんと云ふのである。他人を目的にして書いたり塗つたりするのではなくつて、書いたり塗つたりしたいわが氣分が、表現の行爲で滿足を得るのである。其所に藝術が存在してゐると主張するのである。從つて、純粹の意味からいふと、わが作物の他人に及ぼす影響については、道義的にあれ、美的にあれ、藝術家は顧慮し得ない筈なのである。夫を顧慮する時、彼等はたとひ一面に於て藝術家以外の資格を得るにせよ、藝術家としては既に不純の地位に墮在して仕舞つたと自覺しなければならないのである。

　悲しいかな實相を自白すると、我々は常に述作の上に於て、幾分か左右前後を顧みつゝ、墮落的に仕事をしてゐる場合が多い。そのうちで我々を至醇の境界から誘《おび》き出さうとする最も權威ある魔は他人の評價である。此魔に犯されたとき我々は忽ち己れを失却してしまふ。さうして恰も偶像禮拜者の如き陋劣な態度と心情を以て、見苦しき媚を他に賣らうとする。さうして常に不安の眼を輝かし空疎な腹を抱いて悶え苦しまなければならない。其所が問題なのである。

　自己を表現する苦しみは自己を鞭撻する苦しみである。乘り切るのも斃れるのも悉く自力のもたらす結果である。困憊して斃れるか、半産の不滿を感ずる外には、出來榮について最後の權威が自己にあるといふ信念に支配されて、自然の許す限りの勢力が活動する。夫が藝術家の強味である。即ち存在である。けれども人の氣に入るやうな表現を敢てしなければならないと顧慮する刹那に、此力強い自己の存在は急に幻滅して、果敢ない、虚弱な、影の薄い、稀薄のものが纔かに呼息《いき》をする丈になる。此時の不安と苦痛は前のそれ等とは違つて、全く生甲斐のない苦痛である。自己の存否が全く他力によつて決せられるならば、自己は生きてゐると云ふ標札丈を懸けて、實の命を既に他人の掌中に渡したと同然だからである。

　だから徹頭徹尾自己と終始し得ない藝術は自己に取つて空虚な藝術である。

　

　　　　　二

　

　此見地から云ふと、新聞雜誌に己れの作物を公けにしたり、展覽會にわが製品を陳列したり、凡て形迹の上から、憐れむべき虚弱な自己を、社會本位の立場に投げかけて單に其鼻息をうかゞつてゐる藝術家は、本來の己れとは無關係であるべき筈の、毀譽なり利害なりを目的に努力する點に於て、或はしか努力するのではあるまいかと疑ひ得る隙間を有つてゐる點に於て、既に墮落した藝術家である。不幸にして單純な藝術界にのみ呼吸する自由を奪はれた我々は、ある程度迄悉く墮落しつゝ述作に從事するのである。我々ばかりではない。古來から斯道の名流大家と云はれる人も亦十が十迄此臭氣を帶びて筆を取りチゼルを使つたのである。

　是は人間として免かれにくい缺陷かも知れない。けれども唯斯う眞相を曝露した丈では藝術の一面を説明すると同時に、他の半面を誤解させる恐がある。自分は行掛り上、もう少し明白に此缺陷の意味を述べなければならない。我々の述作中しばしば經驗する不純の分子は、他の褒貶にせよ、己れの利害にせよ、述作の興味と併行して同時に腦髓を刺戟するものではない。多くの場合に於て、述作の後か、若くは一區切片付いた後で來ることに極つてゐる。どれ程虚榮心や利害心の強い藝術家でも、筆を執つて原稿紙に向つてゐる間、若くは畫架に面してパレツトを持つ間は、比較的純潔な懷を抱いて、無我無慾に當面の仕事を運んで行くのである。此自己に忠實な氣分と、全精神を傾けて自己を表現し盡さなければ已まないといふ眞面目な努力と勇氣とさうして決心が普通の藝術家にも具つた�ｺなのである。さうして本當の藝術家になればなる程此�ｺが濃く強く自己の内生活を彩どるのである。だから藝術家たるべき資格は、自ら進んで徹底的に己れを表現しやうとする壯快な苦しみに存するので、吐くものを吐き出して仕舞つて始めて出來上つた作物の善惡で極るのではないのである。何故かと聞かれゝば、全精神を打ち込んで仕事を遣れば遣る程痛快だからと答へる外に仕方がない。強く深く生きた自覺が起るからと説明しても同じ事である。が、煎ずれば必竟自己特有の精神状態で、他の評價を待つて始めて達し得られるやうな餘所々々しい反應作用ではないのである。余の謠の先生は、自ら公言する如く大分臆病な人らしいが、舞臺でならどんな地震でも怖《こは》くはありませんと甞て余に告げた事がある。此人は又舞臺にある間はたとひ見物が笑はうが騷がうが些とも邪魔にならない、あそこへ出たが最後觀客などはてんで頭に這入てくる隙がありませんからと余に話した。

　是が藝術氣質の當體である。不幸にして神聖に生れなかつた我々は朝から晩迄此當體を把持してゐる譯に行かない。それで勇猛精進の熱が退《さ》めて、述作に結末が付くや否や、待ち兼ねてゐた名譽心やら利害心やら、自分で自分の腕を疑ふ不安やら、他人の評判を聞いて此不安に氣休めの落付を與へたいと願ふ淺ましい空頼みやらが、入り替り立ち替り胸のうちを攪き亂すのである。けれども要するに夫は一段落付いた後から來る複雜な波動に過ぎない。此等の波動を認めて、藝術を産する本來の刺戟と思ふのは本末を?倒した門外漢の觀察だと斷言しても間違はない積である。其證據には、丸で人に見せる料簡もなく、又褒められる目的もないのに、單純な藝術的感興に驅られて述作を試みなくては居られなくなる場合が、我々の生涯中に?起つて來るではないか。

　文展の審査とか及落とかいふ言葉に重大な意味を持たせるのは必竟此本末を?倒した癇違ひから起るのである。世間は知らない領分の事だから已を得ないとしても、藝術家自身が同じ癇違ひをして騷ぐなら、神聖な神輿《みこし》をことさらに山から擔ぎ下ろして、泥を塗りに町の中を引き摺るやうなものである。不見識は云はずとも知れ切つてゐる。極端な場合には其理知の程度さへ疑ひたくなる。

　

　　　　　三

　

　文展が今日の樣に世間から騷がれ出したのは、當局者の勢力に因るのか、それとも審査員の威望に基づくのか、又は新聞紙の提灯持に歸着するのか、自分はまだ篤と其邊を研究してゐないので何とも云ひかねるが、兎に角斯う八釜しい機關にして仕舞はれる以上は、藝術家も自家本來の立場を新たに考へ直して、文展に對する態度をしかと極める必要があるだらうと思ふ。單に藝術家のみではない、一般の社會も亦廣い藝術と狹い文展の關係を、大體の上で呑み込んで置かないと、善意に藝術を誤まり、かねて自己を誤まる譯になる丈である。現に今度文展に落第したため、妻君から離縁を請求された畫家があるといふ話を此間聞かされた。嘘かも知れない。嘘にせよ、これ程に藝術を侮辱した嘘を孕ませた文展は、既に法外な暴威を挾《さし》はさんで、間接ながら畫家彫刻家を威壓してゐると見ても宜からう。實際近頃の樣に文展の及落が彼等間の大問題になる以上は、ゆく／＼は御上の御眼鏡に叶つて仕合せよく入選した作品でなければ畫として社會から取扱はれなくなる。それを描き上げた作家でなければ又畫家として世間に立つことが出來ない樣になるだらう。藝術家をして本末を?倒して、天の命ずる儘に第一義の活動を忠實に盡さしめる代りに、ひたすら審査員の評價や俗衆の氣受を目安に置きたがる影の薄い飢えた作品を陳列せしむる樣になつては、藝術のため由々しき大事である。自分は作家と社會公衆に向つて此際藝術の根本義を協定したいと思ふのみならず、かねて當局者と審査員に向つて、斯道に於る自力他力二宗の影響を鄭重に商量せんことを希望するのである。

　藝術は自己の表現に始まつて自己の表現に終る。――是は自分の當初に道破した主張で、かねて眞正なる凡ての藝術家の第一義とする所でなければならないと思ふ。努力の終結後に來る其他のものは、述作の白熱が放散すると共に起る不純なる副産物と見れば差支ない。是も前に云つた通りであるが、此等の濁つた副産物のうちで、比較的清淨なのは、具眼者の品評を念頭に掛けたがる顧慮の心的状態である。既に顧慮の状態と云へば、自づから信念の缺乏を意味するのだから其點に於て、一種の果敢なさを暗示してゐるかも知れない。實際我々は事實の此半面を拈定する毎に、必ず自己の弱い影を憐れみたくなるのである。

　此弱い影は、我々が述作に魂を打ち込んで、強烈無雙に充實した活動を、遠慮會釋もなく生き終せた反動として、俄然として其｜後《しりへ》から我々を襲ふのである。さうして先の強者を嘲ける如き口氣を以て、自己を弱者と告白しろと逼るのである。程度に差こそあれ、此心状の推移は、寒暑の往來の如く必ず我々の經過すべき順序のやうになつてゐる。藝術本來の面目から云へば、殆んど齒するに堪えない此不安の状態が、運命の使者の如く、必ずわが眼前に幽靈の如く現はれるとすれば、此状態に確《しか》とした區切りを付けて呉れる具眼者の批判は、第二義に於て藝術家に必要であるかも知れない。文展の審査員は政府といふ要らざる後楯を脊負ふ點に於て不都合ではあるが、此始末をして呉れる道具として、一般の藝術家（ことに青年藝術家）に取つて有益にならないとは限らない。自分は此第二義に於て審査に賛成しても好い。然し其前に、何うして、自己に始つて自己に終るべき筈の藝術に、他人の批評が必要になつてくるかを心理的に今少し立ち入つて吟味して見たい。言葉を換えて云へば、何故藝術家に此意味の墮落が付け纏ふかを、心状の推移を迹づけながら説明しやうと云ふのである。

　

　　　　　四

　

　邵青門といふ人が、自分の室《へや》に閉ぢ籠つて構想に耽るときの有樣を敍して、「兩頼赤を發し、喉間洛々聲あるに至る」と云つてゐる。大いに苦しい樣だとも云つてゐる。然し都合よく何物をか捕《つら》まへたときには、大喜びで、「衣を牽き床《ゆか》を遶つて狂呼す」とも云つてゐる。自分は小供の時分から此所の文章を讀んで嘘とは思はなかつた。

　この興奮した状態が取も直さず製作熱の高潮に達した光景である。此光景を遺漏なく活演する藝術家の前に、家も國家も存在する筈がない。是非も得失も付着する譯がない。毀譽といふのも褒貶といふのも悉く知らぬ國の言葉に過ぎない。佛來れば佛を殺し、祖來れば祖を殺すといふのは正に此時の氣慨である。一言にして評すれば、製作熱に驅られた藝術家は、當面の所作以外に何物をも認めぬといふ意味で、殆んど絶對の境に入つたものである。

　其絶對郷が破壞されると共に、彼は普通の里に歸つて來なければならない。さうして酒から醒めた人の眼と、夢から飛び起きた人の驚きと、熱の退《ひ》いた人のけろりとした顔付を以て、つい今先きの自分を不思議さうに眺めなければならない。不思議さうに眺めなければならない程、同じであるべき筈の自分が、後先で別人の樣に違ふのである。藝術熟の去つた後の藝術家は、隣りの甲、筋向ふの乙と擇む所のない普通の人に成り下つて仕舞ふのである。しばらく第一の境界を絶對とすれば第二の状態は平凡を極めた相對である。彼等は平凡なる心状に墮落して後、始めて自分對社會の關係を意識するのである。さうして彼等の人格に相應な手段を盡して、單なる利害問題から、自己の藝術的製作に、世間的價値を付けやうと試みるのである。一般の藝術家に共通なる此俗慾に媚びる意味から見ても、文展の審査は已を得ないかも知れない。

　けれども是は當初から自分の問題ではなかつたのである。自分はもう少し世間離れのした上品な意味で、何故藝術熟の去つた後の彼等に、具眼者の批判が必要であるかを物語る積であつたのである。此義務を果す爲には、彼等の熱に襲はれた時と、其熱の冷めかゝつた時とを、前の樣に一般的にばかり比較しないで、特に彼等自身の製作に關聯して、其差違を發見するのが一番解り易いだらうと思ふ。

　白熱度に製作活動の熾烈な時には、自分は即ち作物で、作物は即ち自分である。從つて二つのものは全くの同體に過ぎない。然し其活動が終結を告げると共に、作物は作物、自分は自分とはつきり分れて來る。外の言葉で云ひ現はすと、此時自分は始めて一歩作物から遠退《とほの》くのである。始めて作物に對して客觀的態度が取れるやうになるのである。要するに始めて一歩でも他人らしくなれるのである。既に他人として、幾分でもわが製作に對する批判が起る以上は、しかも其批判がわが製作の存在上必要である以上は、自己對製作なる彼我の關係を、（己れの信ずる）具眼者對製作の關係に擴大するのは已を得ざる自然の順序である。

　其上彼等は時日を經れば經る程、己れの製作に對して他人らしく振舞ひ得るといふ事實を承認するものである。己れの製作に對して他人らしく振舞はれるといふのは、時日の間隔と共に、わが製作の上に加ふるわが批判が、漸次贔屓の私を離れて公平に傾くの謂に外ならない。從つて今日の自己は昨日の私を恥ぢ、昨日の自己は又一昨日の私を恥づるといふ論理から、いつその事、全くの他人にわが製作を處分する全權を委任して、當初から安心しやうとするのである。丁度醫を業とするものが、親子兄弟の病に、自ら脈を取るの危險を回避するのと一般の心理である。余は此意味に於て、墮落とは知りながら、具眼者の批判に信頼する藝術家の心事を諒とする。さうして具眼者として期待されつゝある文展の審査員諸氏に向つて、たとひ一人たりとも助かるべき筈の藝術的生命を、自己の粗忽と放漫と没鑑識とによつて殺さざらん事を切望して已まぬのである。

　

　　　　　五

　

　自分の言説には、兎角個人主義の立場から物を觀る傾向が多い。是は自由を愛する自分の天性から來るのでもあらうが、一つには又理論の承認を得た主義として、暗に己れの立脚地を此所に定めてゐるからでもあらう。自分は何時か此問題をもつと深く考へてさうしてもつと明らかに語りたいと思つてゐる。さうして自分が如何に權威の局所集中を忌むかをも明らかに語りたい。同時に衆を頼んで事を仕ようとばかり掛る所謂モツブなるものゝ勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ輕蔑に値すべきかをも最も明らかに語りたい。然しそれは藝術以外にも亙り得る大きな問題である。此所では取扱ふ餘地がない。自分が單に個人たる藝術家の心理を説明して、社會の方から見た藝術家や、批評家及び鑑賞家の方から觀察した藝術家に論じ及ばないのを、片寄つた態度と思ひ違へる人があるかも知れないから一寸斷つて置くのである。

　自分は今斷つてゐる通り、既に孕まれたる製作を、勢《せい》一杯に産み出す底の個人として藝術家を研究したのである。さうして此個人としての藝術家に具眼者の批評が必要である事を許したのである。從つて行掛り上彼のために、「如何なるか是具眼者」の意味を解釋して讀者に通じなければならない。

　自己から見て、具眼の批評家といふのは、自己の製作が遺憾なく鑑賞出來る人より外にあるべき筈がない。それをもつと露骨な言葉で現はすと、自己が取も直さず自己の製作に對する最良最善の批評家であると云ふに過ぎない。たゞ自己は自己に對して不公平に篤く同情し過ぎる掛念があるから、厭々ながら評價の權利を他人に託するのである。だから、此他人は自己と最も密切に嗜好上の氣脈が通じてゐなくてはならない。從つて、もし同派同流の名の下に、類を以て集まり得る樣な、通俗な人間の一員として、藝術家が存在するならば、其藝術家は、毫も評家に不自由を感じない譯である。然しそれを裏から見ると、自分は何流並何派並の凡庸な藝術家だから、自分を鑑賞したり批評したりして呉れる具眼者に困らないと誇るやうなもので、誇るのはやがて卑しむ所以になる。余は初めから個人としての藝術を論じてゐるのである。さうして藝術は自己の表現に始つて自己の表現に終ると云ふのである。取も直さず、「特色ある己れ」を忠實に發揮する藝術に就てのみ余は思索を費やして來たのである。團體が瓦解して個人丈が存在し、流派が破壞されて個性丈が輝やく時期に即して、藝術を云々するのが余の目的である。それでなければ、我々の美的經驗は、同じ印象を永劫に繰り返す丈で、變化のないものを餘り多く詰め込むために、始終｜嘔氣《はきけ》に煩はされながら、腹の中は常に飢渇を訴へなければならない。

　斯う觀察して來ると、必然の結果として、所謂具眼者といふ意味も自然明瞭に讀者の頭に浮んで來はせまいかと思ふ。余の持論に從へば、今の世は個人主義の世である。少くとも個人主義に傾きつゝ發展するのが文明の大勢である。さう云ふ社會に生れて、友達を作るのに自分と氣質の同じやうな者ばかりといふ標準では、交際の出來る筈がない如く、個性を發揮すべき藝術を批評するのに、自分の圏内に跼蹐して、同臭同氣のものばかり撰擇するといふ精神では審査などの出來る道理がない。具眼者ならば、己れに似寄つたものゝ代りに、己れに遠きもの、己れに反したもの、少なくとも己れ以外の天地を開拓してゐるものに意を注いで、貧弱なる自己の趣味性に刺戟を與へ、爛熟せる自己の藝術觀を啓發すべきである。約言すれば、同類相求むるの舊態を棄つると共に、異類相援くるの新胸懷を開いて批判の席に坐るのが、刻下の時勢に順應した具眼者に外ならないのである。

　余は述作に從事する人間ではあるが、時間が許さないので、遺憾ながら平生は寄贈の雜誌に載る小説類を悉く通讀する暇がない。けれども年に三四度は、義務としても屹度それらを頭から仕舞迄讀み通す。さうして讀み通す毎に、いまだ存在を認められない無名の作家から、思はぬ利益を受けた事を感謝しなかつた試《ためし》がない。他人は自分より夫程面白い方面の經驗と觀察を有つてゐるのである。畫も彫刻も見樣では同じだらうと思ふ。

　文展六回の審査に及第した作品が、千遍一律の杓子定規で場内に陳列の榮を得たものとは、たゞ瞥見した丈でも、考へられないが、あすこに出てゐる以外に、どんな個性を發揮した作品があつたかは不幸にしてまだ解決されない問題である。余は審査員諸君の眼識に信を置くと共に、落第の名譽を得たる藝術家諸氏が、文展の向ふを張つて、サロン、デ、ルフユーゼを一日も早く公開せん事を希望するのである。同時に個人の團體から成るヒユーザン會の如き健氣な會が、文展と併行して續々崛起せん事を希望するのである。

　「文展と藝術」といふ標題の下に、余の述ぶべき事は略述べ盡した。然し是では餘り理窟張り過ぎるから、自分が門外漢として文展を觀た時の感想を、實際の繪畫に就て、一回か二回書かうと思ふ。云はゞ餘興とか景物とかいふ位のものである。

　

　　　　　六

　

　我々の趣味のうちで最も平等に又最も圓滿に、殆んど誰彼の區別なく發達してゐるものは、恐らく異性に對する美醜の判斷だらう。

　自分は此間一人で斯う考へて一寸可笑しくなつた。が、滑稽じみた其時の感じは決してわが觀察の眞實を弱めるには足りなかつた。と、いふのは、繪なり彫刻なり音樂なり、所謂藝術と名けらるゝものゝ鑑賞力には、個人々々で隨分な差等があり、又相應な眼を有ち耳を有つ人でも、ある場合には、巧《うま》いのか拙《まづ》いのか、殆んど頭を纏めてかゝる印象にすら困るのに、問題が婦人の容貌になると、誰でも好き嫌が直下《ぢきげ》に極つて仕舞ふからである。此點になると我々は實に天品の鑑賞家で、一切時一切所にふつりと斷じて少しも迷はない。我々は未だ甞て朋友の一人から、あの女の顔に惚れやうか惚れまいか、何うしたものだらう、といふ相談を受けた例《ためし》がない。それのみか、如何に傍《はた》のものが非難を加へても、一度好きだと思ひ込んだら決して動かない。實に羨ましい信念を有つてゐる。だから異性の美醜に對する批判にかけては、昔から素人黒人の區別を設ける必要もなく、各々《めい／＼》自己特有の標準でずばり／＼と好き嫌を定める丈で、人も怪しまず、自分も疑はずに今日迄來たのである。

　此位直覺の鋭どく働らく女の眼鼻ですら、差向ひの時滿更とも思はないものを、大勢の中に放して、居竝んだ一人として、改めて眺めて見ると、氣の毒な程引き立たなくなる。澤山の綺麗な美人が、人の注意を惹くために、裝《よそほひ》を凝らして秋波を送ると同じ傾のある展覽會を、自分の樣な鈍感なものが、群集に紛れて素通りに通り拔けた所で、鮮かに纏つた印象が殘らう筈がない。それを心得顔に何とか云つたら、後から拵えた嘘になる。嘘にならない程度で感じた通りを書けば、頗る貧しいものが出來上る。自分は繪や彫刻を評する前に、自分が是等の藝術に對して、女の顔を鑑賞する程の明らかな直覺を有つてゐないのを深く恥づるのである。

　實際其日は非常の混雜であつた。自分も自分の友人も長くは一つ製作の前に佇ずむ事を許されなかつた。自分等は人の波に揉まれながら部屋から部屋へと移つて行つた。凡ての感想は此せわしない動搖の中《うち》に、閃めいたり消えたりして、雜沓の間を縫ひ廻つたのである。

　會場を這入つてすぐ右にある廣い室《へや》を覗くと、大きな畫ばかり竝んでゐた。其｜中《うち》に「南海の竹」と題した金屏風があつた。南海か東海かは固より自分の關係する所ではないが、其｜惡毒《あくど》い彩色は少なからず自分の神經を刺戟した。竹といひ筍といひ、筍の皮といひ、悉く一種の田臭を放つて、觀る者を惱ませてゐるやうに思はれた。自分は此間表慶館で、猫兒と雀をあしらつた雅邦の竹を見た。此むらだらけに御白粉を濃く塗つた田舍女の顔に比較すべき竹の前に立つた時、自分は思はず好い對照としてすつきりと氣品高く出來上つた雅邦のそれを思ひ出した。此竹の向側には琉球の王樣がゐた。其侍女は數からいふと五六人もあつたらうが、何れも御さんどんであつた。其横には春の山と春の水が、非常に大きく寫されてゐた。自分は其大きさに感心した。

　次の室には綺麗な牡丹があつた。御公卿樣が大勢ゐた。三國誌の插畫にあるやうな男も二人ばかりゐた。それから白樂天と鳥巣和尚が問答をしてゐた。

　其次の室の入口に近い所で「平遠」といふのに出會つた。芭蕉があつて、鶴がゐて、丸窓の中に赤い着物を着た人がゐた。さうして遠くの方の樹や土手や水が、如何にもあつさりと遠くに見えた。自分は是が欲しいと思つた。目録を調べると、田近竹邨といふ人の描いたもので、價は五百圓と斷つてあつた。夫で買ふのは已めた。此隣りに「火牛」が居た。名前は火牛だけれども、實は水牛である。もし水牛でなければ河馬である。實に恐るべく驚ろくべき動物である。そのあるものは鼻を逆さまにして變な表情を逞しうしてゐた。向ふ側には烏と鷺が松の木に留つてゐた。尤も鷺のあるものは飛んでゐた。然し兩方とも生活に疲れてゐた。さうして羽根の色が好くなかつた。曲り角には大きな眞黒な松が生へてゐた。此松には風も滅多に觸《さは》る事が出來ない。蝉抔はとても／＼寄り付けた譯のものではない。

　

　　　　　七

　

　第五室に入《はい》つたら、山水の景色が横に長く續いてゐる途中から拳骨の樣な白いものが斜《はす》に突き出してゐた。友人があれは雲でせうかと聞いた。自分はもし夫が雲でないとしたら何だらうと考へて見たが、遂に想像も及ばなかつた。其隣りに栗鼠が葡萄の幹を渡つてゐた。此栗鼠の眼は甚だ複雜である。下りやうとして居るでもなく、留まらうとして居るでもなく、左うかと云つて、何を考へてゐるでもないが、決して唯の眼ではない。自分は此眼の表情を一口で云ひ終せた人に二等賞を捧げたい。次には木の股に鳥が澤山ゐた。感心な事にいづれも鳥らしい樣子をしてゐた。次には象がゐて、見付《みつけ》があつて、富士山があつた。山王祭《さんのうまつり》の繪ださうである。それから屏風に稻の穗が一面に描いてあつた。此稻の穗の數を知つてゐるものは天下に一人もあるまいと思つた。

　六室は面白かつた。先づ第一に天孫の降臨があつた。天孫丈あつて大變幅を取つてゐた。出來得べくんば、淺草の花屋敷か谷中の團子坂へ降臨させたいと思つた。筋向ふにも昔の男が四五人立つてゐた。この方が餘程人間に近かつた。「甲《よろ》ふたる馬」といふのは、とても乘れる馬ではないから引つ張つてゐるのだらうが、引つ張つてゐる所を見る丈で好いのである。此馬は紙を切つて張り付けたと同じ恰好で、三角形の趣を具へた上へ、思ひ切つた色彩を施した、奇拔なものである。乘れなくても飾つて置けば宜しい。馬の主は素明君であつた。素明君の通りを横丁へ出ると、大きな松に蔦が絡んで、熊笹の澤山茂つた、美くしい感じのする所が平田松堂君の地面であつた。自分は友人と第七室に入つた。

　忽ち大きな桐の葉を白い雨が凄まじく叩いてゐる大膽な光景を見た。其陰に雀がぎう／＼一列に竝んで雨を避けてゐる。但し飛んでゐるのもある。然し飛んでゐるのは雀ぢやなからう、大方雀の紋だらうと云ふ人もあつた。自分は明治の書生廣江霞舟君が桃山式の向ふを張つて描き上げたやうな此「白い雨」を愉快に眺めた。其隣にある「鵜船」も亦頗る振つたものである。船が平氣な顔をして上下一列に竝んでゐる。煉瓦を積んだやうな波が其問を埋めてゐる。塀の中に船を詰め込んで、横から眺めたら此位雅に見えるかも知れない。

　次の室の一番初めには二枚折の屏風があつた。其屏風はべた一面枝だらけで、枝は又べた一面鳥だらけであつた。夫が面白かつた。そこを少し行くと美くしい女が澤山ゐた。其女はみんな�ｺ川時代の女らしかつた。さうして池田蕉園といふ明治の女によつて描かれた事を申し合せた樣に滿足してゐるらしく見えた。其前には天女が飛田周山君のために彼女一代の歴史を横に長く開展してゐる。彼女の歴史は花やかと云はんよりは寧ろ寂びてゐた。彼女の左右前後にある草や木や水は鮮やかに且つ澁く染められてゐた。さうして至極眞面目に裏表なく榮へたり枯れたりした。此天女の一軒置いて隣りには、尾竹國觀先生がしやもを蹴合はせてゐた。先生は新聞に堂々と署名して、文展の繪を頭ごなしに誰彼の容赦なく攻撃する人である。自分は先生の男らしい此態度に感服するものである。だから先生のしやもに對しても出來得る限りの敬意を表したい考でゐる。

　第九室に入つて不可思議なものを見た。何でも水の上に船が浮いてゐて、空から雪のやうなものが、ポツ／＼落ちて來る所ぢやないかと思ふ。題には「豐兆」とあつた。題も謎になつてゐるのだらう。今村紫紅君の「近江八景」も此所に竝んでゐた。是は大正の近江八景として後世に傳はるかどうかは疑問であるが、兎に角是迄の近江八景ではない樣である。だから人が珍らしがるのだらう。が、それは彼《あゝ》でもない此《かう》でもないが嵩じて後の事と思はなければならない。狩野にも四條にも乃至美術院派にも煩はされない、全く初心《うぶ》の鑑賞家を伴れて來て、昔の八景と此八景と何方が好いと聞いたら、其男は存外昔の方を擇むかも知れない。自分は今村君の苦心と努力を尊敬するから特に斯ういふ要らざる皮肉を云ふのである。色彩の點になると甚だ新らしい樣ではあるが何だか自分の性に合はない。

　

　　　　　八

　

　木島櫻谷氏は去年澤山の鹿を竝ぺて二等賞を取つた人である。あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しでも氣持の惡くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な點に於ては決してあの鹿に劣るまいと思ふ。屏風に月と竹と夫から狐だか何だか動物が一匹ゐる。其月は寒いでせうと云つてゐる。竹は夜でせうと云つてゐる。所が動物はいへ晝間ですと答へてゐる。兎に角屏風にするよりも寫眞屋の背景にした方が適當な繪である。

　次の室で感じの好い枇杷だの百日紅だのを見た後、とう／＼審査員連の顔を竝べてゐる第十二室に出た。すると其所に茄子の葉を丁寧に几帳面に且つのべたらに描いた屏風があつた。自分は其前に立つて、是は何の趣意だらうと考へた。尤も茄子其物は?《もぎ》つて漬物にしても恥かしくないやうな好い色をしてゐたには違ない。今尾景年君の鯉も其近所に躍つてゐた。鯉は食ふのも見るのも餘り好かない自分である。ことに此躍り方に至つては甚だ好かないのである。それで山本春擧君は鯉の代りに鮎の泳いでゐる所を描いて呉れた。成程鮎は正しく泳いでゐる。其上岩も水も大袈裟に惜氣なく描かれてゐる。けれども斯う大きく描く興味は何處から出て來たのだらう。商店で頼まれた廣告繪ぢやないでせうかと友人は自分に語つた。

　廣業大觀二氏は兩方とも瀟湘八景を見せてゐた。二人が隣り合せに同じ八景を竝べてゐるのは、八景好《はつけよ》いやといふ洒落の樣にも見える、が實際兩方を觀て行くと、丸で比較にも何にもならない無關係の畫であつた。廣業君のは細い筆で念入りに眞面目に描いてあつた。ことに洞庭の名月といふのには、細かい鱗の樣な波を根限《こんかぎ》り竝べ盡して仕舞つた。此子供の樣な大人のする丹念さが、君の繪に一種重厚の氣を添へてゐる。自分は先刻《さつき》茄子の葉を見て、多少御苦勞の樣な感じを起した。然し此波に對したときは、善く倦まずに是丈の結果を畫面に與へられたものだと敬服した。實際此波は馬鹿氣て器械的に描かれてゐながら、眼界を非常に大きくする效果を有つてゐる。夫だから子供のやうに働らきのない仕事でありながら、遂に貴重な努力になり終せるのである。尤もそれが色彩と相待つて始めて達し得られた結果である事は云ふ迄もない。

　自分は廣業君の波を賞めた。けれども斯ういふ意味を帶びた仕事は、支那人が既に遣つてゐやしないかといふ疑がある。そこへ行くと廣業君の畫は大觀君に比べて個性がそれ程著るしく出てゐないやうに思はれる。歴史的に畫を研究した事のない自分ではあるが、大觀君の八景を見ると、此八景はどうしても明治の畫家横山大觀に特有な八景であるといふ感じが出て來る。しかもそれが強ひて特色を出さうと力めた痕迹なしに、君の藝術的生活の進化發展する一節として、自然に生れたやうに見える。此間表裝展覽會の時に觀た君の畫は、皆新らしかつた。けれども何か新らしいものを描かなければ申し譯がないと力味拔いた結果、やけに暗中に飛躍して、性情から湧いて出る感興もないのに筆を下したと思はれるものが多かつた。此八景はあんなものから見ると活きてゐる。横山大觀君になつてゐる。それを説明すると暇が要るが、一言でいふと、君の繪には氣の利いた樣な間の拔けた樣な趣があつて、大變に巧みな手際を見せると同時に、變に無粹《ぶいき》な無頓着な所も具へてゐる。君の繪に見る脱俗の氣は高士禅僧のそれと違つて、もつと平民的に呑氣なものである。八景のうちにある雁は丸で揚羽の鶴の樣に無恰好ではないか。さうして夫が平氣でいくつでも蚊のやうに飛んでゐるではないか。さうして雲だか陸だか分らない上の方に無雜作に竝んでゐるではないか。仰向いて夫を見てゐるものが、又如何にも屈託がなささうではないか。同時に雨に濡れた修竹の樣や霧の晴れかゝつた山驛の景色抔は、如何にも巧みな筆を使つて手際を見せてゐるではないか。――好嫌は別として、自分は大觀君の畫に就て是丈の事が云ひたいのである。舟に乘つて月を觀てゐる男が、厭に反《そつ》くり返つて、我こそ月を觀てゐると云はぬ許りの妙な感じを自分に與へた事も序だから君に告げて置きたい。

　

　　　　　九

　

　日分は安田靭彦君の「夢殿」といふ人物畫を觀て何といふ感じも興らなかつた。自分の友人は其前に立つて面白くないと云ふ言葉を繰り返してゐた。あとで聞くと是は大分評判の高い作ださうである。聖�ｺ太子とかの表情の、飽く迄も莊重に落付いてゐるうちに、何處か微笑の影を含んだ萌《きざし》の見える所が大變能く出來上つてゐるのださうである。それは自分の情緒に觸れない説明であるから、たとひ肯がつた所で、「夢殿」に對する愛執の度を増減する譯に行かないが、序だから、自分がかねて日本古來の佛像だの佛畫だのに就いて觀察した新らしいと思ふ點を參考に述べたい。

　彫像でも畫像でも宗教がかつた意味を帶びた日本支那の作品に、古來から好男子のゐないのは爭ふべからざる事案の樣に思はれる。中にも寒山拾得だの五百羅漢だの其他色々六づかしい名の付いた仙人になると、男振は甚しく振はない。我々は因習の結果其所に一種の仙氣があると認めてゐるらしいが、能く考へると、苟くも崇高とか超脱とかいふ出世間的の偉力を有した精神上の�ｺが、殆んど畸形と評しても然るべき下品な容貌によつて代表され樣とは決して受取れないのである。眼付なり顔だちなりが陋《いや》しくなればなる程、外部に現はれた人格も亦其陋しい眼鼻だちに正比例した下劣な調子を反映しなければならないのが常識に適つた見解で、又哲理に戻らない斷定である。して見ると、我々が平生博物館や寶物展覽會で目撃するあの異形の怪物は、彼等が骨董的な相貌を有すれば有するだけ、彼等の偉大なる精神を表現せんとする畫家なり彫刻家に取つて不便を與へる事になる。そこに氣が付くべき筈の藝術家が、何を苦んで此不利益な地位に陷《おとし》いれられながら、依然として平凡を奇怪の方面に超越した變な頭や口ばかり作つてゐたか。是は相當の思索を費やして解決して然るべき問題である。たゞ習慣といつた丈では自分の腑に落ちない。

　自分の考によると、希臘の神の像は、其名前の神であるに拘はらず、實は悉く人間の像なのである。もつと適切にいふと、希臘人は神を彼等同等の人間に引き下した所を像にしたのではなからうかと思ふのである。だから彼等の遺した神像はみな立派である。立派といふのは人間として立派なのである。容貌といひ體格といひ、悉く人間として有し得らるゝ最高度の立派さを示現してゐるもの許である。從つて我々は其前に立つて、神の代表者たる最も完全な人間を見るのである。若くは最も完全な人間を通じて神を見るのである。所が日本の佛像は全く反封の遣口に出てゐる。神を具體化するために、神を人間の程度迄引き下げた希臘人に反して、我々は人間以上の佛を、人間の眼鼻を借りて存在させやうと力めたのである。だから眼といひ鼻といひ、大きいの小いのと云つた所で、實はほんの借物に過ぎない。方便として眼鼻を使ひこそすれ、目的は夫等の奧にある無形の或物である。既に眼や鼻や口が取次所であつて、代表者でない以上は、容貌其ものが、人間らしい色氣なり慾氣なり、或は勇氣なり思慮なりを、人間の程度で現はしてゐては、佛を人間らしくするには都合が好いかも知れないが、人間を佛らしくするためには却つて邪魔になる丈である。其不純な感じを頭から拔き去る必要から、彼等は人間離れのした不可思議な容貌を骨董の如くわざと具へてゐるのではなからうか。

　では此奇怪な容貌を通じて佛の魂が何うして輝き得るか。それが藝術家の靈腕といふのだらう。自分はかつて寫眞版の古佛像を見た事がある。其像にあらはれた顔は今でも電車のうちで見る事の出來る普通な顔である。けれども何等他奇なき其眼鼻立の奧から、如何に人間を超越した氣高い光が射したかは、忘れやうとしても忘れられない記憶の一つである。此平凡な顔は實に無限の常寂と、絶對の平和と、無量の沈着と莊嚴とを以て自分に臨んだのである。

　此無名の藝術家は決して一時の出來心からこんな像を刻んで見やうとしたのではなからうと思ふ。安田君も徒らな料簡で「夢殿」などといふ六づかしい畫題を擇んだのではあるまい。けれども既に人間として夫程嘆賞に價しない彼等の佛教的容貌の裏面に、形而上の佛教的な或物が何處にも陽炎《かげろ》つてゐないとすれば、君の畫は失敗ぢやなからうか。

　

　　　　　十

　

　藝術を離れて單に坊間の需用といふ社會的關係から見ると、今の西洋畫家は日本畫家に比べて遙かに不利益の地位に立つてゐる。彼等の多數は隣り合せの文士と同じく、安らかに其日／＼を送る糧すらも社會から供給されてゐない。彼等の製作の大部分は貨幣と交換され得べき市場に姿を現はす機會に會ふ的《あて》もなく、永久に畫室の塵の中に葬むられ去るのである。畫室！　彼等の或ものは恐らく自己の生命を葬るべき畫室すら有つてゐないだらう。彼等は食ふ爲でなく、實に餓える爲、渇する爲に畫布に向ふ樣なものである。

　是程窮迫の境遇に居りながら、猶かつ執念深くパレツトを握つてゐるものは餘程勇猛な藝術家でなければならない。自分は此意味に於て深く今日の西洋畫家を尊敬するのである。さうして是等薄倖の畫家によつて開拓されつゝある我邦の畫界が、年々其努力によつて面目を新たにするのを見るたびに嘆賞の聲を惜まないのである。斯ういふ進境の一源因は、無論文壇の大勢と同じく、活きた西洋の潮流が、斷えざる新らしい刺戟を、彼等の血脈に注ぎ込んでゐるからではあるが、奮つて衣食問題以上にも躍り出さうとする彼等の藝術的熱心も亦大いなる原動力となつて暗々裏に働いてゐるに違ない。悲しいかな、此方面で多少名を知られた所謂大家なるものの多數が、新進の人と歩調を揃へて一樣に精進してゐない。自分は公言する如く斯道に於て全くの門外漢である。だから技巧などは能く解らない。夫でゐて斯んな失禮を云ふのは善くないとも思ふ。けれども亦感じた通りを述べるのも惡くはないとも考へる。

　自分はかつて故青木氏の遺作展覽會を見に行つた事がある。其時自分は場の中央に立つて一種變な心持になつた。さうして其心持は自分を取り圍む氏の畫面から自《おのづ》と出る靈妙なる空氣の所爲だと知つた。自分は氏の描いた海底の女と男の下に佇んだ。自分は其繪を欲しいとも何とも思はなかつた。けれども夫を仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥づかしくないといふ自覺があつた。斯んなものを仰ぎ見ては、自分の人格に關はるといふ氣はちつとも起らなかつた。自分は其後所謂大家の手になつたもので、これと同じ程度の品位を有つべき筈の畫題に三四度出會つた。けれども自分は決してそれを仰ぎ見る氣にならなかつた。青木氏は是等の大家よりも技倆の點に於ては劣つてゐるかも知れない。或人は自分に、彼はまだ畫を仕上げる力がないとさへ告げた。それですら彼の製作は纏まつた一種の氣分を漲らして自分を襲つたのである。して見ると手腕以外にも畫に就て云ふべき事は澤山あるのだらうと思ふ。たゞ鈍感な自分にして果してそれを道《い》ひ得るかが問題な丈である。

　先づ一番に和田君の描いた石黒男欝の肖像に就て所感を述べたい。決して惡口を云ふ積でなく、たゞ感じた通りを自白すると、男爵の顔は色の惡い唐茄子に似てゐる。尤も男爵の顔を横から見れば多少唐茄子らしい所があるのかも知れないから、是は畫家の罪と許は云へない。然し男爵の顔が粉を吹いてゐるに至つては、益唐茄子らしくなるとならないとに論なく、和田君の責任である。然らざれば光線の責任であるが、何うも左うではないらしい。和田君はH夫人といふのをもう一枚描いてゐる。是も男爵同樣甚だ不快な色をしてゐる。尤も窓掛や何かに遮ぎられた暗い室内の事だから光線が心持よく通はないのかも知れない、が光線が暗いのでなくつて、H夫人の顔が生れ付暗い樣に塗つてあるから氣の毒である。其上此夫人はいやだけれども義理に肖像を描《か》ゝしてゐる風がある。でなければ和田君の方で、いやだけれども義理に肖像を描いてやつた趣がある。自分は何方か知らないが、隣りにマンドリンを持つて寐てゐる山下君の女を見た時、猶々さういふ感じを強くしたのである。山下君の女は愉快にさうして自然に寐てゐる。眼をねむつてゐる癖に?溂と動いてゐる。生き生きとした活力を顔にも手にも身體にも蓄はへた儘、靜かに横はつてゐる。自分は彼女の耳の傍へ口を付けて、彼女の名をさゝやいて見たい。然し眼を開いて此方を向いてゐるH夫人には却つて挨拶する勇氣が出ない。

　

　　　　　十一

　

　「マンドリーヌ」とは反對の側から自分の興味を誘なつた畫が四つ程ある。偶然にも其内の二つは隣り合せに掛けられてゐた。さうして二つとも線を用ひた裝飾畫であつた。細長いパネルめいたのは白羊君の「川のふち」で、是は寒い色をしてゐた。稍四角な方は未醒君の「豆の秋」で、是は暖たかく出來てゐた。

　花やかな活躍を意味する「マンドリーヌ」を去つて、「川のふち」と「豆の秋」の前へ來たとき自分は、音樂會の歸りに山寺の門を潜つたやうな心持を味つた。「マンドリーヌ」の刺戟性なのに反して彼等の畫は夫程靜だつたのである。けれども其靜さは歡樂の後に來る反動の淋味《さびしみ》を以て自分に訴へたのではない。彼等は其根調に於て、父母未生以前から既に一種の落付を具へてゐたのである。さうして新らしい問題が此落付の二字から生れるのである。活躍と常寂――生の兩面を語る此言葉が藝術に即して如何なる意義を我々にもたらすか。是が問題である。

　活動には奧行がない。あらゆる力が悉く外部に向つて走るならば、我々はたゞ其力の現はれた迹丈を見れば好い。さうして唯間口の強烈な所に心を奪はれて居れば、萬事は其刹那に解決されるのである。人間全體が皮膚に發現し切つた以上、裏面を覗く必要はないからである。だから活動本位の畫面は陽氣で快活である。けれども陰性の畫になると、始めから何等の活動を示してゐない。從つて我々は畫の間口丈見て安心する事が出來ない。此靜かな落付いた生の裏面に、何物か潜んでゐるに違ないと思ふ。次に其潜んでゐるものは赤いものか黒いものか、何だか物色して見たくなる。其所で畫に已を得ず奧行が出來て來る。勿論奧行といふのは筆の先で拵らえる意味の濃淡ではなくつて、全く精神作用から來る深さに過ぎないから、斯ういふのは考へさせる畫とも、象徴的の畫とも、或は宗教義を有つた畫とも云ひ得るのだらう。

　「川のふち」はたゞの田舍女が立ちながら、髪を梳つてゐる傍に、臼があつたり、後《うしろ》に川があつたり、其川の中に鳥が浮いてゐたりする丈である。自分の友人は此畫の前に立つて頻りに氣に入つたと云つてゐた。自分は何だか象徴的な所があるが夫にしては物足りないと答へた。友人は、そんなものではなからう、私には此裡の趣が好く解るがと答へた。自分にも趣は解つた積である。けれども單に趣丈描いたものとしては、描き方が矢張り足りない樣に思はれた。自分は二三度此畫を振り返つて見た。さうして仕舞迄、物足りた樣な物足りなさを感じた。

　「豆の秋」は畫として調つた點から云ふと、「川のふち」よりも上に位するのだらう。四角な畫面が四角にきちんと纏つてゐるうちに、とても此中には纏められさうもない木の幹がぬつと立つてゐたり、同じく大き過ぎるやうな人間が落付拂つて坐つてゐたりする。「豆の秋」は實に大膽に沈着に纏つた畫である。だから其｜重味《おもみ》は寧ろ構圖の方から來てゐるらしい。從つて畫の内面に意味があるとすれば、その意味が却つて畫家の手腕で作り上げられてゐる樣な氣がする。リーチ氏はアド?タイザーに投書して、此畫をシヤ?ンヌの影響を受けて墮落したものだと云つてゐる。シヤ?ンヌの影響は未醒君も否定し得ないかも知れない。けれども是は本來君の性情にある畫風なのである。「木蓮」と云ひ「水郷」といひ、今度の「豆の秋」といひ、いづれにも畫家の感情が籠つてゐる。未醒といふ人が本來の要求に應じて、自己に最も通當な方法で、自己を最も切實に且つ有意義に表現した結果と見るより外に見やうがないのである。自分は「豆の秋」の色彩をとくに心持よく眺めた。

　同じ意味から同じ人の描いた「海藻」といふのが自分を引き付けた。是は坊主頭の船頭と其｜足下《あしもと》にある海藻が、たゞ簡單に寫し出されてゐる丈のスケツチに過ぎないが、自分の所謂奧行を此船頭が何處かに背負つて立つてゐる樣に感ぜられた。自分は不圖此畫を見た時、虚子の書いた漁夫《れふし》の事を思ひ出した。其漁夫は足下に藻屑の散らばつてゐる砂濱に坐つて、たゞ海の方を眺めてゐるのである。いつ見ても、じつと遠くの海の方を眺めてゐるのである。何か意味がなくてはならないのである。さうして其意味は誰にも解らないのである。

　

　　　　　十二

　

　同じ奧行を有つた畫の一として自分は最後に坂本繁次郎氏の「うすれ日」を擧げたい。「うすれ日」は小幅である。牛が一疋立つてゐる丈である。自分は元來牛の油畫を好まない。其上此牛は自分の嫌な黒と白の斑《ぶち》である。其傍には松の枯木か何か見すぼらしいものが一本立つてゐる丈である。地面には色の惡い青草が、しかも漸《やつ》との思で、少しばかり生えてゐる丈である。其他は砂地である。此荒涼たる背景に對して、自分は何の詩興をも催さない事を斷言する。それでも此畫には奧行があるのである。さうして其奧行は凡て此一疋の牛の、寂寞として野原の中に立つてゐる態度から出るのである。牛は沈んでゐる。もつと鋭どく云へば、何か考へてゐる。「うすれ日」の前に佇んで、少時《しばらく》此變な牛を眺めてゐると、自分もいつか此動物に釣り込まれる。さうして考へたくなる。若し考へないで永く此畫の前に立つてゐるものがあつたら、夫は牛の氣分に感じないものである。電氣のかゝらない人間のやうなものである。

　斯ういふ意味で多少自分に電氣をかけた彫刻はたゞ一つしかなかつた。それは朝倉文夫君の「若き日の影」である。さうして其「若き日の影」といふ題を説明するものは一人の若い男であつた。彼は兩肱を後にして立ちながら何かに靠れてゐた。自然の勢として彼の胸は前方に浮かざるを得なかつた。けれども彼の顔は寧ろ俯向いてゐた。彼は逞ましい骨格の所有者ではなかつた。彼の頬が若く柔らかい線で包まれてゐる如く、彼の胸隔の何處にも亦傑張の態がなかつた。要するに彼は強い男ではなかつた。さうして強い人を羨やんでもゐなかつた。唯生れた通りの自己を諦らめの眼で觀じてゐた。自分は彼の姿勢と彼の顔付の奧にある彼の心を見た時、その淋しき瞑想をも見た。さうして朋友としては彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかつた。

　自分の所謂奧行に關する辯と例とは是で略盡きた。繪畫彫刻を通じて、此系統に屬する作は他にないやうである。が、強ひて其匂のするものを求めるならば、黒田清輝氏の「習作」である。それには横向の女の胸以上が描いてあつた。女は好い色の着物をたつた一枚肩から外して、裝飾用の如く纏つてゐた。其顔と着物と背景の調子がぴたりと喰付いて有機的に分化した樣な自然の落付を自分は味はつたのである。さうして若し日本の女を品位のある畫らしいものに仕上げ得たものがあるとするなら、此習作は其一つに違ないと思つたのである。けれども夫以上自分は此繪に對して感ずる事は出來なかつた。自分の友は女の首から肩のあたりを見て、しきりに堅い／＼と云つてゐた。

　友人は南薫造君の「六月の日」の前に來て何うですと聞いた。自分は畠の眞中に立つて�ｺ利から水を飲んでゐる男が、法螺貝を吹いてゐるやうだと答へた。それから其男が南君のために雇はれて、今畠の眞中に出て來た所だといふ氣がすると答へた。自分は此間雜誌「白樺」で南君の書いた田舍の盆踊りの光景を讀んで大變面白いと思つたが、此畫にはあの文章程の旨味《うまみ》がないと答へた。

　「ヒル」といふ人の描いた七面鳥の前に來た時、友人はすぐ、何うしても西洋人だと云つて感心した。自分は後から感心した。其癖此七面鳥は首から肩の邊迄しか描いてないやうに見えた位小さかつたのである。しかも其隣りには不折君の巨人がゐたのである。自分は不折君に、此巨人は巨人ぢやない、たゞの男だと告げたい。きたならしい唯の男だと告げたい。この日本の巨人より、柏亭君の外國の子供の方がまだ偉大であると告げたい。

　以上の外に自分はまだ色々の畫を見た。さうして友人と色々の事を語つた。最後に休憩所へ入つた時、自分は茶を飲みながら、この恐るべき群集は、皆繪畫や彫刻に興味があるのだらうかといふ質問を掛けた。友人はさあと云つて逡巡してゐたが、やがて、第一さう云ふ我々は解る方なんでせうか、解らない方なんでせうかと聞き返した。自分は苦笑して黙つた。審査の結果によると、自分の口を極めて罵つた日本畫が二等賞を得てゐる。自分の大いに賞めた西洋畫も亦二等賞を取つてゐる。して見ると、自分は畫が解るやうでもある。又解らないやうでもある。それを逆にいふと、審査員は畫が解らない樣でもある。又解るやうでもある。

　　　　大正元、一〇、一五−二八『東京朝日新聞』

　

　　　素人と黒人

　

　自分は此平凡な題目の下に一種の藝術觀乃至文藝觀を述べたい。自分が何故こんな陳腐な言葉を擇んだかといふに、普通の人の使つてゐる素人と黒人といふ言葉には大分の誤解が含まれてゐる、從つてそれを藝術上に用ひる時に、一種滑稽な響きを與へる例が多いからである。

　普通世間では其道に堪能でないものを捉へて、あれは素人だと輕蔑する。それから其道に熟達したものを指して、あれは黒人だと尊敬する。さう云はれるものもまた單に此二つの言葉丈で自分の藝術上の位置が極まるかの如くに考へてゐるらしい。例へば繪畫を何年か稽古したものは、世間から見れば黒人に違ないので、此方面に於て普通のものよりも多く口を開く權利があるやうに振舞つて憚らないし、又繪筆を持つた事もない所謂素人は、さういふ人の前へ出ると鼠が猫の前へ出たやうに大人しく控へてゐる。是は世間が好い加減に極めた素人と黒人といふ言葉に賊せられて自分達の立場を能く分析して見ない結果だらうと思ふ。

　自分は文藝上の作品に就いて素人離れのしたさうして黒人染みないものが一番好いといふ事をよく人に云つた。今も時々同じ言葉を繰り返してゐる。然し素人と黒人といふ意味をもつと理智的に解釋する樣になつたのは、近頃諸所の展覽會で見た繪畫（ことに日本畫）が強い原因になつてゐる。自分の考へは最初日本畫の御手際に感心し、中頃其御手際の意義を疑ひ、仕舞に其御手際を輕蔑し始めた時に漸く起つたのである。だから變化しつゝ繼續した一種の感情の骨格のやうなものである。其骨格は無論自分の作つたものではない。自然の感じの裏面を最初から組み立てゝゐたのである。自分は自分の感じを剥いで其内部にある骨組を發見したに過ぎない。

　自分が此の骨組を點檢してゐる時に、思ひ掛けない二人の藝術家が自分を訪ねた。其二人とも一般からは藝術家とは呼ばれずに、同じ意味ではあるが一種好くない連想を有つた藝人として取り扱はれてゐる男達であつた。彼等は自分の專門とは極めて縁の近さうで、さうして殆んど交渉のない方面に働らいてゐる人々であつた。

　一言でいふと、彼等は舞臺の人即ち俳優なのである。自分は世俗の習慣に從つて、こゝに彼等を菊五郎、吉右衛門と呼び捨てにする自由を有ちたいと思ふ。

　菊五郎に會つたのは去年の十一月末であつた。其の時は紹介者として長谷川時雨女史も見えた。用談は新しく狂言座といふ團體を作つて藝術上の研究をするから賛成者になつて呉れといふ依頼であつた。芝居に不案内な自分に取つて、是程案外な用件はなかつた。然し自分は今いふ通り素人と黒人といふ問題を考へてゐる際であつたので、つい菊五郎に向つて、私は芝居に懸けては全くの野蠻人だが、野蠻人の立場からなら或は批評が出來るかも知れないと云つた。すると菊五郎は是非夫が聞きたいと答へた。自分は又、野蠻人の批評は土臺から野蠻的なのだから、懇意にならない以上は遣り惡《にく》いと云つた。すると時雨女史が懇意になつて野蠻的に遣つて貰ひたいと云ひ出した。劇評家などになる考の毛頭ない自分は少し言ひ過ぎたのである。然し自分から野蠻人の批評を求めやうとする彼等にも野蠻の二字は恐らく徹底的に理解されなかつたらうと思ふ。

　狂言座といふ團體は日本人の作つた新らしい社會劇でも遣る有志者の集りだらうと早合點した自分は、菊五郎に素人になれるかと聞いた。今の世は素人が書をかき、畫を描く時代だと云つた。素人が小説を作る時代だと云つた。何故と云へば藝が是等を遣るのではない、人間が遣るのだからと云つた。然し自分の云つた事は或は菊五郎に通じなかつたかも知れない。

　吉右衛門の來たのはそれから三週間程經つた十二月下旬の事である。此時は小宮君が同伴であつた。自分と小宮君とは遠慮のない間柄だから、初對面の吉右衛門を前に置いても思ふ樣な話が出來た。自分は日本の歌舞伎芝居といふものを容赦なく攻撃した。それに深い興味を有つてゐる小宮君の辯護のうちには、自分と全然立場を異にしてゐる根據から來るものが多かつた。自分は笑つた。さう云ふ點になると、此道に親しみの深い彼よりも、門外漢の自分の評價の方が却つて慥かであると主張した。小宮君は納得しなかつた。自分は幕府を倒した薩長の田舍侍が、どの位旗本よりも野蠻であつたか考へて見ろと云つた。そんな辯護をする人は恰も上野へ立て籠つて官軍に抵抗した彰義隊の樣なものだと云つた。羅馬を亡ぼしたものは要するに野蠻人ぢやないかとも云つた。

　吉右衛門の來訪は菊五郎のやうに自分の署名調印を貰ふ目的でも何でもなかつた。然し彼は新らしい脚本を要求してゐるらしかつた。自分の書いたものを遣つて見たいといふやうな事も口へ出して云つた。尤も是は餘程前から小宮君が自分に對する要求の一つであつた。脚本を書く興味の深く乘らない自分は、其内書けたら書かうとばかり答へて今日に及んだのである。

　二人の俳優が自分の宅《うち》へ來たのは素人と黒人の講釋を聞く爲でも何でもなかつたのである。けれども自分は自分と彼等との立場の比較やら、自分の藝術に對する考へやらが頭の中にあつたので、つい當面の用談に關聯して、素人と黒人の問題を彼等に向けたのである。しかも解りにくい斷片的な形式を通して向けたのである。自分は自分の思想の影が明らかに彼等の腦裏に映らなかつた事を知つてゐる。現に菊五郎の來た時傍に居合せた畫を專門にする自分の友達は、彼の歸つた後で、あなたの云つた事は能く通じなかつたらしいですねと自分に告げた。然し自分を理解して呉れる此畫家に感謝した丈で、自分の心は滿足し得なかつた。有望な二人の青年俳優に對する責任としてのみでなく、自分の頭に對する責任として、此間題をもつと明瞭にもつと組織的に表現しなければ濟まないやうな氣が何處かにあつた。さうして自分は今其機會を捉へたのである。

　素人と黒人の優劣は、此の二つの言葉を普通の應用區域即ち藝術界から解放して、漫然と人間の上に加へて見ると存外｜判然《はつきり》するものである。世間ではある女を評してあれは黒人だといつたり、あれは素人だと云つたりしてゐる。此裏に含まれてゐる褒貶の意義は品評者の隨意としても、此の二つの言葉によつて代表される事實は殆んど爭ふ餘地のない程明白である。

　黒人は第一人付が好い。愛想がある。氣が利いてゐる。交際上手で、相手を外《そら》さない。數へ立てればまだ幾何《いくら》でもあるだらう。然しいくらあつても其特色はつひに人間の外部に色彩を添へる裝飾物に就いてのみ云へる事丈である。いくら調べていくら研究しても、其の特色が人格の領分に切り込む事は殆どないのである。況して精神の核に觸れるなどゝいふ深さは、夢にも豫期する事が出來ないのである。

　黒人は次に着物の着こなし方が旨い。それから化粧方が頗る上手である。頭のものでも穿物《はきもの》でも自然と粹《いき》に出來てゐる。是等も彼等の特色として著るしく他の注目を惹く點に違ない。けれどもそれは前に述べた特色よりも猶人間の上側に附着するものである。樣子の好い人だとか惡い女だとかいふ言葉は、其樣子が精神其物の表現と見做す事の出來ない場合でも、とにかく生きた人間の一部分を代表するものとして、一般的にも哲學的にも、認められて差支ないと思ふが、着物や白粉や櫛や下駄に至ると、何うしたつて取つて喰つ付けたものである。固より精神や肉體に關係がないと斷言するのは惡いかも知れない。然し兩者に縁のない遠い所から來て、假りに身體に附着してゐるのだから、いかに自分の一部分であるかの如く裝つてゐるにしても、何時切り離されるか解らないといふ意味から見て、自分とは甚だしく懸け隔つたものである。いくら朴《ほゝ》の木炭《きずみ》で磨いても、鶯の糞で洗つても、頬骨の高いのや額の出たのは決して改良出來ないのが好い證據である。

　して見ると俗にいふ黒人の特色といふものは、人間の本體や實質とは關係の少い上面《うはつら》丈を得意に徘徊してゐるやうに思はれる。此事實をもう少し念を入れて眺めてゐると、一見人を引き付ける魅力を有つた黒人といふものが、存外詰らなく見えて來る。彼等の特色は彼等に固有のものではない、誰でも眞似の出來る共有的なものだといふ氣になる。必要なのは練習と御浚丈で、其外殆ど何《なん》にも要らないといふ事が解る。要するに黒人の誇りは單に技巧の二字に歸着して仕舞ふ。さうしてそんな技巧は大概の人が根氣よく丁稚奉公さへすれば雜作なく達せられるものであるといふ心持になる。上部《うはべ》丈の改良で事が濟むのだから、精神的の教養よりも遙に容易である、容易であるから誰にでも達せられると云ふのである。

　自分はこゝに擧げて評價した黒人の特色を、繪畫の黒人にも、俳優の黒人にも、乃至は文藝の黒人（もし文藝に黒人があるとすれば）にも、應用したい。さうして彼等に向つて、單に黒人であるといふ事は、餘り威張れたものでないといふ氣の毒な事實を告げたい。素人でも尊敬すべきだといふ眞理を首肯《うけが》はせたい。腕は藝術の凡てゞはない、寧ろ藝術界に低級な位置を占めるのが腕であると教へたい。否、多くの場合に黒人は此腕の御蔭で、藝術を破壞する、墮落させる、向上の邪魔をされてゐる、と主張したい。黒人は此等の特色さへ發揮すればそれで十分だと思ふなら、人間は權謀術數さへ練習すればそれで澤山だと考へると同じである。誰が權謀術數丈で人間になれると思ふか。人間は權謀術數よりもう少し高いものである。

　良寛上人は嫌ひなものゝうちに詩人の詩と書家の書を平生から數へてゐた。詩人の詩、書家の書といへば、本職といふ意味から見て、是程立派なものはない筈である。それを嫌ふ上人の見地は、黒人の臭を惡む純粹でナイーヴな素人の品格から出てゐる。心の純なるところ、氣の精なるあたり、そこに摺れ枯らしにならない素人の尊さが潜んでゐる。腹の空しい癖に腕で掻き廻してゐる惡辣がない。器用のやうで其實は大人らしい稚氣に充ちた厭味がない。だから素人は拙を隱す技巧を有しない丈でも黒人より増しだと云はなければならない。自己には眞面目に表現の要求があるといふ事が、藝術の本體を構成する第一の資格である。既に此資格を頭の裡に認めながら、猶かつ黒人の特色を羨むのは、君子の品性を與へられてゐる癖に、手練手管《てれんてくだ》の修業をしなければ一人前でないと悲觀するやうなものである。

　自分は俗間で婦人丈に就いて用ひる黒人といふ言葉から出立した。其言葉を解剖して見ると、毫も内容を改めないで、其儘藝術上の專門家に應用が出來たのである。さうして其結論は藝術界の所謂黒人に對して氣の毒なものになつて仕舞つたのである。彼等をして自分の説を成程と首肯《うけが》はしめるには是で十分だと自分は考へてゐる。

　然し念の爲めだから、暫らく今迄の局面を一掃して、更に新らしい所から黒人と素人を比較して見やうと思ふ。あるものを觀察する場合に、先づ第一にわが眼に入るのは其輪廓である。次には其局部である。次には局部の又局部である。觀察や研究の時間が長ければ長い程、段々細かい所が眼に入つて來る、益小さい點に氣が付いて來る。是は凡ての物に對する我々の態度であつて、殆ど例外を許さない程應用の廣い自然の順序と見ても差し支ない。だから藝術の研究も亦此階段を追つて進んで行くに違ない。所謂黒人といふものは此道を素人より先へ通り越したものである。さうして其處に彼等の自負が潜んでゐるらしい。彼等の素人に對する輕蔑の念も亦其處から湧いて出るらしい。けれどもそれは彼等が彼等の徑路を誤解して評價づけた結果に過ぎないと、自分は斷言して憚らない。彼等の徑路は單に大から小に移りつゝ進んだのである。淺い所から深い所に達しつゝあるのでもなければ、上部から内部に（立體的に）突き込んで行きつゝあるのでもない。大通りを見盡したから裏通りを見る、裏通りを歩き終つたから、横丁や露路を一つ／＼覗いてゐるといふ順序なら、たとひ泥板《どぶいた》の上を一軒々々數へて廻つても、研究の性質に變化の來る筈がない。それを低い平面から高い平面に移された樣に思ふのは、所謂黒人のイリュージョンで、平凡な黒人は皆此イリュージョンに醉はされてゐるのである。單に是丈なら彼等の藝術に及ぼす害毒は左程大したものでないかも知れない。けれども彼等は此甘いイリュージョンに欺かれて、大事なものは何處かへ振り落して氣が付かずにゐるのである。

　觀察が輪廓に始まつて漸々局部に移つて行くといふ意味を別の言葉で現すと、觀察が輪廓を離れて仕舞ふといふ事に歸着する。離れるのは忘れる方面へ一歩近寄るのと同然である。しかも其局部に注ぐ熱心が強ければ強い程輪廓の觀念は頭を去る譯である。だから黒人は局部に明るい癖に大體を眼中に置かない變人に化て來る。さうして彼等の得意に遣《や》つて退《の》ける改良とか工夫といふものは悉く部分的である。さうして其部分的の改良なり工夫なりが毫も全體に響いて居ない場合が多い。大きな眼で見ると何の爲にあんな所に苦心して喜んでゐるのか氣の知れない小刀細工をするのである。素人は馬鹿々々しいと思つても、先が黒人だと遠慮して何も云はない。すると黒人は益増長してたゞ細かく細かくと切り込んで行く。それで自分は立派に進歩したものと考へるらしい。高い立場から見下すと是は進歩でなくつて、墮落である。根本義を棚へ上げて置いて、末節にばかり齷齪する自分の態度に氣がついたら黒人自身もしか認めなければなるまい。

　素人は固より部分的の研究なり觀察に缺けてゐる。其代り大きな輪廓に對しての第一印象は、此輪廓のなかで金魚のやうにあぶ／＼浮いてゐる黒人よりは鮮かに把捉出來る。黒人のやうに細かい鋭どさは得られないかも知れないが、ある藝術全體を｜一眼《ひとめ》に握る力に於て、糜爛した黒人の眸よりも慥に?溂としてゐる。富士山の全體は富士を離れた時にのみ判然《はつきり》と眺められるのである。

　ある藝術の門を潜《くゞ》る刹那に、此危險は既に其藝術家の頭に落ちかゝつてゐる。虚心に門を潜つてさへさうである。與へられた輪廓を是認して、是は破れないものだと觀念した以上、彼の仕事の自由は到底毫釐の間をうろついてゐるに過ぎない。だから在來の型や法則を土臺にして成立してゐる保守的の藝術になると、個人の自由は殆ど殺されてゐる。其覺悟でなければ這入る譯に行かない。能でも踊でも守舊派の繪畫でもみんなさうである。斯ういふ藝術になると、當初から輪廓は神聖にして犯すべからずといふ約束の下に成立するのだから、其中に活動する藝術家は、たとひ輸廓を忘れないでも、忘れたと同じ結果に陷つて、たゞ五十歩百歩の間で己れの自由を見せやうと苦心する丈である。素人の眼は、此の方面に於ても、一目の下に藝術の全景を受け入れるといふ意味から見て、黒人に優つてゐる。

　斯うなると俗にいふ黒人と素人の位置が自然?倒しなければならない。素人が偉くつて黒人が詰らない。一寸聞くと不可解なパラドツクスではあるが、さういふ見地から一般の歴史を眺めて見ると、是は寧ろ當然のやうでもある。昔から大きな藝術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、其人は黒人でなくつて素人でなければならない。人の立てた門を潜るのでなくつて、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。

　自分はまだ云ふべき事が澤山殘つてゐるやうに思ふけれども、急いで此稿を書き上げなければならない事情があるので、是丈にして一先筆を措く事にする。茲にいふ黒人といふのは無論只の黒人を指すので、素人といふのは藝術的傾向を帶びた普通の人間をいふのである。偉い黒人になれば局部に明らかなと同時に輪廓も頭に入れてゐる筈であるし、詰らない素人になれば局部も輪廓も滅茶々々で解らないのだから、そんな人々は自分の論ずる限ではないのである。それから俗にいふ通人といふのは黒人の馬鹿なのよりもずつと馬鹿なのだから、是も評論の限でない事を斷つて置きたい。

　　　　　　大正三、一、七−一二『東京朝日新聞』

　

　

　　　私の個人主義

　　　　　――大正三年十一月二十五日學習院輔仁會に於て述――

　

　私は今日初めて此學習院といふものゝ中に這入りました。尤も以前から學習院は多分此見當だらう位に考へてゐたには相違ありませんが、判然《はつきり》とは存じませんでした。中へ這入つたのは無論今日が初めてで御座います。

　先程岡田さんが紹介旁一寸御話になつた通り此春何か講演をといふ御注文でありましたが、其當時は何か差支があつて、――岡田さんの方が當人の私よりよく御記憶と見えて貴方がたに御納得の出來るやうに只今御説明がありましたが、兎に角一先づ御斷りを致さなければならん事になりました。併し唯御斷りを致すのも餘り失禮と存じまして、此次には參りますからといふ條件をつけ加へて置きました。其時念のため此次は何時頃になりますかと岡田さんに伺ひましたら、此年《ことし》の十月だといふ御返事であつたので、心のうちに春から十月迄の日數を大體繰つて見て、それ丈の時間があればそのうちに何うにか出來るだらうと思つたものですから、宜しう御座いますとはつきり御受合申したのであります。所が幸か不幸か病氣に罹りまして、九月一杯床に就いて居りますうちに御約束の十月が參りました。十月にはもう臥せつては居りませんでしたけれども、何しろひよろ／＼するので講演は一寸六づかしかつたのです。然し御約束を忘れてはならないのですから、腹の中では、今に何か云つて來られるだらう／＼と思つて、内々《ない／＼》は怖《こは》がつてゐました。

　其うちひよろ／＼も遂に癒つてしまつたけれども、此方《こちら》からは十月末迄何の御沙汰もなく打ち過ぎました。私は無論病氣の事を御通知はして置きませんでしたが、二三の新聞に一寸出たといふ話ですから、或は其邊の事情を察せられて、誰かゞ私の代りに講演をやつて下さつたのだらうと推測して安心し出しました。所へ又岡田さんが又突然見えたのであります。岡田さんはわざ／＼長靴を穿いて見えたのであります。（尤も雨の降る日であつたからでもありませうが、）さう云つた身拵えで、早稻田の奧迄來て下すつて、例の講演は十一月の末迄繰り延ばす事にしたから約束通り遣つて貰ひたいといふ御口上なのです。私はもう責任を逃れたやうに考へてゐたものですから實は少々驚ろきました。然しまだ一ケ月も餘裕があるから、其間に何うかなるだらうと思つて、宜しう御座いますと又御返事を致しました。

　右の次第で、此春から十月に至る迄、十月末から又十一月二十五日に至る迄の間に、何か纏つた御話をすべき時間はいくらでも拵えられるのですが、どうも少し氣分が惡くつて、そんな事を考へるのが面倒で堪らなくなりました。そこでまあ十一月二十五日が來る迄は構ふまいといふ横着な料簡を起して、ずる／＼べつたりに其日／＼を送つてゐたのです。いよいよと時日が逼つた二三日前になつて、何か考へなければならないといふ氣が少ししたのですが、矢張り考へるのが不愉快なので、とう／＼繪を描いて暮らして仕舞ました。繪を描くといふと何かえらいものが描けるやうに聞えるかも知れませんが、實は他愛もないものを描いて、それを壁に貼り付けて一人で二日も三日もぼんやり眺めてゐる丈なのです。昨日でしたか或人が來て、此繪は大變面白い――いや面白いと云つたのではありません、面白い氣分の時に描いた畫らしく見えると云つて呉れたのでした。それから私は愉快だから描たのではない、不愉快だから描いたのだと云つて私の心の状態を其男に説明して遣りました。世の中には愉快で凝としてゐられない結果を畫にしたり、書にしたり、又は文にしたりする人がある通り、不愉快だから、どうかして好い心持になりたいと思つて、筆を執つて畫なり文章なりを作る人もあります。さうして不思議にも此二つの心的状態が結果に現はれた所を見ると能く一致してゐる場合が起るのです。然し是はほんの序《ついで》に申し上る事で、話の筋に關係した問題でもありませんから深くは立ち入りません。――何しろ私はその變な畫を眺める丈で、講演の内容をちつとも組み立てずに暮らしてしまつたのです。

　其内《そのうち》愈二十五日が來たので、否《いや》でも應でも此所へ顔を出さなければ濟まない事になりました。それで今朝少し考を纏めて見ましたが、準備がどうも不足のやうです。迚も御滿足の行くやうな御話は出來かねますから、其積りで御辛防を願ひます。

　此會は何時《いつ》頃から始まつて今日迄續いてゐるのか存じませんが、其都度貴方がたが他所《よそ》の人を連れて來て、講演をさせるのは、一般の慣例として毫も不都合でないと私も認めてゐるのですが、また一方から見ると、それ程あなた方の希望するやうな面白い講演は、いくら何所から何んな人を引張つて來ても容易に聞かれるものではなからうとも思ふのです。貴方がたにはたゞ他所の人が珍らしく見えるのではありますまいか。

　私が落語家《はなしか》から聞いた話の中に斯んな諷刺的のがあります。――昔しある御大名が二人目黒邊へ鷹狩に行つて、所々方々を馳け廻つた末、大變空腹になつたが、生憎辨當の用意もなし、家來とも離れ／＼になつて口腹を充たす糧を受ける事が出來ず、仕方なしに二人は其所にある汚ない百姓家へ馳け込んで、何でも好いから食はせろと云つたさうです。すると其農家の爺さんと婆さんが氣の毒がつて、有合せの秋刀魚《さんま》を炙つて二人の大名に麥飯を勸めたと云ひます。二人は其秋刀魚を肴に非常に旨く飯を濟まして、其所を立出たが、翌日になつても昨日の秋刀魚の香がぷんぷん鼻を衝くといつた始末で、どうしても其味を忘れる事が出來ないのです。夫で二人のうちの一人が他を招待して、秋刀魚の御馳走をする事になりました。其旨を承はつて驚ろいたのは家來です。然し主命ですから反抗する譯にも行きませんので、料理人に命じて秋刀魚の細い骨を毛拔で一本一本拔かして、それを味淋か何かに漬けたのを、程よく燒いて、主人と客とに勸めました。所が食ふ方は腹も減つてゐず、又馬鹿丁寧な料理方で秋刀魚の味を失つた妙な肴を箸で突つついてみた所で、些とも旨くないのです。其所で二人が顔を見合せて、何うも秋刀魚は目黒に限るねと云つた樣な變な言葉を發したと云ふのが話の落になつてゐるのですが、私から見ると、此學習院といふ立派な學校で、立派な先生に始終接してゐる諸君が、わざ／＼私のやうなものの講演を、春から秋の末迄待つても御聞きにならうといふのは、丁度大牢の美味に飽いた結果、目黒の秋刀魚が一寸味はつて見たくなつたのではないかと思はれるのです。

　此席に居られる大森教授は私と同年か又は前後して大學を出られた方ですが、其大森さんが、かつて私に何うも近頃の生徒は自分の講義をよく聽かないで困る、どうも眞面目が足りないで不都合だといふやうな事を云はれた事があります。其評は此學校の生徒に就いてではなく、何處かの私立學校の生徒に就いてだつたらうと記憶してゐますが、何しろ私は其時大森さんに對して失禮な事を云ひました。

　此處で繰り返していふのも御恥づかしい譯ですが、私は其時、君などの講義を有難がつて聽く生徒が何處の國にゐるものかと申したのです。尤も私の主意は其時の大森君には通じてゐなかつたかも知れませんから、此機會を利用して、誤解を防いで置きますが、私どもの書生時代、あなたがたと同年輩、もしくはもう少し大きくなつた時代、には、今の貴方がたより餘程横着で、先生の講義などは殆んど聽いた事がないと云つても好い位のものでした。勿論是は私や私の周圍のものを本位として述べるのでありますから、圏外にゐたものには通用しないかも知れませんけれども、何うも今の私から振り返つて見ると、そんな氣が何處かでするやうに思はれるのです。現に此私は上部《うはべ》丈は温順らしく見えながら、決して講義などに耳を傾ける性質ではありませんでした。始終怠けてのらくらしてゐました。其記憶をもつて、眞面目な今の生徒を見ると、何うしても大森君のやうに、彼等を攻撃する勇氣が出て來ないのです。さう云つた意味からして、つい大森さんに對して濟まない亂暴を申したのであります。今日は大森君に詫まる爲にわざ／＼出掛けた次第ではありませんけれども、序だからみんなのゐる前で、謝罪して置くのです。

　話がつい飛んだ所へ外《そ》れてしまいましたから、再び元へ引き返して筋の立つやうに云ひますと、つまり斯うなるのです。

　貴方がたは立派な學校に入《はい》つて、立派な先生から始終指導を受けてゐらつしやる、又其方々の專門的もしくは一般的の講義を毎日聞いてゐらつしやる。それだのに私みたやうなものを、殊更に他所から連れて來て、講演を聽かうとなされるのは、丁度先刻御話した御大名が目黒の秋刀魚を賞翫したやうなもので、つまりは珍らしいから、一口食つて見ようといふ料簡ぢやないかと推察されるのです。實際をいふと、私のやうなものよりも、貴方がたが毎日顔を見てゐらつしやる常雇《じやうやと》ひの先生の御話の方が餘程有益でもあり、かつまた面白からうとも思はれるのです。たとひ私にした所で、もし此學校の教授にでもなつてゐたならば、單に新らしい刺戟のないといふ丈でも、此位の人數が集つて私の講演を御聽きになる熱心なり好奇心なりは起るまいと考へるのですがどんなものでせう。

　私が何故そんな假定をするかといふと、此私は現に昔し此學習院の教師にならうとした事があるのです。尤も自分で運動した譯でもないのですが、此學校にゐた知人が私を推薦して呉れたのです。其時分の私は卒業する間際まで何をして衣食の道を講じていゝか知らなかつた程の迂濶者でしたが、さて愈世間へ出て見ると、懷手をして待つてゐたつて、下宿料が入《はい》つて來る譯でもないので、教育者になれるかなれないかの問題は兎に角、何處かへ潜《もぐ》り込む必要があつたので、つい此知人のいふ通り此學校へ向けて運動を開始した次第であります。其時分私の敵が一人ありました。然し私の知人は私に向つてしきりに大丈夫らしい事をいふので、私の方でも、もう任命されたやうな氣分になつて、先生はどんな着物を着なければならないのか抔と訊いて見たものです。すると其男はモーニングでなくては教場へ出られないと云ひますから、私はまだ事の極らない先に、モーニングを誂らえてしまつたのです。其癖學習院とは何處にある學校か能く知らなかつたのだから、頗る變なものです。偖《さて》愈モーニングが出來上つて見ると、豈計らんや折角頼みにしてゐた學習院の方は落第と事が極つたのです。さうしてもう一人の男が英語教師の空位を充たす事になりました。其人は何といふ名でしたか今は忘れて仕舞ひました。別段悔しくも何ともなかつたからでせう。何でも米國歸りの人とか聞いてゐました。――それで、もし其時にその米國歸りの人が採用されずに、此私がまぐれ當りに學習院の教師になつて、しかも今日迄永續してゐたなら、斯うした鄭重な御招きを受けて、高い所から貴方がたに御話をする機會も遂に來なかつたかも知れますまい。それを此春から十一月迄も待つて聽いて下さろうといふのは、取も直さず、私が學習院の教師に落第して、貴方がたから目黒の秋刀魚のやうに珍らしがられてゐる證據ではありませんか。

　私は是から學習院を落第してから以後の私に就いて少々申上げやうと思ひます。是は今迄御話をして來た順序だからといふ意味よりも、今日の講演に必要な部分だからと思つて聽いて頂きたいのです。

　私は學習院は落第したが、モーニング丈は着てゐました。それより外に着るべき洋服は持つてゐなかつたのだから仕方がありません。其モーニングを着て何處へ行つたと思ひますか？　其時分は今と違つて就職の途は大變樂でした。何方《どちら》を向いても相當の口は開いてゐた樣に思はれるのです。つまりは人が拂底な爲だつたのでせう。私のやうなものでも高等學校と、高等師範から殆んど同時に口が掛りました。私は高等學校へ周旋して呉れた先輩に半分承諾を與へながら、高等師範の方へも好い加減な挨拶をしてしまつたので、事が變な具合にもつれて仕舞ひました。もと／＼私が若いから手ぬかりやら、不行屆勝で、とう／＼自分に祟つて來たと思へば仕方がありませんが、弱らせられた事は事實です。私は私の先輩なる高等學校の古參の教授の所へ呼びつけられて、此方《こつち》へ來るやうな事を云ひながら、他《ほか》にも相談をされては、仲に立つた私が困ると云つて譴責されました。私は年の若い上に、馬鹿の肝癪持ですから、一《いつ》そ雙方とも斷つて仕舞つたら好いだらうと考へて、其手續きを遣り始めたのです。すると或日當時の高等學校長、今では慥か京都の理科大學長をしてゐる久原さんから、一寸學校迄來てくれといふ通知があつたので、早速出掛けて見ると、其座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋して呉れた例の先輩がゐて、相談は極つた、此方《こつち》に遠慮は要らないから高等師範の方へ行つたら好からうといふ忠告です。私は行掛り上｜否《いや》だとは云へませんから承諾の旨を答へました。が腹の中では厄介な事になつてしまつたと思はざるを得なかつたのです。といふものは今考へると勿體ない話ですが、私は高等師範などを夫程有難く思つてゐなかつたのです。嘉納さんに始めて會つた時も、さうあなたの樣に教育者として學生の模範になれといふやうな注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡した位でした。嘉納さんは上手な人ですから、否さう正直に斷わられると、私は益貴方に來て頂きたくなつたと云つて、私を離さなかつたのです。斯ういふ譯で、未熟な私は雙方の學校を懸持しやうなどといふ慾張根性は更になかつたに拘はらず、關係者に要らざる手數をかけた後、とう／＼高等師範の方へ行く事になりました。

　然し教育者として偉くなり得るやうな資格は私に最初から缺けてゐたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんも貴方はあまり正直過ぎて困ると云つた位ですから、或はもつと横着を極めてゐても宜かつたのかも知れません。然し何うあつても私には不向な所だとしか思はれませんでした。奧底のない打ち明けた御話をすると、當時の私はまあ肴屋が菓子屋へ手傳ひに行つたやうなものでした。

　一年の後私はとう／＼田舍の中學へ赴任しました。それは伊豫の松山にある中學校です。貴方がたは松山の中學と聞いて御笑ひになるが、大方私の書いた「坊ちやん」でも御覽になつたのでせう。「坊ちやん」の中に赤シヤツといふ渾名を有つてゐる人があるが、あれは一體誰の事だと私は其時分よく訊かれたものです。誰の事だつて、當時其中學に文學士と云つたら私一人なのですから、もし「坊ちやん」の中の人物を一々實在のものと認めるならば、赤シヤツは即ちかういふ私の事にならなければならんので、――甚だ有難い仕合せと申上げたいやうな譯になります。

　松山にもたつた一ケ年しか居りませんでした。立つ時に知事が留めて呉れましたが、もう先方と内約が出來てゐたので、とう／＼斷つて其所を立ちました。さうして今度は熊本の高等學校に腰を据ゑました。斯ういふ順序で中學から高等學校、高等學校から大學と順々に私は教へて來た經驗を有つてゐますが、たゞ小學校と女學校丈はまだ足を入れた試《ためし》が御座いません。

　熊本には大分長く居りました。突然文部省から英國へ留學をしては何うかといふ内談のあつたのは、熊本へ行つてから何年目になりませうか。私は其時留學を斷わらうかと思ひました。それは私のやうなものが、何の目的も有たずに、外國へ行つたからと云つて、別に國家の爲に役に立つ譯もなからうと考へたからです。然るに文部省の内意を取次いで呉れた教頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評價する必要はない、兎も角も行つた方が好からうと云ふので、私も絶對に反抗する理由もないから、命令通り英國へ行きました。然し果せるかな何もする事がないのです。

　それを説明するためには、夫迄の私といふものを一應御話ししなければならん事になります。其御話が即ち今日の講演の一部分を構成する譯なのですから其積で御聞きを願ひます。

　私は大學で英文學といふ專門をやりました。其英文學といふものは何んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年專攻した私にも何が何だかまあ夢中だつたのです。其頃はヂクソンといふ人が教師でした。私は其先生の前で詩を讀ませられたり文章を讀ませられたり、作文を作つて、冠詞が落ちてゐると云つて叱られたり、發音が間違つてゐると怒られたりしました。試驗にはウオーヅウオースは何年に生れて何年に死んだとか、シエクスピヤのフオリオは幾通りあるかとか、或はスコツトの書いた作物を年代順に竝べて見ろとかいふ問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にも略想像が出來るでせう、果してこれが英文學か何うだかといふ事が。英文學はしばらく措いて第一文學とは何ういふものだか、是では到底解る筈がありません。それなら自力でそれを窮め得るかと云ふと、まあ盲目《めくら》の垣覗きといつたやうなもので、圖書館に入《はい》つて、何處をどううろついても手掛がないのです。是は自力の足りない許でなく其道に關した書物も乏しかつたのだらうと思ひます。兎に角三年勉強して、遂に文學は解らずじまひだつたのです。私の煩悶は第一此所に根ざしてゐたと申し上げても差支ないでせう。

　私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとう／＼教師になつたといふより教師にされて仕舞つたのです。幸に語學の方は怪しいにせよ、何うか斯うか御茶を濁して行かれるから、其日々々はまあ無事に濟んでゐましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚なら一そ思ひ切りが好かつたかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでゐるやうで堪まらないのです。しかも一方では自分の職業としてゐる教師といふものに少しの興味も有ち得ないのです。教育者であるといふ素因の私に缺乏してゐる事は始めから知つてゐましたが、たゞ教場で英語を教へる事が既に面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があつたら、自分の本領へ飛び移らう／＼とのみ思つてゐたのですが、さて其本領といふのがあるやうで、無いやうで、何處を向いても、思ひ切つてやつと飛び移れないのです。

　私は此世に生れた以上何かしなければならん、と云つて何をして好いか少しも見當が付かない。私は丁度霧の中に閉ぢ込められた孤獨の人間のやうに立ち竦んでしまつたのです。さうして何處からか一筋の日光が射して來ないか知らんといふ希望よりも、此方から探照燈を用ひてたつた一條《ひとすぢ》で好いから先迄明らかに見たいといふ氣がしました。所が不幸にして何方の方角を眺めてもぼんやりしてゐるのです。ぼうつとしてゐるのです。恰も嚢の中に詰められて出る事の出來ない人のやうな氣持がするのです。私は私の手にたゞ一本の錐さへあれば何處か一ケ所突き破つて見せるのだがと、焦燥《あせ》り拔いたのですが、生憎其錐は人から與へられる事もなく、又自分で發見する譯にも行かず、たゞ腹の底では此先自分はどうなるだらうと思つて、人知れず陰欝な日を送つたのであります。

　私は斯うした不安を抱いて大學を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、又同樣の不安を胸の底に疊んで遂に外國迄渡つたのであります。然し一旦外國へ留學する以上は多少の責任を新たに自覺させられるには極つてゐます。それで私は出來るだけ骨を折つて何かしやうと努力しました。然し何んな本を讀んでも依然として自分は嚢の中から出る譯に參りません。此嚢を突き破る錐は倫敦中探して歩いても見付かりさうになかつたのです。私は下宿の一間の中で考へました。詰らないと思ひました。いくら書物を讀んでも腹の足《たし》にはならないのだと諦めました。同時に何の爲に書物を讀むのか自分でも其意味が解らなくなつて來ました。

　此時私は始めて文學とは何んなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救ふ途はないのだと悟つたのです。今迄は全く他人本位で、根のない萍《うきぐさ》のやうに、其所いらをでたらめに漂よつてゐたから、駄目であつたといふ事に漸く氣が付いたのです。私のこゝに他人本位といふのは、自分の酒を人に飲んで貰つて、後から其品評を聽いて、それを理が非でもさうだとして仕舞ふ所謂人眞似を指すのです。一口に斯う云つて仕舞へば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人眞似をする譯がないと不審がられるかも知れませんが、事實は決してさうではないのです。近頃流行るベルグソンでもオイケンでもみんな向ふの人が兎や角いふので日本人も其尻馬に乘つて騷ぐのです。まして其頃は西洋人のいふ事だと云へば何でも蚊でも盲從して威張つたものです。だから無暗に片假名を竝べて人に吹聽して得意がつた男が比々皆是なりと云ひたい位ごろ／＼してゐました。他《ひと》の惡口ではありません。斯ういふ私が現にそれだつたのです。譬へばある西洋人が甲といふ同じ西洋人の作物を評したのを讀んだとすると、其評の當否は丸で考へずに、自分の腑に落ちやうが落ちまいが、無暗に其評を觸れ散らかすのです。つまり鵜呑と云つてもよし、又機械的の知識と云つてもよし、到底わが所有とも血とも肉とも云はれない、餘所々々しいものを我物顔に喋舌つて歩くのです。然るに時代が時代だから、又みんながそれを賞めるのです。

　けれどもいくら人に賞められたつて、元々人の借着をして威張つてゐるのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張つてゐるやうなものですから。それでもう少し浮華を去つて摯實に就かなければ、自分の腹の中は何時迄經つたつて安心は出來ないといふ事に氣がつき出したのです。

　たとへば西洋人が是は立派な詩だとか、口調が大變好いとか云つても、それは其西洋人の見る所で、私の參考にならん事はないにしても、私にさう思へなければ、到底受賣をすべき筈のものではないのです。私が獨立した一個の日本人であつて、決して英國人の奴婢でない以上はこれ位の見識は國民の一員として具へてゐなければならない上に、世界に共通な正直といふ�ｺ義を重んずる點から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。　然し私は英文學を專攻する。其本場の批評家のいふ所と私の考と矛盾しては何うも普通の場合氣が引ける事になる。そこで斯うした矛盾が果して何處から出るかといふ事を考へなければならなくなる。風俗、人情、習慣、溯つては國民の性格皆此矛盾の原因になつてゐるに相違ない。それを、普通の學者は單に文學と科學とを混同して、甲の國民に氣に入るものは屹度乙の國民の賞讃を得るに極つてゐる、さうした必然性が含まれてゐると誤認してかゝる。其所が間違つてゐると云はなければならない。たとひ此矛盾を融和する事が不可能にしても、それを説明する事は出來る筈だ。さうして單に其説明丈でも日本の文壇には一道の光明を投げ與へる事が出來る。――斯う私は其時始めて悟つたのでした。甚だ遲蒔の話で慚愧の至でありますけれども、事實だから僞らない所を申し上げるのです。

　私はそれから文藝に對する自己の立脚地を堅める爲、堅めるといふより新らしく建設する爲に、文藝とは全く縁のない書物を讀み始めました。一口でいふと、自己本位といふ四字を漸く考へて、其自己本位を立證する爲に、科學的な研究やら哲學的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違ひますから、此邊の事は多少頭のある人には能く解せられてゐる筈ですが、其頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれ程進んでゐなかつたので、私の遣り方は實際已を得なかつたのです。

　私は此自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大變強くなりました。彼等何者ぞやと氣慨が出ました。今迄茫然と自失してゐた私に、此所に立つて、この道から斯う行かなければならないと指圖をして呉れたものは實に此自我本位の四字なのであります。

　自白すれば私は其四字から新たに出立したのであります。さうして今の樣にたゞ人の尻馬にばかり乘つて空《から》騷ぎをしてゐるやうでは甚だ心元ない事だから、さう西洋人振らないでも好いといふ動かすべからざる理由を立派に彼等の前に投げ出して見たら、自分も嘸愉快だらう、人も嘸喜ぶだらうと思つて、著書其他の手段によつて、それを成就するのを私の生涯の事業としやうと考へたのです。

　其時私の不安は全く消えました。私は輕快な心をもつて陰欝な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊惱した結果漸く自分の鶴嘴をがちりと鑛脈に掘り當てたやうな氣がしたのです。猶繰り返していふと、今迄霧の中に閉ぢ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教へられた事になるのです。

　斯く私が啓發された時は、もう留學してから、一年以上經過してゐたのです。それでとても外國では私の事業を仕上る譯に行かない、兎に角出來る丈材料を纏めて、本國へ立ち歸つた後、立派に始末を付けやうといふ氣になりました。即ち外國へ行つた時よりも歸つて來た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。

　所が歸るや否や私は衣食の爲に奔走する義務が早速起りました。私は高等學校へも出ました。大學へも出ました。後では金が足りないので、私立學校も一軒稼ぎました。其上私は神經衰弱に罹りました。最後に下らない創作などを雜誌に載せなければならない仕儀に陷りました。色々の事情で、私は私の企てた事業を半途で中止してしまひました。私の著はした文學論は其記念といふよりも寧ろ失敗の亡骸《なきがら》です。然も畸形兒の亡骸です。或は立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廢墟のやうなものです。　然しながら自己本位といふ其時得た私の考は依然としてつゞいてゐます。否年を經るに從つて段々強くなります。著作的事業としては、失敗に終りましたけれども、其時確かに握つた自己が主で、他は賓であるといふ信念は、今日の私に非常の自信と安心を與へて呉れました。私は其引續きとして、今日猶生きてゐられるやうな心持がします。實は斯うした高い壇の上に立つて、諸君を相手に講演をするのも矢張り其力の御蔭かも知れません。　以上はたゞ私の經驗だけをざつと御話ししたのでありますけれども、其御話しを致した意味は全く貴方がたの御參考になりはしまいかといふ老婆心からなのであります。貴方がたは是からみんな學校を去つて、世の中へ御出掛になる。それにはまだ大分時間のかゝる方も御座いませうし、又は追付け實社界に活動なさる方もあるでせうが、いづれも私の一度經過した煩悶（たとひ種類は違つても）を繰返しがちなものぢやなからうかと推察されるのです。私のやうに何處か突き拔けたくつても突き拔ける譯にも行かず、何か※［手偏＋國］みたくつても藥罐頭を※［手偏＋國］むやうにつる／＼して焦燥《じ》れつたくなつたりする人が多分あるだらうと思ふのです。もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持つてゐる方は例外であり、又｜他《ひと》の後に從つて、それで滿足して、在來の古い道を進んで行く人も惡いとは決して申しませんが、（自己に安心と自信がしつかり附隨してゐるならば、）然しもし左右《さう》でないとしたならば、何うしても、一つ自分の鶴嘴で掘り當てる所迄進んで行かなくつては行けないでせう。行けないといふのは、もし掘り中てる事が出來なかつたなら、其人は生涯不愉快で、始終中腰になつて世の中にまご／＼してゐなければならないからです。私の此點を力説するのは全く其爲で、何も私を模範になさいといふ意味では決してないのです。私のやうな詰らないものでも、自分で自分が道をつけつゝ進み得たといふ自覺があれば、あなた方から見て其道が如何に下らないにせよ、それは貴方がたの批評と觀察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで滿足する積りであります。然し私自身がそれがため、自信と安心を有つてゐるからといつて、同じ徑路が貴方がたの模範になるとは決して思つてはゐないのですから、誤解しては不可《いけ》ません。

　それは兎に角、私の經驗したやうな煩悶が貴方がたの場合にも?起るに違ひないと私は鑑定してゐるのですが、何うでせうか。もし左右《さう》だとすると、何かに打ち當る迄行くといふ事は、學問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、或は十年二十年の仕事としても、必要ぢやないでせうか。あゝ此處におれの進むべき道があつた！　漸く掘り當てた！　斯ういふ感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出來るのでせう。容易に打ち壞されない自信が、其叫び聲とともにむく／＼首を擡げて來るのではありませんか。既に其域に達してゐる方も多數のうちにはあるかも知れませんが、若し途中で霧か靄のために懊惱してゐられる方があるならば、何んな犠牲を拂つても、あゝ此所だといふ掘當てる所迄行つたら宜からうと思ふのです。必ずしも國家の爲ばかりだからといふのではありません。又あなた方の御家族の爲に申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶對に必要ぢやないかと思ふから申上げるのです。もし私の通つたやうな道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もし何處かにこだわり〔四字傍点〕があるなら、それを踏潰す迄進まなければ駄目ですよ。――尤も進んだつて何う進んで好いか解らないのだから、何かに打つかる所迄行くより外に仕方がないのです。私は忠告がましい事を貴方がたに強ひる氣は丸でありませんが、それが將來貴方がたの幸福の一つになるかも知れないと思ふと黙つてゐられなくなるのです。腹の中の※［者／火］え切らない、徹底しない、あゝでもあり斯うでもあるといふやうな海鼠のやうな精神を抱いてぼんやりして居ては、自分が不愉快ではないか知らんと思ふからいふのです。不愉快でないと仰しやれば夫迄です、又そんな不愉快は通り越してゐると仰しやれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。併し此私は學校を出て三十以上迄通り越せなかつたのです。其苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛には相違なかつたのであります。だから若し私のやうな病氣に罹つた人が、もし此中にあるならば、何うぞ勇猛に御進みにならん事を希望して已まないのです。もし其所迄行ければ、此處におれの尻を落ちつける場所があつたのだといふ事實を御發見になつて、生涯の安心と自信を握る事が出來るやうになると思ふから申し上げるのです。

　今迄申し上げた事は此講演の第一篇に相當するものですが、私は是から其第二篇に移らうかと考へます。學習院といふ學校は社會的地位の好い人が這入る學校のやうに世間から見傚されて居ります。さうして夫が恐らく事實なのでせう。もし私の推察通り大した貧民は此所へ來ないで、寧ろ上流社會の子弟ばかりが集まつてゐるとすれば、向後貴方がたに附隨してくるものゝうちで第一番に擧げなければならないのは權力であります。換言すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立つた時よりも余計權力が使へるといふ事なのです。前申した、仕事をして何かに掘り中てるまで進んで行くといふ事は、つまりあなた方の幸福の爲め安心の爲めには相違ありませんが、何故それが幸福と安心とをもたらすかといふと、貴方方の有つて生れた個性がそこに打つかつて始めて腰がすわるからでせう。さうして其所に尻を落付けて漸々前の方へ進んで行くと其個性が益發展して行くからでせう。あゝ此所におれの安住の地位があつたと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しつくり合つた時に、始めて云ひ得るのでせう。

　是と同じやうな意味で、今申し上げた權力といふものを吟味して見ると、權力とは先刻《さつき》御話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に壓し付ける道具なのです。道具だと斷然云ひ切つてわるければ、そんな道具に使ひ得る利器なのです。

　權力に次ぐものは金力です。是も貴方がたは貧民よりも余計に所有して居られるに相違ない。此金力を同じくさうした意味から眺めると、是は個性を擴張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重寶なものになるのです。

　して見ると權力と金力とは自分の個性を貧乏人より餘計に、他人の上に押し被せるとか、又は他人を其方面に誘《おび》き寄せるとかいふ點に於て、大變便宜な道具だと云はなければなりません。斯ういふ力があるから、偉いやうでゐて、其實非常に危險なのです。先刻申した個性はおもに學問とか文藝とか趣味とかに就いて自己の落ち付くべき所迄行つて始めて發展するやうに御話し致したのですが、實をいふと其應用は甚だ廣いもので、單に學藝丈にはとゞまらないのです。私の知つてゐるる兄弟で、弟の方は家に引込んで書物などを讀む事が好きなのに引き易へて、兄は又釣道樂に憂身をやつして居るのがあります。すると此兄が自分の弟の引込思案でたゞ家にばかり引籠つてゐるのを非常に忌まはしいものゝやうに考へるのです。必竟は釣をしないからあゝいふ風に厭世的になるのだと合點して、無暗に弟を釣に引張り出さうとするのです。弟は又それが不愉快で堪らないのだけれども、兄が高壓的に釣竿を擔がしたり、魚籃《びく》を提げさせたりして、釣堀へ隨行を命ずるものだから、まあ目を瞑つて食つ付いて行つて、氣味の惡い鮒などを釣つていや／＼歸つてくるのです。それが爲に兄の計畫通り弟の性質が直つたかといふと、決してさうではない、益此釣といふものに對して反抗心を起してくるやうになります。つまり釣と兄の性質とはぴたりと合つて其間に何の隙間もないのでせうが、それは所謂兄の個性で、弟とは丸で交渉がないのです。是は固より金力の例ではありません、權力の他を威壓する説明になるのです。兄の個性が弟を壓迫して無理に魚を釣らせるのですから。尤もある場合には、――例へば授業を受ける時とか、兵隊になつた時とか、又寄宿舍でも軍隊生活を主位に置くとか――凡てさう云つた場合には多少此高壓的手段は免かれますまい。然し私は重に貴方がたが一本立になつて世間へ出た時の事を云つてゐるのだから其積で聽いて下さらなくては困ります。

　そこで前申した通り自分が好いと思つた事、好きな事、自分と性の合ふ事、幸にそこに打《ぶ》つかつて自分の個性を發展させて行くうちには、自他の區別を忘れて、何うかあいつもおれの仲間に引き摺り込んで遣らうといふ氣になる。其時權力があると前云つた兄弟のやうな變な關係が出來上るし、又金力があると、それを振り蒔いて、他《ひと》を自分のやうなものに仕立上げやうとする。即ち金を誘惑の道具として、其誘惑の力で他を自分に氣に入るやうに變化させやうとする。どつちにしても非常な危險が起るのです。

　それで私は常から斯う考へてゐます。第一に貴方がたは自分の個性が發展出來るやうな場所に尻を落ち付けべく、自分とぴたりと合つた仕事を發見する迄邁進しなければ一生の不幸であると。然し自分がそれ丈の個性を尊重し得るやうに、社會から許されるならば、他人に對しても其個性を認めて、彼等の傾向を尊重するのが理の當然になつて來るでせう。それが必要でかつ正しい事としか私には見えません。自分は天性右を向いてゐるから、彼奴が左を向いてゐるのは怪しからんといふのは不都合ぢやないかと思ふのです。尤も複雜な分子の寄つて出來上つた善惡とか邪正とかいふ問題になると、少々込み入つた解剖の力を借りなければ何とも申されませんが、さうした問題の關係して來ない場合もしくは關係しても面倒でない場合には、自分が他《ひと》から自由を享有してゐる限り、他にも同程度の自由を與へて、同等に取り扱はなければならん事と信ずるより外に仕方がないのです。　近頃自我とか自覺とか唱へていくら自分の勝手な眞似をしても構はないといふ符徴に使ふやうですが、其中には甚だ怪しいのが澤山あります。彼等は自分の自我を飽迄尊重するやうな事を云ひながら、他人の自我に至つては毫も認めてゐないのです。苟しくも公平の眼を具し正義の觀念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を發展して行くと同時に、其自由を他にも與へなければ濟まん事だと私は信じて疑はないのです。我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に發展するのを、相當の理由なくして妨害してはならないのであります。私は何故こゝに妨害といふ字を使ふかといふと、貴方がたは正しく妨害し得る地位に將來立つ人が多いからです。貴方がたのうちには權力を用ひ得る人があり、又金力を用ひ得る人が澤山あるからです。

　元來をいふなら、義務の附着して居らない權力といふものが世の中にあらう筈がないのです。私が斯うやつて、高い壇の上から貴方方を見下して、一時間なり二時間なり私の云ふ事を靜肅に聽いて頂く權利を保留する以上、私の方でも貴方方を靜肅にさせる丈の説を述べなければ濟まない筈だと思ひます。よし平凡な講演をするにしても、私の態度なり樣子なりが、貴方がたをして禮を正さしむる丈の立派さを有つてゐなければならん筈のものであります。たゞ私は御客である、貴方がたは主人である、だから大人しくしなくてはならない、と斯う云はうとすれば云はれない事もないでせうが、それは上面《うはつら》の禮式にとゞまる事で、精神には何の關係もない云はゞ因襲といつたやうなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を擧げてみますと、貴方がたは教場で時々先生から叱られる事があるでせう。然し叱りつ放《ぱな》しの先生がもし世の中にあるとすれば、其先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折つて教へて呉れるに極つてゐます。叱る權利をもつ先生は即ち教へる義務をも有つてゐる筈なのですから。先生は規律をたゞすため、秩序を保つために與へられた權利を十分に使ふでせう。其代り其權利と引き離す事の出來ない義務も盡さなければ、教師の職を勤め終《おほ》せる譯に行きますまい。

　金力に就いても同じ事であります。私の考によると、責任を解しない金力家は、世の中にあつてならないものなのです。其譯を一口に御話しすると斯うなります。金錢といふものは至極重寶なもので、何へでも自由自在に融通が利く。たとへば今私が此所で、相場をして十萬圓儲けたとすると、其十萬圓で家屋を立てる事も出來るし、書籍を買ふ事も出來るし、又は花柳社界を賑はす事も出來るし、つまりどんな形にでも變つて行く事が出來ます。そのうちでも人間の精神を買ふ手段に使用出來るのだから恐ろしいではありませんか。即ちそれを振り蒔いて、人間の�ｺ義心を買ひ占める、即ち其人の魂を墮落させる道具とするのです。相場で儲けた金が�ｺ義的倫理的に大きな威力を以て働らき得るとすれば、何うしても不都合な應用と云はなければならないかと思はれます。思はれるのですけれども、實際その通りに金が活動する以上は致し方がない。たゞ金を所有してゐる人が、相當の�ｺ義心をもつて、それを道義上害のないやうに使ひこなすより外に、人心の腐敗を防ぐ道はなくなつてしまふのです。それで私は金力には必ず責任が付いて廻らなければならないといひたくなります。自分は今是丈の富の所有者であるが、それを斯ういふ方面に斯う使へば、斯ういふ結果になるし、あゝいふ社會にあゝ用ひればあゝいふ影響があると呑み込む丈の見識を養成する許でなく、其見識に應じて、責任を以てわが富を所置しなければ、世の中に濟まないと云ふのです。いな自分自身にも濟むまいといふのです。

　今迄の論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の發展を仕遂げやうと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないといふ事。第二に自己の所有してゐる權力を使用しやうと思ふならば、それに附隨してゐる義務といふものを心得なければならないといふ事。第三に自己の金力を示さうと願ふなら、それに伴ふ責任を重じなければならないといふ事。つまり此三ケ條に歸着するのであります。

　是を外の言葉で言ひ直すと、苟しくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を發展する價値もなし、權力を使ふ價値もなし、又金力を使ふ價値もないといふ事になるのです。それをもう一遍云ひ換へると、此三者を自由に享け樂しむためには、其三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起つて來るといふのです。もし人格のないものが無暗に個性を發展しやうとすると、他《ひと》を妨害する、權力を用ひやうとすると、濫用に流れる、金力を使はうとすれば、社會の腐敗をもたらす。隨分危險な現象を呈するに至るのです。さうして此三つのものは、貴方がたが將來に於て最も接近し易いものであるから、貴方がたは何うしても人格のある立派な人間になつて置かなくては不可《いけな》いだらうと思ひます。

　話が少し横へそれますが、御存じの通り英吉利といふ國は大變自由を尊ぶ國であります。それ程自由を愛する國でありながら、又英吉利ほど秩序の調つた國はありません。實をいふと私は英吉利を好かないのです。嫌ひではあるが事實だから仕方なしに申し上げます。あれ程自由でさうしてあれ程秩序の行き屆いた國は恐らく世界中にないでせう。日本などは到底比較にもなりません。然し彼等はたゞ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するやうに、小供の時分から社會的教育をちやんと受けてゐるのです。だから彼等の自由の背後には屹度義務といふ觀念が伴つてゐます。 England expects every man to do his duty といつた有名なネルソンの言葉は決して當座限りの意味のものではないのです。彼等の自由と表裏して發達して來た深い根柢をもつた思想に違ないのです。

　彼等は不平があると能く示威運動を遣ります。然し政府は決して干渉がましい事をしません。黙つて放つて置くのです。其代り示威運動を遣る方でもちやんと心得てゐて、無暗に政府の迷惑になる樣な亂暴は働かないのです。近頃女權擴張論者と云つたやうなものが無暗に狼藉をするやうに新聞などに見えてゐますが、あれはまあ例外です。例外にしては數が多過ぎると云はれゝばそれ迄ですが、何うも例外と見るより外に仕方がないやうです。嫁に行かれないとか、職業が見付からないとか、又は昔しから養成された、女を尊敬するといふ氣風に付け込むのか、何しろあれは英國人の平生の態度ではないやうです。名畫を破る、監獄で絶食して獄丁を困らせる、議會のベンチへ身體を縛り付けて置いて、わざ／＼騷々しく叫び立てる。是は意外の現象ですが、ことによると女は何をしても男の方で遠慮するから構はないといふ意味で遣つてゐるのかも分りません。然しまあ何ういふ理由にしても變則らしい氣がします。一般の英國氣質といふものは、今御話しした通り義務の觀念を離れない程度に於て自由を愛してゐるやうです。

　それで私は何も英國を手本にするといふ意味ではないのですけれども、要するに義務心を持つてゐない自由は本當の自由ではないと考へます。と云ふものは、さうした我儘な自由は決して社會に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥され踏み潰されるに極つてゐるからです。私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務といふものを納得せられん事を願つて已まないのであります。斯ういふ意味に於て、私は個人主義だと公言して憚らない積です。

　此個人主義といふ意味に誤解があつては不可《いけま》せん。ことに貴方がたのやうな御若い人に對して誤解を吹き込んでは私が濟みませんから、其邊はよく御注意を願つて置きます。時間が逼つてゐるから成るべく單簡に説明致しますが、個人の自由は先刻御話した個性の發展上極めて必要なものであつて、其個性の發展がまた貴方がたの幸福に非常な關係を及ぼすのだから、何うしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ない位の自由は、自分でも把持し、他人にも附與しなくてはなるまいかと考へられます。それが取も直さず私のいふ個人主義なのです。金力權力の點に於ても其通りで、俺の好かない奴だから疊んでしまへとか、氣に喰はない者だから遣つ付けてしまへとか、惡い事もないのに、たゞそれ等を濫用したら何うでせう。人間の個性はそれで全く破壞されると同時に、人間の不幸も其所から起らなければなりません。たとへば私が何も不都合を働らかないのに、單に政府に氣に入らないからと云つて、警視總監が巡査に私の家を取り卷かせたら何んなものでせう。警視總監に夫丈の權力はあるかも知れないが、�ｺ義はさういふ權力の使用を彼に許さないのであります。又は三井とか岩崎とかいふ豪商が、私を嫌ふといふ丈の意味で、私の家の召使を買收して事ごとに私に反抗させたなら、是又何んなものでせう。もし彼等の金力の背後に人格といふものが多少でもあるならば、彼等は決してそんな無法を働らく氣にはなれないのであります。

　斯うした弊害はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、權力なり金力なりで、一般に推し廣めようとする我儘に外ならんのであります。だから個人主義、私のこゝに述べる個人主義といふものは、決して俗人の考へてゐるやうに國家に危險を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するといふのが私の解釋なのですから、立派な主義だらうと私は考へてゐるのです。

　もつと解りやすく云へば、黨派心がなくつて理非がある主義なのです。朋黨を結び團隊を作つて、權力や金力の爲に盲動しないといふ事なのです。夫だから其裏面には人に知られない淋しさも潜んでゐるのです。既に黨派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばら／＼にならなければなりません。其所が淋しいのです。私がかつて朝日新聞の文藝欄を擔任してゐた頃、だれであつたか、三宅雪嶺さんの惡口を書いた事がありました。勿論人身攻撃ではないので、たゞ批評に過ぎないのです。然も夫がたつた二三行あつたのです。出たのは何時頃でしたか、私は擔任者であつたけれども病氣をしたから或は其病氣中かも知れず、又は病氣中でなくつて、私が出して好いと認定したのかも知れません。兎に角其批評が朝日の文藝欄に載つたのです。すると「日本及び日本人」の連中が怒りました。私の所へ直接にはかけ合はなかつたけれども、當時私の下働きをしてゐた男に取消を申し込んで來ました。それが本人からではないのです。雪嶺さんの子分――子分といふと何だか博奕打の樣で可笑《をかし》いが、――まあ同人といつたやうなものでせう、何うしても取り消せといふのです。それが事實の問題なら尤もですけれども、批評なんだから仕方がないぢやありませんか。私の方では此方の自由だといふより外に途はないのです。しかもさうした取消を申し込んだ「日本及び日本人」の一部では毎號私の惡口を書いてゐる人があるのだから猶の事人を驚ろかせるのです。私は直接談判はしませんでしたけれども、其話を間接に聞いた時、變な心持がしました。といふのは、私の方は個人主義で遣つてゐるのに反して、向ふは黨派主義で活動してゐるらしく思はれたからです。當時私は私の作物をわるく評したものさへ、自分の擔任してゐる文藝欄へ載せた位ですから、彼等の所謂同人なるものが、一度に雪嶺さんに對する評語が氣に入らないと云つて怒つたのを、驚ろきもしたし、又變にも感じました。失禮ながら時代後れだとも思ひました。封建時代の人間の團隊のやうにも考へました。然しさう考へた私は遂に一種の淋しさを脱却する譯に行かなかつたのです。私は意見の相違は如何に親しい間柄でも何うする事も出來ないと思つてゐましたから、私の家に出入りをする若い人達に助言はしても、其人々の意見の發表に抑壓を加へるやうな事は、他に重大な理由のない限り、決して遣つた事がないのです。私は他《ひと》の存在をそれ程に認めてゐる、即ち他に夫丈の自由を與へてゐるのです。だから向ふの氣が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるやうな事があつても、決して助力は頼めないのです。其所が個人主義の淋しさです。個人主義は人を目標として向背を決する前に、まづ理非を明らめて、去就を定めるのだから、或場合にはたつた一人ぼつちになつて、淋しい心持がするのです。それは其筈です。槇雜木《まきざつぽう》でも束になつていれば心丈夫ですから。

　それからもう一つ誤解を防ぐ爲に一言して置きたいのですが、何だか個人主義といふと一寸國家主義の反對で、それを打ち壞すやうに取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではないのです。一體何々主義といふ事は私の餘り好まない所で、人間がさう一つ主義に片付けられるものではあるまいとは思ひますが、説明の爲ですから、こゝには已を得ず、主義といふ文字の下に色々の事を申し上げます。或人は今の日本は何うしても國家主義でなければ立ち行かないやうに云ひ振らし又さう考へてゐます。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ國家が亡びるやうな事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿氣た筈は決してありやうがないのです。事實私共は國家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に又個人主義でもあるのであります。

　個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由が其内容になつてゐるには相違ありませんが、各人の享有する其自由といふものは國家の安危に從つて、寒暖計のやうに上つたり下つたりするのです。是は理論といふよりも寧ろ事實から出る理論と云つた方が好いかも知れません、つまり自然の状態がさうなつて來るのです。國家が危くなれば個人の自由が狹められ、國家が泰平の時には個人の自由が膨脹して來る、それが當然の話です。苟くも人格のある以上、それを踏み違へて、國家の亡びるか亡びないかといふ場合に、疳違ひをして只無暗に個性の發展ばかり目懸けてゐる人はない筈です。私のいふ個人主義のうちには、火事が濟んでもまだ火事頭巾が必要だと云つて、用もないのに窮屈がる人に對する忠告も含まれてゐると考へて下さい。また例になりますが、昔し私が高等學校にゐた時分、ある會を創設したものがありました。その名も主意も詳しい事は忘れてしまひましたが、何しろそれは國家主義を標榜した八釜しい會でした。勿論惡い會でも何でもありません。當時の校長の木下廣次さんなどは大分肩を入れてゐた樣子でした。其會員はみんな胸にめだる〔三字傍点〕を下げてゐました。私はめだる〔三字傍点〕丈は御免蒙りましたが、それでも會員にはされたのです。無論發起人でないから、隨分異存もあつたのですが、まあ入《はい》つても差支なからうといふ主意から入會しました。所が其發會式が廣い講堂で行なはれた時に、何かの機《はずみ》でしたらう、一人の會員が壇上に立つて演説めいた事を遣りました。所が會員ではあつたけれども私の意見には大分反對の所もあつたので、私は其前隨分其會の主意を攻撃してゐたやうに記憶してゐます。然るに愈發會式となつて、今申した男の演説を聽いて見ると、全く私の説の反駁に過ぎないのです。故意だか偶然だか解りませんけれども勢ひ私はそれに對して答辯の必要が出て來ました。私は仕方なしに、其人のあとから演壇に上りました。當時の私の態度なり行儀なりは甚だ見苦しいものだと思ひますが、それでも簡潔に云ふ事丈は云つて退《の》けました。では其時何と云つたかと御尋ねになるかも知れませんが、それは頗る簡單なのです。私は斯う云ひました。――國家は大切かも知れないが、さう朝から晩迄國家々々と云つて恰も國家に取り付かれたやうな眞似は到底我々に出來る話でない。常住坐臥國家の事以外を考へてならないといふ人はあるかも知れないが、さう間斷なく一つ事を考へてゐる人は事實あり得ない。豆腐屋が豆腐を賣つてあるくのは、決して國家の爲に賣つて歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得る爲である。然し當人はどうあらうとも其結果は社會に必要なものを供するといふ點に於て、間接に國家の利益になつてゐるかも知れない。是と同じ事で、今日の午《ひる》に私は飯を三杯たべた、晩には夫を四杯に殖やしたといふのも必ずしも國家の爲に増減したのではない。正直に云へば胃の具合で極めたのである。然し是等も間接の又間接に云へば天下に影響しないとは限らない、否觀方によつては世界の大勢に幾分か關係してゐないとも限らない。然しながら肝心の當人はそんな事を考へて、國家の爲に飯を食はせられたり、國家の爲に顔を洗はせられたり、又國家の爲に便所に行かせられたりしては大變である。國家主義を奬勵するのはいくらしても差支ないが、事實出來ない事を恰も國家の爲にする如くに裝ふのは僞りである。――私の答辯はざつとこんなものでありました。

　一體國家といふものが危くなれば誰だつて國家の安否を考へないものは一人もない。國が強く戰爭の憂が少なく、さうして他から犯される憂がなければない程、國家的觀念は少なくなつてしかるべき譯で、其空虚を充たす爲に個人主義が這入つてくるのは理の當然と申すより外に仕方がないのです。今の日本はそれ程安泰でもないでせう。貧乏である上に、國が小さい。從つて何時どんな事が起つてくるかも知れない。さういふ意味から見て吾々は國家の事を考へてゐなければならんのです。けれども其日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあふとかいふ國柄でない以上は、さう國家々々と騷ぎ廻る必要はない筈です。火事の起らない先に火事裝束をつけて窮屈な思ひをしながら、町内中駈け歩くのと一般であります。必竟ずるに斯ういふ事は實際程度問題で、愈戰爭が起つた時とか、危急存亡の場合とかになれば、考へられる頭の人、――考へなくてはゐられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行く譯で、個人の自由を束縛し個人の活動を切り詰めても、國家の爲に盡すやうになるのは天然自然と云つていゝ位なものです。だから此二つの主義はいつでも矛盾して、何時でも撲殺し合ふなどゝいふやうな厄介なものでは萬々ないと私は信じてゐるのです。此點に就いても、もつと詳しく申し上げたいのですけれども時間がないから此位にして切り上げて置きます。たゞもう一つ御注意までに申し上げて置きたいのは、國家的道�ｺといふものは個人的道�ｺに比べると、ずつと段の低いものの樣に見える事です。元來國と國とは辭令はいくら八釜しくつても、�ｺ義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから國家を標準とする以上、國家を一團と見る以上、餘程低級な道�ｺに甘んじて平氣でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考へると、それが大變高くなつて來るのですから考へなければなりません。だから國家の平穩な時には、�ｺ義心の高い個人主義に矢張り重きを置く方が、私にはどうしても當然のやうに思はれます。其邊は時間がないから今日はそれより以上申上げる譯に參りません。

　私は折角の御招待だから今日まかり出て、出來る丈個人の生涯を送らるべき貴方がたに個人主義の必要を説きました。是は貴方がたが世の中へ出られた後、幾分か御參考になるだらうと思ふからであります。果して私のいふ事が、あなた方に通じたか何うか、私には分りませんが、若し私の意味に不明の所があるとすれば、夫は私の言ひ方が足りないか、又は惡いかだらうと思ひます。で私の云ふ所に、もし曖昧の點があるなら、好い加減に極めないで、私の宅迄御出下さい。出來る丈は何時でも説明する積でありますから。又さうした手數を盡さないでも、私の本意が充分御會得になつたなら、私の滿足は是に越した事はありません。餘り時間が長くなりますから是で御免を蒙ります。

−大正四、三、二二『輔仁會雜誌』−

　

　　　津田青楓君の畫

　

　私は津田青楓君の日本畫をみて何時でも、ぢゞむさい〔五字傍点〕ぢやないかと云ひます。其所には無論非難の意味が籠つてゐるのですから、津田君の方でも中々承知しません。僕はぢゞむさい〔五字傍点〕立場でもつて畫を描くんだなんて妙な事を主張します。凡そ畫の資格と云へば、嚴肅でも、崇高でも、瀟洒でも、輕快でも、みんな資格になるには相違ありませんが、ぢゞむさい〔五字傍点〕のは何う考へたつて藝術的のものぢやありません。私は苦笑して議論を已めてしまはなければなりません。然し退いて考へると、津田君の主張は表面上無茶のやうですが、其内部に立ち入つて見ると中々意味があります。津田君は自分の心持を能く表現出來ないので、斯んな不合理な事をいふのだらうとも思ひます。といふのは津田君の描いたものを見ると、製作自身が津田君の口より遙かに巧みに其邊の消息を物語つてゐるからであります。

　津田君の畫には技巧がないと共に、人の意を迎へたり、世に媚びたりする態度がどこにも見えません。一直線に自分の藝術的良心に命令された通り動いて行く丈です。だから傍《はた》から見ると、自暴《やけ》に急いでゐるやうにも見えます。又何うなつたつて構ふものかといふ投げ遣りの心持も出て來るのです。惡く云へば智慧の足りない藝術の忠僕のやうなものです。命令が下るか下らないうちに、もう手を出して相手を遣つ付けてしまつてゐるのです。從つてまとも〔三字傍点〕であります。然し訓練が足りません、洗練は無論ありません。ぐじや／＼と一氣に片付ける丈です。幸な事には此ぢゞむさい〔五字傍点〕蓬頭垢面といつた風の所に、彼の僞はらざる天眞の發現が伴つてゐるのです。利害の念だの野心だの毀譽褒貶の苦痛だのといふ、一切の塵勞俗累が混入してゐないのです。さうして其好所を津田君は自覺してゐるのです。だから他《ひと》がぢゞむさい〔五字傍点〕と云つて攻撃しても恬として顧みないばかりか、却つてぢゞむさい〔五字傍点〕のが藝術上の一資格ででもあるかの如き斷見さへ振り廻したがるのです。私は津田君の氣分を今の儘にして置いて、津田君の頭にもつと智慧を與へたいと思ひます。智慧と云つたつて、小智小慧を通り過した大きな能力を指すのです。器用だとか、利巧だとか、氣が利いてゐるとか、凡て津田君の美質を破壞する樣な小道具ではないのです。あの猛烈な藝術的本能に、洗練と統一と淨化と渾成とを與へる一種の高い理智の力を指すのです。此至大な�ｺが熟練の結果として外部から手に入るべきものか、又は修養の效能として内部に?酵すべきものか、或は内外相待つて津田君を歩一歩と高い所に誘導して行つて呉れるものか、それは私にも解りません。私はただ津田君が漸を追ひ層を重ねて、さういふ立派な藝術的境界に達せられん事を切望するのであります。私のやうな素人眼から今の畫界を見渡すと、そんな人はまだ何處にも見當らないやうだから、猶津田君にさう成つて貰ひたいのです。

　津田君の西洋畫に就いても、ほんの一口しか云へません。津田君は人物よりも風景、風景よりも靜物を描く人です。是は色々の制限があつて、自然さうしなければならなくなるのでせうが、一方からいふと、又津田君の性質を能く現はしてゐます。會て或る文士が津田君に向つて『君もさう�ｺ利に花ばかり描いてゐないで、ちと銘酒屋の女でも描かないと時勢後れになるぜ』と云つた事があるさうですが、津田君はたとひ時勢後れになつても、靜物が描きたいのだらうと思ひます。その特色さへ認める事の出來ない文士こそ、津田君から云へば、他の箇性を斟酌しないといふ點に於て、現に時勢後れかも知れません。

　津田君は色彩の感じの豐富な人です。パレツトを見ると其人の畫の色が分るといひますが、津田君は臨機應變に色々な取り合せをして、夫々趣のある色彩を出すやうです。さうして自分はそれを自覺してゐないやうです。たゞ或一點に就いて、津田君と私とは色彩の感じが全く反對です。津田君は私の好かないものを平氣にごて／＼使ひます。其所になると私は辟易します。

　折角の御依頼で是丈の事を書きました。無論畫家としての津田君の價値を何う斯うするといふ程の大したものではありません。まあ一場の茶話し位な所ですから、其積りで御讀みを願ひます。貴誌の埋草にされる分は厭ひませんが、若し他に立派な評論などがあつて、不足なく頁を揃へる事が出來るなら、是は掲載を御見合せ下すつた方が、却つて私の素志に適ふ位のものなのです。

　　　　　　−大正四、一〇、一一『美術新報』−

　

　　　點頭録

　

また正月が來た

　

　また正月が來た。振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。何時の間に斯う年齡《とし》を取つたものか不思議な位である。

　此感じをもう少し強めると、過去は夢としてさへ存在しなくなる。全くの無になつてしまふ。實際近頃の私は時々たゞの無として自分の過去を觀ずる事がしば／＼ある。いつぞや上野へ展覽會を見に行つた時、公園の森の下を歩きながら、自分は或目的を以て先刻《さつき》から足を運ばせてゐるにも拘はらず、未だ曾て一寸も動いてゐないのだと考へたりした。是は耄碌の結果ではない。宅《うち》を出て、電車に乘つて、山下で降りて、それから靴で大地の上をしかと踏んだといふ記憶を慥かに有《も》つた上の感じなのである。自分は其時終日行いて未だ曾て行かずといふ句が何處かにあるやうな氣がした。さうして其句の意味は斯ういふ心持を表現したものではなからうかとさへ思つた。

　これをもつと六づかしい哲學的な言葉で云ふと、畢竟ずるに過去は一の假象に過ぎないといふ事にもなる。金剛經にある過去心は不可得なりといふ意義にも通ずるかも知れない。さうして當來の念々は悉く刹那の現在からすぐ過去に流れ込むものであるから、又瞬刻の現在から何等の段落なしに未來を生み出すものであるから、過去に就て云ひ得べき事は現在に就ても言ひ得べき道理であり、又未來に就いても下し得べき理窟であるとすると、一生は終に夢よりも不確實なものになつてしまはなければならない。

　斯ういふ見地から我といふものを解釋したら、いくら正月が來ても、自分は決して年齡《とし》を取る筈がないのである。年齡を取るやうに見えるのは、全く暦と鏡の仕業で、其暦も鏡も實は無に等しいのである。

　驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽ひ盡して儼存してゐるといふ確實な事實である。一擧手一投足の末に至る迄此「我」が認識しつゝ絶えず過去へ繰越してゐるといふ動かしがたい眞境である。だから其處に眼を付けて自分の後を振り返ると、過去は夢｜所《どころ》ではない。炳乎として明らかに刻下の我を照しつゝある探照燈のやうなものである。從つて正月が來るたびに、自分は矢張り世間竝に年齡を取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。

　生活に對する此二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに兩存して、普通にいふ所の論理を超越してゐる異樣な現象に就いて、自分は今何も説明する積はない。又解剖する手腕も有たない。たゞ年頭に際して、自分は此一體二樣の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覺悟をした迄である。

　若し無に即して云へば、自分は今度の春を迎へる必要も何もない。否明治の始めから生れないのと同じやうなものである。然し有になづんで云へば、多病な身體が又一年生き延びるにつけて、自分の爲すべき事はそれ丈量に於て増すのみならず、質に於ても幾分か改良されないとも限らない。從つて天が自分に又一年の壽命を借して呉れた事は、平常から時間の缺乏を感じてゐる自分に取つては、何の位の幸福になるか分らない。自分は出來る丈餘命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けてゐる。

　趙州《でうしう》和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古佛晩年發心と人に云はれた丈あつて、六十一になつてから初めて道に志した奇特な心懸の人である。七歳の童兒なりとも、我に勝るものには我れ即ち彼に問はん、百歳の老翁なりとも我に及ばざる者には我れ即ち侘を教へんと云つて、南泉といふ禅坊さんの所へ行つて二十年間倦まずに修業を繼續したのだから、卒業した時にはもう八十になつてしまつたのである。夫から趙州の觀音院に移つて、始めて人を得度し出した。さうして百二十の高齡に至る迄化導を專らにした。

　壽命は自分の極めるものでないから、固より豫測は出來ない。自分は多病だけれども、趙州の初發心の時よりもまだ十年も若い。たとひ百二十迄生きないにしても、力の續く間、努力すればまだ少しは何か出來る樣に思ふ。それで私は天壽の許す限り趙州の顰にならつて奮勵する心組でゐる。古佛と云はれた人の眞似も長命も、無論自分の分でないかも知れないけれども、羸弱なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に對して、あらゆる意味に於ての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を盡さうと思ふのである。自分は點頭録の最初に是丈の事を云つて置かないと氣が濟まなくなつた。

　

　　　　　軍國主義

　

　　　　　　　一

　

　今度の歐洲戰爭が爆發した當時、自分は或人から突然質問を掛けられた。

　「何んな影響が出て來るでせう」

　「左樣」

　自分は實際考へる暇を有たなかつた。けれども答へなければならなかつた。

　「何んな影響が出て來るか、來て見なければ無論解りませんけれども、何しろ吾々が是はと驚ろくやうな目覺ましい結果は豫期しにくいやうに思ひます。元來事の起りが宗教にも道義にも乃至一般人類に共通な深い根柢を有した思想なり感情なり欲求なりに動かされたものでない以上、何方が勝つた所で、善が榮えるといふ譯でもなし、又何方が負けたにした所で、眞が勢を失ふといふ事にもならず、美が輝を減ずるといふ羽目にも陷る危險はないぢやありませんか」

　自分はさう云ひ切つて仕舞つた。さうして戰爭の展開する場面が非常に廣い割に、又それに要する破壞的動力が凄じい位猛烈な割に、案外落付いてゐられるのは、全く此見解が知らず／＼胸の裡にあるからだらうと、私かに自分で自分を判斷した。

　實際此戰爭から人間の信仰に革命を引き起すやうな結果は出て來やうとも思はれない。又從來の倫理觀を一變するやうな段落が生じやうとも考へられない。是が爲に美醜の標準に狂ひが出やうとは猶更懸念できない。何《ど》の方面から見ても、吾々の精神生活が急劇な變化を受けて、所謂文明なるものゝ本流に、強い角度の方向轉換が行はれる虞はないのである。

　戰爭と名のつくものゝ多くは古來から大抵斯んなものかも知れないが、ことに今度の戰爭は、其仕懸の空前に大袈裟な丈に、やゝともすると深みの足りない裏面を對照として却て思ひ出させる丈である。自分は常にあの彈丸とあの硝藥とあの毒瓦斯とそれからあの肉團と鮮血とが、我々人類の未來の運命に、何の位の貢獻をしてゐるのだらうかと考へる。さうして或る時は氣の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に折々は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ殘酷な事實を自白せざるを得ない。左樣した立場から眺めると、如何に凄じい光景でも、如何に腥ぐさい舞臺でも、それに相應した内面的背景を具へて居ないといふ點に於て、又それに比例した強硬な脊髄を有して居ないといふ意味に於て、淺薄な活動寫眞だの輕浮なセンセーシヨナル小説だのと擇ぶ所がないやうな氣になる。たとひ殺傷に參加する人々個々《にん／＼こゝ》の頭上には、千差萬別の悲劇が錯綜紛糾して、時々刻々に彼等の運命を變化しつゝあらうとも、それは當座限りの影響に過ない。永久に吾人一般の内面生活を變色させるやうな強い結果は何處からも生れて來ない。とすると、今度の戰爭は有史以來特筆大書すべき深刻な事實であると共に、まことに根の張らない見掛倒しの空々しい事實なのである。

　

　　　　　　　二

　

　然しもう少し低い見地に立つて、もつと手近な所を眺めると、此戰爭の當然將來に齎すべき結果は、いくらでも吾々の視線の中に這入つて來なければならない。政治上にせよ、經濟上にせよ、向後解決されべき諸問題は何の位彼等の前に横はつてゐるか分らないと云つても好い位である。

　其中で事件の當初から最も自分の興味を惹いたもの、又現に惹きつゝあるものは、軍國主義の未來といふ問題に外ならなかつた。人道の爲の爭ひとも、信仰の爲の闘ひとも、又意義ある文明の爲の衝突とも見做す事の出來ない此砲火の響を、自分はたゞ軍國主義の發現として考へるより外に翻譯の仕樣がなかつたからである。歐洲大亂といふ複雜極まる混亂した現象を、斯う鷲攫に纏めて觀察した時、自分は始めて此戰爭に或意味を附着する事が出來た。さうして重に其意味からばかり勝敗の成行を眺めるやうになつた。從つて個人としての同情や反感を度外に置くと、獨逸だの佛蘭西だの英吉利だのといふ國名は、自分に取つてもう重要な言葉でも何でもなくなつて仕舞つた。自分は軍國主義を標榜する獨逸が、何の位の程度に於て聯合國を打ち破り得るか、又何れ程根強くそれらに抵抗し得るかを興味に充ちた眼で見詰めるよりは、遙により鋭い神經を働かせつゝ、獨逸に因つて代表された軍國主義が、多年英佛に於て培養された個人の自由を破壞し去るだらうかを觀望してゐるのである。國土や領域や羅甸民族やチユトン人種や凡て具象的な事項は、今の自分に左した問題になつてゐない。

　獨逸は當初の予期に反して頗る強い。聯合軍に對して是程持ち應へやうとは誰しも思つてゐなかつた位に強い。すると勝負の上に於て、所謂軍國主義なるものゝ價値は、もう大分世界各國に認められたと云はなければならない。さうして向後獨逸が成功を收めれば收める程、此價値は漸々高まる丈である。英吉利のやうに個人の自由を重んずる國が、強制徴兵案を議會に提出するのみならず、それが百五對四百三の大多數を以て第一讀會を通過したのを見ても、其消息はよく窺はれるだらう。

　かつてギツシングの書いたものを讀んだら、小さいうち學校で體操を強ひられるのが、非常の苦痛と不快を彼に與へたといふ事が精しく述べてあつた末に、もしわが英國で本人の意思に逆つて迄も徴兵を強制するやうになつたと假定したら、自分は何んな心持になるだらう、さういふ事實は萬々起る筈はないのだけれども、たゞ想像して見てさへ堪へられないと附け加へてあつた。ギツシングのやうな獨居を好む人は特別だと云ふかも知れないが、英國人の自由を愛する念と云つたら、殆ど第二の天性として一般に行き渡つてゐるのだから、強制徴兵に對する嫌惡の情は、誰しもギツシングに讓らないと見ても間違はないのである。其英國で無理にも國民を兵籍に入れやうとするのには至大の困難があると思はなければならない。其困難を冒して新しい議案が持ち出され、又其議案が過半の多數に因つて通過されたとすると、現に非常な變化が英國民の頭の中に起りつゝある證據になる。さうして此變化は既に獨逸が眞向に振り翳してゐる軍國主義の勝利と見るより外に仕方がない。戰爭がまだ片付かないうちに、英國は精神的にもう獨逸に負けたと評しても好い位のものである。

　

　　　　　　　三

　

　開戰の劈頭から首都巴里を脅かされやうとした佛蘭西人の腦裏には英國民よりも遙に深く此軍國主義の影響が刻み付けられたに違ない。たゞでさへ何うして獨逸に復讐してやらうかと考へ續けに考へて來た彼等が、愈となると、却て其獨逸の爲に領土の一部分を蹂躪されるばかりか、政廳さへ遠い所へ移さなければならなくなつたのは、彼等に取つて甚だ痛ましい事實である。其事實を眼前に見た彼等の精神に、一種の強い感銘が起るのも亦必然の結果と云はなければなるまい。飛行船から投下された爆彈以外に、まだ寸土も敵兵に踏まれてゐない英國に比較すると、此精神的打撃は更に幾倍の深刻さを加へてゐると見るのが正に妥當の見解である。

　不幸にして強制徴兵案の樣に自分の想像を事實の上で直接確めて呉れる程の鮮やかな現象が、佛蘭西ではまだ起つてゐないから、自分は自分の臆説をさう手際よく實際に證明する譯に行かない。けれども戰爭の經過につれて、彼等の公表する思想なり言説なりに現れて來る變化を迹付ければ、自分の考への大して正鵠を失つてゐない事丈は略慥なやうに思はれる。此間或雜誌で「力」といふ觀念に就て獨佛兩者を比較したパラントといふ人の文章を讀んだ時、自分は益其感を深くした。

　彼は「力」といふ考への中に、獨逸人の混入した不純な概念を列擧した末、佛蘭西のそれも矢張變に歪んでしまつたといふ事を下の樣に説いてゐる。

　『佛蘭西では科學的に所謂「力」といふものが正義權利の觀念と衝突した。ルーテル式獨逸式ではないが、ルソー式、トルストイ式、四海同胞式、平和式、平等式、人道式なる此觀念のために本來の「力」といふ考へがつい曲げられて不�ｺ不仁の屬性を帶びるやうになつてしまつた。そこで正義と人道と平和の爲に此「力」といふものを輕蔑し且否定しなければならなくなつた。さうして美と正義を一致させ、美と調和を一致させる美學を建設した。奮闘も差別も自然の法則であるといふ事を忘れた。美其物も一種の「力」であり、又「力」の發現であるといふ事を忘れた。正義其物も本來の意味から云へば平衡を得た「力」に過ぎないといふ事を忘れた。「力」の方が原始的で、正義の方は却て轉來的であるといふ事も忘れた。斯んな僻見に比べるとニーチエの方が何の位尤もであつたか分らない。……そこで吾々は何うしても「力」といふ觀念をこゝで一新する必要がある。さうして本當の意味でもう一度それを評價の階段中に入れ易へなければならない。自然の法則を現すといふ點に於て「力」は科學的なものである。勝利を冀ふ人間の精神を現すといふ點に於て「力」は高尚なものである。吾々はもう權利と「力」とを對立させる事を已めなければ行《い》けない。權利がなくつて負けるのはまだしもだが、權利がある上に負けるのは二重の敗北である。最大の損害である。無上の不幸である』

　冗漫と難澁とを恐れて、わざと大意丈を抄譯した此一節を讀んで見ても、相手の軍國主義が何んな風に佛蘭西の思想界の一部に食ひ入りつゝあるかが解るだらう。

　

　　　　　　　四

　

　すると戰爭のまだ落着しないうちから、年來獨逸によつて標榜された軍國的精神なるものは既に敵國を動かし始めたのである。遠い東の果に住んでゐる吾々の視聽を刺戟する位強く彼等の心を動かし始めたのである。さうして此影響はたとひ今度の戰爭が片付いても、容易に彼等の腦裏から拭ひ去る事が出來ないのである。單に過去の經驗を痛切に記憶すべく餘儀なくされた結果として拭ひ去る事が出來ないばかりでなく、未來に對する配慮からしても到底此影響を超越する譯には行かないのである。

　待對世界の凡てのものが悉く條件つきで其存在を許されてゐる以上、向後に回復されべき歐洲の平和にも、亦絶對の權威が伴つてゐない事だけは誰の眼にも明かである。然し彼等が其平和の必要條件として、それとは全く兩立しがたい腕力の二字を常に念頭に置くべく強ひられるに至つては、彼等と雖も今更ながら天のアイロニーに驚かざるを得まい。現代に所謂列強の平和とはつまり腕力の平均に外ならないといふ平凡な理窟を彼等は又新しく天から教へられたのである。土俵の眞中で四つに組んで動かない力士は、外觀上至極平和さうに見える。今迄彼等の享有した平和も、實はそれ程に高價で、又それ程に苦痛性を帶びてゐたのである。しかも彼等は相撲取のやうにそれを自覺してゐなかつたために突然罰せられた。換言すれば生存上腕力の必要を向後當分の間忘れる事の出來ないやうに遣付けられた。軍國主義が今迄彼等に及ぼした、又是から先彼等に及ぼすべき影響は決して淺いものではない。又短いものではなからう。

　普魯西人は文明の敵だと叫んで見たり、獨逸人が傍にゐると食つた物が消化《こな》れないで困ると云つたりしたニーチエは、偉大なる「力」の主張者であつた。不思議にも彼の力説した議論の一面を、彼の最も忌み惡んだ獨逸人が、今政治的に又國際的に、實行してゐるのである。さうして成效してゐるのである。軍國主義の精神には一時的以上の眞理が何處かに伏在してゐると認めても差支ないかも知れない。

　然し自分の軍國主義に對する興味は、此處迄觀察して來ると其處で消えてしまはなければならない。自分はこれ以上同じ問題に就いて考へる必要を認めない。又手數も厭はしい氣がする。自分はもつと高い場所に上りたくなる。もつと廣い眼界から人間を眺めたくなる。さうして今獨逸を縱横に且獰猛に活躍させてゐる此軍國主義なるものを、もつと遠距離から、もつと小さく觀察したい。

　將來に於ける人間の生存上赤裸々なる腕力の發現が、大仕掛の準備、即ち戰爭といふ形式を以て世の中に起るとすれば、それを解釋するものは、腕力の發現そのものが目的で人間が戰爭をするのであるとするか、又は目的は他にあるが、それを遂行する手段として已を得ず戰爭に訴へたのだとしなければならない。然し戰爭其物が面白くつて戰爭をしたものが昔からあるだらうか。ナポレオンの樣な此方面の天才ですら、夜打朝懸、軍さの懸引に興味は有つてゐたかも知れないが、たゞ戰ひたいから戰つたのだとは受け取れない。たとひ露骨な腕力沙汰が個人の本能だとしても、相手を殺したり傷けたりしない程度に於て其本能を滿足させるのが人情である。一日に何千何萬といふ人命を賭にして此本能に飽滿の悦樂を與へるのが戰爭であるとは、誰しも云ひ得まい。すると戰爭は戰爭の爲の戰爭ではなくつて、他に何等かの目的がなくてはならない、畢竟ずるに一の手段に過ぎないといふ事に歸着してしまふ。

　何れの方面から見ても手段は目的以下のものである。目的よりも低級なものである。人間の目的が平和にあらうとも、藝術にあらうとも、信仰にあらうとも、知識にあらうとも、それを今批判する餘裕はないが、とにかく戰爭が手段である以上、人間の目的でない以上、それに成效の實力を付與する軍國主義なるものも亦決して活力評價表の上に於て、決して上位を占むべきものでない事は明かである。

　自分は獨逸によつて今日迄鼓吹された軍國的精神が、其敵國たる英佛に多大の影響を與へた事を優に認めると同時に、此時代錯誤的精神が、自由と平和を愛する彼等に斯く多大の影響を與へた事を悲しむものである。

　

　　　　　トライチケ

　

　　　　　　　一

　

　歐洲戰爭が起つてから、獨乙の學者思想家の言論を實際的に解釋するものが續々出て來た。

　最初英吉利の雜誌にはニーチエといふ名前が頻りに見えた。ニーチエは今度の事件が起る十年も前、既に英語に翻譯されてゐる。英吉利の思想界にあつて別に新らしい名前でもない。然し彼等は其名前に特別な新らしい意味を着けた。さうして彼の思想を此大戰爭の影響者である如くに言ひ出した。是は誰の眼にも映る程?繰り返された。基督の道�ｺは奴隷の道�ｺであると罵つたのは正にニーチエであると同時に、ビスマークを憎みトライチケを侮つたのもニーチエであるとすると、彼が斯ういふ解釋を受けて滿足するかどうかは疑問である。本人の思はく如何は別問題として、彼の唱道した超人主義の哲學が、此際獨乙に取つて、何れ程役に立つてゐるかも遠方に生れた自分には殆んど見當が付かない。

　佛蘭西の一批評家は「所謂獨乙的發展」といふ題目の下に、ヘーゲルとビスマークとヰリアム二世の名を列擧した。彼はヘーゲルの樣な純粹の哲學者を軍人政治家と結び付ける許りか、其思想が彼等軍人政治家の實行に深い關係を有してゐるのだといふ事を説明しやうと試みた。彼の云ふ所によると、普魯西の軍國主義はヘーゲルの觀念論の結果に外ならんといふのである。――元來獨乙のアイヂアリズムは觀念の科學であつて、其觀念なるものが又大いに感情的分子を含んでゐる。文字の示現通り單なる冥想や思索でなくつて、場合が許すならば、何時でも實行的に變化するのみならず、時としては侵略的にさへなりかねない程毒々しいものである。アイヂアリズムが論議の援助を受けて、主觀客觀の一致を發見したが最後、こゝに外界と内界の墻壁を破壞して、凡てを吸收し盡さなければ已まない事になる。アイヂアリズムから思ひも寄らない物質主義が現はれてくる。是は最初から無關心で出立しない哲學として、陷るべき當然の結果である。

　此批評家の云ふ事が、果して眞相の解釋であるか何うか、是も自分には分らない。唯遠くにゐて、其土地の空氣を呼吸しない所爲か、斯ういふ説明は自分から見て何うも切實でないやうな氣がする。奇拔な事は突飛な位奇拔とは思ふが、それがため却つて成程と首肯しがたくなる位なものである。

　例を擧げればまだ澤山あるが、さう一々も覺えてゐないから、まづ此位にして置いて、自分は一寸斯ういふ現象に就いてこゝに挿話的ながら考へて見たいと思ふ事がある。

　英佛の評論家は現在の戰爭を單に當面の事實としてばかり眺めてゐないのみならず、又それを政治上の問題としてばかり考へてゐないのみならず、其背後に必ず或思想家なり學者なりの言説を大いなる因子として數へたがつてゐる傾向に見える。實際歐洲の思想家や學者はそれ程實社會を動かしてゐるのだらうか。

　自分は日露戰爭が、我日本の生んだ大哲學者の影響を蒙つて發現したとは決して思はない。日清戰爭も其通りである。戰爭はとにかく、其他の小事件にせよ、我日本に起つた歴史的事實の背景に、思想家の思想を基點として据ゑ得るものは殆んどないやうに思ふ。現代の日本に在つて政治は飽く迄も政治である。思想は又何所迄も思想である。二つのものは同じ社會にあつて、てんでんばら／＼に孤立してゐる。さうして相互の間に何等の理解も交渉もない。たまに兩者の連鎖を見出すかと思ふと、それは發賣禁止の形式に於て起る抑壓的なものばかりである。山陽の日本外史が維新の大業に醗酵分となつて交り込んだのは、例外中の例外で、しかもそれは明治大正以前の事實に過ぎない。日本の思想家が貧弱なのだらうか。日本の政治家の眼界が狹いのだらうか。又は西洋の批評家の解釋に誇張が多過ぎるのだらうか。自分は三つとも否定する譯に行くまいと思ふ。さうして其内で西洋の批評家の誇張が一番少ないやうに思ふ。

　

　　　　　　　二

　

　もしトライチケの名がニーチエやヘーゲルと同じ意味に於て此戰爭の引合に出るならば、自分は少なくとも是丈の事を頭のうちに入れて置く方が便利だと考へる。さうすれば大した困難と誤解なしに、現下獨乙に於る彼の地位が、比較的明瞭に想像され得るからである。

　ニーチエやヘーゲルは此事件後に復活した名前ではない。只在來の名前に英佛人が新らしい意義を付けた丈である。疾うから知れてゐる彼等の内容を、一種の刺戟に充ちた異樣の眼で、特別に眺めた丈である。トライチケも復活した名でないかも知れない。けれども前者と違つて、此際新らしい解釋を受ける必要のない名である。今迄のトライチケを今迄通りに見てゐれば、視線の角度を改める必要も手數も要らないで、すぐ彼と今度の戰爭との關係が解るのである。彼の説はニーチエ程高踏的でなかつた。孤峯頂上から下界へ向つて命令するが如き態度で、詩のやうな哲學、又哲學のやうな詩を絶叫しはしなかつた。無論ヘーゲル程神秘の雲のうちに隱れて辨證の稻妻を雙手に弄する人ではなかつた。彼は最初から確實に地上を歩いてゐた。のみならず彼の眼界は狹い獨乙によつて東西南北共に仕切られてゐた。從つて今更新らしく彼を翻譯する必要もなければ又しやうとした所で其餘地もないのである。たゞ當時の彼を當時の儘引き延ばして、今の戰爭に連續させさへすれば、それで兩者の關係は可なり判然するのである。自分はわざと兩者の關係と云つた。實は彼が今次の大戰爭に及ぼした影響と云ひたいのであるが、それはニーチエやヘーゲルの場合と同じく、影響の程度からいつて、自分には能く解らないから、仕方なしにさういふ言葉遣ひを遠慮した。しかも其上に前述べた通り、彼我國情の差違竝びに批評家の誇張などを念頭に置いて、是からトライチケを一瞥しやうとするのである。

　千八百三十四年ドレスデンに生れた彼は、父が軍籍に在つた關係から云つても、母が士官の娘であつた因縁から見ても、兵士たるべき運命を有つて生れたと同じ事であつた。小供の時、疱瘡に罹つたのと、それに引き續いて耳の病氣に冒されたので、幸か不幸か、彼は彼の既定の行路を全然見捨てなければならなくなつた。

　然し十四位から彼の父に送る手紙の中には、もう政治上の意見などがちらほら散見し始めたさうである。さうして十六になるかならない内に、彼はいつの間にか熱烈なる獨乙統一論者になつて仕舞つた。無論普魯西を盟主としなければならないといふのが、彼の當初からの主張であつた。彼がライプチツヒに遊學した頃、教授の講義は碌に聽きもせず、手當り次第に一人ぼつちの亂讀を恣まにした時ですら、書物から得る凡ての知識は、みな此普魯西中心の國家といふ大理想を構成する爲に利用されたのである。

　彼はマキア?ルを讀んだ。正義だらうが道�ｺだらうが、國家の爲ならば、何時犠牲に供しても差支ないものだといふ信念を抱くやうになつた。專政だらうが壓制だらうが、苟も國家の統一を維持し、又國家の威力を増進する以上は、いくら何う用ひても構はないものだといふ決論に到着した。さうして其意見を彼の父に書いて遣つた。是は彼がゲツチンゲンで修業してゐる頃で、年齒《とし》にすると二十二三の時の事である。

　

　　　　　　　三

　

　東西南北どちらの方角を眺めても、彼の眼に映ずるものは悉く獨乙の敵であつた。彼は魯西亞を輕蔑した。年來獨乙の統一に反對する墺地利も、彼の憎惡を免かれなかつた。ミルトンとシエクスピヤを嘆美しながらも、それらの詩人を有する英吉利は、彼から見ると獨乙の發展に妨害ある一種の邪魔物に過ぎなかつた。彼は到底一戰爭しなければ濟まないと考へた。さうして其戰爭から眞に強固にして健全な獨乙が生れて來るといふ事を信じて疑はなかつた。

　多數の聽講生を有する彼は、此目的を以て大學で普國史を講じ出した。ごた／＼した小邦はみんな取り潰してしまはなければならないといふ彼の本意は、此一事でも窺はれた。彼は自ら小邦に生れた事を忘れた。彼の父に對する義理も忘れた。彼は父に向つて云つた。

　「親子の情合のために自分の信念を枉げる事は、私には何うしても出來ません」

　彼は此言葉と共にライプチツヒを去つた。再び招かれて其所で演説を試みた時、彼は獨乙統一のために、?のやうな熱烈の言辭を二萬の聽衆の上に浴せ掛けた。無邪氣な彼等は呆然として驚ろいた。

　所へビスマークが現はれた。さうしてビスマークは彼の要する理想の人物であつた。ビスマークの時めく普魯西政府は猶の事統一の中心にならねばならなかつた。彼の所謂「國家」とならねばならなかつた。「第一に自由、夫から統一」といふ叫び聲を無意味なものとして聞き流した彼は、「第一に國家の權利、夫から國家」といふ旗幟を無遠慮に押し立てた。さうして其國家は即ち普魯西である。他の小邦は幾多の犠牲を甘んじても、此中央政府の意志と命令に從はなければならないといふのが彼の意見であつた。

　「國家の實質とも見傚し得べき「力」を有たない小邦が、何で國家を代表する事が出來よう」

　彼は斯ういつて、多くの小邦を睥睨した。其内には彼の故郷のサクソニーも無論含まれてゐた。

　千八百六十七年ビスマークの力によつて成就された北獨乙の聯合は、此意味から見て、彼の理想をある程度迄現實にしたものに違なかつた。其結果として凡てに課せられたる義務兵役と、其義務兵役から生ずる驚ろくべき多くの軍隊とは、支配權を有する普魯西に取つて大いなる力であつた。それを獨乙勢力の増進に必要な條件、即ち西方發展策に應用したのが即ち普佛戰爭なのである。

　彼の教授を受けた多くの學生は其時從軍した。彼等の一人が熱烈な告別の辭を述べた時、「どんな犠牲を拂つても勝て」と云つた彼は、忽ちヒーローとして青年から目されるやうになつた。彼は固より獨乙の勝利を信じて疑はなかつたのである。さうして不思議の沈黙に陷つたかと思ふと、彼は負けた佛蘭西に課すべき條件の項目を其間に調べ出した。彼はアルサス、ローレンの歴史を研究した末、此二州は元々獨乙のものであつたのだから、戰勝後は當然舊主の手に歸るべきものだといふ説を發表した。

　

　　　　　　　四

　

　獨乙は勝つた。獨乙帝國は成立した。彼が十年の間夢に迄見た希望は遂に達せられた。

　「統一の星は上つた。其途を妨ぐるものは災を蒙れ」

　是が彼の言葉であつた。此光輝ある時期に際會しながら、猶且つ厭世哲學を説くハルトマンの如きは畢竟ずるに一種の精神病者に過ぎないと彼は斷言した。其癖意志の肯定は國家として第一の義務であると主張する彼は、ハルトマンによつて復活されたる意志の哲學、即ち宇宙實在の中心點を意志の上に置く哲學によつて大いに動かされたのである。彼は實社界を至極手荒いものに考へた。仁義博愛は口に云ふべくして政治上に行ふべきものでないと信じた。斯くして彼はあらゆる人道的及び自由主義の運動に反對したのである。……

　自分はトライチケの影響で今度の歐洲戰爭が起つたとは云はない。彼の生時にあつてすら、彼はビスマークの顧問でもなければ又助言者でもなかつた。彼の主張とビスマークの實行とは寧ろ偶然に一致したのだらう。たとひ彼が鐡血宰相の謳歌者であつたにした所で、謳歌されるビスマークの方では、夫程彼の言論に動かされてゐなかつたかも知れない。それにも拘はらず結果から云へば、彼はビスマークの政治上で斷行した事を、彼の學説と言論によつて一々裏書したと云つても差支ないのである。さうして今日の獨乙が、社會主義者其他の反抗に關せず、當時の方針を基儘繼續して、其極今度の大亂を引き起したとすれば、思想家としてトライチケの獨乙に對する立場も亦自然明瞭になつた譯である。

　是丈の關係を明かにすると、自分の癖として、又根本問題に立ち返つて、質問が起したくなる。

　「トライチケの鼓吹した軍國主義、國家主義は畢竟獨乙統一の爲ではないか。其統一は四圍の壓迫を防ぐためではないか。既に統一が成立し、帝國が成立し、侵略の虞なくして獨乙が優に存在し得た曉には撤回すべき性質のものではないか。もし永久に此主義で押し通すとならば、論理上此主義其物に價値がなくてはならない。さうして其價値によつて此主義の存在が保證されなければならない。そんな價値が果して何處から出て來るだらうか」

　個人の場合でも唯喧嘩に強いのは自慢にならない。徒らに他《ひと》を傷《あや》める丈である。國と國とも同じ事で、單に勝つ見込があるからと云つて、妄りに干戈を動かされては近所が迷惑する丈である。文明を破壞する以外に何の效果もない。勝つたものは勝つた後で、其損害を償ふ以上の貢獻を、大きな文明に對してしなければならない筈である。少なくとも其心掛がなくてはならない筈である。自分は今の獨乙にそれ丈の事を仕終せる精神と實力があるか何うかを危ぶまざるを得ないのである。

　するとトライチケの主張は獨乙統一前には生存上有效でもあり必要でもあり合理的でもあつて、今の獨乙には無效で不必要で不合理なものかも知れないといふ事に歸着する。

　然しながら彼は云つた。――

　「ヰリアム帝は獨乙に祖國を與へたるのみならず、より平衡を得たる又より合理的なる支配の下に文明世界を置いた。全世界を健全にするは獨乙の事業なりと云つた詩人ガイベルの言葉は今に實現せられるだらう」

　して見るとトライチケは、獨乙が全歐のみならず、全世界を征服する迄、此軍國主義國家主義で押し通す積だつたかも知れない。然しながら、我々人類が悉く獨乙に征服された時、我々は其報酬として獨乙から果して何を給與されるのだらう。獨乙もトライチケもまづ其所から説明してかゝらなければならない。

大正五、一、一‐二一『東京朝日新聞』

　

　　　入社の辭

　

　大學を辭して朝日新聞に這入つたら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決斷だと褒めるものがある。大學をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかつた。余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。成功せぬ事を豫期して十餘年の徑路を一朝に轉じたのを無謀だと云つて驚くなら尤である。かく申す本人すら其の點に就ては驚いて居る。然しながら大學の樣な榮譽ある位置を抛つて、新聞屋になつたから驚くと云ふならば、やめて貰ひたい。大學は名誉ある學者の巣を喰つてゐる所かも知れない。尊敬に價する教授や博士が穴籠りをしてゐる所かも知れない。二三十年辛抱すれば勅任官になれる所かも知れない。其他色々便宜のある所かも知れない。成程さう考へて見ると結構な所である。赤門を潜り込んで、講座へ這ひ上らうとする候補者は――勘定して見ないから、幾人あるか分らないが、一々聞いて歩いたら餘程ひまを潰す位に多いだらう。大學の結構な事は夫でも分る。余も至極御同意である。然し御同意と云ふのは大學が結構な所であると云ふ事に御同意を表したのみで、新聞屋が不結構な職業であると云ふ事に賛成の意を表したんだと早合點をしてはいけない。

　新聞屋が商賣ならば、大學屋も商賣である。商賣でなければ、教授や博士になりたがる必要はなからう。月俸を上げてもらふ必要はなからう。勅任官になる必要はなからう。新聞が商賣である如く大學も商賣である。新聞が下卑た商賣であれば大學も下卑た商賣である。只個人として營業してゐるのと、御上で御營業になるのとの差丈けである。

　大學では四年間講義をした。特別の恩命を以て洋行を仰つけられた二年の倍を義務年限とすると此四月で丁度年期はあける譯になる。年期はあけても食へなければ、いつ迄も噛り付き、獅噛みつき、死んでも離れない積でもあつた。所へ突然朝日新聞から入社せぬかと云ふ相談を受けた。擔任の仕事はと聞くと只文藝に關する作物を適宜の量に適宜の時に供給すればよいとの事である。文藝上の述作を生命とする余にとつて是程難有い事はない、是程心持ちのよい待遇はない、是程名譽な職業はない、成功するか、しないか抔と考へて居られるものぢやない。博士や教授や勅任官抔の事を念頭にかけて、うん／＼、きゆう／＼云つてゐられるものぢやない。

　大學で講義をするときは、いつでも犬が吠えて不愉快であつた。余の講義のまづかつたのも半分は此犬の爲めである。學力が足らないからだ抔とは決して思はない。學生には御氣の毒であるが、全く犬の所爲だから、不平は其方へ持つて行つて頂きたい。

　大學で一番心持ちの善かつたのは圖書館の閲覽室で新着の雜誌抔を見る時であつた。然し多忙で思ふ樣に之を利用する事が出來なかつたのは殘念至極である。しかも余が閲覽室へ這入ると隣室に居る館員が、無暗に大きな聲で話をする、笑ふ、ふざける。清興を妨げる事は莫大であつた。或時余は坪井學長に書面を奉て、恐れながら御成敗を願つた。學長は取り合はれなかつた。余の講義のまづかつたのは半分は是が爲めである。學生には御氣の毒だが、圖書館と學長がわるいのだから、不平があるなら其方《そつち》へ持つて行つて貰ひたい。余の學力が足らんのだと思はれては甚だ迷惑である。

　新聞の方では社へ出る必要はないと云ふ。毎日書齋で用事をすれば夫で濟むのである。余の居宅の近所にも犬は大分居る、圖書館員の樣に騷ぐものも出て來るに相違ない。然しそれは朝日新聞とは何等の關係もない事だ。いくら不愉快でも、妨害になつても、新聞に對しては面白く仕事が出來る。雇人が雇主に對して面白く仕事が出來れば、是が眞正の結構と云ふものである。

　大學では講師として年俸八百圓を頂戴してゐた。子供が多くて、家賃が高くて八百圓では到底暮せない。仕方がないから他に二三軒の學校を馳あるいて、漸く其日を送つて居た。いかな漱石もかう奔命につかれては神經衰弱になる。其上多少の述作はやらなければならない。醉興に述作をするからだと云ふなら云はせて置くが、近來の漱石は何か書かないと生きてゐる氣がしないのである。夫丈けではない。教へる爲め、又は修養の爲め書物も讀まなければ世間へ對して面目がない。漱石は以上の事情によつて神經衰弱に陷つたのである。

　新聞社の方では教師としてかせぐ事を禁じられた。其代り米塩の資に窮せぬ位の給料をくれる。食つてさへ行かれゝば何を苦しんでザツトのイツトのを振り廻す必要があらう。やめるなと云つてもやめて仕舞ふ。休《や》めた翌日から急に脊中が輕くなつて、肺臓に未曾有の多量な空氣が這入つて來た。

　學校をやめてから、京都へ遊びに行つた。其地で故舊と會して、野に山に寺に社に、いづれも教場よりは愉快であつた。鶯は身を逆まにして初音を張る。余は心を空にして四年來の塵を肺の奧から吐き出した。是も新聞屋になつた御蔭である。

　人生意氣に感ずとか何とか云ふ。變り物の余を變り物に適する樣な境遇に置いてくれた朝日新聞の爲めに、變り物として出來得る限りを盡すは余の嬉しき義務である。

−明治四〇、五、三『東京朝日新聞』−

　

　　　『處美人草』豫告

　

　昨夜豐隆子と森川町を散歩して草花を二鉢買つた。植木屋に何と云ふ花かと聞いて見たら虞美人草だと云ふ。折柄小説の題に窮して、豫告の時期に後れるのを氣の毒に思つて居つたので、好加減ながら、つい花の名を拜借して卷頭に冠らす事にした。

　純白と、深紅《しんく》と濃き紫のかたまりが逝く春の宵の灯影《ほかげ》に、幾重の花瓣《はなびら》を皺苦茶に疊んで、亂れながらに、鋸を欺く粗き葉の盡くる頭《かしら》に、重きに過ぎる朶々の冠を擡ぐる風情は、艶とは云へ、一種、妖冶な感じがある。余の小説が此花と同じ趣を具ふるかは、作り上げて見なければ余と雖も判じがたい。

　社では豫告が必要だと云ふ。豫告には題が必要である。題には虞美人草が必要で――ないかも知れぬが、一寸重寶であつた。聊か虞美人草の由來を述べて。虞美人草の製作に取りかゝる。

　　五月二十八日

　　　−明治四〇、五、二八『東京朝日新聞』−

　

　　　〔自著を贈る言葉〕

　　　　　　　　　　――【齋藤阿具へ贈れる『吾輩は猫である』の上卷見返しに】――

　齋藤學兄　　　　　　　　夏目金之助

　此三卷は僕が君の家を拜借してゐた頃玄關脇の書齋に立籠つて月々起稿して遂に出來たものである。僕が千駄木を引き拂ふと同時に君は僕に代つて又舊居に住を移されたに就ては記念の爲め一部を進呈したいと思ふ。御受納下さい。

　　明治四十年九月

　

　　　『三四郎』豫告

　

　田舍の高等學校を卒業して東京の大學に這入つた三四郎が新しい空氣に觸れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接觸して色々に動いて來る、手間《てま》は此空氣のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自《おのづか》ら波瀾が出來るだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに讀者も作者も此空氣にかぶれて是等の人間を知る樣になる事と信ずる、もしかぶれ甲斐のしない空氣で、知り榮のしない人間であつたら御互に不運と諦めるより仕方がない、たゞ尋常である、摩訶不思議は書けない。

　　　−明治四一、八、一九『東京朝日新聞』−

　

　　　『それから』豫告

　

　色々な意味に於てそれから〔四字傍点〕である。「三四郎」には大學生の事を描たが、此小説にはそれから先の事を書いたからそれから〔四字傍点〕である。「三四郎」の主人公はあの通り單純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此點に於ても、それから〔四字傍点〕である。此主人公は最後に、妙な運命に陷る。それからさき何うなるかは書いてない。此意味に於ても亦それから〔四字傍点〕である。

　　　−明治四〇、五、二八『東京朝日新聞』−

　

　　　元日

　

　元日を御目出たいものと極めたのは、一體何處の誰か知らないが、世間が夫れに雷同してゐるうちは新聞社が困る丈である。雜録でも短篇でも小説でも乃至は俳句漢詩和歌でも、苟くも元日の紙上にあらはれる以上は、いくら元日らしい顔をしたつて、元日の作でないに極つてゐる。尤も師走に想像を逞しくしてはならぬと申し渡された次第でないから、節季に正月らしい振をして何か書いて置けば、年内に餅を搗いといて、一夜明けるや否や雜※［者／火］として頬張る位のものには違ないが、御目出たい實景の乏しい今日、御目出たい想像などは容易に新聞社の頭に宿るものではない。それを無理に御目出たがらうとすると、所謂太倉の粟陳々相依るといふ頗る目出度ない現象に腐化して仕舞ふ。

　諸君子は已を得ず年にちなんで、鷄の事を書いたり、犬の事を書いたりするが、是は寧ろ駄洒落を引き延ばした位のもので、要するに元日及び新年の實質とは痛痒相冒す所なき閑事業である。いくら初刷だつて、そんな無駄話で十頁も二十頁も埋られた日には、元日の新聞は單に重量に於て各社ともに競爭する譯になるんだから、其の出來不出來に對する具眼の審判者は、讀者のうちでたゞ屑屋丈だらうと云はれたつて仕方がない。

　さればと云つて、既に何十頁と事が極つてる上に、頭數を揃へる方が便利だと云ふ譯であつて見れば、たとひ具眼者が屑屋だらうが經師屋だらうが相手を擇んで筆を執るなんて贅澤の云はれた家業ぢやない。去年は「元旦」と見出を置いて一寸考へた。何も浮で來なかつたので、一昨年の元日の事を書いた。一昨年の元日に虚子が年始に來たから、東北《とうぼく》と云ふ謠をうたつたところ、虚子が鼓を打ち出したので、余の謠が大崩になつたといふ一段を編輯へ廻した。實は本當の元日なら、余の謠はもつと上手になつてる譯だから、其の上手になつた所を有の儘に告白したかつたのだが、如何せん、筆を執つてる時は、元日にまだ間《ま》があつたし、且虚子が年始に見えるとも見えないとも極まつてゐなかつた上に、謠をうたふ事も全然未定だつたので、營業上已を得ず一年前の極めて告白し難い所を告白したのである。此の順で行くと此年は又去年の元日を讀者に御覽に入れなければならん譯であるが、さう／＼過去のまづい所ばかり吹聽するのは、如何にも現在の己に對して侮辱を加へるやうで濟まない氣がするから故意《わざ》と略した。それで猶の事｜塞《つか》へた。

　元日新聞へ載せるものには、どうも斯ふ云ふ困難が附帶して弱る。現に今原稿紙に向つてゐるのは、實を云ふと十二月二十三日である。家《うち》では餅もまだ搗かない。町内で松飾りを立てたものは一軒もない。机の前に坐りながら何を書かうかと考へると、書く事の困難以外に何だか自分一人御先走つてる樣な氣がする。それにも拘らず、書いてる事が何處となく屠蘇の香《か》を帶びてゐるのは、正月を迎へる想像力が豐富なためではない。何でも接《つ》ぎ合はせて物にしなければならない義務を心得た文學者だからである。もし世間が元日に對する僻見を撤回して、吉凶禍福共にこも／”＼起り得べき、平凡且亂雜なる一日と見做して呉れる樣になつたら、余も亦余所行の色氣を拔いて平常の心に立ち返る事が出來るから、たとひ書く事に醉拂ひの調子が失せないにしても、もつと樂に片付けられるだらうと思ふ。尤もさうなれば、初刷の頁も平常に復する譯だから、とくに元日に限つて書かねばならぬ必要も消滅するかも知れない。それも物淋しい樣だが、昨今の如き元日に對して調子を合せた文章を書かうとするのは、丁度文部大臣が新しい材料のないのに拘らず、あらゆる卒業式に臨んで祝詞を讀むと一般である。

−明治四三、一、一『東京朝日新聞』−

　

　　　霞寶會設立主旨

　

　下掛寶生流は脇方中最後に發展せるものにて、形に謠に一種の特色あるのみならず、現今脇方拂底の際に當つては演藝上殆んど絶對的に必要の流派なれば、其消長は、一般能樂界の盛衰に至大の關係を及ぼす事無論なりとす。故に吾人は此會を設立し、廣く同志の賛助を得て、斯道の爲めに微力を致さんとす。大方の諸君流派の如何に拘泥せず、能樂保存の大眼目を以て續々賛助加盟あらんことを希望す。

　　　　　−明治四三、一？−

　

　　　稟告

　

　爾後文藝欄への通信、投稿寄贈の書籍雜誌等は凡て左記へ宛て御發送下さる方取扱上都合宜しく候

　　　牛込區早稻田南町七番地

　　　　　　　　　　夏目金之助

　　　　　−明治四三、四、三〇『東京朝日新聞』−

　

　　　〔子規書幅添書〕

　

　右森河北君所藏の幅は亡友子規子の眞蹟にて往年余が松山寄寓中にかれの滿洲よりの歸途余の家に起臥せる折の書なり

　　明治四十三年七月　　　　　　　　　　夏目漱石

　

　　　〔學位問題に就いて〕

　

　學位拒絶の問題が大分八ケ間敷なつて居る學位を與へやうとした人々の量見が好意に出でたのであると云ふ事は勿論の事である。

　とはいへ世間が一般に名譽と思ふものであるからと云ふて推薦した人々の了見が好意に出でたのであると云ふ譯で、受けない方が無理だと論ずるのは餘りに單純である

　親切は押し賣をすべきものでない押し賣をすれば既に親切と云ふ事は出來ない

　學位を與へるのは命令であるとか、與へられた者は、之を受けべき義務があるとか云ふのは俗論である屁理窟である

　學位を與へるのは名譽の爲だと云ふならば無理に與へねはならぬ理由はあるまい官職さへも強制せぬのである名譽を強制する理窟は到底發見することが出來ぬのである

　與へると云つたら喜んで受けるだらうと思つたのは思つた人の誤りである謂はゆる己を以て人を量つたのである手前の手落の爲に人に迷惑をかける理由はあるまい、

　學位抔に頓着しないで獨り自ら高うする者があると云ふのは邦家の爲に寧ろ祝すべきではあるまいか

　與へやうとした初めの親切心に立戻り受けたくないと云ふならば潔く先きの決定を取消せば夫で濟むのである餘り窮窟に考へるから物事が面倒になるのである實に詰らぬ問題と自分は考へる。四月十一日

　　　　　　　　　　　　　　　　−明治四四、四−

　

　　　余と萬年筆

　

　此間魯庵君に會つた時、丸善の店で一日に萬年筆が何本位賣れるだらうと尋ねたら、魯庵君は多い時は百本位出るさうだと答へた。夫では一本の萬年筆がどの位長く使へるだらうと聞いたら、此間横濱のもので、ペンはまだ可なりだが、軸が減つたから軸丈易へて呉れと云つて持つて來たのがあるが、此人は十三年前に一本買つたぎりで、其一本を今日迄絶えず使用してゐたのだといふから、是がまあ一番長い例らしいと話した。して見ると普通の場合ではいくら殘酷に使つても大抵六七年の保證は付けられるのが、一般の萬年筆の運命らしい。一本で夫程長く使へるものが日に百本も出ると云へば萬年筆を需用する人の範圍は非常な勢を以て廣がりつゝあると見ても滿更見當違ひの觀察とも云はれない樣である。尤も多い中には萬年筆道樂といふ樣な人があつて、一本を使ひ切らないうちに飽が來て、又新しいのを手に入れたくなり、之を手に入れて少時《しばらく》すると、又種類の違つた別のものが欲しくなるといつた風に、夫から夫へと各種のペンや軸を試みて嬉しがるさうだが、是は今の日本に澤山あり得る道樂とも思へない。西洋では煙管《パイプ》に好みを有つて、大小長短色々取り交ぜた一組を綺麗に暖爐の上などに竝べて愉快がる人がある。單に蒐集狂といふ點から見れば、此｜煙管《パイプ》を飾る人も、盃を寄せる人も、瓢箪を溜める人も、皆同じ興味に驅られるので、同種類のものゝうちで、素人に分らない樣な微妙な差別を鋭敏に感じ分ける比較力の優秀を愛するに過ぎない。萬年筆狂も性質から云へば、多少實用に近い點で、以上と區別の出來ない事もないが、強いて無くても濟むものを五つも六つも取り揃へるのだから今擧げた種類の蒐集狂と大した變りのある筈がない。たゞ其數に至つては、少なくとも目下の日本の状態では、西洋の煙管氣狂《パイプきちがひ》の十分の一も無からうと思ふ。だから丸善で賣れる一日に百本の萬年筆の九十九本迄は、尋常の人間の必要に逼られて机上若くはポツケツト内に備へ付ける實用品と見て差支あるまい。して見ると、萬年筆が輸入されてから今日迄に既に何年を經過したか分らないが、兎に角高價の割には大變需要の多いものになりつゝあるのは爭ふ可らざる事實の樣である。

　萬年筆の最上等になると一本で三百圓もするのがあるとかいう話である。丸善へ取り寄せてあるのでも既に六十五圓とかいふ高價なものがあるとか聞いた。固より一般の需要は十圓内外の低廉な種類に限られてゐるのだらうが、夫にしても、一つ一錢のペンや一本三錢の水筆に比べると何百倍といふ高價に當るのだから、それが日に百本も賣れる以上は、我々の購買力が此の便利ではあるが贅澤品と認めなければならないものを愛玩するに適當な位進んで來たのか、又は座右に缺くべからざる必要品として價の廉不廉に拘はらず重寶がられるのか何方かでなければならない。然し今其源因を一つに片付けるのは愚の至として、又事實の許す如く、暫く兩方の因數が相合して此需要を引き起したとして、余はとくに余の見地から見て、後者の方に重きを置きたいのである。

　自白すると余は萬年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釋する程に精通してゐない素人なのである。始めて萬年筆を用ひ出してから僅か三四年にしかならないのでも親しみの薄い事は明らかに分る。尤も十二年前に洋行するとき親戚のものが餞別として一本呉れたが、夫はまだ使はないうちに船のなかで器械體操の眞似をしてすぐ壞して仕舞つた。夫から外國にゐる間は常にペンを使つて事を足してゐたし、歸つてから原稿を書かなくてはならない境遇に置かれても、下手な字をペンでがし／＼書いて濟ましてゐた。それで三四年前になつて何故萬年筆に改めようと急に思ひ立つたか、其理由は今一寸思ひ出せないが、第一に便利といふ實際的な動機に支配されたのは事實に違ない。萬年筆に就て何等の經驗もない余は其時丸善からペリカンと稱するのを二本買つて歸つた。さうして夫を未だに用ひてゐるのである。が、不幸にして余のペリカンに對する感想は甚だ宜しくなかつた。ペリカンは余の要求しないのに印氣《インキ》を無暗にぽた／＼原稿紙の上へ落したり、又は是非墨色を出して貰はなければ濟まない時、頑として要求を拒絶したり、隨分持主を虐待した。尤も持主たる余の方でもペリカンを厚遇しなかつたかも知れない。無精《ぶしやう》な余は印氣《インキ》がなくなると、勝手次第に机の上にある何んな印氣でも構はずにペリカンの腹の中へ注《つ》ぎ込んだ。又ブリユー・ブラツクの性來嫌な余は、わざ／＼セピヤ色の墨を買つて來て、遠慮なくペリカンの口を割つて呑ました。其上無經驗な余は如何にペリカンを取り扱ふべきかを解しなかつた。現にペリカンが如何に出澁つても、余は未だかつて彼を洗濯した試《ためし》がなかつた。夫でペリカンの方でも半ば余に愛想を盡かし、余の方でも半ばペリカンを見限つて、此正月「彼岸過迄」を筆するときは又一と時代退歩して、ペンとさうしてペン軸の舊弊な昔に逆戻りをした。其時余は始めて離別した第一の細君を後から懷かしく思ふ如く、一旦見棄たペリカンに未練の殘つてゐる事を發見したのである。唯のペンを用ひ出した余は、印氣《インキ》の切れる度毎に墨壺のなかへ筆を浸《ひた》して新たに書き始める煩はしさに堪へなかつた。幸にして余の原稿が夫程の手數が省けたとて早く出來上る性質のものでもなし、又ペンにすれば余の好むセピヤ色で自由に原稿紙を彩どる事が出來るので、まあ「彼岸過迄」の完結迄はペンで押し通す積でゐたが、其決心の底には何うしても多少の負惜しみが籠つてゐた樣である。

　余の如く機械的の便利には夫程重きを置く必要のない原稿ばかり書いてゐるものですら、又買ひ損なつたか、使ひ損なつたため、萬年筆には多少｜手古擦《てこず》つてゐるものですら、愈萬年筆を全廢するとなると此位の不便を感ずる所をもつて見ると、其他の人が價の如何に拘はらず、毛筆を棄てペンを棄てゝ此方に向ふのは向ふ必要があるからで、財力ある貴公子や道樂息子の玩具に都合のいゝ贅澤品だから賣れるのではあるまい。

　萬年筆の丸善に於る需要をさう解釋した余は、各種の萬年筆の比較研究やら、一々の利害得失やらに就て一言の意見を述べる事の出來ないのを大いに時勢後れの如くに恥ぢた。酒呑が酒を解する如く、筆を執る人が萬年筆を解しなければ濟まない時期が來るのはもう遠い事ではなからうと思ふ。ペリカン丈の經驗で萬年筆は駄目だといふ僕が人から笑はれるのも間もない事とすれば、僕も笑はれない爲に、少しは外の萬年筆も試してみる必要があるだらう。現に此原稿は魯庵君が使つて見ろといつてわざ／＼贈つて呉れたオノトで書いたのであるが、大變心持よくすら／＼書けて愉快であつた。ペリカンを追ひ出した余は其姉妹に當るオノトを新らしく迎へ入れて、それで萬年筆に對して幾分か罪亡ぼしをした積なのである。

−明治四五、六、三〇『萬年筆の印象』−

　

　　　明治天皇奉悼之辭

　

過去四十五年間に發展せる最も光輝ある我が帝國の歴史と終始して忘るべからざる

大行天皇去月三十日を以て崩ぜらる

天皇御在位の頃學問を重んじ給ひ明治三十二年以降我が帝國大學の卒業式毎に行幸の事あり日露戰役の折は特に時の文部大臣を召して軍國多事の際と雖も教育の事は忽にすべからず其局に當る者克く勵精せよとの勅諚を賜はる

御重患後臣民の祈願其效なく遂に崩御の告示に會ふ我等臣民の一部分として籍を學界に置くもの顧みて

天皇の�ｺを懷ひ

天皇の恩を憶ひ謹んで哀衷を卷首に展ぶ

　　　　　−大正元、八、一『法學協會雜誌』−

　

　　　『彼岸過迄』獻辭

　

　此書を

　亡兒雛子と

　亡友三山の

　靈に捧ぐ

　　　　　　−大正元、九、一五−

　

　　　行人續稿に就て

　

　病氣のため完結する事の出來なかつた「行人」の殘部を「明るみへ」の後へ掲載致します。是は左して長いものでないから單行本として出版の時に書き添へる積でゐましたが、「明るみへ」の後に插んでも邪魔にならないといふ保證を社から與へられましたから、讀者への義務を完うするため、同じ紙上で稿を續ぐ事に取り極めました。

　　　　　−大正二、九、一五『東京朝日新聞』−

　

　　　『心』廣告文

　

　自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奬む。

　　　　　−大正三、九−

　

　　　〔咄哉帖自題〕

　

　書者不知

　畫者不識

　　咄哉咄哉

　　　　漱石山人自題

　　　　−大正四、五−

　

　　　小羊物語に題す十句

　　　　――小松武治譯『沙翁物語集』序――

　

　　　　　一

　

　I have full cause of weeping，but this heart

　Shall break into a hundred thousand flaws

　Or ere I'll weep．O fool！I shall go mad．

　　　　　　　　　　　King Lear Act.II．Sce.IV.

　　雨ともならず唯凩の吹き募る

　

　　　　　二

　

　　　　Most sure，the Goddess

　On whom these airs attend！ Vouchsafe my prayer

　May know if you remain upon this island；

　　　　　　　　　　　The Tempest Act.I．Sc.II.

　　見るからに涼しき島に住むからに

　

　　　　　三

　

　That skull had a tongue in it，and could sing once；

　　　　　　　　　　　Hamlet Act.V．Sce.I

　　骸骨を叩いて見たる菫かな

　

　　　　　四

　

　Lady，by yonder blessed moon I swear，

　That tips with silver all these fruit-tree tops．

　　　　　　　　　　　Romeo and Juliet Act.II．Sc.II.

　　罪もうれし二人にかゝる朧月

　

　　　　　五

　

　Methought I heard a voice cry‘Sleepnomore！

　Macbeth does murder sleep,’

　　　　　　　　　　　Macbeth Act.II．Sc.II.

　　小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く

　

　　　　　六

　

　　　She never told her love，

But let concealment like a worm in th ebud，

Feed on her damask-cheek：

　　　　　　　　Twelfth Night Act.II．Sc.IV.

　　伏す萩の風情にそれと覺りてよ

　

　　　　　七

　

　　　Yet I'll not shed her blood；

Nor scar that whiter skin of hers than snow

And smooth as monumental alabaster．

　　　　　　　　　　　　　Othello Act.V．Sc.II.

　　白菊にしばし逡巡らふ鋏かな

　

　　　　　八

　

No，by my honour，madam，by my soul，

No woman had it，but a civil doctor，

Which did refuse three thousand ducats of me，

And begg'd the ring．

　　　　　　　　　　　Merchant of Venice Act.V．Sc.I.

　　女郎花を男郎花とや思ひけん

　

　　　　　九

　

　　　　Music，awake her；strike！

　'Tis time；descend；be stone no more；approach；

　Strike all that look upon with marveI．

　　　　　　　The Winter's Tale Act.V．Sc.III.

　　人形の獨りと動く日永かな

　

　　　　　十

　

　I could find in my heart to disgrace my man's apparel

　And to cry like a woman；

　　　　　　　　　　As You Like It Act.II．Sc.III.

　　世を忍ぶ男姿や花吹雪

明治三十七年五月

　　　　　　　　　　−明治三七、六、一二−

　

　　　【浦瀬白雨】『ウォルヅヲォスの詩』序

　

　われ若しわが隣人と一微塵の異なるなくんば誰か我存在の價値を認むるものあらん。詩人の傳ふべきは貂を續ぐに貂を以てするの才あるが故にあらず。太倉の粟陳々相依る。昔人既に之を忌めり。

　ヲーヅヲースの詩別に一家の機杼ありて漫に他人の籬下に立たず。題を村翁に藉り興を澗花に託す。此一事既に彼を傳ふるに足る。獨造戞々なれば片言も又百代の師たり。好惡は問ふ所にあらず。

　浦瀬君の譯詩十數篇多くは斷篇に過ぎず。且其措辭構句湖畔詩人の面目を寫して遺憾なしと云ふ可らず。然れども寸に進むは尺の意なり。傳ふ可きを傳へんとす其志既に可なり。譯して成る更に可なり。譯の難きは原作の難きより難し。易きを棄てゝ難きを擇む最も可なり。飢る時は半※［巒の山が肉］も滋味長し。世のヲーヅヲースの名を聞いて未だ其詩を讀まざるもの或は此篇に對して食指の動くを癒し得ん。これを序とす。

　　明治三十八年六月

　　　　　　　　　　　　　−明治三八、七、五−

　

　　　『吾輩は猫である』上篇自序

　

　「吾輩は猫である」は雜誌ホトヽギスに連載した續き物である。固より纏つた話の筋を讀ませる普通の小説ではないから、どこで切つて一冊としても興味の上に於て左したる影響のあらう筈がない。然し自分の考ではもう少し書いた上でと思つて居たが、書肆が頻りに催促をするのと、多忙で意の如く稿を續ぐ餘暇がないので、差し當り是丈を出版する事にした。

　自分が既に雜誌へ出したものを再び單行本の體裁として公にする以上は、之を公にする丈の價値があると云ふ意味に解釋されるかも知れぬ。「吾輩は猫である」が果してそれ丈の價値があるかないかは著者の分として言ふべき限りでないと思ふ。たゞ自分の書いたものが自分の思ふ樣な體裁で世の中へ出るのは、内容の價値如何に關らず、自分丈は嬉しい感じがする。自分に對しては此事實が出版を促がすに充分な動機である。

　此書を公けにするに就て中村不折氏は數葉の插畫をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙其他の模樣を意匠してくれた。兩君の御蔭に因つて文章以外に一種の趣味を添へ得たるは余の深く�ｺとする所である。

　自分が今迄「吾輩は猫である」を草しつゝあつた際、一面識もない人が時々書信又は繪端書抔をわざ／＼寄せて意外の褒辭を賜はつた事がある。自分が書いたものが斯んな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云ふ事を發見するのは非常に難有い。今出版の機を利用して是等の諸君に向つて一言感謝の意を表する。

　此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の樣な文章であるから、たとひ此一卷で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又實際消えてなくなるかも知れん。然し將來忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機會があれば再び稿を續ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が氣が向くときは――余も亦筆を執らねばならぬ。

　　明治三十八年九月

　　　　　　　　　　　　−明治三八、一〇、六−

　

　　　『漾虚集』自序

　

　漾虚集とは新しい名の樣であるが、集中の文は皆雜誌の上で、一度讀者の眼に觸れたるものゝみである。過去一年間の短篇を蒐めて、重ねて世に問ふの意は頗る單純である。雜誌以外の讀者が一人でも餘計出來ればいゝと思ふ希望の外には何等の主張もない。

　ホトヽギス、學燈、中央公論、七人、帝國文學の編輯者が自家誌上にあらはれたる作物を、こゝに轉載するに當つて、快く許諾を與へられたるを謝す。

　不折、五葉二氏の好意によつて此集も幸に余の思ふ樣な體裁に出來上つたのは、余の深く得とする所である。

　集中の諸篇が雜誌にあらはれたる當時、有益なる批評を賜りたる君子すくなからず、こゝに一言を述べて感謝の意を致す。

　　明治三十九年四月

　　　　　　　　　　−明治三九、五、一七−

　

　　　『我輩は猫である』中篇自序

　

　「猫」の稿を繼ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚數に筆を擱いて、上下二冊の單行本にしやうと思つて居た。所が何かの都合で頁が少し延びたので書肆は上中下にしたいと申出た。其邊は營業上の關係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善からうと同意して、先づ是丈を中篇として發行する事にした。

　そこで序をかくときに不圖思ひ出した事がある。余が倫敦に居るとき、忘友子規の病を慰める爲め、當時彼地の模樣をかいて遙々と二三回長い消息をした。無聊に苦んで居た子規は余の書翰を見て大に面白かつたと見えて、多忙の所を氣の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は餘程の重體で、手紙の文句も頗る悲酸であつたから、情誼上何か認めてやりたいとは思つたものゝ、こちらも遊んで居る身分ではなし、さう面白い種をあさつてあるく樣な閑日月もなかつたから、つい其儘にして居るうちに子規は死んで仕舞つた。

　筺底から出して見ると、其手紙にはかうある。

　僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日譯モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廢止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。夫ガ病人ニナツテシマツタノダカラ殘念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ（無理ナ注文ダガ）

　畫ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ燒芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。

　不折ハ今巴里ニ居テコーラン〔四字傍線〕ノ處へ通ツテ居ルサウヂヤナイカ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガ、モーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。

　虚子ハ男子ヲ擧ゲタ。僕ガ年尾〔二字傍線〕トツケテヤツタ。

　錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。

　僕ハ迚モ君ニ再會スルコトハ出來ヌト思フ。萬一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル處ガアル。

　書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

　　明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス

　　　　　　　　　　　　東京　子規　拜

　　倫敦ニテ

　　　漱石　兄

　此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思へぬ程慥である。余は此手紙を見る度に何だか故人に對して濟まぬ事をした樣な氣がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へ〔書き〜傍点〕とある文句は露佯りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙がしいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辭が這入つて居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸《いき》を引き取つたのである。

　子規はにくい男である。甞て墨汁一滴か何かの中に、獨乙では姉崎や、藤代が獨乙語で演説をして大喝采を博してゐるのに漱石は倫敦の片田舍の下宿に燻つて、婆さんからいぢめられてゐると云ふ樣な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許して呉れ玉へ〔書き〜傍線〕抔と云はれると氣の毒で堪らない。余は子規に對して此氣の毒を晴らさないうちに、とう／＼彼を殺して仕舞つた。

　子規がいきて居たら「猫」を讀んで何と云ふか知らぬ。或は倫敦消息は讀みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になつた事が左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激勵した故人に對しては、此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子は劍を墓にかけて、故人の意に酬いたと云ふから、余も亦「猫」を碣頭に獻じて、往日の氣の毒を五年後の今日に晴さうと思ふ。

　子規は死ぬ時に糸瓜の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と稱へ、子規自身の事を糸瓜佛となづけて居る。余が十餘年前子規と共に俳句を作つた時に

　　長けれど何の糸瓜とさがりけり

といふ句をふら／＼と得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。

　　どつしりと尻を据えたる南瓜かな

と云ふ句も其頃作つたやうだ。同じく瓜と云ふ字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄だらう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜佛に奉納するのに別段の不思議もない筈だ。そこで序ながら此句も靈前に獻上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据ゑるべき尻がないので落付をとる機械に窮してゐるだらう。余は未だに尻を持つて居る。何うせ持つてゐるものだから、先づどつしりと、おろして、さう人の思はく通り急には動かない積りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる爲め一言斷つて置く。

　　明治三十九年十月

−明治三九、一一、四−

　

　　　『鶉籠』自序

　

　集中收むる所三篇、取材一ならず、趣旨固より同じからず。著者はたゞ此三篇によつて、其腦中に漂へる或物に一種の體を與へたるを信ず。

　天下、著者にちかき或物を抱いて、之を捕へ難きに苦しむものあらん。之を捕へて明かならざるを憂ふるものあらん。之を明かにして表現の術なきに困するものあらん。もし「鶉籠」が是等の士に幾分の慰藉を與ふるを得ば著者の願は足る。

　著者の描けるものが、如何に讀者の心に映じて、如何に讀者の情を動かすかは、著者の問ふ所にあらず。否問はんと欲するも著者の權外に落つ。「鶉籠」を公けにしたる著者は、たゞ之を公けにしたる迄にて、毫も讀者の情緒と感興とに干渉して、内部の生命を支配するの意あらず。

　只文章は趣味を生命とす。文章にして趣味なきは天日の冷やかなるが如し。卒然として存在の價値を失す。「鶉籠」の如何に天下に解釋せらるゝかは著者の憂ふる所にあらず。獨り一個半個の青年あつて、「鶉籠」の爲めに其趣味をあやまられて流俗に墮落したりと云はゞ、「鶉籠」を公けにしたる著者は終生の恥辱なり。

　著者が「鶉籠」を公けにしたるは此危險を冒して、苟も名を一代に馳せんとする客氣に驅られたるが爲めにあらず。「鶉籠」は天下青年の趣味をして一厘だに墮落せしむるの虞なき作品たるを信じたればなり。

　　明治三十九年十一月

　　　　　　　　　　　　　　−明治四〇、一、一−

　

　　　【鈴木三重吉作】『千代紙』序

　

　拜啓書物の名前は愈千代紙と御定めの由千代紙は至極思つきと存候表紙の意匠は東洋城擔任の由先日面會の折色合模樣等逐一講釋を承はり候校正も小宮氏引受のよし是又好都合に候發刊の日は君もうれしく候兩人も嬉しく候小生もうれしく候さて頂戴の榮螺は大に結構あれも甚だうれしく候　以上

　　二月二十三日

　　　　　　　　　　　　　　　　　　金

　　　三重吉樣

　　　　　　　　　　　　　　−明治四〇、四、一−

　

　　　【平井晩村】著『野葡萄』序

　

　『野葡萄』に序を書けと云はれたとき、何か書かうと受合つた儘、書く事をつひ忘れて京都へ立つて仕舞つた。京都では花に雨に神社に佛閣に、古めいた春の見物に忙しくて、眼も足も足らぬ位、心をそらに身をさかに、洛中洛外を鶯とゝもに飛びあるいて、序の事などはまるで思ひ出せなかつた。歸つてからは茫然として四五日を晩春の頬杖に暮らして、閑寂の趣を豆腐と奈良漬に得た代りに、義務も勉強も夢にさへ見る暇はなかつた。

　『野葡萄』の序は斯樣にして遲れたのである。申譯がない。自己の文集なり詩集なりを公けにするときは發行の日が待ちに待たれるものである。晩村君も定めて『野葡萄』の上梓を急がれた事であらう。只放埒なる余の萬事打ち遣りなるにも關はらず、一日の年長なるに遠慮して今日迄催促せられなかつたものと見える。猶々申し譯がない。

　然し余が適當の時間内に義務を果さなかつた爲めに果したよりも却つて面白い結果が生じたと思ふ。序の依囑を受けた當時は余は大學講師であつた。依囑せられた晩村君は無論大學講師だからと云うて余を擇ばれたのではない。けれども世間の俗人は余が大學に關係があるから頼んだと思ふかも知れない。從つて大學講師なる余が晩村君の詩文集の序をかけば間接に詩人晩村君に累をなす譯になる。余も心持ちがよくない。半月ほど京都に遊んで舊廬に歸つた余は最早講師ではない。十餘年前に卒業したと云ふより外に大學とは何等の關係もない身分となつた。『野葡萄』の序をかくのは文科大學の先生が書くのではない。個人の漱石が書くのである。個人の漱石を擇んで序を書かせる晩村君は、個人漱石に一種の興味を有する外に何等利害の考へはない筈である。この義務を果す漱石は江湖の處士として詩人晩村君の依囑に應じた迄である。洒然として愉快を感ずる。

　『野葡萄』のうちに收められた幾篇の短詩短文は悉く晩村君の性情を流露して、學位學禄に好惡を左右せられざる君が人格を證明して餘りあるものと信ずる。

　　明治四十年四月二十三日

　　　　　　　　　　　　　−大正四、九、二五−

　

　　　『吾輩は猫である』下篇自序

　

　「猫」の下卷を活字に植ゑて見たら頁が足りないから、もう少し書き足してくれと云ふ。書肆は「猫」を以て伸縮自在と心得て居るらしい。いくら猫でも一旦｜甕《かめ》へ落ちて往生した以上は、さう安つぽく復活が出來る譯のものではない。頁が足らんからと云ふて、おいそれと甕から這ひ上る樣では猫の沽券にも關はる事だから是丈は御免蒙る事に致した。

　「猫」の甕へ落ちる時分は、漱石先生は、卷中の主人公苦沙彌先生と同じく教師であつた。甕へ落ちてから何ケ月經つたか大往生を遂げた猫は固より知る筈がない。然し此序をかく今日の漱石先生は既に教師ではなくなつた。主人苦沙彌先生も今頃は休職か、免職になつたかも知れぬ。世の中は猫の目玉の樣にぐる／＼廻轉してゐる。僅か數ケ月のうちに往生するのも出來る。月給を棒に振るものも出來る。暮も過ぎ正月も過ぎ、花も散つて、又若葉の時節となつた。是からどの位廻轉するかわからない、只長へに變らぬものは甕の中の猫の中の眼玉の中の瞳だけである。

　　明治四十年五月

−明治四〇、五、一九

　

　　　【藪野椋十】著『東京見物』序

　

　椋十先生が「東京見物」を出版されるに就て、漱石の序文が欲しいとの御意である。遙かなる麹町から子規の啼く西片町へ書を致して序を徴されたる文言には君程序文の上手な男はないとある。東京見物は頁が足りないから約二三百頁がた君の序文で埋合はせをしたいとある。

　序文の名手を以て椋十先生の知遇を辱ふせる漱石はいやでも應でも何か書かねば濟まぬ義理となつた。書かねば折角の知遇を空ふするのみならず漸くにして贏ち得たる名手の稱號を召し上げられる恐れがある。但し諸事節儉の際二三百頁はちと贅澤の沙汰かと思はれる。士は己れを知るものゝ爲めに死すとあるからは二三百頁は愚か千頁でも御間に合せたいは山々であるが、物價騰貴につれて武士道も餘程高價に相成つた今日に在つては、如何な知己でも二三頁で勘辨されるのが紳士の�ｺ義である。

　「東京見物」が東朝紙上にあらはれたのが余の入社と前後した爲め、且は其筆致の「猫」に似て居る爲め、掲載の當時は漱石だ／＼と云ふ評判が大分八釜敷かつた。餘計なお世話である。餘計なお世話を燒かれた爲め、椋十先生は余に對して『どうも御迷惑で……』と云ひ、余は椋十先生に向つて『どう仕りまして、あなたこそ嘸……』と云つた。考へて見ると此挨拶も餘計な事である。餘計な世話を燒くものがあればこそ、餘計な挨拶もせねばならぬ仕儀となる。餘計を始めたものは、餘計の累を貽すものである。少しは考へるがいゝ。

　然し「東京見物」がそれ程「猫」に似て居るならばまあ兄弟分の間柄なんだらう。昔し薩摩の男と下宿をして居た時分、其男が何ぞと云ふと胴間聲を張り上げて、だれとかさんと誰とかさんは兄弟分ぢやごわはんかと歌つたものだ。其蠻音は一種異樣の蠻音で、矢つ張り「猫」の兄弟分位な所である。此序文をかくにつけても、あの胴間聲は今頃どうなつたらうと聊か懷古の念に禁えん。あの胴間聲が生きて居て、此評判を聞いたら、屹度「東京見物」さんと「吾輩は猫」さんは兄弟分ぢやごわはんかと餘計な唄をうたふに違ひない。夫を思ふと餘計ながら可笑しくもあり、憐れにもある。あの男を捜し出して椋十先生の前でごわはんかを唄はして見たい。

　　四十年六月

　　　　　　　　　　　　−明治四〇、六、二五−

　

　　　【本間久四郎譯】『名著新譯』序

　

　余のポーに關する知識は極めて乏しい。取り立てゝ人の前に述ぶべき程の材料も意見も有つて居らぬのは勿論である。

　たゞかつて彼の作物を讀んだ時の感じが漠然と今日迄殘つてゐる。何でも非常な想像家の樣な心持がする。しかも其想像は人情や性格に關する想像ではないと思ふ。事件の構造に對する想像だと思ふ。さうして其事件がありふれた日常見聞の區域を脱して驚くべく愕くべき別世界の消息であると思ふ。愕くべき別世界と云つても有名なレヴンの詩にあらはれた樣な内面的に玄秘の韻を帶びて居るのはない。大體はもつと程度の低い外面的の不思議で好奇心を釣つてゐる。だから極端に其弊所を云ふと荒唐不稽に陷り易い。然しそれを飽く迄も、明晰に、緻密にあるときは殆んど科學的とも云ひ得べき程の描寫を以て敍述して居る。そこにかれの想像の豐贍な所と繊細な所があらはれてゐる。普通の人ならばとても思ひつけない。思ひついてもかう詳しくは書けない。所を彼は此等の愕くべき空想譚に對して、恰も眼前に展開する活動寫眞を凝視して筆記する樣な態度で書き卸してゐる。

　ポーは又短篇作家として有名な男である。今でも短篇を論ずるときにポーの引合に出ぬ場合は殆んどない。此點から見てポーは所謂三卷小説の例を打破した獨創的作家と云つても好い。從つて其作物は歴史的價値がある。長短に關して小説の比較研究をしやうと思ふものは是非共一度はポーを通つて來なければならない。

　現今は短篇小説が大分流行して來た。其元祖はポーである。ブレツト、ハートである。さうして兩人とも亞米利加人であるのは從來人の?注意した事實である。現代の短篇小説が果して此二人の亞米利加人の大影響を蒙つて發逢したものか、又は時代の趨勢が此種の産出を已むなく作家に促がした自然の結果であるかは、しばらく論ぜずとするも彼が短篇作家として一體を創開した功績は歴史的に永く記憶すべき事實である。

　本間君がポーの短篇集を出版さるゝに就て余に序を徴せられた。余の不學なるは前に述べた通であるから、本間君の譯文に序を書く程の資格はないと思つてゐるが、以上の理由で、本間君の勞力は、わが文界に對して決して貢獻する所のない仕事とは認められない。そこで數言を述べて本間君の爲に此序を作る。

　　四十年九月

　　　　　　　　　　　−明治四〇、一一、一五−

　

　　　【森田草平　川下江村　生田長江　共著】『草雲雀』序

　

　草雲雀の著者森田、生田、川下の三君が揃つて大學を出たのは去年の事である。從つて此集は三君が在學中の餘暇になつた短篇のみを收めたものに過ぎぬ。

　然し在學中の餘暇になつたものには、人の知れぬ苦心と勞力が籠つてゐる。寸陰を惜み分陰を偸んで漸くに草し得た一句一行は、閑居平日の縷々數萬言よりも貴重である。從つて最も切實な言語より外は臚列せぬ事となる。草雲雀は三君に取つて實に此種の感懷に富んだ作物のみであらうと思はれる。即ち講學の煩しき朝夕にさへ、抑へんとして抑へがたき多意味なる内面生活の一端が、文學の力を藉りて、實世界の表面に發揚した自己の本色と云ふても差支なからう。此點から見ても草雲雀は只一片好奇の念に驅られた閑文字ではない。又は茫漠たる過去を忘れぬ爲めに一冊の形に纏めた記念でもない。眞摯なる述作である。之を世に公にするのは單に三君に取つて有意義なるのみならず、又世間に取つて有意義である。

　先頃森田君に逢つた時、草雲雀を校正して居ると時々冷汗が出ると云はれた。其時余は成程面白いと感じた。と云ふのは、此言語が單に普通の謙遜の爲や又は自己の拙劣を自覺した爲に出たのでないからである。何故冷汗が出るかと云ふと、述作の當時は前後夢中で自己の全精神を腹藏なく作物の上に傾注して憚らなかつたから、偖筆を擱いて改つた心持で之を讀み直すと、あまり當時の自己が遠慮なく赤裸々に出て居て、自分が自分に對して面目がない樣な氣持がして冷汗が出るのである。從つて此冷汗は自己が自己の作物に對して徹底的に眞面目であつたと云ふ事を證明する以外に何等の不名譽を意味して居らぬ。從つて森田君が校正の時に流した此冷汗こそ此集を公けにして然るべき立派な理由となり得ると思ふ。

　三君は在學中から「明星」に「藝苑」に相携へて寄稿もしくは編輯の筆を執つて居られた。但し專門は三君共違ふ。森田君は英文學で、生田君は美學で、川下君は獨文であつた。然し卒業も同年で、交際も伯仲で、出處も如一で、文藝上の趣味も主張も共通であるから森田君に就て云ひ得る所のものは餘の二君に就ても云ひ得る譯である。三君の作物を一卷に纏めるのは尤も其當を得たもので、三君の作物を纏めた草雲雀は前に云つた意味から公けにして世に問ふ價値のある短篇集である。

　世事志の如くならず卒業後の森田君は英語の教科書を抱へて電車の昇降に忙はしく、生田君も亦飜譯雜纂の業に役々として明窓淨凡の暇なきを嘆じてゐる。川下君に至つては空しく志を九原に齎らして客舍に永眠された。三君の自得し、自證し、或は觀察し得たる人生の敍述は、此短篇にとゞまる譯ではない。否森田生田二君に在つては是からが實に文藝上の生命である。然し以上の如く二君は齷齪の活計に遑なく、殘る一人は既に亡き人の數に入つたとすれば、此際「草雲雀」を出版するのは二君の面影を今日に、逝ける人の精神を永久に傳ふる好方便である。余は三君の友人として喜んで一言を草雲雀の卷頭に序するものである。

　　明治四十年十月

　　　　　　　　　　　−明治四〇、一一、一四−

　

　　　【生田長江著】『文學入門』序

　

　學と名のつくものは世の中に澤山あるが、大抵は其性質も範圍も研究の態度も方法も目的も一定してゐる。從つていくら門外漢でも多少の教育さへあれば、こんなものだらう位の想像はつく。所が文學になると同じく學の字はついて居るが、理學化學動物植物の諸科學とは丸で趣を異にして極めて曖昧なものになつてゐる。學と云ふ名はあるがどこが學だか薩張り分らない。

　普通の諸科學はある現象の研究から出立して此現象と彼現象との關係を明瞭に抽出するものである。では文學では何の現象を研究して居るかと云ふと一寸返事に困る。では何も研究してゐないのかと云ふと大に研究してゐる。小説でも詩歌でも戯曲でもみんな人間と自然の研究から出來たものである。たゞ研究の態度が普通の諸科擧と趣を異にして居るのみである。たゞ此態度が複雜なため區域の判然せぬ爲め、研究者自身も此態度をとりまとめて人に話す事が出來ない。だから自身は述作の際此一種の研究を實行してゐるにも拘らず、一旦質問に出逢ふと滿足な返事が出來ない。文學が曖昧な源因の一つは全く茲にある。

　夫から作る方の側でなく、作つたものを取り扱ふ側――即ち鑑賞家とか批評家とか云ふ人々の態度から云つても同樣の觀がある。此人々は作物を材料として研究するのだから、此點に於ては動物學者の動物を材料としたり、植物學者の植物を材料とするのと一般ではあるし、又現象を研究すると云ふ點から見ても似ては居るが、偖此研究の態度はと云ふと外のとは餘程違つてゐる。餘程違つて居ても、明瞭に區別が出來る樣に違つて居るのは結構であるが、こゝでも亦曖昧に違つてゐる。古來からして批評家の立場とか、觀察點を調べて見ると、毫も貫ぬいて居ない、めい／＼違つて居る。單にめい／＼違つてゐる丈ならよいが、一人が時と場合によつて違つてゐる。それも大體の計畫を立てた上、確然たる主義から割り出して、臨機應變に違つて行くなら見當もつくが矢鱈に違ふのである。行き當りばつたり違ひである。其都度々々に思ひついた事をいゝ加減に云ふ樣な違ひ方である。其日暮しの違ひ方である。從つて自分で自分の研究の結果をまとめる譯にも行かず、一口に人に話す事も出來ず、又は傍觀者が是等の人の態度を一括してかう云ふ態度で研究してゐるから、普通の科學者の態度とはこゝ迄が同じで、こゝからが分岐してくると明瞭に呑み込む譯にも行かない。文學が曖昧な源因の二は茲にある。

　早い話が古來から文學者抔が文學は如何なるものぞと云ふ質問に對して答へた文學の定義を見ると餘程面白い。千差萬別である。のみならず雲を攫んで霞に腰を掛けてゐる樣な不得要領なものばかりである。それは眞赤な嘘だとは云はれない代りに成程文學はそんなものですかと合點の行くものは殆んどない。時々引用されるブルツクの定義などは其好例である。

　それでも構はない。が時代が進むと構はなくない人が澤山出來てくる。構はなくない人が澤山にあると、文學とはどんなものであるか、文學上の創作とはどんな研究から出來るものか、批評とはどんな研究から出來るものか、文學の歴史とはどんなものかなどと續々問題が出て來る。續々問題の解決が必要になつてくる。

　文學の性質も範圍も曖昧であつた爲め、又是等を明めやうとする樣な好奇心に富んだ傾向の人が此方面に出なかつた爲め、此種の問題は等閑に附せられて居た。現に大學に純文學科があつても其目的も課目も方法も頗るしかとした根底の上に確立されて居らんのは全く此方面に於ける智識が吾人の頭腦に乏しい爲めと云はねばならぬ。

　生田君の著書は其名の示す如く文學入門である。入門ではあるが以上の如く此種の著書が拂底の今日、ことに人事百般の新智識の要求が熾なる今日の日本に在つては非常に有益なものと信ずる。余も色々な意味に於て文學の研究者である。ことに生田君の著はされた書物の内容の如き問題に就いては尠からぬ興味を有して居る。因つて數言を卷頭につらねて刊行の主意を賛成すると共に大に之を江湖の青年の學徒に推薦するのである。

　　明治四十年十一月

　　　　　　　　　　　−明治四〇、一一、二〇−

　

　　　【高濱虚子著】『鷄頭』序

　

　小説の種類は分け方で色々になる。去ればこそ今日迄西洋人の作つた作物を西洋人が評する場合に、便宜に應じて澤山な名をつけてゐる。傾向小説、理想小説、浪漫派小説、寫實派小説、自然派小説抔と云ふのは、皆在來の述作を材料として、其著るしき特色を認めるに從つて之を分類した迄である。種類は是丈で盡きたとは云へぬ。一たび見地を變れば新らしい名を發見するのは左迄困難でない。況んや向後の作物が舊來の傾向を繰返して滿足せぬ限り、時と、場合と、作家の性癖と、發展の希望とによつて生面を開きつゝ推移する限り、何派、何主義と云ふ思ひも寄らぬ名が續々出て來るのが當然である。

　虚子の作物を一括して、是は何派に屬するものだと在來ありふれた範圍内に押し込めるのは余の好まぬ所である。是は必ずしも虚子の作物が多趣多樣で到底概括し得ぬからと云ふ意味ではない。又は虚子が空前の大才で在來西洋人の用を足して來た分類語では、其の作物に冠する資格がないと云ふ意味でもない。虚子の作物を讀むにつけて、余は不圖こんな考へが浮んだ。天下の小説を二種に區別して、其の區別に關聯して虚子の作物に説き及ぼしたらどうだらう。

　所謂二種の小説とは、餘裕のある小説と、餘裕のない小説である。たゞ是丈では殆んど要領を得ない。のみならず言句にまつはると褒貶の意を寓してあるかの樣にも聞える。かたがた説明の要がある。

　餘裕のある小説と云ふのは、名の示す如く逼らない小説である。「非常」と云ふ字を避けた小説である。不斷着の小説である。此間中流行つた言葉を拜借すると、ある人の所謂觸れるとか觸れぬとか云ふうちで、觸れない小説である。無論觸れるとか觸れないとか云ふ字が曖昧であつて、しかも余は世間の人の用ゐる通り好加減な意味で用ゐて居るのだから、此字に對して明かな責任は持たない積りである。只ある人々の唱へる意味に於て觸れない小説と云つたら一番はや分りがするだらうと思つて、曖昧ながらわざ／＼此字面を拜借したのである。と云ふものは、まづ字の定義は御互の間に黙契があるとして、ある人々は觸れなければ小説にならないと考へて居る。だから余はとくに觸れない小説と云ふ一種の範圍を拵らへて、觸れない小説も亦、觸れた小説と同じく存在の權利があるのみならず、同等の成功を收め得るものだと主張するのである。

　觸れない小説の意味をもう少し説明しないと余の所存が貫徹しまいと思ふ。余は自己の考を述べて、こんな風にも小説は解釋が出來るものだと讀者から認めて貰へば好い。喧嘩を賣る料簡でもなし、賣られた喧嘩を買ふ氣もない。從がつて思ふ通りを思ふ通りに述べて誤解のないやうに力めて置かなければならない。

　個人の身の上でも、一國の歴史でも相互の關係（利害問題にせよ、�ｺ義問題にせよ、其他種々な問題）から死活の大事件が起ることがある。すると渾身全國悉く其事件になり切つて仕舞ふ。普通の人間の樣に行屎走尿の用は足して居るが、用を足して居るか、居らぬか氣が付かぬ位に逆上せて仕舞ふ。先達て友人が來てこんな話をした。小田原で暴風雨があつた時、村の漁船が二三杯沖へ出て居て、どうしても濤を凌いで磯へ歸る事が出來ない。村中一人殘らず渚へ出て焚火をして浮きつ沈みつする船を眺めて居る許りである。此方から繩を持つて波を切つて、向ふの船へ投げ込んで、其繩を引いて陸へ上げるのが彼等の目的である。がさう思ふ樣に目的は達せられんので晩からかけて翌日の午後の三時頃迄は村中濱へ總出の儘風の中、雨の中を立ち盡して居た。所が其長時間のうち誰一人として口を利いたものがない又誰一人として握り飯一つ食つたものがないとの事である。かうなると行屎走尿すら便じなくなる。餘裕のない極端になる。大いに觸れてくる。同時に眼前焦眉の事件以外何にも眼に這入らなくなる。世界が一本筋になる。平面になる。寐返りも出來ない樣に窮屈になる。なつても構はないがそれ許りが小説になると云ふ議論がどうして出來る。世の中は廣い。廣い世の中に住み方も色々ある。其住み方の色々を隨縁臨機に樂しむのも餘裕である。觀察するのも餘裕である。味はうのも餘裕である。此等の餘裕を待つて始めて生ずる事件なり事件に對する情緒なりは矢張依然として人生である。活?々地の人生である。描く價値もあるし、讀む價値もある。觸れた小説と同じく小説になる。或人は淺いと云ふかも知れない。淺いと云ふ點に於ては余も同感である。然し價値がないと云ふ意味に於て淺いと云ふなら間違つて居る。此場合に於ける深いとか淺いとか云ふのは色の濃いとか薄いとか云ふのと一般で、濃いから上等で薄いから下等と云ふ評價のつけられる譯のものでは勿論ない如く毫も作物を高下する索引にはならないのである。

　護謨を延ばして、今少し引つ張ると切れると云ふ所迄構はず持つて行く。惡いとは云はない。然し此所迄引つ張つてぴんとさせなくつちや駄目だよと云ふに至つては、緊張の趣は解して居るが雍容の味は解し得ない人だと云はれても仕方がない。のびない護謨もゆとりがあつて面白いと云ふ人を屈服させる譯には行かない。

　茶を品し花に灌ぐのも餘裕である。冗談を云ふのも餘裕である。繪畫彫刻に間を遣るのも餘裕である。釣も謠も芝居も避暑も湯治も餘裕である。日露戰爭の永續せざる限り、世間がボルクマンの樣な人間で充滿しない限りは餘裕だらけである。而して吾人も已を得ざる場合の外は此餘裕を喜ぶものである。從つて此等の餘裕より生ずる材料は皆小説となつて適當である。（喜ぶから小説になると云ふと小説は娯樂の爲めと云ふ意味になる。此を詳しく説明しやうとすると小説の目的と云ふ議論になる。機會を見て余は此點に關する自己の意見を述べたいと思ふが、今は詳説する遑がないから別に云はぬ。只小説は娯樂を目的にしてはならぬと云ふ議論は成立せぬ。從つて娯樂も亦小説の一目的として存在し得るものだと許り一言して置く。）

　以上は餘裕ある小説の説明である。既に餘裕ある小説を説明した以上は餘裕なき小説も大概其意味が分つた筈であるが。一言にして云ふとセツパ詰つた小説を云ふのである。息の塞る樣な小説を云ふのである。一毫も道草を食つたり寄道をして油を賣つてはならぬ小説を云ふのである。呑氣な分子、氣樂な要素のない小説を云ふのである。たとへばイブセンの脚本を小説に直した樣なものを云ふのである。大いに觸れたものを云ふのである。所謂イブセンの書いたもの抔は先づ吾人の一生の浮沈に關する樣な非常な大問題をつらまへて來て其問題の解決がしてある。しかも其解決が普通の我々が解決する樣な月竝でなくつてへえと驚ろく樣な解決をさせる事がある。人は之を稱して第一義の道念に觸れるとも、人生の根元に徹するとも評して居る。成程吾々凡人より高く一隻眼を具して居ないとあんな御手際は覺束ない。只此點丈でも敬服の至りである。然し斯樣に百尺竿頭に一歩を進めた解決をさせたり、月竝を離れた活動を演出させたり、篇中の性格を裏返しにして人間の腹の底にはこんな妙なものが潜んで居ると云ふ事を讀者に示さうとするには勢ひ篇中の人物を度外れな境界に置かねばならない。餘裕をなくなさなくつてはならない。セツパ詰らせなくつてはいけない。そこで大抵は死活問題が出てくる。一世の浮沈問題が持ち上がつて來る。（必ずとは云へない。人間は一寸風を引いたのが動機になつて内的生活に一革命を起さぬとは限らぬ。然し大體の傾向はと云ふと以上の如くである。）

　斯樣に小説を二つに分けて見た所で虚子の小説はどつちに屬するかと云ふと先づ前者即ち餘裕のある方面に屬すると思ふ。其餘裕のある所が、ある一派の人から見て氣に入らぬ所であらうと思はれる。だからどんな所に餘裕があると云ふ事を説明したらば、是等の人々の誤解を防いで、幾分か虚子の長所を發揮する方便になるだらうと思ふ。之を説明するには例を引くのが早分りである。

　文章に低徊趣味と云ふ一種の趣味がある。是は便宜の爲め余の製造した言語であるから他人には解り樣がなからうが先づ一と口に云ふと一事に即し一物に倒して、獨特もしくは連想の興味を起して、左から眺めたり右から眺めたりして容易に去り難いと云ふ風な趣味を指すのである。だから低徊趣味と云はないでも依々趣味、戀々趣味と云つてもよい。所が此趣味は名前のあらはす如く出來る丈長く一つ所に佇立する趣味であるから一方から云へば容易に進行せぬ趣味である。換言すれば餘裕がある人でなければ出來ない趣味である。�關lが買物に出ると途中で引かゝる。交番の前で鼠をぶら下げて居る小僧を見たり、天狗連の御浚へを聽いたりして肝腎の買物は中々辨じない。所が忙がしい人になると、そんな餘裕はない。買物に出たら買物が目的である。買物さへ買へば、それで目的は達せられたのである。小説も其通りである。篇中の人物の運命、ことに死ぬるか活きるかと云ふ運命丈に興味を置いて居ると自然と餘裕はなくなつてくる。從つてセツパ詰つて低徊趣味は減じて來る。

　そこで低徊趣味も客觀的とか主觀的とか區別すれば色々になるが、それは面倒だから暫らく云はぬとしても、虚子の小説には此餘裕から生ずる低徊趣味が多いかと思ふ。或人は云ふかも知らぬ虚子の小説は皆短篇である。所謂低徊趣味は長篇ならば兎に角、こんな短かいものにそんな趣味のあらはれる譯がないと。所が事實は反對である。長いものになると、さう單調に進行する事が出來んから、自然だれの作物でも餘事が混入してくるし、又頁の數から云つても餘裕は出來易い。だから長篇ものに所々此趣味が散點して居ても、取り立てゝこれが作者の趣味だと言ひ切る譯には行かない。所が短篇ものになると頁數に限りがある。其限りがあるうちで人の眼につく樣に此趣味を出すと云へば作者の嗜好は判然として爭ふべき餘地はない。

　虚子の風流懺法には子坊主が出てくる。所が此小坊主がどうしたとか、かうしたとか云ふよりも祇園の茶屋で歌をうたつたり、酒を飲んだり、仲居が緋の前垂を掛けて居たり、舞子が京都風に帶を結んで居たりするのが眼につく。言葉を換へると、虚子は小坊主の運命がどう變つたとか、どうなつて行くとか云ふ問題よりも妓樓一夕の光景に深い興味を有つて、其光景を思ひ浮べて戀々たるのである。此光景を虚子と共に味はう氣がなくつては、始から風流懺法は物にならん。斑鳩物語も其の通である。所は奈良で、物寂びた春の宿に梭の音が聞えると云ふ光景が眼前に浮んで飽く迄これに耽り得る丈の趣味を持つて居ないと面白くない。お道さんとか云ふ女がどうしましたねとお道さんの運命ばかり氣にして居ては極めて詰らない。樂屋も其通り。なかに出てくる吉野さんよりも能の樂屋の景色や照葉狂言の樂屋の景色其物に興味がないと極めて物足らない小説になるかも知れぬ。勝敗は多少意味が違ふが兎に角腕白な子供と爺さんの對話其物に低徊拍掌の感を起さなくては意味さへ分らなくなる。子供と爺さんが夫から先どうなつたにも、かうなつたにも丸で頭も尻尾もありやしない。八文字に至つては其極端である。

　かう云ふ立場からして讀んで見ると虚子の小説は面白い所がある。我々が氣の付かない所や言ひ得ない樣な所に低徊趣味を發揮して居る。此集には見えないが京の隧道を舟で拔ける所抔は未だに余が頭に殘つて居る。其代り人間の運命と云ふ事を主にして見ると、あまり成功して居らん。只大内旅宿丈はうまく出來て居る。然しこゝには低徊趣味が全然缺乏して居る。（なぜ大内旅宿が成功して居るかを説明したいが、長くなるからやめる。大内旅宿抔は無餘裕派の人で一言も批評をした事がない樣であるが、あれは一見平凡な運命をかいたやうで、そのうちに大いなる曲折と出來る限りの複雜の度を含んで居る。それであれ程の頁で濟んで居るから低徊趣味のないのも無理はない。）

　余は小説を區別して餘裕派と非餘裕派としてイブセンを後者の例に引いた。で前云つた通り此種の小説の特色としては人生の死活問題を拉し來つて、切實なる運命の極致を寫すのを特色とする。讀者は此點を擧げて此種の作物を謳歌し、余も亦此點に於て此種の作物に敬服する。所で此種の作物に對する賞讃の辭を聞くと第一義とか、意味が深いとか、痛切とか、深刻とか云つて居る。余は此賞讃の辭に對して是非を爭ふ料簡はない。ないがこれが小説の極致であるかと問はれると、さうさなと首を傾けざるを得ない。成程是等の作物は第一義の道念に觸れて居るかも知れぬ。然し其第一義といふのは生死界中に在つての第一義である。どうしても生死を脱離し得ぬ煩腦底の第一義である。人生觀が是より以上に上れぬとすると是が絶對的に第一義かも知れぬが、もし生死の關門を打破して二者を眼中に措かぬ人生觀が成立し得るとすると今の所謂第一義は却つて第二義に墮在するかも知れぬ。俳味禅味の論がこゝで生ずる。

　余は禅といふものを知らない。昔し鎌倉の宗演和尚に參して父母未生以前本來の面目はなんだと聞かれてぐわんと參つたぎりまだ本來の面目に御目に懸つた事のない門外漢である。だからこゝに禅味抔といふ問題を出すのは自分が禅を心得て居るから云ふのではない。智識のかいたものに悟とはこんなものであるとあるから果してそんなものなら、かう云ふ人生觀が出來るだらう。かう云ふ人生觀が出來るならば小説もこんな態度にかけるだらうと論ずるまでゞある。

　禅坊主の書いた法語とか語録とか云ふものを見ると魚が木に登つたり牛が水底をあるいたり怪しからん事許りであるうちに、一貫して斯ふ云ふ事がある。着衣喫飯の主人公たる我は何物ぞと考へ／＼て煎じ詰めてくると、仕舞には、自分と世界との障壁がなくなつて天地が一枚で出來た樣な虚靈皎潔な心持になる。それでも構はず元來吾輩は何だと考へて行くと、もう絶體絶命につちもさつちも行かなくなる、其所を無理にぐい／＼考へると突然と爆發して自分が判然と分る。分るとかうなる。自分は元來生れたのでもなかつた。又死ぬものでもなかつた。増しもせぬ、減りもせぬ何んだか譯の分らないものだ。

　しばらく彼等の云ふ事を事實として見ると、所謂生死の現象は夢の樣なものである。生きて居たとて夢である。死んだとて夢である。生死とも夢である以上は生死界中に起る問題は如何に重要な問題でも如何に痛切な問題でも夢の樣な問題で、夢の樣な問題以上には登らぬ譯である。從つて生死界中にあつて最も意味の深い、最も第一義なる問題は悉く其光輝を失つてくる。殺されても怖くなくなる。金を貰つても難有くなくなる。辱しめられても恥とは思はなくなる。と云ふものは凡て是等の現象界の奧に自己の本體はあつて、此流俗と浮沈するのは徹底に浮沈するのではない。しばらく冗談半分に浮沈して居るのである。いくら猛烈に怒つても、いくらひい／＼泣いても、怒りが行き留りではない、涙が突き當りではない。奧にちやんと立ち退き場がある。いざとなれば此立退場へいつでも歸られる。しかも此立退場は不増である。不減である。いくら天下樣の御威光でも手のつけ樣のない安全な立退場である。此立退場を有つて居る人の喜怒哀樂と、有たない人の喜怒哀樂とは人から見たら一樣かも知れないが之を起す人之を受ける人から云ふと莫大な相違がある。從つて流俗で云ふ第一義の問題も此見地に住する人から云ふと第二義以下に墮ちて仕舞ふ。從がつて我等から云つてセツパ詰つた問題も此人等から云ふと餘裕のある問題になる。

　所謂禅味と云ふものを解釋した人があるかないか知らないが、禅坊主の趣味だから禅味と云ふのだらう。さうして禅坊主の悟りと云ふものが彼等の云ふ通りのものであつたなら余の解釋に間違はなからうと思ふ。して見ると禅味と云ふ事は暗に餘裕のある文學と云ふ意味に一致する。さうしてその餘裕は生死以上に第一義を置くから出てくる。

　余は虚子の小説を評して餘裕があると云つた。虚子の小説に餘裕があるのは果して前條の如く禅家の悟を開いた爲かどうだか分らない。只世間ではよく俳味禅味と竝べて云ふ樣である。虚子は俳句に於て長い間苦心した男である。從がつて所謂俳味なるものが流露して小説の上にあらはれたのが一見禅味から來た餘裕と一致して、こんな餘裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに方つては是丈の事を述べる必要があると思ふ。

　尤も虚子もよく移る人である。現に集中でも秋風なんと云ふのは大分風が違つて居る。それでも比較的痛切な題目に對する虚子の敍述的態度は依然として餘裕がある樣である。虚子は畢竟餘裕のある人かも知れない。

　　明治四十年十一月

　　　　　　　　　　　　　−明治四一、一、一−

　

　　　【松根東洋城選】『新春夏秋冬』春之部序

　

　啓

　新春夏秋冬のうち春の部御脱稿のよし奉賀候。一句入御覽候。

　　　青柳の日に緑なり句を撰む

　　　　　　　　　　　　−明治四一、六、一〇−

　

　　　【沼波瓊音天生目杜南共編】『古今名流俳句談』序

　

　天生目君令閨醫藥の料の爲に、『名流俳句談』を草せられたる由を承はり、御望みの如く一句を呈し奉る

　　　文を賣りて藥にかふる蚊遣かな

　　　　　　　　　　　　−明治四一 、八、二八−

　

　　　【松根東洋城選】『新春夏秋冬』夏之部序

　

　東洋城は俳句本位の男である。あらゆる文學を十七字にしたがる許ではない、人世即俳句觀を抱いて、道途に呻吟してゐる。

　時々來ては作りませうと催促する。題を課して遣つて見ると頗る遲吟である。君の句には厭味がある抔と云ふと、中々承知しない。あなたのは十八世紀だと云つて、大變新しがつてゐる。

　さう説明されて見ると、左樣《そ》んな所もあるやうにも思はれる。實の所余は近來俳句に全く興味を失つて、其後の動靜を頓と辨へない老骨である。運座は無論の事出ない。斯樣にして追々十七字と縁が遠くなつて、漸く忘れ掛けると東洋城が遣つて來るのである。

　近頃は流石の東洋城もさあ作りませう抔と筆紙を突き付けなくなつた。たま／＼、此方から、おい、斯う云ふのは何うだいと意見を提出すると、ふゝんなんて輕蔑する事がある。そこで俳句の話はせぬ事にした。

　所が新春夏秋冬の第二卷が出來たので、序を書いて呉れろといふ注文を出した。どうも書く資格がない樣な氣がする。けれども東洋城と余は俳句以外に十五年來の關係がある。向ふでは今日でも余を先生々々といふ。余も彼の髭と金縁眼鏡を無視して、昔の腕白小僧として彼を待遇してゐる。どうも書くのは御免だと斷わる資格も無い樣な氣もする。それで逡巡してゐると又催促が來た。そこでとう／＼書く。然し俳人として書くのでは無論ない。その昔し東洋城に始めて俳句を教へた事があるといふ縁故によつて書くのである。東洋城の人世即俳句觀は少なくとも此序に及んで居らん事を讀者に於て承知されたい。

　　　とかくして鶯藪に老いにけり

　　四十二年二月二日

　　　　　　　　　　　　　−明治四二、三、五−

　

　　　【松根東洋城選】『新春夏秋冬』秋之部序

　

　麻の夜着を腹の上に掛けて、仰向に兩手を合掌してゐる所へ東洋城が來て、新春夏秋冬の秋の部の序を書けと逼る。病氣だから序は書けないよ、と云つて一句を口吟む。

　　　初秋の芭蕉動きぬ枕元

　　八月二十六日

　　　　　　　　　　　　−明治四二、一一、一−

　

　　　【樋口銅牛著】『俳諧新研究』序

　

　近頃は句作にも遠ざかつたが、古俳書になるともとから研究した事がない。銅牛君の樣な篤學者があつて、俳諧新研究でも公けにして呉れないと生涯みなし栗の讀み方さへ知らずに濟んで仕舞ふかも知れない所であつた。此瞎漢に向つて序を書けと云はれる銅牛君は、餘程物數奇であるが、それを平氣で書くのは、自分が斯道に造詣があるといふ意味ではない。銅牛君の研究心に感服したからである。

　銅牛君は無口な男で、其無口な所が、甚だ銅牛然としてゐるが、其容貌も亦決して銅牛を去る遠き距離とは思へない。先達て一時間程對座して俳談をやつた時につく／”＼と其眼口を眺めて、成程銅牛とはよく付けたものだと思つた。不折君が卷頭に銅牛尊者の像を描くといふ話であるが、定めし銅牛らしい顔が出来る事であらう。

　此無口な銅牛君が俳諧新研究を著したと聞いた時には、突然石女舞ひ木人語ると云ふ禅語を憶ひ出した。是は不言不語の銅牛が忽ち鳴いたからである。

　　　銅の牛の口より野分哉

　　己酉十月

　　　　　　　　　　　−明治四二、一一、二五−

　

　　　【森田草平著】『煤煙』第一巻序

　

　「煤煙《ばいえん》」が朝日新聞に出て有名になつてから後間もなくの話であるが、著者は夫を單行本として再び世間に公けにする計畫をした。書肆も無論賛成で既に印刷に回して活字に組み込まうと迄した位である。所が其頃内閣が變つて、著書の檢閲が急に八釜敷くなつたので、書肆は萬一を慮つて、直接に警保局長の意見を確めに行つた。すると警保局長は全然出版に反對の意を仄めかした。もし押切つて發賣に至る迄の手續をしやうものなら、必ず發賣禁止になるものと解釋して、書肆は引下つた。著者は已を得ず煤煙の切拔帳を抱いて、大に詰まらながつてゐた。

　所へある氣の利いた男が出て來て、煤煙の全部を出版しやうとすればこそ災を招く恐れがあるので、其中の安全な部分丈を切り離して小冊子に纏たらどんなものだらうといふ新案を提出した。著者は多少思考を費した上、此説に同意して、直に煤煙の前半、即ち要吉が郷里に歸つて東京に出て來る迄の間を取敢ず第一卷として活版にする事に決心した。

　著者の選擇した部分は、煤煙の骨子でない所から云へば、著者に取つて遺憾かも知れないが、安全と云ふ點から見れば是程安全な章はない。誰が讀んだつて差支ないんだから大丈夫である。其上余の視る所では、肝心の後編より却て出來が好い樣に思はれる。余は「煤烟」全部を讀み直す暇がないので、判然した判斷を下すに躊躇するが、當時の新聞は連續して缺かさず眼を通したものだから、未だに殘つてゐる其時の印象は、恐らく余に取つて慥かなものだらうと考へる。其印象を平たく他に傳へ得る樣な言葉に引き延ばして見ると斯うである。――「煤煙」の後篇はどうもケレン〔三字傍点〕が多くつて不可《いけ》ない。非常に痛切な事を道樂半分人に見せる爲に書いてゐる樣な氣がする。所が前半には其弊が大分少い。一種の空氣がずつと貫いて陰鬱な色が萬遍なく自然に出てゐる。此意味に於て著者が先づ前篇を世に公けにするのは余の賛成する所である。

　此前篇の特色として、讀者に注意したいのは、事件の充實と云ふ事である。それを少し布衍して云ふと、事件が走馬燈の如くに出てくると云ふ意味である。もう一つ外の言葉で説明すると、事件が發展的に敍せられないで、讀者を壓迫する程びし／＼と竝んで寄せ掛けるのである。恰も金を接ぎ合せた樣に寸分の隙間なく寄せてくる。從つて讀者は息が繼げない。事件に引き付けられて息が繼げないと云つても嘘ではないが、實を云ふと、寧ろ苦しくて息を繼ぐ餘裕を著書から與へられないのである。此状態は半ば事件其物の性質から出る事も序に注意したい。煤煙の主人公が郷里へ歸つてから東京へ引き返す迄に遭遇したり回想したりする事件は、決して尋常のものではない。悉く飛び離れて強烈な色采を有してゐるもの許である。要吉は犬の耳を鹽漬にしてゐる女の夢を見たと書いてある。主人公は一場の夢に至る迄、何か天下を驚かす樣な内容でなければ氣がすまないのだとしか解釋出來ない。

　夫だから讀者の受ける感じの中には、著者が非常に苦心したなと云ふ自覺が起ると同時に、それが自分の額に反映して讀む事が既に苦しくなる場合もある。又事件があまり派出に竝んでゐるために、（其調子は厭に陰鬱ではあるけれども）殆んどセンセーシヨナルな安つぽい小説と背中合せをしてゐる樣な氣も起る。

　事件が是程充實してゐる割に性格が出てゐないのが不思議である。著者はあれ程性格が書いてあれば澤山ぢやないかと云ふかも知れないが、余の云ふ性格は要吉の特色を指すのである。篇中に書いてあるのは要吉の境遇である。是は濃く出てゐる。けれども其割から云ふと要吉は薄つぽいものである。何故と云へば、要吉の言動が、かゝる境遇の下に置かれたる普通の人のなすべき言動以外には一歩も出てゐないからである。要吉でなくつても、誰を捉へて來ても、斯う云ふ境遇の下に置いたら、矢つ張り要吉の通りに働くだらうと思はれるからである。從つて是は要吉であつて、明吉でも太吉でも半吉でもないといふ特殊の性格を與へてゐない。余は要吉の言動を讀んで要吉と共に陰鬱にはなるけれど、成程要吉とはこんな種類の人間であると、著者から教へられた事がない。性格を上手にかく人は、これ程烈しい事件の下に主人公を置かないでも、淡々たる尋常の些事のうちに動かすべからざる其人の特色を發揮し得るものである。

　以上は余が煤煙の前篇を讀み直して得た感想である。其當否はいざ知らずとして、此書を讀む人の參考に多少なりはしまいかと思て序文とした。其裏面に追隨する長所に至つては、讀者の一見してすぐ氣の付く事のみだからわざと略した。

　

　　　【中村不折畫】『不折俳畫』上序

　

　不折俳畫法には景物が多かつたが今度のには人物が過半を占めてゐる。考へると俳畫の人物程妙に出來上つてるものはない。悉く女に好かれないのを以て特色と心得てる顔ばかりである。グロテスクと云ふ言葉があつて美と區別するが元來此グロテスクなる言葉が西洋語であるに拘はらず其趣味は決して西洋的でない。大抵は日本支那印度の美術品に限つて使はれてる樣に思ふ。夫は何故だか一寸分らないが歐洲の樣な男振りの好い國柄では器量人ばかり眼につくから、變挺な羅漢や仙人の顔付のうちで風雅な奴を撰擇する程の趣味を養成しにくかつたのだらう。幸にして我々は不思議な位とぼけた面相を揃へて生活してゐるので、長い間には何時か此とぼけたうちに一種の趣味を發見すべく餘義なくされた所を西洋人に見付かつて、ついにグロテスクと云ふ名を頂戴して仕舞つたのぢやなからうか。それはどうでも好いが此グロテスクと云ふ趣味を尤も鮮明確的に發揮してゐるものは俳畫である。不折俳畫を一覽すれば誰でも余が説を否定するものはあるまい。

　此グロテスクと云ふ趣味をカリカチユアから得る面白味と混同しては全く興がない。グロテスクではとぼけ〔三字傍点〕た所が眞面目にそれ自身に於て價値を構成してゐるがカリカチユアに至ると本來の面目を誇張して變化せしめた點、即ち彼我を比較して其間に調和と矛盾を一度に見出すから可笑しいのである。だから俳畫とカリカチユアを一所にするのは茶番と仙人を一つ繩で束ねる樣なもので當を得ない。

　俳畫はあらゆる畫のうちで尤も省略法に富んだものである。だから其特長は無理がなく無雜作に省略された所にある。簡易生活を理想とした一部の日本人のうちに俳畫的要素を含んでゐるのは當然である。その日本人の中でもことに簡易生活を喜ぶ坊主俳人の類は無論描寫法にも俳畫的な表現を有せねばならぬと思ふ。こゝが西洋のスケツチとは違ふ所以である。スケツチは本來が大作の用意として他日の材料に書き溜めるものゝ樣に思はれるが、俳畫はさうではない。それ自身に於て完全したものである。是より以上精密にする事も複雜にする事も不必要な所が身上になる。吾々文明人の生活は日にまし繁劇になつて行くのは誰しも氣の付く事であるが斯樣に複雜な文明の潮流に浴して流されてゐるうちに、何だ面倒だもつ〔と〕ずつと單簡に願ひたいなと、我知らず遠い昔を回顧する事がある。其時へいと云つてすぐ出てくれるものは俳畫である。余は俳畫を見る度に單純な昔に歸り得た樣な心持がする。さうして其所に云ふべからざる一種のなつかしみを感ずる。

　不折君の技倆に就ては今更喋々するの必要がないからわざと略した。たゞ不折君が苦心の大作を發表する餘暇に斯樣な小品を公け〔に〕せらるゝの勞を多とするのみならず、多趣多樣なる君の趣味の臨機に流露する才力に感謝の意を致さんとする迄である。

　　四十三年二月

　　　　　　　　　　　　−明治四三、三、一二−

　

　　　自然を離れんとする藝術

　　　　　――『新日本畫譜』の序――

　

　藝術家が自然の一部分を切り拔いて、それを區劃のある特別な枠に嵌め込んで、永久に他の侵入を防いだ時、彼は同時に三樣の興味を感ずる事が出來る。

　彼に取つて意味ある此斷片を、廣大な空間中に發見し得たといふ、自家の活眼に對する興味が其一である。此斷片を思ひ切つて大世界から截り取つて、それ自身を完たき小世界に變化させた勇氣に對する興味が其二である。此斷片を自己の頭と腕で思ふ通りに紙もしくは絹の上に拵らえ上げた手柄に對する興味が其三である。

　自然は固より藝術家のために存在するものではない。けれども自然のうちに藝術を發見するのは藝術家である。此發見したる藝術に永久の生命を與へんがために、僞物の混交を防いで、これを安全の地位に置くものは矢張り藝術家である。最後に、此安全を計る手段として、變り易い自然を依頼せずに、自ら其影とも見るべき第二の自然を創設するのも亦藝術家である。自然を寫す藝術家が、自然に對して漫りに奴婢の感を抱かずして、常にどこか小さきゴツドの樣な氣宇を有するのはこれが爲である。

　吾人の有する自我心の要求は單にこれに止まらない。吾人は誠實に自然を描寫しつゝありと聲言するにも拘はらず、其描寫せる所のものは遂に自家の見たる自然を脱する譯に行かない。自然を寫すと稱しながら常に自然の影を描いてゐる。のみならず少し個性の烈しい人になると、進んでわが腦裏に印象されたる獨特の色彩を發揮しやうと力めてゐる。從つてこの人々の努力は自然を再現しやうとするのではない、わが頭《あたま》に映じた一種の自然を描かうとする事になる。選擇した自然の特色を出さうとする上に、かねて又自家の特色をも出さうとしてゐる。藝術は是に於て更に一歩自然を去つて人間に近づいてくる。否寧ろ己れに近づいてくる。妙な意味に於て自然から獨立してくる。

　もう一段此方面に進むと、吾人は自然をも描かず。自然の映じたるわが頭をも描かず、遂に自然の解釋のみを描くやうになる。解釋とは、われは自然をかく翻譯して眺めると云ふ意味である。歌舞伎の外に能樂が成立し、小説の外にアラビアンナイトが行はれ、普通の畫と竝んで裝飾畫が珍重せられるのは、皆自然を離れて、藝術を藝術とせんとする人間の獨立心に本づくものである。動植物の寫生から出立したと稱せらるゝ幾何模樣の如きは其極端を證明すると云つても差支なからうと思ふ。

　此獨立心から出た藝術は、一見自然に背く如き感あるに拘はらず、自然を離れんとするの努力あるの點に於て、既に厭味を脱したるものである。自然に背いて不快を感ぜしむる藝術は、自然に背きながら自然を描くと呼號するからである。嘘を演じて眞《まこと》と思はせやうとする僞を含むからである。日本の芝居の如きは正にそれである。寫實ならざる寫實を見せて、社會の眞相でゞもあるかの如き顔付をなす點に於て、余は芝居を野卑と斷言するを憚らぬ。之に反して能樂は純然普通以外の別天地と思はるゝ程の事を、まともに正直に演じてゐるから毫も強ひられる所がない。もし此藝術のなかに入るのが嫌ならすぐ出て仕舞へば夫迄である。能樂は自然と關係を保つために、ある距離をとつてこれと竝行してゐるかも知れない。けれども其徑路が自然の上を行きつゝあるとは演者も看者も認めてゐない。否あまり寫實過ぎると云つて非難する位である。

　日本畫は裝飾的なる點に於て、普通の畫以上に自然を離れて獨立せんとする藝術である。其獨立の程度は無論幾何模樣の如く甚しくはない、或は能樂ほどにも自然を遠ざかつてゐないかも知れない。けれども、誠實な自然の再現でもなければ、自然のわれに映じた頭の記録でもなくつて、寧ろ一種の自然の解釋である事は明かである。だから全然自然でもなければ、全然不自然でもない。其中間に位するものである。さうして其範圍は應擧の魚の樣な寫生的なものから文人畫のつく芋に至るのだから甚だ廣く且つ自由である。

　日本畫をかく人のうちに、寫生々々といふ人と、氣韻々々といふ人のあるのは、此廣く且つ自由な範圍の兩極を代表したもので、何方も理由のある主張であると共に、いづれも他を排斥する程に、大切なものではあるまいと思ふ。たゞ寫生を口にする人は自然に重きを置き、氣韻に重きを置く人は人間の頭に重きを置くの差で、兩方ともに面白いものゝ出來るのは無論であらう。

　たゞし氣韻派の弊は自然を輕んずると同時に自己の頭をも重んぜず、たゞ氣韻のある作品を遺した人の頭丈を重んずるがため、徒らに粉本のみに拘泥して、草木花鳥悉く同一模型より出るが如き單調に陷る事がある。日本の在來の畫家は實に粉本のみの力で、成功し又失敗したものではなからうか。彼等は實に遲滯なき一筆で、梅の枝もしくは鶴の脛を尤も簡潔に明瞭に確實に安々と誤なく描き出すために、其全力を擧げて練磨の功を積んだ。描く所は早くて、要領を得て、際どくて、多くを語らない裏面に多くを含んでゐる。だからこれを描き始めた人は文與可の竹に於るが如く最も親切に丁寧に自然を觀察したかも知れないが、筆を下すときは、既に第二の自然が頭の中に別に存してゐて、筋肉の力がそれを運び出したに過ぎない。結果は自然に即いてゐるとも云へるが又自然を離れてゐるとも評せられる。後のこれを學ぶものに至つては、固より自然を離れてゐる。しかも彼等が親近せんとする人間の頭さへ離れてゐる。要はたゞ筋肉運用の練磨に歸着して仕舞ふ。千篇一律の弊は其所から出るのである。

　自然を離れて獨立せんとする傾向の藝術が、この弊に陷つたときは、再び自然に接近して直接に新なる解釋を施すより外に途のないものである。寫生から仕込まれた洋畫家の試みる日本畫が、今の時代に一種特別の意義をもたらすのは是が爲である。余はもと畫に於て造詣のないものである。從つて石井君の新畫譜が果してどれ程この弊を救ふ上に於て價値があるか明瞭に斷言は出來ない。たゞ君が從來の弊竇を擺脱して、再び自然に向つて自己の解釋を試みられた勇氣と精力は余の大いに喜ぶ所である。收むる所七十餘枚のうち一として同樣の構圖がないのでも君の佛を恐れず祖を述べず直に大自然をわが道として親しく研究せられた證據になる。況んや譜中描く所の松の如き、出るごとに葉を異にし枝を異にし幹を異にし、毫も相冒す所なくして、しかも遂に松たるに於てをやである。

　たゞ日本畫は石井君自身の斷はられる通り裝飾畫である。裝飾畫の特色は前にも述べる通り自然を離れんとする自我心の要求に應ずる藝術の一樣式である。自然を離れんとする藝術が、一轉して自然に近づくのは、現時の弊がこれをして然らしめたので、永久に亙る裝飾畫の必要條件ではない。もし個々の人間が出來る丈自然から獨立して、出來る丈自分の頭に重きを置いた新らしい解釋を呈出したら、嘸かし面白い事だらうと思ふ。

　　　　　　　　　　　　　−明治四三、九、五−

　

　　　池邊君の史論に就て

　　　　　――『明治維新三大政治家』再版序――

　

　去年の秋池邊君の大久保利通論が中央公論に出たとき、余はそれを秋期附録中の最も興味ある一篇として、樂しく通讀した。其頃余は痔の病に惱んでゐた。池邊君は又年來坐つてゐた東京朝日新聞主筆の地位を棄てた。彼は半ば余の病床を見舞ふため、半ば彼の地位の變動が余に及ぼし得べき影響について掛念するため、好意上必要上平生よりは?余の家を訪れた。

　さう云ふ會合のある日の出來事であるが、余は池邊君に向つて先達ての大久保論は大變面白かつたと余の實際に感じた通りを告げた。實を云ふと、毎月文學雜誌に出る小説の評判は何處にも載るやうであるが、斯ういふ史論めいたものになると、幾ら面白くても、文壇では丸で度外に置く傾があるのを、余は偏狹としか解釋し得なかつたので、とうに人の口に上つて然るべき彼の史論も、それきり葬られて仕舞ひさうな所に、自然余の同情が起つたから、特に彼に對して直接余の所感を告げたのである。無論嘘は云はなかつた。御世辭も使はなかつた。たゞ大變面白かつたと告げた丈であつた。さうして余は其場合池邊君に、自分が彼の史論を大變面白く讀んだといふ事實を、自分の口から知らせたかつたのである。

　すると池邊君は、さうか夫は好かつたと云つて左も嬉しさうな顔をした。余も腹の中で、褒め榮があつてまあ好かつたと思つたせゐか、何となく愉快を感じた。「何うだらう、文章が少し品が惡くはないだらうか」と池邊君が聞いた。「いや些ともそんな事はない。あれで結構だ。たゞあの三分の二位の所に、長くなるから話を端折るといふやうな文句があるが、あれは僕の樣な讀者から見ると却つて殘念だ。出來る丈細かい點まで端折らずに話して貰ひたかつた」と答へた。さうして池邊君に、あゝ云ふ史傳だか評論だか分らない、一種の事實譚兼批評といつたやうなものを續けて書いて、あとから夫を一冊なり二冊なり重味のある書物に纏めたら可からうと勸めた。池邊君も多少乘氣らしく、漸く閑散な身になつたから、一つ試みて見やう。あの調子では本を作る事も夫程困難ではないやうだからと云つて別れた。

　夫から半年も經たないうちに池邊君は突然死んで仕舞つたので、余の希望は、單に岩倉、大久保、伊藤の三政治家に於て實現された丈に過ぎなかつた。しかし其三篇を重ねると優に一卷の頁を埋めるに充分な程あるので、當時池邊君の話を筆記した瀧田君が來て、余に序文樣のものを書けといふ注文を出した。夫は此三月頃の事と覺えてゐる、其時余は「彼岸過迄」といふ小説を毎日一回づゝ「朝日」に載せてゐた。それで、もし序文を書くとすれば、書肆の要求によつて、間に合はせのもの、――と云ふより、自分に餘裕のない間に合せの心で筆を執らなければならなかつた。それが池邊君の朋友としての余には如何にも苛《つら》かつた。苟しくも書く以上は、亡友のために書くのだといふ純粹な心を有つて書きたい。其心が萌さないのに、たゞ頼まれたから書きさへすれば義務は濟むといふ當座逃れの考で原稿紙に向ふのは、どう思ひ直しても故人に對して申し譯がないやうな心持がした。折角の依頼も斯ういふ譯で遺憾ながら一度はとう／＼斷つた。

　所が幸にして史論の初版を賣り盡して二版を出す日が來た。幸にして又「彼岸過迄」を書き上げた余は、君のために二版の序を草する餘裕を得た。そこで筆を執つて右の次第を綴つて行くうちに自然生前の池邊君を思ひ出す事も多くなつた。

　余が朝日新聞に入社の際、仲に立つものが漸次往復の勞を重ねた末、ほゞ相談が纏まりかけた機を見て、池邊君は先を越して向ふから余の家を訪問した。其時余は本郷の西片町に住んでゐた。余は其二階に彼を案内した。固より借家の事であるから致し方もないが、余の家は頗る蚊細く不安心に出來上つてゐた。余の如き卑力なものが疊を踏んでも、二階はずしん／＼と音がした。池邊君の名は其前から承知して知つてゐたが、顔を見るのは其時が始めてなので、何んな風采の何んな恰好の人か丸で心得なかつたが、出て面接して見ると大變に偉大な男であつた。顔も大きい、手も大きい、眉も大きい。凡て大きいづくめであつた。余は彼の體格と、彼の坐つてゐる客間のきやしや一方の骨組とを比較して、少し誇張の嫌はあるが、大佛を待合に招じたと同樣に不釣合な感を起した。先づ是からしてが少し意表であつた。夫から話をした。話をしてゐるうちに、何ういふ譯だか、余は自分の前にゐる彼と西郷隆盛とを連想し始めた。さうして其連想は彼が歸つた後迄も殘つてゐた。勿論西郷隆盛に就て余は何の知る所もなかつた。だから西郷から推して池邊を髣髴する譯はないので、寧ろ池邊から推して西郷を想像したのである。西郷といふ人も大方こんな男だつたのだらうと思つたのである。此感じは決していたづら半分のものではなかつた。其證據には、彼が歸つた後で、余はすぐ中間に立つて余を「朝日」へ周旋する者に手紙を出した。其文句は固より今覺えてゐる筈がないが、意味をいふと、是迄話が着々進行して略纏まる段になつたにはなつたが、何だか不安心な所が何處かに殘つてゐた。然るに今日始めて池邊に會つたら其不安心が全く消えた。西郷隆盛に會つたやうな心持がする。――ざつと斯んなものであつた。池邊君が余の事を始終念頭に置いて、余の地位のために進退を賭する覺悟でゐたといふ話はつい此間池邊君と關係の深いある人の口を通して余に傳へられたから、初對面の時彼の人格に就いて余の胸に映じた此畫像は全くの幻影ではなかつたのである。

　然し西郷隆盛は別問題である。夫程詩的な連想を逞ふする余は寧ろ突飛だと云つて他から笑はれるかも知れない。事實である以上固より笑はれて構はない積で書いたには相違ないが、それを當面の問題たる彼の史論と結び付けて考へると、書いた方が余には大變興味が深いから書いたのである。

　彼の史論（とくに大久保論）を讀んで、何より先に氣のつくのは、敍述が維新の當時から征韓論の騷ぎに至るまでの、日本の歴史中極めて際どい時期に起つた複雜な政治關係であるから、明治の世に生れたものなら、誰の注意でも牽き得なければならない大切な斷面に相違ないといふ考に依傍して起る、現在過去の問題である。吾々の運命を直接に支配してゐる王政復古以後明治初年頃の政界は、吾々の脈搏と一氣に連絡した縁の深いものではあるが、誰がどう研究しても過去の事柄であるには極つてゐる。如何に觀察しても回顧しなければ見る事も聞く事も出來ないのである。所が池邊君の話を讀むと、其過去が逆さに流れて現在に彷徨して來る。長州、薩州、勤王、佐幕、あらゆる複雜な光景が記憶の舞臺を賑やかにする代りに、美事なパノラマとなつて、現に眼の前に活きたまゝ展開する。從つて話をする池邊君は決して過去を振り向いてゐない。正に維新前後の騷動の狂瀾の中にあつて、自由自在に立ち働らいてゐる。反故や書き付の中から死んだ歴史の亡骸を掘り出す學者的態度を取らないで、正に元勲の一人として、はら／＼しながら、前後左右の事情を偵察したり、批評したりしてゐる。遠くから眼鏡越に過去を眺めないで、立派な志士として、自分自身死生の衢に出入してゐる觀がある。池邊君は恐らくさういふ風に生れた男なのだらう。さう思ふと、池邊君と西郷隆盛を連想した事が他人にはどうでも、余には愈面白くなつてくる。

　池邊君は大久保や岩倉についで西郷隆盛の評をやる筈であつたが、つい夫を實行する機會が來ないうちに死んで仕舞つたのださうである。甚だ殘念な事をしたと讀者は思ふだらう。余も同感者の一人である。然し若し余の幻覺を極端に引き延ばす事を許すならば、余は池邊君と西郷を一人と見倣して、其西郷の池邊から大久保や岩倉の批評を聞いてゐる心持でゐたいのだから、或は西郷論の出來なかつた方が、偶然ながら詩的には余にとつて面白いかも知れない。

　池邊君は、西南戰爭の時に有名であつた池邊吉十郎の子である。其時代にはたゞ十三四の少年であつたから助かつたのだらうが、もう少し年を取つてゐたら屹度軍に出て討死をしたに違ない。池邊君は討死をしに生れて來たやうな男らしかつた。さうでなくつても、今二十年早く生れたなら、必ず維新當時の渦中に飛び込んで、國家の爲に働らいたに違ない。余が彼に痔を切開した後の苦痛を訴へて、斯う臆病で氣が弱くつては、幕末に生れる事は到底も出來ないと云つて笑つた時、彼はさうだ吾々もあの頃生れてゐたら多分は殺されてゐるだらうなと語つた事がある。

　池邊君と余とは比較的新らしい交際である。然し新らしい割には親しい交際であつた。去年の秋社に或る事件が起つて、それに關連した用向のため、互に話したり話されたりする必要と機會とが與へられてから、余は大分深く彼の心の中に立ち入ることが出來た。彼も亦余の性格のある方面を漸く呑み込んだらうと思ふ。もし池邊君が長く生きてゐたら、或は莫逆の交りが二人の間に成立し得たかも知れなかつた。不幸にして其交りが熟し切らないうちに彼は死んだ。死んだけれども、余は未だに彼の朋友として存在するのである。其朋友の資格で、彼の遺稿の卷頭に、此一篇を掲げ得るのは余の喜びであり、又余の誇りである。

　　明治四十四年五月

　　　　　　　　　　　　−明治四五、五、一八−

　

　　　『土』に就て

　　　　　――長塚節著『土』序――

　

「土」が「東京朝日」に連載されたのは一昨年の事である。さうして其責任者は余であつた。所が不幸にも余は「土」の完結を見ないうちに病氣に罹つて、新聞を手にする自由を失つたぎり、又「土」の作者を思ひ出す機會を有たなかつた。

　當初五六十回の予定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫｜限《ぎり》に打ち遣《や》つた樣なものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十回に至つて漸く結末に達したのである。

　冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所が或時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼を以て「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。

　すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一回づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう／＼手に入らなかつたのである。

　余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。

　尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。

　「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獣類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等（今の文壇の作家を悉く含む）の想像にさへ上りがたい所を、あり／＼と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を着けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獣類に接近した部分を、精細に直敍したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。

　人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて敍述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず獨特《ユニーク》である。其｜獨特《ユニーク》な點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の獨特《ユニーク》なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。

　作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には余り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に加速度《アクセレレーシヨン》の興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい／＼引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平敍して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潜んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つて呉れた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犠牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土の下へ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。

　「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られる樣な氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女（男でも同じである）の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射して來るのだと余は固く信じて居るからである。

　長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のＳといふ人がわざ／＼書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ／”＼」といふものをＳの所で一回讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日新聞」の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓所ところ／”＼」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたま／＼「滿韓ところ／”＼」の一回を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ／”＼」のうちで、長塚君の氣に入らない一回を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。

　長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ／＼余に報知して來たものがあつた。此時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ／＼斷わらんでも厭なら厭で黙つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は只名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。

　　明治四十五年五月

−明治四五、五、一五−

　

　　　【秋元梧樓編】『三愚集』序

　

　句は一茶畫は芋錢書は漱石それ故に三愚集といふ句を作りて後世に殘せる一茶は氣の知れぬ男なり其句を畫にする芋錢は入らざる男也頼まれて不得止一茶の句を寫せる漱石は三人のうちにて一番の大馬鹿なり三愚を一堂に會して得意なる秋元梧樓に至つては賢か愚か殆んど判しかたし

　　四十五年五月

　　　　　−大正九、七、二八−

　

　　　【秋元梧樓編】『明治百俳家短冊帖』

　　　　　　　　　　　天之卷序

　

　俳家短冊帖の序再應御求の處過般申上候通近頃は句も讀まず句も作らず俳壇とは全く疎遠に打過居候始末にて是と申す意見もまとめかね候まゝ惡詩一首御詫のしるし迄に差上序の方は乍不本意御免蒙り候

　　雲箋有響墨痕斜好句誰書草底蛇九十九人渾是錦集將春色到吾家

百家帖に九十九人と申すは小生を省きたる意味に御座候

　　四十五年七月　　　　　　　　　　　夏目漱石

　　　　　−大正元、一〇、二五−

　

　　　【高原蟹堂著】『極北日本』序

　

　余は東京の場末に生れたものであるが、妙な關係から久しい以前に籍を北海道に移したぎり、今に至つて依然として後志國の平民になつてゐる。原籍のある所を知らないのも變だと思つて、機會があつたら一度海を超えて北の方へ渡つて見たい積でゐたが、つい積計で實行の決心は容易に出來ず、來る年來る年を荏苒と暮らして仕舞つた。二三年前ある知人が、あちらへ行くから一所に行かぬかとわざ／＼勸めて呉れたが、其時も都合が惡くて矢張り愚圖々々東京に殘つてゐた。

　戸籍面からいふと故郷ともいふべき北海道ですら斯の通りだから、其先の樺太へ旅行などは固より思ひも寄らぬ事で、樺太と云へば嘸寒いだらうと想像する位がせきの山であつた。所が去年の夏我社の講演會があつたとき蟹堂君と同じ組になつて、堺と大阪と二ケ所で、君の樺太談を二席聞いてから樺太が大いに面白くなつた。「極北日本」には此二席で述べ足りない所が悉く布衍してあるのだから、余から云へば、其面白さが又遺憾なく布衍された譯になる。

　樺太の記事中膃肭臍の敍述は、此動物の生活状態に暗き余を、大いに驚ろかしたものである。然し君の筆に上つた長官や第一部長の名も亦官吏の動靜に無頓着な余を少なからず刺戟した。蟹堂君が親しく大經營の方針を聽いたといふ平岡長官や、それから君が世話になつたといふ中川第一部長は、二人共豫備門時代に於ける余の同窓である。平岡君とは夫程親しくはなかつたが、中川君とは別懇の間柄であつた。たしか學校を卒業した時の話だと記憶してゐるが、知り合の某々等がある序で顔を合はした折、座上を見廻して此うちで誰が一番先に馬車に乘るだらうといつたものは此中川君であつた。誰も答へない先に、まあ己だらうなと云つたものも此中川君であつた。其時居合はした五六の卒業生のうちで出入に馬車を驅つてゐるものが今あるかないか、まだ調べて見ない余の知らう筈もないが、少なくとも中川君丈は、慥かに橇に乘つて樺太を横行してゐるに違ない。その時の一人であつた某理學士も近々樺太へ轉任するといふから、これも中川君と前後して橇に乘る事だらう。

　蟹堂君の筆は縱横に自在である。だから何でも構はず筆に任せて洒落のめし過ぎるのが、憾むらくは君の文章の煩になりはせぬかと危ぶまざるを得ない。けれども「極北日本」は高級な藝術的作物の積で書いたのでない事は、讀者も承知して置く必要がある。蟹堂君は新聞の讀ものとして、其日々々をただ我々に面白く讀ませるため、成るべく内容の平板單調を補ふ工夫に出たのである。だから蟹堂君の書き方は、單に文學的といふ方面から見れば短所もあらうが、新聞の續き物といふ刺戟を一位に置かなければならない條件つきの文章を本義として見ると、中々に成功した才筆に相違ないのである。

　　　大正元年十月

　　　　　−大正元、一二、一−

　

　　　『社會と自分』自序

　

　此集に收めた講演六篇のうち、初めの四種は去年八月中大阪朝日講演會のために拵らへたものである。頁數の都合で、其後に付け足した二種は、餘程以前に、ある特別の席上で述べたもので、舊稿として書架の隅にあつたのを、今度一所に纏めたのである。是等の舊稿は雙方とも、もつと現在の自分の意に充つるやうに書き直したいのだけれど、其暇がないので已むを得ず元の儘にして置いた。ことに「文藝の哲學的基礎」は隨分六づかしい大問題を左も容易さうに、從つてある意味から見て、幾分か輕佻に、講じ去つた趣があるので、自分は甚だ遺憾に思つて居る。「創作家の態度」でも、今日の文壇と關聯して、もう少し剴切に讀者の頭に響くやうに書き改めたいのだけれども、前同樣の譯で仕方がない。

　此講演集の名を講演集としないで、「社會と自分」としたのは、何れの講演も其主意を抽象して引き括れば、要するに皆社會對自分の關係を研究したものに過ぎないからである。

　　大正元年十二月

　　　　　−大正二、二、五−

　

　　　【ふぢ子作】『相模の埃』紹介

　

　「相模のほこり」といふものを私の手迄送つて來ましたから一寸御目にかけます。此短篇は小説としては物足らないものでありますが、寫生文としては堅固なものと思ひます。斯ういふ文體と材料で長い小説が書いて行かれるなら結構だと思ひます。兼てからあなたの御主張通りのものが出來はしませんか。私はさういふ意味で昔からホトヽギスの投書を尊敬して拜見して居ります。だから此一篇も右投書の中にお加へを願つて、私と同感のものゝ眼に觸れさせたいといふ考を起しました。御採用下さい。いづれ其内匆々。

　　六月十日　　　　　　　　　金之助

　　　虚子樣

　　　　　坐下

　　　　　−大正二、七、一三『ホトトギス』−

　

　　　【野上八重子譯】『傳説の時代』序

　

　私はあなたが家事の暇を偸んで『傳説の時代』をとう／＼仕舞迄譯し上げた忍耐と努力に少からず感服して居ります。書物になつて出ると餘程の頁數になるさうですが嘸骨の折れた事でせう。原書は私の手元にもあるから承知してゐますが、一寸見ると四六版の小形の冊子に過ぎませんけれども、活字は細かし、上下は詰つてゐるし、讀むのにさへ隨分の時間は懸ります。況して一行毎に譯して行くとなつたら、それを專業にする男の手でもさう容易くは出來ません。況して夫の世話をしたり子供の面倒を見たり弟の出入に氣を配つたりする間に遣る家庭的な婦人の仕業としては全くの重荷に相違ありません。あなたは前後八ケ月の日子を費やして思ひ立つた翻譯を成就したと云つて寧ろ其長きに驚ろかれるやうだが、私は却つて其迅速なのに感服したいのです。

　出版に就て私の序文が御入用だとの仰は謹んで承りましたが、私はあらゆるミスに就て何事もいふ權利を有たない無學者なのだから少からず困却します。私は希臘の神話に就いて、あそこを少し、こゝを少し、と云つた風にうろ覺えに覺えてはゐますが、系統的には研究もせず、批判もせず、漫然と今日迄經過して來た事を、今日あなたの前に自白しなければならなくなりました。あなたの御譯しになつた原書は、今でもちやんと私の書架の中に飾つてあります。それを買つたのは何時の頃の事か覺えてゐない位ですから定めし古い昔だらうと思ひます。けれども其昔に買つた本を、今日迄まだ一度も眼を通した記憶がないのも慥かな事實ですから、私は希臘の神話にかけては、あなたよりも遙かに無知識なのです。立派な序文の書けやう筈がありません。

　御存じの通り私は英文學出身のものですから、高等學校在學の頃から歐洲文學の根柢に横はる二つの寶庫（聖書と希臘神話）をいつか機會を見て思ふまゝ熟覽して置きたいといふ希望を抱いてゐましたが、御恥づかしい事に、此機會は永久に多忙な自分の眼前に遂に出現せずに濟んで仕舞ひました。

　私が高等學校にゐる頃同級生に松本亦太郎（今の文學博士）といふ人がゐました。此人は其頃熱心な基督信者でしたが、ある時私に、聖書を日に何頁づゝとか讀むと、丁度三年目に新舊兩約全書を通讀する事になるといつて、それを日課として毎日怠らず繰返してゐるやうでした。私は其話を聞いた時、たとひ私が耶蘇教徒でないにせよ、バイブルは文學上必要の書物だから、さういふ課程をこしらへて、長い間に通讀したら嘸有益だらうと思つて、既に遣り始めようと迄決心した事があります。然し好きな事にばかり夢中になり易い、又厭な事に始終追ひ懸けられてゐた其頃の私には、ついに夫すら果さずじまひに終りました。夫だから、私のバイブルに於ける知識は非常に貧弱なものです。さうして私の希臘神話に於る知識も亦これに劣らぬ程憐なものなのに過ぎません。

　それがため學校を出て教師をしてゐる時分には、よく雙方の故事故典で惱まされました。仕方なしにバイブルのコンコーダンスを左右に置いたりクラシカル字彙といふやうなものを机上に具へたりして、何うか斯うか御茶を濁して通りました。甚だ切ない事でした。切ない許ならまだしも、時によると、馬鹿々々しくて腹の立つ事さへありました。

　あなたが何んな動機から神話を譯して御覽になつたかはまだ解らないが、恐らく文學を研究する人の手引草として許ではないでせう。今の人の手にする文學書には?ーナスとかバツカスとかいふ呑氣な名前は餘り出て來ないやうです。希臘のミソロジーを知らなくても、イブセンを讀むには殆んど差支ないでせう。もつと皮肉にいふと、人生に切實な文學には遠い昔しの故事や故典は何うでも構はないといふ所に詰りは落ちて來さうです。あなたもそれは御承知でせう。それでゐてこんな夢のやうなものを八ケ月もかゝつて譯したのは、恐らく餘りに切實な人生に堪へられないで、古い昔の、有つたやうな又無いやうな物語に、疲れ過ぎた現代的の心を遊ばせる積りではなかつたでせうか、もし左右ならば私も全く御同感です。其意味を面倒に述べ立てるのは大袈裟だから止しますが、私は自分で小説を書くと其あとが心持ちが惡い。それで呑氣な支那の詩などを讀んで埋め合せを付けてゐます。夫から大病中徒然を慰めるため繪（繪といふ名はちと分に過ぎるから、繪のやうなものと云つた方が適切ですが）其繪を描いて遊んでゐると、矢張り仙人だの坊主だの山水だのが天然自然題目になります。是もある意味に於てあなたの神話に丹精を盡したと同じ動機になるのではありますまいか。弱い神經衰弱症の人間が無暗に他の心を忖度して好い加減な事を申して濟みません。もし間違つたら御勘辨を願ひます。

　最後に神樣の名前の發音に就いて一寸申上げます。あなたの發音法は大部分大陸讀方（コンチネンタル・メソツド）を用ゐられた樣ですが、日本で云ひ慣らされたバツカスとか?ーナスとか云ふのは英吉利讀にされたと見えますから其邊は一寸讀者に注意して置いて遣らないと惡いだらうと思ひます。夫から又羅甸讀にしてもクオンチチイを付けて發音しないで、のべつに羅馬字綴りの讀み方見たやうに遣つたのがあるなら、夫も序に斷つて置いて御遣んなさい。

　序を書きたいのは山々ですが序らしい序が書けないので此手紙を書きました。若し序の代りにでも御用ひが出來るなら何うぞ御使ひ下さいまし。以上。

　　六月十日

　　　　　　　　　　　　　　　夏目金之助

　　　野上八重子樣

　　　　　−大正二、七、一五−

　

　　　【想田秋曉編】『高岳』題言

　

　郷土藝術といふものは單に言葉の上の戯れのように思はれます、若し郷土藝術といふものが存在するなら、それは其郷土以外の人にも讀まれ得る性質のものでなくてはならないでせう。

　其郷土以外のものにも讀まれ得るなら、それで其郷土以外にも存在の價があるでせう。

　此價値ある作品の集輯を望みます。

　　　　　−大正三、一、三−

　

　　　【米窪太刀雄著】『海のロマンス』序

　

　あなたの回航日記は海を知らない人に取つて興味の深いものであります。又有益なものであります。私は『海のロマンス』と云ふ標題の下に此回航日記が公けにされるのを喜んで居ります。

　概していふと文筆は陸の仕事です。陸に居て海を書くコンラツドの樣な人はありますが船に居て海の生活を其日々々に寫して行つた人はあまりないと思ひます。それも暇のある人が道樂にならやれるかも知れませんが、あなたの樣に練習に忙がしい身で、朝夕仕事に追懸けられながら、疲れた手にペンを持つ事を毎日忘れずに何百日も遣り通すといふ事は到底出來る業ではありますまい。此點に於てあなたの文章は外の人のそれよりも遙かに骨の折れた努力を示して居ます。此點に於て確かに世間に紹介される價値があると思ひます。

　あなたは普通の人に出來ない事を爲すつたのです。御蔭で普通の人に知れない事を公けにする機會を得たのです。今度の帆走は約四百日で三萬六千浬を走つたのださうですが、此未曾有の回航中に含まれて居る暴雨だの海化だの、波の山だの、雲の鬼だの、陸では百年經つても見る事の出來ないものが、たゞあなたの忍耐で握られたペンの先からのみ湧いて出たとすれば、あなたも嬉しいでせう。陸に居るものも嬉しいのです。島國と名は付いて居ても海の生活を知らない日本人はいくらでも居ます。知らないで知りたがつて居る人も澤山あります。あなたは斯ういふ人にケープタウンや、リオ、デ、ジヤネイロや、フリーマントルから、好い土産を携へて歸つて來たと云はなければなりません。

　あなたの文章は才筆です。少しの淀みもなく、それからそれと縱横にペンを驅使して行く御手際は殆んど素人らしくありません。よくあの忙がしい練習船のうちで、此位に念入りの文章が書けるかと思ふと感服せずには居られません。然しそこにあなたの弱點の潜んでゐる事を忘れてはなりません。あなたの筆は達者過ぎます。あなたは才に任せて書き過ぎました。素人らしくないと同時に少し黒人臭くなりました。私はあなたの文を讀んで何故延ばす一方にのみ走らないで、縮める工夫に少し頭を使はなかつたかを遺憾に思ふのです。あなたの文章は私が昔し書いたものの系統を何處かに引いて居ます。それが私には猶更辛いのです。人の文章が自分の文章の惡い所に似てゐる。私に取つて是程面目のない事はありません。私は「猫」を書いて何遍か後悔しました。さうして其後悔の過半は「猫」らしい文を讀んだ時に起つたのです。あなたが私の文章を眞似たと云つては失禮です。然し私の文章の惡い所があなたの文章にもあると云ふ事は疑もない事實です。私は其後自分の非を改めた積りです。あなたも今度第二の『海のロマンス』を書く時には何うぞ私の忠告を利用して、素人離れのした、しかも黒人染みない管筆で純粹なものを書いて下さい。

　　大正二年十二月二十日

　　　　　　　　　　　　　　夏目漱石

　　　太刀雄樣

　　　　　−大正三、二、一〇−

　

　　　【保坂歸一著】『吾輩の見たる亞米利加』下篇序

　

　あなたの著書の上卷がまだ出版にならない頃、私はある本屋から訪問を受けた事があります。其本屋はあなたの原稿をあなたの著書と銘を打たずに世の中へ公けにしやうといふ考らしかつたのですけれども、それを私に無斷で遣《や》る程の勇氣もなかつたものと見えて、わざ／＼私の意向を確めに來たのでした。其時私は無論不賛成だと云ひ放ちました。と云ふのは、現にあなたといふ立派な著者があるのにも拘はらず、故さらに夫を隱して、世間へは私が『猫』のつゞきでも書いたやうに見せかけやうとする底意が本屋にあつたからです。書物の中味が佳ければ著者に氣の毒だし、惡ければ私の名前に關係すると私は云ひました。中味の善惡は別としても胡魔化しだから不可《いけ》ないと忠告して遣りました。若し夫を敢てするならば筆を執る兩人の迷惑のみならず、書肆として君の家の信用を害する事になるとも云ひ添へました。さうしたら本屋は御尤もだと云つて歸りました。それから少時して又其男に會つた時、あの原稿は何うしたと聞いたら、見合せましたと答へました。

　私は其原稿が別の出版者の手に渡つて、保坂歸一著として立派に公けにされたのを喜ぶのであります。さうしてあなたが私の『猫』を亞米利加迄連れて行つて下さつた御厚意に對して感謝の意を表したいと思ふのであります。私の『猫』はたしか麥酒を飲んで水甕の中へ落ちてそれぎり成佛したと記憶してゐます。其猫は大正になつてから又あなたの手で生き返つた樣なものです。

　私は十年振に故國へ歸られたあなたの貴重な時間を割いて、三度迄早稻田の片田舍を尋ねて下さつたあなたの御親切をありがたく思ひます。わが同胞が亞米利加でつくつた果物だと云つて惠まれた御土産を快よく頂きます。

　再度の御航海ももう二週間のうちのやうに伺ひます。あなたの將來の健康と成功とを祈ります。

　　三月十八日

　　　　　　　　　　　　　　夏目金之助

　　　保坂歸一樣

　　　　　−大正三、四、一〇−

　

　

　　　岡本一平著竝畫『探訪畫趣』序

　

　私は朝日新聞に出るあなたの描いた漫畫に多大な興味を有つてゐる一人であります。いつか社の鎌田君に其話をして、あれなりにして捨てゝ仕舞ふのは惜しいものだ、今のうちに纏めて出版したら可からうにと云つた事があります。其後あなた自身が見えた時、私はあなたに自分の描いたものはみんな保存してあるでせうねと聞いたら、あなたは大抵散逸してしまつたやうに答へられたので私は驚ろきました。尤もさういふ私も隨分無頓着な方で、俳句などになると、作れば作つたなりで、手帳にも何にも書き留めて置かないために、一寸短冊などを突きつけられて、忘れたものを思ひ出すのに骨の折れる場合もありますが、それは私が其道に重きを置いてゐない結果だから、仕方がありませんが、貴方の畫は私の俳句よりも大事にして然るべきだと私はかねてから思つてゐたのだから、それを揃へて置かない貴方の料簡が私には解らなかつたのです。

　あなたは私に云はれて始めて氣が付いたやうに工場の中を探し廻つたといふぢやありませんか。さうして漸くそれを出版する丈に纏めたのださうですね。左右なればあなたの勞力が單獨に世間に紹介されるといふ點に於て、あなたも滿足でせう、最初勸誘した責任のある私も喜ばしく思ひます。私ばかりではありません、世の中には私と同感のものがまだ澤山あるに違ないのです。

　普通漫畫といふものには二た通りあるやうです。一つは世間の事相に頓着しない藝術家自身の趣味なり嗜好なりを表現するもので、一つは時事につれて其日々々の出來事を、ある意味の記事同樣に描き去るのです。時と推し移る新聞には、無論後者の方が大切でせうが、あなたは其方面に於ての成功者ぢやなからうかと私は考へるのです。私が最初あなたに勸めて、年中行事といふやうなものを順次にならべて一卷にしたら何うだらうと云つたのは、是がためなのです。見る人は無論あなたの畫から、何時何んな事があつたかの記憶を心のうちに呼び起すでせう、しかも貴方の表現したやうな特別な觀察點に立つて、自分がいまだかつて經驗しなかつたやうな記憶を新らしくするでせう。此二つの記憶が經となり緯となつて、たゞでは得られない愉快が頭の中に滿ちて來るかも知れません。忙がしい我々は毎日毎日蛇が衣を脱ぐやうに、我々の過去を未練なく脱いで、ひたすら先へ先へと進むやうですが、たまには落ち付いて今迄通つて來た途を振り向きたくなるものです。其時茫然と考へてゐる丈では、眼に映る過去は、映らない時と大差なき位に、貧弱なものであります。あなたの太い線、大きな手、變な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡單な畫は、其時我々に過去は斯んなものだと教へて呉れるのです。過去はこれ程馬鹿氣て、愉快で、變てこに滑稽に通過されたのだと教へて呉れるのです。我々は落付いた眼に笑を湛へて又齷齪と先へ進む事が出來ます。あなたの觀察に皮肉はありますが、苦々しい所はないのですから。

　もう一つあなたの特色を擧げて見ると、普通の畫家は畫になる所さへ見付ければ、それですぐ筆を執ります。あなたは左右でないやうです。あなたの畫には必ず解題が付いてゐます。さうして其解題の文章が大變器用で面白く書けてゐます。あるものになると、畫よりも文章の方が優つてゐるやうに思はれるのさへあります。あなたは東京の下町で育つたから、斯ういふ風に文章が輕く書きこなされるのかも知れませんが、いくら文章を書く腕があつても、畫が其腕を抑えて働らかせないやうな性質のものならそれ迄です。面白い繪説の書ける筈はありません。だから貴方は畫題を選ぶ眼で、同時に文章になる畫を描いたと云はなければなりません。その點になると、今の日本の漫畫家にあなたのやうなものは一人もないと云つても誇張ではありますまい。私は此繪と文とをうまく調和させる力を一層擴大して、大正の風俗とか東京名所とかいふ大きな書物を、あなたに書いて頂きたいやうな氣がするのです。

　　六月十五日

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　夏目金之助

　　　岡本一平樣

−大正三、六、一五−

　

　　　『心』自序

　『心』は大正三年四月から八月にわたつて東京大阪兩朝日へ同時に掲載された小説である。

　當時の豫告には數種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる積だと讀者に斷わつたのであるが、其短篇の第一に當る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を發見したので、とう／＼其一篇丈を單行本に纏めて公けにする方針に模樣がへをした。

　然し此『先生の遺書』も自から獨立したやうな又關係の深いやうな三個の姉妹篇から組み立てられてゐる以上、私はそれを『先生と私』、『兩親と私』、『先生と遺書』とに區別して、全體に『心』といふ見出しを付けても差支ないやうに思つたので、題は元の儘にして置いた。たゞ中味を上中下に仕切つた丈が、新聞に出た時との相違である。

　裝幀の事は今迄專門家にばかり依頼してゐたのだが、今度はふとした動機から自分で遣つて見る氣になつて、箱、表紙、見返し、扉及び奧附の模樣及び題字、朱印、檢印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。

　木版の刻は伊上凡骨氏を煩はした。夫から校正には岩波茂雄君の手を借りた。兩君の好意を感謝する。

　　大正三年九月

　　　　　−大正三、九、二〇−

　

　

　　　【木村恒譯】『南國へ』再版序

　

　私は貴方の翻譯を拜見しました。

　此作家の敍述はなだらかで穩やかで讀んで好い心持がします。それが構造の不自然な所を補ふといふよりも、寧ろ一種の對照になつて現代の小説に見る事の出來ない配合をかたちづくつてゐます。

　私が今迄讀んだ小説の中で、好きなものの一つとして何時でも數へたいのは?カー、オフ、ヱークフイールドでありますが、あの云ふに云はれない愉快な平和な懷かしい空氣の中から、骨組丈を拾ひ出すと矢張り不自然な構造が後に殘ります。然し私は其不自然さへナイーヴな美點としで認める位好きなのです。

　十八世紀の小説の主人公は、此翻譯の主人の如く諸方をさまよつて夫から夫へと渡つて行くのが例のやうになつてゐます。是は作者の方で作物に變化をつける手段から出たものかも知れませんが、其變化はたゞ眼先の變ると云ふ丈のものですから夫以上のものは望めないのです、又望まないでも好いやうな面白いものも出て來るのです。

　同じ十八世紀にピカレスク小説といふ名前のつく一種の小説があります。是は主人公が冒險をしながら方々歩き廻るのが主意で、性質からいふとまづ荒つぽいものですから、日本の講談の仇討《かたきうち》位に相當するものでせうが、此翻譯の主人公の平氣な顔をして何處迄も流浪して行く所などは矢つ張り其處から系統を引いてゐるやうです。

　太閤記十段目に坊主が湯に入つたかと思ふと、すぐ羽柴筑前守秀吉か何かになつてしまふ所がありますが、十八世紀の小説にもあれ程ぢやないが、甲が乙に化けたり女が男に變粧したりするのがいくらもあります。ジル、ブラスにも、今御話しした?カーにもあつたと思ひます。此翻譯中にもそれがあるやうですが、私にはそれが馬鹿々々しく感ぜられるよりも、草雙紙の昔の世界に引き入れられたやうで一寸愉快なのです。まだいふ事もありますが是でやめます。此手紙がもし序文として御用に立つなら御使ひになつでも構ひません。以上

　　大正四年一月十三日

　　　　　　　　　　　　　　　夏目金之助

　　　木村恒樣

　　　　　−大正四、二、一〇−

　

　　　木下杢太郎著『唐草表紙』序

　

　私は貴方ら送つて下さつた校正刷五百八十頁を今日漸く讀み了りました。漸くといふと厭々讀んだやうに聞こえるかも知れませんが、決してそんな譯ではないのです。多大の興味ばかりか、其興味に伴ふ利益をも受けながら、樂しく讀み了つたのです。實をいふと私の都合もあり、又活字組込の關係もありして、長短十八篇の間を休み休み通り拔けたのは、批評を依頼した貴方にも御氣の毒ですし、またそれを御約束した私にも多少の不便は出て來たに相違ありませんが、此陷缺を避ける手段は御互になかつたのですから、それは雙方で我慢する事にして、私の御作に對するざつとした考へ丈を申し上げます。

　まづあなたの特色として第一に私の眼に映つたのは、饒かな情緒を濃やかにしかも霧か霞のやうに、ぼうつと寫し出す御手際です。何故ぼうつとしてゐるかといふと、あなたの筆が充分に冴えてゐるに拘はらず、あなたの描く景色なり、小道具なりが、朧月の暈のやうに何等か詩的な聯想をフリンジに帶びて、其本體と共に、讀者の胸に流れ込むからです。私は特に流れ込むといふ言葉を此所に用ひました。もと／＼淡い影のやうな像ですから、胸を突つくのでも、鋭く刺すのでもない樣です。あなたの書いたものゝうちには、人が氣狂になる所があります。人が短刀で自殺する所も、短銃《ピストル》で死ぬ所もあります。是等は大概裏から書くか、又は極簡單に敍し去つて仕舞はれるので、當り前の場合でも、それ程苦痛に近い強烈な刺戟を讀者に與へないかも知れませんが、それでも、若し以上に述べたやうな詩的の雰圍氣の中で事が起らなかつたなら、あゝした淡い好い感じは與へられますまい。

　此ぼうつとした印象が、美的な快感を損はない程度の輕い哀愁として、讀者の胸にいつの間にか忍び込む理由を、客觀的に翻譯すると色々な物象として排列されます。其内で私は歴史的に讀者の過去を蕩搖する、草雙紙とか、薄暗い倉とか、古臭い行燈とか、又は舊幕時代から連綿とつゞいてゐる舊家とか、温泉場とかを第一に擧げたいと思ひます。過去はぼんやりしたものです。さうして何處かに懷かしい匂ひを持つてゐます。あなたはそれを巧に使ひこなして居るのでせう。

　單に歴史上の過去ばかりではありません、あなたは自分の幼時の追憶を、今から回顧して忘れられない美くしい夢のやうに敍述してゐます。私は一、二、三、四、と段々讀んで行くうちに此種の情調が、私の周圍を蜘蛛の糸の如く取り卷いて、散文的な私を、何時の間にか夢幻の世界に連れ込んで行つたのをよく記憶してゐます。私の心は次第々々に其中に引き込まれて、遂に「珊瑚樹の根付」迄行つて全くあなたの爲に擒にされて仕舞つたのです。だから幼時の記憶として其儘を敍述してゐない「夷講の夜の事であつた」に至つて却つて失望しようとしたのです。

　私は此種の筆致《ひつち》を解剖して第二番目に遠くに聞こえる物賣の聲だの、ハーモニカの節だの、按摩の笛の音だのを擧げたいと思ひます。凡て聲は聽いてゐるうちにすぐ消えるのが常です。だから其所には現在がすぐ過去に變化する無常の觀念が潜んでゐます。さうして其過去が過去となりつゝも、猶意識の端に幽靈のやうな朧氣な姿となつて佇立《たゝず》んでゐて、現在と結び付いてゐるのです。聲が一種切り捨てられない夢幻的な情調を構成するのは是が爲ではないでせうか。新内とか端唄とか歌澤とか淨瑠璃とか、凡てあなたのよく道具に使はれる音樂が、其上に專門的な趣を以て、讀者の心を輕く且つ哀れに動かすのは勿論の事ですから申し上げる必要もないでせう。然しあまり自分の好尚に溺れて遣過ぎた痕迹を殘したのもないとは云はれません。第一編の「硝子問屋」の中にはその筆が餘り濃く出過ぎてはゐますまいか。

　敍景に於てもあなたは矢張り同じ筆法で讀者の眼を朦朧と惹き付ける事が好であるやうに見受けました。要するに水でも樹でも、人の顔でも凡てあなたの眼にうつるものは、決して彫刻的にあなたを刺戟してゐないやうに見えます。全く繪畫的にあなたの眸を彩どるのだらうと思ひます。しかもアンプレシヨニストのそれの如く極めて柔かです。さうして何處かに判然しないチヤームを持つています。だから私は「荒布橋」の冒頭に出てくる燕の飛ぶ樣子や、「夷講」の酒宴の有樣を敍するくだりに出會つた時、大變驚ろいたのです。二つのものは平生のあなたの筆で書きこなされたものとは思へない位硬いのです。

　要するに貴方の小説に有り餘る程出てくるのは一種獨特のムードでせう。だから夫がまとまらない上に、筋が通らないとか、又は主人公の哲學觀などが露骨に出てくると、一方が一方を殺して、少し平生の御手際に似合はない段違ひのものが出來はしまいかと疑はれます。「荒布橋」とか、「岡田君の日記」とか、「六月の夜」の一部分とかになると、其所に手荒で變に不調和なものが露はれてゐるやうです。其代りよし氣分丈のものでも筋のまとまらない「河岸の夜」といつたやうな、（其中には六づかしい議論も織り込まれてはゐるが）たゞ裝飾的で左程｜他《ひと》の情緒をそゝる事の出來ないものもあると申し添へなければならなくなります。惡口の序だから、「北より南へ」といふ短篇の評も此處に付け加へて置きたいと思ひます。あゝ云つた調子のものは、アナトール、フランスの短篇に澤山あります。さうして遺憾ながら彼の方が貴方よりずつと旨いと思ひます。

　あなたの作に就いて情調とか、ムードとか云ふものを擧げて、それを具合好く説明すれば、既に大半の批評は出來上つたやうに考へられるのですが、其ムードを作り上げるために、河岸の壽司屋とか、通りの丸花とか、乃至は坊間の音曲など丈が道具になつてゐるといふ意味では決してないのです。あなたの書き下す人間が、人間として一人前に活動しつゝ、同時に其一篇のムードを構成してゐる事は疑もない事實です。亮さんでも、京さんでも、彼等のする事は皆此兩樣の主意を同時に滿足させてるではありませんか。「三人の從兄弟」などになると、其上に又親父さんの青年に對する反抗的な感情が一篇の主意もしくは哲理として後の方に出てゐます。

　次にあなたの理解力に就いて一言其特色を述べたいと思ひます。あなたの頭の働らきは全く科學的でありながら、其濃やかな點が、あなたの情緒の描寫によく調和して、綿密によく行き渡つてゐます。さうして不思議にもそれが普通のありふれた作物の樣に、くだ／＼しくならないのです。いくら微細な心的現象の解剖でも、又は外觀からくる人間の精密な描寫でも、決して干乾びてゐません。必ず委曲要領をつくすのみならず、其所にあなた獨得の一種の趣が漂つてゐるのです。私の見る所によると其趣はあなたの觀察が突飛に走らない程度で、場合々々に適當な新らしい刺戟を讀者に與へ得るからだらうと思ひます。「靈岸島の自殺」や「船室」の前半の如きは、其方面のいゝ作例と見て差支ないでせう。ことに前者に於て、ある男とある女の性的關係の階級等差が、あれ程細かく書いてありながら、些とも卑猥な心持を起させずに、たゞ精緻な觀察其物として、他をぐい／＼引き付けて行く處などは、何うしても旨いと云はなければなりません。此小説は主人公が東京へ出てからの心の變化に、前半程緻密な且つ穩當な、藝術的描寫が缺けてゐるため、多少のむらがあると思ひますが、世間でいふ小説の意味から批判すると、或は壓卷の作かも知れません。

　要するに貴方の書き方は絹漉し豆腐のやうに、又婦人の餅肌のやうに柔らかなのです、上部ばかり手觸りが好いのかと思ふと、中味迄ふく／＼してゐるのです。線でいふと、外の人の文章が直線で出來てゐるのに反して、あなたのは何處も婉曲な曲線の配合で成り立つてゐるやうな氣がします。しかも其曲線のカーヴが非常に細かいのです。外の人が一尺で繼ぎ易へる所を、あなたは僅か一寸か二寸の長さで細かに調子よく繼ぎ足しては前へ進んで行くとしか形容出來ません。其所《そこ》にあなたの作物には、他に發見する事の出來ないデリケートな美くしさが伏在してゐるのでせう。もう一つ比喩を改めて云へば、あなたの文章は楷書でなくつて悉く草書です。それも懷素のやうな奇怪な又飄逸なものではありません、もつと柔らかに、もつと穩やかに、さうして時々粹な所を仄かすといつたやうな草書です。

　此冗長な手紙が、もし貴方の小説集の序文として御役に立つならば何うぞ御使ひ下さい。私は貴方に對する愉快な義務として、それを認めたのですから。

　　一月十八日夜

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　夏目金之助

　　　木下杢太郎樣

−大正四、二、一〇−

　

　　　『硝子戸の中』自序

　

　「椅子戸の中」は大正四年一月十三日から二月二十三日まで「朝日新聞」に連載された著者の小品である。

　　　　　−大正四、三、二八−

　

　　　【植松安譯】『文藝批評論』序

　

　作物を愛讀する人に、文藝とはどんなものか、君の讀破した範圍内で好いから、一括りにした所を教へて呉れと頼んで見ると、大抵のものは行き詰る。丁度始終人間と交際して生きてゐながら、人間とは何ぞやといふ質問に應ずる事の出來ないのと一般である。

　私が昔しさういふ疑問を自分で起して自分で苦しんだ時、英國で出來た書物をあれかこれかと捜して、解決の手掛りにしやうと思つた所、案外參考になるものは少なかつた。英國人の頭腦が一般に實際的であつて綜合と抽象に興味を有してゐないためか、或は特別に文藝方面の研究丈が閑却されてゐたためか、其邊は斷言しにくいが、何しろ斯ういふ種類の著作が英國に乏しかつたことは事實である。

　私は日本へ歸つて來てから、英吉利人よりも亞米利加人の方が、却つて自分達と同じ方向に動いてゐるのではないかといふ氣がし出した。それは私の參考にしやうと思ふ書物がぽつ／＼亞米利加人の手によつて發表され始めたからである。然し亞米利加は矢張り亞米利加だとでも云はうか、標題は頗る立派な癖に、取り寄せて見ると、實に中味のない詰らない著述も其中には隨分あつた。

　ヰンチエスターの文藝批評論も實はその時分眼を通したのである。それは今から殆んど十年も前で、丁度出版當時の事と記憶するが、大學の圖書館に入つて、貪るやうな勢で、頁から頁、章から章へと眼を移して行つた私は、大變な愉快を感じた。私はそれが大學の書物である事を忘れて無暗にペンで棒を引いた。あとで自分が新らしいのを買つて、さうして取り換へれば構はないといふ氣も交つてゐた。

　私は今其書物の内容を明瞭に覺えてゐない。けれども相當の見識をもつて要領を得た理論が書いてある事丈は慥かだと云つても差支なからふと思ふ。ことに文藝とは何ぞやといふ疑問に解決を與へる著述の少ない英米に於ては、正に有益で必要な刊行物の一つに數へらるべきものであらふと思ふ。

　其後三四年してから私は早稻田大學で此書物を參考書として學生に使はせてゐるといふ話を聞いて、内容の秩序ある點から見ても、論旨の高遠に失せざる程度から見ても、普通の講義抔よりも却つて恰好だらふと考へた。

　嚴密な意味で十年後の今の私が此書を評したら、僭上の沙汰ながら、或は批判の餘地があるかも知れない。然し十三四年前に讀んだヒルンの「藝術の起原」が去年頃漸く日本に譯されて、しかも有益に行はれてゐる所から見ると、此書を十年後に日本化するのも、決して無駄な仕事でない事は慥かである。ベルグソンの「時と自由意志」などは發表後二十年に至つて始めて英譯された位なものであるから、讀者に其心得さへあれば、譯者の意志に背かないやうに、旨く此書から得た知識を活用出來るのは無論である。

　　大正四年九月

　　　　　−大正四、九、二三−

　

　　　縮刷に際して

　　　　　――縮刷『社會と自分』自序――

　

　「社會と自分」は大正元年の末に出版になつた私の講演集であるが、今度それを縮刷にしたいといふ事で、發行所から可否の照會があつたから、私は快よく許諾を與へた。

　私の講演がもし大正元年に多少なりとも讀者の役に立つたとすれば、大正四年の今日になつても、同じ程度に於て、讀者の役に立つだらうといふ自信を、私は十分有つて居るのである。それは私が偉いといふ意味ではなく、私の説が三年や五年で時勢後れになるやうな際どい題目ばかりに打ち込まれて居ないからである。

　　大正四年十月

　　　　　−大正四、一〇、一〇−

　

　　　『金剛草』自序

　

　松本君が私の文集もしくは文鈔を出したいといふ至誠堂の依頼を取次ぎに見えたのは九月末の事であつた。生憎私は新潮社の請求で「色鳥」といふ同じ種類のものをつい半月位前に公けにしたばかりの所であつたので、君の勸誘を斥けなければならなかつた。「色鳥」でさへ私の本意でないのだからと云つて一應斷つて見た。然し松本君の決意が思つたより頑強なので、斷るのに中々骨が折れた。仕方がないから、ぢやまあ方針を立てゝ、もう少し具體的に研究して御覽なさい、若し相當の書物が編輯される見込が付いたら其時改めて御相談しませうと云つて歸した。

　私は固より碌な書物の出來やう筈はないと信じてゐた。一旦手を着けた松本君も屹度撤回するに違ひないと思つてゐた。夫で松本君から電話で再度の面會を申し込んで來た時に、私はわざと會見を避けて手紙で用を濟ました。到底貴方の所期なさるやうなものは出來上らないのだから御已めなさいと忠告した。私もさう本ばかり濫發したくはないとも申し添へた。

　所が松本君は短篇小説よりも長い書面を認めて縷々事情を訴へて來た。君は既に私の書物を買ひ集めて鈔録のためそれを殘らず引き裂いてしまつたとかいふのである。夫から至誠堂へも十の九迄私が承知した旨を明言してしまつたといふのである。今更斷られては本屋に對する自分の信用にも拘はるから枉げて承知して呉れといふのである。其中には下のやうな文句さへあつた。

　「濫發と申しますのは他人の作物などに無暗に名義を貸したり又は無責任の著書を續出したりすることです。……併し先生のはそれと違つて只先生の作物が社會に歡迎される爲に處々方々から形を變へて發賣されるのですから、讀書界に於ける先生の勢力の偉大さを示す事實に過ぎないと私は思ひます。若し世の中に著作權といふものがないと假定したら如何です。其時は賣行のよい本はどし／＼飜刻され又鈔出されることでせう。それを世間で不都合と認めるものは誰もありますまい。……若し何か云ふものがあれば夫は嫉みです僻みです。併しそれにも程度がありますが、今度私の御願ひするのは少々方面が違つてゐますから、もう一冊位御許しになつても宜しからうかと存じます」

　此長い書面を讀んだ私はとう／＼承諾を與へなければならなくなつた。それでは中味が「色鳥」と重複しないやうに取捨し、又前者が年代順であるから是は分類風に編輯するやうにと注意した。

　同じものを縮刷にしたり合本にしたりする上に、方々から其一部分を取り集めて文選樣のものを作るのは、著者から見れば一つものを二重にも三重にも讀者に強ひて賣り付けるやうに見えて濟まないのではあるが、それを買ふ人の方から見ると、みんな向き／＼があつて、薄いのが好きだつたり、厚いのが欲しかつたり、大きいのが飾りたかつたり、小さいのが持ち歩きたかつたりするのだから、それ／”＼相當の需用に應じて出版するのだと云はれゝば私もそれ迄である。著者も成るべく自分の書いたものが世の中に廣まるのは名譽でもあり利益でもあると考へる以上、わざとそれを控へる必要も無からうと思つて、二三新しいものも加へて、とう／＼松本君の勸告通り此書を公けにする事にしたのである。

　　大正四年十月五日

　　　　　−大正四、一一、二三−

　

　　　題丙辰　　濃墨

　　　　――不折山人著『丙辰　沼墨』第一集序――

　

　　結社東台近市廛　　黄塵自有買山錢

　　幽懷寫竹雲生硯　　高興畫蘭香滿箋

　　添雨突如驚鷺起　　點睛忽地破龍眠

　　縱横落墨誰爭覇　　健筆會中第一仙

　　　　　　　　　　　　　　　　漱石山人金

　　　　　−大正五、九、二五−

　

　　　倫敦消息

　

　　　　　　　　　　一

　

（前略）夫だから今日即ち四月九日の晩をまる潰しにして何か御報知を仕樣と思ふ。報知し度と思ふ事は澤山あるよ。こちらへ來てからどう云ふものかいやに人間が眞面目になつてね。色々な事を見たり聞たりするにつけて日本の將來と云ふ問題がしきりに頭の中に起る。柄にないといつてひやかし給ふな。僕の樣なものが斯る問題を考へるのは全く天氣のせいや「ビステキ」のせいではない天の然らしむる所だね。此國の文學美術がいかに盛大で、其盛大な文學美術が如何に國民の品性に感化を及ぼしつゝあるか、此國の物質的開化がどの位進歩して其進歩の裏面には如何なる潮流が横はりつゝあるか、英國には武士といふ語はないが紳士と〔いふ〕言があつて、其紳士は如何なる意味を持つて居るか、如何に一般の人間が鷹揚で勤勉であるか、色々目に付くと同時に色々癪に障る事が持ち上つて來る。時には英吉利がいやになつて早く日本へ歸り度なる。すると又日本の社會の有樣が目に浮んでたのもしくない情けない樣な心持になる。日本の紳士が�ｺ育、體育、美育の點に於て非常に缺乏して居るといふ事が氣にかゝる。其紳士が如何に平氣な顔をして得意であるか、彼等が如何に浮華であるか、彼等が如何に空虚であるか、彼等が如何に現在の日本に滿足して己等が一般の國民を墮落の淵に誘ひつゝあるかを知らざる程近視眼であるか抔といふ樣な色々な不平が持ち上つてくる。先達て日本の上流社會の事に關して長い手紙を書いて親戚へやつた。然しこんな事は只英國へ來てから余計に感ずる樣になつた迄でちつとも英國と關係のない話しだし、君等に聞せる必要もなし、聞き度事でもなからうから先ぬきとして何か話さう。何がいゝか、話さうとすると出ないものでね、困るな。仕方がないから今日起きてから今手紙をかいて居る迄の出來事を「ほとゝぎす」で募集する日記體でかいて御目にかけ樣。出來事だつて風來山人の生活だから面白可笑しい事はない、頗る平凡な物さ。「オキスフオード」で「アン」を見失つたとか、「チエヤリングクロス」で決闘を見たとか云ふのだと張合があるが、如何にも憫然な生活だからくだらない。然し僕が倫敦に來てどんな事をやつて居るかが一寸分る。僕を知つて居る君等にはそこに少々興味があるだらう。

　此前の金曜が「グード、フライデー」で「イースター」の御祭の初日だ。町の店はみんなやすんで買物抔は一切禁制だ。明る土曜は先平常の通りで、次が「イースター、サンデー」又買物を禁制される。翌日になつてもう大丈夫と思ふと、今度は「イースター、モンデー」だといふので又店をとぢる。火曜になつて漸く故に復する例である。内の夫婦は御祭中田舍の妻君の里へ旅行した。田中君は「シエクスピヤ」の舊跡を探るといふので「ストラトフオドオンアヴオン」と云ふ長い名の所へ行かれた。跡は妻君の妹と下女のペンと吾輩と三人である。

　朝目がさめると「シヤツター」の隙間から朝日がさし込んで眩い位である。これは寢過したかと思つて枕の下から例のニツケルの時計を引きずり出して見るとまだ七時二十分だ。まだ第一の銅鑼の鳴る時刻でない。起きたつて仕方がないが別にねむくもない。そこでぐるりと壁の方から寢返りをして窓の方を見てやつた。窓の兩側から申譯の爲に金巾だか麻だか得體の分らない窓掛が左右に開かれて居る。其後に「シヤツター」が下りていて、其一枚／＼のすき間から御天道樣が御光來である。ハヽー愈春めいて來て有難い、こんな天氣は倫敦ぢや拜めなからうと思つて居たが、矢張人間の住んでる所丈あつて日の當る事もあるんだなと一寸悟りを開いた。夫から天井を見た。不相變ひゞが入つて居て不景氣だ。上で何かごと／＼いふ音が聞こえる。下女が四階の室で靴でもはいて居るんだらう。部屋は益あかるくなる。銅鑼はまだ鳴りさうな景色がない。今度は天井から眼をおろしてぐる／＼部屋中を?査した。然し別に見るものも何にもない。まことに御恥しい部屋だ。窓の正面に箪笥がある。箪笥といふのは勿體ない、ペンキ塗の箱だね。上の引出に股引とカラとカフが這入つて居て、下には燕尾服が這入つて居る。あの燕尾服は安かつたがまだ一度も着た事がない。つまらないものを作つたものだなと考へた。箱の上に尺四方許りの姿見があつて其左りに「カルヽス」泉の瓶が立て居る。其横から茶色のきたない皮の手袋が半分見える。箱の左側の下に靴が二足、赤と黒だ、竝んで居る。毎日穿くのは戸の前に下女が磨いて置いて行く。其外に禮服用の光る靴が戸棚に仕舞つてある、靴ばかりは中々大臣だなと少々得意な感じがする。若し此家を引越すとすると此四足の靴をどうして持つて行かうかと思ひ出した。一足は穿く、二足は革鞄につまるだらう、然し餘る一足は手にさげる譯には行かんな、裸で馬車の中へ投り込むか、然し引越す前には一足は慥かに破れるだらう。靴はどうでもいゝが大事の書物が隨分厄介だ。是は大變な荷物だなと思つて板の間に竝べてある本と、煖爐の上にある本と、机の上にある本と、書棚にある本を見廻した。先達て「ロツチ」から古本の目録をよこした「ドツヅレー」の「コレクシヨン」がある。七十圓は高いが欲い。夫に製本が皮だからな。此前買つた「ウアートン」の英詩の歴史は製本が「カルトーバー」で古色蒼然として居て實に安い堀出し物だ。然し爲替が來なくつては本も買へん、少々閉口するな、其内來るだらうから心配する事も入るまい、……ゴン／＼／＼そら鳴つた。第一の銅鑼だ、此から起きて仕度をすると第二の「ゴング」が鳴る。そこでノソ／＼下へ降りて行つて朝食を食ふのだよ。起きて股引を穿きながら、子にふし銅鑼に起きはどうだらうと思つて一人でニヤ／＼と笑つた。夫から寢臺を離れて顔を洗ふ臺の前へ立つた。是から御化粧が始まるのだ。西洋へ來ると猫が顔を洗ふ樣に簡單に行かんのでまことに面倒である。瓶の水をジヤーと金盥の中へあけて其中へ手を入れたがあゝ仕舞つた顔を洗ふ前に毎朝カルゝス鹽を飲まなければならないと氣がついた。入れた手を盥から出した。拭くのが面倒だから壁へむいて二三返手をふつて夫から「カルゝス」鹽の調合にとりかゝつた。飲んだ。其から一寸顔をしめして「シエヴイング・ブラツシ」を攫んで顔中無暗に塗廻す。剃《原》は安全髪剃だから仕まつがいゝ。大工がかんなをかける樣にスー／＼と髭をそる。いゝ心持だ。夫から頭へ櫛を入れて、顔を拭て、白シヤツを着て、襟をかけて、襟飾をつけて「シヤツター」を捲き上ると、下女がボコンと部屋の前へ靴をたゝきつけて行つた。暫くすると第二のゴン／＼が鳴る。一寸御誂通りに出來てる。夫から階子段を二つ下りて食堂へ這入る。例の如く「オートミール」を第一に食ふ。是は蘇格土蘭人の常食だ。尤もあつちでは鹽を入れて食ふ、我々は砂糖を入れて食ふ。麥の御粥みた樣なもので我輩は大好だ。「ジヨンソン」の字引には「オートミール」……蘇國にては人が食ひ英國にては馬が食ふものなりとある。然し今の英國人としては朝食に是を用いるのが別段例外でもない樣だ。英人が馬に近くなつたんだらう。夫から「ベーコン」が一片に玉子一つ又はベーコン二片と相場がきまつて居る。其外に燒パン二片茶一杯、夫で御仕舞だ。吾輩が二片の「ベーコン」を五分の四迄食ひ了つた所へ田中君が二階から下りて來た。先生は昨夜遲く旅から歸つて來たのである。尤も先生は毎朝遲刻する人で決して定刻に二階から天下つた事はない。「いや御早ふ」。妻君の妹が Good morning と答へた。吾輩も英語で Good morning といつた。田中君はムシヤ／＼やつて居る。吾輩は Excuse me といつて食卓の上にある手紙を開いた。「エツヂヒル」夫人から此十七日午後三時に緩々御話しを伺ひ度から御出被下間敷やといふ招待状だ。おや／＼と思つた。吾輩は日本に居つても交際は嫌いだ。まして西洋へ來て無辨舌なる英語でもつて窮窟な交際をやるのは尤も厭ひだ。加之倫敦は廣いから交際抔を始めると無暗に時間をつぶす、御負にきたない「シヤツ」抔は着て行かれず、「ヅボン」の膝が前へせり出して居てはまづいし雨のふる時抔はなさけない金を出して馬車抔を驕らねばならないし、夫は／＼氣骨が折れる、金が入る、時間が費へる、眞平だが仕方がない、たまにはこんな醉興な貴女があるんだから行かなければ義理がわるい、困つたなと思つて居ると、田中君が旅行談を始めた。吾輩に「シエクスピヤ」の石膏製の像と「アルバム」をやらうと云ふから難有ふといつて貰つた。夫から「シエクスピヤ」の墓碑の石摺の寫眞を見せて、こりや何だい君、英語の漢語だね、僕には讀めないといつた。やがて先生は會社へ出て行つた。是から吾輩は例の通り「スタンダード」新聞を讀むのだ。西洋の新聞は實にでがある。始から仕舞まで殘らず讀めば五六時間はかゝるだらう。吾輩は先第一に支那事件の處を讀むのだ。今日のには魯國新聞の日本に對する評論がある。若し戰爭をせねばならん時には日本へ攻め寄せるは得策でないから朝鮮で雌雄を決するがよからうといふ主意である。朝鮮こそ善い迷惑だと思つた。其次に「トルストイ」の事が出て居る。「トルストイ」は先日魯西亞の國教を蔑視すると云ふので破門されたのである。天下の「トルストイ」を破門したのだから大騷ぎだ。或る繪畫展覽會に「トルストイ」の肖像が出て居ると其前に花が山をなす、夫から皆が相談して「トルストイ」に何か進物をし樣なんかんて「トルストイ」連は燒氣になつて政府に面當をして居るといふ通信だ。面白い。さうかうする内に十時二十分だ。今日は例の如く先生の家へ行かねばならない。先づ便所へ行つて三階の部屋へかけ上つて仕度をして下りて見るとまだ十一時には二十分許り間がある。又新聞を見る。昨日は「イースター・モンデー」なので所々で興行物があつた。其雜報がある。「アクエリアム」で熊使いが熊を使ふと云ふ事が載つて居る。熊が馬へ乘つて埒の周圍をかけ廻る、棒を飛び超える、輪拔けをすると書いてある。面白さうだ。此度は廣告を見た。「ライシアム」で「アーヴイング」が「シエクスピヤ」の「コリオラナス」を遣ると出て居る。先達つて「ハー・マジエスチー」座で「トリー」の「トエルフスナイト」を見た。脚本で見るより遙かに面白い。「アーヴイング」のも見たいものだ。十一時五分前になつた。書物を抱へて家を出た。

　僕の下宿は東京で云へば先づ深川だね。橋向ふの場末さ。下宿料が安いからかゝる不景氣な所に暫く――ぢやない、つまり在英中は始終蟄息して居るのだ。其代り下町へは滅多に出ない。一週に一二度出る許りだ。出るとなると厄介だ。先づ「ケニントン」と云ふ處迄十五分許り歩行いて、夫から地下電氣で以て「テームス」川の底を通つて、夫から汽車を乘換えて、所謂「ウエスト・エンド」邊に行くのだ。停車場まで着て十錢拂つて「リフト」へ乘つた。連が三四人ある。驛夫が入口をしめて「リフト」の繩をウンと引くと「リフト」がグーツとさがる、夫で地面の下へ拔け出すといふ趣向さ。せり上る時はセビロの仁木彈正だね。穴の中は電氣燈であかるい。汽車は五分毎に出る。今日はすいて居る、善按排だ。隣りのものも前のものも次の車のものも皆新聞か雜誌を出して讀んで居る。是が一種の習慣なのである。吾輩は穴の中ではどうしても本抔は讀めない。第一空氣が臭い、汽車が搖れる、只でも吐きさうだ。まことに不愉快極まる。停車場を四許りこすと「バンク」だ。こゝで汽車を乘りかへて一の穴から又他の穴へ移るのである。丸でもぐら持ちだね。穴の中を一町許り行くと所謂 two pence Tube さ。是は東「バンク」に始まつて倫敦をズツト西へ横斷して居る新しい地下電氣だ。どこで乘つてもどこで下りても二文即ち日本の十錢だからかう云ふ名がついて居る。乘つた。ゴーと云つて向ふの穴を反對の方角に列車が出るのを相圖に、此方の列車もゴーと云つて負けない氣で進行し始めた。車掌が next station Post-office といつてガチヤリと車の戸を閉めた。とまる度につぎの停車場の名を報告するのが此鐡道の特色なのである。向ふの方に若い女と四十恰好の女が差し向いに座を占めて居た。吾輩の右に一間許り隔つて婆さんと娘がベチヤ／＼話しをして居る。向ふの連中は雜誌を讀みながら「ビスケツト」か何かかぢつて居る。平凡な乘合だ。少しも小説にならない。

　　もう厭になつたから是で御免蒙る。實は僕の先生の話しをし度のだがね。餘程奇人で面白いのだから。然し少々頭がいたいから是で御勘辨を願はう。四月九日夜。

　

　　　　　　　　　　二

　

　又「ホトヽギス」が屆いたから出直して一度伺はう。我輩の下宿の體裁は前回申し述べた如く頗る憐れつぽい始末だが、そういふ境界に澄まし返つて三十代の顔子然として居られるかと君方は屹度聞くに違ひない。聞かなくつても聞く事にしないと此方が不都合だから先づ聞くと認める。所で我輩が君等に答へるんだ、懸價のない所を答へるんだから、其積りで聞かなくつては行けない。

　我輩も時には禅坊主見た樣な變哲學者の樣な悟り濟ました事も云つて見るが、矢張大體の所が御存じの如き俗物だからこんな窮屈な暮しをして回や其樂をあらためず賢なるかなと褒められる權利は毛頭ないのだよ。そんならなぜもつと愉快な所へ移らないかと云ふかも知れないが、其處に大に理由の存するあり焉さ。先聞き給へ。成程留學生の學資は御話しにならない位少ない。倫敦では猶々少ない。少ないが此留學費全體を投じて衣食住の方へ廻せば我輩と雖も最少しは樂な生活が出來るのさ。夫は國に居る時分の體面を保つ事は覺束ないが（國に居れば高等官一等から五つ下へ勘定すれば直ぐ僕の番へ巡はつてくるのだからね。尤も下から勘定すれば四つで來て仕舞うんだから日本でも餘り威張れないが）兎に角是よりも薩張りした家へ這入れる。然るにあらゆる節儉ををして斯樣なわびしい住居をして居るのはね、一つは自分が日本に居つた時の自分ではない單に學生であると云ふ感じが強いのと、二つ目には折角西洋へ來たものだから成る事なら一冊でも餘計專門上の書物を買つて歸り度慾があるからさ。そこで家を持つて下婢共を召し使つた事は忘れて、只十年前大學の寄宿舍で雪駄のカヽトの樣な「ビステキ」を食つた昔しを考へては夫よりも少しは結構？　先づ結構だと思つて居るのさ。人は「カムバーウエル」の樣な貧乏町にくすぼつてると云つて笑うかも知れないがそんな事に頓着する必要はない。斯樣な陋巷に居つたつて引張りと近づきになつた事もなし夜鷹と話をした事もない。心の底迄は受合はないが先擧動丈は君子のやるべき事をやつて居るんだ。實に立派なものだと自ら慰めて居る。

　然しながら冬の夜のヒユー／＼風が吹く時にストーヴから煙りが逆戻りをして室の中が眞黒に一面に燻るときや、窓と戸の障子の隙間から寒い風が遠慮なく這込んで股から腰のあたりがたまらなく冷たい時や、板張の椅子が堅くつて疝氣持の尻の樣に痛くなるときや、自分の着て居る着物が漸々變色して來るにつれて自分が段々下落する樣な情ない心持のする時は、何の爲にこんな切り詰めた生活をするんだらうと思ふ事もある。エー構はない。本も何も買へなくても善いから爲替はみんな下宿料にぶち込んで人間らしい暮しを仕樣といふ氣になる。夫からステツキでも振り回はして其邊を散歩するのである。向へ出て見ると逢ふ奴も／＼皆んな厭に脊いが高い。御負に愛嬌のない顔ばかりだ。こんな國ではちつと人間の脊いに税をかけたら少しは儉約した小さな動物が出來るだらう抔と考へるが、夫は所謂負惜しみの減らず口と云ふ奴で、公平な處が向ふの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狹い心持ちがする。向ふから人間竝外れた低い奴が來た。占たと思つてすれ違つて見ると自分より二寸許り高い。此度は向ふから妙な顔色をした一寸法師が來たなと思ふと、是即ち乃公自身の影が姿見に寫つたのである。不得已苦笑ひをすると向ふでも苦笑ひをする。是は理の當然だ。夫から公園へでも行くと角兵衛獅子に網を被せた樣な女がぞろ／＼歩行いて居る。其中には男も居る。職人も居る。感心に大概は日本の奏任官以上の服裝をして居る。此國では衣服では人の高下が分らない。牛肉配達抔が日曜になるとシルクハツトでフロツクコートなどを着て澄して居る。然し一般に人氣が善い。我輩抔を捕へて惡口をついたり罵つたりするものは一人も居らん。ふり向いても見ない。當地では萬事鷹揚に平氣にして居るのが紳士の資格の一つとなつて居る。無暗に巾着切りの樣にこせ／＼したり物珍らしそうにじろ／＼人の顔なんどを見るのは下品となつて居る。殊に婦人抔は後ろを振りかへつて見るのも品が惡いとなつて居る。指で人をさすなんかは失禮の骨頂だ。習慣がこうであるのにさすが倫敦は世界の勸工場だから餘り珍らしそうに外國人を玩弄しない。それから大抵の人間は非常に忙がしい。頭の中が金の事で充滿して居るから日本人抔を冷かして居る暇がないといふ樣な譯で、我々黄色人――黄色人とは甘くつけたものだ。全く黄色い。日本に居る時は餘り白い方ではないが先づ一通りの人間色といふ色に近いと心得て居たが、此國では遂に人-間-を-去-る-三-舍-色と言はざるを得ないと悟つた――其黄色人がポク／＼人込の中を歩行いたり芝居や興行物抔を見に行かれるのである。然し時々は我輩に聞えぬ樣に我輩の國元を氣にして評する奴がある。此間或る所の店に立つて見て居たら後ろから二人の女が來て“least poor Chinese”と評して行つた。least poor とは物匂い形容詞だ。或る公園で男女二人連があれは支那人だいや日本人だと爭つて居たのを聞た事がある。二三日前去る所へ呼ばれてシルクハツトにフロツクで出掛けたら、向ふから來た二人の職工みた樣な者が a handsome Jap. といつた。難有いんだか失敬なんだか分らない。先達て或芝居へ行つた。大入で這入れないからガレリーで立見をして居ると傍のものが、あすこに居る二人は葡萄牙人だらうと評して居た。――こんな事を話す積りではなかつた。話しの筋が分らなくなつた。一寸一服してから出直さう。

　先散歩でもして歸ると一寸氣分が變つて來て晴々する。何こんな生活も只二三年の間だ。國へ歸れば普通の人間の着る物を着て普通の人間の食ふ物を食つて普通の人の寢る處へ寢られる。少しの我慢だ、我慢しろ／＼、と獨り言をいつて寢て仕舞ふ。寢て仕舞ふ時は善いが、寢られないで又考へ出す事がある。元來我慢しろと云ふのは現在に安んぜざる譯だ――段々事件が六づかしくなつて來る――時々やけの氣味になるのは貧苦がつらいのだ。年來自分が考へた又自分が多少實行し來りたる處世の方針は何處へ行つた。前後を切斷せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに將來に望を屬する勿れ、滿身の力をこめて現在に働けといふのが乃公の主義なのである。然るに國へ歸れば樂が出來るから夫を樂しみに辛防し樣と云ふのは果敢ない考だ。國へ歸れば樂をさせると受合つたものは誰もない。自分がきめて居る許りだ。自分がきめてもいゝから樂が出來なかつた時にすぐ機鋒を轉じて過去の妄想を忘却し得ればいゝが、今の樣に未來に御願ひ申して居る樣では到底其未來が滿足せられずに過去と變じた時に此過去をさらりと忘れる事は出來まい。のみならず報酬を目的に働らくのは野暮の至りだ。死ねば天堂へ行かれる、未來は雨蛙と一所に蓮の葉に往生が出來るから、此世で善行を仕樣といふ下卑た考と一般の論法で、夫よりも猶一層陋劣な考だ。國を立つ前五六年の間にはこんな下等な考は起さなかつた。只現在に活動し只現在に義務をつくし現在に悲喜憂苦を感ずるのみで、取越苦勞や世迷言や愚癡は口の先許りでない腹の中にも澤山なかつた。夫で少々得意に成つたので外國へ行つても金が少なくつても一箪の食一瓢の飲然と呑氣に洒落に又沈着に暮されると自負しつゝあつたのだ。自惚々々！　こんな事では道を去る事三千里。先明日からは心を入れ換えて勉強專門の事。こう決心して寢て仕舞ふ。

　かゝる有樣で薄暗い汚苦しい有名なカンバーウエルと云ふ貧乏町の隣町に昨年の末から今日迄居つたのである。居つたのみならず此先も留學期限のきれる迄は此處に居つたかも知れぬのである。然るに茲に或る出來事が起つていくら居りたくつても退去せねばならぬ事となつた、といふと何か小説的だが、其譯を聞くと頗る平凡さ。世の中の出來事の大半は皆平凡な物だから仕方がない。此家はもとからの下宿ではない。去年迄は女學校であつたので、こゝの神さんと妹が經驗もなく財産もなく將來の目的もしかと立たないのに自營の道を講ずる爲めに此上品の樣な下等の樣な妙な商買を始めたのである。彼等は固より不正な人間ではない。正道を踏んで働ける丈働いたのだ。然し耶蘇教の神樣も存外半間なもので、かういふ時に一寸人を助けてやる事を知らない。そこでもつて家賃が滯る――倫敦の家賃は高い――借金が出來る、寄宿生の中に熱病が流行る。一人退校する、二人退校する、仕舞に閉校する。……運命が逆まに回轉するとこう行くものだ。可憐なる彼等――可憐は取消さう二人とも可憐といふ柄ではない――エー不憫なる――憫然なる彼等は飽く迄も困難と奮戰し樣といふ決心で遂に下宿を開業した。其開業したての烟の出て居る處へ我輩は飛び込んだのである。飛び込んでから段々事情を聞いたときに此度こそは此二人の少女、ではない我輩より三寸許り脊いの高い女に成功あらしめ給へと私かに祈念を凝らした。誰れに祈念を凝らしたと聞かれると少々困る。祈るべき神に交際の無い拙者だから、只あてどもなく祈念した。果せるかな一向靈現がない。ちつとも客が來ない。「夏目さん、貴方の御存じの方で入らしつて頂く方はありますまいか」「左樣、實に御氣の毒だから周旋し度のだが、倫敦には別に朋友といふものがないから――」。夫でも先達て迄は日本人が一人居つた。此先生は頗る陽氣な人でこんな家には向かない。我輩がほとゝぎすを讀んで居るのを見て、君も天智天皇の方はやれるのかいと聽た男だ。其日本人がとう／＼逃出す。殘るは我輩一人だ。かうなると家を疊むより仕方がない。そこで是から南の方にあたる倫敦の町外れ――町外れと云つても倫敦は廣い、どこ迄廣がるか分らない――其町外れだから餘程邊鄙な處だ。其處に恰好な小奇麗な新宅があるので、そこへ引越さうといふ相談だ。或日亭主と神さんが出て行つて我輩と妹が差し向ひで食事をして居ると陰氣な聲で「貴方も一所に引越して下さいますか」といつた。此「下さいますか」が色氣のある小説的の「下さいますか」ではない。色澤氣拔きの世帶染た「下さいますか」である。我輩が此語を聞いたときは非常にいやな可愛想な氣持ちがした。元來我輩は江戸つ兒だ。然るに朱引内か朱引外か少々曖昧な所で生れた精か知らん今迄江戸つ兒のやる樣な心持ちのいゝ慈善的事業をやつた事がない。今何と答をしたか慥かに覺えて居らん。苟も一遍の義?心があるならば、うんあなたの移る處ならどこでも移ります、と答へる筈なのだ。さうは答へなかつたらしい。茲にさう答へられない譯がある。成程此妹は極内氣な大人しい而も非常に堅固な宗教家で、我輩は此女と家を共にするのは毫も不愉快を感じないが、姉の方たるや少々御轉だ。此姉の經歴談も聞たが長くなるから拔きにして、一寸小生の氣に入らない點を列擧するならば、第一生意氣だ、第二知つたか振りをする、第三詰らない英語を使つてあなたは此字を知つて御出ですかと聞く事がある。一々勘定すれば際限がない。先達てトンネルと云ふ字を知つて居るかと聞た。夫から straw 即ち藁といふ字を知つて居るかと聞た。英文學專門の留學生もかうなると怒る張合もない。近頃は少々見當が付たと見えてそんな失敬な事も言はない。又一般の擧動も大に叮嚀になつた。是は漱石が一言の爭もせず冥々の裡に此御轉婆を屈伏せしめたのである。――そんな得意談はどうでも善いとして、此國の女殊に婆さんとくると、所謂老婆親切と云ふ譯かも知れんが、自分の使ふ英語に頼みもせぬ註解を加へたり、此字は分りますか抔といふ事が澤山ある。此間さる處へ呼ばれて其此の奧さんと談しをした。すると其人が大の耶蘇信者だからたまらない。滔々と神�ｺを述べ立てた。ま事に品の善い、しとやかな御婆さんだ。然る處 evolution と云ふ字を御承知ですかと聞かれた。「世の中の事は亂雜で法則がない樣ですがよく御覽になると皆進化の道理に支配されて居ります……進化……分りますか」。丸で赤ん坊に説教する樣だ。向は親切に言つてくれるんだから、へー／＼と云つて居るより仕方がない。それは此婆さんの樣にベラ／＼?舌る事は出來ない。挨拶抔も只咽喉の處へせり上つて來た字を使つてほつと一息付く位の仕儀なんだから向ふで此方を見くびるのは無理はないが、離れ／”＼の言語の數から云へばあなたよりも我輩の方が余計知つて居りますよといつてやり度位だ。其れからよく御婆さんを引合に出すが、もう一人御婆さんがある。此御婆さんが先達て手紙をよこして其中に folk といふ字を使つてゐる。只使つてゐる許なら不思議はないが、其字に foot note が付いて居る。是は英國古代の字なりとあつた。「ノート」を自分の手紙へ付けるのも面白いが、其ノートの文句が猶更面白い。此御婆さんと船へ合乘をした時に、何か文章を書け、直してやるといふから、日記の一節を出し宜敷｜御頼《おたの》まうす事にした。すると大變感心したといつて二三所一二字添削して返した。見ると直さなくつても決して差支のない所を直して居る。そして飛でもない間違つた事が例のノート的で書いてある。此御婆さんは決して下等な人でない。相應な身分のある中流の人である。かくの如き人間に邂逅する英國だから、我下宿の妻君が生意氣な事を云ふのも別段相手にする必要はないが、同じ英國へ來た位なら今少し學問のある話せる人の家に居つて、汚ない狹いは苦にならないから、どうか朝夕交際がして見たい。かう云ふ望があるから、へー行きませうとは答へなかつたが、自分の望み通りの人で下宿人を置く處があるか夫が頗る疑はしい。廣い世界にはあるだらう。けれども夫に逢着するのは難中の難事である。我輩の先生の處が一間あいて居れば置てもらうのだけれども、それは間がないのだから出來ない相談だ。かう云ふ時になると西洋の新聞は便利だ。萬事廣告の世界なのだから下宿の廣告がいくらでもある。我輩が以前下宿をさがす時 Daily Telegraph の下宿の廣告欄を見た事がある。始めから終り迄讀むのに三時間かゝつた事を記臆して居る。今は「テレグラフ」を取つて居らん、「スタンダード」だ。此新聞は上品な新聞だから茲へ出る廣告なら間違はないと思つて四月十七日の分の廣告欄を讀み始めると、存外營業的のが多くつて素人家へ置きたいと云ふのが少ない。然し色々のがある。「宿料低廉、風呂付、食物上等」こんなのは普通なのだ。「ハイドパークに面し地下電氣へ三分地下鐡道へ五分、貴女と交際の便利あり」なんと云ふのがある。「球突隨意ピヤノあり gay society, late dinner」此も珍らしくない。「レートヂンナー」と云ふのは此頃の流行なのだ。我輩抔には至極不便だ。其中で下の樣なのを見出した。「立派なる室を有する寡婦及其妹と共に同宿せんとする餘り派出やかならざる紳士を求む。御望の方は○○筆墨店へ御一報を乞ふ」。先づ茲へでも一つ中つて見樣と云ふ氣になつたから直ぐ手紙を書いて、宿料其他委細の事を報知して貰ひたい、小生の身分はかく／＼職業はかく／＼、可成低廉で可成愉快な處に住みたいと勝手な事をかいてやつた。

　其夜の十時頃自分の室で讀書をしてゐると、室の戸をコツ／＼叩くものがある。“Yes, come in.”といつたら宿の亭主がニコ／＼して這入つて來た。「實はあなたも御承知の通り此度引越す事に極ましたが、どうでせう、向ふはこゝよりも大分奇麗で且器具抔も餘程上等にしますが、來て頂く譯には參りますまいか」「夫は君の方で僕に是非來て呉れと言ふのなら……」「イエ是非といつて御無理を願ふ譯ではありませんが、御都合がよければ――實は御馴染にもなつて居りますし家内や妹も大變夫を希望致しますから」「君の新宅へ下宿人を置き度といふ事は僕も承知して居ますが、あながち僕でなくつても善いだらうと思つてね」と實は是々だと話すと、亭主の顔が少々陰氣になつて來た。我輩も少々手持無沙汰である。「夫ぢやかうし樣、いづれ先方から返事が來る、來れば一先づ行つて室を見て、夫が氣に入らなかつたら君の方へ行くとし樣、外を探す事はやめにして。あの手紙を出す前に君の方の希望がどの位の程度だか分つて居れば、聞き合せる迄もない御望みに應じたのだが、かう成ては仕方がない。先づ先方の返事次第ですね。其代り外は決してさがさない。あれがいけなければ屹度君の方へ行きますよ」。亭主は御邪魔樣といつて下りて行つた。

　朝になつて食堂へ行くと誰も居ない。皆んな飯をすました後である。あゝ今日も寢坊して氣の毒だなと思つて「テーブル」の上を見ると、薄紫色の状袋の四隅を一分許り濃い菫色に染めた封書がある。我輩に來た返事に違ひない。こんな表の状袋を用る位では少々我輩の手に合はん高等下宿だなと思乍ら「ナイフ」で開封すると、「御問合せの件に付申上候。此家はレデー（此レデーといふ字の下に棒が引いてある）の所有にて室内の裝飾の立派なるは勿論室々は悉く電氣燈を用ひよき召使を雇ひ高尚優雅なる生活に適する樣に意を用ひ候。宿料は一週三十三圓に御座候。或は御氣に召さぬかと存じ候へども、御出被下候へば喜こんで室々御案内可仕候、敬具」。飯を食ひながら呼鈴を押して宿の神さんを呼んだ。「とう／＼あなたの方へ行く事にしましたよ。一週三十三圓の下宿料なんか到底我輩には拂へんから君の方へ行きませうよ」「はあそうですか、どうも難有う、可成氣を付けますからどうぞ左樣願ひたいもので」。細君が出て行つた後から亭主の首が半分戸の間から出た。Thank you, Mr. Natsume, thank you. と言つてニコ／＼笑つた。我輩も少々嬉しい樣な心持ちがした。細君と妹は引越しの荷ごしらへで終日急がしい。七時に茶を飲むときに食堂で逢つた。「今日は飼つて居た鸚鵡を賣りました」と妹がいつた。姉もまけずに「前使つた學校の招牌も賣りました。十圓に買つて行きました」と云つた。

　運命の車は容赦なく廻轉しつゝある。我輩の前及彼等二人の前には如何なる出來事が横はりつゝあるか。我等は三人ながら愚な事をして居るかも知れぬ。愚かも知れぬ、又利口かも知れぬ。只我輩の運命が彼等二人の運命と漸々接近しつゝあるは事實である。後を顧みてかの薄紫の貴女及び其妹の事と其門構付の家を想像し、前を見て此貧困なるしかし正直なる二人の姉妹と其未來の樂園と豫期しつゝある格子戸作りを想像して、兩者の差違を趣味ある樣にも感ずる。又貧富の懸隔は斯樣に色氣なき物かとも感ずる。又ミカウバーと住んで居つたデヴイツド・カツパーフ※［ヒの小字］ールドの樣な感じもする。四月二十日。

　

　　　　　　　　　　三

　

　朋友其朋友と共に我輩が生活を共にする所の朋友姉妹の事に就ては前回少しく述ぶるところあつたが、此外に我輩が尤も敬服し尤も辟易する所の朋友がまだ一人ある。姓はペン渾名は bedge pardon なる聖人の事を少しく報道しないでは何だか氣が濟まないから、同君の事を一寸御話して、次回からは方面の變つた目撃談觀察談を御紹介仕らう。抑も此ペン即ち内の下女なるペンに何故我輩が此渾名を呈したかと云ふと、彼は舌が短かすぎるのか長すぎるのか呂律が少々廻り兼ねる善人なる故に I beg your pardon と云ふ代りにいつでも bedge pardon と云ふからである。ベツヂ・パードンは名の如く如何にもベツヂ・パードンである。然し非常な能辯家で、彼の舌の先から唾液を容赦なく我輩の顔面に吹きかけて話し立てる時抔は滔々滾々として惜い時間を遠慮なく人に潰させて毫も氣の毒だと思はぬ位の善人且雄辯家である。此善人にして雄辯家なるベツヂパードンは倫敦に生れながら丸で倫敦の事を御存じない。田舍は無論御存じない。又御存じなさり度もない樣子だ。朝から晩迄晩から朝迄働き續けに働いて夫から四階のアツチツクへ登つて寢る。翌日日が出ると四階から天降つて又働き始める。息をセツセとはずまして――彼は喘息持である――はたから見るのも氣の毒な位だ。左り乍ら彼は毫も自分に對して氣の毒な感じを持つて居らぬ。Ａの字かＢの字か見當のつかぬ彼は少しも不自由らしい樣子がない。我輩は朝夕此女聖人に接して敬慕の念に堪えん位の次第であるが、此ペンに捕つて話しかけられた時は幸か不幸か是は他人に判斷して貰ふより仕方がない。日本に居る人は英語なら誰の使ふ英語でも大概似たもんだと思つて居るかも知れないが、矢張日本と同じ事で、國々の方言があり身分の高下があり抔して、夫は／＼千違萬別である。然し教育ある上等社會の言語は大抵通ずるから差支ないが、此倫敦のコツクネーと稱する言語に至つては我輩には到底分らない。是は當地の中流以下の用ふる語ばで字引にない樣な發音をするのみならず、前の言ばと後の言ばの句切りが分らない事程左樣早く饒舌るのである。我輩はコツクネーでは毎度閉口するが、ベツヂパードンのコツクネーに至つては閉口を通り過してもう一遍閉口する迄少々草臥るから開口一番一寸休まなければやり切れない位のものだ。我輩がこゝに下宿したてには?ばペンの襲撃を蒙つて恐縮したのである。不得已此旨を神さんに屆け出ると、可愛想にペンは大變御小言を頂戴した。御客樣にそんな無仕付な方《ほう》があるものか以後はたしなむが善からうと極めつけられた。夫から從順なるペンは決して我輩に口をきかない。但し口をきかないのは妻君の内に居る時に限るので、山の神が外へ出た時には依然として故のペンである。故のペンが無言の業をさせられた口惜しまぎれに折を見て元利共取返さうと云ふ勢でくるからたまらない。一週間無理に斷食をした先生が八日目に御櫃を抱へて奮戰するの慨がある。

　例の如くデンマークヒルを散歩して歸ると、我輩の爲に戸を開いたるペンは直ちに饒舌り出した。果せるかな家内のものは皆新宅へ荷物を方付に行つて伽藍堂の中に殘るは我輩とペン許りである。彼は立板に水を流すが如く?々十五分間許りノベツに何か云つてゐるが毫もわからない。能辨なる彼は我輩に一言の質問をも挾さましめざる程の速度を以て辯じかけつゝある。我輩は仕方がないから話しは分らぬものと諦めてペンの顔の造作の吟味にとりかゝつた。温厚なる二重瞼と先が少々逆戻りをして根に近づいて居る鼻とあくまで紅いに健全なる顔色とそして自由自在に運動を縱まゝにして居る舌と、舌の兩脇に流れてくる白き唾とを暫らくは無心に見詰めて居たが、やがて氣の毒な樣な可愛想の樣な又可笑い樣な五目鮨司の樣な感じが起つて來た。我輩は此感じを現はす爲に唇を曲げて少しく微笑を洩らした。無邪氣なるペンは其邊に氣のつく筈はない。自分の噺に身が入つて笑ふのだと我點したと見えて赤い頬に笑靨をこしらへてケタ／＼笑つた。此頓珍漢なる出來事の爲に我輩は愈變テコな心持になる、ペンは益乘氣になる、始末がつかない。彼の云ふ所をあそこで一言こゝで一句、分つた所丈綜合して見るとかういふのらしい。昨日差配人が談判に來た。内の女連はバツが惡いから留守を使つて追ひ返した。此玄關拂の使命を完ふしたのがペンである。自分は嘘をつくのは嫌だ。神さまに濟まない。然し主命もだし難しで不得已嘘をついた。先大抵こゝら當りだらうと遠くの火事を見る樣に見當をつけて漸く自分の部屋へ引き下つた。我輩のトランクと書籍は今朝三時頃主人が新宅へ運んで仕舞たので、殘るのは身體ばかりだ。何となく寂漠の感がある。夜の八時頃にコツ／＼戸を叩いて這入つて來た――例のペンが――今日差配人が四度來たといふ注進だ。夫から何かいふが少しも解しかねる。あまり面倒だから善い加減にして追さげる。……十時頃に又ペンが來た。今度差配が來たらどう仕樣といふ。今度は相談の爲だ。心配するには及ばんといつて慰めて引きさがらせる。十時半になるがまだ内のものは歸らない。若しこゝの亭主が詐欺師であつて我輩を置き去りにして荷物丈取つて行つたとすれば我輩はアンポンタンの骨頂で嘸かし人に笑はれるだらうと氣が付いた。やがて門の戸のあく音がする。歸つたらしい。先づアンポンタンにならずに濟んだ。難有いと寢る。

　翌日が四月二十五日、九時頃起きて下へ行くと主人夫婦が今朝飯をすました處だ。我輩が食卓に就くのを相圖に昨夜の騷動を御存じですかと神さんが尋ねた。我輩は三階に寢るのである。下でどんな事があつたか少しも知らない。騷動つて何があつたのですと聞くと、例の差配人との悶着一件である。昨夜彼等が新宅から歸つて家へ這入る途端門口に待ち設けて居た差配人は、亭主が戸をしめる餘地のない程早く彼等に續いて飛び込んで、何故斷りなしに然も深夜に引越をする夫でも君は紳士かと云ふと、我輩が我輩の荷物をわきへ運ぶに誰に斷はる必要がある。又何時に荷を出さうと此方の勝手ぢやないかと亭主が抗辯する。夫から段々議論に花が咲いて壯語四隣を驚かすと云ふ騷ぎであつたさうな。元來此家は神さんの名前でかりて居る。處が七年前に少々家賃を滯ふらしたのが今日迄祟つて居て出る事が出來ん。然も彼の財産は早晩家賃のかたに取られるといふ始末だ。然し憐れなる姉妹は別段取押へられて困る樣な物も持つて居ない。差配も夫には目をつけて居らん。只此老差配の目ざして居るのは亭主其人の家財にある。亭主も二十世紀の人間だから其邊に拔かりはない。代言人の所へ行つてちやんと相談して居る。日没後日出前なれば彼の家具を運び出しても差配は指を啣へて見物して居らねばならぬと云ふ事を承知して居る。夫だから朝の三時頃から大八車を?つて來て一晩寢ずにかゝつて自分の荷を新宅へ運んだのである。彼は頗る尨大なるシマリのない顔をして居る。そこで申譯の爲に少々鼻の下へ髭をはやしては居るが、中々差配に負けぬ拔目のない男と見える。

　我輩は亭主に自分の身體はいつ移れるのかと聞いたら今日でも宜いといふから、午飯の後妻君と共に新宅へ引き移る事にした。

　神さんと二人で午飯を食つて居ると亭主が代言人の所から歸つて來て神さんに、御前一つ手紙をかいて差配の所へ郵便でやれ書留にしなくてはいかんといつて又出て行つた。神さんはサラ／＼何か書き始める。どんな手紙をかくか少々見度心持でもある。やがて神さんは書き了つて「一寸○○さんかういふ手紙なんです聞いて下さい」と高慢な顔をして手紙を讀み始める。「拜啓妾は驚入申候。……どうですもう少し緩くり讀みませうか……妾は驚き入申候。昨日は三度ならず四度迄も留守宅へ御來臨の上下婢に向つて妾等身の上に關する種々なる質問を發せられ、夫のみならず無斷にて人の家を捜索なされ、剰へ下婢に向つて妾はレデーの資格なきものなり抔餘計な事を吹聽せられ候由、元來右は如何なる御主意に御座候や伺度候。此亂暴なる貴下の擧動に對し妾は辯解を求むる權利ありと存候。……かう云ふのです。是がね策なんですよ」と云ふから我輩も少々驚き入申して居る處だが、策つて云ふのはどんな策なんですと聞くと、先生愈得意だ。ようござんすか、御手紙を書いてちやんと此通り控えをとつて置くでせう、先方で若し此事件を裁判沙汰にする日には此が證據になつて差配が亂暴を働いたといふ種になるのですよ。今迄は女二人だと思つて隨分勝手な事ばかりしたのですが、今ぢや男が付いて居るからさう許り踏みつけられちや居ませんのさ、と間接に亭主の自慢を仰せられた。夫から御待遠樣それでは出掛ませうと云ふから出かけた。我輩は手提革鞄の中へ雜物を押し込んで頗る重い奴をさげて而も左の手には蝙蝠とステツキを二本携えて居る。レデーは網袋の中へ澁紙包を四つ入れて右の手にさげて居る。此澁紙包の一つには我輩の寢卷とヘコ帶が這入つて居るんだ。左の手には是も我輩のシートを澁紙包にして抱へて居る。兩人とも兩手が塞がつて居る。飛んだ道行だ。角迄出て鐡道馬車に乘る。ケニングトン迄二錢宛だ。レデーは私が拂つて置きますといつて黒い皮の蟇口から一ペネー出して切符賣に渡した。乘合は少ない。向側に派出ななりをして居る若い女が乘つて居る。すると我輩の隨行して居るレデーが突然あなたはメリー、コレリのマスタークリスチアンを御讀みなさいましたかと大きな聲で聞た。是は近頃十五萬部賣れたといふ一寸有名な本だ。我輩は書物は持つて居るがまだ讀まないと答へた。「あの本はね、大變善く出來て居るのですがね、どうも作者の宗旨が何だか分らないのですよ。私の知つて居る者なんか皆んなコレリの宗旨は何だらうつて噂して居ますよ」と益向側の婦人に聞えよがしである。自分だつて讀んだ事もないのに鐡道馬車の中なんかでよせば善いと思つたが、仕方がないからウン／＼と生返事をして居た。やがてケニングトンに着た。茲で馬車を乘り換る。此度は上へ上がらうと云ふから階子を登つてトツプへ乘つた。「此左りにあるのが有名な孤兒院でスパージヨンの紀念の爲に作つたのです。「スパージヨン」て云ふのは有名な説教家ですよ」「スパージヨン」位講釋しないだつて知つて居ら、腹が立つたから黙つてゝやつた。「段々木が青くなつて好い心持ですね、二週間位前からズツト景色が變つて來ましたね」「左樣、時にあすこに竝んで居るのは何んて云ふ樹ですか」「あれ？　あれはポプラーでさあね」「ヘエーあれがポプラーですか、ナール程」と我輩は感嘆の辭を發した。神さんはすぐツケ上る。「ポプラーはよく詩に咏じてありますよ、「テニソン」抔にも出て居ます。どんな風の無い日でも枝が動く。アスペンとも云ひます。是も慥か「テニソン」にあつたと思ひます」と「テニソン」專賣だ。其癖何の詩にあるとも云はない。我輩は面倒臭いといふ風でウン／＼云ふのみである。向ふの敷石の上を立派な婦人が裾を長く引いて通る。「家の内での御引きずりには不賛成もありませんが、外であんな長い裾を引きずつて歩行くのはあまり體裁の善いものではありませんね」と裾短かなるレデーは我輩に教ふる處あつた。漸く「ツーチング」といふ處へつく。今度は圓太郎馬車で新宅の横町の前迄來た。「どれが内ですか」と聞いた。向ふに雜な煉瓦造りの長屋が四五軒竝んで居る。前には何にもない。砂利を堀つた大きな穴がある。東京の小石川邊の景色だ。長屋の端の一軒丈塞がつて居てあとはみんな貸家の札が張つてある。塞がつて居るのが大家さんの内で其隣が我輩の新下宿、彼等の所謂新パラダイスである。這入らない先から聞しに劣る殺風景な家だと思つたが、這入つて見ると猶々不風流だ。加之どの室にも荷物が抛り込んであつて丸で類燒後の立退場の樣だ。只我輩の陣取るべき二階の一間丈が少しく方付てオラレブルになつて居る。以前の部屋よりも奇麗だ。裝飾も先づ我慢出來る。やがて亭主が出て來て窓掛をコツ／＼打ち付ける。ストーヴの上へ額をかけるが「ミツスルトー」といふ額は如何です、あれは人によると嫌いますが一寸御覽に入れませうと云て持つて來て見せた。何でもない裸體畫の美人だ。「ハヽー裸體畫ですな、結構です」と冗談半分にいつたら「へヽヽ私もちつとも構ひませんがね」とコツ／＼釘をうつてかける。「どうです是で角度は……もう少し下向に……裸體美人があなたの方を見下す樣に――宜しう御座います」。夫から我輩の書棚を作つてやるといつて壁の寸法と書物の寸法をとつて「グードナイト」といつて出て行つた。

　門前を通る車は一臺もない。往來の人聲もしない。頗る寂寥たるものだ。主人夫婦は事件の落着する迄は毎晩舊宅へ歸つて寢なければならぬ。新宅には三階に寢る妹とカーロー君とジヤツク君とアネスト君である。カーロー君とジヤツク君は犬の名であつてアーネスト君はこゝの主人の店に使つて居る若き人間の名である。我輩の敬服し且辟易するベツジパードンは解雇されて仕舞つた。我輩は移轉後に此話を聞いて憮然として彼の未來を想像した。

　魯西亞と日本は爭はんとしては爭はざらんとしつゝある。支那は天子蒙塵の辱を受けつゝある。英國はトランスヴ※［ハは小字］ールの金剛石を堀り出して軍費の穴を?めんとしつゝある。此多事なる世界は日となく夜となく回轉しつゝ波瀾を生じつゝある間に我輩のすむ小天地にも小回轉と小波瀾があつて我下宿の主人公は其尨大なる身體を賭してかの小冠者差配と雌雄を決せんとしつゝある。而して我輩は子規の病氣を慰めんが爲に此日記をかきつゝある。四月二十六日。

−明治三四、五‐六『ホトトギス』−

　

　

　 　　　倫敦消息

　　　　　――【大正四年九月文集『色鳥』に編入するにつき作者自ら筆を加へたるもの】――

　

　　　　　　　　　　二

　

　僕の下宿の體裁は前便に申述べた通り頗る憐れつぽいものだが、さういふ心細い所に、三十代の顔子のやうな氣持《きもち》で、能く澄ましてゐられるものだと君は不審を起すかも知れないが、僕とても御存じの如き俗物である以上、斯《こ》んな窮屈な活計《くらし》をして回や其｜樂《たのしみ》を改めず賢なるかなと賞《ほ》められやうなどとは無論思つてゐない。たゞ已むを得ないので厭々《いや／＼》ながら辛抱してゐるのだとさへ推察して貰へばそれで澤山だ。

　僕だつて留學生の學資全體を衣食住の方へ廻せば、いくら物價の高い倫敦でももう少し樂《らく》な生活は出來るのだが、自分はまた昔通りの書生に立ち返つたのだといふ感じが強く起るのと、折角西洋へ來たものだから成らう事なら一冊でも餘計專門上の書物を買つて歸りたいといふ慾望が僕を高壓的に支配するのとで、少しの不自由は我慢しなければならないといふ氣になるのだと思つて呉れ給へ。十年前大學の寄宿舍で雪駄の踵《かゝと》のやうな堅いビステキを食つた經驗のある僕は苦しくなるとあの時分の事を回想して一人《ひとり》で一人《ひとり》を慰めてゐる。

　然し冬のヒユー／＼風が吹く晩に煖爐《ストーヴ》から烟が逆戻りをして室の中《なか》が一面眞黒に燻る時や、窓と戸の隙間から其寒い風が遠慮なく這ひ込んで來て、股から腰のあたりを堪《たま》らなく冷《つめ》たくする時や、板張の椅子が堅《かた》いので尻が疝氣持見たやうに痛くなる時や、自分の着てゐる着物が漸々《だん／＼》變色して來《く》るにつけて、自分が段々下落する樣な情ない心持になる時は、必竟何の爲にこんな切り詰めた生活をするんだらうと自分で自分を疑つて見たくなる事もある。

　そんな時は仕方がないから洋杖《ステツキ》でも振り廻して氣を紛《まぎ》らす爲に何といふ目的《めあて》もないのに矢鱈と其所《そこ》いらを散歩するのである。然し其散歩が又｜晴々《はれ／”＼》した心持に鬱した自分を變化させて呉れるとは限らないのだから困る。

　先づ往來へ出て見ると、會《あ》ふものも／＼みんな脊が高くて立派な顔ばかりしてゐる。それで第一に氣が引ける。何となく肩身が狹くなる。稀《たま》に向ふから人並外《ひとなみはづ》れて低い男が來たと思つて擦り違ふ時に、念のため脊《せい》を比較して見ると、先方《さき》の方が失つ張り自分より二寸がた高い。それから今度は變に不愉快な血色をした一寸法師が來たなと思ふと、それは自分の影《かげ》が店先の姿見に映《うつ》つたのである。僕は醜《みにく》い自分の姿を自分の正面に見て何遍苦笑したか分らない。或時は僕と共に苦笑する自分の影迄見守つてゐた。さうして其たんびに黄色人とは如何にも好《よ》く命《つ》けた名だと感心しない事はなかつた。

　此間ある店先に立つてショーヰンドーの中を覗《のぞ》いてゐたら後《うし》ろから二人の女が來て least poor Chinese と評して行つた。僕は斯《か》ういふ形容の言葉を怒るよりも甚だ珍らしく聞いた。ある公園では男女の二人連が、あれは支那人だいや日本人だと云ひ爭つてゐるのを見受けた。二三日前は去る所へ呼ばれて絹帽《しルクハツト》にフロツクで出掛けたら、向ふから來た二人の職工見たやうなものが、a handsome Jap と冷嘲して行つた。是は散歩ではないけれども序だから書くが、ある芝居へ行つたら大入で席の賣り切れたため仕方なしにガレリーで立見をしてゐると傍《はた》のものが彼所《あすこ》に居るのは葡萄牙人ぢやないかと評してゐた事もあつた。――斯《こ》んな譯《わけ》でたとひ外《そと》へ出ても、遠くにゐる者が想像するやうに、決して愉快ではないのである。

　僕はかゝる状態で此薄暗い汚苦《むさくる》しい有名なカンバーヱルといふ貧乏町の隣り町に去年の末から今日迄動かずにゐた。無精な僕の事だからもし何の故障も身邊に起らなかつたなら、恐らく留學期の盡きる迄、同じ所に穴籠りの蛇のやうに蟄居してゐたかも知れない。然しいくら事を好まない僕の生活にも推移と變化が自然の勢で回《めぐ》つて來て、動きたがらない僕の身體《からだ》を搖振《ゆすぶり》にかゝるのだから、世の中は何處《どこ》へ行つても多事《たじ》と云はなければならない。

　僕は其出來事を君に語る前《まへ》に、順序としてまづ今居る家の歴史を少し述べたいと思ふ。

　是は元《もと》からの下宿屋と違つて、去年までは、市中の方々《はう／”＼》に散點する一種の私立女學校の一つであつた。財産もなく經驗もなく、又將來の目的もしかと立たないのに、自營の道を講ずる必要上、此所《こゝ》の上《かみ》さんと妹とが思ひ附いた此商賣は不幸にして成功しなかつた。家賃が滯る、借金が出來る、寄宿生のうちに熱病が流行《はや》る。それで一人《ひとり》退校する、二人《ふたり》退校する、最後にとう／＼閉校する、といふ始末になつてしまつた。

　飽く迄も困苦と奮戰する決心の姉妹《きやうだい》は、學校を鎖すと同時に今度は下宿を開業した。しかし客といふ客は殆んど誰も來《こ》なかつた。

　「夏目さん貴方《あなた》の御存じの方《かた》で入《い》らしつて下さる方《かた》はありますまいか」

　「左樣實に御氣の毒だから周旋して上げたいのだが、倫敦には別に朋友といふものがないんだから……」

　僕は彼等の爲に遂に何《ど》うして遣《や》る事も出來なかつた。

　夫でも先達迄は一人《ひとり》の日本人が同宿してゐた。頗る陽氣な性質《たち》で、僕が「ホトヽギス」を讀んでゐると、君も天智天皇の方は遣《や》れるのかい抔と訊《き》いた此男は、自分の性に合《あ》はない斯《こ》んな陰氣な宅《うち》には居堪《ゐたゝ》まれなくなつたと見えて、とう／＼逃《に》げ出してしまつた。いふ迄もなく後《あと》は僕｜一人《ひとり》だけなのだから、下宿をやめて家を疊むより外《ほか》に途《みち》はなくなつたのである。

　彼等は倫敦の町｜外《はづ》れに新らしい家を探し出さなければならなくなつた。丁度小綺麗で恰好な住居《すまひ》が見附つたとかいふので、或日亭主と上さんが出て行《い》つた後《あと》、僕は妹と差向ひでたつた二人《ふたり》午飯《ひるめし》の食卓に就いた。

　「貴方《あなた》も一所に引越して下さいますか」

　妹は陰氣な聲で僕に哀願《あいぐわん》するやうに頼んだ。僕は可哀想だけれども一種｜厭《いや》な心持がした。然し氣の毒といふ感じは充分あつたので、成らう事なら一所に移つてやらうと思はないでもなかつたが、一方では又さう向ふの云ふ通りにばかりなつては居《ゐ》られない譯《わけ》も有《も》つてゐた。

　此妹は極《ごく》内氣《うちき》で大人《おとな》しくて其上に信心の堅固な女だから、一所に居ても少しの不愉快を感じないが、姉の方になると何《ど》うも左右《さう》は行かない。生意氣で、知つたか振《ぶり》をして、子供でも心得てゐるやうな易《やさ》しい英語を捉《つか》まへて、貴方《あなた》は此字を御存じですか抔と訊《き》いたりする。現に先達はトンネルといふ字を知つてゐるかと訊《き》いた。それからストロー（即ち藁）といふ字を知つてゐるかとも訊《き》いた。僕は英文學專門の留學生だが、斯《か》うなると全く怒《おこ》る張合《はりあひ》もしない。尤も是は此所《ここ》へ下宿したての話で、昨今では多少樣子も解《わか》つて來たものだから、それ程｜人《ひと》を馬鹿にしたやうな質問は掛《か》けなくなつたし、それと同時にまた僕に對する一般の擧動も大分丁寧になつて來たのは事實であるが、其當座は實際驚くよりも大いに癪に障る位だつた。總じて此國の女、ことにお婆さんは親切かも知れないが、有難くない。此間去る家《うち》へ呼ばれて行つたら、其所《そこ》の奧さんが大の耶蘇信者で、滔々と神�ｺを述べ出した序に、あなたは evolution（進化）といふ字の意味を知つてゐますかと僕に質問をかけた。

　「世の中の事は亂雜で法則がないやうですが、みな進化の道理に支配されて居ります。――進化――解《わか》りますか」

　丸で赤ん坊に説教でもするやうである。まことに品の好い閑雅《しとやか》なお婆さんだが、日本を知らない、日本人を知らない、從つて僕を知らないのだから何《ど》うする譯にも行かない。其上下宿の上さんと違つて、たゞ親切づくで云つて呉れるのが目に見えてゐる。僕は先方の好意に免《めん》じてたゞへえ／＼と云つてゐるより外に仕方がなかつた。

　よくお婆さんばかり引合に出すやうだが、もう一人《ひとり》お婆さんがある。此お婆さんが先達て寄《よ》こした手紙の中に folk といふ字を使つてゐる。たゞ使つてゐる丈なら不思議はないが、其字にわざ／＼脚註《フートノート》を附けて是は英國古代の字なりと書いてゐる。手紙にノートを附けるのさへ既に變な所へ、こんな文句を書くのだから、全く馬鹿氣たものになつて仕舞ふ。

　此お婆さんと船へ合乘《あひのり》をした時に、何か文章を書けば直《なほ》してやるといふから、日記の一部を出して、添削を頼んで見たら、直さなくても差支ない所に手を入れてゐるばかりか、飛んでもない間違《まちがひ》が例の脚註《フートノート》の體で書き添へてあつた。

　相當の身分のある人ですら此通りだから、安下宿の細君が僕に對して生意氣を云ふのも無理はないが、其所が人間の弱點とでも云ふのだらう、何《ど》うも好い心持がしない。何うせ英國へ來たからにはもう少し學問のある、もう少し話せる人、と同居して、もう少し深入りをした交際がして見たい。僕の腹《はら》には斯《か》ういふ望みがあるので、折角の妹の依頼だが、そんなら一所にあなた方の引越して行く所へ追《つ》いて行きませうとは答へなかつたのである。

　實をいふと事情を知らない僕は果して自分の望み通りの人で下宿人を置く宅《うち》があるか何《ど》うか知らないのだ。たゞ世界は廣いから何處《どこ》かにそんな男がゐるだらう位に思つて、好い加減な想像を逞しくしつゝあつたのだ。然し一方から見れば世界は又非常に狹《せま》いものである。ことに倫敦に於ける僕の世界と來《き》たら身動きもならないやうに窮屈に出來上つてゐる。自分の借りた部屋以外に殆んど世界を有《も》つてゐない僕は、何《ど》うして適當な下宿を探し出さうと考へた揚句、遂に新聞廣告を利用する事に極《き》めた。

　斯ういふ時に重寶な西洋の新聞には下宿の廣告がいくらでも出てゐる。僕が以前｜宿《やど》を探すときデイレー・テレグラフの廣告欄を見て、始めから仕舞迄讀み通すのに、三時間｜潰《つぶ》した事がある。今取つてゐるのはスタンダードと云つて、比較的上品な新聞だから、此所《こゝ》へ出る廣告なら間違はあるまいと思つて、四月十七日の分を探して見ると、意外にも營業的のが大多數で、素人家で客を置きたいといふのは極めて少ない。それでも色々なのが出てくる。「宿料低廉、風呂附、食物上等」。「ハイドパークに面し地下電車へ三分、地下鐵道へ五分、貴女と交際の便あり」。斯んなのはまづ普通である。「球突隨意、洋琴の備あり、gay society, late dinner」。是もさう珍らしい方ではない。ことに「レート、ヂナー」などは近頃一般の流行であるが、僕などには至極の不便宜《ふべんぎ》を與へる丈で他に何の效能もない。其他を順々に讀んで行くうちに僕は下の樣なのに眼を着《つ》けた。

　「立派な部屋を有する寡婦及其妹と同宿せんとする餘り派出やかならざる紳士を求む。御望の方は○○筆墨店へ御一報を乞ふ」

　僕は先づこゝへでも一つ中《あた》つて見ようといふ氣になつたので、すぐ手紙を書いて、宿料其他委細の事を報知して貰ふ事にした。序に僕の身分やら職業やらを書き添へて、なるべく低廉で、なるべく愉快な所に住みたいのだと勝手な希望迄遠慮なく附け足《た》して遣つた。

　僕が其手紙を出した晩の十時頃、自分の室で獨り讀書をしてゐると、外《そと》から戸口《ドアー》をコツ／＼叩くものがあるので、僕は Yes, come in、と云つたら、宿の主人がニコ／＼して入《はい》つて來《き》た。僕と主人の間にはすぐ下の談話が交換された。

　「實は貴方も御承知の通り此度引越す事に極《き》めましたが、何《ど》うでせう、向うは此所《こゝ》よりも大分綺麗ですし、其上御室の調度なども出來るだけ上等にしますから、來《き》て頂けますまいか」

　「それは君の方で僕に是非來て呉れといふのなら……」

　「いえ是非といつて御無理を願ふ譯ではありませんが、もし御都合が好《よ》ければ、――實は御馴染にもなつて居りますし家内や妹もそれを希望致しますから」

　「あなたの新宅《しんたく》へ下宿人を置きたいといふ事は僕も承知してゐますが、あながち僕でなくつても好いだらうと思つてね」

　僕はそれからとう／＼今下宿を探してゐる最中《さいちゆう》だといふ事を亭主に話した。彼の顔は少し陰氣になつて來た。僕も幾らか手持《てもち》無沙汰になつた。

　「それぢや斯《か》うしやう、いづれ先方から返事が來るだらうから、さうしたら一先づ行つて室《へや》を見た上で、もしそれが氣に入らなかつたら君の方へ行く事にしやう、外《ほか》を探す事は止《や》めにして。あの手紙を出す前に君の方の希望がどの位の程度だか能く分つてゐれば、無論聞き合せる迄もない、初手《しよて》から御望に應じたのだが、斯《か》うなつた今《いま》ぢや取り返しが附かない、先づ向ふの返事次第で何方《どつち》かに極《き》めるより外に途《みち》はないでせう。その代り他《ほか》は決して探さないです。彼所《あれ》が駄目になれば、屹度君の方に行きます」

　此保證を得た亭主は御邪魔さまでしたと挨拶して下《した》へ降《お》りて行つた。

　翌日《あくるひ》の朝になつて食堂へ行くと誰もゐない。もうみんな飯《めし》を濟《す》ました後である。また寢坊をして氣の毒な事になつたと思ひながら食卓の上を見ると薄紫色《うすむらさきいろ》の四隅《よすみ》を一｜分《ぶ》許り濃《こ》い紫色に染めた封書がある。僕はすぐそれが自分宛で來た返事に違ひないと察したが、斯んな状袋を用ひる位では少々僕の手に合はない高等下宿ぢやなからうかといふ懸念《けねん》を抱いた。僕は食事用のナイフですぐそれを開封した。

　「御問合せの件につき申上候。此家はレデー（レデーといふ字の下に棒が引いてある）の所有にて室内の裝飾の立派なるは勿論各室とも電氣燈を用ひ、品よき召使《めしつかひ》を雇ひ入れ、凡て高尚優雅なる生活に適する樣注意致し居り候。宿料は一週三十三圓に御座候。或は御氣に召さぬかと存じ候へども、御出向下され候へば喜んで各部屋とも御案内可致候敬具」

　僕は飯《めし》を食ひながら呼鈴《よびりん》を押して上《かみ》さんを呼んだ。

　「とう／＼貴方《あなた》の方へ行く事になりましたよ。何しろ一週三十三圓ぢや到底僕にや拂へんからね」

　「はあ左右《さう》ですか、何《ど》うも有難《ありがた》う。可成《なるべく》氣を附けますから、どうぞ左樣願ひたいもので」

　細君の出て行つたあとで、亭主の顔が戸の隙間《すきま》から半分出た。

　「Thak you, Mr.Natsume, thank you.」

　彼はニコ／＼笑つた。僕も厭な心持でもなかつた。

　細君と妹は引越の荷拵《にごしら》へで終日｜急《いそ》がしさうに働いてゐた。茶を飲むときに始めて顔を合せた。

　「今日《けふ》は昨日《きのふ》まで飼《か》つてゐた鸚鵡を賣りました」

　「前使つた學校の招牌《かんばん》も賣りました。十圓に買つて行きました」

　僕は姉妹《きやうだい》から斯んな談話を聞かされた。間斷なく廻轉しつゝある運命の車は僕と彼等の前に如何なる出來事を持ち來すのだらうか。未來は誰にも解《わか》らないけれども、僕と彼等とが段々接近して一所に流されて行きさうなのは慥かである。僕は後《うしろ》を顧みてかの薄紫の状袋を使ふ貴女及び其妹の住んでゐる門構の家を想像する。前を望んで此貧乏で正直な二人《ふたり》の姉妹の暗に夢みつゝある格子戸作りの樂園を想像する。さうして兩者の相違を面白いやうにも思ふ。又貧富の懸隔は斯んなに色氣《いろけ》のないものかとも思ふ。最後に僕自身はミカウバーと住んでゐたデ?ツド・カパーフ　※［ヒの小字］ールドの樣な氣もする。（四月二十日）

　

　　　　　　　　　　三

　

　僕が是から生活を共にすべく餘儀なくされた姉妹《きやうだい》に就いては前回既に述べた通りである。然し僕は此外にまだペンといふ僕の最も敬服し且つ最も辟易する女の友達を一人｜有《も》つてゐるから、今度は其友達の事を少し紹介しやう。

　實をいふと、ペンは僕のゐる宅《うち》の下女の名なのである。さうしてベツヂパードンといふ變《へん》な諢名《あだな》をも有《も》つてゐるのである。尤も此の諢名は僕が命《つ》けたのだから、他《ほか》へは全く通じないと思はなくては不可《いけな》い。彼女の舌は長過ぎると云つても好し、或は短か過ぎると評しても差支はないのだらう、口を利《き》くと少し呂律の廻らない所が出來てきて、I beg your pardon といふ代りに、何時《いつ》でも bedgepardon と發音する。それが如何にも異樣に響くので、僕は遂《つひ》にペンの顔さへ見ればすぐ其ベツヂ、パードンを思ひ出さずにはゐられなくなつた結果、自然彼女にそんな諢名を命《つ》けて仕舞つたのである。

　ペンはベツヂパードンの癖《くせ》に非常な能辯家である。舌の先から唾液《つばき》を容赦なく僕の顔に飛沫《しぶき》のやうに吐《は》き懸けて、惜い時間を遠慮なく潰《つぷ》させて少しも氣の毒と思はない。だからペンはたゞの能辯家ではない。能辯家の上《うへ》に善人である。

　此女は倫敦に生れて丸で倫敦の事を知つて居ない。又知りたさうにもしない。朝から晩迄｜家《うち》の中《なか》で働くだけである。夜は四階の天井｜裏《うら》へ登つて寢る。翌日《あくるひ》になると、又四階から下《お》りて來て昨日《きのふ》の通り働き始める。彼女は喘息持である。氣息《いき》をせつせとはずまして傍《はた》から見ると如何にも氣の毒さうであるが、不思議な事に、彼女は自分自身に對して毫も氣の毒の感じを抱いてゐない。Aの字かBの字か見當が附かなくても少しの不自由もないやうに見える。僕は朝晩この聖《せい》か愚か區別の付きかねる女の顔を見て喜んでゐる。然し一度此ペンに捉《つら》まつて話しかけられたが最後、果してそれが幸福であるか、又飛んだ災難であるか、他人に判斷して貰ふより外に仕方がなくなつてしまふ。

　日本にゐる人は英語なら誰の使ふ英語でも大概似たものだ位に思つてゐるかも知れないが、決してそんな單簡なものぢやない。矢張り我々の生れた國と同じ事で、國々の方言《はうげん》があつたり、身分の高下があつたりして、夫《それ》は／＼多趣多樣である。ことに此倫敦のコックネーといふ言語になると丁度江戸ツ子のベランメーと同じやうなもので、僕などには到底《とても》解らない。字引にない變な發音をする上に、前の言葉と後の言葉の句切りが分らない位早く饒舌るので好い加減な日本の英學者はすぐ參つてしまふ。僕などは無論其一人であるが、ことにペンのコックネーと來ては何うしたつて遣り切れる譯のものではない。

　僕は此家に下宿したてに?此ペンの襲撃を蒙つて、始めは驚ろき、中程は呆《あき》れ、後には大いに恐縮した。仕舞に已を得ず其譯を上《かみ》さんに話すと、ペンは大變｜叱《しか》られた。それ以後愼んで僕には口《くち》を利《き》かなくなつた。然し黙つてゐるのは上さんが宅《うち》にゐる間だけで、一寸《ちよつと》でも外《そと》へ出やうものなら、平生の埋合せをするのは此時だと云はぬばかりの勢で僕に立向《たちむか》つて來るから、僕は彼女が叱られない前よりも猶難儀な思ひをしなければならなくなつた。其時のペンの喋舌《しやべ》り方《かた》は丁度一週間｜斷食《だんじき》をしたものが、八日目になつてお櫃《はち》へ首《くび》を突込《つツこ》むのと同じ事で、猛烈を極めると云つても江河を決すると云つても決して誇張ではない。

　僕が例の如くデンマークヒルを散歩して歸ると、僕の爲に戸を開《あ》けて呉れた此餓ゑ盡したペンはすぐ口を利《き》き始めた。果して家内には誰もゐなかつた。みんな新宅へ荷物を片附けに行つて、伽藍堂の中に殘つてゐるのはペンと僕ぎりであつた。

　彼女は立板《たていた》に水を流すやうに十五分程何かベラ／＼喋舌つたが何を言つてゐるのか僕には殆んど解《わか》らなかつた。困るのは彼女が僕に質問の餘裕を與へない事であつた。諦らめをつけた僕は仕方なしにたゞペンの顔丈見てゐやうと決心した。

　僕は温厚なる彼女の二重瞼を見た。先《さき》の少し反《そ》り返つた彼女の鼻を見た。あくまで紅ゐな彼女の顔色を見た。最後に自由自在に運動を貪ぼる其舌と、舌の兩側に流れて來る白い唾液とを暫らく無心に眺めてゐた僕は、やがて氣の毒のやうな、可哀想のやうな、又可笑しいやうな、變に錯雜した感じに打たれた。僕は唇を曲げて少しく微笑を洩らした。無邪氣なペンは自分の噺《はなし》に身が入つて僕が微笑したものと早合點したものと見えて、赤い頻に笑靨を湧かした。さうしてゲタ／＼笑ひ出した。僕は何うする事も出來ない。ペンは益｜乘氣《のりき》になつた。

　彼女のいふ事を彼所《あすこ》で一句、此所《こゝ》で一句、僕に解《わか》つた所《ところ》丈《だけ》綜合して見ると、何うも斯ういふ意味らしい。――

　昨日《きのふ》は差配人が來た。然し内《うち》の女連《をんなれん》は會《あ》ふと跋《ばつ》が惡いので留守を使つて追ひ返して仕舞つた。自分は神樣に濟まないから、嘘《うそ》を吐《つ》くのは嫌だが、主婦の命令《いひつけ》であつて見れば已を得ない。玄關先で誰もゐないからと斷つて歸つて貰つた。

　僕は朧氣ながらペンの意味を斯う解釋《かいしやく》して自分の室《へや》へ入《はい》つた。昨日《きのふ》迄《まで》室《へや》の中《なか》にあつた僕のトランクと書籍は今朝《けさ》三時頃主人が新宅の方に運《はこ》んでしまつたので、殘るものは身體《からだ》丈《だけ》である。椅子に腰を掛けてゐても何《なん》となく心細い。寂寞の感とは斯んなものだらうと思つた。

　夜の八時頃にコツ／＼戸を叩くものがあるから開《あ》けて遣《や》るとペンが入《はい》つて來た。

　「今日は差配が四遍來ました」

　是丈は僕にも解《わか》つたが、あとは例の通りベラ／＼いふ音が聞こえるばかりで少しも呑み込めない。面倒だから好い加減にして追ひ下《さ》げてしまつた。

　十時頃に又ペンが來た。今度は此次差配が來たら何《ど》うしやうといふ相談である。心配するには及ばないといつて又｜下《した》へ追ひ返《かへ》した。

　やがて十時半になつた。然し宅《うち》のものはまだ歸らない。もし此所《こゝ》の亭主が詐欺師《さぎし》であつて、僕の荷物丈取つて行つて、所有主《もちぬし》の僕を置き去りにしたものと假定すれば、隨分な間拔として僕は嘸かし他《ひと》から嘲笑されるだらうと考へて見たりした。其時｜門《もん》の戸が開《あ》いた。彼等は漸く歸つたらしい。僕はやつと安心して寢た。

　翌日は九時頃に起きた。下《した》へ行くと主人夫婦が今丁度｜朝食《あさめし》を濟《す》ませた所であつた。僕が食卓に着くや否や、上さんが僕に昨夜《ゆうべ》の騷動を御存じですかと訊《たづ》ねた。三階に寢る僕に一階で何があつたか知れやう筈はなかつた。

　「騷動つて何ですか」

　僕の反間を促がした事件は矢張りペンの心配して居た差配人と彼等との關係に外《ほか》ならなかつた。上さんのいふ所によると、昨夜《ゆうべ》門口《かどぐち》に立つて、彼等の歸るのを待ち受けてゐた差配人は、亭主が戸を締める餘地のない程早く彼等の後《あと》に續《つゞ》いて玄關に飛び込んだのである。

　「何故《なぜ》斷りなしに、しかも深夜に引越をする。夫でも君は紳士か」

　「僕が僕の荷物を運ぶのに一體誰に斷る必要があるのだ」

　議論は此所《こゝ》を基點として段々烈しくなつて行つたらしい。元來上さんの名前で借りてゐる此｜宅《うち》の家賃《やちん》を七年前に少々滯らしたとかいふのが元《もと》で、其｜崇《たゝ》りの爲めに、彼女はそれを綺麗に片附けなければ外《ほか》へ引越す譯に行かないのである。七年來借りてるものを未だに返さない所を以て見ると、彼女｜姉妹《きやうだい》の家財は早晩其借越の家賃の代りに奪《と》られるのが當然であつた。けれども二人《ふたり》は別段取り押へられて困るやうな物を一つも持つてゐなかつた。差配も實は其所《そこ》に眼を附けてゐるのではなかつた。彼の睨《にら》んだのは亭主其人の家財であつた。然し亭主も二十世紀の人間だから決して其邊に間隙《ぬかり》はなかつた。代言人の所へ行つてちやんと相談してゐた。さうして日没後日出前ならば何時《いつ》彼の家具を運び出しても差配に見附かる恐はないといふことも承知してゐた。それで朝の三時頃から大八車を雇つて來て一晩寢ずに掛《かゝ》つて自分の荷物を新宅へ運んでしまつた。彼は見た所頗る尨大で緊《しま》りのない顔をしてゐるために、少しでも面積を狹くする料簡か、鼻の下へ申譯らしい髭《ひげ》を薄く蓄へてゐる、ぼて／＼した男だけれども、斯んな點に掛《か》けると、中々差配に負けない拔目《ねけめ》のない人と見える。

　僕は亭主に自分の身體《からだ》はいつ移れるのかと聞いて、今日でも構はないといふ答を得たので、午飯《ひるめし》の後《のち》細君と共に新宅へ行く事にした。

　所が上《かみ》さんと二人《ふたり》で食事をしてゐると、代言人の所から歸つて來た亭主は上さんに、「お前手紙を書いて差配の所へ郵便で遣《や》れ。書留にしなくてはいかん」と云つて、又出て行つた。上さんは直《すぐ》さら／＼と何か書き始めたが、やがてそれを自分の前へ持つて來た。

　「一寸《ちよつと》夏目さん斯ういふ手紙なんですよ。聽《き》いて下《くだ》さい」

　彼女は高慢な顔をして讀み始めた。

　「拜啓妾は驚ろき入申候。――何うですもう少し緩《ゆつ》くり讀みませうか。――妾は驚ろき入申候。昨日は三度ならず四度迄留守宅へ御來臨の上、下婢に向つて妾等の一身上に關する御質問を發せられ、それのみならず無斷にて他《ひと》の家宅捜索《かたくさうさく》を行はれ、剰《あまつ》さへ妾はレデーの資格なき女なりなど餘計の事を下婢に明言なされ候由、元來右は如何なる御主意に御座候や伺度候。此亂暴なる貴下の擧動及び言語に對し、妾は貴下より辯解を求むる權利あるものと信じ候。――斯ういふんです。是がね實を云ふと策なんですよ」

　僕は策といふ言葉を聞《き》いて一寸駕ろかされた。同時に策とは如何なる意味の策か訊《き》き返さずにはゐられなくなつた。上さんは愈得意になつた。

　「好《よ》ござんすか、此手紙を書いてちやんと此通り控へを取つて置くでせう。そこで先方がもし家賃の滯納を裁判沙汰にする日には、此手紙が物《もの》を云ふ事になるんです。つまり差配が亂暴を働らいたつて證據にしやうつて譯《わけ》でさあ。今迄は女｜二人《ふたり》だと思つて隨分勝手な眞似ばかりしてゐたのですが、今ぢや男が附いてゐるからさう許《ばか》り踏み附《つけ》にされちや居ませんのさ」

　僕は何と評して好いのか分らないから、たゞ成程々々と云つてゐた。すると上さんは立ち上つた。

　「御待遠さま、それぢや出掛《でかけ》ませう」

　僕は手提革鞄の中《なか》へ雜物を押し込んだ頗る重い奴《やつ》を右の手に提《さ》げて、蝙蝠｜傘《がさ》とステツキを二本左の手で持つた。レデーはレデーで網袋《あみぶくろ》の中《なか》へ澁紙包《しぶかみづゝみ》を四つ入れたのを容赦なくぶら下げた。その澁紙包の一つの中《なか》には僕の寢卷と兵兒帶がちやんと入《はい》つてゐるんだから、其分量も大概は察せられるだらう。しかもそれは彼女の右の手だけなのだ。彼女は其上に左の手で僕のシーツを澁紙包にして抱《だ》いてゐるのだよ。もし是を道行といふ事が出來るならば、兩人とも兩手の塞《ふさ》がつた、頗る不味《まづ》い恰好の道行と云はなければなるまい。

　僕等は町の角《かど》へ出て鐵道馬車に乘つた。ケニントン迄二錢づゝである。レデーは私が拂つて置きますと云つて、黒い皮の蟇口から一ペネー出して車掌に渡した。乘合は少なかつた。向側に派出な服装《なり》をした若い女がゐた。すると澁紙包を持つたレデーは突然大きな聲を出して僕に「貴方《あなた》はメリー・コレリのマスタークリスチアンを讀みなさいましたか」と訊《き》いた。メリー・コレリと云へば通俗小説を書《か》く有名な女流作家で、其近著マスタークリスチアンが十五萬部賣れたとかいふので評判なのである。僕は「書物丈｜持《も》つてゐるぎりでまだ讀みません」と答へた。

　「あの本《ほん》はね、大變能く書けてゐますがね、何《ど》うも作家の宗教觀が曖昧なのですよ。私《わたし》の知つてるものは皆《みんな》コレリの宗教は何だらうつて噂《うはさ》をしてゐる位ですがね」

　上《かみ》さんは益向側の婦人に聞えよがしに大きな聲を出した。自分だつて讀んだ事もない本の評などを、鐵道馬車の中《なか》で、さう高聲に話す必要が何處《どこ》にあるかとは思つたが、仕方がないから僕はたゞうん／＼と生返事《なまへんじ》をしてゐた。

　僕等はケニントンで馬車を乘り換へた。上《かみ》さんが今度は上《うへ》へ昇《あ》がらうといふから、階子段を上《のぼ》つてトツプへ乘つた。

　「此左にあるのが有名な孤兒院でスパージヨンの紀念のために作つたのです。スパージヨンてえのは有名な説教家ですよ」

　スパージヨン位講釋して貰はないだつて心得てゐる。僕は腹が立つたから黙つてゐて遣つた。然し彼女は頓着しなかつた。

　「段々｜樹《き》が青《あを》くなつて好い心持ですね、二週間位前からずつと景色が變つて來ましたね」

　「左樣、時《とき》に彼處に竝んでゐるのは何《な》んて樹ですか」

　「あれはポプラーでさあね」

　「へえゝ、あれがポプラーですか、なある程」

　今迄ポプラーといふ字は何遍となく讀んだが、實物を見るのは是が始めてだつたので、僕は思はず感嘆の聲を發した。すると上《かみ》さんがすぐ附け上《あが》つた。

　「ポプラーは能く詩に詠じてありますよ。テニソン抔にも出てゐます。どんな風のない日でも枝が動くんです。アスペンとも云ひます。是もたしかテニソンに出てゐる筈です」

　彼女はテニソン專賣であつた。其癖何の詩にあるとも云はないのである。此時向ふの敷石《しきいし》の上《うへ》で裾を長く引いて通る立派な婦人が上《かみ》さんの眼《め》に留《と》まつた。

　「家《うち》の中《なか》での御｜引摺《ひきず》りには不賛成もありませんが、外《そと》であんなに長い裾を引き摺《ず》つて歩《ある》くのは體裁の好いもんぢやありませんね」

　ある醫者が試みにさういふ女の裾《すそ》を調《しら》べて見たら、無數の黴菌《ばいきん》が附着してゐるのを發見して驚ろいたといふ話も、上《かみ》さんの薄《うす》い唇から事細かに洩らされた。

　鐡道馬車は漸くツーチングといふ所へ着いた。僕等はそれから後《あと》バスに乘つて新宅の横町の前まで來た。

　「どれが宅《うち》ですか」

　「あれですよ」

　見ると向ふに雜な煉瓦造りの長屋が四五軒竝んでゐた。前には何《なん》にもなかつた。たゞ砂利を掘つた大きな穴があつた。ざつと東京の小石川の場末といつた樣な所だと思へば間違はない。

　僕の眼に入つた長屋は端《はじ》の一軒丈が塞《ふさ》がつてゐる丈で、あとには皆《みん》な貸家札が貼《は》り附けてあつた。此塞がつてゐる分《ぶん》が大家《おほや》さんので、その隣りが彼等の宅《うち》、即ち僕の下宿に外《ほか》ならなかつた。僕は先づ其｜見掛《みかけ》の殺風景なのに落膽した。然し入《はい》つて見て更に其無風流なのに驚ろかされた。どの部屋を覗いても、荷物が抛り込んである丈で、丸で類燒後の立退場《たちのきば》と同じやうに思はれた。然し流石に是から此處に居て貰はうといふ御客樣の僕に宛《あ》てがはれた二階の一間《ひとま》だけは多少片附いてゐた。新築丈あつて綺麗な上に飾り附《つけ》も幾分か前よりは意を用ひてあつた。

　僕が自分の部屋《へや》の中《なか》に入《はい》つて少時《しばらく》休んでゐると、亭主が遣《や》つて來《き》た。窓掛をコツ／＼打ち附《つ》けた後《あと》で、僕に向つて訊《き》いた。

　「暖爐の上へ一つ額《がく》を掛ける積ですがミツスルトーといふ奴《やつ》は何《ど》うでせう。あれは人によると嫌《きら》ひますがまあ一寸御覽に入れませう」

　彼はやがてミツスルトーといふ題の附いた版畫を額縁に入れたのを下から持つて來て見せた。それは普通の裸體美人に過ぎなかつた。

　「はあ裸體畫ですな、結構です」

　「へヽヽヽヽ私《わたくし》もちつとも構ひませんがね」

　彼はコツ／＼釘《くぎ》を打ち附けた。

　「何《ど》うです是で角度は、――もう少し下向《したむき》に、――へえ、裸體美人が貴方《あなた》の方《はう》を見下《みおろ》すやうに、――宜しう御座います」

　彼は夫から僕の書棚を作つてやると云つて壁《かべ》の寸法と書物の寸法を取つた上、「御休みなさい」と云つて出て行つた。……

　門前を通る車は一臺もない。往來を歩く人の聲などは固より聞《きこ》えない。四邊《あたり》は寂寥たるものである。主人夫婦は事件の落着する迄毎夜舊宅に歸つて寢なければならないので、今｜此處《こゝ》にゐるのは三階に寢る妹と、カーロー君と、ジヤツク君とそれからアネスト君丈である。然しその内のカーロー君とジヤツク君は犬の名だから勘定に入れても仕方がない。アネスト君は亭主が店で使つてゐる若い男の名である。

　僕の最も敬服し又最も辟易するベツヂパードンは遂に解雇されて仕舞つた。僕はもう圓滿なる彼女の顔を見る事が出來ない。移轉後になつて始めて此話を聞いた僕は憮然として彼女の未來を想像した。

　露西亞と日本は爭はんとしては爭はざらんとしつゝある。支那は天子蒙塵の辱を受けつゝある。英國はトランス?ールの金剛石《ダイアモンド》を掘り出して軍費の穴を?めんとしつゝある。此多事なる世界が日となく夜となく廻轉しつゝ、波瀾を生じつゝある間《あひだ》に、僕の住む此の小天地にも小廻轉と小波瀾が續《つゞ》きつゝある、起りつゝある。僕の下宿の主人公は其尤大なる身體を賭して差配と雌雄を決せんとしつゝある。さうして僕は君の病氣を慰めるために此手紙を認めつゝある。（四月二十六日）

　

　　　自轉車日記

　

　西暦一千九百二年秋忘月忘日白旗を寢室の窓に翻へして下宿の婆さんに降を乞ふや否や、婆さんは二十貫目の體?を三階の天邊迄運び上げにかゝる、運び上げるといふべきを上げにかゝると申すは手間のかゝるを形容せん爲なり、階段を上ること無慮四十二級、途中にて休憩する事前後二回、時を費す事三分五セコンドの後此偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が苦し氣に戸口にヌツと出現する、あたり近所は狹苦しき許り也、此會見の榮を肩身狹くも雙肩に荷へる余に向つて婆さんは媾和條件の第一款として命令的に左の如く申し渡した、

　　自轉車に御乘んなさい

　嗚呼悲いかな此自轉車事件たるや、余は遂に婆さんの命に從つて自轉車に乘るべく否自轉車より落るべく「ラ?ンダー、ヒル」へと參らざるべからざる不運に際會せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然たる余を從へて自轉車屋へと飛び込みたる彼はまづ女乘の手頃なる奴を撰んで是がよからうと云ふ、其理由如何にと尋ぬるに初學入門の捷徑は是に限るよと降參人と見て取つていやに輕蔑した文句を竝べる、不肖なりと雖輕少ながら鼻下に髯を蓄へたる男子に女の自轉車で稽古をしろとは情ない、まあ落ちても善いから當り前の奴で遣つて見樣と抗議を申し込む、若し採用されなかつたら丈夫玉碎瓦全を恥づとか何とか珍汾漢の氣?を吐かうと暗に下拵に黙つて居る、と夫なら是に仕樣と、いとも見苦しかりける男乘をぞ宛てがひける、思へらく能者筆を擇ばず、どうせ落ちるのだから車の美醜抔は構ふものかと、宛てがはれたる車を重さうに引張り出す、不平なるは力を出して上からウンと押して見るとギーと鳴る事なり、伏して惟れば關節が弛んで油氣がなくなつた老朽の自轉車に萬里の波濤を超えて遙々と逢ひに來た樣なものである、自轉車屋には恩給年限がないのか知らんと一寸不審を起してみる、思ふに其年限は疾ッくの昔に來て居て今迄物置の隅に閑居靜養を專らにした奴に違ない、計らざりき東洋の孤客に引きずり出され奔命に堪ずして悲鳴を上るに至つては自轉車の末路亦憐むべきものありだがせめては降參の腹癒に此老骨をギユーと云はして遣らんものをと乘らぬ先から當人はしきりに乘り氣になる、然るにハンドルなるもの神經過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり、向へ押しやると往來の眞中へ馳け出さうとする、乘らぬ内から斯くの如く處置に窮する所を以て見れば乘つた後の事は思ひやるだに涙の種と知られける、

　「何處へ行つて乘らう」「何處だつて今日初めて乘るのだから成丈人の通らない道の惡くない落ちても人の笑はない樣な所に願ひ度」と降參人ながら色々な條件を提出する、仁惠なる監督官は余が衷情を憐んで「クラパム、コンモン」の傍人跡餘り繁からざる大道の横手馬乘場へと余を拉し去る、而して後「さあ茲で乘つて見給へ」といふ、愈降參人の降參人たる本領を發揮せざるを得ざるに至つた、嗚呼悲夫、

　乘つて見給へとは既に知己の語にあらず、其昔本國にあつて時めきし時代より天涯萬里孤城落日資金窮乏の今日に至る迄人の乘るのを見た事はあるが自分が乘つて見た覺は毛頭ない、去るを乘つて見給へとは餘り無慈悲なる一言と怒髪鳥打帽を衝て猛然とハンドルを握つた迄は天晴武者振頼母しかつたが愈鞍に跨つて顧盻勇を示す一段になると御誂通りに參らない、いざといふ間際でずどんと落る事妙なり、自轉車は逆立も何もせず至極落付拂つたものだが乘客丈は正に鞍壺にたまらずずんでん堂とこける、嘗て講釋師に聞た通りを目のあたり自ら實行するとは、豈計らんや、

　監督官云ふ、「初めから腰を据ゑ樣抔といふのが間違つて居る、ペダルに足をかけ樣としても駄目だよ、只しがみ付て車が一回轉でもすれば上出來なんだ」、と心細いこと限りなし、吁吾事休矣いくらしがみ付ても車は半輪轉もしない吁吾事休矣と頻りに感投詞を繰り返して暗に助勢を嘆願する、かくあらんとは兼て期したる監督官なれば、近く進んでさあ、僕がしつかり抑へて居るから乘り給へ、おつとさう眞ともに乘つては?り返る、そら見給へ、膝を打たらう、今度はそーつと尻を懸けて兩手で此處を握つて、よしか、僕が前へ押し出すから其勢で調子に乘つて馳け出すんだよ、と怖がる者を面白半分前へ突き出す、然るに凡て此等の準備凡て此等の勞力が突き出される瞬間に於て砂地に横面を抛りつける爲の準備にして且勞力ならんとは實に神ならぬ身の誰か知るべき底の驚愕である。

　ちらほら人が立ち留つて見る、にや／＼笑つて行くものがある、向ふの樫の木の下に乳母さんが小供をつれてロハ臺に腰を懸てさつきから頻りに感服して見て居る、何を感服して居るのか分らない、大方流汗淋漓大童となつて自轉車と奮闘しつゝある健氣な樣子に見とれて居るのだらう、天涯此好知己を得る以上は向脛の二三ケ所を擦りむいたつて惜しくはないといふ氣になる、「もう一遍頼むよ、もつと強く押して呉れ給へ、なに復落ちる？　落ちたつて僕の身體だよ」と降參人たる資格を忘れて頻りに汗氣?を吹いて居る、すると出し拔に後ろから Sir ! と呼んだものがある、はてな滅多な異人に近付はない筈だがと振り返ると、一寸人を狼狽せしむるに足る的の大巡査がヌーツと立つて居る、こちらはこんな人に近付ではないが先方では此ポツト出のチンチクリンの田舍者に近付かざる可らざる理由があつて正に近付いたものと見える、其理由に曰く茲は馬を乘る所で自轉車に乘る所ではないから自轉車を稽古するなら往來へ出て遣らしやい、オーライ謹んで命を領すと混淆式の答に博學の程度を見せて直樣之を監督官に申出る、と監督官は降參人の今日の凹み加減充分とや思ひけん、もう歸らうぢやないかと云ふ、即ち乘れざる自轉車と手を携へて歸る、どうでしたと婆さんの問に敗餘の意氣をもらすらく車嘶いて白日暮れ耳鳴つて秋氣來るヘン

　忘月忘日　例の自轉車を抱いて坂の上に控へたる余は徐ろに眼を放つて遙かあなたの下を見廻す、監督官の相圖を待つて一氣に此坂を馳け下りんとの野心あればなり、坂の長さ二丁餘、傾斜の角度二十度許、路幅十間を超えて人通多からず、左右はゆかしく住みなせる屋敷許なり、東洋の名士が自轉車から落る稽古をすると聞いて英政府が特に土木局に命じて此道路を作らしめたかどうだか其邊は未だに判然しないが、兎に角自轉車用道路として申分のない場所である、余が監督官は巡査の小言に膽を冷したものか乃至は又余の車を前へ突き出す勞力を省く爲か、昨日から人と車を天然自然ところがすべく特に此地を相し得て余を連れだしたのである、

　人の通らない馬車のかよはない時機を見計つたる監督官はさあ今だ早く乘り給へといふ、但し此乘るといふ字に註釋が入る、此字は吾等兩人の間には未だ普通の意味に用られて居ない、わが所謂乘るは彼等の所謂乘るにあらざるなり、鞍に尻を卸さゞるなり、ペダルに足を掛けざるなり、たゞ力學の原理に依頼して毫も人工を弄せざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず水火をも辭せず驀地に前進するの義なり、去る程に其格好たるや恰も疝氣持が初出に梯子乘を演ずるが如く、吾ながら乘るといふ字を濫用しては居らぬかと危ぶむ位なものである、去れども乘るは遂に乘るなり、乘らざるにあらざるなり、兎も角も人間が自轉車に附着して居る也、而も一氣呵成に附着して居るなり、此意味に於て乘るべく命ぜられたる余は、疾風の如くに坂の上から轉がり出す、すると不思議やな左の方の屋敷の内から拍手して吾が自轉行を壯にしたいたづらものがある、妙だなと思ふ間もなく車は既に坂の中腹へかゝる、今度は大變な物に出逢つた、女學生が五十人許り行列を整へて向からやつてくる、斯うなつてはいくら女の手前だからと言つて氣取る譯にもどうする譯にも行かん、兩手は塞つて居る、腰は曲つて居る、右の足は空を蹴て居る、下り樣としても車の方で聞かない、絶體絶命仕樣がないから自家獨得の曲乘のまゝで女軍の傍をからくも通り拔ける。ほつと一息つく間もなく車は既に坂を下りて平地にあり、けれども毫も留まる氣色がない、しかのみならず向ふの四ツ角に立て居る巡査の方へ向けてどん／＼馳けて行く、氣が氣でない、今日も巡査に叱られる事かと思ひながらも矢張曲乘の姿勢をくづす譯に行かない、自轉車は我に無理情死を逼る勢で無暗に人道の方へ猛進する、とう／＼車道から人道へ乘り上げ夫でも止まらないで板塀へぶつかつて逆戻をする事一間半、危くも巡査を去る三尺の距離でとまつた。大分御骨が折れましやうと笑ながら査公が申された故、答へて曰くイエス、

　忘月忘日　「……御調べになる時はブリチツシユ、ミユジーアムへ御出掛になりますか」「あすこへは餘り參りません、本へ矢鱈にノートを書きつけたり棒を引いたりする癖があるものですから」「左樣、自分の本の方が自由に使へて善ですね、然し私抔は著作を仕樣と思ふとあすこへ出かけます……」

　「夏目さんは大變御勉強ださうですね」と細君が傍から口を開く「餘り勉強もしません、近頃は人から勸められて自轉車を始めたものですから、朝から晩迄夫ばかりやつて居ます」「自轉車は面白う御座んすね、宅ではみんな乘りますよ、あなたも矢張り遠乘をなさいませう」遠乘を以て細君から擬せられた先生は實に普通の意味に於て乘るてふ事の如何なるものなるかをさへ解し得ざる男なり、只一種の曲解せられたる意味を以て坂の上から坂の下迄辛うじて乘り終せる男なり、遠乘の二字を承つて心安からず思ひしが、掛直を云ふことが第二の天性と迄進化せる二十世紀の今日、此點にかけては一人前に通用する人物なれば、如才なく下の如く返答をした「左樣遠乘といふ程の事も未だしませんが、坂の上から下の方へ勢よく乘りおろす時なんか頗る愉快ですね」

　今迄沈黙を守つて居つた令孃は此奴少しは乘きるなと疳違をしたものと見えて「いつか夏目さんと一所に皆でヰンブルドンへでも行つたらどうでせう」と父君と母上に向つて動議を提出する、父君と母上は一齊に余が顔を見る、余是に於てか少々尻こそばゆき状態に陷るの已を得ざるに至れり、去りながら妙齡なる美人より申し込まれたる此果し状を眞平御免蒙ると握りつぶす譯には行かない、苟も文明の教育を受けたる紳士が婦人に對する尊敬を失しては生涯の不面目だし、且や是でもか／＼と余が咽喉を扼しつゝある二寸五分のハイカラの手前もある事だから、殊更に平氣と愉快を等分に加味した顔をして「それは面白いでせう然し……」「御勉強で御忙しいでせうが今度の土曜位は御閑で居らつしやいませう」と段々切り込んでくる、余が「然し……」の後には必ずしも多忙が來ると限つて居らない、自分ながら何の爲の「然し」だか未だ判然せざるうちに斯う先を越されては愈「然し」の納り場がなくなる、「然し餘り人通りの多い所ではエー……アノーまだ練れませんから」と漸く一方の活路を開くや否や「いへ、あの邊の道路は實に閑靜なものですよ」とすぐ通せん坊をされる、進退維谷るとは啻に自轉車の上のみにてはあらざりけり、と獨りで感心をして居る、感心した許りでは埒があかないから、此際唯一の手段として「然し」をもう一遍繰り返す「然し……今度の土曜は天氣でせうか」旗幟の鮮明ならざること夥しい誰に聞いたつて、そんな事が分るものか、偖も此勝負男の方負とや見たりけん、審判官たる主人は仲裁乎として口を開いて曰く、日はきめんでも何れ其内私が自轉車で御宅へ伺ひませう、そして一所に散歩でもしませう、――サイクリストに向つて一所に散歩でもしませうとは是如何、彼は余を目してサイクリストたるの資格なきものと認定せるなり

　此うつくしき令孃と「ヰンブルドン」に行かなかつたのは余の幸であるか將不幸であるか、考ふること四十八時間遂に判然しなかつた、日本派の俳諧師之を稱して朦朧體といふ

　忘月忘日　數日來の手痛き經驗と精緻なる思索とによつて余は下の結論に到着した

　　自轉車の鞍とペダルとは何も世間體を繕ふ爲に漫然と附着して居るものではない、鞍は尻を懸る爲めの鞍にしてペダルは足を載せ且つ踏み付けると回轉する爲のペダルなり、ハンドルは尤も危險の道具にして、一度び之を握るときは人目を眩せしむるに足る目勇しき働きをなすものなり

　かく漆桶を拔くが如く自轉悟を開きたる余は今例の監督官及び其友なる貴公子某伯爵と共に?を連ねて「クラパムコンモン」を横ぎり鐡道馬車の通ふ大通りへ曲らんとする所だと思ひ給へ、余の車は兩君の間に介在して操縱既に自由ならず、只前へ出られる許りと思ひ給へ、然るに出られべき一方口が突然塞つたと思ひ給へ、即ち横ぎりにかゝる塗炭に右の方より不都合なる一輛の荷車が御免よとも何とも云はず傲然として我前を通つたのさ、今迄の態度を維持すれば衝突する許りだらう、余の主義として衝突はこちらが勝つ場合に附いてのみ敢てするが、其他負色の見えすいた樣な衝突になるといつでも御免蒙るのが吾家傳來の憲法である、去るによつて此尨大なる荷車と老朽悲鳴をあげる程の吾が自轉車との衝突は、おやじの遺言としても避けねばならぬ、と云つて左右へよけ樣とすると御兩君のうち何れへか衝突の尻を以て行かねばならん、勿體なくも一人は伯爵の若殿樣で、一人は吾が恩師である、左樣な無禮な事は平民たる我々風情のすまじき事である、のみならず捕虜の分際として推參な所作と思はるべし、孝ならんと欲すれば禮ならず、禮ならんと欲すれば孝ならず、已むなくんば退却か落車の二あるのみと、一寸の間に相場が極つて仕舞つた、此時事に臨んで甞て狼狽したる事なきわれ熟ら思ふ樣、出來さへすれば退却も滿更でない、少なくとも落車に優る事萬々なりと雖も、悲夫逆艪の用意未だ調はざる今日の時勢なれば、エー仕方がない思ひ切つて落車にしろ、と兩車の間に堂と落つ、折しも余を去る事二間許の所に退屈さうに立つて居た巡査――自轉車の巡査に於る夫れ猶刺身のツマに於るが如きか、何ぞ夫れ引き合に出るの甚しき――此ツマ的巡査が聲を揚げてアハ、アハ、アハ、と三度笑つた。其笑ひ方苦笑にあらず、冷笑にあらず、微笑にあらず、カンラカラ／＼笑にあらず、全くの作り笑なり、人から頼まれてする依托笑なり、此依托笑をする爲に此巡査はシツクスペンスを得たか、ワン、シリングを得たか、遺憾ながら之を考究する暇がなかつた、

　へんツマ巡査などが笑つたつてと直樣御兩君の後を慕つて馳け出す、これが巡公でなくつて先日の御娘さんだつたら矢張り直樣馳け出されるかどうだかの問題はいざとならなければ解釋がつかないから質問しない方がいゝとして先へ進む、偖兩君は此邊の地理不案内なりとの口實を以て覺束なき余に先導たるべしとの嚴命を傳へた、然るに案内には詳しいが自轉車には毫も詳しくないから、行かうと思ふ方へは行かないで曲り角へくると只曲り易い方へ曲つて仕舞ふ、是に於てか同じ所へ何返も出て來る、始めの内は何とかかんとか胡麻化して居たが、さうは持ち切れるものでない、今度は違つた方へ行かうとの御意である、よろしいと口には云つた樣なものゝ、儘にならぬは浮世の習、容易にそつちの方角へ曲らない、道幅三分の二も來た頃、やつとの思でハンドルをギユーツと捩つたら、自轉車は九十度の角度を一どきに廻つて仕舞つた、其急廻轉の爲に思ひ掛なき功名を博し得たと云ふ御話しは、明日の前講になかといふ價値もないから、すぐ話して仕舞う、此時迄氣がつかなかつたが此急劇なる方向轉換の刹那に余と同じ方角へ向けて余に尾行して來た一人のサイクリストがあつた、處が此不意撃に驚いて車をかわす暇もなくもろくも余の傍で轉がり落ちた、後で聞けば、四ツ角を曲る時にはベルを鳴すか片手をあげるか一通りの挨拶をするのが禮ださうだが、落天の奇想を好む余は左樣な月並主義を採らない、況んやベルを鳴したり手を擧げたり、そんな面倒な事をする餘裕は此際少しもなきに於てをやだ、是に於てか此ダンマリ轉換を遂行するのも余に取つては萬已を得ざるに出たもので、余のあとに喰付て來た男が吃驚して落車したのも亦無理のない處である、雙方共無理のない處であるから不思議はない、當前の事であるが、西洋人の論理は是程迄發達して居らんと見えて、彼の落ち人大に逆鱗の體で、チン／＼チヤイナマンと余を罵つた、罵られたる余は一矢酬ゆる筈であるが、そこは大悠なる豪傑の本性をあらはして、御氣の毒だねの一言を遺して振り向もせずに曲つて行く、實はふり向かうとするうちに車が通り過ぎたのである、「御氣の毒だね」より外の語が出て來なかつたのである、正直なる余は苟且にも豪傑など云ふ、一種の曲者と間違らるゝを恐れて、茲にゆつくり辨解して置くなり、萬一余を豪傑だなどゝ買被つて失敬な擧動あるに於ては七生迄祟るかも知れない、

　忘月忘日　人間萬事漱石の自轉車で、自分が落ちるかと思ふと人を落す事もある、そんなに落膽したものでもないと、今日はズー／＼敷構へて、バタシー公園へと急ぐ、公園は頗る閑靜だが、其手前三丁許りの所が非常の雜沓な通りで、初學者たる余にとつては難透難徹の難關である、今しも余の自轉車は「ラ?ンダー」坂を無難に通り拔けて、此四通八達の中央へと乘り出す、向ふに鐡道馬車が一臺こちらを向いて休んで居る、其右側に非常に大なる荷車が向ふむきに休んで居る、其間約四尺許、余は此四尺の間をすり拔ける可く車を走らしたのである、余が車の前輪が馬車馬の前足と竝んだ時、即ち余の身體が鐡道馬車と荷車との間に這入りかけた時、一臺の自轉車が疾風の如く向から割り込んで來た、斯樣なとつさの際には命が大事だから退却に仕樣か落車に仕樣か抔の分別は、さすがの吾輩にも出なかつたと見えて、おやと思つたら身體はもう落ちて居つた、落方が少々まづかつたので、落る時左の手でしたゝか馬の太腹を叩いて、からくも四這の不體裁を免がれた、やれうれしやと思ふ間もなく鐡道馬車は前進し始める、馬は驚ろいて吾輩の自轉車を蹴飛す、相手の自轉車は何喰はぬ顔ですうと拔けて行く、間の拔さ加減は尋常一樣にあらず、此時派出やかなるギグに乘つて後ろから馳け來りたる一個の紳士、策を揚げ樣に余が方を顧みて曰く大丈夫だ安心し給へ、殺しやしないのだからと、余心中ひそかに驚いて云ふ、して見ると時には自轉車に乘せて殺して仕舞のがあるのかしらん英國は險呑な所だと

　

　　　　　　　　＊　　　　　　　　　　＊　　　　　　　　　　＊

　

　余が廿貫目の婆さんに降參して自轉車責に遇つてより以來、大落五度小落は其數を知らず、或時は石垣にぶつかつて向脛を擦りむき、或る時は立木に突き當つて生爪を剥がす、其苦戰云ふ許りなし、而して遂に物にならざるなり、元來此二十貫目の婆さんは無暗に人を馬鹿にする婆さんにして、此婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、其妹の十一貫目の婆さんは、瞬きもせず余が黄色な面を打守りて如何なる變化が余の眉目の間に現るゝかを檢査する役目を務める、御役目御苦勞の至りだ、此二婆さんの呵責に逢てより以來、余が猜疑心は益深くなり、余が繼子根性は日に／＼増長し、遂には明け放しの門戸を閉鎖して我黄色な顔を愈黄色にするの已を得ざるに至れり、彼二婆さんは余が黄色の深淺を測つて彼等一日のプログラムを定める、余は實に彼等にとつて黄色な活動晴雨計であつた、會（マ）降參を申し込んで贏し得たる所若干ぞと問へば、貴重な留學時間を浪費して下宿の飯を二人前食ひしに過ぎず、去れば此降參は我に益なくして彼に損ありしものと思惟す、無殘なるかな、

−明治三六、六、二〇『ホトトギス』−

　

　　　　　　　　　　　　 〔2022年1月7日（金）午前9時38分、校正終了〕