初期の文章より
〔小品三篇は漱石全集2にあり〕
 
評論
老子の哲學
文壇に於ける平等主義の代表者『ウオルト、ホイツトマン』Walt Whitman の詩について
中學改良策
英国詩人の天地山川に對する觀念
『トリストラム、シヤンデー』
英國の文人と新聞雜誌
小説「エイルヰン」の批評
マクベスの幽靈に就て
 
雜篇
『銀世界』評
愚見數則
人生
無題
祝辭
不言之言
無題
 
作文
正成論
觀菊花偶記
居移氣説
對月有感
山路觀楓
故人到
故人來
母の慈 西詩意譯
二人の武士 西詩意譯
Japan and England in the Sixteenth Century.  (省略)
 
翻譯
催眠術(アーネスト、ハート)
詩伯「テニソン」(オウガスタス、ウード)
セルマの歌(オシアン)
カリツクスウラの詩(オシアン)
A Translation of Hojioki           (省略)
 
英詩                  (省略) 
漢詩文
 七艸集評
 木屑録
 漢詩
和歌
新體詩
俳體詩
連句
俳句
 季題別
 
印譜                  (省略)
 
日記及び斷片
 
書簡集
 
 
  老子の哲學
 
          ――明治二十五年六月十一日稿文科大學東洋哲學論文――
 
 
   第一篇 緒論
 
 蓋反其本矣とは孟子が齊宣に説ける言其事好還とは老子が以道佐人主章に述べたる語にて孰れも末を棄て本に復するを希望せるの意を寓す此二子時代に多少の差はあれども等しく爭亂澆季の世に生れ民俗の日々功名利欲の末途に趨くを嘆じ道の源頭より一隻眼を開いて人心の砥柱たるべき根本を教えんと企てたればこそ其言も斯く符合するなれ去れども孟子の本は老子の本にあらず老子の還亦孟子の還と趣きを異にす孟子は惻隱の心を擴げて仁となし羞惡の心を誘ふて義となしさてこそ仁義は人心に本有なる物にて邪惡は天性我に具はる者にあらずと我點の行く迄百万※[手偏+倍の旁]撃して辯論せる人にて其心には仁義より大なる道なく仁義より深き理なしと思ひ込みしなり成程是は當り障りのなき議論にて之を實行せば治國の上に利益あるは無論の事況して周末汚濁の世には如何許り要用を有せしや知る可らず然し夫すら攻伐を以て賢とし合從連衡を務めとなす當時には容れられず迂なり迂なりの一語を聞て戰國の諸侯を説きあぐんだる次第なり常識に適ふたる仁義の説だに斯の如くなるに仁義以外に一歩を※[手偏+敝]開して當時に迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり是を誰とか云ふに周國苦縣※[蠣の旁]郷の人姓を李と云ひ名を耳と呼ぶ生れながらにして皓首の異人なり甞て周に仕へて守藏の史たりしが其衰ふるを見て官を棄てゝ西方に至り關を出んとしたるとき關令尹喜が子將隱矣彊爲我著書と云ふに任せて上下二篇無慮五千餘言を著して去る今に傳る所老子道徳經即ち是なり
 偖老子の主義は如何に、儒教より一層高遠にして一層迂濶なりとは如何なる故ぞと云ふに老子は相對を脱却して絶對の見識を立てたればなり捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道を以て其哲學の基としたればなり其論出世間的にして實行すべからず其文怪譎放縱にして解すべからざればなり走者可以爲罔游者可以爲綸飛者可以爲※[矢+曾]至於龍吾不能知其乘風雲而上天吾今見老子其猶龍耶と云へるが如きを以てなり彼れ固より不仁不義をよしとせず去れども仁義も亦左迄有り難き者と思はず三綱を以て民心を繋ぎ五常を立てゝ衆人を導くときは之と同伴して生ずる者は三不綱なり五不常なるべし民を驅つて善に赴かしめんとすれば善の裏には不善あるぞと教ゆるに同じ故に道の根本は仁の義のと云ふ樣な瑣細な者にあらず無状の状無物の象とて在れども無きが如く存すれども亡するが如く殆んど言語にては形容出來ず玄の一字を下すことすら猶其名に拘泥せんことを恐れてしばらく之を玄之又玄と稱す玄之又玄衆妙之門とは老子が開卷第一に言ひ破りたる言にて道經徳經上下二篇八十章を貫く大主意なり
 玄とは相對的の眼を以て思議すべからざる者を指すの謂にして必ずしも虚無眞空を言ふにあらず名くべきの名なき故に無と云ふのみ老子の言時に矛盾する所ありと雖ども其全篇を通觀するに甞て有の眞〔右○〕無より生じたるを説きし點なく from nothing comes nothong と云へる原理に撞着せるを見ず唯第四十章に天地萬物生于有有生于無と云ふ句あれども此無の字とて眞空絶無の謂にはあらで惚兮恍其中有象恍兮惚其中有物と云ふ意味ならん且無名天地之始とあるを見れば天地の剖判萬物の羣生は命名すべからざる一種の物即ち玄の又玄より發生せるにて眞空より宇宙が出來したりと云ふ意にあらざること明かならん
 此玄を視るに二樣あり一は其靜なる所を見一は其動く所を見る固より絶對なれば其中には善惡もなく長短もなく前後もなし難易相成すこもなければ高下相傾くることもなく感情上より云ふも智性上より云ふも一切の性質を有せず去るが故に天地の始め萬物の母にして混々洋々名づくる所以を知らざれば無名と云ふ然し眼睛を一轉して他面より之を窺ふときは天地の始め故天地を生じ萬物の母なる故萬物を孕む其一度び分れて相對となるや行に善惡を生じ物に美醜を具へ大小高下幾多の性質屬性雜然として出現し來る是點より見るときは萬物之母にして有名と云はざる可らず故に其無名の側面を窺はんとならば常無欲にして相對の境を解脱し(能ふべくんば)己を以て玄中に没却し了らざるべからず又其有名の側面を知らんと思はゞ常有欲を以て夫の大玄より流出して聚散離合する事物の終りを見るべし今此二面を表に示せば左の如くならんか
 
        靜…平等故無名…故常無欲觀其妙
玄之又玄(絶對)
        動…萬物之母故有名…故常有欲觀其※[糸+激の旁]
 
 此玄を基礎として修身に及ぼし又治國に及ぼす故老子の學は希臘古代の哲學と同じく cosmology を以て其立脚の地となす者の如し周代煩雜の世に生れて玄の本に反らんとするには先づ自ら反り而る後人を反さゞる可らず自ら反る所は老子の修身となつて見はれ人を反す所は老子が治民上の意見となつて見はる以下篇を分つて之を論ぜんとす
 
  第二篇 老子の修身
 
 修身上の意見は治民上の意見と同じく概ね消極的なり今之を三段に分ち節を追ふて之を敍すべし
 (一) 老子は學問を以て無用とせり
 第二十章に曰く絶學無憂と又四十八章に曰く爲學日益と註に務欲進其所能益其所習とありて學問をなせば巧智愈進んで道の本元を去ること益遠く紛擾爭奪の殃を釀すに至る故に之を無用とせるなり是は「ウオーヅウオース」も屡ば言へる事にて一例を擧ぐれば Dungeon-Ghyll Force と云ふ詩中に
 A Poet,one who loves the brooks
 Far better than the sages’books
とあり尤も「ウオーヅウオース」は只天然の書を愛して聖人の書を愛せずと云ふ主義なれども老子に至つては天然にあれ人爲にあれ痛く書冊を講修するを惡みしのみならず日常普通の經驗觀察すら毫釐の益なしと思へり去れば四十七章にも不出戸知天下不窺※[片+(戸/甫)]隔見天道とありて天下を知り天道を見るは學問の經驗のと騷ぎ立つるより瞑目潜心して其機を察すれば廓然として大悟するに至るべしと云ふ議論なり故に其出彌遠其知彌少とて無形無聲の大道を看破するに形而下の末に拘泥して卑低の處にのみ眼孔を着くれば到底高尚なる世界觀をなす能はずとの考へなり
 かく老子は一方にては學問を以て事物を研鑽するを惡み又一方にては經驗を利用して現象を探究するを無用とし損之又損以至於無爲の域に達せんと力めぬ去れど老子の世界觀は果して外物に待つなかりしか學問もなく經驗もなく宇宙の眞理天下の大道を看破せしか一毫も外界より得たる知識なきも猶能く此の如きの世界觀を構成し其無爲論大玄説冥中より飛び來つて老子の脳中に入るを得べきか、そも世界觀とは其文字通り世界を觀じたる結果に過ぎず假令如何に非凡の人といへど時と處の影響を蒙らざるはなき筈にて一度び目を搖かせば光脳に入り一度び耳を聳つれば音脳に入り一視一聽の間知らず知らず外物の支配を受くること賢愚聖凡の差別はあらじ去るを老子なりとて爭でか此境界を脱するを得ん假令へ獨斷的にせよ經驗的ならざるにせよ一個の世界觀ある以上は外界の助けを得て構成したるに相連なからん今結繩の民は無爲にして化し老子は之に傚はんと欲するが故に無爲を重んじ學問を棄てよ觀察を廢せよと説法したりと見るも矢張り論理上の非難を免かれざるべしそを何故ぞと云ふに自ら知らずして無爲なると之を知つて無爲にならんとするとは同じからず成程古代の民は無爲なりしかは知らざれども自ら無爲をなして自覺せざりしならん(少くとも老子の意見に從へば)今老子は如何老子と同時の民は如何擾々紛々有爲の極に居ると云ふべし老子既に此有爲活溌の世に生れて獨り無爲を説くは是れ無爲に眼の開きたるなり無爲に consious になりしなり偖其無爲を自知せるは何ぞと尋ぬるに轉捩一番翻然として有爲より悟入したるにあらずや去らば其悟入したる點を擧げて人を導くべきに去はなくして劈頭より無爲を説き不言を重んず何とて此有情有智、立行横臥の動物朝夕有爲の衢に奔走する輩を拐し去つて一瞬の際之を寂滅窃冥たる無爲世界に投ずることを得ん余は敢て不言無爲を尊びたる老子が縷々五千言を記述したるを咎むるにあらず無爲不言は目的にして上下八十章は此に達するの方便なるべければなり只其無爲に至るの過程を明示せざるを惜むのみ
 (二) 老子は凡百の行爲を非とせり
 學問は智なり觀察も智なり老子既に智を破却し進んで情を破却し併せて意思をも破却し遂に凡百の行爲を杜絶し了りぬ
 儒家の尤も重んずる所の者は仁義なり老子の一喝して論破せんとする者は仁義なり儒家にては仁を惻隱の心とも云ひ不忍の心とも云ひ朱子は愛之理と説き韓子は博愛之謂と訓ず皆※[央/皿]然たる懇惻の念を指す者にて先天的に我心中に存在する故仁者人也とて人の人たる所以は仁に在りと心得たる者もあり又仁人心也とて心と仁を合一せんと企てたる者もある位にて義禮智の三は皆之より發生するとなす故に程子は專言則包四者と云ひ朱子は仁爲衆善之長雖列於四者之目而四者不能外焉と云へり羞惡の心の萌すも是非辨別の起るも皆仁の生理に徹して喚發せらるゝと思へり然るに老子は全く之と反對にて聖人不仁とも云ひ大道廢有仁義智慧出有大僞とも云ひ絶聖棄智民利百倍絶仁棄義民復孝慈と云へり仁すら斯の如し禮の如きに至つては禮者忠信之薄而亂之首也と誹れり何故儒家の重んずる仁義をかく迄賤めしかと云ふに
 (甲)其相對的なるが爲にて仁の義のと云へども絶對より見れば小にして殆んど取るに足らざればなり夫れ仁と云へば不仁を含み禮と云へば非禮を含む故に二章にも天下皆知美之爲美斯惡已皆知善之爲善斯不善已と云へり
 (乙) 加之仁義禮智は道の本元を失へばなり大道を外れたればなり故曰失道而後徳失徳而後仁失仁而後義失義而後禮と是仁は末にして禮は益末なるを云ふなり
 既に仁義を以て末となす位故肉體上の快樂抔は極力之を攻討せり去れば甚愛必大費多藏必厚亡と云ひ金玉滿堂莫之能守富貴而驕自遺其咎と云ひ五色令人目旨五音令人耳聾五味令人口爽馳騁田獵令人心發狂と云ひ不覺難得之貨使民不爲盗不見可欲使心不亂と云ひ服文綵帶利劍厭飲食財貨有餘是謂盗夸と云ひ凡て慾を斷ち情を攝すべきを説けり
 (三) 老子は嬰兒たらんとす
 既に情慾を斥け次に學問を斥け最後に仁義禮智を斥け如何なる者にならんとするやと云ふに頑是なき嬰兒と化せんと願へるなり是も「ウオーヅウオース」が
  The child is father of the man;
  And I could wish my days to be
  Bound each to each by natural piety.
と云へるに似て一は務めずして得たる piety を賞し一は智を用ひずして自然に合する嬰兒を愛す故に常徳不離復於嬰兒と云ひ、自然の氣に任じ至柔の和を致す嬰兒を愛す故に專氣致柔能嬰兒乎と云ひ、廓然形の名づく可きなく兆の擧ぐべきなき嬰兒を愛す故に我獨泊兮其未兆如嬰兒之未孩と云ひ、求むるなく欲するなく衆物を犯さず又衆物に犯されざる嬰兒を愛す故に含徳之厚比於赤子蜂〓※[兀+虫]蛇不螫猛獣不據攫鳥不搏と云ひ皆嬰兒たるを欲するの意を寓す
 然らば老子は嬰兒に復歸して如何なる境界に居らんとするかと云ふに
 (甲) 足ることを知るなり故に禍莫大於不知足咎莫大於欲得故知足之足常足矣と云へり
 (乙) 柔に居つて爭はず卑に處して人と抗せざるなり故に天下之至柔馳騁天下之至堅と云ひ天下莫柔弱於水而攻堅強者莫之能勝と云び強大處下柔弱處上と云ひ聖人……以其不爭故天下莫能與之爭と云ひ善用人者爲之下是謂不爭之徳と云へり
 (丙) 靜に安んずるなり故に牝常以靜勝牡常以靜爲下
と云ひ致虚極守靜篤萬物竝作吾以觀復と云ひ重爲輕根靜爲躁君と云へり
 かく修身上に於ては靜を尚び柔を愛し足るを知るを重んぜし故に其所説常に退歩主義にて進取の氣象なく消極にして積極の所寡なし今老子の修身上の意見を表にて示せば左〔上〕の如くなるべし
 
     (ア)無爲(消極的)(一)学問を廃す (甲)講修學理するを廢す
                       (乙)致知格物の觀察を廢す
 
               (二)行爲を廃す(甲)道徳上 仁
                               義
修身                            禮
                              智
                       (乙)美術上…音楽等
                       (丙)肉體の快楽…衣食の贅澤等 
               (三)多言を廢す(多言敷窮又云聖人行不言之教)
     (イ)復歸於嬰兒(積極的?) (一)足ることを知れ
                   (二)柔を守り物と爭ふなかれ
                   (三)静に安んじて下に居れ
(茲に積極的と書きたれど其實は學問を取り行爲を取り去れば殘る者は蕩然たる自然の嬰兒なる故あながち之を積極的と云ふにも及ばざれども便宜の爲め斯は名けぬ)
 
   第三篇 老子の治民
 
 修身を擴ぐること一歩にして治他となる老子身を修めて學を廢し徳行を廢し多言を廢し自ら嬰兒の天性に復し能く足ることを知り能く柔を守り能く靜に安んず而る後人をして己れの域に臻らしめんとす故に人を治むるの法を講ず然れども其説く所亦多く退歩主義なりとす今之を數節に分つて述べんとす
 (一) 天下は進んで取るべきにあらず退いて之を受くべし自ら故意を用ひて天下を治めんとすれば爭亂相繼で起るべし故に曰將欲取天下而爲之吾見其不得已天下神器不可爲也爲むべからざる者を強て爲めんと欲し固執すべからざる者を固執して之を守らんとすれば必ず之を敗り之を失ふ故に不敢爲天下先と云て之を三寶の一に數へたり
 (二) 然らば如何にして可なるやと云ふに只道を守つて超然たるべきのみ(道の事は下に論ず)故に侯王若能守道萬物將自賓と云ひ道常無爲而無不爲侯王若能守萬物將自化と云ひ爲道日損損之又損以至於無爲而無不爲取天下常以無事と云ひ苟しくも無爲に居つて道を守れば天下を取らずとも天下之に歸せんとの意なり
 (三) 我れ天下を取るに意なく而して天下我に歸せば我何を以て之に應ずべきかと云ふに只悶々の政を爲して醇々の民を義養ひ察々の政を廢して缺々の俗を滅するにあるのみ故曰治大國若烹小鮮と治は煩なるべからず小鮮を烹るは撓むべからず煩なれば則ち人勞れ撓れば則魚爛るゝを以てなり
 悶々の政をなすに當つて去るべき者三あり
 (甲) 一に甲兵を撤すべし故に以正治國以寄用兵以無事取天下と云ひ兵を用ひ正を用ふは未だ以て天下を取るに足らざるを明にす又以道佐人主者不以兵強天下と云ひ兵者不祥之器非君子之器と云て兵の用ふべからざる所以を示す
 (乙) 二に刑を去るぺし故に曰く民不畏死如何以死懼之と是は政苛察にして刑罰嚴重なる時は民手足を措く所なく從つて死を畏るゝの念も薄らぎ果は恐嚇するに死を以てすと雖も無益なりと云ふ意味なり
 (四) 法令を去るべし故に天下多忌諱而民彌貧……法令滋彰盗賊多有と云ふて防禁嚴密なれば一擧手一投足も自由なる能はず民業に安んじ生を樂しむこと能はざるを明にせり
 前に述べたる三條は司政の機關を鈍くするなり又教育上に在つては則ち一切の智慧を去り※[立心偏+曹に似た字]々たる愚物を製造せんとす故に古之善爲道者非以明民將以愚之民之難治以其智多故以智治國國之賊不以智消國國之福と云ひ又民多利器國家滋昏人多技巧奇物滋起と云ひて民俗の巧詐詭譎に赴くを畏れたり又不尚賢使民不爭不貴難得之貸使民不爲盗不見可欲使心不亂と云ひて民をして無知無欲にして化せしめんとせり
 又政府の取る方針は如何にと云ふに
 (甲) 宜しく儉を守るべし故に曰く民之饑以其上食税之多足以饑と又曰く我有三寶……二曰儉と
 (乙) 宜しく人の下に立つべし故に曰く大國以下小國則取小國小國以下大國則取大國又曰く是以聖人欲上民必以言下之欲先民必以身後之と
 (丙) 能く柔弱にして卑辱を以て自ら處るべし故に曰く受國之垢是謂社稷主受國之不祥是謂天下王と
 (丁) 若し強梁を除き暴亂を去らんとせば當に物の性により之を自滅せしむべし必ずしも法令を用ふるに及ばず刑罰を要せず故曰將欲歙之必固張之將欲弱之必固強之將欲廢之必固興之將欲奪之必固與之と
以上を治民の意見とす之を表に示せば下の如し
 
政治 天下を得る方 (一)不敢爲天下先
          (二)能守道
   天下を得たる後…施悶々之政 (一)消極的 除刑罰
                        撤甲兵
                        廢法令忌諱
                 (二)積極的 教育 無智 不尚賢
                              毀利器
                              已技巧
                            無欲 不貴難得之財
                               去耳目之樂
                        方針 守倹輕負斂
                           善下民
                           柔弱自居
                           因物性禦之
 
 老子道徳經中政治に關する章凡そ廿四章程あり是にても老子が功利の末に趨く民を驅つて結繩の昔に歸らしめんとせし意あるを見るに足らん、なれど其方法抔は到底行ふべからざるのみならず其大主意も科學の發達せる今日より見れば論ずるに足る者寡なし今試みに之を評せんに
 (一) 其言ふ所は動物進化の原則に反せり抑も人間心身の構造は外界の模樣にて徐々と變化し周圍の景況に應じて有機的の發達をなし其性情機關の如きは子は父より受け父は祖父より襲ぎ祖父は又其先より授かりかくして先祖傳來の遺産冥々の裏に蓄積し生るゝ時既に此遺産を讓り受け加ふるに自己の經驗を附加しつゝ進行する者なれば今更先祖の經驗と自己の智識とを悉皆返上して太古結繩の民とならんこと思ひもよらず人間は左樣自由自在に外界と獨立して勝手次第の變化をなし得る者にあらず
 (二) よし勝手次第の變化をなして結繩の風に復したればとて老子の理想たる無爲の境界に住せんこと中々覺束なしそを如何にとなれば人間は到底相對世界を離るゝ能はず決して相對の觀念を没却する能はざればなり假令ひ如何に古代の民にあれ如何に蠢愚の者にあれ苟しくも人間たる以上は五官を有せざる可らず五官を有する以上は空間に於て辨別し時間に於て經驗するを免かれざるべし空間に於て辨別する以上は左右をも知るべく大小も知るべく高下も知るべし又時間に於て經驗する以上は前後も知るべく遲速も知るべく過去現在未來も知るべし斯く人間の知識は悉く相對的なり若し此相對的の知識を閑却するときは人間一日も此世界に存在する能はず美醜の念善惡の心を除去するも生存上差支へなからん結繩の民是なり住宅被服なきも或は生存するを得ん穴居の民是なり去ればとて眞の無爲にて生活せんや既に結繩と云ひ穴居と云ふ以上は幾分か智慧の念を含むにあらずや況して甘其食美其服安其居樂其俗者何とて智慧才覺のなかるべき甘と云へば不廿と對し美と呼べば不美と應じ安は不安と與に起り樂は不樂に伴ふ皆相對なり抑も老子の民は自ら甘しとして其甘き所以を知らざるか美として其美なる所以を知らざるか安んじて其安き所以を知らざるか假令ひ之を知らざるにもせよ彼等とても食はざれば饑へん饑は飽の反なり服せざれば凍へん凍は暖の反なり矢張り相對の智識なしとは云ふべからず今此相對世界に生れて絶對を説くを得るは智の作用推理の能にて想像の辯なり議論上之れ有りと主張するも實際其世界に飛び込む能はず老子の之を知らずして漫に絶對を説きしは前にも云へる如く外界の刺撃に基づきし故にて (三) 隻眼を以て相對の一方のみを見たる結果と云はざるべからず當時の人君策士皆權謀を以て得意となし詭譎反覆利を見て爲さゞるなく民俗も亦之につれて日に浮薄輕跳に赴き其行は佞媚※[さんずい+典]※[さんずい+忍]其術は怪僻瑣屑功利の末を追ひ智慧の小を玩んで悔ることを知らず天下滔々として澆季に赴く故是では困ると茲に其不平を慰藉する爲め一個の世界觀を構造し己れも此主義にて安心立命の地を得又出來得るならば天下の愚物共をも警醒濟度せんとの考へより遂に無爲の行不言の教と云ふことを五千言にて後世に遺したるなり老子がかく昏亂世界にあつて高尚なる一個の哲學思想を發揮せるは支那學問の爲め甚だ賀すべき次第なれども其隻眼を開いて相對世界を觀察するに當つてや相對の兩面を比較對照して其得失利害を改訂することなく單に其醜惡なる側面のみを看破し之と兩立し得る善美の側面をも一撞百碎し去らんとせるは甚だ不可なりとす此相對の兩面を混同一視せる事は老子中に對句(Antithesis)多きを以ても明瞭にて一寸例を學ぐれば爲者敗之執者失之と云ひ明道若昧進道若退夷道若※[類の大が糸]と云ひ天下之至柔馳※[馬+娉の旁]天下之至堅と云ひ甚愛必大費多藏必厚亡と云ひ大成若缺大盈若冲大直若屈大巧若拙大辯若訥と云へるが如くにて其仁義を不可なりとするは其不仁不義と對するが爲にて其之を小なりと云ふは不仁不義に追陪するが爲と云ふ成程不仁不義は善くあるまじ去れども之に對する仁義をも同一視せんとするは如何智を用ふること方を得ざれば邪※[言+皮]狡黠ならん然し善く之を用ひば愚情を啓發し民福を増加するを得ん去るを智は時として人を※[爿+戈]ふ故其の人を益する時も猶惡と云ふは如何、當時の人は仁義の道をも辨へ先王の道をも心得るに却つて放僻邪惡斯の如くなる故必竟仁義抔を知るのが害になり其反動にて不善に赴く者なれば善を手本とし仁を模型とし早く之に從へと勸むればとて到底益なく反つて其裏を潜つて不善を働くが人情故寧ろ禅喜惡無差別靈無澹々の教を立つるに若かずと思ひ込みしにや去はれ民をして仁義の本にだに歸らしむること難き世なるに仁義の關所を通り越して無爲の境に移住せよとは猶々六づ箇敷話しにあらずや六づ箇敷と云はんより何れの世何れの人に施こすも行ひ得ぺからざる相談と云ふべし又は數學上より割り出したる勘定づくの算用にて一と二の差も一と萬の差も無限より見るときは同樣なると等しく善の惡の美の醜のと噪ぎ立つるも高尚なる玄々世界より見るときは可不可は只一條のみにて毫髪の差を認め得ずとの主意なるか夫にしても相對世界に無限を引き入れ無限の尺度を以て相對の長短を度ることは出來まじ學理上の議論ならば兎に角之を應用して政治上に用ひんとするは驚き入るの外なし
 
   第四第 老子の道
 
 道と云ふ字は老子の處々に散見し其哲學の骨子なれば特に此篇を設けて之を説明せんとす
 (一) 道の範圍、 道と云ふ者が若し玄以外に存し然も天地の始めより在りとすれば老子の哲學は二元論なり若し玄と同一なるか或は玄の一部なるときは一元論なり第一章に曰く無名天地之始第三十二章に曰く道常無名此を前提とし三段論を組織すれば左の如し
  (一) 無名天地之始
  (二) 道常無名
  (三) 故道天地之始
 此式によりて道は天地の始めなりと云ふ命題を得天地の始めとは取も直さず玄の事なれば老子の哲學は一元論にて此道とは玄の一部なるや又は玄と同物なるやの問題に移るを得べし第一章に有名萬物之母とあり此有名とは前に云へる如く玄の一面にて蕩々渾沌たる點より見れば無名なれども其分離(differentiation)の根たる點より見れば有名なり又萬物とは有形無形一切宇宙に存在する者を指したる稱ならん今道を以て玄と同物と見傚す時は萬物は皆道の變體と云ふ譯にならん然るに六十二章には道者萬物之奥とあり蘇子由之を解して凡物之見于外者皆其門堂地道之在物譬如其奥物皆有之而人莫之見耳と云へり去らば道は常に物の中にのみ潜んで外に見はるゝことなき物にや斯く解するときは道は物の中に包含せらるゝ者にて萬物の一部に過ぎず從つて玄の一部としか見傚し能はざるが如し然れども子由の意を察するに道は萬物に行き渡れども無形なる故其奥にのみある如くに見ゆと言し迄にて老子の全篇を通觀するも斯く解釋する方至當なる樣に思はるゝのみならず廿五章にも周行而不殆とあれば道は宇宙に填充し萬物に遍滿し至らざるなく在らざるなきを見るべし之を言ひ換ゆれば其範圍至大至廣にして窮極なく天地を包含して餘りあり宇宙に存在する者皆道より成立するの謂なり去らば道は則玄玄は則ち道と解するも妨げなからん又先天地生と云ひ象帝之先と云ひて其初生の期は得て尋ね可らず first cause にあらずして而も萬物の原因となる故に其始めを問へば無始なり其終りを問へば無終なり其限界を問へば無限なり吾人の相對世界は此道に包含せらる之を道の範圍となす
 (二) 道の體、次に考ふべきは道は有形なりや無形なりやと云ふ問題なり第四章に道冲而用之或不盈似萬物之宗とあり蓋其體冲然として宇宙に遍からざるなく其無形なるを以て盈たざる者に似たるを云ふが如し又廿五章には有物混成先天地生寂兮寥兮獨立而不改周行而不殆可以爲天下母吾不知其名字之曰道とあり是れ道の湛然として常存し寂として聲なく寥として形なきを云ふなり去れば五官を以て之を知る能はず故に之を形容して視之不見名曰夷聽之不聞名曰希搏之不得名微とて其色聲摸索の境を離れたるを示し又陰陽を脱し形數を以て推す可らざるが故に其上不※[口+激の旁]其下不昧繩々兮不可名復歸于無物とて其捕捉し難きを言ひ其外にも道之出口淡乎其無味視之不足見聽之不足聞とも云ひ道之爲物惟恍惟惚惚兮恍其中有象恍兮惚其中有物窃兮冥其中有精其精甚眞其中有信抔言ひ皆道の實在するに係はらず五官の作用にて知る可らざるを説明せる者なり
 余輩は前段の議論より二個の命題を得たり(一)萬物の實體は道なり(二)道は五官にて知る可らず此を前提として結論を作れば「萬物の實體は五官にて知る可らず」と云ふ命題を得然らば吾人が通常見たり聞たり觸れたりする物は實體にあらずして假僞なりと云はざる可らず尤も老子はこゝ迄は明瞭に論ぜざれども道は萬物を填充(即ち萬物を組織)し而して無形無聲なりと云ふ前提ある以上は勢ひ此議論を含蓄せざるを得ず故に老子の學は唯道論にて洋人の之を譯して Taoism と云へるは眞に其當を得たりと云ふぺし此唯道論は當今の哲學にて形而下の點は何處迄行くも分析《ヂヴヒヂブル》すべき性質を具する故世界の實體は見るべからざる metaphysical points より成ると云ふ議論とよく似通ひて甚だ面白し (三) 道の用、此至大無邊にして漠々捕捉すべからざる道は何の用をなすか第三十四章に曰く大道氾兮其可左右萬物恃之以生而不辭功成而不名有愛養萬物而不爲主と(此不辭、不名有、不爲主とは皆無覺無我なるを云ふのみ)又五十一章には道生之徳蓄之云々とあり孰れも萬物を生ずる力は道にあるを云ふなり、前に云へる如く萬物は道の一部分なり、今又萬物の發生する力も亦道なりと云ふ以上は
 (一) 道は他力を藉らず自ら變化し自ら differentiate する者なるや明かなり去れば四十章にも反者道之動弱者道之用と云へり王注に高以下爲基貴以餞爲本有以無爲用此其反也とありて道が一度び動けば相對となることを明言せるが如し而して其變化分離する過程は如何にと云ふに第四十二章にあるが如く道生一、一生二、二生三、三生萬物とあり此一、二、三の數字は何を指すやら抽象的にて合點行かねど「ピサゴラス」の數論に似て面白し「ピサゴラス」の意見に因れば無限の空間が一度び一に感觸するときは二となりて線を生じ此空間二に感觸するときは三となりて面を生じ空間最後に三に感觸するときは四となりて立體を生ず然るに老子は其一、二、三の何たるを言はず從つて其如何なる物たるやを知るに苦しむなり何しろ斯樣な過程にて道より一、一より二、二より三、三より萬物と漸々分離するに當つて一の注意すべきは
 (二) 道が自ら發達分離して而も其變化を知覺せざることなり天道無親常與善人と云ひ天網恢々疎而不失と云へば何か道に意思あつて公平の所置をなすが如くに思はるれど其公平なる所反つて其無意識なる所にて一己の blind will を以て自然天然と流行し其際に自ら一定の規律あり無法の法、理外の理に叶ふ故に道法自然と云ひ無爲而無不爲と云ふ是老子の哲學が「ヘーゲル」と異なる所にして兩者共一元論者なれども一は道に意識なしとなし一は Absolute Idea が發達しで最上の位地に到るときは遂に絶對的に意識を有するとす(兩者の差是のみと云ふにあらず「ヘーゲル」の論抔は善くも知らざれども氣の付たこと丈を比較するなり)
 (三) 此道を稱して天道と云び善く之を體し身を修め治を行ふを聖人の道と云ひ聖人の道に及ばざるを人の道と云ひ其下を不道と云ひ愈下を非道と云ふ七十七章に天道と人道を比較して曰く天之道損有餘而補不足人之道則不然損不足而奉有餘八十一章には天之道と聖人之道を雙提して曰く天之道利而不害聖人之道爲而不爭三十章に不道を誹つて日く物壯則老是謂不道不道早已五十五章にも同じ事を繰り合《原》せり五十三章には末を飾り本を廢し施設を以て事となす者を戒めて曰く是謂盗夸非道哉又徳と云仁と云ひ皆道中に含むを云ふて曰く……故失道而後徳失徳而後仁失仁而後義失義而後禮と而して道より直接に出る者は一なり故に老子は重を一にをく曰く載營魄抱一能無何曰く昔之得一者天得一以清地得一以寧神得一以靈谷得一以盈萬物得一以生侯王得一以爲天下正曰く少則得多則惑是以聖人抱一爲天下式
 以上を表に示せば左の如し
 
道 絶對の道 (一)範囲 無限
             無始
             無終
       (二)體(無爲)無形
               無聲
               無臭
       (三)用(有爲)生萬物
               無意識にして法あり
               柔にして屈する能はず
  相對の道  人之遺(損不足奉有餘)
        不道(壮者必老)
        非道(盗夸)
 
 老子道の體に則とるか眞に無爲ならざる可らず其能はざるは前に述べたり老子將た道の用に法らんとするか則臥ち有爲ならざる可らず相對を棄却する能はず善惡の差別を抹殺する能はず美醜を混合する能はず既に道の體に則とる能はず用に則つて相對を棄てんとす是老子の避くべからざる矛盾なり
 
  文壇に於ける平等主義の代表者『ウオルト、ホイツトマン』 Walt Whitman の詩について
 
 革命主義を政治上に實行せんと企てたるは佛人なり之を文學上に發揮したるは英人なり「バーンス」を讀む者は通觀一過して其平等論にかぶれたるを知るべし「シエレー」の如きは多言を須たず“ Promettheus Unbound”の一篇之を證して餘りあらん。「バイロン」に至つては滿腔の不平一發して「チヤイルドハロルド」となり再發して「ドンジユアン」となり餘憤怫々然常に其毛孔より溢出すと云ふも可なり沈着にして舊慣を重んずる英國の詩人が從來の面目を一洗して此思想を唱道し中には身を挺んでて此主義の爲に打死せし位なるに不思議なるかな共和の政を實行し四海同胞の訓へを奉ずる亞米利加にては一人の我は共和國の詩人なりと大呼して名乘り出でたる者なし「ロングフエロー」は詩人なるべし去れど其思想は常に中世紀に溯つて亞米利加の新開地にあらず「アーヴイング」は文章家ならん然し其嗜好は矢張故郷に落付かずして亦欧洲大陸に向へり是等の匹敵を英國に求めばたとひ升を以て量る位は無きにもせよ尋ねて見當たらぬと云ふ程の事はあるまじ其他「ブライアント」にせよ「ホーソーン」にせよ自家一流の特色を具へたるには相違なかるべきも如何せん合衆國といふ前代未聞の共和國を代表するに適したる新詩人は頓と出現せざりしなり然る處天茲に一偉人を下し大に合衆聯邦の爲に氣※[餡の旁+炎]を吐かんとにや此偉人に命じて雄大奔放の詩を作らしめ勢は高原を横行する「バツファロー」の如く聲は洪濤を掠めて遠く大西洋の彼岸に達し説く所の平等主義は「シエレー」「バイロン」をも壓倒せんとしたるは實に近來の一快事と云はざるべからず
 此詩人名を「ウオルト、ホイツトマン」と云ひ百姓の子なり千八百十九年「ポーマノツク」に生る幼にして活版屋の小僧となり夫より雜誌の編修人となり廿歳の時「ニユーヨーク」に移り千八百五十五年始めて“ Leaves of Grass”を著す去れど盲目千人の世の中たる上舊來の詩法に拘泥せざる一種異樣の風調なりしかば之を購讀する者は無論の事其書名をだに知る者なかりしが故出版せる千部の内覆※[剖の左+瓦]の災を免れたるは僅かなれど其僅かなる中の數冊が古道具屋の雜貨と共に英國に渡り後年「ロゼツチ」の Selected poems by W・Whitman となつて現はれたるは著者の爲め且つ出版者の爲め甚だ賀すべき事と云ふべし、斯く米人は冷淡にもかゝる書には手をだに觸れざりしが「エマーソン」の慧眼は早くも其眞價を看破し一篇の書翰を送つて大に著者を祝せり其略に曰く……小生は充分貴著の價値を認識する者に御座候才識雙方の點より觀察致候もわが合衆國の書中得易からざるの好著と存候……斯く雄大なる思想を有せらるゝ段欣羨の至りに堪へず……初陣の御手際としては甚だ出來宜しく全く平素御涵養の功只今見はれ候儀と祝着に奉存候云々顧ふに“ Leaves of Grass”に先だつこと二十年“Sartor Resartus”の始めて世に出るや滿天下の廣き誰あつて之を理解する者なかりしに獨り「エマーソン」は書を出版者に寄せて頻りに之を賞しかゝる論文を續々公けにせん事を望めりとか朝たには一人を取つて其尤を拔き暮には一人を取つて其尤を拔くとはかゝる人の事なるべし南北戰爭の起るや「ホイツトマン」直ちに起つて軍に從ひ看病卒となつて戎馬の間に往來しけるが櫛風沐雨の苦みを閲し肝脳塗地の惨状を目撃したる爲にや是より痛く健康を害なひ荏苒歳月を經て遂に不治の症に陷れり集中戰爭を敍したる詩あまたあり顧ふに當時の實況ならん
 「ホイツトマン」の詩に關しては世評一ならず或は其詩體の一生面を開いて前人の舊路を踏襲せざるを以て是れ韻文にあらずと謗る者あり或は其肉體の快樂を敍して顧ず時に卑猥に陷り風教を害するの恐れあるを以て痛く之を排撃し百方之を傷けんとするものあり去れども其詩法に拘泥せざる所劣情を寫して平氣なる所が即ち「ホイツトマン」の「ホイツトマン」たり共和國の詩人たり平等主義を代表する所なるべし元來共和國の人民に何が尤も必要なる資格なりやと問はゞ獨立の精神に外ならずと答ふるが適當なるべし獨立の精神なきときは平等の自由のと躁ぎ立つるも必竟机上の空論に流れて之を政治上に運用せん事覺束なく之を社會上に融通せん事益難からん人は如何に云ふとも勝手次第我には吾が信ずる所あれば他人の御世話は一切斷はるなり天上天下我を束縛する者は只一の良心あるのみと澄まし切つて險惡なる世波の中を潜り拔け跳ね廻る是れ共和國民の氣風なるべし其共和國に生れたる「ホイツトマン」が己れの言ひ度き事を己れの書き度き體裁に敍述したるは亞米利加人に恥ぢざる獨立の氣象を示したるものにして天晴れ一個の快男兒とも偉丈夫とも稱してよかるべし蓋し「ホイツトマン」あつて始めて亞米利加を代表し亞米利加あつて始めて「ホイツトマン」を産す蘭は幽谷に生じ劔は烈士に歸し鬼は鐵棒を振り廻すが古來よりの約束ならば「ホイツトマン」の合衆國に出でたるも亦前世の約束なるべし
 去らば「ホイツトマン」の平等主義は如何にして其詩中に出現するかといふに第一彼の詩は時間的に平等なり次に空間的に平等なり人間を視ること平等に山河禽獣を遇すること平等なり平等の二字全卷を掩ふて遺す所なし
 時間的に平等なりとは古人に於て崇拜する所なく又無上に前代を有難がる癖なきを云ふ其言に曰く古人も人間なり我も人間なり余は古人に就いて學べり恨むらくは古人を九原に呼び起して余を學ばしむる能はざるを合衆の聯邦豈古代を蔑視せんや其功績を認識するに於ては敢て人に後れざるを期する者なりと暫く眼睛を轉じて他の詩人の思想を窺ひ「ホイツトマン」の此言と比較するときは其差啻に三舍のみにあらざるを見る華麗なる甲冑を着け大なる劔をぶらさげ栗毛の馬に乘つて而して美人の前に試合をせざれは詩中の人物にあらずと思へる「スコツト」は如何小女は nymph と名けざるべからず朝は aurora と呼ばざる可からず晩は hesper と稱へざるべからず原野の景色には必ず羊飼を出し英國は隨分氣候の寒き國柄なれどそこは是非南方大陸を眞似て草頭樹下必ず寒風に吹き曝されて笛を吹かねばならぬと勝手な制限を立てたる「ポープ」一派の詩人は如何、「バイロン」「シエレー」は革命の詩人なり去れども十九世紀を改良し數百年來の舊弊を一掃したる上に希獵古代の分子を注入せざれば其理想を滿足せしむる能はざらん彼等をして「ホイツトマン」を見せしめば亦必ず愕然として其放膽なるを怪しまん蓋し「ホイツトマン」は封建時代の詩人にあらず classicism の詩人にあらず希臘風を戀ふ詩人にあらず其歌ふ所は過去にあらずして現在にあり是れ過去を賤しむにあらず只之を尊奉せざればなり望を未來に屬する者なり是れ現在に不滿なるにあらず世界の大勢は古今を一貫し前後を通徹して圓滿の域に進行すればなり
  Poets to come!orators,singers,musicians to come!
  Not to−day is to justify me and answer what I am
   for,
  But you,a neW brood,native,athletic,continental,
   greater than before known,
  Arouse!for you must justify me.
 此大世界何とて不淨の有らざるべき只此不淨中圓滿の種子を含むとは「ホイツトマン」が。“Song of the Universal”中に述べたる言なり此一言にても其の一種の進化論を抱いて科學的の世界觀を有せるを證するに足れど若し其の“With Antecedents”を讀むときは其主義一層明瞭なりとす其詩に曰く我が今日あるは皆祖先の賜過去の報なり埃及印度希臘羅馬皆吾人をして此域に達せしめたる者なり「ケルト」「スカンヂネウ※[ビの小字]アン」「サクソン」亞拉比亞人皆今日の境界を補益したる者なり航海、法律、工業、戰爭、詩人、卜者、奴隷の賣買、十字軍の遠征、僧侶、舊大陸、列國の興廃、宗教の盛衰皆預かつて力あらざるなし……余は百般の思想を有し百般の事物を信ず唯物論も眞ならん唯心論も僞と云はじ……過去は斯の如くならざる可からざるが故に斯の如し現在も然らざる可からざる理由あつて然り……過去は廣大なり未來も亦廣大ならん奇なるかな此廣大なる過去と未來とは現世一代に蹙まる故に我等何處の果に生息するとも其生息する所即ち萬民の中心なり百代の中心なりと彼の「サラミス」の巖頭に箕坐して“For Greece a blush――for Greece a tear ”と叫び世の味氣なきを嘆じて“Out of the day and night/A joy has taken flight”と悲しんだる詩人等浮世を觀ずること「ホイツトマン」の如き能はず四民同權の主義實行し難きを憤り一は白眼嫉視の旋毛曲りとなり有らゆる厭世の分子を一身に引き受け「ドンジユアン」を公にして天下を愚弄し餘憤洩らす所なく遂に南歐に客死し一は“Prometheus Unbound”を作つて望を後世に屬したりと雖ども彼れ卅年の生涯を三分して一分は讀書世界に没し一分は空想世界に住し殘る一分を擧げては醜惡不埒の世界に委ね不幸薄命を悲しんで客土に溺れぬ此二人説く所の主義「ホイツトマン」を去ること遠からず而るに其世界觀何とて斯の如く異なるや居氣を移すが爲か養體を移すが爲か抑も天稟の氣質に強弱あるが爲か時の先後人心に感ずること此の如く甚しきか余は只「バイロン」の厭世主義を悲しんで「ホイツトマン」の樂天教を壯とするのみ又其の「ヘーゲル」を讀んで
  Roaming in thought over the Universe,I saw the
   little that is Good steadily hastening towards im-
   mortality,
  And the vast all that is call'd Evi I saw hastening
  to merge itself and become lost and dead.
と咏じ出せるを嘉みする者なり
 空間的に平等なりとは場所に因つて好惡を異にすることなく亞弗利加の砂漠も倫敦の繁華も皆同等の權利を有して其話中に出現し來るを云ふ勿論「ホイツトマン」は頻りに自國を稱揚し合衆共和國の文字常に其唇頭を離れざるが如くなれどもこは頑陋なる文盲漢の無暗に己れに誇つて非を顧ざる執拗心と同一視すべきにあらず亞米利加の四字絶えず詩上に入り來るも其故郷なるが爲にあらず財源富贍舊大陸の向ふを張るが爲にあらず殖産の利興業の隆宇内を壓するが爲にあらず只建國の風其奉ずる所の主義と相近く制度文物亦其理想に遠からざればなり但し近しと云ひ遠からずと云ふは未だ全く其理想を滿足せしめざるの謂にして詩人自らも嘗て紐育の紅塵中を徘徊して人間の下等なるに驚きし位なれど熟ら觀ずれば無限の歳月は無限の歳月を迎へて世事流水の如く逝く者は復還らず來る者は暫らくも留まらず轉變無常の理を示す中に自ら一定不變の規律ありて世界の大勢は日に/\惡より善に移り醜より美に趨き壓制主義より自由主義に徙るを看破せし途端自國の政體を觀れば共和なり其制度を見れば平等なりしかば是こそ今後福徳圓滿の極境に達すべき世界の通路ならんと自信し乃ち亞米利加といふ四字の咒文を唱へて一世を切り靡けんと欲したるなり
  I heard that you ask'd for something to prove this
   puzzle the New World,
 And to define America,her athletic Democracy,
 Therefore I send you my Poems that you behold in
  them what you wanted.
と云ふが精神なれば決して他國を度外視したるにあらず獨佛伊西は愚か遠く海山を隔てたる支那にせよ日本にせよ我が亞米利加人の如く親愛すべき人物は幾多もあらん此人々と同胞の交りを締して互に往來するを得は其幸如何ぞやと自ら其詩中に明言せしを見ても其意は瞭然たらんさるにても「ドクインセー」が“Confession”中にわれ若し已むを得ざる事の爲に故郷なる英國を棄てて支那又は支那風の生活をなす處に移住する段にならば嫌惡の餘り必ず發狂すべしと記し置けるは何たる狹量ぞや此男をして一介の詩人ながら歌ふ所は“World Democratic”、なり“the world enmasse”なりと名乘り出でたる「ホイツトマン」に見へしめざりしこそ殘念の至りなれ
 「ホイツトマン」は共和國の詩人なり共和國に門閥なく上下なく華士族新平民の區別なし貴官何者ぞと問はば是れ accident のみと答へん黄白の礦塊或る機會に因り彼を去つて此に附着したるのみと云はん地位何者ぞと問はば一片の肩書甲より飛び來つて乙に落ちたるのみと云はん縉紳は虎皮に坐し匹夫は敝袍を纏ふも虎皮を取り上げて敝袍を脱ぎ替へさへすれば兩者の地を易ふる事朝夕を待たざるべし大統領に面會するに非禮の擧動あるべからずとすれば丐者に對しても相當の挨拶なかるべからず人間と云ふ點より觀察すれば金殿玉樓の客屠肆鼓刀の人と我に於て何ぞ擇ばん凡て形體上の懸隔に因つて人間の取扱に階級を設くるは「ホイツトマン」の大に不埒とする所なり去ればとて横目竪鼻の動物なれば悉く一樣なりと云ふにあらず只其差違は身外を圍繞する所有物にあらずして他人の奪ふべからざる身體なり精神なりに存すと云ふのみ長幹緑髯之を有する者が土方にせよ學者にせよ「ホイツトマン」の之を嘆賞するは一なり明眸皓齒之を美なりとせば閨人にあつても美なり青衣にあつても等しく美なり智は不智に優り徳は不徳に勝る「ホイツトマン」は明らかに之を認識するものなり之を認識すると同時に表面上の尺度を撤去せんと欲する者なり族籍に貴腐なく貧富に貴腐なく之れ有らば只人間たるの點に於て存す是れ「ホイツトマン」の主義なり
 空言は實行に若かず“How beggarly appear arguments before a defiant deed! ”家庭は大道に若かず一家に戀々たる者は田螺のわび住居を悦ぶが如く蝸牛の宅を負ふてのたり/\たるが如く牡蠣の口堅く鎖して生涯蒼海を知らざるが如し此世界は競爭の世界なり安逸して人に後るゝ勿れ、起て、起つて働け、斃るゝ迄働け、旅に病まば夢に枯野を馳け回れ、勝利を説くなかれ、一戰纔かに已むは大戰將に來らんとするの徴なり錢なきを恨むな衣食足らざるを嘆くな大敵と見て恐るゝな味方寡なしとて危ぶむな智を磨くは學校なり之を試みんとならば大道に出でよ吾れ無形の智者を證する能はざるも智自ら之を證せん思を哲理に潜め深く宗教を究め講堂に立つて其の眞理なるを説くとも何の益あらん白雲の下激湍の傍無邊の天然界に跳り出でて其の眞なるを證明せよ
    Have the elder races halted?
  Do they droop and end their lesson,Wearied over
   there beyond the seas?
  We take up the task eternal and the burden and the
   lesson,
    Pioneers! O pioneers!
 「ホイツトマン」の處世の方法概ね斯の如し此方法に從つて生活を送る者は「ホイツトマン」の氣に入るものなり必ずしも長幼の序を論ぜず男女の性を問はず斯く其愛に偏する所なく其情に傾く所なければ一種の人物を描出して之を崇拜する抔とは彼の夢にだも見ざる所なり故に其詩を讀めば種々雜多の人間簇然として入り來り忽然として謝し去ること恰も走馬燈の廻轉して瞬時も止まざるが如し稠人を一幅中に收め其中只眞中の一人に金色の毫光を着くるが畫家の慣手段なれど余は無數の頭を描いて有らゆる善男善女より永代不滅の毫光を放たしめんとすと云ひしは自ら己れを譬へて甚だ巧みなる者と云ふべし去れば其“A Song of Joys”を見ても先づ土木家の快樂を敍し次に馬乘りの快樂に移り轉じて消防夫の樂しみとなり劔術使ひの樂しみとなり捕鯨者の樂しみとなり坑夫兵卒豪飲健啖の樂しみより進んで至大なる精神の快樂に入り終りに死亡の樂しみを敍べ The beautiful touch of Death と稱して遂に其局を結べり固より雅俗高下の差別はなく見る者聞く者悉く其詩料に生擒らるゝ次第なれば漢人の所謂風流邦人の唱ふる都雅の思想抔は一棒に抹殺して顧慮する所なく教育を受けたる上等社會にのみ行はるゝ「テニソン」抔の詩と比較するときは實に天地の差といふべし斯く平等の取扱をなすこと人間に限るかと思へば左にあらず人外の事物も亦一樣の權利を以て其詩中を往來す入り替り立ち替り、故に今水禽の虚空に飛翔する樣を敍するかと思へば忽ち蒼穹水に映ずる景色となり列邦の旗旌晩風に翻つて落日に輝く抔と唐詩めきたる言を發する其次に製造所の烟突より石炭の烟が黒々と立ち登る抔と我朝の思想にては俗氣鼻を衝く程のことを事もなげに言ひ放つは奇といふの外なし詩人自らも之を詠じて曰くわが詩を見よ輪船あつて詩中を横行し一方に東海あり一方に西海ありて潮流わが詩上に進退し家あり舟あり村落あつて余が詩面を點綴す其他牧場あり森林あり都會あり此都會には鐵製の家もあり石造の屋もあり貿易は不斷に繁昌し車馬は日夜に絡繹たり加之蒸※[さんずい+氣]活版所あり電信機あり鐵道は※[さんずい+氣]笛を鳴らして走り坑夫は金を掘り百姓は畠を耕し職人は「ベンチ」に腰を掛けて家業に暇なし此半天社會より裁判官出で哲學者出で大統領出づと恰も手術使ひの口上の如し
 「ホイツトマン」は「テニソン」の如く義理の精神を鼓舞し自重克己の風を養つて社會の秩序を保たんと欲する者にあらず又「ウオーヅウオース」の如く退いて生を山林に寄せ瞑目潜心して天地の靈氣と冥合し以て天賦の徳性を涵養せんとする者にあらず中古任侠の風を寫し然諾を重んずるの氣象を奨勵して世道を維持せんと欲する事「スコツト」に及ばず忠臣孝子節婦義僕を寫して一世を感泣せしむる事日本支那の詩人に及ばず然らば彼れ何を以て此個々獨立の人を連合し各自不羈の民を聯結して衝突の憂を絶たんとするぞと問はば己れ「ホイツトマン」に代つて答へん別に手數のかゝる道具を用ふるに及ばず只“manly love of comrades” あれば足れりと蓋し西洋にて愛の字の普通なる事は己が和歌俳諧にて物の憐れとか情けとか云ふと同じく詩人中一人として此字を使はざる者はあるまじく就中「テニソン」の如きは“In Memoriam” の冒頭に
  Strong son of God,immortal Love,
  Whom we,that have not seen thy face,
  By faith,and faith alone,embrace,
  Believing where we cannot prove;
と云ひ「コレリツジ」は
  All thoughts,all passions,all delights,
  Whatever stirs this mortal frame,
  All are but ministers of Love,
  And feed his sacred flame.
と云ひたる位なれば今「ホイツトマン」が愛の字を用ひたりとてあながち怪しむに足らねど manly love of comrades といふ斬新なる言を使ひたるは詩人あつてより以來始めてなるべく只此一新熟語を敷衍すれば“Calamus” の全篇を掩ふに足り而して。“Calamus”を敷衍すれば又全集を掩ふに足る位なる故此一語中々輕卒に看過すべからず元と Calamus とは亞米利加に産する草の名なるが「ホイツトマン」之を取つて友愛の徽章となし愛に關する數十首を收めて一篇となし冠らすに此草名を以てしたるなり此篇を通觀するときは洵に作者の愛情の純潔にして寸毫も脂粉の態なく實に manly の名に背かざるを見る蓋し「ホイツトマン」は社會的の人物なり(俗物の謂にあらず)自ら社會の一分子となり天下の公衆を助け又天下の公衆に助けられん事を冀ふ者なり故に其の尤も意を傾くる所の者は山水花鳥にあらず紅燈緑酒にあらず蟋蟀の音十五夜の月にあらずして矢張り己れと同類の人間にあり去れば此篇にては第一に人間交際の精神上に必要なるを説き次に凡て哲學の基礎は此種の愛に外ならざるを論じて曰く余は希臘獨乙等古今の哲學を講究せり「カント」「フイヒテ」「シエリング」「ヘーゲル」を讀み「プレートー」に入り「プレートー」より大なる「ソクラチス」をも究め「ソクラチス」より大なる「クライスト」をも研鑽せり然し「ソクラチス」の裏「クライスト」の中に伏する者は人と人との愛友と友との愛夫と婦との愛親と子との愛市と市との愛國と國との愛にすぎずと、愛には相手なかるべからず相手なきの愛は軟風徐ろに吹いて春風の應ぜざるが如し故に曰く嘗て「ルイシヤナ」を通りしに野中に一本の樫あり其古幹天を掠めて悉まゝに蟠屈するを見て坐ろにわが身の上に擬へしが苔の着きたる枝を動かして只獨り風に吟ずる樣の左も心地よげなるに氣が付けば不審の念やみ難し熟ら考ふれば知己なく朋友なきに己れ獨り愉快の聲を擧げん事余に在つては思ひも寄らずと、かゝる人の親友を求むるに切なるは云ふ迄もなし「名四海に震ひ功一世を葢ふと云ふ英雄も羨ましからず大統領の榮譽も綺樓傑閣の富も羨ましからず羨ましきは締契の士危難艱苦を經て交りも變ぜず少より壯に至り壯より老に至り老より死に至つて信義に渝る所なきにありかゝる人を見もし聞きもする時は嫉妬の念禁じ難し」と嘆じ又「筆を執つて何事をか書かん眞帆に風を孕んで沿海を走る軍艦を咏ぜんか古代隆盛の樣を寫さんか今夜の光景にせんかはた余が周圍を包む大都の繁華を敍せんか已むぺし已むべし只已まんと欲して已む能はざるは今日群集の中にて觀たる二客の訣別なり別るゝ時送る者は行人の肩に倚つて之に接吻し行く者は手を伸べて留まる人を擁せり」と賞せりかく譯し出だせば彼も是も譯し度くなれど左樣は行かねば終りに原詩一首を載せて餘は預かり置くなり原詩に曰く
 O you wbom I often and silently ome where you are
  that I may be with you,
 As I walk by your side or sit near,or remain in the
  same room with you,
 Little you know the subtle electric fire that for your
  sake is playing within me.
此境界を知らぬ者は「ホイツトマン」の詩を理解する能はざる者なり序でに云はん此原作は敢て女性に關して咏出せる者にあらず女を戀ふて男を愛せず抔と云ふは「ホイツトマン」の主義に反するものなり
 人は愛情を侍つて結合し之を待つて進化し之を待つて圓滿の境界に臻るとは「ホイツトマン」の持説なり然らば其愛情の發する所はと云ふと全く靈魂の作用なり余は何が故に憐愛の情を起すや人間わが傍らにある時は血脈何が故に勃張し彼等の去る時は又何が故に悄然自失するが如くなるやと自問を提出して自答を得んと欲するは全く靈氣の※[分/土]涌して溢出するに異ならず故に愛情の羈絆能く不羈の民を制し鞭撻して之を疾驅せざるも自ら天下の大勢に從つて善美の方向に進行するなり去れば宇宙の歴史は全く靈魂の歴史なり但靈魂に形なし故に形體を有せる事物を借つて世界に出現す「ホイツトマン」は靈魂説を説く者なり靈魂に形なし故に形體を有せる事物を借つて之を詩に咏ず其言に曰く
 I will make the poems of materials,for I think they
  are to be the most apiritual poems,
And I will make the poems of my body and of mortality,
For I think I sllall then supply myself with the poems of my soul and of immortality.
靈魂の進行するや宗教も之を避け技藝も之を避け政府も之を避く他物の進行は皆眞似事なり記號のみ獨り靈魂は進んで止まる所を知らず常在にして滅する事なし其の之くや何處に之くを知らず最善に向つて行くのみ
これを「ホイツトマン」の靈魂説となす故に「ホイツトマン」は形質上の開化を喜んで精神上の發達に無頓着なるものにあらず肉體のみを知つて恣に劣情を寫す者にあらず既に死を以て快樂の一に數へ魂は冥漠に歸し屍は化して永く下界の用をなさんと云ひ又 How the flolidness of the matelials of cities shrivels before a mans or woman's look! と云へる位なれど猶下に譯出する一篇を讀まば其愛益明らかならん其詩に曰く(但し譯は詩にあらず以上悉く然り)「通邑大都とは如何なる所ぞ埠頭長く突出して船渠深く製造盛んにして百貨輻輳するの地か大厦高樓甍を竝べぺ五洲の物産悉く聚まるの地か藏書棟に充ち庠序の教行き渡るの地か是等のもの未だ大都をなすに足らず大都とは壯快なる辯士と雄大なる詩人の生息する所なり此辯土と詩人とは廣く公衆を愛し公衆は又彼等を敬愛し彼等を理解する所なり個人の爲に記念碑を建てず之を建つれば必ず公共の事業と公共の文字を鐫す是れ大都のある所なり人は經濟に長じ先見の明あつて無謀の行を慎む是れ大都のある所なり市に奴隷なく奴隷あれども之れを使役する者なく男女重きを法律に置かず是れ大都のある所なり其の他の要件を擧ぐれば公民は常に首たり市長役人は單に傭人たるの所なり外部の制裁良心の制裁に先つて來ることなき所なり公平の實行せらるゝ所なり靈魂上の研究を奨励する所なり女子は行列を組んで市中を練り行く事男子の如くせざる可からざるの所なり女子も公會に出入し男子と共に列坐せざる可からざる所なり朋友は信者を重んじ男女に醜行なく父は丈夫に母は健康なる所なり」走れ蓋し「ホイツトマン」が理想上の國ならん此條件中には一千年來儒教の空氣を呼吸して生活したる我々より見れば少しも感心し難き點もあり殊に女子の行列云々に至つては聞くも可笑しき話ながら國體の異なる亞米利加に生長したる詩人故自然其理想の或點に於ては東洋主義と衝突するを免かれざらん兎に角其形質上の進歩よりも精神の進歩を重んじたるは歴然として疑ふぺくもあらず
 余は以上に述べたるところを以て滿足なりとする者にあらず「ホイツトマン」の精神を發揮して餘薀なしと云ふ者にあらざれど其懷抱せる主義の大體を解剖したるに於ては敢て誤謬なきを信ずる者なり蓋し其博愛説は之を基督に得靈魂進化の説は之を「ヘーゲル」に得たるに似たり因果の大法を信じ共和を以て最良の政體となすに至つては別に科學的の眼光あり尋常一般の mystic にあらざるを見る其の知らんと欲する所は人と人との關係なり人と物との關係なり向後科學益開けて人を觀物を察するの方向一變して未聞の新思想現はるゝに至らば詩人の歌ふ處亦必ず一變せん是「ホイツトマン」が“Afte the chemist,geologist,ethnolgist,finall shall come the poet worthy of that name;the true son of God shall come singng his song”云へる所以なり
 「レスリー、スチーブン」嘗て「ウオーヅウオース」の道徳を論じて思らく詩人は哲學者なり哲學者に在つて考〔右○〕ふる所のものは詩人之を感〔右○〕じ哲學者に在つて論〔右○〕ずる所のものは詩人之を悟〔右○〕る一は論理〔二字右○〕に因つて系統を立て一は記號〔二字右○〕を用ひて世界を説明す歸着する所は同じくして探る所の法は異なり鴻天首に飛ぶ越人は以て鳧となし楚人は以て※[乙+鳥]となす詩人は越人にして哲學者は楚人なるべし廬山の形右より觀れば峯となり左より觀れば巒となる詩人は右より望む者哲學者は左より眺むる者ならんと兩者の關係果して斯の如くなるか余は此疑案を斷定せんとするものにあらず又斷定せんと欲して能はざるものながら其説を取つて「マコーレー」の詩論と比較するときは高尚なる事蓋し數等の上にあらん今假りに「スチーヴン」的の讀詩眼を以て“Leaves of Grass”を通讀するときは作者は是れ宛然たる一個の好詩人なるべし蓋し其文學史上に占むべき地位に至つては百世の後自ら定論あり余の如き外國人が入らざる品評を試むるの要なきなり但茲に述べたるは其詩上に出現せる主義人となり他の詩人と異なる所以等に過ぎず夫すら品評の月旦のといふ譯にあらず大雜ぱいに之を解剖して排列して見たと云ふ位な事なり序に記す此篇は固より倉卒の際になりし者故無論諸家を商量するの暇はなかりしかど舶載の書に乏しきを以て參考せんと欲して參考する能はざりし者も亦尠からず“Specimen Days and Collect”の如き「ロゼツチ」の詩選の如き「バツク」の傳の如き皆讀まんと欲して手に入らざりし者なり幸に「ダウデン」の論文を覽ることを得て稿を草するの際稗益を受けたること多し
     −明治二五、一〇、五『哲學雜誌』−
 
  中學改良策
            ――明治二十五年十二月稿了文科大學教育學論文――
 
    第一編 序論
 
 尊王攘夷の徒海港封鎖の説を豹變して貳千五百年の靈境を開き所謂碧眼兒の渡來を許したるは既に廿五年の昔しなり指を屈すれば昔しなれども成就したる事業の數發生したる事件の繁きに比ぶれば白駒隙を過ぐる事倏かにして廿五年の歳月は轉た其短かきに堪へず外交の約一たび成つてより日本は無事の日本にあらず競爭の世界に自立して列邦の間に連※[金+煕]馳騁せんには其丈の用意なかるべからず國防も嚴にせざれば城下の盟に末代の恥を貽す事あるべし工業も興さゞれば財庫空ふして國其弊に堪へざらん運輸も便にせざれば有無を交換するに由なく政令遲滯して治民の術擧らざるべし萬事萬物悉く舊を捨て新を採らざれば泰西諸國と併立して押も押れもせぬ地位を得る事難からん去れば天下の人々狂奔喧走して彼も此もと輸入したる結果如何にと見てあれば先祖傳來の元氣漸く沮喪して見掛許りは驚山なる不具者となりぬ
 人の人たる所以は服装の美車馬のうつくしきにあらず巧に翠黛を描けども氣息の奄々たる小女如何許りの事をか爲し得ん邦人現今の有樣此小女に似たるものあり憐むべきの至りと云ふべし日本を維持せんとならば日本固有の美徳を利用して之を粧ふに文明の利器を以てすべし優孟の衣冠は君子の愧る所にして而も日本の君子は之を學んで得々たり今にして之を救濟せずんば金甌無缺の天下も百年を出ずして猛獣の餌食たらん
 去れども塗り盆に水は浸み込まず腐つた魚は溌※[さんずい+剌]するの期なし天下有爲の士奮つて舂日を未落に挽回せんとするは甚だ結構なれども骨折り甲斐に現は見えまじ夫よりも望を將來に抱いて方今幾萬の子弟を教育し之に日本人固有の資格を與ふる方手緩るき樣にて實際は救治の最捷徑なるぺし日本未來の運命は實に此子弟の掌中にあり萬代一系の美國を左右する人物を製造して之を後世に讓らん事之に過ぎたる偉功はあらじ況して目下の弊之を捨てゝ他に國運を挽回するの策なきに於てをや志あるものども宜しく國家の爲めに身を挺し全力を擧げで教育に從事すべき秋なり
 固より國家の爲めに人間を教育するといふ事は理窟上感心すべき議論にあらず既に「國家の爲めに」といふ目的ある以上は金を得る爲めにと云ふも名譽を買ふ爲にと言ふも或は慾を遂げ情を恣まにする爲に教育すといふも高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至つては毫も異なる所なし理論上より言へば教育は只教育を受くる當人の爲めにするのみにて其固有の才力を啓發し其天賦の徳性を涵養するに過ぎずつまり人間として當人の資格を上等にしてやるに過ぎず若し是より以外に目的ありと云はゞ其目的の斷滅する時教育も亦斷滅の運に到着するものなりかくては人は活き民は存すれども教育を施こすに及ばず抔と云ふ時期來らんも知るべからず國家主義の教育も之と同樣にて國家と云ふ條件が滅却するときは國家的教育も純然たる一個の廢物と化し去らざるを得ず試みに今の列邦が合一して地球上に只一の大國を現出したりと思へ然る時は其住民に彼我の別なく其政府に自他の差なきに至らん其時人の心に對外と云ふ精神は消滅すべし是は我國の爲故斯く教育すべし我國の爲めなる故かく訓練すべし抔といふ一切の條件は盡く無用とならん是等の條件無用となるも教育の猶忽かせにすべからざるは言を待たざるなり勿論かゝる境界は實際あるまじけれど理窟上より云へばなしと斷言する事もならず迂濶の説にせよ本源に溯つて考ふれば當然の論と思はる但し目下の形況にては中々にかゝる心配は無益の業にて列國の中に立つて彼我對等の地位を保つ以上は國家は何處迄も萬代不朽なるを冀はざるべからず之を冀ふと同時に其子弟を驅つて國の爲になる樣獨立の維持のつく樣にと鞭撻訓練せん事當局者の責任にして而も子弟たるものゝ喜んで應ずべき義務なりとす故に世界の有樣が今のまゝで續かん限りは國家主義の教育は斷然廢すべからず況して吾邦の如き憐れなる境界に居る國に取つては益此主義を擴張すべし之を擴張して尤も功驗あるは中學校に若くなし
 抑も中學校は中等社會の子弟の聚まる所にして中等社會は一國元氣のある所未來日本の日本たる資格を代表するものは實に此子弟に外ならざれば此子弟等が悉く有爲有徳の人物にして國家の支柱となる以上は夫こそ日本は磐石の安に居るといふも不可なからん又二つには此等の子弟が中學に遊ぶ時間は丁度小兒より大人に移る極めて大切なる時にて未來の目的生涯の性質智徳多くは此時に土臺を据ゆる者故教育して教育甲斐あるは此時期に若くなからん日本を代表すべき少年を其尤も發達し易き時期に於て教育す何物の愉快か之に若かん
 然れども現時の有樣にて放抛せんには到底充分の美果を獲べからず此目的を達せんには豫め方案を設けて鋭意之を實行するに若くなし余は學生の身分にて此件につき未だ叮嚀に調査を遂げたる事なく且つ年來の宿論も有せず一度も實地に臨んだる事なき故精確の議論は迚も出來ざれど聊か取り調べたる沿革を本として改良の卑見を述べ一覽を煩はさんとす
 
    第二編 維新以來中學校の沿革
 
 案ずるに明治以后中學の名稱廣く行はるゝに至りしは明治五年全國を分つて大學區中學區小學區の三とし學制を頒布して大に教育上の體面を改めたる時にありとす該學制中第廿九章に曰く中學ハ小學ヲ經タル生徒ニ普通ノ學科ヲ教フル所トス分ツテ上下二等トス二等ノ外工業學校商業學校通辯學校農業學校諸民學校アリ此外廢人學校アルベシと然らば各種の實業學校は皆中學校に隷屬せしめたるが如し而して中學の課程は如何にと云ふに同章に
 下等中學科
  一國語 二數學 三習字 四地學 五史學 六外國語學 七理學 八畫學 九古言學 十幾何學 十一記簿學 十二博物學 十三化學 十四修身學 十五測量學 十六奏學當分闕
 上等中學科
  一國語 二數學 三習字 四外國語學 五理學 六罫畫 七古言學 八幾何學 九記簿 十化學 十一修身 十二測量 十三經濟 十四重學 十五動、植、地質礦山學
故に初等上等を通じて學ぶものは敷學(算術?)習字、國語、外國語、記簿、修身、測量、等にして下等中學は十四より十六迄上等中學は十七より十九迄とあれば兩者を通じて六年の割なり此六年間如何なる時間割にて如何なる程度迄に教授せしや解し難けれど兎角記簿の如き簡單なる技術を初等上等兩科に通じて設け且つ算術をも兩科にて學ばしむるを見ても其不完全なるは知るべし加之體育上必要なる體操の科なきは甚だ惜むべしとす維新以后學を督する者急劇に書生の精神を使用して毫も健康に注意せざりし爲め大に肺病患者の數を増加せしめたるは掩ふべからざるの事實なるが如し統計上の比例は知らねども今の書生と十年以前の書生と比較せば當今の方必ず丈夫なるべし無論創立の際は鋭意學問の普及を力めて其他を顧みず其弊拯ふべからざるに至つて始めて氣がつく者なればあながち當時の立案者を尤むべきにあらず手始めの課目表としては隨分出來のよき方ならん但し一週の授業時間及び各科目の程度を知る能はざるは殘念の至りなれども此課目は只に表面上の發布にとゞまりて實際施行せられたりとも覺えず其證據には同學制第三十章に當今中學の書器未だ備はらず此際在來の書によりて之を教ふる者或は學業の順序を踏まずして洋語を教へ又は醫術を教る者通じて變則中學となすべしとあり又同三十一章に當今外國人を以て教師とする學校に於ては大學教科にあらざる以下は通じて之を中學と稱すとありて實際上文の課程を踏まざる書生も矢張り中學生徒たりしなり而して明治六年分の文部省年報を覽るに全國中中學の敷僅かに廿にして其十七は私立にかゝり其三のみが公立なれば上の規則を履行せる學校は全國中三所に過ぎずと云ふも不可なきが如し然れども學制頒布以來中學の數は漸く増加し明治七年には三十二となり八年には百十六となり九年には二百一となれり尤も此二百一の内公立は十八にて又其中の八十三は東京にあれば不規則千萬なる私立中學ですら地方には皆無の姿なりしなり明治十年に至つて校數の増加殆んど二倍し公私合して三百八十九となる又私立中學生徒の數男女を合して千七百人の上に上れり是れ高等の普通科を修めんと希望するもの増加せしにも係はらず公立の學枚は卅一に過ぎざりしかば餘儀なく私立中學の生徒となるに至れるなり當時公立中學の年期は便宜に任せて一定せず或は五年或は四年最も短かきは二年半なり學科も所により異同なきにあらねど大抵は左の如し
  習字、文法、畫學、語學、外國語學、地理、歴史、敷學(算術の事?)、代數、幾何、物理、化學、星學、地質、博物、生理、農業、重學、商業、記簿、統計、心理、修身、經濟法律、體操
之を明治五年の科程表と比較するときは表面上は大に高尚に赴けりと云ふべし且つ體操の一科を加へたるは教育上の一大進歩と言はざるべからず但し私立は各自撰定の教則を用ひ一に地方官の認可に任せしを以て定めて不都合のものも多かりしならん、かく諸中學の教則公私の差に因つて非常の徑庭ありしは時勢の已を得ざる所とは言ひながら一は中學を以て大學の豫備と認めず單に高等の普通科を修めしむる積りなりしかば大學の程度に應じて是に入學すべき一定の下地を作る事を務めざりしに外ならず當今高等中學と尋常中學の聯絡全からざるは既に此時に胚胎するものなり(現に東京府の中學校抔にては正則變則の二科ありて正則は邦語にて普通科を教授し變則は大學豫備門に入る便宜の爲め其楷梯を教授せり)
 明治十二年教育令を發し其第四條に於て中學校の資格を定め次で十四年に至り中學校則の大綱を頒布す大網は十三條よりなり中學沿革史上頗る緊要の者なれば之を左に掲載せんとす
 第一條 中學校ハ高等ノ普通學科ヲ授クル所ニシテ中人以上ノ業務ニ就カンガ爲メ又ハ高等ノ學校ニ入ルガ爲メ必須ノ學科ヲ授クル所トス(中學教育の目的に二ある事は全く此時より生ずといふべし)
 第二條 中學校ヲ分ツテ初等高等ノ二等トス
 第三條 初等中學校ハ修身、和漢文、英語、算術、代數、幾何、地理、歴史、生理、動物、植物、物理、化學、經濟、記簿、習字、圖畫及ビ唱歌體操トス但シ唱歌ハ教授法整フヲ待ツテ之ヲ設クベシ
 第四條 高等中學科は初等中學科ノ修身、和漢文、英語、記簿、圖畫、體操ノ續、三角法、金石、本邦法令ヲ加ヘ又更ニ物理化學ヲ授クル者トス
 第五條 中學校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ高等中學科ノ外若クハ高等中學科ヲ置カズ普通文科、普通理科ヲ置キ又農業、工業、商業等ノ專修科ヲ置クコトヲ得
 第六條 普通文科ハ高等中學科中ノ三角法、金石、物理、化學、圖畫等ノ某科ヲ除キ或ハ其程度ヲ減ジ修身、和漢文、英語、本邦法令等ノ某科ヲ増シ又歴史、經濟、論理、心理等ノ某科ヲ加フル者トス
 第七條 初等中學科卒業ノ者ハ高等中學科ハ勿論普通文科、普通理科其他師範學科諸專門ノ學科ヲ修ムルヲ得ベシ
 第八條
 第九條 高等中學科卒業ノ者ハ大學科、高等專門學科等ヲ修ムルヲ得ベシ但大學科ヲ修メントスル者ハ當分ノ内尚必須ノ外國語學ヲ修メンコトヲ要ス
 第十條 初等中學科ヲ修メントスル生徒ハ小學中學科卒業以上ノ學力アルモノトス
 第十一條 中學校ノ修業年限ハ初等ヲ四年トシ高等ヲ二年トシ通ジテ六年トス 但此修業年限ヲ伸縮シ得ベシト雖ドモ一年ヲ過グベカラズ
 第十二條 中學校ニ於テハ一年三十二週以上授業ス
 第十三條 中學校授業ノ時間ハ初等科ハ一週廿八時間高等科ハ一週廿六時間ヲ以テ度トス 但此時間ヲ伸縮スルヲ得ベシト雖一週二十二時ヲ下ルベカラズ
先づ此教則を明治五年の中學制と比較し何れの點に於て改良せしやをふる事必要なり
 第一の差は此教則にて中學大學の聯絡をつけたる事なり即ち中學を卒業したる者は豫備門に入り專修科を經て直ちに大學に入るを得るの制規にて明治五年の學制には頓とかゝる注意はなかりしなり
 第二 高等中學科の外若しくは高等中學科を置かずして普通文科、普通理科或は農業、工業、商業等の專修科を置く事を得るの制規を設けたるは現今の高等中學本科に一部二部三部の別を立てゝ普通科の中にても稍高尚なる學科を教ると同一の制度にて當時既に現制の種子を卸したりと云ふべし然るに明治五年の學制に在つては唯各種の實業學校を以て中學に隷屬せしめたるに過ぎざるのみ
 第三 修業の年期は兩制共六年なれども只前者は上下二等を三年宛に分ち後者は初等科を四年高等科を二年に分ちたるの差あり
 第四 學科の差を表にて比較すれば左の如し
 
    國語 數學 習字 地埋 歴史 外國語 科學 畫學 記簿 博物 修身 唱歌
下等科 國語 算術幾何測量〔二字右○〕 習字 地學 史學 外國語 物理化學 畫學 記簿 博物 修身 奏樂 古言學
初等科 和漢〔右○〕文 算術代數測量〔二字右○〕 習字 地埋 歴史 英語 物理化學生理〔右○〕經濟 圖畫 動物植物 修身 唱歌 體操
    國語 數學 習字 外國語 科學 畫學 記簿 修身 博物 法律 古言學
上等科 國語 算術〔二字右○〕幾何〔二字右○〕代數〔二字右○〕測量〔二字右○〕 習字〔二字右○〕 外國語 經濟〔二字右○〕理學〔二字右○〕重學〔二字右○〕地質礦物〔四字右○〕 罫畫 記簿 修身 動物〔二字右○〕植物〔二字右○〕 ○  古言學〔三字右○〕
高等科 和漢〔右○〕文 三角法〔三字右○〕 ○ 英語 物理化學 圖畫 記簿 修身 ○ 本邦法令〔四字右○]
 
○標は一方に存して一方に存せざる者を示す但中學全體に通じて考ふるときは明治五年の制に存して十四年制になき科目を重學、地質礦物、測量及び古言學の五とし又十四年制に存して五年になきものを生理、三角術、本邦法令及び體操の四科とす但し重學、測量の如きは普通科に必須なる課にあらざれば之を省きたるはよけれど地質礦物は何故に取り除きしや之を解すべからず但し上表は單簡に過ぎて各科目の時間及び委細の題目は知るに由なけれども表面上は左したる變化なきが如し然れども明治五年の學令は單に虚文に過ぎざりしを此時に至つて始めて實行に着手せる故此學制は教育上に大影響ありと知るべし
其影響果して如何にと云ふに
 第一此教則にて中學の資格を確定したる爲め從來不則律なる私立學校は頓に減少し之と同時に公共學校は漸次増加せり明治十三年の統計を覽るに中學校の數百八十七にて其中公立百三十七此を前年に比すれば公立は卅を増し私立は六百廿七を減ず(明かに明治十二年發布の教育令第四條の結果と見るを得べし)
 第二 高等中學科卒業のものも初等中學科卒業のものも等しく大學豫備門に入り夫より大學に入るの制を定めしより生徒は初等科を卒業するや否や直ちに去つて豫備門に來學し爲めに高等中學課は一向振作の機に會せず是は無理ならぬ譯にて將來大學にでも入りて一修業せんとする程の者は一日も早く都下に遊學し完全なる學校に入り又高等なる教師の薫陶を受けんと願ふべければ高等中學科に入りて而る後東京に來るの癡を學ぶものなく遂に此設立をして空しく自滅に歸せしむるに至りぬ
 第三 當時各府縣中學校維持の状を通觀するに其大約は府縣會又は區町村會の供資に頼るを以て其議場の状況により動もすれば學校の規模を縮少し經費を抑損する事ありかゝる故に地方により同じ中學校に高下の程度を生じ或る者は餘程發達せるにも關せず或る者は餘程下等の地位を占むるに至れり(現時地方の尋常中學より高等中學に生徒を送るに或る中學は特待を得て其卒業生を頗る上級に編入する事を得又或る中學は假令校長の證明書あるも其卒業生をして左程の高級に編入せしむる事能はざるは大に此事情の影響に原く所ありといふぺし)
 兎に角此教則にて漸次改良の緒に就き府縣立は着々大綱に準じて改正し教員には大學の出身者又は中學師範學科卒業生を聘するに至れり(但し町村立のものは經費乏しくして大概は不完全に又初等科のみにて高等科の設けなく或は間々舊則に據るものもありしと知るべし)
 明治十七年に至り又中學校通則なるものを頒布して中學の資格益嚴重となる此通則は敢て從來の課程を變更せずと雖ども其改良の點を擧ぐれは第一教員の資格第二圖書器械の備具第三教場の建築にありとす
 通則第四條に曰く中學校ハ教員少クトモ三人ハ中學師範學科ノ卒業證苴又ハ大學科ノ卒業證書ヲ有スル者ヲ以テ之ニ充ツベキモノトス(但シ本文ノ證書ヲ有セズト雖ドモ府知事縣令ニ於テ相當ノ資格アリト認ムル者ハ文部卿ノ許可ヲ經テ之ニ代フルコトヲ得且高等中學科ヲ置カズシテ農業、工業、商業等ノ專修科ヲ置キ又ハ初等中學科ノミヲ置クモノハ文部卿ノ許可ヲ經テ本文ノ制限ヲ斟酌スルヲ得)とありて多少教員の資格に制限を立てたるものなり又第五條に中學校ハ修身其他諸科ノ教授上必須ノ圖書及博物、物理、化學等ノ器械、標本類ヲ備フベキモノトスとあるは明かに器具書籍の點に於て完美を求めたるものなり次に第六條に中學校ハ生徒ヲ教授スルニ足ルベキ教場、物理、化學等ノ試驗室體操場及ビ生徒ノ控所職員詰所等ヲ設クベキ者トスとあるは其建築上に注意を加へたるものにして之が爲め經費に乏しく右の資格に應ずる能はざるものは自滅するに至るは必然の結果なり是は明治十七年の學校表を覽れば著るしく分る事にて町村費維持の中學は前年に比すれば三十七を減じて僅かに五十四となり又私立の如きに至つては全國中唯二所あるのみ
 偖是等の中學生が如何なる有樣なるかを尋ぬるに初等科卒業後直ちに進んで高等科に入るものは十ノ一二に過ぎず除は概ね都下に出で大學豫備門又は他の高等學校に入り若くは其豫備をなすが如く或は轉じて師範學校に入り若くは小學教員となる者あれども出でゝ實業につき中人以上の業務をとるものは甚だ少なしとす高等科の振はざるは明治十九年の卒業生僅かに廿三名なりしを以て之を知るべし(但し同年中學生徒の數總計壹萬四千〇八十四人となす)
 斯く高等中學科はあれどもなきが如き有樣なる故文部省は茲に一策を案じ中學を分つて二個の特別なる學校となし之を名けて高等中學校及び尋常中學となし高等中學を卒業するものは豫備門抔に入らず直ちに大學々生となるの資格を與へ同時に大學豫備門を廢せり其實は豫備門を變じて第一高等中學となし東京外國語學校の佛獨兩學科及び東京法學校の豫科を轉屬せしめたるに過ぎず但し文部省の意は全國を五區に分ち一區毎に高等中學一個を置き其管轄區内の尋常中學卒業生を入學せしむるにあり高等中學設置の地方は仙臺(第二)京都(第三)金澤(第四)熊本(第五)とす別に鹿兒島及び山口に私立高等中學を設くる事を準可す而して高等中學の目的は二個にして一は大學に入るの豫備をなし一は卒業後直ちに社會にて業務を執らんとするものゝ修學する所とす其詳細の變革は同年發布の中學校令に明かなるを以て之を左に掲ぐ
 中學校令
 第一條 中學校ハ實業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ學
校ニ入ラント欲スル者ニ須要ナル教育ヲ爲ス所トス
 第二條 中學校ヲ分ツテ高等尋常ノ二等トス高等中學校ハ文部大臣ノ管理二屬ス
 第三條 高等中學校ハ法科、醫科、工科、文科、理科、農科、商業等ノ分科ヲ設クルヲ得
 第四條 高等中學校ハ全國ヲ五區ニ分畫シ毎區ニ一箇所ヲ設置ス其區域ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依ル
 第五條 高等中學校ノ經費ハ國庫ヨリ之ヲ支辨シ又ハ國庫ト該學校設置區域内ニ在ル府縣ノ地方税トニヨリ之ヲ支辨スルコトアルベシ但此場合ニ於テハ其管理及經費分擔ノ方法等ハ別ニ之ヲ定ムベシ
  (案ずるに明治廿一年八月文部省の布達に高等中學校費ヲ地方税ニテ分擔スル儀ハ來ル二十二年度以降當分之ヲ止ムル旨府縣知事ヘ訓令スとあれば現今は高等中學校費は全く國庫より支出するものなり)
 第六條 尋常中學校ハ各府縣ニ於テ便宜之ヲ設置スルコトヲ得但其地方税ノ支辨又ハ補助ニ係ル者ハ各府縣一所ニ限ル
 第七條 中學校ノ學科及ビ其程度ハ文部大臣ノ定ムル所ニヨル
 第八條 中學校ノ教科書ハ文部大臣ノ檢定シタル者ニ限ルベシ
 第九條 尋常中學校ハ區町村費ヲ以テ設置スルコトヲ得ズ
 
 又尋常中學校ノ課程ハ左ノ如シ
      第一年 第二年 第三年 第四年 第五年
倫理     一   一   一   一   一
國語漢文   五   五   五   三   二
第一外國語  六   六   七   五   五
第二外國語              四   三
若クハ農業
地理     一   二   二   一
歴史     一   一   二   一   二
數學     四   四   四   四   三
博物     一       二       三
物理化學   一           二   三
習字     二   一
圖畫     二   二
唱歌     二   二   二   二   一
體操     三   三   三   五   五
 
 明治十九年大學豫備を廢して高等中學となすや各分科大學の初年を繰り下げ之に豫備門從來の修學年期四年を合し併せて五年となし之を分つて本科二年豫科三年の二となし本科を法醫工文理の五に分ち各科適宜の
課程を設けしが明治廿一年に至り本科を一部(法文)二部(工理)三部(醫)の三となせしが翌年又不都合を感じたる爲め法文工理共各自特別の科目を修するに至れり是高等中學校設立以來現時に至る沿革の概略となす豫科は前に述べたる如く三年にして其學課に至つては表面上明治十九年の文部省令に從ひ尋常中學校の第三年級以上の學科及び程度と異なる所なければ省きつ只其間多少の變革なきにあらず明治廿二年に豫科二級の第二外國語を廢し第一外國語の時間を増し三級二級共に十時間となせるが如き又國語漢文の時間を増して三級には五時二級一級には四時宛とせるが如し(前には三級に五時、二級に三時、一級に一時間なり)されど大體上別に大差なしといふも可ならんか、又本科現在の課程表及び從來科目の沿革もなきにあらねども之を述ぶるは餘り冗長にして反つて明瞭を缺くの恐れあるを以て之を略す(委細は高等中學一覽に詳なり)且つ前に述べたる高等中學の沿革は第一高等中學一覽に基づくに過ぎずと雖ども他地方の高等中學は國と文部省令に據るもの故其組織は第一と異なる所なしとす但第一及び山口高等中學を除きては豫科の下に補充科ありて豫科に入るべき生徒を二年間養成す
   愚見によれば五個の高等中學を一時に日本に設立せるは大に不得策なりとす日本の教育はかく驚山なる事業を爲すには機運未だ熟せざるものなり假令ひ教育の普及を計るを以て國家只一の長計となすも日本の經濟及び他の條件は未だ是等諸校の設立を許さざるが如く且同時に五個を起すの必要なきなり第一生徒の方より見るも實際高等中學に入る者は必ず大學に來るの有樣なり既に大學に來るものとすれば相當の資産あるものなり是等の輩其地方にて高等中學に入るも東京に來て東京の高等中學校に入るも別に經濟上の不都合を感ぜざるべし第二には一時に斯く幾個の學校を起す時は無論教育費を諸校に分散せざるを得ず從つて器械書籍等完全を望む事難し價令ひ是等の點に於て不都合なきにもせよ現時日本にて高等中學の教師に適したる人物を一時に招聘せん事甚だ困難なり是等の不都合を顧ずして設置したる曉に生徒がなければ何の益にも立たぬなり然るに日本にて大學に入る學生は十ノ一にも足らぬ有樣なれば尋常中學を卒業して高等中學に入るものは矢張り十分の一に過ぎざるべし其少數の生徒を五個の高等中學二個の私立高等中學にて不完全に教育するは如何に考ふるも經濟上且訓練上の策を得たるものにあらず勿論文部省の意見は強ちに大學入校者を製造するにあらざれば學問の普及を計りて東京以外に高等中學を設くるは惡き事にあらざれど漸を以て改良せずして短兵急の策に出でたるは惜しむべき限りにこそ余が意見によれば東京に一高等中學を置き關西に一高等中學を設け(京都は不可なり風俗地位共に國家の支柱たるべき人物を養成するに適せず)東北の書生は皆東京に聚まり西南の學士は皆關西に集まる樣にしたらば善かりしならんと考ふ斯くする事數年の後高等なる普通科を修めんと欲するもの多くなりて迚も二個の高等中學では間に合はず且つ相應なる教員のあき〔二字傍点〕が出來たる時に始めてぽつ/\他の高等中學を作るべきなり當時の文部大臣が尋常中學の程度を高むる方に蓋力せずして徒らに高等中學校設置に配意し東京地方にて落第したる餘りの書生等を養成して得々たりしは余の解するに苦しむ所なり
 右は不完全ながら明治以降今日に至る迄の中學校沿革梗概なり是より進んで少しく其改良策を述べんとす
 
    第三編 中學改良策
     第一 大中小學校の聯絡
 
 高等中學はもと大學豫備門の變化したるものなり文部省令に從へば中學校は大學に入るの楷梯をも教へ又中人以上の業務を執るに必要なる高等普通學を授くる所なりと雖ども前に述べたるが如く現今の有樣にては高等中學を卒業して直ちに社會に出づる者とては少なく十の八九は皆大擧に入るものゝみなれば專門なる大學豫傭校と云ふも不可なしかく大學と高等中學は密接の關係を有するものから其程度學科も大學に準じて都合よき位の組織なりとす然るに尋常中學校は其設置高等中學に比すれば餘程古く且つ始めより高等中學に入るの生徒を養成するの目的にあらざりしを以て其程度に懸隔ありて尋常中學卒業生は直ちに高等中學に入學するを得ず不得已兩三年は豫科に止まつて修業せざるを得ず是青年子弟の爲に大に憂ふべき事とす翻つて小學及び中學の關係を見るに亦之に似たるものあり小學を卒業したりとて試驗を經ざれば中學に入る能はず然るに地方によりては高等小學卒業時期と尋常中學入學試驗期と落ち合ふを以て小學を卒業したる頃は既に中學の試驗期は過ぎ去つて入學相當の學力あるものも見す/\日月を浪費し少なくとも一年は無爲に經過せざるべからず尤も東京の如く私立中學ありて公立中學と聯路を有する所は此私立校より轉じて公立の相當級に編入するを得べじと雖どもかく妄りに學校を改むるは少年者教育の法を得たる者にあらず況して私立中學の設けなくして無爲に有爲の日月を消費せざる可らざるの地方に於ては父兄の配慮は格別なるべし加之地方によりては尋常中學と高等小學の懸隔甚しく假令ひ試驗の時日に右の不都合なきも實際及第し難き所あり是等の地方に生れたる少年は高等小學卒業後又一年許りを費やして漸く尋常中學に徙るを得るなり故に現今吾邦教育上の系統によれば大學と高等中學は聯絡よけれども高等中學と尋常中學は甚しき懸隔あり又尋常中學と高等小學も亦多少不都合の關係を有す是教育上の大缺點なれば是非共改良の法を案じて此阻礙を取り除けざるべからず學齡兒童先づ六歳より就學して八年を小學に費やすとすれば卒業は十四歳なり而して運よき者は直ちに中學校に入れども不幸なるものは十五歳又は十六歳に至らざれば尋常中學に入るを得ず此處にて五年を費やせば年齢早く既に廿歳前後となる是より都合好く行けば高等中學の豫科一級に入り惡ければ三級に入り五年乃至三年の日月を經過して始めて大學に入り又三年を費やして學士となる計算すれば學士となるには少なくとも廿六歳多くて廿八歳の順なり當今の如き粗末なる學士を製造するに日本の青年をして前後二十餘年を費やさしむ寔に浩嘆の至りなり且日本人は西洋人に比すれば早く老い込む者故六十、七十に至つては元氣漸く阻喪して事業心に任せず去らば教育を受けたる人士が社會の上流に立て一と角の事をなすは僅々廿年許りに過ぎず夫も學士が完全なる立派なる人なればまだ好けれども只大學を卒業したと云ふのみにては事業をなすには經驗なく學者となるには知識足らず其下地の爲に少なくとも五六年を費やすとせば眞正なる有爲の時限は僅かに十四五年に過ぎず此多事の時に當つて吾人が國家民人に盡す義務頭割にすれば幾何もなし況んや大學出身の士は毎年通計三百人を出でず之を四千萬の人口に比較するに實に其僅少なるに驚かざるべからず學士の少なきは國庫財乏しくして貧生を補助する道なく人民又餘裕なくして子弟を大學に入るゝの策なきに因り其他惣じて吾邦の經濟之を許さゞるに基づくものなれば詮方なしと雖ども大中小學の連絡を圓滑にして一日も早く子弟の時間を徒費せしめざる事今日の急務と云ふべし
 之を爲すに二法あり一は大學と高等中學の程度を引き下げて尋常中學と連續せしめ又尋常中學を引き下げて高等小學と聯絡せしむるにあり一は高等小學より尋常中學の程度を順繰りに繰り上げて高等中學の豫科を全廢し豫定の如く廿四歳にして大學を卒業するの組織となすにあり前者は行ひ易けれども教育上損あり後者は行ひ難けれど國の爲に利あり難くして國家の爲に利ある後策を採るに若かず然らば此繰り上げ策の方法如何にと云ふに課程表より云へば高等小學を卒業したるものは直ちに尋常中學に入り尋常中學を卒業したるものは直ちに高等中學本科に入學するを得るの組織なるに實際左樣に行かぬは教授の不完全なる爲と言はざるべからず教授の不完全なるは教師其責に任ぜざるべからず方今中學校改良案中第一着に手を下すべきは教〔師〕の淘汰選擇是なり
 
     第二 教師の改良
 
 教員の資格、 當今尋常中學校の教師には何處にて修業したるや性の知れぬ者多く僅かの學士及び高等師範學校卒業生を除けば餘は學識淺薄なる流浪者多し是等の輩に托するに後來日本元氣の中心ともなるべき少年を以てするは害あつて益なし假令ひ益あるも五年の稽古は十年にして漸くなり十年の業は十五年にして始めて成就せん加之學士にして中等教員たるものは學あれども教授法に稽はず高等師範學校卒業生は授業法には精しけれども學識に乏し元來學士及び此種の卒業生は實に僅々に過ぎずして其僅々たる者亦完全の良教師といふべからず今日の急務は可成理科文科出身の學士をして少なくとも半年間教授及び訓練の方法を講究せしめたる上又半年間實地見習ひとして地方の中學校に準教師となり然る後之を中學教員に採用するか或は高等師範學校の程度を高めて充分學識ある卒業生を養成し之に中學教育の事を托すべし明治廿三年の統計を覽るに公立中學の數四十四にして教員の教五百八十人なり故に一校につき殆んど十四人程の割なりとす之を生徒の數に配すれば一人の教師が十六人の生徒を養成する勘定なり今文科理科大學の卒業生及び高等師範學校の卒業生中後來中學校の教師たるもの年々平均四十人と見積れば十年にして四百人を得べし今生徒の數を壹萬人と豫定すれば一人の教師が廿五人の生徒を受持つ割なり去れば若し此方にして行はれんか十年にして全國の中學に良教師を得て性の知れぬ曖昧者を教育場裏より驅逐するを得べし是は百難を排しても實行すべき事と思はる余が目撃せる或る地方の英語教授法の如きは實に驚くべき有樣にて之が教師たるものは單に胡魔化しを事とし生徒も亦之を鎗込る事のみを考へ居るが如し殊に目立ちて見ゆるは讀方の亂暴なる事にてかゝる有樣ならんには到底何年間英語を修業するも成熟の見込なしと思へり勿論外國語を教ふるは易きが如くにして至極六づかしきには相違なけれど若し中學を以て大學の豫備となし大學の下地を作る目的を兼有するものとせば外國語の知識は非常に必要故餘程良き教師を選んで之に教授を嘱托せざるべからず若し現時の如き外國語の教育を受けたる中學生が將來高等中學の本科に入り二年にして大學に來るとせば學問の蘊奥を究むるに必要なる外國語の不出來なる爲め當人は無論苦痛を感ずべく從つて大學卒業生の價値を下落せしむる事必定なり
 教員道徳上の資格、 次に憂ふべきは教員道徳上の資格りとす其缺點に二種あり第一には個人として道徳高からざる事第二には中學教員として徳義完からざる事なり第一の缺點は特に中學教員のみに向つて責むべからず滿天下の人皆其責を負はざる可らざれど殊に少年を支配する任に當る身に取つては道徳は知識よりも遙かに尊きものなれば是非共此點を考察せざるべからず元來吾々當時の青年は破壞時代に生れたる上好加減の教育を生噛みにして只今迄經歴したる者共なれば智育徳育共に充分ならず殊に徳育抔といふ事は近來始めて八釜敷なりたるに過ぎざれは今迄校課の授業上自己の徳性を發揮したりと思ふ事なし只幸ひにして封建の餘習を受け貳三冊の漢書を讀みたると又智育上より得たる結果とを利用して己れの道徳となすに過ぎず故に之を幕府時代の士氣と比較するときは堅軟剛柔の度に於て甚しき相違を見るべし而して當時中學の教授を掌どる者は大概吾人と同樣なる教育を受けたる輩なれば節操の堅固ならず志氣の高尚ならざるものも甚だ多からん是尤も匡さゞる可らざるの缺點とす苟もかゝる人間を師長とする以上は之が業を受くる者にして若し見識あらんには頭から其教師を輕蔑し又見識なきものは何時しか其氣風に感染し何れにしても美しき結果は望むべからず教育の大任を負ふからには能々茲に注意して自ら率ふるに高尚なる徳行を以てし以て衆生の模範たらざるべからず大學の教授及び高等師範學校の教授等は深く茲に鑑みて道徳高き教員を製出する事に盡力すべし又第二の缺點を言へば今の中學教師たるものは大抵自ら好んで其職に就きたるにあらず糊口に差し支へたる溢れ者か左なくば一時の足掛臺として少らく茲に腰を据ゆるに過ぎず學識狹薄なる無能漢すら亦教員を以て高尚なる職業と思はず況んや大學を卒業して學士の肩書を有する者をや彼等が一日も早く好地位を得て他に轉職せんと企つるは珍らしからぬ事なり教師既に安んじて其職に居らず授業の親切なるを望むも得べからざるなり生徒の利害を考へん事を求むるも得べからざるなりかゝる次第なれば學識あるものも其全力を擧げで其校の爲に志さんとはせず大概は其職に居りながら其任を重ぜず實に不都合の至りといふべし今之を改良せんには不徳の人を變じて有徳の君子となすか輕薄の※[黒+吉]兒を逐ふて着實の大人を迎ふるにあり此二策を實行せんには金額を愛惜せずして中學の用度を辨ずるにあり方今高等中學は國庫の支辨を受く而して國會之を削減せんとし尋常中學校は地方税之を維持す而して府縣會之を縮小せんとす之を削減し之を縮小すると同時に其影響は忽ち教師の財布に響いて時ならぬ不都合を感ず中學の教師たるものは假令ひ其職を盡すも又其職を盡さゞるも兩つながら危き地位に立つ者なり危き地位を去りたきは人情なり既に之を去らんとせば身は現在の職に在るも心は常に未來の好位にあり之を如何んぞ生徒に不親切にして教授に不熱心ならざらん明治廿三年尋常中學の歳費は廿九萬七千四百五十八圓許なり之を校數四十四にて除すれば一校の經費は六千七百六十三圓なり其内半分を學校維持費とし殘りを教師の年俸として之を算するときは一人前殆んど三百圓の割なり貴重なる中學教員に僅三百圓位の年給を與へ而も隙さへあらば之を削減せんとしながら其學問の淺薄其徳行の不修且其教務の擧らざるを責む實に無理なりといふべし能ある者爭でか甘んじて此微禄を屑しとせん學あるもの焉んぞ聘に應じて其力を教育に致さん日本の教育の爲めに計るに一方にては教員の資格を嚴にして無頼の徒を退去せしめ一方にては之が俸給を増加して且つ終身官たらしめ安んじて力を教育に盡さしむべし若し金額の出處なしといはば改良の策なしといはんのみ今のまゝにて進行し無能大言の輩天下に充滿し輕卒無頼の徒日本の中等社會を組織し天下の萬事休むに至つて始めて教育改良に着手すべし夫れ人間を造るは飴細工にて人形を造るよりも六づかし、六づかしきが故に費用も之に順じて嵩むなり、父母子を生む、生れたる子は人間にあらずして人形なり四肢を搖かし頭顱を肩上に据ゆるも教育を受ざる内は完全なる人間の名を下し難し軍艦も作れ鐵道も作れ何も作れ彼も作れと説きながら未來國家の支柱たるべき人間の製造に至つては毫も心をとゞめず從らに因循姑|※[女+息]《原》の策に安んじて一錢の費用だも給せざらんとす是等の輩眞に吝嗇の極なり
 教師に對する改良案は大抵右の如し是より生徒に關する改良案を述べんとす
 
     第三 生徒の改良
 
 生徒徳育の改良、 方今の少年子弟を見て驚くは其徳義心に乏しき事なり余は現に或る地方に遊んで其所の少年氣風卑野なるを見始めて大學の有り難さを知れりそれ迄は大學の學生を以て半分以上箸にも棒にもかゝらぬいたづら者とのみ思ひしが世の中にはまだ/\甚しき難物あるを見出し大に教育の大切なるを覺れり 尤も余輩時代の書生は幾分か漢學を專修したるもの故知らず/\の間に支那風又は武士風の氣象が少しは殘れども現今の中學生徒抔は其教育系統の情況にて所謂漢書講讀時期なるものを有せざるが如し從つて徳義上の根本は甚だ覺束なからんと推察せらる吾輩時代すら既に道徳壞亂の萌芽を發生せる位なるに今後の少年が一層甚しくなりては日本の運命も其限りなり人間といふものはたとひ一定の主義ありて守る所ありてすら時には一朝の感情に支配せられて圖らざる過ちをなす位なるに無主義無作法の連中が勝手次第の我儘を仕盡したらんには實に寒心すべき禍害を釀すに至るべし先年木下廣次氏始めて第一高等中學教頭となりし時生徒を聚めて一場の演舌に其風儀の亂れたるを慨し諸君が教師を尊敬するは眞に教師を尊敬するにあらずして點數の爲に之を尊敬するに過ぎずと云はれたるは生徒の惡風を穿てるの言なり例を擧ぐれば數々あれど其中にも尤も著るしかりしは佐々木政吉氏生徒の爲めに冷水浴の功能を述べたしとて態々生徒を集めて親切に演舌せら〔れ〕し事あり元來なれば醫學博士とも言はるべき人が吾輩書生の健康を氣遣ひ餘計な時間を潰しての演舌なれば謹んで聽聞する筈なるに其時多數の生徒は聲を揚げて教授の※[口+内]辯を嗤笑せり是は實に心ある人をして嘔吐をも催さしむべき非禮の振舞にて第一高等中學の生徒にあるまじき淺墓なる者どもかなと思へりかゝる生徒が大學に入ればこそ喫烟室の設けあるにも係らず妄りに廊下にて烟草を燻らし或は木履のまゝ教場に闖入し吾は學校の規則を犯す丈の勇氣ありと云はぬ許りの得色あるに至るなり堂々たる大學の學生も素が素なれば其粗野なる事斯の如し見識の高きはよけれど見識が高ければとて不禮の振舞をなして揚々たるは片腹痛し小人を見て之を賤しむは好し之に接する時は矢張り人間に對するの禮なかるべからず無理なる校則は廢すべし之を犯すは不可なり況んや長者に對してをや遵ふべきの教則に於てをやかほどの事に氣のつかぬ學士の出來するは矢張り中學の教育其當を得ざるが爲のみ第一高等中學の生徒は風儀が惡けれど見識あり(少なくとも余が居りし頃は)地方の尋常中學抔にては見識もなき癖に一層生意氣なる處もある樣なり現に余が旅行せる某地の如きは其適例にて其生徒は只教師を意地め困らせるを考ふるの外他に一個の美徳を有せずと云ふも可なり但し是等の弊は良教師を得ると同時に漸々消滅するものなれど左に聊か匡濟の方法を述んとす
 一 年輩徳識共に高き人を聘して毎週一回倫理上の講筵を開く事
   (a) 此講筵に於て講師は圭として愛國主義を説き次に吾邦の他邦と異なる國體を審になし次に師弟長幼朋友等各人相互の關係に及ぶべし
   (b) 尤も尋常中學に在つては多く東西古人の言行を引證して感情的に生徒を動かすべし、高等中學に在ては右の諸條を貫くに一線の元理を以てし可成生徒の智性に訴へて之を實行する樣にすべし
(余が高等中學にありし頃此法行はれ今に至つても猶存するが如し然し當時の講師は徒らに經中の一言を敷衍して獨斷的の結論をなし知識の發逢せる高等中學生には何等の効驗もなかりしやに覺ゆ他人は知らず余は徳性上一の啓發を受けたる事なし是全く講師其人を得ざるが爲といはざるべからず當今此任に當るものは全國中にも甚だ稀なるべけれども可成碩學高徳の人に依頼せば告朔の※[食+氣]羊に優る事遠し)
   (c) 校長職員等は此講師に對し尊敬を加へ生徒をして可成其言辭に耳を傾くる樣に注意すべし
   (d) 講師出入の際は嚴粛を守り慎んで喧擾を避くべし且つ受持時間なき教師は必ず出席して之を聽聞すべし(是も高等中學にて行ひし法にて幾分か形體上の規律を正ふするの功ありと信ず)
   (e) 講堂は清潔にするは勿論其粧飾も可成壯嚴を保ち之に入るときは恭慎の情油然として發するが如くならしむべし(壁間に古人の言を※[金+雋]し案上に聖賢の像を安置する抔妙なり畫もよけれど拙劣なるときは紙鳶屋の招牌の如き感を起して切角の注意を無にするなり)
 一 漢文國語及び日本支那歴史は日本人の道徳を堅固にするに必要なれば教師は其邊に注意して授業の際其科目の智識を擴ぐると同時に生徒の道徳心を鼓舞する樣注意し兼て興味を加へて生徒に自修の念を起さしむべし
 憾む所のものは日本に國民を代表すべき程の文學なきにあれど或る點に於ては却つて西洋の文字よりも人間を高尚優美にする者なきにあらず且つ俳諧の如き日本只一の文字にして而も平民的の文學なれば是非共生徒をして其一斑を窺はしむべし其調は和歌より平易にして其意は和歌よりも廣く且つ高し
 一 教師授業の際は勿論平生と雖ども言行を慎しみ自重の風を示すべし且つ教場内にあつて氣の付きたる事は親切に忠告すべし我は學問の教師なり道徳は我が關する所にあらずと澄して居るべからず然るにこゝに注意せざるは或は自ら疚しき所あるか又性來不親切千萬なる人なりかゝる教師は一日も早く其職を免ずべし
  (今より考ふればわが高等中學に居りし頃は隨分よろしからぬ不作法の振舞もありたる樣なれども一人も之を譴責したる教師はなし但一遍教場にて欠伸をしたる時大森俊次氏に叱られたる事あるのみ夫れ教師を輕蔑するものは教師より見識あるものなり又教師を尊敬するものは萬事教師に矜式するものなり教師より見識ある程のものならば醇々として己れの失行を責められたらんには何とて反省する事のあらざるべき又教師に矜式するものゝ如きは一言にても教師の言を容るべし右何れよりいふも教師が生徒の品行に無頓着なるはよろしからず)
 一 一級又は一年を通じて茶話會を組織し講學の餘相會して互に所思を述べ以て名節を砥|勵《原》するの具とすべし但し注意して才辯を弄するの討論會となり又は健啖を旨とする飲食會に化せざる樣にすべし
 此會には教員も可成出席し談笑の際自然と生徒を善に誘導すべしかくするときは教場内にて知りにくき生徒の性質及び其意思のある所を審かにするを得て授業上甚だ便利なるのみならず互に親愛の念を生じて生徒は教師を慕ひ教師は生徒の爲を計るに至るべし
 毎年一回或は二回此小茶話會の大會を開き全校一致の實を擧ぐべし各小會をして互に相競いて徳義を研究せしむべし但し教師は注意して其間に葛藤の生ぜざる樣又上級生の下級生に對して誘掖の勞をとる樣に導くべし
 一 教場は必ず一級に一室を與ふべし教師に一室を與へて生徒をして順次轉席せしむるときは同級の生徒互に相親交するの機を失して何事も和合しがたく且つ同輩の善に傚ひ又其惡を正すの途を茅塞するの恐れあり
  (是は余が高等中學より大學に徙りて大に感じたる事なり大學に在つては恰も野蠻人が水草を逐ふて轉居するが如く常に教師の跡を慕ふて轉室する故交友の間自ら冷淡に流れ易し高等中學にありし頃は己れの室は己れの家の如く同級生は恰も一家族の如き思ひありしなり是は余が親しく經驗する所なれば教育者はよろしく注意ありたきものなり)
 智育上の改良
 (一) 屡ば述べたるが如く高等中學は實際大學の豫備校なればしばらくおき尋常中學に至つては明かに二種の人物を養成するものなり即ち文部省令に云へるが如く一は普通教育を受けたる中人以上の業務を執る者を製造し一は將來高等の學科を修むべきものゝ下地を造る此二種の目的を兼有するが爲め學科上大に不都合を感ずるに至る將來大學にでも入らんとするものは是非共力を外國語及び數學に用ひざるべからず又かゝる遠大の目的なきものか、あれども修業しがたきものは以上の科目に左迄力を用ふるに及ばず從つて教授上少しは斟酌せざるを得ず然るに今の組織は兩者に對し毫も區別する所なし此點に就ては教育者中種々議論のある話にて或は中學教育の方針を中途より分岐し將來高等中學に入るものと實業につくものとを區別すべしと云ひ(明治廿二年十一月發兌大日本教育會雜誌阪本龍氏論文參照)或は地方の情勢により斷然孰れか其一を擇んで實業學校にするか又は高等中學豫備校にすべしといひ(同年十二月同雜誌和田豐氏論文參照)未だ何とも方付かざれども早晩何とか處置せざればある生徒は他の生徒の犠牲に供せらるゝに至るべし管見によれば今の尋常中學の下三年は一樣に之を教授し四年目より實業的と豫備的の二に分ちたらば如何ならんと思はる但し豫備的のものは從來の學科を用ひて不都合なかるべく實業的の課目は經驗なき余の妄撰するを欲せざる所なれども英語とか數學とかの時間を減少して必用の課目を入れたらばよからん
 (二) 外國語の教授〔六字右○]には尤も意を用ひざるべからず元來西洋諸國は同一の宗教を有し同一の衣食同一の風俗を保ち其國語の組織も大抵似よりたる故己れの國語より他の國語に移るは東京人が薩摩語を修するよりも容易なる事なれど日本と西洋とは風俗習慣より其言語の構造に至つて截然として別物なる故吾人が西洋語を學ぶには非常の困難を感ずるなり然るに此外國語の智識は學問を修するに當つて只一の器械なれば是非共是に通曉せざるべからず從つて西洋人の力を用ふるに及ばざる點に於て人の知らぬ困難を犯し又馬鹿/\しと思ふ程の時間を費やすの已を得ざるに至る現に大學の文科などにても羅甸語の爲め獨逸語の爲め或は佛語の爲めに大切の時間を奪はれ專心其專門を修むる能はざるの憾ある位なれば中學校抔にて當の目的に縁なき語學の爲に苦しめらるゝは仕方なき次第なり去りながら只仕方なしと許りにて一向之に頓着せざるときは其困難何れの日にか除去するを得ん力を教育に用ふるものはよろしく此點に注意すべきなり先づ是を改良するに二法あり一は良教師を得る事二は其教授法を改むる事なり教師を得るの法は前篇教師の資格と云へる處にて既に之を述べしが如く文科大學卒業生か(純正文學專門のもの尤もよし)或は今の高等師範學校生徒の外國語の智識を一層高めたる上之を中學に赴任せしむべし尤も外國語の六づかしきは前に述べたる通りなればかくの如く格別の目的を以て製造したる教師と雖ども決して完全の良教師と云ふぺからず現に吾知友中英語を正しく發吾し得るもの甚だ寡なし余の如きは英文學を以て專門となすものながら將來英語の教師たるに適せる學力なきは常に慨嘆する所なりこは無論吾才識の陋劣なるにもよるべけれども一は外國語の非常に困難なるを證するに足るべし故に假令ひ余が注文通りの教師を中學に派遣するも充分なる教授は覺束なけれども是を現時の亂暴なる先生方に比すれば其優れる事幾倍なるや知るべからず漢學の日本に入るや久し其尤も盛なる時に於て猶且西土を壓倒するに足らず況んや歐語の吾朝に來る廿五年を出でず其造詣の差決して漢籍の比にあらざるに於てをや故に現今の教師に完全ならん事を望むは恰も赤子をして飛脚屋たらしめんとするが如し先づ/\前述位の改良にて當分は辛防すべし又所在の宣教師を聘して其地方中學の教師となし會話作文誦讀等の諸科を擔當せしむるも可ならん右等の諸科は到底日本人には充分の教授をなす事六づかしければなり就中作文の科の如きは本朝人の氣の付かぬ處に誤謬の存するものにて中々生徒の文章を改竄する抔といふ手際は望むべき事ならず是余が豫備門入校以來親しく經驗する所なれば是非共中學に一人位は洋人を傭ひおくべし學者でなくとも普通の讀み書きが出來て品行方正なるものならば差支へなかるべし明治廿三年の統計を覽るに全國中學の數四十四にして外國人の教師たるもの廿八人あり故に今十六人を傭へば丁度一校に一人宛の割となる此位の改良は差したる困難にあらずと思はる
 第二の改良案は授業法に關す之を數節に分ち左に愚見を述べんとす
  (一) 用書の事、 用書は可成卑近のものを擇んで高尚に失せざる樣心掛くべし生徒といふものは隨分虚榮を喜び易き者故少しにても六づかしき書物に手を着けたがる故教師も不得已自己の力にてさへ覺束なき者を無理に講讀するに至る是目今私立學校の通弊なりとす官立學校にあつては此害稍少なしと雖ども之が教師たるものは常住生徒に此傾きあるを承知せざれば規則のみ立派にて實力は少しも進歩せざるべし
  (a) 西洋と日本とは道徳上の觀念非常の差あり假令語學の稽古なりとて日本從來の徳義と衝突する樣な本を講讀して平氣なるときは生徒は何時しか書中の思想に感化せられ遂には日本人の胴に西洋人の首がつきたる如き化物を養成するに至るべし是は深く注意すべき事にて元來中學生徒などは外國語を修むるに當り此は向來高尚なる學問をなすの方便故不得已入らざる時間を捧げて之を修むる者ぞといふ事に氣がつかず只其課目時間の他よりも多きを見且世間にて洋語の持て囃さるゝを聞く故此課目自身がかく迄に大切なる者と心得果は書中に如何なる事柄あるも之を貴重するの念を起すに至るなり故に教科書は尤も選擇せざるべからず余甞てある私立學校に出席して英詩を講讀せしに詩中には日本人として云ふに忍びざるの言辭を翻譯せねばならぬ場合ありて獨り赤面せる事あり大體かゝる傾きを有する書は講ぜざるを可とす又正面より見れば道徳上に益あるも或點に於て不都合の箇處あらば日本西洋風俗の差を指摘し生徒をしてかゝる思想に浸染せられざる樣心掛くべし是教師たるものゝ見識のある處なり
 (b) 日本人は中年より西洋語を學ぶものなり西洋人は幼時より其國語を學ぶものなり故に人間發育の時期既に異なり去れば用書中にある事柄も夫に準じて異ならざるべからず「猿が手を持つ」抔といふ言は六歳前後の小兒には多少の興味あるにもせよ十四五歳の學童には面白き筈なく且つ人物養成の點に於て一毫の稗益なきなり故に中學にて用ふる讀本には可成注意して生徒の學齡に應じたる丈の遺徳的智識的に有益なる事柄を記載せるものを擇むべし若し適當の書籍なきときは本邦在留の外人に矚して之を作らしむべし尤も文部省にて出版せる讀本中洋語にて日本支那の事を綴れる者ある樣なれど語學なればとて只文字上の學のみならず其國語中に出て來る器物の名、人名、地名、家屋道路の景況等も知らざれは其國語より出來る丈の利益を收めたりと云ふべからず故に編中の事柄は西洋にして其思想は邦人の陋習を打破るか或は本來の美徳を誘導するものを選ぶぺし(自助論の如きは其適例なりとす)
 (c) 方今の生徒が洋語を學ぶに當つて第一に不都合を感ずるは其教授組織の亂雜にして入らざる處に骨を折り費やさずとも濟む時間を費やさしむるにありわが高等中學にありし頃二三年間獨逸語を學びたりと雖ども何事も覺えたる事とてはなし大學に來りて始めて最初からやり返したるに過ぎず尤も是は余輩が不勉強なる事大原因なれども一は教へ方の苦しき許りにて少しも面白からざりしが爲のみ假令ひ余等が獨逸話に於る如き不都合なきにせよかゝる有樣にて今の少年が尋常中學にて五年間英語を修めたりとて其得る所果して幾何ぞや故に現今第一着手に改良すべきは外國語教授の系統を正ふして嚴重に之を生徒に課するにあり嚴重に之を課するは只教師の心得次第にて出來る事なれど如何にして教授上の系統を立るかと云ふに先づ日本語を洋語と比較對照し其似たる處と其異なる所を審にして文法兼會話書ともいふべき書物を作るにあり始めは極單簡なる文章より進んで稍高尚なる構造法に徙り之を終れば洋語の組織瞭然たるが如くにすべし(文部省は一日も早くかゝる書の編纂に從事すべし「コンフオート」の獨逸語案内は好例なり好材料なり)
 (二) 譯讀法
  (a) 何 譯讀は力めて直譯を避け意義をとる樣にすべし「ザツト」の「イツト」で押して行く時は讀のに骨が折れて時間上餘程の損害を招く
  (b) 但し一字一字の譯は可成明瞭に説き明すべし初學者は常に一定の譯字を得ん事を願ふものなり是は不通當なる譯字にでも之を聞くときは胸中に瞭然たる印象を生ずれども十敷言を以て一字を説明するときは脳中混亂して其意義を捕捉し難きによる然れども一度び不適當の譯字を胸中に藏むるときは其害容易にぬけず故に廻りくどくとも長々しき説明をなしたる上若し會し難き場合あらば不穩にても譯字を用ふべし
  (c) 熟字に遇ふ毎に之を書取り且つ諳誦せしむべし
 (三) 讀万
  (a) 讀方は譯讀を付けたる場所に限るべしかくすれば「リーヂング」と共に意義を解する習慣を生じ後來渉獵の際其便鮮からず
  (b) 上級にあつては未だ譯讀を濟さゞる場所にても容易なる部分は之を讀み翻譯の手數を費やさずして直ちに洋書を理解する力を養ふべし
  (c) 教師は譯讀の濟んだる部を徐々と朗讀し生徒をして之を日本文に書き直さしむべし
 (四) 作文
  (a) 作文に先つて文法と書き取りに熟練せしむべし稍熟したる頃に毎時熟字十數を與へて之を暗記せしめ次回には其一を擇んで其作文中に挿入せしむ但し作文は極めて簡單なるべし
  (b) 教師は生徒をして順次黒板に英作文をかゝしめ全級の面前にて之を正すぺし是全級生をして屡ば同一の誤りをなさしめざる好方便とす
  (c) 漸々上達するに及んで問題を與へ短文を作らしむべし但し思想の順序を正ふすべし
  (d) 時々譯讀書を朗讀し生徒をして其義を文章に綴らしむべし(洋語にて)、初めは既に譯讀を了へたる處を朗讀し後には未だ知らざる所を朗讀す
  (e) 時々日本支那の文章を取り之を翻譯せしむべし
 (三) 他の諸科學の教授に就ては可成教科書を用ふるを可とす毎時日課を與へて之を暗誦せしめ其餘りに諸書を參考して有益の「ヒント」を與ふべしかくすれば(一)生徒の記憶力を練習し(二)且試驗前になり急に勉強するの風を匡正するに足る
 動植物等の教授は決して數級を合併せしむべからず是等の諸科は大概實地の標本を覽ざれば何の益にも立たぬ者なり余が高等中學に在りし頃植物學の教場にて顯微鏡を使用したる事あれども多人數の爲め遂に之を窺ひたることなし又地質曠物抔の教場にても混雜の餘り一回も標本を熟視せる事なかりしが故得る處は極めて少なかりし
 生理抔は假令ひ教科書を用ふるとも可成文字の解釋に止まらぬ樣生徒の腑に落る樣教授すべし昔し尋常中學校にて生理の教授を受けし時は只日課を暗誦するのみにて字面を記臆せしと雖ども實際身體の構造は茫乎たる處多かりしが如し
 教科書は可成原書を用ふべし是は語學を上達せしむるの最方便なるのみならず科學上有益なる言語を覺えて將來の利益となる事多し加之大概の譯書は文字艱澁にして理義辨じがたき個所多きものなり
 體育上の改良
 (一) 今の體操は身體を練習するによきのみならず規律ある風習を養成するに必要なり且つ國家萬一の時に當り平素の訓練を應用するを得るが故可成嚴重に之を行ふべし(温厚は美徳なりといへども柔弱なるは甚だ害あり活溌は嘉みすべしと雖ども粗暴は甚だ賤むべし今の學校にて運動家と云はるゝ者多くは粗暴なり又遊び嫌ひは大概柔弱なり願くば心を體育に止むるもの生徒の活溌にして而も温厚に粗暴柔弱の弊風に陷らざる樣注意あらん事を)
 (二) 體操は一週數時に過ぎざれば之を以て身體は充分に發育せらるべきにあらず且つ鐵砲を取り扱ひて兵隊の如く規律に束縛せらるゝは當人の身にとりては餘り愉快を感ぜぬ故課業外に運動會を設けて興味ある遊戯に自然と身體を發育せしむべし撃劍、柔術、舟漕、「テニス」皆便宜に從つて之を設くべし但し運動會の主意は本と身體を練磨するにあれば此目的を忘れぬ樣にするが必要なり紳士貴女を招待して勝者に賞品を與ふるが如きは一方より見れば奨勵の具たるが如くなれども一方より見れば勝を制して褒美を受る爲に運動會に入る抔といふ卑劣者を生ずるの恐れあり能々注〔意〕すべし
 (三) 運動は極めて普通ならん事を要す之をして普及せしむるは教師卒先して生徒と共に遊戯を試むべしかゝれば一校擧つて運動好になり身體上精神上共に活溌なる結果を生ずべし且つ教師と生徒の間を圓滑ならしめ互の親密を増すに至る
 右は中學に對する改良案と云ふものゝ中には單に教授上の意見にとゞまるものあり又は獨り中學のみに適用せずとも可なるものあり要するに思ひ付きたる事は大概書き連ねたる教育上の一意見書に過ぎざるなり
 
  英國詩人の天地山川に對する觀念
 
   本篇は稿者が去る一月文學談話會席上にて講述せる一場の談話に過ぎざれど、哲學會書記諸君の勸めに因り之を本紙に轉載する事とはなしぬ。大方の士其誤謬を指摘して稿者の蒙を啓かば幸甚。
 
 單に英國詩人と云へばとて、上「アングロ、サクソン」時代より、下「ヴイクトリヤ」朝に至る迄、古今千有餘年の作家を網羅せんとの野心にあらず。かゝる大袈裟なる問題は頃刻の談話に述べ切れる譯のものにあらず。よし述べ切れたりとて、不才余の如きもの固より之を試むるの勇なし。茲に所謂英國詩人とは、十八世紀はの末より十九世紀の始めへ掛けて、英國に現れ出でたる新詩人にして、夫の自然主義(naturalism)と申す運動を鼓舞せる面々を指す。偖此主義如何にして文界に出現し、如何にして發達し、如何にして變遷推移せしか。「クーパー」の自然主義は濁世に身を處し難きが爲に起り、「ゴールドスミス」の自然主義は賦性の恬淡なるに基づき、「バーンス」の自然主義は天稟の至情に根し、「ウオーヅウオース」の自然主義は一隻の哲理的眼孔を具したるに因る。抔と云ふ事を不充分ながら、大雜ばいに論じ去らんと欲す。是此問題の主眼なり。
 然し「ナチユラリズム」即ち自然主義。と許りにては一向説明にならざれば、本論に入るに先つて少しく其意義を確かめん。此熟字は申す迄もなく、「ネ−チユアー」より來る。「ネーチユアー」之を翻譯して自然と云ひ、天然と云ひ、時に或は天地山川と訓ず。人工を藉らず有の儘に世界に存在する物か、さなくば其物の情況を指すの語なり。されば之を應用するの區域甚だ廣く、從つて此字より脱化し來りたる「ナチユラリズム」の範圍も餘程曖昧なり。先づ其限界より取り極めん。
 自然主義の範圍如何に暖昧なればとて、固と是文學上の一現象なれば、文學其物よりも廣き事能はず。去らば英文學の範圍如何と云ふと、是も人々にて見解區々にて、現に其羅甸原語なる literatura(Posnett,Comparative Literature,Chap,I.)といふ文字すら、「タシタス」「クインテリアン」「シセロ」の諸家に因つて、各其用を異にする由なれば、方今所謂「リテラチユアー」なる語ばの定義判然たらざるも無理ならず。尤も當の問題に縁なき文學〔二字右○〕の解釋抔は、どうでもよき樣なれど、自然主義の範圍を定むるに當りて、文學てふ文字の限界を知るの必要ある故、あはれ其定義の一樣なれかしと思へど、かくの次第に已を得ず他の方法より文學の區域を定め、從つて其領内に生じたる自然主義の區域をも定めんと欲す。
 文學上に出來する事件を極廣く見積れば、人間界の事か、非人間界の事に外ならず。(是は仔細らしく文學に就て申す迄もなく、凡て吾人思想の及ぶものは、皆此二者の内を出でざるは勿論ながら)偖非人間界にあつて、尤も吾々の注意を惹くものは、日月なり星辰なり山河草木なり。去らば文學上に尤も重要なる材料を給するものは、人間と山川界なり。そこでかの自然と云ふ文字は、前に述べたる如く、一切萬物に適用すべき語ばながら、特に文學に於ては、其意義を縮めて人間の自然と山川の自然と限劃するも差し支へなからん。
 斯く自然といふ字の範圍が粗定まる以上は、是より脱化し來る、自然主義なる語も其限界を定むる事容易にして、矢張り人間の天性に從ふものと、山川の自然に歸する者との二つと區別するを得べし。虚禮虚飾を棄て天賦の本性に從ふ、是自然主義なり。功利功名の念を抛つて丘壑の間に一生を送る、是亦自然主義なり。固より此兩者の間には密接の關係ありて、互に相待つて存在するの傾向なきにあらざれど、兎に角自然主義に兩樣の意義あるは、當時の作家を讀むものゝ疑を容れざるところなるべし。然し余が今日述べんと欲するは、此自然主義の兩面にあらず。單に其一側より此詩人等の景物界に對する觀念如何を窺ひ、少しく杜撰の管見を陳じて高評を乞はんと欲す。日本人は山川崇拜と云ふべき國民放、此問題は多少吾々にとつて面白き筈なれど、校課多忙の際時に閑を偸んで稿を起したる者故、價値のなきは勿論、調べの行屆かざるより思はざる處に誤謬の存する事あらん。
 自然主義の意味は大概前に述べたるが如し。又余の問題とする自然主義も大概説明したる積り故、是より如何にして此主義が文界に出現せるかを研究せんと欲す。之を説明するには先づ一歩を進て此主義の出現せる以前、英國の文壇は如何なる情況なりしかを察せざるべからず。(M.Pattison,Introductry Remarks on Pope's Poems(T.H.Ward The English Poets, Vol IlI,p.58))千六百六十年王政古に復してより、千七百八十九年佛國改命の變あるに及んで、其間凡そ百餘年。當時の詩風を總稱して巧緻派といひ、其時期を呼んで古文時代といふ。凡て此間に行はれたる詩は、一種の性質を帶び、かの自然主義の詩風とは全然其趣を異にし、作家皆巧の一字を以て畢生の目的とせり、巧とは俗に所謂言ひ廻し方の上手なる意味にて、詩は只句を錬り字を鍛へ、經營刻苦して圓滑流暢に辭を遣へば、夫にて能事は畢る者と考へたる當時の詩人の了見にては、言語には調子あり、調子の善惡は文字の配合と順序より來る者なれば、百万苦心して音節の嚠喨なるを求めざる可らずと、遂には肝心の思想抔はそつち除けとなりて、別段深邃なるにも及ばず、又斬新なるにも及ばず、其代り詩法はかく/\句法はかく/\と、命意の點を閑却すると同時に、遣辭の末に跼蹐として、捏造したる詩風如何と見てあれば、繊巧細膩の趣きありて、典麗都雅の體を具へたりと雖ども、無限の感慨を有する者固よりなく、絶大の見識を表するもの亦固よりなく、天眞爛※[火+曼]の氣象いつしか消滅して、殘れるものは彫蟲篆刻の餘技のみ。
 かく當時の詩が、文句の上に拘泥して、煩屑なる詩法に束縛せられ、天然の趣味地を拂つて空しくなりたるは、全く當時の嗜好に因り、當時の噌好は當時社會の風潮に本づく。當時社會の風潮は如何に。當時の文壇と共に繁文褥禮の府なり。例へば日本の封建時代の如く、何事によらず一定の儀式ありて、此儀式に通ぜざれば、社會の交際をなす能はざる如き風習なりしならん。此虚禮を以て充※[牛+刃]せる社會の中心は倫敦にて、當時文學の中心も亦倫敦なれば、詩文の俗界より一頭地を放出して、人性固有の情緒を發揮し、江山流水の美を咏出せん事、幾んど難し。加之當時は所謂文人庇保の時代にて、作者皆知己を有名なる政治家に求め、其助けを得て文事を碎礪するか、或は自ら政治家となりて、其下働きを爲す風なれば、文學は上流社會交際社會の專有物となりて、鉛槧に從事する者は、虚禮を重んずる風潮を迎へて、其嗜好に合する如き詩を作り、或は左程墮落せざるも、かゝる空氣を呼吸して、朝夕俗界中に投了せらるゝ故、胸中一團の英氣は何時しか消えて、街頭の茶店は溪上の茅屋よりも貴く王侯の第宅は無限の江山よりも有り難き樣になるは、已を得ざる次第と云ふべし。(當時の文人が、甘んじて相門に拜趨し、王侯も亦喜んで墨客を優遇せるは、其例枚擧に遑まあらず。「ポープ」は「ボリンブローク」の朋友なり。「アヂソン」は「ゴドルフ※[ヒの小字]」の知遇により、後に顯職に上り、「トムソン」は時の皇太子より百磅の年俸を受けし由。其他「ジヨンソン」が「チエスターフ※[ヒの小字]ールド」に與へたる書の如き、「クラツブ」が「シエルバーン」に上つて憐を乞へる文の如き、皆之を證明する者なり。尤も倫敦に住する文人は、皆王侯の殊遇を受けたるにあらず。「ジヨンソン」の如き「ゴールドスミス」の如き、其他「グラツプ」街に籠城する一群の窮才士の如きに至つては、固より上等社會の交際ありしと云はず。然し貧乏すれば貧乏なりに俗氣を脱せず、酒肆一杯の飲遙かに江山千里の眺めに優る。彼徒の塵懷固より仙氣なきなり。)
 當時「アン」后の朝にあつて、詩名一世を蔽ひ、永く文壇の牛耳を執つて、一世を代表せる者を「アレキサンダー、ポープ」とす。故に當時の操瓠者が山川界に對して如何なる觀念を有せしかを觀るには、其頭梁たる「ポープ」の觀念を見るに若くなし。蓋し「ポープ」は山川を咏ぜざるに非ず。景物を敍せざるにあらず。然れども其尤も意を傾けたるは、交際界裏の光景なり。勃※[穴/卒]無味の議論なり。其傑作と云はるゝ人論、批評論及び竊鬢篇を見ても、其嗜好のあるところは大概察せらるべし。只其牧歌と「ウインドソー」林の二篇は、自然に關する作なれども、是とても天地の靈活なる景物に感觸して衷情を吐露したりとは思へず。且其思想に到つては固より斬新にして讀者を聳動するの點なし。「ポープ」自ら批評論中に宣言して曰く、
 “True wit is nature to advantage dress'd;
  What of twas thought,but ne'er so well express'd.”
と。其意を詞藻の上に費やして、意匠の雋妙なるを願はざるや知るべきのみ。要するに其牧歌は郊外の牧歌にあらずして、舞臺の牧歌なり。篇中の牧童は澗花野草の間を徘徊せず。銀燭の下、繍屏の前、申し譯の爲め鬘を被りて羊飼の茶番をなすが如し。作者自ら牧歌論(Discourse on Pastoral)を草して篇首に掲ぐ。其窮屈なる、讀者をして妙に驚かしむ。其上日本人が讀んで一層面白くなきは、詩中に引き合に出さるゝ古名なり。例へば「ダフニス」とか「アレキシス」とか云ふ字を遠慮なく駢列し、東洋の讀者をして思はず欠伸せしむ。「ダフニス」は「マーキユリー」の子にして羊を牧する者なり。「アレキシス」は「ヴ※[ハの小字]ージル」の「エクローグ」中にある人物なり。抔と合點の行く迄は、一通り古典字彙と相談せざるを得ず。相談して其故事來歴を胸中に疊み込んだ處で、如何程吾人の詩情を刺激するや。(かけまくもあやにかしこき)抔は、譯は分らずとも、何となく有り難き心地のせらるゝは、全く幼時よりの習慣に外ならず。咄「ダフニス」「アレキシス」何者ぞや。汝の素性を知るも、われ固より毫釐の愉快を感ぜざるなり。且つ其風景を敍するに當つては、巧を求むる事愈急にして、巧に失する事愈甚し。
  〃Here waving groves a chequer'd scene display,
  And part admit,and part exclude the day;
  As some coy nymph her lover's warm address,
  Nor quite indulges,nor can quite repress.”
通讀一過すれば、人をして轉々比喩の輕妙なるを感ぜしむれど、二讀三讀の後は、興味自ら索然たり。朗誦數番の後に至つては、復一點の人を動かす者なし。詩品高からざればなり。
 「ポープ」の傍輩「アヂソン」は、明かに山川の趣味を解したりと覺しく「スベクテートー」第四百十四號に、自然と人巧とを軒輊して曰く、後者には浩蕩の景なく、磅※[石+薄]の氣なきが爲め、詩情を動かすの點に於て甚だ不足する所あり。人間の細工善しと雖ども、温籍にして繊巧なるに過ぎず。雄唆博大の氣象、觀者をして絶叫せしむるに至つては、固より自然に待つなきを得ずと。實に適當の斷案と云ふべし。然るに僅か數行下に至れば、語勢急に一轉して、論旨忽ち逆戻りを爲す。其言に曰く。成程假山盆池は亂山野水に及ばざるべけれども、天然の眞景、人爲の小細工に似れば似る程、興味の加はるものなりと。蓋し「アヂソン」の了見にては、造化の所作が人間の意匠を含めば、所謂天人一致の景を生ずる故に其趣味益加はると考へしなるべし。去れど、其言を論理的に吟味すれば、不都合の角なきにあらず。先づ「天然が人爲に似るときは、前者の價値益貴し」と云る命題を、仔細に思議すれば、其前半には、四個の異なる場合を含むを見るぺし。第一造化人爲相似るは、兩者の間に相互の意識ありての事か。やさしく云はば、其似るは、御互に約束づくで、君の眞似がして見たい、よろしいやり玉へと云ふ樣な相談あるか。第二は相方とも無頓着にて、一向豫約の相談のと云ふ事なく、突然無意無識の裏に合したるか。或は相手の一方は眞似たいとの志願あれども、一方にでは御かまひなく、所謂片思ひの間に成立したるものか。何にもせよ兩者が似る以上は、以上四種の中、いづれか其一に居らざるべからず。今解し易き爲、此四色の場合を表にて示せば左の如し。
  第一 天無意、人無意。
  第二 天無意、人有意。
  第三 天有意、人無意。
  第四 天有意、人有意。
 右の内第三第四は採用しがたき者なり。天に意識あり自然に意匠ありとは、常識の許さゞる處、假令ひ常識以外に一隻眼を具へで、天に意志ありと説くも、其意志は人巧に似んと欲するの意志なるや否やは殆んど疑問外に超脱するの點と云ふべきなり。倪黄の筆意を慕ふて、※[山+賛]※[山+元]の山突兀として、地球上に現出せりとは、理を解する者の誰しも夢想せざる處なるべし。去れば右四條の中許容すべきは、第一と第二のみ。其許容すべき二條の第一は、理窟上不都合なきも、實際は萬に一つも起らざる場合なり。例へば畫師が想像を逞くして、牡丹の傍に、唐獅子とか云ふ一種異樣な動物を描き、又は溌墨淋漓の裏に、龍とか稱ふる怪物を寫さんに、不思議にも脳裏一團の怪像世間に實在して、暗雲黒雨の際に隱約として蒼鱗鐵爪を認め、嫩江嬌緑の底に金毛霜牙を見る人續々あらば兎に角、實際斯樣なものは餘りどころか、誰も拜見した人なければ、此場合を除去するも差支へなからん。斯く四條の中、三條は役にたゝぬとすれば、役に立つもの實際生ずる場合は、第二に外ならず。第二の場合とは天化人造に似るに意なく、人造天化に似るに意あつて、兩者の間に類似の生ずる場合なり。今少し平たく云へば、人が自然を摸擬し、摸擬したる結果遂に人巧と自然の間に髣髴たる點を見認め得るに至りしものなり。そこで通例修辭上の順序より云へば、摸倣したる者が摸倣さるゝ者に似ると云ふが適當にて、例へば山陽が蘇東坡を摸したりと云ふ事判然たる以上は、蘇東坡が山陽に似ると云はんより、山陽が蘇東坡に似たりと云はん方適當ならん。尤も親が子に似るも、子が親に似るも、似るは一なれば何處《どち》より云ふも、理窟上不都合なしと云はゞ夫迄なれども、自然が人巧に似る時は、前者の價益貴し〔七字右○〕と云ふに至つては、大に其意を得ざる者あり。眞似らるゝ者が眞似る者に類する故に、一段の光彩を添ふと論じ來る。眞似らるゝ者は隨分迷惑の話しなり。落語家の假聲が役者に似たらば、其が爲めに價値の増すは、役者にあらずして落語家にあり。さるを假聲が旨き故、役者のねうちが上ると云ふに至つては、役者の不平察すべきなり。天地固と意なし。若し之れ有らば必ずまさに「アヂソン」に向つて其憤りを泄さん。深閨の處女擬して娼妓に扮す。卑賤の婦良家の女に衿式せらる、其榮思ふべし。眞似らるゝ者の價値が眞似る者の爲に生ずるは獨りかゝる場合にのみ限る。「アヂソン」自然に對する事娼婦の如く、人巧を遇する事良家の女の如し。其當否は偖置き其人巧を重んじたるは、復疑ふべからず。既に前段に於ては造化の雄渾瑰麗なる遠く人巧に駕すと説きながら、末段に至つて、人巧を重んずる事造化に過ぎたり。矛盾に非ずして何ぞや。論理的の筆鋒を用ひて定規づめに文人の所説を駁するは、惨酷の致し方なれど、誤ちある以上は是非なし、よし一歩を讓つて、此誤ちを等閑に付するも、「アヂソン」が重きを人爲の上に置くの分に過ぎたるは掩ふべからざるの事實なり。
 「アヂソン」「ポープ」は當時の文豪なり。其天然界に對する感情を觀て、他の意志のある處は、大概察するに足らん。猶其他の例を知らんとならば、Thomas Sergeant Perry, Mountains in Literature, in Atlantic Monthly、Vol.XLIV,p.302+ を參考すべし。當時の人は、概ね皆かくの如く、殆んど、一人も目を天然界に注ぐ者なく、俗氛塵氣の裏に生息して得々たりしが、物極まれば反るの道理にて、漸くかゝる社會に不滿を抱き、人巧世界を解脱して、轉捩一番直ちに人情の源頭に歸着せんと欲する者輩出せるものから、偖こそ自然主義及び「ローマンチシズム」と稱する二つの新象を文壇に見はすに至りたるなれ。一は思索の結果にて、歌舞燕遊の樂をすて、置酒高會の小天地を※[手偏+敝]脱して、廣く江湖に飄流し、青山白雲の趣きに俗腸を洗ひ清めんと欲し、一は歴史的の現象にて、遠く中世紀に溯り、普く遐方殊域の人間を捕へ來りて、世界共通の情緒を咏出せんと欲す。此歴史的研究は十八世紀の中頃、「マクフアーソン」及び「チヤタートン」抔が古文書を僞造して一世を瞞着せんと企てたるにても明かなるのみならず、千七百六十五年に「パーシー」が Reliques Of Ancient English Poetry とて上代の謠歌を編纂して出版せるを見てもわからん。尤も「ローマンチシズム」の事は問題外なれば措て論ぜず。但し文學者によると此自然主義と「ローマンチシズム」を區別せず。且つ余が知る所を以てすれば、「自然主義」と別に標題を掲げて論じたるは、「ゴス」の十八世紀文學及び其他二三の書にすぎざれど、余は此主義を以て斷然「ローマンチシズム」と區別し、密接の關係あるにもかゝはらず、兩者を混合するなからん事を望むなり。兎に角此自然主義が如何にして發達し來りたるやと云ふに、前に述べたる如く「ローマンチシズム」の勃興と共に、山川を咏出する詩人漸く輩出するに至り、遂に「ポープ」一派の詩風を杜絶せんとするの勢を生ぜり。其人々を擧ぐれは、「トムソン」「グレー」「コリンス」「ゴールドスミス」の諸家にて、或る歴史家(「コツペー」と覺ゆ)は是等の詩人を總稱して過度の詩人といへり。蓋し其詩巧緻派と自然派の中間に立つの謂なり。
 然し是等の詩人を一々に評隲せんは、中々手數のかゝる仕事なるのみならず、調べも行き屆かざる故、其内より一二人を選んで、其大體を御話し申さん、先づ第一に來るものを「トムソン」とす。此人は時代より云へば、巧緻派の詩人に相違なきも、殆んど取り除けの姿にて、其詩思別に一機軸を出して、清曠時流を壓せり。されば「レスリー、スチーブン」も之を許して、(English Thought in the Eighteenth Centtlry)“He was an outsider of that brilliant Society”と云へる位にて、其の自然を愛したるは The Seasons を讀んで明かに之を知るを得べし。其詩は春夏秋冬の四部より來り、毎部其期節に關する一切の風景を敍したる大文字なり。假令此大文字なきも、既に Of a Country Life の首に、
 “I hate the clamours Of the smoky towns,
  But much admire the bliss of rural clowns.”
と咏じたるにても、其嗜好の一斑は窺ひ得べし。且つ其風光を敍するに當つて、古來の文人が毫も意を留めざりし、山川を描して、斬新の元素を文界に輸入せるは、一見識あるの作家といふべし。去れば「カムブリヤ」の山を寫しては、
 “To where the broken landscape,by degrees
  Ascending,roughens into rigid hills;
  O'er which the Cambrian mountains,like far clouds
  That skirt the blue horizon,dusky rise.”
といひ、又「トウイード」の水を引用して、
 “You,On the banks of soft meandering Tweed,
  May in your toils ensnare the watery breed,
  And nicely lead the artificial flee,
  Which when the nimble,watchful trout does see,
  He at the bearded hook will briskIy spring:
  And,When he's hook'd, you with a constant hand
  May draw him struggling to the fatal land.”
と左も愉快らしく漁獵の樣を述べたり。試みに之を「ポープ」の「ウインドソー」森中に云へる下の敷句に比較せん。
 “In genial sprlng,beneath the quivering shade,
  Where cooling vapours breathe along the mead,
  The patient fisher takes his silent stand,
  Intent,his angle trembling in his hand:
  With looks unmov'd,he hopes the scaly breed,
  And eyes the dancing cork,and bending reed.
  Our plenteous streams a various race supply,
  The bright-ey'd perch with fins of Tyrian dye.
  The silver eel,in shining volumes roll'd,
  The yellow carp,in scales bedropp'd with gold,
  Swift trouts,diversified with crimson stains,
  And pikes,the tyrants of the wat'ry plains.
 「トムソン」「ポープ」共に同樣の事を、同樣の詩風にて述べ立てたり。但し流麗の點より云へば、「ポープ」「トムソン」に優るが如しと雖ども、飾り氣なき處より觀れば、「トムソン」の方「ポープ」に駕せん。夫のみならず、「トムソン」の詩は、かゝる叙事にて充※[牛+刀]し、其田舍を愛するの情、油然として筆墨の上にあらはるゝなり。尤も一言せざる可らざるは、此男かく自然を愛したりと雖ども、申さば死したる現象の往來復剥する樣を外面より寫し來つて、毫も其内部の活動を會せず。只雪が降る。風が吹く。花が咲く。田舍は面白し。釣りも自由なれば、獵も勝手に出來る。去るが故に、……grant,ye powers,that it may be my lot,/To live in place from noisytowns remote といふなり。高尚なる詩想は、中々此位の事では濟まず。漸々自然主義が發達するに從ひ、景物界は活動力なり。天地間には鬱勃たる生氣あり。抔感ずるに至るなり。
 「トムソン」の自然主義一轉すれば、「ゴールドスミス」の自然主義となる。蓋し泰西の文學史家、此好詩人を以て自然派の中に入れたるはなき樣なれど、こは其詩の當時に流行せる雄聯體《ヒロイツクカプレツト》を用ひて、「ポープ」の故型を踏襲せるに由るに過ぎず。其意志の向ふ所を觀れば、※[しんにょう+向]然として前輩と同じからず。之を自然派中の一詩人と呼ぶも、毫も不可なきが如し。然らば其山川に對する觀念は如何。夫の有名なる The Traveller 及び The Deserted Village の二篇、明かに其所思を表出して餘りあらん。蓋し「ゴールドスミス」の愛する景色は、※[山/龍]※[山/從]の山にあらず、※[さんずい+光]洋の水にあらずして、温籍平穩の樂境にあり。一壺の別天地 Where smiling spring its earliest visit paid,/And parting summer's lingering blooms delayed と云ふ樣な處にして、其仙郷染みたる景物中には、人物が生息して、而も安樂無事に閑生涯を送らざるべからず。必ずや The shelter'd cot,the cultivated farm,/The never-failing brook,the busy mill を具せざるべからず。必ずや軟草氈の如く、春草油の如く、老幼は相携へて其上に遊び、少長坐を分つて其傍らに坐せざるべからず。走らば其山川を愛するは、夫程山川其物を愛するにあらず。山川善く朴※[木+内]温厚の民を撫育し、都會の紅塵桃源の仙郷に到らざるが爲のみ。故に人は主にして、山川は客なり。只に客なるのみならず、深山大澤無人の境に至つては、歩を回らして卻走せんとす。元來「ゴールドスミス」は、農業主義を重んじて、商賈主義、工業主義下つては錙銖爭奪主義、毫厘懸引主義を痛く嘆きし人にて、 Ill fares the land,to hastening ills a prey,/Where wealth accumulates,and men decay ともいひ、又は Laws grind the poor,and rich men rule the law とも、 Hence,should one orde disproportion'd grow,/Its double weight must ruin all below とも嘆じ、力を極めて經濟的の世界觀を排撃せり。是は恰も「ゴールドスミス」頃より、現今の政治經濟と云へる學問が漸く開けて、「ヂスレリー」の云へる如く、人間を視ること貨物の如く、有形的産出物の多寡にて、其價値を判ぜんとするの傾きを生じたる爲め、保守主義の詩人の事なれば、飽迄此風潮に逆らつたる次第ならん。果せるかな、「ゴールドスミス」死して漸く二年なるに、夫の有名なる富國論の著あり。(千七百七十六年)著者「アダムスミス」其中に記して曰く。 That unprosperous race of men,called men of letters,must necesarily occupy their present forlorn state in society much as formerly,when a scholar and a beggar seem to have been terms very nearly synonymous と。文人も乞食同樣なりと斷言せらるれば夫迄なり。「ゴールドスミス」如何に閭巷に窮したりとて、乞食と罵られては餘り心持よくあるまじ。幸ひにして富國論に先つて死し、此悲むべき異名拜見の榮を免かれてさへ、其功利説に反すること斯の如し。若し富國論を見たら何とか云はん。兎に角「ゴールドスミス」は、田舍の生活を愛せし人なり。之を愛したるが故に、之に伴ふて離すべからざる、田園、村巷、小川、水車等、一に天然の景物を愛したり。然れども人を離れて山川を愛することなきなり。山川其物を戀ふことなきなり。「ポープ」の如く、宴席の小天地に跼蹐せるに優ること遠しと雖ども、自然を愛する事食色に優る抔とは、申し難からん。
 「トムソン」の The Seasons は無韻體なれど尚時調に拘束せらるゝを免かれず。「ゴールドスミス」の詩思、大に「ウオーヅウオース」に近づけりといへど、其風格未だ雄聯體を脱する能はず。此陋習を一洗して、詩法崇拜の迷夢を撹破せるものを「クーパー」となす。英詩「クーパー」に至つて、一革命を經たりといふも可なり。
 「クーパー」甞て「ホーマー」の詩を譯しけるとき、(千七百九十一年)、或人其草稿を覽て、一二行を改竄せんとしければ、大に怒つて直ちに書を裁して其人に寄せ、先づ當時の詩風は流麗を尚び、「ポープ」を祖述するに過ぎざる由を述べ、且つ云ふ樣、「……去れど若し「ポープ」を摸して、其眞を得る事能はず。章句の整然たる、格調の圓滑なる、彼が如くなる能はずんば、全く之を眞似ざるの優れるに若かず。眞似たる詩には氣力なし。皆骨拔なり。たとひ一句なりとも、意味のある事を咏ぜば、それにてわが願は足らん。全篇流暢、聽者の耳を傾くるに足るも、其説く處、痴人の※[口+藝]語に等しきは、わが望むところにあらず」と。斯る氣分故、夫の有名なる The Task 中には、 Damon,Chloe,Strepfon,Musidora 抔いふ、不都合なる古典的の苗字を用ふる事、極めて希なるのみならず、前人の曾て使ひし事なき、黄瓜とか、糞尿とかいふ、穢なき文字を、遠慮なく※[月+盧]列して大に得意の色あり。且つ一篇の結構抔は、隨分亂暴にて、長椅子を咏ずると思へば、忽ち田園の景色となり。再轉すれば、宗教の議論となり。夫が濟めば、直ちに奴隷問題に移るといふ樣に、惡くいへば取留めのなき位なり。詩風既に此の如くなれば、其詩想の程も大概は推察し得べし。今其自然に對する詩想を説くに當つて、聊か其出處を審かにせん。
 人世に不平なれば、必ず之を厭ふ。世を厭ひて人間を辭職するものあり。小心※[石+經の旁]※[日/木]の人これなり。世を厭ひて之を切り拔けるものあり。敢爲剛毅の人これなり。濁世と戰つて屈せざるものは、固より勇氣なくては叶はぬ事。五十年の生命を抛つて、自ら憤懣の肉を屠るもの、亦相應の勇氣を要すべし。かほどの勇氣なくして世に立つの才なく、又世を容るゝの量なくば、如何にして可ならんか。餘命を風塵に托して、居ながら餓※[草冠/孚]たるを待つ。是一方なり。殘喘を丘壑に養ふて、閑雲野鶴に伴ふ。是亦一方なり。「クーパー」は此最後の策をとりしものなり。之をとらざるべからざるの人物なり。
 「クーパー」は少時法律を修め、長じて腰を斗米に折るの意あり。されど科第の試驗に、心を勞する事一方ならず。受驗の前夕に至つて、憂懼禁ずる能はず。遂に試場に足を入ずして已みぬ。斯る内氣の人、此險惡なる世に身を處して、立脚の地を得べきか、得べからざるか。智者は勿論なり。※[目+未]者と雖も明かに之を龜卜するを得ん。顯微鏡の力を藉らば、一匹の蝨も獰惡なる豺狼に優らん。「クーパー」は常に顯微鏡を通して、浮世を觀じたるの人なり。胸中一團の憐情は、之を與ふるの愛人なく、之を分つの親友なく、之を一宗して自然に供するの已を得ざるに至れり。己れが滿腔の熱血を沸騰して、之を毛孔より射出せしめ、死灰に等しき身を棄つるは、固より難事にあらず、萬斛の愁情を氷結せしめて、一個の冷血動物となり果てたる人の世を逃るゝは亦容易の業ならん。今石佛にもあらず、冷血漢にもあらず、中以上の人情を有せる、「クーパー」が、山林に退きたるは、退かんとの心あらざるに、世態人情之を驅つて田舍に追ひ込めたるなり。これ「クーパー」が世を捨てながら「アンヰン」を捨てざる所以なり。「オースチン」を捨てざる所以なり。domestic poet (家内の詩人)と呼がるゝ所以なり。若し之を遇するに其道を以てし、丁寧親切至らざる處なくんば、其自然主義或はかく迄には發達せざりしならん。
 「クーパー」の自然主義は、己れを土臺にして發達せるものなり。「ゴールドスミス」の自然主義は、人を根本にして起れるものなり。殖産興業の途開けて、貧民其生を安んぜず。澆季風をなして道心漸く微なり。故に山川主義でなくてはならぬと、説法したるが「ゴールドスミス」にて其由來するところは、世の爲め、人の爲めなり。「クーパー」は全く之と異にして、我は我が安心を求むる爲めに、是より浮世を御暇ま申す、俗界の人々は勝手次第にせよ、と云ふが素志なり。其
 “God made the country,and man made the town.
  What wonder,then,that health and virtue,gifts
  That can alone make sweet the bitter draught
  That life holds out to all,should most abound
  And least be threatened in the fields and groves ? ”
と咏ぜるは、單に之が爲めなり。「ゴールドスミス」文を賣つて餞を得ること若干、歸途乞食に遇て盡く之を與へたり。「クーパー」は終身爲す所なくして婦人に寄食し、一毫も己れを割て人に資するを知らず。其性既に然るなり。
 かく云へばとて、「クーパー」は決して不人情の人にあらず。其所爲不人情の如く見ゆるは、有爲の氣象に乏しきが爲め、精魂乏しくして、物事に堪ふるの力なきが爲めのみ、己れを損ぜざる限りは、誰人をも愛したるのみならず、其情けは下禽獣に及べり。去れば The Task の六卷 The Winter Walk at Noon と云へる章に、自ら兎や鳩の類と親しくなりて、毫も己れを恐れぬ樣を敍し、其次に、
 “The heart is hard in nature,and unfit
  For human fellowship,as being void
  Of sympathy,and therefore dead alike
  To love and friendship both,that is not pleased
  With sight of animals enjoylng life,
  Nor feels their happiness augment his own.”
と云へり。「トムソン」も禽獣を愛せざるにあらず。其證據には夏の部羊の毛を刈る條りに、
 “Fear not,ye gentle tribes,'tis not the knife
  Of horrid slaughter that is o'er you waved;
  No,'tis the tender swain's well-guided shears,
  Who having now,tO pay his annual care,
  Borrowed your fleece,to you a eumbrous load,
  Will send you bounding to your hills again.”
とあれど、全體より評するときは、其田舍を愛するは釣が出來る。釣が出來れば、魚が食る。獵が出來る、獵が出來れば獣が食る。といふ樣な考へ大分あり。是は隨分賤しき考へにて、毫も風流の趣あらず。故に此點に關しては、「クーパー」「トムソン」に一歩を進めたるものと云ふべし。又此感情「バーンス」に至つて如何に其極に達せしかは、後段に説く處あるべし。
 「クーパー」の自然主義は、先づ親樣なものなれども、未だ其實例を擧げざれば、「タスク」中より一節を引證せん。上には動物に就て「クーパー」と「トムソン」を比較せし故、茲には純粹の景色に就て兩人を軒輊せんと思ひ、之を選ぶ事下の如し。(前は「タスク」の第四卷 The Winter Evening 中にある雪の景、後は「シーゾンス」中冬の部にある雪の景なり)
 “I saw the woods and fields at close of day
  A varlegated show;the meadows green,
  Though faded;andt he lands,Where lately waved
  The golden harvest,of a mellow brown,
  Upturned so lately by the forceful share.
  I saw far off the weedy fallows smile
  With verdure not unprofitable,grazed
  By flocks,fast feeding,and selecting each
  His favourite herb;While all the leafless groves
  That skirt the horizon,wore a sable hue,
  Scarece noticed in the kindred dusk of eve.
  To-morrow brings a change,a total cbange!
  Which even now,though silently performed
  And slowly,and by most unfelt,the face
  Of universal nature undergoes.
  Fast falls a fleecy shower:the downy flakes
  Descending,and,with neVer-ceasing lapse
  Softly alighting upon all below,
  Assimilate all objects.Earth receives
  Gladly the thickening mantle,and the green
  And tender blade,that feared the chilling blast,
  Escapes unhurt beneath so warm a veil.”
     ――――――――――
 “The keener tempests come;and,fuming dun,
  From all the livid east,or piercing north,
  Thick clouds ascend-in whose capacious womb
  A vapoury deluge lies,-to snow congealed.
  Heavy they roll their fleecy world along,
  And the sky saddens with the gathered storm.
  Through the hushed air the whitening shower descends,
  At first thin-wavering:till at last the flakes
  Fall broad,and wide,and fast,dimming the day
  With a continual flow.The cherished fields
  Put on their winter-robe of purest white.
  'Tis brightness all,save where the new snow melts
  Along the mazy current.Low,the woods
  Bow their hoary head;and,ere the languid sun,
  Faint from the west,emits his evening ray,
  Earth's universal face,deep-hid and chill,
  Is one wild dazzling waste,that buries wide
  The works of man.”
 今試みに上の二章を比較せんに
 (一) 讀者の想像を動かす處、「クーパー」の方大に「トムソン」に優さり。「クーパー」は雪を敍するに當つて、先づ雪前の景色を寫し、中途より To-morrow brings a change! なる一轉語を下して、始めて雪にうつれり。是白き者を見せる前に黒き者を示せるにて、此二段を照應して、讀者の胸中に雪と云ふ、感じを印し、覺えず前後映帶の妙を知らしむ。「トムソン」に至つては、此反映なく從つて讀者の感じも左程強からぬ樣に思はる。
 (二) 文字の用方及び句法に至つては、「クーパー」の方簡易平直なるが如し。「クーパー」の Earth receives gladly the thickening mantle は、「トムソン」の The cherished fields put on their winter robe of purest white となり、「クーパー」が Fast falls a fleecy shower と云へば「トムソン」は Through the hushed air the whitening shower descends と歌へり。降雪を形容して頗る妙なるが如くなれど、兎に角簡の一字に於ては「クーパー」に及ばざらん。
 (三) 「クーパー」の句を讀めば、其深く物の憐れを感じたるを見る。 And tender blade,that feared the chilling blast/Escapes unhurt,beneath so warm a veil と云へば、如何にも自然を氣遣へる樣を見るが如き心地す。「トムソン」の如く、 Low woods bow their hoary head とありては、同じ擬人法には相違なきも、左程に草木を愛するの状は見えざるべし。
 單に此二章のみを擧げて、兩詩人の差此にありと云ふにはあらねど、其變化發達の一般を示さんとて妄評を試みたる事此の如し。
 自然主義を論ずるに當つて、看過すべからざるものを、「バーンス」となす。「バーンス」が如何なる點に於て、前輩と異にして、如何なる方向に進んで、新元素を輸入せしかを研究せんとするに當つて、記憶すべき事あり。
 「バーンス」は貧賤なる百姓の子なり。固より完全の教育なく、古文古詩を弄して其詩想を養ふべき樣なし。幸に農家に生れ、鋤雲耕月の餘、詩靈の乘移るところとなり、忽然として口を開いて天地の美を歌ふに、前に古人なく後に來者なし。是他なし直接に天地の威驗に感じたればなり。家なきも山あれば足れり。天地に定主なし。當てどなく野路に彷徨ひて、飽まで自然の樂みを享けんとは、彼が Epistle to Davie に云ふところなり。
 “What tho' like commoners of air,
  We wander out we know not where,
    But either house or hall?
  Yet nature's charms,the hills and woods,
  The sweeping vales and foaming floods
    Are free alike to all.”
 かく迄に山川を愛したるは、其身百姓にて、親しく之を翫味し得るの地位に居りしが爲には相違なきも、其性質の深く物に感じ易きに因る事、大ならん。元來自然を形容し、天地を敍する丈なら、別に情けの深からずとも、才氣あらば夫にて充分なるべけれど、天地自然を樂しむに至つては、是非共此性質を具へざるべからず。「バーンス」は其性質を具へ過ぎたる程の人なり。前段に「クーパー」と「トムソン」を比較して、前者の動植物に對する憐情は、後者に優る由を述べ、又人間に對しては、「ゴールドスミス」の方「クーパー」よりも情合深かゝりし事を説きたるが、今此情「バーンス」に至つて、如何に變化せしやを論ぜんとす。
 「ゴールドスミス」の社會に對する不平は、單に經濟上の不都合にあり。「クーパー」の不平は宗教的にて、人間の虚榮は、上帝の惡み給ふ所なりと感じたるが如し。「バーンス」に至つては、四民平等と云ふ點より、世界を觀察して不平の源となせり。三人皆不平なりと雖 ども、其根を掘れば各異なり。 A Winter Night 抔を讀むときは、 The Deserted Village に似たる處なきにあらざれど、勿論思想上 “A man's a man for a'that” 抔 は「ゴールドスミス」の決して同意せざる點なるべく、又The Twa Dogs抔には「クーパー」の主義と似たる場所往々あれど、 A Peck o'Maut に至つては、「クーパー」の眉を蹙め顔を背くるところあらん。要するに「バーンス」の人に對する情合は、前の二詩人より一歩を進めて、四海兄弟主義となれるものなり。今此主義を山川界に應用するに當つて、其情如何にして現出し來れるか。之を説明するが「バーンス」を論ずるの本領なり。
 今便宜の爲め之を二段に分ち、(一)禽獣に對する情、(二)死物、即ち花卉草木に對する情、と區別して論ずべし。
 (一) 禽獣に對する情は、敢て「バーンス」の特有にあらず。「クーパー」既に此傾きを有せるは、前段に述べたるが如くなれど、「バーンス」に至り其愛情數歩を進めて動物を視る、幾んど人間を視るが如し。甞て耕耘の際、野鼠の巣を掘り返したるを悲んで、之を咏じて曰く。
 “Im truly sorry man's dominion
  Has broken Nature's social union,
  An'justifoes that ill oplnion,
    Which makes thee startle,
  At me,thy poor,earth-born companion,
    An'fellow-mortal.”
 高が一匹の鼠なり。而も穀作に害を與ふる鼠なり。今之をとらへて、君はわが同輩なりと云ふ。誰か其新奇なるに驚かざらん。さはれ生を天地の間に享くる者は、螻蟻の微と雖ども、皆有情の衆生なり。たとひ萬物の靈なりとて、故なくして之を※[爿+戈]ふの理窟やはある。人間何者ぞ。固是蠢々たる虚榮の塊まり。漫りに地上に跋扈して、これ我が所有なりと叫ぶ。不遜も亦甚し。情を解するの男兒は、吃蚤の血に指頭を染むるをすら屑しとせず。況んや天に翔り、地を走るのやからをや。今詩人朋友を以て老鼠を待つ。之を笑ふ者は、情を解せざるものなり。又詩を解せざる者なり。左の敷句に至つては、益解する能はざるものなり。
 “Why,ye tenants of the lake,
  For me your wat'ry haunt forsake?
  Tell me,fellow creatures,Why
  At my presence thus you fly?
  Why disturb your social joys,
  Parent,filial,kindred ties?
  Common friend to you and me,
  Nature's gifts to all are free.”
 是「バーンス」が、水禽の己れに驚いて、拍々として飛去りしを憐んで、咏出せるの句なり。鴈や鴨を指して fellow creature と呼び、彼等苟も世に生息する以上は、人間と等しく自然を樂しむの權利あるを説く。洵に情に篤き人なり。世の中には鴨を見て晩餐を思ひ出すものあり。鷄を眺めて食指を動かすものあり。甚しきに至つては「ステツキ」を振廻し、罪もなき飼犬に手創を負せて得々たる者あり。是等の輩は啻に風流の罪人なるのみならず皆「バーンス」の罪人なり。見よや。無辜の兎を跛足にしたる獵人の、如何程詩人の心を傷めしかを。
“Inhuman man!curse on thy bab'rous art,
 And blasted be thy murder-aiming eye;
 May never pity soothe thee with a sigh,
 Nor ever pleasure glad thy cruel heart!”
 「バーンス」の禽獣を愛する事此の如し。中々「クーパー」抔の及ぶ所にあらず。「ミツシス、オリフアント」は( Literary History of England 1790−1825,Vol.I,p.99. )「バーンス」の A Winter Night と「クーパー」の Now stir the fire,and close the shutters fast 云々といへる句を比較して、一方は三冬の風雪に戸を閉ぢ爐を擁し、半椀の茶に詩腸を潤さん事を望み。一方は半夜恕風の屋を※[しんにょう+堯]つて叫號するを聽き、惻然として戸外に悄立する家畜を思ふと云へり、兩詩人心行きの差、固より此の如く甚しからずと云へど、其情合の淺深厚薄は、此一點にても略推知するを得べし。かく迄に動物の心情を思ひ遣るは、英詩人中希に見る所なるべけれど、決して「バーンス」のみに限らざるは既に前段に述べたるが如し。但其非情の草木をも、己れと同一視するに至つては他に其例なかるべし。されば、
 (二) 一本の野菊を、鍬の刃にかけて斷ち切りしとき太く之を傷み詩を作つて之に謝して曰く。
 “Wee,modest,crimson-tlpped flow'r,
  Thou's met me in an evil hour;
  For I maun crush amang the stoure
        Thy slender stem;
  To spare thee now is past my pow'r,
        Thou bonnie gem.”
 是全く同類に對するの句調なり。既に鼠を以て人間とし、鴨を以て人間とし、兎を以て人間となして猶足らず。一莖の野菊だも、且人間を以て遇せんと欲す。其天稟の至情、深ぐ骨髓に浸み渡るに非ずんば、曷ぞ能く斯の如くならんや。口に平等を説きながら、事に臨んで高下の分を守る者あり。是理餘りあつて、情足らざればなり。此輩「バーンス」の句を讀まば、當に愧死すべし。但し「バーンス」の情はなほ此にとゞまらず。
 “Ye banks and braes and streams around
    The castle o' Montgomery,
  Green be your woods,and fair your flowers,
    Your waters never drumlie!”
   * * * *
 “Ye banks and braes o'bonnie Doon,
    How can ye bloom sae fresh and fair!
  How can ye chant,ye little birds,
    And I sae weary fu'o'care!”
と云ふを見れば、坡塘樹石に對するも、猶人に語るが如し。自然主義一方より其頂點に達したりといふべし。
 以上の諸例は、皆「バーンス」の自然に對する感情を示す者なるが、今此諸例を取つて吟味するに、一として對話法《アポストロフヒー》ならざるはなし。先づ理窟一遍に考ふれば、人間が向ふへ廻はして、談論を試むべき者は、人間以外にあるべき筈なし。獣は走り禽は飛ぶとも、固より之を相手にして語るに足らず。況んや花卉草木をや。又況んや泉石煙霞をや。今此非情の物を捉へて、君と云ひ僕といふ。是既に之を待つに非情を以てせざるなり。之を人に擬したるなり。之に一團の靈氣を付與したる也。自然主義の極端なり。元來俗眼を以て天地を見渡すときは、自然程冷淡なる者はあらず。成程人間には、親殺しもあり。大泥棒もあり。一方より觀れば、極めて險呑なるに相違なけれど、其代りには、善人もあり慈父もあり。孝子もあり。刎頸の友、霜操の妻もあるべし、加之何人にても全く徳義心なきものは、あらざるべし。之に反して自然は寸毫も情を解せず、如何程此方より愛情を與ふるも、彼より之に酬ゆる抔といふ事は一切なし。故に俗語にも、無情を形容して木石の如しといへり。夫れ愛は相對なり。一脈の靈氣、甲を去つて乙に入り、乙に入るもの又返つて甲に入る。我起動者たれば、彼は反動者なり。與ふる處あれば、必ず受くる處あり。動と反動と互に應じて、戀愛の念始めて深し。人は此動と反動とを解する者なり。故に俗物は只人を愛するを知るのみ。自然は動を受くる事を知る。去れど之を反す事を知らず。之を愛するは石を水に投じて手應へなきが如し。故に世人は自然を樂しむ能はず。今「バーンス」此手應なきの自然を愛し、寤寐忘るゝ能はざるは何の故ぞ。是自然を以て人間に擬したればなり。人間に擬したるにあらず。人間としか思はれざればなり。草木、泉石、花卉、※[令+羽]毛、彼が瞳子に入る者は、一として喜怒袁樂の情を具せざるはあらず。既に此情を具ふる以上は、我之を愛すれば、彼亦我を愛せん。我彼を愍まば、彼亦我を慕はん。所謂動と反動の大則彼我の間に行はれて、而も普通の人間の如く、我を※[爿+戈]び我を傷くるの憂なし、觀じて茲に至れば、自然界は猶人間界の如し。但觀じて茲に至ると、茲に至る能はざるが詩人と常人の差なり。感情鋭どく想像深き事、「バーンス」の如くにして、始めて此境界に入るを得るなり。尤も「バーンス」が用ゐたる對話法は、西洋文人の慣用手段にて、中には只修辭上の方便として、山川に對して汝とか君とか二人稱を用うるものあり。又たとひ心中の深情が、文字の上に見れて、此對話法となりたる中にも、自ら深淺の區別ありて、其深き者は自然を以て純然たる一個の活動力となし、全く己れと同樣なりとなせど、淺き者は之を愛憐するにも關せず、所謂人生の analogy を擴げて、之に及ぼすこと能はず。喩へば、「バイロン」の Address to the Ocean に、
 “Roll on,thou deep and dark blue Ocean一roll!
  Ten thousand fleets sweep over thee in vain:”
と云へば(汝)と大洋を呼びかけたるにも關せず、第二行に至れば、明かに汝即ち活物といへる性質を存せず。「バーンス」の(汝)は之に異にして、終始同輩に對するの(汝)なり。此同輩なる(汝)といふ文字、全詩を貫くが故、自然は決して器械的の死物とならず。「バーンス」の眼を以て之を觀れば、何れも喜憂の感情に支配せらるゝが如く思はるゝなり。既に自然を以て内界の感じを有する者とすれば、之に對するの觀念は只に客觀的なるのみならず、又主觀的なり、是「バーンス」の前輩に異にして反つて野蠻人に似たるところなり。但野蠻人は、自然に驚き且之を懼るゝ者故、果ては之を目して怪力となし、亂神となすに過ぎざれど、「バーンス」は憐愛の極、遂に天地山川を己れと對等視するに至れるなれば、其間には非常の異あるが如くなれど、其自然を活すに於では均しく一なり。「ミソロジー」も詩なり。「リヽツク」も詩なり。去れど之を混同するものは愚なり。二者の異同を審かにする者は、又能く「バーンス」と野蠻人の區別を知らん。
 「バーンス」に繼で自然主義を唱道せる者を「ウオーヅウオース」となす。「ウオーヅウオース」の自然主義を分つて三とす。(一)詩體の平易にして散文に近き事。(二)詩中の人物大概は下賤の匹夫なる事。(三)自然に對する觀念他の詩人と異なる事。第一第二は自然主義全體より論ずれば、隨分要用なれど茲に、所謂自然主義とは餘り關係なく、且之を説くの時間なければ、略しつ、只第三即「ウオーヅウオース」の山川に關する考丈を概略に述べんとす。
 偖「ウオーヅウオース」は如何なる點より自然を觀じ、又如何なる處が「バーンス」と異なるかと云ふに、元來「バーンス」の自然に對する感じは、前に屡述べたるが如く、單に情の一字に歸着すれど、「ウオーヅウオース」の方は、之と趣きを異にして、其起因する所を察するに、智の作用に基づくが如し。「バーンス」の如く、山川を遇して己と對等なるに至れば、自然主義も其にて頂上なるが如くに思はるれど、「ウオーヅウオース」は竿頭更に一歩を進めて、萬化と冥合し自他皆一氣より来る者と信じたり。是即ち平素の冥思遐捜より來りたる者にて、寂然として天地を觀察せるの結果に外ならず。情より来る者は「バーンス」の上に出でがたく、智より悟入する者は「ウオーヅウオース」より進むべからず。自然主義「バーンス」より深き能はず。又「ウオーヅウオース」より高き能はず。老人は「ウオーヅウオース」を愛讀すべく血氣の輩は「バーンス」を喜ばん。
 「ウオーヅウオース」其 “Lines composed a few miles above Tintern Abbey,on revisiting the banks of the Wye during a tour.July 13th,1798” といへる詩中に、わが山川に関する過去の經歴を述べて曰く。昔し此所に遊びし折は、恰も麋鹿の險を走るに異ならず、山を※[走+兪]へ谷を渉りて飽く事を知らず。水聲は情慾の如く、余を驅り。山色は食色の如く、余を襲へり。此時に當つて只兩眼を開いて、眸底に映ずる景色を觀れば、吾願は足りぬ。必ずしも無形の樂みを要せず。耳目以外の趣味を解せざりき。然るに今は全く之と異にして、山光嵐色既に余をして抃舞せしむる能はず。去れど視聽二感の樂み悉く消滅し去ると同時に、幸なるかな他の賜を享けぬ。即ち
 “………………………And I have felt
  A presence that disturbs me with the joy
  Of elevated thoughts;a sense sublime
  Of something far more deeply interfused,
  Whose dwelling is the light of setting suns,
  And the round ocean and the living air,
  And the blue sky,and in the mind of man;
  A motion and a spirit, that impels
  All thinking things,all objects of all thought,
  And rolls through all things.”
是なり。故に余は今に至つて、猶林泉を愛すと。然らば「ウオーヅウオース」の自然を愛するは山峙ち雲飛ぶが爲にあらず、水鳴り石響ぐが爲にあらずして、其内部に一種命名すべからざる高尚純潔の靈氣が、磅※[石+薄]填充して、人間自然兩者の底に潜むが爲めのみ。「バーンス」は自然界裏に活氣を認め得たりと雖も、之を貫くに “a spirit ”“ a force ”を以てする事能はず。山は固より山なり。水は固より水なり。※[山+爭]※[山+榮]たる者を以て、潺湲たる者と混同する意なく、又之を以て人間と氣を同ふすると考へざるなり。此一點が兩詩人の異なる處にて、一は感情的直覺より、一は哲理的直覺より、共に自然を活動せしめたるなり。蓋し活動法( spiritualization )は自然主義の尤も發達せるものながら前二者の間にて自ら深淺の區別なきにあらず。夫れ世に不平あつて山林に逃るゝものは、不平の消する時が山を出づるの時なり。過去の行き掛り( association )にて自然の有り難きは、行き掛りの滅したる時が有り難味のなくなるときなり。(「スコツト」の如し)第三に來るものは、自然の爲めに自然を愛す。自然の爲に自然を愛する者は、是非共之を活動せしめざるべからず。之を活動せしむるに二方あり。一は「バーンス」の如く外界の死物を個々別々に活動せしめ、一は凡百の死物と活物を貫くに無形の靈氣を以てす。後者は玄の玄なるもの、萬化と冥合し宇宙を包含して餘りあり。「ウオーヅウオース」の自然主義是なり。其
 Another race hath been,and other palms are won”
と咏ぜるは、此境界を歌へるに過ぎず。其
 “To me the meanest flower that blows can give
  Thoughts that do often lie too deep for tears.”
といへるは、耳目の外に深く感ずるところあればなり。去らば此幽玄なる思想を何處より得しぞと云ふに、赤子の心を擴げて素直に發達せしめたるのみ。左の小詩を讀まば、「ウオーヅウオース」の心意は自ら明瞭なるべし。
 “My heart leaps up when I behold
    A rainbow in the sky:
  So was it when my life began:
  So is it now I am a man;
  So be it when I shall grow old,
    Or let me die!
  The child is father of the man;
  And I could wish my days to be
  Bound each to each by natural piety.”
「ガメレー」此詩を解剖して、( Handbook of Poetics,p.48.)(一)自然に對する純粹の感情。(二)過去の記憶、及び感慨より生ずる希望。(三)感慨の結果、即ち理窟的約論、の三段となせり。分り易く之を申せば、少時の感は即ち今日の感なり。今日の感亦當に老後の感なるべし。故に小兒は大人の親なり。天稟の性情一貫して襁褓より蓋棺に及ぶと云ふ主意なり。若し能く斯心を開發して、其眞相を看破せば、天地の精と合して、わが永劫不滅なるを感ずるに足るべし。是「ウオーヅウオース」が Intimations of Immortality from Recollections of early Childhood を作つて、文壇の偉觀をなせる所以なり。
 今一つ「バーンス」と「ウオーヅウオース」の異なる點を擧ぐれば、此兩人が自然に對する、消極と積極の差なり。消極とは、胸裏不平の情、ひいて自然の悽楚なる所に及び、積極とは、心中愉快の念發して天地の瑰麗なる點と結合せるを謂なり。故に「バーンス」を讀めば、跌宕沈鬱にして、悲惨の音多く、「ウオーヅウオース」を讀めば、高遠の中、自ら和氣の藹然たる者あり。是固より兩詩人性質の差に根するに相違なきも、其境遇も亦預つて大に力ありといふべし、夫れ「バーンス」は曠世の才なり。而して天下之を知らず。天下之を知つて、遇するに天才を以てする能はず。身分は百姓なり。金はなし。空しく無限の感慨を抱いて、野店村廬の間に酣醉するのみ。去れば其胸裏には、己れ世に賊せられたりといふ感情、常に往來したるが如し。かゝる感情を有して、自然を眺めなば、天地の麗しき現象は、眼中に宿らで、眸中に聚まる者は、悉く可憐の状況のみならん。假令韶光忽來冲融の氣自ら瞳底に映ずるも、徒らに之を吾身の上に較べて、轉た不幸の念を増さしむるに過ぎず。「ウオーヅウオース」は全く之に異なり。其主義とするところは、 “Plain livin gand high thinking” にありて、固より俗界を眼下に見降だしたれば、彼の虚榮を闘はす輩を觀て、氣に障るの何のと云ふ事なし。加之富めるといふにあらねども、衣食に事缺く程の貧乏にてもなく、山林に逍遥して自由に自然を樂しむ位の資産を有せし故に、其外界に對する觀念も從つて和風麗日に接するが如き心地のせらるゝなり。一寸例を擧ぐれば、其野菊を咏じたる句にも、
 “If to a rock from rains he fly,
  Or,some bright day of April sky,
  Imprisoned by hot sunshine lie
    Near the green holly,
  Ana wearly at length should fare;
  He needs but lookabout,and there
  Thou art!−a friend at hand,to scare
    His melancholy.”
とあり。之を「バーンス」の野菊の詩と比較せば、讀者一讀してわが言の虚ならざるを知らん。
 以上の談話を約言すれば、(一)「ポープ」時代の詩人は、直接に自然を味はず。古文字を弄して其詩想を養ひし事。(二)「ゴールドスミス」「クーパー」は、自然の爲に自然を愛せしにあらざる事。及び「トムソン」の自然主義は、單に客觀的にして、間々殺風景の元素を含む事。(三)「バーンス」は情より、「ウオーヅウオース」は智より、共に自然を活動力に見立てたる事。及び自然主義は此活物法に至つて、其極に達する事等なり。
 右の外「スコツト」「バイロン」「シエレー」下つては「ラスキン」に至る迄、皆此運動に關係あれど、餘り冗長に渉る故、今日は是にてやめ、又他日研究の結果を御聽に入るゝ事あるべし。
         −明治二六、三−六『哲學雜誌』−
 
  『トリストラム、シヤンデー』
 
 今は昔し十八世紀の中頃英國に「ローレンス、スターン」といふ坊主住めり、最も坊主らしからざる人物にて、最も坊主らしからぬ小説を著はし、其小説の御蔭にて、百五十年後の今日に至るまで、文壇の一隅に餘命を保ち、文學史の出る毎に一頁又は半頁の勢力を著者に與へたるは、作家「スターン」の爲に祝すべく僧「スターン」の爲に悲しむべきの運命なり、
 さはれ「スターン」を「セルバンテス」に比して、世界の二大諧謔家なりと云へるは「カーライル」なり、二年の歳月を擧げて其書を座右に缺かざりしものは「レツシング」なり、渠の機智と洞察とは無盡藏なりといへるは「ギヨーテ」なり、生母の窮を顧みずして驢馬の死屍に泣きしは「バイロン」の謗れるが如く、滑稽にして諧謔ならざるは「サツカレー」の難ぜしが如く、「バートン」「ラベレイ」を剽竊する事世の批評家の認識するが如きにせよ、兎に角四十六歳の頽齡を以て始めて文壇に旗幟を翻して、在來の小説に一生面を開き、麾いで風靡する所は、英にては「マツケンヂー」の「マン、オフ、フ※[ヒの小字]ーリング」となり、獨乙にては「ヒツペル」の「レーベンスロイフヘ」となり、今に至つて「センチメンタル」派の名を歴史上に留めたるは、假令百世の大家ならざるも亦一代の豪傑なるべし、
 僧侶として彼は其説教を公にせり、前後十六篇、今收めて其集中にあり、去れども是は單に其言行相背馳して有難からぬ人物なる事を後世に傳ふるの媒となるの外、出版の當時聊か著者の懷中を暖めたるに過ぎねば、固より彼を傳ふる所以にあらず、怪癖放縱にして病的神經質なる「スターン」を後世に傳ふべきものは、怪癖放縱にして病的神經質なる「トリストラム、シヤンデー」にあり、「シヤンデー」程人を馬鹿にしたる小説なく、「シヤンデー」程道化たるはなく、「シヤンデー」程人を泣かしめ人を笑はしめんとするはなし、
 此書は始め九卷に分ちて天下に公にせられ、題して「トリストラム、シヤンデー」傳及び其意見といへり、去れば何人にても此九卷の主人公は「シヤンデー」といふ男にて、卷中細大の事、皆此主人公に關係ありと思ふべし、所が實際は反對にて、主人「シヤンデー」は一人稱にて、「余が」とか「吾は」とか云ふにも係らず、中々降誕出現の場合に至らざるのみならず、漸く出産したかと思へば、話緒は突然九十度の角度を以て轉捩する事一番、何時垂直線が地平線に合するやら、讀者は只鼻の穴に繩を通されて、意地惡き牧童に引き摺らるゝ犢の如く、野ともいはず山ともいはず追ひ立てらるゝ苦しさに、偖は「シヤンデー」を以て此書の主人公と豫期したるは、此方の無念にて著者の過りにてはなかりき、と思ひ返すに至るべし、主人公なきの小説は、固より面白き道理なし、但「サツカレー」の「バニチーフエアー」許りは、著者自らの云へる如く、此種の小説に屬すべきものなれど、去りとて「シヤンデー」の如く亂暴なるものにあらず、可憐なる「アミリヤ」執拗なる「シヤープ」順良敦朴なる「ドビン」より傲岸不屈の老「オスバーン」に至るまで、甲乙顯晦の差別こそなけれ、均しく走馬燈裏の人物にして、皆一點の紅火を認めて、此中心を廻轉するに過ぎざれば、假令主人公なきにせよ、一卷の結構あり、錯綜變化して終始貫通せる脈絡あり、「シヤンデー」は如何、單に主人公なきのみならず、又結構なし、無始無終なり、尾か頭か心元なき事海鼠の如し、彼自ら公言すらく、われ何の爲に之を書するか、須らく之を吾等に問へ、われ筆を使ふにあらず、筆われを使ふなりと、瑣談小話筆に任せて描出し來れども、層々相依り前後相屬するの外、一毫の伏線なく照應なし、篇中二三主眼の人物に至つては、固より指摘しがたからず、「シヤンデー」の父は黄卷堆裏に起臥して、また其他を知らず、叔父「トビー」(「リー、ハント」の所謂親切なる乳汁の精分もて作り出されたる「トビー」)は國中に堡寨を築いて敵なきの防戰に餘念なく、其他には不注意不輕濟なる借「ヨリツク」あり、一瞥老士官を惱殺せる孀婦「ウツドマン」あり、皆是卷中主要の人物なれども、彼等は皆自家隨意の空氣中に生息して、些の統一なき事、恰も越人と秦人が隣り合せに世帶を持ちたるが如く、風する馬牛も相及ばざるの勢なり、甞て聞く往時西洋にて造化を職業として、大名豪族の御伽に出るものは、色々の小片を繼ぎ合せたる衣裳を着けたるが例なりとか、「シヤンデー」は此道化者の服装にして、道化者自身は「スターン」なるべし、
 此道化者は此異樣の書き振りを以て、電光石火の如く吾人の面目を燎爛しながら、頗る得意となつて辯じて曰く、吾が敷ば話頭を轉じて、言説多岐に渉るは、諸君の知る如く少しも不都合なき事なり、大英國の作家にて横道に入る事余の如く頻りなるはなく、外れた儘にて深入する事余の如く遠きはなし、されども家内の大事務大事件は、留守中にても澁滯なく裁斷處理し得る樣用意萬端調はざるなしと、又曰く、余の話頭は轉じ易し、されども亦進み易しと、吾人は其轉じ易過ぎるに驚くのみ、進み易きに至つては焉んぞ之を知らん、
 此累々たる雜談の中にて、尤も著明なるは「ヨリツタ」の最後、「スラウケンベルギウス」の話、悽楚なる「ル、フエブル」の逸事、噴飯すべき栗の行衛、等にて個々別々のものとして讀む時は、頗る興味多けれど、前を望み後を顧みてある聯路を發見せんとすれば、呆然として自失するの外なし。而も是作者最も得意の筆法にして、現に第八卷のある篇の如きは冒頭に大呼して曰く、天下に書物を書き始むるの方法は澤山あるべけれども、吾が考にてはわれ程巧者のものはなしと思ふ、啻に巧者なのみならず、又頗る宗教的なりと思ふ、何故と問て見給へ、第一句目は兎に角自力にて書き下せど、第二句目よりは只管神を念じて筆の之くに任じて其他を顧ざればなりと、第一卷廿三篇に曰く、われ出鱈目に此篇を書かんと思ふ念頻なり、因て書き流す事下の如しと、下に出で來る事柄は大抵豫想すべきのみ、かゝる著者なれば嚴格なる態度と眞面目なる調子とは、到底望むべからざるは勿論の事にて、現に「スターン」自身を代表せる篇中の人物と目せられたる「ヨリツク」を寫し出すには、左の言語を用ゐたり、
 「ヨリツク」時としては其亂調子なる樣子を以て、嚴肅を罵つて不埒の癖物と呼び、嚴肅とは心の缺點を隱蔽する奇怪なる身體の態度なりてふ、昔し佛の才人某が下したる定義を崇拜し、願くは金字を以て此義を繍はん抔不注意にも人に洩す事あり、
 既に眞面目を厭ふ以上は、泣かざる可らず、笑はざる可らず、中庸を避けて常に兩端を叩かざる可らず、
 「スターン」が書中には笑ふ可き事實に多し、其尤も單簡なるものは、出來得べからざる事を平氣な顔色にて敍述するにあり、例へば「ヨリツク」の作れる説教を讀めと命ぜられたる軍曹「トリム」が、如何なる身繕して彼等の前に立ちしか、「スターン」事もなげに記して曰く、彼は體の上部を少しく前方に屈して立てり、此時彼の姿勢は地平面上に八十五度半〔右○〕の角度を畫けりと、敢て問ふ半とは何處より割り出したる計算なるか、
 次には無用の文字を遠慮なく臚列して憚らぬ事なり、例へばA、B、C、D、E、F、G、H、I、J、K、L、M、N、O、P、Q等の諸卿馬に騎して整列するを見るときは抔いふが如く、何故AよりQ十六字を妄りに書き立てたるかは、奇を好む著者の外何人も推測し得ざるべし
 次に笑ふといはんよりは、寧ろ驚くといふ方適當なるべきは、常識の缺乏せる事なり、「トリストラム、シヤンデー」を開きて先づ一卷より、二卷に至り順次に讀了して九卷に至れば、其内に二枚の白紙あるを認め得べし、此二枚は卷末卷首の餘白に非ずして、鼈頭に第○○篇と記せるを見れば、明かに白紙を以て一篇と心得べしと云ふの意なるべし、心を以てtabula rasa に比したる哲學者あるを聞きぬ、未だ白紙を以て一篇となせる小説家を聞かず、之れ有るは「スターン」に始まる、而して「スターン」に終らん、
 白紙は猶可なり興に乘じて巫山戯るときは、圖を引き線を畫して、言辭の足らざるを説明する事さへ辭せず、「人間にして自由なる以上」はと「トリム」大呼して杖を揮ふ、其状左の如し
※[波線の如き図あり]
 「一卷より五雀に至るまで吾説話の方法は頗る不規則にして頗る曲折せり第六卷に至らば遂に直線たるを得べし今其經過の有樣を曲線にて示せば左の如くなるべし」と、圖あり之を掲ぐ、
※[1〜5までの番号を付した波線のような図あり]
 「ウオルター、シヤンデー」の奇想に至つては、眞に讀者をして微笑せしむべく、絶倒せしむべく、滿案の哺を噴せしむべし、「ウオルター」は人の姓氏を以て吾人の品性行爲に大關係あるものとせり、其説に曰く「ジヤツク」と「ヂツク」と「トム」とは可もなし不可もなし、中性なり、「アンドリユ」に至つては代數に於る「マイナス」的性質を有す、0よりも不善なり、「ウイリアム」は中々善き名なり、「ナムプス」は云ふに足らず、「ニツク」は惡魔なり、然れどもあらゆる名字中にて最も嫌ふべく賤しむべきは、「トリストラム」なりと、時としては非常の權幕にて、相手を詰問すらく、古來「トリストラム」なる人にて、大事を成したるものあるか、有るまじ、「トリストラム」!出來る筈がないと、「ウオルター」又古書を愛讀す、其妻懷胎して蓐中に臥する時、頻りに虫喰みたる産學書を參考熟讀して以て其蘊奥を究め得たりとなす、其説に曰く、胎内の小兒を倒まにして足より先に引き出す時は、前脳後脳の爲に壓迫せらる事なくして、後脳の方前脳に窘搾せらるゝに過ぎざれば、危險の處なくして頗る安全なりと、是より種々研究の末、子を生むに最も大丈夫なる方法は、母の腹部を立ち割るに在りと斷定し、數週間色々屈托して考へたる後、或日の午後遂に妻君に腹部切開の法を物語りけるに、無論賛成と思ひし産婦は見る/\顔色を變じて死灰の如くなりければ、殘念ながら切角の手術も施こすに由なくして已みぬ、「トビー」の眞率にして無智なるに反して、「ウオルター」の獨りして學者めかしたる、亦讀者をして屡失笑せしむるに足るものあり、「ウオルター」の子外國に死して、其報家に達するや、「ウオルター」其弟「トビー」を顧みて、左も勿體らしく説き出して曰く、「是免る可らざるの數なり、「マグナ、カータ」の第一條なり、變ず可らざる議會の法なり、若し我子にして死なざれば、其時こそ驚きもすれ、死したりとて驚く事やはある、帝王も公子も死なねばならぬが浮世なり、死は天に對して借錢を拂ふに過ぎず、租税を納むるに異ならず、永久に我等を傳ふ可き筈の墓場さへ、紀念碑さへ、此租税を拂ひつゝあり、此借錢を返しつゝあるではなきか、富の力に因り、技術の力に因りて成れる、世界の最大紀念碑三角塔さへ、頭が剥げて地平線上に轉がるではなきか、國も郡も都も町も皆悉く進化するではないか」進化といふ語を聞きて叔父「トビー」は煙管を下に置きて、「ウオルター」を呼び留めぬ、「ウオルター」は直ちに正誤したり、「いや變化の意味ぢや變化といふ積りぢや」「進化では通じません樣で、少しも分らんと思ひます」「然し此大切な處で、横合から口を入れる抔は、猶々分らんではないか、後生だから、頼むから、此肝心の處丈遣らして呉れ」叔父は再び煙管を啣みぬ、「「トロイ」は何處にあるか、「シーブス」「デロス」乃至は「バビロン」「ニネヴエ」、太陽の照す處で最も美しかりし國は皆亡びて、殘るは空しき名のみではないか、其名前さへ樣々に綴り損ねて、遂に忘れられるであらう、聞けや「トビー」、世界其物も遂には破壞する事あらん、われ亞細亞より歸る時、「レヂナ」より海に航して「メガラ」へ渡る時、(いつ左樣な事が有つたかと、「トビー」は竊かに不審なり、)眦を決して周圍の地を見たるに、「レヂナ」は後に在り、「メガラ」は前にあり、「ピレウス」と「コリンス」は左右にあり、繁榮無雙と稱せられたる通邑大都は、落莫として往時の光景を存せず、嗚呼嗚呼かゝる壯嚴のものすら、土中に埋没して眼前に横はるを、一人の子に先立れたりとて、何條我心を亂すべき、汝も男ならずや、男なりと獨り己れに語りたる事さへありき」質直なる「トビー」は、此感慨は全く「ウオルター」自身の感慨にて、昔し「サルピシアス」が「タリー」を慰むる爲に書ける手紙を暗誦して居る事とは、夢にも知らねば、やがて煙管の先にて、「ウオルター」の手を突つきながら問へり、「全體それは何時頃の話で、千七百何年頃で」「千七百何年でもない」「そんな事が有るものですか」「ヱヽ分らぬ奴だ紀元前四十年の事だ」「ウオルター」は所謂「ベーコン」の學者にして愚物( Learned Ignorance )なるもの、「トビー」即ち「グレー」の所謂無智にして幸福ならば、賢ならんと欲するは愚なり( Where ignorance is bliss、\‘Tis folly tO be wise )と云へるに庶幾からんか、
 去れども此順良なる無邪氣なる「トビー」すら、一度「スターン」の筆に上れば、一癖持たねば濟まぬ事と見えて、此人日夕身を築城學の研究に委ねて、中々其道の達人とぞ聞えし、「マルタス」は更なり、「ガリレオ」より「トリセリアス」に至るまで、一として通曉せざるはなく、精密なる彈道は抛物線にあらざれば雙曲線なる事、截錐の第三比例數の彈道距離に對する比例は、投射角を倍したる角度の正弦と全線との比例の如しといふ事抔、皆彼が研鑽究明し得たるの結果なりとぞ、偖も此男の科學的思想は、「ウオルター」の哲學的觀念と相反映して、何れ劣らぬ學者なるこそ頼もしけれ、「ウオルター」の時間を論ずる條に曰く、時は無限の中にあり、無限を解せんには時を解せざる可らず、時を解せんには沈思黙坐して滿足なる結果を得る迄、吾人が時間に對して如何なる觀念を有するか、と究明せざる可らずと、此弟にして此兄あり雙絶といふべし、
 「スターン」の諧謔は往々野卑に流れて上品ならざる事あり、夫の「フユーテトリアス」と栗の話しの如きは其好例なりとす、「或る學者の一群何事かありて一堂に會食しける折、如何なる機會にや、卓上に盛りたる燒栗の一個、忽然ころ/\と轉げて、眞倒まに「フユーテトリアス」の洋袴《ズボン》の穴に躍り込みぬ、此穴は「ジヨンソン」の英字典を何返捜しても見出し得べからざる穴にて、上等杜會に在つては、一般の習慣として、「ジエーナス」の神扉の如く、少なくとも平時は開放嚴禁の場所なりき、然る處最初の二十秒程は、此落栗微温を先生の局部に與へて、彼が愉快なる注意を此所に引くに止まりしが、漸々熱度増進して、數秒の後には既に普通一般の樂しき心地を通過し、果は非常なる勢を以て、猛烈なる熱氣と變化しければ、先生の愉快は俄然として劇性の苦痛となり了ぬ、此時「フユーテトリアス」の精神は、彼れの思想、彼れの觀念、彼れの注意力、判斷力、想像力、沈考力、決行力、推理力と共に、一度に體の上部を去つて、局部の急に赴きければ、彼の脳中は、空しき事我が財嚢に異ならず」此滑稽は野卑なれども無邪氣にして頗る面白し、假令學校の教科書としては不適當なるも、膝栗毛七變人抔よりは反つて讀みよき心地す、蓋し「スターン」集中に在つて諧謔の佳なるものか、英語を解するの讀者之を取つて、下に掲ぐる駄洒落と比較せば、優劣自ら判然たらん、「愛といふ情をいろは順で竝べたらば斯も有うか」
  Agitating,
  Bewitching,
  Confounded,
  Devilish affairs of life;―the most
  Extravagant,
  Futilitous,
  Galigaskinish,
  Handy-dandyish,
  Irancundulous,
  (there is no K to it)and
  Lyrical of all human passions:at the same time the most
  Misglving,
  Ninnyhammering,
  Obstipating,
  Pragmatical,
  Stridulous,
  Ridiculous
是を見て面白しと感ずる人もあるべし、我は唯其勞を謝して已みなん、
 以上は「スターン」の諧謔的側面なり、善く笑ふものは善く泣く、「スターン」豈涙なからんや、「トリストラム、シヤンデー」を讀んで第一に驚くは、涙と云ふ字の夥多なるにあり、「尊むべき悦喜の涙は、叔父「トビー」の兩眼に溢れぬ」といひ「涙は彼の兩頻を傳りぬ」といひ、「涕涙滂沱たり」といひ、「涕※[さんずい+((ホ+ホ)/月)]々として拭ふに暇あらず」といひ、閲して數葉を終らざるに、義理にも泣かねばならぬ心地となるべし、而して其最も泣かざる可らざる所は、九卷の中二三ケ所程あるべく、夫の「トビー」の舊友「ル、フエヴル」の死を寫せる一段の如きは、種々の文學書に引用せられ、頗る有名なるものなり、されども余が最も感じたるは、「ヨリツク」法印遷化の段なり、此僧病んで將に死なんとする時、其友人に「ユージニアス」なる者ありて、訣別の爲めとて訪ひ來る、樣々慰問の挨拶などありたる後、病僧は左の手にて、漸くにわが被れる頭巾を脱ぎ、願くは愚僧の頭に御目を留められよと云ふ、何事の候ぞ、別段變りたる樣子も無きにと答ふるに、否とよ、愚僧の頭は※[穴/(瓜+瓜)]みて候、最早物の役に立つべしとも存じ候はず、卑怯なる……等は、暗に乘じて手痛くも愚僧を打ち据へ、御覽の通り此頭を曲げ候、斯くなる上は假令天より大僧正の冠が、霰の如く繁く降るとも、到底某の頭に合ふものは一つも有之間敷と存候と、嘆息の言さへ今は聞き取れぬ位なり、あはれ無邪氣なる「ヨリツク」よ、汝が茶番的なる末期の述懷は、吾が汝に對する愛憐の情をして、一瞬の間に無量ならしめぬ、吾汝が言を聞て微笑せり、されどもわが微笑せるは、汝の爲に萬斛の涙を笑後に濺がんが爲なり、「ヨリツク」は今頭を傷けらるゝの憂なく、靜かに其墓中に長眠するならん、「ユージニアス」が彼の爲に建てたる粗末なる白大理石の碑面には、「嗚呼呼憐む可き「ヨリツク」」の數字を刻せるのみと云ふ、
 「スターン」「ヨリツク」の死を敍する時異樣の筆法を用ゐて曰く、「天命は忽ちにして復去りぬ、靄は來りぬ、脈は鼓動しぬ、止まりぬ、又始まりぬ、激しぬ、再び止まりぬ、動きぬ、後は? 書くまじ」かゝる筆法は、時々「ヂツキンス」に於て之を見る、好惡は讀者に一任するの外なし、(文體の事は茲には論ぜざる積りなれど序なれば一言す)
 「スターン」の神經質なるは前に述べたる批評にて大概は言ひ盡したる積りなれど、猶一例を擧げて其局を結び、夫より其文章に就て一言すべし、
 「トビー」一日、食卓に着き、晩餐の箸を下さんとせる時、何處より飛び來りてか、一匹の蠅は無遠慮にも、老士官の鼻頭に留りぬ、逐へば去りぬ、去るかと思へば又來りぬ、紙の如き兩翼を鳴して、ぶん/\鼻の端を飛び廻りて、煩はしき事云はん方なければ、流石の「トビー」も面倒と思ひけん、大手を廣げて此小動物を掌中に攫し去るよと見えしが、殺しもやらず徐ろに窓を開き、懇ろに因果を含めて放ち遣る、辭に曰く、須らく去れ、吾れ敢て爾を殺さじ、爾が頭上の一髪だも傷けじ、去れや可憐の小魔、吾れ焉んぞ爾を殺さん、蒼天黄土爾と我とを容れて餘りありと、放たれたる蠅は感泣再生の恩を謝して去りしや否やを知らず、老いたりと雖軍籍に列する身をもちながら、一匹の蠅を傷くるだに忍び得ざる「トビー」を描出したる「スターン」の心情こそ、冷然として其母の困苦を傍觀したる心とも見えね、「ヂスレリー」が作家に二生ありと云へるは去る事ながら、蠅を愛して母に及ぼざる此坊主の脳髓ほど、病的神經質なるはあらじ、
 「スターン」の文體に就ては、諸家の見る所必ずしも同じからず、「マツソン」は彼が豐腴なる想像を稱して、其文體に説き及ぼして曰く、彼の文章は精確にして洗錬なるのみならず、※[女+閑]雅優美楚々人を動かす、珠玉の光粲として人目を奪ふが如しと、「トレール」の意見は之と異にして、「スターン」は唯好んで奇を衒ひ怪を好むに過ぎず、文體といふ字義を如何に解釋するとも、彼は自家の文體を有する者にあらずといへり、此二人の批評は相反するが如くなれども、共に肯綮を得たるものにて、實際「スターン」の文章は錯雜なると同時に明快に、快癖なると共に流麗なり、單に一句を以て一頁を填めけるかと思へば、一行の中に敷句を排列し、時としては強て人を動かさんと力め、時としては又餘り無頓着に書き流す、今其長句法の一例を左に譯出すべし、意義若し明瞭ならずんば是「スターン」の罪なり譯者の咎にあらずと思ひ玉へ、「察する所此女は四十七歳の時四人の小兒を殘して其夫に先き立たれて不幸の境遇に陷りしものと見ゆれど固より賤しからぬ風采と沈着なる態度を具へたる上己が身の貧しき故且は其貪しきに伴ひて萬控へ勝なる故村内の者は誰とて憐みの心を起さゞるはなきが中にも且那寺の妻君は殊の外の贔屓にて幸い此界隈六七里の間には……口でこそ六七里其實雨が降つて道の惡い時や殊には闇の夜で先が見えぬ時抔は十四五里にも相當するが其より近くには産婆と云ふものは一人も居らねば詰り此村には産婆は來らぬと申しても差支なき程の不便を檀家の者共は數年來感じつゝありし折柄なれば此女に産婆學の一端でも稽古させて村中に開業せしめなば當人は無論の事村の者も嘸都合善からんと考へぬ」又短句法の例は下の如し、「父は椅子を掻い遣りぬ、立ちぬ、帽子を被りぬ、戸の方に進む事四歩なり、戸を開く、再び戸を閉づ、蝶※[金+交]の毀れたるを顧みず、席に復せり云々」一篇の文章も、時としては左まで長からぬ單句にて成る事あり、例下の如し、「吾父獨話して曰く、恩給や兵士の事を彼是云ふべき場合であるか」前もなし後もなし、只此一句則ち一篇を組織す、時としては妄りに擬人法を用ゐて厭味多き事あり、例へば「靜肅〔二字傍点〕は無聲〔二字傍点〕を隨へて幽齋の中に入り來り、徐ろに彼等の上衣を脱して「トビー」の頭を蔽ひ、無用心〔三字傍点〕は優柔無頓着なる顔色にて、其傍に坐せり」と云ひ或は「日に焦けたる勞働の娘〔四字傍点〕は群中より出でゝ余を迎へたり」と云ふが如し、斯樣な書き方は、韻文にても妄りに使ふべからざる者にて、現に「カメル」が
 “Hope for a season bade the world farewell,
  And Freedom shrieked as Kosciusko fell!”
と云へる句の如きは、大に評家の嘲笑を買へりとさへ聞く、人は兎にあれ、余は是等の文字を以て甚だ厭味あるものと考ふるなり、
 「スターン」の敍事は多く簡潔にして冗漫ならず、去れども一度此法度を破るときは、※[女+尾]々敍し來つて其繊細なる事、殆んど驚くべし、「トリストラム」出産の當時、婦人科專門の醫師「スロツプ」と云へるが、醫療器械の助を藉りて生兒を胎内より引き出したる爲め、彼の鼻は無殘にも壓し潰されて、扁平なる事鍋燒の菓子に似たりと、聞くや否や、父「シヤンデー」は悲哀の念に堪ず、倉皇己れが居室に走り入りて、慟哭したる時、彼の態度は如何に綿密なる筆を以て寫し出されたるかを見よ、「床上に臥したる吾父は、右手の掌を以て其額及び眼の大方を蔽ひながら、肱の弛むに任せて漸々其顔を低れて鼻の端蒲團に達するに至りて已みぬ、左手は臥床の側らに力なくぶら下り、戸帳の陰より少しく見はれたる便器の上に倚り、左足を彎曲して體の上部に着け、右足の半分を寢臺の上より垂れて其角にて脛骨を傷けながら、毫も痛を感ぜざるものゝ如く、彫りつけたらんが如き悲みは彼が顔面より溢れ出ん許りなり、嘆息を洩す事一回、胸廓の昂進するもの數たび、然れども一言なし」
 「スターン」の剽竊を事とせるは諸家定論あり、こゝには説くべき必要もなく、又必要ありとも參考の書籍なければ略しぬ、只其笑ふ可く泣く可く奇妙なる「シヤンデー」傳と、其文章に就て概評を試むる事斯の如し、
 「スターン」死して墓木已に拱す百五十年の後日本人某なる者あり其著作を批評して物數奇にも之を讀書社會に紹介したりと聞かば彼は泣べきか將た笑ふ可きか (明治三十年二月九日稿)
       −明治三〇、三、五『江湖文學』−
 
  英國の文人と新聞雜誌
 
 文人詩人の資格を具へて居つても眼丁字なしと云ふ樣な者は詩想を表彰する事が出來ぬから論外である。文章を綴り句を成す力量があつても陶淵明や寒山拾得の樣な人々は自分の作を天下後世に傳へたいと云ふ考がないから是も特別である。然し一般に文學者と呼ばれ又自ら文學者と名乘る者は獨りで述作をして獨りで樂んで居る樣な者は極めて鮮い。況んや文を賣つて口を糊するといふ場合に至れば必ず何かの手段を以て世の人に自作を紹介し樣と企てる。新聞雜誌は此紹介物として頗る便利なものであるからそこで文人と新聞雜誌との關係が生じてくる。此關係を不秩序ながら少し述べ樣と思ふ。
 英國で新聞の起源は何時かと云ふと今を去る事幾んど三百年即ち西暦一六二二年に「ナサニエル、バツター」と云ふ男が週報とでも譯すべき一種の新聞に似たものを發刊し始めたのが元祖になつて居る。元來英國の貴族は倫敦に邸宅を構へては居るが一年中此紅塵界裏に起臥するものでは無い。三百六十五日の中で三分の一位を都で暮し殘る三分二は皆田舍へ引拂つて仕舞ふ。偖田舍へ行けば眼先が變るので色々面白い事もあるが矢張今頃都では何んな事があるだらう位は思ひ出しもするし又知り度もなつてくる。そこで此等の人々は皆抱への通信者を倫敦に置て珍事異聞は勿論社會萬端の出來事を一週に一回宛田舍へあてゝ報道せしめたものである。固より通信者中には上手も下手も流行るのも流行らぬのもあつたらしい。處で前に述た「バツター」と云ふ男は此道にかけて餘程巧者な者と見えて諸々方々の注文を引き受て到底一人では手が棒になる程働いても間に合ないと云ふ場合になつた。茲に於て發先生一計を案じて時分の一週間内に纏めた材料を印刷に附して毎週依頼者に發送する事にした。是が即ち週報である。
 是が發端で夫から漸々盛大になつて十七世紀の終には五六種以上の新聞が出來るし又「レストレンジ」以後は紙面の體裁も完備して大に發達をしたと云ふ樣なものゝ「ミルトン」や「ドライデン」が投書家であつたといふ事實の外に別段取立てゝ云ふ程の事も無い。少なくとも文學上に是と云ふ功績も見えなかつた。處が女皇「アン」の時代に至つて彼有名な「タトラー」と「スペクテートー」が前後踵を接で見れた。此は純然たる文學雜誌であるが惜い事に長持がしなかつた。「タトラー」は一七〇九年から一一年迄續いたが「スペクテートー」の方は一一年から一二年で終を告た。此二雜誌を發行したものは誰も知つて居る「アヂソン」と「スチール」である。尤も「タトラー」の中には「スヰフト」や其他の人が手傳つた號もあると云ふ説であるが兎に角此二人が發起人で又主なる執筆者であつた。偖其中には何んな事が書てあるかと云ふと是は當時の人情風俗を清新流暢な文體で諷刺的又は批評的に敍述したものである。夫故に今から見ると其時代の倶樂部の有樣や下世話の模樣が歴々と目に覩る如く面白く分る。例へば英國の習慣に四月一日を皆が馬鹿になる日としてある。即ち此日には互々に人を瞞し合ふて面白がる。何所其所に化物が居るから觀て來いと云はれて往つて見ると何にも無かつたり。又は八百屋へ行つて鯛を買つて來いと云ふから買ひに行くと謝はられたり色々な滑稽を演ずる。其中に斯樣に人を欺したり女小供を馬鹿にして得意がる連中が出來てくる。己は此五年間に百何人を馬鹿にした抔と云つて自慢する樣な者の事が「スペクテートー」を見ると面白く書てある。面白く書てある中に訓戒の微意が見える。即ち「アヂソン」や「スチール」は是を以て幾分か世道人心に裨益せんとの考があつたのである。夫から今一つは此時代の文學趣味は發逢して居らなかつたので或は發達して居つても現今とは大に經過を異にして居つたのであるが「アヂソン」は可成此嗜好を正路(彼の所謂)に引き入れんと企てた。現今では詩聖として崇拜して居る沙翁を「ライマー」と云ふ當時の批評家は犬の吠るが如く馬の嘶くに似たりと云つた位である。今でこそ布鼓を持して雷門に向ふの觀があるが此時代の批評眼は總て佛蘭西を手本としたので實際沙翁も「ミルトン」も空前絶後の大詩人として社會一般から今日の如く許されて居らなかつた。處が「アヂソン」は啻に通俗な文體を用いて一生面を開いたのみでない斯の如き文壇の批評に對しても多少時流と其選を異にして居つた。「スペクテートー」の中で沙翁と「ミルトン」に關した論文が十篇ばかりあるが皆此二人を賞賛したものである。就中「ミルトン」の失樂園を辯護して立派な敍事詩だと云ひ張つたのは「アヂソン」の手柄である。幾分か十八世紀の習氣を※[手偏+罷]脱しなかつたかも知れぬが先づ今世紀の批評眼に近づいて居つたものは此男である。以上述た譯で「スペクテートー」は今でも斷えず英國で出版する。決して普通の新聞雜誌の樣に一時限りのものとしては取扱はない。
 後世に斯の如き影響のある「スペクテートー」が當時にはどうであつたかといふと矢張非常な人氣で倫敦の市民は雜誌の到着を待ち兼て讀むのを樂みにした位である。何故左樣であるかといふと二つの原因がある。從來の新聞雜誌は皆政治的で毫も文學上の趣味が無かつたのと此に類する小説と云ふものが未だ行はれて居らなかつた處へ突然時好に投じたからである。「リチヤードソン」が「パミラ」を著したのは十五六年後の事である。「スモレツト」は未だ生れて居らないし「フ※[ヒの小字]ールヂング」は五六歳の童兒である。「デフオー」は居つたけれども一七一九年に「ロビンソン、クルーソー」を書いた迄は政治上の著述のみをして居つたから此時に出版になつて居つたものは「スヰフト」の「テール、オフ、ア、タツブ」位のものである。然も是は別種に屬すべき性質のものである。其所で「スペクテートー」が幅を利かしたのも無理はない。然し二三年で廢刊して仕舞て其相續者が容易に見はれなかつたのは矢張り時勢よりも進歩し過て居つたに違ひないと「ゴス」抔は評して居る。
 此外當時の文學者で新聞事業に從事したものは隨分ある。現に「フ※[ヒの小字]ールヂング」は「ツルー、ペトリオツト」と云ふ新聞を發行して居つた。「スモレツト」は「ブリトン」の主筆であつた。「ジヨンソン」でさへ議會の傍聽録を書いたと云ふ話しがある。尤も此時分は毎日議會へ傍聽に出掛て行つて翌日之を紙上に掲載する樣な簡便法は無つたので。どうすると云ふと閉會後になつてから善い加減に胡亂な辯論を繋ぎ合せて漠然たる報道をなすに極つて居つた。處が「ゼントルマンス、マガジーン」を發行した「ケーヴ」と云ふ男が工夫をして一改良を企てた。其趣向はと云ふと開會中に二三の社員を院内に忍び込ませる。一生懸命に演説を傍聽する。散會後近所の酒屋で一口飲み乍ら聽た事を文章に綴つて草稿を作る。其草稿を心得のある人が改竄をして新聞に掲載をすると云ふ手筈にした。「ジヨンソン」は「ケーブ」の爲に此心得のある人として生捕られたのである。そこで先生は多年の間草稿を受取つては汚苦しい天井裏に潜んで傍聽録を訂正した。「ジヨンソン」ともあるべきものが斯樣な下らぬ事で糊口しなければ立行かんと云ふは情ない話しであるが情ない中にも愉快な事があつたので「ジヨンソン」は人も知る如く頑固な「トリー」派の一人である。此頑固な先生が議院の喧嘩を自由自在に書うと云ふのだから面白い。先生は何時でも「トリー」が勝つて「ホイツグ」が負た樣に作り替たさうである。先斯の如く大分文人も新聞に從事はしたが此は文人の資格で從事したのではなく云はゞ筆で世渡りをする爲に文學に縁のない事をして暮して居つたと云つても差支ない。
 其から五十年許は別段の事もないが降つて一七六九年一月二十一日に一種の怪物が突如として「パブリツク、アドヴアータイザー」の紙上に現はれた。此怪物は自ら「ジユニアス」と名乘つて居るが其正體は誰も突き留た者がない。只毎日紙上に出現しては當時の名門要路の者共を誰彼の容赦なく片端から攻撃するのみである。其攻撃の方法は皆手翰體にして當の敵に與へたもので固より政治上の議論と人身攻撃を合併したるに過ぎないが其文章が如何にも犀利直截で且縱横排揩の勢があるといふので新紙の賣高を倍※[草冠/徙]したのみならず現今に至る迄文學史中の一著述と目されて居る。處が前に云ふ通り其作者がどうしても分らない。政府でも斯んな者が跋扈しては治安妨害だといふので種々の方面から物色するが分らない。世間は又好奇心に驅られてありとあらゆる探索をしたが分らない。「ジユニアス」は自ら其文中に余が秘密函は余一人なり而して余と共に滅するものなりと公言して居るが果せるかな此秘密函を打開たものがない。先づ色々な方面から觀察を下して「サー、フ※[ヒの小字]リツプ、フランシス」と斷定するものが多い。又或人は左樣ではない是は全く「テンプル」の惡戯だとも云つて居る。何ちらにしても日本人に關係はないが文學者と新聞と云ふ問題には關係があるから述たまでの事である。
 十八世紀の末から十九世紀の始は英國文學史中尤も多事の時である。新派勃興の時である。從來の※[穴/果]窟を打破して新機軸を出さうと云ふので「ウオーヅウオース」と「コルリヂ」が相談をして「リヽカル、バラツヅ」(一七九八年)を出版して滿天下を相手に喧嘩を買た時である。此の文運隆盛の期に際して數多の文學者が必然の勢から段々新聞雜誌に接近してくると同時に新聞雜誌も漸々文學的に傾いて評論は勿論詩歌小説に至る迄が此利器を藉つて世間に紹介さるゝ樣になつた。其勢は滔々として今日迄進で來たが毫も退く景色がない。夫故に何新聞には是が出た何雜誌は是を載せたと一々指摘する暇もないし又實際の所書て居る當人もさう詳い事は知らないから先ざつと一つ二つ掻摘んで述べよう。
 先新聞の方から片付けよう。此時代に新聞に從事した文學者の中には「ハヅリツト」が居る。「モーニング、クロニクル」に戯曲の評論を連載した事がある。「ラム」も居る。一節六片志の割で「モーニング、ポスト」に筆を執た事がある。「コルリツヂ」も其一人である。此人に就ては面白い逸話がある。「モーニング、クロニクル」に關係して居つた時分の事だが或日社長から議會へ傍聽に行つて「ピツト」の演説を筆記して來いと命ぜられた。「コルリツヂ」は早く席を取らうと思ふて朝七時頃から出掛て行つて漸く樓上に座を占めた。占めた事は占めたが待てども待てども演説が始まらない。其内に疲勞と退屈の爲に睡氣が差して遂々「ピツト」が立つて演説をするといふ十分許前にぐつすりと寐込で仕舞た。やがて拍手の音に驚いて眼を覺して見ると今演説が終つたので諸人が喝采をして居る最中であつたから肝心の文句は一言も聞き取らなかつた。然し態々演説を聽きに來て寐て仕舞たでは役目が濟まないから仕方なしに出駄等目な想像を以て筆記を作りあげて素知らぬ顔で新聞へ載せた。處が此筆記が非常に立派な出來であつて「ピツト」の演説も勿論美事なものであつたけれども「コルリツヂ」の筆記には到底及ばなかつた位である。然し世間は何も知らないで新聞通りの事と心得て頻りに評判が高くなつた。時に「カンニング」と云ふ人が「モーニング ポスト」の編輯局へ遊びに來て話しの序でに「ピツト」の演説を大變賞た。夫迄は善かつたがつい口を滑らしてあの筆記者は記憶力よりも脳力の方が餘程善いように思はれるといつたのでとう/\筆記の贋物であると云ふ事が露見して仕舞つた。
 それから雜誌の方で云ふと「ドクインセー」の「オピアム、イーター」「マコーレー」の「ミルトン」「ラム」の「エリヤ」抔が續て掲載される樣になつて其機關も從來の樣なつまらない安つぽい者とは同日に談ぜられぬ者が漸々起て來た。先づ一八〇二年には「エヂンバラ」評論が出來る。一八〇九年には「クオーターレー」評論が出來其他にも「ブラツクウード」雜誌、倫敦雜誌抔云のが段々色々な文學者の創作や批評を世間に紹介した。就中尤目立つて見えるのが「エヂンバラ」と「クオーターレー」である。是は其主筆が新派の「ラム」「リハント」抔と全く相容さぬ守舊派の批評家であつて當時の名家を無茶苦茶に評隲した爲である。取分けて「エヂンバラ」は劇しかつた。「バイロン」でも「ウオーヅウオース」でも「スコツト」でも十九世紀の新詩人とも云ふ可きものは皆劈頭から罵倒し去て毫も怪しまなかつたのは驚く。今では英文學を修むる者の外には餘り「ジエフレー」や「ギフオード」の名を口にせぬけれ共當時は中々な勢力で自らも亦批評界の大王を以て任じて居た。氣の毒なのは作家である。殊に氣の弱い作家である。折角の丹精も苦心も是等の口にかゝつては三文の價値もない樣にけなされて仕舞ふ。「キーツ」の「エンヂミオン」を「クオーターレー」評論で斯云ふ風に評した事がある。「此男は氣の毒だが新派の一人と見える新派とは最も矛盾したる思想を最も奇怪なる言語であらはす一派を云ふ……」又「ブラツクウード」では下の如くに酷評を加へた。「貧乏な詩人よりも貧乏な藥屋の万が増しだらう。何うか詩抔は止めて丸藥でも丸めて居つて貰ふ」。可憐なる「キーツ」は是が本で遂に肺病に罹つたと云ふ人もある。それは「クーパー」が文官登用試驗に心配して氣狂になつたと云ふのと一般で少々穿ち過た話であるが兎に角當時一派の批評家は自分の眼のないのを知らないで無暗に作家に中り散らしたのである。是と同時に又「カーライル」抔と云ふ剛情者が出て來て「ジエフレー」の言ふ事を聽かなかつた話がある。「カーライル」が「バーンス」の論文を草して「ジエフレー」に見せた時に餘り放縱荒誕だと云ふので半分許り削つて殘る半分に潤色を加へ樣とした。すると「カーライル」が承知しない。出さないなら丸で没書にするがいゝ。出す位なら皆出すが善と極めつけた。其所で「ジエフレー」も仕方がないから世間でどんな冷評があるか先づ危險を冒してやつて見樣と云ふのでとう/\其なりで出した。是が今傳つて居る「バーンス」の傳である。
 雜誌の事は此位にして又新聞に戻つて少し述樣。此時分「タイムス」新聞が始めて起つた。是は「ジヨン、ウオルター」といふ親子の盡力で成立した新聞であるが最初の主筆が「ストツダート」であつた。此「ストツダート」が退社する時に適當の後任がない。色々詮索した揚句遂に「サウシイ」の處へ持つて行つてどうか「ストツダート」の後を引き受けて呉れまいかと頼んだ。其時の條件には先づ年俸が二千磅で夫に利益配當をつける。仕事は一週に三四回論説を書く許りであとは只社の方針に關して一般の監督をして呉れゝば善いと云ふ事であつた。然るに「サウシイ」は條件も何も聞かぬ先から眞平御免だと云つて斷つた。後から中間に立つた周旋人に紙面を遣つて縱令どの樣な報酬を受けても田園の居宅を棄てゝ仕慣た勉強を已める氣はないと書いた。尤も此人は雜誌には投書をして居つた男で此時の收入は年に七八百磅のものであつたと云ふ話だ。「タイムス」の主筆となるは總理大臣よりも名譽だと云ふのは現今の諺で當時には適用出來ぬとした處で此時分でも「タイムス」は非常な勢力を有して居たのである。一時他の新聞が何うかして「タイムス」の覇權を奪つて之を壓倒して遣うと企てた事がある。乃ち投書家通信者編輯貝を擧つて「タイムス」に優るとも劣らぬ人のみを蒐集し樣と云ふ計畫を立てゝ金錢に目を呉れずに俊才を網羅し始めた。すると金の威光は恐しい者で今迄「タイムス」に關係して居たものがちら/\と裏切をして味方に馳加はる樣になつたから是なら大丈夫と勇で見たが根つから詰らなかつた。人間も揃ふし論説も雜報も「タイムス」より優つて居るにも關らず「タイムス」は依然として新聞世界を濶歩して切角の經営惨憺も何の利目もなかつた。即ち實質は何うでも御株で賣れますと云ふ地位に達して居つたのだから外の新聞とは新聞が違ふと云ふ新聞であつたのだ。其主筆になつて下されと手を下げて頼みに來たのを「サウシイ」は苦しがりが割前の芝居見物を斷はる樣に無雜作に謝絶したのである。是も一風な男と云つて宜しからう。
 今一つ新聞に就て面白い噺がある。此頃「モーニング クロニクル」に時々「ヂツキンス」の投書が出たが原稿料が安過ぎると云ふので「ヂツキンス」が不平を鳴し出して其極は斷然投書を廢めて自分で一つ新聞を發行して見樣かと云ふ氣になつた。「ヂツキンス」と云へば當時名代の文人である。其「ヂツキンス」が主筆と云ふ振込ならば成功は槌を以て地を撃つよりも慥かな事である。其所で腕の利た人物を招聘し巧者な探訪を傭込み主筆の給料は二千磅以下之に準ずといふ譯で悉皆準備が出來上つた。先づ室内には銀製の墨壺に「ローズ」樹の卓を控へ參考用の書物は魯西亞皮の表装に金の縁を取り小便給使には一樣の仕着せをきせて一寸主筆に手紙を渡すにも銀盆に載せて恭く上ると云ふ樣な丸で御殿風の仕掛であつた。夫で一八四六年正月二十一日に愈「デイレー、ニウス」の初號が發刊になつた。其論説欄には主筆「ヂツキンス」自ら筆を執つて讀者諸君に告ぐと云ふ題目で吾新紙の目的は天下の弊風を一洗し社會の害毒を掃絶して萬民の幸福を鞏固にするにありと滔々と大した勢で述べ立てた。物事が是迄運んで順當に進歩すれば夫ぎりの事であるがさう參らなかつたから可笑い。先づ初號から十號迄は善かつたが愈十一日目に萬民の幸視を鞏固にするといふ意氣込の大將が辟易降參の體で社主の處へ辭職屆を出して自分は到底主筆は務らない是非今日限り御免を蒙る無理に遣つて居ると忙殺されて仕舞からと云ふ仕儀であつた。社主も驚ろいた。切角當にして事業を興した發頭人が十日立つか立たないのに論説を書かないで辭職願を書たのだから一通りの狼狽ではない。漸く「ジヨン フオスター」を後釜に据ゑて「ヂツキンス」は書信を紙上に連載するといふ契約で世間へは矢張り「ピクウイク」の著者が主筆である體に装ふてやつと一時を糊塗し去つた。然し「ヂツキンス」はどうも倫敦に居つては新聞が苦になつて溜らなかつたものと見え匆々行李を理して飄然と「ジネ−ヴ」を指して旅行をした。此旅行先で書初めたのが有名な「クリスマスカロル」である。
 先づ此位な所で結末とし樣。此稿は極めて亂雜であるが一括して云へば初の新聞紙は皆政治的のものである。政治的でないものも文學的趣味に乏しかつたのである。夫が段々發達して有ゆる種類の文學が新聞雜誌の厄介になると云ふ時代になつた。是に連れて文學者と新聞雜誌との關係が漸く密切に成つて來て現今では文筆者で新聞か雜誌に關係を持たないものはない樣になつた。と云ふのが一篇の主意である。
     −明治三二、四、二〇『ホトトギス』−
 
  小説「エイルヰン」の批評
 
 子規も虚子も病氣で健筆を揮ふ事が出來ぬと云ふので例の如く漱石に何でも書けとの注文であるから、何か書かずばなるまい。元來英文學の評判を俳句の雜誌に載せても、興味に乏いのみならず、多數の讀者には嫌厭を來すの恐ある許とは思ふが、是も主筆が病氣である以上は、朋友への義理だと諦めて、黙つて居り玉へ。
 目下英國で八釜敷評判の高い、「エイルヰン」と云ふ小説がある。是は出版になつてから、まだ一年立たない樣に記憶して居るが、非常な速力で流行の度を進めつゝある。漱石の注文したのは、つい二三版の頃であつたに、日本へ到著したのは、十三版のものである。此間或雜誌を見たら、既に十八版に上つて居たから、今ではもう二十版を踰して居るだらう。實に此五六月間週刊雜誌の來る度に、「エイルヰン」新版の廣告の、出て居ない號は寡ない位だ。そこで西洋の小説は、大抵一版に千部宛摺るのだから、假に二十版と見れば、此七八月間に、二萬部賣れた譯である。是に米國(版權所有者が違ふ)で今迄賣た一萬三千部を加へると、隨分な高になる。單に二三萬と云ふと、廣い英米の讀書社會に對して、頗る僅少の樣に思はれるか知れぬが、いくら西洋でも、さう無雜作に捌けるものではない。「キプリング」の小説には、四萬五萬抔と云ふのがある樣だが、其他に是程賣れるのは珍らしい。
 著者は「ヲツツ、ダントン」と云ふ男だ。別段有名な人でもない。一昨年出版になつた「フアーカーソン、シヤープ」の文學者字彙には、一八三二年生とあるから、もう善年齡である。今迄は雜誌記者をしたり、批評家になつたり、又或る時は「アセニーアム」へ詩稿を寄送したり抔して居つた樣に見える。甞て「ロゼツチ」が、此人の詩を賞讃したと云ふ話もあるが、兎に角「エイルヰン」を出す迄は、左のみ有名ではなかつた。
 「エイルヰン」が、どの位世間に歡迎されつゝあるかは前に述た賣高でも分るが、他の雜誌の評論も、幾分か參考にならうと思ふ。或る雜誌では、沙翁の「オフエリヤ」以後、「ヰニー」(卷中の少女)の如き悽絶なるものなし、と云ふて居る。又他の雜誌には、「エイルヰン」は散文にして詩なるものなり。單に小説中の白眉なるのみならず、又文章として上乘なるものなりとある。或は詩人にあらずんは此結構なしと云ひ、或は此書を繙けば、現時に於る驚くべき天才と席を同ふするに異ならず抔と迄賞して居る。
 世間は固より氣の變り易き者だ。新奇を好む者だ。且具眼者の鮮い者だ。此世間を相手にして博し得たる名譽は、何時取り上げらるゝかも知れぬ。小作人たる文學者共は、喜怒常ならぬ文壇の地頭の前に平伏して、一日も借地期限の長からん事を希望するとも、無慈悲なる庄屋は、※[宛+立刀]心※[元+立刀]骨の辛苦を顧みず、卒然として退去を命ずる事がある。「アンステー」の「ヴアイスヴアーサ」はあれ程一世を風靡したものであるが、今日では大抵の人に忘れられて居る。「ベラミー」の「ルツキング、バツクワード」も無論當日の勢はない。「エイルヰン」も此種の現象かも知れぬ。或は是よりも猶果敢なき最期を遂げるかも知れぬ。然し百年の大作も、千年目には蠹魚の腹中に成佛するものである。千年の文章も萬年目には輕塵斷烟に歸するものである。と同時に一年の壽命あるは、一年の好著述である。十年の價聲を保つは、十年の良詩史である。過ぎ去つた一年間に於て、又來るべき?年間に於て、「エイルヰン」が現時の位地を失墜せざる限りは、之を非凡の作と見做して宜しい。此非凡なる小説中には、如何なる人物が出現して、如何なる事件が發展し來るか知らん。
 筋書を述べるのは、長くなり過ぎる恐れがあるが、原書を讀んで居らぬ人に議論ばかりしては、猶更面白くないから、話の續を雜と述べる事に致さう。
 愛の極は唯物論に滿足する能はずして、必ず神秘説に入るぺし。とは「フ※[ヒの小字]リツプ、エイルヰン」の持論であつた。或日其子の「ヘンリ、エイルヰン」を呼んで、己れが先妻の紀念として肌身を放さぬ、金剛石入の十字架を示して、自分が死んだら、屹度此十字架を屍と共に棺に收めて呉れと頼んだ。夫のみではない。「若し我棺を發いて此十字架を奪ふものあらば當人に祟るは勿論其兒女亦家を失ひ食を路傍に乞ふに至るべし」と云ふ自筆の呪文を添へて、是も一所に葬つて呉れと命じた。
 「ヘンリ、エイルヰン」は普通の人間であるから、馬鹿々々敷命令も有つたものだと、竊かに不承知であつたが、偖親の遺言に背くも異な事と心付て、仰の如く葬式を執行した。葬式のあつた晩に寺の堂番が竊かに棺を開いて此十字架を偸んだ。此寺は海岸の崖の上に建てた古刹であつて、其崖は何ぞと云ふと崩れる。頗る危險な場所である。丁度堂番が仕事を終へて此崖際まで來た時に、例の崩壞が始まつて、盗賊は無惨の最期を遂げた。此寺番の娘に「ヰニー」と云ふ少女が居る。其晩は父の命令で海岸を散歩して居つたが、崖の崩れた物音に驚いて來て見ると、恰度目に留つたが例の呪文である。親が惡事を働いて居る中に、風で此所迄飛で來たものと見える。
 「ヰニー」は親の行邊を尋ねたが、毫も手掛りがない、現在己れの父が此恐るべき呪詛を受くる當人であると云ふ事は、一週間の後始めて知り得たのである。岩と岩との間に鯱張つたる己れの父がかの十字架を頭にかけて、恐ろしき面色をして突立て居るのを發見したものは「ヰニー」自身であつた。非常な發作を起して夫ぎり氣が狂つたのも無理はない。親のない氣の狂つた此少女を連れて遠隔の地に居る叔母の在所へ送り屆け樣とした隣人は、「ウエールス」の山中で遂に其人を見失たぎり遂に其踪跡を尋ね得ない。
 「エイルヰン」は「ヰニー」を愛して居る。「ヰニー」も亦「エイルヰン」を慕つて居る。可憐なる少女の行方が知れぬと云ふ話を聞た時に、「エイルヰン」が心の裡に誓つたのは、天翔る鳥、水潜る魚に化しても、必ず「ヰニー」を探し出して廻り合うと云ふ決心であつた。「チヤーレス、キングズレー」の「ウエストワード、ホー」と云ふ小説にも、去る兄弟が女の行邊を尋ねて亞弗利加の果迄行くと云ふ趣向が有つた樣に記憶して居るが、こゝらは別に感心する程の仕組でもない。
 「エイルヰン」が少女の跡を追懸けて、圖らずも邂逅したのが、「ヰニー」と幼馴染のある「シンフアイ」と云ふ「ジプシー」だ。此女は「ジプシー」專賣の幽冥術を信じて居り又心得て居る。そこで此「ジプシー」が「エイルヰン」を「スノードン」と云ふ高山の上へ連れて行つて占ひを立てた。此山の頂で「クルス」と云ふ胡弓の樣な、「ジプシー」特有の樂器を彈ずると、山神の威靈で、尋ぬる人の生靈が現はるゝ、と云ふが古來からの言傳へである。四方は皆翠※[山+章]青巒で何十里となく續いて居る。今上つた太陽は、夜來の靄に映じて瑠璃、瑪瑙、琥珀、色々な光を放つて居る。此時「シンフアイ」は崔嵬たる巖角に坐して例の胡弓をすり始める。「エイルヰン」は湖水の對岸の巖窟に潜んで結果如何と待つて居る。しばらくすると、髣髴として「ヰニー」の姿が濃霧の裏から現はれた。「シンフアイ」は手を揚げて、兩人の頭上に微かに棚引く、拳の如き輝いて居る片雲を指した。是は二人が必ず添ひ遂ると云ふ前兆である。此時「エイルヰン」は唯物論を一歩離れた。
 「ヰニー」は固より眞の「ヰニー」である。只喪心して赤子の愚に歸つて居る許だ。天若し余に此無邪氣なる「ヰニー」を與へば、余は夫にて滿足すべしとは、此時「エイルヰン」の呟やいた獨言である。然し「エイルヰン」の希望は全く畫餅に歸して、再び此狂女を追跡せねばならぬ樣になつたのは、「ヰニー」が突然發作を起して飛鳥の如く巖角を掠めて、行衛知れずになつたからである。
 「シンフアイ」は猶信じて疑はない。金色の雲が出た以上は、必ず再會する、必ず結婚すると主張して居る。然し呪詛に崇られて居る間は、瘋癲病に罹つて袖乞を爲なければならぬ。若し此呪詛を除ふと思ふなら、十字架を父の棺中に歸すより外に道はない。是も「シンフアイ」の意見である。「エイルヰン」は猶半信半疑で居る。且高貴な品物を埋めた事が、世間へ知れゝば、必ず他の盗賊に偸まれるに違ないと、躊躇はしたが氣が濟まない。そこで遂に決心をして、人の知らぬ樣に再び十字架を墓中に收めた。其翌日から不思議にも安眠する事が出來る。是が「エイルヰン」の「スピリチユアリズム」に近付いた第二段である。
 「あそこに美しい女乞食が居る。此雨の降るのに、づぶ濡れで瓦斯燈の下に立つて居る。手に持つて居る、小さな籃を賣る積りかしら。多分氣狂だらう」。血眼になつて、「エイルヰン」が馬車から首を出した時には、其人は既に見えなかつた。「此歌ですか是は此間中こゝらを、ぶらついて居た、「マツチ」賣の娘の歌つてたのを聞覺に覺えたので、何理窟は分らないが調子が面白いから歌つてるんだ」。よく尋ねて見ると、其「マツチ」賣は近頃何處へか姿を隱して、頓と手懸がない。
 茲に當時の畫家で「ヰルダースピン」と云ふものがある。「愛と信」と題する理想畫の書き手と云ふので頗る評判の高い男だ。「エイルヰン」が或日招かれて此大作を觀に行つて驚いた。愛と信との二天使が左右に蹲まる中央に、輕羅の覆面をして屹立して居る女を、誰かと思つて見れば、己れが平素身命を賭して捜索して居る、「ヰニー」自身の肖像に外ならない。此「モデル」は去る珈琲賣の娘であつた。少し脳の作用に異状はあつたが、寫生に差支へる程でもなかつた。が或日偶然父親の事を尋ねた時怖るべき權相をして卒倒をした。其が此娘の最後の發作である。今では既に此浮世の人でない。と云ふ顛末を逐一畫師より聞いた時の「エイルヰン」の驚と悲と失望と殘念とは、固より想像するに餘ある。原書には落膽の極、日本へ漫遊に出掛樣と迄決心したと書てある。妙な所へ引合に出された日本は難有い仕合だ。
 「エイルヰン」は再び「シンフアイ」を訪ねて、又胡弓を鳴らして「ヰニー」を幻出させて呉れと逼つた。畫家既に死せりと云ひ、珈琲賣既に死せりといひ、同住の少婢既に死せりと云ひて、其葬られたる墓地迄目撃したる「エイルヰン」が、何故に萬一の望を胡弓の哀絲に繋いで、瞬時の幻影を「スノードン」の山巓に垣間見んとするのであらう。「エイルヰン」は益唯物主義を離れてくる。
 「シンフアイ」は猶信じて疑はない。金色の雲が棚引た以上は、「クルス」を彈じて生靈が出た以上は、十字架を棺に收めた以上は、「ヰニー」は必ず生きて居らねばならぬ。二人は必ず結婚せねばならぬ。と思ふて居る。其思ふて居る事が命中したから妙だ。「ウイルダースピン」の朋友に「ダーシー」と云ふ畫師がある。平生から「ヰニー」と珈琲賣の老婆とは眞の親子でないと云ふ、鑑定をつけて居つた。「ヰニー」の死を聞くと、すぐ珈琲賣の住で居る裏長屋へ馳け付たものが此「ダーシー」である。見ると婆さんは酒を喰つて前後正體なく寐込んで居る。其向ふに「ヰニー」の死骸が寢臺の上に轉がつて居る。然し「ヰニー」の容貌を熟く視ると、どうも死んだらしくない。若しや發作の烈いのではあるまいかと疑つて居ると、「ヰニー」は不意に眼を開けて正氣に戻つた。今「ヰニー」を連れ出しても、自分の子でないに極つて居るから、此婆樣が事を荒立る恐はない。もし親類縁者が尋ねて來て救ひ出したと思へば、それなり泣寢入になるに相違ない。「ダーシー」は斯う考へたから竊かに「ヰニー」を連れ出して長い間自分の寓居へ隱して置た。それから或醫者に「ヰニー」の病氣を癒す工夫はあるまいかと相談をかけた。夫はある。發作の烈しく起つたとき、磁力を用いて病を他人の身體に移せばよい。尤も健康體であれば、さしたる害もないが、誰も進んで人の病氣を引き受けるものはあるまいから、餘程六づかしい治療法だとは、其醫者の答であつた。此時自ら進んで「ヰニー」の病を自己に感染せしめて、此少女を本復させたのが「シンフアイ」である。夫から「シンフアイ」は「エイルヰン」を「スノードン」の頂上に連れて行つた、「ヰニー」も連れて行つた。其昔し二人が會合した場所で、再び二人を會合せしめた。自分は例の胡弓を取つて最後の一曲を奏して、二人に別れたぎり姿を隱して再び見せなかつた。(人の病氣を磁力の力で傳染せせる抔は、此場合には頗る面白い思ひ付だが。よく覺えて居らんが、慥か「コリンス」の「ムーンストーン」か「ウマン、イン、ホワイト」にも同じ樣な斬新の趣向があつた樣に思ふ。是は或人が夢中不意識の際に色々事を爲る、(英語で「ソムナンブユリズム」と云ふ)病氣に罹つて、貴重な寶石を盗んだ事から騷動が起つて、愈病氣で盗だのか、又は惡意があつて取つたのかと云ふ事を確める爲め、同一の場所、同一の時、凡て同一の事情の下に、本人を試驗に懸けて見た。但寶石の代りに三文の價値もない石か何かを入れて置た處が、矢張夫を盗んで寶石を盗んだと同樣の所へ隱したので、愈病氣である事が列然して騷動が落著したと云ふ趣向である。單に巧と云ふ點から見ると、「コリンス」の方が優つて居る樣だ。)
 以上は雜とした話の筋道である。卷中の人物で第一に目に著くは、「シンフアイ」だ。是は唯の女ではない「ジプシー」である。單に「ジプシー」と云ふ丈で既に詩趣を帶びて居る。古代印度より移住して欧洲に蔓延し、現今に至る迄、諸方を漂流して、到る所にて幕を張つて生活して居る「ジプシー」である。人相手相身上判斷を特有の技術とする「ジプシー」である。次に喪心狂氣せる「ヰニー」が居る。富貴を賭し身命を賭して「ヰニー」を追跡する「エイルヰン」が居る。「エイルヰン」の父に「シユエデンボルグ」宜しくと云ふ神秘學者が居る。次に出て來るのは三名の畫家だ。畫家であるが徒らに潤筆料を食つて金粉紺泥を塗抹する族ではない。一人は世の拘束を逃れんが爲に身を丹青に委ねたる「ボヘミヤン」、一人は亡母在天の靈の庇護に由り吾理想に適ふ「モデル」を發見し得たりと信ずる奇人、殘る一人は失戀の極現世の物質主義を棄てゝ唯神論に傾いたる思想家で、三人共多少超然たる所がある。此數人を除いては幾んど他の人物は出て來ない。言を換て申せば「エイルヰン」中の人物は皆雅である。俗氣がない。銅臭がない。皆一拍子變つて居る。
 此數人の活動する場所が又面白い。彼の「ウエールス」一の高山と呼ぼるゝ「スノードン」が、※[山/卒]※[山/律]として地を拔く三千五百尺の山巓か、若くは山腹、若くは山下の小村が重なを舞臺である。時に現時の「バビロン」と云はるゝ倫敦の光景に接せざる事もないが、十字街頭車馬※[(目/木)+危]※[兀+危]の音を聞かせらるゝ事はない。高樓の夜宴電光青煙の下に、燕姫趙女の舞踏を拜ませられる事もない。倫敦と云へば俗であるが、繪師の畫室は倫敦でも椅別風流なものである。「カンヴアス」や「イヽズル」や愛と信仰と云ふ畫題の説明を承る丈なれば、倫敦と雖煤煙濃霧俗氣罪惡と聯想する必要がない、のみならず却つて※[金+蠖の旁]湯冷處ありの趣がある。
 次に一篤の結構が面白い。事の起りが呪誼即ち「カース」だから奇だ。日本で呪詛と云ふと、法印か修驗者或は丑の時詣りの專賣の樣であるが、西洋では誰にでも出來る事になつて居る。彼人に災難の降れかしと念ずる一心は、必ず應報のあるものとの考が通俗にある。現に聖書の一卷目から「カース」と云ふ字が出て居る。「ジエーコツブ」が父を欺いて滋味を勸めたる罪により父の爲に呪詛を受けはせぬかと掛念したと云ふ話しがある。「デクインセー」が「アン」の行邊を捜索して、遂に再會の機を得なかつた時に、古昔父の呪詛が必然の運命を以て、子に及ぶと信ぜられたるが如く、余が此女に對する重視の祈念も、山を踰え海を踰え、若くは十圍二十圍の重關を踰えて、倫敦の鬼窟裏に入れ、若し鬼窟裡に入つて尋ね得ずんば、三尺の墓標の下を潜りて、九泉の底に彼女を救へかし、と書いてある。「カース」に對する觀念は斯樣な物であるが、十九世紀の今日に、呪詛を骨子にして小説を作らうと思ふものは、一人もあるまい。「コルリツヂ」の三人の墓と云ふ詩に、母の呪詛が娘に及び、娘の夫に及び、又夫婦の媒介をした女に及んで、此三人が快活から幽鬱に、幽鬱から沈衰に赴く所が敍してあるが、是は詩である。而も「コルリツヂ」の詩であるから、例外と見なければならぬ。苟も物質主義進化主義の横行する今日に、古昔の迷信たる呪詛を種にして小説を書いたものは此男許だらう。種にし樣と思つても、種にならなければ夫迄であるが、種になれば甚だ愉快に違ない。灰吹から蛇と云ふて、人が笑ふが、笑ふのは出ないと云ふ事を假定した上の話である。出た日には面白からう、愉快だらう。「ダントン」は首尾よく灰吹から蛇を出したのである。理に凝るときは人情を没却すると同じく、情の切なる時は理を忘るゝものである。古今の名畫名文には不理窟千萬なるものが多い。北宗派の人物には口から仙人を吹き出したり、鯉の背に跨つて天上する所などがある。「カリバン」も「エリエル」も退いて考へれば馬鹿らしい空想に過ぎない。然し其畫其文を翫味する際には、少なくとも其不條理なる事を忘れて居る。即ち滿身が情化して、理の付入べき寸隙がない。展覽通讀の際、理が頭を提げて、動ともすると冷笑したがるのは、作其自身が不理なる爲ではなくて、情に訴ふる力が足りないからである。固より兩方を滿足させ得れば其が善からう。然し二者其一を擇ばねばならぬ時には、蛇を出さうとも、呪詛を種に仕樣とも、不都合だと思ふ餘地がない位に、讀者の情を動かし得ればそれで成功したと云はなければならぬ。
 次には此小説の長短である。英國の小説を讀んで第一に驚かされるのは、非常に長たらしいと云ふ事である。無論短いのもあるが、十八世紀より今世紀へかけて出版になつた大部分の小説は皆冗漫なものだ。少くとも無用の篇を省いて、此半分につゞめたら善ろと思ふ位である。尤も前方は三卷小説と云つて、小説は必ず三卷で出版するものと書肆も讀者も豫想して居つたのだから、穴勝著者を責むる譯には行かないが、其弊は單に興味を殺ぐに過ぎない。十のものを一から十迄書くのは明瞭に違ないが、云はゞ教科書的である。自然の勢として趣味に乏しくなる。著作を翫昧せしむると云ふ以上は、十の中を八分通敍して、殘る二分を讀者が想像力を用うる餘地として存して置かねばならぬ。小學校の兒童ですら己の脳力を用いて問題を解釋する事を喜ぶ。詩歌美文を手にする、少しでも想像力のある者は讀誦の際此力を使用するが爲め、一層の興味を感ずるに違ない。現に修辭學で擬人法比喩法其他一切の手品を發明したのは、皆讀者の想像力を働かしむる道具に過ぎない。就中敍述の際幾分の空間を割て讀者の情解に一任するのは、作詩作歌に必要なる方法である。從つて詩は散文よりも短い。「ミルトン」の失樂園抔は隨分長いには相違ないが、之を散文に直したら、少なくとも二三倍長いものになるだらう。故に散文を詩化するには、無用の敍事を省かねばならぬ。有用の敍事も讀者の想像力に訴へて解釋し得ると思惟する限は省かねばならぬ。「エイルヰン」は四百七十餘貢の大冊子である。無論現時流行する短篇小説の如きものではない。然し其内容の複雜なるに比して毫も冗漫の弊がない。讀み去り讃み來つて一篇も無用だと思ふべき所がない。
 卷中の人物が斯の如く、人物の働く舞臺が斯の如く、一篇の結構が斯の如く、繁簡の程度斯の如くなる故に、「エイルヰン」は小説にして尤も詩に近きものである。此數者を兼ねざれば小説にならぬ、とは云はぬ。又良き小説にならぬとも云はぬ。然し尤も趣味ある小説にはならぬと斷言しても宜からう。
 前に述た如く、此小説は全く「フ※[ヒの小字]リツプ、エイルヰン」の呪詛が發展したものと見て差支ない。然し之を説明するのに二つの解釋がある。第一は呪詛其物の功力で此丈の結果が生じたと解釋する。即ち「シンフアイ」の固執する所である。第二には全く幽冥世界と關係なく、只外界の因果物質的變化と見傚す。即ち主人公「エイルヰン」の觀察法である。二者の中孰れが正當なる解釋であらうか。理より云へば「エイルヰン」正しかるべく、情より入れば「シンフアイ」が優つて居る。抑も愛は情の熱塊である。理を以て伏し得るの愛は、單に其度の高からざるを示すに過ぎぬ。今「エイルヰン」の「ヰニー」に對する愛は合理的の解釋に滿足して諦め得る程冷淡なものでない。「エイルヰン」は強て理窟上の説明を求めて、一歩毎に理窟に遠かる。恰も水に溺れたる者が、滑かなる岩の上に立たんと試むる毎に、深き方へと流さるゝ樣なものである。「エイルヰン」の解釋が事實の上に於て誤つたと云はんより、「シンフアイ」が精神的に「エイルヰン」を屈伏せしめたのである。或は理情の戰爭に理が敗北して情が勝を制したと云つても宜い。
 「エイルヰン」は愛に耽溺したる結果、遂に迷信家に變じたので、局外から見れば一の愚物に過ぎない、と云ふ人もあるだらう。成程「エイルヰン」の愛は理を没却する丈其丈過度のものかも知れぬ。然し愛の觀念を取り去つて考へた處で、「エイルヰン」は矢張「シンフアイ」の奴僕となりはすまいか。理は進むものである。情も變遷するに違ひない。然し理と手を携へて竝行に進むものではない。太古結繩の民と※[さんずい+氣]車※[さんずい+氣]船に乘る吾々とは、理に於て非常な差があるかも知れぬが、情より論ずれば夫程の差はあるまい。近い例が十四五年前に言文一致の議論が大分盛な事があつたが、議論許りで眞面目に試みた者は餘りなかつた。尤も中には「發矢! 空蝉の命御覽なさい噛まれて居る亂髪の末一二本」と云ふ樣なるが出はしたが、其位で餘り世間に流行はしなかつた樣だ。是は理論上言文一致に反對しない者でも、感情の上から在來の習慣を破るのが何となく厭で有つたのだらうと思ふ。然るに當時の理論が、昨今に至つて漸く感情と融和したものと見えて、近頃では言文一致と出掛ても餘り攻撃者も無い樣だし、亦隨分此文體を用うる人もある樣だ。是が即ち感情が理に後れる一例である。人々別々の場合でも此通だと思ふ。我々世の中に幽靈はない者と承知はして居るが化物屋敷へ好んで住む人は容易にない。生死は意に介するに足らずと推論斷定した處で地震の時には一番早く逃出度なる。心の欲する所に從つて規矩を脱せんと云ふのは聖人の事で、理情がひたと合した難有境界である。我々凡夫の理と、凡夫の情は常に鉢合せをして居る。鉢合せをしない迄が、同樣の速力で進行しては居ない。理は馬の如く先へ行き、情は牛の如く鞭ども動かない。
 偖人の言語動作は、己の知り得たる理に基かずして、己の養ひ得たる情に基くものである。日清戰爭の當時如何に御禮御守の類が流行したかを知れば、如何に吾人の感情が幼稚にして、又勢力あるかを知るに足るだらう。「キプリング」の先祖の墳墓と題する小説中に、印度の「ビル」と云ふ種族が、英國の一士官を神と信仰するのみならず、此士官が夜々虎に騎つて村中を練り歩く、と云ひ觸すので、其士官が大に迷惑した、と云ふ事が書てある。吾人の情は遺傳修養の結果として此「ビル」に程遠からぬものである。吾人感情の程度斯の如く、吾人感情の有力なる彼が如くんば、「エイルヰン」が次第々々に「シンフアイ」に感化せられるのは、固より自然の數である。
 若し理を以て論ずれば、堂守が落ちたと云ふ崖は、始終、崩壞の恐のある場所であるから、別段の不思議はない。迷信のある娘が、親の罪惡と變死を一時に發見して、之を呪文と聯想する以上は、氣狂になるのも不思議はない。「ウエールス」の山中に彷徨して居つたものが、己の好な音樂を聞て、其傍に出て來るのも不思議はない。空には色々の雲が出る。金色の手の形をした雲が見はれたとて不思議はない。父を失ひ家を失ひ朋友を持たぬ狂女が、袖乞をして歩行く事も不思議はない。歇斯垤里が全癒したのも、醫者が科學的治療を加へたのだから不思議はない。此數者は皆呪詛と關係はない。讀者は定めて斯う解釋するだらう。「エイルヰン」自身も斯う解釋したのである。解釋はしたが安心が出來なかつたのである。強て安心仕樣として失敗したのである。讀者若し「エイルヰン」の地位に立たば、假令主人公の如く遠く「ジプシー」の血統を引かずとするも、此理窟的解釋で滿足し得たであらうか。理の勝つ時には情の勢力を無視し易きものである。又情の理に後るゝ事を忘却し易きものである。一概には申されまい。
 かの「ダーヰン」傳を草したる進化論者、「グラント、アレン」の小説に、「立派なる罪業」と云ふのがある。是は己の意志に背いて見込の立たぬ夫に嫁いだ婦人が離婚する事の出來ぬ場合には、才識ある男子に情を通じて其子孫を世に遺すのが、女子たるものゝ義務本分である、と云ふ主意を發揮した驚くべき小説である。日本で斯樣な書物を著さうものなら、直發費禁止になるか、又は非常な攻撃を受るに極つて居る。成程進化主義から論ずると、「アレン」の考は不理窟とは云へぬ。人類の發達が果して進化主義に支配せられるならば、吾人の道徳に對する理論も此所に歸著するかも知れぬ。否今日でも一部の人には是が正理であるかも知れぬ。然し吾人の感情が此議論と渙釋一致して、毫も桿格なきに至るは、千年の後であらう、萬年の後であらう、何時迄待つても終に來らぬかも知れぬ。
 理の強い時に考へると、「アレン」の方は奇を好んでは居るが全く不條理ではない。「ダントン」の方は不思議な丈其丈馬鹿々々しい所がある。然し文學は情に訴ふるものであるといふ事を思ひ、吾人の情は如何に幼稚であるかを思ひ、又情の極即ち愛の前には如何なる條理も頭が上がらぬ事を思へば、「アレン」は失敗して、「ダントン」は成功したと云はねばならぬ。
 冥々の裡に「エイルヰン」を束縛して、之を迷信的に感化したる「シンフアイ」は、固より無學無教育の一少女である。軟草を茵席とし、星斗を屋梁とする、流浪組の一人である。「ジプシー」の遺傳と「ジプシー」の習慣を襲ぐ彼女の思想は、頗る迷信的なると同時に大いに詩趣に富んで居る。蕭瑟たる秋風は、一種の言語となつて彼女の鼓膜に響き、蓬勃たる行雲は、有意の讖兆として彼女の眸底に映ずる位だ。「此墓の上には菫が咲て居るから、是は小供か娘の墓に違ない。小供か娘でなければ、中々死んでから春の花にはなれない」。是が「シンフアイ」の語である。「良心? 良心抔と云ふものは知らない。只胸の中の蛇が噛むので痛むのだ」。是も亦「シンフアイ」の語である。夫だから「スノードン」の山巓に、金色の雲影を認めて以來、「エイルヰン」と「ヰニー」とは必ず結婚するものと信じて疑はない。「ヰルダースピン」の證言に關はらず、「ガツジヨン」の主張に係らず、四百七十餘頁を通じて、此信力は毫も撓んだ事はない。幾多の小理窟小議論を躁躙し去り、※[足+易]翻し來つて、※[山/疑]然として一尺も動かぬ有樣は、恰も三千五百尺の「スノードン」が、高く雲表に屹立して、岳麓に風雨の咆吼するを意に介せざるの觀がある。此女丈夫に對すれば、「エイルヰン」の心身は、正に浮標の春潮に漂ふに異ならない。細長い糸瓜の朝嵐に搖蕩する樣なものである。此信力は學問の結果であらうか。「シンフアイ」は無學文盲の女である。教育の結果であらうか。「シンフアイ」は無教育の女である。無學無教育の「ジプシー」であるから、學者紳士貴女令孃の夢にも見る能はざる信力を有して居るのだ。
 此信力あるが故に、一事に遭ふ毎に截然と處理して、毫も遲疑する所がない。人の爲に奔走するも盡力するも、皆肺腑中より迸出するので、決して深思熟慮の結果ではない。壹圓や貳圓の金を借すのに、篤と勘考致した上で抔と云ふのとは雲泥の差である。「ヰニー」の病を己に移して、可憐なる少女を病魔の暗窟中より救ひ出した時、「エイルヰン」に對する自己の戀情を殺して、二人の相思を完からしめた時に、理窟好の讀者は必ず疑ふだらう。「シンフアイ」は二人に對して斯程の親切を志すべき義務があらうかと。義務? 義務抔は「シンフアイ」の知らぬ事だ。又知る必要のない事だ。先祖代々の厚禄を頂戴して居るから、御思報じの爲め、御馬前で討死せずばなるまい。是が義務的の善行である。隣から菓子折を貰つたから、返禮に玉子の箱を遣らずばなるまい。是が義務的善行である。「シンフアイ」の胸中には損得を量る桝目はない。輕重を權る天秤はない。利害を標準にして親切を出したり引込ましたりする、さもしい根性は持たぬ。
 「異日白人あつて、來つて汝を惱殺する事あらん」とは「シンフアイ」の母が「シンフアイ」に遺したる豫言である。「白人に惱殺せらるゝ前に自ら脳蓋を碎いて已まん」とは其時「シンフアイ」の答であつた。「スノードン」の山下に邂逅してより山巓に永訣する迄、彼女は曾て一たびも其愛情を「エイルヰン」にほのめかしたる事はない。顔色にすら出さなかつた。「エイルヰン」自身も、最期の離別を敍する眞際までは、露程も此女の心事を察し得なかつた。富貴爵位に誇るものは固より言ふに足らない。彼の學問に誇り、經驗に誇り、才智に誇るものに、此少女の眞似が出來樣か。教育ある髯男も此に到つて遂に「シンフアイ」の後塵を拜せざるを得ない。
 「エイルヰン」と「シンフアイ」は卷中主要の人物であつから、其性格に就て聊か妄評を加へた。其他の人物に就ても、評すれば評すべき材料はあるが、詰らぬ事を此位書けば澤山だから、是で結末とする。
 著者の考と評者の考とは必ず一致するものではない。評論其物が精確であれば、著者は之に對して郢書燕説の不平を持込むべき次第のものでない。鳴雪や子規が頻りに蕪村の句を評して居るが、銘々區々である。時としては何れも蕪村の意を得て居らぬかも知れぬ。然し批評さへ面白ければ、解釋が二通あらうとも三通あらうとも構はない。若し蕪村が不承知なら、自分の句にして文字は同じいが意味は違ひます、と濟して居ればよい。漱石の批評も固より著者と相談したのでないから、當つて居るか當つて居らぬかは保證しない。但し批評其物が諸先生の俳句に於る如くうまく行かないから餘り威張れない。※[女+尾]々數百言終に是一場の※[口+(合/廾)]※[口+藝]に過ぎない。著者も飛んだものに捕つて定めし迷惑だらう。著者へは氣の毒だが子規と虚子へは申譯が立つ。(七月二十七日稿)
      −明治三二、八、一〇『ホトトギス』−
 
  マクベスの幽靈に就て
 
 自然の法則に乖離し、物界の原理に背馳し、若くは現代科學上の智識によりて闡明し難き事物を收めて詩料文品となす事あり。暫く命名して超自然の文素と謂ふ。此文素の要用にして操觚者の閑却し能はざる所以を述べ、或は假令必須の文素ならざるも、猶詩壘の一角に據つて優に科學の包圍を冷瞰したる理由を論ずるは、頗る興昧ある問題にして學徒研鑽の勞に價するものなり。
 悲劇マクベス中に出現する幽靈は明かに此文素に屬するものなり。故に之を詳論せんとせば先づ如上の問題に明確なる解決を與へざる可らずと雖、茲に之を究覈するの餘地なきを以て略す。辨證は暫く措く。一言にして言へば余は窈冥牛蛇の語、怪癖鬼神の談、其他の所謂超自然的文素を以て、東西文學の資料として恰好なりと論斷するものなり。此論を讀む者は之を讀むの冒頭に於て、先づ余の此論斷に左袒するか、又は之を假定せん事を要す。若し然らずして徒らに幽靈の登場の可否を擬議思量せば、索然として遂に落處を失せん。
 マクベスは功利の念に急なる人なり。想像豐贍にして詩趣に富めるの人なり。門を出て左する事一歩、遂に馬首を回らして右する能はざる人なり。否右する事を知らざる人なり。精力一代に絶するにあらざるも、豪|毅《〔?〕》市井の庸兒を凌ぐに足る人なり。後事を商量して一己の康寧を計るの策に於て賢明なりと云ふを得ざるも、己が目的を達するに自家賦稟の推理工夫を費やす人なり。其畫策の拙其經營の陋なるにも關せず、天分の考慮を回らし得るの人なり。劇裡悲惨の事皆此性格を回轉して發展し來る。主公先天の性亦此鬼哭裡の状況に呼應して其全斑を露出し來る。彼の人を殺すや、三たび。榮耀の夢は枕に就かざる彼の身を追ひて弑虐を現實にするの已を得ざるに至らしむ。空中一口の匕首、彼を導いてダンカンの閨帳爲に紅なり。彼は其君を殺す者なり。慈仁なる其君を殺す者なり。其君を殺さんと欲して之を遂行し得たる者の感果して如何。彼は今更に其心の平かならざるに驚けり。耳邊に語あり、汝眠る能はずといふ。雙手に血痕あり、湖海萬斛の水を傾くるも之を洗ふに由なきを知る。唯彼は眠らん事を要す、又其血を滌はん事を要す。之を要するの極之を得るの術を講じて進むに路あり退くに道なきを覺る。地下に眠るの安きを知らず、己が血を以て吾罪を洗ふの易きに就かざりし彼は、飽く迄も人の眠を奪つて眠らざれば已まず、人の血を濺いで吾手を清めずんば已まず。是に於てか二度び人を殺し、三度人を殺す。ダンカンを弑して眠る能はず、故にバンコーを殺す。バンコーを殺して其手益赤し、故にマクダフの一族を屠る。首に一歩を誤りたる彼の欲する所は只靈精一點の安慰にあり。此安慰を得るの唯一手段として彼の選びしは殺人術なり。彼は此術を講ずる上に於て、又之を實行する上に於て終始一貫して渝らざるものなり。ダンカンを殺すの後、バンコーを殺すの夜、大饗の席宴樂の堂に於て彼の有名なる幽靈は場に上り來る。其現出する事前後二回。後代の學者之を論評する事審かにして異説亦交も起る。或はいふ前に出づる者はダンカンの亡靈にして後に現はるゝ者はバンコーの幽鬼なりと。或は云ふ前者こそバンコーにして後者はダンカンなりと。第三者は即ちいふ、前なるも後なるもバンコーの怨靈に別ならずと。此一篇の主意は諸家の論辯を批評して、余が幽靈觀を演述し歸着し得たる斷案を具して、大方の教を乞はんとするにあり。
 今此考案の要領を明かにし、塗抹汚染の弊を避けんが爲に之を三個に區別し、順を逐ふて之を解決せんとす。一、此幽盛は一人なるか、又二人なるか。二、果して一人なりとせば、ダンカンの靈かバンコーの靈か。三、マクベスの見たる幽鬼は幻想か將た妖怪か。第一と第三は單に第二に附帶して生ずべき疑問に過ぎず。此考案の根蔕とも見るべきは、第二に在つて存す。
 (一)、諸家の論評中ダンカンを離れ、バンコーを離れて、單に此幽靈は一人なりや將二人なりやを説ける者なし。從つて學者の説を擧げて之を辯ぜんとする時は勢ひ第二の問題を犯さゞるを得ず。只ナイトとシーモアあり、一言之に及ぶ。ナイト曰くマクベスが宴に臨んで、バンコーの在らざるを惜む其剃那に於て、バンコーの靈が再び〔二字右○〕場に上り來るは、藝術の極致にあらずと。シーモア曰く同一の幕に、同一の物が再現したりとて、畏怖の念、惱亂の度をいくばくか高めなんと。是其幽鬼の何物たるを論ぜず、少時間内に於て同一の亡魂が兩度出現するは美的ならずとの意見に外ならず、吾人をして二人の言に首肯せしめんとせば豫め吾人をして同處に同事を再度繰返す事の非なるを認識せしめざるべからず。而も吾人は此命題の眞なるを疑ふものなり。重複を避くるの美なると等しく、重複其物も亦美なる事あればなり。文藝は感興を惹くの具なり。詩歌行文にして感興を催さゞらんか、重複を避くるも何の益あらん。若し重複あるが爲に精彩一段を添へ、滋味半※[巒の山が肉]を加ふるを得ば、重複は多々益辨ずるの具にして、文藝の極致時有てか是に存す。詩に韻脚あるは、一種の意義に於て重複なり。文に照應ある亦一種の意義に於て重複なり。修辭に「クライマツクス」あり。是亦一種の意義に於て重複なり。小説に主人公あり、女主人公あり。全篇を貫串して出頭し來る。明に一種の重複なり。故にマクベスの亡靈に就て吾人の考慮すべきは、其重複するや否やの點にあらずして、重複せば感興を毀損するや否やの點にあり。今一歩を讓つて重複は非美なりとするもマクベスと亡靈との關係は、純乎たる重複にあらざるを如何せん。ナイトとシーモアは只亡靈のみを眼中に置く。故に同一の亡靈が再度出現するを見て重複なりと判ず。然れども此光景の燒點は亡靈のみに存せざるを如何せん。マクベスは劇中の主人公にして、且此光景の主人公なり。滿堂の觀客はマクベスを中心として視線を茲殺人漢の心意、表情、言語、動作に凝集す。もしマクベスの心意表情言語動作にして、第一の靈を見るときと第二の靈を見るときに於て、寸毫の差異なく、而して寸毫の差異なき亡者が再現するとせば、是眞の重複なり。去れども吾人の心意は瞬間に流轉し、刹那に推移す。流るゝ水の舊時に似て舊水にあらざるが如し。尋常茶飯裏の生活猶此の如し。況んや詩的なるマクベスをや。又況んや衷懷平衡を失し危機眼前に逼る彼の境遇に於てをや。必ずや彼が心の機微に動きて外に搖曳する所のもの或は、其程度に於て或は其種類に於て前後變化の觀客に認めらるゝものあらん。吾人が全幅の中心として、活畫の主人公として凝視諦觀する、マクベスの上に如上の變化ありて、場中の客皆其變化を認め得るとせば、幽靈の重出は單に副景の重出にして、全般の興懷に關する事なし。加之其配物なる幽靈の重複すら、無意義の重複にあらずして、燒點に活動するマクベスの心裏に反響する事、新たに異樣の幻怪を挿入して一點の凄氣を綴るに優ること疑を容る可らざるに似たり。(第二問に説く所を見よ)若し夫れ人ありて余に告げて、リチヤード三世は十一人の男女を殺して、十一人の靈魂を見たるが故に、ダンカンとバンコーを殺したるマクベスも、亦二人の幻怪を堂中に認めざる可からずと云はゞ、答へて云はん十一人の男女は各自の意向に從ひてリチヤードの枕邊に立ち、マクベスの毒手に斃れたる三者の二人は、無精にして冥土より娑婆に出で來るを面倒と思ひしが爲ならんと。
 (二)、幽靈の一人にして事足るは、前に述べたるが如し。去らば其一人の幽靈はバンコーかダンカンか。是次に解釋すべき問題なりとす。
 千八百三十六年コリアー沙翁に關する一書を著はして、醫師フオーマンの記録を公けにす、其中千六百十年四月二十日の條に此悲劇に關する記事あり。蓋し彼は當夜グローブ座にてマクベスを觀、歸つて其状況を草したるなり。其一節に曰く此夜マクベスは大に臣僚を會して宴を張り、バンコーも此席にあらばなど殘り惜氣なる樣なり。偖てマクベスは諸人の爲に祝杯を擧げんとて席を立ちけるが、其ひまに幽靈は席に入りて、マクベスの背なる椅子に坐しぬ。マクベスは再び席に復らんと振り返りて幽靈と顔見合せ、畏怖と憤怒の餘りバンコーを殺せる事に就きて喋々しければ、諸人も始めてバンコーの此世にあらぬを知り、果はマクベスを疑ふに至りぬ。此記録によりて事實上疑問の一半は解釋せられたりと云ふも不可なきが如し。去れども事實は事實なり。劇の興味が事實以外に於て増減し得るとせば、之に向つて論評を加ふるは、批家適當の義務にして、且フオーマンの記録は單に事實前半を摘出したるに過ぎず、是に於でか諸家各自の意見を闘して相下らず。
 第一の幻怪をダンカンとなし、第二の幽魂をバンコーとなす者あり。シーモア及びハンター是なり。前者云ふマクベスの良心を刺戟し、其非學を悔いしむるものは、慈仁寛厚のダンカンか、將た同輩なるバンコー
かと。思ふに此説をなすものは吾人の心理作用を知らざるものなり。人大事を忘れて小事を念頭に置く事あり。父母の病に走らずして碁に耽るが如し。眼前の丐兒に半錢を與へて、故郷の妻子を閑却するが如し。半夜火あり汝が家に逼るとき、汝の意識は此火災の爲に占領せらるべきか、將た去年破産せる汝の銀行にあるべきか。火災は一時の害、破産は終生の厄なり。若し大小を以て之を論ぜば、兩者固より軒輊するの價値なきものなり。然れども汝の心は此を忘れて彼に赴くは何ぞ。目前の急なればなり。今ダンカンとバンコーの差は近火と破産の差の如く甚しからず、而して眼前の急は兩者共に同じ。マクベスの胸裏、大なるダンカンを忘れて、小なるバンコーを畏る。是理の當に然る可き所なり。彼又云ふマクベスの妖怪を罵る話中に if charnel-houses and our graves etc.の語あり。若しダンカンを指すにあらずんは此語妥當ならず。ダンカン先に死して今既に墓中の人なり。故に「墓を出る」云々の文句に適中すれど、バンコーは今死せるのみにて出づべき墓もなく、見捨つべき塚もなし。若し今幽靈をバンコーなりとせば、此句は如何にして説明するを得んと。此説固より一理なきにあらねど、要するに文字上の理窟にして、酷評を下せば、言句に拘泥せる訓詁家の説といふべし。マクベスは前に述べたる如く詩趣に富める人なり。故に其言語の情に激して噴薄するや、常に天來の警句となつて流出し來る。彼の charnel-house の一語のごときは尤も其奇拔なるものなり。墓は常に死と連想せらるゝものなり。今死せる者が幽鬼となつて娑婆世界を彷徨するとき、詩的に之を形容して墓死屍を吐くといふ。既に其適切なるを見る。其死屍の葬られたると葬られざるとは吾人の問ふ所にあらざるなり。單に吾人のみならで之を口にするもの自身の問ふ所にあらざるなり。且つ此思想たる沙翁に在つて珍奇ならず。「ハムレツト」中に
 “The graves stood tenantless,and the sheeted dead
  Did squeak and gibber in the Roman streets”
なる句あり。去れば既に死したるものゝ幽靈を漠然と、「墓より出で來る」と云へりと見て不可なきが如し。彼又云ふ、マクベスの夫人に告ぐる語中に If I stand here I saw him なる言あり。夫人は此時未だバンコーの死を知らず。知らざるものに向つて單に him と云ふ、何等の意義なし。故此 him なる名詞は夫人の共謀して弑せる、ダンカンに外ならずと。此説又事機に通ぜざるの論なり。人を見て法を説くは日常談笑の際にのみ行はるべき法則なり。即ち吾人が言語の方便を用ひて其意思を人に通ずるときわが言語の對手に了解せられ得るや否やを考へ之を斟酌し之を撰擇し得るの餘裕ある場合にのみ適用すべきものなり。咄嗟倉率の際は、人唯己れのみを顧慮するに過ぎず。念頭一微塵の人に關するあるなし。焉んぞ他の吾を解すると否とを問はんや。昔し一友あり、英人某と爭ふ。爭ふとき彼の片言隻辭を聞得ず。而して彼は平生此英人の授業を受け、日々其講義を筆記せる男なり。見るべし此講師は平生の手加減を忘れて驀地に吾友に吶喊したるを。今マクベスの場合如何と考へよ。彼は平生のマクベスにあらざるなり。情緒惑亂し心胸鼓動す。彼の脳漿は沸々としで聲をなす。是時にあたりで直ちにバンコーを指して him と云はゞ夫人は之を解し難かるべしと、冷靜に分別を回らし得るの理あるべからず。否夫人の解し得べからざる him なる語を放下するが故に、彼の心裡の反響と見るべき此唐突の一語が、一段の趣味を附加し周圍の状況と映帶の妙を極むるにあらずや。且不可解は秘密を意味す。秘密は時あつてか猛勢なる文學的結果を生ず。吾人は狂人の※[口+(合/廾)]※[口+藝]を聞きて解する能はざるに苦しむ。解する能はざると同時に其解する能はざる邊に於て、一種道ふ可らざる悽愴の感を生ず。深夜人靜つて萬籟息むとき、忽然隣床に臥する者呵々大笑す、吾人は其何の意たるを知らず。只此何の意たるを知らざる底の笑裡に、無限の鬼氣あるを思へ。マクベスが他に解し難き him なる言を、當面錯過の瞬間に口外するは、彼の心状を發露するに最も適當なる方便なり。又之を口外したるが爲め呆然たる傍人の心に反射して、一種の薄氣味惡き感を起さしむるも亦、作者工夫の一端と見るべし。
 ハンターの第一幽靈を以てダンカンなりとなすの理由も亦、charnel-house 云々の句に存すれば、重ねて之を論ぜず。第二の幽靈を以てバンコーとなすは、マクベスが幽靈に向つて Or be alive again, and dare me to the desert with thy swordと 云へるに由る。彼れ云ふ此句によりで推測すれば、平易温厚の王者にあらずして悍驕傑張なる武士の怨靈と思はると。余は固より雙方の幽靈を以てダンカンにあらず、バンコーなりと主張する者なれば、是説を駁するの必要なきに似たりと雖、單に此句より推して、此結論に達するは頗る薄弱なりと云はざるぺからず。マクベスは生けるダンカンに戰を挑むにあらず。生けるダンカンは寛厚の長者なり。去れど如何に君子の幽靈なればとて、温風の如くに出現するの道理なし。少なくとも自ら手を下したるマクベスに然く見ゆべきにあらず。從つて刀矢の家に生れたる男子が、之を麾いて劍光の下に雌雄を決せんとするは必ずしも不可なきに似たり。余故に思ふハンターの説は、第二の幽靈をバンコーたらしむる上に左迄の功力なしと。
 以上の二家に反して第一をバンコーとし、第二をダンカンなりと思惟する者をナイトとす。第一の論據は twenty trenched gashes on his head を蒙つて斃れたりと傳へられたる、バンコーにマクベスの句中にある twenty mortal mortal murthers on their crowns と云ふ文辭が善くあてはまると云ふにあり。要するに是も亦言句の議論に過ぎず。去れど單に之を以てバンコーなりと論斷するの大早計なるは勿論なれど、此斷論を鞏固にする上に於て、多少の力なしと云ふ可らず。彼の第二の理由に至つては容易に首肯し難きものあり。其大要にいふ。初現の幽靈と再現の幽盛に對する態度の上に於て、マクベスの言語に變化あるを見る。既に其言語に變化ある以上は、同一の幻怪に對するものと斷定し難し。彼の初靈を見て駕怖せるを咎めて、君も丈夫ならずやと夫人の語りたるに答へて、「然り而も豪膽なる丈夫なり、鬼を戰かしむる者を熟視するからは」と云へり。然るに第二の幽靈に對しては‘Avaunt! and quit my sight!’と云ひ、‘Take any shape but that’といひ、又は‘Hence,horrible shadow!’と云ふ。凡て是傾倒激越の辭にして、之を前段に比するに、一層の熱氣を加ふ。是第二の幽靈は第一よりも獰猛兇惡なるが爲ならんと。之を辯論せんには、再び心象の推移なる問題に入らざるべからず。ナイトは動き得る幽靈を見て、動き得るマクベスを見ず。心的に dynamic なるマクベスは甞て彼の眼中に入らざるなり。吾人は兩個の幻怪を此光景上に點綴し得ると同等の容易さを以て二個のマクベスを描寫し得る事を忘るべからず。故に他の理由ありて、此幽靈は一個にして二個にあらずと斷論し得るときは勢ひ動く者はマクベスなりと云はざる可からず。而して此中心點たるマクベスの動くは副景たる幽靈の動くよりも劇全體の生命を活動せしむる點に於て、功果あるは勿論なり。去らばマクベスは此活人畫裡に如何に動き、如何なる丹碧の彩華によりて、順次に之を色どりしか。余思ふにマクベスの變化は流水の低きに就くが如く、楓葉の秋を染むるが如く、自然の理を極めたるものなり。人あり髪を引きて汝に戯る。汝微笑して過ぎん。頃刻の後彼又汝の髪を引く。汝笑ふ事をやめて澁面を作らん。三度四たびに至つて汝憤然として起ちて彼を撲たん。彼の汝に戯るゝや其動作に於て其程度に於て、前後毫も異なるなきなり。然れども汝の微笑は變じて澁面となり、遂に毆打となる。是動く者彼にあらずして汝に在るなり。マクベスは固より斗大の膽を有する空世の偉人にあらずと雖、其英挺悍勵の氣、優に尋常一樣の鈍瞎漢を拔くに足る。故に其幽鬼に對するや常に畏怖と憤怒の間に彷徨す。彼は己れの殺戮せる舊主舊友の影を、髣髴裡に認むるを怖る。而も同時に彼等の己れを侮蔑し、其死屍冷骸を動かして敢て、わが面前に出で來るを憤る。彼の第一幽靈を見るや、畏怖の念憤怒の念に勝る。其去つて再び來るや憤怒の念畏怖の念に勝る。一たび消えたる亡者を送りて、胸中の波瀾正に收まらんとするに臨みて、又前と同じき亡者に接す。亡者はマクベスをして瞬時の安心を得せしめんが爲にことさらに退却し、漸く安心を得んとするとき又急に起つて其虚を衝く。是最初より退却せずしてマクベスを睥睨するよりも皮肉なる遣口なり。飽く迄も彼を愚弄せる手段なり。勇悍氣を負ふマクベスの如きもの、此幽靈の態度に對して、憤恨痛激の辭なきを得んや。彼の第一の幽靈に對するよりも、第二の幽靈に向つて切齒罵詈の語多きは正に是が爲なり。而も同一の幽靈が隨意に來り勝手に去り、思ふまゝに彼を嘲弄するが爲なり。故に余はナイトの説に反して、變ずる者は幽靈にあらずして反つてマクベスなりと斷ず。
 兩個の幽靈を以て共にバンコーなりと認むる者あり。ダイス及びホワイト是なり。ダイス云ふ stage directipn は元來單に俳優の注意の爲に設けたるものなり。故に若し沙翁をしてダンカンとバンコーと兩人の亡鬼を登場せしむるの計畫ならしめば、最初より混亂の憂なき樣明記すべき筈なりと。余は是に對して然あるべしと云ふの外、一辭を附加する能はず。ホワイトの説に至つては、諸家の評論中尤も耳を傾くべきものと思惟す。曰くマクベスの心を苦しむるものはバンコーに外ならずして、幽靈の出現するはマクベスがバンコーの事に説き及ぼしたる後にあり。第一の幽靈のバンコーなるや疑を容れず。第二も亦同人なる事明白なり。マクベスのバンコーを殺すや、遠く時日を隔てず從つて當時彼の心を支配するものはバンコーなり。且つ彼は衆人の疑念を晴さんとて殊更にバンコーを過賞せる際に、幽靈の突如として現るゝに由つて然るべしと。ホワイトの説簡にして要領を得たり。余は大體の上に於て、其説に同意するに躊躇せざるものなり。今之を詳論せんとす。
 バンコーの怨鬼は唯彼がマクベスに謀殺せられたりといふ單純なる理由によりて、形をあらはすにあらず、若し是を以て幽靈の出るに相當の理由なりとせば、ダンカンの怨靈も亦同等の權利を以て登場濶歩し得る筈なり。去れども沙翁はバンコーの怨鬼を出す前に當りて、周到なる用意を整へたり。少なくとも余の目に映ずる悲劇マクベスに於ては、單なる殺虐以外に興味多き心理上の手順を踏めりと思ふ。マクベスの三個の兇漢を使嗾して、バンコーを途に要撃するや、バンコーは當日の夜會に臨まんとして城外迄馬上にて乘り付けたる折なり。城内にては謀殺の主人宴を張りて大に群臣を饗す。群臣を饗するのマクベスは、兇漢の既に己が命を果し得たるや否やを知らず。心中の煩悶知るべきのみ。而して其煩悶の燒點はバンコーにあるや言を俟たず。宴既に開く。刺客來りて戸外に立つ。マクベス其面上に一點紅あるを認めて曰く‘Tis better thee without than he within と。彼は當夜の宴にバンコーの顔を見ざるを欲し、且其策の成れるを聞きて、漸く安堵の思をなす。苦悶の雲正に收る。宴既に開く。マクベス立つてバンコーの座にあらざるを惜み、衆に向つていふ。
“Here had we now our countryhunn's honour roof''d,
  Were the graced person of our Banquo present;
  Who may I rather challenge for unkindness
  Than pity for mischance.”
 是明かにバンコーの此席に來り得べからざるを豫想して、其心事を倒まに放射せるものなり。此時に當つて彼の念頭は固よりバンコーを離れず。而もバンコーを再び見るの虞なきを信ず。而して殊更に堂上の臣僚を欺瞞せんが爲に、彼が缺席せる爲切角の興味を殺ぐを呶々す。是時に當りて幽靈あり音なく室に入り、聲なくしてマクベスの椅子に坐す。とせば、其幽靈は彼が副意識の下に埋没せるダンカンの幽靈と見るべきか、將た寸時も彼の念頭を離れざるバンコーの幽靈なるべきか。事實は暫く措く。之をダンカンの幽靈とせば興味の頓に索然たるものあらん。充分に諸人を瞞着し得たりと信じたるマクベス、又萬々バンコーの此室に入るの道理なしと思ひつめたるマクベスが、己れの席に復せんとして振りむけば、居るべからざるバンコーが居るべからざる己の椅子に冷然と端坐しつゝあるを見て、悚然たる寒慄の念は、マクベスより傳染して一般の觀客に電氣の如く感動を與ふべきなり。友を殺し了し臣を欺き了したりと自惚れたる彼は、劈頭第一に幽靈より翻弄せられたるなり。
 幽鬼既に去つて波瀾漸く收まる。マクベス思へらく今度こそ安心ならんと。再び先の瞞着手段に訴へて云ふ、
 “I drink to the general joy o'the whole table,
 And to our dear friend Banquo,whom we miss;
 Would he were here!”
 
と。彼の念慮は、猶バンコーを離れざるを見るべし。彼剛腹なる猶臣僚を愚弄せんと欲するを見るべし。而して其他を愚弄せんと欲する裏面には、一點得意の氣あるを認め得べし。得意の氣僅かに機微に發する時、忽然として其鼻梁を挫くの幽靈は再び登場し來るなり。マクベスの憤怨知るべきのみ。余は如何に之を解釋するも、再度の幽靈を以てダンカンと思議する能はざるなり。以上は余の第二問に對する解決なり。
 (三)、最後に解釋すべきは、マクベスの見たる幽靈は幻怪とすべきか、又た幻想とすべきかの問題なり。客觀的に眞物の幽靈を舞臺に出すを否とするに就て二説あり。一は此幽靈は獨りマクベスの目に觸るゝのみにて、同席の他人の瞳孔に入らざるが故に、何人の眼にも映ずる實物を場に登すは、當を得たるものにあらずとの考なり。クラーク、ケンブル、ナイトの諸人之を主張す。一は此幽靈たる單にマクベスの妄想より捏造せられたる幻影の一塊に過ぎざるを以て、之を廢すべしとの意なり。第二の幽靈に就てハドソン之を固持す。第一の説は理に於て妥當なるも、之を廢したりとて感興を引くの點に於て必ずしも實物の幽靈に勝らず。屡ば云へる如く、此劇の中心はマクベスなり。マクベスに對する觀客の態度はマクベスと列席する臣僚の態度と同じからず。吾人は此中心點なるマクベスの性格の發展を迹づけん事を要す。故に吾等觀客はマクベスの臣僚よりもマクベスに密接の關係ありて、又彼等よりも一層マクベスの心裏に立ち入るの權利を作者より與へられたるものと假定して可なり。吾人の劇を觀るや、劇を觀るの前に當つて豫め此假定を認識せるものなり。故に此點より論ずれば一座の人に見る能はざる幽靈が、觀客の眼に入りたりとて不都合なき譯なり。又第二説に對しては余は下の如き意見を持す。文學は科學にあらず。科學は幻怪を承認せざるが故に、文學にも亦幻怪を輸入し得ずと云ふは、二者を混同するの僻論なりと。去れど文藝上讀者若くは觀客の感興を惹き得ると同時に、又科學の要求を滿足し得んには、何人も之を排斥するの愚をなさざるべし。唯單に科學の要求を滿足せしめんが爲に詩歌の感興を害するは、是文藝をあげて科學の犠牲たらしむるものと云はざる可らず。マクベスの幽靈は科學の許さざる幻怪なるが爲に不可なるにあらず、幻怪なるが爲に興味を損するが故なりと云はざる可らず。科學の許す幻想なるが爲に可なりと説くべからず、幻想とせば幾段の興味を添え得るが爲に可なりと論ずべし。而して此光景にあつて實物の幽靈を廢するときは、劇の興味上何等の光彩を添へずして、却つて之を減損するの虞ある事前に述べたる如くなれば、余は此幽靈を以て幻怪にて可なりと考ふ。若くはマクベスの幻想を吾人が見得るとし、其見得る點に於て幻怪として取扱つて不可なき者と考ふ。第三の問題に關して今少し詳論の上明暢なる解決をなさんと思へど時日乏しくして遺憾ながら其意を得ず行文思想共蕪雜なり讀者推讀あらん事を希望す。(十二月十日釋稿)
      −明治三七、一、一〇『帝國文學』−
 
 
雜篇
 
  『銀世界』評
       ――明治二十三年、正岡子規稿『銀世界』書入れ――
 
 〔第一篇の終に〕
 此篇一名を觀雪展覽會小説と云ふ和漢古今ノ雪ヲ苦もなく七|牧《原》の中に縮めたる御手際縮地仙人の術も遠く及ばず只管記者の物ずきなるに感服仕るなり
 展覽會小説の事なれば餘程其道に執心な人でなければ愛讀し難し今少々見物人の滑稽を多くして俗物にも面白がらせては如何然し紙數に制限あると云はゞ是非なし
 
 〔第二篇の終に〕
 此篇脚色善からざるにあらず去れど文字鍛練を缺くが爲め甚た感服しがたき處多し文字の缺妥章句の無味は斟酌せよとの仰せなれどいくら斟酌しても不平が申したくなるなり勿論小生は此種の文體が好物ならぬとて小言を申すには無之文體は人々の嗜好もあり且は文の種類にて適不適も有之べければ御勝手次第ながら文句の巧拙については今少し立派な御手際が拜見したしとだゝ〔二字二重傍線〕をこね度相成候
 
 〔第三篇の終に〕
 此篇半バハ理學的思想ヲ書シ半バハ哲學的分子ヲ含ミ時ニ世ヲ諷刺シ又補フニ漢土ノ故事ヲ以テス結構非凡識見頗ル高シ小生抔ノ夢見スル能ハザル能所ナリ小生此篇ヲ以テ五篇中ノ壓卷トナス感々服々服々感々然シ文字ハ御自稱ノ如ク鍛練ヲ盡サズ妥當ヲ缺ク處多シ只 matter ヨロシキ故左迄 form ハ目立ズ
 
 〔第四篇の終に〕
 
 ドウモ恐レ入ツタ實ニ恐レ入ツタ是ハ舊幕時代ノ小説ダ春水抔ノ作ニ此様ナノガアリソウジヤナイカ、アンマリ、イヤ味タツプリ氣ザ澤山デドウモ恐レ入ツタ
 
 〔第五篇の終に〕
 藝妓の雪權妻ノ雪かゝぬ方か善し傾城の雪ときては猶更かゝぬがよし哲學者の雪理學者の雪抔かいたら面白からん女が善くバおさんの雪令孃の雪妻君の雪バヾあの雪をかくべし
 
 〔巻末に〕
 去年七草集拝見せし折は何でもほめてやつたら嬉しがるだらうと親切心からでこ/\の漢文尤もらしく製造してゑらいかな先生書いたりや隊長と無上に持ち上たところさすが獨尊の君もあまり嬉しくなかつたと見え無暗矢たらに人の文をほむる者ではないほめ過ぎたるはなほほめ足らぬが如しすこしは惡口も雜るがよしと御小言頂戴仕りてよりよろしい承知今度は惡口にてうれしがらせんと心待ちに君の文章の出來るのを待ちたる甲斐ありて銀世界批評の役仰せ付られたり何が偖草稿を取り上たる以上は生かそうと殺そうとそこは批評家の裁配一つと善い氣になりて惡口書きながし机下に返呈仕る是でも御氣に入らずば又を手を換え品を易へたて貴覽に供すべき者なり爲後日一|冊《原》如件
 
  愚見數則
 
 理事來つて何か論説を書けと云ふ、余此頃脳中拂底、諸子に示すべき事なし、然し是非に書けとならば仕方なし、何か書くべし、但し御世辭は嫌ひなり、時々は氣に入らぬ事あるべし、又思ひ出す事を其儘書き連ぬる故、箇條書の如くにて少しも面白かるまじ、但し文章は飴細工の如きものなり、延ばせばいくらでも延る、其代りに正味は減るものと知るべし。
 
 昔しの書生は、笈を負ひて四方に遊歴し、此人ならばと思ふ先生の許に落付く、故に先生を敬ふ事、父兄に過ぎたり、先生も亦弟子に對する事、眞の子の如し、是でなくては眞の教育といふ事は出來ぬなり、今の書生は學校を旅屋の如く思ふ、金を出して暫らく逗留するに過ぎず、厭になればすぐに宿を移す、かゝる生徒に對する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚なり、主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、況んや番頭丁稚をや、薫陶所か解雇されざるを以て幸福と思ふ位なり、生徒の増長し教員の下落するは當前の事なり。
 勉強せねば碌な者にはなれぬと覺悟すべし、余自ら勉強せず、而も諸子に面する毎に、勉強せよ々々といふ、諸子が余の如き愚物となるを恐るればなり、殷鑑遠からず勉旃々々。
 余は教育者に適せず、教育家の資格を有せざればなり、其不適當なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり、是現今の日本に、眞の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非教育家でも御茶を濁して教授し得ると云ふ、悲しむべき事實を示すものなり、世の熱心らしき教育家中にも、余と同感のもの澤山あるぺし、眞正なる教育家を作り出して、是等の僞物を追出すは、國家の責任なり、立派なる生徒となつて、此の如き先生には到底教師は出來ぬものと悟らしむるは、諸子の責任なり、余の教育場裏より放逐さるゝときは、日本の教育が隆盛になりし時と思へ。
 月給の高下にて、教師の價値を定むる勿れ、月給は運不運にて、下落する事も騰貴する事もあるものなり、拘關撃柝の輩時に或は公卿に優るの器を有す、是等の事は讀本を讀んでもわかる、只わかつた許りで實地に應用せねば、凡ての學問は徒勞なり、晝寐をして居る方がよし。
 教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶誤りを教ふる事なきを保せず、故に生徒は、どこまでも教師の云ふ事に從ふべしとは云はず、服せざる事は抗辯すべし、但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし、此間一點の辯疎を容れず、己れの非を謝するの勇氣は之を遂げんとするの勇氣に百倍す。
 狐疑する勿れ、躊躇する勿れ、驀地に進め、一度び卑怯未練の癖をつくれば容易に去り難し、墨を磨して一方に偏する時は、中々平にならぬものなり、物は最初が肝要と心得よ。
 善人許りと思ふ勿れ、腹の立つ事多し、惡人のみと定むる勿れ、心安き事なし。
 人を崇拜する勿れ、人を輕蔑する勿れ、生れぬ先を思へ、死んだ後を考へよ。
 人を觀ば其肺肝を見よ、夫が出來ずば手を下す事勿れ、水瓜の善惡は叩いて知る、人の高下は胸裏の利刀を揮つて眞二に割つて知れ、叩いた位で知れると思ふと、飛んだ怪我をする。
 多勢を恃んで一人を馬鹿にする勿れ、己れの無氣力なるを天下に吹聽するに異ならず、斯の如き者は人間の糟なり、豆腐の糟は馬が喰ふ、人間の糟は蝦夷松前の果へ行ても賣れる事ではなし。
 自信重き時は、他人之を破り、自信薄き時は自ら之を破る、寧ろ人に破らるゝも自ら破る事勿れ、
 厭味を去れ、知らぬ事を知つたふりをしたり人の上げ足を取つたり、嘲弄したり、冷評したり、するものは厭味が取れぬ故なり、人間自身のみならず、詩歌俳諧共厭味のあるものに美くしきものはなし。
 教師に叱られたとて、己れの直打が下がれりと思ふ事なかれ、又褒められたとて、直打が上つたと、得意になる勿れ、鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり、人の毀譽にて變化するものは相場なり、直打にあらず、相場の高下を目的として世に處する、之を才子と云ふ、直打を標準として事を行ふ、之を君子と云ふ、故に才子には榮達多く、君子は沈淪を意とせず。
 平時は處女の如くあれ、變時には脱兎の如くせよ、坐る時は大磐石の如くなるべし、但し處女も時には浮名を流し、脱兎稀には猟師の御土産となり、大磐石も地震の折は轉がる事ありと知れ、
 小智を用る勿れ、權謀を逞ふする勿れ、二點の間の最捷徑は直線と知れ。
 權謀を用ひざる可らざる場合には、己より馬鹿なる者に施せ、利慾に迷ふ者に施せ、毀譽に動かさるゝ者に施せ、情に脆き者に施せ、御祈祷でも呪詛でも山の動いた例しはなし、一人前の人間が狐に胡魔化さるゝ事も、理學書に見ゑず。
 人を觀よ、金時計を觀る勿れ、洋服を觀る勿れ、泥棒は我々より立派に出で立つものなり。
 威張る勿れ、諂ふ勿れ、腕に覺えのなき者は、用心の爲に六尺棒を携へたがり、借金のあるものは酒を勸めて債主を胡魔化す事を勉む、皆己れに弱味があればなり、徳あるものは威張らずとも人之を敬ひ、諂はずとも人之を愛す、太鼓の鳴るは空虚なるが爲なり、女の御世辭のよきは腕力なきが故なり。
 妄りに人を評する勿れ、斯樣な人と心中に思ふて居れば夫で濟むなり、惡評にて見よ、口より出した事を、再び口へ入れんとした處が、其甲斐なし、況して、又聞き噂抔いふ、薄弱なる土臺の上に、設けられたる批評をや、學問上の事に付ては、無暗に議論せず、人の攻撃に遇ひ、破綻をあらはすを恐るればなり、人の身の上に付ては、尾に尾をつけて觸れあるく是他人を傭ひて、間接に人を撲ち敲くに異ならず、頼まれたる事なら是非なし、
 頼まれもせぬに、かゝる事をなすは、醉興中の醉興なるものなり。
 馬鹿は百人寄つても馬鹿なり、味方が大勢なる故、己れの方が智慧ありと思ふは、了見違ひなり、牛は牛伴れ、馬は馬連れと申す、味方の多きは、時として其馬鹿なるを證明しつゝあることあり、此程片腹痛きことなし。
 事を成さんとならば、時と場合と相手と、此三者を見拔かざるべからず、其一を缺けば無論のこと、其百分一を缺くも、成功は覺束なし、但し事は、必ず成功を目的として、揚ぐべきものと思ふべからず、成功を目的として、事を揚ぐるは、月給を取る爲に、學問すると同じことなり。
 人我を乘せんとせば、差支へなき限りは、乘せられて居るべし、いざといふ時に、痛く抛げ出すべし、敢て復讐といふにあらず、世の爲め人の爲めなり、小人は利に喩る、己れに損の行くことと知れば、少しは惡事を働かぬ樣になるなり。
 言ふ者は知らず、知るものは言はず、餘慶な不慥の事を喋々する程、見苦しき事なし、況んや毒舌をや、何事も控へ目にせよ、奥床しくせよ、無暗に遠慮せよとにはあらず、一言も時としては千金の價値あり、萬卷の書もくだらぬ事ばかりならば糞紙に等し。
 損徳と善惡とを混ずる勿れ、輕薄と淡泊を混ずる勿れ、眞率と浮跳とを混ずる勿れ、温厚と怯儒とを混ずる勿れ、磊落と粗暴とを混ずる勿れ、機に臨み變に應じて、種々の性質を見はせ、一有つて二なき者は、上資にあらず。
 世に惡人ある以上は、喧嘩は免るべからず、社會が完全にならぬ間は、不平騷動はなかる可らず、學校も生徒が騷動をすればこそ、漸々改良するなれ、無事平穩は御目出度に相違なきも、時としては、憂ふべきの現象なり、斯く云へばとて、決して諸子を教唆するにあらず、無暗に亂暴されては甚だ困る。
 命に安んずるものは君子なり、命を覆すものは豪傑なり、命を怨む者は婦女なり、命を免れんとするものは小人なり。
 理想を高くせよ、敢て野心を大ならしめよとは云はず、理想なきものゝ言語動作を見よ、醜陋の極なり、理想低き者の擧止容儀を觀よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は學問より生ず、學問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無學で居る方がよし。
 欺かれて惡事をなす勿れ、其愚を示す、喰はされて不善を行ふ勿れ、其陋を證す。
 黙々たるが故に、訥辯と思ふ勿れ、拱手するが故に、兩腕なしと思ふ勿れ、笑ふが故に、癇癪なしと思ふ勿れ、名聞に頓着せざるが故に、聾と思ふ勿れ、食を擇ばざるが故に、口なしと思ふ勿れ、怒るが故に、忍耐なしと思ふ勿れ。
 人を屈せんと欲せば、先づ自ら屈せよ、人を殺さんと欲せば、先づ自ら死すべし、人を侮るは、自ら侮る所以なり、人を敗らんとするは、自ら敗る所以なり、攻むる時は、葦駄天の如くなるべく、守るときは、不動の如くせよ。
 右の條々、たゞ思ひ出る儘に書きつく、長く書けば際限なき故略す、必ずしも諸君に一讀せよとは言はず、況んや拳々服膺するをや、諸君今少壯、人生中尤も愉快の時期に遭ふ、余の如き者の説に、耳を傾くるの遑なし、然し數年の後、校舍の生活をやめて、突然俗界に出でたるとき、首を回らして考一考せば、或は尤と思ふ事もあるべし、但し夫も保證はせず。
          −明治二八、一一、二五、愛媛縣尋常中學校『保惠會雜誌』−
 
  人生
 
 空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の變遷推移を名づけて人生といふ、猶麕身牛尾馬蹄のものを捉へて麟といふが如し、かく定義を下せば、頗る六つかしけれど、是を平假名にて翻譯すれば、先づ地震、雷、火事、爺の怖きを悟り、砂糖と鹽の區別を知り、戀の重荷義理の柵抔いふ意味を合點し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるの謂に過ぎず、但其謂に過ぎずと觀ずれば、遭逢百端千差萬別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百萬人亦各千百萬人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて晝飯を食ひ、忙しきものは孔席暖かならず、墨突黔せずとも云ひ、變化の多きは塞翁の馬に※[そうにょう]をかけたるが如く、不平なるは放たれて澤畔に吟じ、壯烈なるは匕首を懷にして不測の秦に入り、頑固なるは首陽山の薇に餘命を繋ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯を拈り、圖太きは南禅寺の山門に畫寐して王法を懼れず、一々數へ來れば日も亦足らず、中々錯雜なものなり、加之個人の一行一爲、各其由る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刀を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出來事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相應の手數はかゝるべし、況して國に言語の相違あり、人に上下の區別ありて、同一の事物も種々の記號を有して、吾人の面目を燎爛せんとするこそ益面倒なれ、比較するだに畏けれど、萬乘には之を崩御といひ、匹夫には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而も死は即ち一なるが如し、若し人生をとつて銖分縷析するを得ば、天上の星と磯の眞砂の數も容易に計算し得べし
 小説は此錯雜なる人生の一側面を寫すものなり、一側面猶且單純ならず、去れども寫して神に入るときは、事物の紛糾亂雜なるものを綜合して一の哲理を教ふるに足る、われ「エリオツト」の小説を讀んで天性の惡人なき事を知りぬ、又罪を犯すものの恕すべくして且憐むべきを知りぬ、一擧手一投足わが運命に關係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を讀んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾奸佞なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を讀んで人に感應あることを知りぬ、蓋し小説に境遇を敍するものあり、品性を寫すものあり、心理上の解剖を試むるものあり、直覺的に人世を觀破するものあり、四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、又直覺を以て觀破し了すべきにあらず、われは人生に於て是等以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、所謂不可思議とは「カツスル、オフ、オトラントー」中の出來事にあらず、「タムオーシヤンター」を追懸けたる妖怪にあらず、「マクベス」の眼前に見はるゝ幽靈にあらず、「ホーソーン」の文「コルリツヂ」の詩中に入るべき人物の謂にあらず、われ手を振り目を搖かして、而も其の何の故に手を振り目を搖かすかを知らず、因果の大法を蔑にし、自己の意思を離れ、卒然として起り、驀地に來るものを謂ふ、世俗之を名づけて狂氣と呼ぶ、狂氣と呼ぶ固より不可なし、去れども此種の所爲を目して狂氣となす者共は、他人に對してかゝる不敬の稱號を呈するに先つて、己等亦曾て狂氣せる事あるを自認せざる可からず、又何時にても狂氣し得る資格を有する動物なる事を承知せざるべからず、人豈自ら知らざらんやとは支那の豪傑の語なり、人々自ら知らば固より文句はなきなり、人を指して馬鹿といふ、是れ己が利口なるの時に於て發するの批評なり、己も亦何時にても馬鹿の仲間入りをするに充分なる可能力を具備するに氣が付かぬものの批評なり、局に當る者は迷ひ、傍觀するものは嗤ふ、而も傍觀者必ずしも※[其/木]を能くせざるを如何せん、自ら知るの明あるもの寡なしとは世間にて云ふ事なり、われは人間に自知の明なき事を斷言せんとす、之を「ポー」に聞く、曰く、功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を敍して思ひのまゝを言はざる、去れど人ありて思の儘を書かんとして筆を執れば、筆忽ち禿し、紙を展ぶれば紙忽ち縮む、芳聲嘉譽の手に唾して得らるべきを知りながら、何人も※[足+厨]躇して果たさざるは是が爲なりと、人豈自ら知らざらんや、「ポー」の言を反覆熟讀せば、思半ばに過ぎん、蓋し人は夢を見るものなり、思ひも寄らぬ夢を見るものなり、覺めて後冷汗背に洽く、茫然自失する事あるものなり、夢ならばと一笑に附し去るものは、一を知つて二を知らぬものなり、夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に來るものにあらず、青天にも白日にも來り、大道の眞中にても來り、衣冠東帶の折だに容赦なく闥を排して闖入し來る、機微の際忽然として吾人を愧死せしめて、其來る所固より知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、而も人生の眞相は半ば此夢中にあつて隱約たるものなり、此自己の眞相を發揮するは即ち名譽を得るの捷徑にして、此捷徑に從ふは卑怯なる人類にとりて無上の難關なり、願はくば人豈自ら知らざらんや抔いふものをして、誠實に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん
 三陸の海嘯濃尾の地震之を稱して天災といふ、天災とは人意の如何ともすべからざるもの、人間の行爲は良心の制裁を受け、意思の主宰に從ふ、一擧一動皆責任あり、固より洪水飢饉と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不斷の主權者にあらず、四肢必ずしも吾意思の欲する所に從はず、一朝の變俄然として己靈の光輝を失して、奈落に陷落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、是時に方つて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一氣の盲動するに任ずるのみ、若し海嘯地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法なり、されども自ら死を決して人を殺すものは寡なし、呼息逼り白刃閃く此刹那、既に身あるを知らず、焉んぞ敵あるを知らんや、電光影裡に春風を斫るものは、人意か將た天意か
 青門老圃獨り一室の中に坐し、冥思遐捜す、兩頬赤を發し火の如く、喉間咯々聲あるに至る、稿を屬し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方つて大苦あるものの如し、既に來れば則ち大喜、衣を牽き、床を※[しんにょう+堯]りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊す、或は坤吟し、或は低唱す、忽ちにして大聲放歌欷歔涙下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーシヨン」といふ、「インスピレーシヨン」とは人意か將た天意か
 「デクインシー」曰く、世には人心の如何に善にして、又如何に惡なるかを知らで過ぐるものありと、他人の身の上ならば無論の事なり、われは「デクインシー」に反問せん、君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の惡人たるを承知なるかと、豈啻善惡のみならん、怯勇剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、平かなるときは天落ち地缺くるとも驚かじと思へども、一旦事あれば鼠糞梁上より墜ちてだに消魂の種となる、自ら口惜しと思へど詮なし、源氏征討の宣旨を蒙りて、道々富士川迄押し寄せたる七萬餘騎の大軍が、水鳥の羽音に一失も射らで逃げ歸るとは、平家物語を讀むものの馬鹿々々しと思ふ處ならん、啻に後代の吾々が馬鹿々々しと思ふのみにあらず、當人たる平家の侍共も翌日は定めて口惜しと思ひつらん、去れども彼等は富士川に宿したる晩に限りて、急に揃ひも揃うて臆病風にかゝりたるなり、此臆病風は二十三日の半夜忽然吹き來りて、七萬餘騎の陣中を馳け廻り、翌くる二十四日の曉天に至りて寂として息みぬ、誰か此風の行衛を知る者ぞ
 犬に吠え付かれて、果てな己は泥棒かしらん、と結論するものは餘程の馬鹿者か、非常な狼狽者と勘定するを得べし、去れども世間には賢者を以て自ら居り、智者を以て人より目せらるゝもの、亦此病にかゝることあり、大丈夫と威張るものの最後の場に臆したる、卑怯の名を博したるものが、急に猛烈の勢を示せる、皆是れ自ら解釋せんと欲して能はざるの現象なり、況や他人をや、二點を求め得て之を通過する直線の方向を知るとは幾何學上の事、吾人の行爲は二點を知り三點を知り、重ねて百點に至るとも、人生の方向を定むるに足らず、人生は一個の理窟に纏め得るものにあらずして、小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、吾人の心中には底なき三角形あり、二邊竝行せる三角形あるを奈何せん、若し人生が敷學的に説明し得るならば、若し與へられたる材料より]なる人生が發見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は餘程便利にして、人間は餘程えらきものなり、不測の變外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で來る、容赦なく且亂暴に出で來る、海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、險呑なる哉
         −明治二九、一〇、第五高等學校『龍南會雜誌』−
  無題
 
 われ一轉せば猿たらんわれ一轉せば神たらんわが既往三十年刻して眉宇の間にあり明鏡の裡われ焉んぞわれを欺き得ん猿の同類か神の親戚か須らく自家の眼面を熟視して推量一番せよわれはわが父母の墓碑銘わが子はわが傳記抄録なり但横目竪鼻二足の馬眞善美を載せて無限の空間を走るわれ走らずんば彼等去つて他によく走るものを求めん日暮れ道遠し急ぐとも及ぶまじ時に量なし背後に印する鐵鞭の痕は一條毎に秒と分と時と畫夜を刻して自覺の料となす己れに鞭たざるものは時を自覺する能はず時を自覺する能はざるものは死者と一般なり堯之を舜に傳へ舜之を禹に傳へ禹は之を周公孔子に傳ふ祖先の産を傳ふるは難きにあらず吾願くは之を倍し三倍し百倍せん父母の藥罐を受繼ぎ之を子孫に讓るが能ならばわれは唯一個の電信線に過ぎざらん漱石子遂に猿に退化せんか將た神に昇進せんか抑も亦元の杢阿彌か南無愚陀佛
  生れ得てわれ御目出度顔の春
              −明治三十年一月−
 
  祝辭
 
本日本校創業の記念日に當り、我等も聊か所感を述べ并て諸子に告げ、以て今日の祝詞とせむ。夫れ教育は建國の基礎にして師弟の和熟は育英の大本たり。師の弟子を遇すること、路人の如く、弟子の師を視ること秦越の如くんば、教育全く絶えて、國家の元氣沮喪せむ。諸子笈を負て斯校に遊ぶ。必ず當に校舍を以て吾家となすの覺悟あるべきなり。若然らずして放逸喧擾妄に校紀を紊亂せば、我其心と學校との間、白雲千里なるを見る而已。夫れ天人一體自他無別と言へり。斯くならでは、學校の隆盛は期しがたきぞかし。されば此記念日も、往し昔の忘形見にして、一日の歡樂を盡すも、益此の校を光大にして 聖恩に報い奉らんとて也。況てや、今日は國家岌々の時なり。濫費の日に多きは内憂なり。強國の隙を窺ふは外患なり。思て茲に至れば、寢食も安からぬことなり。殊に薄志弱行の徒は、人の色を見て移り、利の多少を聞て走る。恰浮草の如し。豈浩歎の限ならずや。諸子能々此に眼を着け、規則遵奉、校友相和し、孜々として學を勉めば、唯本校の面目なるのみならず、亦國家の幸福なり。諸子今學生たりと雖ども、其一言一動は即國家の全局に影響するなり。佐久間象山、我四十にして斯身の天下に關することを知るといへり、象山の人傑にして、始て然るにあらず。中等の人士も然り。下等の匹夫匹婦も亦然り。則ち學校一致の觀念なきは、其校全體の破綻にして、亦國家教育の陵夷なり。懼て且戒めざるべけんや。是を祝規とす。諸子之を諒せよ。
  明治三十年十月十日
   第五高等學校教員總代 教授 夏目金之助
        −明治三〇、二、五、第五高等學校『龍南會雜誌』−
 
  不言之言
               糸瓜先生
 
 「ほとゝぎす」なるものあり。一日南海を去つて東都に走る。書を糸瓜先生に寄せて其説を求む。先生吐くべきの磊塊なく援るべきの毛穎なく思を構へ想を錬るの餘裕なし。乃ち之に※[言+念]げて曰くわれ平生齷齪として講筵に列し妄りに無用の舌を鼓して諸生を蠱惑す。朝より午に至り午より夕に至つて已まず。半夜少しく閑あれば好んで虚堂の裡に枯坐しつねに香一※[火+主]を爐中に※[草冠/熱]て恭しく閻王を拜して吾舌の完きを謝す。顧ふに惡運まだ盡きず廣長三寸長へに紅なれば生捕れて胃散の看板となるに至らず引き拔かれて「タンシチユー」と運命を同うせず。是希有の僥倖なり。之を奈何ぞ舌を百里の外に動かして胡説亂説如麻如粟の種族を外道に引き込むに忍びんや。天下恥づべき事多し。道を得ずして道を得たるが如くす。尤も恥づべし。道を得て熟せず。妄りに之を人に授く。次に恥づぺし。我既に恥づべきものゝ一を犯す。糊口の途に窮して恒心を失ふに因ると雖豈甘んじて其二を犯し強て人の子を賊すべけんや。われ時に迂、勢に昧し。聞説方今驕旆あり到る所に翻り慢幢あり行く先に充つと。却つて樵者、漁者、舟子、馬子に一點風流の氣を認むるは如何に。已みなんかな人は糸瓜の愚を嘲る。ぶらり/\として彼關せざるなり。杜鵑鳴て雲に入る。觀音で耳をほらすも行燈を月の夜にするも彼の知らぬ事なり。但吾に杜鵑の好音なし。寧ろ糸瓜の愚を學ばんか。書して之を「ほとゝぎす」に質す。「ほとゝぎす」曰く法々華經。
 法々華經か。不如歸か。不如歸か。法々華經か。知らず只一轉語を下し得て恰好なりと思惟する勿れ。糸瓜亦自ら轉身の一路なきにあらず。古人既に一莖草を拈して丈六の金身となせりすたとひ糸瓜の汁を湯煎にかけて茲に雲雨を喚び茲に雷霆を轟かし「サイナイ」の山を震盪して「モーゼス」を辟易せしめたる「ゴツド」の靈腕なくとも天水桶に孑孑を湧かす位の事は承知して居るなり。如是我聞沈黙に執するものは沈黙に堕落して來佛の期なく辯論に着するものは辯論に拘泥して放下の路なしと。糸瓜時に語り杜鵑時に法華を轉す是に於てか先生の駄辯あり。眼なきものは看よ。耳なきものは聽け。
○俳句に禅味あり。西詩に耶蘇味あり。故に俳句は淡泊なり。洒落なり。時に出世間的なり。西詩は濃厚なり何處迄も人情を離れず。神光臂を斷ち雲門脚を折る。西人の眼より見ば殆んど狂人の沙汰ならん。耶蘇磔せられて架上にあり。わが血を以て衆生の罪を償はん事を願ふ。其志常情を以て測り難からず。此故に西人愛を説けば未だ甞て夫婦親子を離れず。俳家慈悲を歌ふ。時あつてか男女の相を絶す。一草花の微と雖感極つて泣く能はざるに至るといへる英國の詩人は明かに天然の趣を解し得たるものなり。去れども俳句より云へば泣くの泣かぬのといふが既にしつ濃き處從つて厭味の生ずる源なるべし。暫く十七字を藉つて之を譯せんに「草花や感極つて涙なし」では如何に端書を付けて説明したればとて餘り露骨に過ぎて句にならざるべし。是固より譯の拙なるにも因るべけれど、其拙なるが西詩の俳化し難きを示すものにて譯し難き丈其丈俳句に遠かれりとも見るべきか。其他人情的のものに至つては大方の思想俳句にならぬもの多く間々俳句的なるも用語抔の點に於て類似を見出す事頗る難し。去ればとて俳句が善くて西詩が惡しとにはあらず。
 “To me the meanest flower that blows can give
  Thoughts that do often lie too deep for tears.”
といへば俳句にて味ひ難き一種の興味を感ずる人もあるべし。俳眼を以て西詩を見る既に斯の如し。暫く雙眼鏡を逆まにして碧瞳を以て俳界を窺ば如何。誰か檜笠の深くして木枕の堅きに驚かざらん。昔し子規子大學にあり。俳句に關する論文を英譯して古池の句に西洋人を消魂せしめたる事あり。尤も子規の譯は Old pond! the noise of the jumping frog. と云ふ樣な頗る怪しげなる譯し方なれば西洋人の驚きしも無理ならねどよし子規が可なりに譯し得たりと假定するも洋人の驚きは依然として故の如くなりしならん。此驚を止むる事固より難きにあらず。但之をとゞむると同時に古池は深川より「セントジエームス」公園に宿替をせねばならぬなり。近き例が「アーノード」の譯したる蜻蛉釣り今日は何處迄行つたやらの句を見ば合點が行くべし甘く英詩になつて居る代りには蜻蛉釣の眞相は消えて居るなり。
 俳句は暫く措く。他の方面に於て東西類似の點を擧ぐれば固より少からざらん。「シラー」の「ブユルグシヤフト」は上田秋成の菊花の契と事實こそ異なれ精神に至つては悉く符合せるが善き例なり。降つて一字一句の末に至つては相似の箇處固より枚擧するに遑あらざるべし。「ウオーヅウオース」が The good die first と云ひ「バイロン」が Heaven gives its favourites ealy death といへるは、共に惡まれつ子世に憚るの裏を見せたるものなり。An old man is twice a child は「シエクスピヤー」「マツシンジヤー」を始めとして所々に見えたる語にて、一寸六十の本卦還りとでもいふべし。夢は逆夢といふ事「フアーカー」にも「ウイツチヤレー」 にも見えたり。Dreams go by contraries とあり。人は見かけによらぬ者といふ諺を「ウイツチヤレー」の Most men are the contraries tO what they seem 抔に比較せんは如何に。 Fer from eye, fer from herte 又は Out Of sight, out of mind 抔は去るもの日々に疎しに適中せり。 So many、 heads, so many wits.――Heywood は十人十色と譯するによろしかるべし。又日本にて瓜二つとあるべき處に西洋にては豆二つといふぞ面白き。「リリー」の「ユウフウス」に As lyke as one pease is to another とあるを以て推すべし。「シエクスピヤー」の「ヘンリー」八世には ‘tis as like you/As cherry is to cherry とあれば櫻の實二つとも云ふと見えたり。
 俚諺は友人紫影子の本領なれば詳しくは云はず。進んで東西の故事故典を蒐聚比較せば優に一部の蒙求を編述するに足らん。「リツプ ヴアン ヰンクル」は浦島と好き取組なるべく、「レナード」狐は猿蟹合戰と好一對ならずとせんや。鳥の將に死なんとする云々の敵手には白鳥の將に死なんとする其聲必ず美なりと云ふがあり。「バイロン」の詩に There swan-Like let me sing and die とあるは是なり。塞翁の馬の向ふには「アンシーアス」の盃なる故事あり。其源を尋ぬるに、昔し希臘に「アンシーアス」と呼ぶ人あり。其僕甞て之に告げて曰く、御宅には葡萄畠もあり葡萄酒も出來ますが到底此酒を召し上る譯には參りませんと。主人信ぜず。既にして葡萄熟し釀成つて一瓶の美酒主人の卓に上る。主人此時なりと僕を呼び、兼ての失言を詰りしに、僕服せずして曰く、唇と盃の距離は短かきが如くなれども其間にて種々の失敗あるべしと。言未だ訖らず、忽ち人ありて主人に告ぐるに一頭の野猪あり園中に闖入して其葡萄を荒らし去るを以てす。主人盃を擧ぐるに及ばず、蹶然として起つて野猪を逐ふ。不幸にして其牙に罹つて死し、僕の言遂に讖を爲す。同じく楊子泣岐墨子悲絲に比すべき事あり。是を「セミヤン」文字と云ふ。即rの字の謂にして、徳義の道は一にして直きも一度常道を離るゝ時は漸々遠かりて途方もなき方向に轉ずるを戒めたるものなり。「ポープ」の「ダンシアツド」に When Reason doubtful, like the Samian letter,/Points him two ways, the narrower is the bettr とあり。其他推摩黙然には「パイサゴラス」の沈黙こそ匹敵なるべく、閉戸先生には逍遥學者を配すべきか。(「アリストートル」常に園中を逍遥して其徒に説法す。後人其派を稱して逍遥學派と云ふ。)宋襄の仁に對するに「プレトー」の愛を以てするは少々杜撰とも思はれん。漢學先生の言に曰く、宋人の章甫を越に賣るが如し、斷髪の俗には用るところなし、郢客の陽春を楚に唱ふるに似たり、鴃舌の俗には和する人なしと。英學者は單に Caviare to the general と云ふ。「ハムレツト」に見えたり。「カヴ※[ヒの小字]アー」とは「スタージヨン」と云ふ魚のはらゝ子を鹽漬にしたるものにして、「シエクスピヤ−」時代には餘り世間に知られざるのみか一般の社會には賞味せられざりし由、即ち「カヴ※[ヒの小字]アー」を流俗に勸むるが如しとの意なり。或は豚の前に眞珠を投ずるが如しとも云ふ。是は新約全書にある語にて、其意は説明せずとも明瞭なるべし。「バツトラー」の「ヒユーヂブラス」に曰く For truth is precious and divine,−/Too rich a pearl for carnal swine と。正に聖書を引用せるものなり。
 此外研究して見たらばまだ/\澤山あるべけれども、左りとては手間のかゝる業なれば、最後に今一則を掲げて此話頭を結ばんと欲す。蒙求の見出しに曰く、一休飲魚。「マホメツト」喚山。
 一休一日洛中の辻々に高札を立てゝ曰く、來る月日紫野に於て魚を喰ひ其儘元の魚に吐き出し水中に躍らしむる事なり、御望の方々御見物奉待と。期に及んで觀者堵の如し。一休即ち大盥に水を入れ魚を料理して悉く喰ひつくして連りに盥中に向つて喝々を呼ぶ。見物眼を丸くして今か/\と待ち草臥れたる時しも、一休衆に向つて曰く、切角の觀物故物の美事に吐かんとすればする程苦しくて吐かれぬ樣になりたり。是非に及ばず糞にしてひり捨つるものなり。諸人早く歸れと。平然として内に入る。「マホメツト」又諸人に廣告して曰く、某月某日某山を遠方より麾き、其搖き出して眼前に來るを待ち、其頂きに登つて見物の善男子若くは善女人の爲めに祈祷するものなりと。之を聞て集るもの雲霞の如し。「マホメツト」乃ち大聲山を呼ぶ。山來るべき氣色なし。「マホメツト」再び呼號す。山依然として動かず。斯の如くするもの數次。山は固より舊時の山なり。「マホメツト」毫も愧づる色なく、衆に告げて曰く、山の方では「マホメツト」の傍に來る氣なしと見えたり。去らば「マホメツト」が山の方へ行くが宜しからんと。遂に山に向つて去る。一休の話しは一休御一代記とか云へる當にならぬ小冊子に見えたり。「マホメツト」の談は「ベーコン」の論文中にありしを記憶す。兩者とも眞僞の程覺束なし。
    −明治三一、一一−一二『ホトトギス』−
 
  無題
 
 水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ。去れどこの消えぬもの亦年を逐ひ日をかさねて消えんとす。定住は求め難く不壞は尋ぬべからず。汝の心われを殘して消えたる如く吾の意識も世をすてて消る時來るべし水の泡のそれの如き死は獨り汝の上のみにあらねば消えざる汝が記臆のわが心に宿るも泡粒の吾命ある間のみ
 淡き水の泡よ消えて何物をか頼む汝は嘗て三十六年の泡を有ちぬ生ける其泡よ愛ある泡なりき信ある泡なりき憎惡多き泡なりき〔一字不明〕しては皮肉なる泡なりきわが泡若干歳ぞ死ぬ事を心掛けねばいつ破るゝと云ふ事を知らず只破れざる泡の中に汝が影ありて前世の憂を夢に見るが如き心地す時に一瓣の香を燻じて此影を昔しの形に返さんと思へば烟りたなびきわたりて捕ふるにものなく敲くに響なきは頼み難き曲者なり罪業の風烈しく浮世を吹きまくりて愁人の夢を破るとき隨處に聲ありて死々と叫ぶ片月窓の隙より寒き光をもたらして曰く罪業の影ちらつきて定かならず死の影は靜かなれども土臭し今汝の影定かならず亦土臭し汝は罪業と死とを合せ得たるものなり
 霜白く空重き日なりき我西土より歸りて始めて汝が墓門に入る爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たりわれこの棒杭を周る事三度花をも捧げず水も手向けず只この棒杭を周る事三度にして去れり我は只汝の土臭き影をかぎて汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ
             −明治三十六、七年頃−
 
作文
 
  正成論
                 塩原
 
 凡ソ臣タルノ道ハ二君ニ仕ヘズ心ヲ鐵石ノ如シ身ヲ以テ國ニ徇ヘ君ノ危急ヲ救フニアリ中古我國ニ楠正成ナル者アリ忠且義ニシテ智勇兼備ノ豪俊ナリ後醍醐帝ノ時ニ當リ高時專肆帝ノ播遷スルヤ召ニ應ジテ興復ノ事ヲ|ヲ《原》諾スコヽニ於テ正成兵ヲ河内ニ起シ一片ノ孤城ヲ以テ百萬ノ勁敵ヲ斧鉞ノ下ニ誅戮シ百折屈セズ千挫撓マズ奮發竭力衝撃突戰ス遂ニ亂定マルニ及ビ又尊氏ノ叛スルニ因テ不幸ニシテ戰死ス夫レ正成ハ忠勇整肅拔山倒海ノ勲ヲ奏シ出群拔萃ノ忠ヲ顯ハシ王室ヲ輔佐ス實ニ股肱ノ臣ナリ帝之二用ヰル薄クシテ却テ尊氏等ヲ愛シ遂ニ亂ヲ釀スニ至ル然ルニ正成勤王ノ志ヲ抱キ利ノ爲メニ走ラズ害ノ爲メニ遁レズ膝ヲ汚吏貪士ノ前ニ屈セズ義ヲ蹈ミテ死ス嘆クニ堪フベケンヤ噫 (二月十七日)
                 −明治十一年−
 
  觀菊花偶記
        三級二組 塩原金之助拜
 
都下有養菊者至秋造菊花偶榜其門招客余甞徃觀焉雲鬟翠黛豐頬皓齒宛然一美姫也而衣帶皆以菊成焉姿態便妍※[青+見]粧而麗服一見知其貴公子而裙袖皆菊也編竹造其體而花纏之小輪豐朶婆娑團欒緑葉補其隙粉紅青萼采光爛然布置剪裁之妙無所不至有客嘆曰甚哉此|支《原》之可鄙也縱横曲直順性全天是良場師所以養樹也今夫隱逸閑雅野趣可掬者非菊性乎而今如此安在其爲菊哉養花者應曰天下之曲其性屈其天者豈獨菊哉今夫所尚於士者節義氣操耳然方利禄在前爵位在後輙改其所操持不速之恐滔々天下皆是吁嗟此輩雖金冕而繍服而其神則亡矣又安與此菊異哉然此菊也不培糞壤則花不艶不沃※[さんずい+甘]水則輪不大不※[手偏+綴の旁]春苗則枝不岐非灌漑得適培養得宜則不能使之如吾意至士則不然利禄不誘而有自曲其性者焉爵位不餌而有自屈其天者焉豈不甚哉夫士者世之所矜式而尊敬者也而今如此何獨怪於此技客逐不能答
                 −明治十八年−
 
  居移氣説
      一部一年三之組 夏目金之助
 
天地不能無變變必動焉霹靂鳴于上者天之動也崩盪震于下者地之動也噴火降砂爲山之動流石噛岸爲水之動物皆然而人爲甚五彩動其目八音動其耳榮枯得喪動其心蓋人之性情從境遇而變故境遇一轉而性情亦自變是所以居移氣也歟余幼時從親移居于淺草淺草之地肆廛櫛比紅塵※[土+翁]勃其所來徃亦皆銅臭之兒居四年余亦將化爲鄙吝之徒居移氣一焉既去寓于高田地在都西雖未能全絶車馬之音門柳籬菊環堵蕭然乃讀書賦詩悠然忘物我居移氣二焉入茲黌以來役々于校課汲々于實學而草花看月之念全癈矣居移氣三焉抑余年廿三三移居而性情亦自三遷自今至四五十未知其居凡幾遷而其心亦幾變也|鳴《原》呼天地之間形而下之物人爲獨尊今不能外形骸脱塵懷與萬化冥合外物亂吾心俗累役吾身蠕々蠢々將與※[虫+專]※[虫+古]泯滅定可嘆也夫絢彩動日々之罪也管籥動耳耳之罪也耳目不能免累心之罪也余未不能正心罪宜居移境轉而性情亦漫然無所定陽明有言去山中之賊易去心中之賊難可不慎哉故目欲其盲耳欲其聾獨心欲其虚靈不昧心虚靈不昧則天柱之摧不怖地軸之裂不駭山川之變風雲之怪不足以動其魂而後人始尊矣
(己丑六月三日)
               −明治二十二年−
 
  對月有感
          文科二年 夏目金之助
 
 夢路おとなふ風の音にも目に見えぬ秋は軒端ふかくなりぬと覺しくいとものさみし桓《原》根の荻《原》咲きみだれて人待かほなるにつけても柴の戸おとづるゝ友もがなと思へど野分にいとゞあれはてゝ月影ばかりやへむぐらにもさはらずさし入るぞいみじうわびしき夕なりけるあはれ塵の世に生れてはかはり行くわが身の上をうれひ/\て老ぬべきかなかはらぬ月の色をめでたしと見て清き心の友となさんやうもなし去れど世の中のものども誰かは清らなる月の光りをみておのが心にはぢざるべき心ざまいやしうして名聞をのみもとむるものゝあるは秋の江に舟うかべてものゝ音かきならしざれ歌うたひあるはたかどのゝ簾たかくかゝげ銀のともしびつらねて宴開きわれがちに月をめでしたりかほなるもいとあさましわれは月のおもはんほどもはづかしければ舟も浮べず宴もはらずのきばちかくゐより入るかたの空清ふすみわたるまでうちながめつら/\おもほへらく雲井にちかきかしこきわたりはものかはよもぎふの露けき草のいほりさへ月のてらさぬところぞなき昔しより世の中のうつり行くさまをてらし/\て幾世へぬらんあはれむかし見し人も今はすゝきが下の白き骨とこそなりけめむかしゆかしき宮居も今は烟ひやゝかに草もたかくなりけんわれももゝとせの後は苔の下にうづもれて此月影を見んことかなはずわがすまふ草のいほりももとの野原となりて葉末の白露におなじ雲井の月影をやどすらんその時軒端ちかくゐよりて行末を思ひ昔を忍ぶことわれに似たる人もあるべしさてもおかしきは浮世なりけり
  蓬生の葉末に宿る月影はむかしゆかしきかたみなりけり
  情あらば月も雲井に老ぬべしかはり行く世をてらしつくして
                −明治二十二年−
 
  山路觀楓
        文科二年 夏目金之助拜
 
 數ふればはや三歳あまりになりぬ軒端の霜かろくおきそめて柳の影もまばらになりぬる頃山路の景色はさこそよかめれたれこめて秋の行衛しらず峯の紅葉を秋の錦とのみ見るものかはいざたまへとて友のすゝむるにまかせたち出づ定めなき秋の空とて山路はことにかはりやすくけふしも小雨しと/\とふりいでゝやつれし田蓑菅の小笠も秋にたえぬやうなりやあはれ花はのどけき春の日にのみめで紅葉はさやけき秋の朝にのみ見るものかは春雨のおぼろげなるに櫻の花のたゆげにしほれたるもいと情ふかししぐれの絶え間よりもえいづる秋のにしきこそ見所多かれとて人々けふじあへり森の下露うちはらひ山路ふかく分け入る程にときはの松紅葉の梢、枝をかはし縁り紅ひうつりかゞやくも王呉の筆のやうなりや小楓一夜偸天酒却倩孤松掩醉容と云ふからうたはげにこのさまをこそ云ふなれたきぎこる賤の男の森の下草ふみ分けて見えがくれなるも風情ありとてかくなん
  杣人もにしき着るらし今朝の雨に紅葉の色の袖に透れば
 いつしか林も通りすぎぬ登るともなくはや頂きちかく來ぬるとて麓のかたを見やれば木々の梢はけさのしぐれに一しほの色をそえてあるは赤くあるは黄にあるはあせる緑りに夏のなごりをとゞめ濃きうすき幾重となくうちまぢりてたちこめたる白雲のたえ間より見ゆるともなくかくるゝともなくかすみあひたるは鬼神を泣かす歌人も筆をなげうつめり峯のあなた谷のこなたに鹿のなく聲きこえければ一人がとりあへず
  人しらぬ秋の錦を見よとかや白雲ふかく鹿ぞよぶなる
と口すさみて鹿の音をしるべに分け入る秋風にはかに吹き立ちて紅葉のほろ/\と袖の上にちりければ一人が又
  なく鹿の聲をしるべにたづねきてやつれ衣に錦おりかく
と云ふめれば己れも言の葉の園に遊ぶ身にしあれば此景色見て一首のうたよまざらんもはづかしとてあまたゝび誦してからうた一つうたふ
  石苔沐雨滑難攀渡水穿林往又還
  處々鹿聲尋不得白雲紅葉滿千山
言の葉の風情なく色香のにほはざるは野分にやあるらんと人々評しあへりやがて秋の日の暮れやすくて四方の景色の黒み渡るに今はとて家に歸りぬあはれ都の塵に埋れてはかゝる秋もえめでじ朝夕ことくにの文にまなこをさらしぬれば敷島のみやび心もいつか消へ失ぬそのかみの事を思ひ出で物に書きつくるにつけても年わかき昔に歸る由もがなとかこつもいとおろかなりや
(明治廿二年十一月六日)
 
  故人到
         文科二年 夏目金之助拜
 
 春雨こまやかにふりそゝぎ軒の梅かほりゆかしく咲きにほひ鶯の初音まちあへぬさまなるにわれも獨居のつれ/\にえたえず友まち顔なる折しも忽ち柴の戸たゝく音して久しくあはぬ友おとづれぬ八重むぐらおし分けて草のいほり訪ふものは春ばかりと思ひしによくこそ來ませしと云へばこたび去りがたき用事ありて京に上りしついでむかしを忍びてたづね参らするなりといふにいと嬉しく茶よ火よとてのゝしりさはぐもおかし友の云ふやう時ふるまゝにわがすがたのあやしううつろひゆくほどに君のおもかげもさぞかし變り玉ひけむと道ながら昔しなつかしさにえたえず侍りしが見參らすれば思ひしにたがはずいと大人び玉へりといふに左もありなん河べの柳をりて君を送りまいらせしよりはや六歳あまり七歳ちかくなりぬ變りしものはわれのみかはまみつらつきいとめでたかりし君の久しう見ぬほどにあをひげこく生ひいでたる抔あさましとてうち笑ひけるさはれ黄なるはかますそみぢかにきなして高き足駄ひきならし唐歌うたひ玉ひし君の姿今にわすれやらず抔云へば友もうちゑみてわれもなほ覺え侍り君の龍鳴とやらんいふもの聞かんとて枕邊にかたなかけ玉ひしをと云ふめりさてもつるぎをぬいて床柱をきりいり豆をかんで古人をのゝしりし君とわれの變ればかはるものかな君は塵の世をすてゝ山秀で水清きふるさとに草の庵りをむすびわれは都のちりに埋れて名利のちまたにさまよふされど春秋の花もみぢにつけ世渡るすべのむつかしく人の心のつれなきを思へばなまじい名をたて家をおこさんとちかひける事の口惜さよ苔の下に人しらぬ骨をうづめん君こそ中々に心安けれいでや故郷のものがたり聞きて汚れたる耳洗はんと近くゐよれば友うなづきてたばこくゆらしあはれわが故郷よ春は梅のうつり香にやつれし袖もゆかしき心地のせられこち吹く風にさくらの花のほろ/\と讀みさしたる書の上におっめり夏は柳の葉すゞしげにうちなびき緑りもる月影のゆらり/\とうごき水ぎはの螢とびまがふめり秋はもみぢふみ分けて栗柿なんどひろひ袖の上の落葉おとさんと衣振ふもおかし冬は埋火かきおこして遠山寺のかねうつゝに聞くもけう多かりなんど語るにいとうらやましくなりぬ (明治廿三年二月廿三日)
 
  故人來
      第一高等中學生 夏目金之助
 
 春雨しめやかにふりくらし、のきばの梅かをりなつかしくて、鶯のはつ音もまちあへぬさまなるにひとりつく/”\とながめやる折しも、柴の戸たゝきて、久しくあはぬ友人おとづれきぬ、草のいほりをとふものは春ばかりかと思ひしによくこそきませれといへばこたびさりがたき事ありて京に上れるついで昔をしのびてとひまゐらするなりといふ、いとうれしくて茶よ火よとのゝしりさわぐほどに、其人のいふやう、年月にそへて我すがたのあやしうゝつろひゆくに、君のおもかげもさぞあらんと、こひしさにえたへずして訪ひまつるが、思ひしにたがはず、いとおとなび給へりといふ、さもありなん、川べの柳を折て君をおくりしより、はや六年あまり七年ちかくなりぬ、かはれるものは我のみかは、まみつらつきのいと清らなりし君も、久しう見ぬほどに、青ひげこくおひ出たるはあさましや、さばれ黄なる袴をすそみじかにきなして、高足駄はきならし、唐歌うたひ給ひしそのかみの姿、今にわすれやらずなといへば、うちゑみてわれもなほおぼえ侍り君が龍嶋とやらんいふものきかんとて、枕邊に太刀かけ給ひしをといふ、さてもつるぎをぬいて床柱をきり、いり豆をかみて古人をのゝしりしを、君もわれもかはればかはるものかな、さても君はちりの世をすてゝ山高く水清き故郷にくさの庵をむすびぬ、われは都のちりにうづもれて、名利のちまたにさまよひつ、されど春秋の花もみぢにつけても、世わたるすべのわづらはしく、人の心のつれなきを思へば、なまじひに名をたて家をおこさんとちかひし事のくちをしさよ、あり/\て苔の下に人しらぬ骨をうづめんと思ひさだめし君こそ、なか/\に心やすけれ、いでやふるさとの物がたりきゝて、汚れたる耳をあらはんとて近くゐよれば、うなづきて煙ぐさくゆらしあはれわがふるさとよ、春は梅の移り香にやつれし袖もゆかしき心ちのせられ、こちふく風にさくらの花のほろ/\とよみさしたる書の上にちり、夏は柳の涼しげにうちなびきたるかげより、もる月影のゆら/\とうごき、水きはの螢とびまがふあり、秋はもみぢふみわけて栗柿などひろひつゝ、落葉はらはんと衣を振ふもをかし、冬は埋火をかきおこして、雪ふかき遠山寺の鐘の音をかぞふるも興多かり、などかたるに、いとうら山しうなりぬ、
   −明治二三、三、一〇『大八洲學會雜誌』−
 
  母の慈 西詩意譯
        文科二年 夏目金之助拜
 
 わかき男の旅衣さむげにきてあやしき杖を力にわが故郷にかへりきぬるさまこそげにわびしきものゝかぎりなりかし長き髪のちりにまみれ兩の頬のくろみたるなどいとあはれに見ゆるに誰かそのかみのおもかげを知るべき
 大きやかなる古き門のわが村の入口にたてるを通るほどにむかし同じ處に酒くみかはしなどしけるしたしき友の門の柱によりかゝりてゐめ《原》めりされどわがおもかげを見忘れやしけむものもいはずさばかりやつれしわがすがたぞかなしき
 やがてちりほこりうち拂ひほそき路をたどり行くにかなたの窓よりむかしけそうせるわかき女のいとおもしろげに外の方を見やるもをかしされどわがおもてを見忘れやしけむものもいはずさばかりやつれしわがすがたこそかなしけれ
 人の心つれなくて世の中はしたなきことのみまさればたゞなみだもろくなりまさりてなほわが家をさしていそぐに墓參のかへりにやありけむうたてげなる母の寺の石段をくだりくるに出合ひぬあななつかしとて口ごもれば母も吾兒とばかりにてなきいるさまいと哀れなり
 さてもこのつれなき世に母のいつくしみのみぞ誠なりかしないかに姿はやつれたりともいかにおもかげはかはるともわが子を見忘るゝ母やはある (明治廿三年五月十日)
 
  二人の武士 西詩意譯
        文科二年 夏目金之助拜
 
 二人のものゝふの「ろしや」にとらはれたるがゆるされて故郷なる「ふらんす」にかへらむとて「どいつ」につきけるとき國はほろび軍はやぶれ御門はとらはれ給ひぬときゝていとかなしげに涙をながしけるける《原》がやがて手創おひたる一人があなかなしわがふるきづのもゆる如くにいたむことよといへば一人が今は生きがひなき身なればわれもともに死なんと思へどふる里の妻子のわれなくば餓もやせん渇へもやせんといふめれば手負は聲をはげまして餓なばうえよわれは妻も子も何にかせん御門はとらはれ給ひぬるにわが御門はとてさめ/”\となくやがて涙をはらひ今生の願はたゞ一つなん侍るわれ今こゝに身か《原》まりなばわがむくろを「ふらんす」にをくり紅ひのひもつきたる十字の徽章をわが胸にかけ筒を手に太刀を腰にゆひつけて故郷の土にうづめたまへわれは墓の中にてしづかに待たん筒の音の今一度わが耳をつらぬくまで馬の蹄の今一度わがねぶりをおどろかすまでつるぎと太刀のうち合ふ聲の今一度聞ゆるまで其時こそ御門はわが墓の上をよぎりてかへりたまはめ其時こそわれは墓の中よりおどり出でゝ御心をたすけ奉らむとらはれ給ひぬる今の御門をとて息たへぬ
 西も東も同じ樣なるものゝふのさまかないさましきことにこそ (明治廿三年五月十日)
 
翻訳
 
  催眠術(「トインビー院」演説筆記)
          Ernest Hart,M.D.
 
 幽幻は人の常に喜ぶ所なり幽幻の門戸を開いて玄奥の堂を示す者あれば衆翕然として起つて之に應ず智者も此弊を免かれず昧者は勿論なり詩歌を吟泳する者好んで神秘を説く者想像を以て哲理を談ずる者は上に在つて人の附加を得眩人妖師怪を壇上に演ずる者は下に在つて萬金の富を累ぬ思ふに不可思議を説くに一面あり之を唱ふるに一法あり苟しくも此方面に位して此一法を講ずれば天下の耳目を聳勤して流俗好奇の心を喚起するに難からず必ずしも時の古今を論ぜず洋の東西は問はず野蠻人は云ふに及ばず史筆以前の民も亦此境界を免かれざるべし此方面とは何ぞ此一法とは何ぞ靈心の秘力を指示し精神の奇貿を表章するの謂のみ手を擧げ目を揺かさず緘黙不言の間に我が印象を取つて彼に通ず此術を講ずるの謂のみ五官以外に一歩を推開し常人の知らざる所に於て他の心を御す此策を行ふの謂のみ因つて今此問題を論じ且つ其古代の形跡より今世の模樣に及ばんとす是余の主眼とする所なり此術夙に亞細亞上古の民及び波斯の「メーヂヤイ」間に行はる下つて印度の「ヨーギス」及び「フエーカー」の如きは今猶凝視の作用にて入定するとか聞く希臘教會の寺院にては十一世紀の昔し既に之を行ふ者あり現今にても「オムフハロプシキクス」と稱する信徒は己れの臍を見詰めて漠々たる幻想界に没するを例とす今の世に之を催眠術、「メスメリズム」の動物※[金+聶]氣術、讀心術、傳心術抔と稱す其古へ人智未だ開けず合理の法を以て自然の現象を解析するに拙なりしに方つては「メヂアン」の幻術、狐憑の怪、禁呪の驗抔と云ふ大抵似た者なるべし昔し「アポロニアス」の友「サーカス」秘術を以て痿者を歩まし聾者を聰にし狂者を正氣に復せりとか是は方今に云ふ提起法(Suggestion)を用ひしものと察せらる思ふに此提起法は應用次第にて暗憺たる血痕を史上より拭ひ去り荒唐の怪譚を冊裏より除くの力あるべし左なくとも彼の壇上に立つて幻技を售る輩の照魔鏡たるを得ん去れども余は先づ脳髄生理の梗※[既/木]を敍し又此術の研究者として聊か自ら輕驗せる所を述べんとす此經驗の爲めに研鑽探求の情己が念頭に浮び出たればなり且つ事半ば哲理に關す少しく潤色する所なければ※[火+爵]《原》蝋の譏りを受けん事を恐るればなり
 余少時より有名なる「ドクトル、エリオツトソン」と相知る誠實篤學の士なり惜いかな二騙客の欺く所となり遂に大學醫院を退けり騙客名を「オキー」某と稱し共に醫院の患者なり揚言すらく「メスメリズム」にて眠る時人若し一封の書を我身に觸れなば封を破らずして我れ能く其何事の手紙なるかを告げんと其意蓋し催眠術の研究者を籠絡し名を釣り利を貪ぼらんとするにあり「ヱリオツトソン」まんまと其術中に陷り遂に職を罷むるに至りしかど是より一身を催眠術の研究に委ね是を以て治病の一法となさんと欲し孜々餘念なし甞て余が親戚に漫性關節病を患ふる者あり氏に乞ふて之を治す氏乃ち其術を試む性《〔?〕》に患者安眠復宿痾の身にあるを知らざる者の如し此功驗を目撃して深く氏を徳とするの念と共に機會もあらば余も一つ試驗して見ばやと思ひ立ぬ後年刀圭に從事するに到つて始めて之を實行するに先づ十中の八九は外るゝ事なし遂には少しくわが手を動かし又は愚者の視線をわが眼に注がしめて容易に之を眠らしむるを得るに至れり又「エリオツトソン」及び「メスマー」の指圖通り手術の際には故意にわが意思〔二字傍点〕を用ひて疾く患者の眠れかしと心に願ふを常とせり此の時に當つて又々二種の新催眠術現はれ出たり一を「ブレイズス」と稱し「ドクトル、ブレイド」(Dr.Braid)の實行に係り一を生物電氣術と云ひ千八百四十八年頃「グライムス」(Grimes)と云ふ男「亞米利加」にて始めて之を唱ふ是は千八百五十年に至り「ドクトル、ドツヅ」(Dr.Dodds)合衆國議員の請に應じ電氣心理の名を附して下院にて演説せし所の者なり此演説「ニユーヨーク」にて出版せられ題してPhilosophy of Electrical Psychology(電氣心理論)と云ふ余が「ドクトル、ダーリング」(Dr.Darling)及び「ドクトル、カーペンター」(Dr.Carpentr)の諸氏と始めて此問題を研究するや此書海を航して英國に流布せり
 此時余は府立病院の宿直醫なりしが或る日此術を一貴女に行ひたる爲め大に物議を釀し遂にわが位地を危ふするに至れり此貴女甞て我友二人と余を訪ひ四方山の談話の末催眠術に功驗なしといふ自ら試みて見んやと問へば異議なしと答ふ去らばとて試驗するに難なくわが術中に陷ぬ餘程深く感ぜしと見えて昏睡容易に覺めず漸くにして喚び起せば行歩蹌踉身を支ふるの力なく左右より扶けられて歸る此事を惡し樣に告ぐる者ありて醫事委員の前に呼び出されて其審問を受くるに至れり余は力の及ぶ限り科學的の説明を與へたれど彼れ頑として中々信じたる氣色なく頭を掉り乍ら申し渡して曰く此度はよろし以後は屹度慎むべしと此一事のみならず催眠術の功驗に就ては其他種々の珍談ありまづわが經驗する所に因れば其状時には普通の眠りと同じきことあり時には止動病の昏夢となり又或時は夜行病の如き觀を呈す凡て此術に罹る者は萬事施術者の意を迎へて一擧一動其命を聽ざるなく笑ふに堪へたる所作を演じて羞づることなし問に應じて自己の機密を洩す者あり平時爲すを肯んぜざる所のものも唯々として之に赴き只命に後るゝを恐るゝが如き者あり施驗者の意を用ゆるにあらざれば四肢を折り頭髪を焦して顧みざる者あり或は無鐵砲に高處より飛び下り或は机を潜つて床上を這ひ廻り水泳の稽古をなし或は刀を拔き室を斫つて吾敵こゝにありと叫び或は地上に毒蛇を畫て卻走卻歩其劇噬を逃れんと欲し或は黄鳥の幻影を認めて何有の嬌音に抃舞する抔千態萬状なり凡て此當時には意識なく其後日には記憶なし此時彼は人間の自動機の如く寸毫も外物の意志に抵抗する能はざるなり抑も此現象の根底は何れにありや其範圍は何づくに止まるや一たび不審をこゝに抱いてより疑惑中々晴れず遂に支配實驗(Controle experiment)と云ふものを行ふに至れり
 人若し支配實驗の何たるを知らば此問題を圍繞する夢々たる怪霧は半ば消散して白日を見るの思あらん從つて此研究の人を動かすの度も大に減少すべく、かの心理考究會抔云ふ者或は其材料の乏しきに窮するに至らんも知る可らず偖支配實驗とは如何なる者ぞと云ふに先づ此現象を生ずるに有力なる原因を除去したる上にて其結果に影響ありや否やを驗するにあり今傳※[金+聶]術、催眠術、生物電氣術等の功驗あるは如何なる原因に由るかと云ふに通例の考へにては第一施術者の意志第二施術者又は施術者の感應を受けたる器物より生ずる一種の氣(電氣にあれ※[金+聶]氣にあれ心理的の氣にあれ)にありとなすものゝ如し夫の 「メスメリズム」の張本「メスマー」も此原因は※[金+聶]氣にありと唱へたり「パリス」の全都愕然として「メスマー」の怪術に驚ろき王侯貴人踵を接して其門に聚まり跛者盲者相率ひて其治を乞ひ幽冥を説く者も行き圓頂緇衣の士も行き豐頬細腰の人も行き其他奇を好み怪を喜ぶ者うぢや/\と麕集するや「メスマー」先づ六か敷氣なる大桶を製し之に液體を盛れる徳利を入れ之に通ずるに針線を以てし被術者をして此針線の柄を握らしむ彼れ此傳授を賣つて一萬六千「ポンド」を得たり然れども其傳授は少しも傳授にあらず壜中の液亦電氣を含まず其騙術の露はるゝや否や「メスマー」忽ち去つて「ライン」河を渡り巧みに癡漢を瞞着して復巨利を博せり然れど此流行少しく下火となり流俗信仰の念漸く薄らぐに至つては野人復此術を受けて其病を癒すを得ず凡て※[金+聶]氣治術、奉信治術抔にて其病を癒さんと思はゞ其流行の際早く試るべし又其信仰の度尤も篤き時之を行ふべし兩者衰ふるときは毫も其功驗なしと知るべし偖余が第一の支配實驗は電氣※[金+聶]氣の果して此現象に影響あるやを確かむるにありければ手術の際微妙なる電氣器を以て之を驗せり然るに施驗者及び被術者の電氣的情況は依然として變化することなかりき通常の方法にて※[金+聶]氣及び電氣を導き又之を切斷せしに亦何の功驗もなし絹布又は硝子を中に置き余と被術者をして電流に感ずる能はざらしむるも其結果に於て寸毫の變化を見ずかく電氣※[金+聶]氣は、此術に關係なき事明瞭にて人工の睡眠、自動器的の昏夢、奉信治病等の現象を捕へて動物電氣術《アニマル、マグネチズム》抔と唱ふるは大に其意を得ず吾れ能く鬼を役し吾れ能く魔を使ふ抔と大言を放つ者己れの無智なるより現象に關係なき一種の名目を捏造して仕たり顔なりと「ウオルテール」の云ひしも是等の事にや尤も肉體の繊維には電氣の反動あり且つ筋肉の收縮は電氣の變化に追陪する者なれども電氣と神經も同樣の關係を有すとは云ひ難く心中の影響は電氣の關する所にあらずと云ふも可なり去れば奉信治病術を行ふ者抔が動物電氣を口にするは無稽の妄言にして知つて之を唱ふるは勿論知らずして之を道ふも均しく瞞着家の稱を免かれず
 是より第二の支配實驗に移らん手術者より※[金+聶]氣が放散すると云ふ説は却下するとした處で他に有力なるは施驗者の意志〔二字傍点〕が此術に關係ありと云ふ説なり此説古くより行はれ今も猶之を唱ふる者あり故に第二回の試驗には施術の際全く余が意志を除去したり啻に之を除去したるのみならず時に或は吾が意志を轉じて催眠の結果に抵抗せしめたるもあり斯く余は凡て手眞似身振りを廢し冷々淡々として被術者の前に坐し「早く眠つて呉れば善い」抔とは少しも考へず唯彼をして一心に吾眼を見詰めしめ或は一片の貨幣を取つて只管之を打守らしめ或は銀匙を持して鼻頭六「インチ」の前に置き專ら之を凝視せしむるのみ然れども其結果依然として舊の如し此時余は更に一歩を進めぬ甞て聞く「メスマー」の弟子「プイセグール」奇術を木幹に施こし人あり手を連ねて此木を圍むか或は之を熟視すれば木靈忽ち驗あり之を圍む者之を視る者或は眠に就き或は痾を癒すと余も何時か此試驗をして見んと思ひし折幸ひなる哉「ケント」にて有名なる銀行役員某氏の家に宿せしに此に寄寓する一少女咳嗽に苦んで治を余に乞ふこゝぞと思ひて先づ此女を蝋燭の前に坐はらし此蝋燭には催眠術が仕掛てあれば之を見詰給へと云ふ間もなく彼女の咳嗽忽ち已むと同時にすや/\と眠り始めぬ翌日獵にとて外出し畫過歸寓せしに彼女の眠り猶未だ覺めずと聞き之を喚び起さんとするに中々起きず漸々の事にて正氣に回したり其夜主人宴を張つて客を饗し衆人一堂に會す運惡く此女余が向ふに席を占めしが宴未だ酣はならざるに頻りに坐睡を催ふし果は席に堪へずして退く復わが催眠術に罹れりと云ふ稠人衆客の裏余は大に面目を失せり是より此女余を見る度に催眠術を行はん事を恐れ余を見る度に自ら催眠術に陷れり余は去る惡戯をなす者にあらずと種々辯解すれど毫も聞き入るゝ樣子なく遂に余が傍を去つて「ロンドン」に赴けり出立の日余主人の馬に騎して停車場を過ぐるに主人云ふ彼女此※[さんずい+氣]車にて歸るなり一寸暇乞すべしと因つて余も馬を下りて「プラツトフオーム」の上に到る固より余は彼女と言ばを交すを好まず去れど彼方此方と彷徨する際不幸にも二返許り彼女の窓外を通過したり少女は再び自ら催眠術に陷りぬ「ロンドン」に着する迄に正氣に復せず着後の當座も時々再發せし由彼の蝋燭固より余が法力にて靈驗を有するにあらずされど感應ありと信じたる少女には其結果斯の如し是に類似の例此外澤山あり要するに受驗者にてわが催眠術を用ふるを信ずる以上は此方にて如何に眠らすまじと力むるも其甲斐なく睡眠するなり
 去れば俗に所謂※[金+聶]氣睡眠、生物電氣、奉信入定抔と小六づ箇敷御大層なる名を附するものも一たび其源頭に逢着すれば單に主觀的の情況に過ぎざるなり是は施術者の手眞似身振りに關せず其身體より放散する精氣に關せず其意志にも關せざれば又其器物上に有する法力にも關せず距離の遠近之を支配せず導體不導體の阻礙之を妨げず眠れと命じさへすれば眠る傳話器で命ずるもよし電信機で命ずるも同樣なり啻に是のみならず若し幾多の方便を以て被術者の想像を感ぜしめ又其體《〔?〕》性を動かすを得ば施驗者なくとも實際同樣の結果を生ずべし(未完)      −明治二五、五、五『哲學會雜誌』−
 
  詩伯「テニソン」
        オウガスタス、ウード
 
 今は早や昔しとなりぬ。一と歳天公大に育英の念を起して、五人の名士を惜氣もなく、下界に天降し給へることあり。年はと問へば一千八百九。人の名は、「グラツドストーン」、「ダーウイン」、「リンコルン」、「ホームス」及び「アルフレツド、テニソン」。皆夫々の道に於て、天晴一方の首領と仰がれたるともがらなり。敷ふれば、早く既に八十餘年の星霜を閲して、三人は最早此世のものにあらず。殘る二人は、猶未だ鬼籍に上らずといへど、其一世の事業は亦全く終局に達したりと云ふべし。「リンコルン」と「ダーウイン」が絶大の偉功を遺して、黄壤の客となれるは久し。「テニソン」が九十に近き高齡を以て、靜かに塵の浮世を謝し、白鳥の歌を、うたひて無限の大洋に、行衛も知れずなりたるは、つい此頃の事なり。
 詩伯の訃音一たび世間に達してより、茲に數週間。思ふに「テニソン」派復興の時期必ず既に至れるならん。知らず早く既に此翁の傳記に着手したる者幾何ぞ。其傑作を擧げて、再び世間に吹聽せんとする者、又幾何ぞ、翁を愛する者は、復其愛する所以の理を説き、翁を批する者は、再び其功過を比べて、今度こそ穩當の斷案を下すならん。さはれ是等の文字、文學上に如何なる功徳かあらん。從來の材料を磨ぎ上げたればとて、古物は矢張り古物なり、其新奇の點、果していづくにかある、此五十年間英國の詩宗と云へば、誰しも「テニソン」の事と思はぬ者なき位なれば、評者讀者共に、疾くより胸中に、軒輊の標準を具へ、既定の見識を利用して、其集に對せぬは稀なり、去るからに、其説く所は、所謂太倉の粟陳々相因るの嫌ありて、一向面白しとも覺えず。此際只面白しと思はるゝは、「テニソン」と其時代は、如何なる關係を有するかを、考究するにあれど、是も當分は出來惡き注文にて、雙方の比例を見出さんには、夫を見出す丈の距離に、其身を置かざるべからず。當時吾人の「テニソン」に接する事甚だ近し。近過ぎるが爲めに見當つかず。今の世が一と昔となりたらん頃に、「テニソン」は「ヴイクトリヤ」時代に如何なる地位を占めしか。其時勢の影響を受けたるは何れの點ぞ。又其世俗を感化せる處は何れにあるぞ。と心を付くる事、後世評者の務めなるべし。夫の民政時代を代表するものは「ミルトン」なり。「アン」后の朝を表彰するものは「ポープ」なり。後世の人「テニソン」を以て「ヴイクトリヤ」朝の詩宗となすや。なさずや。そは未來に生れざる我々の、知り難きところなれど、只何となく當今詩情の元素と云へば、「テニソン」の名自ら胸裏に浮び出づる樣なり。英文學を修むる人々は、誰しも同樣の感じあらん。
 從來出版の「テニソン」傳抔と稱するものは、皆多く其作を列擧するのみにて、眞の傳記とも稱すべきは、皆無の姿なり。會ま之を試みんとするものあれば、痛く峻拒せらるゝを以て、誰も手を下したるものなし。故に向後「テニソン」の傳あつて、世に公けにせらるゝとも、「ボスウエル」が「ジヨンソン」傳、「ムアー」が「バイロン」傳、偖は「ロククアート」が「スコツト」傳に比すべきものゝ、出來んとも覺えず、よし出來たればとて、そは余輩の望む所にあらず。「テニソン」の一生は平穩にして奇變少なく。且つ其心情の發達に至つては、其詩既に之を盡せり。
 「テニソン」の家は、「ノーマン」の血統を承けて、遠く其祖先を尋ぬれば「デインコート」より出づ。下つて後世に及んで、其族宗門に關するもの多く、從つて子葉學者の風あり。人生を觀ずること、實着にして、輕卒の態なし。詩伯の父名を「ジエオージ、クレートン、テニソン」と呼び、「ソマースベー」の牧師にして、「グレート、グリムスベー」の副牧師を兼ねたり。母は「ラウス」の副牧師の女にて、名を「エリザベス、フ※[ヒの小字]チ」と云ふ。此夫婦子を産む事凡て十二人、「アルフレツド」は實に第三子なり。父は藏書家にて、多少の學力あり。好んで數學及び古代文學を講じ、且つ少々は詩も作れり。兒童の天資既に學問に傾けるに、かゝる父の教訓を受けたれば、幼年より文學のたしなみは、人に優れて目出度かりし節もありしならん。なれど小兄の事なれば大概は内を外にして、そゞろあるきに日を暮したる事も多からん。後年詩人“Dying Swan”及び“Ode to Memory”を作つて田舍平遠の景を寫す、故園の風光歴々目にあり。十二歳の折とか、一日野中に彷徨して、忽然天地の靈に感ずる所あり、詩句口を衝て出づ。其辭に曰く。聲あり、聲あり、風中に語る(I hear a voice that's speaking in the wind)と。之を「テニソン」皮切の詩となす。
 「テニソン」の兄弟、幼時は家に在つて教を受け、後には村學に通ふ。夫より長子「フレデリツク」は「イトン」に行き、「チヤーレス」と「アルフレツド」は「ラクス」の高等小學に入る。當時兄弟共に吟咏を嗜み、家に在つても、校に上るも、又は野中に逍遥するも、甞て賦※[まだれ/尹にノをつけそのしたに貝]の樂を廢せず。當時の作散逸して今傳はらず。是れ兄弟の爲めに惜むに足らず。然るに千八百二十七年に至り、兄弟大に勇を鼓し、是ならばと篇を輯めて、一卷とし、「兄弟の詩」と題して之を世に問へり。評者未だまじめに此詩卷を評したるものなからん。卷中の詩多くは出放題にて、まゝ「バイロン」風を帶ぶる者あり、一篇にても將來望みのありさうなものはなし。讀者若し此等の篇を觀んとの執心あらば、よろしく、米版の「テニソン」全集を繙くべし。
 千八百二十八年には、兄弟三人共に「ケムブリツジ」の「トリニチー、コレツジ」に遊學す。此時校中には、後年世間に其名を知られたる、非凡の青年一時に落ち合へり。其人々には索遜語研究の先登者「ジヨン、ミツチエル、ケンブル」、「ダブリン」の大僧正「リチエード、シエネウエクス、トレンチ」、「カンターベリー」の首牧師「アルフオード」を首めとして、「メソヴエール」「サツカレー」「スペツヂング」の面々何れも「テニソン」同窓の學友とぞ聞えける。中にも「アーサー、ハラム」とは莫逆の交りなり。此友情の塊まり後に破裂して“In Memoriam”となり、親愛の記念を永く不滅の文字に傳へたるは、詩を讀む者の誰も知る所なり。偖是等の青年は一致《ユニオン》會と稱する團體を組織して、日夕其議論を上下しけるが、「テニソン」何時しか其中心となりて、聲望漸く同人中に重し。在學中懸賞詩の募りに應じて「チヤンセロー」の賞牌を受く。「チンバクツー」の一篇是なり。時に「サツカレー」「スノツブ」と云へる雜誌を藉りて善く諷刺の文字を公けにしけるが、忽ち「チンバクツー」の替へ歌を作りて之を嘲笑せり。之に反して、同じ一致會員なる、「スターリング」と「モーリス」と云へる兩人は「アセネーアム」の發行者たりしが、大に「チンバクツー」を賞して云へる樣從來懸賞詩を草する者は皆第一流の詩才にあらず。詩を作り賞を得るも未だ譽れを買ふに足らず。賞を得て賞に誇るを得るものは獨り一の「テニソン」あるのみと。「テニソン」時々其友を携へて、母を「サマースベー」に省す。中にも屡ば同行せるは例の「ハラム」なり。「ハラム」の南歐に遊んで伊太利より歸るや、「テニソン」其小妹を托して伊語を學ばしむ。之を暫らくして、師弟の關係は一變して友愛となり、再變して戀情となり、結婚の約整ひし迄は御目出度かりしが、未だ合※[丞/巴]の式を擧ぐるに及ばずして秀才客土に天死し、伉儷の契り空しく一場の夢となれるは、實に氣の毒なる次第なり。
 「テニソン」の大學にありしは、僅々三年に過ぎざれど、在學中は主として、英國詩人の集を熟讀し沈潜刻苦して、其格調を究め、又常に吟咏を事として、深く將來の地をなせり。かくて千八百三十年に至り“Poems, Chiehly Lyrical”と題する詩集の第一卷を公けにす。此集四方八方より批評を蒙る。多くは攻撃なり。勿論大學の友人等は熱心なる「テニソン」派にて、中にも僧正「トレンチ」首牧師「アルフオード」抔は、集中の詩を以て、悉く完璧なりとし。「ウエストミンスター」記者は“Confessions of a Second-rate Mind”と題する一篇を激賞し、「リーハント」の如きも、亦「タトラー」の紙上にて大に同篇を褒賛せりと雖ども、世間一般の鑒定は大反對にて、「バイロン」「スコト」抔の硬肉を啖ふやからに取りては、「クラリベル」、「リヽアン」「アデライン」等の作は腹に答へざる事、牛乳を啜るが如くなりしならん。尤も集中の詩多くは※[車+(而/大)]弱にして氣骨なく、且つ乙に優美がるの風ありしが爲め、一層評者の癪に障りしと覺し。教授「ジヨン、ウイルソン」抔も、「テニソン」の友人等は、過常の褒辭を以て、値ひせざるの詩人を寵せんとするものなりと極言し、又一層烈しきは、此時「ブラツクウード」雜誌に、「クリストフアー、ノース」と名乘る論客ありけるが、痛く「テニソン」を罵つて曰く、先頃「ウエストミンスター」に一狂生あり。孟浪の言を放つて、「テニソン」を揚ぐ。「テニソン」此魔睡劑を服して、猶平氣なり、其しぶとき事驚くに堪へたり。向後は彼烈火を抱いて寢に就くも、猶且安眠するを得べしと。超えて三年、「テニソン」詩を作つて、評者に答へたる辭に、
 “You late review my lays,
    Crusty Christopher;
  You did mingle blame with praise,
    Rusty Christopher.
  When I learnt from whom it came,
    I forgave you all the blame,
      Musty Christopher;
    I could not forgive the praise,
      Fusty Christopher.”
 此集は固より缺點なきにあらず。中にも。“The How and Why”の如き“Nothing Will die”“All Things will die”の如きに至つては殆んど兒戯に等し。然れども評者の見落したる好處も亦なきにあらず。或る米人當時の文壇を許して、「テニソン」が詩を以て家を興さんとするに當つて、詩法に關する英人の觀念は亂雜極まる事、想像も及ばぬ位なり。と云へるは頗る適評なり。彼評者共既に「キーツ」の好模範を有しながら、猶未だ其必要を悟る能はず。徒らに在來の好尚に支配せられて、聲調の美を辨ぜず又有音の畫を解せず。遂に「タラリベル」「リヽアン」「マーマン」「ダイング、スウワン」「アウル」等の諸作を閑却せるなり。且つ「テニソン」の敍法も餘り輕易纖微なるが爲め、反つて「マリアナ」「リコレクシヨン、オフ、アレビアン、ナイツ」抔の好處を没却し去りたるが如し。
 千八百三十二年より、同三十三年にかけて、「テニソン」又其詩集を刻し、以て諸家前日の評語に應ぜり。
 此時作者年僅かに廿二。而して卷中の詩首々趣を異にす。其才實に測るべからざるものあり。
 “Oenone”は、其調時流を追ひ、「テニソン」一家の詩風を具へたりと雖ども、古色蒼然、艶麗にして清曠の致あり。之に反して、“The Lady of Shalott”及び“The Sisters”の如き、は純然たる獨調《ヂヤーマニツク》なり。凡て是等の諸首を通覽するに、全篇の意匠天然の景物と相和し、打成一片の妙を見る則はち之を稱して、牧歌《アイデル》といふも不可なきが如し。“The Miller's Daughter,”“The May Queen,”“Lady Clara Vere de Vere”の如きに至つては、宛然たる英風にして、牧歌《リヽツク》と述懷詩を兼ねたるものといふべし。諸首皆「テニソン」の特色を帶ぶ。其作家を代表するに至つては、敢て晩年の所作に讓らず。只紙數限りあり。縱まゝに博引例證する能はざるを憾むのみ。概ね句法自在、着色醇厚にして、命意格調相待つて互に諧和す。例へば“The Lotos-Eaters”の首一節の如き、讀者をして覺えず黯然たらしむ。
 “In the afternoon they came unto a land
  In which it seemed always afternoon.
  All round the coast the languid air did swoon,
  Breathing like one that hath a weary dream.”
 (午後陸に着す荒境固より朝なきなり。只見る陰氣暗憺として沿岸を罩め、人の昏夢して覺めず、氣息の奄々たるが如し。)
 又。“A Dream of Fair WoOmen”中には詩人の明星(テニソン詩中の語)とも云ふべき「チヨーサー」を評して曰く。
 (「チョーサー」甞て一鳴す。餘音今に至つて絶えず。「エリザベス」大后の時、歌者盛朝に充つ。「チヨーサー」の鳴く遠く之に先だつ。而して餘音今に至つて蓋きず。)
 世の「テニソン」を知る者、恐らく米人「ステツドマン」に若くなからん。「ステツドマン」甞て千八百三十二年の集を評して曰く。
 斯の如きの斬新、斯の如きの秀麗、豈得易からんや。「テニソン」此に至つて、明かに一家の詩風を興して、而も些の陋習を帶びず。啻に句法の雋妙なるのみならず。又風調の清絶なるのみならず。錬字錬句恰も金殿に鏤めたる花の如し。一辨も毀つべからず。一花も忽かせにすべからず。而して讀者は則ち其全部の美に眩して、隻言片辭の妙を忘る。天巧に非ずんば、豈能く此の如くならん。其他絢彩の粲たる、音節の喨たる、情景配合の妙なる、大凡人を動かすもの、皆こゝに存せざるものなし。「テニソン」眞に綺藝の各體を選み、美術の全面を羅して、一卷中に收めたりといふべし。假令ひ是等の牧歌及び述懷詩が其意義に於て採るべき所なしとするも、崇美派復興の道に於て、其稗益する所豈鮮少ならんや。「テニソン」の集既に在り。此照魔鏡をとつて、他の詩鬼を照破するときは、醜態歴々遂に遁逃する所を矢はん。作家是より漫りに蕪穢の字句を臚列し、鹵莽の言辭を布陳する事を得ず。雕琢の風一度び勢を得てより、文壇爲に靡然。遂に「テニソン」をして所謂巧派の首領たらしむ。巧派とは巧みに情景を錯綜して、讀者を動すを云ふ。
 此種の詩英國に興つてより、或人は力を極めて之を排撃し、或人は其斬新にして其神の舊套を脱したるを悦こび、文界之が爲めに紛然たり。當時(千八百三十二年)英國詩壇の有樣を考ふるに先づ詩を以て世に許されたる人々には、「ウオヅウオース」「サウセイ」「コレリツジ」を始めとして、「スコツト」「ロジヤース」「カンベル」「ムアー」「プロクトー」「フード」等皆一時の選なりしかど、其勢力に至つては、中々一世を左右する程の事はなかりしなり。「スコツト」の尚武、「シエレー」の感慨、「キーツ」の崇美説、偖は「バーンス」「ウオーヅウオース」の山川主義、皆既に振作鼓舞の具たる能はず。「ランドー」の如きに至つては、古文の中に埋没して、上世の夢正に酣なり。抑も當時は科學勃興の時にして、理化發明の期なり。蒸※[さんずい+氣]機關、工業器械の創造と共に、技藝は單に五官を飾るの具と化し去りぬ。二三子の言世を動かす能はざる、亦怪しむに足らず。是に於てか「テニソン」の聲始めて威驗あり。其詩の錬熟にして綺麗なる、良に能く當時の技藝に適せりといふべし。宜なり世人の「テニソン」を讀んで新奇の極となすや。
 千八百三十二年の集に關しては、今更喋々するの必要もなけれど、是は一時隨分世評に上りたるものにて、其中には餘程手酷きもありしかば、之が爲めに詩伯千八百四十二年に至る迄、十年間緘黙して一向口を開かざりしなど、云ふ人もあれど、實際「テニソン」が斯く迄世評を意に介せしや否や甚だ疑はし。作家必ずしも「キーツ」の如く感じ易きにあらず。「テニソン」此等の惡口連を稱して、俗界の鵞群漫りに長頸をあげて、呶々人を罵る(The long-necked geese of the world that are ever hissing dispraise.)といへり。俗評固より「テニソン」をして沮喪せしむるに足らざるなり。顧ふに此十年間は、詩伯が經錬の時期なり。改竄の時期なり。尤も其間を如何にして消光せしやに至つては、頗る判然せざれど、何にもせよ、夫の華奢なる大學出身連の如く、「テニソン」が倫敦に赴けるは誰も知る所にして、常に粘土製の烟管を口にして、「フリート」街を徘徊せし由。其英京にあるや、「アノニマス」及び「スターリング」會の會員となり、「カンニンガム」、「カーライル」、「グラツドストーン」、「スチユワアート、ミル」、「サツカレー」、「フオースター」、「スターリング」、「ランドー」等の諸家と相往來し、詩酒徴逐概ね虚日なし。又「ケンシントン」にて、小「ホーランド」家に住する事少時。かくて千八百四十二年に至り、復其詩集二卷を上梓す。其第一卷は前集中の詩を訂正抄選せるものなり、第二卷の詩は悉く新作に係るもののみなり。此集の賣高は莫大にて、五十三年に至る迄十一年間に早や八版に達せり。例の「ステツドマン」云ふ。「此集は實に「テニソン」を代表すと云ふべきものにて、若し之を上梓することなからんには、詩伯の名作とも見るべきもの過半を失ふに至らん。蓋し其詩を觀るに、一片の性靈幾多の工夫と相伴ふて、毫も破綻の痕なし。抑も推敲鍛錬は、讀者を感ぜしむるの好方便なるのみならず、物によると意匠を凝らして經營刻苦するにあらざれば、之を表はし難き事あり。此表はし難き者を道ひ破る。是全く工夫の功にして、殆んど人巧を脱して天巧に近づく者と云はざるべからず。察する處作者の深意茲に存するものあらん。」
 集中尤も要用なる篇を擧ぐれは、先づ「オードレー、コート」と「ウオーキング、ツー、ゼ、メイル」は湖派の風ありて、牧歌の尤なるもの。「トーキング、オーク」と「ガードナース、ドーター」は精彩煥發「ゴヂヴハ」に至つては玲瓏俊爽にして敍景亦巧妙。思ふに牧歌の上乘なるものならん。其他「ユーリシス」は氣象自ら雄大。「トーキング、オーク」は才思縹緲。以上數篇の外に、「ロツクスレー、ホール」あり。作者上乘の出來にはあらざるべけれど、道徳的社會的の思想を含み、尤も人口に膾炙するものなり。
 牧歌の外に謠歌《バラツド》あり。「レデー、クレアー」の如き、「ロード、オフ、バーレー」の如き、「エドワード、グレー」の如き皆完璧となす。
 此集の缺點は何處にあるかと云ふに、作者其縹緲たる詩思を棄てゝ、勃※[穴/卒の縦線つなぐ]の理窟界に踏み込むときは、何時でも失策するの傾きあり。例へば「ゼ、ツー、ヴオイス」の如く「ヴ※[ヒの小字]ジヨン、オフ、シン」の如し。其中にも「セント、シミオン、スチライツ」抔は詩思を蕩盡して、一狂人に資す。其調固より僞なり。と云はざるべからず。然し是等の詩は人によると賞揚して「テニソン」の傑作と思ふ位なれば、余の評を以て定論なりとなすべからず。
 次に論ずべきは「ヴイクトリヤ」時期の無韻詩にして、是は後日に發達せる長詩の先を爲すものなり。抑も此無韻詩は「シエクスピヤー」以後往々作家の用ふる所なるが、「テニソン」に至つて別に一家の調を加へ、大に萎靡の弊を矯め、且流暢の度を増せり。此無韻詩中尤も妙を極めたるは、「モルト、ダアーサー」にして他は皆艶麗に過ぎたる爲め、詩品を害するの恐れあり。
 此時より「テニソン」俗界の喧擾を厭ひて世外の念漸く切なり。尤も其交友中には、「サツカレー」あり。「ヂツキンス」あり。「カーライル」あり。千八百四十四年「カーライル」書を裁して「エマーソン」に與へて曰く。「テニソン」此頃人を避け世を悲しみ、暗黒世界に住する者の如しと。又曰く「テニソン」は秀麗の士なり。其髪は黒くして光りを帶び。其眼は茶色にして笑を含み。顔は中高にして自ら魁梧の容を具へ。而も甚だ艶美なり。色は白からず黄ばみたる茶褐色にして、殆んど印度人に類す。衣服は甚だ寛きを着け、見るからに身の胖かなるを覺えしむ。又烟草を吹かす事非常にて、瞬時も烟の絶間なし。云々と。「エマーソン」之に報じて曰く。願くば此好詩人を愛惜し、又之を賞揚せよ。彼をして幾卷の新詩を賦せしめよと。
 此頃片《〔?〕》政府は隨分經濟上の困難を感ぜしが、遂に千八百四十五年に至り特に詩伯の爲に年々五百磅を下賜して、之を優待するに至れり。
 是より先き世人「テニソン」の長詩を作らざるを惜みしが、四十七年に至り始めて「プリンセス」を公けにするに至りぬ。「サツカレー」の女「リツチー」夫人の云へる如く、此作は倫敦の霧中に成れるものなり。此詩は男女兩性の差異を破却せんと企てゝ成功せざりし者の由。兎角色々の非難はあるべけれど、其光彩の陸離たる、其思想の純潔なる、又其女性を敍するの巧にして卑野に失せざる、人をして覺えず嘆賞措く能はざらしむ。加之作者は婦女子の爲めに、記念ともなるべき程の詩を咏ぜる人にて、此點にては「シエクスピヤー」以後の一人なれば、此詩は夫の厭ふべき女權〔二字右○〕と云へる主義に對する最後の決答と見て可ならん。
 千八百五十年は、「テニソン」の生涯中尤も多事の時となす。「イン、メモリアム」を出版せるも此年なり。妻を迎へたるも此年なり。「ポエト、ローリエート」となれるも亦此年なり。夫人は北氷洋探檢を以て有名なる「サー、ジヨン、フランクリン」の姪にて、「バークシヤー」の名族なり。既に「テニソン」に嫁して二兒を生む。「ハラム」及び「ライオネル」是なり。「ライオネル」東印度會社の役員となり、間もなく病死せしかば、「ハラム」は始終詩伯に追陪し、其書記を務め、今は詩伯の名を襲ひ、其財産を讓り受けぬ。
 「イン、メモリアム」は友人「アーサー、ハラム」を恤むの詩にして、詩伯の尤も意を用ふるところ、又尤も議論のある作なり。悼惜の詩は前に「ミルトン」の「リシダス」あり。「シエレー」の「アドネイス」あり。袁戚の辭としでは、「イン、メモリアム」恐らくは此二作に及ばざらん。然れども一篇の詩賦としては、遙かに其右に出でん。此大作は三十一篇の小詩より成り、生死、信仰、の大問題を論ず。詩中の佳句吾人日常の用語となるもの多し。且其哲理の如きは、萬人を慰藉して、離愁別恨を消せしむるに足る。啻に一言一句の意義深遠なるのみならず。處々景物を敍するに至つては、筆々靈活宛然たる一幅の畫圖なり。
 千八百五十年「ウオーヅウオース」の死するに當つてや。「ポエト、ローリエート」の職空しき事數月なり。今「テニソン」去つて其職を襲ぐ者亦未だ定らず。衆眸皆集つて此一點にあり。一方にては候補者續々と出現し、我も我もと其任に當らんと欲す。彼等知らずや。異口同音に「テニソン」を推擧せし時すら、政府は空しく七月の時日を費して、始めて詩伯に授くるに此榮譽を以てせしを。「テニソン」既に此職を得てより、時々詩を作つて國家の盛事を頌す。「オード、ツー、ウエルリントン」「ゼ、チヤージ、オフ、ゼ、ライト、ブリゲード」「アレキサンドラ」の如き是なり。然れども此種の作は、大概儀式的の作にて、直接に肺肝より流出する者に比すれば、其巧拙固より多言を待たずして明かなりとす。是より「テニソン」一世の傑作「アイヂルス、オフ、ゼ、キング」に就いて一言せんと欲す。作者力を此に用ふ事幾んど三十餘年。實に「ゲーテ」の「フアウスト」に類する者あり。全詩は凡て十篇より成り毎篇皆一個の完詩なれども、之を達續するときは、首尾相應じて一篇の長作となる。其敍記體なるを以て見れば、評して史詩《エピツク》と稱するも可ならん。聞く「ミルトン」甞て「アーサー」及び其「ラウンド、テーブル」の勇士を種とし一の史詩《エピツク》を作るに意ありしが、如何なる譯にや、手を下すに及ばずして死せりと。「テニソン」も亦此問題に意を注ぐ事久し。昔て「マロリー」の「モルト、ダアーサー」(千四百八十五年出版)を得て其材料を蓄へ、又此を題にして「ゼ、レデー、オフ、シヤーロツト」及び「モルト、ダアーサー」を賦せる事ありしが、千八百五十九年に至り始めて此長作の一部なる、「イニイド」「ヴイヴイエン」「エレイン」及び「ギニヴイヤー」の四篇を著せり。他の六篇は程經てポツ/\と世上に見はれぬ。此等の篇は皆古代尚武の氣風を寫す者にして、試合の樣、決闘の状、或は愛情の具合に至る迄敍し得て妙に入るのみならず、其下には深き寓意の存するものあり。作者「アーサー」王に藉つて、精神と肉體と相闘ふの意を見さんと欲す。されば王は感情を抑制して自ら不惑の境界に達し、理想的の國家を創立せんと欲せしかど、將士共其慾望を抑ゆる事能はず、遂には女皇に不貞の擧動さへあるに至り、切角の企ても水泡となり、王は志を得ず俗界に還るに至れり。
 「テニソン」の一生は頗る長く、其作亦枚擧に遑あらず。「イノツク、アーデン」の如き「シスタース」の如き皆有名なりと雖ども、一々之を評論する程の必要もあるまじく、且つ之を試むるの餘白もなければ、省きつ。又其院本の如きは時として「シエクスピヤー」に比する人ある位なれども、評者によると他作に劣る事遠しとなすもあれば、茲には言ひ及ばず。要するに詩伯は此間安樂なる閑生涯を送り、痛く風塵を避け、勵精筆硯に從事し、冬は退ひて「ワイト」島に籠り、夏は「サレー」の別墅に起臥するを常とせり。稀に大陸に遊び、時々倫敦に出京する事ありと雖ども、其他には殆んど家を去つて外遊せし事なし。其家に在るや大帽を戴き、烟管を口にし、風姿朴野、毫も修飾する處なく、逍遥野外を散策するに近傍の村民其躯幹の長く、其顔面の黒くして「スペイン」人の如く、且つ其態度の異樣なるを見て、誰しも佇立凝視せざる者なし。「テニソン」は一面識なき人に接するを好まざりしと雖ども、其親友に至つては歡待至らざるなし。「クラフ」「モーリス」「ポルグレーブ」「リユイス」及び其夫人(ジエオージ、エリオツト)の如きは皆此寵選に當る者なり。「テニソン」の人を愛するは、單に抽象的にして、實際は己れより地位の卑き者と交際するを甚だ嫌へり。かく其嗜好は貴族的なりしかば、千八百八十四年男爵授與の沙汰ありしとき、直ちに之を拜受したるならん。
 「テニソン」老後の作と雖ども甚だ其壯年の作に劣らず。此四十年間大英第一の詩家と呼ばれ、英米二國の民に愛敬せられ、今其死するに及んで文界光を失ふの嘆あり。余思ふに「テニソン」は好尚の詩人なり。景緻の詩人なり。理想の詩人なり。詩伯が人生に關する目的を知らんと欲せば、左の句を讀むべし。
  To keep down the base in man,
  To teach high thoughts,and amiable words,
  And courtliness,and the desire of fame,
  And love of truth,and all that makes a man.
 (願くば人間の惡を去らん。人に教ふるに高き心を以てせん。愛すべき言を以てせん。人に對するの禮。譽れを希ふの念。眞を敬ふの志。凡て人の人たる所以のものを教へん。)
   −明治二五、一二−二六、三『哲學雜誌』−
 
  セルマの歌
 
    セルマ
 
 暮れ果てて、わびしくも、あらしの皐《をか》に一人。峯に
聽く風の音、岩を下る早瀬。雨凌ぐ軒端もなく、風吹く皐に一人。
 昇れ月、雲の底より。出でよ夜の星。導きの火影もなきか。狩り暮れて獨りおはす君が方に。弦張らぬ弓の傍、喘ぎ臥す犬の中に、獨りおはす君。高く鳴る瀬、高く鳴る風。思ふ人の聲を聞き得ず。わがサルガアの歸らぬは如何に。山に入る強《つは》ものの誓。巖はこゝに、木もこゝに咽ぶ流れもこゝにこそ。こゝに今宵歸らんと誓ひし君はいかに。わがサルガアの行末はいづこ。君とならば行かんものを、父を棄てても。心騎る兄を棄てても。讎あるは家と家、敵ならぬ君と我は。
 吹く風もしばし落ち居よ、逝く水もしばし停まれ。吾が呼ぶ聲のこだま起して、歸らぬ人のわれを聞く迄。呼ぶはコルマ。木もこゝに、巖もこゝに、妾もこゝにあるを。君はなどて歸り來まさぬ。見てあれば、靜かなる月こそ出づれ。冷やかに谷を浸して、山の端に巖黒し。巖角に君見えず。君近づくと告ぐる犬なし。こゝにわれ一人あらばや。
 佇む片邊《かたへ》、荒野に伏すは誰が影ぞ。あらずや君とわが兄入。語り給へ、コルマなるに。コルマには答へ給はず。語り給へ、獨り居れば恐ろしき我に。あなや佩けるつるぎ太刀、斬り結びけん、紅《くれなゐ》深し。生きてあらぬか、君もいろねも。なつかしき人と人、互に斷ちし玉の緒ぞあはれ。譽れ多き二人の爲に、何を語らん。居竝びて秀でたるは岡の上なる君が眉目。戟とりて起てば壯夫《ますらを》。向ふ方に敵なしと見しは吾兄。語り給へ、聽き給へわが聲を、いとしき人よ。いとしき人は語らず、長へに語らず。土の如く冷え盡くしたる胸のほむらよ。語れ亡き魂、邱《をか》に聳ゆる岩の間より、風の吹くなる峯の上より、われは怖れじ。逝ける人の休らふ國はいづこ、いづこなる洞の裏にて君と相見ん。風のもたらす聲もきかず、あらしの奪ふ答だになし。
 悲に埋もれてあり、涙ながらに明くる夜をまつ。亡き人に塚立てよ亡き人の友。土な掩ひそ我來んと思へば。夢の如く去る吾命、生き殘る甲斐もあらず。吾友とこゝにあらばや、岩咽ぶ河のほとりに。山暮れて風高き宵、風の裡にわがまぼろし見えて、戀しき人の逝けるを泣かん。狩小屋に狩人ありて吾をきかば、吾をきく狩人はわれを恐れん、去れどまたわれを戀ふべし。人の情《なさけ》を泣く聲なれば、そのかみうけし人の情《なさけ》を。
 
    ライノオ
 
 風落ちて雨過ぎぬ、靜かなる午の氣合《けはひ》。斷切《ちぎ》れし雲の空に動きて。落つる日影の定かならず。石多き谷をめぐりて、赤き流は山より來る。床しきその音、ゆかしきこの歌。うた人は昔忍ぶ「アルピン」。年老いてうなじ重く、涙ありて眼赤し。あはれうた人。物言はぬ丘の上に獨り立ちて、梢ふく峯の嵐、わびしき岸に寄せては返す、波の如くに訴ふる君は何故。
 
    アルピン
 
 泣くも亡き人のため、うたふも逝くもののためぞ。山に立てば高き君が脊、谷に入れば清き君が目、朽ちざらめやはモラアの如く。なき君が墳の上に、弔ふ人の倚らで已むべき。山々も君を忘れん、弦斷れて君が弓張らで朽つべし。
 あはれモラア、疾きことは枯野原かける女鹿、鋭さは熱ひきて飛ぶ星の光。憤怒のなれはすさむあらし。太刀振るなれは冴ゆる稻妻。なれの聲音は雨ふりて逆捲く流、又遠山にびゞく嶋神。なれの劔多くの人を斬りて、猛火の怒あまたの敵を燒けど、戰やんで歸る時、汝の眉根にかゝる雲なし。雨は洗ふ日の光、物靜かなり月の色、風逆はず湖の面、しかく見えけりなれがかんばせ。
 狹からんなが住居、暗からんなが臥床《ふしど》。昔ありてふ偉丈夫の、三歩に足らぬ墓にすくみて、なれのかたみに殘るものは、苔をいたゞく四つの石のみ。枝に葉を見ぬ一本の樹、風に嘯く高き草、獵人ならで誰か知らん、猛かりしなれが此墓。
 あはれモラア。果敢なきもことわり。弔ふ女親《めおや》なく、音を泣く乙女もたず。なを生みし女遠くゆきて、なを慕ふモオグランの女《め》の子《こ》歸らず。
 杖に倚るはなが父、齡朽ちて髪白く、涙湧きて眼あかきなが父、運ぶ歩み危《あや》しくもわなゝくなが父、なれより外に子なきなが父。父は聞きぬ譽得し汝《なれ》。父は聞きぬ敵追へる汝。聞かざりき深手負ひし汝を。父は泣けど、泣けど父は、耳傾くる子を持たず。亡者の眠りふかく、土塊の枕わびし。泣けど聞かず。呼べども起たず。冥土に明くる朝なくして、眠れる者長へに覺めず。去るからに永き訣れぞ、逝ける壯夫、戰の野に敵屠りて逝ける壯夫。戰の野になが影消えて鎧の縅小暗き森を照らさず。なれに子なし。なれを傳ふるは歌。其歌に後の世はなれを聞くべし、逝けるモラアを。(オシアン)
     −明治三七、二、二二 『英文學叢誌』−
 
  カリツクスウラの詩
 
     クライモラ
 
 夕日染めたる火雲の如くに山より下る。其聲風の吼ゆるが如く、カリルの竪琴《たてごと》鳴らすが如し。磨き上げたる刃金《はがね》の具足に光を帶びて吾郎《わがきみ》來る。其眉開かず愁の影あり。フインガルの一門恙なきや否。知らず如何なる憂あつてか、郎が心の底に潜む。
 
     コンナル
 
 恙なくして生ける人々。光り眩き長河の如く、只一筋に獵より歸る。盾《たて》日に翳《かざ》して丘を下れば燃え立つ※[火+餡の旁]の山の脊と見ゆ。血氣のともがら罵り騷いで戰既に近づけり。わが一門の武威を試《ため》すと。阿修羅のダアゴオ皆寄せ來つて、弓矢の族《やから》手創《てきず》誇る家黨《いへのこ》を挑む。
 
     クライモラ
 
 薄黒き霧の如く見えき其帆、濁る巨浪空拍つ際に。徐ろに漕ぎ寄する陸の方、兵《つは》ものの影夥し。
 
     コンナル
 
 取り出でよなが父の盾、リン※[ワに濁點]ルのかたみの盾、鋲打ちし眞金の眉。黒ずみて大空渡る眞丸の月の盾。
 
     クライモラ
 
 君が爲に取卸ろす其盾、昔吾父を殺しぬ。亡き父のゴオマアの穗先に斃れしや其時。斃れもやせん君も其盾の上。
 
     コンナル
 
 はかり難き此命。われ死なばわが爲に墓《おくつき》つくれ。石ならべ土盛りて後の世に吾名弔へ。泣きはらしたる目、墳にあてて、深き歎きに浮上がる胸打て。春日の如くあでやかに、春風よりも長閑なる汝を棄つとも、吾行かん。つくれ吾塚。
 
     クライモラ
 
 去らば行かん我も。其戟とりて、其太刀佩きて、輝く武器といふもの持ちて。コンナルと共に行く我、戰ふ野邊にダアゴオと見《まみ》えん。アアド※[ヱに濁點]ンの山に負いて、山に住む鹿に負いて、山に鳴る水に負いて、吾等行くなり。吾等行きてまた還らず。吾等が墓は遙か彼方。(オシアン)
     −明治三七、二、二二『英文學叢誌』−
 
 
  七艸集評
 
      ――明治二十二年五月二十五日、正岡子規稿『七艸集』より摘録、原文題なし――
 
詞兄之文情優而辭寡清秀超脱以神韻勝憾間有蕪句鄙言然昆玉微暇何須凡工下手且先輩評論備至故不敢贅至若韻語僕所不解只覺首首皆實況讀之身如起臥墨江耳癡人夢後雖情景歴歴在目不能語人要在心解不必要多舌也蕣篇則筆意悽※[立心偏+宛]文晶亦自高讀去不覺黯然嗚呼天地一大劇場也人生如長夢然夢中猶辨聲色俳優能泣人僕讀此篇雖知其出假想然不能無酸悒之情況於身在其境目睹其事乎抑人事之變桑滄之遷誰辨其眞假曷知吾兄十年之後無再遊墨江追憶往昔悟先之假爲後之眞昔之幻爲今之實※[行人偏+※[氏/一]]徊顧望感極而泣下者乎哉又曷知香雲暖雪之下無不勝今昔之感作詩弔阿花忽忽若失捧詩嗚咽者乎哉葛篇則一氣奔放從横敍去毫無難澁之體議論亦奇特僕輩所不能夢視至瞿麥之篇則自口碑實傳至稗史小説細大無遺洪繊不漏悉取焉而抒自家胸臆可謂巧矣不知吾兄校課之餘何暇綽綽能如此僕天資陋劣加疎懶爲風齷齪没于紅塵裡風流韻事蕩然一掃愧于吾兄者多矣刈萱之篇評存而文缺焉思吾兄才思富贍一唾一珠故割愛不顧乎可惜可惜古人有句云天若有情天亦老月如無恨月長圓欲移以評刈萱而不能他日得一讀知余言非郢書燕説則幸甚要之大著七篇皆異趣同巧猶七草不同姿態而至其沿澗倚籬細雨微風楚楚可愛則一也恐愛翫之極得小人抱玉之罪因匆匆通讀奉還榻下拙作數首附記供瀏覽僕固不解詩故所作粗笨生硬可笑然無鹽與西施坐則美益美而醜愈醜僕豈謂敢傚顰亦欲爲西施之美耳
 
  青袍幾閲帝京秋 酒點涙痕憶舊遊
  故國烟花空一夢 不耐他郷寫閑愁
 
 幾年零落亦風流 好賃江頭香月樓
 麥緑菜黄吟欲盡 又逢紅蓼白蘋秋
 
 江東避俗養天眞 一代風流餞逝春
 誰知今日惜花客 却是當年劔舞人
 
 艶骨化成塚上苔 于今江上杜鵑哀
 憐君多病多情處 偏弔梅兒薄命來
 
 長堤盡處又長堤 櫻柳枝連櫻柳枝
 此裡風光君獨有 六旬閑適百篇詩
 
 浴罷微吟敲枕函 江樓日落月光含
 想君此際苦無事 漫敷篝燈一二三
 
 洗盡塵懷忘我物 只看窓外古松鬱
 乾坤深夜閻無聲 黙坐空房如古佛
 
 京客多情都鳥謠 美人有涙満叉潮
 香髏艶骨兩黄壤 片月長高雙枕橋
 
 長命寺中鬻餅家 當※[土+盧]少女美如花
 芳姿一段可憐處 別後思君紅涙加
 
  明治己丑五月念五日  辱知 漱石妄批
 
  木屑録
 
  余兒時誦唐宋數千言喜作爲文章或極意彫琢經旬而始成或咄嗟衝口而發自覺澹然有樸氣竊謂古作者豈難臻哉遂有意于以文立身自是遊覽登臨必有記焉其後二三年開篋出所作文若干篇讀之先以爲極意彫琢者則頽※[隋/恭の下半]纖佻先以爲澹然有樸氣者則※[骨+凡]※[骨+皮]艱澁譬之人一如妓女奄奄無氣力一如頑兒悍傲凌長者皆不堪觀焚稿※[手偏+止]紙面發赤自失者久之竊自嘆曰古人讀萬卷書又爲萬里遊故其文雄峻博大卓然有奇氣今余選※[而/大]※[走+諮の旁]※[走+且]徒守父母之郷足不出都門而求其文之臻古人之域豈不大過哉因慨然欲曳履遠遊未能果志而時勢一變余挾蟹行書上于郷校校課役役不復暇講鳥迹之文詞賦簡牘之類空束之高閣先之所謂纖佻※[骨+凡]※[骨+皮]者亦將不得爲又安望古作家哉明治丁亥遂擔※[竹/登]登富岳越函嶺行白雲蓬勃之間脚底積雪數尺蹠凍指※[軍+皮]遙瞰八洲之山如培※[土+婁]豪氣稜稜欲凌雲然不能一篇以敍壯遊今茲七月又與季兄遊于興津地爲東海名區滯留十餘日蕭散無聊而遂不得一詩文嗟乎余先者有意於爲文章而無名山大川搖蕩其氣者今則覽名山大川焉而無一字報風光豈非天哉八月復航海遊於房洲登鋸山經二總溯刀川而歸經日三十日行程九十餘里既歸會秋雨連日閑居一室懷旅中快樂辛酸之事有不堪其情者乃執筆書之積至數葉竊謂先之有記而無遊者與有遊而無記者庶幾于相償焉然余既絶意於文章矣且此篇成于閑適之餘則其纖佻※[骨+凡]※[骨+皮]勿論耳命木屑云者特示其塵陋也
余以八月七日上途此日大風舟中人概皆眩怖不能起有三女子坐于甲板上談笑自若余深愧鬚眉漢不若巾※[巾+國]者流強倚欄危坐既欲觀風水相闘之状蹣跚而起時怒濤掀舟舟欹斜殆覆余失歩傾跌跌時旨風※[犬三つ]至奪帽而去顧則見落帽飄飄回流於跳沫中耳舟人皆拍手而大笑三女子亦※[單+展]然如嗤余亡状爲之忸怩
余自遊于房日浴鹹水少二三次多至五六次浴時故跳躍爲兒戯之状欲健食機也倦則横臥於熱沙上温氣浸腹意甚適也如是者數日毛髪漸赭面膚漸黄旬日之後赭者爲赤黄者爲黒對鏡爽然自失
興津之景消秀穩雅有君子之風保田之勝險奇巉※[山+肖]酷似奸雄君子無奇特驚人者故婦女可狎而近奸雄變幻不測非卓然不群者不能喜其怪奇※[山+肖]曲之態也甞試作二絶較之曰
 風穩波平七月天韶光入夏自悠然出雲帆影白千點總在水天髣髴邊
 西方決皆望茫茫幾丈巨濤拍乳塘水盡孤帆天際去長風吹滿太平洋
余長於大都紅塵中無一丘一水足以壯觀者毎見古人所描山水幅丹碧攅簇翠赭交錯不堪神徃及遊于東海于房總得窮山雲吐呑之状盡風水離合之變而後意始降矣賦一絶曰
 二十餘年住帝京倪黄遺墨暗傷情如今閑却壁間畫百里丹青入眼明
同遊之土合余五人無解風流韻事者或被酒大呼或健啖驚侍食者浴後輙圍棋闘牌以消閑余獨冥思遐捜時或坤吟爲甚苦之状人皆非笑以爲奇癖余不顧也邵青門方構思時類有大苦者既成則大喜牽衣※[しんにょう+堯]床狂呼余之坤吟有類焉而傍人不識也
一夕獨不寐臥聞濤聲誤以爲松籟因億在家之曰天大寒閉戸讀書時星高氣清燥風※[風+叟]※[風+瑟]窓外梧竹松楓颯然皆鳴屈指既數年矣而余碌碌無状未有寸毫進于學又漫爲山海之遊不知歳月之倏忽老之將至視之當時苦學豈不忸怩哉
 南出家山百里程海涯月黒暗愁生濤聲一夜欺郷夢漫作故園松籟聲
客舍得正岡獺祭之書書中戯呼余曰郎君自稱妾余失笑曰獺祭諧謔一何至此也輙作詩酬之曰鹹氣射顔顔欲黄醜容對鏡易悲傷馬齡今日廿三歳姶被佳人呼我郎昔者東坡作※[竹/員]※[竹/當]竹詩贈文與可曰料得清貧※[食+巉の旁]太守渭濱千畝在胸中與可與其妻燒筍晩食發函得詩失笑噴飯滿案今獺祭齡不過弱冠未迎室且夏日無得筍之理然得詩之日無噴飯滿案與與可同耶余歸家又得獺祭之書次余韵曰羨君房海醉鵝黄鹹水醫痾若藥傷黄卷青編時讀罷清風明月伴漁郎余笑曰詩佳則佳矣而非實也余心神衰昏不手黄卷久矣獺祭固識余慵懶而何爲此言復作詩自慰曰脱却塵懷百事閑儘遊碧水白雲間仙郷自古無文字不見青編只見山余相房地三分之而其二則山矣山不甚高然皆峻削衝空石質土膚絶無合抱樹叔子之所謂孤劔削空從天而仆者比比皆是東北一脉蜿蜒横截房總者最高最峻望之峯峯嶮巉如鋸刃向碧空而列名曰鋸山鋸山之南端岐爲三中央最高者曰瑠璃峯其東稍低者曰日輪峯其西最低者曰月輪峯而日本寺在峯之中腹聖武帝時僧行基奉勅東下相此山曰是眞靈境也遂開山創寺建院十二坊一百良辨空海慈覺等諸僧先後皆來遊焉其所手刻佛像今猶存云其後興廢不一安永中山僧愚傳得石於伊豆命工刻羅漢像一千合空海等所彫者凡一千五十有三安之山自是寺以羅漢著遊者或比之豐之耶馬渓云己丑八月某日余與諸子登焉渓行五百歩得山門赭堊剥落甍散欄摧遊者皆書其名壁上而去塗鴉滿扉殆不可讀又登數十歩得一小池柳陰四合紅※[草がんむり/渠]湛然山風時一過荷葉微動葉上露珠潜潜搖曳欲墜不墜沿池左折登石磴敷級得平地數十弓芭蕉梧桐之屬森然成陰構小屋二於其中茅檐竹櫺如耕織之家問之則曰山僧之居也時日既高而鉄門閉戸※[門/臭]如無人導者云維新之變朝廷收寺屬宅地田園没之官山遂殆墟焉余徘徊重蔭交柯之間想見徃時緇徒豪奢袈裟錦繍徃來於朱廊彩※[土+皆]之間愴然久之屋前軟草如氈峯巒缺處遙瞰溟渤雲鳥風帆歴歴可指經走路漸險攀岩捉蘿而上遙見石佛雜然列于巌上欲走而就之而峯廻路轉忽失之如此者數次數刻之後始得達像高大者三尺小者一尺或眉目磨滅不可辨或爲遊者所毀損失頭首四肢而其完者姿態百出容貌千状無一相似者亦可以見刻者用意之深矣配置之法亦不悉萃盡列焉遊者初見石像二百許於路傍大石下以爲羅漢之勝盡于此既廻巖角忽又見百餘像仰瞻頭上巨巖※[竹/(束+欠)]※[竹/(束+欠)]欲墜欲畏而避之而轉眸則巖上又安數十像或溪窮路盡一洞豁然而滿洞皆羅漢也蓋山路崎嶇不能得平地而萃列之而遊者亦隨歩改觀喜其勝出于意表也午時達山巓憩群山奔蒼先以爲在雲半者今皆在脚底故其蜿蜒起伏之状晰然可觀余自遊于房洲日夕望見鋸山而未知其高峻如此也同遊之士川關某豐人也爲余語曰耶馬溪廣〓《原》數十里岩壑之奇固不止于此而羅漢之勝遂不能及焉余壯鋸山之勝※[しんにょう+向]異群山又觀羅漢之奇而悲古寺癈頽不脩斷礎遺柱空埋没於荒烟冷雨中也慨然爲之賦
 鋸山如鋸碧崔嵬上有伽藍倚曲隈山僧日高猶未起落葉不掃白雲堆吾是北來帝京客登臨此日懷徃昔咨嗟一千五百年十二僧院空無迹只有古佛坐磅※[石+唐]雨蝕苔蒸閲桑滄似嗤浮世榮枯事冷眼下瞰太平洋
保田之北沿海行五百歩鋸山※[山/卒の縦棒がつながる]然當面※[山+參]嵯不可歩數年前官命辟巖鑿洞若干以使徃來自是過者無復※[足+聶]※[足+喬]曳杖之勞得驅車縱覽山海之勝也洞高二丈廣視高減其半甃甎造洞口以防其崩壞嚴然如關門洞中陰黒溪流浸岩兩壁皆濕或滴瀝流下曳屐而歩跫音戞然久而後已洞路直條過者遙見洞口豁然水光瀲※[さんずい+艶]映之以爲洞接海既出洞則石路一曲而身在怪岩亂※[石+唐]之間如此者數次毎過一洞頭上山石益※[螢の虫が牛]※[石+角]脚底潮水亦益※[句の口が塔の旁]※[句の口が合]眞奇觀也同遊之士井原某常好辨《原》毎説山水之勝嘖嘖名状不已此日緘黙不發一言余問其故則曰非不欲言也不能言也
大愚山人余同窓之友也賦性恬澹讀書談禅之外無他嗜好一日寄書曰閑居無事就禅刹讀佛書時與童兒遊園捉蝉其高逸如此山人甞語余曰深夜結跏萬籟盡死不覺身入于冥漠也余庸俗慵見露地白牛不顧無根瑞草視之山人有愧多矣
余既看保田隧道樂其觀瑰怪也明日爲之詩曰君不見鋸山全身石稜稜古松爲髪髪※[髪の友が朋]※[髪の友が會]横斷房總三十里海濤洗麓聲渤※[さんずい+崩]別有人造壓天造劈巖鑿石作隧道窟老苔厚龍氣腥蒼崖水滴多行潦洞中道望洞外山洞外又見洞中灣出洞入洞幾曲折洞洞相望似連環連環斷處岸嶄窄還喜奇勝天外落頭上之右脚底濤石壓頭兮濤濯脚
保田之南里許有灣窈然爲半月状灣之南端一巨岩高五丈上豐下削状如巨人之拳※[三の中に縦棒/石]然裂地而起掌之下端稍坦平可坐數人其上※[山+贊]※[山+元]開帳如※[竹/登]望之欲墜不墜如※[立心偏+端の旁]※[立心偏+端の旁]焉有不安者因憶二年前與柴野是公爲江島之遊黎明上山時海風※[犬三つ]作草樹皆俯是公跳叫曰滿山之樹皆戰戰兢兢矣余爲絶倒使足公看此岩亦必曰戰戰兢兢臨深淵巨岩之後又有一大石彌縫之起伏數十歩余※[足+榻]石臨水時天晴風死菜藻※[參+毛]※[參+毛]然搖藍曳碧遊魚行其間錦鱗※[赤+頁]尾忽去忽來水底螺石布列如可※[手偏+門]而觀焉倒竿而測其深則至没竿水觸手而不能達也蓋潮水澄清日光透下而屈曲故水底之物浮浮焉如在近而其實在數尋之下矣余觀其風物之冲融光景之悠遠心甚樂焉乃執筆爲之記而亦不能無嘆也鳴《原》呼天下之奇觀亦多矣雖甚好遊者不能盡觀而盡記也而其平居登臨焉往來焉者概皆樵夫牧童不能記其奇而傳之天下後世也幸而遊者至矣而其文或不足傳既足傳矣而或成於流離困苦竄謫之餘怨憤凄※[立心偏+宛]徒籍《原》山水而洩其鬱勃不平之氣是特幸乎作者而不幸乎山水耳至其幸乎山水者則非心無憂愁身無疾病陶然而樂悠然忘歸而其文亦卓然足爲水光嵐色吐其氣者不能也豈不至難哉今余之境足陶然樂之悠然忘歸而文章不副焉可悲夫
誕生寺在房之小湊北華宗祖日蓮生于此後人建佛刹於其廬址故名曰誕生寺寺負山面海潮水※[さんずい+沓]※[さんずい+陀]※[匯のさんずいが外]而復※[さんずい+伏]所謂鯛浦是也余在京聞鯛浦之奇熟矣乃賃舟而發距岸數町有一大危礁當舟濤勢蜿蜒延長而來者遭礁激怒欲攫去之而不能乃躍而超之白沫噴起與碧濤相映陸離爲彩礁上有鳥赤冠蒼脛不知其名濤來一搏而起低飛回翔待濤退復于礁上余與諸子呼奇不歇舟人笑曰此不足道也使客觀更大奇者乃令一人持杓立舳自在艫操※[木+虜]《原》杓方五寸盛鰛數百柄長五尺立者持其端如將揮杓投鰛於水者竢令未發舟人乃顧余曰客但觀水余因凭舷俯凝視頃之舟人呼曰鰛鰛四散應聲而下忽有綺紋生於水底簇然而動既漸近諦觀之則赤※[髪の友が宗]無數排波騰上以爭鰛也時日方午炎暉射波波光※[火+赫]※[火+樂]錦鱗赤章出没於其間或※[さんずい+發]溂露※[髪の友が鼠]或※[足+勇]躍出頭※[日+旬]《原》彩燦然環舟敷歩間一時皆爲黄金色矣舟人曰漁父舟行十里始能捕棘※[髪の友が鼠]魚今此水距岸僅敷丁而斯魚群生既奇矣爭鰛不畏人更奇矣若夫濤礁相噛風水相闘則所至而有安足爲奇哉既捨舟歩抵于誕生寺觀其所藏書畫數十幅日蓮所書最多僧云高祖生時其家人得棘※[髪の友が鼠]二尾釣磯上明日亦得焉如此者七日自足土人以高祖故不敢捕此魚又崇稱明神不稱其名或有竊捕而食者焉必病瘧死
   自東金至銚子途上口號
 風行空際亂雲飛雨鎖秋林倦鳥歸一路蕭蕭荒驛晩野花香濺縁蓑衣
   賃舟溯刀水舟中夢鵑娘鵑娘者女名而非女也
 扁舟行盡幾波塘滿岸新秋芳草長一片離愁消不得白蘋花底夢鵑娘
   天明舟達三堀旗亭即事
 烟霧夢夢見不看黎明人倚碧欄干江村雨後加秋意蕭瑟風吹衰草寒
   客中憶家
 北地天高露若霜客心蟲語兩※[さんずい+妻]涼寒砧和月秋千里玉笛散風雁兩行他國亂山愁外碧牧園落葉夢中黄何當後苑閑吟句幾處尋花徙繍牀
   別後憶京中諸友
 魂飛千里墨江※[さんずい+眉]※[さんずい+眉]上畫樓楊柳枝酒帶離愁醒更早詩含別恨唱殊遲銀※[金+工]照夢見蛾聚素月匿秋知雨隨料得洛陽才子伴錦箋應寫斷腸詞
  余之草此篇也執筆臨紙先思其所欲書者既有會心焉輙揮筆而起直追其所思或墨枯筆禿而不已既成抛藁不復改一字或難之曰古人作文有一字未安焉則終日考之有一句未妥焉則經旬思之鍛錬推敲必盡其力而後出之故其文蒼然古色鏘然爲金石之音今子才不及古人亦遠矣而不知臨紙經営刻苦漫然下筆不速之恐是以不及古人之才欲爲古人難爲也豈不大過哉余笑曰作文猶爲畫爲畫之法有速有遲不必牽束一意匠惨澹十日一水五日一石是王呉之畫山水也振衣而起揮筆而從頃刻成之是文鄭之畫竹與蘭也夫王呉之山水固妙矣而文鄭之蘭竹豈不入神哉今余文亦蘭竹之流耳宜速不宜遲且余之不文假令期年成一篇亦當不過如此則其免起※[骨+鳥]落之速亦不優蚓歩蛇行之遲哉陰暦八月既望東都夏目金書于牛籠僑居時庭棗既熟落實撲窓秋意蕭然
   自嘲書木屑録後
  白眼甘期與世疎狂愚亦懶買嘉譽爲譏時輩背時勢欲罵古人讀古書才似老駘驚且※[馬+矣]識如秋蛻薄兼虚唯贏一片烟霞癖品水評山臥草廬
         (明治廿二年九月九日脱稿)
 
漢詩
 
  無題 【明治二十二年九月二十日正岡子規宛の手紙の中より】
抱劔聽龍鳴 讀書罵儒生 如今空高逸 入夢美人聲
 
山路觀楓  明治二十二年十一月
石苔沐雨滑難攀 渡水穿林往又還 處處鹿聲尋不得 白雲紅葉満千山
 
  無題 【明治二十二年九月二十日正岡子規宛の手紙の中より】
江山容不俗懷塵 君是功名場裏人 憐殺病躯多客氣 漫將翰墨論詩神
 
  無題 同前
仙人堕俗界 遂不免喜悲 啼血又吐血 憔悴憐君姿 漱石又枕石 固陋歡吾癡 君痾猶可癒 僕癡不可醫 素懷定沈鬱 愁緒亂如絲 浩歌時幾曲
一曲唾坪碎 二曲雙涙垂 曲※[門/癸]呼咄咄 衷情欲訴誰 白雲蓬勃起 天際看蛟※[虫+離の左] 笑指函山頂 去臥葦湖※[さんずい+眉] 歳月固悠久 宇宙獨無涯 蜉蝣飛湫上 大鵬嗤其卑 嗤者亦泯滅 得喪皆一時 寄語功名客 役役欲何爲
 
  函山雜泳 八首 明治二十三年九月
咋夜着征衣 今朝入翠微 雲深山欲滅 天濶鳥頻飛 驛馬鈴聲遠 行人笑語稀 蕭蕭三十里 孤客已思歸 
 
函嶺勢※[山+爭]※[山+榮] 登來廿里程 雲從鞋底湧 路自帽頭生 孤驛空邊起 廢關天際横 停※[竹/(工+卩)]時一顧 蒼靄隔田城 
 
來相峯勢雄 恰似上蒼穹 落日千山外 號風萬壑中 馬※[こざと+徑の旁]逢水絶 鳥路入天通 決眦西方望 玲璃岳雪紅
 
飄然辭故國 來宿葦湖※[さんずい+眉] 排悶何須酒 遣閑只有詩 古關秋至早 廢道馬行遲 一夜征人夢 無端落柳枝
 
百念冷如灰 靈泉洗俗埃 鳥啼天自曙 衣冷雨將來 幽樹没青靄 閑花落碧苔 悠悠歸思少 臥見白雲堆
 
奈此宿痾何 眼花凝似珂 豪懷空挫折 壯志欲蹉※[足+它] 山老雲行急 雨新水響多 半宵眠不得 燈下黙看蛾
 
三年猶患眼 何處好醫盲 崖壓浴場立 湖連牧野平 雲過峯面碎 風至樹頭鳴 偏悦遊靈境 入眸景物明
 
恰似泛波鴎 乘閑到處留 渓聲晴夜雨 山色暮天秋 家濕菌生壁 湖明月滿舟 歸期何足意 去路白雲悠
 
  送友到元函根 三首 同前
風滿扁舟秋暑微 水光嵐色照征衣 出京旬日滯山館 還卜朗晴送客歸 煙澹天澄秋氣微 風塵不着舊征衣 東都諸友如相問 飽看江山猶未歸
 
客中送客暗愁微 秋入函山露滿衣 爲我願言相識士 狂生出國不知歸
 
  歸途口號 二首 同前
得閑廿日去塵寰 嚢裡無錢自識還 自稱仙人多俗累 黄金用盡出青山
 
漫識讀書涕涙多 暫留山館拂愁魔 可憐一片功名念 亦被雲烟抹殺過
 
  御返事咒文【明治二十四年七月二十四日正岡子規宛の端書の中より】
燬盡朱顔爛痘痕 失來輕傘却開昏 癡漢悟道非難事 吾是宛然不動尊
 
  無題【明治二十七年三月九日菊池謙二郎宛の手紙の中より】
閑却花紅柳緑春 江樓何暇醉芳醇 猶憐病子多情意 獨倚禅林夢美人
 
  無題 四首【明治二十八年五月二十六日正岡子規宛の手紙の中より】
快刀切斷兩頭蛇 不顧人間笑語※[言+華] 黄土千秋埋得失 蒼天萬古照賢邪 微風易碎水中月 片雨難留枝上花 大醉醒來寒徹骨 餘生養得在山家
 
辜負東風出故關 島啼花謝幾時還 離愁似夢迢迢淡 幽思與雲澹澹※[門/月] 才子群中只守拙 小人圍裏獨持頑 寸心空託一杯酒 劍氣如霜照醉顔
 
二頃桑田何日耕 青袍敝盡出京城 稜稜逸氣輕天道 漠漠癡心負世情 弄筆慵求才子譽 作詩空博冶郎名 人間五十年今過半 愧爲讀書誤一生
 
駑才恰好臥山隈 夙託功名授火灰 心似鐵牛鞭不動 憂如梅雨去遠來 青天獨解詩人憤 白眼空招俗士※[口+台] 日暮蚊軍將滿室 起揮※[糸+丸]扇對崔嵬
 
  無題【明治二十八年五月三十日正岡子規宛の端書の中より】
破碎空中百尺樓 巨濤却向月宮流 大魚無語没波底 俊※[骨+鳥]將飛立岸頭 劍上風嶋多殺氣 枕邊雨滴鎖閑愁 一任文字買奇禍 笑指青山入豫洲
 
  無題【明治二十九年一月十二日正岡子規宛の端書の中より】
海南千里遠 欲別暮天寒 鐵笛吹紅雪 火輪沸紫瀾 爲君憂國易 作客到家難 三十巽邁坎 功名夢半殘
 
   丙申五月。恕卿所居庭前生靈芝。恕卿因徴余詩。余辭以不文。恕卿不聽。賦以爲贈。恕卿者片嶺氏。余僚友也。
 
  五首 明治二十九年十一月十五日
階前一李樹 其下生靈芝 想當天長節 李紅芝紫時
 
禄薄而無慍 旻天降厥靈 三莖抱石紫 瑞氣滿門庭
 
朱蓋涵甘露 紫莖抽緑苔 恕卿三顧出 公退笑顔開
 
茯苓今懶採 石鼎那烹丹 日對靈芝坐 道心千古寒
 
氤※[氤の因が媼の旁]出石罅 幽氣逼禅心 時誦寒山句 看芝坐竹陰
 
  無題
掉頭辭帝闕 倚劍出城※[門/〓] ※[山/卒の縦棒がつながる]※[山/律]肥山盡 滂洋筑水新 秋風吹落日 大野絶行人 索寞乾坤※[黒+甚] 蒼冥哀雁頻
 
  春興 明治三十一年三月
出門多所思 春風吹吾衣 芳草生車轍 廢道入霞微 停※[竹/(工+卩)]而嘱目 萬象帶晴暉 聽黄島宛轉 覩落英紛霏 行盡平蕪遠 題詩古寺扉 孤愁高雲際 大空斷鴻歸 寸心何窈窕 縹渺忘是非 三十我欲老 韶光猶依依 逍遥隨物化 悠然對芬菲
 
  失題 同前
吾心若有吉 相之遂難相 俯仰天地際 胡爲發哀聲 春花幾開落 世事幾迭更 烏兎促※[髪の友が眄の旁]髪 意氣輕功名 昨夜生月暈 ※[犬三つ+風]風朝滿城 夢醒枕上聽 孤劍匣底鳴 慨然振衣起 登樓望前程 前程望不見 漢漠愁雲横
 
  春日靜坐 同前
青春二三月 愁隨芳草長 閑花落空庭 素琴横虚堂 ※[虫+蕭]蛸挂不動 篆烟繞竹梁 獨坐無隻語 方寸認微光 人間徒多事 此境孰可忘 會得一日靜 正知百年忙 遐懷寄何處 緬※[しんにょう+貌]白雲郷
 
  菜花黄 同前
菜花黄朝暾 菜花黄夕陽 菜花黄裏人 晨昏喜欲狂 曠懷隨雲雀 冲融入彼蒼 縹渺近天都 迢遞凌塵郷 斯心不可道 厥樂自※[さんずい+黄]洋 恨未化爲鳥 啼盡菜花黄
 
  客中逢春寄子規 明治三十二年
春風遍東皐 門前碧蕪新 我懷在君子 君子隔※[山+憐の旁]※[山+旬] ※[山+憐の旁]※[山+旬]不可跋 君子空穆※[文/心] 悵望不可就 碧蕪徒傷神 憶昔交遊日 共許管飽貧 斗酒凌乾坤 豪氣逼星辰 而今天一涯 索居負我眞 客土我問禮 舊廬君賦春 二百餘里別 三十一年塵 塵纓無由濯 徘徊滄浪津 寄諸子規子 莫爲官遊人
 
  無題 同前
眼識東西字 心抱古今憂 廿年愧昏濁 而立纔回頭 靜坐觀復剥 虚懷役剛柔 烏入雲無迹 魚行水自流 人間固無事 白雲自悠悠
 
  古別離 明治三十二年四月
上棲湘水緑 捲簾明月來 雙袖薔薇香 千金琥珀杯 窈窕鳴紫※[竹/逐] 徙倚暗涙催 二八纔畫眉 早識別離哀 再會期何日 臨江思※[しんにょう+貌]哉 徒道不相忘 君心曷得回 迢迢從此去 前路白雲堆 撫君金錯刀 憐君奪錦才 不贈貂※[衣+贍の旁]※[衣+兪] 却報英瓊瑰 春風吹翠鬟 悵※[立心偏+刀]下高臺 欲遺君子佩 蘭渚起徘徊
 
  失題 同前
仰瞻日月懸 俯瞰河岳連 曠哉天地際 浩氣塞大千 往來暫逍遥 出處唯隨縁 稱師愧※[口+占]※[口+畢] 拜官足緡錢 澹蕩愛遲日 蕭散送流年 古意寄白雲 永懷撫朱絃 與盡何所欲 曲肱空堂眠 鼾聲撼屋梁 炊梁※[風+場の旁]黄烟 被髪駕神※[風+炎] 寥※[さんずい+穴]崑崙巓 長嘯抱珠去 飲泣蛟龍淵 寤寐終歸一 盈歇自後先 胡僧説頓漸 老子談太玄 物命有常理 紫府孰求仙 眇然無倚託 俛仰地與天
 
  無題 明治三十三年
長風解纜古瀛洲 欲破滄溟掃暗愁 縹渺離懷憐野鶴 蹉※[足+它]宿志愧沙鴎 醉捫北斗三杯酒 笑指西天一葉舟 萬里蒼茫航路杳 烟波深處賦高秋
 
  無題 同前
生死因縁無了期 色相世界現狂癡 ※[しんにょう+屯]※[しんにょう+檀の旁]校※[履の愎の旁が婁]塵中滞 迢遞正冠天外之 得失忘懷當是佛 江山滿目悉吾師 前程浩蕩八千里 欲學葛藤文字技
 
  無題 同前
君病風流謝俗紛 吾愚牢落失鴻群 磨甎未徹古人句 嘔血始看才子文 陌柳映衣征意動 館燈照鬢客愁分 詩成投筆蹣跚起 此去西天多白雲
 
  無題 明治四十三年七月三十一日
來宿山中寺 更加老衲衣 寂然禅夢底 窓外白雲歸
 
  無題 明治四十三年九月二十日
秋風嶋萬木 山雨撼高樓 病骨稜如劔 一燈青欲愁
 
  無題 明治四十三年九月二十二日
圓覺曾参棒喝禅 瞎兒何處觸機縁 青山不拒庸人骨 回首九原月在天
 
  無題 明治四十三年九月二十五日
風流人未死 病裡領清閑 日日山中事 朝朝見碧山
 
  無題 明治四十三年九月二十九日
仰臥人如唖 黙然見大空 大空雲不動 終日杳相同
 
  無題 明治四十三年十月一日
日似三春永 心隨野水空 牀頭花一片 閑落小眠中
 
  無題 明治四十三年十月二日
夢繞星※[さんずい頁黄]※[さんずい+玄]露幽 夜分形影暗燈愁 旗亭病近修禅寺 一※[木+晃]疎鐘已九秋
 
  無題 明治四十三年十月四日
萬事体時一息回 餘生豈忍比殘灰 風過古澗秋聲起 日落幽篁瞑色來 漫路山中三月滯 ※[言+巨]知門外一天開 歸期勿後黄花節 恐有※[羈の馬が奇]魂夢舊苔
 
  無題 明治四十三年十月五日
淋漓絳血腹中文 嘔照黄昏漾綺紋 入夜空疑身是骨 臥牀如石夢寒雲
 
  無題 明治四十三年十月六日
天下自多事 被吹天下風 高秋悲鬢白 衰病夢顔紅 送鳥天無盡 看雲道不窮 殘存吾骨貴 慎勿妄磨※[石+龍]
 
  無題 明治四十三年十月七日
傷心秋已到 嘔血骨猶存 病起期何日 夕陽還一村
 
  無題 明治四十三年十月八日
秋露下南※[石+間] 黄花粲照顔 欲行沿※[石+間]遠 却得與雲還
 
  無題 明治四十三年十月十日
客夢回時一鳥鳴 夜來山雨曉來晴 孤峯頂上孤松色 早映紅暾鬱鬱明
 
  無題 明治四十三年十月
縹渺玄黄外 死生交謝時 寄託冥然去 我心何所之 歸來覓命根 杳※[穴/目]竟難知 孤愁空※[しんにょう+堯]夢 宛勤蕭瑟悲 江山秋已老 粥藥※[髪の友が眄の旁]將衰 廓寥天尚在 高樹獨餘枝 晩懷如此澹 風露入詩遲
 
  無題 明治四十三年十月二十五日
桃花馬上少年時 笑據銀鞍拂柳枝 翠水至今迢遞去 月明來照鬢如絲
 
  無題 明治四十三年十月二十七日
馬上青年老 鏡中白髪新 幸生天子國 願作太平民
 
  無題 明治四十三年十月池邊三山宛
遺却新詩無處尋 暗然隔※[片+(戸/甫)]對遙林 斜陽滿徑照僧遠 黄葉一村藏寺深 懸偈壁間焚佛意 見雲天上抱琴心 人間至樂江湖老 犬吠鷄鳴共好音
 
  春日偶成 明治四十五年五月二十四日
    其一
莫道風塵老 當軒野趣新 竹深鶯亂囀 清畫臥聽春
    其二
竹密能通水 花高不隱春 風光誰是主 好日屬詩人
    其三
細雨看花後 光風静坐中 虚堂迎晝永 流水出門空
    其四
樹暗幽聽鳥 天明仄見花 春風無遠近 吹到野人家
    其五
抱病衡門老 憂時涕涙多 江山春意動 客夢落煙波
    其六
渡口春潮靜 扁舟半柳陰 漁翁眠未覺 山色入江深
    其七
流鶯呼夢去 微雨濕花來 昨夜春愁色 依稀上縁苔
    其八
樹下開襟坐 吟懷與道新 落花人不識 啼鳥自殘春
    其九
草色空階下 萋萋雨後青 孤鶯呼偶去 遲日滿閑庭
    其十
渡盡東西水 三過翠柳橋 春風吹不斷 春恨幾條條
 
  無題 明治四十五年六月
雨晴天一碧 水暖柳西東 愛見衡門下 明明白地風
 
  無題 同前
芳菲看漸饒 韶景蕩詩情 却愧丹青技 春風描不成
 
  無題 同前
高梧能宿露 疎竹不藏秋 靜坐團蒲上 寥寥似在舟
 
  無題 明治四十五年七月
緑雲高幾尺 葉葉疊清陰 雨過更成趣 蝸牛※[足+歩]翠岑
 
  大觀畫をやるといふ。余の書をくれといふ。仕方がないから御禮の詩をかくといふてやる。詩の方先づ出來上る。 明治四十五年七月
獨坐空齋裏 丹青引興長 大觀居士贈 圓覺道人藏 野水辭君巷 閑雲入我堂 徂※[行人偏+來]隨所澹 住在自然郷
 
  酬横山畫伯惠畫
大觀天地趣 圓覺自然情 任手時揮灑 雲煙筆底生
 
  流山の秋元梧樓又入らざる明治百家短冊帖とかを出板す序をかけと云つて聞かず。手紙に詩を添へてやる。 明治四十五年七月
雲箋有響墨痕斜 好句誰書草底蛇 九十九人渾是錦 集將春色到吾家
  百人を九十九人としたるは余を除きたる也。余の短冊は實際物になつてゐるとは思へず、九十九人は謙遜でもなし。事實を申した積也。
 
  妙雲寺觀瀑 大正元年九月
蕭條古刹倚崔嵬 渓口無僧坐石苔 山上白雲明月夜 直爲銀蠎佛前來
 
  題自畫 大正元年十一月
山上有山路不通 柳陰多柳水西束 扁舟盡日孤村岸 幾度鵞群訪釣翁
 
  題自畫
獨坐聽啼鳥 關門謝世嘩 南窓無一事 閑寫水仙花
 
  無題
夜色幽扉外 辭僧出竹林 浮雲回首盡 明月自天心
 
  題畫竹
葉密看風動 枝垂聽雨新 南軒移植後 君子不憂貧
 
  無題
竹裏清風起 石頭白暈生 幽人無一事 好句※[口+塔の旁]然來
 
  題墨竹 大正三年
二十年來愛碧林 山人須解友虚心 長毫漬墨時如雨 欲寫鏗鏘戞玉音
 
  山水ノ圖ノ題 同前
※[涯の旁]臨碧水老松愚 路過危橋仄徑迂 佇立※[竹/(工+卩)]頭雲起處 半空遙見古浮圖
 
  題目畫 大正三年二月
澗上淡煙横古驛 峽中白日照荒亭 蕭條十里南山路 馬背看過松竹青
 
  題自畫 大正三年
起臥乾坤一草亭 眼中唯有四山青 閑來放鶴長松下 又上虚堂讀易經
 
  得健堂先生自壽詩及七壽杯次韻以祝 同前
煙霞不託百年身 却住大都清福新 七壽杯成頒客日 梅花的※[白+樂]照佳辰
 
  閑居偶成似臨風詞兄 同前
野水辭花塢 春風入草堂 徂※[行人偏+來]何澹淡 無我是仙郷
 
  遊子吟贈森圓月 大正三年二月
樓頭秋雨暗 樓下暮潮寒 澤國何蕭索 愁人獨倚欄
 
  題自畫
十里桃花發 春溪一路通 潺湲聽欲近 家在斷橋東
 
  題自畫 大正三年十一月
碧落孤雲盡 慮明鳥道通 遲遲驢背客 獨入石門中
 
  題目畫 大正四年四月
隔水東西住 白雲往也還 東家松籟起 西屋竹珊珊
 
  西川一草亭ノ畫ニ題ス 大正四年九月
十年仍舊灌花人 還對秋風詩思新 一草亭中閑半日 寫從紅蓼到青蘋
 
  題自畫
机上蕉堅稿 門前碧玉竿 喫茶三※[怨の心が皿]後 雲影入窓寒
 
  題結城素明畫
雪後荊榛裏 猗猗緑竹殘 却憐雙凍雀 風急杪頭寒
 
  題自畫 大正五年一月
栽松人不到 移石意常平 且喜靈芝紫 莖莖瑞色明
 
  題自畫 大正五年春
幽居人不到 獨坐覺衣寛 偶解春風意 來吹竹與蘭
 
  題自畫 同前
唐詩讀罷倚闌干 午院沈沈緑意寒 借問春風何處有 石前幽竹石間蘭
 
  無題 大正五年八月十四日夜
幽居正解酒中忙 華髪何須住醉郷 座有詩僧閑拈句 門無俗客靜焚香 花間宿鳥振朝露 柳外歸牛帶夕陽 隨所隨縁清興足 江村日月老來長
 
  無題 八月十五日
雙鬢有絲無限情 春秋幾度讀還耕 風吹弱柳枝枝勤 雨打高桐葉葉鳴 遙見半峰吐月色 長聽一水落雲聲 幽居樂道狐裘古 欲買※[糸+媼の旁]袍時入城
 
  無題 同前
五十年來處士分 豈期高踏自離群 ※[草がんむり/畢]門不杜貧如道 茅屋偶空交似雲 天日蒼茫誰有賦 太虚寥廓我無文 慇懃寄語寒山子 饒舌松風獨待君
 
  無題 八月十六日
無心禮佛見靈臺 山寺對僧詩趣催 松柏百年回壁去 薛蘿一日上墻來 路書誰點窟前燭 法偈難磨石面苔 借問參禅寒衲子 翠嵐何處着塵埃
 
  無題 同前
行到天涯易白頭 故園何處得歸休 驚殘楚夢雲猶暗 聽盡呉歌月始愁 ※[しんにょう+堯]郭青山三面合 抱城春水一方流 眼前風物也堪喜 欲見桃花獨上樓
 
  無題 八月十九日
老去歸來臥故丘 蕭然環堵意悠悠 透過藻色魚眠穩 落盡梅花鳥語愁 空翠山遙藏古寺 平蕪路遠没春流 林塘日日教吾樂 富貴功名曷肯留
 
  無題 八月二十日
兩鬢衰來白幾莖 年華始識一朝傾 薫※[草がんむり/猶]臭裡求何物 蝴蝶夢中寄此生 下履空階凄霧散 移牀廢砌亂蝉驚 清風滿地芭蕉影 搖曳午眠葉葉輕
 
  無題 八月二十一日
尋仙未向碧山行 住在人間足道情 明暗雙雙三萬字 撫摩石印自由成
   「明暗」を艸してゐる時、机上の石印を撫摩する癖を生じたる事を人に話した所、其人轉地先より、自分も量に於ては石印を摩して作る位の作はやる積だと云つてくる。それで此詩を作つた。
 
  無題 同前
不作文章不論經 漫走東西似泛萍 故國無花思竹徑 他郷有酒上旗亭 愁中片月三更白 夢裏連山半夜青 到處緡錢堪買石 傭誰大字撰碑銘
 
  無題 八月二十二日
香烟一※[火+主]道心濃 趺坐何處古佛逢 終日無爲雲出岫 夕陽多事鶴歸松 寒黄點綴籬間菊 暗碧衝開※[片+(戸/甫)]外峯 欲拂胡床遺※[塵/土]尾 上堂回首復呼童
 
  無題 八月二十三日
寂寞光陰五十年 蕭條老去逐塵縁 無他愛竹三更韻 與衆栽松百丈禅 淡月微雲魚樂道 落花芳艸鳥思天 春城日日東風好 欲賦歸來未買田
 
  無題 八月二十六日
結社東台近市廛 黄塵自有買山錢 幽懷寫竹雲生硯 高興畫蘭香滿箋 添雨突如驚鷺起 點睛忽地破龍眠 縱横落墨誰爭覇 健筆會中第一仙
   霜山といふ人が來て不折の丙辰溌墨といふものを出すから題を書いてくれといふ。字がまづいから、詩を作つて、詩半人前字半人前合せて一人前にしようと答へて此詩を作る。別に不折の畫に適切な事ばかりは竝べない。但し彼は健筆で無茶に澤山かいて金を取る男である。
 
  無題 八月二十八日
何須漫説布衣尊 數卷好書吾道存 陰盡始開芳艸戸 春來獨杜落花門 蕭條古佛風流寺 寂寞先生日渉園 村巷路深無過客 一庭修竹掩南軒
 
  無題 八月二十九日
不愛帝城車馬喧 故山歸臥掩柴門 紅桃碧水春雲寺 暖日和風野靄村 人到渡頭垂柳盡 鳥來樹杪落花繁 前塘昨夜蕭蕭雨 促得細鱗入小園
 
  無題 八月三十日
經來世故漫爲憂 胸次欲※[手偏+慮]不自由 誰道文章千古事 曾思質素百年謀 小才幾度行新境 大悟何時臥故丘 昨日閑庭風雨惡 芭蕉葉上復知秋
   黄興書ヲ書イテ呉レル。文章千古事トアリ。前聯故ニ及ブ。
 
  無題 同前
詩思杳在野橋東 景物多横淡靄中 ※[糸+相]水映邊帆露白 翠雲流處塔餘紅 桃花赫灼皆依日 柳色糢糊不厭風 縹渺孤愁春欲盡 還令一鳥入虚空
 
  無題 九月一日
不入青山亦故郷 春秋幾作好文章 託心雲水道機盡 結夢風塵世味長 坐到初更亡所思 起終三昧望夫蒼 鳥聲閑處人應靜 寂室薫來一※[火+主]香
 
  無題 同前
石門路遠不容尋 ※[日+華]日高懸雲外林 獨與青松同素志 終令白鶴解丹心 空山有影梅花冷 春澗無風藥草深 黄髯老漢憐無事 復坐虚堂獨撫琴
 
  無題 九月二日
滿目江山夢裡移 指頭明月了吾癡 曾參石佛聽無法 漫作佯狂冒世規 白首南軒歸臥日 青衫北斗遠征時 先生不解降龍術 閉戸空爲閑適詩
 
  無題 同前
大地從來日月長 普天何處不文章 雲黏閑葉雪前靜 風逐飛花雨後忙 三伏點愁惟※[さんずい+玄]露 四時關意是重陽 詩人自有公平眼 春夏秋冬盡故郷
 
  無題 九月三日
獨往孤來俗不齊 山居悠久没東西 巖頭晝靜桂花落 檻外月明澗鳥啼 道到無心天自合 時如有意節將迷 空山寂寂人閑處 幽草※[草がんむり/千]※[草がんむり/千]滿古蹊
 
  無題 九月四日
散來華髪老魂驚 林下何曾賦不平 無復江梅追帽點 空令野菊映衣明 蕭蕭鳥入秋天意 瑟瑟風吹落日情 遙望斷雲還躑躅 閑愁盡處暗愁生
 
  無題 同前
人間誰道別離難 百歳光陰指一彈 只爲桃紅訂舊好 莫令李白醉長安 風吹遠樹南枝暖 浪撼高樓北斗寒 天地有情春合識 今年今日又成歡
 
  無題 九月五日
絶好文章天地大 四時寒暑不曾違 夭夭正晝桃將發 歴歴晴空鶴始飛 日月高懸何磊落 陰陽黙照是靈威 勿令碧眼知消息 欲弄言辭墮俗機
 
  無題 九月六日
虚明如道夜如霜 迢遞證來天地藏 月向空階多作意 風從蘭渚遠吹香 幽燈一點高人夢 茅屋三間處士郷 彈罷素琴孤影白 還令鶴唳半宵長
 
  無題 九月九日
曾見人間今見天 醍醐上味色空邊 白蓮曉破詩僧夢 翠柳長吹精舍縁 道到虚明長語絶 烟歸曖※[日+逮]妙香傳 入門還愛無他事 手折幽花供佛前
 
  無題 九月十日
絹黄婦幼鬼神驚 饒舌何知遂八成 欲證無言觀妙諦 休將作意促詩情 孤雲白處遙秋色 芳艸緑邊多雨聲 風月只須看直下 不依文字道初清
 
  無題 九月十一日
東風送暖暖吹衣 獨出幽居望翠微 幾抹桃花皆淡靄 三分野水入晴暉 春畦有事渡橋過 閑草帶香穿經歸 自是田家人不到 村翁去後掩柴扉
 
  無題 九月十二日
我將歸處地無田 我未死時人有縁 喞喞蟲聲皆月下 蕭蕭客影落燈前 頭添野菊重陽節 市見鱸魚秋暮末 明日送潮風復急 一帆去盡水如年
 
  無題 九月十三日
挂劍微思不自知 誤爲季子愧無期 秋風破盡芭蕉夢 寒雨打成流落詩 天下何狂投筆起 人間有遺挺身之 吾當死處吾當死 一日元來十二時
 
  無題 同前
山居日日恰相同 出入無時西復東 的※[白+樂]梅花濃淡外 朦朧月色有無中 人從屋後過橋去 水到蹊頭穿竹通 最喜清宵燈一點 孤愁夢鶴在春空
 
  無題 九月十五日
素秋搖落變山容 高臥掩門寒影重 寂寂空※[舟+令]横淺渚 疎疎細雨濕芙蓉 愁前剔燭夜愈靜 詩後焚香字亦濃 時望水雲無限處 蕭然獨聽隔林鍾
 
  無題 九月十六日
思白雲時心姶降 顧慮影處意成雙 幽花獨發涓涓水 細雨閑來寂寂窓 欲倚孤 ※[竹/(工+卩)]看斷碣 還驚小鳥過苔※[石+工] 尢枕。尚在空谷 一脈風吹君子邦
 
  無題 九月十七日
好焚香※[火+主]護清宵 不是枯禅愛寂寥 月暖三更憐雨靜 水閑半夜聽魚跳 思詩恰似前程遠 記夢誰知去路遙 獨坐窈窕虚白裏 蘭※[金+工]照盡入明朝
 
  無題 九月十八日
訂※[食+豆]焚時大道安 天然景物自然觀 佳人不識虚心竹 君子曷思空谷蘭 黄耐霜來籬菊亂 白從月得野梅寒 勿拈筆妄作微笑 雨打風翻任獨看
 
  無題 九月十九日
截斷詩思君勿嫌 好詩長在眼中黏 孤雲無影一帆去 殘雨有痕半榻霑 欲爲花明看遠樹 不令柳暗入疎簾 年年妙味無聲句 又被春風錦上添
 
  無題 九月二十日
作客誰知別路※[貝+分の刀が示] 思詩半睡隔窓紗 逆追鶯語入殘夢 應抱春愁對晩花 晏起牀頭新影到 曾遊壁上舊題斜 欲將爛醉酬佳日 高掲青※[穴/巾]在酒家
 
  無題 九月二十二日
聞説人生活計難 曷知窮裡道情閑 空看白髪如驚夢 獨役黄牛誰出關 去路無痕何處到 來時有影幾朝還 當年※[目+害]漢今安在 長嘯前村後郭間
 
  無題 九月二十三日
苦吟又見二毛斑 愁殺愁人始破顔 禅榻入秋憐寂寞 茶烟對月愛蕭※[門/月] 門前暮色空明水 檻外晴容※[山/律]※[山/卒の縦棒がつながる]山 一味吾家清活計 黄花自發鳥知還
 
  無題 同前
漫行棒喝喜縦横 胡亂※[衣+内]僧不値生 長舌談禅無所得 禿頭賣道欲何求 春花發處正邪絶 秋月照邊善惡明 王者有令爭赦罪 如雲斬賊血還清
 
  無題 九月二十四日
擬將蝶夢誘吟魂 且隔人生在畫村 花影半簾來着靜 風蹤滿地去無痕 小樓烹茗輕烟熟 午院曝書黄雀喧 一榻精機閑日月 詩成黙黙對清※[日+宣]
 
  無題 九月二十五日
孤臥獨行無友朋 又看雲樹影層層 白浮薄暮三叉水 青破重陰一點燈 入定誰聽風外磬 作詩時訪月前僧 閑居近寺多幽意 禮佛只言最上乘
 
  無題 九月二十六日
大道誰言絶聖凡 覺醒開恐石人讒 空留殘夢託孤枕 遠送斜陽入片帆 數卷唐詩茶後榻 幾聲幽鳥桂前巖 門無過客今如古 獨對秋風着舊衫
 
  無題 九月二十七日
欲求蕭散口須緘 爲愛曠夷脱舊衫 春盡天邊人上塔 望窮空際水呑帆 漸悲白髪親黄卷 既入青山見紫巖 昨日孤雲東向去 今朝落影在溪杉
 
  無題 九月二十九日
朝洗青研夕愛鵞 蓮池水靜接西坡 委花細雨黄昏到 託竹光風緑影過 一日清閑無債鬼 十年生計在詩魔 興來題句春琴上 墨滴幽香道氣多
 
  無題 九月三十日
閑窓睡覺影參差 机上猶餘筆一枝 多病賣文秋入骨 細心構想寒※[石+乏]肌 紅塵堆裏聖賢道 碧落空中清淨詩 描到西風辭不足 看雲採菊在東籬
 
  無題 十月一日
誰道蓬莱隔萬濤 于今仙境在春醪 風吹靺轄虜塵盡 雨洗滄溟天日高 大岳無雲輝積雪 碧空有影映紅桃 擬將好謔消佳節 直下長竿釣巨鼈
 
  無題 十月二日
不愛紅塵不愛林 蕭然浮室是知音 獨摩拳石摸雲意 時對盆梅見蘚心 ※[塵/土]尾※[參+毛]毫朱几側 蠅頭細字紫研陰 閑中有事喫茶後 復賃晴※[日+宣]照苦吟
 
  無題 十月三日
逐蝶尋花忽失蹤 晩歸林下幾人逢 朱評古聖空靈句 青隔時流偃蹇松 機外蕭風吹落寞 靜中凝露向芙蓉 山高日短秋將盡 復擁寒衾獨入冬
 
  無題 十月四日
百年功過有吾知 百殺百愁亡了期 作意西風吹短髪 無端北斗落長眉 室中仰毒眞人死 門外追仇賊子飢 誰道閑庭秋索寞 忙看黄葉自離枝
 
  無題 十月六日
非耶非佛又非儒 窮巷賣文聊自娯 採※[手偏+頡]何香過藝苑 徘徊幾碧在詩蕪 焚書灰裏書知活 無法界中法解蘇 打殺神人亡影處 虚空歴歴現賢愚
 
  無題 十月七日
宵長日短惜年華 白首回來笑語※[言+華] 潮滿大江秋已到 雲隨片帆望將※[貝+分の刀が示] 高翼會風霜雁苦 小心吠月老※[鰲の魚が(ム/大)]誇 楚人賣劍呉人玉 市上相逢顧眄斜
 
  無題 十月八日
休同畫龍漫點睛 畫龍躍處妖雲横 眞龍本來無面目 雨黒風白臥空谷 通身遍覓失爪牙 忽然復活侶魚蝦
 
  無題 十月九日
詩人面目不嫌工 誰道眼前好惡同 岸樹倒枝皆入水 野花傾萼陣迎風 霜燃爛葉寒暉外 客送殘鴉夕照中 古寺尋來無古佛 倚※[竹/(工+卩)]獨立斷橋東
 
  無題 十月十日
忽怪空中躍百愁 百愁躍處主人休 點春成佛江梅柳 食草訂交風馬牛 途上相逢忘舊識 天涯遠別報深仇 長磨一劍劍將盡 獨便龍鳴復入秋
 
  無題 十月十一日
死死生生萬境開 天移地轉見詩才 碧梧滴露寒蝉盡 紅蓼先霜蒼雁來 冷上孤幃三寸月 暖憐靈至一分灰 空中耳語※[口+秋]※[口+秋]鬼 夢散蓮華拜我回
 
  無題 十月十二日
途逢※[口+卒]啄了機縁 殻外殻中孰後先 一樣風旛相契處 同時水月結交邊 空明打出英靈漢 閑暗※[足+易]翻金玉篇 膽小体言遺大事 會天行道是吾禅
 
  無題 十月十五日
吾面難親向鏡親 吾心不見獨嗟貧 明朝市上屠牛客 今日山中觀道人 行盡※[しんにょう+麗]※[しんにょう+施の旁]天始闊 踏殘※[山+合]※[山+沓]地猶新 縱横曲折高還下 總是虚無總是眞
 
  無題 十月十六日
人間翻手是青山 朝入市廛白日※[門/月] 笑語何心雲漠漠 喧聲幾所水潺潺 誤跨牛背馬鳴去 復得龍牙狗走還 抱月投爐紅火熟 忽然亡月碧浮灣
 
  無題 十月十七日
古往今來我獨新 今來古往衆爲隣 横吹鼻孔逢郷友 豎佛眉頭失老親 合浦珠還誰主客 鴻門※[王+夬]擧孰君臣 分明一一似他處 卻是空前絶後人
 
  無題 十月十八日
舊識誰言別路遙 新知卻在客中※[しんにょう+激の旁] 花紅柳緑前縁盡 鷺暗鴉明今意饒 石上長垂※[糸+丸]繍帳 巖頭忽見木蘭※[木+堯] 眼睛百轉無奇特 鷄去鳳來我弄簫
 
  無題 十月十九日
門前高柳接花郊 幾段春光眼底交 長着貂裘憐狗尾 愧收鵲翼在鳩巣 萬紅亂起吾知異 千紫吹消鬼不嘲 忽地東風間一瞬 花飛柳散對空梢
 
  無題 十月二十日
半生意氣撫刀鐶 骨肉※[金+肖]磨立大寰 死力何人防舊郭 清風一日破牢關 入泥駿馬地中去 折角靈犀天外還 漢水今朝流北向 依然面目見廬山
 
  無題 十月二十一日
吾失天時併失愚 吾今會道道離吾 人間忽盡聰明死 魔界猶存正義※[月+瞿] 擲地鏗鏘金錯劍 碎空燦爛夜光珠 獨呑涕涙長躊躇 ※[立心偏+占]恃兩亡立廣衢
 
  無題 三首 同前
元是一城主 焚城行廣衢 行行長物盡 何處捨吾愚
 
元是喪家狗 徘徊在草原 童兒誤打殺 何日入吾門
 
元是錦衣子 賣衣又賣珠 長身無估客 赤裸裸中愚
 
  無題 三首 十月二十二日
元是貧家子 相憐富貴門 一朝空腹滿 忽死報君恩
 
元是東家子 西隣乞食歸 歸來何所見 舊宅雨霏霏
 
元是太平子 寧居忘亂離 忽然兵燹起 一死始醫飢
 
  元成禅入自徳源大會回鉢到余家掩留旬日臨去需余畫余爲禅人作墨竹三竿併題詩以贈 十月三十一日
秋意蕭條在畫中 疎枝細葉不須工 明朝鐵路西歸客 聽否三竿墨竹風
 
  丙辰十月余爲元成禅人作墨竹越一日見壁間所挂圖興忽發乃爲珪堂禅人抽毫作松一株配以石二三不知禅人受余贈否也 十一月一日
君臥一圓中 吾描松下石 勿言不會禅 元是山林客
 
  無題 十一月十三日
自笑壺中大夢人 雲寰縹渺忽忘神 三竿旭日紅桃峽 一丈珊瑚碧海春 鶴上晴空仙?靜 風吹靈草藥根新 長生未向蓬莱去 不老只當養一眞
 
  無題 十一月十九日
大愚難到志難成 五十春秋瞬息程 觀道無言只入靜 拈詩有句獨求清 迢迢天外去雲影 籟籟風中落葉聲 忽見閑窓虚白上 東山月出半江明
 
  無題 十一月二十日夜
眞蹤寂寞杳難尋 欲抱虚懷歩古今 碧水碧山何有我 蓋天蓋地是無心 依稀暮色月離草 錯落秋聲風在林 眼耳雙忘身亦失 空中獨唱白雲吟
 
和歌
 
  對月有感 二首 明治二十二年九月
蓬生の葉末に宿る月影はむかしゆかしきかたみなりけり
 
情あらば月も雲井に老ぬべしかはり行く世をてらしつくして
 
  山路觀楓 明治二十二年十一月六日
杣人もにしき着るらし今朝の雨に紅葉の色の袖に透れば
 
  阿蘇山二首 明治三十二年九月五日
赤き烟黒き烟の二柱眞直に立つ秋の大空
 
山を劈いて奈落に落ちしはたゝ神の|奈落出《・奈落を出んと》でんとたける音かも
 
  『それから』會の爲にから歌三首を作る 明治四十二年十月十日
高麗百濟新羅の國を我行けば我行く方に秋の白雲
 
肌寒くなりまさる夜の窓の外に雨をあざむくぽぷらあの音
 
草繁き宮居の迹を一人行けば礎を吹く高麗の秋風
 
  新體詩
 
  水底の感 藤村操女子
 
水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我。
黒髪の、長き乱れ。藻屑もつれて、ゆるく漾ふ。夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり。
うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず。有耶無耶の心ゆらぎて、愛の影ほの見ゆ。
   −明治三十七年二月八日寺田寅彦宛の端書に−
 
  從軍行
 
    一
 
吾に讎あり、艨艟吼ゆる、
   讎はゆるすな、男兒の意氣。
吾に讎あり、貔貅群がる、
   讎は逃すな、勇士の膽。
色は濃き血か、扶桑の旗は、
   讎を照さず、殺氣こめて。
 
    二
 
天子の命ぞ、吾讎撃つは、
   臣子の分ぞ、遠く赴く。
百里を行けど、敢て歸らず、
   千里二千里、勝つことを期す。
粲たる七斗は、御空のあなた、
   傲る吾讎、北方にあり。
 
    三
 
天に誓へば、岩をも透す、
   聞くや三尺、鞘走る音。
寒光熱して、吹くは碧血、
   骨を掠めて、戞として鳴る。
折れぬ此太刀、讎を斬る太刀、
   のり飲む太刀か、血に渇く太刀。
 
    四
 
空を拍つ浪、浪消す烟、
   腥さき世に、あるは幻影《まぼろし》。
さと閃めくは、罪の稻妻、
   暗く搖くは、呪ひの信旗。
深し死の影、我を包みて、
   寒し血の雨、我に濺ぐ。
 
    五
 
殷たる砲聲、神代に響きて、
   萬古の雪を、今捲き落す。
鬼とも見えて、※[火+餡の旁]吐くべく、
   劍《つるぎ》に倚りて、眥《まなじり》裂けば、
胡山のふゞき、黒き方より、
   銕騎十萬、莽として來る。
 
     六
 
見よ兵《つはもの》等、われの心は、
   猛き心ぞ、蹄《ひづめ》を薙ぎて。
聞けや殿原、これの命《いのち》は、
   棄てぬ命ぞ、彈丸《たま》を潜りて。
天上天下、敵あらばあれ、
   敵ある方に、向ふ武士《ものゝふ》。
 
     七
 
戰やまん、吾武揚らん、
   傲る吾讎、茲に亡びん。
東海日出で、高く昇らん、
   天下明か、春風吹かん。
瑞穗の國に、瑞穗の國を、
   守る神あり、八百萬神。
      −明治三十七年五月十日『帝國文學』−
 
  鬼哭寺の一夜
 
百里に迷ふ旅心、
古りし伽藍に夜を明かす。
甍る音の雨さびて
憂きわれのみに世死したり。
風なく搖らぐ法幢の、
暗き方へと靡くとき、
佛も寒く御座すらん。
黄金と光る※[虫+厨]蛛の眼の、
闇を縫ふべき計、
銀《しろがね》糸に引く見れば
冥府《よみ》の色より物凄し。
 
折しもあれや枕邊に、
物の寄り來る氣合して、
圓かならざる夢冴えつ、
夜半《よは》の燈《ともし》に鬼氣青し、
吾を呼ぶなる心地して、
石を抱くと思ふ間に、
佛眼颯と血走れり。
立つは女か有耶無耶の
白きを透かす輕羅《うすもの》に
空しく眉の緑りなる
佛と見しは女にて、
女と見しは物の化か
細き咽喉《のんど》に呪ひけん
世を隔てたる聲立てゝ
われに語るは歌か詩か
 
『昔し思へば珠となる
睫の露に君の影
寫ると見れば碎けたり
人つれなくて月を戀ひ
月かなしくて吾願
果敢なくなりぬ二十年
ある夜私かに念ずれば
天に迷へる星落ちて
闇をつらぬく光り疾く
古井の底に響あり
陽炎燃ゆる黒髪の
長き亂れの化しもせば
土に蘭麝の香もあらん
露|乾《ひ》て董枯れしより
愛、紫に溶けがたく
恨、碧りと凝るを見よ
未了の縁に纏はれば
生死に渡る誓だに
塚も動けと泣くを聽け』
  ………………
塚も動けと泣く聲に
塚も動きて秋の風
夜すがら吹いて曉の
茫々として明にけり
宵見し夢の迹見れば
草茫々と明にけり
      −明治三十七年頃
 
  俳體詩
 
  送別
 
道ふなかれ長き別れと
束の間も長きはわかれ
水落ちて鮎さびぬるを
眉てらす月こそ憂けれ
舞ふべくも袖短かくて
綰ねたる柳ちり/”\
盃に泡また消えて
酒の味にがきか今宵
詩成れども唱へがたし
  これは俳體詩にはならぬか。わからぬ處が面白い。如何。
      −明治三十七年七月、高濱虚子宛−
 
  無題
   先日四方太を訪ふ。お互に愚痴をこぼして別る。四方太桃を喰ひ漱石サイホンを呑む。俳體詩はいまだ出來ぬにや。
朝貌や賣れ殘りたるホトヽギス
尻をからげて自轉車に乘る
 
四方太は月給足らず夏に籠り
新發明の蚊いぶしを焚く
 
來年の講義を一人苦しがり
パナマの帽を鳥渡うらやむ
     −明治三十七年七月、高濱虚子宛−
 
  無題
無人島の天子とならば涼しかろ  漱石
獨り裸で据風呂を焚く      同
いづくより流れよりけんうつろ船 虚子
大き過ぎたる靴の片足      漱石
提灯のやうな鬼灯谷に生え    虚子
河童の岡へ上る夕暮       漱石
     −明治三十七年七月、於虚子庵−
 
  富寺
秋風の頻りに吹くや古榎
御朱印附きの寺の境内
老僧が即非の額を仰ぎ見て
餌を食ふ鹿の影の長さよ
     −明治三十七年十月十日『ホトトギス』−
 
  無題
ばつさりと後架の上の一葉かな  漱石
壁の破れを出る※[虫+車]   虚 子
糸車夕の月にひきさして     ゝ
宿乞ふ僧を紙燭して見る     石
     −明治三十七年十月十日『ホトトギス』−
 
  無題
なげし浮世に戀あらば
睡中などて詩なからん
春蘭燈の宴罷んで
小袖を寒み臥す橡の
欄に上るや花の影
枕にひゞく星落ちて
李白の醉を忍ぶ時
銀河流れて夢に入る
  眠らば春の夜の高殿
     −明治三十七年十月十日『ホトトギス』−
 
  無題
行春や未練を叩く二十棒
   青道心に冷えし田樂
此頃は京へ頼《〔たより〕》の状もなく
   兀々として愚なれとよ
僧堂と燒印のある下駄穿いて
   門を出づれば櫻かつ散る
     −明治三十七年十月十一日野間眞綱宛の繪端薯の中より−
 
  尼
 
    一
 
女郎花女は尼になりにけり       虚子
絃の切れたる琴に音も無く       漱石
天葢につゞれ錦の帶裁ちて       子
歌に讀みたる砧もぞ打つ        石
 
    二
 
白露に悟道を問へば朝な夕な      石
兀々として愚なれとよ         ゝ
板敷に常香盤の鈴落ちて        子
暫く響く庵の秋風           ゝ
 
    三
 
京の便り此頃絶えて薄紅葉       石
父の庄司の鹿を射るらん        ゝ
夢に入る戀も恨も昔にて        ゝ
夫の位牌に古き雨漏る         ゝ
 
    四
 
蘭の香に月缺けそむるきのふけふ    子
おこりといへる病悲しき        ゝ
懸巣さへ軒端に近く山深み       ゝ
粥も食はずに頼む御佛         ゝ
 
    五
 
燈火を低き屏風に圍ひかね       石
ねまらんとすればかたき枕よ      ゝ
うそ寒き鼠の尻尾ほの見えて      ゝ
朱き漆の剥げし磬臺          ゝ
 
    六
 
日のあたる障子に冬は來りけり     子
ましらかと思ふ聲の聞こゆる      ゝ
木枯の吹く鹿骨も痩するらん      ゝ
眉さへ延びて鏡恥し          ゝ
 
    七
 
生きて世に梅一輪の春寒く       石
雪斑なる山を見るかな         ゝ
身まかりてあらましものを普門品    ゝ
おこたりそめてなか/\に憂き     ゝ
 
    八
 
鶯の啼く時心新たなり         ゝ
經讀みさして閼伽酌みに行く      ゝ
苔吹いて青きもの見ゆ桶の底      ゝ
漏るに任せて汲むに任せて       ゝ
 
    九
 
川上は平氏の裔の住みぬらん      石
落ちて椿の遠く流るる         ゝ
花瓣に昔ながらの戀燃えて       子
世を捨てたるに何の陽炎        ゝ
 
    十
 
此時か松の緑り吹き亂れ        ゝ
茂みにばさと落ちし烏こそ       ゝ
羽搏きて薊の花の散る中に       ゝ
都作りの征矢を負ひけり        ゝ
 
    十一
 
征矢拔けば鳥東に飛び去りぬ      ゝ
手に在る征矢の主や何者        ゝ
うるし文字うるはし文字に書かれたるは ゝ
世にあるまじき夫の名ぞそも      ゝ
 
    十二
 
夫逝きぬと兵部が來せし玉章は     ゝ
我黒髪の形見なりしを         ゝ
北溟に日出づと我を欺きて       石
佛を誣ゆる罪に恥ぢずや        ゝ
 
    十三
 
山吹を手向の花と思ひしに       ゝ
今誰が爲に酌む閼伽の水        ゝ
去にしてふ人去なであらば戀すてふ   ゝ
女なりせばなど戀ひめやも       ゝ
 
    十四
 
月に花に彌陀を念じて知らざりき    ゝ
藕絲にひそむ阿修羅ありとも      ゝ
物狂ひ可笑しと人の見るならば     ゝ
彌生半に時雨降るといへ        ゝ
 
    十五
 
精進の誓を破る心こそ         ゝ
菩提を慕ふほむらならずや       ゝ
道もゆるせ逢はんと思ふ人の名は    ゝ
孤高院殿寂阿大居士          ゝ
 
    十六
 
落椿矢にや刺さまし夫の矢に      ゝ
翳して行けば白き衣照る        ゝ
苔踏んで苔の下なる岩の音に      ゝ
君居ますかと心空なり         ゝ
 
    十七
 
仙人の石にやあらん我を笑ふ      ゝ
否石ならば笑はじものを        ゝ
我も笑へ笑へば耳に風吹きて      ゝ
何を嘲る春の山彦           ゝ
 
    十八
 
道のべの老木の櫻散るを見よ      子
ゆさぶれば散る石打てば散る      ゝ
征矢を取つて鞭打てば散る音を聞け   ゝ
南無阿彌陀佛/\           ゝ
 
    十九
 
花吹雪我を送りて里に入る       石
其里の子等石にはあらじ        ゝ
此わたり死にたる人の生きてあらば   ゝ
生きたる我の死ぬと傳へよ       ゝ
 
    二十
 
古の星きらめくと思ひしが       ゝ
曉方の眉に落ち來る          ゝ
悟とは釋迦の作れる迷にて       ゝ
山を下れば煩惱の里          ゝ
 
    二十一
 
月もやみね花もやみねと狂ふなり     ゝ
三世の佛は猶更にやみね        ゝ
誰かいふ一念一誦功徳ありと      ゝ
紅爐に點ず雪はそもさん        ゝ
 
    二十二
 
夜といへる黒きものこそ命なれ      ゝ
色を隔てゝ鈍き脈搏つ         ゝ
我を呼ぶ死手の烏の聲涸れて      ゝ
怪しき星の冥府に尾を曳く       ゝ
 
 *  *  *  *
 
    二十三
 
夏山の茂木が下の草深み        子
祟ありてふ塚は古塚          ゝ
たま/\に山郭公の落し文       ゝ
來り弔ふ二個の好事子         ゝ
 
    二十四
 
花供ずれば或は動く塚の上       ゝ
香一※[火+主]に夏の蝶飛ぶ     ゝ
横樣に苔を透かせば石の面に      ゝ
狂尼の墓と文字幽なり         ゝ
     −明治三十七年十一月、十二月『ホトトギス』−
 
  冬夜
 
冬牡丹の   花の影
かたまりて  四つ五つ
金屏に    斜なり
 
灯をかこふ  乳玻璃のほや
紅は     壁を射て
光琳の    幅を照らす
 
しん/\と  降る雪の
音を聞く   耳塞く
只一人    夜は半
 
桐火桶    善き炭を
つぎ足せば  ぬく炭に
炭はねて   散る音す
 
水指の    水さして
たぎりたる  鐵瓶の
暫くは    鳴り已むよ
 
發句せんと  思へども
成りがたき  上五文字
漸くに    得るは嬉し
 
寐まらんと  夜着の中
首入れて   南無阿彌陀
襲はれず   夢も無し
     −明治三十七年十二月十日『ホトトギス』−
 
  無題
 
眞綱ある日    眞拆が家を
訪れて      小春の縁に
脊二つほして   垣根にからむ
烏瓜にも     劣りしものを
ぶらり/\と   時を經にけり
日は落ちかゝり  夕餉となれば
したゝかに    物食ふ眞綱
したゝかに    物食ふ眞拆
眞拆が飯を    眞綱が食ひて
眞綱が歌を    眞拆がよみて
長閑なりける   年のくれかな
うらやまし/\
     −明治三十七年十二月十三日、野間眞綱宛−
 
  童謠
 
源兵衛が   練馬村から
大根を    馬の脊につけ
御歳暮に   持て來てくれた
 
源兵衛が   手拭でもて
股引の    埃をはたき
臺どこに   腰をおろしてる
 
源兵衛が   烟草をふかす
遠慮なく   臭いのをふかす
すぱ/\と  平氣でふかす
 
源兵衛に   どうだと聞いたら
さうでがす  相變らずで
こん年も   寒いと言つた
 
源兵衛が   烟草のむまに
源兵衛の   馬が垣根の
白と赤の   山茶花を食つた
 
源兵衛の   烟草あ臭いが
源兵衛は   好きなぢゞいだ
源兵衛の   馬は惡馬だ
     −明治三十八年一月一日『ホトトギス』−
 
   無題
 
元日や歌を咏むべき顔ならず
   胃弱の腹に三椀の餅
火燵から覗く小路の靜にて
   瓶に活けたる梅も春なり
山妻の淡き浮世と思ふらん
   厨の方で根深切る音
專念にこんろ〔三字傍点〕煽ぐは女の童
   黄なもの溶けて鍋に珠ちる
じと鳴りて羊の肉の煙る門
   ダンテに似たる屑買が來る
     −明治三十八年一月五目井上微笑宛の手紙の中より−
 
  ある鶯の鳴くを聽けば
 
春がくりやこそ  身を倒しまに
法と法華經で   憂身をやつす。
花にしやうか   柳に鳴こか。
好いた筧に    水が温んで
羽根も繕へ    のどもうるほせ。
春日春雨     朧月夜の
其數々を     浮れ/\て
浮世に飽いて   花も散りそろ。
啼いた昔しは   あら恥かしや。
夢と思への    仰せが無理か
烟る柳に     姿をかくす。
かくす柳が    何故にくらしい。
 
  ある女の訴ふるを聽けば
 
寒いわびしい   世は忍べども
君がこゝろを   さて計りかね
遠く來て見りや  降る雪の日を
御高祖頭巾も   流行らぬてふよ。
それも道理ぢや  あの故郷は
百里二百里    三百一里
舟に乘るさへ   夢路がゆれる
田舍育ちは    なぜ氣が揉める
花の都に     あら雪がふる
人目つゝめば   頭巾も着やう
戀が積れば    傘も重たし。
     −明治三十八年三月十日『ホトトギス』−
 
  無題
 
雨になろかと  君待つ宵は
雨ともならで  ほとゝぎす
君しまさずば  寐たものを
あの曉の    ほとゝぎす
     −明治三十八年八月十日野間眞綱宛の端書の中より−
 
  連句
 
三吟の星を撼がす野分かな   虚子
萩しどろなる水の隈々     四方太
後の月跛の馬にうち乘りて   漱石
わからぬ歌も節の可笑しき   虚
年々に淋しくなりし熊祭    四
九郎の館は迹ばかりなり    漱
靜舞今も殘れる曲舞に     虚
黄金作りの太刀佩いて立つ   四
鐵網の中にまします矢大臣   漱
御鼻を食ふ蟲も百年      虚
土用干顔輝が軸を見暮しつ   四
眠い時分に夕立が來る     漱
燈臺を今日も終日守る身にて  虚
浦の漁師に蟹貰ひけり     四
惠比壽屋に娘連れたる泊り客  漱
朧の月に三人の影       虚
花更けて御室の御所を退るなり 四
銘をたまはる琵琶の春寒    漱
入唐を思ひ立つ日に舟出して  虚
反吐を吐きたる乘合の僧    四
意地惡き肥後侍の酒臭く    漱
切つて落せし燭臺の足     虚
繪襖に夜な/\見ゆる物の怪  四
百日紅の赤過ぎるなり     漱
白壁に名主の威光ほのめきて  虚
村の出口に立つる高札     四
落人の身を置きかねて花薄   漱
うそ寒き夜を籠に乘るなり   虚
關守も今宵の月を眺むらん   四
歌心ある髷の結樣       漱
發句にて戀する術も無かりけり 虚
妹の婿に家を讓りて      四
和歌山で敵に遇ひぬ年の暮   漱
助太刀に立つ魚屋五郎兵衛   虚
鷹の羽の幕打渡す花の下    四
酒をそゝげば燃ゆる陽炎    漱
     −明治三十七年十月十日『ホトトギス』−
 
  連句片々
 
  嚢の中は割り瓢なり    東洋城
親類の娘を花に誘ひて     漱石
 
夕月の下駄を草履にはきたがへ 東洋城
  戀の奴に罪な邪魔する   漱石
 
酔覺の水を呼びたる枕元    漱石
  夜出る蜘を斬つて笑はん  東洋城
 
唐黍の見渡す限り鳴る暮に   漱石
  十里續きてけふも退く陣  東洋城
     −明治四十一年五月一日『ホトトギス』−
 
  俳句
 
  明治二十二年
 
       五月十三日正岡子規宛の手紙の中より 二句
歸ろふと泣かずに笑へ 時鳥
聞かふとて誰も待たぬに時鳥
 
  明治二十三年
 
       七月二十日正岡子規宛の手紙の中より
西行も笠ぬいで見る富士の山
 
       八月九日正岡子規宛の手紙の中より
寐てくらす人もありけり夢の世に
 
       九月三句〔【子規の添削に從ふ、原句註解】〕
峯の雲落ちて筧に水の音
東風吹くや山一ぱいの雲の影
白雲や山又山を這ひ回り
 
  明治二十四年
 
       七月二十三日 十七句〔【七月二四十日及八月三日正岡子規宛の手紙參照】〕
馬の背で船漕ぎ出すや春の旅
行燈にいろはかきけり秋の旅
親を持つ子のしたくなき秋の旅
さみだれに持ちあつかふや蛇目傘
見るうちは吾も佛の心かな(蓮の花)
螢狩われを小川に落しけり
藪陰に凉んで蚊にぞ喰はれける
世をすてゝ太古に似たり市の内
雀來て障子にうごく花の影
秋さびて霜に落けり柿一つ
吾戀は闇夜に似たる月夜かな
柿の葉や一つ一つに月の影
涼しさや畫寐の貌に青松葉
あつ苦し晝寐の夢に蝉の聲
とぶ螢柳の枝で一休み
朝貌に好かれそうなる竹垣根
秋風と共に生へしか初白髪
 
  悼亡 十三句
       八月三日正岡子規宛の手紙の中より
朝貌や咲た許りの命哉
細眉を落す間もなく此世をば(【末だ元服せざれば】)
人生を廿五年に縮めけり(死時廿五歳)
君逝きて浮世に花はなかりけり(容姿秀麗)
假位牌焚く線香に黒む迄
こうろげの飛ぶや木魚の聲の下
通夜僧の經の絶間やきり/”\す(【三首通夜の句】)
骸骨や是も美人のなれの果(骨揚のとき)
何事ぞ手向し花に狂ふ蝶
鏡臺の主の行衛や塵埃(二首初七日)
ますら男に染模樣あるかたみかな(記念分)
聖人の生れ代りか桐の花(其人物)
今日よりは誰に見立ん秋の月(心氣清澄)
 
  明治二十五年
 
       七月十九日正岡子規宛の手紙の中より
鳴くならば滿月になけほとゝぎす
 
       十二月十四日正岡子規宛の手紙の中より
病む人の炬燵離れて雪見かな
 
  明治二十七年
 
       三月九日菊池謙二郎宛の手紙の中より 四句
何となう死に來た世の惜まるゝ
春雨や柳の中を濡れて行く
大弓やひらり/\と梅の花
矢響の只聞ゆなり梅の中
 
       三月十二日正岡子規宛の手紙の中より 五句
弦音にはたりと落る椿かな
弦音になれて來て鳴く小鳥かな
弦音の只聞ゆなり梅の中
春雨や柳の下を濡れて行く
春雨や寐ながら横に梅を見る
烏帽子着て渡る禰宜あり春の川
風に乘つて輕くのし行く燕かな
菜の花の中に小川のうねりかな
小柄杓や蝶を追ひ/\子順禮
 
       十月三十一日正岡子規宛の手紙の中より
尼寺に有髪の僧を尋ね來よ
 
       君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か 寄子規 明治二十七年頃
花に酔ふ事を許さぬ物思ひ
 
  明治二十八年
 
       三月五日『日本』
夜三更僧去つて梅の月夜かな
 
       七月二十五日齋藤阿具宛の手紙の中より
ゆく水の朝な夕なに忙がしき
 
       九月『海南新聞』 四句
風吹けば糸瓜をなぐる瓢かな  〔十八日〕
爺と婆淋しき秋の彼岸かな   〔二十日〕
簑虫のなくや長夜の明けかねて 〔二十五日〕
便船や夜を行く雁のあとや先  〔二十七日〕
 
       正岡手洗へ送りたる句稿 その一〔【以下子規の添削に從ふ、原句註解】〕
蘭の香や門を出づれば日の御旗
芭蕉破れて塀破れて旗翩々たり
朝寒に樒賣り來る男かな
朝貌や垣根に捨てし黍のから
柳ちる紺屋の門の小川かな
見上ぐれば城屹として秋の空
烏瓜塀に賣家の札はりたり
繩簾裏をのぞけば木槿かな
崖下に紫苑咲きけり石の間
獨りわびて僧何占ふ秋の暮
痩馬の尻こそはゆし秋の蠅
鷄頭や秋田漠々家二三
秋の山南を向いて寺二つ〔承露盤〕
汽車去つて稻の波うつ畑かな
鷄頭の黄色は淋し常樂寺〔承露盤〕
杉木立中に古りたり秋の寺
尼二人梶の七葉に何を書く
聯古りて山門閉ぢぬ芋の蔓
澁柿や寺の後の芋畠〔承露盤〕
肌寒や羅漢思ひ/\に坐す〔承露盤〕
秋の空名もなき山の愈高し
曼珠沙花門前の秋風紅一點
黄檗の僧今やなし千秋寺
三方は竹緑なり秋の水は〔承露盤〕
籔影や魚も動かず秋の水〔承露盤〕
山四方中を十里の稻莚
一里行けば一里吹くなり稻の風
色鳥や天高くして山小なり
大籔や數を盡して蜻蛉とぶ
秋の山後ろは大海ならんかし
土佐で見ば猶近からん秋の山〔承露盤〕
歸燕いづくにか歸る草茫々
 明治廿八年九月二十三日散策途上口號三十二首
               愚陀佛庵主
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二 十月
夙に裸で御はす仁王哉
吹き上げて塔より上の落葉かな
五重の塔吹き上げられて落葉かな
瀧壺に寄りもつかれぬ落葉かな
半途より瀧吹き返す落葉かな
男瀧女瀧上よ下よと木の葉かな
時雨るゝや右手なる一の臺場より
洞門に颯と舞ひ込む木の葉かな
御手洗や去ればこゝにも石蕗の花
寒菊やこゝをあるけと三俵
冬の山人通ふとも見えざりき
此枯野あはれ出よかし狐だに
閼伽桶や水仙折れて薄氷
凩に鯨潮吹く平戸かな
勢ひひく逆櫓は五丁鯨舟
枯柳芽ばるべしとも見えぬ哉
茶の花や白きが故に翁の像
山茶花の折らねば折らで散りに鳧(【碌堂曰ク御免蒙リタシ】)
時雨るゝや泥猫眠る經の上
凩や弦のきれたる弓のそり
  霽月に酒の賛を乞はれたるとき一句ぬき玉へとて遣はす五句
飲む事一斗白菊折つて舞はん哉
憂ひあらば此酒に醉へ菊の主
黄菊白菊酒中の天地貪ならず〔承露盤〕
菊の香や晋の高士は酒が好き(落第?)
(【酒名を凱歌といふ】)兵ものに酒ふるまはん菊の花
紅葉散るちりゝ/\とちゞくれて(【アリテレーシヨンデアリマス】)
簫吹くは大納言なり月の宴〔承露盤〕
紅葉をば禁裏へ參る琵琶法師
紅葉ちる竹縁ぬれて五六枚
麓にも秋立ちにけり瀧の音
うそ寒や灯火ゆるぐ瀧の音
宿かりて宮司が庭の紅葉かな
むら紅葉是より瀧へ十五丁
雲處々岩に喰ひ込む紅葉哉
見ゆる限り月の下なり海と山
時鳥あれに見ゆるが智恩院
名は櫻物の見事に散る事よ〔承露盤〕
巡禮と野邊につれ立つ日永哉(【碌堂曰ク無クモガナ】)
反橋に梅の花こそ畏しこけれ
初夢や金も拾はず死にもせず
柿賣るや隣の家は紙を漉く
春蘆の花夫より川は曲りけり
春の川故ある人を《イの》脊負ひけり
草山の重なり合へる小春哉〔承露盤〕
時雨るゝや聞としもなく寺の屋根
   放蕩を仕盡して風流に入れる人に遣はす
憂き事を紙衣にかこつ一人哉
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その三 十月末
煩惱は百八減つて今朝の春
ちとやすめ張子の虎も春の雨
戀猫や主人は心地例ならず(【意味ガ通ズルカ】)
見返れば又一ゆるぎ柳かな
不立文字白梅一木咲きにけり
春風や女の馬子の何歌ふ
春の夜の若衆にくしや伊達小袖
春の川橋を渡れば柳哉
うね/\と心安さよ春の水
思ふ事只一筋に乙鳥かな【(既經檢定)〔承露盤〕】
鶯や隣の娘何故のぞく
行く春を鐵牛ひとり堅いぞや(句ニナルカ)
春の雨鶯も來よ夜着の中(月並カ)
春の雨晴れんとしては烟る哉
咲たりな花山續き水續き
  一死報君恩といふ意を一句
櫻ちる南八男兒死せんのみ〔承露盤〕
鵜飼名を勘作と申し哀れ也【(既ニ及第)〔承露盤〕】
時鳥たつた一聲須磨明石
五反帆の眞上なり初時鳥
裏河岸の杉の香ひや時鳥
猫も聞け杓子も是へ時鳥
湖や湯元へ三里時鳥
時鳥折しも月のあらはるゝ
五月雨ぞ何處まで行ても時鳥
時島名乘れ彼山此峠〔承露盤〕
夏痩の此頃蚊にもせゝられず
棚經や若い程猶哀れ也
  弔古白
御死にたか今少ししたら蓮の花
  弔逍遥一句
百年目にも參らうず程蓮の飯
蜻蛉や杭を離るゝ事二寸
轡虫すはやと絶ぬ笛の音(落第カ)
谷深し出る時秋の空小し
雁ぢやとて鳴ぬものかは妻ぢやもの(又始ツタ)
鷄頭に太鼓敲くや本門寺【(少シ□ヂタリ)〔承露盤〕】
朝寒の鳥居をくゞる一人哉(【今度ハ梅屋ノヲ】)
稻刈りてあないたはしの案山子かも
時雨るゝや裏山續き藥師堂
時雨るゝや油揚烟る繩簾
海鼠哉よも一つにては候まじ【(ワカルカ)〔承露盤〕】
淋しいな妻ありてこそ冬籠
辨慶に五條の月の寒さ哉
妹が文候二十續きけり(季ガナイ)
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その四
 明治二十八年十一月二日河の内に至り近藤氏に宿す翌三日雨を冒して白猪唐岬に瀑を觀る駄句數十
     三日夜しるす  愚陀佛
誰が家ぞ白菊ばかり亂るゝは
澁柿の下に稻こく夫婦かな
茸狩や鳥居の赤き小松山
秋風や坂を上れば山見ゆる
花芒小便すれば馬逸す
鎌倉堂野分の中に傾けり
山四方菊ちらほらの小村哉
二三本竹の中なり櫨紅葉
秋の山靜かに雲の通りけり
谷川の左右に細き刈田哉
瀬の音や澁鮎淵を出で兼る
赤い哉仁右衛門が脊戸の蕃椒
芋洗ふ女の白き山家かな
鷄鳴くや小村々々の秋の雨
掛稻や塀の白きは庄屋らし
四里あまり野分に吹かれ參りたり
新酒賣る家ありて茸の名所哉
秋雨に行燈暗き山家かな
※[女+霜]の家獨り宿かる夜寒かな
客人を書院に寐かす夜寒かな
亂菊の宿わびしくも小雨ふる
木枕の堅きに我は夜寒哉
秋雨に明日思はるゝ旅寐哉
世は秋となりしにやこの簑と笠
山の雨案内の恨む紅葉かな
鎌さして案内の出たり瀧紅葉
朝寒や雲消て行く少しづゝ
絶壁や紅葉するべき蔦もなし
山紅葉雨の中行く瀑見かな
うそ寒し瀑は間近と覺えたり
山鳴るや爆とう/\と秋の風
滿山の雨を落すや秋の瀧
大岩や二つとなつて秋の瀧
水烟る瀑の底より嵐かな
白瀧や黒き岩間の蔦紅葉
瀑五段一段毎の紅葉かな
荒瀧や野分を斫て捲き落す
秋の山いでや動けと瀑の音
瀑暗し上を日の照るむら紅葉
むら紅葉日脚もさしぬ瀑の色
雲來り雲去る瀑の紅葉かな〔承霜盤〕
瀑半分半分をかくす紅葉かな
霧晴るゝ瀑は次第に現はるゝ
大瀧を北へ落すや秋の山
秋風や眞北へ瀑を吹き落す
絶頂や餘り尖りて秋の瀧
旅の旅宿に歸れば天長節
君が代や夜を長々と瀑の夢
長き夜を我のみ瀧の噂さ哉
唐黍を干すや谷間の一軒家〔承霜盤〕
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その五 十一月三日
いたづらに菊咲きつらん故郷は〔承霜盤〕
名月や故郷遠き影法師
   或人に俳號を問はれて 一句
去ん候是は名もなき菊作り
野分吹く瀑碎け散る脚下より
瀧遠近谷も尾上も野分哉
風や瀧に當つて引き返す
   或人を訪うて
炭賣の後をこゝまで參りけり
   傾城倚欄
去ればにや男心と秋の空
   昔々春秋 一句
春王の正月蟹の軍さ哉〔承霜盤〕
待て座頭風呂敷かさん霰ふる
一木二木はや紅葉るやこの鳥居
三十六法峰我も/\と時雨けり
初時雨五山の交る/\哉
菊提て乳母在所より參りけり
   放蕩病に臥して見舞を呉れといふ 一句
酒に女御意に召さずば花に月
菊の香や故郷遠き國ながら
秋の暮關所へかゝる虚無僧あり
   來迎寺觀菊
八寸の菊作る僧あり山の寺
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その六 十一月十三日
喰積やこゝを先途と惡太郎
婆樣の御寺へ一人櫻かな
雛に似た夫婦もあらん初櫻〔承霜盤〕
裏返す縞のずぼんや春暮るゝ
普陀落や憐み給へ花の旅〔承露盤〕
土筆人なき舟の流れけり
白魚に己れ恥ぢずや川蒸氣
白魚や美しき子の觸れて見る
女《メ》郎共推參なるぞ梅の花
朝櫻誰ぞや絽鞘の落しざし〔承露盤〕
其夜又朧なりけり須磨の卷〔承露盤〕
亡き母の思はるゝ哉衣がへ〔承露盤〕
便なしや母なき人の衣がへ〔承露盤〕
卯の花に深編笠の隱れけり
卯の花や盆に奉捨をのせて出る〔承露盤〕
細き手の卯の花ごしや豆腐賣
時鳥物其物には候はず
時鳥弓杖ついて源三位
罌粟の花左樣に散るは慮外なり
願かけて觀音樣へ紅の花
塵挨り晏子の御者の暑さ哉
銀燭にから紅の牡丹哉
旅に病んで菊惠まるゝ夕哉
  客中病
行秋や消えなんとして殘る雲
  有感 一句
二十九年骨に徹する秋や此風
我病めり山茶花活けよ枕元〔承露盤〕
號外の鈴ふり立る時雨哉
病む人に鳥鳴き立る小春哉
廓然無聖達磨の像や水仙花
大雪や壯夫羆を獲て歸る
星一つ見えて寐られぬ霜夜哉
霜の朝袂時計のとまりけり
木枯の今や吹くとも散る葉なし
塵も積れ拂子ふらりと冬籠
人か魚か獣然として冬籠
四壁立つ「らんぷ」許りの寒哉
病氣持腎安からぬ寒哉
凩の上に物なき月夜哉〔承露盤〕
緑竹の猗々たり霏々と雪が降る〔承露盤〕
凩や眞赤になつて仁王尊〔承露盤〕
初雪や庫裏は眞鴨をたゝく吾
我を馬に乘せて悲しき枯野哉
土佐坊の生擒られけり冬の月
ほろ武者の影や白濱月の駒
  保元物語 一句
月に射ん的は栴檀弦走り
市中は人樣々の師走哉
  三冬氷雪の時什麼と問はれて
何となく寒いと我は思ふのみ
 善惡を問はず出來た丈け送るなり左樣心得給へわるいのは遠慮なく評し給へ其代りいゝのは少しほめ給へ
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その七 十一月二十二日
我脊戸の蜜柑も今や神無月〔承露盤〕
達磨忌や達磨に似たる顔は誰〔承露盤〕
芭蕉忌や茶の花折つて奉る〔承露盤〕
本堂へ橋をかけたり石蕗の花
乳兄弟名乘り合たる榾火哉
かくて世を我から古りし紙衣哉〔承露盤〕
我死なば紙衣を誰に讓るべき
橋立の一筋長き小春かな
武藏下總山なき國の小春哉〔承露盤〕
初雪や小路へ入る納豆賣
御手洗を敲いて碎く氷かな
寒き夜や馬は頻りに羽目を蹴る
來ぬ殿に寐覺物うき火燵かな
酒菰の泥に氷るや石蕗の花
古綿衣虱の多き小春哉
すさましや釣鐘撲つて飛ぶ霰
昨日しぐれ今日又しぐれ行く木曾路
鷹狩や時雨にあひし鷹のつら
辻の月座頭を照らす寒さ哉
枯柳緑なる頃妹逝けり
枯蓮を被むつて浮きし小鴨哉
京や如何に里は雪積む峯もあり
  旅宿の女十二三歳時々發句を云ひ出づ 一句
女の子發句を習ふ小春哉
ほのめかすその上《カミ》如何に歸花
戀をする猫もあるべし歸花
一輪は命短かし歸花
吾も亦衣更へて見ん歸花
太刀一つ屑屋に賣らん年の暮
志はかくあらましを年の暮
長松は蕎麦が好きなり煤拂
むつかしや何もなき家の煤拂〔承露盤〕
煤拂承塵の槍を拭ひけり
懇ろに雜炊たくや小夜時雨〔承露盤〕
里神樂寒さにふるふ馬鹿の面
夜や更ん庭燎に寒き古社
客僧の獅噛付たる火鉢哉〔承露盤〕
冬の日や茶色の裏は紺の山
冬枯や夕陽多き黄黄檗寺〔承露盤〕
あまた度馬の嘶く吹雪哉
嵐して鷹のそれたる枯野哉
あら鷹の鶴蹴落すや雪の原
竹藪に雉子鳴き立つる鷹野哉
なき母の忌日と知るや網代守
靜なる殺生なるらし網代守
くさめして風引きつらん網代守
焚火して居眠りけりな網代守
賭にせん命は五文河豚汁〔承露盤〕
河豚汁や死んだ夢見る夜もあり
  悼亡
夕日寒く紫の雲崩れけり〔承露盤〕
  悼亡 一句
亡骸に冷え盡したる煖甫哉〔承露盤〕
あんかうや孕み女の釣るし斬り
あんかうは釣るす魚なり繩簾
此頃は女にもあり藥喰
藥喰夫より餅に取りかゝる
落付や疝氣も一夜藥喰
乾鮭と竝ぶや壁の棕櫚箒
魚河岸や乾鮭洗ふ水の音
本來の面目如何雪達磨
仲仙道夜汽車に上る寒さ哉
西行の白状したる寒さ哉
温泉をぬるみ出るに出られぬ寒さ哉
本堂は十八間の寒さ哉〔承露盤〕
愚陀佛は主人の名なり冬籠〔承露盤〕
情けにはごと味噌贈れ冬籠
冬籠り小猫も無事で罷りある
すべりよさに頭出るなり紙衾
兩肩を襦袢につゝむ衾哉
合の宿御白い臭き衾哉
水仙に緞子は晴れの衾哉
 大政      愚陀稿
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その八 十二月十四日
定に入る僧まだ死なず冬の月
幼帝の御運も今や冬の月
寒月やから堀端のうどん賣
寒月や薙刀かざす荒法師
寒垢離や王事※[(臣+舍の二画目なし)/皿]きなしと聞きつれど
繪にかくや昔男の節季候
水仙は屋根の上なり煤拂
寐て聞くやぺたり/\と餅の音
餅搗や小首かたげし鷄の面
衣脱だ帝もあるに火燵哉
君が代や年々に減る厄拂
勢ひやひしめく江戸の年の市
是見よと松提げ歸る年の市
行年や刹那を急ぐ水の音
行年や實盛ならぬ白髪武者
春待つや云へらく無事は是貴人
年忘れ腹は中々切りにくき
屑買に此髭賣らん大晦日
ゑた寺へ嫁ぐ憐れや年の暮
白馬遲々たり冬の日薄き砂堤〔承露盤〕
山陰に熊笹寒し水の吾〔承露盤〕
初冬や竹切る山の鉈の吾〔承露盤〕
冬枯れて山の一角竹青し〔承露盤〕
炭燒の斧振り上ぐる嵐哉
冬木立寺に蛇骨を傳へけり〔承露盤〕
碧潭に木の葉の沈む寒哉
岩にたゞ果敢なき蠣の思ひ哉〔承露盤〕
炭竈に葛這ひ上る枯れながら〔承露盤〕
炭賣の鷹括し來る城下哉〔承露盤〕
一時雨此山門に偈をかゝん
五六寸去年と今年の落葉哉
水仙白く古道顔色を照らしけり
冬籠り黄表紙あるは赤表紙
禅寺や丹田からき納豆汁〔承露盤〕
東西南北より吹雪哉
家も捨て世も捨てけるに吹雪哉
  圓福寺新田義宗脇屋義治二公の遺物を觀る 二句
つめたくも南蠻鐵の具足哉
山寺に太刀を頂く時雨哉
  日浦山二公の墓に謁す 二句
塚一つ大根畠の廣さ哉
應永の昔しなりけり塚の霜〔承露盤〕
  湧が淵三好秀保大蛇を斬るところ
蛇を斬つた岩と聞けば淵寒し
  大政      愚陀拜
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その九 十二月十八日
飯櫃を蒲團につゝむ※[女+霜]哉
※[火+畏]芋を頭巾に受くる和尚哉
盗人の眼ばかり光る頭巾哉
辻番の捕へて見たる頭巾哉
頭巾きてゆり落しけり竹の雪
さめやらで追手のかゝる蒲團哉
毛蒲團に君は目出度寐顔かな
薄き事十年あはれ三布蒲團
片々や犬盗みたるわらじ足袋
羽二重の足袋めしますや妹が君
雪の日や火燵をすべる土佐日記
應々と取次に出ぬ火燵哉
埋火や南京茶碗鹽煎餅
埋火に鼠の糞の落ちにけり
曉の埋火消ゆる寒さ哉
門閉ぢぬ客なき寺の冬構
冬籠米搗く音の幽かなり〔承露盤〕
砂濱や心元なき冬構〔承露盤〕
銅瓶に菊枯るゝ夜の寒哉
五つ紋それはいかめし桐火桶
冷たくてやがて恐ろし瀬戸火鉢
親展の状燃え上る火鉢哉
黙然と火鉢の灰をならしけり
なき母の湯婆やさめて十二年〔承露盤〕
湯婆とは倅のつけし名なるべし
風吹くや下京邊の綿帽子
清水や石段上る綿帽子
綿帽子面は成程白からず
爐開きや佛間に隣る四疊半
爐開きに道也の釜を贈りけり
口切や南天の實の赤き頃
口切にこはけしからぬ放屁哉
吾妹子を客に口切る夕哉
花嫁の喰はぬといひし亥の子哉
到來の亥の子を見れば黄な粉なり
水臭し時雨に濡れし亥の子餅
枯ながら蔦の氷れる岩哉
湖は氷の上の焚火哉
痩馬に山路危き氷哉
筆の毛の水一滴を氷りけり
井戸繩の氷りて切れし朝哉
雁の拍子ぬけたる氷哉
枯蘆の二十日流れぬ氷哉
水仙の葉はつれなくも氷哉
凩に牛怒りたる繩手哉
冬ざれや青きもの只菜大根
山路來て馬やり過す小春哉
橋朽ちて冬川枯るゝ月夜哉
  範頼の墓に謁して二句
蒲殿の愈悲し枯尾花〔承露盤〕
凩や冠者の墓撲つ落松葉
山寺や冬の日殘る海の上
古池や首塚ありて時雨ふる〔承露盤〕
穴蛇の穴を出でたる小春哉
空木の根あらはなり冬の川
納豆を檀家へ配る師走哉
親の名に納豆賣る兒の憐れさよ
からつくや風に吹かれし納豆賣
榾の火や昨日碓氷を越え申した
梁山泊毛脛の多き榾火哉
裏表濡れた衣干す榾火哉
積雪や血痕絶えて虎の穴
 大政
今度のはなくしてはいやであります惡句には△か□の符號をつけ玉へ
               愚陀佛稿
 
  正岡家析藏『承露盤』の中より 四十三句
鶯の大木に來て初音かな
春三日よしのゝ櫻一重なり
雛殿も語らせ給へ宵の雨
陽炎の落ちつきかねて草の上
馬の息山吹散て馬士もなし
辻駕籠に朱鞘の出たる柳哉
春の雨あるは順禮古手買
尼寺や彼岸櫻は散りやすき
叩かれて晝の蚊を吐く木魚哉
馬子歌や小夜の中山さみだるゝ
あら瀧や滿山の若葉皆震ふ
夕立や蟹はひ上る簀子椽
明け易き夜ぢやもの御前時鳥
尼寺や芥子ほろ/\と普門品
鐘つけば銀杏ちる也建長寺〔【海南新聞九月六日】〕
白露や芙蓉したゝる音すなり〔同〕
長き夜を只蝋燭の流れけり〔同九月七日〕
乘りながら馬の糞する野菊哉〔同九月八日〕
馬に二人霧を出でたり鈴の音〔同九月十日〕
泥龜の流れ出でたり落し水〔同九月十一日〕
影參差松三本の月夜哉
うてや砧これは都の詩人なり〔【海南新聞九月十三日】〕
明け易き七日の夜を朝寐哉〔同九月十四日〕
秋の蝉死度もなき聲音哉〔同九月十五日〕
柳散る片側町や水の音〔同九月十七日〕
稻妻や折々見ゆる瀧の底〔同九月二十一日〕
親一人子一人盆のあはれなり〔同九月二十二日〕
夕月や野川をわたる人は誰〔同九月二十六日〕
掛稻や澁柿たるゝ門構
 
       我宿の柿熟したり鳥來たり
野分して朝鳥早く立ちけらし
日の入や秋風遠く鳴つて來る
鼻珠沙花あつけらかんと道の端
はら/\とせう事なしに萩の露
史官啓す雀蛤とはなりにけり
行年や佛ももとは凡夫なり
驀地に風吹くや鳩の湖
大粒な霰にあひぬうつの山
十月のしぐれて文も參らせず
いそがしや霞ふる夜の鉢叩
十月の月ややう/\凄くなる
山茶花の垣一重なり法華寺
行く年や膝と膝とをつき合せ
 
  送子規
此夕野分に向いてわかれけり
 
  送子規
御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花
 
  子規を送る 二句
秋の雲たゞむら/\と別れかな
見つゝ往け旅に病むとも秋の富士
 
       十二月『海南新聞』
土堤一里常盤木もなしに冬木立
 
      明治二十八年?
雪深し出家を宿し參らする
 
  寄虚子 明治二十八・九年?
詩神とは朧夜に出る化ものか
 
  明治二十九年
 
        一月十二日正岡子規宛の端書の中より
東風や吹く待つとし聞かば今歸り來ん
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十 一月二十八日
此土手で追ひ剥がれしか初櫻〔承霜盤〕
凩に早鐘つくや増上寺〔承霜盤〕
谷の家竹法螺の音に時雨けり〔承露盤〕
冴返る頃を御厭ひなさるべし〔承露盤〕
出代りや花と答へて跛なり〔承露盤〕
雪霽たり竹婆娑/\と跳返る〔承露盤〕
水青し土橋の上に積る雪
若菜摘む人とは如何に音をば泣く
花に暮れて由ある人にはぐれけり
見て行くやつばら/\に寒の梅
靜かさは竹折る雪に寐かねたり
武藏野を横に降る也冬の雨
太箸を抛げて笠着る別れ哉
いざや我虎穴に入らん雪の朝
絶頂に敵の城あり玉霰
御天守の鯱いかめしき霰かな
一つ家のひそかに雪に埋れけり
春大震塔も擬寶珠もねぢれけり
疝氣持雪にころんで哀れなり
天と地の打ち解けりな初霞
呉竹の垣の破目や梅の花
御車を返させ玉ふ櫻かな
掃溜や錯落として梅の影
永き日や韋陀を講ずる博士あり
日は永し三十三間堂長し
素琴あり窓に横ふ梅の影
永き日を順禮渡る瀬田の橋
鶴獲たり月夜に梅を植ん哉
錦帶の擬實珠の數や春の川
里の子の草鞋かけ行く梅の枝
紅梅に青葉の笛を畫かばや
紅梅にあはれ琴ひく妹もがな
源藏の徳利をかくす吹雪哉
したゝかに饅頭笠の霰哉
冬の雨柿の合羽のわびしさよ
下馬札の一つ立ちけり冬の雨
  展先妣墓 一句
梅の花不肖なれども梅の花
まさなくも後ろを見する吹雪哉
氷る戸を得たりや應と明け放し
吾庵は氷柱も歳を迎へけり
 政        愚陀佛稿
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十一
元日に生れぬ先の親戀し
あたら《イや》元日を餅も食はずに紙衣哉
山里は割木でわるや鏡餅
碎けよや玉と答へて鏡餅
國分寺の瓦堀出す櫻かな
斷礎一片有明櫻ちりかゝる
堆き茶殻わびしや春の宵雨
古寺に鰛燒くなり春の宵〔承露盤〕
配所には干網多し春の月
口惜しや男と生れ春の月
よく聞けば田螺鳴くなり鍋の中
山吹に里の子見えぬ田螺かな
白梅に千鳥啼くなり濱の寺
梅咲て奈良の朝こそ戀しけれ
消にけりあわたゞしくも春の雪
春の雪朱盆に載せて惜まるゝ
居風呂に風ひく夜や冴返る
頃しもや越路に病んで冴返る
霞む日や巡禮親子二人なり〔承露盤〕
旅人の墓場見て行く霞かな〔承露盤〕
 政        漱石
  明治二十九年一月二十九日愚陀佛庵小集一題二句
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十二 三月五日
つくばいに散る山茶花の氷りけり
烏飛んで夕日に動く冬木かな
船火事や數をつくして鳴く千鳥
壇築て北斗祭るや釼の霜
龍寒し繪筆抛つ古法眼
つい立の龍蟠まる寒さかな
廻廊に吹きこむ海の吹雪かな
梁に畫龍のにらむ日永かな
奈良の春十二神將剥げ盡せり
亂山の盡きて原なり春の風
都府樓の瓦硯洗ふや春の水
門柳五本並んで枝垂れけり
若草や水の滴たる蜆籠
月落ちて佛燈青し梅の花
春の夜を辻講釋にふかしける
蕭郎の腕環偸むや春の月〔承霜盤〕
護摩壇に金鈴響く春の雨
春の夜の御惱平癒の祈禮哉〔承霜盤〕
鳩の糞春の夕の繪馬白し
伽羅焚て君を留むる朧かな〔承露盤〕
辻占のもし君ならば朧月
蘭燈に詩をかく春の恨み哉〔承露盤〕
恐ろしや經を血でかく朧月
着衣始め紫衣を給はる僧都あり
物草の太郎の上や揚雲雀
野を燒けば燒けるなり間の拔ける程
涅槃像鰒に死なざる本意なさよ
春戀し淺妻船に流さるゝ
潮風に若君黒し二日灸
枸杞の垣田樂燒くは此奥か
春もうし東樓西家何歌ふ
猫知らず寺に飼はれて戀わたる
芹洗ふ藁家の門や温泉の流
陽炎に蟹の泡ふく干潟かな
さら/\と筮竹もむや春の雨
日永哉豆に眠がる神の馬
古瓢柱に懸けて蜂巣くふ
ゆく春や振分髪も肩過ぎぬ
御|舘《やかた》のつら/\椿咲にけり
二つかと見れば一つに飛ぶや蝶
唐人の飴賣見えぬ柳かな
刀うつ槌の響や春の風
踏はづす蛙是へと田舟哉
初蝶や菜の花なくて淋しかろ
曳船やすり切つて行く蘆の角
勅なれば紅梅咲て女かな
紅梅に通ふ築地の崩哉
桔※[木+皐]切れて梅ちる月夜哉
濡燕御休みあつて然るべし
雉子の聲大竹原を鳴り渡る
雨がふる淨瑠〔璃〕坂の傀儡師
むく/\と砂の中より春の水〔承露盤〕
白き砂の吹ては沈む春の水
金屏を幾所かきさく猫の戀
春に入つて近頃青し鐵行燈
旅の夜五右衛門風呂にうなる客
永き日や徳山の棒趙州の拂
飯食ふてねむがる男畠打つ
春風や永井兵助の人だかり
居合拔けば燕ひらりと身をかはす
物言はで腹ふくれたる河豚かな
戞々と鼓刀の肆に時雨けり
枯野原汽車に化けたる狸あり
其中に白木の宮や梅の花
章魚眠る春潮落ちて岩の間
山伏の並ぶ關所や梅の花
梅ちるや月夜に廻る水車
兵兒殿の梅見に御ぢやる朱鞘哉
酒醒て梅白き夜の冴返る
飯鮹の頭に兵と吹矢かな
蟹に負けて飯鮹の足五本なり
梓弓岩を碎けば春の水
山路來て梅にすくまる馬上哉
若黨や一歩さがりて梅の花
青石を取り卷く庭の菫かな
犬去つてむつくと起る蒲公英が
大和路や紀の路へつゞく菫草
川幅の五尺に足らで董かな
三日雨四日梅咲く日誌かな〔承露盤〕
雙六や姉妹向ふ春の宵
生海苔のこゝは品川東海寺
菜の花の中に糞ひる飛脚哉
菜の花や門前の小僧經を讀む
菜の花を通り拔ければ城下かな
海見ゆれど中々長き菜畑哉
海見えて行けども/\菜畑哉
麥二寸あるは又四五寸の旅路哉
筵帆の眞上に鳴くや揚雲雀
風船にとまりて見たる雲雀哉
落つるなり天に向つて揚雲雀
雨晴れて南山春の雲を吐く〔承露盤〕
むづからせ給はぬ雛の育ち哉
去年今年大きうなりて歸る雁
一群や北能州へ歸る雁
爪下り海に入日の菜畑哉
里の子の猫加へけり涅槃像
鶯のほうと許りで失せにけり
鶯や雨少し降りて衣紋坂
鶯の去れども貧にやつれけり
鶯や田圃の中の赤鳥居
鶯をまた聞きまする昼餉哉
 
  古白一週忌
君歸らず何處の花を見にいたか
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十三
三日月や野はゑた村へ燒て行く
舊道や燒野の匂ひ笠の雨
春日野は牛の糞まで燒てけり
宵々の窓ほのあかし山燒く火
野に山に燒き立てられて雉の聲
野を燒くや道標焦る官有地
篠竹の垣を隔てゝ燒野哉
村と村川を隔てゝ燒野哉
蝶に思ふいつ振袖で嫁ぐべき
老ぬるを蝶に背いて繰る糸や
御簾搖れて蝶御覽ずらん人の影
蝶舐る朱硯の水澱みたり
藏つきたり紅梅の枝黒い塀
山三里櫻に足駄穿きながら
花を活けて京音の寡婦なまめかし
鶯や隣あり主人垣を覗く
連立て歸うと雁皆去りぬ
齒ぎしりの下婢恐ろしや春の宵
太刀佩くと夢みて春の晨哉
鳴く事を鶯思ひ立つ日哉
吾妹子に搖り起されつ春の雨
普化寺に犬逃げ込むや梅の花
紅梅は愛せず折て人に呉れぬ
花に來たり瑟を鼓するに意ある人
禿いふわしや煩ふて花の春
きぬ/"\の鐘につれなく冴え返る
虚無僧の敵這入ぬ梅の門
 
  正岡手規へ送りたる句稿 その十四 三月二十四日
先達の斗巾の上や落椿
御陵や七つ下りの落椿
金平のくるり/\と鳳巾
舟輕し水皺よつて蘆の角
薺摘んで母なき子なり一つ家
種卸し/\婿と舅かな
鶯の鳴かんともせず枝移り〔承露盤〕
仰向て深編笠の花見哉
女らしき虚無僧見たり山櫻
奈古寺や七重山吹八重櫻
春の江の開いて遠し寺の塔
柳垂れて江は南に流れけり
川向ひ櫻咲きけり今土燒
頼もうと竹庵來たり梅の花
雨に濡れて鶯鳴かぬ處なし
居士一驚を喫し得たり江南の梅一時に開く
手習や天地玄黄梅の花
霞むの《(後に)いろはにほへと》は高い松なり國境
奈良七重菜の花つゞき五形咲く
草山や南をけづり麥畑〔承露盤〕
御簾搖れて人ありや否や飛ぶ胡蝶
端然と戀をして居る雛かな
藤の花本妻尼になりすます
待つ宵の夢ともならず梨の花
春風や吉田通れば二階から
風が吹く幕の御紋は下り藤
花賣は一軒置て隣りなり
登りたる凌雲閣の霞かな
思ひ出すは古白と申す春の人〔承露盤〕
山城や乾にあたり春の水〔承露盤〕
夫子暖かに無用の肱を曲げてねる
家あり一つ春風春水の眞中に
模糊として竹動きけり春の山
限りなき春の風なり馬の上〔承露盤〕
乙鳥や赤い暖簾の松坂屋
古ぼけた江戸錦繪や春の雨
蹴爪づく富士の裾野や木瓜の花
朧故に行衛も知らぬ戀をする
春の海に橋を懸けたり五大堂〔承露盤〕
足弱を馬に乘せたり山櫻〔承露盤〕
 
  神仙體 十句 三月『めさまし草』
春の夜の琵琶聞えけり天女の祠
路も無し綺樓傑閣梅の花
屋の棟や春風鳴つて白羽の矢
蛤やをり/\見ゆる海の城
霞たつて朱ぬりの橋の消えにけり
どこやらで我名よぶなり春の山
大空や霞の中の鯨波の聲
行春や瓊觴山を流れ出る
神の住む春山白き雲を吐く
催馬樂や縹緲として島一つ
 
  松山客中虚子に別れて 四月
永き日や欠伸うつして別れ行く
 
  留別 村上霽月に 四月
逢はで去る花に涙を濺げかし
 
      四月
市中に君に飼はれて鳴く蛙
 
      四月『めさまし草』 二句
尾上より風かすみけり燧灘
窓低し菜の花明り夕曇り
 
      五月『めさまし草』
駄馬つゞく阿蘇街道の若葉かな
 
      六月十一日正岡子規宛の手紙の中より
衣更へて京より嫁を貰ひけり
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十五 七月八日
海嘯去つて後すさましや五月雨
かたまるや散るや螢の川の上〔承露盤〕
一つすうと座敷を拔る螢かな
竹四五竿をり/\光る螢かな
うき世いかに坊主となりて晝寐する〔承露盤〕
さもあらばあれ時鳥啼て行く
禅定の僧を圍んで鳴く蚊かな
うき人の顔そむけたる蚊遣かな
筋違に芭蕉渡るや蝸牛
袖に手を入て反りたる袷かな
短夜の芭蕉は伸びて仕まひけり〔承露盤〕
もう來ずばなるまいなそれも夏の月
短夜の夢思ひ出すひまもなし
佛壇に尻を向けたる團扇かな
ある畫師の扇子捨てたる流かな
貧しさは紙帳ほどなる庵かな
午砲打つ地城の上や雲の峯
黒船の瀬戸に入りけり雲の峯
行軍の喇叭の音や雲の峯
二里下る麓の村や雲の峯
涼しさの闇を來るなり須磨の浦
涼しさの目に餘りけり千松島
袖腕に成丈高なる暑かな
錢湯に客のいさかふ暑かな
かざすだに面はゆげなる扇子哉
涼しさや大釣鐘を抱て居る
夕立の湖に落ち込む勢かな
涼しさや山を登れば岩谷寺
吹井戸やぼこり/\と眞桑瓜
涼しさや水干着たる自拍子
ゑいやつと蠅叩きけり書生部屋
吾老いぬとは申すまじ更衣
異人住む赤い煉瓦や棕櫚の花
敷石や一丁つゞく棕櫚の花
獨居の歸ればむつと鳴く蚊哉
尻に敷て笠忘れたる清水哉
据風呂の中はしたなや柿の花
短夜を君と寐ようか二千石とらうか
祖母樣の大振袖や土用干
玉章や袖裏返す土用干〔承露盤〕
              愚陀拜
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十六 八月
すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺
涼しさや門にかけたる橋斜め
眠らじな蚊帳に月のさす時は〔承露盤〕
國の名を知つておぢやるか時鳥
西の對へ渡らせ給ふ葵かな
淙々と筧の音のすゞしさよ
橘や通るは近衛大納言
朝貌の黄なるが咲くと申し來ぬ
紅白の蓮擂鉢に開きけり〔承露盤〕
涼しさや奈良の大佛腹の中
淋しくもまた夕顔のさかりかな
あつきものむかし大坂夏御陣
夕日さす裏は磧のあつさかな
午時の草もゆるがず照る日かな
琵琶の名は青山とこそ時鳥
就中大なるが支那の團扇にて
くらがりに團扇の音や古槐
夏痩せて日に焦けて雲水の果はいかに
床に達磨芭蕉涼しく吹かせけり
百日紅浮世は熱きものと知りぬ
手をやらぬ朝貌のびて哀なり
絹團扇墨畫の竹をかゝんかな
獨身や髭を生して夏に籠る
夏書すとて一筆しめし參らする
なんのその南瓜の花も咲けばこそ
我も人も白きもの着る涼みかな
物や思ふと人の問ふまで夏痩せぬ
滿潮や涼んで居れば月が出る
大慈寺の山門長き青田かな
唐茄子と名にうたはれて※[穴/(瓜+瓜)]《ゆが》みけり〔承露盤〕
              愚陀拜
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十七 九月二十五日
  博多公園
初秋の千本の松動きけり
  箱崎八幡
鹹はゆき露にぬれたる鳥居哉〔承露盤〕
  香椎宮
秋立つや千早古る世の杉ありて〔承露盤〕
  天拜山
見上げたる尾の上に秋の松高し
  太宰府天神
反橋の小さく見ゆる芙蓉哉〔承露盤〕
  觀世音寺
古りけりな遺風の額秋の風
  都府樓
鴫立つや礎殘る事五十
  二日市温泉
温泉の町や踊ると見えてさんざめく
  梅林寺
碧巖を提唱す山内の夜ぞ長き
  船後屋温泉
ひや/\と雲が來る也温泉の二階〔承露盤〕
  都府樓瓦を達磨の前に置きて
玉か石か瓦かあるは秋風か
  内君の病を看護して 一句
枕邊や星別れんとする晨〔承露盤〕
稻妻に行手の見えぬ廣野かな〔承露盤〕
秋風や京の寺々鐘を撞く
明月や琵琶を抱へて彈きもやらず
廻廊の柱の影や海の月〔承露盤〕
明月や丸きは僧の影法師〔承露盤〕
酒なくて詩なくて月の靜かさよ〔承露盤〕
明月や背戸で米搗く作右衛門
明月や浪華に住んで橋多し
引かで鳴る夜の鳴子の淋しさよ〔承露盤〕
無性なる案山子朽ちけり立ちながら
打てばひゞく百戸餘りの砧哉
衣擣つて郎に贈らん小包で
鮎澁ぬ降り込められし山里に
鱸魚肥えたり樓に登れば風が吹く
白壁や北に向ひて桐一葉
柳ちりて長安は秋の都かな
垂れかゝる萩靜かなり背戸の川
落ち延びて只一騎なり萩の原
蘭の香や聖教帖を習はんか〔承露盤〕
後に鳴き又先に鳴き鶉かな
窓をあけて君に見せうず菊の花
作らねど菊咲にけり折りにけり〔承露盤〕
世は貧し夕日破垣烏瓜
鷄頭や代官殿に御意得たし〔承露盤〕
長けれど何の糸瓜とさがりけり〔承露盤〕
禅寺や芭蕉葉上愁雨なし
無雜作に蔦這上る厠かな
佛には白菊をこそ參らせん
         愚陀
 
   九月二十五日正岡子規宛の手紙の中より 二句
名月や十三圓の家に住む
月東君は今頃來て居るか〔承露盤〕
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十八 十月
行く秋をすうとほうけし薄哉
行く秋の犬の面こそけゞんなれ
※[糸+弟]袍を誰か贈ると秋暮れぬ
祭文や小春治兵衛に暮るゝ秋
僧堂で痩せたる我に秋暮れぬ
行秋や此頃參る京の瞽女
行秋を踏張て居る仁王哉
行秋や博多の帶の解け易き
機を織る孀二十で行く秋や
行く秋やふらりと長き草鞋の緒
日の入や五重の塔に殘る秋
行く秋や椽にさし込む日は斜
山は殘山水は剰水にして殘る秋
           愚陀拜
原廣し吾門前の星月夜〔承露盤〕
新らしき蕎麥打て食はん坊の雨
  憶古白
古白とは秋につけたる名なるべし〔承露盤〕
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その十九 十月
  初戀
今年より夏書せんとぞ思ひ立つ
獨り顔を團扇でかくす不審なり
  逢戀
降る雪よ今宵ばかりは積れかし
思ひきや花にやせたる御姿
影法師月に竝んで靜かなり
  別戀
きぬ/”\や裏の篠原露多し
見送るや春の潮のひた/\に
  忍戀
人に言へぬ願の糸の亂れかな
君が名や硯に書いては洗ひ消す
  絶戀
橋落ちて戀中絶えぬ五月雨
忘れしか知らぬ顔して畠打つ
  恨戀
行春を琴掻き鳴らし掻き亂す〔承露盤〕
五月雨や鏡曇りて恨めしき
  死戀
生れ代るも物憂からましわすれ草
化石して強面なくならう朧月
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十 十一月
藻ある底に魚の影さす秋の水
秋の山松明かに入日かな
秋の日中山を越す山に松ばかり
一人出て粟刈る里や夕燒す〔承露盤〕
配達ののぞいて行くや秋の水
秋行くと山僮窓を排しいふ
秋の蠅握つて而して放したり
生僧や嫁瓶を破る秋の暮
攝待や御僧は柿をいくつ喰ふ
馬盥や水烟して朝寒し
  訪隱者 一句
菊咲て通る路なく逢はざりき
空に一片秋の雲行く見る一人
秋高し吾白雲に乘らんと思ふ
野分して一人障子を張る男
御名殘の新酒とならば戴かん
菊活けて内君轉た得意なり
  悼亡 一句
見えざりき作りし菊の散るべくも
肌寒や膝を崩さず坐るべく
僧に對すうそ寒げなる拂子の尾〔承露盤〕
善男子善女子に寺の菊黄なり〔承露盤〕
盛り崩す碁石の音の夜寒し
壁の穴風を引くべく稍寒し
蟷螂のさりとては又推參な
此里や柿澁からず夫子住む〔承露盤〕
初冬や向上の一路未だ開かず
冬來たり袖手して書を傍觀す
初冬を刻むや烈士喜劍の碑
初冬の琴面白の音じめ哉
 叱正      漱石拜
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十一 十二月
凩や海に夕日を吹き落す
吾栽し竹に時雨を聽く夜哉
ぱち/\と枯葉焚くなり藥師堂
浪人の寒菊咲きぬ具足櫃
謠ふべき程は時雨つ羅生門
折り焚き〔て〕時雨に彈かん琵琶もなし
銀屏を後ろにしたり水仙花
水仙や主人唐めく秦の姓
水仙や根岸に住んで薄氷
村長の羽織短かき寒哉
革羽織古めかしたる寒かな
凩の松はねぢれつ岡の上
野を行けば寒がる吾を風が吹く
策つて凩の中に馬のり入るゝ
夕日逐ふ乘合馬車の寒かな
雪ながら書院あけたる牡丹哉
堅炭の形ちくづさぬ行衛哉
雜炊や古き茶碗に冬籠
鼓うつや能樂堂の秋の水
重なるは親子か雨に鳴く鶉
底見ゆる一枚岩や秋の水
行年を家賃上げたり麹町
行年を妻炊ぎけり粟の飯
器械湯の石炭臭しむら時雨
醉て叩く門や師走の月の影
貧にして住持去るなり石蕗の花
博徒市に闘ふあとや二更の冬の月
しぐれ候程に宿につきて候
累々と徳孤ならずの蜜柑哉 
同化して黄色にならう蜜柑畠
日あたりや熟柿の如き心地あり
大將は五枚しころの寒さかな
山勢の蜀につらなる小春かな
かきならす灰の中より木の葉哉
汽車を逐て煙這行枯野哉
紡績の笛が鳴るなり冬の雨
がさ/\と紙衣振へば霰かな
挨拶や髷の中より出る霰
かたまつて野武士落行枯野哉
  魏叔子大鐵椎傳 一句
星飛ぶや枯野に動く椎の影
鳥一つ吹き返さるゝ枯野かな
さら/\と栗の落葉や鵙の聲
空家やつくばひ氷る石蕗の花
飛石に客すべる音す石蕗の花
吉良殿のうたれぬ江戸は雪の中
覺めて見れば客眠りけり爐のわきに
面白し雪の中より出る蘇鐵
寐る門を初雪ぢやとて叩きけり
雪になつて用なきわれに合羽あり
僧俗の差し向ひたる火桶哉
六波羅へ召れて寒き火桶哉
物語る手創や古りし桐火桶
生垣の上より語る小春かな
小春半時野川を隔て語りけり
居眠るや黄雀堂に入る小春
家富んで窓に小春の日陰かな
白旗の源氏や木曾の冬木立
立籠る上田の城や冬木立
枯殘るは尾花なるべし一つ家
時雨るゝは平家につらし五家荘
藁葺をまづ時雨けり下根岸
堂下潭あり潭裏影あり冬の月
          漱石拜
 
  正岡家所藏『承露盤』の中より 十二句
曉の夢かとぞ思ふ朧哉
干網に立つ陽炎の腥き
時鳥馬追払こむや※[林/下]川
薫風や銀杏三抱あまりなり
茂りより二本出て來る筧哉
亭寂寞薊鬼百合なんど咲く
うつむいて膝に抱きつく寒哉
半鐘と並んで高き冬木哉
茶煙禅榻外は師走の日影哉
雪洞の廊下をさがる寒さ哉
水涸れて轍のあとや冬の川
土手枯れて左右に長き筧哉
 
      十二月『めさまし草』 二句
扶けられて驢背危し雪の客
戸を開けて驚く雪の晨かな
 
      明治二十九年頃
どつしりと尻を据えたる南瓜かな
 
      一月於子規庵運座
うか/\と我門過くる月夜かな
 
 明治三十年
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十二 一月
  〔前文略〕
生れ得てわれ御目出度顔の春
  其他少々
五斗米を餅にして喰ふ春來たり
臣老いぬ白髪を染めて君が春
元日や蹣跚として吾思ひ
馬に乘つて元朝の人勲二等
詩を書かん君墨を磨れ今朝の春
元日や吾新たなる願あり
春寒し印陀羅といふ畫工あり
聾なる僕藁を打つ冬籠
親子してことりともせず冬籠
醫はやらず歌など撰し冬籠
力なや油なくなる冬籠
佛焚て僧冬籠して居るよ
燭つきつ墨繪の達磨寒氣なる
燭きつて曉ちかし大晦日〔承露盤〕
餅を切る庖丁鈍し古暦〔承露盤〕
冬籠弟は無口にて候
桃の花民天子の姓を知らず
松立てゝ空ほの/”\と明る門
ふくれしよ今年の腹の粟餅に
貧といへど酒飲みやすし君が春
塔五重五階を殘し霞みけり
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十三 二月
酒苦く蒲圃薄くて寢られぬ夜
ひた/\と藻草刈るなり春の水
岩を廻る水に淺きを恨む春
散るを急ぎ櫻に着んと縫ふ小袖
出代の夫婦別れて來りけり
人に死し鶴に生れて冴え返る〔承露盤〕
隻手此頃比良日生捕る汐干よな
恐らくば東風に風ひくべき薄着
寒山か拾得か蜂に螫されしは〔承露盤〕
ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり〔承露盤〕
落ちさまに※[亡/(虫+虫)]を伏せたる椿哉〔承露盤〕
貪りて鶯續け樣に鳴く
のら猫の山寺に來て戀をしつ
ぶつ/\と大なる田螺の不平哉〔承露盤〕
菜の花や城代二萬五千石
明天子上にある野の長閑なる〔承露盤〕
大※[毒/縣]や霞の中を行く車
烈士釼を磨して陽炎むら/\と立つ
柳あり江あり南畫に似たる吾
或夜夢に雛娶りけり白い酒〔承露盤〕
霞みけり物見の松に熊坂が
醋熟して三聖顰す桃の花
川を隔て牛散點し霞みけり
薫ずるは大内といふ香や春
姉樣に參らす桃の押繪かな〔承露盤〕
よき敵ぞ梅の指物するは誰
朧夜や顔に似合ぬ戀もあらん〔承露盤〕
住吉の繪卷を寫し了る春
春は物の句になり易し古短冊〔承露盤〕
山の上に敵の赤旗霞みけり
木瓜咲くや漱石拙を守るべく〔承露盤〕
瀧に乙鳥突き當らんとしては返る〔承露盤〕
なある程是は大きな涅槃像
春の夜を兼好緇衣に恨みあり
暖に乘じ一擧蝨をみなごろしにす
達磨傲然として風に嘯く鳳巾
疝は御大事餘寒烈しく候へば
董程な小さき人に生れたし〔承露盤〕
前垂の赤きに包む土筆かな〔承露盤〕
水に映る藤紫に鯉緋なり
        漱石
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十四 四月十八日
古往今來切つて血の出ぬ海鼠かな
西函嶺を踰えて海鼠に眼鼻なし〔承露盤〕
土筆物言はずすん/\とのびたり
  劍 五句
春寒し墓に懸けたる季子の劍
拔くは長井兵助の太刀春の風
劍寒し闥を排して樊※[口+會]が
太刀佩て戀する雛ぞむつかしき〔承露盤〕
浪人の刀錆びたり時鳥
  泳 六句
顔黒く鉢卷赤し泳ぐ人
深うして渡れず余は泳がれず
裸體なる先生胡座す水泳所
泳ぎ上り河童驚く暑かな
泥川に小兒つどいて泳ぎけり
龜といふが泳いできては背を曝す
  字 五句
いの字よりはの字むつかし梅の花
夏書する黄檗の僧名は即非〔承露盤〕
客に賦あり墨磨り流す月の前〔承露盤〕
巨燵にて一筆しめし參らせう
金泥もて法華經寫す日永哉
  謠 五句
春の夜を小謠はやる家中哉〔承露盤〕
隣より謠ふて來たり夏の月
肌寒み禄を離れし謠ひ聲
謠師の子は鼓うつ時雨かな
謠ふものは誰ぞ櫻に灯ともして〔承露盤〕
八時の廣き畑打つ一人かな
角落ちて首傾けて奈良の鹿〔承露盤〕
菜の花の中へ【眞赤な・大きな】入日かな
木瓜咲くや筮竹の音算木の音
若點の焦つてこそは上るらめ
移し窓春の風門春の水
据風呂に傘さしかけて春の雨〔承露盤〕
泥海の猶しづかなり春の暮
  高良山 一句
石磴や曇る肥前の春の山
松をもて圍ひし谷の櫻かな
雨に雲に櫻濡れたり山の陰
菜の花の遙かに黄なり筑後川〔承露盤〕
花に濡るゝ傘なき人の雨を寒み〔承露盤〕
人に逢はず雨ふる山の花盛
筑後路や丸い山吹く春の風〔承露盤〕
山高し動ともすれば春曇る〔承露盤〕
濃かに彌生の雲の流れけり〔承露盤〕
拜殿に花吹き込むや鈴の音
金襴の軸懸け替て春の風
留針や故郷の蝶餘所の蝶〔承露盤〕
しめ繩や春の水湧く水前寺
上畫津や青き水菜に白き蝶
菜種咲く小島を抱いて淺き川
棹さして舟押し出すや春の川
柳ありて白き家鴨に枝垂たり〔承露盤〕
就中高き櫻をくるり/\
魚は皆上らんとして春の川〔承露盤〕
 叱正      漱石拜
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十五 五月二十八日
行く春を剃り落したる眉青し〔承露盤〕
行く春を沈香亭の牡丹哉
春の夜や局をさがる衣の音
  憶子規 一句
春雨の夜すがら物を思はする
埒もなく禅師肥たり更衣
よき人のわざとがましや更衣〔承露盤〕
更衣て弟の脛何ぞ太き
埋もれて若葉の中や水の音
影多き梧桐に据る床几かな
郭公茶の間へまかる通夜の人〔承露盤〕
蹴付たる讎の枕や子規
辻君に袖牽れけり子規〔承露盤〕
扛げ兼て妹が手細し鮓の石
小賢しき犬吠付や更衣
七筋を心利きたる鵜匠哉
漢方や柑子花さく門構〔承露盤〕
若葉して半簾の雨に臥したる
妾宅や牡丹に會す琴の弟子
世はいづれ椶櫚の花さへ穗に出でつ
立て懸て螢這ひけり草箒
若葉して縁切榎切られたる
でゞ蟲の角ふり立てゝ井戸の端
溜池に蛙闘ふ卯月かな
虚無僧に犬吠えかゝる桐の花
筍や思ひがけなき垣根より
若竹や名も知らぬ人の墓の傍
若竹の夕に入て動きけり
鞭鳴す馬車の埃や麥の秋〔承露盤〕
渡らんとして谷に橋なし閑古鳥
折り添て文にも書かず杜若〔承露盤〕
八重にして芥子の赤きぞ恨みなる
傘さして後向なり杜若
蘭湯に浴すと書て詩人なり
すゝめたる鮓を皆迄參りたり
鮓桶の乾かで臭し蝸牛
生臭き鮓を食ふや佐野の人
粽食ふ夜汽車や膳所の小商人
蝙蝠や賊の酒呑む古館
不出來なる粽と申しおこすなる
五月雨や小袖をほどく酒のしみ
五月雨の壁落しけり枕元
五月雨や四つ手繕ふ舊士族
眼を病んで灯ともさぬ夜や五月雨〔承露盤〕
馬の蠅牛の蠅來る宿屋かな
逃すまじき蚤の行衛や子規
蚤を逸し赤き毛布に恨みあり
蚊にあけて口許りなり蟇の面
鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂
  熊本にて 一句
夏來ぬと又長鋏を彈ずらく
藪近し椽の下より筍が
寐苦しき門を夜すがら水鷄かな
  成道寺 一句
若葉して手のひらほどの山の寺
菜種打つ向ひ合せや夫婦同志
菊池路や麥を刈るなる舊四月
麥を刈るあとを頻りに燕かな
文與可や笋を食ひ竹を畫く
五月雨の弓張らんとすればくるひたる〔承露盤〕
立て見たり寐て見たり又酒を※[者/火]たり
水攻の城落ちんとす五月雨〔承露盤〕
大手より源氏寄せたり青嵐〔承露盤〕
水涸れて城將降る雲の峯
 
      五月『めさまし草』
青葉勝に見ゆる小村の幟かな
 
      七月『めさまし草』
槽底に魚あり沈む心太
 
     八月一日正岡子規宛の手紙の中より
夕涼し起ち得ぬ和子を喞つらく
 
      八月『めさまし草』
落ちて來て露になるげな天の川
 
       八月、九月
  初秋鎌倉に宿して
行燈や短かゝりし夜の影ならず
  鶴ケ岡八幡
徘徊す蓮あるをもて朝な夕な
  圓覺寺
冷やかな鐘をつきけり圓覺寺
  長谷
來て見れば長谷は秋風ばかりなり
  歸源院即事
佛性は白き桔梗にこそあらめ
山寺に湯ざめを悔る今朝の秋
  禅僧宗活に對す
其許は案山子に似たる和尚かな
  九月十日熊本着
南九州に入つて柿既に熟す
 
       九月十一日正岡子規宛の端書の中より
今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十六 十月
  或人につかはす 一句
樽柿の澁き昔しを忘るゝな
澁柿やあかの他人であるからは
萩に伏し薄にみだれ故里は〔承露盤〕
粟折つて穗ながら呉るゝ籠の鳥
蟷螂の何を以てか立腹す
※[虫+車]のふと鳴き出しぬ鳴きやみぬ〔承露盤〕
うつら/\聞き初めしより秋の風〔承露盤〕
秋風や棚に上げたる古かばん〔承露盤〕
明月や無筆なれども酒は呑む〔承露盤〕
明月や御樂に御座る殿御達
明月に今年も旅で逢ひ申す〔承露盤〕
眞夜中は淋しからうに御月樣
明月や拙者も無事で此通り〔承露盤〕
※[虫+車]よ秋ぢや鳴かうが鳴くまいが〔承露盤〕
秋の暮一人旅とて嫌はるゝ〔承露盤〕
梁上の君子と語る夜寒かな〔承露盤〕
これ見よと云はぬ許りに月が出る
朝寒の冷水浴を難んずる〔承露盤〕
  妻を遺して獨り肥後に下る 一句
月に行く漱石妻を忘れたり
朝寒の膳に向へば焦げし飯
長き夜を平氣な人と合宿す
うそ寒み大めしを食ふ旅客あり
吏と農と夜寒の汽車に語るらく
月さして風呂場へ出たり平家蟹〔承露盤〕
恐る/\芭蕉に乘つて雨蛙
某は案山子にて候雀どの〔承露盤〕
鷄頭の陽氣に秋を觀ずらん〔承露盤〕
明月に夜逃せうとて延ばしたる
鳴子引くは只退屈で困る故
芭蕉ならん思ひがけなく戸を打つは
刺さずんば已まずと誓ふ秋の蚊や
秋の蚊と夢油斷ばしし給ふな
嫁し去つてなれぬ砧に急がしき
長き夜を煎餅につく鼠かな〔承露盤〕
野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ〔承露盤〕
豆柿の小くとも數で勝つ氣よな
北側を稻妻燒くや黒き雲〔承霍盤〕
餘念なくぶらさがるなり烏瓜
蛛落ちて疊に音す秋の灯細し
          漱石拜
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十七 十二月
  朧枝子來る
淋しくば鳴子をならし聞かせうか
  有感
ある時は新酒に醉て悔多き〔承露盤〕
  紫影に別るゝ時 一句
菊の頃なれば歸りの急がれて
傘を菊にさしたり新屋敷
去りとてはむしりもならず赤き菊
一東の韻に時雨るゝ愚庵かな
凩や鐘をつくなら踏む張つて
二三片山茶花散りぬ床の上
早鐘の恐ろしかりし木の葉哉
片折戸菊押し倒し開きけり
粟の後に刈り殘されて菊孤也〔承露盤〕
初時雨吾に持病の疝氣あり
柿落ちてうたゝ短かき日となりぬ〔承露盤〕
提灯の根岸に歸る時雨かな
曉の水仙に對し川手水
蒲圃着て踏張る夢の暖き
塞を出てあられしたゝか降る事よ
熊笹に兎飛び込む霰哉
病あり二日を籠る置炬燵
水仙の花鼻かぜの枕元
        漱石拜
 
  正岡家所藏『承露盤』の中より 十六句
蛭ありて黄也水經注に曰く
土用にして灸を据べく頭痛あり
樂に更けて短き夜也公使館
撫子に病閑ありて水くれぬ
夕立や犇く市の十万家
寂として椽に鋏と牡丹哉
  鶴岡 一句
白蓮にいやしからざる朱欄哉
來る秋のことわりもなく蚊帳の中
晴明の頭の上や星の戀
  留別 一句
朝寒み夜寒みひとり行く旅ぞ
砂山に芒ばかりの野分哉
船出るとのゝしる聲す深き霧
朝懸や霧の中より越後勢
山里や一斗の粟に貧ならず
漕ぎ入れん初汐よする龍が窟
藥掘昔不老の願ひあり
 
      明治三十年頃
竿になれ鉤になれ此處へおろせ雁
鳴き立てゝつく/\法師死ぬる日ぞ
濱に住んで朝顔小き恨みかな
 
    明治三十一年
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その二十八 一月六日
行く年や猫うづくまる膝の上
焚かんとす枯葉にまじる霰哉
切口の白き芭蕉に氷りつく
家を出て師走の雨に合羽哉
何をつゝき鴉あつまる冬の畠
降りやんで蜜柑まだらに雪の舟
此炭の喞つべき世をいぶるかな
かんてらや師走の宿に寐つかれず
温泉の門に師走の熟柿かな
温泉の山や蜜柑の山の南側
海近し寐鴨をうちし筒の音
天草の後ろに寒き入日かな
日に映ずほうけし薄枯ながら
旅にして申譯なく暮るゝ年
凩の沖へとあるゝ筑紫潟
うき除夜を壁に向へば影法師
床の上に菊枯れながら明の春
元日の山を後ろに清き温泉
酒を呼んで醉はず明けたり今朝の春
稍遲し山を背にして初日影
馳け上る松の小山や初日の出
甘からぬ屠蘇や旅なる醉心地
  小天に春を迎へて
温泉や水滑かに去年の垢
  大喪中 一句
此春を御慶もいはで雪多し
正月の男といはれ拙に處す
色々の雲の中より初日出
  賀虚子新婚 一句
初鴉東の方を新枕
僧歸る竹の裡こそ寒からめ
桐かれて洩れ來る月の影多し
  歸庵
一尺の梅を座右に置く机
 正       愚陀佛庵
 
      三月二十一日高濱虚子宛の手紙の中より
梅ちつてそゞろなつかしむ新俳句
 
  正岡手洗へ送りたる句稿 その二十九 五月頃
春雨の隣の琴は六段か
瓢かけてから/\と鳴る春の風
鳥籠を柳にかけて狭き庭
來よといふに來らずやみし櫻かな
三條の上で逢ひけり瀧月
片寄する琴に落ちけり朧月〔承露盤〕
こぬ殿に月朧也高き樓
行き/\て朧に笙を吹く別れ〔承露盤〕
搦手やはね橋下す朧月〔承露盤〕
  有感
有耶無耶の柳近頃緑也〔承露盤〕
  白川
颯と打つ夜網の音や春の川
  本妙寺
永き日を太鼓打つ手のゆるむ也
  水前寺
湧くからに流るゝからに春の水
  藤崎八幡
禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花〔承露盤〕
  明午橋
春の夜のしば笛を吹く書生哉
  花岡山
海を見て十歩に足らぬ畑を打つ
  拜聖庵
花一木穴賢しと見上たる
  其他
佛かく宅磨が家や梅の花
鶴を切る板は五尺の春の椽
思ひ切つて五分に刈りたる袷かな
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その三十 九月二十八日
   馬車には乘るものと聞きしに同行四人 一句
小き馬車に積み込まれけり稻の花
夕暮の秋海棠に蝶うとし
離れては寄りては菊の蝶一つ
枚をふくむ三百人や秋の霜
胡兒驕つて驚きやすし雁の聲
※[石+甚]うつ眞夜中頃に句を得たり
踊りけり拍子をとりて月ながら
茶布巾の黄はさめ易き秋となる
長かれと夜すがら語る二人かな
子は雀身は蛤のうきわかれ
相撲取の屈托顔や午の雨
  言者不知知者不言 一句
ものいはぬ案山子に鳥の近寄らず
病む頃を雁來紅に雨多し
寺借りて二十日になりぬ鷄頭花
恩給に事を缺かでや種瓢
早稻晩稻花なら見せう萩紫苑
生垣の丈かり揃へ晴るゝ秋
秋寒し此頃あるゝ海の色
夜相撲やかんてらの灯をふきつける
  聖像をかけて
菅公に梅さかざれば蘭の花
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その三十一 十月十六日
立枯の唐黍鳴つて物憂かり
逢ふ戀の打たでやみけり小夜砧
蝶来りしほらしき名の江戸菊に
塩燒や鮎に澁びたる好みあり
一株の芒動くや鉢の中〔承露盤〕
乾鮭のからついてゐる桂かな〔承露盤〕
病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋〔承露盤〕
かしこまりて憐れや秋の膝頭
かしこみて易を讀む儒の夜を長み
長き夜や土瓶をしたむ臺所
張まぜの屏風になくや蟋蟀〔承露盤〕
うそ寒み油ぎつたる枕紙
病むからに行燈の華の夜を長み〔承露盤〕
秋の暮野狐精來り見えて曰く
白封に封書と書いて漸寒し
落ち合ひて新酒に名乘る醫者易者〔承露盤〕
憂あり新酒の醉に托すべく〔承露盤〕
苫もりて夢こそ覺むれ荻の聲
秋の日のつれなく見えし別かな〔承露盤〕
行く秋の關廟の香爐烟なし
 玉斧       漱石拜
 
     十一月『反省雑誌』 五句
朝寒の楊子使ふや流し元
駕舁の京へと急ぐ女郎花
柳散り/\つゝ細る戀
病癒えず蹲る夜の野分かな
つるんだる蜻蛉飛ぶなり水の上
 
  正岡家所藏『承露盤』の中より 六句
菊作る奴がわざの接木かな
ゆゝしくも合羽に包むつぎ木かな
能もなき澁柿共や門の内
朝顔や手拭懸に這ひ上る
むら雀粟の穗による亂れかな
唐黍や兵を伏せたる氣合あり
 
 明治三十二年
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その三十二 一月
  元日屠蘇を酌んで家を出づ
金泥の鶴や朱塗の屠蘇の盃
宇佐に行くや佳き日を選む初暦
  宰府より博多へ歸る人にて汽車には坐すべき場所もなし
梅の神に如何なる戀や祈るらん
  小倉
うつくしき蟹の頭や春の鯛
  正月二日宇佐に入る新暦なればにや門松たてたる家もなし
蕭條たる古驛に入るや春の夕
  宇佐八幡にて
兀として鳥居立ちけり冬木立
神苑に鶴放ちけり梅の花
ぬかづいて曰く正月二日なり
松の苔鶴痩せながら神の春
南無弓矢八幡殿に御慶かな
神かけて祈る戀なし宇佐の春
  橋を呉橋といひ川を寄藻川といふ 一句
呉橋や若菜を洗ふ寄藻川
灰色の空低れかゝる枯野哉
無提灯で枯野を通る寒哉
石標や殘る一株の枯芒
枯芒北に向つて靡きけり
遠く見る枯野の中の烟かな
暗がりに雜巾を踏む寒哉
冬ざれや貉をつるす軒の下
  羅漢寺にて
凩や岩に取りつく羅漢路
巖窟の羅漢共こそ寒からめ
釣鐘に雲氷るべく山高し
凩の鐘樓危ふし巖の角
梯して上る大磐石の氷かな
巖頭に本堂くらき寒かな
絶壁に木枯あたるひゞきかな
  巖端に廊あり藁を積むこと丈餘雛僧一人其端に坐して凩の吹くたびに千丈の崖下に落ちんとす其居の危きを告ぐるに平然として曰くいのちは一つぢやあきらめて居りますると勿然鳥巣和尚の故事を憶起して
雛僧の只風呂吹と答へけり
  參詣路の入口にて道端の笹の葉を結びて登るが例なり極樂の縁を結ぶ爲めなりとかや之を笹結びといふ 二句
かしこしや未來を霜の笹結び
二世かけて結ぶちぎりや雪の笹
  口の林といふ處に宿りて
短かくて毛布つぎ足す蒲團かな
泊り合す旅商人の寒がるよ
寐まらんとすれど衾の薄くして
  耶馬溪にて
頭巾着たる獵師に逢ひぬ谷深み
はたと逢ふ夜興引ならん岩の角
谷深み杉を流すや冬の川
冬木流す人は猿の如くなり
帽頭や思ひがけなき岩の雪
石の山凩に吹かれ裸なり
  溪山幾曲愈入れば愈深し
凩のまがりくねつて響きけり
  山は洗ひし如くにて
凩の吹くべき松も生えざりき
年々や風吹て尖る山
凩の峯は釼の如くなり
恐ろしき岩の色なり玉霰
只寒し天狹くして水青く
目ともいはず口ともいはず吹雪哉
ばり/\と氷踏みけり谷の道
  溪中柿坂を過ぐ
道端や氷りつきたる高箒
  守實に泊りて
たまさかに据風呂焚くや冬の雨
せぐゝまる蒲團の中や夜もすがら
薄蒲團なえし毛脛を擦りけり
  家に婦人なし之を問へば先つ頃身まかりて翌は三十五日なりといふ庭前の墓標行客の憐をひきてカンテラの灯の愈陰氣なり
僧に似たるが宿り合せぬ雪今宵
  峠を踰えて豐後日田に下る
雪ちら/\峠にかゝる合羽かな
排へども/\わが袖の雪
かたかりき鞋喰ひ込む足袋の股
隧道の口に大なる氷柱かな
吹きまくる雪の下なり日田の町
炭を積む馬の脊に降る雪まだら
  峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ
漸くに又起きあがる吹雪かな
  日田にて五岳を憶ひ
詩僧死して只凩の里なりき
  筑後川の上流を下る
蓆帆の早瀬を上る霞かな
奔湍に霰ふり込む根笹かな
つるぎ洗ふ武夫もなし玉霰
新道は一直線の寒さかな
棒鼻より三里と答ふ吹雪哉
  吉井に泊りて
なつかしむ衾に聞くや馬の鈴
  追分とかいふ處にて車夫共の親方乘つて行かん喃といふがあまり可笑しかりければ
親方と呼びかけられし毛布哉
  其他少々
餅搗や明星光る杵の先
行く年の左したる思慮もなかりけり〔承露盤〕
染め直す古服もなし年の暮
やかましき姑健なり年の暮
ニツケルの時計とまりぬ寒き夜半
元日の富士に逢ひけり馬の上
蓬莱に初日さし込む書院哉
光琳の屏風に咲くや福壽草
眸に入る富士大いなり春の樓
 正
  つまらぬ句許りに候然し紀行の代りとして御覽被下度冀くは大兄病中烟霞の僻萬分の一を慰するに足らんか
 
  手帳の中より 二十七句 一月頃
石打でばかららんと鳴る氷哉
樂《〔?〕》しんで蓋をあくれば干鱈哉
乾鮭や薄く切れとの仰せなり
春風に祖師西來の意あるべし
禅僧に旛動きけり春の風
佛畫く殿司の窓や梅の花
郎を待つ待合茶屋の柳かな
鞭つて牛動かざる日永かな
わが歌の胡弓にのらぬ朧かな
煩惱の朧に似たる夜もありき
吾折々死なんと思ふ朧かな
春此頃化石せんとの願あり
招かれて隣に更けし歌留多哉
追羽子や君稚兒髷の黒眼勝
耄碌と名のつく老の頭巾かな
筋違に葱を切るなり都振
玉葱の※[者/火]えざるを※[者/火]つ火鉢哉
湯豆腐に霰飛び込む床几哉
立ん坊の地團太を踏む寒かな
べんべらを一枚着たる寒さかな
ある時は鉢叩かうと思ひけり
寄り添へば冷たき瀬戸の火鉢かな
  清巖曰※[金+獲の旁]湯有冷處 一句
雪を※[者/火]て※[者/火]立つ音の凉しさよ
擧して曰く可なく不可なし蕪汁
善か惡か風呂吹を喰つて合點せよ
何の故に恐縮したる生海鼠哉
老※[耳+再の一画目なし]のうとき耳ほる火燵かな
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その三十三 二月
  梅花百五句
夫子貧に梅花書屋の粥薄し
手を入るゝ水餅白し納屋の梅
馬の尻に尾して下るや岨の梅
ある程の梅に名なきはなかり鳧
奈良漬に梅に其香をなつかしむ
相傳の金創膏や梅の花
たのもしき梅の足利文庫かな
抱一は發句も讀んで梅の花
明た口に團子賜る梅見かな
いざ梅見合點と端折る衣の裾
夜汽車より白きを梅と推しけり
死して名なき人のみ住んで梅の花
法橋を給はる梅の主人かな
丑蘭と大雅と語る梅の花
村長の上座につくや床の梅
梅の小路練香ひさぐ翁かな
寄合や少し後れて梅の椽
裏門や醋藏に近き梅赤し
一つ紋の羽織はいやし梅の花
白梅や易を講ずる蘇東坡服
蒟蒻に梅を踏み込む男かな
梅の花千家の會に參りけり
碧玉の茶碗に梅の落花かな
粗略ならぬ服紗さばきや梅の主
日當りや刀を拭ふ梅の主
祐筆の大師流なり梅の花
日をうけぬ梅の景色や楞伽窟
とく起て味噌する梅の隣かな
梅の花貧乏神の祟りけり
駒犬の怒つて居るや梅の花
筮竹に梅ちりかゝる社頭哉
一齋の小鼻動くよ梅花※[食+卞]
封切れば月が瀬の梅二三片
ものいはず童子遠くの梅を指す
寒徹骨梅を娶ると夢みけり
驢に乘るは東坡にやあらん雪の梅
梅の詩を得たりと叩く月の門
黄昏の梅に立ちけり繪師の妻
髣髴と日暮れて入りぬ梅の村
梅散るや源太の箙はなやかに
月に望む麓の村の梅白し
瑠璃色の空を控へて岡の梅
落梅花水車の門を流れけり
梅の下に槇割る翁の面黄也
妓を拉す二重廻しや梅屋敷
曉の梅に下りて嗽ぐ
梅の花琴を抱いてあちこちす
さら/\と衣を鳴らして梅見哉
佩環の升鏘然として梅白し
戞と鳴て鶴飛び去りぬ闇の梅
眠らざる僧の嚔や夜半の梅
尺八のはたとやみけり梅の門
宣徳の香爐にちるや瓶の梅
古銅瓶に疎らな梅を活けてけり
鐵筆や水晶刻む窓の梅
墨の香や奈良の都の古梅園
梅の宿殘月硯を藏しけり
畠打の梅を繞ぐつて動きけり
縁日の梅窮屈に咲きにけり
梅の香や茶畠つゞき爪上り
灯もつけず雨戸も引かず梅の花
梅林や角巾黄なる賣茶翁
上り汽車の箱根を出て梅白し
佶倔な梅を畫くや謝春星
雪隱の壁に上るや梅の影
道服と吾妻コートの梅見哉
女倶して舟を上るや梅屋敷
梅の寺麓の人語聞ゆなり
梅の奥に誰やら住んで幽かな灯
圓遊の鼻ばかりなり梅屋敷
梅の中に且たのもしや梭の音
清げなる宮司の面や梅の花
月升つて枕に落ちぬ梅の影
相逢ふて語らで過ぎぬ梅の下
昵懇な和尚訪ひよる梅の坊
月の梅貴とき狐裘着たりけり
京音の紅梅ありやと尋ねけり
紅梅に艶なる女主人かな
紅梅や物の化の住む古館
梅紅ひめかけの歌に咏まれけり
いち早く紅梅咲きぬ下屋敷
紅梅や姉妹の振る采の筒
長と張つて半と出でけり梅の宿
俗俳や床屋の卓に奇なる梅
徂頼※[行人偏+來]其角並んで住めり梅の花
盆梅の一尺にして偃蹇す
雲を呼ぶ座右の梅や列仙傳
紅梅や文箱差出す高蒔繪
籔の梅危く咲きぬ二三輪
無作法にぬつと出けり崖の梅
梅活けて古道顔色を照らす哉
潺湲の水挾む古梅かな
手桶さげて谷に下るや梅の花
寒梅に磬を打つなり月桂寺
梅遠近そゞろあるきす昨日今日
月升つて再び梅に徘徊す
糸印の讀み難きを愛す梅の翁
鐵幹や曉星を點ず居士の梅
梅一株竹三竿の住居かな
梅に對す和靖の髭の白きかな
琴に打つ斧の響や梅の花
槎牙として素琴を壓す梅の影
朱を點ず三昧集や梅の花
梅の精は美人にて松の精は翁也
一輪を雪中梅と名けけり
 大政      漱石稿
 
  手帳の中より 十六句 春−初夏頃
靴足袋のあみかけてある火鉢哉
ごんと鳴る鐘をつきけり春の暮
爐塞いで山に入るべき日を思ふ
白き蝶をふと見染めけり黄なる蝶
小雀の餌や喰ふ黄なる口あけて
梅の花青磁の瓶を乞ひ得たり
郎去つて柳空しく緑なり
行春や紅さめし衣の裏
紫の幕をたゝむや花の山
花の寺黒き佛の尊さよ
僧か俗か庵を這入れば木瓜の花
其愚には及ぶべからず木瓜の花
寺町や土塀の隙の木瓜の花
※[壹の豆が(石/木)]駝呼んで突ばひ据ぬ木瓜の花
木瓜の花の役にも立たぬ實となりぬ
若葉して籠り勝なる書齋かな
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その三十四 九月五日
馬渡す舟を呼びけり黍の間
堅き梨に鈍き刃物を添てけり
馬の子と牛の子と居る野菊かな
  戸下温泉  
温泉湧く谷の底より初嵐
重ぬべき單衣も持たず肌寒し
谷底の湯槽を出るやうそ寒み
山里や今宵秋立つ水の音
鷄頭の色づかであり温泉の流
草山に馬放ちけり秋の空
女郎花馬糞について上りけり
女郎花土橋を二つ渡りけり
  内牧温泉
圍ひあらで湯槽に逼る狹霧かな
湯槽から四方を見るや稻の花
遣水の音たのもしや女郎花
歸らんとして歸らぬ樣や濡燕
雪隱の窓から見るや秋の山
北側は杉の木立や秋の山
終日や尾の上離れぬ秋の雲
蓼痩せて辛くもあらず温泉の流
白萩の露をこぼすや温泉の流
草刈の籃の中より野菊かな
白露や研ぎすましたる鎌の色
葉鷄頭團子の串を削りけり
秋の川眞白な石を拾ひけり
秋雨や杉の枯葉をくべる音
秋雨や蕎麥をゆでたる湯の臭ひ
  阿蘇神社
朝寒み白木の宮に詣でけり
秋風や梵字を刻す五輪塔
鳥も飛ばず二百十日の鳴子かな
  阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふ 二句
灰に濡れて立つや薄と萩の中
行けど萩行けど薄の原廣し
  立野といふ所にて馬車宿に泊る 一句
語り出す祭文は何宵の秋
野菊一輪手帳の中に挾みけり
路岐して何れか是なるわれもかう
七夕の女竹を伐るや裏の籔
顔洗ふ盥に立つや秋の影
柄杓もて水瓶洗ふ音や秋
釣瓶きれて井戸を覗くや今朝の秋
秋立つや眼鏡して見る三世相
喪を秘して軍を返すや星月夜
秋暑し癒なんとして胃の病
  祝車百合發刊 一句
聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ
秋茄子髭ある人に嫁ぎけり
湖を前に關所の秋早し
初秋の隣に住むや池の坊
荒壁に軸落ちつかず秋の風
唐茄子の蔓の長さよ隣から
端居して秋近き夜や空を見る
顔にふるゝ芭蕉涼しや籐の寢椅子
  寅彦桂濱の石數十顆を送る
涼しさや石握り見る掌
  送別
時くれば燕もやがて歸るなり
 
秋立つや萩のうねりのやゝ長く
 
  正岡子規へ送りたる句稿 その三十五 十月十七日
  熊本高等學校秋季雑咏
   学校
いかめしき門を這入れば蕎麥の花
粟みのる畠を借して敷地なり
   運動場
松を出てまばゆくぞある露の原
   圖書館
韋編斷えて夜寒の倉に束ねたる
秋はふみ吾に天下の志
   習學寮
頓首して新酒門内に許されず
朝寒と申し襦袢の贈物
   瑞邦舘
孔孟の道貪ならず稻の花
古ぼけし油繪をかけ秋の蝶
   倫理講話
赤き物少しは參れ蕃椒
かしこまる膝のあたりやそゞろ寒
   教室
朝寒の顔を揃へし机かな
先生の疎髯を吹くや秋の風
   植物園
本名は頓とわからず草の花
苔青く末枯るゝべきものもなし
   物理室
南窓に寫眞を燒くや赤蜻蛉
暗室や心得たりときりぎりす
   化學室
化學とは花火を造る術ならん
玻璃瓶に糸瓜の水や二升程
   動物室
剥製の鵙鳴かなくに晝淋し
魚も祭らず獺老いて秋の風
   食堂
樊※[口+會]や闥を排して茸の飯
大食を上座に栗の飯黄なり
   演説會
瓜西瓜冨婁那ならぬはなかりけり
就中うましと思ふ柿と栗
   撃釼會
稻妻の目にも留らぬ勝負哉
容赦なく瓢を叩く糸瓜かな
   柔道試合
轉けし芋の鳥渡起き直る健氣さよ
靡けども芒を倒し能はざる
 正        漱石拜
 
  手帳の中より 十三句
見るからに涼しき宿や谷の底
むつとして口を開かぬ桔梗かな
さら/\と護謨の合羽に秋の雨
澁柿や長者と見えて岡の家
門前に琴彈く家や菊の寺
時雨るゝや足場朽ちたる堂の漏
釣鐘をすかして見るや秋の海
菊に猫沈南蘋を招きけり
部屋住の棒使ひ居る月夜かな
  叢中に雀の死骸を拾ひ得て之を白菊の下に葬る 一句
蛤とならざるをいたみ菊の露
神垣や紅葉を翳す巫女の袖
火燵して得たる將棋の詰手哉
自轉車を輪に乘る馬場の柳かな
 
    十二月十一日高濱虚子宛の手紙の中より 四句
横顔の歌舞伎に似たる火鉢哉
炭團いけて雪隱詰の工夫哉
御家人の安火を抱くや後風土記
追分で引き剥がれたる寒かな
 
      月日不詳
決闘や町をはなれて星月夜
  〔長女出生〕
安々と海鼠の如き子を生めり
 
      明治三十二年頃
時雨ては化る文福茶釜かな
寒菊や京の茶を賣る夫婦もの
茶の會に客の揃はぬ時雨哉
山茶花や亭をめぐりて小道あり
茶の花や長屋も持ちて淨土寺
小春日や茶室を開き南向
水仙や髯たくはへて賣茶翁
 
 明治三十三年
 
  北千反畑に轉居して四句 四月
菜の花の隣もありて竹の垣
鶯も柳も青き住居かな
新しき《(後に)疊も》疊に寐たり宵の春
春の雨鍋と釜とを運びけり
 
折釘に掛けし春著や五つ紋
 
  卒業を祝して 手塚光貴宛
ひとり咲いて朝日に匂ふ葵哉
 
  紫川の東上を送る 七月四日
京に行かば寺に宿かれ時鳥
 
    無心常覺涼静坐自生風 原紫川のために 七月四日
ふき通す涼しき風や腹の中
 
     九月六日寺田寅彦宛の端書の中より
秋風の一人をふくや海の上
 
  日記の中より 渡歐 六句 九月より十一月まで
阿呆鳥熱き國へぞ參りける
稻妻の碎けて《(後に)に》青し浪の花
雲の峰風なき海を《(後に)海の上》渡りけり
赤き日の海に落込む暑かな
日は落ちて海の底より暑かな
空狭き都に住むや神無月
 
 明治三十四年
 
 日記の中より 倫敦 二月一日
 朝Dulwichに至りPicture Galleryを見る此邊に至ればさすがの英國も風流閑雅の趣なきにあらず
繪所を栗燒く人に尋ねけり
 
       二月二十三日高濱虚子宛の端書に(倫敦)
  女皇の葬式は「ハイド」公園にて見物致候立派なものに候
白金に黄金に柩寒からず
  屋根の上などに見物人が澤山居候妙ですな
凩の下にゐろとも吹かぬなり
  棺の來る時は流石に静肅なり
凩や吹き静まつて喪の車
  熊の皮の帽を戴くは何といふ兵隊にや
熊の皮の頭巾ゆゝしき警護かな
  もう英國も厭になり候
吾妹子を夢みる春の夜となりぬ
  當地の芝居は中々立派に候
滿堂の閻浮檀金や宵の春
  或詩人の作を讀で非常に嬉しかりし時
見付たる菫の花や夕明り
 
     十一月三日 於倫敦太良坊運座
礎に砂吹きあつる野分かな
角巾を吹き落し行く野分かな
近けば庄屋殿なり霧のあさ
  天長節 一句
後天後土菊匂はざる處なし
栗を燒く伊太利人や道の傍
栗はねて失せけるを灰に求め得ず
 
     十一月十日 於倫敦太良坊運座
澁柿やにくき庄屋の門構
ほきとをる下駄の齒形や霜柱
月にうつる擬寶珠の色やとくる霜
茶の花や智識と見えて眉深し
茶の花や讀みさしてある楞伽經
 
 明治三十五年
 
     一月一日 於倫敦太良坊運座
山賊の顔のみ明かき榾火かな
 
     二月十六日村上霽月宛の端書の中より(倫敦)
花賣に寒し眞珠の耳飾
なつかしの紙衣もあらず行李の底
三階に獨り寐に行く寒かな
 
     四月中旬渡邊春溪宛の手紙の中より(倫敦)
句あるべくも花なき國に客となり
 
  倫敦にて子規の訃を聞きて 五句
     十二月一日高濱虚子宛の手紙の中より
筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きり/”\すの昔を忍び歸るべし
招かざる薄に歸り來る人ぞ
 
 明治三十六年
 
     五月 於一高俳句會
落ちし雷を盥に伏せて鮓の石
 
     六月 二句
引窓をからりと空の明け易き
ぬきんでゝ雜木の中や椶櫚の花
 
     七月 二句
雲の峰雷を封じて聳えけり
船此日運河に入るや雲の峰
 
     六月十七日井上微笑宛の手紙の中より
愚かければ獨りすゞしくおはします
無人島の天子とならば涼しかろ
短夜や夜討をかくるひまもなく
更衣同心衆の十手かな
ひとりきくや夏鶯の亂鳴
蝙蝠や一筋町の旅藝者
蝙蝠に近し小鍛冶が鎚の音
市の灯に美なる苺を見付たり
玻璃盤に露のしたゝる苺かな
能もなき教師とならんあら凉し
蚊帳青く涼しき顔にふきつける
更衣※[さんずい+斤]に浴すべき願あり
薔薇ちるや天似孫の詩見厭たり
 
     七月二日菅虎雄宛の手紙の中より
樂寝晝寢われは物草太郎なり
 
     明治三十六年?『几董全集』書入れの中より
一大事も糸瓜も糞もあらばこそ
 
     明治三十六年?『春夏秋冬』夏の部裏表紙に
【座と・手と】襟を正して見たり更衣
衣更て見たが家から出て見たが
 
 明治三十七年
 
      一月三日橋口貢宛の自筆の繪端書に
人の上春を寫すや繪そら言
 
      四月二十一日野間眞綱宛の手紙の中より
鳩鳴いて烟の如き春に入る
杳として桃花に入るや水の色
 
  小羊物語に題す十句
       五月 小松武治譯『沙翁物語集』序
雨ともならず唯凩の吹き募る
  二
〔テンペストの引用英文省略〕
見るからに涼しき島に住むからに
  三
〔ハムレットの引用英文省略〕
骸骨を叩いて見たる菫かな
〔ロメオとジュリエットの引用英文省略〕
  四
罪もうれし二人にかゝる朧月
  五
〔マクベスの引用英文省略〕
小夜時雨眠るなかれと鐘を撞く
  六
〔十二夜の引用英文省略〕
伏す萩の風情にそれと覺りてよ
  七
〔オセロの引用英文省略〕
白菊にしばし逡巡らふ鋏かな
  八
〔ベニスの商人の引用英文省略〕
女郎花を男郎花とや思ひけん
  九
〔冬物語の引用英文省略〕
人形の獨りと動く日永かな
  十
〔お氣に召すままの引用英文省略〕
世を忍ぶ男姿や花吹雪
 
  野田翁八十壽二句 〔七月九日杉田作郎宛の手紙參照〕
野に下れば白髯を吹く風涼し
夏の月眉を照して道遠し
 
    七月二十五日橋口貢宛の端書の中より
十錢で名畫を得たり時鳥
 
    八月十五日橋口貢宛の自筆の繪端書の中より
秋立や斷りもなくかやの内
ばつさりと後架の上の一葉かな
 
    九月二十九日野間眞綱宛の端書の中より
秋風のしきりに吹くや古榎
 
    十一月六日橋口貢宛の自筆の繪端書の中より
名月や杉に更けたる東大寺
 
 明治三十八年
 
     七月二十四日鹿島松濤樓宛の繪端署に
朝※[白/ハ]の葉影に猫の眼玉かな
 
  『一夜』より 七月
蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く
 
  俳書堂主人に子規の像を贈らる
うそ寒み故人の像を拜しけり
 
     十二月六日野間眞綱宛の端書の中より
白菊の一本折れて庵淋し
 
  鈴木子の信書を受取りて
     十二月二十四日鈴木三重吉宛
只寒し封を開けば影法師
 
     十二月二十六日内田貢宛の手紙の中より
一人住んで聞けば雁なき渡る
 
 明治三十九年
 
      猫二匹ゐる繪端書に
寄りそへばねむりておはす春の雨
 
      自著漾虚集を小宮氏に贈りて 五月
本來はちるべき芥子にまがきせり
 
      五月二十七日 元禄美人の繪端書に
短冊に元禄の句や京の春
 
  『草枕』より 九月
春風や惟然が耳に馬の鈴
馬子唄や白髪も染めで暮るゝ春
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
海棠露をふるふや物狂
(海棠露をふるふや朝烏)
花の影、女の影の朧かな
(花の影女の影を重ねけり)
正一位、女に化けて朧月
(御曹子女に化けて朧月)
春の星を落して夜半のかざしかな
春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
春や今宵歌つかまつる御姿
海棠の精が出てくる月夜かな
うた折々月下の春ををちこちす
思ひ切つて更け行く春の獨りかな
木蓮の花許りなる空を瞻る
春風にそら解け繻子の銘は何
 
      十月二十四日松根豊次郎宛の手紙より
釣鐘のうなる許りに野分かな
 
      十月二十四日松根豊次郎宛の手紙より
祖師堂に晝の灯影や秋の雨
かき殻を屋根にわびしや秋の雨
青樓や欄のひまより春の海
渡殿の白木めでたし秋の雨
春雨や爪皮濡るゝ湯屋迄《(後に)菊の花》
暮れなんとしてほのかに蓼の花を踏む
 
      十一月
亂菊や土塀の窓の古簀垂
 
      十一月十七日野上豊一郎宛の端書の中より
冬籠り染井の墓地を控へけり
 
      十二月 佐藤紅緑宛
鰒汁と知らで薦めし寐覺かな
 
    十二月二十五日 小宮豐隆のために『鶉籠』の見返しに
春を待つ下宿の人や書一卷
 
 明治四十年
 
      一月『ホトトギス』 二句
御降になるらん旗の垂れ具合
隱れ住んで此御降や世に遠し
 
      一月一日『國民新聞』
御降に閑なる床や古法眼
 
      二月
打つ畠に小鳥の影の屡す
物いはぬ人と生れて打つ畠かな
 
  吾文をあつめて一冊とせる人の好意を謝して二句を題す 二月
長短の風になびくや花芒
月今宵《・(後に)月天心》もろ/\の影動きけり
 
  三月三十一日小宮豐隆宛の手紙の中より 二句 (京都)
春寒く社頭に鶴を夢みけり
布さらす磧わたるや春の風
 
      四月『日本美術』 二句
屑買の垣より呼べば蝶黄なり
香焚けば焚かざれば又來る蝶
 
  日記の中より 京都 四句 四月一日、二日
旅に寒し春を時雨れの京にして
   夷川通り古道具屋 一句
永き日や動き己みたる整時板
加茂にわたす橋の多さよ春の風
   北野天神
雀巣くふ石の華表や春の風
 
      四月二十四日野上豐一郎宛の端書の中より
花食まば鶯の糞も赤からん
 
      四月 猫の繪端書に
戀猫の眼ばかりに瘠せにけり
 
      藤の花の繪端書に
藤の花に古き四尺の風が吹く
 
      六月二十八日 西洋女優の繪端書に
髪に眞珠肌あらはなる涼しさよ
 
  障る事ありて或人の招飲を辭したる手紙のはしに 六月
時鳥厠半ばに出かねたり
 
      七月末?武定巨口宛の端書の中より
のうぜんの花を數へて幾日影
 
  手帳の中より 五十八句
看經の下は蓮池の戰かな
蓮剪りに行つたげな椽に僧を待つ
蓮に添へてぬめの白さよ漾虚集
白蓮に佛眠れり磬落ちて
生死事大蓮は開いて仕舞けり
ほの/”\と舟押し出すや蓮の中
簑の下に雨の蓮を藏しけり
田の中に一坪咲いて窓の蓮
夕蓮に居士渡りけり石欄干
明くる夜や蓮を放れて二三尺
蓮の欄舟に鋏を渡しけり
蓮の葉に麩はとゞまりぬ鯉の色
石橋の穴や蓮ある向側
一八の家根をまはれば清水かな
したゝりは齒朶に飛び散る清水かな
寶丹のふたのみ光る清水かな
苔清水天下の胸を冷やしけり
ところてんの叩かれてゐる清水かな
底の石動いて見ゆる清水哉
二人して片足宛の清水かな
懸崖に立つ間したゝる清水哉
したゝりは襟をすくます清水かな
兩掛や關のこなたの苔清水
市に入る花賣憩ふ清水かな
樟の香や村のはづれの苔清水
澄みかゝる清水や小き足の跡
法印の法螺に蟹入る清水かな
追付て吾まづ掬ぶ清水かな
三どがさをまゝよとひたす清水かな
汗を吹く風は齒朶より清水かな
石清水十戸の村の筧かな
山の温泉や欄に向へる鹿の面
ともし火を挑げて鹿の夜は幾時
芋の葉をごそつかせ去る鹿ならん
厠より鹿と覺しや鼻の息
山門や月に立つたる鹿の角
岩高く見たり牡鹿の角二尺
ひいと鳴いて岩を下るや鹿の尻
水淺く首を伏せけり月の鹿
かち渡る鹿や半ばに返り見る
見下して尾上に鹿のひとりかな
行燈に奈良の心地や鹿の聲
そゞろ寒の温泉も三度目や鹿の聲
蕎麥太きもてなし振や鹿の聲
二三人砧も打ちぬ鹿の聲
郡長を泊めてたま/\鹿の聲
宵の鹿夜明の鹿や夢みじか
曉や消ぬべき月に鹿あはれ
寄りくるや豆腐の糟に奈良の鹿
秋の空鳥海山を仰ぎけり
雲少し榛名を出でぬ秋の空
橋立や松一筋に秋の空
朝貌の今や咲くらん空の色
抽んでゝ富士こそ見ゆれ秋の空
鱸釣つて舟を蘆間や秋の空
秋の空幾日仰いで京に着きぬ
押し分くる芒の上や秋の空
立つ秋の風にひかるよ蜘味の糸
 
      八月二十日松根東洋城宛の端書に
  問ふて曰く男女相惚の時什麼
  漱石子筆を机頭にころがして曰く天竺に向つて去れ
   讃曰
春の水岩を抱いて流れけり
  問ふて曰く相思の女、男を捨てたる時什麼
  漱石子筆を机頭に竪立して艮久曰く日々是好日
   讃曰
花落ちて碎けし影と流れけり
 
     八月二十一日松根東洋城宛の端書に
  心中するも三十棒
朝貌や惚れた女も二三日
  心中せざるも三十棒
垣間見る芙蓉に露の傾きぬ
  道へ道へすみやかに道へ
秋風や走狗を屠る市の中
 
  手帳の中より 七句
恩給に事足る老の黄菊かな
菊に結へる四つ目の垣もまだ青し
端溪に菊一輪の机かな
杉垣に晝をこぼれて百日紅
酸多き胃を患ひてや秋の雨
大鼓芙蓉の雨にくれ易し
後仕手の撞木や秋の橋掛り
 
     十月八日森次太郎宛の手紙の中より
  祝滿洲日々新聞創刊
朝日のつと千里の黍に上りけり
 
  手帳の中より 二十四句
露けさの庵を繞りて芙蓉かな
露けさの中に歸るや小提灯
かりがねの斜に渡る帆綱かな
雁や渡る乳玻璃に細き灯を護る
北窓は鎖さで居たり月の雁
傾城に鳴くは故郷の雁ならん
夕雁や物荷ひ行く肩の上
灯を入るゝ軒行燈や雁低し
帆柱をかすれて月の雁の影
客となつて澤國に雁の鳴く事多し
遠近の砧に雁の落るなり
提灯に雁落つらしも闇の畦
花びらの狂ひや菊の旗日和
佗住居作らぬ菊を憐めり
白菊や書院へ通る腰のもの
草庵の垣にひまある黄菊かな
旗一竿菊のなかなる主人かな
草共に桔梗を垣に結ひ込みぬ
白桔梗古き位牌にすが/\し
草刈の籠の目を洩る桔梗かな
桔梗活けて寶生流の指南かな
扶け起す萩の下より鼬かな
ふき易へて萱に聽けり秋の雨
藁葺に移れば一夜秋の雨
 
      六−十月
雷の圖にのりすぎて落にけり
 
      十月二十九日 『虞美人草』切拔帖の終に
秋の蚊の鳴かずなりたる書齋かな
 
  手帳の中より 十一句
黒塀にあたるや妹が雪礫
女の童に小冠者一人や雪礫
茶の花や黄檗山を出でゝ里餘
丸髷に結ふや咲く梅紅に
むら鴉何に集る枯野かな
川ありて遂に渡れぬ枯野かな
法螺の音の何處より來る枯野哉
たゝむ傘に雪の重みや湯屋の門
吾影の吹かれて長き枯野哉
女うつ鼓なるらし春の宵
白絹に梅紅ゐの女院かな
 
      十月『日本美術』
酒買ひに里へ下るや鹿も聞き
 
      十二月十六日小宮豐隆宛の端書の中より
文債に籠る冬の日短かゝり
 
      斷片の中より 明治四十年頃
姫百合に筒の古びやずんど切
 
 明治四十一年
 
  祝傳四新婚 二月
日毎踏む草芳しや二人連
 
      二月二十四日高濱虚子宛の端書の中より
鼓打ちに參る早稻田や梅の宵
 
  手帳の中より 二十九句
青柳擬寶珠の上に垂るゝなり
居士が家を柳此頃藏したり
門に立てば酒乞ふ人や帽に花
鶯の日毎巧みに日は延びぬ
吾に媚ぶる鶯の今日も高音かな
勅額の霞みて松の間かな
飯蛸の一かたまりや皿の藍
飯蛸や膳の前なる三保の松
飯蛸と侮りそ足は八つあるを
春の水たるむはづなを濡しけり
連翹に小雨來るや八つ時分
花曇り尾上の鐘の響かな
籠の鳥に餌をやる頃や水温む
山伏の關所へかゝる櫻哉
強力の笈に散る櫻かな
南天に寸の重みや春の雪
眞蒼な木賊の色や冴返る
そゝのかす女の眉や春淺し
塩辛を壺に探るや春淺し
名物の椀の蜆や《・後に(蜆の椀に)》春淺し
僧となつて鐘を撞いたら冴返る
穴のある錢が袂に暮の春
いつか溜る文殻結ふや暮の春
逝く春や庵主の留守の懸瓢
嫁がぬを日に白粉や春惜む
垢つきし赤き手絡や春惜む
春惜む人にしきりに訪はれけり
  春色到《(後に)屡》吾家
おくれたる一本櫻憐なり
  南風故國情
逝く春やそゞろに捨てし草の庵
 
  〔『新春夏秋冬』春之部序の末に〕 六月
青柳の日に緑なり句を撰む
 
      六月三日松根東洋城宛の手紙の中より
短夜を交す言葉もなかりけり
 
  手帳の中より 三句 六月
   天生目一治氏細君の病氣の爲めに名流俳句談を草して之を賣りて藥餌の料となさんとす。書肆余が題句あらば出版すと云ふ。天生目氏自ら來つて句を乞ふ。
文を賣つて藥に代ふる蚊遣哉
  森次太郎氏夫人郷里にて男兒を擧ぐ一句を祝へと云ふ
安産と涼しき風の音信哉
二人寐の蚊帳も程なく狹からん
 
  悼亡【六月三十日 松根東洋城より文鳥の死を報じ來れるに返して】
青梅や空しき籠に雨の糸
 
      六月三十日高濱虚子宛の端書の中より
五月雨や主と云はれし御月並
 
      七月一日高濱虚子宛の手紙の中より
鮟鱇や小光が鍋にちんちろり
 
      七月二十七日村上霽月宛の手紙の中より
まのあたり精靈來たり筆の先
 
      九月 猫の墓に
此の下に稻妻起る宵あらん
 
      十月十二日野上豐一郎宛の手紙の中より
朝寒や自ら炊ぐ飯二合
 
      十一月三日『國民新聞』
公退や菊に閑ある雜司ケ谷
大輪の菊を日に搖車かな
 
      〔十二月二十二日杉田作郎宛の手紙參照〕
たゞ一つ湯婆殘りぬ室の隅
 
       二月?『漱石の思ひ出』より
二人して雛にかしづく樂しさよ
 
       明治四十一年?
春色や暮れなんとして水深み
 
一つ家を中に夜すがら五月雨るゝ
 
垣老て虞美人草のあらはなる
 
  明治四十二年
 
       一月一日『讀賣新聞』
小袖着て思ひ/\の春をせん
 
       〔『新春夏秋冬』夏之部序の末に〕 二月
とかくして鶯藪に老いにけり
 
  空間を研究せる天然居士の肖像に題す 四月七日
空に消ゆる鐸の響や春の塔
 
  題句
       五月 蓬草廬主人著『六波羅と鎌倉』見返しに
俊寛と共に吹かるゝ千鳥かな
 
       六月二十四日 エリセーフの求めにより『三四郎』の扉に
五月雨やももだち高く來る人
 
  〔『新春夏秋冬』秋之部序の末に〕八月二十六日
初秋の芭蕉動きぬ枕元
 
春はものゝ句になり易し京の町
 
  日記の中より 十一句
      九月十二日より十月十六日まで満韓旅行
手を分つ古き都や鶉泣く
黍行けば黍の向ふに入る日かな
草盡きて松に入りけり秋の風
  馬車にて支那人の鞭の吾をきく
鞭鳴らす頭の上や星月夜
  水青くして平なり。赤土と青松の小きを見る。
なつかしき土の臭や松の秋
  畫賛 一句
負ふ草に夕立早く逼るなり
高麗人の冠を吹くや秋の風
  韓人は白し 一句
秋の山に逢ふや白衣の人にのみ
秋晴や峯の上なる一つ松
動かざる一篁や秋の村
歸り見れば蕎麥まだ白き稻みのる
 
  『滿韓ところ/”\』より
   熊岳城にて
黍遠し河原の風呂へ渡る人
 
  〔『俳諧新研究』序の末に〕 十月
銅の牛の口より野分哉
 
 明治四十三年
 
      一月八日井本輔憲宛の端書より
獨居や思ふ事なき三ケ日
  畫賛 三月
御堂まで一里あまり《・イばかりの》の霞かな
  虞美人草畫賛 七月
花びらに風薫りては散らんとす
 
  手帳の中より 五句 八月より十月まで修善寺温泉
不圖揺れる蚊帳の釣手や今朝の秋
秋の思池を回れば魚躍る
宮方の御立のあとや温泉の秋
尺八を秋のすさびや欄の人
温泉の村に弘法樣の花火かな
 
  日記の中より 九月八日より十月十日まで修善寺温泉
別るゝや夢一筋の天の川
秋の江に打ち込む杭の響かな
秋風や唐紅の咽喉佛
  秋晴 寐ながら空を見る。ひげをそる。二句
秋晴に病間あるや髭を剃る
秋の空淺黄に澄めり杉に斧
  よすがらの雨 一句
衰に夜寒逼るや雨の音
旅にやむ夜寒心や世は情
  一夜眠さめて枕頭に二三子を見る 一句
蕭々の雨と聞くらん宵の伽
秋風やひゞの入りたる胃の袋
風流の昔戀しき紙衣かな
  二兄皆早く死す。死する時一本の白髪なし。余の兩鬢漸く白からんとして又一縷の命をつなぐ 一句
生殘る吾耻かしや鬢の霜
立秋の紺落ち付くや伊豫餅
骨立を吹けば疾む身に野分かな
  今朝髪をけづる
稍寒の鏡もなくに櫛る
  昨夜主人鯛一尾を贈る。氷嚢を取り去れる祝の心にや 一句
鯛切れば鱗眼を射る稍寒み
病む日又簾の隙より秋の蝶
病んでより白萩に露の繁く降る事よ
蜻蛉の夢や幾度杭の先
蜻蛉や留り損ねて羽の光
取り留むる命も細き薄かな
佛より痩せて哀れや曼珠沙華
虫遠近病む夜ぞ靜なる心
餘所心三味聞きゐればそゞろ寒
月を亙るわがいたつきや旅に菊
起きもならぬわが枕邊や菊を待つ
  嬉しい。生を九仞に失つて命を一※[竹/貴]につなぎ得たるは嬉しい。 一句
生き返るわれ嬉しさよ菊の秋
たそがれに參れと菊の御使ひ
  咋雨を聞く。夜もやまず。 一句
範頼の墓濡るゝらん秋の雨
菊作り門札見れば左京かな
  病後對鏡 一句
洪水のあとに色なき茄子かな
菜の花の中の小家や桃一木
秋淺き樓に一人や小雨がち
生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
鶴の影穗蓼に長き入日かな
一山や秋色々の竹の色
  宮本氏云ふ今二週間にて歸京し得ぺし。まづ二十日と見れば可からんと。診斷の結果なり。同氏は杉本氏と午頃歸る。坂元も同時に歸る。 一句
古里に歸るは嬉し菊の頃
靜なる病に秋の空晴れたり
菊の宴に心利きたる下部かな
  午後一時楚人冠去る
大切に秋を守れと去りにけり
  始めて床の上に起き上りて坐りたる時、今迄横にのみ見たる世界が竪に見えて新らしき心地なり 二句
竪に見て事珍らしや秋の山
坐して見る天下の秋も二た月目
  寐られぬ夜
ともし置いて室明き夜の長かな
  三人觀音樣より歸る。堂守から菊を乞ふて來る。(金をやつて) 一句
堂守に菊乞ひ得たる小錢かな
力なや痩せたる吾に秋の粥
佳き竹に吾名を刻む日長かな
見もて行く蘇氏の印譜や竹の露
  範頼の墓守も花を作るから今度はあすこで貰つてくるといふ。 一句
秋草を仕立てつ墓を守る身かな
秋の蚊|の螫さん《や我を螫さん》とすなり夜明方
頼家の昔も嘸栗の味
鮎の丈日に延びつらん病んでより
肌寒をかこつも君の情かな
  桔梗 菊、紫苑、桔梗は濃くふつくらしたり。紫苑は高く大きく薄紫の菊の婆裟たるに似たり 一句
貧しからぬ秋の便りや枕元
京に歸る日も近付いて黄菊哉
稻の香や月改まる病心地
  明方戸を明ける時の心持
天の河消ゆるか夢の覺束な
  初めて百舌をきく 一句
裏座敷林に近き百舌の聲
歸るは嬉し梧桐の未だ青きうち
歸るべくて歸らぬ吾に月今宵
  陰。秋かと思へば夏の末、夏の末かと思へば秋。柿も大分赤き由。栗もとうから出てゐる。稻は半分黄くと。
雲を洩る日ざしも薄き一葉哉
  殘骸猶春を盛るに堪えたりと前書して 二句
甦へる我は夜長に少しづゝ
骨の上に春滴るや粥の味
  鶺鴒多き所なり 一句
鶺鴒や小松の枝に白き糞
寐てゐれば粟に鶉の興もなく
  氣管文にて體を拭く事を禁ぜられたれば觸るとざら/\して人間の肌とは覺えず。鶏の羽を引きたる如し 一句
粟の如き肌を切に守る身かな
冷やかな瓦を鳥の遠近す
  快晴心地よし。昨夜眠穩。
冷かや人寐靜まり水の音
  昨日森成さん畠山入道とかの城跡へ行つて歸りにあけび〔三字傍線〕といふものを取つてくる。ぼけ茄子の小さいのが葡萄のつるになつてゐる樣也うまいよし。女郎花と野菊を澤山取つてくる。莖黄に花青く普通にあらず。野菊が砂壁に映りて暗き所に星の如くに簇がる。 二句
的※[白+樂]と壁に野菊を照し見る
鳥つゝいて半うつろのあけび哉
朝寒や太鼓に痛き五十棒
  雨濛々。朝食。床の上に起き返りて庭を眺めると殘紅をかすかに着けながら、百日紅が既に黄に染つてゐる
先づ黄なる百日紅に小雨かな
  昨日看護婦が裏の縁側に出てもうあの柚が黄になりましたと云ふ。明後日は東京へ歸る日取なり
いたつきも久しくなりぬ柚は黄に
足腰の立たぬ案山子を車かな
骨許りになりて案山子の浮世かな
 
  日記の中より
      十月十二日より十一月十五日まで胃腸病院
  昨日途中にて 八句
病んで來り病んで去る吾に案山子哉
濡るゝ松の間に蕎麥を見付たる
藪陰や濡れて立つ鳥蕎麥の花
稻熟し人癒えて去るや温泉の村
柿紅葉せり纏はる蔦の青き哉
就中竹緑也秋の村
數ふべく大きな芋の葉なりけり
新らしき命に秋の古きかな
  ……初め余の森成さんを迎へたる時、院長はわざ/\電報で其地にて充分看護せよと電報をかけたり。治療を受けた余は未だ生きてあり治療を命じたる人は既に死す。驚くべし 一句
逝く人に留まる人に來る雁
?頭に後れず或夜月の雁
釣台に野菊も見えぬ桐油哉
思ひけり既に幾夜の蟋蟀
  病院でも朝五時頃になると太鼓の聲が聞える。始めて聞いた時は恍惚のうちに修善寺に居た樣な心持がした。
過ぎし秋を夢みよと打ち覺めよとうつ
  修善寺にて森成國手へ
朝寒も夜寒も人の情かな
  森成君に病氣前の寫眞を望まれて一句を題す
顧みる我面影やすでに秋
曉や夢のこなたに淡き月
ぷら下る蜘蛛の糸こそ冷やかに
嬉しく思ふ蹴鞠の如き菊の影
肩に來て人懷かしや赤蜻蛉
澁柿も熟れて王維の詩集哉
  晴。夜十時、三時十五分前に目醒む。兩度共小便。 二句
つく/”\と行燈の夜の長さかな
小行燈夜半の秋こそ古めけり
一叢の薄に風の強き哉
雨多き今年と案山子聞くからに
柿一つ枝に殘りて烏哉
  一等患者三名のうち二名死して余獨り生存す。運命の不思議な事を思ひ。上の句あり。
君が琴塵を拂へば鳴る秋か
  (寅彦の?イオリンの事を考へ出して)
明けの菊色未だしき枕元
日盛りやしばらく菊を縁のうち
縁に上す君が遺愛の白き菊
井戸の水汲む白菊の晨哉
蔓で提げる目黒の菊を小鉢哉
 
  身體を拭き爪を剪る。 一句
形ばかりの浴す菊の二日哉
三日の菊雨と變るや昨夕より
  菊の鉢は夜見る方よし。 一句
燭し見るは白き菊なれば明らさま
藏澤の竹を得てより露の庵
  床の中で楠緒子さんの爲に手向の句を作る  二句
棺には菊抛げ入れよ有らん程
有る程の菊抛げ入れよ棺の中
ひたすらに石を除くれば春の水
 
  『思ひ出す事など』の中より
たゞ一羽來る夜ありけり月の雁
菊の雨われに閑ある病哉
菊の色縁に未し此晨
病んで夢む天の川より出水かな
風に聞け何れか先に散る木の葉
萩に置く露の重きに病む身かな
冷やかな脈を護りぬ夜明方
露けさの里にて静なる病
迎火を焚いて誰待つ絽の羽織
朝寒や生きたる骨を動かさず
腸に春滴るや粥の味
 
無花果や竿に草紙を縁の先
屠牛場の屋根なき門や夏木立
勾欄の擬寶珠に一つ蜻蛉哉
 
冷かな文箱差出す蒔繪かな
冷かな足と思ひぬ病んでより
冷やかに觸れても見たる擬寶珠哉
冷やかに抱いて琴の古きかな
提灯を冷やかに提げ芒かな
 
白菊と黄菊と咲いて日本かな
菊の香や幾鉢置いて南縁
生垣の隙より菊の澁谷かな
暖簾に藝人の名を茶屋の菊
青山に移りていつか菊の主
榻置いて菊あるところどころかな
 
  明治四十三年 澁川玄耳へ
いたつきも怠る宵や秋《〔?〕》の雨
 
     明治四十三年頃
なに食はぬ和尚の顔や河豚汁
  謡曲藤戸
浦の男に淺瀬問ひ居る朧哉
 
  明治四十四年
 
  畫讃
蛙去つテ又蹲踞る小猫かな
      四月
※[(壹の豆が石)/木]駝して石を除くれば春の水
 
鷄の尾を午頃吹くや春の風
 
  素川兄の西行を送りて 四月
冠せぬ男も船に春の風
 
      八月十四日 和歌の浦にて
涼しさや蚊帳の中より和歌の浦
 
起きぬ間に露石去にけり今朝の秋
  病中露石子の訪問を受けて逢はず後より此句を贈る 九月 大阪湯川病院
 
  九月八日寺田寅彦宛の端書の中より 大阪湯川病院
蝙蝠の宵々毎や薄き粥
《・(後に)稻妻の》
 
     九月 大阪湯川病院
稻妻に近くて眠安からず
 
  病院にて 九月十四日松根東洋城宛の端書の中より
灯を消せば涼しき星や窓に入る
 
     九月二十日寺田寛彦宛の端書の中より
風折々萩先づ散つて芒哉
 
     九月二十五日松根東洋城宛の手紙の中より
耳の底の腫物を打つや秋の雨
切口に冷やかな風の厠より
 
     十月二十一日松根東洋城宛の端書の中より
たのまれて戒名選む鷄頭哉
 
     十一月
拘一の芒に月の圓かなる
 
     明治四十四年十二月三日 行徳二郎に與へたる『切拔帖より』の包紙に 六句
稻妻に近き住居や病める宵
石段の一筋長き茂りかな
空に雲秋立つ臺に上りけり
廣袖にそゞろ秋立つ旅籠哉
鬢の影鏡にそよと今朝の秋
朝貌や鳴海絞を朝のうち
 
      明治四十四年?
行く人に留まる人に歸る雁
 
  明治四十五年
  大正元年
 
  自畫讃
雪の夜や佐野にて食ひし粟の飯
 
  壁十句 六月十七日松根東洋城宛の手紙の中より
壁隣り秋稍更けしよしみの灯
懸物の軸だけ落ちて壁の秋
行く春や壁にかたみの水彩畫
壁に達磨それも墨畫の芒かな
如意拂子懸けてぞ冬を庵の壁
錦畫や壁に寂びたる江戸の春
鼠もや出ると夜寒に壁の穴
壁に背を涼しからんの裸哉
壁に映る芭蕉夢かや戰ぐ音
壁一重隣に聽いて砧かな
 
     夏頃
水盤に雲呼ぶ石の影すゞし
 
     八月 鹽原にて
湯壺から首丈出せば野菊哉
 
  自畫賛 八月
五六本なれど靡けばすゝき哉
 
     八月 上林にて
蚊帳越しに見る山青し杉木立
 
  奉悼 九月八日松根東洋城宛の手紙の中より
御かくれになつたあとから鷄頭かな
 
  奉送 同前
嚴かに松明振り行くや星月夜
 
     九月二十八日松根東洋城宛の手紙の中より
かりそめの病なれども朝寒み
 
  日記の中より 十月五日
   車上にて「痔を切って入院の時」の句を作る
秋風や屠られに行く牛の尻
 
  手帳の中より 三句
杉木立寺を藏して時雨けり
豆腐燒く串にはら/\時雨哉
琴作る桐の香や春の雨
 
 大正二年
 
  畫賛 正月
人形も馬もうごかぬ長閑さよ
 
      秋頃
菊一本畫いて君の佳節哉
 
  自畫賛 大正二年頃
四五本の竹をあつめて月夜哉
  自畫賛
萩の粥月待つ庵となりにけり
 
      大正二・三年頃
葉鷄頭高さ五尺に育てけり
 
 大正三年
 
      一月 岩崎太郎次のために
播州へ短冊やるや今朝の春
 
松立てゝ門鎖したる隱者哉
 
      一月 内田榮造のために
春の發句よき短冊に書いてやりぬ
 
  手帳の中より 百十四句
冠を挂けて柳の緑哉
鶯は隣へ逃げて藪つゞき
つれ/”\を琴にわびしや春の雨
欄干に倚れば下から乙鳥哉
我一人行く野の末や秋の空
内陣に佛の光る寒哉
春水や草をひたして一二寸
繩暖簾くゞりて出れば柳哉
橋杭に小さき渦や春の川
同じ橋三たび渡りぬ春の宵
蘭の香や亞字欄渡る春の凰
  岡榮一郎句を索む 一句
竹藪の青きに梅の主人哉
茶の木二三本閑庭にちよと春日哉
日は永し一人居に靜かなる思ひ
世に遠き心ひまある日永哉
線香のこぼれて白き日永哉
留守居して目出度思ひ庫裏長閑
我一人松下に寐たる日永哉
引かゝる護謨風船や柳の木
門前を彼岸參りや雪駄ばき
そゞろ歩きもはなだの裾や春の宵
春風に吹かれ心地や温泉の戻り
仕立もの持て行く家や雛の宵
長閑さや垣の外行く藥賣
竹の垣結んで春の庵哉
玉碗に茗甘なうや梅の宿
草双紙探す土藏や春の雨
桶の尻干したる垣に春日哉
誰袖や待合らしき春の雨
錦繪に此春雨や八代目
京樂の水注買ふや春の町
萬歳も乘りたる春の渡し哉
春の夜や妻に教はる荻江節
木蓮に夢の樣なる小雨哉
降るとしも見えぬに花の雫哉
春雨や京菜の尻の濡るゝ程
落椿重なり合ひて涅槃哉
木蓮と覺しき花に月朧
永き日や頼まれて留守居してゐれば
木瓜の實や寺は黄檗僧は唐
春寒し未だ狐の裘
寺町や垣の隙より桃の花
見連に揃の簪土間の春
染物も柳も吹かれ春の風
連翹の奧や碁を打つ石の音
春の顔眞白に歌舞伎役者哉
小座敷の一中は誰梅に月
花曇り御八つに食ふは團子哉
爐塞いで窓に一鳥の影を【見る・印す】
寺町や椿の花に春の雪
賣茶翁花に隱るゝ身なりけり
高き花見上げて過ぎぬ角屋敷
塗笠に遠き河内路霞みけり
窓に入るは目白の八つか花曇
靜かなるは春の雨にて釜の音
驢に騎して客來る門の柳哉
見上ぐれば坂の上なる柳哉
經政の琵琶に御室の朧かな
樓門に上れば帽に春の風
千社札貼る樓門の櫻哉
家形船着く棧橋の柳哉
芝草や陽炎ふひまを犬の夢
早蕨の拳伸び行く日永哉
陽炎や百歩の園に我立てり
  園中 一句
ちら/\と陽炎立ちぬ猫の塚
紙雛つるして枝垂櫻哉
行く春や披露待たるゝ歌の選
眠る山眠たき窓の向ふ哉
魚の影底にしば/\春の水
四つ目垣茶室も見えて辛夷哉
祥瑞を持てこさせ縁に辛夷哉
如意の銘彫る僧に木瓜の盛哉
馬を船に乘せて柳の渡哉
田樂や花散る里に招かれて
行春や僧都のかきし繪卷物
行春や書は道風の綾地切
藁打てば藁に落ちくる椿哉
靜坐聽くは虚堂に春の雨の音
良寛にまり《・(後に)手毬》をつかせん日永哉
一張の琴鳴らし見る落花哉
春の夜や金の無心に小提灯
局に閑あり靜かに下す春の石
春深き里にて隣り梭の音
銀屏に墨もて梅の春寒し
三味線に冴えたる撥の春淺し
海見ゆる高どのにして春淺し
白き皿に繪の具を溶けば春淺し
筍は鑵詰ならん淺き春
行く春のはたごに畫師の夫婦哉
行く春や經納めにと嚴島
行く春や知らざるひまに頬の髭
鶯や髪剃あてゝ貰ひ居る
活けて見る光琳の畫の椿哉
飯食へばまぶた重たき椿哉
行春や里へ去なする妻の駕籠
酒の燗此頃春の寒き哉
皓き齒に酢貝の味や春寒し
嫁の傘傾く土手や春の風
春惜む日ありて尼の木魚哉
業終へぬ寫經の事や盡くる春
春惜む茶に正客の和尚哉
冠に花散り來る羯鼓哉
門鎖ざす王維の庵や盡くる春
春惜む句をめい/\に作りけり
枳殻の芽を吹く垣や春惜む
鎌倉へ下る日春の惜しき哉
新坊主やそゞろ心に暮るゝ春
桃の花隱れ家なるに吠ゆる犬
草庵や蘆屋の釜に暮るゝ春
牽舟の繩のたるみや乙鳥
三河屋へひらりと這入る乙鳥哉
呑口に乙鳥の糞も酒屋哉
鍋提げて若葉の谷へ下りけり
料理屋の塀から垂れて柳かな
 
    十月二十日松根東洋城宛の手紙の中より 四句
酒少し徳利の底に夜寒哉
酒少しありて寐たる夜寒哉
眠らざる夜半の灯や秋の雨
電燈を二燭に易へる夜寒哉
 
  わが犬のために 十月三十一日
秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ
 
       大正四年
 
     一・二月頃
春を待つ支那水仙や淺き鉢
 
  畫賛 四月五日
眞向に坐りて見れど猫の戀
 
     四月 京都にて 七句
柳芽を吹いて四條のはたごかな
筋違に四條の橋や春の川
紅梅や舞の地を彈く金之助 
  木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
春の川を隔てゝ男女哉
  畫賛
萱草の一輪咲きぬ草の中
  自畫賛
牡丹剪つて一草亭を待つ日哉
  自畫賛
椿とも見えぬ花かな夕曇
 
     四月十八日加賀正太郎宛の手紙の中より
寶寺の隣に住んで櫻哉
 
  畫賛 五月十二日
白牡丹李白が顔に崩れけり
 
     五月『咄哉帖』より
木屋丁や三筋になつて春の川
 
  自畫賛 十一月
竹一本葉四五枚に冬近し
 
  静江さんに 十二月二十六日
女の子十になりけり梅の花
 
  自畫賛
水仙や早稻田の師走三十日
 
      大正四年?
菊の花硝子戸越に見ゆる哉
 
 大正五年
 
      春
春風や故人に贈る九花蘭
 
  手帳の中より 十五句 春頃
白梅にしぶきかゝるや水車
孟宗の根を行く春の筧哉
梅早く咲いて温泉の出る小村哉
いち早き梅を見付けぬ竹の間
梅咲くや日の旗立つる草の戸に
裏山に蜜柑みのるや長者振
温泉に信濃の客や春を待つ
橙も黄色になりぬ温泉の流
鶯に聞き入る茶屋の床几哉
鶯や草鞋を易ふる峠茶屋
鶯や竹の根方に鍬の尻
鶯や藪くゞり行く蓑一つ
鶯を聽いてゐるなり縫箔屋
鶯に餌をやる寮の妾かな
温泉の里橙山の麓かな
 
  手帳の中より 十六句 春頃
桃の花家に唐畫を藏しけり
桃咲くやいまだに流行る漢方醫
輿に乘るは歸化の僧らし桃の花
町儒者の玄關横や桃の花
かりにする寺小屋なれど梅の花
文も候稚子に持たせて桃の花
琵琶法師召されて春の夜なりけり
春雨や身をすり寄せて一つ傘
鶯を飼ひて床屋の主人哉
耳の穴堀つて貰ひぬ春の風
嫁の里向ふに見えて春の川
岡持の傘にあまりて春の雨
一燈の青幾更ぞ瓶の梅
病める人枕に倚れば瓶の梅
梅活けて聊かなれど手習す
桃に琴彈くは心越禅師哉
 
      九月二日芥川龍之介宛の手紙の中より
秋立つや一卷の書の讀み殘し
 
  畫賛 九月八日
蝸牛や五月をわたるふきの莖
 
  畫賛 九月八日
朝貌にまつはられてや芒の穗
 
  畫賛 九月八日
萩と齒朶に贊書く月の團居哉
 
  自畫賛 九月八日
棕※[木+呂]竹や月に背いて影二本
 
  畫賛 九月
秋立つ日猫の蚤取眼かな
 
  畫賛 九月
秋となれば竹もかくなり俳諧師
 
  禅僧二人を宿して 十月
風呂吹きや頭の丸き影二つ
 
  網得魚蝦春水清 畫賛 十月
※[者/火]て食ふかはた燒いてくふか春の魚
 
  春風未到意先到 自畫賛 十一月
いたづらに書きたるものを梅とこそ
 
      十一月十日鬼村元成宛の手紙の中より
まきを割るかはた祖を割るか秋の空
 
      十一月十五日富澤敬道宛の手紙の中より 五句
饅頭に禮拜すれば晴れて秋
饅頭は食つたと雁に言傳よ
  徳山の故事を思ひ出して 一句
吾心點じ了りぬ正に秋
僧のくれし此鰻頭の丸きかな
  瓢箪はどうしました
瓢箪は鳴るか鳴らぬか秋の風
 
 年月不詳
 
  畫賛
歸り路は鞭も鳴さぬ日永かな
春雨や四國遍路の木賃宿
故郷を舞ひつゝ出づる霞かな
鶯や障子あくれば東山
月なゝめたけのこたけになりにけり
  畫賛
ひとむらの芒動いて立つ秋か
うそ寒や綿入きたる小大名
  畫賛
吾猫も虎にやならん秋の風
醉過ぎて新酒の色や虚子の顔
いくさやんで菊さく里に歸りけり
元禄の頃の白菊黄菊かな
 
 斷片 ――明治三十二三年頃――
 
 心ハ喜怒哀樂(ノ)舞臺 舞臺ノ裏ニ何物かある
 煩|脳《原》と眞如は紙の表裏の如し 二而一一而二
 
 天下ノ事皆面白シ而シテ皆面白カラズ金時計ヲ持シテ威張るハ弊袴ヲ着て威張ルガ如シ、學問ヲ誇ルハ無學ヲ誇ルガ如シ
 同時ニ善ナリ同時ニ惡ナリ
 或る學校ノ教師ハ無暗に休席ス生徒不平なり他教師は一日も缺席せず生徒亦不平なり一見矛盾の如し然し是が人情なり反對せるもの各其良き所あるを示す所以なり
 
 新を好むの心は舊を戀ふの心なり現在に滿足せざるは人情也
 老人は新を好むの餘地なし故に舊を好む少者は戀ふべきの舊なし故に新を好む
 天地は此情を滿足せしむる樣に作爲せられてあり夏に苦しんで冬を得冬に困てして春秋に遭遇す
 歴史|を《原》己れを繰返すと繰返すものは歴史のみならず日ありて夜あり闇の後に月あり天下變ぜざるなし時々に變じ刻々に移る變化推移を好むは人情なり
 變化なき是を死といふ不變化を愛するは死を愛する也彼實に不變を愛するにあらず變化の窮りなきを見て不變化の安かるべきを思ふ是妄想なり春日樂しと雖も三百六十五日春のみ〔に〕して寸毫の變なきときは五六年の後人皆秋霜冬雪を戀ふに至らん金錢貴しと雖豪奢を極め盡すときは江湖蓑笠の樂なる事を憶起すべし
 不變既に樂しからず變亦樂しからず氣むづかしきは人間なり
 變にして不變不變にして變なるものを求めよ而して海は始終大安樂なるぺし
 
 無意味と無意味は衝突する事なし
 
 自ら以て高しとす是自ら卑しとするなり自ら以て得たりとす是未だ得ざるを示す
 
 
 日記――明治三十三年九月八日より十二月十八日まで――
 
 八日〔土〕 横濱發遠|洲《原》洋ニテ船少シク搖ク晩餐ヲ喫スル能ハズ
 
 九日〔日〕 十時神戸着上陸諏訪山中常盤ニテ午餐ヲ喫シ温泉ニ浴ス夜下痢ス晩餐ヲ喫セズ
 
 十日〔月〕 夜半長崎着
 床上ニ困臥シテ氣息|※[口+奄]《原》々タリ直徑一尺許ノ丸窓ヲ凝視スレバ一星窓中ニ入リ來リ又出デ去ル船ハ波ニ從ツテ動搖スレバナリ
 
 十一日〔火〕 長崎上陸縣廳ニテ馬淵鈴木二氏ニ面會ス筑後町迎陽亭ニ至り入浴午餐ヲ喫ス四時半歸船
 兩氏及池田氏遂ラル
 夜月色頗ル可ナリ
 
 十二日〔水〕 夢覺メテ既ニ故郷ノ山ヲ見ズ四顧渺茫タリ乙鳥一羽波上ヲ飛ブヲ見ル船頗ル動搖食卓ニワクヲ着ケテ顛墜ヲ防グ、
 漸ク動搖ニナレテ氣分少シハヨシ、長崎ヨリ西洋婦人夥多乘込ム皆我ヨリ船ガ強キ樣ナリ羨シキコトナリ、彼等ハ平氣デ甲板ニ居ル婆サンモ若イノモ、特ニ佛人ノ家族ニ六七歳ノ小供ガ居ルガ御玩弄ノ蒸※[さんずい+氣]船ヲ引張ツテ甲板ヲ戯ケ廻ツテ居ル、我々モ可成平氣ナ顔ヲ装ツテ居ルケレドモ眞ニ平氣ナノハ芳賀位ノモノデ他ハ皆左程平氣デモナイノデアル其内デ尤モ平氣ナラヌノハ小生デアル
 カバンノ中ニ几董集ト召波集ガアツタカラ少シ讀マウト思フタガ讀メヌ周圍ガ西洋人クサクテ到底俳句抔味フ餘地ハナイ芳賀ハ詩韻含英抔ヲヒネクツテ居ルガ是モ何モ出來ヌラシイ俳句モ一二句ハ作ツテ見度ガ一向出テ來ナイ恐入ツテ仕舞ツタ
 横濱ヲ出帆シテ見ルト右モ左モ我々同行者ヲ除クノ外ハ皆異人バカリデアル其中ニ一人日本人ガ居タカラ是ハ面白イト思ツテ話ヲシカケ〔テ〕見タラ駕イタ香港生ノ葡萄〔牙〕人デアツタ神戸カラモ一人日本人ガ乘タト思ツテ喜ンデ居ツタラ是モ豈計ランヤ組デ支那ノ女ニ英《原》ギリスノ男ガツガツテ出來タ相《原》ノコデアツタ是カラ先モ氣ヲツケナイト妙ナ間違ヲシ〔テ〕シクジルコトガアル注意々々
 
 十三日〔木〕 昧爽呉※[さんずい+松]港ニ着ス濁流滿目左右一帶ノ青樹ヲ見ル、夢ニ入ル者ハ故郷ノ人故郷ノ家醒ムレバ西洋人ヲ見蒼海ヲ見ル境遇夢ト調和セゲルコト多シ
 小蒸※[さんずい+氣]ニテ濁流ヲ溯リ二時間ノ後上海ニ着ス、滿目皆支那人ノ車夫ナリ
 家屋宏壮横濱抔ノ比ニアラズ
 税關ニ立花政樹氏ヲ訪フ家屋宏大ニテ容易ニ分ラズ困却セリ
 東和洋行ヲ教ヘラレテ此ニ午餐ス、立花至ル立花ノ家ニテ晩餐ヲ喫シ公園ニ到リ奏樂ヲ聞ク
 夫ヨリ南京町ノ繁華ナル所ヲ見ル頗ル稀有ナリ
 
 十四日〔金〕 愚園張園ヲ見ル愚園頗ル愚ナリ、支那人ノ轎、西洋人ノ車雜多ナリ
 午後三時小蒸※[さんずい+氣]ニテ本船ニ歸ル、就寝、支那人ノ聲毛唐ノ聲荷ヲ揚ル音ニテ喧騷窮ナシ、
 
 十五日〔土〕 今日ハ上海ヲ出帆スル日ナリ昨日ヨリ吹キ暴レタル秋風ノ黄河ノ濁流ヲスクヒ揚ゲテ見ルモ悽ジキ樣デアル檣頭ニカヽゲタル白地ニ錨ヲ黒ク染メヌキタル旗ヲ吹キチギル許リニ吹ク、十時頃ヨリ雨サヘ加ハリテ甲板上ニ竝ベタル籘ノ椅子ヲ吹キ吹《原》バス許ナリ是等ハ皆潮水ニ濡レテ腰ヲカクベクモアラズ且腰ヲカケタリトテ人間サヘモ洗ヒ去ランズル勢ナリ
 
 十六日〔日〕 昨日出帆スベキ筈ノ船ハ遂ニ出帆セズシテ今日始メテ出ヅ船ノ動搖烈シクシテ終日船室ニアリ午後勇ヲ鼓シテ食卓ニ就キシモ遂ニスープヲ半分飲ミタルノミニテ退却ス
 
 十七日〔月〕 舶福|洲《原》邊ニ碇泊ス昨日ノ動搖ニテ元氣ナキコト甚シ且下痢ス甚ダ不愉快ナリ
 午後四時頃福州ノ砲臺ヲ左右ニ見テ深ク灣ニ入ル
 夥多ノ支那人雜貨ヲ持チ來リテ之ヲ賣ル喧噪極リナシ
 風呂番兼奏樂ノ隊長售リニ來ル支那ノ古服ヲ着ケテ得々タリ
 
 十八日〔火〕 曇風ナク波平ナリ
 左右島嶼ヲ見ル腸胃少シク舊ニ復ス
 終日雨 甲板濡ヒテ心地惡シ
 
 十九日〔水〕 微雨尚已マズ 天漸ク晴レントス
  阿呆鳥熱き國へぞ參りける
  稻妻の砕ケテ青シ浪ノ花
 午後四時頃香港着、九龍ト云フ處ニ横着ニナル是ヨリ香港迄ハ絶エズ小蒸※[さんずい+氣]アリテ往復ス馬關門司ノ如シ山巓ニ層樓ノ聳ユル樣海岸ニ傑閣ノ竝ブ樣非常ナル景氣ナリ、十錢ヲ投ジテ香港ニ至り鶴屋ト云フ日本宿ニ至ル汚穢居ル可ラズ食後Queen's ROadヲ見テ歸船ス船ヨリ香港ヲ望メバ萬燈水ヲ照シ空ニ映ズル樣綺羅星ノ如クト云ハンヨリ滿山ニ寶石ヲ縷メタルガ如シdiamond 及ビ ruby ノ頸飾リヲ滿山滿港滿遍ナクナシタルガ如シ時ニ午後九時
 
 二十日〔木〕 午前再ビ香港ニ至リ Peak ニ登ル綱條鐵道ニテ六十度位ノ勾配ノ急坂ヲ引キ上ル驚ク許ナリ頂上ヨリ見渡セバ非常ナ好景ナリ再ビ車ニテ歸ル心地惡キ位急ナ處ヲ車ニテ下ル歸船午後四時出帆
 
 二十一日〔金〕 晴
 
 二十二日〔土〕 曇 牛時香港ヨリ海上六百四十一哩ノ處ヲ行ク
 
 二十三日〔日〕 無事 今日日曜ニテ二等室ノ宣教師ハ例ノ如ク歌ヲ唱ヒ説教ス上等ノ甲板ニモ獨乙人ガ喧嘩ヲスル樣ナ説教ヲシテ居ル
 
 二十四日〔月〕 胃惡ク腹下リテ心地惡シ今夜十時頃シンガポールニ着ク筈ナリ
 
 二十五日〔火〕 昧爽シンガポール着頗ル熱キ處ト覺悟セシニ非常ニ凉シクシテ東京ノ九月末位ナリ尤モ曇天ナリ 土人丸木ヲクリタル舟ニ乘リテ船側ヲ徘徊ス船客錢ヲ海中ニ投ズレバ海中ニ躍入ツテ之ヲ拾フ
 土人ニテ日本語ヲ操ル者日本旅館松尾某ノ)引札ヲ持シテ至ル命ジテ馬車二臺ヲ二圓五十錢宛ニテ雇ハシメ植物園ニ至ル熱帶地方ノ植物青々トシテ頗ル美事ナリ又虎蛇鰐魚ヲ看ル、Coneservatory アリ夫ヨリ博物館ヲ見ル餘リ立派ナラズ歸途松島ニ至り午飯ヲ喫ス此處日本町ト見エテ醜業婦街上ヲ徘徊ス妙ナ風ナリ午後三時再ビ馬車ヲ驅ツテ船ニ歸ル三時半ナリ
 
 二十六日〔水〕 凉
 
 二十七日〔木〕 朝ペナン着 午前九時ノ出帆故上陸スルヲ得ズ雨フル十時頃晴ル
 
 二十八日〔金〕 雨
 二十九日〔土〕 曇 印度洋ト雖甲板上は風烈シク寒キ位ナリ
 
 三十日〔日〕 無事
 
 十月一日〔月〕 十二時頃コロンボ着 黒奴夥多船中ニ入込來リ口々ニ客ヲ引ク頗ル煩ハシ中ニ日本ノ舊遊者ノ名刺又ハ推擧状樣ノモノヲ出シテ案内セント云フ者二三人アリ其一人ニ誘ハレテ上陸 British lndia Hotel ト云フ處ニ至ル結構大ナラズ中流以下ノ旅館ナリ
 馬車ヲ驅ツテ佛ノ寺ヲ見ル砂《原》利塔アリ塔上ニ鏤メタルハ moonstone ナリト云フ舊跡ト雖ドモ年々手ヲ入ルヽガ爲メ毫モ見ルニ足ル者ナシ且構造モ頗ル粗末ナリ路上ノ土人花ヲ車中ニ投ジテ餞ヲ乞フ且 Japan, japan ト叫ンデ錢ヲ求ム甚ダ煩ハシ佛ノ寺内尤モ烈シ一少女錢ハ入ラヌカラ是非此花ヲ取レト強乞シテ已マズ不得已之ヲ取レバ後ヨリ直グニ金ヲ呉レト逼ル亡國ノ民ハ下等ナ者ナリ
 「バナヽ」「コヽー」ノ木ニ熟セル樣ヲ見ル頗ル見事ナリ道路ノ整ヘル樹木ノ青々タル芝原ノ見事ナル固ヨリ日本ノ比ニアラズ
 六時半旅舘ニ歸リテ晩餐ニ名物ノ「ライス」《原》カレヲ喫シテ歸船ス案内ノ印度人頗ル接待二勉メタリト雖後ニテ書ツケヲ見ルニ隨分非常ノ高價ナリ案内料ハ 10 Rubies《sic》ニテ馬車ハ二臺ニテ 20 Rubies《sic》ナリ馬車賃ノ如キハ明カニ規則違反ナリ然レドモ不知案内ノ旅客ナレバ言ガマヽニ錢ヲ與ヘ且推擧状迄書テヤルハ馬鹿ゲタルノミナラズ且後來日本ヨリ遊覽ノ人ニ對シテ甚ダ氣ノ毒ノ至リ我等此馬鹿氣タルコト氣ノ毒ナコトヲシタル一行ナリ
 
 十月二日〔火〕 朝ヨリ驟雨來ル 甲板上ニ印度ノ手間師來リ連リニ戯ヲ演ズ日本ノ豆藏ト大同小異ナリ只ザルノ中ヨリコブラヲ出シテ手足ニ纏ヒツケル樣恰モ手間師ト豆藏トヲ兼タルガ如シ、且Standard Dictionary 中ニアルコブラノ畫ト同一ナリ
 
 十月三日〔水〕 晴 無事
 
 十月四日〔木〕 午前 甲板ノ椅子ニ踞シテ讀書ス突然女ノ聲ニテ夏目サント呼ブ者アリ驚テ見レバ Mrs.Nott ナリ此方ヨリ上等室ニ訪問セザル故向ヨリ來リタリト云明日午後茶ニ來レトテ分レタリ
 
 十月五日〔金〕 午後三時半 Mrs.Nott ヲ一等室ニ訪フ女|子《原》ハ非常ナ御世辭上手ナリ諸人ニ紹介セラル然レドモ一モ其名ヲ記|臆《原》セズ且誰ニモ我英語ニ巧ミナリトテ稱賛セラル赤面ノ至ナリ女子ハ音調低ク且一種ノ早口ニテ日本人ト云フ容赦ナク聽取ニクヽシテ閉口ナリ無暗ナ挨拶ヲスレパ危險ナリ恐縮セリ色々ナ談話ヲナシ且英國着後紹介状ノ樣ナ者ヲ頼ミテ歸ル五時半
 
 十月六日〔土〕 此二三日風波頗ル穩ナリ今朝ハ殊ニ靜カニテ恰モ鏡上ヲ行クガ如シ印度洋モ存外ナ者ナリ、手紙ヲ故郷ニヤラント思ヘドモ面倒ナリ
  雲ノ峰風ナキ海ヲ渡りけり
 午後大魚無數波間ニ躍ルヲ見ル
 
 十月七日〔日〕 滿月ニテ非常ニ美シ
 
 十月八日〔月〕 今日國ヲ出テヨリ一月目ナリ午後 Aden ニ着ク筈ナリ夜 Aden ニ着ス
 
 十月九日〔火〕 猶 Aden ニ泊ス
 見渡セバ不毛ノ禿山※[山+賛]※[山+元]トシテ景色頗ル奇怪ナリ十時頃出帆始メテ亜弗利加ノ土人ヲ見ルロシヤナ佛ノ頭ノ本家ハ茲ニアリト信ズ
 
 十月十日〔水〕 昨夜 Babelmandeb 海峽ヲ過ギテ紅海ニ入ル始メテ熱ヲ感ズ此夜上等室ニテ ball ノ催アリ御苦勞千萬ノ事ナリ cabin ニ入リ寢ニ就ク熱名状スベカラズ
  赤き日の海に落込む暑かな
  海やけて日は紅に〔以下なし〕
  日は落ちて海の底より暑かな
 
 十月十一日〔木〕 昨夜 cabin ニ入リテ寢ニ就ク熱苦シクテ名状スベカラズ流汗淋漓生タル心地ナシ此夜又然リ明方ヨリ漸ク凉
 
 十月十二日〔金〕 秋氣漸ク多シ然レドモ船客未ダ白衣ヲ脱セズ「スエス」以北ニ至ラバ始メテ寒カラン夜 Sinai ノ山ヲ右岸ニ見ル月末ダ上ラザリシ爲メ雲カ陸カ見分難カリシ
 
 十月十三日〔土〕 朝九時頃「スエス」ニ着ス滿目突兀トシテ一草一木ナシ是ヨリ運河ニ入ル「スエス」ニテ London Times 及二三種ノ雜誌ヲ買フニ伊藤山縣ノ寫眞ノアル者アリ又本邦内閣ノ交迭ヲ記ス
 
 十月十四日〔日〕 Port Said ニ着ス午前八時出帆是ヨリ地中海ニ入ル秋氣滿目船客ノ多數ハ白衣ヲ捨ツ中ニハ白ノ上ニ外套抔ヲツケタルアリ頗ル奇
 
 十月十五日〔月〕 Bible ノ exposition ヲ聞ク夜 Doctor Wilson ト談話ス
 
 十月十六日〔火〕 海荒レテ氣色惡シ
 
 十月十七日〔水〕 Exposition ヲ聞ク
 薄暮 Naples ニ着ス Koig Albert ハ今夜十時ノ發ニテ横濱ニ向フ松本亦太郎始メ四五人ノ本邦人此内ニアリ二三町ヲ隔テヽ相泊ス呼べバ應ゼント欲ス然レドモ我船如何ナル故ニヤ上陸ヲ許サズ從ツテ友人ヲ見ルヲ得ズ殘念ナリ
 
 十月十八日〔木〕 Naples ニ上陸シテ cathedrals ヲ二ツ museum 及 Arcade Royal Palace ヲ見物ス寺院ハ頗ル壯嚴ニテ立派ナル博物館ニハ有名ナル大理石ノ彫刻無數陳列セリ且 Pompey《sic》ノ發掘物非常ニ多シ Royal Palace モ頗ル美ナリ道路ハ皆石ヲ以テ敷キツメタリ此地ハ西洋ニ來テ始メテ上陸セル地故夫程驚キタリ
 
 十月十九日〔金〕 午後二時頃 Genoa ニ着ス丘陵ヲ負ヒテ造ラレタル立派ナル市街ナリ 薄暮上陸 Grand Hotel ニ着ス宏壯ナル者ナリ生レテ始メテ斯樣ナル家ニ宿セリ、食事後案内ヲ頼ミテ市中ヲ散歩ス
 
 十月二十日〔土〕 午前八時半ノ※[サンズイ+氣]車ニテ Genoa ヲ出發ス旅宿ノ馬車ニテ停車場ニ馳付タルハ立派ナリシガ場内ニテ委細方角分ラズウロ々《原》スル樣洵ニ笑止ナリ漸ク※[サンズイ+氣]車到着セシガ乘車セントスレバドコ〔モ〕 occupied ト喧《原》突ヲ喰ヒ途方ニ暮レタリ漸ク Cook ノ agent ヲ見出シテ之ニ英語ヲ以テ頼ミシガヤガテ乘客滿員ノ爲メ新列車ヲ増加シ漸ク之ニ乘込ミシガ Turin ニテ乘易ル譯故氣ガ氣ニアラズ漸ク該所ニツキ停車場前ノ旅館ニ至リ中食シ四時半ノ發車ヲ待チ合ス Genoa 上陸以來一切|無《原》中ニテ引キ廻サルヽ如キ觀アリ見當違ノ所ニ至ラザルガ仕合ナリトス
 四時三十分頃旅屋ノ番頭ニ送られて※[サンズイ+氣]車ニ乘る何處モ occupied ト云ハレテ這入ルヲ得ズ五人離々ニナリテ漸ク乘込就中余ハ最後迄赤帽ニ引マハサレテ茫然トシテウロ々《原》スルコト多時漸ク毛唐人ノ内ニ割込ム皆キヨロキヨロトシテ余ガ顔ヲ見ル此體裁ニテ Modane 迄至ル茲所ニテ荷物ヲ檢査シテ佛ノ國境ニ入ルト云フ故此處ニ至リ見ルニ手荷物ヲ持チテ下リルコトト心得テ車ヲ飛ビ出セバ豈計ランヤデ檢査官ガ車中ニ來リテ檢査スト云フニ倉皇引キ返セバ知ラヌ奴ガ我物顔ニ自分ノ席ヲ占メテ居ル故此ハ我席ナリト英語デ云ヘバ佛語ニテ君ハ何モ置テ行カヌ故此ニ座シタルナリト威張ツテ入レズ已ヲ得ズ藤代氏ノ席ノ處ニ至リ廊下ニ佇立スルニ車掌ノ如キ者來リ次ノ部屋ヲ指シ連リニ分ラヌコトヲ兎角申ス故ノゾキ見レバ八人定員ノ處ニ一ノ空席アリ是幸ヒト座ヲ占ムレバ同席ノ一行六人連ノ奴原連リニ何カ吾ヲ罵ル樣子ナリ然此方モ負ヌ氣ニテ馬耳東風ト聞キ流スカクシテ東方ノ白ム頃迄ハヤリ通シ八時頃漸ク「パリス」ニ着ス停車場ヲ出デヽ見レバ丸デ西モ東モ分ラズ恐縮ノ體ナリ巡査如キ者ヲ捕ヘテ藤代氏船中ニテ一夜造リニ強《原》強シタル佛語ニテ何カ云フニ親切ナル人ニテ馬車ヲ雇ヒ呉レテ正木氏ノ宿所迄送リ屆シ《原》呉タリ正木氏英國旅行中ニテ會ハズ渡邊氏アリ朝食ト晝食ノ馳走ヲ受ク佛人ト會食セルハ是ガ姶メテナリ食後停車場ニ至り再ビ荷物ヲ受取リ返ル晩餐ヲ料〔理〕店ニ食ニ行ク美人アリテ英語ヲ話ス夜 Nodier 夫人ノ家ニ歸リテ宿ス是ハ渡邊氏ノ周旋ニテ借リタルモノナリ
 
 十月二十二日〔月〕 十時頃ヨリ公使舘ニ至リ安達氏ヲ訪フアラズ其寓居ヲ尋ねしが又遇ハズ淺井忠氏ヲ尋ネシモ是亦不在ニテ不得已歸宿午後二時ヨリ渡邊氏ノ案内ニテ博覽會ヲ觀ル規模宏大ニテ二日ヤ三日ニテ容易ニ觀盡セルモノニアラズ方角サヘ分ラヌ位ナリ「エヘル」塔ノ《原》上リテ歸路渡邊氏方ニテ晩餐ヲ喫ス其ヨリ Grand《sic》 Voulevard《sic》ニ至リテ繁華ノ樣ヲ目撃ス其状態ハ夏夜ノ銀座ノ景色ヲ五十倍位立派ニシタル者ナリ
 
 十月二十三日〔火〕 朝樋口氏來ル晝食ヲ喫ス岡本氏來ル日本食ノ晩餐ヲ喫ス夫ヨリ Music House ニ至リ又 Underground Hall ニ至ル歸宅ス午前三時歸宅ス巴理ノ繁華ト墮落ハ驚クベキモノナリ
 
 十月二十四日〔水〕 十二時半ヨリ安達氏方ニ赴キ晝飯ノ饗應アリ六時頃歸宅宿ニテ晩餐ヲ喫ス就寢
 
 十月二十五日〔木〕 渡邊氏ヲ訪フ夫ヨリ博覽會ニ行ク美術館ヲ覽ル宏大ニテ覽盡セ《原》レズ日本ノハ尤モマヅシ
 
 十月二十六日〔金〕 朝淺井忠氏ヲ訪フ夫ヨリ芳賀藤代二氏ト同ジク散歩ス雨ヲ衝テ還ル樋口氏來ル
 
 十月二十七日〔土〕 博覽會ヲ覽ル日本ノ陶器西陣織尤モ異彩ヲ放ツ
 
 十月二十八日〔日〕 巴理ヲ發シ倫敦ニ至ル船中風多シテ苦シ晩ニ倫敦ニ着ス
 
 十月二十九日〔月〕 岡田氏ノ用事ノ爲め倫|孰《原》市中ニ歩行ス方角モ何モ分ラズ且南東ヨリ歸ル義勇兵歡迎ノ爲メ非常ノ雜沓ニテ困却セリ夜美|野《原》部氏ト市中雜沓ノ中ヲ散歩ス
 
 十月三十日〔火〕 公使館ニ至リ松井氏ニ面會 Mrs.Nott ヨリノ書状電信ヲ受ク
 
 十月三十一日〔水〕Tower Bridge,London Bridge,Tower,Mpnument ヲ見ル夜美|野《原》部氏ト Haymarket Theatre ヲ見ル Sheridan ノ The School fOr Scandal ナリ
 
 十一月一日〔木〕 十二時四十分ノ※[さんずい+氣]車ニテ Cambridge ニ至り Andrews 氏ヲ訪フ同大學ノ樣子ヲ知ランガ爲ナリ二時着同氏不在四時ニ歸宅スト云フ即ち市内ヲ散歩シ理髪店ニ入ル四時 Andrews 氏ニ會合茶ヲ喫ス夫ヨリ田島氏ヲ訪フ Andrews 氏宿所ニ一泊ス
 
 十一月二目〔金〕 田島氏ノ案内ニテ Cambridge ヲ遊覽ス四時 Andrews 氏方ニテ茶ヲ喫ス田島氏方ニ至リ分袂ス 7.45ノ※[さんずい+氣]車ニテ倫|孰《原》ニ歸ル
 
 十一月三日〔土〕 British Museum ヲ見ル Westminster Abbey ヲ見ル
 
 十一月四日〔日〕 下宿ヲ尋ヌナシ
 
 十一月五日〔月〕 National Gallery ヲ見ル、Westminter Abbey ヲ見ル University College ニ行ク PrOf.Ker ニ手紙ヲ以テ紹介ヲ求ム
 
 十一月六日〔火〕 Hyde Parkヲ見ル
 Ker ノ返事來ル明日午後十二時來レトノ事ナリ
 
 十一月七日〔水〕 Ker ノ講義ヲ聞ク
 
 十一月八日〔木〕 公使館ニ至リ學資金ヲ受取ル下宿ヲ尋ヌ歸宅 Mrs.Nott ノ手紙ト電信ヲ受取ル直ちニ Sydenham ニ行ク
 
 十一月九日〔金〕 Lord Mayor`s Show ヲ見ル倫|孰《原》ニ返ル正金銀行ニ至り金ヲ受取ル文部省會計課ヘ領收書ヲ出ス又中央金庫ヘモ出ス
 
 十一月十日〔土〕 下宿ヲ尋ヌ Priory Rpad Miss Milde 方ニ十二日ニ移ルコトニ決ス
 
 十一月十一日〔日〕 Kenshigton《sic》 Museum ヲ見ル Victoria and Albert Museum ヲ見ル
 
 十一月十二日〔月〕 愈 Priory Road ニ移ルコトニ決ス朝 University College ニ至リ lecture ヲ聞ク Dr.Foster
 
 十一月十三日〔火〕 Uqnderground railway ニ乘ル Kerノ lecture ヲ聞ク
 
 十四日〔水〕
 
 十五日〔木〕 終日長尾氏と話ス
 
 十六日〔金〕 Pritchett ニ至ル
 
 十七日〔土〕 St.Paul ヲ見ル
 
 十八日 日曜 手紙ヲ認む
 
 十九日〔月〕 書物ヲ買ニ Holborn ニ行ク
 
 二十日〔火〕 Biscuit ヲ買ヒ晝飯ノ代リトナサン〔ト〕試ム一カン80錢ナリ
 
 二十一日〔水〕 Ker ノ講義ヲ聞ク面白カリシ Craig ヨリ返事來ル滅茶苦茶ノ字ヲカキテ讀ミニクシ來リテ相談セヨトノ意味ナリ
 
 二十二日〔木〕 Craig ニ會ス Shakespeare 學者ナリ一時間 5 shilling ニテ約束ス面白キ爺ナリ
 
 二十三日〔金〕 Hampstead Heath ヲ見ル愉快ナリ
 巡査ニ會ス水夫トシテ日本ニ居リタル者ナリ日本ヲ頻ニホ〔メ〕タリ
 
 十一月二十七日〔火〕? Craig
 
 十二月四日 (火曜) Craig ニユク
 
 十二月十一日〔火〕
 
 十二月十八日〔火〕
 
〔入力者注、斷片――明治三十三年十月――、として六頁にわたる英文あり、省略〕
 
日記 ――【明治三十四年一月一日より十一月十三日まで――
 
 一月一日 火
 英國人ノ裸體畫ニ關スル意見ヲ聞ク(Mr・Brett ヨリ)英國ニ裸體畫少キ所以ヲ知ル
 (Dalzell 氏及ビ Walker 氏ヨリ Christian Rligion ニ關スル意見ヲ聞ク)
 
 −月二日 水
 Johnson ノ British Poets 75 vols. 及ビ Restoration Drama 14 vols. 等ヲ買フ Tottenham Court Road Roche ニテ
 
 一月三日 木
 倫敦ノ町ニテ霧アル日大《原》陽ヲ見ヨ黒赤クシテ血ノ如シ、鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラン。
  彼等ハ人ニ席ヲ讓ル本邦人ノ如ク我儘ナラズ
  彼等ハ己ノ権利ヲ主張ス本邦人ノ如ク面倒クサガラズ
  彼等ハ英國ヲ自慢ス本邦人ノ日本ヲ自慢スルガ如シ
  何レガ自慢スル價値アリヤ試ミニ思ヘ
 
 一月四日 金
 倫|孰《原》ノ町ヲ散歩シテ試ミニ啖《原》ヲ吐キテ見ヨ眞黒ナル塊リノ出ルニ驚クベシ何百萬ノ市民ハ此煤烟ト此塵挨ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツヽアルナリ我ナガラ鼻ヲカミ啖ヲスルトキハ氣ノヒケル程氣味惡キナリ
 
 一月五日 土
 此煤烟中ニ住ム人間ガ何故美クシキヤ解シ難シ思フ二全ク氣候ノ爲ナラン大《原》陽ノ光薄キ爲ナラン、往来ニテ向フカラ背ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ來タト思ヘバ我姿ノ鏡ニウツリシナリ、我々ノ黄ナルハ當地ニ來テ始メテ成程ト合點スルナリ
  妄リニ洋行生ノ話ヲ信ズベカラズ彼等ハ己ノ聞キタルコト見タルコトヲ universal case トシテ人ニ話ス豈計ラン其多クハ皆 particular case ナリ、又多キ中ニハ法螺ヲ吹キテ厭ニ西洋通ガル連中多シ、彼等ハ洋服ノ嗜好流行モ分ラヌ癖ニ己レノ服ガ他ノ服ヨリ高キ故時好ニ投ジテ品質最モ良好ナリト思ヘリ洋服屋ニダマサレタリトハ嘗テ思ハズ斯ノ如キ者ヲ着テ得々トシテ他ノ日本人ヲ冷笑シツヽアリ愚ナルコト夥シ
 
 一月七日 月
 此日始メテ倫|執《原》ノ雪ヲ見ル寒甚シ
 
 一月八日 火
 雪尚消えズ午後ヨリ又降リシキル
 
 一月九日 水
 雪已ム尚曇天ナリ石炭ノ灰ノ雪ヲ掩フヲ見ル阿蘇山下ノ灰ノ如シ午前室ヲ易ユ
 
 一月十日 木
 朝雪晴れて心地よき天氣なり獨り野外に散歩す温風面を吹きて春の如し倫|執《原》も Denmark Hill 附近は閑靜にて聊か風雅の心を喚起するに足る Hampsstead Heath に長尾氏と散歩セしときと今日が尤も倫孰に來てよりの愉快なる日なり
 
 一月十一日 金
 昨夜 Kennington ノ Pantomime ヲ見二行ク滑稽ハ日本ノ園遊ニ似タル所アリ面白シ奇麗ナルコト West End theatres ニ讓ラズ然モ best seat ニテ頗ル廉價ナリ
 己レノ英語ノ出來ヌコトニ氣付カズシテ人ノ英語ヲ笑フモノアリ笑ハルヽ者正シクシテ笑フモノノ方却ツテ間違ヘル場合ナキニアラズ妄リニ西洋通ガルモ却ツテ此類ナラン
 
 一月十二日 土
 英國人ナレバトテ文學上ノ智識ニ於テ必ズシモ我ヨリ上ナリト思フナカレ、彼等ノ大部分ハ家業ニ忙ガシクテ文學抔ヲ繙ク餘裕ハナキナリ respectable ナ新聞サヘ讀ム閑日月ハナキナリ、少シ談シヲシテ見レバ直ニ分ルナリサスガ自國ノ文學故知ラヌトハ云ハザレド繁忙ニテ讀書ノ時間ナシ抔トテ御茶ヲ濁スカ或ハ知ツタフリヲシテ通スナリ彼等ノ胸中ニハ日本人ニ負ケテハ耻カシトノ念充分アル故ナラン此方モ餘慶ナ話シヲシテ先方ヲ苦シムルニモ及バズト思ヒ善キ加減ニ話頭ヲ轉ズルナリ、余ノ知レル lady ハ中等社會ノ人ナリ然シ文學ノコト抔ハ一切知ラヌナリ、大學ニテ女生徒ガ講義ノ後ニ Prof. ニ向ヒ Keats 及ビ Landor ノ綴リヲ聞キ居タルヲ見シコトアリ余ガ下宿ノ爺ハ一所ニ芝居ニ行キシ處 Robinson Crusoe ヲ演ゼシガ是ハ一體眞ニアツタコトナリヤ小説ナリヤト余ニ向ツテ問ヒタリシ故無論小説ナリト答ヘシニ余モ然思フト云ヘリ因ツテ 18th cent. ニ出來タ有名ナ小説ナリト云ヒシニ左樣カト云フテ直チニ話頭ヲ轉ジタリ其女房ハ先日迄女學校ヲ開キツヽアリ〔シ〕女故少シク教育ノアルベキ筈ナルガ文學ノコトハ矢張り一二冊ノ小説ヲ讀ミシノミ其癖生意氣ニテ何デモ知ツ〔タカ〕振ヲスルナリ此方ニテ少々六ヅカシキ字ヲ使ヘバ分ラヌ癖ニ先方ニテハクダラヌ字ヲ會話中ニ挾ミテ此字ヲ知ツテ居ルカト一々尋ねラレルニハ閉口ナリ此等ハ只現今ノ Ouida 又ハ Correli 位ノ名ヲ知ルノミ而シテ必ズシモ下賤ナモノニハアラズ中以下ハ篤志ノモノニアラザレバ概シテ斯ノ如キモノナラン、會話ハ自國ノ言語故無論我々鯱立シテモ及バヌナリ然シ所謂 cockney ハ上品ナ言語ニアラズ且分ラヌナリ倫|孰《原》ニ來テ是ガ分レバ結構ナリ倫孰上流ノ言語ハ明斷ニテ上品ナリ Standard ナランカ是ナラ大抵分ルナリ、カヽル次第故西洋人ト見テ妄リニ信仰スベカラズ又妄リニ恐ルベカラズ然シ Prof. 抔ハ博學ナモノナリ夫スラ難問ヲ出シテ苦メルコトハ容易ナリ 濃霧春夜ノ朧月ノ如シ市内皆燭照シテ事務ヲトル、長尾氏方ニ至ル門野氏万ニテ牛鍋ノ御馳走アリ非常ニウマカリシ午後十一時頃歸宅ス
 
 一月十五日 火
 Craig 氏ニ行ク
 
 一月十七日 木
 倫敦デハ silk hat ト flock‐Coat ガ流行ル中ニハ屑屋カラ貰タ樣ナ者ヲ被ツテ歩行テ居ルノモアル思フニ英國ノ浪人ナルベシ
 裏ノ草原ニ鵯程ナ鳥ガ夥多降リテ餌ヲ探シテ居ルカラ下女ニ名ヲ尋ネタラ雀ダト云ツタ倫敦ハ雀迄ガ大キイ
 
 一月十八日 金
 英國人ニテモ普通ノモノハ accent ヲ間違ヘタリ pronunciation ヲ取違ヘタリスルコト目《原》珍シカラズ日本人ハ無理ナラヌコトナリ、然シ日本人ノ英語ハ大體ニ於テ頗ルマヅシ、調子ガノラヌナリ變則流ナリ、切角ノ學問見識モ是ガ爲ニ滅茶|々《原》ニ見ラルヽナリ殘念ノ事ナリ字ノ下手ナモノガ下品ニ見ユルガ如シ
 
 一月十九日 土
 長尾氏ヲ饗ス午十二時半頃ヨリ午後九時半頃迄話す愉快ナリ
 
 一月二十日 日
 Mr.Brett ト犬ト共ニ散歩ス
 
 一月二十一日 月
 女皇危篤ノ由ニテ衆庶皆眉ヲヒソム
 
 一月二十二日 火
 The Queen is sinking.Craig 氏ニ行ク、ほとゝぎす届く子規尚生きてあり
 
 一月二十三日 水
 昨夜六時半女皇死去ス at Osborne.Flags are hoisted at half‐mast. All the town is in mourning. I,a forelgn Subject,also wear a black‐necktie to show my respectful sympathy.“The new century has opened rather inauspiciously,”said the shopman of whom I bought a pair of black gloves this morning.
 
 一月二十四日 木
 Edward VII 即位ノ Proclamation アリ、妻ヨリ無事ノ書状來ル、返事ヲ認ム、夜入浴ニ行ク
 終日散歩セヌト腹工合ガ惡イ散歩スレバ二圓位ノ金ハ必ズ使ツテ歸ル此デ困ルナー
 
 一月二十五日 金
 妻ヘ返書ヲ出ス小兒出産後命名ヲ依托シ來ルナリ
 西洋人ハ日本ノ進歩ニ驚ク驚クハ今迄輕蔑シテ居ツタ者ガ生意氣ナコトヲシタリ云タリスルノデ驚クナリ大部分ノ者ハ驚キモセネバ知リモセヌナリ眞ニ西洋人ヲシテ敬服セシムルニハ何年後ノコトヤラ分ラヌナリ土臺日本又ハ日本人ニ一向 interest ヲ以《原》テ居ラヌ者多キナリツマラヌ下宿屋ノ爺抔ガ日本ヲ appreciate セヌノミカ心中輕侮スルノ色アルヲ見テ自ラ頻リニ法螺ヲ吹キ己レ及ビ己レノ國ヲエラソウニ言ヘバ云フ程向フハ此方ヲ馬鹿ニスルナリ是ハ此方ガ立派ナコトヲ云ツテモ先方ノ知識以上ノコトヲ言ヘバ一向通ゼヌノミカ皆之ヲ conceit ト見傚セバナリ黙ツテセツ/\トヤルベシ
 
 一月二十六日 土
 女皇ノ遺骸市内ヲ通過ス
 
 一月二十七日 日
 大風
 夜下宿ノ三階ニテツク/”\日本ノ前途ヲ考フ」日本ハ眞面目ナラザルベカラズ日本人ノ眼ハヨリ大ナラザルベカラズ
 
 一月二十八日 月
 昨日ハ女皇死去後第一ノ日曜ニテ諸院皆 Handel《sic》 ノ Dead March ヲ奏シ muffled tolls of Bells ヲ響カス此夜モ鐘聲頻ナリ
 内〔ノ〕下宿ノ妻君モ妹モ Twopence Tube ヘ乘ツタコトガナイ下女ハ此家ノ周囲ヨリ外何モシラナイ外國ニモ斯ノ如キ者ガアルカラ我々ハ彼等ヨリ餘慶倫敦ヲ知ルト云ハネバナラヌ 萬歳
 
 一月二十九日 火
 Craig 氏ニ至ル、 King Lear ノ Introduction ヲ書キツヽアリ、歸途 Water Colour Exhibition ヲ見ル畫題筆法油畫ヨリモ我嗜好ニ投ズル者頗ル多シ日本畫ニ近キ故カ日本ノ水彩畫抔ハ遠ク及バズ夫ヨリ Portrait Gallery ヲ見ル一婦人妙ナ風ナノアリ諸人之ヲ嘲笑ス是ガ英國ノ civility カ厭ナ事ナリ、歸宅再出入浴、此日大風天氣晴
 
 一月三十日 水
 善キ天氣ナリ世間知ラズノ英國ノ女ニハコマル、或ル婆さんハ御前ハ superstition ト云フ字ヲ知テ居ルカト尋ネタ下宿ノ神さんハ tunnel ト云フ字ヲ知ツテ居ルカト聞タ呆レテ物ガ言ヘヌ
 
 一月三十一日 木
 下宿ノ神さんがそんなに勉強して日本へ歸つたら嘸金持になるだらうと云つた 好笑
 
 二月一日 金
 朝 Dulwich ニ至リ Picture Gallery ヲ見ル此邊ニ至レバサスガノ英國モ風流閑雅ノ趣ナキニアラズ
  繪所を栗燒く人に尋ねけり
 
 二月二日 土
 Queen ノ葬儀ヲ見ントテ朝九時M呂T、Brett ト共ニ出ヅ
 Oval ヨリ地下電氣ニテ Bank ニ至り夫ヨリ Twopence Tube ニ乘リ換フ Marble Arch ニテ降レパ甚ダ人ゴミアラン故 next station ニテ下ラント宿ノ主人云フ其言ノ如クシテ Hyde Park ニ入ルサスガノ大公園モ人間ニテ波ヲ打チツヽアリ園内ノ樹木皆人ノ實ヲ結ブ漸クシテ通路ニ至ルニ到底見ルベカラズ宿ノ主人余ヲ肩車ニ乘セテ呉レタリ漸クニシテ行列ノ胸以上ヲ見ル、柩ハ白ニ赤ヲ以テ掩ハレタリ King、German Emperor 等隨フ
 
 二月三日 日
 Dulwich Park ニ散歩ス廣々トシテ池アリ家鴨多シ紳士貴女頗ル多シ
 
 二月四日 月
 ウチノ女連ハ一日ニ五度食事ヲスル日本デハ米ツキデモ四度ダ是ニハ驚ク其代リ朝カラ晩迄働イテ居ル
 
 二月五日 火
 Craig 氏ニ至ル謝儀ヲ拂フ歸途 Don Quixote Watrton ノ History 等ヲ買フ代價四十圓程ナリ頗ル愉快今日藤代ヨリ手紙來ル夜田中氏ト入浴ス
 
 二月六日 水
 昨夜獨乙ノ藤代ト故郷ノ中根ノ母ヘ書信ヲ認ム一時頃就寢今朝少々咽喉ワルシ十二時過ヨり買物ニ行ク十園以上ヲ費ヤス、昨日買ヒタル書物到着ス宿ノ女房問て曰アナタハドコデコンナ古本ヲ御求メナサイマスカ
 
 二月七日 木
 山川ヨリ年始状來ル菅ヨリモ來ル諸氏ニ御無沙汰ヲシテ濟マヌ其内手紙ヲカクベシ
 
 二月八日 金
 朝入浴、午後七時田中氏ト Metropole Theatre ニ行ク Wrong Mr.Wright ト云フ滑稽芝居ナリ徹頭徹尾オドケニテ面白キコト限ナク然モ其滑稽タルヤワルフザケニアラズシテ興味尤モ多シ、
 
 二月九日 土
 今日午前九時ヨリ十二時半頃迄カリ《原》リテ山川狩野菅大塚ノ四人ニ書状ヲ認ム連名デ長キ者ヲカキタリ
 先達てCraig 氏に雪は好キかと尋ねたら大嫌ひだと答へた何故と云たら泥がきたないと云つた泥は誰も好くまいが雪は poet ノ愛するものだと答へてやつた Craig は頻りに nature を云々する男だ
 
 二月十日 曰
 田中氏と Dulwich Park に至る夫より門を拔けて Sydenham の方に至り引き返す泥濘にて大弱りなり
 
 二月十一日 月
 Brixton に至る
 「ミス スパロー」ハ頗ル内氣ノ神經質ノ女デアル人ガ居ルト「ピヤノ」ヲ彈ズルコトガ出來ンノデ始終試驗ニ及第スルコトガ出來ナイト云ツタ
 
 二月十二日 火
 Craig ニ至ル文章ヲ添削センコトヲ依頼ス extra Charge ヲ望ム 卑シキ奴ナリ、歸途 Charing Cross ニテ古本ヲ購ハントス一週間前ニ出タル catalogue 中ノ欲シキ者大概ハ賣レタリ何人ガ買フニや倫|孰《原》ハ廣キ處ナリ Mackenzie の三卷モノト Macpherson ノOssian ヲ得テ歸ル
 
 二月十三日 永
 Camberwell Green デ繪入ノ草花ヲ説明シタ本ヲ二冊十志デ買タ是カラ鈴木ヘ手紙ヲ出ス、 小兒ガ澤山獨樂を廻して居た熊本邊ではやる蕪の樣な木に鐵の|眞《原》棒ヲ通した頗る單純なもので妙ニ西洋につり合はんと思ツた
 家の者共は犬ノ共進會を見に行た惡い天氣デ雪が降つて居る、當地のものは天氣を氣にかけない禽獣に近い
 
 And on the bank a lonely flower he spied,
 A meek and forlorn flower,With nought of pride,
 Drooping its beauty o’er the watery clearness,
 To woo its own sad image into nearness.
               ――Keats.
 
 面白キ句ナリシ故此ニ書キタリ
 
 二月十四日 木
 今日ハ Edward VII ガ始メテ國會ヲ開ク開院式デ大騷ギダ此間ノ Victoria ノ葬式デ閉口シタカラ行カナイ、Bixton ヲ散歩シテ歸ル、昨日古本ヲ買タ Camberwell ノ爺ハストーブガナクテ寒イカラト云フテ「ガス」ヲツケテ寒ヲ凌イデイタ此爺トアノ青《原》イ雇人ヲ見ル度ニScrooge ト BOb ノ事ヲ思ヒ出ス
 
 二月十五曰 金
 ウチノ下宿ノ飯ハ頗ルマヅイ此間迄ハ日本人ガ澤山居ツタノデ少シハウマカツタガ近頃ハ段々下等ニナツテ來タ尤モ一週 25 shil. デハ贅澤モイヘマイ夫ニ家計ガ頗ル不如意ラシイ可愛想ニ
 
 二月十六日 土
 Mrs.Edghill ヨリtea ノ invitation アリ行カネバナラヌ厭ダナー
 Peckham Road ヲ散歩ス歸途道ヲ失フ bus ニテ歸ル
 夜田中氏ニ誘ハレテ Kennington Theatre ニ至ルChristian ト云フ外題ナリ餘リ感服仕ラズ
 
 二月十七日 日
 Snow storm. 暫クシテ已ム倫|孰《原》ニテノ雪是ニテ四回許ナリ 田中氏ト Brixton ニ至ル
 
 二月十八日 月
 往來ヲ歩クト何レモ小惡ラシイ顔許リダ愛|矯《原》ノアル顔ヲシテ居ルモノハ一人モ居ラヌ其代リ小供デ鼻ヲ垂ラシテ居ル者ハ一人モナイ
 一昨日 Brixton デ買物ヲシタラ善イ結構ナ御天氣デスナト云ツタ此ガ結構デハタマラナイ辱クモ日本晴ヲ拜マシテやリタイ
 今日ハ髪結床ニ行ツタ夫カラ Denmark Hill ヲ散歩シタ五時頃カラ家内ノ女連と話しをした
 
 二月十九日 火
  A thing of beauty is a joy forever:
  Its loveliness increases;it will never
  Pass into nothingness;but still wil lkeep
  A bower quiet for us,and a sleep
  Full of swee tdreams,and health,and quiet
   breathing.
 Keatsト云フ男ハコンナコトヲ考ヘテ居ツタ
 Craig ニ行ク三時頃カラ突然太陽ガ strike ヲシテ市中ハ闇ダ
 
 二月二十日 水
 Craig ニ George Meredith ノ事に就て間たら少しも知らない色々言譯をした英語の書物を悉く讀まねばならぬ譯はない耻るに及ばぬ事だ
 故郷の妻に文ヲツカハス、晩に虚子ヨリほとゝぎす四卷三號を送り來るうれし夜ほとゝぎすを讀む
 
 二月二十一日 木
 Carls‐bad ヲ買フ
 雪ガチラ/\降ツテ居ル時計ガ三時ニナル厭ダガ Dulwich 迄行カナケレパナラナイ雪ヲ衝テ出掛タ目的地ニ達シテ時計ヲ見ルト三十分許早イ雪ハ益烈敷降ル仕方ガナイカラ雪見ト覺悟ヲシテソコラヲ無暗ニ歩行タ、漸ク時ガ來タカラカチ/\/\ヲやツテ這入タコチラヘト云フカラ這入ルト驚イタ狹イ drawing room ニズラリ列ンダリナ半ダースの貴女ガ御出ダ已ヲ得ナイカラ腰ヲ据えタ右ヲ見テモ左ヲ見テモ知ラナイ女ダ家ノ妻君モ知ラナイ女ダ外國人ノ然モ日本人ヲ一度モ逢ツタコトモナイノニ‘at home’ ニ呼ブナンテ野暮ナ奴ダト思ツタガ仕方ガナク向モ義理デ呼ンダンダラウ此方モ義理デ行ツタノダ茶ガ出ル、キマリキツタ事ヲ二三言話ス其内ニ亭主ガ出テ來タ白髪頭ノ坊主ダ餘リ善イ人デハナイ樣ダ妻君ハ好イ顔ヲシテ居ル善イ英語ヲ使フ早々ニ還ツタ全ク時間ツブシダ西洋ノ社會ハ愚ナ物ダコンナ窮窟ナ社會ヲ一體ダレガ作ツタノダ何ガ面白イ雪ハマダ降ツテ居ル家ヘ還ツテ家内ノモノトカルタヲシテ domino ヲシタ夫カラ室ヘ還ツタガ書物ヲ讀ム氣ニナラナイ三十分許リストーブト首引ヲシタ夫カラ寢タ益愚ダ
 
 二月二十三日 土
 晝ヨリ市ニ行キ田中氏ト同道 Charing Cross ニ至リ Her Maajesty《sic》 Theatre ニテ Twelfth Night ヲ見ル Tree ノ Malvolio ナリ装飾ノ美服装ノ麗人目ヲ眩スルニ足ル席皆賣切不得已 Gallery ニテ見ル
 Mrs.Nott ニ手紙ヲ出ス
 高濱ニモ端書ヲ出ス
 
 二月二十四日 日
 夜「ブレツト」ト話ヲシタラ日本ノ人間ヲ改良シナケレバナルマイ夫ニハ外圖人ト結婚ヲ奨勵スルガヨカラウト云フタ
 
 二月二十五日 月
 松本氏ヨリ七言律ヲ寄セラル
 表ヲアルイテ居ルト道ヲハク奴ガ禮ヲシタ小イ女ノ兒ガ叮嚀ニ腰ヲカヾメテ Good morning ト云ツタ前ノハ金ヲ貰ヒタイノダ後ノハ意味ガ分ラナイ
 今夜シヤツ及ビ白シヤツ襟ヲ着換ユル用意ヲナス
 
 二月二十六日 火
 Craig 氏ニ至ル Shelley Society ノ Publication 二冊ヲ借リテ還ル夜 Kennington ノ Theatre ニ至ル大入ナリ外題は The Sign Of the Cross ト云フ Rome ノ Nero ガ耶蘇教征伐ノ事ヲ仕組ミタル者ナリ服装抔頗ル參考ニナリテ面白カリシ
 
 二月二十七日 水
 Hundred Pictures ノ Part I 來ル 17 parts ニテ完結スル筈ナリ
 
 二月二十八日 木
 Herne Hill ニ至ル
 
 三月一日 金
 Brockwell Park ニ至ル歸途 Shower ニ出逢ヒビシヨ濡トナル歸リテ「シャツ」及ビ其他ヲ着換ユ、夜入浴、此夜妄想ヲ夢ム浴後寢ニ就キタル故カ、
 
 三月二日 土
 Elephant & Castle ニ至ル、漸々春ノ氣候トナル
 此日ハ倫|孰《原》着以來ノ好天氣ナリ然シ此好天氣ハ長持セズ april shower ニ近ヅキツヽアルナリ
 
 三月三日 日
 Bixton ヲ散歩ス Carls‐bad ノ精《原》ニテ下痢ス
 
 三月四日 月
 又 Boockwell Park ニ至リ花園ヲ觀泉水ヲ過ル葦ノ芽ノ青キヲ見ル又桃ノ花ノ蕾ムヲ見ル愉快ナリ歸リテ午飯ヲ喫ス「スープ」一|血《原》 cold mea t一血プツヂング一血|密《原》柑一ツ林檎一ツ
 
 三月五日 火
 Craig ニ至リ謝禮ス先生余ノ文章ヲ觀テ大變賞讀シタリ然シ議論其物ニハ平カナラザルガ如ク少々余ニ議論ヲ吹キカケタリ、 Shelley Society ノ PublicatiOn ノ 内 W.Rossetti ノ A Study Of Prmethes Unbound ヲ借テ歸ル歸途 Knight ノ沙翁集其他合シテ 50 圓許ノ書籍ヲ買フ、近頃ノ天氣陰晴不定所謂 april shower 既ニ來ル者ノ如シ書物屋ノ主人曰ク厭ナ御天氣デスナ然シ書物許リ讀ンデ居ル人ニハ宜シフ御座ンシヨウト此日 Baker Street ニテ中食ス肉一|血《原》芋菜茶一椀卜菓子二ツナリ一(シリング)十片ヲ拂フ晩入浴ス
 
 三月六日 水
 不相變 Denmark Hill ヲブラツキテ歸ル此所ハ Ruskin ノ父ノ住家ナリシト云フ何處ノ邊ニヤ
 英國デ女ノ醉漢ヲ見ルハ珍ラシクナイ Publiv House 抔ハ女デ一パイノ處ガアル
 
 三月七日 木
 此日シャツ襟ヲ替ユ
 夜田中氏ト Drury Lane Theatre ニ至ル Sleeping Beauty ヲ見ン爲ナリ是ハ pantomime ニテ去年ノクリスマス頃ヨリ與行シ頗ル有名ノ者ナリ其仕掛ノ大、装飾ノ美、舞臺道具立ノ變幻窮リナクシテ往《原》來ニ遑ナキ役者ノ數多クシテ服装ノ美ナル實ニ筆紙ニ盡シ難シ眞ニ天上ノ有樣極樂ノ模樣若クハ畫ケル龍宮ヲ十倍許リ立派ニシタルガ如シ觀音樣ノ天井ノ仙女ノ畫抔ヲ思ヒ出スナリ又佛經ニアル大法螺ヲ目前ニ睹ル心地ス又 Keats ヤ Shelley ノ詩ノ description ヲ其儘現ハセル樣ナ心地ス實ニ消魂ノ至ナリ生レテ始メテカヽル華美ナル者ヲ見タリ
 
 三月八日 金
 英國デ雨ガ降ツテ〔モ〕町ノ賑サ與行|者《原》ノ入リハ同ジ事デアル日本人ハ雨ヲ恐レル是ハ日本ハ天氣ノ好イ日が多イノト日本ノ衣服ガ雨デ損ズルノト日本ノ道路ガ無暗ニ惡ノト夫カラ足駄ヲハカネバナラヌカラダラウ
 
 三月九日 土
 今日ハ郵便日なるを以て正岡へ繪葉書十二|牧《原》と妻へ消息ヲ遣ハス Lang ノ Dreams and Ghosts ヲ讀ム
 
 三月十日 曰
 田中氏ト Vauxhall Park ニ散歩シ Clapham Common ヨリ Brixton ニ出テ歸ル晩ニ「ブレツト」カラ
 
  Red sky at night
  Is the shePherd's delight.
 
  Red sky in the morning
  Is the shepherd's warning.
 
  Morning red and evenin ggray
  Send the traveller on his way.
 
  Morning gray and evening red
  Send the rain on his head.
 
ト云フコトヲ習フ
 
 三月十一日 月
 
 今日熊本櫻井氏ヨリ書面來ル一月二十五日附ナリ京都大學ノ蒲生生ヨリモ來ル一月三十一日附ナリ櫻井氏ノ書面ニ Brandram 氏發狂ノ事アリ香港ニ送ル途中ニテ死亡ストアリタリ氣ノ毒ナルコトナリ
 
 三月十二日 火
 白シャツ下シヤツ股引ヲ替ユ
 Ctaig 氏ニ至ル歸途 Bond St. ヨリ Piccadilly ニ出デ St.John's Park ニ至ル青キ芝ノ中ヨリ董ト藤色ノ tulip ガ「ニヨキ/\」出テ居ルノガ大變美クシイ
 西洋人ハ執濃イコトガスキダ華麗ナコトガスキダ芝居ヲ觀テモ分ル食物ヲ見テモ分ル建築及飾粧ヲ見ニ《原》モ分ル夫婦間ノ接吻や抱キ合フノヲ見テモ分ル、是ガ皆文學ニ返照シテ居ル故ニ洒落超脱ノ趣ニ乏シイ出頭天外シ觀ヨト云フ樣ナ樣ニ乏シイ又笑而不答心自閑ト云フ趣ニ乏シイ
 
 三月十三日 水
 昨日山川ヨリ端書來ル妻ガ産ヲシタ(一月十六日)トノ消息ナリ山川ノ手紙ハ一月二十八日日附ナリ
 午後四時頃ヨリブレツト夫人ト話ス過去交際社會ニアリシ昔話ヲ聞キタリ英國ノ不品行ナル日本人ニ勝ルトモ劣ルベカラズ
 
 三月十四白 木
 穢ない町を通つたら目暗が「オルガン」ヲ彈て黒イ以太利人ガ「バイオリン」ヲ鼓シテ居ルト其傍ニ四歳許リノ女ノ子ガ眞赤ナ着物ヲ着テ眞赤ナ頭巾ヲ蒙《原》ツテ音樂ニ合セテ※[足+勇]ツテ居タ
 公園ニチユーリップノ咲クノハ奇麗ダ其傍ノロハ臺ニ非常ニ汚苦シイ乞食ガ晝寐ヲシテ居ル大變ナcontrast ダ
 
 三月十五日 金
 日本人ヲ觀テ支那人ト云ハレルト厭ガルハ如何、支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名譽アル國民ナリ、只不幸ニシテ目下不振ノ有樣ニ沈淪セルナリ、心アル人ハ日本人ト呼バルヽヨリモ支那人ト云ハルヽヲ名譽トスベキナリ、假令然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ、少シハ考ヘテ見ルガヨカラウ、西洋人ハヤヽトモスルト御世辭ニ支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ惡口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景氣ガヨイト云フ御世辭ヲ有難ガル輕薄ナ根性ナリ
 
 三月十六日 土
 日本ハ三十年前ニ覺メタリト云フ然レドモ半鐘ノ聲デ急ニ飛ビ起キタルナリ其覺メタルハ本當ノ覺メタルニアラズ狼狽シツヽアルナリ只西洋カラ吸収スルニ急ニシテ消化スルニ暇ナキナリ、文學モ政治モ商業モ皆然ラン日本ハ眞ニ目ガ醒ネバダメダ
 今日田中氏ノ《原》 Metropole Theatre ニ行ク In the Soup ト云フ滑稽演劇ナリ Ralph Lumley ト云フ人ノ作ナリ滑稽ヲ無理ニ引キ上ゲテ膝栗毛的ナリ
 
 三月十七日 日
 襟白シャツヲ易フ
 晝ヨリ田中氏同道ニテ Kew Garden ニ至ル美事ナル暖室夥多アリ且頗ル廣クシテ立派ナル garden ナリ Kew Palace ニ入ル
 
 三月十八日 月
 中根ノ父ヨリ消息アリ恒子出産ノ報ヲ聞ク
 吾人ノ眠ル間吾人ノ働ク間吾人ガ行屎送尿の裡に地球ハ回轉シツヽアルナリ吾人ノ知ラヌ間に回轉シツ〔ヽ〕アル|ア《原》リ運命ノ車ハ之ト共ニ回轉シツ〔ヽ〕アルナリ知ラザル者ハ危シ知ル者ハ運命ヲ形クルヲ得ン
 
 三月十九日 火
 Craig 氏ニ至ル謝儀ヲ拂フ夜入浴烟草四箱ヲ買フ
 
 三月二十日 永
 Camberwell ノ Park ヲ散歩ス風雨ハゲシ
 二月十日附ニテ妻ヨリ消息アリ
 
 三月二十一日 木
 金澤ノ藤井氏ヨリ手紙來ル書物|講《原》求委托ノ件ナリ、文部省ヨリ送金ナシ大困却
 英人ハ天下一ノ強國ト思ヘリ佛人モ天下一ノ強國ト思ヘリ獨乙人モシカ思ヘリ彼等ハ過去ニ歴史アルコトヲ忘レツヽアルナリ羅馬ハ亡ビタリ希臘モ亡ビタリ今ノ英國佛國獨乙ハ亡ブルノ期ナキカ、 日本ハ過去ニ於テ比較的ニ滿足ナル歴史ヲ有シタリ、比較的ニ滿足ナル現在ヲ有シツヽアリ、未來ハ如何アルベキカ、 自ラ得意ニナル勿レ、自ラ棄ル勿レ黙々トシテ牛ノ如クセヨ孜々トシテ鷄ノ如クセヨ、内ヲ虚ニシテ大呼スル勿レ眞面目ニ考ヘヨ誠實ニ語レ摯實ニ行ヘ汝ノ現今ニ播ク種ハヤガテ汝ノ收ムベキ未來トナツテ現ハルベシ
 
 三月二十三日 土
 夜 MEetropole Theatre ニ至リ The Royal Family ヲ見ル頗ル面白カリシ
 明朝白シヤツ襟履足袋ヲ易ル準備ヲナス
 
 三月二十四日 日
 Balham ニ Ihara 氏ヲ訪フ不在 Claphpm Common ニ邊邊ヲ訪又不在田中氏ト同行ナリ
 
 三月二十六日 火
 Craig 氏ニ至ル夜井原氏來る晩餐ノ招待アリ、「パリ」の長尾氏ヨリ書翰來ル
 
 三月二十七日 水
 Albert Doek の常陸丸ヨリ立花ノ書翰來ル病氣ニテ歸國ノ由直チニ訪問ス容態惡シ醫學士望月|邊《原》邊二氏ヲ案内シテ British Museum 及ビ National Gallery ニ至ル二氏ノ話シニ立花ノ病氣ハダメナリトアリ氣の毒限ナシ、夜邊邊氏來る、領事館ノ諸井氏來ル examiner ノ件ナリ
 
 三月二十八日 木
 朝長尾の手紙來ル 夜返事ヲ認ム借金ノ爲ナリ
 此日入浴、夜ロバート孃トピンボンノ遊戯ヲナス、多忙故井原氏ノ晩餐招待ヲ斷ハル
 
 三月二十九日 金
 カルルスバード一瓶ヲ買フ夜ニ人ツテ領事館ヨリ電報アリ Glasgow Uqniversity ノ examiner ニ appoint セラル直チニ問題ヲ作リ領事館ニ送ル、井原氏ヨリ殘念ナリトノ端書來ル、
 
 三月三十日 土
 白シヤツ襟ヲ易フ、近頃ハ毎日風ナリ、晝 Hippodrome ヲ見ニ行ク Twopence Tube ヲ出ルト方角ガ分ラナイ反對ノ方ヘ歩行テ行ツタ夫カラ cab ニ乘ツタ夫カラ Hippodrome ニ行クト席ガナクテ5シリング拂ツタ Cinderella ヲ見夕獅子ヤ虎や白熊抔ヲ見タ、歸リニ bus ニ乘ツタラ「アバタ」ノアル人ガ三人乘ツテ居タ、Glasgow Unv. ノ書記官 Clapperton ニ試驗承諾ノ旨ヲ答フ同時ニ Addison ニ試驗問題ヲ送ル時ニ九時半ナリ
 
 三月三十一日 曰
 田中氏ト Brockwell Park ニ行ツタラ、男女二人連ノ一人ガ吾々ヲ日本人ト云ヒ一人ガ支那人ト云ツタ
 
 四月一日 月
 朝起キテ食事ヲシニ行クト Flance ノ長尾カラ爲替ガ來テ居タ八十磅ノ中七十磅ヲ「パリ」ヘ送レト云フカラ正金銀行ヘ行ツテ手續キヲ濟マシタ、Fardel カラ手紙ガ來テ居タ、正岡ト夏目ノ兄カラモ來タ、散髪屋ヘ行ツテ床屋《原》獨乙人ト日本ノ話シヲシタ
 
 四月二日 火
 Craig 氏ニ至ル歸途 Charing Cross ニテ古本ヲヒヤカス、二三冊ヲ買フ中ニー 1820 ノ Miss Burney ノ Evelina アリ三冊モノナリ、馬車ノ上ニテ日本ヲ見たと云フ西洋人ニ話シカケラル、入浴、故里ヨリ小包着、MEilde ト山田氏ヘ手紙ヲ出ス
 
 四月三日 水
 Glasgow University ヨリ examiner ニ appoint スル旨公然通知アリ
 
 四月四日 木
 下宿ノ夫婦 Easter Holiday ニテ里ニ行ク妹一人殘レリ此人娯樂ヲ好マズ貪ニテ勉強日々働ク「アナタ」ハコンナ生活ヲシテ愉快デスカト聞ケバ眞ニ幸福ナリト答フ何故ト尋ヌレバ宗教ヲ信ズレバナリ〔ト〕答フ、難有キ人ナリ
 田中氏ノ妻ヨリ同氏ヘ手紙來レリ其中ニ田中氏ノ舊師同氏留守宅ヲ訪ヒテ父君ト對談ノ時御子息ハ何年位外國ニ留マラルヽヤトノ問ニ對シテ父君ハ二三年ト答へラレシガ舊師ノ云フ樣切角行ツタ位ヒナラ五六年居ツタガ好カラウ、此話シヲ蔭ニテ妻君聞キテ甚ダ悲シカリシ旨書キ送レリト田中氏ノ物語ナリ、婦人ノ情昔シ流ノ先生ノ風躍如トシテ小説ノ如シト思フ
 
 四月五日 金
 今日ハ Good Friday ニテ市中一般休業ナリ終日在宿 Kidnapped ヲ讀ム五時半ヨリ Brixton ニ至リテ歸ル、往來ノモノイヅレモ外出行ノ着物ヲ着テ得々タリ吾輩ノセビロハ少々色ガ變ツテ居ル外套ハ今時ノ仕立デナイ顔ハ黄色イ脊ハ低ヒ數ヘ來ルト餘リ得意ニナレナイ
 宿ヘ歸ツテ例ノ如ク茶ヲ飲ム今日ハ吾輩一人ダ誰モ居ナイソコデパンヲ一片餘慶食ツタ是ハ少々下品ダツタ
 
 四月六日 土
 今日モ無事 祭日ト家内ノモノガ居ランノデ九時半頃ニ漸ク gong ガ鳴ツタカラ下ヘ行ツテ朝飯ヲ喰フ、田中氏ハ是カラ二日ガケデ旅行ヲスル、晝ハ「スパロー」孃ト二人デアル夫カラ Elephant & Castle デ古本ヲヒヤカシタガ金ガナイカラ一冊モ買ハナイデ歸ツタ、茶ヲ飲ンダ時スパローガ色々日本ノ婚禮ヤ葬式ノ事ヲ聞タカラ其話ヲシタ、今日 Camberwell ヲ歩行イテ居タラ二人ノ女ガ余ヲ目シテ least poor Chinese ト云ツタ
 
 四月七日 目
 白シヤツト襟ヲ易ユ
 Denmark Hill ヨリ Peckham ノ Green ヲ經テ歸途 South L.Art Gallery ニ至ル Ruskin, Rossetti ノ 遺墨ヲ見ル面白カリシ
 
 四月八日 月
 Kennington ヨリ Clap ham Common ニ至り歸ル
 Mrs.Edghill より手紙あり十七日に茶の案内なり
 
 四月九日 火
 今朝田中氏ヨリ Shakespeare ト《原》 Bust ト Stratford‐on‐Avon ノ Album ヲ貰フ、Craig 氏ニ至ル歸ル山川ノ端書アリ、突然 Rev.P.Nott 氏ノ訪問ニ遇フ、明日午後四時より Walker 氏方にて茶の饗應案内の爲なり、晩九時頃よりMrs.Edghill に承諾の旨通知す夫より正岡に長き手紙を認む
 
 四月十日 水
 牛後三時よりSt.James Place Walker 氏方に至り Mrs.Walker,Mr.and Mrs.Nott と共に茶を飲み四方山の話をなす、歸宅正金銀行より電報爲替あり、カツセルの Century Ed.of H.of England ヲ切ル
 
 四月十二日 金
 Elephant Castle ニ至リ Cowper ノ 1789 出版ヲ買フ
 
 四月十三日 土
 雨ナリ再ビ Elephant & Castle ニ至リ Smith Bible Dictionary 其他ヲ買フ 1679 ノ Spenser ノ Works 此中ニアリ凡テ三十三圓ナリ此日田中氏 Kenshington《sic》 ニ引越ス
 
 四月十四日 日
 町ヲ散歩シテモ公園ニ行ツテモ穢ヒゴロ付見タ樣ナ者ニ遇ツテモ惡口セヌハ感心ナリ
 
 四月十五日 月
 To give the lie ハ大變ナ失敬ナリ此上ナキ耻辱ヲ與フルナリ(G.Mereditth ノ Rhoda Fleming 及ビ Catrionaa 參照)、Gentleman ノ信用茲ニ存スルナリ日本人ハ如何 貴君ノ年齢ハト問ハレタトキハ正直ニ答ヘルト妙ナ顔ヲシテ嘘ダラウト云フ言フ者モ失敬トモ思ハズ答フル者モ大體ハ嘘ヲ言ツテ居ルナリ信義ハ何邊ニアランヤ、然シ西洋人モ嘘ヲツクナリ御世辭的ニ嘘ヲツクナリ
 西洋ノ etiquette ハイヤニ六ヅカシキナリ日本ハ之ニ反シテ丸デ禮儀ナキナリ窮窟ニスルハ我儘ヲ防グナリ但シ artificiality ヲ免カレズ日本ハ禮儀ナシ而モ artihiciality アリ且無作法ニ伴フ vulgarity アリ禮ナクシテ spontaneity アレバマダシモナリ其利ナク其苦アルノミナラズ禮ノ害ヲモ兼有セリ馬鹿|々《原》敷
 
 四月十六日 火
 Craig 氏ニ至ル一磅ヲ拂フ同氏曰ク英國人ハ金バカリ欲シガツテ居テ困ル己レモ少シ lecture デモシテ金ヲトラネバナラヌ、早銀行ニテ爲替ヲトル Bumpus ニテ六十圓餘ノ書物ヲ買フ
 Craig 氏曰ク Tennyson ハ artist ナリ大詩人ナリ去レトモ缺點アリ彼ノ哲學的詩ハ深カラズ彼ノ Nature ニ對スル觀念ハ Wordsworth ヨリモ scientific ナリ細カイト云ニ過ギズ Wordsworth ノ傑作ハ固ヨリ T. ノ上ニアリ、
 
 四月十七日 水
 再ビ Edghill ニ招待されて午後三時 W.Dulwich ニ至ル Miss Nott アリ Mrs.Edghill ラ耶蘇ノ説教ヲ承ハツタ仕方ガナイカラ自分ノ思フコトヲ述ベタ Mrs.Edghill ガ云フニハ貴君ハ pray スル氣ニナラヌカト云ツタ余ハ pray スベキ者ヲ見出サヌト云ツタ、Mrs.E. ハ此 great Comfort ヲ知ラヌハ情ケナイト云ツテ泣タ氣ノ毒デアツタ M試rs,E. ハ私ハ貴君ノ爲ニ pray シ樣ト云ツタ宜シク御頼マウシマスト答ヘタ、E. ハ私ニ一ノ事ヲ約スルカト問タ吾輩ハ貴君ガソンナニ深切ニ私ノ事ヲ思ツテ下サルカラ私ハ約シマシ〔ヨ〕ウト云ツタラ Bible ノ Gospel ヲ讀メト云ツタ氣ノ毒ダカラ讀ミマシヨウト云ツタ歸ルトキハ貴君ハ約束ヲ忘レハシマイト念ヲ押シタ决シテト云ツタ是カラゴスペルヲ讀ムンダ
 
 四月十八日 本
 ホトヽギス來ル二月二十八日發行ナリ
 昨日日本銀行ト文部省ヘ受取ヲ出ス
 
 四月十九日 金
 Port Said カラ立花ヨリ端書ガ來ル Watanabe 望月二氏ヨリモ謝禮ノ手紙ガクル、Swiss Cottage ノ lady カラ宿問ヒ合セノ返事ガ來ル、行カヌ事ニシテ返事ヲ出ス、獨乙ノ池田氏ヘ手紙ヲ出ス、
 
 四月二十日 土
 今日ノ晝飯 魚、肉米、芋、プヂング、pine‐apple、クルミ密《原》柑
 七時茶 姉妹トモ外出新宅ノ窓掛其他ノ尺ヲトル爲ナリ
 非常ナル快晴珍ラシ風立ツ
 
 四月二十一日 日
 再ビ快晴矢張風
 
 四月二十二日 月
 誰モアラズ basement ニ入リテ kitchen ヤ scullery ヤ larder ヤ gas stove ヲ見タ 早飯ノトキニ神サンガ『アライやナ魯シヤハアンナ大キナナリヲシテ日本ト軍ガ出來ナイナンテ』ト云ツタ『然シ「ロシヤ」ノ艦隊ハ東洋バカリジヤナイ絶體ニ弱インデスヨ』ト知リモセヌ癖ニ勝手ナコトヲ云ツタ亭主ガソンナコトヲ言フニハ少シ本デモ讀ンデ調ベタ上ノコトダトキメツケタ妻君ハ閉口シタ
 快晴アツシ底《原》ノ梨花眞盛ナリ
 
 四月二十三日 火
 天氣快晴愉快 夏服ヲツケル、麥藁帽ノ人多シ
blouse ノ lady モアリ Craig 氏ニ至ル Tennyson ノ In Memoriam ヲ評ス、Taste ハ天福ナリ君之ヲ得タリ賀スベシト云フ、歸ル田中氏新聞ヲ送ル、池田氏ヘ返事ヲ出ス、明朝三時ニ荷ヲ新宅ヘ送ルノデ大混雜シヤツ一ツデ書物ヲ方付ル Miss ケート泣聲デ a fright ニ逢ツタト云フ差配人ガ來タコトナリ家ノ夫人ハ之ヲ恐ルコト蛇蝎ノ如シ、茶ノ時神サン云フ若シ内ノ人ノ家具迄差シ押ヘラレル樣ナコトデ〔ハ〕到底一所ニ夫婦ニナツテ居ラレマセン、氣(ノ)毒ナリ余ハ方付テ|テ《原》仕舞フ、三人ハ差配人ヘ談判ニ行ク十一時頃歸ル案外六ヅカシクナカツタト亭主言フ、Oxhord 邊ノ貴女ノ樣ヲ見テ家ヘ歸ルト Contrast ガ烈イ早ク日ガ暮レバ云《原》ヒイ妹ハ云フタ日ガクレヽバ財産ヲ運ビ出スコトガ出來ルナリ
 
 四月二十四日 水
 朝散歩歸ル(ペン)ガ※[口+堯]《原》舌リダシタ(ペン)ノ※[口+堯]舌ル時ハ家ノモノガ居ラヌ時ナリ十五分許ノペツ立續ケニ噺スガ何ヲ云フヤラ薩張ワカラヌ、昨日差配ノキタトキ不得已嘘ヲツイタト云フコトナリ後ハ何ダカ分ラナイ餘リ分ラナクツテ可笑イカラ笑ツタラ噺ガ面白クテ笑ツタト思ツテ愈※[口+堯]舌ツタ、家ハガラン堂デアル自分ノ荷物ハ行ツタ家ノモノハ新宅ヘ方付方ニ行ツタ殘ルハ我輩ト(ペン)許リダ淋シイイヤナ感ジダ 是デ家ノモノガ詐欺師デ歸ツテ來ナカツタラ我輩ハ頓《原》ダ馬鹿ダ 八時頃又ペンガ三階ヘ上ツテ來テ又差配ガ來タト云フ夫カラ又ベチヤ/\※[口+堯]舌ルガ何ヲ云フノカ些トモ分ラナイ 十時頃ニナツテ下女ガ又來夕差配ガ今日三遍來タコンナニ早ク引越ヲスルモンダカラ近所デハ大變不思議ニ思ツテ居ル怪シマレルノモ尤モダ、家内ノモノハマダ歸ラナイドウシタラウト云ツテ心配ソウダ
 
 四月二十五日 木
 午後 Tooting ニ移る聞シニ劣ルイヤナ處デイヤナ家ナリ永ク居ル氣ニナラズ
 
 四月二十六日 金
 朝 Tooting Station 附近ヲ散歩ス ツマテヌ處ナリ
 
 四月二十七日 土
 Balham ニ行ク、又移リ度ナツタ 兎ニ角池田君ノ來テカラノ事ダ
 
 四月二十八日 日
 Tooting Graveney Common ニ至ル、遠山藤代ヨリ手紙來ル
 
 四月二十九日 月
 鈴木夫婦ヨリ手紙來ル、遠山フアーデル及ビ金澤ノ藤井ニ手紙ヲ出ス
 
 四月三十口 火
 Craig 氏ニ至ル、歸宅家人アラズ Tooting Bec Common ヨリ MEitcham ニ至リ歸ル
 鈴木ヘ手紙ヲ出ス
 
 五月一日 水
 Common ヨリ Streatham ニ至ル
 
 五月二日 木
 又 Tooting Common ニ至ル、Glasgow ノ Hill & Hoggan ヨリ手形ヲ送リ來ル、諸井氏ヘ手紙ヲ出ス、中根ノ母、ト妻ヨリ手紙來ル筆ノ寫眞も來ル
 
 五月三日 金
 Streatham ニ至ル、Glasgow ヘ受取ヲ出ス諸井氏ヨリ返事來ル、神田氏在英ノ事ヲ知ル、主人ニ手形引換ヲ頼ム池田氏ノ部屋出來上ル
 
 五月四日 土
 池田氏ヲ待ツ來ラズ Balham ニ至ル歸途鐵道馬車ニ乘ラントス人足余ヲ拉えテ降リル人ヲ待テト云フ感心ナコトナリ
 薔薇二輪 9 pence 百合三輪 9 pence ヲ買フ素敵ニ高いコトナリ
 
 五月五日 日
 朝池田氏來ル午後散歩 神田、諸井、菊池三氏來訪
 
 五月六日 月
 池田菊苗氏ト Royal Institute ニ至ル
 夜十二時過迄池田氏ト話ス
 
 五月七日 火
 Craig 氏二至ル池田氏寫眞ヲ惠マル、
 日本銀行ヨリ受取請求書至ル
 遠山氏ヘ目録、鈴木ヘ繪葉書、日〔本〕銀行ヘ受取ヲ出ス
 文部省ヨリ二通ノ書状來ル、ホトヽギス來ル
 
 五月八日 水
 文部ノ寺田會計課長ヘ手紙ヲ出ス妻、ト虚子ト 野遊會ノ斷状ヲカク
 
 五月九日 木
 Tooting Common ニ行ク讀書夜池田氏ト英文學ノ話ヲナス同氏ハ頗ル多讀ノ人ナリ
 
 五月十日 金
 Mitcham Common ニ至ル廣大ナル草原ニ furze ノ散點スルヲ見ル cattle and horses 自由ニ草ヲ食ム
 
 五月十二日 日
 Streatham ニ神田先生ヲ訪フ先生結婚上ノ議論ヲ述ブ love or duty
 畠ニテ cows,pigs, howls ヲ見ル頗ル愉快ナル家ナリ、晝飯ノ〔饗〕應アリ
 
 五月十四日 火
 Craig 氏ニ至ル 繪葉書 3 s. 許リ買フ、田中氏ヨリ書翰至ル、池田氏と話す
 
 五月十五日 水
 池田氏と世界觀ノ話、禅學ノ話抔ス氏ヨリ哲學上ノ話ヲ聞ク
 
 五月十六日 木
 小便所ニ人ル宿の神さん曰く男ハ何ゾト云フト女ダモノト云フガ女ハ頗ル useful ナ者デアルコンナコトヲ云フノハ失敬ダト
 夜池田氏ト教育上ノ談話ヲナス又支那文學ニ就テ話ス
 
 五月十七日 金
 晩洋服屋來ル見本を置て歸る
 
 五月二十日 月
 夜池田ト話ス理想美人ノ descriptiin アリ兩人共頗ル精シキ説明ヲナシテ兩人現在ノ妻ト此理想美人ヲ比較スルニ殆ンド比較スベカラザル程遠カレリ大笑ナリ
 
 五月二十一日 火
 朝洋服屋ノ見本來ル Craig 氏ニ行ク壹磅ヲ拂フ次回迄ノ分ナリ
 昨夜シキリニ髭ヲ撚ツテ談論セシ爲右ノヒゲノ根本イタク出來物デモ出來タ樣ナリ
 
 五月二十二日 水
 晩ニ池田氏ト Common ニ至ル男女ノ對此所彼所ニ bench ニ腰ヲカケタリ草原ニ坐シタリ中ニハ抱合ツテ kiss シタリ妙ナ國柄ナリ
 
 五月二十三日 木
 又 Common ニ至ル妻ヨリ二通ノ手紙來ル文部省ヨリ一通ノ手紙來ル
 鈴木ヨリ太陽二部送リ來ル櫻井氏ヨリ手紙來ル西洋人招聘ノ件ナリ
 
 五月二十五日 土
 Lambeth Cemetery ニ至ル廣キ墓場ナリ然シ周圍ハ頗ル邊|癖《原》ナリ
 
 五月二十六日 日
 再ビ Lambeth Cemetery ニ至ル
 
 五月二十七日 月
 頗ル賑カナリ吾住む處ハ Epsom 街道ニテ茲ニ男女馬車ヲ驅リ喇叭ヲ吹テ通ルコト夥シ、近所ノ貧民共又往來ニ充滿ス
 
 五月二十八日 火
 主人ト共ニ Battersea ニ至リ The Dog House ヲ見ル Mr.Jack 捜索ノ爲ナリ、燒イタル犬ノ骨二片ヲクレタ、夫カラ Battersea Park ニ至ル
 鈴木ヘ繪葉書ヲ出ス
 
 五月二十九日 永
 Craig 氏に至ル、遠山と妻ヨリ手紙來ル
 Hales(Prof.)ヘ手紙ヲ認ム妻ヘモ出ス
 
 五月三十日 木
 Hales ヨリ手紙來ル余ノ手紙ハ二通認メ「ケシ」ノ方ヲ誤ツテ送リシニヨル直チニ正シキ方ヲ封ジヤル
 
 六月一日 土
 Balham ニ至リ種々買物ス二磅ニ上ル
 
 六月三日 月
 Elephant & Castle ニ至リ Hazlitt ノ Handbook 其他古本 2 guinea 許ヲ買フ、
 Prof.Hales ヨリ手紙來ル候補者ニ通知セリトノ事ナリ
 ○烟草二箱隼ヲ買フ
 
 六月四日 火
 Craig 氏二至ル George Winter ニテ古本ヲ買9圓許ナリ
 Prof.Hales ヨリ第五校ニ關スル印刷物ヲ送リ來レト云フ端書來ル
 
 六月五日 水
 今日Derby Day ニテ我家ノ附近大騷ギナリ夕景ハ彼等喇叭ヲ吹キ馬車ニ乘リテ歸リ來ル頗ル雜沓ナリ
 
 六月六日 木
 午後三時二十分ニ King's College ニ來テ呉レ候補者直ニ御目ニ掛り御話致シ度とあり(Prof.Hales ノ手紙)
 King's College ニ至ル約ニ後ルヽコト三十分 Prof. 既ニ去ル
 
 六月七日 金
 Prof.Hales ヨリ手紙來ル、候補者 Sweet 氏ニ明日逢ヘトノ事ナリ
 
 六月八日 土
 牛後三時 King's College ニ至リ Swee t氏ニ遇フ College 閉ルヲ以テ Park ニ至ル
 
 六月十日 月
 King's College ニ至リ Prof/Hales ニ面會ス
 
 六月十一日 火
 Craig 氏ニ至ル、Hyde Park St.James Park ヲ經テ歸ル Miss.Nott ヨリ書翰至ル、領事館ヨリモ至ル、洋服屋ニ百圓許ヲ拂フ
 
 六月十二日 永
 Sweet ヨリ application ト testimonial 來ル Sweet ニ返事ト testimonial ヲ返ス櫻井ヘ手紙ヲ認ム
 Nott ト諸井ヘ手紙ヲ出ス
 
 六月十三日 木
 鈴木ヨリ繪葉書太陽、文部省ヨリ留學生表及規定學資來ル
 
 六月十四日 金
 Sweet 氏ヨリ來翰之ニ返事ヲ出ス櫻井氏ヘ手紙ヲ出ス
 
 六月十五日 土
 Sweet 氏ヨリ返翰三年ノ契約ヲ希望スル旨挨拶アリ
 此日池田室ニテ煖爐ヘ火ヲタク
 
 六月十八日 火
 Craig 氏ニ至ル、£1 ヲ拂フ Hippodrome ニ至ル
 田中氏ヨリ手紙 Wright ヨリ手紙至ル、日本ノ輕業岡部一座アリ
 
 六月十九日 永
 渡邊氏ヨリ來翰 Sweet, Wright, 渡邊田中四氏ヘ手紙ヲ出ス 藤代へも出ス
 文部省ヨリ手紙來ル學術研究ノ旅行報告ヲ慥ニスベシト云フコトナリ
 
 六月二十l日 金
 Sweet 氏ヨリ手紙來ル明日 King's College ニテ會《原》トノ事ナリ
 
 六月二十二日 土
 十時半 King's College ニテ Sweet ニ會ス午後一時田中氏方ニ至ル川上ノ芝居ヲ見ント云フイヤダト云ツタ|ス《原》レカラ田中氏ノ下宿ニ至ル Earls Court ノ Exhibition ヲ見ニ行ク
 
 六月二十四日 月
 渡邊氏來る土井氏下宿ニ就テナリ
 
 六月二十五日 火
 Craig 氏ニ至ル
 
 六月二十六日 水
 池田氏 Kensington ニ去る
 
 六月二十七日 木
 池田氏ヨリ端書來ル
 
 六月二十八日 金
 ブレツト夫人ニ下宿替ヲスル旨ヲ言渡ス
 
 七月l日 月
 近頃非常ニ不愉快ナリクダラヌ事ガ氣ニカヽル神經病カト怪マル、然一方デハ非常ニヅーヅー敷處ガアル、妙ダ
 洒々落々光風霽月トハ中々ユカン駄目/\
 鈴木へ Studio ノ Special number ト檜葉書ヲ出ス
 
 七月二日 火
 Craig 氏二至ル
 
 七月六日 土
 井原氏至ル
 
 七月八日 月
 鈴木夫婦ヨリ繪葉書來る
 
 七月九日 火
 Craig 氏二至ル
 Barker & Co.(Castle Court,Cornhill)ニ至リ宿捜索ノ廣告ヲ續ム
 Holborn ニテ Swinburne 及 Morris ヲ買フ
 
 七月十一日 木
 鈴木ヘ Academy Architecture 及ビ建築雜誌一部ヲ送ル
 
 七月十二日 金
 池田氏ヨリ端書來ル
 池田氏ヘ返事ヲ出ス
 應募ノ下宿ノ手紙來ル無數
 大塚ヨリ端喜 心の花送リ來ル
 土井ヨリ書翰
 鈴木ヨリ太陽來ル
 
 七月十三日 土
 池田氏ヨリ返事來ル
 Miss Leale ト池田氏ヘ手紙ヲ出ス
 
 七月十五日 月
 終日下宿ヲ尋ねてうろつく北の方 Leighton Crescentヨリ西ノ方 Brondesbury ニ至ル晝飯ヲ喰ヒ損ヒ足ヲ棒ノ樣ニシテ毫モ氣ニ入ル處ヲ見出サズ閉口家ニ歸レバ餘リツカレテ寐ラレズ
 
 七月十六日 火
 Clapham Commonノ The Chase ニ至リ  Miss Leale ニ面會ス同人方ニ引越ス事ニ决ス夫ヨリ革嚢屋ニ至リ革嚢二帽子入一個ヲ買フ £4.4 ナリ
 
 七月十七日 水
  Miss Leale ニ手紙 Mrs.Brunton ニモ手紙ヲ出ス
 
 七月十八日 木
  Miss Leale ヨリ返事アリ山川ヨリ端書池田氏ヘ日々新聞來ル
 
 七月十九日 金
 方付方ニテ多忙汗滿面注文ノ箱來ラズ七時頃來ル、 Miss Leale ヘ電報、公使館ヘ手紙
 藤代、井原、田中三氏ヘ轉宅ノ報知ヲナス
 
 七月二十日 土
 午前  Miss Leale 方ニ引越ス大騷動ナリ四時頃書籍大革嚢來ル箱大テシテ門ニ入ラズ門前ニテ書籍ヲ出ス夫ヲ三階ヘ上ル非常ナ手數ナリ暑氣堪難シ發汗一斗許リ室内亂難膝ヲ容ルヽ能ハズ
 
 七月二十一日 日
 非常ニ暑シ午後池田氏來ル晩餐ヲ喫シ十一時歸ル
 
 七月二十二日 月
 大坂ノ鈴木、熊本ノ奧、金澤ノ西田、京都ノ紫川 London ノ田中氏ヨリ手紙及時事新報來ル
 
 七月二十三日 火
 Craig 氏ニ至ル
 
 七月二十四日 水
 Cassell ノ Illustrated History 26 及 Wild Bird 10 來ル
 
 七月二十五日 木
 大雷大雨
 
 七月二十六日 金
 茶ノ時御客二人來ル御婆さんの甥ナリ坊さんなり夫婦
 郵船會社へ聞き合ス、晩返事來ル
 今日モ雨
 
 七月二十七日 土
 今日モ雨 獨乙ノ藤代芳賀ヨリ端書來ル
 土井氏ヘ手紙ヲ出ス
 
 七月二十八日 日
 East Hill ニ至ル 夜老大佐ヲ訪フ日本ハエラキ國ニナルベシト云ヘリ日本ノ青年ノ禮讓アルコトヲホメタリ
 
 七月二十九日 月
 ほとゝぎす、春夏秋冬の春の部來ル山川より手紙來ル、
 
 七月三十日 火
 Craig 氏ニ至ル、歸途池田氏ヲ訪アラズ
 ×Cassell ノ Illstrated History 27 至
 
 八月一日 木
 池田氏ヨリ手紙至ル本邦ノ鈴木、日本銀行ヨリ三磅許金ガキタ何ノ爲ヤラ分ラナイ
 
 八月二日 金
 池田、Sweet、鈴木、芳賀ヘ手紙、日本銀行ヘ受取ヲ出ス
 文部省ヨリ手紙 鈴木時子より手紙
 
 八月三日 土
 朝 Battersea ヨリ South Kensington ニ至リ池田氏ヲ訪フ同氏宅ニテ蒜版ヲ食フ午後 Cheyne Road 24 ニ至り Carlyle ノ故宅ヲ見ル頗ル粗末ナリ Cheyne Walk ニ至リ Eliot ノ家ト D.G.Rossetti ノ家ヲ見ル前ノ Garden ニ D.G.R ガ噴井ノ上ニ彫リツケテアル
 
 八月六日 火
 Craig ニ至ル 氏我詩ヲ評シテ Blake ニ似タリト云ヘリ然シ incoherent ナリト云ヘリ
 
 八月七日 水
 ○土井氏ノ葉書來ル Cassell's Illstrated 28
 
 八月八日 木
 Cassell ノ Wild Birds
 山川ノ手紙、俣野ノ年賀状ツク
 
 八月九日 金
 日本新聞 鈴木ヨリ讀賣新聞來る
 村上氏ヨリ端書來ル
 
 八月十日 土
 櫻井氏ヨリ電報、E.Fardel氏ヨ〔リ〕手紙
 Sweet氏並ニ Fardel 氏ヘ手紙ヲ出ス
 
 八月十一日 日
 E.Fardel氏ヲ訪フ Battersea P. 門前ニテ無神論者ノ演説ヲ聞ク
 
 八月十二日 月
 Sweet 土井二氏ヨリ手紙
 Sweet ヨリ晩ニ手紙來ル九月十三日ニ立チタイトノ事ナリ
 
 八月十三日 火
 Craig 氏ニ至ル、半磅ヲ拂フ 井原氏來ル、夜十二時半頃歸ル
 
 八月十四日 水
 大幸氏ヨリ手紙來ル
 
 八月十五日 木
 土井氏ヨリ電報來ル
 土井氏ヲ迎フル爲メ Vicctoria Station ニ至ル
 故郷ヨリ妻、妻ノ父、梅子ヨリ手紙來ル妻ヨリ冬ノ下着二着ハンケチ二牧《原》、梅子ヨリハンケチ二牧送リ來ル
 
 八月十七日 土
 田中氏來ル、Hyde Park ニ至ル Protestants ノ Catholic ニ對する demonstration ヲ見ル四五人ノ演説使ヲ聽聞す
 
 八月二十日 火
 Craig 氏ニ至ル 壹磅ヲ拂フ、(3回分貸)
 Charing Cross Road ニテ古本及ビ新版本ヲ買フ五十六七圓ナリ
 
 八月二十一日 水
 日本新聞、太陽來ル、
 
 八月二十二日 木
 Sweet 氏ヨリ手紙來ル返事
 菊池仙湖ヨリ端書
 夜御婆さんの姉婿夫婦來ル一所ニ茶ヲ飲ミ晩餐ヲ喫ス
 
 八月二十四日 土
 Sweet ニ Bedford Row ニテ面會ス
 
 八月二十五日 日
 Fardel 氏ヲ Chwlsea ニ訪フ晝餐後共ニ Hyde Park ヲ散歩ス、辻演説ヲ聽ク
 
 八月二十七日 火
 Craig 氏ニ至ル
 
 八月二十九日 本
 夜池田來ル
 
 八月三十日 金
 Albert Dock ニテ Sweet, 池田、呉三氏ヲ送ル
 
 九月二日 月
 Elephnt & Castle ニテ古本ヲ買フ、夜 佛ノ小《原》年モリス兄ニ殘サレテ泣イテ居ル故(カルタ)ヲシテ遊ブ
 
 九月三日 火
 村上氏來ル
 
 九月七日 土
 モリスヲ連レテ Hyde Park 邊ヲ散歩ス Natural History Museum ニ至ル
 
 九月十二日 木
 寺田寅彦、野々口勝太郎ヨリ手紙來ル
 
 九月十三日 金
 Dr.Furnivall ニ遇フ、元氣ナ爺サンナリ
 
 九月十四日 土
 午後 Wimbledon Common ニ至ル七時半歸宅又桑原氏ノ宅ニ一寸寄ル
 櫻井氏ヨリ手紙來ル
 
 九月二十一日 土
 洋服屋ニ金ヲ拂フ、 Glasgow University ヨリ試驗ノ paper ヲ請求シ來ル、
 Morris ヲ連レテ散歩ス
 
 九月二十三日 月
 Glasgow ヘ手紙妻ヘ手紙ヲ出ス
 King's College ニ至ル Denny ニテ Ethics 及ビ Origin Of Art ヲ買フ
 
 九月二十五日 水
 文部省ヨリ學資來ル、大坂鈴木ヨリ手紙來ル妻ト倫ヨリ手紙來ル、鈴木ヨリ太陽、讀賣新聞、利喜子ノ寫眞ヲ送リ來ル
 
 十月七日 月
 Craig 氏ニ手紙ヲ出ス
 
 十月八日 火
 Cassell's Illustrated, Hundred Pictures 來ル
 
 十月十三日 日
 土井氏ト Kensington Museum ニ至ル
 
 十月十四日 月
 West Hampstead ニ長尾氏ニ遇フ
 
 十月十五日 火
 Cassell's Wild Bird and Illustrated Eng. Hist.
 Craig 氏ヲ訪フアラズ本ヲ返シテ去ル
 
 十月十六日 水
 鈴木ヨリ太陽來ル Bosanquet ヲ讀始ム
 Studio 來ル
 
 十月二十一日 月
 Hundred Pictures 來ル
 
 十月二十二日 火
 Living London 及ビ Cassell's Illustrated, Eng. History 來ル
 
 十−月三日 日
 發句ノ會アリ
 
 十一月四日 月
 本ヲ買ニ行ク
 
 十一月十三日 水
 學資東ル 文部、中央金庫ヘ受取ヲ出ス
 
 
斷片 ――明治三十四年四月頃以降――
 
       一
 
 (一)金の有力なるを知りし事
 (二)金の有力なるを知ると同時に金あるものが勢力を得事
 (三)金あるものゝ多数は無學無智野鄙なる事
 (四)無學不徳義にても金あれば世に勢力を有するに至る事を事實に示したる故國民は窮窟なる徳義を棄て只金をとりて威張らんとするに至りし事
 (五)自由主義は秩序を壞亂せる事
 (六)其結果愚なるもの無教育なるもの齡するに足らざるもの不徳義のものをも士大夫の社會に入れたる事
 (七)昔時は金の力を以て社會的の地位は高まらざりし事御用達は一個の賤業にして金ある爲め尊敬は受けざりし事
 (八)猿が手を持つから始めて「クライブ」に終る教育の恐るべき事英語を習つて英書より受くる Culture を得る迄には讀みこなせず去りとて英書以外のカルチュアー(漢籍和書より來る)は毛頭なしかゝる人は善惡をも辨ぜず徳義の何物たるをも解せず只其道々にて器械的に國家の用に立つのみ毫も國民の品位を高むるに足らざるのみか器械的に役立つと同時に一方には國家を打ち崩しつゝあり
     ――――――――――
 ノット氏と對談  四月十日
 (1)英國の紳士ハ頑固ナリ然シ中々負ケズ(知ツタフリハセズ)(嘘をつかず)
 (2)近頃ハ紳士ならざるものが坊主ニナル尊敬を受けんが爲なり
 (2)《原》倫孰《原》ノ巡査ノ馬車ノ往來をとめるは感心なり
 (3)倫孰ノ群集ハ存外秩序正シ
 (4)南方の英人は比較的に浮薄なり北方ノ人ハ頑固正直なり
 (5)英語ハ shire 々《原》にて皆異ナリ始メテ「ランカシヤー」に行きし時ハ毫モ之ヲ解する能ハざりき
 (6)或人ハ英國ノ女ノ脊ノ高を見て亡國の兆なりと云へり
 (7)Church ノ seating accommodation ハ三分一ニモ足ラズマンチエスター「リバープール」殊ニ然リ
 外人ガ東洋人ヲ「ズルシ」ト云フハ尤モナリコロンボ以東皆小商人ノ狡猾ナル西洋ニ類ナカラン
 (八)《原》英國人ハ國民ヲ正直ナル人トシテ取扱ヒ大陸人ハ盗賊トシテアシラフ英國ノ戸籍調ハ毎年四月ニ一度アルノミナリ旅行シテモ宿帳ノ必要ナシ大陸ハ然ラズ
     ――――――――――
 英國の或女ハ自分共ハ男子ヨリ餘程純潔ダト思ツテ居る從つて男子を純潔ならしむるは婦人の義務だと心得て居る其心掛丈は感心だ日本にはそんなのはない
     ――――――――――
 ボチヤ何かが壁に釘づけにしてある耶蘇のハリツケから思ひ就《原》たかも知れぬ
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 我輩の衣服
     ――――――――――
 西洋ハ萬事大袈裟ダ、水マキ、引越車、家、ローラ
     ――――――――――
 眞平御免ネーと云ひ度いコトがあるが是を英語に翻譯すると何と云つていゝか分らない
     ――――――――――
 一《*》指頭の神、女が鐵道馬車へ乘るとき、巡査が車をとめるとき、カツブを呼ブ時、右……道左……道のとき
我々はポツトデの田舍者のアンポンタンの山家猿のチンチクリンの土氣色の不可思議ナ人間デアルカラ西洋人から馬鹿にされるは尤だ加之彼等は日本の事を知らない日本の事に興味を持つて居らぬ故ニ我々が西洋人に知られ尊敬される資格が有つて〔も〕彼等が之を知る時間と眼がなき限りは尊敬とか戀愛とかいふ事は兩方の間に成立たない
     ――――――――――
 西洋人は感情を支配する事を知らぬ日本人は之を知る西洋人は自慢する事を憚らない日本人は謙遜する一方より見れば日本人はヒポクリツトである同時に日本人は感情にからるべき物ではない謙遜は美徳であるといふ一種の理想に支配されつゝあるといふ事が分る西洋人は之を重んぜざる事が分る
 (又西洋人は御世辭を喜び之を云ふ事を憚からぬ日本人のあるも〔の〕は可成御世辭をさける又之を喜ばぬ)
 小説でも西洋人は實を尊ぶ代りに理想的な完全な人間を寫さない日本人は空※[しんにょう+貌]たる代りに完全無缺な人間を寫す西洋人にはgod ト云ふ大理想がある人間のコンシーヴする完全なる者を理想的に表現せるものとせば馬琴の仁義禮智信と同一のものだ
     ――――――――――
 裸體畫の可否、裸體畫の美、裸體畫の不徳、
 美として見れば宇宙のもの皆美なり裸體畫なるのみならず春畫にも美あり道徳より見れば双方とも degenerating effect を有す世間は artist のみで出來て居らん artist にも道徳的方面がある又之を守るべき義務がある以上は artistic ナラザル方面に裸體畫や春畫を擴ぐるは世間の人に其美を味はゝしむる能はざる無益の骨折をなすのみならず却つて道徳的にあしき弊を作りつゝあるなり
     ――――――――――
 或人と或人の間には禮儀を dispense する事が出來る如く或人と或人の間には或度迄道徳をなくなす事が出來る
     ――――――――――
 西洋人は往來で kiss シタリ男女妙な眞似をする其代り衣服や言語動作のある點や食卓抔ではいやに六づかしい日本人は之に反す
    ――――――――――
 西洋の犬や馬はよく英語を解す例
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 川「駄目ですよ魚は居マセンヨ」と云つた 山「御覽の通りの禿山で御座い癩病やみの頭宜しくと云ふ……」と云つた
    ――――――――――
 彼は平常の哲學や good manner や……や……や皆忘れて喧嘩を始めた――――――――――
 人は日本を目して未練なき國民といふ數百年來の風俗習慣を朝食前に打破して毫も遺憾と思はざるは成程未練なき國民なるぺし去れども善き意味にて未練なきか惡しき意味に於て未練なきかは疑問に屬す西洋人の日本を賞讃するは半ば己れに模倣し己れに師事するが爲なり其支那人を輕蔑するは己れを尊敬せざるが爲なり彼等の稱讃中には吾國民の未練なき點をも含むならん去れども是を名譽と思ふは誤なり深思熟慮の末去らねばならぬと覺悟して翻然として過去の醜穢を去る是よき意味に於ての未練なきなり目前の目新しき景物に眩せられ一時の好奇心に驅られて百年の習慣を去る是惡き意味に於ての未練なきなり沈毅の決斷は悔る事なかるべく發作的の移動は又後戻する事あるべし日本人は一時の發作にて凡ての風俗を棄てたる後又棄てたるものをひろひ集めつゝあるなり俳句は棄てられて又興りぬ茶の湯は斥けられて又興りぬ謠は癈せられて又興りぬ棄てたる時に惡漢あつて拾ひ去らざりしは諸君の爲に甚だ賀すべき事なり然しながら諸君の未練なきを賀する氣にはなれぬなり
 日本人は創造力を缺ける國民なり維新前の日本人は只管支那を模倣して喜びたり維新後の日本人は又專一に西洋を模擬せんとするなり憐れなる日本人は專一に西洋人を模擬せんとして經濟の點に於て便利の點に於で又發作後に起る過去を慕ふの念に於て遂に悉く西洋化する能はざるを知りぬ過去の日本人は唐を模し宋を擬し元明清を模し悉くして一方に倭漢混化の形迹を留めぬ現在の日本人は悉く西洋化する能はざるが爲め已を得ず日欧兩者の衝突を避けんが爲め其衝突を和げんが爲め進んで之を渾融せんが爲苦慮しつゝあるなり日本服に帽子は先づ調和せられたりと云はん洋服に足駄は遂に不調法と云はざる可らず美術に文學に道徳に工商業に東西の分子入り亂れて合せんとし合せんとして合する能はざるの有樣なり日本の書は右より下〔に〕始まり西洋の書は左より横に讀むなり兩者は如何にして合併すべきか日本の假名は v,d,th 等の音を示すを得ず諸君は如何にして兩者の調和をはかるべきか支那人は黄金時代は堯舜の世にありと思へり世の澆季〔以下凡そ四字紙破れて映〕覺れるが故なり洋人は未來に於て黄金時代の來るべきを信〔以下凡そ四字紙破れて缺〕は進歩しつゝあると自覺すればなり日本人はいづれの〔以下四字紙破れて缺〕時代を置くべきか
 
     二
 
 ○池ガアルカイ
  ア、有ルヨ、魚ガ居るか居ないか受合はないが池は慥かにあるよ
 ○ホテルチカルな所へ行かなくつても婆々の茶屋が澤山あるからそこで壽司を食ふんだ何中りやしない大丈夫だ
 ○左樣さね東京で云へばどこだらう一寸六づかしいな何でも石段が澤山あるんだよ夫から樹があるそして御堂がある何でも氣分が少し違つて來るんだ御堂に這入つて居る時丈は惡い事をして濟なかつたて《原》う云ふ樣な心持になるのさ
 ○かう見えても亡國の士だからな、何だい亡國の士といふのは、國を防ぐ武士さ
 
     三
 
 西洋人ハ日本人ヲ目して愛嬌があると云ふ始終笑つて居ると云ふそれに違ひない但し笑つて居らなくても日本人の顔の大部分は滑稽的に出來上つて居るから戰はずして先づ敵を屈する位のものさ
    ――――――――――
 「眞闇だ――何か動いて居る樣だ
 「 《原》の木だよ
 
      四
 
 一普通ノ人間ノフワ/\ナル事 Dichotomy
  ○行動、言語、志操一貫セズ、故ナク變化ス
  咄嗟ノ際ニハ修養ノ功果何レニカ飛去ル
 一成人ニハ或ル時ト場所ニ於テ(1)一定ノ嗜好アリ(2)一定ノ徳義心アリ是ハ推移スベキ者ナリ是事實トシテ存ス必要不必要ヲ論ズベキ者ニアラズ、不必要ナラバ己レキタナキ者ヲ見己レ不徳ノ行ヲ人ヨリ受ケテ平氣ナラザル可ラズ
 一フワ/\)源因、之ヲ矯正スル道
 一嗜好、徳義ノ發達、傾向、順序、
 一頭デ考テ之ヲ實事ニ徴スルカ實事ニ考テ之ヲ頭デ集成スルカ兩者ノ牴牾スルトキ何ヲ非トスルカ
 一今ノ文化ハ金デ買ヘル文化ナリ金デ買ヘル文化ガ最モヨキ文化ナルカ若シ然ラズンバ日本ガ萬事ニ於テ西洋ヲ崇拜スルハ愚ナリ
 一男女ノ愛ハ徳育美育上如何許ノ價値アルカ
○一普通ノ人間ノ心ニハ清キ時トキタナキ時トアリ如何ナル罪惡モ之ヲ犯スベキ種アルヲ發見スベシ
 一感情ト理ノ關係其價値
    ――――――――――
○人問ハ牴牾ノ塊物デアル偉人ガ愚ナコトヲナシ善人ガ惡事ヲナシ又己レガ己レノ行爲ヲナストキ正邪ノ判斷ニ迷フ(牴牾セル兩主義又二以上ノ主義同時ニ働クトキ)
    ――――――――――
 善惡ノ衝突、善惡分明ナラズシテ双方共其執ル所ヲ善ト心得テ相下ラザルヨリ起ル爭(吾人道徳ノ code 完全ナラズ又如何ニ雜錯ナルカハ此種ノ衝突多キニテ分ル、惡ト惡トノ衝突、
 己レト己レノ爭、己レト人トノ爭、己レト自然トノ爭、
    ――――――――――
 Love−SaCred?−Plato−Ape−fearless dissection−lookf full in the face,Without deifying it.
    ――――――――――
 美ハ事實ナリ大部ノ人ハ(1)連想ニテ之ニ其物以外ノ意味ヲ附着ス從ツテ其物ノ美ガ實際ヨリ増シ又ハ減ズ其ハ夫ニテヨシ但シ美其物ト連想トヲ區別スル必要アリ多クノ場合ハ連想其物ヲモ美ノ原素トシテ見傚スノ弊アレバナリ
  花ハ紅、柳ハ緑          是事實ナリ
  花ノ紅、柳ノ緑ノ奧ニハ一ノ力アリ 是 Wordsworth
  〃 〃  ノ奧ニハ神アリ     多數ノ詩人
  此「ビステキ」ハ甘イ       是事實ナリ
  此「ビステキ」ニシタ牛ノ殺サレ  
  タ事ヲ考ヘ出シタ故ニマヅイ         
  此「ビステキ」ハ母親ガ作ツテクレタカラ甘イ
         〔上三行に括弧をつけて〕是連想味ニ伴ヘルナリ
 此連想ヲ連想ト白知シ乍ラ是ヲ以テ其物自身ノ美ノ價値ニ影響ヲ被ラシムルコトアリ又之ヲ知ラズシテ其物自身ノ美ヲ判斷スルトキニ是ガ爲メ支配サレツヽアルコトアリ
 (2)道理ニテ原因結果ノ法則ヲ考ヘテ其物自身ノ美ヲ左右スルコトアリ   骸骨ノ上ヲ粧フ花見かな
  宗教抔ニテ吾々ノ認メテ美イト云フモノヲ否定セントスルハ此種ニ屬ス
  (1)(2)ハ人々ニアレドモ美其物ヲ増減スル能ハザルナリ
    ――――――――――
 鈍ナ「アタマ」ノ者ガ哲學書抔ヲ一二冊讀ンデ威張ツテ居ルハ放蕩子抔ガ娼妓抔ノ下等ナ美ニ迷ふと同一ノ程度ニアル者デ決シテ軒輊スベキ者デナイ前者ハ人ガ野暮ト云フ許リデ何トモ云ハヌ後者ハ但馬鹿ダト云ハレル氣ノ毒ナコトダ
    ――――――――――
 結婚法の可否(西洋日本)
 喜んで下さい家のせがれは女郎買をする樣になりました是は人情學の稽古といふ意味である男女交際の便ある國にはない事だ
    ――――――――――
 義侠といふ語が西洋にない是は觀念がないからだ小説抔に此 sacrifice といふ事を綴つたものが少ない
    ――――――――――
 道徳は習慣だ強者の都合よきものが道徳の形にあらはれる孝は親の權力の強き處忠は君の權力の強き處貞は男子の權力の強き處にあらはれる
 
      五
 
 金さへあれば何でも我意の如くさと云ふ樣な顔をして居る奴にはたてをついて困らしてやるがいゝ日本を背負つて立つ樣〔な〕風をする政治家には民間で大議論を吐いて驚かしてやるがいゝ天下の學者は我一人だといはぬ許りのものには無づかしい質問をかけてへこましてやるがいゝ己れは日本一の力持だと云ふものは小股をすくつてなげてやるがいゝ軍人は國家の柱石だ抔いふ奴には……
 
 微行は一寸酒落て居るが尾行は一向幅が利かない第一尾行抔をするものは三太夫か探|禎《原》ばかりだからな飼犬でさへ時によると一足御先へ御免蒙つてまがり角で用をたすぢやないか
 
 ……演説がやむ彼は……にならべてある小冊子を出して是は「インガーソン」……買ひ給へといふがだれも買はない日本に居つた時落語家から承つた言に佛は法を賣り祖師は佛を賣り云々現に此男はインガーソンを賣つて居る是を冷笑する我輩は歸ると英語を賣るのである
 或る香をかぐと或る過去の時代を臆《原》起して歴々と眼前に浮んで來る朋友に此事を話すと皆笑つてそんな事があるものかと云ふシヨーペンハワーを讀んだら丁度同じ事が書いてあつたさすが英雄の見る處は大概同じであると我ながら感に入つた我輩を知りもせぬもの迄が我輩を稱して厭世家だ抔と申す失敬だと思つて居つたが成程厭世家かも知れぬ(倫|孰《原》の香ひ 十月ニナルト去年ノ十月ヲ臭デ思出ス)
 
 知らざるを知らずとす是知らざるなり知らざるを知るとす飽くまでも知るなり
 
 始め棒で石をたゝいた時にはあつといつて驚ろいたに違ひない二返目には不思議に思つたに違ひない三返目には考へだしたらうと思ふ……終りに原人界の「ニユートン」が出て來て諸君聞き給へ吾輩は多年研鑽の結果一の大眞理を發見したから是を概括して一言で申せば撃てば響くといふ事ですと高慢な顔をして述べたに違ひない
 
 氣宇宙を呑む宇宙を呑めば腹がさけて仕舞唐の※[まだれ/龍]居士といふ人は汝が西江の水を吸ひ盡すを待つて之を語らんといつた西江の水が飲み盡せるなら禅坊主になるより豆藏になる方がいゝ
 
 疳癪玉がセリ上ると後ろから「ヤツツケロ」といふ暴れ者が兩手を出して押《原》ゲテ居ル其下ニ「茲が思案ノシ處ぞ」といふ外山さんの詩體詩然たる奴がぶらさがつて待つた/\といつて居るひつくり返る逆蜻蛉をうつ其内に肋の三|牧《原》目邊で大きな太鼓をドン/\と叩く奴がある腹の中を弘道舘の道場だと思つて居る
 
 此地ノ small talks 程ツマラナイ者はない内の猫が何疋子を生んだとか御隣りの犬がよく吠えるとか當然の事をさも面白さうに仰せられる犬は古往今來吠えるものに相場がきまつて居る犬にして吠えざるは玉の盃底なきが如しといふ位な者さ唖の犬なんか誰も飼ふものはありやしないそれをおやまあ、左樣で御ざんすかよくねー抔と仰山らしく受けるこんなことを云つて居る内にはや左樣なら御機嫌よろしうの時刻が來る切角主人と學問の話を仕樣と思つたつて此體裁だからだめな事だ
 
 日本ノ昔ノ道徳ハ subordination ガヨク出來て居る君臣、父子、夫婦 是は社會を統一シテ器械的に働かす爲に尤も必要である今はだめ
 
 西洋では人をそらさぬ樣人の機嫌を損ぜぬ樣にするのが交際の主眼である夫故に己れの不愉快な感じ人に不愉快に見える顔色抔は仕そうもなき筈なり即ち感情をかくす事も餘程發達せねばならぬ譯ながら日本人の樣に發達して居らん感情を發表せぬ事は日本人程熟練した者はない第一男抔は泣度ても泣かないたまに泣くと男泣だと云ふ泣き方に男|姓《原》女姓があるのは日本許りであらうこれが一層高じると此度は泣くべき處に返《原》つて笑つて見せたり抔する松王の泣笑抔といふものは甚だ骨の折れる藝だと思ふ泣笑といへば言語夫自身に於て既に衝突である
 
 ウツカリして居る處を後ろからスカリ、ポンと首が落ちる抔は一寸乙だが難有くない方の乙だから先づそんな水瓜的御成敗は平に御容赦を願ひたい
 
 彼は三角形が地震で顔の底へめり込んだ樣な眼を有して居る幾何學的眼孔を有する彼は
 
 自慢ぢやないが佛蘭西語も獨乙語も讀めない其代り羅甸も希臘も出來ない――何、それでは論理に合はない、いや是は失敬――夫なら始めから出直さう自慢ぢやないが……――何それぢや嘘だやかましいな困る論理的ならんと欲すれば正直ならず正直……ならず明治の日本外史を書
 
 表をあるいて居ると眞黒な奴が石炭を載せた車を驅つて來た其時に一寸疑問が生じた此男の顔は石炭層の下に存在して居るのか又は石炭が此男の顔の上に積つて居るのか現今スコラスチツクフヒロソフヒーを研究して居る人が若しあるならば伺ひ度
 
 こちらの女は顔へ網を被つてあるいて居る網を被つて居るものは日本では柿餅ばかりだ男は頭へ釜をのせて居る
 
      六
 
〔以下1頁と3行文英文省略〕
 
      七
 
 (1)西洋ヲ紹介スルハ善事
 (2)Shelling《sic》 ノ organisation デアル
 (3)生存競爭上必用デアル
 (4)夫故ニ取捨ノ見識ナカルベカラズ
 (5)取捨ノ見識ハ intellect ニ屬ス
 (6)Intellect ハ cosmopolitan ナル故ニ取捨シ易シ
 (7)只アル establisbed science ノ外ニハ妄リニ西洋ノ intellect ヲ信ズベカラズ lawless sciencCe ノ【原】 tentative ナリ氣ヲ付ケベシ
 (8)Intellect 以外ノ faculty ヲ用ユル取捨ハ猶嚴重ニ慎マザル可ラズ
 (9)文ハ feeling ノ faculty ナリ
 (10)Feeling ノ faculty ハ一致シ難シ
 (11)故ニ西洋ノ文學ハ必ズシモ善イト思ヘヌ
 (12)之ヲ強テ善イトスルハ軽薄ナリ
 (13)之ヲ introduce シテ參考スルハ可ナリ
 (14)之ヲ取捨スルノ見識ハ非常ニ必用ナリ
 (15)Insurmountable difficulty アリ
 (16)是ハ一朝一夕ニ正シ難シ
 (17)且或部分ハ正ス必用ナシ是見識ナリ
 (18)Voltaire ハ Milton ノ Paradise Lost ヲ評セリ
 
断片――明治三十七八年頃――
 
〔一、二、三、英文七頁分省略〕
 
     四
 
      ハムレツト〔五字二重傍線〕の性格
 
 蜜を含み針を吹く。藥を飲み毒を吐く。
 銅汁を飲み錢丸を嚥む
 
 たとひ馬糞をやきて菜根を折脚鐺に烹るもわれ汝が智識といふをゆるさず。一壺の香油を傾けて日に汝が八萬四千の毛孔を塗澤するも汝豈聖徒たるを得んや
 
 直ちに自己の胸臆を排して紙に向つて之を抛つ五彩紛糅爛として錦を披くが如し
 
 彼の世界は光明の天にあらず幽冥の府にあらず昊天の麗日群象をてらして魑魅の影を潜む黄泉の黯澹四邊を包圍して目を遮るものなし。鬼前に跳躍すれども見ず人の世に住む明ならば極めて明なるを要す暗け|て《原》眞に暗きを要す只彼の住む世界は晝にあらず夜にあらず晝と夜の境なり見る程のもの|も《原》の見えざるはなくて見る程のもの慥かに見ゆるはなし彼の世界は方のつかぬ世界なり夢を結|昌《原》して魔《原》睡劑を以て之を saturate セルが如し未だ地獄に入らず去りとて天國に上らず※[煢のわがんむり無し]として其間を行く茫としで際限なく而も視線の達する處天と地と合するを見て遂にこゝに達する能はざるが如し
 彼は兩眼を有す盲者にあらざるを知る故に周圍の事物を明視せん事を欲す之を欲するの極横に視竪に視目を開きで視半眼にして視遂に要領を得ず朦朧に了る一翳眼に在つて空花亂墜するが如し繽粉として彼が前後に舞ふ者は影か形か實在か物象か彼が莽然として直往せんとする時疑の繩ありて彼が頭をまとふ
 
 思へ汝が踏む所の大地は汝が五尺の躯を托して崩壞の憂なきかもと是れ一塊の頑球懸つて乾坤の裡に旋轉す汝が足阯を下すとき其球體の左右に搖曳するを認めざるや琉璃色の空に彫るは星珠風温き野に敷けるは董汝が爲に何の意味ある
    ――――――――――
 人汝を傷けて汝之を怒るとき其人汝をあざけりて局量偏小なりといふ彼等は因果の法則を無視し起動に對する反動を削除して人の世に處せんとする狡猾の徒なり汝をあざけるはあざけられたる汝が彼に相當の復讐を與へん事を辭すと云ふの換言に過ぎず汝を傷くる事は我勝手なり去れど汝が我に仕返しをなすは余が欲する所にあらず故になすべからずと云ふに過ぎず我をして思ふが儘に汝を傷けしめよ而して一毫も汝の我を傷くることを許さずとの利己主義を尤も狡猾なる手段にて表現せる言語に過ぎずかくの如くにして局量偏小なりと云はるゝを恐るゝものは至當の成敗を渠が頭に加ふるを躊躇せんとす躊躇するものは敵の一粲を博するが爲に、敵の術中に陷るが爲に、敵の惡徳を増上せしむるが爲に、敵の暴威を逞ふせしむるが爲に躊躇するに過ぎず而して彼等は遂に覺る所なく己れの道徳心に對する義務と信じ敵の在不在に關せざる者の如く考ふ白癡も茲に至つて極まれり局量偏小なりといふは傷けたるものより汝を評するの語なるを忘るゝ勿れ讐を報ずる汝が見地より汝自身を評するの語にあらざるを忘るゝ勿れ、彼の立脚地より見て汝を評せる語を以て汝が立脚地より汝に應用せんとするは盗賊の汝の財をかすめて仁者なりといふに甘んじて仁者の名を成さんが爲に汝が金庫の鍵を賊に與ふるが如し
 此故に一指を切れば一指を切り一髪を拔けば一髪をぬく睚眦の恨に報ずるに睚眦の讐を以てするは古の法にして今の法なり今の法にして人の道なり尤も公明なる道なり正大なる道なり恨を受けて久しければ久しき程の利子を打算して之に報ずるの準備となさざる可らず人ありて汝に吠ゆるとき噬んで之に報ずるはかの吠ゆるものをして悔いしむるに於て至當の所爲なりわが身を護るに於て適宜の方畧なりかれ若し汝に向つて「汝噬む事を耻ぢずや」と云はば道へ噬む事を耻づとは人に向つて唱ふべき事なり吠ゆるものに向つて念ずべき辭にあらずわれは吠ゆるものゝ間に立てば毫も噬む事を耻づるの 《原》を解する能はずもし耻づと云はゞわれとわが心に耻づべしわが耻づとは汝等|※[口+言]《原》々たるものに對して何等の意義を有せざれば凡て没交渉なりと蓄《原》生に向つて袴を着けぬ謝辭を述ぶるの愚は猿芝居の興行師と雖なすを難んずるの禮讓なればなり
    ――――――――――
 水を誓はしめ火を誓はしめ
 
 ハムレツトの劇に出でゝ口をきく最初の語は more than kin and less than kind ト云フノト No, my lord,I'm too much in the sun ト云フ曖昧なる語ナリ、古來の評|語《原》此二句の爲ニ非常の辯を費やス余思フニ此二句ニカク數多の解釋アルは曖昧ナルガ爲にして其曖昧ナル處がハムレツトの性格の一端ヲ示ス者ナリ然ラバ批評家の説の如く明白ノ意味を附シテ解釋スルノ必要ナ|ル《原》古來よりの all possible interpletation ハ皆此二句中に存シ得ル者としてカヽル明白ナラザル謎ノ樣ナ語ヲハムレツトガ王ニ對シテ吐キタルト見ルガ至當ナルベシ
 偖彼ガ斯樣ナ語を吐クハ何故カト問フベシ、吾人ノカヽル言語ヲ弄スルハ色々ノ場合アルベシ。冗談ヲ好ム人。ゴマカサントスルトキ。不平ナル時。明ラ樣ニ罵ル能ハザル場合然モ之ヲ罵ラント欲スルトキ。狂氣ノ場合等ナリ Col. ヲ參考スべシ」。H ハ王ニ對シテ之ヲ用イタリ同時ニ母ニ對シテ之ヲ用イズ、母ニハ眞面目ナ答ヲナセリ。ホレシオニモ眞面目ナ答ヲナセリ」
 Act I、ii. 王ノハムレットを説ク所頗ル義理冗|辨《原》的ナリ。ハムレツトハ心苦シキ故ニ心苦シキナ〔リ〕父の死ガ悲シキ故ニ悲シキナリ王ハ説法ニテ之ヲ直サントス酒の酢に變ジタル者酢ニ相違ナシ酢ニ向ツテ酒ニ歸レト云フガ如シ世ノ中ニ他の心的現象の變化を自ラ讓《原》シテ而シテ他ノ何故ニ心的變化ヲ起シタルカヲ責ム焉ンゾ知ラン彼の説法スル者自身の過去の行爲其者〔を〕除却スルニアラズンバ到底之ヲ滅却スル能ハザルヲ又タトヒ之ヲ除却スルトモ一反醋ニナリタル酒ハ酒ニモドラザルヲ知ラズ餓ル者餓ヲ訴フルトキ餓を忍ぶは大丈夫なりと説法するが如し汝が數十萬言の横説竪説をやめて彼に一杯の飯を惠むとき彼は忽ちにして餓何かあらん口腹の事を云々するは劣等なりといふべし。茶椀を抛つてひゞの入りたるとき何が故にひゞが入れるやと説法す説法するよりは抛たざるに若かず
 
 H が王に對シ、ホレシオニ對シ、母ニ對シ、又 Ophelia ニ對シテ其 mood ノ異ナルを見レバ彼は頗る versatile ナル人ナルヲ見ルベシ融通のきく人なるを見るぺし固定せざる人流動せる人ナルヲ見るべし頑愚一徹の人にあらざるを見るべし但此變通は心ありての事故意になす事か自己に一定の胸算ありて物に應じ事に臨んで圓轉スルカ或は其變化流動は object ニ depend シテ必然の勢茲ニ至ルカ是研究スベキ問題ナリ
 Act I.Sc.ii. 王去リ母去リH獨リ殘ルトキニ彼は始メテ其不平ヲ遠慮なく漏せり父死シテ月を經ざるに伯父ト母結婚するが不平ナルコト觀客讀者に一般に了解せらる。甚だ詩的の文句なり。此モノローグ中ニ注意スベキコトアリ彼曰く O! that this too too Solid flesh would melt, thaw and resolve itself into a dew; or that the Everlasting had not fixd His canon against self‐slaughter 彼は母〔の〕結婚が不平なるなり父の死が悲しきなりまのあたり之を見んよりは死ぬ方がよきなり去レトモ死ハ宗教の禁ズル所ナリ故ニ死スル能ハズ。彼は未來を犠牲に供スルノ勇氣ナク又現在ニ滿足スルノ方便をかく兩者の間ニ彷徨シテ手モ足モ出せズ。去レバトテ父が死シテ自ラ國政を調理シ伯父や母ヲ己レノ活力ニテ支配スルコトモ出來ズ彼等の結婚を指ヲ※[口+卸]ヘテ見テ But break, my heart, fOr I must hold my tongue! ト云ふ評者或は云ふ彼は十七八ナルベシ大學生なりト最後ニ至ツテ三十歳ナルコトガ分ル若シ三十歳ナルコトガ事實トスレバ三十歳の男ガ如何ニ此場合ニ處スルカヲ見テモ普通以下ノ意志の力ナキ力《原》ナルコトヲ表明スルナリ彼は躊躇スル人ナリ無暗ニ活働セヌ人ナリモラレーニ意志ナキノミナラズ又インテレクチユアレーニ判然セヌコトニハ手ヲ出サヌ男ナリ是彼をして因循せしむる所以ナリ。之ヲりやノ直情徑行毫髪モ考ヘザルニ比較セヨ如何ナル對照ゾや
 
 H ノ Wi,
 Pol.Do you know me,my lord?
 Ham. Excellent well; you are a fishmonger.−II.ii.174.
 一語Pol.ノ膽ヲ奪フ、
 Ham. My lord,I have news to tell you.−II.ii.415.
 Pol.ノ言語ヲ其儘用ユ妙
 Nay,that follows not −II.ii.438.
 是等ハ上乘ナリ
 Then are our beggars bodies,and our monarchs and outstretched heroes the beggars,shadows.−II.ii.271.
 是等ハ中ナリ、理ニカランダ wit ナリ、感ジ少ナシ、三百代言の法文ヲ舞ハスト同ジ
 In the secret parts of her fortune.−II.ii.241.
 是ハ下ナリ理ニモ合ハズ情ニモ訴ヘガタシ
 
     五
 
 我輩の向ふの家に○○○といふ書生の合宿所がある此書生等は日常我輩の疳癪を起して大聲を發するのを謹聽するの榮を得る果報者である時として先生の假聲抔を使つて我輩を驚かしめる其所に女の召使か何かゞ居つて此書生と二人假聲を使ふ其標本を一寸諸君に御招《原》介する、但し此書生共は種々研究の結果色々な假色を使ひ分ける或る時は某教授となりある時は某先生となる中々多藝なものである餘慶な事であるが其代りに役者の假聲でも習つたら小使取位になるだらうと思はれるが學校の先生の假色では單に我輩を驚殺せしむるのみで他に何等の功能もないのは氣の毒である
 書生某教授の假聲にて「……中々評判がいゝですよ」 女「セルマの歌でも出れば善う御座んすがね」 男「それに近頃帝國文學へマクベスの幽靈と云ふをかいた所が大變評判がいゝです」有難い仕合せであるひそかに感謝の意を表して居ると女「そうですかそんなに皆樣が仰つて下さるのにねー」と何だか我輩の母さん然とした事を云ふ「どうしてあれで頭は中々可いのですよ」と陰ながら贔屓をして呉れる但しあれでも〔四字右○〕丈は少々不平であつた「まあ何んて強情な人でせうね」と母さんが云ふ此邊よりさすが此女に息子の侍《原》遇を受ける我輩にも何の事だか分らなくなつて來た 男「いつそ出したら幸いでせう」何を出す積りか知らん恐らく烟突より花火でも出すか去らずばから財布から金貨でも出す工夫をして居るんであらう女はかゝる名案を一言の下に斥けた曰く何か色をつけなくちやいけませんやねと白痴《こけ》が新粉《しんこ》屋と喧嘩する樣な事を叱りつける樣な口調でいふかゝる母さんを得たる我輩は實に仕合せであると思つた 男「時にいくつですと云ふ」《原》 女「もう三十八でさあね」と嘲る如くに答へた成程我輩は三十八だ此點に於ては暗に御母さんの總《原》明なるに驚いた然し不孝なる我輩は未だ曾て此の御母さんの御年がいくつであるか毫も思ひ及ばなかつた多藝多能なる男はいつの間にか某教授の假色をやめた今度は一躍して魚河岸の兄いと變化した、「駄目だーな、とても折れねーや」「うむとても折れねー」と合槌を合せる、但し御母さんか御父さんかは我輩の知る限りでないすると又一人が「何にもう直に折れるよ大丈夫だ」と云ふ何が大丈夫なのか是亦分らなかつた
 
     六
 
 新體詩、「僕は新體詩を作つたから見てくれ給へ從軍行と云ふのだ帝國文學へ投書したから今に出るだらう」「それは面白いだらう見せ給へ、エー何だつて抑も敵は讐なれば、成程御尤もだ、油斷をするな士官下士官、何だか妙だね」「散は讐だといふのだから別に妙な事もないぢやないか」「それが餘り尤も過ぎて妙だと云ふのさ何となく可笑いしかのみならず油斷をするな士官下士官とはなんだまるで狂歌の下の句見た樣だね 「然し士官、下士官と士官を重ねた處が甘いだらう」「恐らく三日三晩苦心したのだらう」「なにそんなに名句の積りでもないのさその位な事は朝食前の藝さ」「何でも腹の減つて居る時の句に相違ないと思つた先づ是等は進めや進めと敵は幾萬の間に寐轉んで居て此日や天氣晴朗と來ると必ず一瓢を腰にして瀧の川に遊ぶ類の句だね、然し戰爭の詩歌も段々出來た樣だが中々面白いのがあるよ先達て僕の知つて居る奴でいやに傲慢な人を馬鹿にする男が御多分に洩れず頗るまづい詩を作つたのさ處が其男が無暗矢鱈に剛慢とか無禮とか色々な形容詞を使つて露西亞の惡口をついて居る御當人は御世辭の圏點をもらつて頗る得意の樣だがそれが自畫自賛の圏點だから滑稽だ自分で自分の惡口をいつて其惡口が當つて居るので人に褒められて喜んで居る世は樣々のものさ夫から見る〔と〕君の新體詩の方が下手といふ丈だからまだ罪がない
 
     七
 
 K君は近頃頻りに水彩畫の稽古をして居る彼に對して丹青の天才なる稱號を呈するは其畫を一分でも見た以上何人も躊躇する次第であるが彼は其技に熱心なりと云ふ點に於ては亦何人も首肯せざるを得ない此熱心といふ一段になるとK君は古來斯道の天才より遙かに地歩を進めて居る余は滿腔の同情を以て此熱誠が唯一の武器となつてK君將來の成功の基礎とならん事を切望する者である
 K君の畫題は得意もなければ苦手と云ふ程な者もない何で〔も〕手近にある者(K君は至つて無精者であるから)を手當り次第に畫いて面白がつて居る然し近來は漸々傾向が定まつて矢鱈には筆を著けない、K君は始め畫をかゝうと思つて友人B君の處へ行つて先づ何をかいたも〔の〕だらうと するとB君はアンドリや《原》デルサルト 畫を學ぶなら何でも自然其物を寫せ天に星辰あり地〔に〕露華あり飛ぶに禽あり走るに獣あり池に金魚あり枯木に寒鴉あり自然是一幅の大活畫なりと云ふといゝ加減な事をいふとK君は眞面目になつてアンドリやデルサルトがそんな事を云ふたかい 先第一に何をかゝうと思つて家へ歸つて書齋へ這入て考へて居ると向ふの垣根の上に隣の三毛猫が寐て居たK君こゝだと合點してすぐに紙を展ぺて彼の猫の寫生〔を〕始めた先づ耳をかき胸をかき夫から胴の圍りを茶色に塗る處で肝心の猫は伸をしてあくびをしてのそ/\垣根を下りて隣の家へ歸つて仕舞たK君は九仞の功を一簣に缺いたのを轉た殘念に思つたが仕方がない夫より猫は險呑だからといふので決してかゝない其次にはどう云ふ考か人間が一つかいて見度なつたが是も猫の樣に始|動《原》活動して中々K君の筆底に收まらない段々樣子を聞くと畫家は高い錢を拂つて「モデル」といふものを使つて夫で寫生をするさうである成程如何に自然其物が師でも到底そんな事でなくつちや|や《原》此複雜な運動をする人間は寫せまいと思つたと自分もどうか自分の自由になる樣な人間を畫いて見度と云ふ希望を起して心當りの人に談判して見たが皆にや/\笑ふばかりで應ずるものがないK君は最後に一策を案じて筋向ふの車屋の子の八つちやんに五錢やつて之を寫生する事にした今度は猫の樣に中途で逃げ出さないからまんま〔と〕首尾よく仕舞迄かき終せた少々泣面をして居る樣だが是は窮窟を我慢して居るのを無理に白銅の威力で寫したのだから仕方がない然し其他には別段に可笑い所もない樣だ先成功したと喜い《原》で「自然は吾師なり」てう一教訓を與へたるBの所へ恭しく持つて來てだうだと云いながら出して見せたBは|は《原》見ると顔と覺しき處に鼻はなくて風穴の樣なものが二つ開いて居る其周圍はセピやで眞黒に塗つてある夫から衣服は繪具箱にある繪具を一色づゝ公平に分配したといふ樣〔な〕色で一向何だか分らない背景には猫が逃げだした例の垣根を無遠慮な太い線であらはして居る濃淡もなければ遠近もない
 「一體君是は何だ」とBは冷笑の意味を以て問ふた
 「夫や筋向の車屋の子だよ」とK君は濟して答へた
 「車屋の子はいゝがこんなものは繪にやならないよ、第一此顔の色を見給へ人間の色ぢやない眞黒ぢやないか」
 「車屋の子だもの」と平氣である
 「著|色《原》抔の汚ない色だ事」
 「それも車屋の子だから仕方がない」
 「車屋の子であると否とを問はず是は駄目だ遠近も濃淡もない英語で所謂ドーブなるものだ
 車夫の子としても駄目かなとK君は問ふ何人の子でも駄目だといふ事を聞いてK君は憮然として去つたが夫から人間の寫生を斷念して仕舞つた、 夫からK君は一日活動せざる自然を寫さんとて……道具を携へて郊外寫生に出掛たK君は大膽なるが如く實際は非常に臆病ものである……
    ――――――――――
 ……出來上つた繪を柱へ立て懸けて三歩退いて眺める横から眺め竪から眺る時には逆さにして見る奇體な事にはK君の繪は逆かさにしても眞直にしても印象の點に於て格別の異りはないかくして見て居る内にどうも空の色があやしくなる今少し藍色にしたらよ〔か〕ろう。水の色が濃過る。此度は岩の角が出張つて居るのが氣にかゝる。遠景があまりぼんやりし過る
    ――――――――――
 トリストラムシや《原》ンデーがギボンに忠告して佛國革命史を佛語でかくのをやめて英語で著はした
    ――――――――――
 上の句丈は漸く無事に治まつたが下の句が出來ない
 梅咲くや  梅の花でもいけない  梅の木やでは花をうたはれない
    ――――――――――
 K君は妙な顔をして居る君どうしたのか心持でもわるいか
 寶丹を出す
 K君は可愛想な俗人だといふ風をして
 
 Aヲ相手にするのは三で以て二を割るが如きものだいつ迄いつても割り切れない
 
 君の發句を好むは竪好か將た横好かと禅家の問答の如きものをかける
 
     八
 
 ○舌上龍泉沽れ筆端彩雲竭く一言句なし雀の窓に鳴くを聽く
 ○銅汁を飲み鐵丸を嚥む胸裏一團の靈火ありて〜′。の爐|※[火+備]《原》を熔く吹く息は?なり汝我前に出んか眉目悉く燒く
 ○鏡に向つて吾舌の恙なきを見る
 ○屋後に石牛ありて鳴く聲雷の如し川を隔てゝ寒雲夕陽をうく屠れる犬の血の如し
 ○凡ての男を呪ひ、凡ての女を呪ひ凡ての草凡ての木を呪ふ凡ての生けるものを呪ふ三世を坑中に封じ大干世界を微塵に摧き去る地球破滅の最終日我胸中にあり
○百尺の琅※[王+干]を以て蒼穹無數の星を拂ひ落して三途の河底にうづむ小舟を艤して其上を渡る暗中光ありて微かに精塚の婆々の顔を照らす之によりて挨拶する事を得云々ダンテ未だ之を詩に上せずドーデ未だ之を畫かず咄瞎漢この好題目を逸し去る、大銕|錐《原》を揮つて金鳥をくだく斷片飛んで散亂太陽系の大火事となる未曾有の偉觀を呈出し來るミルトン遂に語るに足らず
○西郷の銅像を卸ろし|に《原》團子の串に日本一の美人の首をさして東京市の紀念とす
○愚なる人を祭る堂に題して大愚神社といふ愚人奨勵の策なり
○裏の木にカツレツ來りて鳴く事頻なり源三位頼政に命じて射て之を落す晩に食饌に上す傍に韓退之あり一片を頒たん事を願ふて曰く閣下一朝の饗を癈するに及ばずして……、言下に痛棒を與ふる事三十
○大法鼓を鳴らし大法螺を吹かんと欲して百尺竿頭に坐す尻こそばゆき事限りなし遙かにトラフアルガー、スクエヤーのネルソンを憶ひて同情の念に堪へず
○厨裏に一個の飢鼠を見る一指頭を以て彈じて之を發すぷらさげて門を出る事半町四つ角の交番に至る恭しく査公に呈して曰く※[鼠+吾]鼠敢て社稷の害をなすちよいと之を殺して閣下に獻ず草莽の微臣報國の一端に過ぎざるのみ若し夫れ五錢銅の如きは敢て乞ふ所にあらずと査公微笑して之を受く彼れは櫛風沐雨の勞を辭セずして左り/\といふもの蓋し社稷の臣なるべし
○罪業の風木枯しの如く浮世を吹まくる其時隨處に聲ありて死、死と叫ぶ中天の月貧乏ゆすりをして余に告げて曰く罪業の影ちらつきて定まらず死の影は靜かなれども土臭し
○日うらゝかに風暖かなり親愛なる蝨氏脊筋を這ひて聊かむづがゆき日なり十二時を相圖に打上花火の筒に中に込められてズドンと空中に飛び出で大地を去る事三百メートルの所にてパツと發く見物共遙かあなたの下界にて※[亡/(虫+虫)]の鳴くが如くに拍手喝宋す吾枝垂柳の烟の中を紅色の日傘をさしてフワ/\と歩む一二時間の後少々腹が減つたる故地上に歸らんとすれどもフワ/\中々休まず手答も足答もなく容易に下界に到着する事能はず
 
     九
 
○門前の溝を渫つて金とんを得る事一升二合食ふ事三日三夜にして曰く金とんでもあるめへと決然釣竿を肩にして百本杭に至る腰辨當の太公望五六名あり不相變無能なる人相をして大川と睨め比をして居る天才余の如きは綸を垂るゝ事瞬時忽ちフライ二尾蒲鉾三棹を得て歸る晩に鷄の尻よりオムレツを出す方法を考ふ遂に成らず
○我は觀音樣の鳩たらんよりも月給とりたらん事を希望するものなり易に曰く公用車を高※[土+庸]の上に射て之を獲と苟も鳥たらんと欲する以上は月給取か借金取となるべし餘は險呑なり
○Ta,ta,ta,la,la,la;tala,tala,li;hanatalali;talali,talali y‐a‐a‐a‐a‐i‐i‐i! 是西洋の眞言秘密の呪符なり之を唱ふる事三遍なれば博士になる事受合なり蓋し其意義に至つては未だ何人も之を明め得たるものなし先に千萬圓の懸賞を以て時事新聞に廣告したれども滿足なる答をなしたるものなし聊か後世の功徳と思ひてこゝに之を譯す多々々羅々々多羅々々利、波奈多羅利、多羅利々々々、耶阿々々々矣々矣
○烏賊ノ睾丸を絞つてインキを製造する事を發明す即ち專|買《原》特許を願ふに審査官冷淡にして取り合はず吾日本の如き地に生れたるを恥づ
 
     十
 
母、息子 二十三四
娘、十六七
 ○息子ハイカラニテエルテル的病氣ニ罹ル、新體詩ヲ作敍情詩ヲ讀ミ、小説ヲ愛讀ス、ペンシーヴネス、メランコリ|リ《原》ハ高等ナル詩的ナル性質ナリト思惟ス
 ○母此娘ヲ息子ニ娶ハスルノ意アリ、所ガ此娘陽氣ニテ開豁ニテゲラ/\シテ毫モ息子の所謂詩的ナル所ナシ
 ○母 娘ヲ息子ニ氣ニ入ラシメン爲メ機嫌ヲ取ル樣ニセヨト云フ娘どうシタラ氣ニ入ルカト問フ、母色々説法スレトモ分ラズ娘逐ニ見本ヲ示シテ呉レト云フ
 ○母已を得ず其雛|方《原》ヲ示ス Sentimental ナル女ヲ寫シ出ス娘ゲラ/\笑フ
 ○娘教ヘラレタル通リヲ器械的ニ演ズ息子之ヲ見テ不審ヲ起ス
 
     十一
 
 ○嬉劇ノ筋
 甲ト乙ガ love ヲスル、成就セズ、昔の事トナル、忘レル
 丙ト丁ガ love ヲスル、又ハ丙ガ love ヲスル、無分別ニ戀ヲスル|ル《原》
 甲ガ之ヲ訓戒スル、大ニ老成家ヲ以テ任ズ
 乙ガ突然アラハレテ free ナル situation トナル
 甲ト乙ノ love ガ再ビ燃立ツ
 丙ガカヘツテ甲ヲヒヤカス
 甲又昔の心ニ歸ツテ、丙ト丁トノlove ヲ尤ナリト同情ス
 丙ト丁ガ結婚スル
 
  ○壯士役者ノ仲間 Daphnis and Chloe ヲヤルコト、其中ノ女役者
  ○大學生ノハイカラ國カラ母と未來妻ガ來ルノヲ見物ニツレテアルク、イやガル樣(大學構内)
  ○無暗に伯爵、貴族院議員、豪商抔ノ噺バカリスルコト 男、身分ヒクキ人ヲ輕蔑スル樣其嘲弄の辭 etc. 此男ノ趣味の標準見識の程度、虚榮心
  ○藝者上りの妻君、生意氣、浮誇、自分ヨリ金ナキ人ヲ評スル有樣、己ヲ誇ル樣子
  ○其娘ノハイカラ式部ノコト
  ○此家ノ下女     〔○壯士〜○此家の上に括弧あり、入力者〕
 
     十二
 
 ○虹を拂ひ落して電燈の光に織り込む
 ○鏡。 胡弓 に寫る〔鏡の下から「に」に向かって傍線あり、入力者〕
 ○上總。草山。修竹。給仕の女
 ○コンデンスド、エキスピリエンス
 ○アーノルド、ゼ、トレイター
 ○楯に寫る
 ○小倉  御北さん
 ○
 ○朝、晝、夜、夕暮の糸
 ○十年の命を縮めて一年とし……一分の問に……  〔六行上の、エンスから…まで線あろ、入力者〕
 ○幻住庵
 ○戰爭(慰問袋。新聞記者。決死隊。
 ○反響。パロツト、林檎、蜂、空、大地
 ○ルイン
 ○松。針。銀ノ針
 ○川の向カラ舟が出テ近ヅイテ來る
 ○以太利亞の/\
 ○楯から拔け出す。純一無雜。夢のセオリー
 ○Virgin ノ夢〔括弧があって、そのしたに傍線五本、入力者〕
 ○先祖が北ノ國ノ巨人ト戰ツテ楯ヲ得ル、巨人楯ヲ與フルトキ楯の功ヲ説ク
 ○氷る大
 ○地獄の光り
 
     十三
 
 一 秘密を語らずに居る。之をかくさうとする 最後ニ母が嘘をつく。子に
 二 父にあやまれと云ふ。父は無論承知せず。母は父の加勢する。子はきかず
 三 貴族。金滿家。其子先生を慕ふ。父母先生を輕蔑す。
 四 滑稽家。Full of anecdotes。ある事件に absurd ナ解釋をつける
 五 甲、乙ノ女ヲ愛ス。丙ノ子又之ヲ愛ス。
   甲、乙ニ女ヲクレト談ズ。
   丙其子ノ爲ニ乙ニ談ズ。乙は丙ノ目下ナリ。唯々之ヲ諾ス
   甲實ヲ探リテ丙ノ策ナルヲ疑フ
   乙モ丙モ語ラズ秘密ハ二人ノ間ニ葬ラル
 六 娘父の意に逆つて結婚す。之が爲め父の家と音信不通となる。
   父娘の事を心配す然し男の一言の爲め、又プライドの爲め之を口にせず
   娘父の事を思ふ然し零落せるが爲めプライドの爲に父に面會せず
 七 男、女を戀ふ。此|女《原》の guardian 其身元をきく。女の父母の内一人は惡漢(男ナラバ懲役。女ナラバ逃亡)
 八 AトBト親友。Aある女ヲ戀ふ。B之を知る而も亦此女ヲ愛ス。Bノ temptation 及ビ heroism。Bある地位ヲ得ントスAモ之ヲ希望ス(親ノ vanity ヲ滿足スル爲メ。新婚ノ費用多キ爲め) Aノ temptation 及ビ heroism。Bハ女ヲAニ與ヘ。Aハ地位ヲBニ與フ
 九 A。父ノ急死ヲ聞いて歸る。繼母と種違ひの妹ヲ疑フ。煩悶。解剖せんと思ふ。醫モキカズ。母も妹もキカザルヲ知リ遂ニ口ニ出サズ
 十 甲、乙を排※[手偏+齊]す。只 hint ヲ用ヰて其他に渉ラズ。其言語行爲ニ於テ何人も非難する事能はず。然モ遂ニ乙ヲ ruin ス。
 十一 甲、乙ノ世話ヲスル。後之ヲ忌ンデ排※[手偏+齊]ス。後ニ誰彼寄集マリテ甲ノ行爲言語ヲ批評解剖スルニ矛盾衝突。遂ニ其人となりを知るに苦しむ。
 十二 Lovers が喧嘩して、感情が冷却す。二人會してうちとけず。地震急に起る。女不覺男に抱きつく。男又女を擁するとき梁落ちて二人共埋まる
 十三 細君下女を呼び出して吟味す。近傍の兵士不品行の疑あるあり。下女泣いてごまかす
 十四 Lovers アリ。男家事の爲めに地方へ赴任す。殘りたる女都にて田舍へ行ける男よりも粹な人と懇意になる。田舍の男の女《原》は東京に殘りて時々女を訪ふ女は之をもとの如く扱ふ。母病む。女看病す。母死す。男上京して。始めて女の心を疑ふ。女、男に實を告ぐるの勇氣なくして苦しむ
 十五
 
 ○パナマ。ハサミ
 ○蛇メシ
 ○候補者 妻君
 ○氷川神社ヲ買フ
 ○陶札  役に立ツカモ知レナイ
 ○若い時は四十五里はあるいたものだ
  (時間の考ナシ)
 ○蟇は何を食つて生きてゐる。
 ○泥棒に御辭儀をする
 ○文學士を辭し軍人を迎ふ軍人は戰死す
 ○許嫁留守中父と喧嘩。第二の許嫁が出來る。當人之をよろこぶ
 ○めい。螢で勉強。三平、蒟蒻問答。〔凡〔平〜凡、線あり、入力者〕そ三字不明〕猫を食ふ
 ○女兒を籃に入れて賣つてあるく。Virgin カ。前のは始終見て居るから慥かだ。後ろのは受合はぬ。
 ○年齡。兩方共五歳
 ○獣が口をきく時代の事である――獣が口をきいたのはつい此間の事です
 
     十四
 
〔英文省略、入力者〕
 
     十五
 
 ○猫魔物だ。魔物なら人間だ。どうりで君に似てゐる
 ○それは警句ぢやない。衒句だ。衒句天正時代の遺物だ
 ○駄洒〔落〕禁斷の席だ。駄洒落離しやれ。
 ○××に駄洒落るなら、鞋はいて駄洒落  犬の病氣
 ○立町老梅、理野陶然
  帽子を〔凡そ二字不明〕くし〔凡そ一字不明〕。
 ○坊主は髪を長くして居る。――牛肉屋は牛屋へ行かぬだらう――呉服屋は裸で居る――早桶屋は死ぬ事がない
 ○月並は馬琴の胴へ○○の首をつけて二三年間留學をしてくるもの
 ○偶然〔凡そ二字不明〕
 ○岫雲流水の如し。〔凡そ三字不明〕が〔凡そ二字不明〕、行て歸を忘る
 ○迷亭猶未我を解せず
 ○「馬鹿〔に〕し切つて居るんですもの」「中々馬鹿にし切れるものか」
  「俺れが是程英書を讀んでもよみ盡されんと同じ事だ」「讀み盡されゝば馬鹿にし切れる譯だ」
 ○鰻飯を食ふ。琴の音。天※[王+章]院
 ○自炊。玉子割り。米とぎ。米たき。澤庵。小松菜。
 ○「獨乙語がよめると云つたぢやないか」「獨乙語はよめるさ然し是や何だい」
 ○融通が利かなくなつたのは夫丈專|問《原》に深入りをしたといふものだ。
 ○なし崩しに自殺する
 ○向ふの菓子屋できく。菓子屋の丁稚が云々。隣りの酒屋できく。酒屋の小僧が云々。横町の桶屋デ聞く。桶屋の亭主が……
 ○電車へ乘リ後レテ自分丈キタカラ。後ノデ來ルト思つテ居るト來ナイ。迎ニユクト途中デ遇フ向デ待ツ今度ハ此方カラ迎ニユク……
 ○書法ノ稽古
 ○矛盾家な
 ○完全。永き日や。結婚。餘裕がない。行きどまり。變ずればわるくなる
 ○細君の洗髪。春風。禿。脊丈。御父樣は餘程天子樣
 ○ボーナス。街鐵株。書籍賣拂。
  アヽヽヽヽヽ。ウヽヽヽヽヽと呵※[口+云]の呼吸を殘りなく發揮する
  泥棒。
 ○「泥棒はどんな顔をして居て」「何故御父樣にしかられる樣に這入つてこないの」
 ○巡査「明治何年何月……戸締をして……」
 ○一寸起きて下さい。見ると衣服がない。臘《原》燭が座敷にある。烟草の灰が敷居に棄てゝある。
 ○紙入。銀貨入
 ○「ゾーゾ」「だまつて居て下さい」
 ○主觀的休暇
 ○風船つき
 ○××の鮨。隨分天子樣。實業家ニナレ。ボーナス。月給上ラズ月給も人間も十年一日の如し。物價も十年一日の如くならず。郎君獨寂寞。一飯重君恩。奧樣も少し舐なさつたらう。六十七歳の爺の嫉妬。二十五圓。褐炭 coals
 ○「番頭さんや湯加減はよいかな。手を入れて見て上げなよ」「へえ/\」四つ許りの子供爺を見て泣き出す…「《原》爺これは/\」と
 ○生蕎麥。墓原撃劍。鼠狩。鼠ニ鼻。玉子ふみつぶ。《原》二階から落ち。
 ○オタンチンパレオロガス
 ○動物園の獣聲。寒月君の誘引。學校生徒ニ逢ふ
 ○國民の自覺
 ○教師と組打、教師に切腹を逼る。ナイフで教師を嚇ス。闇黒室
 ○非常手段。金の價値。
 ○日本程寶のある國はなからう。泥棒に逢つては大變だ。富士山がある。美人が居る。博士二百三十名ある
 
     十六
 
  高等學校支那人事件
     ――――――――――
  將碁
     ――――――――――
  カイドリ
     ――――――――――
  父。
     ――――――――――
  カイシヤク
     ――――――――――
  秋風が八ツ口の綻び云々……風邪
  ホメル (1)自分ノ爲
      (2)人ノ爲
     (3)
     ――――――――――
  Contrast
     ――――――――――
  キリクランキー
 
     十七
 
〔英文省略、入力者〕
                         ――Pendennis XXX.p.297
 
     十八
 
 ○夏ハ身投多シ。女ノ身投ハ巡査が親切に介抱シ。男ノ身投ハ平氣だと云ふ
 ○淺草ノ淫賣婦ノ店頭ハ警世書屋出版ノ書ヲ專賣スル。良心起原論。耶蘇傳。釋迦牟〔尼〕傳
 ○水戸ノ家ノ子ガ大學生で(ボートレース)ヲヤルト家中ノモノガ一同旗ヲフル、抱ヘノ車夫ガ列ヲ組ンデ聲援スル、巡査ガ捉まへる、車夫曰ク徳川樣だ。巡査忽ち之ヲ放免ス
 ○女學校ノ教師曰ク女教師ハ産前一月、産後一月ハ既得權トシテ休業ス。輕濟上厄介ナリ
  地代ヲ月ニ百二十圓拂ツテ居テハ※[貝+諸]《原》カラヌ
  月ニ五百人ノ生徒ガアレバ校舍ヲ五千圓カケテ新築シテモ六年ノ後ニハ皆濟ガ出來ル、然シ其時ニハ又本舍ノ大修復ヲ要スル、中々うまく※[貝+諸]カテナイ、
 ○黒田清輝曰ク先日支那公使館へ行つたら公使ノ令孃が僕ニ love シテ居タラシイガ不幸ニシテ言語ガ通ジナイノデ分ラナカツタ、秘密ヲ守ル信用ノ出來ル通辯が居ルナラ周旋シテクレ
 ○圖書館を出たら○○君がくる君にして此熱いのに勉強するのは感心ダト思つたら、小便をしに來たのだと云ふ。
 ○オイ/\ト云ふから振り向く、○君が頭を半分刈つたなり立つて居る。譯を聞くと此先の髪結所ニ居つたが君の姿が鏡ニ寫つたから飛び出して來た〔圖書〜來た、の上に括弧あり、入力者〕
 ○大學デ珠ヲスル
 ○人間ノ氣取ルコト。髪の分け方。食物 etc。四這
 ○Hannibal 卜酢
 ○蛙の眼球の電動的作用に對する紫外光線の影響。
 
     十九
 
 〔三字不明〕一催眠術
     ――――――――――
 帝國ホテル。錠前直し
     ――――――――――
 烏帽子折の太鼓
     ――――――――――
 音樂會のシンバル。と太鼓
     ――――――――――
 スツポン事件
     ――――――――――
 辨當の御菜……
     ――――――――――
 牛の乳を飲むと牛になる
     ――――――――――
 神から信仰をとると鰯の頭
     ――――――――――
 人間は人間を食ふもの
     ――――――――――
 赤十字總會〔以下一二字不明〕
     ――――――――――
 風〔以下一字不明〕
     ――――――――――
 學校 無理でも勢力に服從する。 Nude ノ哲學 60年前英國ノアル田舍で圖案學校ヲタテタトキ裸體像ヲコト/\ク植木デカクシテ Soiree ヲやツタ。然ルニ彼等は夜肩ヲアラハシ手ヲアラハス。是は文藝復興時代ノ淫靡ナ風ト古代ノ art ヲ慕フカラ出タ。十四世紀迄ハ欧人ノ衣服ハ decent デアツタ(Valerius Maximus p131) 希獵人ガハダカの感ジハ自然デアル Purgatory XXXIII 87‐99
     ――――――――――
 寒月の※[ワに濁點]イオリン研究
 電話を貸して下さい。貸せません。用事なら車へ乘つて行ったらいゝでせう
 
 多くの事を知る――地球が大《原》陽の周圍を廻轉する事換言すれば――換言
 ChrysippuS――novel〔五字□で囲む〕
 Socrates swearing by the dog
 Zeno   〃  〃 the goat
 虎の聲。
 動物園の虎の聲を聞きに行く。
 オヤマア
 雁の味−蕪+塩煎餅
 燒芋(多數食ふて induction)
 木登り。
 烏ト喧嘩。
 馬の歴史。
 
     二十
 
〔ヨーロッパの馬や牛の文化についての英文、所々わずかに日本語有り、省略、入力者〕
 
     二十−
 
〔英文省略、入力者〕
 
 ○喜劇 行水ノ女ニ惚れる烏かな
 ○空家へ蕎麥をあつらへる
 ○Kanbukuro
 ○Looking‐glass
 ○自轉車、上野山中、邂逅、高利貸、女ノ自轉車ヘ乘つて逃げル、アトデ高利貸ト女ガ結婚スル
 ○女ヲ love スル、色々工夫シテ逢ハントスル、女ノ家ヘ火ヲツケル、出テ來ル所ヲ救ヒダサウトスル、消防夫ノ方ガ上手ニ救ツテ仕舞フ
 ○方寸、寸方、物ガ inversion ヲヤルト別物ニ見えル、此方ガ point of view ヲ invert シテモ同樣ノ結果デアル、高イ鼻ハ尤モ低イ鼻、
 ○※[火+畏]芋ノ味。36920本ヲ食フテ generalisation:−
  (1) Size−middle ガ best (2)Colour (3)Scientist ノ generalisation
 ○首を肩の上にのせて居るさへ面倒くさい。目ばたきをするのが面倒だと云人がある、尤も義眼だ
 ○迷亭ノ著(1)結婚ノ不徳(2)獨身ノ害(3)野合ノ弊
  其次ギハマダ考へヌ、其丈書いて居ル中二死ンデ仕舞フダラウ、死ニサヘスレバ書カンデモいゝカラナ。書クノ書カヌノト何トカカントカ云フノハ生キテ居ルウチノコトサ
 ○東風子ノ新體詩集(金田富子ノ君に捧ぐ)、萬葉ノ古語其他ワカラヌ戀ノ歌、主人云フ二三年前迄ハ分ツタガ今ハ分ラ〔ヌ〕暫ラクノ間ニ大分進歩シタモノダ
 ○Rasin《sic》獨乙語モ佛語、獨乙デハ何ト云ヒマス、何大抵同ジサ、高ガ乾葡萄ダカラネ、
 ○靜岡の廣小路ノ對山樓、下女、農學士、結婚を申し込む。
  うどんが食ひたくなる。靜岡にうどんがあるか。其晩に腹が痛くなると靜岡に醫者はあるかと云ふ。うどんがある位だから醫者は無論あります。翌朝になつて女が云ふには私はどこへ緑づいても宜しう御座いますがうどんの好きな人には結婚しないと云ふ願をかけました。
 ○女房取り換論
 
 十二錢ノ雑誌ヲ十銭ニマケロ
 
     二十二
 
 ○Gustave Flaubert,(a simple Heart ) p.27. 無邪氣ナル小兒ノ Christ ヲ様々ニ考フル處アリ。
     ――――――――――
 女ノ水泳 Cordova
〔以下英文省略、入力者〕
 
     二十三
 
〔英文約六頁分省略、入力者〕
 
斷片 ――明治三十八年十一月頃より明治三十九年夏頃まで――
 
 ○民ノ聲が天の聲ならば天の聲は愚の聲なり。
 ○月の世の諺に曰く
 ○邪なる人云ふわれに金力あり、威力あり、大衆あり。正しき人を攻めて、攻めて、正しき人の膝を屈する迄攻めよと。
  攻める事一日を長くせば正しき人の膝は一日屈する事をのばすべし。攻める事二日を長くせば正しき人の膝は二日屈する事をのばすべし。攻める事千日を長くして正しき人の膝は遂に屈する事を得ざるべし。
  日は空しく天に懸らず、水は自ら流る。正しき人の勝つは日の天にかゝり、水の流るゝが如く自然なり。如何に負けんとするも降らんとするも之を奈何ともする能はず。自ら奈何ともする能はざるものを人何んぞ奈何ともし得べけんや
  始皇は長城を築きフェラオはピラミツドを築く宇宙の壯觀を指呼の間に湧出せしむるの技能ありと雖も日を暗くして水を一所にとゞむる事能はず。日の明らかなるは日の性なればなり。百の始皇ありとも千のフェラオありとも物の性を奪ふの力なし。性を奪ひ得たる時其物は既に其名を有せず。正しき人が膝を屈したる時に其人は既に正しからず。邪の人なり。
  群旨瞶々たり。正義〔二字傍点〕を以て只紙上の空名となす。正義は天地の間に蟠まる大活力なり。書をよまず字を知らざるもの一念勇猛の心を起したる時磅※[石+薄]として天地靈活の氣と相觸る。一指を擧げて天を指す時正大の氣は大空に漲る。かの庸衆の喧噪し、紛擾し、小智小術を講じて一秒、一分、乃至一刻の計をめぐらして得々たる如き者は悉く蟻群の如く微弱なり。正大の氣來つて汝等を吹くとき瞬間にして靈界の表面より焦熱地獄に向つて墮落し來る。正義の士は彼等を賤しむのみ。彼等を輕しとなすのみ。彼等の人間と稱して社界に生存するを不思議と思ふのみ。百萬の小人ありと雖も一正義の士を奈何ともすべからず。
 
     二
 
 ×人ニ可愛ガラレルノヲ嬉シキコトニ思ヘル時アリ。人に尊敬セラレルヲ難有シト思ヘル時アリ。人に對シテ圓滿ナルヲヨキ事ト思ヘルコトアリ。今ニシテ思ヘバ皆愚ナルコトナリ
 ×小人に可愛ガラレルハ君子の恥辱なり。小人に尊敬セラルヽハ君子の耻辱なり。小人と交つて圓滿なるは君子の耻辱ナリ。小人は君子ヨリ輕蔑セラル可キ運命ヲ以テ世界ニ生レ出デタル者ナリ。小人ヲ輕蔑するは君子の義務ナリ。天下ニ嬉シキコト只一事アリ。小人ヲ輕蔑する事是なり。
 ×小人ノ尤モ憂ふる所は其技倆の功果を生ぜざる時にあり。小人をして日夜に奔走せしめ、日夜に勞苦せしめて、十年の功を徒勞に屬せしむるを以て君子は一大愉快となす。是君子の小人に對する輕蔑を表する唯一の良法なり。
 ×小人十年二十年の勞を一指頭に彈じ盡したる時君子の眉は始めて愁を開く。破顔して始めて墓に入るを得べし。
 ×小人は恐るべきものか、もしくは賤しむべきものなり。小人は自己の半面を知らず、己れは只他を恐れしむるの伎倆のみありと思へり。焉んぞ知らん。此伎倆こそ益他の輕蔑を招きつゝあるを。
 ×自己の技倆が他の輕蔑を招きつゝあるか、他の恐怖を起しつゝあるかをさへ辯ぜぬ程の者なれば只一圖に自己の技※[手偏+兩]《原》を弄して遂には人をして恐怖せしむるの時機至るぺしと信ず。春過ぎて來るべき春を待つは夏に於てするも、秋に於てするも至當なり。只自己の技兩が他の輕蔑を招きつゝある際に一歩を進めさへすれば變じて恐怖の念となし得べしと考ふるは尻より出たる糞便を睨めて居れば豆腐に變化する時機もあるべしと決心せるものゝ如し。
 ×小人の恐るべきは何をなしても憚からぬが故なり。小人の賤しむべきも亦何をなしても憚からぬが故なり。事は同じ。只相手によりては恐れられ、又相手によりて賤しめらる。之を混同するは小人の眼が股倉に着いて居る故なり。
 ×小人ヲ十個集むれば十個の小人を産す。百個集むれば百個の小人ヲ生ズ。百個千個に至ツテ正義ヲ恐怖セシメ得ルト思フハ天下ノ泥土ヲ積ンデ珠玉トナシ得ベシト誤解セルガ如シ
 ×小人ヲ遇スルニ君子ノ道を以テスレバ君子ハ常ニ敗ル。小人ヲ遇スルニ小人ノ道ヲ以テスルトキハ或ハ勝チ或ハ敗ル。小人ヲ遇スルニ小人以上ノ道ヲ以テスルトキ小人ハ姶メテ手ヲ束ネテ已ムベシ。小人ノ道ハ他ナシ只人ヲ欺クノミ。小人以上ノ道トハ他ナシ。小人以上ノ頭脳ヲ以テ小人ヲ欺クノミ。只小人ハ己レノ智ノ程度ヲ知ラズ。事局ノ展開ニ展開ヲ重ネテ危機一髪に逼ル迄ハ自己ノ敗レタルヲ知ラズ。此故ニ小人ヲ服スルニハ多年ノ根氣ヲ要ス。十年モシクハ二十年乃至わが死ニ瀕スルニ至ツテ始メテ彼等ヲ服セシムルヲ得ベシ。
 ×彼等ヲ取扱フニ急グコトナカレ。急グ時ハ彼等ノ術中ニ陷ル。急ガザルナカレ。急ガザルトキハ彼等ノ輕蔑スル所トナル。急グガ如ク急ガザル如クニシテ十年、二十年、モシクハ三十年ノ後ニ彼等の無智無能ニシテ且陋醜下劣ナルコトハ不言ノ間ニ明白ニスルヲ得ベシ。
 
     三
 
 ×神ハ人間ノ理想ナリ。理想トハ二個ノ異ナル意義ヲ含ム。自己ノ有スル凡テノ良好ナル點ヲ目惚ノ顯微鏡ニカケテ見タルトキハ光彩陸離タル神トナリ。是一義ナリ。われはわが父母ヲ完キ人ト思ハズ。わが君ヲ完キ人ト思ハズ。わが隣人朋友ヲ甚ダシキ陷缺アル人物ト思フ。完カラズ、陷缺アリトハ、われヲ遇スルノ點ニ於テ完カラヌナリ不公平ナルナリ。此不平ヲ世ノ中ニテ醫セント欲シテ得ズ、已ヲ得ズ、人間以上ノ神ヲ假定シテ慰|籍《原》トス。是神ノ第二義ナリ。
 此故ニ神ハ尤モ大ナル自惚ヲ有スル人間ガ作リタルカ又ハ尤モ人ヨリ逆待セラレタル人間ガ慰籍ヲ求ムル爲メニ作リタル者ナリ。
 前者ノ極端ニ達スレパ自己即チ神〔右○〕ナリ。釋迦是ナリ。(ニイチエ)ハ多少之ニ類似スレトモ後者ノ極端ニ至レバ自己即チ神ノ子〔三字右○〕ナリ。耶蘇是ナリ。
 ×己レヲ根本トシテ己レガ人ニ對スルノ理想ヲ發表スル時ニ自己ハ即是神〔六字右○〕ノ形式ニテアラハル。他ヲ根本トシテ他ガ如何ニ己レヲ遇シテクルヽカノ理想ヲ發表スルトキ自己は即是神ノ子〔右○〕ノ形式ニテアラハル。
 ×自己神ナレバ天上天下唯我獨尊ナリ。自己神ノ子ナレバ天上天下依頼スル所アリ。
 ×前者ヨリ云ヘバ父母ノ威モ、君主ノ權モ、陶朱ノ富モ皆ワガ膝下ニ跪ヅクベキ者ナリ
 ×後者ヨリ云ヘバ父母如何ニ無理ナルモ、君主如何ニ暴虐ナルモ、隣人朋友如何ニ無情ナルモ、最後ニ依頼スベキ神アルガ故ニ毫モ窮愁ナシ
 ×此兩者ノ間ニ彷徨スル者ヲ覺ラザル者ト云フ。救ハレザル子ト云フ。覺ラザル者ト救ハレザル子ト意義全ク異ニシテ其不幸ナルハ即チ一ナリ
 ×世界ニ自己ヲ神ト主張スル程ノ自惚者少ナシ。又自己ヲ神ノ子ナリト主張スル程ノ馬鹿者少ナシ。故ニ萬人ノ人ニ遇へパ萬人ナガラ皆不幸ナリ。
 ×不幸ハ彼等ノ尤モ厭フ所ナリ。此故ニ何等カノ方便ヲ求メテ此不幸ヲ逃レント欲ス
 ×不幸ヲ逃レント欲スルノ極ハ甘ンジ|デ《原》大ナル自惚者トナリ。又大ナル馬鹿者トナラザル可ラズ
 ×ジレンマは明カ|ラ《原》ナリ。不幸ヲ甘ンズルカ。自惚者ト馬鹿者ニ強ヒテナルカ。
 ×大多數ノ人ハ不幸ニモ甘ンゼズ。又自惚レタリ馬鹿ニナリキル程ノ決心ナシ。
 ×是等ヲ常ノ人ト云フ
 ×不幸ニ甘ンズル人は昔ヨリ古人ニ至ツテ只一ノストイツク派ノ學者アリ。日本ノ武士亦之ニ近シ。
 
     手帳の右より左へ
 
 (1) 兩面 【男女】 同一ノ事件ヲ與ヘテ之ニ關係スル男ノ感ト女ノ感トヲカキワケル(一)(二)ヨリ成ル
 
 (2) 生【少女青年老人】等ノ人生觀ヲカキワケル。
 (3)發見ヲ畏れて人ヲ殺すに至る迄の徑路ヲ心理的ニカク
 (4) 趣味ノ遺傳
 (5) 温泉場
 (6) 一日、 朝一、朝二、……午后一、午后二……ト云フ風ニカク。先ヅ一家内ノ娘、息子、親抔ガ秋ノ日の麗カナル朝に於テ各滿足シテ居ル樣ヲカク。夫レカラ次二其一人が心にヂスターバンスヲ起ス。他ノ者ハ平氣デ滿足シテ居ル。次ニ又一人ガ何カ不平ヲ起ス他ノ者ハ笑つて居ル。次ニ第三ノ者が心配ノ事件ニ遇ふ。殘ル者ハ平氣で居る。かくして一日のうちに家内中何か事が出來て皆心が平で居る事が出來んといふ事をかく。世の中は變り易いもので今滿足して居てもすぐ心配が起るものだといふ事を物語りで示す。然し不自然デナイ樣に極めて無理のない樣にかく
 
 (7)夢の樣な空想をかく。
  埃及のマミーニナルコト。埃及ノ有樣や埃及ノ神や事情を色彩ニ添ヘル
  希獵ノ芝居 プロメシアスやイーヂパスを芝居にして居る所を見物した有樣を空想的にかく。芝居の構造や。見物人の態度等をかく
 
 (8)虚栄心に充ちタル新細君。道理の分つたる夫。――細君自己の虚榮心を滿足させる爲に或る事を夫に懇願す。夫ある條件の元《原》に之を許す。其條件は夫と共に微服して貧乏人のみ集まる所へ用足しに行く。細君已を得ずして之を諾す。途中から行きつく迄、行きついてから歸る迄に虚榮心を害する事非常なり。終りに心機一轉の事實に逢ふ。歸來夫細君に問ふて妻の懇願通りすべきや否やと問ふ。細君悄然としてやめますと云ふ。
 
 (9)兄弟墻にせめぐ外侮りを禦ぐといふ事實をかく
  (1)二人の交情の甚だ圓滑ならざる所(2)新事件と二人が急に助ケ合ふ事
 
 (10)私に恨みある者二人(1)仲惡しき樣を描く(2)公の事で私を棄つべき事柄が出來てくる(3)二人の私情が此事件につれて發展してくる事(4)公私の境を劃然と立てゝ。公の爲めに甲が乙をあつく取り扱ふ事
     ――――――――――
 ○Emilia(Sandra Belloni)音樂ノ天才、豪商 Pericles ガ發見シテ、 Italy へ修業ニヤラント云フ。Emilia,Wilfrid ノ傍ニ居リタイ爲メ Pericles ノ命令通リニセズ
 ○Wilfrid(Pole W.)權謀家ナリ、Charlotte ト云フ女ト engage シテ居ルニモ拘ラズ、Emilia ヲ愛ス。仕舞ニドツチカキメナクテハナラントキニ遂ニ Belloni ヲステル。然モ思ひキルコトガ出來ンデ又戀ヲ戻ス。W. ハ C. ト engage シテ居ルカラ到底自分ハ結婚ガ出來ント云フコトヲ知ツタ Belloni ハ非常ニ失望スル。其アトノ consolation ニマダ voice ヲ有シテ居ル、ト思フ所ガノドガカレテ命ノ親ナル聲ガナクナル。 Belloni ハ失望シテ狂氣ノ樣ニナル。最後ニ音ガ又出ル。
 ○Pole(W. ノ父)Mrs.Chump ヲ後妻ニセントス。是ハ love デモ何デモナイ、Chump ガ金ヲ持つテ居ルカラ、自分ノ子供等ノ爲ニ結婚シテ家計上ノタシニセントスルノデアル
 ○Cornelia(Pole ノ末女)ト Barrett(organist, 父ガ狂氣デ disinherit シタ爲ニ organist ニナツテ居)ノ love.
     ――――――――――
  「さあ御這入なさい」「まあよさう」「それでも切角來たんぢやありませんか」「然し」「いゝから御はいんなさい」「また來やう」……
 Oさんは餅を食つてゐる
     ――――――――――
 アラシデ家ガ滅茶々々に壞れる。其中に彼が一人悄然と立つて居る
     ――――――――――
  額に皺が三本ある。一本は金の皺……一本は失戀の皺……
     ――――――――――
 一○親。金持。俗物。不見識。月並を厭ふ
 ○子。學問をする。名利を忌む。金の番人を厭ふ。月並を嫌ふ
 ○親自分の子が氣に入らず。之を自分の氣に入る樣にせんとす。子供の訓練と心得て無暗に子供のすかぬ事のみをする。子供之に從はざれば財産を讓らずといふ。親は財産を以て何よりも尊きものと心得るが故に之を懸賞にすれば吾子は何でも自由になるべしと思ふ。親は此安心あるが故に遠慮會釋もなく子供をいぢめる。子供は單に孝といふ義務の爲に之に服從す。愈財産を讓るといふ段になつて子供は蹶然として去る。父は唖然として自失す。
 二 子供は家を出でゝ非常な困難をする。父を《原》子を失つて金の無意味なるを知る。子は家に歸りたい。父は子を歸したい。然し一たび割かれたるものは如何ともする能はず
     ――――――――――
 三歳の小兒を馬鹿にして色々冗談をいつてからかふ。……最後に何とかいふ。小兒「ばぶ」といふて睨めつける。此「ばぶ」に避《原》易する
     ――――――――――
 (一)甲ノ乙ニ對する不平 (二)乙の甲に對する不平 (三)兩人の會合喧嘩  (四)喧嘩の解決
     ――――――――――
 ○宴會 裸躍
 ○會議 居眠
 ○ツリ。魚ヲ放ス。次ニハ魚ヲ胴の間へ叩キツケル
     ――――――――――
 意志の文學 Typhoon 參考
     ――――――――――
 1)and danced with the daffodils
 2)lmitation
 3)Thought‐reading
  ○WmArcher:Anatomy of Acting 中ニ actor ノ act スルトキ genuine feeling ヲ生ズルコトヲ引ケリ。(2)ノ Imitation ノ例ナリ
     ――――――――――
 Typhoon. 寡獣ニシテ humour ナキ船長、が航海中暴風雨ニ逢フ有樣ヲカク。暴風雨中ニ船室内ニテ Chinese coolies ガ自分ノ賃銀ヲ床の上ニ落トシテ互ニ爭ツテ奪ヒ合フ。非常ニ豪壯ナモノナリ
 To‐morrow. 16年間息子ノ行キ方ガ知レヌ、父ハ廣告ヲシテサガス。明日歸ル明日歸ルト云フ、遂ニ息子ガ歸ルト眞ノ息子ト思ハナイ矢張リ明日歸ルト云フテ居ル。息子ハチツトモ氣ニシナイ漂流|物《原》デアル。親ノ膝元ニモ二週間トハ居レナイ女ヲー○諾 シテモ二週間トハ續カナイ、頗ル小説中ニ出テキサウモナキ男デ〔ア〕ル。夫ダカラ御やぢガ自己ヲ recognise センノデスグニ歸ツテ仕舞フ、然シ金ガナイソコデソコニ居ル Bessie ト云フ女カラ金ヲ貰ツテ歸ル。Bessie ハ此おやぢが息子ニ娶ハセル積リノ女デアル、此女ハ此おやぢト夫から自分ノ盲目ノおやぢノ大聲ヲ揚ゲテ罵ル父トヨリ外ニ男ヲ見ナイカラ、Harry(息子)トシバラク話シテ居ルウチニ多少其人ヲ戀フ樣ニナルソレニモカヽハラズ息子ハ去ル。おやぢは厄介者ヲ逐つ拂つたと云フ。女ばかり妙な心持ニナル
     ――――――――――
〔以下、意味不明の図、省略〕
     ――――――――――
 Stout Analytical Psychology――
 Macbeth sleep no more
 Sound ノ interpretation
 Coleridge ノ 梟
  Mew‐mew
     ――――――――――
〔以下、意味不明の図、省略〕
     ――――――――――
 Conrad
 Youth. 船火事ノ話
 Heart of Darkness. 蠻地ヘ行ツタ船長ノ物語リ。Indian ニ襲ハレタリ抔スル、ソコニ Kuetz ト云フ人ガ居ル。エライ男デアル病氣デ死ヌ、船長ガ其遺書ヲ携ヘテ其戀人ヲ訪フ。夕暮ノ景色、戀人ノ愁嘆ヲヨクカイテ御仕舞
 The End of the Tether. 老船長ガ娘(遠方ニ居ル)ノ家計ヲタスケル爲メ自分ノ船ヲ賣ツテ雇ハレテ他ノ船長トナル。同時ニ目ガワルクナル。然シ娘ノ爲メニ眼ガ見えルフリヲシテ居ル。30度以上航海ヲシタ所ヲ渡ルノダカラ大抵見當ガツク。又 Malay 人ノ心キヽタル者ヲ使ツテ之ヲ信用シテ勤メテ行ク。所ガ船ノ持主ガ借金ニ困ツテ船ヲ淺瀬ヘ乘リアゲテ沈没サセテ保險金ヲトラウトスル。自分ノ上衣ニ鐵ヲ入レテ compass ヲクルハシテ船長〔ノ〕思フ樣ニ船ガ向ハナイデ遂ニ暗礁ニ乘リアゲル、船長ハ船卜沈ム他ハ boat デノガレル。船長ノ手紙ガ娘ニトドク。死ンダラ屆ケテクレト頼ンダノヲ lawyer ガ屆ケル娘ハ下宿屋ヲシテ貧乏シテ居ル。此手紙ヲ見テ非常ニ感ズル所デ御仕舞
     ――――――――――
      夢
 (一) 女が高い所から珠をなげる。男が下に居て之を受け取る。男はある時間内に此珠を手に入れなければならない。又此珠を手で受けとめなければならない。此剃那の心のうち
 (二) 女が死んで仕舞ふと云ふ。男がとめる。男が歸つて仕舞ふといふ。女がとめる。次に女が又死ぬと云ふ。男が死んで見ろといふ。女が石を袂へ入れたり何か色々な事をする。男が烟草をふかし出す。此兩人の心の攻守の勢の變化する處
 (三) 阿蘇のクレータの中
      ○
 プロスペラスナル人トミゼラブルナル人。甲ノ得意ト乙ノ失意。双《原》互ノインターアクション。physical,moral。ミゼラブルナ人ノ妻ノ心行。
      ○
 ×日を積んで月となし。月を重ねて年となし。年を疊んで墓となすとも……
 ×何が故に神を信ぜざる。
 ×己を信ずるが故に神を信ぜず
 ×蓋大千世界のうち自己より尊きものなし
 ×自を尊しと思はぬものは奴隷なり
 ×自をすてゝ神に走るものは神の奴隷なり。神の奴隷たるよりは死する事優れり。況んや他の碌々たる人間の奴隷をや
 ×浮世は陷缺のみ、憂と慾と窮と悶とのみ。唯未來ありて光明の一縷を暗き世に引く。未來あるものは安し。
 ×未來に安きを願はず。未來に黄金の天地を鑄出して無圓通の世に住せんよりは現世に一寸の錦を織るにしかず。一斤の金をあつむるにしかず。善と美と眞の高さを一分たりとも高むるにしかず。一寸の地を擴するにしかず。
  寂滅爲樂の後極樂に生るゝは此世にて一寸たりとも吾が意志を貫くにしかず。一個半個の犬を撲ち殺すにしかず。
  われは生を享く。生を享くとはわが意志の發展を意味する以外に何等の價値なきものなり……
     ――――――――――
 ○若イ男ノdescription、其 motive の straight 凡テノ物ヲ destroy スル in the way destroy 出來ヌ時ハ stand still
 ○年寄ノ desecription 只道アル方ニ行く。Tavern デ昔シノ何年何月コヽニ來タカト聞ク。傍人知ラズト云。川ノ邊ニ出る。川の中に入る
 ○死ぬが可い。死ぬが可い。(結句
     ――――――――――
 ○Nashe の Anatomy《sic》 of Absurdities《sic》 ヲ見ヨ
 ○黠者をして乘ぜしむるは汝の正義に背くなり
  陋者をして侮らしむるは汝の氣品に背くなり
  愚者をして輕んぜしむるは汝の智慧に背くなり
  富者をして擅まゝな〔ら〕しむるは汝の學殖に背くなり
  權者をして專らならしむるは汝の道念に背くなり
  黠者をして其黠に斃れしめよ
  陋者をして其陋に敗れしめよ
  愚者をして其愚に懲りしめよ
  富者をして其富を悔《原》いしめよ
  權者をして其權に窮せしめよ
  彼等は其利器を用ゆる事愈急にして、其失愈顯はる。是天下の道なり。帝王の尊と雖之を奈何ともする能はず。百年の後氣息鼻口に入らず、醜肉腐爛して髑髏雨を盛るを待つて吾言の誤らざるを覺れ。
  吾は日本の人なり、天下の民なり。日本を擧げで吾を容れずんば天下に行かん。天下を擧げて吾を容れずんば天下を去らん。天下を去るは己を屈して天下に容れらるゝの耻に優る。
  一人の朋なきを憂へず。只卑しきを耻づ
  妻子なきを憂へず只陋なるを耻づ
  父母兄弟なきを憂へず只曲れるを耻づ
  われはわれなり、朋友にもあらず、妻子にもあらず、父母兄弟にもあらず。われはわれなる外何者たるを得んや。われ人を曲げずんば人遂に我を曲げんとす。兩者曲げ得ざる時、兩者は死するべき運命を有す。運命はわれの如何ともする能はざる所なり
  われ人を曲げざるに何者か來つてわれを曲げんとする者ぞ。全世界の富と全世界の權と全世界の策を以てするもわれを曲げ得るの理あるべからず。われを曲げ得ざるの前に吾は世界の表面より消えて去るべし。
 ○昔の人は己を忘れよと云ふ。今の人は己を忘るゝなと云ふ。二六時中己れの意識を以て充滿す。故に二六時中|大《原》平の時なし。
 ○人に向つて云ふわれ人に耻づるの行爲なしと。焉んぞ知らん此人は何等の行爲なきなり
     ――――――――――
 ○英人の所謂 nice なるものは矢張り己れを離れざるの nice なり。nice を爲すとも實は pain なり。Edward ノ 例。mess‐room ノ例
     ――――――――――
 ○Self‐conscious の age は individualism を生ず。社會主義を生ず、levelling tendency を生ず。團栗の脊くらべを生ず。數千の耶蘇、孔子、釋迦ありと雖と《原》遂に數千の公民に過ぎず。
  Henley 云フ R.L.Stevenson ハ self‐consciousness ヲ免カレヌ人ナリ。Japp ヲ見ヨ
 ○Self‐consciousness の結果は神經衰弱を生ず。神經衰弱は二十世紀の共有病なり。
  人智、學問、百般の事物の進歩すると同時に此進歩を來したる人間は一歩一歩と頽癈し、衰弱す。
  其極に至つて「無爲にして化す」と云ふ語の非常の名言なる事を自覺するに至る。然れども其自覺せる時は既に神經過敏にして何等の術も之を救濟する能はざるの時なり。
 ○全世界の中尤も早く神經衰弱に罹るべき國民は建國尤も古くして、人文尤も進歩せる國ならざる可らず。彼等は自ら目して最上等の國民と思ふにも關らず實は一層毎に地下に沈淪しつゝあるなり。異日彼等は亞米利加内地の赤人を慕ひ、臺灣の生蕃を慕ふに至るべし。然れども一たび廻轉せる因果の車は之を昔に逆轉するを得ず。アルコール中毒のものが禁酒家を羨みつゝ昏睡して墓に入るが如し
  父子ノ關係を疎にし。師弟の情誼を薄くし。夫婦の間を割き。朋友の好みを滅する傾向なり。昔人の如き關係にては到底今日ノ程度ノ神經にで堪へ得べからざるが故なり
 英國人は此傾向に resist スル爲めに賢さ完と云ふものを非常に重んず。home は神聖にして他人の妄りに亂入しがたき所とす。日曜にも平日にも妄りに來客に接せず。彼等はこれにあらざれば神經を沈靜する能はざるなり。他日もし神經衰弱の爲めに滅亡する國あらば英國は正に第一に居るべし。
  彼等のコノ傾向は彼等の近世文學を見て徴するを得ぺし。Henry James etc. カヽル minute analysis を以て進ま|ゞ《原》人間は只神經のカタマリ、ウルサキ刺激ヲ受クル動物、煩瑣なる挑撥に應ずる器械なる事を證明す。只人間がコマカクなるのみなり。キワドクなるのみなり。神經衰弱の用意をなすにとゞまるのみなり。
  Homer ノ時代を見よ。Chevy Chase の時代を見よ。
  彼等の病的なるは自然の刺激を以て滿足する能はず。人爲的に此等の刺激を創造して快なりとなす。愚なる日本人は此病的なる英人を學んで自ら病的なるを知らず。好んで自殺を遂ぐるにひとし。英の 《原》女皇頸に創あり已を得ずドツグ、コラーを装ふ宮庭の女官皆之に傚ふ。今の日本人は此女官の流なり。
 ○英人の文學は安慰を與ふるの文學にあらず刺激を與ふるの文學なり。人の塵處を一掃するの文學にあらずして益人を俗了するの文學なり。彼等は自ら弊竇の中に坐して益其弊を助長す。阿片に耽溺せる病人と同じ。
 ○靜をあらはすものはポテンシアリチーであるポテンシアリチーは何に變化するか分らない。靜變じて動となるときアクチ※[ヰに濁點]チーとなる。アクチ※[ヰに濁點]チーは盛なると同時に限られて居る。其無能を發表する其微弱なる事を證明する。英國の文學は此動の尤もダラシナキものなり。淺墓なるものなり。蛙の足に電氣を通じてピく/\させたる如きものなり。巾着切りの文學は衰亡の文學に相違なし。
  天下に英國人程高慢なる國民なし。世人は支那人を高慢と云ふ。支那人は呑氣の極鷹揚なるなり。英人はスレカラシの極、巾着切り流に他國人を輕蔑して自ら一番利口だと信じて居るなり。神經衰弱の初期に奮興せる病的の徴候なり。
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 ○文學士の洋服は八圓位
 ○車上美人に逢ふ。グル/\廻る。仕舞に下りる。あとをつける。女時計をすてゝ去る
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 ○生れる時には誰も熟考してから生れるものはないが死ぬ時には誰でも苦心する。金をかりる時には何の氣なしに借りて返す時に心配する樣なものだ。
 ○どうして返さずに濟ますか是が問題である。どうして死なずにすむか是が問題である
 ○どうしても返さなければならない、どうしても死なゝければならない時に返し方死に方に就て色々な注文を出す。
 ○金の返し方。死に方。ペトロニアス。ソクラテス。耶蘇。エムペドクリス。大燈國師等。
 ○借りた金を返す事を考へないものは幸福なる如く死ぬ事を苦にせぬものは幸福である
 ○之を苦にする樣になつたのは神經衰弱と〔いふ〕病氣が發明されてから以後の事である。自殺クラブの例。
 ○死ぬ事は苦しい然し死ぬ事が出來なければ猶苦しい。神經衰弱の國民には生きて居る事が死よりも甚しき苦痛である。夫だから死ぬ事を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではないどうして死んだらよからうかと苦心するのである
  然し大抵のものは別段名案も浮ばないうちに隣り近所の人や、友達や、或は妻子が殺してくれる。業つくばりで死に切れないものは自分で一工夫して死ななければならない。世の下るに隨つて人間は業つく張りになる中々世の中と摩擦位な事で脆く死ぬものはない。然し夫にも關らず死にたいのである。是に於て自殺者が日にまし多くなる。世界向後の趨勢は人間はみな自殺するものであると云ふ命題が事實に證明せらるゝ時期に到|底《原》する。千年後の人間は病氣で死ぬといふ事は忘れて仕舞ふ。死といへば必ず自殺だと思ふ。たまに病死するものがあれば愚圖の骨頂だと笑ふ樣になる。
 ○其時分には警察の巡査は犬殺しの如く棒を以て天下の公民を殺してあるく。殺されたい人間は門口に張り紙をして殺されたき男ありと出す。巡査は棒を以《原》て這入つて來て云々。車に積んで持つて歸る。時々は警察の御威光で殺されたくない人民迄も撲殺して仕舞ふ事がある。
  學校では中學校アタリから自殺學及び他殺學を倫理ノ代りに教へる。時によるにおやぢやお袋抔が倅に殺してもらう事がある。其時に學校で人殺し法を習つて置かないと非常に不便である。
 ○夫婦。結婚は云々獨身は云々。アーサー、ジヨーンスの劇。ナツシのアブサーヂチー
 ○パーソナリチーの世の中である。出來る丈自分を張りつめて、はち切れる許りにして生きて居る世の中となる。昔は夫婦を異體同心と號した。パーソナリチーの發達した今日そんな、プリミチーヴな事實がある筈がない。細《原》は妻、夫は夫、截然として水と油の如く區別がある。而も其パーソナリチーを飽迄も擴張しなければ文明の趨勢におくれる譯である。そこである哲學者が出〔て〕來て夫婦を束縛して同居せしむるのは人性に背くと云ひ出した。元來人間はパーソナリチーの動物であつて此擴張が文明の趨勢である以上は筍も此傾向を害するものは皆野蠻の遺風である。夫婦同棲といふ事は野蠻時代に起つた遺物であつて、到底今日に實行すべからざる僻習である。嫁、姑が太古蒙昧の時代に同居したる如く夫婦が同居するのも人類の害である。一歩を進めて論ずれば結婚其ものが野蠻である。カクの如くパーソナリチーを重んずる世に二個以上の人間が普通以上の親密の程度を以て連結されべき理由がない。此眞理は所謂前世の遺物なる結婚が十中八九迄失敗に終るので明瞭である云々
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 ○二ト二ガ四トナルトハ今世論理の方則デアル。昔ハサウモ相場がきまつて居ラナカツタ。キマラヌ所ニ面白味ガアツタ。物は何デモ先ノ見エヌ所ガ御慰ミダ
 ○ニイチエは superman ヲ説ク、バーナード、シヨーモ ideal man ヲ説ク Wells モ giant ヲ説ク。Carlyle モ hero ヲトク。
  此等ノ人ノ hero ヲトクハ Homer ガ Iliad ヲ歌ひ、Chevy Chase ニ勇武ヲ歌フトハ全然趣ヲ異ニス。現代ハパーソナリチーの出來ル丈膨脹する世なり而して自由の世なり。自由は己れ一人自由ト云フ意ナラズ。人々が自由ト云フ意ナリ。人々が自己ノパーソナリチーヲ出來得る限り主張スルト云フ意ナリ。出來る丈自由ニ出來得丈ノパーソナリチーヲ free play ニ bring スル以上は人ト人トの間ニハ常ニテンシヨンアルナリ。祀會の存在ヲ destroy セザル範圍内ニテ出來得る限りに我ヲ張ラントスルナリ。我は既ニ張リ盡シテ此先一歩デモ進メバ人ノ領分ニ踏ミ込ンデ人ト喧嘩ヲセネバナラヌ所迄張リツメテアルナリ。去れドモ心のウチニアル我ハ際限ナシ理想ハ現實以上ヲ意味ス。理想ハ realization ヲ意味ス。彼等は自由ヲ主張シ個人主義ヲ主張シ。パーソナリチーの獨立ト發展とを主張シタル結果世の中の存外窮窟にて滅多ニ身動キモナラヌコトヲ發見セルト同時ニ此傾向ヲドコ迄モ擴大セネバ自己の意志の自由を害スルコト非常ナリ。百尺竿頭ニ坐ス。一歩ヲ進メザレバ苦痛ナリ。一歩ヲ進ムレバ萬事休ス。是ニ於テカ彼等ハ此一歩の開拓ヲ事實の上ニ試むる代りに文筆の上に試みたるなり。白紙の上に向つて superman ヲ説ク人ハ其愚ヲ笑ふ。自己モ亦其愚ナルヲ知ラザルニアラズ。然レトモ内心の本能的要求は此愚ヲ無意義ナル楮墨ニヨリテ、カラクモ一條の活路ヲ開カントスルナリ。發言ヲ禁ジラレタルモノガ已ヲ得ズアクビに托シテ何等カノ音ヲ洩ラシテ見タキト同ジキナリ。此故ニ彼等ノ ideal man ハ不平ノアラハレタル者ナリ。Homer ノ愉快ナク。Chevy Chaase ノ simplicity ナシ。
  彼等ハ humiliation ヲ奴隷的ナリトシテ遙カニ後ヘニ見捨テヽ獨立ノ方面ニ向ヘリ。獨立ノ方面ニ着々歩ヲ進メタル今日今更ナガラ自由ノ甚シキ不自由ナルコトヲ悟レリ。昔日ノ humiliation ニ歸ラント欲スルヲ遂ニ得ベカラザルナリ。封建の世は只一ノ assumption ヲ要ス、分ニ安ンズ是ナリ。此 assumption アル以上は他ノ何等ノ刺激ナク障害ナク氣樂ニシテ生ヲ過ゴシ得ルナリ。今日ノ世ハ分ニ安ンズル勿レトノ格言ノ下ニ打チ立テラレタリ。分ニ安ンゼザル者ガカラウジテ禮儀御世辭ノ油ノ力ニテ自他ノ摩擦ヲ免カレツヽアルナリ。昔は孔子ヲ聖ト云ひ釋迦ヲ佛ト云ひ耶蘇ヲ神ノ子ト唱ヘテ自己は遙カニ之ニ及バザル者ト思ヘリ此 humiliation ナリ此Fアルガ故ニ世ハ安ク渡ラレタリ。今日ハワレモ孔子ナリ、ワレモ釋迦ナリト天下ヲ擧ゲテ皆思フ世ナリ。孔子ナル以上は崇拜者ナカルベカラズ、釋迦ナル以上は弟子ナカル可ラズ。弟子ナキ孔子ト釋迦トハ裸體の天子ノ如シ。然レドモ我孔子ナレバ隣りの車夫も亦孔子タリ前ノ肴星モ亦釋迦ナリ。人々釋迦ト孔子ナル以上は釋迦ト孔子ノ勢力ノ範圍内は自己ノ足ヲ据ゑる二尺四方以内ニ過ギズ。抑モ孔子タリ釋迦タルノく value ハ自己ノパーソナリチーヲ凡人ノ上ニ壓シカケルニアリ。孔子釋迦トナツテ天下ニ孤立セバ切角パーソナリチーヲコヽ迄ミガキ上ゲタ甲斐ナキナリ。十年苦學シテ豫期ト正反對ニシテ巡査ニ採用セラレタルガ如シ。彼等は巡査ヲ以テ滿足スル能ハズ巡査以上ニ出デントスレパ社會ノ秩序ヲ破ラザル可ラズ茲ニ於テ毫ヲトツテ長嘯シテ其不平ノ氣ヲ紙上ニモラス。Superman 是ナリ。
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 ○ Analysis of laughter
  Anatomy of melancholy
  Anatomy of absurdities
OImprovement of pencils.Once started in the way of improving pencils,they can never go back till they have quite exhausted their ingenuity in pencil improvement,and start in another direction.
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 ○Belschazaar《sic》 the King……
  大漠孤烟直。長河落日圓
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 ○Dream series――(1)……(2)……(3)God is tired of the world……(4)The whipping of the pigs.(5)Young man(6)Old man.
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 ○昔は御上の御威光なら何でも出來た世の中なり
 ○今は御上の御威光でも〔二字右○〕出來ぬ事は出來ぬ世の中なり
 ○次には御上の御威光だから〔三字右○〕出來ぬと云ふ時代が來るべし。威光を笠に着て無理を押し通す程個人を侮辱したる事なければなり。個人と個人の間なら忍ぶべき事も御上の威光となると誰も屈從するものなきに至るべし。是パーソナリチーの世なればなり。今日文明の大勢なればなり。明治の照《原》代に御上の御威光を笠に着て多勢をたのみにして事を成さんとするものはカゴに乘つて※[さんずい+氣]車よりも早く走らんと焦心するが如し。
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 ○今人について尤も注意すべき事は自覺心が強過ぎる事なり。自覺心とは直指人心見性成佛の謂にあらず。靈性の本體を實證せるの謂にあらず。自己と天地と同一體なるを發見せるの謂にあらず。自己と他と截然と區別あるを自覺せるの謂なり。此知覺は文明と共に切實に鋭敏になるが故に一擧手一投足も自然なる能はず。人々コセ/\して鷹揚な人を見る事能はざるに至る。探偵なるものは人の目を忍んで、知らぬ間に己れの勝手な眞似をするものなり。故に探偵たるものは此意義に於て自覺心が尤も強くならざるべからず。而して現今の文明は天下の大衆を驅つて悉く探偵的自覺心を鋭敏ならしむる世なり。思ふに自覺心の鋭どきものは安心なし。起きて居るうちは無論の事寐て居る間も飯を食ふ間も落ちつく事なし。此故に探偵を犬と云ふ。落ち付いたる所なければなり。彼等も人間なれば落ち付きたい事あるべし。然れども彼等の職業の結果として自ら自覺心を鋭敏にしたるの結果は身を恨むとも世を恨むとも遂に安心する期あるべからず。此等の自覺心に鋭どきは猶泥棒の自覺心強きと同樣の程度にあり二六時中キヨト/\、コソ/\して墓に入る迄一瞬の安き事なし。現今文明の弊は探偵ならざる人泥棒ならざる人をして探偵的、泥棒的自覺心を生ぜしむるにあり。
 天下に何が藥になると云ふて己を忘るゝより鷹揚なる事なし無我の境より歡喜なし。カノ藝術の作品の尚きは一瞬の間なりとも恍惚として己れを遺失して、自他の區別を忘れしむるが故なり。是トニツクなり。此トニツクなくして二十世紀に存在せんとすれば人は必ず探偵的となり泥棒的となる。恐るべし。
 此弊を救ふにはたとひ千の耶蘇あり。萬の孔子あり。億兆の釋迦ありとも如何ともする能はず只全世界を二十四時の間海底に沈めて在來の自覺心を滅却したる後日光に曝して乾かすより外に良法なし。
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 ○天子の威光なりとも家庭に立ち入りて故なきに夫婦を離間するを許さず。故なきに親子の情合を殺ぐを許さず。
  もし天子の威光なりとて之に旨從する夫あらば之に旨從する妻あらば、是人格を棄てたるものなり。夫たり妻たり。《原》子たるの資格なきものなり。桀紂と雖此暴虐を擅まゝにするの權威あるべからず。况んや二十世紀に於てをや。况んや一個人をや。况んや金あつて學なきものをや。况んや車夫馬丁をや 况んや探偵をや。
  天は必ず之を罰せざる可らず。天之を罰するは此迫害を受けたる人の手を借りて罰せしめざる可らず。是公の道なり 照々として千古にわたりて一絲一毫もかゆべからざる道なり
     ――――――――――
 ○A ノ考ニヨレバ自己ハ A ナリ
 ○B A ニ云ふ君は(い)なり
 ○A 服せず去つて、C ニキク C 云はく君は(い)なり
 ○ A 猶服せず今度は D に行く。D 曰ク無論(い)なり
 ○ A 奮然として E ニ行く。E 冷々として曰く(い)
 ○ A、E を去つて獨り考ふ。今一遍 F ニ聞いて見るべしと。遂ニ F に行く。F 笑つて曰く(い)に極まつて居る。
 ○ A 分レテ三トナル 憮然。惘然
            冷然。超然
            激昂、不平、罵倒
   此 critical moment ヲ寫す
     ――――――――――
 ○小供ノイタヅラ。animal ヲ殺ス。血ヲ見ル。shudder。
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 ○七騎落。
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 △All those mountains about him,1ike terraces of huge petrified waves,the black ravines on the sides of the cliffs,the immensity of the blue Vault,the brilliant glamour of the day,the depth of the abysses,disturbed him;and a wave of desolation swept over him at the spectacle of the desert,which,in the upheavals of its surface,formed amphitheatres and ruined palaces.
     ――――――――――
 △汝ノ見るは利害の世なり。われの立つは理否の世なり。汝の見るは現象の世界なり。われの視るは實相の世なり。人爵――天爵。榮枯――正邪。得失――善惡。……
     ――――――――――
 ○萬引ヲスル病氣ノ女。父之ヲ知ツテ殺ス
     ――――――――――
 ○(一)友人孤苦零丁遂ニ死ス(二)遺言ニヨリ報ヲモタラシテ其郷里ノ父母ニ行ク。父母其子ノ死ヲ知ラズ。頻リニ目下ノ淋シキ有樣ヲトキ、未來ノ樂ヲ説ク。わが子ノ卒業。出世ヲ樂ニシテ居ル。其子ノ死ヲ知ラセルコト出來ズシテ去ル
     ――――――――――
 ○友ノ死ヲカク。息ヲヒキトル所。ヒキトツタアト。死骸ヲ見テ一夜ヲアカス。友云フコノマヽデハ死ネナイ。
     ――――――――――
 ○Aナル子病危篤ナリ。Bナル母之ヲ看護ス。AトBハCナル父ヲ待ツ。Cハ公用ノ爲メニ百里ノ外ニアリ。非常ニ心配スレトモ公ノ爲メニ還ラズ。漸ク用ヲ了ヘテ歸ル時A死ス
     ――――――――――
〔英文省略〕
     ――――――――――
〔英文省略〕
 
        手帳の左より右へ
 ○シムボリズム。黄金は衣食住、音樂、美術、凡テノ symbol デアル。從ツテ黄金ノ詩ヲ作レバ最上等ノ象徴詩ガ出來ル
     ――――――――――
 ○君の麺麭は君の勝手に切るがいゝ△箸は君と同じ樣に持たないと飯が食ひにくいから
     ――――――――――
 ○H ヲ drop スルコトハ不合理ではない只可笑い許りだ。切角付いて居る眼を眠つてあるく樣なものである
  入らぬ所に h ヲつけるのは眼を臍の處へつけてあるく樣なものだ。     ――――――――――
  小兒 ちりん/\へえ動きます。もう御上りになる方はありませんか。「御上りぢやないわ。御下りだわ」。ぬるい、熱い、三介水汲めぢやぶ/\/\
     ――――――――――
  放蕩 自分が放蕩をし盡して置いて。やるものぢやないよと意見がましき事を云ふ。腹が減つた時食ひたい丈食つてもういやになつ〔て〕から人に飯なんか食ふものぢやないよと云ふが如し。自分が放蕩したくても出來んから人にもしちやいけないよと云ふ。己れの奪はれたる特權は人からも奪はんといふ心掛である。人間の公平といふはこゝから出るのぢや
     ――――――――――
 ○二個の者が same space ヲ occupy スル譯には行かぬ。甲が乙を追ひ拂ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ圖々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。禮も無禮も入らぬ。鐵面皮なのが勝つのぢや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。文明の道具は皆己れを節する器械ぢや。自らを抑へる道具ぢや、我を縮める工夫ぢや。人を傷けぬ爲め自己の體に油を塗りつける〔の〕ぢや。凡て消極的ぢや。此文明的な消極な道によつては人に勝てる譯はない。――夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。徳義心のあるものは必ず負ける。清廉の士は必ず負ける。醜を忌み惡を避ける者は必ず負ける。禮儀作法、人倫五常を重んずるものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善惡、邪正、當否の問題ではない――power デある――will である。
     ――――――――――
 ○獨身のときは月給四十圓で七十五錢の石鹸を使つて居た。細君を貰つて一月の間は一圓の石鹸になつた。二月目には五十錢のになつた。三月目には三十五餞。一年目に赤ん坊が出來たら二十錢
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 ○藝者〔二字右○〕 白いリボンに……I am very gla to see you……。此前來た時は日の短かい時分であつた「だつて夏ぢやないか」「夜が短かい時分だと云へばいゝのでせう。只少し間違つた許りですは。あなたの御國では夜御天道樣が出るんですか……」
     ――――――――――
 ○西洋の婦人二十三四琴カツポレ。印度人。ホコで物を食ふ。ペンセツトをペンヘッドと云ふ。器械師だと思つた。醫者にしては小さい器械だと思つた
     ――――――――――
 ○干瓢の醋味噌
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 ○池に浮いてゐる金魚麩の樣にふわ/\してゐる。
  藁で括つた蒟蒻の樣にぶる/\
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 ○藝者 「あるいて歸らうか」「寐て入らつしやい」「東京亭の姉さんに西洋料理のたべ方を習つた。色々〔二字傍点〕」「繪葉書に出たの、此間洋服をきて二|牧《原》とつたの、一は禮服、一つは只の服、夫から男の洋服でとつた事もある」
     ――――――――――
 ○海鼠 海鼠を食ひ出した人は餘程勇氣と膽力を有して居る人でなくてはならぬ少なくとも親鸞上人か日蓮上人位な剛氣な人だ。河豚を食ひ出した人よりもえらい。
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 ○今日は御前と一所に遊びに行かう――ねえ○○ちやん――今日は私の番だから――無駄な御金はいくらでもあるんだから。入る御錢は一文もないさうだけれども。自分丈は人がねむいのも構はずにいつ迄でも遊んであるくんだとさ。ねえ私だつてちつとは遊びに出たつていゝでせう。○○ちやん今日は寄席か御芝居へ行かう。濱町の法事だつて今迄缺かした事はないのに今年に限つて出ないてえだもの、自分さへよけりや親類なんざどうでもいゝんだとさ。御前さん書いて下さ〔い〕よ、よう御前さん、一寸書いて御呉んなさいよ。かいて御呉んなさいてえのに。
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 ○「血が出た。」「生きて居る證據だ」
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  衣。「更紗の樣な絣の表。絣の樣な更紗の裏」
  君の脊廣はからだ〔に〕合んではないか、なあに今に脊廣の方で合はすさ
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  人間はちや〔ん〕として居れば百二十迄は生きるもんだ。女が長生。牛込の曲淵に百三十
 
  「ランプの火に手をのせて熱くないんだが不思議だね」「ありや術だよ」「へえ」「術だよ、術だから仕方がない。」「出來るかね」「出來なくつて、術だもの」
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  犬がいたづらをして仕方がありません。さうして皮膚病に罹つて――仕方がないから病院へやりました。御金が入るから二週間許りで退院させました。然し病氣は中々癒らない。抛つて置くと段々蔓延すると云ふので困りました。仕舞に醫者に手紙をやつて藥を盛つて殺してくれと云ひましたら。醫者が私は是でも動物虐待癈止會員であつて苟しくも生きて居る犬を藥で殺す抔といふ殘酷な事は出來ないと云ひます。夫で仕方がないから又病院に入れました。さうしたら醫者があんまりいゝ犬でもないから入院料をまけて上げますと云ひました
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  地方の醫學雜誌抔には隨分なのがありますよ。ペスト豫防法抔とあるからどんな事がかいてあるかと思つて見るとペストの豫防法としては第一に猫を飼ふがいゝとある。雄猫なら睾丸をぬけと書いてある。
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  花月卷白いリボンのハイカラ頭、乘るは自轉車|引《原》くは※[ワに濁點]イオリン、半可の英語でペラ/\と I am glad to see you。
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   疊たゝいてねー、くどい樣だが、ようきかしやんせ、悋氣で云ふのぢやなけれども、一人でさしたる傘ならば片袖濡れよう筈がない。
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  金や太鼓でねー、迷子の迷子の三太郎とどんどこどんのちやんちきりん叩いて廻つて合はれるものならば、わたしなんぞも金や太鼓で、どんどこどんのちやんちきりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある。
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  障子張り。「中々うまく張れた。所々波を描いてふくれて居るのはどう云ふ筋だね」「トランセンデンタル、カーヴで出來上つてる。到底普通のフアンクシヨンではあらはせないサーフエスだ」
  「キユラソー」ノ瓶と青羊羹とはコンプレメンタリー、カラー。
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  「御母さまは猫が好き」「えゝ」「どんな猫がすき」「どんなんでも」「わたし虎猫がすき、虎猫が一番可愛いわ」「虎猫つてどんな猫」「うちの猫の樣なの」「御飯をたぺたら元禄をしませう」「あら元禄だつて、雙六だは」「雙六なの? あらそれでも元禄だは」「なぜ」「なぜでも元禄なのよ、元禄をしませう」「○子さんは可笑しいのね。雙六の事を元禄だつて」
  「御姉さま、御嫁に行かなくつて」「えゝ」「どこへ行くの」「わたし○○さんの所へ行きたいのだけれども。あすこは砲兵工廠の前を通らなくつちや行けないからいやなの」「さう、それぢやいゝは、わたし一人で行くから」「わたし招魂社へ御嫁に行きたいは」
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  豚や牛を喰ふけえ〔二字傍線〕コロリやペストンにかゝるのでがんす。
  役《原》病除けのまじなひに炮烙……さあ是で大丈夫でがんす。
     ――――――――――
  雙六(元禄)、惠比壽大黒(臺所) 御茶の水(御茶の味噌) 火事でキノコが飛んできた
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  開化ノ無價値なるを知るとき始めて厭世觀を起す。開化の無價値なるを知りつゝも是を免かる能はざるを知るとき第二の厭世觀を起す。茲に於て發展の路絶ゆれば眞の厭世的文學となる。もし發展すれば形而上に安心を求むべし。形而上なるが故に物に役せらる事なし。物に役せられざるが故に安樂なり。形而上とは何ぞ。何物を捕へて形而上と云ふか。世間的に安心なし。安心ありと思ふは誤なり。
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  あの男の電光影裏も古いものだ。二十七年の大地震の時には二階から飛び下りた。
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  鏡を見る件  カゴの比較  カヾミがなければ自惚が半分減ずる譯だ
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  電車から落ちる。手はあるかと思つて見るとある。立てるかと思ふとたてる。額から何かたれるが何だらうと思ふと泥水であつた
     ――――――――――
  日本堤分署  カツレツ庭樹ニ鳴く。蒲鉾
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  一體全體絶體は……
     ――――――――――
  裁縫秘術綱要、 歡迎
     ――――――――――
  風呂
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  音樂
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  猫の讀心術
     ――――――――――
  やつちやん
     ――――――――――
  西洋人の痘痕。痘痕不滅。頬をふくらす。氣の小さいのをかくす如し
  二三間隔つて見る。鏡。あたまを五分に刈つた事。小供あばたの意味を問ふ。アバタの數。痘瘡の轉居
     ――――――――――
〔英文省略〕
     ――――――――――
 ○親ノ威光ヲ借リル細君。御大名ノ威光ヲ借リル細君。下女ヤゴロツキ書生の補助ヲカリル細君。ナカウドの威光ヲカリル細君。……他人ノ力ヲ借リテ夫ニ對スル細君ハ細君ニアラズ他人ナリ。只名前丈ノ細君デアル。二十世紀デハ妻スラ他人ナリ。况ンヤ他ヲヤ。親愛トカ交情トカ云フ者ノ存在スベキ理由ナシ。
     ――――――――――
  Pope's mule ノ kick
     ――――――――――
  昔ハ誤ツテ人ノ足ヲ踏ンダト云ツテ謝罪シタ世ナリ。今ハ故意ニ人ノ頭ヲ打ツテ其上恐レ入ラセル世ナリ。贅澤モコヽニ至ツテ勿體ナシト云フベシ。
  是ヨリ其頭ノ打チ方ヲ説明スベシ。種々アレトモ悉ク「スリ」ト擇ブ所ナシ。夫デ世ガ渡レルナラ。天道樣ハ泣クダラウ
     ――――――――――
 ○獨立セル人ノ他ノ憐ミヲ乞フ程愚ナルハナシ。故ナクシテ人ヲ賤シムヨリ下品ナルナシ。
 ○獨立セル人ハ孤立シテ天下ヲ行ク。他ノ侮蔑ヲ受クレバ他ヲ侮蔑スルノミ。陰陽剥復ハ天下ノ理ナリ。我ヲ侮ドル者ハ天子ト雖モ侮ツテ可ナリ。
  人先ヅ他ヲ侮ツテシカル後侮ラル。天下ヲ侮ドルハ天下ノ故ナキニ我ヲ侮ドルガ爲メ也。
     ――――――――――
 ○馬ノ言葉がわかつたらよからう
     ――――――――――
 ○あの書生は出てくれゝばよい。始終見て居る顔がはれる
     ――――――――――
  死ンデモ〔英文省略〕
 
斷片 ――明治三十九年――
 
     手帳の左より右へ
 
 ○〔仏文省略〕
 
  神を恐るゝ癖に人を恐れず。
  今の世の豪商とか金滿家と云ふものは常に恐れつゝある。何を恐れつゝあるかと云へば金を失ふ事と權力を失ふ事を恐れつゝある。
  金は何の爲めに失ふか。權力は何の爲めに失ふか。彼等をして金と權力を失はしむるものは何であるか。――人である。金や力を失ふのを恐れて人を恐れぬのは、濡れる事を恐れて、雨を恐れぬ盲人である。
  神の聲。世に神の聲があれば、人間の聲となつてあらはれる許りぢや。
 
  〔英文省略〕
 
     手帳の右より左へ
 
    日置長枝娘子《ヒオキノナガエガヲトメ》歌(萬葉八 四十一)
 あきづけば、をはながうへに、おくつゆの、けぬべくもわは、おもほゆるかも
    見|菟負《ウナヒ》處女墓歌一首并短歌(萬葉九ノ四十九丁ヨリ同三十五ヨリ)
 古への、ますらをとこの、あひきそひ、つまどひしけん、あしのやの、うなひをとめの、おくつきを、わがたち見れば、ながきよ《・永世》の、かたりにしつゝ、のちびとの、しぬびにせんと、たまぽこの、みちのべちかく、は《原》は構へ、つくれるつかを、あまぐもの、そきへのかぎり、このみちを、ゆくひとごとに、ゆきよりて、いたちなげかひ、佗人は、ねにもなきつゝ、かたりつぎ、しぬびつぎこし、をとめらが、をくつきどころ、われさへに、みればかなしも、いにしへおもへば、
    反歌
 いにしへのさゝだをとこの、つまとひし、うなひをとめの、おくつきぞこれ。
 かたりつぐ、からにもこゝだ、こひしきを、たゞめにみけん、いにしへをとこ、
    田邊福麻呂之歌集出
     ――――――――――
 ○甲學校ニ不平アリ、同級生を煽動して休業ス。診察料ヲ出シテ診斷書ヲ出ス。父之ヲ聞キテ肯ンゼズ校醫ノ診斷ヲ經ザレバ休校ヲユルサズト云フ。甲閉口ス。幸ニ其蕃カラ熱ガ出ル
     ――――――――――
 ○甲浪人シテ負債山ノ如シ。アル紳商其才ヲ惜ンデ某會社ノ社長ニ推ス。社長タル爲ニハ其社ノ株ヲ持タザルベカラズ。紳商因ツテ自分ノ株ヲ甲ノ名義ニ書キカヘテ甲ヲシテ社長タルノ資格ヲ具ヘシメ次回ノ重役會議ニ於テ甲ヲ社長ニ推サントス
  期末ダ至ラズシテ甲急病ニテ死ス。嗣子某ナル者アリ家督ヲ相續スレバ父ノ負債ヲ負ハザルベカラズ。負ヘバ生涯浮ム瀬ナシ。限定相續ヲスレバ紳商ノ株ヲワガ父ノ名義ニ書キ替ヘタル者ヲ父ノ財産トシテ債權者ニ按分比例デ分タザルベカラズ。紳商ハ大ナル損ヲ招ク。
  是ヨリ先キ嗣子家ニ寄食スル女某ト通ジテ二子ヲ生ム。父死シテ葬儀ヲ營ム能ハザルノミカ、固ヨリ妻子ヲ養フノ力ナシ。母一人、妹三人、弟一人と自己ト自己ノ妻子トヲ擧ゲテ悉ク人ノ助ケニヨリテ生活セザル可ラズ。而モ存外平氣ニテ恐レ入ツタル容子モナシ。
  嗣子ノ妹、嗣子ノ妻ト合ハズ。妹ハ此妻ヲ目シテ不義ノ女ナリト云フ。此妹、父ノ存生中結婚ノ約アリ。父母ニ強ヒラレタルニモアラズ、望ンダルニモアラズ。父母ヨリ意向ヲ聞カレタラバ斷ハル積リナリシト云フ。此結婚ノ約アリシ男國ヘ歸ツテ出テ來ズ。殆ンド黙々ノ破約ノ觀ナリ。父死シテヨリ相應ノ所ヘ嫁ニ行クノガ困難ニナル。年ハ段々トル
  嗣子ノ姉二人、AトBトニ嫁グ。AトBトノ關係。Aト此家族トノ關係。Bト此家族トノ關係。
     ――――――――――
 ○アル物ヲアラハス時。アル物〔三字傍点〕トアラハス〔四字傍点〕技術ガ必要デアル。從ツテアル物〔三字傍点〕ト之ヲアラハス技術〔六字傍点〕ハ別物デアル。然シアル物ハ即チ技術ノ遂行デ、技術ノ發現ハ即チアル物〔三字傍点〕ニ過ギンノダカラ。ツマリハ一ツ物デアル。一ツ物卜云フノハ同物ト云フノデハナク。一個ノ作品ノウチニアル物〔三字傍点〕ト技術ガ結ビツイテ居ル。此二ツガ含マレテ居ル。タトヘバ一物ノウチニ色ト形ガ含マレテ居ルト同樣デアル。アル意味カラ云フト色モ形モ一ツ物デアル只同物デナイノデアル。
  ダカラ事實上カラ云フト形ヲハナレテ色ナク、色ヲ離レテ形ナキガ如クアル物〔三字傍点〕ヲ離レテ技巧ナク技巧ヲ離レテアル物〔三字傍点〕ナキ譯デアル。但之ヲ放スノハ理解上便宜デアルカラデアル。人間ノ頭脳ノ發達デコノ一ツノ物ヲ離レ離レニ考ヘルコトガ出來得ルノデアル。ダカラ詩ノハジメ文ノハジメニハ質〔右○〕ト形〔右○〕ノ區別ハナカツタラウ。
  シバラク之ヲ二個ト區別シテ見ルト。(一)アル物〔三字右○〕トハ何ゾ(二)アル物〔三字右○〕ノ種類(三)アル物ノ高下抔ノ問題ガ出ル。又技術ニ就テモ同樣ノ問題ガ出ル。
  而シテ技術ハ此アル物ヲベスト、アド※[ワに濁點]ンテージニ發現スル手際デアル。ト假定スルト技術ハ手段〔二字右○〕デアル物〔三字傍点〕ハ目的デアル。必竟ズルニ技巧ハ目的ヲ達スル道具デアル。
  本來カクアルベキ筈デアル。カラシテ作品ノ價値ハ技巧ヨリモ技巧ニヨリテウマク發現セラレタル目的デ定マル。
  所ガ人間ガ段々複雜ニナツテ(ヂフエレンシエート)スルト目的ト技巧ヲ截然區別シテ見ルコトガ出來ル樣ニナル。一歩進ムト技巧丈シカ目ニツケナイ人ガ出來テクル。目的ノ如何ヲ問ハズ只技巧其者丈ヲ賞翫シテ滿足シ得ル樣ナ(スペシフハイ)サレタ鑑賞力ヲモツテ生レテクル人ガ出來テクル。Art for art's sake ハ此人ガ出來タ時ニ出現スルノデアル。アート、フォー、アート主義ハ人間ノ頭脳ノ發達分岐シテ細緻ナル觀察力ガ出來ル樣ニナツタトキ必然ノ勢トシテ起ルベキ者デアル。
  他ノ例ヲ擧ゲテ云ヘバ。寒暑ヲ防グ爲メノ目的ヲ有スル衣服ガ目的以外ノ装飾ニ意ヲ用ヰ。金其物ガ愉快ニナリ。其他色々アリ。Transferance《sic》 of emotion
  衣服や金ノ場合ハ目的|意《席》外ニ装飾又ハ無意味ノ愉快ヲ生ズルノダカラシテ。之ガ爲メニ目的其物ハヨリヨク達セラレルト云フ譯ニ行カズ。
  然シ工學士ガ橋ヲカケル技巧抔ハ技巧ガウマケレバウマイ程目的ガ餘計ニ達セラレル。此場合ニ在ツテハ技巧ハ益目的ヲ達スル爲メノ道具デアル
  文學ノ技巧ハ如何
 
 ○需用供給。 ヨキ作品ヲ出シタル人ガ、ヨキ地位ト報酬ヲ得ベキガ正當デアル。
  然ルニ大多數ノ讀者ハ趣味ガ低イ。從ツテ趣味ノ低イ者ガヨク賣レル。從ツテ趣味ノ低イ者ヲ本屋ガ歡迎スル。從ツテ高級ナ作品ヲ出ス者ハ餓死スル譯ニナル。作品ノ價値ト報酬が反比例スルト云フ妙ナ現象ニナル。
  之ヲ正ス器械的ナ方法。 高尚ナ作品ヲ喜ブ讀者ハ少數デアル。然モ作者ハ大多數ノ讀者ヲ有スル低級藝術家ヨリモ多クノ報酬ヲ得ねバナラン。從ツテ自己ノ作品ハ作品固有ノ價値ヲ付サネバナラン。即チ普通ノ著書ガ一圓ナラ五六圓デウルノガ至當デアル。然シイクラ自分丈ガ高クシテモ買手ガナケレバ仕方ガナイ。コヽニ於テ「アルタネーチーヴ」ガ起ル。少數ノ趣味のある人ガ普通ヨリ數倍高イ本ヲ買フ餘力ガアルカ又ハ是等ノ人ガ金ヲ得ルニ便宜ナ地位ニ立タネバナラヌ。換言スレパ金持チガ趣味ノアル人デアルカ又は趣味ノアル人ガ金ヲ得ナケレバナラヌ。
 (一)金持チガ趣味ガナイ。(二)金持チガ趣味ガアルト假定シテモ畫や彫刻ト違ツテ本ハ敷デコナス者デアル。金持ノ專有スル者デナイ。畫や彫刻ハタヾ一ツシカナイ。ダカラ金持チガ專有スルコトガ出來ル。然シ本ハサウ云フ者デナイ。金持ガ保護シテモ只一部シカ買ハナイ。ダカラ著|書《原》ハ左程難有味ヲ感ゼヌ。
  之ヲ逆ニ云ヘバ金ヲ得ル方ノ人ハ勞力ノ高下深淺ニ比例シテ所得アルニアラズ。從ツテ金持チハ立派ナ勞力ヲシタト云フ譯ニアラズ。即チ金持ハ金ヲ得ベカラザルニ得タ|ト《原》カモ知レナイコトトナル
〔図所為略〕  ABハ頭脳ト勞力ノ高サナリ
        ACDハ此頭脳ト勞力ニ對スル報酬ヲ示ス線ナリ。
        AC迄ハ頭脳ノ高サニ比例シテ金ノ報酬ガ増スナリ。
        Cヲ越スト頭脳ガ|ノ《原》Bノ方ニ高クナルニ從ツテ報酬ハDノ方ヘ下落シテ行クナリ。
尤モ成功シテ尤モ公平ナル取扱ヲ社會ヨリ受クル人ハ頭脳ガ(C)ノ所ニアル人ナリ。
     ――――――――――
 ○美其物ヲ愛シテ其他ヲ顧ミザル状態ハ
  (一)世間ガ何處ヲ向イテモ醜惡デ然モ之ヲ改良スル餘地ノナイトキ、此絶望ヲ苦ニセヌ爲メ、ワザト美ノ一面ニノミ眼ヲツケテ「マギラカス」。悲酸ナモノナリ。借金ヲ返却スル路ナキ故ニ壹杯ノ酒ニシバラク其心配ヲ忘ルヽガ如シ
  (二)天下太平ニシテ衣食ニ齷齪スル心配ナク。心ニ餘裕アリ。贅澤ヲスル時ト了簡アリ故ニ美ノ方面ニ着眼シテ充分ニ之ヲ味ヒ得。之ハ安樂ナリ
     ――――――――――
 ○二ト二ヲ加ヘレバ四ニナル。二ト二ヲ乘ケレバ四ニナル
  一人曰ク。何デモフタツの者ヲ加ヘタ者ト乘ケタ者トハ同結果デアル
  一人曰ク。否同數ナレバ。之ヲ二ツヨセルモ、カケルモ同ジコトニナルノデアル
  一人曰ク。二〔右○〕ダカラ之ヲ重ネテ加ヘルノモ、カケルノモ同ジニナルノダ。
     ――――――――――
 ○ウマイ者を食はせる人。うまいものを食ふ人。
  ×ウマイカラ食ハセル。眞ノ技術家デアル。(毒デモ構ハナイ)
  ×滋養ニナルカラ食ハセル。眞ニ藝術家ニアラズ。
  ×滋養物ヲ食ハセタイガ(ウマク)シテ食ハセナイト。人ガ食ハナイカラ。ウマクシテ出ス。是滋養ガ目的ニシテ技術ハ方便ナリ。
  ×滋養物モ食ハセタイ。同時ニウマクモ食ハセタイ。此二ツ目的ヲ有シテ居ル。
  食フ方
  ×但ウマイカヲ食フ。毒デモ藥デモ構ハナイ。滋養ニナツテモ不消化デモヨイ
  ×滋養ニナルカラ食フ。ウマイ、マズイハ措イテ問ハン
  ×滋養物ハ目的デアルガ(ウマイ)滋養物デナクテハ食フ氣ニナラン。
  ×滋養物も目的デアル。ウマイ者モ目的デアル。双方カネタ者ガ食イタイ。
  Purely ニ artistic ナ點カラ云ヘバ(ウマイ)者ヲ食ハセル人モ食フ人モ(此ウマイ者)ガ體中ニ入ツテドノ位ナ滋養ニナルカハ些トモ考ヘテゐナイ。全ク無意識カモ知レヌ。只食ツテ仕舞ツタアトデ(一)醫者ガ其男ノ身體ヲ解剖シテその爲此丈滋養ガツイテ居ルト指摘スルノデアル(批評家ノコト)。是ハ偶然ノ結果デ純粹ナル藝術家ノ目的デナイカモ知レナイ。然ルニモカヽハラズ。批評家ノ評論ヲ見ルト大概ハ滋養ノアルナシヲ議論シテ居ルラシイ。シカモ author 自身ガ滋養ノコトモ意識シテ(ウマイ)者ヲ製造シタカノ如クニ假定シテゐるラシイ。事實上滋養ニナレバソレデイヽガ author 自身ガソレヲ自覺シテ爲シタコトダカ、ドウダカハ疑問デアル。コトニ西洋ノ批評家ニハ此弊ガアルト思フ。甚シキハ author ニ此觀念ガナケレバ筆ヲトル可カラザルカノ如クニ云フ。(二)食ツタ當人ハ其時ハ別段ノ考モナク只ウマイカラ食ツタ所ガ二三週間スルト身體ガ肥えて來タノデ是ハ全クアノ御蔭ダナト氣ガツク。食フ時ハソンナ事ハ分力ラナイデモ差支ハナイノデアル。アトカラ考ヘテ見テ成程アノ中ニハ是丈ノ滋養分ガアツタナト始メテ合點スル。ダカラ、此斷定ハ後ニナツテ reflection カ〔ラ〕得來ル者デアル。食フ時ニ豫期スル必要モナケレバ、スグ判斷スル必要モナイ。モシウマイ者ノウチニ滋養分ガアレバ、アトニ行ツテ歴然ト出テクルノダカラシテ。失張リウマイ者ハ單ニウマイ者トシテ食ツテ置ケバイヽ。
     ――――――――――
 △森ノナカニ妖怪ガ出ル。皆恐レテ歸ル。只一人ガ平氣デ往來スル。毫モ異状ナシ
     ――――――――――
 △多人衆ガ列席ノ上デ一人ノ罪人ヲ責ム。罪人ヲ責メル役トシテ衝ニ當タラセラレタ者ハ共謀者デアル
     ――――――――――
 △教育なき者はコンナ事を人生ト思つて居る。女ハコン〔ナ〕コトを人生と思つてゐる。老人はコンナコトを人生と思つてゐる。小供ハコンナコトヲ人生ト思つてゐる。
  種々ナル人ノ人生ヲ一篇毎ニカク。最後ノ一章ニ之ヲ説明スル。
     ――――――――――
  奇麗ナ着物ヲキテ得意ニアルイテ居ル者ガアル。奇麗ナ着物ヲ奪ヘバ忽チ厭世家トナル。
  美クシイ顔ヲシテ揚々トシテアルイテゐる者ガアル美クシイ顔ヲ傷ケレバスグ厭世《原》ニナル
  キタナイ着物ヲキテ、醜イ顔ヲシテサウシテ得意ニアルイテゐるモノハドウシタラ厭世家ニナルダラウ
     ――――――――――
  過去ヲ顧ミルハ(一)前途ニ望ナキ故ナリ(二)下り坂ナルガ故ナリ(三)過去ニ理想アルガ故ナリ(四)エライ先例ガアル故ナリ
  明治ノ三十九年ニハ過去ナシ。單ニ過去ナキノミナラズ又現在ナシ、只未來アルノミ。青年ハ之ヲ知ラザル可カラズ
  子規。樗牛。伊藤博文。井上哲|二《原》郎。三井。岩崎。
     ――――――――――
  詩ヲヨンデモ文ヲ讀ンデモ其興味ハ 
〔山型の図あり、省略〕
ナル curve デ示スコトヲ得。換言スレバ興味ノ最頂點ニ達スルハ瞬時ノ間デアル。作其物ノ善惡ニカヽハラズ。カクノ如キ者ナリ。果敢ナキ者ナリ
  此 curve ト作其者ノ curve ヲ一致せシムル利害如何。此 curve ノ長サト作其者ノ長サノ curve ヲ一致セシムルノ利害如何
     ――――――――――
  現代ノ青年二理想ナシ。過去ニ理想ナク、現在ニ理想ナシ。家庭ニアツテハ父母ヲ理想トスル能ハズ。學校に在ツテハ教師ヲ理想トスル能ハズ。社會ニアツテハ紳士ヲ理想トスル能ハズ。事實上彼等ハ理想ナキナリ。父母ヲ輕蔑シ、教師ヲ輕蔑シ先輩ヲ輕蔑シ、紳士ヲ輕蔑ス。此等ヲ輕蔑シ得ルハ立派ナコトナリ。但シ輕蔑シ得ル者ニハ自己ニ自己ノ理想ナカルベカラズ。自己ニ何等ノ理想ナクシテ是等ヲ輕蔑スルハ、墮落ナリ。現代ノ青年ハ滔々トシテ日ニ墮落シツヽアルナリ。
  英國風ヲ鼓吹スル者ナ《原》リ。氣ノ毒ナコトナリ。己レニ何等ノ理想ナキヲ示スナリ。英國人ハ如何ナル點ニ於テ模範トスベキや。愚モ茲ニ至ツテ極マル。
  毎日鏡ヲ見ル者ハ昨日ノ吾ト今日の吾ト同ジト思ヘリ。今日の吾と明日の吾トモ同ジ者と思へり。かくして十年立つて始メテ十年前の吾の大ニ異ナルヲ悟ル。明治ノ世ニ住ム者モ斯ノ如シ。今年ハ明年の如く又昨年ニ似タリト思ヘリ。明治四十年ニナツテ明治元年ヲ回顧シタルトキ始メテ其變化ノ大ナルニ驚ロク。
  俗人ハ之ヲ知ラズ昨日ヲ以テ今日ヲ律シ、今日ヲ以テ明日ヲ律セントス。日月の留マ〔ラザ〕ルコトヲ知ラズ、思想ノ刻々ニ推移スルヲ覺ラズ。
  昨日迄ハ大臣ガドンナ我儘|迄《原》デモ出來タ世ノ中ナリ。故ニ今日モ大臣ナレバ何でモ出來ル世ト思ヘリ。昨日迄ハ岩崎ノ勢ナラバ何デモ意ノ如クナリタルガ故ニ今日モ岩崎ノ勢ナラバ出來ヌコトハアルマジト思ヘリ。彼等大臣タリ岩崎タル者モ亦シカ思ヘリ。彼等は自己ノ顔ヲ毎日鏡ニ照ラシテ知ラヌ間に容色ノ衰フルヲ自覺セヌ愚人ト同ジク。先例ヲ以テ未來ヲ計ラントス愚モ亦甚シ。
  カノ元勲ナル者ハ自己ヲ以テ後世ニ示スニ足ル先例ト思フベシ。明治ノ歴史ニ於テ大ナル光彩ヲ放ツ人物ト思フベシ。大久保利通ガ死ンデ以來如何ニ小サクナリタルカヲ思ハズ。木戸孝允が今日ニ至ツテ忘レラレタルヲ思ハズ。氣ノ毒ナ者ナリ
  明治四十年ノウチニ住ミ古ルシタル輩ハ四十年ハ長イ者ト心得テ其長イ間ニ名譽アル我等ハ明治ノ功臣トシテ後世ニ傳ハルベシトノ己惚ヲ有ス。
  遠クヨリ此四十年ヲ見レバ一彈指ノ間ノミ。所謂元勲ナル者ハノミ〔二字右○〕ノ如ク小ナル者ト變化スルヲ知ラズや。明治ノ事業ハ是カラ緒ニ就クナリ。今迄ハ僥倖ノ世ナリ。準備ノ時ナリ。モシ眞ニ偉人アツテ明治ノ英雄ト云ハルベキ者アラバ是カラ出ヅベキナリ。之ヲ知ラズシテ四十年ヲ維新ノ業ヲ大成シタル時日ト考ヘテ吾コソ功臣ナリ模範ナリ抔云ハヾ馬鹿ト白惚ト狂氣トヲカネタル病人ナリ。四十年ノ今日迄ニ模範トナルベキ者ハ一人モナシ。吾人ハ汝等ヲ模範トスル樣ナケチナ人間ニアラズ
     ――――――――――
  書契ナキ以前ハ口カラ口ヘ傳ヘテ長キ詩や、トラヂシヨンが傳はつたものである。シテ見ルト昔ノ人ハ書物ガナクテ、書物ト同樣ノ用ヲ口デ辨ジテ居タ。從ツテ昔ノ人ハ今人ヨリモ記憶ガヨカツタト云フ意味ニナル。換言スレバ人間ハ書物ト云フ依頼スル者ガ出來テ記憶ト云フ道具ノ力ガ鈍ツテ來タノデアル。即チ人間ハ書物ヲ發明シテ夫丈記憶ノ發達ヲ害サレタノデアル。今デモ本ノ讀メナイ人ハ記憶ガイヽ。金持ガ馬鹿ニナルノモ此理由デアル
     ――――――――――
  エライ人ヲ馬鹿ニスル程馬鹿ナコトハナイ。後世ノ人ハドウシテソンナ愚ナコトヲシタカト怪シム。然シ同時代ニ住ム者ハ矢張リ自分ト同程度ナ人間位ニ考ヘテ居ルカラシテ馬鹿ニシテモ差シ支ヘナイト思フ。
  時ガ經過シテ他ノ平凡ナ人ハ皆忘レテレテ此エライ人ガ其時代ノ代表者トシテ殘ルトキニ成程エライ人デアツタンダト氣ガ付クノデアル。後世ノ人ハ初カラ茲ニ氣ガツク。同時代ノ人ハ死ヌ迄氣ガ付カナイコトガアル。
  一時代ノ代表者ト云フニ足ル程ノ人ヲ壓迫スルノハ自分デ自分ノ腕ヲ切ツタリ、足ヲ挫ク樣ナ者デアル。後世ノ人カラ見レバ、ソレダカラ馬鹿々々シイノデアル。同時代ノ人ハソレガ當然ト心得テ居ルノデアル。
  後世ニ殘ル人ハ金持チノ名前デハナイ、華族ノ名前デハナイ。今ノ世ニ赫々タル人カラ尊敬セラレル人デハナイ。コンナ者ハイカニ生前ニ威張ルコトガ出來テモ死ネバスグ滅シテ仕舞フ。
  同時代ノ人ハ生前ニエラ|イ《原》クテモスグ忘レラレル人ト、生前ニハ別ニ權威門地ガナクテモ死後ニ生命ヲ有スル眞ノエライ人トノ區別ガ出來ナイ。出來ナイノミナラズ之ヲ逆サマニ考ヘテ居ル。――歴史ハ古來カラ口ヲスクシテ此事實ヲ繰リ返シテ居ルニモ關ハラズ、衆人ハ決シテ悟ルコトハナイ。
  エライ人ガ同時代ノ人カラ馬鹿ニサレテ怒ルノハ愚デアル。エライ人ハ決シテ同時代ノ人カラ尊敬サレル樣ナツマラナイ人間デハナイノデアル。
  同時代ノ人カラ尊敬サレルノハ容易ナコトデアル
  (一) 《原》族ニ生レヽバヨイ
  (二)華族二生レヽバヨイ
  (三)金持ニ生レヽバヨイ
  (四)權勢家ニ生レヽバヨイ
  是等ニナレバスグ尊敬サレルノデアル。然シ百年ノ後ニハ誰モ之ヲ尊敬スル者ハナイ。是等ト同等ニ尊敬サレル樣デハ到底後世ニ尊敬サレル譯ガナイ。エライ人ハ小供ニモ車夫ニモ否自己ノ妻子ニモ馬鹿ニサレルコトガアル。彼等ハ同時代ノ人間デ決シテ大、小、厚薄、深淺、等ノ區別ヲ有スル者デナイカラ、エライ人モ自分ト同等位ナ者ダト思フノハ無理ノナイコトデアル。ダカラ、エライ人ガ他カラ馬鹿ニサレル、或ハ己レノ眞價ヲ認メテレヌノヲ怒ツテ居タラバ、エライ人程不幸ナ人ハナイ。ドウセ世間ハ相手ニナラント思ツテ居レバ幸福デモ不幸デモナイ。ナマジイ、故意ニエライ事ヲ注意シテ知ラシメ樣トスルト大變ナ苦痛デアル。ト云フ者ハ適當ナ時機ガコナケレバ其眞價ハ到底認メラレル者デハナイ、自分ガイクラ世間ニ向ツテ吹聽シタツテ耳ヲ傾ケルモノハ決シテナイ。却ツテ輕蔑サレル許リデアル。馬鹿々々シクツテモ、黙ツテ居ル方ガ呑氣デイヽ。
  後世ニナレバ到底同程()人デナイ者ヲ同程度位ノ考デ併ベ稱シテ居ル樣ナ場合ハ本人カラ云フト可笑シイ位ナコトガアルカモ知レヌガ、ソレヲ辨《原》解シタツテ却ツテ世間ニハ誤解ヲ引キ起スノミデアル。濟マシテ居ルウチニ、自分ト同程度ダト見傚サレタ連中ハポツリ/\ト消えて行クノデアル。エライ人ハ、ソコガ分ツテ居ルカラシテ失望ヲシタリ、不平ヲ言ツタリ、苦痛ヲ求メタリスル必要ハナイ。――車屋カラ馬鹿ニサレテモ、小供カラ馬鹿ニサレテモ、妻子カラ馬鹿ニサレテモ、矢張リエライ人デ滿足シテ居ルガヨイ。
     ――――――――――
 △社會ハ存外公平ナモノデアル  (一章)
 △社會ハ存外不公平ナモノデアル (二章)
 △社會ニ吾ハナイモノデアル   (三章)
 △社會ハ己レデアル       (四章)
 △神、告ゲ、幽靈、等ヲ皆 suggestion ノ personification トシテ使用スル方法
     ――――――――――
  己レヲ大ニスル方法。己レノ住ンデ居ル世界ヲ遠クカラ眺メル法。遠クカラ見ルト自己ノ世界ノ高低、深淺、高下及ビ自己ト周圍トノ關係ガ歴然トワカル。
  普通ノ眼力デ遠クカラ眺メルノト、燃犀ノ眼識ヲ以テ其ウチニ居テ眺メルノトハ同樣デアル。夫ダカラ現代ヲ評スルニ當ツテ後世ノ凡人ト現代ノ巨人トハ同程度デアル。
  町内ノモノヲ己レト同程度ニ譯ノワカツタ人間ダト假定スルガ故ニ彼等ガ自己ノ見識以下ノコトヲスルトキニ其非ヲ責メタクナルノデアル。シカシ町内ノ者ガソンナニ見識家デナイト云フコトハ己レヲ遠クニ置イテ眺メレバスグ合點ノ行クコトデアル。己レト同樣ノ程度ノ生活ヲシテ、己レト同程度ニ社會上ノ地位ヲ有シテ、其他色々ノ點ニ於テ自己ト同程度デアルト思フ序ニ彼等ノ教育モ同程度ダト知ラヌ間ニ假定スルノデアル。成程教育ハ同程度ノモノガアルカモ知レヌ。然シ形式丈同ジ教育ヲ受ケタト云フ意味ト教育ノ内容ガ同ジト云フ意味トハ大變ナ違デアル。同ジ大學ヲ卒業シタカラト云ツテ、同ジ見識ヲ有シテ居ルト速斷スルト大變ナ誤謬ニナル。吾人ハ町内ノ人ガ同程度ノ生活ヲシテ同程度ノ服装ヲシテ同程〔度〕ニシヤベツテ同程度ニ形式上ノ教育ヲ受ケタト云フ點ヲ見テスグ其見識や人生觀迄ガ己レト同程度ダラウト超ユ可カラザル論理ノ畛域ヲ跨イデ仕舞フカラシテ彼等ノ行爲動作ガ己レノ豫期スル所ニ及バザルトキニ不平デアル。其非ヲ責メタクナル。失敬ダト思フノデアル。此結論ハ正シイカモ知レヌガ其假定ハ大間違デアル。夫程理窟ノ分ツタ人ガ世ノ中二澤山居ルナラバ自分ハ矢張リ凡人デアル。町内中ニゴロ/\シテ居ル様ナ者ノ一人デアル以上ハ筆ヲ執ツテ文章ヲカク必要モナイ。自己ノ所説ヲ天下ニ紹介スル必要モナイ。又天下後世ニ謠ハレル必要モナイ。苟モ自己ハ後世迄生キル資格ガアルト自信スル以上ハ、苟モ自己ヲ後世迄殘サウト決心スルカラニハ、町内ノ誰彼トハ別途ノ人間デアルコトヲ暗々裏ニ認識シタノデアル。認識スル以上ハ彼等ノ行爲言動ガ遙カニ自己ノ豫期以下ニ愚劣デアツテモ野卑デアツテモ淺薄デアツテモ驚ロクコトモ怪シムコトモ不平ナコトモナイ譯デアル。彼等ガ愚劣デ野卑デ淺薄デアレバコソ自己ハ天下後世ニ殘ル資格ガアルノデアル。一方デハ自己ガエライト云フコトヲ認メナガラ一方デハ徃來デ逢フ誰彼ノ淺薄デ野卑デ庸劣ナコトヲ憤フルハ大ナル矛盾デアル。
  先方カラ云ツテモ同様デアル。先方ト同ジ位ナ形式的ナ教育ヲ受ケテ、同ジ位ナ社會上ノ地位ヲシメテ、同ジ位ナ身ナリヲシテ居ルカラ心ノ底モ多分ハ自分位ナ者ダト假定ヲシテカヽル。コノ假定ニハヅレタトキハ程度ガ違フトハ心付カヌ。程度ハ同ジダガ性質ガ違フト思フ。程度ハ高イノデハナイ、變ツテ居ルノデアル。變物デアル。變人デアル丈ダカラシテ、自己ノ見識や料簡デ充分料リ得ル人間デアルト思フ。
  ダレダツテ自分ノ壽命ヲ知ツテ居ル者ハナイ。他人ニハ猶知レツコナイ。醫ヲ業トスル專|問《原》家ダツテ人間ノ生命ヲ勘定スル譯ニハ行カナイ。自分ガイクツ迄生キルカハ、生キタアトデ始メテ、言フ可キコトダ。八十迄生キタト云フノハ八十迄生キテ事實ガ證據立テナクテハ云ヘヌコトダ。假|定【原】八十迄生キル自信ガアツテ其自信通リニナルニシテモ八十迄生キタト云フ事實ガナイ以上ハ誰モ信ズル者デハナイ。人間ヲ知ルノモ此レト同様デアル。自己ニドノ位ナ忍耐力ガアルカ、才氣ガアルカ、記憶力ガアルカ、慈善心ガアルカ、ヤリ通シタ上デナクテハ分ルモノデハナイ。過去ガカウダカラ未來モ其位ナ程度ダラウト豫想スルノハ、今迄生キタカラ、是カラ先キモ生キルダラウト云フ様ナモノデアル。今迄ハ外界ノ境遇ガ自己ノ生活ヲ保存スル様ニウマク出来テ居タカラ生キタノデアル。是カラサキ周圍ノ状況ハドノ位變化スルカワカラナイ。ドノ位ノ變化ニ堪ヘ得ル程ノ體質デ、ドノ位以上ノ變化ニ逢ヘバ死ヌカハ過去デハ判斷ガ出來ナィ。只其場合ニ臨ンデ事實ガ證據ダテルノヲ待ツヨリ致シ方ガナイ。
  自己ガ世間ト戰爭ヲスルノデモ、戰爭ヲシツクシテ後ヲ顧ミルトキデナクテハ自己ノ戰闘力ハ知レ樣ガナイ、世間モ亦其人ガドノ位強イ人デアルカハ其人ガ死ヌ迄ノ事實ヲアトカラ纏メタ上デナケレバ一言モ云ヘル譯ノ者デハナイ。最後ニアンナ人ナラ、ヨセバヨカツタト云フ結果ニナルノハワカリ切ツテ居ツテモ事實ガソレヲ證明シナイ以上ハ到底覺レルモノデハナイ。
  ダカラシテ吾人ガ世間ト戰爭ヲスル、又ハアル者ト戰爭ヲスル場合ニハ戰爭ヲやメロ、戰爭ヲシテモ貴樣ハ勝テツコナイト教ヘテやツテモ到底承知スルモノデハナイ。矢張リ仕舞迄やツテ見テ、アヽ詰マラナイ、トウ/\駄目デアツタト落膽サセテ自覺スル迄ヤラセルヨリ外ニ道ハナイノデアル。見ス/\先ガ見エ隙イテ居ルカラ忠告シテやルノハ親切心デアルケレトモ、ソレガ合點出来ル様ナ人間ナラバ、コツチト同程度ナ者デアル。コツチト同程度ナ者ナラバ、コツチ程エラクテ、コツチ程天下後世ニ慙ル資格ガアル者デアル。ソンナ者ナラバ姶メカラコンナ愚ナコトハセン筈デアル。之ヲやり出ス樣ナ淺墓ナ者ナラバ、コチラノ見識ガ呑ミ込メテ、コチラの云フコトガ分力ル者デハナイ。ヤル丈やツテ自覺サセルヨリ仕方ガナイ。コンナ馬鹿デモ後世ニ生レルカ、利害ノ關係ノナイ祀會カラ見レバ自分ノやツテルコトノ愚ナコトハスグ氣ガツクノデアルガ因果ノ波ニ足ヲサラハレテ、アツプ/\シテ居ルウチハ人ノ云フコトガワカル者デハナイ。仕方ガナイ。
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  西洋ハドウデモイケナイで今日迄發達したる國なり
  日本はドウデモヨイで今日迄押し通したる國なり
  日本ガ西洋ト接觸シ出シタ今日カラハ、ドウデモヨキモノが漸々ドウデモヨクナクナル時機ナリ。夫故ニ今ノ日本デ先例ニノツトラントスル者ハ時勢ニ通ゼザル者ナリ
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  文士保護ヲ説ク。文士保護ハ獨立シ難キ文士ノ云フ言ナリ。獨立スルノ法ハ自己ノ作|者《原》ヲヨク賣レル樣ニスルコトナリ。世間ノ趣味ヲ開拓スルニアリ。保護ハ舊幕時代、貴族的時代ニ云フベキコトナリ。個人平等ノ世ニ保護ヲ口ニスルハ耻辱ノ極ナリ。退イテ保護ヲ受クルヨリ進ンデ自己ニ適當ナル租税ヲ拂ハシムベシ。
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  理想ハ自己ノ内部ヨリ躍如トシテ發動シ來ラザル可ラズ。奴隷ノ頭脳ニ何等ノ雄大ナル理想ノ宿リ得ル理ナシ。西洋ノ理想ニ壓倒セラレテ目ガ眩ム日本人ハアル程度ニ於テ皆奴隷ナリ。奴隷ヲ以テ甘ンズルノミナラズ、好ンデ奴隷タラントスル者ニ如何ナル理想ノ脳裏ニ醗酵シ得ベキゾ。既ニ理想ノ凝ツテ華ヲ結ブ者ナクンバ藝術ハ死屍ナリ
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  自己ハ過去ト未來ノ一連鎖ナリ。過去ヲ未來ニ送リ込ム者ヲ舊派卜云ヒ未來ヲ過去ヨリ救フ者ヲ新派ト云フ。自己ノウチニ過去ナシト云フハ吾ニ父母ナシト云フガ如シ。吾ニ未来ナシト云フ者ハ吾ハ子ヲ生ム能力ナシト云フニ等シ
  ワガ立脚地ハコヽニ於テ明瞭ナリ。(1)ワレハ親ノ爲ニ生存スルカ(2)ワレハ自己ヲ樹立センガ爲メニ生存スルカ(3)ワレハ子ノ爲メニ生存スルカ。(一)卜(三)ニアタ※[ヰニ濁點]ズムヲ加へ得ルガ故ニ吾人ノ立脚地ハ五トナルヲ得
  (a)文藝復興ハ大ナル意味ニ於テ親ノ爲メニ生存セル意義ノ大活動ナリ(但シアタ※[ヰニ濁點]スチツク)
  (b)スコツトは中世紀ナル先祖ノ爲メニ生存セル人ナリ(アタ※[ヰニ濁點]スチツク)、ラフアエル前派モ亦同ジ。マクフアーソンモ同ジ。チやタートンモ同ジ
  (c)イブセンは自己ノ爲メニ生存セル人ナリ。ニイチエモ同ジ。ブラウニングモ同ジ、キプリングも同ジ。
  (c)《原》子ノ爲ニ生存シタル者
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  人間ハ朝カラ晩迄假面ヲ被ツテ居ル。只飯ヲ食フ時丈ハ假面ヲトル。敢テトリタイカラデハナイ。トラネバ飯ガ食ヘンカラデアル。飯ヲ食フコトハ假面ヨリモ大切デアル。
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  假面ヲトランデモ飯ガ食ヘル者ハ始終ツケテ居ル。華族ダノ金持ハ是デアル。ダカラ華族や金持ハ假面ダカ本當ノ顔ダカワカラナイ顔ヲシテ居ル。
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  教育ノナイ者ハ日ニ何遍モ仮面ヲトラナクテハナラヌ。貧乏人モ日ニ幾度トナク假面ヲトル。白銅一ツヤルトスグトツテ見セル。
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  假面ガ薄クテ下カラ本當ノ顔ガ見エ透クノガ大分居ル。之ハ塵ヨケノ氣デ面ヲ被ツテ居ルノダラウ
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  假面ト云フ名ノ下セナイ、マヅイ面ヲツケテ得意ナノガアル。探偵ノツケテ居ル面ハ之デアル
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  自分ニハ大變利口ナ面ニ見エテ他人カラハ馬鹿氣テ見エル假面ガアル。占者ノ假面デアル
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  大人ノ樣デ頗ル若イ面ガアル。中學生ノ假面デアル
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  自分ニモ人ニモ愚ニ見エル假面ガアル。教師ノ假面デアル
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  小便デ假面ヲ洗ツテ居ル者ガアル。何年立ツテモ臭イ假面ダツタサウダ
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  一生懸命ニ假面ノ鼻ヲ削ツテゐる者ガアル。持主ハ何年立ツテモ痛クナカツタサウダ
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  假面ノ上ニ御白粉ヲツケルノガ居ル。イクラツケテモ本當ノ顔ハキタナカツタサウダ
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  エラサウデ詰ラナイ假面ガアル。學士ノ假面デアル
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  戀ハ剥ゲ易イ假面デアル。
  忠君愛國ハ都合ノイヽ假面デアル。
  耶蘇ノ假面ハ惡魔ノ被ルモノデアル。英國人ハコレデアル
  孔子ノ假面ハ盗跖ガ盗ンデ行ツタ。支那人ハコレデアル。
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  虚榮ハ戀ノ假面ヲ被ル。戀ヲタヽキ壞ハスト、スグ知レル。
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  博士ノ假面ハ死ヌト消えテナクナルサウダ。
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  占者ノ假面ヲ信仰シテ居ル者ガアル。裏側ノ方ヘ舌ガ出テ居ルノガ難有イノダサウダ。
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  ▲一人曰く圓なり。一人曰く方なり。固く執つて下らず。第三者ニ行ツテ之ヲ質ス。第三者曰くどうでもよい。二人呆然タリ。一人ハ圓ノミヲ知ル。一人ハ方ノミヲ知ル。故ニ己レヲ是トシテ他ヲ非トス。第三者ハ圓ヲ知リ又方ヲ知ル。故ニドウデモヨイト云フ。而シテ二人ハ第三者ヲ以テ愚トナス
     ――――――――――
  ▲道義上醜ナル者、怪ナル者、卑ナル者、ヲ容レテ平然タル者ヲ廣イト云フ。之ヲ容レヌ者ヲ狹イト云フ。世間デハ容レル〔三字傍点〕ト云フヲ賛辭ニ用ヰ、容レヌ者ヲ貶辭ニ用ヰル。而シテ何ガ故ニ廣イ人ガヨクテ、狹イ人ガ惡イノカヲ考ヘヌ。廣イノハ只廣イノデ、狹イノハ只狹イノデアル。上下ノ區別ハナイ筈デアル。
  清濁併呑ムト云フコトハ(一)清濁ノ區別ノ出來ヌ人(二)感覺ノ鈍イ人(三)是非ニ關セズ、アル事ヲ成就セントスル人。コノ三種ノ人ハドツチカラ云ツテモ、ホメラレル可キ人ニアラズ
  惡ヲ容レヌト云フ人ハ(一)善惡ノ區別ノ出來ル人(二)感覺ノ鋭敏ナル人(三)是非其モノガ目的デ、是非以外ニ目的ヲ有シテ、惡人ヲ惡人ト知リナガラ、之ヲ利用スルガ如キ下等デナキ人
 右ニヨツテ見レバ人ヲ容レル〔五字傍点〕ト云フ人ヨリモ人ヲ容レヌ人〔六字傍点〕ノ方ガ健全デアル。高尚デアル。純潔デアル。
  然シ容レラレル人、容レラレヌ人ノ側ヨリ云ヘバ此評價ハアベコベニナル。
  下等ナ者デモ己レヲ容レテ呉レルカラ褒メルノデアル。
  上等ナ者デモ己レヲ容レテ呉レヌカラクサス〔三字傍点〕ノデアル。
  褒メルノモ、クサス〔三字傍点〕ノモ皆人ノワレニ對スル利己主義カラ來ルノデアル。ソレニ心ヅカズシテ、廣イ人ト云ハレヽバ喜ビ、狹イ人ト云ハレヽバ不平ナノハ無暗ニ人ノ煽動ニ乘ルト同樣ナモノデアル。
     ――――――――――
 △怒ルノモ假面デアル、泣クノモ假面デアル。笑フノモ假面デアル。本人ハ假面ヲ被リナガラ、之ヲ眞面目ト心得テ居ル。愚ナコトダ。日本デモ西洋デモ死ヌ時ニ云フコト丈ハ眞面目ナ者ダトシテアル。本當ヲ云フト是モ假面デアル。只云フや否や死ンデ仕舞フカラ、其假面タルコトヲ證據立テヽ見セル機會ガナイノデアル。
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  尤モ可笑シイノハ女ノ涙デアル。女ノ泣クノハ、ソラ涙ガ多イ。タマニハ本當ノ涙ヲ出シタ積デ本人丈ハ泣イテ居ル。所ガソノ涙ガ大々的ノソラ涙デアル。男ニモヨクコンナ事ガアル。
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  世ノ中ニ笑フ可キコトハ甚ダ多イ。泣クベキコトハ殆ンドナイ。皆假面デアルカラデアル。笑フ可シト云フノハ假面ヲ被ツテ眞面目ナ氣デ居ルカラデアル。假面其物ハ笑フベキコトモ何トキナイ
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  尤モ淺薄ナ假面ノ例ニハ貴婦人抔ノ慈善事業ガ一番イヽ。本人ハ眞ニ慈善ノ氣デ居ル。實際ハ虚榮ノホカニ何ノ意味モナイ。女ハコンナ淺薄ナ假面サヘ剥イデ自分ヲ研究スル能力ノナイワカラズ屋デアル。單ニワカラン丈デハナイ、ソンナ勇氣ガナイノデアル。
  單ニ勇氣ガナイノデハナイ、シカク己惚ガ強イノデアル。
  身分ノイヽ上品ノ樣ナ女ニハ猶々コンナ己惚ガ強イ。ダカラ彼等ハ地獄ヘ落チテ然ル可キ罪ヲ持チナガラ、死ヌ迄神ノソバヘ行カレルト思ツテ居ル。世ニ女|抔《原》幸福ナモノハナイ
     ――――――――――
  面白イ世ノ中ダト云フ者ハ小供カ馬鹿デアル。苦シイ世ノ中ダト云フノハ世ノ中ヲ買ヒ被ツタ者ノ云フコトデアル。世ノ中ハ自殺ヲシテ御免蒙ル程ノ價値ノアルモノニアラズ
     ――――――――――
〔英語混じりの図あり、省略〕
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  三ノ人物ヲ取ツテ相互ノ關係ヲ寫ストキ此六個ノ分岐ヲ生ズ。之ヲ交錯シテ互ニ用ゐるトキ無限ノ波瀾ヲ生ズ
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 △悲劇ト喜劇ハ同ジ物ナルコト
 △神經衰弱デアル
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  遊離的文素(色々種類ヲ擧グベシ) 戀愛ハ serious ナル要素ノ如タニシテ又一面ニハ此遊離的ノ素質ヲ帶ブ。之ガ爲メニ戀愛專|問《原》ノ文學ハ滑稽文學、諷逸文學、解脱文學ト同樣ナル趣ヲアル點ニ於テ認ム。現今ノ戀愛文學ガ何ダカ飽キ足ラヌト云ハルヽ一源因ニハ如何ナル理由アルカト考ヘレバ、極端ノ戀愛文學ヲ想像シテ見レバ分ル。極端ノ戀愛文學ハ一種ノ遊戯文學デアル。而モ戀愛ナル者ハシリアスナル人生ノ要素トシテ著者ニヨリテ描カレ、又讀者ニ因ツテ期待セラル。カクノ如クニシテ其結果ハ遂ニ一種ノ遊戯文學ニ終ル故ニ讀者ハ何トナク不滿ナノデアル。ダカラ此遊戯的ナ量ヲ減ジテ實際ノ生活問題ニ觸レタ者ヲ加味スレバ戀愛モ大ニ眞面目ナモノニナル。而シテ讀者ガ首肯スルコト受合ナリ
     ――――――――――
  禮義ハ文法ノ如シ。文法ガ文章ヲ作リ能ハザル如ク、禮義ハ人格ヲ作ルコト能ハズ、今ノ世ノ紳士ノ資格ト云フノハ禮義ト云フ意味ナリ(尤モヨク解釋シタ所デ)是猶文法ニ合セル文章ヲ見テ名文ナリト騷ギ立テルガ如シ
     ――――――――――
  服装抔ニ好ミノアル人ガ反ツテ「ハイカラ」に見えズシテ、其方ニアマリ趣味ナキ人ガ却ツテハイカラニ見える事あり。是はこんな譯である。前者はいかに凝ツタナリをしてもそれをよく着こなして居る。後者ハ左程に品物ヲ撰ばざるにも關はらず、己れが着けたものをこなし〔三字傍点〕て居らん。だから一方は自然ニ見えて、一方は不自然に陷る。言ヲ換えて云へば前者は嚴密なる嗜好ノ試驗ニ及第セルモノヽミヲ、アツメテ身につけて居るにも拘はらず其選擇ノ際ノ苦心や、愉快や、自慢に拘泥シテ居ラン。恰モ裸體デ居ルト一般ノ心持チデ居ル。然ルニ他ハ左程ニヤカマシク衣装道具ヲ詮議立てをせぬ癖にどこへ行つても、いつ迄も己れの服装に拘泥して居る。百姓が大禮服ヲつけた樣なものである。
  して見るとハイカラと云ふ語は一寸考へると服装丈で極る樣デアルガ一歩進ンデ考へると是ハ當人ノ氣ノ持ち樣。心の態度である。
  そこで文章もその通りである。一字一句を吟味して苟もせぬからして、何だか不自然で窮窟に見える。又ハ厭味が多いと言ふ(換言すれば作つた文章はいかぬ。行雲流水ノ樣に天眞爛|※[火+曼]《原》に飾らない所がいゝ)と云ふのは一應尤もの樣だが、句を撰み、字ヲ練る事が必ず不自然になるとは云へない。嚴密にエリ好ミをして、飽く迄スキ嫌をして。そして其句其字を平氣〔二字右○〕、自然〔二字右○〕に、何の苦もなく。拘泥センデ使ヒコナシテ居レバヨイノデアル。イクラ字句ヲ關ハズニ書イテモ、書イタ所ヲ見テ何トナク拘泥シテ居ル、始終氣ニシテ居ル、自分で自分ヲ、始終批評シナガラ進行シテ行ク樣デハ讀者ハ反ツテ「キザ」な文章家だと思ふ。なぜコンナ結果ガ起ルカ心理的ニ説明スルト面白イ。説明略ス
     ――――――――――
 △空想。 庭前の景色カ何カヲ見テ過去ヲ考ヘテ居ル。茫然トシテ居ル所ヘ。「アナ夕御飯デス」ト妻君ガ出テ來ル
     ――――――――――
 △若イ男卜女ノ會話ヲカク。戀ニ似テ戀デナイ樣ナ。ツヤガアツテ厭味ノナイ者
     ――――――――――
  人ノ感化ヲ受ケルト云フコトハ偉大ナ人ニ接シタ場合ニヨクアルコトデ、常ノ場合ニハ起ラナイト考ヘルノハ間違デアル。感化ハ微細ナ程度ニ於テ常人ガ接觸ノ際ニ始終起ツテ居ル。感化ト云フト一種ノ特別ノ意味ガアル樣ダガ實際ハ双方ノ呼吸ガ合フコトデアル。或ハ双方ノ近似スルコトデアル。近似スルト云フ意味ハ甲ガ乙ヲ己レニ似タ者ニ變化サセ、乙ハ又甲ヲ己レニ似タ者ニ變化サセ樣トシテ、ソレデ双方ノ間ニ一種ノ調停的變形ガ出來ル。片方ガ片方ヲ「モヂフワイ」スル程度ガ強ケレバ強イ程人格ノ判然シタ人ト云フ。此働キハ二十分、三十分ノ間ニモ起ル。二十分三十分ノ間ニ會談ヲシテ居ルノハ即チ互ニ感化シ合ツテ居ルノデアル。感化シ合ツテ居ル證據ニハ二十分デモ三十分デモ話ガ出來ルノデアル。シカシ斯樣ナ感化ハ本人自身ハ意識セズに濟ンデ仕舞フ。
 
〔図有り、省略〕
     ――――――――――
〔図有り、省略〕
     ――――――――――
〔図有り、省略〕
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  第一ハ普通ノ場合ナリ。第二ハ左程多カラズ。小供ガ先生ノ前ニ出タリ。青年ガ長者ニ接シタル場合ニ起ル。第三の(2)ノ一ノ場合ハ車夫ト碩學ト對シタル場合ノ如シ。双方度外視セザルヲ得ヌ故ニ斯ノ如シ。坊主ト金滿家モ然リ。第三の(2)ノアトノ場合ハ非常ニ多シ。世ノ中ハ是ヲ以テ充滿ス。而シテ其場合ノアル者ハ全ク自滅ニ了ル。傍カラ見レバ氣ノ毒デアル。然シソレガ其物ノ性質ダカラ仕方ガナイ。人間ノ心ノ根底ニ働ク大原動力ハカウデアル。――他人ヲ悉ク己レノ樣ナ者ニシタイ。――其又奧ニヒソム原動カニ曰ク、世間ガ己レト同ジ樣ナ者ニナツタトキ自己ハ心丈夫デアル。――ダカラ自分ヲ心丈夫ニスル爲メニ人ハヨク自滅スルノデアル 換言スレバ自己ノ目的ト反對ノ結果ヲ來ス。此結果ヲ豫期シテアル所デ我慢スル者ヲ智慧ノアル者ト云フ。反對ノ結果ガ出テ始メテ悔ユル者ヲ馬鹿ト云フ。反對ノ結果ガ出テモ氣ガツカズニ死ヌ者ヲ本能性ノ人間ト云フ。而シテ女ハ多ク此本能性ニ屬ス。或ハ馬鹿ノ部ニ屬ス。智慧者ニ屬スル女ハ頗ル少ナイ。女ノ智慧ハ一日ノ智慧デアツテ、根本的ニハ本能性デアル。ダカラ女ノ智慧ヲ猿智慧ト云フ。
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  國史ヲ專|問《原》間ニシタ人ガ來テ私モ妻ヲ貰ツテ子ガ出來タ。是カラ金ヲタメネバナラヌ。是非共子供ガ修業ノ出來ル程貯蓄ヲシナケレバナラヌ。然シドウシタラ好イデせウ。
  ドウシタラ國史デ金ガトレルダラウト云フ質問程馬鹿氣タコトハナィ。國史ハ金ニナル者デハナイ。學者ニナル者デアル。國史ヲ修メテ金ヲ取ル工夫ヲ考ヘルノハ北極ヘ行ツテ虎狩ヲ工夫シテ居ル樣ナ者デアル。一般ノ世人ハ勞力ト金ノ關係ニ於テ大ナル誤謬ヲシテ居ル。彼等ハ相應ノ學問ヲスレバ相應ノ金ガ取レル見込ノアル者ダト考ヘテ居ル。ソンナコトハドウ考ヘタツテ成立スル譯ガナイ。學問ハ金ニ遠ザカル器械デアル。金ガ欲シケレバ金ヲ目的ニスル實業家トカ、商人ニナルガイヽ。學者ト町人トハ丸デ別途ノ人間デアツテ、學者ガ金ヲ豫期シテ學問ヲスルノハ町人ガ學問ヲ目的ニシテ丁稚ニ住ミ込ム樣ナ者デアル。
  ダカラ學問ノコトハ學者ニキカナケレバナラナイシ、金ガ欲シケレバ町人ノ所ヘ持ツテ行クヨリ外ニ致シ方ハナイ。學問即チ物ノ理ガワカルト云フコトト生活ノ自由即チ金ガアルト云フコトハ獨立シテ關係ノナイノミナラズ反ツテ反對ノモノデアル。學者ダカラ金ガナイノデアル。金ガアルカラ學者ニナレナイノデアル。學者ハ金ガナイ代リニ物ノ理ガワカルノデ、町人ハ理窟ガワカラナイカラ其代リニ金ヲ持ツテ居ルノデアル。
  ソレヲ知ラナイデ金ガアル所ニハ理窟モアルト考ヘルノハ愚ノ極デアル。而シテ世人一般ハサウ考ヘテ居ル。アノ人ハ金持チデ世間ガ尊敬シテ居ルカラシテ、理窟モワカツテ居ルニ違ヒナイ。カルチユアーモアルニ極ツテ居ル。其實ハカルチユアーガナイカラシテ金ヲ抱イテ居ルノデアル。自然ハ公平ナ者デ一人ノ男ニ金モ與ヘカルチユアーモ與ヘル程贔屓ニハセンノデアル。此見易キ道理も辨ゼズシテカノ金持チ共ハ己惚レテ自分達ハ社會ノ上流ニ位シテ一般カラ尊敬サレテ居ル。ダカラシテ世ノ中ニ自分達程理窟ニ通ジタ者ハナイ、ダカラ學者ダラウガ何ダラウガ己ニ頭ヲ下ゲネバナラント思フノハ憫然ナ次第デ、コンナ考ヲ起スノモソレ自身ニカルチユアーガ缺ケテ居ルト云フコトヲ證明シテ居ル。
  譯ノワカラヌ彼等ガ己惚レルノハ到底濟度スベカラザルコトト致シテ他人カラモ其己惚ヲ尤モダト認メルニ至ツテハ愛想ノ盡キル程ナ見識デアル。ヨク云フコトダガ、アノ男モアノ位ナ社會上ノ地位ニアツテ相應ノ財産モアルカラ、マンザラ、ソンナ、譯ノワカテナイコトモ無カラウト、豈計ランヤアル場合ニハ、ソンナ社會上ノ地位ヲ得テ相應ノ財産ヲ有シテ居レバコソ譯ガワカラナイノデアル。社會上ノ地位ハ何デキマルト云ヘバ、(1)カルチユアーデ極マル場合モアル(2)門閥デキマル場合モアル(3)藝デキマル場合モアル(4)金デキマル場合モアル、而シテコレハ尤モ多イ。コンナニ色々ノ標準ガアルノヲ混同シテ金デ相場ガキマツタ男ヲ學問デ相場ガキマツタ男ト相互ニ通用スル樣ニ考ヘテ居ル。殆ンド盲者モ同樣デアル。
  金デ相場ノキマツタ男ハ金以外ニ融通ハキカナイノデアル。金ハアル意味ニ於テ貴重ナ者デアル。彼ハ此貴重ナ者ヲ擁シテ居ルカラ世人カラ尊敬サレル、是モ誰モ異存ハナイ。然シ金以外ノ領分ニ於テ彼ハ幅ヲ利カシ得ル人間デハナイ、金以外ノ標準ヲ以テ杜會上ノ地位ヲ得ル人ノ仲間入リハ出來ナイ。モシソレガ出來ルト云ヘバ學者モ金持チノ領分ヘ乘リ込ンデ、金錢本位ノ領分内デ威張ツテモイヽ譯ニナル。彼等ハサウハサセナイ。然シ自分丈ハ自分ノ領分内ニ大人シクシテ居ルコトヲ忘レテ他ノ領分迄ノサバリダサウトスル。ソレガ必竟ズルニ物ノワカラ〔ナ〕イ人々ダト云フコトヲ事實上證據立テヽ居ル。
  金ハ努力ノ報酬デアル。ダカラ努力ヲ餘計ニシタモノハ餘計ニ金ガトレル。コヽ迄ハ世間モ公平デアル。(否是スラモ不公平ナコトガアル、相場師抔ハ努力ヲセンデ金ヲトツテ居ル)。然シ一歩進メテ高等ナ努力ニ高等ナ報酬ガ伴フカヨク考ヘテ見ルガイヽ。報酬ト云フ者ハ眼前ノ利害ニ最モ影響ノ多イ事情丈デキマルノデアル。極メテ實際的ノモノデアル。眼前以上ノ遠イコト、高イコトニ努力ヲ費ヤス者ハイカニ將來ノ爲メニ國家ノ利益ニナラウトモ報酬ハ減ズルノデアル。ダカラ今ノ世デモ教師ノ報酬ハ小商人ノ報酬ヨリモ少ナイ。ダカラシテ努力ノ高下デ金ノ分配ハ定マラナイ。從ツテ金ノアル者ガ高尚ナ努力ヲシタトハ限ラナイ。換言スレバ金ガアルカラ人間ガ高尚ダトハ云ヘナイ。金ヲ目安ニシテ人ノエライ、エラクナイヲキメル譯ニハ行カナイ。ソレヲ無茶苦茶ニ金ガアルカラエライ/\ト騷グノハ何ノ事ダ。金持モ金ガアルカラ自分ガエライ何デモワカツテ居ル。學者ト喧嘩ヲスル資格ガアル。學問ノアル高尚ナ考ヲモツテ居ル、氣品ノアル人々ノ頭ヲ下ゲサセルコトガ出來ルト自信シテ居ルノハ驚ロイタ者ダ。一寸考へテ見ロ。自分ガ病氣ヲスレバ醫者ニ頭ヲ下ゲナクテハナルマイ。イクラ金ガアツタツテ自分デ藥ハ盛レマイ。醫者ハ其代リニ貴樣ノ金ニ頭ヲサゲル。サウシテ相應ノ報酬ヲトルノデアル。病氣ヲシタトキニハ醫者ニ頭ヲ下ゲルコトヲ知リナガラ、趣味トカ、嗜好トカ、氣品トカ人品ト云フコトニ關シテハ學問ノアル高尚ナ理窟ノワカツタ人ニ頭ヲ下ゲルコトヲ知ラン、ノミナラズ却ツテ金ノ力デソレ等ノ頭ヲ下ゲサセ樣トスル。之ヲ旨蛇ニ怖ヂズと云ふのである。學問ノアル人、ワケノ分ツタ人は貴樣等ガ金ノ力デ世ノ中ニ利益ヲ與フルト同樣ノ意味ニ於テ、其學問ヲ以テ其ワケノ分ツタ頭ヲ以テ世ノ中ニ利益ヲ與フルノデアル。ダカラシテ立場コソ違エ、對等ニシテ毫モ冐スベカラザル地位ニ立つてゐるのである。學者がもし金ノコトになつたらば、自己ノ本領ヲ棄てゝ、貴樣等の領分に入るのだから貴樣等ニ頭ヲ下げるのが順當だらう。同時に金以上の趣味トカ文學トカ人生トカ社會とか云ふ問題に關しては貴樣等の方が學者ニ頭ヲ下げねばならぬのである。今貴樣等と學者の間ニ葛藤ガ起つたとする。其問題がもし單ニ金の問題なら學者は初手から無能力である。然しそれが人生問題である道徳問題である。社會問題である以上は貴樣等は最初からして口を開く權能はないものと覺悟をして絶對的ニ學者の前ニ服從せんければならん。岩崎は別莊を立て連ねる事に於て天下の學者を壓倒してゐるかも知らんが社會、人生、の問題ニ關しては小兒の樣なものである。三歳の兒童と一般である。十萬坪の別莊を八ツ山に建てたから天下の學者を凹ましたと思ふのは凌雲閣を作つたから仙人を恐れ入らしたと考へる樣なものだ。
  商人ガ金ヲ儲ケル爲メニ金ヲ使フノハ學問上ノコトデ誰モ容喙ガ出來ヌ。然シ商買上ニ使ハズシテ人事上ニ使フトキハ、ワケノ分ツタ人ニ聞カ|ヌ《原》バナラヌ。サウシナケレバ社會ノ惡ヲ自ラ釀造シテ平氣デ居ルコトガアル。今ノ金持チノ金ノアル部分ハ常ニ此惡ヲ釀造スル爲ニ用ヰラレテ居ル。夫ト云フ者ハ彼等自身ガ金以外ニハ取柄ノナイ者ダカラデアル。學者ヲ尊敬スルコトヲ知ランカラデアル。教ヘテやツテモ分ランカラデアル。災ハ必ズ己レニ歸ル。彼等ハ是非共學者文學者ノ云フコトニ耳ヲ傾ケネバナラヌ時期ガクルモシ耳ヲ傾ケネバ社會上ノ地位ヲ保テヌ時期ガクル。
     ――――――――――
 △
  (1)學問ノアル高尚ナル學者
  (2)悲酸ナル家庭ニ生レテ漸ク卒業シタル人
  (3)絞|滑《原》ニシテ假面ヲ被ル男
  (4)華族ノ馬鹿ト驕悍ナル夫人
  (5)只美的ナコト許リヲ好ム人
  (6)淺ハカニシテ、意志モ、感情モ、足ラヌ妻君
     ――――――――――
  カラダの局部ガドコゾ惡イト、ソコガ氣ニカヽル。何ヲシテモソレガ、コダワル者デアル。極メテ健全ナル状態ニアル人ハ自己ノ身體ヲ忘レテ居ル。一點ノ局部ダニワガ注意ヲ集注ス〔ル〕箇所ガナイカラ、樂々ト豐カナルノデアル。アル人ガ瘠せテ蒼イ顔ヲシテ居タカラ、君ハ胃ガ惡イダラウト尋ネテ見タ。スルト其人ガ答ヘテ胃ハ少シモワルクナイ、其證據ニハ僕ハ此年ニナツテモ未ダニ胃ガドコニアルカ知ラナイト云ツタ。其時ハ頗ル可笑シイト思ツタガ、ヨク考ヘテ見ルト大ニ悟ツタ言葉デアル。此人ハ胃ガ健康ダカラ胃ニ拘泥スル必要ガナイ、ソコデドコニ胃ガアツテモ構ハナイノダラウ。自由ニ飲食ヲシテ毫モ苦痛ヲ感ゼズニ安々トシテ居ル。是ハ胃ニ於テ悟ツタ者デアル。胃ヲ擴張シテカラダ全體ニ就テモ同樣ノコトガ云ハレル。カラダヲ擴張シテ精神状態ニ於テモ同樣ノコトガ云ハレル。一徳ニ秀デタ者ハ兎角其徳ニ拘泥シタガル。一藝ニ秀デタ者モ亦稍トモスルト其藝ニ束縛セラレ勝ナ者デアル。然シ自己ノヨイ所ハ考ヘ方デスグ忘レルコトガ出來ル。然シ自己ノ缺點や、過失や、惡事ニ至ルト中々拘泥シテ容易ニ解脱スルコトガ出來ヌ。百圓モ二百圓モスル帶ヲシメテ女ガ音樂會ヘ行クト此帶ガ妙ニ氣ニナツテ音樂ガ耳ニ入ラヌコトガアル。是ハ帶ニ拘泥スルカラデアル。帶ガ崇ツテ居ルノデアル。然シ人ニ自慢ニナル方ハ忘レルコトモ容易デアル。立派ナ服装ヲシテ冷飯草履ヲハイテ、アル席ヘ臨ムト此草履ガ氣ニナル。昔シ去ル所デ一人ノ客ニ紹介サレタトキニ御辭義ヲシテ下ヲ向イタラ其男ノ靴足袋の片々ガ破レテ親指ガアラハレテ居タ。余ガ下ヲ向クト殆ンド同時位ニ此男ハ滿足ナ方ノ足ヲ片方ノ足ノ上ヘ乘セテ靴足袋ノ穴ヲ塞イダ。此男ハ靴足袋ノ穴ニ拘泥シテ居タノデアル。
  シテ見ルトアル局部丈ガ見《原》立ツ(ノ)ハ(善カレ惡カレ)ソレガ束縛ニナル拘泥ノ種ニナル。自分ガ拘泥スルト云フノハ他人ガ其注意ヲ集注スルト思フカラデ、ツマリハ他人ガ拘泥スルカラデアル。從ツテ之ヲ解脱スルニハ二ノ方法ガアル。(一)ハ他人ガイクラ拘泥シテモ自分ハ拘泥セヌコトデアル。人ガ目ヲ峙テヽモ、耳ヲ聳ヤカシテモ、冷評シテモ罵詈シテモ、自分丈ハ拘泥セズニ勝手ニ振舞フノデアル。大久保彦左衛門ガ盥デ登城シタ樣ナモノデアル。或ハ無頓着ニ立派ナ衣服ヲツケテ、イクラ人ガヂロ/\見テモ平氣デ居ルノデアル。(華族サン抔ハ習慣カラシテ此解脱ノ域ニ達シテ居ルノガ大分アル、ト云フ者ハイクラ、人カラ立派ナ着物ニ見エテモ自分丈ニハ當然デアル、人ノ目ヲ惹クニ足ル者デナイ、ヨシ人ノ目ヲ惹イテモ自分ニハ自然デアルト思ツテ居ルカラデアル)或ハイクラ冷飯草履ヲハイテモ、トンチンカンな服装ヲシテモ毫モソレニ苦シメラレテ居ランノデアル、何ノ(コダワリ)モナクトンチンカンの衣装ヲツケテ居ル。物質界ニ重キヲ置カヌ人、耶蘇トカ釋迦トカ云フ人ハコレデ濟ムノデアル。(ニ)ノ解脱法ハ少々違ツテ居ル。之ハ拘泥ヲ脱スルノデハナイ。拘泥スル必要ノナイ樣ニスルノデアル。言ヲ換えて云へば妄リニ人ノ注意ヲ惹イテ其反射デ自分迄苦ニナル樣ナ態度トカ服装トカヲ避ケルノデアル。タトヘバ(1)服装ノ一局部ガ他ト著ルシク目立ツ樣ナコトヲ避ケル。――即チ全體ノ調和カラシテ人ノ眼ニモツカズ、自分ガ見テモ自障リノ箇所ガナイ樣ニスル(2)言語動作デモ其一部ガ無暗ニ高ク飛ビ出ス樣ナ突飛ヲ避ケル。始終同ジ樣ナ態度ヲ保ツコトヲ力メル(3)服装全體ニ就テ云ヘバ、自己ノ服装ガ他ノ服装トアマリ懸ケ離レテキラビやカデアルトカ恰好ガ違フトカ云フ懸隔ヲサケル。(4)言語、思想、全體カラ云ヘバ自分ト人トノ間ニ無暗ナ調子ハヅレガナイ樣ニシテ行ク。――カクノ如ク他ヲ眼中ニ於《原》テ、始終氣ヲクバル結果、他ヲ眼中ニ置ク必要ノナイ程度迄ニ己レヲ自由ニスル。然シドコ迄モ差別觀カラ出立スルノデアルカラシテ、他卜自己トヲ全然同一ニハセヌ、同ジ樣デド|カ《原》カ違フ然シドコガ違フ|ガ《原》一寸見テハ分力ラナイ樣ニスル。然シ其道ノ黒人ガ見ルトスグワカル樣ニスル。――結城紬ヲキテ手織木棉ト見セテ居ル樣ナ者デアル。
  右ノ解脱方ノウチ(一)ハ自己ガ本位デアル。非常ニ自己ガエライ人、若クハ他ヲ念頭ニ置ク必要ノナイ程ナ權力アル人(學者デモ、宗教家デモ、或ハ外部ノ權威者ナポレオン、豐太閤デモヨイ)ガヤル解脱法デアル。ニイチエ、イブセンノ主唱スル理想ハコヽデアル。
  (二)ハ普通ノ俗人ノ解脱法デアル。此解脱法ヲ得タル人ヲ列擧スレバ
  (1)昔シ風ノ江戸ノ町人及ビ其妻女ノ趣味
  (2)藝妓、粹人、等ノ解脱
  (3)西洋ノ一般ノジエントルマン
   其他色々アリ
  (二)ノ人ヨリ(一)ヲ見ルト氣違ニチカイ。決シテヨク見エル譯ガナイ。又決シテ自分ガやリタイト思ハナイ
  (一)カラ(二)ヲ見ルト、依然トシテ拘泥シテ居ル。拘泥ノウチニ拘泥ヲ脱シテ得意デアル。ソレデ世ノ中ヲ知リヌイタ、コレガ御手本ダト高慢ブツテ居ル。ソコガ頗ル可笑シイ。ダカラ西洋ノゼントルマンは一方カラ見ルト悉ク可笑シイノデアル。然ルニ彼等ハ他ヲ笑ツテ野暮ダ開化ノ禮ヲ知ラヌト云フ。水ニ住ンデ居ルカラ、陸ノ樣子ガ不案内ナノデアル。
  カクノ如クニシテ學者趣味、精神趣味、俳諧趣味、坊主趣〔味〕ト町人趣味、粹人趣味、藝者趣味、ゼ|ル《原》トルマン趣味トハ根本ニ於テ一致シ難キモノデアル。双方ヲ見ル眼ノアル人ガ双方トモワカルノデアル。双方トモ知ル人力ラ一方ニカタマツテ是非其デナクテハイカヌト云フ連中ヲ見ルト可笑シイノデアル。貴樣モ是非カウシロトセマル時ニハ馬鹿野郎ト云ハネバナランノデアル。モースコシ修業シテコイト云ヒタクナルノデアル。ダカラ廣クワカリ、大キク考ヘテ居ル人ハカヽル偏狹ニシテ固陋ナルフヒリスタイン即チ英國ノ紳士流ノヤリ口ヲ攻撃シテモー少シ一般ノ人ノ眼ヲアケテヤラネバナランノデアル。東洋ノ一部ニハ夫ヨリモ偉大ナル解脱法ガアルコトヲ教ヘネバナランノデアル。今ノ世ニ英國ノ紳士ヲ模セヨ模セヨト云フノハ日本橋邊ノ町人ノ樣ナ氣風ニナレ/\ト云フ樣ナ者ダ。ダカラ普通ノ英國趣味ヲ鼓吹スル抔ト號スル者ハ皆一知半解ノ俗物デ、我等ガ大ニ是カラ攻撃セネパナラン愚輩デアル。
  文章ニモ此論法ガアテハマル。拘泥セヌノハ結構デアル。然シ拘泥中ニ拘泥センノト、超然トシテ拘泥センノトハ丸デ趣ガ違フ。
  拘泥スル種ニナル樣ナコトハ一切カヽンカラ、拘泥シテ居ナイト見エルノモアル。拘泥スベキコトヲイクラデモ書イテ然モ拘泥センノガアル。是等ヲ見分ケルノヲ趣味ノ修業ト云フ。趣味ノ修業ハサウ一朝ニ出來ルモノデハナイ。三味線ヲヒクノデモ五六年ハカヽル。三味線ヲキヽ分ケルノデモ一年ヤ二年ハ入ル。趣味(文學)ダツテ三味線ヨリヤサシイコトハナイ。現代ノ弊ハ書物ヲヨンデ字ガワカリサヘスレパ文學趣味ハ出來タ者ト心得ルコトニアル。ソレデ何モワカラン人ガ趣味ノ修養ヲ積ンダ人ノ行爲動作ヲ無趣味ナ眼識デ批評シタリ。其著作ヲワカラン癖ニヅー/\シク論斷シテシカモ自分ハ立派ニ權能ガアルト心得テ居ル。
  茶ノ湯ヲ稽古スルトキニハ萬事茶ノ湯ノ先生ノ云フコトヲ聞カネバナルマイ。文學書ヲヨムノダツテ茶ノ湯ニ於テ我ヲ折ル樣ニ同程度ノ謙讓ノ態度デ教ヘテ貰ハナクツテハドコガドウシテ居ルノカワカル譯ガナイ。ソレヲ心得ズニ其方ノ教育ノカケテ居ル者ガ、ダレカレノ構モナク文學書丈ハ立派ニ口ガ出セルト思フ。又文學者ノ言論や行爲ハ自分等ノ尺度デハカルコトガ出來ルト思フ。少シモ考ヘノナイ小供カ何カデナクテハコンナ無茶ナコトガ敢テ出來ル者デハナイ。
  徳望ノアル坊サンニ大臣ヤラ金持ヤラガ法ヲキク如ク、イクラ門閥家デモ金持デモ趣味ノコトハ文學者ノ所ヘ來テ頭ヲサゲネパ悟レ樣ガナイ。
  趣味ハ人間ニ大事ナ者デアル。樂器ヲ破ル者ハ人間カラ音樂ヲ奪フ點ニ於テ罪人デアル。書物ヲ燒ク者ハ人間カラ學問ヲ奪フ點ニ於テ罪人デアル如ク、趣味ヲ崩ス人ハ矢張リ罪人デアル。否法律ヲ犯ス人ヨリモ甚シキ罪人デアル。ト云フ者ハ音樂や美術ハ人間ノ交渉ニハマヅ關係ハナイガ、趣味ノ蔽フ所ハ非常ニ大ナル者デ人間ノ交際區|別《原》ノ全體ニワタル者デアルカラシテ、モシ之ヲ破ル者アラバ懲役以上ノ罪ヲ犯シタ者デアル。
  コヽニ一人ノ男ガアル。其男ガ自分ノ云フコトヲ聞カナイト云フノデ、朝ニ晩ニ其人ヲツヽツキ、コヅキシテ幾年ノ間ニ其男ノ人格ヲ墮落セシメテ、實ニ趣味ノ低イ者ニシタラ、カヽルコトヲナシタ者ハ人殺シヨリモ重イ罪ヲ犯シテ居ル。人ヲ殺セバ、殺サレタ人ハ世ノ中カラシテ消えテナクナルカラシテ、世間ニ苦ハナイ。然シ趣味ノ墮落シタ人ヲ一人デモ世ノ中ニ製造スレバ、其男ハ世ノ中ノ空氣ヲ夫丈不愉快ニスル。世ノ中ニ其丈不幸ヲ與ヘル。――シカモ十中八九ハ當人ノ罪デハナイ。皆積極的ニ働ラキカケル者ガアルカラシ|モ《原》、コンナ現象ヲ生ズル。一人ノ男ノ趣味ヲ打チ壞ハスノハ其男ヲ不具ニスル樣ナ者デ間接ニハ世ノ中全體ニ其空氣ヲハビコラセル。ソンナ惡事ヲ働イテ平氣デ居ルノハ人殺シヲシテ罰セラレンノト同ジコトデアル。又コンナ者ハ多ク身分ノアル者ニ多イ。門閥ノアル者ニ多イ。金ノアル者、權威ノアル者ニ多イ。是等ハ皆積極的ニ個人ニ働ラキカケルコトノ出來ル能力ヲ有シテ居ル。而シテ是等ガ毫モ人ニ働ラキカケル道《◎》ヲワキマヘズシテ下劣ナ趣味デ働ラキカケレバ、働ラキカケラレタ人モ下劣ナ趣味デ正當防禦ヲ講ジナケレバナラナクナル。多少考ノアル人、ワカツタ人ト雖方便ノ具トシテ反省ヲ促ガス爲メ、モシクハ罪人ヲ罰スルノ意ヲ以テ彼等ニ應ゼネバナラヌ。カウナツタトキニ世ノ中ノ趣味ハ毎日/\留メ度モナク墮落スル。
  金ノアル者、身分ノアル者、等ガ「カルチユアー」〔ノ〕ナイノハ前ニ述ベタ通リデアツテ、其金ヲ使ヒ身分ヲ利用シテ人ニ働キカケルトキニハ、働キカケル能力ガアツテモ、働ラキカケル權利ハナイト云ハネバナラヌ。ダカラシテ彼等ガコンナコトニ首ヲ出ス場合ニハ譯ノワカツタ人ニ平身低頭シテ聞カネバナラヌ。文學者ハカウ云フコトヲ彼等ニ教ヘル爲メニ世ノ中ニ生レテ來タノデアル。彼等ニ教ヘル筈ノ文學者ヲ捕ヘテ、彼等ガ無暗ニ働ラキカケルノハ顛|到《原》シタ者デアル。ソンナ文學者ガアレバソレハ自己ノ天職ヲ自覺セザル文學者デアル。腰拔ノ文學者デアル。ソンナ金持や華族ニ教ヘルコトノ出來ヌ程ノ、否ソンナ馬鹿ニ頭ヲ下ゲネバナラヌ文學者ナラバ文學者ニナラメガヨイ
     ――――――――――
 △Life is literature。他ノ學問ハ學問を障害スル者ガ敵デアル。貧、多忙。壓迫。不幸。悲酸。不和。喧嘩等。夫ダカラ他ノ學問ヲヤルモノハ可成之ヲ避ケテ、時ト心ノ餘裕ヲ得ヤウトスル。文學者モ今迄ハサウ云フ了見デ居タ。サウ云フ了見ドコロデハナイ。凡テノ學問ヲヤルウチデ文學者ガ一番ノンキナ閑日月ガナクテハナラント思ハレテ居タ。當人モ其氣デ居ルラシイ。――然シ夫ハ間違デ|テ《原》文學ハ Life 其者デアル。苦痛、悲酸、人生ノ行路ニアタル者ハ即チ文學デアル、他ノ學問ガ出來得ル限リ之ヲ避ケントスルニ反シテ文學ハ進ンデ此中ニ飛ビ込ムノデアル
 
 △糸ノキレ(參)
 △若イ女ノ想像、空想、山茶花、ノ落片。布團()模樣。芭蕉未だ破れず。梧桐未ダ落ちず。十月二十五六日。菊既ニ開ク。美ナル者。美ナル人。美ナル…… 〔若イ〜を}でくくって〕二人
 △○○ハ遂ニ細君ノ云フ通リニシタ。然シ夫カラハ細君ヲ愛セヌ樣ニナツタ。女房ト雖ヤハリ女デアルト云フコトヲ自覺シタ。
 △演奏會
 △汽車留別、送別、女、男、女云フ行キタクナイガ行ク。男云フ行カセタクナイガ行カセル
 △Tall‐ball
 △Sister without culture  Giny
     ――――――――――
 リズム論  自然。個性的
     ――――――――――
 △天長節、
     ――――――――――
   主客論。 主客は一なり。但便宜の爲めに之を分つ。物に於テ色ト形ヲ分ツガ如ク。文ニ於テ想ト形トヲ分ツガ如ク。物ト心ヲ分ツガ如シ。
   物ト心トハ本來分ツベキ物ニアラズ。何人モ之ヲ分チ得ルナシ。天地山川日月星辰悉ク是自己なり。但コノ自己ノ存在ヲ明瞭ナラシムル爲メ、又自己ノ存在ヲ容易ナラシメン爲メニ之ヲ主客ノ二ニ分ツニ過ギズ。分カチタル後ハ自己ヲ離レテ萬物存在スルニ至ル。
 
  天地ノ事ハ皆夢幻ノ如シ只一事ノ炳乎トシテ爭フベカラザル者アリ、自己ノ存在是ナリ。萬物ハ影ノ如シ、影ノ消エル時、影ノ死スルトキ猶儼然トシテ實在スル者ハ自己ナリ。自己程慥カナル者ナシ。故ニ自己程貴キ者ナシ。
     ――――――――――
 △Dialectic。
  人ヲ取扱フアル人ノ方法
    \※[斜め破線]\※[斜め破線]\※[斜め破線]\
 △Necklace(diamond)
     ――――――――――
 △桐の葉ヲ見る。風が吹いて落ちんとする。中々落ちぬ。落ちる迄の事。
     ――――――――――
 △御寺の赤門。毎日通る。月に二三度宛は張札がある。靈|巖《原》島中川。
  白丁を着たものが秋の雨中を濡れて行く。弔の歸り
     ――――――――――
 △香一※[火+主]
     ――――――――――
 △臨終
     ――――――――――
 △Kindness or cruelty?
     ――――――――――
〔英文省略〕
     ――――――――――
〔英文省略〕
     ――――――――――
 ○Great interest ノcritical moment 一面
  平穩無事ノ一面
  兩者ノ接觸點
 ○Great stake of life and fortune
 ○甲郷關を去る。乙之ヲ留む及ばず追つて……ニ至ル。
 
日記――其明治四十年三月二十八日より四月十日まで
 
  三月二十八日〔木〕八時東京發。
 ○丸い山ガ重ナリ合フ。色は薄茶で薄黄。濃淡ニ角度ナシ
 ○角度アル山ニ雪ガアル。雪ノ筋。雪ノ光リ。
 ○梅ガヒラメク。梅ガ亂レル。梅ガ雲ヲ呼ブ。梅ガ夢ヲ破ラントシツヽアル
 ○松林ヲ遠クニ見ル。幹ト幹ノ間ガ明カニ幹ハ黒イ。
  明カナ上ハ葉デ暗イ。明カニ透いた向ハ海
 ○海道の松。廣重。
 ○山ノ上の松 〔松の図、略〕コンナノガ一本立ツテ居ル
 ○夜七條ニツク車デ下加茂ニ行ク。京都ノ first impression 寒イ
 ○湯ニ飛ビ込ム
 ○糺ノ森ノ中ニ宿ス。
  春寒く社頭に鶴ヲ夢ミケリ
 ○曉ニ烏ガ鳴ク。への字ニ鳴きくの字ニ鳴く
 ○夜中に時計ガチ――――――――――ンと鳴る。
 
  三月二十九日〔金〕
 ○大學ニ行く。桑木、狩野直喜、伊津野氏に逢ふ。
 ○圖書舘拜見。尊攘堂の遺物ヲ見ル。象山の軸。明珍の兜。色々あり。記念の扇ヲ見ル。
 ○二條の橋のたもとに西洋料理を食ふ
 ○※[女+氏]《原》園に行く。公園は俗地なり。平野屋、中村樓抔云ふ料理屋あり。村井兄弟の西洋館建築中。八陀彌ホテルの燒殘リ頗ル見苦し。
 ○大谷の納骨所を通りから見る。石道がくの字に爪上りなる左右から。細かな松の葉が生ひかぶさつて見事なる perspective を作る。上ると左程デモナシ
 ○智恩院。鐘樓臺より下ヲ見ル。大ナ甍の銀鱗ヲ寂然と曇れる春のうちに据ゆ。松に包まれて天下穩かなり
 ○本堂の下より梁を見上げルと數百の桷の端の四角なるが縮まつて遠くに見える端に青銅の風鈴が見える
 ○欄間の上部は〔圖省略〕の如きか〔た〕ちのものが層々と連なつて小さく見ゆる。衆會堂へ通ずる橋の下を通る。春雨蕭々と至る
 ○經堂の柱を三十六本。廻る。
 ○山門ニ下る下より仰ぎ見る。(華頂山)
 ○清水へ行く。途中で陶器ヲ買フ。俗地ナリ
 ○上加茂 舞殿、細殿、橋殿、神樂殿、御手洗池、糺森、松が崎 妙法
 
 三十日〔土〕
  布晒す磧わたるや春の風
  丈山の閑居
  三月三十日午前一乘寺村詩仙堂
 ○瓦硯裏銘
   寸餘小池〓〓浪
   一考染來字々生
    參陽石川丈山銘并書
 ○六勿銘
   勿妄丙王 忽《原》〓棍賊
   勿〓島興 勿嫌〓食
   勿變〓勤 勿惰排拭
 ○生垣四尺。左右竹林  石階ヲ登る急ニ翠色の濕ひを浴す
 ○突當りの石垣に口ナシの董バみたる滴々の苔ヲ見る
 ○松一樹。苔むす。白川砂
 ○木犀ニ苔蒸す一根ヨリ五六本。寄生木
 ○玄關の沓脱は菱形の黒瓦。扉
 ○額「蜂要」。
 ○尼
 ○佛壇。玄關の右。一尺下る。瓦で敷きつめる 圓座ヲ敷く。
  繹林課誦。卷頭の畫
  (中央釋迦、大衆合掌)
  南無楞嚴會上佛菩薩
 ○額「摩尼」隱元。六角ノボンボリ。燭ともす
 ○木魚。香爐。角。
 ○諷經錦嚢。觀音普門品經
 ○戸帳。額。黒。「紫金聚」
  海雲七十五翁百拙
 ○聯。
   青山白石飛鳴鶯鶴鳳|皇《原》
   月竹風松諷直佛法僧寶
 ○六曲屏 應擧
   雪中 松、竹、鶴
 ○大雅堂二枚折屏風
 ○兜。 (丈山の)
 ○探幽三十六詩仙。丈山賛
  岑參の顔ノ中ガ途切レテ居ル。
  柳宗元の額ガ白クボケテ居ル
  白居易の鼻ガ大デアル
  廬徹の坊主頭ガ凹凸デアル
  邵雍ノ頬カラ顎ガフクレテ齒痛
  李商隱ハ後ろ向き冠の尾ガ黒ク耳の下を筋違ニ横切つてゐる
 ○天井の龍。黒クシミテ何ヤラ分ラズボロ/\ナリ。
 自筆の由
 ○持佛堂ノ本尊 バロフの觀世音
 ○伏見の桃山御殿の欄間の木彫の獅子 扇形の透しぼり。甚五郎の作。
  獅子の子落し。牡丹
 ○凹凸※[穴/果] (額)
 ○梅關 (額)
 ○小有洞(額)
 ○銀閣寺。
  蕪村襖。
  普明國師九條法衣
  籌顔筆瀟湘八景
 ○東山水上行 了龍林州
   〔図略、御手洗の文字有り〕
 ○義政公法體肖像
 ○惠心僧都作義政公持佛
 ○東求堂文明十二年創建
  明治四十年に四百二十八年
 ○相阿彌筆金屏風 蘆
  弄晴亨。泉殿。香座敷
 ○樓閣 潮音閣 下層(心空殿)
  四百二十八年
 ○運慶作觀音(階上)
     ――――――――――
 ○眞如堂
  塔。本堂。山門ヨリ石甃ヲ望むに斜めに上る。左右楓樹のみ。石甃は不規則なる御影を亂れがたに、かためて姿致多し
 ○夕陽は吉田山の上より來る
     ――――――――――
三十一日〔日〕
黒谷 文珠塔(運慶作)三重塔 二百六十三
 ○扇の如き松二本
 ○木魚〔の〕音
 ○淀見席。庸軒茶席
×若王子
 山の隈を上る。旗亭あり。松。楓樹。
×永觀堂
 楓樹池を※[しんにょう+堯]りて多し。
  〔図略〕屋根の感
×南禅寺。本堂再建中。松
     疏水。
×大極殿
×櫻の馬場
×武徳會
 
  四月一日〔月〕
 ○相國寺 平地
 ○同志社     今|手《原》川通
 ○御所
 ○寺町通
 ○京極――見世物
 ○四條五條
 ○建仁寺
  陰晴未定。時雨の如し。叡山の頂に雪を見る。
   旅に寒し春を時雨れの京にして
 ○五條に扇を買ふ。景色給端書を買ふ。
 ○鍵屋に西洋菓子を買ふ。
 ○觀世落雁。月餅
 
  四月二日〔火〕
 ○夷川通り古道具屋
   永き日や動き已みたる整時板
 ○堀川
  天晴始めて春の心地なり
 ○ 加茂にわたす橋の多さよ春の風
 ○北野天神
   雀巣くふ石の華表や春の風
 ○金閣寺
   高臺寺描金花筏水手桶
   金閣四方の風鈴
 ○大徳寺
 ○上加茂 社後(水潺湲)
 
  四月三日〔水〕
 ○新古美術展覽會
   ○光琳 百鹿百鶴
       盛上げ菊扇面
   ○能阿彌筆 蘆雁圖
   ○乾山作 瀟湘八景八角水指
 ○五二會
 ○歌の中山消閑寺 郭公亭
 ○博物館
    ※[號/食]※[殄/食]紋火鉢
    二十八部衆立像 蓮華王院
  ○豐彦の屏風。波。模樣ニアラズ。寫生ニアラズ。理想ナリ。濃キ色ガ※[ヘアピンのような圖]形ニ落チ來ル
  ○光琳の杜若の金屏。杜若の紫花累々たり。緑葉※[手偏+申]々たり。金色のうちに埋まる
  ○興《〔東〕》福寺。本堂ハ燒失。礎の傍ニ松ヲ生ズ。山門は依然として九尺ニアマル欅の丸桂ヲ列ヌ。
   通天橋の橋ハ屋根アリテ廻廊の一部なり。
  ○高臺寺
   廻廊ヲ登ル。堂に秀吉ノ木像大政所の木像アリ。山松赤く幹ヲ交フ
  ○稲荷 俗地ナリ
  ○三十三間堂。桃山血天井。
 
  四月四日〔木〕
 ○東本願寺
   臺所
 ○枳|穀《原》邸  渉成園
   ○嗽枕居
   ○雙梅居
   ○印月池
   ○傍花閣
   ○丹楓溪
   ○滴翠軒
   ○臨池亭
   ○廻棹廊
   ○紫藤岸
   ○五松塢
   ○縮遠亭
   ○臥龍堂
   ○侵雪橋
 ○東寺
   ○八足門 延暦十五年桓武天皇御創建
   ○塔 本尊四佛八大菩薩
      創建天長三年弘法大師
      再建寛永十八年
 ○句佛ニ逢フ。今夜東上すと云ふ
  歸途カステラを包んでくれる。カステラヲ入れる所なし
 ○車を雇ふて東寺ニ行く繪馬堂ニ茶見せが出て居る。
 ○五重塔を春の温かき空に仰ぐ
  カステラを懷いて徘徊す
 ○菜の花の中を島原に行く。
  角屋と云ふが尤も古るき家なり
 ○西本願寺に至る。
  本堂の前に大なる樹あり。
 ○七條の停車場ニ至る。時早し
 ○大坂着中の島散歩。朝日新聞へ赴く。社主村山氏に逢ふ。小山氏にも逢ふ
 ○ホテル晩餐會に臨む會するもの十二三名なり
 ○夜高麗橋際星野方に宿す
 
  四月五日〔金〕
 ○宿の神さんの話を昨夜鳥居氏よりきく
  朝京都の地面が買へるなら教へてくれと云ふ。勘定は御序でゞよいといふ。古雅なり。桑名の人といふ。盆に蕪をつけたり。
 ○大坂は氣象雄大なり
 ○車中下等藝妓三人を携へたる商人あり
 ○十時半京都着。直ちに電車にて伏見に至る。桃山に登る眺望のよき所なり
 ○車にて宇治に向ふ。黄檗山
   ○赤門。白地の聯。青の字。支那風なり
     宗綱濟道重恢廓
     聖主賢臣悉仰尊
〔図省略〕
   ○齋堂
  宇治橋、平等院、興聖寺。
 
  四月六日〔土〕
  雨。
 
  七日〔日〕 晴
 ○三本木土屋員安方にて山陽外史の室を見る。午飯
 ○嵐山、吐月橋、温泉、釋迦堂。
  天龍寺。
 
  八日〔月〕
 ○嵐山
 ○保津川。
   潭、激流。岩。平ナルモノ Crystal ノ如きもの〔図省略〕の如きもの、不規則に凸凹あるもの、烏帽子岩、書物岩、屏風岩。
   ○山、松山、石山、雜木山。
   ○杣、木樵、猿の如し。
   ○筏、一列毎ニ楫ヲトル。
   ○筏士 岩の上に數多辨當ヲ食フ
   ○舟、構造、舟子四人。二人は櫂ヲ右側に結ひつける(藤蔓)。一人は軸《原》ニテ竹ノ竿デ岩ヲツク。一人は櫨デ楫ヲトル
 ○仁和寺
   田樂
 ○妙心寺
 ○等持院
 
  九日〔火〕
  叡山上り。高野より登る。轉法輪堂。叡山童。草木採集。八瀬の女
  根本中堂。學校デ晝食ヲ乞ふ案内に應ずるものなし。
 ○坂本。はしり堂にて中食。石橋の上。石橋は古雅。數三あり。
 ○大津迄汽船を待つ。時間かゝる。車にて大津迄行く。
  疎《原》水の隨道を下る。篝火。※[疑の旁が欠]乃。
 ○十一屋。平八茶屋。高野村へ行く途中山端にあり。
  御前川上、わしや川下で……
 
  十日〔水〕雨
  平八茶屋(雨を衝いて虚子と車をかる。溪流、山、鯉の羮、鰻、)
  都踊
   うた〔以下は小さき女の手蹟なり〕
   ふとんきてねたるすがたやふるめかしおきてはるめくちおんいんのそのろーもんのゆーぐれにすいたおかたにあいもせですかぬきやくしゆーによびこまれ山寺のいりやいつぐるかねのこへしよーぎよーむじよーはまゝのかはわしはむしよーにのぼりつめ花のいたゞきどれいてみよー花はうつろをものなれどさこそおしけれおしけれさこそいろふかみぐさ。
 ○一力亭。藝者が無暗に來る。舞子が舞ふ。
 
斷片――明治四十年頃――
 
     一
 
 ○蜘味ノ圍ニ秋の日があたつて、一本、二本がきら/\虹ノ樣に五色ニひかる
 ○むらがる雲が。縁が銀の樣にひかる其なかゞ薄黒く。むく/\する。……風が出るね
 ○川へ這入つて、ずん/\行く。仕舞に首がなくなつたぎり出て來ない
 ○一膳飯を食ふ。男が向をむいて居る。
 ○赤ん坊をだく。首が下る
 ○錢化して石となる
 ○已みね。人。……已みね雲……
 ○夫婦喧嘩
 ○蜉蝣
 ○吾ハ詩人ナリ。食逃
 ○ 里の灯を力によれば燈籠かな
 ○※[鼠+吾]鼠 亂菊
 ○菊の瓣。不規則中の規則
 ○骸骨の躍
  日を重ねて月となし、月を重ねて年となし、年をかさねで墓となす。
  墓のなかに……
  「吾は骨なり」
  「吾も骨なり」
  「吾も骨なり」
  「吾は肉なり」
 ○新酒を△壺に入れて吾妹子待てば
     鳴くや※[虫+車]ちんちろり
  ……………………………
     ……………………………
 ○わが泣く聲は秋の風
     ――――――――――
  山より海より、
  山とも海とも
  知らぬ果より
  秋風が吹いてくる
  ごうと鳴つて吹いてくる
 
  山の方へ
  海の方へ
  山とも海とも
  知らぬ果の方に
  ごうと鳴つて吹いて行く
 
  蒼黒く、大いなる、
  限りなく、靜なる、
  海の底に
  赤い日が沈んだ。
  赤い日の玉が
  しゆつと云つて沈ち《原》だ。
     ――――――――――
  生れた、生れた
      御月樣より先に
  生れた生れた
      御星樣より先に
  御月樣より、御星樣より
  御「時」さんより御「暗」さんより
    とくの先に生れた
        本當にさうならようい。
  死んだ死んだ
      死んでも飯を食ふ
  死んだ死んだ
      死んでも酒は飲む
  飯を食つて、酒を飲んで
  話をしながら死んで居る
      大方さうだろ、やあい。
     ――――――――――
  惚れて、恨んで、泣いて、 《原》れて
    それから死んだ。
  死んで見たらば惚れる事も
    恨む事も泣く事も
      《原》る事も入らなくなつた
     ――――――――――
…………………………
…………………………
…………………………
 わが呼ぶ聲は――わが呼ぶ聲は
 あゝわが呼ぶ聲は――などて
      よみに――なにとて
      よみに聞えざる
 
     二
 
〔英文省略〕
 
     三
 
 ×京都へ落ちる。糺の森の夜。烏。時計。雨。正岡子規
 ×書法。臺山。
     ――――――――――
 大明竹。箱根竹。寒山竹
 矢竹。女竹。唐竹。業平竹
 シボ竹。シハウ竹。蓬莱竹
 胡麻竹。黒竹。眞竹。雲門竹。ハ竹。稚子笹。
 鳳凰竹。夜叉竹。スワウ竹
 タイサン竹。スヾ竹
 
     四
 
 米澤。
  風通大島。地紋織。刺子織。高貴松織。御召刺子。本糸刺子 平糸織。本風通。一樂。
     ――――――――――
  琴(菖蒲形)
  胴   南部産 無キズ
  包   象牙
  角   象牙無垢枕繰り出し
  百足足 象牙無垢
  猫足  全樣銀撞木
  丸口  象牙繰リ拔キ
  口前  金消シ金具象牙縁
  舌   象牙菊水蒔繪
  眞座  頭金消シ太座赤銅
  柱   象牙
 ○※[方+金]《原》六梳櫛。於六梳櫛
  外島毛筋立。峯張於六〇〇
  (品川形)
  朱月形吹寄。於初蒔繪
  貳拾金蝶形ルビー入束髪ピン
  半京形 [図略]
  後差  [図略]
  差込  [図略]
  平打  [図略]
     ――――――――――
  赤銅夜光貝研出し
  束髪横差
  團扇形簪
  玉虫貝菫形※[髪の友が包]どめ
 
  刷
  黒小町小形。白鹿毛小町
  牡丹刷。雲井形眉刷毛
     ――――――――――
  緋銅光悦好燈寵 [図略]
  達磨形鐵瓶   [図略]
  手取形鐵瓶   [図略]
  平寶珠形鐵瓶  [図略]
  紅瑠尺【一二】朝鮮形會席膳
     ――――――――――
  七寶
    小豆地○○模樣盛上
    瑠璃美人草
  洗朱沈黒會席膳
  宗利膳     [図略]
  流釉 赤釉
  淡路焼敷瓦
  蕎麥釉花生
 
     五
 
 ○ 春此頃化石せんとの願あり。
  エツツの metamorphosis ヲシタ後の想像。
 ○茫々たる平原。川。川を渡る。馬の群。
 ○〔英文省略〕
 ○遠き世の怒り。劍の音、矢叫び
 ○率いて死に赴く。(××の死)。死に赴くものは生を免かる。死を免かれんとするものは死を見て惡を免かる。
 ○世界を齧む。齧んで世界の髓に至る。
 ○世界の風。ドコへ持つて行かれるか分らない。うつかりして居ると
 ○月よりも長い命
 ○星洗ふ大なる波
 ○Jack London の犬の話あり。舊主人と新主人の間ニ立ちて犬が去就ニ迷フ struggle ヲ寫ス
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
     ――――――――――〜
 
     六
 
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
〔9頁ほど英文省略〕(203頁〜211頁)
 ○羊毛筆ノ必要。All possible phases of which the length of the brush is capable ヲ出スコトガ出來ル。尤モ多種多様ナル線ト其 combination ヲ作ルコトガ出來ル。
 
     七
 
 通俗 ○物、我(dual)
    ○時間、空間、數
    ○因果律
 眞實 ○物我(oneness)−succession of consciousness
    ○Life
〔2頁ほど英文省略〕
 ○Still,比較ノ出来ヌ程其作ノ ideal ガ prominent ナラザル可カラズ換言スレバ他ノ ideals ヲ破ル樣ナコトガ目ニツクベカラズ。現代ハ奈何
 ○四ノ ideals ノウチ Sensuous ヲ目的トスルハ一ニ過ギズ他は Sensuous ヲカリテアルモノヲアラハス。故ニ單ニ表面ノ description ヲコトトスベカラズ。Dessin ノミヲ終局ノ目的トスベカラズ。Dessin ハ means ナル場合多シ。文學者モ畫家モ彫刻家モ此弊ニ陷ルトキハ單ナル藝人トナル。Orchardson 仁王、――技巧以外ナリ。Art and Lit. ハ此點ニ於テ同ジ然シ
 ○繪、彫刻ト文學。Succession of consciousness。two factors
  Succsesson−literature.(重ニ)−time、Succession ノ ideal ハ movement、−其 movement ノ determined manner.――カク move セザル可カラザル如ク書ク。迷ハズ亂レズ遲疑セズ拘泥セズ。讀者之ニ從ツテ矢張リ迷ハズ、亂レズ……――故ニ此 succession ハ作家ノミナラズ讀者ニモ尤モ ideal ナリ。換言スレバ尤モ pleasant ナリ。故ニ此 succession ハ寸毫ノ disturbance ヲ受ケズ從ツテ他ノ Series of consciousness ヲ入レズ。從ツテ contens ト一致ス。物我ノ境ヲ免カル。Oneness ノ還元的傾向ヲ有ス。Time ニ govern セラルヽニモ關セズ、time ノ自覺ナシ(繪畫ノ筆、書家ノ書法、彫刻家ノ刀ニモ多少應用シ得)然レドモ繪、彫刻ハ重ニ space ノ延長ノミニテナル。比較的 time ノ必要ナシ。乃チ two factors ノ内ノ consciousness itself ノ内容ノミニテナル而シテ此 contents ガ space ノ relation 即チ arrangement ニ於テ寸毫ノ束縛ナク自由ニ出來テ居ルト觀ルモノハ矢張リ此内容以外ノ cons. ヲ容ルヽコトガ出來ズシ〔テ〕物我ノ一致ヲ得ル。スルト space ニ束縛セラレタル繪ニモカヽハラズ space ヲ超越シテ恍惚トナル。(Lit. ニ就テモ多少ハ同ジ)
  カクノ如ク藝術ノ極致ハ Sensuous ナルアルモノト一致シテ其モノニナルノデアツテ其 Sensuous ノ奧ニアルモノガアレバ Sensuous ヲ通シテ此アルモノト一致スル故ニ此アル物ガ高尚デアレバ自分ハ此間高尚ニナルノデアル。是ハ consciousness ノ differentiate セザル以前ノ oneness ト同ジ state デアツテ highly dihherentiation ノ後ニ至ツテ還元スルノダカラシテ大ニ趣ガ違フ。Dim cons. デ物我ノ境ガ判然セヌノデハナイ。Clear cons. デ物我ヲ免カレテ悲壯ニモ雄大ニモ高遠ニモ慈仁ニモ色々ニナリ得ルノデアルカラシテ是程功徳ノアルモノハナイ。無我
 ○Philosophers, scientist ハ吾人ノ Cons. ヲ Clear ニスル爲メニ whole ヲ分解スル。此分解シタ者ヲ Sensuous ノウチニ綜合シテ up to date ニ Clear ナル cons. ヲ replesent スルノガ藝術デアル。シテ見ルト philosopher ヤ scientist ガイクラ骨ヲ折ツテモ此結果ヲ人ニ inspire スル者ハ藝術デナクテハナラヌ。此 highly differentiated knowledge ヲ Sensuous ナルモノヽウチニ收メテ活動セシムル者ハ藝術家デアル。活動セシムルコトガ出來ナケレバ inspire スルコトハ出來ン。眞ノ reality ハ藝術家ノ手ニヨツテ仕上ゲラルヽノデアル。
 ○吾人ハ live スベキ tendency ニヨツテ subject ト object ヲワカチ。Succession of consciousness ニ choice ヲ生ジ、ideal ヲ生ジ、分岐シテ philosopher トナリ men of action トナリ又藝術家トナル。而シテ其藝術家ガ又色々ナ ideal ヲ作ツテ色々ナ手段デ自己ノ欲スル succession of cons. ヲ求メル。要スルニ皆 live スベキ tendency ヨリ出デ how to live ノ問題ヲ考ヘテノコトデアルカラシテ皆 practical interest ヲ有スル家業デアル其ウチデモ藝術家ハ以上ノ効果ガアルカラシテ尤モ世道人心ニ關係ノ深イモノデアル。世間デ之等ヲ閑人ノ如ク云フノハ大變ナ誤解デアル。藝術家モ閑人ト考ヘテハナラヌ出立地ヲ考へナクテハイカヌ。
 ○技巧ノミヲ考ヘルト此弊ニ陷ル(人格デアル)人格ヲ express スル爲メノ技巧デアル taste ヲアラハス爲メノ expression デアル。然シ difficult to separate 色ト形ノ如シ。無技巧ノ内容ハキカズ。今ノ人ガ文章ヲ構ハヌト云フアレハ大ナル間違デアル(繪カキノ方デハ夫レ許リ構ツテ居ル樣ダ)。例
 ○〔英文省略〕
 ○故ニ内容ハ技巧ニヨツテ intensify セラレ visualiz eセラレ且ツ明瞭ニナル。而シテ明瞭ナル意識ハ吾人ノ生活ニ必要デアル實用的ナモノデアル(一種ノ意味デ云フ)カラシテ之ヲ neglect スルノハ自カラワガ持ツテ生レタ tendency ニ遠カル樣ナモノデアル。之ヲ無用ト云フノハ愚ノ極デアル。
 ○夫デ技巧ハ必要デアルガ其必要ナルハ contents ヲ發揮スル爲メデアルノデ(技巧其モノガ必要ノ度ヨリモ、今ノ文學者ノ一部又ハ畫家ノ云フ如クナラズ)アルカラ吾人ハ第一ニ技巧ノ内容タルベキ ideals 即チアル者ニ向ツテノ sentiment ヲ養成セネバナラヌ。此アル物ハ智カ仁カ勇カ人ニヨリ時、場合ニヨツテ異ナルノハ無論デアルガ要スルニ藝術ノ爲メノ ideal ト云ハンヨリモ life 其モノニ於ケル ideal ニシテカネテ藝術ノ ideal ト云フノガ適當デアル。life 其物ノ ideal デアレパ人間トシテノ ideal デアル。Sentiment デアル。即チ人格デアル。此人格ガアツテ始メテ之ヲ立派ナ技巧デ expless シタ時ニ人ヲ物我一致ノ極ニ誘ツテ還元的眞理ヲ悟ラシムルト共ニ複雜ナル今日ノ develop シタ ideal ノ領分ニ入り込マシメテ之ヲ感化セシムルノデアル。
 
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○番一※[火+主]。   ○謡曲《老人》、鼓《少女》。
 ○髑髏、紅紐 萱の原。  馬車、追人、御者。
 ○緋櫻、渡シ。      ○女(上)――男(下)
 ○介錯          ○入畫、出畫《−――○――ヲナゲル》
 ○マジヨリカ皿      ○緑竹
 ○叡山          ○暗中銘を給はる琵琶の春寒
 ○松蟲          ○Finale
 
     八
 
 ○物のessence ヲ represent スルト云フコトハ此人ガある consciousness (俗ニ物ト名ヅクル)ノ一部分即チ feeling ヲカクト云フコトデアル。而シテ此 feeling ハ此物ニ對スル cons. ノ主要ナ部分デアル即チ reality ノ大ナル物デアル文藝ハ之ヲ represent スル
 ○Whole ナ consciousness ヲ寫スコトノ効果ハ――古人ノカイタ物ガsimple デ whole ヲ grasp スルモノヲ喜コブノデモワカル。
 ○Whole ナ consciousness ハ experience デキマル。故ニ此還元的ニ悟入シタ人ハ何ヲ見テモ何ヲ聞イテモ不思議ニ思ハヌ。Causal relation ニ反シタ consciousness デモ平氣デアル。如何トナレバ Causal relation ハ cons. ヲ綜合シテマトメタ abstraction デ consciousness 其物ノ方ガ本デアル real デアル。此 real ナル者ニ causal relation ヲ破ルモノガアレバソレガ real ナノデ causality ガ false ナノデアル。少シモ不思議ガルニハ當ラヌ。俗人ハ causality ハ independentニ exist シテ居ルト思フテ其 conception ト自己ノ cons. ト一致セヌト却ツテ自己ノ cons. ノ方ヲ疑フ。之ハ本末ヲ誤ツタ議論デアル。Causal law ハ矢張り便宜ノ爲メニ作ツタ abstraction デアル。之ヲ assume シテ矢鱈ニ應用スルノモ矢張り一時ノ便宜ニ過ギヌ。自己ノ cons. ガ real デアル以上ハ何モ疑フ必要ハナイ。
     ――――――――――
  姫百合に筒の古びやずんど切
     ――――――――――
  いかり草。露草(セレリノ類)
  小町菊 おいらん草 ホトヽギス草 夏雪。ギボシ。紫苑。檜扇。蘆
  苑 嫁菜。
     ――――――――――
  四月二十八日
  かやの原。野うるし。馬の足形(金米糖)。櫻草。擬寶珠。
  原の遠景。白帆。遠くの森の若葉ニ微茫たる光線。士女の點々。
     ――――――――――
  荒川境の櫻
     ――――――――――
  鷺草。白菫。嫁菜。おんばこ。
  ×Problematic Interest.
  ×Eternal Interest.
  雅號
  肝膽相照らす。
  血で洗ふ。
  死は眞である。
     ――――――――――
  宗近 二十八
  甲野 二十七
     ――――――――――
  動かぬ山
  動く雲
  古今を貫
     ――――――――――
 ○夏の眞夜中の東京市
  ×電車のレール
  ×縁日の植木屋の歸り。無提灯
  ×夜通しの、御でん、かん酒、
  ×電柱にしばりつけた廣告の巡り燈籠。
  ×往來に黒い帽子が落ちてゐる。――車へ乘つて居眠をしてあるく。帽子が落ちて知らずにゐる。
  ×電燈の點々
 
  借家探し
 ○西片町を出る理由
 ○富士前町ノ家
 ○大久保(五六間、)
 ○千駄ケ谷(成金趣味)
 ○カラ橋ノ家
 ○原町。二十圓 毫所ノツキ合せ。十五圓デ暮シテ居ル人モアル。十圓 塚本靖ノ前。飛ビ上ル
 ○曙町。香村小録ノ二階。池田菊苗の舊宅。池田菊苗の隣。倉を建てゝゐる家。將軍 中將ノ家。松ノアル家。裏カラスツカリ見える家。昨日の晩空いた家。ハドレダ。
 ○小石川。閉門ノ家ヲ覗イタラ書生ガ本を讀ンデゐた。――千駄ケ谷へ越した家ヲ聞いたら叱られた。新しい家に爺が草を取つてゐたから聞いたらもう。ふさがつてゐた。
 ○動坂の別荘 當分カサナイ
 ○上富坂町 八ガ四、六ガ一、三ガ一、二ガ一デ四十圓ト云フ
 ○金鷄書院が八十五圓だと云フ
 ○磯村が九十圓だと云フ
 
 ○大久保 戸川秋骨。雨。
  千田貞幹のうち
 ○動坂。小糸。松波ノ家
 ○千駄ケ谷。八圓ノうちありと踏切番人云ふ。
  徳大寺ノ屋敷。
 ○伊勢屋ノ親方ニキク。八幡神社
 
     九
 
〔英文省略、一部日本語あり〕
 
     十  (『坑夫』素材)
 
 ○前橋
  夜九、大宮ヘ夜二時、神樂殿 三時間寐タ。
 ○松並木掛茶屋、草鞋バキの筒袖ガ呼ブ。働カヌカト云フ。腰ヲ掛ケル。儲ロアリ。足尾ノ銅山。始メカラ工夫ニナレル。――日光ノ山奧デ人ニ顔ヲ合ス必要ナシト思ヒ行ク。其男ト前橋カラ※[さんずい+氣]車ヘ乘ル。宇都宮(暮方)。ソコデ通リ掛ノモノト小供(十三四)二人ト共ニ出發(日光へ)。
  雨ノ日 夜日光ヘ着ク。ダイヤガハヲ溯ル。草鞋店ヘ這入る。其男主人ト話ス。此カラ峠ヘカヽルノハ難義ダカラトテ寐ル。夜着モナシ。殆ンド野宿。翌日足尾着。草木モアルガ段々赤クナル(馬返シ前カラ左ヘ折レル)
 ○午後一時飯場ヘ着ク。(足尾橋ノ左ガ「シキ」ニナル。段々 右ノ方ガ役人ノ住居。「シキ」カラ出ル「レイル」ニ就《原》テ行クト工夫の長屋が澤山アル。三、六疊。長屋カラ右ヲ見テ左ニ銀山平ヲ見テ上ル。石崖ノ上ニ大キナ長家。顔色のイヤナ男ガ顔ヲ出シテ居ル。
 ○ポンピキノ林ガ飯場頭ト問答ス。飯場掛ガ云フ。工夫ハ六づカシイ。歸レト云フ。兎ニ角歸レナイ何デモ使つテ呉レト云フ。ト使フニ忍ビヌト云フ。足尾デ働ク氣ダカラ是非使つテクレト云フ。二階へ案内。ユ《原》ルリガアル婆サンガ居ル。火ガカン/\アル。休ミノ工夫ガ澤山居ル。皆異樣ノ顔ヲシテ居ル
   御前ドコカラ來夕
   僕ハ東京
   僕ナンテ云フカラ書生ツ坊ダラウ。
   女郎買の結果。此頃書生の風儀ガワルイ。ソンナ奴ニ辛抱ハデキヌ。歸レ。
  中ニ二十七八ノ美《原》目正シキ男。人品普通ナラズ ナゼ來タカ。決シテ儲カル所ニアラズ。食詰者ノヨル所ナリ。歸ツテ新聞配達ヲシロ。元ハ自分も學校ヘ行ツタ。遊廓ノ結果。書生ハ皆やメル。君モ歸レ。
 他ノ工夫云フ。――「此社會ニハ夫々掟アリ。呑込ンデ置カナクツチや困ル」
  「親分トハドンナ者カ」
  「仕樣がねえ奴ダ――。兄弟分モ居ル。ダカラ。金ナンザタマラネえ。歸ルガイヽ。
  皆口々ニ歸レト云フ
  所ヘ婆サンガ來テ飯ヲ食ヘト云フ。箸ヲ米へ掛ケ樣トスルト飯ガスベル。飯ニツヤガナイ。南京米。壁土ヲカム樣デ。一箸デ驚ロイタ。工夫ガ笑フ。銀米ハ御祭日。我慢シテ一杯。
 
  夕暮近ク工夫ガ段々歸ル「カンテラ」ヲ提ゲテ泥ダラケ。又色々ナ事ヲ聞ク。嘲リ。其日ハ夫デ寐ル。晩ハツカレテ足ハ棒ノ樣デアル。情ナイト思ヒナガラ寐ル。スルト身體ガ針ヲ刺ス樣ニチク〔チク〕スル。眼ガサメル。カラダヘ手ヲやルトザラ/\スル。皮膚病カト思フ。光デ見ルゾロ/\シテ居ル。カラダガカユク痛クナル。ツブスト青臭イ。
  向ヲ見ルト柱ヘ布ヲツツテ人ガ寐テ居ル。ソレカラ起キタガ。下ハ騷イデ居ル。ノデイやニナル。仕方ナシニ着物ヲ着テ起ツテ柱ニ倚ル。夫デモ足ヘ這上ル
  夜ガ明ケタ。雨ガ降ル。四方共赤イ山。工夫ガ出テ行ク。笠。腰ヘ藁ヲツケテ三々五々行ク。自身モアンナニナルカト思フトイやニナツタ。
  下カラ工夫ガ上ツテ來ル親方ガ呼ンデ居ルト云フ。親方ノウチヘ行ク。是非居タイト云フカラ。穴ヲ見テカラニシロト云フ。「此儘デイヽデスカ」「イケナイ。着物ヲ持ツテ行ツテやル」
  飯場ニ歸ツテ居ルト親方ノ小供ガ着物ヲ持ツテ來タ。ジメジメシタ土ノツイタ着物ヲカシテ呉レル。
〔カンテラなどの図と説明省略〕
  案内ニツレラレテ行ク。長屋の窓カラ昨日のダト云フ。
  シキヘ這入ル。※[さんずい+氣]車の隧道ニ電車ガ通フ。高五尺
  第一見張所ヘ行ク。「カンテラ」の光デ。水ガジイ/\ト落チル。耳ヲ澄ストカン/\ト行《原》ク。「茲ラハ地獄ノ三町目位ダト」工夫ガ云フ。少シ下リテ左ヘ周ルト巡査の交番ヘ出ル見張所。工夫ガ待ツテガや/\シテ居ル。見張所ニハ役人ガ三人居ル。六時ガ來ル。第一坑ヘ下ル。
  這フ所。腰ノ方カラ這入ル所。愛宕の坂ノ樣ナモノガイクツモアル。
  此度ハ穴倉。アカリヲ用意シロ。先ヘ下リル。猿ノ樣ニ下リル。
  楷《原》子ハ眞直幅八寸位。階ノ間ハ八寸位。障《原》ルトヌル/\スル。ヘナ土がツク。草鞋ノ土ヘ清水ガ落チル。
 工夫ノ姿ガ遙カニ見えタノガ仕舞ニハ見エナクナツタ。種油ガジイト水デ消えかゝる。
  ハシゴガ十五程ツナガル。ト休ム處ガアル。ソコニ工夫が待ツテ居ル。ソコヲ這フ樣ニ先ヘ這入ルト又穴ニナル
  「下リラレルカ」
  「下リマス」
  「デハ」
  ト又先ヘ行ク。斯ノ如キ者三四ニシテ二番坑ニツク。ソコハ廣イ。材木ニ腰ヲカケタ工夫が五六人居た。是ハシチウデアツタ
  「新米カ」
  「又新規ダ」
  腰ヲ掛ケテ見ルト「アテシコ」ノ便宜ナ事ガ見エル。(アテシコ〔四字傍線〕 中デ腰ヲツク時ノ用意)
  「何處ノ達磨……
  「アスコヘハ新シイ玉ガ來タ
  「アレヲ買ツタカ
  「御前ハドコカラ來タ
  「何シニ來タ。金ヲ儲ケル氣カ」
  「ヨシンバ殘シテモ足尾ノ金ハ足尾ヘ戻ル」
  「ナゼ」
  「足尾ニハ神樣ガ居ル」
  「何デス」
  「足尾の神樣ハ達磨ダ」
  「ダカラ歸レ。
  夫カラ見廻リガ來ル。皆作業ヲスル。
  「シチユノ説明」
  二番坑ヲ下ル。必死ノ苦シミデ八番坑ヘ下ル。
  ホリコガ銅ヲ箕ニ積ンデスノコヘナゲ込ム。
  八番坑ハ水ガ腰キリアル。「ナレヽバ此所ヘクル」ト云フ。
  上ル時ノ方ガ困ル。
  下ルトキ身ガ前ヘ出ル。上ル時ハ身ガ後ヘ落チル樣ニナル。
  七番へ出タラ呼吸ガ變ニナツテ。ホノホノ樣ナイキガ出ル。「休メ」ト云フ
  「自分ハナゼコヽデ働カナケレバナラヌカ」ト思フ
  「モシ人間ラシクシテ居レバコソ。必然ノ結果デアル」。涙グム。
  「ドウシタ。苦シイノカ」
  「苦シイ」
  「到底アシタハ作業モ出來マイ」
  「毎日此所迄下ルノデスカ」
  否 二番、三番、――
  デハ大丈夫デス マギラス。足ノ勞レデス
  ドコカラ來タ
  東京カラ前橋迄、昨夜モ南京蟲
  夫ハ氣の毒ダ。モツト休。己ハ遊ビニ行ツテくる
  夫から一人で稍二十分許居ル。萬感|喟《原》集。
  ヤガテ來テ
  「ドウダ。氣持ハ直ツタカ」
  「ソウカ。夫ヂやノロク上ツテやラウ」
  矢張リ工夫ノアカリガワカラナクナル。暗クテイやニナル。一層手ヲ放シテ落チテ死ンデ仕舞フカト思フ。始メテ浮世ノ苦痛ヲ感ジタ。又思ヒ直シテ上ル。(日光ガ出タ。ドウセ死ヌナラ。日光ガアル。コンナ畜《原》生ノ樣ナ人間ノ所デト思ヒ直シテ猛進シタ
  六番坑ヘ出ル。工夫ガ待ツテ居タ。アマリ遲イカラ死ンダカト思ツテモヂ/\シ〔テ〕居タ
  「ドウシタ
  「メマイガシテ楷《原》子の途中デ休ンデ居タ
  「おれは驚ろいた。さがしに行くだれか誘つて一人では氣味ガ惡イカラ」
  自分ハ決心ガアルカラ
  「スグ上リマセウ」と云フ。工夫はケヾンな顔をする。
  「デハ上ラウ」
  自分ハ夢中デアル。怖イ事モ何モナカツタ。無暗ニ上ル。
  三番坑ヘ上ル。廣イ所デ休ム
  工夫曰ク「アシタカラ此所デヤラセラレルダラウ」成程一番奇麗だ仕事ハシイヽダラウト思ツタガドウセ廣カラウガ狹カラウガ構ハナイ。コンナ工夫ノ樣ナ奴ニト
  「スグ上ガリマセウ」
  「馬鹿ニ元氣ダナ」ト妙な頚をする
  無言ノ儘手ヲカケル
  「イケネえ/\」
  今度ハ無暗ニ早い。此度ハ少し廣イ所へ出たが工夫ガ見えぬ
  工夫ガ怒タト見える。坑のなかをまごついて居たら。坑夫の仕事をして居る所へ出た。五十許ノホリ子が居た。聞かうと思つたら妙な顔をして居る。蒼ぶくれ。きく勇氣がなくなつた。こつちの坑夫のそばへ行つて腰を卸す(銅をつめた藁俵の上)
  「何をしやがるんだ」
  びつくりして立ち上がる。坑夫が振り向いて來た。少し怖くなつた。
  「手前は新規だな」
     ――――――――――
  「ひでえ奴だ。よし/\己が送つてやるから待つてゐろ」
  腰をかけて待つて居たらカン/\云はして烟草をのむから待てと云つて、自分の前でアグラをかく。見ると尋常の顔である。ナツカシイ氣がする。人間の樣である
  「御前はどこだ。何しに來た。からだつきはすらりとして居る。どうして來た」
  彼考へて云ふ。
  「己達の云ふ事だが龜の甲より年の功だ――若いうちは皆失敗するもんだ。青年は情の時代だ。情に走る。だから察しる。然し敢て咎めない。己は盛岡のもので中學へ這入つた。夫から二十三の時花柳の巷へ入る。容易ならん犯罪を犯してゐる。社會に容れられない。夫が爲め學問も成功も抛つた。自覺した時は遲かつた。其時考へた。甘んじて制裁の手に捕へられやうか。然し逃げ度から逃た。此足尾へ來たのは六年前だ。もう一年で消える。社會の制裁は消えるが罪惡は消えぬ。こゝへ來て目撃するに就て人情や何かをよく考へる。然し世の中は猶苦し〔い〕から辛抱してゐるうちついなれて仕舞つた。なれて見ると娑婆へ出る氣はない。自分の兄は服岡日報の主筆だ。――どんなものがどんな目的を持つて來ても目的がなくなつてなれて仕舞ふものだ。夫が君の爲に悲しむ所だ。だから東京へ出ろ。自分は社會の爲に悲しむのだ。こゝは墓所だ。葬る所だ。坑夫になれば埋つたのと同然だ。故に君を殺すに忍びないから親にあやまつても、獨立してもやれ、旅費がなければ出してやる。己は中村組ニ居る。金さんと云へば分ル。シキの外に送り出してやるから、あとで一返來い」
  此男に説かれて落涙。自分がかく墮落しても人を救ふと云ふのがある。かう云ふ人があるのに何が故に自分が死ぬ事になつたのか
  此に於て翻然志をひるがへす。親は氣強い事を云ふが死んだら裏面では嘸悲しむだらう。
  そこで自分は飯場へ歸つた。先の案内者が長屋の前に立つてゐる。
  「どうしたい。よく上れたな」
  夫から飯場でヰロリの傍で雜談の中で考へた。――坑夫自身がわるいのではない。わるいならばあんなやさし〔い〕心はあるまい。屹度社會の境遇の爲に犠牲になつたのだらう。非常に氣の毒だ。旅費抔を借りる譯に行くものか。自覺してかせいでゐるのは實につらいだらう。其金を使つて歸るのは面目ない。斷はらう」
  三時の交代を待つ。其内親方から呼びにくる。親方云ふ
  「出來るかい」
  「出來ます」――此はさきの決心から來た。
  然らば醫師の健康診斷が入る。四時迄に。札をもらつてくる。
  シキノ手前の長屋の二町程前ニ青い塗の病院がある。行つた。受付へ出す。受付の二十三四位な奴が余の顔を見る。
  「御前かい」
     ――――――――――
  「此所へ廻れ」
     ――――――――――
  診察室へ入る。始めて椅子へ腰をかける。藥品の臭がする。
  「これは藥だ。死に關係してゐる。自分は健康がわるくなつてゐる。屹度此病院デイやナ臭のする藥を飲むだらう。此藥で癒ればいゝがどうも癒りさうもない。どうしても死ぬ。して見れば死にゝ來たのだ。情ない。然し今更……。とう/\足尾の土になるのか。」
  戸があく。靴の音がして前へ廻つて來た。
  「御前が荒井か」
  「ドツカラ來た。職業はなにか親のスネを囓つてゴろ/\して――」
  「ゴロツキカ」
  「まあそんなものです」
  「着物を脱げ」
  呼吸を見る。鼻を抑へて。
  今度は鼻からいきをさせる。
  自分の手を鼻の下へあてゝ。
  嘲弄的「駄目だ」
  「駄目でせうか」
  落膽もない。驚も悲もなかつた。「一體何です」「今かいてやる」
  「きかんし炎かたる」
  もう駄目だ肺病の下地だ。其時の心は平氣であつた。色々の事は自覺してゐるが平氣である
  飯場で親方へ出すと
  「夫だから東京へ歸れ。旅費はやるから
  「自分は決して歸らない。何でもいゝから使つてくれ
  「夫は無理な事だ」
  自分は悲しくなつて涙が出た。
  「小使でも掃除夫でもいゝ」
  「では考へてやるから待て」
  飯場へ歸る。みんな雜談に耽る。胡坐をかいて考へてゐる。坑の中の坑夫の事を考へる。五時頃雨を冒して金さんの所へ行く。小林組へ行く
  「近《原》さん誰か來たよ」
  逢ふ。
  朝の事に就て考を云ふ。「無斷で金をもらふ事はいや。どうしても足尾へとまる氣だ」
  穴のあく程見た近さんは
  「ではおれの云ふ事をきかないのか」
  自分は醫師から……
  死は目前だから、歸る事はしない
  近さんは涙を流して「では仕方がない。自分は何も云はない。何でも働くがいゝ。休みの時は時々遊びに來い。」
 
  其足で笹又組の親方を尋ねたら
  「丁度いゝ所がないが、氣の毒だから帳つけ」に傭ふ。
  帳つけは向で食つて湯に這入つて月に四圓也(飯場の帳つけ)
  「それでいゝから」夫から飯場へ坐つた。夫から坑夫が大に丁寧になる。益獣的の感を起す。獣類の中で死ぬかと思ふ。
  毎日帳つけをして醫者へ通ふ。ポンビキが毎日小供なんどを連れて來る。
  其内病氣が直る。飯場の飯が食へる樣になる。直る確信につれて東京へ歸り度なる。(七月)四圓の金が多少あまつたのを小供抔にやつた。が歸らうとなると小供に金をやり度なくなつた。夫から金をためて歸つた。
 
 ○長屋八十人許圍爐裏二。二階。
  蒲團二枚(三錢宛一枚)
  飯代十四錢五厘(朝御汁一杯)
  豆等一杯(二錢五厘)
  日當三十五餞(ホリコ)
  坑夫(請負)五六十錢
  ヤマイチ(坑夫候補生)
  シチウ(大工)
  五分ハ親方ガトル。
  長屋持ノ小供ハ十二三カラ「ヤマイチ」ニナル慾バカリデアル。
 ○妻を抵當に入れる。獣慾ノミ。
 ○病氣の時ハ半分ノ日當
 ○ジやンボ。ハやシ立テル。御經ヲ歌ヒナガラ供ニ立ツ。
 ○一日ニ一人位死ヌ。五六人ノ事モアル
 ○馳ケ出しは五六日 這入るものも五六人
 ○惣勢一萬人
 ○歸る時衆人ハ猜疑ト侮リの眼を以て送つた。草鞋錢をくれる。小供は物をやるとなつく。慾でなつく也。愛情にあらず。
 ○歸る時近さんの云ふ决して手紙を送るな。决して手紙を出さない。
 
斷片 ――明治四十年、四十一年頃――
 
 ○Relation カラ起ル beauty.
   1) Formal.――Propotion
   2) Substantial−
 例ヘバ小説
     第一篇――第二篇―― 第三篇
 二ハ一ニ depend シテ面白ク。三ハ一ト二ニ depend シテ面白イ必ズシモ independent ニ面白クナクテモヨイ。カヽル場合ニ起ル面白味ハ relation ヨリ起ルナリ。relation ノ面白味ニハ (1)causal 是ハ時ニ refer ス。(二)ガ(1)ノ evolution トシテ出テクルコトヤ。(2)ガ(3)ノ cause ニナルコトヤ。凡テ是ニアツテハ時間ノ function デアル。(2)は spacial 是ハ Lessing ノ 所謂 pictorial ナル者ナリ。 Lessing ハ poetry ノ essence トシテ時ニ《原》入レタリ。然レトモ必ズシモ同時ニ起ル objects 若クハ incidents ノ pleasure ヲ picture ニ限ル必要ナシ。(一)(二)三)(四)(五)ガ時間ノ關係ナク小説ノ chapter トシテ排列セラレタルトキニ其排列ノ順序如何ニ因ツテ pleasure ニ差違ヲ生ズルコトハ疑フベカラズ。Harmony、contrast,Veriety、Unity ノ感ヲ起スガ如シ。此ウチニ objective relation ト subjective relaftion トヲ區別スルヲ要ス。双方共 pleasure ナリ。ob.Relation トハ時ニ於テ(1)(2)(3)ト causality ヲ結バザルモ(1)(2)(3)(4)ノ各 chapter 若クハ element ガ其自身ノ性質上互ニ關連スルナリ。subjective relation トハ其 chaapter ヲヨム人ノ心ニ感想ノ relation ガアルノミニテ(1)(2)(3)(4)ノ chap. ノ contents ニハ objectively ニ relation ナキモ可ナルナリ。
   ○小説ニテ chaaracter ノ evolution ヨリ出来ル
         pleasure ハ時ニ depends
   ○    Inncident ノ evolution ヨリ出來ル
             pleasure モ時ニ depend ス
   ○picaresque novels or Romance ヨリ出來ル pleasure ハ causal ナラズ。Picture ノ series ヲ見ルガ如キ者ナリ其 each picture ガ面白ケレバヨキナリ。plot ガナクテモ causality ガナクトモ構ハヌナリ。
   ○Novel トサヘ云ヘバ evolution ト離ルベカラザル者ト思ヘリ。然シ Evolution ナクシテ面白キ者アルヲ忘レタリ。忘ルヽニアラザレトモ譯ガワカラヌナリ。
   ○Objective Relation ニヨリテ興味ノ變化スル場合
〔英文省略〕
  是ハ悲壯ナル感ジヲ起ス句ナリ。然シ其悲壯ト云フ意味ハ Oth. モ Iago モ dead earnest ナルコトヲ presuppose セザル可ラズ。同時に noble cause ニ身ヲ委ネルコトヲ presuppose セザル可ラズ。出來得ベクンバ Oth. ト Iago ガ君臣ハ刎頸ノ盟アル義士ナルコトヲ Presuppose スルコトヲ要ス。若シ然ラザレバ悲壯ノ感ハ起ラズ。所ガ實際ハ Iago ハ earnest ナラズ Othello ハ earnest ナレトモ noble cause ノ爲メニ earnest ナルニアラズ。
〔図省略〕
   ○Objective Relation (1)Othello ノ場合○ハ Othello 全體ヲ示ス△ハ Othello ノ此句ヲ意味ス。スルト○‥△ノ興味ハ○ノ性質如何ニヨリテキマルナリ。Iago ノ△(句)ノ興味モ彼全體ヲ示ス○ト此句△トノ relation ニヨリテ大變異ナツテクル。又 Othello ノ全體○ト Iago ノ全體○トノ性質ニヨリテ其對話(即チ上ノ二人ノ句ヲ sum シタル者)全體ノ興味ハ異ナツテクル。
   同書 Act III sc.IV. ニ Othello ○ガ Desdemona ノ手ヲ見テ暗ニ自己ノ怨恨ヲホノメカシテ其貞節ナキヲ見露ハサント力ムル所アリ。
〔英文省略〕
   是ハ Hamlet ノ Ophelia ニ對スル語ト同ジ樣ナ感ヲ起ス(單獨ニ見レバ)然ルニ事實上ハ左樣ナ感ガ起ラヌノハ失張 Othello ナル全體○と△ナル此語ノ relation ガ Hamlet ナル○ト△ナル Ophelia 對ノ語トノ如キ relation ヲ有セザレバナリ
   ○Othello ノ case デハ Othello ハ Des. ノ心ヲ見拔クノガ主意デアル。此語其者ハドウデモヨイ。此語ヲ借リテ自分ノ主意ヲ貫ケバイヽカラ。此語ニ importance ハ attach シテ居ラヌ。夫ダカラ、探偵的ナ文句デアル。毫モ感情ガ起ラナイ。pathetic ナ心細イ憐レナ感ガナイ
   ○Hamlet ハ Ophela ニ對シテソンナ探偵的態度ヲトツテ居ラン。彼ノ云フコトニモシ虚僞ノアル者ガアルトスレバ夫レハ自己ヲ隱ス爲メデ消極的デアル。Othello は積極的ニワルガシコク〔六字傍線〕出テ居テ居ルニ反シテ Ham. ハ自衛的不得已的ノ中ニ大ニ同情ヲ表スベキ所ガアル
   ○Ham.ノ Ophelia ヲ愛スルハ Othello ノ Des. ヲ愛スルガ如クデアラウ。然シ Ham. ノハ他ノ dutyノ爲ニ Oph. ヲステルノデアル。其ウチニハ一種云フベカラザル forlorn ナ所ト邪見ノ樣ナ底ニ纏綿ノ情ヲ想見スルコトガ出來ル。Othello ハ Des. ヲ罰シ樣ト云フノデアル。彼ノ語ノ hysteric ナルハ bloody ナル hysteric デ幽玄ナル情緒ガ突梯ナル言葉ヲカリテアラハレタ者トハ見ヘヌ。Sacrifice ノ言語ニアラズシテ利害ノ念。得損ヲ含ンダル商買的ナ文句デアル。
   ○此 Evolution ト Pictorial ノ關係ハ短《原》ニ小説抔ノ vhapter ノミナラズ。Paragraph ニモアリ
   ○Paragraph ノ evolution ハ order ナリ one sentence ガ naturally ニ another sentence ニ follow スルコトナリ。Naturally トハ如何。
    1)Naturally ノ meaning ハ intellect ノ law ニ逆ハズシテ logical requirement ヲ fulfil スルコト一ツナリ(小説ノ chapter 抔デ character ノ evolution ガ自然ナリト云フノハ多クノ場合ニ於テ矢張リ Empirical ナ intellectuall law 即チ今迄ノ experience ヲ sum up セル者ヲ repeat スルガ故ニ natural ナル場合多シ)。又 logical sequence ノ自然ナルハ Matthew Arnold ノ例ヲ見ルベシ
    2)Emotion ノ law ニ逆ハズシテ之ヲ fulfil スル Order ナリ。one sentence ト next sentence ノ relation カラ生ズル emotion ガ hitch ヲ感ゼヌ場合ナリ。此場合ニハ logical sequence ヲアル程度迄 neglect スルヲ得。アル Poem ノ如シ
   ○Paragraph ニモ evolve セザル者アルカ? 矢張リ只ニ連續セル者ニテ intllectual ニモ emotional ニモ relation カラ pleasure ノ生ゼヌ者モアリ得ベシ。即個々ノsentence 丈ノ emotional or intllectual value 丈デモツ者。Carlyle 又 Emerson ノ如キハ其例?
 
   ○Greek ノ symmetry ヲ重ンズル議論。Aristotle ノ plot ニ重キヲ置ケル議論 參考
   ○Addison ノ Imagination ニ appeal スルト云フ criticism(Locke ノ Association of Ideas ヨリ脱化?)
   ○Aristotle ノ無象ハ Plot ハ relation ニ過ギズ而モ action ノ relation ナリ。又 aim アル action ノ relation ニ過ギズ。
 
   ○結構
   ×人間の activity の普通の活動を陳腐なりとして、異常の活動を寫さんとするときには此異常の活動を possible にする situation が入用である。此 situation を作るのが結構の一〔右○〕ノ目的である。だから此目的の爲めの結構は自然を缺いても無理でも仕方がない。思ひ通りの situation ニナレバヨイ。(Merchant Of Venice の Antonio が一度に多數の船を失ふが如きを云ふ)
   ×結構其ものが目的の場合がある。人間はまとめる事が好である。生存競|存《原》上の必要にせまられて、まとめつゝ進んで來た習慣は何事をも(生存競爭に必要のなき事迄も)まとめたくなる。
    自然は存外まとまらぬものである。だらしのないものである。之をまとめたがるのが人情である。從つて此人情を滿足きせる時には不自然になる事がある。それでもまとめる方を好む場合がある。結構を目的にする場合にも(此故に)自然を標準にする事は出來ん。よく纏つたと云ふ事を標準にする。
   ×此場合に於では孔明、正成の軍略を賞する如く結構をほめる。孔明や正成の軍略は自然ではない。自然を離るゝ尤も甚しき人工的のものである。あるにも拘はらず如何にもうまいと云つてほめる。結構も此態度から其 skill や ingenuity をほめる。自然と隔たれば隔たる程ほめる場合がある。
   ×從つてまとめる爲めには作中の人物の自由行動を束縛する事がある。多人數會合の相談の際に多人數を自由に働かしては決してまとまらない。まとめる爲めには壓制が必要な場合がある。無理でもまとめる場合がある。小説も其通りである。
   ×まとめる爲めには人事上一人の權力に自己の自由を委任する事が必要な時がある。從つて個人主義の世界には纏まりがつかない事が多い。個人主義に渇仰するとまとまらなくても仕方がないとあきらめる。まとまらないでも自由行動がいゝと云ふ氣になる。從つて、まとまらないもの事を見聽しても左程氣にかゝらない。
   ×此傾向が自然と小説にもあらはれる。乃ち讀者が小説に對して「まとまる」事を要求しなくなる。作家も無理にもまとめる事が必要でないと思ふ樣になる。從つて結構はまとまらないでも作中の人物が其性格に應じて自由自然に働らく樣にする。
   ×花其ものは小説の内容である。活花の方法は結構である。Arrangement が面白いのは結構其ものが面白いのである。此結構の爲めに花が引き立つのは結構を方便にした場合である。此花と他の花を配するのは結構の一である。その爲めに甲の花が乙の花に關係して互に美を發揮するとせば結構は方便である。甲は甲で面白く、乙は乙で面白ければ結構其物が面白いのである。甲はつまらないが乙を添へて始めて面白くなるのは結構……。甲も面白い、乙も面白いが並べると御互に害をするのは結構がまづい
    單獨の價値、Relation ノ價値。照應、contrast 云々
    Proportion。變化。unity。繁簡の對
〔図省略〕
   ○Great literature ハ tragic ダト云フ。或人其意味を説明して final ダカラト云フ。是ハ eternal ナ落着ト云フ義カモ知レヌ(Hale ノ Dramatists of To‐day ヲ見ヨ)。余思フニ tragedy ハ人ヲ眞面目ニスル。(是は誰モ異議ハアルマイ)然シソレガ何故 great ニナルカ。眞面目ニナツタ時始メテ人間の moral being ガ活動スルカラデアル。人ニカラカツタリ、人ヲイヂメタリシテ不埒ヲやツテ恬然タル動物モ其人ガ惨死ヲ遂ゲルトキニ始メテ悚然トシテ本來ノ我ニ歸ルカラデアル。
    喜劇ガ忽然ト悲劇ニ變ズルハ此時デアル。 life ノ positive side ヲ無暗ニ stretch シテ行クト急ニ negative side ニ歸ル。其時彼等は始メテ life ニモnegative side ガアルカト氣ガツク。life ハ唯一ノ目的デアル。而シテ positive ノ方面ニ進ンデ種々ナル quality ヲ introduce スルノ結果は人々皆 absurdity ニ陷ル。彼等は life ハ何ニ耽ツテモ、如何ナルコトヲシテモ absolutely ニ secure デアルト自覺スル。所ガ positive ノ方面ニ無暗ニ進行スルト彼等の第一目的タル life ノ bare existence ト矛盾スル。彼等ハ此矛盾ト當面ニ相見エタトキ始メテ生活ノ第二意義ヨリ第一意義ニ歸ル。而シテ自己の行動の從來ハ輕佻デアツタト云フコトヲ切實ニ自覺スル。如何トナレバ彼等ハ今迄生活の第二意義の爲メニ第一意義ヲ忘レテ居タカラデアル。因果ト云ヒ天罰ト云ヒ應報ト云フハ皆此根本義ニ逢着シタトキノ語デアル。
    喜劇ハ道徳ヲ抽出スル。而シテ道徳ハ life ノ根本義ヲ維持スル上ニ於テ absolutely ニ必要デアル。故ニ喜劇ノ多クハ life ノ第二義ニ墮ツル者デアツテ、 life ノ第一義ニ觸レル者ハ必ズ道徳問題ヲ含ンデ居ル。而シテ道徳問題の尤モ深キモノヽ表現ハ tragic デアル。 tragedy ニ於テ始メテ此道徳問題の重要ナルコトガ明瞭ニ分ツテクル。是ダカラ古來カラ悲劇ハ喜劇ヨリモ重要視セラルヽノデアル。(コンナ説ヲ述ベタ人ガアルカナイカ知ラヌ。然し是ハ眞理デアル。何人モ打チ壞スコトノ出來ヌ眞理デアル)
    人間ガ尤モ痛切ニ人生ノ根本義ヲ覺ルノハ。今迄喜劇ダト心得テ面白半分ニ道徳ヲ重ンゼズ無暗ニ進行シテ來タ事件ガ卒然トシテ tragic end ニ終ルトキデアル。其時人間は始メテ喜劇ヨリモ大切ナモノガアルト云フコトニ氣ガツク。道徳ノ大切ナコトニ氣ガツク。面白半分ニ騷ギ立テタノハ根本義ト遠ザカツテ居タコトニ氣ガツク。此根本義ノ念ヲハツト思ヒ出ス爲メニハ悲劇デナクテハ出來ヌ。
〔図省略〕
     ――――――――――
    ○暴風のとき漁船が岸へ這入リソコネタ。遙かの沖に大きな波を控ヘテ見えたり隱れたりする。村のものは老若男女をつくして磯へ立つてゐる。腰へ綱をつけて海へ飛び込んで舟を引いてくるのである。夜は篝をたき盡して翌日の午後三四時迄かゝつたさうだ。此間老若とも一言も交へなかつたさうである。老若とも一椀の飯も食はなかつたさうである。(高須賀淳平が小田原から歸つての話)
 ○四十年ノ五月場所に常陸山が梅ケ谷に負けた。勝負後双方の部屋の樣子が新聞にあつた。梅ケ谷の部屋は歎聲湧くが如くなるに引き易へて常陸の方は並んでゐる力士がみんな無言であつたさうだ。其中に小常陸と云ふのが、だまつてぽろ/\と涙をこぼしたさうだ。
 
 一 叡山。死、D、F、
 二 保津川 童、女
 三 E、I
 四 F、G、H、
 五 D、○B
 六 F、I、
 七 D、E、
 八 ○B ○E D、F、
〔一〜八の下の図略〕
   九 D、I
   十 I、
   十一 G《〔?〕》、
   十二 F 、○B
   十三 E  Death
   十四 
 
   ○Dialogue(character in) The Academy June 8,1907.
    Action ト situation ノ爲メノ會話ト Character ヲアラハス爲ノ會話トハ違フ。
   ○Character ヲ dialogue デアラハシ得ル人ハ――
    lbsen,Meredith,Pett Ridge,W.W.JacObs.
   ○アラハセヌ人ハ
    Pinero、Hardy、etc.Shaw
   ○James ハ dialogue ヲ用ヒズシテ character ヲアラハシ得ル人ナリ
   ○Oscar Wilde モ character ヲアラハスコトガ出來ル。
〔英文省略〕
     ――――――――――
   ○修飾ナクシテe鞠ectアル句。
    (1)句自身ガ或ル sense ニ於テ bedeutngsvoll ナル時、即チ内容ガ one way or Other ニ rich ナル時。
    修飾ノ必要ナクシテ修飾以上ノ効能アリ
    (2)ハ law of transference ニ depend ス。前後ノ關係カラシテ眞率ナル一句半句モ必然ノ勢大變ナ效果ヲ生ズ。此場合ニ於テハ此句ヲ切リ離セバ一文ノ價ナシ。
    (此 law ヲ研究スルハ文學ノ dynamics ノ一部分ナリ)
     之ヲ extend スレバ一句ノ場合ノミナラズ one scene, one action 皆前後ノ關係ヨリ非常ノ importance ヲナス。然シ切リ放セバ平凡トナル。
   ○以上ノ意味ナクシテ effctive ナラントスルトキ普通ノ修辭ガ必要トナル。
   ○此故ニ Art ハ三種トナル(1)ornamentalisation (2) materiralisatiOn (3) juxtaposition
   ○三ノ関係ヲ極ムレバ一トナル。只主眼ガ違フ。第一義トスル所ガ違フ。
     ○第一ヲ formula ニ deduce スレバ f+f′、又ハ f-f′、トナル
     ○第二ヲ formula ニ deduce スレバ f トナル
     ○第三ヲ formula ニ deduce スレバ f+f《sic》又ハf−f′、トナスヲ妨ゲズ
     ○故ニ artless ナル literature ヲ主張スル人ハ第一《原》ノ意味ニ art ヲ狹メタル人ノ言ナリ
     ○第三J uxtaposition ノ art ハ
〔英文省略〕
     ――――――――――
   ○反動〔二字傍線〕。(1)支那詩。(2)十九世紀ノ nature。(3)Naturism (4)自分ニナイ物
     ――――――――――
   ○Arrangement ヨリ起ル interest.La Faustin,
      ――――――――――
   ○分化作用 La Faustin Rudin
      ――――――――――
   ○Brunetiere 曰ク
    ×〔英文省略〕
   ○漱石曰ク
    ×○吾ト○物 此二個ノ separate existence ヲ假定ス。
   ○スルト文藝ハ (1) representation of ○吾
           (2) representation of ○物
   トナル。然シ(1)モ(2)モ represent セラレルモノト represent スルモノトガナケレバナラヌ。從ツテ(1)ハ○吾對○吾トナリ(2)は○吾對○物トナル。引キクルメテ云ヘバ○吾對(吾モシクハ物)トナル。文藝ノ流派ハ此對ノ一字ヲ研究スレバ足ルコトトナル。詳言スレバ representation ノ subject ガ represent セラルヽ object (吾ト物トヲ含ム)ニ向フ態度デ決スルコトガ出来ル。此態度ハ absolutely ニ一ナレバ文藝ニ流派ヲ生ズルコトアリ得ベカラズ。而シテ此態度ハドノ位ニワカレ得ルカヲ斷ジ得レバ文藝ノ流派ハ最初ヨリ豫想出来ル。之ヲキメルノハ矢張陳腐ナ方法ニヨル。人間ノ faculty ノ大別カラシテ此大別サレタ faculty ノ predominate シタ態度デアル
   (1) intellectual attitude
   (2) emotional attitude
   (3) volitional attitude
  (3)ノ attitude ハ representation ニ関係少ナシ。故ニ問題ニナラズ  残ルモノハ(1)ト(2)ナリ
   (1)ノ attitude デ represent スレバ自他ノ truth ヲ represent シ若クハ發揮スル從ツテ scientific ナ attitude ナ文藝トナル
   (2)ノ attitude デ represent シ若クハ發揮スレバ poetical ナ attitude ヨリ成ル文藝トナル。
   從ツテ
   (1)ハ教ヘル。 life ノ眞相ハコンナモノデアルト云フコトヲ教ヘル  從ツテ美醜善悪ノ區別ハナイ。只有ノ儘ヲカケバヨイ
   從ツテ Naturalism ニナル。choice ヲ許サヌ。choice ヲスレバ不公平ニナル life ノ眞相ヲ教ヘラレナクナル。
   (2)ハ教ヘル。美ヲ味ヘト教ヘル。善ニ與セヨト教ヘル。壯ヲ行ヘト教ヘル。作家ノ emotion (善惡美醜)ヲ寫スコトガ主トナル。作家ガ物ヲ見テ其物カラ受ケタ emotion ヲ寫ス。物其物ヲ represent スルヨリモ物カラ生ズル sentiment ヲ寫ス。從ツテ subjective デアル。 life 其物ノ representation ヲ主トスルヨリモ life カラ得タ emotion 即チ作家ニヨツテ emotionalise サレタ世界ヲ寫ス。故ニ partial デアル。之ヲ romantic ト云フ
    (此二者ハカウ截然トハ區別出來ヌ只大體ノ傾向ヲ云フ)
   ×ダカラシテ Naturalism ハ只物ヲ冷静ニ寫シテ其冷静ニ寫サレタ事物カラシテ讀者ガ勝手ナ emotion ヲ得ル。 Romanticism ハ author ノ人格ニヨリテ emotion ヲ附加シテ讀者ニ author 一流ノ emotion ヲ強ヒル。
   ×此點カラシテ Naturalism ハ性慾デモ肉慾デモ人生ノ眞ノ一部デアルカラシテ其眞ヲ represent スルト云フ了見デカク。ダカラ眞ノ爲メニカクノデ眞〔デアル〕カラシテ其眞デアルガ爲メニ成程ト云フ emotion ヲ讀者ニ起サセレバヨイ。肉慾其物ニ興味ヲ以テ之ヲ挑撥シタリ又ハ排斥スル樣ナ emotion ヲ示シテカクベキ筈ノモノデハナイ。褒貶以外ニ超然トシテカクベキモノデアル。自ラ批評的ノ態度デカクベキ筈ノモノデハナイ。サウデナイト矛盾ニナル。肉慾抔ハ別ニ排斥スル必要モナケレバ奨励スルニモ足ランモノデアルカラシテ今日革新ラシク之ニ emotion ヲ以テ讀者ニ強ヒルノハ陳腐デアルト共ニ餘計ナ御世話デアル。
   (田山花袋氏ノ蒲圃ハ此點ニ於テ自然派ノ態度ニカナツテ居ル)
   アレヲ見テ成程コンナ人ガ居ルカナト事實ヲ教ハル丈デアノ主人公ノ眞似ヲシテ布|蒲《原》ヲカイデ見樣ト云フ心持ニナル人ハ一人モナイ
   ×自然派ハ只 life ハコンナ者デアルト云フ丈デ life ハカウシナケレバナランカウシタノガイヽト云フ批評ハ含ンデ居ラン。information ヲ供給スル丈デアル。從ツテ美醜善惡ハ擇バナイ。醫者や化學者ガ(クソ)ヲ取リ扱フ了見デヤルノミデアル。夫ハ只眞ヲ寫スト云フ emotion ニ支配サレルカラデアル。然シ糞ヲ奇麗ダト emotionalise スレバスグ過ヲ犯スコトニナる。
   ○自然派ハ life ハコンナモノダト教ヘル。コンナモノトハドンナ者デアルカト人ニキカレタ時又ハ自分デ聞イタトキ作物全體ヲ繰返サ〔ナ〕クテハ返事ガ出來ヌノハ不便デアル。從ツテ自然ノ傾向トシテ彼等も一句ニ reduce スルコトノ出來ル樣ナ life ヲ represent スル。
   サウスルト作物ノ下ニ意味ガ出來テクル。是ガ寫生文ト自然派トノ差ニナル。兩方共 objective デアル。faithful description of actual life デアル。ケレトモ寫生文ハ讀ンデ一個ノ proposition ヲ得ナイコトガ多イ。 life ヲ represent シタニモ拘ハラズ life ノ眞相ヲ一句ニ握ツタ樣ナ心持ガシナイ。
  “True to life” 此點ニ於テ兩者間ニ何の差異ガアルモノデハナイ。  一句ニ人生ヲ示サウトスルカラシテ life ヲ represent スル樣ナ construction ヲ作ラ|ヌ《原》バナラヌ。ドコニアル life デモ其儘ニ句ニナルト云フ譯ニハ行カヌ。從ツテ自然派ノ作物ハ life ノ true representation デナクテハナラヌニモ關セズ斧鑿ノ痕ヲ免カレヌ。之ハ意味ヲ深クスル爲メ|テ《原》趣向スルカラデアル。寫生文ハ人生ノ一句ニマトマテヌ代リニ眞ノ representation デアル genuine デアル
  器械的デアルト云ヘバ双方共器械的デナケレバナラヌ筈デアル。只讀ンダ人ガ此器械的ナ叙述カラ眞デアルト云フ emotion ヲ得ル丈デアル。ソコガ science ト違フ丈デアル。作家ハ讀者ニ emotion ヲ與ヘルノデハナィ。 description ヲ與ヘルノデアル。Nature 其儘ヲ器械的ニ與ヘルノデアル。 emotion ハ讀者ノ方デ勝手ニ製造スルノデアル。然モ其 emotion ハ眞ニ對スル emotion デナクテハナラヌ。
  虚子ハヨク(オチンコ)トカ(屁)トカ云フ。丁度自然派ガ性慾トカ何トカ云フノト同ジ態度デアル。毫モ差支ナイ。何モ之ヲ奨励スル意味デハナイ
 
  アル意味ノアル作物ヲ作ラウトシテ散漫ニナツテマトマラヌノガアル。マトマツテモ意味ガ一句ノ言語デ現ハセヌノガアル。之ヲ神秘派ト云フ
 
  ○小説デハ characterisation ヲ必要トスル。アル人ハ之ガ essence ト迄思フ。之ニ成功スレバドンナコトニナル。―― life‐like ダト云フ活動シテ居ルト云フ。――猶之ヲ研究スルト consistent ト云フコトニナル矛盾ガナイト云フコトニナル言ハヾ纏マリ易イ character 云フコトニナル。A,B,C,ノ symbol デ代表ノ出來ル character ト云フコトニナル。丁度一篇ニ意味ガアツテ此意味ガ一句ニツヾメ得ルコトヲ喜ブ如ク。character ニモ特長ガアツテ此特長ガ貫ヌク爲メ最後ニ一句ニツヾメ得ル樣ナ character ヲカキ終セタ者ガ成功シタト云ハレテ居ル。
  然シ此意味デ成功シタ者ハ個人ノ whole character ヲ描イタ者デハナイ(少ナクトモ萬ノウチ九千九百九十九迄ハ)。個人ノ whole character ノウチアル traits (作家ニ都合ノヨイ)ヲ抽出シテ、此抽出シタ者バカリヲ貫ヌイテ自分ニ都合ノイヽ character ヲ create スル。ノダカラ nature ノ law ニ從ツテ create シタモノデナクシテ小説ノ世界ニ便宜〔二字傍点〕ナ爲メニ nature ノ lawヲ violate シテ create シタ者デアル
  普通ノ場合ニ於テ特|特《原》ノ traits ガ個人ノ生涯ヲ貫ヌイテ居ルト云フコトハ事實デアル。然シ此 traits 丈デ人物ハ出來テ居ランコトモ事實デアル。ノミカ多クノ場合ニ於テハ此 traits ニ反對矛盾スル樣ナ phases ヲ澤山具ヘテ居ルノガ事實デアル故ニ Valet has no hero ト云フ語ガアル。人事ニハ極メテ冷淡デ貫イテ居ルガ身體ニ關スルト極メテ神經質ナモノガアル。family ニハ無愛想デ朋友ニハ叮重ナ人ガアル。アル物ニ對シテハ吝嗇デアルガ、アル物ニハ非常ニ liberal デアル。コンナ例ハ澤山アルカラシテ矛盾シタ方ガ自然ノ character デ、セヌ方ガ小説ノ作ツタ character デアル。
  ソコデ小説家デモ此點ニ着眼シタモノハ矛盾ノ性行ヲカキ出シタ。アル場合ニハ善、アル場合ニハ善デナイ人ト云フ樣ナモノヲカイタ。サウシテ讀者モ之ヲ承知スル樣ニナツタ。――然シ之ハ只ニ一本調子ヲ去ルコト啻ニ一歩ト云フ程度ニ過ギン。――即チ明カニ矛盾セル性行ヲ並ベテコトサラニ人ノ注意ヲ聚メテ判然トシタ contrast デ讀者ニオヤト云ハセル。
  然シ是ハ character delineation ノ observation カラ云ツテモ execution カラ云ツテモ未ダ幼稚ナ者デアル。自然ノ character ハ單ニ一ノ contrast デ全部ヲ描出サルヽ程ニ單調ナモノデハナイ
  ソコデ尤モ accurate ナ observer 若クハ executor ガ尤モ truthfully ニ character ヲ ( whole side 勿論)カヽウトスルト云フ迄モナク今迄ヨリモ遙カニ different phases ガ出テ來ルニ違ナイ。サウシテ phases ガ different デアルガ故ニ互々ノ phases ノ間ニ consistency ガナイ樣ニ見エル。一ノ矛盾位デハ〔ナク〕 several inconsistensies ガ出テ來ル樣ニナル。從ツテヤリ口ガ subtle デアレバアル程 whole side ガ寫サレヽバ寫サレル程マトマリノツカヌ character ニナリ易イ。一言ニシテ蔽フコトノ出來ナイ character ニナル。記|臆《原》ニ不便ナ character ニナル。A,B,C ノ symbol デ現ハシ難キ character ニナル。
  大變下手ニ描イタ樣ニ思ハレル。而シテ其實ハ尤モ true ナ character ニナル。尤モ發達シタ delineation ニナル。
  例へバ從來ノ character ハヨク風邪ヲ引ク人ガアルト。風邪ヲ引イタ時丈ヲヨツテ書ク。ダカラ風邪ヲヒク人ト一言ニマトメラレル。其次ハ風邪ヲヒイタ時ト直ツタ時ヲ contrast ニカク。前ヨリハ複雜デ前ヨリハ true デアル。然シ whole side ハ無論盡スコトハ出來ぬ。風邪ヲヒイタ時ト、丈夫ナ時ト、中間トヲカイテ始メテ完イモノガ出來ル然シ。サウカクトマトマリガナクナル。散漫ナ者ニナル要領ヲ得ナクナル。然シ true ニナル。
  Characte ハ風邪ヨリモ遙カニ複雜デアル。而シテ物ニ遇ヒコトニ逢ツテ reveal セラレル phases ハ決シテ consist デハナイ。例へバ A ナル character ノ第一ノ action ヲ A1 トスルト A1 カラシテ A2、A3、A4、ガ推セル樣ナモノデハナイ。否推セヌ場合ノ方ガ多イ。此推セル場合丈ヲカケバ Whole side ハ出テ來ナイ。repetition ニナル repetition ヲカイテ whole character acter デアルカノ如クニ思ヒ又思ハセテ居タノガ今迄ノ小説デアル又今後ノ小説デアル。 repetition デハナイガA′,A″,A′″ト causal relation ガアツテシカモ此 causal relation ガ相互ノ内容ニ密接ナ類似ヲ示ストキハ大抵ノ場合ニ evolution ニナル、然シ evolution ノ場合デ〔ハ〕A′ガ本位デアツテ他〔ノ〕A″,A′″ハA′ニ depend シテ起ル者デアルカラシテ whole character ノウチノ A′ナル traits ノ causal relation ニテ reveal スル different phases ニ過ギン。從ツテ whole side デハナイ。モシ whole side ヲカヽウトスルト differnt phases ガ支離滅裂ニナル(所謂)又ハ朦朧ニナル又ハ神秘ニナル。
  寫生文ハ(character デハナイガ)事件ノ whole side ヲ寫サウトスル從ツテトリトメガツカナイ、同ジ事デアル。
  Hamlet ノ character ハ面白イ氣狂ダカ正氣ダカ意志ガ強イノダカ弱イノダカ分ラナイ
    (1)  (2)  (3)
  △人−Culture−Nature−Culture
  △人ハ forgive,行爲ハ借ス所ナシ
  △(a+b+C+d=……)ヲ A ナル person ニ act ス。A ナル person ガ此 act ノ series ノ爲二一轉化ヲ來ス時、act セル人ハ始メテ我意ノ如クナルヲ得。一轉化ヲ來サヾル時 act セル人ノAニ對スル責任ハ益重クナル。此責任ヲ逃ルヽ爲メ(換言スレバ A ノ一轉化ヲ bring about センガ爲メ) B ハ(a+b+c……)ヲドコ迄モツヾケテ行ク。ツヾケテ行クガ爲メ B ノ A ニ對スル責任ハ益重クナル。自己ノ責任ヲ重クシツヽ進行シテ最後ニ無責任ノ境ニ至ラントス。B ガカクシテ無責任ニ萬事ヲ結了シ得ルカ又ハ大責任ノ爲メニ困憊ノ死地ニ陷ルカハ A ノ性格ニ depend ス。
  此 series ト此解決ノ如何ト此 evolution ハ大小説ヲ構成ス
  △〔英文省略〕例此外色々
  △二對ヲカク一對ニハ以上ノ mystic influence ノアルモノ一對ハ丸デナイモノ。サウシテ兩方ノ contrast ヲ出ス。イヅレガ truth ナルカ又ハイヅレガ truth ニ近キカ。 Poetry カ prose カ。 Actual world ヲ godvrn スルモノハ poets,カ practical men カ。
  △The Master Builder(Solness)ハ old generation ノ new generation ニ取ツテ代ランコトヲ恐ル。カヽル人ハ常ニアルベシ。カヽル人ヲカキコナシ得ル作家ハ青年ナルヲ得ズ
 
  ○Characters ノ relation ニ start ノ relation ト evolution ノ relation トヲ區別ス。故ニ A,B ナル characters ノ relation ハ α′《sic》(start ノ rel.)+ β(evolved rel.)ノ二トナル。
  故ニ relation ノ complexity トハ
  (1)αノ敷ノ多キコトヲ意味シ
  (2)βノ successive phses ノ数ノ多キコトヲ意味シ
  (3)A ナル single character ニ即シテ(1)ト(2)ガ出來ル場合
  (4)A ニモ B ニモ即セズ漫然ト(1)ト(2)ガfulfil セラルヽ場合
  ソコデ(3)ノ case ニハ complexity ガアルト同時ニ unity ガアル。常ニアル方向二向ツテ interest ガ acelerate スル。(4)ノ場合ニハ complexity ヲ生ズレバ生ズル程 unity ヲ失フ。
  ○Complexity ハシバラク論ゼズトシテ Hauptmann ノ Weavers ハ(4)ノ case ニアテハマル故ニ unity ノ
 
觀念少ナクシテ物足ラヌ心地ス。Ibsen ノ Borkman モ亦多少(4)ノ case ニアテハマル。(4)ニアテハマル丈ソレ丈物足ラヌ心地ス。The Master Builder ハ(今讀ミカケテ居ル所迄 p.99)デハ(3)ニアテハマル故ニ interest ガ accelerate シテ unity ヲ keep シテ居ル。然モ同時ニαノ多キ爲メニ complexity ノ感ヲ失ナハナイ。
  Ibsen ハαヲ用ヰル手際ガウマイ。Master Builder ニ就テ云ヘバ出ル人モ出ル人モ皆最初カラ start ノ relation ヲ (Master Builder ニ對シテ)有シテ居ル。然モ其 relation ガ中々深イ意味ノアル好奇心ヲ起ス、運命ヲ支配シサウナ從ツテ人ノ注意ヲ引ク relation デアル。サウシテ皆夫々チガツテ居ル。
    重ナルα Solness 對 Miss Wagnal《sic》
         Solness 對 Mrs Solness
         Solness 對 Miss F
 
         Solness 對 Brovik
  斯様ニ start ノ relation ヲ single ナ Solness ニ結ビツケテサウシテ其 relation ニ變化ヲツケル此 start ノ relation ノ variety ト meaning ガウマク出來レバ drama デモ小説デモ過半ハ成立シタ者デアル。アトハ只自然ニ follow スレバヨイ。此 creation ガ眞ノ creation デアル。
  此 start ノ relation ヲ二様ニ分ツ。一ハ過去ノ general state 及ビ condition カラ follow スル漫然タル relation。一ハ particular event 又 ocasion ガ chief cause ニナツテ出テ來タ relation。此二者ノウチ general ノ方ヲ用ヰルト interest ハ少ナクナル。particular ノ方ヲ用ヰルト interest ガ大キクナル keenニナル。此 particular ナル cause ノ説明ガ知リタイカラデアル。知リタイノガモトニナルノダカラ general デモ説明ガ求メタイ look back シテ何カアルナ。今ニ分ルダラウト云フ氣ヲ起ス様ニ書キ出セバ其功力ハ particular ニ近クナル。lbsen ハ此點ニ於テ artist デアル。
 
  △AガBヲ壓服シテ地位ヲ得。地位ヲ得タル後Bノ子ガ又己ヲ壓服シテワガ地位ヲ奪ハンコトヲ恐ル。是封建時代ノ復讐ノ condition ナリ。之ヲ二十世紀ニ翻譯セバ如何
  △AノB、C、D、E、F……ニ對スル行爲働作ハ normal ナリ獨リ N ニ對スルトキ abnormal トナル。其理由及ビ結果如何。
  △Aノ他ニ對スル行爲ハ normal ナリ獨アルαナル subject ニ關シテ abnormal ナリ其理由及結果如何
  △B、C、D、F……(ノ數多ノ人)ノ他ニ對スル行爲ハ normal ナリ獨リAナル格段ナ人ニ對スル行爲ハ abnormal ナリ、其理由及ビ結果如何。
   以上三種類ハ氣狂トモ氣狂デナイトモ云ヒ得ベシ而シテ小説ニ仕組ンデ尤モ興味アルモノナリ
   B、C、D、F……ノ abnormal ナ行爲ヨリ A ノ abnormal ナ行爲ヲ生ジタル時ノ結果如何。
 
  △巨萬ノ財ヲ擁シテ心配シテ居ル人
  △絶世ノ美人ヲ娶ツテ心配シテ居ル人
  △Love ノ specfication−sensuous,sensual,artistic,phlosophical,material,interested……
  △Bored サレタル夫婦
  △Love,hatred,indifference ノ mixture.Single person ニ對スル  △Aナル男トBナル女ノ past relation
 
  ×Degradation ヲ寫スコト。
  (1)昔ハ degradation ナカリシト云フ supposition
    Suffering, pain etc.ガ比較的少ナカリシコト。
    人々アル level 以上ニ生活難ヲ越えたる事。
  (2)observation 微弱ナリシ爲メ昔ハ之ヲ discriminate スル能ハザルカノ supposition
  (3)beauty, sublime, good ニ飽キテ、食傷ノ結果、新シキ者ヲ discover セントシタレバ澤山キタイナ者ガアツタコト
  (4)今ノ世ハ昔ヨリ degradation ガ殖えタト云フコト。殖えタ結果 conspicuous ナリ。誰ノ目ニモツク
  (5)之ニ伴ツテ degradation ヲ耻ト思ハズ。平氣ニカクニ至ルコト。天下コゾツテ有夫姦ヲスレバ此 truth ハ open secret ニテスコシモ耻ニナラズ。一夫一婦ノ制ハ告《*》朔ノ※[食+氣]羊トナル。モーパサン
〔英文省略〕
  ○意識界ニアラハル、Idea ト feeling ノ遲速 p.237.
     ――――――――――
  ○新聞小説ノ普通ノ小説ト異ナル所 Wundt 137 ヲ參考
     ――――――――――
 
〔約2頁にわたって大方英文で組み方も複雑なため省略〕
 
  ○甲、去る所より手紙にて乙ニ送金ヲ頼ム。甲場所ヲ移シ、今度ハ電報ニテ送金ヲ頼ム。手紙ヨリ電報ガ先ヘツタ。電報ニハ宿所ナシ。乙金ヲ送ル能ハズ(爲替ハ留置ナキ故)。即チ局待ニテ金送ル宿所シラセヨト書イテヤル。然ル所其日ノ午後手紙來り(自分ハ人ヲ尋ネル爲メ是カラドコソコ(行ク。金ハドコソコノ何某宛ニテ送ツテクレ)トアル。乙一文ナシ。金策ニ手間ドリ、夜ニナツテ電報ヲ出サントスルニ電報爲替ハ四時迄故間ニ合ハズ。即チ明朝早クセントス。其夜大雪。電信悉ク不通トナル。
  ○信|洲《原》ヘ行ク旅費ヲクレト云フ。旅費ヲヤル。スルト信《原》洲ヘ行カズ。今度ハ東京ヲ出ルト云フ。デハ出ロト云フ。出ズ。次ニ學校ヘ行キタイカラ束修月謝ヲ出シテ呉レト云フ。束修月謝ヲヤル。學校ノ入學試驗ナシトテ行カズ。次ニ女ノ決心ガ聞キタイカラ聞イテ呉レト云フ。次ニハ漁夫ニナラウト云フ。――矛盾。矛盾ノ解釋 打算カ發作カ。解釋ヨリ生ズル誤解。
 
  ○The Lady from the Sea. 約束ハ nothing。 freedom ノ choice ナラザルベカラズト。之ヲ translate スレバ duty ハ重《原》ンズベシ nature ノ desire ハ滿足スべシト云フ意味トナル。
  ○Rosmersholm. 夫婦アリ。アル女此男ノ emancipation ノ爲ニハ此女房デハ駄目ト思フ。自分ガ適當ナ細君ト思フ。夫デアル意思ヲ決行シテ其結果女房ハ入水スル。アトカラ男ト女ハ添ハレズシテ情死スル。
  ○萬事ヲ勝負卜見ル人。勝負ヲ忘ルヽ人
  ○Love ニ抵抗スル人。despise スル人。stamp out スル人。
 
  ○〔英文省略〕
  ○〔英文省略〕
  ○ Dream 投ゲル物。moss covered stone. 鰻トリ、鏡、蛙、榎 入水(刹那)、Excavation. 鯉、髭、神殿、豚、begga. 鼓、“After yoi” の two extreme cases.
         おさらばの月
         〃の物
         〃と吹く風に
    鼻が動ク  oblonoff 釣鐘ト撞木
 
  ○某氏葬式ハ立派ナモノデシタラウナア
  ○〔以下○の下、すべて英文省略〕
  ○
  ○
  ○
  ○
  ○
  ○
  ×夫婦、夫ノ父ノ死、妻 respond セズ
      妻ノ母ノ死、夫 respond セズ loss of sympathy
     ――――――――――
〔手書き英文省略〕
     ――――――――――
  ×外出。青ニ心ヲ奪ハレテ歸ル。家人突然赤ヲ説ク。
   1、青本位ノ世界ニ立ツテ赤本位ノ者ヲ憐ム
   2、 〃    ヨリ   〃 ニ移ル struggle
   3、 〃    〃    〃  〃 時ノ不安ト regret etc
  ×Blood is thicker than water?
     a=blood
     b=water
    aノ災難ヲ心痛スル際、b來ツテ其利益ヲ説ク。
     1、aニ對スル affection=bヲ憎ム。
     2、aニ對スル conscience=bニ從ハズ。a本位ノ解決
     3、我ニ對スル affection=bヲ愛ス。
     4、我ニ對スル conscience=bニ從フ。我本位ノ解決
     5、bニ對スル affection=bヲ愛ス
     6、bニ對スル conscience=bニ從フ b本位ノ解決
     ――――――――――
  ×Peter ノ父アリ Alexis ノ子アリ、解決ハ幾通リアルカ? 答。
  ×Peter ハ勝利者タルベキカ? 勝利ノ意|議《原》如何。
  ×Alexis ハ必ズ敗者タルベキカ? 敗者トハ何ゾ。
     ――――――――――
  ×A甥ノ財産ヲ管理ス。事業ニ失敗ス。財産ヲ流用ス。之ヲ辨償セントシテ成ラズ。甥成長シテ財産ノ讓渡シヲ請求ス。A言葉ヲ左右ニシテ荏苒日ヲ送ル。甥Aヲ以テ惡漢トス。冷刻トス。Aノ煩悶。
 
  ○Alexis, Peter ノ嚴刻ヲ厭ヒテ以太利ニ逃レ Emperor ニ依ル。Peter Peter〔sic〕spy ヲ放ツテ其居所ヲ突キ留ム。lnterview。TOlstoi Alexis ニ示スニ Peter ノ手書ヲ以テス。曰ク歸ラバ凡テヲ許スベシ。歸ラザレバ遇スルニ traitor ヲ以テシ兵カニテ連レ歸ルベシ。Alexis 書ヲ信ゼズ。歸ルコトヲ諾セズ。Tolstoi 曰ク臣君ノ命ヲ果ス迄ハ何處迄モ殿下ヲ離レザルベシ。何時迄モ以太利ニ留マリ。何處迄モ殿下ヲ dog スベシ。Tolstoi ハ politician ナリ。功績ヲ擧ゲテ自己ノ器量ヲ示ス爲メニハ何事ヲモ敢テス。Alexis ノ愛妾 Afrossinia ヲ離間シテ Alexis ヲ孤立セントハカル。又 Emperor ハ Alexis ヲ protect スル意ナキ風評ヲ流布ス。Alexis ト Afrossinia p.326.
     ――――――――――
〔図省略〕
     ――――――――――
 
〔英文省略、所々に以下の語句等あり〕
  活動 (陳腐) ※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味  
 1. What will come after a. reaching b thro. a. causal links. 推移趣味
 2.一篇ヲ讀ミテ後ニ起ル声 一篇ハ means. x ハ end.
 3.12モ※[行人偏+※[氏/一]徊趣味ト blend スル理由。
 
  ○病院  ○engagement ○memento
 
  ○女ノ先生、her ring engagement female view of the other sex
  ○御房サント東洋城ト虚子
  ○高須賀淳平女子大學へ忍び込む術。
 
  ○汽車轢死以前
  ○線香畠ノ事
  ○陸軍大學デ試験 梯子段ハ何段アルカ、御前ハ御前ノ妻ノ姦通シテ居ルノヲ知ツテ居ルカ
  ○夢枕ニ立ツテ色ヲ白クシナケレバ不可ト云フカラ、クラブ白粉ヲ使フ
 
  ○己ハ婿ニ行くから入夫をしろ
  ○大人ト支那留學生ニ呼ばれた。
 
  ○羽織ノ目方ヲハカリ競スル。目ヲ眠ツテハカル、ドウシテモ自分ノ方ガ重イ
  ○金満家。器量好ミ。嫁ヲ探ス。芝居ヘ行ク。肺病。病中毎日手ヅカラ髪ヲワケル。香水。香水ヲ贈ルモノアリ。死ヌ迄枕元ニ置ク
  ○七時半起床。五時半晩食。八時半迄就眠。八時半より三時半迄起床。
  ○The sight of human misery
  ○柔術ノカタヲ教ハル
  ○馬鹿囃ノ稽古
  ○口ノキヽ様
  ○Turbine engine necktie
  ○Brampton Urn.
  ○Law of remuneration
  ○ハツカ鼠ノ神經  necktie
 
 
 斷片 ――明治四十一年初夏以降――
 
 茄子苗。月見草。大※[糸瓜の絵]。コスモス。トマトー。松葉牡丹。芋。
     ――――――――――
〔絵省略〕
     ――――――――――
〔絵省略〕
     ――――――――――
〔絵省略〕
     ――――――――――
〔絵省略〕
     ――――――――――
〔絵省略〕
     ――――――――――
 甘酒屋。 苗賣。
     ――――――――――
 天狗草履發賣所
 中島善太郎廣告
     ――――――――――
〔絵省略〕
     ――――――――――
 畔柳《*二字傍線》。喉頭結核。森《*》田 川崎のピストル。森《*傍線》。姙娠細君嘔吐。小兒百日咳。夜眠レズ。
  後藤〔二字傍線〕。不眠
    肺炎
 浦谷〔二字傍線〕。二《*》十五圓。下《*》駄ノ鼻緒
 佐藤〔二字傍線〕。免職
     ――――――――――
〔絵省略〕
     ――――――――――
 出《*》齒龜。田子浦入水親子三人脊髓病。本所小女二人同時入水。
 中尉。副官を斬ル(戀ノ恨)
 建《*》部博士離縁。
 大《*》久保腎肉斬取事件。
 長一寸八分幅一寸二三分厚五分位ノ雹降ル(六月八日)
 姙婦震死。(眞鍮ノカンザシ)
 四十二ト三十九ノ夫婦情死。美貌ノ妻強姦セラル。其事評判トナル。夫ノ嫌疑。妻ノ慰撫。情死。
     ――――――――――
〔図省略〕
     ――――――――――
 六月十日
 五日某家ノ下女チンを連れて芝公園辨天ノ所ヲ散歩ス。午後七時頃。暴漢之を襲フ。チン暴漢ノ頭ニカミツク 事ナキヲ得タリ。
     ――――――――――
 禿ヲ自慢スル者ハ老人ニ限ル
     ――――――――――
 日本外債ヲ佛蘭西ニ募リテ將ニ成ラントス。露國日本ガ自國ニ對シテ第二ノ作戰計畫アルヲ名トシ、極東ニ於テ蒐メ得タル材料ヲ提ゲテ抗議ヲ佛政府ニ申シ込ム。日本ハ已ヲ得ズ日露協約ノ相談ヲ持チ出シテ辛ウジテ外債ヲ募リ了ル
     ――――――――――
 六月十三日故法學士澁谷慥爾(二十八年没)未亡人三人ノ遺子ト共ニ横須賀ニテ入水ス。長男次男共ニ多病ナル故ナリ。死スルヲ得ズ。
 コツホ來ル。横濱烟花ヲ揚グ。小蒸※[さんずい+氣]ノ出迎。花束進呈。棧道ニ花ヲ撒ク。馬車ニテ停車場着。新橋着。出迎人無數。
     ――――――――――
 國際私法。婚姻ノ場所。國境ニテ甲ノ國人乙ノ國人ヲ狙撃セシ場合。HigF sgニ於テ兩國船舶衝突第三國ニ訴フル場合。兩國人賣買(品物)ノ時。英國ニテハ品物アシキ時買手ノ損トナルCa諾atEmptO「大陸ハ反對     ――――――――――
 六月十六日川上眉山自刃ス。頸動脈切斷
     ――――――――――
〔図省略〕
     ――――――――――
 十九日靜岡縣ノ田舍 親子三人古池に飛込溺死。妻ト養父ト折合はぬ爲め離縁を逼られたる結果といふ。
 二十日腰越デ巖頭より入水シタル※[人偏+句]※[人偏+婁]アリ。
 ○一昨年より今年四月に至る迄嬰兒十五人を貰ひ(育料十五圓乃至二十圓附)悉く之を遺棄せるものあり。
     ――――――――――
〔英文省略〕
     ――――――――――
〔英文省略〕
     ――――――――――
 田子の浦の海月を盗む樣なものである。盗まれもせず。盗んだ處で利益にもならない
     ――――――――――
  甲職工 支那人ノ額ハ平たいだらう
  乙   うん
  甲   國が大きいから、どうしてもあゝなるんだ
     ――――――――――
  甲婆。もう梅雨《つゆ》は明けたんだらうか
  乙婆 まだだらう
  甲− 昔は神鳴がなると梅雨はあけたもんだが、近頃ぢやどうして/\
  乙− どうして/\神鳴位なこつちや明けるこつちやありやしない
     ――――――――――
 諸君、第九條を見給へ小指で米俵を一俵振ふ法と云ふのがある。 ――學理で行けば譯はない。
〔図省略〕
     ――――――――――
 六月二十二日
 秀英舍ノ職工|鑿《ノミ》を揮つて女二人ニ重傷ヲ負ハス。二人ハ母ト子ナリ。職工此子ヲ嫁ニスルノ約アリ。性不良ノ爲メ破談トナリ、愛想づかしを云はれたるを憤りてなり。
 向島寺島村第六天境内に女ノ裸體ノ死體アリ。
     ――――――――――
 自然ハ寶石を作ルニ幾年ノ星霜ヲ費ヤシタルカ。カクノ如クニシテ作ラレタル寶石は幾年ノ星霜ノ間カクノ如ク靜カに輝くベキカ
     ――――――――――
 六月二十四日
 妻と計つて病氣の姉に毒饅頭を食はす。江州のもの千駄木のもの離別を悲しんで長崎諌早の夫の庭前に忍び入り毒を仰いで死す。
 二十六日
 浦和中學校長陰莖を切り自殺ス
 二十七日
 夫肺結核、貧、妻子二人を連れて自殺セントテ諸所を漂泊ス
 
     ――――――――――
〔図省略〕
 硝子ガ破レルダラウカ。破レヌダラウカ。遣ツテ見ナケレバ中々分ラナイ。やツテ見タラ。硝子が部屋中ヘ飛ンデアブナク怪我ヲスル所デアツタ。
 苦學ヲシテ卒業シタ人ガ嫁ヲ貰フ時ニ富豪カラ貰ヒタガルダラウカ。又は同程度ノ家カラ貰ヒタガルダラウカ云々
 人事問題ノ解釋ハ硝子ヲワル砲丸ヨリ餘程複雜デアル。
 然ルニ人は一人事問題ニハ必ズ solution ガ一ツシキヤナイト思フテ平氣ナコトヲ云ヒ又平氣ナコトヲヤル。
 人事問題ノ solution ハ何レノ場合ニテモ兩極端ノ二樣ヲ含ム。其中間ヲ合シテ三トナル。之ヲ細カニ分類スレバ限リナシ。
 
 Why do we read books?
  Flaubert
  Daudet
英文省略〕
 
   〔『三四郎』〕
  A
 ○汽車、1 女ノ話。同ジ停車場デ下リル。同ジ宿屋ノトマリ
     2 髯ノアル人ニ逢フ、其話シ
2、○汽車、第2ノ女ノ話、(歸ル時、母カラノ手紙)
 
  大學構内ノ話
〔英文省略〕
 B(Aノ友達)
 ○〔英文省略〕
 ○國府津宿
 ○
 ○大學構内ノ話
 (peculation)
 ○女子大學ヘ入ル事
 ○見ヤげ
〔英文省略〕
  如何ナ事タツテ
  ノツピキナラネー
  腹ヲ抱へテ笑フ
  手ヲ拍ツテ笑フ
  恐レナガラ
  豈計ランヤ
  其|義《》原ナラバ
  コロゲ返ツテ笑フ
  割レツ返ル程
    神變不思|義《原》
  イヤミツタラシイ
  etc  〔如何〜etcの上に括弧あり〕
 
 C (Aノ先輩)
 Aニ逢フ汽車
 
 位置ノ話 〔英文省略、所々横書きの日本語有り〕
 
 水晶ノ粉ヲ酸水素吹管ノ※[餡の旁+炎]デトカシテ|デ《原》吹ク其カタマリヲ二ツ合セテ置イテ左右ニヒクト絲ガ出來ル
 弧光燈ノ光
〔英文と図省略、所々横書きの日本語有り〕
     ――――――――――
 末廣−中津の殿様−朝吹下宿ヲ調べる。酒のむ謝絶。
    朝吹妻
 荒川−華族女學校教師(謝絶)
    朝吹
 末松−西村に嫌ハレル。朝吹ニ戻る(謝絶。)
     ――――――――――
〔図省略〕
 
 中村不折。
 髪結床。此形式デ刈リマスカ。
 コツクリサンノ話
 既婚者、未婚者、子供ノアルナシニ就テノ觀想
 
 競馬デ損ヲスル
 御かみさんはありますか。
 濱町  醫學生小供ノ診察。仙臺出張。林檎。呼出。反物屋の嫁。金をかりては前回ノ借ヲ返ス。
 燒火箸。
〔英文省略〕
 × (Stop and reflect)スル art。是ハアル官能的ノモノヲ見テ、何ダカ通過スル事ガ出来ズニ、佇立ス。ケレドモ其官能的ノモノハ何時迄經ツテモ官能的ニ appeal スル丈ナリ。ソコデ此 sensuous ナモノヲ reflect シテ奧ヘ入リ底ニ meaning ヲ見出ス。或ハ analysis.
 ×芝居ハ聲ヲ普通ノ談話以上ニ擧ゲネバナラズ。創作ニ於テモ是ト同様ノ artificiality アリ。夫ハ necessity カ、物數奇ノ厭味カ、SymonS ハ D'Quincey《sic》ニ此癖アリト云フ
 ×眞面目ナモノガ考ヘル時ハ 凡テノ pleasure ハ皆 illusion デ凡テノ sin ハ reality ナル如クニ見エル。何故ニ我等ハ双方ヲ illusion ト見做シ若くハ双方ヲ reality ト見得ザルカ。
〔英文省略〕
 
日記――明治四十二年三月二日より八月二十八日まで――
 
 三月二日 火
 雛を賣る店。櫻の作り花。鯛と榮螺と蛤を籃に盛りて青き笹を敷きたるが魚屋の店にあり。赤く塗つた蒲鉾も澤山並んでゐる。花屋が赤い桃の花を竹の筒に挿してゐた。室咲と思ふ。梅しきりに咲く。
 明日小松原隆二英國へ行く。
 朝、皆川正禧よりザボンの皮の砂糖漬來る。
 凡て春めきたり。雨に香あり。
 今日も敦賀より繪端書來る。無尋藏也。
 二月より菜の花を瓶裏にさす。是も室咲か
 冬去つて漸く生き返る。何處かへ行つて一日遊び暮らしたし
 
 三月三日、水
 朝新橋停車場へ行く。小松原隆二洋行。風烈。丸善ニテブルジエの小説とバザンの小説を買ふ。
 田中君子さんが蟹を呉れる。藁をほどいたら中に赤いの二疋向ひ合せに這入つてゐた。籃の縁が木で出來てゐた。好い感じであつた。
  〔來信〕 田中君子
 
 三月四日 木
 慶應義塾講演依頼の返事
 〔來信〕 橋口貢歸京 森細君病氣
 
 三月五日 金
 「クレイグ先生」以外に永日小品の最後の一篇を書いてくれと素川より申し來る。「變化」の一篇を送る。
 濤蔭が書齋で何かしてゐると思つたら、知らぬうちに水彩畫の船と海を額へ入れて行つた。是は模寫であるが、色が面白く出來てゐる。氣持のいゝ畫である。
 榎本吉それがしなるもの來る。懸合事也
  〔發信〕 鳥居素川
 
 三月六日 土
 要吉朋子九段の上での會合の場
 煤烟は劇烈なり。然し尤もと思ふ所なし。この男とこの女のパツシヨンは普通の人間の胸のうちに呼應する聲を見出しがたし。たゞ此男と此女が丸で普通の人を遠ざかる故に吾々は好奇心を以て讀むなり。しかも其好奇心のうちには一種の氣の毒な感あり。彼等が入らざるパツシヨンを燃やして、本氣で狂氣じみた芝居をしてゐるのを氣の毒に思ふなり。行雲流水、自然本能の發動はこんなものではない。此男と此女は世紀末の人工的パツシヨンの爲に囚はれて、しかも、それに得意なり。それが自然の極端と思へり。だから氣の毒である。神聖の愛は文字を離れ言説を離る。ハイカラにして能く味はひ得んや。
 〔發信〕 森卷吉 橋口貢 慶應義塾長澤壽一へ斷状
 〔來信〕 坂元三郎 田中君子 紫芳社(元園町二、四) 中村武羅夫(神樂町二ノ二三大島方) モヅメカヅ子
 
 三月七日 日
 Die Geschichte von den sieben Gehenkten.
 〔來信〕 副島松一 野間眞綱
 
 三月八日 月
 榎本某又懸合ノ爲ニ來ル。
 〔來信〕 皆川正禧(鹿兒島春日町三七濱崎方)
 
 三月十日 水
 終日雨。春寒。
 春陽堂「文學評論」の奧附千枚を取りに來る。
 大阪朝日滿三十年の記念號を出す。紙數百頁。
 
 三月十一日 木
 快晴。麗日甚快。禽鳥和鳴。
 夜、虚子と土車を謠ふ。東洋城西洋の蝋|即《原》立ヲ呉レル。
 ヘラーの「現今獨乙文學」ヲ讀ミ了ル。
 
 三月十二日 金
 曇。新來らず、午後清嘯會へ出向く。歸途雨。
 「ヤング」なるもの手紙をよこす。「ヤング」とは何者なるや知らず。亜米利加のひま人なるべし。
 「花月」の戀は寐られぬと云ふ所を謠ふ。中々出來ず。あれは昔の俗謡なるべし。
 アンドレーフの獨譯ジーベン、ゲヘンクテンの一章を豐隆に讀んでもらふ。
 
 三月十三日 土
 曇風烈し。物皆濕ふ。春雨の感なし。されども鶯鳴く。
 淳平の細君今堯死去。寅彦土佐の國元より端書をよこす。菜の花盛なる由。柳は芽を吹ける由。博文舘小説辭典編纂の爲なりとて雪月花のうち何を好むかをきゝに來る。愚なる事なり。加計正文山羊を飼つて、山羊と相撲をとる。森卷吉來る。開化丼を食つて歸る。讀賣新聞新築記念號を出す。余の手紙を載す。
  〔來信〕 加計正文(アキ山縣郡加計村) 寺田虎彦(國元) 博文舘 高須賀淳平
 
 三月十四日 日
 昨夜風を冒して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎樂堂、東洋城及び余四人にて櫻川、舟辨慶、清經を謠ふ。東洋城は觀世、樂堂は喜多、臼川と余はワキ寶生也。從つて滅茶苦茶也。白川五位鷺の如き聲を出す。樂堂の聲はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神樂坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の爲かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では壽司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。
  〔來信〕 東洋印刷株式會社 タイムス社 澁川柳次郎 小宮豐隆
 
 三月十五日 月
 昨夕大久保から戸山を散歩す。土乾かず、護謨の上を歩るく樣な所あり。森の杉赤黒く見ゆ。
 今日曇畫頃晴三時頃又曇。散歩途中で鈴木春吉に逢ふ。一所に招魂〔社〕の梅を見る。英語の先生と博文舘の外交記者菊池曉汀なるものを夜料理屋に置いてきぼりにした話をきく。殘された兩人は初對面の男で一文も持たないで、あくる日迄飲みつゞけた末、とう/\巡査を呼んでこられたといふ。
 留守に本多嘯月來る。逢はず。
 ツルゲネーフの手紙ヲ讀む。トルストイとフローベルに敬服してゐる。
 
 三月十六日 火
 寅彦來る。昨日國元より歸りし由。乘合船のうちにて、「英國では何と云ふか知らないが、此方で云へばダイナマイトだな。あれを舐めて見たら一日頭が痛かつた」と話して居たものがある由。スルメ鰹節の御見《原》品。
 西村濤蔭來る。朝若杉三郎來る。
 三重吉の手紙に「きたない袢天をきて、繩を帶にして千葉へ行つて酒を呑んだら刑事につけられた。當時稻妻小僧が逃亡した最中でした」とある。
  〔來信〕 鈴木三重吉
 
 三月十七日 水
 朝起きると眞白に雪が積つてゐる。厚さ三寸ばかり、午少し前やむ。寶生新例によつて來らず。
 朝澁川玄耳綱曳にて來る。二十日出帆世界一週の途に上るといふ。暇乞かた/”\次回小説の相談也。「煤烟」のあとを與謝野鐵幹がかいて、其次を自分が書く筈に取り極む。多分掲載は七月位ならんといふ。
 招魂社九段に行つて雪の下町を望む。
 「ダヌンチオ」は美くしい事をかさねてかく人也。しかも※[火+爰]室内に入りて上氣したる氣味也。
 
 三月十八日 木
 春寒。來客 飯田青凉、野村傳四、青凉短篇二つを持ち來る。傳四茶の間にて饅飯を食ふ。心理學專攻の菅原教造來る。プロソヂーの心理研究ニツキ質問、答要領ヲ得ズ。傳四と入浴、散歩歸る。夜西村濤蔭、小宮豐隆、高濱虚子、松根東洋城來る。寺田の送別會ニツキ相談アリ。謠會を催すとの由。
 豐隆アンドレーフ論ヲカク
  〔來信〕 龍口了信の學校卒業式招待 野上豐一郎
      (平信)
 
 三月十九日 金
 朝小宮豐隆とアンドレーフの獨譯一章を讀む。獨乙語が少々面白くなる。新今日も來らず、錦町の清嘯會迄出掛けて行く。すると新が大きな聲をして怒鳴つてゐた。やがて生玉子を三つ食ふ。午飯の代りだといふ。花月を習ふ。こし方より……の所をやつたら、まあそんなものだと評した。自分では立派に謠つた積りであつた。歸らうとしてゐると虚子が來た。虚子は雨月をならふのださうだ。向ふの辯護士高野さんが私は高濱と同郷のものですといつて挨拶をした。
  〔來信〕 小島武雄(轉居)
 
 三月二十日 土
 九時玄耳を新橋に送る。久振で朝日の豪傑に會す。土屋大夢が是から塔の澤迄行くから序に横濱迄送るんですといふ。弓削田が夏目さん所から新橋迄は大變ですねといふ。池邊吉太郎が越しました。若松町百二番地といふ。大阪の鳥居素川が來てゐる。いつ來たんですと聞くと二日前だといふ。歸り銀座迄素川と話して來る。明後日午飯を一所に食ふ事を約す。
 二葉亭露西亞で結核になる。歸國の承諾を得た所經過宜しからず入院の由を聞く。氣の毒千萬也。
 大阪朝日十萬圓で社を新築すと素川よりきく。
 妻が寅彦の所へ餞別をもつて行く。シャツ、ヅボン下、鰻の鑵詰、茶、海苔、等なり
 午後より雨、寒き方、鶯啼く。
 電話にて春陽堂へ「文學評論」の送付(例により三十部)を促がす。賣切の由答あり。二十五六日頃再版出來のよし
 八重子「鳩公の話」といふ小説をよこす。出來よろし。虚子に送附
  〔發信〕 虚子、八重子
  〔來信〕 峯間鹿水(牛込若宮町二七、教育公論編輯局) 會津八一(越後針村)短冊所望 野上八重子
 
 三月二十一日 日
 二十一日快晴、甚快、十一時頃より曇る。
 午後小宮が來てアンドレーフを讀んで呉れる。散歩高田の方。濱武が金を返しにくる。三十圓。濤蔭來る。桑原喜市オーパル數顆を送つて買へといふ。一個一圓五十錢也。五圓で三個をとる。
 寺田の奥さん暇乞にくる。忙がしいとてすぐ歸る。紅屋の唐饅頭をくれる。
  〔來信〕 野上豐一郎 本多直次郎 森卷吉
 
 三月二十二日 月
 快晴風強し。十一時過連雀町に鳥居素川を訪ふ。弓削田が來てゐる。三人で神田川へ鰻を食ひに行く。不折山人來り會す。不折の顔少々蒼膨れの氣味也。四時歸る。五時過着寅彦暇乞にきて待つてゐる。本多嘯月來訪。
  〔來信〕 東洋城(水戸より) 島村抱月(演説の依頼) 桑原喜市
 
 三月二十三日 火
 曇其うち降り出す。學校の卒業式。筆と恒が上級。筆子は諸課目大方甲也。之に反して恒は乙と丙也。昨日寺田から留守中預つたオルガンを子供がしきりに鳴らす。筆は少々出來る樣也。
 朝眼が醒めると豐田醫學士が來る。顔を洗つてゐるうちに診察を了へて歸る。伸六の睾丸に水のたまるのは針で穴をあけて管でとるべしとなり。之は精液の管から洩れる由。但し大事にはなる氣|違《原》少なき由。外科の渡邊さんを頼む事にする。伸六は滿三ケ月也。大きな睾丸を有して、重さを感ぜざるが如し
 御彼岸の御萩を作る。華子が雨中、車に乘つて中島さんへ御萩をやりに行く。
 小宮とアンドレーフを讀む。二人で望月を謠ふ。
  〔發信〕 島村抱月(謝絶)
  〔來信〕 春陽堂本多直次郎 高濱清(寺田の送別會)
 
 三月二十四日 水
 曇。九時頃虚子來る。十一時頃星が岡茶寮に行く。寅彦送別會。雨氣歇んで風甚し。寶生新來る。大原御幸。雲雀山。を謠ふ。
 虚子、碧梧桐と千壽、俊寛を謠ふ。夜腹中違和。苦しき爲め屡ば眼を醒す。半夜妻に懷爐を作つてもらふ。その爲め寐る事を得たり。
 夜西村濤蔭チユーリツプ一朶を送り來る。
  〔來信〕 米山熊|二《原》郎(天然居士寫眞の件) 浦瀬白|夜《原》 杉田某 田中君子
 
 三月二十五日 木
 晴。心地あしき爲め寺田の出立を送らず。妻が代りに行く。神樂坂へ行つて散髪。松の盆栽と君子蘭を買ふ。氣分あし。食慾皆無。
 明日神田にて謠會あり。清經のシテを仰付けらる。
 ○○○○來訪。四月下旬から宅へ置いてくれといふ。色々譯を話して歸す。東京へ來たのは元の夫の所へ行つて、あなたが惡いと仰やいと云ふ爲也と語る。
 
 三月二十六日 金
 晴、午前アンドレーフ習讀。午後より神田の倶樂部へ謠の會に出席。舟辨慶、望月、清經、七騎落、三山、紅葉狩なり。皆々初心。高野さんは御經を上げる樣な聲を出す。菅能さんは應接をする樣な言葉を使ふ。天下斯の如く幼稚なる謠會なし。其代り誰も通をいふものなく至極上品也。あとで新、碧梧桐、虚子、かやの、の四人蝉丸を謠ふ。碧梧桐うまし。みぞれ降り出す。車を傭つてもらつて歸る。五十錢取られる。
 夜胃又不安、灰《原》爐を抱いて眠る。
  〔來信〕 本間久 杉原曠
 
 三月二十七日 土
 快晴、十一時に起きる。パンを食つて、たゞぶら/\す。閑適。髭の白髪を拔く。細君の顔少しく美しく見ゆ。座敷に生けた丁字少しも香を放たず。
 田中君子今日敦賀へ歸る由故昨日細君に頼んで半襟を贈る。
  〔發信〕 本間久 杉原曠
 
 三月二十八日 日
 曇、朝小宮が來テ、アンドレーフを讀む。是から鈴木三重吉の所へ行くといふ。多分廣島の家を賣る相談の爲め呼ぶんだらうといふ。五圓取つて行く。十二時過ぎ田中君子暇乞に來る。半襟の禮をいふ。越山頼治萬朝に取消を出して呉れたといつて禮に來る。つと入りの玉子を呉れる。見掛雅也。月末にて濤蔭困るだらうと思ひ「三四郎」の校正料として又十圓を贈る。手紙のなかへ封じてやる。
  〔發信〕 犬丸貞吉
  〔來信〕 犬丸貞吉 高田知一郎(西村濤蔭の件)
 
 三月二十九日 月
 曇。昨夜えい子咽喉痛み咳嗽頻也。あい子と一所に寐る。夜中にわが腹を蹴る事幾度なるを知らず。降參。
 十一時頃より降雨。
  〔發信〕 野間眞綱 副島松一 春陽堂(文學評論の催促) 土井林吉(かした本の催促)
  〔來信〕 橋口貢(轉居)
 
 三月三十日 火
 曇。午、本間久來る。日本外|外《原》の通俗譯をやると云ふ。余の俳句を表紙のちらしにするといふ。胃よからず。終日蟄居。夕暮豐隆千葉より歸る。三重吉が醉拂ひになぐられて怪我をして、病院に在るといふ。始めは眼に故障があるとかにて心配したる由。今の處では大した事もなさゝうなり
  〔來信〕 高田知一郎 岩崎太郎 明治大學
 
 三月三十一日 永
 薄日。妻伸六を連れて大學病院に行く。昨夜本間久より貰ひたる秋田蕗の砂糖漬を食ふ。胃痛安眠を害す。
 養生。鷄卵、牛乳、パン少々。夜蕎麥を三口程食ふ。
(60) 午後新來る。綾鼓を少し習ふ。夜安倍能|勢《原》來る。草紙洗と三山を謠ふ。
  〔發信〕 鈴木三重苦 副島松一
  〔來信〕 浦瀬七太郎 副島松一 石田源一
 
 四月一日 木
 晴、日少し弱し。伸六の療治は四五歳にならなくては出來ぬ由。伸六はそれ迄大きな睾丸をぶら下げてゐなければならぬ。昨日鈴木禎次の御母さん死ぬ脳溢血也。座敷の丁字の花香ふ。
 米山熊次郎氏天然居士の引のばし寫眞を携へて來る。何か題せよといふ。
 夜臼川、東洋城、濤蔭、豐隆來る。豐隆、東洋城一泊
 植木屋が土管を掃除したら、裏の田中彦兵衛君の庭へ水が落ちて來るといつて、彦兵衛君が來る。
  〔來信〕 田中君
 
 四月二日 金
 快晴、朝浦瀬七太郎來る。越後より熱田へ轉任也。越後の飴を御見舞に貰ふ。
 細君が白木屋の見切賣出しに買物に行く。今日は松根が妻と豐隆を食傷新道の初音へ連れて行くのだといふ。白木屋で襦袢の袖を見て來いといつてやる。
 春陽堂へ文學評論の獻本の催促を豐隆にたのむ。
 散歩、東洋城又來る。細君鈴木へ通夜に行く。城一泊。
 襦袢の袖は羽二重しかない由。羽二重の袖はいやだ。細君葬式の黒帶を買ふ。九圓。豐隆のアンドレーフ論を讀む。
 散歩の時鰹節屋の御神さんの後ろ姿を久振に見る。
 植木屋が芭蕉をすからり切つたら、軸の中が青くなつてゐた。今日は其青い所丈が一寸許延びてゐた。
  〔發信〕 岩崎太郎(露月の宿所)
 
(61) 四月三曰 土
 雨。朝起きたら昨日萎れて倒れかゝつたチユーリツプが眞直に立つてゐた。快。妻歸る。眠いといつて寐る。
 大谷繞石より來信。文學評論をよんで教訓を得たとある。誤植を表にして送つてくれる。甚だ恐縮。春陽堂獻本を怠る爲に繞石の買ふ前に寄贈する能はず。
 岡田耕三小田原の塩辛を送る。明日東京へ歸る由。「煤烟」に厭きたとある。
 鈴木禎次曰く。夏目は鰹節屋に惚れる位だから屹度長生をすると。長生をしなくつても惚れたものは惚れたのである。
 文學評論二十八部來る。寄贈人の宛名をかく三部殘る。
 草が芽を出す。いかり草、かすみ草、鋸草、
  〔來信〕 久内清孝 大谷正信 岡田耕三
 
 四月四曰 日
 陰、昨夜小林さんが來て、左の手頸の脉をとる所に出來た瘤の樣なものを見てくれる。大して障りのあるものぢやないといふ。序に胃を見てもらふ。胃も腸も無論わるい。肝臓もわるいらしい。右の肺の下部が薄弱ださうだ。からだのうちで何處も健全な部分はない樣だ。
 濤蔭來る。二人で文學評論を郵便局へ持つて行く。
 寺町へ下駄を買ひに行く。胃が痛いから腰を掛けて、向ふを見ると毘沙門の境内に高い柳が芽含んで風に搖られてゐる。併んで半鐘が立つてゐる。門の傍の櫻がふくりとしてゐる。前の肴屋で小僧大僧が景氣よく怒鳴つてゐる。演藝館で清國留學生謹演といふ慈善芝居があつた。
 
 四月五日 月
 晴陰常なし。細君鈴木の葬式に行く。白襟黒紋つき。夜虚子の所へ文學評論を持つて行く。巨口と中濱を相手にして田樂で酒を呑んでゐる。櫻が咲きかけたからだといふ。巨口は藝者になる女と好い仲になつて東京へ來たのださうだ。虚子酒がうまいといつてしきりに呑む。九時過東洋城來る。虚子ます/\酒をうまがる。甚だ太平樂也。自分も常に似ず呑んで駄辯を揮ふ。十一時より謠一番を謠つて東洋城を拉して歸る。明月。不寒不暖。夜行可人。御堀の松。遠くの安藤坂の點々たる燈火。
 細君鈴木の穆さんより二十五本入のマニラ價十五圓程のものをもらつて歸る。穆さんが朝鮮から持つて來たものださうだ。
  〔來信〕 田中君子 青楊會通知 内田貢 岩崎太郎 若杉三郎 田島道治 本間久
 
 四月六日 火
 陰、朝、小宮の稽古。午から天然居士の寫眞を持つて、菅の處へ行く。不在。歸りに狩野へ寄る。インフルエンザ也。部屋のなかの洋書を見る。菅の細君が十日程〔前〕に御産をした話をきく。狩野を出て九段の御能に立ち寄る。國民新聞の席で六郎、新の鉢の木を見る。四方太、臼川、安倍能|勢《原》あり。八時頃辭して歸る。細君に俊寛を謠つてきかす。謠つてから難有うと云へと請求したら、あなたこそ難有うと仰やいと云つた。
 留守に菅がくる。
 二日上海出の端書寅彦より來る。麥緑菜黄のよし
  〔來信〕 中村蓊 田中勝助(久留米聯隊)
 
 四月七日 水
 晴、無事。新來る。綾鼓を習ふ。仕舞の所で降參す。新自分の癖二三を指摘す。新蟇口を忘る。車代を借りて行く。散歩。君子蘭と石楠木を壹圓貳十錢で買ふ。植木屋に松の培養法を聞く。日に曝して水をやれといふ。自分の考とは正反對也。早速表へ出す。
 米山熊次郎氏に天然居士の寫眞を持たしてやる。
    空間を研究せる天然居士の
    尚像に題す
 空に消ゆる鐸の響や春の塔  漱石
と書いた。
 風烈し。午後やむ。
  〔發信〕 青楊會(缺席通知) 田中君子(ニシンの御禮)
  〔來信〕 大塚保治(文學評論の禮)
 
 四月八日 木
 快晴麗日。鶯啼く。ウド、筍、八百屋に見ゆ。
 朝野村傳四來る。大島紬を來《原》て居る。大島の學生から學資援助の爲に買つたものゝ由。粟田燒の皿をくれる。壹圓五十餞かと聞いたら壹圓四十錢だといふ。
 戸川秋骨來。明治大學の藤澤が田岡の雜誌黒白を持つて來る。
 夜東洋城、臼川、豐隆來る。十一時熊野を謠ふ。
  〔來信〕 坂本四方太 米山熊次郎留守《原》
 
 四月九日 金
 晴。アンドレーフを讀む。小宮歸る。西村檮蔭來る。エイ子とアイ子を連れて江戸川へ御花見に行く。歸りに御腹が痛む。
 大阪へ小説を書く約束あり。もう書き始めねばならぬと思ふ。一向始める氣色なし。自分でも分らず。
 船田一雄來。向ふに住んでゐる友人の檢事の處へ來たといふ。玄關で歸る。
 
 四月十日 土
 晴、朝下痢腹工合よくなる。南風甚し。机の上に砂がたまる。胴着を脱ぐ。食後花月を謠ふ。強吟の曲の所へ行つて閉口途中でやめる。ほかの所は中々上手になる。
 えい子二三日前より幼稚園に行く。今日自分の製作品を見せる。色紙で制札の樣なものを白地に張り付けたるものなり。筆子鈴木へとまりに行つて歸らず。御母さんが死んで淋しいから小供を泊めるのださうである。
 秋田蕗の砂糖漬を食つて細君に叱られる
 空際の榎薄茶の芽を吹いて風に搖ぐ。暗灰色の空に雨宿るが如し
  〔來信〕 中川芳太郎
 
 四月十一日 日
 晴、昨夕散歩矢來で支那燒の一輪插と蝋石の肉入(刻《原》入)を壹圓二十錢で買つてくる。堀出し物と號して大得意なり。肉入を胡麻油を着けて西洋楊枝で洗ふ。小宮が昨晩エリセフに誘はれてニコライのイースター祭を見に行く。夜の十二時から始まる由。風烈し。
 生田長江來。塩原が訴へるとか騷いで居るといつて高田と兄が來る。何の意味か分らず。没常識の強慾ものなり。情義問題として呈出せる出金を拒絶す。權利問題なれば一厘も出す氣にならぬ故也。自分は自分の權利を保持する爲に産を傾くるも辭せず。威嚇に逢ふては一厘も出すのは御免なればなり。
  〔來信〕 ナシ
 
 四月十二日 月
 陰、暖、三重苦病院より手紙をよこす。五十圓貸してくれといふ。
 スヰンバーン死す。虚子使を馳せて批評を托す。返事をやる。午後江戸川の櫻を見る。群集。櫻は一重を近く見ると寧ろきたなきものなり。花片靜かに散る。豐隆昨日紙人を奪ひ去る中に三圓の銀貨あり。一文なしにて歩く。
 加計正文文學評論の禮をよこす。自分の本を讀むと自分に逢ひたいと書いてある。正文、加計町の町長となる。年俸百二十圓外に交際費二十圓。
  〔來信〕 加計正文
 
 四月十三日 火
 晴。臼川スヰンバーンの評を書いて來る。間違其他二三を指摘す。昨夜エイ子 から咳をせいて泣く事頻りなり。漏布をして頭を冷やす。今日、朝は氣嫌よし。午後又泣き出す。小林さんに來てもらふ。コロツプとかいふジフチリヤは奧の方に出來るから、もし聲が涸れたら呼びに來いといつて歸る。劔呑故小宮に泊つてもらふ。
  〔來信〕 戸川明三
 
 四月十四日 水
 晴、風砂を捲く。遠くの若芽、杉の古葉、黒き幹相交る上を濠々と烟る。暖かし。庭砌の齒朶の若葉目の醒る樣な軟緑を吹く。細君植木屋からアネモネ其他二三の西洋草花を買つて來る。
 小宮に銀行から金を取つて三重吉に送つてもらふ。
 虚子の來翰。田樂を食はす招待也。同席は東洋城、豐隆、臼川丈の由。
 明日から小宮にハウプトマンのワーンヱルターを讀んでもらふ。今日は新に碪をならはうと思ふ。
 夕刻虚子庵に行く田樂の馳走。東洋城狐鮪をもたらし來る。酒二合あまりを飲む。雨になる。十二時頃傘と足駄を借りて歸る。
  〔來信〕 虚子
 
 四月十五日 木
 雨。朝甚しく降る。
 雲照死す。南摩羽峯死す。昨夜は羽織を疊んで懷に入れて角帶を締めて、山高を被つて、番傘を差して、人のゐない町を歩いて歸つた。甚だ妙な晩であつた。
 エイ子未だよろしからず。輕き肺炎の如し。
 大橋新太郎招待。龜清樓、舟を墨江に艤す催しあり。斷り状を出す。
 昨日新不參。寅彦の端書香港より着。六日出なり
 昨日鈴木穆來。色々朝鮮の話を聞く。物騷な頃謁見の爲め參内した模樣は面白かつた。
  〔來信〕 大橋新太郎 寺田寅彦 寶生新
 
 四月十六日 金
 快晴、稍寒。新又不來。尾上に張良のカタ〔二字傍点〕を教へる爲の由。清嘯會へ行く。「碪」を出す。これをやるんですかといつて笑つてゐた。えい子の病氣まだよからず。小供の肺炎の由。柘榴深紅の芽を吹く。山吹とこゞめ櫻を瓶に插む。
 晩に小説を少し考へる。別段まとまらぬうちに寐て仕舞ふ。
 Bahnwarter Thiel を小宮に讀んでもらふ。
 日糖會社破綻。重役拘引、代議士拘引。天下に拘引になる資格のないものは人間になる資格のない樣なものぢやないかしらん。
  〔來信〕 野間眞綱 野上豐一郎
 
 四月十七日 土
 曇晴。春色澹蕩。
 虚子「續俳諧師」を書くとき豫告を出して期日がせまつても何も書く事がない。とも角も向島を散歩しやうといふので散歩に出て、それを書いた。明日になつても明後日になつてもまだ書く事がないので好加減に向島を引き延ばしたのださうである。呑氣な事なり。宜なり續俳諧師の冒頭十數回の振はざるや。夫を蘇峯が、今度のは大變面白い屹度評判になるでせうと云つたさうだ。虚子も能く出來てゐるが、蘇峯も能く出來てゐる。
 
 四月十八日 日
 晴。坂|本《原》三郎來。朝日の新聞の用。溜池の白馬會を見に行く※[エに濁點]ラスケスの模寫あり。歸途仲の町に橋口の新居を訪ふ。長崎鹿兒島より買ひ來りたる書畫敷幅を見る。
 昨日は本郷の通りで西洋人がパン/\と云つて箱をひいて歩いてゐた。
  〔來信〕 皆川正禧 高田知一郎 岡田耕三
 
 四月十九日 月
 陰。夜に入つて雨。西村濤蔭文學評論を再讀して誤植表を作つてくれる。總じて百餘。尤も正さなくてもよきものあり
  〔來信〕 坂|本《原》三郎 宇高忠高
 
 四月二十日 火
 晴。蒼空片雲なし。北窓の遲櫻軟葉とともに開かんとす。四條派の畫に似たり。信州柏原の人自から一茶の郷人と號して來訪、一茶の遺稿出版の發起人に加入せよと乞ふ。諸君子の後に署名す。書畫帖へ二冊俳句を書きしるして返す。
 袷を着く。夜、蛙の鳴く聲す。細君にヱイ子の感冒傳染。臥蓐。
 萬物皆青くならんとしつゝ日出で日没す。これを何度繰り返したら墓に入るだらうと考へる。
 神田を散歩。余の著作が到る所の古本屋にある。然し大抵奇麗なのばかりなり。
 
 四月二十一日 永
 快晴、曉二時頃妻が自分の寐床の傍へ來て胸が苦しいといふ。起きて介抱する。細君吐く。海苔と玉子が少々出る。便通あり。四時過注射でもしたいといふ。自分で小林さんを迎に行く。留守中又吐く。小林さんが來て曰く大した事ではありませんと。漸く安心。細妻《原》の御蔭で曉起の味を知る。六時過露多き庭をあるく。榎の若葉天に聳えて甚だ美くし。
 かう家族が多くなると少々醫術を心得て置く方便利なりと思ふ。醫術、法律、文藝、是は昔の武藝十八般と同じく普通教育としてかぢるべきものなり。其外に柔術を覺えて、それから度胸を落ち付ける修業をすると好い。たゞし何れも時日がかゝるから甚だ不便である。金持は夫々專|問《原》家を雇つて家内に飼つて置いても濟むが貧乏人は困る。
  〔來信〕 野上八重子(閑文字) 松根東洋城(佛文) 矢崎千代二(漫遊畫集展覽會の案内) 發起人、黒田、和田、岡田、
 
 四月二十二日 木
 陰暖。昨日細君病氣よからず。晩に小林さんを又迎へに行く。今逗子から歸つた所だといつて來て呉れた。病症は子宮内膜炎だと決定する。氷で冷やす。看護婦を呼び寄せる。安靜を可とす。ヱイ子を抱いて寐る。裏の六疊へ行くとアイ子も純一もみんな頭に手拭を乘せてゐる。さうして時々聲を出して泣く。下女が抱いたりさすつたりする。伸六が又泣き出す。非常な混雜なり。ヱイ子と余と同衾安眠。
 中林さんいふ。私は年に二千五百人の患者を見る。もし嚴重に藥禮其他を取り立てたら今は巨萬の富を得た筈である。所が借金で困つて犬養さんに相談した事さへある。云々。小林さんが年に二千五百人位の患者を見るやうになつたのも嚴重に藥禮抔を取り立てないから〔の〕事と思へばあきらめられるだらう。其損耗は今日の流行の資本と心得べしである。
  〔來信〕 濱武元次
 
 四月二十三日 金
 曇。 昨日の來客、物集の御孃さん。飯田青涼。西村濤蔭。小宮豐隆。高濱虚子。純一、アイ子發熱。ヱイ子夜に入つて泣く。細君よからず。北庭の八重櫻を瓶に插む。枝からこぼれる程に咲いてゐる。机前の君子蘭盛也。
  〔來信〕 岡田耕三 小松原隆二(コロンボ) 鈴木三重吉 三浦文江 坂元三郎 松根東洋城(佛文) 荷室林野管理局豐住出張所
 
 四月二十四日 土
 無上の好天氣。朝起少々小説を考へる。何だか書けさうな氣がした所であまり天氣が好いので散歩に出たくなる。大島の袷を着て神田をぶらつく。可成通つた事のない所をあるく。通りから裏へ拔けると小供の時とは丸で樣子が變つてゐる。
 森田草平煤烟の原稿料一回四圓五十錢の積で執筆した。是は大塚楠緒子さんと同等といふので多分四・五〇だらうと自分が教へたからである。それで肝《原》違をして原稿料を取りに行つて拒絶されて大いに弱つてゐる。手紙を|か《原》出して大いに謝罪す。それから春陽堂へ手紙を出して前借の周旋をする。
 臼川大いに氣※[餡の旁+炎]をかいてくる。臼川は逢ふ時と丸で違つた感じを與へる文を作る。
  〔來信〕 野上臼川
 
 四月二十五日 日
 又晴。どうも外へ出たい。早稻田田圃から鶴卷町を通る。田圃を掘り返してゐる。遠くの染物屋に紅白の布が長く干してあつた。大きな切り山椒の樣であつた。
 商科大學を大學に置くといふので高商の生徒が同盟罷校一同母校を去る決心の由諸新聞に見ゆ。由來高商の生徒は生徒のうちより商買上のかけ引をなす。千餘名の生徒が母校を去るの決心が洞《原》喝ならずんば幸也。況んや手を廻して大袈裟な記事を諸新聞に傳播せしむるをや。澁澤何者ぞ。それ程澁澤に依頼するなら大人しく自己の不能を告白して澁澤にすがるのが正直也。高商の教授校長二三辭職を申し出づ。尤也。早く去るべし。
  〔發信〕 春陽堂本多直次郎
  〔來信〕 森田草平
 
 四月二十六日 月
 曇。韓國觀光團百餘名來る。諸新聞の記事皆輕侮の色あり。自分等が外國人に輕侮せらるゝ事は棚へ上げると見えたり。
 芭蕉伸びる事三尺。生垣の要目芽を吹く。赤し。
 もし外《西洋》國人の觀光團百餘名に對して同一の筆致を舞はし得る新聞記者あらば感心也。
 午後小石川台町、茗荷谷、竹早町、同心町を散歩。竹早町の通りに謠教授尾上といふ札があつた。尾上始太郎の事だらう。家はわからなかつた。
 鬼灯所々に芽を出す。植木屋が來て庭が奇麗になる。
 
 四月二十七日 火
 晴。咋二十六日觀櫻御宴。小町菊將に咲かんとす。錨草散る。細君の病氣輕快。ヱイ子昨日から起きる。「續俳諧師」稍冗長に陷る。二三十萬圓の金を欲する事頻なり。小説を書かう書かうと思つて末だ書かず。大坂より原稿送れといふ電報でも掛かれば好いと思ふ。
  〔來信〕 鳥居赫雄
 
 四月二十八日 水
 快晴。素川來信に曰く自分の小説を四月下旬より載せる筈の處如是閑の作中々盡きさうになし。よつて五月下旬より載せる事にすると。結構也。序でに東京の大塚楠緒女子の終結を待つて東京大阪へ双方一時に出して呉れないかと申してやる。さうでないと、つゞけて兩方へ書く爲め。力を分つて充分に兩方を纏める事が出來ないからなり。尤も兩方へ輕いものを二つ書く方が樂な心持もする。
 
 四月二十九日 木
 曇。風。起きると三つ半が鳴る。但し何處だか分らず。此頃の火事は大抵半鐘が代理をつとめる丈である。
 岡田耕三、吉松武通、水上齊、東洋城、濤蔭。豐隆來訪。
 玄耳朝日に世界漫遊通信を載せ始む。文達者にしてブルコト多し。強いて才を舞はして田臭を放つ。彼は文に於て遂に悟る能はざるものなり。
 
 四月三十日 金
  〔來信〕 寅彦の端書二通
 
 五月一日 土
 晴、午後急に思ひ立つて廣尾行の電車に乘つて一の橋迄行つて不知案内の麻布を六七町見物して歸る。林菫の家渡邊千冬の家其他名を知らぬ大きな邸宅を見る。此邊樹木多し。宅地も餘裕あり。こんな所の大きなやしき一つ買つて住みたいと思ひながら歸る。晩に紅緑が來る。縮緬の格子縞の袷せに同じ茶の羽織を着て其上に失張縮緬らしい道行を來《原》たのみならず羽二重の長襦袢を着けたり。中々凝つたものである。さうして車夫を待たして置いて之に乘じて歸る。紅緑は是が道樂と見える。自分もやつて見たい氣もある。
 午、森卷吉來。高等學校職員親睦會の幹事に選ばれた。場所は富士見樓だといふ。
 
 五月二日 目
 晴。豐隆が黙語圖案集をくれる。太陽雜誌を送つて來る。名家の投票當選と云ふのがある。政治家、宗教家、抔色々あるうちに文藝家として自分が當選してゐる。當選者に金盃を進呈すると書いてある。金盃を斷わらうと思ふ。投票に就ての自分の考を公けにする必要があると思ふ。
 
 五月三日 月
 晴。市ケ谷大久保散歩。「太陽雜誌の名家投票に就て」を草し「朝日」に送る。
 
 五月四日 火
 曇。神田へ行つて※[ワに濁點]テツクと東京の地圖を買ふ。神樂坂で禅關策進を買はうとしたらもう賣れてゐた。小宮明日歸國。裏庭の櫻ぼけつくして猶あり。瓶裏花なし。聊か寂|聊《原》。
 
 五月五日 水
 夕暮より降る。二時頃中村蓊來る。滿韓を旅行すと云ふ。中村是公、小城齊、佐藤友熊へ紹介状をかく。
 
 五月六日 木
 雨。坪谷善四郎來る。太陽所贈の金盃を受けろと云ふ。段々相談の未、自分の投票に對する考を太陽の次號に載せる事を約して訣る。其代り金盃は御免蒙る事にする。
 午後。基督教世界記者來る。飯田青凉謠を半分聞いて歸る。散歩雨甚し藤の盆栽を見る。
 濤蔭又金に困るといつて借りに來る。十圓貸す。本を賣つて十圓になつたといふ。質を入れるかと聞いたらもう五十圓程入つてゐるといふ。
 
 五月七日 金
 雨。林久男鹿兒島のザボンの砂糖漬をくれる。加賀美五郎七より來翰。高千穗小學校長川田銕彌へ紹介状を依頼
  〔發信〕 林久男 加賀美五郎七(川田銕彌へ紹介)
 
 五月八日 土
 晴寒。高須賀洋平來る。バザンの小説を讀む。下らぬものなり。大久保散歩躑躅赤し。留守中に佐治秀壽來る。仙臺へ行く暇乞の爲なりと。仙臺へ轉任と見ゆ。
  〔來信〕 野上豐一郎 坪谷善四郎
 
 五月九日 目
 晴。無事。日暮散歩から歸ると中島さんが來てゐた。中島さんは音樂家で筆子の先生である。髪を長くちゞらかして丸で西洋の音樂者の樣である。大きな聲で快談をやる男であつた。金がなくつて困つてゐるさうだ。是は藝術を神聖視し過ぎるから起る貧病らしい。別に營業部の事業として音樂をやつて金を取つたら善からうけれども、人間はさう旨く行かぬものである。
  〔來信〕 小宮豐隆
 
 五月十日 月
 晴。細君小林さんの注射を受けるといふ。神經座骨何とかいふので尻に注射するのだといふ。注射をするとき傍にゐて呉れといふ。尻だから傍にゐる必要があるのださうだ。書齋にゐて注射の時咳拂でもしたら澤山だらうと返事をした。醫者もこんな事を云はれては迷惑だらう。
 野上が來る。漢時代の石摺だといふものを見せる。何だか一向不明。夜野上再來。御能見物を勸む。今からでも張良丈は見られるといふ。尾上の張良を見る事を御免蒙る。野上筆子を連れて行く。細君既にあり。
 虚子の家で女の子生る。
  〔來信〕 坪谷善四郎
 
 五月十一日 火
 陰。大掃除。濤蔭手傳に來てくれる。
 虚子來。あした明治座を見に行かないかといふ。芝居はついに見た事がない。どんな連中が行くのかと聞くと中村不折、坂本四方太、鼓打の川崎、それに國民社の凡鳥、温亭なりと、まあ行つて見やうと約束す。
 夜濤蔭の生立ちから今日迄の經歴を聞く
 豐隆の母八里程汽車に乘つて御嫁さんを見に行く。
  〔來信〕 小宮豐隆
 
 五月十二日 水
 雨。濤蔭また窓硝子を拭に來てくれる。雨を冒して虚子の宅から明治座に行く。丸橋忠彌。御俊傳兵衛、油屋御こん、祐天和尚生立、何とか云ふ外題の※[足+勇]り。一時から午後の十一時迄かゝる。非常に安きものなり。然らずんば見物が非常に慾張りたるものなり。御俊傳兵衛と仕舞のをどりは面白かつた。あとは愚にもつかぬものなり。あんなものを演じてゐては日本の名譽に關係すると思ふ程遠き過去の幼稚な心持がする。まづ野蕃人の藝術なり。あるひは世|見《原》見ずの坊つちやんのいたづらから成立する世界觀を發揮したものなり。徳川の天下はあれだから泰平に、幼稚に、馬鹿に、いたづらに、なぐさみ半分に、御一新迄つゞいたのである。一時頃歸宅
  〔來信〕 小宮豐隆電報(徴兵無事に濟む)
 
 五月十三日 木
 雨。高商生徒一同退校すとか何とかいふ。退學を命じたらよいのに、保証人を呼び出して勸誘すとか何とか云つてゐる。
 臼川、濤蔭來。
 純一戸棚から落ちて頭を切る。醫者へ行つて縫つてもらふ。
 
 五月十四日 金
 雨。眠くていけない。畫寐一度、夜九時頃一度寐る。
 松根の親類伊達男爵の子ピストルで同年輩のゴロツキ書生を打つ。
 余は肝癪持だからピストルと刀は可成買はぬ樣にしてゐる。夫で泥棒抔の時はいつでも、どつちかあれば良いと思ふ。
  〔來信〕 松根東洋城。
 
 五月十五日 土
 陰。池松雅常來。宮本武藏の木|大《原》刀を持つてゐた。赤樫のぴか/\した丸太の樣なものである。先を虫が食つてゐる。
 二葉亭印度洋上ニテ死去。氣の毒なり。遺族はどうする事だらうと思ふ。春陽堂から二葉亭の事に就てきゝにくる。何の知る所なし。
 夜森田草平來。煤烟が出さ《原》さうもないと云つて憤つてゐた。彼は他の書物が發賣禁止になつても平氣な男也。そこで余かれに告げて曰く。煤烟どころか如何なる傑作が發賣禁|示《原》にならうと世間は平然たる時代なり。煤烟なんかどうなつたつて構ふものか。
  〔發信〕 長谷川柳子
  〔來信〕 小宮豐隆
 
 五月十六日 日
 雨。桑原喜市の細君が金を借りに來る。同宿の人の歸國旅費をかりて仕舞つた所が其人は徴兵檢査で今日立たなければ間に合はないといふ。澁谷の兄弟の所で半分こしらへたから十五圓丈貸してくれといふ。細君に聞くと月末迄の小遣が十圓あるといふ。それに自分の紙入に五圓あつたのを加へて渡す。
 此正月から今日迄臨時に人に借りられたり、やつたりしたのを勘定して見たら二百圓になつてゐた。是では収支償はぬ筈である。
 そのうちで尤も質のわるい、又尤も大びらなのは淳平である。淳平はにくい奴だ。もう一文も貸さない。
 東洋城が來てとまる。
 葛寛藏死す。いつの間にやら從四位勲四等になつてゐた。殿上人である。
 
 五月十七日 月
 晴、風。「三四郎」出づ。檢印二千部、書肆即日賣切の廣告を出す。濤蔭が來て表紙がよく出來てゐなかつた由を話す。濤蔭は町で見た《原》來たのなり。(以上昨夜の話)
 細君鈴木の法事に行く。昨夜東洋城來。一泊。今朝歸る。
 
 五月十八日 火
 晴。細君鈴木の寺參りに行く。森田草平來る。書物をかへす。レギーナは凡てチピカルだから不可ないといふ。夫から大いにタイプとインヂ※[ヰに濁點]ヂユアルの説明をしてやつた。
 
 五月十九日 水
 晴。メレヂス死す。臼川來つてメレヂスに就て何か國民文學へ載せるから話せといふ。臼川午頃から晩迄居つて原稿をかいて歸る。
 坪内雄藏、内田貢二人連名にて二葉亭に關する感想を認めん事を依頼し來る。靈前に供し、又之を出版して其所得を遺族に送る爲なりといふ。
 先達て明治座見物料は七人で三十圓の由。西洋のストールと同じ位なり。
  〔來信〕 鳥居赫雄 田中勝助 坪内雄藏
                 田《原》中勝助
 五月二十日 木
 雨。日暮森田草平來。春陽堂「三四郎」再版の檢印をとりにくる。獻本を持つて來ないうちに初版を賣り盡して、催促をするにも關はらず、本を持參せず、印丈をとりにくる。手前勝手も甚しき奴なり。小僧を叱り付ける。草平黙然として歸る。濤蔭文學上の談話をなす。濤蔭學力未熟にて人のいふ事も自分の云ふ事もよく分らず。段々悟るべきなり。濤蔭衣食の途に窮して愈没落せば書生に置いてくれといふ。妹は淺草へあづけるといふ。其淺草の事情をきくと妹は到底辛抱が出來る所にあらず。困つた事なり。
 十二時過厠に上る。窓の隙間より星影を見る。雨何時か晴れたり。
 
 五月二十一日 金
 晴。非常に心持のいゝ午睡をした。矢來で金を借せといふ。金ばかり借りられる。借りる方も心細からうが貸す方も心丈夫ぢやない。
 
 五月二十二日 土
 晴。豐隆歸京。三重吉歸京。草平來。三人と晩食を食ふ。
 高商問題方付かず、中野武營仲裁に入る。
 
 五月二十三日 日
 晴。細君子供四人をつれて野上臼川の巣鴨の宅へ行く。臼川が子供を迎に來たからなり。夜に入つて細君子供、臼川夫婦來る。田端から道灌山へ出て※[さんずい+氣]車へ乘つて、上野へ出てだるま汁粉へ這入つて晩食をしたといふ。いくらかと聞いたら壹圓三十餞だといふ。安くて甚だ頂上である。
 
 五月二十四日 月
 晴。高商生徒無條件にて復校ときまる。仲裁者は實業家也。高商生徒は自分等の未來の運命を司どる實業家のいふ事はきくが、現在の管理者たる文部省の言ふ事は聞かないでも構はないといふ料簡と見ゆ。
 要するに彼等は主義でやるのでも何でもない。あれが世間へ出て、あの調子で浮薄な亂暴を働くのだから、實業家はいゝ子分を持つたものである。明治の日本人は深く現今の實業家に謝する所なかるべからず。
 新不規則故手紙で稽古を斷る。
  〔發信〕 寶生新
  〔來信〕 寺田寅彦ミラノ(五月四日)ベルリン(五月六日)
 
 五月二十五日 火
 晴。新來。色々忙がしかつた事情を話す。其上借金に連印をした爲め執達吏に強制執行をやられたといふ。以來可成ズボラはやらぬといふ約束で又教はる事にする。
 本間久自著を持參。子供のおもちやに獨樂をくれる。夜半強雨
 あい子腹が痛いとて泣く。小林さんが朝と晩二遍來てくれる。野|川《原》のうちへ行つて食ひ過ぎた所爲ならん。
  〔來信〕 若杉三郎
 
 五月二十六日 水
 雨。未だ晴れず。
 馬場孤蝶來る。「慶應」を已められて二時間になるといふ。日々新聞に入るといふ。午飯を食ふ。晩に濤蔭來る。
 池邊吉太郎來翰。タイムス社員を星が岡茶寮に招く。社員勢揃の必要あり。來會を望むと。返事に曰く願くは御免蒙りたし。是非出な〔け〕ればならぬならば、再度使を寄〔こ〕せと。再度の使來らず
 丸善へ注文書を出す
  〔來信〕 戸川秋骨
 
 五月二十七日 木
 晴。物集芳子來訪美くしき薔薇の花束をくれる。よき香なり。川浪道三來。夕暮臼川來。勉強の都合ありてすぐ歸る。
 夜虚子、豐隆、濤蔭來。虚子と黒塚を謠ふ。
  〔來信〕 久内清孝、栗原元吉 中村蓊(旅順)
 
 五月二十八日 金
 陰。風。地久節なり。一時頃西神田倶樂部へ謠を謠に行く。櫻川の仕手也。其他紅葉狩、關原與市、猩々、融、也。諸君皆上手になる。高野さん丈が相變らず念佛の樣な節を出す。將棋をさす。豐隆に一度負ける。二度目には虚子の助言で勝つ。新とやる、うまく負ける。新と虚子とやる。勝負のつかぬうちに歸る。
 大谷繞石「三四郎」の切拔を送つてくる。是は旅行中も大阪朝日を逃さぬ樣に買つて集めたるものゝ由。
  〔來信〕 田中君子 大谷正信
 
 五月二十九日 土
 晴。内丸最一郎來。學習院の歸りに早稻田から車に乘つて南町迄十二錢取られたといふ。保|儉《原》社員來。玄關で歸す。細君小供音樂會へ行く。
 米山熊次郎天然居士の寫眞を送り來る。
 今度の木曜に臼川と安倍能|勢《原》が謡にくるといつた。
 チロル、モリソン兩人はタイムス社員也。大隈に逢ひ誰を訪ひ、首相と晩餐を共にし頗る景氣よし。貧弱國の諸公彼等を以て儕輩となす。而して内地の社員連を目して新聞屋々々々といふ。新聞屋のうちに漱石先生あるを知らざるものゝ如し。好笑。
  〔來信〕 物集和子
 
 五月三十日 日
 晴。International Prss Association。伊藤、桂、大隈、其他新聞記者等。乾盃の辭、數種いづれも空言なり。これを以て世を渡るものは世を知らずに暮す仙人と同一なり。仙人よりも嘘を交へたる丈惡し。
 二葉亭の遺骨着。午後二葉亭の遺族を訪ふ。細君と御母さんに逢つて弔詞を述べる。靈前に香奠を供へ一拜して歸る。葬儀は二日染井墓地で執行の由。
 濤蔭來。愈没落一日から家に置いてくれといふ。
 
 五月三十一日 月
 晴。小説「それから」を書き出す。
 
 六月一日 火
 晴。奥田悌來。二宮行雄來。小説約一回分しか書けず。久内清孝ピツクルズを送り來る。
  〔來信〕 久内清孝
 
 六月二日 水
 晴。午後一時長谷川二葉亭の葬式に染井の墓地に赴く。
 國技館の開會式擧行。
 夜二葉亭の追想を書いて西本波太に送る。葬儀のとき池邊がしきりに何か書け/\といふから魯庵に相談したら一寸したものでも可いといふから書いたのである。
 
 六月三日 木
 曇。立石駒吉といふ人小説家志望の由にて來る。急に齒痛起る。齒醫者へ行く。歸りに床屋へ入る。
 前田夕闇來。
 
 六月四日 金
 晴。齒醫者へ行く。太平洋畫會に行く。滿谷國四郎に逢ふ。新海竹太郎大塚保治兩人來る。
  〔來信〕 野間眞綱 林久男 寺田寅彦(スエズより)
 
 六月五日 土
 晴 齒醫者へ行く。眠くて晝寐をする。甚だ好い心持であつた。夜小説二回を書く。考へてゐた趣向少々不都合を生ず。
 夜半何者か門の名札を引つぺがし、牛乳函を壞し、石を投げ怒號して去る。家人みな眠つて知らず。朝になつて庭内の酒井さんから聞く。名札は酒井さんの庭に放り込んであつた由。
 
 六月六日 日
 雨。齒醫者へ行く神經をとる。寺町を散歩して歸る。筆とヱイ子御伽芝居へ行く。森田草平金を借りに來る。酒井さんの御孃さんオルガンを壞す。
  〔來信〕 鹿兒島市春日町三九、濱崎方皆川正禧
 
 六月八日 火
 晴。朝齒醫者へ行く。細君神經痛にて寐る。午後豐隆來る。晩方、東洋城來る。松の盆栽に蟻が巣を食ふ。常陸山太刀山に負ける。
 
 六月九日 水
 雨。新來。花筐をならふ。盆栽の松に油を注いで蟻の巣を亡ぼす。
  〔來信〕 鈴木三重吉 野上臼川
 
 六月十日 木
 陰晴不定。風。夜|阿《原》倍、野上謡に來る。
  〔來信〕 内田魯庵
 
 六月十一日 金
 陰。後に雨。虚子〔と〕歌舞伎へ行く。太功記、きられ與三郎。鷺娘
  〔來信〕 島文次郎 朝日社會部 香川縣の人
 
 六月十二日 土
 晴。歌舞伎座を見て手紙を虚子にかく、午前中をつぶす。午後はぐず/\休む。晩食後畔柳芥舟來。高等學校の内部不平の噂をきく。十時歸る。櫻の實をくれる。例年の慣例なり。「三四郎」三版の奧附をとりにくる。
  〔來信〕 朝日社會部
 
 六月十三日 日
 陰。來客。青木昌吉。野村傳四。兒島献吉郎。傳四が竹の椅子をくれる。
 草平國民に「三四郎」評をかく。豐隆來つてぶつ/\不平を云ふ。草平の態度よろしからざる故國民紙上で之を駁すといふ。どうでもやつて見るがよし。
 草平の議論をこまかに論じて行けば瓦解土崩すべき所至る所にあり。
 東北※[さんずい+氣]車逆行して貨車折り重なる。重輕傷十數名
  〔來信〕 朝日社會部 高殯清
 
 六月十四日 月
 陰。烈風。朝虚子と國技舘に行く。九時から六時迄居る。色々な相撲と色々な取|込《原》を見る。然し花相撲に於ける若い力士が無暗に取る樣な際どいもの一つもなし。
 相撲の筋肉の光澤が力瘤の入れ具合で光線を受ける模樣が變つてぴか/\する。甚だ美くしきものなり。中村不折は到底斯ういふ色が出せない。だから不可ないといふのである。
 六時から九段の能へ行く。金剛謹之助のかんたんを見る。十時半歸る。遊びくたびれる。
 留守中藤代禎輔來。森卷吉來。
 
 六月十五日 火
 陰。疲勞 朝十時迄寐る。午後又寐る。三時入浴。散歩。晩食。
 昨日森が呉れたリヽー、オフ、ゼ ※[ワに濁點]ーを大丼に浸し紫檀の机の上に置く。其下に畫寐す。異香あり。
 
 六月十六日 水
 陰。本間久。ダツタン人の回々教の管長と事を友《原》にする天下の志士を連れてくると云つてくる。此人余が著述を好んで讀むよし。奇人だから材料にしたらどうだと書いてある。
  〔來信〕 本間久。寺田寅彦。
 
 六月十七日 木
 陰。時に雨。細君松屋へ行つて夏羽織を買つてくる。縞絽なり。學校を已めてから町人じみたなり〔二字傍線〕をする樣になつた。インキを買ひに早稻田へ行く。風葉の耽溺した所を濤蔭に教へてもらふ。
 夜。草平、東洋城、豐隆來。○○○東宮御所の會計をしらぺてゐる。皇太子と皇太子妃殿下が二人前の鮪のさしみ代(晩食だけで)五圓也。一日の肴代が三十圓なりと。天子樣の方は肴代一日分百圓以上なり。而して事實は毎万と〔も〕一圓位しかかゝらぬ也。あとはどうなるか分らず。
 伊藤其他の元老は無暗に宮内省から金をとる由。十萬圓、五萬圓。なくなると寄こせと云つてくる由。人を馬鹿にしてゐる。
  〔來信〕 本間久
 
 六月十八日 金
 晴。碧巖會より案内あり。宗演和尚の碧巖の提唱ある由。所は内幸町三井集|會《原》なり。多分森大狂の發送する所ならん。發起人ニ曰く大石正巳、朝吹英二、早川千吉郎、野田卯太郎、大岡育造、徳富猪一郎。御顔揃なり。
 目下禅僧の講話をきゝたき了簡なし。ひまでも出來たら行つて見るも妨げず。
 百合の花の香ひよし。瓶中に二輪咲く。
 中村蓊平|城《原》にて小城を訪ふ。小城は骨董を集めゐる由。小城と骨董とは岩崎と武士道の樣な感がある。
  〔來信〕 中村蓊(平壌) 碧巖會
 
 六月十九日 土
 雨。朝日へ「それから」二十回を送る
  〔來信〕 瀧田哲太郎 中村六郎(一茶同好會) 安井藤太郎(片岡機死去)
 
 六月二十日 日
 陰。草平長い手紙をよこす。一日で書いたものにあらず。言譯やら自分の事情やらをこま/”\と認めてある。
 夜パウルハイゼのワインヒユターといふ奴を讀み出す。散歩に出た後へ小宮が來て待つてゐて、先生は不熱心だといふ。
  〔來信〕 森田草平
 
 六月二十一日 月
 雨。とう/\ピヤノを買ふ事を承諾せざるを得ん事になつた。代價四百圓。「三四郎」初版二千部の印税を以て之に充つる計畫を細君より申し出づ。いや/\ながら宜しいと云ふ。
 子供がピヤノを彈いたつて面白味もなにも分りやしないが、何しろ中島先生が無暗に買はせたがるんだから仕方がない。
  〔來信〕 召《原》波瓊音 坂上忠之介
 
 六月二十二日 火
 曇。
  〔來信〕 佐藤緑郎
 
 六月二十三日 永
 雨と曇。高等師範生徒二名來る。逢はずして返す。
 新に三井寺を習ふ。
 
 六月二十四日 木
 雨。猪股勲來る。仙台の人、新聞屋になりたき希望あり。高等師範學校生徒二名又至る。果して演説の依頼なり。一人は普通の依頼者の如く此方の云ふ事に耳を借さずたゞいつ迄も頼む男也。一人は分つた/\と云つて、無暗に人を擔ぐ男也。二人と猪股とを比較して其間に大なる差違を認めたり。猪股は自から品格あり。生田長江來る。
 夜。エリセフ、東、小宮、安倍能|勢《原》、來る。エリセフは露人なり。日本語の研究の爲に大學の講義をきく由。「三四郎」を持つて來て何か書いて呉れ|た《原》云ふ。
 十時過安倍、小宮と清經を謠ふ。安倍教師の口をたのむ。此人も品格あり。
 
 六月二十五日 金
 雨。
 
 六月二十六日 土
 陰
 
 六月二十七日 日
 雨。西村にエキザーサイサーを買つて來て貰ふ。之を椽側の柱へぶら下げる。
 伸六よく引きつける。日に一返位顔へ水を吹きかける。
 「それから」朝日に載る。
 
 六月二十八日 月
 雨。中村蓊滿洲より歸りて來る。ハルピン迄行つた由。露語不通色々失敗。朝鮮團扇をくれる。
 エキザーサイサーをやる。四五遍。夜からだ痛し。
 
 六月二十九日 火
 陰。
  〔來信〕 早稻田大學卒業式案内
 
 六月三十日 水
 晴。夜に入つて雨。中島さん來る。ピヤノ來る。中|鳥《原》さんの指揮の下に座敷へ擔ぎ込む大騷ぎなり。中島さん六時頃迄ゐる。夜獨乙語。小説を一回もかゝず。
 渡邊和太郎横濱の開港五十年祭を見に來《こ》いといつてくる。
 十時過早稻田鶴卷町に火事あり。
  〔來信〕 伊|藤《原》榮三郎、寺田寅彦、大河内(獨乙より) 渡邊和太郎(開港五十年祭招待) 澁川柳次郎
 
 七月一日 木
 陰。寶生新。釋義堂。本多直次郎。田中龍勝。飯田政良。今古堂。來訪
  〔發信〕 渡邊和太郎
  〔來信〕 本間久
 
 七月二日 金
 陰。三重吉卒然として至る。ツメ襟の夏服を着てゐる。大學の制服を釦丈かへたものの由。午飯を食つて、小宮としきりに何か論じてゐた。三時頃とう/\成田へ歸つた。今日も妨害にて小説をかゝず。夜に入りて漸く一回書く。
 
 七月三日 土
 朝六時頃地震あり。夜支那人來る。椅子の前に立つて此所を開けろといふ。どこの誰で何しに來たかと問へば、私あなたのうちの事みんな聞いた。御孃さん八人下女三人、三圓といふ。まるで氣狂なり。返れといふに歸らず、ぐづ/\すると巡査に引渡すぞといつたら私欽差ありますと云つて出て行つた。怪しからぬ奴也。
 〔來信〕 國民文學
 
 七月四日 日
 陰。西村を警察へやる。夕べの支那人は四人にて下女を前後より擁し自分等の聞く事を答へないとひどい目に逢はす抔と威嚇したる由。且つ其前に下宿をさせて呉れと云つて來て、待つてゐる時に蝙蝠傘で御房さんの臀をつゝきたる由。言語同斷なり。
 昨夜子供が活動寫眞を見に行つたら、蘆花の不如歸をやつたさうだ。さうしたら常《原》子が泣いたさうだ。常子は九つである。どうして泣けるか不思義でならない。
 東洋城昨夜より泊りに來る。
 船田一雄 白石勉をつれてくる。
 〔來信〕 水上|齋《原》 復原鐐次郎方 愛媛新報 物集芳子
 
 七月五日 月
 雨。昨夢に中村是公佐藤友熊に逢ふ。又青榔に上りたる夢を見る。
 茨|木《原》縣のものだと云つて玄關に來た。昨日《きのふ》國を立つて來た。其目的は書生に置いて貰ふつもりだと云つて動かない。西村に應對さしたら、何でも一時間以上もゐたらしい。困つたと云つて溜息をついて雨の中を歸つて行つたさうである。
  〔來信〕 野上臼川 坪谷善四郎
 
 七月六日 火
 陰。雨に近し。
 臼川の台所の揚板が一寸許り持ち上《あ》がつてゐたから、明けて見たら筍が一面に生えてゐたさうだ。
 角田武夫。三四郎の繪端書二枚をかいて、題辭を求めてくる。此人は草枕、虞美人草の繪端書抔もかいた事がある。
  〔來信〕 角田武夫
 
 七月七日 水
 雨。大塚保治文學評論を讀んで其印象をかき送る。國民文學に送る。
 「朝日」へ「それから」のつゞきを五十回迄送る。椋十明朝八時新橋着の報あり。
  〔發信〕 角田武夫
  〔來信〕 大塚保治 椋十(羅馬より)
 
 七月八日 木
 雨。
 北白川|宮《原》の宮樣へ天子樣のむすめさんが嫁《よめ》に行かれて、其北白川の宮の妹さんが保科子爵へ行かれて、其保科子爵の姉さんが岩崎男爵へ行かれた。こゝに於て岩崎男爵は天子樣を叔父さんに持つた譯になる。
 
 七月九日 金
 雨。朝飯田青涼來。午後高濱虚子來。三井寺と雨月を謠ふ。晩、徳田秋江、眞山青果來。小宮。松根。
 臼川の書翰に曰く。昨夜夢の中で大いに切齒振腕して、今日は唇が少し破れて痛く候。……昨日は藥研堀まで買物に行つた序にヨヘイずしを食つて兩國で土左〔衛〕門を見てかへり候。
 畔柳芥舟の來翰に曰く先生の御作只今落掌致しました、難有御禮申上げます、斯う云ふ風に先生々々と崇め奉るのは無價で書物を頂戴する時だからです。
 
 七月十日 土
 雨。皆川正禧が鹿兒島から來《く》る。錫の茶托。薩摩燒の湯呑。夫から野間から言づかつた竹の硯箱をくれる。
 鎌田も一所にくる。鎌田は逗子の中學校へ行くといふ。
 皆川と櫻川を謠ふ。此二月頃から謠を習ひ始めたといふ。驚ろくべき上達なり。
 
 七月十一日 日
 陰。寐坊十時に朝食をくふ。森田草平來。議論。
 晩、生田長江來。ザラツストラの翻譯の件につき。不明な所を相談。
 
 七月十二日 月
 陰。暑し。
 日糖社長酒勾常明ピストルヲ以テ自殺ス。會社の不都合ヲ自己ノ責任ト解したるなり。新聞紙同情ス。
 
 七月十三日 火
 陰。淀川玄耳來。「世界一週」して歸りたての面會なり
  〔來信〕 高濱虚子(修善寺より) 内田榮造
 
 七月十四日 水
 陰。夜蝉一羽机の上に飛び來る。今年蝉を見る始也。
 牛後新に實盛を歌《原》ふ。余の謠に不純な音が交る由注意あり。
 
 七月十五日 木
 稍晴。始めてかすかなる蝉の聲を軒端にきく。夕暮蜩始めて鳴く。二三日俄然として劇暑となる。
 夜、東洋城、臼川、豐隆、東來る。
 午、中村武羅夫來。早稻田の卒業生某氏俳句帖を持參。揮毫を乞ふ。飄亭、鳴雪、東洋城等の句あり。
  〔來信〕 内田榮造 高濱虚子(修善寺) 山本松之助
 
 七月十六日 金
 晴。暑益劇。豐隆、東洋城とまる。朝三人で蝉丸を謠ふ。ひるから草紙洗を謠ふ。晩には一人で花月を謠ふ。
 小説中々進まず。しかし是が本職と思ふと、いつ迄かゝつても構はない氣がする。暑くても何でも自分は本職に力めてゐるのだから不愉快の事なし。「それから」は五月末日に起稿今六十三四回目なり。其間事故にて書かざりし事あり。又近來隔日に獨乙語をやるのと、木曜を丸潰しにするのとで捗取らぬなり。
 
 七月十七日 土
  〔來信〕 廣田道太郎 野上臼川 飯田青涼
 
 七月十八日 日
 大暑。晴。娘共眞裸にて家中を馳け回る。暑い故に裸になる程自然なるはなし。先生、野蠻人に圍繞せられて小説をかく。
 松浦一、金子健二來。金子が一昨日亞米利加から歸つたといふ。金子はバークレー大學にて白人の學生に殴打せられたと云ふ評判で一時は大變八釜しかりし男也。よく聞いて見ると子供がいたづらをやりたる由の誤傳也。
  〔來信〕 内田榮造
 
 七月十九日 月
 晴暑甚。強行軍の結果兵士の死傷者を出す。高崎と大阪なり。
  〔來信〕 第一銀行 水野錬太郎 戸川明三
 
 七月二十日 火
 陰。大いに涼しくなる。台所へ瓦斯を引く。口《くち》三つ。
 午後狩野、菅來訪。夕景歸る。
 
 七月二十一日 水
 晴。凉風。午後神樂坂へ繪の展覽會を見に行く。西洋人の畫と、西洋人の繪の模寫也。大變面白いものがあつた。
  〔來信〕 寺田寅彦(伯林)
 
 七月二十二日 木
 宮垣四海來。短冊の揮毫ヲ依頼。二枚かく。
 西村の買つて來た螢を軒端にかけて、眺める。
  〔來信〕 皆川正禧(國元より)
 
 七月二十三日 金
 森田草平來。野村傳四來。傳四此夏歸國する由にて暇乞にくる。晩に雨ふる。
 細君具合わるし。小林さんに來て貰ふ。矢張り妊娠なりといふ。無暗に子供が出來るものなり。出來た子を何うする氣にはならねど、願くは好加減に出來ない方に致したきものなり。もし鉅萬の富を積まば子供は二十人でも三十人でも多々益可なり。尤も細君の産をする時は甚だいやなものなり。
 秋骨、余の文學評論を二六に評す。臼川其切拔を送る。
  〔來信〕 廣田道太郎 田中君子 鳥居素川 野上臼川 時事新報
                  如是閑 
 
 七月二十四日 土
 晴。松根來。逗留
  〔來信〕 大谷正信
 七月二十五日 日
 晴。齋藤阿具、青木昌吉來。夕刻迄居て歸る。
 
 七月二十六日 月
 晴。實業家米國の招待に應じて渡航 うちに神田乃武、佐藤昌|助《原》、巖谷小波あり。何の爲なるやを知らず。實業家は日本にゐると天下を鵜呑にした樣なへらず口を叩けども、一足でも外國へ出ると全くの唖となる爲ならん。
 文科大學にて神話を課目に入れんとするの議を起す。總長濱尾新「神話」の神の字が國體に關係ある由にて抗議を申し込む。明治四十二年の東京大學總長の頭脳の程度は此位にて勤まるものと知るべし。
  〔來信〕 森卷吉(沼津より)
 
 七月二十七日 火
 忘
 
 七月二十八日 水
 忘
 朝日艦十二斤砲尾栓演習中破裂。死傷者數名(時日忘)
 
 七月二十九日 木
 晴。午東洋城來。夜、安倍能|勢《原》、野上臼川來。通盛と調伏曾我ヲ謠フ。遲く鈴木三重吉來。三重吉豐隆一泊。
 
 七月三十日 金
 晴。少雨。稍涼。午後三重吉、豐隆歸る。
 三重吉弟と喧嘩をして絶交を申し渡す。
  〔來信〕 畔柳芥舟
 
 七月三十一日 土
 稍涼。早戸川秋骨來。午後中村是公來。是公トラホームを療治して餘病を發し一眼を眇す。左の黒眼鼠色になれり。
 滿洲に新聞を起すから來ないかと云ふ。不得要領にて歸る。近々御馳走をしてやると云つた。
  〔來信〕 奧太一郎(照會)
 
 八月一日 日
 稍涼。驟雨時々至る。大阪大火。三十一日午前四時頃始まつて三十一日の日中續いて八月一日の六時半に終る。二十六時間燃えてゐた。戸數二萬。ほとんど北區の全體を燒き拂ふ。水道の供給不充分、蒸※[さんずい+氣]喞筒少なく、烈風、炎熱、皆其原因也。兵隊を繰り出す。川に荷物を運ぶ。荷物が川の中で燒ける。
 
 八月二日 月
 陰稍涼。
 虚子修善寺より歸京。春陽堂本多嘯月來訪。此春國光杜が燒けて虞美人草の紙型がなくなつて、組かへをしなければならない。それを半分負擔してくれといふ。金は百圓位の負擔だからどうでも好いが、どう云ふ筋で僕が出すのか分らないと云つた。
  〔來信〕 虚子
 
 八月三日 火
 稍涼
 素川、如是閑の?額の男を送る批評しろといふ意味也。
 おしろい草咲く。此間から、所々を點綴す。
 
 八月四日 水
 陰、大いに涼。
 一|間《ま》置いて次の部屋で按摩が妻の腰を揉んでゐる。其横顔が羅漢によく似てゐる。不折に見せてやりたい。此按摩は酒で生きてゐる。たゞの酒では利かないと云つて燒酎やドブロクを飲む。
 中村是公六日晩くる事出來るかと電報ヲカケル。是公の使露西亞烟草を二箱持つて來る。二百五十本入也。
 虚子來。實盛ヲ謠フ。髪刈。
 丸善ドウデの全集十六卷をかつぎ込む。大いに辟易ス。
 
 八月五日 木
 九時半驟雨一過。小説それから漸く結末に近づく。
 辻村鑑來る。鳥取の話をする。東京へ移りたき希望を述ぶ。
 
 八月六日 金
 陰晴不定。三時半頃から飯倉の滿鐵支社に赴く。是公に逢ふ。建物立派なり。夫から公園の是公の邸に行つて湯に入る。茶がゝつたよき家也。夫から木|晩《原》町の大和とかいふ待合に行く。久保田勝美、清野長太郎、田島錦治と是公と余なり。貞水が講談を二席やる。料理は濱町の常磐。傍に坐つてゐた藝者の扇子に春葉の句がかいてあつた。それはきたない扇子であつた。どこかで拾つた樣に思はれた。十時半歸る。
 十四の少年號をつけてくれと云つてくる。
 
 八月七日 土
 七。一昨日岡田耕三が來て第一高の佛文學志望の試驗を學科の方で及第したが、体格があやしいと云つて落膽してゐたが、新聞を見ると首席で及第してゐた。定めて嬉しからう。
 是公の宅から滿洲の拂子一本と、烟草一箱をもらつて歸る。其烟草には藁の管が二寸程着いてゐる。特許なり。
 兩國の花火。大賑ひ。晴夜。
 
 八月八日 目
 それからを一回しか書かず。
 
 八月九日 月
 晴。それからの第百回を半分程書いてから又書き直す。「それから」を書き直したのは是で二返目也。
 夜天の川を見る。
 
 八月十日 火
 おしいつく/\の聲を聞く。
 
 八月十一日 水
 陰大いに凉。毛織のシヤツを着る。箱根へ避暑に行つた樣也。
 夕方中島襄吉さんに來てもらふ。細君ツワリで腹の具合が妙だといふから也。診察の上腸の加減だらうといふ。
 高等學校の粟津清秀さんの養老金を募集にくる。
 新不來。
  〔來信〕 畔柳都太郎 寺田寅彦(ドレスデン) 野々口勝太郎
 
 八月十二日 木
 晴。佐治秀壽仙台より來る。晩に虚子來。草紙洗を謠ふ。
  〔來信〕 濱武元治 大坂在河内の人
 
 八月十三日 金
 陰。蒸あつし。
 伊藤幸次郎來書。滿鐵に入つて新聞の方を擔任す。中村からの話ありて、一應挨拶だか相談だか分らぬ手紙也。中村はどの位な話をし、伊藤はどの位な考で手紙を寄こしたものやら分らず。返事に困る。
  〔來信〕 小島武雄(豆州伊東)
 
 八月十四日 土
 「それから」を書き終る。
 
 八月十五日 日
 管虎雄の細君死す。産後經過不良
 大倉書店燒く。
 
 八月十六日 月
 陰。朝菅の所へ行く。
 田中君子よりうに〔二字傍点〕》と菓子到來。
 中村是公より「不可不讀」を寄せ來る
 「二葉亭四迷」を送り來る。
 
 八月十七日 火
 晴。伊藤幸次郎來訪。滿洲日々新聞の事に就て一時間半ばかり談話。
 ※[ワに濁點]インヒユーター讀了。
  〔來信〕 中村是公
 
 八月十八日 水
 午後一時菅の細君の葬式に行く。大塚が二十年前のフロツクコートを着て來た。車に乘るのは失禮だと云つて麟祥院迄あるくと云ふ。富坂迄一所につき合つて見たがたまらなくなつて御免蒙つた。
 小さな子が燒香をやるのは實に氣の毒なものだ。會葬者は大体知つた顔であつた。
 中村より愈滿洲へ行くや否やを問合せ來る。行く旨を郵便で答へる。
 滿洲行の爲め洋服屋を呼んで脊廣を作る。
 
 八月十九日 木
 朝林久男來。鹿兒島から仙台へ移るといふ。長野の山奥の熊捕りの話。蛇を生で食ふ話。山で霧に取り卷かれた話。戸隱の裏山をめくらが熊捕りの腰につけた鈴の音を便りに上る話抔をする。信|洲《原》の山奥で越後の糸魚川に通ずる所は大變淋しくつてそこの教師が郷里へ歸つて歸任するのが厭だといつて自殺した話をする。
 
 八月二十日 金
 劇烈な胃カタールを起す。
 嘔氣。汗、膨滿、醗酵、酸敗、オクビ、面倒デ死ニタクナル。
 氷を噛む。味のあるものを食ふ人を卑しむ。本棚の書物の陳ぶ樣を見て甚だ錯雜堪えがたき感を起す。
 昏々
 
 八月二十一日 土
 昏々
 
 八月二十三日 月
 東洋城來
 
 八月二十四日 火
 虚子來
 紅緑春葉を伴ふて至る。臥蓐中につき斷る。春葉とは初對面なればなり
 
 八月二十五日 水
 東津城來。
 
 八月二十六日 木
 森田、豐隆來。森田の離合、水死を評す。
 新春夏秋冬の秋の部に
  初秋の芭蕉動く《原》ぬ枕元  と云ふ句を題す
 印度タンツラ僧伽イマジネーシヨン研究會長木村秀雄來る。
 
 八月二十七日 金
 朝。池邊吉太郎へ暇乞に行く。不在。
 醫者滿洲行に反對。午後自分でも無理だと自覺す。中村に電話で其旨を云つてやる。
 夜池邊來。談話。午中村蓊來。夕、野上臼川來。朝岡田耕三來。
 朝泉鏡花來。月末で脱稿せる六十回ものを朝日へ周旋してくれといふ。池邊不在故玄耳へ手紙をつけてやる。
 
 八月二十八日 土
 泉鏡花來訪|咋《原》。昨日の禮を云ふ。
 森田來。豐隆來。森卷吉來。
 
 
斷片 ――【明治四十二年一月頃より六七月頃まで――
 
    一
 
蛇   
泥棒、 ×Aconversation    Kilt    ○もう一時間早ク來レバよかつた。
霧、  ×Selling a heirloom  火事、   ○書く事はいくらでもある。
文士、 ×The Red Lily      梧桐、 ○山鳥
死、  ×procession       寐起   ○五位
TFeft  ×根津          幽靈、  ○猫
木賊  ×泳           晴着
    ×三公  ×母病氣    
     I am a man!       
    ×子規          貧――痛切――生活難
    ×Snow          富――贅澤――美
     浪士          
 Chimney Sweeper
 London Theatre
 Craig
 Dixon Pitrro《〔?〕》
 
 ×禅、新體詩、藝者
  |  |  |
  毛布
 ×天動説  地動説
  |     |
  自己中心 他中心
 ×金の説、金ノ變形、變形ノ徳ト變形ノ弊
 
 ○寶生九郎 「箙」ノ絶句(東は……)シカケテ本ユリノ仕舞デ漸ク思ヒ出ス
 ○寶生新 觀世ノ舞台、横濱ト掛持チノ爲メ早クヤル、見物二三組。それを見タトキ氣ガ散ツタ、それデ絶句。
 ○鼓ノ拍子ガ豫期ノ如クウマク行カナイト絶句
 ○凡ての coordination ガ崩レルト同ジ自然ノ推移ガ出来ナクナル、
 ○ダカラ、旨クヤラウト思フテモコヽヲ一ツドウシヤウト思フテモ其思ヒニ煩ハサレルカラ駄目
 ○必竟ハ錬習以外ニ何ニモナクナル。
 
 ○會津栗。四升一圓、東京デハ一升壹圓五十錢。支那人ノ注文1800俵(2yen.)支那人ヘノ賣高一俵4.50yen.支那人ノ所へ持ツテ行くト大キナ桶ヘ水ヲ汲ミ込マセタ。一日モカヽツタ。夫カラ栗ヲ水ノ中ヘ入レタ。虫ノアル奴ガミンナ浮イタ。七分許浮イテ仕舞ツタ。浮イタ奴ハペケダト云フ。九百圓許ノ損
 ○崎《原》玉ノ芋。2000俵。一俵4yenニ賣リ込ム。十四日ノ申込デ二十五|《原》迄ノ約束。到底間ニ合ハナイ。番頭云フ契約ハ嚴行セズ。ヨツテ芋ヲ買ヒアツメル。二十八日過ギニ至ル。番頭(商舘ノ)甚シキ日限ノ違約ト云フ條※[疑の旁が欠]ニ損害賠償8000圓トアルノヲ楯ニシテ金ヲ渡サズ。
 コツチハ1000ノ保証金ヲ收《原》メテ現物取抑ヘヲ申請シテ船ニ積ミ込ンダ芋ヲサシ抑ヘタ。向フハ8000ノ保証金ヲ出シテ船ヲ出シテ仕舞ツタ。裁判ニナル。約定書ガアルモノダカラマケ。2000俵ノ芋ヲアツメルノハ容易ナコトデハナイ。芋ハトラレル。裁判ニハマケル。コンナ詰ラヌコトハナイ
 ソープ石〔四字傍線〕。伊豆ノ下田。探堀代。三斗五升入ノ叭《原》代、繩代、水揚代、運賃靈岸島迄 三斗五升ニツキ五十錢。是デ六百袋出來ル。16貫(百斤)ニツキ砂ヲフルツテ12貫ハ慥カデアル。一袋3錢ト見テ18圓ニナル。
 千二百萬坪ノ鑛山借區料。三千六百圓ノ年税。借區料百萬坪デ50圓。  溶《原》鑛爐。フキ分ケル。 精錬。
 
 ×零度以下39.6、旭川、三十年来ノ寒
 ○夜具ヘ呼息ガアタルト襟ヘ霜ガ出來ル。
 ○薬鑵ノ湯氣ガ壁ヘ凍リツイテヂヤリ/\スル。
 ○醤油ガ氷ル。味噌ヲ切ル。砂糖ガ氷ル。
 ○鷄ヲ持ツテ來タラ一晩ノウチニ死ンデ仕舞ツタ。食ツタラ不味カツタ。
 ○ランプ〔三字傍線〕が下から氷ツテ來ル。暖爐ノ上ニ置カナイト消える。
 ○汽車ガ途中デ動カナクナツタ。救助ニ行ツタ汽鑵車が又二台も三台も途中で動けなくなつた。
 汽車ノトマツタ村から焚出をした。
 
 ○A century of conflagration
 ○?Truth−established fact
   Mystery−not established region
   Falsehood−established
〔英文省略〕
 ○Distance Distance ハ彼我ノ distinction ヲ打破す。physically ニ然り。interset ニ於テ然リ。morally ニ然リ。故ニ局ニアル人ノ甲乙相爭ノ状ヲ見テ笑ハザルヲ得ズ。distance ヨリ眺ムレバ甲乙共ニ distinction ナケレバナリ。Distinction ナシトハ或ル意味カラシテ甲乙ヲ小サク見ルノ義ナリ。小サクシテ區別ナシト見ルナリ。之ヲ同一ニ見ルガ故ニ甲ヲ以テ乙ヲ代表セシメ又ハ乙ヲ以テ甲ヲ代表セシメテ適當ナリトス。何ゾハカラン。甲と乙トハ當時ニアツテ氷炭相容レズト罵リ騷ゲルモノナリ。
 十歳の子供ト二十歳ノ青年トハ大變ナ相違アリ。七十ノ老人ト六十ノ老人トハ左シテ異ナル所ナシ。然レトモ兩者ノ差ハ均シク10ナリ。換言スレバ廿ノ人ガ十ノ人ニイツノ問ニカ追ヒ付カレタルナリ。世ニ追ヒツカレザル者ナシ。追ヒ付カレルハ自分ノ發達ガトマルノ意ナリ。發達ノトマル人間ハ生ニ於テ希望ナシ。生ノ感ジ薄キガ故ナリ。生ノ感ジ薄キモノハ死ニ近クノ証據ナリ。
 ○Experience、生ノ内容ハ ekperience ナリ。故ニ人ノ ekperience ヲ單調ニスルハ人ノ生ヲ奪フナリ。自カラ ekperience ノ範圍ヲ狹クスルハ自カラ命ヲ縮ムルナリ。
  愛ノ experience ナキ者ヲ想像セヨ。非常ニ短命ナル感アラン
  音樂ヲ味ヒ得ザル者ヲ想像セヨ。〃〃〃カヽル意味ニテ短命ナル者ハ敷フベカラズ。彼等一旦コヽニ氣ガツイタトキ急二淋味ヲ感ジテ、自己ノ experience ヲアル方面(趣味ノ養成、愛情ノ滿足其他)ニ充實セント試ムルコトアリ。シカモ時既ニ遲ク如何トモスベカラズ、空シク貧弱ナル短命ヲ以テ死ニ赴ク。死ニ赴キツヽ非常の不安ト悔恨ト淋味ヲ感ズ。
  一生嫁ガズシテ死スル婦人ヲ見ル度ニ尤モ強ク此感ジヲ起ス。子ナキ人ヲ見ル度ニ此感ジヲ起ス。suffer 「セルコトナキ馬鹿ヲ見ルトキ此感ジヲ起ス。道義ノ念ナキ奴ヲ見ルトキ此感ジヲ起ス。……
  人情ハ一刻ニシテ生ノ内容ヲ急ニ豐富ナラシム。
  此一刻ヲ味ツテ死スル者ハ眞ノ長壽ナリ。
 ○Uncertainty ――人事不安ナリ。今日ノ親友モ明日ハ敵トナルヲ思ヘバ不安ナリ。今日ノ愛人モ明日ハ心變ルト思ヘバ不安ナリ。名譽財産悉ク不安ナリ。老ノ人に逼ルコト愈不安ナリ。此不安ノ念ヲ切實ニ感ジタル者ハ道ヲ求ム。(中ノ兄ガ急ニ卒倒シテ馬鹿ニナツテ仕舞ツタト云フ。中ノ兄ハ福岡醫科大學ノ教授デアル。一刻ニシテ教授所デハナイ白癡ト化シテ仕舞ツタ)
 ○Secret. 靈ノ活動スル時、われ我ヲ知ル能ハズ。之ヲ secret ト云フ。此 secret ヲ捕ヘテ人ニ示スコトハ十年ニ一度ノ機會アリトモ百年ニ一度ノ機會アリトモ云ヒ難シ。之ヲ捕ヘ得ル人ハ萬人ニ一人ナリ。
  文學者ノアルモノノ書キタル アルモノノ價値アルハ之ガ爲ナリ。
 
 ○最後ノ權威ハ自己ニアリ
 ○都會的生活(文學評論アヂソンノ部參考)と lovw affair.
  Permanency ノ缺乏、――其理由、――D’Annunzio, The Child of Pleasure.
  Fickleness ト endurance ノ lack ノ perfectly natural ナルコト、
 ○自己ノ作ヲ尤モ佳ト考ヘ得ベキ至當ノ理由。――Individuality ノ choice ト其實行。(not in obligation but in free will) 此大いなる範疇内ニテ説明シ得べキモノナリ。
  此意味ニ於テ自己ノ作物ハ necessarily ニ他ノモノヨリモ better ナリ。
  然シfreedom ナキ場合即チ他ニ移ラントシテ individuality ノ束縛ヲ受ケテ如何トモスル能ハザル場合ハ前ト反對ノ conclusion トナル
 ○Test ノ不徳義ナル所以。==自己ノ不眞面〔目〕なる態度を以テ他ノ眞面目ナル態度ノ對象トナシテ耻ヂザレバナリ。
  故ニ此態度ヲ assume スル以上ハ他モ不眞面目なる態度ヲ以テ我ニ對スルやモ知レヌト云フコトヲ覺悟セザル可ラズ(徳義上、公平ノ立場よりして)
  換言スレバ自己が不眞面目ナル丈ソレ丈自己ハ他ヨリ欺カルヽノ權利ヲ他ニ與ヘタルモノナリ。
 ○家ヲ出テ氣が散る人、家ヲ出テ氣ニ懸ル人
 ○アンドレーフ−Oberst
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○私の不徳の致す所です
  西村濤蔭の話
 ○美顔術の女――東洋城の話
 ○雜誌記者〔英文省略〕
 ○まあそんなものですな
 ○世界が黄色く見える。
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○關口  舊、新、
 ○雨夜、虚子より歸る  車夫眠る。書生
 ○貸、借、 借りる方ノ資椅下ル。借りる方の資格上る。
 ○情義問題。權利問題。 二者ノ混同。損徳問題
 ○新ノ缺席、夫ニ對スル感
 ○祖父、腹切、夏目金十郎
 ○人ニ調子ヲ合セルコト。不矛盾
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 ○※[さんずい+氣]車旅行と潮流。〔英文省略〕
 ○〔英文省略〕
 
 ○洋傘屋の看板。ボスト、烟草屋ノ暖簾、勉強堂の看板。小包郵便車。電柱。風船玉。あか暖簾 半襟。
  電車――青い火。馬肉屋。福助堂。ハカマ 仁丹。賣出シ
 ○Aヲ排ス。Bヲ欲ス。然ルニAはBノ necessary condition ナリ。
    ugliness−grotesque
    ―― − ――
    ―― − ――
 ○ポートセイド、シンガポア
 ○地震の時  寶玉珍器、一椀の粥  comparative worth
 ○始メハ criticism 其物ニ心を動かしてゐた。後には criticism の影響に就て心を動かした。
  始メハ criticism 其物を目的として criticism ヲ書いた。後には criticism ノ及ぼす影響を目的にして criticism ヲ書いた。
〔英文省略〕
  貧乏人ガ旦那ノ御馳走ニナリタル時ノ如シ。
  是ハ
 
 ○何を爲やうと思つても結果を想像すると厭になる。さうして何に當つても爲ないうちに結果の方を考へる。
  戀。美人。花。邸宅。金儲。貯蓄。
 
 ○鉢の木の主人公は幸福なる程自意識に乏しき男也。今の人があれを見てだまってゐるのが不思議である。
 
 ○アルゼンヘラトーゼ 250gram 1.30
  スペル|リ《原》ン  豚の睾丸? 羊の睾丸?
 ○交番の血を見る
 ○君子蘭の葉を切る
 
 ○袂時計の  鈴虫  植込玄関
 ○下女の 胃ケイレン。 其全快
       |      |
       1感     2感
 ○始めて女に接したる時  女に接したるあとの
       |      |
       1感     2感
 ○子供六人  細君子宮炎。子供肺炎。齒痛、下痢、風邪
 ○御醫者さんの頭の中 多忙
 ○アンドレーフ  Sieben Gehenkten.
 ○Erleben ト Erkennen
 
 ○高商生徒
 ○裏店屋賃
 ○椿
 ○亂世の泥棒、治世ノ泥棒、pOSiti諾
    Crime−pleasure−negative
 ○田舎者の愚直  生活問題
 ○苦學生
       Aesthete,Decadent
 ○亡國の luxury.富國の luxury.
      Moral
      Intellectual Decrepitude
      Physical
 ○性格ハ相手次第なり。
 ○甲州の反物屋
 ○Amaranth
 
 ○Only the ideal man is the tyrant.
 ○贈答ノ禮。 Gratitude. Prospective.
  punishment hatred preventive
 ○人ノ爲ニ泣くコトヲ好ム。人ニ泣イテモラフコトヲ好ム
 ○生活の爲の生活。善ナク美ナク眞ナク壯ナシ
 ○Fight
 
 ○虚子、長江、漱石
 ○樗陰、漱石
 ○Paul Bourget Incidents of War 1st., one.
 ○hair
 ○Leidensschaft  product Of folly
〔英文省略、一部日本語有り〕
 
     二  〔『それから』〕
 
 1,代助(ノ)家、門野と婆さん。寫眞
 2,平岡の來訪。談話。
 3,代助ト家族。親爺
  (a)親爺トノ會話
  (b)嫂との對話
  (c)妹の候補者
  (d)其因縁ばなし
 4,(1)アンドレーフ。激セザル人。死ヲ怖レル人
  (2)アマランス、平岡ノ移轉ニ就テ
  (3)平岡ノ細君來訪。平岡ノセカ/\シイ容子。獨リノ旅宿ノ細君ヲ訪ハントシテ果サズ。
  (4)來訪ノツヅキ。細君ノ容貌、眼、指輪 血色ノ わるい事。
  (5)金ヲ借リル件。
 5.(1)引越。d匡nnGnNiOノ空ノ色
  (2)時計ノ音虫ノ音ニ變ル夢、夢ノ試驗、Jlpmes氣狂ニナル徴候
  (3)園遊會。英國ノ御世辭。兄トノ會見
  (4)兄ノ Characterization.
  (5)鰻屋ノ會話
 6.(1)兄ハ金ヲ貸サウト云ハヌ。平岡ハ連判ヲセマリサウダ。
  「煤烟」ニ對スル門野
  (2)現代的不安ニ就。ロシヤ、フランス、イタリー、
   大隈伯ノ雜報
  (3)誠太郎來ル
  (4)平岡ノ家、中流社會ノ家。平岡手紙ヲカイテル、
                |
                despe「ateナ調子、
  細君ト行李
  |
  小供着物
 (5)金ノ事ヲ平岡ニ云ハズ。冷淡ヲ以テ任ズ。眞鍮ヲ以テ甘ンズ
 (6)平岡ノ醉。議論。自我發展。
 (7)代助ノ働ラカヌ理由。日本ノ衰亡。
 (8)神聖ノ努力ハパンヲ離ル
7.(1)代助風呂ニ入ル。足、髪剃、心臓ノ鼓動、ウエーバー。旅行、三千代ガ氣ニカヽル
 (2)三千代ト知リ合ニナツタ顛末。菅沼ノ死 清水町ノ家 母ノ死。結婚。媒酌。
 (3)嫂ヲ訪ねテ金ノ相談の目的。電車デ兄父ト摺レ違フ。ヘクター。ピアノ。縫子
 (4)※[ワに濁點]ルキール。晩食。父ト兄ノ多忙。金ヲ借りる件 何時返スノ。
 (5)梅子ト代助ノ會話。――アナタは人ヲ馬鹿ニシテゐる
 (6)結婚問題。結婚ニ興味ナシ。
8.(1)青山ノ夜電車、神樂坂ノ地震、日糖事件、東洋※[さんずい+氣]船會社。父ト兄ノ會社。天ノ與ヘタ偶然。人造偶然
 (2)寺尾。恐露病。眞面〔目〕ナ商買ぢヤない。ennui.
 (3)梅子ノ手紙、200yen、平岡へ持參
 (4)平岡訪問。不在。小切手ヲヤル。放蕩ノ源因
 (5)君子蘭。平岡來。新聞入社の意
 (6)現代人の孤獨。平岡と代助ノ隔離。三千代ガ源因。
9.(1)父ヲ避けル。互ヲ侮辱スル現代。生活慾ト道義慾。
 (2)其矛盾。事實カラ出立セヌ教育。
 (3)葡萄酒。――兄ト一所ニ飲ム。――兄ノ休養。日糖ノ重役ト同樣。――低氣壓(父ノ)
 (3)父ト面談。一体何ウスル積ダ。獨立ノ財産ハ欲イカ。洋行ハドウダ。
 (4)代助ノ罪惡觀。怒ラセル事ガ嫌 ヤ|ル《原》込メルコトモ嫌。
  少シハ此方ノ都合モ考ヘルガイヽ。
  御前ノ名譽ニ關スルコトガ出來テクル
  アナタハ(ワタシ)ヲ御父サンニ讒訴シタネ
10.(1)リリー、オフ、ゼ、※[ワに濁點]レー、神經過敏。日本現代ノ不安ニ襲ハレル。
 2.蟻を殺ス。睡眠中ニ三千代ガ來ル。三千代ヲ訪フノヲ避ケタ。散歩。平岡ノ影ヲ見ル。追懸けズ引返ス。
 3.寐テゐル中ニ人ガ來タ樣ナ心持ガシタ。不落付。ブランギン。
  矛盾、没論理、没論理ハ單ニ形式ニ過ギズ。論理強、心臓弱、
 4.三千代來。銀杏返。白百合。息ヲ喘マシテゐる。水。リリー、オフ、ゼ、※[ワに濁點]レーの鉢ノ水ヲ呑ム
 5.百合ノ花。昔シノ連想。
 6.二百圓ノ言譯
11.1.散歩、誠太郎ノスキナ所、人間ニ嫌ハレルノハ人間トシテ生存スルモノヽ運命也。番町、堀端。賤民。身體、頭ガ二重三重ニナル、
 2.ennui. 何故ニ生キルカ。其不理。生キル故ニ何故アリ。ennui ヲ發カレ〔ル〕ニハ三千代ニ逢フニアリ。
 3.寺尾來る。外出ノ妨害。翻譯ノ相談。
 4夜平岡ヲ訪ヌ。不在。神田デビルヲ飲ム。此前平岡夫婦ニ二三度逢フ。
 5.二重ナ頭。酒ノ咎ニアラズ。physical sense. 宅カラ迎ガクル。護謨輪ノ車、
 6.歌舞伎座ヘ行ツテ頂戴。
 7.佐川ノ令孃ニ紹介、(高木携帶、)
 8.姉ノ策畧批評。芝居ノ印象。其反照トシテノ三千代。
 9.但馬ノ友人ノ手紙。都會人種ハin證e−ityニ陷ラザルベカラズ。
  彼ノ三千代ニ對スル情合。現在的? heart ト head ノそれニ對する態度
12.1.旅行ニ决心。銀座ヘ買物。誠太郎使ニクル。
 2.旅行ノ用意。もう一返三千代ニ逢フ。平岡留守、指輪ナシ、
 3.旅行費ヲヤル。歸宅。香水ヲ部屋ニフル。翌日兄來ル。
 4.兄曰ク、父怒ル、嫂氣ヲ揉ムダカラ來ル。代助、午餐ニ赴ク旨ヲ答フ
 5.食卓前
 6.食卓ノ談話
 7.食卓後
13.1.新橋ノ見送リカラ歸リ。書齋の考、
 2.代助ノ夢。代助ノ讀書癖。代助ノ restlessness。赤坂ノ侍《原》合
 3.又三千代ヲ訪フ。退屈ノ張物。指環受戻。金ノ事ヲマダ平岡ニ話サナイ
 4.平岡ト三千代ハ結婚ヲ誤マツタ。代助ノ罪ニアラズト辯解ス。
  三千代ノ父ノ手紙。
 5.三千代ト對座スルコトノ危險。平岡ヲ新聞ニ訪問
 6.平岡ト代助ト一所ニ飲む。幸徳秋水ノ話。大倉組牛ノ話。眞面目ナ話ヲシダス。平岡ハ借金ノ催促ト思フ
 7.代助、平岡ニ放蕩ヲヤメテ三千代ヲ愛セヨト云フ。ソレデ代助ハ三千代トノ關係ヲ絶タウト思フ
 8.平岡ノ ambition ヲ instigate シヤウトシテ失敗。廣瀬中佐ノ例。
 9.會見ハグヅ/\ニ終ツタ。彼ノ熱誠ナリ得ザリシ譯。motive ノ嘘。dilemma 三千代ト密關係。三千代ト絶縁。
14.1.賽ヲ投ゲベキ時機。※[足+厨]躇。縁談謝絶ニ决ス。
 2.今日カラ積極的、青山行。姉さんは淋シクハアリマセンカ。
 3.嫂曰、あなたハ今日ハ餘程何うかしてゐる。代曰もし貴女ニ好きな人があつたら何ウデス。代日ク此結婚ハ御斷ヲスル積デス
 4.會話ツヾキ。私ハ好イタ女ガアル
 5.ツヾキ。運命ノ半ヲ破壞シ了ルト思ヒタカツタ。三千代ノ事ハ何ニモ話サナカツタ
 6.歸リニ平岡ヘ回る立聽。
 7.翌日雨。計畫易。三千代ヲ呼ブ。來ル前ノ感想
 8.三千代來ル
 9.三千代、三千代ノ兄、代助ノ過去ノ關係。會話
 10.僕ノ存在ニあなたは必要だ
 11.仕樣ガナイ覺悟ヲ極めませう
15.(1)絶望ノ途中、父面會セズ
 (2)自己ノ surroundings ノ rview.
  車ニ乘ツテグル/\あるく。三千代ヲ訪フ。
 (3)運命ノ潮流。――1、三千代ト自分 2、平岡ト自分、3、社會ト自分、家ノモノト自分
 4.父と會見、(そんな親類が一軒あるのは必要ぢヤないか)
  5
   代助      寺尾 文學者
   門野        菅沼 三千代の兄
   平岡常次郎  裏神保町
          三千代
   長井 得
   長井誠吾(40)
         誠太郎(15)、縫(12)
   長井……死亡
   姉(外交官)
   長井……死亡
   代助
 
   高木(神戸實業家、得ヲ助ケタ人ノ孫)40
   佐川(高木ノ sister ノ嫁イダウチ、多額納税者)
 
   等覺寺楚水
 
日記 ――【明治四十二年九月一日より十月十七日まで】――
 
 九月一日〔水〕二百十 《原》晴風強し。晩に風やむ。雲と月。あすは雨。〔二日〕果して晝から降る、物集御孃さん來る。ホロをあげて出づ。大した事なし、
 萩の花。湯に入る。森田來る。
 箱根にて日暮る
 ○二日夜汽車中。音烈敷不寐。ボイ寢台|車《原》を作る。〔三日〕京都にて起出づ。天次第に晴る。七時大坂商船待合所に入る。一寸散歩。九時小蒸汽にて鐵嶺丸に乘り込む。
 商船會社の大河内氏サルーンに案内、烟草、菓子、及び飲料を給せらる。同社の伊庭氏今井文學士の友也。堀の内にて逢へる由。忘れたり。事務長は山形の人色々談話す。余の書物を讀んだ由。滿洲航路が朝鮮航路程に繁榮すればよいと云ふ。此航路に用ふるは皆特別の目的を有する新造船なり。鐵嶺丸の姉妹船開城丸同港にあり。美麗也。
 天候佳良。
 總裁と一所に行く由を聞いたと三人ながら云ふ。
 浪鈍。天鈍。サルーンから出て左舷に出づ。營口丸が烟を吐いて行く。鐵嶺丸漸々近づく。營口丸拔かれまいと思つてわが進路を妨害す。われ同速力で進む。船と船と漸々接近遂につき當る。鐵嶺摺り拔ける時ボートがでんぐり返つて再び落ち來る。長い木が二本折れる。
 八時過ボーイ湯を立てゝくれる。船室に返つて寐る。眼が醒めたら十二時過であつた。甲板に出たら暗い所を船丈音を立てゝ通つてゐた。時々北の方で稻妻がさす。其時向ふ側の山が瞬間にはつきり見えた。左舷に出たら十八日の月が高くかゝつて居た。波が少し光つて見えた。マストの上にランターンが淋しくかゝつてゐた。
 〔四日〕五時過下等船客の下甲板で騷ぐ音で眼が覺めた。暗い室なのでボイが蝋燭をつけてくれた。髭をそる。
 船中に二十を少し超えた英國人あり。ブルドツグを引張つて甲板をあるく。それから椅子にしばりつけて置く。
 七時過門司着。雨。霏々として降る。石炭を積み込む。
 船長に逢ふ。昨日の營口丸との接觸の話をする。營口丸は先へ立つて始終人の航路の妨をしてゐた。此方が追ひ越さうとするとき、すこし舳を開いて呉れゝば譯はなかつたのである。此方は右にも左にも避けられない地位にあつた。是から海事局へ屆けに行く。故意の仕業とすれば重大な事になる云々。
 玄海に出る。
 夫婦づれの西洋人釜山に行くと云つて去る。クツク社の肥つた男と、英吉利の副領事(犬をつれて)が殘つてゐる。此男は甲板で犬を抱いて來てゐる。夫から米國の宣教師が夫婦ゐる。
 鐵嶺丸の費用
 四十五萬圓。是より上の船では算盤が持てぬ。
 一航海八千圓あがらなくては駄目
 夕暮對|島《原》を見る。夜半玄海を拔けると云ふ。
 終日|黠《原》雲漂ふ。夜に入つて暗し。
 部屋を代ふ。
 九時入浴。
 
 五日〔日〕 朝左舷に鳥《原》嶼を認む。運轉士に問へば太郎島と云ふ。是から朝鮮群島の中へ入るらし。
 朝鮮群島の景色は内海と同じなり。島の形色々なり。又其數澤山なり。中々盡きず七時頃より十時に至つてまだ盡きず。岩山に木の付着したるもの
 運動甲板には稍寒の風が吹いて善い心持であるが、しばらくすると身体に答《原》へ過ぎる樣になつたので船室に入つて長椅子の上で寐た。十二時十五分前に眼がさめる。甲板に出ると船は鏡の中を行く樣である。群島は依然として左右に羅列してゐる。算へて見たら眼に入るものは凡てゞ五十三あつた。
 船長に先刻の船は何時追ひ越しましたかと聞いたらそらあの艫に見えますと云つた。長い島の前をどす黒く烟を吐いて展望を濁しつゝやつてくる。
 二時七發島の燈台を左に見る。是が群島の終りと云ふ。ポンプの練習にて上ががた/\云ふ。火事かと思つて驚ろく。
 今日正午の寒暖計七十三度
 船大海に入る。水平線と雲の界が判然としてゐる。黒い輪の樣である。空は鈍く曇つてゐる。
 夕方になつて日出づ 西の方が斜めに線をひきたる如く飴色になる。其上の雲が襞を疊める如く悉く飴色になる。
 甲板で船長と談話す。船長曰く是が last voyage なり。瀬戸内の水先案内の試驗を受ける積で東洋汽船を辭したる所、試驗なき故一時此船にのる。十月に試驗がある故それを受くる積りなりと、
 南米の航海の話をす。スペインの美人の話をする。亞米利加がよひの時一等運轉|手《原》として table に着いたものは自分一人なり。其時歐洲婦人が自分の顔を見てすぐ席を立つて黄色人の隣へ坐るのはヤだと云つた事が二遍ある。日本人でもそんな奴があつた。こんな平穩な航海は少ない。
 晩餐の席上で前に坐る西洋婦人しきりに耶蘇教の話をし出す。迷惑千萬なり。
 食後事務長并びに他の日本乘船客と十時迄談話夫より入浴
 
 六日〔月〕 朝眼が醒めるとバースから窓の中にジヤンクの浮いてゐるのが見える。海はよく晴れて日が照つてゐた。給仕曰くもう少し行く〔と〕三頭角が見えますと。
 五時頃大連着。
 大きな烟突が見える。檢疫が見える。混雜。佐治氏周旋。ヤマトホテルの馬車に乘る。中村の家に行く妻君病氣。沼田氏來つて色々話す。中村歸らず。ヤマトホテルに行く。入浴 中村來る。後で家に來いといふ。行く。國澤氏を呼ぶ。一所に倶樂部に行く。ジンコーク何とかいふものを飲む。歸る十二時。園澤氏族舘迄送らる。
 
 七日〔火〕
 大連
 中央試驗所。
 豆油。精製 cooking purpose。olive oil ノ九分ノ一。動物製と同じく digestible。石鹸 塩水に溶解柞蠶。精製糸。絹の半分。
 Lottery。高粱酒
 電氣公園
     ――――――――――
 西公園。射撃場。税關。
 南滿鐵道會社。午餐。
 河村氏に就き滿鐵事業質問。今夜舞踏會にて食堂を装飾中。雨ふる。車を雇ふて歸る。俣野義郎送り來る。
 腹工合惡く。談話に困却。ソーフアーの上に寐る。醒むれば雨霽る。寐《原》室に食事を取り寄せる。浴を命ず。須田綱雄氏來つて晩食を共にせんと申出でらる。乍殘念謝絶。中村より電話今夜の舞踏會に出席するや否やを問ひ合せ來る。
 
 八日〔水〕 晴空。立花氏來訪。俣野來。
 夜。滿鐵の重役松木、橋本を扇芳事に呼ぶ余にも來いといふ。胃惡し。謝絶。中村より電話話しに來いと云ふ。八時過行く。法螺を吹く。十二時歸る。
 此日午前俣野に連れられて諸方へ見物に行く。
 
 九日〔木〕 晴。民政|所《原》より電話。旅順へ何時來るかと云ふ。
 朝食の後讀書室にて橋本氏と談話
 十二時散歩。一時午餐。俣野と出づ
 從事員養成所。二組の生徒英語支那語。製圖。火夫、車掌 別に支那人の電信技手。(卒業日給四十錢)
 バケモノ屋敷。荒凉たり。夫より以上の寄宿舍。清潔。俣野の二階 comfortable
 勸工場。古道具屋。町の景色。
 扇芳亭。下等料理茶屋。
 俣野の家に至る。村井啓太郎氏と三人にて會食。夫より中村方に至り晩餐。田中理事。橋本左五郎。犬を見る。十一時歸る。
 パスを貰ふ。
 十日〔金〕 八時半旅順に向ふ。畠。高粱。粟。蕎麥。赤い濁水の澤。中に唐玉黍の蘆の如きあり。部落は二三 樹木の間に石垣。畫趣。山の景色。墓地。大なるは公牧場
     ――――――――――
 昨夜是公から始めて大連に來た時の事を聞く。殘燒家屋ばかり。今の化物屋敷に陣取る。厠に行く寒さ。田中君※[さんずい+氣]車に乘る。貨車 lantern 搖れて火が消える。外套を着てすくまる。窒息して病人が出る(炭火) 平野水が二三滴しか飲めず。清野理事シヤツを半ダース着る
     ――――――――――
 臭水子。夏河河子。(海水浴場)
 (停車場)營城子
     ――――――――――
 畠に道なし。車の通るを恐れて溝をほる。或は土を盛る。其土を徃來から取つてくる。
 茫漠たる田畠 どこから耕作にくるか分らず
 支那人の二食 十時。七〔?〕晩。上下の別なし。四人前が一Se.
 和氣生財。和氣致祥。  我有嘉賓
 名馳塞北、味壓江南   堆金額玉
 客逢孺子休懸榻     發福生財
 門到薛公且進餐
 十時旅順着。白仁長官馬車を停車場に迎によこす。渡邊秘書と同乘。大和ホテル着。夫から民政署に至り白仁氏に面會。佐藤友熊氏に面會。歸る。小木貞氏大和ホテルに來る。
 新市街は廃墟の感あり。宿の前にて虫しきりに鳴く。港は暗緑にて鏡の如し。古戰場の山を望む。
 岡の上に半工事の家處々に立つ。草が立派に切り開いた道の pavement の上に立つ。森閑たり。
 旅順の記念碑を汽車中より望む。二百何尺の高さなり。此二十三日に東郷大將來る。港の入口三百何メートル
     ――――――――――
 午餐。佐藤氏同行 戰利品|品《原》陳列場。もとの病院。壁の穴。屋根の穴
 火矢。土嚢。Search light。一人で一|齋《原》射撃。鐵條網。手投彈。魚形水雷。濠を渡る時の梯子電柱。
 高鶏冠山北砲台。外濠
 外岸側防穹孔
 三十七年
                                      
                    廿《〔?〕》二砲
 對溝。九月二日より十月二十一日。窖道。反對窖道。十月二十七日爆發。十月三十日。外濠へ出る。機關砲で打たれる。窖道を堀一口四十五サンチが一番也。
 窖内の談話 死体の收容。酒の有無。
 手投彈を投げる奴が窖内に死んだ人間に火がつく。此下に下《原》骸あり。
     ――――――――――
 砲台に上る。
 二百三高地   二龍山砲台
 椅子山     萬龍山新萬龍山西、砲台、
 ナマコ山    北砲台、萬龍山東砲台
 高崎山
 松樹山
 大古山、小古山
 クロパトキン
     ――――――――――
 先づ前山一帶の高地を專《原》領(八月)。
     ――――――――――
 夜民政署長ホテルに招待。署の高等官列席、伊藤、松木兩氏出席。十時頃散會。
 
 十一日〔土〕 晴。八時二百三メートル。river bed、野菊、brick house 所々。日廻リ草。アカシア。浣衣の衣。アタマの光。耳輪。驢を驅りて地ならし。
 百七十四メートルの方激。味方の砲|※[火+單]《原》でやられる
其意味。鶉飛ぶ。墓。火打石。
     ――――――――――
 妨《原》禦三層。機關砲五六門。ボロに石油を包ンデ投げる。油色。火矢のあと。双島灣
 第一線の苦痛。糧食の夜送。雨。水の中にしやがむ。唇の色なし。ぶる/\振ふ。馬がづぶ/\這入る。
 六月より十二月迄外に寐る。人間状態にあらず犬馬也。血だらけ
 白玉山。納骨堂。迂曲して登る。
     ――――――――――
 午後海軍港務部に至り海軍中佐河野左金太氏の案内にて港灣のうちを小蒸汽にて乘り廻す。港内港外に沈没したる船を引揚中(請負師の不都合)今年十一月迄に完結の積り。
 廣瀬中佐の乘つた所。防材の標本。
 引揚方は一〇〇キロ位な爆發藥にて船体を section に切り六インチのwire にて結び。六百噸のブイアンシーのある船に水を入れて重くし、其上|緩《原》潮に乘じて作事。夫から滿潮と喞筒の力にて上にあげる。
 器械水雷の數は此邊に三千許りある。まだいくらでも殘つてゐる。危險。密獵をやる奴が知つてゐるが教へないのもある。
 作業の危險 時々爆發の機をあやまりて死す。又は惡い潜水器の爲に水の壓力に堪えず死ぬ事あり。水中にて水雷爆發の爲に死んだ事もあり。
 露西亞の戰利品ブイ錨などが陳んでゐる。あれで約三十萬圓。摧氷船二艘。
     ――――――――――
 佐藤友熊の家に行く。子供に逢ふ明日の朝食の案内
 晩に田中理事の招待にて近所の日本料理店にすき燒を食ひに行く。荒凉たる露西亞の半立の家の中に暗闇な道路を行いて草茫々たる空地を横切れば一軒の西洋軒に火を點じて客を迎ふ。中は新らしく疊を敷きあり。酌婦が四人出て來る。
 
 九月十二日〔日〕 民政長官告別 立派なる邸宅。古加皮酒を飲む。友熊訪問。鶉の御馳走。田中、橋本。
  手を分つ古き都や鶉泣く
     ――――――――――
 十一時二十分發一時大連に着く。田中理事の宅に來いと云ふ。行つて library を見る。SteevenS の fOlio の Shakespeare にて Sir Robert Peel の署名あるものを見る其他 edition de luxe 多し。二時半頃ホテルに歸る。相生氏の方より櫻木來る。俣野も同行。埠頭へ來て演説しろといふ。腹痛。入浴。六時頃飯を食はして貰つて出る。事務員養成所へ行つて講話をやる。七時過より八時過一時間餘やる。中村、田中、國澤、の諸君傍聽。歸りに中村方へ行く。田中國澤同席。犬塚を呼ぶ。橋本後れて至る。十二時歸る。
 貴樣おれの通辯にならんか。橋本に牧|蓄《原》をやる望があるならやれ
 明朝七|十《原》五十分の汽車で立つ所を明後日の急行にのばす。金が不足したら借りる約束をする。橋本にプログラムを作つて貰ふ。
 
 九月十三日〔月〕 晴。朝相生氏櫻木氏と至る。今夜埠頭の hall にて講演を承諾す。橋本も承諾。其前總裁から電話がかゝる。今日出立かと聞く。夕《原》十二時頃迄話して來たからいつ立つか分つてゐる筈だと云つたらボイが又復命して奥さんが聞くんだと云ふ。夕べ中村は妻君におれの事を話さなかつたと見える。或は夫から田中と一所にあれからどこかへ飲みに行つたのかも知れない。
 正金にて爲替受取。散歩歸る。腹痛む。立花政樹と今井達雄來り畫食を食ふ。三時過中村是公來る。俣野義郎至る。是公馬の話を橋本とする。自分の馬に乘つて見ろと云ふ。二人して馬場に行く。余は途中から腹が痛くて引き返す。櫻木氏演説の迎にくる。馬車で相生氏方に至る 是公に逢ふ。天草丸がつく迄こゝに來て居たのなり是公去る。晩餐。直ちに講堂に赴く。橋本君先づ辯ず。余も一時間程|※[口+堯]《原》舌る。一時間餘。馬車でホテルに歸る。途に是公を訪ふ不在。
 
 十四日〔火〕 朝ホテルの勘定を拂はんとするに不用と云ふ。是公の家にて細君に別れ。社に至りて重役課長に告別田中君と共に立花を訪問停車場に至る。express にのる。立派也。十一時發。
 山の裾に乏しき蕎麥畑があつて鳩が飛んでゐた。
 瓦房店
 丈より高き高粱を刈る。水牛の如き豚の如き動物
 牛、河を渡る。高粱を五六頭に引かせて行く
 草山に牛馬を飼ふ。仰ぎ見ると、馬が空に見える。
 三時半過熊岳城着。トロに乘つて十八町高粱の間を行く。一軒の宿屋に着く。
 崖を下ると前が河になる。川は深さ一尺に足らず、五寸幅の厚板を/\/\に渡して渡る。水の幅は十間に足らず。然し河原の廣さは岸より岸へ約三町餘もあるべし。其向ふが高粱の畠なり。此洲の中に小屋を立てゝ地を堀つたものが温泉である。遠く左りに屏風を立てた樣な連山が見える(高麗城子)。石山の上に青い草が齒《原》噛み付いてゐる。角度が非常に急で襞が甚だ鋭どい。從つて明暗の色が鮮やかに直線で區切られてゐる。河の上流の左岸に楊柳の村があつて水を渡る人が柳の裡に隱れる。牛を追ふて牧童が渡る。犬が渡る。向ふ側に牛が點々として散在す。
 夜橋本と玉を突く。生れて始めてなり。寐る。雨が降り出す。〔十五日〕朝湯に入る熱甚し。風呂にて鐵嶺丸の乘客に逢ふ。營口よりの歸りだと云ふ。主婦記念帖を出して頻りに字を求む。小雨晴れず。松山より梨畠に行かんとすれど雨具の用意なかりし故やめ。橋本と今一人苗圃の主人(橋本の舊生徒)と《原》通譯として出立す。
 鮎が此川上で取れる由。
 細雨の河原を濕ほす枝。遠山の濡れる樣子、秋の川を馬の渡る具合。柳の雨を受けたる所。黍畑の穗の色濃く着いたる模樣。
 雨漸く晴る。電話かゝりて今から松山に行かぬかと云ふ。停車場迄行く。トロ〔二字傍線〕來らず。いやになつて歸らんとす。保線より電話かゝりて松山より今トロが出たと云ふ。しばらくしてからトロ來る。器械トロで頗る早し。
 松山は平たい勾配の緩き山なり。一面に芝が生えて所々に岩が出てゐる。岩には苔が一面に生えてゐる。松の大きさは約三四十年のもの許り也。上に關帝廟あり。土塀の門を這入ると梭の音がする。老翁が麻を織つてゐた。年が七十だと云ふ。松山の下に梨畠がある。木の數は二千本といふ。全然林檎也。松山の上から渤海灣が見える。
 望小山と云ふ。裸山がある。上に塔が刻んである。トロの早さ。砲台に蛇のゐるといふ話。
 韓文の家を見る。※[土+尼]の塀の角に※[城壁のような図]を作る。赤い旗がちら/\見える。丸で玩具也。右の方の門内に馬が草を食ふ。觀音開き。石甃。
 來がけに停車場へ來た時から腹が痛んだ。歸りも苦しかつた。再びトロに乘つて停車場に來た時は益苦しかつた。午飯をまだ食はず。三時着。大石橋への汽車は四時二十分也。是から輕便トロに乘つて二十分ばかりで宿に歸つて飯を食ふとすれば時間足らず已を得ず延ばす。夜は九時頃寐る。
 
 十六日〔木〕 朝天氣。直ちに風呂に入る。宿の風呂は熱し。次の風呂に入る。混浴なり。滿洲の空の美しき事。牛群れて河を渡る。電話の柱に柳の木あり。夫から葉がさす。朝貌が一面に生えてゐる。
 午後四時二十分の汽車で立出營口に向ふ。昨夜十一時に就《原》いた客が營口の※[女+氏]《原》園舘から藝妓二名を呼ぶ。駄辯を弄する事甚だし。客は滿洲鐵道の役員らし。元治元年生れの女をやつた事なし。書生の時はあるでせう抔といふ。
 羽鵲。野菊。玉蜀黍を屋根に干す。屋根黄に見える。
 支那の田園平均一人が二町を耕す割。
 高粱の利用。穀は屋根。壁。薪。アンペラ。笠。
 守備隊。交換。馬、車、其他悉く持ち還る。
 公學堂。鐵道に必要なる智識を授く。三十二名。八歳以上十六歳以下
 右は蓋平の話。
 蓋平と次の停車場の間塩多くして畠作れず。山羊の群を見る。
 大石橋にて下車營口行は五十分待ち合す。食堂に入る。立派なり。
 (夕碁の空赤き所に黒く高く續きたる塀の樣なものが見える。其上を人が馳けて行く よく見ると電柱の頭が出てゐるのであつた。)
 夜八時過營口着。清林舘の馬車にて宿につく二十分許かゝる。夜茫漠として廣き道路を行く。清林舘は洋式なれど内部は純然たる日本式也。奇麗な室で奇麗な器物で甚だ快し。湯に入る支那人が脊中を流す。停車場に正金銀行支店|中《原》杉原氏及び甘《原》糟氏と橋本の蒙古へ連れて行つた二人出迎ふ。
 
 十七日〔金〕 朝橋本杉|本《原》氏等小寺牧場に行く余は市街を見る。主人が馬車で案内をする。支那町は臭し。看板は金字にて中には大變高きがあり。千圓位費やす由。Ferry boat にて潦《原》河を横ぎる。濁流際限なし。サンパンの帆。三千噸位の船は自由に入る。歸りにはサンパンに乘る。防岸工事。葭を使ふ。結氷の方浚渫出來る。大倉組の豆粕會社を訪ふ。營口、大連の豆荷は大した差違なし。倉田氏に逢ふ。屋根に上りて營口を見る。支那家屋の屋根は徃來の如し。回々教の寺だと云ふ。赤く塗つた塔の如きもの見ゆ。牛島氏芝居を見ろと云つて連れて行く。未だ開場でない。Stall は table 椅子。棧敷は※[階段の図]隨分廣し。舞臺は前へ突き出|場《原》してゐる。登場、下場の二口あり。芝居の後ろへ牛島君が出ていや女郎屋だと云つて却《原》つてくる。煉瓦の低い長屋の如きもの横斷面が徃來に面してゐる。其長屋の兩方の間を這入ると左右が房になつてゐる。其中の一人がまあ御掛けなさいと云つた。夫から本當の女郎町を見る。町の入口は《原》並んでゐる家は大抵前と同然也。這入つて左の門を這入ると。右に房が三つある一番は幕が低れてゐる。二番には女が三人寐てゐた。其眞中の一人は美くしかつた。小さい足を前へ出して半分倚りかゝつてゐた。其隣の室から絃歌の聲が出る。覗いて見た時に恐くなつた。正面に table があつて、其右に眞黒な大きな顔の支那人が一生懸命を《原》聲を出して拍子木の樣なものを左へ持ち右に噬《原》竹の樣なものを一本持つて table をたゝく。table の前に十四五の女が立つて歌つてゐる。盲目だか何〔だか〕異樣の面をした奴が懸命に胡弓を摺つてゐた。table の左方には女が三人並んでゐた。其部屋の前の部屋では眞中に卓を置いて汚い丼を置いて二三人食つてゐる。何事か分らず。
 先刻から腹痛十二時半に杉原氏へ行く約束があるのを斷はる。宿へ歸つて寐る。三時頃杉原氏橋本と來る。約束故支度をして倶樂部へ行つて演|話《原》をする。くらぶ軍政時代に造りたるもの比較的立派なり。約一時間の後宿に歸りて又寐る。橋本五時過歸る。すぐ立つ。杉原、天春、領事代理送らる。清林館は甚だ叮嚀親切にて設備の行き屆きたる宿也。夜九時湯崗子着。氣分惡く仕方なし。寂寞たる原野のうちに一點の燈光を認む。是が金湯ホテルである。
 虫聲喞々の間を行く。着。西洋館なり。裸かの床の上を行く廣間に椅子がある。bar の如き茶や何かを作る處がある。夫を通り越すと左右が部屋である。部屋は一尺許り高い其處へ草履を脱いであがる。余等の部屋は二室より成る。一室には絨|氈※[左右逆]《原》、table ソファー、椅ありて、floor と同じ高さなり。一部は一尺許かりの楷《原》段ありて夫れを上ると疊が敷いてある。壁は白く所々汚れたり。夜具眞紅の支那緞子。湯に入る提灯をつけて下女が案内をする。暗い中を一町程行くと別館が|あ《原》つある。湯壺は三つある。段を二三尺下りて石でたゝき上げたるもの少し熟し。心持あしき故飯を食はず葛湯を飲んで寐る。便通大いに心地よし。〔十八日〕朝。千山行を見合せて靜養す。橋本以下騾馬を驅り行く。馬驚ろいて乘せず。目隱しをする。漸くのる。鐵砲を肩にさげた支那人が二人立つて見てゐる。滿目蕭々遠い山と近き岡を除いては高粱の渺々として連なるのみしかも宿の周圍は一面の平野なり。三頭の馬を《原》此平野のうちを行くうちに段々高粱の間に隱れた。銃を持つた支那人もまた高粱の間に隱れた。宿のもの曰く乘るときと下りる時は屹度目を隱すがいゝ。危險だからと。
 池あり。湯也。此邊に水なし。池の湯に魚あり。奇妙な所なり。
 ゆるい草山に馬が點々ゐる。靜。室の周圍に虫の聲夥し。
 午飯より四時頃迄室中閑坐靜甚し。入浴。晩餐に鷄のすき燒を命ず。夜に入る。下女報じて曰く今支那人を提灯をつけて迎に出しました。少時又來り報じて曰く灯が見えます。屋根に出て見ると星の如き光が暗い中に搖れて來た。八時頃橋本等歸る。
 
 十九日〔日〕 快晴。八時半起床。入浴。甚だ愉快。十一時發奉天に向ふ。草山の頂より岩ザク/\出づるあり。高粱百里皆色づく。所々に矮樹あり。豆畠漸く繁し。
 (昨日の話。染付模樣をきた海老茶の袴をはいた履を穿いた女がやつてきた。ちと入らつしやい、私だけですからと云ふ聲が聞えた。窓をあけたら曠野の中を黒い影が見えた。何處へ行くにや)
 三時奉天着。滿鐵の附屬地に赤|練《原》瓦の構造所々に見ゆ。立派なれども未だ點々の感を免かれず。※[さんずい+審]陽舘の馬車にて行くに電鐵の軌道を通る。道廣けれど塵挨甚し。左右は茫々たり。漸くにして町に入る。(其前にラマ塔を見る。)※[さんずい+審]陽舘迄二十分かゝる。電話にて佐藤肋骨の都合を聞き合す。よろしと云ふ。直ちに行く。城門を入る。大なるものなり。十五分許にして滿鐵公所に着。門は純然たる日本式次の門は純支那式。三和土の土《原》を直眞に行くと正房右は《原》廂房は洋式。左の廂房は支那式は《原》正房のすぐ左りは純日本式也。應接問にて暫時滞留。堀三之助氏に逢ふ。晩食の招待あり。旅宿に歸りて入浴直ちに再赴。七時半。玉突場にて島竹次郎氏に逢ふ。橋本と島氏と玉を突く。食堂にて正餐の饗應あり。應接間にて俳句やら俳人やらの談話あり。十時辭して歸る。
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 〔二十日〕北陵。獅の首、龜の甲、高さ四|首《原》、五尺。脊に石碑あり。幅六尺厚二尺。隆恩門。アーチ。其上三層。アーチの上厚壁。四方共壁厚さ二丈五尺位。四隅に樓閣あり。正面に殿。左右にも殿。屋根の瓦藥付、茶。玉子色。赤。紅。下は總石。正面の石階左右は段々中央は龍刻大官は其上を通る。隆恩殿。欄干。それに菊生ゆ。
 昭陵。太宗文皇帝の陵。滿洲。蒙古。彫石。着色。剥落
 石壁の上幅二間半。昭陵の後ろ※[かまぼこ型の図]形。傳つて歩すべし。長さ百六十歩。
 三層閣に上る。鳩の糞。下に屋根の野菊を見る。砲彈の迹
 正門の前の左に元の儘の場所あり剥落 殆んど粉色を認めがたし。屋根に茨松生ず。
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 昨夜肋骨蒙古人の家をとく。パノラマの上に傘を伏せたるもの。柳の枝を編みて上にフエルトを蔽ひ。ひもを引けばフエルトが明いて烟が出る。五徳の長いものゝなかに馬糞をつめて焚く。蒙古人の馬を御する事。アブミの上に立つて馬を走らす。車を驅る方法。馬を換える方法。
 角田氏の農事試驗場の話。土地乾き、有機物少なく。春風吹きすさみて駄目。
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 午後二時より宮殿拜觀。寶物拜觀。眞珠で龍の鱗をつゞりたる衣服。ダイヤモンドの束の刀。玉の束に珊瑚の珠のぶら下がりたる刀。眞珠入りの甲。金の玉璽。車のついた花瓶等。
 次に芝居を看る。左右の入口に入相出將とかいて中央に錦爛の幕を張る。六七人卓を圍む。外國人日本人の婦人等。琵琶をひき歌をうたふ。
 
 二十一日〔火〕 昨夜和田維四郎一行七八人着隨分な話で持ち切る。騷擾。朝五時眠い所を起さる。六時撫順に向け出發。九時二十分着。家屋所々に建設中。芝居。病院。學校。其他悉く錬《原》瓦にて且つ立派なる建築也。
 大山坑七百六十尺。九百尺(徑二十一尺) Gastworks 發電所2200v.二。water‐works。タンク。錬瓦製造。一昨年四月より。一年は殆んど建築。
 錬瓦の構造殆んど畫 variety ありて皆風雅也。太田技師の設計にかゝる。
 石炭は夏は營口。冬は大連然し冬は大連も豆が大事也。故に港の必用を感ず。多くの石炭貯藏するのは大變也。
 五時の汽車で八時頃奉天着。支那人の食堂にて夕食。露西亜人多し。博|堵《原》をやつてゐる奴あり。寢台車に入る。足りるとか足りぬとかにて大騷ぎなり。ボイがまぐれ當りに下列の向き合つたのを二つ見出してくれる。カーテンを立て切ると暑い。〔二十二日〕寐てゐると、四時ですと云つて起しにくる。顔を洗ふ。汽車とまる。向ふ側に露西亞の列車が待つてゐる。又部屋があるとかないとかで大混雜なり。長春の驛長が部屋を取つて置いてくれる。(和田維四郎一行と余等の爲に三室つゞき。一等は二三人宛別々なり)驛長切符を買つてくれる。停車場内の兩換屋曰く露西亞の奴は用心せぬと危險だ。針金で首をしめて連れて行く。此年の四月兩換をしまつて歸る時七八人にやられて斬られた。
 プラツトフオームにて英人が部屋がないとて怒鳴つてゐる。That is all right。This is abominaable 何とか云ふてゐる。
 生僧の北京からの連絡日にて乘客雜沓せり。
 長春左程寒からず。二十二日也。
 九時二十分停留の停車場につく。稍寒の感あり。飲食店に入れば旅客爭つて物を食ふ。ソツプを皿に注いで自分で食つてゐる奴あり。
 十時過松花口江を通る。大砲を備ふ。渡江沿岸沮洳の地、風光好。
 露助の油揚のパンを食ふ。中に米の入りたるものと、肉の入りたるものと、カベツの入りたるものとの三種あり。
 汽車中よりハルビンを望む。洋屋層々として規模宏壯に見ゆ。停車場につく。夏秋氏。長春の藤井氏の斡旋にて東洋舘につく。つまらぬ宿也。夏秋氏來りて紹介を受く。馬車にて市中を見物せんとするに夏秋氏序に案内せんと云ふ。市街を通りて大きな店に入る二階にて外套を買ふ。二十二圓なり。腕の長さを詰め脊を少し直す。一時間の後旅宿へ屆ける約束す。夫から公園に行く。奥に芝居をやり、舞踏をやり。酒を呑む場所あり。いづれも粗末なものなり。夫から松花江の石橋を見る。日露戰爭の時之を破壞せんとして成らざりしものといふ。長い橋也。夫から支那人の市街を見る。日本人の飲食〔店〕あり。
 露助が赤い衣服を着て御者になる。馬は必ず二頭。
 新市街は大分立派な家がぽつ/\す。歸ると外套が着。自分の裏にはスペリオーテイローメードとある。橋本には千八百六十七年十月とある。大笑ひ
 相談の末翌朝立つ事に決す。
 
 二十三日〔木〕 厠に行かんとて厨に出づ冷氣也。朝の内新市荷を見んとて馬車に乘る。日滿商會にて夏秋氏に禮を云ふ。東清錢道本社及び附屬商業學校及び參謀本部、日本領事館(持主は戰爭の時通譯で儲けて露西亞人三人、支那人二人の妾を置くといふ)。霹西亜士官の住宅。遙かに舊ハルピンを望む。停車場着。九時發。今夜六時長春着の筈。
 (露助の子供學校へ行く)
 滿洲の黄土。中央亞細亞より風が吹き來る。深き處は八百尺。潦河の水……渤海灣は五萬年の後埋る。
 香に句へうに堀る山の梅の花。五平太 300年以前
     ――――――――――
 逸見の博奕取締り。
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 薄暮長春着。和田氏の御一行は大和ホテル。ホテル手狹の由につき三義旅館に行く。道に同行者の車を見失ふ。支那車夫無暗に走る。ある橋の處へ行つて車を停めて何か云ふ。何にも分らず。事を引き返して來る。日本人に逢ふ。旅館の在所を確めて行くに宿のものゝ尋ねて來るに逢ふ。
 宿屋の案内で横町の湯屋へ行く。大坂式なり。日本人が這入つてゐる。内地へ歸つた心持也。按摩が笛を吹いて通る。
 旅館で畫の展覽會を開いてゐる。ある畫工が旅稼ぎに來き《原》ものらし。御かみさんが來て芝居がありますから行つて御覽なさいませんかといふ。長春の景氣がわかりますといふ。
 
 二十四日〔金〕 快心の天氣。朝湯に入る。大重氏至る。藤井氏至る。兩氏の案内にて博奕場を見る。十二三ケ所あり。大きな家のなかに幾ケ所もある奴が一ケ所ある。八釜しき事限りなし。歩して北門より城内に入る。隨分大きな家あり。道普請にて汚なき事夥し。墓地を發堀して餘所に移しつゝあり。大きな棺を七八人で荷つて行く。
 芝居小屋二萬五千圓。道具立三千圓。華實病院。(逸見の仕事)
 電話滿鐵より都督府に讓る。
 電氣は滿鐵營業。(來年二一月頃)小學校(滿鐵事業)。病院も都督府に讓り渡す。
 宿の神さんが何〔か〕かいてくれと云ふ。どこから聞いたものか。二帖に一つ宛と云ふ夫婦分れをした時の用心といふ。
  黍行けば黍の向ふに入る日かな
  草盡きて松に入りけり秋の風
 午後八時昌圖で晩食。午前一時過奉天着宿屋迄は一里程ある。馬車にて支那人の鞭の音をきく。
  鞭鳴らす頭の上や星月夜
 
 翌日二十五日〔土〕 和田氏の一行先づ在り。未だ安東縣に向つて出發せず。大將玄關で髪結屋を呼んで髪を刈つてゐる。
 朝の内勘定をする。午領事館に至り小池領事に逢ふ。公所に至り佐藤君に逢つて金を百圓借る。犬塚理事と其妹に逢ふ。歸舘。犬塚理事。島技師至る。大坂朝日新聞通信員至る。
 外出筆と墨壺を買ふ。七圓に三圓二十錢也。宿で支那人から絽を買ふ。三十一圓を二十九圓に負ける。日本の金で二十一二圓位のものなり。
 
 二十六日〔日〕 朝七時過安奉線に向つて出發。便《原》輕鐵道にて非常の混雜名状すべからず。大變な窮屈な所にて我慢す。どうする事も出來ず。しばらくして驛夫來りて別に席を拵らへるといふ。今度は非常にゆつくりす。
 再び渾河を渡る。其前沼澤沮洳の地に葭蒹茂るを見る。牛馬點々たり
 宿で葡萄をくれる。サンドヰツチの午飯。水二本。サイダ六本
 石橋子より道漸く山に入る。山に樹あり。迂回大嶺を上る。トンネルの南側より道を作りつゝあり。山上に天幕を張つてクーリー蠅の如く休息す。始めて清流を見る。雲山角にあらはる。山角が一寸陰になつてゐる。
 火連塞着。
 本溪湖。溪流あり。
 孟家堡
 橋頭にてとまる。孟家堡に置いて來た半分の列車を引きに返る爲也。橋頭にて山を下る。四面皆山。
 橋頭南攻の間山水の景色佳。水の色藍の如し。或は洋々として靜なり。山斧で襞を横にへずりたるが如し。松あれども奇態なし。牛馬所々。鷄頭を澤山畠に植ゑたり。※[者/火]て食ふよし。
 八時過小河口に着。日新舘に宿る。湯に入る。普請中にて星を望むぺし。山間の小驛也。客室皆塞がる。
 
 二十七日〔月〕 快晴七時半の汽車に乘る。寐ながら山を見る。山に日が當る。さうして木が光る。宿の四方皆草木ありて不愉快なる砂土見えず。鷄鳴を聞く
 草河口より遠通堡に至るの間。山の木、形、畠の具合日本に似たり。
  粟を刈る饅頭笠や 《原》
 鷄冠山に來り。休息。午飯。うどん御手輕酒さかな等の暖簾あり
 二時四十分鳳凰城着。三等列車一台買切の支那人の一家族下る。
 五龍背に温泉あり。伊藤幸次郎氏下る。温泉場は汽車からよく見える。清楚なり。
 七時半安東縣につく。月の夜に鴨緑江を見る。狹いと思つたら廣い所は二哩ある由。車を驅りて玄陽舘に赴く。車上通る所悉く日本市街なり。是には意外の感あり。滿洲はまだ是程に發展せず。其代り家屋は皆日本流なり。
 鍋燒饂飩が通る。
 堀三之助氏に逢ふ。パスの事に就て聞き合せてくれる。
 
 翌朝《二十八日》安東縣派出所主任天谷操氏來訪昨日迄滯在の處用事にて鎭南浦へ直行せりとて名刺を渡す。舊義洲へ行くなら案内をするといふ。午後の汽車で出發平壤にて多少ゆつくりする事にする。パスは上等の二週間通用のをくれるが汽車が中等しかないと云ふ。
 車を馳つて絹紬を買ひに出る。今日盆だから休みだといふ。出て見ると果して大概は休んでゐる。東益増遠といふ所で絹紬を二疋買ふ。十四圓。五圓。外に支那繻子。四尺三圓六十錢を買ふ。關帝の廟に上りて鴨緑江を望み納骨堂に賽錢を上げて歸る。滿鐵の官舍丈歐洲式にて他は日本式。洋館迄然り。日本人の建物は粗末にて大抵トタン葺なり。人家は年々殖える。日清戰爭のときは殆んど人家なかりし由。
 始めて日本人の車に乘る。車も清潔にてクツシヨンあり毛の厚い膝掛あり。其代り馬車なし。
 十一時半午飯。小蒸流で鴨線江を渡る。渡頭の待合所に小城の通知なりとて新義洲の驛長出迎へらる。天谷氏も送つて舟に乘る。堀氏に渡頭で別る。對岸檢疫を受けて驛長室にて休憩。橋本氏のパス面倒にて渡らず遂に平壤迄を買ふ。余は小城よりあらかじめ長官に依頼したる事とて且新聞記者たるの故に上等のパスをもらふ。然し列車には上等なし。中等が一室あり。皮の椅子にて comfortable ナリ。室中只二人。天谷氏は十二時の※[さんずい+氣]車にて奉天方面へ向け引き返す
 一度朝鮮に入れば人悉く白し
 水青くして平なり。赤土と青松の小きを見る。
  なしかしき土の臭や松の秋。
 蓼の莖赤し
 頗る暑し。フラネルを脱ぎたくなる。朝鮮人の子供が緋の袴をはいて遠くを行く裾開いて西洋婦人の袴の如し
 豚、山羊、馬のむれなくなりて。牛のみになる。それも單獨にぽつ/\見ゆ。
 滿洲の如く支那人を使ふ人なし。朝鮮人の使役せらるゝもの一人も見受けず。
 始めて稻田を見る。安東縣の米は朝鮮米なり純白にて肥後米に似たり。
 肴にかれいと鯛あり。いづれも旨かつた。
 六時七分前定州につく。眞丸の赤い月が山の上に出る
 九時が來ても十時が來ても平壤につかず。やがて十一時過に漸く着。小城が書生を連れて迎に來てくれる。柳屋の提灯をつけた男が電報で御座いますが、生憎部屋が塞がつてゐますのでと云ふ。旅館は三軒程しかなくつて中村製織所長官やら和田維四郎の一行やらでいゝ部屋はないのだといふ。ので小城は鐵道旅舘といふのに連れて行くと云ふ。是は旅館の拂底な爲め鐵道に關係あるものゝ宿泊する所として鐵道官舍構内に設けたるものといふ。廣い原の中を構内に這入る官舍が二行程ある。其左側のはづれが旅館である。ボイ一人、朝鮮人一人、至極ノンキで閑靜なものなり。小城と話してゐるうちに十二時になる。入浴、飯を濟ましたら十二時過であつた。
 昨日ある驛で車掌が平壤の運輸課から電話でもし宿舍の都合がつかないなら其手數をすると云つて來たので、もし柳屋がいけない樣だつたら御願しますと頼んで置いた。
 
 二十九日〔水〕 快晴。旅館の周圍は白菜やら花畑やらカボチややら植ゑてあるがまだ新らしいので趣が乏しい。板塀の外は茫々たる原で此所は近來人に借すさうだが一向借り手がない。其向が徃來で人車鐵道の樣なものが通る。
 朝食のときボイ曰く此邊では朝鮮語を習ふ譯に行きません。朝鮮人の方で日本語を使ひますからと。日清戰爭のときと日露戰爭のとき通譯の必要から起る也。
 朝九時過小城の案内にて鐵道構内を一覽。苗圃。栗。アカシヤ。銀杏。落葉松。等なり。年々の經費二千圓といふ。是より所々の停車場に植付ける由。
 工夫の家清潔にて comfortable ナリ。局員集會所。玉突三台。日本間床つき十五疊程。別に夜學をやる所あり。夫の一端に舞台を作り講談をなす。其次に絨|氈《原》を敷きピやノとオルガンを具ふ。小城の官舍に行く徐念淳の※[さんずい+貝]水賦を看る。長さ一丈幅一尺五寸餘。字体秀麗名筆なり。寧邊の孔子廟にある木版十枚朱子の字と云ふのを貰ふ。謹嚴方直の字也。
 食事。鶏の丸燒。奥。通子さん。
 箕子廟を去る一二丁の松山のなかで慟哭してゐた。
 三時大同門に上る。大同江を望む。腰に天秤を結ひつけて水を負ふ。
 萬壽山の松。乙密台の眺望 石垣に蔦。垣半ば崩る。角樓廢頽。
 白帽の人樓上にあり。
 玄武門。
 牡丹台。箕子廟。を見て(鵲しきりに飛ぶ。松の中)永明寺に下る。浮碧樓に憩ふ。樓下より渚に下り登船直ちに纜を解く。絶壁を削りて大朱字を刻す。清流拜といふのが見えた。
 遠く斜陽を受けたる州の向の山が烟る。白帆一つ光る。
 絶壁の下朱字を刻する所に日本の職〔人〕三人喧嘩をしてゐる。一人は半袖のメリヤスに腹掛屈竟の男一人は三尺に肌脱の体共に大坂辯なり。何時迄立つても埒あかず。風雅なる朝鮮人冠を着けて手を引いて其下を通る。實に矛盾の極なり。船を上つて新市街の遊廓を過ぎ繪端書を買ふ。て歸る。正七時なり。
 晩に入浴。小城の御孃さんと坊ちやんが遊びにくる。飯を食つてゐると平壤日報社の社主白川正治氏がくる。此人は支那や朝鮮通で所々方々にゐた事がある。沖横川抔の一類ださうだ。戰爭の始まらない前既に安東縣より北の方に進んでゐたさうだ。此人が色々な額やら古版やらを尋ね出しては小城にやるので小城がそれをあつめてゐるのであるといふ事が分つた。
 酒巖の話を聞いた。
 晩に電話が鎭南浦からかゝる。余にやつて來いと云ふ。まあ御免蒙りたいと云ふと是非必要があるといふ事である。小城の奥さんと二三回ちりん/\の交換をやる。結局來て仕舞ふ
 
 三十日〔木〕 五時頃小便に起きる。ポプラーの上に丸い月が出る。又寐る。橋本は八時發で立つと云ふので起き出した。鎭南浦から又電話がかゝる。とう/\十一時半大同江を通ふ蒸汽で行く事になる。
 朝小城にたのまれた。春潮といふ人の畫に句を題す。
  負ふ草に夕立早く逼るなり
 二時五十分平壌發。出立前宮崎氏に乞はれて一貫とか至誠とか云ふ字をかく不敵なものなり。大漢孤烟直長河落日圓の十字もかいた。負ふ草にを小城の細君の所へ持つて行つて暇乞をする。且つ鎭南浦へ行かなかつた御詫をする。停車場に之く。和田さんの一行の澤口氏に逢ふ。逢つたり離れたりするなと云つて笑ふ。汽車が着く。犬塚理事が降りてくる。妹さんも下りてくる。やあと云ふ。妹さんがよく御目にかゝりますと云ふ。肋骨が下りてくる。やあと云ふ。手を出す。もう逢ふまい。と云ふ。汽車へ乘る。驛夫が中等汽車へ荷物を積み込む。上等とつゞいてしきりなきのみか、上等は一部屋毎に區切りたれば特別室と思ひ中等に濟まし込んで居る。見送りの宮崎先生亦泰然たるものであつた。新聞の白川君が三隱のうちの牧隱先生の祈願所にある三十佛の一だと云つて金佛を送らる。しばらくして今日は中等は込むねといふ。此所が中等か、それなら向へ移つてもいゝと云つたら案内の宮崎先生黙つてゐる。何故荷物を此所へ入れたのかと聞くと、中等だらうと云ふ事でと云はる。恐れ入つたもの也。黄州で上等に移る。十時過龍山着。稻垣だと云つて這入つてくる。遠藤横田二君も來る。コレラで大變だよと云ふ。
 京城着。卓で天津旅館へ行く。道路よし。純粹の日本の開化なり。旅館も純日本式也。
 角の十二疊にて心よし
 十一時故すぐ寐る。
 譯《原》より電話かゝる。驛長室で御休息云々。
 萬年筆の墨切れる。
 龍山の手前で眼がさめると草の中に灯が點いてゐた。よく見ると朝鮮人の屋根であつた。
 
 九《原》月一日〔金〕 朝鈴木穆來る。菊池武一來る。色々親切に世話をやいてくれる。大阪朝日の山本光三氏來訪。裏の南山に上る。一時歸る。――南山の松、統監府、眺望北漢山。歸途セウルプレスに山縣氏を訪ふ。午飯の爲め歸りたる由にて不在。本町通りを通りて歸る。山本氏に別る。古道具屋をひやかしたら硯の價値を聞いたら十二圓と云つたのでやめにした。
 宿に竹があつた。滿韓を旅行して始めて竹を見る。
 午飯後又町を散歩。髪を刈る。朝鮮人がえんやらやと云つて道をならしてゐる。あれは朝鮮人の掛聲かと聞いたら左樣ですと答へた。本町通りと云ふ所を通る。巡査に右へ右へと云つて叱られた。唐物屋へ行つて革鞄と(二十六圓)香水(六圓五十錢)贈りもの及び襟半ダースを買ふ。鈴木に電話をかける。曰く三十分の後來て飯を食つてくれ。山縣五十雄電話にて今夜行つてもよいかときくから不在と斷わる。
 車に乘つて鈴木穆方へ赴く坂出君に逢ふ。晩餐。橋本より電話十時二十分で立つ由申し來る。車にて停車場に行く。伊藤幸次郎氏亦釜山に赴く偶然相會す。
 鈴木より寫眞帖をもらふ。天皇陛下に獻上したるものゝ由。穆氏明日新築の官舍に引き移る由。夜にて分明ならざれど立派なる建築なり。
 朝家にカワリナキカと云ふ電報をかける。午後外より歸ればミナカワリナシゴブジカイツカヘルとの返電あり。山本氏より椋十釜山に着の旨をきく。着京のときは知らせてくれと頼んで別る。
 
 九《原》月二日〔土〕 十二時二十分の汽車で仁川に之く 稻垣、遠藤二氏龍山より同車案内の勞を取る。仁川は京城より調へる日本町あり。去れどもさびれて人通り少なし。大神宮より月尾島と小月尾島を望み。ワリやツクの沈没せる所を見る。遠淺にて一里餘も歩して渡るべし。二人砂上を行く影す。壯士芝居の一行車にて自己を廣告してあるく。四つ角にて大聲をあげる。口上を述ぶ。女人あり。よく見ると三等列車にて來れる一團隊なり。
 仁川倶樂部の三階に登り夕食。夫から石段をいくつも上り山の脊に出づそれを下りて停車場に至る。惠登津にて下車こゝにて釜山より來る汽車を待ち合はす。中に玄耳先生あるを途中に迎へんが爲なり。四十分ばかり待つ。稻垣氏樣子が分るまいとて一所に下りてくれる。
 車中にて玄耳に逢ひ京城に下る。旅館に歸り入浴。矢野義次郎至る。久し振にて葡萄酒を飲む。明日開城を案内せんとて歸る。
 
 十月三日〔日〕 晴。七時起矢野の來るを待つ。大將は四五日休暇を取つても案内せんと云ふ。九時十分發。唐芋が山に干してある。松。墓墳佛の頭の如し。誰のやら分らず。稻田。
 十一時過開城着。※[草がんむり/參]政課の人出迎ふ。關野氏もこゝを見に來て廟に行く《原》つた由。※[草がんむり/參]政課の家に入つて憩ふ。
 ※[草がんむり/參]政課の……
 勘定所。洗場。蒸場。乾場。苗場、南をきらふ。
 兩|斑《原》の孔徳聖を訪ひ内房を見る。水鉢の大なるもの。箪笥。
 滿月台。高麗朝の宮殿。松嶽山。(半月の城壁) 天文台。石柱。ばかり。遙かの岩の上に布を晒らす曝《原》ある由。礎は都府樓と同じ。
 
 十月四日〔月〕。鐘路の鐘を見る。普信閣(もと興福寺の境内也)
 六物店。二階建をゆるす
 景福宮。大院宮の建物。光化門。蔦。靜なものなり。陶山氏通譯。
 勸農齋と云ふ董其昌の額ある所に出づ。清楚可喜。後ろに白嶽を望む。
 午後尚徳宮に之く。内閣と名のつく妙な所を通る。左に折れて秘苑を見る。山あり、谷あり、松あり。細き流れあり。生れてより以來未だ斯の如き庭園を見たる事なし。
 歸りに博物館を見る。高麗燒が澤山ならんでゐる。札には皆大凡七百年前のものと書いてある。大抵開城の墳より掘り出したるものゝ由。
 其外に畫を陳列せる所あり。畫には中々面白いものあり。二棟なり。離れて陶器、漆器、石器等を陳列せる所あり。金佛も十敷あり。
 歸りに菊池武一君の招待にて倶樂部にて會食。久水三郎氏亦列席。久水氏は世界を殆んど歩ける人なり。何とか云ふ所で日本の淫賣婦十名餘の家に至りて歡迎を受けたる由の話あり。シンガポアにて千圓の貯蓄を奨勵せる事。それから日露戰爭中亞米利加の賤しき女共の寄附金をする話。日本人ばかりを客にする外國人。外國人丈を相手にする外國人の話あり。
 
 十月五日〔火〕 關帝廟。
 閔妃墓 澁川、○○、陶山、矢野、道路担、稻田みのる。楊柳村、村の松、道白し。忽ちポプラー 白壁。横を廻ると一面の芝原。中に二の堂。みす。後ろの陵土饅頭の二重。御影の玉垣。左右と後ろの松山。
 ※[毒/縣]島《トクソン》。園藝模範所。クジメ技師。亞米利加葡〔萄〕、歐洲葡萄、混血兒 地から生る葡萄、地から生る梨。三年位で百なる由。牛《原》蒡。葱。茄子の大きさ。鷄頭をもらふ。
 外で行厨を開く。裏に出て漢江を見る。四時過模範所を出る。西風強くして漢江を下る能はず
 陶山さんが大院君の別莊と石《原*》坡亭へつれて行くといふ。
 夜花月といふ料理屋に招かる。新聞記者の主唱にかゝる宴會なり。他の四五名亦來り會す。惣勢凡て五十名程韓人亦三名程あり。山縣五十雄に逢ふ。隈本繁吉にも逢ふ。絹を毛氈の上にのべて字を乞ふ騷ぎとなる。是非書か|ゝ《原》なければならないならば宿へ屆けてくれと云ふといや是非此所でなければならないさうでと云ふ
 隈本氏傍にありて苦笑して曰く度し難いなと。好い加減に御免蒙つて山縣を引張つて宿へ歸る。久し振だから話さうと云ふ。隈本、矢野後れて至る。岡崎遠光亦至る。遠光と五十雄と冗談をいふ。矢野の曰く從來此所で成功したものは贋造白銅、泥棒と○○なり。其例をあぐ。期限をきつて金を貸して期日に返濟すると留守を使つて朋日抵當をとり上げる。千圓の手附に千圓の証文を書かして訴訟する。自分の宅地を無暗に増して繩張をひろくする。
 余韓人は氣の毒なりといふ。山縣賛成。隈本も賛成。やがて歸る。
 六日〔水〕朝。例の如く陶山さん來る。車で龍山に之く軍司令長官の官舍を見る大したものにあらず。然し他と比例を失して大壯なり。印刷局に至り製紙室。圖案室。活字室。寫眞室等を見る。
 朝鮮人百名以上日本人二百名程を使用する由。子供のときは甚だ可なれども年をとると(結婚するとすぐ馬鹿になる)。裏の山の巓に亭あり。そこで所長と高木事務官と午餐の饗應あり。パン。ジヤム。サーヂン。茶ヰスキーなり。漢江を眼下に見て眺望佳なり。
 引き返して太平町の郵便局に淺井榮煕を訪ふ。先生三等郵便局の主人たり。膝を容るゝとは正に是なり。余と陶山さんと這入つたらあとは何うする事も出來ない。淺井さん大いに喜こぶ。其顔を見たのが甚だ愉快であつた。
 宿に歸ると矢野が先刻から待つてゐた。三人で石坡亭に行く。景福宮の左の横を拔けて北漢山の路を上る。坂にて車を棄つ。路は砂ばかり奇麗なり。空は拭ふ如し 左右は石山に松あり。北門に出づ。門を出でて回顧すればアーチの中に山の巓と石と松と空がうつる。夫から道は細くなる。洗劍亭に至る。河邊の亭なり。河は石のみ。三地庵に至る。大きな大理石を斷面にして佛像を彫刻す。向の山から岩を缺いて石を切り出してゐる。又固の路に引き返す。石坡亭に入る。大院君の別|野《原》のよし。宮島の紅葉に水のない位な所也。
 夜山縣を晩餐に呼ぶ俳人牛人來る。短冊に句を乞ふ。東洋專門學校の生徒二名來り講話を依頼。謝絶。
 
 七日〔木〕。例により快晴。宿に二階に余一人。下に一人となる。靜。今日別段の日程なし。氣樂。
  高麗人の冠を吹くや秋の風
     韓人は白し
  秋の山に逢ふや白衣の人にのみ
  松の映る〔以下抹消シアリ〕
 學部の小泉なにがしに依頼されたる扇子を三本かく。午から出て行く。ぶら/\歩行く。鈴木方に至る。歸つて勘定をする。宿料其他凡てゞ五十圓近くなる。茶代二十圓と下女に十圓やる。矢野の家に至る。松山の下に一部落をかたちづくる。町で高麗燒の水指の樣なものを見る。見やげに買つて行かうと思つて聞いたらもう賣れたと云ふ。いくらで賣れたのかと聞いたら四十五圓だといふ。驚ろくべし。歸り際にすぐ鈴木の家に至り一二泊して立つ事にする。入浴。喫飯。十二時過寐る。
 
 八日〔金〕 例により快晴。鈴木と奥さんが鐘路で朝鮮人の勸工場を見せてくれる。午飯後※[エに濁點]ランダに出て椅子による。砂土の上に菊の花壇を作つてゐる。藤棚を作るんだと云つて丸太を燒いてゐる それから會といふ會の人來りから歌を作つてくれといふ。
 夜謠をうたふ。
 
 九日〔土〕 朝 始めて曇 野上、野村、宅へ繪端書を出す。稍曇。學校參觀を勸めらる。
 野上への端書に
  秋晴や峯の上なる一つ松
 學部の隈|元《原》繁吉君に電話をかけて學校參觀の事を依頼す。生憎女學校は休みなりとて師範學校を見に行く。日本語で代數を教へてゐる。(三年生)、通譯つきで地理を教へてゐる。(一年生)。漢文を教へてゐる。御經の通りなり。習字を教へてゐる。歐陽詢を支那人の模したるものなり。字旨し。速成科では日本の讀本を讀んでゐた。惣敷三百名なれど現在は二百名餘。腹痛歸る。
 長椅子の上に横はる。一時半頃穆さんと鈴子さんと一所に飯を食ふ。釋尾春荐氏來る。
 朝鮮の坊主。高麗朝の弊害に懲りて李朝の壓迫。上流社會は佛を信仰するを以て恥辱とす。其代り巫女殿。夫婦でやる。舞壇に出でゝ妻舞ひ夫はやす。平生は市井に住す。
 大いなる寺には五百名乃至三百名の僧あり。耕織、大工、其他悉く自家の手にてやる。惡漢少し。
 百に一位超然たる文字ある僧あり。維持は寄進の田地等なり。
     ――――――――――
 朝鮮人を苦しめて金持となりたると同時に朝鮮人からだまされたものあり。
     ――――――――――
 晩に入浴始めて雨を聽く。好き心地なり。大連を出て始めての雨聲也。夜主人と十二時頃迄談ず。明くれば一天拭ふが如し。南山の松霞んで見ゆ。鈴子さんが春の樣でせうといふ。
 
 十日〔日〕 主人新聞記者其他を招待して開城の人蔘製造を一覽せしむるとて出て行く。
 坂出さんが來る。話をしてゐるうちに正春さんが轉んで錬《原》瓦で額を切る。下女がいときり草の油を塗つて繃帶をする。坂出さんがドクトル和田に電話をかけてくれる。下女が車でつれて出る。電話で大した事なき旨の返事あり。
 喫飯後坂出さんと話す。四時過南山に上る。松及び谷驚ろくべくよき所あり。歸る。鈴子さんに誘はれて荒井賢さんの庭を見に行く。
     ――――――――――
 それから會の爲にから歌三首を作る。
  高麗百濟新羅の國を我行けば
       我行く方に秋の白雲
  肌寒くなりまさる夜の窓の外に
       雨をあざむくぽぷらあの音
  草繁き宮居の迹を一人行けば
       礎を吹く高麗の秋風
 夜穆さん歸る高麗百濟の歌を見て要領を得ない歌だなといふ。晩に主人の發議で十三日に立つ事にする。
 
 十一日〔月〕 七時起顔を洗つて裏の山へ登る。弘法大師があつて提灯に米子、小勇抔とかいてある。奉納の手拭が樅の小木につるしてあつた。南山の松が靄につゝまれて鼠のうちに蒼味を味《原》びてゐたのが晴れて來た。谷の底に小家があつて前は絶壁で、ハゼ紅葉が肩から乾いた茶色を色彩してゐる。上には松が縱横に見える。八時歸る。主人馬に乘つて出たぎりまだ歸らず
 十一時より十軒程挨拶にあるく。歸つてから龍山|錬《原》瓦製造所の朱泥の花瓶にコールターで字をかく。あまり墨をつけ過ぎたので五分程したら流れて來て失敗した。是に懲りて殘りは可成かすれ/\にやつた。それから會の河合さんが禮にくる。晩に師範學校の増戸校長と澁川山本兩氏來る。雜談。短冊數葉をかく。それから玄耳が平壤で日射病にかゝつた話をする。
 十時半奥さんに電氣を頼んで寐る。何時迄立つてもかん/\輝いてゐる。起きて消した。
 
 十二日〔火〕 朝市を見に行く。あれが明太魚ですと云ふ。刀の樣なこち/\したもの|も《原》とに穴を明けて柳の枝にさしてゐる。
 蛸の虫《原》が一寸幅の革の樣にぶら下がつてゐる。唐辛子の細末を賣つてゐる。胡桃。栗。銀杏。棗の干したの等がある。肉に蚊帳をかけて賣つてゐた。
 午後主人統監邸に出て行く。國枝技師、坂出技師來り語る。神田書記官亦至る。短冊をかゝせらる。
 
 十三日〔水〕 九時南大門發。鈴木夫婦、矢野、菊池、國枝、セウル記者の丶丶。通信記者宇津宮、隈本繁吉等。なり。車中にて三井の京城支店長に逢ふ。鈴木の紹介。基督青年會の大塚氏と夫から佐々木清丸に逢ふ。草梁で矢野事務官の案内を受く。井本靖憲氏亦迎へらる。すぐ船にのる。京城より東京迄通し切符四十一圓九十八錢也。
 
 十四日〔木〕 六時にボイが起しに來る。窓から島が見える。もう玄海は盡きたと見える。船がとまつたので、馬關着かと思つたら左樣ぢやない檢疫の爲だと云ふ。
 八時馬關着朝日の五十崎氏出迎へらる 發車九時半なり。一時間程連れて歩いてもらふ。春帆樓を遠くに望む。左右に長き町なり。
 車中大塚氏と談ず。京都にて落ち合ひ栂尾嵐山の紅葉を見やうと約束す。廣島で下りる。直ちに赤帽に荷物を長沼支店に放り込まして車で出る。車夫が詢々として口説き立てる頗るうるさい位也
 權現樣。
 饒津神社。公園。泉邸。此橋が何橋で此河が何河で、向ふに見えるのが水道であすこへ水をためて上へ吸ひ上げて何とかする。これが何とか聯隊で是が軍司令部で云々。
 歸りに大手町の井原君を訪ふ。先生ぼんやり出て來て夏目君と云ふ。小供が病氣でと云ふ。
 宿に歸る。宿は表から見ると支店とは云ひなが〔ら〕甚だ汚い。這入ると表二階の廣間に通した。果せるかなあまりよくない。額丈は立派である。二枚折の金屏風もある。戎《原》たんは怪しいものだ。九時半迄三時間餘ある。枕を借りて寐る。急行券の入らない汽車だと云ふ。では寢台を取つてくれと云ふ。下女が下がつて番頭が出て來て上等で御座いますかと云ふ。上等でなくつて寐台があるかと聞いたら、へえ畏りましたと云つて下りて行つた。
 
 十五日〔金〕 昨夜九時三十分廣島發寢台にて寐る。夜明方神戸着。大坂にて下車直ちに中の島のホテルに赴く。顔を洗ひ食堂に下る。ホテルの寢室の設備は大和ホテルに遠く及ばず。車を驅りで朝日社を訪ふ。素川置手紙をして東京にあり。天囚は鐵砲打に出で、社長は御影の別荘なり。天下茶屋迄車を飛ばして遊園地の長谷川如是閑を訪ふ。遊園地の《原》閑靜にて家々皆清楚なり。秋光澄徹頗る快意。如是閑遠藤といふ高等下宿を去つて近所に家を構ふ。去つて尋ぬるに不在待つ少らくにして歸る。二階で話をする。好い心地也。鳥居素川の留守宅で妻君に逢ふ。如是閑濱寺へ行かうといふ。行く。大きな松の濱があつて、一力の支店と云ふ馬鹿に大きな家がある。そこで飯を食ふ。マヅイ者を食はせる。其代り色々出して三圓何某といふ安い勘定なり。電車で歸る。難波の停車場から車を飛ばして大坂ホテルに入るともう六時であつた。六時四十四分の汽車にのる。如是閑と高原と金崎とがやつて來た。
 此汽車の惡さ加減と來たら格別のもので普通鐵道馬車の古いのに過ぎず。夫で一等の貸銀を取るんだから呆れたものなり。乘つてゐると何所かでぎし/\云ふ。金が鳴る樣な吾がする。暴風雨で戸ががたがたすると同じ聲がする。夫で無暗に動搖して無暗に遲い。
 三條小橋の萬屋へ行く。小さな汚ない部屋へ入れる。湯に入る。流しも來ず。御茶代を加減しやうと思ふ。(最中を三つ盆に入れて出す抔は滑稽也。しかも夫をすぐ引き込めて仕舞ふ。)此宿屋は可成人に金を使はせまいと工夫して出來上つたる宿屋也。金のあるときは宿るべからざる所也。
 
 十六日〔土〕 快晴。塩漬昆布の白湯を飲ませる。九時に二條にて大塚氏に逢ふ。嵯峨に下りて嵐山に向ふ。紅葉まだ早し。コレラの爲にや人に逢はず。大悲闇に登る。腹痛し。空を望み谷を臨み。木を觀て寐る。眼さむ。腹の痛やむ。台の下を豚の鳴く樣な聲がする。保津川を下る櫓の聲なり。渡月橋で車を雇ふ。一台一圓。高雄に行く。松山の峠を超ゆ御料地なり。夫から平坦の爪先上りを行く。清澄の空氣の中を日光が輝いて實に好い心持である。山は凡て青い。
 高雄に至り高雄川の橋を渡る。紅葉は殆んど色づかず。其代り遊人とては一人もなし。神護寺に登る。閑靜可喜。地藏院の所で突然婆さんが橡から旦那御茶を飲んで御行きやすもしと云ふ。猿股を穿いて齒を黒くしてゐる。寺に現はるべきものとも見えず。地藏院に憩ふ。表札に少僧都何某とあるから益婆さんと縁のない事が分る。新築の奇麗な坐敷で日が暑い程這入る床に含雪の雪《原》と雲照律師の書をかく。
 「和尚さんは御小僧はんと居やはりますが」今日は留守なので番をしてゐるのだと云ふ。小僧は修業で本堂の方で御經をあげてゐるのださうだ。
 八つ橋。豆ねぢ。塩煎餅を食ふ。橡の先は崖で谷の下に水が流れる。深い谷である。向ふは眞蒼な杉や松ばかり上に秋の空が見える。遠い山が後ろの方で霞んでゐる。歩して栂尾に至り石水院を見せてもらふ。天井が妙な凹形の琴の台を裏返した樣なもので拵らへてある。峠へ出て車で北野の天滿宮迄來る。松茸を擔ふ人ばかりに逢ふ。電車にのる。四條の襟善で半襟帶上を買ふ。十八圓程とられる。更紗を買はうとしたが女房が氣に食はんのでやめた。八時二十分の急行に乘る。土曜日なので上等滿員、寢台一つもなし。〔十七日〕沼津で夜が明ける。少しも寐られず。和田維四郎に逢ふ。今御歸りかと云ふ。國府津で白川がぶらりと車中に這入つてくる。昨夕小田原へとまつたから御迎かた/”\來たといふ。停車場では松根、鈴木の弟、小宮、西村等がゐる。筆と常《原》とゑい子が來て居る。護謨輪の車で家り《原》歸る。腹痛む。元氣なし。
  動かざる一篁や秋の村
  地嶋して汽車 《原》
  歸り見れば蕎麥まだ白き稻みのる
 
 
日記――【明治四十三年六月六日より七月三十一日まで】――
 
 六月六日〔月〕 内幸町腸胃病院行。雨。
 麹町の花屋でみづ/\しきあやめを桶にすい/\と入れてあつた。
 
 六月八日〔水〕
○五月の半頃に植木屋 鉢に花隱元、萬代紅朝貌を蒔く。それが芽を出した。朝貌は三寸。花隱元は拳程な葉で五寸。萬代紅は苗の如く鉢の中に一杯出る。之は莖赤く葉二つ宛にて一寸位なり。
○行徳の送つたバンテージと札のつけてあるもの咲く。石竹の如し。眞紅。
○裏の家のオ|ン《原》ラン草枳殻垣の隙より見ゆ。小町菊は先月中旬より咲く。ひめやめ〔五字傍線〕もしきりに延びる。子供金運花を鉢で買ふ花散る。莖延ぶ。松葉菊まだ鉢にあり。
○植木屋高二尺の朝鮮矢來を欄前につくり。それに灰とどぶ泥と、白水の肥料をやつて花隱元をからます。四つ目垣は裏へ廻す。
○此間から湯屋に入つて、上つて、錬《原》瓦塀の外を見ると、向側の古門の眉にうつぎが白赤綺麗に見ゆ。杉垣の上に松蔽ひかゝる。是は余の隣家にて余の家よりも五六尺低し。
○フラネルに薄き毛のシヤツ。肌の心地よし。
 
 六月九日〔木〕。胃腸病院行。便に血の反應あり。胃潰ヨウの疑あり。歸りに日比谷で高貴の人の馬車を拜す。皇后陛下なりといふ。然し誰人か分らず。唯脱帽して敬意を表す。
○好天氣。坐敷の花活に夏菊を插す。黄のなかに赤を帶びたる小さき花簇がりて、ぴんと勢よく頭を並べたり。書欄の上の銅瓶には百合を活ける。色黒を帶びたる赤。菊も百合もわが心に適ふ。
○裏の北縁の硝子戸を開ける。角に薔薇の樹あり。まだ花を着く。此木の咲き出したのはもう二ケ月位も前と思つてるのに、まだ所々に赤き蕾あり。夫から夫へと落ちては咲き咲いては落ちるなるべし。梧桐の根の小町菊も然り。
 花壇に濃き黄の小百合開く。石榴もいつか花を着けたり。芭蕉の實赤子の頭程になる。葉出て青く見えてより既に月餘ならん。
 濟勝寺の境内の樫の古木を遠くから見ると、枝を切つたのか、枯らしたのか太いの丈が高い頂丈に見えて其所に萌る樣な色が集つてゐる。其恰好が芝山(二段になつた)の樣であつた。
 
 十日〔二字二重傍線〕〔金〕。曇。冷。北縁の籐椅子に倚りて眠る。眼覺むるとき、西の空微かに破れて、薄き光り木犀の込んだ葉を透して、余の顔を射る。
 
 六月十一日〔五字二重傍線〕〔土〕 不圖思ひ立つて上野の白馬會と太平洋畫會を見に行く。好晴。薄暑。胃病で歩くとあとが痛くなるので、外出が恐くなつた。
○上富坂を上る右手の廣い空地に何といふ木か名の分らないのが、若い軟かい緑りを吹いてゐた。其色は舐めて見たい程美くしかつた。其一本の下に薪が高く積みあげて、括くつた藁の色が見えた。後ろには砲兵工廠の偉大な烟突から煙がもう/\と立ち上つてゐた。
○一週間前に長與病院に行つた時は雨が降つて寒かつたので袷に袷羽織を着た。是は寒がりの部で珍らしい方であつたが、夫でも其頃はセルを着てゐる人が多かつた。今日はみんな絹の羽織に普通の單衣である。
○夜書齋に坐つてゐると、北庭と南庭と開け放つた暗い庭から初夏の香が心よく鼻に通つて來る。
 
 六月十二日〔五字二重傍線〕〔日〕
 北の縁側の籐の長椅子に寐て庭を眺めてゐる。風吹いて梧桐や櫻がぱた/\と鳴る。
 薄き藍色の空に二たかたまり程の白雲が出る。其輪廓が暈した樣に薄くなつて藍に流れ込んでゐる。秋の空に似たり。
○勾欄のすぐ前にある芭蕉を臨む。日落ちてからが猶快よし。暗いうちに微かに大きな葉の重なる氣色が窺へる。
 
 六月十三日〔五字二重傍線〕〔月〕 胃腸病院行。十一日の便には著るしく血の反應あり。且つ繊維の如きもの見える由。しかしまだ胃潰癰《原》の判斷を下す事能はず、もう一返便の檢査をなすといふ。外出歩行を禁ぜらる。謠も病症のきまる迄やめろといふ。
 歸つて長椅子に倚つて書見してゐたら眠くなつたから富士太鼓をうたつた。夫から晩食後には花月をうたつた。是で惡くなれば自業自得也。
○もう浴衣をきてゐる人がちらほら見える。
○まだ蚊帳をつらず。夜氣甚快。
○眼あしく夜の書見困難なり。
 
 六月十四口〔五字二重傍線〕〔火〕
 朝床のうちにて強雨の聲をきく。起き出づ。空暗し。フラネルに薄き夏の毛織の襯衣を着て其上に袷羽織を重ねる。冷氣。一二日前より梅雨なる由。
 
 六月十五日〔五字二重傍線〕〔水〕
 
 六月十六日〔五字二重傍線〕〔木〕 早強雨の響を聞く。胃腸病院行。入院に決す。雨の儘の菖蒲を見る。
 
 六月十七日〔五字二重傍線〕〔金〕 坐敷に白百合を活ける。香強し。銅瓶に桔梗を插す。終日雨。日暮に晴れかゝる。薄シヤツにフラネル。
 
 六月十八日〔五字二重傍線〕〔土〕 濃陰。胃腸病院に入院。床が敷いてあるから寐る。午飯、牛乳、玉子、刺身。米飯三杯。夜。牛乳、玉子、茶碗蒸但し中味何もなし。
○室南向明るし。病院といふよりも宿屋に來たやうなり。眼の前にひば〔二字傍線〕の先尖りたると青梅の葉見ゆ。
 大小便共捨てず。徳利と葢物に入れて檢査す。
○雨に濡れた赤|練《原》瓦の色。獨乙公使館美なり。裏霞關を下る。大道の中に突兀たる柳緑に濡る。左石造赤煉瓦の家。日比谷圖書館
 豐隆、白川來。行徳來。
 
 六月十九日〔五字二重傍線〕〔日〕 曇。五時起。病院の規則のよし。洗顔五時半室に歸る。隣の人既に書を讀む。昨日も終日時々讀書の聲をきく。是は附添のものが病人に小説を讀んで聞かしてゐる也。病人は御婆さん也。
 伸六一週間前に頭を刈る。謙信の模型の如し。
 湯に入る事を申し出る。看護婦曰く。もう二三日御見合せなさるべし。よければ此方からさう云ふべしと。何故に湯が惡きか殆んど解しがたし。苦笑して已む。
 冷氣。薄シヤツ。セル。褥中にては冷風のため夜具をかける。
 布團高さ四五寸(三枚をかさぬ)シートデ蔽ふ故品もの分らず。上掛一枚。ケンドンなり。是も表裏白布ニテ蔽フ。たゞ袋に入れて左右から括るところ見ゆ。
 楚人冠。上野氏來。
 
 六月二十日〔五字二重傍線〕〔月〕 五時前起。陰。風強し。
 看護婦の掃除する間二階と二階下を見廻る。悉く掃除也。混雜。歸る。自分の室も掃除中。あとから外の看護婦が拭に來る。六時に出《原》つて日雲を洩る。
 神崎氏來。
 午 池邊三山來。午後草平蓊村來。妻來。
 
 六月二十一日〔六字二重傍線〕〔火〕。曉起(四時過)。眼に映るもの悉く雨に濡れたり。鳩 軒に鳴く。風北より吹く。
 深陰雨ならんとす。居室冷ならず。
○今朝硝酸銀の藥を呑む。粘液を洗ふためならん。
○病院の食事は。三度々々半熟玉子一個。牛乳一合なり。朝は是は《原》麺麭二切れ。バタ二片。ひるは刺身。晩は玉子豆腐又は魚の※[者/火]たもの|も《原》、又は玉子燒等なり。
○室より望めば電線空端に縞を描く。余の着たる浴衣の如し。南の方に細くて高い烟突あり。湯屋らし。其後ろにこんもりした丸き森あり。其左少し低き處から一本の高い松らしきもの聳ゆ。距離慥ならず少くとも十町はあるべし。近頃の梅雨の天氣にては蒼い上に常に白きものを被つて判然せず。
○朝 松山忠氏來訪。行徳團扇を持つてくる。小宮來る。午迄で歸る。
 桐生悠々來。中村是公來。
○醫員後藤氏來。わざ/\長與院長の傳言を述ぶ。院長病氣にて面會の機なきを憾むとの事。院長は余の著述を讀む由。謝してよろしくといふ。
○日暮兄來。
 
 六月二十二日〔六字二重傍線〕〔水〕
○昨夜半夜看護婦二人夢の間に來りて蚊が出たから蚊帳を釣つて上げませうといふ。唯々として應ず。あとは知らず。
○五時覺。上|厮《原》。便なし。陰。蒸暑し。前の電燈會社の物置場より毎朝七時頃から人夫が色々のものを引き出す騷ぎ罵る。八時に至つて已む。
○十一時半弓別田來。午よりうと/\と寐る。
○二時過妻來。
○つゞいて畔柳來。
○大便不通灌腸
 
 六月二十三日〔六字二重傍線〕〔木〕
 五時起。大便又なし。天氣朦々。しかも雨にならず。
○八時半便通少々。
○朝のパンと午の刺身に窮す。
○小宮豐隆。黒田朋信。森田草平來。
○入浴を許さる。三助糸瓜の干したので背中をごし/\擦つてくれる。
 
 六月二十四日〔六字二重傍線〕〔金〕 五時起。便通。晴天。昨夜隣室の御婆さんの所へ女三四人來。花を活けてゐるやうなり。御婆さんを先生といふ。御婆さんは花の師匠か。余は町人の御隱居かと思へり。
○十時物集和子さん花束を持つて來る。十二時歸。
○午後春陽堂主人ビスケツトの罐を持つて來る。受付をどう切り拔けたものやら。
○妻白百合を携へて來る。
○平山氏獨乙より歸朝來診。
○毎日午に刺身を食ふ。少々厭きた心持なり。
 
 六月二十五日〔六字二重傍線〕〔土〕
○五時十五分前起。陰。七時半より晴れかゝる。
○午食後東洋城來。御膳をとる(五十錢)。豐隆月給をとつてくる。
○行徳 筆子とあい子を連れて來る。二人とも殆んど一語を發せずして去る。
 
 六月二十六日〔六字二重傍線〕〔日〕 隣室掃除の音にて目覺む。四時半也。五時十分前位に起床。曇。冷。例の如し。
○隣室の御婆さん今日退院の由。見舞人先生々々といふ。花の師匠らし。
○昨日目方をはかる。体量四十八キロ百。少し減じたり。食慾乏しき爲ならんと杉本氏云ふ。食慾の乏しきは朝硝酸銀を呑む結果なるべし
○今日一日の尿の全量を檢査する由 昨日看護婦云ふ。
○昨日東洋城物集さんの花束をばらにして復活をはかる。無効。今朝は大部分凋落す。
○燕遙かの空を飛ぶ。階下に紫陽花咲く。くちなし白く咲く。花卉の鉢物を並べたるうちにジエレニアム赤し。
○午前白石良五郎來。是は此四月福岡から出て高等師範の國漢文科に入りたる人也。文學者志望の旨の手紙をよこした故返事を出したら來た。是も菓子折を持つて無難に受付を切り拔けてくる。
○妻例の如く來る。山田茂子、神崎恒子前後して至る。神崎の御孃さんが山百合と菊の花をくれる。山田の奥さんが稗蒔の鉢をくれる。
○森卷吉來。傘を忘る。
○隣の御婆さん退院。一軒置いて東の人其あとへ引き移る。是も輕症の人と見えて碁などを打つてゐる。相手は弟らし。
 
 六月二十七日〔六字二重傍線〕〔月〕
 曇 例の如し。五時起。今朝からパンを燒いて食ふ事にする。たゞではもご/\して如何にも食ひ苦し。
○高田姉來。笠原親次來。森田草平來。野上白川來。兄來。
○晩に瀬川さんから三大めしの因縁をきく。
○あまり寐てゐるものだから腹がぶつ/\云ふ。
○今日入浴
 
 六月二十八日〔六字二重傍線〕〔火〕
○五時起。寐ながら雨聲をきく。
○今日より硝酸銀を廢す。
○支那人王某なるもの入院す。
○四十一圓二十五錢を病院に拂ふ。
○小宮豐。安|陪《原》能成。西洋料理を食はす。
○三時中村蓊來。三時過内丸最一郎來
○五時、澁川、坂本《原》來。
○九時過眠る。忽ち地震で眼が覺る。眞夜中の樣な感じなり。地震の長さも中々也。漸く靜つたとき電車の音が耳に入る。恐らく十二時位ならんと漸く想像す。
 
○六月二十九日〔六字二重傍線〕〔水〕
○五時起床。顔洗所で看護婦が昨夜は大した地震ですねといふ。漸く御天氣になりましたといふ。成程地震の御蔭かも知れない。久振で快晴。美くしき日が病院の烟突の本《もと》の所に見えた。
○十一時入浴。室に歸ると是公が來てゐる。昨日は大臣を御馳走したといふ。獻立をきく。其時の薔薇の花をやればよかつたといふ。
○十時頃一青年障子を開けて入り來る。顔が白石良|太《原》郎と云つて此間來た高等師範の學生に似てゐる。見た樣な見ない樣な顔なので躊躇す。是は辨天町に住んでゐて、湯屋で余に逢つた事のある少年のよし。其辨天町の厄介になつてゐた男が文學士で、其文學士の先生だと余を教へたので名前を知つたといふ。成城學校に行くといふ。軍人になるのかと聞けばさうでもないと答へる。入院後四十日になるといふ。四の大を食ふ由。澤山食つて營養がよくなれば癒るのだと云ふ。
○庇のさきに葭簀を出す。柱を立てゝ。其中央から直角に台を手摺の上から長く出して其上で仕事をする。
 
○六月三十日〔五字二重傍線〕〔木〕 曇。五時起床。
○朝誰も來ず。午。小宮來。西洋料理を食ふ。昨夜河岸の天ぷらを食つて明治座の立見に行つたらもう落《原》のあとで新橋の濱藝舘へ來たら薩摩琵琶なので失望して此病院の前を九時頃通つたといふ。
○二時過例により妻來。純一と御房さん來る。
○森田丸善より電話をかける。大塚へ禮にやる文房〔具〕に就てなり
○二ノ宮行雄、太田善男、水上|齋《原》來。
○森田來。六圓五十餞のインキ壺を見せる。
○杉本氏回診。療治後血がとまつてから二週間して腹を蒸すのが、胃潰瘍の療法なりといふ。其あとは火ぶくれの樣に色が變るんだといふ。腹だから差支なからうと答へる。
○中村是公から楓樹の盆栽を見舞にくれる。中々見事のものなり
 
 七月一日〔四字二重傍線〕〔金〕
○例により五時起。昨夜腹が鳴り通しに鳴る。
○菊の水を代ふ。楓樹の盆栽格好頗るよし。
○此日晴ならんとして未だ判らず。
○是公より端書來る。今日北海道へ行く。十三日頃歸る。一所に行かれぬが殘念なり。左五へは宜しく云つてやるとあり
○島村苳三來。高須賀淳平來。石川啄木來。
○今日より蒟蒻で腹をやく。痛い事夥し。
 
 七月二日〔四字二重傍線〕〔土〕 四十八キロ百五十。
○五時十五分前起。晴ならんとす。又暑からんとす。
○腹に火ぶくれが二ケ所出來る。
○虚子來。松本樓から一圓の西洋料理を取り寄せて自ら代を拂つて去る。
○入れ代つて東洋城來る。森卷吉來。草平來。妻がえい子と恒子を連れて來る。行徳も來る。行徳は三四日内に歸るといふ。
○百合枯れ/\になつて色落つ。妻菊を插し易ふ。
○腹の火ぶくれを見て杉本さんがかう精を出してやつたら屹度よくなるだらうと賞めた。病院だから火ぶくれを拵えて賞められるのだらう。
 
 七月三日〔四字二重傍線〕〔日〕 強雨の聲耳を冒す。車軸の譬の通りの降り方なり。五時起。洗顔後稍穩やかになる。洗|顔《原》所にて看護婦と鳩の話をする。鳩が三羽程居る。何處からか飛んで來たものだといふ。さうしてみんな子だといふ。親は子を生むと何處かへ飛んで行くといふ。鳩はさうだといつて承知せず
○朝鈴木の弟來。縞の羽織に角帶。鼻の療治に大學へ通ふので商店を休んでゐる由
○午後うと/\する。横濱の奥村來。春陽堂の岡田復三郎來。栗野の話をする。御母さんが酒飲でどぶろく抔を作る時脊中の子が泣くと乳を飲ませるのが面倒なので こうじを甞めさせた由
○松浦一來。高田の養子來。
 
 七月四日〔四字二重傍線〕〔月〕五時十五分起。冷風肌を襲ふ。北風らし。鳩|軒《庇》下にあつまりて寂如たり。今日は眞白なのが一羽ます。是が親か。
○倉光空喝來。小宮豐隆來。妻來。蒟蒻をかへる爲め附添看護婦を雇ふ。昨日長野より出て、紺屋町の會に着いたばかりといふ。
○新小説と西洋の雜誌をよむ。
 
 七月五日〔四字二重傍線〕〔火〕
○五時起 例の如き天氣。あまり暑からず。
○太陽記者中原司馬雄來。太陽の小説の選をしてくれといふ。草平來。石川啄木來(スモークを借りに)
○病院の廊下をあるくに宅から草履を買つて來た。所がそれはつつかけ草履である。
○天畧晴。しかも暑からず。あつきは腹の上の蒟蒻のみなり。
○晩に二宮行雄來。
 
 七月六日〔四字二重傍線〕〔水〕
○五時五分起。天晴の如く陰の如し。稍白き空と畧青き空と相交はる。交はり方は帶の如し。さうして其帶と帶の間はボカシなり。
○附添の看護婦にどこかと聞いたら小縣だといふ。上田から三里ほどある田中とかいふ所の驛に親が勤めをしてゐる由。生れは越後ださうだ。飯を湯漬にして呑み込むから、まづいかと聞いたらまづいといふ。身体がわるいのかと聞いたら、いゝえといふ。東京へ出たての爲ならん。
○病院の患者がよくなつて段々退院するのはうれしいと瀬川さんがいふ。此間かげが見えなかつたから、どうしたと尋ねたら兄の法事で麻布へ行つたと答へた。兄は二年前に死んであとは幼兒と若い未亡人がある由。それから自分はこゝへ看護婦に住み込んだといふ。
○中野善右衛門。昨夜は來ず。これは盛岡の青年。早稻田の湯で自分を見た事ある由にて突然來る。二度目は盛岡で雜貨を商買にする由を云ふ。木綿屋へ奉公に行つた事を語る。自轉車から落ちて鼓膜を破つた事を語る。四の大を食つてゐる事を語る。二《原》度目はえらくなりたいといふ事は本能ですかと聞く。本能ぢやないが本能に近い共有性だらうと答へる。誰でもえらくなりたいものでせうかと聞く。三度目は神はあるでせうかと聞く。あると思ふかと尋ねるとある樣に思ふと答へる。Wil の話をする。善衛君聖書の百合の話をする。
○蒟蒻今日は六日目也。あついのは稍我慢しやすくなる。たゞ皮膚がすれて紫色になり。火ぶくれのあとは癩の如く水を含んで|あ《原》れ上る。腹を出して直立するよりも稍ともすると猫背になる。
○胃腸の養生法といふものを買つて來てもらつて讀む。
○妻絽の袴が出來たといつて見せる。手に取れば地のわるいざら/\したものなり。少し遠くへ持つて行けば失つ張りどつしりしてゐる。  ○耕三より手紙 ○「太陽」へことわり
 
 七月七日〔四字二重傍線〕〔木〕褥中にてびし|し《原》よ/\の音をきく。起きれば風水を含んで面を吹く。樹の葉 屋根瓦より濡れたものを誘つてくるなり。割合に冷。病院生活をしてより夫程あついと感じた事なし。七月も此位凉しいものかと人にきくとそんな事はないと云ふ。
 梅雨は明けたかと訪問の客にきくと皆知らぬといふ。
○午過小宮來。五時過野上來。
○午前十一時頃看護婦鼻血を出す。汽車に乘つた爲だらうといふ。
○是公札幌よりアイヌの繪端書をよこす。
○夜蒸暑し。蒟蒻に疲る。
○昨日より西隣の患者退院。此人は岡田正三とかいふ。輕症らしく。碁などを圍めり。下女を附添に連れて來てゐたり。
○夜に入りて東のはづれの人亦退院。是は廿位の青年なり。書生ならん。
○東隣の人が此列にて一番重患らし。肛門に懷爐をあてるとか何とか看護婦がきいてゐる。病人は靜かな人なり。
 
 七月八日〔四字二重傍線〕〔金〕
 細雨濠々。無風。入院後大方は雨。時に霏々。時にどう/\。時には今朝の如く濠々たり。
○東のはづれの部屋の患者が洗顔所にて顔を洗つてゐる。のつぺらぼうのやうな白い顔をした女なり。さうして髪の毛を切つてゐる。然し隱居の樣に切つてゐるにもあらず。後ろに束ねたさきが三寸ばかり殘つてゐる。さうして黒塗の細長い箱を持つて出て來る。其中に舊式の道具が一切這入つてゐる。楊枝は昔し使つた房楊枝なり。今頃こんなものを使ふのだから安全かみそりの余とは釣り合はない。
○東隣りの患者は床の間に大きな熨斗の形をした何處かの御|禮《原》を奉つてゐる。
○昨日白川が佐久間艇長の遺言の寫眞版を持つて來てくれる。其死ぬ時を想像すると憐れなものである
○今日病院の仕拂日。四十一圓貳拾七錢。三十七圓五十餞は一等入院料十日分。三圓五十餞は付添五日分。二十七錢は蒟蒻。十五丁。
○妻來
 
 七月九日〔四字二重傍線〕〔土〕
 陰。暑。一二日前より看護婦長歸る。これは伊勢の人。七八年前よりこゝにゐる由。堀を埋めぬ前は前が土堤で松が生えてゐた由。昨夜來て話す。
○咋日朝火ぶくれを切つて上から膏藥を張る。
○西隣に支那人來。鄭某といふ。西隣は是で三人目なり。
○妻扇を忘れて去る。象牙骨の銀紙に百穗の畫。
○早玄關に下りて花を買ふ。鋸草。麒麟草。金龍。それを竹筒と床の間に分けて活ける。七錢。
 花賣の荷車が露に濡れていき/\眼に映つた。
 
 七月十日〔四字二重傍線〕〔日〕
○例刻起。霧の如く雨の如きもの世を蔽ふ。電信柱の向ふに見える烟突が霞んでゐる。電信柱か烟突か區別がつかず。其向ふの丸い森は丸で見えず。
○いつか電線を勘定して見やうと思ふが。晴れた時は目まぐるしくつて出來ない。雨のときはぼんやりして出來ない。
○昨夜寐るとき頭を洗ふ。
○藤井節太郎より手紙。此人は自分で香魚を漁つたといつて小包でよこして呉れたのが、箱入だつたものだからすつかり腐れてゐた。其旨を通じてやつたら殘念がつて今度は腐らないのを贈りたいが生憎雨で不漁であると云つて來た中に不如歸の巣を見付けた事が書いてある。――
  「塩田宮内省御用掛御陵取調のため來|付《原》案内致し候所ゆくりなく郭公の巣に行當り申候。鶯其他の巣を見付け得ざりしものか石ころの上に巣形もなく卵二個を生みて※[孚+孚]《原》化に黽め居候ひしが人氣に驚ろきて飛び申候田舍にても時島の巣は珍らしく塩田氏と相談の上燕の巣にて〔孵〕化せしめんと歸宅後燕の巣を求め候ひしも折惡しく一番子終りにてよろしきもの無之仕方なさに捨置申候|浮《原》化したら人工的に飼養して見る積候。雲に啼きてこそ時鳥の特色はあれ籠に入れては俗に落ち申候ならんも茶店などにて思ひがけなく鳴かしてやるも多少の面白味有之べく歌の會俳席などの實物題に出しても俗中に幾分かの味有之べく候かと存候。
  二匹ともうまく行つたら一匹は差し上げてもよろしくと存候。永日小品に小鳥に興味を持たるゝ樣見受候につき云々
○例の髪を茶煎にした東のはづれの女今朝も洗顔所にて顔を洗ふ。つき添二人、ばあさんに中年の年増なり。いづれも上流の召使とも見えず。寧ろ田舍びたり。當人は例の如くぬうたる顔とぬうたる態度にてやつてゐる。大きなブリキの藥鑵に湯をわかして瀬戸引の金盥に湯を入れさしてゐる。長い箱以外に下女が小さな茶碗を持つて來た。其中に糊の樣なものが這入つてゐる。當人はそれを指の先に塗り付けて、片方にに置いた茶碗樣のものに入れてある妙なもの(一寸見たら木の葉の枝に見えた)を取り出して、其糊をすり付けてゐる。よく見たら四五本の金齒を腮の脊に喰つつけたものであつた。般若の樣な氣がした。
○是公から呉れた盆栽を大事に枕元に据えて置いたのを昨日見ると黄色な葉が大分出來た。自分は盆栽を手がけた事がない。たま/\買つてくるとみんな枯れて仕舞ふ。驚ろいて水を吹いた。枯れなければいゝがと思ふ。みだりに水をやるのが却つて枯らす工夫ではなからうかと思ふ。梅雨はやんだのやら、やまないのやら、空はいまだに暗い。
○朝 東新來。鈴木三重吉、小宮豐隆來。鳥《原》村孝三來。太田正男來。神崎恒子來、花束をくれる。鳥居素川、杉村楚人冠來。野村傳四來。
 賑やかな日曜を過す。晩方一軒置いて隣りの患者の看護婦隣りの支那人の室へ來て抗議を申し込む。手前の方の患者は老人ですから、高い聲をして話をしない樣にして下さいといふ。此看護婦は特等看護婦のよし。加藤さんといふ。是から看護〔婦〕會をたてるんだといふ。
 
 七月十一日〔五字二重傍線〕〔月〕
 例刻起。曇、陰、暗、新胃腸病學を讀む。枯れかゝつた盆栽を洗顔所の窓の張出の上にのせる。
○是公から繪端書がくる。是で三度目なり。此前のは夕張の炭坑附近の懸崖の景色。是には左五、加二太、久保田勝美皆々一口づゝ病氣見舞を延《原》べてゐる。今日のは登別の湯の瀧の氣《原》色なり十本許の瀧に五六人打たれてゐる。其右のはづれは西加二太に似てゐる。「今着。此瀧に打たれた心地は何とも云へない好い心地、君も二三度此所にて打るゝとすぐ癒ります、是公」とあつた。
○咋日東の言傳にはひな〔二字傍線〕子が熱が出たから醫者に見てもらうので、今日はことによると病院へ行かれないと妻が云つたさうである。
○突然皆川正禧が來る。一昨日出て來て誰かから余の病氣の事をきいて、大方入院してゐるだらうと思つて尋ねに來たのだといふ。屋久杉の謠の見台を三つ、棕梠の葉の團扇を四五本、薩摩燒の猪口を一つくれる。
○森田草平來。妻來。
○二三日前より新らしい看護婦を二名|※[病垂/郎]下で見受ける。朝洗面所で新らしい人に逢ふ。金縁の眼鏡をかけた男也。夫からさつき手水に行つたら頗る脊の高き患者に逢ふ。毎日入院と退院があると見ゆる。
 
 七月十二日〔五字二重傍線〕〔火〕
 例起。便通少なし。陰。潤。細雨眼を奪いて飛ブニ似タリ。
○昨日の長身の人ニ今朝洗面所デ逢フ。西洋人でもなからうけれども慥かに合の子なり
○黒田|朋《原》心來。松根來。北白川宮の御用掛をかねる事になつたといふ。西洋料理を食ふ。
○太田善男來。森卷吉來。
○二階の角の人今日三時か四時に死ぬ。毎晩うなれる由。細君は子供三人ありといふ。いつでも小さいのを負つてゐた。脊の高い女なり。患者は三十四といふ。來た時から大勢看護して入れ替り立ち替り見えたり。あるときは鍋で何か食ふ樣、湯治に來て間借をするに似たり。病人は久しい間滋養浣腸の由にきけり。
○同じく二階の向側の楷《原》子段の入口の支那人に附添の看護婦やり切れないと云つて歸る。支那人はくさくつて厭なんだといふ。
 
 七月十三日〔五字二重傍線〕〔水〕
○曇。例起。
○昨夜、死亡せる患者の部屋に集ひたる人影もなし。鬩として疊のみ見ゆ。片隅に布團をたゝみ重ねたり
○看護婦云ふ今日は祗《原》園祭ですと。長野にも祗園祭あり町々から屋台を出して盛なる由。東京に祗園はないと教へてやる。
○東はづれの慈姑の髪の女、突然ゐなくなる。何でも昨日抔は今迄の附添の外に若い銀杏返しの女が二人も泊り込んでゐた。よく聞けば上野の別荘とかへ來た所まだ空かないとかにて不得已病院へ入つた所、空いたときいて急に引き移つたのだといふ。うちの付添の聞いた事だから何處に間違があるかも知れない
○今日久し振にて薄き日の光を見る。從つてあつし。晩方稻妻しきりに起り雨ついで至る。
○九時頃看護婦が縁に出てもう月夜だといふ。雨は何時か晴れたと見ゆ
○妻來。是公來。胃に棚を釣つて物を載せた樣だと云ふ。小宮來。
 
 七月十四日〔五字二重傍線〕〔木〕
○例起。快晴。病院に入つてから始めての快晴なり。洗面所にて二軒置いて東隣りの附添の下女好い御天氣で御座いますといふ。
○蒟蒻の最後の日なり。今日より焦げた所しきりに痒し。いかに熱いのを乘せても痒し。仕舞には手を出して掻きたくなる
○看護婦が膏藥を貼り替へに來て美事に燒けましたといふ。杉本さんが回診の時 是はあと迄記念になりますといふ。此黒い色が記念になつて年來の胃病が癒れば黒く燒けた皮膚は嬉しい記念である。
○花屋から桔梗と女郎花とくわりんばいを買ふ。く|れ《原》りんばいは始めての花なり。白くて子供のチンボコの樣な形の蕾をなす。葉は柿の葉の葉裏のあれ程にがさつかぬものなり。
○楓の盆栽を物干台から取り下して縁に置く。見違へるやうに生々した。
○鋸草の殘つたのを短かく切つてコツプに活けたら水が赤くなつた。是は葉を染めて美くしくしたものだといふ事が始めて分つた。
○小便に行つたら階子段の上の洗面所の所で余の看護婦が若い男と話をしてゐた。歸つてからあれが國の人かと聞いたらさうだと答へた。病氣は何だと云つたら腹膜だと答へた。此二月から病院に來て六月に二週間程國の方を旅行して又入院したのだといふ。醫者は安靜にして一日寐てゐるがいゝと云ふのださうだが自分は堪へられないので、忍んで外出をするといふ。結核性らし。年は十九といふ。
○野村傳四來。畫家が雛鷄をかく時牡鷄を合せかくは事實でないといふ。雛鷄は常に牝鷄に連れられて歩いてゐるものだといふ。俳家の猫の戀も間違つ〔て〕ゐるといふ。私のうちの猫は正月に戀をして三月に子を生んで五月に又戀をする。再度の戀の時は子供を放り出して構はない。つまり二度さかる。しかも兩方とも春ぢやないといふ。油かす(約束の)を持つて來て楓の盆栽にふりかけて去る。
 
 七月十五日〔五字二重傍線〕〔金〕
○例起。洗面所にて支那人の鄭さん王さん郭さんなるものと合の子の中川さんなるものと一所になる。鄭さんは余の隣室にゐる。王さんは東から二番目なり。寐坊也。今朝看護婦から王さん試驗中は早く起きなくつちや不可ませんよと催促されてゐた。郭さんは香水だの油だのを持つて顔を洗に出てくる。水の中に香水をたらして身体などを拭いてゐる。しかも附添から支那人は臭くていやだと云つて逃げられたものは此郭さんである。今朝便所へ這入つたら郭さんの名前の貼付けた便器がれい/\ときん隱しの前に置いてある。大將便を垂れて戸棚に仕舞ふ事を敢てしなかつたのである。
○昨日王さんと鄭さん隣の部屋で話をしてゐると、病院の男が縁側の硝子障子を拭いてゐるので※[病垂/郎]《原》下の仕切りを開けてゐた。一軒置いて隣りの看護婦と支那人と話を始めた。
 王「私の顔色は今日は惡いでせう」
 看「どうだか、何時も洗顔所で見る丈だから、あすこへ行つて見なければ分りやしない」
 王「夫ぢや仕方がない」
 看「王さんは丸で駄々つ子の樣だ」
 看護婦は夫から鄭さんと話をしてゐた。
  「失張御國が好いでせうね。始めて東京へ來た時は厭でしたらうね」
  「えゝ、言葉からして分らない」
  「鄭さんは本郷ですか」
  「駒場です。青山の電車の終點を下りて」
  「農科はあつちにあるんですか」
○今朝東のはづれの看護婦が氷枕の水をあける時、余の石鹸入の中へ其水をどつと入れた。東隣りの後藤さんの看護婦が合の子の中川さんの齒磨入を流の下へ落した。
○昨日は此合の子の中川さんの姉さんが來たといふ。脊が高くつて瘠せて、色が赤く髪が赤いと余の看護婦が云ふ。
○東はづれの患者は慈姑の髪の女のあとへ引移つたのである。氷で冷してゐる。何病だか分らない。看護婦は二人附添つてゐるらしい。
○此間患者の死んだ部屋が又ふさがつたといふから今朝見たら青い蚊帳が垂れてゐた。
○顔を洗ふ時は例の如く陰と思つて部星へ歸つて縁から往來を見ると番傘の相々にした男が通つたので細かい雨が降つてゐるといふ事が分つた。傘に|て《原》短冊の樣なものゝなかに三日月が書いてあつた。
○雨ふる。十一時過飲む。物干に上つて天下を望む。中庭に盆栽を數多並べたり。誰の所有なるやを知らず。
○廣瀬歸芳氏余と前後して入院せしが、此間森卷吉が見舞に行つたら、此院内の空氣がいやだからもう出ると云つてゐたさうである。物干に出て天下を觀望した歸りに室の前を通つて見たら、果して外の人が這入つてゐた。其前の室に御爺さんが一人ゐる。是は文人畫にありさうな白い髯を蓄へてゐる。此間もゐた。蒟蒻の濟んだ今日通つて見るとまだゐる。眼鏡をかけて仰向に寐て本を讀んでゐた。浴衣は手拭をつぎ合せた凉しさうなものである。床に墨畫の文人畫をかけて竹の花活に杜松か何かを活けてゐる。夫は遠州とか古流とか法に叶つた枝を曲げたり撓はしたりしたものである。此御爺さんは病院を家として此所に落付いて生活してゐるらしい。壁にかけた驗温表がひら/\して見えた。其數は十枚程ある。一枚十五日分だから決して昨今の御客ではない。
○今日も支那人が隣の部屋へ來て話してゐる。何を云つてゐるか薩張り分らない。然し其音調の接續高低は言葉の意味が分らない丈それ丈よく分る。寐てゐて近所の部屋へ來た見舞客の談話をきいでゐると意味の分らない時は丁度支那人の談話と同じ趣で聞く事が出來るが、意味が通じるや否や illugion が破れてしまふ。
○三時過やけどの膏藥を貼り易へる。やけどならもつと痛みさうなものだが些とも痛くない。
○風呂場へ行つて足と頭を洗ふ。三助曰くちと御辛抱が足りませんでしたなと。何の意味か分らぬ故 え? と聞き返すと又大きな聲でちと御辛抱が足りませんでしたなと云ふ。仕方がないからうんと肯つた。すると少しつめて熱いのを取り香へ引き替へやる人は十日位で濟みますと云ふ。余はそんな人があるかと思つた。始めの二三日は熱くて堪らなかつた。
 
 七月十六日〔五字二重傍線〕〔土〕
○例起 夜來雨。顔を洗つてたまだ部屋の掃除が出來ず。病院をぶら/\す。試驗室で胃の中へ管を入れて洗つてゐた。驗便所へ四方八方から便が輻輳して來た。めまぐるしく二人ばかりの看護婦が働いてゐた。どうするのだか能く分らない。狹い部屋に便器が一杯ならんでゐるので足を入れやうがなかつた。看護婦は水の自由に出る水道の栓を前に控えて何かしてゐたらしかつた。
○座敷の硝子を開けて置くと※[病垂/郎]《原》下を通る人は大概部|部《原》の中をのぞき込んで行く。見舞人でも患者でも看護婦でもさうである。たゞ合の子の中|山《原》さん丈は眞直を見て行く。是はさすがに西洋流な所がある。
○鏡で舌を見たら牛の舌を思ひ出した。少し白いけれども滑かで肌理が大變こまかになつた。さうして見てゐると舌の上が萬遍なく波の樣に動く。是は新發見である。此間新胃腸病學を讀んだら舌は診斷の足しにはならないとあつた。咀嚼をよくするものは舌苔がない。咀嚼のわるいものは舌苔が多いとあつた。入院當時は舌が厚かつたしかも焦げて黒かつた。今はかくの如しだが咀嚼は同じ事である。如何。矢張り胃がよくなつたからぢやないか。
○今日は盆の十六日である。
○体重をはかる。四十八キロ七百。
○隣の支那人が入らつしやい、入らつしやいと云つて寄席かなんぞの假聲を使ふ。入院の同國人の話に來てゐたものが部屋を出て行くとき又入らつしやいと大きな聲を出す。
 
 七月十七日〔五字二重傍線〕〔曰〕
 例起。細雨罪々。
○咋夕方白川來。銀行の監査役になつたといふ。是は親類の銀行のよし。不動貯蓄とかで資本金は十萬位の小さなもの。
○看護婦がもう御用もないから御ひまをくれといふ。小石川の親類から呼びに來たが多分國のいとこが死んで國で歸れといふんではなからうかと云ふ。妻にあした病院の仕拂日だから例仕拂と看護婦の日當を持つてくる樣に手紙を出す
○廣田道太郎がくる。やが|と《原》皆川と鎌田と佐治が三人揃つてくる。それに東が宅から着物をもつてくる。
○森田がくる。みんな歸る。東が辨當を食つて去る。
○憐《原》りの病人が退院。病氣はよくない樣である。氣の毒である。商人らし。
○三時過便所へ行つたら一軒置いて東隣りの十七號の患者も何時の間にか退院してゐる。是は蒼い顔の五十代の爺さんであつた。白髪頭を五分刈にして、夜中でもよく咳をしてゐた。
 
 七月十八日〔五字二重傍線〕〔月〕
○例起。細雨。しばらくして歇む。
○一軒置いて西隣りの御婆さんは名古屋とか横濱とかの財産家で、大きな宿屋を作つて人に借してゐるんだとか云ふ。地面と屋敷とかゞ五萬坪あるといふ。それでたつた一人で毫も親類がない。自分の所有をどうしたら好からうと云ふのださうである。是は看護婦の話なり。おれに相談すれば何うでもしてやると答へた。
○此間出た慈姑の髪の女は名古屋とかの財産家で未亡人ださうである。病院へ這入つても間食ばかりしてゐる。食物がまづいとか何とか云つてゐる。あるとき看護婦が行つたら稻荷壽司を食つてゐたさうである。
○昨日退院した隣りの後藤さんは古着屋ださうである。
○突然高田知一郎が見舞にくる。肺病で國へ歸つて仕舞つたと聞いたが、どうしたかと思つたら此三月頃出て來たのだといふ。弓削田から病氣の事を聞いたと云つてゐた。
○森田が昨日生田の原稿を持つて來たのをいけないと云つたら、無斷でそれを社へ廻して仕舞つた。癪に障るから自分で書いてひる迄に社へ持たしてやつた。
○妻來
○病院の部屋が一つ空くとすぐ塞がる。昨日の後藤さんの部屋ももう塞つた。
 
 七月十九日〔五字二重傍線〕〔火〕
 例起。輕陰。
○管《原》が來る。重武が一本足で鷺の樣に立つ事を覺えたといふ。
○隣り〔の〕患者が十二|支《原》腸虫で驅虫をして、ひよろ/\して余の室へ這入つてくる。眼がくらんだんだといふ。
○高田の姉がくる。
○始めて外出。髪を刈る。叮嚀なる刈方に驚ろいた。仕舞に櫛と髪剃とを重ねて頭の周圍をぞりぞりと剃つた。鋏で髪をかるのみか、髪剃で髪をそるのは珍らしい事である。十二錢の所を二十錢やつて歸る。此髪を刈つた男余の頭を刈りながら「好い毛ですね。鏝手を使つて曲げた樣だと云つて何返もほめる
○栗原古城來。晩食をくつて九時頃迄話す。平田禿木氏の弟の死んだ話をきく
 
 七月二十日〔五字二重傍線〕〔水〕
 例起。晴。隣りの患〔者〕顔洗場にて昨日は失禮しましたといふ。
○雲出づ。白い雲が薄く濁つた中か《原》に、微かに赤みを帶びてゐる。その奥には紫の匂も見える。數は切れる樣に續がる樣に澤山であつた。其背景たる青空もつや消しである。暖かく藏れてゐる。冴えたぎら/\したものではない。嫩雲である。
○森田、東來。湯に入つて身体を拭く。
○山田茂子來。女郎花 桔梗、くわりんばいを呉れる。
○此朝菊とりうせい〔四字傍線〕と樺色の八重の襞の亂れたのを買ふ。
○橋口清來。グロクスニやとかいふ花をくれる。葉を切つて砂に埋れば接くといふ。熱帶の植物で尤も熾な色をなす。花の形はまだ知らず、蕾は細長く釣鐘の如し。豐隆來、パナマの帽子を被つてゐる。
 
 七月二十一日〔五字二重傍線〕〔木〕
○例起。かたまつた糞が出る。此二三日然り。
○昨夜電車の通る徃來に荷車の音とがや/\いふ人聲が耳に入つて眼が覺めたから、も〔う〕夜が明けたのかと思つたらまだ三時であつた。何事か分らず。
 熱帶の花 白いくわりんばいと對して異彩を放つ。強烈なる色のうちに紫と赤と黒を藏す。
○朝原稿をかいてゐると芥舟がくる。少し待つてもらう所へ長谷川達子がくる。絹糸をかゞつて作つた苺をくれる。半日ばかり毎日やつて十日かゝつたといふ。明朝國へ歸るといふ。
○入浴。太田善男來長く話して歸る。
○非常に暑い日なり。昨日から始めて暑い日を經驗ス。今日は飯を食つてもあつい。汗が出る。
○蒟蒻をやめてから既に七日になるよし早きもの也。
 
 七月二十二日〔六字二重傍線〕〔金〕
○例起。寐苦しき晩を過ごしたり。最初眼が覺めたら電車の音がするのでもう夜が明けたのかと思つたらまだ十二時前であつた。次にもう障子が薄明るくなつてゐたからと思つてマツチを擦つて時計を見たら一時過であつた。障子には※[病垂/郎]下の電燈が映つてゐたのである。うと/\して四時半にまた眼がさめた。足を布團の上で右へやり左りへやり仕舞には厚い寐床から疊の上へ落ちて見たくなつた。
○昨夜は日比谷公園に散歩した。噴水に月が映るさまが面白かつた。
○朝植木に水をやつて有樂町山下町を散歩。渇。茶を一合程のむ。
○昨日芥舟が來て床の花を見て、あれは唐菖蒲といふものだと教へた。バイブルにある野の百合といふのはあの事だと云つた。
○桐生悠々來。中村是公來。蚊遣香をくれる。小使が間違へ早稻田へ持つて行つた事は、其小使が又病院へ持つて來たとき始めて分つた。兵糧がなくなつたら何時でもさう云へと云つて歸る。
○森卷吉來。小宮來、明日歸るといふ。森田來。
○妻來。夕食後アイスクリームを食ふ。
○夜散歩。烏森、愛宕町、湖月といふ料理屋だの、藝者屋のある所を通る。夏の暑い晩だから家のうちが大概〔見〕える。ある家は簀垂をかけて奥の軒に岐阜提灯をつけて虫を鳴かしてゐた。ある米屋では二階で謠をうたつてる下に凉台を徃來へ出して三四人腰をかけて、其一人が尺八を吹いてゐ〔た〕。ある家では裸の男が二人できやりをうたつてゐた。ある車〔屋〕の帳場では是も裸が五六人一室に思ひ/\の態度で話しをしてゐた中に倶利迦羅の男が床凡の樣なものに腰をかけて、一同より少し高く腰を据えてゐたのが目に立つた。ある家では主人と客と相談して謠をうたつてゐた。ふしも分らないし、字も讀めないらしかつた。始め其聲が耳に入つたときは又此所でもキヤリを遣つてゐるなと思つた。ある家は五六組の柔術遣ひが汗を流してゐた。
○蚊がぶん/\くる。よく見たら是公から貰つた蚊遣香が消えてゐた。
 
 七月二十三日〔六字二重傍線〕〔土〕
 例起。日比谷公園散歩。今日は午飯を食つてから五時間して胃の消化の試驗。
○朝小宮を送つて阿部、安倍、森田がくる。原稿二三を持つてくる。兄來。アイスクリームを食ふ。森田歸る。
 渡邊和太郎來。華山の一掃百態をくれる。(審美書院出版)。
 戸川秋骨、田部隆次來。
 
 七月二十四日〔六字二重傍線〕〔日〕
 例起。
○昨夜銀座を散歩。今朝は日比谷。
○昨日午飯後五時間目に消化の試驗をやる。四十グラム殘る。食事は三の大で藥を兩食の間に二度飲んで、しかも四十グラム殘つては心細い。余のからだでは三の大以上を食はなければ間に合はぬ由
○二等に大きな圓錐形の金魚鉢に金魚を澤山買つて眺めてゐる人がある。風鈴を鳴らし釣荵をかけて樂んでゐる人がある。虫籠をつるしてゐる人がある。
○石井柏亭がきて畫集の序をかけといふ。生田長江もくる。橋本左五が來る。昨日着いたといふ。滿洲で農業計畫のため。
 
 七月二十五日〔六字二重傍線〕〔月〕
 例起。上厠便通なし。胃液の試驗のため五時三十分燒パン一切白湯一合を飲む。散歩露國公使館の竹の色、壁にかゝる蔦の色を見る。七時九分前試驗室に行つて、クダにて胃の酸をとる。序に洗滌。成績可なる方。肉を半人前増してくれる事になる。
○物集芳子和子來。森田來。一番最初に倉光空喝來。うそを書きましたと云つて名士禅とかいふものを見せる。余に關したから嘘をかいてゐる。君は新聞記者としてづう/\しくなつてゐる上に座禅などをやつて二重にづう/\しくなつてゐると云つてやつた。
○東來。渡邊和太郎兄弟來。下から廣瀬歸芳常磐大定をつれてくる。そこへ中村是公來。見なれぬ人を連れて、いや|し《原》又來やうといふて去る。階下に見なれぬ人を追馳けて挨拶をしたら龍居頼三であつた。客がつゞいて少し頭が痛くなつた。
 
 七月二十六日〔五字二重傍線〕〔火〕
○夜來強雨の聲をきく。すさましかりし。例起。濛々。下の部屋で飼ふ虫鳴く。
○物集の御父さんが病氣だといふ。さうして頼んでも醫者にかゝつてくれぬといふ。いえ掛りませんといふのださうである。
○昨日東云ふ奥さんは小供の避暑地をさがしに出られた。
○野村來四時頃からロゼツタホテルで親睦會がある由。皆川廣田來。妻來。歸る時車をたのむ早稻田迄七十五錢といふ。
○階下のジエレニアム入院當時に見たとき既に咲けり。今朝ふと氣が付て手摺から下を見ると依然として咲いてゐる。長くもつ花なり。時日の早く立つ事を忘る。
○皆川今夜の汽車にて郷里に向つて去る。
 
 七月二十七日〔五字二重傍線〕〔水〕
○例起。陰曇。
○昨日花賣來らず、洗顔所にて菊の枯葉を※[手偏+劣]りて再び竹筒に插む。食前十五分程散歩。
○一昨日より菜を二品つけてくれる。晩には玉子燒とコールドミート二切を食ふ。
○西隣の支那人二等に去つて代りに若い人來る。看護婦と話してゐる。書生の町人なり。金持ならん。
○グロキシニヤ花落つ。洗顔所の手摺に乘せて置く。
○來訪者、寶生新、見舞に烟草をくれる。森|治《原》太郎。鈴木の弟。
○石井柏亭の新畫譜の序をかく。
 
 七月二十八日〔五字二重傍線〕〔木〕
○例起。晴、もやまだ晴れず。日比谷公園散歩。桐の葉の丸くて小さい樣な樹に長い細い實がなる。
○昨夜は銀座を散歩信盛堂で齒磨と石鹸をかふ。天上堂の屋根に上る。脚の下を見て身のすくむやうな氣がした。
○朝漸く落付く。少々讀書。森圓月長い萌黄の風呂敷に包んだ桐の箱を抱いてくる。子規の書はまだ/\と云ふ處なるべし。眞蹟のよしを別に添たる卷物の初に書きしるす
○坂本四方太、森田草平來。圓月亦來。是から不折の處へ行くといふ。石井柏亭來。夫から小林郁がくる。夫から飯田政良がくる。妻は仕事を持參して取り出すひまなくして歸る。
○夜銀座散歩、裏通りで女がオルガンに合せて踊つてゐた。
○東のはづれの入退院。(驅蟲中子供の病氣のよしで)。
○一軒置いて西の御婆さんも退院の模樣。訪問の若い女、洗顔所で洗濯をしてゐた附添の女に、今年中もつでせうかと聞いてゐる。御婆さんは胃がんの由然し歩行自由也。
○小林がきて承はれば胃がんだとかいふ話でといふ。橋口もさう云ふ。
 
 七月二十九日〔五字二重傍線〕〔金〕
 例起。日比谷公園散歩。帝國劇場、警視廳等の(新築中)間を通り拔ける
○昨日の胃の消化の試驗は二十グラム程殘りし由
○西村醉夢來り。「雜誌」學生掲載の談話を筆記す。談は英語教育に就てなり
○北海道有珠山破裂。鐵嶺丸沈波。自瀬中尉の南極探檢
○是公來。今日三時の※[さんずい+氣]車で歸るといふ。森圓月來 懸物の箱をとつて去る。
 
 七月三十日〔五字二重傍線〕〔土〕
 例より十分遲く起る。五時十分。四時頃眼覺む。終夜夢を見る。
○昨夜は銀座散歩、電氣噴水を見、蓄音機を二所できく。發明舘を見る。雨一二滴顔にあたる。
○今朝例の如く日比谷散歩序に平野屋の新築三井集會所の前を通る。
○体重をはかる。四十九キロ四百也。前は四十八キロ百五十。
○奧太一郎熊本より出京病院訪問。森圓月金婚式の書畫帖を持つて來て見せてくれる。森田草平來。中村蓊來。
○退院してもよろしからうと云ふ。明日退院に決す。一軒置いて東の人も退院、一軒置いて西の御婆さんも退院挨拶にくる。下の廣瀬歸芳も退院是も挨拶にくる。
○雨ぱら/\落つ。晩に南佐久間町愛宕下町日蔭〔町〕銀座を散歩。暗い小路へ這入つたら天井に頭の屆きさうな家で※[ワに濁點]イオリンを彈いてゐた。其隣りで婆さんが南無妙法蓮華經と大きな聲を出してゐた。少し行くと左側の二階家の奥で眼鏡をかけた婆さんが薩摩琵琶を彈いてゐた。謠つてゐるものも女である。よく見ると妙齡の女であつた。机を置いて本を載せて小さな聲を出してゐた。婆さんが大きな聲で教へてゐる。十許の女の子が坐つてゐた。濱の家の裏で擦硝子に歌澤とかいてあつた。二階で歌つてゐた。
 
 七月三十一日〔五字二重傍線〕〔日〕
 例起。曇。日比谷公園散歩。
○八時橋本左五來。九時の汽車で三島へ行つて大坂へ寄るとの事也。
○一昨日森圓月の置いて行つた扇に何か書いてくれと頼まれてゐるので詩でも書かうと思つて、考へた。沈吟して五言一首を得た。
  來宿山中寺、 更加老衲衣、
  寂然禅夢底、 窓外白雲歸。
 十年來詩を作つた事は殆んどない。自分でも奇な感じがした。扇へ書いた。
○今日退院。
 
斷片 ――【明治四十三年夏胃腸病院入院中頃】――
 
○Idealist トシテノ Ibsen. 迂濶突飛なり。 それを日本の青年が讀んで一圖ニ實社會に影響あるものと速斷して生活に表現せんとする effort ヲナス。Ibsen ノ書いた國にても ideal ナリ。日本ニテハ無論 ideal ナリ。これを履行せんとして窮し窮して煩悶す。寧ろ gratuitous ナ torture ナリ
○アル ism ヲ奉ズルハ可。他ノ ism ヲ排スルハ life ノ diversity ヲ unify セントスル智識慾カ、blind ナル passion[youthful]ニモトヅク。さう片付ねば生きてゐられぬのは monotonous ナ life デナケレバ送レヌト云フ事ナリ。片輪トモ云ヒ得ベシ。life ハ action ニテ determinate ナリ思想(感情)ニ於テ indeterminate ナリ。indeterminate ナルハ茫漠ナル故ニアラズ。アラユル alternative ヲ具備スル故ナリ。○Harmony.Life ノ harmony トはアラユル elements ガ援ケ合フテ one end ニ lead スルノ意味ニアラズ。opposing elements, カンセリング factors ニ due place ヲ與ヘテ valuation ノ gradation ヲツケルコトナリ。ダカラ結果ハ resultant ナリ。addition ニアラズ。duaalism ニテモ trialism ニテモ差支ナシ。elements ニ balance ガ取レタトキハ inactivity デ差支ナシ
○Eucken ハ Sense−Naturalism、Thought −Intellectualism, Humanism 云々(Religion ト Immanent Idealism ヲモ含ム)而シテ是等ノ矛盾衝突より life ニ meaning ヲ見出シ難シト云フ。根本的ニ life トハ one ism ニ支配サレベク(又ハ different isms ガ調和助長シテ one great end ニ lead セザレバナラヌ如クニ考フ。life ヲ斯クナラネバナラヌト考フルハ既ニ prejudice ナリ。life ハカクアルモノナリ。
○以太利カラ佛蘭酉ニ行ツタ時ハ器械的ニ運搬セラレタルカノ觀アリ。今考ヘテモ物足ラヌ心地ス。以伊《原》利佛蘭西間ノ旅行ハ夫デヨシ。モシ life 全体ガカク器械的ニ運搬セラルヽモノトスレバ情ナクナル。シテ見レバ吾々ノ life ハ吾々ノ will デ lead セザルベカラズ
●(セザルベカラズ)トハ此場合ニ於テ prejudice ニアラズ。現ニ吾人ノ life ハ吾人ノ will ニテ lead シツヽアルガ故ニ此 will ガ全く不用ニ歸シタルとキ物足らぬ感ヲ起スナリ。
○同時ニ吾人ノ life ハ悉ク自己ノ will デ lead シツヽアラヌ事モ fact ナリ。是ヲ will アリト片付ケ will ナシト片付ケ、而シテ我儘ナ egoism ヲ主張シテ威張り。powerless ナ pessimism ヲ唱ヘテ悲觀スルハ全ク片眼ナレバナリ
●Practical ナ問題ハ何處迄ガ自分ノ will デナク、何處迄ガ他ノ will モシクハ nature ノ爲ニ支配セラルベキカヲ極める丈ナリ
●此proportion ハ時ト場合デ定マル
●故ニ universal ナ且ツ concrete ナ事ハ云ヘヌナリ。云ヘバ formal ニ云ヘル丈ナリ
 
●放タレルト云フコトハ一方ニ囚ヘラルヽト云フ事なり。
●Emancipation ガ modern cry デアルト同時〔ニ〕union and organization ガ modern cry デアル。ソレガ矛盾ダト云フ。何ノ矛盾カアラン。何ノ modern カアラン。昔ヨリ然リ。同ジ形式は何時デモ繰返サレテゐる也。
●Capitalist ハ union ト organization ヲ説キ又之ヲ實行ス。去レトモ彼等自身ノ business 以外ノ conduct ハ emancipation ノ權化ニ過ギズ。國家ノタメニ設ケラレタル機關 陸海軍、教育其他ハ又 union ト organiztion 黨ナリ。去レトモ國家ノ爲ニ存在セザル彼等ノ private life ハ emancipation ノ cry ニ過ギズ
●前者ト逆ナル性質ノ artist ハ固ヨリ大体ニ於テ emancipation ヲ本音とシテ cry スルモノナリ。去レドモ營業的ニ又ハ勢力擴張ノ上ニテハ自然ノ結果 union ト organization ナリ。俗ニ之ヲ黨同異伐と云ふ。
 
●Napoleon, Wellington,Nelson,東郷大將、Christ,Budddhas――hero ノ時代ハ漸ク passing、Why? Indidividualism,Intellectualism,equaiity. えらくならうと云ふ attempt コトニ己レ一人偉くならうと云ふのは attempt ニ於テ anachronism デアルシ、desire ニ於テ illusion デアル。
●われ自身ニ depend シテ事ガナセル時代ハ交通ノ不便ナ世ノ事也。education ノ普及セザル時代ノ事也。
●今ノ世ハ個人ガ一般ノ community ニ depend シテ生キル程度ノ多キ時代ナリ昔ハ community ガ個人ニ depend シテ生存スル時代ナリ、
●個人そのものは夫程 account ニ入らず。平凡ナルものも適當ナ circumstances ノ下ニ置カレヽバ相應ナモノニナルナリ、金持ノ馬鹿息子ガ大學ヲ卒業シテ留學ヲスレバ、貧乏人ノ頭脳アル青年よりモ(えラク)ナルナリ、
 
○芝居(筋ト技巧)、下手な筋を優れたる技巧を以て表現するは腐つた鷄卵に第一流ノ cookery ノ極致ヲ盡すが如し。上手な筋を愚なる技巧デ演ズルハうち立ての蕎麥を露なしに食ふが如し。
 創作(人生と藝術)もこれニ似たり。
○創作の depth は其内容のまとまりにあり。一句ニまとまるにあり。人生を道破セル一句にまとまるにあり。
 故ニまとまる樣に書いてなければならず、又まとまる樣に讀まねばならず
 故に創作家ノ philosophy ノ必要なる程度に於テ讀者ノ philosophy も必要なり。
 一句にまとまらずして、此一句の力を冥々に感得する事あり。此時讀者ハたゞ泳嘆ス。たゞ之を道破セルものは批評家なり
 始めから一句にまとまらずして展開的のものあり、此時ノ面白味は平面也故ニ depth ヲナサズ
 其他ノ意味ニ於テまとまらぬものは愚作なり。
○一句ニまとまるといふ事は particular case ガ general case ニ reduce サレルト云フ意味なり。更ニ云ヘバ particular case ノ application ガ廣キナリ。parlticular case ガ孤立セル particular case デナクテ given species ノ type トシテ見ルヲ得ルガ故ナリ(此意味ノ type ハ平凡トカ型トカ云フ type ニアラズ)、ツマリ融通ノ利ク particular case ナル故ニ深キナリ。
 故ニ particular デアルト共に universal ナル tendency ヲ有スルナリ。permanent ナル感ジヲ與フルナリ。
○particularity ト nniversality ノ一致スル所ガ極トナル。
 眞ノ意味に於ル particular ハ名ノ示ス如ク partiular ナリ。generalize シ難キモノナリ。scientist ノ collect スル零碎ノ instance ナリ。
 故ニ inhormation ニハナル。然シナガラ夫以外ニハ感興ナシ。要スルニ一種ノ surprise モシクハ stimulus ヲ與フル丈ナリ。
 此 single,isolated instances ヲアツメテ其ウチヨリ common ナ所ヲ引キ拔ケバ generalization ガ出來ル。(scienee)
 所謂 depth ノアル創作はカク generalise サレタ truth ヲ代表スベキ parlticular case ナリ。model example ナリ
○けれども此 generalization ニアフ particular ヲサガサウトスルト出來損フナリ
 例(性格描寫ノ如シ。○original conception ヲ以テ、其 conception ニ合フ樣ニカクト屹度型ニ落チル。particular デ universal ダケレトモ死ヌト云フ弊ニナル。ダカラ original conception ヲ捨テテ particular カラ出テサウシテ其結果ガ一種ノ conception ヲ與ヘル樣ニスベキデアル。要スルニ性格ハ conception カラ來ルモノデハナイ。conception ハ數多ノ實際ノ character ノ generalization デ人間カラ二等親ニモ三等親ニモ離レテゐる。ダカラ性格ハ consistent ナルヨリハ活動スル方ガ好い。consistent デ死ンダ character ハヨクアル。矛盾シテ活動スルノモアル。要スルニカヽル人ヲ書カウトキメテ掛ツテハ死ニヤスイ。たゞ斯ク云フタ斯ク行ツタ、斯ク考ヘタト云フ圖ヲツヾケテ行ツテ其圖ガ一枚々々ニ生キテゐれば前後ハ矛盾シテモ活タ人間ガ出來ルナリ。如何トナレバ實際ノ人間ハいくらでも矛盾シテゐるからである。
 たゞ活躍スル樣ニ書かんと力むべし。かゝる性格ヲ書かうと力むベカラズ。
 性格ガ出ルト云フコトハ(余ノ考デハ)取モ直サズ其人間ガ生キテゐると云ふ事也其人ノ quality ガ describe サレルト云フ意味ニ取ツテハ間違である。今ノ評家は性格云々と云フガ、此點ニ於テ注意ヲ拂ツテゐないらしい)
     ――――――――――
○物《原》作ノ批評ガ肯綮ニ當ラヌ時作者ハ驚ろいたり、不平を云つたり、憤つたりする。然し夫ハ無理デアル。
 Purely artistic ナ批評(複雜ナ他ノ事情ヲ交へヌ)デスラ、みんな各自勝手ナモノデアル。自信ノアル批評デスラ其通リデアル。况ンヤ出鱈目ヲヤ、(此出鱈目ハ大分アル)
 然シ多クノ批評ノウチデドレガ一番正シイカヾ決定出來ルモノトシテ、(夫は容易ニ出來ナイ、或ハ不可能カモ知レナイ)、其正シイノガ勝ヲ占メ得ルト思フハ可笑イ事デアル。
 Artノ世界デハ能ク人ガ斯云フ迷信ニ近イ考ヲ持ツテゐる。今日ノ作物ガ今日人ニ認メラレナクテモ、其作物ガヨクアリサヘスレバ何時カ一度ハ世ニ認メラレルコトガアルト信ジテゐるらしい。
 正直ナラ何時カ一度ハ成功スルト信ジテゐる連中ト同ジデアル。道徳ノ世界デハ(然シ)善ガ勝ツテ惡ガ亡ビルモノト版行ノ樣ニ人ガ信ジテゐナイ。ダカラ道徳界ニ於ル觀察點ガ美術界ニ於ル觀察ヨリモ進ンでゐるノデアル。今更天道是耶非カ何ゾト叫ブ野暮ナモノハナイ。
 正直ナラ何時カ一度ハ出世スルカモ知レナイ、然シ出世スル程人ニ認メラレル前ニ免職ニナレバソレギリデアル。後世ノ judgment ハ公平だと云つテ事蹟ガ摩滅スレバ judge シヤウガナイ。又後世ハ(公平ナ代リニハ)冷淡ナモノデアル。摩滅シタ事蹟ヲ誰ガ物數奇ニ掘出サウゾ。
 辯護士ノ話ニ有罪ノモノガ無罪ニナツタリ無罪ガ有罪ニナツタリスルノハ珍ラシクナイト云フ事デアル。夫ハ其筈だと思フ。それが其筈なら Art ノ世界でもさうぢやないか。(Intellect ノ domain デモ同ジデアル。)時メク學者ニクダラナイノガ澤山アル。隱レタルニ偉イノモゐる。流行ル藪醫モアレバ流行ラヌ眞醫モアル。
 chance ガドノ位 prevail スルカも觀念スレバ夫迄デアル。
 此 chance ヲ eliminate スルノガ正シキ人ノ所爲デアル、此 chance ヲ hate スルノガ正シキ人ノ indignation デアル。
 
○近來は現代的トカ輓近的トカ云フ言葉ヲ無暗ニ使フ。サウシテ其内容ハトニカク此等ノ言葉ヲ使ツテ其字ヲ知ルコトガ、又は其意味ヲ解スルコトガ、又ハ自カラガ其特色ヲ有スルコトガ誇デアルカノ如ク振舞フ。
 ソレハ別段ノ事デナイ樣ニナツテゐるガ少シ考ヘルト昔トハ反對デアル。昔は古人トカ古代トカヲ尊敬シタモノデアル。支那日本ハ無論デアルシ、西洋デモ Shakespeare トカ Dante トカ Michael Angelo トカヲ art ノ type トシテ之ヲ口ニシタ、(今デモ多少サウデアル。living author ヲ大學デ講義するなんて事ハまあ無イコトニナツテゐる。dignity ニ關スルコトトナツテヰル。)
 然ルニ今ハ(コトニ日本|)《原》ハ Rodin トカ Ibsen Andreief トカ何トカ新シイ人ノ名前ヲ口ニスルコトガ權威ニナツテゐル。
 西洋ハ夫程劇シクナイガ是も大勢ハサウダラウ。少ナクトモ昔シノ大家ニ夫程敬意ヲ拂ハナクナツタコトハ事實ダラ|ロ《原》。
 シテ見ルト二十世紀ノ人間ハ自分ト縁ノ遠イ昔ノ人ヲ idolize スルヨリモ自分ト時ヲ同クスル人ヲ尊敬スル又ハ尊敬シ得ル樣ニナツタノデアル。
 此傾向ヲ極端ヘ持ツテ行クト自己崇拝ト云フコトデアル。(Individualism, egoism)
 (否? 寧ろ我々ハ egoism カラ出立スルノデハナイカ? 自己崇拝ガ第一デ、他人ハ寧ロ第二ニ來ルノデハナイカ。已ヲ得ナイカラ他ヲ崇拝スルノダラウ。古人ハ崇拝シナクテモ好イガ崇拝シテモ自分ノ利害ニ關係シナイカラ別ノ世界ノ事ダカラ公平ニ崇拝スルノダラウ。今人ハ同時ニ生キテゐルカラ何ダ蚊ダツテ惡ク見えルノダラウ。ウチノ下女ガ世間ニ對シテハえライ旦那ノ缺點ヲ列擧スル様ナモノダラウ)
 古人崇拝ガ衰ヘ、今人崇拝ガ衰ヘ自我崇拝ガ根本ニナル。今ノ日本人ガ西洋人ノ名前ノ新ラシイノヲ引張ツテ來ルノハ此等ヲ崇拝スルヨリモ比等ヲ口ニスル pride ヲ得意トスルノダカラツマリハ他ヲ admire スルノ聲デナクツテ自己ヲ admire スルノ方便デアル
○恰モ薄輕《原》兒ガ富貴權威ノアル人ノ名前ヲ絶えズ口ニシテ夫ト親交アルガ如クニシテ自己ノ虚榮ヲ充スガ如シ。其人一旦富ヲ失ヒ權ヲ失スレパケロリトシテ昨日ノ事ヲ忘ルル如クス。 方今西洋ニ名アル大家卜云フモノヲ何カノハヅミデ急ニ名聲ヲ失墜セシメテサウシテ此等ヲ口ニスル日本人ノ顔ヲ見タイ。ケロリトシテそんな人ガあるかと云ふ風ヲセヌモノ幾人カアル。
 ソンナコトガ試驗出来ルモノカ、價値アルカラホメルノダ、其証據ニハ彼等大家ノ名ヲ一朝ニシテ墜ス人工的手段ハナイジヤナイカト辯ズルカモ知レナイ。サウカモ知レヌ。ケレドモ余ハ公等ニ信用ヲ置カヌモノナリ。公等モシ余ノ信用ヲ得ントナラバ既成ノ名聲ヲ口ニセズ本家本元ノ西洋人ガマダ氣ノツカヌ先こ、眞ニ價値アル大家ヲ指名シ來レ
 
○新聞小説ノ運命
○文晃の畫
 
 日記 ――【明治四十三年八月六日より明治四十四年一月二十一日まで――
 
 八月六日〔四字二重傍線〕〔土〕
 十一時の汽車で修善寺に向ふ。東洋城來らず、白切符二枚を懷中して乘る。しまつた事をしたと思ふ。途中車掌が電報を持つて來て、松根は一汽車後れたる故國府津か御殿場で待ち合せろといふ。
○品川から白服の軍人らしき人乘る。絽の小紋の樣に細かい縞の着物をきた人、下女と向側にゐる。紗の羽織に紫の紐をさげてダイヤの指環をはめた男、壯士の親方か辯護士か。義太夫を語る。
○白切符の買ひ餘しの割戻しの件をボイに聞き合はしてもらふ。御殿場で三圓九十六錢を受取る。角の茶屋でいかふ。三時〇九分。五時二十九分迄待つ。御殿場は五月燒けたり。家皆新けれども皆粗末なり。目に入るは富士講のみ、西洋人の出入ちよく/\見ゆ。
○三島で四十分待つ。大仁へ着いたら車が一挺もゐない。漸く三台を驅り出す。荷物は荷車で運ぶ。途中雨來る。車夫の脛丈見ゆ。車に提灯の光映る。夫がぐる/\廻る。道端の草に灯うつる。其外は暗。川かと思ふ。ほろの中から仰向く暗いと思つたものが微かに薄くなつて空につゞいてゐる。黒いのは山か森か近いのか遠いのか分らない。雨ざつと至る。車夫幌をつぐ。蛙の聲夥し。
○菊屋別舘着。座敷なし。關子爵の居たといふ部屋に入る。新らしい座敷也。西村家貸切と書いてある。今夜丈の都合なり。入浴。喫飯。強雨の聲をきく。
 八月七日〔四字二重傍線〕〔日〕
 雨聲。雨戸をあくれは溪聲なり。上厠無便。浴|漕《原》に下る。混雜。妙な工夫をしてひげをそる。朝飯 鷄卵二個。汁一。飯三。飯後上厠便あり。
○東洋城番頭と談判部屋の都合つきかねる樣也。本店なら一間ある由。今の部屋は前にも山が見え、後ろにも山が見え。寐てゐると頭も足も山なり。好い部ならん。十疊と六疊つゞき也。此離れの二階を折れ曲つた角には昨日品川から乘つた軍人が何時の間にか來てゐた。海軍少將の由。
○碧雲山峯をはれやかにす。須臾にして雨。飴賣の笛の聲をきく
○十時本店に移る。三階に入れられる。しばらくして考へると是は宅へ歸るか別の處へ行つた方がよい。十日に來るといふ新築の座敷十疊を談判して借りる事にする。
○胃常ならず。膨滿でもなければ疼痛でもなければ※[口+曹]※[口+雜]でもなくて幾分かそれを具へてゐる。凝と寐てゐる眠り覺めると多少は好い心持也。とう/\五時頃迄起たず。アイスクリームを一杯呑む。思ふに朝飯を食ひ過ぎたると汁の實の野菜や、海苔を口にせし爲ならん
○日落つ。隣りで觀世流の謠をうたふ。其隣りで三味線を彈き出す。三味線の方聞き手多し。獨りでジエームスの多元的宇宙を讀む何だか意味が分らず。
○九時に寐る。十時に東洋城來。御上が今御休みになつたと云ふ。十一時頃迄話して歸る。宮樣が「猫」を讀んだ由
 
 八月八日〔四字二重傍線〕〔月〕
 雨。五時起上厠便通なし。入浴。浴後胃痙攣を起す。不快堪へがたし。
○十二時頃又入浴又ケイレン。漸く一杯の飯を食ふ。
○隣の客どこかへ行く。雨月半分と藤《原》渡半分を謠ふ。四時過松根より迎、足駄をかりて行く。七時頃晩餐。誂ものをわざ/\本店から取り寄せる。午よりは食慾あり。松根に含漱剤を作つてもらつてうがひをする。かんの聲が潰れたので咽喉と鼻の間の間《原》を濕すと少しは好い心持なり。鼻洟を拭ふ。
○殿下が余に話をしてくれと松根迄云はれる由。袴も羽織もなし、且此聲では聞く人も話す人も苦痛故斷はる。松根の方でも慣例なき事故御用掛の責任を考へて未だ殿下へは受合はぬよし。
○八時過歸りて服藥。隣りは謠、向座敷は義太夫、辨慶上使の半頃也。一時間半過入浴歸りて又服藥。忽ち胃ケイレンに罹る。どうしても湯がわるい樣に思ふ。
○半夜夢醒む、一体に胸苦しくて堪えがたし。
○余に取つては湯治よりも胃腸病院の方遙かによし。身体が毫も苦痛の訴がなかつた。萬事整頓して心持がよかつた。便通が規則正しくあつた。
 
 八月九日〔四字二重傍線〕〔火〕
 雨。伊豆鐵道がとまるかも知れぬといふ。
 
 八月十日〔四字二重傍線〕〔水〕
 八月十一日〔五字二重傍線〕〔木〕
 
 八月十二日〔五字二重傍線〕〔金〕
 夢の如く生死の中程に日を送る。膽汁と酸液を一升程吐いてから漸く人心地なり。氷と牛乳のみにて命を養ふ。あれの報知諸々より至る。東京より水害の聞き合せ來る。湯河原の旅屋流れて其寶物がどことかへ上つたといふ。松根が余の病状を報知していつでも來られる支度をせよと妻にいつてやつた。それを後から電報で取り消す。
○半夜一息づゝ胃の苦痛を句切つてせい/\と生きてゐる心地は苦しい。誰もそれを知るものはない。あつても何うしてくれる事も出來ない。膏汗が顔から脊中へ出る。
 
 八月十三日〔五字二重傍線〕〔土〕
○今日も亦あれる。隣の人は先達て立つと云つて雨の爲に二日程延ばした。今日は是非と云つてゐたが此模樣ではどうするか。
○障子を立てゝ寐る。
○午 葛湯、おも湯、玉子豆腐
○晩、重湯一椀、刺身、葛練、
○下女に今日は幾日だねと聞く、多分十四日でせうと云ふ。よく知し《原》ませんと云ふ。呑氣也。あしたから新聞を御取りなさいといふ。
○下女の話に下の八番の御客が何とかいふ處にゐて、水が出て主人が別莊へ逃げてくれと云ふのに藝者をあげて醉つて寐たら四時頃水が出て山が崩れて見る間に押し流された。逃げた御客は東京へも歸られず三島迄は汽車が通じると云ふので三島迄來てそれから馬車で此處へ來たといふ。
 
 八月十四日〔五字二重傍線〕〔日〕
 終夜強雨の音を聞く。山聲、樹聲、雨聲、耳を撼かす。三時頃迄眠られず。天明眠覺む。胃部不安。上厠排便。入浴、酸出。苦痛。 牛乳、チリ玉、重湯にて朝飯。食後うと/\する。謠の聲耳に入る。
 
 十四日〔三字二重傍線〕〔月〕
 十六日〔三字二重傍線〕〔火〕
 苦痛一字を書く能はず
 
 十七日〔三字二重傍線〕〔水〕
 十八日〔三字二重傍線〕〔木〕
 十九日〔三字二重傍線〕〔金〕
 ノ事を忘れぬ爲に書く
 八月二十日〔五字二重傍線〕〔土〕の四時過なり。
○十七日|咄《原》血、熊の膽の如きもの。醫者見て苦い顔す
○十八日東洋城來り、今社から社員一名と胃腸病院の醫師一名をよこす。十二時四十分の汽車で立つと云ふ電話あり。
○同夜二人來。大和堂から長距離電話をかけたら胃腸病院で社へ知らせて、夫から社で驚ろいた由
○十九日又咄血。夫から氷で冷す。安靜療法。硝酸銀
 
○今朝漸く乳五|酌《原》、ソツプ五酌、を飲む。二時間後膨滿苦痛。三時間目の藥にて漸く癒る。
○ひるから氣分よし。氷依然。水飴。氷を噛む。
 
 八月二十一日〔六字二重傍線〕〔日〕
○十九日の吐血以後滋養浣腸。食物は流動物丈。
○昨日森成氏歸京の筈の處見當たゝぬ爲め滞在。
○但し院長よりは着以後直ちに當分其地にとまり看護に手を盡すべしと好意の電報あり、
○昨夜終列車にて玄耳來。池邊と相談どんな醫者でもどんな器械でも送る事にした由。來て見れば夫程にもなしといふ。醫者のいふ事をきかぬ爲也といふ。
○始め東洋城が宅へ手紙を出して妻に來る用意をうながす。夫から電報にて見合せろといふ。宅からは忙がしい處長距離電話をかける。細君と知らず叮噂に問答せり。後にて聞けば山田三良の家の電話のよし
○五時半硝酸銀を呑む。
○昨夕澁川一五〇持參。意味不明 妻にきくと是は坂元のはからひの由。相談の上今月の月給の一分として貰ふ事にする
○朝食牛乳一合。半熟鷄卵一個、水飴三匙。
○咋朝は氷嚢の重みに堪えず。今日は何の苦なし。
○澁川十時四十分の汽車で歸る。
○弘法樣の御祭りで四時頃から花火が揚る。目録を活版にしてある。雷鳴、軍旗、露牡丹、秋の七草色々なり。
 
 八月二十二日〔六字二重傍線〕〔月〕
○快晴。牛乳一合、重湯五勺、玉子黄味一つ。
○昨夜は寐ながら弘法樣の花火を見る。秋の景色也。坂、森、妻三人にて橡で水瓜を食ふ。
○昨日松根不來、妃殿下は晩に山莊へ御|起《原》の由。
○家のもの夜山荘で酒を酌む。二時過就寢のよし。
○東洋城歸京。十二時頃發
○尺八の大家と三味線と※[足+勇]子下の※[病垂/郎]下で合奏
○坂元森成裏の山で七草を折り來る
○高田早苗投宿
 
 八八月二十三日〔六字二重傍線〕〔火〕
 快晴。女郎花、野菊、男郎花、薄、萩、桔梗、紫の玉(藤の如きもの)
○おくび生臭し。猶出血するものと見ゆ。便は無類血色あり
○高田早苗氏の名刺を番頭持參。坂元に此方の名刺を依頼。高田民謡をうたひ初む。
 
   八月二十四日〔水〕〔以下九月七日迄夏目鏡記〕
 朝より顔色惡シ杉本副院長午後四時大仁着ニテ來ル診察ノ後夜八時急二吐血五百ガラムト云フ、ノウヒンケツヲオコシ一時人事不省カンフル注射十五食エン注射ニテヤヽ生氣ツク皆朝迄モタヌ者ト思フ
 社ニ電報ヲカケル夜中ネムラズ
 
 八月二十五日〔木〕
 朝容態聞ケバキケンナレドゴク安靜ニシテ居レバモチナヲスカモ知レヌト云フ杉本氏歸ル
 東京ノ家ノ東カラ電話ガカヽリ今朝一番デ夏目兄上高田姉上御夫婦小供三人高濱さん野上さん森田さん中根倫さんお立ちになりましたと云ふ大塚さん大磯から來ラル安倍さんも來てクレル一汽車ヲクレテ野村さんも來ル
 池邊氏モ來ラル
 
 八月二十六日〔金〕
 容態ヤヽ良好
 見舞客 奥村鹿太郎、滿鐵ノ山崎氏、鈴木三重吉、春陽堂、湯淺廉孫、高田知一郎、菅虎雄、森卷吉、看ゴ婦二人、春陽堂ハ菓子折ヲクレル
 
 八月二十七日〔土〕
 容態別ニ異状ナシ
 見舞客
 小宮豐隆渡邊和太郎香水とビスケツトヲモラフ 高尾忠堅早稻田大學ノ學生、早矢仕四郎元同ジ學校ニ居タ人ノヨシ、奥村又モウ少しヨクナツタラ來マストアワズニカヘル其時小供兄姉上倫野村さん一處ニカヘル
 
 八月二十八日〔日〕
 容態別状ナシ
 森成さん東京ニ用事ガ出來テ歸ル病院カラヌカダト云フ先生代理ニヨコシテ呉レル
 見舞客
 小林郁、高須賀淳平、石井柏亭、行徳二郎、野間眞綱、
 
 八月二十九日〔月〕晴
 容態良好ニテ此分ナラバ心配ナシトノ事皆安心シテ東京ヘカヘラル
 大塚さん菅さん森さん野上さん小林さん湯淺さん野間さん 大倉書店ヨリ見舞状ニソヘテ小包デ菓子折ヲクレル名古屋ノ鈴木カラ心配シテ毎日容態ヲ電報デシラシテ呉レロト云テクル見舞トシテ金二十五圓クレル其金デ毛ブトンヲ買テ病人ニカケヨウト思ヒ野上さんニタノム
 
 八月三十日〔火〕
 晴 容態別ニ異状ナシ
 ヌカダ醫師午後二時ノ汽車ニテ歸ル森成サン入リカワリ東京カラ歸テクル其時行徳サン高須賀サン一處ニ歸ル夜滿鐵ノ中村サンカラ山崎氏ヲヨコシテ御見舞トシテ金三百圓ヲ下サル
 
 八月三十一日〔水〕
 晴 容態異状ナシ
 今日カラソツプヲノマセルト云故朝トリヲ買テ切テモラヒ酒トツクリヲカリテ其中ヘトリヲ入レユセンニカケテ火鉢デソツプヲコシラエル夕方名古屋カラ鈴木ガクル二三日前ニアツヲエタハネブトンガクル
 
 九月一目〔木〕
 晴 容態ヤヽ良好ナリ
 早稻田大學生小林修二郎ト云フ人ガクル中村さんの使山崎さん歸ル鈴木モ午後カラ歸ルイロ/\東京ヘ買物ヲ頼ム夕方野間さんガ東京カラクル
 
 九月二日〔金〕
 晴 容態變りなし
 今日カラソツプガ三度ニナル食ベル事バカリカンガヘテイルヨシ坂元サンガ七時頃カラゲリヲシテ腹ガイタイト云ヒ出スカイロヲコシラヘテ上ル夜九時頃ニナリ内丸サンガ來ル
 
 九月三日〔土〕
 雨 容態異状ナシ
 朝十時ノ汽車デ内丸サンガ歸ル野間サンモ午後二時ノ汽車ニテ鹿兒島ヘ歸ル
 
 九月四日〔日〕
 晴 容態同じ
 朝九時頃湯淺サンガ東京カラ歸道ニヨル阿部次郎サンガ午後ニクル山形カラ歸リ道東京ヲス通リシテ當地ヘクル病人に話シタラ酒デモノマシテ上ゲロト云フ事故ビールヲ二本小宮サント二人デノム湯淺サン三時ノ汽車デ歸ル
 
 九月五日〔月〕
 雨 容態だん/\よろし
 阿部サント小宮サンガサン歩ニ行キ歸リニ草花ヲ取テクル花イケニサス
 
 九月六日〔火〕
 晴 異状ナシ
 今日は十時食塩ノカン腸ヲスル四人ガヽリデオコシテ大便ヲサセル少シ出タヨシ
 ハダカニシテセナカヲアルコールデフキ着物ヲネルト取カヘルワラブトンノ上ヘナミノフトンヲ二枚カサネテ其上ヘ寐カス皆大變心配シタレド別ニ變リナシ大キニ安心阿部サン午後二時ノ汽車デ東京ヘ歸ル
 
 九月七日〔水〕
 雨 容態よろし
 今日一番デ坂元サン歸ルカバンヲ持テ行テモラフ野上サン夕方クル御土産ヲクレル
 
 〔九月八目〕〔木〕
○ 別るゝや夢一筋の天の川
○ 秋の江に打ち込む杭の響かな
○ 秋風や唐紅の咽喉佛
○赤蜻蛉、燕
○languid stillness。weak state。painless。passivity
○庇護。被庇護。
○氷
○Intellectuality ニ indifference.Self‐assertion ニ indifference 、人事ノ葛藤ニ indifference
○goodness,peace、calmness. Out of struggle for existenc. material prosperity.
○nature
○Essen、住宅。西洋と日本ノ懸隔。
○自然淘汰に逆ふ療治。小兒の撫育より手がかゝる。半白の人果して此看護をうくる價値ありや
○吾より云へば死にたくなし。只勿体なし。
 
○九月九日〔金〕 十一時と二時に間食。アイスクリームは冷たくていやになる。ペプトン・カーニスを五十グラム位宛
○正食 湯煎ソープ三十グ、葛湯百グ、今日から五十を百にス
○アイスクリームの器械は鈴木送る、
○吐血の時モルヒン注射 再度の嘔氣を恐れて
 
 十日〔土〕
○昨夜森成氏と禁烟の約をなす。今朝臥して思ふ左のみ旨くなけれど夫程筈にならぬものを禁ずる必要なし。食後一本宛にす
○森成氏初診の時の胃の亂調の働をかたる
○最後の吐血の時、二回の注射。ブンメルン
○紫苑 みそはぎ
○萬年筆をふる力なし
○ひかん白萩梅林より來る。
○病院で一ケ月半、修善寺で一ケ月是から何月かゝるか分らない惜い時間也。小宮云ふ牢へ這入つたと思へ。
○時間を惜いと思ふ程人間に精力が出たのだらう
○森成氏又歸京
 
 十一日〔日〕
○曹達ビスケツトは十七日頃より
○子供の手紙を讀む。
 
 九月十二日〔月〕
 秋晴 寐ながら空を見る。ひげをそる。
  秋晴に病間あるや髭を剃る
  秋の空淺黄に澄めり杉に斧。
 昨夕大和堂來りいふ。仰臥不動の忍耐感心なり是でよくならなければ圍師の責任
○羽根布團を買はぬ理由
 
 九月十三日〔火〕
○昨夜森成氏歸來。羽根枕。塩瀬の飴。ソーダビスケツト來る。
○暗雲層疊
○まだ氷嚢を盛る。
○宮本叔氏
○吐血は醫師の責任也と杉本氏いふ
○昨日より妻頭病むとて寐る。
○昼ソツプ五十より七十グラムに増
○秋雨蕭々、二絃琴と三味線を合せてゐる
○臼川歸る
○四時頃突然ビスケツト一個を森成さんが食はしてくれる。嬉しい事限なし
 
 九月十四日〔水〕
○よすがらの雨
○ 衰に夜寒逼るや雨の音
○ 旅にやむ夜寒心や世は情
○一夜眠さめて枕頭に二三子を見る
 蕭々の雨と聞くらん宵の伽
○ 秋風やびゞの入りたる胃の袋
○藝術の議論や人生上の理窟が一時は厭になつた。
  一竿風月、明窓淨几
さう云ふ趣味が募つた。
  微雨當窓冷、一燈洩竹青 といふ句を得た。
  風流の昔戀しき紙衣かな
○体力日に加はる。床の上にて身体を動かす力、頭を枕にずらす力にて自分によく分る。
○十一時眞のソーダビスケツトを半分呉れる。東京より送るものと云ふ。塩氣ありて些の甘味なし
○二兄皆早く死す。死する時一本の白髪なし。余の兩鬢漸く白からんとして又一縷の命をつなぐ
  生殘る吾耻かしや鬢の霜
○四時に灌腸をやるよし。最後の吐血後一週間にして第一灌腸。今日二週間にして第二灌腸なり。宿便出るや否や。
 
 九月十五日〔木〕
○秋雨山村を鎖す
○昨日灌腸脱便好成蹟
○昨夜東來。洪水の寫眞帖。ロヤルアカデミー 土産
○朝飯ソツプ百グラム。ソーダビスケツト半片
○ 立秋の紺落ち付くや伊豫餅
○ 骨立を吹けば疾む身に野分かな
○今朝髪をけづる。
  稍寒の鏡もなくに櫛る。
○昨夜より白毛布をかく清楚佳意
 
 九月十六日〔金〕
○晴雨將至
○昨夜重湯を呑むまづき事甚し。
 ビスケツトに更へる事を談判中々聞いてくれず
○今朝より漸く氷を取り除く
○耕香舘畫※[月+券の刀が貝]を見る。蘇氏印譜が見たくなる。
○重湯葛湯水飴の力を借りて仰臥靜かに衰弱の回復を待つはまだるこき退屈なり併せて長閑なる美はしき心なり。年四十にして始めて赤子の心を得たり。此丹精を敢てする諸人に謝す
○健全なる人の胃潰瘍は三週間で全治する由。余は最後の出血より計算して今三週間目なり。漸く日に半片のビスケツトを許さるゝに過ぎず
 
 九月十七日〔土〕
○一番にて小宮歸る。雨
○安心安神靜意靜情。この忙しき世にかゝる境地に住し得るものは至福也。病の賜也。
○昨夜主人鯛一尾を贈る。氷嚢を取り去れる祝の心にや
  鯛切れば鱗眼を射る稍寒み
 
 九月十八日〔曰〕
○秋晴澄徹
 昨夜は十五夜で美くしき月のよし
○昨夜東洋城歸京の途次寄る。
 九雲堂の見舞のコツプ虞美人艸の模樣のものをくれる。戸部の一輪插是は本人の土産也。
○地方にて知らぬ人余の病氣を心配するもの澤山ある由難有き事也。京都の髪結某余の小さき寫眞を飾る由。金之助といふ藝者も愛讀者のよし。東洋城より聞く
 宮樣余によろしくとの事也。
○今日は体力回復と思ふ。明日になると夫がイリユージヨンである。今日は切實に何か思ふ明日になると夫がイリユージヨンである。
 今朝はソーダビスケツトを一枚もらふ。旨くも何ともなかつた
 夢中に獻立などをして樂んでゐたがよくなつて見ると馬鹿氣てゐる
○午食に起き返りて始めて粥半椀を食ふ。起き直りつゝある退儀を思へば粥の味も半分は減る位也。吾は是程疲れたりやと驚く
○一等軍醫正矢島氏伊東迄來れる序にと見舞はる森氏の命令也
○ 病む日又簾の隙より秋の蝶
○晩に百グラムのオートミール旨し
 湯煎ソツプ百グラム
 玉子豆腐、あん百グラム
 
 九月十九日〔月〕
○晴
○昨夜は御月見をするとて妻が宿から栗などを取り寄せてゐた。栗がもう出てゐるかと思つて驚いた
  病んでより白萩に露の繁く降る事よ
○花が凋むと裏の山から誰かゞ取つて來てくれる。其時は森成さんが大抵一所である。女郎花 薄、桔梗、野菊、あざみに似たものが多い。
○昨日臼川の送つた宇治拾遺を少し讀む。少し讀むと馬鹿々々しくなる。
○瓶に挿した薄の葉の上に何時の間にか蟋蟀が一匹留つてゐる。風が搖れるたびに搖れてゐる
○晝のうち恍惚として神遠き思ひあり。生れてより斯の如き遐懷を恣にせる事なし。衰弱の結果にや。夜は却つて寐られず屡眼覺む。昨夜は修|善《原》寺の大《原》鼓の鳴るを待ちたり
  蜻蛉の夢や幾度杭の先
  蜻蛉や留り損ねて羽の光
○ 取り留むる命も細き薄かな
 
 九月二十日〔火〕
 夜來の雨。しば/\眼覺む。
  大風鳴萬木  山雨|搖《撼》高樓
  病骨稜如劍  一燈青欲愁
○東云ふ先生は蒼い高《原》々しい顔をしてゐながら食物の事ばかり考へてゐるから可笑しいと。昨日はソツプをやめてオートミールか粥を増す事をねだりて拒絶さる。
 間食にミルクとカジノビスケツトを食ふは丸で赤子也。
 粥を口へ運んでもらう處は赤子也
  佛より痩せて哀れや曼珠沙華
○昨夜看護婦に二度時を聞く。始は四時十分前。後は五時十五分前。修神寺の太鼓は五時頃より鳴るものと知れり。
○昨日より病前に讀みかけた六づかしい本を寐ながら少々讀むに頭の工合は病前と差して異ならず。其癖起き直りて便器にかゝる事は一世の大事業の如く困難である。かほど衰弱したものが何うして哲學的の書物抔を讀む事が出來るかと思ふと不思議である。妻に其事を話すと、あなたは惡かつた二三目頭が判然し過ぎてみんな困りました。
○蘇氏印略が來る。面白いけれども讀めるのは極めて少ない。
○雨中床屋が來て髭を剃る。
○胸も肩も脊も觸るとぼろ/\する
○南畫|宗《原》を買はうと思つたが贅澤過ぎるので躊躇す。妻に話すと御買ひなさいといふ。
 
 九月二十一日〔水〕
○昨夜始め〔て〕普通の人の如く眠りたる感あり。節々の痛柔らぎたるためか。体力回復のためか
○ 虫遠近病む夜ぞ靜なる心
○ 餘所心三味聞きゐればそゞろ寒
○ 月を亘るわがいたつきや旅に菊
○ 起きもならぬわが枕邊や菊を待つ
○朝オートミール百グラムになる。ソーダビスケツト一枚ソツプ前に同じ
○昨日宮本博士來診の報あり。日取未だ定まらず。博士は一度余に逢ひたき由過日云はれたる由。額田さんは※[漱の欠が攵]《原》石といふ人はどんな顔か見て置きたいと思つて來たと。
○玄耳より醉古堂劔掃と列仙傳を送り來る。(蘇氏印略の一卷を看通した時也)
○爽颯の秋風椽より入る
○嬉しい。生を九仞に失つて命を一簣につなぎ得たるは嬉しい。
  生き返るわれ嬉しさよ菊の秋
○遠くにて瓦をたゝく音す
○夜半魚池中に躍る水時あつて池に注ぐ。未だ其状を見たる事なし
○養其無象象故常存守其無体也故全眞全眞相濟可以長生天得其眞故長地得其眞故久人得其眞故壽
 (長生詮)洞古經よりか?
○(大通經より?)
 靜爲之性心在其中矣動爲之心性在其中矣心生性滅心滅性生現如空無象湛然圓滿
 
 九月二十二日〔木〕
○秋冷。昨夜は失張よく眠らず
○ 圓覺曾參文字禅
  眉毛今日着前縁
  青山不拒庸人骨
  却下九原月在天
○ たそがれにあれと菊の御使ひ
 
 九月二十三日〔金〕
○昨日より咽喉わろし。漏布
○妻が桑の莨盆を賣《原》つてくる。二圓五十錢といふ。桑は陳腐である。もう一つあつた樟のを見てよければ代へたいと思ふ。松の盆(角)六圓程といふ。奇麗也。たゞ全体透明ならず。且つ丸盆が好ましいと思ふ。妻もしかいふ。頼んで外をさがして見る事にする。
○粥も旨い。ビスケツトも旨い。オートミールも旨い。人間食事の旨いのは幸福である。其上大事にされて、顔迄人が洗つてくれる。糞小便の世話は無論の事。これを難有いと云はずんば何をか難有いと云はんや。醫師一人、看護婦二人、妻と外に男一人附添ふて轉地先にあるは華族樣の贅澤也。
○昨日は雨終日。午前にジエームスの講義をよむ。面白い。蘇氏印略を繰返し見る。面白い。會話の本を讀む。面白い。
○咋雨を聞く。夜もやまず。
  範頼の墓濡るゝらん秋の雨
○ 菊作り門札見れば左京かな
○午前ジエームスを讀み了る。好き本を讀んだ心地す。
○昨夜熱度三十七度一分。輕微の氣管支にて右の方が犯されてゐる由。手を出して本を讀む事を禁ぜらる。
○(病後對鏡)洪水のあとに色なき茄子かな
○家を出る時植木屋の苗から植えて庭に下した鷄頭が三四〔寸〕になつてゐた。どの位に延びたかと思ふ。其頃は芭蕉の影に花隱元といふものも咲いてゐた。
 植木屋が此鷄頭を萬代紅といふ。雁來紅の間違かと思つたらさうぢやない。雁來紅は斑入で是は眞赤になるのだと云つた。
○ 菜の花の中の小家や桃一木
○ 秋淺き樓に一人や小雨がち
○四時過便通始めて尋常に近き色なり。起きるとき横になつて一寸休んで、起き上つて足をベツドから下して休んで漸く便器にかゝる。手は少し力あれど、足は全く萎て丸で腰の拔けた人の如し。甚しき衰弱なり。
 
 九月二十四日〔土〕
○ 秋淺き桜に一人や小雨がち
○ 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
○今日は新鮮のさしみ(もしあれば)を少し食はせてくれる筈。刺身は夫程でもなし
○昨夜右の足の骨が痛むので眠が覺めた。肉がなくて骨許の上へ片々の足を載せたため也。其外尻が痛み手が麻痺して眠の覺むる事多し。
○昨夜痰がつかへて三四度せく。其度に看護婦が起きてくれた。
○今夜は特別列車で觀光團が修善寺へ押かけるよし。其上宮本叔氏と杉本氏もくる由
○ 鶴の影穂蓼に長き入日かな
○午飯後髭をそり、髪を梳り、脱糞、衣服を着換へ、坂元の持つて來た新らしい毛布を懸ける。天氣清澄(坂元は昨夜沼津迄來り今朝一番でくる大祭日と日曜と重なる爲也。
○朝 Croce の美學を讀む。
○ 一山や秋色々の竹の色
○四時頃楚人冠至る。觀光團と一所也。汽車が一圓いくらとまりが八十五錢馬車が十錢といふ安いもの也
○腹へる。森成氏へ訴へる。拒絶
 
 九月二十五日〔日〕
○曇。昨日觀光團のため終夜擾々。相變らず眠らず。夜通し風呂場に人氣あり。朝は暗いうちから顔を洗ふ。夜半に下女の笑ふ聲す。黎明に又下女の聲す。思ふに下女は床に入らざりしなるべし。
○昨夜宮本杉本二氏來診。十時頃喫飯。醫師も規律ある生活は送りがたし。其上觀光團にて恐らく眠り得ざりしならん
○ 風流人未死  病裡領消閑
  日々山中事  朝々見碧山
○宮本氏云ふ今二週間にて歸京し得べし。まづ二十日と見れば可からんと。診斷の結果なり。同氏は杉本氏と午頃歸る。坂元も同時に歸る。
○ 古里に歸るは嬉し菊の頃
○午飯に鯛の刺身四切を食はせらる。平常刺身に嗜好なきも矢張旨し。ソーダビスケツトに水を塗り食塩をつけて烙りたるを食ふ。是亦旨し。
○昨日觀光團に加つて見舞に來てくれた畔柳岡田二人去るとて十一時頃來る。
○ 靜なる病に秋の空晴れたり
○ 菊の宴に心利きたる下部かな
○午後一時楚人冠去る。
  大切に秋を守れと去りにけり
○二時頃より蒸暑、蝉なく。
○クローチエを讀んで疲勞。
○無言の玄境、放恣なる安靜、努力なき想像(雲の岫を出るが如く。起りて自然に消ゆ。無抵抗の放任、目的なき靜臥。消極に安んずる倦怠。悠々たる精神。※[横目/圭]碍なき活動。苦を感ぜざる程の想像。義務なき脳の作用。
 
 九月二十六日〔月〕
○昨夜始めて起き直つて食事。横に見る世界と竪に見る天地と異なる事を知る。食事うまし。夜に入つて元氣あり。妻から失|心《原》中の事をきく。失心中にも血を吐いて妻の肩へ送れる由。其時間は三十分位注射十六筒といふ。坂元がふるへて時々奥さんしつかりなさいと云つた。電報をかけるのに手がふるへて字が書けなかつた由。余の見たる吐血は僅かに一部分なりしなり。成程夫では危險な筈である。余は今日迄あれ程の吐血で死ぬのは不思議と思ふてゐた。
 人間の血の三分一を吐けば昏睡し。三分二を吐けば死する由
○昨夜は藥の所爲か比較的安眠(四時頃迄)然し夢は始終見たり。友人の坊主が叡山の麓迄うどんを食ふたと云つて一時間許りの間に歸つて來た。さうしてうどん程天下に旨いものはないと云つてゐた
○朝始めて起き直つて顔を洗ひ髪を梳る。心地よし。
○始めて床の上に起き上りて坐りたる時、今迄横にのみ見たる世界が竪に見えて新らしき心地なり
  竪に見て事珍らしや秋の山
  坐して見る天下の秋も二た月目
○其時松陰に百日紅の殘紅を見る。久しき花なり。どつと床に伏したる前既に咲けるものなり
○病正に輕快に移らんとして、今更病を慕ふの情に堪えず。本復の後はかゝる寛容ある、stress なき生涯、自己の好む儘の心の働きを盡して朝より夕に至る時間、朝夕余の周圍に奉侍して凡て世話と親切を盡す社會の人、知人朋友もしくは余を雇ふ人のインダルジエンス。――是等は悉く一朝の夢と消え去りて、殘るものは鐵の如き堅き世界と、磨き澄まさねばならぬ意志と、戰はねばならぬ杜會丈ならん。余は一日も今日の幸福を棄るを欲せず。
 切に考ふれば希望三分二は物質的状況にあり。金を欲するや切也。
○床に就きたる人の天地は床の上に限られる事無論也。されどもわが病甚しき時の天地は狹き布團の上の一部分に限られたり。足の付く脊の觸るゝ處腰の据はる所丈にて其他はわが領分にあらぬ心なり。衰弱甚しければ容易に動きもならぬ故也。小き枕にてもわが領分と領分でなき所ありき頭を動かす〔は〕大變な事業也。
○病床のつれ/”\に妻より吐血の時の模樣をきく。慄然たるものあり。危篤の電報を方々へかけたる由。妻は五六日何も食はなかつた由。森成さんも四五日殆んど飯も食はずに休息せざりし由。顧みれば細き糸の上を歩みて深い谷を渡つた樣なものである。
○看護婦を呼ぶとき杉本さんが早く行かないと間に合はないと云つた由。吐血後一週間は危險なりし由。杉本氏歸る時もう一度吐血すれば助からぬ由を妻に云へる由
 
 九月二十七日〔火〕
○曇。床の上に起きて顔洗、食事、
○昨夜もよく寐ず。寐れば必ず夢を見る。然し寐てゐる事が大變樂になつた。
○寐られぬ夜
  ともし置いて室明き夜の長かな
○午腹減りて殆んど起き直る事能はず。食後疲れて熟睡三十分藥の時間に看護婦に起さる。
○妻君と森成さんと東と朝日瀧へ行つたらしい。午院閑寂
○反物屋が雁皮紙織と、眞綿織を持つてくる。眞綿織は伊豆の大島の産也。雅な質で雅な色なり
○三人觀音樣より歸る。堂守から菊を乞ふて來る。(金をやつて)
  堂守に菊乞ひ得たる小錢かな
○ 力なや痩せたる吾に秋の粥
○ 佳き竹に吾名を刻む日長かな
○ 見もて行く蘇氏の印譜や竹の露
○範頼の墓守も花を作るから今度はあすこで貰つてくるといふ。
  秋草を仕立てつ墓を守る身かな
 
 九月二十八日〔水〕
○曇。昨夜も不眠。去れども眼が冴えるにあらずうと/\として天明に至る也。
  秋の蚊の螫さんとすなり夜明方
     や我を螫さんと
○ 頼家の昔も嘸栗の味
○ 鮎の丈日に延びつらん病んでより
○ 肌寒をかこつも君の情かな
 
 九月二十八日〔水〕
○昨日昨夜便通二回。一回を胃腸病院に送る。
 夜安々と寐る。然し眼未明に覺む。
○桔梗 菊、紫苑、桔梗は濃くふつくらしたり。紫苑は高く大きく薄紫の菊の婆娑たるに似たり
  貪しからぬ秋の便りや枕元
 
 九月二十九日〔木〕
○ 仰臥人如唖  黙然對大空
  大空雲不動  終日杳相同
○昨日も髭剃。細君の注意による。始めは顋の下を剃り落した時は殘り惜さうなりき
○ 京に歸る日も近付いて黄菊哉
○晩に玉子の煎りたるを食ふ
 
 九月三十日〔金〕
 陰。漸々寐心よくなる。
○東京より返事。二日前に送つた便に血は交らない由申し來る
○昨夜オレーフ池を十グラム程飲む。是は酸を抑へる功、いたみをとめる功、幽門の出口を滑にする功。及び滋養の功ある由。(或病人四十筒の注射をした時オレーフで溶解した(藥液の)ために大いに元氣を回復せる由。
 
 十月一目〔土〕
○ 稻の香や月改まる病心地
○ 日似三春永  心隨野水空
  牀頭花一片  閑落小眠中
○取寄せたる清六家詩鈔、唐賢詩集、宋元明詩集來
○名古屋の鈴木來る
○午 鯛のうしほを食ふ。
 
 十月二日〔日〕
○夜寐られず。看護婦に小便をさして貰ふ。三時半。寐れば夢を見る。夢を見ればすぐ覺める。
○明方戸を明ける時の心持
  天の河消ゆるか夢の覺束な
○ 夢擁銀河白露流
  夜分形影一燈愁
  旗亭病近修禅寺
  聽到晨鐘早上秋
○初めて百舌をきく
  裏座敷林に近き百舌の聲
○ 歸るは嬉し梧桐の末だ青きうち
○雨猶歇まず。細雨也
○午前雲晴日出づ。ミン/\猶鳴く
○細君、東、森成どこかへ行つたと見えて音なし。
奥の院。(二十一日の絶食)
○ 歸るべくて歸らぬ吾に月今宵
 
 十月三日〔月〕
○陰。秋かと思へば夏の末、夏の末かと思へば秋。柿も大分赤き由。栗もとうから出てゐる。稻は半分黄《原》くと。
  雲を洩る目ざしも薄き一葉哉
○小宮が毎日の樣に繪葉書をよこす。歌麿の浮世繪にこんな人になりたいとか、こんな人を演ずる芝居が見たいとか書いてある。たわいもない事である。
 臼川も自畫の繪葉書をくれる。御能のスケツチを色取つたものである。松風、鉢の木、山姥等である。たまには文句入である。甚だうまい
○昨夜。鯛の※[者/火]たのを食ふ。
 
 十月四日〔火〕
○陰 雨を帶ぶ。昨夜雨滴千萬點を聞き盡す。睡眠状態漸々平生に近づく
○昨日花を更ゆ。コスモス、菊、菊と野菊の中間にて黄なるもの。東君の取つて來てくれたもの
○氣管支漸く治まる
○昨日妻髪を洗ふ。
○殘骸猶春を盛るに堪えたりと前書して
  甦へる我は夜長に少しづゝ
  骨の上に春滴るや粥の味
 米は東京より取り寄せたるものなり
○鶺鴒多き所なり
  鶺鴒や小松の枝に白き糞
  松濡るゝ。濡るゝは女松。降るは秋雨
○ 寐てゐれば粟に鶉の興もなく
○氣管文にて體を拭く事を禁ぜられたれば觸るとざら/\して人間の肌とは覺えず。鷄の羽を引きたる如し
  粟の如き肌を切に守る身かな
○午 障子を開けば晴空澄徹久し振也。體を拭く。垢出でゝぼろ/\す。寐卷を着更ふ。よき心地なり。やがて腹減りて汗出づ。
○夜は朝食を思ひ、朝は晝飯を思ひ、晝は夕飯を思ふ。命は食にありと、此諺の適切なる余の上に若くなし。自然はよく人間を作れり。余は今食事の事をのみ考へて生きてゐる
○ 萬事体時一息回。 餘生豈忍比殘灰。
  風過朽葉動秋去。 露滴竹根沈翠來。
  漫道山中三月滯。 ※[言+巨]知門外一蹊開。
  歸期勿後黄花節。 恐有雁聲落舊苔。
 
 十月五日〔水〕
○晴、稍寒。眠無事、殆んど平生に近し。
○ 淋漓鮮血腹中文  嘔照黄昏漾綺紋
  入夜通身渾是骨  臥牀如石夢寒雲
○野菜の高き處なりほうれん草の浸し物一人前二十五錢。鷄の高き處也。百目八九十錢。余は日に三百目の湯煎ソツプを飲む。其代が日日に二圓乃至三圓也。可驚
○十一日に歸る由。其前にもう一遍便を東京に送りて檢査させると。
○ 冷やかな瓦を鳥の遠近す
 
 十月六日〔木〕
○快晴心地よし。昨夜眠穩。
  冷かや人寐靜まり水の音
○昨日森成さん畠山入道とかの城跡へ行つて歸りにあけび〔三字傍線〕といふものを取つてくる。ぼけ茄子の小さいのが葡萄のつるになつてゐる樣也うまいよし。女郎花と野菊を澤山取つてくる。莖黄に花青く普通にあらず。野菊が砂壁に映りて暗き所に星の如くに簇がる。
  的※[白+樂]と壁に野菊を照し見る
  鳥つゝいて半うつろのあけび哉
○昨日ベアリングの露文學を讀み出す。一昨日にて現今哲學讀了
○ 天下自多事  被吹天下風
  高秋知鬢白  衰病夢顔紅
  懷友讎無到  讀書道不窮
  瘠躯猶裏骨  慎勿妄磨※[石+龍]
 
 十月七日〔金〕
 快晴。安眠常人と同じ。
○ 朝寒や太鼓に痛き五十棒
○ 鏡中人已老  嘔血骨猶存
  病起期何日  夕陽復一村
 
 十月八日〔土〕
○數へると明|後《原》日は東京へ歸る日也。嬉しくもある。又厭でもある。歸りたくもある。歸りたくもない。現状は餘程の苦痛でなければ變る事を敢てし得ないものである。
○顔に漸く血の色が出て來た。
 
 十月九日〔曰〕
○雨濛々。朝食。床の上に起き返りて庭を眺めると殘紅をかすかに着けながら、百日紅が既に黄に染つてゐる
  先づ黄なる百日紅に小雨かな
○昨日看護婦が裏の縁側に出てもうあの柚が黄になりましたと云ふ。明後日は東京へ歸る日取なり
  いたつきも久しくなりぬ柚は黄に
○コスモスを活けて東が持つて來る。コスモスは干菓子に似てゐると云つたら東は何故ですかと聞いた。何故と聞いちや仕方がないと答へた。花瓶の後ろに銀の袋戸と金の袋戸がある。下が銀で上が金である。中間が砂壁である。其砂壁の所に白と赤の花が點々として美しく映じてゐる。さうして其葉の處が青く銀紙に映つてゐる。
 
 十月十日〔月〕
○陰。
○昨夜、寄木細工を取り寄せて色々見る。箱を三つ買ふ。皆婦人趣味なり。あけびの箱を買ふ、又誂へた樟の烟草盆と烟草箱が一昨日出來上る。
○愈明日東京へ歸れると思ふと嬉しい
○ 客夢回時一鳥嶋
  夜來山雨曉來晴
  孤峯頂上孤松色
  早映紅※[日+敦]欝々明
○ 足腰の立たぬ案山子を車かな
○昨夜見やげもの抔を買ふ事を相談する。やるとなると何處も彼處もやらなければならぬので大變になる。細君がなる丈葉書入と修善寺飴と柚羊羹で間に合せて置かうといふ。それもよからうといふ。
○神代杉の文庫とあけびの籃を買つて池邊澁川兩氏にや《原》更に桑の硯箱を坂元に縮緬の兵兒帶を添へてやる事にする。
○ 骨許りになりて案山子の浮世かな
○ 扶け起す案山子の足《原》
 
 十月十一日〔火〕
 愈歸る日也。雨濛々。人々天を仰ぐ。荷拵出來。九時出立の筈。
○甘鯛の頭付にて粥二椀、オートミール一椀をしたゝむ。
○雨の中を馬車にのる。人の考案にて橇の如きものにて二階を下る。夫を馬車の中へ入れる。浴客皆出見る。橇は白布で蔽はる。わが第一の葬式の如し
○雨の中を大仁に至る二月目にて始めて戸外の景色を見る。雨ながら樂し。日《原》に入るもの皆新なり。稻の色尤も目を惹く。竹、松山、岩、木槿、蕎麥、柿、薄、曼珠沙華、射干、悉く愉快なり。山々僅かに紅葉す。秋になつて又來たしと願ふ。
○大仁にて菊屋の主人、番頭先づあり。番頭は人足四人をつれて三島迄來る。漸くに汽車を乘りかゆ。人足なかりせば必ず後れたらん。一等室借切りなり。九人のを六人前出す二十二圓某也。神奈川にて東洋城乘る。大森にて楚人冠乘る。新橋にて人々出迎はる少々驚く直ちに擔架にのる。大抵の人には目禮した積なり。あとで聞けば知らぬ人多し。釣台で病院に行く。暗い中で四邊更に分らず
○入院故郷に歸るが如し。修善寺より靜なり。面會謝絶、醫局の札をかゝげたる由。壁を塗り交へ疊をかへて待つてゐると云はれた杉本氏の言葉はまことなり。落付いて寐る。電車の音も左迄ならず。
○終夜雨
 
 十二日〔水〕
○朝。食パン二片、牛乳一合、ソツプ一合、玉子一個を食ふ。修善寺の倍にあたる
○昨日途中にて
○ 病んで乘り病んで去る吾に案山子哉
○ 濡るゝ松の間に蕎麥を見付たる
○ 藪陰や濡れて立つ鳥蕎麥の花
○ 稻熟し人癒えて去るや温泉の村
○ 柿紅葉せり纏はる蔦の肯き哉
○ 就中竹緑也秋の村
○ 數ふべく大きな芋の葉なりけり
○ 新らしき命に秋の古きかな
○院長の病氣を昨夜後藤さんに聞く。
  えゝ又寒くなつたものですから
 今朝妻が來て實はあなたに隱してゐました病《原》長は死んで、葬式には香典を以《原》て東さんに行つてもらひました。死んだのは先月五日のよし。森成さんが最初に歸つたのは危篤のため後で歸つたのは葬式のためだといふ。わるくなつたのは八月の二十四日頃即ち余の吐血したる頃なり。初め余の森成さんを迎へたる時、院長はわざ/\電報で其地にて充分看護せよと電報をかけたり。治療を受けた余は未だ生きてあり治療を命じたる人は既に死す。驚くべし
  逝く人に留まる人に來る雁
○杉本さんが疊替をして待つてゐるといふ。成程疊も新らしく壁も塗りかへ、襖も張り替へたり。居心地頗るよし。
○滿鐵の龍居が來て中村が心配してゐる由を妻に物語る。金が要るなら遠慮なく云へといふ意味らし〔と〕いふ
 
 十月十三日〔木〕
○陰雨。
○ 鷄頭に後れず或夜月の雁
○ 釣台に野菊も見えぬ桐油哉
○安倍、坂元、池邊、來。妻來
○夜十二時地震あり
○ジエームスの死を雜誌で見る。八月未の事、六十九歳。
 
 十月十四日〔金〕
○陰雨
○病室の新らしくなりたるを喜んで
  〔俳句を書きて消してあり〕
○昨日滿鐵の山崎氏又見舞を持參。
 
 十月十五日〔土〕
○ 思ひけり既に幾夜の蟋蟀
○曉に氷を摧く音を聞く。はづれの人は胃潰瘍の由。しかも重|體《原》と聞く。本復を祈る。
○曉より烈しき雨。恍惚として詩の推敵や俳句の改竄を夢中にやる。
  清露下南※[石+間]
  黄花粲照顔
  欲行沿※[石+間]遠
  却得與雲還
○Dr.Furnivall ノ死七月九日の Athenaeum ニ Saturday トアリ
 
 十月十六日〔日〕
 陰。二時半より眼覺む。
  天地有無裏  死生交謝時
  人間失寄託  如踞一※[耕の左+萬]絲
  命根何處來  靈台不可知
  窈窕日月遐  ※[山/及]々萬象危
こゝ迄考へたら看護婦が起き掃除を始めた。
○昨夜浣腸
  幽明忽咫尺  乾坤半餉移
  單躯跨双界  隻眼挂大疑
  幸生天子國  未逢當代師
  四十猶兀々  斯道果屬誰
○鈴木、森田、小宮次の室に乘り語る外にも人ある樣なり
○狩野來る由會はず歸す。昨日の小林醫師も同じ。今朝長與又郎氏戸口迄來て引き返せる由
  單謳入双界  隻眼挂大疑
  休言閲兩極  曷得窮兩儀
  生住天子國  未許稱人師
  四十徒兀々  斯道竟屬誰
○ 孤愁澹難語  况逢蕭颯悲
  仰臥秋已闌  一病欲銀髭
  寥廓天空在  黙見《・|看》高果枝
 
 十月十七日〔月〕
 陰。四時に眼覺む。
  縹渺天地外  生死交謝時
  杳然無寄託  懸命一藕絲
  命根何處在  窈窕不可知
  唯覺天日暗  翻怪人間奇
  幽明固比隣  乾坤一瞬移
 朝食前に昨日の詩を改めてこんなものにした。實際の詩である。詩のための詩ではない。だから存して置く。
○病院でも朝五時頃になると大《原》鼓の聲が聞える。始めて聞いた時は恍惚のうちに修善寺に居た樣な心持がした。
  過ぎし秋を夢みよと打ち覺めよとうつ
 
 十月十|七《〔?〕》日
○晴。
○咋服部より銀の莨入を取り寄せて見る。森成さんと相談の上、光澤けしの小さい奴を撰びそれに修善寺にて森成國手へと前書して
 朝寒も夜寒も人の情かな といふ句をほる事
にする。價は十三圓五十錢也彫賃は知らず
 
 十月十八日〔火〕
○昨日澁川柳次郎來 禮を述ぶ
○同昨日妻來。池邊の所に至り余の旨を傳へたる由を語る
○昨日寐てゐてフラネルの柄を擇ぶ。
○昨日、修善寺の菊屋の朝日より電話、御誂の寄木の箱は敷不足故新たに作らせるから待つて呉れといふ。妻にきくと十六個注文したといふ。皆禮にやるなり。
○今朝昨日の古詩を作り了へ帳面の末尾に書く。
  〔帳面の末尾より掲出〕
  縹渺玄黄外  生死交謝時
  杳然無寄託  懸命一藕絲
  命根何處是  窈窕不可知
  只驚白日暗  翻怪人間奇
  單心貫双界  隻眼挂大疑
  幽明咄嗟變  乾坤頃刻移
  敢言閲兩極  曷得明二儀
  語黙共勃※[穴/卒]  吾事問向誰
  孤愁來落枕  又搖蕭颯悲
  仰臥秋己闌  苦病欲銀髭
  寥廓天猶在  高樹空餘枝
  對比※[立心偏+中]悵久  晩懷無盡期 〔只驚〜語黙、上に〔が引いてある、間奇〜向誰、下に〕が引いてある〕
○秋意體によろし。
○今朝眼醒めて發句を思ふ遂にならず
  鳴かぬ夜は蝉も亦死んだと思ふ
と云ふ樣な意味のものなり。
○鴎外漁史より「涓滴」を贈り來る。※[漱の欠が攵]石先生に捧げ上ると書いてありたり 恐縮
○宮本叔氏見舞。東京市廳迄來れりといふ。暫時にして歸り去る。
 
 十月十九日〔水〕
○快晴。昨夜莨入の上へ貼る雁皮の上へ細字で發句と前書をかく。それを貼り付けて彫る事にする。寫眞では燒き付けがたしといふ。
○朝食前脱便。
○リードのナチユラルエンド ソシアル モラルスを讀み出す。
○菅來る。重武が脚氣で鎌倉へ連れて歸つたと云ふ。自分も大森を引き上げて鎌倉に居る由
○内丸來。東洋城來。皆面會謝絶を無視して來る。東洋城と俳句を作る。宮内省御料地のバタを四斤くれる。
 
 十月二十日〔木〕 快晴
○昨日寅彦より長き手紙屆く。病氣の事を内丸の報知で知れる由。旅行中の事など巨細記しあり面白し。
○「思ひ出す事など」一を書き草平に送る。十一時半頃突然花火の音をきく。寺内統監の歸京の由也
 
 十月二十一日〔金〕
 雨。朝東洋城に端書を出す。菊の句をたのまれた故也。昨日草平來。しばらく話す
○妻來。昨夜よりウオードのダイナミツク ソシオロジーを讀む。
 獨乙の哲學者の言説は雲の峯の如し。ウオード抔の著述は地を行く人に似たり。平々たり坦々たり。而して足遂に地を離れず。散文的也
○森成君に病氣前の寫眞を望まれて一句を題す
  顧みる我面影やすでに秋
○昨日池邊來。過般來社から出して呉れた金の所置に就いて自分に一任せよといふ。諾す。實は歸り匆々妻を以て辨償の事を申し出でたるなり
○一等に入院の人は食道癌一人。胃癌一人。胃潰瘍一人。何れも死ぬ人のみなり。食道癌の人は中途にて退院他の二人はもう二三日で六づかしいといふ。親類抔聚まる模樣也。胃癌の人は死ぬのもあきらめさへすれば何でもないと云ひたる由。
 
 十月二十二日〔土〕
○陰。昨夜十一時三十分、二時二十分前、四時三十分前に目覺む。
○ 曉や夢のこなたに淡き月
 是は寐ながらの句也。今朝の實况にはあらず
○縁にベコニやあり。昨日妻の持つて來たもの。實は菊を買ふ積の處植木屋が十六貫だといふので、森成さんが五貫にまけろと云つたら負けなかつた。歸りに六貫やると云つたら矢張負けなかつた。さうである。今年は水で菊が高いさうである。
○ ぶら下る蜘味の糸こそ冷やかに
 晝食後始めて室内をあるく。木庵の落※[疑の旁が欠]が見たくなりし故也。序に北の廊下口迄出て面會謝絶の貼紙を見る。
 
 十月二十|二《原》日〔日〕
 半晴。十一時過。三時半小便をする。
○ 嬉しく思ふ蹴鞠の如き菊の影
○昨夜九時半頃胃癌の加藤さんが死んだよし。道理で眼を覺ますと人聲が聞へた。余〔は〕看病のため徹夜するのかと思つてゐた。一等室に殘るは胃潰瘍の二人である其一人は二三日有つか有たぬかといふ所なり。
○ 肩に來て人懷かしや赤蜻蛉
○ 澁柿も熟れて王維の詩集哉
 
 十月二十|三《原》日〔月〕
○晴。夜十時、三時十五分前に目醒む。兩度共小便。
  つく/”\と行燈の夜の長さかな
  小行燈夜半の秋こそ古めけり
○尻の痛み漸く癒ゆ
○細き足漸く瘠せた身體を支ふ。力石を持ち上げる樣な氣分直る。
○胃潰瘍の人今日晩景に死す。吾等三人のうちわれ一人生殘る。氣の毒の心地す。此病人嘔氣ありて始終げえ/\吐きたるに此二三日は靜なる故或は快氣に向へるかと思へるに實は疲勞の極聲を出す元氣を失ひたるものと知れたり。
 
 十月二十五日〔火〕
○雨と陰の間。
  桃花馬上少年時(醉吟時)
  笑據銀按拂柳枝
  緑水如今迢逓去
  空留〔二字□で囲む]明月照秋思
  別懸
  猶可考。
○ 一叢の薄に風の強き哉
○ 雨多き今年と案山子聞くからに
○ 柿一つ枝に殘りて烏哉
 一等愚者三名のうち二名死して余獨り生存す。運命の不思議な事を思ひ。上の句あり。
○咋地震あり。看護婦が見舞に來る。長き地震なり。三時半と覺ゆ。
 
 十月二十六日〔水〕
 陰。二十三か二十四の日記をつけ損つたり。
○一昨夜二十四日の晩澁川玄耳入院。胃カタールか何か分らぬ由。ちつとも知らず
 余の病氣につき世話をしてくれた男今は余と同じ樣に病院の患者となる。うその樣なり。
○昨日純一來る。純一を見たのは八月六日ぎりなり。少し青が高くなつた樣なり
○今朝水洟出づ。のどえがら〔三字傍線〕つぽし。始めて袷をきる。
○山田美妙齊の死を新聞できく。癌|種《原》のよし。
 
 十月二十七日〔木〕
○晴。三時頃より眼覺む。眠つたり覺めたりして例刻迄過ぐ。詩一首句一句を褥中に得。
  馬上青年老  鏡中白髪新
  幸生天子國  願作太平民
○ 君が琴塵を拂へば鳴る秋か。
   (寅彦の※[ワに濁點]イオリンの事を考へ出して)
○弓削田が來て大分長く話をする。區役|役《原》所の役人の樣な服装をしてゐる。
 
 十月二十八日〔金〕
○晴。身體を拭く。
○咋日東より※[ヰに濁點]カーの佛譯來る。二三頁讀む。
○明日は霞寶會の日なり。森成さんは行かれるにや。
 
 十月二十九日〔土〕
○雲出づ。陰晴共に不明。
○昨夜服部より森成さんにやる莨入を持參。細君不在にて金なき故拂はず。小僧又持つて歸る。
○澁川の妻君が來て、ウエーフアーとカルヽス煎餅をくれる
○中根榮といふ名古屋の人「思ひ出す事など」を讀んで長い手紙をくれる。
○中村蓊來。西村醉夢來。
○日課 例によりウアードのダイナミツク社會學、※[ヰに濁點]カーの佛譯。
○森成さんが越後高田の翁飴をくれる。一日に三つ許さる。
○雨の音蕭々の夜
 
 十月三十日〔日〕
○陰 將に晴んとす
○昨日は客四人に接す。社の山本。澁川の妻君。中村蓊。西村醉夢。
○昨日體量をはかる。フラネルに薄い毛織のシヤツを着て四十四キロ五百ありたり。もと病院を出た時は四十九キロなにがしなりき
○坂|本《原》來(ひるから)、晩妻來。ごた/\する氣分にて、自分の思ふ事出來ず。不快なり。
○晩に病院の園丁が手作りの菊二鉢を贈り來る。見事なる白菊也。白菊は院長の遺愛の品のよし。院長は菊を愛せるよし。英國から取寄せた菊が咲いた時見せたら口が利けないので、胸に手をあてゝ其手を以て胸を打ち喜を表したりといふ。
○森成さんに莨入を贈る。
○願ふ所は閑靜なり、ざわつく事非常に厭なり
 
 十月三十一日〔月〕
○曉に昨夜の菊を見る。
○風流の友の《原》逢ひたし。人生だの藝術だの何のかのといふものには逢ひたくなし。
○今の余は人の聲よりも禽の聲を好む。女の顔よりも空の色を好む。客よりも花を好む。談笑よりも黙想を好む。遊戯よりも讀書を好む。願ふ所は閑適にあり。厭ふものは塵事なり
○妻が昨夜來る時車屋の菊屋で病院へ行くならと云つてダリヤを呉れた。此ダリヤは丸で菊の樣な大きなものである。花瓣の亂れた具合も丸で大輪の菊である。色は赤、薄紅、黄等である。何となく下品で菊とは較べられない。梅もどきの傍へ放り込んだら不釣合な事甚しい。
○余の病中のプログラムを打ち毀して、其損失を償ふて餘りある樣な友人なら余はいつでも驩迎する。余はかくの如き友人を多く持たない事を甚だ口惜く思ふ。
○澁川の室より小さい菊の土鍋の平たいのに入れて、長い蔓をつけて提げる樣にしたものを呉れる。苔の間に白砂を蒔いて、札を立てゝ目黒の里としてある。
○神崎さんがダリヤを呉れる。ダリヤは今年に入つて非常に發達した樣である。大輪の菊の如きもの續々出る。
○ 明けの菊色未だしき枕元
  日盛りやしばらく菊を縁のうち
  縁に上す君が遺愛の白き菊
  井戸の水汲む白菊の晨哉
  蔓で提げる目黒の菊を小鉢哉
 
 十一月二日〔水〕
 陰。昨草平來、丸善と南江堂へ電話をかけてもらふ。坂元來、是は醫師の謝禮につき池邊と宮本兩氏の相談の經過を報告の爲め、
○朝倫敦の大谷正信よりプレイゴーアー、及びソサエチー一部寄贈、修善寺へ屆きたるを回送せり
○身體を拭き爪を剪る。
  形ばかりの浴す菊の二日哉
 
 十一月三日〔木〕
 雨。
  三日の菊雨と變るや昨夕より
 
 十一月四日〔金〕
 晴。からだを拭く。
○小使が貸してくれた二鉢の白菊に虫がつく。小使がそれを癒してやると云つて代りに別の鉢を貸してくれた。それは黄の蕋に細い長花片が間を置いて出てゐるものである。野菊の大きいものである。普通の菊よりも雅である。
○小西海南見舞にくる。讃岐の話をする。
○太田祐三郎が立派な風月堂の菓子折を置いて行く。四日の日附のある菓子折なり。
 
 十一月五日〔土〕
○ナゴやの鈴木より花瓶を送る旨申し來る。
○森成さんが越後の笹飴をくれる。雅なものなれど旨からず。カステラはと聞いたら胃にも腸にも瓦斯があるから御止しなさいと云つて止められる。
○森圓月來る。疲勞を言譯にして不會。一時間程して小使手紙を以《原》て來る。藏澤の墨竹の軸を添ふ。御見舞とも御土産とも致し進呈すとあり。早速床にかく。
○體重四十五キロ三百。前週より一キロ九百グラム増す。十二貫餘なり。
○病院へ入つたら好い花瓶と好い懸物が欲しいと云つてゐたら、偶然にも森圓月が藏澤の竹をくれる。禎次が花瓶をくれるといふ報知をする。人間萬事かう思ふ樣に行けば難有いものである。
○ 笹飴の笹の香や 《原》
○菊の鉢は夜見る方よし。
  燭し見るは白き菊なれば明らさま
○夜鐵瓶の音をきく。
 
 十一月六日〔目〕
○つね子、えい子、あい子三人來る。有樂座の御伽芝居を見に行く。歸りに又寄る。
 
 十一月七日〔月〕
 晴。
○鈴木より花瓶とゞく。平安萬磯堂と葢に銘あり。
 
 十一月八日〔火〕
○昨日丸善よりケンブリヂ、英文學史五六二卷を持參す
○昨晩町井さんに菊を買に行つてもらふ。十輪で十二錢也。直ちに鈴木のくれた瓶に插む。
○朝副院長兩名宛の手紙をかく。三等の病人喧騷して堪へがたき故なり。
 
 十一月九日〔水〕
 晴。午前陰に變ず。
 
 十一月十日〔木〕
 秋雨蕭々。
 看護婦が小説を讀んでゐる。奇麗な表紙だから何だと聞いたら笑つてゐる。見ると虞美人草であつた。六づかしい本だから止せと注《原》告した。
 
 十一月十一日〔金〕
 霧。霧中に電燈を見る。
○金子薫園より短冊と畫帖に題句をたのまる。
○今日は修善寺を出て一ケ月目なり
 
 十一月十二日〔土〕
 晴。是公、三重吉、山口弘一より來信。
○三重吉喇叭を稽古す。
○ 藏澤の竹を得てより露の庵
○體量。四十六キロ七百。前週より一キロ四百増加ス。
 
 十一月十三日〔日〕
 晴。
○新聞で楠緒子さんの死を知る。九日大磯で死んで、十九日に東京で葬式の由。驚く。
○大塚から楠緒さんの死んだ報知と廣告に友人總代として余の名を用ひて可いかといふ照會が電話でくる。
○池邊義象氏來。倫敦で逢つたぎりなり
○東來、洋服を着てゐる。東洋城來。
○妻來。
 
 十一月十四日〔月〕
 晴
 
○昨日山田の奥さんから鉢植の西洋花をもらう。雪の下の樣な葉に菫の樣な紫の花が出てゐる。雪の下の葉よりも遙かによし
○妻來。横濱に行くといふ。森成さんの出診料として五百圓事務に拂ふ。
○菅來。銅牛來。
 
 十一月十五日〔火〕
○晴。床の中で楠緒子さんの爲に手向の句を作る
  棺には菊抛げ入れよ有らん程
  有る程の菊抛げ入れよ棺の中
○ ひたすらに石を除くれば春の水
 
 十一月十六日〔水〕
○曇。
○昨夜二時頃火事ありと見えて、蒸汽喞筒の鈴の音聞ゆ。今朝きけば麻布|長《原》坂の下のよし。
 
 十一月十七日〔木〕
 晴。看護婦が又菊をもらつて來て瓶に活ける。入院患者に植木屋があつて澤山餘つた花を洗面所に置いてどなたでも好ければ持つて入らつしやいと云ふのださうである。菊の名を知らず
○昨日池邊三山薩天錫の二詩集と蛻巖の詩集を持つて來てくれる。
 蛻巖の詩の七言絶句抔はゴマカシもの多し。蛻巖の文章に至つては甚だ整はず、まゝ稚氣を交ゆ。
 
 十一月十八日〔金〕
 晴。始めて微霜を見る。須臾にして日の爲に解く。
○今日午飯に始めてめし〔二字傍点〕を食はせる。粥より旨し。
 
 十一月十九日〔土〕
 晴。今日は楠緒さんの葬式である。好き天氣で幸である。
○妻が昨日電話で風邪の由を言ひ越す。今朝森成さんが來〔て〕昨夕見舞に行つたと云ふ。風邪の氣味故處|法《原》を置いて歸つたといふ。今日大塚の葬儀には行かれぬらし
 
 十一月二十日〔日〕
 晴。此前入院した時よりは肥ゆ。昨日體重をはかる十二貫九百四十也。一週間に四五百目づゝ増して行く。
 
 十一月二十一日〔月〕
 晴。昨日午後五時頃渡邊和太郎さん横濱より來る。八時頃迄話して歸る。
 
 十一月二十二日〔火〕
 晴。午前石井柏亭來。
 
 十一月二十三日〔水〕
 曇。午後黒田朋信|友《原》
○蛻巖集後篇の八の終にある梁邦※[乃/鼎]の撰した蛻巖府君行述の一節に曰く
 府君年三十業見二毛。未及五十。齒牙豁。眉髪皓々。七十齒牙不復存一根。眉髪成黄。
 
 十一月二十四日〔木〕
 風。坂元來。晩餐の時電燈悉く消ゆ。二十分後又明なり
 
 十一月二十五日〔金〕
 晴。今日より午も晩も普通の飯となる。午食後二時間程寐る。覺めると頭が痛む、晩食後又寐る。八時頃覺めると今度は胸がわるい、さうして頭も依然として痛い。
 
 十一月二十六日〔土〕
 晴。朝、乳をやめる。頭少しよし
○今日より野菜を少し宛食はせる。生返る心地なり
○池邊三山來。社の金を社長が君にやるから隨意に處置したら善からうといふ。余も其所で貰ふ事にする。せめて二三百圓でも取つて公共の事に使つたらといつたら面倒だと云つて歸つた。
 
 十一月二十七日〔日〕
○久し振りで妻〔來〕る。頭が痛いといふ。筆は此間からパラチフス、毎日森成さんの厄介になつてゐた由。始めてきく。
 
 十一月二十八日〔月〕
 晴。山田茂子さんから奇麗な薔薇をくれる。
○二三日前から肴が全くいやになる。副食についてゐる些少の野菜を食ふ。
○龍居頼三來訪 明朝九時是公が新橋へ着く由をいふ。山田さんへ電話をかけてうちへ其由を取次いでもらふ。
 
 十一月二十九日〔火〕
 晴。能成來、草平來、是公來。是公は馬車に乘つて來たといふ。看護婦の話也
 
 十一月三十日〔水〕
 雨。寒氣を覺ゆ。始めて入浴心地快。
 
 十二月一日〔木〕
 畫晴。韋柳詩集と王猛詩集を買ふ。
 
 十二月二日〔金〕
 晴。菅の重武が死んだので妻が鎌倉へ行く。重武はベースボールで足を怪我して夫から足を切つて片足になつた。夫から脚氣だと云つて菅が東京から鎌倉へ連れて行つた。さうしたら肋膜だといふ。氣の毒な事をした。
 
 十二月三日〔土〕
 晴。玄耳が來て人から頼まれた短冊をかけといふ。
 松山がくる。夏以來逢はず。
 
 十二月四日〔日〕
 晴。栗原、梅谷來。
○玄耳先生退院。
 
 十二月五日〔月〕
 欠
 
 十二月六日〔火〕
 是公が龍居頼三と一所にくる。龍居君がシルクハツトを被つてゐるから何處へ行つたかときいたら、野村龍太の御母さんの葬式に行つた歸りだといふ。
 
 十二月七日〔水〕
 晴。
 
 十二月八日〔木〕
 晴。坂元、小宮、來。夜に入りて東洋城來。
 
 十二月九日〔金〕
 晴。島村苳三來。
 
 十二月十日〔土〕
 晴。生田長江來。行徳來。體重五十一キロ(十三貫五百六十六匁)。夜奥村來。
 
 十二月十一日〔日〕
 晴。内丸、野村。下の竹中から花束をくれる。
 妻、東、小供
 
 十二月十二日〔月〕
 晴。太田祐三郎が來る。何時の間にか相場師になつて、結城紬の着物を着てゐるには驚ろいた。
 
 十二月十三日〔火〕
 晴。欠
 
 十二月十四日〔水〕
 晴 菅來
 
 十二月十五日〔木〕
 晴 橋口來。水仙をくれる。支那の沙市の話をする
 
 十二月十六日〔金〕
 晴、欠  夜雨
 
 十二月十七日〔土〕
 晴、高原操來。
 
 十二月十八日〔日〕
 欠  行徳歸。
 
 十二月十九日〔月〕
 欠
 
 十二月二十日〔火〕
 曇。能成來。今明日中に歸省すといふ。
 障子をあけると鳶色の霧なり。倫敦の臭がして不愉快なり
 
 十二月二十一日〔水〕
 陰。橋本左五郎來。午過草平豐隆來。豐隆明夕故郷に出立結婚の爲也。
 
 十二月二十二日〔木〕
 晴。六時草平來。七時山田の奥さん來。西洋花二鉢をくれる。
 
 十二月二十三日〔金〕
 晴。中村是公、龍居頼三、鈴木禎次、高濱虚子、妻
 
 十二月二十四日〔土〕
 晴、體重五二キロ百、
 
 十二月二十五日〔日〕
 晴、三浦見習士官。天生目一治。中村是公。渡邊和太郎。
 
 十二月二十六日〔月〕
 晴。大塚、坂元、竹中、妻、
 
 十二月二十七日〔火〕
 晴。物集和子、草平、本多直次郎、
 
 十二月二十八日〔水〕
 晴。戸川秋骨 橋本左五郎
 
 十二月二十九日〔木〕
 晴。坂本四方太。坂元雪鳥
 
 十二月三十日〔金〕
 晴。森卷吉、妻
 
 十二月三十一日〔土〕
 欠
 
 一月一日〔日〕
 島村、子供、野上
 
 一月二日〔月〕
 妻來、
 
 一月三日〔火〕
 
 中根倫、坂元、小林修|次《〔二〕》郎、野村傳四、東新、
 
 一月四日〔水〕
 晴。夜古郷時待。――塩瀬の大きな菓子折をくれる。重くてやつと有つやうなものなり。風呂敷ごと玄關に置いて行つたのを翌日午になつて漸く病室に擔ひ入る。
 
 一月五日〔木〕
 欠
 
 一月六日〔金〕
 欠
 
 一月七日〔土〕
 神崎、野村、體重五三キロ三百(十四貫百七十八匁)
 
 一月八日〔日〕
 欠
 
 一月九日〔月〕
 山田繁子、服部嘉香、妻
 
 一月十日〔火〕
 犬塚武夫、坂元雪鳥、
 
 一月十一日〔水〕
 森田草平、
 
 一月十四日〔土〕
 體重五十四キロ二百(十四貫四百十七匁)
 鈴木謹爾、岡田耕三、
 
 一月二十一日〔土〕
 五十四キロ八百(十四貫五百七十六匁)
 
 
 斷片――【明治四十三年仲秋頃より明治四十四年初夏頃まで】――
 
〔英文省略、わずかに日本語あり〕
 
  是等ノ現代ニ於ル position ヲ見ても我等と彼等の差ハ咋と今ノ如き配あり。決〔シテ〕B.C. 何年ノ樣な心持セズ。inorganic,organic,living animal,man――此 log evolution カラ見レバ a minute デアル。短カイ。先ヅ no evolution ト見テモよい。然るに吾々は互ニ違フ樣ニ思フ。(兄弟デモ友人デモ(外國人ハ無論)夫丈人間ガ細カイノデアル。人間ノ細カク發達セルコトモ亦驚くべきである。
○無理ニ讀む事。時間ノ制限、多忙、名譽ノ爲め、geniessen ヲ妨グ。詩集を讀む例
 
〔英文省略〕
 
○劃一ノ刑罰ハ不備ナリ。十人ガ十人トモ人ヲ殺シテモ同ジ circumstances ノ下ニ殺スモノナシ。法律ハ之ヲ無視ス。教育モ然り。
 
○science ハ law of unihormity of time and space ノ上ニ樹立ス、ダカラ世界ノ果ヲ斷ジ敷萬年ノ昔を斷ジ、又敷千年ノ未來ヲ斷ズ。所ガ human beings ヲ govern スル law ハ(モシアリトスルモ)毫モ application ガ利カナイ。是ハ uniformity ガナイノカ又は uniformity ガアツテモ非常ニ複雜デ all cases ガ all different デアルタメデアル。甲ニ金ヲヤツテ悦ンダカラ乙ヘ持ツテ行クト却ツテ怒ラレルコトガアル。是ハ甲ト乙ヲ同じ law ガ govern シテ居ナイト見傚スヨリモ甲ト乙ガ既ニ同一ノモノデナイト見ルベキ〔ガ〕至當デアル。サウシテ甲、乙、丙、丁、戍《原》、己悉ク different ダトスレバ是等ガ uniformity ノ law ニ govern サレルニシタ所デ similar case ハ生涯ニ一遍モナイ方ガ常識ノ判斷デアル。∴ law ハ nature ノ world ニ於ル如ク human world ヲ govern シテ居ル。但シ個々人々 infinite variety ヲ構成スル故ニ甲一人ニ apply スル law ヲ發見スルノハ人間ノ手際トシテ too complicate ナモノデアル。ヨシ之ヲ見出シタ所デソレヲ乙ニ apply スルコトハ猶更出來〔ヌ〕ナリ。從ツテ law ハアツテモナイト一般ニ chaotic デアル。夫ダカラ人間ハ昔カラ盲目ダト云ハレテ居ル。始終遣リ損ツテバカリ居ル。此所ニ人間ノ變化ノアル所ガアリ學者ノ及バザル所ガアリ、不可思議ニ見えル所ガアリ、面白イ所ガアリ口惜イ所ガアルノデアル。土木ノ技師ガ橋ヲ作ル樣ニ萬事前カラ分ツタラバ人間學ヲ研究サヘスレバ政治家ニハスグナレル。ソウシテ内閣總辭職ハ決シテ起リツコナイ譯デアル。タヾ人間學ガ土木工學ノ樣ニ淺薄ナモノデナイノデ天晴ナ學者モ車夫ヤ何カニ對シ遣リ損ナツテ怒ラレタリ、耻ヲカヽセラレタリシテ居ル。ソコガ公平デ非常ニ興味ノアル所デアル。
 
○Mechanicl invention ト literary invention ノ同ジ所、
  1)objective(association an ddis.
  2)new combination
  3)objective ニ 放射シテ test ス
 Mechanical invention ノ value ハ實地ノ application ガ出來ル出來ナイデキマル。
 Literary invention ハ夫程デモナイ樣ニ見エルガ criterion ハ矢張リ冥々ノ間ニ某所ニ歸着シテ居ル。コンナ人間ガアルモノカト云はれるとそれが ultimate ト人モ思ヒ我モ思フ樣也、
 けれども mechanical invention ノ方は nature ノ reproduction デハ invention ニナラナイノミナラズ、可成 nature カラ飛び離れたものでなくては value ガナイ樣ニ考ヘラレル、所ガ創作ハ nnature 其物(reproduction)デモ value ガアル樣ニ云はれてゐる。
 
○Maupassant、La confession de Theodulfe Sabot、Sabot ガ坊サンノ所ヘ行ツテ confession ヲヤツテ寺ノ修繕ヲ受負ハシテモラフ、
○三重吉、小宮ヲ傍ニ置イテ云フ、何一夜作リデヤツツケテシマイマシタ、ネー小宮、
○作物ヲホメルト得意ニナリ、ワルク云フト悄ゲル、而シテ擧止ハ是ト反對ニホメルト卑下シワルク云フト辯護スル、
○京傳畫、櫻ノ下ニ花魁トカムロ、二圓五十錢、
 千蔭、冠一ツ上ニ字アリ、一圓五十錢、
 バラニ頬白、蘆雪、  ロセツハ應擧ノ十哲デス、ヨク出來テ居マス、  小竹ノ詩ハ小竹ノ處|立《原》チ切ツテアル、
○夜店、  日蓮上人、物茂卿、親鸞上人、弘法大師、
○三色版ノ上ニ司馬江漢描之、
○家内喜多留、子産婦、勝男武士
○大久保から戸山へ拔ける處で雨ニ逢ふ。どうせと思つたからズブ濡デ悠々とあるく、後から馳ケテ通り越すものがある。若葉が dark〔な〕杉を背景ニシテ軟かに見える。夫が一|齋《原》葉ヲ翻が〔へ〕シタカ|カ《原》ラ軟カイ者ガ急二凄まじくなつて背景ノ杉ノ物すごい色ト調和シタ、
○胸突坂の上ヲ通ルト大キナ竹藪ガアツタ幹モ葉モ悉く黄色い、其繁ツタ間から空ガ見える。左右は若葉ノ節、
○a,b,c,d,l,l. 私ノ教ハルトキハ l,l ジヤナクツテヨ、 サウ段々改良スルノネ、
 
 日記――【明治四十四年五月九日より十二月十五日まで】――
 
○五月九日〔火〕○○さんの婚禮披露。五時の約束で五時|過《原》し過ぎに西片町へ着いたら門前にもう五六臺の車が見えた。床を前にして婿さんの親類が五人程並んでゐる。何れも黒羽二重の紋付であるが、一寸田舍風にも見える。
○禎次さん丈が縞の着物を着てゐたが、是は自分が縞の着物でも好いかと念を押したので、御交際の爲とも見られた。
○しばらくして○○醫學博士夫婦が來た。是も※[女+息]方の親類で余も其方であるからまづ主人側である。博士は娼帽にフロツクであつた。大學に二十五年以上教授をしてゐると云つた。學生のときは大學東校とか云つて自分の妻の父などゝ同じ仲間であつたと云つた。
○又しばらくして○○○男爵夫婦が來た。此妻君は舊幕の遺臣某伯爵の娘である。男爵は大變長く官海に居た丈で《原》古くから名前を聞いてゐたが會つて見ると存外若い顔をしてゐる。頭も黒い。
○御※[女+息]さんが出て挨拶をした。穆さんの奥さんも出て御辭儀をした。鈴木の御父さんが御前は○○さんには始めてだらうと云つたらすゞ子さんはとぼけて、始めましてと自分に挨拶をしたから自分も始めましてと頭を下げた。夫丈では物足らなかつたから、い時《原》も御達者で……と付け加へて置いた。實際朝鮮ではすゞ子さんのうちに二週間も世話になつてゐたのである。
○つい御近所に居りますが、……と男爵が博士に挨拶をした。
○す|づ《原》子さんの朝鮮からつれて來た二人の男の子が、後ろから來て自分の頭を撫でゝ|て《原》行つた。「おい覺えてゐるか」と云つたら「知らないや」と答へた
○やがて宴席へ招待される。○○組の重役の○○學士が仲人で、其人と余が英國にゐた時、一面の識があるので余を其隣へやつた。すると余は老博士の上に坐る事になつたので、席をかへて、鈴木の御父さんの上に坐る事にした。余〔の〕上座には白髪の御老人がゐる。御父さんの紹介によると此老人は始終地方〔に〕居て親戚ながらいつも東京にゐた事がない、近頃やつと裁判官をやめて東京へ來たのだと云つた。御爺さんは正四位勲四等……と《原》名刺を一々配つてあるいてゐた。
○やがて御膳が出た。是は儀式的のもので、赤塗の盃に椀が付いてゐる丈である。丸髷に行《原》つた紋付の女が一々客の前へ銚子を持つて來て、一々御辭義をして盃へ酒へ《原》三度に注いで又御辭義をして隣へ行く。みんな伊豫紋の下女ださうである。盃をもらひに歩く時そこに坐つてゐた女に酌を頼まうと思つて、おいと呼びかけて横を向いたら豈計らんやすゞ子さんであつたので驚ろいた位である。椀をあけたら鯛の切身が入つてゐた。それを一口くつて箸を置いた。酒は一口も飲まなかつた。程なく此膳は徹《原》回された。
○次には台の上に口取を盛つて、傍に刺身をつけた膳を運んだ。猪口もついてゐる。それに鯛つ《原》た味噌汁が出た。副膳には一尺餘の燒鯛とうま※[者/火](ふき、  《原》)と、酢のもの(鰹か)、
○みんな主人側が廻つてあるく、仲人の學士がまづ先を越してくる。次に博士もくる。次に正四位の老人が來る。是では無精な余も如何ともする能はなくなつて、まづ御婿さんの處へ行つて御盃を頂戴した。どうか宜しくと云つて挨拶した。あちらへ御出の節は是非御電報を願ひます、えゝ濱寺から電車で通つてゐます、私は英國だの佛蘭西だの露西亞だのに八年居りました。
○御嫁さんからも盃をもらふ。次に仲人の奥さんの番になつた。是は英國で牛鍋を御馳走になつた、人だが、今見ても思ひ出せない。金鎖を襟からかけて金縁の眼鏡をかけてゐる。
 「英國の方が好いでせう」と聞いたら「えゝ九年も居りましたから向ふの方が大變宜う御座います」と云ふ。「もう然し東京に御慣れでせう」と云ふと、「漸くなれました。近頃では御友達も出來ましたし」「今度は漫遊に入らしつたら好いでせう」「えゝ何時でも參りたう御座います」
 「あの時分より大分肥られた、御前は氣が付かないかも知れないが」と旦那の方が云つた。旦那は朝九時から日暮迄殆んど坐らないで立ちつゞけに忙がしい事を述べた。英國の方が規則正しい生活が出來て可い、彼地では夜人が來る事などは滅多にない、晩めしもまあ宅でたべるのが例であるが、日本では宅で食ふのが稀な位です、どうもあなた方の生活が羨ましいです……」
 「傍から見ると誰の職業でも好く見えるものですよ、――それぢやもつと英國に入らつしったら可かつたんですね」
 「私も歸りたくはなかったのですが、子供の教育が困るので御《原》處置をつけに來たので、夫から實は又向ふへ渡る積りの處を、此方へ引き取られまして、夫に支那の方で會社が大分損をしまして、其片付方に南清の方へ旅行をするやら何やらでとう/\此方へ引きとめられて仕舞ひました」。
○博士の前へ出ると「あなたの御病氣は何で御座いましたか」「へえ潰瘍、たしか額田が修善寺へ參りはしませんか」「成程宮本叔が」
 「えゝ私は熊本で、八代で御座います、池邊君や徳富君とは知り合で御座います」
 「池邊君抔の方があなたより後輩でせう」
 「えゝ後輩になります」
○それから正四位の老人からも盃を貰つて、御婿さんの親類は略して席へ返つた。博士の奥さんの前で、すゞ子さんが今日は大變勤めるのですねと云つた。
○自分の席へ歸つてから鈴木の御父さんと書畫の話をした(或は席を離れぬ前)
 「あれはりやうらいです、鵬齋よりも字は旨いです、私は大雅堂のものを四十點持つてゐます。いえ集めた譯ぢやない、道具屋の方で上方へ買出しに行つて是はどうでせうと見せにくる。夫を御前いくらで買つたか|か《原》と聞くと、いくら/\と答へる。それで私がぢやいくらで買つてやらふと云ふと宜しう御座いますと云つて置いて行く。あの屏風などは十三圓で買つたのを二十圓で買ふ約束をしたら月末に十八圓とかいて來ました。あの金丈でも燒くと二圓五十錢位出ます」
 「私は大雅堂の松島の全景をかいた繪卷物を持つて居ます。是は大雅堂が二十七のとき金澤に行つてゐて書いたものです。終りに紅芙蓉の印があります。紅芙蓉は旨いです」
 「大雅堂の廿のときの瀧を持つてゐます。が北宗の筆と狩野の筆をまぜたやうなものです。大雅堂は柳澤に行つてから南畫の風を覺えたのです」
 「私はもと金剛寺坂に居ました。隣が福地源一郎の宅でした。福地の妻君が癪を起して……した事がありました。昔は崖の下は崖の上から斜に尺をとつて、其間は誰の所有でもなかつたのです、だから苦情が起りません。町の名でも昔は往來へ付けたものです。だから片方で名の違つてゐる様な事はありません、
 それで徳川家の所有の地面抔は無税でした。越後の高田抔もさうです。江戸も無論さうです。所が市ケ谷に本村町といふ所があつて、あすこ丈が税を取られました。何んでかと云ふと書き損つたのであります、昔は一度書き損ふと夫成になつたのです」
 「私は觀世黒雪の書いた謠本を百冊持つてゐます、珍らしい黒い雪の様だと云ふので賜つた名です、秀忠公の時代でした。夫を見ると今の謠でわからない所がよく分ります。羽衣に……色人はと云ふのがありますが、色人では分りません、黒雪の本を調べて見ると宮人です」
 「此疊は麻に澁をかけたものです、昔は御城の疊はみな紅《べに》色の縁を取つたものです、黒い縁は台所に限りました。又縁なしは牢屋の疊です、御目見え以下は板の間、御目見え以上は縁なしです。白麻に十文字をかいて其中に丸をかいたのを本願寺では用ひてゐました。これを本願寺縁と稱へます。極いゝのは絹の縁です、丁度御雛さまのと同樣です」
 「此太刀は慶長頃のです。此具足はもつと新しう御座います」
 男爵は鎧に興味があると見えて鎧の噺をした。かう云ふものは無くなるのは惜しい。獨乙でもカブトや胴アテは昔の具足の眞似をしたのを用ひる。……」
 「今鎧を造るものがたつた二人殘つてゐます……。二重橋の前の楠公の像は不都合です、あゝあぶみを前へ出し反り却《原》つては落ちます、さうして手綱の先があゝ手の先へあまつては邪魔で仕方がない手綱の先は下《原》押し込んで小指と藥〔指〕の間に挾むものです。夫からあの太刀が間違つてゐる。あれでは一里位かけると鞍へぶつかつて、鞘がワレテ仕舞ます。騎馬では尻鞘〔二字傍線〕に《?》かぎつたものです。熊の皮でも、虎の皮でも、又鬼丸などゝ云ふ作りになると皮の上を漆で塗つたものです」
○禎次さんが謠をうたびますと云つて着座した。高砂をやらうと思ふが節のついた本がない。が夏目さんは文句を知つちやゐないだら〔う〕……」
 「私は御目出度い謠は知らない」と云ふと御父さんが笑ひながら、「鞍馬天狗から蝉丸俊寛……」
 禎次さんの謠はしつかりしてゐるが聲がメタリツクで蓄音機に似た處がある。
○やがて膳を引いて新らしい膳が又出た此度のも副膳がついてゐる。本膳には汁、御つぼ、それから御平、御酢あへ、御椀(汁)等である。
 是で膳が五度出て、汁が五つ出た譯になる。
○朱塗の御椀で飯を食つて御代りに茶をかけてくれと云つたら御湯ですかと下女が聞き返した。婚禮では茶を用ひぬものださうだ。湯は蕎麥屋の湯を入れるやうな器に入れてあつた。失張朱塗である。
○人々がたちかけた。縁側でそれはエスコートよと云ふ女の聲がした。多分九年間英國に居た夫人の語だらうと思つた。
○遠く照らされた庭のつ|ゞ《原》ぢの前に庭下駄を穿いた納戸色の紋付を着た女が二人立つて話をしてゐた。前は崖である。
 「帝國劇場も見えます。九段の花火を《原》見えます、何でも見えます」と御父さんが云つた。
○車の蹴込に入れた御土産は重かつた。料理と、青い籃の中に鏗《原》節が七本と藤村の菓〔子〕が添へてあつた。菓子は羊羹の中に松が染め拔いてあるのが一つ、白い蛤の形をした上に鶴の首がちよんぼり付いてゐる〔の〕が一つ、眞赤な龜の子が一つあつた。
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○あい子曰くあの幼稚園の誰さんはころんで犬のうんちを舐めたつて、
○又曰く支那人の子が來るのよ。名はねえ、名は提灯胴つて云ふの
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○植木屋が 花菱と云ふ黄色な三辨の花のものと、八重の虞美人草とそれからカーネーシヨンを呉れる
○西村が手紙をよこして電氣遊園に勤務してゐるが當分喝托で月給三十五圓だといふ。御梅さんの事をどうするとも云つて來ない。此前の便には余に一二度妻にも一二度たゞ宜敷頼むと云つて來た丈である。
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○五月十一日〔木〕池の端で勸業展覽會を見る。三光堂の蓄音機が絶えず廣告の爲に鳴つてゐた。場後に植木屋がある。蘭の鉢が赤紫の花を着けてゐた。三圓五十錢のを買はうと思つたがやめた
 から錦 花車模樣、太平樂《原》樣、檜扇模樣、等あり、
 大内織と云ふ帶もあつた。歸りに草臥れて江戸川から車にのる。夏帽に脊拔のセル服
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○小宮のはロジカルダけれども駄目です。たとへば私が金がないといふと私に向つて酒を飲むなと云ふんでせう、飲みやしないと云ふとだつて醉つてるぢやないかと云ふのです。論理にや叶つてゐるが忌むべき論理です。
 私や淋しくつて酒を呑まずにや入《原》られないです、酒を呑むと夫でも仕事をする氣になるんです、飲まないと丸で寂寞で堪らない、所が飲んでも矢張り寂寞です、――今日も人の宅へ行つたら主人が留守だから待つてゐたが歸つて來ない、所がそいつが妙な奴で下女と二人で住んでゐるんですよ。で私は昨夕徹夜したから其所で今迄寐ました。眼が醒めてもまだ歸つて來ないから、夫から下女に酒を買はして飲んでやつて來たのです。然し酒をのむと判斷力がなくなりますね、――いえ陶然として天下を併呑する樣な氣持ぢやない、益淋しいのです、夫で判斷抔はどうでもよくなるんです、――昨夕徹夜をしたら曉烏が鳴いたが、あけがたの烏は氣味がわるいものですな、一種厭な心持になりました。――さうして一生懸命に何かやらうとすると益頭がいら/\してくるのです、何だかグウ/\大きい鼾聲をかく奴があるのです、下へ行つて見ると夫が八十の御婆さんなんだから、天下に自分に同情してくれるものは一人もない樣な氣がしました。さうかと思ふと、ギリ/\どこかで井戸を酌《原》み始めたのです……
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○京都にゐるものが東京が戀しくなつて矢も楯もたまらなくなつて、仕舞には京都の停車場迄散歩に來て、東京から來た※[さんずい+氣]車と、※[さんずい+氣]車に乘つてゐる人の顔を見ると云ふ
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 早稻〔田〕座を東へ突き當つて江戸川の終點に出やうとするところは新開町のごた/\した所であるが、丁度其突き當りの徃來の向側が少し凹んで柳の枝《原》が一本ある所に、小肥りに肥つた双子木綿の羽織着物に角帶の《原》〆た男、帽子を被らずに、俎板下駄を穿いてゐる。綿フラネルの裏のついた大きな袋を兩手で持つて見物人を見廻してゐる(見物人は彼の周圍に澤山群がつてゐる。)諸君僕がこの袋の中から玉子を出す此からつぽうの袋の中から屹度出して見せる。驚ろいちやいけない、種は懷中にあるんだからと云ひながら片手を胸の所で握つてそれをさつと開ける眞似をして、袋の中に手を入れると玉子が底から出た。彼はそれを土の上へならべた。諸君もう一つ出すから見てゐたまへと云つて袋を片手〔で〕ぐつとしごくさうして又何か放《原》げ込んだ眞似をして、中へ手を入れると玉子が出て來る。今度はひつくり返して出して見せると云ひながら、袋を裏返しにして置いて、さうして同樣の手眞似をして第三番目の卵を出す。彼はそれを丁寧に地面の上に並べて、どうだ諸君かうやつて出さうとすれば何個でも出せる。然しさう玉子ばかり出してもつまらないから、今度は一つ生きた鳥を出さう……
 或日朝九時頃江戸川の電車に乘る必要があつて矢來の交番の所から一直線に例の柳の所迄來て、ふと氣がつくと例の男が依然として立つてゐた。朝ぱらだから見物人は一人もゐない、彼も亦諸君玉子を出して見せるとも何とも云はない、彼は退屈の餘りか、小石を空中に打ち上げて其落ちて來る所を手に持つたステツキで叩いてゐた。さうしてさも大事業でもしてゐるかの如き樣子を見せてゐた。
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○腸チフスノ患者。枕の下へ卷紙をまいて入れてゐる。醫者が見ても可いかと聞いたら不可ないと云ふ。醫者は詩でも作つたもの〔と〕考へて、そんなに頭を使つちやならんと云ひながら引き出して見ると、三尺ばかりの紙に鰻屋だの料理屋の名が一面にかいてあつた。病氣が癒つたら一軒毎に食つてまはる積だつたのだといふ(是は醫者の話)
 同じ患者自から云ふ。腹が減つて何か食ひたくて仕方がない、仕方がないから腹が痛いからパツプをして呉れと云つて蒟蒻を腹へのせてもらつて、夫を夜具を被つて半分程食つた。
 同じ患者、弟にそつと云ひつけて羊羹の箱をとり寄せて底を拔いて上部は何ともない樣にして中味を食つて仕舞つた。夫から熱が出て、半年程は腰がたゝなくなつて、今でも髪の毛が五十位の爺さんの樣に薄くなつてゐる
 同じ患者の病室へ細君が子供を抱いて見舞に來たら、患者其子供の手に持つてゐる菓子を見て、食ひたくて、とう/\夫を引つたくつて食つた。それがため遂に死んでしまつた。
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 ○○の弟が華嚴の瀑から飛び込んだと云ふ報知は聞いたが、今日○○が來て其顛末を話した。
○佐野の呉服店の總支配人であつたが、家を出て結城の紺屋へ行つて十圓かりて栃木から日光へ來て、そこでビール一本を二時間かゝつてのんで、夫から山で生玉子を三つ食つて五十錢でつりをとつて、瀑の上に立つて羽織を袖だゝみにして、時計を置いて、帽子を取つた。其有樣が五郎兵衛茶屋からよく見えるので、上さんが手招きをしたら自殺者の方でも手招きをした。夫から大きな聲で詩か何かを吟じてすぐ飛び込んでしまつた。上さんは樣子が變だから下女を駐在所へ走したが間に合はなかつた。
○金錢上の事は悉く義務を果してゐる。女とも關係がない、全く厭世と云ふ。學間をしないで朝から晩迄金で氣を使ふのが馬鹿氣て來たのだと云ふ。家では父はあまり嚴格にし過ぎたのを悔い、兄は學問をさせなかつたのをなげき。繼母(母の妹)はなさぬ中だから猶茫然として何うしてこんな事が起つたのだらうかと悄れてゐる、さうである。
○日記が二三年あるさうである。それは段々々々厭世的になつて、仕舞には滅茶々々になる。すると已めにしてある。夫から二三ケ月すると又始める。其時は今日はうらゝかな天氣だから又日記を書き始める抔と書き出して眞面目であるが、段々感想がせまつて、とう/\こんが〔ら〕かつて滅茶々々になると又已めて仕まふ。斯樣に已めては書き、書いては已め、緩より急になり、急になつてやめ、又緩に始まつて急に終るといふ風であつたさうである。
○宇都宮とかで寫眞を撮つたのが死後八日程經つてから、寫眞師から家へ屆いたさうである。普通の顔をしてゐたと云ふ。
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○五月十四日〔日〕 急に端書が來て國振の御馳走をするから今夕來てくれと云ふ。ついで電報が來た。五時といふ約束だけれども少し後れて六時過につく。江戸川から電車に乘つて、駿河台下で乘換えて呉服橋で乘りかえて、又茅場町で乘りかへて、築地橋で下る。新富座は雁次郎とかいふ役者の興行で大分賑かである。
 松根の宅は妾宅の樣な所である。築地邊の空氣は山の手と比べると遙かに陽氣である。水の光も柔かに見える。日のあるうち一寸散歩に出る立教中學の横から月が出る。薄赤い光りの下に圓があるが、其圓が高い家根でよく見えない。川沿を右へ曲つて月耕と云ふ畫家の前を通つて、乘りつけの車屋の所で電話をかける。御話中、又右へ折れて月島通ひの職工の通る町を國光社の處迄來て白働電話をかける。
○御馳走はさつま〔三字傍点〕といふものである。是は白味噌の中へ魚肉を擦り込んで中に同じく魚の切|味《原》を生で入れて、葱を副へて、釜から移したての熱い飯にかけて喰ふ。其外に梅肉といふ梅びしほに似たものがあつた。
○此間は越後の燕の人から寺泊の名産孕みずしと云ふものを貰つた。壽司だけれども飯はない。鯛の子を鯛の身で柏餅の樣につゝんだものである
○一二年前は新喜樂で婆さんから大明魚の子と云ふのを食はされた。飲めますよと婆さんが云つた。
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○御梅さんを嫁にやるので妻が先方へ行つて話をして來た。
×始は親類へ周旋する筈だつたのが其方が不縁になつたものだから、今度は自分がもらふと云ひ出したのである。
×所が一年中に二つ嫁入を出すと、嫁に惡い事があると妻が聞いたので御梅さんの里がなくなつて仕舞つた。兄は大連にゐる。母は淺草に居るけれども、是は御梅さんと何等の關係もない。
×あしたが日がいゝので十時から一時の間に結納の取替せをするんだと云ふ。結納の字を書いてくれと云ふが、何とかくやら分らない、此間御房の處へ贈つて來たのはうろ覺えに覺えてはゐるが殆んど樣式を忘れてしまつた。のみならず女からのは假名で書くとか、男からのは本字でかくとか若しくは其反對であるとかで丸で分らない。
×うちで里になつてくれと云ふが前の譯で駄目になるとすれば或は媒人位にはならなければならない。とすると紋付の着物位は着なければならない。
×妻と三々九度の議論をした。女から飲んで男が受けて今度は女が納める。それを別々の盃で三度繰り返すのが法だと妻が云ふから、さうぢやあるまい。一つ盃を男が呑んで、女が受けて、女が又呑んで男が受けて納める。その度に三度注ぐ眞似をするから三三九度になる譯だと云つた×結納は台にのしを付けて、白髪を包んで、眞中へ金を包む水引をかけた包を載せるのださうだ。此金は男が三十圓出すと、女が十五圓と云ふ風に半分を返すのださうだ。おれの時は三十五圓出して三十圓返して貰つたのださうだが吝《けち》な事である。尤も地方によると男が澤山出して女はいくらでも構はない所もあるさうだ。
×御房さんのときは男の方は四圓で女は二圓であつた、其代り向ふから指環が來たから此方は袴地を買つてやつた。御房さんの結婚は兄さんが七八十圓うちで百圓程出した。縮緬の二枚、帶、簟《原》笥、鏡台、用箪笥、夜具等である。夜具は蒲團二枚かけ蒲團と夜着で更紗の木綿で二十圓程かかつたとか云ふ。
○御梅さんのはときはさんに貸してある紋羽二重をやつて、母に貸して六圓の質に入れた帶を出してやつて都合するんだと云ふ。夫から西村が質に入れた着物を十五圓程受け出してやつて、箪笥は淺草へ行つて見てもし西村が賣り拂つてゐなければ夫を持つて行くのださうだ。鏡台はある。針箱は破れかゝつてゐるが繕ろへばよからう。其外に夜具を一組作つて夫で間に合せる積である。
     ――――――――――
○昨日松根の所へ行つた時は晩から夜にかけてゞあつたにも拘はらず、シヤツなしで襦袢を着てゐた。今朝は雨が降つて急に寒くなつた。フラネルの寐卷で起きて見たら堪えられないですぐ袷を着た。夫でも寒いので綿入羽織を着た。猶凌げないので湯に入つた。遂に股引を穿いた。五月は十五日である。
     ――――――――――
○昨夜御梅さんの結納を「方《原》正」へ書かせられた。御房さんの書式があつたから其を引きうつしの樣に眞似た。たゞ指環一個といふ所丈を拔かした。
       目録
  一勝男武士      壹台
  一子産婦       〃
  一壽留女       〃
  一志良賀       〃
  一末廣        〃
 右の通幾久敷御受納被下度候也
 以上
  明治四十四年五月十五日
 ほうしようと云ふ紙は墨を吸ひ込んで丸で書けない字の坐りも惡い、恰|形《原》も變である。書法は丸で駄目、自分ながら厭になつて、三四枚消をした。妻がそんなに反古にされちや困ると云ひ出した。やつと書いて「右の通り」の處へくると、「御受納」と云ふ字で一行一杯になつて仕舞つた。第二行目には「以上」の二字丈でなくちや不可ないか、はみ出しちや駄目かと聞くと妻も考へてゐたが多分駄目なんだらうと云ふ。仕方がないから又書き直した。さう崩さないで謹直に書いて呉れと云ふ注文を妻がする、と云つて顔眞卿の樣な楷書ぢや字がぶそろになつて一劃一劃が思ひ/\の品をして丸でしめ括りのない字になる。仕方がないから略した樣な本字の樣な楷とも行とも草とも片付かないものを書いた。我ながら淺間しいと思つて、内心は悄氣てゐた。是でも先達は頼まれてヌメへ二三枚書いたんだがと思ふと何だか人が違ふ樣な氣がした。妻はそれを受け取つて器械的に細く折つて(二枚重ねて)机の上へ置いた。
     ――――――――――
 十七日〔水〕
○昨日は大變な御客が來た。十一時頃生田が平塚明子の御母さんを連れて來た。朝日に出てゐる自敍傳を徹《原》回してくれと云ふのである。段々事情を聞くと森田が全然違約してゐる。生田に車で森田の處へ迎ひに行つてもらふ。社へ出てゐるからとて電話をかけて呼び寄せる事にしたら。手紙を寄こして行かぬからといふ事であつた。小宮が來てゐたので又車で迎にやる。夜八時頃迄かゝる。
○黒本植氏が修學旅行の生徒をつれて來た序に行徳が連れてくる。
 嵯峨へ雪見に行つて瓢の酒を飲んでゐる時に嵐山小學校の看板がうまく出來てゐたので筆者を聞いたら容易に分らなかつた。後に鹿苑の獨山と知れたといふ話をする。三十年前坊主を救つたら其法兄が私を尋ねてゐるといふので尋ねて行つたら仁和寺の和尚であつた。和尚が畫をよく描くと云つてゐた。良寛が飴のすきな話をした。良寛に飴をやつて、其飴を舐る手をつらまへて、さあ書いてくれと頼んだら、よしと云つて其手は食はんと書いたさうである。
○高田の姉が此間から喘息で寐てゐる。滋養物をちつとも食はない。此度は六づかしいかも知れないと醫者が云ふから見て來てやれと矢來から云つてくる。姉ももう死ぬのかと思ふと不憫である。
 田中から質の流れの絽の紋付を五圓で矢來の兄が買つたといふ事を聞いた。不思議な事に紋が菊菱で自分のと同じだものだから田中から知らせてくれたのださうだ。田中の御市ちやんは阿漕だと云ふ。高田抔で質を入れても利を一錢も負けない。亭主の方は寧ろ寛大ださうである。
     ――――――――――
 五月十九日〔金〕。此間の木曜にも今度の木曜にも鈴木春吉が來る。三年ばかり宇都宮の叔父さんの處から上州の安中から横濱の親類のうちを回つて歩いて、東京へ歸つて見たら自分の宅は引越してゐたと云ふ。隨分呑氣な男である。宇都宮の叔父さんは新聞屋さんですといふ。下野新聞の社長らしい。安中の御叔父さんは小學校の先生ださうである。近頃は成城學校の傍の原へ行つてベースボールをやつてゐるさうである。指を怪我をしたと云つて繃帶を卷いてゐる。ベースボールの講釋をきく。
 春吉から「大和」の馬場といふ男がカフヘー・プランタンで喧嘩をした話を聞く。此人は醉ふと笑つて怒つて泣いて一人で三人上戸を兼るんださうである。何でも待合の上さんか何かゞ御客と一所に來てゐたら、カフヘーのものが夫を大變丁寧にするのが癪に障つて、何でえ、向ふが客なら此方も客だと云ふ樣な事を云つてじぶくり出したら、來合せてゐた松崎天民が仲裁に這入つたら、第一手前が癪に障るんだと天民へ喰つて掛つた。西洋人がなだめると、箆棒めぺら/\分らねえ事を云つてゐやがるとか何とか方々へ吹き掛けてとう/\皿を抛げて壞して仕舞つた。所が其皿は佛蘭西製のものださうである。當人は皿が惜けりや歸《原》してやらあと懷から紙入を出したのを主人がまあ/\夫には及ばないからと止めたさうである。尤も此皿は彼の財布の底を沸いても辨償する事の出來ない位なものらしかつたのださうである。翌日主人は彼の定連たる事を謝絶して、どうも君の樣なものが來ると外の邪魔になるから止してくれと云つたさうである。
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 春吉が又玉章の話をした。多分若い時の事だらう。いゝ旦那があつて、夫が手分をして玉章のものを買ひ集めにかゝつた。さうして有りさへすれば馬鹿な價でどん/\買つて仕舞つた。夫から書畫屋の方でも玉章といふと大變よく賣れるといふ評判になつたのださうだ。赤い日の出の下へ波を二つ程かいて夫で三十圓とか云つてゐる。
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 昨日十九日高田のうちへ見舞に行つた。築|戸《原》の廣くなつた通りを行つて、箪笥屋の角の細い通りを曲つた横町である。古い塀のある、古の《原》屋根の小さい家だ。玄關の二疊の疊などもさゝくれて汚ない。其次の南向の六疊に炬燵櫓の上へ枕(タエルで包んだ)をつけて、下に薄い蒲團を敷いて臥《原》きてゐた。婆さんが脊中をさすつてゐた。是が○○の旦那ですかと云つて驚ろいた顔をして、御見外れ申しましたと云つて、鯨の手の着いた四角な莨盆へ火を入れて出した。座布團も黄縞の木綿の薄いのであつた。けれども小ざつばりして垢は着いてゐなかつた。室が古いのに額が古いから何處も清新といふ感じはない。額は四五年前に見た。筒井憲と喜いたのと佐瀬得所のと夫からまだあつたがいづれも茶色になつてゐる。何を見ても廢頽の感じがある。たゞ庭の先に葉を出した秋海棠と、五月十九日の開放しにした障子の外の空氣、(空は見えない)と、病人の着てゐる、紡績織の繻子の半襟のかゝつた袷丈が陽氣に見える。
 「此うちは始めてだ」と云つて、見廻した。「どうです、少し惡いさうぢやありませんか。然し思つたより可いやうだ。○○の話ぢや食物が……」
 姉は口を切る前に唾を呑み込む樣な樣子をして、
 「でもね。やつと昨日から少しづゝ御|飲《原ぜん》が食べられる樣になつて――いえ重湯や御粥ぢやない、御ぜんをね――どうも夫迄は御箸の音を聞いても厭な心持がして、御醫者さんが、病氣は夫程でもないが營養が取れないと衰弱するからつて、無理に何でもいゝから食べろつて云ふんだけれども、食べると、すぐ反吐して仕舞ふ――ぢや御かゝのソツプが好いだらうつて、――そら私が御肴だの何だの丸で食べない事を知つてゐるものだから――御市ちやんがわざ/\親切に拵らえてくれてね、好ければ又|拵《こせえて》えると云ふんだけれども、さう/\は氣の毒だから、今度はうちで拵らえたんだが、――御市ちやんもあの旦那も養子だけれども、まことに親切にして呉れてね、叔母さん/\て、大事に〔して〕呉れる。あの人は働きものでね、近頃ぢや大變都合がいゝ樣です、謠が道樂で鼓もやるしね、御弟子が二十人ばかり有つて、利口な人は違つたものでね、道樂をしても御金になる事をやるからね、」
 言葉丈ははき/\してゐるが、其はき/\してゐるうちに重苦しい努力があつて、何時もの樣にのべつではない、時々呼息を切る。其所に餘裕があるので聞いてゐても聞きよかつた。
 「此間○子さんにも御願ひして置いたが、もし私が萬一の事があつたら、あれ丈をどうか御願ひします義理が惡いから」
 何でも出入の髪結の金を十五圓とか預つたのを使つて仕舞つたから、死んだら返してやつてくれと云ふんださうだ。
 「かうやつて、我慢で遣つてゐるうちは可いけれども今に口も何も利けなくなると何うする事も出來ないから今の内御願ひして置きます、夫からね、御葬の費用を少しすけて下さい。夫から、兄さんに小使を少しづゝ遣つて下さい。○ちやんがあの通りやくざだから……」
     ――――――――――
 二十一日〔日〕 五月
 高須賀淳平が病氣見舞の禮に來る。先月一寸ぶり返したと云ふ。同じ血でも咽喉から出るのと足を切つて出るのは違ふと云つてゐた。
 ○○の社長が信長の樣な人だと云ふ事を云ふ。多數彼の爲に盡す代りには光秀が出て來る。彼は社内で博奕をやつて、負けると月給に棒を引いたものださうである。紙屋へ代が拂へないと、頬冠りをして車を引いて紙屋へ出掛けてゆすつて、さうして紙を供給さした。云々。
 
 神田の白牡丹の主人とかゞ梅毒で病院に這入つたものが余の猫を讀むのに書物の小口が切つてないのを看護|刀《原》に小刀をよく研いで切らせる所が、小刀が切れゝば切れる程切り損ふと、主人がなる程漱石といふ男は人に手數をかけるべく出來上つた男だ。博士問題を辭して文部省に手數を掛けると同樣の遣り口だ。と憤慨してゐたきうである。此主人は電話で妻を病院に呼んで時計の時間を計つて、細君の病院へ來た時間と途中の時間を比較して、御前は何時何分に出ると云つたが、時計の上で是々掛つてゐる。嘘だらうと一時間位小言を云ふのださうだ。
     ――――――――――
 五月二十一日
 川羽田からの手紙に、苗代ももう二寸ばかりに伸びまして、麥も漸く色づいて來ました。昨秋の大洪水の結果として財力疲弊の極に達してゐる今日此頃收獲の期に近づいた麥圃を眺めることはどの位愉快で心強いか知れません
     ――――――――――
 五月二十一日
 えい子が二三目前八つ位の學校友達を連れて來た。其子が御辭義をするから、へい入らつしやいと云つた。あとから二人遊んでゐる所へ行つて、あなたの御父さんは何をして入らつしやるのと聞いたら御父さんは日露戰爭に出て死んだのとたゞ一口答へた。余はあとを云ふ氣にならなかつた。何だか非常に痛ましい氣がした。
     ――――――――――
 五月二十二日〔月〕
○森圓月が掛物の箱を抱へてくる。何かと思つたら余の書いたものを表装したのである。懸けて見せると云つて壁にかけた。余としては好い出來には相違ないが、矢張り拙い。赤坂の溜池とかへ表装にやつたら、職人が粗忽をしたと見えて、乾かない所を刷毛で撫でたと見えて、紙上の墨が白い處へ薄く流れたと云つた。よく見ると左樣見えるが然し大した事はない。序に箱へ何か書いてくれと云ふから日々山中と書いた上に裏へ明治辛亥初夏漱石山人と認めた。是も注文である。まづい出來である。又序だと云つて唐紙へ青山元不動白雲自去來と書けといふから書いた。二枚書いたが是は少々俗氣なく出來上つた。圓月は兩方取つて歸つた。
○圓月の話に近頃は(玉泉堂の番頭の話)短冊が丸で賣れなくなつた。して見ると歌がはやらなくなつたのだらう。其代り絹が大變賣れ出した。もとは東京中で絹を商ふうちが三軒で壹ケ月の賣上高が千圓位だつたのに、今は十軒もあつて一萬圓も賣る。此間去る畫家の畫會があつた時は一日に絹が千枚賣れたさうである。
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 晩に帝國劇場へ(文藝協會の案内で)ハムレツト劇を見に行く。四時からだけれども、虚子が來て謠を二番うたつたので遲くなつて、六時過になる。七時に食事のため三十分の幕間があつたので、ぶら/\してゐると、二階の玄關上で大塚と千葉掬香と、畔柳芥舟に會つた。千葉先生は葉卷をふかして、どうもあれぢや聲が徹らないから駄目だと云つて、私はカインツのを見たと云つてゐた。いつそ外國語學校の卒業生に原語でやらせたらとも云つてゐた。
 坪内さんは氣の毒だ。あんなに骨を折つて、あれ丈の事をしたが、それが全くの無理な勞力である。坪内さんがあんなに沙翁にはまり込まないうちに、注意して翻へさせるとよかつた。あれ丈の人、あれ丈の金、あれ丈の時、と勞力、――あゝもつと有効が《原》事がいくらでも出來る。氣の毒な事だ。あの連中は不入ならば世間が惡いと云ふだらう、一般の人が見なければ、それは無教育だからと云ふだらう。失敗すれば自分が惡いとは思はないで、まだ劇の趣味が發達しない抔と云ふだらう。そんなものぢやない。あれが成功したら夫こそ趣味も何もない上調子のわい/\連ばかりで世間が出來てゐる事を證據立てるのである。あれが失敗すれば世間が分つてゐる證據である。
 理由は述べればあの人々に納得の行く樣に述べる事が出來る。坪内さんがあれ丈の事をし出す勢力がある丈それ丈、坪内さんが人を誤まつたやうな氣がする。上にゐるものは眼が利かなくつては駄目だ。幾多の雜兵の命を奪つて、それで仕事をしとげたと思つてゐる。
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 五月二十四日〔水〕
○昨夜十一時頃謠會から歸ると、純一が頭が痛いと云つて、氷を載せてゐる。時々痙攣があつて、脳膜炎の樣だとの事。醫者をどうしやうかと考へたが、樣子が少しいゝ樣だから見合せたのだと云ふ。心配でならないが寐た。朝起きると純一は鉢卷をして遊んでゐた。幼稚園でころんだとかさうして笑つたとか要領を得ない事を云つてゐる。
○朝評議員會議に行く。初雷、驟雨至る。
○米がひまをもらひ度といふ。どうするのかと思つたら、又もとの亭主と一所になるんだと云ふ。此亭主は向ふの駄菓子屋の表に住んでゐる。米は千葉のもので嫁に行つた先の亭主が飲んだくれだといふので離縁をして、東京へ出て來て今の亭主の處へ片付いた處が、亭主が矢張呑だくれで、米の奉公をしてゐる時にためた五十圓と衣類を卷き上げて、其上打たり擲いたりひどい事をするので米はとう/\自分の家へ奉公に來て仕舞つた。すると亭主の方ではまだ何だ蚊だと云つて付け纏つてくる。米も此五十圓を取り還したいと云ふ未練がある。其内亭主の所へ女が來た。それが新らしい女房かと思ふと又今度は束髪のが來た。來たといふ通知があると又間もなく出て行つた。すると今度は米が元へ歸りたいと云ひ出した。
○御房さんが嫁に入《原》つて女の手が一人足りなくなつたので新たに來た女は米焚に使ふ事にした。是は柳町の富士屋に奉公をしてゐた處が富士屋がつぶれて又此方へ奉公替をしたのださうである。實はもつと早く來る筈の處給金のたまつたのを取つてからにしやうと思つて遲くなつたのださうである。所が今日の夕方富士屋から此女の貸を證文にして持つて來た。それが僞證文らしいとか何とか云つて、持つて來たものを物置へ連れて行つて色々話をしてゐた。
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○五月二十五日〔木〕
 豐田さんが來て純一に注射をする。第三號のヂフテリや血精、免疫千五〇〇。
○小林が來る《原》から一所に散歩する。相變らずべら/\のべつに喋舌る。弟は下駄穿のまゝ華嚴へ飛び込んだのださうである。さうして瀧壺へでなく、瀧の中へ躍り込んだから、瀧と共に下るのが一二間見えたさうである。大体は巖頭に立つと蒼くなつて顫へて、已を得ず瀧壺迄下りて行つて其所から飛び込むんだと云ふ。あるときは親子三人飛び込んだ。其時父は謠をうたひ、娘は舞をまひ、母は三昧を彈いてから飛び込んだ。ある投身者の許嫁の女が女親と一所に來て、巖の上に坐つて、此所から飛び込んだのですかと聞いて二時間ばかり、動かなかつたと云ふ。先年宅にゐた伴男も華嚴へ飛び込む積で其所へ行つて茶屋へ休んでゐると、向ふ側から書生体の男が來て瀧の上で洋傘を置いて、袂から袋を出してそれを頭の上からすぽりと被つて、さうしてすぐ飛び込んだのを見て、怖くなつてすぐ引き返したさうである。
○小宮の話に鈴木は結婚したと云ふ話である。余は丸で知らない。相手は例の平野屋の御常ださうである。御常といふ名を聞いて、愈かと思つた。何でも此前の水曜に三十間堀の富貴亭で結婚式をあげたんだと云ふ。丹羽とかいふ男が媒酌人だか、里親だか分らないものになつてゐるさうである。富貴亨は會席膳が一人前一圓ださうである安いものである。
○御梅さんの甲州にゐる叔父さんが結婚費用として十圓送つて來たといふ。妻はそれを簟笥の方へ廻したと云つてゐる。簟笥は三方桐で十圓乃至七圓大變安いんだといふ。人足は一人車で夜具と簟笥を積んで先方へ屆ける事にした。向ふでは祝儀の都合があるから何人だか知らしてくれと云ふから、さう極めて仕舞つた。先方の御母さんが、中の日だが何うでせうと云ふ。今迄ゐる宅を去るのだから丁度好いだらうと答へてとう/\さう極つたと云ふ。荷物は今夜出す筈である。櫛に中ざしは御房さんと同じ卵甲だけれども大變安い、兼安で買つたのは十圓|積《原》であつたが、今度のは三圓五十錢である、さうして見た所は同じである。平打の後ろざしは金|卷《原》繪に青貝の蝶を出したものであつた。
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 五月二十六日〔金〕
○二十二日 帝國座文藝協會のハムレツトへ招待
○二十四日 會議
○二十五日 大掃除
○二十六日
○二十七日 御嫁の媒人
○兩國で電車を降りて馬喰町から左へ曲つて大丸の通から人形町の通へ出ると遠くに柳|々《原》が兩側に青々と見えた。明治座の處から濱町の日本橋倶樂部の横を這入つて細い洒落た家のある小路を曲つたり折れたりしてとう/\河岸へ出たら橋の臺を錬《原》瓦で積んでゐた。柳橋を渡〔つて〕深川亭の所から瓦町へ出て須賀町から工業學校の前へ出ると記念祭の花火が上つた。藏前で鋏を買つて烟草を飲んで電車に乘つて歸る。
○晩に簟笥へ唐|樣樣模《原原》の袋をかけて、車に積んで夫に夜具一包と、用簟笥と、針箱と鏡台を添へて美添へ送る。車夫にはこつちからも向ふからも五十錢づゝやるんだと云ふ。
 八時過に御梅さんが長々御厄介になりまして、此度は又一方ならぬ御心配を掛けましてと云つて暇乞に來る。今夜は淺草へ行つて一晩留つてあす美添へ落ち合ふのである。方がわるいからだと云ふ。
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 五月二十七日 (土曜)
○夕方から御梅さんの媒酌人として御婿さんの所へ行く。西五軒町だから車で行けば大した道程ではない。こゝだと云はれて見ると表通りから細い通り否寧ろ路次に這入る。車がからうじて拔けられる處である。其所の二軒目の小さ|ん《原》門の處に「美添」といふ標札があつた。つきあたりの格子戸を開けると、如何にも手狹でありさうに見える。沓脱に立つて一人が自由に身を動かす事さへ出來ない。美添さんはこゝに御母さんと、弟と妹と都合四人で住んでゐる。夫に御梅さんを加へると五人である。床を敷いたら寐る所もあるまいと思はれる。玄關の右が茶の間と見えるが、是は二疊か三疊ですぐ台所につゞいてゐる。玄關の奥の座敷は六疊に過ぎない。其横に三疊があるが唐紙で見えない。余と妻と筆はそこへ坐つて御母さんに挨拶をした。御母さんは色の黒い五十四五の女であつた。田舍もの見たやうな顔ではあるが、然し眼鼻だちは整つてゐる。其上言葉遣抔は極めて上品である。
 式は手狹だから裏でやると云ふ。裏といふのは今迄御父さんの存生中住んでゐた家で今度人に讓り渡したものである。建仁寺の間を拔けるとすぐ小さな庭へ出る。余と妻は一寸式をやる處を拜見と云つて、縁側からあがつた。汚ない古い家である。座敷が二つある。奥の方で式をやるので次の方に婿、其前の三疊の方に嫁を控えさして、我々が兩方の部屋から出て差向ひに坐らして三々九度をやらせるのである。三疊は眞闇であつたが、御梅さんの持つて來た唐草の模樣の蔽をかけた簟笥が半分見えた。下には赤い毛布が敷いてあつた。
 次の間に※[酉+兆]《原》子が二つ黒塗の膳の上にのつてゐた。それに紙で折つた雌《原》蝶雌蝶を結ひつける。妻はどつちが雄でどつちが雌だか分らないと云ふ。御母さんに聞くと私もこんなものを書いた本を仕舞なくしたものだから、と云つて、二つを並べて見て、たしか此先の尖つた方が雌かと思ひますと云ふので、さう極つた。余は手傳つてそれを※[酉+兆]子に結びつけた。其部屋には晩の御馳走の口取が並べてあつた。海老の赤〔い〕のときんとんが目についた。
 「おいおれは此所へ坐つて、此縁側から、美添を連れて出て、向ふむきに並んで坐るんだね」
 「さうです美添さんと御梅さんが向き合ふ樣に」
 「合圖をしなくつちや何時出ていゝか分らない」
 「大丈夫です」
 「さうして筆は何所から出るんだ」
 「筆は此襖をあけて、盃と御※[酉+兆]子を持つて御夫婦の間へ出るんです」
 筆はとくに此役の爲に庸はれたのである。
○三人は又元の家へ歸つた。そこで御婿さんに合《原》つて少し話をした。おもに圖書館の話をした。(此路次は赤城の坂の下へ拔けられる、中には五十圓位の家賃のうちがある。廣い池がある。それから三十圓位の貸家もある。其所には三四年前から博堵打が這入つてゐる。家賃はちつとも拂はない。夜中の二時か三時に女房抔が泣き込んで家には食ふものも着るものもない、歸つてくれと夫を伴れにくる。夫は今直歸るなどゝ云つてゐる。冬の寒い晩などはことに悲酸である。)
○其内御嫁さんが見えたとか云ふので妻が立つて裏の例の暗い部屋に連れて行つた。余も御婿さんと例の口取の並んでゐる部屋で待つてゐなければならない。御婿さんは何處へ行つたか分らない、狹いうちだからすぐ分る筈だが、一向影が見えない、獨りでのそ/\口取の處へ來ると、自轉車の置いてある妙な處から出て來た。此處へ坐るんだと教へて、又少し話をした。御梅さんは妻に髪か何か直してもらつてゐた。
○もう宜しう御座いますと筆が云つて來た。婿さんを連れて約束の通り縁側から座敷へ這入つて四人が向ひ合せにすわる。筆が襖を開けて※[酉+兆]子を持つて來るべきのであるが、何時迄待つても靜まり返つてゐる。妻は仕方なしに及び腰をして襖の角をとん/\と敲いた。すると筆は襖を開けてにや/\と笑つた。さうして教つた通り嫁の前へ三寶と※[酉+兆]子を置いて叮嚀に頭を下げた。夫から盃へ酒を注いで、三々九度をやる度に都合九度御辭儀をした。一方の盃を濟まして一方へ持つて行く時に立つたびに、眞中につりランプが下つてゐて、夫が筆の頭に打つかつた。リボンが油でよごれる樣な氣がした。リボンは白茶の樣な色であつた。筆は其度にうす笑をした。
○盃が濟んで元の座敷へ歸つて、夫婦の左右に余と妻がならんで向ふ側に御母さんと弟と妹が並んで膳についた。親類の盃をする。妹は九位である。黒の紋付に袴をはいてゐた。弟は外國語學校の制服を着てゐた。かねて來るべく豫期された叔父さんが來ない、是は埼玉のいはつきとかの郡役所へ勤めてゐて、極めて忙がしい身体だから遲刻するかも知れないと云つた。(筆が活動寫眞に行きたいから歸してくれと云つた。御母さんが強いてといふので飯を食ふ事にした)
○御叔父さんの來たのは彼是九時近くであつたらう。
 「どうも用が片付かないで……」と云譯をした。
 イワツキと云ふ所は太田道灌の城跡ださうで、うまく出來てゐると云ふ話であつた。舊幕時代は大正といふ二萬石許の小大名の領地であつたさうである。大宮迄一里馬車で來て夫から※[さんずい+氣]車に乘るのださうである。
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 五月二十八日〔曰〕
○妻が昨日から月經があると云ひ出した。月經が三月にあつて、四五となかつたので或は懷姙ではなからうかと思つてゐた。實は四月に月經がとまつたと聞いて、おや又かと思つた。子供は七人ある。其上病院から出るとすぐ又一人殖える是ぢや遣り切れないと考へた。所が又月經があると闘いで《原》夫では姙娠ぢやなかつたのかと思つて大いに安心した。尤もいつもの樣に惡|疽《原》はちつともなく飯は平常の如く食つてゐたから不思議だと思つてゐた。
○吾樂會へ行かうかと思つて本郷へ行つて切符を買はうかと思つたが、みまつに切符を賣る樣子がないので、聞く氣にもならず、又電車で上野迄行つて山の手線に乘り換えた。日暮里、田端、巣鴨などを通つて新宿迄來て又甲武線へ〔乘〕換へて大久保で下りた。拔辨天の坂の途中の古道具屋に虎の二幅對があつて、其畫が氣に入つたので、越前守岸駒とあるのが本當か僞かは論ぜず、價を聞いて見る氣になつたからである。音樂會へ行く時妻に金をくれと云つたら「はい」と云つて十圓渡したので、又ひやかす氣が起つたのが、《原》本で吾樂會の方を已めてわざ/\山の手線へ乘り換へたやうなものである。所が停車場を降りて其所へ來て見ると岸駒の畫はもうなかつた。
○朝は久し振で矢野義二郎が朝鮮から出て來て話をした。
○夕方になると妻が急に下腹がつゝ張ると云ひ出した。仕舞には腹の方迄突張ると云ふ。御産の輕いのをする樣な痛み方だと云ふ。中々落付さうもない、腰のあたりをさすつたり揉んだりしたが心配で不可ない。
 中島襄吉さんを頼む事にして、電話を山田さんの處で頼んで掛けると、中島さんは子供が病氣で來られない代診ならすぐ行くと云ふ。代診でいゝ惡いと云ふ議論が始まつた。妻は水原を呼んでくれと云ふ。けれども下女は代診でもいゝから直來てくれと頼んで仕舞つたといふ。夫ぢや兎に角それを待つて、其模樣で又外の人を呼ぶ事にしやうとなつた。時計を見てゐるが中々來ない、十時過になつてくる。或は流産だらうと云ふ鑑定である。口元にあるのを器械で出してくれる。器械を金盥へ入れて※沸さして、夫から藥をひたして、脱脂綿をひたして、治療にか〔ゝ〕つた。中々手間が入るので十一時半頃になつた。
○診斷によれば流産に相違ない。危險もなからうけれども出血でもあつて氣分に變化があるやうなら呼んで呉れいつでも出るからと云ふ。此方も心配になつた。氷嚢や藥鑵に湯の用意をして置く。車屋にあと押をさせて藥をとりにやる。是は出血の豫防だから今夜飲んで置く方がいゝのださうである。起きてゐやうかと相談したら何寐てもいゝとの事だから、寐た。苦しくなつたら起してくれと頼んで寐た樣なものゝ、横になると前後も知らず寐て、樂取の車夫が歸つたのも知らなかつた。あくる日眼がさめるかさめないうちに醫者が來た。仕方がないから、會はずに厠に入つて飯をくつてゐると、醫者は今日も手術をして、歸つた。玄關先で一寸逢つたら、自然の儘にして出るのを待つ方がいゝだらう、大した事は御座いますまい、先生も其内上がるかも知れんが何しろ御子供が惡いものですからと云ふ。
 妻にきくと、血が出ないうちなら、流産にせずに濟んだのかも知れなかつたのだと醫者が云つたさうだ。――其言葉を聞いて、自分の作つたものを壞して仕舞つて濟まない樣な氣がした。又殘酷な事をしたと云ふ樣な氣もした。さうして姙娠でなくて先づ仕合せであつたと云ふ昨日の安心は何處かへ行つて仕舞つた。
 
 五月二十九日〔月〕
○三山來。中島襄吉さん、松尾氏、洗滌
 
 五月三十日〔火〕
○雨ふる。柿の花點々として落つ、あい子が傘をさして、しやがんで一生懸命に拾つてゐる
○松尾氏來、洗滌、まだ少し殘つてゐるかも知れぬと云ふ。病人は平氣にて痛全くなし
○雅樂演奏〔會〕の案内あり、六月三日
 
 五月三十一日〔水〕
○雨晴、透き通る樣な空なり、湯殿の擦硝子に昨夜の湯氣が露になつて凝り付いてゐる。下に蠅が一匹靜肅にとまつてゐる。硝子の欠けた隙間から樫の若葉が見える。其葉の茂つた間から青空が見える。二つのあざやかな色が判然區別される。意識の明確になる朝である。
○十一時頃御梅さんの母(實は母でもなんでもない)が來る。斯んなに御厄介にならうとは思ひませんでした。どうも何から何迄恐れ入りました。萬事私の方で致さなくてはならないのですがと挨拶をする。涙を拭いてゐる。
 
 六月一日〔木〕
 木曜なので三重吉と小宮がひるのうちに來る。丁度「頼政」を謠ひかけてゐる所であつた。三重吉は先頃の結婚に就て、「どうも、とう/\……」何だか要領を得ない事を云つてゐる。大いに面目ない樣な樣子である。所がしばらくすると大變調子が變つて先生何か祝つて下さいと云ひ出した。「實はね、今のうちに押入の樣で唐紙の立たない所があるんで、大屋にね一体こゝには襖かなんぞあつても宜ささうなものぢやありませんかと云ふと大屋も成程さうだと云つて、大工の所へさう云ひに行くと、大工が冗談云つちや不可ねえ、ありや簟笥を入れる所だ。あの男は田舍ぺえだから知らないんでさあと凹まされちまつたんですが、東京ぢや何ですね、簟笥を装飾にするんですね、――どうでせう簟笥を一つ奢つてくれませんか、何そんなに高かあありません十圓位で買へるでせう」。「簟笥は大き過ぎるから用簟笥位で負けとけ」「そらねぎつて來た。大きくつても構ひません、先生が脊負つて來ないでも人足を出しますから」「摺鉢とか箒とか云ふものぢや間に合はんか」「益下落しますね、あんまり下品でさあ」「末廣と云つて扇は目出度いものだが、夫ぢや一層扇を一對やらふか」「夏だから扇は結構かも知れない。澁團扇に火吹竹なんざあ洒落てますね」と云つて三重吉はしきりに落花生の砂糖の衣《ころも》のかゝつた〔の〕を食つてゐる。「其内行幸を仰ぎたいもんですね」「うん何か謠つてやるよ」「どうぞ願ひます、かねての御約束通り俊寛でも宜う御座います」
 話はやがて新らしい細君の上になつた。「どうも急に世帶じみた、昨日抔も月給を取つて君の所へ行つて歸りに腹が減つて蕎麥が食ひたくつて仕方がない。けれども自分一人で食つちや濟まん樣な氣がして。とう/\宅へ歸つた。九時頃。さうしたら御つねが飯を食はずに待つてゐたよ。けれども何にもなかつた。……方々へ拂をしたら、とう/\米屋丈足りなくなつた。……あいつはね衣物は持つてゐる。帶は二十本位持つてゐる。……おれの紙入に小遣のないのを氣にして、始終五圓位は入れて置くよ。……御婆さんをよくするぜ」と頻りに小宮に話してゐた。まあ琴瑟和合といふものだらう。
○晩に春吉がくる。君は酒を飲むかと聞いたら「えゝ飲ませれば飲みます、」菓子は?「菓子も同じですな」「のん氣なんだらう」「えゝまあそんなものでせう」道龍樣のあとの原へ行つて、珠《原》なげをやると下宿の主人が出て營業妨害だといふ。すると向ふの方に住んでゐる畫師のおやぢも出て來て、自分のうちには子供がゐる。子供は末成品だ、是からどんなものになるか知れない、夫に怪我でもあつてはどの位國家の損だか分らない、失禮ながらボール抔をやる人は大抵人間が分つてゐると云つて小言を云ふさうである。
 輜重輸卒、春吉は日露〔戰〕爭のときに補助とか何とかいふ輸卒になつたさうである。になひに水を汲んだり、とろで物を運んだりしたうち二十五六貫ある破裂彈の箱を脊負つてあるいたがよく擔げたものだと自分で感心してゐた。是はころぶと危險だから歩けたのだらうと云ふ事であつた。
 
 六月二日〔金〕
○内田が來て書をかいてくれといふから書いた。かうやつて手習をしてゐるうちに旨くなるやうである。
○七時過でもまだ少し空明りがある。牛込見付から市ケ谷の方を見ると外濠の電車の下の土手が青く霧がかゝつたやうに見える。下の水は平であるが、不規則な處丈皺が寄つてちゞれた縮緬の樣になつて白く光線を反射してゐる。其平らな透明な中に長く火の柱の樣なものが寫つてゐる。それは濠端にある電燈の影であつた。其周圍には牛込の高台の老木の若葉の陰が遠くから落ちてうすい影になつてゐる。影の盡きた所に空の影がより明るく見えるので樹の影であるといふ事が分る。眼の前は左右の柳がふさ/\と雨を含んで甲武線に通ふ橋下の道からは櫻の葉が眼を射つた。電車の燈が遙かに動いて去り、又向ふから動いて來る。奇麗な畫であつた。
 
 六月三日〔土〕
○夜來の雨いまだ晴れず、陰。午頃に路略乾くやうな氣がする。
  拜啓陳者來六月三日雅樂稽古所に於て音樂演習相催候間同日午後一時より御來聽被下度候
  此段御案内申進候也
   明治四十四年五月  樂部長 宮地嚴夫
    夏目金之助殿
と云ふ。招待状を懷中に入れて家を出る。牛込御門内に着いたのは丁度一時五分前である。門内にはたゞ人力が二三台ある丈である。正面の玄關で招待状を示して、帽子と杖をあづけると、此方へと云ふから跟いて行くと左の突き當の部屋にフロツクを着た人が二三腰をかけて話してゐる。其部屋へ這入らないで、右に曲ると、金屏風が立てある間を拔けて、こちらへと椅子の並んだ所を指し示される。其所は三間を長くつなげた細長い見所で丁度舞台の正面にあたる所であつた。まだ人が五六しか來てゐない、前の列に紋付の女が三四人、一番後ろにカーキー色の軍服の士官が二人と外に五六人ゐる。尤も正面でない、左右の見所には澤山ゐた。元來舞台の三方は見所と切れて雨も日も自由に屆く。其間は四五尺もあらう。それを直角に三方から取り卷いて見所としてゐる。向つて左の方には束髪の袴の女が澤山ゐた。是は學習院女子部に關係のある人たちだと後から聞いた。其隣りの仕切つた所には大槻文彦さんの顔が見えた。隣に十徳を着た白髭の爺さんがゐたが、是は何だか知らない。右側の見所は高等師範とかきいたが是は見えなかつた。
○舞台の正面には赤黒の木綿幅位の切を竪につぎ合せた幕がかゝつてゐる。さうして其一行に妙な紋が竪に並んでゐる。あとで聞いたら織田信長の紋ださうである。信長が王室の式微を嘆いてどうとかしたと云ふ縁故から來たものださうである。其幕の上下は紫地に金の唐草の模樣ある縁で包んであつた。其前の眞中に太鼓がある。是は薄くて丸い枠のなかに這入つてゐて、中央に金と緑と赤で丸い模樣がある。左りのはぢに火慰斗位の大さの鐘是も枠に入つてゐる。琴が二、琵琶が二面 其前は青い毛氈で敷き詰めた舞ふ所である。見所には紫に白く菊を染め出た幕が張つてあつた。
○何時の間にか傍に鍋島侯爵が來て誰かと何か話してゐる。今日は教育會があるので來られないと云ふのは細君の事なんだらう。つゞいて坊主頭の丸々した眼の丸い小作りな處が鍋島と話をしてゐる。是は後で皇太子妃殿下の兄にあたる九條公爵だと云ふ事を教はつた。もう一人細君をつれて來た無髯の人(人品のあまりよくない男)は此等の人と話をしてゐたが、是は古谷久綱と云ふ故伊藤公の引立を受けた式部官であつた。細君の紋が曾我兄弟の紋なのが眼についた。あとであの細君はどこから來たときいたら慥か伊東元帥の娘だとか云ふ話であつた。伊東だからあゝ云ふ紋をつけるのだらう。高崎正風と云ふ御歌所の長も見えた。山口圖書頭の顔は知つてゐた。頭がすつかり禿げた、沙翁の寫眞〔の〕樣である。高橋順太郎?(醫科の)文科の漢學の御爺さん(名前が出て來ない)、宮内次官の河村金五郎(是は二十|年《原》餘年前大學のボートレースで顔丈知つてゐる)坪内博士夫婦?
○やがて樂人が出た。みんな烏帽子をかぶつて直垂といふ樣なものをきてゐる其半分は朱の勝つた茶で、半分は紫の混つた茶である。三臺塩と云ふ曲と、嘉辰といふ朗詠をやる。夫が過ぎて舞樂になる。始めには例として振鉾をやる。其時の樂人の出立は悉く鳥兜と云ふのだら〔う〕妙なものを被つて、錦で作つた上下の上の鯨の骨の入らないやうなものをきて、白の先て《原》幅三寸位の赤い絹のついた袖をつけて、白い括り袴で胡坐をかく頗る雅である。鉾をもつたものは一人左の帳の影からでる筒袖の先を括つた上に矢張りチやン/\の樣なものを着てゐる。夫が舞ひ已んで、此度は右から又一人出て夫で御仕舞である。
○次には「春庭花」是は四人冠をつけて其冠に梅の花を插んで出る。薄茶の紗の樣な袖の廣い上衣に丸い五色の模樣の紋を胸やら袖やらに着けてゐて、片肌を脱いで白い衣と、袖のさきの赤い縁をあらはしてゐる。帶の垂れた所に紫の色が見える。黄金作り〔の〕太刀を佩いてゐる。ヅボンは白である。四人が四人調子を揃えて如何にも閑雅に舞ふのである。足の踏方手ののばし方優長な体操である。
○次は敷手〔二字傍線〕である。樂人の服装は悉くあらたまる。けれどもカツトは前と同じなり。舞子は薄納戸の紗に例の五色の模樣、模樣は胸に一つ左右の袂に一つ、股の前に一つ、尻に一つ、脊に一つあり、
○拔頭、毒々しい天狗の樣な面をつけて出る。袖口を括つた朱色の衣、褪赤地に唐にしきの樣な模樣の二つ三つあるチヤン/\、肩から胴、上膝〔の〕所迄同じ幅で垂れてゐる。さうして縁に細い房の幾重にもなつたものをつける。あたまは錦の頭巾の樣なもの、坊主が因《原》導を渡す時の恰好のもの、ヅボンは錦なり、凡てが丸で錦の獵人也
○還城樂は服装は略同じ、面は失張眞赤なれど飄逸の趣あり、團子鼻、金蛇を持つて喜んで躍る。
○蘇志摩利、珍らしきものゝ由、青い簑の樣なもの、をばら/\に着て、腰に青い笠をぶら下げて四人出てくる。中頃から腰の笠をかぶつて舞ふ。
○御茶を上げますと云ふから、別室に行つて狹い處を《原》紅茶を飲み、珈琲色のカステラと、チヨコレートを一つ食ふ。サンドヰツチは食はず、喫烟室で煙草を吸つてゐると、東儀氏が誰かと話してゐる。東儀はやがて去る。
 「とう/\――を罷めて役者になつたさうだ」
 「儲かるのかね」
 「えゝ儲かるんだらう」
 「大變なものになつたね」
 「此間ハム〔レ〕ツトとかを演ると云ふ事が新聞に出てゐたがあの方なのですか」
 「えゝさうださうです」
 岩倉掌典長と九條公爵と萬で《原》小路の三貴族の間にこんな談話が交換されてゐた。
 
 六月四日〔日〕
○快晴、急にあつくなる。フラネルの下に薄い襯衣を着てゐて、坐つてゐると少し堪えがたい
 
○六月五日〔月〕
○暑昨日と同じ北側の縁に出て、籐椅子に寐て、ノイエ・ルンドシヤウを見る。地面が濕つて滑かで實に好い氣持で英國などでは千金を出してもこんな色と肌色《原》の地面は手に入らない。萩は柔かく伸びて二尺位になつた。其隣りの薄も細い葉を左右前後にひろげた。紫陽花は透る樣な葉を日に照らしてゐる。猫の墓標は雨で字がかすかに殘るやうになつた。前に白い小さな茶碗が具《原》へてある。其前に生けた竹筒の口だけが見える。中から薄紫の花の色が出てゐる。小供が東菊を插したのだらう。靜かな眠つた空氣であつた、(少し曇つてゐたから)其中でカン/\と云ふ、鐵を打つ音がする。(昨夜宗參寺の門前を通行したら新らし、く徃來に堀り上げた土の底が幽かな火に照らされてゐた、穴の中に蝋燭が立つてゐた、向ふに提灯を點けて、三四人がアン※[ヰに濁點]ルの上で鐵を打つてゐた。大きな鐵の火鉢もあつた。)大方昨夜の工事のつゞきだらうと思つて聞いてゐた。
○一週間前に黒い猫をもらつて來た。是は飄げた顔をした怪物であつた。貰つた夜はえ|ひ《原》子とあい子をひつかいて寐かさなかつたと云ふ。次の夜は妻の夜具の上へ糞をした。其次の夜はゲツ/\と云つて何か吐いた。又其次の日はあい子が猫の糞をつかんで泣き出した。今日は朝からオルガン〔の〕後ろへ這入て仕舞つた。さうして泡の樣なものを吐く、尻からは寒天の樣な粘液を出す。柳町の醫者の所へ連れて行つたら小さいのに無暗に硬いものを食はしたからだと云つた。牛乳以外に何にも食はしてはいけないと云つて藥をくれた。診察料と藥で四十餞、下女は足りないから又來ますと云つて歸つて來た。藥を飲んだら元氣になつて其日の夕方から疊で爪を磨ぎ出した。
○Natural dwelling for passenger と書いて障子に張つてあるのに驚いて軒燈を見ると、朱で天然居と書いてある。勝手口の障子には天然居勝手口也と貼りつけてある。格子の上を見ると支那人の名刺が五六枚貼つてあつた。
○目白に行つて麥の正に黄なるを見た。
 
 六月七日〔水〕
○新の所へ行つて隅田川の語りを習ふ。藤野老人が近頃出京して新の家に居て新版の謠本の校正をしてゐた。老人が酒と碁は上達しないといふ話の序に勝負事の談になつて、雨敬の花をひいた事を話した。雨敬とか澁澤とかいふ連中が花を引くと二日も徹夜をする。無論さう云ふ席へは人を入れないが、藤野老人の知つてゐる某といふ男は近い關係からそんな所へ出入りをして、急用のあるときは一寸と云つて室外へ呼び出して用を辨じた。元來此等の人は所謂紳商だから金持に違ないが、千以上負けると「むき」になつて、いきり出してくる。さうして話があつて呼び出しても頭が整はない爲に一向纏まりがつかない。然るに雨敬のみは神色自若たるものでいつ呼び出しても其席で平然として平常の如くに用を辨ずる。是が彼の他と異つた所であると、藤野老人は雨敬との關係で久松家が甲武鐵道の株をあんなに買つたのだと話してゐた。
 藤野老人は昔の留守居役であつたので、始終御馳走の席などへ出たが、其頃は客十人に就て盃が四つ位と云ふ割で一人が一つ宛は盃を有つてゐなかつた。其所で主人役はいつでも盃をもらつて歩かなければならない。酒が呑めないで役も勤まるまいと思ふ位苦しんだと云つてゐた
○徳田秋江が來て姦通事件の話をする。小説の樣に面白かつた。御増と岡田、秋江の淋病、關口台町から喜久井町、増の姉の亭主文吉、文吉の家で團扇を見て、日光の宿屋へ行つて一軒々々去年の宿帳を調べてあるく事、神山旅館に、岡田某同増と書いてあつた事、文吉との談判、神田の家具屋の齋藤と云ふ所に妾奉公をしてゐるといふ嘘、御増の實兄の女房の兄の三百代言、向ふの利害を代表して來て、秋江の味方になつて、岡山へ岡田をゆすりに行かうと云ふ相談、徳田の岡山行、女の東京へ歸り、徳田が後から歸ると女はもうゐなくなつてゐる。
○伊藤長七君來、愈長野の教育會へ出席の事を諾す
 
 五《原》月八日〔木〕
○結城素明と森圓月と來て、繪と書を交換す。素明の話に、大阪に森一鳳といふ繪家がゐて、あるとき雨が降つてゐる藻刈舟を畫いたら、人が續々頼みに來る。仕舞には藻刈舟に飽きて外のものを畫いたら氣に入らなかつた。是は藻を刈る一鳳(儲かる一方)と云ふ謎なのであるさうである。近頃美術院派の畫家に梅村(倍損)と云ふのがあつて、ちつとも流行らなかつた。其弟には櫻村(大損)と云ふのがゐて猶流行らなかつた。とう/\名前を易へて仕舞つたさうである。
○同素明の話に、文晁時代には席畫を二三度かくと一年の生計があつた。是は御大名が御客をする餘興に畫家が出て席畫をかく大抵はうちから畫いて行く位形式的なものであつた。すると其御客が三十人ゐるとすれば三十枚かゝなければならないが、是は歸つて約一年のうちにかく。さうして其料は主人側の大名から取るのださうである。さうして文晁にはこんな席畫が毎日のやうにあつたさうである。
 
 六月九日〔金〕
○本多來
○早稻田鶴卷町から關口へ出て土手傳に細川家の裏から砂利場へ出て、學習院の裏を落合に出て、高田停車場から歸る。
×關口で瀧の上のちよろ/\流を小供が跣足で渉つて遊んでゐる。左側の田圃に水菓子屋氷屋抔出來る。
×田は鋤き返して苗代三寸許り、畔に青草、遠く望めば青々としてゐる、學習院の裏へ出ると向ふに青い高い土手、其上を電車が通る、
×アーチの赤|錬《原》瓦、鐵橋、
×麥刈り入れ、
×芋の芽一寸
 
 六月十日〔土〕
○會議に出る。森田の小説不評判、半ば辨護、半ば同意して歸る、
○昨日は帝國座で高麗連の惣見があつた。例の御種さんが藤間の關係から切符を持つて來て、奥さんどうぞ入らしつて下さいと云ふ。少し都合が惡いからと斷はると、夫でも受取つた切符は(十五枚とか)向ふへ返す事が出來ないのだから是非と云ふ。賣れる丈賣つて、餘りを向へ返すのは當前の事である。始めから師弟の關係を緊張して、是丈は賣れても賣れなくても御前の擔任だと捌けぬ前から押し付けがましく不當の義務を脊負せるのは馬鹿氣てゐる。不埒な藝人根性から出た厭な點だから妻に斷はらした。聞けば芝居が濟んでから電車を待つ間に七人連でカフエープランタンへ行つたさうである。其中には秋聲と田村とし子が居た。さうして勘定は小宮が拂つたのださうである
 
 六月十一日〔日〕
 
○昨日から大相撲。
○午少し前中村是公がくる。薄茶色の雨コートを來《原》て丸でオツトセーの御化けの樣ななりをして玄關に立つてゐた。飯を食ふと云ふから牛を取つて牛鍋で飯を食ふ。柳生の所から廻つて來たと云ふ。是から山口宗義の處へ行つて、四時に家へ歸つて夫から四時半頃帝國座へ行くんだといふ。膠州灣の總督のトロツペルとか云ふ男が日本へ來て芝居を見たいといふから案内をするのだと云ふ。
○傘を持つて散歩に出る。番丁富士見町を足駄であるく。夕方の號外を方々で賣つてゐる。相撲の勝負だらう。
 
 六月十二曰〔月〕
○今日から入梅だと云ふ。陰。東の空煤烟に鎖されたるが如し。
○昨日妻が長野へ喰つ付いて行くと云ひ出して聞かない。
○鈴木さんの所で男の三毛猫が四匹生れたので是が大きくなると、一匹五百圓合せて四五二千圓だと喜んでゐるうちに二疋は病氣で死んで仕舞つた。
 
 六月十三日〔火〕
○昨夕、鈴木が醉ぱらつてくる。白縮緬の半襟に薩摩絣、茶の千筋の袴へ透綾の羽織をきて丸で傘屋の主人が町内の葬式に立つて、懷に強飯の折でも入れてゐさうである。是は此間泥棒に洋服をすつかり取られた爲である。森田が氣の毒がつて自分の質に入れてあるのをやるから、出せと云ふが、出すには利を入れて五圓許り要る。其金がないから結婚祝の十圓許の品物を五圓に負けるから現金で呉れといふ。夫は羽織が可笑しいのだからおれの絽の古いのをやるから夫を着て間に合せろと云つたら、どうも紋が違ふから四五日はいゝが長くは困ると云ふ。とう/\五圓取られる。
○廣島に早速整爾とかいふ代議士がゐる。其弟に有とかいふ男が二百萬の財産があつて、金持でない器量はどうでも出の惡くないものを嫁にもらひたいとか云つて、妻の末の妹をどうかと云ふ相談があつた。丁度鈴木が來たから大手町に早速といふのがあるかと聞くと、「えゝあのおやぢは何でももとは犬殺しをした樣に云はれます、警察の代書をやつて、夫から藝備日々新聞を起したまあもぐりの樣なものです、何で二百萬あるものですか、大手町邊はみんな自分の地所だつて好い加減な事を云つてらあ、あの有はわたしが小僧のときから遊んだ奴です、人間はわるくはありませんが、まあ道樂息子で、かゝあ何か養ふ力はありません、國の中學や何かを落第して、高等商業なにかにゐるものですか、まあ然し縁ですからよく人に聞いて御覽なさいまし。
○昨夕下女の時が妻に話すのを聞けば「あの奥樣支那人の言葉は少しは分りますね」「さうかい、分るつて何んな言葉が」「でも反物を買つて下さいつて云つて來るのを、○○が入らないよと云ふと、夫でも見るだけ、まあ見て下さいと云ひましたよ」「夫や御前支那語ぢやない、日本語ぢやないか」「でも丸つきり分らないと思つたら少しは分るんですもの、可笑しいぢや御座いませんか」「夫やいくら支那人だつて日本語を使やあ分る筈だあね」
○あい子云ふ「あのね幼稚園にゐる支那人は提灯胴と云ふ名なのよ」
○咋日露國のポポフと云ふ男、神學校長瀬沼氏と共に來る。此人は日本の文學を研究したいと云ふ志望のよし、浦塩の東洋語學校の三年生で、今度卒業論文に余のかいた何かを中心にして論じたいと云ふのださうである。卒業の上は日本へ來て文學研究をやる積ださうである。「門」をやる。
 
 六月十四日〔水〕
○昨夕紀尾井町|町《原》を散歩。歸りに牛込見附迄來て、西の空を見るとどす黒い雲が一面にひろがつて、それが半圓を描いて次第に薄くなつてゐる。中心の所は甚だ濃い、稻妻がさす。神樂坂へ來ると、人が馳け出す。手を出して見ると、雨が一二滴あたつた。植木屋露店悉く荷をしまひかける。寺町で早稻田歸りの車にのる。車を徃來に卸して烟草を呑んでゐた。やがてきせる〔三字傍線〕を仕舞つて、どうです參りませうかと云ふから、辨天町迄いくらと云ふと十二錢やつて下さいといふ。乘るとき橋の上だと云つたら夏目さんでしたねといふ。うちへく《原》坂の所から降り出す、家へ這入ると凄まじい雨が《原》音がし出した。
○神田駿河台散歩、淡路町の裏を無暗に通つたら御神樂をしてゐた。馬鹿が二人で何か手眞似で話してゐる。そばの二階でそれを見下してゐる。かみの縮れた美人がゐた。
○朝のうちは長野の講演會でやる講演の腹案を纏めてドラフトにする。
○妻が昨日歌舞伎座の鶉の四か五を注文してゐたのを鈴木が急に朝鮮に歸るので斷つて來たから、斷はりに山田へ行く。
○晩に坂元がくる。坂元は文藝委員會の書記見たやうなものをやつてゐる。委員會の話などをやる。「杜若」を一番謠ふ。
 
 六月十五日〔木〕
○朝内田榮造がきて短冊をかいてくれといふ。書いてやる。先生私の耳は動きますといふ。成程動く。左右同時に同樣に動く。小供のとき小學校で叱られて腹を立てゝ齒を喰ひしばつて見たら、何だか妙だから鏡へ向いて見たら耳が動いた。夫が始めだらうと云ふ。
○小林郁來、又短冊をかゝせられる。
○小宮來
○小林修|次《原》郎來又短冊をかゝせられる
(49)○神崎恒子來
○關清瀾がきて扇子へ書いてくれといふ
○夜鈴木春吉來
○春吉が北海道へ測量に行つた話(三十二年頃)をする。
○熊笹〔二字傍線〕 が高さ二丈位に一面生に生えてゐる。夫を刈つて見通すやうにして進む、朝起きて見るとマムシが日向にとぐろを捲いてゐる。それを遠くから棒で抑えて、逃がさないやうにして、傍へ寄つてみんなで打ち殺して仕舞ふ。それを臓腑を拔いて火に燒いて塩をつけて食つた。
 味は肉と魚の間の樣に覺えてゐる。(蛇は糞をするか、卵を何處から生むかと聞いたら知らないと云つた。)
○あらゆる茸〔右○〕を食つた。ます茸と云ふのは廣葢程大きい、蒲鉾の樣だつた。月見茸といふのは抱へる程大きい(是は食はない)鼠茸といふのは三つ葉の根の樣である。
○大きな傘の中へ葡萄を一杯入れて來て食ふ。舌が荒れて弱つた。
○澤へ蚊帳を持つて行つて川魚(○○○)を捕つた。蚊帳が臭くなる。
○一週間絶食をした。是は人足が村へ米を取りに行つたあとで雨が降つて、澤の水がまして澤傳ひに歸れなくなつたからである。仕舞には夜だか晝だか分らなくなつた。夫でも便はある小便も
○山にはく|ほ《原》蜂ほどのあぶが居る。夫からだに〔二字傍線〕がゐる。それがからだに食ひ入つて手で障《原》つた位では落ちない。あぶは群をなす。帽子から白布をさげて眼の所だけあける。
○熊にあつた。夜テントの外で焚火へあたつてゐたら、がさ/\出て來た。
 曲角などで出逢ふ恐れがあるときは騷いで行く。
○大風にあつて、芒原から三抱もある樹の並んでゐる所へ逃げ込んだら、樹の幹が風に括られて根が動くので丸で地震の樣にからだがゆすぶれた。
○大木を片方から鋸で引き片方から斧を入れて倒す。丁度自分の方へ半分程切つてまだ大丈夫と思ふ樹が倒れた。幸ひ首丈ば《原》あとへ引いて尻|持《原》を突いたら膝は凹地で少し倒れた木と間があつて助かつた。
 
 六月十六日〔金〕
○南明供樂部にて講會あり、藤野老人の謠をきく。十一時過歸る。微雨至る。十二時に寐る。車夫が門を敲く、玉屋が門をたゝく。三時頃から五時半迄寐る
 
 六月十七日〔土〕
○愈細君の同行にて長野行
○王子の先のしそ〔二字傍点〕畠、紫色、長さ二三寸
○田を堀り返す。苗代三寸許、田植をしてゐるのもある。もう濟んだのもある。
○一等列車は高崎迄しかなし。列車ボイも食堂もなし。
○浦和の先に來て大きな停車|停《原》についたら、大宮であつた。辨當を賣つてゐる。向ふ側に實業の日本を讀んでゐた、銀縁眼鏡のつめ襟のハンチングの人が是から先はいけませんよと云ふ、高崎にもあるが落ちますといふので、とう/\買ふ。二個五十錢
○ふと好い香がするから向を見ると、ハンチングの隣に東《原》洋人だかニホン人だか分らない、腹の非常に肥つた男が葉卷をくゆらしてゐた。是は大宮からのそりと這入つて來た男である。
○前の眼鏡の人の眼鏡が鼻をはづれてゐる。それを平氣で實業の日本を讀んでゐる。
○鉄道の御役人らしい人が浦和附近で朝日の一頁をかしてくれた。己のを借りて返したのだと思つたらさうではなかつた。此人は上野を出るときか〔ら〕朝日を讀んでわらび、浦和、大宮ときてもまだ眼を放さなかつた。漸く桶川邊でやめた。
○高崎で山が見える。段々高くなる。横川といふ驛に碓氷嶺一里とあつた。
○トンネルヲ十程拔けて熊の平といふ停車|停《原》前後ともトンネルの中の小さな驛である。汽車は何の爲に停るにや
 下りて見ると汽罐に水を入れる爲なり、よくこんな高い所で供水の便があると思ふ。汽罐車は眞中に一つ、後ろに一つ、なり、
○トンネル二十六を出ると輕井澤なり、プラツトフオームを逍遥して列車に歸ると、フロツクコートを着たまがひパナマを被つた男が夏目先生は御出でありませんかと云ふ私ですといふと、私は長野縣の教育會から命ぜられて先生をこゝで御迎をして長野迄御連れ申すものでありますといふ。
○すると今這入つて來た洋服の土方の親方とも云ふべき見えの男が夏目君僕は野田だ(高等學校時代に居つた)といふ。成程よく見ると野田である。長野の土木技師をしてゐる。あれが淺間で、あれが何と一々説明をする。前の男は北佐久小諸小學校長田中直次君である。から松と雨敬の關係、桂公の別莊、あやめさくと〔は〕しほらしいと云ふ歌、布引觀音、姥捨山、牛に引かれて善光寺參り ×妻女山、茶臼山、あんずの樹、其他を説明す。
○長野にて師範學校長以下の出迎をうく。犀北舘といふのにとまる。
○夜色々な人の訪問をうく。
○森成さんが高田から迎ひにくる。
 
 六月十八日〔日〕
○善光寺境内向つて右池に河骨、蓮、菖蒲、文人畫理想の松ある處、小庵あり看板に曰く元祖藤八|骨《原》指南所三代目玉廼|谷《原》一爲。蛙しきりに鳴く。聲|聲《原》聞ゆ。主人は坊主で妻君らしき人と暗い部屋で活花を眺めてゐた。前に黒白ぶちの小さい耳の尖つた日本犬が來てゐた
○常照坊常明坊の石段の上の左の處で浴衣の丸髷の女が御薩の丸揚を食つてゐ〔た〕。
○石造四間幅左右柳松柏抔
○入口に名物生蕎麥 かどの大丸
○十時半頃から議事堂で講演十二時過旅宿に歸る。二時十分の汽車で立つ。薄謝といふ包をくれる。奥さんの分も拂ふから宿は其儘といふ拂はないで出る。高田迄の切符上等を二枚くれる。
○妙高山の頂きに雪の筋が見える。
○麥黄、植付すむ。
○五時過高田着、一筋に細長い町なり。森成さんの家につく。家の構造、裏は川、畠、
○六時半柳糸郷にて夕飯。中學校長、師範校長、農學校長、高田新聞二名、高田日報二、離れ座敷、前に泉水築山、雨蕭々、蛙鳴く。
 
○六月十九日〔月〕
○中學校にて講演|天《原》天体操場、上から生徒の顔を見ると、玉子の行列の如し。何もいふ事なくして困る。雨大至聲聞えず
○十一時五十九分の汽車で雨を冒して直江津に至る。雨漸く晴。五智に行く。わくら樓、
○樓の作り。長庇し、土縁、内庭のはづれに戸を立てる。十疊の三間つゞき。高麗縁。床 稼穡の圖 米俵、垣、柳下の子守、馬をひいて行く人。額 煙波浩蕩松方伯。庇の外の藤棚半庇の上にかぶる。屏風銀地
○右のはづれ、彌彦。左に能登の鼻、向に佐渡
○庭前柴垣。砂山つゞき。汀に砂磧に船點々。
○内庭の端に手水鉢葉蘭、石|露《原》、紫陽花
○屏風、詩佛、鵬齋、蕪村の嵐|雪《〔?〕》、巣兆春琴の菊竹、竹谷の蘭、文晁の富士
○郷津の石油鑛業事務室。がけ縁、破椅子四脚、硝子窓から見える波、中の角火鉢、テーブルの上から電報用紙がぶら下る。縞の縮の襯衣をきた|。《原》事務員らしき人が崖傳ひに海岸へ下りる。井戸の深三百間鐵繩の上下に七分を費やす。どろをしやくつてゐた。
○テーブル。傍「白米の通片田鑛場御中」醤油通春日組片田事務御中
○國分寺 稱《原》武帝の建立といふ立札あり、大いなる本堂に五智如來を安ず、親鸞謫居の迹あり、傍に鏡が池の舊跡あり、
○わぐら樓にて一寸午睡し、湯に入る。快。六時二十五分の汽車で高田へ歸る。三等列車丈なり
 
 六月二十日〔火〕
○八時出發 田川、菊池、高田日報主幹送る。長野で諏訪の守屋氏出迎ふ。姨捨山、田毎の月、松本にて下車 天主閣を見る。塩尻峠の隧道。
 
○六月二十一日〔水〕朝七時頃出て、下社春の宮、秋の宮へ行く。
 潮《原》水の縁に沿ふて車を走らす、
 水と道の間に植付の濟んだ許の青田あり、其間に土を殘して小さい樹を植う。林檎らし。小さい實に袋をかぶせてゐる。波平。歸途は春の樣な心地、藻刈船。對岸の山、色が斑らに變化 其下の人家、
○家の前を水が流れる。水をとめて槽を作り其内に魚を飼つてゐるのもある。鍋の葢が一つ浮いてゐるのもある。
○中庭が表から透いて見える田舍の料理屋もある。
○きたない家の二階に胃活の看板がかゝつて、屋根の上に古手拭の鉢卷をした男がつくろひをしてゐる。
○下社の四方に一ノ御柱(五丈五尺)二ノ御柱(五丈)三ノ御柱(四丈五尺)四の御柱(四丈)の柱を立つ。七年目とか云ふ。春の宮へは二月一日、秋の宮へは八月一日に移る。鳥居から丸石を敷いた道をだら/\に上る。萱葺の素撲な宮なり。杉の森。
 
○六月二十八日〔水〕
 
 一昨夕散歩から歸るとどつと降り出して、昨日は終日の雨に風が加はる。今日は怪しい空に風が音を立てゝ飛ぶ。午後四時から美學研究會へ出て講演をする筈であるが、少し穩かになつてくれゝば好いと思ふ。
○三四日前(長野から歸つた翌日か)寺田が歸朝した。御土産をくれた。金のリンクスを余に、プ《原》ローチを妻に、四本のリボンを娘に、ミユージカルボツクスを純一に。
○同じく三四日前に津田青楓と杉本正生がくる。
○昨日ベルグソンを讀み出して「數」の篇に至つたら六づかしいが面白い、もつと讀みたいが今日は講演の頭をとゝのへる都合があつて見合せる。
○車で大學御殿迄行つて講演をやる。歸りに夜八時半頃本郷で寺田の宿を尋ねる。十時過歸る。風烈し幸に雨は歇んでゐた。
 
 六月二十九日〔木〕
○朝雨がどう/\と降る。豪壯のうちに凄然の氣色なり。午頃小降になる。車で神田の南|瞑《原》舘へ謠會へ行く。中野武營、中野岩大、細川侯爵等を御客にしての霞寶會なり。實盛と草紙洗を聞いて歸る。入違に寺田が來たよし。晩に小宮と岡田がくる。
 
 六月三十日〔金〕
○朝雨がまたどう/\と降る。新聞を見ると大分水が出る。新聞が濡れてゐる。
 
 七月一日〔土〕
○終日雨。晦冥。じめ/\して堪へがたし。
○飯田のため大阪へ電報をかける
○ベルグソンの「時間」と「空間」の論をよむ
○夕方少し雨やむ。門を出づ。薄墨の空の雲はやく走る中に仄かに青きもの見ゆ。明日晴かと云ふ氣も起つた。船河原橋の下で大勢四つ手を卸してゐる。それを土左でも見る樣に人がたかつてゐる
 
 七月二日〔日〕
○晦冥益甚し。牛込御門行を見合せて宅にゐる。
 
 七月三日〔月〕
○相變らずの雨にてくさ/\する。踏むもの觸るゝもの悉くじめ/\して心地惡し。二時頃寺田がくる。第五の出身者が五六人精養軒で飯を食ふから出ないかと云ふ。雨では恐れるがと思つたが思ひ切つて出る事にした。江戸川終點へ出る間の道の惡さ加減はまことに言語に絶してゐる。仕舞に腹が立つ。然し土を鑑賞する事が出來たら此位美的な土はあるまい。フアインで粘り氣があつて柔かで申し分がない。是をはき寄せて、タンクを作つて壁土に利用したら通行者にも經濟にもなるだらうと云ふ事を寺田が申し出た。歸りには豪雨の御蔭で此どろが悉く流れてゐた。
○精養軒では久し振りに木下理學博士、田丸博士、石崎所長、内丸助教授、野並專賣局技師と寺田と余と落ち合つた。食後木下が余から叱られた話をする。懷舊談が多かつた。九時過出る。寺田が江戸川迄送つてくる。(木下云ふ病氣の時見舞ふと思つたが、昔し叱られた事を思ひ出すと恐くて行く氣がしなかつた)
 
 七月四日〔火〕
○雨が依然として堂々と降る。今日は九段に夜能があるから見ないかと野上から誘はれた。
 此雨は音丈聞いてゐても凄まじい。
 
 七月八日〔土〕
○暑甚し。風吹く。午後より烈風。晩方散歩。店を半分閑ぢたる處あり。徃來で人の帽子を飛ばしたものに逢ふ事數回。たちどまつて風の過ぐるを待つもの澤山あり。風の音ひゆ/\と鳴る。此日日比谷公園に萬朝所催の電車市有反對の市民大會あり。歸りに電柱に號外の張出あり。
○神樂坂の演藝舘の看板に早川辰燕とか云ふ浪花節の口上に
  「昨年六月より滿韓巡業の處本年六月に至り長男○○早稻田大學在學中青山脳病院にて死去の報に接し悲哀と親愛にて感慨登壇 諸君の同情と割愛を煩はすと云爾」
○寺田來。ビールを飲む。明後日國へ歸るといふ。
 
 七月九日〔曰〕
○晴天。暑甚し。晩方水道町から神樂坂を散歩。榎町の角の倉田屋の隣の提灯屋が纏ひを書いて上下に熨斗を散らして、眞中を藍に塗つて、其處へ銀で棒を引いてゐた。天井には岐阜提灯が澤山ぶら下つてゐた。
○神|坂《原》坂に虫屋が荷を出してゐた。長さ一間位の荷の上を屋根の樣にして前に暖簾をかけてゐる。黒い中に白で字が染め出してある。眞中に山の下へ越の字其左右に虫の名が並べてある。松虫、鈴虫、轡虫……中には籠が一杯ある。扇の形、舟の形 鳥龍の形、紫のひもで括つたものや、緋の紐で結ひたもの、夫から家の形に出來たもの、虫屋は其下に腰を掛けてゐる。殆んど足を動かす事さへ出來ない。
 
 七月十日〔月〕
 晴。暑甚。朝 社の會議に行く。蛙つて長椅子の上でぼんやりしてゐた。五時頃車で安倍の家へ行く夫からケーベル先生の宅へ行く。御茶の水で電卓を降りて先生の家の前迄來ると、高い二階の窓から先生の頭が出てゐる。烟草の烟りが見える。入口で安倍が久保君々々々と云ふ。久保君は海軍中尉であつたが軍人をやめて大學へ來て哲學を研究してゐる。久保君が二階へ上つて行くと、先生が高い處から降りて來た。ミスター ナツメ、アイ アム グラツド ツー シー ユーと云ふ。階子段の下で握手をして二階へ上る。先生の書齋は大きなテーブルがあつて本があつて古い椅子が二三脚ある。頗る古びてゐる。少しも雅な所も華奢な所もない。たゞ荒涼の感がある。先生は絹のシヤツにケンドンの上衣をきた丈である。襟さへ着けてゐなかつた。「君が盛装してゐるのに私はこんななり〔二字傍線〕で」と云はれた。
  ○「ハーン」の話 アブノーマル
  ○「ウード」の話
  ○昔しケーベル先生の處へ行つて置いてもらへと牧《原》卷から云はれた話、
  ○十八年日本にゐるといふ話、失望ハシナイ、大ナル豫期を持つて來なかつたからと云ふ話
  ○國書舘とコンサートと芝居がなくて日本は困る丈だと云ふ話
  ○日暮が庭の樹に鳴く話 日暮が好だと云ふ話
  トカゲが美くしいと云ふ話
  ○ロシヤ人には日本人によく似た顔があるといふ話。三十年前の寫眞
  ○烏が凍へ死んだ話
 下の食堂に行く白布がない。四人一方に一人づゝ坐る。何を飲むジン、ブランデー?と聞かれる。余は葡萄酒とビールを飲んだ。
  ○梟が好きだと云ふ話
   蝙蝠が好きだと云ふ話。羽はデ※[ヰに濁點]ルの羽だ。
  ○椿がきらひの話。菊は紙造りの樣だと云ふ話、
  リヽーオフゼ※[ワに濁點]レーの好きな話。
  ○日本の果物は林檎丈食へる。他は駄目だと云ふ話
  ○今から百年したら日本にオペラが出來るだらうと云ふ話。
  ○日本で音樂家の資格あるものは幸田だけだ。尤もピ゚やニストと云ふ意味ではない。たゞ音樂家と云ふ丈だ。日本人は指丈で彈くからだめだ。頭がないから駄目だ。
  ○自分が音樂をやるといふ事は日本へ來たら誰にも知らせない筈だつた。處がどうしてかそれが知れた。然しもう近頃は斷然どこへも出ない事に極めた。自分で獨り樂しむ丈である。音樂學校は音樂の學校ぢやない、スカンダルの學校だ。第一あの校長は駄目だ。
  ○ブラウニングは嫌だ。ウオヅウオースの哲學の詩は全く厭だ。ポーは好だ。ホフマンは猶好だ、新らしいのはあまり好かない。アンドレーフは厭だ。チエホフは非常に立派な文體だ。
  ○自分が日本を去れば永久に去る。一寸歸國などはしない。
  ○自分のやつてゐる仕事はすきだ。自分の書生が好だ。淋しい事はない。散歩つて、何處へ散歩する。町へも出られまい。本を讀んでゐる丈だ○メレジコースキーのアレキザンダーと云ふ小説をよんだ。甚だ住い。
  ○コフヒーが、凡ての飲料のうちで一番好きだ。此間和蘭公使館で飲んだコフヒーが一番上等である。
  ○儀式は大嫌だ。あしたも卒業式があるが無論缺席をする。どうも三時間も立つてゐるのは敵はない。もつ|た《原》簡單に出來る事をわざ/\あんなに面倒にする。
 
 七月十一日〔火〕
○かん/\照り付ける。殆んど堪へがたい。藤椅子の上でこん/\としてゐる。晩方えい子とあい子と純一を連れて神樂坂へ散歩に出る。氷屋でアイスクリームを呑む。純一は氷あづきを食ふと云ふ。おもちや屋でえい子は金製のベツド、あい子は西洋人形、純一は飛行機を買ふ。此飛行機は飛ぶ事受合の處ちつとも飛ばず翌日すぐ破れて仕舞つた。
 
 七月十二日〔水〕
○今日もかん/\で殆んど堪へられない。晩に又三人連れて江戸川へ行く。硝子入りの菓子と菓子の烟管、烟草入と夫から旅行用のブランデー入れまがひに菓子の這入つたものを買ふ。きせると烟草入は純一、ブランデー入は伸六への土産、純一どぶへ落ちる。
○江戸川へ來ると往來へ店を出して、眞菰、緒殻、みそ萩、鬼ほうづき、(青くて所々薄赤くなつてゐるもの)を賣つてゐる。盆の心持を促がした。
 
 七月十三日〔木〕
○漸く曇る。少し凌ぎよし。
 
 七月十四日〔金〕
○六時頃散歩に出やうかと思つてゐると空が急に暗くなつて雨が木の葉を打つ音がした。夫がまたゝく間に豪然として地上のあらゆるものを鳴らしてすさまじく降り出した。すると雷が鳴つた。雷より稻妻の方が烈しかつた。光りが段々になつて最高度は白晝と異なる所なく光つた。さうして其段々が一瞬の間に凡てを經過してしまふ。あとは暗くなつて物凄い。芭蕉がすさまじく動いた。光りに恐れて下女が(縁側の戸を立てゝゐた)突然玄關へ來てつつ伏した。此時電燈が全く消えた。巨人が帛を裂くやうな音がして夫がすぐ割れた。
 
 七月十五日〔土〕
 快晴。又熱くなつた。
○ねだられて活動寫眞に行く。あつくて仕方がない。一等は少しすいてるので、まだ凌げるのだが外は鮨をつめたやうで、うぢや/\してゐる。伯爵夫人とかいふものをやる。女をなぐつたり、男をつき飛ばしたり殺伐な眞似ばかりをする。さうして口|籍《原》入りだから猶いやになる。幸ひ白はがや/\してよく聞えなかつた。エイ子、恒子、筆子は夫で泣いてゐる。何で泣いてゐるのだか分らない。筆は十三、恒は十一、エイ子は九つである。夫から西洋のおどけたのを見る。其方が面白い。歸りに氷葡萄を飲む。
 
 七月十六日〔曰〕
○盆。少し曇る。午後四時頃山田の奥さんがくる。粽をくれる。山田さんの前に小宮と鈴木がくる。
 
 七月十七日〔月〕
○曇十時頃から降り出す。
○昨夕江戸川を散歩して澤山ある橋のうちの尤も小さい橋の欄干によつて東を眺めたら、水の左右から水の上にのしかゝるやうに柳が緑の枝をさし出してゐた。夫が遠くに行つて櫻|の《原》變つて兩岸が蒼く丸くこんもりと高く見〔え〕る中に水が長く流れた其中を橋がいくつも横切つてゐる。さうして凡ての末に後樂園の高い森の中から砲兵工廠の烟突が二本出てゐた。
○今度は電車終點の所へ來て同じく橋の欄干に倚つて西の方を望んだ。其時は人の顔が漸く區別される位の薄暮であつた。其上空が曇つてゐた。けれども其薄黒い空明りが水の上に落ちる爲か流一面が蒼茫とした地面の上よりも岸よりも明らかにきら/\してゐた。其中に小船に人が二人乘つて棹さして上つて行く。船も人も只眞黒に輪廓が眼に映ずる丈であつた。動く棹が細く黒く矢張り見えた。此黒いものがひかる水に包まれて廻り燈籠の影法師の如く見えた。やがて竪にさす棹の色がぼんやりして判然しなくなつた。
 
 七月二十一日〔金〕
○曇、十一時過滿鐵に行く。そこで午餐を認め。夫から白働車で停車場へ行く。鎌倉行。※[さんずい+氣]車中是公のいたづら話をきく。○○に藝者が惚れたやうに老妓から云はせる。○○が夫を眞と思ふ。長春から川上がくるのを奉天で待ち受けて、長春にゐる川上の關係のある女の寫眞を雜誌から切り拔いて台紙へ張りつけ、滿鐵公所の下女に手紙をかゝして、夫を郵便で出す、川上が奉天へ着くや否や郵便を受取る。みんなの前で半分あけてやめる。みんなで追求する。獨りでストーブの所で見る。其裏を見たと云つて、責める。云々。
○二時過鎌倉着電車で長谷迄くる。別莊は長谷寺の後ろにある。光則寺の入口の右手の高い所なり、東南が開けて、東の正面に材木座と山を見る。中間に松原が見える。夫が風に削られて斜めに海の方から逆に高くなつてゐる。山の前の灣夫から右の方は大海。樓の右手大松、左斷崖、前築山を降りて(芝生の)畠、蜜柑、菜園、芋など生える。池の中の藤棚
○杉山茂丸の別莊。山を上る。塩《原》をあびる。夜十二時寐る。
 
 七月二十二日〔土〕
 曇。モヤで向の山がぼうとしてゐる。海が殆んど見えなかつた。段々明かになる。船點々。帆走る。沖の方の第二の山脈の下の處水光る。
 厠に上ると窓から崖が見える。蟹がゐる。
○八時頃から小坪へ漁に行く。昔し來た事のある村を今見れば矢つ張り魚臭き所、道幅一|軒《原》許の處右が段落に磯になつてゐる所、左が段上りに登つてゐる所が記|臆《原》と一致する。小坪へ來た事は來たが何といふ宅か分らない。西のもので南の方から養子に來たものと云つて聞くんださうである。隨分昔話の樣な聞き方なり。とし子さんが極りが惡いと云つて聞くのを厭がる。子供に聞いたら知らぬといふ。婆さんに聞いたらしばらくしてそれならあすこだらうと云つて教へてくれる。編笠をかぶつて歌をうたつて月琴を彈く女が休んでゐた。そこから十間許來て右へ曲ると、石段が三級ばかりに仕切られてゐる。いづれも踏み減らして凹形になつてゐる。其天邊へくると五坪程の空地を前に家内の眞黒になつた萱葺がある。軒下に御祭りの提灯があるのを見てとし子さんが田中吉太郎といふのですと云ふ。無花果が隅に二三本、未熟の果、きり/”\〔す〕の籠が懸けてあつて、下に痩せこけた鷄が四羽ゐる。あみはいびつのブシユカンの樣である。入口に杓子、其上に
(※[図のようなもの有り]田中吉太郎【一家一同】)
 くさくて堪らなかつたのがなれて漸く直る。
 婆さん曰く實は頼んで置いたが今朝の天氣だからと云つて舟で出たから呼びにやりました。
○磯へ出て舟にのる。たこを突く。鏡、の構造。藻がゆつくり動搖する。
○生簀の魚を買ふ。いさき、すゞき、黒鯛
○いきに橋の上を通る。海岸橋といふ。下は滑川ならん。車夫は閻魔川だといふ。左手の畠に黄なものが見える、菜の花の感じ。唐《原》瓜なるべし。good effect.
○歸りに海濱院の所で舟を上る。八幡前へ行く。
○めしを食つて午睡三時三十三分の汽車で急行新橋着。
○車中で是公曰く。※[さんずい+氣]車に大便所をつけるときは大議論ありし由、夫から寢台車をつけるときも然り。
○井上が淺野侯の寶物の懸物を奪ふ話。伊國公使になつたとき呼ばれて寶物の二幅對を見せられる。出立後留守に向つて先日のを一幅讓つて頂きたいといふ。淺野家では大臣の事だから評議の末承知の旨を答ふ。井上は返事に二〔右○〕幅共御讓り被下候よし難有しとあり。夫から淺野家では寶物を決して懸けて人に見せない。
 
 七月二十六日〔水〕
○昨夜十一時頃より暴風雨、二時頃に至つて凄まじき音して寐られず、 そつと起きて、外を見ると、風の狂ふ中に木の鞭たるゝ樣見ゆるが如く見えざるが如し、空に少し赤味ありたる樣覺ゆ(余厠の窓より見たり)電燈消えて眞暗也。
○新聞今朝號外を出す。相模灘の颶風東京灣に海嘯を起し。州《原》崎の場防を破壞、貸座敷一戸を倒す。娼妓十五六名死す。※[女+票]客の死体も續々出る。
○高輪の鐵路破壞下り列車不通
○逆流大川口より浸入 深川水となる。
○舟が陸へ乘り上げて家を倒しかけたるあり。
 
 八月九日〔水〕
○七月二十六日の暴風雨が漸く歇んだと思つたら又したゝかに雨が降つたので天龍川の堤が切れて汽車が不通になつた。それを徒歩連絡で十町ばかり足を勞すれば濟むやうになつたのは一昨日である。其十町が七町に減じたと今日の新聞にあつた。所が昨日の新聞に暴風雨の警戒があつたので、もしやと思つてゐると、重い空の中から昨夜枕元にしたゝか降つた。明けて見ると又したゝか降る。午頃少し輕くなつたら午後から又どうどつと降る。是では折角の連絡も亦不通になると思つてゐると、社から小池君が來て、實は高原が今朝立つたが連絡が切れて靜岡で留つてゐるとの話。昨日の大坂からの電報に東海道延着につき十一日に御着あるやう十日に立たれたしとあつた。自分は明朝八時半の一二等最急行で行く積であつたが、不通では仕方がない。講演は十二日からだから十一日の八時半でも連絡さへつけば間に合ふ。車夫に電話で新橋|局《原》へあすの連絡の模樣を聞き合せてもらふ。
 車屋が歸つて今は不通ですが明日にならなければ明日の事は不明だ、まあ大抵六づかしからうと云ふ返事をした。
 
 十日〔木〕
○夜眼を三度さます。一度は靜かであつたがあとの二度は大變な音をして雨が降つてゐた。明日はとても不通だらうと思ふ。昨夕寐る時、車夫に起きがけに電話をかけて不通か連絡がついたかを聞き合せてもし不通ならば、汽車不通あすの朝迄待つて見るといふ電報を社へかけるやうに命じた。所が今朝六時に起きて飯を食つて、七時過になつても車夫が歸らない。聞いて見ると電話が御話中に《原》中々かゝらないのだといふ事が分つた。そのうち七時四十分になつた。八時三十分の汽車には殆んど返事の如何に關らず到底間に合ひさうもない。雨は一時小降りになると共に天地が非常に靜かになつた。表をあるく人の足音が耳に入る。門の外を窺ふとあらゆる泥を洗つたやうに白い砂利の肌が明か〔ら〕さまに見えた。八時頃車夫が歸つて、失張不通だといふ。新聞の延着したのを見ると、
      颶風沖繩に滯在す
  九日朝四國沖にありし颶風の中心は豫期の如く西北に進行し屋久島附近を通過し支那東海に入り目下東經百二十八度北緯三十一度の邊にありて中心の示度七百五十粍を僅に降りたり又沖繩島附近に在りし颶風の中心は依然として滯在す、沖繩より電報未着につき詳細を知る能はず九州にては東の風頗る強しと雖概して曇天にして處々驟雨あり甲武兩毛地方にては雷雨のため多量の降雨あり東京附近に大雨ありしは之が爲なり東京附近は十日天候不良ならざるべし、東京午後三時迄雨量十三粍(九日午後|二《原》時迄實况)
     東京地方警戒
  △五區(東海道地方)を警戒す、風雨強かるべし颶風は琉球の南東洋上(北緯二十四度東經百二十八度)にあり示度七百四十粍、北方に向ひ進行しつゝあり(十日午前零時三十分)
  △東京地方を警戒す風雨強かるべし以下略(同上)
  △第一區二區三區四區(台灣九州四國中國畿内)を警戒す暴風雨の虞あり以下同上(十日午前零時三十分)
とあつた。
 十時頃蝉が鳴き出して空の奥に日光をつゝみたる氣合なり。雷なる。格子を拭いてゐた下女あつと云ふ。
 
 十一日〔金〕
 快晴新橋に行くと東海道全通とある。早速乘り込む。鶴見の手前で電信柱の半水に埋れたのを見る。道中夫程の災害もなき模樣、袋井の處はレイルの下を刳つて二十尺ばかり持つて行つたので長さは僅ばかりである。
 車中川崎造船所の桑ばた、小山正太郎畫伯、濱野工學、遞信省の猪木士彦に逢ふ。暑甚し。八時半つく。長谷川高原兩氏迎へらる。銀水に入る。川向の家なり。對岸に病院、前に圖書舘、公會堂、夜暑甚し、縁側を明け放して寐る。
 
 十二日〔土〕
 五時半起床、朝見るときたなき旅屋なり下宿の少し氣の利いたやうなものなり、室に澁を引いた紙を一杯にしく。たまらぬ暑なり、七時になつても下女が床を上げに來ず。
 九時過箕面電車にて箕面に行く溪流の間を上る。朝日供樂部は寺の左の崖の上にあり、甃、繩暖簾、ぢゞと婆、婆はつんぼ。ぢいさんも 婆さんはくり/\坊主である。其上又外の婆さんの頭をくり/\にしてゐる。脊中を叩くと、おや御免やす、今八十六の御婆さんの頭を剃つとる所だすよつて、――御婆さんぢつとしてゐなはれや、もう少し|げ《原》けれ、――よう剃つたけれ毛は一本もありやせんよつて、何も恐ろしい事あありやせん。――御婆さんは頭を撫でゝ、大きにといふ。それから御免やすといつて歸つて行く。御婆さんどこだと聞くと千秋閣だす、御歸りに御寄りやす。千秋閣とは入口の立派な料理屋なり。
 瀧の處に七丁程上る。シブキを浴びて床凡に腰を掛けて話す。夫から倶樂部に歸つて千秋|亭《原》から料理をとつて食ふ。ひる寐。五時頃起きる。婆さんが又湯に入れといふ。やめて入らず。又電車で梅田に歸る。夫から直に明石に向ふ。社の販賣部の男案内をしたり荷物を持つてくれる。八時三十分明石着衝濤舘に入る。庭先三間の所に三尺程の石垣あり、波が其外でじやぶ/\といふ。川か海か分らず、船で三味線を引《原》ひて提灯をつけて來《く》る。幅の廣い凉み船なり。販賣の人歸る。たゞ波の音をきく。
 
 十三日〔日〕
 昨夜次の部屋で何かこそ/\いふ。よく聞くと西洋人である。黒い影が一寸蚊帳へさす。見返ればもうなし、しばらくして彼烟草を呑むといふ聲がする。下の座敷で騷ぐ。
 朝六時頃起きて風呂へ這入らうとすると雨戸がしまつてゐて、明ける事出來ず。やうやく冷水を浴びてゐると女が風呂の戸を開ける。部屋へ歸つて雨戸を開けて海を見る、男が二人出て泳ぎ出す。下の男何處からかボートを借りて來て漕ぎ廻る。昨夕の藝者が一人づゝ乘る。夫から漁船を雇つて乘りうつるに、かの男眞黒な小供を二人舳艫に乘せて漕ぎ廻る。藝者大きな聲を出して阿呆といふ。
 舞子の先が見える。淡路の燈台が見える。泳いでゐる人の足がよく見える。くらげが見える。帆懸船がぞく/\出る。
 午後公開堂で演説。宿に郡長、市長、助役などくる。七時頃歸る。九時着、紫雲樓に入る。
 
 十四日〔月〕 快晴
 九時五十二分の汽車で和歌山に行く事にする。和歌山からすぐ電車で和歌の浦に着。あしべやの別莊には菊池總長がゐるので、望海樓といふのにとまる。晩がた裏のエレベーターに上る。東洋第一海拔二百尺とある。岩山のいたゞきに茶店あり猿が二匹ゐる。キリといふ宿の仲居が一所にくる。裏へ下り玉津島明神の傍から電車に乘つて紀三井寺に參詣。牧氏と余は石段に降參す、薄暮の景色を見る。晩に白い蚊帳を釣り明け放して寐る夫でも寐苦しい。朝起
  涼しさや蚊帳の中より和歌の浦
 
 十五日〔火〕
 早車で新和歌の浦に行く長者議員某氏の招く所といふ。トンネル二つ。運動場といふのは砲台の出來損の如し。歸りに權現樣に上る。橋の所に乞食が二人ゐる。石段は一直線で三にしきる。夫から片男波を見る。稀らしく大きな波が堤を越えてくる。電車で和歌山へ行く途中から降る。縣會議事堂は蒸し熱い事夥し。宴會を開くといふから固辭しても聞かず、已を得ず風月といふのに赴き離れで待つてゐる。宴開くる頃から風雨となる。隣席の綿ネル商望海樓は危險だといふ。藝妓の※[足+勇]と和歌山雲右衛門の話を聞いて外へ出ると吹降りである。西岡君は三度も電話をかけて大丈夫かと聞いたら大丈夫と云ふ。牧君にどうしませうかと云ふと牧君は夏目さんどうしませうと云ふ。北尾君がこちらが宜しいでせうと云ふ。後醍院君は是非和歌の浦迄行くと主張する。余等三人はあとの西岡、後醍院、早《原》記の○○君と和歌の浦に向ふ。余等は富士屋といふのに入る。電燈が消える。ランプを着ける。其ランプが又消える。惨澹たる所へ和歌の浦の連中が徒歩で引き返す、車で紀伊毎日の所迄行つて電車を待つてゐると電車は來るには來るが向へ行くのは何とかの松原迄で其先は松が倒れて行けないといふ。何時〔迄〕待つても埒が明かないので歸つて來たといふ。西岡君は今《原》望海樓が今夜中持つか持たぬかゞ疑問だといふ。是は電話をかけても通じないからだといふ。所が富士屋から電話をかければ望海樓へよく通じる。風雨鳴動のうちに愈十六日となる。
 
 十六日〔水〕
 今朝十時の汽車で大阪へ歸らなければならない、西岡君は早朝荷物を和歌の浦迄取に行く。つな引でなければ行けぬといふので二人の車夫を雇ふ(後で壹圓八十錢平生の三倍とられる。)歸つて、向ふは何でもない、三階の客は皆よく寐たといふ。
 一時頃大阪着。晩の六時に平野町の川卯とかへ慰労會に出席する筈なり。
 
 十一月十一日〔土〕
 大阪で病氣をして湯川病院に這入つて(八月十九日?)から九月十四日に東京へ掃つて痔を切開して以後丸で日記をつけない。
 其間に池邊が主筆をやめた。余も辭表を出した。〔大阪〜した。まで□で囲んである〕
○昨日も佐藤さんに行つた。(佐藤さんには隔日に行く)。支那人の患者にあなたの家は何處かと聞いてゐた。武昌の附近だと答へた。なに外に心配もないが弟が一人參謀になつてゐるのが、どうしたか心配ですと答へてゐた。佐藤さんに聞くと是は工科の學生ださうだ。又一人の支那の學生が來たのに向つて、あなたの所の公使はどこかへ姿を隱したといふぢやありませんかと聞いてゐる。えゝ公使も氣の毒です。留學生の學資が來ないのに、政府の信用がないから銀行で金を借してくれないのです。大きな額ならまだしもですけれども三十萬や五十萬ぢや誰も借さないです。公使は自分の金を十萬圓出しました。氣の毒ですといつてゐる。是は漢口の税關長の※[人偏+卆]ださうである。(近頃の新聞は革命の二字で持ち切つてゐる。革命といふやうな不祥な言葉として多少遠慮しなければならなかつた言葉で全紙埋まつてゐるのみならず日本人は皆革命黨に同情してゐる。――革命の勢がかう早く方々へ飛火しやうとは思はなかつた。一ケ月立つか立たないのに北京の朝廷は殆んど亡びたも同然になつた様子である。痛快といふよりも寧ろ恐ろしい。
 佛蘭西の革命を對岸で見た《原》ゐた英吉利と同じ教訓を吾々は受くる運命になつたのだらうか、
○佐藤さんから錦織剛正の話を聞いた。錦は佐藤さんの父の家に寄食してゐた。さうして其町で一番物持の一人娘をそゝのかして小判三百枚を盗み出して東京へ出たのださうである。入獄して出るや否や人氣取りの爲に圓遊一派の藝人の寄附金で各區に米屋をこしらへて米を實費で貧民に頒つ人氣取りの策を講じた。實際二三所に米屋を開いて、自分の居宅の近所では米を施こしか安賣かした様子であつた。夫から飲口の製造所
を造つた。のみ口といふものは專|問《原》家でなくては出来なくて其專問家は東京に十五六人しかゐない其他は大阪にゐるといふので、夫等を雇ひ集めて「のみぐち」製造會社を作つた。所が一年程して職工がストライキをやつて滅茶々々になつて仕舞つた。次に九州の或る海岸に古代の釣鐘が沈んでゐるの〔を〕上げる。上げた鐘は宮内省で十萬圓で御買上になるとか號して金を集めにかゝつた。然るに此鐘は普通の繩や紐ては揚げられない。毛綱が必要だとか號して神社佛関に奉納してあるのを貰つて歩いた。いざ潜水夫を雇つて探つて見ると岩と貝で一ばいだから一々金槌か何かで敲いて離さなければならないとか云ひ出した。さう〔し〕て折角の毛綱は切れて仕舞つたからもう一本拵らえるとか云ひ出した。其上此鐘は村で祭てあるのだからもし引き揚げるなら村のものへ何萬か遣らなければならない。――こんな事を云つて歩いてゐたが鐘は夫切になつて仕舞つた。――今では本所邊に畫工をしてゐる。
○今日から綿入を着る。(天長節に始めて密《原》相柑を八百屋に見る)
 
 十一月十|八《原》日〔金〕
○昨晩は木曜日だつたけれども南|瞑《原》倶楽部へ謠をうたひに行く。碧梧桐、虚子、四方太なども來る。久し振で同吟す。能も久し振りで此十二日に見た。櫻間伴馬の改名披露の能であつた。
○昨日より妙に生温かい、丸で肅殺といふ感じを失つて春先ののぼせる季候である。昨夜十時半頃南|瞑《原》舘から表へ出るとどんよりした空の下にレールが生白く光つて往來はしつとり濡れてゐた。
○今日は依然として不快な暖氣である。さうして厭に頭痛を誘ふ風が強く吹く
○昨夜弓削田來不在、一昨夜松山來。
○今晩地震〔が〕あるといつて鈴木さんが教へに來た。妻は今夜は隣の部屋で勉強なさいと云ふ。何故だと聞けば此窒は本箱が倒れる恐れがあるからですといふ。
○芭蕉まだ青し。山茶花しきりに散る。苔の青き上に瓣が折り重なつて亂れてゐる。梧桐はもう黄色になつた。
 
 十一月十九日〔曰〕
○袁世凱といふ人が此間内閣を組織した其顔觸は新聞に出てゐたが内四人は滿人ださうである。是は立憲君主政体で行く積ださうである。武昌の方は共和國を建設するのが主意だとかいふ。
 廣東の總督は斷髪令を下したと書いてある。
○昨日妻が机の前へ來ていふには「あなたなぞが朝日新聞に居たつて居なくつたつて同じ事ぢやありませんか」「仰せの如くだ。何の爲にもならない」と答へた。すると妻は「たゞ看板なのでせう」と云つた。余は「看板にもならないさ」と答へた。出たいといふものを何だ蚊だと云つて引き留めるにも當るまいと思ふが其處が人情か義理か利害か便宜かなのだらう。
 
 十一月二十日〔月〕
○十八日に弓削田が來て考へ直せといふから辭表を撤回したら今朝池邊から夫を送り屆けて呉れた。松山が午後來るといふ電報をかける
○佐藤さんの所で又肛門の切開部の出口をひろげる。がり/\掻く音がした。今度は思ふ存分行つたといふ。看護婦も是で本當に濟みましたといふ。然し深さは五分程まだある。此先癒るとしてもまだ二三度はこんな思ひをしなければならないかも知れない。餘程たちの惡い痔と見える。
○朝日講演集を三部送つてくる。自分の丈を一息に讀んで見た。思つたよりも下らない氣がする。
○咋|雨《原》の雨晴れて、茶黄の梧葉に日がきら/\當る。濡れた紅葉が一面に庭に落ちてゐる。子供が夫を拾つて縁へ並べてゐた。
 
 十一月二十三日〔木〕
○例により暖、木曜だけれども久し振にのんきな外出をやらうと思つて出る。少し雨が降る電車に乘ると晴れる。本郷通りに敷石の人道が出來たのに驚ろく。(寺田の話に之は四萬圓を要したとかいふ)寺田の宅で少し話して、蕪村と五岳の畫を見る。連立つて表慶舘へ行く。王羲之の眞筆と賀知章の眞筆を見る。是は珍らしいものである。支那人の花鳥畫の面白いのもあつた。歸りに上野精養軒へ盛装の白|紋《原》及びシルクハツトが續々車、馬車及び自働車を馳るのを見る。醫科の教授多し。たから亭へ來て晝飯を食つたら二時半である。九段迄歩いて電車に乘つて歸る。寺田家迄くる。疲勞。夜。
 
 十一月二十四日〔金〕
○異常に暖、九時過より雨。庭砌に蛙嶋を聞く。此間から蛙がなく。どうも一匹らしい。丸で春先の感である。
○佐藤さんの所で膀胱鏡を見る。ニツケルの管の先が匙の先の樣に曲つた所にガラスがあつて、其内に電氣の光が通つて、其光がプリズムに反射して管の口の所でレンズに擴大されて眼に入る装置である。マーゲン、ウンテルズツフングといふ器械の繪も見たが是は一ノ管で空氣を送り、電燈をつけかねて管の先から箸の樣なものを出して物をつまんで引き出し得る樣な装置が出來てゐる。是等の道具は破損すると日本では丸で修復が出來ないのださうである。膀胱鏡の粗末なのが五十圓少し變つたのは百圓もするさうである。
○肺臓の鐵分を貯蓄するといふ機能が近頃漸く發見されたといふ話も聞いた。是は余も近來の雜誌で見た。
○房楊子を呑んで胃を切開した話も聞いた。
○靜脉の血をとつて動物の血と交ぜて血球が互にデストロイしなければ黴毒のない証據になるといふ話を聞いた
○肉牙の話も聞いた。疲痕にも多少の血管が通つてゐるのださうである。
 
 十一月二十五日〔土〕
○新來る。備後福山の柚餅をくれる。盛久をならふ。頼政をさらふ。謠も何時迄も小供らしくならひ、小供らしく教へられるので毫も上達した樣でない。時々は馬鹿氣た心持がする
 
 十一月二十六日〔曰〕
○朝起きると朗らかな空に曙光が充ち渡つて最勝寺の大欅の幹の半分を朝日が染めてゐた。緊縮の感が全身に起る。此頃は暖か過ぎて秋らしくなかつたが今日始めて積極的に身のしまる心持を得た。夫でも段々暖かになつた。玄耳の處へ行く。佐藤さんへ廻る。風起る。
○國民の島田賢平氏人の爲にコンラツドの小説を借りにくる
 
 十一月二十七日〔月〕
○漸く秋の風を聞く。肌にも秋の風と感ぜらる。芭蕉猶青くさら/\と鳴る。裂けながら鳴る。梧桐は殆んど片葉をとゞめず。
 咋曉小村侯爵死す。支那へ出兵一大隊程で北京の日本人の守護をするのださうである。
 
 十一月二十八日〔火〕
 曇。どんよりして陰氣からすくめられる樣な天氣である。冬の近づいた氣分である。曇る中に大陽が薄く見えるのを眺めると倫敦の時候を思ひ出す。夫でも大陽が毒血の樣な色をしてゐないのが、まだ荒涼の感を柔げる。空氣の臭も少し違ふ。晝頃からわびしい雨となる。今日は帝國座で文藝協會の「人形の家」があるので招待を受けやうかと思つてゐたが書齋から薄暗く芭蕉(近頃芭蕉をよく觀察してゐるが芭蕉は露がいくらしとゞに降つても枯れない。山茶花が散り梧桐がから坊主になるのにまだ青々としてゐるのが毎日見る度に不思議でならない。)にかゝるのを見るといつそやめやうかといふ氣にもなる。入浴後妻が着物を出して呉れたのでフロツクに改めて車を命ずると、車屋の男は筆と恒を迎ひに女子大學へ行つた、主人は士官學校へ是亦客を迎に行つたから少し待つてくれといふ。時間はもう四時過である。四時三十分に開會といふのだから間に合はない。然し少し待つてゐやうとしてフロツクの儘立つたり椅子へ腰を卸したりしてゐたが、とう/\待ち切れず誰か外のものを雇つてくれと註文しに行くと雨が降つては奇麗なのは出てゐないから少しの問歸る迄待つてくれといふ。不都合な事だと思ひながら雨を眺めて敷島を一本を吸つてゐるうちに四時二十分になつたので、もうやめやうといつて外套を脱ぎにかゝると、御孃樣御歸りといつて車夫が芝居の樣な大きな聲を出して玄關へ車を引き入れた。
 帝國座へ着いたらもう始まつてゐた。けれども人は存外少なかつた、招待だからと思つてフロツクを着て行つたがそんなに極つた人は極めて稀であつた。向ふに千葉鑛藏氏がゐて挨拶をする。此間も有樂座で逢つた。社の松山が其後變つた事もないかと云つて話をしにくる。後ろからやあ先生と西村醉夢が呼びかける。徳田秋江君がよく御出掛でしたと聲をかける。今日はぽんたが來てゐますといふ。ぽんたは自分の前を通つた。存外よくない女である。前に野間伍造がゐるといふ。白髪まじりの角刈で大島の着物に茶の羽織で丸で請負師の樣に見えた立つ處を見ると夫でも袴を着けてゐる。野間伍造といふ人は二十何年か前に二三度逢つたが色白の好男子とのみ心得てゐたのに斯うも變るかと思つてもどうしても同人とは受取れない。自分も名乘りでもしたら先では矢張り同じ感じを起すのだらう。二三軒右へ寄つた所に三宅雪嶺氏が來てゐた。是には挨拶をしなかつた。島田賢平氏が先達は御邪魔をしました虚子も來てゐま〔す〕といふから二階を見上げると虚子が番附を振つて合圖をしてゐるので御辭儀をした。
 すま子とかいふ女のノラは女主人公であるが顔が甚だ洋服と釣り合はない、もう一人出てくる女も御白粉をめちや塗りにしてゐる上に眼鼻立が丸で洋服にはうつらない。ノラの仕草は芝居としてほどうだかしらんが、あの思ひ入れやジエスチユアーや表情は強ひて一種の刺激を觀客に塗り付けやうとするのでいやな所が澤山あつた。東儀とか土肥とかいふ人は普通の人間らしくて此厭味が少しもないから心持がよかつた。
 人形の家丈見て一人歸らうと思つて右側の玄關へ出ると車夫がゐない、外の奴が誰です呼んで上げませうと云つたが、幸雨が歇んでゐたので供待部屋へ行つて見ると矢張りゐない。おやまだ飯でも食ひに行つて歸らないのかと思つて、見廻すと右の方に自分の膝掛が見えたので彼は其下に長くなつて寐てゐる事が分つた。「おい、そいつだ」といふと外のものが「旦那の御歸りだ、起きろ/\」と云つた。
 まだ早い積だつたら宅へ歸つたらもう九時半であつた。夕食には何もないといふ。そんなら帝國座で何か食へばよかつたと思つた。蕎麥を取つてもらつて夫を食つて寐る。
 
 十一月二十九日〔水〕
○快晴、新來、盛久のつゞきを教はる。
○日暮中村蓊來。談話中小供が三人※[やまいだれ/郎]《原》下を馳けて來て笑ひながら一寸來て下さいといふ。大方ひな子がひき付けたのだらうと思つて六疊へ行つて見ると妻が抱いて顔へ濡れ手拭などをのせてゐる。唇の色が蒼い。然しよくある事だから今に癒るだらうと思つてゐると、いつもと樣子が違ふといふので前の中山さんを呼びにやつた所で、丁度下女があわてゝ歸つて來た所であつた。今其所へ出掛〔る〕といふ處に會つたので、すぐ來てくれるといふ話である。其通り中山さんがやつて來たが、何だか樣子が可笑しいから注射をしませうと云つて注射をしたが効目がない、肛門を見ると開いてゐる。眼を開けて照らすと瞳孔が散つてゐる。是は駄目ですと手もなく云つて仕舞ふ。何だか嘘の樣な氣がする。中山さんも不思議ですといふ。からし湯でも使はしたらと思つて相談すると遣つて見ろといふから瓦斯で湯を沸かしてからしを買ひにやつて腰湯を使はしたが同じ事である。タヱルで拭いて又元の通りに寐かした。可哀想な氣がする。口を開けて眼を半眼にして丸で眠つてゐるやうである。豐田さんが來ても駄目だらうなといふと妻もえゝと答へてゐる。其内豐田さんがどうかしましたかと笑ひながら這入つてくる。駄目ですと云つて樣子を話すと屹|度《原》なつて、烈しく人工呼吸をやつてゐたが、どうも不思議だなと二度も三度も繰返してゐる。
 「死亡診斷書を書いて頂きませうか」と云つて書いてもらふ事にする。是ぢや死因も何も分らないから警察醫の方で八釜〔し〕く云ふかも知れないから肺炎とでもして一週間程煩つた事にして置きませうといふ。
 屏風がないから仕方がない。六疊に置いては可哀想だから座敷の次の間へ北枕に寐かす枕元に風船を置いてある。葬具星から白木の机と線香立、花立、樒、白團子、をもつてくる。あした區役所へ行つて死亡屆を出して埋葬証書をもらふ事は行徳に頼む。寺の談判は兄に頼む、十二月一日は友引で縁喜が惡いといふので二日にする。
 
 十一月三十日〔木〕
○經帷子をみんなが少しづゝ縫ふ。女の子が多いので袖や裾が方々の手に渡る。藤が半紙を以《原》て來て南無阿彌陀佛といふ字を一杯かいてくれといふ。筆子もかく、豐隆も恒子も行徳も居合せたものは皆書かせられる。
○棺に入れる。裸にすると背の方が紫色になつてゐる。小さい珠數を手にかける、小さい藁草履、編笠を入れる。赤い毛糸の編んだ足袋を入れる。珠がぶら/\して歩いて居る所が眼に浮ぶ。人形を入れてやる。葢をして白綸子の布をかける。
○行徳が朝の内區役所へ行つ〔て〕死亡屆やら埋葬証書やらの手つゞき濟ましてくれる。兄が本法寺へ懸合つて百ケ日迄仕切つて二十五圓位にする談判を引受けてくれる。葬具屋に喪柩車一台をあつらへる。御者の酒代やら何やらを合せて三十圓程である。
 
 十二月一日〔金〕
○昨夜はおたねさん、御房さん、御梅さん抔が來て通夜をしてくれる。自分は御免蒙つて寐た。夜中に眼が覺めると話聲が聞えた。
○漢陽は六畫夜の激戰の後とう/\官軍の手に歸したと傳へられる。革命軍が武陽を守る事も困難だとかいふ。此間迄天下を席捲するやうに云び傳へられた革命軍もかうな|な《原》つては心細い氣がする。革命軍の大將黎元洪は休戰を申し込み、滿|州《原》政府の代表者と各省の代表〔者〕と革命黨の代表者を上海に會して和議を講ぜんといふ條件を出したさうだ
 
 十二月二日〔土〕
 葬式を濟まして落合の燒場から歸つて、みんなの歸るのを送つて坐つてゐると寺田が又來たので話をしてゐるうちに六時近くなつた。小供が中ノ間で白木の机の前に坐つて昨夕の通夜僧の讀經の眞似をして笑つてゐる。昨夕の通夜僧は三部經を讀んで和讃をうたつた。和讃は親鸞上人の作つたものに三代目の何とかいふ人が節づけをしたものださうである。御文樣は八代目の蓮如上人の作ださうである。此通夜僧は本法寺の十三代前の通達院が辻説教をした話をした。此辻説法の話が上野の宮樣の耳に入つて度々召されたある時、駕籠で送らせたら、菊の紋の駕籠を歸さずに次の度私風情の乘つたものにあなたが再度御召になるのはよくないからと云つて貰つて仕舞つて、夫へ乘つて兩國で失張辻説教をしてゐた所が幕府で不審を抱いて其理由をたゞしたさうである。
○今朝九時の出棺で六時半に起出でゝ服を改めて時の至るを待つてゐた。妻は黒の繻子帶に黒紋服、小供は縮緬の紋付に袴純一丈は海軍服に黒紗を捲き。南無阿彌陀佛と書いた短冊をちらして棺の中に入れる。みんなの買つてくれた玩具を入れる。あしたの朝來るから顔を見せて下さいといつた山田の奥さんが來て棺の中をのぞき込む。やがて釘付にして綸子の覆をかけて花輪をのせて喪車の中に入れる。思い馬、黒い幕の下から花環が少し見える。
○僧は五人、讀經を略してもらつて早く燒香を濟ます。
○落合の燒場へ行く 自分、倫、小宮。小供の時見た記憶が少しある。一等の竈に入れて鍵を持つて歸る。(十圓だけれども子供だから六圓いくらで濟む)
○杉の森の中に弘法大師千五十年供養塔といふのがある。其下に熊笹が生へて吹井戸があつて、茶屋がある、橋がある。それを渡つて行く。
○晩秋の落木、黄な銀杏、高い木(枯枝)殘つた葉が時々落ちる。大變長く時間がかゝる。夫だのに瞬間毎に非常に早く廻轉する。
 
 十二月三日〔日〕
○骨をひろふ爲に落合迄行かなければならない。心持よくはれた。九時二十分車で家を出る。自分等夫婦と行徳と小一と夫から藤であつた。昨日の路を又通るのだから幾分かは親しいやうな氣がする。谷を隔てゝ目白台のつゞきとも見える所に枯木と草葉と常磐木と夫から麥の青いのと大根の青いと新らしい家が錯綜して見える。大部分葉を失つた大きなけやきの幹が道の左右にならんで高く立つてゐる其幹は白けて枝の先は高く空に聳えてゐる。幹の頑丈な割合に先は非常に細い枝を持つてゐる。さうして其枝がフアインに澤山かたまつてゐるから、ひとかたまりの樣でさうして其隙間/\に空を割り込ませてゐる。夫から此高い木が左右に並んで路が少し廻つてゐるので丁度眼界が三角(徃來を横ぎる地平線をベースにした)細長く高い三角になつて其頂點は枝と枝の交叉した所にあるから道は暗い筈だが却つて通常の通である。枝の上の方に黄を根調にして青を交ぜた樣な葉がついてゐるが、夫を一眼見ると不純に穗先を染めた繪筆でべつとり枝の上へなすり付けた樣である。たゞ光線の具合で角度の違ふ陰陽の違ふ葉が各自に色をなすとき一筆で引いたといふ感は消えて頗る複雜な(色以上に意味のある物質)に見えてくる。
○火葬場に着いて鍵はときくと妻は忘れましたといふ。愚な事だと思つて腹が立つ。家から此所迄四十分懸つてゐるから、今から取に行けば徃來八十分でさうして今十時だから十一時二十分になつて仕舞ふ。時間は十一時迄だから間に合はないかも知れないが、すぐ菊屋の若い男に藤を乘せて取りにやる。硝子戸から這入る日影を脊に縁台に腰を掛けて三和土の上に兩足を据えル。座敷には觀音の像がかゝつてゐる。骨拾ひが二三組來る。一組は婆さん許りの四五人連であつたが、是は自分の羽織袴やら門内に待つてゐる車やらに氣をかねたのか小聲で話をする丈であつた。脊の高い|と《原》かすりの着物を着た男の子は活溌に壺を下さいといふて一番安い十六錢程のを買つて行つた。三番目には散髪に角帶をしめた女だか男だか分らない人間と束髪と婆さんが來て、まだ時間はありませうねと聞いてゐた。退屈だから燒場の中を徘徊してゐると並等といふのにぽつ/\眞鍮に○○○○殿とかいた札がかゝつてゐる。然し鍵もなければ封印もついてゐない。裏には奇麗な孟宗藪がある。向に松薪が山の樣に積んである。其下は青い麥畠で其先が又|岳《原》つゞきに高くなつてゐる。又茶屋の前へ來ると事務の男が出て來て犬にからかつてゐる。やがて十一時五分前頃に藤の車が歸つて來た。上等の壹號の前へ行くと昨日の花環が少し凋みかけて前に具《原》へてある。御封印をといふから構はん明けてくれと頼んだらへいと云つて、おんぼうが鍵を入れてかちやりと音をさせて黒い鐵の扉を左右に開いた。奥は薄暗いなかに灰色の丸いものやら黒いものやら白いものやらが一かたまりに見える丈である。いま出しませうと云つてレールを二本前へ繼ぎ足して鐵の環のやうなものを棺台の端へかけて引張り出した。其内から頭と顔の所と二三の骨を出して後は奇麗に篩つて持つて參りませうと云ひながら入口に置いてある台の上にそれ等を并べた。竹箸と木箸を一本宛にして吾等はそれを白い壺の中に拾ひ込んだ 脳を入れやうとしたら夫は後になさいましと云ふ所へ篩つた殘りを持つてくる。齒は別になさいますか、と聞いて齒を拾ひ分けてくれる 顎をくしや/\とつぶして中から出したのもある。何だか白米を選り分けてゐるやうである。是が御腹の中にあるものですと綿の黒く燒けたやうなものを見せる。腸の事を云ふのか知らんと思つた。おんぼうの一人は箸で壺の中をかき交ぜて骨の容積を少なくする。最後に脳葢を葢の樣にかぶせて白い壺のふたを載せるとともに脳葢はくしやりと破れて、ふたは隙間なく落付いた。手袋をかけたまゝのおんぼうが針金を出して夫を結ひてくれる。又木の箱の中に入れて風呂敷につゝむ。車へのる時は自分の膝の上へ載せた。
○生きて居るときはひな子がほかの子よりも大切だとも思はなかつた。死んで見るとあれが一番可愛い樣に思ふ。さうして殘つた子は入らない樣に見える。
○表をあるいて小い子供を見ると此子が健全に遊んでゐるのに吾子は何故生きてゐられないのかといふ不審が起る。
○昨日不圖座敷にあつた炭取を見た。此炭取は自分が外國から歸つて世帶を持ちたてにせめて炭取丈でもと思つて奇麗なのを買つて置いた。それはひな子の生れる五六年も前の事である。其炭取はまだどこも何ともなく存在してゐるのに、いくらでも代りのある炭取は依然としてあるのに、破壞してもすぐ償ふ事の出來る炭取はかうしてあるのに、かけ代のないひな子は死んで仕舞つた。どうして此炭取と代る事が出來なかつたのだらう。
○昨日は葬式今〔日〕は骨上げ、明後日は納骨明日はもしするとすれば待《原》夜である。多忙である。然し凡ての努力をした後で考へると凡ての努力が無益の努力である。死を生に變化させる努力でなければ凡てが無益である。こんな遺恨な事はない。
○自分の胃にはひゞが入つた。自分の精神にもひゞが入つた樣な氣がする。如何となれば回復しがたき哀愁が思ひ出す度に起るからである。
○また子供を作れば同じぢやないかと云ふ人がある。ひな子と同じ樣な子が生れても遺恨は同じ事であらう。愛はパーソナルなものである。小村侯が死んでも小村侯に代る人があれば日本人民は夫で滿足する。仕事の爲に重寶がられたり、才學手腕のため聲望を負ふ人は此點に於て其人自身を敬愛される人よりも非常な損である。其人自身に對する愛は之よりベターなものがあつても移す事の出來ないものである
 
 十二月四日〔月〕
○待《原》夜。ほんの内々のものが寄つて位牌の前で飯をくふ。それでも二の膳でさしみ、口取、燒肴、酢のもの、御平、白和へ、汁、御椀、鳥のうま※[者/火]などが並んでゐた。それを車屋へ二人分やつたら、禮を云ひに二返來たさうである。行徳へも持たしてやる。植木屋だの下女だのは宅で食はす。自分は後れて來訪中の中村と共に膳につく。純一が膳の上を飛んで跨ぐとか云つて騷動してゐた。
○此朝佐藤さんへ行つて又痔の中を開けて疎通をよくしたら五分の深さと思つたものがまだ一寸程ある。途中に瘢痕が瘤起してゐたのを底と間違へてゐたのださうで、其瘢痕を掻き落してしまつたら一寸許りになるのださうである。しかも穴の方向が腸の方へ近寄つてゐるのだから腸へつゞいてゐるかも知れないのが甚だ心配である。凡て此穴の肛門に寄つた側はひつかゝれたあとが痛い。反對の方は何ともない。
 
 十二月五日〔火〕
○新聞を見ると官軍と革命軍の間に三日間の休戰が成立して其間に講和條件をきめるのださうである。彼等から見ればひな子の死んだ事などは何でもあるまい。自分の肛門も勘定には這入るまい。
○十時にひな子の骨を本法寺へ納め(百ケ日間あづかつてもらふ約束)に行く自分等夫婦とひな子の姉妹(純一と伸六は行かず)と妻妹豐子、御房さん及び下女藤。骨は箱ごと白い布につゝんで藤が車に乘せる。
○小僧が出て來て佛の燈明をつける。其奥にある蝋燭立に蝋燭をつける。三|奉《原》に御供を盛つたものを其兩側に置く。壇の前の下に白木の机にひな子の骨を載せたものへ白い絹を掛けて据える。二人の衆徒が一段低い疊の上に並んで如來に向つて並んで平伏する。しばらくして茶の袈裟をかけた若い僧が佛壇の後ろから出て來て一段高い本堂のはづれ迄進んで夫から佛壇の方へ向き直つて、疊半疊程の席へ上つてぱたりと何かを落すと同時に平伏した二人は頭を上げる。讀經が始まる。阿彌陀經であつた。
○若い僧は一人で退く。衆徒のうち一人が殘つて本堂の段をのぼつて向つて左手の棚から黒塗の箱を持つて出て、吾等と同平面へ下りて、前へ進む一歩の足を奇麗に又後へ戻して東向に着席して御文樣をよむ。「……朝に紅顔あつて夕に白骨となる。――六親眷屬嘆き悲めども其甲斐なし?………」
○夫から仕切をあけて出て來て御燒香をといふ。常《原》子は香入の中の香をつまんで香煙の中に入れべきのを間違へて香爐の中の灰をつまんで香の中に入れた。
○終つて座敷で休息中主僧が出て挨拶をする。あなたが金之助さんと仰しやるのですかといふ。初めましてといふ。(私は夏目家のものですが分家を致しましたので、今度始めて御厄介になります。)
○是で一段落ついた。
 
 十二月六日〔水〕
○晴 風強し、稍冬の感。風の音の所爲だらう。芭蕉はまだ青い。朝は濃い露が降りて微雨の後の樣に庭一面に濡れてゐた。
○佐藤さんの處へ行つたら細菌とはこんなものですと云つて八百五十倍の顯微鏡を見せられて、着色のものだから丸で圖にした樣なものである。かいこの種の樣にかたまつてゐた。是は葡萄状の細菌ださうである。外に捍《原》状といふのもあるさうだ。淋病のは不染質が中央にあるため染めると二つに見えるさうである。
○眞山青果が佐藤さんと同級であつたといふ事を聞いた。學校に泥棒があつて眞山ださうであると人から聞いた通りを云つたら眞山が誣告の訴をすると云ひ出したのださうである。順天堂に自分の弟子を入れて死んだとき醫者の云付を間違へて看護婦がアトロヒンを注射器に入れたから死んだと云ひ張つて、あの看護婦をなぐらせれば我慢すると云つて懸合つたさうである。
○山師の醫者が金を出して廣告の代りに新聞の雜報を利用する話を聞いた。神谷傳兵衛なるものが十年前に足の裏に針を立てたのが今日に至つて某醫學士の]光線の力で所在を發見して肩から出たといふ如きである。今報知新聞にドクトル何とかいふものが新ツベルクリンの功能を書き立てゝゐるが如きも其例であるさうである。開業の當時通信社のもの抔が來て素人には面白い事實が屹度あるだらうから、是非新聞に御出しなさいと勸めたといふ
 
 十二月|八《原》日〔木〕
○朝池邊に行く。松山が來て、支那の革命の話をしてゐる。干渉は出來まいが金を貸したらどうかといふ話である。
○夜岡田がひな子の爲に葉牡丹と菊と水仙を持つて來てくれる。二七日に墓參をしたいといふ 線香をあげて歸る
 
 十二月八日〔金〕
○佐藤さんへ行く痔が癒るのやら癒らぬのやら實以て厄介である。
○今日倫敦の天氣の樣に徃來が暗い。九段下から見ると燈籠やら燈明台が茫として陰の如く見える。
○佐藤氏曰く屁は臭いが新らしい糞は夫程臭いものぢやない。
○此間鈴木が先生が死んだら葬儀の意匠を私に任せろといふ。おれが死んだら藝者の手古舞をつけてきやりで送つてくれといふとさうするとうかれて生き返るだらうと云つてみんなが笑つた。
○今朝妻があなたは何でも世間に反對するつきあひの出來ない方だ。人が來て御通夜をすると云へば夫には及ばないから歸せといふなんてえのが夫です。己が死んでも其代り御通夜なんどしなくても好いよと云つたら、夜中に鼠でも出て來て鼻の頭でも食ふでせうといふから、さうして痛いと云つて生き返れば結構だと答へた
○十二月六日午前八時に休戰は撤回、黎元洪と袁の代表者の談判は不調。武昌は漸く勢づける模樣とあり。攝政王醇親王は退位の上奏をなす。
 
 十二月九日〔土〕
○初めて白い霜が降る。芭蕉を見ると無惨にくしや/\になつて裂けて下を向いてゐる。色は火に焦げたやうに茶色をしてちゞれて仕舞つた。
○霞寶會へ行く湯谷の女つれと鉢の木のしてつれを謠はせられる。九郎の鸚鵡小町を聞く。どこがうまいか一寸分らず。少なくとも面白味がなかつた。之に反して新のワキは壯大雄拔の感を禁じ得なかつた。
 
 十二月十日〔目〕
○畔柳芥舟來。留守に魯庵來。昨日藪柑子來るよし承はる。
 
 十二月十一日〔月〕
○あい子、純一風邪
 
 十二月十二日〔火〕
○痔瘻の分泌少なくなる。大分の抵抗力を押し切つてより膏藥を入れても痛からず却つて心地よし。
○夜あい子熱出る。氷で頭をひやす。
○えい子を相手に鞠をつく。
○ふぢ黒《原》ぶしのそばの坐りだこの所腫れて動けず。
 
 十二月十三日〔水〕
○盛久の稽古
○こたつであい子とふざけて遊ぶ。御八つの燒芋を食ふ。
○空密に暗く室内凍るやうに寒し。ストーブを焚く。瓦斯漏れて臭ければやめる。
○霞寶會で鸚鵡小町を謠つた連中の報酬をきく。九郎二十五圓、政吉八圓 桐谷四圓、藤野三圓。新評して曰く九郎の小町心持はで過ぎたり。年の所爲ならんと 中老には調子が低くなり、夫から過ぎると又高くなるものゝ由。而して地の所もう少し上げたいと思ふ所却つて低かりし由
 
 十二月十四日〔木〕
○昨夜ストーブを焚き小供と唱歌をうたふもういくつ寐ると御正月といふ唱歌である。
○今日氣候少し緩む。朝早く覺む。
○江戸川端の櫻はみな葉をふるふ。ひとり柳の樹のみまだ緑の色を失ひ切らずにゐる。柳は中々散り盡さぬものである。
○昨日の新聞に九日午前九時より十五日間休戰の約なる由(支那戰爭)見ゆ。
○咋朝新に盛久のつゞきを習ふ。強吟のくせの處にて散々の体となる。
○藤 太田さんへ行つて坐りだこを切つてもらふ。車夫がおんぶして二十貫ある重い/\といふ。
○森圓月來。子規と余の俳句を双幅にしたるものを持つて來て見せる。素明の畫の表装出來たるを持つて來てくれる。角に※[漱の欠が攵]《原》石と彫つたもの及び磁《原》印材一個をくれる。
 
 十二月十五日〔金〕
○今日から小説を書かうと思つてまだ書かず。他から見れば怠けるなり。終日何もせざればなり。自分から云へば何もする事が出來ぬ位小説の趣向其他が氣にかゝる也
○十四十五は深川八幡の市、十八十九日は淺草觀音、二十二十一日は神田明神、二十三二十四は芝愛宕。
 
 斷片――【明治四十四年五月十六日より同十二月頃まで――】
 
○一昨年四十二年秋(八九月の頃)森田と明子さんが電車で偶然出會。三崎町のある宿屋で「楳《原》烟」の事實の有無の議論あり。翌日歸宅。其時森田よりの先方への手紙にて奥樣に面會を申し込み生田君を立會はせんと云ふ。
○平塚氏宅へ生田森田兩氏奥さんと明子さんとの會見煤烟の事實の有無に就て談合。森田は事實と云ひ明子さんは事實でないと云ふ。夫では煤烟を取り消すと云ふ。然し世間から忘れられてゐるものを復活させる恐ある故其儘にしたし。且其後も此件につき一切書かれざらん事を希望する旨を述べて森田承諾す(明子さんに關する事)又當人同志直接の文通もすまじき旨の約束もとゝのふ。
○半年あまりして(去年の四月)森田より突然明子さんの處へ出す。(匿名にて。)是非御目にかゝつて(白山の電車停留所へ何時何分)清算したいと云ふ。明子さん留守。奥さん開封の上生田氏へ行く。放つて置くがよからうと云ふ意見で其儘にして置く。
○同日に三通奥さんの所へ來る。再三の事故平塚さんの耳に入る。夫ではとて平塚氏自身面會の旨を告げて、翌日奥さんが生田方へ行かる。生田君余の所へ來る。二人で夕飯〔を〕神樂坂で食つて話す。生田はそんな事をしては困ると云ふ。森田の答は別になし。其時平塚の手紙を注意されて見て、そんなら行くから一所に行つて呉れと云ふ。
○その二三日後森田と生田と同道して平塚氏迄出向く。森田より問題を提供すべき筈の處一向其|景《原》色なきより平塚氏より「此問題はこれぎりにして頂きたい」と云ふ依頼あり。「娘が雜誌記者に話したからと森田が八かましく云ふが、家族も親戚もそんな事は喜んでゐない。だから森田氏にも世人の記憶を回復する樣な事は書いてくれるな」と頼み、森田は決局承諾す。(たゞし立合人として生田氏の考によると、問題外に渉つての話多かりしは事實〔な〕り)
○其以後事件なし
○自敍傳出てより以來生田は責任を感じつゝも感情の離隔などありて、其事に對して何も云はず
○そこへ明子さんが生田の宅へ來て自分の想像として父は困るだらうと云はれた。
 奥さんは神戸で東京の朝日を見て、平塚さんに相談をされた。
     ――――――――――
〔英文省略〕
○學者と名譽
○新聞小説 際ドイコト、文晁、北齋、モーパサン、フランス
○日本人ノ体格容貌
○自己ノ作物
○オベツカノ言語
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 畫ト文學、昔ノ日本ノ畫〔工〕ト今ノ畫工 昔ニ恐入ル
          文士ト今ノ文士 昔ニ恐入ラズ
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 Life,art,philosophy.
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 中味と形、 ――note ヲ取ルトキハ中味ノ爲ニトル、ソレガ已ヲ得ズ一種ノ形トナル。
 ――後カラ note ヲ讀ムトキハ形ニヨツテ内《原》味ヲ推コトニナル、殻カラ中味ヲコシラヘルコトニナル、氣ガ拔ケル、ダカラ役ニ立タナイコトガ多イ、役ニ立ツ場合ハ輪廓カラ中味ガ逆ニ充實サレ得ル場合ニ限ル、
 Art――藝、 落語、体操、謠、王《原》乘、儀《原》太夫、等、
  pure practice.(歩行)、effort ナシ 自然。自然ニ出來テ form ニ合ス、
     ――――――――――
 相撲、Art. Life ハ此意味二於テ art.
     ――――――――――
 Art ハ philosophy ヲ合ム、
 『Philosophy it self ハ life カラ content ヲ取ツタモノ、
 ダカラ art は life ヲ構成スルガ philosophy ハ living power ニナラナイ、
     ――――――――――
 ∴Experience ノ importance、無學デモ無心ニ philosopher. イクラ philosopher デモ action ノ助ケニハナリニクイ、philosopher ハ form カラ contents ヲ逆ニ inspire シナケレバナラナイ、
     ――――――――――
 給使カラ上ツタ人ト大學出ノ新シイ人、
 大シタ學問ガナクテ立派ナ作ヲスル人、
 學問ガアツテp「覽ticaEyニ役ニ立タヌ人、
     ――――――――――
 學問ハ(人事上ノ)delicate ナ區別ナシ、實際ノ事ハ非常ニ delicate ナ區別アリ、analogy ハ決シテ起ラズ、反應モ決シテ same ナラズ、其 nice distinction ヲ art ハ feel シテ事ニ當ル、故ニ artist ハ事實カラ云ヘバ artist ハ philosopher ヨリモモツト delicate ナ philosopher デアル、
     ――――――――――
 極端ハ分別思議ノ時間ヲ許サズシテ分別思議ノモタラス result ヲ實行ス、intuition デアル。
 ex. マバタキ、地震ノトキ飛ビ出シタコト、軍略、其他、
     ――――――――――
×大抵ノ人ハ結果論者ナリ、人ヲ評シテ危|倹《原》トいふ、人モシ危險ニ陷ツタトキ始メテ夫見タカト云ふ。人モシ危險ヲ逃ルレバ内ニ耻ヅ。是等ハ自己ノ judgment ノ正否ヲ未來ニ質スモノナリ。
×Philosophy ハ過去ヲ材料トシテ deliberate シテ未來ヲ決スルナリ、×Artist ハ現在ニ即シテ過去モ未來モナキナリ、
 故ニ artist ハ尤モ free ナリ、而シテ又尤モ necessitate セラルヽナリ、wkole being ガ茲ニ向フナリ、intuitive(back ground ニ past ヲ帶ビル philosophy ヲ骨格トシタル、又 future ヲ鷲ヅカミニスル自信ヲ持ツタル、サウシテ殆ンド是等ヲ思量スル暇ナキ)ニ働クナリ。
×此intuition ガ必ズ當ルトハ限ラズ。art ハ過去ノ練習デ success ハ未來ノ adaptability デ定マルカラデアル。ケレドモ當ラヌトハ限ラズ。
 當ル場合ニハ
     ――――――――――
 是ハ山デハナイ、又勝負ノ賽デモナィ、御ミクジ、卜ノ類デモナイ、シカアラザル可ラザル一種ノ念力ナリ、ダカラ自分ニ全ク經驗ノナイコトニハ働ラカズ。無經驗無學ナル者ガ此山カラ金ガ出ルカ出ナイカヲ認定シタツテ直覺ガ働ク筈ガナイ
     ――――――――――
○×時代後れ。家ノ下女 仙台、長野、房州、長大。
○×結婚――表慶舘、上野精養――自働車、馬車、
 白石の詩、澤菴和尚、
 王、賀の書、
 明畫、六祖の畫
 呉|州《原》、な《原》んかうの茶碗
 柿右衛門、仁清
 乾山、
(1)AトBノ確執。
(2)Aノ得意(Bノ vanity ニ損ニナル)(BノAニ對シテ講和セザ〔ル〕可ヲザル)
(3)Bノ動作用 (1)Aノ得意ノ妨害(2)今日迄ノ態度ヲ策といふ(3)絶對謝罪
 
○×關口水道町ノ變化
     ――――――――――
○×痔  Kleyノ畫
○×不思議(ひな)子ノ死
○×子供ノ死、夫婦ノ和解
○×子供ノ死 freethinker ノ superstitious ニナル
 
     二 〔『彼岸過迄』〕
○鎌倉、蛸取、小坪
○樂《原》樂
○婚禮、太神宮、五軒町、西片町
○明石、和歌山
○大阪病院
○痔 括約筋
○能樂堂  左陣 松風
○有樂座名人會 呂昇 堀川
○帝國劇場、ノラ
○子供の死。
 葬、火葬場、骨拾
○關口と早稻田の變りやう。
○小川町停留所
     ――――――――――
 田川敬太郎
 森本
 須永市藏{母 春
      妹 妙
 田口要作{千代
   俊  百代
      吾一
 
     三
〔英文省略〕
 
     四
○黒人ノ仕事、(art ノ保存) art ノ life ヲ長クスル。(自己ノ freedom ト特色ヲ犠牲ニシテ) means、not end
○黒人ノ競爭
 Same direction along one special line.
 寸、尺、丈
 ∴absurd    俳句ノ例
         藝者ノ例
○黒人ノ自覺
 ×還元(modified form)的
 ×New departure(different plane)
 
○Art 女ノ言語動作
    芝居(子供ヲ道具)
 
     五
 分化
○耳垢取、桂菴、土《原》藏倉引、元祖藤八拳、半襟、帽子、襟飾、シヤツ屋、一般、特殊、雜貨店、田舍、東京、
 學問
○結果、深狹、箱の四方を|を《〔?〕》る。
 時間の不足、――同情、不同情、
○不具者。 嫌厭の點
 
 日記――明治四十五年五月より大正元年十月五日まで――
 
○代議士の運動猛烈なる時(四十五年五月十五日選擧)ある人來りて某の爲に投票を依頼す。坐に寺田理學博士あり、依頼者の歸りたる後、どうして代議士などになりたい氣が起るだらうといふ。
○五年振に中川芳太郎に逢ふ。近頃は羅甸語を教へてゐますと、夫からイリアツドが讀めるやうになりましたといふ。小宮と鈴木が驚ろく。余も驚ろく。
○右は世の中に全く利害を異にする人間が生存するいゝ証據なり
○日本橋の某議員候補者の事務所に來て、あなたを投票して今歸りだといつてわざ/\斷つて名刺を置いて行つたものが七百何名とかあつたが、實際投票の數は其半分しかなかつた由。是程御叮嚀なうそを吐くのは(候補者のやり口にわるい所があるからでもあらうが)彼等の遺徳の程度が甚だ低いといふ証據也、此道徳の水準をどうして高めるといふ事が選擧問題よりも餘程な大事件大問題なるべし。
 
○五月二十三日〔木〕 霞寶會。六郎の隅田川。モガ/\何を云つてゐるか分らず。斯んな irritating なものなし是を含蓄と心得るのは沙汰の限りなり。然し謠を外にして末段の所作は面白かつた。
 
  春日偶成
     其一
  莫道風塵老  當軒野趣新
  竹深鶯亂囀  清晝臥聽春
     其二
  竹密能通水  花高不隱春
  風光誰是主  好日屬詩人
     其三
  細雨看花後  光風靜坐中
  虚堂迎晝永  流水出門空
     其四
  樹暗幽聽鳥  天明仄見花
  春風無遠近  吹到野人家
     其五
  抱病衡門老  憂時涕涙多
  江山春意動  客夢落煙波
     其六
  渡口春潮靜  扁舟半柳陰
  漁翁眠未覺  山色入江深
     其七
  流鶯呼夢去  微雨濕花來
  昨夜春愁色  依稀上緑苔
     其八
  樹下開襟坐  吟懷與道新
  落花人不識  啼鳥自殘春
     其九
  草色空階下  萋々雨後青
  孤鶯呼偶去  遲日滿閑庭
     其十
  渡盡東西水  三過翠柳橋
  春風吹不斷  春恨幾條々
 
○五月二十五日〔土〕 午後四時水上飛行器の飛行を擧行するといふ案内を受けて芝浦の埋立地第二號に行く。今日中止……と張りつけてある。わざ/\案内をして理由もなく中止す。驚ろくべき無責任なり。テントの中に飛行器あり。カーチスなるものは恐らく山師ならん。
×電車の内で齋藤與里にあふ。土曜劇場の歸りといふ。
×大曲の觀世では追善の能をやつてゐる。芝の山内では自動車、自轉車の展覽會あり、帝國劇場はマチネ、
 
×Justice ト贔屓
×Love と義務(Sex ノ欲ト未來の子供ヲ育テル務)
×利害心と Kindness
 
  間違取消
○ 不解丹青技〔5字に抹消の縦線あり〕  却負故人情
  袖裏春長在  春風描不成
   湯淺廉孫畫を索めてわれ是を作る能はず、斷りの代りに此詩を送る
 
○他の權威が自己の權威に變化する時之を生活の革命といふ。其時期。及び説明。
○「人を見たら泥棒と思へ」「信を人の腹中に置く」兩者の意味、其對照
○文藝協會。ボストンの四部合唱。行啓能。自由劇場、土曜劇場の合併。上野音樂會。露西亞音樂團。博文舘二十五年記念祝賀會。アーチヤー驩迎會。
 
○五《原》月六日〔木〕 夜青年會舘にて露西亞音樂團の唱歌を聽く。服装はなやかにて奇妙なり。四五十人の團体なり。
 
○五《原》月二日〔日〕? 妻 小猫を踏み潰す。醫者とても駄目といふ。晩に線香をあげる。翌日まだ腹が動く。再び醫者に連れて行く。遂に埋める。もとの猫と同じ所也。
 
○九日〔日〕 上野音樂會を聽きに行く。ハイカラの會なり。管絃樂も合唱も面白し
 
○十日〔月〕 行啓能を見る。山縣松方の元老乃木さん抔あり。
 陛下殿下の態度謹慎にして最も敬愛に價す。之に反して陪覽の臣民共はまことに無識無禮なり。
 (一)着席後恰も見世物の如く陛下殿下の顔をじろ/\見る。
 (二)演能中若くは演能後妄に席を離れて雜沓を釀す。而して皇族方は靜肅に椅子に倚る。音樂會の方謠かに上品なり(尤もプログラムに何十分休みとも何ともなき故人々勝手な時に立つと思はる。是は能學會の不行屆なり
 (三)陛下殿下皆靜肅に見能あるに臣民共しかも殿下陛下の席を去る咫尺の所にて高聲に談笑す
  歸る所を見れば自働車手人力馬車絡繹たり。是等禮儀の辨別なきもの共は日本の上流杜會なるべし。情なき次第也。
  皇后陛下皇太子殿下喫烟せらる。而して我等は禁烟也。是は陛下殿下の方で我等臣民に對して遠慮ありて然るべし。若し自身喫煙を差支なしと思はゞ臣民にも同等の自由を許さるべし。(何人か烟草を烟管に詰めて奉つたり、火を着けて差上げるは見てゐても片腹痛き事なり。死《原》人か片輪にあらざればこんな事を人に頼むものあるべからず。烟草に火をつけ、烟管に詰める事が健康の人に取つてどれ程の努力なりや。かゝる愚なる事に人を使ふ所を臣民の見てゐる前で憚らずせらるゝは見苦しき事なり。直言して止めらるゝ樣に取計ひたきものなり。宮内省のものには斯程の事が氣が付かぬにや。氣が付いてもそれしきの事が云ひ惡きや。驚ろくべき沙汰也。
 (四)帝國の臣民陛下殿下を口にすれば馬鹿叮嚀な言葉さへ用ひれば濟むと思へり。眞の敬愛の意に至つては却つて解せざるに似たり。言葉さへぞんざいならすぐ不敬事件に問ふた所で本當の不敬罪人はどうする考にや。是も馬鹿氣た沙汰也。
 (五)皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也。政府及び宮内官吏の遣口もし當を失すれば皇室は愈重かるべし而して同時に愈臣民のハートより離れ去るべし。
 
○新曰く最初舞台に出る時は見物の顔も自身の所作も分らず夢中にて下る。段々度數重なるにつけ見所にゐる人の顔やら樣子やらが明瞭になる。けれども同時に彼等の動作に囚はれる。最後には明瞭に見えながら丸で彼等が眼中になくなる。新は常に臆病を自白す。地震で屋根へ飛び出したり窓から飛び下りた話をする男であるが、臺《原》台の上では大抵の雷があつても平氣なりと語れり。
 
○ 雨晴天一碧  水暖柳西東
  愛見衡門下  明々白地風
 
○六月十六日〔日〕 市村座へ行く
 
○六月二十二日〔土〕 畔柳芥舟佳例により郷里の櫻坊を持つて來てくれる
 
○二十三日〔日〕 中村是公愛久澤直哉來。二時過自働車で向島へ行く露伴、清香の香浮園を訪問夫から堀切の菖蒲を見て、東五軒町迄歸る。六時前也。夫から築地の瓢家へ行く。夫から芝の是公の家から牛込へ歸る十時半也。自働車だからこんなにあるけるのだと思ふ。
 
○ 芳菲看漸饒  韶景蕩詩情
  却愧丹青技  春風描不成
 
○ 高梧能宿露  疎竹不藏秋
  靜坐團蒲上  家々似在舟
 
 六月二十九〔土〕、三十〔日〕、一日〔月〕 鎌倉
○江島の岩屋へ這入る手前の橋の處にて、男女二人退潮の岩の上にて貝か何か尋ね廻る有樣也。歸りに見ると彼等の蝙蝠と足袋と草履と風呂敷が見えるけれども二人の姿が見えず。まさか入水でもなからうと思つたが何だか不安であつた。橋の上を少し歩くと、彼等は夢中になつてまだ何か探してゐた。彼等の姿は岩の影で見えなかつたのである。
○ある腰辨出張の前ある待合に行き素人を注文す。主婦よろしいと云つて寫眞を見せる。其中に自分の妻君の寫眞あり。主婦曰く此人○日から○日迄でなければ御意に應ぜずと腰辨腹の中で計算して見ると丁度自分の出張する間の日取也
○鎌倉の別荘の生垣には珊瑚樹多しゆづり葉の如き厚き光澤ある葉なり地味に合ふと見えて發育甚だよろし。大きなのもあり。八幡境内蓮池の柳の陰に一本あり。細かな茶色な花をつく。
○光明寺境内(材木座)に開祖記主禅師手植の白檀あり見事な木なり
○茂子の別莊を北側の庭から見ると京都邊の古刹の趣がある。たゞ少しく家庭趣味を交へた所が違ふ丈である。南側は頗る時代が着いてゐない。
○鮑百目二十錢也。二つ三百五十目故七十錢にあたる。さゞい。とこぶしを交へ蛸一疋(五錢)を加へ一圓へ《原》買ひとる。籠は頗る重し。
 
○ 緑雲高幾尺  葉々疊清陰
  雨過更成趣  蝸牛|※[足+歩]《原》翠岑
 
○七月十三日〔土〕(?)臨風大觀二人に招かれて下谷伊豫紋に行く。
 
○七月二十日〔土〕晩天子重患の號外を手にす。尿毒症の由にて昏睡状態の旨報ぜらる。川開きの催し差留られたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。細民是が爲に困るもの多からん。當局者の没常識驚ろくべし。演劇其他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騷ぐ有樣也。天子の病は萬臣の同情に價す。然れども萬民の營業直接天子の病氣に害を與へざる限りは進行して然るべし。當局之に對して干渉がましき事をなすべきにあらず。もし夫臣民|中《原》心より遠慮の意あらば營業を勝手に停止するも隨意たるは論を待たず。然らずして當局の權を恐れ、野次馬の高聲を恐れて、當然の營業を休むとせば表向は如何にも皇室に對して禮篤く情深きに似たれども其實は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀すと一般也。(突飛なる騷ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を爲すべし、當局も平然として之を捨置くべし)。新聞紙を見れば彼等異口同音に曰く都下鬩寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聽す。天子の徳を頌する所以にあらず。却つて其徳を傷くる仕業也。
 
○二十一日〔日〕 小供を鎌倉へ遣る。一※[さんずい+氣]車先に行つて菅の家に入る。二階から海を見る。涼し。主人と書を論ず。何紹基の書を見る。午後小供のゐる所へ行く。材木座紅ゲ谷といふ。思つたよりも汚なき家也。夏二月にて四十圓の家なれば尤もなり 庭に面して畠あり、畠の先に山あり大きな松を寐ながら見る。其所は甚だ可。たゞ家の建方に至つては如何とも賞めがたし。東京の新開地の尤も下等な借屋の如し。
 
○二十二日〔月〕、濱へ出て見ると、海濱院に逗留の唐人海につかつてゐる。女は赤や水色の手拭樣のものを頭へ卷きつける。着物も膝迄のを着る。四時五十何分の※[さんずい+氣]車で歸る。雨。東洋軒の出張所で晩餐。車を雇ふ。二台にて一圓〇八錢。稻妻ゴロ/\
 
○二十三日〔火〕 是公突然來る。晩餐を食ひに行けといふ。築地の山口へ行く。御しん、しめ子、御しほ、小露、ひな子抔といふ藝者の顔を見る。外に六べえさんと自稱する藝者から金神さまの講釋を聞いて信者にさせられる。此六べえさんは松前の(北海道)産なり。言葉なまりあり。
 
○大觀畫をやるといふ。余の書をくれといふ。仕方がないから御禮の詩をかくといふてやる。詩の方先づ出來上る。
  獨坐空齋裏  丹青引興長
  大觀居士贈  圓覺道人藏
  野水辭君巷  閑雲入我堂
  徂※[行人偏+來]隨所澹  住在自然郷
 
○流山の秋元梧樓又入らざる明治百家短冊帖とかを出板す序をかけと云つて聞かず。手紙に詩を添へてやる。
  雲箋有響墨痕斜
  好句誰書草底蛇
  九十九人渾是錦
  集將春色到吾家
 百人を九十九人としたるは余を除きたる也。余の短冊は實際物になつてゐるとは思へず、九十九人は謙遜でもなし。事實を申した積也。
 
○七月三十日〔火〕午前零時四十分 陛下崩御の旨公示。同時踐祚の式あり。
 
○三十一日〔水〕に改元の詔書あり
  朕菲徳を以て大統を承け祖宗の靈に告げて萬機の政を行ふ茲に
  先帝の定制に遵ひ明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年と爲す主者施行せよ
    御名 御璽
 明治四十五年七月三十日    各大臣連署
 右は公羊傳に「君子大居正」易經に「大事以正天之道也」とあるによる。
 先帝の御謚號は
  明治天皇
○朝見式詔勅
  朕俄に大安に遭ひ哀痛極罔し但だ皇位一日も曠くすべからず國政須臾も廢すべからざるを以て朕茲に踐祚の式を行へり顧ふに先帝睿明の資を以て維新の運に膺り萬機の政を親らし内治を振刷し外交を伸張し大憲を制して祖訓を昭にし典禮を頒ちて蒼生を撫す文教茲に敷き武備茲に整ひ庶績咸熙り國威維揚る其の盛徳鴻業萬民具に仰ぎ列邦共に視る寔に前古未だ曾て有らざる所也朕今萬世一系の帝位を踐み統治の大權を繼承す祖宗の宏謨に遵ひ憲法の條章に由り之れが行使を愆ること無く以て先帝の遺業を失墜せざらん事を期す有司須らく先帝に盡したる所を以て朕に事へ臣民亦和衷協同して忠誠致すべし爾等克く驗が意を體し朕が事を奨順せよ
 
○大正元年七月三十一日齋藤海軍大臣及上原陸軍大臣を宮中に召され陸海軍人に左の詔勅を賜ふ
  朕茲に大統を嗣ぎ列聖ノ遺烈を承け萬世一系の帝祚を踐むに方り特に朕が親愛する陸海軍人に告ぐ
  惟ふに皇考曩に汝等ニ軍人の精神五箇條を訓諭し一誠以て之を貫く可きを示し給へり汝等軍人は夙夜此聖訓を奉體し累次の征戰を經國威を宣揚し皇基恢弘し以て曠古の偉勲を翼成したり朕は朕が統率する所の軍陳は即ち是皇考の慈育愛撫し給たる所の軍隊なるを念ひ汝等軍人の忠勇に信倚し皇考の遺業を紹述し倍々皇國の光威を顯彰し億兆の福祉を増進せんことを冀ふ汝等軍人は皇考の遺訓に由り以て直に之を朕が躬に效し愈々奉公の志を鞏くし思索の選を慎み宇内の大勢に鑑み時世の進運に伴ひ拮据勵精各其本分を竭くし朕が股肱たるの實を擧げ以て皇謨を扶翼せんことを期せよ
○右に對する陸軍大臣の奉答文
  畏くも優渥なる勅諭を賜はり感激の至に堪へず臣等鞠窮盡瘁誓つて叡旨に副ひ奉らんことを期す
 海軍大臣の奉答
  陛下登極に方り特に陸海軍人に優渥なる聖勅を賜ふ臣等感激の至りに禁へず誓て叡旨に副ひ奉らんことを期す
  海軍々人を代表し謹んで奉答す
○朝見式勅語に對する西園寺首相の奉答
  臣公望誠惶誠恐伏して言うす
  大行天皇奄に登遐あらせられ臣民憂懼措く所を知らず今
  叡聖文武なる天皇陛下大統を承けさせられ茲に彜訓を垂れ給ふ聖猷遠く慮り睿圖遺すなく上は先帝の鴻業を纉ぎて憲法の條章に循ひ下は億兆の和協を奨めて忠誠の至情を輸さしめ以て祖宗の休光を無窮に發揚せむとし給ふ是れ寔に宇内の齊く仰ぐ所にして臣庶の永く頼る所也臣等聖勅を拜し感激の至りに勝へず今より後益匪躬の節を効し夙夜※[さんずい+卒]礪邦家の進運を扶翊し以て聖旨に答へ奉らんことを誓ふ臣公望誠惶誠恐頓首謹みて奏す
○三十一日拜訣式並に納棺式
 御船《みふね》(内棺の事か)の厚さ七分、中棺は二寸外棺は三寸、三棺の間はセメントを詰込、總体の長さ一丈高さ三尺四寸幅四尺、棺台の厚五寸其上に白の薄縁、靈枢は台と共に白木の呉床の上に安置し白羽二重を以て覆ふ。前に幅一尺五寸四方高一尺五寸四方位の根付の眞榊一對と御|忌《いみ》火、御神饌、御幣帛。
 御船の中に入れる遺骸には白羽二重の清き衣、同じ枕、三襲の褥、丹其他の香具數種
 
○一日の新聞に左の廣告を出したるものあり
御崩御に付
謹で弔意を表し候
   日本橋區久松町三十五
     舊稱森又組
      大正屋商店
         電浪花二九四一
         振替東京九五六
    純絹製一掛
喪  章  金十五錢
      金三十餞
   宮内省告示に基き喪章發賣仕候
   五掛以上御屆可申候 〔広告の部分□で囲む〕
 
○轜車(牛車)
 總体(御)黒塗にて(御)寸法は英照皇太后陛下の(御)時より長大となり(御)型は夕顔型なり外側の大輪は七箇にて一輪の組矢二十一枚、左右と上部は栗色網代にて御簾は四箇所に垂下され前後兩面と左右の上部後方に於る二箇所にて竹は本磨 縁、編絲とも鈍色、御簾の内側の御引立は四箇所とも近江表鼠色の平絹を用ひ御引立の上部より垂下すべき簾は鈍色の精好 屋根裏は黒塗の格天井御簾の上部に吊るすべき瓔珞は何れも黄金色の御紋章菊花と花菱にて御榻は黒色の漆塗なり御金具は全部黄金色なり尚萬一の場合の御雨被は青漆色の桐油にて製造し御紐は白色なりといふ
○御輦(青山より桃山迄)
 御神輿に均しきものにて一名葱華輦と申し總体黒色と爲し金具類は飾なき素銅四方の御垂簾は本磨きの竹、組糸、縁、總て鈍色の絹を用ひ、四隅に鈍色平絹の御帳を垂れ御屋根四隅の尖端には絹綿の房を吊るし竪添棒、横添棒とも漆塗の黒にて屋根裏は合《原》天井、垂木の末端には素銅の飾を附し御輦の後部は觀音扉也扉の外面には御簾を垂る御萬一の御雨被は濃黄色の桐油にて四箇所に金の御紋章を施さるゝ筈也
 
○八月二日〔金〕鎌倉に行き二日三日とまつて四日の夜歸る。
 九時四十分の※[さんずい+氣]車で行く。商家の男、姉妹と見える女を三人つれて乘る。何れも落付かず、相應の服装と相應の言葉遣ひをしながら立つたりゐたり毫も餘裕なき風。中の女の帶をさして妻が麻ですよといふ。成程。白麻に薄い藍で松を染め下に茶色の線で家 薄紅の紅葉。むかしの御殿女中の着物かかいどりにありさうな野暮なものなり。變な好みの復活と思ふ。
○伸六二日程前より熱。猩紅熱ときまつて今朝病院に入院したといふ。車で行つて見る。東京から呼び寄せた看護婦とつねが世話をしてゐる。猩紅熟は咽喉と腎臓を冒す由にて其方の注意を怠らぬやうにするとか。經過は一ケ月かゝるといふ。彼の布團やかい卷を病院で消毒してもらふ。夜消毒をしに家に來る人五六人。皆白い着物をきて家中石炭酸の臭がする。散歩から連れて戻つた小供が盆槍してしまふ。暗い夜で、あたりの別莊はしんとしてゐる中で自分の家丈が火の影や白い着物の行違ふ影でごた/\するのを立つて見てゐるのは變である。
 「少しも品物が傷みはしません。二三日立つと臭が拔けてすつかり故の通になります」と云つて消毒掛の人が、しきりに消毒をすゝめる。自分の洋服と妻の着物丈はチヤブ台に載せて暗い畠の中に出して置く。
 夜は夜具が足りないのを工夫して二つの蚊帳に子供六人我等夫婦岡田とみねと寐る。
 
 三日〔土〕。小宮が藤村の菓子をもつてくる。みんなで海へ行く。遠淺でよき所なり。子供等は浮ぶくろを脊負つてボチや/\す。
 小宮とまる。純一飯を十一杯食つて腹がくるしいといふ。いろはがるたをとる。源平でジヤンケンをやる。
 
 四日〔日〕 寒いのを我慢して海へ這入る。ひるからあみだをやる。二錢の籤にあたる。昨夜妻が病院から歸つて、病院の看護婦の不親切を訴ふ。事務と看護婦へ金をやつて來たといふ。アイスクリームを食へと醫師がいふ。さうして付添には室外へ出てはならないといふ。さうして誰も來なければ、どうしてアイスクリームを食ふ事が出來やう。馬鹿々々しい事である。白い着物も病院で貸してくれる(是は妻が事務で聞き合せて承知した事)のを貸さないで着なくては不可ないといふ。此病院は評判のわるい病院ださうである。何か看護婦にいふとふんと答へる丈ださうである。看護婦長にいふと普通の答はするが一向其通にはしないのださうである。東京から來てくれた付添の看護婦が妻にこんな所は始めてだと云つたさうである。去年か一昨年妻の遠縁のものが此所に這入つた時抔は湯たんぽの湯さへ拵らへなかつたといふ。
 五時頃伸六の見舞に行く 今日は大變よくつてバナヽを四つ食つたさうである。床の上で電車をおもちやにして遊んでゐた。
 六時過の※[さんずい+氣]車で歸る。日曜だものだから中等客一杯。小宮と一等に移る此所には獨乙人が五六人乘つてゐた。八時過銀座の佛蘭西料理へ這入つて晩食をくふ。夜街頭をあるくと大變寒い。妙な氣候であつた。
○松の枝に御櫃が干してある。蟹が松の下を這ふ。
 まさきの桓《原》。ひかんの黄な花(婆さんが西洋の芭蕉といふ)桔梗。百合。月見草。唐茄子 サヽギ。玉蜀黍。芋。茄子。仁參(丸い仁參)。青いトマト。
 珊瑚樹の垣。珊瑚樹の花。遠くから望むと綺麗なり。
 光明寺の裏の松山の松が軒を壓して見える。
 
○八月十七日〔土〕 塩原行
 九時三十分の急行。赤|坊《原》に聞くと大分中等が込みあひさうなので上等にのる。寢台六人前(上を併せて十二人分)の列車にたゞ一人なり。煽風器が頭の上で鳴る。大宮々々、浦和々々、といふ聲を聞いて寐てゐる
 十二時頃食堂に行く。食堂のつぎに喫烟室其次が中等の一部。其此方からのつき當りの左の隅に丸髷の女、突當りに男、つれだか何だか分らず。食卓の前の男(色の青い丁稚上りと見える)海老のフライを二|血《原》食ふ。左側の男しやつ一枚で食ひながら書物をよむ。しばらくする〔と〕さつきの女と男がつれ立つて食堂へ這入つてくる。はじめて連といふ事が分る。
 西那須〔野〕へ下車。輕便鐵道の特等へ乘る。さつきの男女向側へ腰をかける。關谷で下車 事を雇ふ。一番先がしやつ一枚で書物をよんだ男其次は帽子の下へハンケチを風に吹かせた男其次が自分、女と男は後れて乘る。
 いゝ路なり蘇格土蘭土を思ひ出す、松、山、谷、青藍の水。
 後から四台つゞき(是は自分のすぐ隣りの中等室に家族一同のれる人)くる。特等列車のうちでどちらへ手前は塩の湯へ參りますといつた男の妻子もくる。大網といふ所で私は米屋で御座いますといつて仙台平の男が呼びとめる。其間にあとの車が先になる。
 やがてしやつ一枚の男は橋の處で寫眞をとる。余の次の室の一團は松家の門口でとまる。余の車は美人のあとからずん/\行く。男と彼女の距離よりも彼女と余の距離の方餘程近し。連か御供と見える。米屋の所で一寸御茶を一つといふうちに又かの女と遠かる。余が別館へ又出掛ると彼等は又楓川樓から引き返す客が多くて斷はられたものならん。
 別館は變な所なり、只閑靜といふのみなり。米屋へ入湯に行く。
 
○八月十八日〔日〕
 寶の湯へ行く。きのふ見た馬が河原でまだ草を食つてゐる。白と黒の斑な馬。小栗宗丹か曾我蕭白の書きさうな變な馬なり。寶の湯の前に石があつて朱字で千葉縣野田醤油産地何の某。神經痛が癒つたとか書いてある。五時過だといふのに大入で這入る場所もない。小屋掛中は男も女も滅茶々々なり。女の隣へ入れてもらふ。尻からぶく/\と玉が出る。是湯の湧くなり。そばの席に一人來てゐる。ごみだらけ也。ラヂウムが含まれてゐるとかいふ話ですと女がいふ。石を四つ五つ並べて御由是を一つ持つて行かう「御止しなさいよ、そんなつまらないものを。第一重くつて仕樣がありやしない」「重いたつて※[さんずい+氣]車が重い丈だ」余は「何にするんですか」と聞いた「盆栽にあしらふんです」と答へる。カル石ヤラ斑入ヤラあつたが何れも愚なつまらぬものであつた。夫でも當人は堀出物の氣で河原へ行つて探し出したのだと威張つてゐた。
○晝から塩の湯へ行くといつて出る、米屋の子僧馳けて來て曰く只今東京から二人見えましたと。行道に本店に行くと二人は湯に入つてゐる。夫を待ち合はして一所に塩の湯へ行く。玉屋へ電話をかけてくれる。ペンキの箱の樣な宅の三階の角の室に通る。時々三階がゆれる。廊下傳ひに湯に行く。一町餘り下る。谷川の岸に湯壺が六個ある。男も女も區別なし。入浴の上谷川で頭を洗ふ。是公女按摩をとる。
 「按摩さん何處だね」
 「古町です」
 「按摩さん御亭主があるかい」
 「……」
 「おれは四十六だが亭主に持たないか」
 「おとつさんに持ちませう」
   ………
   ………
 「山でつつころがした松の木ごろた、樣な女でも……人が袖引きや腹が立つ」
 按摩曰く御金をためて東京へ行つて藝者を上げて歌を聞きたい。按摩躍る時、按摩さんあぶないよ大丈夫かいと聞く。大丈夫ですといふ。猶念を押すと按摩は階子段をとん/\と馳け下りるやうにする。驚ろいたなあと引き返す
 是公宿るといふ。藥を忘れたため留る能はず、余一人歸る。薄暮山を下る。古町を外れると宿の番頭が提灯をつけて迎にくる。
 下女が御淋しいでせうといふ。蓄音機でもやりませうかと聞く。蓄音機を持ち出して一時間ばかり聞く。
○昨日の朝 三位の洞穴へ行く岩の間に 《原》茂る其所の崖から水が垂れる、夫から階子段を下りて愈本式の穴に入る。臘燭を點けて白い上蔽を借りて這入る
 裏道傳ひに岨道を下る。螢草、夕貌、芦、川柳、葛の間に牛の樣な岩あり。街道に出て引き返す。昨日の女結付草履にて男と一所にくる。家に歸りて足袋を穿き洋傘を持つて八幡樣へ行く。細長い石段夫が曲つたりたるんだりしてゐる。上り切ると大きな杉が二本。逆さ杉といふ畫端書にあるものなり。見るとそばに先刻の女と男がしやがんで納涼んでゐる。正一位正八幡宮は憐れなものなり。泉があつて杉の木立がある
 
 八月十九日〔月〕
 
 八月二十二日〔木〕 S來。海苔をくれる。懷中汁粉を食ふ。たゝみ鰯をもらふ。はなを教はる。何遍教つても分らず 場役手役四光。青短赤短凡て説明されて猶分らず
 二十一日龍化の瀧。秀、須磨、瀧壺に入り冷たいといふ。歸途須卷の瀧に行。三本の湯瀧。カブト被る。胸をうたして死んだ人ある由にて、ある婦人突然來り胸をうたすのは御止しなさいといふ。此宿山の中に一軒あり、御出なさいとも入らつしやいとも云はず、帳場に人が居ても知らぬ顔をしてゐる。さつき二人連が來た筈だがといふと分らないといふ。白い團子。
 二十二日妙雲寺の常樂瀧。Z書畫帖にかけといふ。小僧墨をすり出す。(S、K、同行七福神を買ふ)不得已舊製を詩箋に書く。住持出てどうぞこちらへといふ。浴衣がけに手拭をぶら下げたる儘にて逢ふ。(高尾のうちかけ)
 晩住持晝畫帖を持つて來る。〔二十三日〕今朝迄あづかる
 硯を求むなし。遲く來る。ZとK墨をする。送鳥天無盡看雲道不窮の句を書す 盡字を誤つて迹に作る。朝匆々之を訂正す。
 宿のもの記念に何か書いてくれといふ。山色清淨身といふ句をかく
○華藏院
 三百坪芝原。月見草、芒一株、疎竹
 菜、午《原》蒡、芋、黄瓜 唐もろこし、
 いちご、萩、
 
 二十四日〔土〕 馬で中禅寺へ行く。尻いたむ。レーキサイドホテルで晝食。又馬にて引き返す。
 胃 酸わき、膨滿、苦痛、食慾なし、湯に入る 益甚し、寐る。瓦斯胃より腸へ逃るゝ心地也。清野氏來り是公と會見。對話斷續聞ゆ。
 
 二十六日〔月〕 輕井澤より豐野、長野にて是公待ち合はせる。力石に會ふ。豐野にて下車。きたなき馬車宿。さうかと思ふと護謨輪の車あり。巡査が挨拶する。自働車が今中野を出たから二十分待てといふ。自働車は頭の上にズツクを張つたものなり。田道を疾馳す向から馬車がくる時が危險 衝突。馬車の心棒まがる。舟橋を渡る。中野着。二頭立のガラ馬車に乘る。段々田舍道に入る。心細くなる。田中の入口にて上林塵表閣の主人出迎ふ。事にのりて澁安代を過ぐ。絶壁を下りて橋を渡る
 (澁の二三間の道路の南側の二三階相對して話が出來さうなり風流。女が四五人手すりに倚りて下を見る)橋を渡りて又上る山を切り開いた道の樣で人氣毫もなし又心細くなる漸くにして山の中の一軒家につく。器具布團座敷思つたよりも清潔 閑靜心地よし。廣業、晩霞、橋本邦助、(契月、 一章 の銀襖に鹿、曲江)
○左右兩側にあやしげな風呂 鼠色の褌を見て心細くなる。湯田中に着くと木賃宿の樣ななかに立派な家あり。馬車を下りると護謨車がある。心細くなるかと思ふと心強くなる。トンチンカンの處が夢の樣である
 
○二十七日〔火〕 地獄谷へ十二町深く入る。河原へ下り〔る〕と眞中に大きな岩がある其岩から向側へ渡した橋を渡る。
 河原の中からすさまじき勢で噴水のやうな大きさの湯が騰る
 晩に新橋の枡田屋の御かみの一考が澁で義太夫會を開く由にて是公提灯をつけて聞きに行く 猿屋の亭主とかゞ眞打の由
 
○二十八日〔水〕 牛後村田君澁から寫眞機械を荷いでく〔る〕殘念な事をしたといふ。水瓜を持つて來たら途中で落して割つて仕舞つたから腹が立つたので皆食つてしまつた 腹が張つて仕方がないといふ。
 今夜は諸君の爲にわざ/\義|大《原》夫の連中が澁で開く事になつたから來いといふ。みんなを呼んで飯を食はせる事にして置いたから一所に來て食へといふ。
 五時過出掛ける 杉の木立のある神社の處へ來ると水瓜の落ちたのが散らばつてゐる。田舍道を指して吉野に似てゐるといふ。
 津幡星の二階へこつちから持つて行つた鳥をひろげて朝鮮の石鍋で食ふ。四十恰好の白粉をつけた婆さんが挨拶に來る。村田君に聞くと枡《原》屋の御上だといふ。飯の時刻が遲いので失禮して隣で食つたといふ。食つたすぐあとは聲が出ない、大椽さん抔は滋養物は晝食べて晩は菜葉に卵をかけたのを食つて養生をするから七十幾つの今日迄聲には少しも變りはありません。たゞ耳が遠くなつて三昧が聞えないので時々調子を外す云々。えて屋の勝公といふのが挨拶 是は此座の眞打で眼の細い鼻のかたまつた趣味のない色男である。村田君は君は實にのんきだね、うちがあんなにごたついてゐるのに此んな所で淨瑠璃などを語つてといふと勝公はえへゝと笑つてゐる。あなたも寫眞を御やりですか手前も大好きですと村田君の器械をいぢくつてゐる。又奴といふ藝者もくる。面長の女で美人らしいが眼に多少足らない所と鼻の恰好が余の好みに合はない。三人は氣が氣でないのですぐ隣りへ取つて返す。三味線の音がする。始まつたなといつて鳥をつゝく。仰向になつてゐると、勝公が表から又奴が出ましたと知らして呉れる。是は美人だからみんなが聞かうといふので勝公が教へたのである。Zは合切袋を提げ余は平野水に藥をのむ湯を入れて隣へ行く、又奴が三十三間堂を奇麗な聲で語つて入《原》る。けれどもちつとも力が這入つて居ない。それから升《原》田星の御上のいゝ人といふ藝名淇泉君の御所櫻になる。是も辨慶上使などをやるには無理な貧弱な語り口である。其次が御上の安達が原 是はいゝ人よりはましである。次は勝さんの寺子屋 一寸うまいのだが途中でやめてしまつた。白い麻の着物に夜の蝉が來てとまつたので御客が笑ふ。仕舞が堀川の懸合である。三味は六代目清七といつて文樂でいゝ所を彈いてゐたのを連れて來たのだとい〔ふ〕。是は本式の黒人である。是がつれびきがないからといふのを村田さんが無理に勸めてやらせたのである。役割は 母桔梗(勝公)與次郎(淇泉)御しゆん(枡筆 御上の事)傳兵衛御つる(日吉) 此日吉といふのは坊主あたまの髭を短かく刈つた書生見たやうな男である。村田君にあれは何ですと聞くと藝者屋の主人ですと答ふ。
○引き幕に赤いうちに黒丸をかいて中に廓と書いてある。廓といふのは湯田中にゐる人で廓|大《原》夫といふのださうである。
○途中でZが指を出して何かやらなければなるまいといふ。是丈でいゝか 指を一本ふやす。村田君に相談するとさうさなといふ。20にして村田君に渡す。中入頃になつて村田君があまり馬鹿|々《原》しいから十にして置きませうといふ。何聞いてやれば嬉しがるのです。さうしてほめてやれば澤山です。私は祝儀としてゞなく前からの關係で十やつて置きました。
 十二時頃提灯をつけて歸る。
山上白雲明月夜  直爲銀※[虫+莽]佛前來
               (妙雲寺觀瀑)
 
 九月十七日〔火〕
○鹽原の平元徳宗師に依頼されて鹽原の詩を※[糸+光]にかく
  蕭條古刹倚崔嵬。 溪口無僧坐石苔。
 
○九月二十六日〔木〕 正午痔疾の切開。前の日は朝パンと玉子紅茶。晝は日本橋仲通りから八丁堀茅場丁須田丁から今川小路迄歩いて風月堂で紅茶と生菓子。晩は麥飯一膳。四時にリチネヲ飲んで七時に晩食を食ふたが一向下痢する景《原》色なし、翌日あさ普通の如く便通あり。十時頃錦町一丁目十佐藤醫院に來て浣腸。矢張り大した便通なし。十二時消毒して手術にかゝる。コカイン丈にてやる。二十分ばかりかゝる。瘢痕が存外かたいから出血の恐れがあるといふので二階に寐てゐる。括約筋を三分一切る。夫がちゞむ時妙に痛む。神經作用と思ふ。縮むなといふ idea が頭に萌すとどう我慢しても縮む。まぎれてゐれば何でもなし。
 部屋から柳が一本見える風に搖られて枝のさきが動いてゐる。前の家で謠をしきりに謠ふ。赤煉瓦の倉の壁が見える。床に米華といふ人の竹がある。北窓※[門/月]友とかいてある。
 夜 新内の流しがくる。夜番が拍子木を鳴らしてくる。えい子あい子來る。
 
○二十七日〔金〕。食事パン半斤の二分一。鷄卵二。ソツプ一合。牛乳は斷はる。岡田がくる。藤村の食後と澪といふものを買つて來てもらふ。晩に東と妻がくる。
 
○二十八日〔土〕。尻の穴の方のガーゼを取る。今晩歸つてもいゝと云つたが面倒だから一週間ゐる事にする。隣は洗濯屋。……へ行くなら着て行かしやんせ。シツ/\シ。無暗にうたをうたふ。少しうるさくなつてきたぜといふ。隣が洗濯屋でなければいゝといふ。さう馬鹿に見えるかねといふ。洗濯屋は人間かいといふ。行徳が晝過くる。妻がよるくる。妻に富貴紙と卷紙と状袋を買はす。
○伊東榮三郎さんの死んだ通知に對して弔詞を出す。
 
○二十九日〔日〕
 朝回診の時尻の瘡の處をつゝかる。少々痛し。ガーゼを少し緩めて見たらまだ血がにぢみ出すから二三日そつとしてゐないとわるいといふ。二三日すれば出血しても迸りはせぬから構はないといふ。
 看護婦さんが銀杏返しに結ふ。髪を結ひましたねといふと、へえいたづらを致しましたと答へた。膳を持つてくる時には日本服を着てきた。どこかへ出ますかと聞くと、いえあたまを結ひましたからと答へた。
 夕方洗濯屋の物干にある一列の洗ひ物がまだ乾かないと見えて物干から突き出した儘それなりになつてゐる。それが暮色を受けて薄藍に見える。た《原》つぷり日が暮れて空の色が沈むといつの間にか白い色が浮き出して風に搖られてゐた。
 夜に入つて雨。毛布一枚で夜半寒し。
 
○三十日〔月〕 前夜の引つゞきにて雨降る。わびしき日也。今日は手術後五日目なれば順當に行けば始めてガーゼを取替る日なり。うまく取り替られゝばいゝが。
 回診の時醫師はガーゼを取り除けて至極いゝ具合です。出血も口元丈で奥の方はありませんといふ。
 
○十月一日〔火〕
 十一時頃浣腸。ガーゼを取り替へる。瓦斯多量に出る。便は軟便にて少々なり。「出血はありましたか」と聞く。「是が癒り損なつたらどうなるでせう」「又切るんですさうして前よりも輕く穴が殘るのです」心細い事である。「なに十中八九迄は癒るのです」「三週間遲くて四週間です。」「括約筋をどうして切り殘して下からガーゼが詰められるのですか」「括約筋は肛門の出《原》にやありません。五分程引込んでゐます。夫を下かくらハスに三分程削り上げた所があるのです。括約筋の幅の三分一です」瘡のない右の方が急にはれて苦しい。床の中でぢつと寐てゐる。あしたから通じをつけると云つて腹のゆるむ藥を一日三回に飲む。
○寐てゐて見てゐると前にある錬《原》瓦の倉が見える。其所に打《原》釘の大きな樣なものが一列に三本と山形の下に一本見える。是は装飾だらうか實用だらうかと考へる。装飾ならつまらないものである。實用なら何になるんだらう。あの折釘に縄をかけて上つて來てそれで仕舞に其釘の股に足を掛けて家根に上れるだらうかと色々考へる。とう/\上れさうもないと思つてあきらめる。錬瓦の前に電線が三本ばかり風にふら/\して見える。
○隣りの洗濯やは自分の椽側から三尺許りの所の穴から屋根へ出るやうになつてゐる夫から階子段を上つて物干へ洗濯物をかついで出る。小僧が白いものを擔いで物干台の所迄上つて行つて其所へ放り出すと上にゐた大僧が白いものをぢかにそんな所へ置く馬鹿があるかいと云つて、いきなり頭を張りつける。小僧はだまつて白いものを一つ一つ拾つて籃の中へ入れてゐる
○小さい看護婦は群馬のものだといふ。(大きなのも群馬である)。名前を聞いても云はないから、それぢや君の事を群馬縣と云つてもいゝかといふと、よござんすと答へた。今日午のときまた聞くと、石がつきますといふ。石井、石川色々あげたが、いゝえといふ。仕舞に石關ですといふ。名はひやくだといふ一二三四の百だといふ。それから御百さん〈といふ。大きいのは都丸しくだといふ。「内のものはみんなくの字がつきます」
 
 十月二日〔水〕
○昨夜から粥を食ふ。昨日から腹をゆるめる藥を呑む爲め今日は通じを催ふす。診察時間前故我慢する。
 陰。冷やかな風。
 午過細君車を持つて迎に來る。看護婦二圓宛やる。荷物を風呂敷に包む。袴は穿かずに合羽を着る。
 
 十月三日〔木〕
○便後醫者に行きガーゼを取り替へる。新らしいガーゼを入れる時痛みが段々なくなる。
 夜小宮岡田鈴木がくる。
 
 十月四日〔金〕
○朝便通なし。醫者で浣腸してもらふ。
○昨日山本(社の)が來て文展の批評をしてくれと頼む。
○胃わるく。酸わく樣子也
○留守に中村是公來る。
 
 十月五日〔土〕
○朝後架にてひよ島の鳴聲を聞く。
○醫者に行く。「今日は尻が當り前になりました。漸く人間並の御尻になりました」と云はれる。今日は便後肛門がはれてゐなかつたからである。
○歸りに牛込見付を出ると、市谷八幡の方角の森と小石川の牛天神の森のなかの木が幾本か焦げたやうな色に變つてゐる。
 秋の影響は既に梢を侵したのかと思ふ。夫だのに人はまだ大概單衣を着てゐる。日はかんかん當つて目眩ゆい位である。
○車上にて「痔を切つて入院の時」の句を作る
  秋風や屠られに行く牛の尻、
 
 日記及斷片――明治四十五年五月以降――
 
○五月六日〔月〕の晩に市原君が約束の通り老妓の話を聞きに連れて行く。小學校の先生の樣な服装をして鐵縁の眼鏡をかけてゐる。自分は袷に袷羽織にセルの袴で一所に行く。
 途中で市原君は藝者といふから少しは奇麗かと思ふときたないの許寄つてくるといふ。どうせ御茶を挽いてゐるのが聞きにくるのだからさうでせうと答へる。第一無學で、今年は明治何年か知らないのがあるといふ。全体何處かと聞くと檜物町だといふ。
 呉服橋で下りて少し西へ行つて右へ折れて夫から又左へ曲つて丸善の高い建物〔の〕見える横町へ出て細い露地を入る。幅三尺ばかりのうちに兩側に家が並んでゐる。その左の一軒だ。
○上つた所が即ち坐る處で、四疊に長火鉢と茶|簟《原》笥がある。そこに亭主(八百屋のよし)と神さんと下女とした地つ子(?)がゐる。狹くて蟄《原》息しさうである。此所で話すのかと聞くとさうだといふ。
○下地つ子が迎に行く。病氣で寐てゐるといふ。來られるか來られないかと又念を押しにやる。今御膳をたべてゐたと下地つ子がいふ。夫れ御覽といつて又迎にやる。とう/\出て來た。顔のてら/\した赤ら顔の面長の女である。髪の毛がぬけて薄くなつてゐる。挨拶をして、こんな話は堅氣の人が聞いても面白くはありませんといふ。
○神さんと雜談をして中々話をしない。そこへ抱えの藝者が歸つてくる。帶の間か〔ら〕紙の包を出す。御作が銀貨の御祝儀は珍らしいといつて笑ふ。藝者は女の御客だといつていやな顔をする。女の御客はいやなものだといつて同情するやうな事をいふ。何か藝を試驗されていぢめられたらしい。藝者は湯に行く
○御作はとう/\話を始める。宮崎の泉亭とかいふ家で引かされてカゴ島で大きな家を持つて三人の下女を使つて奥樣に仕立て上げられる時から〔の〕話である。旦那は鑛山の持主で十一の時から洋行して十何年とか英國にゐた人だといふ。耶蘇教ださうである。耶蘇教が藝者を受出すのはどういふものだと聞いたら耶蘇にも色々ある。日本にも禅宗や日蓮宗や眞宗があ〔る〕やうなものだと答へたさうだ。
○書物は旦那が讀んで是なら好いと思ふものを讀まなければならない。朝は六時夜は十時に起きたり寐たりしなければならない。
○西郷の畫を額にして掛けて叱られた。銀杏返しに結つて叱られた。車屋を車やさんと呼んで叱られた。下女に御何と御の字をつけて叱られた。薩摩言葉を使はなければならないといつて叱られた。
○其内堀といつて自分ともと關係のあつた男が自分と旦那の間を離間してしまつた。ある日飯を食つてゐると、手紙が來た。至急申入候、……大阪へ立て、小生は何日午後六時に行く。――手紙を讀んで飯を中途でやめた。是は自分の氣を引く爲と思つたから支度も何もしなかつた。旦那は約束の時に來て玄關から上る時、何うせかうなる事とは思つてゐたと云つた。上つて支度は出來たかといふ。支度はしませんといふ。金を五百圓出した兎に角是を以《原》て此家のものは持てる丈持つて大阪へ歸つて學校へ入るなり何なりしろ。其内何うかするといふのである。自分は棄てられるといふ疑念もあつたが年が若いからまだ外にもいゝ旦那が出來るといふ慢心もあつて、とう/\云ふ通りにした。其翌日旦那が歸る時、後姿を見てゐたが急に(玄關から門迄石の舗いてある道)其あとを追かけて外套の裾をつかんだ。旦那はふり拂つたなり後も見ずして行つて仕舞つた。夫から内へ引返すと急に悲しくなつて泣いた。下女にブラ〔ン〕デーを買ひにやつて飲んだが、むか付いて飲めない。縁側へ出て吐いて仕舞ふ。
○大阪へ行くには定期船でなければならぬといふ旦那の云付である。荷物は夫々片付けて三人の女中のうち一人を伴にしてあとは暇をやる。庭にあつた九年|坊《原》や夏|密《原》相や凡ての柑類を大きな籠につめたもの迄荷作りした。
○船にのる積で宿屋へ行くと其所で流《原》球通ひの朝日丸の事務長の△さんにひよつくり出逢つた。やあつといつたが、自分の服装が白襟で襟なしの御召に紋縮緬の羽織なので、無遠慮に口を利いていゝのか何だか分らないので、少しまごつく。すると酒を飲んだ勢で室へ這入つて來て、話をし出して、御酒は如何です抔といふ。頂きますといふと夫から酒のやりとりをした。下女は驚ろいた。夫があとから新聞に出て、其事務長と譯があるやうに書かれたのださうである。(旦那の分れる時、是から先また御前が藝者をして何處かで廻り合つたら妙なものだらうなと云つたさうである)
○船は上等へ乘る。ベツドが四あるうち一つを女の西洋人が占領した(日本語の出來る)神戸へ近くなつた時、食堂へ出ると同じ上等にゐた役者と食卓に就く其時役者は御作を通辯と間違へてあの異人さんは何處の人ですかと聞いた。段々話をして大阪の南の××町のあまきの子だといふ事が分つて、懇意になつて、神戸の常磐で一所に飯を食つて梅田で分れた。
○あまきへ來て、目ばかり出して、こちらの娘さんの御作さんから言傳を頼まれてきましたといつて母の氣を引いたら母は今でも御作の事を心配してゐるやうであつたから、被り物を取つて挨拶をした。(板野へ行つて喧嘩を仕掛けられる。前の話をしらないのでよく分らず)。金をやつて手を切る
○兄から前田の方の片をつけろと云はれる。手紙を出しでも電報をかけても返事が丸で來ないので已を得ず又宮崎へ出掛る。旅屋へ泊つて樣子を伺つてゐると前田は堀の家にゐる。けれども何うしても會せない。其内彼は立つてしまふ。懷中は無になる。又藝者になる。喜樂といふ料理屋の裏に下女を使つてゐる。すると牛乳屋の何さんから呼ばれる。其所の夫婦が丁重にする旦那が神戸の八十七番の總支配人で金山を買ひに來てゐるのださうで、一返行くと祝儀を五圓づゝくれる(其頃は三十錢か五十錢)。夫が一週間程つゞいた後で、牛乳屋の夫婦からあの人を旦那にしないかといふ云《原》ふ相談をかけられる。應ずる。すると此男が又外の藝者と關係をつける。さうして一所に芝居へ行く。其頃の宮崎の芝居は田舍の小屋掛である。御作は酒を呑んで髪結ともう一人の藝者を引き連れて喧嘩に行つて彼等の隣へ席をとるや否や彼等はすぐ席を立つて土間に入る。夫で御作はやけ酒を呑んで、舞臺で何をしてゐるか何だか分らないのだが、何とかいふ役者が奇麗さうだつたから、あいつを買つてやらうといふ氣になつて、芝居がはねたら來られるかと聞いたら上りますといふ。夫からぐでん/\になつて家へ歸つて寐てゐると朝眼が覺めると、傍に寐てゐるのが、黒あばたのしつつりだらけの奴で久留米絣の變なのを着て淺黄の垢だらけ|て《原》兵兒帶が枕元にあるので、愛想がつきて仕舞つた。すぐ家を飛び出して湯に入つた。
○夫からある座敷へ呼ばれると客が夜具を被つて來てゐる。聞くと御前に顔が合はされない人だといふ。即ち牛乳屋の周旋した男である。仲直り。其男が御作の家へ這入り込んで、洋服を作る、香水を買ふ、何でも金を使ひ放題使つて、さうして御作に拂はせる、御作は我慢して拂つてゐるうちに素寒貧になる。其内警察へ呼び出されて、彼女の家に居るものは詐僞師の嫌疑のあるもので、神戸を調べてもそんなものはゐないとの事、今引き上げるには少し証據が足りないが、もう少しすると拘引するといはれた。御作は苦しい仲《原》から金を三十圓出して、あなたの世話になる積でゐたが、到底さういふ譯に行かないから是であなたは何うでもなさいといつた。其時彼は詐僞師だといふ事實を御作に告白して、然し女の金などをどうする積ではない、金山をたゞ取つてやる積で來たのだと告げた。御作は夜の二時頃彼を延岡迄立たして、途中迄送つた。夫から警察へ出て、うちから繩付を出すのはいやだから斯々したから必要なら延岡の方でつらまへて呉れと告げた。
○御作は丸で賣れなくなつた。檢事正とかの何とかいふ人の所へ徃つて百圓借してくれといふと、何うも職掌柄こまるから己の妻に頼んで見ろといふ。酒を呑んで其人のうちへ出掛けたが這入れない、飲み直して行つても這入れない、三度目にとう/\這入ると來客中だから今に都合のいゝ時を知らせるからといふ。家へ歸つて待つてゐると知らせが來た。細君がいふには十や二十の金ならだが百圓となると女の金ではない亭主の金だから一寸証文を入れて呉れといふ。――夫からしばらくして座敷へ出ると例のアバタの檢事正がゐて、其証文を歸《原》して呉れた、其代りいふ事を聞かなければならなくなつた。所が其証文は細君の許諾なしに亭主が盗み出したのであつた。それで其家には風波が起つて大變な騷動になつた。
○御作は是がため益賣れなくなつた。どうしても逃げ出さなければならない。熊本へ行かうとするが旅費がない。ある贔屓の客が藝者を上げてゐる所へ行つて事情を話すと紙入にあつた十五圓を呉れた。夫から其人に熊本の落付く先を知らせたら役場から謄本を取つて送つて呉れと頼んで、車夫に熊本行を相談すると三日かゝる、其上あと押が入る。さうして四十圓でなくては不可ないといふ。四十圓でいゝからといつて、太《原》神宮へ參詣に行つてくるといふうそをついて宅を出た。(長さ三百間で青竹の中へ藁をつめたやうな橋を這つて渡る話あり。どこの事か分らず、果してそんな所があるや疑問なり河合又五郎の屋敷あとを見たといふから人吉の方でも通つた事なるべし) きたない宿屋で車夫と同じ部屋に寐たり、寒くて路傍の枯枝を焚いて暖を取る。
○熊本の春日へ三日目の夕つく。呉服町の梅の屋といふのへ車屋がつれて行く。けい菴を頼む。二本木の市樂といふのが來て三年で千二百圓出すといふ。手つけを二百圓貰ふ約束をすると、後から清川といふのが來て、千五百圓出す、市樂のやうな小さな所では損だといふ。婆さんが二百圓置いて行つてくれる。車夫に六十圓やる。衣ものを拵へる。市樂と清川の爭になる。車に乘つて行くと市樂へ引き込めとか清川へ引き込めとか大變な騷ぎである。清川の方が手前にあるのでとう/\其所へ這入つて仕舞ふ。
○檢査に行けといふ。段々聞いて見ると二枚鑑札だといふ。どうれで相場が高過ぎると思つたさうである。所が夫には親元の印がいるので清川がわざ/\大阪へ出掛けてあまきに掛合ふと、當人が承知だから仕方がないやうなものゝ、他日もしあの時に判を押して呉れなかつたならと恨む時機が來ないとも限らないから是許りはどうしてもいやだ〔と〕云つて承知しなかつた
○其内梅の屋のものと懇意になつて親子見たやうな間柄で、梅の屋にゐて贅澤をいつて暮すやうになつた。そこへ來るある豪家の爺さん。天神さまのやうに白い髯をはやしてゐる御爺さんに世話をされる。
○女芝居を見に行くとどうしても女と思へない役者がゐるので、念晴しの爲め其役者に會はせると御徳さんといふ矢張り女であつた。其御徳さんが馬鹿に氣に入つて、御馳走をしたり祝儀をやつたりすると、御徳さんに附隨したものまでも引受けなければならなくなつた。夫で例の白い髯の御爺さんの所へ汽車の使で一日に二度も三度も小使を請求するので、御爺さんもとても續かないといつて斷はつて仕舞つた。
○今度は陸軍の病院長とかの何とかいふのが妾を探してゐるといふので月三十圓(三十圓では宿の拂にも困る一圓二十餞の上に晝飯は別だから)で雇はれる。所が其男が一ケ月ばかり來て、月給を呉れずに影を見せなくなつた。幾何尋ねて行つても逢はない。それから車夫をかたらつて、夜病院へ行つて、門をどん/\叩いて、急病人があるから開けて呉れと怒鳴らして、婆さんが門をあけるや否や中へ這入るや否や奥へ行くと例の男がベツドの上に寐てゐて、御作の顔を見るや否や逃げ出さうとした。そこで逃すまいと爭つてゐるうちとう/\何處かへ逃げられて仕舞つた。御作は無論醉拂つてゐた。其處にある硝子戸をめちや/\に壞して、中にある本を出して、滅茶/\に※[手偏+止]き破つた。隣から憲兵が來たが、何しろ泥醉してゐる〔の〕だから仕方がない縛つて床の上に寐かして置いた。朝眼がさめると御作は紙屑の中に寐てゐた。彼女の※[手偏+止]き破つた書物の代價は大分なものであつたさうだ。彼女は憲兵と談判をした。あなたが証人に立つなら、引き取ると云つたら、僕は憲兵だから役目上どうもそんな証人には立てないが、僕の友人に十時といふ曹長がある。其人を証人に立てるといつて、十時を呼んで來た。是は柳河の家老の家とかで曹長でも家はいゝのださうである。其十時が僕があなたの顔を立てるやうにするからといふので一先づ梅の屋へ歸つた。
○十時が紙へ百圓包んで持つて來て是でどうぞ勘辨して呉れと頼んだ。夫から、全體あの男は月給を四十五圓しか取らない、夫で三十圓の妾が置ける筈がないのだから、そこを調べないで無暗に妾になつたのが惡いんだといつた。能く聞くと病院長か何か知らないが何でも出店の病院の長らしいのである。夫から十時が憲兵と病院長、御作を呼んで料理屋で御馳走をして、盃を廻して夫を割つて此で結末がついたと宣告して落着を告げた。
○所がある時十時が三十圓金を送つて來た。變だと思つてゐると、料理屋から呼びに來た。さうして自分が仲人に這入つて置きながら、こんな話をするのはまことに變なものだがといふ相談である。然るに十時はチンの樣な顔をしてゐる。十時は御作を妻に貰はうといふのである。
○さうかうするうちに相撲が來た。梅の屋には友の平だの、白猫だの梅垣だのといふのがとまつた。白猫といふのが顔はよかつたが、梅垣といふのが可愛らしかつた。其梅垣が宿の神さんに、あのうつくしいねえさんの室へ酒と肴を持つて行つて飲みたいと申し込んだ。御作は相撲は嫌だから斷つたが、宿の神さんが折角いふものだから、承知したら大きなきたない奴が無暗にやつてきて、滅茶々々に食つたり呑んだりする。御作もつい飲んでヘベレケになつて來てゐた。夜中に眼がさめて寐返りをしやうとすると後がつかへて動く事が出來ない。見ると梅垣がそばに寐てゐた。起きやうとすると、まあ傍へ寐る位勘辨しろとか何とか云つてゐる。さうして大きな手で抱きすくめて仕舞つた。
○あくる日梅垣が今日は桟敷をとつて毛布を敷いて御酒と辨當を用意して置くから、是非見に來てくれ、さうすると己も張合があつて勝てるからと頼んで出て行つた。御作は芝居の話を聞いて面白さうだつたから、宿のものを誘つて芝居へ行つて梅垣などの事は忘れてゐた。すると相撲の方では梅垣がちやんと用意をしてあるのに御作が來ない、夫で負けて仕舞つた。
○御作が餘念なく舞台を見てゐると、突然梅垣が來て襟がみを捉へて一寸來いといつて恐ろしい權幕をする。みんなが此方を見る。今に歸ると云つて歸したが、宿のものが歸つたらよからうといふので歸つて見ると、已に耻をかゝしたから、みんなの前で今日は相撲へ行く筈だつたけれども、誘はれたので已を得ず芝居へ行つたのだと証言しろといふのである。御作は其通りにしたら相撲取は飲んだり食つたりして二本木へ行つ|く《原》。梅垣は大分金を使つた。其うち相撲が御仕舞になつて、梅垣が熊本を引き上げる時に、幕の内に入つたら是非女房にするから、何處にどう流れて行かうと居所だけは知らせて呉れろ。と云つて、西洋の護謨楊子と縮緬の單衣を呉れた。御作は藝人からたゞ物を貰ふのは厭だつたから縮緬の長|※[糸+需]《原》絆をやつた。すると梅垣は毎日のやう|と《原》、今日は何處で興行今日は何處で興行といふ音便をする、御作は惚れた譯でもないので丸で返事をしなかつた。すると、今度は梅の屋へ向けて御作はまだゐるかと|と《原》か何とか聞き合せて來た。
○御徳の女優が長崎へ行く事になつたので御作も一所に連れて行つて呉れと頼んだ。御徳さんは引受けた。長崎へ行くと一行中の立|御《原》山の阪東三津五郎といふのが病氣だから、小紫の役をやつてくれろといふ。宜しいと引受けて阪東三津五郎といふ旗を後ろへ立てゝ市中を車で乘り廻した。愈舞台へ出て見ると鬘でコメカミを締められるので、苦しくつて卒倒しさうになる。一日丈で御免蒙つて、とう/\又藝者〔に〕なつて一※[ちの小字]子といふ名で出る。
○其時長崎へ雁次郎の一行が來た。もと/\知り合だから家へ遊びに來て花ばかり引く。雁次郎の弟子だか、男だか滅茶々々に食ひ潰す。さうして引上げたあとはスツテン/\となる。大晦日に餅もつけない、正月の※[者/火]しめも出來ないで弱つて塞いでゐる。呉服屋が拂をとりに來る、コマカイのがないといふ。御釣があるといふ。コマカイのがないのに大きいのがあるかと怒鳴つてやつた。すると物産會社とかの御客が偶然御作どうだと門口から這入つて來た。此ていたらくだと話すと(彼女は所持品に悉皆封印をされて、身代限りをしてゐたのである)御客が金を四十圓くれた。其金で餅を買はして、酒を買はしてぐい/\飲んでゐた。正月の十六日に又呉服屋がとりに來たから、何うです斯うしてゐては何時迄立つても借金を返す譯に行かないのだから、もし借金を取らうといふなら、稼げるやうにして呉れないかといふと呉服屋も尤だといつて衣服を拵らえて呉れた。漸く座敷へ出られるやうになつたが、さて些とも賣れない。何うする事も出來ない。仕方がないのでとう/\大阪へ云つてやると、兄が五百圓持つて出て來た。千圓以上の借金だけれども夫丈あれば何うにかなるので萬事は兄に任せて自分は大坂へ歸つた。(其時例の宮崎の詐僞師村上孝太郎が丁度懲役から出た時で、大阪の方をだましに行つて、御馳走をさせて、うまくだました。)
 
一稻せの藤井別荘(三月百圓)
     八、六、三、
一坂の下の井上別荘(二階つき五間)
          二月百二十圓
一山手富岡筋長谷(畔柳別莊)
       三間 二月七十圓
 
〔仏文省略〕
 
■女の顔の變化する事。「どうも不思議だよ」とAが云ひ出した。自分はAと同じ蚊帳の中に枕を并べて寐てゐたのである。
■それは僕の幼少の頃であつた。自分ではいくつ位か分らないが勘定して見る〔と〕六七歳の時の事である。僕は父と母と喧嘩する聲で毎晩眼をさました。
■乞食の湯  馬
■日光    馬
■澁  素人義太夫
 
■「何君ダリヤだの朝貌だなんて一時のものだからね。本當の盆栽でなくつちや貫目がない。僕が何故かう盆栽好になつたか其起りを話さう……
■九時三十分の青森行。「中等は込むかね。……」上等へ乘るとたつた自分ぎりである。煽風器。食堂へ行く。女と男。
■酒をやめた]は河童が陸へ上がつたやうな顔をして黙つてゐる。(あとなし)
 
■始めて男と寐た女曰く
 始めて女と寐た男曰く
■乃木大將の事。同夫人の事
■すしの食ひ方。 眞劍の勝負の時の心得
 
■書畫屋の惡徳
 ○瀧の川邊にゐる贋物作りにどんな畫でもかゝせる。それが七圓位、表装が二三十圓。夫を田舍へ持つて行く。一人が舊家などへ入つて所藏の幅物を見て本物を散々けちをつける。其あとへ贋物を持ち込んで本物と引換える。さうして本物は東京で高く賣る。
 ○大坂では地面を買ふと同じ心得で書畫を買ふ。
 ○滅多に藏幅を表具師などへは託されない。すぐ寫しをこしらへる。さうして本物と稱して賣る。
 ○東京でも玉堂は雅邦のニセを昔大分描いたさうだ。玉淵は玉章のニセを拵らへたさうだ。夫でなくても塾頭位な人になると表具師か書畫屋から釣られる。※[糸+光]などを持つて來て先生何かかいてくれと云つて其禮に五圓位くれる。先生大得意でこんな事を繰り返すうちに書畫家と親みが出來る。其時先生是を一枚寫してくれ抔と頼まれる。正直な塾生は惡い事と知らないからすぐ引き受ける。書畫屋は夫をすぐ本物として高く賣り付ける。
 ○まだ玉章の尺八が三十圓位の時分、地方か〔ら〕書畫屋を媒介に何か描いてもらふと、あとから苦情が出て實はもう少し密なものをといふ注文であつた抔といふから、能く譯を聞いて見ると、書畫屋は周旋料を取つた上潤筆料の大部分をハネタ上三十圓丈玉章の所へ持つて來てゐる事が分る
 ○箱書をかいてもらつて其中に僞物を入れて、本物は別にうる。
 ○下條正雄抔ハ本物へけチをつけて、人を遺《原》つて散々にこなして男ひ取つて、夫を宮内省や何かへ高く賣りつける。
 ○書畫屋が畫の相場をつけて無暗に高くする。さうして其利益をしめる。畫家がもし夫を排斥すると、新畫の市で其人の畫を踏倒して相場を下落させて復讐をする。
 ○ある大家が實業家から繪をたのまれてかいたら其翌月其繪がすぐ賣物に出て、さうして箱書をたのみに來た。是は儲けるために書いてもらつたのださうである。
 
 
○十一月 山水の畫と水仙豆菊の畫二枚を作る
 山水の費に曰く 山上有山路不通。柳陰多柳水西東。
扁舟遠日孤村岸。幾度鵞群訪釣翁。
 水仙の賛に曰く
獨坐聽啼鳥。關門謝世嘩。南窓無一事。閑寫水仙花。
 
 十一月二十九日〔金〕
○朝ひな子の墓參〔七字二重傍線〕。風強く全くの冬の景色。ちゞれた梧桐が風に吹かれて枝を離れやうとする。十時過車に乘る。妻、筆子、えい子、あい子、行徳、岡田。音羽で植木屋に合ふ。植木〔屋〕は先へ行つて墓の掃除をする筈である。彼は余の車を見るや否や馳け出した。車と一所に馳けるのは無理だと思つたらいつの間にかどん/\先へ行つて仕舞つた。例の苗畠、苗には竹が添ふてゐる。何の苗か分らない。
○欅のから坊主になつた下に楓が左右に植ゑ付けられて黄と紅との色が左右にうつくしく映る。
○依撒伯拉何々の墓。安得烈何の墓。神僕ロギンの墓。其前に一切衆生、悉有佛性とい〔ふ〕塔婆。枯木の銀杏の下に銀杏の葉がうづ高く掃き寄せられてゐる。
○墓標がなくて、土饅頭もある。
○全權公使ヽヽといふのもある。
○入口に土をならして新墓地を作つてゐる男が鍬の手をやすめて吾等を見た。
○ひな子の墓の向ふも土をならしてゐた。
 
○あい子の肺炎〔六字二重傍線〕。去年の暮から晩方少し熱が出る。あくる日になると下るので幼稚園へ行く(彼女は今年の四月から小學通ひ(明治四十五年即ち大正元年)コタツにあたつて黙つて居る(正月)蜜柑類を欲しがる。熱を計ると四十|分《原》二分
○熱下がらず。何だか分〔ら〕ず。心臓を氷でひやす。
○肺炎ときまる。胸に濕布。
○脉がわるいのでカンフルをのむ。癇癪を起し寐ず
○水蜜を欲しがる。ほかの菓物ではいやといふ。
○寐かしてくれといふ。どうしてと聞くとねんねんよと云つて寐かせろといふ。
○奇數の日でなければ熱は下らずといふ。
○其時冷やしつゞけると危險だといふ。分離の時が肝要といふ。
○おもちやを買つて來てやる
 
○十二月三日〔火〕四日〔水〕新富座で越路太夫を聞く。
 三日。あたまをあげて見ると棧敷から有賀長文の顔が見える。妻に話すとしきりに上を見る。外聞が惡いからやめさせる。
 歸りに猿屋の前で、小露にあふ。
 四日。土間にて見物六人。一間置いて隣りに坊主頭の爺さんあり。時々奇聲をあげる。出方が客を案内してくると大きな聲を出して靜かにしろと怒鳴る。
 
 日記 及 斷片 ――大正三年――
 
×甲は疵のない珠の樣である、圓滿無缺 然し惣體に曇りがある。乙は所々に疵がある。けれども質は玲瓏透徹
×賠償 人に毒を盛つて其賠償だと云つて御馳走を食べさせる。いくら御馳走を食べさせたつて毒は消えるものではない。毒を盛つたのが惡いと知つたら何故解毒剤を與へない、若し解毒剤がないと知りながら毒を盛るならば自己の罪は相手に與へた結果に於て永劫拭ふ事は出來ないのである。たとひ解毒剤があるにしても毒を盛つた行爲は永劫に亡びるものではない。况んや御馳走を食はして置いてどうだ毒は消えたらう/\といふ横風な顔をするをや。
 
×あなたは子供の出來た事を聞いた時非常にいやな顔をしました、夫から生れたあとは子供を可愛がつてゐます。私は違ひます。
 其筈だよ。御前は子供の生れない先から子供の脉を感じてゐる
×道義的正當と利害的正當
×金銀授受の場合、淨財喜捨、打算的ならぬ場合、翌日からくれ手に反對してもよき場合
×コンミツシヨンを云々ス。不公平の念より出る嫉妬心なり
×皮肉り了せれば夫がとゞの詰りと思ふ。豈計らんや人間の性にはもつとまとものものあり
 
○金力。權力、腕力、個性力。
 
○二ツの異なる世界、一點の交渉。觀察點の相異。爭の源因。個人主義の必要
 
     ――――――――――
 1縮刷の件 2雜誌注文の件。3スタンダードの件
 
○十月三十一日〔土〕天長節、秋雨蕭々、時にザア/\といふ音を聞く。うちの犬が下の家に死んでゐるといふ報知が來た、どうもさうらしいと云つて首輪を見たら果してさうであつた。こちらで埋めやうかといふ。いや私の方で埋めるといつて車夫をやる。箱と四角な墓標を買つて來させる。裏で鍬の音がきこえる。墓標を持つて來る。「わが犬のために」として 秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ と書いた。犬の名前はヘクトウ、病後椽側へ出た時茶の間の向ふに彼がうづくまつてゐたから聲を掛けたが一向應じなかつた。私は長い病臥中に彼がもう私を忘れたのかと思つた。其時は夜でまだ椽側を開けて置く頃であつた。柿紅葉に少し間がある。次の日彼は書齋の椽の先の草《原》賊の中にゐた。よだれを垂らして。六角の石の臼樣のものゝ中から水を飲んでゐた。看護婦に家|蓄《原》病院へやるやうに命じた。すると其翌日から彼の姿が見えなくなつた。十月三十一日の天長節には夫から一週間程の間があつた。埋めたのは午前であつた。
 佐藤の葬式が十一月一日である。鈴木の御父さんが二十九日の午前七時に死んだ 是は腎臓からきた脳溢血で三四日寐てすぐ死んでしまつた。夜鈴木へくやみに行く。大雅堂を見せると云つてゐたがつい見に行かずにしまつた。屏風が死骸の上に立て廻してあつた。寫眞版で見たよりも遙かに可かつた。此日は青島で總攻撃を開始した日である。
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 きくの事、三ヶ月も無斷で 歸つて來るといふ、妻はそれを承知しながら自分に黙つてゐる。
 「では菊は不可ないと仰るんですか」
 「私はそんな詰間に應ずる義務はない。夫より何故そんな長い間御前が彼女の消息を黙つてゐて、たゞ出し拔けに今月末には菊が歸りますと云つたのだ、しかも夫は私に云つたのではない、自分の居る前で人にさう云つたのを自分が聞いた丈だ」云々
 「ぢやあやまりませう』《原》
 「ぢや」は無《原》慶だ。御前は今日迄夫に心よくあやまつた事はなからう是から先もあるまい、又さういふ素直な女ならこんな事で面倒も起る筈がないし、起つても快よくあやまるだらう
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 十一月七日〔土〕鈴木の葬式、禎次の言葉だと云つて妻が辨當を使つてゐる所へ來て、「私の乘る馬車の席はあるさうですからあなたは皆と一丁程あるいて夫から先へ草で御寺へ行つて下さい。」
 腹が立つたが知らん顔をしてゐる。宅へ歸つてすぐ鈴木へ電話をかけてもらふ、兄に返事は何といひましたかと聞くともう御出になりましたと云ふ。湯に入つてゐる所へ妻が歸つてくる。あなたは濟まないうちに御歸りになつたのですかといふ、
 何で禎次の命令を己に傳達した丈で濟ましてゐる おれは禎次の命令を受ける人間ぢやない、第一貴樣が禎次のいふ事を一應述べて何う致しませうと聞かないのが不都合だと怒鳴る、「でも其時はそれ〔で〕好いと仰つたぢやありませんか」、ベラ棒め葬の間際に人と喧嘩をしたり女房を叱つてゐられるものか
 
 十〔一〕月八日〔日〕青嶋陷落の報傳はる 純一は陷落とは何だといふ きのふ米屋の小僧が陷落だといつたけれど何の意味か分らなかつたといふ――陷落は降伏の事だといふと、其降伏は何だといふ、から降參だと教へてやる。降參は漸く分る。
 晝、飯の時妻が黒紋付で白襟であらはれる、何處へ行くと尋ねると今日鈴木の埋葬式だから行くといふ。又人に斷はらずに行く氣でゐる。自分は昨日の事が又ぐつと癪に障つて又爭つた 畧同じ言葉を繰返して。行かなくても宜しいと云つた。妻はさうですかと云つた。然し今迄何時でも埋葬式に列してゐるからと云つた。何時でもとは此前鈴木の妻君の死んだ時の事を指すのである。たつた一度である。決して何時でもではない。一體鈴木禎次の妻が余の妻の妹なのだから鈴木の阿父は自分より妻に關係が近いかも知れないが決して骨肉でも血族でもない葬式に列すれば夫で澤山である。余は昨日の引き續き上斷じて許さないと云つた。妻は赤い顔をして引き下がつた。下女に頭へ濡手拭を載せてもらつて仰向に寐てゐた。それから按摩をした。元|妻《原》妻は毎日のやうに按摩をする。聞けば肩がこるのださうだが、さうかと思ふと餘所へ行く時に肩が凝るからと云つてやめた事はない、しや/\として出て行く。朝寐も彼女の特色である。然し何處かへ行く約束でもある時は驚ろくべく早く起きる。常は早起きをすると一日頭が惡いとか云つてゐるが、こんな日に限ぎつて終日外出して歸つて來ても寐足りないで頭が痛いなどと云つた試しがない。此の間有樂座の美音會へ行つてもいゝかと聞いたから、(私は病後まだ床の上に起きたり寐たりしてゐ看護婦はまだついてゐた)私は妻の時機をわきまへざる申出を怒つて黙つてゐた。妻はとう/\已めた。其代り按摩の男を呼んで來て殆んど宵の口揉ましてゐた。そんなに肩が凝るならどうして有樂座へ行けるだらう。行く氣になれるだらう。こんな矛盾は毎日のやうに出てくる。
 晩に鈴木から來たと云つて男の子が御馳走を二折持つて來た(伊豫紋)、自分は三重吉がくれたのかと小供に聞いたらさうだと答へた。不思議に思つてゐた。(折があまり立派なので)子供がくれ/\といふ、彼等は既に飯を濟ました後であるから、今御父さんが少し食べたらあと皆に分けてやると云つたら嬉しがつて見てゐる。妻が來て其中の汁の實を箸で挾む 眞如の小さいのに三葉に鳥〔の〕たゝいたのを丸めたものである。何處から呉れたのだと聞いたら今日待夜で鈴木から持つて來たといふ、其譯は始めて分つた。要するに妻君のための贈物である 私の食ふべきものではなかつたのである。然し私はわざ/\旨い/\と云つて食べた。子供は嬉し〔い〕なと云つて自分の番がくるのを待つてゐる。私は青嶋陷落の翌日、かういふ御馳走を食べるのは愉快だ實に旨いと云つた ことに自分の御馳走でなく御母さんの御馳走だから猶うまいと云つた。私が薑を食べた時純一はカラガツテゐら|う《原》と云つた。私は何も調戯つてはゐないよと云つた。やがて膳を下げた。妻は埋葬式の事は云つたけれども待夜の御馳走の事は一切私に云はないのである。私は糞でも食へといふ氣でむしや/\食つてやつた。妻は萬事こんな風に凡て自分に都合のわるい事は夫に黙つてゐる女である。さうして出來る限り夫を甘く見又甘く取り扱へば夫が自分の資格でも増すやうに考へてゐる女である。松屋三越の賣出には屹度出掛る さうして自分のものを色々買つて來る。然し私のものを買つて來ない時は少し極りが惡いのである。夫でも自分のものを買つてくる。仕舞にあんまり夫の感情を害しはしないかと思ふと今度は私のも〔の〕ばかり二反も三反も買つてくる しかも些ともがらを選ぶのでも何でもない、たゞ人の機嫌を損じないやうに買つて來るのである
     ――――――――――
○下女、泥棒の嫌疑(桂庵)、次の下女無斷で早勝手の戸を明け放つた儘退却、次の下女美人、一|人《原》ゐて歸る。(其前も美人がたつた一|人《原》ゐて歸つた。)夫から新井屋といふ玉子屋の周旋で來た女は黙つてゐる。さうして時々私に聞えるやうな大き〔な〕聲を出して小供にそんな時《原》をしちや不可ないよ抔といふ 余の兄に御爺さん御まんまを御上りといふ。さうかと思ふと出入の商人の酒屋や何かに今日はよろしう御座いますといふ。もう一人は山形だといふ。是亦子供に向つてさあ何とかだとか失禮な事をいふ。さうして私に丈は丁重な言葉を使ふ。私は此二人も前の妄りに入れ代つた下女もみんな僞であると思ふ。僞物であると思ふとみんな足で蹴飛してやりたくなる。然し彼等〔は〕今更急に彼等の態度を改める事が出來ない、改めれば自分の僞物がすぐ私に分るからである。然し態度を改めたつて改めなくつたつて私は彼等を人間とは思はない。けだものだとして取扱ふ積でゐる。人間としての資格がないからである。妻は眞面〔目〕腐つて、あれは相模の漁師の娘だとかいふ。私から云はせれば漁師の娘としては服装がとゝのつてゐる、夫から用をはき/\する。どうしても東京に近い。さうして彼女のアクセントは東京か又東京に永くゐたもののアクセントである。もう一人の山形の女は東北ものに相違ないが是亦其標榜する如く言葉使を心得ないのではないわざと使はないのである。妻は此二人を平氣で使つてゐる。妻は此二人の内情を知つて使つてゐるから平氣でゐられるのである。さうしてそれは單に夫にシやグリンを與ヘルためである。
 私は織星に對しては如何な存在な言葉を使はれても平氣である。彼は眞だからである、私は植木屋に對しては不快を感ずる。妻などに朋友見たいなぞんざいな言葉を使ふ さうして私の前では比較的丁寧である。失禮な奴だ。
    月曜
 十一月九日晩、の會話 自分對妻
 「御前の行く靜座は何時から始まるのか」
 「先生の來るのは三時か三時半です」
 「御前はそれだのに十二時過にきつと宅を出るね、歩いて行つても白山御殿町迄一時間とは限《原》らない(男の足なら)」
 「寺町をまわつたり何かして買物をするのです」
 「毎週必ずさういふ用事が出て來るのかい」
 「えゝ何か蚊か出て來ます。夫に今日は御寺參りをしたから早く出掛けたのです」
 「誰の」
 「今日はあなたの御母さんの日です」
 「おれは知らないが、月は違ふだらう」
 《原》月は違ひますが日はさうです、私は毎月あなたの御父さんと御母さんの日には御寺參りをします」
 「父の死んだのは幾日だ」
 《原》ひな子と同じ日だからよく覺えてゐます 二十九日です」
 「毎月寺參りなどをしなくてもいゝ、するなら死んだ月と日に一度行けば夫で澤山だ」
  …………
 「靜座といふのは婦人の談話會見たやうなものだらう。みんなが寄つて無駄話をするんだらう」
 「先生が來るのを待つてゐる時は外に人がゐれば話もします」
  …………
 「買物ばかりぢやない、御釋迦樣へ參つたりしてから行く事もあります」
 「御百度を踏むのかい」
 「踏む時も踏まない時もあります」
 「何んでそんな事をやるのだい」
 「利いても利かなくつてもいゝのです 私はやるのです」
 「御釋迦樣へ日參して亭主が病氣になればありがたい仕合せだ。御利益が聞いてあきれらあ。虫封じでも出すのかい」
 「知りません」
 九月病氣になる前私はよく郵便を出しに獨りで出た。夫が毎朝四五日つゞいた。(偶然の結果)。すると私が門の格子を開けて門をくゞると私の家のなかで釘を打つ吾がする。一日めも二日めも三日めもさうだつた。四日めに私は門からあと戻りをして茶の間の側から上つた。妻は釘を打つて柱に向つてゐる。其柱には三寸釘が虫封じの眞中にさゝれてゐる。何をするのかと聞いたら伸六の虫封じだと云つてゐる。私は妻の手から其カナ槌を奪ひ取つた。さうして虫封じの箱をすぐたゝき壞した。夫でもまだ腹が立つので外の虫封じ(皆で四つ五ツ、中には虫封でないのもあつたかも知れない。)を片つ端からぶちこわした。さうして其破片をまとめて裏の芥溜へ投げ込んだ。
     ――――――――――
 病中はよく眠れず半醒半睡の状態多し、十時頃から本式に寐やうとすると下女が勝手口の戸を閉めるので眼がさめてそれから寐られなくなる。ある晩八時か九時頃心地よく寐た處例の音で眼をさましてそれなり寐つかずにゐると、妻が小さな聲で彼女の弟にどうしても調戯へない。死なないと事が極つた以上……と云つてゐた。下女の一人はひつそりして平生から口を聞かず、然るに時々家中に響くやうな大きな聲を出して、私の小供に丸で母同前の横風の言葉を使ふ。私は去年無暗に下女が電話をかけるのを禁じてゐた。病中もう一人の下女が電話口へ出て、もし/\を數十返も繰り返してゐた。それは自分の友達だか何だかに自分がこゝに下女に住み込んだ事を知らせる爲であつたけれども少しも要領を得ないので、茶の間にゐた兄が出て用を足してやつた。下女は何でも十五分も何とか蚊とか電話口で繰り返した後である。
 私はだまつてゐた、病苦に犯されて早く死にたいと思ふと世の中の事はどうでもいゝ氣がしてゐたからである。然し妻の言葉(彼女の弟に話した)を聞いた時非常な怒を感じた。
 あくる日安を呼ん〔で〕こそ/\話をしては不可ない、話すなら普通の人間が普通の時に使ふやうに話せと命じた。
 山形生れといふ下女が其翌晩かうちの猫を「御猫さま」と云つた。是はたしかにわざとである。妻は其晩寐る時(彼女は次の部屋に男の子二人と寐た)またこそ/\何か云つてゐる。是は子供に云ふのである。其言葉も不都合な事ではない。然し人が止せといふのを故意にやつてゐる事丈は明瞭であつた。
 其翌晩も同じ事を繰り返した。私は便所に起きる時妻の枕を蹴飛ばしてやらうかと思つた。「だまつて寐てくれ」と云つて厠へ行つた。妻ははいと答へた。
 漁師の娘だとか號する下女は病中段々笑ひ出した。何でもげら/\笑つてゐた。私の無暗に笑ふ事が嫌なのは妻のよく承知してゐる事であつた。然し私は此下女の笑ふのに不快も抱かなければわざとらしさも感じなかつた。すると妻が表へ出る時其下女にあんまり笑ふのはおよし、口惜しがるからと云つた。夫から下女はあまり笑はなくなつた。然し口惜しがるからとは一體誰が口惜しがるのか、けしからんと思つた。同じ下女は風呂場で妻が子供を呼んでゐる時、其言葉を取次ぐため、子供におい呼んでるよと大きな聲を出した。さうして下女二人であとからたまらなく可笑し〔い〕やうな聲を出して笑つた。
     ――――――――――
 妻は私が黙つてゐると決して向ふから口を利かない女であつた。ある時私は膳に向つて箸を取ると其箸が汚れてゐたのでそれを見てゐた。すると妻が汚れてゐますかと聞いた。それから膳を下げて向へ行つた時、下女に又こつちから話させられたと云つた。(是は去年の事である)近頃は向から話す事がある。私にはそれが何の目的だか分らない
     ――――――――――
 私のうちに若い人の細君がくると私が應對をする、妻も女だから義理で出てくる。ある時ある人が來た時も其通であつた。すると彼女は下女に出ないと又何か云はれるからと云つてゐた。すべて私の耳に這入るやうな又這入らないやうな距離と音聲でかういふことさらな事をいふのである。
     ――――――――――
 私の上着と下著が揃はないと妻は妻《原》の着方がわるいからだといふ。仕方がないと上着と下著を縫ひつけて着せる。私は着〔物〕の裏が横からはみ出した着物が嫌である。それを叱ると是亦着方がわるいのだといふ。さうして何年經つても改めない。現に今着てゐるのは着た最初から裏がはみ出してゐる。
 餘所行の胴着が無暗に袖口から顔を出す。妻は寸法が合つてゐると主張して取り合はない。二年ばかりすると妻は自分の方からユキはあつてゐるが脊の縫目がまがつてゐるのであるとつげた。しかも其まがり方は何で〔も〕一寸以上である。それは宅へ《原》作つたのか裁縫屋へやつたのか知らないがもしそれを計るものさしがあるなら又それ丈の氣があるなら、此方で袖口が出ると注意した時によく調べてもよささうなものである。
     ――――――――――
 妻は朝寐坊である。小言を云ふと猶起きない、時とすると九時でも十時でも寐てゐる。洋行中に手紙で何時に起るかと聞き合せたら九時頃だといつた。普通の家庭で細君が九時頃起きて亭主がそれ前に起きるのは極めて少ない、そんな亭主はベーロシやとしか思はれない。妻は頭がわるいといふ事を屹度口實にする。早く起きるとあとで仕事をする事が出來ない終日ぼんやりしてゐると主張する。それで子供が學校へ行つてしまつて凡てが片づいた時分にのそ/\起きて來る。其癖どこかへ約束があつて行く時は何時だらうが驚ろくべく早く起きる。さうして其日一日出てあるいてゐながら別に頭痛の訴も起さないから不思議千萬である。近頃はそれが私より早く起きるやうになつた。是はわが家の七不思議の一つである。聞けば靜坐で頭がよくなつたのだ位いふから私は聞かずにゐる。
     ――――――――――
 妻君の按摩も驚ろくべき現象の一つである。殆んど毎日のやうに按摩をする。それは女按摩と男按摩と兩方である。此女按摩は大隈さんの所へ行つたり又其親類の三枝といふうちへ行つたりするので言葉遣が丁寧であるが、それが悉く矛盾で持ち切つてゐる 自分の事や他の事で慎んでいふべき所へなさいましたとか遊ばしたとかいふ。自分には夫がわざと云つてゐるとしか聞えない。然るに細君は芝居へ行つたり、有樂座に行つたりするときは決して此按摩の必要を説いた事はない。誤《原》樂は彼女に取つて按摩以上の功力があるやうに見える。
     ――――――――――
 此前にチビの下女がゐた。至つて品性のよくないこせ/\した下女であつたが夫が大層妻の氣に入つてゐた。私はとう/\それを出してしまつた。此奴は私にあてつけがましい事ばかりする。顔は萬古燒おしゝで出齒と讀賣の假聲を小供が使ふから私が眞似をすると、すぐ子供に顔は眞四角と教へて復讐をする。實に見るのも厭な動物である。こいつを妻はとめ/\と呼んでゐた。それを二週間ばかりするととみ/\に改めた。なぜだか分らない。私がとめだらうといふと。なに富ですよと白を切つてゐる。恰も私はツンボだと云はぬ許りの挨拶である。其次の下女例の相模の漁師の娘とかいふのは始めのうちは倉々と呼んでゐた。然るに後にはすわ/\と云ひ出した 其源因の如何に拘はらず彼女はわざと私の感情に逆つて同じ事を繰り返すとしか思はれなかつた。だから私は其女をいつ迄も倉々と呼ぶ積でゐる。
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 木曜の面會日の晩に下女が一寸といふからみんなを待たせて行つて見ると、妻が茶の間に來てゐる。心臓がさつき急に痛くなつたから醫者に電話をかけてくれといふ。尤も今は何ともないが要心のためだからといふ。私はすぐ電話をかけた。心臓痙攣ではあるまいかと聞いたら醫者のいふには心臓痙攣でそんなにしてゐられる譯のものではない 思ふにリヨウマチ位な處だらう。若し痛くなつたら私の持藥に用ひている藥を飲ませら《原》と云つた。然るに私の粉藥は無論重曹剤で酸を中和する胃病の藥である。私は妻に其旨を話したら妻は別段怪しい顔もしなかつた。此前も胸がいたいとか頭がどうとかで醫者を迎へてやつたら醫者は診察して何うもないやうな事を云つた 共時醫者の顔にはあり/\とこんな馬鹿氣た事で人をわざ/\呼んで騷がせる方があるかと云はぬばかりの表情があつた。其前から妻〔は〕ヒステリーに罹るくせがあつたが何か小言でもいふと屹度厠の前〔で〕引つ繰り返つたり縁側で斃れたりする 其度數が重なると私は彼女の誠實をさへ疑つた。今醫者の樣子を見た私は果せるかなと思つた。翌日妻は私が起きたら横になつてゐた。私はわざ/\大きなあくびをした。それ切り妻に何とも云はなかつた。妻もやがて起きて平生の如くにしてゐた。
 私の病氣になつたのはそれから四五日してである。妻は夜脊中をさすつたり何かした。去年の出血の時も妻と不和の最中であつたので靴墨のやうな便が出て醫者が驚ろいて安靜を命じた時妻はじろ/\横目を使つて私の顔を見た。私はわざ/\と妻の方を見なかつた。妻の意味は私には分らないけれども私は血を下さうと死なうと己の勝手だ糞でも食へといふ氣があつたからである。それで病中にも氣に食はない時はみす/\身體に危險があると知りながら無暗に怒鳴りつけた。ある夜私は臺所で揚板を無暗にがた/\云はせる音を聞いてヌスツトウと大喝して自身病床から飛び起きた。次の間の妻は私を見て泥棒ですたしかにと云つた。然し決して泥棒の音ではない いたづらの音なのである。私は少し躊躇した。夫から臺所へ出て揚板を上げて中を無暗につゝいたり敲いたりした。是は癇癪から來たのである。私が又床に這入る〔と〕妻が下女に小聲で「まだ偉くないから」とか何とか云つてゐた。私が泥棒と聞いて逡巡したのを批評したのである。
 今度の病氣のときは揚板は鳴らなかつた。(妻は猫の所爲だとあとから説明してゐたが私は決してさうは思はない)たゞ其前に別嬪の下女(宿は築土の鷄卵屋、周旋人は隣りの牛肉屋三枝)が來た晩に同じ音がした。私は出て行かなかつた。下女は次の日歸つてしまつた。妻君は私が怒つてから揚板の上に無暗に重しを置いて下から上がらないやうに見せかけるが、昨今は全く癈してしまつた。夫でも揚板を上げる音はちつともしないから、此防禦方は單に私に對する胡魔化しの言譯としか思へない
 今度の病氣になつてから又容體がさう輕くないといふ事が分つたら妻は看護婦を呼んだ、大久保とかいふ去年のと同じ奴でバイブルを讀む切り口上の女である。然る|と《原》此看護婦が來ると妻君は私の病室へ滅多に顔を出さなくなつた。たゞ醫者が診察に來た時だけ出てくる だから醫者が容體を聞いても答へられない事がある。其上醫者が來て自分の枕元へ坐ると屹度アクビをするのを例のやうにした。
 
○植木屋が幾日でも來る。妻が勝手に命令して庭木を移植させたり妙な石を庭に敷いたりする、以後自分の命令でやれといふとへいと答へる。さうして五六日するとまだ來てゐる。さうして下女部屋の掃除をしてゐる。何故おれに聞かないか、貴樣のとる餞はおれの錢で妻の錢ではないと云つてやる。すると翌日朝恭しくおれの前へ出て旦那樣芭蕉の霜除は如何致しませうと聞く、いつもは俵を使つて拵へますがといふ。そんなら左樣しろと答へる。此植木屋は馬鹿である。然し人に是程丁寧な言葉を使ふ癖に子供や妻に對しては非常に横風である。
○妻が鈴木の葬式の時に羽二重の喪服をこしらへる。しかも夫を何とも云はない。拵へたあとで此間喪服の安いのを拵へたが云々と恰も既に人の許可を受けたあとの口調である。
 十二月から會計を自分がやる事にする。十一月は小使をのぞいて四百十圓か二十圓である。妻は筆子のために毎月十五圓を貯蓄銀行にあづけ始めた。是も私には相談しない、五年たつと千圓位になると云つてゐる。
○下女は漁師の娘だといふ、口を聞かない。夫で途轍もない大きな聲を時々出す、夫から小供などに自分の子供のやうな口を聞く、巡査がくると左樣で御座いますと丁寧に答へる。どうもなり恰好から見ても漁師の娘ではないらしい。丁寧な言葉も使はうと思へば使はれるやうだ。
○私は妻に命じて普通の音聲で普通の事を話すのが禮だと教へた。すると下女は決して自分の云つた通りにしない。人の耳につくやうには話さない。夫で人の怒を引き起すやうな事を大聲で話す。此下女の事に就いては外國から歸つて來て以來十何年といふも〔の〕癪に障りつゞけである。彼等の一人も決して普通の家の下女としては通用せぬものである。代へれば必ず妙な奴をよこす。桂庵から來ると黙つて歸つて行くのがある。たま/\好ささうなのが來ると一日で歸る。妻のいふ所によると碌な家庭でないから碌な女が居つかないのださうだ。さうして給金は二人共四圓五十錢である。
○此漁師の娘といふ下女は奥齒に物のはさまつたやうに絶えず口中に風を入れてひーひーと鳴らす癖がある。始めは癖と思つたがあまり烈しいので、是は故意の所作だと考へた。或時私が外から歸ると彼女は他の下女に齒が痛いと云つてゐた。然し齒醫者へ行く樣子も何もなくたゞ氣に喰はない音をさせる。無暗にひーひーと遣る。私が威壓的にそれをとめるのは譯はない。然し今迄の習慣として一つ私の氣に觸つた事をとめると屹度他の何等かの方法で又私の感情を害する事をする、さうしてそれを止せといふと又何か始めて人を不愉快にする。夫で私は已を得ないから向ふがあてつける通りに此方でもひーひーと同じく齒を鳴らし出した。
 私は或日相談があつて本郷の佐々木信綱氏の所迄行かなければならなかつた。すると電車の中で下女と同じやうに奥齒を鳴らすものがある。私も鳴らした。先方は夫で止めた。佐々木氏の家へ着いて一所に大塚の所へ行かなければならなくなつたので同氏の支度を待つてゐると又同じ聲が隣室で聞こえた。私も同じ聲を向ふと同じ敷だけ出した。大塚のうちでは此不愉快の聲を聞かずに濟んだ。其前の晩に松根が來た。すると彼がまた同じ樣に奥齒を鳴らした。齒が痛むのかと聞いたら痛むけれども齒醫者へ行くひまがないと云つた。けれども彼は決して齒の痛さうな氣色はなかつた。是は土曜である。佐々木へ行つたのは日曜である。中と安倍が水曜に來た。私は下女に何を持つて來て下さいと云つた。是はもとより不自然に聞える言葉使ひである。然し下女の方で矛盾をやり、其矛盾を詰れば好加減な言譯を云ひ。さうして屹度何か外の事で復讐をするから私もわざと私の性質に反したやうな事をやるのである。私が下女に何々して下さいと云ふや否や安倍はいきなり同じ樣に齒を鳴らし出した。さうして夫を何遍もやるから君は齒が痛いかと聞いた。すると彼の返事は少し松根と違つてゐた。今度は痛いのではないけれども何だか變だと云つて又やつた。私は彼に向つて云つた。私のやうに年寄になる|に《原》齒が長くなるのみか齒と齒の間がすいて何うしても其隙間に物の挾まつたのを空氣の力で取るためにちう/\云はなくてはならない。御客樣の前でも失禮な聲をさせると云つて、私の方でも齒を鳴らした。すると安倍の方でも已めない、いつ迄も不愉快な音を出すから私は不得已其音はやめろと忠告した。安倍ははい已めますと答へた。然しもう一返やつていや是は失禮と云つてやめた。
 今でもうちの下女は此ひー/\を已めない、然も妻君のゐない時を擇んで最も多くやる。是は妻の命令とも取れるし、又妻がゐないから遠慮が要らないといふ意味にも解せられる。果して前者とすれば妻はけしからん、果して後者とすれば彼等下女は主人を馬鹿にして妻だけを尊敬してゐる事になる。此外にも自分の不愉快な事を露骨にやる時は屹度妻の居ない時を擇ぶ。妻はそれで自分の責任を免がれた積であらうか、果してさうだとすれば妻ほど淺はかな興のさめた女はない。
 
○電話、始末書を出せと云つてくる。此方は先方から始末書を取る氣でゐる。文明館、カケ違ひの連續、受話機のはづし、其抗議から、ベルの鳴をゆるめるため切れを間へ入れろといふ。それは先方の注意である。
○巡査が來てある桂庵から雇つた下女に嫌疑があるから一寸かせといふ。
○鳥のカツレツを食ふ。いやに甘い。見るとソバにちよんぼり付《つ》いてゐるのが鹽でなくつて砂糖であつた。
 
○十二月八日〔火〕妻が三越へ行つてメリンスの裏と襦袢の裏と純一と伸六の綿セルの上つ張りを買つてくるといふ。いくら入ると聞くと畧十五圓といふから紙入のなかにある二十圓を渡して序でに羽二重の頸卷を買つて來てくれと頼んだ。妻は歸つて羽二重の頸卷の黒いのを出した。眞黒な頸卷は思ひも寄らない事である。何故黒を買つたのかといふと白いのは家にあるからだといふ。白いのはあるにはあるが汚點だらけでしかも小さくつて駄目だから頼んだのである。細君はそんな事は知らないと云つて澄してゐる。三越からあとの買物は屆ける筈だといふから一所に白いのを持つて來て取り替へて貰へと電話をかけさせる。妻は電話をかけるひまもないのにすぐ出て來て、黒いのを持つて來てくれなければ替へられないといふ返事だといふ。自分はもう一遍かけろと命じて電話のそばに食付いて監督してゐた。かけるのと談〔判〕をするのでも五六分はかゝる。さうして先方では黒いのを持つて來なければ取替へられないとも何とも云はない。自分が出て電話口で談判をする。白いのは三圓で黒いのは三圓二十餞だから持つて行つても構はないが二十錢あまるといふ。二十錢位どうでも差支ないといふと此方はさうは行きません、から二十錢のハンケチでもつけませうといふ返事である。
 
○比翼檜葉
○謙《原》倉檜
○眞檜
 
  嚴冬高節古
  盛夏緑陰新
 
 緑〔右●〕陰迎〔二字右○〕客去〔二字右●〕
 疎〔右○〕影送〔二字右●〕僧来〔二字右○〕
〔この二行の頭から線が出ている、入力者注〕
 
 紅爐※[火+餡の旁]上雪華飛
 一點清凉除熟惱
 
 衝開碧落松千尺
 截斷紅塵水一谿
 
 日記――【大正四年三月十九日より四月九日まで】――
 
○十九日〔金〕 朝東京驛發、好晴、八時發。梅花的※[白+樂]。岐阜邊より雨になる。展望車に外國人男二人、女五人許。七時三十分京都着、雨、津田君雨傘を小脇に抱えて二等列車の邊を物色す。車にて木屋町着、(北大嘉)、下の離れで藝妓と男客。寒甚し。入湯、日本服、十時晩餐。就褥、夢|昏《原》沌冥濛
 
○二十日〔土〕 朝靜甚し。硝子戸の幕をひく。
 東山吹きさらされて、風|※[山+斗]《原》峭、比叡に雪斑々。忽ち粉雪、忽ち細雨、忽ち天日。
 一草亭君來、自畫十五六幅を示さる。鷄、雀に蘆、雀、馬蓼、雀に蘆、椿、皆美事なり。
 此朝、臥牀中一號二號三號の戀を聞く。津田君から。「先生の顔は赤黒い」「あなただつて同じだ」「そんな事はない」「夫でも若い時は綺麗でしたか」「えゝ今よりは」「いゝえ他の人に比べて綺麗でしたか」「えゝ」「ぢや女に惚れられましたか」「えゝ少くとも今茲に三つあります」云々
 三人で大石忌へ行く。小紋に三ツ巴の仲居。赤前垂。「此方へ」「あちらから」と鄭寧に案内する。舞があるから見る。すぐ御仕舞になる。床に蕎麥が上げてある。薄茶の席へ通る。美くしい舞子と藝者が入れ交り立ちかはり茶を出す、見惚れてゐる。佛壇に四十七士の人形が飾つてある。菜飯に田樂が供へある。腰懸をならべた所で、蕎麥の供養がある。紺に白い巴を染め拔いた幕。
 三年坂の阿古屋茶屋へ入る。あんころ一つ。薄茶一碗、香一つ。木魚は呼鈴の代り。座敷北向、北の側、山家の如し、絶壁。(※[女+※[氏/一]]《原》園から建仁寺の裏門を見てすぐ左へ上る)。清水の山傳 子安の塔の邊から又下る。小松谷の大丸の別莊を見る。是も北に谷、其又前に山を控へて寒い。亭々曲折して斷の如く續の如く、奇なり。石、錦木を植ゑたり。小樓に上る。呉春蕪村の畫中の人、腹いたし。電車にて歸る。晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す。
 
 二十一日〔四字傍線〕〔日〕 八時起る。下女に一體何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だといふ。夜はと聞けば二時頃と答ふ。驚くべし。東山霞んで見えず、春氣曖※[日+逮]、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞といふ門札をくゞる。奥まりたる小路の行き當り、左に玄關。沓脱。水打ちて庭樹幽邃、寒き事夥し、床に方祝の六歌仙の下繪らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華藏世界。一草亭中人。御公卿樣の手習机。茶席へ案内 數奇屋草履。石を踏んで咫尺のうちに路を間違へる。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。更紗の布團の上にあぐらをかき壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂や水屋のうち迄も」といふ月並の俳句の賛あり。
 料理 鯉の名物松清。鯉こく、鯉のあめ※[者/火]。鯛の刺身、鯛のうま※[者/火]。海老の汁。茶事をならはず勝手に食く《原》。箸の置き方、それを膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。
 午後二時より京坂電車墨染より竹藪梅の花を大龜谷、兵隊かけ足で二三度四列位のもの行き過ぎる。太閤の千疊敷の跡、佛國寺、桃陽園、左右の梅花、の中に道白く見ゆ。上は平ら。家十戸。夜、買つて來た鑵詰、鶏、ハム、パン、チヨコレート。※[エに濁點]ルモツトをのむ、ユバト豆腐、萱草の芽のひたしもの。にて飯を食ふ。細君曰く大抵のものは食へます。ゲンゲ、タンポヽ、其他、夜炬燵を入れて寐る。自分の今の考、むがになるべき覺悟を話す。
 
 二十二日〔四字傍線〕〔月〕 井戸に行つて顔を洗ふ。宇治川と巨椋池、を眼前に見る。佛國寺へ行く。高泉の開山、聯には支那沙門高泉拜題とあり、普光明殿には曇華の落※[疑の旁が欠]あり。山門石段なし、横門丈殘る。昨日買つて來たパンで食事、玉子、紅茶、ハム、桃|花《原》園主にあふ。其計畫を聽く。
 鳥鳴く。何ぞと聞けばチンチラデンキ皿持てこ汁のましよ。
 十時半山を下る、梅、竹藪、赤土、六地藏、鐘樓赤、釣鐘青。そこを拔けて、六地藏から電車一區宇治に行く。黄檗にて下車久し振で赤壁の山門と青い額と石段の松の樣子を見る。彼岸中日で施餓鬼を執行
 門前の普茶料理で晝食、腥物のなき支那料理。品數多くして食ひ切れず。雨降り出す。小僧傘を二本出す。貸すのかと訊けば停車場迄送るといふ。宇治迄行つて歸りに黄檗の停車場へ置いて行く約束にて出る。雨を冒して宇治に向ふ。徒歩にて。途中難義なり。宇治橋につく。鳳凰堂より土堤へ出て河を横切る。興望寺の奥の温泉へ行つて此所は何だときくと料理屋だといふ。温泉はときくとあるといふ。崖道傳ひに亭の下から傳つて行くと温泉と書いた戸あり、錢湯の如し、服を脱ぎ湯につかる。雨歇む。から傘を肩にして出づ
 電車。雨中木屋町に歸る。淋しいから御多佳さんに遊びに來てくれと電話で頼む。飯を食はす爲に自分で料理の品を擇んであつらへる。鴨のロース、鯛の子、生《原》瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみ。御多佳さん河村の菓子をくれる。加賀の依頼。一草亭來
 
 二十三日〔四字傍線〕〔火〕 朝青楓來。一草亭來。今日はある人の別莊を見る計畫なり、一草亭曰くある別莊の主人は起きるすぐ店へ出、夕方家へ歸る、別莊を見る餘暇なし、細君にすゝめられて雪の降る日など一寸ひる位迄は我慢して家に居れど東京から手紙が來てゐるかも知れないと云つて出掛る。とう/\折角の別莊を見ずに死んでしまつた。他の一人は他からかういふ家に起臥して嘸よからうと云はれて、どう致して此所にゐて人にでもつらまつた日には尻を落付けられて甚だ迷惑するから出來る丈早く店へ出るといつた。腹工合あしく且天氣あしゝ。天氣晴るれど腹工合なほらず。遂に唐紙をかつ|た《原》三人で勝手なものをかいてくらす、夕方大阪の社員に襲はる。入湯。晩食。御梅さんとしばらく話す。
 
 二十四日〔四字傍線〕〔水〕 寒、暖なれば北野の梅を見に行かうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方へ行つて今晩でなければ歸らないから夕方懸けてくれといふ夕方懸けたつて仕方がない。車を雇つて博物館に行く。寫眞版を買ふ。伏見の稻荷迄行つて引き返す。四條通りの洋食屋へ連れて行くまづい。四條京極をぶら/\あるく。腹工合あしし。歸つて青楓に奈良行の催促をする。晩に氣分あしき故明日出立と決心す。
 
 二十五日〔四字傍線〕〔木〕 寐《原》台車を聞き合せる。六號。胃いたむ。寒。縁側の蒲の上に坐布團をしき車の前掛をかけて寐る。其前青楓來。奈良行の旅費を受持つから同行を勘辨してくれとたのむ。一草亭から、蘆に雀の畫(御多佳さんの持つていつたの)をもらふ。御多佳さんがくる。出立をのばせといふ。醫者を呼んで見てもらへといふ。寢台を斷つて病人となつて寐る。晩に御君さんと金之助がくる。多佳さんと青楓君と四人で話してゐるうちに腹工合少々よくなる。十一時頃淺木さんくる。二三日靜養の必要をとく。金之助の便秘の話し。卯の年の話し。先生は七赤の卯だといふ。姉危篤の電報來る。歸れば此方が危篤になるばかりだから仕方がないとあきらめる。
 幽靈が出る話、先生生きてゝ御呉れやす
 
 二十六日〔四字傍線〕〔金〕 終日無言、平臥、不飲不食、午後に至り胃の工合少々よくなる。醫者くる。
 
 二十七日〔四字傍線〕〔土〕
 夕方から御君さんと金之助と御多佳さんがくる。三人共飯を食ふ、牛乳を飲んで見てゐる。御多佳さん早く歸る。あとの二人は一時過迄話してゐる。金之助が小供を生んだ話をする。御君さんは金神さまの信心家自分ハないといふ。
 
 二十八日〔四字傍線〕〔日〕
 昨夜三〔人〕が置いて行つた畫帖や短冊に滅茶苦茶をかいては消す。一草亭より蕉の書畫帖をかしてくれる。一草亭は西園寺さんより小燕といふ小鳥をもらふ。牡丹と藤、百合、を小僧に持つてこさせる。
 醫者來、人工カルヽスをくれる。
 
 二十九日〔月〕
 又畫帖をかく、午後御多佳さんがくる、晩食後合作をやる。
 
  〔以下四月八日までを缺く〕
 
 九日〔金〕
 師走の廿日あまりある人のもとにて大《原》祗とともにはいかいして四更は|て《?》に歸りぬ雨風はげしく夜いたうくらかりければ裾三のづまでかゝげつゝからうじて室町を南に只走りに走りけるに風どゝ吹落て小とぼしの火はたとけぬ夜いとゞくらく雨しきりにおどろ/\しくいかゞはすべきなどなきまどひて
    蕪村云
かゝる時には馬てうちんといふものこそよけれかねて心得有べき事なり
    大祗云
何馬鹿な事云な世の中の事は馬てうちんが能やら何がよいやら一つも知れない
大祗がはいかいの妙すべて理窟にわたらざる事此語の如しかの吉田〔の〕法師が白う|な《原》りといへるものあらばといへるに伯仲すべし
            夜 半 寫
〔図省略〕
春雨やものかたり行く簑と笠
若竹やはしもとの遊女ありやなしや
○御多佳さんの一中節 大長寺と與次兵衛、河東節の熊野
 宇治文庫 宇治紫文齋
 
 ※シテ あづまうけ出せ山崎與次兵衛 ツレ うけ出せ/\山崎與次兵衛 合 いつかおもひの □ 下紐とけて 合 昔思へばうやつらや忍昔も 下 うやつらや 本てうしシテイロ詞 「情なや誰あらふ □ 山崎與次兵衛 下 様とては人におくれを亂髪の △ あづまがかほも
  ワキ 「アレあれをみや虫さへも シテ つがひはなれぬあげ羽の蝶 ツレ 「われ/\とてもふたりづれすゐなどふしの シテ 中々に春にもそだち ワキ 花さそふ シテ 菜種は蝶の ワキ 花しらず シテ 蝶は菜種の ワキ あぢしらず シテ しらず ワキ しられぬ シテ 中ならば ワキ うかれまいもの シテ さりとては ワキ くるふまいもの シテ あぢきなや
 
 斷片――大正四年一月頃より十一月頃まで――
 
     一 〔『硝子戸の中』〕
 
(1)卯年
(2)猫
(3)犬
(4)或女の告白
(5)チヤブドウ
(6)書いたものを見てくれと云つた女ニ告げたこと
(7)戰爭と病氣
(8)癩病者曰クそれは人間ニいふ事でせう
(9)福井利吉郎
(10)講演 十圓切符 十圓ノ禮ニ就て
(11)實際問題ノ應用、
(12)藪錦山、岩崎太郎次
(13)焼禅、〔一字不明〕
(14)生と死
(15)武者小路ノ送書籍
(16)畫ノカキ始メ、湯淺、今ハ不愉快ヲ逃レルため、
 寺田との議論 (1) positive artistic impulse
        (2) 反響
(17)星ノ音
(18)〔英文省略〕
(19)〔英文省略〕
(20)電話始末書
(21)電燈が消える筈がないと理論上主張しても消える事實は消滅しない、
(22)楠緒子 妾ヲ撃退ス
(23)獨乙ノ本屋 几帳面
(24)芥舟
 
 九寸五分
 益さん、
 楠緒さん
 靴ヲ貸せ
 元日
 岩波ノ机
 南畝※[草がんむり/秀]言
 回復力 繼續力
 花賣〔二字□で囲む〕
 倉吉
 下女ノ密告
○贔屓
22 the rich and the poor
23 Georg Brandes
24 take some works of art and philosophy, with the value set upon them by the nation in which they are propduced. GossSe, Saintsbury famous reviews
25 陽氣ノ加減で氣が變ニナツタ
26 人ノ草稿ヲ讀ムコト、卒業論文ノ話、
27 維新ノ際ニ生レタラバ
28 自分ノ書いたものを見て呉れと云つた人ニ話せし事。 社交ニアラズ、自己ノ弱點ヲサラケ出サズニ人力ラ利益ハ受ケラレナイ、自己ノ弱點ヲサラケ出サズニ人ニ利益ハ與ヘラレナイ
 多クノ人ニ接シナケレバ人間ハ分ラナイ、多クノ人ニ接スルト人間ガスレル、墮落シナイデ多クノ人ヲ知リ、知ツタ知識ヲ自己ノ特色ニ取り入れる
29 Entropy.力學ノ行キヅマリ、
30 大塚夫人の事、妾撃退
31 自己は人の理解し得ザル美點ヲ承知シテゐる。人ハ自己の理解し得ザル缺點ヲ知ツテゐる。
 
     二
 
 水明莊  (牡《原》詩残夜水明樓)
 冷冷莊  (ハ冷々脩竹待王歸)
 竹外莊   竹外風煙開秀色 文衡山
 寂淹莊
 虚白山莊  虚室生白 虚白高人靜
 曠然莊   曠然蕩心目
 如一山莊  雲水空如一
 澄懷山莊  凝神著書澄懷觀道
 從生山莊  功名多向客中立禍患常從巧處生
 回觀莊   靜中見得天機妙閑裡回觀世路難
 澄明莊   澄明遠水生光重疊暮山聳翠
 半眞山荘  心事半眞半僞世故半濃半淡
 空碧莊   草堂春翠竹溪空碧
 
     三
 
○書物を送ると其返事。
 ×善良なる人、利口な人、同じ結果、返事をすぐよこす。
 ×多忙の人、無頓着の人、無禮な人、病氣其他の事故ある人、返事をよこさず
○自覺なきものは度し易し、自覺あるものは度しがたし。
 ×癖などは氣を付けてやればすぐさうかと肯ふ。
 ×自分が自覺して善もしくは美と信じたる事は到底人の勸告に應じて其否を肯はず
 ×だから人を啓發するといふ事は、先方で一歩足を此方の領分へ踏み込んだ時に手を出して授ける時に限る。
○大我は無我と一ナリ故に自力は他力と通ず
○藝術的衝動と好意は必ずしも一致せず。好意あれども藝術的衝動なき場合はいかに好意に滿ちたりとていゝものを書いたり畫いたりする事能はず
 
○猫が庭の木立の下に來てゐる。椅子に腰をかけた私を見てゐる。姿勢は落付拂つてゐる。然し呼吸がはげしい。自分に似てゐる
○猫が時〔々〕雀をとる事を思ふと猫を飼ふのがいやになる
○御多佳へ手紙、 アートと人格、人格の感化とは惡人が善人に降參する事
○露西亞の音樂《原》はビアンスキと綴つてスラ※[ヰに濁點]アンスキーと讀むのか。冠り、赤と《原》調、薄青の調、靴サラサ模樣
 
○早相田ノベースボール
○純一と伸六 縁の下へ寐る
○宿雨晴れ染めつけたやうな
○寶寺
〔以上四行□で囲む〕
 
○森がきて早相田の野球試合に誘ひ出す。戸塚のグラウンドを望むと人の雲が一ぱいに層をなして廣い原を取り圍んでゐる。遠い屋根の上にも豆の樣な人の顔が見える。それが日光に照らされた瓦の上に立つた儘少しも動かない。高い所に赤毛布に竿をつけたものが風になびいてゐる。其毛布は古いもので所々に穴のあいてゐるのが遠くから能く見える。それから黒い筋が二本入つてゐるのも明らさまに毛布だと名乘つてゐるやうで多少無雜作な面白味を與へた。
 場内は人で埋つてゐるので何所が入り口か丸で分らない。たとひ解つても這入れさうにない。森は自分の繩張所へ這入るといふ氣があるので人と人の間を裂き割るやうにして這入つてしまつた。自分は出る事も引く事も出來なかつた。
 一高はサードベースの側を一杯占領してゐた。其數は千人位もあらう。皆白い旗を持つてそれを一度に動かす眼がちら/\する。自分の頭の上に居る男が比較的大きな旗を持つてゐてそれを夢中で振ると旗の端がぴたり/\と自分の頭や頬にあたる。一齊にたつて怒鳴ると砂ほこりが立つ。衣服其他が黄色いこな|な《原》ぶれになる。
 第一ベースの方の赤旗は是亦より綺麗にちら/\した。赤い着物に袴をつけた人が號令をかけた。自分達のゐる北側の赤連の號令者は青坊主であつた。
 十對五で一高が負けた時白軍は急に大風のあとのやうに靜まつた。千人の人が一人も口を聞かなかつた。黙々として密集した隊伍が細い道をつゞいた。自分の前には太鼓をかついだ男が二人で歩いて行つた。力がぬけて元氣がなささうに見えた。森が「撰《原》手が泣いてゐる」と云つた。私はどこだらうと思つて見たが多人數に遮ぎられて見えなかつた。
 行列が一時とまつた。「撰手が歩けないのです」と森が又自分に告げた。早稻田大學の北門を入つて講堂の前へ出ると一高の生徒がみんな地面の上へあぐらをかいて休息してゐる。肅然として一語を發するものがなかつた。
○伸六が八十五錢〔の〕喇叭を買へと云ふのを排斥されたので怒つて縁の下へ這入つてしまつた。どうしても出て來ない。あい子が海苔卷を縁の下へ出すと、怒つてゐる伸六も食ひたいと見えて、パクリと食ふのださうである。其代り口は決して利かない。
 純一が怒つた時は裸で縁の下へ寐てゐて是亦どうしても出て來ない。さうして人が近寄ると泥をつかんでは抛げる
○寶寺で欝金木綿の財布をもらつて、手のひらを才槌で打つてもらつてその手の平を握つた儘門の處《原》來る、後ろを振り返つちやいけない
○痔の療治
○塩原
 
○江戸川終點の昔の光景
○生よりも死、然し是では生を厭ふといふ意味があるから、生死を一貫しなくてはならない、(もしくは超越)、すると現象即實在、相對即絶對でなくては不可になる。「それは理窟でさうなる順序だと考へる丈なのでせう」「さうかも知れない」「考へてそこへ到れるのですか」「たゞ行きたいと思ふのです」
 
○御松、倉吉、
○煽風器の風は紐の中から出る
○寺田の鮨の食方
○心中のあとの夏蜜柑とビールの空罎
○伸六曰く御父さま犬は仁參たべる?
○獄中で鳩を飼ふ話
○技巧の變化、(右、左、縱、横、筋違、)さうしていづれも不成功の時、どうしたら成功するだらう?といふ質問を出して又次の技巧を考へる。さうして技巧は如何なる技巧でも駄目だといふ事には氣がつかず。人間の萬事はこと/”\く技巧で解決のつくものと考へる。さうして凡ての技巧のうちどれかゞ中るだらうと思ふ。彼等が誠に歸るのは何時の日であらう。彼等は技巧で生活してゐる。恰も水の中に生活してゐる魚が空氣といふ觀念がない癖にどうしたら地上を歩く事が出來るかと工夫するやうなものである。
○××〔二字傍線〕の結婚。××〔二字傍線〕の死亡。××〔二字傍線〕の死亡
○aが依頼するからbが芝居へつれて行つて遣る。又は御召の着物を買つてやる。又は畫をかいてやる、書をかいてやる。
 (1)bはaに滿足を與へるためと思つてゐる。
 (2)aは反對にbが自分の虚榮心を滿足させるための發現と思ふ
 (3)それでbの力量以上のものが世間には色々あるといふ事をわざとらしい方法でbに示して其鼻を挫かうとする。bはaに對して厭な心持を起す
 (4)此場合bはaの幸福を目的として働らいてゐる、aは又bの弱點を中心としてbに慟らき返してゐる。矛盾は其處から出る。
 
○人の名聲がなくなるといふ本當の意味は其人の行動なり作物なり言論なりが死んでしまふといふ意味である。夫等が死んでしまふといふ意味は夫等に接觸する凡ての人に何の働らきも起さないといふ意味である。つまり夫等は其儘存在してゐても夫等の働らきが死ぬといふ事である。もし此働らきが死ぬ以上は拱手して坐つてゐても其人の名聲は死んでしまふのである。
 然し其働らきが殘つてゐる以上、又其働らきが強烈である以上、いくら外部から政略的に其人の名聲を亡ぼさうと思つても駄目である。
 其理由
 (1)暴力以外に其人の言論なり作物なりを封鎖して接觸の途を絶つ譯に行かない。
 (2)惡聲丈ではそれ丈の力が出てくる筈がない。黙殺でも同じ事である。(積極消極の區別がある丈で)
 (3)惡聲と黙殺は心的状態を變化するけれども、たゞ評|番《原》といふ丈だから、其人の實際の言論なり作物なりに比べると働らきが間接である。從つてより多く器械的である。いくら太陽は冷たいと云ひふらしても、實際太陽の光に浴する刹那に反對の結論を自知するやうなものである。
 (4)だから力のあるものを亡ぼすためには當人の惡口をいつたり冷罵したり其他凡て當人を傷けるやうな策をめぐらすのは近途のやうで却つて迂遠なのである。策略として最も効力あるのは、(本人は其儘にして置いて)本人から動かされる一般の人々の方に働らきかけるにある。しかも器械的に威壓的にやるのは一時性の効力しかないのだから、もし働らくとすれば、心理的に働らかなければならない。即ち其人々の心的状態を自分達の都合のいゝやうに變化させるのである。其人の言論作物に對して没交渉に濟まし返つてゐられるやうに人々の心を改造するのである。所がそれが策略丈で(相當の根據なく)出來る業だらうか? とても出來ない。換言すれば不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底實行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいゝといふ方針が最上だといふ事に歸着する。
 
○形式論理で人の口を塞ぐ事は出來るけれども人の心を服する事は出來ない。それでは無論理で人の心を服する事が出來るのか。そんな筈もない。論理は實質から湧き出すから生きてくるのである。ころ柿が甘ひ白砂糖を内部から吹き出すやうなものである。形式的な論理は人形に正宗の刀を持たせたと一般で、實質の推移から出る――否推移其物をあとづけると鮮やかに讀まれる自然の論理は名人が名刀を持つたと同じ事で决して離れ/\にはならないのである。
 
○Temptationヲ resist スルト云ふ以上は對象が本當の誘惑でなくてはならない筈だ。僞りの誘惑即ち見せかけ丈は誘惑の相を具したものを斥けたといつて、其人は誘惑に打ち勝つたのでも何でもない。其人はたゞ相手の技巧に打ち勝つたのである。たゞ手に乘らなかつたといふ丈である。從つて誘惑を斥けるといふ事が徳義上堅固な所を發揮する美徳としても、此人は此場合毫も賞するに足らないのである。夫から相手はもと/\策略でやつたのだから、どうしたつて不正欺瞞の誹を免かれないのである。
 技巧を弄して人を釣らうとして否人が釣られるか釣られないか試驗して見やうとして人がそれに釣られなかつたから、あなたは感心だ試驗に及第しましたと云つたら、賞められた人はいや私はあなたの技巧が嫌だつたので、技巧が表はさうとしてゐるもの愛なり金なりが嫌なのではありませんと答へる丈である。夫から「あなたは感心だ堅固だと云つて私を賞めて下さるけれども、私を賞めさへすれば私が嬉しがるとでも思つてゐるのですか、馬鹿々々しい。よし私が嬉しがるとした所で、あなたは夫で平氣でゐられるのですか、あなたが私に働らきかけた技巧即ち虚僞は私の人格を侮辱したものではありませんか。其罪は(私に對する)どうする積なのですか。まさか私を賞めたからと云つて其罪が消滅するものでもありますまい。私はあなたから下さる讃辭を謹んで御返却申します。それからあなたの人格を輕蔑する事を公言致します」と答へる丈である。
 
○心機一轉。 外部の刺戟による。又内部の膠着力による。
○一度絶對の境地に達して、又相對に首を出したものは容易に心機一轉が出來る
○屡絶對の境地に達するものは屡心機一轉する事を得
○自由に絶對の境地に入るものは自由に心機の一轉を得
 
○general case は人事上殆んど應用きかず。人事は particular case ノミ。其 particular case ヲ知るものは本人のみ。
 小説は此特殊な場合を一般的場合に引き直して見せるもの(ある解釋)。特殊故に刺戟あり、一般故に首肯せらる。(みんなに訴へる事が出來る)
○うら盆、 眞こもの敷物の上に供物、蓮の葉の中に芋、枝豆、サヽギ、一方の蓮の葉の中には鬼灯、青葡萄、瓜、桃 茶椀の上にみそ萩
 
○伸六(八) インキ〔ン〕ダムシの事を南京魂といふ。
○あい子(十一)怒つて曰く御立腹だから面會は出來ないよ
○少しくコウケン〔四字傍点〕してしまつたといふ言葉を使ふ。少し厭になつたといふ事なり
○ガブチク〔四字傍点〕だよといふ言葉を使ふ。もう返さないといふ事なり
 
    四
 
 カ絣、の例。
×極力細カクスルト勞力多き故價値高し。然《原》細かさの適度以上になる。故にそれを着るものは趣味ハドウデモ金を見てくれといふ事になる。
×若し金を見る事を知らぬものがそんな細かな絣の着物(高き)と適當の絣の着物(安き)を見て後者を撰ブナラバ、其人は趣味丈に忠實と云はなければならない
×何にも知らない門外漢が黒人に勝るのは此所にある。小兒が大人に勝るの〔は〕此所にある。
×unsophisticated ダカラ。pure ダカラ。無邪氣ダカラ。
×此間題には道徳をも含む。競爭シテたゞ勝たう/\の念が趣味性を害しても絣を細かくするのだから、ツマリ控目を知ラナイトいふ事ニナル。虚榮といふ事になる
×同時に能力の可能性を發揮するといふ事にナル。intellectual 及ビ practical ニ行ける所迄行くといふ事になる
×同時に行き語れば何方カへ方向轉換をしなければならないといふ事になる。さうして通路を開くといふ事になる。變化といふ事になる。意志〔二字右○〕(心理的にいふと)の疎通といふ事になる。堀りつくした鑛山見たやうなものでもうどうする事も出來ないのである。だからあまり盛になると衰へるのである。盛になりかたが惡いからである。
 
    五  〔『道草』〕
 
  兄 長太郎
  |
 健三
 住           要さん
              |
       遠山  妹(高橋)芝
 島田平吉
 御常(先妻)――藤(後)   〔遠山と妹から藤へ線あり 〕
 
 吉田虎吉
 
 比田寅八 姉(夏《なつ》)
      義兄
 
 由《よし》
 長太郎  喜代
 
 お常 柴野房之助
    柴野縫
 一彦  比田の養子
 作太郎 比田の實子死んだ
 
 波多野 御常の再縁したる所。
 
    六
 
 (一)三男一女
 (二)男 直系 女《原》
  男    女   傍系。將來トノ觀察アリ
    直系未成    〔それぞれに複雑な線あり〕
 
 男女ノ前ニテ女ニ男をすゝむ。其時女ノ男に對する批評(耻ヲカヽセタといふ。嫉妬及び豫防線といふ)男の公言する所(全く女と男のため)
(三)母の子他國で情婦(若くは妻)を作る。死。女母を尋ね來る。母亡子の記念の爲め女を愛惜す。しばらくして女ある男を愛す。これを母に打ち明ける(其援助を受ける確信ありて)母大に怒る。亡子に貞ナラザル女を愛スル事能ハザる心理
 
豐後、養老、月影
 
丁子、高野槇、ロレンジ、ワシントンネ−ブル
イブキ(下草物)
寒木犀、
琉球ツヽジ
霧《原》島、五月、
トケラ(ヒヨドリ)
ユウカリ(白き葉
栴檀(ハゼの樣ナ實)
 
○パラソルの話
○細君賣淫の話
○芝居好ノレデーの話
 
子供、井戸側、丸木橋、千圓やル。髪結床 アイツ。
西洋人釣に行 小便
湯河原の川、藤木川、
合して千歳川 向側ハ伊豆
 
    七
 
〔英文省略〕
 
(1)文展の繪、effort, 小笠原流、美術院、假装行列、
 ○己を空うして nature ヲ受ケ入れる
  (極ハ寫眞。其寫眞と此種ノ繪ノ區別)
 ○己レノ寫眞ヲ nature ノ上ニ燒きつける。
  例 文人畫
    Symbolism 獨乙ノ畫ノ項參照
(2)小説、ノ尤モ有義ナル役目ノ一ツトテ、
  particular case ヲ general case ニ reduce スルコト
  ×general case ヲ general case トシテハ陳腐
  ×particular case ヲ particular case トシテハ奇怪、
  ×新らしき刺撃アリテ然モ一般ニ appeal スル爲ニ第一ノ如クスル必要アリ、
  ×吾人ハ effect ノ爲ニ然スルノミナラズ、人道ノ爲ニ然セザル可ラズ
(3)古キ道徳ヲ破壞スルハ新シキ道徳ヲ建立スル時ニノミ許サレベキモノナリ。
(4)批評家、胸中二一ツノ固マリアルベカラズ。有ユル塊マリナカルベカラズ。他ノ尺度ヲ以テ他ヲ評セ|ゼ《原》ルべカラズ、versatile. 賊馬ニ騎シテ賊ヲ逐フ、
(5)徹底ノ意、absolute hreedom アリや、妥協ナリ。徹底トハ omniscient ノ上ニナル妥協ナリ、
(6)あらくれの評
(7)人ハ自分に相談シテ言動セズ。故ニ氣ニ入ラヌ者ナリ。若シ之ヲ忌マバ自己の標準ト他トヲ一致セシメザルベカラズ 或程度迄出來る。(感化的形式的ニ)然シ他ノ立場ヲ考ヘナイ場合若クハ考ヘテモ理解デキナイ場合ハ全知ノ特權ヲ有ツテ居ナ《原》イ場合トテモ取除ク譯ニ行カナイ
(8)生死ハ透脱スベキモノナリ回避スベキ者ニアラズ。毀譽モ其通リナリ。
 
○〔英文省略〕
 
○大塚ノ哲學ノ系統  virgin prostitute
○竹箆
○技巧ハ己ヲ僞ル者ニアラズ、己ヲ飾ルモノニアラズ、人ヲ欺クモノニアラズ。己レヲ遺憾ナク人ニ示ス道具ナリ。人格即技巧ナリ
○皆川ノ手紙ニ silk hat ヲ樽ノ樣ナモノト書イテアツタリ
○奈良高師ノ徳永曰ク友達ハ出來マセン。要リマセント。余曰ク友達ハ絶對ニ要ラナイモノニアラズ。時ニヨリテ厄介ニナルナリ。重荷ヲ負フテ旅行スルガ如シ。脊負ツテ居ルウチハ厄介、宿ニ着ケバ役ニ立ツ
○藝術ノミ豈一元論ヲ許サンヤ、萬法歸一、
 
○或人ハ告白ガイヽト云フ、或人ハ告白ガ惡イトイフ。告白ガイヽノデモ惡イノデモ何デモナイ、人格ノアルモノガ告白ヲスレバ告白ガヨクナリ、シナケレバシナイ方ガヨクナルノデアル。美人ガ笑ヘバ笑フ方ガヨク泣ケバ泣ク方ガヨクナル樣ナモノデアル。惡女ハ何方シテモイケナイノデアル
 
○ゼエレン、キエルケゴオル。和辻哲郎
○動物をいくら研究しても動物にはなれない
○音樂會、猫や犬ヨリハ可からうと思つて行つた。
○Dostoievski ト Maeterlinck
○戰爭(歐洲) Kant カラ出タト云フ、Hegel カラ出たといふ
○自分ノ作物は bastard ノ樣ナ心持
○高等工業ノ演説、
 mechanical, universal, abstract laws application
 
 日記――【大正四年十一月九日より同十七日頃まで――
 
 十日〔水〕夜
○百目四十錢の火藥、丸が十二錢
 雉三百羽、雄五十錢
○農と獵半々
○鍛冶屋へ行く
○鴨が居るか。雉か兎
○何號で打つか。四號か五號です、六號でも打ちます
○春になると羽が強くなるから三號だがね
○犬はゐるか、走ります
○ぢや駄目だ。待つてゐないだらふ。ついて歩けない
○犬は鐵砲の音を聞くとピシヤリト留る。鳥が落ちると留る。
○此所いらの犬は食はずに持つてくるのは好いうちです
○山鳥は犬が早くないと駄目だらう
○さうです。足の弱い人は輕便の下から上の方へ登つて行く。
○明日は行かれません、鹿狩に行きます。朝三時半に立ちます。先生と一所です。
○先生とは宗久といふ醫者。
○ボタ鴫はゐますが田鴫はゐません
○ヒヨはゐますが十二號ぢや勿体ない。三十號位ならイヽデス
○雉や鶉は待つ犬でなければ駄目。山鳥は走る犬でなければ駄目
○山鳥は(シキみ林などの)窪に居る。水のジク/\した所。山が枯れると能く分りますが、今は山がまだ青いから窪にもミヨにもゐますから。雉子も野が枯れないと分りません
○禅關策進と白隱。慈明引錐
 今ノ學人ハ生理、心理、ヲ知ル。故ニ臆病ナリ。又臆病ニナルベク餘儀ナクセラル、生理心理トモ科學ニシテ averagemen ノ所有の現象の統計ヨリ來ルニ過ギズ。故ニ exception ヲ許サヾル如クニ考ヘラル。生徒學生、之ヲ學ブモノ皆自己ヲ average men ト見傚シ且ツ人ヲモ average men ト見傚スノ癖アリ。故ニ引錐等ノ事ヲ見テ能ハズトナス。(激勵的ノ師策ナキモ其原因ナリ)、只天才ハ自己ヲ average men ト信ジナガラ生理心理ヲ尤モト心得ナガラそれニ背イタ行動ヲ餘儀ナクセラルヽナリ
 
 十一日〔木〕
 不動の瀧。橋二つ渡る。左の下河と田、右山(稍開きたる)の間を行く。其先に一軒家の茶店あり。溪流に臨む。右に上る數間にして瀧二筋天邊より來る。割合に樹木なく瀧の上に山なし。草山の間より岩出で其割け目より水が長く落ちる。少し下の右側よりも落ちる。
 御茶屋の御神さん。色白く眉濃く赤い模樣の襦袢を裾より下に一寸出してゐる。黒繻子の半襟をかける。どうして斯んな所に一人居られるかと思ふ。頓狂庵の妻君なる事分る。(日本橋ですといふ)
 宿へ歸つて下女に聞くともと葭町の藝者だといふ。一寸驚ろかされる。頓狂庵に大分金を遣はした結果だといふ。翌十二日(宿の御神さんいふ。亭主は西洋小間物商の所御店が破産して此所へ來た所、あとから女も來たよし。(亭主はわた樽屋の息子なり)さうして藝者といふ名では出られないが師匠といふ名目で御客の座敷へ出たいといふ。ある日御客が來た時熱海へつれて行つて呉れと頼む。宿の御上さんと客夫婦と外に男もついて熱海へ行くと亭主が電話をかけてすぐ歸れといふ。夫から以後客にあれは亭主と一所でなければ座敷へ出ないといつてゐます云々
 
 十二日〔金〕
 夜來の雨で是公路がわるいので鐵砲打に行かないといふ。九時過伊豆山から熱海へ行かうと云ひ出す。馬車で出る。十時三十八分の輕便に間に合ひ過ぎて茶屋にやすむ。こまどりの話をしてゐる。上さん曰くした餌一、糖二、の割です。小《原》飼だからよく馴れてゐます。此邊にある季節になるとこま鳥が里近く出て來ます。それを捕るのです
 伊豆山の相模屋へ行く崖道を一丁半も下る。前はすぐ海なり。千人風呂へ入る書生さんが四五人で泳いだりもぐつたり色々してゐる。
 
 露西亜人ノ50年輩ノ人ニ對する考
〔英文省略〕
 
 九日〔二字□で囲む〕〔火〕 の事。御大典の前晩。外出。暗くて雨が降りさうな宵。宿のものが提灯を點けて踉いて行かうといふのを斷つて谷川を沿つて小半丁行つて谷川を離れて右へ折れるとすぐ又元の方角へ轉じて再び谷川を左へ渡らなければならない。其丁度鍵の手の樣に折れ曲つてゐる角の旅館の玄關に人立がしてゐる。門を入つて人の後ろから覗き込むと模樣のある着物を着た女の子が※[足+勇]つてゐる。是は上り口の上での所作だから外からも見え〔る〕筈だが小さい兒なので頭に載せた手拭丈が見える。三味線と月琴を彈いてゐる男女は我々と同じ地面の上に立つてゐるので却つてよく分る。
 見えないからすぐ出る。
 「高山彦九郎が何とかして故郷を伏し拜みつて唄つてゐ〔る〕から馬鹿だな。皇居を故郷と間違へてゐやがる。……」
 「此酒屋の御上さんの妹は別品だから見ろ」
 「此所に己の舊知己がゐるから一寸寄つて行かうかな。小鳥を飼ふ仲間だ」
 狹い町はすぐ盡きて灯が段々少なくなる。村外れにある鎭守の森へ出る少し前から又橋を渡つて引き返す。
 元の旅舘の前へ來ると先刻の※[足+勇]子の連中が丁度仕舞つて門からぞろ/\出て行く月琴を抱へた女が黒紋付の羽織を着てゐる夜目には縮緬らしく見える、夫から小さい※[足+勇]子は友染の着物に赤い帶を立矢の字に結んでゐる。最も奇異に感じたのは彼等の一人が提灯をぶら下げてゐる事である。彼等は其提灯で足元を照らしながら今出て來た旅館の裏手にある橋(川向にある他の族舘へ丈通ずる細い橋)を渡つて行つた。
 
○十五日〔月〕 昨日宿の婆さんから食逃の話を聞く。一人は來て飯をくふ所其量がどうも多過ぎた。やがて御上さん此所いらに烟草屋はありますまいかと聞く。あとで上さんが亭主に「御前さんあれは慥かに食逃だよ。あとをつけて御覽なさい。見付の松迄行つて歸らなかつたら其儘にして歸つて御出なさい」。一人は知りもしない癖に「旦那今日は」と威勢よく這入つて來た。上さん曰くありや錢なしだよ。二三日後亭主上さんに云はれて客の入浴中包をしらべる、果して何にもなし
 御幸さんから泥棒の話を聞く。日本大學の制帽をかぶる男、菓子を買ふにも散歩するにも悉く大學帽をかぶる。隣の御客さんの話を襖へ耳をつけて聞く。同じ年輩の書生と懇意になる。一所に伊豆山へ行く。友達が二十圓持つて行くといふのをとめて五圓も持つて行けば澤山だといふ。友達はそれを欄間と鴨居の間にある横柱の裏にかくす。それをぬす|ぬ《原》。宿料を催促すると色々辯解すれどもよこさず遂に追出す
○やせ馬の話。脊中へやせ馬をつけて米俵を二俵背負つた女の話。上さんが男にヤセ馬で近所へつれて行かれた話
 
○十六日〔火〕
 一の字峠、金堀瀧
 木の名 ヅサ、カンバ、
 長尾曾根。沼津三島と靜岡灣を見る。
 鞍懸の眺望 八ケ國の眺望(青ページヲ見ヨ)
 相模武藏安房上總下總信濃甲斐伊豆駿河遠江〔青ページより掲出〕
 
 十七日〔水〕 朝富士屋を出て湯本へ行く途中車夫の語、――
 宮の下の天皇陛下も此春死にました。飛ぶ鳥を落すやうな勢でしたがね。何しろ偉い人で徃來を歩くと小供でも何でも御辭儀をするので、「己は頸がかつたるいから」つて仕舞に手を擧げる丈で頭は勤しませんでした。それで眞直を見てゐて横目なんぞは使はない癖に誰が何所を通るかちやんと知れるんだから偉いもんです。何しろ西洋人の金でなくつちや取つたやうな氣がしません。駕籠を雇つて大地獄迄歩いて行つて少しも乘らずに、それで酒錢を呉れるんですからね。日本人は尻が痛くなつたつて中々下りやしません
 奈良屋と當土屋の間には契約があつたんです。日本人は奈良星で取る其代り西洋人は富士星で貰ふつてねそれが何でも二三年前に滿期になつたんださうで、今ぢや兩方共日本人でも西洋人でも客にします。然し奈良屋へ西洋人は行きませんや。行つても午飯を食ひに富士屋へ來て見てすぐ移つちまひます。此方はコツクが十五人もゐる所へ持つて來て、向は一人か二〔人〕しかゐないんですからね。
 
○湯河原で是公曰く
 馬鹿囃は六づかしいものだぜ。今東京の藝者のうちであれが本當に出來るものは吉原の御貞だけだ。彼はキヤリと馬鹿囃とを混同してゐる。手古舞は御神樂の事と考へてゐるかも知れない
 
 癲癇病ノ心状(The Idiot ノ中ヨリ)
〔英文省略〕
 
 日記及斷片 ――【大正四年十二月頃より大正五年七月二十七日まで】――
 
○ブランデス。テイン。主義標題ハ主義標題。個人作家の批評ハ批評。リンクを缺く。
○軍國主義論、軍國主義ハ方便、目的ニアラズ故に時勢遲れなり
 獨乙の「力」の考と佛蘭西の「力」の考
○甲でもあり乙でもある。執着もあり執着なくもある。論理的でない。然し論理は果して事實か。謠曲を習ふ例。
○人から遠慮される樣な地位にあるものは啓發を受くる機會なし。体裁のいゝ事をいふものばかりを相手にして滿足してゐる。夫故此滿足を打破する者が出て來るときは、自然前者を同情者もしくは味方として見る。さうして後者の方が間違つてゐるのだと推定する。その方が自然だからである。もし前者が誠實な賛同者である場合には夫でもよろしけれど、虚僞の場合には此位地を有する人程氣の毒なものなし。
 
○箒庵の茶會記事。其道に入ると何事によらず天下他事なき有樣なり
○獨乙の繪畫(ハ思想ナリ)
○トライチケ
○科學的一元説(テイン)トベルグソン
○象徴主義(グールモンの與へたる)ノ定義
○老人雜話。佛蘭西ノ捕虜物語
○アナトールフランスの
 
○歐洲戰爭 宗教、祀會主義、經濟、人道、皆國家主義に勝つ能はず
 
○田中君の話
 酒。コンニヤクの上等が第一
   ブランデーは年數、香りと味
   葡萄酒も年數
   然し年數が同じならば vintage
 杖。 ぴカーヂリーの傍セントジエームのブリツグス。籐(製セザル者)四百圓
 食物。天麩羅、花長、魚河岸の屋臺見世を料理屋へ呼ぶ、
    越後屋の菓子(八百善、常磐屋の注文、)。池の端の塩煎餅。黒砂糖の羊羹 槇町の太平堂〔三字傍線〕。黒砂糖の飴、赤坂のチマキ屋(注文のみ)。
    茶 ブラツクチーとウーロンを交ぜる。キユーブの砂糖の味。
 毛皮。シルバーフオツクス、總毛一萬圓、六千圓。
    ラツコの皮少しづゝ白い毛が生へたのを貴ブ。長さ一寸五分。襟皮七八百圓。帽子、三四百圓。自動車へ乘る連中の着るもの
 衣服。門平を作る。羽織の長きは無用。袴腰改良。心ハ紙上に帶心を捲く。洋服の改良
 
 湯河原〔三字□で囲む〕
  一月二十八日〔金〕(行)より二月十六日〔水〕(歸)
 
 ○宿の老上さんの話
△男ある素人の情人をつれてくる。同じく關係のある女(待合の女將)あとから來る。男風呂場で女將につらまつて出る事が出來ず湯氣にあがる。上さんに救はれて部屋に歸る。素人の女の方は泣いて東京へ歸るといふ。上さんなだめて戸棚の中へ布團を敷き火鉢を入れてかくす。さうして男と女將をたしなめる。もう騷動をしないといふ言質をとる。それから男一人に女二人同居す。男風呂に入る。二人とも遠慮してどつちも湯に追《原》いて行かず。男コボシテ曰クリヨマチで手拭が絞れないのに二人とも一所に來てくれなくつちや仕樣がない。
△男あり横濱の藝者と深い仲なり。單身湯治に來る。別口の新橋の好きな藝者を呼ぶ。すると其藝者の來る前に横濱の方が勝手に來てしまふ。呼ばれた方はあとから來て指を銜へて二人を遠方から見てゐる。
 
○|小三《原》さん婆さんの話。
  私は十五のとき紀州熊野から親につれられて大阪へ出ましたがあした食ふものもないやうに零落してしまつたのです。父は千|人《原》前の法華寺の坊さんと懇意なので其所へ入ればどうかなると云ひますが母や妹の始末が出來ないのです。それで堀江の眞暗ないやな家へ五年百圓の約束で行く事になりました。所が其所の家では又私を讃岐の志度といふ所へ轉|買《原》してしまつたのです。私は親の手へ百圓の金が渡つた事とのみ思つてゐますと、母が妹を背中へおぶつて志度迄遣つて來ました。驚ろいて聽いて見ると其百圓を一どきには呉れないでちび/\渡すので何うする事も出來ないのださうです。母が漸く國へ歸ると材木屋の旦那方が御米も可愛さうだからどうかして遣つたらよからうといふので百圓持たして迎ひに寄こして呉れました。それが十七の暮で(明治五年?)す。夫から宅へ歸つてから一人で東京へ出て來ました。「石の上にも三年」といふ言葉が私に刺戟を與へたのです。東京へ出て材木屋さんの關係から木場へ一寸落ち付きました。夫から葭町へ來て口をさがしましたが何處でも相手にしません。漸く一軒まあためしに置いて見やうといふのがありましたが其所へ這入つて見ると苦しいものでした。朝は下女と一所に起きて拭掃除をさせられます。御茶を挽くと御午御飯は燒芋より外にあてがはれないのです。燒芋は一餞分で六本しかありません。それに惡い男の子がゐて其燒芋を横取りしてしまふのです。惡くすると二本位で我慢しなければなりません。さうして夕御飯は御座敷へ出ても食べられません家へ歸つても食べられないのです。稽古は姉さんがして呉れますが、ひどい目に逢ひます三味線の撥で手の甲を打たれるので手が腫れてどうする事も出來なかつた事があります(北州を教つた時)。言葉が通じないので手水場に入つて言葉の稽古をしました。御座敷へ出て二十五座を遣れと云はれてそんな段物は知りませんと斷つて小便藝者と云はれた事があります二十五座といふのは段物でも何でもないのです
 △「一人寐る夜は二人が淋し二人見る夢一人ごと」此文句の解釋が二通りあるんですよ云々
○豐田のばゞあ曰く昔は足を氣にしたものです。枋の木炭ばかり遣つて、親指の爪を深くとつて、それで素足へ齒のある下駄を穿くのです。
 
○眞鶴行
 門川迄あるく。田舍道で荷を肩にした肴屋ニ會フ。「旦那方はどちらへ御出です。」「眞鶴ですか。なにさう遠くはありません。あの無線電信の柱が見えるでせう。あの山の向ふ側になります。」(右の方に海に突き出てゐる岡を指して)
 「好い所かへ」
 「えゝ揚屋が十軒あります」
 「外に何にもないかね」
 「もう少し早いとブリ網が見られるでせう」(時に十一時頃)
 門川の茶屋に小さん、豐田の婆さん、榮ちやんといふ女が待ち合せてゐた。
 茶店の女主人に「御上さん、鶯が眞鶴に預けてあると云つたつけね。今日是から眞鶴へ行くから序に見せて貰はうと思ふが平井屋にゐるのかい。」(眞鶴の宿屋)
 「へえ平井屋で近藤の鶯と仰しやれば解ります」
(184) 榮ちやんが来て赤切符を渡してくれる。黙つて受取つて、ぞろ/\輕便に乘る。(並等に)一杯なので手を出してつり皮をぶら下げる横に渡した棒につらまる。豐田の婆さんが下から仰いで見て腕が寒いでせうと云つてシやツの端を引張る。生憎半そでなのでシやツは少しも袖口の方に出て來ない。
 吉濱でとまる。右はすぐ海、海の岸は石垣で築いてある。左手は小學校、前に廣場、それから山路へうねつて這入る。先刻右の山の上に見えた無線電信の柱が山に遮ぎられて見えなくなる。
 一山超えた所で「輕便」を降りる。眞鶴へ行くのはすぐ右に折れて田舍道のやうな所を通つて行くのである。何所にも眞鶴らしい影も見えない。
 「此樣子ぢや是から半道もあるんだらう」
 此時吾々を足早に追ひ越して行つた男が急に振り返つた。
 「そんなにありやしません。五丁です」
 彼の言葉は鋭どかつた。
 「眞鶴が遠いといつたつて、里程を間違たつて何もさう拳《原》突を食はさなくつてもよささうなものだ」と田中君が驚いたやうにいふ。
 右は雜木林で小高くなつてゐる。下は二三間の切岸で下は畠である。日影になつてゐる田舍路は霜どけでぐちや/\する。女連は弱らせられる。中村が豐田のばあさんの手提籃を持つてやる。田中が小さんに杖を貸してやる。キルクの草履を穿いてゐる榮ちやんは尤も手古摺つてゐる。
 「跣足になれ」
 「負ぶつてやれ」
 「よござんすよ」
 榮ちやんは斷乎としてゐる。
 「早く先へ行つて宿屋から迎を寄こしてやるがいゝ」
 男はどん/\歩いた。
 道が忽ち盡きて坂になつた。それを曲つて又下りると人家がちらほら見えた。又曲ると今度は石段になつた。
 「平井屋といふ宿屋は何所かね」
 荒くれた漁師風の爺さん、
 「ずつと云《原》つて右側だ。前がトタンで後ろが藁葺だ」
 平井屋の二階へ通る。
 七面鳥が菜を食つてゐる。鷄が餌をつゝいてゐる。やがて向ふの垣根の處に白い兎が顔を出した。
 「午餐を食ふが何が出來るかね」
 「バシヨー烏賊にホウボーのやうなものです」
 「ホーボーを酒と醤油で※[者/火]てくれ。それから烏賊の刺身をおれ丈食ふから持つて來い」
 「へい」
 「おいまだあるよ。先刻途中で見たら鰯が店先にあつたが、宅にもあるんだらう」
 「へい御座います」
 「あれを生の儘持つて來い。此所で燒いて食ふんだから」
 飯の支度の出來る間濱へ出て見る。狹い道にはみんな石が敷いてある。そ〔の〕道がみんな濱の方へ急な勾配が着《原》いてゐる。さう〔し〕て不規則に幾筋もある。それからそれを横に貫いてゐるのもある。悉く石丈で疊んである。路丈は何だか以太利邊の小さな漁村にでも來たやうな心持である。(家は無論比較しやうがないが)芝居の廣告のビラが路傍に貼つてある。「こんな所にも何々座といふものがあるのかね」
 少し行くと右側に蕎麥と看板を懸けた生新らしい粗末な家の中で二三人の女の高い笑ひ聲がする。
 濱は三方陸で馬蹄がたに水が食ひ込んでゐる。靜かな小さ|ん《原》灣で僅か餘された一方の砂地に引き上げられた船が並んでゐる。水面は強い色をしてゐたが鏡のやうに穩かであつた。右手の山の頂上に先刻の無線電信の柱が見える。
 「あれは海軍のだらう」先刻思ひがけなく狹い路で水兵に四五人擦れ違つた
 宿へ歸つて飯を食ふ。中村はもう一人で鰯を大分燒いて骨を皿の上に並べてゐる。小さんが「此鰯は生で食べるべきものだ。さうして骨も食はなくつちや本當でない」といつて、下女に丼に醋を一杯もらつて其中に鰯を浮かして、それをむしや/\食ひ始めた。(彼女はそれがために其晩嘔いたり下したりしたさうである)
 「是からブリ網を見に行くんだ。婆さん連も一所に行きなさい」
 婆さん連は最後の輕便で東京へ歸る事になつてゐた。
 「時間に間に合ふでせうか」
 「間に合ふとも」
 婆さん連は懸念しながらもブリ網が見に行きたいので一所になつて又濱へ出る。
 茣蓙と座布團を持つて來た宿の下女も二人船に乘せる。我々は外套の襟を立てゝ陣どる。風はなく海は平かだが時節が時節だから寒い。右手に石山がある。
 「あれは淺野さんの持つてる所です」
 「あの泥棒が持つてるんぢや碌な事はねえだらう」
 「何でもあすこを石垣にしてやるといふ約束で此土地のものも承知して賣つたんですが、一向石垣なんかつきさうもないですね」
 「あいつの事だから石を切り出して儲ける氣なんだらう」
 山のはづれ迄船が來た。すると大きな海面に丸太を浮かしたやうな目標だか浮きだかゞずつと並んで見える。それは規則正しく間隔を置いてある恰|形《原》に排列されてゐるにも拘はらず其恰形の何であるかは素人眼には一寸分らない。どこから何う始つて何處で終つてゐるか分らない。其丸太の上に鳥が澤山留つてゐる。灰色のやうな薄茶けたやうな色をしてゐる。
 「何だね」
 「鴎さ」
 「はあ 何だか恰好が違ふがな」
 「沖の鴎だから、海のと隅田川邊のとは違ふさ。」
 其うち鳥は低く飛んだ。
 「成程あゝして飛ぶ所を見てゐると如何にも鴎だ」
 沖には船が澤山見える。
 「凡てゞ十一艘居ます。あれで十四五人宛乘つてゐるんですから。惣勢は二百人近くです。大漁の時は七萬位ブリがかゝるですから、まあ十萬圓近くの金になるんです。一人が一晩に二十とか三十とかいふ金を懷に入れますがそれをみんな飲んぢまいます」
 「それで揚屋が必要なんだね」
 船はある間隔を置いて浮いてゐる例の丸太のやうなものゝ一列に並んでゐる傍を通り拔けて遙かに見えた漁船の一つについた。船には苫が片側に懸けてある其中から顔を出した漁夫が二三人吾々の船の女を見て何とか聲高に罵つた。宿の女は笑つてゐる。やがて船が苫の向側へつくと十四五人がごちや/\になつて固まつてゐたが起き返るもの立つもの、立つて又寐るもの、雜然として吾々の船を見てみな新たに活動し始めた。
 「何時頃から網は引くんですかね」
 「まあ四時頃からです」
 時に三時半頃。答へたのは恰|腹《原》の好い立派な男である。
 「歌右衛門に似てゐるよあの人は。いゝ男だ事」と豐田の婆さんは感心してしきりに歌右衝門といふ言葉を振り舞はす。此歌右衛門は四十代の立派な男である。「私が司令長官です」と云つた。五分刈の頭に後ろ鉢卷をしてゐた。
 「網は日に大抵四回位やります。漁業期は十二月から六月位迄です。小田原の鈴木の持網です。網の價は壹萬六七千圓位でせう」
 向ふの船に櫓があつて其上に人が一人立つてゐる。
 「あれは見張りですか」
 「えゝ魚が寄つてくるとあすこで大きな聲を出してみんなに知らせるのです」
 「知らせる迄は取り掛らないんですか」
 「なに時間が來れば遣ります。疲れてみんなが寐ますからな。大きな聲を出して知らせる必要があります」
 「さうして君が司令長官だとすると、みんな此所へ寄つて來る譯かね」
 「いえ手前は司令長官ですが元船はあすこにゐます」
 大きな網は元船へ手繰り寄せられるのである。
 「あすこへ行つて乘せて貰ひませう」
 船頭は船を元船へ着けた。
 「うちの御客さんだ少し乘せて見せて御呉れよ」
 我々は苫の陰に一團となつて這入つた。氣持がよくないので黙つてゐた。眼をねむつてゐた。動く船と波を見ると氣持が惡くなる。
 爐が切つ〔て〕あつてそこへ誰かが槇《原》を横縱に十本ばかり渡した槇は燃える前に燻ぶつた。けむい烟が我々の眼や口を襲つて來た。やがて巧みに並べられた槇は赤い?を吐き出した。へさきに近い所にヘツツイガあつて一抱えもある釜が掛つてゐた。其前に黒焦に焦げてぴか/\した鰯が串に刺した儘二本立てゝあつた。呪符か食ふものか解らなかつた。
 みんな飯を食ひ出した。
 やがて網引は始まつた。元船から見てゐると其〔を〕扇の要として末廣に十一二艘の船が丸るく何時の間にか陣を張つてゐた。やがて素裸になつた漁子が舷に胸をあてがつて手を水際から揚げたり下げたりし始めた。一艘に十人と見て百二三十人の兩手だから二百四五十本の手が人形の樣に水から離れたりついたりする。同時に彼等のこゞんだ脊(赤銅色の)と黒い頭とが手ととも〔に〕人形の樣な運動を始めた。凡てが調子づいて、さうして其調子を保つため、(又それが原因になつて)一種の掛聲が遠くから起つた。掛聲は時計の振子の樣に雜音ではあるが規則正しく續いた。彼等は胸を舷側に着けて水際近く下ろした頭を舷と同じ高さ迄上げる。さうして又其頭を水際近く下す。同時に手に持つた網の目を此運動の調子につれて一度ごとに手繰り寄せる。あゝからだの重みを船縁に靠たせて何うして胸が擦り剥けないのだらう。又あゝ眼まぐるしく頭を動かして眩暈が起らないのだらう。
 人形のやうな運動は勇ましい掛聲と共に段々元船に近寄つてくる。彼等は一つ掴んだ網の眼を投げると同時に其先の眼をつかまへ、次には又其元を掴へるといつた風に段々段々元船に近寄つて仕舞には十艘の船では形ちづくれない程の小さな輪になつてしまふと、一艘、二艘、列から外に離れて行くとう/\六七艘の船で完全に取り圍まれた輪になる時分には網の底はもう水とすれ/\になる。網中の魚は船の中へ掬ひ上げられる、ブリは何時見えるかと思つて見てゐたが中々見えない。しまいに青い棒のやうなものが籃の中を横切つた。
 不漁で三尾しか取れなかつた。
 「おれは飯を食つたがかゝあはどうする」
 船の中でこんな事を云つた船頭がある。
 宿屋に着くもう東京へは間に合はないといふので婆さんは又湯河原へ引返す。大風。宿のものが提灯をつけて案内する。提灯は消える。掛茶〔屋〕の薄暗い灯の下で輕便を待ち合せる。
 …………
 「あの元船へ移る時ね、船頭が誰か身體の汚れてゐるものはゐまいなといつた時、私やぎよつとしました。榮ちやんが若しきゝやしまいかと思つて。あゝいふ縁起を祝ふ稼業ですからね」
 身體の汚れてゐた榮ちやんは蒼い顔をして其時船の中に寐てゐた。船頭の言葉を聽いたか聽かなかつたか、それは誰も知らなかつた。又後になつても訊ねなかつた。何しろブリは三尾しか捕れなかつた。
 
 贅澤
 (一)藝術上。 漸々氣六づかしくなる。始め眼を喜ばせたものが仕舞には少しも藝術的に訴へなくなる。それが高じると本當に好いと思ふものは眞に僅かになる。人は之を稱して向上といひ當人も夫で得意である。
 (二)物質上。 藝術の場合と同じ。然し人は之をよく云はず。當人も成るべく之を隱さうとする。「足る事を知れや田螺のわび住居」
 (三)人間の好惡の上、 是も同じ事。さうして評價は(二)と同じ
 (四)精神的、 俗にいふ氣六づかしい事、是も二の場合と同じ
 此四つは論理から云へば皆〔同〕じ方向に向つて評價されべきものなるに、かく反するは第(二)(三)(四)は道徳的意義に解釋さるゝが第一と反對になるなり。道徳的とは相手に迷惑を及ぼすといふが一つ。自己に安心なきが故といふ意味二つなり。然るに自己に安心なしと云へば藝術の場合も同じかるべし故に此場合は自己〔に〕安心なき程よきものを人に給與するが故によしと見ざるべからず(藝術的向上心に道義的評價を附着すれば)。もしくは自己の安心を犠牲にしてヨリ好きものを掴まんとあせる慾望を肯定すると見ざるべからず。(此場合は如何に自分が向上したればとて他に害を及ぼさず迷惑をかけざる故凡て自己本位にて差支なしと見傚され居るなり)
 ○物を觀る時間と好惡の變化
   第一印象の時 大變好く
   漸々     刺戟がなくなると平凡に見える
   最後に厭きる
 
 ○私はKさんと同じ食卓で御飯を食べました。Mさんとは違つた食卓です。もと/\Mさんと一所に行つたのぢやないんですからね。それで何うしたといふのです。Kさんとは親しいがMさんとは親しくないといふんですか。親しくないんぢやない知らないんです。向ひ合つて話してさへゐれば貴方は親しいと思ふんでせう。然し身體は離れてゐても口は利かなくつても親しいものはあります。心は距離で隔てる譯には行きません。どんな遠い所へでも行けます。口を利かないでも思ふ通りの話が出来ます。
 
 ○ ○○○○子の話
 私は下野眞岡のもので御座います。家は荒物業であります。其日に困る程の經濟状態では御座いません。兄弟は十三人で大變大勢ですが父が非常に子煩惱でそれがため私が他を欺かなくてはならない羽目に陷つて弱つて居ります。
 私は宇都の宮の女學校の専修科に居りました。其頃私の母方の從兄に當る子供が同じ土地の中學に居りました。これはもと眞岡の中學に居りましたが卒業する時にある事故から免状を取る譯に行かなかつたので字都の宮の方へ轉學したのです。海軍志望なのでどうしても中學を卒業して置かないと免状がもらへないために轉學の必要もあつたのです。
 其男の姓は○○と申します。此○○は眞岡に居る時は私の宅から中學へ通つてゐたので私の兄弟及び私などは兄弟のやうにして暮らしてゐました親しいものですが、字都の宮に居る頃不圖私に戀を打ち明けて妻にもらひたいといふ事を申し出しました。私は驚ろきましたが其頃既に十七歳にもなつて居りま《原》ので少しは思慮も御座いましたから其問題について考へました所、先方の父と私の父とは到底性質が一致致しませんから是は先へ行つて旨く行くまいと思ひまして其旨を當人に答へました。
 然し私は其人を立派な人格の人だと信じて少しも疑つて居りませんでした。
 其後○○は海軍の試驗に及第して少尉になりました。それから私の叔母を通して私を貰ひたいといふ旨を通じました。私は異存が御座いませんでした。父母も承知を致しました。それで婚約が成立致しました。否もう結婚するといふ事に迄話が進んで來ました。
 すると○○が叔母に向つて結婚する前是非一度私と二人ぎりで會見したいと申し込んで來ました。叔母はそれは責任があるからと申して斷りました。然し○○は既に貰ひ受けた女〔な〕のだから二人ぎりで會つた所で決して不都合のある筈はないと主張しました。それで叔母も已むなく都合して私と○○とを私の家の二階で會見させる事にしました。
 然るに私を驚ろかせたのは其時の彼の態度です。○○は私に向つて何にも申しません。たゞ黙つてゐるのです。それから口へ出した僅かばかりの言葉は又私を驚ろかせたのみならず却つて私を不審がらせました。又私を不快にしました。彼は私に向つて斯う云ひました。
 「○ちやんは私などの所へくるよりももつと立派な人の所へ行つた方が好くはないか」
 ○○の立派な男といふのは私の親戚にあたるある文學士の事をいふのであります。自分で是非私を貰ひたいと申し出して置きながら、さうして自分の云ふ通り私をもらふといふ事に話を極めて置きながら、會見の時にあたつて、斯んな言葉を未來の夫から聽かされやう〔と〕は私も夢にも思ひ掛けませんでした。
 彼はさういふ不得要領な態度で座を立ちました。夫から東京へ來て一寸自分の宅へ寄つたなりすぐ自分の勤務先の呉へ向つて立つてしまつたのです。さうして夫からといふものは結婚についてどういふ考なのか一向歩を進めてくれないのです。
 それが何の爲だか解らないのです。然し○○家の一家の事情は其後になつて私達によく知れました。彼の父は養蠶を業としてゐたものですが性來頗る善人で利害を眼中に置かないやうな性格であつたのでとう/\破産してしまひまして故郷にゐる譯にも行かず東京へ出たのであります。で其一家は○○の兄が引受けなければならなくなりました。所が此兄は砲兵中尉で既に自分の家族があるのですから、とても薄給でさう多勢の世話をする譯には行かないので、自然借金が出來ました。仕舞に已を得ず弟の名義で玉突場を經營し出しました。所がそれが當局者間の問題になつて軍人として商業に從事するのは不都合だから何方か已めろと其筋から注意されたのであります。そこで兄は此苦境を免かれるために弟に私と結婚して其家を救つて呉れと云つたのです。○○は怒りました。金の爲に結婚を強ひるなんて甚だしい侮辱だと云つて喧嘩をしたさうです。然し彼は兵學校在學中から始終兄の世話になつてばかりゐて家のためには何も盡して居らんので自分も心苦しかつたのです。
 で愈兄が辭職するかしないかといふ期限の三日前になつて、彼は兄に向つて其位の金はいくら自分だつて出來ない事はないと意地づくで兄に明言してそれで私に會ひに來たのださうです。所がどうしても私にはそれが云ひ出せなかつたものと見えて黙つてゐたものと思はれます。彼は同じ町内の知人に逐〔一〕の顛末を話したさうです。其人は旨を領して宅へ來ましたが生憎父が不在だつたので兄に話をしなければならなかつたのです。すると兄はたゞの好意でする普通の依頼と心得て好い加減にあしらつて返してしまひました。
 そんな事で私の婚姻は破れる。私は多勢の兄弟の間に居つて父母に心配をかけるのが辛くなりました。(兄は嫁を迎へなければなりません)そこで横須賀の叔母をたよつてしばらく身を寄せる事に致しました。此叔母は女醫です。すると驚ろいたのは○○が何時の間にか横須賀(御大典後)詰になつて、ひよつくり叔母の宅へ訪問て來た事です。彼は私を見て今迄の事件に就いては何も云ひませんでした。碌々話す機會もなかつたのです。家には看護婦だの下女だのが大勢居ますが私と○○との關係に就いて委細を知つてゐるものは一人もありませんたゞ兄弟のやうな間柄とのみ取つてゐるやうでした。
 其うち○○の樣子が變になりました。一人で黙り込んで外套などを被つて診察室の隅に寐てゐたりします。夫から今度松山から女房を貰ふ事になつた抔と云ひふらす許りか、女の寫眞を看護婦などに見せるやうになりました。或時は其寫眞さへ其所いらへ載せて置いたり何かしました。
 私は最初から○○を信じてゐました。他から馬鹿と云はれても何でも其人を疑ふ事が出來なかつたのです。然しこんな事實を眼前に見るとどうしても疑はずにはゐられなくなります。私の知つた人で若いうちに過を犯して今はたゞ一人八つになる子供を育てゝ暮してゐる人があります。其人は今三十二ばかりですが六つ年下の男と關係をつけて、男は高等商業を卒業して滿鐵へ奉職したぎり何うしても一所になると云はないのです。その女の人が自分の經驗から推してゞせう、私に「あなたはあの人にあれ程踏み付けられて口惜しくも何とも思はないのですか」と云ひます、私は口惜しがる前に果して男がさう輕薄だつたのかを是非確めなければならないのです。他から見れ|て《原》明白な事案と見えるかも知れませんが私は一旦信じた事をどうしてもさうでないと思ひ込む譯に行かないのです。そんな筈がないとばかり思へてならないのです。○○は此女の人に手紙をやつた事があります。其手紙にはこんな意味が書いてあるのです。
 「私は是非結婚をしなければならなくなつた……」
 手紙は女から私に内覽するやうにと云つて送つて來ました。私に見せては好くあるまいとも思ふが又私に決心させる手よりにもなるからと云つて女はわざ/\其手紙を私に送つて呉れたのです。私は男が何故そんな事を女に云つてやつたものだらうかと疑ふのです。實際私が厭になつたのか、夫とも私に早くあきらめさせてほかへ嫁に行かせやうと思ふのですか。それが私に判斷がつかないのです。
 女は又○○と私の事に就いて話し合つた事もあるのです。
 「○ちやん程立派な女はゐないと思ひます」
 「そんなら何故其○ちやんを御貰ひなさらないのです」
 「私は貰ふ價値がないのです。私はやくざな人間ですから」
 此會話が果して彼の本意を語つたものでせうか。彼の本意ならば彼の其後の擧動はどう解釋して好いものでせうか。私は煩悶しました。叔母は私を引受けて相當の所へ縁づけるから心配するなと受合つて呉れます。然し私の樣子を見て餘程心配になると見えて父に手紙を出しました。「○ちやんの事は引き受ける積りだが當人が今のやうに圓覺寺へ行きたいの何のと普通でない事をいふやうでは困るから」
 父は私を見て泣きました。どうか今から又何か勉強を始めるとか何とか云はずに大人しくして叔母さんや御父さんのいふ通りになつてくれと云ひます。
 私は承知致しました。私は必竟他に期待があるからこんな煩悶をするのだから、此期待を打棄てゝしまはうと決心しました。それで當人の事はもう考へまいと思ひました。然し叔母の勸めで横須賀邊の人へ嫁くとなると、矢張り○○の顔を見なければならないので、夫を思ふと殆んど耐へられない氣がするのです。よしそれを忍んで良縁を求めたとしても、今迄の事を黙つてゐなくては結婚が成立しないから黙つてゐろと父から云はれます。私は又人を欺つて嫁に行くのがつらくてならないのです。
 
○ある藝術家ノ述懷として小説中に出す
  (1)刺戟ガ強烈ナルコト
  (2)實生活ノ反映としてウンザリスルコト
  (3)心に餘裕ガナキコト、從つて不安ナルコト
  (4)俗ツポイ事
 夫で自由、安穩、平和を求める、――繪畫は一番それに近い。ドラマチツクナ繪畫は(人情ガカツタ)成功スルものが少ナい。其理由は不明ナレドモ脚本や小説の本質を冒スカラジやナイダラウカ、吾人は繪を別の方面カラ眺めるからぢやないだらうか。畫の本質を全然異つた所に置く爲ぢやないだらうか。(カラクテリスチツクを表現する現代的繪畫ノあるものは如何といふ質問も起つてくるが)。然ラバ其畫の本質とは何ぞやと云ほれると困る。
 つまり生活に飽いたものが田舍へ引き込むのと同じで、自然、と人間(傍觀的態度で見る。無關心で賞翫する)を愛するといふ氣分が取も直さず繪を愛する氣分ぢやないだらうか。
 所が小説や脚本の藝術の強烈サニ辟易して繪に逃れるとすると其所に又人間臭いいやな所が出てくる。人に賞められたくなる。人と競爭したくなる。仕事それ自身は平穩な刺戟を持つてゐるが其仕事と世間との交渉になると矢張り俗ポクツテ煩ハシクツテゴタ/\トしてゐて、塵挨ダラケデ仕方ガナイ
 
○AとBの關係。寧ろ愛より愛の形式、靈より寧ろ肉AとCとの關係。歴史的には前者よりは遙かに淺し。外部より見ればスライト、アクエインタンス。然し内部にインスタンタニアス flash
 (A+B)の關係は外面的に非常に近し然し(A+C)の關係は内面的に却つて近し
 此時Bより觀察せる(A+C)の關係。
 或時はハツと驚ろく。さうして大變だと思ふ。或時は推察がすぐ事實と同じものになつて嫉妬心を起す。或時は推察の眞か僞かを疑つてたゞ不審の念を起す。或る時はたゞの否定に傾く。
○慣れぬ仲間の前へ出た時
 (一)神經質の人の恐怖
 (二)場慣れない人の恐怖
○二人の友達が久し振に會ふ。昔し會つた舊友の事などを話しあふ。「あいつは何うした」。曾遊の事を話しあふ。「あの時は何うだつた」
○プレートニツク ラツヴ。
 A、僕はあの女に對してたゞプレートニツクラツブを有つてゐる丈だ
 B、皮肉ナ笑ひ方をする。BはAの内々で道樂をする事を知つてゐるので。
 Aはそれに氣が付いたか付かないか頻りに前言を強調する
 B最後に自分の腹のなかにある事を打ち明けて、「いくら君が左樣綺麗な事を口先で云つたつて、信用が出來ない」といふ
 B《原》自己を説明する。彼はその女丈に對して肉感を起さないのだといふ。さうして他の女に對して肉の感じを起しても、ある一人の女(非常に自分の愛してゐる)に對してのみは全く其欲から獨立したものだといふ事を説明する
 
○己の顔は動物さへ見る顔だ
○「愛はハシカの樣なものだと誰か云つてましたね。つまり一度は誰でも罹らなければ濟まないのでせう」
 「ハシカなら一度こつきりで濟むけれども愛はさうはいきません。二度でも三度でも罹りますからね。Kなぞは私の知つてる丈でももう五六遍遣つてますよ」
 「まあ氣の多い事。然し本當の戀は一生に一度しかないんぢやないでせうか。私の知つた人に好きな人と一所になれない爲に獨身でゐる人があります」
 「そんなのは當世向ぢやないんでせう。現代は固定を忌むんだから」
 「さうすると貴方も一度や二度ぢや濟まなかつた組ね」
 「何うして」
 「だつてアナタの主張がさうだからよ」
 「主張ぢやないわ。全くさういふ人があるんですもの」
 「然しあなたはその一人ぢやないといふの」
 「どうですか。自分がさうでなくつたつて、其人の腹は理解出來るぢやありませんか」
 「理解出來る丈がそういふ人に近い證據よ。」
 「とう/\浮氣ものにされてしまつた」
 
○細君賣淫の話
 「私はそれをKから聽きました。それからといふものはどうしても女を信ずる事が出來なくなりました。」
 芝居を見るレーデーが役者を買ふ話
 「私はそれをHから聞きました。それからといふものは矢張り女を信じる氣になれません
 
○人はあるものを白だとも云へます黒だとも云へます。しかも少しも自分を僞る事なしに。是は白と黒との兩方が腹のうちに潜伏してゐて、白といふ時は白の立場から、又黒といふ時は黒の立場から一つものを眺めて説明するからです丁《原》寶なものです
 Perfect imnocence and perfect hypocrisy
 
○ボセツション
 「私はいくら女を戀しても一直線に其方へ進む譯に行かないのです」
 「何故」
 「女が自分で自分を所有してゐないと思ふからです」
 「ぢや女は誰が所有してゐます」
 「既婚の女は無論夫の所有でせう。少くとも夫はさう認めてゐるでせう」
 「さうです」
 「未婚の處女は兩親の所有でせう。少くとも父母はさう認めてゐるでせう。父母〔の〕許諾がなくて嫁に行く女はまあないからです
 ○肛門 プレートニツクラツヴの條と連結す
 ○Aといふ女とBといふ男
  A、Bのインヂフエレントな態度を飽キ足ラズ思ふ。又は其愛情を疑ふ。Cとフラーテーシヨンをやる。(Bに氣が付くやうに。)B嫉妬を起す。怒る。喧嘩。A猶Bをぢらす。Bも亦對抗策としてDといふ女とじやれる。Aこれをかんづく。そして今度は自分が嫉妬を起。口説。喧嘩 A、Bに本心を打ち明ける。同時に too late であつた事をも打ち明ける。
○Aの家の面會日は火曜。ある晩Bノ宅から雨が降つたので下駄を持つてくる。Bは宅を出る時Aの所へ行くと云つて出たのださうである。
 同じ火曜のある晩。Cが來る。此晩Aは旅行して不在。Cつまらないものだから歸りにBの家に寄る。
 「今Aの所へ行つたら旅行で留守でしたから來ました」
 Bの妻君變な顔をして曰く「良人《うち》もAの所へ行くと云つて出たのですよ」
 「でもBさんはAの所にやゐませんでしたよ。Aは旅行で不在なのですから」
 「へえ」
 
○一日の新聞(大正五年三月十八日〔土〕)
 電報。 廣西獨立宣言(上海特電)
     獨乙海相交迭(ロイテル)
 ×經濟會議參列者を阪谷芳郎男にきめたといふ事。阪谷男の意見。歐洲戰爭の經濟状態に及ぼす影響につき。一年二年の間に千億の軍費を要するが如き經濟上の大事件を適當に始末するため救濟善後策の必要あり。それから敵國苛めの案件もあり。
 ×英艦が日本の商船を頻々臨檢する事につき解決如何、(我國は法律上の)……
 以上箱中にあり。
 通讀すると一項から一項へ心が段々變つて行く。讀了の後 はあ心が色々の經驗をしたなと思ふさうして其經驗に切目がなくてさうして變化が多い。變化の多い事といつたら考へると大變なものである。此繼目のない多大の變化を經過した心は「是で何分かゝつたらう」と思ふ。
○坊主のすしの記事。澁柿にあり
○三月十六日 柘榴の盆栽をもらふ。カレ枝から青い葉が見不看の程度で出てゐる。それを縁側へ置くと日々ずん/\青味がのびて行く。
〔英文省略〕
 人ノ conversation ノ topic ニスグ同化シタリ、人の勸誘デスグ散歩スル氣ニナツタリ。自己ノ流動的態度
 
○トルストイのアンナの中のレギン草を刈る處(一生懸命になると)無心になる時あり。鎌に精神があつて一人手に動くやうに思はれる
 
○公平、冷靜、正直、落付、アル處置、然し如何にその殘酷なるかの場合
○心中の心理
 「生きてゐると故障があつて一所になれないため死んで一所になりたいといふ意味でせうか」
 「すると死ねば一所になれるといふ信念か、哲學が何處かになくてはならないでせう」
 「えゝ、さうすると矢張り只苦痛を回避するためでせうか」
 
○Aある事を思ひて其事を實現せずにゐる。他日他に向つて辯解シテ曰ク「そんな事を考へた事はない」彼は實行せざる以上は考へないと同樣と考へてゐる。少くとも他に對して是が立派な辯解になつてゐると考へてゐる。さうして少しも苦痛を感じてゐない。
 
○畜生と思つてある仕事にとりかゝる。其畜生と思ふ心が取り付いてどうしても其仕事に一生懸命になれぬ。自分では是程一生懸命にならうとするのにとつく/”\口惜しくなる。他に罵しられたがため成功したとか激勵を受けて業をなしたとかいふのは此心理からいふとみんな嘘の事である。それにはまだ他に原因があるのだらう。それを研究せずして無暗に人を叱れば奮發すると思つたり辱めればえらくなつたりすると思ふのは愚である。
 
○コンシート
 人に目遣ひをしたり乙な樣子を見せたりしておれにチヤームされたらう、おれは色女だらうといふ風をするものは、その目遣や樣子に動かされる男を己惚者と云つて笑ふ。然し自分の己惚は全く棚に上げてゐる。
○臆病
 人が自分を馬鹿にしやしないか、愚弄しないかと思つて始終不安の態度でゐるものは餘程の臆病ものか、又は癖《原》みものである。
 然しある人は斯う云つた。――
 「己は臆病かも知れない。鷹揚でないかも知れない。然し正しいのだ。正しいものとして正しくないものを打ち倒さうとするのだ。故なく他を損ふものを嫉むから、そんなものはどうして〔も〕打ち懲らさなければならないといふ氣がむら/\と湧いて出て、この己を不安にするのである。己の落付のないのは巡査や探偵が眼を皿のやうにして良民を害する惡者を捕へやうと一生懸命に氣を遣つてゐるやうなものだ。
 
○甲其妻の云ふ事を聞かず。乙といふ婦人のいふ事を聞く。妻事あれば乙に頼む。妻は乙を徳とすれども同時に彼女に對して嫉妬の念を禁ずる能はず。
○亭主何事に限らず妻に干渉す。衣服、外出、立居振舞悉く批評の材料となる。ことに嫉妬の氣味あり。妻之を厭ふ。人に逢ふ度に苦情を洩らす。後亭主の態度俄然豹變す。妻に對して全く自由放任となる。妻却つて喜ばず物足らぬ思をなす。
○結婚後少し新味を失つた夫外へ出てある他の婦人と逢ふ。其特色は悉く自分の細君の有つてゐないもので悉く細君の夫等よりは上等な樣に思つて宅へ歸る。細君は夫の爲に化粧して服装迄注意して夫を迎へる。夫を自分の方に引きつけやうとする。夫はそれが鼻につく。大した感興も起らず。細君は心中で夫を恨む
○ love の素質あつて love を滿足させた事のない人の他の愛に向つて同情なき叙述
○ハニカミ屋
○惚れ合つて夫婦になつたもの、段々喧嘩をする。細君往時を回顧して先にやさしかつたのは金であると解釋す
○フロツクコートと軍艦
 
○亡妻。彼女は何處へ行つた。私は何處にゐる。云々。
 其人又新らしきラヴアツフヘヤーを遣る。曰く私は此所にゐた。
 友達笑つて曰く saint が又墮落した。厭世を治するものは love だ。 しばらくして其人又不安になる。「此所にゐると思つた私が又何處かへ行つてしまつた。どうしたら好いだらう」
 
○殺人の箭か、活人の箭か。
 「其坊さんは箭《原》殺されたのか」
 「いゝや」
 「殺されない事を承知の上で胸を敲いたのか
 「それぢややま〔二字傍線〕を張つたやうなものだらう。機略だらう。殺されてもびくともしない氣があるので全體が活きて來るのだらう」
 
 音樂會〔三字右○〕
○ ○○の音樂會。子供無邪氣で出る積で勉強してゐる。
 「あいつに常識があれば構はないが」
 「あいつは突飛だから何をするか分らない」
 「宅の小供などを主にして音樂會をやれたもんぢやない」
 「宅の小《原》子供などは錢を取るべき音樂會へ顔を出す資格はない」
 「餘興として御慰みに出るにしても惡い」
 「あいつは法螺吹か馬鹿だから。何方にしても變なプログラムを作る恐がある」
 
○ love の滿足を得た夫婦。無暗に他人に同情を感じ金などを遣る。其滿足の薄らいで來た時、段々冷淡になり、施しや金を貸したがらなくなる。
○何うして暮してゐるんですか。
 「出所があるんだらう」
 「……」
 「政府から貰ふのさ」
 「無暗に金をやつて構はないんですか」
 「構つても仕方がないから遣るのさ」
 「涜職事件が起るでせう」
 「起らない場合の方が多いに極つてるさ」
 「でも惡い事でせう」
 「己の宅へ來て金を借りられるより増しだらう」
○爆彈事件豫審決定
 
○良寛の書七絶聯落、越後柏崎の在にある舊家より出しもの。
 良寛は氣に入つたものには沙門良寛とかき猶好きものには越州沙門良寛とかきし由。田崎〔二字傍線〕《?》良寛といふは良寛在世の頃よりの僞書家にて良寛通りの書をかきし故人其姓田崎の下に良寛の二字を加へ僞筆に會へば是は田崎良寛かと訊くといふ。良寛屏風ならば立派なものに書きしかど、托鉢の序など書いてもらふ時はあり合せの紙など繼ぎて氣の變らぬうちに書いて貰ひし由。夫故美濃紙を横に繼ぎたる如何はしき紙に書きたる方が却つて本物の場合多しといふ。彼は酒を少ししか飲まぬ癖に酒をくれると書を書きし由。魚をくれても書きし由。
  田崎は間違。島崎良寛。島崎といふ所にゐたる故にしかいふとなり
 
○男は女、女は男を要求す。さうしてそれを見出した時御互に不滿足を感ず。
 自分に必要でさうして自分の有つてゐないものを他に於て見出すが故に互に要求する也。同時に自分になくして他にあるものは元來自分と性質を異にしてゐる故に衝突を感ずるなり。コンプレメンタリとして他を抱擁せんとするものはアイデンチカルならざる故に又他を排斥するなり。
 故に陰陽は相引き又相彈く。相引く事に快を取らんとすれば相彈く苦痛をも忍ばざるべからず
     ――――――――――
○我一人の爲の愛か
 「私はそんな氣の多い人は嫌です。自分一人を愛して呉れる人でなくつては」
 「外の人は全く愛せずに自分丈に愛の量を集めやうといふのですね」
 「さうです」
 「すると其男に取つて貴女以外の女は丸で女でなくなるのですな」
 「えゝ」
 「何うしてそれが出來ます」
 「完全の愛はそ《原》んなさうでせう。其所迄行かなくつちや本當の愛を感ずる譯に行かないぢやありませんか」
 「然し考へて御覽なさい。あなた以外の女を女と思はないで、あなた丈を女と思ふといふ事は理性でも悟性でもに訴へて出來る事でせうか」
 「感情の上では出來る筈ぢやありませんか」
 「然しあなた丈を女と思ふといふと解し得られる樣ですが外の女を女と思ふなといふと想像が出來なくなるやうです。何故といふと若し外の女を女と思はないで濟むなら肝心の貴女をさへ女と思へる筈がないからです。自分の家の花丈が花で外の家の花は花ぢやない枯草だといふのと同じだから」
 「枯草でいゝぢやありませんか」
 「枯草つていふ譯がないんですから。夫よりか好きな女も嫌な女もあり、其好きな女にも嫌な所があつて、其興味を有つてゐる凡ての女の中で一番あなたが好きだと云はれてこそ貴女は本當に愛されてゐるんぢやありませんか。絶對ぢやない比較的で澤山だ
 
○齒石、唾石〔四字右○〕、――是は唾液中にある石灰質が齒根に沈着するもの。此齒石が齒莖を壓する結果、ハグキが段々低くなるに付けて齒が段々高くなる。さうしてハグキから少しづゝウミ〔二字傍線〕が出る。
 齒の長さの三分の二は齒莖の中に埋つてゐる。
 結石〔二字右○〕 是は齒の根に着くもの。どうしても上から沈着したものとは思はれない。だから血液中から出たものといふ説になつてゐる。所が大變見分にくいもので、あると思つて切つて見るとなかつたり。無いと思つて拔いて見るとあつたりする
 モデリング〔五字右○〕を取つて今度は石膏で齒|型《がた》を拵らへ。その空き間即ち齒の拔けた部分の恰|形《原》に應じて瀬戸物の形で入齒を作る。
 
○「あの人はあんな凝つた服装をしてゐるがちつとも厭味でない」
 「そりや地味なものを着るからさ」
 「着物の柄からばかりぢやありません。あの樣子がさうなんです。だから不思議に思ふのです」
 「そりや自分の着物の事を忘れてゐるからさ」
 「だつて自分が好き〔で〕拵へたものぢやありませんか」
 「選擇や好惡はあるさ。けれどもそれを始終持つて廻つてゐないんだ」
 「選擇や好惡があつてどうしてそれを忘れる事が出來ます」
 「それさ。選擇や好惡は着物にあるんで着る人に存するのぢやない。だから人の顔を見て自分の着物と其人の着物とを比較しないのさ。即ち彼對我の優劣を眼中に置いてゐないのさ。人を離れた着物といふ事になるからな」
 
○アスナラウ〔五字傍線〕
 「あいつは、アスナラウ〔五字傍線〕が大嫌なんだが、所がまた運
惡く今度のうちには其ア|ナ《原》ナラウがによき/\生へてゐるのさ」
 「あんな氣六づかし屋には好い藥になつて結構だ」
 「さうさ。左樣いへばそんなものかも知れない。然しいくらアスナラウ〔五字傍線〕が彼奴に厭な思ひをさせたつて、彼奴の氣六づかしさが滅ずるといふ譯でもないんだからな。それよ〔り〕アスナラウ〔五字傍線〕の方で一層の事あいつの好な松とか竹とかに變化して遣る方が好いだらう。あいつの爲にもアスナ〔三字傍線〕の爲にも其方が仕合せだ」
 
○「新らしい芝居は分らない」
 「新らしい芝居は分らない。言葉が分らないのかと思ふとさうでない。役者が惡いのだ。何故かといふ《原》舊い芝居を聽いても矢張り意味の解らない事をいふが夫で矢つ張り解るんだから」
 「英語の芝居を見て何をいつてゐるか丸で解らなくつても夫でも劇は略解るさ」
 此問答は二つとも論理を誤れり。一は解るべきアーヌングを有つてゐる上で解らないといふ結論を得、一は解らないといふ土臺の上に立つて解るといふ。二つの結論に達する方向は丸で反對である。だから前者の解らないといふ意味と後者の解るといふ意味とは事實引繰り返つてゐて、程度からいふと解らないといふ方が却つて解るといふよりも解つてゐる事になる。
 
○中老の男女を得て若返る
 「あの人は近頃大分若返つたね」
 「さう云へば一時は大いに悲觀してくすぼつてゐたが、近來は大分元氣がよくなつた樣だ。然し派出なネ|タ《原》タイをしたり、無暗に着物を詮議したりするのはちと時代錯誤だな」
 「そんな事に興味を持ち得る程に精神が刺戟に應じ易くなつたのだ」
 「さう云へばあの年でとかいゝ年をしてとか云つて滑稽にばかり觀察するのも能くないね。つまり夫丈若くなつたんだから」
 「若い女を得た快樂といふものは恐ろしい結果を持ち來すものだな」
 「あまり快樂を食つてゐるうちにどさりと來《原》くから險呑だ」
 「そりや俗に女に殺されるとかいふ奴を眞面目に受けていふんだらうが、俗説は大いに間違つてゐる。あの元氣は精神的ばかりぢやない。生理的にも出て來たんだ。否生理的な元氣が精神に及ぼした點も大變多い」
 「さうかな。何うして?。僕はさうは思はない。たとひ精神的には元氣をつけるにしても生理的には有害だらうと思ふ」
 「所がそりや間違つてる。醫者は何ういふか知らんが、氣の利いた醫者なら僕に同意するだらうと思ふ。若い女と接觸するのは老人を殺すんぢやない 生かすんだ。其所には微妙な生理作用が行はれるに相違ない。血行運動が好くなるんだらう。さうしてその血行運動が凡ての内臓の作用を鼓舞するんだらう」
 
○〔英文省略〕
 
○鑑賞と鑑定
 鑑賞は信仰である。己に足りて外に待つ事なきものである。始から落付いてゐる。愛である。惚れるのである
 鑑定は研究である。何處迄行つても不滿足である。諸所を尋ねあるき、諸方へ持つて廻つて遂に落ち付かない。猜疑である。探偵であるから安心の際限がないのである。
 
○ミツスルトー
〔英文省略〕
 
○子供
 星野勘右衛門は天下の豪傑。三宅たく兵衛、田村宇平次
 泥だらけの足で風呂場の口から這入つてくる。桶の中に足を入れやうとして叱られ、やつと足を洗ふや否や亞鉛|花《原》澱粉のはけで足の上へ御白粉をつけて出て行く。
 
○飛行機
 小田原の早川口で輕便鐵道の硝子窓越に見て見ると向ふの空に飛行機が見える。それが見てゐるうちに傾いて來た。さうして誰が眼にももう墜落しさうに見えた時、彼は思はず大きな聲を出して「あゝつ」と云つた。すると其飛行機らしいものは飛行機の恰好をした凧であつた。
○工事場。二千坪、松三百本。
○ヤングマン。youthful spirit、
 
○出雲町 平民病院。南金六町から出雲橋を渡る。遞信博物館、遞信構内郵便局。木挽町配電所右側(赤煉瓦)
 曲る。河内屋。左農商務省 精養軒。橋向ふ野田屋。渡つて眞直に河岸を行く。右海軍省?左香雪軒。角新喜樂。
 就いて曲る。左側林病院。右本願寺其前を一寸出て右に曲る。橋を渡る。
 前に立教中學校。其東後ろ居留地
○河岸の船から藁を卸してゐる。馬に乘せる。非常に高く見える(四月八日)
 
○スミス《*三字傍線》の宙返り
 午後二時頃家を出て七軒寺町の大通へ出ると往來が何時になく賑やかで丸で縁日のやうにぞろ/\してゐる。今日は外套も要らない暖かい日和なのと土曜に當るので斯んなに人が出るのかと思ふと、彼等の視線はみんな南の空に注がれてゐる。今日はスミスが青山の練兵場で曲乘飛行をやるといふ事を忘れてゐた自分は漸く氣がついて、みんなの視る方を眺める果して向ふの電信柱の上に一台の飛行器が飛んでゐた。
 春の空が折から曇つて風のない空は烟るやうに柔かに見えた。機は其間を心持よささうに搖曳してゐた。やがて高い空の上でぐる〔り〕と大きな輪を描いて廻轉したと見ると、其機首は空に逆はないやうにやんわりと下から上の方に向いて故の位地に復した。夫から鳥の兩翼をひろげて空を伸《の》すやうに、又羽搏をしないでバランスを保つ時のやうに自然の勢で右左に搖曳するやうに見えた。すると又ぐるりと廻轉した。ぐるりといふ言葉は少し強過ぎるかも知れないやうに、なだらかな大きな圓を描いて、ふわりと飛《原》が上りつゝ又進みつゝ故の位地に復すのである。(凧のぐる/\轉るやうな性急なものでは決してなかつた。)
 最後に磯は眞逆さまになつて流星の樣な勢で落ちた。今迄ふわ/\漂ひながら舞ふ如く廻轉したり逆轉したりする有樣を眺めてゐた自分は此急速度の直線を眺めた時、おやと思つた。其時機は同じ速度で人家の下に隱れた。
 「今のは落ちたんぢやないか」
 「落ちたんだらうね。なんぼなんだつて、あゝ早くは降りられまい」
 あの速度で家の後ろに隱れたあの後《あと》は何《ど》うなつたのだらう。最後を見屆けない時は心掛りなものである。
 
○笑談なら笑談でよし眞面目なら眞面目でよし。笑談とも眞面目ともつかない事をいふ男あり。之は徒らに其男の性質に曇りをかけるやうなものだから云はない方がいゝ。(鏡の曇り)
 
○藤の木。馬具師の庇の上に棚を釣つてある。其傍にサイカチの木があつてそれに藤の枝が纏つてゐる。馬具屋の庇には志方講、三寶珠講といふ札、店の板の間には和倉繩、ブラシ、赤い
 
○夫婦相せめぐ 外其侮を防ぐ
○喧嘩、不快、リパルジヨンが自然の偉大な力の前に畏縮すると同時に相手は今迄の相違を忘れて抱擁してゐる
○喧嘩。細君の病氣を起す。夫の看病。漸々兩者の接近。それが action にあらはるゝ時。細君はたゞ微笑してカレシングを受く。決して過去に溯つて難詰せず。夫はそれを愛すると同時に、何時でも又して遣られたといふ感じになる。
○Life 露西亞の小説を讀んで自分と同じ事が書いてあるのに驚ろく。さうして只クリチカルの瞬間にうまく逃れたと逃れないとの相違である。といふ筋
 
○二人して一人の女を思ふ。一人は消極、sad, noble, shy, religious. 一人は active, social. 後者遂に女を得。前者女を得られて急に淋しさを強く感ずる。居たゝまれなくなる。life の meaning を疑ふ。遂に女を口説く。女(實は其人をひそかに愛してゐる事を發見して戰慄しながら)時期後れたるを諭す。男聽かず。生活の本當の意義を論ず。女は姦通か。自殺か。男を排斥するかの三方法を有つ。女自殺すると假定す。男惘然として自殺せんとして能はず。僧になる。又還俗す。或所で彼女の夫と會す。
 
○四月二十一日〔金〕 季節物
 ×若い齒朶延びつくす
 ×彼岸櫻殆んど散り盡す
 ×小|梅《ごめ》櫻。花咲く。白及び紅
 ×椿 花咲く
 ×ギボシ延びる。縞蘆のびる。
 ×九花蘭の花莖のびる。未開。
 ×いかり草花 花咲く
 ×かすみ草 地から芽を抽く
 ×小でまり 花咲く
 ×苗賣。朝顔 松葉牡丹、ダリやの芽、及種 瓢|簟《原》、
 ×芭蕉芽を吹く
 ×山吹花咲く。
 ×萩芽を吹く一寸
 ×紫陽花二寸
 ×蔦 ぴか/\光る葉を着く一寸五分四方位。
 ×百合の芽六七寸。但し活花は既にあり。
 ×柘榴まだ芽を吹かず
 
      (一)尿
(一)糖尿病 (二)二十四時間
      (三)食前膀胱を空虚。食後二時間
(二)誤解  日本及日本人。それをaが引用
(三)芝居と輕蔑。劇を見てもいゝ氣にはなつてゐない。さうして役者どもを馬鹿にしてゐる。同時に色氣がある解脱しきれない人間。女に對しても
(四)他の人のエキスペンスで笑を贏ち得る事の倫理觀上の不快とのバランスを取つての考察
 屈辱を感ずるにあらず不徳義を憤るなり公憤なり
(五)鴨居勘右衛門。 豚、御多福
 
 四月二十三日〔日〕記
○糖尿病。渡邊と談話の時、眞鍋に話して貰ふ。眞鍋から電話。大學の物理的治療室に至る。尿檢査、糖分大分出るといふ。
×二日間蛋白性のものばかり食つて、二日目の二十四時間の尿を送る。結果二十四時の尿には糖分ナシトイフ。然し二十四時間で薄められてゐるから糖の尤も出る食後二時間の分を選んで試驗するといふ
×其翌日食事をする前膀胱を空虚にして置いて食後二時の尿、朝、晝、晩に分けて、取つて置いて翌朝(二十二日)送る
×二十三日朝眞鍋から電話で糖は矢張り出るが、前の半分に減じたが此前は二十四時間の尿を送つた後すぐ平生食物を取り、又試驗の爲めと聞いて食事を變更したのだから、もう一度試驗したい、且此食事でどの位糖が減じ又身體が保つか試驗しなければならないといふ。即ち二十|五《原》の尿を三回分二十五日朝に送る事にする。(眞鍋に見て貰つてからあすの月曜が丁度一週間目である)
 
×二十六日〔水〕眞鍋から電話。尿は幸にして糖なし。此上はどの位糖を食つて差支ないかの試驗をするから。土曜日(二十八?九?)に早食事前に膀胱を空虚にして食パンの八分一を食ひ食後二時間目の尿を送れと云つてくる。
×二十九旦偲眞鍋からの電話。尿には糖分ナシ。今度は麺麭半斤の八分一を朝、午、晩、三度食つて、(食前空虚にした膀胱にたまる食後二時間目の尿を三瓶よこせといふのである。三十日の尿を指揮通り取つて置いて一日に送る事にする。
×五月二日早眞鍋より電話 昨日の尿には異状なし。午に麺麭半斤の四分一、晩に二分一を食つて食後二時間目の尿を今度はよこせといふ。
×三日夜眞鍋より電話もうパン半斤の四分一では糖分が出ないといふ。明日は三食共二分一を食ひ食後二時間目の尿をよこせといふ。
×五日夜の電話報告、朝は出る、午はなし晩は出る。それでパン半斤の二分では糖分出る。今度は飯を半ゼンで試驗するといふ。六日の午の尿を持たしてやる
 
 五月十六日〔火〕迄病氣。十六日起る。十七日眞鍋の電話。パン半斤の三分一で試驗。十八日夜電話デ報告二返は出ズ一返は糖出る。
 
×季節。五月四日〔木〕、柘榴芽を吹く。葉外部茶シン薄青一面に光る。カナメも同じ。薄の芽二尺程になる。床に牡丹同時に白水仙
 
○自然科學一般化 その法則を個性に適用する醫術の不完全
○科擧の應用(工科)と文藝 個象より出立する。法則より出立する。ユニ※[ワに濁點]ーサリチーの程度(双方)
○實社會に入つて修養すべし。修養してから活動すべし。何方でもいゝ事だから、他を排斥する必要なし。たゞ個人に即していふから議論になる。甲の心懸で無暗に實社會に突入されては困る。乙の心得で無暗に高踏されては困る。
 
○倫理的にして始めて藝術的なり。眞に藝術的なるものは必ず倫理的なり。
○女を犯したる人の翌日の心理の變化。退潮の有樣。不關焉の心。從つて後悔の状態。
 
 五月二十八日〔日〕
○糖分の檢査つゞき。五月二十八日(?)眞鍋より電話。午、晩、二十九日朝、の尿を例の如くパン三分一で試すといふ。二十九日送る。三十一日電話にて報告あり。午の分に出る。是は朝脳を使ふ仕事(小説一回を書く)の爲だらうとの疑。是から毎週一回宛尿の檢査をやるといふ。午の分に出た糖分は前のより少量なる由。眞鍋の助手は研究のため自分の小便の表を作つてゐる由。
 
 六月二日〔金〕 子供と話
 「お父さん箒星が出ると何か惡い事があるんでせう」
 「昔はさうさ。人が何も知らないから。今は人が物事が解つて來たからそんな事はない」
 「西洋では」
 「西洋では昔からない」
 「でもシーザーの死ぬ前の日に彗星が出たつていふぢやないの」
 「うんシーザーの殺される前の日か。そりや羅馬の時代だからな」
 
 「お父さま地面の下は水でせう」
 「さうさ水だ井戸を堀ると水が出るからな」
 「それぢやなぜ地面が落こちないの」
 「それやお前落ちないさ」
 「だつて下が水なら落ちる譯ぢやないの」
 「さう旨くは行かないよ」
 
 「お父さま、此宅が軍艦だと好いな。お父さまは」
 「お父さまはたゞの宅の方が好いね」
 「何故」
 「何故つて譯もないが」
 「だつて地震の時宅なら潰れるぢやないの」
 「ハヽア軍艦なら潰れないか。こいつは氣が付かなかつたな」
     ――――――――――
 六月初
 柿の花、落ち。豆蔦の花(梅にからんだ)落つ。熊ん蜂が其〔図省略〕(形)を吸に來る
 
 六月七日〔水〕
  袁世凱の死
  キツチナーの溺死
  北海海戰の際クヰーンメリ號に觀戰武官として乘り込みたる下村|小《原》佐の死
  一時に傳へらる 其他
 タゴールが横山大觀の家に逗留の事。スミスが昨日の飛行、一昨夜の夜間飛行。原、犬養、加藤三人三浦邸會合の事
     ――――――――――
 六月十|十《原》五〔木〕 薩摩上布(三十二圓)十ノ字餅。皆川より着
 
 六月十六日〔金〕 (十七日)
 大風。柿の(豆見たやうな)實落つ。栗の花。スミス墜落
 
 六月十七日〔土〕
 ×三笠絹
 ×より三笠
 ×冷風紗  極暑夏羽織
 ×青梅紗
 ×兩面紗
 
○六月二十日頃。パン半斤ノ五分二にて試驗。報告無糖分
 
 六月二十六日〔月〕 梅雨がしきりに降る。此間から入梅なれど去したる雨量もなし、或時は蒸暑し、五六日前より白地の浴衣を着、小供は氷水をのむ。今日はさすがに白地を着る氣なく。紬の單に白の※[糸+需]《原》絆を重ぬ。
 
 六月二十二三日頃。縁日 白百合、柘榴《ザクロ》の眞紅の花。
紫陽花、ジエレニアム
        風袷
 六月二十六
   二十七 豪雨。羽織  を着てもよし
   二十八 陰  失張寒し
 六月二十八日〔水〕
○銅器に色をつけるもの、かりやす〔四字傍線〕か、草の名 黄色になる
○上州で繭からザクリ〔三字傍線〕(?)で糸をとる事。(手でとる事)。上手なものは七升位とる。器械よりわるし(蒸汽)
     ――――――――――
葉物の刈込
 ヒバ     五月
 カナメ 等  六月梅雨中 一回
 青桐  土|曜《原》後
     九月       一回
 松ハ みどりの長く延びないうち、まづ五月
 
六月下旬季節もの 青鬼灯、所々ニ白き花
     ――――――――――
 六月二十九日〔木〕午後。晩。六月三十日朝、パン半斤二分ノ一で尿につき糖分の試驗 午後と朝ニ糖分ナシ。晩ニハ出た。
     ――――――――――
六月三十日〔金〕バンドマン行
 
六《原》月九日〔日〕小宅の庭前
 ○鳳仙花 花(赤い)さく
 ○わすれな草。薄いら※[エに濁點]ンダーカラーノ五辨極小
 ○孔雀草、 黄八辨の本《原》(黒赤)
 ○小櫻草
 ○われもこう
 ○葉鷄頭。長さ四寸程
 ○董 三寸程 花あり濃紫
 ○新菊
 ○おいらん草 〔図省略〕
 ○おしろい草。まだ咲かず。八月さく
 ○百合
 ○カンナ(まだ咲かず)咲いたのもあり
 ○虎の尾(五寸程
 ○きりん草。
     ――――――――――
七月十一日〔火〕 糖試驗
午、晩、(十二日)朝 パン半斤二分一ニテ試驗
 
七月二十七日〔木〕? (土用丑の日)前後
雨、寒。麻のシヤツを浴衣の下に着る。
 
 斷片――大正五年初夏頃――
 
   一 〔『明暗』〕
 
 小林さん 醫者
 津田由雄
   のぶ
         繼 (20)
 50位−岡本精  百合(14)
 38− 住    一(+)
    眞弓
 藤井 喜久         小林
 朝  眞事《まこと》    お金《きん》
    喜多
 ×吉川 正夫
  吉川 奈津
   直之助
   三好
 
津田の妹婿×(堀
       秀《ひで》  庄太郎
         由《よし》子
 
津田の上役
佐々木
     ――――――――――
×嫁入の事
×金の事
×結婚に對する批評の事
              うき/\する事、まだ定まらぬ事
              芝居へ行きたがる
              病院へ一所に行きたがる
              髪を刈れといふ
(220)×京都からの事
×病氣入院の事
×子供に會つて強請の事
津田
藤井夫婦 }三人對話
   アテコスラレテ怒ルノハ、自分にサウ云フ匂があるからだ。答曰ク、泥棒ヲシナケレバ泥棒扱ニサレテモ腹ハタヽナイカ〔アテ〜□で囲む〕
   一ハ後から脊中をどやす
   二ハ其賠償として後から其背中をさする〔一ハ〜□で囲む〕
   ○ホゴス、ホゴサヌ事
   ○君はgen.Caseヲ以テ p.case ヲ律セントスル。僕ハ p. カラ g.case ヲ割リ出サウトスル
     ――――――――――
 
小山 男
吉川 女
吉川 男〔三行の下に括弧〕 △
津田 延《原》延〔右○〕
岡  娘|繼〔右○〕
岡本 女|住〔右○〕〔三行の下に括弧〕
岡本 男 △ 〔本から斜線が出て精〕
〔ここから下段になって〕
     住
繼    三好
吉川   岡本
延    奈津 〔上の三行と下の四行の間に長□あり〕
 
     二
 
○客路青山外行舟緑水前
○源水看花入幽林探蘭行
○月從山上落河入斗間横
○無心到處禅
○林下僧無事江清日復長
 隔水東西佳閑雲徃復還
 東家松籟起西星竹珊々〔二行に括弧〕
 秋露下南澗黄花粲照顔
 欲行沿澗遠却得與雲還〔二行に括弧〕
○莊生曉夢迷蝴蝶望帝春心託杜鵑
○香消南國美人盡照入東風芳草多
 濃※[目+毛]覺來鶯亂語驚殘好夢無尋處
 
 
 書簡集
 
明治二十二年
 
     一
 
 五月十三日 月 ヲ便 牛込區喜久井町一より 本郷區眞砂町常盤會寄宿舎正岡常規へ
 今日は大勢罷出失禮仕候然ば其砌り歸途山崎元修方へ立寄り大兄御病症并びに療養方等委曲質問仕候處同氏は在宅乍ら取込有之由にて不得面會乍不本意取次を以て相尋ね申候處存外の輕症にて別段入院等にも及ふ間鋪由に御座候得共風邪の爲めに百病を引き起すと一般にて喀血より肺勞又は結核の如き劇症に變ぜずとも申し難く只今は極めて大事の場合故出来る丈の御養生は専一と奉存候小生の考へにては山崎の如き不注意不親切なる醫師は斷然癈し幸ひ第一醫院も近傍に有之候得ば一應同院に申込み醫師の診斷を受け入院の御用意有之度去すれば看護療養萬事行き屆き十日にて全快する處は五日にて本復致す道理かと存候且つ少しにても肺患に罹ル「プロバビリチー」アル以上は二豎の膏肓に入らざる前に英斷決行有之度生あれば死あるは古來の定則に候得共喜生悲死も亦自然の情に御座候春夏四時の循環は誰れも知る事なから夏は熱を感じ冬は寒を覺ゆるも亦人間の免かるゝ能はざる處に御座候得ば小にしては御母堂の爲め大にしては國家の爲め自愛せられん事こそ望ましく存候雨フラザルニ※[片+(戸/甫)]戸を綢繆ストハ古人ノ名言に候へば平生の客氣を一掃して御分別有之度此段願上候
  to live is the sole end of man!
    五月十三日
  歸ろふと泣かずに笑へ時鳥
  聞かふとて誰も待たぬに時鳥
                 金之助
     正岡大人
      梧右
 何れ二三日中に御見舞申上べく又本日米山龍口の兩名も山崎方へ同行し呉れたり
 僕の家兄も今日吐血して病床にあり斯く時烏が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし呵々
 
      二
 
 五月二十七日 月 ル便 牛込區喜久井町一より 本郷區眞砂町常盤會寄宿舍正岡常規へ
 昨日は存外の長座定めて御蒼蠅の事と恐入り奉る其砌り妄評を加へ御返呈申上候七草集定めて迂生歸宅後御讀了の事と存じ候右に付き後にて胸に手をあて善く/\勘考仕れば前後の分別もなく無茶苦茶に六ヅカ敷漢字を行列したるは流石の某も例のヅー/\しきに似ず少しく赤面の體に御座候何事も不作法者と御堪忍遊ばせと御詫の序でに願上げまするは批評の後に付したる二十八字の九絶に御座候是は餘り大人氣なく小兒の手習と一般にて只々紅燈緑酒の文字を書き散らしたる而已に候得ば斯ル者を見事の尊者にくツつけ置かん事七草集の耻辱且つは人目を愧づる小生の心底憐れと覺し給ひ一遍の御回向ならで一刀兩斷に切り棄てゝ屑籠の淨土に送らせ玉へ生レつきの不具者に候得ば扁鵲の妙術も一人前には治し難きは無論の儀と存じ候得ば生きて人目に曝しますより殺した方が親の慈悲かと存候去り乍ら凡夫の淺ましさ萬一貴君の配剤にて生來の癈疾も頓治の見込なきやと夫ばかり心配仕居候燒野〔の〕きゞす夜の鶴不具な子程〔可〕愛ゆきは矢張り親の慾目に御座候必ず必ず凡夫と御さげしみなき樣願上候 匆々
        二十七日     菊井の里
                    漱石より
 
 丈鬼樣
七草集には流石の某も實名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて當座の間に合せに漱石となんしたり顔に認め侍り後にて考ふれば漱石とは書かで漱石と書きし樣に覺へ候此段御含みの上御正し被下度先は其爲め口上左樣
 米山大愚先生傍より自己の名さへ書けぬに人の|の《原》文を評するとは「テモ恐シイ頓馬ダナー」チヨン々々々々々
 
     三
 
 八月三日 土 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔正岡子規『筆まかせ』より〕
 炎暑之候御病體如何被爲渡候哉日夕案じ暮し居候とは些と古めかしくかたくるしき文句ながら近頃の熱さでは無病息災のやからですら胃病か脳病、脚氣、腹下シ抔種々な二豎先生の來臨を辱ふする折柄なれば貴殿の如き殘柳衰蒲も宜しくといふ優にやさしき殿御は必ず療養專一攝生大事と勉強して女の子の泣かぬ樣餘計な御世話なから願上候偖惡口は休題として愈本文に取り掛りますれば小生義愚兄と共に去月廿三日出發東海道興津へ轉地療養の爲メ御越し被遊咋二日夜歸京仕候興津の景色の美なるは大兄も御承知ならんが先ヅ大體を申せば
 都城之西、六十餘里、山勢隆然、拔地而起、潮流直逼山麓、山海之間得平地、纔五十歩、旗亭十數、點綴其間、與蜑戸漁家錯落相間、呼曰興津、所謂東海五十三驛之一也、山腹有古刹、佛閣經樓、高出于青靄之上、望之縹渺如畫圖、興津之西、山勢漸向北而走、海灣亦南曲、三里而達清水港、港盡而灣再東折、突出洋中二里許、古松無數、遠與天連、白帆明滅、行其間、是則興津驛之勝概也、呼其寺、曰晴見寺、呼其山、曰清見山、呼其灣、曰清見潟、而西南長岬、横斷大海者、爲三保松原、遠山如黛、白雲蓬勃者、爲伊豆大嶋、天晴氣朗之時、仰看芙蓉于東北、大凡騷人墨客、上旗亭坐樓頭者、杯酒談笑之際、一矚而得悉收此數者於眸中焉、蓋所謂東海道、自東都至西京、長二百餘里、有驛五十有三、山則函嶺、水則天龍矢矧、都邑則靜岡名古屋、其間長亭短驛、名山大川、固不爲鮮矣、然至山海之勝、魚蝦之美、則余獨推興津爲最、是以數年以來、縉紳公卿、避暑遊于此地、陸續麕至、山蒼水明之郷、亦將漸化絃歌熱鬧之地、可嘆也、……
 餘り長イト御退屈先ヅ/\御里が露ハレヌ中ニ切リ上ゲベク候右の如く風光は非常に異な處ナレドモ風俗ノ卑陋ニテ物價の高値ナルニハ實ニ恐レ入リタリ小生等最初は水口屋と申す方に投宿せしに一週間二圓にて誠にいや/\雲助同樣の御待遇を蒙むれり樓上には曾我祐準先生將軍乎として鎭座まします者から拙如き貧乏書生は「パラサイト」同樣の有樣御憫笑可被下候拙曾我中將を呼んで御山の大將ト云へり(解に曰く高之謂山、樓者高故曰御山、大將者武人也)手短かに申せば樓上ノ軍師〔五字右○〕(梁上ノ君子ニアラズ)ト云フ意味也宿屋ノ主人御山の大將ヲ拜スルコト平蜘昧ノ如ク婢僕ノ之ヲ敬スルコト鬼神ノ如シ偖々金銀程世ノ中に尊きはあらじと樓下ニテ握リ睾丸をしながら名論を發明仕り候夫より※[立心偏+亢]慨心を鼓舞し身延屋といふに一週間三圓の御散財にて御轉居仰せ被出二三旦逗留すると又々何處かの縉紳先生の爲に追出され、どうにもこうにも駿河の國立ツたり寐たり又興津、清見の浦は清《ス》むとても心はすまぬ濱千鳥啼くより外はなかりしが(ヤ、デン)といふ體裁、汗臭き富士講連と同車にて漸々歸京仕候何れ道中の御話は御面晤之節萬々可申述候云々
 先は炎熱の候時候御厭ひ可被成何れ九月には海水にて眞黒に相成りたる顔色を御覽に入べく夫迄はアヂユ
          菊井町のなまけ者
   丈鬼兄座右
 
       四
 
 九月十五日 日 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔封筒なし〕
 露冷殘螢瘠風寒柳影疎なるの時節とはあまり長すぎてゴロか惡くは候得共僕か創造の冒頭なればだまつて御讀了被下度候偖右の樣な時節到來仕候處貴兄漸々御快方の由何よりの事と存候小生も房洲より上下二總を經歴し去月卅日始めて歸京仕候其後早速一書を呈する積りに御座候處既に御出京に間もあるまじと存じ日々延頸して御待申上候處御手紙の趣きにては今一ケ月も御滞在の由隨分御のんきの事と存候然し此ニ少々不都合の事有之兩三日前小生學校へ參り點數抔取調べ候處大兄三學期の和漢文の點及び同學期并に同學年の體操の點無之が爲め試驗未濟の部ニ編入致居候か右は如何なる儀にて缺點と相成居候哉若し缺點か至當なら始業後二週間中ニ受驗願差出す筈ニ御座候間右の間ニ合ふ樣御歸京可然と存候尤も學校の休暇は入學試驗の都合にて來る廿日まで延期相成候間右の御積りにて御出發被成候猶又受驗不致候て別に點數を得べき道理有之候得ば其旨御申越可相成小生及ぶ限りは御盡力可申上候山川へは未だ一度も面會不仕同人宿所も不分明ニ御座候然し面會次第貴意を傳ふべく候
 小生も今度は黄卷青編時讀罷どころではなくぶら/\と暮し過し申候歸京後は餘り徒然のあまり一篇の紀行樣な妙な書を製造仕候貴兄の斧正を乞はんと樂み居候
 先は用事のみ餘は拜眉萬々可成はやく御歸りなさいよさよなら  九月十五日夜  金 之 助
  の ぼ る 樣
 
    五
 
九月二十日 金 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔正岡子規『筆まかせ』より〕
(略)五絶一首小生の近況に御座候御憫笑可被下候
 抱劔聽龍鳴、讀書罵儒生、
 如今空高逸、入夢美人聲、
第一句は成童の折の事二句は十六七の時轉結は即今の有樣に御座候字句は不相變勝手次第御正し被下度候云々
 
      六
 
 九月二十七日 金 ヲ便 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ
 貴意の如く懷冷財布瘠の候大まい二錢の御散財をも顧み給はず四國下りまで御震翰下し賜はる段御親切嘸かし感涙にむせびて郎君の大悲大慈をあり難がり奉るならんといやに恩に着せて御注進仕るは餘の儀にあらず先頃手紙を以て依頼されたる點數一條おつと承知皆迄云ひ給ふな萬事拙の方寸にありやす先づ江戸つ子の爲す所を御覽じろとひま人のありがたさ急に用事の持ち上りたるを嬉しがり早速秘術をつくして久米の仙人を生捕り先づ安心はした者の鐵砲ずれで(面ずれより脱化し來るに似たり)手の皮の厚さ一尺もあると云ふひなた臭い兵隊を相手の談判は都び男やさ男を以て高名なるやつがれには到底出來やせん引き下りやすと反り身になつて斷はると云ふ所だがそこがそれ君いや妾の爲めでげす掛がへさへあれば命の二つや三は進呈仕りてよろしくと云ふ位な親切者だからちつともひるまず古今未曾有の勇氣を鼓舞して二三回戰爭の後是も武運目出度乃公の勝利と相成令娘の身體は一部一《〔三〕》年三の組の室中を横行しても竪行しても御勝手次第なり
 定めて
 あらまあほんとうに頼もしい事、ひよつとこの金さんは顔に似合ない實のある人だよ」と云はれるだろふと乃公の高名手柄を特筆大書して吹聽する事あら/\如此
    九月二十七日夜         郎君より
  妾   へ
 此手紙到着の頃は定めて東上の途中ならむ若しも亦愚圖々々して故郷にこびりついて居るなら此書拜見次第馳出して東京へ罷り出べき事
 
      七
 
 十二月三十一日 火 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔正岡子規『筆まかせ』より〕
 歸省後は如何病躯は如何讀書は如何執筆は如何、如何にして此長き月日を短く暮しめさるゝやけふは大三十日なりとて家内中大さわきなるに引きかへ貧生のありがたさは何の用事もなく只晝は書に向ひ膳に向ひ夜は床の中にもぐりこむのみ氣取りて申さば閑中の閑、靜中の靜を領するは俗に申せば錢のなきため不得已握り睾丸をしてデレリと陋巷にたれこめて御座る也此休みには「カーライル」の論文一冊を讀みたり二三日前より「アルノルド」の「リテレチユア、エンド、ドクマ」と申者を讀みかけたり御前兼て御趣向の小説は已に筆を下し給ひしや今度は如何なる文體を用ひ給ふ御意見なりや委細は拜見の上逐一批評を試むる積りに候へとも兎角大兄の文はなよ/\として婦人流の習氣を脱せず近頃は篁村流に變化せられ舊來の面目を一變せられたる樣なりといへとも未だ眞率の元氣に乏しく從ふて人をして案を拍て快と呼ばしむる箇處少きやと存候總て文章の妙は胸中の思想を飾り氣なく平たく造作なく直敍スルガ妙味と被存候さればこそ瓶水を倒して頭上よりあびる如き感情も起るなく胸中に一點の思想なく只文字のみを弄する輩は勿論いふに足らず思想あるも徒らに章句の末に拘泥して天眞爛※[火+曼]の見るべきなければ人を感動せしむること覺束なからんかと存候今世の小説家を以て自稱する輩は少しも「オリヂナル」の思想なく只文字の末をのみ研鑽批評して自ら大家なりと自負する者にて北海道の土人に都人の衣裳をきせたる心地のせられ候成程頭の飾り衣の模樣仕立の具合寸分の隙間なきかは知らねど其人の價値はと問はゞ三文にも當せず其思想はと問はゞ一顧の價なきのみならず鼻をつまんで却走せざるを得ざる者のみの樣に被思候獨り篁村翁のみは直ちに胸|臆《原》を直敍して天眞爛※[火+曼]の風姿紙上に躍然たる處なきにあらねど是亦質朴なる老翁のいやみ氣無きに過ぎず田舍漢の通がりにまさる萬々なりといへ共さりとも端肅とか遒麗とか磊落とか人をして一見嘆賞感動せしむる風采には乏きやに被存候故に小生の考にては文壇に立て赤幟を萬世に飜さんと欲せば首として思想を涵養せざるべからず思想中に熟し腹に滿ちたる上は直に筆を揮つて其思ふ所を敍し沛然驟雨の如く勃然大河の海に瀉ぐの勢なかるべからず文字の美章句の法抔は次の次の其次に考ふべき事にてIdea itself の價値を増減スル程の事は無之樣に被存候御前も多分此點に御氣がつかれ居るなるべけれど去りとて御前の如く朝から晩まで書き續けにては此 Idea を養ふ餘地なからんかと掛念仕るは勿論書くのが樂なら無理によせと申譯にはあらねど毎日毎晩書て/\書き續けたりとて小供の手習と同じことにて此 Original idea が草紙の内から靈現する譯にもあるまじ此 Idea を得るの樂は手習にまさること萬々なると小生の保證仕る處なり(餘りあてにならねど)伏して願はくは(雜談にあらず)御前少しく手習をやめて餘暇を以て讀書に力を費し給へよ御前は病人也病人に責むるに病人の好まぬことを以てするは苛酷の樣なりといへども手習をして生きて居ても別段馨しきことはなし Knowledge を得て死ぬ方がましならずや塵の世にはかなき命ながらへて今日と過ぎ昨日と暮すも人世に happiness あるが爲也されど十倍の happiness をすてゝ十分の一の happiness を貪り夫にて事足り給ふと思ひ給ふや併し此 ldea を得るより手習するが面白しと御意遊ばさば夫迄なり一言の御答もなし只一片の赤心を吐露して歳暮年始の禮に代る事しかり穴賢
  御前此書を讀み冷笑しながら「馬鹿〔二字右○〕な奴だ」と云はんかね兎角御前の coldness には恐入りやす
    十二月卅一日        漱  石
   子 規 御 前
 
明治二十三年
 
      八
 
 一月 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔正岡子規『筆まかせ』より〕
 いそがしき手習のひまに長々しき御返事態々御つかはし被下候段御芳志の程ありい(洋語にあらず)かく迄御懇篤なる君樣を何しに冷淡の冷笑のとそしり申すべきやまじめの御辯護にていたみ入りて穴へも入りたき心地ぞし侍る程に一時のたわ言と水に流し給へ七面倒な文章論かゝずともよきに、そこがそれ人間の淺ましさ終に餘計なことをならべて君に又攻撃せられて大閉口何事も餅が言はする雜言過言と御許しやれ
 當年の正月は不相變雜※[者/火]を食ひ寐てくらし候寄席へは五六回程參りかるたは二返取り候一日神田の小川亭と申にて鶴蝶と申女義太夫を聞き女子にてもかゝる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心そこで愚兄余に云ふ樣「藝がよいと顔迄よく見える」と其當否は君の御批判を願ひます
 米山は當時夢中に禅に凝り當休暇中も鎌倉へ修行に罷越したり山川は不相變學校へは出でこず過日十時頃一寸訪問せしに未だ褥中にありて煙草を吸ひ夫より起きて月琴を一曲彈て聞かせたりいつも/\のん氣なるが心は憂鬱病にかゝらんとする最中也是も貴兄の判斷を仰ぐ兎角此頃は學校でも吾黨の子が少ないから何となく物淋しく面白くなし可成早く御歸り/\もう仙人もあきがきた時分だろうから一寸已めにして此夏に又仙人になり給へ云々
 別紙文章論今一度貴覽を煩はす云々
                埋塵道人拜
   四國仙人梧下
 
七草集四日大盡水戸紀行其他の雜録を貴兄の文章と也文章でなしと仰せらるれば失敬御免可被下候
 〔別紙〕
 僕一己ノ文章ノ定義ハ下ノ如シ
 文章 is an idea which is expressed by means of words on paper 故ニ小生ノ考ニテハ idea ガ文章ノ Essence ニテ words ヲ arrange スル方ハ element ニハ相違ナケレド essence ナル idea 程大切ナラズ經濟學ニテ申セバ wealth ヲ作ルニハ raw material ト labor ガ入用ナルト同然ニテ此 labor ハ單ニ raw material ヲ modify スルニ過ギズ raw material ガ最初ニナクテハ如何ナル巧ノ labor モ手ヲ下スニ由ナキト同然ニテ idea ガ最初ニナケレバ words ノ arrangement ハ何ノ役ニモ立タヌナリ
 是ヨリ best 文章ヲ解セン
 Best 文章 is the best idea which is xpressed in the best way by means of words on paper.〔whi〜傍線〕
 此 underline ノ處ノ意味ハ idea ヲ其儘ニ紙上ニ現ハシテ讀者ニ己レノ ideaノ Expact ナル處、(no more no less)ヲ感ゼシムルト云フ義ニテ是丈ガ即チ Rhetholic ノ treat スル所也去レバ文章(余ノ所謂)ハ決シテ Rhetholic ノミヲ指スニ非ス此儀上ノ解ニテ御合點アリタシ
 ソコデ此 idea ヲ涵養スルニハ culture ガ肝要ニテ次ハ己レノ經驗ナリ去レドモ己レノ經驗ノ區域ノミニテハ Idea ヲ得ル區域狹キ故 culture ノ方ガ要用ナリト申スナリ
 然ラハ culture トハ如何ナル者ト云フニ knowing the idea which have been said and known in the word ト小生ハ定義ヲ下ス積リナリ然ラバ culture ヲ得ル方ハト云フニ讀書ヲ捨テヽ他ノ方ナキハ貴君モ御左袒ナルベシ故ニ讀書ヲシ玉ヘト勸ムルナリ去リ乍ラ Rhetholic ヲ廢セヨト云フニ非ス Essence ヲ先ニシテ form ヲ後ニスベク Idea ヲ先ニシテ Rhetholic ヲ後ニセヨト云フナリ(時ノ先後ニアラズ輕重スル所アルベシト云フノ意ナリ)
 是ヨリハ嚴肅トカ端麗トカ云フ文章ヲ analytically ニ御示シ申スベシ
  (一) 嚴肅ナル文章=嚴肅ナル idea expressed by means of words、
  (二) 遒麗ナル文章=遒麗ナル idea expressed by means of wOrds、etc.
 故ニ idea ニシテ嚴肅トカ遒麗トカ云フ形容詞ヲ附ケ得ベキ Idea ナラ紀行文デモ議論文デモ小説デモ何デモ嚴肅ナル又遒麗ナル文章ト云ヒ得ル也
  (然シ idea ニモ斯ル形容詞ヲ附シガタキ者アリ此 idea ヲ express スル文章ニハ到底カヽル形容詞ヲ付シ難シ此ハ scientific treatises ニテ見出ス物ニテ pure literary work ニハ何如ナル種類ヲ問ハズ斯ル形容詞ヲ付スルヲ得ベシト存ズ)
 是ヨリ mathematically ニ Idea ト Rhetholic ノ combination ヨリ何如ナル文章ガ出來ルカヲ御目ニカケン
 1 case Idea =best
     Rhetholic =0   make up no 文章
   唖抔ハ best idea ガアルトモ Rhetholic ナキタメ any speech ガデキヌ如シ但シコレハ文章ノ例ニアラズ
 2 case Idea =0
     Rhetholic =best   no 文章 imaginary case
 3 case Idea =best
     Rhetholic =best   best文章
 4 case Idea =bad
     R  =bad   bad文章
 5 case Idea =best
     R  =bad   ordinary文章
 6 case Idea =bad
     R  =best  vad文章
  此 last two cases ヲ比較セバ Idea ノ R ヨリ要用ナルヲ知ルベシ
 此 cases ノ中 1 & 2 ハ殆ンド extreme ノ case デ實際ナシト云フモ可ナリ但シ尤 important トナルハ 5 & 6 ナリ元来 best Rhetoric トは△ナラ△ノ idea ヲ Express シテ人ガ讀ンデモ同形同積ノ△ニ感ズルヲ云フニアラズヤ換言スレバ original idea ヲ origrnal ノ儘ニ convey スルガ best Rhetoric ナリ故ニ假令 R ガ best ナリトモ idea ガ bad ナレバ bad ナ idea ヲ bad ナリニ convey スルニ過ギザレバ文章ハ bad ニシカナラズ之ニ反シテ R ハ bad ニテモ Idea ガ best ナレバ best ナ Idea ガ此 bad Rhetoric ノ爲メ幾分カ modify セラレテ best ナリニ express セラルヽ能ハズ單ニ ordinary ノ者トナルニ過ギザルナリ 小生ノ平タク無造作ニ飾氣ナク Idea ヲ express スルガ妙文ナリトハ(3)ノ case ヲ云フノミ即チ best ナ Idea ヲ平タク無造作ニ best ナリニ讀者ニ感ゼシムル也(which is only possible by means of the best Rhetoric!)章句ノ末ニ拘泥スルトハ第二ノ如キ case 也 Rハ best ナレドモ Ideaガ 0 ニ近ケレバ幾ンド no 文章ナリト云フ也
 
君ノ三條ハ實ニ
flimsy極マルヨ
       (1)讀ム本ヲ知ラネバ人ニ聞クガイヽデハナイカ
       (2)讀ム本ガナクバ買フテモ借リテモイヽデハナイカ
       (3)英文ガ讀メナケレバ勉強シテモヨシ已ムヲ得ズバ日本書漢籍ヲ讀ムデモノヽデハナイカ
 
 
 君ノ云フ二條ノ文學者ノ目的ハ僕ハ大ニ不賛成ダケレドモ暫ラク君ノ云フ通リ右ノ二條ガ目的ナルニモセヨ君ノ所謂文章(R訂toユconly)デ此目的ガ達セラルヽト思ヒ給フヤ又ハ(声訂toriconly)ガ此目的ヲ達スルニ最必要ナリト思ヒ玉フヤ今一度御勘考アラマホシウ
 
     九
 
 七月五日 土 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔はがき 正岡子規『筆まかせ』より〕
 早速御注進
 先生及第乃公及第山川落第赤沼落第米山未定 頓首敬白
    七月五日夜
 
     一〇
 
 七月九日 水 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔はがき 正岡子規『筆まかせ』より〕
 不順之折柄御病體如何陳は昨八日如例卒業式有之大兄卒業證書は小生當時御預上り申上候差し當り御不都合なくは九月に拜眉之上可差上候先は其爲め口上左様なら
 
     一一
 
 七月二十日 日 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔正岡子規『筆まかせ』より〕
 御經づくめに抹香くさき御文盆すぎにてちと時候おくれながら面白をかしく拜見仕候先以て御病體日々佛くさく被相成候段珍重奉存候此頃の暑は松山の邊土のみならず花のお江戸も同様にて日中はさながら甑中の章魚同然中々念佛廻向抔の騒ぎにあらず唯々命に別條なきを頼りにて日々消光仕る仕儀なれは愛國心ある小生も此暑さをぢつとこらへて蒼生の爲じや百姓の爲じやとすましこんでゐられたものにあらず(尤血液の少なき冷血動物に近き貴殿抔は此限りにあらず)其上何の因果か女の崇りか此頃は持病の眼かよろしくない方で讀書もできずといって執筆は猶わるし實に無聊閑散の極、試験で責めらるゝよりは餘程つらき位也無事是貴人とは如何なる馬鹿の言ひ草やら今に至つて始めて其うそなる事を知れり實は此度非常の大奮發大勉強にて(呉服屋の引札にあらず)平生貯蓄せるポテンシヤル、エナージーを化學的作用にてカイネチツクに變じ九月上旬には貴殿の目を驚かしてやらんと心待ちに待ちたる甲斐もなくあら悲しや天吾才を妬みそう今から大學者になられては困るといふ一件で卑怯にも二豎を以て吾英氣を挫折せり狹くいへば國の爲め大きくいへば天下の爲め實に惜むべき事共なり併し小生が眼病の爲め貴殿九月になつて小生に面會するも別段目を驚かすこともなく胸を寒からしむる程の騷動は出來せずに濟むから其點は安心すべしさ
 (略)貴意の如く山川を落第させる位なら落第させる人はいくらでもある第一貴殿抔は落第志願生だから同人と變つてやれば善いのにそこが人事の不如意で不得已次第さ
 午眠の利益今知るとは愚か/\小生抔は朝一度晝過一度、廿四時間中都合三度の睡眠也晝寐して夢に美人に邂逅したる時の興味抔は言語につくされたものにあらず晝寐も此境に達せざれば其極點に至らず貴殿已に晝寐の堂に陟るよろしく其室に入るの工夫を用ゆべし
 曾て君が「西行の顔も見えけり富士の山」といふ句を自慢したが僕が先頃富士を見て不圖口を衝て出た名吟にはとても不及斯樣な手※[氏/巾]の後りに書くのは勿體なけれども別懇の間柄だから拜讀さすべし其名吟に曰く
  西行も笠ぬいで見る富士の山
 我ながら感々服々だ然しかやうの名吟を浸りに人に示すは天機を漏らすの恐れあり決して他言すべからず又くだらぬ隨筆中にたゝき込むべからず穴賢
                  漱  石
   子規病牀下
 
      一二
 
 八月九日 土 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔正岡子規『筆まかせ』より〕
 爾後眼病兎角よろしからず其がため書籍も筆硯も悉皆放抛の有樣にて長き夏の日を暮しかね不得已くゝり枕同道にて華胥の國黒甜之郷と遊ひあるき居候得共未だ池塘に芳草を生せず腹の上に松の木もはへず是と申す珍聞も無之此頃では此消閑法にも殆んど怠屈仕候といつて坐禅觀法は猶できず※[さんずい+龠]茗漱水の風流氣もなければ仕方なく只「寐てくらす人もありけり夢の世に」抔と吟じて獨り洒落たつもりの處瘠我慢より出た風雅心と御憫笑可被下候然シ小生の病は所謂ずる/\べツたりにて善くもならねば惡くもならぬといふ有樣故風光と隔生を免かれたりと喜ぶ事もなきかはりには韓家の後苑に花を看て分明ならずといふ嘆も無之眼鏡ごしに簾外の秋海棠の哀れに咲きたるををかしと眺むる位の事は少しも差支無之候去れば時々は庭中に出て(米山法師の如く蝉こそ捉らね)色々ないたづらを致し候茶の樹の根本に丹波ほうづきとかいふ實の赤く色づきて寐ころげたるを何心なく手折りて不圖心つけば別に贈るべき人もなし小さき妹にてもあれかしと願ふも甲斐なし撫し子の凋みたる間より桔梗の一株二株ひよろ長く延びいでたるが雨にうたれて苔を枕に打ち臥したるに紫の花びらを傳ひて小蟻の行きかふさま眼病ながらよく見えたり女郎花の時ならぬ粟をちらすを實の餌と思ひて雀の群がりて拾ふを見るに付偖々鳥獣は馬鹿な者だと思へどそういふ人間も矢張此雀と五十歩百歩なれば惡口はいへず朝貌も取りつく枝なければ所々這ひ廻つた末漸々松の根|形《原》にある四角張たる金燈籠に纏ひ付かなし氣にたつた一輪咲きたるは錆びつきて見る影もなき燈籠の面目なり病み上りの美人が壯士の腕に倚りけるが如しとでも評すべきか何々先ヅ庭中の景は此位にておやめと致すべし
 此頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考へ直してもいやで/\立ち切れず去りとて自殺する程の勇氣もなきは矢張り人間らしき所が幾分かあるせいならんか「ファウスト」が自ら毒藥を調合しながら口の邊まで持ち行きて遂に飲み得なんだといふ「ゲーテ」の作を思ひ出して自ら苦笑ひ被致候小生は今迄別に氣兼苦勞して生長したといふ譯でもなく非常な災難に出合ふて南船北馬の間に日を送りしこともなく唯七八年前より自炊の竈に顔を焦し寄宿舍の米に胃病を起しあるいは下宿屋の二階にて飲食の決闘を試みたりそれは/\のん氣に月日を送り此頃は其にも倦きておのれの家に寐て暮す果報な身分でありながら定業五十年の旅路をまだ半分も通りこさず既に息竭き候段貴君の手前はづかしく吾ながら情なき奴と思へどこれも misanthroic 病なれば是非もなしいくら平等無差別と考へても無差別でないからおかしい life is a point between two infinities とあきらめてもあきらめられないから仕方ない
         We are such stuff
  As dreams are made of; and our little life
  Is rounded by a sleep.
といふ位な事は疾から存じて居ります生前も眠なり死後も眠りなり生中の動作は夢なりと心得ては居れど左樣に感じられない處が情なし知らず生れ死ぬる人何方より來りて何かたへか去る又しらず假の宿誰が爲めに心を惱まし何によりてか目を悦ばしむると長明の悟りの言は記|臆《原》すれど悟りの實は迹方なし是も心といふ正體の知れぬ奴が五尺の身に蟄居する故と思へば惡らしく皮肉の間に潜むや骨髓の中に隱るゝやと色々詮索すれども今に手掛りしれず只煩惱の※[火+陷の旁]熾にして甘露の法雨待てども來らず慾海の波險にして何日彼岸に達すべしとも思はれず已みなん/\目は旨になれよ耳は聾になれよ肉體は灰になれかしわれは無味無臭變ちきりんな物に化して
  I can fly, or I can run、
  Quikly to the green earth’s end,
  Where the bowed welkin slow doth bend;
  And rom thence can soar as soon
  To the corners of the moon.
と申す樣な氣樂な身分になり度候、あゝ正岡君、生て居ればこそ根もなき毀譽に心を勞し無實の褒貶に氣を揉んで鼠糞梁上より落つるも膽を消すと禅坊に笑はれるではござらぬか御文樣の文句ではなけれど二ツの目永く閉ぢ一つの息永く絶ゆるときは君臣もなく父子もなく遺徳も權利も義務もやかましい者は滅茶/\にて眞の空々眞の寂々に相成べく夫を樂しみにながらへ居候棺を蓋へば萬事休すわが白骨の鍬の先に引きかゝる時分には誰か夏目漱石の生時を知らんや穴賢
 (略)小生箇樣な愚痴ツぽい手紙君にあげたる事なしかゝる世迷言申すは是が皮きり也苦い顔せずと讃み給へ
                 漱 石 拜
   子規机下
 
      一三
 
 八月末 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔正岡子規『筆まかせ』より〕
 さすが詩神に乘り移られたと威張られる御手際讀み去り讀み來つて河童の何とかの如くならず天晴れ/\かつぽれ/\と手を拍て感じ入候然し時々は詩神の代りに惡魔に魅入られたかと思ふ樣な惡口あり君此頃大變偈をかつぎ出す事が好きになつたから僕一偈を左右に呈すべし毎朝燒香して此偈を唱へ此惡魔を祓ひ給へ
  我昔所造諸惡業 皆由無始貪瞋癡
  從身語意之所生 一切我今皆懺悔
 女祟の攻撃晝寐の反對奇妙/\然し滑稽の境を超えて惡口となりおどけの旨を損して冷評となつては面白からず其も貴樣の手紙が癪に障るからだと言は〔る〕れは閉口仕候悟道徹底の貴君が東方朔の囈語に等しき狂人の大言を眞面目に攻撃してはいけない(略)
 詩神は佛なり佛は詩神なりといふ議論斬新にして面白し君能く色聲の外に遊んで清淨無漏の行に住し自己の境界を寫し出されたとすれば敬服の外なし今より朋友の交を絶ち師弟の禮を以て贄を執り君の門に遊ばんかね然し例の臆測的揣摩的の議論なら一切御免蒙る(悟れ君)なんかと呶鳴つても駄目だ(狐禅生悟り)抔とおつにひやかしたつて無功とあきらむべし又理窟詰め雪隱詰めの悟り論なら此方も大分言ひ草あり反對したき點も澤山あれど此頃の天氣合ひ兎角よろしからず攫み合ひ取組合ひ果ては決闘でもしなければならぬ樣になるとどつちが怪我をしても海内幾多の美人を愁殺せしむるといふ大事件だから一先づこゝは中直りをして置きましよう何れ九月上旬には詩神にのりうつられたといふ顔色しみ/”\と拜見可仕候
 君が散々に僕をひやかしたから僕も左の一詩を咏じてひやかしかへす也
  江山容不俗懷塵。君是功名場裏人。
  憐殺病躯多客氣。漫將翰墨論詩神。
 君の説諭を受けても浮世は矢張り面白くもならず夫故明日より箱根の靈泉に浴し又々晝寐して美人でも可夢候
  仙人墮俗界。遂不免喜悲。啼血又吐血。
  憔悴憐君姿。漱石又枕石。固陋歡吾癡。
  君病猶可癒。僕癡不可醫。素懷定沈鬱。
  愁緒亂如絲。浩歌時幾曲。
  一曲唾壺碎。二曲雙涙垂。曲※[門/癸]呼咄々。
  衷情欲訴誰。白雲蓬勃起。天際看蛟※[虫+漓の旁]。
  笑指函山頂。去臥葦湖※[さんずい+眉]。歳月固悠久。
  宇宙獨無涯。蜉蝣飛湫上。大鵬嗤其卑。
  嗤者亦泯滅。得喪皆一時。寄語功名客。
  役々欲何爲。
 眞に塵陋で詩とも何とも申し樣御座なく候へ共何となく出來仕候間御笑ひ草に御目にかけ候何卒御叱りなく御添削の程偏に奉願候(どうだ此位卑下したらさすがの君もよもや犬の糞の讎きうちは爲されまい)
                         露地白牛
   正岡詞兄
 
 明治二十四年
 
      一四
 
 四月二十日 月 ヲ便 牛込區喜久井町一より 本郷區眞砂町常盤會寄宿舍正岡常規へ
 狂なるかな狂なるかな僕狂にくみせん君が芳墨を得て始めは其唐突に驚ろき夫から腹を抱へて滿案の哺を噴き終りに手紙を掩ふて※[さんずい+玄]然たり君の詩文を得て此の如く數多の感情のこみ上げたるは今が始めてなり君が心中一點の不平俄然炎上して滿脳の大火事となり餘※[火+餡の旁]筆頭を傳はつて三尺の半切に百萬の火の子を降らせたるは見事にも目ばゆき位なり平日の文章心を用いざるにあらず修飾なきにあらず只狂の一字を缺くが故に人をして瞠若たらしむるに足らず只此一篇狂氣爛※[火+曼]わが衷情を寸斷しわが五尺の身を戰|栗《原》せしむ七草集はものかは隱れみのも面白からず只此一篇……
 嗚呼狂なる哉狂なるかな僕狂にくみせん僕既に狂なる能はず甘んじて蓄音器となり來る廿二日午前九時より文科大學哲學教場に於て團十郎の假色おつと陳腐漢の※[口+藝]語を吐き出さんとす蓄音器となる事今が始めてにあらず又是が終りにてもあるまじけれど五尺にあまる大丈夫が情けなや何の果報ぞ自ら好んでかゝる器械となりはてたる事よ行く先きも案じられ年來の望みも烟りとなりぬ梓弓張りつめし心の弦絶えて功名の的射らんとも思はざれば馬鹿よ白痴と呼ばれて一世を過し蓄音器となつて紅毛の士に弄はるゝも亦一興ぞかし
 左樣なら
   廿日夜         平 凸 凹
  倫花兒殿
 
   一五
 
 七月九日 木 ル便 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ
 觀劇の際御同伴を不得殘念至極至極殘念(宛然子規口吻)去月卅日曇天を冒して早稻田より歌舞伎座に赴くぶら/\あるきの錢いらず神樂坂より車に乘る烈しかれとは祈らぬ南風に車夫よたよたあるきの小言澤山否とよ車主さな怒り給ひぞ風に向つて車を引けばほろふくるゝの道理ぞかしと説諭して見たれど車耳南風にて一向埒あかず十時半頃土間の三にて仙湖先生を待つ程なく先生到着錬卿をつれて來ると思ひの外岩岡保作氏を伴ひし時こそ肝つぶれしか(再模得子規妙)固より年來の知己なれば否應なしに桝に引つぱり込んで共に見物す桝の内より見てあれば團十郎の春日の局顔長く婆々然として見苦し然し御菓子頂戴御壽もじよろしい口取結構と舞臺そつちのけのたら腹主義を實行せし時こそ愉快なりしか。仙湖先生は頻りに御意に入つてあの大きな眼球から雨滴程な涙をこぼすやつがれは割前を通り越しての飲食に天咎のがれ難く持病の疝氣急に胸先に込み上げてしく/\痛み出せし時は芝居所のさわぎにあらず腰に手を當て顔をしかめての大ふさぎははたの見る目も憐なり腹の痛さをまぎらさんと四方八方を見廻はせば御意に入る婦人もなく只一軒おいて隣りに圓遊を見懸けしは鼻々〔二字右○〕おかしかりしなあいつの痘痕と僕のと數にしたらどちらが多いだらうと大に考へて居る内いつしか春日の局は御仕舞になりぬ公平法問の場は落語を實地に見た樣にて面白くて腹の痛みを忘れたり
 惣じて申せば此芝居壹圓以上の價値なしと歸り道に兄に話すと田舍漢が始めて寄席へ行と同じ事でどこが面白いか分るまいと一本鎗込られて僕答ふる所を知らずそこで愚兄得々賢弟黙々
 今日學校に行つて點數を拜見す君の點で缺けて居る者は物集兄の平生點(但し試驗點は七十)と小中村さんの點數(是は平生も試驗も皆無だよ)餘は皆平生點ありじくそんは平生87に試驗46先以て恐悦至極右の譯だから小中村の平生點六十以上と物集|見《原》の平生點六十以上あれば九月に試驗を受る事が出來る然し今のまゝでは落第なり
 先は手始めの御文通迄餘は後便
    九日午後         金 之 助
   正岡常規さま
 
      一六
 
 七月十六日 木 ヌ便 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ
 貴地御安着日々風流三昧に御消光の事と羨望仕居候小弟不相變宰予の弟子と相成雕しがたき朽木をごろ/\持ちあつかひ居候
 小中村物集見平常點の義に付き教務掛りへ照會致候處一日も早く御差出し有之可くとの事故去る十二日芳賀矢一君方へ參り右の談判相頼み候處小中村は當時伊香保入浴中の由にて早速木暮金太夫方へ同氏より書状差し出しもらひ候
 物集見へも同日同時に頼み状同人より相つかはし候但し兩人とも不承知なら返事をよこす筈承知なら何とも云ふて來ぬ筈なり今迄何ともいふて來ぬ故出して來《原》れたに相違なしと斷定する者なり(尤も此頃の暑さに恐れて學校へは參り不申)由て來る九月に追試驗の御覺悟にて隨分御勉強可被成候」
 芳賀氏訪問の節同人の話しに來る九月より大學にて文學會雜誌といふ者を發兌する都合にて其手順とゝのいたる赴きに御座候過日大兄と御話しの件不圖實行の緒につきたるは隨分奇妙月旦は發兌の上の事何しろ大學の名譽に關せぬ樣願度者也大兄も一臂の御盡力あつては如何(おいやでげすかね)
 先は用事迄餘は後便
 此手紙二本目に付無性者の本性として非常の亂筆なりおゆるしあれ
    盆の十六日         平 凸 凹
   物草次郎樣
     こもだれの中
  試驗は是非受ける積りでなくては困ります
 
      一七
 
 七月十八日 土 ル便 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔封筒の表側に「眞言秘密封じ文」とあり〕
 去る十六日發の手紙と出違に貴翰到着早速拜誦仕候人をけなす事の好きな君にほめられて大に面目に存候嗚呼持つべき者は友達なり
 愚兄得々賢弟黙々の一語御叱りにあづかり恐縮の至り以來は慎みます
 御歸省後御病氣よろしからざるおもむきまことに御氣の毒の至に存候左樣の御容體にては強いて在學被遊候とても詮なき事御老母のみかは小生迄も心配に御座候得ば貴意の如く撰科にても御辛抱相成る方可然人爵は固より虚榮學士にならなければ飯が食へぬと申す次第にも有之間じく候得ば命大切と氣樂に御修業可然と存候夫に就ても學資上の御困難はさこそと御推察申上候といふ迄にて別段名案も無之、いくら僕が器械の龜の子を發明する才あるも開いた口へ牡丹餅を抛りこむ事を知つて居るとも是ばかりはどうも方がつきませんなそれも僕が女に生れていれば一寸青樓へ身を沈めて君の學資を助るといふ樣な乙な事が出來るのだけれど……夫も此面ではむづかしい
 試驗癈止論貴察の通り泣き寐入りの體裁やつた所が到底成功の見込なしと觀破したね
 ゑゝともう何か書く事はないかしら、あゝそう/\、昨日眼醫者へいつた所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、――〔銀〕香返しに竹なはをかけて――天氣豫報なしの突然の邂逅だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね丸で夕日に映ずる嵐山の大火の如し其代り君が羨ましがつた海氣屋で買つた蝙蝠傘をとられた、夫故今日は炎天を冒してこれから行く
    七月十八日       凸  凹
   物草次郎殿
 
     一八
 
 七月二十四日 金 ヌ便 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ 〔はがき〕
     御返事咒文
 燬盡朱顔爛痘痕失來輕傘却開昏癡漢悟道非難事吾是宛然不動尊(大兄の咒文を三誦して悟りたる境界に御座候)
 岐岨道中の詩拜見佳句も澤山ある樣なり次韻したけれどそう急には出來ず昨日故人五百題と云ふ者を見て急に俳諧が作りたくなり十二三首を得たり御笑ひ草に供したけれど端書故いづれ後便にて御斧正相願度候
 
     一九
 
 八月三日 月 ル便 牛込區喜久井町一より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ
 一丈飴の長文被下難有拜見小子俳道發心につき草々の御教訓情人の玉章よりも嬉しく熟讀仕候天稟庸愚のそれがし物になるやらならぬやら覺束なき儀には存候得共性來かゝる道は下手の横好とやらに候得ば向後驥尾に附して精々勉強可仕〔候〕間何卒御鞭撻被下度候
 玉作敷首謹んで拜見俳句はいづれも美事に御座候仰せの如く句調の具合先日中拜見仕候者と夐かに別機軸の御手際と感心仕候峽中雜詩第一五首中の翹楚と存候管々しき細評は佛頭の天糞とやらにつき御免蒙り候實は負けぬ氣に次韻でもして君の一粲を博せんと存居候處去月下旬一族中に不慮の不幸を生じ其が爲め彼是取紛れ只今にては硯に對する閑暇はあれど筆を執る忍耐力なく幼學詩韻をひねくり廻す騷ぎにも參り兼候間次韻の義も願下に致候
 不幸と申し候は餘の儀にあらず小生嫂の死亡に御座候實は去る四月中より懷姙の氣味にて惡|疽《原》と申す病氣にかゝり兎角打ち勝れず漸次重症に陷り子は闇より闇へ母は浮世の夢廿五年を見殘して冥土へまかり越し申候天壽は天命死生は定業とは申しながら洵に/\口惜しき事致候
 わが一族を賞揚するは何となく大人氣なき儀には候得共彼程の人物は男にも中々得易からず况て婦人中には恐らく有之間じくと存居候そは夫に對する妻として完全無缺と申す義には無之候へ共社會の一分子たる人間としてはまことに敬服すべき婦人に候ひし先づ節操の毅然たるは申すに不及性情の公平正直なる胸懷の洒々落々として細事に頓着せざる抔生れながらにして悟道の老僧の如き見識を有したるかと怪まれ候位鬚髯※[髪の友が參]々たる生悟りのえせ居士はとても及ばぬ事小生自から慚愧仕候事幾回なるを知らずかゝる聖人も長生きは勝手に出來ぬ者と見えて遂に魂歸冥漠魄歸泉只住人間廿五年と申す場合に相成候さはれ平生佛けを念じ不申候へば極樂にまかり越す事も叶ふ間じく耶蘇の子弟にも無之候へば天堂に再生せん事も覺束なく一片の精魂もし宇宙に存するものならば二世と契りし夫の傍か平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴たらんかと夢中に幻影を描きここかかしこかと浮世の覊|胖《原》につながるゝ死靈を憐みうたゝ不便の涙にむせび候母を失ひ伯仲二兄を失ひし身のかゝる事には馴れ易き道理なるに一段毎に一層の悼惜を加へ候は小子感情の發達未だ其頂點に達せざる故にや心事御推察被下たく候
 悼亡の句數首左に書き連ね申候俳門をくゞりし許りの今道心佳句のあり樣は無之一片の衷情御酌取り御批判被下候はゞ幸甚
  朝貌や咲た許りの命哉
  細眉を落す間もなく此世をば   (未だ元服せざれば)
  人生を廿五年に縮めけり     (死時廿五歳)
  君逝きて浮世に花はなかりけり  (容姿秀麗)
  假位牌焚く線香に黒む迄
  こうろげの飛ぶや木魚の聲の下
  通夜僧の經の絶間やきり/”\す (三首通夜の句)
  骸骨や是も美人のなれの果    (骨揚のとき)
  何事ぞ手向し花に狂ふ蝶
  鏡臺の主の行衛や塵埃      (二首初七日)
  ますら男に染模樣あるかたみかな (記念分)
  聖人の生れ代りか桐の花     (其人物)
  今日よりは誰に見立ん秋の月   (心氣清澄)
 先日御話しの句左に抄録す是亦御郢正奉願候
  馬の背で船漕ぎ出すや春の旅
  行燈にいろはかきけり獨旅
  親を持つ子のしたくなき秋の旅
  さみだれに持ちあつかふや蛇目傘
  見るうちは吾も佛の心かな    (蓮の花)
  螢狩われを小川に落しけり
  薮陰に涼んで蚊にぞ喰はれける
  世をすてゝ太古に似たり市の内
  雀來て障子にうごく花の影
  秋さびて霜に落けり柿一つ
  吾戀は闇夜に似たる月夜かな
  柿の葉や一つ一つに月の影
  涼しさや晝寐の貌に青松葉
  あつ苦し晝寐の夢に蝉の聲
  とぶ螢柳の枝で一休み
  朝貌に好かれそうなる竹垣根
  秋風と共に生へしか初白髪
 先づこんな物に御座候向來物になられませうか
 鴎外の作ほめ候とて圖らずも大兄の怒りを惹き申譯も無之是も小子嗜好の下等なる故と只管慚愧致居候元來同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて全體を窺ふ事かたく候得共當世の文人中にては先づ一角ある者と存居候ひし試みに彼が作を評し候はんに結構を泰西に得思想を其學問に得行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候右等の諸分子相聚つて小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある樣に思はれ候尤も人の嗜好は行き掛りの教育にて(假令ひ文學中にても)種々なる者故己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏窟な議論に見ゆる者に候得ば小生自身は洋書に心醉致候心持ちはなくとも大兄より見れば左樣に見ゆるも御尤もの事に御座候全體あの時君と僕の嗜好は是程違ふやと驚き候位然し退いて考ふれば是前にも云へる如く元來の嗜好は同じきも從來學問の行き掛りにてかゝる場合に立ち到り候事と存じ夫よりは可成博覽をつとめ偏僻に陷ざらん樣に心掛居候其上日本人が自國の文學の價値を知らぬと申すも日本好きの君に面目なきのみならず日本|が《原》夫程好き者のあるを打ち棄てゝわざ/\洋書にうつゝをぬかし候事馬鹿々々敷限りに候のみならず我等が洋文學の隊長とならん事思ひも寄らぬ事と先頃中より己れと己れの貫目が分り候得ば以後は可成大兄の御勸めにまかせ邦文學研究可仕候さはれ成童の頃は天下の一人と自ら思ひ上り三身の己れを欺いて今迄知らずに打ち過ぎけるよと思へば自ら面目なき迄に愧入候性來多情の某何にでも手を出しながら何事もやり遂げぬ段無念とは存候得共是亦一つは時勢の然らしむる所と諦め居候御憫笑
 頃日來司馬江漢の春波樓筆記を讀み候が書中往々小生の云はんと欲する事を發揮し意見の暗合する事間々有之圖らず古人に友を得たる心にて愉快に御座候此は序ながら申上候
 時下炎暑の砌り御道體精々御いとひ可被成候 拜具
    八月三日         平凸凹拜
   の ぼ る さ ま
 
      二〇
 
 九月十二日 土 チ便 牛込區喜久井町一より 埼玉縣大宮驛氷川公園萬松樓高島方正岡常規へ
 屁理窟を海容の上はちときびし過ぎる、なれど御採用にあづかりて千萬辱けなし試驗の可否今日念の爲め小泉と談判に及び候ところ異論のあるべき筈なく御都合次第教師と相談の上御受驗可被遊との趣に候向後一週間位の中に完結可致規則にやと問返したれば否左にあらず今少々は後れてもよろしく然し可成早き方こそ望ましけれといふ次第なれば下讀濟次第御歸京目前の障礙御取り祓ひ可被成候小生抔は心の不平のみならず顔も一面に不平なれば君よりは申し分もある筈なるに大人しく今迄辛抱致し居候へば大兄も少しは苦しむ方朋友へ對しての義理なり試驗の問題は悉く忘れたれば菊地より送つてもらふ筈然し問題外の處も目を通さなくつては困るぜ何しろ下讀濟次第御歸京可然候
 餘は拜眉の上
    十二日午後           平 凸 凹
   もの草次郎どの
 
      二一
 
 十一月七日 土 ヌ便 牛込區喜久井町一より 本郷區眞砂町常盤會寄宿舍正岡常規へ
 思ひ掛なき君が思ひがけなくも明治豪傑譚に氣節論まで添へて御惠投あらんとは眞以て思ひがけなく驚入候何は偖ありがたく受納仕候御手紙は再三|操《原》返し豪傑譚は興味に連れ一息に讀了仕候當時少しく風邪の氣味にて脳巓岑々の折柄はからずも半日消閑の工夫を得申候段拜謝仕候
 豪傑譚は仰せの如く先頃中より讀賣紙上にて時たま閲覽仕居候其頃より是が豪傑の行爲にやと不審を抱き候角も不少欣慕抔と申す感情は偖置中には眉を蹙めて卻走せんと欲する件りも有之昨日興味につれ讀了候は聊も感服敬服抔と申す念慮より生じたる事に無之編中人物の行爲矯激極端にして殆んど狂縱の痕跡あるかを疑ふ位故何となく好奇の念禁じがたく一部の天然滑稽戯を披覽する心地にて通過致し偖卷を掩ふて是等の人物が如何に小生の心緒を撹動せしやと諦觀仕候へば寸毫も高尚だの優美だのと申す方向に導びきし點無之中には索隱行怪の餘弊殆んど人をして嘔吐を催ふせしむる件りも有之やに見受られ候かく申せばとて編中の人間皆氣節なき「グータラ」のみと申す次第には無之中には仰の如き稜々たる風骨を具したる人も有之べく其代りには一點の意氣地なき輩も交り居るべくそも氣節と申すは己れに一個の見識を具へて造次顛沛の際にも是を應用し其一生を貫徹するの謂に候得ば其人の氣節の有無は其人の前後を通觀せず候ては全體上其人の行爲が其人の主義と並行するや否やは判じ難きかと存候今此編に記載する件りは單に豪傑の(流俗の豪傑)一言半行位にとゞまりて其人の氣節を斷定するの材料には爲し難きやと存候先づ書中の事件を大別すれば第一即座の頓智、第二其場の激情等多く之に屬せざるものは或は何人の生活中にも穿鑿したらば出てきさうなる失策話しか尋常一樣の世間話しにて偶其人が後日に盛名を博したる爲め役もなき好奇漢の詮議立てより是も豪傑の行ひぞと人に云はるゝに至りたる件りも見受け候位是等は此失策話しが豪傑の傳を構造するにあらずして豪傑の盛名が溯つて此失策話しを著名にしたるに過ぎず猶分類せば他の族門をも設け得ん其中には欣慕と迄行かずと〔も〕感心な行ひと賞する位の事は曉星のごとくちらほらと見ゆる事もあらんなれど先づ右の三種と大別した處で即座の頓智と云ふ事は其人天稟の賦性にて能もあり不能もあり頓智あるが爲に氣節あり頓智なきが爲に氣節なしとは誰も許さぬ事なるべし否氣節を尊む人は場合に依れば出る頓智もわざわざ引き込す事あり是は其人の行爲を支配するものは一定の主義にして頓智とは即座の出放題其場逃れの便宜なれば苟も頓智にして己れの主義と相反する以上は一時の便宜は偖おきかゝる方便を用ゆる事あるべからずよしんば頓智が己れの氣節を貫くに必要なる場合ありとするもかゝる能を有せざる人は到底用ゆる事の出來ぬ話しなり第二に一時の激昂にて感情的に爲したる事が氣節を表|影《原》すと云ふも受取りがたし氣節とは前にも云ふ如く(余の考へにては)一定斷乎の主義を抱懷して動かざるに外ならず己れに特有なる一個の標準を有しこの標準を何處にも應用せんとするの觀念に過ぎず一時の感情若し此標準と合せば卒然の行爲必ずしも氣節を發揮せずとは云ひ難けれど感情はいつも智識と並行して起るものにあらず、のみならず屡ば背馳して相戻る事あるは君の知る所なれば此點にても氣節の有無は知りがたからん第三種に屬する失策話し(逸話にせよ)は吾人の生活中日々眼前に横たはるものにて中にも小生抔は人一倍失策多ければ若し之を以て氣節の發したるものとせば僕抔は風骨稜々の冠を戴くを得べし兎に角失策は豪傑に限りて多きにあらず又氣節あるが爲に大なるにあらず是は申す迄の事もなからんかく右の三者何れをとるも編中の人物に氣|慨《原》ありや否やを判ずるの材料とは致し難くはなきやと愚考仕候今一歩を讓つて此片言隻行の間に豪傑の氣宇躍然としてあらはるゝにもせよ編中の人は皆同鑄型中に鍛錬せられたるにあらず甲の爲す處は乙の爲す處と牴牾し丙の言ふ所は丁の言ふ所と隔違す或人は鹽を振りかけられたるさへ辛抱し或人は師の教訓に堪へずして長者を撃つ一方が氣節あらば一方は意氣地なきなり一方が風骨を有するならば一方は馬骨を有するなり君何が故に稜々の字を下して軒輊する所なきや君が意は其行爲の裏面に横たはる精神を見よとの事なるや精神を見るも二人の心行きは決して同じからず一は堪忍を大事となし一は任意直情を潔しとせるなり堪忍の方が氣節あらば任意の方氣節なきなり但し兩方共に氣節ありと云ふや職を高官に奉じて座睡禁ぜず是耄碌なり氣節にあらず格闘を挑まれて敢てせず之を酒樓に誘つて逃る是れ卑怯なり(昔しの武士道より見れば)氣節にあらず故に假令ひ氣節をして片言隻行の間にあらはるゝものとするも編中の事悉く氣節的の件りのみとは云ひ難からんと存候君若し以上の論議に不同意ならば再び方針を轉じて總概的《エキゾースチーブ》に氣節の何物たるを説明致さんと存候御存じの如く人間の能力は智、情、意の三者に外ならず氣節は人間能力の一部なる以上は三者の中何にか屬せざるべからず第一氣節とは情に屬するやと云ふに決して然らず一時の怒りに激して人を痛罵す是氣節なりや余は氣節とは思はざるなり年來の怒りに激して日常人を痛罵す是氣節なりや是も亦氣節とは思はれずさらば一時の感情にもせよ年來の感情にもせよ感情を以て爲したる行爲は氣節と云ふ可からず氣節既に感情に屬せずんば之を意志の作用とせんか打つ可きの道理なく打ち度の感情なく妄りに鐵拳を擧て人に加ふ是れ氣節なりや同じく打つ可きの道理なく又打ち度の念慮なきに日常鐵拳を擧げて人に加ふ亦氣節にあらず去らば一時の意志にせよ年來の意志にせよ意志より來るもの氣節なりと云ふべからず意志に屬せず感情に屬せずんば氣節の屬する處は智の範圍内にあらずんばあらず親には孝を盡すべき理ありと心得て孝を盡す是氣節なり君に忠を致すべき道存すとて忠を致す是氣節なり人を罵しるべきの理あり故に罵しる人を打つべきの理あり故に打つ是氣節なり然れど一時の理を行ふ是れ一時の氣節を表はすのみ一小見識を抱いて之を行ふ是れ一小見識の氣節のみ一時の氣節一小見識の氣節有もよし無くとも差支へなし吾人の欲する所は絶大見識を抱懷して人生の前後を貫き通ずるにあり書物にても一|貢《原》には一貢の主意あり文字あり一篇には一篇の主意あり文字あり一卷には一卷を貫くの主意あり文字なかる可らず一貢の主意一篇の文字は一時の氣節一小見識の氣節のみ人生五十年の浩帙人生天大の主意決して一章一篇の中に存せざるなり故に僕謂ふ氣節は情に屬せず意に屬せずして智に屬す而して大氣節は人生を掩ふ大見識に屬すと君若し氣節は情若くは意に屬すと云はゞ僕一言なし唯見解の異なるを悲しむのみ君若し氣節は小見識を一時に行ふにありといはゞ僕又一言なし愈見解を異にするを悲しむなり
 小生元來大兄を以て吾が朋友中一見識を有し自己の定見に由つて人生の航路に舵をとるものと信じ居候其信じきりたる朋友がかゝる小供だましの小冊子を以て氣節の手本にせよとてわざ/\惠投せられたるはつや/\其意を得ず小生不肖と雖ども亦人生に就て一個の定見なきにあらず此年頃日頃詩を誦し書を讀むも讀むに從ひ誦するに從つて此定見の自然と發達して長大になるが爲めのみ徒らに彫琢の末技に※[手偏+勾]して一字一句の是非を論ずるは愉快なきにあらず然れども遂に小生が心を滿足せしむるに足らざるなり去れど小生とて我が見識こそ絶大なれ最高なれと云ふにあらず若し吾が主義の卑野ならんか大兄の高説を拜聽して其愚を癒するも可なり前賢の遺書に因て之を啓發するも可なり何を苦んで此※[草がんむり/最]|※[草がんむり/爾]《原》たる一俗冊を用いん君此書を讀んで自ら思へらく日本男子の區域外に放逐せられて※[號/食]※[殄/食]飽くなきの蠻夷と伍するに至らざるを喜こぶなりと然れども君の目して蠻夷となすもの※[號/食]※[殄/食]飽くなきの輩となすもの實に余に誨ゆるに人生の大思想を以てせり僕をして若し一點の節操あらしめば其節操の一半は鴃舌の書中より脱化し來つて余が脳中にあり此脳中にあるの秤量を以て此書の貫目をはかるに其輕き事秋毫の如し君何を以て此書を余に推擧するや余殆んど君の余を愚弄するを怪しむなり君の手翰を通觀するに字義共に眞面目にして通例滑稽的の文字にあらず且つ結末に(僕が之を贈るの微意を察せよ)とあり小子翻讀再三に及んで猶其微意の在る所を知るに苦しむ不敏の罪逃るゝに由なきは是非なし但し小子は賢愚無差別高下平等の主義を奉持するものにあらず己より賢なるものを賢とし己より高きものを高しとするに於ては敢て人に遜らずと雖ども此編中の人吾より賢なる人吾より高き人吾の取て以て崇拜せんと欲するもの果して幾人かある由しや之れありとするも君の余に勸めんと欲するものは抽象的の氣節にして實體的の片言隻行にあらず余も三尺の童子にあらざれは此片言隻行を誦して氣節こゝにありと歎賞する能はず故に聊か疑を著して机下に呈す
 君の書に曰く試みに學校の兒童を見よ工商の子多くは上座にあり士家の子多くは末席にあり然れども其學校を出づるや工商の子弟は終に士家の子弟に〔一籌を〕輸するを常とすと是は君一家の經驗にて云ふなるか統計抔にて云ふや(僕嘗て曰ふ)とあれば貴君一家の説なるべし然し小生の居りし學校にては工商の子弟より士家の子弟常に上席を占めたりかく事實相反する以上は議論の土臺と爲り難し且つ學校を出でゝ商工の子が士家の子弟に一籌を輸すとは學問の點なりや世渡りの巧拙なりやはた君の所謂氣節の點なりや學問の點より云へば商工は商工の業あり專意學問に從事する事能はず士家の子弟は學を以て身を立つるもの多ければ商工の及ばざるは勿論の話しなり世渡りの巧拙に至つては容易に斷言しがたし商工は世に應じて甘く切りぬけ行くもの澤山ならん士人の子弟にても御鬚の塵を拂ひおべつか專一にて世に時めく者幾千萬なるを知らず又氣節の點に至つても商工の子無下に意氣地なしと思ひ給ふ可からず身分/\に應じて相應の意地はあるものなり但し無學なる工商に望むに絶大の見識を以てするは赤子をして郵便配達夫たらしめんとするが如し云はずとも分り切た話しなり之に反して士人の子と雖どもあながち氣節ある人多しとは云ふ可らず方今紳士とも云はるゝ輩青萍とも浮草とも評すべき行爲あるもの枚擧すべからず其身元を尋ねたらば大方は士族なるべし兎に角氣節の有無抔は教育次第にて工商の子なりとて相應の教育を爲し一個の見識を養|生《原》せしめば敢て土家の子弟に劣らんとも覺えず暫らく氣節は士人の子の手に落ち工商の夢視せざる處とするも是は工商たるが爲に氣節なきにあらずして氣節を涵養するの時機に會せざりしのみ試みに士家の子弟をとりて幼少より丁稚たらしめば數年を出ずして銅臭の兒とならん君の議論は工商の子たるが故に氣節なしとて四民の階級を以て人間の尊(36)卑を分たんかの如くに聞ゆ君何が故かゝる貴族的の言語を吐くや君若しかく云はゞ吾之に抗して工商の肩を持たんと欲す
 君又曰く僕は賢愚の差に於て人を輕重する事少し然れども善惡の違に至つては一歩もこれを假さず小惡あれば即ち極口之を罵詈し小善あれば則ち極口之を褒美す……僕之を以て得意となす他人の毀譽敢て關せざるなりと君既に他人の毀譽に關せず其主義を貫かんとす故に僕敢て君を褒貶せず然れども善惡の差を重んずる事君の云ふ所の如くならば願くは僕が言の善か惡かを聞け君が脳中には至善なる理想あり此理想を標準として他を褒貶せらるゝならん然るに世界の人間中君が理想を以て嚴正なる判定を下し是人こそ至善なれと君が遺徳試驗に滿點を得て及第する者ありや余は斷じてかゝる人間なしと云はん人は完全なる者にあらず頭の頂點より足の爪|足《原》まで圓滿の徳を具へたる聖人は實際世間に存するものにあらず人間の思想は實より空に入り卑より高きに推移す實を離れたる善世間より高きの善是れ君が脳中の理想なり此理想の尺度を以て此善惡混合の人間をはかる決して合格者あるべからず若し合格者なきときは君朋友中に於て又知人中に於て遂に一人も君の意に合する者を見出す能はざらんとす見出す能はざれども之を我慢すれば差支へなし然し君の如く善惡の差に於ては一歩も假さずと云ふ以上は君遂に滿天下を見渡して一の交る可き者なく言語を交はす者なきを見ん若し又善は善でとり惡は惡としてすつると云ふ意ならば君既に善を褒すると同時に惡を寛假したるなり由しや惡を寛假せずとするも若し一人に接して毫末の惡を見出し彼れ談ずるに足らずとて之を嫉視せば彼人假令ひ他に蓋世の善あるも君遂に其善を知る能はずして已まん又被れ涓滴の善ありとて之に交はるとも其人滔天の惡ある以上は之を奈何すべき必竟人間界にては善は善惡は惡と範圍を分ち善の區域にあるものは生涯惡を見ず惡の領分に居るものは終身善を知らずと云(37)ふ樣な勝手な事は行はるゝものにあらず何人にても取るべき所あり又貶すべき所あり君既に寸善を容るゝの量あらば又分惡を包むの度なかるべからず乍失禮君の一身でさへ前後を通看したなら機微の際忽然として惡念の心頭に浮びし事あるべし(假令ひ之を行はぬにもせよ)何となれば人間は善惡二種の原素を持つて此世界に飛び出したるものなればなり若し人性は善なりと云はゞ惡と云ふ事を知るべきの道理なし惡と云ふ事を行ふ筈なし善惡二性共に天賦なりとせば善を褒すると同時に不善をも憐まざるべからず今君※[目+此]睚の不善を假さずして終身之を忘れずんは僕實に君が慈憐の心に乏しきを嘆ぜずんばあらず僕思ふに君實にかゝる主義を應用するにあらず論じて筆端に上る〔に〕至つて遂に此過激の文字となりしならん先年僕が厭世の手紙の返事に天下不大瓢不細の了見で居るべしと云ひ給へり其了見で居る君が斯る狹隘なる意見を述べて(得意となす)抔云ふに至つては實に前後の隔絶せるに驚かずんばあらず先に云ふ處のものは單に壯言大語僕を驚かせしなれば僕向後決して君を信ずまじ又冗談ならば眞面目の手紙の返事にかゝる冗談は癈して貰はんと存ず又先年の主義を變じ今日の主義となしたりと云はゞ夫でよし人間の主義終始變化する事なければ發達するの期なし變じたるは賀すべし然し變じ方の惡きは驚かざるを得ず高より下に上り大人より小兒に生長したる樣な心地するなり僕決して君を誹謗するにあらず唯君が善惡の標準を以て僕が言の善か惡かを量れ
 實は黙々貰ひ放しにしておかんと存じたれどかくては朋友切磋の道にあらず君が眞面目に出掛たものを冷眼に看過しては濟まぬ事と再考の上好んで忌諱に觸る狂妄多罪
    十一月七日        金之助拜
   常 規 殿
 
     二二
 
 十一月十一日 水 ロ便 牛込區喜久井町一より 本郷區眞砂町常盤會寄宿舍正岡常規へ 〔封筒に「親展」とあり〕
 僕が二錢郵券四|牧《原》張の長談議を聞き流しにする大兄にあらずと存居候處案の如く二牧張の御返禮にあづかり金高より云へば半口たらぬ心地すれど芳墨の眞價は百牧の黄白にも優り嬉しく披見仕候仰の如く小生十七八以後かゝるまじめ腐つたる長々しき囈語を書き連ねて紙筆に災ひせし事なく議論文抔は君に差上候手紙にも滅多に無之唯君の方で足下呼はりで六づかしく出掛られた故つい乘氣になり色々の雜言申上恐縮の至に不堪決して/\御氣にかけられざる樣願上候
 頑固の如くには候へども片言隻行にては如何にしても氣節は見分けがたくと存候良雄喜劍の足を舐る良雄の主義人の辱を受けざるにあれば足を舐るは氣節を損したるなり良雄の主義復讎にあれば足を舐るは氣節を全ふしたるなり喜劍良雄の墓前に死す喜劍の主義長生にあらば墓前に死するは節を損したるなり喜劍の主義任侠にあれば墓前に死するは節を全ふしたるなり去れば一言一行を其人の主義に照り合せざれば分らぬ事と存候(其人の主義の知れておる時は例外)
 氣節は(己れの見識〔二字右○〕を貫〔右○〕き通す)事と申し上候積り此(見識〔右○〕)は智に屬し(貫〔右○〕く)(即ち行ふ)は意に屬す行はずして氣節の士とは小生も思ひ申さず唯行へと命令する者が情〔右○〕にもあらず意〔右○〕にもあらず智〔右○〕なりと申す主意に御座候處筆が立ぬ故其所迄まはり兼疎漏の段御免被下度候
 僕決して君を小兒視せず小兒視せば笑つて黙々たるべし八錢の散財をした處が君を大人視したる證據なり恨まれては僕も君を恨みます
 君は人の毀譽を顧みず毀譽を顧みぬ君に喃々するは君を褒貶するの意にあらず唯僕の説が道徳上嘉すべき説なりや道徳上惡しき説なるやを判し給へとの意に御座候唯卑説の論理に傾きたる爲め善惡〔二字右○〕の字を以つて正否〔二字右○〕の字に見違へらる是亦僕の誤り(説に善惡あり又眞僞あり多妻論は耶蘇教徒より見れば論理的なると否とを問はず惡〔右○〕説なり進化主義も神造物者主義より見れば惡〔右○〕説なり社會主義は高天原連より見れば惡説なり)
 「其惡を極口罵詈せしとて其人と交らぬと云ふにはあらず」御説明にて恐れ入候叩頭謝罪
 僕前年も厭世主義今年もまだ厭世主義なり嘗て思ふ樣世に立つには世を容るゝの量あるか世に容れられるの才なかるべからず御存の如く僕は世を容るゝの量なく世に容れらるゝの才にも乏しけれどどうかこうか食ふ位の才はあるなりどうかこうか食ふの才を頼んで此浮世にあるは説明すべからざる一道の愛氣隱々として或人と我とを結び付るが爲なり此或人の數に定限なく又此愛氣に定限なく雙方共に増加するの見込あり此増加につれて漸々慈憐主義に傾かんとす然し大體より差引勘定を立つれば矢張り厭世主義なり唯極端ならざるのみ之を撞着と評されては仕方なく候
 最後の一段は少々激し過ぎたる由貴意の如くかも知れず(僕の愚を憐んで可なり)抔と出られては眞に慚愧不禁再び叩頭謝罪
 道徳は感情なりとは御同意に候絶大の見識も其根本を煎じ詰れば感情に外ならず形而下の記號にて證明し難ければなり去れど此理想の標準に照し合せて見る過程《プロセス》が智の作用と存候
 君の道徳論に就て別に異議を唱ふる能はず唯貴説の如く惡を嫉むの一點にて君と僕の間に少しく程度の異なる所あるのみどう考へても君の惡を嫉む事は餘り酷過ぎると存候
 微意の講釋は他日拜聽仕るべく候
 君の言を借りて
 (偏へに前書及び本書の無禮なるを謝す 不宣)
 又々行脚の由不相變御清興賀し奉候
 秋ちらほら野菊にのこる枯野かなの一句千金の價あり
 睾丸の句は好まず、笠の句もさのみ面白からず
    十一月十日夜      平凸凹亂筆
 子   規
    臥禅傍
 
 明治二十五年
 
      二三
 
 六月十九日 日 ホ便 牛込區喜久井町一より 下谷區上根岸町八八正岡常規へ 〔はがき〕
    十九日早朝
 凸凹昨君の青白の容を拜むに何ぞ累々として喪家の犬に似たるや就ては九時頃ブツセの試驗問題到着皆哲學の試驗を濟セ了んぬ處が君の平生點があれだから困る譯だけれど昨日の樣な條件のある試驗だから後から受る事も出來るだらう故都合次第左樣談判可相成候先は用事まで早々頓首
 
      二四
 
 七月十九日 火 ト便 岡山市内山下町一三八番邸片岡方より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ
 貴地十七日發の書状正に落手拜誦仕候先は炎暑の候御清適奉賀候小子來岡以來愈壯健日々見物と飲食と晝寐とに忙がはしく取紛れ打ち暮し居候去る十六日當地より金田と申す田舍へ參り二泊の上今朝歸岡仕候閑谷黌へは未だ參らず後樂園天守閣等は諸所見物仕候當家は旭川に臨み前に三櫂山を控へ東南に京橋を望み夜に入れば河原の掛茶屋無數の紅燈を點じ納凉の小舟三々五々橋下を往來し燭光清流に徹して宛然たる小不夜城なり君と同遊せざりしは返す/”\す《原》殘念なり今一度閑谷見物かた/”\御來岡ありては如何一向平氣にて遠慮なき家なり試驗の成蹟面黒き結果と相成候由鳥に化して跡を晦ますには好都合なれども文學士の稱號を頂戴するには不都合千萬なり君の事だから今二年辛抱し玉へと云はゞなに鳥になるのが勝手だと云ふかも知れぬが先づ小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候願くば今一思案あらまほしう
  鳴くならば滿月になけほとゝぎす
 餘は後便にゆづる亂筆御免
   十九日午後     平凸凹より
  獺 祭 詞 兄
        尊下
 
     二五
 
 八月四日 木 ハ便 岡山市内山下町一三八番邸片岡方より 松山市湊町四丁目一六番戸正岡常規へ
 朶雲拜誦仕候御申越の如く當地の水害は前代未聞の由にて此前代未聞の洪水を東京より見物に來たと思へば大に愉快なる事ながら退いて勘考すれば居席を安んぜず食飽に至らず隨分酸鼻の極に御座候御地は別段の水害もなき模樣先々結構の至に存候津山は餘程の損害と承る是空子の處は如何
 小生去る二十三日以後の景況御報申し上んと存居候へども鳥に化して跡をかくすとありし故旅行中にもやと案じ別段書状もさし上げず居候先便にも申し上候通り當家は旭水に臨む場所にて水害中々烈しく床上五尺程に及び二十三日夜は近傍へ立退終夜眠らずに明し二十五日より當地の金滿家にて光藤と云ふ人の離れ座敷に迎へ取られ候處同家にても老祖母大患にて厄介に相成も氣の毒故八日目に歸宅仕候歸寓して觀れば床は落ちて居る疊は濡れて居る壁は振い落してあるいやはや目も當てられぬ次第四斗樽の上へ三疊の疊を並べ之を客間兼寐處となし戸棚の浮き出したるを次の間の中央に据へ其前後左右に腰掛と破れ机を絣《原》べ是を食堂となす屋中を歩行する事峽中を行くが如し一歩を誤てば橡の下に落ついやはや丸で古寺か妖怪屋敷と云ふも猶形容し難かり夫でも五日が一週間となるに從ひ此野蠻の境遇になれて左のみ苦とも思はず可笑しき者なり實は一時避難の爲め君の所へでも罷り出んと存居候ひしが旅行中で留守にでも遇つたら困ると思ひ今迄差し控へ居候斯る場合に當方に厄介に相成候も氣の毒故先日より歸京せんと致候處今少し落付く迄是非逗留の上緩々歸宅せよと強て抑留せられ候へども此方にては先方へ氣の毒先方では此方へ氣の毒氣の毒と氣の毒のはち合せ發矢面目玉をつぶすと云ふ譯御憫笑可被下候
 夫故閑谷黌へも猶參らず然し近日當主人の案内にて金比羅へ參る都合故其節一寸都合よくば御立寄可申歸京は九月上旬と御約束申上置候へども右の次第故少々繰り上本月中旬か又は下旬頃に致し度と存候大兄の御見込は如何に御座候や若し御不都合無之ば御同伴仕り度と存候來る六七日頃太田達人より爲替送付致し呉候筈故夫より後なら何時でも歸京差支へなし
 實に今回の水は驚いた樣な面白い樣な怖しい樣な苦しい樣な種々な原素を含み岡山の大洪水又平凸凹一生の大波瀾と云ふべし然し餘波が長くて今に乞食同樣の生活を爲すは少し閉口石關の堤防をせき留めるや否や小生肛門の土堤が破れて黄水汎濫には恐れ入る其に床下は一面の泥で其上に寐る事故餘程身體には害があるならんと愚考仕る許りで目下の處では當分此境界を免がるゝ事能はざらんとあきらめ居候
 猶委細は御面會の節 頓首頓首
    八月四日         平 凸 凹
   子 規 さ ま
         尊下
 
      二六
 
 十一月二十日 日 ル便 牛込區喜久井町一より 下谷區上根岸町八八正岡常規へ 〔はがき〕
 御一家御無事御着京之趣大慶奉存候早速參上可仕のところ御(惘然)の際御邪魔と存じ差控へ居候御老母さま并びに御令妹へよろしく御鳳聲被下度候何れ其内拜趨萬々
 
      二七
 
 十二月十五日 木 イ便 牛込區喜久井町一より 下谷區上根岸町八八正岡常規へ
 貴書拜見目下愈寒氣に差し向ひ候ところ筆硯ます/\御清榮奉賀候小生不相變毎日々々通學仕居候間乍憚御休神被下度候偖運動一件御書状にて始めて承知仕り少しく驚き申候然し學校よりは未だ何等の沙汰も無之辭職勸告書抔も未だ到着不仕御報に接する迄は頓とそんな處に御氣がつかれず平氣の平左に御座候過日學校使用のランプの蓋に「文集はサツパリ分らず」と書たるものあれど是は例の惡口かゝる事を氣にしては一日も教師は務まらぬ譯と打捨をき候其後講義の切れ目にて時間の鳴らぬ前無斷に室外に飛び出候生徒ありし故次の時間に大に譴責致候是は前の金曜の事其外別段異状も無之今日迄打過居候元來小生受持時間は二時間のところ生徒の望みにて三時間と致し且つ先日前學年受持の生徒來り同級へも出席致し呉ずやと頼み候位故左程評判の惡しき方ではないと自惚仕居候處豈計らんやの譯で大兄の御手紙にて運動一件小生の耳朶に觸れ申候勿論小生は教方下手の方なる上過半の生徒は力に餘る書物を捏ね返す次第なれば不滿足の生徒は澤山あらんと其邊は疾くより承知なれど是は一方より見ればあながち小生の咎にもあらず學校の制度なれば是非なしと勘辨仕居候去るにても小生の爲めに此《〔?〕》間運動抔致す程とは實に思ひも寄らずと存居候段隨分御目出度かりし無論生徒が生徒なれば辭職勸告を受てもあながち小生の名譽に關するとは思はねど學校の委托を受けながら生徒を滿足せしめ能はずと有ては責任の上又良心の上より云ふも心よからずと存候間此際斷然と出講を斷はる決心に御座候
 (巨燵から追ひ出れたる)は御免蒙りたし
  病む人の巨燵離れて雪見かな
    十二月十四日夜〔封筒の裏に〕
                 金 之 助
   子 規 さ ま
 御報知の段ありがたく奉謝候坪内へは郵便にて委細申し通はすべく候其文言中には證人として君の名を借る親友の一言なれば固より確實と見《原》認むると云へば突然辭職しても輕率の誹りを免が〔る〕ゝ譯なればなり願くば證人として名前丈をかし給へ但し出處は命ぜず召還の氣使ひも無用なり
 
 明治二十六年
 
      二八
 
 一月六日 金 ヘ便 牛込區喜久井町一より 下谷區上根岸町八八正岡常規へ
 先夜は失敬仕候竹村錬卿赴任地宿所御承知に御座候はば一寸御一報被下度候也
   一月六日
 
      二九
 
 二月二十日 月 牛込區喜久井町一より 下谷區上根岸町八八正岡常規へ
    二月二十日
 過日文學談話會へ出席仕候處大兄御病氣の趣にて御來駕無之右は御風邪にても有之候や又は例の御持病にや心元なく存候間御容體一寸相伺ひ申上候隨分御養生專一と奉存候
 
      三〇
 
 七月二十七日 木 ヘ便 東京帝國大草寄宿舍より 埼玉縣北足立郡尾間木村中尾齋藤阿具へ
 御手※[氏/巾]拜見仕候炎暑の候にもかゝはらず昨今兩日は意外の冷氣にてはからずも土|曜《原》前に新秋の凉味を感じ申候嘸かし御地もしのぎよき事と奉推察候大兄大學院許可証は未だ下付不相成是は文部省の貸費一條まだ落着不仕故と書記官の話しに御座候但し右辭令書廻達次第許可証は直ちに交付に相成る事と存候小屋君は其後何等の報知も無之同氏の宿所は靜岡縣駿|洲《原》興津清見寺と申す寺院に御座候菊池氏富士登山の日限は不定の由に御座候同氏は兩三日中に文部省より任命の沙汰有之筈につき夫まで旅行は見合せ居る趣きに承り候本多君以外に任處抔の定まりたるもの無之やに存候何れも奔走最中と存居候他日夫々落着次第送別會抔の催しも有之候はゞ其時御報知可申上候先は御廻答まで餘は後便にて 匆々頓首
    七月廿六日        金 之 助
   齋 藤 君
        梧前
  二白
  過日專門學校より左の書翰落手仕候間御參考までに御覽に入れ候
 
      三一
 
 八月七日 月 東京帝國大學寄宿舍より 西谷虎二へ
 一別以後如何御暮し被遊候や時下酷暑のみぎりには候へども筆硯益御清穆の事と奉欣羨候迂生事も不相變無異消光日々晝寐と食事に餘念なく勉強致居候へば乍憚御休神可被下候九|洲《原》地方の御旅行は最早相濟候や定めて優遊御逸興の儀と紅塵中より推察仕候去月中旬菊池米山兩人と兩三日間日光地方へ罷り越し少しは塵懷の洗濯仕り候心得の處當今は其反動にて何分にも炎暑に耐へがたく日々呻吟仕居候段吾ながら憫笑の至貧生の境界あはれ斯の次第御察し可被下候寄宿舍も當時は大不景氣にて惣勢十三四人に過ぎず至つて寂寥を覺え候當夏卒業の文學士賣口大に惡しく皆困却の體氣の毒に存候小生抔も如何成る事やら頓と不相分今日を今日とのみ未來の考へなく打暮し居候此分にては九月に御馳走の約束もあまり當にならず當にせずと御待ち可被下候先は右暑中御何がひまで餘は拜眉の節萬々可申述候時節がらくれ/”\も御道體御心づけ可被遊候 匆々
頓首
    八月七日       金 之 助
   虎 二 樣
       梧前
  拜借の椅子少々破損仕候故〔卷紙破れて一二字不明〕は不相用丁嚀に保存致居候〔同前〕破損後なれば元の通りには〔同前〕相成甚だ失敬
 
      三二
 
 十月二十七日 金 ヘ便 東京帝國大學寄宿舍より 金澤市長町一番町狩野享吉へ
 漸々秋冷の候と相成候處愈御清勝奉賀候小生不相變碌々寄宿舍に起臥罷在候間乍憚御休神可被下候偖當夏中は御多忙の處度々參上毎度意外の長座定めて御邪魔の事と存候無遠慮の段御海恕可被下候貴校英學教師は何人に定まり申候や大兄は未だ御歸京の運びに參り兼候や
 生義兼て御出京中は種々御配慮を煩はし候處其後高等師範學校英語教授の嘱托を受け去る十九日より出講仕居候へば乍憚御安意可被下候
 先達ては御手紙にて御地名産御送被下候由承知仕り舍友一同大喜悦にて到着を待ち居候處咋朝(廿六日)に到り御差立のこも包慥かに相屆目下在舍友一同にて時々刻々風味中に御座候まことに希代の大菓むさ/\と食ひ盡すは殘り惜しき位に御座候
 太田氏近況は如何に御座候や先日同氏より中川小十郎の番地報知あり度旨通知有之候へども同人より太田へは寫眞遞送の筈につき住居番地は其時に判然する事と心得其儘に放擲仕置候間御面會の節はよろしく御傳聲可被下候
 先は御禮まで餘は後便に讓る 勿々敬具
    十月廿七日       夏目金之助
   狩野享吉樣
       侍史
 米山氏は貴君への返翰遲延の段よろしく申し呉よとの事に御座候
 
 明治二十七年
 
      三三
 
 一月二十八日 日 ヲ便 東京帝國大學寄宿舍より 金澤市長町一番町狩野享吉へ
 拜呈今春は參上失禮仕候其後は如何御消光被遊候哉小生不相變起臥罷在候間御休神被下度候偖些少には候へども梅月のどうらん御送申上候間御風味被下度此段一寸御通知申上置候也
    一月二十|九《原》日      夏目金之助
   狩野享吉樣
       侍史
 
      三四
 
 三月九日 金 東京帝國大學寄宿舍より 山口縣山口高等中學校菊池謙二郎へ
 御手紙被下難有拜見仕候大兄御赴任後は大分の好景氣の模樣何しろ結構の事と奉賀候小生病氣は目下差したる事も無之日々平常の通起臥罷在候へば乍憚御安慮被下度候實は去る二月初め風邪にかゝり候處其後の經過よろしからずいたく咽喉を痛め夫より細き絹糸の如き血少々痰に混じて※[口+各]出仕り候故從來の○○と○○と兩方へ轉んでも外れそうのなき小生故直ちに醫師の診察を受け候處只今の處にては心配する程の事はなく矢張り平生の如く勉學致してもよろしく只日々滋養物を食し身體の衛《原》着を怠らぬ樣にする事專一なりとて夫より檢痰を試み候處幸ひバチルレン抔は無之去れば肺病なりとするも極初期にて今の内に加攝生すれば全治可致との事に御座候小生身體上の自覺も至極爽快にて目下は毫も平日と異なる所無之候へども可成滋養物を食し運動を力め「ノンキ」に消光致居候今暑中休暇には海水浴か温泉にて充分保養を加ふる積りに御座候尤も人間は此世に出づるよりして日々死出の用意を致す者なれば別に※[口+各]血して即席に死んだとて驚く事もなけれど先づ二つとなき命故使へる丈使ふが徳用と心得醫師の忠告を容れ精々攝生致居候
  何となう死に來た世の惜まるゝ
 小生始め醫師より肺病と聞きたる時は兼て覺悟は致居候へば今更の樣に驚愕は不仕又死と云ふ事に就ても小生は至極冷淡の觀念を有し候へば※[口+各]血抔に心《原》經を痛むる事は無之りしも只家の後事抔を考へ過ぎて少は心配仕候然し一方にては一度び此病にかゝる以上は功名心も情慾も皆消え失せて恬淡寡慾の君子とならんかと少しは希望を抱き居候にも係らず身體は其後愈壯健に相成醫師も左程差當りての心配はなし抔申し聞け候に就ても性來の俗氣は依然不改舊觀實に自らもあきれ果候そこで君の漫興に次韵して蕪句一首
  閑却花紅柳緑春
  江樓何暇醉芳醇
  猶憐病子多情意
  獨倚禅牀夢美人
 御一笑可被下候此頃は雨のふる日にも散歩致す位に御座候
  春雨や柳の中を濡れて行く
 大弓大流行にて小生も過日より加盟致候處的は矢の行く先と心得候へば何時でも仇矢は無之眞に名人と自ら誇り居候
  大弓やひらり/\と梅の花
  矢響の只聞ゆなり梅の中
 先は御返しまで 匆々頓首
    三月九日           金 之 助
   菊 池 兄
       机下
 
    三五
 
 三月十二霏日 月 東京帝國大學寄宿舍より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 其後は御無音に打過候目下は新聞事業にて定めし御多忙の事と存候過日は小生病氣につき色々御配慮被下難有奉謝候其後病勢次第に輕快に相成目下は平生に異なるところなく至て健全に感じ居候へども服藥は矢張以前の通致し滋養物も可成食ひ居候固より死に出た浮世なれば命は別段惜しくもなけれど先づ懸替のなき者なれば使へる丈使ふが徳用と存じ精々養生は仕る覺悟に御座候へば先づ御安心可被下候小生も始め醫者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども其後以前よりは一層丈夫の樣な心持が致し醫者も心配する事はなし抔申ものから俗慾再燃正に下界人の本性をあらはし候是丈が不都合に御座候へどもどうせ人間は慾のテンシヨンで生て居る者と悟れば夫も左程苦にも相成不申先づ斯樣に慾がある上は當分命に別條は有之間敷かと存候當時は弓の稽古に朝夕餘念なく候  弦音にほたりと落る椿かな
  弦音になれて來て鳴く小鳥かな
  弦音の只聞ゆなり梅の中
 御一笑可被下候
 銀婚式は生憎の天氣小生は只池の端を散歩せるのみにて市内の景況を知らず
  春雨や柳の下を濡れて行く
 先日來尋常中學英語教授法方案取調べの爲め隨分多忙に有之候處本日漸く結了大に閑暇に相成候
  春雨や寐ながら横に梅を見る
 閑情御一掬先は近況のみ 匆々
   十《原》月十二日      金 之 助
  子 規 子
      梧下
 
     三六
 
 四月六日 金 (消印不明) 東京帝國大學寄宿舍より 金澤市長町一番町狩野享吉へ
 追々春暖の好時節と相成候處愈御多祥賀候偖今回は存じよらず美事なる菓子折頂戴仕りありがたく御禮申上候早速同人と共に賞味仕候
 過日新《原》紙上にて拜見仕候處大兄は現任の《原》御辭任の樣子に御座候へば定めし其内御歸京の事と存候其折御面語の上萬々御禮可申上候先は乍略義郵便右御れいまで 早々拜具
    四月六日       金 之 助
   狩 野 樣
 
      三七
 
 五月三十一日 木 東京帝國大學寄宿舍より 山口縣山口町伊勢小路吉富方菊池謙二郎へ
 二十四番の花も無常迅速の喩に漏れず最早緑陰時節と相成候處益御清適奉賀候生義不相變寄宿に起臥仕居候病氣も何處へやら行方知れず相成候へども猶醫師の診察を受け豫防の爲め服藥も仕居候大兄目下如何御消光被遊候や些と近況御報知可被下候小生は其後毎日弓術を強勉致居候へども天性の不|氣《原》用中々上達の見込無之去りながらこゝが辛防處と入らざる處に負惜みを出し朝夕兩度に百本位は毎日稽古致居候中らなくとも少しは面白く散歩抔は全く療止仕候小屋坂牧吉田長谷川齋藤西谷等皆々執心に候昨今は諸氏とも大分上達弓術部は殆んど文科の專有と相成候位其代り特別に上手も無之只數でこなす積りに御座候過日より賄の後に柔道劍道の道場を開き有志の面々頻りに勉強致居候小生も少し撃劍でも始め度と存候へども餘り運動の過劇なると手頃の相手のなきに閉口致し差控へ居候斯樣に運動は隨分出精致候へども肝心の研究の方は一向はかどり不申此學年はまんまと遊んで通り拔け候是も病氣の爲と自ら良心に對し辯護致居候兎角理窟は何とでもつけらるゝ者に御座候狩野氏も過日より出京兩三度面會仕候隨分多忙の樣に見受け申候昨年は御存じの如く夏中寄宿に蟄居敦居候故今年は休暇に相成次第何れにか高飛を仕る積りに御座候大兄暑中休暇中の御計畫は如何に御座候や多分御出京の上御歸省の事と存候折よくば其時拜顔を得度先は近況御伺ひ迄 早々頓首
    五月三十一日      金 之 助
   菊 池 賢 契
         座下
 
  三八
 七月二十五日 水 大塚(當時小屋)保治へ〔封筒なし〕
 拜啓仕候小生義今七時二十五分の※[さんずい+氣]車にて出立午後六時頃當地着表面の處に止宿仕候木暮武太夫方へ參り候處浴客充滿にて空間なく因て同家番頭の案内にて兩三家の空間相尋ね候處思はしき處無之ありとても一人にては先方にて困ると申す樣な事にて不得己當家にあり候勿論上等の處にては無之候へども室は北向の六疊にて兼て御話しの山光嵐色は戸外に出でなくとも坐して掬すべき有樣に少しは滿足致候然し浴室抔の汚なき事は餘程古風過ぎて餘り感心仕りがたく候然し汚なき事は伊香保の特色ならんかとあきらめ居候(未だ市街は散歩せざれども)家屋は總體こけらぶきにて眼界の三分一は此不都合な茶褐色の屋根板の爲めに俗了被致候かゝる處に長居は隨分迷惑に御座候へども大兄御出被下候はば聊か不平を慰すべきかと存じ夫のみ待上候願くは至急御出立當地へ向け御出發被下度願上候也餘は後便に讓る
    七月二十五日夜      夏目金之助
   小 屋 樣
 
      三九
 
 九月四日 火 ト便 東京帝國大學寄宿舍より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 拜啓昨夜又々持て餘したる酒嚢飯袋を荷ひてのそ/\と歸京仕候小生の旅行を評して健羨々々と仰せらるゝ段情なき事に御座候元来小生の漂泊は此三四年來沸騰せる脳漿を冷却して尺寸の勉強心を振興せん爲のみに御座候去すれば風流韻事抔は愚か只落付かぬ尻に帆を擧げて歩ける丈歩く外他の能事無之願くば到る處に不平の塊まりを分配して成し崩しに心の穩かならざるを慰め度と存候へども何分其甲斐なく理性と感情の戰爭益劇しく恰も虚空につるし上げられたる人間の如くにて天上に登るか奈落に沈むか運命の定まるまでは安|身《原》立命到底無覺束候俊※[骨+鳥]一搏起てば將に蒼穹を摩すべし只此頸頭の鐵鎖を斷ずるの斧なきを如何せん抔と愚痴をこぼし居候も必竟驀向に直前するの勇氣なくなり候爲と深く慚愧に不堪去月松島に遊んで瑞巖寺に詣でし時南天棒の一棒を喫して年來の累を一掃せんと存候へども生來の凡骨到底見性の器にあらずと其丈は斷念致し候故踵を回らして故郷に歸るや否や再び半肩の行李を理して南相の海角に到り日夜鹹水に浸り妄りに手足を動かして落付かぬ心を制せんと企て居候折柄八朔二百十日の荒日と相成一面の青海原凄まじき光景を呈出致候是屈究と心の平かならぬ時は隨分亂暴を致す者にて直ちに狂瀾の中に没して瞬時快哉を呼ぶ折宿屋の主人岸上より危ない/\と叫び候故不入驚人浪難得稱意魚と吟出したれど主人禅機なき奴と相見〔え〕問答も其丈にて方がつき申候右の有樣故別段面白き事もなく只銭を使つた處が大兄よりは幅が利く丈にて其他の「コンヂシヨン」は大兄の方遙かによろしくと斷定仕候間御自身も左樣御承知可被下候俗界に在て勉強が出來ぬ由御嘆息御尤もには御座候へども學問の府たる大學院に在つて勉強すべき時間はありながら勉強の出來ぬは實心苦しき限に御座候此三四年來勉強といふほど勉強をした事なく常に良心に譴責せらるゝ小生の心事は傍で見る程氣樂な者には無之候然し申譯の爲暇さへあれば終日机に向ふ處幾分か殊勝に御座候此度も讀もせぬ書籍を山ほど携帶致候段我ながら其意を了解するに苦しみ候只「シエレー」の詩集一卷は常にと云はざれど時々あまり不快の時は繰り返し/\或部分を熟讀致し大に愉快を覺え候必竟小生此不平を散ぜん爲めではなけれど此不平の頂點に達せる折忽ち脳中の靈火炎上して一路通天の路を開き或る「プリ《原》シプル」を直覺的に感得したる如き心地致し大に胸中落付候其砌リ「シエレー」の詩を讀み候に其句々甚だ小生の考へと合し天外亦此同情の人あるかと大に愉快に存候故に御座候
 小生近日中下宿致すやも計りがたく候其折は又御報知可申上候
 先は右近況迄 早々不一
    九月四日       金 之 助
   正 岡 賢 契
          座下
 
      四〇
 
 十月十六日 火 ト便 小石川區表町七三法藏院より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ 〔はがき〕
 塵界茫々毀譽の耳朶を撲に堪ず此に環堵の室を賃して※[虫+需]袋を葬り了んぬ猶尼僧の隣房に語るあり少々興覺申候御閑の節是非御來遊を乞ふ
 
      四一
 
 十月十六日 火 ト便 小石川區表町七三法藏院より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ 〔はがき〕
 所々流浪の末遂に此所に蟄居致候御閑暇の節は御來遊可被下候
     小石川表町七十三番地法藏院にて
               夏目金之助
 
      四二
 
 十一月一日 木ニ便 小石川區表町七三法藏院より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 小生の住所は先 殿通院の山門につき當り左りに折れて又つき當り今度は右に折れて半町程先の左側の長屋門のある御寺に御座候淨土宗の寺にて住持は易斷人相見抔に有名な人豐田立本といふ 圖にて示せば
〔図省略〕
大略右の如し午後は大抵閑居す必用なければ何處へも出ず隣房に尼數人あり少しも殊勝ならず女は何時までもうるさき動物なり
  尼寺に有髪の僧を尋ね來よ
   三十一日        夏目金之助
   正 岡 賢 契
         座右
 
 明治二十八年
 
      四三
 
 一月十日 木 ト便 小石川區表町七三法藏院より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 新年の御慶目出度申納候今度は篠原孃と御結婚のよし謹んで御祝び申上候小子去冬より鎌倉の楞伽窟に參禅の爲め歸源院と申す處に止宿致し旬日の間折脚鐺裏の粥にて飯袋を養ひ漸く一昨日下山の上歸京仕候五百生の野狐禅遂に本來の面目を撥出し來らず御憫笑可被下候先は右御祝ひまで餘は拜眉の上萬々
   一月九日        夏目金之助拜
  齊《原》 藤 學 兄
 
      四四
 
 三月十八日 月 小石川區表町七三法藏院より 山口縣山口町伊勢小路吉富方菊池謙二郎へ
 拜呈仕候其後は打絶御無音奉謝候過日御招聘の件早速御返事可仕筈の處彼是不得其意荏苒今日に至り候段甚だ不調法御容赦可被下候偖小生儀今般愛媛縣尋常中學へ赴任の事と粗決定致し十中八九迄は相談も可纏と存候間貴校の方は乍失禮御斷り申上候右につき愈出發と定まり候上は彼是買調へ候品物も有之候處御存じの文なしにては如何とも致方なく因て甚だ御迷惑ながら貴方にて金五十圓程御融通被下間鋪候や尤も貴兄も隨分貧の字なるべければ(是は失敬)御手|本《原》になきは承知なれどそこの所を友達の好みと思ひ何とか御算段相願はれ間じくや尤も返濟の義は赴任後兩三月中に屹度皆濟可致若し又赴任不致事と決定仕り候へばすぐに其儘御返却可致候右否や乍憚電報にて御報被下度(若し出來なければ外に奔走せねばならぬ故)先は用事のみ早々頓首
    三月十八日      金 之 助
   菊 池 契 兄
         座右
 
      四五
 
 四月二日 火ニ便 小石川區表町七三法藏院より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ〔はがき〕
 小子出發の時期は未だ確定の場合に至らず候右御報まで 草々頓首
    四月一日
 何れ定まり次第御報知可申上候也
 
      四六
 
 四月九日 火 ホ便 松山市三番町城戸屋より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ〔はがき〕
 拜呈迂生去る七日發今九日午後二時頃當市へ著仕候右安著の御報まで餘は後便にて申上候猶御用の御節は中學校宛にて郵書御差出被下度願上候
    四月九日
 
      四七
 
 五月十日 金 ハ便 松山市一番町愛松亭より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜呈其後は御無音に打過候處愈御清適奉賀候大兄糊口の口は未だ定まり不申候や竊かに心配仕居候當地着以來教員及び生徒間との折合もよろしく只煩|鎖《原》なるに少々閉口致候のみ目下愛松亭と申す城山の山腹に居を卜し終日昏々俗流と打混じ居候東京にてあまり御利口連につゝ突かれたる爲め生來の馬鹿が一層馬鹿に相成候樣子に御座候然し馬鹿は馬鹿で推し通す〔よ〕り別の分別無之只當地にても裏面より故意に癇癪を起さする樣な御利口連あらば一挺の短銃を懷ろにして歸京する決心に御座候天道自ら悠々一死狂名を博するも亦一興に御座候
 當地着後高等師範生徒より謝状を遣はし候師弟の關係薄き今日殊更不肖小生の如き者に對し斯樣の擧動ある事ありがたき次第世の中は全く見捨たものにも無之候呵々
 道後温泉は餘程立派なる建物にて八錢出すと三階に上り茶を飲み菓子を食ひ湯に入れば頭まで石鹸で洗つて呉れるといふ樣な始末隨分結|好《原》に御座候夏は高濱と申す處に海水浴ありて毎日※[さんずい+氣]車にて往復出來候よし其他別に面白き散歩所も無之候當地下等民のろまの癖に狡猾に御座候
 先は右近況御一報まで 草々頓首
    五月十日      金之助拜
   狩 野 樣
       侍史
 
      四八
 
 五月二十八日 火 イ便 松山市一番町愛松亭より 神戸市神戸縣立病院内正岡常規へ
 拜呈首尾よく大連灣より御歸國は奉賀候へども神戸縣立病院はちと寒心致候長途の遠征舊患を喚起致候譯にや心元なく存候小生當地着以來昏々俗流に打混じアツケラ閑として消光身體は別に變動も無之候教員生徒間の折|惡《原》もよろしく好都合に御座候東都の一瓢生を捉へて大先生の如く取扱ふ事返す/”\恐縮の至に御座候八時出の二時退出にて事務は大概御免蒙り居候へども少々煩|鎖《原》なるには閉口致候僻地師友なし面白き書あらば東京より御送を乞ふ結婚、放蕩、讀書三の者其一を擇むにあらざれば大抵の人は田舍に辛防は出來ぬ事と存候當地の人間隨分小理窟を云ふ處のよし宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し大兄の生國を惡く云ては濟まず失敬々々
 道後へは當地に來てより三回入湯に來り候小生宿所は裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地恨らくは猶俗物の厄介を受け居る事を當地にては先生然とせねばならぬ故衣服住居も八十圓の月俸に相當せねばならず小生如き丸裸には當分大閉口なり
 貴君御親戚大原君より中學校員太田先生を以て不都合の事あらば何角世話をしてやらんと申し込れたり所が小生例の放任主義で未だ參堂面謁の場合にも至らず御序の節はよろしく御傳聲被下度候
 古白氏自殺のよし當地に風聞を聞き驚入候隨分事情のある事と存候へども惜しき極に候
 當地着後直ちに貴君へ書面差上候處最早清國御出發の後にて詮方なく御保養の途次一寸御歸國は出來惡く候や
 小子近頃俳門に入らんと存候御閑暇の節は御高示を仰ぎ度候
 近作敷首拙劣ながら御目に懸候
  快刀切斷兩頭蛇  不顧人間笑語※[言+華]
  黄土千秋埋得失  蒼天萬古照賢邪
  微風易碎水中月  片雨難留枝上花
  大醉醒來寒徹骨  餘生養得在山家
 
  辜負東風出故關  鳥啼花謝幾時還
  離愁似夢迢々淡  幽思與雲澹々間
  才子群中只守拙  小人圍裏獨持頑
  寸心空托一杯酒  劍氣如霜照醉顔
 
  二頃桑田何日耕  青袍敝盡出京城
  稜々逸氣輕天道  漠々癡心負世情
  弄筆慵求才子譽  作詩空博冶郎名
  人間五十今過半  愧爲讀喜誤一生
 
  驚才恰好臥山隈  夙托功名投火灰
  心似鐵牛鞭不動  憂如梅雨去還來
  青天獨解詩人憤  白眼空招俗士※[口+台]
  日暮蚊軍將滿室  起揮※[糸+丸]扇對崔嵬
 御一※[口+據の旁]可被下候
 當地出生軍人の娘を貰はんか/\と勸むるものあり貰はんか貰ふまいかと思案せしが少々血統上思はしからぬ事ありて御免蒙れり
 先は右近况御報知まで餘は後便に讓り申候
    五月二十六日      夏目金之助
   正 岡 賢 兄
         研北
 
      四九
 
 五月三十日 木 ホ便 松山市一番町愛松亭より 神戸市神戸縣立病院内正岡常規へ〔はがき〕
 破碎空中百尺樓巨濤却向月宮流大魚無語没波底俊※[骨+鳥]
將飛立岸頭劍上風鳴多殺氣枕邊雨滴※[金+肖]閑愁一任文字買奇禍笑指青山入豫洲
 追加一律 斧正を乞ふ
 
     五〇
 七月二十六日 金 ロ便 松山市二番町八番戸上野方より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 其後は手前こそ存外の御無音奉多謝候時下炎暑に向ひ候處愈御清適奉賀候小子亦幸ひに虎〔列〕拉にも赤痢にも罹らず惜くもなき壽命をぶら/\消光致居候大兄研究の御目的を以て崎陽地方へ御出張到る處大もての由結構此事に御座候小生抔田舍にくすぼり歸《原》り居候のみにて一向さ|へ《原》たる事も無之當節は餘程田舍じみ申候當夏は出來るならば九|洲《原》の山河を跋渉致度と存候へども嚢中自ら銭なくといふ景况にて奈何とも致し難く候去年以來海水浴場温泉場抔は嫌ひに相成候故金はなくとも其方の慾望は無之別段苦にもならず候
 當中學は存外美少年の寡なき處其代り美人があるかと思ふと矢張り拂底に御座候何しろ學校も平穩にて生徒も大人なしく授業を受け居候小兒は惡口を言ひ惡戯をしても可愛らしきものに御座候
 小生當地に參り候目的は金をためて洋行の旅費を作る所存に有之候處夫所ではなく月給は十五日位にてなくなり申候
 近頃女房が貰ひ度相成候故田舍ものを一匹生擒る積りに御座候此度山口高等學校より招聘を受け候へども當地の人間に對し左樣の不親切は出來惡く候へば一先辭退仕候一生の間遭逢百端此先は何うなる事やら觀じ來れば不覺暗然運は天にありと申候へども小生天公と中《原》がわるく御座候へば別に牡丹餅の棚より墜るを望み居り不申行盡天涯似斷蓬とか末は放翁の生れ代にでも相成る事と存候呵々
 先日立花より來状小生の二代目となるまで時々は厭世觀を生ずる由氣の毒の至り小生の二代目が交友間に出來ては大騷ぎに御座候ものにならぬ前御消しとめ被下度候
 先は近況御報道まで餘は後便にて萬々 早々頓首
    七月二十五日〔封筒の裏に〕
                夏目金之助拜
   齋 藤 學 兄
         座右
  東京諸友へよろしく願上候
  ゆく水の朝な夕なに忙がしき
 
      五一
 
 八月二十七日 火 松山市二番町八番戸上野方より 松山市湊町四丁目一九番戸大原方正岡常規へ
 拜呈今朝鼠骨子來訪貴兄既に拙宅へ御移轉の事と心得御目にかゝり度由申居候間御不都合なくば是より直に御出であり度候尤も荷物抔御取纒め方に時間とり候はゞ後より送るとして身體丈御出向如何に御座候や先は用事まで 早々頓首
    八月二十七日        漱  石
   子規俳仙
      研北
 
      五二
 
 十月八日 火 松山市二番町八番戸上野方より 岡山縣津山尋常中學校菊池謙二郎へ
 其後は存外御無音奉謝候時下秋冷のみぎり益御清適奉賀候先般は御地へ御就職に相成候よし新聞紙上にても散見致し御手紙にても承知致候御校は新設の黌舍のよし定めて何角御多忙の事と存候其代り隨分今迄よりも面白き事も候はんと存候隨分御奮励御盡力の程奉冀望候中子其後頗る頑健閑散に打暮し居候其代り世事とは日々疎濶に打過候段々田舍び申候結婚の事も漸く落着致候○○○のは母肺病にて没し候由につき小生には不適當と存じやめ申候矢張東京より貰ふ事に致候菅長谷川は過日熊本へ赴任致候同氏等一身上の爲めには結構の事に御座候山口は其後當參事官宛にて再び申し來候故同樣辭退致し候處今度は岡田氏より折を見て呼ぶ積り故其心にて居てくれと申來候無論往先の事などは當には致さず風船玉主義に御座候呵々先は右近况御伺ひ迄如斯に御座候 草々頓首
    十月八日        金
   菊 池 盟 兄
         座右
 
     五三
 
 十一月五日 火 ハ便 松山市二番町八番戸上野方より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓其後は存外の御無音奉多謝候時下晩秋蕭條の候如何御暮し被遊候や小生無事息|歳《原》に御座候間乍憚御休神被下度候偖小生知人にて哲學の概論丈知了致し度き由申居候もの有之候處洋書はほとんど讀めぬ人にて譯書なら何がよからんかと質問致し候へども御存じの通りの淺學にて一向相分り不申候に付きては譯書中にて極簡略のもの御面倒ながら鳥渡御報知被下間鋪候や御多忙中甚だ失敬には御座候へども右御手數願上候急ぎ候まゝ當用のみ御免可被下候 以上
    十一月四日      金 之 助
   狩 野 樣
       榻下
 
      五四
 
 十一月五日 火ニ便 松山市二番町八番戸上野方より 愛媛縣川上在大字河の内近藤へ
 拜啓仕候觀瀑の節は一方ならぬ御世話に相成御厚意の段感銘の至に不堪候野生事咋三日徒歩にて六時頃平井河原へ着夫より※[さんずい+氣]車にて無事歸松仕候先は右御禮まで匆々如此に御座候 草々不一
    十一月四日      夏目金之助
   近 藤 樣
 
      五五
 
 十一月七日 木 イ便 松山市二番町八番戸上野方より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 遂に東京へ御歸りのよし大慶の至に存候僂麻も差したる事ならざるよし隨分御氣をつけ可被成候
 小生去る二日觀瀑の爲め河の内へ參り近藤氏へ一宿翌日雨中簑と笠にて白猪唐岬に瀑一覽致候近藤宅にて觀瀑の書畫帖一覽中に貴兄の發句及び歌あり發句も書も頗る拙の樣に思はれ候僕此書畫帖を看て貴兄の處に至り不覺破顔微笑す番頭傍にありて日く其内には甚だ拙なるのも御座りますと僕叱して云ふ見苦しき故に笑へるにあらず知人あるが爲めなり
 十二月には多分上京の事と存候此頃愛媛縣には少々愛想が盡き申候故どこかへ巣を替へんと存候今迄は隨分義理と思ひ辛防致し候へども只今では口さへあれば直ぐ動く積りに御座候貴君の生れ故郷ながら餘り人氣のよき處では御座なく候
 駄句不相變御叱正被下度候可成酷評がよし啓發する所もあらんと存候 以上
    十一月六日夜      金 之 助
   升   樣
 
     五六
 
 十一月十四日 木 ロ便 松山市二番町八番戸上野方より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 御手紙拜見致候其後兩待兎角よろしからぬよし怪しからぬ事隨分御加養可被遊候小生四五日風氣にて矢張臥褥然し大した事なく結句氣樂に御座候俳壇の老將御手合せのよし定め〔て〕佳句如山湧出致候事と存候霽月抔も矢張東京にぶら付居候にや今冬上京の節は仰せなくとも押しかけて見參仕る覺悟に候へども昨今の力量にては甚だ心元なく存候三々九度の方はやめにするかも知れず如何となれば先づ金の金主から探さねばならぬからを仰せの如く鐵管事件は大に愉快に御座候小生近頃の出來事の内尤もありがたきは王妃の殺害と濱茂の拘引に御座候俳句精細の御評難有奉謝候折ふし碌堂あり合せて大に喜悦致し候人の惡口をうれしがるとは隨分性のわるき男なり小生の寫實に拙なるは入門の日の淺きによるは無論なれど天性の然らしむる所も可有之と存候拙句又々御送致候故先便の如く御存分に御成敗可被下候 以上
    十一月十三日      愚 陀 拜
   兩 待 樣
      御枕元
 
      五七
 
 十二月十五日 日 ハ便 松山市二番町八番戸上野方より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 兩三日來當地は雪と霰のみ降り非常の寒氣大に恐縮致候東京は如何に御座候や大兄御變りもなく漸次御快氣に御座候や偖東上の時期も漸々近づき一日も早く俳會に出席せんと心待ち居候先日差上候駄句中には句にならぬもの多く大に赤面致居候今度の分も同じく不出來に候へども御序の節御斧正被下度候小生二十五日頃當地出發の筈に有之候へば拙稿同日位迄に當地へ着致さず候はば御手元へ御留置被下度候
 承はり候へば日本は又々停止の厄にかゝり候由十一日より右災難にかゝり候やに承はり候左すれば十日の分は當地へ參る間敷若し御手元に御座候はゞ三ページ丈でもよし御郵送被下度候帝國文學で似角先生の惡口をいひしは醒雪と申す人にや喧嘩も惡口のやりとりと成つては下落致候
 先は當用まで 勿々頓首
    十二月十四日       金
   升   樣
       御もと
 
      五八
 
 十二月十八日 水 ホ便 松山市二番町八番戸上野方より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 遠路わざ/\拙宅まで御出被下候よし恐縮の至に存候其節何か愚兄より御話し申上候由にて種々御配意ありがたく存候小生は教育上性質上家内のものと氣風の合はぬは昔しよりの事にて小兒の時分より「ドメスチツクハツピネス」抔いふ言は度外に付し居候へば今更ほしくも無之候近頃一段と隔意を生じ候事も甚だ不本意に存居候然し之が爲め御配慮を受けんとは期し居らず候ひしなり愚兄の申す處も幾分の理窟も可有之上京の節緩々可伺候結婚の事抔は上京の上實地に處理致す積りに御座候かゝる事迄に貴意を煩はす必要も無之かと存候尤も家内のもの確と致候もの少なき故此度の縁談につきても至急を要する場合には貴兄に談合せよとは兼て申しやり置候中根の事に付ては寫眞で取極候事故當人に逢た上で若し別人なら破談する迄の事とは兼てよりの決心是は至當の事と存候
 小生家族と折合あしき爲外に欲しき女があるのに夫が貰へぬ故夫ですねて居る抔と勘違をされては甚だ困る今迄も小生の沈黙し居たる爲め友人抔に誤解された事も多からんと思ふ家族につかはしたる手紙にも少々存意あつて心になき事迄も書た事あり今となつては少々困却して居るなり是非雲煙の如し善惡亦一時只守拙持頑で通すのみに御座候此頃は人に惡口されると却て愉快に相成候呵々
 切角送つた發句の草稿をなくしては困るではありませんか舊稿を再録して上るから序の時に直して下さい
 過去日虚子に手紙を送る返事來る小生の發句を褒めてくれたり有難いやら耻しいやら恐縮の至やら
 漸々寒氣相増候龍魔隨分御氣を付可被遊候
 出京の宿も御心配ありがたし一先づ歸宅時宜によつたら御厄介になるかも知れず
 小生の事につき愚兄がどんな事を申し候やは出京の上で篤と伺ひ可申候へども大兄の御考へで小生が惡いと思ふ事あらば遠慮なく指摘して呉玉へ是交友の道なり諷刺嘲罵は小生の尤癪にさはる處|短《原》刀直入の説法なら喜んで受納可致候
 先は御返事まで 草々頓首
    十二月十八日       金
   升   樣
 
 明治二十九年
 
      五九
 
 一月一日 水 ヘ便 牛込區喜久井町一より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 依例新年の御慶目出度申納候小生事去月二十七日出京四五日迄滯京の積其内參堂致す覺悟に御座候處種々多忙にまぎれ居候處御書面頂戴恐縮の至に存候然るに來る三日午後一時過よりは久々にて友人宅に而俳句會相催す約束有之殘念ながら是亦出席仕りがたく候四日なれば閑暇に御座候五日にても都合出來可申と存候然し立花兄も御出京中の事と承はり居り且つ諸君子の御都合も可有之小生一人の爲め延會相願候も甚だ恐縮の至につき御かまひなく御開會の程希望致候先は右御返事まで 早々頓首
    一月一日          金 之 助
   狩 野 賢 兄
 
      六〇
 
 一月十二日 日 ホ便 松山市二番町八番戸上野方より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ〔はがき〕
   一月十二日
 海苔ひね〔二字傍線〕になつたる由御氣の毒に存候送別の詩拜誦後聯尤も生に適切乍粗末次韻却呈
  海南千里遠 欲別暮天寒 鐵笛吹紅雪
  火輪沸紫瀾 爲君憂國易 作客到家難
  三十巽還坎 功名夢半殘
  東風や吹く待つとし聞かば今歸り來ん
 
      六一
 
 一月十七日 金 ニ便 松山市二番町八番戸上野方より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 其後御病勢如何可成書状を見合せられたし小生依例如例日々東京へ歸りたくなるのみ歸途米山より陶淵明全集を得て目下誦讀中甚だ愉快なり練《原》卿を神戸に訪ひ築島寺及び和田岬を見る其後俳會の模樣如何過日霽月來る半夜過ぎまで話して歸る
 歸松後何となく倉忙俳句を作るの閑を得ず偶得る處亦皆拙惡なり然しながら習慣をかくと退歩の憂あり故に送る面倒ながら御批政可被下候餘は後便に讓り申候 拜具
    十六日       金
   升  樣
 
     六二
 
 二月七日 金 ロ便 松山市二番町八番戸上野方より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 其後は存外の御無沙汰奉多謝候御送附の講義正に落掌御手數奉謝候小弟今春歸京中は何角多忙不得御面語遺憾千寓に存候今回は御男子御出生のよし奉恐悦の至存候小弟碌々として遂に三十年と相成甚だ先祖へ對しても面目なくこまり入候近々の内當地を去りたくと存候へども無暗に東京へ歸れば餓死するのみ夫故少々困却致居候諸君子皆無事勉強結構の事に存候
 講義録の代價何程に相成候や御序の節御申こし被下度候猶獨乙史の方もよろしく願上候
 時下折角御養生專一に存候
    二月七日〔封筒の裏に〕   金 之 助
   齋 藤 學 兄
         座右
 
      六三
 
 四月十六日 木 ヘ便 熊本第五高等學校より 松山市千船町横地石太郎へ
 拜啓出發の際は御見立被下ありがたく奉謝候小生去る十日發十三日午後當地に着致候當時非常の多忙永き事を書き居る暇なし願くは舊同僚諸君へよろしく御傳へ被下度候(別に手紙も出さず)
 英語教師五十五圓位にて一人あり農學士渡邊勇太郎とかいふ人なり滋賀縣尋常中學にありて後長崎の耶蘇學校に入る今は喧嘩してやめて居る由佐久間の話しでは出來る由一寸御報知申上候
    四月十五日       金 之 助
   横 地 樣
 
      六四
 
 五月三日 日 熊本第五高等學校より 坪内雄藏へ
 拜呈其後は意外の御無音平に御海恕可被下候先生愈御酒穆奉恭賀候次小生不相變碌々現今は當地高等學校に奉職致居候間乍失禮御休神可被下候偖今般小生友人高濱清なるもの先生の御宅に參上の上英文學に關する御高説伺ひ度由申居候間專門校以來の御交誼に對し同人紹介状認めつかはし候間參上の節は何卒よろしく御教訓被下度先は右用事のみ早々如此に御座候 頓首
    五月三日       夏目金之助
   坪 内 先 生
        虎皮下
 
      六五
 
 五月三日 日 熊本第五高等學校より 麹町區飯田町四丁目狩野亨吉へ
 拜呈
 其後は打絶御無音に打過候段御海恕可被下候偖小生去月以來當地高等學校に轉任奉職致居候間左樣御承知可被下候偖今般小生友人高濱清なるもの小生朋友に紹介を求め訪問の上談話抔聞くべき人を教へ呉れよと申來り候間早速貴君の處へ宛差出候間可然御高説御聞かせ被下度願上候此高濱なるものは文學的才に富みたる男にて現に俳句抔は中々上手に御座候且人物も隨分たのもしき男に御座候今般大學撰科へ入學志願致す筈にて勉強致居候へば何卒御遠慮なく種々御指導御交際被下度候先は用事のみ 早々頓首
    五月三日       夏目金之助
   狩 野 學 兄
         座右
 東京諸友へ御面會の節はよろしく御傳聲可被下候
 
      六六
 
 五月十六日 土 ハ便 熊本第五高等學校より 愛媛縣松山尋常中學校横地石太郎へ
 拜啓 偖其後學校の有樣は如何に御座候や頓と消息なき故心懸りに候へども小生も色々多忙にて遂に伺ひもせず打過居候處今般去る友人の元より今年の英文科の卒業生にて田村喜作と申す人小生の後任として松山へ參り度由につき多少目下の事情報知致しくれと申し來候然るに此田村喜作と申す人は小生よくは知らぬ故|犬《原》丈夫と引き受候譯には行かねど何にせ英文科の卒業生故別段不都合も有之間鋪かと存候若し後任者未だ定ま〔ら〕ぬならば同人の學力人物等御詮儀相成候ては如何に御座候や右至急伺ひ上候
 當地非常に家屋拂底にて漸くの事一週間程前敗屋を借り受候へども何分住み切れぬ故又々移轉仕る覺悟に御座候
 淺田は岩手へ參り候よし
 目下學校の有樣は如何に御座候や 頓首
    五月忘日        金 之 助
   横 地 樣
  乍筆〔一字不明〕御令閨へよろしく御傳聲被下度候
 
      六七
 
 六月八日 月 ハ便 熊本市光琳寺町より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 御紙面拜誦仕候虚子の事にて御心配の趣御尤に存候先日虚子よりも大兄との談判の模樣相報じ來り申候虚子云ふ敢て逃るゝにあらず一年間退て勉強の上入學する積りなりと一年間にどう變化するや計りがたけれど勉強の上入學せば夫でよからん色々の事情もあるべけれど先づ堪忍して今迄の如く御交際あり度と希望す小生の身分は固何時免職になるか辭職するか分らねど出來る丈は虚子の爲にせんとて約束したる事なり當人も夫を承知で奮發して見樣といひ放ちたるなり雙方共別段の事故新たに出來ざる内は其積りで居らねばならぬと存候小生が餘慶な事ながら虚子にかゝる事を申し出たるは虚子が前途の爲なるは無論なれど同人の人物が大に松山的ならぬ淡泊なる處、のんきなる處、氣のきかぬ處、無|氣《原》樣なる點に有之候大兄の觀察點は如何なるか知らねど先づ普通の人間よりは好き方なるべく左すれ〔ば〕左程愛想づかしをなさるゝにも及ぶまじきか或は大兄今迄虚子に對して分外の事を望みて成らざるが爲め失望の反動現今は虚子實際の位地より九層の底に落ちたる如く思ひはせぬや何にせよ今度の事に就き別に御介意なく虚子と御交誼あり度小生の至望に候小生よりも虚子へは色々申し遣はすべく候
 妻呼迎の件色々御心配被下ありがたく存候實は先便申上候通父同道にて兩三日中に當地へ下向の筈に御座候間御休神被下度候當夏は東京へ參り度候へども妻の事件で如何なるやら分らず
 近頃は一月頃より身體の御具合あしき由精々御保養可然名譽齷齪世事頓着深く御禁じ可被成虚子の事抔はどうでも御抛擲なさいよ 頓首
    六月六日〔封筒の藁に〕   愚 陀 佛
   子 規 樣
 
      六八
 
 六月十一日 木ニ便 熊本市光琳寺町より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 中根事去る八日着咋九日結婚略式執行致候近頃俳况如何に御座候や小生は頓と振はず當夏は東京に行きたけれど未だ判然せず俳書少々當地にて掘り出す積りにてあり候處案外にて何もなく失望致候右は御披露まで餘は後便に讓る 頓首
  衣更へて京より嫁を貰ひけり
              愚 陀 佛
   子 規 樣
 
      六九
 
 六月十一日 木 ニ便 熊本市光琳寺町より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 拜啓
 其後は存外の御無音奉謝候時下向暑の候愈御清穆奉恭賀候次に小生不相變頑健過般より當地高等學校へ轉任致候間左樣御承知被下度候
 偖小生今般廣鳥縣士族中根重一長女鏡と結婚致候間小生同樣御交際被下度先は右御披露まで草々 頓首
    六月十日      夏目金之助
   齋藤阿具樣
 
      七〇
 
 六月十一日 木ニ便 熊本市光琳寺町より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓
 漸々暑氣相近き候處愈御清穆奉賀候次に小生不相變消光致居候間乍憚御休神被下度候偖小生義今般廣島縣士族中根重一長女鏡と結婚致候に就ては小生同樣御交際相願度先は右御|被《原》露まで草々如此に御座候 頓首
    六月十日       夏目金之助
   狩野享吉樣
 
      七一
 
 七月十六日 木 (時間不明) 熊本市光琳寺町より 麹町區飯田町四丁目狩野亨吉へ
 
 日々暑氣相加はり申候處不相替御清穆奉恭賀候小生無異碌々消光致居候間乍憚御休神可被下候今般は小生新婚の御祝儀として一同御打揃御撮影被下遙かに御惠投にあづかりありがたく奉謝候紀念として永く筐底に保存致し珍重可致候
 當暑中は矢張東京にて御暮し被成候御積りにや小生は上京致したく候へども都合により參りがたからんかと存候時下炎熱の候に候へは可成御攝生專一に存候先は右御禮まで草々如斯に候 頓首
    七月十六日     金 之 助
   狩 野 樣
       研北
 
     七二
 
 七月二十四日 金 ホ便 《〔?〕》熊本市光琳寺町より 松山市二番町イ九一番戸玉蟲一郎一へ
 酷暑の候愈御清穆奉賀候次に小生無異消光致居候間乍憚御休神可被下候今回は御友人の御勸めにて御地中學校へ御轉任のよし奉存珍重〔候〕松山中學の生徒は出來ぬ癖に隨分生意氣に御座候間可成きびしく御教授相成度と存候又地方の人情は伶※[人偏+利]の代りに少しも質朴正直の事無之候間是亦御含み置相成〔度〕候兎に角御赴任の上は充分御盡力の程奉希望候横地氏へも無沙汰に打過居候御面會の節はよろしく御高聲願上候同氏は温厚の好人物に御座候間萬事打明て御相談可然と存候時下炎熱堪え難く御座候幸ひ御自愛可被遊願上候先は時候御伺ひ旁御返事迄草々如斯に御座候 頓首
    七月二十四日      金 之 助
   玉 蟲 樣
       虎皮下
 
      七三
 
 七月二十八日 火 熊本市光琳寺町より 在獨乙大塚保治へ
 御存じの如く當地は只今土曜中にて非常の暑氣毎日々々弱り果居候處大兄の御近況如何に御座候や先日は獨乙着の御手紙正に拜受仕候愈御清適御勉學の御模樣結構の事に存候國家の爲め御奮勵有之度切に希望仕候次に小生當四月より當地高等學校に轉任矢張り英語の教授に其日/\をくらし居候不相變御無事に御目出度のんきに御座候當地は菅法師抔も有之大に都合よく御座候へども暑氣のはげしきには殆んど閉口致候丸で蒸風呂に入りたらんが如く實に御苦|脳《原》の程御覽に入れ度と存候獨身に候へば疾に避暑とか何とか名をつけて逐電可致筈の處當六月より兼て御吹聽申上置候女房附と相成申候へば御荷物携帶で處々をぶらつくも何となく厄介なるのみならず隨分入費倒れの物品に候へば釜中の苦を忍んでぐず/\致居候御笑ひ被下度候小生は東京を出てより松山松山より熊本と漸々西の方へ左遷致す樣な事に被存候へば向後は琉球か臺灣へでも參る事かと我ながら可笑しく存居候爲朝か鄭成功の樣な豪傑になれば夫でも結構と思ひ候へども愈土蕃と落魄しては少々寒心仕る次第に御座候
 過日御出立後玉影一葉東京御本宅より御郵送被下ありがたく奉拜謝候
 或は御承知とは存候へども過日三陸地方へ大海嘯が推し寄せ夫は/\大騷動山の裾へ蒸氣船が上つて來る高い木の枝に海藻がかゝる抔いふ始末の上人畜の死傷抔は無數と申す位實に恐れ入り山忠助さん抔と洒落る場合でないから義損金徴集の廻状がくるや否や月俸百分の三を差出して微衷をあらはしたと云ふ次第に御座候然し是は職員全體共に出金致したる事故別段小生の名譽にもなるまじきかと心痛致居候
 偖御地にて面白き事も有之候はゞ御閑暇の時でよろしいから御一報可被下候京都大學は愈設立のよしにて過日來續々官費留學生派遣に相成候東京の諸友は不相變の樣子に御座候先は右左右御伺ひの爲め草々如斯に御座候 頓首
    七月二十八日
      熊本市光琳寺町
              夏目金之助
 右は小生の寄寓致居候宿所に御座候
                 金 之 助
   大塚學兄
      座右
 
      七四
 
 九月十八日 金 水落義一へ〔三十八年十二月十日發行『手紙雜誌』より〕
 其後は打絶御無音に打過候處、愈御清穆、奉恭賀候。御句毎度ながら新《原》紙上にて拜見致候。近來は又滿月會とやらの御催し有之候よし、是亦新聞にて拜見致候。小生抔も上坂の節は御席末に列し度と、今より願上置候。然し來熊以來は詩才萎靡、洵に嘆息の至に御座候。當地は餘程野蠻なる處、種々の點に於て喫驚致す事のみに御座候。其代り其に追隨せる野趣も有之候へども、何分筑紫の果に候へば、何角不便を感じ候のみ。過日は兼て御話しの△△集御惠投被下、ありがたく奉謝候。拙吟當座の御笑草にまで御覽に入候處、却て御掲載に相成、慚愧此事に御座候。早速御禮申上べき筈の處、彼是取紛れ居候爲め、失敬致候。不惡御宥恕願上候。近來各地とも稀有の水害のよし、御地も多少出水の模樣と承はり候。高堂別段の御障りも無之事と存候。先は右御禮まで、草々如比に御座候。頓首。
    九月十八日       漱  石
   露 石 樣
       研北
 
      七五
 
 九月十八日 金 藤井乙男へ〔封筒なし〕
 當四月以來當地に在勤罷在候處無精もの故一遍の御通知も致さず打過候段失敬御免可被下候大兄博多に御在勤の事もよく存じ居候へども未だ一度も御面語の機を得ず遺憾千萬に存候若し御來熊も有之候はば御來訪の程懇願致候御來書の趣は委細承知致候何れ空位でも有之候はば御口入位は必ず仕るべく候御申越の如く中學と申す處教授以外に種々の面倒なる事有之小生抔も大に閉口致候昔しなら武士は相見互と申す處まことに御氣の毒に存候御句度々新聞雜誌にて拜見致候小生詩才漸々頓座閉口致候御高吟時々御示し被下候はば幸甚の至に存候時下秋冷の候隨分遣體御攝生可被遊候 頓首
    九月十八日       金 之 助
   藤 井 樣
       研北
 
     七六
 
 九月二十六日 土 ハ便 熊本市合羽町二三七より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 其後御月見も無事に打過候處世間は何となく海嘯以來騷々しきやに被存候東京は定めて目ざましき模樣ならんと存候大兄御病氣過日來少々よろしからぬやに承はり候只今の處如何に候や隨分御養生專一に御座候小生當夏は一週間程九|洲《原》地方※[さんずい+氣]車旅行仕候俳句も近頃は頓と浮び申さず困却致候夫にも關ら|ぬ《原》小生の駄句時々雜誌抔に出るよし生徒抔の注進にて承知致候少々赤面の至と存じ何か傑作をものせんと思ひ立つ事有之候へども思ひ立つのみにして毫もものにはならない事が不思議に御座候大兄近頃は文筆の方は餘程御勉強の模樣雜誌の廣告にて承知仕候新體詩會抔に《原》も御發起のよし結構に存候時に竹の里人と申すは大兄の事なるや序ながら伺ひ上候虚子修竹大坂にて滿月會に出席致候よし露石より申し來り候ちと御閑の節俳壇の樣子にても御報知被下度候俳書購求一件は大兄より虚子にでも御托し被下度候又同子に御面會の節活版の七部集及故人五百題一部づゝ乍面倒送る樣御依頼被下度候
 序に附記す小生今回表面の處に移轉せり熊本の借家の拂底なるは意外なりかゝる處へ来て十三圓の家賃をとられんとは夢にも思はざりし「名月や十三圓の家に住む」かね轉居の事虚子にも御傳被下度候
  月東君は今頃寐て居るか
    九月二十五日     愚 陀 佛
   子 規 樣
  駄句少々御目にかけ候友人菅虎雄の句も同時に御批點被下度候
 
      七七
 
 十月十一日 日ニ便 熊本市合羽町二三七より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 秋冷相催し候處愈御清穆奉恭賀候小生不相變頑健消光罷在候間御休神可被下候偖今般同僚佐久間信恭と申す人物本邦及び支那の歴《原》に就き研究被致候處貴君は右歴に關する書物數多御持參のよし承はり候由にて左の條項に付き乍御面倒御手數を煩はし度旨小生方へ申來候につき不取敢御迷惑相願候
 一本邦及び支那歴に關する書物の目録(但し大兄御所持の分)
 一右二國の古歴
 一歴に關する洋書(大兄從來御參考又は御承知の分)
 (但し是は是非と申す程にはあらず)
 右甚だ御手數の至と存候へども右佐久間氏事頃日來該事件につき色々取調居られ候につき可成は友人の情誼として便宜を與へ度と存候につき御序の節御報知を煩はし度右御願迄早々如斯に御座候 頓首
    十月十一日       金 之 助
   狩 野 老 兄
         梧右
 
      七八
 
 十一月一日 日 ハ便 熊本市合羽町二三七より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓仕候先日は御面倒の事相願候處早速御所藏の書籍目録御送付被下ありがたく存候直ちに佐久間氏へ一覽爲致候處同氏も非常に滿足致し大兄へよろしく御禮申上呉候樣傳言に御座候右目録は目下佐久間氏の手|本《原》に有之何れ其中御返却可致と存候へども猶當分の間御貸與被下候樣小生より懇願致候尤も至急御取調の御必用も御座候へば何時にても御返却致す樣取計ひ可申候間御遠慮なく御申聞被下度候先は右御禮まで早々如此に御座候 頓首
    十月三十日        夏目金之助
   狩 野 樣
       研北
 
     七九
 
 十一月十五日 日 ハ便 熊本市合羽町二三七より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 拜啓
 こゝに一つの御願有之候先頃學校の教務掛の庭に靈芝とか何とかいふものが生たと申すにより小生に其詩を作つて呉れと申し來り候處が小生は御存じの通りの詩人なれば何とか言ひ拔けて胡魔化さんと存候處運のわるき時は困るものにて小生の斷はりたるを謙辭とのみ推了して呉れ果は自宅迄押懸來り依頼致候につきそこは※[金+夷]面の小生遂によろしいと受合申候夫より幼學詩韻抔をひねくりちらしやつとの事で五絶五首を作り候へども自分ながら此が拙の詩でげすと人に贈る譯にも相成兼るといふ次第で不得已貴公を煩はして種竹先生の添削を仰ぎ度と存候尤も面倒なれば右五首の中只一首丈にてよろしく候間可成詩になりそうなものを捉へて詩に御成し被下候へば夫でよろしく候化※[金+夷]爲金事は化學上に於ても文學上に於ても同樣困難の事と存候間地金のまゝ少々御錬鍛の程願上候若し又それも御面倒ならば小生の代理に一句御浮び被下候へば幸甚の至に存候右甚だ御迷惑ながら種竹氏に御依頼の程懇願致候
 日本人は當地にて購讀の道を開き候へば御送に及ばす候新聞代價は君に迷惑を懸ては濟ぬと思ひ爲替で送り候然し一部位はどうで都合がつくといふなら送らぬ但し君が拂ふ位なら僕が拂ふも同じ事故是より送る事と致したし
 小生近頃藏書の石印一|牧《原》を刻して貰ひたり章曰漾虚碧堂圖書と漾虚碧堂とは虚子と碧桐桐を合した樣な堂號なれど是は春山疊亂青春水漾虚碧と申す句より取りたるものに候刻者は伊底居士とて先般より久留米の梅林寺に滯留し近頃當地見性寺の僧堂に參り居候もの篆刻の餘暇參禅の工夫に餘念なき樣子刻風は蘇爾宣篆法とかいふ奴を注文致候頗る雅に出來致候一寸御覽に入度と存候へども肉を買はぬ故押す事が出來ず次回に送るべし
 俳句頗る不景氣につき差控へ申候其癖種切の有樣に御座候
 大兄の新體詩(洪水)拜見致候音頭瀬抔よりも餘程よろしくと存候然も處々俗語を調和せんとて遂に俗語に了るものある樣に被存候貴意如何
 虚子の俳論を讀み候内容と外容の議論「論事矩」を應用したる所面白く御座候或點に於て内容を充すと同時に外容を縮めざる事を力むべきは誰も同感ならんと存候然し夫が爲め好んで詩形の外に逸出せば遂に俳句なきに至らんか况んや外容内容共に依然たるの時に於て猶好んで字句を※[月+鼓]《原》張せば不必要の勢力を使用するに過ぎざらん虚子好んで長句を用ふ是既に十七字の詩壘を離れんとするなり全く離るゝは可なり虚子今日の擧動は半身を壘外に排して敵を麾ぐか如し矢石の標とならずんは幸なり敢て貴意を問ふ
 そんな事はどうでもよし先は用事まで右可成例によらず御早く願ひます穴賢
    十一月十五日       ※[漱の旁が攵》《原》  石
   子 規 樣
       研北
 
      八〇
 
 十二月五日 土 ヘ便 熊本市合羽町二三七より 神田區淡路町一丁曰一高田屋方高濱清へ
 來熊以來は頗枯淡の生涯を送り居候道後の温泉にて神仙體を草したる事宮島にて紅葉に宿したる事など皆過去の記念として今も愉快なる印象を脳裡に留め居候今日日本人三十一號を讀みて君が書牘體の一文を拜見致し甚だ感心致候立論も面白く行文は秀でゝ美しく見受申候此道に從つて御進みあらば君は明治の文章家なるべし益御奮勵の程奉希望候先日世界の日本に出たる「音たてて春の潮の流れけり」と申す御句甚だ珍重に存候子規子がものしたる君の俳評一讀是亦面白く存候人事的時間的の句中甚だ新にして美なるもの有之候樣に被存候然し大兄の御近什中には甚だ難澁にして詩調にあらざるやの疑を起し候ものも有之樣存候(心安き間柄失禮は御海恕可被下候)所謂べく〔二字右○〕づくし抔は小生の尤も耳障に存候處に御座候然し「吾に醉べく頭痛あり」又「豐年も卜すべく新酒も釀すべく」抔は至極結構と存候凡て近來の俳句一般に上達巧者に相成候樣子に存候讀賣抔に時々出るのは不相變まづき樣覺候まづしと云へば小生先頃自身の舊作を檢査致し其まづきことに一驚を喫し候作りし當時は誰しも多少の己惚は免るべからざる事ながら小生の如きは全く俳道に未熟の致す處實に面目なき次第に候過日子規より俳書十數卷寄贈し來り候大抵は讀み盡し申候過日願上候七部集及び故人五百題(活字本)は御面倒ながら御序の節御送願上候子規子近來の模樣如何此方より手紙を出しても一向返事もよこさず多忙か病氣か無性か或は三者の合併かと存候小子僻地に罷在樂みとする處は東京俳友の消息〔に〕有之何卒爾後は時々景氣御報知被下度候近什少々御目にかけ候御ひまの節御正願上候小生藏書印を近刻致候是亦御覽に入候 頓首
    十二月五日      漱  石
   虚 子 樣
 
 明治三十年
 
      八一
 
 一月十二日 火 ト便 熊本市合羽町二三七より 松山市千船町横地石太郎へ
 御書拝見仕候心經弘治版一葉御寄贈被下ありがたく拜受仕候又書籍の件拜承仕り候小生借用書籍は凡て十卷前後と存候右は全部とも中村氏に托し候山口氏が四冊は中村より受取り殘卷三卷は受取らずと申す事尤も不審に存候右は中村氏より返納せざりしか又は山口氏が手控を消す事を忘却せるかにては無之候や小生第壹回の談判を山口氏に始めたる時藏庫中を捜索し若し見當らずば中村へ今一度照會致し呉れとの主意に御座候處其後二月許り何の返事も無之貴書に先つ事一日始めて同氏より一書を受取候處書籍の有無及び書名も判然不致且つ中村より受取りたりとあるのみにて何卷丈受取何々の殘卷が不明なるや分らず雜誌とか何とか有之候へども如何なる種類の雜誌なるや小生勝間田寄附の書籍は正に借用致候是は「スコツト」の小説三四部と記|臆《原》致候へども右は慥かに他の教科書用の書籍と共に中村に托し候に相違なく候雜誌の如き勝間田にせよ何にせよ借用したる覺無之候何卒今一應書籍の名を分明に致し書庫中を捜索し若しなければ中村へ今一應御照會被下候樣山口氏へ御命じ被下度候若し夫でも相分り不申候はゞ小生甘んじて辨償の責に任ずべくと存候
 兎に角山口氏が所轄の書籍に對し小生轉任後敷月の後まで其儘に致し置き始めて突然書生抔に對し小生が未だ書籍を返納致し居らぬ由口外致し候のみならず小生より照會致し候も二三月間何等の返事も致さゞる事第一學校へ對しては不親切なるのみならず小生へ對しても至當の處置と存じ不申候右御參考まで申上候
 先は用事まで 早々頓首
    一月十二日        金 之 助
   横 地 學 兄
         座右
 
     八二
 
 三月〔?〕一日 ニ便 熊本市合羽町二三七より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 啓
 其後は此方よりこそ意外の御無沙汰先以て大兄愈御清穆奉恭賀候菅氏病氣に付御問合せ相成候處同人病氣は別段學校の職務上の心配或は宴會抔の過飲より生じ候ものとは存じ不申病氣になる程暴飲したり心配するは餘程の大事件に御座候左樣の事發生する前に菅の事なれば辭職致して居る筈に御座候此回の病氣は全く夫等に關係なきものと小生は愚考致候尤も一時は少々※[口+各]血致し醫師の勸誘にて二週間程轉地療養致し候其當時は元氣も少々衰へ候樣子に御座候處昨今は如舊活溌に精勤被致居候間御安意可被下又在京諸友へも右よろしく御傳聲の程希望仕候尤も病氣が病氣に候へば油斷は頗る危險と存候猶今後の模樣により御報道可申上候
 兼て佐久間氏拜借致居候|歴《原》書目録の儀は未だ返却不致候故近日の中催促の上御送付可申上候
 長谷川氏もよろしく申上候
 先は御返事まで 早々不備
    三月一日        夏目金之助
   狩 野 樣
       几下
 
      八三
 
 四月十八日 日 ハ便 熊本市合羽町二三七より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 腰部切開後の景况あまり面白からぬ由困つた事と存候過日は美事なる短冊御寄送被下ありがたく奉謝候時々徒然の折は手習の爲めむだ書致し居候今春期休に久留米に至り高良山に登り夫より山越を致し發心と申す處の櫻を見物致候歸途久留米の古道具屋にて士朗と淡々の軸を手に入候につき御慰の爲め進呈致候勿論雙方とも眞僞判然せず且士朗の句月花を捨て見たれば松の風といふは過日差上候梅室の句と同じ樣に記|臆《原》致し居候元來の駄句と存候に如何なれば色々の俳人の筆に登るにや是も僞物の一證かもしれずと存候然し疎畫は句よりも中々風韵ある樣見受申候淡々の方は畫は三文の價値も無之字は少々見處あり句に至つては矢張り駄の方と存候是も僞物かもしれず何せよ御笑草にまで御覽に入候先日來山川を當校に招聘致す事に相成目下拙宅に寄寓致居候小生東京のある學校にて招きを受け候處待遇も申分なけれど何分學校の義理あり且校長の依頼山川へ對しての信義抔の點より謝絶致す事と相成候虚子北堂の病氣はか/”\しからぬ由にて猶滯松のよし氣の毒の至と存候近頃小説を物せられたる由廣告で拜承嘘から出た眞と相成候にや呵々近業御覽に入候間御叱正願上候 不一
    四月十六日        漱  石
   子 規 樣
       藥湯爐邊
 
      八四
 
 四月二十三日 金 ハ便 熊本市合羽町二三七より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ〔封筒の表側に「必親展」とあり〕
 腫物猶々長大に生長※[麻垂/厖の中]然たる腰邊の大塊嘸かし御難儀と存候精々御自愛可然と存候
 小生身分色々御配慮ありがたく奉謝候實は教師は近頃厭になり居候へどもさらば翻譯官はといふと果してやつて除るといふ程の自信と勇氣無之第一法律上の言語も知らぬ我々が外務の翻譯官と突然變化した處で英文の電報一つ滿足には書けまいと思ふなり尤も一二年見習の上は多少地のある事なれば何とか故《原》魔化しもきくべけれど差當りては到底高等官處か屬官の價値もあるまじと存候實は去年十月頃教師をやめたいが好分別はなきやと中根に相談致し候處外務の翻譯官に依頼し置きたり(多分小村なるべし)と申し越したり尊叔が課長なれば非常の好都合なれど自信なき事に周旋を頼み後に至り君及び加藤氏に迷惑がかゝりては氣の毒故其職掌事務等詳細の事相分り是ならば隨分君の面目を損する事なく遣つて行けるといふ見込がつく迄は先づ差し控た方可然と愚考致候
 仙臺の高中に目下行き度考なし仙臺は愚か東京の高等學校でも多分は辭する考なり否教師をして居る位なら當分現在の地位にて少し成蹟を現はしたる後にて動きたし過日高等商業學校長小山より中根を介して年俸千圓高等官六等にて來ぬかと申し來り中根も金の不足あるならば月々補助するから歸京せよとまで勸めたれど一方にては當地の校長は是非共居つて呉れねば困ると懇々の依頼なりし故宜しい貴公が夫程小生を信じて居るならば小生も出來る丈の事はすべし又教師として世に立つ以上は先づ當分の處御校の爲に盡力すべしと明言したり且此語は校長のみならず山川を呼ぶ時にも明答に及びたる次第目下假令如何なるよき口ありとも自ら進んで求むるの意なく候尤も小生と當學校との關係變化する場合或は一身の事情にて斷然教育界を去る場合や或は官命にて是非なき場合は別問題にて自由に進退し得る境遇に御座候今回の翻譯官抔も教師の口で他へ轉ずる譯でないから小生に意思あり外務省で採用すれば當校を去る點に於ては別に苦情もある間鋪と思へども如何せん進んで願はれぬと申す譯は冒頭に申せし次第なれば是非なし
 偖小生の目的御尋ね故御明答申上たけれど實は當人自らが所謂わが身でわが身がわからない位故到底山川流に説明する譯には參り兼候へども單に希望を臚列するならば教師をやめて單に文學的の生活を送りたきなり。換言すれば文學三昧にて消光したきなり月々五六十の収入あれば今にも東京へ歸りて勝手な風流を仕る覺悟なれど遊んで居つて金が懷中に舞ひ込むといふ譯にもゆかねば衣食丈は小《原》々堪忍辛防して何かの種を探し(但し教師を除ク)其餘暇を以て自由な書を讀み自由な事を言ひ自由な事を書か|ゝ《原》ん事を希望致候然るに小生は不具の人間なれば行政官事務官抔は到底して呉れる人もなくあつても二三月で愛想を盡かすにきまつて居れば大抵な口では間に合はず因て先頃郵便にて今回若し帝國圖書館とか何とかいふものが出來る樣子だから若し出來たらば其方へで〔も〕周旋して呉れまいかと中根へ申てやり候處圖書館の方は牧野に面會色々聞た處恰も松方内閣成立の始めでどうなるやら夢の樣な話しなりとの返答中根より到着致候まゝ其話しは今日迄夫ナリに御座候
 右至急御返事まで草々如斯に御座候
  序に伺候一葉集といふ俳書は前後兩篇にて壹圓貳拾錢〔五字右○〕位ならば高くはなきや又芭蕉句解も八十錢〔三字右○〕位で相當の價なりや兩者共久留米で見當たれど高さう故買はなんだ安ければ今から取寄せる積りなり
 尊叔には未だ拜顔を得ざれどよろしく御鳳聲願上候
    二十三日        金
   升   樣
 
      八五
 
 五月二十八日 金 ハ便 熊本市合羽町二三十より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ〔封筒の表側に「半用事」とあり〕
 薫風の時節病魔果して如何近日蕪村の續稿を讀みて少しく輕快に向へるを知る伏して道體の安全を祈る小子因例如例碌々たり昏々たり詩腸枯れ硯池蕪す時に句あり皆句を成さず嘆息
   〔句稿略。第二十三卷一四〇−一四二頁參照。但左の三句は封筒の裏に認めあり〕
  水攻の城落ちんとす五月雨
  大手より源氏寄せたり青嵐
  水涸れて城將降る雲の峯
 こんなものばかりに候然し病中の御慰に御覽の《原》入候
 又別紙詩文稿は熊本人野々口勝太郎といふものゝ作にかゝる同人は往年商業學校の主計課を卒業し田舍新聞抔に從事し居たる處目下糊口の方に迷ひ頻りに小生方に泣き付に來るものなり當人の志願は文筆を以て月々夫婦の糊口位出來ればよしといふ也固より東京には限らねどひよつと日本〔新〕聞位にて使つて呉まいか又は他に心當りはなきか病中氣の毒ながら少々心配して見て呉ぬか願ひます 以上
    五月二十八日      漱  石
   子 規 子
       梧下
 
      八六
 
 六月八日 木ニ便 熊本市合羽町二三七より 仙臺市東一番丁五加藤滿方齋藤阿具へ
 漸々暑氣相催し候處愈御清穆奉恭賀候小子幸ひに無異碌々消光仕居候間御休神可被下候兼て御依頼申上置候歴史講本御手數の御蔭にて漸く完備深く奉鳴謝候右草稿費金七拾錢はとくに御送付可申上筈に有之候處何角取紛れ荏苒今日に至候不惡御宥恕願上候今回幸便を以て右御郵送申上候間御落掌被下度願上候
 仙臺へ御就任の事大慶の至に存候隨分國家の爲め學校の爲め御奮勵御指導の程奉希望候騷動後には却つてうまく行くものに御座候
 米山の不幸返す/\氣の毒の至に存候文科の一英才を失ひ候事痛恨の極に御座候同人如きは文科大學あつてより文科大學閉づるまでまたとあるまじき大怪物に御座候蟄龍夫だ雲雨を起さずして逝く碌々の徒或は之を以て轍鮒に比せん殘念
 小生只驚駘に鞭つて日暮道遠の嘆あり御憫笑可被下候先は右當用のみ 早々頓首
    六月八日        金 之 助
   齋 藤 學 兄
         几下
 
       八七
 
 七月十七日 土ニ便 麹町區内幸町貴族院官舍中根方より 本郷區龍岡町四清明舘赤木通弘へ
 拜啓甚だ突然の至と存候へども呈一書候陳ば貴君大學御卒業後直ちに何へか御就任御希望のよしに承はり居候處熊本第五高等學校に英語教授一名の缺員有之目下二三の候補者中より選拔中に御座候右につき貴君に於て御赴任の上英語科御擔任の御意趣も有之ば拜謁の上委細御相談仕度と存候因て明十八日午前乍失禮貴宅迄參上仕候間他に左したる御用事も無之候へば御在宅の程願上候猶御差支も有之候ば會合の場所時日御指定被下度願上候追て本件は小生一存にも參り兼候次第のみならず決著迄は多少の御協議を要し候事と存候につき目下他に御任官の口も有之候ば其方は其儘にして御拒絶にならぬ事を希望致候 草々以上
    七月十七日        夏目金之助
   赤|城《原》通弘樣
           貴下
 
      八八
 
 七月二十四日 土 チ便 麹町區内幸町貴族院官舍中根方より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 啓
 過日來種々御配慮を煩はし候赤木氏の件其後種々交渉の末愈熊本へ招聘の手續に相成候間右御禮旁御報知申上候委細は近日拜眉の節萬々可申述候 頓首
    七月二十四日       金 之 助
   狩 野 賢 臺
         研北
 
      八九
 
 八月一日 日 ト便 麹町區内幸町貴族院官舍中根方より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 一筆啓上
 毎度ながら長座嘸かし御迷惑の事と存候御傭ひ被下候車夫濱田屋主人の希望により解雇主人自ら轅棒をとつて虎の門まで送り屆け候六十錢は小生前の車夫より没収の上更に四拾錢を濱田屋の老翁につかはし候殘金貳拾錢何れ其内御返上可仕候兎に角昨夜御門前にての立まはりは一寸奇觀に候ひし御依頼の書籍其内御屆可申上候
 御北堂樣御令妹へよろしく御傳聲可被下候 以上
  夕涼し起ち得ぬ和子を喞つらく
    八月一日         愚 陀 佛
   子 規 庵
       御もと
 
      九〇
 
 八月四日 水ニ便 麹町區内幸町貴族院官舍中根方より 麹町區飯田河岸五號成瀬方赤木通弘へ
 拜啓其後御無沙汰に打過ぎ候大兄御任官の事委細熊本表校長宛にて手紙差出し候處未だ何等の廻答も無之實は校長も目下旅行中にて夫故返答の後るゝ事と存候就ては大兄履歴書は早晩學校にて入用の事と存候間御都合次第小生迄御送附被下度左すれば小生より直に校長手元へ差出し可成早く御任命の手續に致し度と存候先は用事のみ 早々頓首
    八月四日           金 之 助
   赤 木 賢 臺
         座下
 
      九−
 
 八月十七日 火 ハ便 鎌倉材木座亂橋河内屋より 麹町區飯田河岸五號成瀬方赤木通弘へ
 拜啓暑氣烈しく候處愈御清穆奉賀候過日英語御分擔の件につき御協議申上候處早速御承引被下奉謝候然る處本日熊本高等學校教頭櫻井氏よりの書面にて來學年には從來の論理受持教授黒木千尋氏やめる事に相成候に就ては該科擔當の儀貴君に願度由申來り候間左樣御承知可被下候尤も該科目は一週九時間につき過日御協議申上候英語の時間は多くとも十時間位に減少する筈に有之候尤も何年何組といふ事は時間割變更の上にて可申上と存候へども先は右至急得貴意候論理御擔任の事は兼ねての御希望と存じ候へば勿論御異存なき事と存じ候 頓首
    八月十六日        金 之 助
   赤 木 賢 臺
         梧下
 
      九二
 
 九月十二日 日 ロ便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ〔はがき〕
 小生海陸無事昨十日午後到着致候途上秋雨にて困却す當地殘暑劇し
  今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる
 小生宿所は表面の通
 
      九三
 
 九月十九日 日 ハ便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 其後は絶て御無音に打過申候漸々秋冷相催ふし候處愈御清福奉賀候御高吟乍毎度新聞紙上にて拜見致候先日御送の光風居七勝拙作とくに御笑覽に可入筈の處種々俗用の爲め今に不果素志實は何回かこゝろみ候へどもいつも果さずして已み申候發句も其後ほとんど中絶の姿東京に|に《原》三四回子規庵に會合致し候のみに御座候今夏一月程鎌倉にくらし申候駄句二三書申譯の爲め御覽に入候
 〔中斷〕
 唱和の作秋季にては甚だ困難を感じ候然し其内御笑ひ草に何か物しまゐらすべく候 不一
    九月十九日         ※[漱の欠が攵]  石
   霽 月 樣
       研北
 
      九四
 
 十二月七日 火 ト便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 其後如何御消光被成候や定めて御健勝の事と奉遙察候菅氏も漸々快氣のよし結構の至と存候
 今夏中は赤木氏件につき種々御配慮を煩はし難有存候同氏は謙讓の極とも可申人物にて萬事控目なる上性來辯論の才には甚だ乏しく且授業も今回が初回の事とて赴任の當時より論理の講義不分明の角《腹》多しと申す評判は不斷耳に致し居候へども可成鎭壓の策をとり今日迄漕ぎつけ申し候處漸々生徒も不平少なき樣に相成大に安堵致し居候然るに兩三日前突然同氏より最早教授の任に不《原》堪ざるを以て辭任を申し出られ候尤も是は赴任の當時より屡其傾向ありたる故山川小生二人にて百方奨勵の策を講じ失禮の申分ながら鼓舞鞭撻する位にして漸く今日迄持ちこたへ候次第に候前述の如く小心翼々たる人物故一言にても生徒の質問に應ずる事能はずんば再び生徒に對する面目なしとて始終缺席勝之處近來多少眼病の氣味にて專意勉強も出來ず非常の勉強をしてすら斯の如きに勉強の度を少しにても緩くせば無論職を盡す能はざるは明瞭との理由にて七日間も思考の上遂に小生迄辭職の決心を打ち明られ候右に就き通常の赤木氏なるか又は赤木氏が普通の人間なれば強く抑留も致すべき筈なれども赤木氏既に前述の人物なる上近頃は病的神經質に陷れりと見ゆる位の境界故此上強て留め候ては如何なる珍事出來致し候も計り難くと存じ遂に同氏の意志を校長に通じ遂に解雇の手續きに至る筈に相成候今回の事は同氏が過度に神貿|經《腹》なると眼病なると義務に對して非常に重く考へられしより起り候事にて生徒の不平にて不得已學校より處分致し候ものには無之候小生も山川も力の及ぶ限りは盡力致し候ものと御承知被下度今夏以來の御關係もある事なれば右一應顛末御報申上候猶松本文氏へ別段書状差し出し不申候間御面會の節御面倒ながら右御傳へ被下度候
 右につき不取敢英語の方は山川と小生とにて當分間に合せる積りに御座候へど困却致し候は論理の教師に御座候右善後策につき小生は直接に關係を有する事とて頻りに心痛罷在因て御迷惑とは存じ候へども折入つて御相談申上度と存じ候は餘の儀にても候はず實は先般赤木氏初度辭職の決心を起し候砌内々校長と後事の相談を致し候事有之其節後任者選定の一條につき小生は第一に大兄を擧候處校長の考にては大兄は到底相談に應じて呉れまじと被申候其時小生答へて無論單に論理の教師として招くとも無益の事小生等よりは遙かに先輩なる狩野氏の事なれば相應の待遇をせずばなるまじと申し候事有之其時以來小生は學校の爲め是非とも大兄に御無理を願ひ度と私かに希望し居り一方にては校長は櫻井氏と協|義《原》の上同氏の大賛成を得て今日に至り候折柄今回の事につき自然大兄を無理にも引き起さんとの念を生じ候因て甚だ突然の至とは存じ候へども右《腹》の條件にて再び教育界に御出現の上當校の爲め生等の爲め御來任被下麻鋪候や
 一大學豫科教頭の地位に立つ事
  (櫻井氏は工學部主事に任ぜられ到底現今の教頭を兼任し難き事と御承知被下度候)
 一教頭事務の外論理學の授業を擔任する事(九時間)別に五六時の英語でも補助を願へば猶更結構の事に御座候然し目下の處は生等にて繰合せる積故夫も不必要かも知れず兎〔に〕角授業時間は十五時を超過せぬ事
 一待遇は年俸千六百圓の事
  官等は大兄從前の官等六等なれば不得已六等然し最近の好機(校長の話しにては四五日にてもよし)を以て五等に上す事
 右は校長櫻井兩氏とも異議なきのみならず非常の希望に御座候小生は無論|仲《原》間に立つ位故固より願ふ所又山川も同感ならんと存候上田氏は大兄とは矢張り多少の關係もあり固より異存のある筈なからんと存候其他権衡上折合上の事につき毫も大兄の顧慮を要する事は無之萬一の場合には小生誓つて御迷惑にならぬ樣取計ふ積りに御座候此點は御安心願上候又生徒の方面に關しても無論御掛念なきは保證する處に御座候又學校現時の模樣を申せば至極平穩にて別段御配慮を要する事も見えずと存候校長は御存じの通りの長者にて其弊なきにあらねど輔佐の爲し樣にては隨分見込のある學校と存じ候右篤と御考慮の上何分の御返辭待上候最後に一言申し加へ候今回の事は御相談と申すよりも御願ひに御座候 頓首
    十二月七日        金 之 助
   狩 野 賢 臺
         研北
 
      九五
 
 十二月十二日 日 ニ便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 愈窮陰の時節と相成候御病體近日の模樣如何に候や不相變筆硯御繁昌の樣子故まづ御快氣の方と遙察致候小生碌々矢張因例如例に御座候俳句頓とものにならず嚢底と共に拂底に御座候頃日五言律一首を得候間御笑覽に供し候御大政願上候
  掉頭辭帝闕
  倚劍出城※[門/堊]
  ※[山/卒]※[山/律]肥山盡
  滂洋筑水新
  秋風吹落日
  大野絶行人
  索寞乾坤※[黒+甚]
  蒼冥哀雁頻
 俳句少々御目にかけ候序を以て御批正願上候 以上
    十二月十二日        金
   升   樣
       凡下
 
     九六
 
 十二月十七日 金 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 千葉縣千葉尋常中學校菊池謙二郎へ
 啓窮陰の時節と相成候處益御多祥奉恭賀候偖今夏東京表にて神面語のみぎり一寸御評判有之候津山尋常中學の英語教授奥(泰二郎氏か)は其後矢張同校に奉職被致居候や實は本校にて來年四月頃迄には英語教師一名是非共雇入の運びに立ち至るべきかと存じ候につき只今よりそろ/\と候補者選定に着手致し猶進んでは内約丈にてる取極めんとの下心も有之候に就ては同氏の性行學力其他大兄の御承知の箇條委細の處御報知を煩はし度同時に大兄若し同氏を以て高等學校英語教師に差し支へなしとの御見込に候へば同氏へも書状御差出被下來|月《原》四月頃迄には津山を去り得るや又第五高中に來り得るや一應御問ひ合せ被下間敷候や大兄の御紙面拜見の上又同氏の返答如何により猶進んで交渉致す必要も生じ候はゞ又々御手數を煩はすか或は直接の話し合ひに致し度と存候
 猶可成丈多數の候補者を作り其中より選擇の自由を得度候につき奧氏へは其御含みにて只同氏の都合のみ御問ひ合せ願ひ上候成否は無論小生にも保證し難き儀に候へば左樣御承知願上候
 又此事は候補者製造の上にて始めて校長へ打ち明る手順につき(即ちある無能力の教師放逐を建議する積)徳義上秘密を御守り被下度奥氏へも其旨御通知願上候
右取急ぎ候まゝ當用のみ御免可被下候 頓首
    十二月十七日      金 之 助
   菊 池 賢 臺
         研北
 奧氏待遇上の希望抔も序に御問合せ被下度候又同氏は檢定試驗合格者と記憶致し居候が如何それも御知らせを乞ふ
 
      九七
 
 十二月二十二日 水 ト便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓未だ委細の御書面は拜見不仕候へども兩度の御電報にて御決意の程も相分り小生も大に安堵致し校長も大喜悦に御座候猶本日校長へ面會の節若し大兄を呼び迎ふる以上は無限の信用を置き萬事内相談の上にて共に責任〔を〕分ち進退を共にする決心なるや否や確とたしかめ候處小生の希望する如き決答を得候以上は向後校長の處置上もし大兄をスツパヌき漫に他職員の言を採用する等の事あらば小生責任を負ひて大兄の御一分相立つ樣可取計候間一方にては何卒本校の爲め又我々後輩の爲め斃而已の覺悟にて衝に當られん事を希望致し候猶委細の事は御面會の上にて縷々可申述候
 次に今回の事は可成丈迅速に結着致す樣校長並びに小生の希望につき御手紙御落手次第貴君履歴書大學卒業證書寫添にて文部秘書官服部氏手元迄御差出被下度(本二十二日)同時に校長よりは服部氏宛にて貴君採用の上申書並びに右履歴書進達方依頼状差し出す手筈に相定め候年末の事にて二十八日限事務を閉づる習慣故當年内には辭令御受取の運びには至る間じく校長の豫算にては來月十二三日位辭令下賜の運に相成るべし〔と〕の事に候尤も辭令の儀は當熊本表にて御受相成候て無論差し支無之候間履歴書服部氏へ御渡しの上は御一身上の用事の御都合にて一日も早く御下向あらん事生等の希望する處に有之候
 其件に連帶して甚だ御氣の毒の事出來致候は本年度學校の經費中旅費の部先日來一文もなき樣に相成候由本日始めて校長より承知仕り大に不都合の次第と存じ候へども如何せん詮方なく因て今回の御下向には甚だ我儘の至には候へども私費にて御出向被下度哀願致候
 就ては甚だ差出たる事ながら一時の御間に合せの爲め貳拾圓位に候へば旅費の一分にても御使用被下べく願上候若し御入用に候へば電報爲替にて御送可申上候間其旨御傳へ被下度候
 又熊本は至極家屋の不便なる處故御着後直ちに適當の宿を探し置く事困難に御座候且又宿屋は混雜にてよろしからず候間當分の内小生方へ御寄寓可然かと存候固より田舍にて狹隘の陋屋には候へども宿屋よりは少しは閑靜に御座候
 兎に角御來熊の日御待申上候 頓首
    十二月二十二日
   狩 野 老 臺
         淨几下
 
      九八
 
 十二月二十四日 金 ロ便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓去る二十一日發の御書面拜見仕候履歴書は先便申上候通服部氏方へ大學卒業證書寫添にて御送被下度と存候
 本校圖書目録は板行のもの一冊も無之尤も藏書も是と申す程の立派なるものに無之故印刷に付せざりしものと被察候然れば本校圖書館には御參考になる程の書物は一冊もなきものと御承知被下度候へば大差なき事と存候學校一覽は幸ひ手元に一部有之候間御目にかけ申候是とても所々改正の箇所有之候事と存候委細の事は御赴任の上にて校長又は教務庶務の役員より御説明可申上筈に致し置候
 菅氏の件は御出の上にて篤と御相談可申上候
 御受持學課の件につきでは目下の處まづ論理のみ御擔任の事と略相定まり居候多數の生徒御教授被下候とも御專門外の英語のみにては何となく間に合せの教師の如き感情も生じ候はんかと掛念致候然し是は大兄の英語の力に疑を挾んで云々致す譯には無之全く生徒並びに他の職員の思はくを小生より想像致候にとゞまり候且論理の儀は是非共大兄に願ひ度よし校長の希望に御座候間右豫め御承知被下度候黒木氏云々の件は何かの間違ひには無之候や黒木千尋氏の事なれば不人望の極解雇に相成候もの再度の就任は思ひも寄らぬ事と存候猶詳細の事は御下向の上にて萬事可申述候
 最後に一言申上候は小生は年末(二十七八日頃)より來年三四日頃迄何方へか旅行致す心算に有之尤も大兄御來熊の日限により又御問合せ等の有無により或は全然旅行を癈する決心故御下向の御日取並びに御打合せ上小生の滯熊を必要と御|見《原》認めの上は此手紙到着次第御打電を煩はし度と存候小生は旅行をやめても大兄の早く御着になる事を希望致候
 序に申上候御必要と御見認の書籍類は御自身御出立の節御携帶可然と存候通運にては非常の日數を要し候間右御注意迄申上候
 猶御用多の所甚だ恐縮の至には候へども來四月頃には當校英語教師一名是非共更迭致し度考にて目下候補を探索中に有之候間若し少しにても餘裕あらば神田氏へ御面會の上只今迄檢定試驗及第者の内出來よき人の姓名奉職地御尋ねの上御控え置被下度猶其他にも御心當り有之ば相當の御詮議を煩はし度と存候尤も是は豫め大體候補を選定の上にて校長に申し出る筈故其積りにて秘密御守り被下度候 早々頓首
    十二月二十三日夜       金 之 助
   狩 野 賢 臺
         研北
 二十八日午前中に何等の御打電なきときは來年六日頃迄には當地へ御着なきもの又小生に其間御用なきものと見傚し施行可致候もし當地御着の節は門司より池田停車場迄御乘車の事門司にて小生宛電報御出し被下候へば同停車場迄御迎ひに參上可致候御不案内の土地故御遠慮は却て御損に御座候順路は東京より徳山迄通し切符御買求めの上徳山より門司迄※[さんずい+氣]船夫より九州鐵道の事
 
 
 明治三十一年
 
      九九
 
 一月六日 木 ト便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 府下日暮里村元金杉一三七山岸方高濱清へ
 其後不本意ながら俳界に遠かり候結果として貴君へも存外の御無沙〔汰〕申譯なく候
 承はれば近頃御妻帶のよし何よりの吉報に接し候心地千秋萬歳の壽をなさんが爲め一句呈上致候
  初鴉東の方を新枕
 小生舊冬より肥後小天と申す温泉に入浴同所にて越年致候
  かんてらや師走の宿に寐つかれず
  酒を呼んで醉はず明けゝり今朝の春
  廿からぬ屠蘇や旅なる醉心地
  うき除夜を壁に向へば影法師
 御大喪中とある故
  此春を御慶もいはで雪多し
 一年の計は元日にありと申せば隨分正月より御出精明治三十一年の文壇に虚子ある事を天下に御吹聽被下度希望の至に不堪候 以上
    正月五日夜        漱  石
   虚 子 君
  乍末筆御令閨へよろしく御鳳聲願上候
 
      一〇〇
 
 一月八日 土 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 熊本市研屋支店狩野享吉へ(別封入)
  口上
 昨夜は嘸かし御迷惑の事と存候本日學校へ參り候處學|療《原》に別封到着致居候につき俣野生を以て御屆申上候御落掌可被下候 頓首
    一月八日         金 之 助
   狩 野 樣
       坐右
 
     一〇一
 
 一月十日 月 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 熊本市研屋支店狩野享吉へ
 芳墨拜誦仕候御申越の趣委細承知致候御使のものに相渡し可申とは存候へども知らぬもの故是より直ちに小生自ら御屆け致すか又は俣野を以て同金額御屆可申上候 以上
    十 日          金 之 助
   狩 野 樣
 
      一〇二
 
 一月十日 月 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 熊本市研屋支店狩野享吉へ(金子入)
 先刻御申越の金子拾五圓持ち合せ候間俣野生を以て机右に呈し候につき御使用被下候ば幸甚 不一
    十 日
   狩 野 賢 臺
 
      一〇三
 
 一月十八日 火 ロ便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 熊本縣玉名郡小天温泉前田へ
 拜啓先日は兩人にてまかり出種々御厄介に相成御禮申上候今回は見事なる密《原》柑并びに茸わざ/\御惠送にあづかり奉萬謝候先は右口上迄早々如斯に御座候也 頓首
    正月十八日        夏目金之助
                 山川信次郎
   前 田 樣
 
      一〇四
 
 三月二十一日 月 ヘ便 熊本縣飽託郡大江村四〇一より 神田區東五軒町高濱清へ
 其後は存外の御無沙汰平に御海恕可被下候御惠贈の新俳句一卷今日學校にて落手御厚意の段難有奉拜謝候小生爾來俳境日々退歩昨今は現に一句も無之候此分にてはやがて鳴雪老人の跡釜を引き受る事ならんと少々寒心の體に有之候子規子病氣は如何に御座候や其後是も久しく消息を絶し居候事とて頓と樣子も分らず候へども近頃は歌壇にての大氣?に候へば先々あしき方にてはなかるまじと安心致居候先は右御禮のみ早々如斯に御座候 頓首
    三月二十一日        愚 陀 佛
   虚 子 樣
       榻下
  梅ちつてそゞろなつかしむ新俳句
 
     一〇五
 
 六月十日 金 熊本第五高等學校教員室より 第五高等學校三部一年蒲生榮へ
 一昨日は御來訪の處何の風情も無之候大兄の俳句千江氏の分と共に過日子規手許迄送り置候處本日着の日本に三句丈掲載致來候間供御一覽候猶斯道の爲め御奮勵の段偏に奉希望候 不一
    六月十日         漱  石
   紫 川 樣
       研北
 
     一〇六
 
 八月二十七日 土 土屋忠治へ
 芳墨拜見致候金策の件都合よく纒まり候よし大慶の至に存候此上とも知人の好意に背かぬ樣御勉學專一と存候近頃東京より參り候ものゝ話しには大學の書生の品行日々頽廢遊里抔に出入致を名譽と致す位のよしかゝる中には餘程の決心必要に御座候水に入つて溺るゝか火に入つて※[草がんむり/熱]くるか平生の得力は斯樣の時にわかるものに候よく/\御注意可被成候君平素禅を好むも禅は文句にあらず實地の修行なるべし塵勞の裡にあつて常に塵勞の爲に轉ぜらるゝならば禅なきと一般ならん小生不知禅妄りに相似を説く唯君の成功を冀ふが爲のみ 不一
    八月二十七日        金 之 助
   忠 治 樣
 
      一〇七
 
 九月四日 日 イ便 熊本市内坪井町七八より 神田區錦町眼科醫院大西方菅虎雄へ〔封筒に「親展」とあり〕
 其後は不相變御無沙汰に打過候過日來御上京のよし忽ち接華墨承知致候今度の御東上は御身邊の御關係のやうに承り候先日狩野氏より第一の方にて大兄を御招聘の相談纒まり候やの報有之多分それか爲めの御出發と存候此際結構の事と遙かに御祝申上候當校の方は過日黒本教授〔一字不明〕舍監兼務に任ぜられ候是は定めて新聞紙上にて御承知の事と存候山川狩野兩氏未だ歸熊の運びに至らす小生終日閑坐貴重の米粒を浪費致候俣野生過日東上中根岸邊に寓居のよし手紙を以て報じこし候參上の節は隨分御訓示願上候淺井氏には時々面會御噂致居候過日御來示の俳句數首日本新聞へ寄送致候處夏季〆切後にて掲載の運びに至らず其後三池生より禮状到來始めて同人の句なるを知り申候近頃は頓と俳句も作り不申暑中は少々奮發打坐を試み候處些の入處も無之其内運動不足の爲め下痢を催ふし夫より昨今に至りては始業間近く相成候爲め夫なりに放却致候御憫笑可被下候法語々録の類數種披見致し候が少しの得に御座候へども畫餅不充饑依然たる※[口+童]酒糟の漢なるには閉口致候右御挨拶旁近況御報知迄 早々頓首
    九月三日夜        金 之 助
   虎 雄 樣
       研北
 
     一〇八
 
 十月十二日 水 熊本市内坪井町七八より 熊本市上林町狩野享吉へ
 拜啓刑妻病氣さしたる事は無之候へども何分嘔氣甚しく下女のみにては不安心につき今一日丈缺勤仕度と存候につきては別紙屆書の儀御手元迄差出候につき可然御取計ひ被下度願上候餘は何れ拜顔の上にて萬縷可申述候 不一
    十月十二日         金 之 助
   狩 野 先 覺
         研北
 
 明治三十二年
 
      一〇九
 
 一月十四日 土 ト便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓
 爾來風塵の嘆兎角御無音勝に打過申候不惡御海恕可被下候
 大兄御榮轉後嘸かし御多忙の事と奉遙察候何事も邦家の爲め御奮勵御成功の程江湖の遠方より拜見の期を樂しみ居候
 第一の事情は幻《原》氣に承知致のみにて當局の大兄には種々意外の内情御發見の事と存候
 小生例の如く元朝より鞋かけにて宇佐八幡に賽しかの羅漢寺に登り耶馬溪を經て歸宅山陽の賞※[口+賛]し過ぎたる爲にや左迄の名勝とも存ぜず通り過申候途上豐後と豐前の國境何とか申す峠にて馬に蹴られて雪の中に倒れたる位が御話しに御座候
 學校は因例如例御轉任後轉た寂寞を感じ居候菅氏近來は健康復舊御勉強教授にあたらるゝ由珍重の至に存候同氏よりは過日長文の書翰を領し多少近況を詳か〔に〕しひそかに悦び居候折に御座候藤代氏の病氣は大患にや心元なく存候精々加養可然と愚考仕候
 仙臺にての出來事は如何なる性質のものにや平穩無事は希望する處に候へども菊池氏現今の境界より察すれば多少の難關に遭遇する事却て未來の爲め結構かと存候然し是は餘慶な御世話に御座候
 尊大人御病氣のよし時節柄隨分御療養專一に存候小林生甲斐の國より年賀状をつかはし候目下同地に漫遊中にや土屋俣野などの面々時々御邪魔に參上する事と存候よろしく御教訓可被下候
 
 
     爲替金五圓正に落掌仕候右はさし逼り入用の金子にも無之候へば何時にても御都合の時にてよろしく右御含み置可被下候
 學校巡廻の議《原》至極可然と存候改革案などは例の無一物故確たる考は少しも無之候へども篤と熟考の上御參考にもなる事あらば其時可申上候然し是は山川君專門の事故貴翰同人にしめし候はゞ色々の名案雲の如くに湧出し可申か先は右御返事まで 匆々頓首
    一月十四日        金 之 助
   狩 野 賢 契
         研北
 石川雅望の雅言集覽完(刻なき分は寫本)桐の本箱つきにて七圓五十錢(紙版共に佳)不廉に御座候や一寸伺ひ申上候
 岩田君より先日長文の手紙あり候同氏の經《原》畫も思ふ通り行かぬ樣子氣の毒に存候
 
      一一〇
 
 一月二十一日 土 ヘ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓
 かねて申上候風呂の事につき御來示の如く神谷氏に話し候處早速同氏より金壹圓五十錢送りこし候につき從貴命長谷川氏に渡し史談會々費と致し候猶神谷氏は右の外何か大兄に寄贈する書籍ありと申し居候先は右御返事まで如斯に御座候
 時下寒冷之候切角道體御保養願上候 頓首
    一月二十一日       金 之 助
   狩 野 仁 兄
        研北
 
      一一一
 
 二月五日 日 ヘ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓御送付の金額拾圓正に落掌仕候兼て申上候通當坐必用の金子にも無之處御叮嚀に御送の段恐縮〔の〕至に存候
 松本君愈西下の決意のよし校長より承り候學校の爲め好都合の至と存候是に就ては色々御盡力の事と存候
 岩田氏近頃は少々寛ろぎ候ものと見え本月金拾圓丈例の中へ送付致候同氏手翰中にも松本氏の事記載有之同氏の事は東京にては既に公けに相成居候にや同氏は手紙の端に俳句歌樣のものかきつけ參候斯樣の餘裕あらば少しはたしかと存候
 右御返事まで 匆々頓首
    二月|六《原》日     金 之 助
   狩 野 樣
       坐右
 岩田の手紙中に第一程學校らしからぬ學校はなく第一の教師程教師らしからぬはなしと有之實際左程に候や隨分御骨の折れる事と存候邦家の爲御改革可然かと申せば世の中の學校は大概こんなものと御返答あるべければ其邊の事は別段申上まじく候
 
      一一二
 
 三月十日 金 ヘ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 漸々暖氣に相向ひ候處愈御清適奉賀候
 御送付の金子參圓本日到着正に落手仕候松本氏愈當校の方へ決定のよし色々御配慮有がたく奉謝候
 外人事件喧嘩事件と迄大事に至らず小波瀾にて結末を見候學校の爲何よりの事と存候岩田氏先月今月とも拾圓づゝ返金致候右乍序御報知申上候
 先達山川君より東京轉任の件につき相談有之同氏は冒頭より意なき趣故小生も賛成は致さず置候其結果は當人より手紙にて委細申上候事と存候
 先は右御報まで 匆々拜具
    二《原》月九日       金 之 助
   狩 野 様
       坐右
 
      一一三
 
 四月二十日 木 土屋忠治へ
 啓御老母様かねて御病氣の處御療養の甲斐もなく御遠逝のよし拝承嘸かし御痛悼の事と遙察致候此際金銭上の事にて必用の事も有之候はゞ些少の事は如何様にも取計申候間無御遠慮御申越可相成右は先御弔詞迄早々如斯御座候 頓首
    四月二十日         金 之 助
   忠 治 樣
 
      一一四
 
 六月二十日 火 ホ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拝啓追々暑氣相催ふし候處愈御清穆奉賀候偖今般山川氏貴校へ轉任一條につき當人より詳しき内情も承はり甚だ氣の毒の次第に有之且は御校の便宜にも可有之と存じ同氏の依頼を受けて小生より本人の冀望を當校長へ申出候處幹事教頭と熟議之上今二十日尤もの情《原》願故残念ながら許容せねばなる間敷且當校に惜き故強てとめたる結果本人の辭職公然の交渉等に相成ば其結果面白からず惡感情を抱て分手せねばならぬ様になるべく夫では善くあるまじとの考より學校にては山川氏の請願を聞入るゝ事に相成候此上は貴意の如く可然一日も早く御取計ひあり度小生よりも願上候
 右當人より御回答可申上筈の處依頼にまかせ小生より御報道申上候
 小生も山川に別れては學校の爲には相談相手を失ひ閑友としては話し相手を失ひ當人には何とも申さねど心裡は大に暗然たるもの有之候へども是も浮世故不得已次第と存候唯御依頼申上度は後任者選定の一條に御座候尤も山川は後任者にして定らずば當地を去らぬ由申居候へば矢張此點につきても盡力致し呉候積には候へども猶貴君にも御願ひ申上置候へは可然御配慮被下度候
 最後に遺漏なき様申上候
 山川氏當地を去るの條件は適當の後任をさがして學校に毫も不都合をきたさぬ樣すべしと云ふ事に有之學校も其條件にて轉任承諾の運びに至候事と御了承被下度候
 大兄校長御拝命以後餘程御多忙の事と遙察致候小生近況は因例如例き茫漠たるものに御座候他人が移轉すると自分も移つて見たき様な心持が一寸起り申候是も欠伸や涙の傳染位の處かと存候
 先は右用事まで如斯に候 以上
    六月二十日         金 之 助
   狩 野 樣
       研北
 菅氏近頃病氣は如何に候や殆んど絶信の姿乍序宜敷御傳聲被下度候
 山川氏當時少々神経過敏に傾き居候へば御校にて可成之を刺激せぬ樣の地位に當分御据置可然かと愚考仕候是餘慶な事ながら心づき候まゝ申添候
 
      一一五
 
 七月八日 土 ハ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拝啓山川氏件につき先便手紙を以て申上其後御回答の如何により小生山川兩人にて後任者選定につき談合致し或は直接又は間接に夫々へ懸合ひ見んと存居候處何等の御返事も無之因て學校當局者へ對して直接に何かの御報でも有之かと存じ松本氏につき問合せ候處學校の方へも公然何たる御交渉も無之様子然るに山川は例の周密なる性故大兄より何分の御返事なき以上は後任の事につき別段着手せずと申し居候因て同人と相談の上先日電報にて其後の模樣御問ひ合せ候次第に候
 畧言致候へば大兄より今一應小生又は山川へ判然たる御意志御通知相成候か又は學校長へ表面上御懸合相成らざる以上は當方にては先便申上候より以上のステップは毫も進め不申候間左樣御承知被下度候
 猶後任者の件につきては大兄に是非共之を見付て然る後校長へ御懸合被下度と申す次第には無之山川を讓り受け度と申す貴意當校當局者に公然と相成候上は生等兩人は勿論松本其他の諸氏と共に大兄の御助勢を得て後任者詮索に從事致し度考に候而して誰人も認めて不適任となすものより外得難き場合に山川氏當校へ義理を立て當分適任者の見つかる迄轉任すまじと申出られ候はゞ其迄の事と存候
 兎角刻下は校長又は生等兩人に對し大兄の御一言を必要と認め候につき右再應伺ひ上候折返し御返辭相待ち候 以上
    七月八日         金 之 助
   狩 野 樣
       坐側
 二伸 當校御在職中御受持の三年生、笠英記なるもの東京表にて知人無之につき小生に大學在學中の保證人周旋方依頼致候につき大兄に願つて見て御らんと申置候同人の性行は大概御分りの事と存候へば九月本人まかり出同樣の事願出候節は御不都合と御|見《原》認なき限は御聞入有之度願置候
 
      一一六
 
 七月九日 日 ヘ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 拜啓昨日愚書一札差上置候山川よりは同夜電報相懸候雙方とも御披見の事と存候今朝松本氏方にあり矢張同件談合の節同氏被申候には狩野氏より返答なきは萬一左の事情にてはなきや即ち大兄は山川を幹事に御採用の御決意の處へ小生より山川氏目下家族の事情等にて頭を惱め居る故當分は當人の爲め閑散な職務に御据置可然抔と餘慶な事を申上候爲め一時御※[足+〓]躇被成居るにてはなきや左樣な事もあるまじけれど或は然るかも知れぬと松本君の注意にて小生も始めて策がつき若し左樣の事あらんには一應小生へ委細の事情御問合ある筈なれど萬一夫が爲め貴君の返辭が後れるならば小生は山川へ對し大に氣の毒故茲に不取敢正誤旁申上候
 山川氏の周密にて多少心配家なるは御熟知の如く候然る處令兄の病氣等にて東京の家の事も氣にかゝる處へ熊本に厭きて來て一日も早く當地を去り度念非常に強くなりしのみにて別段脳病と申す程の事にも無之又事務のとれぬと云ふ事は毛頭無之と存候
 前便申上候小生の語弊より誤解を來し當人の望みをうち崩す樣の事ありでは甚だ氣の毒故右一應正誤旁御報申上候よろしく御賢察可被下候 不一
    七月九日          金 之 助
   狩 野 樣
       坐右
 
      一一七
 
 七月十二日 水 ホ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 去る七日發の御書状今十一日到着正に披見致候愈本人の希望通無滯御採用の運びに至り本人の爲にも貴校の爲にも結構の事と存候本人待遇上の件に關し御相談にあづかり是亦拜承仕候同人儀は本件着手の當初より俸給其他は凡て貴意に一任する旨公言致居候事とて其通には別段の御斟酌も入らざる儀とは存候へども切角の御問合せ故愚存左に少々申述候
 地方より東京へ轉任と云ふ點より見ればことに本人の情《原》願とある上は年俸千圓にても不都合は之無〔かる〕べきか
 然し金錢上の事は一錢も多き方實際便宜には違ひ無之左すれば若し經濟の許すものとすれば現給千貳百圓にて御採用の上萬一他の權衡との御心配あらば今より一二年の間に山川の待遇を標準と見傚し御校一般教授の俸給御増加の御計畫は如何に御坐候や單に山川の幸福なるのみならず在東京教師の資格を一般に上す點に於て大に教育上の大功を奏するならんかと存候斯して私立學校かけ持抔を嚴禁せば餘程の好都合と存候
 若し此策經濟|必《原》逼の際御實行被成難く候はゞ前述の如く山川を千圓にて御採用に相成るか或は山川の技倆拔群なるを衆の認むるを待つて千貳〔百〕にするか或は始めより儕輩を壓するに足る力あるものと假定して權衡を破るか此三策の内何れにても御選定可然と存候但し繰返し申上候が當人は東京へさへ歸れゝぱ待遇の事は君に任すと申居候間千圓にても毫も不足を申出る樣の事は無之かと存候右は御回答まで匆々如斯に御座候 頓首
    七月十二日         金 之 助
   狩 野 樣
       研北
 追白
 茨木清次郎氏の件御報知にあづかり奉多謝候同氏性行學術の點につき巨細御承知の事柄乍御面倒參考の爲御報道にあづかり度と存候目下山川小生兩人間にて目指す候補者は土井晩翠氏一名のみに御坐候是とても未だ先方へは懸合ず多分拒絶するならんと存候
 明日英語部員集會各自に候補を出して相談する筈に有之候
 猶茨木氏教場内の經驗なくとも充分生徒をこなす丈の才力あるや此邊も序に御報願上候
 當方にて知り度條目二三左に例を出し候
   一人物 奥流なるや木邨流なるや
   一學問 學者的なるや通辯的なりや
   其他色々
 
      一一八
 
 七月三十日 日 ハ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ
 先日の御手紙正に拜見致候茨木氏金澤にて懇望のよし承知致候同校出身者は當校にても可成避け度由の當局者の意見にては候ひしが至極惜しき人物と存じ候間詳細御問合せ申上候次第と御承知被下度候右代理として田中酉熊御推擧にあつかり是亦敬承仕候然る處當校にては鎭西學館出身にて日下同校の教師たる遠山|三《〔參〕》良と申す人を採用致す事に決定本|人《原》同人履歴書學校へ差出候運びに至り候に就ては田中の事は夫迄と御承知被下度猶茨木も金澤へ就任差支無之と存候只今まで種々御面倒相願候|角《原》を以て右一應事件の落着御報知申上候 先は用事まで匆々 敬具
    七月二十九日         金 之 助
   狩 野 樣
 
      一一九
 
 九月二日 土 ト便 熊本市内坪井町七八より 牛込區肴町五四夏目直矩へ
 尊書拜見仕候御手紙の趣拜讀致候右につき少々分り兼候儀有之候につき重ねて申上候
 小生の伺ひ度は姉の意志並びに高田の意志の確然たる處に有之候然るに御手紙にては雙方の意志とも只貴君の御推察のみにて此件につき小生のとるべき態度を決しかね候樣の御返答かと存候尤も姉は目下喘息のよし是は一週間位にて一應治る事と存候へば其節にてよろしく又高田の方は御會見の上何とか當人の口より確としたる處を御聽取被下度御迷惑とは存じ候へども最初此事件相生じ候節より中間に御立ち被下候は御覺悟の事と存候そは大兄より始めて口を開いて此事件を喚び起され候故に候
 右高田の意志(姉の方は目下至急にも無之)承はり候上にて篤と處置致度と存候
 目下高田のなす處は啻に小生を馬鹿にするのみならず大兄をも馬鹿にしたる仕方には無之や己れの女房が人の世話になるのに一言の禮もせぬ樣なものはあまり多からぬ樣被存候若し理窟が分らずして平氣ならば御諭し被下度候わかつてゐてするのなら證言を御取り被下度小生にも其考有之候
 右折返し御返事申上筈の處少々旅行致居候爲め遲引致候
 月々のもの送る送らぬの點に關しては要領を得たる御返事頂戴致候上の事と可致從つて今回は御答申上ず候 頓首
    九月二日         金 之 助
   直 矩 樣
  愚女は筆となづけ申候
 
      一二〇
 
 十月九日 月 ニ便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野亨吉へ
 拜啓其後は御無音に相過候御ゆるし可被下候陳は佐賀縣尋中英語教師平山久太郎と申すは慥か大兄御在任中小生より第五へ推擧致し候樣記|臆《原》致候が同人儀近頃頻りに轉任を希望し過日其父なる人わざ/\拙宅へあり若し當校へ採用出來ずば東京附近の尋中へ周旋致し呉れよと懇々の依頼に有之候處御存じの如く當校には不用につき尋中の方を聞き合せ見るべしと受合置候大兄は御在京の上附近中學教師の出入には縁近き御職柄故乍御迷惑今後同人に適當の位地も有之候はゞ御一報被下度願上候目下待遇六十圓東京近邊なれば同等にてよろしくとの事に候性質學問は深く存じ候はざれど佐賀では大に評判よき人に候右御含迄申添候 先は用事迄 草々頓首
    十月九日         金 之 助
   狩 野 樣
       坐右
  當人儀は來四月年度かはり迄に是非轉任希望の由に候
 
      一二一
 
 十二月十一日 月 ニ便 熊本市内坪井町七八より 神田區猿樂町二五高濱清へ
 其後は大分御無沙汰御海恕可被下候時下窮陰之候筆硯愈御清穆奉賀候偖先般來當熊本人池松迂巷なる人當市九|洲《原》日々新聞と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載する樣盡力致し猶東京諸先俳の俳句も時々掲載致し度趣にて大兄へ向け一書呈上候處其後何等の御返事もなきよしにて小生より今一應願ひくれる樣申來候右迂巷と申す人は先般來突然知己に相成候人なるが非常に新派の俳句に熱心忠實なる人に有之實は今回の擧抔も新派勢力扶植の爲めの計畫に候左すればほとゝぎす發行者などは大に聲援引き立てゝやる義理も有之べきかと存候且九洲地方は新派の勢力案外によはくほとんど俳句の何ものたるを解せざる有樣に候へば俳句趣味の普及をはかる點より論ずるも幾分か大兄抔は鼓吹奨励の責任ありと存候右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候又日日新聞は同人より大兄宛にて毎日御送致し居候よし定めて御閲覽の事と存候
 乍序ほとゝぎすにつき一寸愚見申述候間御參考被下度候
 「ほとゝぎす」が同人間の雜誌ならばいかに期日が後れても差支なけれど既に俳句雜誌抔と天下を相手に呼號する以上は主幹たる人は一日も發行期日を誤らざる事肝要かと存候それも一日や二日なら兎〔に〕角十日二十日後れるに至つては殆んど公等が氣に向いた時は發行しいやな時はよす慰み半分の雜誌としか受取れぬ次第に候尤是には色々な事情も可有之又御陳述の如く期日の後れたる爲め毎號改良の點も可有之とは存じ候へども門外漢より無遠慮に評し候へば頗る無責任なる雜誌としか思はれず候現今俳熱頗る高き故唯一の雜誌たる「ほとゝぎす」はかく無責任なるにも不關賣口よき次第なるべけれど若し有力な競爭者出でば之を壓倒する事固より難きにあらざるべし假令有力なる競爭者が出來得ざるにせよ敵なき故に怠る樣に見えるは猶更見苦しく存候
 次に述べたきは「ほとゝぎす」中にはまゝ樂屋落の樣な事を書かれる事あり是も同人間の私の雜誌なら兎に角苟も天下を相手にする以上は二三東京の俳友以外には分らず隨つて興味なき事は削られては如何加之品格が下る樣な感じ致候高見如何虚子露月が俳人に重ぜらるゝは俳道に深きが爲め其秋風たると春風たるとに關係なきなり天下の人が虚子露月を知らんとするは句の上にあり「頬をかむ」の「顔をなめる」のと愚にもつかぬ事を聞いて何にかせんや方今は「ほとゝぎす」派全盛の時代也然し吾人の生涯中尤も謹慎すべきは全盛の時代に存す如何
 子規は病んで床上にあり之に向つて理窟を述ぶべからず大兄と小生とはかゝる亂暴な言を申す親みは無き筈に候苦言を呈せんとして逡巡するもの三たび遂に决意して卑辭を左右に呈し候是も雜誌の爲めよかれかしと願ふ微意に外ならざれば不惡御推讀願上候 以上
    十二月十一日       漱  石
   虚 子 樣
  横顔の歌舞伎に似たる火鉢哉
  炭團いけて雪隱詰の工夫哉
  御家人の安火を抱くや後風土記
  追分で引き剥がれたる寒かな
    正
 
      一二二
 
 十二月三十一日 日 ト便 熊本市内坪井町七八より 麹町區飯田町四丁目狩野享吉へ〔はがき〕
 恭賀新年
    三十三年一月一日
             熊 本
               夏目金之助
 
      一二三
 
 十二月〔?〕 土屋忠治へ
 貴翰拜見致候銀行の件委細承知致候右は卒業後大分の社に入りて從事するといふ條件の如く聞え申候然らば其年限はどの位に候や
 若し過重の義務と不當の束縛ありて忍び難き程ならば出來る丈他の方法を講ずる方可然か
 小生目下の状況にては月々五六圓の金は送る事出來るべし其上に山川狩野二氏に依頼して月々二圓宛ももらへば十圓の金は手に入るべし假に中根に寄食するとせば其位にて行き立つやも知れず是も一策ならん
 (狩野山川二氏共貧の方なれど君の學資に關して幾分か補助の意あるは在熊中明言されたる事あり若し此策をとるならば小生より懸合て見るべし)
 〔以下卷紙切れて缺〕
 兎も角も手紙にては巨細の事は述べ難し狩野山川菅三先生の意見など聞きたる上にて御分別あるべし
 〔以下卷紙破れて缺〕
 
 明治三十三年
 
      一二四
 
 四月五日 木 ホ便 熊本市北千反畑より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ〔はがき〕
 御書拜見近頃は發句廃業駄句もなにも皆無に候今般表面の處へ轉寓致候間一寸御傳申上候
  鶯も柳も青き住居哉
  菜の花の隣ありけり竹の垣
    四月五日
 
      一二五
 
 四月五日 木 ホ便 熊本市北千反畑より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
  轉居
 熊本市北千反畑丁舊文學精舍跡
 右御報申上候
    四月五日
 
      一二六
 
 六月十日 日 ホ便 熊本市北千反畑より 小石川區竹早町狩野享吉へ
 拜啓其後は頓と御無音に打過候先以て薄暑の候愈御清祥奉賀候小生不相變碌々消光御休神可被下候
 偖兼て御承知の湯淺孫儀學資不如意の爲め應分の補助致居只今は拙宅より通學致居候が學年試驗も近づき及第の曉は差し當り東京に參り頼る處もなく大に閉口致居候就ては承る處によれば大兄の居宅は故の村岡範爲馳氏の家屋の由故隨分御手廣と存候へば當分の内書生として御養ひ被下間舗候や是は甚だ申し兼たる次第には候へども當人も有望の青年是なりにて學問をやめ候は實に氣の毒と存候故貴宅より大學へ通學し傍ら私立校をかせぎて月謝小使を自辨するの道を講じ候へばどうにかかうにか行き立つ可く左すれば本人は無論の事小生も今迄の世話甲斐も有之好都合此上なくと存候尤も東上の砌り直ちに私立學校教師の口も見當り申す間敷か其際には右の方法相立つ迄は小生何とか工夫致し食住の外は御迷惑相懸申す間數候間何卒右御聞濟願度
 右御一應御勘考の上御返事被下候へば幸甚に存候
 右當用のみ一寸申述候今夏は或は出京致すやも計りがたく其節は久々にて御高話承るべく候
 菅氏へよろしく御鳳聲願上候 不一
    六月十日          金 之 助
   狩 野 樣
       坐右
 
      一二七
 
 六月十七日 日 ハ便 熊本市北千反畑より 山口縣山口高等學校松本源太郎へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜啓薄暑の候道體愈御清穆奉賀候當地御在任中は色々御高誼を蒙り感佩此事に存候
 偖先般來御配慮被下候留學事件愈決定本日校長より辭令拜受の運に至候非才淺學の身にて誤つて選にあたり候事全く校長始め先生の御盡力と深く感謝致候猶來月中旬一先家族とりまとめ東上の上九月頃西征の途に上り候心算に御座候
 先は右御禮旁御挨拶迄如斯に御座候 頓首
    六月十七日        金之助拜
   松 本 老 臺
         座下
 
      一二八
 
 六月三十日 土 ハ便 熊本市北千反畑より 小石川區竹早町狩野享吉へ
 拜啓試驗中にて嘸御多忙と奉推察候小生過日洋行被命候ため色々繁忙御察可被下候
 過日一寸申上候湯淺孫三郎件如何相成候や御返事の都合にては當人も種々歸京の上計畫も可有之小生も相談にのりてやらねばならぬ事と存候就ては御多忙中何とも恐縮の至には候へども小生當地出發(七月中旬)迄に何とか御挨拶被下候はゞ本人も勿論小生に於ても非常に幸福に存候先は右用事のみ餘は讓面晤 頓首
    六月二十九夜        金 之 助
   狩 野 樣
       坐下
 
      一二九
 
 八月二十四日 金 使ひ持參 狩野享吉へ
 拜啓先夜は御邪魔いたし失敬御免可被下候扨其節一寸御話し申上候ウードの件第五の方は遂にだめと相成候に就ては第一の方は到底見込無之候や又右見込なくば外國語學校と交換問題は成立致す間敷や御多忙中甚だ乍御面倒御一考を煩はし度實は小生出發も間近にせまり可成は一段落をつけてとの婆心止みがたく右御迷惑とは存じ候へども推して願上候不惡御了承可被下候 以上
    八月二十四夜         金
   狩 野 樣
       坐下
 
      一三〇
 
 九月六日 未 チ便 牛込區矢來町三中ノ丸中根方より 本郷區駒込西片町一〇イ一六寺田寅彦へ〔はがき〕
 小生出發は※[さんずい+氣]船出發の時刻變更の爲め午前五時四十五分ノ※[さんずい+氣]車と相成べくと存候是も正確ならず御見送御無用に候
  秋風の一人をふくや海の上
 
      一三一
 
 九月十日 月 汽船プロイセン號より 牛込區矢來町三中ノ丸中根重一へ
 拜啓横濱解纜ノ際ハ|罷《原》御見送被下難有存候初日ノ航海ハ氣分あしく晩餐ヲ食ハズ臥床致候乘合ハ英人ヤラ佛人ヤラニテ既ニ洋行シタル感有之神戸ニテ上陸諏訪山温泉ニテ日本料理ヲ食ヒ日本ノ浴衣ヲ着タル爲メ漸ク歸朝致候樣ノ感ニ存候此先ハ漸々西洋クサクナル許ト存候神戸ノ時間クルヒタル爲メ鈴木君ニ面會ヲ得ズ行違ニテ甚だ殘念ニ存候今日午後五時頃ハ長崎ヘ到着ノ筈其時ハ又上陸散歩デモスル積ニ候
 船中ハ只少々窮窟ナルト風波アルノミニテ他ハ凡テ我々ノ生活ヨリハ遙ニ上等ニ候朝起キルト直グニ茶ヲ飲マセ八時頃ニ至リ朝飯ヲ出シ十二時ニ畫飯三時ニ茶ヲ出シ六時ニ晩餐九時頃又茶ト云フ譯デ都合一日ニ六回ノ御馳走ニ候米ツキデモ四度〔ニ〕候普通ノ我々ハ到底六回ヤルコトハ出來ニクク候
 先ハ無事御報知迄 匆々頓首
    九月十日午前十一時奏樂ヲ聞キナガラプロイセン喫烟室ニテ
                 金 之 助
   中 根 樣
  母上樣倫、梅、其他ノ人々へモヨロシク願上候
  此手紙鏡へモ御示シ被下度候
〔裏に〕
 湯淺、土屋、俣野ヘ宜敷願上候
 留守中區役所其他ノ用事ハ湯淺カ土屋ヘ御依頼可被成候
                 金 之 助
   鏡 ど の
 
      一三二
 
 九月十三日 木 清國上海より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
 出發の際は御見送難有存候航路無事只今上海著支那人印度人毛唐人日本〔人〕の如き外國にて大騷動に候是から段々失策をやる事と存候先は右御報知迄 匆々頓首
    九月十三日
 
      一三三
 
 九月十九日 水 清國香港より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき 九月三十日發行『ホトトギス』より〕
 航海は無事に此處まで參候へども下痢と船醉にて大閉口に候。昨今は大に元氣快復、唐人と洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮窟千萬一向面白からず、早く茶漬と蕎麥が食度候。(中略)熱くて閉口、二百十日には上海邊にて出逢申候。
  阿呆鳥熟き國にぞ參りたる
  稱妻の碎けて青し海の上
 
      一三四
 
 九月二十七日 木 汽船プロイセン號より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 今日ハ九月二十七日ニテ吾等ガ乘レル船ハ昧爽英領「ペナン」ト申ス港ニ着キ申候未明ヨリノ小雨ニ加フルニ出帆時刻ハ午前九時ナレバ遺憾ナガラ上陸ヲ得ズ上海ニテハ日本旅館ニ宿泊シ香港ニテモ同|朋《原》ノ營業ニ關ル宿屋ニテ日本飯ノ食納ヲナシ候上海モ香港モ宏大ニテ立派ナルコトハ到底横濱神戸ノ比ニハ無之特に香港ノ夜景抔ハ滿山ニ夜光ノ寶石ヲ無數ニ縷《原》メタルガ如クニ候又「ピーク」トテ山ノ絶頂迄鐵道車ノ便ヲ假リテ六七十度ノ峻坂ヲ上リテ四方ヲ見渡セバ其景色ノ佳ナルコト實ニ愉快ニ候「シンガポア」ニモ上陸シ馬車ヲ假リテ植物園博物館及市街ヲ一見致候茲ニモ日本ノ旅館アリテ午食ヲ認メ候此地ノ日本人ノ多數ハ醜業婦ニテ印度ノ腰卷ニ綿チリメンノ羽織ニ一種特別ナ下駄抔ヲ穿キテ街上ヲ散歩致候一種奇的烈ノ感ヲ起サシメ候熟帶地方ノ植物ハ名前ノミヲ承知致候ガ來テ見レバ今更ノ如ク其青々ト繁茂セル樣ニ驚カレ候熱帶地方ト申セバ太陽直下ノ光線ニテ身體モ焦ゲル位ノ熱サト想像致候處實際ハ豈計ランヤデ却ツテ日本ノ夏ヨリモ涼シキ位ニ候但春夏秋冬ニ寒暖ノ區別ナキノミト御承知可被下候此邊ニテ見ル印度人ハ佛畫ニ見ル阿羅漢丸出シニテ其服装顔色遙カニ日本人ヨリハ雅ニ御座候色ノ尤モ黒キハ紫檀位ニテ且其光澤ノ美ナルコトモ殆ンド紫檀ニ※[人偏+方]佛タル者之アリ候「シンガポア」ニテハ碇泊中船ノ周圍ニ幾十艘ノ丸木舟ヲ漕ギ寄セテ口々ニ分ラヌコトヲワメキ候樣面白ク候是ハ船客ヨリ銀貨銅貨ヲ海中ニ投ゲロト申ス譯ニテ甲板上ヨリ慰半分ニ投ゲル貨幣ヲ海中ニモグリテ取リテ上ガルニ百ニ一モ過タズ感心ナコトニ候
 皆御變リナキコトト存候其許モ筆モ達者ト存候月々ノ俸給ハ固ヨリ些少ナレドモモシ餘アラバ幾分ニテモ家賃トシテ御納可被成候夏目ヘハ事情ヲ善ク申シ遣ハシ候間都合次第ニテヨロシク候
 小生ノ着物羽織等ハ留守中ノ寸法ノ合フ樣縫直シ可被成候
 其許ハ齒ヲ拔キテ入齒ヲナサルベク候只今ノ儘ニテハ餘リ見苦ク候
 頭ノハゲルノモ毎々申通一種ノ病氣ニ違ナク候必ズ醫者ニ見テ御貰可被成候人ノ言フコトヲ善ヒ加減ニ聞テハイケマセン
 食物ノ急ニ變化シタルト氣候アツキト運動不足ト船ノキラヒナトガ合併シテ消化機能兎角働キ方面白カラズ目ハ餘程クボミ申候其割ニ身體ハ左ノミヤセ不申候
 此手紙ハコロンボト申ス處ニ着テヨリ出スベケレバ日本ニハ三週間位ノ後ニ達スベシト存候
                 金 之 助
   鏡 ど の
 
      一三五
 
 九月二十七日 木 汽船プロイセン號より 仙臺市第二高等學校齋藤阿具へ〔繪はがき〕
 拜啓小生航路無事只今「ペナン」ト「コロンボ」ノ間ヲ航海中ニ候マレー人ノ美人一寸御覽ニ入候
    九月二十七日      夏目金之助
   齊《原》藤阿具樣
  土井晩翠君ニヨロシク御傳可被下候
 
      一三六
 
 十月八日 月 汽船プロイセン號より 牛込區矢來町三番地中ノ丸中根方夏目鏡へ
 今日ハ十月八日ニテ横濱ヲ出發シテヨリ鳥《原》渡一月目ナリ一週間許前ニコロンボト申ス處ニ碇泊是ハセロンノ港ニテ「セロン」ハ釋迦ノ誕生地ナリ此地ニ來リテ見レバ李龍眠ノ佛畫ニアリソウナ印度人ノミ〔ニ〕テ頗ル雅ニ候
 熱帶地方ノ植物ノ見事ナル事ハ今更ノ樣ニ驚かれ候「コーコ」「バナナ」抔ノ熟シタルヲ木ノ枝ニ見タルハ實ニ面白ク候佛教ノ寺院ニ參詣致候是ハ海ヨリ三里許リ田舍に有之結構抔幼稚ニテ見るに足らず只古跡と申迄に候舍利塔は今も存在致居候
 昨夜は名月にて波も風もなく十二時近く迄甲板に逍遥致候今日ハ「エーデン」と申す處に着スル筈に候是ヨリ紅海ニテ砂漠ノ熱キ風が吹|く《原》來る中を通りて地中海に出る事に候兎角する内には英吉利に着可致思へば長き樣な短かきものに候
 毎々ながら西洋食には厭々致候且海岸は小生の性に適せざる事とて横濱出帆以來眼が餘程くぼみ申候然し別段の病氣もなく先|ゞ《原》無事なれば御安堵可被下候
 熊本にて逢ひたる英國の老婦人「ノツト」と申す人上等に乘込居りて一二度面會色々親切に致し呉候此人の世話にて「ケンブリツヂ」大學に關係の人に紹介状を得候へば小生は多分「ケンブリツヂ」に可參かと存候
 筆は其後丈夫に相成候や隨分御氣をつけ可被下候
 留守中とて無暗に寐坊被成間敷候
 中等船客は五十名以上有之非常に賑かに候小生は別に噺相手もなく黙然として居候
 髪は丸髷銀杏返抔に結はざる方よろしく洗髪にして御置可被成候
 西洋人ノ子供澤山居候奇麗にて清潔なる事は日本人の比に無之衣服も至極輕便にて羨敷|致《原》候
 船中は毎日入裕も出來よごれ物の洗濯も出來御馳走も食へ下等下宿抔よりも遙かに上等の生活と存候然し|寐《原》室の窮窟にて風通のあしきは閉口致候
 印度洋は日本の夏よりも餘程涼しく候且風波も至極穩に候
  雲の峯風なき海を渡りけり
 御地にては漸々秋冷の候に可相成候へば隨分御身御厭なさるぺく候
 皆々へよろしく
 時さんの呉れた萬年筆は船中にて鐵棒へツカマツて器械體操をなしたる爲め打ち壞し申候洵に申譯無之御序の節よろしく御傳可被下候
    十月八日          金 之 助
   鏡 ど の
  小生への書信其他は凡て在倫敦日本公使館宛にて御出可被成候
 
      一三七
 
 十月二十三日 火 佛蘭西巴里より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 紅海ノ熱ノ非常ナルニ引キ易ヘテ地中海ニ入レバ既ニ日本ト同ジ氣候ニ候 Naples ト申ス所ニ碇泊中上陸ノ上博物舘等ヲ一見是ハ「ポンペイ」ヨリ堀出シタル種々ノ古物ヲ蒐集セル見事ノモノニ候夫ヨリ Genoa ニテ船ヲ棄テ、上陸其地ニ一泊以太利ノ小都會ナルニモ關セズ頗ル立派ニテ日本抔ノ比ニアラズ殊ニ Naples ノ寺院等ノ内部ノ構造ハ來テ見ネバ分リ兼候馬車ニテ見物致候が半分ハ見物サセニ歩行ク樣〔ナ〕モノニ候皆々奇體ナ奴ダト云ハヌ許リニ見返候「ゼノア」ヨリ※[さんずい+氣]車ニテ「パリス」ニ十月二十一日(咋朝)到着※[さんずい+氣]車抔ノ雜沓混雜馴レヌ我々ハ「マゴマゴ」シテ途方ニ|呉《原》レル許リナリ金ノ力ニ頼リテ夢中ニ「パリス」迄「タドリ」ツキ候が目付ものに候「パリス」ニ來テ見レバ其繁華ナルコト是亦到底筆紙ノ及ブ所ニ無之就中道路家屋等ノ宏大ナルコト馬車電氣鐵道地下鐵道等ノ網ノ如クナル有樣寔ニ世界ノ大都ニ御座候昨日ハ停車場ニ荷物受取ノ爲メ參リ夫ヨリアル素人屋(宿屋ハ高クテ居ラレズ)ノ三階ヲ借り一週間滞在ノ積ニ候食事ハ三度三度外ヘ出テ認メ候夫デモ一日ノ費用七八圓ヲ下ラズト存候今日ハ博覽會ヲ見物致候ガ大仕掛ニテ何ガ何ヤラ一向方角サヘ分リ兼候名高キ「エフエル」塔ノ上ニ登リテ四方ヲ見渡シ申候是ハ三百メートルノ高サニテ人間ヲ箱ニ入レテ綱條ニ〔テ〕ツルシ上ゲツルシ下ス仕掛ニ候博覽會ハ十日や十五日見|ニ《原》モ大勢ヲ知ルガ|積《原》ノ山カト存候只今午後十二時迄「パリス」ノグロンヴルヴハート申ス繁華ナ處ヲ散歩シテ地下鐵道ニテ歸宅致候斯樣ニシルシ候ト何モカモ自分デヤツタ樣ナレドモ「パリス」ニテハ文部ノ書記官渡邊董之助ト申ス人ノ世話デ歩行キ廻り候「ゼノア」カラ「パリス」迄ハ全ク金ノ力デ通リ候言語ノ通ゼヌ容子ノ分ラヌ所程不便ナモノハ無之歐洲上陸以來自動的ニ何モナシタルコトナク悉皆他動的ニ候惡者ガ田舍モノヲ瞞スノモ最ト存候意外ノ失策ナク「パリス」迄參候が不思議ニ候此位ナラ謠ヲヤラズニ佛語ヲ勉強スレバ善カツタト今更不覺ヲ後悔致候是ヨリハ一人ニテ英京ニ渡ル事故ドウナルカ妙ナモノニ候當地ニ來テ觀レバ男女共色白ク服装モ立派ニテ日本人ハ成程黄色ニ觀エ候女抔ハクダラヌ下女ノ如キ者デモ中々別殯有之候小生如キアバタ面ハ一人モ無之候
 其他大分書キタキ事有之候ヘドモ疲勞致候故擱筆後ハ英國ヨリ發信致候中根皆々樣ヘヨロシク其他ノ人ヘモヨロシク
 當地ハ中々寒ク冬ノ外套ヲツケテ手袋ヲハメテ歩行キ候身體ハ別段ノ事モ無之候御安意可被下候其許懷妊中善々身體ヲ大事ニ可被成候筆モ隨分氣ヲ付ケテ御養育可被成候妊娠中ハ感情ヲ刺激スル樣ナ小説抔ハ御止メ可被成候可成ノンキに御暮シ可被成候
 入齒ノ事御實行可被成候丸髷抔ニハ結ハヌガヨロシク候洗髪可然候
    十月二十|二《原》日午|後《原》一時   金 之 助
   鏡 ど の
  小生洋服ハ東京ニテ作リ來リ好都合ニ候是ナラバ「ガラ」モ仕立モ別ニ耻カシキコトナク用ラレ候太キシマ「ハデ」ナ色ノモノナドハ着テ居ル者無之皆「クスン」ダ無地|下《原》降類ニ候就中外套ハ大概黒カ紺ニ候茶ハ餘程少ナク鼠モ稀ニ見受候其他ハ一切無之候
 歐洲ニ來テ金ガナケレバ一日モ居ル氣ニハナラズ候穢クテモ日本ガ氣樂デ宜敷候
 
      一三八
 
 十月三十日 火76 Gower Street, Londonより 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 拜啓其後無意消光致居候其許も筆も定めて丈夫の事と安心致居候可成養生して御安産可被成候
 小生咋二十八日朝十|日《原》巴理發同夜七時頃倫|孰《原》に着致候博覽會も餘り大にて一週間位では何が何やら見當がつかぬ位に候倫孰も今日出で見たれども見當がつかず二十返位道を聞て漸く寓居に還り候未だ公使館へは參らず留學地も其内定めて落付つもりに候
 公使館への手紙は
    K.Natsume Esq.
              Japanese Legation
      (Crosvener《sic》 Garden)
                  London
にて屆き可申候西洋にては金が氣がヒケル程入候留學費でどうしてやるかゞ問題に候町抔へ出れば普通の人間は皆日本の勅任官位な身ナリをして歩行致居候洋行生が洒落るのは尤に候是が當地にては普通の事に候
 詳しき手紙は何〔れ〕落付てより可差上候 以上
 皆樣へよろしく
    十月二十九日夜一時        金 之 助
   鏡 ど の
 明日は十時頃迄寢る積に候
〔裏に〕
 小生只今の宿所は日本人の下宿する所にて76Gower Street、London に候是は旅屋より遙かに安直なれども一日に部屋食料等にて六圓許を要し候到底留學費を丸で費ても足らぬ故早くきり上る積に候
 
      一三九
 
 十一月二十日 火 後0-15 85 Pripry Road,WestHampstead、London より Bei Frau Lenke, Melanchtonstrasse 28、Berlin 藤代禎輔へ 〔繪はがき 近衛騎兵兵營の寫眞〕
 ナシノ礫の御小言ニハ少々恐縮シタガ君ダツテ一杯機嫌デナケレバ葉書抔ハカクマイ此前ノ葉書ハ立花ガヨコシタノデハナイカ
 倫孰《原》ノ天氣ノ惡〔イ〕ニハ閉口シタヨ君等ハ大ゼイ寄ツテ御全盛ダネ僕ハ獨リボツチデ淋イヨ學校ノ講義ナンカ餘リ下サラナイヨ伯林大學ハドウカネ英語モ中々上手ニハナレナイ第一先方ノ言フ事ガハツキリ分ラナイコトガアルカラナ金ガナイカラ倫孰ノ事情モ頓ト知レナイ勉強モスル積ダガソウハ手ガ廻ラナイ獨乙皇帝ハ婆サンノ鐵椎ニ遭ツタソウダ丁度博浪ノ椎ト云フ趣ガアル面白イ今日ビスケツトヲカヂツテ晝飯ノ代リニシタ餘リビールヲ飲ンデハイケナイヨ左樣ナラ
    十一月二十|一《原》日      夏 目 金
 萬一手紙ヲ出スナラ公使館ニアテテ呉玉ヘ一番慥カト思フ
 倫孰ノ古本屋ニハ欲イ本ガ澤山アリマス一冊モ御齒ニ合フ者ハアリマセン
 此繪葉書ノ處ハ僕ガ到着ノ翌日マゴツイタ處ダヨ
 
      一四〇
 
 十二月二十六日 水 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 拜啓十一月十七日附の御書面咋十二月二十五日着拜見致候先以て皆々樣時候の御變りもなく御消光のよし奉賀候其許も無事に御暮しのよし珍重に存候當地着以來二回書状差出し候只今頃は最早御地着の事と存候其後都合有之6Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.と申す所に轉居致候以前の處は東京の小石川の如き處に存候今度の處は深川と云ふ樣な何れも邊鄙な處に候即ち北西ヨリ南東に轉居致候日本にて三里許りの道のり有之馬車を傭ひて書物を載せて宿替隨分厄介なれど日本の書生の如くランプを手に持つ樣な不體裁は無之候此度の家は先頃迄女學校なりし處傳染病の爲め閉校其後下宿と變化致候主人夫婦と妻君の妹にてやり居候下宿にしては女學校の女先生丈ありて上品に候色々親切にて家族の如く致し居候同宿のもの日本人少々有之候主人は頗る日本人好にて西洋人を下宿させるよりは日本人を客にしたしと申居候是は日本人はおとなしく且金にやかましからぬ故に候もとの高等學校教授(我々の先生)に〔て〕國文學の先生池邊義象(もとの小中村義象)氏パリより來り此宿にて邂逅同氏歸朝の節は福本氏方へ參る故中根方へも立寄り小生の近況を話してやると申し居られ候故其内爲參候事と存候間可然御取持可被成候筆への見やげものに「クリスマス」の「カード」依頼致候筈の處混雜の際失念致候
 當地にては金のないのと病氣になるのが一番心細く候病氣は歸朝迄は謝絶する積なれど金のなきには閉口致候日本の五十錢は當地にて殆んど十錢か二十餞位の資格に候十圓位の金は二三回まばたきをすると烟になり申候今度の下宿は頗るきたなく候へども安直故辛防致居候可成衣食を節して書物丈でも買へる丈買はんと存候故非常にくるしく候殊に留學生は少なく逗留のものは官吏商人にて皆小生抔よりは金廻りのよき連中のみ羨ましき事はなけれど入らぬ地獄抔に金を使ひ或は無益の遊興贅澤品に浮身をやつし居候事惜しき心地致候彼等の金力あれば相應に必要の書籍も買ひ得られ候事と存候其許も二十圓位にては定めし困難と存候へども此方の事も御考御辛防可被成候
 中根父上の方へ借金出來候よし是は少々の事と存候もし少にても(一圓でも二圓でも)餘り候へば其方へ御廻し被下度候中根父上地方局長とかに御轉任のよし政海の事は我等には分り不申候へども御目出〔度〕き方の轉任と存候
 昨日は當地の「クリスマス」にて日本の元日の如く頗る大事の日に候青き柊にて室内を装飾し家族のものは皆其本家に聚り晩餐を喫する例に御座候昨日は下宿にて「アヒル」の御馳走に相成候
 湯淺土屋俣野時々參り候よしよく御あしらひ可被成候
 筆も丈夫に相成候よし何より結構の事に候可成我儘にならぬ樣あまへぬ樣可愛がりて無暗にあまき物抔やらぬ樣無暗にすはらして足部の發達を妨げぬ樣御注意可被成候是等は一時に害なき樣なれども將來恐るべき弊害を生じ一生の痼疾と相成申候小兒の教育程困難なる物は無之精々御心配願上候
 熊本にて一ペン尋ね候西洋人の婆さん「ノツト」夫人に不圖長崎より連になり夫より以後色々親切なる注意にあつかり今以て時々書状の牲復を致居候もし櫻井の妻君へでも書状をだ|る《ハラ》序あらば「フアーデル」に頼みて右婆さんの娘「ノツト」孃(熊本在の宣教師)へよろしく御傳言可被下候」
 時々書面も八方へ差上度候へども一刻もむだな時間は無之可成有益に時を使度と存候故其ひまも無之不惡御推察鈴木夏目其他へもよろしく御傳言頼み上候
 倫|孰《原》の繁昌は目撃せねば分り兼候位馬車、鐵道、電鐵地下鐵、地下電鐵等蛛の糸をはりたる如くにてなれぬものは屡ば迷ひ途方もなき處へつれて行れ候事有之險呑に候小生下宿より繁華な處へ行くには馬車地下電氣高架鐵、鐵道馬車、の便有之候へども處々方々へ參り候故時々見當違の處へ參る事有之候
 倫孰の中央にては日本人抔を珍らしそうに顧りみるもの一人も無之皆非常に自身の事のみに急がしき有樣に候さすが世界の大都會丈有之候
 只天氣のわるきには閉口晴天は着後數へる程しか無之しかも日本晴と云ふ樣な透きとほる樣な空は到底見る事困難に候もし霧起るとあれば日中にても暗夜同然ガスをつけ用を足し候不愉快此上もなく候
 當地のもの一般に公徳に富み候は感心の至り※[さんずい+氣]車抔にても席なくて佇立して居れば下等な人足の樣なものでも席を分つて讓り申候日本では一人で二人前の席を領して大得意なる愚物も有之候又種々の買物でも盗んで出樣とすればいくらでも盗める樣なもの有之古本の如きは窓外に陳列して番人も何もなき處有之候鐵道の荷物抔も「プラツトフオーム」に抛り出してあるを各自勝手に持つて參り候日本で小利口な物どもが※[さんずい+氣]車を只乘つたとか一錢だして鐵道馬車を二區乘つたとか縁日で植木をごまかしたとか不徳な事をして得意がる馬鹿物澤山有之候是等の輩を少々連れて來て見せてやり度候
 まだ書けばいくらも有之候へども時なき故擱筆新年の御慶皆樣へよろしく
 
    中根樣へも書状差上る筈なれど此回は此書状をかねて失禮致候不惡御宥恕ある樣御取なし可被下候
    十二月二十六日        金 之 助
   鏡 ど の
 
      一四一
 
 十二月二十七日 木 前0.15 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より Bei Frau Lenke、Melanchonstrasse 28, Berlin 藤代禎輔へ〔繪はがき〕
 
 先日の御手紙拜見「コーチ」と云ふのは書生間の語で private な先生の事を云ふのだよ僕の「コーチ」は「シエクスピヤ」學者で頗る妙な男だ四十五歳位で獨身もので天井裏に住んで書物ばかり讀んで居る今は「シエクスピヤ」字引を編纂中である
 二年居つても到底英語は目立つ程上達シナイと思ふから一年分の學費を頂戴して書物を買つて歸りたい書物は欲いのが澤山あるけれど一寸目ぼしいのは三四十圓以上だから手のつけ樣がない可成衣食を節儉して書物を買〔は〕ふと思ふ金廻りのよき連中が贅澤をするのを見ると措き心持がする
 御地の「クリスマス」は如何僕は「アヒル」の御馳走になつた
 僕は東京でいふと小石川といふ樣な處から深川といふ邊へ宿替をした倫|孰《原》の廣いのは驚く※[さんずい+氣]車抔を間違へて飛んでもなき處へ持つて行かれる事がある
 會話は一口話より出來ない「ロンドン」兒の言語はワカラナイ閉口
    十二月二十六日        金 之 助
   藤 代 君
 
 明治三十四年
 
      一四二
 
 一月一日 火 後3.30 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.よりより 牛込區肴町五四夏目直矩へ〔繪はがき〕
 新年の御慶目出度申納候貴家御一同萬福御越年の事と存候小生無恙加馬齢候御安意可被下候平生は多忙の爲め御無沙汰御海恕可被下候
    三十四年一月一日        金 之 助
   夏目直矩樣
   高田庄吉樣
 
      一四三
 
 一月三日 木 前11.30 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.よりより Bei Frau Lenke、Melanchonstrasse 28, Berlin 藤代禎輔へ
 下宿の不平は僕も大有だつたが一週二十五志の場所を見出して汚い處に籠城して居る只今は頗る愉快だ下宿は方々尋ねて歩いたが日本人のふるく居る處は皆「スポイル」して仕舞つて高くて惡い樣だ
 餘りビールを飲まない樣餘り美人に近付の出來ぬ樣天帝に祈祈して新年の御慶を申上ます
 僕は書物をかつて仕舞ふから又邊鄙な處に居るから家がやかましいから金と不便と遠慮がハチ合せをして頗る謹直である
 倫|孰《原》に遊びにこられるなら僕の處へき給へ安い事は受合いだ
    一月三日          金 之 助
   藤 代 樣
 
      一四四
 
 一月二十二日 火 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.よりより 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ〔薄葉に筆にて認めあり〕
 其後は如何御暮し被成儀や朝夕案じ暮し居候先以て皆々樣御丈夫の事と存候其許も御壯健にて今頃は定めし御安産の事と存候此方も無事にて日々勉強に餘念なく候御懸念あるまじく候小兒出産前後は取分け御注意可然と存候當地冬の季候極めてあしく霧ふかきときは濛々としで月夜よりもくらく不愉快千萬に候はやく日本に歸りて光風霽月と青天白日を見たく候當地日本人はあまた有之候へども交際すれば時間も損あり且金力にも關する故可成獨居讀書にふけり居候幸ひ着以後一回も風をひかず何より難有候近頃少々腹工合あしく候へども是とても別段の事には無之どうか留學中には病氣にかゝるまじくと祈願致居候
 倫敦の市内を散歩すればほしき物澤山有之國へ歸るとき見やげものにしたきものも非常に多く候へども如何にせん微力にて一向買ふ事出來ず故に散歩のときは場末の田舍のみあるき居候
 先年熊本にて筆と御寫し被成候寫眞一|牧《原》序の節御送り可被下候厚き板紙の間に挾み二牧絲にてくゝり郵便に御投じ可被下候當地は十圓位出さねば寫眞もとる事出來ず候故小生は當分送りがたく候
 他國にて獨り居る事は日本にても不自由に候况んや風俗習慣の異なる英國にては隨分厄介に候朝起きて冷水にて身を拭ひ髯をそり髪をけづるのみにても中々時間のとれるものに候况んや白シヤツを着換へボタンをはづし抔する實にいやになり申候西洋人との交際別段機會も無之且時間と金なき故可成致さぬ樣に致居候
 當地の品物は高き代りに皆丈夫向に候中にも男子の洋服は「パリス」よりも倫敦がよろしき由成程結構に候小生も當地にて「フロツク」と燕尾服を作り候是は日陰町の如き所故無論極粗末なものに候其上「フロツク」は出來損ひ申候是は漸く旅費の餘で調へ申候然るに「フロツク」の袖口廣く外套の袖狹く大に困難致居候此地に居る日本人の内には人より三四月前に來りながら倫敦通をきめて新來の日本人の服装抔を冷かし申候其癖當人の洋服は頗る妙なのを着て得意がつて居候是は洋服屋にだまされて無暗に高き金をとられ自分は人よりも高き金を拂つた故品物も仕立も人より遙かに上等と心得居る如き愚物に候
 此地にて物價の高きは一寸靴一足を買ひ候ても十圓位はかゝり候にて御推了被下度候毛織物は割合安く候襟等は非常に白く堅く到底日本のとは比較になり兼候外に出た時一寸晝飯を一皿位食へばすぐ六七十錢はかゝり候日本の一圓と當地の十圓位な相場かと存候隨つて知らず/\の中に贅澤になり申候洋行生が日本に歸りて贅澤と思はるゝは尤もと存候是はあながち贅澤には無之當地にて普通以下の事を日本ですれば頗る贅澤と見傚さるゝ迄に候
 氣候は隨分寒き事有之候へども概して東京よりは凌ぎよく此二三日は春の如き心地致候位それも例年此通なるや分り兼候東京は嘸寒き事と存候正月の樣な心持は少しもなく候
 芝居には三四度參り候いづれも場内を赤きビロードにて敷きつめ見事なる事たまげる許りに候道具衣裳の美なる事亦人目を驚かし候中にも寄席芝居の樣なものは五六十人の女翩々たる舞衣をつけて入り亂れて躍り候樣皆に見せ度程うつくしく候其中此女がフワ/\と宙に飛び上り(ハリガネの仕掛にて)て其女の頭胸手抔に電氣燈がツキ夫に輕羅と寶石が映ずると云ふ譯だから想像しても美いと思ふだらう然し眞面目な芝居に善き席にて見物せんとするには燕尾服をつけ白襟ならざるべからず喫烟は無論出來ず頗る窮窟に候小生はセビロ赤靴にて飛び込み大に閉口したる事有之候
 當地の商人紳士少し身分あるものは平生必ず「フロツク」に絹帽をいたゞき候中にはクヅ屋から貰た樣な「シルク」帽を蒙りヘンテコな「フロツク」を着て居るのも有之|御《原》羽うち枯した浪人と申す位な處なるべし男子服装は頗るヂミにてせびろも黒多くヅボン縞あれども黒ズミて遠方から見れば無地と思ふ樣なものゝみに候中以下は夏冬同じものをつけ居候由少し上等になれば晩には必ず燕尾服に着換て食事をなす風に候燕尾服は必ず晩の禮服ときまり居候葬儀結婚等の大禮にても日中執行するものは必ず「フロツク」を用い申候「フロツク」を着ても燕尾服をつけてもつけばいの致さぬは日本人に候日本に居る内はかく迄黄色とは思はざりしが當地にきて見ると自ら己れの黄色なるに愛想をつかし申候其上脊が低く見られた物には無之非常に肩身が狹く候向ふから妙な奴が來たと思ふと自分の影が大きな鏡に寫つて居つたり抔する事毎々有之候顔の造作は致し方なしとして脊丈は大きくなり度小兒は可成椅子に腰をかけさせて坐らせぬがよからんと存候尤長く當地に居る人は大抵奇麗にてどこか垢ぬけ致居候へども脊丈は十年居つても高くなる事は御座なく閉口の至に候往來にて自分より脊の低き西洋人に逢つた時は餘程愉快に候然し大抵の女は小生より高く候恐縮の外無之候
 住みなれぬ處は何となくいやなものに候其上金がないときた日にはニツチもサツチも方が就かぬ次第に候下宿に籠城して勉強するより致方なく外へ出ると遂《原》金を使ふ恐有るものに候
 筆は定めし成人致し候事と存候時々は模樣御知らせ可被下候少し歩行く樣になると危儉なものに候けがなき樣御注意可被下候
 鈴木禎さんへは一向手紙も上げず失禮ばかりして居る序の節よろしく云ふて下さい
 手紙も再々上げたいが時を使ふのが惜いからあまり書かない其積りで居|い《原》下さい御手紙はいつでも公使館宛で御出可被成下宿は只今の處より移らぬ積なれど換えぬとも限らぬ事に候高濱よりほとゝぎすを贈つて呉申候着後既に三冊もらひ候
 産後の經過よろしく丈夫になり候へば入齒をなさい金がなければ御父ツさんから借りてもなさい歸つてから返して上ます髪抔は結はぬ方が毛の爲め脳の爲よろしいオードキニンといふ水がある是はふけのたまらない藥だやつて御覽はげがとまるかも知れない
 餘り長くかくと時がつぶれるから此位にして置く
    三十四年一月二十二日夜  金 之 助
   鏡 ど の
 此方へ郵便を出すには郵便日といふのが極つて居る今年中の表が出來て居て横濱を何月何日に何船が出て「アメリカ」若くは印度を通つていつ倫敦につくといふ日取が分る此表は多分郵船會社か何かでくれるであらふから御貰ひなさい「アメリカ」便の方が二週間許り早く|呉《原》状|装《原》の左の上の端に Via America とかけばアメリカ便でくる 
      一四五
 
 一月二十四日 木 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.よりより 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ〔薄葉に筆にて認めあり〕
 昨日久々にて一書相認め郵筒に附し候處今日御地十二月二十一日付の書翰到着皆々無事のよし承知大慶此事に御座候
 小兒出産後命名の件承知致候是は中根爺樣の御つけ被下る事と合|認《原》して何とも申し遣はさず打絶申候名前も考へると無づかしきものに候へどもどうせいゝ加減の記號故簡略にて分りやすく間違のなき樣な名をつければよろしく候今度の小兒男兒なれば直一〔二字傍線〕とか何とか御つけ可被成候是は家の人が皆|直〔傍線〕の字がついて居る故なり又代輔〔二字傍線〕でもよろしく是は死んだ兄の幼名なり或は親が留守だから家の留守居をする即ち門を衛ると云ふので衛門〔二字傍線〕抔は少々洒落て居るがどうだね門を衛るでは犬の樣で厭なら御止し己と御前の中に出來た子だからどうせ無口な奴に違ひないから夏目|黙〔傍線〕モク抔は乙だらう夫とも子供の名前丈でも金持然としたければ夏目|富《トム》がよからう但し親が金之助でも此通り貧乏だからあたらない事は受合だ女の子なら春生れだから御春さんでいゝね待《マチ》v父《チヽヲ》の上ノ一字ヅヽを取つてマチ即ち町〔傍線〕は如何ですかな己の御袋の名は千枝《チエ》といつたこいつは少々古風で御殿女中然として居るな姉が筆だから妹は墨《スミ》としたら理窟ポイかな二字名がよければ雪江、浪江、花野なんて云ふのがあるよ千鳥鴎とくると鳥に縁が近くなるし八つ橋、夕霧抔となると女郎の名の樣だからよしたがよからうまあ/\何でも異議は申し立んから中根のおやぢと御袋に相談してきめるさ
 入齒の事承知俣野湯淺土屋へは無沙汰をして居るよろしく言つて御呉れたまに來たら燒芋でも食はしてやるがいゝ菅の奥さんが來たら是亦よろしくだ菅へも狩野へも一返も手紙をやらないよ
 此手紙と前便とは一所に屆くだらう此土曜が郵便日だから
    二十四日夜        金
   鏡 ど の
 御梅さんは脊が高くなつたかね御豐さん、たけさん、倫さん皆さんへよろしく倫さんは勉強するかい近頃はどんな樣子かね
 
      一四六
 
 二月五日 火 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.よりより 在獨乙藤代禎輔へ
 所謂難關説は承はつた時は左程でもなかつたが昨今は大に名説だと思つて感服仕るね第一無精極まる僕が妻の處へ丈は一月に一返位便りをするから奇特だらうあんな御多角顔でも歸たら少々大事にしてやらうと思ふよ僕は書物を買ふより外には此地に於て樂なしだ僕の下宿抔と來たら風が通る暖爐が少し破損して居る憐れ憫然なものだねかういふ所に辛抱しないと本抔は一冊も買へないからなー先達文部省へ申報書を出した時最後の要件と云ふ箇條の下に學資輕少にして修學に便ならずと書てやつた僕はまだ一回も地獄抔は買はない考ると勿體なくて買た義理ではない芳賀が聞たらケチな奴だと笑ふだらう西洋人と交際もしない廣く交るには紹介も必要だし衣服其他もチヤンとしなければならず馬車も奢らねばならず第一時間を浪費して而して「シンミリ」した話は出來ないからねあまり難有い事はないよ大學も此正月から御免蒙つた往復の時間と待合せの時間と教師のいふ事と三つを合して考へて見ると行のは愚だよ夫に月謝抔を拂ふなら猶々愚だ夫で書物を買ふ方が好い然も其 Prof. がいけすかない奴と來たら猶々愚だよ君はよく六時間なんて出席するね感心の至だ僕のコーチも頗る愚だが少しは取る處ありで是丈はよさずに通學して居る system も何もなくて口から出まかせを夫から夫へとシヤベる奴だよ君は病氣だつたつてね大事にし給へ美人を封じられて轉た郷愁を惹くと云ふ譯なら封じられない前は思ひやられるね、せつぱつまらなければ不品行抔はよすがいゝ其方が上品でもあり經濟でもあり時間も徳であるからね僕は幸ひ無事だ安心して呉給へ友達がなくて淋い倫敦へ遊びに來ないか立花も病氣だつてね|加《原》愛想によろしくいつて呉給へ神田男爵はどうだね君も少しはシヤレル樣になつたらう以下次號
    二月五日         金 之 助
   藤 代 樣
 
      一四七
 
 二月九日 土 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より 東京狩野享吉、大塚保治、菅虎雄、山川信次郎、四氏へ
   狩 野 君
   大 塚 君
   菅   君
   山 川 君
    三十四年二月九日朝    金之助
 其後は何方へも御無沙汰をして濟まん/\と思つて居ると一昨七日山川君から年始状が來た續いて菅君からも繪端書が來たかうなるといかな無精な拙者でも義理にも黙つて居られないといふ譯で勇猛心を鼓舞して今土曜の朝を抛つて久し振りに近况を御報知する事にした尤も諸君へ別々に差上るのが禮ではあるが長い手紙を一々かくのは頗る困難であるから失禮ではあるが一纒めの連名で御免蒙る事とした夫から例の候の奉るのは甚だ厄介だから少し氣取つて言文一致の會話體に致した右不惡御了承を願ふ」
 着後の景況を詳しく述べるには紙數に限りありといふよりも時間に限りありで到底出來にくいから一寸かいつまんで申上樣
 九月八日に日本を出てから十月下旬に「パリ」にて博覽會を一週間許り見たが一切何にも分らないと思ひ給へ夫から皆に別れて心細くも英國へ着したが朋友も居らず方角も分らず北海道の土人が始めて東京へ修業に出た位の處さ大塚君から教へられた Gower St. の下宿へ行つて部屋の明いて居る處があるなら留めて頂けますまいか何ていふ頗る馬鹿叮嚀な調子で頼み込んで漸く雨露丈は凌いだ
 偖是から留學地選定の件を方付ねばならぬ「ケンブリツヂ」か「オクスフオード」か乃至「エヂ〔ン〕バラ」か「ロンドン」かと色々思案をしたが幸ひ或る西洋人の紹介を持つて居たから一先「ケンブリツヂ」に行つて樣子を見て來ようと思ふて出掛て見た是が英國内の旅行の最初である「ケンブリツヂ」へつくと驚いたのは書生が運動シヤツト運動靴で町の内を「ゾロ/\」歩いて居る是は船を漕いだり丸を抛げたり又は自轉車へ乘る先生方であつて而して大學生の大部分は此先生方である夫から段々大學の樣子を聽て見ると先づ普通四百磅乃至五百磅を費やす有樣である此位使はないと交際抔は出來ないそうだ尤もやり方でもつと安くも出來るが世間がそういう風だから衣服其他之に相應して高い月謝も高い留學生の費用では少々無理である無理にやるとした處が交際もせず書物も買へず下宿にとぢ籠つて居るならば何も「ケムブリツヂ」に限つた事はない少しでも樂な處に行くが善いと判斷した是に於て「ケンブリツヂ」も「オクスフオード」も御已めにして此度は「エヂ〔ン〕バラ」か「ロンドン」かと考へ出した「エヂンバラ」は景色が善い詩趣に富んで居る安くも居られるだらう倫|孰《原》は烟と霧と馬糞で填つて居る物價も高い、で餘程「エヂンバラ」に行かうとしたが茲に一の不都合がある「エヂンバラ」邊の英語は發音が大變ちがう先づ日本の仙臺|辨《原》の樣なものである切角英語を學びに來て仙臺の「百ズー三」抔を覺えたつて仕樣がない夫から倫孰の方はいやな處もあるが社會が大きい女皇が死ねば葬式が倫孰を通る王が即位すれば「プロクラメーシヨン」が倫孰である芝居に行きたければ West End に並んで居る夫から僕に尤も都合の善いのは古本抔をさがすには(新い本で〔も〕出版屋は大概倫孰である)此處が一番便利である 以上の譯で先づ倫孰に止まる事に致した
 倫敦に留まるとすれば第一學校第二宿をきめねばならぬ學校の方は University College ノ Prof.Ker に手紙をやつて講義傍聽の許諾を得たから先よいとして宿の方は困つた第一安直でなければならぬ第二可成閑靜な處が欲い夫から公使館へ行つて日本人の名簿を引くり返して留學生の居つたらしい處を尋ねる事にした處が倫孰は廣い※[さんずい+氣]車馬車交通の機關は備はつて居るが田舍者のぽつと出には悲いかな之を利用する事が出來ぬ仕方ないから地圖にたよつて膝栗毛で出掛ると一二軒尋ねる内に日が暮れて仕舞ふ然も其尋ねた家が代が替つて居たり部屋が塞がつて居つたり或は滅法高かつたりして皆だめだ夫から此度は新聞の廣告を見て探し出した廣告の貸間は素敵にあるもんだよ之を見通すさへ三時間位はかゝる况んや之を尋ねるに於てをやだ此困難を經過して漸く二週間の後東京の小石川といふ樣な處へ一先づ落付たすると此家がいやな家でね――且つ頗る契約違背の所爲があつたから今度は深川のはづれと云ふ樣な所へ引越した道程は四五里もあるだらう隨分書物抔は不便なものだよ東京の書生の樣に「ランプ」を持つてこそ行かないが實にいやなもんだよ此家が 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.で此手紙を書いて居る所だよ
 宿は夫で一段落が付た夫から學校の方を話さう University College へ行つて英文學の講義を聞たが第一時の配合が惡い無暗に待たせられる恐がある講義其物は多少面白い節もあるが日本の大學の講義とさして變つた事もない※[さんずい+氣]車へ乘つて時間を損して聽に行くよりも其費用で本を買つて讀む方が早道だといふ氣になる尤も普通の學生になつて交際もしたり圖書館へも這入たり討論會へも傍聽に出たり教師の家へも遊びに行たりしたら少しは利益があらう然し高い月謝を拂はねばならぬ入らぬ會費を徴集されねばならぬ其のみならずそんな事をして居れば二年間は烟の樣に立つて仕舞ふ時間の浪費が恐いからして大學の方は傍聽生として二月許り出席して其後やめて仕舞た同時に Prof.Ker の周旋で大學へ通學すると同時に Craig と云ふ人の家へ教はりに行く此人は英詩及「シエクスピヤー」の方では專門家で自分で edit と《原》した沙翁を「オクスフオード」から出版して居る「ダウデン」の朋友で今同教授が出版しつゝある沙翁集中の「キングリヤ」の editor である「ベーカー」町の角の二階裏に下女と二人で住んで居る頗る妙な爺だよ餘〔り〕西洋人と縁が絶ても困るから此先生の所へは逗留中は行く積りだ
 以上は僕の大體の經歴だ是からくだらぬ事を一二御話し樣
 僕は英語研究の爲め留學を命ぜられた樣なものゝ二年間居つたつて到底話す事抔は滿足には出來ないよ第一先方の言ふ事が確と分らないからな情ない有樣さ殊に當地の中流以下の言語は Hノ音を皆拔かして鼻にかゝる樣な實に曖昧ないやな語だ此は御承知の cockney で教育ある人は使はない事になつて居るが實に聽きにくい仕方ないからいゝ加減な挨拶をして御茶を濁して居るがね其實少々心細い然し上等な教育のある人になると概して分り易い芝居の役者の言語抔も頗る明晰先づ一通りは分るので少しは安心だ然し教育ある人でも無遠慮にベラ/\|※[口+堯]《原》舌り出すと大に狼狽するよ日本の西洋人のいふ言が一通り位分つても此地では覺束ないものだよ元來日本人は六づかしい書物を讀んだり六づかしい語を知つ〔て〕居るが口と耳は遙かに發達して居らん此も一種の教育法かも知れぬが内地雜居の今日口と耳がはたらかないと實用に適しないのみならず大に毛唐人に馬鹿にされるよ堂々たる日本人が隨分御出になるが會話がまづいから西洋人の方では學問も會話位しか發達して居ないとしか考へないつまらぬ樣だが日本でも手紙の字がまづいと其人を惡く想像するといふ樣な譯だから仕方がない此を改良するのは大問題だ到底僕抔には考へられない恐く今の日本の有樣では何人も名案はあるまい然し少しでも善き方に進ませるが教育者の任である山川君抔は隨分御研究被下たいと思ふ然し同じ教育のある人でも非常に分りよいのと分りにくいのとあつてね日本と同じ事だよ大幸勇吉の日本語抔は僕にも分らないからな
 斯いふ譯で語學其物は到底僕には卒業が出來ないから書物讀の方に時間を使用する事にして仕舞た從つて交際抔は時間を損するから可成やらない加之西洋人との交際となると金がいるよ御馳走ばかりになつて居るとしても金が居《原》るよまづい洋服抔は着て居られないしタマには馬車を驅らなければならないし而も餘程親密にならなければ一通りの談話しか出來ない興味のあるシンミリした話なんかはやれないからね夫も二年で語學が餘程上達する見込があれば我慢してやるがそれは以上の理由でだめだから時間を損し金を損して是といふ御見やげがない位なら始めからやらない方がいゝからね僕は下宿籠城主義とした
 下宿といへば僕の下宿は隨分まづい下宿だよ三階でね窓に隙があつて戸から風が這入つて顔を洗フ臺がペンキ塗の如何はしいので夫に御玩弄箱の樣な本箱と横一尺竪二尺位な半まな机がある夜抔は君ストーブを|燒《原》くとドラフトガ起つて戸や障子のスキからピユー/\風が這入る室を暖めて居るのだか冷して居るのだか分らないね夫から風の吹く日には烟突から「ストーブ」の烟を逆戻しに吹き下して室内は引き窓なしの臺所然として居る何に元の書生時代を考へれば何の事はないと瘠我慢はして居るが色々な官員や會社の役人や金持が來てねくだらない金を使ふのを見るといやになるよ日本へ歸れば彼等のある者とは同等の生活が出來る外國へ同じ官命で來て留學生と彼等の間にはかゝる差違が何故あるかと思ふと歸り度なるね然しこんな愚痴は野暮の至りだから黙つて居るが何しろ彼等の或物が日本の利益にも何にもならない處に入らぬ金を茶々風茶に使ふのは惜いよ
 下宿の有樣は以上の如しだから是から下宿の家族に付て一言せざるべからざる譯となる抑も此下宿たるや先頃迄は女學校たりしものが突然下宿に變化したのである是は女學生中に流行病が起る生徒がなくなる借金が出來る不得已閉校して下宿開業借金返濟策と出掛た故に此家の女主人公は固の女學校の校主にして其妹たるや學校の普樂教師たりと云ふ譯さそして此姉が閉校後結婚して亭主も同宿して居る其外に元の女學生が一人居るこう云ふと大變上品の樣に聞える僕も其積りで移つたのであるが移つて段々話しをして見ると誰も話せる奴はない書物抔は一向知らない姉君の方は元はどこかの governess であつたとかで頻りに昔しの夜會や舞踏抔の話をする又繪がかけると云ふのが御自慢である大變な vanity の強い女で御相手をするのが厭だからフン/\と云つて向通りを眺めて居ると張合がないと見えて自慢話しをやめる事がある近頃は僕の人となりを知り僕の如何なる人間たるやを少し會得したと見えて餘り法螺を吹て自慢しなくなつた頗る謹慎して殊勝である夏目の徳御天馬に及ぶと云ふ位のものだ
 此女將軍の英語たるや學校の主幹たりし丈にわるくはなけれども決して上品にあらず且六づかしき字抔は知らず會に俗に用いない字を使ふと「アクセント」や發音を間違へる此方の言語がムヅカシクて分らなくても日本人に聞ては英國婦人の品位が落ちると云ふ樣な顔で知たふりで通す頗る憐れな奴だ(山川君に取分けて申すが)一般の英國人よりも我々が學者であつて多くの書物を讀んで居つて且つ英國の事情(ある事情昔し存在して今なき樣な事情)には明かであると申して差|違《原》なし前には語學の困難を申して我々は二|足《原》三文の價値なき樣に申上たが斯樣な點になる〔と〕彼等よりも威張れるよ安心し給へ或る西洋人は pillory と云ふ事を知らなかつた或人は such a one と云ふとか such an one であるとかで議論して居た或る婆さんは benefit と云ふ字は a noun of multitude だといつて僕に教へた耳で聽た事のない書物上ニ出テくる字の「アクセント」などはよく間違へて居る然も以上の點は普通教育を受たものゝ内にあつた事其内のあるものは大學の卒業生中にあつた事と思ひ給へ
 其から妹の方は極めて内|場《原》だ賢|夫《原》人である教育はさしてないがあるふりをせぬ丈が感心である夫から亭主もいゝ奴だが頗る無學で書物抔は讀んだ事もあるまい此間一所に芝居「パントマイム」を見物に行た Robinson Crusoe をやつて居つた所が實際是は小説か事實物譚かといつて僕に尋ねた
 芝居といへば此ちらの芝居は奇麗だよ其代り中央の善い芝居へ行くと善い席では燕尾服をつけなければならぬ僕は赤靴ジヤケツで飛び込んで極りが惡かつた事がある
 交通機關は便利だね馬車電鐵地下鐵道高架鐵道色々のがあるよ其代りやかましくつていやだ馬車へ乘つて濟して居ると元の方角へ連れて行かれたり※[さんずい+氣]車を乘違へて飛でもない處へ持て行かれたりする事が澤山ある
 紳士は大概「フロツク」に「シルクハツト」ダ中には如何しき「フロツク」に屑屋の樣な「シルクハツト」を被つて居るのがある浪人のベンベラの羽二重と云ふ樣なものだらう
 先達ての女皇の葬式は見た「ハイドパーク」と云ふ處で見たが人浪を打つて到底行列に接する事が出來ない其公園の樹木に猿の樣に上つてた奴が枝が折れて落る然も鐵柵で尻を突く警護の騎兵の馬で蹴られる大變な雜沓だ僕は仕方がないから下宿屋の御爺の肩車で見た西洋人の肩車は是が始ての終りだらうと思ふ行列は只金モールから手足を出した連中が|續《原》がつて通つた許りさ
 僕は少々面白い本を買つた狩野君に見せたいのがある
 僕は順に行けば來年の十月末若くは十一月始ニ歸朝するのだが少シ佛蘭西に行つて居たいどうも佛蘭西語が出來んと不都合だ切角洋行の序にやつて行きたいが四ケ月か五ケ月でいゝが留學延期をして佛蘭西に行く事は出來まいか狩野君から上田君に話して貰ひたいそうして一寸返事をよこして貰ひたい。そうするとサ來年四月位ニ歸ル譯ニナル
 夫からもろ二つ狩野君と山川君と菅君に御願ひ申す僕はもう熊本へ歸るのは御免蒙りたい歸つたら第一で使つてくれないかね未來の事は分らないが物が順にはこぶと見て僕も死なず狩野君も校長をして居るとした處で如何ですかな御安くまけて置きますよ
 大塚君の指輪は到着したかね安達から手紙が行つたらう
 山川君世帶を持つたか僕は歸つたらだれかと日本流の旅行がして見たい小天行抔を思ひ出すよ
 僕は中々手紙をやらないから諸君に頼むのは妙だが時々何か書てよこして呉れ給へ御願だ宛名は公使館がいゝ下宿は移る事があるから
 
      一四八
 
 二月二十日 水 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より 牛込區失來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 國を出てから半年許りになる少々厭氣になつて歸り度なつた御前の手紙は二本來た許りだ其後の消息は分らない多分無事だらうと思つて居る御前でも子供でも死んだら電報位は來るだらうと思つて居る夫だから便りのないのは左程心配にはならない然し甚だ淋い山川から端書が來た先達て是は年始状だ菅からも年始の端書をくれた其外に熊本の野々口と東京の太田と云ふ書生から年始状が來た手紙は是丈だ
 御前は子供を産んだらう子供も御前も丈夫かな少々そこが心配だから手紙のくるのを待つて居るが何とも云つてこない中根の御父つさんも御母さんも忙がしいんだらう
 金巡りさへよければ少しは我慢も出來るが外國に居て然も嚢中自か〔ら〕錢なしと來てはさすがの某も中々閉口だ早く滿期放免と云ふ譯になりたい然し書物丈は切角來たものだから少しは買つて歸り度と思ふそうなると猶|必《原》逼する然し命に別條はない安心するが善い
 段々日が立つと園の事を色々思ふおれの樣な不人情なものでも頻りに御前が戀しい是丈は奇特と云つて褒めて賞はなければならぬ夫から筆の事だの中根の御父つさんや御母さんの事だの御梅さんや倫さんの事だの狩野だの正岡だの菅だの山川だの親類や友達の事なんかを無暗に考へる其癖あまり手紙はかゝない先達大坂の鈴木と時さんへ一本出した熊本の櫻井へも出した狩野大塚山川菅へ連名で出した夫から中根の御母さんへ一本出した是は此前の郵便で屆くか事によると此手紙と一所に屆くだらう
 おれの下宿は氣に喰はない所もあるが先々辛防して居るよ妻君の妹が洗濯や室の掃除抔の世話をする中々行届いたものだ、シヤツ〔三字傍線〕や股引の破けたの抔は何にも云はんでもちやんと直|つ《原》て呉る御前も少々氣をつけるが善い
 湯淺だの俣野、土屋、抔にも逢ひ度、高知縣の書生でよく來た男一寸名前を忘れて仕舞たあの男抔の事も時々考へる
 おれの下宿には○○と云ふサミユエル〔五字傍線〕商會へ出る人が居る此人はノンキな男で地獄の話より外は何にも知らない人だ此人と時々芝居を見に行く是は一は修業の爲だから敢て贅澤ではない日本の人は地獄に金を使ふ人が中々ある惜い事だおれは謹直方正だ安心するが善い
 西洋は家の立て方から服装から萬事窮窟で|行《原》かぬそして室抔は頗る陰氣だ殊に倫|孰《原》は陰氣でいけない昨日も三時頃「ピカーデレー」と云ふ所を通つて居ると突然太陽が早仕舞をして市中は眞暗になつた市中は瓦斯と電氣で持つて居る騷ぎさ
 まだ/\あるが是から散歩に出なければならぬから是でやめだ
 からだが本復したらちつと手紙をよこすがいゝ
    二月二十日        金 之 助
   鏡 ど の
 此手紙は明日の郵便で日本へ行く郵便日は一週間に一遍しかない
 
      一四九
 
 二月二十三日 土 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より 高濱清へ〔はがき 四月二十日發行『ホトトギス』より〕
 女皇の葬式は「ハイド」公園にて見物致候。立派なものに候。
  白金に黄金に柩寒からず
 屋根の上などに見物人が澤山居候。妙ですな。
  凩の下にゐろとも吹かぬなり
 棺の來る時は流石に靜肅なり。
  凧や吹き靜まつて喪の車
 熊の皮の帽を|載《原》くは何といふ兵隊にや。
  熊の皮の頭巾ゆゝしき警護かな
 もう英國も厭になり候。
  吾妹子を夢みる春の夜となりぬ
 當地の芝居は中々立派に候。
  滿堂の閻浮檀金や宵の春
 或詩人の作を讀で非常に嬉しかりし時。
  見付たる菫の花や夕明り
 
      一五〇
 
 三月九日 土 前11・30 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 其後國から便があるかと思つても一向ない二月二日に横濱を出た「リオヂヤネイロ」と云ふ船が桑港沖で沈没をしたから其中におれに當た書面もありはせぬかと思つて心掛りだ
 御前は産をしたのか子供は男か女か兩方共丈夫なのかどうもさつぱり分らん遠國に居ると中々心配なものだ自分で書けなければ中根の御父さんか誰かに書て貰ふが好い夫が出來なければ土屋でも湯淺でもに頼むが好い
 新聞も頼んで置たが一向來ない是は經濟上の都合があると云ふならよこさんでもよろしい只だんまりですてゝ置くのは宜しくない注意するがよい
 おれは不相變忙がしいから長い手紙を出し度ても出す暇がない諸方へは御前からよろしく言つて呉れ
 芝居は修業の爲に時々行くが實に立派で魂消る許りだ昨夜も「ドルリー・レーン」と云ふ倫|孰《原》の歌舞伎座の樣な處へ行つたが實に驚いた尤も其狂言は眞正の芝居ではない「パントマイム」と云つて舞臺の道具立や役者の衣装の立派なのを見せる主意であつて是は重に「クリスマス」にやるものだがはやるものだから去年から引き續いてやつて居る(倫孰は廣い處だから芝居の數も無暗にあるがはやる狂言になると三年も續けて一つ芝居をやつてそして人が這入るのだから不思議なものだ)そこで此道具立の美しき事と言つたら到底筆には盡せない觀音樣の棟に彫りつけてある天人が五六十人集まつて繪にかいた龍宮の中で舞踏をして居ると其後から又五六十人が舞臺の下からセリ出してくる急に舞臺が暗くなると其次の瞬間には悉皆道具が替つて居る突然舞臺の眞中から噴水が出て此噴水が今紫色であるかと思ふと黄色になり其次には赤くなり青くなり非常な金銀を鏤めた殿閣が急に現はれて夫が柱天井の中に皆電氣がつい〔て〕光る「ダイヤモンド」で家が出來て居る樣だ女の頭や衣服も電氣で以て赤い玉や何かゞ何十となくつく夫が一幕や二幕ではない差し易り引き易り實に莫大な金を費さなければ出來ない丸で極樂の活動寫眞と巡り燈籠とを合併した樣だ何しろ大きな水|昌《原》宮がセリ出すかと思ふと奇麗な花園がセリ下がつて來たり其後から海に日が當つて山が青く見える處が次第に現はれで來たり是が漸々雪の降る景色に變化したり實に奇觀である
 おれは丈夫だ餘程肥た樣だ然し早く日本に歸りたい後は其内書いてやる
    三月八日         金 之 助
   鏡 ど の
 
      一五一
 
 四月九日 火 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 其後は頓と御無沙汰をして濟まん君は病人だから固より長い手紙をよこす譯はなし高濱虚子君も編輯多忙で「ほとゝぎす」丈を送つてくれる位が精々だらうとは出立前から豫想して居つたのだから手紙のこないのは左迄驚かないが此方は倫|孰《原》といふ世界の勸工場の樣な馬市の樣な處へ來たのだから時々は見た事聞た事を君等に報道する義務がある是は單に君の病氣を慰める許りでなく虚子君に何でもよいからかいて送つて呉れろと二三度頼れた時にへい/\よろしう御座いますと大揚に受合つたのだから手紙をかくのは僕の義務さ夫は承知だが僕も遊びに來た譯でもなし醉興にまごついて居る仕儀でもないのだから可成時間を利用し樣と思ふのでね遂々いづ方へも無音になつてまことに申譯がない〔以下第二十二卷『初期の文章』所收『倫敦消息』の一參照〕
    四月九日夜         漱  石
   子 規 君
   虚 子 君
 (もう厭になつたから是で御免蒙る實は僕の先生の話しをし度のだがね餘程の奇人で面白いのだから然し少々頭がいたいから是で御勘辨を願はう
 ほとゝぎす拜見、君の端書も拜見病氣がよくないそうだ困るねまー/\用心するがいゝ)
 
      一五二
 
 四月二十日 土 6 Flodden Road,Camberwell New Road, London,S.E.より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 〔本文『倫敦消息』の二參照〕
 今回は是で御免竹村は氣の毒な事だ
 ひまがあれば通信をするこんな事をかくんでも中々時間がかゝるから惜い通信は歸朝の上見せてもらうかも知れないから反古にせずととつて置いて呉れ給へ
    二 十 日          漱  石
   子 規 君
   虚 子 君
 
      一五三
 
 五月八日 水 Tootingより 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 御前の手紙と中根の御母さんの手紙と筆の寫眞と御前の寫眞は五月二日に着いて皆拜見した
 久々で寫眞を以て拜顔の榮を得たが不相變御兩人とも滑稽な顔をして居るには感服の至だ少々耻かしい樣な心持がしたが先づ御ふた方の御肖像をストーブの上へ飾つて置たすると下宿の神さんと妹が掃除に來て大變御世辭を云つてほめた大變可愛らしい御孃さんと奥さんだと云つたから何日本ぢやこんなのは皆御多福の部類に入れて仕舞んで美しいのはもつと澤山あるのさと云つてつまらない處で愛國的氣※[餡の旁+炎]を吐いてやつた筆の顔抔は中々ひようきんなものだね此速力で滑稽的方面に變化されてはたまらない
 善良なる淑女を養成するのは母のつとめだから能く心掛けて居らねばならぬ夫につけては御前自身が淑女と云ふ事について一つの理想をもつて居なければならぬ此理想は書物を讀んだり自身で考へたり又は高尚な人に接して會得するものだ ぼんやりして居ては|行《原》けない
 飯を食はして着物をきせて湯をつかわせさへすれば母の務は了つたと考へられてはたまらない御頼まふしますよ
 二週間許前に又宿替をした此度は日本橋を去る四里許り西南の方だ矢張り下宿の主人や神さんはもとの奴だ實は變りたいのだが妙な縁故で出にくい樣な譯になつて居る
 當地はまだ寒ひ冬服で居る外套をきても可笑しくはない我輩の着物はきられなくなつて仕舞つた然し新服を作る餘裕がない
 菅の御父さんは病氣だつて夫から死んだか又はよくなつたか不相變|食《原》乏世帶の上にそんな事が湧いて來てはたまるまい氣の毒だ山川は先達家を持つとかいふ端書をよこしたがどうしたかしらあいつは人に手紙をよこせといつて催促をするが自分は一向よこさないけしからん奴だ
 此間鈴木夫婦から手紙をよこした太陽雜誌を送つてやるとかいつてよこした二十圓許り繪葉書を買つてよこせと云ふ御注文だ時さんは不相變御大名だよ
    五月八日        金 之 助
   鏡 ど の
 
      一五四
 
 六月十九日 水 Tootingより 在獨乙伯林藤代禎輔へ
 君の手紙が今十九日着した先達て福原の事での手紙もついたがいつどこへつくのだか分らないからそれなりにして置いた宜しく御工夫と書てあつたが公使館へでも通知する位の事でそれも當人さへ公使館へくれば僕の宿所は分るのだから工夫といふ程の事でもないと思つてそれつきりにした因つて同氏には面會しなかつた目下は池田菊苗氏と同宿だ同氏は頗る博學な色々の事に興味を有して居る人だ且つ頗る見識のある立派な品性を有して居る人物だ然し始終話し許りして勉強をしないからいけない近い内に同氏は宿を替る僕も替る菅の家嚴の訃音は僕の妻の所から知らせて來た
 僕はね留學生になつて何にも所得はない少しは進歩した事があるかと思つて考へて見ても心が許さんから仕方がない自惚るより少しはよいかも知れぬ
 第一高等學校で僕を使つてくれないかと狩野へ手紙を出した返事が來ない熊本はもう御免蒙りたい
 近頃は英學者なんてものになるのは馬鹿らしい樣な感じがする何か人の爲や國の爲に出來そうなものだとボンヤリ考ヘテ居るコンナ人間は外ニ澤山アルダラウ左樣ナラ
    六月十九日          金 之 助
   藤 代 君
 
      一五五
 
 八月二日 金 後(以下不明) c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より Be Brandt, Paulstrasse 24《II》, Berlin 芳賀失一へ〔はがき〕
 拜啓
 立花君の爲に記念の圖書御購求の次第拜承小生も無論賛成致候當地にて同君交際の人は頗る少かるべく藤井君の番地聞合せ候處 120,Belgrave Road S.W. の由なれど目下 Eastbourne とやらに旅行中のよしに候其他陸軍少佐梶川某といふ人は同君の舍兄と交際あり從つて滯英中懇親の由承知致候同氏へは公使館宛にて屆く事と存候其他の人は一向存じ不申候
 醵金の手續及び概略の金額御通知被下候へば小生より兩君に通知致してもよろしく又貴兄にて御まとめ相成候へば小生分は直ちに貴兄へ宛御送可申上候 頓首
    八月一日         夏目金之助
   芳 賀 兄
 藤代君に度々不足税を排はして失敬御容赦可被下此カードなら大丈夫と存候如何にや是も不足税なら一寸御一報被下度候
 
      一五六
 
 八月十日 土 後1 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根万夏目鏡へ〔はがき〕
 其後御無事の事と存候
 其許よりは一向書信無之或は公使館邊に滯停致し居るやと存候
 日本新聞六月末より七月九日に至る迄咋八月九日落手致候
 山川より二回程書面あり候
 中根父上は休職のよし其後は御無沙汰に打過候よろしく其許より御傳被下度候
 兩女とも健康の事と存候
 鈴木夫婦よりは度々書信有之候
    八月十日          夏目金之助
 
      一五七
 
 八月十七日 土 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ〔はがき〕
                         ロンドン
    八月十七日         夏目金之助
 拜啓
 八月十五日土井氏パリスより來倫當分小生方に止宿の事に致候同君より肌着上下一着絹ハンケチ四|牧《原》受取申候御厚意難有存候
 中根父上の手紙其許及び梅子どのゝ手紙拜見致候
 父上には目下御休職御閑散のよし結構に存候
 其許御病氣のよし目下は定めて御全快の事猶御注意可然と存候小兒兩人とも健康のよし結構に候御梅樣華族女學校へ御通學のよしよく御勉強可被成候御梅さんの手紙はよく出來て居候猶時々御通信可被下候小生至極丈夫御安心可被下候
 先日又々轉居候只今の處は頗る上品なる〔以下七八字ちぎれて見えず〕姉妹と退職の陸軍大〔以下同前〕に候此御婆さん中々親切な〔以下同前〕「クリスマス」に見やげもの(日本の)〔以下同前〕何に手に入候はゞ御送り可被下〔以下同前〕其許の處へ手紙をかくと申して居候
 
      一五八
 
 九月十二日 木 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 東京理科大學(學生)寺田寅彦へ
 其後は存外の御無沙汰失敬大兄も御無事御勉學何かメンデル《原》ゾーン抔をブー/\鳴らして御得意の事と存候小生も矢張碌々生命を維持するにいそがしく候只今は倫|孰《原》の西南に住居致居候御婆さん二人と退職の陸軍大佐と同居で頗る老朽的生活に候此御婆さんは中々學者で佛蘭西語なんかをベラ/\※|[口+堯]《原》舌り「シエクスピヤー」抔を引きずり出し候大變な難有屋にて地下鐵道の御蔭でセントポールの土臺へヒヾが入るとかで大不平に候
 御家内御病氣のよし是はナンボ君でも御閉口の事と御察し申上候隨分御療養專一喀血抔は一寸流行るものだが頗る難有からぬ奴に候子規抔もあぶなき事と心配の至に候
 倫孰には無數の「アン」有之「シヨーぺ〔ン〕ハウワー」の説によれば8.8000人とか申す儀に候へば貴兄の御近づきの先生は一寸見當り不申何れ其内面會の折も有之候へば君よりよろしくと可申候「サイラス、マーナー」に逢つたら金を借りてやらうと思居候へども運惡くまだ遇ひ不申候
 ※[月+(口/天)]《原》野の年始状が九月に着致候には少々喫驚差出人が※[月+(口/天)]野丈に郵便が半年以上道草を喰つて居つた事と存候竹崎君落第のよし落第の一返位は心地よきものに候益奮發して御遣り可被成候
 學問をやるならコスモボリタンのものに限り候英文學なんかは椽の下の力持日本へ歸つても英吉利に居つてもあたまの上がる瀬は無之候小生の樣な一寸生意氣になりたがるものゝ見せしめにはよき修業に候君なんかは大に專|問《原》の物理學でしつかりやり給へ本日の新聞で Prof.Rucker の British Association でやつた Atomic Theory に關する演説を讀んだ大に面白い僕も何か科學がやり度なつた此手紙がつく時分には君も此演説を讀だらう
 つい此間池田菊苗氏(化學者)が歸國した同氏とは暫く倫孰で同居して居つた色々話をしたが頗る立派な學者だ化學者として同氏の造詣は僕には分らないが大なる頭の學者であるといふ事は慥かである同氏は僕の友人の中で尊敬すべき人の一人と思ふ君の事をよく話して置たから暇があつたら是非訪問して話しをし給へ君の專門上其他に大に利益がある事と信ずる
 僕も歸つて熊本へは行き度ない可成東京に居りたい然し東京に口があるかないか分らず其上熊本へは義理があるから頗る閉口さ
 何か其他面白い事を書いて上げ〔た〕いが一寸今考へ出せない君は寫眞を送れとか云ふ注文であつたが忘れた譯ではないが大なる寫眞はちと高いから餘り買へない歸るときに御見やげに少し買つて上げ|あ《原》けましやう
 僕は留學期限を一年のばして佛蘭西へ行き度が聞屆られさうにもない
 君下宿で淋しければ時々僕の留守宅へでも遊びに行つて見給へ――それも話しがなくてつまらないか――夫ならよし給へ
 僕の趣味は頗る東洋的發句的だから倫孰抔にはむかない支那へでも洋行してフカの鰭か何かをどうも乙だ抔と言ひながら賞翫して見度い
 貞ちやんへよろしく
    九月十二日           漱  石
   寅 日 子 樣
 
      一五九
 
 九月二十二日 日 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 其後御無事御暮らし被成候事と存候筆も恒も丈夫に成人致居候ならんよく/\氣をつけ御養育有之度候小生無事勉強致居候間皆々樣へよろしく御申聞可被下候近頃少々胃弱の氣味に候胃は日本に居る時分より餘りよろしからず當地にでは重に肉食を致す故猶閉口致候
 近頃は文學書は嫌になり候科學上の書物を讀み居候當地にて材料を集め歸朝後一卷の著書を致す積りなれどおれの事だからあてにはならない只今本を讀んで居ると切角自分の考へた事がみんな書いてあつた忌々しい
 先達櫻井氏より手紙あり候其前櫻井氏宛にて留學延期(佛國へ)の件周旋頼み置候處延期は文部省にて一切聞き屆けぬ由につき泣寢入に候歸朝後は東京に居り度と思へど此樣子では熊本へ歸らねばならぬかも知れぬ御前も其覺悟をして居るがいゝ先達御梅さんの手紙には博士になつて早く御歸りなさいとあつた博士になるとはだれが申した博士なんかは馬鹿々々敷博士なんかを難有る樣ではだめだ御前はおれの女房だから其位な見識は持つて居らなくてはいけないよ
 山川から先達て手紙が二本來た山川は此次此次といつて書くと短かい手紙だヘタな撃劍使ひが懸聲ばかり仰山でちつとも斬り込まないのと同樣だ」
 寺田寅彦から手紙をよこした妻君が病氣で略血をした相だそれから子供が生れたさうだ氣の毒と御目出度のが鉢合せをして居る
 中根の御父さんも御母さんも御達者だらう、日本新聞は時々來る大抵一週間に一返位來る
 端書でもよいから二週間に一度位宛は書面をよこさなくてはいかん子供抔があると心配になるから、皆さんへよろしく
    九月二十二日          金 之 助
   鏡 ど の
 
       一六〇
 
 九月二十六日 木 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 八月末御差出の書状拜見致候小供も其許も少々御病氣のよしの處もはや御全快のよし結構に候小生も不相變に候
 下女暇をとり嘸かし御多忙御氣の毒に候金が足りなくて御不自由是も御察し申す然し因果とあきらめて辛防しなさい人間は生きて苦しむ爲めの動物かも知れない
 倫さんの手紙によると筆は何か大變な強情ばりの容子だ男子は多少強情がなくては如《原》何んが女が無暗に強情ではこまる又之を直すに無暗に押入に入れたりしては如何んよ仕置も臨機應變にするのはいゝがたゞ嚴しくしては如何ぬ小供の性質は遺傳によるは勿論であるが大體六七歳迄が尤も肝要の時機だから決して瞬時も抽斷をしては如何ん可成スナホな正直な人間にする樣に工夫なさい
 鈴木からも手紙が來て夫婦とも寶塚の温泉で洒落れて居る相だ
 中根の御兩人始め其他の諸先生も皆丈夫だ相で結構だ
 入齒の事も承知時機を見てやれたらやるがいゝ無理をするにはあたらない此頃は長い手紙をかくのがオツクーだから是でやめる
    九月二十六日        金 之 助
   鏡 ど の
 寺田寅彦から手紙が來た寺田の妻は吐血した夫に病氣後子を生んださうだ妻は國へ歸し自身は下宿をする
 可愛相だから時々僕の留守宅へでも遊びに行けと申してやつた行くかも知れない
 土屋湯淺俣野とも落第のよし氣の毒に候
 落第なんか恐れる樣では仕樣がない落第は良き經驗だ奮發してやる樣に御申聞可被成候
 
      一六一
 
 十一月二十日 水 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 高知縣土佐郡江ノ口町大川筋寺田寅彦へ
 今十一月二十日〔六字右○〕君の手紙を拜見、何か肺尖カタルとかで御上京にならぬ由コイツは少々厄介の事と遠方から御心配申上る先日大學宛にて手紙を一通出したが恐らく君の處へは屆くまい、
 油畫やバイオリンや俳句や寔に小説の主人公見た樣で結構に思ふが其上に病氣で海濱へ養生に來て居る抔は近頃の文學狂が好んで寫し出す種と思ふが既に妻あり子ありとなつては少々相場が下落する
 小生不相變樣々別段國家の爲にこれと申す御奉公を出來かねる樣で實に申譯がない
 今から十年もしたら何か出來想に思ふが此十年が昔からの事だから頗るあてにならない
 こちらの樣子も種々申述る事もあるがどうもひまがなくていづ方へも御無沙汰のみをして居るから君にも御勘辨を願はねばならぬ
 君の妻君は御病氣はどうです君の子供は丈夫ですか
 學校抔はどうでもよいから精々療治をして御兩親に安心をさせるのが專一と思ひます
 明日の晩は當地で有名な Patty《sic》 と云ふ女の歌を「アルバート・ホール」へきゝに行く積り小生に音樂抔はちとも分らんが話の種故此高名なうたひ手の妙音一寸拜聽し樣と思ふ先は是丈 草々
   寺 田 君
    倫孰有歴日         漱  石
 
      一六二
 
 十二月十八日 水 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ〔三十五年二月十日發行『ホトトギス』より〕
 (前略)日曜日に「ハイド、パーク」抔へ行くと盛に大道演説をやつて居る。こちらでは「イエス、キリスト」の神よ「アーメン」先生が皺枯聲で口説いて居ると、五六間離れて無神論者が怒鳴つて居る。「地獄? 地獄とは何だ。若し神を信ぜん者が地獄に落ちるなら、ヴオルテールも地獄に居るだらう、インガーソルも地獄に居るだらう、吾輩はくだらぬ人間の充滿して居る極樂よりもかゝる豪傑の集つて居る地獄の方が遙にましだと思ふ」僕の理想的アマダレ演説よりも餘程氣※[火+餡の旁]が高い。之を稱して鼻息あらき演説といふので、之も雄辯法抔に見當らない形容詞のつく使ひやうだ。此無神論者の向側に Humanitarian の旗を押立てゝ「コムト」の假《原》色を使つて居る奴がある。其隣では頻りに「ハツクスレー」の説を駁して居る。其筋向にシナビた先生がからだに似合ない太い聲を出して「諸君予は前年日本に到りかの地にて有名なるマーキス、アイトー(伊藤侯爵のこと)に面會して同氏が宗教に關する意見を親しく聽き得たのであります……」どれもこれも善い加減な事ばかり述立てゝ居る。
 先達「セント、ジエームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があつて二百五十圓懸賞相撲だといふから早速出掛て見た。五十錢の席が賣切れて這入れないから壹圓二十五錢奮發して入場仕つたが、夫でも日本の聾棧敷見た樣な處で向の正面でやつて居る人間の顔などはとても分らん。五六圓出さないと顔のはつきり分る處迄は行れない。頗る高いぢやないか、相撲だから我慢するが美人でも見に來たのなら壹圓二十五錢返して貰つて出て行く方がいゝと思ふ。ソンナシミツタレタ事は休題として肝心の日本對英吉利の相撲はどう方がついたかといふと、時間が後れてやるひまがないといふので、とう/\お流れになつて仕舞つた。其代り瑞西のチヤンピヨンと英吉利のチヤンピヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんて頗る間の拔けたものだよ。膝をついても横になつても逆立をしても兩肩がピタリと土俵の上へついて然も一二と行司が勘定する間此ピタリの體度を保つて居なければ負でないつて云ふんだから大に埒のあかない譯さ。蛙のやうにヘタバツテ居る奴を後ろから抱いて倒さうとする、倒されまいとする。坐り相撲の子分見たやうな眞似をして居る。御蔭に十二時頃迄かゝつた。難有仕合である。翌日起きて新聞を見ると、夕十二時迄かゝつた勝負がチヤンとかいてあるには驚いた。こつちの新聞なんて物はエライ物だね。
 僕は又移つたよ。五乞閑地不得閑、三十五年七處移なんと三十五年に七度居を移す位な事では自慢にやならない。僕なんか英吉利へ來てからもう五返目だ。今度の處は御婆さんが二人退職陸軍大佐といふ御爺さんが一人丸で老人國へ島流しにやられたやうな仕合さ。この御婆さんが「ミルトン」や「シエクスピヤー」を讀んで居ておまけに佛蘭西語をペラ/\辯ずるのだから一寸恐縮する。「夏目さん此句の出處を御存知ですか」抔と仰せられる事がある。「あなたは大變英語が御上手ですが餘程おちいさい時分から御習ひなすつたんでせう」抔と持上げられた事もある。人豈自ら知らざらんや。冗談言つちやいけないと申度なる。こちらへ來てお世辭を眞に受けて居ると大變な事になる。男は左程でもないが、女なんかはよく“wonderful”などゝ愚にもつかないお世辭をいふ。下手な方に。“wonderful”ですかと皮肉をいふこともある。(中略)今や濃霧窓に迫つて書齋晝暗く時針一時を報ぜんとして撫腹食を欲する事頻なり。此美しき數句を千金の掉尾として筆を擱く。十二月十八日
 
 明治三十五年
 
      一六三
 
 二月二日 日 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 拜啓愈新年と相成寒氣烈敷候處先々御無事の由大慶に存候クリスマス贈品として注文致し候品押繪二|牧《原》ハンケチ一牧は去る一月六日到着受取申候時節遲れたれどやらぬよりよしと思ひ御婆さんにつかはし申候御面倒の段御禮申上候越えて一月二十日に其元の手紙到着是亦披見致候皆々壯健のよし珍重に存候川住樣御逝去のよし御くやみ申上候
 其許の手紙にはそれやこれやにて音信を忘たり云々とあれど「それやこれや」とは何の言譯やら頓と合點不參候其許はとまり掛にても川住へ看病にでも被參候や又川住殿死後手傳の爲毎日同家へ止宿被致居候や去らずば二週間に一返の端書位かけぬひまは有之間敷と存候冬着の仕度とて朝から寐るまでかゝる譯には有之まじと存候元來留守中朝は何時頃起きて夜は何時頃寐らるゝや去年つかはし候二週間に一返位端書にて安否を通信せよと申つかはしたる書状(端書)を讀みたるにや讀まぬにや此方より右の端書を出したるは去年九月二十二日なれば十月末にはつきし筈なり而して其許の最近の手紙は十二月十三日日附なれば此方の手紙到着の日より凡そ一月半ばかり捨置たるなり又其以前とても二月許り音信なければつまり前後を通じて四月許此方へ一片の音信もせざるなりそれで「それやこれや」位な言譯でよしと思ふや又多忙其他にて音信を繁くする事出來ずば何故始めより斷はり置かざるや左すれば此方にても心配なく一年でも二年でも安心して過すべ(164)きに、去りとては餘り愚かなる事なりよく考へよく思ふて口をきくべし又事をなすべし以來ちと氣をつけるがよろしい
    二月二日         金 之 助
   鏡 ど の
 
      一六四
 
 二月十六日 日 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 小石川區林町六四菅虎雄へ〔はがき〕
 其後は御無沙汰をして濟みません不相變頑健には候へども近頃の寒氣には閉口水道の鐵管が氷つて破裂し瓦斯がつけられぬ始末厄介に候氷すべりを始めて見て經驗を増した位の事に候漸々留學期もせまり學問も根つからはかどらず頗る不景氣なり歸つて教師なんかするのは厭でたまらない況んや熊本迄歸るに於てをや夫を考へると英國に生涯居る方が氣樂でよろしい近頃は文學書抔は讀まない心理學の本やら進化論の本やらやたらに讀む何か著書をやらうと思ふが僕の事だから御流れになるかも知れません先は御挨拶迄 匆々
    二月十六日          金 之 助
   菅   樣
 
      一六五
 
 二月十七日 月 後5 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ〔はがき〕
 新年の賀状拜見此方よりは御無沙汰をしてまことに申譯なく候當地寒氣烈敷頗る難澁に候
  花賣に寒し眞珠の耳飾
  なつかしの紙衣もあらず行李の底
  三階に獨り寐に行く寒かな
    二月十六日         金 之 助
   霽 月 樣
 
      一六六
 
 三月十日 月 後5 Battersea London,S.W.より 京都帝國大學寄宿舍永屋昌雄へ〔はがき〕
 新年の賀状御つかはし被下昨三月八日拜見當時寄宿にて御勉強のよし奉賀候英文詩書籍の義にて御問合に候へども一寸何がよいか心當無之候最良方便は國書館に入り何でも手當次第文學書を御讀可被成其内にて氣に入りたるものを御通讀可然かと存候斯樣な馬鹿にした樣な御返事を致候も決してそんな澤では無之候故其積にて御讀可被成候
    三月十日          夏日金之助
 
      一六七
 
 三月十日 月 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 年始状筆の日記倫君の日記いづれも披見致候右は去る二月二十日に着致候皆々元氣にて結構に存候此方も丈夫にて暮し居候間御安神ある可く候
 先日中一週間程寒氣烈敷水道鐵管が破裂し瓦斯もつけられぬ始末に困じ果候が昨今は非常の暖氣にて木の芽春の草花などぽつ/\見當る樣に相成候世界廣しと雖倫敦位氣候の劇變する處は無之と存候霧は有名なるものにて之を角切りにして罐話にして日本へ持歸度位に候當地にて始めて氷すべりなるものを見物致候甚だ面白相なるが險呑故未だ試みず
 倫さんの日記も筆の日記も面白かつ〔た〕からひまがあつたら又御つかはし可被成候倫さんは近頃大改良大奮發のよし至極結構に存候家の中に出入りしてヘー/\ピヨコ/\して居る者抔を相手にして居てはいけないそれから古人の書を讀むと無暗に古人の言行が眞似たくなる自分で小説的な人間になつて仕舞ふ若い内はこんな弊がよくあるからよく考へて表面上の役者的人物にならない樣にしなければいけない良賈は深藏あるなきが如しと言ふから無暗に人を凌いだり出過ぎたりしてはいけない學問は智識を増す丈の道具ではない性を矯めて眞の大丈夫になるのが大主眼である眞の大丈夫とは自分の事ばかり考へないで人の爲世の爲めに働くといふ大な志のある人をいふ然し志許あつても何が人の爲になるか日本の現在ではどんな事が急務か夫々熟考して深思せねば容易にわからない是が智議の必要なる點である大丈夫の人格を備へて又智識より得たる大活眼を有する底の男にならなければ人に向つて威張れないよく/\細心に今から其方向へ進行あらん事を希望します今の内の一擧一動は皆將來實となつて出てくる決してゆるかせにしてはいかぬ人間大體の價値は十八九二十位の間にきまる慎み給へ勵み給へ
 其許もよく氣をつけて二女を養育あるべく候留學期も漸々縮少十一月位に出發歸國のつもり何れ來年始頃には歸着の事と存候
    三月十日         金 之 助
   鏡 ど の
 
      一六八
 
 三月十五日 土 後5 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根重一へ
 拜復二月十二日御差出の御書状咋三月十四〔日〕着拜見致候いつも御壯健御暮しの段奉恭賀候鏡及二女生活の模樣につき委細御報知被下御手數拜謝致候皆々無事のよしにて安堵致候鏡よりは其後二回程通信有之但し十一月出の書面は到着不致右は物品の誤には無之候や
 御辭職後多少御困難の御模樣も承はり痛心致候政海目下の有樣にては官吏程不安全のものは有之間敷且鋭意計畫の事業も緒に就かざる内に後任者の爲に打壞され候事と存候かくの如くならば只變化のみにて進化は覺束なき事と存候
 日英同盟以後歐洲諸新聞の之に對する評論一時は引きもきらざる有樣に候ひしが昨今は漸く下火と相成候處當地在留の日本人共申合せ林公使斡旋の勞を謝する爲め物品贈與の計畫有之小生も五圓程寄附致候きりつめたる留學費中まゝ如斯臨時費の支出を命ぜられ甚だ困却致候新聞電報欄にて承知致候が此同盟事件の後本國にては非常に騷ぎ居候よし斯の如き事に騷ぎ候は恰も貴人が富家と縁組を取結びたる喜しさの餘り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る樣なものにも候はん固より今日國際上の事は道義よりも利益を主に致し居候へば前者の發達せる個人の例を以て日英間の事を喩へんは妥當ならざるやの觀も有之べくと存候へども此位の事に滿足致し候樣にては甚だ心元なく被存候が如何の覺召にや
 國運の進歩の財源にあるは申迄も無之候へば御申越の如く財政整理と外國貿易とは目下の急務と存候同時に國運の進歩は此財源を如何に使用するかに歸着致候只己のみを考ふる數多の人間に萬金を與へ候とも只財産の不平均より國歩の艱難を生ずる處あるのみと存候欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候此不平均は幾多有爲の人材を年々餓死せしめ凍死せしめ若くは無教育に終らしめ却つて平凡なる金持をして愚なる主張を實行せしめる傾なくやと存候幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一應の分別生じ且耶蘇教の|隨《原》性と佛國革命の殷鑑遠からざるより是等庸凡なる金持共も利己一遍に流れず他の爲め人の爲に盡力致候形跡有之候は今日失敗の社會の壽命を幾分か長くする事と存候日本にて之と同樣の境遇に向ひ候はゞ(現に向ひつゝあると存候)かの土方人足の智識文字の發達する未來に於ては由々しき大事と存候 カールマークスの所論の如きは單に純粹の理窟としても缺點有之べくとは存候へども今日の世界に此説の出づるは當然の事と存候小生は固より政治經濟の事に暗く候へども一寸氣?が吐き度なり候間斯樣な事を申上候「夏目が知りもせぬに」抔と御笑被下間敷候
 著述の御目的にて材料御蒐集のよし結構に存候私も當地着後(去年八九月頃より)より一著述を思ひ立ち目下日夜讀書とノートをとると自己の考を少し宛かくのとを商買に致候同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない人に見せても一通はづかしからぬ者をと存じ勵精致居候然し問題が如何にも大問題故わるくすると流れるかと存候よし首尾よく出來上り候とも二年や三年ではとても成就仕る間敷かと存候出來上らぬ今日わが著書抔事々敷吹聽致候は生れぬ赤子に名前をつけて騷ぐ樣なものに候へども序故一應申上候先づ小生の考にては「世界を如何に觀るべきやと云ふ論より始め夫より人生を如何に解釋すべきやの問題に移り夫より人生の意義目的及び其活力の變化を論じ次に開化の如何なる者なるやを論じ開化を構造する諸原素を解剖し其聯合して發展する方向よりして文藝の開化に及す影響及其何物なるかを論ず」る積りに候斯樣な大き〔な〕事故哲學にも歴史にも政治にも心理にも生物學にも進化論にも關係致候故自分ながら其大膽なるにあきれ候事も有之候へども思ひ立候事故行く處迄行く積に候斯樣な決心を致候と但欲しきは時と金に御座候日本へ歸りて語學教師抔に追つかはれ候ては思索の暇も讀書のひまも無之かと心配致候時々は金を十萬圓拾つて圖書館を立て其中で著書をする夢を見る抔愚にもつかぬ事に御座候此手紙差上候後は又當分御無沙汰致すやも計り兼候間右横御了知被下度候 敬具
    三月十五日        金之助拜
   中根父上樣
 
      一六九
 
 三月十八日 火 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 二月十四日出の書状今三月十八日到着披見致候寫眞も同時に到着致候
 御前の顔は非常に太つて驚ろいた恒の目玉の大いにも驚いた筆の顔の變つたのにも驚いた自分の顔も大分變つたらうと思ふ然し自分にはわからない
 此方よりも書面を出さないと云ふ苦|状《原》だが己は今迄返事を出さなかつた事はない又急がしいから度々はかけぬと先最初から斷つてある斷つて無沙汰をするのと無斷で無沙汰をするのとは大變違ふ
 心配になるから度々端書で音信をせよと云ふのと疑るのと一所にされてはたまらないよく落付て手紙を見るがよい女の脳髓は事理がわからない樣に出來て居るなら仕樣がない
 おれの事を世間で色々に言ふつてどんな事を言つて居るのか、おれも御前の信用してくれる程の君子でもないから何をして居るか實は分らんのさ世間の奴が何かいふなら言はせて置くがよろしい
 先達櫻井さんから又熊本へ歸つて貰ひ度が一己の御都合はどうだと云つてきたから實の所を白状すると歸り度ないといつてやつた此さきどうなるか分らないが先々遠くへ行くと思つて覺悟して居ないといけない
 近頃は著述を仕樣と思つて大に奮發して居る己の著書だからどうせ賣れる樣なものではない又出來上るとも保證出來ん先々ゆつくりかまへてやる著書なんかやらうと思ふと金が欲しくなる教師なんかはいやになる
 山川は妻帶をするつて候補者を詮議中ださうだが至極よからうあいつも今年三十六でおれと同じ歳だから少しは世帶じみて見るがよからう
 英國で衣服をつくらなくてはならないから百圓ばかり金をかりた歸國旅行費の中で返濟する積りだそれから中根のおとつさんから借りた六十圓も其内から返す積り今から中々計畫がむづかしい
 筆は中々方々へ出掛てあるく樣だがわるい友達抔と遊してはいけない
 鈴木の小兒の病氣は少しも知らなかつたそれでもよくなつて結構だ
 倫敦では日本人が大分居るが少しも交際をしない會抔へも出た事がない土井とも近頃は滅多に遇はないたつた一人で氣樂でよろしい世間の人間共がおれの事を何とかいひ度ても己が何をして居るか知つてる者はない 彼等はどこから材料を得てそんな事をいふか聞て御覽
    三月十八日         金 之 助
   鏡 ど の
  皆さんへよろしく
  手紙は封|臘《原》で封じてよこさるぺし
 
      一七〇
 
 四月十三日 日 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 二月二十八日附の手紙本月上旬着披見致候其許も二女も丈夫にて何よりの事と存候此方も無事勉學御安神あるぺく候當地も漸々あたゝかに相成候へども未だストーブに火を焚き居候木の芽はちら/\見受候
 勉強するには今日の如き境遇まことに安氣にてよろしけれど其他の點に於ては矢張日本の方すみよき心地爲致候いづれ今年十二月頃には歸朝致す事と存候
 筆の日記は面白く存候度々御つかはし可被成候
 鈴木の二女病氣のよし氣の毒に存候然し最早本復のよし結構に存候
 色々かき度事あれど何をかいてよきやら分らぬ故今度は是丈にてやめに致候
    四月十三日         金 之 助
   鏡 ど の
 
 
    一七一
 
 四月十七日 木 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 三月十一日附の手紙今十七日落手披見致候留守中色々多忙にて困難のよし委細の樣子相分り候甚だ氣の毒の事ながら今少し辛防可被成候いづれ今年末には歸朝のつもり故其後は何とか方法も立ち少しは樂になるべくと存候然しおれの事だから到底金持になつて有福にはくらせないと覺悟はして居て貰はねばならぬとにかく熊本へは歸り度ないが義理もある事故我儘な運動も出來ず只成行にまかせるより仕方がないと思ひ居るなり實は少し著書の目的をたて只今は日夜其方へむけ勉強致居候日本へ歸へれば斯樣にのんきに讀書も思考も出來んそれ丈は洋行の御蔭と思ふ其他に別段洋行の利益もない
 小兒兩人共無事にて成育何よりの事と存候よく氣をつけ御そだて可被成候俣野湯淺土屋抔時々參る樣子貧乏しても貧乏なりによく御遇あるぺく候彼等は余の不在にも關らず訪問致しくれ候は甚だ感心の事に候、
今年になり此方の手紙一本もとゞかぬとは心得ぬ事に候今日迄に三四通出し候近頃日記をかゝぬ故いつ頃か記|臆《原》せねど第一通は三月頃には到着すべき筈と存候是にはクリスマスの送物の禮と疎信の小言とをかきたり其次は倫君に關する事を多くかきたり其次ぎはほんの返事に一通かきたり其次が此手紙なり
 日本の留學生にて茨木、岡倉といふ二氏來る二十三日頃當地へ到着の筈なり歸るものくるもの世は樣々に候かくすつたのもんだのと騷いで世《原》涯暮すものに候これが濟めば筆の所謂のゝ〔二字傍線〕樣に成る義に候譯もへちまも何も無之只面白からぬ中に時々面白き事のある世界と思ひ居らるべし面白き中に面白からぬ事のある浮世と思ふが故にくる敷なり生涯に愉快な事は沙の中にまじる金の如く僅かしかなきなり
 當地には櫻といふものなく春になつても物足らぬ心地に候且つ大抵は無風流なる事物と人間のみにて雅と申す趣も無之文明がかくの如きものならば野蠻の方が却つて面白く候鐵道の音※[さんずい+氣]車の烟馬車の響脳病抔ある人は一日も倫|熟《原》には住みがたかるべきかと思はれ候日本に歸りての第一の樂みは蕎麥を食ひ日本米を食ひ日本服をきて日のあたる椽側に寐ころんで庭でも見る是が願に候夫から野原へ出て蝶々やげん/\を見るのが樂に候
 御梅さんもだん〔/\〕成人したから御嫁に行くのだらうまだ口はないか筆や恒が大きくなつたらどうして嫁にやらう抔と考へるといやになつて仕舞ふ四五日前中村是公が近頃は四千圓位なくては嫁にやれないといつた四千圓は偖置き百圓も覺束ない厄介極まつた譯ぢやないか
 倫さんは近頃勉強して居るか、鈴木はまだ東京に居ると見える中々氣樂な話しだ、近頃は遠くへ出掛る癖がついた是から土井の處へでも行て見樣と思ふ
    四月十七日        金之助より
   鏡 ど の
 
      一七二
 
 四月中旬 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 在倫敦渡邊傳右衛門へ
 御端書拜見御轉居の由拜承毎々英語の教授をつけられ候よし定めて御上達の事と存候小生不相變蟄居愚かなる事のみ考居候ちと御散歩の節太良兄と御立寄可被下候近頃の天氣風はげしく物騷に候日本の櫻といふもの無之物たらぬ樣被感候はいかゞ
  句あるべくも花なき國に客となり
    叱正
                  金 之 助
   春 渓 兄
        梧下
 
      一七三
 
 五月十四日 水 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 四月四日出の書面は去る九日到着披見致候又宿の婆さんへの贈物は今十四日朝到着直ちにつかはし候何だかガラスの箱へ入れて應接間へかざり立てゝ居る樣子西洋人は小供らしきものなり婆さんより其許へ宜敷禮をいふてくれとの事なり
 手紙の趣によれば夜は十二時過朝は九時十時頃迄も寐るよし夜はともかくも朝は少々早く起きる樣に注意あり度し日本の諺にも早《原》寐宵張はあしきものとしてある位其邊は心得あるべし九時か十時迄寐る女は妾か、娼妓か、下等社會の女ばかりと思ふ苟も相應の家に生れて相應の教育あるものは斯樣のふしだらなものは澤山見當らぬ樣に考へらるまづ矢來町三番を門並しらべて見よ左樣の妻君其許を除くの外例あるまじ、此事は洋行前にも常に申したる樣に思へど其許は左程感ぜぬ樣なりし夏目の奥さんは朝九時十時迄寐るとあつては少々外關わるき心地せらる其許は如何考へらるゝや尤も病氣は特別の事なれど先達の手紙によれば非常に丈夫になりし由なれば身體に異状なき限はつとめて早く起きる樣心掛らるぺし且小兒の教育上にもよろしからざる結果ありと思ふ筆などが成人して嫁に行つて矢張九時十時迄寐るとあつては余は未來の婿に對して甚だ申譯なき心地せらる其許の御兩親はそれを何とも思はれざるかも知らねど余は大に何とも思ふなり力めて己れの弊を除くは人間第一の義務なり且早起は健康上に必要なりことに眼あしき時抔は早く寐て早く起るが專一なるべし
 五月に入りて若葉の時節なるにも關せず頗る冷氣にてストーブを焚く始末いやな所なり春になつても櫻はさかず物足らぬ心地なり
 宿の下女は病身なる由もし傳染病(肺病等)の嫌疑あらば速かに解雇あるべし抱かれたり又は食物抔を口うつしにしたり甚だ危險あるぺし但し此邊は其許にも考あるべければ改めて申す必要もある間敷と思へど注意の爲申遣はすなり
 恒の寫眞もとゞけるとありたれど寫眞は到着せず
 熊本のフアーデルは時々手紙をよこし候
 皆々へよろしく
    五月十四日          金 之 助
   鏡 ど の
 
  一七四
 
 七月二日 水 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏目鏡へ
 書状一通寫眞一束端書一|牧《原》外に倫氏梅子端書各一葉落手披見致候其許持病起り相のよしよく寐てよく食つてよく運動して小兒と遊べばすぐ癒る事と存候
 此方は不相變無事御安心可有之候只今巴理より淺井忠と申す人歸朝の序拙寓へ止宿是は畫の先生にて色々畫の話抔承り居候又一所に參り候芳賀矢一氏も淺井氏と同船にて來る四日出發歸途に上る筈に候
 皆々が歸ると自分も歸り度なり候然し日本にてかくの如くのんきにひまがあつて勉強が出來たら少しは人に見せられる著書も出來相なれど歸れば中々追使はるゝ故左樣勝手には不參しかたなきものに候
 二女とも丈夫の事と存候筆はインフルに罹り候よし然しすぐ癒り候由にて安心、倫君は高等學校の試驗準備中のよし勉強專一に候御梅さんは華族學校へ通ふよし英語なんかなまなか出來ぬ方がよろしい日本の婦人が西洋的になつては大變ぢやこちらの男は婦人に對して皆召使の如きものである御嫁に行く心配なんか御無用とあるがまだ御妹に行き度はありませんか
    七月二日         金 之 助
   鏡 ど の
 
      一七五
 九月十二日 金 後4・45 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 牛込區矢來町三中ノ丸中根方夏日鏡へ
 八月六日發の書状今九月十|一原《》日到着披見致候其元の病氣の快よく兩女とも壯健の由にて安堵致候筆は大分成人致候由恒も少々は口を|聞《原》候由丹精して御養育頼み入候御見やげも此分にては覺束なく候
 近頃は神經衰弱にて氣分勝れず甚だ困り居候然し大したる事は無之候へば御安神可被下候
 父上も母上も倫君も梅子さんも其他皆々丈夫の事と存候
 御地は秋暑の候にて嘸かし凌ぎがたき事と存候當地は存外涼しく今日も細雨蕭々たる有樣に候
 近來何となく氣分鬱陶敷書見も碌々出來ず心外に候生を天地の間に享けて此一生をなす事もなく送り候樣の脳になりはせぬかと自ら疑懼致居候然しわが事は案じるに及ばず御身及び二女を大切に御加養可被成候
 倫君の手状も拜見致候一意御勉強の程偏に希望致供
 新聞は九月一ばいにてよろしく候
    九月十二日         金 之 助
   鏡 ど の
 
      一七六
 
 十月 スコツトランドより 在倫敦岡倉由三郎へ〔岡倉由三郎より藤代禎輔への手紙中の引用 うつし〕
 〔「…夏目氏より……文通あり末に」として〕
 目下病氣をかこつけに致し過去の事抔一切忘れ氣樂にのんきに致居候小生は十一月七日の船にて歸國の筈故、宿の主人は二三週間とまれと親切に申し呉候へども左樣にも參|ら《原》兼候當もなきにべん/\のらくらして居るは甚だ愚の至なれば先よい加減に切りあげて歸るべくと存候いづれ歸倫の上は一寸御目にかゝり可申と存候
 
      一七七
 
 十二月一日 月 c/o Miss Leale,81 The Chase, Claham Common, London,S.W. より 麹町區富士見町四ノ八高濱清へ〔三十六年二月十五日發行『ホトトギス』より〕
 啓。子規病状は毎度御惠送のほとゝぎすにて承知致候處、終焉の模樣逐一御報被下奉謝候。小生出發の當時より生きて面會致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ樣な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々氣の毒と申より外なく候。但しかゝる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。倫敦通信の儀は子規存生中慰籍かた/”\かき送り候筆のすさび、取るに足らぬ冗言と御覧被下度、其後も何かかき送り度とは存候ひしかど、御存じの通りの無精ものにて、其上時間がないとか勉強をせねばならぬ抔と生意氣な事ばかり申し、つい/\御無沙汰をして居る中に故人は白玉樓中の人と化し去り候樣の次第、誠に大兄等に對しても申し譯なく、亡友に對しても慚愧の至に候。
 同人生前の事につき何か書けとの仰せ承知は致し候へども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纒めつかぬに閉口致候。
 偖小生來五日愈々倫敦發にて歸國の途に上り候へば、着の上久々にて拜顔、種々御物語可仕萬事は其節まで御預りと願ひ度、此手紙は米國を經て小生よりも四五日さきに到着致す事と存候。子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーブの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申譯の爲め御笑草として御覽に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候。
 文章抔かき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て參候。又西洋語にて認め候へばくるしくなりて日本語にし度なり、何とも始末におへぬ代物と相成候。日本に歸り候へば隨分の高襟黨に有之べく、胸に花を挿して自轉車へ乘りて御目にかける位は何でもなく候。
    倫敦にて子規の訃を聞きて
  筒袖や秋の柩にしたがはず
  手向くべき線香もなくて暮の秋
  霧黄なる市に動くや影法師
  きり/”\すの昔を忍び歸るべし
  招かざる薄に歸り來る人ぞ
 皆蕪雜句をなさず。叱正。(十二月一日、倫敦、漱石拜)
 
 明治三十六年
 
      一七八
 
 一月三十日 金 へ便 牛込區矢來町三中(ノ)丸中根方より 山口縣山口高等學校松本源太郎へ
 拜啓嚴寒の候愈御多祥奉賀候留學中は兎角御無音にのみ打過失禮の段偏に御容赦被下度偖其後留學期滿期の爲め去冬十二月初旬倫敦發去一月二十|四《原》日東京|向《原》へ著致候に就ては猶從前の通御交誼を辱ふし御眷顧相願度と存候先右安著御報まで匆々如此に御座候 頓首
    一月二十八日        金 之 助
   松本賢臺
      座下
  猶舊友岩田靜夫氏は御校に奉職あるやに承り居候
  御面會の節はよろしく御傳聲の程願上候 以上
 
      一七九
 
 二月五日 木 後5(以下不明) 牛込區矢來町三中ノ丸中根方より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 啓
 滯英中は色々御交情を辱ふし鳴謝此事に御座候其後留學期限も滿期と相成去冬倫敦發船中にて越年去月二十三日漸く歸京仕候早速御報可申上筈の處彼是多忙荏苒今日に至り候段御海恕可被下候いづれ其内拜眉の上ゆる/\御話し可申上候 以上
    二月五日         夏目金之助
   渡 邊 樣
       榻下
 
      一八〇
 
 二月九日 月 後0・30 牛込區矢來町三中ノ丸中根方より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓一昨日は唐突參堂御多忙の折から嘸かし御迷惑と存候御蔭にて横濱見物を致し面白く一日を消し申候小生只今家屋捜索中身分も未だ定まらず日々くらげ的生活を營み居候何れ近日東京へ御出向の節は是非御來訪被下度待上候田中君へも御禮状可差上等の處是にて御免蒙り候間大兄よりよろしく御傳聲願上候 匆々不悉
    二月九日          金
   渡 邊 樣
       研北
 
      一八一
 
 二月二十三日 月 後3・20 牛込區矢來町三中ノ丸中根方より 小石川區林町六四菅虎雄へ
 頃日來毎々まかり出いつも御邪魔致失敬御免可被下候昨日は又時分時にまかり出御馳走に相成難有御禮申上候偖先般來御配慮にあつかり候住宅一件先方より來る二十五日に引拂ふ旨申越候につき當方にては翌二十六日に引移り度と存候番地は北山伏町三十一番地に候御閑の節は御光來待上候 以上
    二月二十二日          金 之 助
   虎 雄 樣
       座右
 
      一八二
 
 三月四日 水 後6・20 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ〔はがき〕
 御病氣如何に候や御養生專一に候今般左記の處へ轉居致候間一寸御通知申上候
 駒込千駄木町五十七
 
      一八三
 
 三月六日 金 前11・20 本郷區駒込千駄木町五七より 新潟縣古志郡六日市村大字蛇山細貝勝逸へ
 拜復
 御手紙拜見致候短冊染筆の儀承知仕候小生歸朝以來俗事多忙俳句と申すものは殆んど忘却の有樣從つて近作と申すもの一句も無之實は御謝絶申上げんかと存候へども切角の御依頼故舊句相認め御笑草に御目にかけ申候先は右御返事まで 草々頓首
    二《原》月六日       夏目金之助
   細 貝 樣
 
      一八四
 
 三月九日 月 後1-40 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本第五高等學校奧太一郎へ
 其後は頓と御無音に打過候御壯勝御精勤の事と存候降つて小生歸朝以後萬事茫漠日々空しく消光致居候然し身體も別段の事なく頑健に罷在候間乍憚御休神可被下候歸朝後身邊の事に關しては矢張熊本|向《原》へ下向の筈の處色々事情有之當地にとゞまる事と相成候に就ては當分乍遺憾不得拜顔目下英語部の状况如何に御座〔候〕や小生東京へとゞまる事と相成候に就ては御校に少からぬ御迷惑相懸候事と心痛致居候事情不得已義に候へども一半は小生不注意より生じ候事と深く慚悔罷在候遠山君其他へも御詫状可差出筈なれど大兄よりよろしく御傳へ被下度候スヰート氏近况如何に候や倫敦にて分袂以後未だ一回の音信も無之候へども乍蔭好評のよし承はり安堵致居候不相變熱心授業の事と存候フアーデル氏六月以後解傭の由氣の毒に存候櫻井氏にも折角周旋の勞をとられ居候事と推察致候へどもさし當り思はしき口も御座なき由大兄は依然寄宿の方へ御關係に候や矢張り御多忙の事と存候先は右歸朝後御無沙汰御見舞旁近况御報知まで 草々不一
    三月八日           夏目金之助
   奧 太一郎樣
        座下
 
      一八五
 
 三月九日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區林町六四菅虎雄へ
 今朝は寢込へ御來駕褥中にて大失敬申上假偖小生熊本の方愈辭職と事きまり候に就ては醫師の珍《原》斷書入用との事に有之候へども知人中に醫者の知己無之大兄より呉秀三君に小生が神經衰弱なる旨の珍斷書を書て呉る樣依頼して被下間鋪候や小生は一度倫敦にて面會致候事あれど君程懇意ならず鳥渡ぢかにたのみにくし何分よろしく願上候 以上
    三月九日           金 之 助
   虎 雄 樣
 
      一八六
 
 三月十七日 火 後0(以下不明)本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓先日以後御無沙汰に打過候其後轉宅の爲色々多忙御招の梅見も夫なりに相成候偖小生先日漸く表面の處へ寄寓しばらく尻を落付る事に相成候間一寸御報申上候先日參堂の節御座敷にて拜見致候蘭數珠御惠送被下候へば幸甚と存候貧居にて床間に何の装飾も無之ふと先日の御話しを思出し此段願上候尤も澤山無之候へば無理に頂戴仕らずともよろしく餘つてゐたら頂き度と存候田中君へもよろ敷御傳被下度候先は右用事のみ 草々不一
    三月十六日          夏目金之助
   渡 邊 樣
        座下
 
      一八七
 
 三月十九日 木 前11・20 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 芳墨拜見仕候芝居見物御誘ひ被下難有奉謝候小生歸朝以來兎角不精にて芝居抔も見るも一向のり氣に相成る間敷かと存候尤も折角ノ御誘引故或は出馬致すやも計りがたく候へど元來何時頃どこへ參るにや又月末にて懷中甚だ不如意ならんと思はる全體いくら位かゝるのですか一寸御しらせ下さい君の手紙と行違に小生の手紙は横濱へ參り候事と存候蘭の儀出來得るなら頂戴仕度候御出京の節は御立寄待上候 以上
    三月十八日         金
   渡 邊 樣
     座下
 
      一八八
 
 三月二十二日 日 後1・40 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 御手紙拜見今日ことによると御出の由御待申上候二十九日芝居見物の儀は月末にて少々多忙ことに小生近來芝居抔申すのんきな量見にならず乍殘念御斷り申上候いづれ其内落付候へば御供致し度と存候先は御返事迄 草々不一
    二十二日          金
   渡 邊 樣
 
      一八九
 
 三月二十三日 月 後1・40 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 華墨拜誦仕候小生在宅の時日はほとんど不定なれど先不精ものといふ前提より論理的に結論を下す時は大抵うちに寐て居ると云ふ命題を得ることかと存候此頃は一定の職業なき爲毎日々々瓢|※[竹がんむり/譚の+]《原》の化物然と消光致居候只御光來の節は一寸端書を御つかはし被下候へば御待ち可申上候拙寓|偏《原》鄙にて何の風情も無之加之貧居御馳走も致しがたく候先づ一日田舍へ遠見する積で御出かけなさい 以上
    二十三日          金
   太 良 樣
       俳榻下
 
      一九〇
 
 四月九日 木 後1・40 本郷區駒込千駄木町五七より 鹿兒島市下龍尾町一七六落合爲誠へ
 尊書拜見仕候春暖之候愈御清適欣賀此事に御座候下て小生碌々無異消光罷在候間乍憚御休神被下度候偖御惠與の石硯一枚咋七日小包にて正に到着御厚意の段篤く御禮申上候右は時代も古く光澤發墨の具合大によろしく小生如き俗字を弄し候者には惜しき逸品と存候裏面の彫刻及び銘亦頗る趣味に富み居候やに見受候右は新しく御手に入候や又は從來より御所持の逸品に御座候や石硯に關する歴史詳細相分り候へば朝夕摩※[沙/手]愛翫の際興味一層深からんと存候へば御序の節御承知の歴史丈御報被下候へば幸甚と存候先は右御禮まで匆々不一
    四月八日
   東 郭 先 覺          金
         坐下
 
      一九一
 
 四月十三日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本第五高等學校奧太一郎へ
 尊書拜見仕候春暖の候愈御清穆御精勤奉賀候小生歸朝後碌々消光今に何事も成さず慚汗の至に候御地英語部内の状況逐|々《原》御報知被下先々無事に進行致居候模樣安心致候殊にスヰート氏非常の熱心にて職務に盡力被致居候由甚だ滿足の至に不堪實は同氏傭入の當時より小生は別段の知己に無之候へば幾分かの危險を冒して周旋致候次第はからずもかゝる熱心家を得て學校は勿論他の諸教員迄其利益を享候段意外の仕合に候小生は其時より一回の書信も不仕御面會の節はよろしく小生より感謝の意を御傳被下度候猶英語部内の件其他とも遠山君と共に御盡力被下度小生如きものあり候とても別段學校の爲にも相成間敷かと存候小生は是より餘暇を得て多少研學の便宜を得度と希望致居候へども人事不如意の世の中なれば如何になり行くや自身にも見當相つき兼候遠方にて容易に御目にかゝる事も出來ず御話も承はり兼候殘念に存候其内何等かの時機に御上京にも相成候へば久々にて警咳に接し度と待居候御承知の菊池謙氏上京明日同氏の爲に會を開く筈に候先は右御返事迄 匆々頓首
    四月十三日         金 之 助
   奥   樣
 
      一九二
 四月十五日 水 狩野享吉へ
 拜啓英語嘱托辭令一通御送被下難有存候先は右御受取迄 匆々頓首
    四月十五日        夏目金之助
 
      一九三
 
 四月十五日〔三十六年?〕 和田萬吉・關根正直へ〔封筒缺〕
 拜啓春期職員懇親會御催しの由御案内にあつかり難有御禮申上候出席の上御高話拜聽致度存候へども何分開講前の事とて種々多忙不得已缺席仕候間左樣御了知被下度先は右用事のみ 匆々頓首
    四月十五日        夏目金之助
   和田萬吉樣
   關根正直樣
 
      一九四
 
 五月九日 土 後7・30 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本縣球磨郡湯前村井上藤太郎へ
 拜啓貴俳並びに白扇會集御送被下難有奉謝候
 小生は目下大多忙にて近來俳句とは全く絶縁の有樣に候へば評選等の儀は到底御依頼に應じがたく候いづれ近日虚子碧梧桐兩君の内にでも依頼致し見るべくと存候
 先は右御返事迄 匆々頓首
    十《原》 日         夏目金之助
   井上藤太郎樣
 
      一九五
 
 五月二十一日 木 後7・30 本郷區駒込千駄木町五七より 久留米市築島町小畑方菅虎雄へ
 御書拜見仕候愈御出發の期にせまり嘸かし御多忙の事と存候小生は存外閑暇にて學校へ出て駄辯を弄し居候大學の講義わからぬ由にて大分不評判 俳人時々來訪又々邪道へ引き入られさうなり藤代先日より病氣本日承り候へば肺炎の由しかし最早全快の事と存候第一高は遙かにのんきに候熊本より責任なく愉快に候大學の方は此學期に試驗をして見て其模樣次第にて考案を立て考案次第にては小生は辭任を申出る覺悟に候もし左樣なれば小生の目的通の研究をなす積に候大塚の三女病氣にて死去夫が爲同人よりの借錢返却の爲め貧乏なる山川を煩はし候山川は不相替に候先日一寸訪問自轉車の稽古をして戻り申候近頃昼寢病再發何にもせず寢て居り候不平でも病氣でもなく只寐たいから寐る次第甚だ意味なき寐方に候|※[月+(口/天)]《原》野の父死去の由氣の毒の至に存候同人今回も亦落第の事と存候支那へも一寸參り度候然し教へるものがないから困却致候日本語を二時間許教て三百元くれるわけには參りませんか先ハ御返事迄 匆々不一
    二十一日            金
   虎 雄 樣
       座下
 
      一九六
 
 六月八日 月 前11・20 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本縣球磨郡湯前村井上藤太郎へ
 拜啓白扇會報第九號わざ/\御送被下難有存候右會報は活版ならぬ處大に雅味あるやに虚子とも申合候内容も面白く拜見仕候
 近頃地方俳句會の吟什見るべきもの多く却つて本場の東京を凌ぐ佳句もまゝ見受候樣に存候ほとゝぎす抔にても地方俳句會の句の中には大にふるうて居るのがあると先日四方太と話し申候
 小生は先日申上候通最早俳界中の人に無之新しき句抔もほとんど作り不申頃日來ほとゝぎす關係の人にせめられて又々邪道に陷りかけて居候其内蕪句相認め御送御笑覽に可供候 以上
    六月八日          夏目金之助
   微 笑 先 生
         座下
 
      一九七
 
 六月十四日 日 後11-50 本郷區駒込千駄木町五七より 清國南京三江師範學堂菅虎雄へ
 尊翰拜誦無事御着の段奉賀候目下ゴタ/\デ休暇のよし珍重存候可成ゴタ/\ヲ長クシテ休ム算段ヲスベシ教授ナンカ何デモイヽサ僕ガ教ヘル生徒ニ支那人ノ何トカ云フノガアル僕ハスキナ男ダヨ朝鮮人モ居ル是モスキダ高等學校ハスキダ大學ハやメル積ダ一方案ヲ立テナケレバナラン何ノカンノツテ一學期立ツテ仕舞ツタ僕モ一度神社佛閣ノ樣ナ家ニ住ンデ見度イ學問ナンカスルナ馬鹿氣タモンサネ骨董商ノ方ガイヽヨ僕ハ高等學校ヘ行ツテ駄辯ヲ弄|レ《ハラ》テ月給ヲモラツテ居ル夫デモ中々良教師ダト獨リテ思ツテル大學ノ講義モ大得意ダガワカラナイソウダ、アンナ講義ヲツヾケルノハ生徒ニ氣ノ毒ダ、トイツテ生徒ニ得ノ行ク樣ナコトハ教エルノガイヤダ、試驗ヲシテ見ルニドウシテモ西洋人デナクテハ駄目ダヨ
 近來晝寐病再發グー/\寐ルヨ博士ニモ教授ニモナリ度ナイ人間ハ食ツテ居レバソレデヨロシイノサ大著述モ時ト金ノ問題ダカラ出來ナケレバ出來ナイデモ構ハナイ天勾踐ヲ空フスルト云フ譯カネ近來南隣ノハツチヤン北隣ノ四郎チやン背後ノ學校ノ生徒諸君日課ヲ定メテ色々ナコトヲやツテ居ルヨ是モ一學期結了ト云フ譯サネ
 其外何モカクコトガナイ御留守宅ヘハ其後伺ハナイ御變モアルマイヨ大塚ノ三女ガ先達テ病氣デ死ンダ僕ハ見舞ニ鯛ヲヤツテ笑ハレタ
 僕ハ切角調ヘカケタコトヲ丸デ忘レテ仕舞ツタ愚ナ話シダ(ノート)ナンカ焚テ仕舞フト思フ
 君ノ状袋ト半切ハ氣ニ入ツタサスガ支那的ダネ
 今常公ガ泣イテ居ルヨアイツハ泣テ仕方ガナイ、山川不相變デ困ル僕モ相變ラズデ困ル
 右早速御答迄實ハ少々氣取ツテ夏目ハ字ガ上手ニナツタト云ハレタカツタガソンナ山氣モナクナツタカラ天眞爛漫タル處デ御免蒙ル 左樣ナラ
    六月十四日         金
   虎 雄 樣
       座下
 君ガ居ナクナツテ惡口ヲ闘ハス相手ガ居ナクナツテ甚ダ無聊ヲ感ズルヨ
 
      一九八
 六月十七日 水 後5(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本縣球磨郡湯前村井上藤太郎へ
 啓白扇會投稿用紙わざ/\御送被下候につき別紙蕪句敷首御笑覽に供し申候近頃俳句抔やりたる事なく候間頗るマヅキものばかりに候右用事迄 匆々頓首
    六月十七日         金
   微 笑 樣
  愚かければ獨りすゞしくおはします
  無人島の天子とならば凉しかろ
  短夜や夜討をかくるひまもなく
  更衣同心衆の十手かな
  ひとりきくや夏鶯の亂鳴
  蝙蝠や一筋町の旗藝者
  蝙蝠に近し小鍛冶が鎚の音
  市の灯に美なる苺を見付たり
  玻璃盤に露のしたゝる苺かな
  能もなき教師とならんあら涼し
  蚊帳青く凉しき顔にふきつける
  更衣※[さんずい+斤]に浴すべき願あり
  薔薇ちるや天似孫の詩見厭たり
 
      一九九
 
 六月二十五日 木 第一高等學校狩野享吉へ
 啓上今日の點數會議には出席せざる可らざる譯合の處八時過目がさめ既に遲く且昨日申上候通三年生(小生受持)には小生の點數問題に上るべきもの無之、又大學の點數調も未了につき我儘ながら缺席致候右不惡御含置被下度猶拜眉之上御詫可致候 以上
    六月二十五日         金
   狩 野 樣
 
      二〇〇
 
 七月三日 金 後11-50 本郷區駒込千駄木町五七より 清國南京三江師範學堂菅虎雄へ
 七月一日第二ノ手紙ガ來タ色々ナ珍事ガ書テアツテ面白カツタ車ト酒ト間違ツタリ驢馬デ落チカヽツタリ頗ル支那的ダカラ妙ダ日本ニ面白イ事ハナイヨ京坂合併相撲位ナ者ダ大學モ高等學校モ試驗ハスンダ昨日ハ點數會議デ朝カラ晩迄引張〔ラ〕レル只黙ツテ名説ヲ謹聽スル許リダガ中々草臥ルモンダナー明日カラハ入學試驗トクルカラ又厄介ダドーモ人間ハ生キタイ爲ニ生キテ居ツテソーシテ生キタイ爲メニ苦勞スルイクラ骨ガ折レテモ生キテ居ル方ガ善イノト見エル夫ガ高ジルトイクラ骨ガ折レテモ名譽ガトリタクナル學問ガ出來タガル金ガ欲シクナル實に變ナ奴サネ
 君ノ御母サンハ病氣ダツテ君ノ一家ハ郷里ヘ引上タ相ダナ昨日藤代カラ聞タ君又心配ガ一ツ殖タナ家族ハ當分國ヘ置クガイヽ可成金ヲタメテ半世ノ落托ヲ回復スルサ世ノ中デハ貧乏ヲ不名譽ト思ツテ居ルカラ君モコヽデ名譽回復ヲスルサ骨董ノ堀出物ノト云フテ矢張リイカサマ物ヲツカマサレルノダラウ假令然ラズトスルモ貯蓄ヲ癈シテ骨董ニ打込ンデハ所謂名譽回復ガ出來ンヨ
 發句ナンカ下火極マルマルデ作ル氣ニナラン然シ退窟凌ギニ時々ヤル是ハ得意ノ餘ニ出ルノデハナイ一時ノ鬱散ト云フ資格サ時ニ僕近頃ノホトヽギスニ自轉車日記ト云フ名文ヲ已ヲ得ズ草シテ載セタカラ見給ヘ甚ダ上品ナラザル文章ダガ中々ウマイヨ
 君教授ノ傍支那語ヲ勉強シ給ヘ君ノ樣ナ無器用ナ者デモ熱心ニヤレバ上達スルダラウソーシテ支那ノ書物ヲ讀メ僕ハ支那文學ハ大スキダガスキダ抔ト云フ程知ツテハ居ラナイヨ
 僕大學ヲヤメル積デ學長ノ所ヘ行ツテ一應卑見ヲ開陳シタガ學長大氣?ヲ以テ僕ヲ萎縮セシメタソコデ僕唯々諾々トシテ退クマコトニ器量ノワルイ話シヂヤナイカ
 狩野も大塚も藤代も相變らん
 藤代は君ノ心配スル程ナコトハナイダラウ、大塚モソンナニ落膽シテ居ナイ樣ダゼ尤モ是ハ僕ノ樣ナ不人情ナ人間カラ見ルカラ左樣ニ見エルノカモ知レナイ狩野ハ狩野サ萬古不易ト云フベキ代物ダ然シ熊本時代ヨリモ元氣ガアルラシイ山川ハドウナルカ僕モ近來面會シナイ僕ハナマケル方ニイソガシイ男ダカラ御無沙汰ヲスルノサ大ニ盡力シテやレツテ中々氣ガ進マナイ樣ダカラ一寸ムヅカシイソレニ周旋シ樣ト思フ口モナイ實ハ甚ダ氣ノ毒ニ存ジテ居ルガドウモ仕樣ガナイ君ノ方ニ口ガアレバ夫コソ結構ダガ當分夫モ六ヅカシイト云フナラ仕方ガナイ
 近頃梅雨ノ天氣鬱陶敷甚ダ困リ入ル平生ノ物草太郎ハ益物草太郎ニナル(樂寢晝寢われは物草太郎なり)抔とすまして居る内に天罰覿面胃病、脳病、神經衰弱症併發醫者モ匙ヲ投ゲルト云フ始末ハ近キ將來ニ於テノ出來事ト察セラレル
 山川ハ近キ將來ニ於テ氣狂ニナルト?ドーダカ分ラナイ普通ノ人ハ大概氣狂ダ自分デ氣狂デナイト自信シテ居ル許リサ何ノ事ハナイ世ノ中ト云フ者ハ氣狂ノ共進會ト云フ樣ナ物サ其中ノ大氣狂ヲ稱シテ英雄トカ豪傑トカ天才トカスベツタトカ轉ンダトカ云フ迄ダラウ御前サンダノ吾輩ノ如キハ小氣狂ダカラ駄目サ鳥渡泥棒ノ樣ナモノデ大泥棒ハ人力ラ崇拜セラレ小泥棒ハ牢屋ヘ入ル世ノ中ハ種類ノ差デナクテ單ニ程度ノ差デ反對ノ物ニナツテ仕舞フ黒白ナカト云フノハソレサ」
 支那ヘ行カナクツテモ豚ト同化スル位ノ決心ガナケレバ世ノ中ハ渡ツテ行カレヤシナイ幸ニ南京迄出張シタノダカラ可成豚ヲ觀察シテ歸ルトキニハ立派ナ豚ニナツテキ給ヘ御前サンノ樣ナ潔癖家ニハイヽ訓練ダ是カラ禅學ナンドヲやメテ豚學ヲヤルベシダ吾輩ハ唯ゴロ/\シテ居ル所丈ハ豚ヲ學ビ得テ其骨髄ヲ得テ居ルト自ラ信ジテ居ル其他モ追々稽古ヲシタラ遼東ノ豚位ニハナレルダラウト思フ
 明日カラ入學試驗デ朝七時カラツラマル譯サ七時カラツラマルニシテモ試驗ヲスル方ハマダイヽガサレル爲ニツラマルノハタマランネ然シソレモ自分ノ得ノイクコトダカラ誰モスルノサ馬鹿ニシテイラ
 君ハ時々菊謙卜議論ヲスル相ダナ兩方共剛情ダカラ面白イダラウ僕君ヲ失ツテ惡口ノ相手ガ居ナクナツテ甚ダ寂寥ノ至ニ堪ヘン僕モ支那ヘ行キタイヨ
 今度ハ此位ニシテ置カウ又改メテ現《原》參スル先身體ヲ大事ニ氣樂ニ暮シ給ヘ 匆々頓首
    七月二日夜         金 之 助
   虎 雄 樣
  菊謙ヘヨロシク、アイツ四百元ノ月俸デ大得意ダラウ
 
      二〇一
 
 七月三日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本第五高等學校奧太一郎へ
 漸々暑氣相催し候處愈御清勝奉賀候次に小生不相變碌々消光罷在候間乍慣御休神可被下候目下入學試驗にて隨分多忙毎日朝七時より出校には恐入候御校にても同樣定めて御いそがしき事と遙察候小生は高等學校と大學とかけもちにて兩方とも碌な事は致せもせず致さうともせず勝手好加減主義にてやり居候大兄などの樣な眞面目な人より見れば墮落の極に候御地景况如何に御座候や御序の節御もらし被下度候あまり御無沙汰致候間一寸御左右伺上候 匆々
    七月三日          金
   奥  樣
      榻下
 
      二〇二
 
 七月六日 月 當人持參 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野享吉へ
 拜啓此手紙持參の人は今回文科大學英文科の卒業生野間眞綱氏にて氏は熊本以來の知己に有之候
 今般卒業後の方針につき御高話拜聽致し度由につき御紹介申上候間もし御閑も御座候はゞ御面會被下度此段願上候 以上
    七月六日           夏目金之助
   狩野亨吉樣
 
      二〇三
 
 七月三十日 木 狩野亨吉へ
 拜啓山川君は淨土宗學校へ一過二日八時間丈契約相調候由同君より大兄へ傳言をたのむとの事故一寸申上候
 菅氏北堂逝去の由藤代氏より承り候右につき香奠贈與の擧有之候はゞ御協議致し度大塚氏も加入致度旨に候若し右香奠に及ばずとの儀ならば同君久留米宿所丈御通知被下度候先は右用事迄 匆々
                夏目金之助
   狩野亨吉樣
 
      二〇四
 
 八月五日 水 本郷區駒込千駄木町五七より 第一高等學校狩野亨吉へ
 拜啓今般南京のある學校にて法學士一名醫學士一名入用の趣去るたしかなる筋より聞込候由にて其内法學士の候補者として容子承知致度熊本出身(本年卒業)の法學士有之候が右の件御承知に有之候はゞ其模樣伺度もし御承知に無之ば大兄の手づるにて聞き出し度候右乍御手數御報道被下度願上候
 右件につき罷出て御邪魔致す必要有之候はゞ今日何時頃學校にて御面會被下候や小使を以て一寸御一報被下度候候補者の名は法學士窪田隆次郎大兄の御門下生に有之候先は右用事迄 匆々
    八月五日         夏目金之助
   狩野亨吉樣
 
      二〇五
 
 八月二十二日 土 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 埼玉縣北足立郡尾間木村大字中尾三六齋藤喜助へ
 拜啓朝夕はやゝ凌ぎよく相成候處愈御清適奉賀候偖兼て願上置候井戸換の儀本日井戸屋あり著手致候
 右につき先日の御手紙にて小生方にても何分か出金可致旨に有之又差配よりは右出金の儀判然不致候ては著手致しがたき由につきそは小生と貴君との間にて不都合なき樣致すにつきともかくも井戸換をなしくれよと相頼み夫がた爲《原》め今日著手致候事と相成候右御承知可被下候
 偖出金の儀につき申上候が實は井戸のみならず所々頗る破損致し居につき左の箇處御修復被下候へば井戸換の方に五圓程出金可致候
 一 流しのたゝきの破損及び湯殿の壁の破損
 一 玄關のひさしのふき換
 一 樋竹の腐蝕
 一 臺所のひさしのくされたる所
 一 湯殿のガラス障子の破損
 一 郁文舘と小生後園との垣(人ノムやミに出入スル所)
 其他右御著手被下度願上候且疊も隨分破損致し居候箇所も有之候實は御出京の上實地御檢分被下候はゞ御了解相成事と存候右は甚だ御迷惑とは存じ候へども小生方に於ても多少不都合に候間御願申上候先は右用事迄匆々頓首
    八月二十二日         夏目金之助
   齋藤喜助樣
 
      二〇六
 
 九月十四日 月 後2-50 本郷區駒込千駄木町五七より 清國南京三江師範學堂菅虎雄へ〔封筒の表に「菅虎雄大人虎皮」とあり〕
 漸々秋冷の候と相成候處愈御清勝奉賀候小生不相變神經衰弱意氣※[金+肖]沈と申す次第に御座候過日俣野生參り大兄大分得意のよし承り候船遊山親睦會の事なども傳聞致候小生夏中籠居大塚は一家引きまとめ鎌倉へ參り候狩野は避暑のかはりに學校へ通勤致候先日は結構なる菓子折頂戴難有存候愚妻先日より又歸宅致居候大なる腹をかゝへて起居自在ならず如何なる美人も孕むといふ事は甚だ美術的ならぬものに候況んや荊妻に於てをやかね學校も漸く始まる講義も例の如く不得要領底にて御免蒙るつもり也君の法帖はまだ拜見致さず實は御留守宅へは御無沙汰をして一向參らん其内行かうと思ふがまづあてにならない天下にあてになるものは金だけだから金をため給へ菊|地《原》は失張元氣であらう是へも無沙汰をして居る君からよろしく頼むよ、何だか「御座候」に始まつて「頼むよ」に了る手紙抔は實に前後一貫せぬ樣だが龍頭蛇尾は僕の大得意の處だから其積で讀み給へ、
 其外何にもかく事がないから是でやめる 失敬
    九月十四日         金
   虎 雄 樣
  山川は淨土宗の學校へ行く一週八時間程 (オハリ)
 
      二〇七
 
 九月十五日 火 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本縣球磨郡湯前村井上藤太郎へ
 拜啓秋氣相催ふし候處愈御清適奉賀候御刊行の白扇會報毎度御送にあづかり難有存候過日は蕪稿御求めに相成候處近頃俳神に見離され候せいか一向作句無之不得已其儘に致し置候不惡御容赦可被下候先は右御禮旁御挨拶迄 匆々不一
    九月十五日         夏目金之助
   井上藤太郎樣
        貴下
 
      二〇八
 
 九月二十八日 月(時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 赤坂區青山權田原養生館宇高忠高へ
 拜啓御手紙拜見仕候其後は御無沙汰に打過候處愈御清勝御勤務の由大慶に存候小生今春歸國後は東京にとゞまる事に相成目下封記の處に寄寓罷在候間御閑も有之候はゞ御來車被下度候熊本に奉職中は時々御音信をたまはり御厚意の段深く鳴謝致候此方よりもあるべき譯なれど色々多忙且遠方故參りかね候右不惡御容赦被下度候 以上
    九月二十八日        夏目金之助
   宇高息高樣
 
      二〇九
 
 十月十四日 水 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 宮崎縣宮崎郡宮崎町杉田作郎へ
 貴翰拜誦仕候拙句わざ/\1御所望により惡筆をもかへり見ず御一笑に供し申候御落手可被下候當時多忙にて俳界とは絶縁の姿に有之候故別段の好句も無之漸愧の至に存候
 先づは御返事まで如比に御座候 以上
    十月十四日       夏目金之助
   杉田作郎樣
       座右
 
      二一〇
 
 十二月十九日 土 本郷區駒込千駄木町五七より 岸重次へ〔封筒なし〕
 其後御模樣如何かと存候處益々御健勝御精勤のよし奉欣賀候札幌よりは其後返事あり當分の内經費の都合にて任命六つ〔ケ〕敷由申來候
 小生依然樣々消光罷在候間乍憚御休神可被下候先は右御返事迄 匆々拜具
    十二月十九日        夏目金之助
   岸 重 次 樣
 
 明治三十七年
 
      二一一
 
 一月三日 日 後8 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫 盆栽の松水仙背景は屏風らし〕
  人の上春を寫すや繪そら言 漱  石
 
      二一二
 
 一月十七日 日 使ひ持參 本郷區駒込千駄木町五七より 田中政秋へ〔封筒なし〕
 拜啓今朝御編輯の納豆會俳句稿落掌致候處右は如何取計可申や同會に關しては小生只今迄何等の關係も御座なく候一寸迷ひ居候御指教被下候はゞ幸甚
    十七日         夏目金之助
   田中政秋樣
 
      二一三
 
 二月九日 火 前0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔はがき〕
   水底の感      藤村操女子
水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我。
黒髪の、長き亂れ。藻屑もつれて、ゆるく漾ふ。夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり。
うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず。有耶無耶の心ゆらぎて、愛の影ほの見ゆ。
    二月八日
 
      二一四
 
 二月十四日 日 前11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ〔はがき〕
 小生の下駄無事に消光罷在候御休神可被下候大兄の足の裏の直覺誤りなき事を保證致候間右主婦へ御申聞可然と存候
 
      二一五
 
 三月二十七日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 小松武治へ
 拜啓先日御持參のリヤ王物語拜見一々原文と對照候爲め存外手間どり候《原》今分にては他の分も相應に時日を要すべきかと存候乍失敬少々添刪を施し申候へば御披見の上御取捨可被下候 以上
    三月二十七日        夏目金之助
   小 松 樣
 
      二一六
 
 四月二十一日 木 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 拜啓伊豫國西條の中學にて practical English の出來る文學士一名入用のよし至急申込有之月俸は七拾圓なり校長は松平圓次郎と云ふ二十六年出の文學士なり御心當なきや否や御返事を待つ 草々
    四月二十一日        金 之 助
   野 間 兄
  御閑なときに御遊に御出可被成候
  鳩鳴いて烟の如き春に入る
  杳として桃花に入るや水の色
 
      二一七
 
 四月二十七日 木(時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 新潟縣新發田中學校黒木千尋へ〔うつし〕
 拜啓御校英語教師採用の件につき御問合せの件拜承仕候只今一二の候補も有之候へども他の中學との交渉中に御座候間右相判り次第確たる御返事可申上候間暫くの間御猶豫相願度先づは右御答まで匆々
    四月二十六日       夏目金之助
   黒木千尋樣
 
      二一八
 
 四月二十八日 木 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 新潟縣新發田中學校黒木千尋へ
 拜啓先般御照會の英語教師の件二三の心當り相尋ね候處其内の一名は深江種明氏にて同君は既に大兄より直接に御談判相成たるやの由廻答有之候他に二名は新發田の方にてあまり意志なき由に候深江君方の模樣は如何か不存候へども出來得るなれば同君御採用可然か目下の處小生方にては他に候補者無之候尤も狩野君にはまだはなし不申候 以上
    四月二十八日         金 之 助
   黒 木 樣
 
      二一九
 
 四月 本郷區駒込千駄木町五七より 小松武治へ
 御依頼の冬物語閲了御急ぎの事と存候間召使を以て御送り申候御落掌可被下候
 是にて沙翁物語も一先結了一寸一服出來る譯に候 以上
                夏目金之助
   小松武|二《原》樣
 
      二二〇
 
 五月三十日 月 前0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 啓上
 君病氣のよしにて日比谷中學をやめるとか代理をさがして居るとか聞けり實事にや病氣とは何病なるや少しの事ならば辛防しては如何學校を卒業した許りの者が二十五六時間の授業に堪えぬ抔云ふ樣な事では駄目に候君の年輩より言へば三十時乃至四十時の働きは多きに失せずと思ふ
 夫とも他に大功名心でもあつて自分の勉強が必要とあらば特別なり又家族其他に不愉快な事又は心配ありて精力を其方に消耗すとあらば是も格別なり去れど常態にあるものが僅々二十五六時をもて餘すとは情なき次第ならずや
 且島津家の授業は一年限にて御發蒙るを得べし中學の口は今やめればすきな時に手に入ると限らず此點より云ふも辛防肝要なり或は地方行を希望するやも知らねど地方は俗務の爲め二十五六時間の授業よりも困難なるべし
 右は入らざる事ながら御忠告迄に申上候何卒御一考ありたし
    五月二十九日         金
   眞 綱 樣
 
      二二一
 
 六月三日 金 後7-20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ〔はがき 表の宛名に「野村傳四仁兄大人閣下」とあり〕
 只今高等學校にて島田三郎君の演説を聽て歸れり僕も駄辯を弄する事は人に負けぬ積りだが斯程迄に駄辯は振り舞はせない彼の辯は雄辯でも巧辯でも能辯でもない要するに平なる板辯〔二字右○〕と云ふものなり僕の講義中の駄辯と異なる處なし
 太陽にある大塚夫人の戰爭の新體詩を見よ、無學の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅經の如し女のくせによせばいゝのに、それを思ふと僕の從軍行抔はうまいものだ。行春や重たき琵琶の抱心とは蕪村の秀句に候。橋口は又繪葉書をよこした
 
      二二二
 
 六月四日 土 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ〔繪はがき 自筆ペン畫 表の宛名に「野村傳四先生」とあり〕
〔圖略〕
 
      二二三
 
 六月四日 土 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ〔繪はがき 自筆ペン畫 表の宛名に「野村傳四先生」とあり〕
〔圖略〕
 
     二二四
 
 六月十七日 金 後0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ〔はがき 表の署名に「千駄木の佳人某先生」とあり〕
 昨日散歩の序同學舍の前を通れり没趣味にして且汚穢極まる建物なり傳四先生比内に閉居して試驗の下調をなしつゝあるかと思へば氣の毒の至なり
 傳四先生の答案を管見せり傳四先生のパラフレーズはパラフレーズにあらずミスプレースなり
 日本の運送船がまたやられた金洲丸事件に鑑みざる日本人はさすがに大國〔民〕の襟度を具したるものか持ちたくなきものは大國民の襟度なり
 昨日ハンケチ一ダースとビスケツト一箱をもらふハンケチで汗をふきビスケツトをかぢる
  轉居せんと思ふがよき家はなきか
 
      二二五
 
 六月十八日 土 前9-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ〔はがき 凡て赤インキにて認めあり表の署名に「某先生より」とあり〕
 ビスケツトをかぢりて試驗の答案を檢査するにビスケツトはずん/\方付くけれども答案の方は一向進まない、物徂※[行人偏+來]云ふ炒豆を喫して古人を罵るは天下の快事なりと余云ふビスケツトをかぢつて學生を罵るは天下の不愉快なりと傳兄以て如何となす
 僕は一文なしの癖に近頃しきりに住宅の圖案を考へて居る夫故に書物を讀んで居つても茶座敷や築山が眼に映じて書物がわからん、かゝる先生に答案を閲せらるゝ學生は幸かはた不幸か傳兄以て如何となす
 君が英文が下手なのは書物を澤山讀まんからである、小言を申す我輩も決して上手ではないが日進月歩の今日弟子たるものは先生を凌がなくてはいけないから其積りで多少工夫して書物を讀まねばいかんよ傳君以て如何となす
 橋口が又繪端書をくれた靜かな海に雲の峯それに白帆甘いものだ僕の手腕よりも少々上等の樣だ傳君以て如何となす
 どこか善い借家はないだらうか休暇の始めに引越してそこで夏中勉強を仕樣と思ふ傳君以て如何となす
 そして君は手傳に來て呉れるだらうね傳君以て如何となす
 
      二二六
 
 六月二十二日 水 後2-40 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ〔はがき 凡て赤インキにて認めあり〕
 君が遠慮して來なくとも毎日來客で繁昌だよ
 ビスケツトは事件頗る進行して最早一個もない
 其代り答案の方は到底豫定の如く行動する譯にいかない、君の答案は存外マヅイ此次にはもつとうまくや〔ら〕なくではいかんよ 小山内や中川の方が餘程よろしい
    二十二日
   先  生
 
      二二七
 
 六月二十七日 月 使ひ持參 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 梅雨漸くはれて少々うれしき天氣と相成申候植物研究も定めてはかどる事と存候ちと氣?を吐きに御光來可被下候小生轉宅の野心を起し本郷小石川は勿論四谷麻布青山邊迄詮索甚だ汗の出る事に候
 採點それこれにて存外手間どり御迷惑の事と存候別紙御廻付及候間可然御取計願上候 以上
 君に横の實をもらひ其後ある人よりビスケツトを貰ひ兩三日前乙なる西洋料理を御馳走になり果報相つゞき候結果下痢を催ふし試驗調もものうく候
                  金
   芥 舟 先 生
  二の組の西村の點なし欠席かしらん
 
      二二八
 
 六月二十八日 火 後2-40 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區小日向臺町一丁目三川淵正幸へ
 先日は突然まかり出失敬致候借家早速御報知被下難有存候右御宅へ上候前に見たる家にて牧野と申す華族の家に候新らしけれど屋敷狹く格別に不廉と存候間やめに致候其他諸々詮索致し候へども思はしき家も無之につき目下ある處へ交渉中まとまれば夫へ移る積に候
 御病氣精々御加養可然と存候氣分のよきときは遊びに御出可被成候
 先は御禮まで 匆々
    二十八日         夏目金之助
   川 淵 樣
 
      二二九
 
 六月二十九日 水 前0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 先日は失敬諸々ぶらつきの上西洋料理の御馳走に相成候處其翌日より下痢を催ふし今に至る迄粥を食ひ居候餘り食ひなれぬものを食ひし爲か將御馳走しつけぬ人が奮發した爲か主治醫には分りかね候
 一昨日家をさがし候處偶然川淵正幸の家の前へ出候故訪問致候去年から髪をからず髭を剃らずと申しまことにいやはや二十世紀の俊寛に御座候君や僕の|心《原》經衰弱も漸々斯樣にハイカラに成る事と存候明星の投書家抔の新體詩の主人公となり候へば少々位の病氣は我|滿《原》致すべく候先は遲引ながら御禮旁下痢御報迄 匆々頓首
    二十八日          金
   眞 綱 樣
 
      二三〇
 
 七月一日 金 前0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 赤坂區氷川町一八彌宮濱雄へ
 拜啓昨日は遠路御光來の處何の風情も無之失敬此事に御座候其節御申置の貸家件につき御配慮を煩はし難有存候空家二|間《原》の繪圖面其他詳細御申越被下御手數の段恐入候實は只今寄寓致居候家の家賃は二十五圓に有之目下の處夫より多額の屋賃は拂ひがたくと存候尤も二家の内Bの方は稍低廉とは存候へども是亦二十五圓を超過致候故先今回は御斷り申上候右御禮旁御返事迄匆々如斯に候 以上
    三十日          夏目金之助
   彌 富 樣
       座下
 
      二三一
 
 七月三日 日 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 昨日は御光來の處何の風情もなく失敬此事に候其節御話の島津家家庭教師の件只今湯淺生參り候につき一寸申談じ候處大に志望の由につきもし大兄御辭任の際は同人御推擧被下度右御含迄至急申入候
 昨夜皆川氏方へ參る筈の處寺田生來訪又々新體詩抔の批評にて遂に遲く相成失敬致候
 別紙繪葉がき御注文故差上候中々うまく出來候實物よりはよすきる處御賞翫可被下候 以上
    七月三日            金
   眞 綱 樣
 
      二三二
 
 七月九日 土 (時間不明。但「東京駒込未納」の印あり) 本郷區駒込千駄木町五七より 宮崎縣宮崎郡宮崎町杉田作郎へ
 拜啓御依頼により蕪句二御令父の壽として御一粲に供し申候近來俳句てふもの作り不申候につき二句とも句をなさず漸愧の至に候 以上
    七月九日          夏目金之助
   杉田作郎樣
 
      二三三
 
 七月九日〔三十七年?〕 小石川區竹早町狩野享吉へ
 拜啓過日は突然なる御願定めし御迷惑の事と存候御厚意により萬事無滯相運び萬謝此事に御座候小生自身頂戴に可罷出筈の處少々都合有之愚妻差出候間同人へ御渡し被下度先は御願旁御禮まで 草々頓首
 
      二三四
 
 七月十六日〔?〕 本郷區駒込千駄木町五七より 皆川正※[示+喜]へ〔うつし〕
 拜啓去る地方より新文學士一名招聘の件小生方まで申來候につきては一寸御面會の上御相談申上度に付御ひま有之候はゞ御光來被下度候實は參堂可仕筈なれど目下顔に腫物生じ鼻まで漆喰を塗りをり候故乍恐縮御足勞を煩し度候 以上
 
      二三五
 
 七月〔?〕 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 繪はがきを難有
 あの色が非常に氣に入つたが全體あれは何の繪ですか一寸見當がつかない
 是は久し振でかいたら無暗にきたなくなつた夜だか晝だか分らないから(春日影)とかいた
 
      二三六
 
 七月十八日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一二菅虎雄へ
 君から貰つた紙へ君から貰つた筆を以て君から授かつた法を實行してかくと斯樣なものが出來る才子は違つたもので一時間許り稽古するとすぐ此位になるうまいものでせうはめてくれないと進歩しない
 此詩は僕が洋行する時に作つた傑作で書と共に後世に傳ふるに足るから君に進呈する
 君の處へ行くと何|が《原》取得がある僕は魏故南陽張府君墓誌を習ふ事約三時間君の傳授は實に窮窟千萬のものたる事を悟り得た 以上
    十八日           金
   虎 雄 兄
       座下
  生死因縁無了期
  色相世界現狂癡
  ※[しんにょう+屯]※[しんにょう+壇の旁]校履塵中滯
  迢遞正冠天外之
  得失忘懷當是佛
  江山滿目悉吾師
  前程浩蕩八千里
  欲學葛藤文字技
 
      二三七
 
 七月二十日 水 前9-50 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男雷邸内野間眞綱へ
 尊書拜見島津家の方は今一年繼續の事と相成候よし湯淺の方は多分神宮皇學舘の方へまとまる事と存候へば御心配被下間敷候日比谷の方も十時間御受持のよし承知致候可相成は二十五六時間御持ち可被成候浮世はウン/\働くものに候皆川君一昨夜來り何か發句をかいてくれと云ふから詩箋に十五葉無茶苦茶にかいてやり候是は近頃習ひたる漢魏六朝の筆法にて凄いものに候一|牧《原》十圓宛とすれば何でも百五六十圓の商買に候鼻上の漆喰自然剥落もとの如く玉子の如くうつくしき美男に相成候へば御安神可被下候暑中如何御暮し被成候や一日がゝりにて寐轉びに御出掛可相成候
 俣野大觀先生卒業彼云ふ訪問は教師の家に限るかうして寐轉んで話しをして居ても小言を言はれないと僕の家にて寐轉ぶもの曰く俣野大觀曰野村傳四半轉びをやるもの曰く寺田寛彦曰く小林郁危坐するもの曰く野間眞綱曰く野老山長角
 橋口は屡繪端書をくれる中々うまいもので僕の御手際では到底競爭が出來ん野村が靜岡から端書をよこした曰く濛雨しきりにてマダム フジの曲線美を賞する事が出來ませんと柄にない圖案と存候
 不相變金ほしく金なく凉を欲して凉を得ず
 涼しい處で美人の御給仕で甘い物をたべてそして一日遊んで只で歸りたく候 以上
    七月二十日         金
   眞 綱 樣
  漢魂六朝の筆法も暑氣の爲め少々崩れ申候
  無人島の天子とならば涼しかろ
 
      二三八
 
 七月二十四日 日 後6-30 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口頁へ〔繪はがき 自筆水彩畫西洋人の肖像〕
 名畫なる故
 三尺以内に近付くべからず
 
      二三九
 
 七月二十五日 月 後5(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔はがき〕
 昨日君の所へ繪端書を出した處小童誤つて切手を貼せず定めし御迷惑の事と存候然し御覽の通の名畫故切手位の事は御勘辨ありたし
  十錢で名墓を得たり時鳥
 
      二四〇
 
 七月二十七日 水 前11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 神奈川縣葉山岩倉家別邸小松武治へ
 拜啓其後起居如何當時岩倉家の別莊に御消光のよし避暑の爲め良策と存候
 却説湯淺生件につき種々御配慮を煩はし感佩此事に候實は當人も在京を希望し從來の研究を續け度素志切なりしも鼻の下要求もだしがたく先般文部省澤柳氏の周旋にて伊勢神宮皇學舘へ高等官六等年俸八百にて略内定致したるやに承はり居候然る處貴君よりの手紙にて在京の望も萬更にあらざるを知り當人の爲甚だ遺憾の至に不堪因て澤柳及神宮皇學舘の方へ不義理を釀さゞる程度内に於て當人今一應熟考の餘地を與へたくと存候就ては岩倉家の方の職務繁|簡《原》性質等待遇等今少し委細の所承知致し度と存候につき御多忙中甚だ御氣の毒と存候得ども右御聞合せの上湯淺方迄直接に御報被下間敷くや當時彼は横濱市伊勢町二丁目官舍内に起居罷り在候只今落手の貴翰は愚見附記の上同人方へ廻付致置候間左樣御承知置被下度候
 臨終本件につき御配慮を煩はしたる岩倉家の人々並び家扶君へよろしく御禮御傳被下度候 以上
    七月二十七日         夏目金之助
   小松武治樣
 
      二四一
 
 八月十五日 月 前11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫模樣化されたる流水と落葉と〕
 先日はまかり出御邪魔致候
 不忍池畔の散歩に※[足+勇]を見て御歸りの由そんなものが繪の材料にも文章の材料にもなります、近頃散歩には出るが根つから材料がない
 繪葉書はやめにしやうと思つたが又謀叛心を出して此度は自製ならぬ一|牧《原》八厘のやつを十枚許買つて來ました其二枚へ少し風替りのものを書いたから送ります素人くさい處が好い所です褒めなくてはいけません
  秋立や斷りもなくかやの内
  ばつさりと後架の上の一葉かな
              ※[さんずい+嫩の旁]  石
 
      二四二
 
 八月二十七日 土 後2(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき自筆水彩畫〕
 其後繪端書は澤山書くが送るのはやめにして仕舞た君は試驗の準備で急がしい事でせう
 先日高濱虚子に遇ふ十月からほとゝぎすの號をかへる其時同紙の上部四分一許の處へ廻り燈寵の樣な影法師の行列を入れたい僕にかいてくれといふから僕は駄目だからといつて君の駱|馳《原》を見せたら君に逢ふ機會があつたら頼んで見て呉れといふ君の駱馳に感服したものと見える、一つかいてやりませんか
    二十七日
 御舍弟の停車場のスケツチを寺田寅彦に見せたらターナーの色彩の樣だとほめました
 
      二四三
 
 八月二十九日 月 前0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 御返事ありがたく候御舍弟でも無論よろしく候書いてやつて下されば高濱は大に喜ぶぺく候
 
      二四四
 
 九月四日 日・後7-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ〔はがき〕
 トラホームは長い病氣です然し死ぬ事はない藥なんかはあてにならない只急劇に醫して仕舞へばよろし慢性になると終《原》涯かゝるあぶない
    九月四日           阿矢仕醫學博士
 
      二四五
 
 九月二十二日 木 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫朝顔の花を五つ六つ大きく描きあり其中に洗髪の女團扇を手にして横向きに立つ〕
 試驗が濟んだら樂になりましたらう小生大多忙閉口奈良の模樣頗る面白く候
 是は朝貌の幽靈なり
 
      二四六
 
 九月二十三日 金 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町三六同學舍内野村傳四へ
    ブリタニカヲ見レバアルダラウ
 拜啓僕或人からたのまれてモロツコ國の歴史の概略をしらべる事を受合つたが多忙でそんな事が出來ない君二三時間を潰して圖書館に入り五六ページ書いてくれ給へ御願ひだから古來からの政體等の變|選《原》が一寸分ればよい右至急入るから其積りで御願申す左樣なら
    九月二十三日        夏目金之助
   野村傳四君
 是非やつてくれなくてはいけない、いやだ抔といふと卒業論文に零點をつける
 
      二四七
 
 九月二十四日 土 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 虚子から手紙を|こ《原》こして橋口君の所へ出て御願するのだが明日から用事で京都へ立つから先日願つた廻り燈籠の畫を僕から今一返願つてくれと言います、僕は橋口君の弟は今奈良へ修學旅行中だから駄目かも知れぬが何しろ今一返話して見樣と返事をしました、ほとゝぎす來月の十日頃出板と記|臆《原》して居ます夫に間に合ふ樣にかいてもらへませうか
    二十四日
 
      二四八
 
 九月二十九日 木 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男尚邸内野間眞綱へ〔はがき〕
 先達の君の發句は中々面白いうまいものだちと再興してやり給へ虚子に見せたらほめた
  秋風のしきりに吹くや古榎
      御朱印つきの寺の境内
  老僧が即非の額を仰ぎ見て
      餌を食ふ鹿の影の長さよ
    二十九日          ※[さんずい+嫩の旁]《原》  石
 
      二四九
 
 九月三十日 金 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 漁師がふ|ご《〔?〕》をかつぐ畫は御説の如く面白く候
 昨夜深江參り是亦落第のよしに候御仲間は澤山あれば決して落膽すべからず
 今日は御令弟の御蔭にて色々説明を承りありがたく候
 
      二五〇
 
 九月三十日 金 後(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき自筆水彩畫〕
 大變な事が出來たといひながら大變な事を話さずに歸るのはひどい
 
      二五一
 
 十月二日 日 後0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫木の幹大小五六本大きな紅葉所々に散る、前景に洗髪の女横向に立つ、女の着物の模樣は紅葉散らし〕
 昨日はほとゝぎすの插畫御送被下難有存候
 早速虚子の所へやり申候御多忙中嘸かし御迷惑の事と存候 あの畫はほとゝぎす流の畫に候明星流に無之面白く存候先日虚子と連句をしたる時丁度あの樣な句を咏みました
 此は紅葉の精に候無暗に赤くて大俗極まる所が却つて雅趣ある所に候繪畫の戸迷ひしたる如き畫端書に候 以上
    十月二日
 
      二五二
 
 十月九日 目 後3-20 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 昨日の孔雀は結構に候僕なんかにはこんな思想は出ない
 虚子が來て色々繪をもらつたといつて喜んで居りました
 
      二五三
 
 十月十一日 火 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男欝邸内野間眞綱へ〔繪はがき自筆水彩畫〕
 君の畫端書は何を寫したものか知らぬがあれは實景だ留學中の事を思ひ出す僕はあのあたりをよくぶら付いたものさ
 君の連句を高濱に送つてほとゝぎすへ載せる事にした今度のに出るよ見給へ「諸國一見」の句は甚だ佳と思ふ、昨夜野村がきた柿と林檎を食はせてやつた 何か持つて來給はん事希望致候
  「行春や未練を叩く二十棒
       青道心に冷えし田樂
  此頃は京へ頼《〔たより〕》の状もなく
       兀々として愚なれとよ
  僧堂と燒印のある下駄穿いて
       門を出づれば櫻かつ散る」
 今に別荘を建るから君を番人にして月給百圓賜給すといふ辭令をあげます
                金
 
      二五四
 
 十月十二日 水 後7-20 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 鷄の畫は頗る瀟洒薫齋の樣な風があると思ふ發句の前の句は調が整はぬ後の句は「時雨るゝや庚申塚に鳴く狐」としたらものになります、君中々見込がある少し發句をやり給へそして君の令弟にも是非勸めてくれ給へ、わけはない少しやるとぢき上手になる、畫の趣味のある人が發句をやつて發句的の趣味を西洋畫でかいて貰ひたい、
 白馬會に一人位發句をやる人があつてもよからう
 
      二五五
 
 十月十五日 土 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 夕凪の句面白し笈と須|須《原》との配合も黒人じみたり然し時候がいつだか分らぬ發句に季のものを入れるのは感情を強くせん爲なり「夕凪に笈を下すや須磨の秋〔右○〕」とでもすれば判然する宴やんでの句も景色よけれど是も時候がわからぬ故「春寒の細殿もるゝ灯影かな」と位に改正然るべきか
 夜嵐の句も同樣の非難あり且是は句調とゝのはず秋風の句は季あれども景色明瞭ならず去りとて情趣も見えず候むしろ考へて理に落ちたる句と思はれ候拙句に日の入や秋風遠く鳴つて來るといふがある是は別段の句にてはなけれども理窟なき故まだよろしく候こゝに理窟と申すは「一うなりして古葉かな」と如何にも秋風が一度吹くと木の葉がちると云ふ景色をことさらに人に示さんと工夫して不自然に陷入れるをいふ、人を泣かすも笑はすもさあ泣け、さあ笑へといふのは妙ならず泣き度ば笑ひ度ばと抛り出したる泣かせ方笑はせ方が上手のする所に候繪にてもどうです美いでせうと繪が故意に己れを廣告して居るのはキザではありませんか、牛の繪は昔しの俳畫を見る樣にて面白く候妄言多罪氣にかけずにもつとどん/\御作りあらん事を希望致し候
    十五日            金
 
      二五六
 
 十月十七日 月 前0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 新潟縣古志郡六日市村字蛇山細貝勝逸へ
 尊書拜見仕候征露帖とか御製作のよしにて小生發句揮毫御求め相成候處小生當時は發句を廢し候のみならず征露の句などは一句も無之候然し切角の御所望故舊句二句戰爭に關するもの相認め御送申上候一葉はかき損ひ候故裏にものし申候御ゆるし可被下候子規の短冊は小生懇望せざりし爲生前親交の割合に存外無之只今僅かに二三枚有之候是とても留送別の句にて皆小生の身上に關するものゝみに候へば他人に差上る譯に參りかね候右不惡御承知被下度候 以上
    十月十六日         夏目金之助
   細貝勝逸樣
 
      二五七
 
 十月二十日 木 後7-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男尚邸内野間眞綱へ〔封筒表側に「平信凡音」とあり〕
 先達は譯文の俳體詩御送拜見致しました處があれは白芙蓉のよりも甚だ劣りて見ゆる樣なり翻譯なんどは駄目だから創作をどし/\やつて送り玉へそうして俳體詩の大家になるさ君のほめて呉れた俳想詩は寅彦も大變ほめてくれたが四方太が來て大嫌だといつた俳體詩を作り得るものがこんなものをどうして作つたといふ評は少々恐縮した、近頃尼が尼になる來歴の長い奴を俳體詩で虚子と試みて居るが中々困難でちつとも進歩しない、こんだ君と遠足でもして俳體詩の記《原》行文でもやらうではないか、ちと落雁でも以て御出掛なさい 匆々頓首
    十月十九日          金
   奇 瓢 先 生
 
      二五八
 
 十月二十二日 土 後0-20 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 自筆水彩畫 赤衣の少女白き鷄に餌を與へつゝあり、背景に木立と碧空〕
 君がくると近頃は客が居る、君は勉強がいやになつた時に人を襲撃するのだからたまには此位な事があつてもよろしいと思ふ
 此繪はまづいが色が奇麗だと思ふどうだ
 
      二五九
 
 十月二十四日 月 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫裸體の女の半身、背景は森〕
 君の句の見付所は皆艶麗なる點なり君は奇麗な事が數奇と思ふ。句々皆前回よりは大進歩なり可賀/\不産女の句だけは俗なり故らなり、水牛の句新らしくて面白し、濡小袖の句配合物はよけれど鏡臺の上に小袖あるは如何草庵の句よろし但し少々陳腐也、緋の袴の句はもつるや〔四字傍点〕の四字わろし意匠はよろし、此等の趣味さへあれば發句は何でもなしやり給へ/\
    二十四日
 
      二六〇
 
 十月二十五日 火 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 此畫は昨日も一|牧《原》書いて橋口に送つた兩方共同樣の出來である
 後世の好事家一方を見て贋物といふ重野成齋なるものあり兩方共うそなりといふ|※[さんずい+嫩の旁]《原》石といふ發句を作る人は居るが端書に畫をかいた漱石とは別人である云々
 
      二六一
 
 十一月六日 日 前0(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫 寺の屋根、右手に高く杉木立、左上に圓き月、月と杉木立との間に句あり〕
 御示しの句趣|好《原》は皆取り所あり句法は未だ調はざるもあり、「城高し」の句難なし但し大なる景色也先日のとは大に異なれり一番槍の句に季なし雜の句とすべきか今少し調子をとゝのへ度ものなり、夜寒の篝火といふより夜寒に篝かなとする方可ならんか萩たるゝは何となく調はず姫瓜垣といふもの小生は知らず、東屋には句法調へり然し「しのぐ」といふは夕立の如き感あり且東屋のある菊畠ならば雨に逢ふとき母家に歸り得るなるべし實際にあらず妄評多罪
 〔繪の中に〕
  名月や杉に更けたる東大寺
  君の繪端書を散らしにしてワクに入れんと思ふ金ピカノ物を下さい先達ての梅の青軸に雀がまだあるなら頂戴
 
      二六二
 
 十一月七日 月 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 昨夜は御馳走になりました
 今度は本郷座をおごる積りですか
 蒲團を干してランプを明るくして長烟管でポン/\やれば天下は太平と御承知あるぺし
    七 日           金
 
      二六三
 
 十一月十一日 金 後7-20 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 先達て頂戴したる繪端書黒ん坊の圖は傑作に御座候珍藏可致候、是はまづい方の傑作故御挨拶として進呈致候
                  金
 
      二六四
 
 十一月十一日 金 後7-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 拜啓金澤地方小松とか申す所に年俸九百圓英語教頭の口あり行く人なきや淡路の先生は熊谷へ移りたるや山口の美禰に口をかけて見んと思ふ如何其他ゆき度人あらば教へ玉へ
 それから又寶亭へ行きましたポアソングラタンの方は如何
    十一月十一日         金
   綱   樣
 
      二六五
 
 十一月十八日 金 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 先達は晩餐會の爲め失敬然し僕のフロツクコートの出立を見ろといふのに見ずに歸るのも失敬だ
 本郷六丁目二十五番地藪中といふ女髪結の隣りに新らしき貸二階あり一寸見て御覽
                     金公
   寅 さ ん
 
      二六六
 
 十一月二十五日 金 前8-50 本郷區駒込千駄木町五七より 四谷區西信濃町一六曾根隆道方若月保治へ
 拜啓昨日は失敬今日學校にて松本君に遇ひ候處同君は昨日八田氏へ君の事を通じ置けりとの事猶急ぐなら直接面談可然との事に候八田氏宿所は(本郷區元町一丁目三長谷川泰の裏)と申す處に候先は右用事迄 匆々拜具
    二十五日           夏目金之助
   若月保治樣
 
      二六七
 
 十二月一日 木 前0(以下不明)本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 又々名作を頂戴難有候額を作らうと思つてまだ作らない
 是はミレの尼の鸚鵡を勝手に寫したらこんな頓ちんかんなものになつたのです
 
      二六八
 
 十二月七日 水 前11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 先達ては難有二|牧《原》共洒落て居る
 是は例の如く亂暴な畫なり然し傑作とほめてくれゝば結構也
 
      二六九
 
 十二月十二日 月 前11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 近頃多忙で畫をかくひまがない。皆舊作です。先達ての上野の冬枯は意匠は頗る面白い。鴉に少々文句をつけたい。
 
      二七〇
 
 十二月十九日 月 前11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ〔はがき〕
 端書と雜誌と正に落手候今日は本屋の主人と皆川と若月の二氏參り候倫敦塔は未だ脱稿せず然しものになります御一覽の上是非ほめて下さい雜誌の批評は當つてるのか間違つてるのか分らない僕の事が雜誌に出る度に子規が引き合に出るのは妙だとにかく二代目小泉にもなれさうもないスヰフトにもなれさうにない僕の樣な善人をシニツクの樣にかくのはよくありませんよねえ君
  昨夜の牛乳は非常にうまかつた僕は是から牛乳生活をやつて横隔膜の呼吸法で大文學者になるつもりだ
 
      二七一
 
 十二月二十二日 木 前0(以下不明)本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 一昨夜橋口の宅へ招かれて雁を食つた雁は生れて始めて食つて見た頗る甘ひ雁の羮は橋口の家に限る
 去る本屋が大坂の蕪漬を送ると云ふて來た
 倫敦塔は出來上つたあとから讀んで見ると面白くも何ともない先便は取り消す
 浦島を讀んだある部分はうまいある部分はまづい殘る部分はうまくもまづくもない
    十二月二十一日〔封筒の裏に〕 金
   眞 綱 樣
  只今手塚がきた不相變ひげが長い
  今日は是から攝津大掾をきゝに行く、連中の中に女が二人居る
 
      二七二
 
 十二月二十二日 木 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫 池、緑の土手、土手の上左端に立木一本、垣、土手の向ふに赤き屋根見ゆ、鵞鳥が群がつて土手を池の中へ馳け下りる〕
 
 雁の御馳走は大變うまかつた此度はこゝに書いてある樣な奴を一疋しめて食ひたい
 空也堂の菓子は頗る洒落たものですな
 
      二七三
 
 十二月三十一日 土 使ひ持參 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 昨日は失敬其節申上た大坂の蕪漬乍輕少御目にかけ候間御風味可被下候多いと石を壓す方があぢが變らんでよいさうだけれど少し許りだから夫にも及ばぬ事と存候
 蕪を送ればとてかぶを食つて新年に羊にでもなりたまへといふ謎ぢやない度々櫻坊の御馳走になるから御返禮と思つて差上ますのですよ
                 蕪 居 士
   櫻 坊 大 人
         座下
 
 明治三十八年
 
      二七四
 
 一月一日 日 後(以下不明)本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 先達ての龍土軒主人の歌は頗る面白いから虚子の所へ送つた虚子曰く以て二月のほとゝぎすを飾るに足ると但し雁の肉我に何ぞ〔四字傍線〕は何とか改めたい皆川は逗子へ行つて氣に喰はんとかで房州へ行つた當日來て洋書を二冊僕に托して君にやつてくれろといひ置いて行つた一冊はハーンの怪談で御蔭で之を通讀した猫傳をほめてくれて難有いほめられると増長して續篇續々篇抔をかくきになる實は作者自身は少々鼻について厭氣になつて居る所だ讀んでもちつとも面白くない陳腐な戀人の顔を見る如く毫も感じが乘らない。小野小町は僕も驚ろいたね。萬事控目が難有い 實は出|鯱《原》張る學問も精力も無いのだから已を得ざる譯だ猫傳中の美學者は無論大塚の事ではない大塚はだれが見てもあんな人ぢやない。然し當人は氣をまはしてさう思ふかも知れぬがそれは一向横はない。主人も僕とすれば僕他とすれば他どうでもなる。兎に角自分のあらが一番かき易くて當り障りがなくてよいと思ふ。人が惡口を叩かぬ先に自分で惡口を叩いて置く方が洒落てるぢやありませんか
 昨日は傳四が來る寅彦が來る四方太が來る。晩に眼がさめたら百八の鐘をつく所であつた昔しなら感慨云々の場だが何ともない只聞いて居たら寐て仕舞つた。元日も好い天氣で結構だ。今日は何だかシルクハツトが被つて見たいから一つ往來を驚かしてやらうかと思ふ 左樣奈良
    元 日            金
   眞 綱 樣
 
      二七五
 
 一月二日 月 前7-50 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ〔はがき〕
 今日はなぜ上らずに歸つた。傳四が來て雜煮を食はせろといふから一所に晩餐を食つた。君も雜煮を食ひに來給へ可成晩食の時が落付いてよい
        本郷駒込千駄木町五七
               夏目金之助
    一日夜
 
      二七六
 
 一月二日 月 前7-50 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔はがき〕
 君年始をやめて雜※[者/火]を食ひにこぬか可成晩食の際が落付いてよい。
        本郷駒込千駄木町五七
               夏目金之助
 
      二七七
 
 一月二日 月 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口貢へ〔繪はがき 自筆水彩畫 左端下に灰吹、灰吹から蛇が二匹出て枠を形づくる、枠の中にては男が机に頻杖をついてゐる、机の上には硯と筆〕
 灰吹から蛇が出ました一寸驚かせるね
 
      二七八
 
 一月四日 水 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ
 君がくれた猪肉で傳四を御馳走し。昨夜は又虚子四方太橋口兄弟を御馳走した昨夜は大分面白かつた是も君の御蔭と敢て一書を奉呈して感謝の意を表するいづれ八日過になつたら來給へ皆川と三人で雜煮でも食ふかね。今朝小野君が來て英米名家詩抄といふのを一部くれた。
 人のところへ手紙をよこすに名宛人の名前丈をかいて自分は姓丈かくなんてえのは失敬だよ。自分の事は大抵の場合には(眞綱)とばかりかいて姓もかゝないのが禮義である。先方を尊敬し樣とする場合には向ふの姓丈かいて名を略す或は其人の號をかく。自分の號を書くのは矢張失禮になる
      第一號
尊敬の場合
    一月四日
            眞  綱
夏 目 樣
 
      第二號
同等の場合
    一月四日
            野間眞綱
夏目金之助樣
 
極懇意の場合又は目下へやる場合
    一月四日
            眞  綱
金 之 助 樣
 
是が昔しの禮義であります
    一月四日      金 之 助
   眞 綱 樣
 
      二七九
 
 一月四日 水 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 昨夜は虚子と四方太と橋口兄弟を呼んで猪の雜※[者/火]を食はした。君はもう二返食つて居るから呼ばなかつた。虚子と四方太に君の文章を見せたら四方大曰く是は寫生文ぢやない三十七年十二月三十一日の雜録〔二字右○〕だと傳四君にさう傳へてやり玉へと僕は此一言に避《原》易してほとゝぎすへ出せとも云はなかつた 草々不一
    一月四日         金
   傳 四 兄
 
      二八〇
 
 一月六日 金 後0-30 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本縣球磨郡湯前村井上藤太郎へ
 新年の御慶目出度申納候白扇會々報毎號御寄贈にあづかり奉謝候拙稿屡御求めの處いつも御斷りのみ致甚だ濟まざる儀と存候間今日は無理やりに妙なものを作り供貴覽候御一笑可被下候何だか譯のわからぬものに候へば御取捨は御隨意に候 以上
    一月五日         夏目金之助
   井上微笑樣
  元日や歌を咏むべき顔ならず
      胃弱の腹に三椀の餅
  火燵から覗く小路の靜にて
      瓶に活けたる梅も春なり
  山妻の淡き浮世と思ふらん
      厨の方で根深切る音
  專念にこんろ〔三字傍点〕煽ぐは女の童
      黄なもの溶けて鍋に珠ちる
  じと鳴りて羊の肉の煙る門
      ダンテに似たる屑買が來る
 
      二八一
 
 一月十日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館皆川正禧へ
 拜啓只今野間眞綱君あり雉子一羽もらひ候間ひる飯をくひに御出被下度右御案内申上候 以上
    一月十日         夏目金之助
   皆 川 樣
       貴下
 
      二八二
 
 一月十五日 日 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ〔繪はがき自筆水彩畫〕
 其後何にも出來ないかね。どうも君の作は着想は面白い所があるが言葉が平凡な所が多い今一といきと云ふ處で氣がぬける。端唄でも俳體詩でも澤山作つて御送りなさい。
 猫の續篇先達脱稿虚子に交付したり見て文句をいつて下さい。
 今日頃から休業前の僕に返つた樣だ。
 鴛鴦博士とは艶な名だ。
 此繪端書は舊作です。
 昔し大變な罪惡を冒して其後悉皆忘却して居たのを枕元の壁に掲示の樣に張りつけられて大閉口をした夢を見た。何でも其罪惡は人殺しか何かした事であつた。
 先達の雉子は大變うまかつた。
 
      二八三
 
 一月十八日 水 後2-40 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 猫の畫をかいて被下よし難有候。
 可成面白い奴を澤山かいて下さい。
 鬼と佛の繪端書は上出來と存候
 〔繪の肩に〕
  あるは鬼、あるは佛となる身なり
      浮世の風の變るたんびに
 
      二八四
 
 一月十九《〔?〕》日 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 君がほめて呉れたので倫敦塔が急にうまくなつた心持ちがする。然し世に稀なる文學者は少々驚ろいたね。何しろ此繪端書を以て御禮を申し上げねばならぬ。
 支那の織物は僕がもらふよ。僕は大抵のものはもらふ主義だ。
 時間さへあれば僕も稀世の第《原》文豪になるのだが。時が乏しいので、ならずに死んで仕舞ふのは殘念だか幸福だか一寸自分には分らない
 
      二八五
 
 一月二十日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館皆川正※[示+喜]へ
 倫敦塔の御批評難有候實は稿を草する折は多少逆上の氣味にて自分でも面白いと思候處脱稿の上通讀したらいやな處が多く且今一いきと云ふ所で氣が拔けて居る樣で我ながらいやに成つて居たのです。然る所本日奇|飄《〔瓢〕》先生から手紙をくれて大變ほめてくれたので又少し色氣が出た處へ君の端書が來たものだから當人大得意で以前の逆上に戻りさうに成つて來ました。
 ダンテの句は仰せの如く故意とらしく候。あれはあまり句が長すぎる爲もあります何だか知つて居る事を氣取つて無理に挿入した樣な感じがある。少し氣ざと思ふ。あの句を二句位につめれば色彩として存してもよからうと思ふ如何。番兵を褒めてくれ手はないと思つて居たら飛んだ處から喝采が出て大に面目を施こす譯です。首斷りの段は一番面白いかね。僕自身はあすこが一番よく書けたとも思つて居らん。
 倫|孰《原》塔で君を免職させるのは御氣の毒だから當分君を寐過させる樣なものはかゝない積りに候。二月のほとゝぎすには猫の續きが出ます是は健康に害のある程のものではないから讀んで下さい。
 先は御禮迄 匆々頓首
    一月二十日           金
   皆 川 兄
       座下
 囚人が舟から上る所はわざと突飛にかいて驚かして見たのです。あれは突飛な所を買つてもらひたい
 
      二八六
 
 一月二十三日 月 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區三河臺町島津男爵邸内野間眞綱へ〔繪はがき自筆水彩畫〕
 織物到着難有候。あれは書齋の小机の上に敷て見たら丁度うまく一杯になつた。誂へた樣で結構上等なり。あれは西洋物で全く支那物ではないと思ふ。I came up hand over fist, doing my five knots と云ふのは熟語ではあるまい。拳を握つてと云ふ意味ではないか「ノツト」と云ふのはコブが出來るから云ふのではないか doing とはコシラヘルト云フ意味ではないか、猶よく考へて見樣。
 御禮旁御返事迄 匆々
 Hand over fist ハ片方の拳を片方の手でつゝむ意味ではなきか
 
      二八七
 
 一月二十三日 月 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館皆川正※[示+喜]へ〔繪はがき自筆水彩畫〕
 Coretti といふ字存じ申さず Correnti ト云フ以太利の政治家兼志士あれども綴が違ふ樣なり。
 僕の事を評するときは誰でも必ず上田君を引合に出す上田君は迷惑なるべし。あまり讀賣で學者の樣に吹聽されると大學の講堂で講義がやりにくゝて困ります。白鳥子は一面識なき人なり先達て尋ねてくれた時は歌舞伎座へ行つて留守であつた。近い身より抔より却つて知らぬ他人の方が時々は買被つてくれるものに候。
 君がほめたから倫敦塔を澤山書いて君を免職させ樣と思ふがひまがなくてかけない。
 
      二八八
 
 一月二十三日 月 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 自筆水彩畫 僅に紅味を帶びたる淡黄にて、頭髪口髭頬髯顎鬚の半白なる、鼻眼鏡かけて面長なる、西洋人めく肖像を描く〕
 ぼろを買ひ、ぼろを食い而る後尻からぼろを出せばあとは晴々して遍照金剛の身となる。大に御奮發可然候。必ず/\小生の樣にぼろの内訌せぬ樣御活動相成度候。是は君の御親父が財布を首にかけて上京する圖なり
 
      二八九
 
 一月三十日 月 後5-20 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 傑作到着鹿の畫は倭習を帶ぶ。砂漠の圖の方思ひ切つてよし但色わろし。文章は明星派の系統を引く。いやはや。夫より飯田河岸の事でもかけばいゝ
 
      二九〇
 
 二月二日 木 後6-40 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市大町三丁目土井林吉へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 〔上段に〕
 君は僕の氣?に驚くと云ふが僕は君の健筆に驚ろいて居る。此頃の文藝の雜誌に君の詩が載つて居ない事はない。何しろ大にやり玉へ筆硯萬歳可賀可賀し
 昨夜は雪 供の前の家から火事が出て夜の間に燒けて仕舞つた。今朝起きて始めて知つた。雪中の火事は詩題になると思ふ。それを知らずに寐て居るのも詩になると思ふ
 〔下段に〕
 自分の肖像をかいたらこんなものが出來た何だ|が《原》影が薄い肺病患者の樣だ。君が僕を鼓舞してくれるから今にもつと肥つた所をかいて御目にかける現在の顔は此位だ
 
      二九一
 
 二月七日 火 前9-50 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 表の署名には「千駄木 力學士」とあり〕
 ※[さんずい+嫩の旁]《原》石が熊本で死んだら熊本の※[さんずい+嫩の旁]石で。※[さんずい+嫩の旁]石が英國で死んだら英國の※[さんずい+嫩の旁]石である。※[さんずい+嫩の旁]石が千駄木で死ねば又千駄木の※[さんずい+嫩の旁]石で終る。今日迄生き延びたから色々の※[さんずい+嫩の旁]石を諸君に御目にかける事が出來た。是から十年後には又十年後の※[さんずい+嫩の旁]石が出來る。俗人は知ら|ら《原》ず※[さんずい+嫩の旁]石は一箇の頑塊なり變化せずと思ふ。此故に彼等は皆失敗す。※[さんずい+嫩の旁]石を知らんとせば彼等自らを知らざる可らず 這般の理を解するものは寅彦先生のみ
 恐惶謹言
       Dynamic Law
         on
      Mr.K.Natsume.
 
      二九二
 
 二月九日 木 後1-20 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 手紙を度々難有う無精だからいつも返事を出さない先達は火傷をしたさうだ其時の俳體詩は一寸面白さうぢやないか一寸行き度いがつい色々ごた/\して居るものだから失敬して居る。今日から三日間學校をやすんだよ。別段病氣でもないがまづ病氣の心持で居るそれで萬事自ら病人風に所置する積りで晝は牛乳と玉子で間に合せたら三時頃腹がへつて驚いた。矢張無病だと見える。まぼろしの楯〔六字傍点〕といふ文章をかゝうと思つて大體趣向は出來たがうまく行きさうにない。僕は贅澤であの字はいや此句はいやと思ふものだから容易に出來ん苦しい。今日は朝からかく筈の處を色々雜用で晩に一ページ許りかいたらどうも氣に入らんからやめた。出來上つたら見て批評してもらはう
 傳四の二階の男はまだ見ないみんな何でも蚊でも書いて/\世間を壓倒すればいゝ君も何でもいゝからやり給へ。
 皆川君は倫敦塔はほめてくれるが猫は宗旨違ひだからだめだらう。猫の材料も出來たから又あとをかきたいが閑がないから四月位にのせる事に仕樣と思ふ 左樣なら
    二月八日夜十時半        金
   眞 綱 樣
 
      二九三
 
 二月十二日 日 後1 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 ホトヽギスの插畫はうまいものに候御蔭で猫も面目を施こし候。バルザツク、トチメンボー皆一癖ある畫と存候。外の雜誌にゴロ/\轉つては居らず候。是でなくては自分の畫とは申されません。孔雀の線も一風有之候。足はことによろしく候。あれは北齋のかいた足の樣に存候。
 僕の文もうまいが橋口君の畫の方がうまい樣だ
 右御禮迄 匆々
 昨日は失敬。
    二月十二日          金
  淺井の口繪畫の百姓の足はうまいと思ふ如何。
  君の裏畫の馬の首がねぢ切れさうに思ふが如何
 
      二九四
 
 二月十三日 月 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一六鹽谷方寺田寅彦へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 淺嘉町へ花を買に行つた留守に寺田さんが御出になつたといふから、もう病氣はよいのかと聞くとえゝと云ふ。なんだもう直つたのか馬鹿な奴だと云つてやつたよ。
 淺井の口繪の百姓の足は非常に甘いと思ふ。橋口の插畫は特長がある無暗に他の雜誌抔には載つて居ないあれは慥かに橋口〔二字右○〕の畫で他人の畫ではない。僕は非常に感服した。僕の文章よりもうまい。どうかあれを新聞かなにかで評してやつてくれゝばよい。然し僕の猫傳もうまいなあ。天下の一品だ。十錢均一位な所にはあたる。……時に續々篇には寒月君に又大役をたのむ積りだよ
 
      二九五
 
 二月十三日 月 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館皆川正※[示+喜]へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 君が大々的賛辭を得て猫も急に鼻息が荒くなつた樣に見受候。續篇もかき度〔い〕抔と申居候。いづれ四月はホトヽギスが壹百號ださうですから其時迄に椽側で趣向を考へて置くと申す話です。日本文壇の偉觀は少々恐縮す〔る〕から御返却したいと申します。皆川さんは倫敦塔の樣なものでなくては御氣に入らないかと思つたら吾輩の樣なのも分るえらいと猫は大喜悦に御座候。同じ駒込區内にかう云ふ知己があれば町内の奴が野良と云はうが馬鹿猫と申さうが構ふ事はないと滿足の體に見えます。此猫は向三軒兩隣の奴等が大嫌ださうです
 
      二九六
 
 二月十六日 木 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 只今學校の歸りに七人を買つて二階の男をよんだ。サラ/\トよくかいてある。強いて非難をすると一篇の山がない。まとまりがわるい樣だ。然し中々名作だ。大にやり玉へ。
 
      二九七
 
 二月十七日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 其後御無沙汰をしました。御變りもない事と思ひます。新年は御禮状を頂戴したけれど今年はどこへも略したから失禮をしました。
 先達てアメリカの傳ちやんがホトヽギス社へ宛てゝ態々美しい繪端書を送つてくれました。私は此繪葉がきが大すきで机の上へ置いて眺めて居ます。禮をいひ度が所が分らないからあなたが此次手紙を出す時右の事をかいて禮をいつてくれませんか。これ丈の御願です 左樣なら
    二月十七日           金
   渡邊和|三《原》郎樣
 
      二九八
 
 二月二十二日 水 後11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 君が虚子の所へ談判に出懸けたのは一寸驚いた虚子が既に廣告をした抔と斷つたのも驚いた。廣告抔はどこに出て居るかね。切角の御依頼だから七人へ何か書いて出してもらひ度が色々用事もあるし少しは本もよみ度いからうまく時《原》日内に出來るかどうか受合ふ譯にもゆかぬ君から小山内君へさう話して置いて呉れ玉へ
 先日寺田が七人を借りて行つて左の端書をよこしたから一寸報知をする
 「○村〇四さんの「二階の男」面白く拜見しました中々うまいものです。格別の山もなく谷もないかわりに厭味もなく近來兎角溜飲につかへる文壇には大に歡迎すべき一服の清涼剤であると考へます猫傳以來の出色の文字感服しました猶進んで二階の女か何かかいて貰ひ度者です。さうすると私も何か一つ「床下の狸」でも書く。洛陽の紙價が十四パーセントあがる愉快ぢやありませんか……」
 僕も猫のつゞきを書かうと思ひながらついまだ筆を下さない今度は實業家の妻君の事をかくよ 左樣なら
    二月二十二日       夏 目 金
   野村傳先生
       座下
 
      二九九
 
 二月二十三日 木 後11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 明後二十五日土曜日食牛會を催ふす 鍋一つ、食ふもの曰く奇瓢曰く傳四曰く眞拆曰く虚子曰く四方大曰く寅彦曰く※[さんずい+嫩]《原》石。午後五時半迄に御來會希望致候
    二十三日夜
 
      三〇〇
 
 二月二十三日 木 後11-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 明後二十五日土曜日食牛會を催ふす、鍋一つ、食ふもの曰く傳四曰く奇瓢曰く眞拆曰く寅彦曰く虚子曰く四方太曰く※[さんずい+嫩]《原》石。午後五時半迄に御來會を乞ふ牛の外に何の食ふものなし
    二十三日夜
 
      三〇一
 
 三月四日 土 前9-10 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野問眞綱へ〔はがき〕
 盾のうた面白く出來候最後の二句は不賛成に候。何とか改め度候。傳四丸一日をものし候よし。明星と七人は喧嘩をはじめる由。柳村宅で文士會合の節白鳥來り候よし
 栗原古城といふ先生も其席上にありし由白鳥をひやかしたかどうだかあやしきもの也
 
      三〇二
 
 三月五日 日 後6 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 本日野間の家から君の原稿を二つ郵便で送つて來たから只今拜見したが滿一日〔三字傍点〕より月給日〔三字傍点〕の方が餘程うまく出來て居る中々面白い。滿一日はゴチヤ/\だ。同じ樣な事が必要もないのに無暗に重複して出て來るあれをものにするなら諸々を削減しなくてはいかん。虚子が二三日中に來ると云ふから來たら意見を聞いて見やう
 君が一月のホトヽギスを虚子にもらう筈にしたさうだが都合がつくなら僕にくれ玉へ深田文學士からたのまれたのだよ。
 猫傳は脱稿した。出たら讀んで下さい
    二《原》月四日          金
   傳 四 先 生
 
      三〇三
 
 三月五日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 山口縣長府吉江小路尾田信直へ
 御書拜見仕候其後は存外の御無音御宥免可被下候御申越の英語教師件只今小生の胸に浮び候は二年前撰科を卒業せる堀川三四郎氏に候是は只今迄宮城縣角田に奉職の處増給の約履行なき故にて三月限り辭任致候よし
 同君なれば六十圓にて參る事と存候同君は語學の才のある人にて佛獨の書迄も讀む由に候いづれ御出京の節は猶よく御相談可申候へども不取敢御返事迄如斯御座候 以上
    三月四日          夏目金之助
   尾田信直樣
 
      三〇四
 
 三月十一日 土 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜呈明星御親切に御遂被下難有存候早速教師の一日と申すのを拜讀致候前半教科書の譯を插まれ候は御趣向に候へども小生には別段の感も無之只後半書齋中の出來事より食事、及び晩餐後の御相手の邊は甚だ興味を以て讀了致候小生の事を態々御推服の樣に御記載被下候は難有仕合に候へども少々赤面致候人間に敬慕抔と申すは知らぬ昔に遠方から見た時のみの迷かと存候釋迦も孔子も十年も同棲致候はゞ凡庸の匹夫なるべきかと存候。是よりは再々御光來の上敬慕する漱石〔六字右○〕をうんあの激石がといふ樣に變化する迄御交際被下度候。敬慕とは遠慮〔二字傍点〕と評判〔二字傍点〕と未知〔二字傍点〕とが重なり合ふとき發生する化物に候御高見如何に候や御禮旁妄言かきつらね申候御海恕被下度候 早々頓首
    三月十日          金 之 助
   繞石學兄
      座下
 
      三〇五
 
 三月十一日 土 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 昨夜キヨ子が來て君の月給日を見せたら面白いといつた但し前の方が餘慶な樣だと云ふた。滿一日は時間がなくてよむひまがなかつた。然し虚子は兩方とも持つて行つた。虚子が猫をよむ僕がきく二人でげら/\笑つて御蔭で腹がへつた。先〔は〕御報知迄 匆々
    三月十日         金
   傳 四 兄
 妻君が夫の手をあたゝめる所は先達てはいけぬといつたが昨夜傍聽した所では大に振つて居る。毫も厭味も乙な色氣もなく出來て居る大に佳也。結末の「此事件は此で結了した」といふ意味の語は尤もうまい。ちつとも洒落ても氣取つても居らん。極め〔て〕平凡極めて眞面目な裏に大に奇拔なとぼけた樣な馬鹿にした樣な所がある。結構です。僕は全體からいふと二階の男より月給日の方がよいかんじがする
 
      三〇六
 
 三月十三日 月 後3-10 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 繪端書頂戴致候寺田の宿所は小石川區原町鹽谷方に候哲學舘の北方なり。寅彦は今日も來て文章を朗讀してゆきました。
 
      三〇七
 
 三月十四日 火 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 本日七人を發行所から送つてくれたから君が小山内君に逢つたらよろしく禮をいつてくれ玉へ疵を探せばみんなあるだらうが皆僕よりうまい所がある後進の人が勢よくやるのを見て居るのは甚だ愉快だ。松浦の英詩抔も感心なものだ。ホトヽギスを見たかね。四方太の稻毛をもう一返よんで御覽何の奇もないが嫌味がない虚子の石棺は奇な代りにどこか不自然で嫌味がある。今の人はとかくあゝ云ふものをほめる。僕の倫敦塔をほめてくれるのも全くその爲である。巴の助といふ人のコマイ釣は面白い末段抔はことに振つて居る。小泉先生の文をよむ樣だ。卷末の百號廣告は少々山師的だね。僕もあの位かつがれゝば澤山だ。尤もあれで人が讀んでくれなければ僕の名聲も地に墜ちる譯だなあ!
 世間は存外靜かだのに虚子一人が騷いで僕を吹聽して居る樣な氣色だハヽヽヽヽヽ
    十四日            金
   傳 四 兄
 寅彦の團栗はちょつと面白く出來て居る
 
      三〇八
 
 四月一日 土 後6 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 昨日は失敬
 日向のくに都の城にて文學士一名千圓にて雇たき由心當りはなきや可成は英文學科の人を周旋したしと思ふ
 尤も首席にて教育に經驗ある人を要する由也
    四月一日           金
   眞 綱 樣
 〔封筒の裏に〕
 明日天氣無覺束
 
      三〇九
 
 四月二日 日 前11-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 ホトヽギスに出て居る碧梧桐の五形花といふのと、八千代さんの鷄鳴といふのを比較して御覽。五形花は渾然としてすこしも痕迹がない。作つたものとは思はれない。強いて人の感を挑撥しやう抔といふ拙な巧が見えない。あれをまづくかいたら毒々しいいやなものになるにきまつて居る。趣味の正邪は此二篇を對照すれば分ると思ふ。才のある人が邪道に入つて居るのは惜しいものだ。
 鏡花の銀短冊といふのを讀んだ。不自然を極め、ヒネくレを盡し、執拗の天才をのこりなく發揮して居る。鏡花が解脱すれば日本一の文學者であるに惜しいものだ。文章も警句が非常に多いと同時に凝り過ぎた。變梃子な一風のハイカラがつた所が非常に多い。玉だらけ症だらけな文章だ。僕抔のいふ事は門外漢の言葉として彼等は首肯しないだらう。然し僕はあの人々の才が惡い方へ向いて居るのを非常に殘念に思ふばかりで一寸君に洩らすのさ。君のは正路だから結構だ。此度のホトヽギスに出て居るのは皆面白い。虚子も、碧梧桐も、四方太、寒月先生も、君も、投稿のカルタ會もみんな面白い。ホトヽギス萬歳だ。
    四月二日            金
   傳 四 先 生
 
      三一〇
 
 四月四日 火 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 傳四先生足下。昨日虚子が來て今月末に文章會をやりたいと云ふから引きうけて拙宅で催ふす事にした。君も何か持つて御出席下さい。
    四月四日
 
      三一一
 
 四月六日 木 前9-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 君の丸一日を虚子が送つて來て曰く傳四君の文章一應御返|草《原》申上置候勢猛烈當るべからざる感有之候とある。原稿は君が來る迄僕が保管して居る
    四月五日
 
      三一二
 
 四月七日 金 前5-30 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ〔繪はがき〕
 猫の畫は中々うまい。あれは妻君の代作だらう。
 猫の顔や骨格や姿勢はうまいが。色がまづい。頭の周圍にある模樣見た樣なものも妙だな。
 僕も畫端書をかいて奥さんを驚ろかせやうと思ふがひまがないからやめ。
 僕は今大學の講義を作つて居る。いやでたまらない。學校を辭職したくなつた。學校の講義より猫でもかいて居る方がいゝ
 
      三一三
 
 四月十日 月 後1 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓昨日は御光來被下候處生僧他出失敬此事に御座候 目下小生知る人の中にて地方行志願の人は左の如くに候
 一昨年卒業副島松一今四月迄宮崎中學にて教頭をつとめ居候人此男は至急片|方《原》ねばならぬ人に御座候
 同年卒業撰科生堀川三四郎此人は今年四月迄宮城縣角田に奉職只今他の口捜索中。小生より廣島在の中學へ紹介中なれど成否分りかね居候
 第三は目下長野縣長野中學に奉職中の日野健四郎氏是は矢張同年の卒業に候が郷里が香川縣故老母を迎ふる爲今少し便宜の地に轉任致し度希望に候
 英文にては右三名丈承知致居候幸に大兄の御周旋にてどこかへ片づく事が出來れば幸甚に候一骨御折被下度懇願致候 匆々
    四月十日          金
   大 谷 賢 兄
         座下
  昨日は四方太が來て一所に上野をぶらつきました
 
      三一四
 
 四月十三日 木 前10(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區曙町森卷吉へ
 拜啓先日は失敬君のくれた菓子は僕が大概くつて仕舞つた。小供もたべました。
 君の號の事を考へても中々面白い奴は出ない。君の名は卷吉だから卷〔右○〕といふ字を二字にしたらよからうと思ふ。魔奇。馬奇。麻期。磨綺〔八字傍点〕。等色々出來候。内海月杖とい〔ふ〕人は月末〔二字傍点〕に困るから月杖としたさうだ。嵩山堂といふ書店は書物が高いからといふて徂※[行人偏+來]がつけてやつたと云ふ。僕の號は蒙求にもある極めて俗な出處でいやになつ〔て〕るが仕方がないから用いて居る。
 僕も君の樣に泥棒に這入られた綿人がなくて袷で少々寒いです。
 先は閑用迄 匆々頓首
    四月十三日           金 之 助
   森 卷 吉 樣
 
      三一五
 
 四月十六日 日 後1 本郷區駒込千駄木町五七より 神田區五軒町一六飯島鷲郎へ〔繪はがき〕
 猫の繪端書ありがたく頂戴致候
    四月十六日          漱  石
 
      三一六
 
 四月十九日 水(時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區市谷砂土原町三丁目八内田貢へ〔うつし〕
 拜啓其後御無沙汰御海恕願上候日本へ御譯載の復活毎日拜致居候大分長篇故隨分の御骨折と奉推察候。偖本年正月學燈所載の拙文先般ある人の編集中にかゝる文集中に収め度旨申來候につき承諾を與へ置候右は學燈へ掲載濟のもの故其由申上度一應御含み置被下候へば幸甚候先は右用事のみ 匆々頓首
    四月十八日           夏目金之助
   内 田 賢 兄
 
      三一七
 
 四月二十三日 日 前10-40 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 繪端書拜見。來る二十九日土曜日文章會を開き候につき名文御携帶の上御出席願上候(但午後五時より)
 
      三一八
 
 四月二十三日 日 前10-40 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 只今君の名文三篇を拜誦しました。皆々傑作結構です。つぎの土曜の午後五時から文章會を開くから名文御携帶の上御來會願上候
 
      三一九
 
 四月二十七日 木 本郷區駒込千駄木町五七より 若杉三郎へ
 御手紙拜見仕候此方も存外の御無沙汰御ゆるし下され度候拙作御懇篤なる御批評を蒙り難有存候大體に於て大兄の御考は正鵠を得たるものと存候盾は禮服塔は袴猫は平常服の喩尤も得吾意申候。盾の廣告は出鱈目ですよ。あれが出た時天下は安泰だのに虚子が獨りで騷いで居ると笑つた位です。先達て新小説に出た嬉劇は拜見しました。面白いと思ひます充分此方面で御盡力を願ひたいと思ひます。君の兄弟分は皆片づきました。みんなが片づくと僕も安心する樣な心持です。
 君は結婚したさうですね。一寸御祝辭を申し上げ樣と思つて遂々忘れて仕舞ひましたよ。
 モリエルは君の繩張内だから僕より君の方が精しい譯ですが御尋ねのLa Comedie des Facheux はね The Comedy of the Bores といふのでせう。ボアと云ふのは話しをしても面白くない欠伸がしたくなる樣な厄介な御客さんや人間を云ひます。又は積極的に出しや張つて、うるさくて堪らんといふ樣な人間も云ひます。夫から自分が世の中に厭き果てゝ酒も面白くない女も妙でない何もかも乙でげえせん抔と顋を撫る樣になつた心の状態もボアと云ひます。モリエルのは人間の意味の方でうるさい厄介者が澤山出て來て其が爲に迷惑をするといふ筋ぢやありませんか。たとへば君が新婚早々僕が君の家へ行つて五時間も六時間もくだらぬ事を話して居ると僕は君等御夫婦にとつて大ボアになる譯でせう。先此位な邊で御免蒙りますよ。モリエルに關する書籍は一向知りません其内見當つたら書いて上げます。さし當り一つ見付けましたがくだらぬものらしいですよ。
    四月二十七日         金 之 助
   若 杉 君
 
      三二〇
 
 四月三十日 日 後1 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 昨夜は五六人集つて十一時頃迄談話をしました虚子は短篇を作つて來た虚子一流の面白い處がある僕は琴のそら音と云ふ小説を讀んだ七人に出す積だから讀んでくれ給へ。
 島津家の若樣が病氣で君が看病に行く由嘸御心配の事だらう。休學と事が極つても妹さんの方を教へて居れば當分困る事もないだらうと思ふがどうだらうさう云ふ談判にしたら約束期限中は何とかなりさうなものだと考へるがどうだらう
 昨日君は野村の所迄行つたさうだから或はくるかも知れんと思つて居たいづれそちらの方で閑が出來たら來給へ
    四月三十日          金
   眞 綱 樣
 
      三二一
 
 五月九日 火 前9(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 其後は存外の御無音奉謝候先達は御用にて東京向迄御上りの處色々用事の爲め御面晤の機を得ず遺憾此事に存候拙文につき御批評たまはり難有拜讀致候あんなものにても知人抔よりほめられると愉快なものに候小生は教師なれど教師として成功するよりはヘボ文學者として世に立つ方が性に合ふかと存候につき是からは此方面にて一奮發仕る積に候然し何しろ本職の餘暇にやる事故大したものも不出來只御笑ひ草のみに候。俳句は近頃頓と作らず時々短冊抔をよこして書けといふ注文抔あり候節は困却致候。松山に居た頃の事を思ふとまるで夢の樣に候一度は又遊びに行き度感も有之候道後の湯は實にうれしきものに候。筆硯の中常に俗塵を混じ起居常に倉皇寧處に遑なき有樣に候御憫|然《原》可被下候先は御返事まで 匆々頓首
    五月八日           金
   霽 月 老 臺
         座下
 
      三二二
 
 五月十二日 金 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 東京座も見たいが論文も見なければならん。英文科の諸君が大に力を奮つて作つたものをいゝ加減に見ては濟まん。中々面白いよ。二十五日迄に採點をすると云ふのだから夫迄に是非眼を通さなければならん。中々多いページを書いた人もあるから讀むのに骨が折れる。
 東京座は右の譯だから今度は御免を蒙ります諸君へよろしく願ひます。其内一所に御伴を願ひます。ドラマ會とはどんな會かね。先達文科の教授連が觀劇會をつくつたと聞いたが君の方は學生連らしい僕は其會に就ては今始めて聞くのですよ。左樣なら。
    五月十一日          金
   傳 四 先 生
  僕は芝居を見て面白くなる迄には三十分かゝる漸く面白くなつたと思ふと幕になる。厄介な男さね
 
      三二三
 
 五月十八日 木 後6 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔封筒まで朱にて認めあり〕
 本屋は君のとこへ行くと云ふて居た。來たらよい加減に話をし玉へ。向のいふなり次第になつてはいけない。本屋はズルイ者だから滅多な言をすると致される
 看病面白く候余の意に滿たぬ所朱點を施こして御再考を煩はす。直して今一遍御送りありたし。此兩三句願くは今少し俗ならぬ、新しき、句にしたしと思ふ如何
    五月十八日          金
   眞 綱 樣
 
      三二四
 
 五月二十二日 月 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 御ほめに預かつて甚だ難有い。實は昨夜讀んで何だか氣がぬけた樣な氣合であると思ひ且つ「婆さん」が不自然の樣な感じがして居た所です。僕來客の爲めに卒業論文をよむ事能はず。時日は逼る。不得已明日と明後日缺講をすると松永へ注進に及んだ。今日は午後から高濱に招かれて能を見に行つた。君の小説は出來る。寺田の龍舌蘭は出來る。野間皆川の兩君も新體詩をつくる。今度の文章會は大分賑かで面白いだらうと樂しんで居る。僕も猫のつゞきが書きたい。
    五月二十一日
 昨日は野間と皆川が來て午過から夜迄遊んで行つた。七人を三冊くれたから兩人に一部宛やつた
 
      三二五
 
 五月二十三日 火 石川縣加賀小松中學校若月保治へ
 あの新聞の繪は僕に似てゐますか。僕もなか/\好男子だと思ふ。繪ばかり似ないで實際の侯爵になつて、あんな美人の手を握つて見たい。其時は第一に大學を辭職して千駄木で豚狩をして遊びます。
    五月二十三日          夏目金之助
   若 月 兄
 
      三二六
 
 五月二十六日 金 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區小日向臺町三丁目七一山縣五十雄へ〔はがき〕
 拜復小生の文章を二三行でも讀んでくれる人があれば難有く思ひます。面白いと云ふ人があれば嬉しいと思ひます。敬服する抔といふ人がもしあれば非常な愉快を覺えます。此愉快はマニラの富にあたつたより、大學者だと云はれるより、教授や博士になつたより遙かに愉快です。小生は君の手紙を得て此大愉快を得たのだから御禮は此方より申さなければならんと考へます 匆々
    五月二十五日
 
      三二七
 
 五月二十七日 土 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 高作拜見致候
 丸一日抔よりはずつと上等に候。二階の男よりも遙かに小説的に候。最後の一節よろしき情景の處に候。あそこが一番詩的かと思ひ候。然し全體の上から云ふと所々白玉の微瑕と云ふ樣な點有之候。病がぶり返す處抔はぶり返した樣に無之。當人が死ぬ所はまだ死にさうもなく候が如何に候や。今度は一字一句の間に餘程念を入れられたと見えて警句所々に散見致候。母の會話少々妙過ぎると思ふ所は二三ケ所筆を入れ候が是は御容赦を願ひ候。今迄君の書いたものゝ内で一番手間がかゝつたものと存候|今《原》前の七人の烏の事が五六行かいてあつたのは甚だ小生の氣に入候。今度の感じは烏の感じよりよろしくなく候 妄評多罪
    五月二十六日           金
   傳 四 兄
 
      三二八
 
 五月二十七日 土 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 次回土曜六月三日午後正二時より文章會相開候間御出席被下度候。追て晩食を共にする計畫故御出缺の有無其前一寸御報知願上候
 御高作可成御持參願上候。時間は可成正しく御入來願上候
 
      三二九
 
 五月二十七日 土 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 來る土曜日六月三日午後正二時より文章會相催し候につき御出席願上候。朗讀後晩食會を開き候間御出缺の有無前以て一寸御通知被下度候。時間は正に二時〔七字傍点〕
 先日の俳體詩面白く候今日虚子へ送り申候
 
      三三〇
 
 六月十一日 日 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館中川芳太郎へ〔はがき表の署名に「金やん」とあり〕
 先刻は失敬歌舞伎座行は色々故障で延引の處今度の火曜は僕の方であまり氣が進まなくなつたから僕はやめにして。いづれ此次でも御同行仕る事にしやう。左候へば君は朝から諸君と御詰掛可然。必ず/\學校前にて待伏せ抔と云ふ手數をやり給ふな。色々御心配を掛けた上でこんな我儘を云つては濟みませんが、まあ勘辨し給へ。
 御令妹の御上京は別段惡るい事でもないでせう。
 僕今日胃がわるいが天氣もわるいから運動を見合せて居る。
 
      三三一
 
 六月二十七日 火 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 貴翰拜讀玉稿の事につき虚子は君の所へでも來て意見を述べたのか。虚子が君の小説を持ちあつかつて居る居らんは暫く措く。彼がもし君の作に就て意見を述べに來たら充分意見を聞いて參考にするが必要なり。君位の作は現今の文學雜誌に出して別段持て餘さるゝ程のものにあらず然し之を云々するのはホトヽギスであるからである。他の雜誌が歡迎さへするものを獨りホトヽギスが兎や角云ふとすれば其裏には何か曰くがなければならぬ。ホトヽギスの主張と趣味が一般と異なつて居ると云ふ事に歸着する。世間の人にはそこが呑み込めない。君も或は此點に關して一寸可笑しいと思ふ點があるかも知れない。若しさうであるならば是は好機會である充分虚子の意見を叩いて彼の一派の主義主張を聞いて置くのは充分參考になる事と思ふ。つまらん事に氣を惡くするより君の考も述べ人の考をも容れて利害を比較するのが得策である。ホトヽギスは方今の文壇で獨毛色のちがつたものである。明星其他の文章家から見ればホトヽギスの文章は文章でないかも知れないがホトヽギス連から見ると明星流は又文章にならんのである。レトリツク許りだと思つて居るかも知れん。僕はどつちがいゝとも云はぬ然し君の文章に於る智識及び趣味は色々な人の説を參考して啓發すべき時期であつて惡口をいはれて氣をわるく〔す〕る時代ではない。虚子は學問のない男である長い系統の立つた議論も出來ぬ男である。然し文章に關しては一隻眼を有して居る。ある方面に癖して居るかも知れんが彼の云ふ所は理窟も何もつけずして直ちに其根底に突き入る斷案を下すに於て到底大學の博士や學士の及ぶ所でない。かゝる人の云ふ事は傾聽すべき價値がある。かゝる人にくさゝれたら其くさゝれた理由を知るのは作家にとつて寧ろ愉快である。虚子は今迄の所で小説家でも何でもない然し彼の小説に對する標準で現今の小説に對する考を遠慮なく云はせると小説らしい小説はないと思つて居る。此點に於て虚子も四方太も碧梧桐も一致して居る。彼等の注文に應ずる小説のないのは當人等自身がかゝない否かけないのでも分り切つて居る。然し世の中が鏡花をほめ風葉をほめ其他の小説家をちやほや云ふのに彼等が振り向いても見ないのは彼等が全然没趣味か又は一見識あるかに相違ない。是を探求するのも自作の上に多大な影響を生ずるに極つて居る。
 文章は苦勞すべきものである人の批評は耳を傾くべきものである。たま/\一篇を草して世間庸衆の譽を買つたとで毫も誇るに足らんのみか却つて其人をスポイルして仕舞ふのみだ。小山内の樣なのは多少其氣味である。小山内があの儘で通したつて立派な文學者にはなれないと思ふ。然しあゝなると到底他人の云ふ事抔は聞く氣づかひはない。君が虚子から小言をいはれるのは君に取つて結構な事だと思ふ。あの連中は無論缺點のある見方をするが。ある點から云ふと僕抔より遙かに見巧者である。僕は嚴酷な樣で却つて大概の作に同情する弱點がある。是は自分がよく出來んと云ふ事に心が引かれるからである。
 一の垣隣りがホトヽギスでどうならうとも構はん、僕は此際に於て君が文章に對する心懸に就て以上の希望を述べたのである。實は僕の家で文章會を開く事にしたのも多少此主意であつたが皆が遠慮するものだからついこんな事になつた。君と虚子の間に立て切つてある障子一|牧《原》をあけ放つて見よ。春風は自在に吹かん。妄言多罪
    六月二十七口         金  生
   傳 四 先 生
         梧下
 
      三三二
 
 六月二十七日 火 後6 本郷區駒込千駄木町五七より 松山市松山中學校小島武雄へ
 拜啓先達ては貴翰に接し拜讀御申越の件委細承知致候偖本年卒業の英文學土中吉松武通氏は去年は首座本年は二位にて成蹟可良其上大學入學前岐阜にて中學〔に〕教鞭をとり居候事とて經驗にも不乏本日同人に相談致候處今治へ赴任の儀承諾仕候に就ては先方へ御推擧相成度右御返事迄申上候
 卒業生成蹟發表の手間どりしと二三年前の卒業生の他に移りたき志望のものを聞き合せ居りたる爲め返書遲延不惡御海恕。
 試驗がすんだら來客にて忙殺せられ候追々暑氣に向ひ讀書も苦しく候御自愛專一に候 以上
    六月二十七日         夏目金之助
   小島武雄樣
 
      三三三
 
 七月二日 日 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき 朱書、署名には「先生」とのみあり〕
    御  屆
 一 パナマ製夏帽 一
 右者本日本郷唐物店にて相求め爾後カブツテあるき候間御驚きにならぬ樣致度右御屆及候也
 
      三三四
 
 七月十三日 木 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 龜拜見面白く候垣隣りよりあの方が感じがよろしく候。あれはホトヽギス向きかき隣りの方は却つて帝國文學むきと存候 以上
 
      三三五
 
 七月十五日 土 本郷區駒込千駄木町五七より 洩草區田町一丁目六九豐田方濱武元次へ〔うつし〕
 拜啓庄内中學にて英語教員一名入用の由にて相談をうけ候月給は六〇のよし或は六十五位になるかも知れず小松の方も未決中なれば此方へも履歴を出して置いては如何石川へかゝり合ふ事は小生より先方へ通知致候今度推擧致す人は佐治氏金子氏と君三名を擧ぐる積りに候もし御覺召もあらば履歴書一通郵便にて御廻付願上候 以上
    七月十五日          夏目金之助
   濱 武 君
       座右
 
      三三六
 
 七月十六日 日 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 名古屋市西瓦町一〇五中川芳太郎へ
 手紙を頂戴難有拜見しました其後君は大分勉強の由結構です何もする事がないとか外に面白い事がないと勉強するものだから學者になるには君の樣な境界が第《原》番よいと思ふ。交際が多かつたり女に惚れられたりして大學者になつたものはない。
 僕も勉強はしたいがいやはやの至りだ。一昨日迄は人學試驗の監督を仰せつけられる。うちへ歸ると今年卒業の諸先生が口の爲めに談判にくる。支那から友人が歸つてくる。新小説の社員が來て戰後の文壇に對する所感をきかせろなかといふ。中學世界で世界三十六文豪を紹介するから沙翁を受持てといふ。中央公論のチヨイン先生がきて何かかけといふ。隆文舘が來て猫を出版させろといふ。金尾文淵堂なるものが何か出版するからかけといふ。而して來學年の講義は作らねばならず。明治大學の試驗の答案は見なければならず。そこへ持つて來て胃が惡いから眠くなる。本を讀むと批評的に讀むから少しも面白くなし。作中から自分の作の事を思ひつくから少しも捗取らず。ビヤホールへも行かないが晩にはよく寅彦先生や四方太大人それから傳四君は無論奇瓢眞拆兩文豪も御出になる。是で大學で一人前の事をして高等學校で一人前の事をして明治大學で三分一〔人〕前の事をして文士としても一人前の事を仕樣といふ圖太い量見だから到底三百六十五日を一萬日位に御天と樣に掛合つて引きのばして貫はなくつちや追ひつかない話しさ。先達日本新聞がきて何でも時々かけといふから。僕もつく/”\考へたね。毎日一欄書いて毎日十圓もくれるなら學校を辭職して新聞屋になつた方がいゝと。然し是は日本新聞で承知する譯のものでないから矢張り赤門の中で妙な事を云つて暮らす積りです。然し猫をかいて先月十五圓貰つたから早速パナマの帽をかつて大得意で被つて居る所などは隨分小供の樣だ。然るに先日友人が支那から歸つて來て同じくパナマの帽を被つて居る然も僕のよりずつと上等であるのを見て猫をかくより支那へ出稼ぎをする方が得策だと思つた。
 不平をいふと人間は際限がない僕抔も不平だらけだが妙なもので不平ながらピン/\實在して居るから不思議だ。今にハムレツト以上の脚本をかいて天下を驚かせ樣と思ふがいくらえらいものをかいても天下が驚きさうにもないから已め樣とも思ふ。 以上
    七月十五日          金
   中 川 先 生
 
      三三七
 
 七月十七日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 若杉三郎へ
 尊翰拜誦御問合せの件は別紙にかいて差し上げます。是で御間に合ひますか知らん。君はモリエルの專|問《原》家になつてモリエル全集の翻譯と云ふ奴を御出しなさい。僕は翻譯は嫌だ。骨が折れる許りで思ふ樣にうまく行かない者ぢやないですか。ホトヽギスの猫の一二は此正月と三月の號だと記憶して居るが兩號共賣切れで一部も殘つて居ません。皆川のソラブトラスタムあれは御意に逆ふ樣だが面白くない小生は一二頁讀んで御免蒙つたです。僕なんかは矢張先生の俳體詩の方がいゝ。元來今の新體詩と云ふ奴は言葉許り飾つて何を云つてるのか分らないのは閉口します。あんなものより。平々凡々調で趣味のある嫌味のない事を歌ふ方が洒落て居ますよ。一體小説でも新體詩でもいやにしつこい、あぶらこい奴が流行するのは時節柄胃嚢へ納りきれません。僕|米《原》が食へれば教員をやめて明治の文士とすます所ですが此樣子では猫の續きもかけさうにありません。 失敬
    七月十七日           金 之 助
   若杉モリエル樣
 
      三三八
 
 七月二十四日 月 前9-10 本郷區駒込千駄木町五七より 丸龜市土居鹿間千代治へ〔繪はがき 朝顔の畫表の宛名に「鹿※[山/鳥]松濤樓」とあり〕
 朝※[貌の旁]の葉影に猫の眼玉かな  漱  石
 
      三三九
 
 七月二十五日 火(時間不明) 赤坂區新坂町六〇永井方野間眞綱へ〔繪はがき〕
〔繪の下に〕
 野村君が遊びにいらしやツて日野君が遊びから歸らしやつてわが輩がひるねから御さめ遊ばして 眞  拆
 肉を燒くシチリンの炭の火がパチ/\と宜い音を御立て遊ばして               傳  四
 こんな時野間先生が入らしやれば宜いと皆川君が仰しやつて、
             健
 僕も遊びに御出で遊ばして 金
〔繪にかけて〕
 圓左會に美人が御出遊ばしました。此次に是非行つて御覽
〔繪の上に〕
  僕はこんな宜い繪はがきを人に送る氣はしないなとおもひ遊ばして              傳
  野間君は此を見てよろこび遊ばすだろう
              拆
    七月廿四日
 
      三四〇
 
 八月三日 木 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 神奈川縣大磯町北本町田村屋野村傳四へ〔はがき〕
 『垣隣りで七圓龜の子で五圓都合十二圓では心細いなあ。あすこに白百合が見える。一つ白百合と云ふ題でかゝう。是が十圓か。うまい事に氣がついた』
    八月三日
 
      三四一
 
 八月三日 木(時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 淺草區田町一丁目六九豐田方演武元次へ
 先刻は失敬本日午後庄内中學校長羽生慶三郎氏來訪色々君の事を話したからともかくも逢つて見た《原》玉へと云つたら明日晩八時頃ひまがあるなら左記の處で逢つて見たいと云ふた。番地は築地明石丁四十九番地屋代芳吉方(ラスベ商會の裏)
 先方では大に希望があるが七十圓出すのを困難に感じて居る。僕は七十以下では英文卒業生は庄内抔へ行かぬと云ふて置いた。兎も角君をとるかとらぬか分らぬ。君も行くか行かぬか分らぬが逢つて樣子を見るのもよからうから定刻に出掛けて見給へ 先方から君を尋ねてもよいと云ふたが下宿だか〔ら〕本人が出る方が便利だらうと申した。此會見はきめる爲めの會見でないから月俸其他で不調になるかも知れない其代り君も斷はる事は自由である
    八月三日          夏目金之助
   濱武元|治《原》樣
 
      三四二
 
 八月四日 金 後6 本郷區駒込千駄木町五七より 神奈川縣大磯町北本町田村屋野村傳四へ〔はがき 表の署名に「こまる先生」とあり〕
 事業如山多く時間かくの如く短かし僕が二人になるか一日が四十八時間にならなくて〔は〕到底駄目だ。猫も何も書けさうにない。圓左會へも行かれさうにない。岩崎が避暑にきて居るならよろしく。
 神泉は出ない方がいゝ。僕の筆記抔は何がかいてあるか分らない
 千駄木は不相變豚臭くて厄介だ。
 
      三四三
 
 八月六日 日 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 神奈川縣大磯町北本町田村屋野村傳四へ〔封筒の宛名に「野村傳四先生」とあり裏に「東京は本郷區駒込の千駄木夏目金之助なる者より八月六日」と三行に認めあり〕
 一寸申上げますが
 あなたの浴場スケツチは第一第二ともうまいものですあゝ云ふ奴がつゞくと名文が出來ます、あゝ云ふ呼吸を飲み込んだ人は名文家です、從つて君も名文家だらうと思はれます。今の文章家といふのは心掛がわるいと思ふ。あれはあれ丈でよいから長いものであゝ云ふ山をこしらへ玉へ。神泉は出た卷末の本郷座の合評は當時愚なものだと思ふたら中々君面白いぜ。岩崎に逢はなければよろしく云はんでもよろしい。序ながらあの別荘を作るに何圓かゝつたか一寸取調べて頂きたい。風葉先生は此前もツルゲネーフか何かを濟して自作の如く御吹聽に相成つたのだから今回の荒野のリ|や《原》も御驚きになる事はない。人殺しも毎日あると平氣になるものだ。今の世は度胸が大事ですよ。然し僕はその所謂荒野のリやなるものを拜見仕らんのだがね。十頁許り讀んで何でも西洋物と氣がついたが興が乘らんから御やめにした其代り山岸荷葉君の藥屋の若旦那といふ奴を通讀したがあの若旦那の言葉は頗る氣に入つたね。僕の細君の妹の亭主に工學士が居てね、其工學士先生がまるであの若旦那だから餘程僕は愉快によんだ。僕春陽堂から反物一反を頂戴仕つた戰後文壇の趨勢は遠からず單衣に化ける事と存じて居る。神泉に出て居る梨雨先生の春の夜と申す新體詩を御覽下さい。あれは往來を色眼ばかり使つてあるく女學生位な程度だ。其他色々あるが御やめ。
 寒月君は葉書のつゞきものゝ小説をよこす。何でも夫婦の中に子なきを憂ひて大磯へ貝を食ひに行くと云ふ趣向だがね。頗る振つたものさ。是はゾラ君の翻案ださうだ。
    八月六日           金
   傳 四 先 生
 
      三四四
 
 八月七日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓御歸朝後一寸機會なく御面語の折なく打過候處愈御清穆奉賀候
 偖今回ホトヽギス所載の拙稿を大倉書店で出版致し度と申すについては其内に插畫を入れる必要有之之を大兄に願ひ度事小生も書肆も一樣に希望につき御多忙中甚だ御迷惑とは存じ候へども御引受け被下間敷や實は製本も可成美しく致し美術的のものを作る書店の考につき君の筆で雅致滑稽的のものをかいて下されば幸甚と存候猶委細は此手紙持參の番頭より御聞取被下度條件も同人と御とりきめ願候 以上
    八月七日〔封筒には八月八日とあり〕
                夏目金之助
   中村不折樣
 
      三四五
 
 八月九日 水 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 神奈川縣大磯町北本町田村屋方野村傳四へ〔はがき 表の「田村屋方」の下に括弧して「岩崎男爵樣御別邸傍」とあり署名に「空氣風呂發明者」とあり〕
 拜啓今日晴天大風にて障子を立て切り密室内にて空氣風呂に入浴仕候處至極工合宜敷早々御歸京の上御試驗相成度先は右御案内迄 匆々頓首
 
      三四六
 
 八月九日 水 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ〔はがき〕
 昨夜は失禮致候其節御依頼の表紙の義は矢張り玉子色のとりの子紙の厚きものに朱と金にて何か御工夫願度先は右御願迄 匆々拜具
 
      三四七
 
 八月十日 木 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 赤坂區青山南町一丁目五五板尾内野問眞綱へ〔はがき〕
  雨になろかと   君待つ宵は
  雨ともならで   ほとゝぎす
  君しまさずば   寐たものを
  あの曉の     ほとゝぎす
 これは下手だ君の方がうまいあれを仕舞迄御かきなさい
    十 日
 
      三四八
 
 八月十一日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 名古屋市西瓦町一〇五中川芳太郎へ
 宮津の御祭の手紙拜見。田舍の事がどうも面白い。御婆さんの鷄は氣の毒だよろしく云つてくれ玉へ。東京は雨ばかり降つて閉口の處二三日前から大分熱くなつて晴天。熱いときに汗をかいて家の内にうん/\云つて居るのは乙なものだ何だか俳味があると思つて濟してゐる。皆川は歸省、傳四は大磯へ避暑寅彦も歸省。僕のうちへくる定連は大分減つたので少々日の長い樣な氣がする。ところが來年の講義が氣にかゝつて義太夫の文句ぢやないが食ものんどへ通るまいと思ふ程でもないが實際大學がいやになつて仕舞つた。先日厨川が來てペーターの本を借せと云ふて持つて返つた。船へ乘つて月を見て美人の御酌でビールが飲みたい。神泉といふ雜誌の小澤平吾と云ふ先生が來て月見に來いと云ふたが是は御免蒙る。日比谷へ音樂堂が出來た。何だか六づかしいプログラムでやるぜ。傳四は大磯から毎日スケツチをよこす。あれは君無暗に筆まめな男だ。僕本屋の請に應じて猫を出版する二百八十頁位になる。うつくしい本を出すのはうれしい。高くて賣れなくてもいゝから立派にしろと云つてやつた。何で〔も〕插畫や何かするから壹圓位になるだらうと思ふ。到底賣れないね。うれなくても奇麗な本が愉快だ。あとは追々
    八月十一日          夏  金
   中川芳太郎先生
 
      三四九
 
 八月十九日 土 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區菊坂町第一菊富士樓高田知一郎へ
 拜啓
 先日新潮社の高須賀洋平といふ人が來ましてね、一夕雜談をやつたら、先生すぐ是を文章にして「みづまくら」夏目漱石などゝ號して此度の新潮へ載せたんですがね。其内に神泉に出た君の春の夜といふ新體詩の批評がまぐれ込んで居るが夫で見ると何だか君を故意に罵詈した樣で甚だ恐縮の至ですがね。是は淳平君の口氣が少々惡るいので僕の主意ではないのですよ。あんなつまらない話をこんな口調で載せ樣とは思はなかつた。かうなつては僕から君にあやまるより仕方がない。どうか御勘辨下さい。尤も春の夜の惡口は少々申しましたよ。
 新潮を一部御覽に入れます。他日御面會の節は改めて閉口します。
                夏目金之助
   梨 雨 先 生
 
      三五〇
 
 九月三日〔三十八年?〕文章世界へ〔四十一年三月十五日發行『文章世界』口繪寫眞による〕
 拜啓小生寫眞御所望の處只今持合せ無之不日撮影の上は御掲載の榮を得度と存候先は貴酬迄 匆々
    九月三日
 
      三五一
 
 九月五日 火 前10-40 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 此前の日曜には四方太と上野の日月會を見て根岸の岡野から中村不折の家へ行つて晩は若竹へ朝太夫をきゝに行つたので失敬しました花の本慥かに落手君の鮎つりは何だか調はぬ感じがある尤も面白い所もあるから再考してはどうだ。神泉はえらいものだ。梨雨先生のダンテはうまい。あとは多忙でよまない。「一夜」の批評難有拜讀あれはだれもほめてくれ手があるまいと思つて居た。秋風が吹き出してから好い氣分だ。呑氣な身分になつて遊山でもしてあるきたい。學校が始まるのは何よりいやだ。草々
 僕の神經は學校に適しない樣に出來てるんだらう。
 
      三五二
 
 九月十一日 月 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館中川芳太郎へ〔はがき 表の署名に「金やん」とあり〕
 昨日は野間と野村とが朝から來て畫飯を食つて居たら寅彦が來て四人で神田へ行つて寶亭で晩食をしました。寅彦君が奢つた。中々金持だ。「一夜」の批評拜見大變なほめ方で少々恐れ入つた次第然し惡口されるより愉快です。今日高等學校へ行つたら畔柳がわからないと云ふた〔か〕ら。わからんでも感じさへすればよいのだと云ふた。芥舟先生は少しも感じて呉れないらしい。して見ると君なんかは天下の知己ですよ。
 
      三五三
 
 九月十−日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館中川芳太郎へ
 只今三重吉君の一大手紙を御送りに相成早速披見大に驚かされ候。第一に驚ろいたのは其長い事で念の爲め尺を計つて見たら八疊の座敷を竪にぶつこぬいて六疊の座敷を優に横斷したのは長いものだ。あれ丈のものがかけるなら慥かに神經衰弱ではない。休學などゝは思ひも寄らぬ事だ。早速君から手紙をやつて呼び寄せ玉へ。僕は來週からでなくては講義をはじめない外の先生も大概そんな事だらう是非出京し玉へと云ふてやり給へ。たとへ只ぶら/\學校へ出たり出なかつたりして居ても夫で澤山だ。休學した積りで東京に居るがよろしい。親が病氣で一日も早く成業して見せ樣といふものが一年間休學する理窟があるものか一日も早く卒業するのが義務である。是は君から是非手紙で云ふてやつてくれ玉へ。僕の考だと云ふてくれ玉へ。何でもかんでも學校に籍さへ置いて居れば自然天然と文學士になる所を休學なんてつまらない。出て來て方々遊んであるいて時々は金やん先生の家抔へ遊びに來れば神經衰弱なんかすぐ直つて仕舞ふさ。
 それから次に驚ろいた事は三重吉君が僕の事をのべつにかいて居る事だ自分のおやぢの事より僕の事が餘程長くかいてある。あの手紙が三間の長さとすると二間は慥かに金やんの事で埋つて居る。僕の樣な人間が學生の一人の頭脳を是程迄にオキユパイして居るとは夢にも考へなかつた。あの手紙を讀むと三重吉君は僕の事を毎日考へて神經衰弱を起した樣に思はれる。僕が十七八の娘だつたら。すぐ樣三重吉君の爲に重き枕の床につくと云ふ物騷な事になるのだが幸ひ吉原から買つて來た油壺なんかを乙がつて居る金やんなので、こつちにとつては藥代も入らずに濟みさうなのは先以て結構仕合せの至りである。然しいくら※[さんずい+嫩の旁]《原》石だつて、金やんだつて、講師だつて、髭が生へてたつて、三重吉君からこれ程敬慕せられて難有〔く〕思はんといふ次第のものではない。難有いなどは通過して恐ろしい位だ。三重吉君は僕の細君抔より餘程僕の事を思つて居るらしい。然もそれが學資を貢いだと云ふのでもなし周旋をしたと云ふのでもなし。金を貸した事は無論ないのだから一層難有いと云はなければならない。僕は是で中々自惚の強い男だからある人には好かれて然るべき性質を有して居ると自信して居るがね――然しあれ程迄に敬慕され樣とは氣がつかなかつた。あれは己惚以上だよ。豫期を超過する事五十五六倍だよ。元來人から敬慕されるとか親愛されると急に善人になりたくなるものだ。敬慕親愛に副ふ丈の資格を一夜のうちに作りたくなるものだ。僕も今夜は急に善人になりたくなつた樣な氣がする。天下の人がみんな三重吉君の樣に僕を敬愛してくれて居たら僕は今頃はとくに孔夫子か基督か乃至釋迦牟尼位にはなつて居るよ。恨むらくは氣に喰はない馬骨野郎が充滿して居るのでかやうの次第で遂には三重吉君の好意にすら負く樣な譯に相成るのは汗顔の次第だが考へると是は僕のわるいのではない馬骨君のわるいのだから三重吉君の想像する如き好人物でなくて切角の豫期を失望させても是は僕の責任ぢやないから其邊の所は篤と三重吉君に斷つて置いてくれ玉へ。三重吉は蛸壺をくれる筈の處壺を括つた繩が切れて御ぢやんと相成つた由甚だ遺憾の至だが金やんも其好意に對して何か進呈しやうと思ふが別段勸業銀行の債券にも當らん事だから思ふものも差し上げる譯に參らんから。近日出版の吾輩は猫である一部を謹呈する事に致すから是も御報知を願ひたい。
 三重吉は僕を愛するとか敬ふとか云ふ外に僕は博學だとか文章家だとか良教授だとか云ふて居らん。そこで君の僕に對する親愛の情は全くパーソナルなので僕自身がすきなのだと愚考仕る。そこが甚だ他人と異なる所で且甚だ難有い所である。だから僕が「吾輩は猫である」を獻上するに就ても猫の文章を讀んでくれろとか滑稽を味つてくれろとか云ふ考で獻上するのではない。單にパーソナル・アツフエクシヨンを表する微意であるから是も序に御傳言を願ひたい。
 あれ丈長く僕の事をかいて居り又あれ丈僕の事をほめて居るが少しも御世辭らしい所がない。昔の文章家の樣にウソらしい文句がない。誇張も何もない。どうしても眞摯な感じとしか受取れん。是が僕の三重吉君に尤も深く謝する所である。
 あの手紙は僕がこの手紙と同じくなぐりがきにかき放したものであるらしいが頗る達筆で寫生的でウソがなくて文學的である。三重吉も文章をかいて文章會へでも出席したら面白いと思ふ。
 右御挨拶迄に草々認めた許りであるから前後亂雜で讀みにくゝ解しにくいと思ふがどうか僕の云ふ事丈を三重吉君に傳へて下さい。尤も望む所は一年間田舍へ引籠るのをやめて出京する樣に勸めて下さい。僕には三間の手紙をかく勇氣がないから是で御免を蒙ります。實際三重吉君より僕の方が神經衰弱さ。親分が大神經衰弱だから子分は少々神經衰弱でも學校へ出るがよからう。
    九月十一日夜          金 や ん
   芳 太 郎 樣
 
      三五四
 
 九月十二日 火 前9-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 傳四先生。僕は今週休んで來週から開講と致す積りだから此旨を一寸聽講の諸君子に報知してくれ玉へ。むだ足をさせるのも氣の毒と思ふ。
    十二日
 
      三五五
 
 九月十六日 土 後9-20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奥井館中川芳太郎へ
 一寸中上ます。昨夜來客があつて歸らうとすると帽子がない。玄關にあつた小生のゴム製の雨具がないよつて泥棒だらうと云ふ鑑定であつた。
 所が夜更に及んで月を見ながら椽の下をのぞいて見たら君から來た三重公の手紙を入れた状袋がある。而して中身がない。して見ると是も泥棒君の所爲だと思ふ。三重吉君が三間餘の手紙を天下の珍品と心得て持つて行つたとすれば此泥棒は中々話せる泥棒に相違ない。然し君の所へ來た手紙を僕がぬすまれて平氣で居る譯にもありかねるによつて一寸手紙を以て御詫を致す譯だがね。どうか御勘辨にあづかりたい。向後氣をつけると申したいが僕の家は是より氣のつけ樣がない。氣をつけるなら泥棒氏の方で氣を付けるより仕方がない。尤もあんなうつくしい手紙を見たら泥棒も發心して善心に立ち歸るだらうと思ふから其内手紙も自然どこかゝら戻るかも知れない。戻つたら正に返上仕るから左樣御承知を願ひ度い。先は古今未曾有の泥棒事件の顛末を御報に及ぶ事しかり。是で見ると今迄も色々なものが紛失して居るのかも知れんが少しも氣がつかない。隨分物騷な事だ。此つぎは僕の書齋を焚き拂ふかも知れない。泥棒が講義の草稿を持つて行つたら僕は辭職する譯だが泥棒君も中々仁惠のある男だ 以上
    九月十六日          夏  金
   中 川 先 生
 
      三五六
 
 九月十七日 日 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓上文章會開會の議敬承仕候小生も今月末迄には猫のつゞきをかく積りに候會日は九月三十日が土曜につき同日午からとしたら如何かと存候。就ては會場の儀今迄小生宅にて催ふし候處細君アカンボ製造中にて隨分難儀さうに見受候に就ては今度は一寸御免蒙りどこかほかへ持つて行き度と存候會員の宅でなくとも貸席抔可然か是は御撰定にまかせ候。さうなると公然會費を徴集する必要相生じ候。さうなると出るものが少なくなると存じ候。又報知の御手數も大兄を煩はす方がよくなつて參り候。以上につき御考如何。一寸伺上候。
 毎日來客無意味に打過候。考へると己はこんな事をして死ぬ筈ではないと思ひ出し候。元來學校三軒懸持ちの、多數の來客接待の、自由に修學の、文學的述作の、と色々やるのはちと無理の至かと被考候。小生は生涯のうちに自分で滿足の出來る作品が二三篇でも出來ればあとはどうでもよいと云ふ寡慾な男に候處。それをやるには牛肉も食はなければならず玉子も飲まなければならずと云ふ始末からして遂々心にもなき商買に本性を忘れるといふ顛末に立ち至り候。何とも殘念の至に候。(とは滑稽ですかね)とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出來れば夫丈で天に對しても人に對しても義理は立つと存候。自己に對しては無論の事に候。
 「一夜」御覽被下候由難有候。御批評には候へどもあれをもつとわかる樣にかいてはあれ丈の感じは到底出ないと存候。あれは多少分らぬ處が面白い處と存候。あれを三返精讀して傑作だといふてくれたものが中川芳太郎君であります。それだから昨日中川君と傳四君に御馳走をしました。尤も傳四君は分らないと云ふて居ます。
    九月十七日           金  生
   虚 先 生
 俳佛の御説教中々面白くかゝれ候
 
      三五七
 
 九月二十四日 日 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 拜啓風邪にて御臥床のよし嘸かし御退屈の事と存候たまに病氣にかゝるのは一寸酒落たものに候へども發熱甚しくと有つては隨分御苦しみの事と存候近ければ水菓子でも御見舞に差し上げる所だがあまり遠方だから其にも及ぶまいと思ひ差控申候。小生日々來客責めにて何を致すひまもなく候然し來客の三分二は小生にインテレストをもつて居る人々だから小生の方でも逢ふとつい話しが長くなる次第必竟自分で來客を製造して自分で苦しんで居るに過ぎぬ愚見に候。夫故心ばかり狼狽して仕事は一向出來ず愛想がつき申候。學校をやめたら創作家になれるだらうなかと己惚るのも矢張り本來の愚見かと存候。只今中川が參り長らく話しをして返り候。橋口の母は死去のよし氣の毒と存候一寸尋ねたいと思ひ候へども是も右の事情にて果さず候。當人甚だ寂寞を感ずる由申來候 中學校教師の件病中態々難有候早速心當りへ報知可申候。佐治はどうか口にありつきさうに候。濱武は横濱へ參り候。金子と申す人に相談致さうかと存候 先は御攝養專一に候。病氣で何か不自由な事があるなら手紙で遠慮なく御申聞可被成候 以上
    九月二十三日          金
   眞 綱 樣
 
      三五八
 
 九月二十五日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 皆川正※[示+喜]へ〔うつし〕
 昨日は二三人の來客あり後寺田寅彦のすゝめにて上野から谷中あたりを近道致候留守中御來訪失禮致候暫らく御目にかゝらず候處不相變御機嫌の事と存候小生何だか陸へ上つた魚の如く喘々として消光一寸免職になつて半年許り休養が致度候
 佐治君は浦和中學に内定野間は風邪で寐て居ます中川は眼病で眼鏡をかけて居ます傳四はのんきな事をいつて居ます白馬會の出品は大概前年の舊作ですこれと申感服したものはありません
 近頃は創作をやるひまがないので何だか筆が動かない樣な氣持です
 其内御面會の上萬縷 草々
 
      三五九
 
 十月二日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 若杉三郎へ
 拜啓先達御質問の件は多忙にて御返事を怠たつて申譯がない
 コルネイユと申す先生の作は自慢ぢやないが一つも讀んだ事がない。此分では生涯讀む事はなからうと存じます。そこへコルネイユが出て來たから大恐縮で手紙をポケツトへ入れた儘にして置くと昨日三年生の中川芳太郎と云つて博學の男が來たから君コルネイユを讀んだかいと聞いたら讀みはしませんが學校で調べて上げても宜しう御座いますと云ふから難有い是非願ひ度と君の手紙を渡しました處今朝中川君は別紙の通デコ/\な佛文をかいて來ました。夫を早速君の方へ廻しますから御讀み下さい。
 夫からアンドラインのある所はね
  Lag. サア金を茲へ置くぞ
  Mol. わしの金も茲にある十兩は現金但し九十兩はon Amynta(On Amyntaト云ふのは僕にも分らない)
  Lag. よろしい
  Mol. 異存はない
位な所でせう。よく分らない 先は右用事迄 匆々頓首
    十月二日         金 之 助
   若 杉 樣
 
      三六〇
 
 十月十l日 水 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 君塚の一夜面白く拜見致候。少々主客の言語動作が故意にひねくれて居る所が厭味に候。たとへばにらめ〔三字傍点〕なくてもいゝのに河童の畫をにらめ〔三字傍点〕たり仰ぐ〔二字傍点〕必用もないのにバイロンの像を仰いだりする事に候。其他の光景は甚だよろしく候。會話は少々文句有之候。あれは連句丈にあらためた方がよからんかと存候。あの儘では會話としてあまり振はざるのみか僕の「一夜」中の會話を強いて眞似た樣に思はれ候。兩人が對座して連句をやつて居るやうに少し直して見ましたこんど見せます。
 僕來客に食傷して來客が大嫌に相成候當分こない事に御きめ被下度候
 猫出來一部一兩日中に進呈致候
    十月十日            金
   眞 綱 樣
 
      三六一
 
 十月十一日 水 前9-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込追分町三〇奧井館中川芳太郎へ〔はがき〕
 猫を三重吉君に送つて下さい。僕は猫を二十二部もらつた。金はまだ一文ももらはない。近來來客に食傷して人が嫌になつたから當分きてはいけません。手紙はいくらでも頂戴
    十月十一日
 
      三六二
 
 十月十二日 木 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 御手紙は拜見しました休學の件も萬不得已事情ありての事なれば却つて出京を御勸めして一時でも考へ込ましたのは甚だ恐縮の至です。
 休學中々學の教師といふけれど教師抔をしては神經衰弱が起る許りで決して休學にはなりませんよ。夫も手近に面白い口でもあれば格別ですがさうでなければ矢張り島へ渡つて遊んで居る方がいゝ。僕も時があれば小笠原島位へ一寸流されて見たい。兩三日前猫が出來ましたから君に一部あげやうと思つて中川君に托して置きました今頃は屆いて居るでせう。近來來客が無暗にあるので大に人間がいやになつたから五六人に手紙を出して當分來ではいけないと通知をしましたら。其通知を受けた一人の寒月君が通知を受けた翌日すぐやつて來ました。是では切角の通知も役にたゝない譯です。中川君も此通知を受けた一人です。
 小生も君の樣に敬慕してくれる人があると大分えらい樣ですが裏の中學生や前の下宿のゴロツキから馬鹿にされる所を見ると一文の價値もないグータラですよ。世の中は妙なものであります。小生も大學を一年休講して君と一所に島へでも住んで見たい。 頓首
    十月十二日         金
   鈴木三重吉樣
 
      三六三
 
 十月十四日 土 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 拜啓するめ頂戴難有候。僕は猫君はするめ各商買道具で贈答をするのは一寸面白い譯ですな。此次ぎ何か書いて一本を獻上する際にはどうか正金銀行の株券を下さい。
    十月十五日
      東京本郷駒込千駄木町五七
                夏目金之助
 
      三六四
 
 十月十九日 木 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町一二〇愛知社内中川芳太郎へ
 御手紙拜見、加計先生御出京のよし、田舍へ這入つて適意の書を讀んで暮らせれば夫が人間の最幸福だと思ふ。そして年に一度東京へ出て來て遊べば猶結構だ。僕の音を蓄音機に詰込む事一向差し支無之。然し詰め込むなら詰め込む的の文句か音聲がよからうと思ふ。不幸にして歌もうたへず詩吟も出來ず只平生の駄辯より外に能のない人間だから困ります。僕來週は學校の行軍だからひまになる。(僕は行軍へ出た事はない)遊びに來給へ。加計君が其時迄居るなら一所に御出なさい。
 今日高等學校で一人の學生を大きな聲でしかり付けてやつた。さうして全級にこんなに出來ないと皆落第だと宣告した。こんな人々は生涯僕の聲をきくのが厭だらう。廣島から漱石の聲を詰めに來たと聞いたら吃驚して目を舞はすだらう。 頓首
    十八日          金
   芳太郎樣
 
      三六五
 
 十月十九日 木 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ〔はがき〕
 霽月先生の芳墨を誦する事前後二回。此頃は應答の句も出來ぬ始末なるを深く漸づ。媾和約成り、天下太平、英艦來泊、素貧如故、秋氣入衣 頓首
 
      三六六
 
 十月二十日 金 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本市内坪井町一二七奧太一郎へ
 尊書拜見仕候其後は乍存つい/\御無沙汰に打過申候熊本も其後大分移動有之候の樣子|奈《〔名〕》須川君には當地にて一寸面會致候山縣君入學は小生の尤もよろ〔こ〕ばしく思ふ所に御座候熊本も永く居ると存外あきる所に候が大兄の如き人は始終一日の如く御勸めにて敬服の至に不堪小生如きはどこへ參つても教師がいやで生涯覺れない剛突張に候人は大學の講師をうらやましく思ひ候由金と引きかへならいつでも讓りたくと存候御令孃御誕生の由結構に候中々容易に生長仕らざる樣ながらズン/\のびて行くには一寸驚く事も有之候小生はあとから小供に追ひかけられ居候氣持に候。近來非常の多忙先達中抔は來客ばかり日々兩三名も引き受け實に閉口致し候爲め五六人に手紙を出して當分來てはいけないよと申候處其翌日其一|日《原》がすぐ參り候
 高等學校は樂なものに候小生は高等學校で食つて餘暇に自分の好きな事を致し度と存候。舍監抔は一日も致すべきものに無之と存候第一高等學校は熊本より大分氣樂に御座候同僚の家抔へ參りたる事無之先方よりも參りたる事無之候。大學も其點は頗るのんきなるものに候。
 閑窓に適意な書を讀んで隨所に山水に放浪したら一番人生の愉快かと存候
 小生は教育をしに學校へ參らず月給をとりに參り候。自餘の諸先生も正に斯の如くに候。 以上
    十月二十|一《原》日        金  生
   奥 太一郎樣
 
      三六七
 
 十月二十一日 土 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區彌生町廣島縣學生寄宿舍妹尾福松へ
 先夜は失禮陳は今般長崎縣立中學玖島學館長米澤武平氏上京同校に英語教師一名入用の由につき大兄がもし行く氣ならよからうと推擧致候君は東京にとゞまる積の由なるが或は色々の事情として行く氣になりはせぬかと思ふたからです。月給は六十圓出すさうです。一つ考へて見ませんか。若し行く氣なら校長へ通知して一寸面會して御覽なさい。宿は神田三崎丁森田館です。行く氣なら校長は時間をきめて逢つて見たいといふて居ます 草々
    十月二十一日          夏目金之助
   妹尾福松樣
 
      三六八
 
 十月二十三日 月 前10-40 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 今日は觀艦式に御招待を蒙つてありがた〔く〕御禮を申します。小生も一寸參りたいが※[さんずい+氣]車が非常に込み合ふだらうと思ふのと今一つは八時前に尊宅に伺ふ勇氣がないので失敬します。あしからず
 
      三六九
 
 十月二十九日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓かねて御面倒相願候「吾輩は猫である」義發賣の日より二十日にして初版賣切只今二版印刷中のよし書肆より申來候。是に就ては大兄の插畫は其奇警輕妙なる點に於て大に賣行上の景氣を助け候事と深く感謝致候拙作も御蔭にて一段の光輝を添候ものと信じ改めて茲に御禮申上候 以上
    十月二十九日夜          金
   不 折 畫 伯
         座下
 
      三七〇
 
 十月三十日 月 後1(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區市谷砂土原町三丁目八内田貢へ
 弄啓小生其日/\に追はれ牛込方面へ參りたる節は伺ひ度と存じながらつい/\御無沙汰御海恕願上候
 本日は友人に誘はれ上野音樂會へ參り日本橋銀座邊のイルミネーシヨンを見て九時頃歸宅書齋へ這入候處机上に大兄より御書面と猫の繪端書二十七葉とが待ち構へ居候
 何事かと開封致候處思はざる「猫」に就ての御奨勵の御褒辭讀去讀來甚しき愉快を覺候まゝ直ちに禿筆を染めて御返事を差上候
 拙稿は御覽の通りの出鱈目をかきつらねたるものにて最初は別段書物に致す考も無之候處友人等の勸めにて稿を續ける事に相成書肆の催促により出版を急ぎ候もの實は大方諸君の批評如何あらんかと氣づかび居候處はからざる貴君よりかゝる御言葉を頂戴し非常の慰藉を得たる次第に候
 小生は人より物しりなりと云はるゝ事を好まず學者なりと云はるゝを好まず是等は皆中らざる事に候へば只赤面致すのみに候。然し著述はよかれあしかれ著述に相違無之此はきとしたる書物に就ての批評は善惡共に悦こんで甘受する覺悟に御座候。就中公平にして眼識ある人の賞賛は滿腔の感謝を以て拜受致候。既に確然たる一冊の書物ありての上の事故之に對する批評は空漠たる賛辭や虚名とは異な〔る〕ものとの自信有之候故に御座候。
 小生は漠然として學者なり篤學なり抔云はるゝを欲せざると同時に拙稿たりとも世に公に投げ出したるものに付ての褒辭は大に難有くアクセプトする主義に候。而も其難有味は博士に推擧されたり勲章を貰つたりするよりも遙かに優る難有味に候。
 大兄は小生をして此難有味を感ぜしめたる知己の一人なれば深く銘して繪葉書と共に此一事を永く抱懷致し可申候
 表装の事も小生の注文より橋口氏の工夫したるものに有之此事を同氏に申聞け候はゞ定めし滿足致し可申と存候
 先は右御禮迄匆々如斯に御座候。此御禮は出鱈目の御禮に無之眞劔の御禮に御座候頓首
                   金
   魯 庵 先 生
         坐右
 猫儀只今睡眠中につき小生より代つて御返事申上候間不惡御容赦願上候
 
      三七一
 
 十一月一日 水 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ〔繪はがき〕
 拜啓本一日廣島の柿と嚴島の貝を頂戴。御心にかけられわざ/\御送り被下難有存候。
 先達加計君がきてとう/\僕の音聲を蓄音機へ入れて歸りました。
 東京は東郷大將の歡迎會やら、ブライアンがくるやら中々賑ひます。
 小生は不相變胃病。晩餐を食ふとぐう/\寐て仕舞ひます。是で大學の教師が勤まるかは頗る疑問です。
 
      三七二
 
 十一月三日 金 前0-40 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき 宛名に「野村傳四先生」、署名に「夏目先生」とあり〕
 中央公論が出たから是非買つて讀んで而して褒めて頂戴〔八字右○〕。本日本郷の雜誌屋で文庫の六號活字を見たら「夏目漱石の吾輩は猫である大牧〔二字右○〕壹圓、金が餘つて困つて居る人でなければ買ふべからず。くれても讀むのが惜しいヤ〔十二字右○〕」とあつた。此六號活字先生は買ふ事も出來ず貰ふ事も出來ないのだらうと思ふ。依つて二版が出來たら一部獻上し樣と思ふがどうだらう。烏みづ先生へ宛てゝやればよからうと存ずるが如何。
 
      三七三
 
 十一月三日 金 前0-40 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ〔はがき〕
 頂戴仕つた柿を其後食つて見た處非常に旨いですよ。毎日食後に一つ宛たべます。家内のものもたべます。貝は小供がおもちやにして居ます。
 餘は後便
 加計君によろしく
 あすは天長節で休みです。うれしい。
 
      三七四
 
 十一月五日 日 後6(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 神田區三崎町三丁目一前田儀作へ
 拜啓高著夏花少女御惠贈にあづかり難有拜受仕候只今少閑をぬすんで一氣に讀了致候小生は多く新體詩と申すものを讀まず詩集を通讀致し候は大兄の御作を以て始めと致候。多く此種の文字に接せざる爲め所々難解の所有之候へども全體の上に於て妖麗※[王+鬼]※[王+奇]の感を生じ候爲め不少愉快を覺候。御返禮の爲め抽著至極卑俗のものに候へども一部贈呈致し度と存候處只今再版印刷中にて刻下の間に合かね候間是はあとより差上ぐる事と致候こゝには御禮のみ申上候
 猶來年新年號に蕪稿御入用のよし拜承は仕り候へども生憎正月は方々より依頼を受け到底一人にて引き受けかね候位先づ義務的のもの一二を除くの外は不得已謝絶致し居候切角の御懇望を空くする段甚だ不本意の至には候へども學校其他多忙にて閑日月なき目下の境遇故事情御察しの上あしからず御容赦被下度候頓首
    十一月六日         金
   林 外 先 生
         座右
 
      三七五
 
 十一月六日 月 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 僕二重廻しを作りたい。に依つて、君の洋服屋を一寸よこしてもらひたひ。午前は不在、午後は二時半過ぎ。但し暗くなつては縞が見えないから駄目。序に洋服屋の名と番地を教へ玉へ。昨日高田知一郎先生がくる
 
      三七六
 
 十一月 本郷區駒込千駄木町五七より 皆川正※[示+喜]へ〔うつし〕
 拜啓先日は薤露行の批評頂戴難有候今般中央新聞にて文藝に關する日曜附録發刊の計畫ある由にて福原君來訪何か寄稿を求められ候處生憎多忙にて何もかけず因て思ひ出し候は先日神泉へ出す爲に貴兄が岡倉の許へ行つて筆記した原稿はまだあの儘にて御手許にある筈故あれを此方へ御廻し被下候はゞ小生の義理も立ち中央新聞社の便利にもなり福原君の責任も全くなると云ふ次第ですが如何ですか此依頼を御引き受け下さる譯には參りますまいか尤も岡倉君へは是非照會の上許諾を得ねばならん事と存じますが御不都合なきかぎりはよろしく御取計ひを願ひます
 猶委細は此次御面會の上萬縷可申上候先日梨兩君來訪明星に何か書いてくれと申され候是も多忙にて乍不本意斷り申候 以上
 
      三七七
 
 十一月十日 金 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 拜啓本日洋服屋參り豫定の如く新誂のもの申しつけ候。御手數難有存候。薤路《原》行の批評も難有候。あの手紙は三日の消印あるにも關せず七日に到着馬鹿〔々々〕しいぢやげーせんか。附箋も説明も何もありやせん。夫から遞信大臣に逐一事情を報告に及んでやりました。僕が大臣に手紙を出したのは生れて始めてゞす。尤も遞信大臣の名を知らなかつたから二三人に問ひ合して大浦君だといふ事を確めてかいてやりました。あの手紙を見て郵便配達の取締を嚴にして、且延着の理由を僕の所へいふてくれば大臣だが、平氣で居るなら馬鹿だ――ねー君。
 
      三七八
 
 十一月十日 金(時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 啓
 三重吉さん一寸申上ます。君は僕の胃病を直してやりたいと仰やる御心切は難有いが僕より君の神經痛《原》の方が大事ですよ早く療治をして來年は必ず出て御出でなさい。僕の胃病はまだ休講をする程ではないですが來年あたりは君と入れ代りに一年間休講がして見たいです。大學の教師だとか講師だとか申して評判をしてくれますが一向ありがたくはありません。僕の理想を云へば學校へは出ないで毎週一回自宅へ平常出入する學生諸君を呼んで御馳走をして冗談を云つて遊びたいのです。中川君抔がきて先生は今に博士になるさうですなかと云はれるとうんざりたるいやな氣持になります。先達て僕は博士にはならないと呉れもしな〔い〕うちから中川君に斷つて置きました。さうぢやありませんか何も博士になる爲に生れて來やしまいし。
 君は島へ渡つたさうですね。何か夫を材料にして寫生文でも又は小説の樣なものでもかいて御覽なさい。吾々には到底想像のつかない面白い事が澤山あるに相違ない。文章はかく種さへあれば誰でもかけるものだと思ひます。……僕は方々から原稿をくれの何のと云つて來て迷惑します。僕はホトヽギスの片隅で出鱈〔目〕をならべて居れば夫で滿足なのでそんなに方々へ書き散らす必要はないのです。……文庫といふ雜誌の六號活字がよく僕のわる口を申します。……文章でも一遍文庫へ投書したらすぐ褒め出すでせう。……段々秋冷になりました。今日は洋服屋を呼んで外套を一枚、二重廻を一枚あつらへました。一寸景氣がいゝでせう。猫の初版は賣れて先達印税をもらひました。妻君曰く是で質を出して、醫者の藥禮をして、赤ん坊の生れる用意をすると、あとへいくら殘るかと聞いたら一文も殘らんさうです。いやはや。一寸此位で御免蒙ります。又ひまが出來たら何かかいてあげます。
    十一月九日         金
   三 重 吉 樣
 三重苦さん。先生樣〔三字右○〕はよさうぢやありませんか、もう少しぞんざいに手紙を御書きなさい。あれはあまり叮嚀過ぎる
 
      三七九
 
 十一月十日 金 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區市谷砂土原町三丁目八内田貢へ〔うつし〕
 拜啓小澤某の事につき御親切に御忠告被下難有存候同人にはもと小生の教へ候文學士の紹介にて神泉とか申す雜誌發刊の際一度面會致候其後兩三度同席致し候事有之始めは至極眞面目なる人と存じ居候處其後の人の評判にてもうそ許りつく由にて小生も其後は信用致さず又面會も致さず今日迄打過候。同人が小生の名前を知人の如く吹聽致す位なら無害に候へども他人に迷惑をかけ引いて小生の名譽に關する事抔出來致し候ては隨分厄介と存候。故にもし御知り合のうちにて左樣の懸念あるものへは可然御話し被下度願上候。小生を初めとし學校を出たての新文學士などでだれでも自分と同じ樣な人と心得て平氣で名も知れぬ人と交際をするからこんな事に相成るものと存候。困つた事に候。神泉發刊についても種々依頼し來り困り候。遂に小生の知る若い文學士達が執筆する事と相成候處其後例の小澤と何かにつけて纏らず且同人言語其他少々腑に落ちかねたる所ありとの事にて廃刊致し候由あとより傳聞致候。但し同人は小生に對しては本日迄不都合の所爲は無之普通の人物に候へば其點は御含み置きの上間接に自他の迷|惡《原》になる樣な事は御交際の區域内に於て御正し被下度候。先は右御禮旁御願迄匆々如斯候頓首
    十一月十日         金
   魯 庵 詞 兄
         坐下
  近日大塚保治君の紹介にて新海君に面會する事に相成候
 
      三八〇
 
 十一月十一日 土 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 野間君。小澤平吾は詐欺師なる事相分り大變な奴ですよ。文科大學助教授文學士小澤平吾なる名刺をふり廻し諸所をごまかしてあるく由。――昨日内田不知庵から注意があり。本日は神泉に關係の畫家古城天風二君參り多額の畫をかたられた話を致し候。御用心の事。全體どうしてあんなものを紹介したのかね。僕の名前なんか方々へ行つて振り廻す由
 
      三八一
 
 十一月十三日 月 後5-10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五薮中方野村傳四へ〔はがき 表の署名に「なつめきむ」とあり〕
 君の盡力に因つて眞砂座を見る筈の處少しく都合が出來て同行が出來ぬから一人で行つてくれ玉へ
 手のない人に手を出せといふのは愚物に賢人になれといふ樣なものだ是は近頃失敬の至であつた然し僕抔はない學問を出して講義をする位だから學生の方でもない手位はだしでもよさゝうに思ふ。
 
      三八二
 
 十一月十五日 水 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 昨夜下駄物語をよむ。うまく出來ました。文章が段々上手になつてくる結構々々。あれはあとがあるのだらうね。あれ丈では纒まらない。あの茶屋の所は寫生だね。どうも寫生は無理がないから生きて居る。
 
      三八三
 
 十一月二十六日 日 前0《〔?〕》-10 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 御手紙拜見文章會を來月九日にしては如何との御問合せ別段差支もなささうなれど夫迄に猫が出來るや否やは問題に候。帝國文學は十五日迄に草稿が入用のよし。實は帝文をさきへ書いて然る後猫に及ぶ量見の處此方が未だ腹案がまとまらずどれをかゝうかあれにせうかこれにせうかと迷つて居る最中然もどれもこれもいざとならぬと纒つた趣向がないのでまだ手を出さずに居る夫故に此方を三四日中にかき出してかりに一週間と見れば大丈夫夫から猫とするも是も長くなるかも知れないが一週間あれば安心すると九日の開《原》ではちとあぶない其次の土曜ならよからうと思ひます。尤も小生近來は文章を讀む事が厭きた樣だから自分に構はず開いて頂戴猫は出來れば此方から上げます。一體文章は朗讀するより黙讀するものですね。僕は人のよむのを聞いて居ては到底是非の判斷が下しにくい。いづれ僕のうちでも妻君がバカンボーを腹から出したら一大談話會を開いて諸賢を御招待して遊ぶ積に候 頓首
    十一月二十四日        金
   虚 子 先 生
  僕は當分のうち創作を本領として大にかく積りだが少々いやになつた。然し外に自己を發揮する餘地もないから矢張り雜誌の御厄介になる事に仕つた
 此度の猫は色々かく事がある。其内で苦沙彌君の裏の中學校の生徒が騷いで亂暴する所をかいて御覽に入れます
 
      三八四
 
 十一月二十六日 日 前10-50 本郷區駒込千駄木町五七より 府下淀橋村柏木九一一大町芳衛へ
 御手紙拜見來年の太陽に何かかけとの御意敬承は致しましたが實は帝國文學とホトヽギスに何か書かねばならぬ義務を脊負ひ込んだ爲め双方共來月十五日頃迄に入用とあるからはそれ迄に送らねばならず。大兄の顔を立てたいのは山々なれど此方も二人前働くか一日が四十八時間にでも改正にならなくては到底間に合ふ氣づかひ無之其邊の所は萬々御推察御勘辨あつて太陽の編輯に委細御申聞下さい。實は明星白百合新小説抔からも先日依頼されたのですが同一の理由のもとに謝絶致した仕儀であります。中にも新小説抔からは半年位前からたのまれて來年の正月も亦御斷りかと大分小言を頂戴致した位に候へば其邊も幾分か御勘辨の參考品として御聞取を願ひます。
 猫は大分諸方で褒められましたから少々痛い處を喫する方が本人の爲と心得ます。善惡に關らず御批評被下たとあれば難有仕合に存じます。然し少しはほめて呉れたんでせうな。呵々
    十一月二十五日         金
   桂 月 兄
       座右
  追白大兄の批評は青年界に大勢力ある由なれば滅多に「猫」の惡口抔を云つてはいけません。惡口を云つて仕舞つたら仕方がないから後篇が出たとき大にほめて帳消にして下さい
 
      三八五
 
 十一月二十七日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 京橋區築地二丁目二五俳書堂籾山仁三郎へ
 拜啓子規の像本日着机上に安置致し眺め居候是は晩年の像だから小生のちかづきに成りたてとは餘程趣が違つて居るうちに矢張り本人と對ひ向ふ樣な氣がする。病中は成程こんな顔であつた。御蔭で故人と再會する樣な氣がします。
  初時雨故人の像を拜しけり
    十一月二十七日         金
   俳 書 堂
       庵中
 
      三八六
 
 十二月四日 月 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 御邸の御孃さんが病氣ぢや大變だ。若い美しい女の病氣程世の中に大事件はない。御用心御用心
    十二月三日
 
      三八七
 
 十二月四日 月 前0-10 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜復
 十四日にしめ切ると仰せあるが十四日には六づかしいですよ。十七日が日曜だから十七八日にはなりませう。さう急いでも詩の神が承知しませんからね〔詩の〜傍点〕。(此一句詩人調)とにかく出來ないですよ。今日から帝文をかきかけたが詩神處ではない天神樣も見放したと見えて少しもかけない。いやになつた。是を此週中にどうあつてもかたづける。夫からあとの一週間で猫をかたづけるんです。いざとなればいや應なしにやつゝけます。何の蚊のと申すのは未だ贅澤を云ふ餘地があるからです。桂月が猫を評して稚氣を免かれず抔と申して居る恰も自分の方が|※[さんずい+嫩の旁]《原》石先生より經驗のある老成人の樣な口調を使ひます。アハヽヽヽ。桂月程稚氣のある安物をかく者は天下にないぢやありませんか。困つた男だ。ある人云ふ※[さんずい+嫩の旁]石は幻影の眉や薤露行になると餘程苦心をするさうだが猫は自由自在に出來るさうだ夫だから※[さんずい+嫩の旁]石は喜劇が性に合つて居るのだと。詩を作る方が手紙をかくより手間のかゝるのは無論ぢやありませんか。虚子君はさう御思ひになりませんか。薤露行抔の一頁は猫の五頁位と同じ努力がかゝるのは當然です。適不適の論ぢやない。二階を建てるのは驚ろきましたね。明治四十八年には三階を建て五十八年に四階を建てゝ行くと死ぬ迄には餘程建ちます。新宅開きには呼んで下さい。僕先達て赤坂へ出張して寒月君と藝者をあげました。藝者がすきになるには餘程修業が入る能よりもむづかしい。今度の文章會はひまがあれば行くもし草稿が出來ん樣なら御免を蒙る。 以上頓首
    十二月三日          金
   虚 子 先 生
 
      三八八
 
 十二月六日 水 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 御孃さん御かくれのよし。惜しい事をしましたな。美しい小女の死ぬ程詩的に悲しい事はない。死んでいゝ奴は千駄木にゴロ/\して居るのに思ふ樣にならんな。
  白菊の一本折れて庵淋し
 〔以下行間に認めあり〕
 僕は御孃さんの御墓參りがしたい。いつかつれて行き玉へ。草稿をかくのでいそがしい。十七日頃迄は來てはいかん。
 
      三八九
 
 十二月九日 土 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 傳四先生下駄物語につき明星でわる口をかいて居る御覽なさい。今日の文章會は休席。帝文の原稿がまだ出來ない。人がこない樣に手筈をすると思ひがけない人がくる。然り而して僕も其實あまりかく氣が御座らん。猫もかゝなくてはならん。
 僕は小説家程いやな家業はあるまいと思ふ。僕なども道樂だから下らぬ事をかいて見たくなるんだね。職業となつたら教師位なものだらう。島津の御孃樣はとんだ事をした。僕が代理に死んでやればよかつた。
 
      三九〇
 
 十二月十一日 月 前6-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 時間がないので已を得ず今日學校をやすんで帝文の方をかきあげました。是は六十四枚ばかり。實はもつとかゝんといけないが時が出ないからあとを省略しました。夫で頭のかつた變物が出來ました。明年御批評を願ひます。猫は明日から奮發してかくんですが、かうなると苦しくなりますよ。だれか代作を頼みたい位だ。然し十七八日迄にはあげます。君と活版屋に口をあけさしては濟まない。
 
      三九一
 
 十二月十八日 月 後2-20 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓 先刻の人の話では御孃さんが肺炎で病院へつめきりださうですね少しは宜いですか。大事になさい
 僕の家バカンボ誕生矢張女です。妻君發熱猫はかけないと思ふたらすぐ下熱先々大丈夫です。
 猫は一返君によんでもらう積りで電話をかけたのですが失望しました。はじめの方のかき方が少し氣取つてる氣味がありはせんかと思ふ。夫から終末の所はもつと長く書く筈であつたがどうしても時間がないのであんな風になつたんです。
 此二週間帝文とホトヽギスでひまさへあればかきつゞけもう原稿紙を見るのもいやになりました是では小説抔で飯を食ふ事は思も寄らない。
 君何か出來ましたか。病人抔の心配があると文章抔は出來たものぢやない。
 今日はがつかりして遊びたいが生憎誰もこない。行く所もない。
 先々正月に間に合ふ樣に注文通り百枚位書いて安心しましたよ
    十八日            金
   虚 子 樣
 
      三九二
 
 十二月二十一日 木 本郷區駒込千駄木町五七より 上田敏へ〔封筒なし〕
 拜啓伊豫紋會〔の〕事御通知敬承仕候山妻先日出産、二女發熱ハシカだか何だか分らず。もしハシカが赤ん坊に傳染すると赤ん坊は忽ち成佛仕る由もしさうなると伊豫紋所の騷ぎにあらず然し今日はそんな危險もなささう故席末をけがす積りなれどもし萬一欠席したらそんな事と思つて頂戴。
 小生酒の味を會せず歌はラツパ節もうたへず然り而して伊豫紋抔へ參る資格があるものでせうか 匆々
    十二月二十一日        金
   上 田 君
 
      三九三
 
 十二月二十四日 日 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島縣佐伯郡中村下田方鈴木三重吉へ
    鈴木子の信書を受取りて
  只寒し封を開けば影法師
 
      三九四
 
 十二月二十四日 日 後3(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區三番町一〇市来松風へ
 啓
 猫のこよみわざ/\御持參被下難有頂戴致しますあんな妙なこよみは見た事がありません柱にかけて眺めて居ります。
 風呂敷を置いて行かれました。當分の間御あづかり申します。其内遊びに入らつしやい。
 來年正月のホトヽギスには長いのをかきましたどうぞ讀んで下さい。面白くない所があつたら遠慮なく注意して下さい。先は右御禮迄 匆々頓首
    十二月二十四日          金
   松 風 雅 兄
 
      三九五
 
 十二月二十六日 火(時間不明)本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區市谷砂土原町三丁目八内田貢へ
 又々猫の繪端書御贈難有存候
 一昨日は猫の暦をくれた人有之候
 猫の爲めに名を博した主人は幸福な男に可有之候
  一人住んで聞けば雁なき渡る 漱 石
 
      三九六
 
 十二月二十九日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 本所區茅場町三丁目一八伊藤左千夫へ
 拜啓只今ホトヽギスを讀みました。野菊の花は名品です。自然で、淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があつて結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい。三六頁の
  民さんの御墓に參りに來ました
と云ふ一句は甚だ佳と存じます。只次にある「只一言である云々」の説明はない方がよいと思ひます
 小生帝文に趣味の遺傳と云ふ小説をかきました君の程自然も野趣もないが亡人の墓に白菊を手向けるといふ點に於て少々似て居りますから序によんで下さい。
 押しつまつて御多忙の事と存じます。新年は缺禮致します 以上
    十二月二十九日         金
   伊 藤 大 兄
 
      三九七
 十二月三十一日 日 後3-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓本日書店より藝苑の寄贈をうけて君の病葉を拜見しました。よく出來て居ます。文章抔は隨分骨を折つたものでせう。趣向も面白い。然し美しい愉快な感じがないと思ひます。或は君は既に細君をもつて居る人ではないですか。それでなければ近時の露國小説抔を無暗によんだんでせう。どつちから來たか知らんが書物か、實地から來たに相違ない。然しあれをもつと適切に感ぜさせるのはあの五六倍かゝないと成程とは思はれないですよ。凡ての因縁ものは因縁がなる程と呑み込める樣に長たらしくかゝんと面白くゆかぬ樣に思ひますがどうですか。あれで惡いといふのではない。長くしたらもつと面白く見えるだらうと云ふのです。あゝ云ふ裏面の消息は表面の戀をかき盡して種切れになつた時に考へ出すか又は自分が經驗を積んで表面の戀が馬鹿々々しくなつた時に手をつけるものだ。君の若さであんな事をかくのは書物の上か又は生活の上で相應の源因を得たのでありませう。ホトヽギスに出た伊藤左千夫の野菊の墓といふのを讀んで御覽なさい。文章は君の氣に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします。 以上
    十二月三十日夜         金
   白 楊 兄
 今朝又讀み直して見ました。あれを今少々活躍させる工夫があると思ひます。あれ丈の短篇では今少々活躍させんと完璧とは云はれない。それでなければもつと長くかく。 三十一日
      三九八
 三十九年一月−日 月 前0-5 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
  加計君の所へいつか手紙をやりたい。宿所を教へ玉へ
 拜啓
 御通知の柿咋三十日着直ちに一個試みた處非常にうまかつた。コロ柿は堅過ぎるがあれは丁度好加減です。小供にもやりました。君の神經衰弱は段々全快のよし結構小生の胃病も當分生命に別條はなささうです。君が芝居をやる抔は頗る見ものだらうと思ひます。全體何の役をやる積りか一寸御一報にあづかりたい。今日は大晦日だが至つて平穩借金とりもあらず炬燵で小説を讀んで居ます。ホトヽギスを見ましたか。裏の學校から抗議でもくれば又材料が出來て面白いと思つて居る。此學校の寄宿舍がそばにあつて其生徒が夜に入ると四隣の迷惑になる樣に騷動する。今夜も盛にやつて居る。此次は是でも生捕つてやりませう。仕舞には校長が何とか云つてくればいゝと思ふ。喧嘩でもないと猫の材料が拂底でいかん。伊藤左千夫の野菊の墓といふのをよんだですか、あれは面白い。美くしい感じする。一昨日から雪今日も曇中々寒い。昨日は中川が來ました。
 君が芝居をやる所を猫にかきたい。多々良三平と自認せる俣野義郎なるもの五六度も親展至急で大學へむけ猫中の取消を申し來る。新聞で廣告して取り消してやらうかと云つたら御免と云ふてきました。當人は人格を傷けられたとか何とか不平をいふて居る。呑氣なものである。人身攻撃も文學的滑稽も區別が出來ないで自ら大豪傑を以て任じて居るのは餘程氣丈の至りだと思ふ。
 君早く出て來給へ
 早稻田文學が出る。上田敏君抔が藝苑を出す。鴎外も何かするだらう。ゴチや/\メチや/\其間に猫が浮きつ沈みつして居る。中々面白い。猫が出なくなると僕は片腕もがれた樣な氣がする。書齋で一人で力|味《原》んで居るより大に大天下に屁の樣な氣?をふき出す方が面白い。來學年から是非出て來給へ
 明日丸山通一といふ獨乙語の先生の所へ午飯に呼ばれた。何の因縁か分らないがまづ御馳走になる方が得策だと思つて承引した。
 うれしきも悲しきも眼前の現象 月も花も刻下の風流。定業は何十年か知らないが、御駄佛となる迄はまづ/\此の如くであらうと思ふ 珍重
    三十八年大晦日の夜       金
   三 重 吉 樣
 今日野村傳四と上野を散歩したら、耶蘇教の戸外演説があつた。聞き手は一人もない。大晦日である。人間は衣食の爲めには狂氣じみた事も眞面目にやるものですな。其例澤山あり。
 
 
 明治三十九年
 
      三九九
 
 一月四日 木 前(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 松山市下京町小島武雄へ
 拜啓賀状拜見致候吉松氏任地にて評判よろしき由本懷の至うれしく候拙作御通讀被下候由難有奉謝候本年も相變らずつまらぬものをかゝねばならぬ事と存候御覽被下候はゞ幸甚に候。本年より早稻田文學藝苑其他にて文壇も大分賑やかになり候。其間に立ちて出頭没頭の陋態を極め候事大悟の達人より見ばは定めし可笑しからんと折々は自らさへも失笑致候先は御返事迄 匆々頓首
    三十九年一月三日         金 之 助
   中 島 樣
 
      四〇〇
 
 一月六日 土 後4-6 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區市谷砂土原町三丁目一八内田貢へ
 拜啓イワンの馬鹿御寄贈を蒙り深謝早速讀了致候小生淺學にてイワンの原書をよまざりし爲め却て一段の興味を覺え候。どうかしてイワンの樣な大馬鹿に逢つて見たいと存候。
 出來るならば一日でもなつて見たいと存候。近頃少々感ずる事有之イワンが大變頼母しく相成候。イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候。右不取敢御禮迄草々頓首。
    一月五日夜         金 之 助
   魯 庵 兄
 
      四〇一
 
 一月六日 土 後4-6 本郷區駒込千駄木町五七より 山口縣山口町白石松本源太郎へ
 啓上
 平素は御無沙汰に打過申譯無之候。新年は早速賀詞賜はり恐縮致候小生例の無精より年始も賀状も全癈と覺悟を定め候爲め斯の如く失敬致し候御容赦願上候。
 山口の風物は熊本よりも御氣に召した事と存候。御身體も御壯健の事と存候。東京へ參りて何となく生還りたる心地致し候。熊本は思ひ出してもいやに御座候。
 先は出任せ迄草々頓首
    一月六日           金 之 助
   松 本 先 生
         侍史
 
      四〇二
 
 一月六日 土(時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島縣山縣郡加計村加計正文へ
 拜啓
 君の方はまだ正月が來ないでせうが東京はもう一兩日で門松を取り拂ひます。新年は何となく新年らしいもので此正月は講義を作る積りの所まだ一枚も作らない。去ればと申して遊びもしない。必竟何の爲めか分らん。只休暇中は朝寐をする許りです。三重吉君は芝居をやるさうです。素人芝居をやる元氣かあれば大丈夫だと思ひます。君はぼーとを作つて居るさうですね。鯉は釣りませんか。今頃は雁位食へさうなものですな。本年から早稻田文學が出ます。上田君の藝苑といふ雜誌も出ます文壇頗る好景氣ですよ。僕は大學を辭職して書齋で炬燵にあたつてゐたい。君なんか金があるから羨しい譯ですな。先達て赤ん坊が生れました。僕は是で四人の女子を有するの榮をもつと云ふ騷ぎだが片付ける時の始末を想像するとゾツとするですよ。一ケ月許り三重吉先生の樣に沖の小島へでも渡つて仙人的生活をして見たい。今日浦瀬君が來ました。あれは君と知己ださうですね。いつでも青い顔をしてゐる。田舍で面白い事はないですか。バカンボーが生れる妻君が熱が出る。三人の女子が代る/\麻疹にかゝる抔は面白いですよ。源一郎福地といふ男が死んだ。今の學士や何かは學問文章共に出來るが女を口説く事と借金の手紙をかく事を知らないといふ演説をやつた男ださうだ。死んでも惜しくない人ですね。
 先は是迄草々
    一月六日夜          金 之 助
   加計正文樣
 
      四〇三
 
 一月八日 月 前(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 啓、長い手紙を頂戴面白く拜見致しました。御世辭にも小生の書翰が君に多少の影響を與へたとあるのは嬉しい。夫程小生の愚存に重きを置かれるのは難有いと云ふ譯です。小生は人に手紙をかく事と人から手紙をもらふ事が大すきである。そこで又一本進呈します。
 「野菊」を御讀みの由。詳細の御評拜見御尤もの事ばかりです。今度作者に逢つたら見せてやります。定めし喜こぶでせう。あの男は職業は牛乳屋で子規存生のみぎり一所に歌を研究して今でもアシビといふ雜誌を出して居る。小生は二三度會したぎり交際もない人です。あの作も一句一句吟味すると技巧の上では大分足らぬ所があると思ふ。君は讀むまいが矢張り前のホトヽギスに出た寺田寅彦と云ふ人の「團栗」とか「龍舌蘭」とかいふ作の方が逢かに技倆上の價値がある。只野菊に取るべき所は眞率の態度を以て作者が事件を徹頭徹尾描き出して居る點である。あれ丈の材料を普通の小説家がとり扱つたならもつと似非藝術的なものにして仕舞ふと思ふ。そこが頼母しい所だと思ふが、どうです。趣向は仰せの如く陳腐です。寧ろ月並臭を脱しない。然し仰せの如く月並臭くないからいゝ。それから君の非難をする箇所は一々尤もである。僕も多少さう思ふ。但し女が死んでからの一段はあれでいゝ實際です。尤も君の云ふ様にすれば死といふものに對して吾人の態度が違ってあらはれてくる許りである。死に崇高の感を持たせやうとするときは、其方を用ゐるがよいと思ふが、死に可憐の情を持たせるのは、あれでなくではいかぬ。野菊の行きがゝりから云ふてあれでなくてはものにならない。調和せんと思ふ。死は一つである。然し吾人の死に對する態度は色々ある。此態度如何で讀者の感じが違ってくる。然も其色々な態度が皆眞といふ事がいへると思ふ。
 女が猿股をいやがる所や、笠を被らない所は妙ですよ。つまり君の云ふ如く、あんな所で活動すると思ふ。女が死んで寫眞を持って居るのは寧ろ幼稚です。もつと上等に行けばそんな眼に見えるものを持たないでそれ以上の感じを起させるがいゝ。然しそれは中々大手腕が入る。前後の関係から云つて、寫眞を握って居たので一種の趣意が貫ぬいて、女の病死に落ち付きが出來るといふ點から見れば何にもかゝないより善い。
 病葉に就いて一言蛇足を添へるが。主人公が何だか六づかしい本を讀んで居る。あれは必要があるのですか。突然あれを讀むと。故意にあんな本を讀ませて居る様な、初心な氣障な感じがする。もつと長いもので主人公が一種の人物であんなものを讀むべき傾向を有して居るか、又はあの本があの短篇中に一種の関係を有して居るなら故意とは思はれなかったらう。尤も後段に一寸関係が出るがあれ丈では、あんな本をよます必用はないと思ふ。
 容赦なく云へば君は文に凝り過ぎて失敗しさうな懸念が僕にある。あまり凝ると抜目がない代りに何となく窮屈な苦しい感じがするでせう。第一長いものは到底根氣がつゞかないと思ふ。
 僕は君の文が出る度に讀みます。さうして時間の許す限り、心づく限りは愚評を加へる積りです。其代り惡口を云つても怒つてはいけません。大學では君の先生かも知れないが個人として文章抔をかく時は同輩である。決して僕に對して氣を置いてはならぬ。君はあまりに神經的、心配的、人の心を豫想しすぎる樣な傾向がありはせんかと思ふ。他人に對してはとにかく僕に對してはさうせん方がいゝ。君も氣樂でいゝでせう。野村傳四抔は氣樂なものである。あまり長くなるから是でやめます。 不一
    一月七日            金 之 助
   森 田 兄
 
      四〇四
 
 一月十日 水 前0-5 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市第二高等學校齋藤阿具へ〔はがき〕
 昨冬はわざ/\御出被下今春は早速御出にあつかり奉拝謝候小生例の如く疎懶欠禮御免可被下候。もはや仙台へ御歸りと存じ御詫迄一寸申上候以上
    一月九日
 
      四〇五
 
 一月十日 水 後2−3 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山藤山町四伊藤はる方森田米松へ
 又手紙をあげます。もう少し立つと色々多忙になつて到底返事らしいものはかけないから只今少々ひまのあるのを幸にこれをかきます
 君は大分長い手紙をかいてよこしましたね。あれ丈かくのは大分時間をとるに相違ない。僕の爲めに|な《原》んな勞力を費やさしたと思ふと中々頼母しい心持ちで讀みました。何か不平でも氣?でも洩したい時に時間があつたらいつでも僕の所へ云つて寄こしてくれ玉へ。僕は讀むのを樂しみにして居る。其代り必ずそれに匹敵する長い返事は出されないかも知れません。
 野菊の墓の評をかいて下さる由定めし本人(即ち牛乳屋の主人)はよろこぶだらう。どうかかいてやつて下さい。左千夫なんて聞いた事もない人だから誰も相手にしてはくれん。切角出色の文字でも誰も相手にせんでは甚だ氣の毒である。君が評をしてやれば僕も何だか愉快な氣がする。而も君の評は十中八九迄僕と同樣であると思ふから猶更愉快である。然しわるいと感じた所は遠慮なく云ふてやつて下さい。本人の參考になります。
 牛乳屋が氣に入つたといふのは見上げたものです。牛乳屋の主人の方が大學の講師よりも氣韻があると思ふ。顔も頗る雅な顔ですよ。あんなものがかけさうでもない。
 君は衣食の爲めに充分學問が出來んのを苦痛に感じて居る樣だが御尤もです。僕も貧乏で十八九の時から私立學校を教へて卒業迄やり通したが其時分は別に何と云ふ考もなかつたから左程驚きもしなかつた。是が今日の君の樣であつたら矢張り大煩悶であつたらう。夏休みに金がなくつて大學の寄宿に籠城した事がある。而して同室のものゝの《原》置き去りにして行つた蚤を一身に引き受けたのには閉口した。其時今の大塚君が新しい革鞄を買つて歸つて來て明日から興津へ行くんだと吹聽に及ばれたのは羨やましかつた。やがて先生は旅行先きで美人に惚れられたと云ふ話を聞いたら猶うらやましかつた。
 僕もその時分から眞の勉強(君の所謂ウイスドムを得る工夫)でも熱心にしたら今はもう少し人間らしくなつてるだらうと思ふ。其時分は本の名前を覺えて人に吹聽するのが學者だと思つて居た。趣味抔も低いものであつた。物の道理も今の若い人程は到底わからなかつた。要するに今でも愚物であるが當時は猶々愚物であつた。尤も見識はあつたが、只人を下げる見識で自分が證得したポジチーヴの見識ではなかつた。
 僕もそれだから大に聽明な人になりたい。學問讀書がしたい。從つてどうか大學をやめたいと許り思つて居ます。先達晩翠が年始状をよこしてまだ教授にならんかと云ふから「人間も教授や博士を名譽と思ふ樣では駄目だね。失樂園の譯者土井晩翠ともあるべきものがそんな事を眞面目に云ふのはよくない。※[さんずい+嫩の旁]《原》石は乞食になつても※[さんずい+嫩の旁]石だ……」と云ふ樣な事をかいてやりました。あとで成程小供らしい氣?だと氣がついた。
 君が人の作を讀む態度ば《原》甚だよろしいと思ふ。それでなければクリチシズムは出來ない。只人の長所を傷けない丈の公平眼は是非共御互に養成しなければならん。僕は人の作に對して只面白く讀みたい。よんでやりたいと云ふ氣が先へ起る。然し讀んで仕舞つて是は敬服したといふ樣なものはあまり少ない。矢張り西洋人の方がそんな感じを引き起させる事が多い。然し西洋人だからといつて決して一目置いて讀むのではない。二三日前鏡花の海異記とか云ふものをよんで驚ろいた。どうも馬鹿々々しいと云ふ感より外に起らなかつた。それから彼の文章のかき方がいやに氣取つて居て嫌だと云ふ感じがあつた。警句は無論澤山ある。あれをなぜもつとうまく繋げないのかと思ふ。かう感ずるが僕は鏡花に對して憎惡心も何も有して居らん寧ろ好意を以て迎へよむのである。こんなのは矢張り天性の趣味の相違でありませう。
 君の手紙をよむと君の人間を貫ぬいて見る樣な心持ちがします。君と二三月交際しても、あれ程には分るまい。人に自己を打ち明けるといふ事は放膽の所爲である。打ち明けられた人は其放膽をほめるのではない。他に打ち明けぬものを自分にのみ打ち明けてくれたと云ふ特許を喜ぶのである
 自分の弱點に對しては二樣に取り扱ふ方法がある。一は之を隱して自己の虚榮心を失望させまいとする。是は誰でもやつて居ます。僕もやつて居ます。然し決して滿足が得られるものではない。一はコンフエツシヨンである。然し無用の人若しくは此コンフエツシヨンをきいて之を輕蔑する人若しくは之を利用して害を加へやうとする人には自白したくない。だから此場合には己れの信ずる人、若くは敬する人、或は教を垂れて訓戒してやらうと思ふ人に自白するのである。其時は甚だ愉快を覺えるものだ。單に本人が愉快を覺えるのみならず。相手も快よく思ふ。君がもし君の書中に自己の弱點も構はず吐露したとすれば、其點に於て君は愉快である。僕が君の自白を聞き得たる相手とすれば僕も愉快である。
 これからはいそがしくなるといつこんな長い手紙をあげられるか分らない。一先づ是で擱筆とします。
以上
    一月九日夜          金 之 助
   森 田 兄
 
      四〇六
 
 一月十四日 日 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 清國南京三江師範學堂菅虎雄へ
拜啓平生は御無沙汰をして濟まん。年禮も賀状も今年は全癈として見たが矢張り中川元さん抔からくるとさうも行かぬ。君の留守宅へも失敬して仕舞つた。いづれ妻がまかり出る。僕のうちでは又去年の暮に赤ん坊が生れた。又女だ。僕の家は女子專門である。四人の女子が次へ次へと嫁入る事を考へるとゾーツとするね。貯蓄をせんといかん。然るに去年の十二月抔は色々かゝつて三百圓近く仕拂つた。幸ひ著作の印税があつたので間に合つたが何しろ。金の入るのには驚くね。君は出來る丈貯蓄をせんとゆかぬ。君に返す金は矢張り十圓宛にして居る今年中位で濟むだらう。東京も別段變つた事もない。近頃は天氣がいゝ。狩野も大塚も藤代も例の如くだ。藤代位學校を欠勤する男は珍らしいね。僕大學をやめて江湖の處士になりたい。大學は學者中の貴族だね。何だか氣に喰はん。ホトヽギスを君の所へ送る樣に依頼して置いたが行くだらうね。四月には歸るまいね。居られるならそちらに居るがいゝと思ふ。東京に口はなさゝうだ。まあ此位にして置かう此手紙は君が呉れた純羊毫でかいたのだいつ迄立つても字はうまくならない。君の字は立派なものだ。御寺の額にでもありさうだ。繪端書には堅過ぎて釣り合はない 以上
    正月十四日          金
   虎 雄 樣
 
      四〇七
 一月十六日 火 前0-5 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 今夜野村が雉子と卷紙を持つて來てくれました。御親切にありがたう存じます。あの紙は妙な紙だね。此紙は寺田が高知から持つて來てくれたものだ。先達ては橋口が白紙の卷紙をくれた。其前は菅が唐紙を支那から持つてきてくれた。僕は紙大盡だ。今年中は紙を買はずに濟む。君憂鬱病のよし結構に存候。憂鬱も快活も全く本人の隨意と存候。小生抔は一日に兩方やり申候。昨日は野村と日本橋、神田、淺草を散歩致し候。柳橋で藝者に逢ひ候。其外竹本組玉、竹本團洲、都々逸坊扇歌の家をつきとめて歸り候。皆川には頓と逢はず候。 頓首
    正月十五日          金
   眞 綱 樣
 島津の若大將には此方から禮状を出す
 
      四〇八
 
 一月十七日 水 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區三田君塚町一〇行村方皆川正※[示+喜]へ
 尊書拜讀野間は憂鬱病に罹つた由を申來候けしからぬ事に候。三十にもならないで憂鬱病抔と申す贅澤な事を申し候。
 其後はしばらく拜顔の期を得ず。不相變餅を食つて御消光の事と存候。小生も例の如く漫然と消光致し居候。其うち會食でも致し度と存候
 趣味の遺傳御讀み被下難有候。結末の一氣呵成の所をほめて下されたのは望外の幸福と存候。實は時間がたりなくて、かけなかつたのです、仕舞をもつとかゝんと、前の詳細な叙述な《原》比例を失する樣に思ひます。
 あれは誤植誤字だらけであります。
 野菊の墓の末段をわるく云ふ人は君の外にあります。森田二十五絃が同樣の事を云つて來ました。僕はさうも思はない。東京邊の家庭にはこんな御シヤベリな婆さんがあるものだと存候。
 野間が雉子を屆けてくれました。是は島津の若旦那の御見やげです。昨夜無暗にたべた所今日腹がわるく候。
 いづれ其内 草々
    十 六 日          金
   皆 川 兄
 
      四〇九
 
 一月二十一日 日 前0-5 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ〔はがき〕
 前略享保前後の漢學者の文集の名十ばかり御教示にあづかりたく候。御ひまの節かいてきて學校で御渡し被下ば幸甚。右御願迄 頓首
    一月二十日夜
 
      四一〇
 
 一月二十四日 水 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町一二〇愛知社中川芳太郎へ
 拜啓ハーンから二十五圓來て懷中暖氣の由結構。然し二十五圓の金を見て夢の樣だ抔とは頗る安い了見に候。小生はこゝに百萬圓くれる人があつても夢の樣にはなるまじく候。金を得てうれしく使ふのは當前に候。金を得て驚喜夢の樣になるのは金に中毒したものに候。左樣な心掛にては金さへ見れば何でもする樣になり候。貧乏も心の持ち樣では遙かに金持ちより高尚な氣がするものに候。是は入らぬ講釋をして失敬千萬に候。怒つてはいけません。奥山をあるいて平氣な傳四は見所のある所《原》に候。傳四は學才と云ふて左程の事も無之候へどもあゝ云ふ所が長所に候。大兄は才學は遙かに傳四の上に候然し平氣な點は遠く傳匹に及ばず候。五圓殘つてるなら甘いものを食つてどん/”\運動をして將來に於て世の中と喧嘩をする用意をして御置きなさい。 以上
    一月二十四日          金
   芳 太 郎 樣
 
      四一一
 
 一月二十六日 金 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 其後御無沙汰仕候二月のほとゝぎすに何か名作が出來ましたか。僕つら/\思ふにホトヽギスは今の樣に毎號版で押した樣な事を十年一日の如くつゞけて行つては立ち行かないと思ふ。俳句に文章にもつと英氣を鼓舞して刷新をしなければいかないですよ。と申して別に名案もないから只主人公たる君が大奮發をするより外に仕方がない。文庫新聲抔一時景氣のよいものが皆駄目になるのは時候後れだからと思ひます。ホトヽギスも賣れるうちに色々考へて置かぬとならんでせう。
 先づ卷頭に毎號世人の注意をひくに足る作物を一つ宛のせる事が肝心ですね。夫から君は毎號俳話をかいて、四方太は毎號文話でもかいたらどうです。四方太は原稿料が出ないと云つてこぼして居るがあの男はいくら原稿料を出しても今の倍以上働くかどうか危《原》しいものだ。とにかくもつと活氣をつけたいですね。小生餘計な世話を燒いて失敬だがホトヽギスが三四千出るのは寧ろ異數の觀がある、決して常態ではない油斷をしては困る事になると思ひます。
 そんなら僕に何かかけと來るかも知れんが僕は取りのけ別問題です。一寸手紙をかく序があるから是を差し上げます。苦い顔をしてはいけません 頓首
    一月二十六日        金
   虚 子 樣
 
      四一二
 
 一月三十一日 水 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 清國南京三江師範學堂菅虎雄へ〔封筒に「要事親展」とあり〕
 拜啓先日の手紙は狩野に見せた。藤代にも相談をした。然るに東京では先便申した通りどこにも口がない。高等學校へ復校の事を一寸狩野に云つて見たら金は一文も出ないといふ。そこで我々の意見では君が歸つたら歸つた時の分別として其時にどうかする積である。然しもし出來得るならば相當の見込が立ちて差支なき迄南京に居るのが得策である。菊池にあゝ云ふ風に斷言する以上は菊池と並び立ち《原》譯には行くまいが菊池の方でやめるなら君は留任してもよいだらうと思ふ。是は僕一人の考ではない狩野も藤代も同意見である。元來喧嘩をして相手が居るのに自分の方が引くのは間違つて居る。是非共相手をやめさせなければならん。もし相手がやめれば自分は辭職する必要はないものと思ふ。
 辭職事件に關係してこんな事がある。狩野の方で金が多少儲かる事業があるさうだ。今資金を投ずれば慥かに二倍になると云ふ話である。所で萬一君が四月にでも歸朝してすぐ口がないと假定すると君の貯蓄が一錢でも多い方が便利である。からして今君の貯蓄金を擧げて狩野に一任して貨殖の道を圖るがよからうと思ふ。僕は詳しい事情は分らぬ。只狩野のいふ事だから間違はないものとして報知する。實は我々で勝手に處理して事後承諾を求める積りであつたが夫はよろしくあるまいといふので一應相談する事にした。一二日でも遲くなればなる程損が行くのださうだ。だから此手紙がつき次第同意ならばよしといふ電報を打つてくれ。さうすれば狩野がいゝ樣にする。(尤も其時既に機を逸してうまく行かなければやめるかも知れん)。夫から君の貯蓄はどの位で株であるのか金であるのか分らんが是は妻君に聞けばいゝのだらうな。
 右用事迄匆々
    二《原》月一日          金 之 助
   虎 雄 樣
 
      四一三
 
 二月三日 土 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 拜啓
 先日皆川君のうちへ行く約束はしなかつた都合によつたら行くと申してやつた。然し待つて居たのは氣の毒である。小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送つて居る。是を思ふと河上肇などゝ云ふ人は感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病氣の所が感心だ。君の憂鬱病はどうなつた。金を百圓許り借りて大に青樓に遊んで見たまへ。大抵の憂鬱病は屹度全快する。放蕩は長く續くものではない。放蕩をつゞけると放蕩の方の憂鬱病が出てくる。さうしたら又勉強をする。又憂鬱病になる。又何か道樂をやる。是で澤山だ。是を姑息手段といふ普通の人間は大概やる。君は此姑息手段さへやらんから病氣になるのである。
 近頃は訪問者が少々減じて難有い。忙しい事は依然として忙がしい。生涯此有樣であらう。而して生涯落ちつく事はない。僕のキユー/\して居るのも亦姑息手段に過ぎぬ。要するに大俗物になつて益大俗物たらんとアセルのだね。是ではどこがえらいか分らない。人間は他が何といつても自分丈安心してエライといふ所を把持して行かなければ安心も宗教も哲學も文學もあつたものではない。 頓首
    二月三日          金
   眞 綱 樣
 
      四一四
 
 二月六日 火 後17-4 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野問眞綱へ
 拜啓陸軍の英語教師の口があつた由何より結構の事と存候實は君の口に就ては内々心配して居つたが是で僕も安心した精出して御勤めなさい決してなまけてはいけません。其内月給が上つて美人の妻君がもらへます。
 金がとれて地位が出來ると憂鬱病も退散するだらうと思ふがどうですか。僕なんか百萬圓もらつても憂鬱病だね。呵々
    二月五日           金
   眞 綱 樣
 
      四一五
 
 二月七日 水 前0-5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 謹白傳四先生足下
 僕の友人の西洋人が乃木將軍の傳をかくといふので吉田松蔭《原》の著書を知りたいと申すが君だれかにきくか一寸圖書館で見てくれないか。尤もどこで賣つてるか分れば猶よい。夫から福地櫻癡の幕末記事は今賣つてるかね。いくらでどこに賣つてるか教へてくれ給へ。櫻癡といふ人の逸話を讀んだがあれは駄目な人間だ。然し當人は餘程えらいと思つてる。生前は可成有名でも死ねばすぐ葬られる人だ。一寸學校の成蹟はよくても卒業して駄目になると同じ事だね。然しあんな淺薄な人間でも人から大にもて囃されるのだから殊に女から屡惚れられるのだから妙なものだね。さうなると女に縁が遠い程えらい人といふ譯だな。君なんか少しは奢つてもいゝ。
 三月には猫のつゞきをかく積りで居る。レクチユアはまだ一枚もかゝない。それで毎日々々何か蚊にか忙がしい。今度の猫に惡口をいふ材料はないかね。落文舘なんか相手にならんから今度はやめにして又金田令孃の御見識でもかゝうかと思ふ。
 先達て女から手紙が來たよ夏目先生御許へとかいてある。見たければ御見やげを持つて居らつしやい。但し有體にいふと來ない方がいゝ 再拜
    二月六日          金
   傳 四 先 生
 
      四一六
 
 二月十一日 日 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 昨夜君の手紙がつきました。加計君が結婚をしたのは御目出たい。男爵の娘だなんてそんなものが山の中で役に立つでせうか。然しそれは餘計な事だ。とにかく御目出たい。君小説をかいたら送り玉へ。早く拜見仕りたい。近頃は色々な雜誌屋や何か來ていやになつて仕舞ふ。文章も作るひまがない。芝居は是からやるのですね。東京でも坪内さんの門下生がやりますよ。押入のなかで三味線をひくのは近世奇人傳にでもありさうだ。そんな事が出來れば病氣はまづ大丈夫ですね。猫の原書をかひにくるのは猫中の材料だ。色々な人があるものだ。大町といふ男が猫をよんで作者は氣の小さい陰氣な少し洒落氣のある男だと二度も三度も繰り返して居る。人民新聞といふのには僕が猫を作つて以來細君と仲が惡るくなつたとあるさうだ。すると高等學校で其きり拔きを大事に校長に御目にかける。内田魯庵といふ男は夏目君は金田夫人に談判されて迷惑して居るさうだとある男に話したさうだ。
 僕も此位有名になれば申分はないと思ふ。昔はこんな事が氣にかゝつて一々正誤しないと心持ちがわるかつた。今では却つて面白い心持ちがする。是から文章でもかいてながく居ると益僕の惡口をいふものが出て來ます。仕舞には漱石は昨日死んださうだ。いや瘋癲院へ這入つた。華族の御孃さんから惚れられたなんて妙なのが出て來るでせう
 今日は紀元節でいゝ天氣です。一昨日は雪でね。大變積つた。今日も道がわるい。昨夜は中川や何か四人ばかり來て夕飯をくつて快談をして暮らしました。
 廣島といふ所はどんな所か行つて見たい。廣島のものには僕の朋友が少々ある昔は大分つき合つたものだ。猫のうちにある甘木先生も廣島の人だ。毎日役々としてくらすのが人間の目的だとあきらめて仕舞つたが本もよめず、樂に坐つてる事も出來ないとなると一寸弱りますね。
 もつと何かかゝうと思ふがいやになつたからやめ。
 加計によろしく云つてくれ給へ。妻君は美人ですか。 以上
    二月十一日紀元節朝         金
   三 重 吉 樣
 
      四一七
 
 二月十一日 日 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ〔はがき〕
 昨夜電報にて菅より同意の旨返事ありたりよろしく御取計を乞ふ
    二月十一日
 
      四一八
 
 二月十三日 火 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 尊書拜見
 君の心の状態が果して君の云ふ所の如くなれば君は少々病氣に相違ない。病氣がわるいとも云はぬ。よいとも申さぬがつまり自分が苦しむ丈不幸と云はねばなるまい。前の手紙にも云ふた如く君はあまり感じが強過ぎるので其鋭敏な感じに耽り過ぎた結果今日に至つたのであらう。そんな時には人が異見をしたつて慰めたつて容易に癒るものではない。自然に任せて於《原》て同時に氣を晴らすより外に方法はない。そんな時に神經質な文學書抔を讀むと猶いけない。可成方面の違つた人間と話したり丸で趣味の違つた書物を讀んだり。若くは人と喧嘩をしたり。或は借金をして放蕩をして見たり。或は人に手紙を出して鬱氣を洩らすがいゝと思ふ。君は最後の手段に訴へて手紙をよこして《原》のかも知れないが偖僕が君に同情を表して泣言を並べると君は多少頼りになるかも知れないが病氣は益はげしくなる。去ればと云つて冷淡な返事をすれば矢張りわるくなる。或は月並な説教がましい事を云つたら何の功能もない事となる。是には僕も少々弱るな。
 僕も昔は非常に馬鹿で薄志で剛慢でしかも世人が大變恐ろしかつたが今は大分變化して仕舞つた。性格は此三四年以來いちゞるしく變化した。只氣分丈は矢張り若くて學生なんか友達の樣な氣がする。
 それで近來は僕が文章をかくものだから人が色々な事をいふ。大町なんかは僕の惡口を二度も繰返して居る。人民新聞では僕が猫をかいて細君と仲がわるくなつたとかいたさうだ。ある人は僕が金田夫人に強迫されて迷惑して居ると話したさうだ。是が十餘年前なら眞面目に辯解する所だが今日ではそんな氣は少しもない。桂月なんて馬鹿だと頭から思つてる。新聞なんて何をかかうと構はないときめて居る。なぜこんなになつたか分らない。又これがいゝとも斷言しない。然し昔より太平である。人間は太平の方が難有いに相違ない。人間として僕は決して君の師表たる樣な資格はない。然し世の中にこんなえらい人になつて見たいと崇拜する人間は一人もない。だから君も君で一人前で通して行けば夫で一人前なのだから構はんではないか。
 人が笑ふから云々と云ふのは尤だが今の文壇で人の笑ふに價せざる者ばかりを作る人は殆んどない。丁度朋友其他の知人中に於て馬鹿の分子を含んで居らんものは一人もないと同じ事であらう。
 先づ最前の大町桂月の様なのは馬鹿の第一位に位するものだ。竹風先生だつてあんなものだ。樗牛なんて崇拝者は澤山あるがあんなキザな文士はない。然しみんな押を強くして平氣で居る。何も君一人が閉口する必要はない。つまらないと感じて文壇を退くなら分つてるが。何もそんなに自分丈を妙に考へる必要はあるまい。僕なんかは蔭では矢張り僕が桂月其他を目する如く批評されてるのである。然し些とも構はん。蔭で云ふ事なんかはどうでもよろしい。文章もいやになる迄かいて死ぬ積りである。
 他人は決して己以上遙かに卓絶したものではない又決して己以下に遙かに劣つたものではない。特別の理由がない人には僕は此心で對して居る。夫で一向差支はあるまいと思ふ。
 君弱い事を云つてはいけない。僕も弱い男だが弱いなりに死ぬ迄やるのである。やりたくなくつたつてやらなければならん。君も其通りである。死ぬのもよい。然し死ぬより美しい女の同情でも得て死ぬ氣がなくなる方がよからう。
 先達て憂鬱病だと云つた男にかう答へてやつた
「借金を百圓許して放蕩をやれば憂鬱はなほる。もし放蕩を永くつゞけると放蕩の方で憂鬱病が出る。さうしたら又放蕩をやめて勉強をする。是が普通の人間のとる尤も自然の方法である。是は姑息手段であるが誰にでも出來る。然しそんな面倒な事をやつたりやめたりせんで一度に天下太平になるのは。死ぬ丈の覺悟で以て大に考へ込んで近頃はやる自覺でもしなくてはなるまい。自覺になると僕は知らない事だから一言も云へない……」
 僕の文章の評をしてくれたさうで寔に難有い。夫は拝見の上にてまた何とか申し上げやう 以上
    十三日           金 之 助
   森 田 様
 
      四一九
 
 二月十三日 火 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 今日歸宅の上藝苑を拝見した。僕の文の批評は結構であります。あれは頗る比例といふ點から云つては丸駄目の作である。趣味の遺傳といふ趣味は男女相愛するといふ趣味の意味です。猫は世の中があきた抔といふ事はない。二三の氣短かな連中がそんな事を云ひたがるのだ。猫の讀者はそんなに急にあきやしない。僕のつむじは眞直なものさ。猫をかくのは立派な考だと思つてる。決してブク/\湧いて出ては来ない。只無暗にかいてるとあんなものが出来るのです。
 天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず。而も己れ程頼みにならぬものはない。どうするのがよいか。森田君君此問題を考へた事がありますか 頓首
    二月十四《原》日          金
   森 田 君
 
      四二〇
 
 二月十五日 木 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 清國南京三江師範學堂菅虎雄へ
 先日の電報正に落手早速狩野に話したら狩野の云ふには今でも成算がない一時は大變景氣がよかつたが其後思はしくないから當分よす方がよからうと云ふから其儘にしてある電報抔をかけさせてあとは知らぬ顔をして居るのは不本意であるから右一寸御斷りをして置くあしからず思ふてくれたまへ其内好景氣になつて充分の見込がつけば又そんな事にするから其積で居つてくれ玉へ尤も今度は斷りなしに斷行するかも知れぬから君から細君に其旨を通知して置きたまへ
 當地寒氣烈敷困難である。雪が降つて路がわるい僕身體の具合よろし大兄も丈夫の事と思ふ例の件は如何か。高等學校の支那人から駄目もう引きうけぬ方がよからうと思ふ。岩元は始終不平をいふて支那の生徒を攻撃して居る 以上
    二月十四日           金
   虎 雄 樣
 
      四二一
 
 二月十五日 木 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 又手紙をあげます
 自分の作物に對して後悔するのは藝術的良心の鋭敏なので是程結構な事はない。此量見がなければ文學者になる資格はないと思ふ。
 自分で自分の價値は容易に分るものではない。古來からちつとも文藝に志さなかつたものが急に筆を執つて立派な作を出した例は澤山ある。夫迄は自分の何物かゞ分らなかつたのである。小説とか何とか云ふものは必ず一足飛びに大作は出來るとは限つて居らん。突然うまいものをかくのは天分の充分に發揮されべき機が熟した時に限るので他の人は書きつゝも熟しつゝも進んで行くのである。
 僕の樣なものが到底文學者の例にはならないが僕は君位の年輩のときには今君がかく三分一のものもかけなかつた。其思想は頗る淺薄なもので且つ狹隘極まるものであつた。僕が二十三四にかきかけた小説が十五六枚殘つて居た。よんで見ると馬鹿氣てまづいものだ。あまり耻かしいから先達て妻に命じて反古にして仕舞つた。
 勿論今でも御覽の通りのものしか出來ぬが然し當時からくらぺると餘程進歩したものだ。夫だから僕は死ぬ迄進歩する積りで居る。
 夫から今日の事を申すと(例へば猫を一節かくと)此次にはもうかく事があるまいと思ふ然しいざとなると段々思想も浮んでくる先づ前回位なものは出來る。すべてやり遂げて見ないと自分の頭のなかにはどれ位のものがあるか自分にも分らないのである
 君抔も死ぬ迄進歩する積りでやればいゝではないか。作に對したら一生懸命に自分の有らん限りの力をつくしてやればいゝではないか。後悔は結構だが是は自己の藝術的良心に對しての話しで世間の批評家や何かに對して後悔する必要はあるまい。
 君は自我の縮少を嘆じて居ると同時に君の手紙中には大に自我を立てゝ居る。君の手紙の如く我が立つて居ながら夫でも自から小さい/\と嘆息するのは必竟幾分かのウソが籠つて居る
 コンフエシヨンの文學は結構である。コンフエシヨンの文壑程人に教へるものはない。夫で澤山だから立派なものを書けばよい。容れられない事はない君は未だ其方面に於て雄飛して見ないのである
 君の文章には君位の年輩の人にしてはと思ふ樣な警句が所々ある。夫丈でも君は一種の寶石を有して居る。君の手紙を見ると言廻し方の中々うまい所がある。他人が後悔せぬ所を恨む邊はうまくかきこなしたものだ。君の手紙のうちには形容の妙な言語もある。ドブ鼠の樣に音もたてずに凍りついて死にたい抔は振つたものだ。
 君の批評を見ると普通の雜誌記者抔よりも遙かに見識が見える。よくよんで居る。だから自分の作物上にでも其見識は應用され得るに相違ない。
 僕は君に於て以上の長所を認めて居る。何故に萎縮するのである。今日大なる作物が出來んのは生涯出來んといふ意味にはならない。たとひ立派なものが出來たつて世間が受けるか受けないかそんな事はだれだつて受け合はれやしない。只やる丈けやる分の事である。
 衣食は無論窮する事位覺悟しなければならない。そんなに贅澤をして見たり名文をかいて見たりしては冥利がわるい。
 此夏は君は卒業する。卒業すればパンの爲に苦しむ。當前である。それがいやなら、すぐに中學校の口をさがして田舍へ行けばよい。
 僕の旋毛は直き事砥の如し。世の中が曲つて居るのである。猫は苦しいのを強いて笑つてる許ぢやない。ほんとに笑つてるのである。
 此手紙に對して別段返事はいらない。只奮つて強勉し玉へ 以上
    二月十五日           金 之 助
   森 田 兄
 
      四二二
 
 二月十五日 木 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區指ケ谷町七八姉崎正治へ
 拜啓今日は學校で立談の際御互の意志の通ぜぬ所もあるから改めて手紙で愚存を申し上げる。實は○○さんが逢ひたいとか又は折り返して罫紙入りの半官文的のものをよこすと又面倒だから君迄申して置く
 英語學試驗囑托辭任の事はあれで濟んだ事と思つて居た所はからずも君等に御心配をかけて相濟ん是は大に僕の謝する所である。謝する所であるから腹藏のない所を話して判斷をしてもらはう。
 辭任の理由は多忙といふ事に歸着する。僕は一週間に三十時間近くの課業をもつて居る。是丈持たなければ米塩の資に窮するのである而してそれ以外にも用事がある。讀書もしなければならぬ。だから多忙といふのは佯りのない所で尤な理由である。
 次に僕は講師である。講師といふのはどんなものか知らないが僕はまあ御客分〔三字傍点〕と認定する。大學から普通の教授以上叮重に取扱はれてもよいと考へて居る。大學の方ではさうは思はんかも知れんが僕の方ではさう解釋してゐる。從つて擔任させた仕事以外には可成面倒をかけぬのが禮である。
 其代り講師には教授抔の樣な權力がない自分の教へる事以外の事に口は出せない。夫等は皆教授會で勝手にきめて居る。語學試驗の規則だつても講師たる僕は一向あづかり知らん。いつの間にかあんなものが出來上つて居るのである。
 だからあんなものから生ずる面倒は之をきめた先生方と當局の講師が處理して行くのが至當である。自分たちが面倒な事を勝手に製造して置いて其勞力丈は關係のない御客分の講師にやれといふ理窟はない。
 尤も相談づくならそれでもよい。○○○○は僕を以て報酬がないからやらんのだと教授會で報告したさうだ。其解釋は至當である。僕自身もさう考へて居る。僕の樣なものに手數(擔任以外の)をかけるには金銀か、敬禮か、依頼か、何等かの報酬が必要である。それがなくて單に……囑托相成候間右申し進候也といふ樣な命令なら僕だつて此多忙の際だから御免蒙るのはあたり前である。
 もし僕の辭任に對して學長始め其他の教授が不穩當と認めるならばそれ等の人々は講師と云ふものゝ解釋に於て全然僕と考を異にして居るのだ。僕の考では講師を使ふには教授を使ふよりも遠慮しなくてはならん。見玉へ講師は教授會の事に就て何等の權利ももつて居らんではないか。俸給の點から云つても無給のさへあるではないか。講師は教授に比すれば斯の如く特權が與へられて居らんのであるからして、講師の方では擔任以外の事を命令的に押しつけられてヘイ々云ふ丈の義理がないぢやないか。
 僕は僕の擔任する六時間の講義さへして居れば講師としての義務はそれ以外にはないものと信じてゐる。夫だからして文科大學宛で斷り状を出した。もし文句がわるいと云ふなら是にも理由がある。文科大學から來たのだから個人に對する樣な愛嬌のある文句はかけないのである。文科大學御中としてはあれ丈の表面上の事しか言ひ得ないのである。
 君は親切に色々心配してくれるし井上さんもさうだといふから一應僕の考を述べて英斷を仰く譯だ。でとにかく今回は御免蒙るよ。
 此手紙は○○さんに見せても井上さんに見せても乃至は教授會で朗讀してくれてもさし差《原》し支ない。君も迷惑だらうが妙に引きかゝつたもんだから宜しく取計つて下さい。 以上
    二月十五日          金 之 助
   姉 崎 兄
 
      四二三
 
 二月十七日 土 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川固指ケ谷町七八姉崎正治へ
 拜啓
 君の返事は拜見した。個人としての御忠告は難有感謝する。決して惡意を以て見る樣な事はしない。たとひ指圖であつても決して怒りはせん。
 然し學長からもう一返何とか云つてきた時に何と挨拶するかはあらかじめ君に受合ふ譯に行かん、のみならず僕自身にも分らない。時と場合によつては斷然斷はらんとも限らない。是は決して君の親切を無にする考からではないから誤解してくれては困る。
 高等學校の入學試驗が毎年ある。其折には學校長がよく僕の宅へ依頼にくる事がある。然し僕は多忙の故で毎々辭する事がある。それでそれぎりになる。淡泊なものだ。世の中は夫で澤山である。
 夫では惡るいと云ふのは形式に拘泥した澆季の風習だ。二十世紀は澆季だから仕樣がないが俗吏社會、無學社會ならとにかく學者の御そろひの大學でそんな事をむづかしく云ふのは大學が御屋敷風御大名風御役人風になつてるからだよ。
 大學で語學試驗を嘱托する、僕が多忙だから斷はる。其間に何等の文句は入らない。もしそれが僕の一身上の不利益になつたり英文科の不利益になれば僕のわるいのぢやない。大學がわるいのだ。
 語學試驗なんか多忙で困つてる僕なんか引きずり出さなくつたつて手のあいて居る教授で充分間に合ふのだ。
 僕なんかは多忙のうちに少しでもひまがあれば書物を一頁でも讀む方が自分の爲にも英文學科の將來の爲にもなると思つて居る。語學試驗を引き受けないでけしからんと思ふなら隨意に思ふがよい。○○さんなんか何と思つたつて困りやしない。少々こんな謝絶に逢ふ方が人間といふものが理解されていゝのだ。學長たるものは只歴史の大家になつたつて駄目だよ。少しは世の中の人間はこんな妙な奴が居つて講師でもそんなに意の如くにはならないといふ事を承知させるがいゝのだよ。 頓首
    二月十七日          金 之 助
   姉 崎 兄
 
      四二四
 
 二月十九日 月 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓カーライルの家の寫眞は持ち合せずカーライルの家に關する案内記樣のものは別封にて入御覽候御參考にも相成候はゞ幸と存候夫から今度の插繪の事も小生から御願に參上可仕筈の處多忙の爲め本屋まかせに致置候甚だ無申譯次第御容赦可被下候
 次に插繪は別段の望無之只繪として面白きもの價値あるものを御無理にも願度と存候
 服部申候には御報酬としては普通の例にならふ必要なしと。去れば御手間のかゝり具合と出來のよさ加減にて充分御請求願上候
 いづれ拜顔の上〔一字不明〕御禮可申上候へども以序右迄申上候 艸々
    二月二《原》十日         金 之 助
   不 折 老 臺
         座下
 
      四二五
 
 二月二十口 火 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五薮中方野村傳四へ
 拜啓君の苦心の作を四方太が失敗だと申し小山内が傑作だと申したので君大に惑ふのは尤もだ。然し四方太と小山内と反對の批評をするのは寧ろ當然で驚ろく事はない。小山内のかいたものを四方太に見せ四方太のものを小山内へ持つて行つたら兩方で是はだめだといふに違ない。僕はどうかといふと自分でも分らない。然しとにかく見せ玉へ公平なる評番《原》を仕るから。尤も世の中は色々なものでほめてくれても銘々はめ所が違つたりわるく云つても惡くいふ場所が皆異なつて居る。どんなものでもほめられもするし、くさゝれもする。どんな男でも女を口説いてる内は生涯に女房の一人や二人やもてるものだからな。天下の別嬪だつて難くせをつければいくらでもあるよ。とにかく苦心の御作とあるからは是非拜見仕らうから郵便で送り玉へ 以上
    二月二十|一《原》日         金
   傳 四 先 生
 四方太は倫敦塔幻影の盾は面白いといふが薤露行はわからぬといふ人だ。僕には其理由がわからん
 
      四二六
 
 二月二十二日 木 前7-8 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五薮中方野村傳四へ
 只今一昔を拜讀に及んだから愈斷案を下さねばならぬ
 四方太と撫子先生の評を左右にならべてどつちに賛成するかと問はれゝば余は四方太に賛成する。
 然し君の作のうちで尤も失敗の作かといふとさうではない。君は尤も苦心の作だといふけれども僕が見れば他の出來のいゝ諸篇より同等より少し下位の程度のものだ。
 だから四方太に賛成する爲には失敗といふ意味を大に高くしなければならん。
 小山内君がほめるわけは分つた。あの男はこんなものがすきなんだ。あれは趣味が近いからほめるのだよ。
 以上謹んで僕の斷案を左右に呈す。此斷案は決して動かぬ斷案であります。君決して疑ふなかれ
 今榾火といふのをついでによんだ。榾火も芝居がゝりだが一昔〔三字傍点〕よりはよつぽどいゝと思ふ 再拜
    二十一日         金 之 助
   傳 四 樣
 
      四二七
 
 二月二十三日 金 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 東京帝國大學坪井九馬三へ〔封筒表の宛名に「文科大學長坪井九馬三殿」とあり〕
 拜啓
 昨日は小生英語學試驗委員辭退の件につき再應教授會の御意見を御代表にて御勸めに相成まして先づ一通り貴意のある所は分りました。
 何度も御心配をかけて御迷惑の事と存じます。其節は卑見を充分申述べる暇もなく御授業時間切迫の爲め引き取り甚だ不本意に存じます。右につき再び御面會の上思ふ通りを陳述致したいと存じま〔す〕が御多忙中却つて御迷惑と思ひますから書面にて今一應申上ます。
 昨日の御話では教授會では小生の辭退の理由を至當と認められたさうでありますが是は小生の深く教授會に對して謝する所であります。然しそれにも關らず強いて小生に委員たれと御依頼になるのは小生に取つて非常の光榮とは思ひますが此光榮たる少々自ら雙肩に擔ふを恐れたく思ふのであります。御話の模樣では教授中には適當の人物なき故英語に關係深き小生を推すやに理解致しましたが是は小生に取つてはいたみ入る御謙遜の御言葉と存じます。教授のうちには多年歐米に留學せられて普通の語學者よりも斯道にかけて秀でたる人々多しとは單に小生の思ふのみならず一般の公論であります。去ればこそ今回の試驗委員中にも一名の教授が御加はりに相成つて試驗を御監督に相成る事と存じます。只御監督に相成る所を一歩御奮發下さつて答案を御覽下さるれば此問題は一も二もなく解決の出來る事と存じます。昨日事務室で試驗の程度を示した書名一二を拜見致しました所ミルの論文やギボンの歴史抔があげてあつた樣に思ひます。ミル抔は哲學者がよむ方が小生抔よりも明かに分ります。ギボンも歴史家によませる方が私よりうまく讀めませう。かくの如く小生如き者が進んで委員となるよりも教授の方々が銘々御試驗になる方が尤も學生の實力が分り易い樣に存ぜられます。教授會では教授中に適當な人がないとの仰せで無理にも小生をとの御命令ではありませうが小生の見る所では全く反對で却つて其專門の教授方が擔任せらるゝ方が好成績が出るに相違ないと思ひます。のみならず既に一名の西洋人が委員となつて實用的英語の方はそちらで間に合ひますから、どつちから云ふても小生の必要は認められません。かう申すと何か無暗に頑固を主張する樣で甚だ濟みませんが、私の方から教授會の御意見を伺ふと教授會の方が無理を云つて入らつしやる樣に聞えます。實際出ないでも濟むものを無理に出して二百人の答案をしらべさせる抔は人が惡いじやありませんか。どうか御助け下さい。
以上
    二月二十三日           夏目金之助
   坪 井 先 生
         虎皮下
 
      四二八
 
 三月二日 金 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓昨夜服部書店主人大兄の插畫持參逐一拜見致候。いづれも見事なる出來滿足不過之と存候あれは今迄のさし畫に類なき精巧のものにて出來の上は定めし人目を驚かすならんと嬉しく存候。夜中にてよくわからざりしかど、かの倫敦塔の圖の如きは着色の點に於いて慥かに當今の畫家をあつと云はしむるにたる名品と存候。小生日本人のかいた水彩にてあの如きしぶき設色を見ず。只うまく板に出來ればよいがとそれが心配に候。此邊は大兄よりきびしく服部へ御命じ願上候
 其他薤露行の古雅にして多少の俳趣味を帶ぺる琴のそら音の幽冥にして迭宕なる。まぼろしの盾の無邪氣にして眞摯なる皆面白く拜見仕候御蔭を以て拙文多大の光彩を添へ單行して江湖に問ふの價値を加へ候。先は御禮迄 匆々
    三月二日            金
   不 折 畫 伯
         座右
 
      四二九
 
 三月二日 金 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 先日は失禮昨夜服部主人來訪さし畫すべて拜見致候。御骨折の段奉鳴謝候。あの樣な手のこんだものをかいて頂くのは洵に難有仕合に御座候。御蔭にて拙文も光彩を放ち威張つて天下を横行するに足ると存候。不折のも今迄に比類なき精巧のもの甚だ滿足致候。小生あの倫敦塔の色彩を非常にうつくしく感じ候。何だか西洋人の色としか思はれず候。
 小生の尤も面白しと思ふは大兄と不折の畫が毫も趣味に於て重複せざる點に有之候。是一つは兩君の性質が違ふからかとも存候。兩君の畫によつて小生の文集もえらい者に相成申候
 先は御禮迄 匆々
    三月二日          金
   橋 口 樣
 
      四三〇
 
 三月二日 金 (時間不明)本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町二八北辰舘川本(當時横前)敏亮へ
 拜啓蕪稿薙露行御愛讀被下候よし感銘の至に不堪候御尋ねの文句「うれしきものに罪を思へば罪ながかれと祈る憂身ぞ」と申す句は下の樣な意味で使用せる積に候「恐ろしき罪は犯したれど其内に嬉しき節もあれば其嬉しさに引かされて永く此罪を犯して居りたしと迄戀に心を奪はれたるうき吾身なり」と云ふ考にて使用致候處生硬なる爲め御疑をまねき候。元來小生のかきたるあるものはよく人より難解と云はれ候自からかく折は俳句抔作る折の考にて文章をやり候故此位なら通るだらうと考候へども俳句をよむ樣な心得にて小説をよむ人は滅多になき爲め六づかしくて分らぬと思ふ人が多きならんと存候。骨を折つて人にわからぬ樣に致すは一方から云へば愚な事に候。呵々
 先は右御返事迄 草々頓首
    三月二日            金 之 助
   横 前 樣
 題は古樂府中にある名の由に候御承知の通り「人生は薤上の露の如く※[日+希]き易し」と申す語より來り候。無論音にてカイロとよむ積に候
 自己の作物が讀者に快感を與ふるよりうれしき事は候はず。作物の目的は是に於て完く成就されたるものに候。重ねて大兄の厚志を謝し候。向後共御氣付の個處も候はゞ善惡にかゝはらず御注意願度と存候
 
      四三一
 
 三月三日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき 署名に「なつめの金公」とあり〕
 早稻田文學の三號の小説評(先刻は失禮アレカラスグ讀ンダ)
 小川未明氏作 未明君獨り感慨を催して居る讀者は何ともない。あんなに感じを人に強いるものぢやない
 大塚楠緒子作 筆が器用に出來て居る。苦《原》る文章を考へたものであります。思ひつきもわるくありません。あの人の作としては上乘であります。三小説のうちの傑作である。
 小栗風葉作 何をかいたものも《原》のやら。あれよりホトヽギスの投書の寫生文をよむ方よろしくと存候。駄作の駄の字であります
 〔左上の隅に細字にて〕
  僕の薤露行を十二ヘン讀んだ人がある。僕は感謝の手紙ヲ出シタヨ
 
      四三二
 
 三月五日 月 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本市山崎町六二木村秀雄へ〔はがき〕
 拜復薤蕗行の意は薤露行の通に候
 薤露行は古樂府の題名也薤露とは薤上の露。人生は薤上の露の如く※[日+希]き易し
    三月五日
 
      四三三
 
 三月八日 木 前7-8 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一二寺田寅彦へ〔はがき〕
 御病氣の由如何毎日いやな天氣風か雨か雪 いやはや。小生不相變原稿にて多忙是もいやはやあまりたのまれるのもよしあしゝでげす
 
      四三四
 
 三月十七日 土 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇反省社内瀧田哲太郎へ
 御手紙拜見中央公論には可成かゝうと思ふが何とも受け合はれない。只今ホトヽギスの分を三十枚餘認めた所。何だか長くなりさうで弱はり候。夫に腹案も思ふ樣に調はず閉口の體に候。實を申すと今日抔はぶら/\白帆の見える川べりでもあるきたい所に候。文章も職業になるとあまり難有からず又職業になる位でないと張合がなし厄介なものに候。漾虚集は未だ校正が廻つてこず。拜借の天外先生の文章も拜見のひまなく候
 先は右御返事迄 草々          夏目金之助
   三月十七日
   瀧田哲太郎樣
 
      四三五
 
 三月二十三日 金 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓新作小説存外長いものになり、事件が段々發展只今百〇九枚の所です。もう山を二つ三つかけば千秋樂になります。趣味の遺傳で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆる/\やる積です。もしうまく自然に大尾に至れば名作然らずんば失敗こゝが肝心の急所ですからしばらく待つて頂戴出來次第電話をかけます。松山だか何だか分らない言葉が多いので閉口、どうぞ一讀の上御修正を願たいものですが御ひまはないでせうか 艸々
                    金
   虚 子 先 生
 
      四三六
 
 四月一日 目 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓雜誌五十二錢とは驚ろいた。今迄雜誌で五十二錢のはありませんね。夫で五千五百部賣れたら日本の經濟も大分進歩したものと見て是から續々五十二錢を出したらよからうと思ひます。其代りうれなかつたら是にこりて定價を御下げなさい。中央公論は六千刷つたさうだ。ほとゝぎすの五千五百は少ないといふて居ました。來月もかけとは恐れ入りましたね。さうは命がつゞかない。來月は君の獨舞臺で目ざましい奴を出し給へ。
 雜誌がおくれるのはどう考へても氣になる三十一日の晩位に四方へ廻して一日から賣りたかつたですな。
 校正は御骨が折れましたらう多謝々々其上傑作なら申し分はない位の多謝に候。
 中央公論抔は秀英舍へつめ切りで校正して居ます。君はそんなに勉強はしないのでせう。雜誌を五十二錢にうる位の決心があるなら編緝者も五十二錢がたの意氣込がないと世間に濟みませんよ。いや是は失敬。
 僕試驗しらべで多忙しかも來客頻繁。どうか春晴に乘じて一日川があつて帆懸舟の通る所へ行つて遊びたい。夫から東京座の二十四孝といふものが見たい。
 今月は新聲でも新潮でも手廻しがいゝみんな三月中に送つて來た。是を見てもホトヽギスは安閑として居てはいけない。然し夫は※[さんずい+嫩の旁]《原》石の原稿がおくれたからだと在つては仕方がない恐縮。
 島村の破戒と云ふ小説をかつて來ました。今三分一程よみかけた。風變りで文句抔を飾つて居ない所と眞面目で脂粉の氣がない所が氣に入りました。
 何やら蚊やら 以上
    四月一日            金
   虚 先 生
 
      四三七
 
 四月一日 日 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 藝苑毎度御贈にあづかり奉謝候小生は君の作が出るか出るかと思ふて待つて居るが出ない今度もかゝなかつたですか。破戒は二三日前買ひました。先日紅緑が來て破戒の著者は此著述をやる爲めに裏店へ這入つて二年とか三年とか苦心したと聞いて急に島崎先生に對し〔て〕も是非一部買はねばならぬ氣になりすぐ買つて來ました。是は只買つて來たのです。面白くてもつまらなくても構はない買つて來たのです。夫から半分程よみました。第一氣に入つたのは文章であります。普通の小説家の樣に人工的な餘計な細工がない。そして眞面目にすら/\、すた/\書いてある所が頗るよろしい。所謂大家の文辭の樣に装飾澤山でないから愉快だ。夫から氣に入つたのは事柄が眞面目で、人生と云ふものに觸れて居ていたづらな脂粉の氣がない。單に通人や遊蕩兒や所謂文士がかき下すものと大に趣を異にして居るからです。まだ後半はよまないから批評は出來ないが恐らく傑作でせう。今迄の日本の小説界にこんな種類のものはなからうと思ふのです。只一篇のモーチーヴが少々弱いかと思ふ。
 輕薄なものばかり讀んで小説だと思つて居る社會にこんな眞面目なのが出現するのは甚だうれしい事と思ふ。
 僕多忙探點に窮し來客に窮し。色々なものに窮す。君は金に窮する由。もし必要なら少々取りに來給へ
以上
    四月一日          金
   森 田 兄
 僕ホトヽギスに坊ちやんなるものをかく。どうか御序の節よんで下さい。然し到底君がほめてくれさうなものでないから困る。實は藤村先生とは正反對のものです。
 
      四三八
 
 四月三日 火 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ〔はがき〕
 破戒讀了。明治の小説として後世に傳ふべき名篇也。金色夜叉の如きは二三十年の後は忘れられて然るべきものなり。破戒は然らず。僕多く小説を讀まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ。君四月の藝苑に於で大に藤村先生を紹介すべし
 
      四三九
 
 四月四日 水 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 春暖の候愈御清適奉賀候小生も一寸伺ひ度と存じながらつい色々な雜用にて御無沙汰致し居候
 拙文御推賞にあづかり感謝の至に不堪候山嵐の如きは中學のみならず高等學校にも大學にも居らぬ事と存候然しノダの如きは累々然としてコロがり居候。小生も中學にて此類型を二三目撃致候。サスが高等學校には是程劇しき奴は無之(尤も同類は澤山有之)候。要するに高等學校は校長抔に無暗にとり入る必要なき故と存候。山嵐や坊ちやんの如きものが居らぬのは、人間としで存在せざるにあらず、居れば免職になるから居らぬ譯に候。貴意如何。
 僕は教育者として適任と見傚さるゝ狸や赤シやツよりも不適任なる山嵐や坊つちやんを愛し候。大兄も御同感と存候。右御禮かた/”\卑見迄如斯に候 以上
    四月四日          金
   繞 石 兄
 
      四四〇
 
 四月四日 水 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 畑打ち淡々として一種の面白味あり。人は何だこんなものと通り過ぎるかも知れず。僕は笹の雪流な味を愛す。只學士の妻になり損なつたものが百姓になつて畠を打つ程零落するのは普通でない。「小説家」といふ文はわる〔二字傍点〕達者である。「寮生活」も多少輕薄也。而も兩篇とも僕の文に似て居るから慚愧の至りだ。これにくらぶれば「素人淨瑠璃」抔の方遙かに面白し。
 藤村の破戒といふのを讀んで御覽なさい。あれは明治の小説として後世に傳ふるに足る傑作なり。金色夜叉抔の類にあらず。
 五千五百部はうれましたか、五十二錢が高いと思つたら明星も五十二錢だ。隨分思ひ切つたのが居る。其代り明星はうれません。
    四月四日
 
      四四一
 
 四月十一日 水 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 拜啓其後久々御目にかゝらず。承はれば島津の若さんは病氣の由皆川より少々よい方との報知ありたり。然し何かと御多忙ならん。小生も是から又多忙にとりかゝる。講義をかくのがいやでたまらない。左樣なら〔以下細字にて行間に認めあり〕
 度々御氣の毒の事なりよろしく御傳可被下候
 
      四四二
 
 四月十一日 水 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市江波村築島内鈴木三重吉へ
 御手紙も小説も屆いて只今兩方とも拜見千鳥は傑作である。かう云ふ風にかいたものは普通の小説家に到底望めない。甚だ面白い。強いて難を云へば段落と順序が整然として居らん。第一回の藤さんと瀬川さんの會話が少々振はない。(其代りあとの會話は悉く活動して居る)。最後に舟を望んで藤さんを想像する所は少しくど過ぎる(其代り袂の貝をなげる所なぞはうまいものだ)。夫から法學士との問答もない方がいゝ。繪本の御姫さまは前後ともない方が明瞭である。尤もあれば妙な趣味は生ずる。壁の畫がね《原》け出すのも考へものだ 以上は僕の感じたわるい方だがそれを除いては悉くうまい。會話といひ所作といひ仕草といひ悉く結構である。一つ二つ取り出して云ふとほかゞまづい樣になるから云はない。總體が活動して居る。僕が島へ遊びに行つて何かかゝうとしても到底こんなには書けまい。三重吉君萬歳だ。そこで千鳥を此次のホトヽギスヘ出さうと思ふが多分御異存はないだらう。構ひますまいな。尤も緒言はぬく積りだ。
 どうか面白いものをもつと澤山かいて屁鉾文士を驚ろかして呉れ玉へ。僕多忙でこまる。昨日から講義をかきかけたら半ページ出來た。講義を書くより千鳥をよむ方が面白い。加計の縁談は破談とやら氣の毒な事だ藤さんでも貰つてやり玉へ。血統なんて横やしないよ。別嬪で※[ワに濁點]イオリンが上手ならわるい病氣なんか出やしない。大丈夫なものさ。先祖代々の血統を吟味したら日本中に確たる家柄は一軒もなくなる譯だ。序によろしく 以上
    四月十一日夜          金
   三 重 吉 樣
 
      四四三
 
 四月十一日 水 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓僕名作を得たり之をホトヽギスヘ獻上せんとす隨分ながいものなり作者は文科大學生鈴木三重吉君。只今休學郷里廣島にあり。僕に見せる爲めに態々かいたものなり。僕の門下生からこんな面白いものをかく人が出るかと思ふと先生は顔色なし。先は御報知まで 艸々
    四月十一日            金
   虚 子 先 生
         座下
 
      四四四
 
 四月十五日 日 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市江波村築島内鈴木三重吉へ
 拜啓二三日前君に手紙を出すと同時に虚子に手紙を出して名作が出來たと知らせてやつたら大將今日來て千鳥を朗讀した。そこで虚子大人の意見なるものを御參考の爲めに一寸申し上げる
○全篇を通じて會話が振つて居らん。藤さんのホヽヽヽが多過ぎる藤さんが田舍言葉で瀬川さんが田舍言葉で掛合をしたらもつと活動するかも知れん (※[さんずい+嫩の旁]《原》石曰く虚子の云ふ所一理あり。然し主人公が田舍言葉でやつつけたら下女や何かの田舍言葉が引き立つまい。但し全篇を通じて若い男女の會話はあまり上出來にあらずと思ふ)
○虚子曰く章坊の寫眞や電話は嶄新ならずもつと活動が欲しい (漱石曰く章坊の寫眞も電話も寫生的に面白く出來て居る)
○女と男が池の處へしやがんで對話する所未だ室に入らず。且つ其景色が陳腐なり (漱石曰く會話はあの位で上の部なるべし。池の景色鮒の動靜悉く寫生なり陳腐ならず)
○虚子曰く若い男女が相會して互に思ふはありふれた趣向なり但二日間の出來事と云ふに重きを置いて、それを讀者にわからせる樣につとめた所がよし。(漱石曰く趣向は陳腐にもあらず又陳腐でなき事もなし要するに技倆如何にて極る。此篇の大缺點はどうしても作り物であるといふ疑を起す點にあり。然し所々に寫生的の分子多きために不自然を一寸忘れさせるが手際なり)
 虚子曰く狐の話面白し全篇あの調子で行けばえらいものなり (漱石曰く全篇大概はあの調子なり)
 要するに虚子は寫生文としては寫生足らず、小説としては結構足らずと主張す。漱石は普通の小説家に是程寫生趣味を解したるものなしと主張す。
 以上は虚子の評なり。君は固より僕に示す丈の積りだらうが僕以外の人の説も參考に聞く方が將來の作の上に利益があると思ふから一寸報知する。虚子と云ふ男は文章に熱心だからこんな事を云ふので僕が名作を得たと前觸が大き過ぎた爲め却つて缺點を擧げる樣になつたので、いゝ點は認めて居るのである。
 それで原稿は一度君の許諾を得た上でと思つたが虚子が持つて歸ると云つたからやりましたよ。尤も長いから少々削るかも知れない。是も不平を云はずに我慢してくれ玉へ 以上
    四月十四日夜          金
   三 重 吉 樣
 
      四四五
 
 四月十七日 火 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 拜啓先達て一寸御話を願つた末松先生の著述は愈本屋が著者と相談の上僕の撰定する人に依頼し度と云ふ事になつた。そこで先づフアンタジー・オフ・ジャパンといふのから始めるさうで是を六月一杯に上梓したいと云ふ見込ださうだ。そこで先方の條件は
 ○第一、小説風にかいであるからして、譯文に骨を折つてもらひたい。即ち美文的に譯してもらひたい。
 ○原稿料は原書の一ページにつき壹圓五十錢〔五字右○〕拂ふ
 ○期限は六月十日迄。ページ數は二百四十八ページ
 ○譯者の名前は出さず。矢張り末松謙澄著とする事
 以上の僕件故誰か適任者で小使がとり度人はあるまいか。僕も引き受けた以上は幾分か責任が〔あ〕る。美文的に且間違のない樣〔美文〜右○〕に期限に仕上げてくれる人でないと困るが君もう一遍心當りを尋ねてくれないか。
 尤も文體が揃へばあながち一人に限らず二人でも三人でもよし。
 僕の希望は小遣の入る人で以上の資格に應ずる人がよからうと思ふ。
 先は右相談旁ちよつと御周旋の勞を煩はし度と存候 以上
    四月十七日          金
   傳 四 兄
 
      四四六
 
 四月十八日 水 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 栗原と森田の兩氏が引きうけてくれゝば結構也。然し論文で青くなつたり黄色くなつたりして居るものがそんな餘裕があるかね。僕は末松先生自身よりもうまい文章をかく人を周旋してやると威張つたから幾分か責任がある。二人でやれば文體も揃はなくてはならん。其邊も話してくれ玉へ
 
      四四七
 
 四月十九日 木 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓先日御面倒を願ひ候藏書箋の儀兩三日前學校にて本|日《原》に面會の上相渡し候處大悦びにて篤く禮を申し畫料はどの位なりやと申候故心配に及ばず無料にてよろしと申置候實は大兄に聞き合せたる上クラークに返事を致すが順なれど大兄は無論酬報をとらるゝ事なき事と存じ一存にて勝手に答へ置き候先は右御禮かた/\御報迄 艸々
    四月十九日          金 之 助
   橋 口 樣
 漾虚集はまだ出來ず本屋がむやみに校正を後らす故に候
 
      四四八
 
 四月二十七日 金 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區龍岡町二一關根方栗原元吉へ
 先夜は失敬今朝坂上より別紙廻答參り候間入御覽候猶御異存なくば君等と書肆との間にて契約書御取換の上其上にて御一報相成度先は右要用のみ草々
    四月二十七日        夏目金之助
   栗原元吉樣
 
      四四九
 
 四月二十八日 土 前7-8 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓毎月清國南京へ送つて頂いたホトヽギスは今月から御やめにして下さい。大將事日本へ歸つて參ります。どうか日本の東京の番地へやつて頂戴。其番地は只今一寸忘れた。
 
      四五〇
 
 四月三十日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ 使ひ持歸
  啓
  一金 參拾八圓五拾錢也
  一金 壹百四拾八圓也
   計 壹百八拾六圓五拾錢也
 右は吾輩は猫である(十)及び坊つちやんの原稿料として正に領掌仕候也
    四月三十日          夏目金之助※[○の中に印]
   俳書堂雜誌部
        御中
 
      四五一
 
 五月三日 木 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市江波村築島内鈴木三重吉へ〔はがき〕
 寺田寅彦が千鳥をほめて好男子萬歳とかいて來た。四方太が手紙をよこして四方太抔は到底及ばない名文である傑作であると申して來た。僕も是で鼻が高い。あれにケチをつけた虚子は馬鹿と宣告してしまつた。 以上
 
      四五二
 
 五月五日 土 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 君の手紙は昨日拝見仕つた。實は此前二度手紙を出しても返事がないから君は當分手紙をかゝないのかと思つて居たら又突然|手《〔長〕》い奴が來て少々驚ろいた。翻譯の事は實は僕に譯せといふから、末松著で下働きをするなら食ふものに困つた時でなくてはいやだ。然し末松さんより上手な文章家を周旋してくれといふなら教へてやると威張つた結果とう/\君と栗原君の所へ持つ〔て〕行く事になつた。原稿料が高いつて本屋抔に嬉しい顔を見せてはいけない。壹圓五拾錢ではいやだが夏目からたのまれて仕方がないからやつてやると云ふ樣な顔付をして少々本屋を恐れ入らせてやるがいゝと思ふ。
 猫の御批評難有頂戴。もう一回でやめる積で居ますが。忙がしくて書けないから閉口だ。所謂寫實の極致〔五字傍点〕といふ奴をのべつに御覽に入れてアツと驚ろかせる積丈は成算が出來て居る。然し實際驚ろかすのはいつの事か分〔ら〕ない。
 坊ちやんも讀んで下された由難有う。君の抗議には降參をしない。ほめてくれた所は賛成であります。大に嬉しいのです。
 ホトヽギスの插繪の攻撃は降參をしてもよろしい。あれは僕のかくのでないから、時々は僕も惡口したくなる。然し君小杉先生の雲は特別ですよ。あれはたまらないものだ。
 左千夫が昌子を評したのを明星で「これほど本人の魯鈍を發表せるものなし」とか云ふて居る。左千夫が見たら怒るよ。元來左千夫なんて歌論抔出來る男ではない。只子規許り難有がつて自ら愚なうたを大事さうに作つて居る。
 破戒の批評も拜見した。あの位思ひ切つてほめてやれば藤村先生も感謝していゝと思ふ。それでも過ぎたるは何とか云ふなら話せない男だ。詩人ぢやない僞人だ。實は破戒が出ても精細な評が出ないから氣の毒に思つて居たが君のを見ると同時に太陽のも早稻田文學のも讀賣には前後して三回も出たのを見た。かう續々出ればもう澤山だと思ふ。藤村先生瞑して可なり。
 君のこんどの手紙はいつものよりも親しい感じがある。是はいつもよりも遠慮がないからだらう。
 僕論文を見るので中々多忙「坊ちやん」をかく所にあらず。今日漸く古城先生を片付けた。凡て十有九人。傳四の如きは御丁寧に二冊つゞきを呈出して居る。
 先達てから食後に腹が痛くつて仕方がない。學生が夫は胃ガンだと嚇したので驚ろいて服藥を始めた。是は慢性胃カタールださうだ。腹が重くて、鈍痛で、脊や胸がひきつつて苦しくて生きてるのが退儀千萬になつた。近々人間を辭職して冥土へ轉居しやうと思ふ。
    五月五日         野 武 士
   白 楊 先 生
  藝苑は君もくれるし、社からもくれる。可相成は君から丈貰ふ事にして本社の方は斷はりたい。
 
      四五三
 
 五月六日 日 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島縣山縣郡加計村加計正文へ〔はがき〕
 拜啓寫眞咋五日到着正に拜受致候。大變奇麗に寫りました。難有く候。あれで牛肉や豚を食はない人とは思はれない。洋行を二三度した人の樣に見える。小生も寫したら上げるが寫眞といふものは十何年とつた事がない。何だかとる氣がしない。
    五月六日
 
      四五四
 
 五月七日 月 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 昨日は近火見舞難有候。あの時やけたら今日は學校を休む筈であつた。
 胃カタールで藥を呑むと灰色の糞が出る。不可思議なものだ。ホトヽギスの千鳥を御覽、君より餘つ程うまいぜ。先生一番の奮勵を要す。君のエツせイは英語がまづいね。然し他に御仲間があるから大丈夫だ。然し今少し何とかありたいものだ。意味の通じない所がある。もつと注意して本をよまなくてはいけない
 
      四五五
 
 五月七日 月 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 昨日は近火の處早速御見舞難有候。實は中川、森兩君と寶亭へ行つて夫から九段へ行つて火事の事などは頓と知らず。一時は大分騷いださうだ。何でも知らずに居るのが一番結構だ。人間もいつ死ぬか知らないから毎日幅をきかしで居るのだね。島津さんはどうかね。 艸々
    四《原》月某日
 只今手紙着神經衰弱がわるい由。近々人間も辭職して靜養可然か呵々。今少し立つと漾虚集が出來るから一部上げます
 
      四五六
 
 五月十五日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市中村町一四八三水見方濱武元次へ〔はがき うつし〕
 ビスケツト一罐わざ/\御送被下難有拜受致候小生目下胃病服藥中夫でもむしや/\食ひ候大兄も其後御變りもなくや。隨分からだを大事に御勉強願上候卒業論文檢査中にて目の廻る程多忙 草々
 
      四五七
 
 五月十六日 水 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓寫眞は先日中川君から屆けてくれました。難有う。あの寫眞は大理石の像の樣には見えない。幽靈の樣だ。君の顔や咽喉の所があまりやせて居るせゐだらう。是も全く十七八の別嬪の祟と思ふ御用心
 
      四五八
 
 五月十九日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 虚子先生行春の感慨御同樣惜しきものに候。然る所小生卒業論文にて毎日ギユー〔/\〕閲讀甚だ多忙隨つて初袷の好時節も若葉の初鰹のと申す贅澤も出來ず閉居の體。加之眼がわるく胃がわるく。散々な體服藥の御蔭にて昨今は腹の鈍痛丈は直り大に氣分快壯の方に候。いつか諸賢を會して惜春の宴でも張らんかと存候へども當分駄目。一寸伺ひますが碧梧桐君はもう東京へは來らんですぐ行脚にとりかゝりますか
 卒業論文をよんで居ると頭脳が論文的になつて仕舞には自分も何か英語で論文でも書いて見たくなります。決して猫や狸の事は考へられません。僕は何でも人の眞似がしたくなる男と見える。泥棒と三日居れば必ず泥棒になります 以上
    五月十九日            金
   虚 子 先 生
 
      四五九
 
 五月十九日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 三重縣宇治山田町字浦田町一五〇湯淺廉孫へ
 拜啓此春は伊勢迄行かうと思つて居た所例の如く色々の用事が出來て遂に違約と相成殘念千萬に候。此夏もどこへも出られぬかと思へば存分情なき生活なり。新聞の切りぬき御親切にわざわざ御送難有候拙文があんな所へ引き合に出やうとは夢にも思ひ寄らず。隨分妙な所で妙な人によまれるものに候。只今卒業論文閲讀中多忙一筆を走らす 失禮御免
    五月十九日            金
   湯 淺 樣
 
      四六〇
 
 五月十九日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓君の論文は大に短かい而してよく釣合がとれてよく纒つて居るあれはマーローの脚本が數に於て少ないのと其數の少ない脚本が三とも同種類の主人公で貫いて居る所爲か又は君の手際がうまいのか。
 文章も君のかいたのと人のを借りたのとは區別出來る樣に思ふが君のかいたと思はれる所が中々面白く出來て居る。但し綴字の間違に亂暴なのがあるのは驚ろいた。第一君の參考書のシモンズ Symonz とかくのは餘程輕卒だ夫から時々 delinarate と云ふ言葉があるが是も困る。其他は略。
 然し大體の上に於て成功で結構であります。
    五月十九日         金
   森 田 君
 五六日中に僕の短篇をあつめたものが出來る。本屋に贅澤を云ふて居たら。出來上つた上が本屋が復讐に大變高いものにしてどうしても是より安くは賣れないといふには閉口した
 毎度雜誌を頂戴するから御禮の爲め一部獻上したいと思ふ
  論文は末だ閲了の運に至らず
 
      四六一
 
 五月十九日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 拜啓二宮君の所へ手紙をやりたいが番地が不分明故君に傳言を依頼する。
 昨今兩日二宮君の論文をよみたり。泰西の脚本を數多く通讀して材料を種々の方面から蒐集した努力は大したものにて感心の至である。其議論も西洋人抔のいふ事には耳をも貸さず直ちに自己の胸臆を大膽に述べたる所甚だ可なり。但し英文の拙劣にして而も書法のゾンザイなる事甚し。同氏は無論英文をかく了見もあるまいが、あまり亂暴である故折角の論文の價値を下げる事一方ならず
 面白い事は中川氏の云ふて居る事と二宮氏の説とある箇所が符節を合する樣に暗合した。
    五月十九日           金
  傳 四 樣
 
      四六二
 
 五月十九日 土 後(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町一二〇愛知社内中川芳太郎へ
 拜啓 二三日前君の論文をよみたり。通篇自家の英語にてかきこなしてある御手際はえらいもの也。英文としてあれ丈にかき上げられゝぱ結構なり。感服の至りである。只僕の氣のついたうちに兩三箇所の誤謬あり。コンサーンといふ字の使用法が違つて居る樣に記憶す。内容も博引旁證少しも胡魔化しなく頗る立派なものなり。只西洋と日本の比較が有機的に發展してこず。御互に獨立して並んで居る樣〔な〕傾向諸々あるは可惜。然し大體から云ふて大成功である。聊か敷言を陳じて敬意を表す。今から十年もあの方面へ向つて進めば日本隨一の學者になれる怠たり玉ふなかれ。老頽余の如きは云ふに足らず新進の士正に鋭意斯道の爲に貢獻する所あるぺし。○○君の論文も頗る面白い。只英語がづぬけてまづいのは困る。
 御願の文學論はいそぐ必要なし。面倒なればやめてもよし。僕は是非出版したい希望もない。通讀の際變な事あらば御注意を乞ふ
 エッセイは未だ片づかず
    五月十九日            金
   芳 太 郎 樣
 
      四六三
 
 五月二十一日 月 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
  のせぬ時は御保存を乞ふ
 拜啓別紙の如き妙なものがあり候筆者は木村秀雄とて熊本に住む人なれど逢ふた事も話をした事もなければ學生やら紳士やら知らず
 只今論文校閲中にて熟讀のひまも無之只御高覽の爲めに御廻し致候。ホトヽギスへのせるともよすとも其邊は勿論御隨意に候 以上
    五月二十一日          金
   虚 子 先 生
 
      四六四
 
 五月二十六日 土 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 拜啓漾虚集が出來ました一部あげます。諸々方々に誤字があり誤植がある樣だから見當つたら教へて頂戴
 人間の價値は何かやつて見ないとどの位あるか分らない。君どうぞ勉強してやつてくれ玉へ。
 然し世の中には駄目な事が分り切つて居ても眼が見えないのでうん/\やつてる奴がある。そんなものは教へてやつても説諭してやつても分りつこない。矢張自分が斃れる迄やつて念晴らしが出來ないと氣が濟まんものである。勝手に覺りがつく迄やらせるがいゝが、はたから見ると憫然なものだ。是は此間中からたつた一人で感じて居る事だが誰にも云はない。然し文藝上の事でも何でもない。
 君にやり玉へといふのは文學の事だ自分で何か作つて見ないとどの位作れるものか自身にもわからない。いくら作つてもそのつぎの自分はどんな風にあらはれるか決して分るものでないから君も千鳥のあとに萬鳥でも億鳥でも大にかき給はん事を希望する。
 僕も漾虚集丈でつきた譯でもないから是から又何ぞかく積りで居る。 以上
    五月二十六日          夏目金之助
   鈴木三重吉君
 先日來卒業論文を漸く讀み了つた。中川のが一番えらい。あの人は勉強すると今に大學の教師として僕抔よりも遙かに適任者にな|い《原》。しかも生意氣な所が毫もない。まことにゆかしい人である。只氣が弱いのが弱點である。
 
      四六五
 
 五月二十九日 火 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 若葉の候も大分深く相成候小生フラネルの單衣を着て得々欣々として而も服藥を二種使用致し居候千鳥の原稿料御仰せの通にて可然かと存候
 柳絮行はつまらぬ由、小生もゆつくりと拜見する勇氣今は無之候
 漾虚集本屋より既に献上仕り候や一寸伺ひ候。まだならば早速上げる事に取計はせます 以上
    五月二十九日          金
   虚 子 先 生
 
      四六六
 
 五月二十九日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區市谷砂土原町三丁目八内田貢へ〔うつし〕
 拜啓拙著一部進呈致したる處製本存分お氣に入りたる由にて早速御ほめにあつかり大に嬉しく候目録を黄唐紙にする事は最初の計畫に有之候ひしも其後摸樣がへに致したる譯に候大兄に注意されて見ると矢つ張り
もとの方がよかつたかなと思ひ候。生憎不折の字が博の字を※[博の旁が專]と書いたのが氣にかゝり候。不折先生のみならす五葉先生も皆※[博の旁が專]とかゝれ候あとで氣かつきたれど既に二千枚もすり上げた後で役にたゝず。其替り本文にも誤字誤植澤山有之大に恐縮致候。校正はしても活版屋が直してくれないのも大分有之厄介千萬に候。【猫の時に大兄に注意されたから今度はと思つたが、矢張駄目に候】 中味はどうでもよろしく只机上に御備へ置被下候へば本望不過之候坊ちやん御ほめにあつかり是亦うれしく候いつれ製本にでも致す節は又進呈の上何とか装幀上の御高評を仰ぎたくと存候 橋口の居所は下谷谷中清水丁五番地。動物園のうら門の近傍に候御仰によりて名刺一葉封入致候。實に洋行中の餘りものを未だに使用仕り居候次第にて日本字のものなき故是にて御間に合せ可被下候。先は右御返事迄艸々不一
    五月二十九日         金 之 助
   魯 庵 賢 臺
 
      四六七
 
 五月三十日 水 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓御蔭にて漾虚集も出來ありがたく御禮申上候
 偖先日願ひ候ブツクプレートの依頼者ある美術的に寫したる寫眞を見せるから來いと申す故次の日曜日朝參る積に候。もし御同意なら御同行如何本人は君にも見せたしと申居候。此男の説によると日本の寫眞術はまるで駄目のよし。此男は美術がすきでそんなものを調べる爲め半分來朝丸で日本的の生活を送り居候 御舍兄にも御ひまなら御同行を御勤め申度候。先方の都合は八時半から十二時迄のうちならいつでもよき由〔に〕候八時頃拙宅迄御出被下候へば幸甚 所は巣鴨に候。先は右用事まで 艸々頓首
    五月三十日           夏目金之助
   橋 口 清 樣
 
      四六八
 
 六月三日 日 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓小生近來論文のみを讀んだ結果頭脳が論文的に相成猫などは到底かけさうに無之候へども若し出來るならば七月分に間に合せ度と存候然し是は當人があてにならぬ事故君の方では猶あてにならぬ事と御承知被下度候
 薄暑の候南軒の障子を開いて偶然庭前を眺めて居るのは愉快に候。少々眼がわるくて弱はり候。
 碧梧桐趣味の遺傳を評して冗長魯鈍とか何とか申され候魯鈍には少々應へ申候。大將はいつ頃出發致候やあれは二年間日本中を巡廻する經《原》畫の由なれど屹度中途でいやになり候。もしやりとげればそれこそ冗長魯鈍に候。
 近來一向に御意得ずたま/\机上消閑毛穎子を弄するに堪へたり因つて敷言をつらねて寸楮を置二階に呈す 艸々
    六月吉日             金
   虚 子 先 生
 
      四六九
 
 六月三8 日 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區同心町二八森卷吉へ
 拜啓文章世界御送難有候あれは桑木君から僕の事が書いてあると聞いて先日買つて見たものです
 僕の小兒の時分は楠正成論とか漢高祖論とかいふのが流行つたものだが今どきの小供は妙な事をかく驚ろいた天下は廣いものだ夏目漱石論を草する中學生があらうとは思はなかつた。
 白鳥先生のつとめてやまずんば云々は老先生から奨勵の辭を頂戴した樣な感がある實際先方では其つもりなのだらう
 近來論文ばかり讀んだので頭脳が丸で論文的になつた此樣子では創作抔は出來さうにない然し何も書きかけて居ないと氣樂でいゝ日々是好日といふ語が思ひ合される
 此夏は又講義をかゝなければならない苦しくて面白くなくてきく人もつまらなくて然もやらねばならぬとは馬鹿氣て居る
 右御禮旁二三迄 艸々頓首
    六月二日            金
   森 仁 兄 大 人
  君が西片町へ轉居するといふ話をきいたが事實ですか
 
      四七〇
 
 六月五日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓漾虚集御蔭を以て奇麗に出來上り難有候
 却説小生友人にてモリスと申す米國人只今第一高等學校の教師に候處日本の美術書畫に多大の興味を有し諸々方々へ出掛候事樂の樣に見受られ候故一度大兄方へまかり出て御所藏の畫幅ことに日本のもの又は支那物拜見の上種々斯道の御話も承はり度と存候が御都合は如何に候やもし御迷惑に無之候はゞ適當の日(日曜ならねば午後)御指定被下間敷や尤も此男は非常のバンカラで萬事日本流に振舞ひ居候へば接待等の點については寸毫の御懸念無之候先は右御都合御うかゞひ迄 艸々不一
    六月五日           金 之 助
   不 折 居 士
         案下
 
      四七一
 
 六月七日 木 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき 全部六朝風の文字にて認めあり〕
 啓上來る九日頃愈書齋の疊替を仕るにつき手傳に御出掛願候右用事迄 早々頓首
 
      四七二
 
 六月七日 木 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 昨夜君の所へ手紙をかいた處今朝君のを受けとつたから書き直す原稿料は遠慮なく御受取可然。小生抔は始めからあてにして原稿をかきます
 漾虚集の誤字誤植御親切に御教示を蒙り難有候。實は僕も訂正の積で一度よんで誤の多いので驚ろいた位人が見たら定めし見苦しき事なるべし御蔭にて僕の見落したる分を大分直す事が出來て結構だ。どうか序にあとも教へて下さい
 君は九月上京の事と思ふ神經衰弱は全快の事なるべく結構に候然し現下の如き愚なる間違つたる世の中には正しき人でありさへすれば必ず神經衰弱になる事と存候。是から人に逢ふ度に君は神經衰弱かときいて然りと答へたら普通の徳義心ある人間と定める事に致さうと思つてゐる
 今の世に神經衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒か左らずば、二十世紀の輕薄に滿足するひやうろく玉に候。
 もし死ぬならば神經衰弱で死んだら名譽だらうと思ふ。時があつたら神經衰弱論を草して天下の犬どもに犬である事を自覺させてやりたいと思ふ。
 大分あつた《〔く〕》なつた。拙宅疊替なり。書齋をかへる時は大騷ぎ中川先生と今一人を手傳にたのみたいと思ふ 艸々不一
    六月六日            金
   三 重 吉 樣
 
      四七三
 
 六月八日 金 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 神田區三崎町三丁目一前田儀作へ
 拜復漾虚集一部進呈仕候處わざ〔/\〕御禮にて痛入候實は毎度白百合を頂戴仕り候につき聊か御禮のしるし迄に机下に呈し候までの處御通覽被下候よしにて此上なき仕合に候。然る處校正疎漏にて到る處に誤字誤植有之嘸かし御目ざはりの事と存候
 破戒は小生も数日かゝりて通讀致候あれは文章にてよませる小説では無之又局部々々の活動にて面白がらせる小説にも無之辛抱して仕舞迄よませて後感心させる作と存候小生も一いきにはよみかね候へども通讀して感服致候。愚考にてはあれは慥かに明治の作物として後世に傳ふべきものと存候尤も局部々々の刺激を求むる人にはよみ通す事少々如何あらんかと存候
 拙作につき御褒辭を賜はり難有奉謝候去れど拙作中には破戒程の大作は無之尤も趣の違ふもののみ故此方が大兄の嗜好に投じて却つて分外の仕合せと相成りたるやも計りがたくと存候呵々先は右御挨拶迄 草々不一
    六月七日夜           金 之 助
   林 外 詞 兄
 
      四七四
 
 六月十二日 火 後(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島縣山縣郡加計村加計正文へ〔はがき〕
 僕の胃病は今年程よき年はない。天下の犬を退治れば胃病は全快する。是が僕の生涯の事業である。外に願も何もない。况んや教授をや况んや博士をや
 
      四七五
 
 六月十九日 火 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ〔はがき〕
 漾虚集の誤植御報知難有候三版には大分正さねばならぬ。
 神經衰弱論をかゝうと思つて居る。僕の結論によると英國人が神經衰弱で第一番に滅亡すると云ふのだが名論だらう。いづれ出たら讀んでくれ玉へ
 
      四七六
 
 六月二十三日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ〔はがき〕
 正は勝たざるぺからず、邪は斃れざるぺからず。犬は殺さゞるぺからず。豚は屠らざるべからず、猪子才は頓首せしめざる可からず。文は作らざるべからず。書は讀まざるべからず。月給は賞はざるべからず。御馳走は食はざるべからず。試驗はしらべざる可からず。人世多事
 
      四七七
 
 六月二十三日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拝啓末松の譯完結の由本屋よりも其旨申來候原稿料も御受取のよし承知致候末松先生外題を改めて夏の夢日本の面影としたさうだ。何だか本郷座でやりさうぢやないか。青萍先生も存外話せない男だ
 論語を御よみの由小生は丸で忘れたりニーチエと論語とを比較して見給へ。兩人共人間である。
 口述試驗に慘憺たるものは君のみにあらず。學問の出來る中川と平然たる傳四とを外にしては大概は慘澹たるものである。サンタン豈君のみならんや。試驗官たる小生が受驗者とならば矢張りサンタンたるのみ。僕はあの試驗をして深く感じた事がある。多數の人は逆境に立てば皆サンタンたるものだ。得意の境に立てば愚うたらたる小生の如きものも亦普通の試驗官たり。人間を見るのは逆境に於てするに限る。得意に居る奴を見ると大に買ひ被る。當人自身が買ひ被つて居る。氣の毒なものである。逆境を踏んだ人は自ら修業が出来るサンタンたる諸先生も毎日試驗を受けて居れば立派な人になれる。天の禍を下す、下せる人を珠玉にせんが爲めなり。禍はないかな。禍はないかな。天下に求むべきものありとすれば禍のパーゲトリなり。
 今一つ感じた事がある。純文學の學生は大抵神經衰弱に罹つて居る。是は二十世紀の潮流が自然學生を驅つてこゝに至らしめたるか又は神經衰弱ならざれば純文學が專|問《原》に出來ぬのか。未だ研究せず。諸君既に神經衰弱なれば試驗官たる拙者の如きは大神經衰弱者ならざるべからず而も當人自身は現に神經衰弱を以て自任しつゝあり。神經衰弱なるかな。神經衰弱會を組織して大に文運を鼓吹せんとす白楊先生以て如何となす。 頓首
    六月二十三日          金
   白 楊 先 生
 
      四七八
 
 六月二十六日 火 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓本日は御來訪の處不在にて失禮致候其節は存じも寄らぬものを山妻へ御惠投被下難有候是は定めて翻譯周旋の御禮と存候があの位な事で御禮は入らぬ事に候小生はあの事件の爲めに時間も頭脳も使つて居らぬ上に友人の爲めにか程の勞をとるは小生の地位として當然の事と存候もし氣が濟まねば鹽煎餅の一袋でも頂けばよかつた君方に十圓と申す金は卒業後の今日大變な價値ある金に候小生に在つては(山妻に在つてはどうだか知らず)左程大金ならず。もらつて文句を竝べては濟まないが事實は右の通りである。他人への義理ならばとく別三年間顔を見合せたる小生に對しては入らぬ御心配に候。
 尤も僕の妻は慾張りなれば定めて嬉しい事と存候。妻の考では君方は既に卒業したのだから大變な金持になつたのだらう位に考へて居るならんと存候。
 先は右御禮旁小言迄一言申入候。いづれ其うち拜眉萬縷可申述候。卒業後の經營は口述試驗よりも數倍惨怛〔二字右○〕たるものに有之べく候へば御用心の上しつかり御やり可被成候 以上
    六月二十六日         夏目金之助
   森田米松樣
   栗原元吉樣
 
      四七九
 
 六月〔?〕 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇反省社『中央公論』へ〔應問 七月一日發行『中央公論』より〕
 夏期學生のよみ物御催促にて恐縮別段是と申すことも考に浮ばず、何でも勝手なものをよんだらよからうと存候。小生昨日イーツのストリース、オフ、レツド、ハンラハンと申すものを讀んで非常に面白いと思ひ候。是は大學へ買つて置いたから圖書館へ這入れる人は夏休後に讀んで見たらよからうと思ひ候。
                夏目金之助
 
      四八〇
 
 七月三日 火 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓上其後御無沙汰小生漸く點數しらべ結了のう/\致し候。昨日ホトヽギスを拜見したる處今度の號には猫のつゞきを依頼したくと存候とかあり候。思はず微笑を催したる次第に候。實は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇體なものにて十分に三十秒位づゝ何だか漫然と感興が湧いて參り候。只漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから澤山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出|來《原》かす時日と根氣があれば日本一の大文豪に候。此うちにて物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千萬粒のうち一つ位が生育するものに候。然しとにかく妙な氣分になり候。小生は之を稱して人工的インスピレーシヨンとなづけ候。小生如きものは天來ノインスピレーシヨンは棚の御牡丹と同じ事で當にならないから人巧的ニインスピレーシヨンを製造するのであります。近頃は器械で卵をかへすインキユベトーと云ふものがあります。文明の今日だから人爲的インスピレーシヨンのあるのも尤でせう。そこで此七月には何でも四篇ばかりかく積りです。前に云ふ漫然たる惠比壽ぎれの樣なものは雲の如くあるが偖まとまつたものは一つもない。どれを纒めやうか、又どう纒めやうか其邊は未だ自分でも考へて居ないのであります。實は來學年の講義を作らなければ大雄篇をかくか大讀書をやる積りだが講義といふ奴は一と苦勞です。是は八月に入つてからかき出す積りです。
 傳四は文學士になり候。小生も文學士に候。して見ると傳四と僕とは同輩に候。同輩である以上は是から御馳走の節は萬事割前に致さうかと存候。
 小生は生涯に文章がいくつかけるか夫が樂しみに候。又喧嘩が何年出來るか夫が樂に候。人間は自分の力も自分で試して見ないうちは分らぬものに候。握力抔は一分でためす事が出來候へども自分の忍耐力や文學上の力や強情の度合やなんかはやれる丈やつて見ないと自分で自分に見當のつかぬものに候。古來の人間は大概自己を充分に發揮する機會がなくて死んだらうと思はれ候。惜しい事に候。機會は何でも避けないで、其儘に自分の力量を試驗するのが一番かと存候
 坊チやンを毎號御廣告に相成るのは恐れ入りましたね。しかも坊ちヤンが下落して四十錢になるに至つては愈恐れ入りましたね。まだ大分殘つて居ますか。
 猫を英譯したものがあります。見てくれと云ふて郵便で百ページ許りよこしました。難有い事であります。然し人間と生れた以上は猫抔を翻譯するよりも自分のものを一頁でもかいた方が人間と生れた價値があるかと思ひます。
 小生は何をしても自分は自分流にするのが自分に對する義務であり且つ天と親とに對する義務だと思ひます。天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間で生きて居れと云ふ意味より外に解釋しやうがない。コンナ人間以上にも以下にもどうする事も出來ないのを強ひてどうかしやうと思ふのは當然天の責任を自分が背負つて苦勞する樣なものだと思ひます。此論法から云ふと親と喧嘩をしても充分自己の義務を盡して居るのであります。天に背いても自分の義務を盡して居るのであります。况んや隣り近所や東京市民や。日本人民や乃至世界全體の人の意思に背いても自分には立派に義理が立つ譯であります。是ではちと氣?が高過ぎましたね。少々ひまになつたから餘計な事を書きます。
 昔はコンナ事を考へた時期があります。正しい人が汚名をきて罪に處せられる程悲惨な事はあるまいと。今の考は全く別であります。どうかそんな人になつて見たい。世界總體を相手にしてハリツケにでもなつてハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで輕蔑して死んで見たい。尤も僕は臆病だから、本當のハリツケは少々恐れ入る。絞罪位な所でいゝなら進んで願ひたい。
 四方太先生愈々文章論をかき出しましたね。あれを何號もつゞけたらよからう。尤も文章論と申す程な筋の通つたものではない全く文話といふ位なものですな。鳴雪老人のは例によつて讀みません。漾虚集を御批評下さつてありがたい。ことに野菜づくしはありがたい中央公論にね大魚に呑まれたる人といふ小説がありますよ。伊藤銀月といふ人のかいたものです。隨分妙な事をかきますね。然し中々新しい形容の言葉があつて刺激の強い文章です。序に讀んで御覽なさい。
 色々かきましたね。いくらでもかけばいくらでも書けるがまづよしませう
 どうです一日どこかで清遊を仕らうぢやありませんか 頓首
    七月二日             夏 金 生
   虚 子 大 人
 
      四八一
 
 七月四日 水 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ
 拜啓來る九日より十二日迄大學豫科入學者選拔試驗施行につき右監督御依頼相成候處實は少々多忙にて其上からだの具合もあしく出來得る事なら今年丈は御免蒙り度と存候が如何のものに候や尤も人員不足にて是非共小生の出陣を要する事に御座候へば例の如く藥瓶携帶にて出張仕るぺく候
 右我儘ながら御願旁御都合御伺ひ迄草々 不一
    七月四日          夏目金之助
   狩 野 亨 吉 樣
 
      四八二
 
 七月十日 火 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ
 拜啓昨日御談合の件については猶ゆるりと考へたる上にて確たる御返事仕る考に候へども京都へ御出立前に一應只今の意向相のべ御參考に供し候はゞ總長にも御面會の節多少の御便宜かと存じ一寸郵便にて申上候
 大體の上より京都はあまり志望仕らず他に相當の候補者あらば喜んで其人に讓り度と存候
 其理由中に小生一身上他人には存在し得べからざる個人的の理由も存し居候
 夫は外でも無之東京の千駄木を去るのがいやな事に候。是は千駄木がすきだから去らぬと申す譯には無之反對に千駄木が嫌だから去らぬ事に候。此パラドツクスの意味は他に對しては説明する程の價値も無之候
 正邪曲直の衝突せる場合に正直の方より手を引くときは邪曲なるものをして益邪曲ならしめ候。是は局に當るものよりして見れば他の月給とか、山水とか、寧靜とか云ふもの以上の大事件に候。
 其他は申し上げず小生が千駄木を去るは正にこれに相當致し候
 他の事は先づどうでも考ふる餘地あれど考へて此點に至ると一も二もなく京都へ行くのがいやに相成候
 折角の御相談故猶よく考ふる事は考へ候然し京都にて總長と御面會の節他に適當の候補者でも相談に上り候へば小生には御遠慮なく御隨意に御取計被下候丈の輕き御考にて御出張被下候はゞ幸甚 艸々
    七月十日            金 之 助
   狩 野 樣
 
      四八三
 
 七月十一日 水 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區音羽八丁目二三森次太郎へ
 昨日は失敬致候
 御尋ねの○○○○と申す男は昔は小生の同級生に候今は高等學校で同僚に候然し近來殆んど交際せず從つて此頃の同氏の人世觀其他一向承知仕らず候。又嫁をとる意向あるや否やも知らずとる積りならとくにもらふた筈と存候
 女子大學の教師中には懇意のもの無之只大塚保治といふ人を知つて居り候
 高著出版の件小生の出來る事なら本屋へ一二軒は聞いて見てもよろしく候
 妻君の御馳走が出來損つて御病氣は風流に候自分で粥をにて食ふ抔は猶々風流に候下女を使はぬも風流に候。小生先日下女兩名を一時に解雇し面倒だから雨戸を開放して寐た事有之候。下女が出來ねば毎晩戸を立てないで、三度共パンを食つて掃除もしないでいつ迄も暮す積りに候ひし處又下女が兩名出來た爲め折角の計畫も無駄に相成候
 先は右御返事迄 匆々頓首
    七月十一日            夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      四八四
 
 七月十七日 火 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓猫の大尾をかきました。京都から歸つたら、すぐ來て讀んで下さい。明日は所勞休みだから明日だと都合がいゝ
    十 七 日
 
      四八五
 
 七月十八日 水 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 御手紙拜見川へ行つて鮎をとるのは面白いだらう僕も隨行の榮を得たい。猫の大尾をかいた。八月のホトヽギスには出るだらうと思ふから讀んでくれ玉へ夏は閑靜で奇麗な田舍へ行つて御馳走をたべて白雲を見て本をよんで居たい。大磯や箱根は大きらひ あつくなるとぼんやりして氣が遠くなるそこへ人が來てのべつに入れ替り攻撃をやると到底持ち切れない。御客から見たら病人か厭世家の樣だらう。文章もかき上げると愉快だがかいてるうちは苦しいものだ。
 胃が堅くなる。外の事は何にも考へられなくなる。一大心配が出來た樣な氣がする讀書はこれ程熱心になれないのはどう云ふものだらう
 來月は講義をかゝなければならん。講義を作るのは死ぬよりいやだそれを考へると大學は辭職仕りたい。
 薤露行を大變面白がつてくれる青年が往々ある。ある人手紙を寄せて薤露行の一篇吾に於て聖書よりも尊しとかいてきた文士の名著も此に至つて極まる譯だ。然しあんなものは發句を重ねて行く樣な心持ちで骨が折れて行《原》かない
 僕も國があつて山があつて河があつて家があつて最後に金があつたら嘸よからう。然らずんば胃病で近々往生可仕候 頓首
    七月十七日          夏目金之助
   小宮豐隆樣
  御ばゞ樣の御病氣を大事になさい。御母さんによろしく
 
      四八六
 
 七月十九日 木 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ
 拜啓先日御話しの京都大學件につき其節手紙にて申上候外に左の志望丈御參考に申上置度候
 今般東京大學にでは一名の西洋人を雇ひ入候由なれば小生は都合によりては辭任するとも差支なきに至るやも計りがたく。就ては當地高等學校を根據地と致しこゝにて相當の待遇を得ば小生は夫にて滿足なれば京都の方は他人に讓り度候。尤も高等學校長未だ任命なき爲め話をする人なき故どうしてよきか分らず、又話をした所で目下同校財政の事情小生を本官にするの餘地は無之かとも存候。然し都合にて來年位迄はまつてもよろしくと存候。
 右の事情故東京大學の方別段小生の出講を要せざる事に相成、其上高等學校の方もいつ迄も身分がかたまらぬ模樣なれば今一應とくと熟考の上京都へ行くか行かぬかを取り極め度と存候
 然し先便申上候事情も有之ば既に他に適任の候補者御探出相成たるやも知れず其次第なれば一向差支無之御遠慮其方に讓り度と存候 以上
    七月十九日          夏目金之助
   狩野亨吉樣
 
      四八七
 
 七月十九日 木 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ「はがき〕
 昨日は失敬其節御話し致候ホトヽギスの寄贈所は小石川區久堅町七十四番地五十二號菅虎雄方に候間宜敷樣御取計願上候 以上
    七月十九日
 
      四八八
 
 七月二十日 金 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區市谷藥王寺前町二〇早稻田文學社内片上伸へ
 拜啓先日は失禮致し候兩度の御高來の節何か勝手に申述候雜談をわざ/\早稻田紙上御掲載相成度由にて原稿御廻付相成候には一寸閉口致候本來なら御斷りを致したき筈なれども折角の御努力を無にするも失禮と存じ貴意の通に可仕候尤も貴稿は一應拜見不穩當と思ふ所など訂正致し候間右はあしからず御海恕被下度候 頓首
    七月二十日           夏目金之助
   片 上 伸 樣
 
      四八九
 
 七月〔?〕 本郷區駒込千駄木町五七より 濱武元次へ〔はがき うつし〕
 大變な處を見つけて結構。成程何とも云へないだらう。所が此方は毎日御苦しみの方で何とも申されない位、文責を果す約束はある、人はくる、めしを食ふ、腹がはる、藥を飲む、散歩に出る、文章をかく氣がなくなる、かくひまもなくなる、御親切まことに難有く存候。どうか精一杯遊んで、秋から又大に精勵し玉へ。
 「無人島の天子とならば涼しかろ」是は發句なり
 
      四九〇
 
 七月二十四日 火 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町一二〇愛知社内中川芳太郎へ〔封筒に「用事」とあり〕
 拜啓
 明治大學分校から又々殘餘の答案紙が五六枚きたから一寸採點をしてくれ玉へ僕がしても譯ないが標準が狂ふといかぬから又々君を煩はす 甚だ失敬
 昨日上田氏に御面會のよし別段の事なき由結構何だか薩張りわからない君がこんなに心配したり奔走をするのは何の爲めか考へて見たまへ
 長者に對する禮義の爲めか?
 人に對して濟まぬわるい事をした爲めか?
 學問が至らぬ爲めか?
 人間として價値がない爲めか?
 要するに何でもない順境にある人に向つて逆境に居る人が頭を下げるといふ意味だ。單にそれぎりの淺薄な意味である。俗人は此淺薄なる意味を大變な深い事の樣に考へる。夫だから俗人は學校を出るや否や忽ち氣が狂つて仕舞ふ。
 他日君が順境に立つた時は多くの逆境に立つ人を氣狂にせぬ樣に注意し給へ 草々頓首
    七月二十四日          夏目金之助
   中 川 先 生
 採點は端書でいゝから僕の名にして神田錦丁三丁目明治大學分校教務掛へ送つてくれ玉へ、さうして其旨を一寸僕に報知してくれ玉へ
 
      四九一
 
 七月二十四日 火 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町一二〇愛知社内中川芳太郎へ
 毎々御面倒相願候處早速神田の方へ御送り被下候よし多謝の至り、いづれ印税が這入つたら何か御馳走可致候
 學校を卒業して一日のうちに世の中が恐ろしくなつたから是から餘程注意を周密にする由結構に候
 然し周密と云ふ意味に上等と下等あり。自己の智力にて出來得限り考へ、自己の感情にて出來得る限り感じ。而して相手と自己とに不都合の破綻なき樣にするを上等といひ。只人を見て泥棒の如く疑ひ何でもコソ/\に先を制する樣な事を得意にする是を下等の周密と云ふ。
 君の感じたるは如何なる方面に於ての意味なるやを知らず。もし前者ならば賢の方へ一歩進みたるなり。もし後者ならば愚の方へ一歩進みたるなり。世上幾多の才子は愚に近づきつゝ自ら賢に進むと思へり。利害の關係なき三者より忌憚なく是等の人を評して見よ。學校に居るうちの方が遙かに上等にして卒業して世の中に居る時の方が餘程下等なり。而も自らは頗るワイズになつたと考ふる人多し。是程いやな現象なし。
 世の中が恐しき由、恐しき樣なれど存外恐ろしからぬものなり。もし君の弊を言はゞ學校に居るときより君は世の中を恐れ過ぎて居るなり。君は家に居つておやぢを恐れ過ぎ。學校で朋友を恐れ過ぎ卒業して世間と先生とを恐れ過ぐ。其上に世の中の恐しきを悟つたら却つて困る位なり。恐ろしきを悟るものは用心す。用心は大概人格を下落せしむるものなり。世上の所謂用心家を見よ。世を渡る事は即ち是れあらん。親友となし得べきか。大事を托し得べきか。利害以上の思慮を闘かはすに足るべきか。
 世を恐るゝは非なり。生れたる世が恐しくては肩身が狹くて生きて居るのが苦しかるべし。
 余は君にもつと大膽なれと勸む。世の中を恐るゝなとすゝむ。自ら反して直き千萬人と雖われ行かんと云ふ氣性を養へと勤む。天下は君の考ふる如く恐るべきものにあらず、存外太平なるものなり。只一箇所の地位が出來るか出來ぬ位にて天下は恐ろしくなるべきものにあらず。どこ迄行つても恐るべきものにあらず。免職と増給以外に人生の目的なくんば天下は或は恐ろしきものかも知れず。天下の士、一代の學者はそれ以上に恐ろしき理由を口にせずんば耻辱なり 勉旃勉旃
    七月二十|五《原》日        金
   芳 太 郎 樣
 
      四九二
 
 七月二十七日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 千葉縣安房郡北條町濱小松岩谷別荘内濱武元次へ
 再度の御手紙本日拜見御親切に御勸誘ふかく御禮申上候
 僕も君の手紙を見たらむかし房洲へ遊んだ事を憶ひ出して甚だ愉快である。此頃は風景のい〔ゝ〕所へ往つた事がないから是非行きたいと思ふが生僧只今うん/\小説をかいてゐる。例の如くさう云ふ景色のいゝ所で筆をとる方が書き安い譯であるが君と一所ぢや朝から晩迄馬鹿話しと馬鹿遊びをして暮らして仕舞ふに極つてゐる。所が今かいてるものはね出來損つても構はないが是非かいてしまはないと義理がわるいものでね毎日うん/\と申した所で昨日からいゝ加減な調子で始めたのさ。所で僕も最も中々來客が多くて而も僕は客が嫌でないから思ふ樣にもかけないので困る。今日は午後五時から大學の御殿で御馳走をくふ。二三日雨で少々凌ぎいゝ。君房洲を向側へつきぬけて小湊の方へ行つて見給へ面白いよ。元來君は誰の別荘をごまかして借りたのかね。岩谷といふのは松平君ぢやないか。瞻吹が君の後釜へ据り込まうと云ふので運動を開姶したらう。君の所へ手紙が行きやしないか。
 兵隊にゆくとひどい目に逢ふから今のうち折角遊んで置き玉へ 草々頓首
    七月二十七日         金 之 助
   濱 武 樣
 
      四九三
 
 七月二十八日 土 使ひ持參 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區久堅町七四、五二號菅虎雄へ
 拜啓昨夜紀元會に出席々上君の奥さんの病氣の由をきゝたり隨分御大事御攝養可然候小生只今さしかゝりたる用事あ〔り〕見舞にあがらず。
 毎月御返却の金子は君が避暑に出掛けたかと思つて今日迄控へて居た。遲延の段失敬。
 金貳十圓は七八月兩月分なり御査收を乞ふ 頓首
    二十八日          金
   虎 雄 樣
 
      四九四
 
 七月二十八日 土 使ひ持參 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ
 昨夜は失禮其節願上候書物このものへ御貸し被下度候長い間は入らずほんの一時にてよろしく候 以上
    二十八日          金 之 助
   狩 野 兄
 
      四九五
 
 七月三十日 月 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ
 拜啓先日御話し申上候京都大學件は一寸熟考致候へども一先づ見合せる事に可致候實は高等學校長任命の上にて相談可致旨申上候處現在の状|體《原》にても京都行きは進み不申向後如何なる場合にどう變化するや判然致しがたく候へども現状にては一時西下致しかね候事情も有之候につき右|不《原》あしからず御諒知被下度候菲才誤つて諸賢の御推擧を辱ふし御厚情に酬ゆる能はざるは遺憾千萬に候
 右の事情につき適當の候補者他に御選定相成度參上の上萬縷可申述の處只今さしかゝり用事有之不得其意不得已郵書にて間に合せ申候 以上
    七月三十日           夏目金之助
   狩 野 亨 吉 樣
 
      四九六
 
 八月三日 金 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 御手紙拜見昨日來てあれ丈語した上今日六錢印紙を張つて手紙をよこす人は滅多にあるまいと思ひながら讀んで見ると第一が猫の攻撃は多數决だから已を得んとあきらめて後世に知己を待つより外に仕方なし
 作文編|緝《原》につきての御注文は虚子へ文通致し置くべく墨汁一滴の著者へは申してやれぬから是も虚子で間に合して置くと致す。猫に至つては悉く御取りになつても差支なし
 夫から尊稿出版の件は其うち本屋がき次第談判にとりかゝるべく候何とも受合はれないが。來た奴を一人々々つらまへる事に可致然し内容をもう少し知らないと説明に困るがね。
 君に御辭儀をしたものは正に僕の妻にして年齡は當年三十。二十五六に見えたと申し聞かしても喜びさうもないから話さずに置く。僕の妻にしては若過ぎるとは大に此方を老人視したものだ
 寒月先生は神經質にして仙骨あるもの。彼は僕に向つてすら丁寧に御辭儀をしたる事なし况んや愚妻に於てをや
 古語を復活せる新體詩人に付て大に激昂の體御尤も千萬の樣なれど實は小生未だ同君の詩を讀まず從つて毫も癪にさはらず
 今日春陽堂の本多嘯月先生催促かた/”\御來訪になる。僕唯々として汗をかいて原稿紙へ向ふ。中々苦しい。しばらくして春陽堂よりカクザトウ一罐暑中見舞として來る
 今度の小説の一部分はあるひは御氣に召すかも知れず實は君位が御氣に召さないと天下氣に召し手がなくなるだらうと思ふ。※[さんずい+嫩の旁]《原》石先生虚名を擁して毎月知己を後世に待つ樣では憫然なり 艸々頓首
    八月三日            金
   白 楊 先 生
 
      四九七
 
 八月三日 金 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より  麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔封筒裏の署名に「なつめきむのすけ」とあり〕
 拜啓碧梧桐の送別會へはついに出られず失敬致候。文學士森田白楊なるものあり小生の教へた男なるが今度作文の本を作るとかにて墨汁一滴のなかを二三滴君の文を一篇、僕の猫を一頁程もらひ度と申してきたり。どうか承諾してやつて下さい。
 寒月來つて今度の猫を攻撃し森田白楊之に和す。※[さんずい+嫩の旁]《原》石之に降る。
 只今新小説の奴を執筆中あつくてかけまへん。艸々の頓首
    八月三日          金  奴
   虚 子 庵
      二階下
 
      四九八
 
 八月五日 日 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 群馬縣伊香保温泉蓬莱館野間眞綱へ〔はがき〕
 むかし伊香保へ行つて人の家根ばかり見てくらした事あり。君は今雲を見てくらして居るだらう。今小説をかいて居る 多忙
 
      四九九
 
 八月五日 日 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓
 虚子の返事に云く拙文おやくに立てば冥加至極に存じ上げ奉ります。墨汁一滴も差支無いことと信じます
 生田先生は現代の知己なり先生の朗讀四十點猫の文章二十點併せて六十點にて及第の事と存候
 新小説未だ脱稿せずあつくてかけまへん
 中川の芳太郎君の御とつさんが略血をしたと云ふて寄こした。不相變心配して居る事だらうさうかと思ふと越路太夫をきゝに行つたとある 艸々の頓首
    八月五日          金
   ナツール・ゲシヒテ樣
 
      五〇〇
 八月五日 日 前(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 名古屋市西瓦町一〇五中川芳太郎へ
 おとつさんが御病氣で血を吐かれたさうな嘸御心配の事であろ其うちどうにかよくなるだろから安心して越路でも聞いて心配せずに御出でなされ。色々卒業していやな事ばかりでくさくするだろが其うち面白い事も出て來るだろ長い手紙を上げたいが今新小説の小説をかきかけて期限がせまつてひまがないから是丈にします 艸々
    八月五日          金
   よ た さ ま
         御許
 
      五〇一
 
 八月六日 月 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 早速御返事をかく也漾虚集の評はすぐさま拜見どうもあゝ長くかいてくれた御親切は甚だかたじけない。天下の評中あの位詳細なのはないと深く感銘仕る譯である。今少し何とかわる口をかく方がよからうと存候人格論は僕も至極賛成に候。然し僕のばかりが必ずしも人格を發揮した作物でもあるまい。但主義はいつも御話しする通り文章を作るのは腹藝で筆藝ではないから腹をこしらへてかゝらねば駄目といふ也君と同論の樣に思ふ如何
 ほかの人の評と夜雨君の作は新小説をかいてからゆるりと讀む積りなり。手紙が來ても邪魔にはならず。生田先生の釋解とくと拜承。序に申候漾虚集は春水漾虚碧といふ句より來る。御三君の文集の名は頗る洒落たものなり
 小生千駄木にあつて文を草す。左右前後に居るもうろくども一切氣に喰はず朝から晩迄喧嘩なり此中に在つて名文がかけぬ位なら文章はやめて仕舞ふ考なり。此間にあつて學問が出來なければ學問はやめて仕舞ふなり。手紙の十本や二十本來たつて詩想が妨げらるゝ樣なデリケートな文章家にあらず。喧嘩をしつゝ、強勉をしつゝ、文章をかきつゝ、もうろくどもがくたばる迄は決して千駄木をうつらずして、安々と往生仕る覺悟なれば君が夜中遊びにくる位の事は何でもなく候。
 いゝ年をしてこんな事を云ふと笑ふなかれ僕の妻は御覽の如く若きが故に亭主も中々元氣がある也 先は其丈
    八、六              金
   白 楊 先 生
 
      五〇二
 
 八月七日 火 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜復商業學校はどの邊なりや又學士でなくてはならぬにや實は一二年前の卒業にて久しく周旋をたのまれたる男あり然し是は撰科なり語學は比較的本年の卒業生のあるものよりも出來る也。新學士の地方行は先達迄一名ありし所只今長岡へ交渉中なりもしまとまらずば此方へ相談してもよろし但語學が特別えらいとは受合かね候
 東風君苦沙彌君皆勝手な事を申候夫故に太平の逸民に候現實世界にあの主義では如何かと存候御反對御尤に候。漱石先生も反對に候。
 彼等の云ふ所は皆眞理に候然し只一面の眞理に候。決して作者の人世觀の全部に無之故其邊は御了知被下度候。あれは總體が諷刺に候現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ猫中に收め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反對の方面と雙方の働らきかける所を議論致し度と存候
 來九月の新小説に小生が藝術觀及人生觀の一局部を代表したる小説あらはるべく是は是非御讀みの上御批評願度候。是とても全部の漱石の趣味意見と申す譯に無之其邊はあらかじめ御斷はり申候未た脱稿せず十日
〆切迄に是非かきあぐる積夫故どこへも行かず夏籠の姿御無沙汰御ゆるし可被下候
    八月七日           金
   芥 舟 先 生
 
      五〇三
 
 八月(日附不明) 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 鹿兒島縣肝屬郡高山村野村傳四へ〔はがき〕
 傳四さん田舍は面白いだらう。東京も面白い。此年の土用は存外凉しい。毎日眠氣ざましに近所の下等野郎を罵倒してやる。是から十年もかゝるうちには彼等は少々は上品の何物たるを解するに至るだらう。ぼくは慈悲の爲めに千駄木に永住する也 艸々。執筆多忙。九月に逢ひましよ
 
      五〇四
 
 八月十日 金 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 禮岡縣京都軍犀川村小宮豐隆へ〔はがき)
 先達は手紙をありがたう。牛の胃袋の話を二三行かりました。九日迄連日執筆この兩三日休養夫から講義をかく。人生多忙。
    八月十日
 
      五〇五
 
 八月十日 金 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 先刻はありがたう存じます。其節の馬の鈴と馬子唄の句は
  春風や惟然が耳に馬の鈴
  馬子唄や白髪も染めでくるゝ春
と致し候、矢張り同程度ですか
 
      五〇六
 
 八月十一日 土 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓昨日の駄句花嫁の馬で越ゆるや山櫻を、花の頃を越えてかしこし馬に嫁と致し候が御賛成下さい。是は几董調です。前のと伯仲の間だと仰せられては落膽します。
 『御前が馬鹿なら、わたしも馬鹿だ。馬鹿と馬鹿なら喧嘩だよ』今朝かう云ふうたを作りました。此人生觀を布衍していつか小説にかきたい。相手が馬鹿な眞似をして切り込んでくると、賢人も已を得ず馬鹿になつて喧嘩をする。そこで社會が墮落する。馬鹿は成程社會の有毒分子だと云ふ事を人に教へるのが主意です。先づ當分は此うた丈うたつてゐます。小説にしたらホトヽギスヘ上げます。
 
      五〇七
 
 八月十二日 日 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 山口縣玖珂郡由宇村三園屋鈴木三重吉へ〔はがき〕
 君は一人で大きな屋敷に居るよし。御大名の樣でよからうと思ふ。僕例の如く多忙長い手紙をかく餘暇なし。君文章をかきたいならどん/\御かきなさい。書いてわるければ其時修養がたりないとか何とかはじめてわかる也。かゝないうちはどんな名作が出來るかわからん。何でもどん/\やるべしと存候
 
      五〇八
 
 八月十二日 日 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 神田區鈴木町一九ケーベル方深田康算へ
 拜啓今頃は仙台の方にでも御出の事と存候處突然尊書飛來都新聞のきりぬきわざ/\御送被下難有存候電車の値上には行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある點に於て社|界《原》主義故堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近來は何事をも豫期し居候。新聞位に何が出ても驚ろく事無之候。都下の新聞に一度に漱石が氣狂になつたと出れば小生は反つてうれしく覺え候。
 それはとにかく此夏は例年よれ暑氣薄く大に凌ぎよく候兩三日前迄新小説にたのまれた小説をかいて居りました。毎日々々十五六日の間いやになりました。是は小生の藝術觀と人世觀の一部をあらはしたもの故是非御覽被下度來月の新小説に出で候
 其外にも所々に寄稿の約束ありて時間足らず大學の講義も作らねばならず。書見も致し度何ともいそがしき心持のみ致候
 右御返事旁御禮まで 艸々頓首
    八月十二日          金
   深 田 樣
 
      五〇九
 
 八月十三日 月 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區西黒門町二三中島方妹尾福松へ
 拜啓其後は御無音偖今般滋賀の八幡と申す處の商業學校に英語の教員の入用ありて大兄を推擧致し僻處どうか出來さうなりもし行く意あらば御報知を乞ふ川越にも口あれど是はどうなるか分らず候右用事迄艸々頓首
    八月十三日          夏目金之助
   妹尾福松樣
 
      五一〇
 
 八月十五日 水 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓廣島の寫眞種々御惠送にあづかり本日落掌難有御禮申上候、あの寫眞は皆面白くながめ暮らし候
 新聞の井原氏は大兄の御舍弟のよしそれはちつとも知りませんでした尼子さんは四郎と云ふ名です同町内に居ていつでも厄介になります。先日逢つたら飛んだ所へ引合に出されたと申されました。迷亭と云ふ男は定てありません。苦沙彌は小生の事だと世間できめて仕舞ました。寒月といふのは理學士寺田寅彦といふ今大學の講師をしてゐる人ださうです。是も世間がさう認定したのです。尤も前齒は缺けて居ます。
 寫眞拜受難有候。御顔を見て始めて思ひ出しました。全くあなたとは固と御話しをした事がありますね。然し銅貨を落したのは慥かにあなたではありません。もつと脊の高い瘠せた人の樣に思ひます。あなたは寫眞では大變色が白いが小生の記|臆《原》ではもつと黒いと思ひますどうですか。
 尼子さんに逢つたらあなたの御話しをしませう。斗作先生に御文通の時小生の事をきいて御覽なさい。倫敦の時の事で何か面白い事を御話しなさるかも知れません 頓首
    八月十五日            夏目金之助
   井 原 樣
 
      五一一
 
 八月十五日 水 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 新潟縣長岡中學校坂牧善辰へ
 拜啓殘暑の候愈御清適奉賀候其後は存じながらいつも御無沙汰御海恕可被下候今般は轉任御希望のよしにて履歴書御送貴意正に了承仕り候其うち聞き込み次第御報可仕候小生は存外交友少なく校長抔を周旋するには至極不通任に候へば猶文部の當局者等へも其道を通して御依頼可然かと存候先は右御返事まで 艸々頓首
    八月十五日           夏目金之助
   坂|辰《〔牧〕》善辰樣
 
      五一二
 
 八月二十六日 日 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野問眞綱へ〔はがき〕
 先達ては久々にて御出での處生憎用談中にて失敬あの晩は十時半頃迄かゝつた夫から森田に飯を食はせたら十二時少し前になつた君等は引きとめられた上飯を食ひそくなつて定めし空腹であつたらう逗子の樣子御しらせ被下難有候先〔は〕御禮迄 草々
 〔以下行間に朱書〕
  昨日傳四飄然歸來。大島紬を二反もつてくる。但し御見やげにあらず。暴風雨にて垣愈危うし。講義は一頁もかゝず。北郷先生はもう歸りましたか
 
      五一三
 
 八月二十七日 月 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 大分縣臼杵町平清水野上豐一郎へ〔はがき〕
 御自製の繪端書難有存候江渺々一帆を張つて行きたい方へ行つて見たく候。休暇中毎日來客是でも中々多忙なるには驚き候。書生、青年、雜誌屋、本屋を除いては全く蝸廬を訪問するものなし妙な生活に候。夫で澤山に候。夫も多過ぎる位に候。
 
      五一四
 八月二十八日 火 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 大坂滑稽新聞所載の寫し。
 學生がキリヌキを送つてくれた
 夏だから客はないと思ひの外毎日々々繁昌で樂々晝寐も出來ず閉口してゐるうち八月も御仕舞になつて大に驚ろいて弱つてゐる實は講義を一ページも書いてゐない。然|し《原》而して十月一日發行の中央公論にかく約束がある進退に窮する譯であつて見れば講義は容易には始まりさうにもない。まづ以て十五日以後二十〔日〕以内と見當をつけて御出京可然候。今日狩野亨吉先生に京都の模樣をきいたら京都の法科大學抔は十月中頃から開講するさうだ隨分のんきなものである。僕も其うち東京の文科大學で十二月位に開講して見樣と思ふ。
 猫の批評こま/”\難有候苦沙彌と迷亭の比較御尤に候。あれで一段落ついてまづ安心致し候。然し出來るならばあんな馬鹿氣た事を生涯かいてゐたい。それでないと。腹へつめたものがもたれて困る。猫の十一を非難せるもの二人ばかりありたりその一人の曰く終りの方の文明の議論が人によつて調子が變つてゐない。迷亭が喋舌つても苦沙彌が述べても同じ語氣であると。御尤もなる攻撃に候。
 今度は新小説にかいた。九月一日發行のに草枕と題するものあり。是非讀んで頂戴。こんな小説は天地開闢以來類のないものです(開闢以來の傑作と誤解してはいけない)
 今度の中央公論へは何をかゝうと思ふてゐる。今日は久し振りで朝から晩迄外出方々あるいてくたびれた。 艸々
    八月二十八日          なつめ金
   小宮豐隆先生
 
      五一五
 
 八月三十日 木 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽舘野間眞綱へ〔はがき〕
 拜啓草枕を明治文壇の最大傑作といふてくれる人はたんとあるまい。普通の小説の讀者は第一つまらないと云ふて笑ふだらう。だから新小説に氣の毒である。謹んで高評を謝す
 
      五一六
 
 八月三十一日 金 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 先生驚ろきましたね僕の第三女が赤痢の模樣で今日大學病院に入院したといふ譯ですがね。ことによると交通遮斷になるかも知れません。小供の病氣を見てゐるのは僕自身の病氣より餘程つらい。しかも死ぬかも知れないとなるとどうも苦痛でたまらない。もしあの子が死んで一年か二年かしたら小説の材料になるかも知れぬが傑作抔は出來なくても小供が丈夫でゐてくれる方が遙かによろしい。到底草枕の筆法では行きません。
 猫の代正に頂戴難有候漠然會なるものが出來るよし出られゝばいゝが。
 新小説は出たが振假名の妙癡〔奇〕林なのには辟易しました。ふりがなは矢張り本人がつけなくては駄目ですね。
 もう九月になる講義は一頁もかいてない。中央公論は何をかいたものやら時間がなさゝうだ。是で小供の病氣が|ね《原》るければ僕は何も出來ない。中央公論には飛んだ不義理が出來る
 然し交通遮斷は一寸面白い。あまり人がきすぎて困るからたまには交通遮斷をして見たいと思ひます。
 野間先生が草枕を評して明治文壇の最大傑作といふて來ました。最大傑作は恐れ入ります。寧ろ最珍作と申す方が邇當と思ひます。實際珍といふ事に於ては珍だらうと思ひます
    八月三十一日           金
   虚 子 先 生
 
      五一七
 
 九月二日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五藪中方野村傳四へ
 拜啓別紙の通り通知有之候處拙宅では三女が赤痢で入院中交通遮斷なり(尤も内々では出る)然し棄てゝ置いてもわるいと思ふから若し時間の餘裕があるなら君僕の代理に會葬してくれ玉へ。右用事迄 艸々
 病人は助かりさうである。金は入りさうである。講義はかけさうもないのである。中央公論はかゝねばならぬ樣である。
    九月二日             夏目金之助
   野村傳四樣
 
      五一八
 
 九月二日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ
 嵐拜見先づ面白い方に候
 結末の五六行は大家に候。あれ位短かくしてしかもあれを仕舞に置く所が尤もよろしく候。短篇は是で持つものに候。ドーデ抔はこの呼吸を心得た人に候。君もこの呼吸を心得た人に候。
 嵐の前の景色よろしく候。あとの景色もよろしく候。只肝心の嵐が一向引き立たぬ氣が致し候。今少し何とかしたら凄|ぐ《原》なつたらう。又熊公の嵐後の樣子が反映してよ|ろ《原》つたらう。
 「海は地の底から重く遠くうなつて來る」の一句既に時間を含くんで居るのみならず。既に嵐の經過を豫期せしむる如き書方である。此好句を冒頭に置きながら其つぎの節から一節毎に嵐の吹き募る模樣を漸々深く切り込む樣に書か(即ち時間的に)ないのは殘念だと思ふ。
 嵐の一篇はホトヽギスに送つてよければ僕から送ります。虚子は不相變賛辭を呈する事と存候
 草枕については大部諸方から賛辭を頂戴した。大概は端書でほめてくれる。碧梧桐も旅行先から端書をよこした。同人の事だから必ずあとにわる口がついてゐる。曰く警句は多いが皆川の流れの如く同傾向であるから仕舞には警句の用をなさぬと。説明を承はらんから意味が分らない。
 昨夜巡査と衛生員と東京市の醫員と小使が二人來て清潔方を施こして行つた。今日は警察醫が健康診斷をしに來た。六日迄外出を禁ずるのださうだ。四方太が來て話して行つた。僕は病院へ見舞に行つた妻は湯に入つた。是ならどこが交通遮斷か分らない。
 病人は大分よろしいまあ助かりさうだ。其代り大分金が入る。今日一日何もせんで中央公論の趣向を考へてやつたが別段名案も浮ばない一寸したもので御免蒙らうと思ふ。
 一昨日新小説の男が來て今度の號は二十七日に出て二十九日に賣り切れたから廣告をやめたと云ふた。おどされて買つたものゝうち讀んでつまらんものだと思ふたものが大部あるだらうと思ふと氣の毒だ。覇王樹の處は虚子が大にほめて呉れた所だ 以上
    九月二日夜           金
   寅 彦 樣
 
      五一九
 
 九月三日 月 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓御手紙ありがたく候病人は存外よろしく候此分にては一命丈はたすかる事と存候只今の處交通遮斷なれど好加減に出たり這入つたり致し居候
 寅彦嵐と題する短篇を送りこし候例の如く筆を使はないうちに餘情のある作物に候十月分のホトヽギスに御掲載被下べくや。御郵送申上候。今日中央公論の末尾に小生等の作を讀者に吹聽する所を觀て急に中央公論へかくのがいやになり候。何ぼほめられるのがいゝと申してあゝ云はれて一生懸命に十月號に書いてやらうと云ふ氣にはなれなく候が如何。今度瀧田に逢つたらあまり廣告が商賣的だと申してやらうと存候 以上
    九月二日夜           金
   虚 子 庵
 
      五二〇
 
 九月三日 月 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 二返讀んでもらふのは恐縮だ。女が崖の上へ出る譯はかいてない。從つて只出たと思へばいゝのです。出た風情が面白ければ夫丈で苦情を云はずに置いて下さい。僕の家に赤痢がぴよこりと出て公向きは交通遮斷なり。内々は交通自在なり。一寸昔しの侍が閉門になつた樣な氣がして面白い。患者は大學病院にゐる。助かりさうだ
 
      五二一
 
 九月五日 水 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 神田區鈴木町一九ケーベル方深田康算へ
 拜啓御手紙頂戴難有拜見致しました。草枕に就て最も御鄭嚀なる御批評を承はり感銘の至に堪へません。御批評中には小生の敢て當るべからざる賛辭がありますが然し大兄が一個の紳士として只出放題をかいて人を嬉しがらせる樣な輕薄な學者でないに極まつてゐる以上はとも角も御言葉丈は眞面目に拜聽して深く御禮を申さねばならん筈と思ひます。實は嬉しいから二遍繰り返して讀みました。實際を云ふと正直、君の云ふてくれた程の名作とも思ふて居りませんでした。然しもし草枕に於て御批評通りの仕事が出來なくても心掛丈はさうしたいと考へて居ります。どうか此後ともに善惡共に遠慮のない所を御聞かせ下さい。
 小生小兒赤痢にて大學へ入院何だか氣がせいて仕事が出來ず。たのまれものはかどらず閉口致します。小兒は漸く快方の方然し表向は明六日迄交通遮斷です。修善寺へ御出のよしあすこは涼しいと思つてゐましたがさうでありませんか。ケーベル先生方へも一度御近付に上がりたいと思ふてゐますが何や蚊や取り紛れて氣が急いて居る上に來客のみ多くてとう/\此夏も今日に至りました。ハルトマンの事は面白く拜見しました來月もつゞく事と存じます。拜見したいと存じます。
 君は小生を先生と云はれますが、是は少々恐縮ですから以後は萬事同輩の格で願ひたいと思ひます。第一哲學は無論獨乙語其他に於て君の知識は遙かに小生よりもえらいに相違ないと思ひます。只小生の方が年が多い許りです。然し單に年が多い許りで先生と云はれるのは何となく引ける樣な氣がします。
 大坂の滑稽新聞に小生の肖像が出てゐるのを切りぬいて送つてくれたものがあります。御笑草に寫しを御覽に入れます。
  〔寫し略、七九頁參照〕
 小生も中々有名になりました。右不取敢御禮旁種々かきつらね候何委曲御目にかゝり可申述候 以上
    九月五日          金 之 助
   深 田 樣
 
      五二二
 
 九月六日 木 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 御歸京のよし小生宅には三女赤痢にて大學醫院へ入院今日迄交通遮断なり。遮斷にも關はらず方々出あるくのみならず來客無暗に至る。學校の講義は一ページも書かず。十月發行の中央公論からは催促をうけるいやはやのはやいやで困却中なり
 草枕を讀んて下された由難有い。其上あつと感心してくれた所などは尤も難有い。あれはどうしても君に氣に入る場所があると思つた。今日迄草枕に就て方々から批評が飛び込んで來る。來る度に僕は喜こんでよむ。然し言語に絶しちまつたものは君一人だから難有い。今日迄受取つた批評のうち尤も長く且つ眞面目なものは深田康算先生のものである。尤も驚《原》も感情的なものは君のである。多少けちをつけたものが二三人ある。いづれもうれしい。僕はまとめて持つてゐる。今日中川君が來たから其事をはなしたら出版したらどうですと云ふた。草枕批評一斑として出版したら早速僕は草枕の原稿料の上へ幾分か持ち出さなければならなくなる。
 僕今日中川先生に倫敦製フロツクコート一着を獻上仕つた。着せて見たらよく似合つた。先生大きな風呂敷へたゝみ込んで歸つて行つた。君あやめ會では詩《原》體詩人が喧嘩をしてゐるよ。昔は詩人が喧嘩抔をと云つたものだ。今ぢや詩人だから衆に先つて喧嘩をするのだ
 いづれ其うち 左樣なら
    九月五日           金 之 助
   森 田 米 松 樣
 
      五二三
 
 九月六日 木 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 病人は漸く快方此分にては大丈夫に候。下痢のよし。御大事になさい。寐て粥を食ふがよからう。僕はいそがしいのにぶら/\して何もせぬ。文章を二三枚かいていやになる。客はくる。
 
      五二四
 
 九月十日 月 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇反省社内瀧田哲太郎へ
 拜啓先日來御約束の小説どうにかかうにかかき上げ候。まことに杜撰の作にて御恥づかしき限なれど誤つて違約をしては大變な御迷惑になる事といゝ加減にかき了り申候四五十枚との御約束の處とう/\六十五枚程になり候是も御ゆるし被下度候御序の節はいつにても御渡し可申候先は用事迄 草々頓首
    九月九日             金 之 助
   瀧 田 樣
 
      五二五
 
 九月十一日 火 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓來る二十六日の能に御招き被下難有奉深謝候西洋人も定めてよろこぶ事と存候尤も通辯を仕るのは少々閉口に候。あの番組のうちで一つも見たものも讀んだものもありません橋口は兄の方ですか弟の方ですか小兒病氣は目にまし快方小生見舞に參り候へども未だ一度も語を交せたる事なし草枕の作者の兒丈ありて非人情極まつたもの也すると今度は妻のおやぢが腎臓炎から脳を冒かされたとか何とか申す由世の中も多忙なものに候。小生も御客の相手で一|人《原》を暮らして居る樣也驚ろいたのは今日女記者の中島氏とか申す人が參られたる事也此女猫を愛讀して研究する由草枕でも讀んでくれゝばいゝのに。二六をすぐ買つてよみました。あの人は面白い考を持つて居るがあまり學問のない人と思ひます。然しよく趣味を解する人であります。今度の中央公論に二百十日と申す珍物をかきましたよみ直して見たら一向つまらない。二度よみ直したら隨分面白かつた。どう〔いふ〕ものでせう。君がよんだ〔ら〕何といふだらう。又どうぞよんで下さい。左樣なら
    九月十日            金
   虚 子 庵
        梧下
 
      五二六
 
 九月十一日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇反省社内瀧田哲太郎へ
 拜啓小説二百十日原稿御渡し申候間御落手被下度候試驗にて御多忙のよし御勉強專一に候娘病氣大分よろしく候
 二百十日は昨日また讀み直して見た處始めてよんだ時より少しは面白く存候不相變殺風景な女向きのせぬものに候善惡ともに御批評被下候はゞ幸甚先は用事のみ 草々頓首
    九月十一日            金 之 助
   瀧 田 哲 太 郎 樣
 
      五二七
 
 九月十三日 木 後0-1 本郷區駒込十駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 西洋人にはまだ逢はんから逢つて椅子が欲しいかどうか聞いて見ませう。日本ずきだから坐るといふかも知れない。三崎座で猫をやる由成程今朝の新聞を見たら廣告があつた。寺田も知らせて來ました。然も忠臣藏のあとだから面白いと書いて來ました。猫が芝居にならうとは思はなかつた。上下二幕とはどこをする氣だらう。僕に相談すれば教へてやるのに
 
      五二八
 
 九月十四日 金 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 今夜三崎座の作者田中霜柳といふ人が來て猫をやるから承知してくれといひました。仕組もきゝました。二三助言をしました。苦沙彌が喧嘩をする所がある呵々。
 見に來いと云ふた。どうです
 
      五二九
 
 九月十四日 金 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區中六番町五七中根方夏目鏡へ
 昨夜電報にて御病人御危篤の由承知致候嘸かし御心配の事と存じ候。いつ迄もそちらに御逗留の上御看病可然と存候
 當方はどうにで〔も〕相成候今日宮田とか申すものゝ妻親類に取り込みある由にて歸宅致候。又くる積りか、來ぬ積りか知らず。來なくとも差支無之候。今居るキツとかキチとか何とか申す妙な名の女も歸り候ても决して御心配に及ばず。矢張りそちらにて御看病御大事と存候
 私學校の方いそがしく且つ例の如く神經衰弱にて御見舞にも參りかね候皆樣へよろしく御申傳へ願候
 金錢上の事につき御相談も有之候はゞ遠慮なく御申聞相成度候。あるものはある丈御用立可申候 以上
    九月十四日           金 之 助
   鏡 ど の
 昨夜緒方氏の書生あり病院の都合如何と相尋ね候故御蔭にて入澤氏の方都合つきたる旨答へ置候。混雜すみ次第御禮に御出向可然と存候
 
      五三〇
 
 九月十八日 火 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 ぼくの妻の父死んで今週は學校を休む事にした。その外用事如山。三崎座を見たいが行けるかしら。もし行けたら御案内を仕る積りなり
 
      五三一
 
 九月十八日 火 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓學校へ出やうと思つて居る所へ親類のものが急病で死んだから今週はやすむ事にした。小供はまだ病院にゐる然しもはや全快にちかい。閉門はとくに御ゆるしになつた。實は閉門中から出てあるいた。學校へ出ないた〔め〕出るのがいやだ此儘ずる/\に辭職したい。君は學校へ出たくなる方だから紹横だ。
 先達て三崎座の作者の田中霜柳といふ人が來て猫を芝居にするから許諾してくれといつた。女がやるんだから面白い然かも忠臣藏のあとだから猶面白い。猫をやるなら猫的な人間がよらなければ出來る筈はない。女役者抔がやれば妙なものにして仕舞ふばかりだ
 ヰンチヱスターは僕も讀んだ事がある面白かつた。今は大部分忘れて仕舞つた
 近來來客で食傷の氣味なり。先日突然一個の青年が來て小説の弟子にしてくれと云つたのには驚いた。其前には一人の女記者が來て一時間ばかり話したにも珍らしい心持ちがした
 草枕の畫工見た樣になつて一ケ月ばかり遊びたい。いづれそのうち御目にかゝります 艸々以上
    九月十八日          金
   芥 舟 學 兄
 
      五三二
 
 九月十九日 水 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓先日頂戴仕つた能の番組も時間も御手紙を紛失仕つて忘れて仕舞つた。どうぞ今一返知らせて下され。實は今週中休むから手紙で西洋人へきゝ合せてやらうと思つた所が時間も何も分らず夫が爲め又々御面倒をかける甚だ相濟まん。夫で入口では高濱さんの座ときゝますかな。もし西洋人がさしつかへたなら誰か連れて行つて見ませうか夫とも君の方にだれかゐますか又は御互に知り合のうちを御指名被下れば引き張り出します 以上
    九月十九日             金
   虚 子 庵
       置二階下
 
      五三三
 
 九月二十二日 土 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓先日御面倒をかけ候藏書符の義兩三日前モリス氏に送り候處大滿足の由にて篤く御禮を述べてくれる樣にとの事に御座候ほめて來た手紙のうちには色々な言葉あれども面倒故略して追て御尊來の節御目にかけ可申候御蔭にて小生も約束を終へ是に難有奉謝候 以上
    九月二十二日           夏目金之助
   橋 口 清樣
 
      五三四
 
 九月二十二日 土 後3-4 本郷櫨駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓西洋人は大に感謝の意を表し來り候椅子は入らぬ由何だか日本服をきて出陣する模樣なり是でなくては能抔は見られぬ事と存候
 十月號には面白いものが出ますか僕も何か書きたいが當分いそがしくて駄目である
 三重吉が來て四方太の文をほめて居た。御互に惚れたものでせう 頓首
    九月二十二日             金
   虚 子 先 生
 
      五三五
 九月二十三日 日 後3-1 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區龍岡町武藏屋方栗原元吉へ
 拜啓先日は失禮其節の平田君の件は咋二十|三《原》日内海君に逢ひ候處上田敏君を通して同君に御依頼致す事に相成り居る由に聞き及び申候夫から午後途上にて敏さんに逢ひ候處矢破り同樣の話に候平田君の方で學校(附屬中學の事)へ對し別段遠慮する必要なき以上は多分出來る事と存候 先は右要事迄草々
    九月二十三日            夏目金之助
   栗 原 元 吉 樣
 
      五三六
 
 九月二十五日 火 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區高輪車町四八皆川正※[示+喜]へ〔往復はがき返信用〕
 風ガ「ジベツト」へ當ツテ鳴ルデハナイカ。彼等(即チ「ジベツト」カラブラ下ガツテ首ヲ釣ラレテ居ル死人等)は皆躍を躍ツテゐるデハナイカ(on nothing トハ「空デ」ト譯スベシ。普通ノ※[足+勇]ヲオドル者ハ床ノ上下カ地ノ上トカ足ノ踏まへる所ガアレドモ、首ヲ釣ツタ所刑人ガ※[足+勇]ヲオドルトスレバ空ヲ踏ンデ※[足+勇]ルヨリ外ニ仕方ガナイノデアル)御前方(即チブラサガツテゐル連中ニ話ス樣ニモテナス)ハイクラ空中デ※[足+勇]ツテモ暖カニハナラナイヨ。――イやヒドイ風ダ。ソラ、ダレカ落チタ樣ダ(ジベツトカラ風デ繩ガ切レテ地ヘ落チタ吾ヲ想像サセルナリ)メドラーの木(三本足ノメドラーダ。――即チジベツトノ事大體ハ two‐legged tree ト云フガコヽハ三本足トアル)カラ、メドラーガ一ツ落チテ木ニナツテ居ルノガ一ツ減ツタ(所刑人ヲメドラーニタトヘタルナリ)
 〔以下行間に赤インキにて記しあり〕
 アダムス・アツプルとは生理學上咽喉ノ所ニアルグリ/\ヲサス。字引ヲ引イテ見給ヘ。呼吸ガ此所デツマツタト云フ意ナリ。決シテ酒抔ノ意味ニアラズ
 
      五三七
 
 九月三十日 日 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 草枕の主張が第一に感覺的美にある事は貴説の通りである。感覺的美は人情を含まぬものである(見る人から云ふても見られる方から云ふても)
 (一)自然天然は人情がない。見る人にも人情がない。雙方非人情である。只美しいと思ふ。是は異議がない。
 (二)人問も自然の一部として見れば矢張り同じ事である。
 (三)人問の情緒の活動するときは活動する人間は大に人情を發揮する。見る人は三樣になる
  (a)全く人情をすてゝ見る。松や梅を見ると同樣の態度(是は一ト二ト同じ事に歸着する)
  (b)全く人情を棄てられぬ。同情を起したり。反感を起したりする。然し現實世界で同情したり反感を起したりするのと異なる場合。即ち自己の利害を打算しないで純粹なる同情と反感の場合。(吾人が普通の芝居を見る場合)
  (c)現實世界で起す同情と反感を起して人間の活動を見る場合(此場合が芝居抔へ切り込むと時々見物人が舞臺へ飛び上がつて役者をなぐつたり抔する。フランスで兵士の見物がオセロを拳銃で打つた事がある)
 草枕の畫工の態度で異議のある所は第三であるからして第三の(a)か(b)か(c)かをきめて見ればよい。(c)では無論ない。畫工は可成(a)で見やうとする。よし(a)丈で見られないでも全然(b)になつてはもういやだと云ふ男である。だから、一歩を讓つて(a)を離れても(b)迄は飛ばない。(a)と(b)の中間位である。
 (い)「憐れ」が表情になつて女の顔にあらはれるのが(a)で見て居られぬ事はない。「憐れ」の表情が感覺的に畫題に調和するか。又はそれ自身に於て氣持がいゝ表情かわるい表情か 換言すれば單に美か美でないかと云ふ點からして觀察が出來る。(畫工が此態度で居れば「憐れ」といふのが人情の一部でも、觀察の態度は矢張り純非人情である)
 (ろ)女の顔に憐れが出て夫が亭主の爲めに出たのだから感心である。大に同情を寄すべき女である。見上げたものである。從つて畫工も思はず憐れを催した。――かうなると普通の芝居の心持ちである。(草枕の畫工は多分こゝ迄ば《原》人情的になつて居るまいと思ふ)
 (は)憐れが出たので矢張り亭主に未練がある。未練があるとすれば畫工にはそれ丈冷淡であつた。なんだ馬鹿々々しい。今迄はおれに惚れて居たのにと思ふのが現實界の態度である。此場合には自己の利害の爲めに亂さるゝからして結構な女の心行きが却つてにくらしくなる。(草枕の畫工は無論こゝには居らぬ)
 沙翁がハムレツトをかく時の了見は分らないが(い)ではないに極つて居る。(は)でもあるまい。恐らくは(ろ)であらう。(即ちハムレツトを見る觀客の起す了見と同一であつたらう)
 從つて草枕の畫工の態度と沙翁とは違ふ。截然として區別がつかぬかも知れぬが傾向が違ふ。沙翁は(ろ)に住する傾向がある畫工は(い)にもどる傾向がある。(い)と(ろ)をならべて矢で方向を示すと沙翁の熊度は→※[羽根あり]である。畫工の態度は←※[羽根あり]である。兩方とも離れたがつて居る。
 畫工は非人情的〔四字右○〕である。沙翁は純人情的〔四字右○〕である。而して吾々日々夜々パンに汲々として喧嘩をしてくらす人間は俗人情的〔四字右○〕である」
  作家は作家の考がある通り批評家は批評家の見識がある。君の云ふ事は僕の考で毫も曲ぐべき必要はない。只考丈を云ふ迄である。〔作家〜□で囲む〕
 畫工は紛々たる俗人情〔三字右○〕を陋とするのである。ことに二十世紀の俗人情を陋とするのである。否之を陋とするの極純人情〔三字右○〕たる芝居すらもいやになつた。あき果てたのである。夫だから非人情〔三字右○〕の旅をしてしばらくでも飄浪しやうといふのである。たとひ全く非人情で押し通せなくても尤も非人情に近い人情(能を見るときの如き)で人間を見やうといふのである。」
 御能拜見の事承知致候。今度行く折があつたら誘つて上げませう。
 此間メレヂスの事をかいた人がある此本を取り寄せる積りの處まだ取り寄せない。ハーデーの事もかいたものがある樣に記|臆《原》する。記憶がわるいから忘れて仕舞ふ。調べて置いて上げやう。
    九月三十日            夏目金之助
   森 田 米 松 樣
 
      五三八
 
 十月一日 月 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓先日は御能拜見仰付られ難有仕合に存じ奉り候。西洋人大喜にて今度ある時も知らせてもらひたい抔と申し居候 以上
 僕の後ろに居た西洋人ハ下等ナ奴ダ。アンナ者ガ能ヲ見ニ來タラ斷ハルガイヽ
 
      五三九
 
 十月二日 火 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 御手紙拜見人情から非人情にうつる所が面白いとの議論面白く候。偖かねて御依頼の三名家文集の義本日服部主人參り候につき談合致し候處ともかくも原稿を拜見致し度との事なり。よつていつでも御序の節御三君の名文をあつめたものを一寸御見せ下さい先は用事のみ 草々不一
    十月一日夜          夏目金之助
   森 田 白 楊 樣
 
      五四〇
 
 十月三日 水 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 廣島縣山縣郡加計町加計正文へ
 拜啓大きな點を澤山頂戴甚だ以てうれしく只今臺所でぐず/\※[者/火]て居る所是から晩食に食ふ筈である。あんな大きな奴は先年箱根のどこかで食つたぎり見た事もない
 先達て鈴木が上京して君の所へとまつた話をした何でも山の中の別荘へ立て籠つて掃除をしたとか云ふて居た。鈴木は蛸壺をさげて來てくれた。遠路定めし重い事と察せられる。段々秋になるので胃が日々よくなつて愉快である。是で少々閑があつて時々一晩どまり位で近郊へ遊びに行つたら定めし愉快だらうと思ふ
 猫の芝居を三崎座といふ所でして居る。知つた男が見て來て、見て居られないものだと云ふた。女役者がキザな事をしたら見て居られなからう夫でも毎日滿員ださうだ。
 右鮎の御禮迄草々不一
    十月二日午後五時半         夏目金之助
   加 計 正 文 樣
 
      五四一
 
 十月四日 木 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 尊書拜見毎々御懇篤なる御褒辭を賜はり却つて慚汗の至に存候草枕はある一部の人には大受にて小生も大にうれしく存候三度讀んだ人は大兄を入れて是で三人目に候。尤もある人は小兒を失ひて引き範り中毎々草枕をよんだと書いてあり候が是は少々御まけの樣に候。今日明星と申す雜誌を見たら議論が多くて文章にも穴があると一二行程かいてあり候
 二百十日はかねての約束にて不得已執筆夫故可成骨の折れぬ樣會話に致し候あれを例の流義で長くかいたら依然として冗長なものになり可申か呵々 右は先づ御挨拶迄 草々頓首
    十月三日            金 之 助
   繞 石 兄
 
      五四二
 
 十月四日 木 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓先日相願候妹尾福松氏教員檢定試驗免状の件其後如何相成候や實は本人より聞き合せあり候。是は本人へ去月十二三日に至ればわかる由を申し聞け置きたるによる事に候。甚だ御迷惑ながら會議の結果一應御令兄へ御きゝ合せ被下間敷候や右願用迄 艸々不一
    十月三日            夏目金之助
   白 仁 三 郎 樣
 
      五四三
 
 十月八日 月 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 本日は留守へ御出失敬。「二百十日」の評ありがたく拜見し大に辯護致し度候。今度から木曜の三時からを面會日と致すにつき御來遊被下度候
 令甥も時々つれて|成《原》されたく候 以上
 
      五四四
 
 十月八日 月 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓ホトヽギスの豫告は驚ろきましたね。小生來客に食傷して木曜の午後三時からを面會日と定め候。妙な連中が落ち合ふ事と存候。ちと景氣を見に御出被下度候
 
      五四五
 
 十月八日 月 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷六丁目二五薮中方野村傳四へ〔はがき〕
 拜啓本日は娘を難有く存候小生今度から木曜日の午後三時からを面會日と定め候故遊びに御出被下度候
以上
 
      五四六
 
 十月八日 月 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區龍岡町武藏屋方栗原元吉へ〔はがき〕
 先日は失禮平田さんによろしく。今度木曜の午後三時からを面會日と定め候故遊びに御出被下度候
    十月七日
 
      五四七
 
 十月八日 月 前(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 拜啓小生是から毎木曜日三時よりを面會日と相定め候につき時々遊びに御出下さい
    十月七日
 
      五四八
 
 十月九日 火 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 二百十日を御讀み下さつて御批評被下難有存じます。論旨に同情がないとは困ります。是非同情しなければいけません。尤も源因が明記してないから同情を強ひる譯にゆかない。其代り源因を話さないでグー/\寐て仕舞ふ所なぞは面白いぢやありませんか。そこへ同情し給へ。碌さんが最後に降參する所も辯護します。碌さんはあのうちで色々に變化して居る然し根が呑氣|が《原》人間だから深く變化するのぢやない。圭さんは呑氣にして頑固なるもの。碌さんは陽氣にして、どうでも構はないもの。面倒になると降參して仕舞ふので、其降參に愛嬌があるのです。圭さんは鷹揚でしかも堅くとつて自説を變じない所が面白い餘裕のある逼らない慷慨家です。あんな人間をかくともつと逼つた窮窟なものが出來る。又碌さんの樣なものをかく〔と〕もつと輕薄な才子が出來る。所が二百十日のはわざと其弊を脱してしかも活動する人間の樣に出來てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難も尤もであるが、あゝしないと二人にあれだけの餘裕が出來ない。出來ないと普通の小説見た樣になる。最後の降參も上等な意味に於ての滑稽である。あの降參が如何にも飄逸にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが掉尾だと思つて自負して居るのである。あれを不自然と思ふのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めないで普通の小説の樣に正面から見るからである。
 僕思ふに圭さんは現代に必要な人間である。今の青年は皆圭さんを見習ふがよろしい。然らずんば碌さん程悟るがよろしい。今の青年はドツチでもない。カラ駄目だ。生意氣な許りだ。以上
    十月七日〔封筒の裏に〕          金
   虚 子 先 生
 能の事難有存じます。矢張九段であるのですか。いつあるのですか。一寸教へて下さい。正月は何かかいて上げたいと思ひます。然し確然と約束も出來かねます。まあ精々かく方にして置きませう
 
      五四九
 
 十月九日 火 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓只今服部主人來訪「はなうづ」出版致し度旨申候。夫については川下先生の長詩は少々困るから他の美文とか小説と〔か〕いふものと取りかへて頂きたい由。如何なものにや 劇詩戯曲は差支なけれど長詩は營業上駄目のよし。江村先生には氣の毒なれど君の取計でどうかして貰ひ度候。夫から製本は念を入れて充分美装する由。原稿料は印税として壹割〔二字右○〕(ドコ迄行つても)にしたき由。夫から「はなうづ」と云ふ名の外にもつといゝ名はないかと申候。夫から僕に序をかいてくれと申候。是は君がたの方で御迷惑でなければ折角周旋したものだから何かかゝうと思ふ。出版は目下活版屋非常の多忙故本年中に手をつけかねる故來年一月着手の由
 右至急御報知申候。どうか長詩の所丈をよろしく願たい 以上
    十月火曜日夜            金 之 助
   白 楊 先 生
 
      五五〇
 
 十月十日 水 本郷區駒込千駄木町五七より 若杉三郎へ
 二百十日についての御批評拜見隨分思ひ切つてわる口を承はり大に面白く候。所であれは傾向小説でも象徴小説でも何でも構はない。そんなものは讀んだ人が勝手につけるのである。アート・フオー・アート抔は是亦どうでもよい。アートが下手ではいけない。然しアート丈がいゝのではない。剛健趣味は結構だ。文部大臣がどんな主義でも構はない。中央公論に適しない事はない。別に中央公論むきは柔弱主義といふ譯はない。筆蹟をまづいと云ふが外の大家は僕よりまづい。僕はあの二百十日 夏目漱石が甚だうまいと思つてゐる。大家揃ぢやない小學生揃だ。君はあれを餘所行の筆蹟でないといふが、僕の筆蹟には餘所行も不斷着もない。いつでもあの通りうまいのである。
 猫を女役者がやる。本郷座だつて女役者だつて同じ事だ。猫をやつて面白い芝居が出來る爲めには僕自身がやらなくつちやいけない。中川芳太郎が見て來て極めて愚なものだといつた。愚は始めから知れ切つてゐる。
 猫を圖書館に獻上するなんて隨分人を馬鹿にしたものだ。尤も僕も高等學校へ獻上した。此次は皇室と宮家へ一部宛獻上しやうかと思ふ。宮樣抔はちと猫を御覽になつたらよろしからうと思ふ。
 モリエルの事に關した寫眞や何かは一枚もない。先達てマンチウスの四卷目を誂へて置いたがまだ來ない。だから駄目だらう。兎に角に活動あらん事を希望する。明治の文學は是からである。今迄は眼も鼻もない時代である。是から若い人々が大學から輩出して明治の文學を大成するのである。頗る前途洋々たる時機である。僕も幸に此愉快な時機に生れたのだからして死ぬ迄後進諸君の爲めに路を切り開いて、幾多の天才の爲めに大なる舞臺の下ごしらへをして働きたい。さうかうしてゐるうちに日は暮れる急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文學といふものは國務大臣のやつてゐる事務抔よりか高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げル頭を文學者の方へ下げる樣にしてやらなければならん。
 皇太子や宮樣が文學を御讀みになつて其主意がわかる樣に書いて上げなければならん 左樣なら
    十月十日          夏目金之助
   若 杉 兄
 
      五五一
 
 十月十一日 木 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 花うづの内君の分と生田君のある部分とを見直した。君のに就て極遠慮のない事を云へばいづれも物足らない。何だか要領を得ない感じが多い。君は出來る丈悲酸で深刻で皮肉な問題を捕へてくるにもかゝはらず。よんだあとの感じが悲酸でも、深刻でも皮肉でもない。
 其解決はどう云ふ點にあるか一寸考へた所を參考に述べる。
 (一)事件に發展がなくして、比較的長い事を一二枚でかいてしまふ。だから讀者は君につり込まれる程作中の人物に同情がない。
 是が大源因だらうと思ふ。換言すれば長くかくべきものを短かくかいて然も長くかいたものと同樣の感を起し得るものと假定して居るらしい
 (二)君は文章に骨を折る。然しその骨折はレトリツクに骨を折るのである。レトリツクは無論必要であるが。白粉の如きものである。眞の文章は女の營養や心的状態から來る表情の如くベニや白粉とは違ふ。文章のうまいにかゝはらず感じが乘らぬのは口調や文字に許り骨を折つて、敍出するものゝベゼールングが出來ぬ爲ではあるまいか。
 (三)所々に奇警な句がある。ハツト思はせる程のものがある。(重に人世上の觀察)是程の急所をつらまへて居る人が何故此句をもつと活かして使はないかと思ふ。たとへば夫れ自身が一句で慥かに一短篇の主意となり得るにも關はらず君は|君《原》は惰氣もなく好い加減な所へ使つて仕舞ふ。而して全篇から云ふと左程奇警でない。ある時は幼稚である。すると何だか妙な氣がする。此作者は時々老成な觀察をする點から云へば四十前後であるが若い方から云ふと二十を多く越してゐない。二十三四の男と四十位な男が合併して居る樣だ。夫がうまく調和すればいゝが片手丈が四十位であつたり何かする。
 僕の遠慮のない批評は正にこゝである。要するに花うづ中にある君の作は決して未來に君を重からしむるものではない。もし君に大作があればそれは未來である。是から愈奮發して立派な作物を苦心せられん事を希望する。もし餘暇あらは正月迄に是非兩三篇を新作せられん事を希望する
 寅彦の嵐は彼の作としてあまり秀逸ぢやない。嵐の前後丈かいて肝心の嵐をかゝないなんてずるい男だ尤も最後の二三行「あの人も御かみさんの居る時分云々」は君と絶對的反對で大賛成である。あの下女の言葉があつて始めて熊さんの長い間の變化やら歴史やらが一句のうちに纒められて、讀者はうんさうかと云ふ氣になるのである。短篇でもし長い歴史を感ぜしむる爲めにはああ云ふ筆法でなければいかぬ。あれが短篇の落ち〔二字右○〕である。あれがあるから畫龍點睛の妙を覺えて全篇が活動してくるのである。もし是を不賛成といふなら大に議論がしたい。
 委細は面語に讓る。花うづはいゝ名だと僕も本屋に教へてやつた。
 本屋へは川下氏の稿さしかへの義通知可致か否や 草々
    十月十一日            夏目金之助
   白 楊 先 生
 
      五五二
 
 十月十二日 金 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓昨日は失敬本日學校でモリスに聞いて見た所二十八日の喜多の能を見に行くから升を一つ(上等な所。あまり舞臺が鼻の先にない所を)とつてもらひたいと云ふ事であります。どうか願ひます。夫から時間は午前八時頃から五時位迄ですか。喜多の番地はどこでしたか鳥渡教へて下さい。今度の木曜にも入らつしやいな。四方太も來るかも知れない。小生元來のん氣屋にて大勢寄つて勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。
 森田が千鳥をよんで感心して來ました。森田は一頁五十錢で翻譯をして食つてゐる。シやボテン黨は此味を知らないからシャボテン派なんだらうと云ふてゐます。今日も三人來ました。然し玄關の張札を見て草々歸ります。甚だ結構です。 以上
    十月十二日夜             金  生
   虚 子 先 生
 
      五五三
 
 十月十三日 土 後5−6 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區早稻田南町三〇大澤方片上伸へ
 拜啓御手紙にて恐縮實は先達から御依頼故漠然と何かかゝねばなるまい位は考へてゐたものゝ。そんな程度のものは外にも大分あるので御手紙がくる迄は明かに貴任も感ぜずに打過候。ホトヽギス、藝苑。東亜の光。も同樣の體に候。まあ出來たら。可成かゝう位に候。然る所君の方の雜誌は大分大仕懸故かけるかも知れない位では御困りになる事と存じそこで大に閉口致し候。實は近來色々多忙に相成不得已木曜の牛後三時からを面會日と定めたる位の有樣。よしかくとしてもやつと來年迄に一つ位と存候。到底三つも四つも出來る程のひまはなからうかと存候其一つも氣が向かなければ出來ぬ事と相成るべく御依頼の方も御困りなら引き受ける方も困る事に候。まあ精々書いて見る事にして出來たら上げる事に致しませう。尤もホトヽギスは從來の關係ありで此方は斷はりかね候故。ことによると早稻田へ出なくてもホトヽギスへは出るかも知れず。夫から帝國文學も少々恐れて居り候。かうかち合つては小生も迷惑君の方も御迷惑ではありますまいか。一寸伺ひます。
 本月の早稻田文學の彙報中小生の事を御書き被下たのは君だらうと思ひます。あれは今迄出た日本の批評のうちで尤も精細な眞面目な系統のある。勞力の入つたものと思ひます。小生の作の樣なものに對してあれ
丈の勞力を費やされた好意を深く感謝し度と思ひます。是はあながち小生を賞めて下さつたから難有く思ふのではありません。あれが批評家の態度として堂々として然も落ち付いて居て奧床しい上に餘程ヒマが懸つて居るから、そんな事を今の世に敢てする批評家の手にかゝつた小生を名譽と思ふから感謝の意を表する譯であります。今の世の批評といふものは通りがゝりに「アテコスリ」をちよつと殘して逃げて行く樣なのが多いぢやありませんか。作物に立派なのがない所爲かも知れんが批評のやり方もわるいです。あれぢや雙方進みつこない。
 先は右御返事旁御禮迄 草々頓首
    十月十|四《原》日         夏目金之助
   片 上 伸 樣
 
      五五四
 
 十月十四日 目 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 大に議論を上下したいが手紙を何本も書かねばならんのと校正を無暗にしなければならんのと夫から色々な用事があるのでどうも長い手紙がかけない。いづれ今度の木曜日にでも來たら大に議論をやる。
 今夜服部が用事で來たから川下君承知の旨を話して置いた。服部の野郎は「猫」をやつてくれと本郷座の連中にたのんだのださうだ。人間も是程營利的に傾けば世話はない。芝居でやりたければさせてはやるが役者に頼んでしてもらふ抔といふ了見がどうして出來るだらう。たのむ場合には役者の方が作者の方より上手な場合だ。今の役者輩に猫がわかるものは一人も居やしない。
 君ともかくも正月迄に今一篇かき添へ玉へ 草々以上
    十月十|四《原》日夜          なつめ金
   森 田 白 楊 樣
 
      五五五
 
 十月十五日 月 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 久しく御無沙汰をした。此間フロツクコートを誂へたから出來たら着て見せに行かうと思ふ。野村も冬服を作つた。僕の古いフロツクは中川にやつた。高田文學士が草枕を評してくれた。近頃の批評には隨分アヤシイのがある中學生位ナ青二才ガ生意氣ヲ云ツテ六號活字ニスル。ヨムトエラサウダガ逢フト根ツカラ下ラナイ。木曜ニ遊ビニキ玉ヘ。高田ニ御禮ヲ云フテクレ玉ヘ
 
      五五六
 
 十月十五日 月 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 喜多の番組難有候。一寸この文壇五名家といふ奴を御覽なさい。僕の鼻が曲がつてゐるから妙だ。鼻の穴の片ツ方が餘計に見えてゐる。是で文學者もすさまじいものだ。然し他の四名家も文學者らしくもありませんね。中には泥棒の樣なものもゐる 草々
    十月十五日           金
   高 濱 先 生
 
      五五七
 
 十月十六日 火 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 鹿兒島市第七高等學校寄宿舍行徳二郎へ
 拜啓其後は御無音如何なされし事かと存居候處先日の御手紙にて鹿兒嶋の高等學校へ御人學のよし承はり安心致し候
 カゴシマは何かにつけて不便なるべけれども久留米に近いから便利かと存候時候を厭ひ御勉強專一と存候
 當方別段の變りもなく無事に暮らし候
 筆は大分大きくなり只今は小學の一年生に候。筆のあとに娘が三人生れ候。皆女にて厄介なる事に候。御令兄には時々御面會申候。
 君は醫學をやる事と存候多分福岡大學へ入學の事と存候。段々世の中に住みなれると愚な事許り笑ふにも笑はれず怒るにも怒られぬ愚な事ばかりに候。其なかに住んで居る自分がさう思ふ位だから後世から見れば嘸馬鹿氣て居るだらうと思ひ候。是だから後世に名の殘る人は滅多にない者だと合點が行きます。
 高等學校生抔といふと日本では教育のある部類の人があるが、あのうちで未來に名の傳はる樣な人は何人あるか、考へて見ると大抵は平凡で愚劣なものに相違ないといふ事がすぐに分る。ここに氣がつけば世の中に恐ろしい人は滅多に居ない事になる。カゴ島の果でも東京の眞中でも同じ事である。天下は太平である。ユツクリと鷹揚に勉強してエライ者になつて、名前を後世に御殘しなさい 以上
    十月十五日              夏目金之助
   行 徳 二 郎 樣
 
      五五八
 
 十月十七日 水 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓喜多の番づけを難有う存じます。早速モリスにやりませう。先達て御話しのあつた二百十日に關する拙翰をホトヽギスヘ掲載の義は承知致しましたと申しましたが、少し見合せて下さい。近々「現代の青年に告ぐ」と云ふ文章をかくか又は其主意を小説にしたいと思ひます。すると其前にあの手紙は出して貫はない方がよい。どうでせう。あの主意をあなたが布衍して、さうしてあなたの意見も加へてあなたの文章とかきかへてホトヽギスへ出して下さつては。あの手紙のうちで困るのは現代の青年はカラ駄目だと云ふ事と「普通の小説家なら……」と云ふ自賛的の語である。自分が小説をかいて、人の小説を自分のに比べて攻撃するのはいやな心持ちだ。夫から現代の青年に告ぐと云ふ文章中には大に青年を奮發させる事をかくのだから「カラ駄目」ぢやちと矛盾してしまひます
 まづ用事丈にして置きます
 森田流の人には當分シヤボテン主義は分りません矢張りロシや主義で進歩するがよからうと思ひます
    十六日             金
   高 濱 樣
 
      五五九
 
 十月十八日 木 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓手紙は國民新聞へ御出しのよしちつとも構ひません。出したら出したで詳説でも論文でも出來ますから決して御心配には及びません。本當は現代の青年の一部のものにあの手紙を見せてやりたいのですから大に結構であります。今日松根が來ました。今度の日曜に散歩をする約束をしました。早稻田から正月といふ注文が來ましたが是は延ばす事に仕つてホトヽギスへ何かかいて見ませう尤も他にも約束もあるがどうかします。尤もホトヽギスヘ出來なければ外へも出來ないのですから御勘辨なさい 左樣なら
    十月十六夜             金
   虚 子 大 人
         座下
 
      五六〇
 
 十月二十日 土 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 拜啓伊香保の紅葉を貰つて面白いから机の上へのせて置いたら風がさらつて行つて仕舞つた。どこをたづねてもない。
 近頃は久しく逢はない。昨日の面會日には四五人來て十時頃迄文學談をやつて愉快であつた。
 近來世の中に住んで居るのが小便壺のなかに浮いて居る樣な氣がす|す《原》る。周圍が小便だから自分も嘸臭い事だらうと思ふ。
 高等學校抔へ出ても尤も簡單で尤も純潔なるべき書生が大分アートフルである。眞正に書生らしいものは十分一位だらう。こんなものに教へるのだからどうでも構はないと云ふ氣で居る。昔し小便壺のうちに居る事に氣がつかなかつた時はもつと熱心であつた。天下の人が戯れて居るのに自分丈眞面目で居るのは醉漢の中に窮屈にかしこまつてゐる樣なものだ。未來の日本を作る青年が自己の責任もエライ事も何も知らずにワー/\して居るのは天子樣の爲めに御氣の毒である。
 今日曜には遠足をする。近日猫の中卷と鶉籠と夫から今少しすると文學論が出來る。出來たら一部あげる。今の青年共は猫をよんで生意氣になる許りだ。猫さへ解しかねるものが品格とか人柄とかいふ事が分り樣筈がない。困つたものだ。 左樣なら
    十月十九日           金 之 助
   眞 綱 樣
 
      五六一
 
 十月二十日 土 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區高輪車町四八皆川正※[示+喜]へ
 拜啓久しく御目にかゝらない先日野間が手紙をよこして君の今度の家はいゝ所だ是非行つて見ろとあつた。是非行きたいが何だか忙がしくて行かれない。近頃は世の中に住んで居るのが夢の中に住んでゐる樣な氣がする。どこを見ても眞面目なものが一つもない。悉く幻影と一般タワイないものである。こんな世界に住んで眞面目に苦しい思ひをして暮らすのは馬鹿氣てゐる。眞面目になり得る爲めには他人があまり滑稽的である。
 僕明治大學をやめやうと思ふ。先日高田が來て報知新聞へ何かかいてくれと云つたから明治大學をやめて新聞屋にならうか知らん國民新聞でも讀賣でも依頼されてゐる。明治大學は土曜の四時間であるから、土曜を四時間つぶして何かかいてさうして夫が同じ位の収入になれば新聞の方が色々な便宜がある樣に思ふ。
 明日は大森の方へ遠足をするが東洋城といふ青年と一所だから君のうちへは寄れない。此東洋城君なるものは頗る眞面目な青年である。青年は眞面目がいゝ。
 僕の樣になると眞面目になりたくでもとてもなれない。
 眞面目になりかける瞬間に世の中がぶち壞はしてくれる。難有くも、苦しくも、恐ろしくもない。世の中は泣くにはあまり滑稽である。笑ふにはあまり醜惡である。
 あまり御無沙汰をしたから手紙を一寸あげる。土曜の晩だからこんな下らない手紙をかくひまがある。來客は皆木曜にまとめて仕舞つた。壹週間丸つぶしにして人の爲めに應接をしてやつたつて自分が疲勞する許りである。 草々
    十月二十日            夏目金之助
   皆 川 正 ※[示+喜] 樣
 
      五六二
 
 十月二十一日 日 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓君の所から白い状袋の長い手紙が來ないと森田白楊なるものが死んで仕舞つたかの感がある。今日曜早起きるや否や白状があつたので矢つ張り生きてるなと思つた。
 草枕の評は多大の興味を以て拜讀した面白かつた。草枕を評すると云ふ點より君がどんな考を以て書をよみつゝあるかゞ分るからである。あの理窟を云ふ所が面白い。普通の新聞屋抔のいふ評は何を云ふのだか分らない。さすがに森田先生丈あつて何か云ふ事があるから感服だ。一體君は評論をして理窟を云ふ方が筋の立つた事を云ふ。又譯の分つた事を云ふ。だから創作が其主義を應用する樣に出來てるかと思ふと、さう旨く行つてゐない。君は不平かも知れないが慥かに行つてゐませんよ。
 君のいつもよこす手紙は何だかどこかに愚痴つぽい所があつたが今度のはサラ/\したものだ。甚だ我意を得てゐる。愚癡を並べても愚癡に拘泥してゐない。滔々と愚癡が出て來て平氣である。是が甚だ愉快だ。凡て愚癡でも何でも拘泥した奴は厭味だね。いくらスキのない服装でも本人が夫に拘泥してゐると厭味が出る。凝つた身装をしてさうして凝つた所を忘れてゐるのがいゝぢやないか。今度の手紙は是に近い。君の創作もどうかこの格で行きたいと思ふ。今度の手紙の結末にある「是から洗湯に參らうかと存候敬具」抔は振つたものだ。あれを稱してサボテン趣味と名づけるのである。サボテン趣味と云へば君がラウムレーレからサボテン趣味を呪|咀《原》する事を虚子に報知したら、虚子大に激して――大學を卒業して机上で人生觀を作つてゐるからサボテン趣味が分らないのだ抔と氣?を吐いて來た。さうして森田君にサボテン趣味を説いてくれといふから僕は森田は當分サボテン趣味は分らない、矢つ張り露西亞主義でいゝのであるとかいてやつた。すると今度は虚子先生の返事に「實は私も社會學や心理學方面が嫌なのではない、出來れば此方へも興味を持ちたい、其代り森田君もサボテン趣味を研究して貰ひたい」とあつた。
 木曜日にはサボテン黨の首領は鼓の稽古日だとか云つて來なかつた。呑氣なものである。其代り中川のヨ太公。鈴木の三重吉。坂本の四方太、寺田の寒月諸先生の上に東洋城といふ法學士が來た。此東洋城といふのは昔し僕が松山で教へた生徒で僕のうちへくると先生の俳句はカラ駄目だ、時代後れだと攻撃をする俳諧師である。先達て來て玄關に赤い紙で面會日抔を張り出すのは甚だ不快な感がある。「僕の爲めに遊びにくる日を別にこしらへて下さい」と駄々つ子見た樣な事を云ふから、そんな事を云はないで木曜に來て御覽といつたからとう/\我を折つて來たのである。又松茸飯を食はせてやつた。今日此東洋城と大森の方へ遠足をするのである。」
 僕は明治大學の文學部の方を御免蒙る樣に辭表を提出して置いた。君を後釜に据ゑてやりたいが内海月杖翁が承知しまいから駄目だ。文學部の方をやめると米櫃に影響する。夫から色々な所へ微震を起す。妙な事だ。
 近頃は小便壺の中に浮いてゐる樣な氣がする。小生も臭いが傍から見ても臭いだらう。去りとて小便壺から飛び出す程の必要も認めない。昨日ある人に手紙をつかはして曰く「世の中は泣くにはあまり滑稽である、笑ふにはあまり暗黒である」「今の世で眞面目になる事は到底不可能だ。眞面目になりかけると世の中がすぐぶち壞してくれる」
 こゝに於て僕はサボテン黨でも露西亞黨でもない。猫黨にして滑稽的+豆腐屋主義と相成る。サボテンからは藝術的でないと云はれ露西亞黨からは深刻でないと云はれて、小便壺のなかでアプアプしてゐる。是からさき何になるか本人にも判然しない。要するに周圍の状況で色々になるのが自然だらう。西洋人の名前抔を擔いで此人の樣なものをかゝう抔といふのは抑も不自然の甚しきものである。君オイランの寫眞を見てアタイもこんな顔にならうたつてなれやしないぢやないか。今の文學者は皆此アタイ連である。僕の事を英國趣味だ抔といふものがある。糞でも食ふがいゝ。苟しくも天地の間に一個の漱石が漱石として存在する間は漱石は遂に漱石にして別人とはなれません。英國趣味があるなら、漱石が英人に似てゐるのではない。英人が漱石に似てゐるのである。
 君英譯をやるつてそりや少々無理だよ。英文で立たうと思ふなら今から五六年其方の丁稚奉公でもしなけ|れ《原》りやいけない。それより英文を日本に譯す方がいゝ。尤も何を譯していゝか僕にも一寸わかりかねる。
 もうかくのが厭になつたから是にて擱筆
    十月二十一日           夏目金之助
   森 田 白 楊 樣
 
      五六三
 
 十月二十二日 月 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 君の夜中にかいた手紙を見てゐると東洋城が誘ひに來たから手紙は洋服のカクシヘ入れて品川の先の鮫州の川崎屋といふ料理屋で飯をくふ時さき棄てゝしかもさいたくずは未だにカクシの中に丸めてある。
 余は滿腔の同情を以てあの手紙をよみ滿腹の同情を以てサキ棄てた。あの手紙を見たものは手紙の宛名にかいてある夏目金之助丈である。君の目的は達せられて目的以外の事は決して起る氣遣はない。安心して余の同情を受けられん事を希望する。
 余の知る人のうちに二三君と同樣の境遇の人あり。否境遇の人なりときく。去れど彼等は皆相應に成功の人なり。君も相應に成功の緒を得ば此不幸を忘るゝを得んか。余は君が此一事を余に打ち明けたるを深く喜ぶ。余を夫程重く見てくれた君の眞心をよろこぶ。同時に此一事を余に打ち明けねばならぬ程君の心を苦しめたる源因者(もしあらば)を呪ふ。同時に此一事を余に打ち明くべく餘義なくさるゝ程君の神經の衰弱せるを悲しむ。男子堂々たり。這般の事豈君が風月の天地を懊惱するに足らんや。君が生涯は是からである。功業は百歳の後に價値が定まる。百年の後誰か此一事を以て君が煩とする者ぞ。君若し大業をなさば此一事却つて君が爲めに一光彩を反照し來らん。只眼前に汲々たるが故に進む能はず。此の如きは博士にならざるを苦にし、教授にならざるを苦にすると一般なり。百年の後百の博士は土と化し千の教授も泥と變ずぺし。余は吾文を以て百代の後に傳へんと欲するの野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けばもつと慎んで評判をよくする事を工夫すべし。余はその位な事がわからぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や惡評は毫も厭はざるなり。如何となれば余は尤も光輝ある未來を想像しつゝあればなり。彼等を眼中に置く程の小心者にはあらざるなり。彼等に余が本體を示す程の愚物にはあらざるなり。彼等が正體を見あらはし得る程な淺薄なものにあらざる也。余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拜を期す。此希望あるとき余は始めて余の偉大なるを感ず。君も余と同じ人なり。君の偉大なるを切實に感じ得るとき這般の因果は紅爐上の雪と消え去るべし。勉旃々々
    十月二十一日夜
     十一時池上より歸りて 夏目金之助
   森 田 白 楊 樣
 〔以下餘白に朱書〕
 人若し向上の信を抱い|で《原》事をなす時貴キ事神人ヲ超越シテ蓋天蓋地に自我ヲ觀ズ。天子樣ノ御威光デモ是許リハドウモ出來ン。漱石ハ喧嘩ヲスル度に此域に出入ス。白楊先生ハ如何
 
      五六四
 
 十月二十三日 火 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓妹尾福松氏件につき色々御手數を煩はし難有候今日の御手紙にて同人も希望通り愈教員免状下附の運に至り定めし滿足の事と存候
 御序の節御令兄へよろしく御禮願上候。小生も是にて同人の爲め安心致候是から早速通信してやらうと存候
 先達中から餘り來客が多いので木曜日の午後三時からを面會日に定め申候すると木曜には色々な人がやつて來て愉快に候クラブの觀有之候、時々御出俥の上模樣を御覽になつては如何 以上
    十月二十二日           夏目金之助
   白 仁 三 郎 樣
 
      五六五
 
 十月二十三日 火 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 滋賀縣蒲生郡八幡町八幡商業學校妹尾福松へ
 拜啓秋炎の候如何御消光被成候や偖かねて御依頼に相成候教員免状下附の件咋二十二日會議の結果として愈御希望通り下附に相成る事に決定のよし白仁三郎氏より通知有之是にて小生も君の爲めに安堵致候大兄にも定めて御滿足の事と存候右不取敢御報致候秋になると金を懷にして旅がして見たく候。所が金もなく時もなく候 以上
    十月二十三日          夏目金之助
   妹 尾 福 松 樣
 
      五六六
 
 十月二十三日 火 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 京都市外下加茂村四八狩野享吉へ
 狩野さんから手紙が來た。そこで何の用事かと思つて開いて見たら用事ではなくて只の通信であつた。夫で僕は驚ろいた。僕は狩野さんと云ふ人は用事がなければ手紙をかく人ではない。しかも其手紙たるや官廳の通牒的なものに限ると思つて居たのだから驚ろいた。此手紙は僕のかきさうな手紙で毫も用事がないから不思議なものだと思つた。狩野さんが餘つ程閑日月が出來たか然らずんば京都の空氣を吸つて突然文學的になつたんだと斷定した。それはどうしてなつても構はん。狩野さんが僕の畠の方へ近付いて來たのだから不平はない。のみならず甚だ嬉しいと云ふ感じで讀んだ。狩野さんがもしこんな人間なら僕も是からこんな手紙をかいて送らうかと思つた。
 何でも君が僕の夢を見た事がある。さうして僕が養母と其娘と居て穴八幡があつて、養母の名が仲であるといふ夢は實際妙である。ことに日本新聞にあんな事が出たのを知らないで見たのだから愈妙だ(僕も日本新聞はアトカラ注意されて見た)妙は妙であるが是は餘り豫想外であるから妙なのである。元來夢に就て僕はかう思つてゐる。人はよく平生思つてるものを夢に見ると云ふが僕の考では割合から云ふと思はないものを見る方が多い。昔し僕がある女に惚れて其女の容貌を夢に見たい/\と思つて寐たが何晩かゝつても遂に一度も見なかつたのでもわかる。狩野さんも僕の事を思つてたから見たのぢやなからう虚心平氣の所へ僕と養母と娘が出現したのだらう。然しそれが新聞と暗合してゐるから不思議だ。元來夢といふものに限らず何も豫期しないで行雲流水の趣で見てゐると甚だ愉快なものだ。拘泥する途端に凡てをぶち壞して仕舞ふ。僕の樣な人間は君程悟つてゐないから稍ともすると拘泥していけないが夢丈は自由自在で毫も自分に望も豫期もないから甚だ愉快だ。どんな惡夢を見てもどんな罪な夢を見ても自然の極致を盡してゐるから愉快だ。實世間では人間らしく振舞つて居てもチヨイ/\拘泥する所が自分にあるから却つて醜惡な感じがする。
 京都はいゝ所に違ない。ことに今頃松茸抔を連想すると行きたくて堪らない。君の事だからよく散歩をするだらうと思ふ。夫から繪や古書や骨董抔もあるだらう。一體がユツタリして感じがいゝだらう。そんな點では東京と正反對だらう。僕も京都へ行きたい。行きたいが是は大學の先生になつて行きたいのではない。遊びに行きたいのである。自分の立脚地から云ふと感じのいゝ愉快の多い所へ行くよりも感じのわるい、愉快の少ない所に居つてあく迄喧嘩をして見たい。是は決してやせ我慢ぢやない。それでなくては生甲斐のない樣な心持ちがする。何の爲めに世の中に生れてゐるかわからない氣がする。僕は世の中を一大修羅場と心得てゐる。さうして其内に立つて花々しく打死をするか敵を降參させるかどつちにかして見たいと思つてゐる。敵といふのは僕の主義僕の主張、僕の趣味から見て世の爲めにならんものを云ふのである。世の中は僕一人の手でどうもなり樣はない。ないからして僕は打死をする覺悟である。打死をしても自分が天分を盡くして死んだといふ慰|籍《原》があればそれで結構である。實を云ふと僕は自分で自分がどの位の事が出來てどの位な事に堪へるのか見當がつかない。只尤も烈しい世の中に立つて(自分の爲め、家族の爲めは暫らく措く)どの位人が自分の感化をうけて、どの位自分が社會的分子となつて未來の青年の肉や血となつて生存し得るかをためして見たい。京都へ行きたいといふのは此仕事をやる骨休めの爲めに行きたいので、京都へ隱居したいと云ふ意味ではない。
 考へて見ると僕は愚物である。大學で成蹟がよかつた。それで少々自負の氣味であつた。そんなら卒業して何をしたかと云ふと蛇の穴籠りと同樣の體で十年餘をくらして居た。僕が何かやらうとし出したのは洋行から歸つて以後であつて、それはまだ三四年に過ぎぬ。だから僕は發心してからまだほんの小供である。もし僕が何か成す事があれば是からである。而して何か成し得る樣な状況に向つたのは東京で今の地位(學校の地位ではない)を得たからである。だからして僕の事業は此地位と少からざる關係を有してゐる。此の地位を棄てゝ京都へ行つて安閑としてゐるのは丁度熊本へ這入つて澄まして居たと同樣になる。是は少し厭である。
 無論人事は大觀した點から云へばどうでもよいのである。ダーヰンも車夫も同じ事である。不義の者に頭を下げるのも伯夷叔齊の樣な意地を通すのもつまりは一つである。大學の教授も小學校の先生も同じ事である。一歩進めて云へば生きても死んでもそんなに變りはない。然ししばらく世間的の見地に住して差別觀の方から云ふと大に趣が違ふ。僕の東京を去るのは決してよくはない。教授や博士になるならんは瑣末の問題である。夏目某なるものが伸すか縮むかといふ問題である。夏目某の天下に與ふる影響が廣くなるか狹くなるかといふ問題である。だからして僕は先生としては京都へ行く氣はないよ。
 尤も煎じつめればどうでもよいのだからこつちで免職になれば自殺する前に京都へ行く、京都でいけなければ北海道でも滿洲へでも行く。要は臨機應變拘泥してはいけない。臨機應變の極腹を切つて死ぬかも知れ
ない。夫でも構はないが、先づ今の状況なら京都行きは御免だ。
 然し近來の樣に刺激が多くて神經が衰弱して眠く許りなつては大事業も駄目らしいから、來年の春頃になつたら金をこしらへて二週間許り京都へでも遊びに行きたいと思つてゐる。是も臨機應變だからどうなるか
分らない。 以上
    十月二十三日           金 之 助
   狩 野 兄
 
      五六七
 
 十月二十三日 火 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 京都市外下加茂村四八狩野亨吉へ
 先刻長い郵便を出した。今週間は高等學校の行軍で明日は休みである。只今入浴後先刻の續キヲもう少しかく。こんな手紙はカキ懸けた時書いて仕舞はないと滅多にかけるものではない。又かゝうと云つて滅多な人にかけるものではない。よく知らぬ人にこんなことをかいてやれば付け景氣の殻氣?だと思ふ。凡ての事は事實が證明せぬうちは眞實の氣?とは云はれない。僕のも其通り僕がどの位な人間でどんな事が出來るかは僕が死んでから始め〔て〕證明せらるゝ譯で今から怒號したつて野暮の極である。然し先達中から京都大學へ來いといふ招待もあつたし旁君は尤も理窟の分つた人間だと認めるからして又僕の生活の長部分を知つてゐるからして事の序に君の朋友なる夏目といふ人間はこんな男であるといふ事を紹介するのである。
 御存じの如く僕は卒業してから田舍へ行つて仕舞つた。是には色々理由がある。理由はどうでもよいとして、此田舍行は所謂大乘的に見れば東京に居ると同じ事になる。然し世間的に云ふと甚だ不都合であつた。僕の出世の爲めに不都合と云ふのではない。僕が世間の一人として世間に立つ點から見て大失敗である。といふものは當時僕をして東京を去らしめたる理由のうちに下の事がある。――世の中は下等である。人を馬鹿にしてゐる。汚ない奴が他と云ふ事を顧慮せずして衆を恃み勢に乘じて失禮千萬な事をしてゐる。こんな所には居りたくない。だから田舍へ行つてもつと美しく生活しやう――是が大なる目的であつた。然るに田舍へ行つて見れば東京同樣〔二字右○〕の不愉快な事を同程度に於て受ける。其時僕はシミ/”\感じた。僕は何が故に東京へ踏み留まらなかつたか。彼等がかく迄に殘酷なものであると知つたら、こちらも命がけで死ぬ迄勝負をすればよかつた。余は比較的にハームレスな男である。進んで人と爭ふを好まねばこそ退いて一人(種々な便宜をすて、色々な空想をすて、將來の希望さへ棄てゝ)退いて只一人安きを得ればよいと云ふ謙遜な態度で東京をすてたのである。然るにもかゝはらず彼等は余にこれ丈の犠牲を敢へてせしめたる上に猶前と同程度の壓迫を余の上に加へんと試みたのである。此は無法である。文明の衣をつけた野蠻人である。かゝるものをして一毫たりとも彼等の得となる樣な事をするならば余は社會の一員として、それ丈社會の惡徳を増長せしむる者である。第一余が東京を去つたのからして彼等を増長せしめた源因を暗に作つて居る。余は余と同境遇に立つものゝ爲めに惡例を開いた。自らを潔くせんが爲めに他人の事を少しも顧みなかつた。是ではいかぬ。もし是からこんな場合に臨んだならば決して退くまい。否進んで當の敵を打ち斃してやらう。苟も男と生れたからには其位な事はやればやれるのである。やれるのに自己の安逸を貪る爲めに田舍迄逃げ延びたればこそ彼等をして増長せしめたのである。恰も冷水浴の刺激がいやだからと云つて因循に夜具のなかにもぐり込む樣なものである。堪へられぬのではない。堪へられるのをわざと避けるのである。己れのあり餘る力を使用せんで故意に屏息すると同樣なものである。――余は當時ひそかにかう決心した。夫から熊本に行つた。熊本に行つたのは逃れて熊本へ行つたと云はんより、人を遇する道を心得ぬ松山のものを罰した積りである。高等學校が榮轉だから行つたと思ふのは外見である。榮進と云ふ念慮は東京を去る時にキパリと棄てゝ居た。松山が余の豫期した樣な淳朴な地であつたなら余は人情に引かされて今日迄松山に留まつて村夫子を以て甘んじてゐたかも知れぬ。熊本は松山よりもいゝ心持で暮らした。夫から洋行した。洋行中に英國人は馬鹿だと感じて歸つて來た。日本人が英國人を眞似ろ/\と云ふのは何を眞似ろと云ふのか今以て分らない。英國から歸つて余は君等の好意によつて東京に地位を得た。地位を得てから今日に至つて余の家庭に於ける其他に於ける歴史は尤も不愉快な歴史である。十餘年前の余であるならばとくに田舍へ行つて居る。文章を作つて評判がよくならうが、授業の成蹟があがらうが、大學の學生がほめやうが――凡ての事に頓着なく田舍へ行つたらう。京都で呼べば取るものも取り合へず飛んで行つたらう。君が居れば猶戀しく思つて飛んで行つたらう。――然し今の僕は松山へ行つた時の僕ではない。僕は洋行から歸る時船中で一人心に誓つた。どんな事があらうとも十年前の事實は繰り返すまい。今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機會がなかつた。己れを信頼した事が一度もなかつた。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近邊の好意とかを頼りにして生活しやうとのみ生活してゐた。是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行つて、行き盡いた所で斃れるのである。それでなくては眞に生活の意味が分らない。手應がない。何だか生き〔て〕居るのか死んでゐるのか要領を得ない。余の生活は天より授けられたもので、其生活の意義を切實に味はんでは勿體ない。金を積んで番をして居る樣なものである。金のあり丈を使はなくては金を利用したと云はれぬ如く、天授の生命をある丈利用して自己の正義と思ふ所に一歩でも進まねば天意を空ふする譯である。余は斯樣に決心して斯樣に行ひつゝある。今でも色々な所を見れば色々な不幸やら不愉快がある。思ふに余と同樣の境遇に置かれた人ならば皆此不幸を感じ此不愉快を受くるであらう。而して余は此不愉快を以て余の過誤若しくは罪惡より生じたるものとは決して思はざるが故に此不愉快及び此不幸を生ずるエヂエントを以て社會の罪惡者と認めて此等を打ち斃さんと力めつゝある。只余の爲めに打ち斃さんと力めつゝあるのではない。天下の爲め。天子樣の爲め。社會一般の爲めに打ち斃さんと力めつゝある。而して余の東京を去るは此打ち斃さんとするものを増長せしむるの嫌あるを以て、余は道義上現在の状態が持續する限りは東京を去る能はざるものである。 草々不一
    十月二十三日           夏目金之助
   狩 野 兄
 余の性行は以上述べる所に於て山川信次郎氏と絶對的に反對なり。余の攻撃しつゝあるは暗に山川氏の如き人物かも知れず。
 
      五六八
 
 十月二十四日 水 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區土手三番町五白日社内前田洋三へ
 拜啓純文藝雜誌御發刊の御計画にて小生の賛成を御求めに相成候旨委細承知仕候小生は今の詩壇に裁ても何等の知識もなく是と申す考も無之候へども新しき雜誌の興るは賛成する所に有之候間右御含の上小生の名義可然賛成員中に御加へ可被成候 以上
    十月二十四日            夏目金之助
   前 田 夕 暮 樣
 
      五六九
 
 十月二十六日 金 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區彌生町三小林第一支店鈴木三重吉へ〔封筒の表側に「第一信」とあり〕
 君の夜中にかいた手紙は今朝十一時頃よんだ。寺田も四方太もまあ御推察の通の人物でせう。松根はアレデ可愛らしい男ですよ。さうして貴族種だから上品な所がある。然しアタマは餘りよくない。さうして直むきになる。そこで四方太と逢《原》はない。僕は何とも思はない。あれがハイカラならとくにエラクなつて居る。伯爵ノ伯父や叔母や、三井が親類でさうして三十圓の月給でキユキユしてゐるから妙だ。さうしてあの男は鷹揚である。人のうちへ來て坐り込んで飯時が來て飯を食ふに、恰も正當の事であるかの如き顔をして食ふ。「今日も時刻をハヅシテ御馳走ニナル」とか「どうも難有う御座います」とか云つた事がない。自分のうちで飯をくつた樣にしてゐるからいゝ。
 君は森田の事丈は評して來ない。恐らく君に氣に入らんのだらう。あの男は松根と正反對である。一擧一動人の批判を恐れてゐる。僕は可成あの男を反對にしやう/\と力めてゐる。近頃は漸くの事あれ丈にした。それでもまだあんなである。然るにあゝなる迄には深い源因がある。それで始めて逢つた人からは妙だが、僕からはあれが極めて自然であつて、而も大に可愛さうである。僕が森田をあんなにした貴任は勿論ない。然しあれを少しでももつと鷹揚に無邪氣にして幸福にしてやりたいとのみ考へてゐる。
 君をしかるつて、夫で澤山だ。そんなにほめる程の事もないが叱られる事もなからう。
 僕の教訓なんて、飛んでもない事だ。僕は人の教訓になる樣な行をしては居らん。僕の行爲の三分二は皆方便的な事で他人から見れば氣違的である。それで澤山なのである。現在状態がつゞけば氣|遣《原》である。死んでから人が氣違ときめて仕舞つたつて少しも耻とも何とも思はない。現在状態が變化すれば此狂態もやめるかも知れぬ。さうしたら死んでから君子と云はれるかも知れん。つまり一人の人間がどうでもなる所が自分ながら愉快で人には分らないからいゝ。氣違にも、君子にも、學者にも一日のうちに是より以上の變化もして見せる。人が學者といふも、氣違といふも、君子と云ふも、月給さへ渡つてゐればちつとも差支ない。だから僕は僕一人の生活をやつてゐるので人に手本を示してゐるのではない。近頃の僕の所作を眞似られちや大變だ。 草々
    十月二十六日           夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      五七〇
 
 十月二十六日 金 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區彌生町三小林第一支店鈴木三重吉へ〔封筒の表側に「第二信」とあり〕
 只一つ君に教訓したき事がある。是は僕から教へてもらつて決して損のない事である。
 僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものと思つてゐた。旨いものが食へると思つてゐた。綺麗な着物がきられると思つてゐた。詩的に生活が出來てうつくしい細君がもてゝ。うつくしい家庭が〔出〕來ると思つてゐた。
 もし出來なければどうかして得たいと思つてゐた。換言すれば是等の反對を出來る丈避け樣としてゐた。然る所世の中に居るうちはどこをどう避けてもそんな所はない。世の中は自己の想像とは全く正反對の現象でうづまつてゐる。
 そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イやなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出來ぬといふ事である。
 只きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすといふ事は生活の意義の何分一か知らぬが矢張り極めて僅小な部分かと思ふ。で草枕の樣な主人公ではいけない。あれもいゝが矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通さうとするにはどうしてもイブセン流に出なくてはいけない。
 此點からいふと單に美的な文字は昔の學者が冷評した如く閑文字に歸着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遙して喜んで居る。然し大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る樣では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからず敵が前後左右にある。苟も文學を以て生命とするものならば單に美といふ丈では滿足が出來ない。丁度維新の當|士《〔時〕》勤王家が困苦をなめた樣な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神經衰弱でも氣違でも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。文學者はノンキに、超然と、ウツクシがつて世間と相遠かる樣な小天地ばかりに居ればそれぎりだが大きな世界に出れば只愉快を得る爲めだ抔とは云ふて居られぬ進んで苦痛を求める爲めでなくてはなるまいと思ふ。
 君の趣味から云ふとオイラン憂ひ式でつまり。自分のウツクシイと思ふ事ばかりかいて、それで文學者だと澄まして居る樣になりはせぬかと思ふ。現實世界は無論さうはゆかぬ。文學世界も亦さう許りではゆくまい。かの俳句連虚子でも四方太でも此點に於ては丸で別世界の人間である。あんなの許りが文學者ではつまらない。といふて普通の小説家はあの通りである。僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰拔文學者の樣な氣がしてならん
 破戒にとるべき所はないが只此點に於テ他をぬく事數等であると思ふ。然し破戒ハ未ダシ。三重吉先生破戒以上の作ヲドン/\出シ玉ヘ 以上
    十月二十六日           夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      五七一
 十月二十九日 《〔?〕》月 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區森川町四蓋平館薄井秀一へ
 拜啓先日來日文壇に何か執筆を御依頼の所何かと存じ候へど小生近刊の文學論に自序を認め候。是は二十四行二十四字詰めにて十二三枚のものに候が、もしそれにてよろしければ此次の附録に差し上げてもよろしく候。少しながすぎるならばやめてもよろしく候。御望みならば下女に持たせて上げます。但し一度に出して下さらなくては困ります夫から表題は近刊「文學論」序と云ふのです 草々
    十月二十一日           夏目金之助
   薄 井 樣
 
      五七二
 
 十月二十九日 月 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區森川町四蓋平館薄井秀一へ
 御返事拜見原稿如貴意御送申候表題は
  文學論序(近刊)  夏目漱石
位に願ひ候。右用事迄餘は拜眉萬縷
    十月二十九日             夏目金之助
   薄井秀一樣
 
      五七三
 
 十月−十一月 加計正文へ
 〔前の部分切れてなし〕 令孃とあるが加計村へ男爵の令孃が這入つて妻君たる資格があるかなときゝ合せてやつた。然し男爵でも公爵でも乃至平民でも人間である以上は結構だと思ふ。〔後の部分切れてなし〕
 
      五七四
 
 十一月三日 土 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓先夜は御立寄被下候處何の風情も無之不本意千萬に存候偖其翌日は御親父樣わざ/\見事なる菊花御持贈被下意外の幸禰早速瓶中に拜み朝夕眺入居候何卒御老人へよろしく御鳳聲願度候先は右御禮迄 草々以上
    十〔一〕月二日         天長節の前夜
   大谷繞石樣
 
      五七五
 
 十一月六日 火 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 二十一圓なにがし御落手の由結構に候。そこで手紙をかく元氣が出た所猶更結構に候。君が手紙をよこさないか顔を出さないと何だか存在を疑ふ樣になる外の人にはそんな心配がない。是は君が氣まぐれに浦和の安宿り抔へ行つて考へ込む病氣がある所爲だらうと思ふ。生田先生が金港堂へ這入つたので何か書いてくれといふて來た。二十五圓だから君より三圓なにがし多い事になる。先生の來た時は親類のものがある相談に來てゐた最中でしかも其上に今一人來訪中であつた其來訪中の御客は驚ろいて逃げて歸つた
 アンクワを讀んださうだが僕もよんだ。通篇西洋臭い。君どう思ふ。あれは燒き直しぢやないか。然し田園の光景が面白かつた。夫から田舍言葉のせゐか厭味がなくよまれた。僕は初めて小説をかいてあれ丈出來れば大成功の方と思ふ。
 文章一口談は例の東洋城が池上の山門で藝者を見ながら筆記したもの何だか怪しいものだ。
 不折のイムプレツシヨニストの論は亂暴なものだ。大將曰く感興そのものをかくからイムプレツシヨニストだと無學もこゝに至つて極まる。本人畫工ぢやないか。而して印象派なる名目の由來を知らないで馬鹿な事をいふ。
 文學論の序は文章を見てもらふのでも何でもない。あの通りの事を讀んでヘエーと云つてもらへばいゝ。讀賣へのせる必要もなかつた。何かくれといふからやつた。
 生田先生の戀愛文學が癪に障つたと思《原》つて片上天絃が早稻田文學へかいた。夫を白鳥が賛成した。白鳥はチヨツカイを出す事を家業にしてゐる。云ふ事は二三行だ。夫で人を馬鹿にして自分がエラサウな事ばかり云ふ。厄介な男だ。
 正月には何か純人情的〔四字右○〕即ちシヤボテン式ならざる物をかきたいと思ふ。 以上
    十一月六日            夏 目 金
   白 楊 先 生
 僕のひげについての抗議は少々困る實は時々ほめる人があるがまだとれと命じた人はない。これあるは君より始まる。
 僕フロツク・コートを五十四圓で新調したら、急に演舌がやつて見度なつた。
 天長節に一着の上麻布迄行つたらもう演舌はしないでもよくなつた
 
      五七六
 
 十一月七日 水 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 君が手紙をかく僕が手紙をかく而して互に連發すれば手紙で疲弊して仕舞ふ。そこで今度は一寸短かい奴をかく。
 サボテンの元勲四方太がアン火を賞めたから面白い。大方自分に出來ないからだらう。天絃は比較的眞面目な人だ。僕は長江先生も天絃先生も兩方知つてるから兩方へ賛成する。尤もあんなに議論する程のものはないね。田舍へ行くのもいゝ。然し敗北して行くのは御免だね。御釋迦さんの樣に自ら王位や美人をすてゝ行くなら賛成だ。居たゝまらないで、人からつゝきやられた抔といふのは一生の耻辱だ。人は何といふてもよい自分がさうでなければ。然し自分でさうしては一分が立たない。矢張り東京にゐるがいゝ。東京にゐてみんなを眼下に見下すがいゝ。そんなに君よりえらい人が澤山ゐるものぢやないよ。飯だつて三度食へれば夫で澤山だ。
 子を生ませたつていゝさ。僕なんか何人も製造して嫁にやるのに窮してゐる。然も細君にさう惚れてる譯でもないんだから出來て見ると少々汗顔の至りだ。大方向でもさうだらう。
 泣く小説を御注文だが僕に出來ればいゝ。とにかく早く取りかゝりたいものだが中々いそがしい
 是から一風呂這入つてくる。(藝苑まだ見ず)
    十一月七日         金 之 助
   白楊育兒院長殿
 
      五七七
 
 十一月七日 水 後4(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市第二高等學校齋藤阿具へ
 拜啓かねて願上置候塀愈あやしく相成候どうか始末をしてくれ玉へ。僕のうちに先日赤痢が出來た故僕奮發して水道をつけたり。代金十八圓也此水道は君に寄附仕るから塀を直してくれ玉へ三方とも四方ともあやしいどこからでも這入れる
 僕は君のうちに居りたいから御願をする。居りたくなければだまつて越してしまふ。僕は千駄木に當分居る積りだからどうか手入をしてくれ玉へ 以上
    七日              夏目金之助
   齊《原》 藤 阿 具 樣
 
      五七八
 
 十一月九日 金 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 昨日は御出かと思つて居たら東洋城の注進で顔がはれたと云ふ譯で髪結床も油斷のならないものと氣がつきました。昨日は大分大勢來ましたしめて十三四人です。東洋城と三重吉が大に論じてゐました。紅緑のアンクワを四方太がほめた。森田白楊は散々わるく云ふた。あのヂヾイは僕も嫌だ。通篇西洋臭い。燒直し然としてゐる。然し田舍の趣味がある所が面白いと思ひます。
 文章談はほんの一口でつまらんものです。
 正月には非〔右○〕人情の反對即ち純〔右○〕人情的のものがかきたいが出來るか、出來損ふか、又は出來上らないか分らない。文債が多くて方々から尻が來て閉口です。
 坊ちやんは依然として廣告されてゐま〔す〕ね。どうか正月分は(もし出來たら)此醜態を免がれたいと思ふ。
 僕今度は新體詩の妙な奴を作らうと思ふ。
 文界は依然として芋を揉んでゐる。其なかに混|ち《原》て奮闘するのは愉快ですね。皮がむけて肉がたゞれても愉快だ。僕もし文壇を退けば西都へ行つて大學で濟まして講義をしてゐます。然し折角生れた甲斐には東京で花々しく打死をしたいですね。
 吉原の酉の市なんか僕も見たかつた。
 二三日漫然とあるきたい。手紙をかく丈でも隨分骨が折れる 以上
    十一月九日            金
   虚 子 先 生
 
      五七九
 
 十一月九日 金 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ
 今日は長い手紙をかゝなければならん日で四五本かくと一寸一仕事だが返事をよこせといふから上げる。
 昨日は客に接する事十三四人一寸驚ろいた。然し知つた人があゝ云ふ風に寄つてみんなが遠慮なく話しをするのを聞いてゐる程な愉快はない。僕は木曜日を集會日と定めたのをいゝ事と思ふ。
 君は一人でだまつてゐる。だまつてゐても、しやべつても同じ事だが、心に窮屈な所があつてはつまらない。平氣にならなければいけない。うちへ來る人は皆恐ろしい人ぢやない。君の方でだまつてるから口を利かないのだ。二三度顔を合せればすぐ話が出來る。實は君の樣なのが昨日の客中にもあるのだが夫が構はずに話しをしてゐたから面白い。君も話せば面白くなるのである。中川といふ人はやさしい人であるが三重吉君は御仰の通中々猛烈な所がある。あの兩人は親友である。色の白い顔は東洋城といふ俳句家である。あれもあれぎりの好人物である。せビロ連は尤も大人しい連中でちつとも氣兼抔をする男ぢやない。君かりに俳句の會へでも出ると假定し玉へ知らない人は幾人でも居る。僕も昔は内氣で大に耻づかしがつたものだ。今でもある人はさう思つてゐる。所が大違ひ外部こそ同じだが内心はどんな人の前でも何とも思はない。學校抔で氣に喰はない教師抔が居ればフンと云つて鼻であしらつてゐる。夫で澤山なのだよ。世の中にエライ人が無暗に多いと思ふから恥づかしくなつたり。極りがわるくなるので。自分の心が高雅であると下等な事をする物などは自然と眼下に見えるから些つとも憶《原》する必要が起らないものさ。
 こんな氣?を吐くのも木曜日に君を話させ樣と思ふからさ。又來る時は大に辯じ玉へ忙しいから是で御免を蒙る 以上
    十一月九日          夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      五八〇
 
 十一月十日 土 前9-11 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市良覺院丁四〇齋藤阿具へ
 御返事早速拜見不日塀直しに御取かゝり被下候よし難有候。實はまだ倒れずに居候へども余程あやしく候故あらしでも一つ食へばすぐ往來と宅地との區別なくなる事と存候。そこで序ながら願事は先便申上候通り南の方と西の方の生垣に候是は垣といへば垣名のみにて自由に出入致され候のみならず裏手の方は丸で境なきと同樣不用心の極に候。此二方面を御手入被下人間が無暗に出入出來ぬ樣になし被下候へば例の空地を耕やし、不體裁なき樣に奇麗に致して内部の竹垣を取り拂ひ度と存候。貴意如何のものにや。御迷惑とは存じ候へども小生も動くのがいやに付色々な苦情を申し出し候。其他色々あれど是は其都度々々に致し今回は塀と垣丈どうか御片付を願ひ度と存候 以上
    十一月九日          夏目金之助
   齋藤阿具樣
 
      五八一
 
 十一月十一日 日 前8-9 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓昨日一寸伺ふのを忘れましたがね小生の原稿は十二月二十日頃迄でいゝでせうか、そこの所を一寸確めて置きたい實は色々用事があつてね 早くは出來さうもないです。
 生田長江といふ人が四方太さんの所へ行つたら先生大氣?で漱石も一夜をかいてゐるうちはよかつたが近頃段々墮落すると云つたさうだ。四方太先生はこんな元氣はない人だと思つてゐた。えらい事になりました。僕は秋晴や秋曇をかいて滿足してゐられる樣になりたい。其方がどの位個人として幸福か知れない。僕がかくのは冗談にかくんぢやない。まづくても下手でも已を得ずかくのである。冗談なら文章をかゝずに教師丈でひまがあれば遊んであるいてゐる。
 小生今後の傾向は先づ以て四方太先生の墮落的傾向であります。甚だ厄介ですな。小生が好んで墮落するんぢやない。世の中が小生を強ひて墮落せしむるのであるか。 恐惶謹言
    十一月十一日             金
   虚 子 先 生
 左千夫の手紙に云つてゐる事は僕にわからない。四方太の駄洒落を攻撃してゐる所は小生は駄洒落とは認めない。僕はあすこへ應用して貰ふ積りで文章談をしたのではない。
 あれが駄洒落なら大抵のものは駄酒落だ。然し秋晴や秋曇は墮落的傾向を帶びないから僕には一向感じがない。何をかいたのか分らない。あの儘白紙を代りにしても同じ事だ。四方太がきいたら定めし怒る事だらう
 
      五八二
 
 十一月十一日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ 使ひ持歸
 今日は早朝から文學論の原稿を見てゐます中川といふ人に依頼した處先生頗る名文をかくものだから少々降參をして愚痴たら/”\讀んでゐます。
 今四十枚ばかり見た所へ赤い冬瓜の樣なものが臺所の方から來て驚ろきました夫に長い手紙があるので愈驚ろきました。赤冬瓜の事は一二行であとは自我説文學説だから愈以て驚ろきました。御意見は面白く拜見しました。大分御謙遜の樣ですがあれはいけません。然し文章について大意見あるとは甚だ面白い是非伺ひ度と思ひます。
 アン火は感じがわるいですね。佛蘭西あたりのいか樣ものを背負ひ込んだのでせう。
 四方太は白紙文學、僕は墮落文學、君はサボテン文學三重吉はオ|ン《原》ラン憂ひ式夫々勝手にやればいゝのです。夫で逢へば滅茶に議論をして喧嘩をすればいゝと思ふ。所が四方太先生は議論をしませんよ。だからいやだ。
 天下が僕の文を待つは甚だ愉快な御愛嬌で難有く待たれて置いて大に驚ろかす積りで奮發してかきませう。東洋城のオバサンが二百十日をほめたさうだから面白い。僕は人の攻撃をいくらでもきくが大概採用しない事にしました。其代りほめた所は何でも採用すると云ふ憲法です。
 何だかムヅ/\していけません。學校なんどへ出るのが惜しくつてたまらない。やりたい事が多くて困る。僕は十年計畫で敵を斃す積りだつたが近來是程短氣な事はないと思つて百年計畫にあらためました。百年計畫なら大丈夫誰が出て來ても負けません。
 木曜に入らつしやい
 ハムは大好物だから大に喜んで食ひます
 二十日迄にかきます
    十一月十一日           夏目金之助
  虚 子 先 生
 
      五八三
 
 十一月十二日 月 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓先日は御令兄がわざ/\御出被下た處生憎親類のものがある用事で名古屋から來てゐた所へ又々外の來客があつてすぐ御歸りで甚だ失禮しました。どうか又御出下さい。
 昨夜服部が猫の中篇の見本を持つて來ました。始めて體裁を見ました。今度の表紙の模樣は上卷のより上出來と思ひます。あの左右にある朱字は無難に出來て古い雅味がある。(上卷の金字は惡口で失禮だが無暗にギザ/\して印とは思へない。)總體が淋しいが落ち付いてゐると思ひます。扉の朱字も上卷に比すれば數等よいと思ひます。ワクの中はうまく嵌つてゐる樣に思はれます。
 鶉籠の三枚の扉は先達持つて來ましたが何れも駄目だから歸しました夫からまだ持つて來ません。何をしてゐる事やら
 淺井の畫はどうですか。不折は無暗に法螺を吹くから近來繪をたのむのがいやになりました。
 先〔は〕御禮まで 草々頓首
    十一月十一日夜           夏目金之助
   橋 口 清 樣
 どうも忙がしくて困ります。こんないゝ天氣に一寸|と《原》も出られません。「女學世界」の記者が來たから追ひ歸してやりました
 
      五八四
 
 十一月十六日 金 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區飯田町六丁目二三瀧田哲太郎へ
 拜啓讀賣新聞文壇擔任の義につき昨夜考へながら寐て仕舞つた。夫故別段名答も出來ぬ
 先づ一寸思ひ浮んだ事を云ふと月に六十圓位で各日に一欄もしくは一欄半宛かくのはちと骨が折れる。尤もやつて見んから分らんが多分いやになるだらう。
 僕が各日にかけば高等學校か大學をやめる。どつちをやめるかと云へば大學をやめる。
 大學は別段難有いとも名譽とも思ふて居らん。今迄三年半に余としては一人前の仕事をして居る。やめたとて職に堪へぬとは云はれない。
 高等學校は授業が容易で文學上の研究及び述作の餘裕を作るに便だからやめぬ。のみならず今の所では猶やめない。高等學校の教師のあるものは生意氣である。生徒のあるものは生意氣である。ある教師は余がやめればいゝと考へてゐるらしい。余がやめれば、あとから、すぐ運動して這入らうと思ふてゐるものもあるらしい。こんな奴等を増長させては世の爲めにならんからやめぬ。生徒は何の考もなく只輕|跳《腹》にして生意氣なのである。然しこんな生徒を征伏しないで學校を出ては余は生涯心持ちがわるい。世の爲めになる事を自分の安きを得る爲めに逃げた樣で甚だ不愉快である。だから高等學校は決してやめぬ。尤もそのうち職員のあるもの若しくは生徒のある〔もの〕と衝突して事件が急に發展して出るか居るか二つに極める場合が起るかも知れぬ。余はそんな事があればいゝと心待ちに待つてゐる。然しさうして出るなら格別それでなければ出ない。騷動を起して出るにしても僕の代りに這入りたがつて居るものは決して入らせない。
 大學をやめれば八百圓の収入の差がある。よし讀賣から八百圓くれるにしても毎日新聞へかく事柄は僕の事業として後世に殘るものではない(後世に殘る殘らんは當人たる僕の力で左右する譯には行かぬ。然し苟も文筆を以て世に立つ以上は其覺悟である)只一日で讀み捨てるものゝ爲めに時間を奪はれるのは大學の授業の爲めに時間を奪はれると大した相違はない。そこで僕は躊躇する。
 よし夫でも構はんとする。然し讀賣新聞は基礎の堅い新聞かも知れぬが大學程堅くはない。尤も大學でいつ僕を免職するかも知れぬ。僕の眼中には學生も學長も教授もないから、其位の事はいつ僕の頭の上へふりかゝつて來るかも知れん。然し其懸念を度外視するときは大學の俸給は讀賣よりも比較的固定して居る。竹越氏は政客である。讀賣新聞と終始する人ではなからう。一反の約束である程度の機械的《原》文學欄を引き受けた所で竹越氏と終始して去就する樣に融通の利く文學者ではない。ある時ある場合に僕は一人で立場を失ふ樣になるかも知れぬ。竹越氏が如何に勢力家でも如何に僕に好意を表しても全然方面の違ふ文學者を生涯引きずつてあるく譯には行かぬ。
 又それ丈の覺悟を以て最初から入社するには僕の方で夫丈のモーチーヴがなくてはならん。「僕は教育界に立てぬ人だから、退かなければならん」とか「是非共新聞紙上で自家の説を發表して見たい」とか何かそこには未來の危險を犠牲にする丈の強烈な事情がなくてはならん。所が今の僕には左程の事情がない。
 夫からよし以上の理由を念頭に置かずして御依頼に應ずるにした所で到底文欄が僕の當初の所期の樣に行くものではない。讀賣には讀賣に附屬した在來の記者も居る。僕が文欄を擔任すれば僕の近しい人の文字をのみ載せて、在來の人の文字を閑却する樣になるかも知れん。さうすれば苦情が起る。其他色々の事で苦情が持ち上がる。
 もし僕の待遇をよくして月給を増して僕の進退を誘ふとすれば僕も少しは動くかも知れん。然し未來の危險は依然として元の通りである。のみならず比較的僕が過分の月給をとれば社中に又不平が起る。島村抱月氏の日々文壇と同樣の事情が起るに極つてゐる。
 今度の御依頼に就て尤も僕の心を動かすのは僕が文壇を擔任して、僕のうちへ出入する文士の糊口に窮してゐる人に幾分か餘裕を與へてやりたいと云ふ事である。然し事情を綜合して考へると夫も駄目である。
 以上の理由だからしてまづ當分は見合はす方が僕の爲めだらうと思ふ。 早々頓首
    十一月十六日          夏目金之助
   瀧田哲太郎樣
 
      五八五
 
 十一月十大日 金 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔封筒の表側に「御降り在中」とあり裏に「十一月十六日夜八時半」とあり〕
 〔初めの部分切れてなし〕
 もうやめます。陳列すると際限がない。仕舞へ行く程ゾンザイになる。一二分に一句位宛出来る。此うちで尤も上等な奴を二つ許りとつて頂戴。
 あしたは明治大學がやすみになつて嬉しいから、御降りを一寸作りました
    十六日夜              金
   虚 子 先 生
 
      五八六
 十一月十六日 金 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 京都市淨土寺町二松本文三郎へ〔はがき〕
 京都文科大學記念繪葉書御贈拜受致候晩秋の京都は嘸か〔し〕と存候。あの繪葉書は高尚にて面白く候右御禮迄 草々
    十一月十六日
 
      五八七
 
 十一月十七日 土 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上里一郎へ〔はがき〕
 巣鴨の奥に御引移りのよし拜承淋しい處がよろし。
  冬籠り染井の墓地を控へけり
 
      五八八
 
 十一月十八日 日 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓昨夜は失敬。あの沼津行の事で考へたが一寸分らない。
 今朝數藤斧三郎君が來て校長落合氏の方にはよい候補者がないから大學出の方で頼みたいと云ふ
 昨夜話した通り太田善男に此事を話した。返事はまだ來ない。
 今朝數藤君に富山縣魚津に居る北郷二郎の事も話した。
 そこで僕は數藤君に是丈の事は受合つた
 君と太田君がもし意があるならば校長落合氏に面會して見る樣に通知して置く事。
 校長は神田三崎町の森田舘に居る。朝早くか夜ちと遲くでないと居らんさうだ。明後二十日の午後二時の※[さんずい+氣]車で歸るさうだ。
 北郷へも意志を聞く事を受合つた。
 候補者を三人出したのは少々氣が多過ぎるかも知れんが候補者の方でも行くか行かぬか分らんのだから仕方がない。
 昨夜不忍池畔の君の身の上話しをきいた時は只小説的だと思つた。今朝になつて見ると何だか夢の世界に逍遥した樣な氣がする。
 どうしても沼津行は斷然やめぬ方がいゝ一寸校長に逢つて見るがいゝ。
 今日ある人に俳書堂で編輯人が入るといふ事をきいたから月給をきいたら四十圓位は出すだらうと云ふからともかくも聞いて貰ふ事にした。然し頗る危ない
 先づ用事迄 草々
    十一月十八日            夏目金之助
   森田白楊樣
 
      五八九
 
 十一月十八日 日 加計正文へ〔封筒なし〕
 其後は御無沙汰此度は愈御慶事があるさうだ。甚だ結構である。然も浮名の立つた女とは大に羨しい次第だ。
 三重吉先生は時々くる。何でも鎧を俵へ詰め込む小説をしきりに書いて居る。
 僕はいそがしくて堪らん然も愚圖々々してゐる。自分ながら腹か立つてたまらない。學校へ行くと高等學校の生徒のアタマを一つ宛ポカ/\なぐつてやり度なる事がある。千駄木のワイ/\共に大きな石をつけて太田の池へ沈める工夫なぞを考へる。隨分物騷な事だ。
 御慶事の御祝ひとして猫の中扁を進呈する。出來たてのほや/\である。
 年に三四千圓もらつて東京へ妻君携帶で世帶を持つて時々僕を御馳走し玉へ 頓首
    十一月十八日            夏目金之助
   加計正文樣
 
      五九〇
 
 十一月二十一日 永 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓五條氏書面拜見致候實は數藤斧三郎氏よりの依頼にて三名ばかり候補者を出し候うち二名は斷はり先方にても望まぬ樣子よつて殘る一名富山縣魚津に居る北郷と云ふ人に電報にて問合せたる所行きたしとの希望にて其方まとまりたるあと故仕方なく候五條氏は聞き込んですぐ拙宅へ參られゝぱ相談も出來たものをと存候こんな事に紹介も何も入るものに無之候死活の問題に禮儀は古來より無之候。戰爭には道徳さへ無之候。
 君が御出ならいつ御出でになつてもよろしい。ちと遊びに來て下さい。但今週は木曜の外は長い御話しは出來かね候。創作をしてゐる譯には無之講義を作らうと思ひ批評すべき作家の作物をよみ始めたる所いやはや眼が二つでは一年もかゝりさうにて甚だ閉口致し候 以上
    二十一日            金 之 助
   芥 舟 兄
 
      五九一
 
 十一月二十三日 金 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓傳四先生の原稿は先程送りました。手を入れると申しても大變ですから大體あれでいゝでせう。校正の時でも氣がついた所を直してやつて下さい。ホトヽギスの趣向はないのだがどうも長くなりさうで、さうして頗る複雜な奴が書いて見たい。所がどうも時間が足りないですがね。そこが困ります。もし充分の時日があつて趣向が渾然とまとまれば日本第一の名作が來年一月のホトヽギスヘあらはれるのだが惜しい事です。
 いそがしくて困ります。昨夜は大變面白かつた。毎木曜にあゝ猛烈な論戰があると愉快ですな。
 
      五九二
 
 十一月二十三日 金 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 拜啓中學世界の臨時増刊にある十三年前の英文科學生の寫眞中にあるのは正に僕である。後列の左から二番目に美髯を蓄へてゐるのが僕です。一番目は山川信|二《〔次〕》郎といふ男である。混同しちや困る。あれは卒業したてのほや/\で髭も生やし立てのほや/\の所を不忍の長蛇亭の前で寫したのである。
 同號にとし女といふ人が當世の文學者を評したなかに僕の事丈夏目先生といつて他の人は皆雅號を以て呼んでゐるのは、全體何物ですか。男がかりにあんな事をかいたものかと思つたらさうでもない樣だ。何で《原》商人の家に生れて云々とある。而して僕の作を愛讀するとかいてある。かう云ふ異性の知己を得た僕は幸福である。實を云ふと創作をやる時にかつて女の讀者を眼中に置いた事がない。女の十中八九迄は僕の作に同情を有して居らんと信じてゐる。其なかにこんな人がひよこりと出て來ると一寸驚ろかされる。而して風葉天外一派を罵倒して居る見識家だから猶驚ろく。どうか西村君に逢つたらあのとし子さんの事をもう少し聞いて置いてくれ玉へ。序に大に感謝の意を表したいものである 先は夫迄 不一
    十一月二十三日          夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      五九三
 
 十一月二十五日 目 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 猫を早く上げやうと思つたが下女がぐづ/\して遲くなつた。風邪をひいても僕の講義丈出席してくれる抔は甚だ難有い。元來僕の講義はそんなに面白い筈はないのだから風邪をびいたらゆつくり葛湯でも呑んで寐てゐるがいゝ。僕がやすんだのは病氣ぢやない。去ればと云つて君が病氣だから夫に對して休んだ譯でもない。只やすんだのさ。靈の感應で僕がやすむなんて事があるものか。左程に僕を信仰してくれるのは難有いが君がそんな傾向を發達させると飛んでもない事になるよ。僕だからまだいゝが女が相手だと君は遂に其女の爲めに食ひ殺されて仕舞ふ。あぶない。君の樣な性質の人は可成反對の性質を養成しなくてはいけない。君も年頃だから今に戀をするかも知れない。其時に靈の感應なんぞばかり振り廻はしてゐると小宮豐隆なるものは地球の表面から消滅して仕舞ふ。僕も君位な年には靈の盛應を擔いであるいたものだ。而して其〔御〕蔭でもつとえらくなる所をこんな馬鹿になつて仕舞つた。以來は決して靈の感應を擔いぢやいけない。ことに女に對して擔いぢや大變な事になる。世の中には感應を擔がせてひそかに冷笑する樣な怖い女が澤山居る。僕だつて靈の感應を利用して君を嬉しがらせる位は出來る。然しそんな罪な事はしないから君もやめなくつちやいけない。さうして葛湯を飲んでね、日向へ寐て發句でも作つてるがいゝ。直つたら木曜に來給へ。先達ては大勢來て皆々議論をして面白かつた。
 僕忙がしくつて困る。人に出來る事だと君にすけて貰ふがさうはゆかない。
 君はあまり神經質だから今のうちにもう少し呑氣になつて置き給へ。今のうちに呑氣になるのは譯はない。僕がして上げるから毎木曜に必ず出勤し玉へ 以上
    十一月二十四日夜          夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      五九四
 
 十一月三十日 金 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區早稻田南町三〇大澤方片上伸へ
 拜啓御手紙を拜見しました。新年の早稻田文學へ執筆の義につき再應の御照會實は甚だ御氣の毒に存じて居ります。有體に申すと早稻田の方は逃れた積りで居りました。是から大學の講義が切れたから今年分を少々かき夫からホトヽギスの約束を果すうちに今年の文章事業は出來なくなる事と存じます。ホトヽギスの方も漸の事で十二月二十日〔迄〕待つて貰ひました。夫から學校の試驗をして文學論の校正をして大晦日迄働く積りであります。
 其代りホトヽギスのあとでは屹度早稻田文學へかく積りで居ります。どうかあしからず思つて下さい。木曜に御暇なら御遊びに入らつしやい。此間は中井君(趣味の)が來てゐました 以上
    十一月二十九日          夏目金之助
   片 上 伸 樣
 
      五九五
 
 十一月三十日 金 前10-11 本郷區駒込千駄木町五七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ
 拜啓末だ御面會の機を得ず候處愈御清適奉賀候陳者今般はセロン茶一鑵御惠投にあづかり難有拜受仕候。御宿所を檢するに濱武氏と御同宿の樣に見受られ候がもし御朋友にでも候や御洩し被下度候
 吾輩ハ猫デアル中編幸手元に持合せ候故御禮として進呈仕候間御受納被下候はゞ幸甚に候。先は右御挨拶迄 草々頓首
    十一月二十九日            夏目金之助
   久内清孝樣
 
      五九六
 
 十二月二日 日 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
  僕ノウチノ塀ハ奇麗ニナツタ
 登録の件色々御骨折多謝。登録は二十圓かゝるさうだ。誰か僞版でもこしらへた時にすればそれでよいと云ふ噺だからやめた。登録をする本は殆んどないさうだ。先は御禮迄 艸々
 
      五九七
 
 十二月二日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 寒氣漸く烈敷相成候處愈御清勝奉賀候御近著畫道一般御惠投にあつかり拜受難有御禮申上候拙著「猫」中篇幸手元に持合せ居候間一部供御高覽候御笑草とも相成候はゞ幸甚に候
 鳥居素川先生の手翰拜讀致候實は年末にて色々の用事輻湊手が五六本有つてもやりきれぬ體裁その爲め諸方よりの依頼も乍遺憾謝絶致候位故到底「朝日」の方も御たのみ通りに隨筆ものを綴る譯に相成かね候右御氣の毒ながら不惡御諒察の上鳥居君へ宜しく御斷わり被下度先は右當用のみ申述候余は拜眉の上萬々可申述候 以上
    十二月二日             金 之 助
   不 折 賢 臺
         座下
 
      五九八
 
 十二月四日 火 後6-7 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓明後日は千鳥の作者が新作をもつてくる由どうか御出席の上朗讀を願ひたいものですが如何でせう
    十二月四日
 
      五九九
 
 十二月五日 水 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市第二高等學校齋藤阿具へ
 拜啓塀の修繕難有存候偖今日學校にて承はる處原勝郎の後任として君が第一にくるかも知れぬとの事。そこであらかじめ伺つて置き度候
一若し東京へ御轉住の時は當家へ御這入りな|せ《原》れ候や
一もし小生が此家を出ねばならぬならば君が東京轉任決着次第御報知を受けて御着前に相當の家を探したし
一出來るならば此うちを以前の如く借りて居りたし
右用事迄草々得貴意候 以上
    十二月五日            夏目金之助
   齋 藤 阿 具 樣
 
      六〇〇
 
 十二月六日 木 本郷區駒込千駄木町五七より 兵庫縣淡路釜口高田四十平へ
 拜啓 今夕高濱虚子より石章三顆落掌御添付の尊紙も拜見致候御多忙中御無理相願候處早速御承諾被下難有萬々御禮申上候 實はつまらぬ藏書印と見留の外雅印と申すものは一向所持せざる小生に取つては大な寶物を得たる心地にて是より日夕撫摩愛翫可仕候。三章とも頗る面白く拜見べた/\至る所に押しつけて眺め居り候。御禮と申しては失禮に候へど近刊「鶉籠」一部發行次第一部進呈致度候間卓上に御そなへ被下候はゞ幸甚に候右不取敢御挨拶迄艸々如斯に御座候 以上
    十二月六日            夏目金之助
   蝶 衣 先 生
         梧下
 
      六〇一
 
 十二月七日 金 本郷區駒込千駄木町五七より ヂヨン・ロレンスへ
        57,Sendagicho,Hongo.12.7.06
 Dear Prof.Lawrence,
 All the work I do in my classes falling on me,and my students having no share in it,I canp ossibly form no idea whatever as to their ability in their specia lline of studies,till they present their theses at the end of their academic career.I have run through the list you sent me and have found that some of them included in it are quite unknown to me. Others I know personally,but our intercourse are《sic》not so frequent as to make me bold enough to give any decided opinion about them. Thus I am quite powerless in the way of helping you in the matter.If it is absolutely necessary for me to test their eligibility,I must,as you suggest in your letter,have recourse to an examination. But then you are going to give them one,and Mr.Lloyd another.I think those two examinations are enough to show them at the best advantages.I should not object holding mine,if it would help them in glving them fair chance.As it is,I am ratherinclined to dispense with it and leave it to you and Mr.Lloyd to decide their competency for the admission to the Eng.Seminar.I should be very much obliged to you,if you are so good as to let me know the names of successful students in the coming examinations.
         Yours very sincerely,
                       K.Natsume
 
      六〇二
 
 十二月八日 土 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 山彦の評落手拝見一々賛成に候然しデカダン派の感じは假令如何なる文學にも散點せざれば必竟駄目に候。ボードレール抔申す輩のは遂に病的の感に候。三重吉の方が餘程上等に候。君の方のデカダンは結構に候。但眞の爲めに美や道徳を犠牲にする一派に候。夫もよろしく候。僕文學論にて之を論ぜんと思ひし所時間なく其儘に相成居候。
 ホトヽギス未だ手を下さず今度は今迄と違ふ方面をかゝうと存候然し趣向纒まらず二十〔日〕迄に出來さうもなし實はハムレツトを凌ぐ樣な傑作を出して天下のモヽンガーを驚ろかしてやらうと思へども歳末多忙の上いくらえらいものを出しても決して驚ろかぬ性根を《原》据つた讀者のみ故骨折損と存じ御やめに致し是から學校のひまにボツ/\墮落文學を五六十枚かゝうと存候 以上
    十二月八日             金
   白 楊 樣
 
      六〇三
 
 十二月八日 土 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 宮城縣角田に六十圓と四十圓の英語教師の口あり誰か心當りはなきか。堀川では雙方不都合と思ふ如何
 
      六〇四
 
 十二月八日 土 後(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町福榮館鈴木三重吉へ
 拜啓別紙山彦評森田白楊より送り來り候御參考の爲め入御覽候ホトヽギスを書き始めんと思へど大趣向にて纒らず切ればカタワとなる、時間はあらず困り入候 艸々
    十二月八日             夏目金之助
   鈴木三重吉様
 
      六〇五
 
 十二月九日 日 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市第二高等學校齋藤阿具へ
 拝啓御手紙拝見愈東京へ御轉任のよし結構に存候從つて小生現住家屋引拂の件委細承知致候早速家屋捜索にとりかゝり可申候。然し適當の場所見當り候迄はどうか御勘辨を願ひ度と存候。小生が千駄木に居りたきは失禮ながら今の家が氣に入りて外に移るのがいやになったと申す譯に無之。他に少々理由有之。もし大兄が東京へ參られぬ以上はいつ迄も御厄介にならんと存候處所有主たる大兄が入れ換って御住居となれば懇願の餘地も無之不得已次第至急立退の用意可仕候。只家屋拂底の今日、色々書籍類も澤山有之どこへでも立ち退くと申す運びに至らず候故其邊の御容赦にはあづかり度と存候
 ヘツヽイは小生のものに候。車屋からヘツヽイを借りた覺は無之候
 右御返事迄 艸々
    十二月九日            夏目金之助
   齋 藤 阿 具 様
 
      六〇六
 
 十二月九日 日 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區久堅町七四、五二號菅虎雄へ〔はがき〕
 僕の家主東京轉任につき僕追ひ出される。よき家なきや。あらば教へ給へ。
    九 日
 
      六〇七
 
 十二月九日 日 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 
 僕の家主東京轉任につき近々追ひ出される。よき家あらば見當り次第御報知を乞ふ
    九 日
 
      六〇八
 
 十二月九日 日 後17-4 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町二七鳳明館中川芳太郎、鈴木三重吉へ〔はがき〕
 僕の家主東京轉任で僕は追ひ出されるにつきよき家あらば見當り次第教へて下され
 白楊先生の批評を見たりや
    九 日
 
      六〇九
 
 十二月十日 月 前11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓愈本日曜からホトヽギスに取りかゝりました。學校があるから廿日迄に出來るかどうか受合へない。然し出来る丈かいて見ませう。時があれば傑作にして御覽に入れるがさうも行くまい。廿一日の朝には全部渡さなくてはいけませんか。一寸きかして下さい。正月發行期日が後れても職人が働かないから同じ事でせうか。
 僕の家主が東京へ轉任するに就て僕に出ろと云ふ甚だ厄介である。今時分轉任せんでもの事であるのにと思ふ。然し向は所有権があるから出なければならない。君どうですか、いゝ所を知りませんか。あつたら移りたいから教へて下さい。あれば今年中に移つて仕舞ふ。 頓首
    十二月九日夜             夏目金之助
   虚 子 先 生
         座下
 
      六一〇
 
 十二月十日 月 後2-3 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる万森田米松へ
 啓上
 三重吉先生が封入の手紙をよこして君に送つてくれといふから御覽なさい。三重吉は嬉しいとかスヰートとか云ふ字を無暗に使用する男だ。而して先生僕に對して大に嬉しがつてゐる。僕もこんな御弟子があれば本望の至りだ耶蘇の御弟子でも孔子の御弟子でも此位なものだらう。殆んど恐縮の至りだ。
 かうやつて君の手紙を三重吉に渡して三重吉の手紙を君に渡すのは丸で色の取持をしてゐる樣なものだ。昔の小説にある女髪結の亞流だと思ふ 艸々
    十二月十日            金
   白 楊 樣
 昨日から小説をかき出した二十日迄に出來ればいゝが。今度の小説中には平生僕が君に話す樣な議論をする男や、夫から經歴が(人間は知らず)君に似てゐる男が出て來る。自然の勢何となしにさうなるのだから君や僕の事と思つちやいけない
 
      六一一
 
 十二月十一日 火 後0-1 本郷區駒込千駄木町五七より 滋賀縣蒲生郡八幡町八幡商業學校妹尾福松へ
 拜啓追々寒氣に相同ひ候處愈御清適結構に存候偖先般教員免状下附の義許可相成りたる旨御照會により御返事申上候處其後今以て下附相成らざる趣につき又々白|根《〔仁〕》三郎氏を介して普通學務局長に聞き合せもらひ候處別紙の如き返書ありまことに以て何とも申樣なき不都合手違實に恐縮の至に堪へざれど斯樣の事情なれば不得已事と御承知被下度候先は右用事迄草草如斯に御座候 以上
    十二月十日            夏目金之助
   妹 尾 福 松 樣
 
      六一二
 
 十二月十一日 火 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 正義組拜見趣向はいゝですがあれでは物足りませんね。あれをもつとキユツと感じさせなくつては短篇の生命がありません。惡口を申して失禮です。こんなものは今の小説家がみんなやります。而してもつとうまくやります。是よりは寫生文の方がよい樣に思はれます。然し屑籠へ入れる必要はないでせう。
 寺田が短篇をよこしました。是もあまり感服しません。然し他人はほめるかも知れない。とにかく御覽に入れます 以上
    十二月十一日             金
   虚 子 樣
 
      六一三
 
 十二月十一曰 火 本郷區駒込千駄木町五七より ヂヨン・ロレンスへ
 
       57,Sendagicho,Hongo.11th Dec.1906
 Dear Prof.Lawrence,
 I am very much obliged to you for your letter,accompanied with the list of the successful candidates.Enclosed herewith,I return it signed,as is requested.I am very sorry I have done nothing toward helping you in the matter,despite the considerateness on your part to submit it before you have take nany decisive step in it.
         Yours very sincerely,
                 K.Natsume
 
 
      六一四
 
 十二月十三日 木 前4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市第二高等學校齋藤阿具へ
 拜啓東京御轉任につき小生も其後精々家宅を捜索致居候處西片町にあく家一軒有之先づ多分は夫へ引き移る事と可相成左すれば來學期より無御差支當家へ御引移の運びに至るべくと存候
 然る所茲に申譯なき御相談相起り候。先便申上候過小生自辨にて御宅へ水道をかけ候處是は當分御厄介になる積りにて貴兄へ寄附する由申上置候。所が二三ケ月にして他へ移轉と申す事に相成。しかも其移轉先も自辨にて水道をかけたる男にて若し引き移るとすれば二十何圓か敷設賃を拂つて讓り受けねばならぬ事と相成加之今迄はなかつた敷金なるものを取られ一時に費用が嵩む事に相成候
 夫で先約を取り消すのは甚だ厚顔の至故強ひてとは申かね候へども水道の所は實費で御引受を願へれば當方は非常な好都合に御座候が如何のものに御座候や。是はあまりな申條なれど當方にも色々の事情有之萬一御聞濟も被下候はゞ幸甚此事に存候
 但し水道の實費は十八圓に御座候
 夫から前述の宅へ愈引き移るや否やは二三日中に確定致し候へばきまり次第可申上候先は右用事のみ 草々頓首
    十二月十|四《原》日         夏目金之助
   齊《原》藤阿具樣
 
      六一五
 
 十二月十六日 日 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 欠び御出來のよし小生只今向鉢卷大頭痛にて大傑作製造中に候。二十日迄に出來上る積りなれど只今八十枚の所にて。豫定の半分にも行つて居らぬ故どうなる事やら當人にも分りかね候。出來ねば末一二回分は二十日以後と御あきらめ下さい。
 小生立退きを命ぜられ是亦大頭痛中に候」
 今度の小説は本郷座式で超ハムレツト的の傑作になる筈の所御催促にて段々下落致候殘念千萬に候
 
      六一六
 
 十二月十六日 日 後11-12 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
  只今頗ル艶ナ所ヲカイテヰル表題ハ實ハキマラズ。
 「野分」、位ナ所ガヨカヲウト思ヒマス。ドウデセウ。中々人ガキタリ、何カシテ一氣ニ書ケナイ
 
      六一七
 
 十二月十九日 水 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町二七鳳明館中川芳太郎へ
 御手紙拜見僕今明兩日中に長いものをかき上げるので七顛八倒の苦しみ御察し被下度家は大概きまつた。落雲館や車夫のない所をさがして下さる御好意は難有いがあんなものはいくら有つても構ハナイ。早晩夏目先生に降參するにきまつてるんだから降參をさせる樣な場所に居る方が社會の爲めである
 文學論の校正が舞ひ込んで來た是は君の所へ行くのを間違つて僕の所へ來たのだらう。
 鈴木は病氣をしたさうだ。僕のうちでも家内中インフルエンザ下女は寐てゐる細君も起きたり寐たりしてゐる。僕丈助かつた。僕が助からないと天下の大文章が出來損ふ所であつた。萬歳萬歳。向鉢卷の大頭痛は度々經驗するが仕舞にいやになる。もう小説は御やめといふ氣にさへなる。何だか腹が※[病垂/否]へて苦しくつて書き上げる迄は眼が血走つてる。眠たがる僕がちつとも眠くない。夜通しでも起きてゐられる 左樣なら
    十二月十九日           夏目金之助
   中川芳太郎樣
 
      六一八
 
 十二月二十二日 土 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 熊本市内坪井町一二七奧太一郎へ
 御手紙拜見其後は御無沙汰實は大多忙にて始終齷齪致し居りたるために候學校も何だか○○○○○○○○○○○○○と存候右については○○○○○○○○○○○○○○○○○○○あり候由先日去る所より承はり候小生は東京にて孤獨校長が變つても學長が變つても頗る呑氣に候考へると東京は廣い所に候。其代りスリや胡魔の灰は至る所に散在致居候然し彼等は到底平面以下のものなれば其上に住む吾等には何等の痛痒を與ふるものにあらざる故安心なものに候
 拙著御愛讀被下候よし難有存候鶉籠御所望につき一部差上候是は正月に賣出す筈に候其うち御地へも參る事と存候
 何か面白い事を報道せんと思へども何にもなき故是にて御免蒙り候さう/\俣野義郎の事は面白く候あの男は多々羅三平を以て自ら目し而も大不平なので頗る厄介に存候漸く正月に相成候年々同じ樣な事を致して年々墓に近づき候スリ、ゴマノ蠅は生涯スリ、ゴマノ蠅で一命を終り候 呵々
    十二月二十二日            金 之 助
   奥   樣
 
      六一九
 
 十二月二十二日 土 後5-6 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ
 君は長い手紙をかいたね。漸くホトヽギスを濟ましたから今日は用事其他の手紙をかく是が六本目である。手紙も六本位かくと疲れる。木曜の晩は小説が一章殘つて大に勉強しやうと思ふと午後から色々な人がくる入れ代り立ち代り(鈴木、中川も來た)大抵は十分位で歸した。然るに最後に至つて債主俳書堂主人虚子が車を驅つて原稿を受取りにきたのは一番辟易した。僕はまだ書き上げてゐない。それから書き放しで見直してない。それで不得已虚子先生に半分朗讀を頼んであまり可笑しいと思ふテニヲハを一寸直したらもう十時過ぎ、そこへ中央公論の瀧田先生がやつてくる。何でも十一時頃になつた。それだから君が來ても矢つ張り同じ事であつた。くればよかつた。
 僕引越をしなければ年末に諸先生を會して忘年會を開かうと思ふが手紙を出してさうして客を呼んでさうして引越で見合せちや面白くないから控へてゐる。何でも先達て東洋城が自から臺所へ出て指揮を司どると云つてゐたが先生どうするかしらん。
 僕瓦斯會社出張所の前を通つて見世にあるランプが欲しくなつた。札を見たら十五圓である。今に瓦斯でも引く家へ這入つたら此ランプを買ふ事に致さう。
 鶉籠が出來た。今度來たら一部上げ樣。
 僕をおとつさんにするのはいゝが、そんな大きなむす子があると思ふと落ち付いて騷げない。僕は是でも青年だぜ。中々若い|ゝ《原》んだからおとつさんには向かない。兄さんにも向かない。矢つ張り先生にして友達なるものだね。
 おとつさんになると今日の樣な氣分で育《源》文舘の生徒なんかと喧嘩が出來る譯のものぢやない。世の中に何がつまらないつて、おとつさんになる程つまらないものはない。又おとつさんを持つより厄介な事はない。僕はおやぢで散々手コズツタ。不思議な事はおやぢが死んでも悲しくも何ともない。舊幕時代なら親不孝の罪を以て火あぶりにでもなる倅だね。君は女の手に生長したからそんな心細い事ばかり云ふ。段々自分で心細くして仕舞ふと始終には世の中がいやになつていけない。君の手紙を見て思ひ出した。今度僕のかいた小説をよんで御覽。あれは天下の心細がつてるものによませやうと思つて書いたものだ。あれを讀んでどんな感じが起るか聞きたいと思ふ。
 僕は是で色々な人から色々に自分の身の上を打ちあけた手紙や何かを受取る男だ。人にそんな事の云へるうちは人間がつまり純粹なのである。其代り自分で自分の云ふ事を大袈裟に誇張する事がある。自分は當時はそれ程と氣がつかないでもあとからさう思ふ。君もさうだ。今に細君でももらふと大愉快になるかも知れない。つまらん事をかいて長くなつた。是から一寸晝寐でもしやうと思ふ。何だかだるくていけない。
    十二月二十二日          夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      六二〇
 
 十二月二十三日 日 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓喋衣(高田四十平)君の所ハ淡路釜口デスカ
 
      六二一
 
 十二月二十三日 日 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市良覺院丁四〇齋藤阿具へ
 拜啓小生轉宅所畧確定本日先方引拂につき※[手偏+僉]分の上取りきめる都合に候へば引き移りは多分三四日後に可相成當日は御郷里の方へ端書にて御報知可申候。荷物の儀は直接東京へ御廻しの方便宜なるべくと存候然し小生の引き拂はぬ前到着しては少々置場所に困り候はんかと存候先は右御返事迄草々
    十二月二十三日           夏目金之助
   齊《原》 藤 樣
 
      六二二
 
 十二月二十四日 月 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 小生駒込西片町十番地へ來る二十七日晴天ならば轉宅興行に付何卒御來援の〔程〕偏に奉願上候
                興行元
                夏目漱石
 
      六二三
 
 十二月二十四日 月 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 天氣ならば二十七日轉宅願くは御賛成の上御來援被下度候
 轉宅先は西片町十ロノ七ノアタリ御出張先は千駄木ニテヨロシ
 
      六二四
 
 十二月二十四日 月 後3-4 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區臺町福榮館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 天氣ならば二十七日轉宅の筈どうか手傳に來てくれ玉へ。西片町十ロノ七ノアタリナリ。但シ千駄木へ御出張ヲ煩ハシタシ
    十二月二十四日
 
      六二五
 
 十二月二十六日 水 後4-5 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 廿七日引き越します
 所は本郷西片町十ロノ七
であります。中々まづい處です。喬木を下つて幽谷ニ入ル
 
      六二六
 
 十二月二十六日 水 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき」
 今般左に轉居致候
 本郷西片町十ロノ七
                     夏目金之助
 
      六二七
 
 十二月三十日 日 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 宇治山田市浦田町湯淺廉孫へ
 御手紙拜見致候學友の爲め御盡力の段御尤もに存候小生もさういふ事なら賛成の上拙句集を出してもよけれど小生の俳句たるや出しても金にならず君の學友の懷に金が這入らねば仕方なし次に小生の句はまとめて一卷となす丈の價値なきは無論一卷をかたちづくる程の量なし往年作る所のもの大概散逸今僅かに十の一を存するのみに候へば到底句集にはなりかね候。頃日來頓と俳句に興を寄せず從つて作る所絶無なれば殆んど俳人としての漱石は死せりといふも不可なき有樣に候。夫から此後句を作らぬと決心した譯でもなければ或はホトヽギス抔に一二句位は出るかも知れねど夫を待つて集を作るうちには君の友人は卒業して仕舞ふべし右の事情故折角の御依頼なれどどうする事も出來ず。近來色々の事情にて金の這入る割合に出費多くもとの如く窮生を養ふの勇氣なし。うちに居て書生の代りをしてくれるものも欲しけれど狹隘にて居る室なし。何とか外に工夫はつかざるや。
 小生借家の持主齋藤阿具氏東京轉任にて千駄木を追ひ出され兩三日前表面の處に轉住押しつまりて色々多忙いづれ永日を期す 頓首
    十二月三十日           夏目金之助
   湯 淺 兄
 
      六二八
 
 十二月〔?〕 高濱清へ〔文中高田蝶衣に關する部分だけきりとつて、虚子から蝶衣に轉送されたものと思はれるうつし〕
 蝶衣先生によろしく御禮をいふて下さい。カンボーは例の如くで結構です。□の方の一つも漱石と願ひませう。今一つの方の文字を擇べと仰せあるが別に是と云ふすきな句もありません。丁度女の樣なもので奇麗な女を見るとどれも結構ですが、前へ並べないで好きなのをやるから。いゝのを注文しろと仰やつて中々まとまつた顔が誂へにくい樣です。
 
 明治四十年
 
      六二九
 
 一月一日 火 後7-8 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ〔はがき〕
 拜啓來る三日木曜につき御來駕願度候。だれか來て夕食の支度をする有志者があるさうです
    一月一日
 
      六三〇
 
 一月一日 火 後7-8 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 拜啓來る三日木曜には誰か來て夕食の御馳走をする筈につきひるから御出を乞ふ
    一月一日
 
      六三一
 
 一月一日 火 本郷區駒込酉片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓來る三日木曜日につき大に諸賢を會し度と存候かねて松根東洋城が御馳走を周旋するといつてゐたから手紙を出して置きました。どうか來てまぜ返して下さい
 
      六三二
 
 一月二日 水 前6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 拜啓來る三日木曜にて例の人々來りて御馳走をこしらへて、たぺる由手傳ふなら晝から食ふなら夕方御出被下度候
 
      六三三
 
 一月六日 日 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 〔はじめの部分切れて無し「畑打」の句なるべし〕
 まづ此位な處に候御旅行結構に候三日には大勢あつまり頗る盛會に候。小生野分をかいたから此次は何をかゝうかと考へ居り候。何だか殿下樣より漱石の方がえらい氣持に候。此分にでは神樣を凌ぐ事は容易に候。人間もそのうち寂滅と御出になるべく。それ迄に色々なものを書いて死に度と存候 以上
    一月四日夜            金 之 助
   虚 子 先 生
 
      六三四
 
 一月六日 日 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外田中村五四木村方伊津野直へ
 拜啓わざ/\御手紙にてうれしく拜見致候閑靜なる御住居を卜され候由結構狩野君より毎々京都はよい所だ是非こい/\といはれ候小生も行き度候。一ケ月ばかり遊んで東京へ歸つたら嘸面白からうと存候竹藪の中抔は東京では到底住めず候。舊臘齋藤阿具氏仙臺より東京へ轉任にて千駄木の住居を追ひ出され二十七日に漸く表面へ引き越し候夫から毎日々々來客やら片付けやらで大騷ぎ實は仕事が大分あるのに何にもせぬうちに休暇もなくなる次第何につけてものび/\せぬは東京の生活に候。新居も鼻がつかへる樣な所に候ホトヽギス賣切れの由。東京にても二三日中に賣り切れたる樣子。餘分があると送つて上げたけれども出版社の方にも種切れ故如何とも致しがたく候。狩野君には東京にて兩三度逢ひ候。京都にてゆつくり御勉強の程願上候先は右御返事迄 草々
    一月六日夜            夏目金之助
   伊 津 野 樣
 
     六三五
 
 一月十一日 金 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區臺町福榮館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 日曜には十一時半に拙宅へ御出の事但し隨意の時間に九段へ御出で夏目の席ときいてもよろしく候
 
      六三六
 
 一月十一日 金 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ〔はがき〕
 日曜の能見物には僕等が十一時過ぎに君を誘ふから待つてゐ玉へ。夫とも一人で先へ行つて夏目の席と聽いてもよし
 
      六三七
 
 一月十一日 金 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都帝國大學松本文三郎へ
 今般は目出度御結婚の由新春の御祝儀をかね奉遙賀候 謹言
    正月十一日           夏目金之助
   松本文三郎樣
 追白小生舊臘より表面の處へ轉居致候間左樣御承知被下度候
 
      六三八
 
 一月十二日 土 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 寒水村をよみました。君のかいたもので一番小説に近いものである。趣向が面白い。さうして是といふ不自然がない。結構であります。一字一句に苦心するよりあの方が遙かにいゝ 早々萬歳
 
      六三九
 
 一月十二日 土 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區竹早町森卷吉へ
 拜啓呵責を讀んだ
 あれは大變骨を折つた短篇である。其骨折は文章にある。文章のうちでも句法及び句切りにある。一句一句の内容よりも寧ろ前者である。而して其骨折り方は非常に堅い齒の立たない樣なものを作り上げた。
 あれは文の口調から云ふと僕のかいた幻影の盾や一夜に似て居る。妙な事に僕は僕の癖を眞似た文章を嫌ふ。僕の他人と共通の所を眞似たものでなく僕の癖をわざ/\眞似た作に對すると其人の個性がない樣な氣持ちがしていくら善く出來てゐでもほめる氣にならない。是が第一の不滿の點である。
 夫からあゝ云ふ文體は時代ものか空漠たる詩的のものには適するかも知れぬが世話ものには不適當である
 世話物は主としてある筋を土臺にする。筋でなくてもあるものを捉へて、其あるものを讀者に與へやうとする。所があゝ云ふ風に肩が凝るやうにかくと筋とかあるものとかを味ふ力がみんな一字一句を味ふ爲めに費やされて仕舞ふから自分で自分の目的を害する事になる。
 だから文體をあの儘にしてしかも筋とか、ある人情とかをキユーとあらはす爲めにはもつと筋を明瞭にしなければならない。或は人に感じさせやうとする人情をもつと露骨にかゝなければならない。所が君の短篇の筋は茫〔右○〕としてゐる。女の呵責も矢張り源因結果の不明瞭に伴つて一向ひき立たぬ。それだから文章をもつと容易にするより外に改良の途はない。
 もし又文章をあの調子で生かせ樣とするならもつと頭も尾もなくて構はない趣向にして仕舞ふがいゝ。詩的な空想とか、又は官能に丈うつたへる樣なものにしさへすれば文章丈を味ふ事が出來る。
 文章に意を用ゐれば肝心の筋が猶分らなくなる。筋をたどれば文章の一字一句が晦澁になる。君は知らぬ間に讀者を苦しめてゐる。
 單に詩的な作物と人情ものとをかね樣としてさうして讀者の方向を迷はせたからかうなつたものと思ふ。
○最後に文章丈で云ふと面白い句もあるが前云ふ通り重に口調や句切りの方に意を用ゐて内容に重きを措いて居らん。平凡な想を妙な口調で述べたに過ぎぬ場所さへある。だから呵責の一篇は單に文章ものとしてみてもえらくない
○最後に文章は偖置いて筋、趣向、人情の方から云ふと是はもつと明瞭に長くかくか又は裏からかいてももつと自然に近い樣にかゝなければ人を感動せしむる事は出來ん。あの女が無暗に一人で苦しんで居る樣に思はれる、苦しみ方が突飛で作者が勝手次第に道具に使つてゐる樣に見える。凡ての人間が頭も尾もないダーク一座の操人形の樣に見える。あれではいけないよ。
○して見ると呵責は單に文章としても餘りえらくなし。單に人情ものとしても猶よくない。而して片々が片々を邪魔をする樣に組み合はされてゐるから其結果は猶いけない。
○僕の解剖は正しい。普通の人はあれを讀んで何だか可笑しいと思ふ。而して何が可笑しいか分らずに仕舞ふ。君は其等の評をきくと不平に違ひない。不平かも知れないがさう云ふ評が適當である。君の不平を或る點迄和げやうと思つて僕はこゝ迄解剖して御覽に入れたのである。
○一番最後に呵責の一篇に於て尤も取るべき點があるなら文章〔二字右○〕である。而して其文章は遂に漱石の癖所を眞似たものである。從つて漱石以上に成功した文章でも天下はそれ程動かない。君の損である。眞似をされた漱石自身さへ好まぬ以上は他人は猶更である。文は人間である。君は漱石とは違ふ人間であるから自然にかけば屹度漱石と違つたものが出來る。それが君〔右○〕の文章である。どうか此後作物をやる時は其積でやつて貰ひたい。
○僕は遠慮のない事をいふ。君を失望させる譯ではない。君が正しい點から出立して一個の森卷吉として成功せん事を望むからである 以上
    一月十二日           夏目金之助
   森 卷 吉 樣
 
      六四〇
 
 一月十六日 水 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 寅彦が枯菊の影を送つて來ましたから廻送します。今度のホトヽギスに僕の轉居を廣告してくれませんか
 
      六四一
 
 一月十七日 木 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上八重へ
     明  暗
一 非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心なり。從つて苦辛の割に全體が引き立つ事なし
一 局部に苦心をし過ぎる結果散文中に無暗に詩的な形容を使ふ。然も入らぬ處へ無理矢理に使ふ。スキ間なく象嵌を施したる文机の如し。全體の地は隱れて仕舞ふ。
一 而して此装飾は机の木とある點に於て不調和なり。會話は全然寫眞にして地の文は殆んど漢文口調の如き堅苦しきものなり。(余の文體のあるものに似たり)然し警句は大變多し此警句に費やせる努力を擧げて人間其ものゝ心機の隱見する觀察に費やしたらば是よりも數十等面白きものが出來るべし
一 明暗は若き人の作物也。篇中の人物と同じ位の平面に立つ人の作物なり。自から高い處に居つて上から見下して彼我をかき分けた樣な作物にあらず。夫故に同年輩以上の人の心を動かす能はず
  大なる作者は大なる眼と高き立脚地あり。篇中の人物は赤も白も黒も悉く掌を指すが如く雙眸に入る。明暗の作者は人世のある色の外は識別し得ざる若き人なり。才の足らざるにあらず、識の足らざるにあらず。思索綜合の哲學と年〔右○〕が足らぬなり。年〔右○〕は大變な有力なものなり。「明暗」の作者は今より十年後に至つて再び「明暗」をよむ時余の言の詐りならざるを知るべし
一 去れども世には年ばかり殖えて一向頭脳の進歩せぬものあり。十中六七迄はこれなり。余の年〔右○〕といふは單に世に住むといふ意ならず。漫然と世に住むは住まぬと同じ。余の年〔右○〕と云ふは文學者〔三字傍点〕としてとつたる年〔右○〕なり。明暗の著作者もし文學者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文學者として年をとるべし。文學者として十年の歳月を送りたる時過去を顧みば余が言の妄ならざるを知らん
一 女主人公一人より成る小説なり此女主人公がもつと判然と活動せざる可らず。是を圍繞する附屬物の人間も亦今一層躍然たらざるべからず。幸子を慕ふ醫學士の如きはどうも人間らしからず。之に對する幸子も大分は作者がいゝ加減に狹い胸の中で築き上げた畸形兒なり。
 讀んで成程と思ふ程に出來ねば失敗なり。明暗は成程と迄思へぬ作なり。著者のみ無暗に成程と思つてゐる。此著者の世間が狹い證據なり。人世の批評眼が出來上らぬ證據なり。觀察が糸の如く細き證據なり
一 明暗の如き詩的な警句を連發する作家はもつと詩的なる作物をかくべし。而して自己の得所が充分發揮せらるゝ樣にすべし。人情ものをかく丈の手腕はなきなり。非人情のものをかく力量は充分あるなり。繪の如きもの、肖像の如きもの、美文的のものをかけば得所を發揮すると同時に弱點を露はすの不便を免がるゝを得べし。妄評多罪
しばらく實際に裁て御參考の爲め愚存を述べん
一 幸子といふ女が畫の爲めに一身を獻身的に過ごすといふはよし。然し妙齡の美人がこんな心を起すには起す丈の源因がなければならん夫をかゝなければ突然で不自然に聽える
一 兄が嫁を貰ふのを聽いてうらめしく思ふのはよし。此うらめしさを讀者に感ぜしむる爲めにはあらかじめ伏線を設けて兄と妹の中のよき所、よさ加減を讀者に知らしめざるべからず。然らざれば是又突然にて器械的也。作者一人が承知してゐる樣に思はれる
一 女が男の戀をしりぞける所は夫でよし。退ぞけて後迷ふもよし。只力量足らざる爲め悉く作者が勝手に製造せる如く見ゆ
一 女が自分の畫のまづきに氣がつく處アツケなし。突然としてレ※[ヱに濁點]レーシヨンの如く自分の畫のまづきを知る。作者は夫でよしとするも讀者の腑には落ちず
一 女が遂に降參して醫學士に靡かんとする時自己の不見識を考へて無理に昔の主義を押し通す所よし。全篇にて尤もと思ふは此所なり。何故といへば前に伏線〔二字右○〕がある故なり。是丈は突然にあらず。作者の勝手にあらず。かゝる女の心理的状態として如何にもかく發展しさうに思はるゝなり
一 かゝる變な女を描く事は一方から云へば容易なる如くにて一方からは非常に困難なるものなり。變人なる故普通の人と心理状態の異なる所以を自づから説明せざるべからず。之を説明さ《原》ざる限りは讀者は成程と思へぬ也。然も其説明たるや全篇を讀むうちにいつといふ事を知らぬ間に説明せざるべからず。是尤も手腕の必要なる所なり
一 趣向は全體としで別段の事なし。あしく云へばありふれたるものなるべし。只運用の妙一つにて陳を化して新となす。作者は惜しい事に未だ此力量を有せず。
 最後の一節の如きは尤も女主人公の性格を發揮すると共に吾人の同情を彼女の上に濺がしめ得る好シチユエーションなるにも拘はらず。左のみ感服せず
 
      六四二
 
 一月十八日 金 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 「縁」といふ面白いものを得たからホトヽギスへ差し上げます。「縁」はどこから見ても女の書いたものであります。しかも明治の才媛がいまだ曾て描き出し得なかつた嬉しい情趣をあらはして居ます。「千鳥」をホトヽギスにすゝめた小生は「縁」をにぎりつぶす譯に行きません。ひろく同好の士に讀ませたいと思ひます。
 今の小説ずきはこんなものを讀んでつまらんといふかも知れません。鰒汁をぐら/\※[者/火]て、それを飽く迄食つて、さうして夜中に腹が痛くなつて煩悶しなければ物足らないといふ連中が多い樣である。それでなければ人生に觸れた心持ちがしない抔と云つて居ます。ことに女にはそんな毒にあたつて嬉しがる連中が多いと思ひます。大抵の女は信州の山の奥で育つた田舍者です。鮪を食つてピリヽと來て、顔がポーとしなければ魚らしく思はない樣ですな。
 こんななかに「縁」の樣な作者の居るのは甚だたのもしい氣がします。これをたのもしがつて歡迎するものはホトヽギス丈だらうと思ひます。夫だからホトヽギスへ進上します。
    一月十八日              金
   虚 子 樣
 
      六四三
 
 一月十八日 金 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 一寸申し上げます。
 君が衣食に困る事をたのまれもせぬに少々心配して居た處先日俳書堂主人が子規遺稿を出版するに付いて適當の人がほしいと云ふからあたつて見た所。一週間(一ケ月中)を其方に費やして編輯に從事し其他は毎日十六頁乃至三十二頁の校正をして先づ一年事業として月々貳十五圓位なら出せると云ふ。夫から虚子にも話しをしたら誰ですかといふから實は森田ですが是は此方であてにする丈で向ではいやといふかも知れませんと答へた。すると虚子が森田君は俳句の心掛があるでせうかといふから。まあないでせう然し校正位は出來るだらうといふたら。いや出版の上でこんな間違があつたと人の噂に上る不都合さへなければいゝのですと申した。
 近頃君の事情は知らぬがもし差し當つて困るならやつて見たらどうであらう。氣があるならば俳書堂主人(籾山仁三郎事築地二丁目住)及び高濱虚子(富士見町四ノ八住)に面會して見たら如何。
 是はあまり威張つた仕事でなし且つ薄給故強ひて勸める譯にあらず只僕の老婆心からいふのである。逢ふ積りなら僕から兩人へ手紙を出してもよし又は突然行つて僕からきいたと云つてもよろしく。いづれにも一寸手紙で返事を下さい。 以上
    一月十八日              夏目金之助
   森田米松樣
 
      六四四
 
 一月十九日 土 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓春陽堂の編輯員本多直|二《〔次〕》郎氏新小説紙選句の件につき御目にかゝり御話し申度由につき御面會被下候へば幸甚に存候先は用事のみ餘は拜眉千萬 不一
 
           一月十九日          夏目金之助
   高 濱 様
 
      六四五
 
 一月二十一日 月 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拝啓庄野宗之助君の宿所を一寸御報知願度と存候 以上
    一月二十一日
 
      六四六
 
 一月二十三日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拝啓先日は遠路の所をわざ/\御來駕被下候處實にいやはやぞんざい千萬なる接待ぶりにて甚だ以て恐縮致候實はさしかゝつた用事を明日に控へて其方で時間が必要なりし爲め御引きとめ申す譯にも行かず。歸らうと仰せらるゝを左様ならと御歸し申候。
 そこで其節一寸御話しを致した庄野君の畫の事を一寸手紙にて問ひ合せ候處賣るなら百圓と申候。さうして買はうと云はれる方には少々高價かも知れぬと申す返事があり候。小生畫の相場は知らず。畫工を踏み倒すのは無論嫌であなたに無暗なものを壓しつけるのも固より厭に候。只あれなりにして置いては何だか氣が濟まぬ故御通知丈は致し候
 右不取敢御詫旁御報迄草々如斯に御座候 以上
    一月二十三日          夏目金之助
   渡邊和太郎様
 傳君によろしく御申傳被下度候
 
      六四七
 
 一月二十三日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓其後は御無沙汰を致しました。色々用事ばかり多くて一向出られません。今日學校にてモリス君が先達て書いて頂ひたブツクプレートを版にしたいがいゝ人を教へてくれ。滅多な人にたのんで折角の筆致を無茶苦茶にされてはかいて貰つた甲斐がないと申候。それ故橋口君に聞き合はしてもらひませうと答へて置きましたから何分御面倒でも教へて下さい。或はモリス君からあれを其儘あなたの所へ送つてそれを彫刻家の方へ廻していたゞいて出來上つたあとから費用を本人から拂はせる樣に致せば猶モリス君の爲めには便宜かと思ひますがそれ丈の御面倒が願へるものでせうか。
 其次に私の御願が一つありますがね。僕はインキ壺を二つ(黒と赤)青銅か何かで鑄出して見たいと思ひますが御存じの學校出の方でこんな事に趣味のある方でひまにこしらへてやらうと云ふ樣な奇特な人はありますまいか。謝禮は澤山は出來ません。二つで五圓位で出來れば結構だと思ひます。
 カタは支那的趣味でわからない篆字位が出て居る事を希望します。大きさは此位かもう少し大きくてよろしい葢がついて、据りが丈夫なのがよろしいと思ひます。二個が一つにくつゝいても別々に離れて居ても意匠の都合でどうでもよろしい。どうもインキ壺と申すものは俗なもので毎日机の上を見る度にいやな心持になります。
 先は用事迄 艸々頓首〔壺の圖省略〕
    二十三日            金 之 助
   橋 口 清 樣
 
      六四八
 
 一月二十五日 金 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 尊書拜見庄野氏の畫の價は仰せに從ひ今一應きゝ直し可申候歌舞伎座御親切に御誘ひありがたく候實は先度も籾山氏より誘はれ候へども多忙の爲め謝絶致候行きたい事は行きたく候へども去年から持ち越しの用事山積殘念ながらよす方に取り極め申候間他を代りに御誘ひある樣願度候
 先は用事迄 草々
    一月二十五日            夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      六四九
 
 一月二十七日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓庄野君に七十圓に負けぬかといふたら一厘も引けぬといふて來ました。僕は其手紙のうちに藝術家の氣骨があらはれて居るのを見て非常に氣に入りました。彼は貧乏である、しかも自己の畫を百圓より一厘も負からぬと云ふ。其裏面には自分の畫にそれ丈の努力の價を認めぬものは買つてくれなくてもよいと云ふ氣概が躍つてゐる。たのもしい男であります。あれだから下宿にくすぶつて情けない生活をしてゐるのであります。私はあなたに買つてくれと勸めはしません。只負からぬといふて來た事を御報知する許りであります。今日の芝居は定めて面白いでせう
 先は用事迄 草々
    一月二十七日            夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      六五〇
 
 一月二十七日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 虚子君三月の能(九段)の席上等をとつて頂く譯に行きませんか今度も連れて行つてくれといふ人がある。モリスも取りたいと申します。都合はつきますまいか
 
      六五一
 
 二月四日 月 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓畫の事につき庄野氏に再應きゝ合せ候處別紙返書あり候間入御披見申候畫は小生宅に有之いつにても御渡し可申代價は都合によりては小生御預りの上本人へ渡してもよろしく候
 右用事迄 草々頓首
   二月四日               夏目金之助
 
      六五二
 二月十日 後11−12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓過日御送付の手形百圓正に落掌直ちに庄野氏へ廻送致候處早速禮状をよこし申候、右にて金の方は一先づ片づき候間左樣御承知被下度候偖畫の方は御都合迄小生方に留置申候間御序の節御受取額上候。あれが人の預りものとなると鼠が出てかぢりはせぬかと心配に候。舊臘より持ち越しの用事にて毎日心も心ならず御返事もつい後れ申候不惡御海恕願上候 以上
    二月八日              夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      六五三
 
 二月十日 日 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
             
 昨九日夜若竹に朝|大《〔太〕》夫君を拜聽の序一寸御誘ひ申候處御外出。朝大夫君は到底義太夫を以て目すべからず寒風凛々馬鹿を見候。
    十日今日内丸最一郎君來り只今迄談話時に牛後五時
 
      六五四
 
 二月十三日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村四八狩野亨吉方菅虎雄へ
 尊書拜見小生多忙にて御出立前に參堂の機を得ず遺憾の至り。其多忙は今日迄引きつゞき毎日に追はれ甚だ困却大兄も久々にて獨逸語教授嘸かし忙がしい事と存候。小生は愈となるとよく學校休講と出掛け候が今度は何だかやすむのがいやで其日暮しに送り候。
 大我先生から青田石と云ふのを三個八圓五十錢で賣りつけられ而して君のくれた印材へも刻してもらひ都合ほり賃として十二三圓とられ。材價を合して貳十圓餘の散財には閉口ある人曰く印は腐るものでないからいゝだらうと成程なが持ちのする點から云へば安きものに候先は右御返事迄 艸々頓首
    二月十三日             金 之 助
   菅 大 兄
 
      六五五
 
 二月十三日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區市谷藥王寺前町二〇早稻田文學社内片上伸へ
 拜啓今年に至り第一に早稻田文學へ小説を寄稿する御約束の處昨年末より臨時の用事出來目下毎日其方にて持て餘し居候故肝心の御約束も至急と申す譯に相成りかね候につき當分の間御容赦にあづかり度先は右用事迄相述べ候 艸々頓首
    二月十三日             夏目金之助
   片 上 伸 樣
 野分の評面白く拜見致候。わる口の處大分異存有之候へども批評として例の如く體を得たる點に於て大にうれしく存候
 
      六五六
 
 二月十六日 土 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松根豐次郎へ
 先夜は失禮其後閑をぬすんで樂堂君の三の糸を拜讀中々面白い所がある樣だ。其面白味は俳句をやつた人のみ出し得る面白味である樣でそこの所は甚だ賛成だが全體から云ふとまとまらない。散漫の樣に感じた。文章があまり簡單で字があまりうまくなくてさうして僕に充分のひまがないのでさう思はれたのかも知れぬ。
 時に只今見るとあの玉稿が見えぬ。下女に尋ねたら知らぬといふ甚だ物騷である。よく探して見ませう。
 僕は文學論で困却の體である。
 三の糸が出なかつたら御隣家の牧野先生に告訴する事に致さう 左樣なら
    二月十六日夜             金
   東 洋 城 樣
 
      六五七
 
 二月二十日 水 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區琴平町二朝陽館野間眞綱へ
 拜啓先日は英語教師の候補者わざ/\御報知難有存候あの人の人物と學力等を知りたいと申して參り候間御承知ならば御教示願上候 以上
    二月二十日             夏目金之助
   野間眞綱樣
 
      六五八
 
 二月二十二日 金 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓御手紙拜見實はいつでもよろしと申度なれど只今ある仕事に追はれ其方を一日も早く片づけねばならぬ故日曜の十一時と十二時の間に御出被下候へば好都合に存候先は右御返事まで 艸々頓首
    二月二十一日             夏目金之助
   白仁三郎樣
 
      六五九
 
 三月四日 月 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓先日は御來駕失敬致候其節の御話しの義は篤と考へたくと存候處非常に多忙にて未だ何とも決せざるうち大學より英文學の講座擔任の相談有之候。因つて其方は朝日の方落着迄待つてもらひ置候。而して小生は今二三週間の後には少々餘裕が出來る見込故其節は場合によりては池邊氏と直接に御目にかゝり御相談を遂げ度と存候。然し其前に考の材料として今少し委細の事を承はり置度と存候
 一手當の事 其高は先日の仰の通りにて増減は出來ぬものと承知して可なるや
 それから手當の保證 是は六《原》やみに免職にならぬとか、池邊氏のみならず社主の村山氏が保證してくれるとか云ふ事。
 何年務めれば官吏で云ふ恩給といふ樣なものが出るにや、さうして其高は月給の何分一に當るや。
 小生が新聞に入れば生活が一變する譯なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覺悟なればそれ相應なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候
 次には仕事の事なり。新聞の小説は一回(年に)として何月位つゞくものをかくにや。それから賣捌の方から色々な苦情が出ても構はぬにや。小生の小説は到底今日の新聞には不向と思ふ夫でも差し支なきや。尤も十年後には或はよろしかるべきやも知れず。然し其うちには漱石も今の樣に流行せぬ樣になるかも知れず。夫でも差支なきや。
 小説以外にかくべき事項は小生の隨意として約どの位の量を一週何日位かくべきか。
 それから學校をやめる事は勿論なれども論説とか小説とかを雜誌で依頼された時は今日の如く隨意に執筆して然るべきや。
 それから朝日に出た小説やら其他は書物と纒めて小生の版權にて出版する事を許さるゝや
 小生はある意味に於て大學を好まぬものに候。然しある意味にては隱居の樣な教授生活を愛し候。此故に多少躊躇致候。御迷惑とは存じ候へど御序の節以上の件々御聞き合せ置被下度候。尤も御即答にも及ばずもし池邊氏に面會致す機會もあらば同氏より承はりてもよろしく候。先は用事のみ 艸々
    三月四日             夏目金之助
   白仁三郎樣
 大學を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も變人たる所以かと存候
 
      六六〇
 
 三月四日 月 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき 殆ど一杯の漱石山房印が捺してあり、その上にかけて文字を認む〕
 白酒をのみに來てもよろしく候。漱石山房の印をペタ/\押したいが時々來て五六冊づゝ押して被下度候。其代り時々御馳走を致候 以上頓首恐惶謹言
 
      六六一
 
 三月十一日 月 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓先日御話しの朝日入社の件につき多忙中末だ熟考せざれども大約左の如き申出を許可相成候へば進んで池邊氏と會見致し度と存候
 一小生の文學的作物は一切を擧げて朝日新聞に掲載する事
 一但し其分量と種類と長短と時日の割合は小生の隨意たる事。(換言すれば小生は一年間に出來得る限り感興に應じ又思索の暇を見出して凡てを朝日新聞に致す事。但しもとより文學的の述作故に器械的に時間を限る能はず。小説抔にても回數を受合ふ譯に行かず。時には長くなり又短かくなり。又は一週に何度もかき又は一月に一二度しか書かぬ事あるべし。而して小生のやり得る程度は自己にも分らぬ故先づ去年中に小生がなし得たる仕事を以て目安とせば大差なからんかと存候尤も去年の仕事は學校へ出た上の事故專門に述作に從事せば或は量に於多少の増加を見るに至るべきかなれどまづ標準はあの位と御考ありたし。而して小生の仕事の過半は無論美文ことに小説にあらはるべきかと存候。(或は長きものを一回にて御免蒙るか又は坊ちやんの樣なものを二三篇かくか其邊は小生の隨意とせられたし)
 一|俸《原》酬は御申出の通り月二百圓にてよろしく候。但し他の社員並に盆碁の賞與は頂戴致し候。是は雙方合して月々の手宛の四倍(?わからず)位の割にて豫算を立て度と存候
 一 もし文學的作物にて他の雜誌に不得已掲載の場合には其都度朝日社の許可を得べく候。(是は事實として殆んどなき事と存候。既に御許容のホトヽギスと雖ども入社以後は滅多に執筆はせぬ覺悟に候)
 一 但し全く非《原》文學的ならぬもの(誰が見ても)或は二三頁の端もの、もしくは新聞に不向なる學説の論文等は無斷にて邁當な所へ掲載の自由を得度と存候
 一 小生の位地の安全を池邊氏及び社主より正式に保證せられ度事。是も念の爲めに候。大學教授は頗る手堅く安全のものに候故小生が大學を出るには大學程の安全なる事を希望致す譯に候。池邊君は固より紳士なる故間違なきは勿論なれども萬一同君が退社せらるゝ時は社主より外に條件を滿足に履行してくれ〔る〕ものなく又當方より履行を要求する宛も無之につき池邊君のみならず社主との契約を希望致し候。
 必竟ずるに一度び大學を出でゝ野の人となる以上は再び教師抔にはならぬ考故に色々な面倒な事を申し候。猶熟考せば此他にも條件が出るやも知れず。出たらば出た時に申上候が先づ是丈を參考迄に先方へ一寸御通知置被下度候先は右用事迄 艸々頓首
    三月十一日            夏目金之助
   白仁三郎樣
 
      六六二
 
 三月十四日 木 後(以下不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區上野櫻木町丸茂病院薄井秀一へ
 御病氣のよし御大事に可被成候御依頼の鶉籠小包にて差出候御讀被下度候 以上
    三月十三日
 
      六六三
 
 三月十七日 日 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 鹿兒島縣重富村平松野間眞綱へ
 只今御手紙を拜見御母上樣終に御逝去の由嘸かし御力落しの事と存候あとの事抔色々御心配と存候坂|卷《〔牧〕》の方は大分時日經過致し候故既に定まりたるやも知れず、歸途鹿兒島にて一寸樣子を見て御出可被成候。然し坂卷には逢はぬがよし又無暗に取極めぬがよく候。他にも口は可有之見込なり。委細は御歸京の上萬事相談只今多忙たゞ御返事のみ 草々
    三月十七日             金 之 助
   眞 綱 樣
 
      六六四
 
 三月二十二日 金 後5-6 本郷區駒込酉片町一〇ろ七より 牛込區市谷藥王寺前町二〇早稻田文學社内片上伸へ
 拜啓かねて御約束の早稻田文學へ寄稿の件荏苒遲延申譯無之候然る處今般ある事情にて教員生活をやめ新聞に這入る事と相成候に就ては一切の文學的作物は其方へ廻さねばならぬ義務を生じ候。因て甚だ申譯なき次第ながら御約束を履行する運びに至りかね候右不惡御ゆるし被下度先は右御申譯旁御斷はり迄 艸々頓首
    三月二十二日           夏目金之助
   片 上 伸 樣
 
      六六五
 
 三月二十二日 金 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村四八狩野亭吉へ
 拜啓其後は御無沙汰偖今度のやすみ今月末より來月はじめへかけて京都へ遊びに行かうと思ひ候が大兄御滯京にや又は東京へ御出京にや一寸伺ひ度候猶大兄の在不在にかゝはらず大兄のうちへ逗留する事が出來る仕掛なるや否や伺ひ度候
 小生は今度大學も高等學校もやめに致して新聞屋に相成候
 菅君は相變らずと存候よろしく御傳聲願上候 以上
    三月二十二日           夏目金之助
   狩野亨吉樣
 
      六六六
 
 三月二十三日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 御手紙拜見小生が大學を退くに就て御懇篤なる御言葉をうけ慚愧の至に候。僕の講義でインスパやーされたとあるのは甚だ本懷の至り講座に上るものゝ名譽不過之と存候。世の中はみな博士とか教授とかを左も難有きものゝ樣に申し居候。小生にも教授になれと申候。教授になつて席末に列するの名譽なるは言ふ迄もなく候。教授は皆エラキ男のみと存候。然しエラカラざる僕の如きは殆んど彼等の末席にさへ列するの資格なかるべきかと存じ。思ひ切つて野に下り候。生涯は只運命を頼むより致し方なく前途は惨怛たるものに候。それにも拘はらず大學に噛み付いて黄色になつたノートを繰り返すよりも人間として殊勝ならんかと存じ候。小生向後何をやるやら何が出來るやら自分にも分らず。只やる丈やる而已に候。頻年大學生の意氣妙に衰へて俗に赴く樣見うけられ候。大學は月給とりをこしらへて夫で威張つてゐる所の樣に感ぜられ候。月給は必要に候へども月給以外に何にもなきものどもごろ/\して毎年赤門を出で來るは教授連の名擧不過之と存候。彼等はそれで得意に候。小生は頃日ヘーゲルが伯林大學で開講せし當時の情况を讀んで大に感心致し候。彼の眼中は眞理あるのみにて聽講者も亦眞理を目的にしてあり候。月給をあてにしたり權門からよめを貰ふ樣な考で聽講せるものはなき樣子に候。呵々
 京へは參り候。京の人形御所望なれば御見やげに買つて參るべく候。どんなのが京人形やら實は知らぬにて候。京都には狩野といふ友人有之候。あれは學長なれども學長や教授や博士抔よりも種類の違ふたエライ人に候。あの人に逢ふために候。わざ/\京へ參り候。一力は如何相成るやわかりかね候。大坂へも參りて新聞社の人々と近付になる積りに候。昨夜はおそく相成。今日はひる寐をして暮し候。學校をやめたら氣が樂になり候。春雨は心地よく候 以上
    三月二十三日            夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      六六七
 
 三月二十三日 土 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 先日は御來駕手拭を御被り被下難有候。
 偖ホトヽギス小説選拔の件は當分むづかしく御座候。正月に執筆の事はどうなりますやら、小生が朝日へ書き得る分量次第かと存候。是はあらかじめ御約束もむづかしかるべきか、とも角も出來得る限りホトヽギスの爲めに御用を務める事に致すぺく候 以上
 
      六六八
 
 三月二十六日 火 後5-6 本郷區駒込酉片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉へ〔はがき〕
 小生廿八日朝急行にて出發同夜八時頃御地到着の筈に候間御出京以前に御目にかゝり可申候
 
      六六九
 
 三月二十七日 水 後11-12 本郷區駒込酉片町一〇ろ七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓印氣壺の模樣わざ/\御寫し被下難有存候。篆字の義は別段よきもの無之 王維の日落江湖白潮來天地青抔如何かと存候然し十字にて足らぬならば是非なく候。石闌斜點筆桐葉坐題詩もよろしかるべくか。明朝出發京都へ遊びに參り候故よき句も考へ得ずことによれば彼地より御一報可致候 以上
    三月二十七日夜            夏目金之助
   橋 口 清 樣
 
      六七〇
 
 三月三十一日 日 後4-5 京都市外下加茂村二四狩野享吉内より 芝區三田三丁目八七海方野間眞綱へ
 拜啓御書拜見鹿兒島は御斷はりの由唐津をきゝ合せる事は容易なれども先日岩田氏よりの來書にては只今ある學校の教師と交換問題進行中のよしなれば如何にや兎に角照會して見るべく候當地寒く見物にいそがしく候皆々へよろしく先は用事迄 艸々拜具
    三十一日              金 之 助
   眞 綱 樣
 
      六七一
 
 三月三十一日 日 後4-5 京都市外下加茂村二四狩野亨吉内より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓京都へ參候 所々をぶらつき候 枳殻邸とか申すものを見度候 句佛へ御紹介を願はれまじくや 頓首
    三月三十一日             金
   虚 子 先 生
 
      六七二
 
 三月三十一曰 日 後4-5 京都市外下加茂村二四狩野亨吉内より 本郷區西片町一〇ろ七夏目内小宮豐隆へ〔封筒の表に「東京本郷西片町十ロノ七夏目金之助樣方執事御中」とあり裏の署名には「葦わけ人」とあり〕
 京都は寒く候加茂の社は猶塞く候糺の森のなかに寐る人は夢迄寒く候
  春寒く社頭に鶴を夢みけり
 高野川鴨川共に磧のみに候
  布さらす磧わたるや春の風
 詩仙堂は妙な所に候。銀閣寺の砂なんど乙なものに候。智恩院はよき所に候。※[女+※[氏/一]]《原》園の公園は俗に候。清水も俗に候
 見る所は多く候
 時は足らず候
 便通は無之候
 胃は痛み候
 以上
    三月三十一日             金
 
      六七三
 
 四月三日 水 後3-4 京都市外下加茂村二四狩野亨吉内より 東京府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 御手紙拜見家の事御親切に御知らせ被下難有候序の折御聞置願候毎日見物の爲め忙殺せられ長い手紙もかけず是にて御免蒙り候
    四月三日
 
      六七四
 
 四月十日 水 京都市外下加茂村二四狩野亨吉方より 京都市三條萬屋高濱清へ〔四十年四月十四日發行『國民新聞』掲載、高濱虚子「塔」より〕
 まだ居ります。すぐいらつしやい。但し男世帶だから御馳走は出來ませぬ。御馳走御持參は御隨意。
 
      六七五
 
 四月十二日 金 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉方菅虎雄へ〔はがき〕
 無事只今歸京滯在中は色々御世話に相成候來年あたりは二萬五千圓持つて迎ひの爲め參上可仕候 以上
    十二日午
 
      六七六
 
 四月十二日 金 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ
 京都にては色々御厄介を蒙り候御留守中も萬事無遠慮に取り振舞申候
 咋夜汽車にて今十二日午前九時半頃着御滯在中に御禮かた/”\伺ふ筈なれど無精なれば間に合ふやら分りかね候故不取敢手紙にて御禮と御報とをかね置き申候 以上
    四月十二日              金 之 助
   狩 野 樣
 
      六七七
 
 四月十二日 金 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區三田三丁目八七海方野間眞綱へ
 貴君の手紙は京都にて拜見致候夫より直ちに岩田氏へ手紙にて聞き合せ候處野間は當分囑托にてくるや又|報《原》給はどの位の希望なるやとの電文に接せし故本官にて千圓を望む旨返電せし處別紙の通返事參り候へども至急を要する事にも無之故今日迄手元にとめ置候。今日午前歸京致し候につき不取敢右同封にて入御覽候先は右用事かた/”\御報迄 草々頓首
    四月十二日            夏目金之助
   野間眞綱樣
 
      六七八
 
 四月十二日 金 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 留守中に唐茄子ののへた澤山難有存候小生今十二日午前歸宅致候ちと御遊びに御出可被成候
   京人形の一寸ほどのものを買ひ求め候
 
      六七九
 
 四月十二日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ〔うつし〕
 拜啓朝日新聞入社に就ては色々御厚志を蒙り御心切の段深く奉鳴謝候
 其後池邊と相談略調ひたる上去月二十八日京都表へまかり越し夫より大阪朝日の鳥居氏に面會の上遂に大阪に赴き社主及び幹部の人々と大阪ホテルにて會食の後翌日再び京都へ立ちもどり咋十一日迄處々見物の上今十二日歸京致候今回の事はもと大阪鳥居氏の發意に出で夫より東京にて大兄の奔走にて三分二以上成就致候事と信じ居候御禮の爲めまかり出で可きの處そこは例の通りの無精にて手紙を以て代理と致し候先は右御禮旁成行御報迄いづれ其うち拜眉の節萬縷可申述候 以上
    四月十二日             夏目金之助
   白仁三郎樣
 
      六八〇
 
 四月十二日〔?〕 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉方野明敏治へ〔はがき〕
 滞在中は色々御世話になりました何か御禮を致したいが謹嚴なる清教徒に對しては惡魔も施すべき方法無之先づ端書丈にて御免蒙り候
 
      六八一
 
 四月十三日 土 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都帝國大学松本文三郎へ
 拜啓京都滞在中は尊來を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振ひ落し候嘸かし御迷惑《原》事と存候其後諸方に流轉咋十二日漸く歸庵一寸御暇乞に參堂可仕筈の處行李怱々不得其意聊か尺箋をそめて遙かに感謝の意を表し候餘は他日拜眉の節萬縷 艸々不悉
    四月十三日            金 之 助
   亡 羊 先 生
         座下
 乍筆末御令閨へよろしく御傳言願上候
 
      六八二
 
 四月十四日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉方菅虎雄へ
 拜啓叡山の植物大に元氣よく此分にては夏御上京の節進呈仕る事容易ならんと存候中にも叡山萱は尤も圓滿に生成の模樣今でも五六圓の價格は有之べきか(?)
 今日狩野に面會致し候處着京後麻疹にて臥床せる由珍らしき事に候。然し今はもはや全快の由に候。時に小生出立の夜御地にて泥棒御光來の由妙な事と存候小生の立つた晩に泥棒に這入る抔とは餘程小生を見縊びつたる泥棒と存候
 先は御報まで 草々頓首
    十四日                金 之 助
   虎 雄 樣
 野明さんへよろしく御傳聲願上候。大阪朝日はもはや送付無之と存候へどもよし參り候とも御送に不及候間左樣御話し有之度候
 
      六八三
 
 四月十五日 月 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉方菅虎雄へ
 今日内丸に逢ふて縁談の話をした所同人は此一件については從來取り込みたる關係有之當分の所相談は出來かねるとの事故夫で引き取りたり。僕の樣な周旋人は稍ともすると夫で引き取る故相談抔はまとまる氣支なし然しよく/\氣をつけて他の口でもさがして置くぺし
 天氣晴朗東京はまことに結構也ポツ/\用事が出來る樣子まづは是迄草々 頓首
    四月十五日               金
   虎 雄 樣
 
      六八四
 
 四月十九日 金 後1-2 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ〔はがき〕
 拜啓本牧の繪葉書難有拜見濱武は寫眞をくれました小生は學校をやめたから是から落付たら少し閑が出來るだらうと思ひますさうしたら御邪魔に出ます
 
      六八五
 
 四月十九日 金 後1-2 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓もしや西京より御歸りにやと存じ一書奉呈致し候近頃高等學校二部三年生にて美文をつくり之をホトヽギスへ紹介してくれといふ人有之一應披見致候處中々面白く小生は感服致候乍毎度貴紙上を拜借致し度と存候が如何にや來月分に間に合へば好都合と存候
 京の都踊萬屋面白く拜見一力に於ける※[さんずい+嫩の旁]《原》石は遂に出ぬ樣に存じ候少々御恨みに存じ候漱石が大に婆さんと若いのと小供のとあらゆる藝妓にもてた小説でも寫生文でも御書き被下度と存候近來の※[さんずい+嫩の旁]石は色の出來ぬ男の樣に世間から誤解被致居り大に殘念に候 以上
    四月十九日             金 之 助
   虚 子 庵
       座側
 
      六八六
 
 四月二十二日 月 後(以下不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉、菅虎雄へ
 拜啓用事のみ申上候本郷のある書店に Owen Jones のExamples of Chinese Ornamentsあり。Plates は百あるべき所 85 しかなし。年號は 1867 價は三十圓なり
 Oe《sic》vre de Jacques Androuet dit Du Cerceau 20 Cheminees
       Ssrie Complete
        4voIs.
は五十圓なり
 いづれも造船所の書にて消印あり。買ふ氣はなきや 以上
    二十二日
   狩 野 君
 
 僕は叡山から拾ふて來た大事の盆石を忘れて來た。頑々たる石も大切である。いつでもいゝから小包で送つてくれ。あれを盆石にするかどうかする。叡山植物は萱が一番上等で一番勢がいゝ。ほかは何だか妙だね。苔の色は一向花々しくない。叡山苔丈は印形の鉢へぐる/\まはして植ゑて置いたから見事に勢がある 以上
    同日                金
   菅  君
 
      六八七
 
 四月二十三日 火 前6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區上野公園内美術學校内大村西崖へ
 拜啓一昨日は折角の御依頼にて出席は致し候へども腹案もとゝのはず言語も不馴にてさだめて御聽き苦しき事と歸宅後も恐縮致居候所本日は能《原》々御使にて御懇篤なる御禮状を賜はるのみならず古雅なる銅瓶一個御贈與にあつかり眞に望外の仕合難有感謝致候一場の講演にも拘はらず小生所信の一端に對し深く御同情を御示し被下候記念として末永く卓上に排置し春花秋草の折々に此光榮ある一日を想起するのたよりと可致候
 乍筆末御會の發展により本邦に於ける美術と文學との關係が從來よりも一層の接觸に相互啓發の好機を釀さん事を切望致候 匆々敬具
    四月二十二日夜           夏目金之助
 美術學校文學會長
  大村西崖殿
 會貞諸君へは貴所よりよろしき樣小生の感謝と滿足とを御傳へ被下度候
 
      六八八
 
 四月二十四日 水 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 小説の批評は君のよし僕は四月の小説を讀んで居らんから是非は一向分らん。惡口の程度はあの位で澤山と思ふ。僕少々小説をよんで是から小説を作らんとする所也愈人工的インスピレーシヨン製造に取りかゝる。
 花食まば鶯の糞も赤からん
 
      六八九
 
 四月二十八日 日 本郷區駒込西片町一〇ろ七より平井駒次郎へ
 拜啓御依頼に相成候野葡萄の序は序中に申述候通りの事情にて大變遲延定めて御迷惑の事と存候萬事御諒察御海恕の程願上候
 去る木曜日御訪問被下候由の處生恰無據|事《原》用事にて外出中失敬仕候其折は西洋菓子一折頂戴難有御禮申上候實は晩村君と平井駒次郎君の姓名とを連結する能はず何人の贈物かと少々迷ひ候へども中味丈は遠慮《原》小供と一所にすぐ樣取片付申候處御手紙にて始めて大兄と相成《原》りこゝに改めて御禮状を差出し申候遲日逡巡として春恨篆烟とともに長き折柄詩神の舊に倍して君に幸せん事を祈りてこゝに寸楮を呈し候 以上
    四月二十八日           夏目金之助
   平井晩村樣