書簡集(残り)
 
藏書の餘白に記入されたる短評竝に雜感
 
講義
英文學形式論
 
講演
倫敦のアミユ−ズメント
教育と文芸
模倣と独立
無題
カーライル博物館藏書目録  (省略)
漱石山房藏書目録      (省略)
 
談話
英國現今の劇況
批評家の立場
戰後文界の趨勢
現時の小説及び文章に付て
本郷座金色夜叉
イギリスの園藝
みづまくら
無題
昔の話
予の愛讀書
「余が文章に裨益せし書籍」
文學談片
落第−士の中學時代」−
夏目漱石氏文學談
文章の混亂時代
文學談
「現代讀書法」
女子と文學者
人工的感興
作中の人物
文章一口話
文學者たる可き青年
「自然を寫す文章」
余が『草枕』−「作家と著作」と
滑稽文學
將來の文章
家庭と文學
僕の昔
漱石一夕話
無題−桂月の事−
愛讀せる外國の小説戯曲
夏目漱石氏談
『坑夫』の作意と自然派傳奇派の交渉
近作小説二三に就て
無題−倫敦といふ處は−
「露國に赴かれたる長谷川二葉亭氏」
獨歩氏の作に?趣味あり
文章之變遷
正岡子規
「處女作追懷談」
「何故に小説を書くか」
文學雜話
無教育な文士と教育ある文士
専門的傾向
「小説中の人名」
無題−文部省の展覽會−
「文藝は男子一生の事業とするに足らざる乎」
「新年物と文士」
ミルトン雜話
「私の經過した學生時代」
文壇の變移
私のお正月
「文士と酒、煙草」
小説に用ふる天然
ポーの想像
「予の描かんと欲する作品」
作家としての女子
『俳諧師』に就て
讀書と創作
メレデイスの訃
感じのいゝ人−「故二葉亭氏追憶録」−
「夏」
テニソンに就て
「文士と八月」
「執筆 時間、時季、用具、場所、希望、經驗、感想等」
汽車の中−國府津より新橋まで−
「昨日午前の日記」
色氣を去れよ
對話−本間久著『枯木』序−
語學養成法
博士問題
博士問題の成行
西洋にはない
夏目漱石氏の談片
稽古の歴史
漱石山房より
『サアニン』に對する四名家の評
「文士の生活」
漱石山房座談
釣鐘の好きな人
夏目先生の談片
文壇のこのごろ
沙翁當時の舞臺
文體の一長一短
 
以下、補遺より
雜篇
漢詩文
俳句
斷片
書簡
講演
談話
 
     六九〇
 
 五月四日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 七夕さまは「縁」よりもずつと傑作と思ふ 讀み直して驚ろいた。燈籠を以て着物を見に行く所は非常によい。末段はあれでよろし
 
      六九一
 
 五月四日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 七夕さまをよんで見ました、あれは大變な傑作です。原稿料を奮發なさい。先達てのは安すぎる。
 
      六九二
 
 五月四日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 花瀬川はものにならず傳四先生何を感じて此劣作をなせるか怪しむべし
 
      六九三
 五月十二日 日 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ
 先日は結構なものを難有頂戴致しました。拙著文學論一部御禮に其内差上ます。校正者の疎漏の爲め非常に誤植多き故訂正表を添へて上げます
 
      六九四
 
 五月二十二日 水 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 大阪市南區東清水町中橋東入塚本槌三郎へ〔はがき〕
 拜啓「斑鳩の里の一夜」拜見面白く候。其面白き意味は事實の裏面に空想的連想を點出するにあるかと存候。是は小生の最も好んで用うる手段に候。虚子之に次ぎ、四方太の面白味は全く之と遠かり居り候。此手段は動ともすると故意に陷り易きものに候。厭味に流れ易きものに候。小生のかいたものにも大分此弊所あらんかと存候。大兄のにも少しは有之候。先は右御返事迄匆々頓首
 
      六九五
 
 五月二十七日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大森八景坂上杉村内中村蓊へ
 今日は上野をぬけ淺草の妙な所へ散歩したらつい吉原のそばへでたから丁度吉原神社の祭禮を機として白晝廓内を逍遥して見たが娼妓に出逢ふ事頻りなり。いづれも人間の如き顔色なく悲酸の極なり。歸りがけにある引手茶屋の前に人が黒山の如く寄つて居るので覗いて見たら祭禮の爲め藝者がテコ前妻で立つて居た。夫が非常に美しくて人形かと思つて居たら、ふいと顔を上げたので矢張り生きて居ると氣がついた。
 夫から橋場の渡しを渡つて向島へ行つたら藤棚があつて其下の床几に毛布が敷いてあつたから、そこで上野から買つて行つた鯛飯を食つて晝寐をして、うちへ歸つたら君の長い手紙が來てゐた。
 あの手紙をよんでいつぞや君が僕の文學論の序に同情してくれた事を思ひ出して成程と其意味が分つた。僕はあんな序をかく積りではなかつたがある事情で書く事に決心してしまつた。あれに對して同情してくれる君は恐らく僕よりも不愉快な境遇であつたかも知れない。君の手紙で君の家の事抔も判然して見るとかへつて僕の方から同情を寄せねばならんと思ふ。甚だ御氣の毒である。然し世の中にはまだ/\苦しい連中が澤山あるだらうと思ふ。おれは男だと思ふと大抵な事は凌げるものであるのみならず、却つて困難が愉快になる。君抔もこれからが事を成す大事の時機である。僕の樣に肝心の歳月をいも蟲の樣にごろ/\して過ごしては大變である。大に勇猛心を起して進まなければならない。抔と講釋を云ふのは野暮の至である。世の中は苦にすると何でも苦になる苦にせぬと大概な事は平氣で居られる。又平氣でなくては二十世紀に生存は出來ん。君も平氣に大森から大學へ通つて居るがよからうと思ふ。
 君が中川の序文を訂正したのを見た學生が最後の所を讀んで痛快だと云ふた。中川は必ずしも傲慢不遜といふ男ではないのだらう。只日本文をかきつけないから、あんなものが出來たのだらう。僕は序に對しては君程苛酷な考は持つて居らん。 右御返事迄 匆々
    五月二十六日夜            夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 將來君の一身上につき僕の出來る事ならば何でも相談になるから遠慮なく持つて來給へ。尤も僕の出來る範圍は極めて狹いものである。
 
      六九六
 
 五月二十八日 火 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓又手紙を差し上げます。わが朝日新聞に於て社員諸君は所得税に對して如何なる態度を取られますか。社の方では一々税務署の方へ生等の所得高を通知されますか。又は税務署の方から照會又は檢査に參りますか。所得の申告をしろと催促状か來ましたから一寸參考に伺ひたいと思ひます。夫からあなたはどういふ風になさいますか。御役人をやめられてから始めての所得申告と云ふ點が小生と一寸似て居ますから是も參考に一寸聽かして下さいませんか。色々御面倒を願つて濟みません 以上
    五月二十八日               金之助
   玄 耳 先 生
 
      六九七
 
 五月二十九日 水 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 熊本市内坪井町一二七奥太一郎へ
 新緑の候愈御清適奉賀候其後は打絶頓と御無沙汰に打過候處忽然芳音に接し感謝此事に御座候御地學校改革後諸事復舊當分御無事結構の至に存候公退後は灌花栽培の御樂もある由閑適の餘事風流欣羨の至に候。小生大學退職後小説家と相成り講義の必要もなく又高等學校の調の爲めセンチユリーの厄介になる事もなくなり心中大に愉快に候。只今の住居前後にいさゝかの庭園あり四時の眺めと申す程の事も無之候へども時々矚目遣悶の花樹も數種有之多少は得意に候。人生五十流轉のうちに殘喘を託し候身のいつ何時いづ方へ轉居致し候やも計りがたく昔の人は一戸を構へたるを一人前の證據の如く言ひ囃し候事あながちの弊にも有之間敷か。
 日々書齋にて讀書冥想ひる寐も折々致し候。然し夫から/\と雜用出來心事は存外等閑ならず候御察し可被下候。小兒も見る間に成長致候何となく後ろか〔ら〕追ひかけられる樣に覺え候。早く何事かして死にたく候。一日が四十八時間になるか、脳が二通り出來るかいづれにか致し度候。去りながら半世の鴻爪全く是癡夢にひとしく此儘枯木と相成候とも苦しからずそこへ行くと頗るのん氣に候。
 右偸寸閑近況御報迄に御座候 草々不一
    五月二十九日            夏目金之助
   奥 樣
 御令閨へよろしく御傳聲願上候
 
      六九八
 
 五月二十九日 水 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込西片町一〇反省社内瀧田哲太郎へ
 御手紙拜見實は咋日金尾が來て十八世紀文學出版の禮を云ふて瀧田君が野上さんと一所にやりたいと云ひますがどうでせうといふから夫もよからうと云ふたら立派なものが出來ますかと聞いたから夫は受合へない。自分のものは自分がやるより外にうまく出來る筈がない。ことに二人や三人でやつでは却つていけまいと云ふた。夫から可成は一人でやるがいゝだらうと附加した。すると金尾の云ふには瀧田君はとても一人では出來ますまいと云ふた。僕答へて瀧田君は文章は達者だが專|問《原》が法律家だからあの講義のうちのある所は面倒かも知れないと答へた。それでは外に人はありませんかときいたから、人はいくらでもあるが、瀧田君が持つて歸つたものだから、まあ瀧田君に相談して見たらよからう、瀧田が進んでやるのが面倒ならば森田にでも頼んだらやつてくれるだらうと云ふた。話は夫れぎりで分れた。金尾はもう出版する積りで廣告抔の事迄云ふて歸つた。
 僕は君が十八世紀文學を書き直すに就てどの位の興味を有して居るか知らぬ。又それを家計上のたすけにする必要あつての事とも知らぬ。夫故以上の如き返事をして置いた。君と金尾の間の面白くない事も全く知らなかつた。金尾は其事に就て一言も云はなかつた。
 右の譯である以上はたとび金尾から十八世紀を出すにしても君がやらなくては少し君として面白くない事になるだらう。金尾からもし君の所へ相談に來たら夏目さんと相談した上返事をすると云つて歸し玉へ。
 右の出版に關しては君の都合のいゝ樣又僕の都合のいゝ樣に相談をするから出來るなら木曜に來てくれ玉へ尤もいそぐ事でないから君さへよければいつでもよろしい。金尾の方へは適當な人を見付ける迄は廣告其他見合せる樣に云ふてやる
 金尾と君の關係は僕が口を出してよいかどうか分らない。君を無報酬で使ふ積でもないだらう。君が關係をつける時に月々の報酬をどの位ときめて、それを拂はぬなら不都合の至である。
 君の一分が立つ樣に金尾にかうつけ加へてやる。「十八世紀文學は瀧田君との關係上から同君に對する好意上許諾をしたものだから向後の談判は出版の手續に至る迄契約書をとり更す迄はすべて同君を經て御協議を經度く候」
 委細は御面語の上虞美人草は廣告丈で一向要領を得ない人がくる用事が出來る。どんな虞美人草が出來る事やら思へばのんき至極のものなり。匆々不一
    五月二十九日             夏目金之助
   瀧 田 樣
 追白 手許に十圓ばかりあり。御不如意の由なれば失禮ながら用を辨ぜられ度し。御返濟は卒業して金がウナル程出來た時でよろし。御母上の御病氣御大事と存候。試驗には是非共及第する程に勉強可被成候
 
      六九九
 
 五月二十九日 水 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓驩迎會につき御叱りは恐れ入りました面會日と知らずに受けやつたのがわるいのだから可成出席仕る事に致します。實は面會日に來客を謝絶すると面會日以外に來た人を謝絶する口實を失ふのが苦しいのです。入社以后ひまになつたと心得て無暗に勝手にやつて來て小説をかくどころの騷ぎぢやありませんから愈面會日を励行しやうと思ふ矢先だから先づ以て自分の方から面會日丈は守らうと云ふ利己主義から出立した義理を立てやうと思つたのであります。それで御叱りを頂戴致してどうもすみません。あんまり叱ると虞美人草が飛んで仕舞さうです。
 次に所得税の事を御聞き合せ被下まして御手數の段どうも難有存じます。實はあれもほかの社員なみにズルク構へて可成少ない税を拂ふ目算を以て伺つた譯であります。實は今日迄教師として充分正直に所得税を拂つたから當分所得税の休養を仕るか左もなくばあまり繁劇なる拂ひ方を遠慮する積りでありました。然る所公明正大に些々た〔る〕所得税の如き云々と一喝された爲めに蒼くなつて急に貴意に從つて眞直に屆け出でる氣に相成りました。御安心被《原》さい。毎日入らぬ手紙ばかり書いてゐます。 頓首
    五月二十九日              金 之 助
   澁 川 先 生
 
      七〇〇
 
 五月三十日 木 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉方菅虎雄へ〔はがき〕
 文學論が出來たから約束により一部送る。校正者の不埒な爲め誤字誤植雲の如く雨の如く癇癪が起つて仕樣がない。出來れば印刷した千部を庭へ積んで火をつけて焚いて仕舞いたい。
 
      七〇一
 
 五月三十一日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ〔「文學論」正誤表の最後の頁に認めあり〕
 先日は御出のよし失禮致候。御約束の文學論差上候。小包にて御落手被下度候。是は正誤表に候。古今獨歩の誤植多き書物としで珍本として後世に殘る事受合なれば御秘藏被下度候
    五月三十一日              夏目金之助
   久内清孝樣
 
      七〇二
 
 六月三日 月 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布歩兵三聯隊八中隊一年志願兵濱武元次へ〔はがきうつし〕
 トルコの煙草到着難有ブカブカふかし候洋行以後トルコも埃及も呑まず。呑むは今日に始まる。一兩日中に小説のかき方に取りかゝらねばならず。君の名烟によりてインスピレーシヨンが起る事と信ずる。先は御禮迄 匆々
 
      七〇三
 
 六月四日 火 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
    廣告
 今日から愈虞美人草の製造にとりかゝる。何だかいゝ加減な事をかいて行くと面白い。
     ――――――――――
 僕の顔を高等官一等とは恐れ入つた。どうか猫をかく樣な顔付に生れたいものだ。金子堅太郎君は親任官であつたかな、君。金堅君を下る事一等の顔になつちまつた。ほめられたつて感謝は出來ない。
 
      七〇四
 
 六月四日 火 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ〔はがき〕
 拜啓愈御結婚の由恭賀候。實は五六日前結婚をするものがきて其あとへすぐ君の手紙が來たので間違へて名宛を野上豐一郎として御祝状を出した。失敬々々。小生今日より虞美人草の製造にとりかゝる當分行かれぬ其うち行く
 
      七〇五
 
 六月七日 金 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓虞美人草についての御返事承知致候かきかけると御産がありましてね。御醫者がくる。細君がうなる。それやこれやで漸く一篇丈しかかきません。實の所は可成早くかいて安心して仕舞ひたいと思ふのですが夫が困難らしいから可成南翠先生の長からん事を希望してゐます。大阪の方では讀賣へ大きな廣告を出しましたねあれでぐつと恐縮してしまひました。三越呉服店にも讓らざる大廣告ですよ。
 そこで虞美人草の原稿をもらひたいと云ふ物數奇な人間が出て來たのですが、社の方では返してくれますか。もし返せないなら此男が自分で寫して、寫した分を差し上げる事にしたいと申|す《原》ます。一寸御返事を願ひます。
 夫から昨日端書投書について色々な事をきゝました。文士仲間では人の作を惡口したり、自分の作をほめたりする投書をよくやるさうです。ことに自分がある新聞のつゞきものを受合ひ度い時は今出て居る小説を長過ぎるとか、早くやめろとか云ふ投書を續々出すさうです。此位の事がないにしても一人の作畧で日に何枚でも善惡の投書は出來ます。だから向後投書に對しては賛否兩樣ともあまり重を置かぬ方がよからうと思ひます。先は用事迄申上ます 以上
    六月|八《原》日            金 之 助
   澁 川 先 生
 
      七〇六
 
 六月十七日 月 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ
 御手紙拜見長い手紙をかく餘裕がない毎日虞美人草の事ばかり考へてゐる今日杜から原稿をとりにくる九十七枚わたした。
 折角苦心してかいた所もあとから讀み直すと何だこんなものかと思ふ事多し。つまらない。
 當分は君にも逢へない。リースの子が僕の作物をよんでくれるのは難有い。僕の妻なんか天で僕の作には手をつけない。どうも婦人には苦手の樣だ。紫影先生原稿出版の義御斷はりの趣承知不得已事と思ふ其旨先方へ通知致すべし。赤ん坊は中々大きい由無暗に大小兒を生んで國家に貢獻する所もなく心細い事なり
 先は用事のみ 草々
    六月十七日夕             金
   豐 次 郎 樣
 
      七〇七
 
 六月二十一日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 御手紙拜見
 君はウーンと云つて還つて呉たからいゝが大概はうんとも何とも云はず這入つて來る。
 虞美人草が出來る迄謝絶と思ふたが中々前途遼遠いつかき了るか分らない。かき上げた時は嘸愉快だらう。今では小説が本業だからいつ迄かゝつても時間は惜しくない。例の通り急行列車に乘る必要がなくなつた代りに書物をよむひまがなくなるだらうと思ふ。
 七夕さまへ感服して呉れたのはうれしい。瀧田樗陰書を三重吉に寄せて曰く夏目先生があんなものをほめるに至つては聊か先生の審美眼を疑はざるを得ずと。樗陰はあれを洩薄といふさうだ。樗陰は二三日中君の所へ來訪の筈よく説諭して呉れ玉へ。あれは北國で仙臺鮪ばかり食つてゐたからそんな事をいふのだらうと思ふ
 生田先生は正に二十圓を拉し去る。言譯に曰く飲んだんではありませんと。
 其他の諸君子を見ざる事久し。豐隆時々臺所に來る。明日歸るさうなり。昨日中村蓊來る。寫眞をくれといつて持つて行く。第二義の顔を方々へ進呈して甚だ不平なり。君雲右衝門なるものを聽いたかい。
    六月二十一日              金
   米 松 先 生
 
      七〇八
 
 六月二十一日 金 後(以下不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 本日虞美人草休業。肝癪が起ると妻君と下女の頭を正宗の名刀でスパリと斬つてやり度い。然し僕が切腹をしなければならないからまづ我慢するさうすると胃がわるくなつて便秘して不愉快でたまらない僕の妻は何だ|が《原》人間の樣な心持ちがしない。
 中學世界での評なんかはどうでもよし知人を雇ふて方々の雜誌に稱賛の端書を送つたらよからうと思ふ。
    六月二十一日              金
   三 重 吉 樣
 
      七〇九
 
 六月二十四日 月 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 拜啓一寸御願が出來た又面倒な例の文學論の事だが。あの中に肯定と否定の間違が四五ケ所あつて普通の誤植とは思へぬ程念の入つたものであるにより。大倉を以て秀英舍へ掛合つた所。秀英舍は責任なしと威張つて居る由。僕よつて之を朝日新聞紙上に於て筆誅せんと欲するに就ては例の虞美人草祟りをなして筆を執る事面倒なり。どうか君僕の代りに書いてくれ玉へ。間違の箇所は僕の所にわかつてゐるから序でに來て見て呉れ給へ 御願頓首
    二十四日                 金
   三 重 吉 樣
 
      七一〇
 
 六月二十六日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ〔はがき〕
 今日澁川先生がわざ/\きて君の投書を歡迎すると云ふて來た。然し都合によると六號にする由。但し侮るべからざる六號にする由。僕は何とも云はなかつた。然し出してやつてくれ給へ
 
      七一一
 
 六月二十六日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 御手紙拜見毎日かいたりかゝなかつたり。人が來たりする。面會謝絶にも拘らず呑氣なり。虞美人草をよんでくれて難有い。八重子さんにもよろしく。八重子さんにはオーステンは面白くないかも知れない。
 
      七一二
 
 六月二十七日 木 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 君此つぎ國民へ短かいものをかくなら其代りにうちの新聞へ書いてくれ玉へ。
 梅雨はげしく降つて中々侘びしい。小説をやめて本がよみたい
 
      七一三
 
 六月二十七日 木 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ
 御手紙拜見君の事をほめる手紙を谷山舍監にやる傳四觀は論文としてはひまが入るけれども手紙ならぢき出來る御安い用なり一兩日うちに谷山氏へ出すつもりなり先生の名〔は〕初七郎かね一寸伺ひ度名前が間違ふと折角の傳四觀も信用がなくなる
    六月二十七日            金
   傳 四 先 生
 
      七一四
 
 六月二十八日 金 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 拜啓朝日新聞の澁川玄耳氏より別紙の如き書面あり候につき可然御回答を與へられ度候。(京橋區瀧山町四番地朝日新聞内澁川柳次郎宛)本宅ならば麹町區隼町四番地)
 右用事迄 匆々
    六月二十七日             金 之 助
   三 重 吉 樣
 
      七一五
 
 六月二十九日 土 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 晩は大抵散歩夫からは日によると休業。尤も日中でも頭と相談の上時々休業仕候。段々暑くなると小説をかくのが厭になる
    六月二十九日
 先達ては奥さんがわざ/\難有うつい御禮を忘れて居た
 
      七一六
 
 七月二日 火 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 先日は失敬
 一寸行きたいが愚圖々々して居る。偖うちの新聞で醫學上の事を簡易に書く人を周旋してくれといふが君の弟に聞いて呉れぬか。是は社員といふ譯ではない投書をしてくれゝばよいのである。原稿料は出すさうである
    七月二日                金
   虎 雄 樣
 
      七一七
 
 七月三日 水 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡津川村小宮豐隆へ
 昨日君の長信が來た久々で國へ歸つて大持ての事羨望々々途上の繪端書は一々落手多謝。今頃は九州は嘸暑い事だらうと思ふ西片町も中々あつくなつた。蚊帳をつる。大きな蚊帳で一人で寐るのは勿體ない。來客謝絶にも不關時々御來臨。臼川、三重吉、諸先生健在、朝日へ何かかくなら書かぬか。
 御母さんと御婆さんの御機嫌をとつて大事にせんとわるい。後世《ごせ》が大事だ。冥罰がおそろしい。僕漫然たり。臼川天|笠《原》牡丹なるものをくれる。文學論二版御蔭にて出來深謝。十八世紀は樗陰森田兩君に依頼する事となれり。坪内先生來訪早稻田へこいとの相談である。評判によれば慶應義塾へも行くさうだ。近々一萬圓で家を建てるさうだ。小供がシツヲかいて困る。中央公論を約束したがまだ見ない。公《原》告には筑水君の「文學論に因みて」が出て居ない。或は送らんで濟むかも知れぬ。竹風君の評は新小説に出た。是はそちらで買へるだらうから送らない。小説は中々進行しない。暑いと中止したくなる。
 君の手紙は色女が色男へよこす樣だ。見ともない。男はあんな愚な事で二十行も三十行もつぶすものぢやない。
 久しく靴屋の娘を見ず。あれはめかけの由。是から又虞美人草をかく。
    七月三日朝九時             金
   豐 隆 樣
 
      七一八
 
 七月五日 金 後2-3 本郷區駒込西片町lOろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ〔はがき〕
 駒込上富士前町五番地(王子通岩崎別莊向横町右入)に貸家あり。廣瀬といふ人の所有僕に貸したいと云ふ序の時散歩でもしたら見て呉れ給へ。家の向を知らず圖面は見たり
 
      七一九
 
 七月八日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より  福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 枇杷到着難有候。何か上げやうと思ふが何がいゝか分らんうちに君が東京へ歸るだらう。面會謝絶でも毎日面會してゐる。昨夜藤戸を謠つた。中々うまい。謠を再興しやうかと思ふ
 
      七二〇
 
 七月八日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 近頃の讀賣に君の事がよく出るね。御用心。虞美人草の御批評拜受。善くても惡くても本當に讀んでくれゝば結構。僕ハウチノモノガ讀マヌウチニ切拔帳ヘ張込ンデシマウ。ワカラナイ人ニ讀ンデモラウノガイヤダカラデアル
 
      七二一
 
 七月八日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 拜啓高松中學の件承知致候昨今の場合或は御赴任可然やとも存候然し愈とならねば地方行は御見合せを希望す。明治學院五〇では到底暮しがたかるべくことに妻帶の上は子供も豫算に這入る事故何とか工夫を要し候小生も種々考へては居れど別に名案も無之自分で世話も出來ぬものを無理に東京に引きとむるも不都合の至故其邊は是非なきかと存候新聞の方も聞き合せるは容易なれどあの事業は少々明快なる頭脳と敏捷なる手腕を要し且つ外國電報抔は夜十二時過迄は社に殘らねばならず而して必竟ずるに第二流の新聞記者たるを免がれず考へ物に候。君に今少し覇氣があり野心があれば結構夫でなくても今少し活氣があり精根があればよろしからんも君の樣にてはあとで困るかも知れず。然しよく考へてやつて見る氣なら紹介は喜んでする積故遠慮なく申來らるべく候外國電報主任弓削田精一といふ人は正直にて一本氣の至極よき人間に候かゝる人に就て電報の修業をするは仕合せとも存候朝日には妙な人間居らず池邊を始め皆立派な男と信ず。小生は二名ばかり周旋したり。白仁も這入る。然し白仁はそんなに月給を餘計にもらうまじ中村蓊も入社の筈是も白仁と同斷なるべしもし不時の入用抔にて差當り困難の時は少しの都合はつく積りなり遠慮なく申來らるべく候先は御返事迄 匆々頓首
    七月七日                金
   眞 綱 樣
 
      七二二
 
 七月十日 水 後5(以下不明) 本郷區西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓寺田君より別紙の續稿到着につき差上候。都合により多少の削除御隨意の由。先達の獨樂は早く出さないと時候後れになるさうです 以上
    七月十日                夏目金之助
   澁川柳次郎樣
 
      七二三
 
 七月十一日 木 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一二〇行徳俊則へ
 拜啓例の件につき色々御世話に相成難有存候御問合せの人御兩名とも都合あしき由承知致候大兄にてよろしければとの御意見辱く存候もし御希望なら無論喜んで杜の方へ紹介致すべくもし又迷惑ながら小生へ對する義理として當分引受けてやるとの御親切ならば左のみ急く事にも有之間敷大兄も御歸省其他にて御多忙と存候間別に其儀に及ばずと愚考致候右如何の御意見にや一寸手紙にてよろしく御洩らし願上候 以上
    七月十日夜             夏目金之助
   行徳俊則樣
 
      七二四
 
 七月十一日 木 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 其後動靜如何當地存外凉氣にて例年より凌ぎよし小説脱稿次第北の方へ遊びに行かうかと思ふが。いつ脱稿する事やら分らず。ビハは小供が喜んでたべた。三重吉が時々くる
 
      七二五
 
 七月十一日 木 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 君のくれた天|笠《原》牡丹が今日の雨で落ちて仕舞つた何だか淋しくなつた。今度の日曜には人がくるかも知れぬ君もひまなら來給へ
 
      七二六
 
 七月十二日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓京都より御歸りの由毎日出社御精勤の事と存候。小生一昨十日總務局より臨時賞與として五十圓貰へり。定めて入社當時に話しのあつた盆暮の賞與の意味なるぺし。夫ならば大分話が違ふ。始め君の周旋の時は一年二期に給料の二ケ月分宛位といふ事であつた。其後愈となつたら弓削田氏より君への返事に言ふ所は先づ一ケ月位との事であつた。僕が池邊氏にあつて最低額は一ケ月分と定めて差し支なきやと質したる時氏は然りと答へられた。
 僕は賞與がなくとも其日には困らぬ。又實際アテにもする程の自覺もない。然し貰つて見るといやである。金の多少でいやといふより池邊、弓別田兩君の如き君子人が當初の條件を守られぬといふ事がいやである。
 入社の日が淺いから今年は出さぬといふなら辯解になる。同上の理由で今年は少ないと云ふなら尤である。
 以上の理由は誰からもきかぬ。只一|今《原》で、しか解釋すべきものか。
 受取つた五十圓は難有く頂戴する。返却は仕らぬ。不足だからもつと餘計くれとも云はぬ。只事實は條件を無視してしかも一言の辯解|に《原》伴ふて居らんといふ事を、入社の周旋をしてくれた君に參考の爲め申し送る。
 池邊弓削田兩氏は君子人なれば此邊の消息は知らぬ事なるべし。知つても當初の事は忘れたるなるべし。いづれにても故意ならぬ所作ならば介意するに及ばず。序での節兩君の存意を確められたし。
 
 小生が朝日に對してなし得る事は微少なり五十圓にも當らず。只それは入社の條件とは別問題なり。是は誤解なきを祈る。
 
 虞美人草はまだ片付かず。いつ果つべしとも見えざりけり 以上
    七月十二日             夏目金之助
   白仁三郎樣
 
      七二七
 
 七月十二日 金 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 あの謎は謎として解かない方が面白い。凡ての謎は解くと愛想が盡きるものである。神秘をやさしい言葉デ言ふと上品トナル
 
      七二八
 
 七月十二日 金 使ひ持參 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜啓一寸出る筈ですが出ると長くなつて御邪魔になりますから手紙で用を辨じます
 あなたの萬朝へ御書きになつたものを岡田さんの方が先へ出るとすればあまる事だらうと思ひまして朝日の方へ話しをしたらもし五十回以上百回位迄のものなら頂戴は出來まいかと申して來ました是は虞美人草のあとへ四迷先生の短かいものを出して其次に出す計畫の由です
 萬朝の方が御都合がつけばこちらへ廻して下さいませんか 以上
    七月十二日                金 之 助
   大塚御奥樣
 
      七二九
 
 七月十三日 土 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓御多忙の處をわざ/\池邊氏を御尋ね御返事を御聞き被下て難有候
 御申越の理由詳細判然承知致候
 六ケ月以内のものが貰はぬが原則ならば小生の貰ふたのが異數なるぺし。深く池邊氏の御注意を謝す。
 池邊君に御面會の節は小生が御尤もと納得したる上同君の御好意を感謝しつゝある旨を傳へられたし
 ことに君が此件につき御奔走の勞を謝す。
 醫者に御通ひ中のよし御病氣なるや大事にせられたし 以上
    七月十四《原》日            夏目金之助
   白仁三郎樣
 
      七三〇
 
 七月十四日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔はがき〕
 啓、單軌鐡道の事が今日の讀賣に出たさうです。今から出すと後れますから御休めなさい。寺田が心配して居たが讀賣を讀んで大に殘念がつてゐます。匆々
    七月十四日
 
      七三一
 
 七月十六日 火 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 啓 松山へ御歸りの事は新聞で見ました。一昨日東洋城からも聞きました。私が弓をひいた※[土+朶]がまだあるのを聞いて今昔の感に堪へん。何だかもう一遍行きたい氣がする。道後の温泉へも這入たい。あなたと一所に松山で遊んでゐたら嘸呑氣な事と思ひます
 大内旅館についての多評は好景氣の樣也三重吉は大變ほめてゐました。寅彦も面白いと云ひました。そこへ東洋城が來て三人三樣の解釋をして議論をしてゐました。小生はよく御《原》其議論をきかなかつた。小生の思ふ所は。大内旅舘はあなたが今迄かいたものゝうちで別機軸だと思ひます。そこがあなたには一變化だらうと存じます。即ちあなたの作が普通の小説に近くなつたと云ふ意味と。夫から普通の小説として見ると大内旅館がある點に於て獨特の見地(作者側)がある樣に見える事であります。詳しい事はもう一遍讀まねば何とも云へません。とにかく色々な生面を持つて居るといふ事はそれ自身に能力であります。御奮勵を祈ります。
 五六日前一寸何を考へたか謠をやりました。一昨日東洋城が來た時は滅茶々々に四五番謠ひました。ことによつたら謠を再興しやうと思ひます。いゝ先生はないでせうか。人物のいゝ先生か。藝のいゝ先生か。どつちでも我慢する。兩者揃へば奮發する。虞美人草はいやになつた。早く女を殺して仕舞たい。熱くてうるさくつて馬鹿氣てゐる。是インスピレーシヨンの言なり。 以上
    七月十|七《原》日             金
   虚 先 生
 
      七三二
 
 七月十六日 火 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一二〇行徳俊則へ〔はがき〕
 啓朝日新聞件先方へ通知致候處主任澁川柳次郎氏(麹町區隼町四)御面會申度由につき乍御面倒御出向願度候。毎朝八時迄ならいつでも在宅とあり
 
      七三三
 
 七月十九日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔はがき〕
 御迷惑でもまた虞美人草の續稿をとりによこして下さいませんか。汽車が全通しないで大阪の方が間に合はないと氣の毒であります。行徳は昨日歸りに寄りました。
 
      七三四
 
 七月十九日 金 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 服岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 手紙が來たから一寸返事をあげる。東京は雨で毎日々々鬱陶しい其代り頗る涼しくて凌ぎいゝ。大井川が切れて※[さんずい+氣]車が通じない郵便が後れる事と思ふ。叡山で講話會をやるから出てくれと云ふて來た。多分出ない事。ひまが出來たら北の方へ行く三重吉も行くと云ふ
 虞美人草は毎日かいてゐる。藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が缺乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。うまく殺せな
ければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲學をつける。此哲學は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する爲めに全篇をかいてゐるのである。だから決してあんな女をいゝと思つちやいけない。小夜子といふ女の方がいくら可憐だか分りやしない。――虞美人草は是で御仕舞。
 金子筑水の議論は念の入つたものではない。昨日上田柳村君が來て文學論について云々して去つた。大塚は眞面目に讀んで呉れて批評をしにやつて來た。博覽會へ行つてwaterシュートへ乘らうと思ふがまだ乘らない。伏見の宮さまが英國で大歡迎だと云ふ話である。僕は英國が大嫌ひあんな不心得な國民は世界にない。英語でめしを食つてゐるうちは殘念でたまらなかつたが昨今の職業は漸く英語を離れて晴々した。所が早稻田と慶應義塾で教師になれといふて來た。食へなければ狗にでもなる。英語を教へるのはワン/\と鳴く位な程度であるからいざとなればやる積であるが、虞美人草の命があるうちはまづ御免蒙る。朝鮮の玉樣が讓位になつた。日本から云へばこんな目出度事はない。もつと強硬にやつてもいゝ所である。然し朝鮮の王樣は非常に氣の毒なものだ。世の中に朝鮮の王樣に同情してゐるものは僕ばかりだらう。あれで朝鮮が滅亡する端緒を開いては祖先へ申譯がない。實に氣の毒だ。朝日新聞の湯島近邊といふのを讀んで御覽。ああ云ふ小説もかいて好《よ》いと云ふ御許しが出ると小説家の氣も大きくなる。僕もまだ二三十年は英語を教へないでどうかかうか飯が食へさうだ。
 惡縁で英語を習ひ出したが是から可成英語を倹約して獨乙と佛語にしたいと思ふ。先づ獨乙を君に教はりたい。夏休み以後は少しやつてくれ玉へ。 以上
    七月十九日               金
   豐 隆 樣
 
      七三五
 
 七月十九日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 神奈川縣鎌倉長谷大塚楠緒へ
 拜啓金尾文淵堂であなたの萬朝に出る小説を頂いて本にしたいと申ます夫で此男があなた〔に〕紹介してくれと申ます御迷惑でなければ一寸逢つてやつて下さい 以上
  七月十九日                金 之 助
   大塚楠緒庸子樣
 
      七三六
 
 七月二十日 土 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 昨夜散歩から歸ると君の名刺があつて三省堂の事も書いてあつた。毎日あの方へ參る由夫で學校以外の收入も多少はあるとの事安心致し候 四國の方は御斷りの趣是亦承知致候字引事業はいつ頃迄つゞくものにや字引が濟んでも似た樣なものが出て來さうに思ふが如何
 毎日雨にて鬱陶しい然し仕事をするには凉しくて却つてよろし。皆川には其後逢はず。小説はまだ書き了らず氣の長い事驚ろくぺし。胃はよろしからず。旅行が致したし。昨日《きのふ》から大塚さんの小説が萬朝に出るから見てゐる。朝日に湯島近邊といふのがある。是もよんでゐたが二三行よむと何がかいてあるかすぐ分る。簡便でよい小説である。十八世紀文筆の講義を金尾で出したいといふから承知した。森田、瀧田兩君が書き直してくれる筈。此年は無暗に書物ばかりこしらへる。而して今日の「國民」にある如く五割の印税をとつたら僕も今頃は一萬圓のうち位貫へるだらうに。 以上
    七月二十日               金
   眞 綱 樣
 
      七三七
 
 七月二十日 土 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 君は何を思つたか深夜頓首して手紙をよこした。さうして内容は僕に會つた時と別に變つた事が書いてない。妙だよ。豐隆子が長い手紙をよこした。米を賣つて仕舞へといつて婆さんに叱られたとある。其癖婆さんから相談を受けたのださうだ。是は愈妙だよ。小説は中々氣が長いから僕も困る君も困る。八月になつたら早速出掛給へ。僕もし出來得べくんば君のゐる所へ廻つて行く。然らずんば何でもどつかで待ち合せる。然らずんば僕がどうしても東京を出られなくなつて君は一つ所にぶら下がる。是は大に氣の毒だが、今日の形勢を案ずるに或は西片町を去る事が出來ぬかも知れない。何しろ急行小説はやめたんだから。だら/\虞美人でいつ迄引張られるか自分にも見當がつかない。もしかうなると違約になる甚だ御氣の毒だ。さうなつたら二三日でもいいから君と前約履行のかたでどつかで遊ばう。僕近來ズルクなつて(廣島の意味)困る。何でも急がぬ方針だ。而して方針も何もない。生きてゐて、食つてゐて、而し〔て〕漫然たり 以上
    七月二十日                金
   三 重 吉 樣
 
      七三八
 
 七月二十一日 日 後2-3 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ〔はがき〕
 漱石山房といふ印が俗でいやになつたひまが出來たら一人でもつとうまい奴を刻つてやる。昨夜は失敬
 
      七三九
 
 七月二十一日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 今日の讀賣に正當防禦と題して早稻田の人が君を攻撃してゐる見玉へ。全體君は何をかいたのか。何をかいてもあんな攻撃をするのは早稻田の若イ人ダ
 
      七四〇
 
 七月二十二日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 拜啓人の攻撃を攻撃しかへすときは面白半分にからかふ時の事なり。ひまが惜しければやるべからず。堂々たる攻撃は堂々たる辯駁を要す。是は惜しい時間を割いてやる事なり。
 僕未だ新聞雜誌に出たものに對して辯解の勞をとりし事なし。そんな事をするひまに次の作物か論文をかく方が遙かに有益也。
 あんなものに眞面目に相手になる位なら始からあゝ云ふ風な評論をかゝれぬがよろしからうと思ふ。何かいふ事があらば駁論とせず。次の作物か論文のうちに充分君の主張を述べらるべし。夫が自分は自由の行動をとつてしかもくだらぬ世評に頓着して居らぬ事を事實に證明する所以と思ふ。
 君は文を好む文を好めば將來かゝる場合多かるべし。皆この例にならつて決せられん事を希望す。
 尤も暑中休暇故ひまがあるならいたづらにいくらでも喧嘩をなさるのも一興と思ふ。
 しかし喧嘩をし出すと、相手次第で暑中休暇後迄もやる積でないと行《原》けません。途中でやめちやいけない。まあ愚になるね。 以上
    七月二十一日               金
   豐 一 郎 樣
 
      七四一
 
 七月二十二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき〕
 今日もひるから來客で多忙鈴木は明日から房|洲《原》へ行く由淋しくなる。何か謠を稽古したくなつた。
   此處發句をかく筈にてあけたが出來ない
 
      七四二
 
 七月二十二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓先日御話し致し候小山内薫君目下困り居られ候につき小生より一應大兄迄照會あり度旨春陽堂の高見君より依頼を受け候が如何のものにや白仁君中村君に御聞き被下候へば同君の性行等は御分りの事と存候先は用事のみ 草々頓首
    七月二十二日             夏目金之助
   澁 川 先 生
 
      七四三
 
 七月二十三日 火 後8−9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 暑いのに牛込迄通ふのは難義だ抔といふのは不都合だ口を糊するに足を棒にして脳を空《から》にするのは二十世紀の常である。不平抔をいふより二十世紀を呪|咀《原》する方がよい。
 夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。君の夫婦が親しけ〔れ〕ぱ原則に叶ふ親しからざれば常態に合すいづれにしても外聞はわるい事にあらず
 君の事を心配したからといふて感涙抔を出すべからず僕は無暗に感涙抔を流すものを嫌ふ。感涙抔を云々するは新聞屋が○○の徳を讃し奉る時に用ひるべき言語なり
 僕は君に世話がして上げたくても無能力である。金は時々人が取りに來る。有るものは人に借すが僕の家の通則である。遠慮には及ばず。結婚の費用を皆川の樣な貧乏人に借りるのは不都合である。
 細君は始めが大事也。氣をつけて御し玉へ。女程いやなものはなし。
 どこかへ遊びに行きたいが虞美人草をかいて仕舞ふ迄は動き度ない。
 野村には一向逢はない。毎日客がくる。
 君は氣が弱くていけない。一所になつて泣けば際限のない男である。ちとしつかりしなければ駄目だよ。 頓首
    七月二十三日               金
   眞 綱 樣
 
      七四四
 
 七月二十六日 金 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬岩館鈴木三重吉へ
 犬岩館とかいふ所に御神輿を据ゑられたるよし。是は何でも僕が通つた所らしい。ことによると昔し宿つた所かも知れぬ岩のなかに彫り込んだ宿屋抔は頗る面白い
 東京は甚だ涼しい。土用でも土用の感じがない東洋城が來てとまつて一日ごろついて謠を三四番歌つて歸つて行つた。其他色々な人がくる。十八世紀文學は金尾をやめて春陽堂にした。昨日服部の印税未納をしらべたら八百圓程ある。僕も中々寛大な著作家たるに驚ろいた。服部も通知を受けて驚いたらう。勿驚印税八百圓といつてすぐ持つてくればえらい。あれは版權を大倉へ讓り渡してしまふ方が得策だ。僕も便利だ。
 虞美人草はだら/\小説七顛八倒虞美人草と名づけて未だ執筆中
 あまり潮風に吹かれると女が惚れなくなるにつきいゝかげんに御養生可然候 以上
    七月二十六日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      七四五
 
 七月二十九日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 暑中如何御暮し被成候事と存候ひしに不相變御健勝の由大慶の至に存候下つて小生如例碌々乍憚御休神願上候。虞美人草御讀被下候よし難有存候小生もあれが爲め今年夏も依然多忙實ははやく切り上げて遊びにでも參り度と存候へども因果にて如何とも致しがたく弱り切り候。小説もかうだら/\では讀者より著作者の方が先へ參り候御憐笑可被下候いづれ其内拜眉萬々先は御挨拶迄 匆々
    七月二十九日               夏目金之助
   大 谷 兄
 文學論も御求め被下候由あの一版は大變な誤植に候もし御入用ならば正誤表一部可差上候
 
      七四六
 
 七月三十日 火 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬若館鈴木三重吉へ
 啓日々御水浴結構に候。甲野さんの日記は毫も不自然ならず。甲野さんの日記は京都の宿屋の所に出てゐる。つまり其つゞきである。しかしてかゝる哲學者のかいた日記をぽツ/\引き合ニ出スノハアル意味ニ於テ甲野サンヲ貫ヌカシムル方便デアル。實ハ此ヤリ口ハ僕ノ創體デハナイ英ノメレヂスの作に屡此手ガアル。僕ハ之ヲ踏襲シタト評サレテモ仕方ガナイ。
 「オや御這入」と云ふ句はチツトモ可笑シクハナイ。アレヲ可笑シガルノハ分ラナイ。廣イウチデ銘々部屋ヲ持ツテゐる。母ノ部屋ヘ娘ガ行く。オや御這入ヨリ云ヒ樣ガナイ。而シテ尤も母ラシイ言葉でアル此言葉デ母ラシイ所ガ直チニ出ル。君ハ廣島ダカラサウ云フ意味ニ聽キ慣レテゐナイノダラウ。アレハ實ハ最上等ノ句ダヨ。
 ワルイ所ヲ摘發スルナラバモツト此方ガ閉口スル所ガ澤山アルノニ、アスコガ目にツタノハ可笑イ。
 此小説ハノンキ小説トモ、ダラ/\小説トモ、又ハ七顛八倒小説トモ稱シテ容易ニ片ヅク景色ナシ。然シ毎日カク。
 二三日非常ニアツクナツタ。妻君ガ六十圓デ紋付ガコシラヘタイト云フ。君ノ前ダガソンナモノハ要ラナイ樣ダネ。妻君ニシテ六十圓ノ紋付ヲコシラヘルナラ。僕モ薩摩上布ノ上等ヲ買ツテ向ヲ張ル積デアル。
 中川カラアヅカツテ居ル百圓ハ利子ノ勘定や何カ面倒デイケナイ。アレハ自分ノ名デ預ケ替タラヨカラウ。歸ツタラ君カラ話シテクレ玉ヘ。 以上
    七月三十日              金
   三 重 吉 樣
 且アノ日記ハ母子ノ間柄ヲ裏面カラアラハス故甲野サンノ日記云々トカク方ガ切實デアルノデアル〔六字右○〕(此所巽軒口調ナリ)
 
      七四七
 
 七月末〔?〕 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 大阪市南區天王寺上の町三六六九武定※[金+珍の旁]七へ〔はがき」
 貴句拝見虞美人草御よみ被下候よしダラ/\になりて申譯なく候
  のうぜんの花を數へて幾日影
 
      七四八
 
 八月一日 木 後2-3 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 岩代國耶麻郡鹽川町陸軍御用九重本舗栗村千代吉君方製造衛生滋養輕便珍菓九重(會津品評會銅牌受領)以上一箱本日午前十時文學士北郷二郎君ヨリ落手多謝々々
 
      七四九
 
 八月一日 木 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拝啓今度専門學校の師範科を卒業した田中美成(?)と云ふ人が中學を出てゐないとかで教師が出來ないとかで糊口に困つてゐるから新聞へ聞いてくれと四方太がたのみます此人は學校の成績は優等ださうです月に二十|拾《原》もあれば當分いゝといふのだから一寸伺ふのです何か用を命じてさうして其功績の報酬を出したら二十圓位にはなりさうなものだと思ひますどうでせうさういふ用はありませんか 以上
    八月一日               金
   澁 川 樣
 
      七五〇
 
 八月二日 金 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
  拝啓 爲菅で十圓あげる新婚の御祝に何か買つて上げやうと思ふが二十世紀で金の方が便利だらうと思ふから爲替にした。
 暑いのに三省堂迄行くのは苦しからう然し世の中にはまだ苦しい事をしてゐるものも澤山ゐる。馬鹿で金を澤山とる奴はどうせ好い事はない。近いうちに祟があるものだ。君安心して業に就て可なり。
 僕は毎日小説を四五枚かく其外に何もしない。
 先達皆川と三浦白水君が来た。其他來客中々多し。小説さへ濟めば快談せんと思ふが今は澁談で氣の毒である。
 君には毎度御菓子やら何やらもらつてゐる。些少の爲替では引き足らん。決して禮を云ふては可けない。此間印税がとれたから上げる許だ。上げなくつてもどうせ使つて仕舞ふ金だ。さう思つてうまいものでも兩君で食ひ玉へ
    七月末日              金
   野間眞綱樣
 
     七五一
 
 八月二日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 大學も駿河臺も滿員の由自宅にては嘸御不便と思ふが|今《原》朝早く尼子氏を訪問もう一遍相談あつては如何。他の病院を紹介してもらうか。或は適當なる醫師を周旋してもらうか也。もし尼子氏擔任すると云はゞ夫にてもよかるべし。あの人は信用してよい人故自分が出來なければ駄目といふべし。故に「外の病院を又は外の人を周旋してくれと云ふべし。それと同時に先生がやつて下さつても私方はよろしと云ふべし。夫で向の返事を待つべし 以上
    八月二日夜              金
   森田米松樣
 右注意迄
 
      七五二
 
 八月三日 土 後8−9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 手紙が來た。また何だか長々と女性的文字がかいてあるには恐縮したね。今日高須賀淳平が來て小宮さんはことによると戀病をすると云つた。氣を付けないといけない。※[さんずい+嫩の旁]《原》石病なら心配はないが御絹病などになると甚だ痛心の至だ。僕の妻が赤門前の大道易者に僕の八卦を見てもらつたら女難があると云つたさうだ。しかも逃れられない女難ださうだ。早くくればいゝと思つて日夜渇望してゐる。大旱の雲霓を望むが如し。
 あつくてだら/\してゐる。門司迄芝居を見に行く方はない。東京へ歸つてゆつくり見るものだ。田舍へ行つたら芝居氣をすてゝ田舍ものになるがいゝ。此間印税が這入つた君が居れば何か奢つてやらうと思ふが幸不在だからやめた。文學論は三版になつた。但し五百部。虞美人草については世評はきかず。みんなが六づかしいと云ふ。凡てわからんものどもはだまつてゐれば好いと思ふ。それが普通の人間である。餘計な事をいふ奴は朝鮮國王の徒だ。况んや漱石先生に如何程の自信あるかを知らずして妄りに褒貶上下して先生の心を動かさんとするをや。君の前だが先生はしかく安價なる先生ならず。しかく安價なる作物を作りつゝあらざるなりか。
 三重吉は洞穴《ホラアナ》生活の由何をして居る事やら。歸つたら屹度漁師の神さんに惚れられたとか。アマに見染められたとか云ふに違ない。
 森田ノ赤ン坊ガ死ニカヽル。二三日何にもしない由。
 野上が一兩日前來た。
 エイ子さんのシツ追々本復す。姉妹悉くシツカキ性なるには愛想がつきた。エイ子さんが一番温良でユツタリしてゐて好い子だ。赤ン坊は豪傑の相がある。又寫眞をとらうと思ふ。 頓首
    八月三日               金
   豐 隆 樣
 
      七五三
 
 八月四日 目 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 日本橋區本町三丁目博文館編輯局内巖谷季雄へ〔往復はがき返信用〕
 拜復西園寺侯爵の招待答禮につき相談小集の御通知を受け御手數の段難有奉謝候然るに當日は無據處差支有之出席仕兼候につき左樣御了知被下度先は右御返事迄匆々頓首
 
      七五四
 
 八月四日 日 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬岩館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 小宮先生ニ舞子ガ懸想シタ由扇デ以テ親切に煽いでくれたと云ふ。
 一本の褌と風流いづれぞや
 
      七五五
 
 八月四日 日 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき〕
 癖三醉君に田島金次郎〔五字右○〕といふ人の住所と經歴を聞いて置いて一寸知らしてくれ玉へ。今度逢ふ時でよろしい
 
      七五六
 
 八月四日 日 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 先日の御手紙拜見本月は一應御歸京の由。其節は御面會致し度と存候
 大鼓を打たれる由鼓を打つ人と鼓の音をきくと頗る人意を強うします。廿世紀にあんな閑日月があると思ふからです。僕も御指定の教師に從つて謠の稽古を致し大に時勢を後ろへ進歩致したい。近頃自然派とかいふて無暗に前へ出たがるから小生は不自然派でもおつ立てゝ後《うし》ろの方へ參らうかと思ひます。自然だらうが、不自然だらうが只主義を標榜する丈で主義相應の作物を出して見せなくつちあ仕樣がないぢやありませんか。圍爐裏のはたで一生懸命に水|錬《原》の藝術を説いてゐる樣なものだ。――以上はどうでもいゝ事ですが。是からが用になります。西村濤蔭と云ふ人が糸櫻と云ふ長篇小説を持つて來てホトヽギスへ出したいから八月十日頃迄に讀んでくれと云ひました所が心よく受合つた事は受合つたが、例の虞美人草の爲めによむひまがない。そこで濤蔭先生へ其旨を云ふてやつて虚子へ送るか、又は虚子が歸る迄預つて置くかと聞き合せてゐます。然し君の方の御都合もある事だらうから此事實丈を一寸御通知して置きます。
 藤尾と御糸の會話をほめて下さつて難有う存じます。まだ褒められる所が段々出てくる事を希望して毎々執筆します。 頓首
    八月四日                金
   虚 子 樣
 
      七五七
 
 八月五日 月 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬若館鈴木三重吉へ
 日々暑い事だ。偖旅行の儀は延引又延|行《原》今月の半頃ならばと思つてゐるが一方では段々考へて見ると例の小説がどうも百回以上になりさうだ。短かく切り上げるのは容易だが自然に背く調《原》子がとれなくなる。如何に漱石が威張つても自然の法則に背く譯には參らん。從つて自然がソレ自身をコンシユームして結末がつく迄は書かなければならない。するとことによると君と同伴行脚の榮を辱ふする譯に參らんかも知れぬ。旅行も大事だが虞美人草は胃病よりも大事だから其邊はどうか御勘辨を願ひたい。トルストイ。イプセン。ツルゲネフ。抔は怖い事更になけれど只自然の法則は怖い。もし自然の法則に背けば虞美人草は成立せず。從つて誰がどう云つてもゾラが自然派でフローベルが何とか派でも其他の人が何とか蚊とか云つてもどうしても自然の命令に從つて虞美人草をかいて仕舞はねばならぬ萬一八月下旬に自然から御許が出たら早速端書をあげる。夫迄は吉原の美人でも見てインスピレーシヨンを起して居たまへ。もし自然の進行が長引けば此年一杯でも原稿紙に向つてゐなければならない。嗚呼苦しいかな。
    八月五日                 金
   三 重 吉 樣
 
      七五八
 
 八月五日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 
 夏目漱石先生著
   吾輩ハ猫デアル
       松林伯知述  〔各行の下に横書きで〕八月五日夜
 
 本郷日蔭町ヲ通ツタラコンナ看板ガアツテ面食ツタ。全體ドンナコトヲ述ベル了簡カシラ
 
      七五九
 
 
 八月五日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 一昨日御話をした絲櫻といふ小説はいそがぬから私に見てくれといひますからあなたへは送りません。
 今日東亞の光といふ雜誌を見たら小林一郎(哲學の文學士)といふ人が近頃漱石氏の名前が出るにつれて追々非難攻撃するものが殖えて來た。もう少〔し〕文學者は雅量がなくてはいかんとありましたが。どうですか。私は未だ非難攻撃といふ程な非難攻撃に接した事がない。何だか小林君の説によると迫害でも受けてゐる樣に見えて可笑しい。漱石をほめるものが少なくなつたのは事實であります。然し是は漱石が作家として一般の讀書子から認められたからであります。漱石をえらい作家と認めれば認める程世間は無暗にほめなくなる譯だと思ひます。六號活字抔を以て漱石を非難攻撃抔といふのは頗る輕重の標準を失してゐるではありませんか。
 今めしを食つて散歩に出る前に一寸時間がありますから氣?を御目にかけます。
 長い小説の面白い奴をかいて御覽なさらないか。さうして朝日新聞へ出しませんか。
 今度の「同窓會」は駄目ですね。あれは駄目ですよ。あなたを目するに作家を以てするから無暗にほめません。ほめないのはあなたを尊敬する所以であります。 頓首
    八月五日                金
   虚 子 先 生
 
      七六〇
 
 八月六日 火 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保百人町一五三戸川明三へ
 拜啓酷暑の候愈御清適奉賀候頃日來御掲載の郊外生活多大の趣味を以て歡迎日々愛讀今日は飛んだ所で漱石が引合に出て大に面目の次第に候が玉稿が急に六號活字に縮少せるには驚ろき候。夫でひめゆりとか申すつゞきものゝ小説つきの廣告が繪入で巾を利かして居るには恐縮しました。新聞屋も餘程金がほしいと見え候。郊外生活は可成長く可成面白からん事を希望致候 以上
    八月六日                金之助
   秋 骨 樣
 
      七六一
 
 八月六日 火 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 豐隆先生 僕の小説は八月末には書き上げるだらうと思ふから九月早々出て來たまへ。旅行は多分やめるだらう。小説をかいて仕舞はないと雜誌さへ讀む氣にならん。旅行抔は來年に延ばして仕舞ふ。あの小説をかいてゐるうちは腹のなかにカタマリがあつて始終氣が重い。妊娠の女はこんなだらう。
 僕が洋行して歸つたらみんなが博士になれ/\と云つた。新聞屋になつてからそんな馬鹿を云ふものがなくなつて近來晴々した。世の中の奴は常識のない奴ばかり揃つてゐる。さうして人をつらまへて奇人だの變人だの常識がないのと申す。御難の至である。ちと手前共の事を考へたらよからうと思ふがね。あんな御目〔出〕度奴は夏の螢同樣尻が光つてすぐ死ぬ許だ。さうして分りもしないのに虞美人草の批評なんかしやがる。虞美人草はそんな凡人の爲めに書いてるんぢやない。博士以上の人物即ち吾黨の士の爲めに書いてゐるんだ。なあ君。さうぢやないか。
 三重吉が下總の國で吉原の別嬪を見たといふ。物騷千萬な事だ。君の御絹さんと同じ事だ。
 森田の子供が死にかゝつて森田先生毎日僕の所へ病氣の經過を報告にくる。可愛らしい男であります。火事を出しかけて長屋の人が來て揉み消してくれたといふ。御蔭で五圓進上せざるを得ざるの已を得ざるに至つたといふ。惜い事也
 小説をかいて仕舞つたら書物をよんで諸君子と遊ばうと思ふ。それを樂しみに筆を執る。君謠を稽古してゐるか。僕は近々再興する積だ。一所に謠はう。
 今日は坐つてゐても汗が出る中々あつい事だ。僕の嫌な蝉の聲がする。花壇にはまだ花が咲いてゐる。不思議なものだ。僕も小説家としてもう少しの間は大丈夫だ。博士にならなければ飯《めし》が食へないと思ふものに好例を示してやる
    八月六日                金
   豐 隆 樣
 
      七六二
 
 八月八日 木 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓虞美人草の校正に付ては今迄色々校正者の注意により小生の間違も直して頂いた事もあつて大に感謝の念に堪へん譯でありますが、時々原稿をわざ/\御|易《かへ》になつた爲め讀者から小生方へ尻が飛び込む事があります。横川《よかは》を横《よこ》川と改められたの抔は一例であります。そんな事は、此方《こつち》の間違と差引て此方が得をしてゐる位だからいゝですがね。今日は少々因りますから一寸申上ます。
     (十)の三
 「もう明けて四ツヽ〔三字傍点〕になります」
といふ處がありますが、あれは少々困る。三十四、一十四、四十四抔を畧して東京では四《シ》になつたとか、四《シ》だとか云ひますが四《よ》つになつたとは申しません。四《よ》つになつては藤尾が赤ん坊の樣になつて仕舞ます。私は判然「四《シ》になります」と書いた積です。しかも二ケ所共|四《よ》つに改めてある。困りましたね。
 校正に云ふて下さい。叮嚀なる校正で甚だ感謝をするが、時々はこんな事もある。然しこの位な間違はどうせ免かれぬ事でせう。だから仕方がない。向後もあるでせう。然しかう云ふのがあつたと云ふ丈を校正者に話して下さい
    八月八目               金 之 助
   澁 川 樣
 
      七六三
 
 八月九日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓先日は御不幸御氣の毒の至に不堪實は御悔みに上がらうと思ふがオツカサンや奥さんで却つて御迷惑と思つて控へてゐる。先日生田君の取りに來たものは乍些少香奠として差上るから其積にて御使用下さい。
別に何か上げやうと思つたら細君が申すにあれを上げた方がよからうとあるから小生も其儀に同意した譯である。
 昨日は來客、昨夜は東洋城とまり込み今猶のらくらしてゐる。虞美人草は昨今兩日共休業もし御閑なら入らつしやい 頓首
    八月九日                金
   米 松 樣
 
      七六四
 
 八月十五日 木 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 禰岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 拜啓トルストイの獨譯を賣《原》つた。今二三頁讀んだ(但しいゝ加減)所があれをかくに際して沙翁を繙讀したのが七十五歳だと稱してゐる。其前にも度々讀んだとある。トルストイの樣に氣力があると僕も大作物を出す。
 トルストイは沙翁を讀んで人の樣に面白くないと公言してゐる。そこが甚だよろしい。好漢愛すべしである。What is Art でも自分の思ふ事を勝手に述べてゐる。あの男の頭には感服せんがあの意氣には感服する。ライトと云ふ Dialectic Society で字引を編輯した人は四十になる迄英語の外は知らなかつたと云ふ。夫が今では大變な語學者になつた。西洋人はえらい根氣のある奴が居る。
 漱石は沙翁を繰り返す氣もなし語學者になる氣もないが、此兩人の根氣丈はもらひたい。小説をじ然と發展させて行くうちには中々面倒になつてくる。是で見るとヂツケンスやスコツトが無暗にかき散らした根氣は敬服の至だ。彼等の作物は文體に於て漱石程意を用ひてゐない。ある點に於て侮るべきものである。然しあれ丈多量かくのは容易な事ではない。
 僕も八十位迄非常な根氣のいゝ人と生れ變つて大作物をつゞけ樣に出して死にたい。
 君の手紙をよんだ。返事の代りに之をかく。
 是から文壇に立派な批評家と創作家を要求してくる。今のうち修養して批評家になり玉へ。
 今より十年にして小説は漸移して只今流行の作物は消滅すべし。其時專|問《原》の批評家出でゝ眞正の作家を紹介すべし。
 今の文壇に一人の評家なし批評の素養あるものは評壇に立たず。徒らに二三子をして二三行の文字を得意氣に臚列せしむ。
 英、佛、獨、希臘、羅甸をならべて人を驚かす時代は過ぎたり。巽軒氏は過去の装飾物なり。いたづらに西洋の自然主義をかついで自家の東西を辨ぜざるもの亦將に光陰の過ぐるに任せて葬られ去らんとす。而る後批評家は時代の要求に應じて起るぺし。豐隆先生之を勉めよ。樗牛なにものぞ。豎子只覇氣を弄して一時の名を貪るのみ。後世もし樗牛の名を記憶するものあらば仙臺人の一部ならん。
 謹んで檄す。 頓首
    八月十五日                金
   豐 隆 樣
 
      七六五
 
 八月十六日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大森八景坂上杉村方中村蓊へ
 昨日は暑中見舞の書状難有拜見、杉村氏歸京にて御多忙の事と推察致候
 小生未だ小説を脱稿せず百回でやまざる故どこ迄行くか夫子自身心元なし Penelope's webと 申す事あり。永劫に虞美人草攻となる了簡なり。
 細民はナマ芋を薄く切つて、夫れに敷割抔を食つて居る由。芋の薄切は猿と擇ぶ所なし。殘忍なる世の中なり。而して彼等は朝から晩迄眞面目に働い|で《原》ゐる。
 岩崎の徒を見よ!!!
 終日人の事業の妨害をして(否企|で《原》ゝ)さうして三食に米を食つてゐる奴等もある。漱石子の事業は此等の敗徳漢を筆誅するにあり。
 天候不良也脳巓異状を呈して此激語あり。蓊先生願くは加餐せよ 以上
    八月十六日              夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      七六六
 
 八月十六日 金 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬若館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 君の御蔭にて閑庭未だ花絶えず日々寂寥を慰す。昔人曰熱時には闍梨ヲ熱殺スト漱石ハ然ラズ擧シテ云フ熱時ニハ闍梨ヲ凉殺ス
 
      七六七
 
 八月十|七《〔?〕》日 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 大分縣大分郡松岡村吉峰竟也へ〔はがき〕
 四海同胞の好みを以て御書被遣拜見致候虞美人草の人物の名二葉亭氏に有之由御注意難有候實は其面影をよまず夫が爲めかゝるコントラストを生じ候先は御答迄 草々
 
      七六八
 
 八月十八日 日 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 濱で御遊びの由大慶に存じます大きな鼓を御うちの由是も大慶に存じます。松本金太郎君はどこにゐますか。私のゐる所からあまり遠方では少々恐れ入ります。謠の道にかけては千里を遠しとする程の不熱心ものであります。專門の學問をしに倫敦へ參つた時ですら遠くつて/\弱り切りました。
 金太郎君へ入門の手續はどうしますか月謝はいくらですか。相成るべくは相互の便宜上師弟差向ひで御稽古を願ひたい。敢て同門の諸君子を恐るゝにあらず。度胸が据らざるが爲めなり。
 あなたは二十日頃御出京と承はりました。然し御令兄の御病氣ではいけますまい。どうか御大事になさい。
 人の惡口を散々ついてあとからあれは奨勵の爲めだと云ふのは面白いですね。六號活字の三行批評家や中學生徒に奨勵されちやたまらない。以上
  八月十|九《原》日              金
   虚 子 先 生
 謠の件は近々御歸り迄待ちましてもよろしう御座います。いそぐ事ではありません
 
      七六九
 
 八月十九日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬岩館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 おとつさんが肺病になつた由御氣の毒なり。森田の兄が死んで川下江村は小田原で倒る。――吾等は難有く其日を送る。幸福なり。
 其代りうちの下女は主人をおびやかしにかゝる。異な事なり。漱石下女の爲めに人生觀を易へる事あらば漱石と下女とは同程度の人物なるぺし 呵々。
    八月十九日
 
      七七〇
 
 八月十九日 月 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 君が歸京前最後の手紙としてこれをかく。三重吉と一所にこしらへてくれた花壇は未だに花が絶えぬ御蔭で日々慰めになる。虞美人草をかく時にも大なる注意物となつた。筆を以《原》て漫然とあの花畠を見てゐる。署があけて秋が來て朝夕は涼しい。小供が蟲籠を軒へかけた。蟲がなく。少し書物が讀みたい。此夏も江山の氣を得ずに籠城して仕舞さうだ。三重吉のおとつさんが肺病になる。川下江村といふ人が卒業してすぐ死んでしまつた。
 世の中は妙な考を持つてゐるものだ。殿下樣が漱石の敵だと云へば漱石はすぐ恐れ入るかと考へてゐる。至極呑氣に出來てゐる。殿下樣はえらいかも知れないが、漱石がさう安つぽく出來てゐた日にや小説なんかかく必要がなくなつて仕舞ふ。尤も甚しい例は漱石の文は時候後れだと云へばすぐ狼狽して文體をかへるかと思つてる。漱石は獨乙が讀めないと云つて冷評すれば漱石は翌日から性格を一變するかと心得てゐる。どう考へても世の中は呑氣だなあ、豐隆子。こんな人間がごろ/\してゐるうちは漱石もいさゝか心丈夫だ。
 島からの端書到着。石は何で出來てゐると聞いた人は傑作家に違ない。
 君が歸る迄は花壇に花があるだらう。小説は今月中には方づくだらう
    八月十九日               金
   豐 隆 樣
 
      七七一
 
 八月二十口 火 前9-10 本郷區駒込酉片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき 署名に「夏目道易禅者」とあり〕
 問ふて曰く男女相惚の時什麼
 漱石子筆ヲ机頭ニコロガシテ曰ク天|笠《原》ニ向ツテ去レ
     讃曰
  春の水岩ヲ抱イテ流レケリ
 問ふテ曰ク相思の女、男ヲ捨テタル時什麼
 漱石子筆ヲ机頭ニ竪立シテ良久曰ク日々是好日
     讃曰
  花落チテ碎ケシ影ト流レケリ
 
      七七二
 
 八月二十一日 水 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき〕
    心中するも三十棒
  朝貌や惚れた女も二三日
    心中せざるも三十棒
  垣間見る芙蓉に露の傾きぬ
   道へ道へすみやかに道へ
  秋風や走狗を屠る市の中
 
      七七三
 
 八月二十三日 金 前9-10 本郷囁駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 野村さん二十五日に朝日新聞へ給料をとりに行つて呉れないか。どうせひまだらう。午後がよろしい。以上
 
      七七四
 
 八月二十六日 月 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 玉稿ハ新聞ヘ屆ケタリ。天陰、滿庭コトゴトク蝉聲。漫然トシテ座ス。興趣無盡。理科ノ不平ヲヤメテ白雲裡に一頭地ヲ拔キ來レ
 
      七七五
 
 八月二十八日 水 前(以下不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 大水にて大騷一寸見物に行きたい樣《原》が致すがもう三四日は虞美人草故外出を見合せる
 時に君も朝日へ入社の由大慶一人でも知つた人が這入るのは喜ばしい
 御舍弟の御病氣の事は森田氏より承はりたり。御氣〔の〕毒と思ふ。
 「うきふね」は二三の書店へ話丈はして置いたが只今出版界不景氣だからと云ふので春陽堂抔は一寸逃げた。かうでもしたらどうだらう。君が「うきふね」持參大倉へ行つて原平吉に逢ふ僕が是非出版してくれといふ添状をかく。其後は君の談判に任せる。
 それからまだこんな事がある。昨夕も森田に話したのだが。僕は月給の約束で明治大學で三十圓宛取つて居た。所が朝日へ這入るに就て明治大學も辭職した。その月(即ち三月か四月と思ふ)の月給をくれない。そこで一應は内海月杖君に催促したら先生は早速會計に申して取計ふといふ返事丈よこしてまだ寄こさない。君僕の代理として君の事情を打明けて之を内海氏からとるか上田敏君から受取つて貰ふかする勇氣があればその三十圓を君に上げる。
 夫で歸國の旅費が足りなければ十月十日になると僕は二三百圓金が這入るそのうち二十圓位なら君にやつてもいゝ。昨夜は森田君に貳拾圓かし。其他へもチヨイ/\貸シタリやツタリスルノガ重ナルト何ダカ心細イ。然シ十月迄待テバソノ位ナ勇氣は回復スル
 右一應御返事迄
 兎に角九月初句に一寸來給へゆつくり相談をする
    八月二十八日            夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      七七六
 
 九月二日 月 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 此間は失敬うちの家賃を三十五圓にするといふ三十五圓ぢやいやだから出る積だどこか好い所はないかね。無暗向不見に家賃を上げる家主は御免だ。御もよりに相當なのを御聞及なら一寸しらせてくれ玉へ 頓首
    九月二日               金
   虎 雄 樣
 
      七七七
 
 九月二日 月 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四二喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 野村さん。家主が家賃を三十五圓にするといふ。今月中に越すつもり好いうちがあるなら心掛けて教へて呉れ玉へ
    九月二日
 
      七七八
 
 九月二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣一の宮一の宮館畔柳都太郎へ
 端書拜見肺せんかたるの疑ありとの事大した事も有之間敷けれど隨分勉強して遊んだらよからうと思ふ僕も小説が脱稿に及んだから出掛て二三日馬鹿話でもしたいがどうも一の宮とあつては一寸行く氣にならん。實は此間大塚に誘はれて別荘地見分〔五字右○〕の爲め參つたのでね。一の宮より稻毛の方がよくはないか。
 家賃を三十五圓にするといふから只今逃亡の仕度最中だ。君いゝうちを知らないか。○○は無暗に借りろ/\といふ。あんなのは何だか氣味がわるい。實際僕の崇拜者でもないものが家を貸す爲に崇拜者になるなんて怪しからん譯だ。
 僕例の立派な湯屋へ行つて體重をはかるに十二貫半である。今日かゝつた〔ら〕十二貫の半の《原》半である。家賃と體重は反比例するものかと思ふ。今に家賃が百圓位になれば體量○即ち大往生の域に達する事だらう。胃が惡クテイケナイ。之を稱してキツツエンカタールト名ケル。一の宮位ぢや中々癒らない。火葬場のストーブで煖めないと到底全治しないさうだ。
 先は御返事迄 匆々頓首
    九月二日               金
   畔 柳 樣
 
      七七九
 
 九月二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 殘暑にも拘らず御機嫌よきや小生不相變消光小説は漸く脱稿せり。先日佐治君が來て明治學院を斷つたと云ふ。其代の野村も斷つたといふ。其代はもう出來たのかね。もし出來なければ森田米松を入れてやつてくれないか。尤も君も時間が《原》可成澤山持つ方がいゝから餘つたらば餘つた丈を周旋してやつてくれないか先は用事迄 匆々頓首
    九月二日               金
   眞 綱 樣
 
      七八〇
 
 九月四日 水 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 爾後御疎遠に打過申候不相變御清穆奉賀候小生漸く小説を脱稿今暫く小康をむさぼる積に候
 偖突然ながら曙町でも何でもよろしきが小生の這入る位の貸家は無之やもし御見當り又は御聞及ならば端書にて御一報願上度實は今月中に此家を引拂はねばならぬ事と相成候につきもしやと思ひ唐突ながら伺上候 以上
    九月四日                金之助
   繞 石 詞 兄
 
      七八一
 
 九月四日 水 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる万森田米松へ
 淨土宗の方は先約にて森卷吉氏にきまる明治學院の方は國史料の何とかいふ人が出來た由此人愛知人にて無暗に利巧に立ち廻り學院の方でも難有なき由なれば森田君が覺召がある事が今少し早く分つてゐれば譯なかつたのにと野間から云つて來た
 右の次第にて雙方共駄目也。但し森卷吉は瀧の川の耶蘇夜學校をやめる筈だらうと思ふ。夜中瀧の川迄通ふ勇氣があれば聞き合せて見るが如何
    九月四日                金
   米 松 樣
 
      七八二
 
 九月四日 水 後11-12 本郷萬駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓先日は郊外生活の件につき一寸申上俟處早速御返事にて却つて恐縮致候
 偖甚だ唐突ながら其郊外生活の儀につき御迷惑ながら伺ひ上げ候が小生の家主家賃を上げる事に堪能なる人物にて二十七圓を忽ちに三十圓と致し今や三十圓を三十五圓に致さんと準備最中にて此方にも御同樣立退の準備を取り急ぎ候。そこで斯樣な立ち入つた話を致し候も實は貴君御住居の近邊に適當なる立退場 御承知にもやと存じての御願の前置に候とくに御探しを願ふと申す樣な横着心にては萬々無之、もし御心づきの貸家も有之候はゞ何卒端書にて御一報被下問鋪候や御多忙中甚だ失禮を申上候何卒御|用《原》捨被下度候 匆々頓首
    九月四日               夏目金之助
   戸川秋骨樣
 金魚は面白く拜見致候
 
      七八三
 九月七日 土 前9-18 本郷萬駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣一の宮一の宮館畔柳都太郎へ
 僕の胃ガン君の肺尖竹風の美的生活早稻田の自然主義大抵同程度なものだらう何れも心配するに及ばず。
 あの繪は傑作だ。あの音樂も大結構だ。タンホイゼル位な所だ。海邊へ行くとシーインスピレーシヨンの御蔭で色々なものが出來る
 昨夜机の上に載せて置いたニツケルの時計と鋏と小刀を盗まれた。隨分安直な泥棒だ。
 四方に檄を飛ばして貸家を捜がしてゐる。君の所を二軒かりるもいゝが庭はまるで無いぢやないか
 虞美人草脱稿後來客ストリームの如く流れ來る。主人ひと攻めとなる。
 東京は中々暑い暑いのと人が來るので書物は一枚もよめない。グー/\寐る。寐る事は免許以上の腕前だね。
 大阪の新聞で虞美人草を一回ぬかして濟して掲載してゐる。呑氣な不都合もあるもんだ。讀者は何とも云はない。氣のついたのは作者ばかりだらう
 中川は一體熊本へ行くのかな何だか些とも分らない
 まづ此位でやめる。
 もう一つある。體量は十二貫半から半の半に減じた翌日から急に十三貫に増して昨日は十三・一あつた。此樣子で見ると體量と家賃は正比例するものと見て差支ない右正誤迄 草々
    九月七日               金之助
   芥 舟 先 生
 
      七八四
 
 九月八日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 拜啓
 此間中から八重子さんが御病氣の由大した事もないだらうと思つてゐたら昨日鈴木の話では熱が四十度もある由それでは普通風邪位な事ではないのだらう中々大病で君も看病に骨が折れる事だらうと思ふ一寸見舞に行かうと思ふが此あついので僕も大分弱つてゐるそこへ朝から人ばかり來るので益弱るばかりそれで手紙で失敬する何か不便な事があるならして上げる云ふて來給へ 以上
    九月八日                金之助
   豐一郎樣
 
      七八五
 
 九月八日 日 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 御面倒の御願を致した處早速御返事頂戴難有存候
 御地近邊に一二軒は空星有之よしいざとならばまかり出たくと存候。實は意外に繁殖力多き家族にて大供五人プラス小供五人の大景氣故五六間にては少々間に合ふまじかとそれが心配に候然し家賃頻る廉なるに免じて少々の我慢も致しかねまじき趨勢いざとなればなにか|ど《原》御厄介になる事と存候
 小生も御近邊にて時々御邪魔でも致す方を望み居候何だ|が《原》西片町通はエラ過ぎる樣に相成候
 郊外生活は洪水の爲め一時御中止のよしもう大分退いた樣子故又御始めにならん事を希望致します
 先は御禮迄 匆々
    九月八日               金之助
   秋 骨 先 生
 
      七八六
 
 九月八日 曰 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ
 「やもり」まあ負けて面白いとする。欠點は一初めは御房さんが山になる樣だ(二)所が荒物屋が主になつて仕舞つた。(三)そこでツギハギ細工の樣な心持がする(四)始からやもりに關する記|臆《原》をツナゲル體で讀者に是が中心點だと思はせない樣に兩者を並列する心得があれば此矛盾は防げたらうに(五)さう云ふ態度で並べた話ならもつと渾然としてくる。如何となればいくつ並べてもやもりで貫いてゐるから。――又文章の感じが一貫してゐるから である。
 文章の感じは君の特長を發揮してゐる。矢張ドングリ感、龍舌蘭感である。此種の大人しくて燐で、しかも氣取つてゐなくつて、さうして何となくつやつぽくつて、底にハイカラを含んでゐる感じは外の人に出しにくい。君には是より以外に出せないかも知れない。先は一口評迄。早速虚子に送る
    九月八日                 金
   寅   彦
 
      七八七
 
 九月十日 火 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 拝啓
 御手紙拝見虞美人草を出版したき人有之由實はあれはもうとくの昔に約束濟にて既に最初の方は活版に組み込んで今日から校正が来た位故何とも致しがたく先方へよろしく御断り願候。それから僕が君のうちへ引き越したのは判然何月か覺えてゐない。何でも正月歸國して夫から方々家を探がして漸く君のうちへ這入ると間もなく四月になつて學校へ出勤した様に記憶してゐる。其時うちを消毒した事があるそれを僕は見分に行った其時の感じは何でも嚴寒の候ではない。だから三月頃だと思ふ。只今山妻不在歸つたら聞いて見る女は年月をよく覺えてゐるものだから。 以上
    九月九日               金之助
   齊《原》 藤 學 兄
 
      七八八
 
 九月十日 火 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町二大谷正信へ
 先刻は御多用の所御邪魔失禮致候御親切に御案内被下候段難有奉謝候偖眞宗大學の口は喜んで應ずる人は澤山可有之と存候が早速思ひつき候人を二三御紹介及候古きかた御望の由につき
 (一)戸川明三。是は明治學院出にて英文撰科卒業。山口高等學校教授廢校後出京。御存じの秋骨君に候
 (二)名須川 良。是は熊本高等學校教授たりし所衝突の結果出京
 (三)野間眞綱 是は前の二人と違ひ門弟に候四年許前に卒業只今明治學院の教師先達士官學校をやめたり
 其他御望とあれば猶二三人はあるべし。新しくて濟めばいくらでも有之候
 先方へ問ひ合す前に一寸御意向を伺ひ置候先は右御返事迄 匆々頓首
    九月十日               金之助
   大 谷 樣
 
      七八九
 
 九月十四日 土 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓戸川君の信仰事件は小生も知りませんが一つきいて見ませう。きいて耶蘇信者だと云つたら仕方がないが。信者だらう丈でやめるのは少々殘念ですから。
 家の事色々御盡力難有く存じます廣瀬君のうちは落成せぬうちから借りろ/\といふ好意でしたが實はまだ行つて見ません。名須川君の新居はどこか知りませんどこですか。其近所のうちは何だかよさゝうに思ひますが。御世話序にもう少し聞いて下さいませんか。出來ればこゝ五六日うちに極めて下旬には引き移る事に致す積です。もうどこへでも飛んで行く積です。
以上
    九月十四日               夏目金之助
   繞 石 兄
 
      七九〇
 
 九月十四日 土 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓先日はわざ/\御光來被下ました處何の風情もなくまことに失禮致しました。偖大谷君から直接に御照會になつたさうですが例の眞宗大學授業の件ですが實は小生も大兄を推擧して置いた處昨日大谷君から手紙で當局者のいふには戸川君は耶蘇教ぢやないだらうかさうすると京都の頑固連に對して困るといふ返事ださうです。そこで大谷君があなたの信仰の有無を私へ聞き合せに來たのですが私はそんな事は一切知らないから――まあ戸川君に聞いて見るから待つてくれと大谷君に今手紙をかいた所です。
 それで大兄があまり御望にならんものを信仰の有無など問ひ正す樣なホジクリは不必要と認めますが萬一目下の御事情該校出稼御希望なればだまつて其儘にして置いては却つて御不便宜かと存じ入らぬ事ながら一寸伺ひます。尤も直接に大谷さんの方へ御返事をなさつてもよろしう御座います。先は用事まで 匆々
    九月十四日              金之助
   秋 骨 樣
 
      七九一
 
 九月十四日 土 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 寶生新君件委細難有候。早速始めたいが轉宅前はちと困ります。轉宅後も遠方になると五圓では氣の毒に思ひます。いづれ落付次第又御厄介を願ひませう
 
      七九二
 
 九月十四日 土 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓其後は御無沙汰偖今般大塚さんの奥さんが萬朝に連載した露と題する小説を文淵堂から出版するに就てあなたに表紙の意匠を願ひ度と申しますがどうか御面倒でも一つ書いて下さいませんか。口繪は滿谷さんに頼むさうですが出來るなら滿谷さんの繪を御宅へ持つて行く樣にしますからそれと調和する樣にやつて見て下さい。いづれ表向は文淵堂が參りますが私は個人として大塚さんの代りに御願申して置きます。
 私も小説が濟んで少々閑になつたから其うち上がります。あなたの繪はどうですかまだ忙がしいですか
 貢さんによろしく
 今月中に轉宅をしなければならんので方々聞き合せ中です 先は用事迄 匆々頓首
    九月十四日                金
   橋 口 清 樣
 
      七九三
 
 九月二十三日 月 後1-2 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都文科大學狩野享吉へ
 拜啓小生今月中に轉宅の必要生じ候處色々探索の家未だ思はしからず又確と極らず然し今月中には是非出なければならず。自然至急を要する場合にはかりに大兄御所持の北町の家へ立退同樣の體に御置き被下間敷やさうすれば安心して探す事が出來ると存候。但し永くは居る間敷と存候從つて大した御迷惑はかけぬ積なり。あの方面で精々探索致すぺく候
 君の北町のうちは當分賣れる見込なしと存じ候。だから少々の間貸しても損はなからうと存じ候
 隣ノチヤンコロの下宿は不都合千萬に候
 まだ家も見ず間數も知らねど萬一を慮りて一書を呈して御願致候折返し是非とも承知の御返事を頂き度く候
 尤も十中七八迄は夫迄にきまる事と存候 以上
    九月二十三日               夏目金之助
   狩野享吉樣
 但し拜借すれば屋賃は三十圓迄出す覺悟に候
 
      七九四
 
 九月二十三日 月 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 今日千駄ケ谷を探索君の家(即ち石門)を見んと存ぜし處千駄ケ谷も隨分廣い所にて何とも蚊とも相分らず。代々木代々幡抔をぶらついて大に健康を養成致候
 それで念の爲めもう一遍石門館を見たいと思ひ候が御慈悲に明日御連被下間敷や尤も明日は社の運動會が玉川にある。三時に散會といふ御布令だから其前に御免を蒙つてもよろしい故どこか御出張を願つて待ち合せたいと思ふが適當の場所と時を御指定願ひたい。それとも都合によりては運動會を御免蒙つてもよろしい。
 猶都合によつては石門館の番地町名を御報にあづかりたい左すれば小生一名にて出掛候 以上
    九月二十三日夜             夏目金之助
   森田緑苹先生
 
      七九五
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 私の新宅は
  牛込早稻田南町九番地
デアリマス。アシタ越シマス
 
      七九六
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ〔はがき〕
 家の事にて種々御心配恐縮漸く左記の處へ本月中に移轉の都合に相成候右御禮旁御通知迄 匆々
  牛込區早稻田南町九番地
    九月二十八日
 
      七九七
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 小生明日左記の處へ轉居す
  牛込區早稻田南町九番地
    九月二十八日
 
      七九八
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ〔はがき〕
 先達は家の事で御面倒相願難有候今度牛込區早稻田南町九番地へ轉居する事に相成今月中に引移る事に致候右御禮旁御報迄 匆々
 
      七九九
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ〔はがき〕
 昨日は失敬色々御面倒を懸多謝家は例のにきめ候
  牛込區早稻田南町七
 明日移轉の積右一報
    九月二十八日
 
      八〇〇
 
 九月二十八日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ〔はがき〕
 明日曜牛込早稻田南町九へ轉居ヒマナラ彌次馬に乘ツテ御出征如何
 
      八〇一
 
 九月二十八日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 明日曜牛込區早稻田南町九へ轉居の筈ヒマガアルナラ見物旁手傳に來ラレンコトヲ希望
 
      八〇二
 
 十月二日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二〇行徳俊別へ〔はがき〕
 家屋の儀色々御世話にあづかり難有候今月より表記の所へ移り候間右御通知申上候 以上
    十月二日
 
      八〇三
 
 十月四日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓爾來等閑に打過候段怠慢の罪ひとへに御海恕願上候御惠送〔の〕鮑今日着寒厨一段の芳味を秋夜に添へ可申御好意奉萬謝候
 新居僻遠にていづ方へも御無沙汰閑人ならでは參るものなき邊鄙に有之候へどももし御上京の節御氣でも向き候へば御枉駕被下度待上候
 虞美人草御讀被下候由本月末にて完了の筈御批評願上候
 今度の引越につき始めて借家の拂底を感じ書物が邪魔になり殆んどいやになり申候昔の人は自分の家藏を持たねば一人前でないとか申居候漂浪を分とする小生如きものも成程と思ひ當り候漸々郊外へ退却の外無之我ながら憫笑
 先は御返事かた/”\御禮迄匆々如斯候 以上
    十月初四                夏目金之助
   渡 邊 樣
 
      八〇四
 
 十月四日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓また御面倒なる事につき一書を呈する事と相成候
 勸業銀行の有尾敬重氏の息子が今度中學を卒業して高等學校へ這入る迄英語の練習をして貰ひたいとの申込を引受候處意外の遠方へ引うつりたる爲めどう〔か〕近邊なる大兄に紹介して呉れぬかとの事に候(同氏は富士前町住に候)
 小生は一週に一兩度ひまな時にはと申置候が其位の御閑は出來不申候や。實は大兄の御多忙の事も一應申置候。又御都合次第にては甚だ失禮ながら相應の御報酬を差出す樣に致すだらうと存候
 實は御面倒で申上るのも甚だ恐縮とは存ぜしも小生移轉の爲め平生交際ある友人(醫學士尼子氏)の依頼をもだしがたくかく御難題を吹きかけ申候
 御遠慮なき處御返事被下候はゞ幸甚 頓首
    十月四日              夏目金之助
   大谷正信樣
 
      八〇五
 
 十月六日 日 後1-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ〔はがき〕
 御多忙の處御好意難有候早速有尾氏へ通知致す事に取計ひ可申、或は先方より直接に御願に出るやも計りがたく其節はよろしく御相談願上候
 
      八〇六
 
 十月七日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓御手紙の趣承知致候實は十月十日に銀座貳丁目服部書店より猫の印税殘部貳百七十圓持參の筈故そのうちを貳拾圓君に用立て樣と思つて居た然し十日に君が出立するとなると間に合はない故封入の僕の名刺を持つて同店に行つて談判して一日でも早く取つてくれてそのうち二十圓差引いて殘りのうちで七十圓三十銭(九月丸善から取りに來た書代)を丸善へ拂つて殘りの百八十圓を僕の所へ持つて來て呉れゝば好都合である
 もし服部が十日でなければ出來ぬといふならば君の出立日を一二日延べるより致方あるまい
 序だが右猫印税の受取も入れて置く引替に渡してくれ給へ
    十月七日                夏目金之助
   中 村 君
 
      八〇七
 
 十月八日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓寶生の件は御急ぎに及ばずいづれ落付次第此方へ招待仕る方雙方の便宜かと存候實はケチな事ながら家賃が五圓増した上に月謝が五六圓出ると少々答へる故一寸樣子を伺つた上に致さうかと逡巡仕る也
 魯庵氏への紹介状別封差上候間御使可被下候
 先は用事迄 匆々頓首
    十月八日                 金
   虚 子 先 生
 
      八〇八
 
 十月八日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 御小兒御病氣如何もし御樣子よくば木曜の夕茸飯を食ひに御出掛下さい尤も飯の外には何もなき由人間は連中どや/\參る事と存候紹介状サツキ郵便で出しました
 
      八〇九
 
 十月八日 火 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
     祝滿洲日々新聞創刊
  朝日のつと千里の黍に上りけり
 昨日は失敬御約束の句右の如くにて御免蒙り候尤も御取捨は御隨意に候 以上
    十月八日                夏目金之助
   森   樣
 
      八一〇
 
 十月八日 火 牛込區早稻田南町七より 内田貢へ〔うつし〕
 拜啓其後は御無沙汰御ゆるし可被下候偖知人高濱虚子より大兄へ紹介の依頼を受け候につき一寸寸楮を呈し候同人は年來の懇意に有之面白き人物に御座候もしまかり出候節は御面話被下度右願上候先は用事迄匆々 頓首
    十月八日                 金之助
   魯 庵 先 生
 
      八一一
 
 十月九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓先日願候有尾氏子息稽古の件につき同氏より先生の御出にては恐縮故此方よりまかり出で御教授にあづかり度と申出られ候御迷惑の次第とは存じ候へども右にて御聞入被下間敷候や。小生は直接に有尾氏を知らず只小生に依頼せる知人の言によれば同氏は平民的なる謙遜家なりと云へば子弟の教育上より家庭へ先生を呼びつける如き仰山な所置を好まぬ爲とか手紙にて申越候色々御面倒なる事のみ願失敬千萬に候へども何とか今一應御熟考を煩はし度と存候 以上
    十月九日                  夏目金之助
   大 谷 學 兄
 
      八一二
 
 十月九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 服部件種々御盡力難有候同店主人本|人《原》小生方へ持參の由なれどどうせ其うちより君に上げるものを出す譯故君の方で受取つてくれた方が便利に御座候主人もわざ/\早稻田迄出張する迷惑がはぶけて便利な筈に候。よつて御面倒ながら本日君が行つて取つて下さい。其方が雙方の便利であり且つ確かである 以上
    十月九日                  夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      八一三
 
 十月九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 日本橋區本町三丁目博文館内巖谷季雄、田山録彌へ〔はがき〕
 謹啓西園寺侯爵招待の日どり御變更につき又々御通知を煩はし御手數恐縮の至に候當日は生憎差支にて出席仕かね候間左樣御承知被下度右折返し御返事迄匆々
 
      八一四
 
 十月十日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ〔はがき〕
 御依頼の件御親切に御引受被下難有候早速先方へ申つかはし候定めて喜ぶ事と存候
 先〔は〕御禮迄 匆々
 
      八一五
 
 十月十日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先日願上候人の履歴別紙の如くに候間御廻送申上置候につきもし本人相當の事も有之候はば可然御周旋被下度先は當用のみ 草々頓首
    十月十日                 夏目金之助
   森 賢 臺
 
      八一六
 
 十月十一日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓玉稿拜受難有候早速社の方へ廻付致置候輪廓文學は面白く拜見致候
 偖御匿名の件は過般御面會の節は一應面白きかとも存じ候ひし處よく考へ候に失張公然の方可然と愚考仕り且つモデル問題八釜敷際あとにてあれは秋骨君だといふ事が分つてはモデル問題に關係深き大兄が却つて他より入らざる揣摩を受けらるゝ事あらんかと存じ專斷を顧みず公然と雅號拜借致候一應は御相談の上可取計處左程の大事件にても有之間數(寄稿の内容より察して)と存じ一存にて取計申候もし不都合なれば後日御面會の節御叱責を甘受可仕候 以上
    十一日                  夏目金之助
   秋 骨 兄
 
      八一七
 
 十月十三日 日 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓過般來毎々御面倒相願候有尾氏令息授業の件につき御紹介及候間御面會被下度委細は拜眉の上萬々可申述候 以上
    十月十三日                 金之助
   大 谷 樣
 
      八一八
 
 十月十四日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓モデル問題朝日社より返附致來候につき御廻送申上候御改作の分出來候節は頂戴可仕と存候
 右當用迄 草々
    十月十四日                  金之助
   戸 川 樣
 
      八一九
 
 十月十六日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 蓄音器を買ふ樣な餘裕のある人に金を寄附するなんて勿體ない。蓄音器どころではないセツパ詰つて借りに來る人がある。さう云ふ時に貸す方が有効で有益である。だから寄附は御免蒙り候
 
      八二〇
 
 十月二十一日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ
 拜啓尾崎より別紙參り候間供御高覽候返事は直接に同人へ御つかはし相成〔度〕候
    二十一日                  金
   豐 次 郎 樣
 宿所は廣島市水主町三六に候
 
      八二一
 
 十月二十一日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ〔はがき〕
 昨日は御出の處外出失敬御惠投の石と人形難有拜受致候。大兄の出京の頻繁なる驚くに堪たり今度はいつ迄御滯京にや京都の蜂は猛烈なるものと被存候
 學校の休業未曾有也
 
      八二二
 
 十月二十六日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 草雲雀の序遲延無申譯漸く半日の閑を偸んで書き了る。あまり御氣に入りますまいがこゝいらで御勘辨を願度候
    十月二十六日               金之助
   草平大人座下
 
      八二三
 
 十月二十八日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鳥取縣西伯郡境町谷尾長へ
 貴翰拜誦拙著御愛讀被下候よし難有存候御尋ねの箇所相しらぺ候處小生の分は
 「枕を」の次の行に
 「外して居る。凡そ人間に於て何が見苦しいと云つて口を開けて寐る程の不」
の一行有之夫より「不《原》体裁云々」に接續致居候。小生の分は九版に候。御取寄の本に間違はなき筈なれども如何致せるものにや書店へ御懸合御引替可然かと存候先は右御返事迄早々頓首
    十月二十八日               夏目金之助
   谷 尾 長 樣
 
      八二四
 
 十月二十九日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓先日霽月に面會致候處御幼兒又々御病氣の由にて御看護の由嘸かし御心配の事と存候
 偖別封(小説葦切)は佐瀬と申す男の書いたもので當人は是をどこかへ載せたいと申しますからホトヽギスはどうだらうと思ひ御紹介致します尤も當人貧乏にて多少原稿料がほしい由に候
 御一覽の上もし御氣に入らずば無御遠慮御返却相成度ほかを聞いて見る事に致します 先は用事迄 匆々
    二十九日                 金之助
   虚 子 先 生
 
      八二五
 
 十一月二日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京都市外下加茂村葵橋東詰北入厨川辰夫へ〔はがき〕
 御紙面拜見京都へ御轉任の事はかねて聞及候御地は熊本より萬事好都合の事と存候先々結構に候小野さんのモデル事件は小生も新聞にて讀み候。勝手な事を申すやからに候。定めし御迷惑の事と存候。勝手な事を勝手な連中が申す事故小生も手のつけ樣なく候
 
      八二六
 
 十一月二日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓乙骨君の事難有存候同君の御隨意にてよろしき事と存候同君の宿所がわかれば改めて社員がまかり出萬事正式に御依頼致すぺくと存候小生も參りて直接に參上の上御頼を致してもよろし
 
      八二七
 
 十一月五日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ〔はがき〕
 古道具屋で左の印を買つて來た處何と讀むやら分らず教へてもらひたい
 
      八二八
 
 十一月六日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 姫路市外平野村三一五池内松太郎へ
 拝復此前御つかはしの御書状は大坂の社より廻送し來候へども書中の意味は二三の來客に示し候へどもとんと不得要領其儘に打棄置候
 今度のには姓名住所判然と御書入につき御返事致候小生は大坂の社には居らず表面の處にまかりあり
 貴兄の御差出の書面は(十餘回)と承はれど一回も受取りたる事なし貴兄の作物月見草其他も未だ拝見も致さず通知も受けず候。是は大坂社より御受もどし可然と存候但し書面には簡明直截に用事と姓名住所を御認め可然然らざれば又々社の方で取り合はぬ事と存候
 右御返事迄 匆々
 
      八二九
 
 十一月八日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豊一郎へ〔はがき〕
 御手紙毎度難有八重子様より妻への書面も屆申候下女の義御心配奉謝候是は妻より何とか御返事致し可申と存候先は御返事迄 匆々
 
      八三〇
 
 十一月九日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ〔はがき〕
 篆字を調べてもらつた處はいゝが版權免許は驚ろいたね元來何に使つたものだらうどうも御苦勞さま難有いがつまらない
 
      八三一
 
 十一月十日 日 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇上田敏へ
 拜啓其後は御無沙汰御海恕被下度候偖植村正久氏所屬教會の婦人を以て組織せられたる家族講話會にて貴兄に一場の御話を願度旨同君より依頼につき御紹介申上候につき可相成は御面會の上御便宜を與へられ度願上候實は植村君自身御訪問の上相願ふぺくの處色々多忙にて或は會員代理にて參上致すやも計りがたく候につき右御含み迄に申上候 匆々頓首
    十《原》月十日             夏目金之助
   上 田 學 兄
 
      八三二
 
 十一月十一日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 先日は失禮御依頼の序文をかきました御氣に入るかどうだか分りませんがまあ御覽に入れます。
 ゆふべ大體の見當をつけて今朝十時頃から正四時迄かゝりました。然し讀み直して見ると詰らない然し大分奮發して書いたのは事實であります。そこを御買ひ下さい 頓首
    十一月十日                 金
   虚 子 樣
 當分序|分《原》ハカヽナイ事ニシマス。ドウモ何ヲカイテ好イカ分ラナイ。
 然シアナタノ作ヲ讀ムノハヒマガ入ラナカツタ。アレデハ頁ガ多クナリマセンネ
 
      八三三
 
 十一月十三日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 山形縣飽海郡酒田濱町伊藤悦太郎へ〔はがき〕
 拜啓御地製の黒柿紙卷莨入は先日到机右へ備へ日夕撫摩致居候右御禮迄 匆々
    十一月十二日
 
      八三四
 
 十一月十五日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓久しく拜顔を得なかつた處御手紙で虞美人草の批評をかいて居られる由承知右皆々へ披露致候斯樣に御丹精御研究の上御批評あらんとは思ひも寄らぬ所たとひ虞美人草が夫程の價値なきにせよ又其批評が褒貶いづれに向ふにせよ小生は心中より深く君の好意を感謝致候大喜雀躍は單に自分の爲のみならず近來の批評は寄席へ行つて女義太夫を評する格にて文壇の爲め頗る物足らぬ節有之所へ君が出て一批評をかく爲めに露西亞派を研究獨乙の哲學を研究、最後にシラーの傳迄しらべるに至つては其嚴正の態度堂々の獻立敬服の外なくしかも夫程骨を折つて貰ふ作物はといふと僕のかいたものに候故一層嬉しく思はれ候。君の批評を先鋒として日本の批評が從來の態度を一新する樣になつたら嘸よろしからうと存候深田|庚《〔康〕》算が獨乙から手紙にて僕の作物を評したいことに文學論と其外の議論文の學界に未だ甞つてあらざりし所以を述べて精細なる批評を試みたいと申し來候。かゝる人がかゝる態度にて拙著を取扱つてくれるのはまことに心嬉しきものに候。もし夫れ大町桂月君の夏目漱石論に至つてはいくらほめられても小生の爲にも批評界の爲にもならぬ事と存候委細は拜眉を期候。うれしき故一筆御禮を申上置度と存じ此ふみ入御覽候一日も早く批評拜見致し度と存候中には隨分手痛き所も有之べく夫は承知故可成堂々とあゝやつたりやつたりと云ふ風に立派に眞の批評らしく御やり被下度候 以上
    十一月十五日               金之助
   草 平 先 生
 
      八三五
 
 十一月十八日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓讀賣の白雲子の事抔でわざ/\端書を寄こす必要があるものか寄こすなら御笑ひ草として寄こすべし。あれで胸糞がわるくなると申すは讀賣新聞自身に云ふべき事なり讀者は面白がつて然るべき論文也。
 あの白雲子なる人はかつて僕の處へ話をきゝに來て僕が玄關先で返した趣味の男の由。至つて大人しい口も碌にきけさうもなき神經質の男也。それだからあゝ云ふ事をかく。あゝ云ふ男が相應の學間をしないであゝ云ふ事をかく時は少し氣が變になつて居る時分である。恐るべき事だ。あの人は生涯あれで蒼い顔で苦しんでさうして人から馬鹿にされて死んで仕舞ふ 穴賢
    十一月十八日                金
   豐 隆 樣
 
      八三六
 
 十一月十八日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 昨日は御馳走になりました私は廿二〔二字右○〕日入場の文藝協會の演藝會の特等の招待券をもらひました。(壹圓五十銭)あなたはもらひませんか。もし行くなら一所に行きませう。一人ならそんなに行き度もない
 
      八三七
 
 十一月十八日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨夜君の處へ行かうと思つたら途中で虚子と牛肉を食つて遲くなつてやめにした。不愉快ださうで御見舞に行く所であつた。讀賣を君もよむと見える。何と思つてあんなものをかいたのかな。氣の毒な
 
      八三八
 
 十一月二十四日 日 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓明日上田敏氏送別會にて午後四時頃迄に上野精養軒へ參り候につき甚だ御迷惑ながら例のもの「朝日」社にて御受取置被下度行きがけに頂戴に立ち寄り可申候
 右御依頼迄 匆々頓首
    十一月二十四日                金之助
   豐 隆 樣
 
      八三九
 
 十二月二日 月 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓其後御無沙汰拙作表紙も御蔭にて出來上り候由春陽堂より承はり御手數の段奉謝候
 偖當夏中願上置候大塚楠緒女子著「露」愈出版の運びに至候に就てはかねての通表紙模樣御面倒ながら御認め被下度願上度候
 此手紙持參の人は萬朝記者本橋氏にて即ち該書出版者に御座〔候〕へば御面會の上可然御協議被下度候先は右用事迄 匆々不一
    十二月二日                  夏目金之助
   橋 口 清 樣
 
      八四〇
 
 十二月九日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上八重へ〔はがき〕
 玉稿二篇とも拜見。「紫苑」は少々觸れ損ひの氣味にて出來榮あまりよろしからず。「柿羊羹」の方面白く候。是も非難を申せば吉田さんが不自然の自《原》然に出來上つて居り候へども、大體の處|桔《原》構に御座候。いづれを新小説いづれをホトヽギスとなると私にも判斷がつき不申候。たゞ柿羊羹の方が上等の代物と覺召し御取計可然候 以上
 
      八四一
 
 十二月十日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 小説を御脱稿のよし大慶不過之候。樗陰は有卦に入り可申候。小生も三十日つゞきのものを只今たのまれた許りに候。小説と行かなくても三十日はつゞける義務が出來候。可相成は二十九日位で御勘辨を願はんかと存候。御風邪の趣折角御養生專一に候。小子奥方も風邪にて伏せり居候。從つて御見舞にもあがりかね候。羊羹は勿論の事御あきらめ可然候。八重子さんは小説を二つかき候。新小説とホトヽギスへ出す由に候。風呂が洩りて湯がたゝぬ由。何だか湯に這入り度候。風が吹き候。存外あたゝかに候。地震も有之候。
    十二月十日
 
      八四二
 
 十二月十三日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓乙骨三郎君の美學の論文の載つてゐる哲學雜誌(近刊のもの二冊)今度御出の節本郷にて御求め御持參願上候 以上
 
      八四三
 
 十二月十六日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 ケラーの小説を十圓で御求めの由ケラーと〔は〕何者なるや一向存ぜぬ名前に候。近頃は妙な名前がポツ/\出て來て時々寐耳を驚かし候よくなき事に候。クツの紐御求め被下候由、哲學雜誌も御買被下難有候。小生矢張り執筆中。毎日二三回かく豫定
  文債に籠る冬の日短かゝり
 
      八四四
 
 十二月十八日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原在早川村清光館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 御轉地〔の〕よし精々御養生可然候もし手紙を出す氣分でも出たらひまな時御送被下度候。何でも氣を長く平氣に御暮し可被成候。小生執筆にて多忙。東京は寒く候。御地は如何。風を引かぬ樣御注意あるべく候 以上
 
      八四五
 
 十二月二十二日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 毎度用事を御たのみ申相濟まぬ事と存候御禮は此世では六づかしき故いづれ未來にてうんと可仕候故氣を長く御待可被下候。フオルケルトは隨分高いね。讀まなければ莫大な損だ
 
      八四六
 
 十二月二十四日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓上社へ俸給をもらひに行つてくれる時は預けてある見とめの印を持て行く方安全に候。今日の平凡の御糸さんはうまいね。あゝは中々かけないよ 以上。
    二十四日
 
      八四七
 
 十二月二十八日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓又銀行へ御使を願ひたいものですが明日午前中に可成早く來て頂きたいですが。どうも恐れ入ります。
 
      八四八
 
 十二月二十八日〔四十年?〕 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂本多直次郎へ〔封筒表に「高須賀淳平氏持參」とあり〕
 拜啓昨日は失禮致候偖佐藤紅緑氏ユーゴーの譯二百枚ほどのもの此暮中にいづれへか賣却致し度由につき御紹介申上候間各種の條件其他に就ては此者と御協議相願度御多用中恐縮に存候へども右願用迄申上候 以上
    十二月二十八日               夏目金之助
   本多直次郎樣
 
 明治四十一年
 
      八四九
 
一月八日〔?〕 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓また御迷惑ながら明日早く來て野田先生の處へ原稿をもつて行つてくれ玉はぬか。「坑夫」は諸君子妨害の爲一向不進歩
 
      八五〇
 
 一月十日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 昨日は失敬斑女には大弱り〔に〕弱り候。偖本朝本間久と申す人別紙原稿をよこしホトヽギスか中央公論へ周旋してくれぬかとの依頼故先づ以て原稿を供貴覽候御氣に入り候はゞ御掲載の榮を賜はり度候
 本人の申條に曰くある雜誌記者曰く本間久は翻譯ばかりして創作は出來ぬ男だと是に於て此作ありと、即ち敵愾心の結果になれるものと覺候
 原稿の價値は大したものにあらず少々物足らぬ樣也然し折角の希望故御紹介致し候 以上
    正月十日                 金
   虚子方丈下
 
      八五一
 
 一月十日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓又御願が出來候。今日坑夫氏乘り又話を聞いたら僕の間違を發見した。シキ〔二字傍点〕と申すのは坑の事を、銅山の構内と思ひ違へて無暗に使つたから、大に恐縮して正誤しやうと思ふんだが、君もう一遍九浦先生の所へ行つて原稿を持つて來てくれ玉へ。尤もシキ〔二字傍点〕と云ふ字の出初めは銅山へ着したすぐ前からだから此間の原稿の仕舞の方になる。回數ぢや一寸分らないが、何でも長藏さんが坑夫に向つて「左りがシキ〔二字傍点〕だよ」と云ふ所がある。そこからさきを貰つてきてくれゝばいゝ。是は仕舞の方だから一寸持つて歸つても野田君の迷惑にはならない。それから、すぐ直して又持つて行つてもらひたい。どうも度々君子を煩はし奉つて恐縮千萬
 
      八五二
 
 一月十四日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神田區上白壁町五天籟畫塾野田九浦へ
 拜啓坑夫插畫校正刷二葉御惠投にあつかり拜謝致候二葉とも頗る上出來甚だ面白く拜見致候あれは今迄のうちにて尤も成功せるものかと迄思ひ候紙もあの方遙かに品よろしく候實は大阪の新聞を切りぬき繪入記念にまとめ居候がもし校正刷の方頂戴出來候へば其方を貼り付ける事に致し度と存候右御禮旁御願迄匆々不備
    正月十四日                夏目金之助
   九 浦 先 生
 「坑夫」はことによると七十回以上に上るやも計りがたく御迷惑とは存じ候へども何分よろしき樣願候
 
      八五三
 
 一月十九日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 神田區上白壁町五天籟畫塾野田九浦へ
 御書拜見校正刷度々御廻付にあつかり難有候いづれも見事に拜見致候右御禮迄申述候 頓首
    十九日                  金之助
   野 田 樣
 
      八五四
 
 一月二十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓御惠投の鑵詰今日着段々の御好意深く奉鳴謝候小子疎慵常にいづ方へも御無沙汰ことに舊臘より例の小説をたのまれたる上三女とも病氣にて病院開業の有樣ほとんど閉口今以て看護婦を一人頼み居候始末厄介無此上候大兄も御病氣の由然し大した事にも無之趣先以て安心然し御養生專一と存候淺井畫伯は惜しき事致候小生いつか同君の水彩を※[木+眉]間にかけ度と存居候ひしにまだたのみもせぬうちに故人となられ候。家がないから畫などたのんだつて駄目だと思つてるうちに畫の方が駄目に相成候。同君歸朝後の事業半途にて遠逝畫界のため深く惜むべき事に候不折もよろしからぬ由心痛致候小生も本年は四十二の厄年故どうなるか知れず。例の胃もよろしからず候
 御惠投の鑵づめは平生參り候諸君子へすゝめて一餐の快をともにする積に候
 坑夫かき上げる迄は氣がせいてなまけてゐながら忙しく困居候
 先は右御禮旁雜况迄 匆々頓首
    正月二十日                金
   渡 邊 樣
 
      八五五
 
 一月二十二日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 拜啓其後は御無沙汰小説がまだ濟まないんで何處へも出ない。時に僕例の胃病で一寸醫者に見てもらつたら小便を試驗して是は糖分があるといふコイツには參つたね。それで自宅には器械がないから糖分ノペルセントを大學で調べてもらつてくれろといふんだがね。僕の療治法は其ペルセントで極るんださうだ。そこで色々頼む人も考へればあるが君の親類の人に見てもらつてくれないかな。承知して呉れるなら時間と日どりを極めて小便をビールの瓶に入れて大學へ持たせてやる早い方が此方の便宜だ否や御廻答を願ひます
 それから去月から病人ばかりで今は小供が口腔炎とかいふものを煩つて口が腫れてヒー/\泣いて氣毒でたまらない。此泣聲をきくと小説が一枚も書けなくなる。そこへ妻が寐ちまつた。仕方がないから看護婦を二人又雇つた。それでも雇へる丈が幸頑だ
 君のうちの病人は如何御大事になさい 以上
    二十一日                金之助
   虎 雄 樣
 
      八五六
 
 一月二十四日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區高輪南町三〇中牟田方中村蓊へ
 拜啓先日は失敬。三四日前小生方へ別封をよこしたるものあり書中の人は君の近所のもの故入御覽候。尤も新聞の種になるや否やは知らず候 以上
    二十四日                金之助
   中 村 蓊 樣
 
      八五七
 
 一月二十六日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 下谷區西黒門町二丁目二高橋方市川文丸へ
 拜啓先夜は失禮其節は好物御持參御蔭にて諸君子一夕の歡を添へ申候十和田山諸景寫眞數葉是亦御親切に御寄贈難有御禮申上候豐年祭は面白き事と存候出來るなら御供致し度然し種々用事も控居候事故是非の御約束も仕かね候先は右御禮迄 匆々頓首
    一月二十六日              夏目金之助
   市川文丸樣
 
      八五八
 一月二十八日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓別紙の樣なものゝ捌き方をたのまれ候
 もし慈善兼御保養の御覺召もあらば御出被下度候。もし御いやなら其儘御打棄置願上候
 岐阜訓盲院といふ《原》小生友人の父なる人の創立せるもの此男中年明を失ひ此事業に從事。今回の事はおもに其薫陶を受けたる人の發起に候。先は用事迄 匆々
    一月二十八日              金之助
   渡邊和太郎樣
 演藝會は六日八日の兩日のよしこゝろみに兩日の分二葉宛差上候もし御入用ならそれを御取りあとは御都合にて小生方へ御返し被下るか又は賣りつけて被下候へば猶難有候
 
      八五九
 
 二月一日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓本日は久々にて參上致候處御留守にて不本意千萬に存候玉稿《原》薄謝ながら社より封の儘相屆候につき御査収願上候
 夫から例の朝日文學欄につき玄耳氏と篤と相談致たる處此三四月に至り紙面擴張の意見實行出來れば附録ごとに文學もの入要なれどそれまでは閑文字の入れ所なき由に候
 小生も右文學欄の出來るのを待ち居候へども是は單に編輯者の一存故主權者の方ではどうなるやら分らず候
 もし左樣の改革も實行出來候曉には先日御話しの通小生知人に依頼面白きもの書いて頂き度と存じ居候其節は是非御盡力相願度と存候
 先づ夫迄は小生は先日申上候位のナマニエの體で打過ぎる了簡故大兄も御投稿は一先づ御控え被下度候
 先は右用事迄 匆々
    二月一日             金之助
   秋 骨 老 兄
 御令閏より拜聞の上歸途横井氏の門内に這入り申候未だ赴任なき由故遠慮して家のなかは見ずに參り候
 
      八六〇
 
 二月日日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 牛込區大久保余丁町馬場勝彌へ
 拜啓本日趣味を一寸のぞき候處例のリードルの件と思ひの外小生の人格に對し大々的御辯護の勞を辱ふし甚だ嬉しく候實は小生も云へば云ふ事はいくらでも候へども白雲子なるものゝ態度傍若無人故相手になるのを差控へ候始末。然しあれに對しそれ程の御同情を得んとは存じも寄らず。一兩〔度〕御目にかゝり候のみにて小生の心事深く御承知なき昨今別して知己の感に堪へず。茲に謹んで御禮を申述候
 先日御紹介の早稻田學生に面會來意も判然其うち御邪魔にまかり出度と存候先は右迄 匆々
    二月四日                金之助
   孤 蝶 樣
        侍曹
 
      八六一
 
 二月四日 火 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ
 拜複文學評論につき御申譯承知致候徹夜にては恐れ入候適當の所にて御まとめ願上候
 虞美人草は既にとくの昔より一冊も無之先般御申込の節も既に出拂の姿に候へばあしからず
 夏目漱石論が來月の中央公論に出る由聊か恐縮致候。先達中より大分漱石論が出で申候。もう澤山に候。出來得べくんば百年後に第二の漱石が出て第一の漱石を評してくれゝばよいとのみ思ひ居候
 坑夫御氣に召さぬ由已を得ざる次第に候。九十六回にて完結致候尤も東京朝日では祭日休刊を補ふ爲め二回一所に載する事ある故九十三回位にて終る事と存候 先は右迄
    二月四日                 夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 
      八六二
 
 二月五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣大磯角半方渡邊和太郎へ〔はがき〕
 拜啓御病中をも顧みず御無禮の事相願恐縮の至。大磯では例の切符も何の御役にも立つまじく甚だ御氣の毒に存候。昨今の御模樣如何に御座候や。折角御養生專一に候。先は御禮迄 匆々頓首
 
      八六三
 
 二月七日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町四森卷吉へ
 啓上
 御老人御逗留定めて御多忙の事と存候例の切符は先方の人大磯へ病氣療養の轉地中にて賣り損へり。然し御愛嬌に一枚は買つて呉れ候。小生も一枚頂戴致候
 土曜には參る筈なれど小宮が行きたさうだから切符をやり申候あゝ云ふ處は若い人の方が出席する資格多きかと存じ割愛致候
 此次の木曜に寶生氏を頼む積なり。尤も三時頃からみんなが來て遊ぶ由御出待ち候
 切符代は大磯より爲替のまゝ差上度どうか御面倒ながら御受取願度夫から小生の分は現ナマにて封じ入候御落手願候
 御老人へ御挨拶の爲め參上致す筈の處御混雜中と云ひ且つ御迷惑と存じ差控居候あしからず御容赦先は右迄 匆々
    二月七日                  金之助
   森 卷 吉 樣
 右の外に訓盲院の爲めに寄附金など御募りの計畫あらば多少は喜捨仕るべく又發起人として途附を受けたる切符四枚購買の義務有之は無論あと二枚は受持可申御遠慮なく御申聞被下度候
 
      八六四
 
 二月七日 金 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓上謠本五冊わざ/\御持たせ御遣はし御懇切の段感謝致候小生萬事不案内につき御仰の通り寶生先生と相談の上御指定のうちを願ひ可申候今夜班女は少しにて濟む事と存候もし御都合もつき候へば御入來御兩人にて一番御謠あらまほしく候 先は御禮迄 匆々
    二月七日                  金
   高 濱 樣
 
      八六五
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區白金志田町一五野間眞綱へ
 拜啓其後は御無沙汰小生も小説をかいて仕舞ふと其間にたまつた用事を片付けねば〔な〕らず片付けてゐるとあとからすぐ雜誌やら何やら追かけてくる實に身體丈は閑であたまは多忙を極めてゐるのでついどこへも出でず昨日久しぶりで十二社へ行つて夫から銀世界を廻つて歸つて來た。梅は二三本開いてゐた。
 妻君を國へ御歸しの由承知それで地方へ出かせぎの件も承知。小島へ依頼の件も承知萬事承知致候。是から此墨で手紙を十敷通(端がきとも)かく。其内で小島氏へも認める所也
 坑夫は面白い由面白ければ難有い仕合せ。虞美人草はわからぬ由是は少々困つた事也。もう少し賞めてもらひたい。高田が報知でほめてくれた。逢つた時よろしく願ひます。
 今度の木曜に來るなら皆川君と來ぬか。(午後より)晩には寶生新が來て講をうたつてみんなにきかせる筈。君謠がきらひなら仕方がない。
 野村のうちは多勢御客があるさうだ 以上
    二月十日                 夏目金之助
   野間眞綱樣
 
      八六六
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 松山市松山中學校小島武雄へ
 拜啓漸々春暖の候に相成候處愈御清勝奉賀候却説御知り合ひの英文卒業生野間眞綱事事情あつて地方へ出かせぎに參り度由にて大兄の三月限り松山を去らるゝ由を博聞しどうか小生から其後任として推擧ある樣依頼致候につき御手紙を差上る事に相成候
 もし大兄の退松が事實に候はゞどうか野間君を御周旋願度ものに候。同君は御存じの通の好人物學問も小生保證致し候。履歴は陸軍士官學校、明治學院其他の英語教師に候
 先は右御願迄 匆々
    二月十日                 夏目金之助
   小島武雄樣
 
      八六七
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原在早川村消光館林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓過日御出京の砌は御怱々にて失禮其節橋本醫士の診斷にては肺部に異状もなき由何よりの事此上は頭の方を精々御療養御歸京相成度候小生の糖尿もさしたる事も無之比例は〇・二に候へば當分死ぬ恐も無之候。大いなる蒲鉾わざ/\御送難有御禮申上候來る木曜には諸君子弊廬に會する約あり一きれ宛みんなに振舞はんと存候先は右迄 匆々
    二月十日               夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      八六八
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 此次の木曜には諸君子三時頃參りてごた/\に飯をくふ由。晩には寶生氏美聲にて三山實盛を謠はれ候
    二月十日
 
      八六九
 
 二月十六日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓青木健作氏論文拜見致候ホトヽギスへ掲載之儀は如何樣にてもよろしかるべきか是非共のせるべき程の名論文とも存じ不申然し載せてはホトヽギスの資格に害を與ふるとは無論思ひ不申候。昨日青年會舘にて 演舌今日之を通讀問題が大に似たる處有之興味を感じ申候 以上
    二月十|五《原》日            夏目金之助
   高濱老兄
 
      八七〇
 
 二月十七日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 芝區白金志田町一五野間眞綱へ
 拜啓本日小島氏より返事到來一足違にて後任相きまり御氣の毒の由後任は深江種明の由に候。故に君がもし越後高田を望むならば小島よりすぐに掛合ふ故電報(可相成)にて小島氏へ依頼ある樣申來り候。萬〔一〕越後の校長深江を手放さぬか又は松山難治の爲め深江の方で辭退すれば直ちに大兄を推擧可致旨に候。先は右御答迄 匆々頓首
    二月十七日                夏目金之助
   野間眞綱樣
 
      八七一
 
 二月十七日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 大阪市中之島三丁目西照庵野田九浦へ
 拜啓西照庵へ御落付の由奉賀候校正刷毎度難有興味を以て拜見致居候東京の板屋より廻送すべき分まだ到着不仕候に付御序の節どうか御催促願度と存候先は右御禮旁御挨拶迄匆々頓首
    二月十七日夜                夏目金之助
   野田九浦樣
 
      八七二
 
 二月十七日〔四十一年?〕 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔「紹介長谷川萬次郎君」とあり〕
 其後は御無沙汰小生友人長谷川萬次郎氏は大阪朝日の社員で今回同紙上に世界のいろ/\といふカツト其他を毎日出すにつき大兄の許よりも何か材料を給してもらひたい。此手紙を持參長谷川君が出たらどうぞ面會の上委細を同氏から御聞きを願ひたい。實は僕も社員だから自身で參上して御依頼する譯だが長谷川君の方が此方〔の〕專|問《原》だから御紹介をする。右用事迄 草々
    二月十七日                  金之助
   狩 野 樣
 
      八七三
 
 二月十八日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓「御隣り」拜見仕舞の方は頗る面白く候。惜むらくは前が左程にあらず。もつと詰めたらどうだらう。然しあれでもいゝかも知れぬ
 
      八七四
 
 二月二十四日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 朝日の講演速記は未だ參らず如何なり候にやかゝりは中村蓊に候。金曜に鼓を以て御出結構に存候。渇望致候。ホトヽギスヘ出す時には訂正致し度と存候。時間ガアレバアヽ云フ者デマトマツタモノヲ書キ度候
  鼓打ちに參る早稻田や梅の宵
 
      八七五
 
 二月二十六日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 啓新米は仰の方正しからんと存候御注意難有候講演會の筆記は朝日で出さなければホトヽギス四月號に出る筈です夫でなければ講演集を出すさうですが多分今度は講演集は出ますまい
 
      八七六
 
 二月二十九日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜復
 夫から夫へと用事が出てくるので御無沙汰をして居ります。かねて願ひました小説は正月から掲載の筈の處色々な事情が出來上りまして私が大阪の方へかく事になり夫を東京へも載せる事になりました。夫が爲めあなたの方も夫ぎりに放り出して置いた譯で甚だ申譯がありません
 一週間程前社の玄耳といふ男が旅行から戻りまして面會の上あなたの小説の事に就て同人も心配してゐましたんで相談の結果近日社から人を御宅へ出して改めて願ふ事に致して置きました。其時同人の話では書きかけて下さつたのは家庭ものだらうか夫ならば繪入の方へ出しても御承知下さるだらうか、又一ケ月もあれば纒まるだらうか抔と申して居りました。
 右の譯でありますから御葉書を玄耳の方へすぐ廻して社のものを御宅へ伺は〔せ〕る事に致しますから、原稿の方はどうか御已めにならずに御繼續を願つて置く方が結構だらうと思ひます 先は右御返事迄 匆々不一
    二月二十九日               金之助
   大 塚 樣
 
      八七七
 
 三月八日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓甚だ勝手がましくは候へども虞美人草再版印税來る拾壹日までに御屆け被下間敷や御願申上候也。
    三月八日                 夏目金之助
   本多直次郎樣
 
      八七八
 
 三月十二日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 拜啓野間の郷里の郡、村、番地御面倒ながら一寸至急御しらせ願候 以上
    十|三《原》日
 
      八七九
 
 三月十三日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 今日の俳諧師は頗る上出來に候。敢て一葉を呈して敬意を表す 頓首
    三月十|四《原》日
 
      八八〇
 三月十六日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 藪柑子先生「伊太利人」と申す名作を送り候。木曜に御出なければ締切に間に合ふ樣取りに御寄こしか、此方より御送致す事に致候。小生演説は明日位から取りかゝる考に候。今夜御都合にて〔一字不明〕衣御懷中可然候
 
      八八一
 
 三月十六日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘鈴木三重吉、小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓此次の面會日は休日に致候につき御光來被下間敷候。 頓首
    三月十六日
 
      八八二
 
 三月十六日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓此度の木曜は面會日を休日と致し候につき御出被下間敷候 以上
    三月十六日
 
      八八三
 
 三月十七日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓講演をかきかけて見ましたら中々長くなりさうですがよろしう御座いませうか
 
      八八四
 
 三月十八白 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 日曜の音樂會には行きたいと思ふ。フロツクコートを着て新らしい外套を着て行きたい。切符御求願候。待合せる時と場所御報を乞ふ。ホトヽギスヘ掲載の演舌書き直して見ると中々長くなり骨が折れさう也。萬一出られねば前日迄に斷はり状を出し候。但し切符代はどちらにしても小生擔任の事
 
      八八五
 
 三月十八日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 ものうき爲め人間謝絶の處又々金を借せと申すもの出來候甚だ御面倒ながら銀行へ御出被下間敷や。
 勝手のとき丈は御光來を仰ぐ次第に候 以上
 
      八八六
 
 三月十九日 木 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜復ページ數相分り候とよろしく候へども未だ判然不仕定めて御迷惑と存候が、いくら長くてもよしとの御許故安心致、可相成全速力にて取片附一日も早く御手元へ差出し度と存候。
 御風邪未だ御全快無之由存分御大事に願候。本日の面會日は謝絶致候。近來何となく人間がいやになり。此木曜丈は人間に合はずに過ごし度故先達失禮ながら御使のものに其旨申入候。尤も謠の御稽古丈は特別に御座候。呵々
 鏡花露伴兩氏の作只今持ち合せず。草迷宮は先達て森田草平持ち歸り候。玉かづらは最初より無之候。
 近日來の俳諧師大にふるひ居候。敬服の外無之候。益御健筆を御揮ひ可然候。 以上
    三月十九日                 金之助
   虚 子 樣
 
      八八七
 
 三月二十四日 火 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 出來るならば一欄に組んで頂きたいと思ひます
 題は創作家の態度と致して置きませう。
 拜啓多分明日は出來るだらうと思ひます。十九字詰十行の原稿紙で只今二百五十枚許かいて居ります。多分三百枚内外だらうと思ひます。明日書き終つて、一遍讀み直して、差し上げたいと思ひます。何だかごた/\した事が出來て、少々ひまをつぶします。頭がとぎれ/\になるものだから大變な不經濟になります 頓首
    二十四日                  金之助
   虚 子 樣
 御風邪は如何で御座いますか。
 
      八八八
 
 四月四日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 御病氣の由精々御大事に可被成候近頃の風邪はチフスに成る傾あるとか承り候。尤も東洋城の云ふ事故あまりあてにならず候。全快の上可成早く論文御片付可然候 以上
 
      八八九
 
 四月五日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓先日は失禮其節御話しの鹿兒島高等學校教師の件につき小生は文學士野間眞綱を推薦致し候がもし大兄の方へも聞き合せあり居候へば何卒同人御周旋願上度本人は第五出身にて至極の好人物且篤學の人良教師として高等學校の先生として耻かしからぬ事は受合候。目下同人は郷里鹿兒島へ歸省中。小松原氏へも其旨相通じ置候間右御合の上宜敷御取計願度候。一寸參堂の積の處毎日々々何か事が起りつい/\容易に出られぬ事に歸着致候 以上
    四月五日                 金之助
   芥 舟 老 兄
 
      八九〇
 
 四月五日〔四十一年?〕 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓其後御無沙汰無申譯候
 偖小生知人二宮行雄より郷里のものゝ碑文揮毫方を大兄に御依頼致度につき小生より紹介致し呉れ間敷やとの希望につきもし御寸暇も有之ば此手紙持參の人に御面會の上御高教賜はり度候右用事迄餘は拜顔の上萬々可申述候 以上
    四月五日                  夏目金之助
   中村不折樣
       座側
 
      八九一
 
 四月十二日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 尊書拜見ホトヽギスは五部程もらひたれど來る人がみな持ち去りて只今一部餘り居るものを昨日芥舟先生に進呈する約束をしたる故今は小生の分(誤植を正したる)ものゝみ手元に有之。折角故社の方へ申しつかはし可申然し殘部あるや否や分りかね候間其邊は御容赦を願候。夫から毎月送る事については是迄僕が二部宛もらつて居るから其一部を君の方へ廻す事にしたらよからうと思ひ候是も社の方へ依頼致し置候
 森田先生は一昨日小生方を引き拂ひ下宿したり。牛込築土八幡前町二十四植木屋方に候。是は同學の高辻法學士の寓居にて同君が親切に自分の方へ來いといふからにて候。こんな時には趣味嗜好の友達よりも人間としての友達の方が有益なるものと被存候高辻氏は基督教のよし但し文學は一切知らぬ男なるべし
 春雨蕭々日來小閑を得て二三無沙汰見舞をなし居候大阪の素川氏又々來阪を促がす中々上方の花抔を見て居る譯に參らず候
 先達てある書生が書を寄せて漱石の小説はまとめて讀むべきものなり新聞にて日々讀めばつまらぬ故漱石の名を損するのみ早く退社せよとありたり。小生も至極御同感に御座候。然し退社して單行本ばかりでは食へないから矢張り新聞小説をかく積りに候。
 同書生又曰くよろしく悠々自適の生活を送るべしと。是も至極賛成に候。然し金をやるからとも何ともなきのみならず本人自身大の貧乏書生にて文を賣る口を周旋してくれと云はぬ許りの口吻也。小生此人に朝日新聞の小説欄を讓るべきか。呵々
    四月十二日                 夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      八九二
 
 四月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 讀賣新聞社へ〔四月十五日『讀賣新聞』より〕
 好む飲料は別段無之候。只朝毎に鹽水をコツプに一杯飲み候。
 人がやつて見ろと申した故に候。處がやつて見ると申す程の効能も無之樣子故近々やめやうかと考居候。
                          夏目金之助
 
      八九三
 
 四月十七日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ
 尊書拜見致候拙著御愛讀被下候趣難有存候御手紙の次第委細承知致候面白からんと思ふ人に逢へば却つてつまらぬものに候。然し折角の御希望御序の節は御立寄相成度候小生都合は毎木曜日(面會日)よろしけれど遠方よりわざ/\の御出ならばいつにても在宅の節は御目にかゝり可申候此手紙到着の節は既に東京表へ御出立の後と存候へども仰せに任せ折返し御返事如此に候 以上
    四月十七日夜八時半             夏目金之助
 安田秀次郎樣
 
      八九四
 
 四月十九日 日 後8 牛込區早稻田南町七より 本郷區金助町二七清秀館安田秀次郎へ〔はがき〕
 御手紙只今拜見明日御出被下候て差支無之候右御返事迄 草々頓首
    四月十九日八時
 
      八九五
 
 四月二十五日 土 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ
 拜啓此手紙持參の人は大兄第五在職中一年間御世話になりたる小嶋武雄氏とて英文卒業の學士に候卒業後直ちに松山中學に赴任三十四年より今日迄在勤の處少しく思ふ所ありて上京糊口の道を求むる折柄名古屋高等學校新設の機に合ひ出來得るならば同校英語教師の一人として微力を蓋したき希望小生迄打明られ候然るに小生同校校長大嶋義修氏とは殆んど面識なきと同然につき大兄より小嶋氏を澤柳氏に紹介を願ひ、同氏より大嶋氏方の模樣を知るの便宜を得てもし都合もよろしくは同君より周旋の勞を取られん事を希望致し候。小嶋氏は小生在熊中の學生にて人物學力共に第八教授としては申し分なき良師たるは小生の固く信じて疑はざる所に御座候
 先は右乍御面倒御依頼迄 草々不一
    四月二十五日                金之助
   狩 野 樣
 
      八九六
 
 四月二十六日 日 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ〔はがき〕
    春色到吾家
  おくれたる一本櫻憐也
    南風故國情
  逝く春やそゞろに捨てし草の庵
 右御採用にはなりませんか
 
      八九七
 
 五月六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 端午の贈物難有存候。薫風南より來つて日々無腸の鯉をふくらます。天下の新緑又愁人の眼をよろこばしむ。多謝々々
 
      八九八
 
 五月六日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜復
 あの女はほかに行く處がきまつてゐる由御失望御察し申候へども一方にては大いに賀すべき事に候學校を卒業もしないうちからさう萬事が思ひ通りに運んでは勿體な過ぎますさうして人間が一生グウタラになります。勝者は必ず敗者に了るも〔の〕に御座候。ことに金や威力の勝者は必ず心的の敗者に了るが進化の原則と思ひ候。先は右御祝辭迄 草々頓首
    五月六日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      八九九
 
 五月八日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島縣重富村平松野間眞綱へ〔はがき〕
 御令閨御安産のよし奉賀候愈おとつさんの責任を生じ候事大事件に有之候。造士舘の方の成功を祈る
 
      九〇〇
 
 五月十一日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜啓御手紙拜見致候先月中より御病氣の趣始めて承知ことに御輕症にてはなき御容子切に御加養を祈り候。新聞の方御心配に及ばず小生どうせ一兩日中に澁川氏へ參る積につき面會の上萬事同氏へ相談可致置候につき御介意なく御療養可然と存候もし御轉地先にて御徒然の餘り御執筆の運にも至り候へば好都合と存じ夫のみ祈り居候
 そらだきは文章に御苦心の樣に見受申候趣向は此後如何發展致し可申や御完結の上ならではと存じ凡て差控申候
 藤村氏のかき方は丸で文字を苦にせぬ樣な行き方に候あれも面白く候。何となく小説家じみて居らぬ所妙に候然しある人は其代り藤村じみて居ると申候。あれも長きもの故萬事は完結後ならでは兎角申しかね候
 さし繪御氣に入らぬ由殘念に候。然し普通の新聞さし畫はまああんなものぢやありませんか。
 轉地はどこへなさいますか。あんまり小田原近所だと却つて肺病に危險だからよせと醫者から云はれた人があります。あなたのは肺炎だから左程傳染の心配はないでせうがまあ可成安全な所へ入らつしやい。
 此手紙は候文と言文一致の相の子のであります 頓首
    五月十一日                 金之助
   大塚楠緒子樣
 一週間に一返手紙をよこせとか毎日よこせとか云つて無花果を半分づゝ食ふ所がありましたね。あすこが面白い。今迄ノウチデ一番ヨカツタ
 
      九〇一
 
 五月十六日 土 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜啓今夜澁川君から別紙がありましたから御參考の爲めに御目にかけます。もし御都合であとが書く事が出來れば私も結構社の方も大喜に候。只今主筆池邊氏被參無理に御執筆を願出御心の通りのもの出來ねば御氣の毒であり且それが爲め御病氣に障る樣な事があつては濟まぬと申され居り候へば決して御心配には及び不申只私共の希望丈を申上るのみでありますから其積で御讀を願ひます 草々頓首
    五月十五日夜               金之助
   大塚楠緒子樣
 
      九〇二
 
 五月十八日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 啓
 飛んだ夢を御覽になつたものに候。あんな夢はかいてくるに及ばず候。近頃の樣になまけて居ては駄目に候。もう少し勉強をなさい。
 坑夫の校正は大抵にてよろしく候。少し位誤植があつても平氣に候。讀む人は猶平氣に候。
 大塚さんのそらだきが好評嘖々の由社より報知有之先以て安心致候。池邊主筆曰くあれは中々うまいですねと。池邊主筆すらうまいと云ふ。讀者の歡迎するや尤なり。
 追々短篇をちよい/\かく積りに候。
 筆はルイレキの由度々御面倒に御座候。うまいものを食はせて夏は海岸へでもやらうかと存候
 妻君未だ臥床困り入り候。いゝ加減に死んで呉れぬかと相談をかけ候處中々死なない由にて直ちに破談に相成候
 サランボーと云ふものを讀み居候。瑰麗無比のものに候。中々うまいものに候。フローベルは兩刀使に候。エラク候。今夜寐しなに御手紙をかき候是も入らぬ事に候。只筆が持ちたくなつたからに候 草々以上
    五月十七日夜               金之助
   豐 隆 樣
 
      九〇三
 
 五月十九日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原在早川村清光館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 先日は失禮大阪の日曜附録には蕪稿掲載なし多分此つぎ位に廻したるならん。病氣御大事に御療養の事。小生無異
    五月十八日
 
      九〇四
 
 五月二十八日 木 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓
 此手紙持參の人は宮澤※[金+柔]一郎とて俳道執心のものに有之よし今般四年がゝりにて俳諧辭書編輯を了へ大倉書店より出版につき大兄の序文もしくは校閲願度旨にて參上仕候につき御面倒ながら御面會相願度と存候本人は小生未知の人に候へども大倉書店よりの依頼にて一筆申上候たゞし大兄には運座の節一兩度御目にかゝり候由先は右當用のみ 草々不一
    五月二十八日               金之助
   虚 子 先 生
         梧下
 
      九〇五
 
 五月三十日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高殯清へ〔はがき〕
 拜啓木曜には雨天にて御出無之。俳諧師頗る面白く候。十風が北海道へ行つてからが心配に候。あともどうかあの位に御振ひ可被下候。
 
      九〇六
 
 六月三日 水 牛込區早稻田南町七より 松根豐次郎へ
   〔大正六年二月二十日發行『浪柿』より〕
 昨夜御出の時には少々無言の業を修しかけ居候爲め定めて無愛嬌の事と存候。談話は如何なる場合にても埒なきものに候。時々は相對無言の方遙かに面白く候。貴意如何にや。
  短夜を交す言葉もなかりけり
 
      九〇七
 
 六月七日 日 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓今回の演説再應御依頼なれど胸中無一物にて發展致し樣も無之甚だ我儘ながら此次へ御廻し被下度候戸張岩村兩氏へ露伴氏でも加へたらば丁度よき時間と存候大塚氏辭退は如何なる譯にや殘念に候。
 御斡旋の御都合も有之べくと存じ折返し御返事申上置候 以上
    六月七日                  夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      九〇八
 
 六月九日 火 牛込區早稻田南町七より 高須賀淳平へ
   〔六月十一日『國民新聞』より〕
 (前略)俳譜師十風夫婦の段は敢て江湖に推擧致し度候女郎上りの細君の性格をかいて斯樣に活躍せるもの明治にあつて正に空前に候而して其夫の十風なるものも亦非凡の出來に候。世間に振はぬのは情なく候世間が讀まないかと存じ候。俳譜師は筋の纒つた讀物にてはあるまじく三藏一代記の樣なものなるべくと存じ候。小生視る所によれば今日迄の出來榮は二葉亭の平凡以上と存じ候。但し十風夫婦北海道へ參りたる今日小光とか云ふ女義太夫が十風の細君の如くうまく描き出さるゝかゞ問題に候。もし小光が面白く寫し出されたらは又々三藏一代記中の好波瀾と存じ日々樂しみに愛讀致し居り候 以上
    六月九日                  金之助
   淳 平 樣
 
      九〇九
 
 六月十四日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市山下町四四〇上邑清延方野間眞綱へ
 久々にて御手紙拜見鹿兒島の方は其後どうなる事と思つて居つた處漸く落着是で君も當分安心御親父も御都合よく大に結構 小松原氏も居る事だから萬事便宜だらうと思ふどうか強勉して學校並びに自分の爲になる樣に働らかれる事を望む。小兒が大きくなつた由小兒の大きくなるのは實に早いものでおやぢは毎日の樣に驚ろかされるものだ。僕のうちは惣勢五人で今年の未か來年正月頃には又生れるさうだ。かう毎年多事になつてはたまらない。人口を繁殖して御上に御奉公をする割には収入が増さないから、いかに憂國の士でも御奉公は考へものである。皆川には其後二遍逢つた。畔柳は喉頭結核にかゝつた。君も身體を大事にせんといけない。野村は氣樂らしい。あの男はからだ丈は大丈夫らしい。マードツクさんは僕の先生だ。近頃でも運動に薪を割つてるかしらん。英國人もあんな人許だと結構だが、英國紳士抔といふ名前にだまされて飛んだものに引かゝる。櫻島の温泉に這入つて見たい。此間橋口の弟が歸省したが君には逢へなかつたさうだ。人吉迄※[さんずい+氣]車がかゝつたさうだ。玖《原》摩川の沿岸の景色は定めて好いだらう。おとつさんが硯を呉れると云ふなら是非もらひたい。但し急がないから忘れない樣に御父さんに話して置いてくれ給へ年寄は萬事忘れつぽくつて困る。僕は野村に新婚の御祝をやらうと思つていまだに忘れてゐる。又其うち小説をかき出すといそがしくなる。先は右迄 草々頓首
    六月十四日                 金之助
   眞 綱 樣
 
      九一〇
 
 六月十九日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 拜啓御惠投のぜんまい到着難有候あれは水につけてふやかすものかと存候 以上
    十 九 日
 
      九一一
 
 六月二十一日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓陽炎拜見頗る面白く候はやく後篇を御廻附あり度候愚見は御目にかゝりたる時可申上候わる口も申上度候。然しあれは紙上にて大喝采を博す小説に相違無之ひそかに君の成功を祝し申候もう少しハイカラに書くか洗錬して「春」の後を飾り度心地も致し候。委細は御目にかゝりたる時に讓り可申右不取敢申上候 以上
    六月二十一日               夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      九一二
 
 六月二十一日 日 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
 先刻は失禮御依頼の發句二つ程短冊に認め入貴覽候御氣に入らぬ方を御捨て可被下候
 右當用迄 草々頓首
    六月二十一日                夏目金之助
   森   樣
 
      九一三
 
 六月二十二日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學松本文三郎へ
 尊書拜讀舊臘御出京の節御約束申上候隨意講義の件につき改めての御依嘱却つて恐縮致候たとひ短時間の講義にても御希望を滿すを得ば小生の光榮と存居候へども何角多忙にて纏まりたる考も浮ばず從つていつ京都へ參り何の問題にてどの位の時間開講致す樣の確たる御返事も致しがたく甚だ御氣の毒と存候。又社の方は萬一講義調へ了りたる時は其節一應許諾を得る心持につき夫迄は打棄置候考に御座候。隨意臨時の性質なれば強ひて故障を入るゝ必要も無之と存候。否當初御相談に乘り候節は幾分か大阪朝日の便宜にもなり候はんかの愚存も有之候位なれば其點は左したる心配も無之候へども只講義が出來るや否やに就ては頗る背約に終りはせぬかと心配致候。(表立ちたる講師任命抔の事は貴君も小生も新聞社も此際迷惑なるべければ先づ小生の分は臨時飛入位の御含位に留め置かれ公然時間割の發表は無論、名前も其間際迄は御出し被下問敷樣願上候)
 右甚不得要領にて御氣の毒ながら當座の御返事迄申上候曖昧の段は平に御|堪《原》辨にあづかり度候  早々
    六月二十|三《原》日             金之助
   松 本 學 兄
 
      九一四
 
 六月三十日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ〔はがき〕
    悼 亡
  青梅や空しき籠に雨の糸
    六月晦日
 
      九一五
 
 六月三十日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 今日の北湖先生磊々として東西南北を壓倒致し候には驚入候欣羨々々
  五月雨や主と云はれし御月並
    六月三十日
 
      九一六
 
 七月一日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜復小光はもつとさかんに御書きになつて可然候決して御遠慮被成間敷候今消えては大勢上不都合に候。鼠骨でも今日の彌次郎兵衛の處は氣に入る事と存候。「文鳥」十月號に御掲載被下候へば光榮の至と存候十月なれば東朝へ承諾を求むる必要も無之かるべくと存候。文鳥以外に何か出來たら差上べく候へども覺束なく候。ドーデのサツフオーと云ふ奴を一寸御讀みにならん事を希望致候名作に御座候。俳諧師の著者には大いに參考になるだらうと存候
 今日の能樂堂例により不參に候。明日御令兄宅の御催し面白さうに候。ことによれば拜聽に罷り可出候。小生夢十夜と題して夢をいくつもかいて見樣と存候。第一夜は今日大阪へ送り候。短かきものに候。御覽被下度候。盆につき親類より金を借りに參り候。小生から金を借りるものに限り遂に返さぬを法則と致すやに被存甚だ遺憾に候。おれが困ると餓死する許りで人が困るとおれが金を出すばかりかなあと長嘆息を洩らし茲に御返事を認め申候 頓首
    七月一日
  鮟鱇や小光が鍋にちんちろり
   虚 子 先 生
         座右
 
      九一七
 
 七月四日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓又餘計な事を申上て濟みませんが小光入湯の所は少々綿密過ぎてくだ/\敷はありませんか。小光をも描かず小光と三藏との關係も描かず、云はゞ大勢に關係なきものにて只風呂桶に※[行人偏+※[氏/一]]徊してゐるのではありませんか。さうして其※[行人偏+※[氏/一]]徊がそれ自身に於てあまり面白くない。どうか小光と三藏と雙方に關係ある事で段々發展する樣に書いて頂きたい。さうでないと相撲にならない。妄言多罪 頓首
    四 日                   金之助
   虚 子 先 生
 
      九一八
 
 七月五日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 前文御|用《原》捨御尋ねの豐彦は勿論豐國の間違に御座候どうか直して下され
    七月五日夜
 
      九一九
 
 七月十一日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜復
 御ふさ〔さ〕んは異存はなからうと愚妻が申します。然し松根がもらひたひのですかあなたが御周旋になるのですか伺つてくれと申します。
 御ふささんは妻のイトコです貧乏です。支度も何もありません。 以上
    七月十一日                  金
   虚 子 樣
 
      九二〇
 
 七月十二日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 又啓
 あなたが此事件で歩を御進めになれば自然松根に直接意見をきく事になります。さうすると公平を保つ爲めに私の方でも御房さんに其事を話さなければなりません。即ちあなたの思ひつきで松根に向つて御房さんをもらはないかと口をかける由と通知するのであります。それで本人が否だといふたら直ぐ無駄な御骨折を御中止を願ひます。又異存なしと答へたら何分にも御面倒を願ひませう。只今愚妻留守につき歸り次第御房さんの考を〔き〕かせますから左樣御承知を願ひます 頓首
    七月十二日                 金之助
   虚 子 先 生
 
      九二一
 
 七月十三日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 拜啓國元よりの御手紙にて御歸國の處御親父の御逝去に間に合はず御心殘り無此上事と存候諸事御片付方嘸かし御心配と遙察致候御身御大事に暑中御厭ひ萬障を排し御奮戰の義偏へに願候委細は東京にて拜眉の上萬々可申述不取敢御弔詞迄如斯に候 以上
    七月十三日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      九二二
 
 七月十四日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 謹白
 「私は無教育でありまして到底高等の教育を受けた人の奥樣になる資格はありませんが――もう一年も仕事でも勉強して――」
 御房さんがこんな事をもしくは之に類似した事を愚妻迄申し出たさうです。これに由つて之を觀ると謙遜の樣にもあり。いきたい樣にもあり。一寸分りませんな。然し否ではないんでせう。さう手詰に决答を逼る必要もないから愚妻はよく御考へなさいと申したら、御房さんはよく考へて見ますと申したさうであります。
 右は小生の直接研究に無之候へども大體の見當は間違つた愚妻の報知とも思はれません
 右迄 草々
    七月十三日                 金
   虚 子 先 生
 
      九二三
 
 七月十八日 土 前6-7 牛込區早稻田南町七より 京都市室町通今出川下ル高畠方中村蓊へ
 拜啓御令弟突然御死去の爲め御西下の趣拜承嘸かし御愁傷の事と遙察致候乍然例の病氣にて長びきては御本人は無論大兄も隨分御苦痛の事と存候へば天壽にて早世被致候方將來の爲には却つて御都合かとも被存候
 玉稿「春」のあとへ出ず烏の後に相成候趣御經濟の方は夫にてよろしきや。小生は阪朝鳥居君の依頼にて九月初旬より掲載の小説にとりかゝる筈なれども原稿料其他にて大兄の御不都合を招く事あらば「春」のあとへは寧ろ掲載を望まぬ方に候。何れ其うち御歸京とも存じ候へば御面會の上諸事御相談致度と存候
 先は右御弔詞旁當用のみ申述候 頓首
    七月十七日夜                 金之助
   中 村 蓊 樣
 
      九二四
 
 七月二十一日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麻布區山元町三六小島武雄へ
 啓上御尋ねの伊藤政市君につき皆川正※[示+喜]氏より別紙の如き回答有之候故爲御參考入御覽候
 先〔は〕當用迄 艸々以上
    七月二十一日                 夏目金之助
   小島武雄樣
 
      九二五
 
 七月二十一日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 要するにプロフエソーの批評はプロフエソーの人物の如きものである。自分が知らない水練の批評を講堂ですると同じである。彼はかれの力學をすぐ實際に應用出來ると思へり。それすら亂暴也。況んや其力學の頗る覺束なきをや
  只今春陽堂來る。十六頁程多しと云へり
  獨乙のプロフエソーは蒟蒻問答の樣ナ愚論ヲシテ居ルノデハナキカ。
 
      九二六
 
 七月二十三日 木 前8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓別封花物語は寅彦より送り越し候もの中には中々面白きもの有之出來得るならば八月のホトヽギスへ御出し被下度候
 新旅行小石川同心町の住人代稽古に參り候中々上手に御座候何と申す人にや大藏省へ隔日に宿直する人の由
 修善寺は如何に候ひしや 頓首
    七月二十三日                 金
   虚 子 先 生
 
      九二七
 
 七月二十七日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 酷暑の砌愈御清勝奉賀候小弟無異碌々消光御休神可被下候。拙作御所望にあづかり汗顔只今東朝に「春」と申す長編掲載了のあとを引き受ける事に相成九月初より兩新聞に又々顔をさらす始末にて只今腹案を調へ中三四日中に執筆に取りかゝり度と存居候へども何だか漠然として取り留めなく自分ながら恐縮の體に御座候。掲載の上は何か|ど《原》御助力にあづかり度と存候
 近來俳句を作らず作らうとしても出來かね候。道後の温泉へでも浸らねば駄目と存候
  まのあたり精靈來たり筆の先
    七月二十七日                 金
   霽 月 老 臺
         座右
 
      九二八
 
 七月三十日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 佐世保市港町四一石井方鈴木三重吉へ
 御手紙拜見東京の暑は大變なもので此二三日は非常に恐縮して小さくなつてゐる。夫でも堪らないから時々湯殿へ行つて水を浴びて漸く凌いで見たがすぐからだがほてつて氣が遠くなつて仕舞ふ。そこへもつて來てエルドマン氏のカントの哲學を研究したものだから頭が大分變になつた。どうかトランセンデンタル・アイに變化して仕舞たいと思ふ。
 小宮からも手紙が來て君と停車場で落合つたとかいてある。何でも洋服屋の小僧に逆鱗してゐたとかいてあつた。小説をかゝなければならない。八月はうん/\云つて暮す譯になるが、まあ命に別條がなければいゝがと私かに心配して居る。君の手紙や小宮の手紙を小説のうちに使はうかと思ふ。近頃は大分ずるくなつて何ぞといふと手近なものを種にしやうと云ふ癖が出來た。
 小宮ノ婆さんは達者なのださうだ。風邪でも引いて寐てゐて呉れなければ折角歸つた甲斐がないと云つて來た。
 藩主の弟が死んで今日は市ケ谷から染井迄香爐持に雇はれたと東洋城から云つて來た。今日は君大變な暑さだ。東洋城が途中でひつくり返りはしないかと思ふ。大方神主の服装を着て行つたのだらう。神主の服に夏服があるかな。
 あまり暑いから是で御免蒙る。 艸々頓首
    七月三十日                 金
   三 重 吉 樣
 
      九二九
 
 七月三十日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 拜啓 道中の手紙も着の手紙も到着拜見。御婆さん御無事の由結構に存じます。第一銀行の株は其後又下がつた樣だよ。東京は熱い事夥だしい水を二三度浴びてゐる。明後日あたりから小説をかく。君や三重吉の手紙もことによつたら中へ使はうかと思ふ。
 家内無事妻君の御腹は段々擴張。筆はブツ/\が出來て貧民の餓鬼の樣である。猫が無暗に反吐をはいて始末がわるい。森田草平横寺町正何とか院へ轉居。東洋城香爐を捧げて御葬に染井迄行く藩主の弟が死んだのださうだ。
 割合に蚊が少なくて凌ぎいゝ。夜此手紙と三重吉への手紙とそれからもう一本かく。
、珍らしく近所で義太夫を語つてゐる。何だか分らない。負けない氣で謠でもやらうと思ふが一人では心細いから虚子先生を待つてゐる。 艸々
         木曜の晩
    七月三十日                   金之助
   豐 隆 樣
 
      九三〇
 
 八月三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき)
 小説はまだかゝない。いづれ新聞に間に合ふ樣にかく。中々あつい。田舍も東京も同じくわるい人が居るのだらう。此分では極樂でも人殺しが流行るだらう。僕高等出齒龜となつて例の御孃さんのあとをつけた。歸つたら話す。小供が丸裸でゐる。どうも天眞爛※[火+曼]として出來ものだらけだ。驚ろいた。
 
      九三一
 
 八月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔封筒なし〕
題名――「青年」「東西」「三四郎」「平々地」「
 右のうち御擇み被下度候。小生のはじめつけた名は三四郎に候。「三四郎」尤も平凡にてよろしくと存候。たゞあまり讀んで見たい氣は起り申すまじくとも覺候。
 (田舍の高等學校を卒業して東京の大學に這入つた三四郎が新らしい空氣に觸れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接觸して、色々に動いて來る。手間《てま》は此空氣のうちに是等の人間を放《はな》す丈である。あとは人間が勝手に泳いで、自《おのづ》から波瀾が出來るだらうと思ふ。さうかうしてゐるうちに讀者も作者も此空氣にかぶれて是等の人間を知る樣になる事と信ずる。もしかぶれ甲斐のしない空氣で、知り榮《ばえ》のしない人間であつたら御互に不運と諦《あきら》めるより仕方がない。たゞ尋常である。摩※[言+可]不思議はかけない。)以上を豫告に願ひます
                         金
   澁 川 樣
 
      九三二
 
 八月十九日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 御書面拜見朝日への短篇遂に御引受のよし敬承御多忙中嘸かし御迷惑と存候然し是にて澁川君は大なる便宜を得たる事と存候
 今日「三四郎」の豫告出で候を見れば大兄の十二日の玉稿如何にもつなぎの樣にて小生は恐縮致候。全く大阪との約束上より出でたる事と御海恕願候。「春」今日結了最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。序を以て大兄へ御通知に及び候。あの五六行が百三十五回にひろがつたら大したものなるべくと藤村先生の爲めに惜しみ候
 咋紅線來訪久し振に候。絽縮緬の羽織に絽の※[糸+需]《原》絆をつけ候。なか/\座附作者然としたる容子に候ひし大兄を訪ふ由申居候參りしや。暑氣雨後に乘じ捲土重來の模樣小生の小説もいきれ可申か 草々
    八月十九日                 金之助
   虚 子 先 生
 
      九三三
 
 八月二十三日 日 前10-11 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 拜啓御惠投の雅印難有頂戴篆刻は御地有名の鐵筆家の由材は御親父の吉野より御持歸りの櫻の趣いづれも興味深く覺候永く机上にそなへ愛玩可仕、現に今朝も新着の洋書へ藏書印として一顆試み候。字体其他恰も石材の趣に候
 只今三四郎執筆中例により多忙を極め候
 殘暑雨後一段の威を加へ候やに存候御地の炎威如何に候や御療養專一に存候、秋來又御目にかゝるべく萬事は期其節候草々頓首
    八月二十三日                夏目金之助
   田嶋道治樣
 
      九三四
 
 八月二十四日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 麻布區山元町三六小島武雄へ
 拜啓大谷繞石君今般金澤高等學校へ赴任相成候については其あとが明く樣子に候。眞宗大學京北中學東洋大學の三所に候。大谷君は後任周旋の委任を受け居らぬ由にて各自學校にて人撰中との事に候。御運動如何にや。右一寸氣づき候まゝ御通知申上候 以上
    八月二十四日                夏目金之助
   小島武雄樣
 
      九三五
 
 八月二十四日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 此間は御出の處謠の稽古中にて御歸りの趣夢十夜の畫大仕事と存候今日冷氣にて少々意外に候。今年は夏の方がいゝ心地に候。秋がくるのがいやに候。
 社から月給をもらひたいに付ては御ひまな時封入の名刺を以て京橋區瀧山町四の社の會|社《原》へ行つて御受取を願度と存候。二十五日の午後が渡す日なれど今月末迄のうちにていつにてもよろしく候 用のある時丈使つて濟まぬ事と存候。小説如何なり候や。小生も折角苦心中。八重子樣へよろしく 以上
    八月二十四日                 金之助
   豐一郎樣
 
      九三六
 
 八月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓森田友人にて高辻と申す法學士が謠がすきで今度の日曜に僕の宅へ來て謠ひたいと申すよしに候。所が先生非常の熱心家なれど今年の正月からやつたのだから僕と兩人でやつたらどんな事に相成り行くか大分心細く候につき音頭取りとして御出が願はれますまいか。其上高辻氏は何を稽古してゐるか分らず小生の番數は御承知の通り共通のものがなければ駄目故旁御足勞を煩はし度と思ひますがどうでせう。此人は城數馬のおやぢさんに毎晩習ふんださうです。きのふも尾上に習ひました。尾上は中々うまい。
 温泉宿完結奉賀候趣意は一貫致し居候樣に被存候が多少説明して故意に納得させる傾はありますまいか。一篇の空氣は甚だよろしき樣被存候
 三四郎はかどらず昨日の如きはかゝうと思つて机に向ふや否や人が參り候。是天の呪|咀《原》を受けたるものと自覺しとう/\やめちまいました
 右當用に添へ御通知申上候 草々
    二百十日                   金
   虚 子 先 生
 
      九三七
 
 九月五日 土 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 麻布區山元町三六小島武雄へ
 拜啓明治學院講師皆川正※[示+喜]氏今般鹿兒島高等學校へ赴任につき後任として大兄を推擧する樣野間眞綱氏より依頼ありたる旨につきもし御希望も有之候へば芝伊血子三五番地皆川正※[示+喜]宛にて履歴書至急御送り相成〔度〕由に御座候先は右當用迄 草々頓首
    九月四日午後                 夏目金之助
   小島武雄樣
 
      九三八
 
 九月十一日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市下龍尾町一九一野間眞綱へ
 拜啓皆川は立ち申候鹿兒島中學の教師として副島は如何に候や三次には氣候其他の關係にて在任希望せぬことに先頃より持病とかにて郷里に歸省中とか申來候が目下もはや歸任せるや否や存じ不申。同人かねての志願に海岸にて暖かき所と有之便利は大分あしき樣なれど郷里にも近ければ如何ならんかと存候
 右用事迄申入候 以上
    九月十日                  夏目金之助
   野間眞綱樣
 郷里の所は忘れたり
 
      九三九
 
 九月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目二山口方松根豐次郎へ〔はがき〕
 御安着を祝す。繪端書無數頂戴一々所藏まかり居候。小説を書いてゐる爲め返事を出さず候。エイ子百日ゼキ。其他の小動物悉く異状アリ。草合出來一部獻上致度候。小宮歸着。大イニ紳士ヲ氣取リ居候。三重吉未ダ歸ラズ。三四郎マダ書ケズ
 
      九四〇
 
 九月十四日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目二山口方松根豐次郎へ〔はがき〕
  廣島市猿樂町鈴木三重吉へ〔はがき〕
  府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
  本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
〔猫へっついの上で死去車屋に埋葬頼む、主人三四郎執筆中といった文妻の画像あり、省略〕
 〔野上宛の端書には「箱詰にて」が「蜜柑箱へ入れて」とある〕
 
      九四一
 
 九月十六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓草合せ御蔭にて漸く出來御盡力奉謝候
 表紙奇麗に且丈夫さうに見え候。結構に御座候
 扉「坑夫」の方は甚だ面白く拜見致候へど野分の結婚の方は少々不出來と存候大兄御自身の御考は如何に候や。有體を申せばあの方は増版の時に何とか御再考を願はんかと我儘な事を希望致し候がどうでせうか
 小説濟しだい參上御禮可申上候。
 インキ壺の中の銀ツボ義其道のものゝ説を承はり候處矢張腐蝕の憂有之由エナメルでも掛ける譯にはいかぬものにやもし御序も有之候はゞ御相談願上候。貢樣へよろしく 以上
    九月十六日                  金之助
   橋 口 樣
 
      九四二
 
 九月十六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣久良岐郡金澤村萩原爲則へ〔はがき〕
 拜復繪端書難有拜受致候十月にホトヽギスへのせるのは舊稿の短篇にて原稿無之大阪朝日に出たものをもとにして活字に組み直す迄の事に御座候間右一寸御返事迄申し上候 以上
 
      九四三
 
 九月二十一日 月 後1-5 牛込區早稻田南町七より 淺草區代地瓦町小山内薫へ〔はがき〕
 啓先日は御親切に貴著「窓」御寄贈にあづかり難有存候拙作「草合」御禮のしるし迄に一部進呈仕度と存候小包にて差出置候間御落手被下度候 草々頓首
    九月二十一日
 
      九四四
 
 九月二十九日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 水戸市釜神町三菊池謙二郎へ〔はがき〕
 啓上
 佳肴厨に來り青燈室を照す北人南人秋古今なり深謝
 拙著草合春陽堂に托して御屆可申候御落手願上候
    二十九日
 
      九四五
 
 十月四日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 Urban,Die Literatische Gegenwart 3,25 なるもの丸善ニ來レリ。
 買フ氣ハナキカ
 
      九四六
 
 十月六日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學松本文三郎へ
 拜啓先日御上京の節はわざ/\御光來を蒙り候處執筆中にて失禮其後一寸御旅館へ參上の積の處是又多忙に妨げられて果さず萬車御容赦可被下候
 偖講義の件につき御歸洛後御申聞の趣拜承致し可相成は都合相つき御間に合せ申度心得に有之候處段々考へて見ると夫から夫へと追はれる一方にて到底講義をプレペやアする時間抔は到底出來さうに無之たゞぼんやり京都に滯在する餘裕も出て來ない有樣に候。先日の御話では舊い講義でもとの御注意も有之候へども此際古い講義丈はどうあつても御免を蒙り度左ればとて新らしいのは今申したる次第實に汗顔の至に不堪然し不得已事情御憐察の上何時|來《く》る抔といふ事はあてにせずに御出を願度候。あまり御氣の毒故御詫のしるし迄に一書を呈し候 草々不一
    十月六日                  金之助
   松 本 兄
 
      九四七
 
 十月七日 水 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞文學部編輯へ〔十月十日『國民新聞』より〕
 啓、「專門的傾向」漱石氏談といふのを拜見致候處小生の話方惡かりし爲少し徹底せず何だかこんぐらかり候樣に存候が夫は迷惑にも無之候。唯其内に坪内さんは見當違ひの説を吐かれたといふ言語がある樣に候があれは坪内さんに對して失禮故御取消を願ひ度候。私は坪内さんとは少し反對だと申候。坪内さんが見當違だとは甞て申さず候。反對は小生の自由に候。先輩の考を見當違と言び放つは小生の敢てせざる所に候。それから序故もう一つ申候。イーツのものが危險だから出版せぬとあり候。イーツ程無害のものは無之候。出版少なきは賣れぬからに候。十月七日。
 
      九四八
 
 十月十二日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 先日は失敬御病人御變もなき由御大事に可被成候當分自炊の由隨分厄介な事と御察し申候
 入院證御依頼の通捺印御廻送及候御受取可被下候
  朝寒や自ら炊ぐ飯二合
    十月十二日                  金之助
   豐一郎樣
 
      九四九
 
 十月十九日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町田中屋鈴木三重吉へ
 愈御乘込のよし定めて御地は大賑の事と存候東京では成田へ行つたから成田屋あとみんなが申居候然るに住所は當分田中屋のよし。多分宿屋と存候。隨分酒を御飲過にならぬ樣願上候
 小生八王子以來生活機能の降下を示し何にもたべる慾心無之。實は驚居候。然し毎日一食位で事が濟めば結句難有ものに候。四十二の厄から生活組織一轉日々紅茶一椀を口にするのみ。それでも童顔ピン/\して健康少年を凌ぐとか何とか後世の史家に書いて貰はうと思つて居る。ヱイ子熱が出て四十度になる四五日同じ事。何の爲の熱やら分らず。ゆふべは熱の爲の惡|感《原》を痙攣《ケイレン》と間違へて青くなる。昨日は猫の三十五日に當る。細君鮭一切れと鰹節飯一椀を佛前に供す。筆子※[ワに濁點]イオリン入學。虚子近來木曜に來らず。文部省の美術展覽會は愚なり。和田三造の鐵工場見られざる|ぶ《原》るなり。小説の方が畫より數等進歩して居る。目出度/\ 草々
    十月十九日                  金之助
   三 重 吉 樣
 いつか參らんと存候。御|前樣《ゼンサマ》へ宜敷願上候。秋晴に印|幡《原》沼の鰻の居所を見てあるきたく候
 
      九五〇
 
 十月二十日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 廣島縣山縣郡加計町加計正文へ
 其後は僕も大變な御無沙汰をした。仰の如く千駄木から西片町へ移り西片町から此處へ變つて小供はもう五人ある其上此暮か來春早々又一人生れる。鬢の所に白髪が大分生える。顔も頗る年寄になつたらうと思ふ。君も細君を持つて小供が出來る由で御目出度。君の弟が東京で三重吉と一所にゐたさうだがつい一返も逢はずに仕舞つた。昨今は米國艦隊の何とかで市中は大騷ぎ。と云つた所でただ旗を立てゝ幕を張る頗る錢の入らない驩迎である。安ツポクツテ騷々しいのは日本人の特色である。三重吉が教頭になつて昨今威儀を正してゐるさうだが頗る氣の毒の至だと考へられる。威儀三百とか云つて威儀をつくらふのも容易の業ではない。近々成田へ行つて慰問しやうと思つてゐる。君の家ではもう炬燵を用ひるさうだ東京は袷、フラネル、乃至綿入、中にはまだ單衣の絣で間に合せてゐるものもある。大變融通の利く好時節である。先達て家の猫が死んで裏に御墓が出來た。二三日前に三十五日が來て佛前へ鮭一切れ、鰹節飯一椀をそなへた。
 鮎の干したのを頂戴。いくらでも食べるものが澤山居る。あれは水へ漬けて半日許グヅ/\※[者/火]るべきものと思ふ如何
 右不取敢御返事迄草々不一
    十月二十日                夏目金之助
   加計正文樣
 
      九五一
 
 十月二十三日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓寺田に聞いて見ました處小説集に名前を出す事はひらに御免蒙りたいのださうであります。序の事は本人は知らないらしかつた。然し厭でもないのでせう黙つてゐました。一遍集めたものを讀み直した上の事に致したいと存じます 以上
    十月二十三日                金之助
   虚 子 樣
 
      九五二
 
 十月二十七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 廣島縣山縣郡加計村加計正文へ
 啓鮎到着致候難有候柿も其内到着の事と慾張居候三重吉は生徒を引率鎌倉地方へ旅行の由。上野に文部省の展覽會有之大部分はマズサ比の展覽會に候。加計町の景色を見て巨《原》燵にあたつてゐる方が人生の意義にかなひ居候。二三日前箪笥の上にサンマの燒いたのがのつてゐたから何うしたのかと聞いたら猫の供物だと申候。第三女が百日咳から腸チフスになり昨今漸く快方に赴き候。熟の高い時は日に氷五十斤を要すと聞いて大に驚き、一斤いくらかと尋ねたら二錢だと云ふんで漸く安心せり。然し五人の小供がないと今頃は倉の一とまい位持てると思ふ事なきにあらず。「三四郎」出版の節は一本を獻上仕る覺悟に候 右迄草々
    十月二十七日                夏目金之助
   加計正文樣
 
      九五三
 
 十月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 日本橋區本町三丁目博文館『中學世界』へ〔應問 十一月二十日發行『中學世界』より〕
 小生の號は、少時蒙求を讀んだ時に故事を覺えて早速つけたもので、今から考へると、陳腐で、俗氣のあるものです。然し、今更改名するのも臆劫だから、其儘用ひて居ります。慣れて見ると、好も嫌ひもありません。夏目と云ふ苗字と同じ樣に見えます。
 
      九五四
 
 十一月六日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町紅養館林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓先日はわざ/\御來訪の處御遠慮にて玄關より御引取遂に不得御面語甚だ遺憾に存候其節の頂戴物正に拜受難有候御禮を申さうと思つた君の宿所が分らぬ故其儘にして置き申候三女は腸チフスで一時は熱が高く弱つたれど只今は回復期に向ひまず安心に候家族が多いと始終何かある寧日なき有樣夫でも多數の人よりもまだ/\大分幸頑の方ならん君も大分一身上の心配やらごた/\やらある由頭の具合近來は如何にや
 草合せを上げやうと思つて居たが皆なくなつて仕舞つた。三四郎が本になつたら上げやうと思ふ。
 右迄 草々
    十一月六日                  金之助
   岡田耕三樣
 
      九五五
 
 十一月六日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町二丁目内田貢へ〔うつし〕
 御《原》後無沙汰御海恕、只今高著「復活」丸善より寄贈あり函中に御惠書を發見御芳志萬謝致候 訂《原》袋は流石に魯庵君一流の嗜好と感服致候、函の色、形、貼紙、の具合甚だ品ありて落付拂ひ居候。本書表紙も清雅にて頗る得吾意申候但表紙の復活の二大字は不賛成に候。あれは小生なら寧ろ白の儘に致し置可申か。バツクは無異議候 插畫面白く候。何人にや、日本にてあれ程西洋じみたものを書き得る人有之候や。小生實は英譯の「復活」を讀まず或は原書の插畫を其儘御用ひかとも存候。卷頭の肖像も頗る上出來賛成に候。本文を少しも賛めないで表装許り云々致し候甚だ失禮御免被下度候。實は昔し日本新聞で拜見せる儘に候。活字鮮明なれど紙は左程になき樣に存候殘念に候。ゴスの譯したイプセンのものにあの通りの體裁のものを一部所持致し居候三四郎御批評難有候。今が中途に候。そろ/\惡口が始まる時分と覺悟を致し居候。思ひ掛なき援兵にて大いに元氣を得候。先達拙著を御送りしやうと思ひたれど何だか氣に入らざりし故其儘に致したり。いづれ拜眉の節萬々
    十一月六日                  金之助
   魯 庵 先 生
         坐下
 
      九五六
 
 十一月二十日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 牛込區横寺町正定院内森田米松へ〔はがき〕
 今二十日の國民文學抱月君の談話を御覽下さい。君はプロツトを排斥してゐる。さうして「壁」に就ての自説を辯護してゐる。其辯護を煎じつめるとつまりプロツトが好いからと云ふ事に歸着しさうだ。どうぞ御覽下さい。
 ロジカル先生閣下
 
      九五七
 
 十一月二十二日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉那今出町村上半太郎へ
 過日御來京の節はわざ/\御枉駕を辱ふし千萬難有候生憎例の多忙にて何の風情も無之失敬平に御容赦被下たく候御惠送の砥部燒安着厚く御禮申上候。只今東京は日々好天氣にて小春の好時節に候。御地も定めて俳興多き空模樣ならんと遙察致候萬事期再會 以上
    十一月二十一日               夏目金之助
   村上霽月樣
 
      九五八
 
 十一月二十三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町横町黒川方鈴木三重吉へ
 御手紙拜見仰の如く文學評論で大弱りの状態しかもくだらぬ努力故つく/”\いやに成候此分にては當分成田行も駄目に候。
 東京は日々好天氣小春うれしき日向也。新小説は御見合せの由殘念に候。何でも書いたらよからうと思ひ候
 草平氏相變らず煤烟に腐心。文壇の現況に憤慨來年は大いに評壇を賑はすと申居候、如何にや。横丁の先生もちと御奮發ありたく候。先日御能を久し振りにて拜見中々退屈のものにて候。其時秋聲君に紹介され候。子供まだ蓐を離れず。細君の腹愈せり出せり。夫子フラネルの腹卷す。
 右の條々迄
    十一月二十二日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      九五九
 
 十一月二十九日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 今日は難有候ダヌンチオあらば買つていたゞき度候、紅葉狩は郵便で送り候
    十一月二十九日
 
      九六〇
 
 十一月三十日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 昨夜は失禮其節御話し致候森田の煤烟が見本丈あり候間入御覽候見本丈でよく分りかね候。新聞に出す積りで回を切つて書いてない樣に候。興味の具合は如何にや(然し是は小生の申すべき文句に無之)是丈だと事實の樣に思はれ候。今に生田長江だの小生が引つ張り出されて端役を務める事に可相成と存候
 兎に角御覽の上御決定願候。も少し先が御入用ならば取寄てもよろしく候 右迄草々
    十一月三十日                 金之助
   玄 耳 先 生
 
      九六一
 
 十一月三十日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區横寺町正定院内森田米松へ
 只今二度御訪ね申候處御不在不得已引取候。「煤烟」朝日の採用する處と相成明日八千號を期し其豫告をする由にて相談に參候につき坂本(白仁)氏同道にてまかり出たる譯也。御不在小生好加減に取極め文句は坂本氏に依頼致候
 原稿料はあとで小生と相談の事。書き上げた分は社へ渡しそれ丈稿料に代へ年を越せる樣にする事
 今夜電話にて春陽堂へ一寸斷わる事
 右の件依頼致置候。漸く落着一先づ安心に御座候
 書直すひま惜しとて歸りながら二度行つても居らず。何所をあるいて居るにや。あまり呑氣にすると向後も屹度好い事なき事受合に候。先は右迄 早々
    十一月三十日夜               夏目金之助
   森田米松樣
 
      九六二
 
 十二月十九日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町吾妻屋鈴木三重吉へ
 又々御轉宅のよし承知致候學校定めて御多忙の事と存候休みには泊りがけに御出京可然候。先達泥棒這入る。兩三日前赤ん坊生る。是にて今年も無事なるべきか。文壇紛々悉く是空洞の響なり。壇上の人亦遊戯三昧と心得て一生を了し得べし。馬鹿々々しき事を馬鹿々々しく思ひつゝ眞面目に進行さする事遊戯三昧の境に達せざる時は神經衰弱となり喪心失氣となる。天壽可惜。閑日月を抱いて齷齪の計をなす。可ならずとせんや。 草々
    十二月十九日                金
   三 重 吉 樣
 
      九六三
 
 十二月二十日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 先達ての論文を出すなら新聞では到底載せ切れまい。雜誌がよろしからう。新らしく書くなら新聞でも差支あるまじ。
 あんまり僕をたよりにすべからず自分の考を自分で書いて漱石何かあらんと思ふべし。早稻田のあるものゝ書いたものは驚ろくべく愚也。あれは生活難の爲に先輩の指導を受くる餘裕なきによる。あゝならぬ君は幸福なれど餘裕あるが爲に萬事僕に見せてからの何のと思案するは獨立心なき事なり。是でよいと自己で自己を極める分別ありたきものなり。
 
 文壇に出る一歩は實際的ならざるべからず。今の愚なるものに分り易く、讀み易く、柏手になる樣に見えて、侮りがたき思を起さしめざる可らず。從つて論旨は短からざるべからず、興味は時事問題ならざるべからず、其他色々の資格なかるべからず。之を重ねて行くうちに自から大いなる根底ある議論を出しても人が讀む樣にも耳を傾ける樣にも(今の樣に生活難と黨派心が盛では夫でも六づかしい)なる。始めから偉いものを書いたつて人は相手にしない。相手にするものは日本に五六人しか居ない。而して其五六人はみんな黙つて相手にしてゐるのみである。
 
 文壇に立つものはあらゆる競爭排※[手偏+齊]に伴ふ墮落的行動に對して從容事を辨ぜざるべからず。もし清きを以て自ら居り高きを以て自から處せんとせば一日も留まるべからず。
 
 文壇の諸公皆賢なるにあらず。又正なるにあらず。而して賢の如く正の如くに見せる術を日夜に講じつゝあり。憤るべからず。社會が胡魔化される程度にあるが爲なり。傍觀すべからず。社會は進む期なし。
 
 今の文壇に立つものより生活難を引き去れ彼等の十中七八は喜んで文壇を引き上ぐべし。彼等は文壇に立ちながら苦悶しつゝあり。
 
 君もし以上の諸件を承知の上ならば筆を執るも可なり。たゞ一時虚子の依頼にて出來心よりするは人魂のふわつく姿なり。夫にてもよし人魂を以て任ずるがいやならば始めから其覺悟をせざる可らず。
 
 今の自然派とは自然の二字に意味なき團體なり。花袋、藤村、白鳥の作を難有がる團體を云ふに外ならず。而して皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品を云へば大抵君より下等なり、理窟を云へば君よりも分らずや多し。生活を云へば君よりも甚しく困難なり。さるが故に君の敢て爲し能はざる所云ひ能はざる所を爲す。君是等の諸公を相手にして戰ふの勇氣ありや。君を此渦中に引き入るゝに忍びざるが故に此言あり。 以上
    十二月二十|一《原》日            夏日金之助
   小宮豊隆樣
 
      九六四
 
 十二月二十二日 火《〔?〕》 11-12 牛込區早稻田南町七より 宮崎縣宮崎郡宮崎町杉田作郎へ
 拜啓御親父樣御逝去の由遙かに御弔詞申上候。短冊|切《原》角とり紛れ今日迄其儘に致置候甚だ怠慢の至御容赦願上候。同封にて一句入御覽候久敷俳句をやめ居り句らしきものも出來不及候書は例の如くみくるしきものに候 以上
    十二月二十二日                夏目金之助
   杉田作郎樣
 
      九六五
 
 十二月二十六日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓ホトヽギス咋廿五日と今二十六日をつぶし拜見諸君子の作皆面白く候。其中で臼川のが一番劣り候。あれは少々イカサマの分子加はり居候。他は皆眞物に候。
 大兄の作先夜伺つた時は少々失敬致しよく分らず仕舞の處活版になつて拜見の上大いに恐縮あれは大兄の作つたうちにて傑作かと存候
 猶向後もホトヽギス同人の健在と健筆を祈りて聊か茲に敬意を表し候。他の雜誌御覽なりや。どの位の出來か彼等の得意の處を拜見致度候 以上
    十二月二十六日                 金
   虚 子 樣
 子供の名を伸六とつけました。申の年に人間が生れたから伸で六番目だから六に候。此間の旦は取消故併せて御吹聽に及候
 ホトヽギスは廣く同人の小説を掲載すると同時に大いに同人間の論客を御養成如何にや。樂堂の舞踏談抔面白く候
 
      九六六
 
 十二月三十日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 今度御上京以後不得拜眉殘念に候。過日は幸ひ小閑の處門口より御立歸り何とも失敬。其節の御短冊正に落手惡筆にて一枚書き損じ候故今日玉川堂にて似た奴を買つて參り候。發句は近來頓と作らねど何とも分らぬものを御望み通り書き可申候此間御贈印の御禮に草合せを差上度思ひしに御住所小石川と許にて一向分らず遂に其儘と致置候
 目出度年を御取りなされ度候以上
    十二月三十日夜              夏目金之助
   田嶋道治樣
 
 明治四十二年
 
      九六七
 
 一月二日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌へ〔はがき〕
 恭賀新年
 御病氣の由御大事に可被成候小生なまけてどこへも年頭に參らず、賀状も返事を出す丈に留め居候。いづれ永日萬々
   煤烟出來榮ヨキ樣にて重疊に候
 
      九六八
 
 一月三日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 謹賀新年
    明治四十二年一月三日
         牛込早稻田南町
                夏目金之助
 
      九六九
 
 一月三日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
 頂戴の時計を遲いからねぢつて早くしたら時を打たなくなつた。どうした〔ら〕なるだらう。
    一月三日
 
      九七〇
 
 一月五日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
 頂戴の時計今日より又鳴り出し申候御安神可被下候 以上
    一月四日
 
      九七一
 
 一月七日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣三戸郡是川村市川文丸へ
 拜啓御歸省中の由承知仕候定めて雪深き春を迎へられたる事と存候當地別に變りたる松飾もなく無事の正月に候
 御惠送の山鳥一羽安着御芳志難有候先年の一夕を思ひ出し候來る人あらば又一椀の羮をわかたんと存候
 御用立申候金子については御心配御無用に候
 寒氣烈敷砌隨分御自愛可然 草々頓首
    一月七日                  夏目金之助
   市川文丸樣
 
      九七二
 
 一月十日 日 牛込區早稻田南町七より 坂元三郎へ〔うつし〕
 病氣中長い手紙を難有う。長い手紙をかくのは難儀だが貰ふ方は面白いものだ。此間は妙な關係で敦賀に居る若い婦人から君の二三倍ある手紙を受取つた。是も面白かつた。昔し正岡抔と往來する時分には隨分ひまに任せて長い手紙のやりとりをした。今では忙しくてとても出來ない。此間も大阪から「原稿まだ出來ませぬか」といふ電報をかけられて大に狼狽した。新年の原稿さへ書けないのだから長い手紙は書けないのも無理はない。
 高須賀が來たから君も病氣ださうだといふと何金病でせうと答へてゐたが矢張り本當の病氣の樣に見える一體どんな徴候なのかね。謠をうたふ位ならば大した事もないのだらう。がまづ/\用心し玉へ。高須賀が金山の話やら品川埋立事件の話やら何でも大分面白い話をして呉れたので新年に餘程變化のある世界を見た。そのあとへ僕の小學校の友達キーちやんなるものが何十年振かで尋ねて來て、是又鑛山の話をした。會津の奥で千二百萬坪の鑛區をかりて月々税丈納て居る。時機を見て採掘をやるといつてゐた。袂から妙な石を出して是がその蛋白石だと教へてくれた。隨分面白い人がやつて來る。一番陳腐なのは雜誌記者だらうと思ふ。主人公に何等の利益をも與へない。夫でもつて來て雜誌へ人のわる口を書く。會津の奥で蛋白石でも捜してゐる方が餘程氣が利いてゐる。
 君の友達の話は中々面白い少し工夫したらば種になる樣に思ふ。わざ/\の御報知難有い。
 水彩は全く廃止だから上げない。これで實は水彩に愛想をつかして書かないのぢやない。書くひまがないのだ。からだは病人の樣に机にばかりへばりついて、夫で頭丈火の車の樣に働らくべく餘儀なくされてゐる。文學も大きな世間を見渡すと窮屈千萬で人間がシミタレて、顔が蒼くなつて、胃病や脳病が起つてよくない樣だ。
 今年は元日には謠はなかつた其代り大晦日に松根東洋城と二三番謠つた。八日に新が黒紋附を着て來て稽古初めをして呉れた。士車といふのはゆるしものださうだが是を少し教はつた。
 御産はあつた。母子共健全。申の年に生れた人間で六人目だから伸六とつけた。人間も半ダース子供がある樣では頗る時勢後れだ。一人が十分づゝ泣いても丁度一時間かゝる。八釜敷事甚しい。彼等の前途を考へると皺が寄りさうである。
 申の年の子丈あつて頭に毛が眞黒に生えてゐる。四五年前生れた子は頭がはげて居た。姙娠中○○○○○○○○○○ぢやないかと思つて大いに恐れを抱いてゐたら、漸く人間並に毛が生えて來た。妙なものだ。
 雪が降るので火鉢を擁して此手紙をかく。夫から又原稿をかく。何でも夢十夜の樣なものとの註文だから毎日一つ宛かいて大阪へ送る積りである。僕が原稿の催促を受けて書き出すと相撲が始つて記事が不足しない樣になる。社の方では氣が利かないと思つてゐるだらう。 以上
    正月十日                金之助
   坂元三郎樣
 
      九七三
 
 一月十二日 火 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 拜啓昨夜寐る時下女が信書函からあなたの御手紙と雜誌を持つて來ました。手紙はすぐ拜見しました。坪内先生のも拜見しました。色々御事情のある事と御同情申します。私も別に主管してゐる雜誌のある譯でもなし夫から本屋に大勢力のある譯でもないから、こんな場合にはいつでも困つてゐます。然し御作を拜見した上で何とか御相談も致しませう。
 只今は少々取り込んだ用事があつてゆる/\御作をよんでゐられません其上正月から用をしやうと思ふとはからぬ人に襲はれて無暗に時をつぶして仕舞ひます。是非やらなければならない大阪へ日々やる原稿をかくかかゝない位です。夫であなたのものを拜見するのももう少し待つて頂きたいがどうでせう
 尤も木曜は面會日ですから何時でも御目にかゝります人がゐる時がいやなら朝のうちでも入らつしやい。
 今日の午後御出の由だが右の譯だから出來るなら木曜にのばして下さい。木曜に入らしつてもまだあなたの作物は讀んでゐますまいが、兎に角御目にかゝつて御話丈は致します。御互に忙がしい切りつめた世の中に生きてゐるのだから御互に讓り合はなくては不可ない。隨分窮窟の至です。先は御返事迄 草々
    十二日                  夏目金之助
   飯田政良樣
 
      九七四
 
 一月十三日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓御預けの預金帳のうちで金五拾圓を明十四日受取り明後十五日高須賀君に御渡し被下度候
 印形は封入致候
 手紙は淳平氏持參致候
 先は右御願迄度々御面倒相願恐縮致候 草々頓首
    一月十三日                夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      九七五
 
 一月十七日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原小峯梅林大久保神社内林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 暮から病氣がよくない由御大事の事。毎日人が來て時間を奪はれるので仕事をする事が出來ず閉口なり。胃病よろしからず。南方に旅寐して梅花を見たし
 
      九七六
 
 一月二十一日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓石菖屋の婆さん拜見あれは破甕よりは數等上等の作、御進境、嬉敷存候。たゞ時々同材料を引つ張りスギテ、クドイ所あり。今少短カク隙間ナクスル方モ考ヘラルベシ。トニカク大體ニ於テ、此調子ハ本物也
 
      九七七
 
 一月二十四日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町吾妻屋鈴木三重吉へ
 御手紙拜見致候酒を御やめの事當然と存候、酒をのむならいくら飲んで〔も〕平生の心を矢はぬ樣に致したし君の樣に一升にも足らぬ酒で組織が變つては如何にも安つぽくつてへら/\しして不可ない。のみならずはたのものが危險不安の念を起す。
 黒髪は何だか氣乘がしなかつた。君自身あきがきたといふ。夫が正しい所ぢやないかと思ふ。精々勉強して御互に書かなくては不可ない。
 虚子へは序を以て貴意を傳ふべし 以上
    二十四日                  金之助
   三 重 吉 樣
 
      九七八
 
 一月二十四日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓煤煙が二三日出ない樣に候がどんな事情に候や是迄朝日の小説は一回も休載なきを以て特色と致し候に森田草平に至つて此事あるは不審也。本人の不心得の爲とも存じ候へどもわけを一寸御報知願度君が一番森田に就て近い關係があるから御尋する。もし本人の不都合から出たなら僕は責任がある實に困る
                           金之助
   中 村 蓊 樣
 序に露國二葉亭の宿所を知らして呉れ玉へ
 
      九七九
 
 一月二十六日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 草平今日の煤烟の最後の一句にてあたら好小説を打壞し了せりあれは馬鹿なり。何の藝術家かこれあらん
 
      九八〇
 
 二月三日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ〔はがき〕
 拜啓文學評論原稿(活版に廻したるもの)413と414とつけたる中間一枚紛失致し居り。活版屋は夫に御構なく先を組み候。一先づ御とめ下さい。さうして捜して組直しを御命じ下さい。紛失と事が極れば新たに原稿を書いてあげます。(【そこが片づかなければ、さきを直しても駄目だから校正を見合せます】)
 
      九八一
 
 二月七日 日 後4-5 牛込區早稻田南町七より 金澤市櫻畠九番町一九大谷正信へ
 拜啓其後は御無沙汰奉萬謝候當時不相變電車の如き生活毎日頭のみ忙がはしく御座候二三日來氣候も少々ゆるみ少しは春めき候〔へ〕ども氷はまだ張り候。北の方は嘸かしと存候。隨分御大切に御攝生可然と存候カキ〔二字傍点〕わざ〔/\〕御贈御厚意深く奉謝候。あれは先年も誰か《原》ゝら(四方太と氣がつき候。四方太のは鳥取の蟹で大兄のは金澤のかになるが味も鳥取と金澤との相違可有之か。風味の上批判可致候
 御地仕事の模樣拜承外國人への御教授も面白きかと存候先日佐治秀壽の言にも其邊の消息有之。俳句は只今一句も出來ず。大兄は不相變御勉強。永日小品は面白いのと面白くないのと有之よしどうぞ參考の爲め面白いのと面白くないのとを指摘被下度候右不取敢御禮申上候 草々
    二月五日                  金之助
   繞 石 兄
       座右
 
      九八二
 
 二月七日 日 牛込區早稻田南町七より 牛込區横寺町正定院内森田米松へ
 拜啓煤烟世間にて概して評判よき由結構に候。先日四方太は激賞の手紙をよこし候。
 然る所一から六迄はうまい。(其中要吉が寺へ行つて小供に對する所は少し變也)七になつて神部なるものが出て來て會話をする所如何にもハイカラがつて上調子なり。罵倒して云へば齒が浮きさうなり。どうか御氣を御付け下さい。病院の會話も然りあれでは病氣見舞に行つたよりもあゝ云ふ會話をやりに行つたやうなり否あゝいふ會話が出來る事も讀者に示す爲に書いたやうなり。頗るよろしからず。君もし警句を生かさんが爲に小説をかゝば顔の美を保存せんとて手術は御免蒙り夫が爲に命をとられる虚榮心強き婦人と同じ。警句が生きると同時に小説滅びる事あるべし。切に注意ありたし。夫から田舍から東京へ歸りて急に御種の手を握るのは不都合也。あれぢや、あとの明子との關係が引き立つまい。要吉は色魔の樣でいかん。
 要吉は細君に對して冷刻なる觀察其他要吉の名譽にならぬ事をしたり云つたりする。五六行先へ行くと必ずそれを自覺して自己を咎めてゐる。是草平が未だ要吉を客觀し得ざる書き方なり。自己の陋を描きながら自から陋に安んずる能はずして一解ごとに辯解しつゝ進まば厭味にあらずして何ぞや。但し是は書き方にあらず寧ろ書き方の呼吸なるべし。御注意ありたし
 四方太激賞の後二三日前出會す。彼曰く今迄大に擔いだが今更困ると。余曰く忠告すれば元氣阻喪しさうだし。忠告せざれはます/\あんな風に會話をかくだらう困つたと。小宮もあの會話に不賛成なり。
 たゞしあの會話も時と場合にて活きる事あらん。君の用ひたる時と場合にては全くうそ〔二字傍点〕の會話也。
 右の條々御注意迄に申入候猶御努力可然候 草々
    二月七日                  金之助
   草 平 樣
 今日の所持ち直しの氣味なり
 
      九八三
 
 二月八日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 原稿は御希望通只今郵便にて春陽堂へ送り申候先方より其内諾否の返事をくれるやうにたのみ置候故其事がきまらぬうちは「町の湯」を外《ほか》へ出す事は御控被成ぺく候。尤《原》論の事なれど御注意迄に申上候。文章世界差上候
 先は右迄 草々
    二月八日                   夏目金之助
   飯田政良樣
 
      九八四
 
 二月九日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町六丁目一〇六坂元三郎へ
 拜啓御尋ねの書物小生の記憶になしよく調べ又は聞き合せて御返事すべし。多分ないだらうと思ふ
 死際といつても色々比較して何か一定の概括が出る樣なら面白いが到底出來まいそれに天才とはどんなものかきめてかゝらなければならない。それから死ぬ時の有樣の區別
 (一)病氣 キーツ肺病。ニイチエ、モーパサン等氣狂、スヰフ|オ《原》同上輕病等
 是等は何かまとめられる。
 (二)天才使用の社會的結果。ナボレオン。ユーゴの島流し(是は死ニアラズ)。あらゆるマータヤー
 (三)窮*楠獨身 シオペンハワー(是も死際にあらず)
 (四)楠正成、西郷隆盛の類
 (五)窮死チヤタートン
 (六)放狂※[エに濁點]ルレーン等
 其他色々になるぺし。よく御考の上類別可然候。
 楳《原》烟のどこを見てそんな氣を起したものか。天才は塩原抔へは行かない方が多い樣なり。尤も塩原行の天才もあるべしと云へど是は寧ろ例外ならん
 御承知のロンブロゾーの「天才と狂氣」といふ本に特色が澤山かいてある但し死際はさう書いてない 以上
    二月|十《原》日               夏目金之助
   坂 元 樣
 
      九八五
 
 二月十七日 水 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 
 拜啓友人生田長江氏今般ニイチエの代表的作物ザラツストラ全部の翻譯を思ひ立ち候に就ては右出版の件につき貴堂を煩はし度旨依頼有之候につき御紹介申上候。どうぞ御面會の上御相談被下度候。此間の御話では翻譯ものはちと御迷惑の樣なりしもザラツストラは少部分竹風君によつて翻譯せられたるのみにてまだ何人も手を着けて居らぬ樣子故如何かと存じ一寸申上候 以上
    二月十七日                 夏目金之助
   本多直次郎樣
 
      九八六
 
 二月二十二日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區元數寄屋町三太平洋通信サンデー發行所内安成二郎へ
 昨日はサンデーへの談話の件につきわざ/\御來訪の處多忙中不盡其意遺憾に存じ候間あらためて手紙にて小生の考を申上候
 近來雜誌に諸家の談話を掲載する事流行なれどあけて見るとつまらぬもの多く購買者は色々な名が行列して居るのでだまされて買ふと一般に候。甚だよろしからぬ弊風と存候。それからもう一つは青年子弟があんな馬鹿氣た談話を見て所謂文學者の談話意見とはこんなものかと思ひ込みたまはゞ骨の折れた研究に價する論文抔が出ても始めから面倒がつて眼さへ觸れぬ事に候。是は雜誌にも責任あれどはなす方にも責任有之小生は深く此無責任の談話をはづるの結果從來の行掛上不得已特別の關係ある雜誌にあらねばはなしを御免蒙る方針を立て候。それからもう一つは自分がいそがしくて一々雜誌記者に談話をして居る事が出來ぬのも源因の一つに候。時々談話に誤謬があつて人に迷惑を及ぼすのも源因に候。
 右の諸事情からして一應御斷り致候譯なれど木曜に御出を願つて講釋をするがものはなく候故手紙にて右の主意を申上候。あしからず 馬場君へもよろしく 草々
    二十一日                  夏目金之助
   安 成 二 郎 樣
 
      九八七
 
 二月二十三日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區元數寄屋町三太平洋通信サンデー發行所内安成二郎へ
 拜啓再應の御手紙拜見致候小生の特別の縁故ある雜誌と申すはホトヽギス其他二三從來の關係上已を得ざるものを指す意味に候。其他の雜誌はさきに申上たる理由にて今度より段々御斷わりを致さうと決心せる矢先故甚だ御氣の毒なれど談話は掲載の義は御容赦にあつかり度と存候。小生身心閑適にて充分自己の意見をまとめて一々訪問記者の御滿足にある樣出來候へば始めよりかかる氣の毒な事は誰にも口外せずして濟む次第に御座候其邊は御承知被下度候 以上
    二月二十三日                夏目金之助
   安 成 二 郎 樣
 
      九八八
 
 二月二十四日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 俳諧趣味とか俳句に對する君の考とかは黙つてゐた方がいゝ。俳句を研究する人に任せべき事だ。夫より有益な大問題はいくらでもごろ/\してゐる。尤も特別の考あれば無異義。俳人何ぞ君の俳論ヲキクヲ要セン
 
      九八九
 
 三月一日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂へ〔はがき〕
 啓「三四郎」原稿校正は小宮氏に依頼の處都合により牛込區早稻田南町五十一西村誠三郎氏に依頼變へ致し候につき校正は同氏方へ御廻送願上候 以上
    三月一日
 
      九九〇
 
 三月三日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市山下町三六五佐藤平蔵方皆川正※[示+喜]へ
 拝啓御地は暖國だから梅抔もとうから咲いたらう。當地は今が盛なれど町内には一本もない樣也。見に行く所もないうちに散つて仕舞ひさうだ。今日は御節句で長閑で好い心持だ。然し風が強くて不可ん。小松原が今朝立ったので新橋迄送りに行つた。歸りに丸善へ寄つて佛蘭西の小説(英譯)を三四冊買つて歸つた。丸善の通は改正で見違へる様になりつゝある。
 ザボンの鑵詰着難有う。細かに切つて食つてゐる。あれは甘ひものだが澤山食ふと胃の毒だね。近頃葡萄酒を食毎に呑んでゐる
 此一週間程少々心地が閑適で生命が延びつゝある。それに春風が何よりの薬だ。鶯が時々鳴く、あれは好いものだ。西洋人は知らないものだ。文學評論が一週位すると出來る。上げるから學生に紹介して呉れ玉へ。
 野間は不相變丈夫の事だらう。久しく無沙汰をしてゐる。よろしく。此間坂牧善辰が来て教師を探してゐた。今日副島に逢つたら日本の美術を研究する男の顧問になつて鎌倉に居るさうだ。 草々
    三月三日                  金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      九九一
 
 三月七日 日 牛込區早稻田南町七より 相馬由也へ〔三月十三日『讀賣新聞』より〕
 拝啓、讀賣新聞新築落成の紀念を御出しになるさうですが、一つ盛んなやつを出して、みんなを驚ろかしたら好いでせう。私は尾崎紅葉氏が小説を書く時分に讀賣新聞を愛讀したもので、其の時分は私ばかりぢやない、うちのものが、みんな讀賣でなくつちや不可ない樣なことを云つてゐました。夫から全々御無沙汰をしてゐたが、何かの拍子で、三年許前から又拜見する事になつた。すると今度は日曜附録とかいふものに、私の人身攻撃が堂々と出るには少々面喰ひました。それで厭になつて讀賣新聞はもう御免蒙らうと思つたが、今迄の惰性でのんべんだらりんに、つい此間迄取つてゐました所へ、あなたが來て自分が五頁を編輯するからしばらく見ろと云つて、送つて下さるものだから、又當分の間拜見する事になつて、一ケ月許前迄は讀んで居りました。
 それから以後『讀賣』の事は一寸忘れてゐましたが先達て外國へ立つ友達を送つて新橋迄行つた歸りに、丸善へ廻らうと思つて、圖らず御社の前を通つて始めて氣が付いて見ると成程新築の建物が落成しかゝつてゐる。同時に紀念號と、あなたの事が又頭の中に浮んで來た。
 讀賣新聞は古い文學的な歴史を持つた好い新聞であります。新築と共に益々健全な發達を遂げらるゝのは私の切望する所で、あなたの編輯が、此健全な發達を助長せらるゝ事も私の大いに期待する所でありますから、一寸新築紀念號の御祝詞を申上ます。以上
    三月七日                 夏目金之助
 
      九九二
 
 三月十三日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 アンドレーフをならひてより急に獨乙語趣味が出た樣なれば此機に乘じて次の仕事に取りかゝる迄大いに勉強仕度、どうぞ日數を御ふやし下さい。尤も来月のホトヽギスに何か書くなら御掛念に及ばず
 
      九九三
 
 三月二十日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ〔はがき〕
 鳩の話早速拜見。面白く候すぐ虚子の手許へ廻し候來月は附録を出すとか出さぬとか申居候故都合によりては如何と思ひ候へども出來るならば掲載する樣|頼《原》ひ置候
 
      九九四
 
 三月二十四日〔四十二年?〕 牛込區早稻田南町七より 幣原坦へ〔うつし〕
 拜啓其後は御無音奉謝候偖小生の友人森次太郎君朝鮮の事に關して大兄に御尋ね致し度旨にて此手紙持參御伺ひ可申につきもし罷り出候はゞ御都合にて御面會の上御高話願度と存候先は右用事迄 艸々頓首
    三月二十四日                夏目金之助
   幣 原 坦 樣
 
      九九五
 
 三月二十九日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市下龍尾町一九一野間眞綱へ
 其後御無沙汰先達ては御親戚のものより御惠投の香爐御地産錫の盃一個と黒柿の杖正に拜受早速御禮状を出す筈の處當時「文學評論」出版の砌にてそれを一冊添へて手紙を書かうと思ひ居りたるに「文學評論」春陽堂から小生の方へ獻本せざる先に悉皆本屋の方へ廻したる爲め再版來るを待ちとう/\御無沙汰をせりいづれ二三日中には君と皆川君へ宛贈り候間御ひまもあらば御一覽學生へ御紹介を乞ふ。先日寺田寅彦外國へ留學星岡茶寮にて送別會相開き傳四も參り候。過日皆川よりザボンの砂糖漬到來早速禮状を出し候處もとの下宿へあてたる爲め屆かぬと覺え聞合せ參候へども其内宛名の下宿より屆けて呉れる事と存じ打遣り置きたり御面會の節右御傳可被下候。春暖落梅鶯啼の好時節御地は櫻さへ咲たる事と察せらる。一年の佳節すべからく遊樂すべく遙かに御勸め申候 以上
    三月二十九日                金之助
   眞 綱 樣
 
      九九六
 
 四月二日 金 前6-7 牛込區早稻田南町七より 千葉縣千葉町仁山堂病院内鈴木三重吉へ
 昨夜豐隆歸京君が醉拂ひになぐられて眼に創を拵らへたといふ警報に接し大に御氣の毒に思ひ居候。眼球の故障の方は心配なき由につき先々安心なれどわるくすると藪睨みの悲運に廻り合ふやも知れぬ由隨分精出して御療治可然かと存候。好男子惜むらくは遠近を知らず抔とあつては甚だ心細く候。
 豐隆申候には「三重吉が眞面目くさつて、どうも私の不徳の致す所だ……」といつたとて大いに笑ひ候。私の不徳の致す所は近來の大出來と存候。
 此間中より食傷の結果胃痛にて困難罷在候。三四日蟄居の體何か持つて御見舞に上り度れど、どうも其内には退院になりさうであるから一先づ手紙を以て御左右を伺ひ奉る。
 草平大怪?を揚げてやに下り居候。大兄も何か一つ我黨の爲に御書き被成度候。豐隆アンドレーフ論をホトヽギスに送り候。小生は豐隆にアンドレーフを教はり居候 以上
    三月三十一日〔封筒の裏には四月一日とあり〕
                        金之助
   三 重 吉 樣
 
      九九七
 
 四月三日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 金澤市櫻畠九番町一九大谷正信へ
 春暖の候愈御清適奉賀候。其後は存外御無音に打過申譯無之候。過日文學評論出來の節早速一部進呈の積の所初版は賣切とかにて漸く手元へ一部持參致したる迄にて其他は今日に至る迄いまだ納本仕らず從つて諸君へも未だ寄贈の運に至らざりし處御地にて態々御購求御一覽を賜はり候のみならずとくに御推奨の辭を辱ふし加之御叮嚀に誤植の表迄も御示しにあづかり感佩此事に候。萬事行屆かぬ事多く自分にも不滿足の箇所多く有之候へども若し御氣付の所も有之候へば御示教にあづかり度と存候
 永日小品はなぜ東京へ載せなくなり候や小生にも分らず候。四月下旬より又大阪の方へ少し續くものをたのまれ執筆〔の〕都合につき御讀被下候へば幸甚に候。東京の方は煤烟のあとを與謝野鐵幹がかきそのあとを小生がかくべき役割の樣に承はり候右御禮旁御返事迄 草々不一
    四月三日                  金之助
   繞 石 兄
       座下
 折角の御訂正二版には間に合かね候。もし三版も出る好機も有之ば御厚志を利用致し度と存候
 
      九九八
 
 四月三日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 拜啓かねて大學在職中にやつた講義ののこりものを又出版したから御覽に入れる。もう是で大學に縁のあるものはなくなつた。大學は君の周旋で這入つた處だから夫が縁故で出來た著書は皆君が間接に書かした樣なものだから記念の爲め一部机右に御備へ置を願ひたい。中は讀んでも讀まなくてもいゝが可相成は讀んでくれる方がいゝ。さうして批評をしてくれゝば猶結構である 艸々
    四月三日                   金之助
   大 塚 樣
 先達て奥さんが御出の節文學評論が一部欲しいと仰しやつたさうだがもし別に今一部御入用なら、まだ二三部あるから夫を獻上してもいゝ。然し君にあげれば大抵よからうと思つて一部にして置いた。よろしく
 
      九九九
 
 四月三日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町二丁目内田貢へ〔うつし〕
 拜啓御無沙汰恐縮致候 文學評論と申す本を春陽堂より出版致候につき一部御目にかけ度小包にて差出候間御落手被下度候 背の字と石摺樣の文字は濱村藏のかけるもの漱石山房の印は大直大我といふ爺さんの刻せるものに候。何とか趣向も候へども一向妙案もなく通俗なるラシヤ紙とトリノコにて相濟し候何れ拜眉萬縷可申述候 草々頓首
    四月三日                  金之助
   魯 庵 樣
 
      一〇〇〇
 
 四月十二日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 千葉縣千葉町仁山堂病院内鈴木三重吉へ
 拜啓御病氣漸次御回復結構に候入院其他の費用嵩み御困難の由承知御無心の五十圓ちと辟易なれど外の事にも無之兩三日に御迭附可申につき御安心御療養可然候。大阪へ今月末から小説をかく約束あり何にも履行する了見起らず。花が咲く所爲と存候
 小宮の評論中々タチよろしく候當地にても眞面目な人には評判よき方結構に候。森田のも世間では大分もてゝ居る由。
 先は右迄 草々
    十一日                    金之助
   三 重 吉 樣
 咋今風にて上野の花大分散り候よしに承はり候澤山錢をもつて湯治に參り度と存候
 今日散歩の歸りに鰹節屋を見たら亭主と覺しきもの妙な顔をして小生を眺め居候。果して然らば甚だ氣の毒の感を起し候。其顔に何だか憐れ有之候。定めて女房に惚れてゐる事と存じ是からは御神さんを餘り見ぬ事に取極め申候
 右は序迄餘は拜眉に讓る
 
      一〇〇一
 
 四月十九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内坂元三郎へ
 御手紙の趣承知せり六月十日より掲載となつては大分切迫の感あり。出來る丈大塚さんを延ばす御運動を乞ふ
 小生かくものは長短不定なり。(長い方の御注文なれど)短かければ年内に分量的に勘定の立つ樣に何遍もかく積也右迄 草々
    四月十九日                  夏目金之助
   坂元三郎樣
 
      一〇〇二
 
 四月二十二日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内坂元三郎へ
 拜啓森田草平の煤烟は社へ掲載の約束なりたる當時原稿料は大塚氏のそらだき同樣にてよろしきやとの澁川氏の問に對し承知の旨を答へ置候。
 そらだき原稿料は一回四圓五十錢と記憶致し候が間違に御座候や
 本日森田參り社へ稿料をもらひに行つたら煤烟は一回參圓五十錢なる故最早渡すべき金なしと山本君より言はれたる由
 それで小生の考と原稿料の點に於て少々矛盾相生じ候。もしそらだきが一回參圓五十錢ならば小生の覺え違草平に對して小生の責任に候が小生は四圓五十錢と記憶致居候につき念の爲め御問合せ申候。御多忙中恐縮なれど一寸御しらべの上御一報願度候 以上
    四月二十二日                夏目金之助
   坂|本《原》三郎樣
 
      一〇〇三
 
 四月二十四日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町三一雄集館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜復急用なればいつでもよろし急がずば木曜の都合の好い時に御出可被成候文學評論を一部上げでも好いが忙がしくて讀めないだらう
 
      ー〇〇四
 
 四月二十四日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 千葉縣千葉町仁山堂病院内鈴木三重吉へ
 拜啓病氣漸々御快復奉賀候當日麗日好風嚢中無一物にして何となく表をあるきたき心なり
 草平一回分參圓五十錢のを四圓五十餞と間違へ朝日へ原稿料をとりに行つて拒絶を食ひ蒼く成居候是は實は小生の記|臆《原》違より出づ。滑稽よりも氣の毒なり。〆て百圓程の損
 小宮のアンドレーフ論を御褒めのよし是から褒める時は可成公共の機關を利用して天下に廣告ありたし。國文の文學欄抔至極よろしからん。由來吾黨の士は内々で褒めてゐる許だから戰國亂世の今日には丸で無能力と一般に候。彼徒のなす所を見ると敵の機關を借りて迄傍若無人の法螺を叩き居候。あれ程押が強くなければ日糖事件の今日には文士として通用致さぬにて候
 小説は大阪へ出すにて候。まだ一回も書かず候。何だか如是閑と申す男が?といふ標題で今しきりに書いて居り候。其あとへでも載せる氣にや一向催促も參らず候。然し小生ももう書き始める積りに候唯何を書いてよきか分らぬ丈に候
 細君子宮内膜炎、ヱイ子肺炎、アイ子純一風邪、家内不安全 一時は當惑、小生も精神過勞にて陰莖内膜炎にでもなりさうな氣が致したり。現今諸人平癒に向び候。漸く安堵
 遲櫻、山吹 若芽甚だ快適 以上
    四月二十四日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一〇〇五
 
 五月三日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市第七高等學校野間眞綱へ
 追々暖かに成候御機嫌の事と存候先日手紙にて御問合せの件松根東洋城に相談致候處御引受致してもよろしくとの事故玉稿同人方へ御廻付可然候住所は赤坂表町一丁目貳番地山口方に候先は用事迄 草々
    五月|二《原》十五日             金之助
   眞 綱 樣
 
      一〇〇六
 
 五月三日 月 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓先日御話申候文學評論誤植以序差出置候間改版の節何とか御工夫被下度候右用事迄 草々頓首
    五月三日                   夏目金之助
   本多嘯月樣
 
      一〇〇七
 
 五月七日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市長田町城ケ谷一二一林久男へ
 其後達者にて御暮し奉賀候時々は薩摩へ行つて櫻島が見度なり候ものゝ其日々々に追はれると是も夢に候砂糖漬わざ/\御送り被下難有拜受此間皆川からも貰ひ候あのザボンの砂糖漬の偉大なるには驚き候西郷隆盛の砂糖漬の樣なものに候「三四郎」不日出來につき出來たら御返禮に差上度と存候
 右御禮迄 草々
    五月七日                  夏目金之助
   林 久男樣
 小宮は徴兵の件にて郷里へ歸り候御婆さんは食物を食はず腹を下して可成からだを疲らして歸つて來いと云つて來た由さうして其手紙を書留〔二字右○〕にして小宮へ送つた由愛嬌に御座候
 
      一〇〇八
 
 五月九日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ
 拜復安倍能|勢《〔成〕》宇宙の評をかく由結構に候。あれはどこで〔も〕評をせず。不都合に候。帝文に内田夕闇といふ人有之あの人の方が天弦より理窟の云へる樣に御座候。序に御依頼如何に候や。美學に乙骨三郎といふ人有之時々書いてもらつたら面白い事があるかも知れないと存候。其他澤山あるべく候。親類にごた/\ある由御面倒御察し申候。小生愈小説にかゝらねばならぬと存じバザンの小説を二卷よみ候いづれも駄作に候。 右迄 草々
    五月八日夜                   金之助
   豐一郎樣
 
      一〇〇九
 
 五月二十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ〔はがき〕
 拜啓「三四郎」出來につき一部進呈仕候御落掌被下度候 草々
    五月二十三日
 
      一〇一〇
 
 五月二十三日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區彌生町三と九渡邊方栗原元吉へ〔はがき〕
 
 拜啓大兄はわざ/\文學評論を買つて御よみ被下候由感謝致候「三四郎」出來につき一部進呈仕候草々
 
      一〇一一
 
 五月二十四日 月 後6-7 坪内雄藏、内田貢へ〔うつし〕
 拜啓二葉亭氏船中にて逝去の由御同樣痛嘆至に不堪候右につき同氏に對する諸家の感想御取集御刊行の由結構に存候然る處小生は同氏とは同社員の間柄にも不關交際極めて淺く前後僅かに三四回程面談其うち差向にて對座せるは單に一回に候、いたづらに杜撰の文字を弄して故人を傷けもしては自己を語るも何となく不愉快に御座候右の事情につき折角の御計畫なれど小生は故人を語る資格なきものと覺へ候御容赦願候右御返事迄草々
    五月二十四日                夏目金之助
   坪内雄藏樣
 
      一〇一二
 
 五月二十五日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 赤坂區仲町一九橋口清へ
 拜啓先達ては多勢まかり出御邪魔致候三四郎御盡力にて漸く出版難有存候
 表紙の色模樣の色及び兩者の配合の具合よろしく候
 然し文字は背も表紙もともに不出來かと存候
 小生金石文字の嗜好なく全く文盲なれど畫家にはある程度|度《原》此種の研究必要かと存候、尤も大作を以て任ずる大兄に對して插畫家もしくは圖案家に對する注文抔持出しては御叱りあるべけれど、此は研究のみならず娯樂としても充分面白き業かとも存候。
 不取敢御禮旁無遠慮なる惡口申上候失禮御ゆるし可被下候 以上
    五月二十五日                夏目金之助
   橋 口 清 樣
 二伸 御令兄へよろしく御傳聲先達拜見の畫皆々面白く存じ候
 
      一〇一三
 
 五月二十八日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 金澤市櫻畠九番町一九大谷正信へ
 拜啓三四郎の切拔態々御送被下難有御禮申上候あれは進呈本の代りに小生方に記念として所藏可致候又々小説に取りかゝらねばならぬ事と相成候。來月末より東京大阪雙方へ掲載の筈に御座候。先便中の下旬と申候は都合により延期致候ものに有之候
 先不取敢御禮迄 草々頓首
    五月二十八日                 金之助
   繞 石 老 兄
 
      一〇一四
 
 六月二日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ〔はがき〕
 拜啓御惠送のピツクルス二瓶着難有拜受致候右不取敢御禮迄申上候。文學評論御通讀被下拜謝此事に候
 
      一〇一五
 
 六月四日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
    舌  代
 菓子少々御目にかけ候につき御つまみ被下度候 以上
    四日                    夏目金之助
   飯田政良樣
 
      一〇一六
 
 六月十二日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓大塚女子のあとの小説掲載の日どり御報知奉謝候
 小生の小説の名は「それから」と申候今月二十〔日〕前後に二三十回纏めて御送附可致候
 「それから」は大阪と交渉まとまり東朝と同日より向ふにても掲載の筈につき右御含みの上可然御取計願上候
 豫告の文字必用なれば五六行相認め可申候さらずばたゞ「それから」丈を御豫告願候
 右用事迄 草々頓首
    六月十二日                 夏目金之助
   東朝社會部
    山 本 樣
 
      一〇一七
 
 六月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復
 「それから」の豫告別紙認め候、可然御取計願上候。大阪へは小説の名前通知致し置かず候故豫告文とともに御廻し願上候
 原稿は十八九日迄に出來た丈可差出候 草々
    十二日夜                   夏目金之助
   社會部主任
    山 本 樣
 
      一〇一八
 
 六月十二日 土 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓京都大學圖書館長島文次郎氏より別紙の如く申來候については甚だ御面倒ながら文學評論一部御堂より同氏宛にて京都大學へ御寄贈被下度候右用事迄 草々頓首
    六月十二日                  夏目金之助
   本多直次郎樣
 
      一〇一九
 
 六月二十二日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓
 別紙萬朝の召波たまね君より參りました。御一覽の上差支がなければ都合の好い時に御載せ下さい。
 御手數を煩はして濟みません
 此會には私もたのまれて關係があるから頼んで來たのであります 草々
    六月二十二日                 夏目金之助
   山 本 樣
 
      一〇二〇
 
 七月一日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 其後は意外の御無沙汰益御健勝の事と存候横濱は開港五十年祭で大變な賑はひの由大分面白からうと只でさへ出掛て見たき心持に候
 昨日は御招きの御手紙を頂戴御親切の段鳴謝致候
 家のもの《書生》は行つて御覽なさいと勸め候小生も行きたく候然るに例の如く只今小説起草の低氣壓を感じ新聞より肉薄を受け居る最中其上客抔參ると一日つぶされる。昨日抔も音樂の先生が朝から晩迄居つた爲め今日はせめて一回でも埋合せをせねばならぬと氣を焦ち候。
 あなたの招いて下さる時は何か故障があつて何時でも快よく參上した覺がない私も甚だ遺憾に思つてゐます。が今度も右の譯故斷念します、もう一ケ月もすると小説を書き上げてしばらくは樂になります其時もし機會でもあつたら御目にかゝりたいと思つてゐます
 あなたに歌舞伎へさそはれ|と《原》事があるが此間とう/\行つて芝居を見ました。不折も行きました。不折も私も素人だから面白い。ツンボが蓄音機を買ふ樣なものですな。草々
    七月一日                    金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一〇二一
 
 七月五日 月 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ
 拜啓國民文學原稿料拜受
 水上|齋《〔齊〕》の原稿をたのまれて虚子に紹介し置きたる處別紙端書到着につき一寸高濱君に御聞合せ願度候
 あれは多分駄目と思ふ虚子多忙なら一寸見てやつてくれ玉へいけなければ水上へ返してやつて呉れ玉へ 以上
    七月五日                    金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一〇二二
 
 七月六日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜復
 「三四郎」を包んで畔柳都太郎樣といつもの如く書いて置いたら森卷吉が來て奪つて行つた事は慥也本人をつらまへて御糺明被下たし。
 實は拙著をやる所はいつでもやり、やらぬ所はいつでも遣らぬ故今度は少し方針を易へて今迄の人を拔いたる趣也。其故知何となれば。――
 あまり小生の本ばかり貰つても持て餘す連中あるべし。引越の時厄介だ抔といふ人が出來てもつまらないから少々此方で遠慮しやうと云ふデリカシーなり。然るに大兄は御迷惑でなき由そこが明らかなれば是からの著書を必ず一部づゝ進呈仕るべし。其代り御保存の責任は無論有之候。今一ケ所から君同樣の苦情を擔ぎ込まれたり。
 若杉三郎なるものは、あなたの作つたものは屹度一冊宛下さいと約束を逼り候。此方がやる方では先方の意志明瞭にて都合よろしく候。
 本屋に申付御送可取計候。もし又中に何か書く必要あらば序を以て認むべく候 草々以上
    七月六日                   金之助
   芥 舟 先 生
 
      一〇二三
 
 七月六日 火 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓甚だ申かね候へども「三四郎」を赤坂區表町一丁目二番地松根豐次郎方と、夫から本郷西片町十畔柳都太郎方と、二ケ所へ一部づゝ御送り被下度願上候。毎度御手數恐縮致候 以上
    七月六日                   夏目金之助
   本多嘯月樣
 
      一〇二四
 
 七月八日 木 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 美學の會へは僕の方が傍聽に出たいと思つてゐる。御話し抔はとても出來さうもない。
 拜復
 文學評論を通讀して呉れて寔とに難有い。其上わざ/\批評を書いて貰つて濟まない。大變に過重な褒辭を得て少々辟易するが矢張り嬉しい。それから惡い所をもつと色々指摘してもらひたかつた。もつと無遠慮に僕の參考になる樣に云つてくれると猶よかつた。がそれは忙がしい君に望むのは僕の方の無理かも知れない。
 國民の野上が君の所に文學評論の印象を聞きに行つたら君は斷はつた。其手紙を僕に見せた。僕も仕方なしにその儘にして置いた。
 實はあれを國民文學へ出したい。君も別段異存もあるまいと思ふから、失敬だけれど專斷で送る。
 何故送るといふと矢張り自分の書物を廣告したいといふ事に歸着するが、もう一つは君の意見を公衆の參考にしたい。(そこでもつと僕の缺點があげてあれば結構だと云つたのである。)
 君の所に御産があつた樣に聞く。奥さんも赤坊も御壯健ならん事を祈る。菅の細君病氣長びき困却の樣子。僕其後未だ逢はず。
 また小説をかき始めて多忙御目にかゝつたら萬々不取敢御禮旁御願迄 草々
    七月七日                    金之助
   大 塚 樣
 書いて仕舞つて考へると私書を無斷で出すのもわるい樣だ。もし不可なら、端書を一本くれ玉へ。國民の方へ通知ヲ出ス
 
      一〇二五
 
 七月十五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓別封の如きもの小生の手許へ參り候。大兄とは直接關係なけれど一寸面白き故御目にかけ候。封入の爲替は販賣部へ御廻し可然御取計の程本人の爲に願上候 草々頓首
    七月十五日                    金之助
   山 本 樣
 
      一〇二六
 
 七月十五日 木 牛込區早稻田南町七より 岡山市古京町内田榮造へ
 拜啓御手紙と玉稿到着致候直ちに拜見の上何分の御批評可申上筈の處只今拙稿起草中にて多忙故夫が濟む迄しばらく御待被下度候
 尤もホトヽギス掲載方御希望につき原稿は虚子の方へ一應廻付致し可申候虚子が適當と思へば此次位に載せるならんと存候へども其邊は編輯の權なき小生には何とも申しかね候
 右御返事迄 草々
   七月十五日                 夏目金之助
  内田榮造樣
 
      一〇二七
 
 七月十八日 日 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 拜啓
 三島霜川といふ人はいゝ人だけれども金の事は丸で當にならないさうである。此間中村武羅夫に逢つたらあの人に頼んぢや駄目だといつて居た。其時徳田秋聲なら好いと云つた。
 もしつてがあるなら徳田君にでも逢つて見給へ
 ホト、ギスへも出來るなら周旋する事は出來る。が夫は物次第である。
 金を五圓上げるから又湯にでも這入つて氷水でも呑み給へ 草々
    七月十八日                夏目金之助
   飯田青凉樣
 
      一〇二八
 
 七月二十日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ〔はがき〕
 秋骨先生僕の文學評論の評を二六へかいてくれた由二六はとつてゐず。御面倒ながら君の所にあるのを切拔いてくれ玉はぬか 以上。
 今日は稍涼し大慶
 
      一〇二九
 
 七月二十六日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 千葉縣北條字八幡江戸屋畔柳都太郎へ
 御手紙拜見
 避暑結構小生書齋にて執筆中々暑い事に候。昨日齋藤阿具青木昌吉兩氏參り夕刻迄談話二人とも○○○○○○○○○○○○○糞の如く申しゐたり。是はたしか大兄も御嫌の一人故とくに御吹聽に及び候。
 「それから」の主人公は小生だとの御斷定拜承所があの代助なるものが姦通を致しさうにて弱り候。小生にもそんな趣味があれば別段抗議を申入るゝ勇氣も無之候
 大塚の文學評論評は局部々々に小生の妙に思ふ所有之。然し大塚の樣な無精ものが書いてくれた事故大いに感謝の意を表し居候。秋骨は二六に書いてくれ候。
 大塚は重箱の如くキチンとしたる頭の男に候。形式家としては整然たるものに候。面白い説を吐く人としては一寸推服致しがたかるべきか。尤も夫程大塚のものを讀まぬ故何とも申しがたし。一日も早く此説を正誤致し度考に候。
 森卷吉は沼津に參り候。小生小供の爲にピアノを買はせられ候。ピン/\ポン/\中々好音を發し申候
    七月二十六日                  金
   芥 舟 先 生
 大學の英文に井上十吉氏入る由高等學校の方は如何
 
      一〇三〇
 
 八月三日 火 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 御手紙拜見
 折角だけれども今借して上げる金はない。家賃なんか構やしないから放つて置き給へ。僕の親類に不幸があつてそれの葬式其他の費用を少し辨じてやつた。今はうちには何にもない。僕の紙入にあれば上げるが夫もからだ。
 君の原稿を本屋が延ばす如く君も家賃を延ばし玉へ。
 愚圖々々云つたら、取れた時上げるより外に致し方がありませんと取り合はずに置き給へ。
 君が惡いのぢやないから構はんぢやないか 草々
    八月一日                  夏目金之助
   飯田育凉樣
 紙入を見たら一圓あるから是で酒でも呑んで家主を退治玉へ
 
      一〇三一
 
 八月十六日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 千葉縣北條字八幡江戸屋畔柳都太郎へ
 拜啓當地暑氣少々ゆるみ稍凌ぎよく相成候。御地は如何。菅の細君長々病氣の處十五日死去氣の毒に存候。小供澤山にて大弱りの體。小生漸く小説脱稿是から讀書が出來る事と樂み居候雜誌のたまつたものを片付ける丈でも一仕事に候。森は教授になり先々結構。
 此近年避暑といふものをした事なく旅行を思ひ立つても時間の惜いのと金の惜し〔い〕ので成就せず。
 大倉といふ爺さんが朝日新聞記者にめしを食はして常盤津を聞かして是が私の道樂で御座いといふ樣な事を實例で示したのは大倉の口振ぢやないが好うがすな。外の奴より餘程洒落てゐる。朝日の記者は恐らく常盤津も何も分らない奴で辟易したんだらうと思ふ。其分らない所を分つた樣に書いたり振舞つたりしてゐるから、大倉の爺さんに舐められてゐるのみならず、讀者も少々氷魂先生を踏み倒したくなる。私はあの實業家廻りを面白く讀んでゐるあれは下手な小説を讀むより可うがすよ。國民には先達てから文士の遊び振りといふのが出てゐる。笹川臨風、田岡嶺雲、姉崎嘲風、樋口龍峽こと/”\く生捕られ候。御覽にや面白く候。
 エリスのセツクスの心理といふ本を二冊買ひ候。こんな本は讀んでゐるうちは面白くて讀んで仕舞ふと誰かに遣つても惜しくない種類のもの多く候。
 關東に大地震が有之候。寺田が立つ時近いうちに大きな地震があるかも知れませんと云つたが、果して豫言適中なり先づ/\我々は厄逃の氣味に候。
 ゆる/\御養生御歸京の上何れ御目にかゝり可申候 以上
    八月十六日                 金之助
   芥 舟 先 生
 
      一〇三二
 
 八月十九日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣御影町前川清二へ
 御手紙拜見致候御藏書小生の爲に御割愛被下候由難有仕合に存候頂戴可致候頂戴の上は御寄贈の御厚志に對し永く丁重に保存可致候右不取敢御返事迄 草々頓首
    八月十九日                 夏目金之助
   幾《原》川清二樣
 二伸小生不日旅行の積につき留守中に御受取の際は自然御禮状を忘るやも計りがたくにつき其邊は御容赦被下度候
 
      一〇三三
 
 八月二十四日 火 前6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ
 拜復小生病氣につきわざ/\御見舞状を頂き難有存候。小生は御承知の通り年來の胃弱なれど今回の如く急性カタルを起したるは始めてにて一時は嘔吐烈敷自分ながら生きてるのが厭になり候處うまくしたものにて今日位から少々人間の慾望出來此手紙も寐ながら書ける樣に相成候まづ/\御安心被下度候。大兄も少々腸胃の御加減よろしからぬ由隨分御養生專一と存候然し大兄の如く強壯無比のものは少しは腸胃病に冒さるゝ方色氣ありてよろしかるぺくと存候
 偖諸先生御招飲の件最初は「それから」執筆中次には荊妻臥蓐中第三には小生の病氣最後には滿洲旅行にて漸々順繰りに延引甚だ恐縮の至是はとくに此書面にて御詫を申上度と存候
 滿洲旅行は友人の勸めて參る事に相成滯在日子も不定なれど歸京の上は天地神明に誓つて前約履行の覺悟に候へば天高馬肥の時期に乘じ諸君子腹を抱いて御來駕被下候樣あらかじめ願置候
 右御禮旁御詫迄 草々不一
    八月二十三日                金之助
   中 島 樣
 
      一〇三四
 
 八月二十四日 火 牛込區早稻田南町七より 岡山市古京町内田榮造へ
 御手紙拜見老猫批評の件頓と失念致居候甚だ申譯なく存候小説脱稿後種々の用事重なり居候處へ急性胃カタールにりり臥蓐の爲め何やら蚊やら取紛れ申候あしからず御海恕願候
 蓐中早速「老猫」を拜見致候筆ツキ眞面目にて何の衒ふ處なくよろしく候。又自然の風物の敍し方も面白く思はれ候。たゞ一篇として通讀するに左程の興味を促がす事無之は事實に候。今少し御工夫可然か。尤も着筆の態度、觀察其他はあれにて結構に御座候へば其點は御心配御無用に候。虚子の評によれば面白からぬ樣に候へども小生の見る所は虚子よりも重く候。猶御奮励御述作の程希望致候
 花筵一枚御贈被下候由難有候小生病氣全快次第旅行にまかり出候につき留守中到着候節は御返事も怠り可申につき其邊はあしからず
 先は右御返事迄 草々頓首
    八月二十四日               夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一〇三五
 
 九月二日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞文學部編輯へ〔はがき〕
 是より出發す。風聞録に出立とある時は在京、見合せとあるとき時《原》は出京。噂と事實とは大概此位の差違あるべきか。ホトヽギス到着臼川君の鵜飼面白く候
    九月二日午後二時
 
      一〇三六
 
 九月七日 火 前11-後1 鐵嶺丸船中より 赤坂區田町二丁目一松根豐次郎へ〔繪はがき〕
 胃病如何。小生健全。今晩大連着。伊香保より航海の方愉快なるべし。もう山から御歸りの事と存じ候
    六日
 
      一〇三七
 
 九月七日 火 前11-後1 滿洲大連大和ホテルより 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
 只今大連着ヤマトホテルと云ふ旅舘につく。
    六日                  夏目金之助
 
      一〇三八
 
 九月七日 火 前11-後1 滿洲大連大和ホテルより 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔繪はがき〕
 君の風邪如何。小生の胃病大分よし。只今大連のヤマトホテル着。隣の室で西洋人の女がしきりにピヤノを彈じてゐる。
    六日午後七時
 
      一〇三九
 
 九月十三日 月 後11-12 滿洲大連大和ホテルより 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき 滿鐵總裁官舍〕
    九月十|四《原》日
 御前も無事。小供も丈夫の事と思ふ。此方にも別状なし。毎日見物やら、人が來るのでほとんど落付いてゐられず。昨夕は講演をたのまれ今夜も演説をしなければならない。中村の御蔭で色々な便宜を得た。西村へよろしく。其他の人にも宜敷
 〔裏に〕
 是は總裁中村是公の家。旅順の戰場を見て二泊昨日歸り。明十四日北の方へ向け出發の豫定。其後胃が時々いたい。此地は非常に晴れ具合の奇麗な處。
 
      一〇四〇
 
 九月十九日 日 大連長春線車中より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
 今十九日湯崗子と云ふ温泉發奉天に向ふ。同行舊友札幌農學校教授橋本左五郎氏
 久々にて御面會致し毎日愉快に同行致居候 橋本左五郎
 
      一〇四一
 
 九月二十一日 火 前11-後2 滿洲奉天※[さんずい+審]陽館より 千葉縣成田中學校鈴木三重吉へ〔繪はがき〕
 是からハルビンに行く積り歸りには朝鮮へ出る。歸る頃に遊びに出て來給へ。かうしてゐると文學だの小説だのといふ事は丸で頭の中から消えて仕舞ふ。
 〔裏に清國女優二名の寫眞あり〕
 こんなのは如何です
 
      一〇四二
 
 十月九日 土 前9-11 朝鮮京城旭町總督府官舍鈴木穆方より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
 三十日に京城に來て三四日で立たうと思つた所とう/\一週間程宿屋にゐた。七日の晩に穆さんの新官舍に移つてしばらく厄介になる。穆さんが切角親切に來い/\と云つてくれるからである。立派な清潔な家だ。穆さんは馬を二頭持つてゐる。日本なら男爵以上の生活だ。其うち歸る。
    十月九日                   金之助
 
      一〇四三
 
 十月九日 土 前9-11 朝鮮京城旭町總督府官舍鈴木穆方より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ〔繪はがき〕
    十月九日               京城 夏目金之助
 其後は御無沙汰去月三十日に來り未だ逗留二三日うちに立つ積り。雜誌屋に雜誌新着といふ赤いのぼりがあつたから這入つて見たら十月のホトヽギスと中央公論抔があつた。君の小説も小宮安倍抔の論文がある。讀まうと思つてまだ讀まない。朝鮮は好い天氣の國だ。
  秋晴や山の上なる一つ松
  諸君へよろしく
 
      一〇四四
 
 十月九日 土 前9-11 朝鮮京城旭町總督府官舍鈴木穆方より 神田區錦町三丁目錦城中學校野村傳四へ〔繪はがき〕
 君が鹿兒島から歸る前に僕は滿洲に旅行した。今京城に來て朝鮮人を毎日見てゐる。京城は山があつて松があつて好い處だ。日本人が多いので内地にゐると同樣である。
    十月九日                 夏目金之助
 
      一〇四五
 
 十月十九日 火 前6-17 牛込區早稻田南町七より 麹町區下二番町三〇野村傳四へ〔はがき〕
 僕は昨朝歸つた君は病氣の由大切に御養生をなさい。御見やげは何にもない。癒つたら來給へ。方々へ禮状を出すので忙がしくて困る
 
      一〇四六
 
 十月十九日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 滿洲旅順警視總長佐藤友熊へ
 拜啓東京へ歸つて見たら急に雨が降り出した忽ち寒くなつて困る。旅順の天氣はまだ朗だらうと思ふ。昨日君の所へ端書をかいてあとはゆつくり長い手紙を書かうと思ふ所へ今日例の君に依頼して通譯にでもと思つた男が來た。其人は別紙の如き履歴の人だが實は今度旅順の三澗堡といふ所の公學堂が明いたので大久保とかいふ人の周旋で其方へ出る運動をしてゐるがどうか白仁さんに頼んでくれといふ。僕いふ白仁君より先達て君の話をして置いた佐藤君に頼んでやらう。
 そこで君は教育掛の男ではあるまいがもし序もあらばよろしく口添を願ひたい。
 夫から當人に通譯志望の意志あるや否やを聞いた處、通譯でも公學堂でもどつちでも早く出來る方がいゝとしきりに依頼した。さう云ふ譯だからどうぞよろしく願ひたい。通譯なら可成出來る樣に云つてゐた。ことに監獄上の言語は悉く調べたさうだ。
 君の子供は丈夫かよろしく云つてくれ。鶉は結構だつた。朝餐の御馳走に呼ばれたのは生れてあれが二度目だつた。
 僕は旅行中胃カタールで非常に難義をした。是から少々靜養だ 先は以上
    十月十九日                金之助
   友 熊 樣
 
      一〇四七
 
 十月十九日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 韓國釜山南濱井本靖憲へ
 拜啓釜山にて御所望の短冊寸閑をぬすみ別葉に認め差出候御落掌願上候天長節の句は今出來ぬ故差上げず候 あしからず 草々頓首
    十月十九日                夏目金之助
   井本靖憲樣
 
      一〇四八
 
 十月二十二日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 朝鮮京城通信管理局官舍矢野義二郎へ
 矢野君京城では色々御世話になつて難有かつた御蔭で方々見物が出來て萬事好都合であつた。釜山では草梁から矢野君が※[さんずい+氣]車へ乘つて船迄案内して呉れた。僕は此間一寸電報をかけた通り去る十七日歸つた。胃はまだ惡いことによれば一つ洗滌して見樣かと思ふ。
 御禮といふ程のものでもないが今日小包を一つ出したから受取つて呉れ玉へ
 奥さんによろしく
 右口上迄 草々
    十月二十二日                夏目金之助
   矢野義二郎樣
 
      一〇四九
 
 十月三十日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪市天下茶屋遊園地遠藤方長谷川萬次郎へ
 拜啓
 濱寺では御馳走になりました。あの時向坐敷の小僧が欄に倚つて反吐をはく處は實に面白かつた。こゝに御禮として淺草海苔二鑵を小包にて呈上すどうぞ御受取被下。小供がいたづらをして一つの箱の賠紙を剥がして仕舞ひました 以上
    十月三十日                  金之助
   如是閑樣
 
      一〇五〇
 
 十月末〔?〕 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
  〔初めの部分切れてなし、漱石山房原稿用紙第七頁より始まる〕
 區劃をなして居る自治團の樣なものであります。夫から營口へ行つた時も捕まつて同所の倶樂部で講演をする事になりました何れも一時間位の長さのものです。奉天でも相談を受けましたが日取が一日狂つた爲めとう/\逃れました。京城でも切に望まれましたが、何しろプログラムが切り詰めてあるのと、少時でも宅にゐると人が來たり電話が掛つたり碌々飯も落ち付いて食はれない有樣だつたので、依頼者も斷念して歸りました。
 講演以外に苦しんだのは字を書く事です。字は下手だと云つても承知せず句は作らないと斷つても容して呉れず。甚だ辟易しました。ある所では宿屋の御神さんに是非書いて行けと責められて已を得ず宿帳の樣なものに分らな〔い〕事を書いて置いて來ました。京城にそれから會と云ふのがあつて、其會員は娯樂の一法として歌留多をやるさうですが、百人一首を讀む前に何でも一首別の歌を朗讀して音聲を調へるんださうです。所が會の名がそれから會丈あつて、此會員は是非私に其|空《から》歌と云ふのを作つて呉れと云ふんです。私は生れて歌なんかよんだ覺はないが、何しろそれから會の名に對しても濟まぬ事と思つて、とう/\三首程短冊に書いて置いて來ました。其歌ですか歌は斯う云ふんです。名歌だから御聞きなさい。
  高麗百濟新羅の國を我行けば
       我行く方に秋の白雲
  草茂る宮居の迹を一人行けば
       礎を吹く高麗の秋風
  肌寒くなりまさる夜の窓の外に
       雨を欺くボプラアの音
 ボプラアですか。えゝ彼地《あつち》には澤山あります。
 此度旅行して感心したのは日本人は進取の氣象に富んでゐて貧乏世帶ながら分相應に何處迄も發展して行くと云ふ事實と之に伴ふ經營者の氣概であります。滿韓を遊歴して見ると成程日本人は頼母しい國民だと云ふ氣が起〔以下缺〕
 
      一〇五一
 
 十一月六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内池邊吉太郎へ
 拜啓先夜は長座失禮致候
 鏡花子のあとの小説はまづ森鴎外氏を煩はしてみる積に候或は出來ぬかも知れず候へども其節は又何とか致す了見に候
 滿韓ところ/”\此間の御相談にてあとをかくべく御約束致候處伊藤公が死ぬ、キチナーが來る、國葬がある、大演習がある。――三頁はいつあくか分らず。讀者も滿韓ところ/”\を忘れ小生も氣が拔ける次第故只今澁川君の手許にてたまりゐる二三回分にてまづ御免を蒙る事に致し度候
 右用事迄 草々
    十一月六日                 金之助
   池 邊 樣
 
      一〇五二
 
 十一月七日 日 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ〔はがき〕
 虚子から催促された夢の如しの評入御覽候。願くは一日に御掲載願候先達停車場|へ《原》四方太に逢つたら同人よりも何か書けと云はれ候 以上
    十《原》月七日
 
      一〇五三
 
 十一月九日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ
 拜啓御手紙わざ/\病中に御認め御厚意難有候露語通譯の件は只今手紙にて中村へ申つかはし候處御推擧の人物はもし先方より何とか申來候節は慥かに申開べく候
 普樂會へは娘をつれてフロツクで出掛ました。ソソツカシイので本郷の中央會堂へ行つて仕舞ました。夫から又三崎町へ取つて返した處幸まだ開會に至らず。こと/”\く拜聽の榮を得候。小生音樂の耳なく甚だ遺憾たゞ面白く聞いたには相違なけれど恐らく何を聞いても同程度に面白い位の耳なるべく寺田を連れて行かなかつたのを殘念に思ひ居候。いくら文學者でも此位の耳では音樂會を天下に吹聽するの勇氣乏しく候
 西村はとう/\大連へ參り候在京中は色々御世話になりました。
 音樂會の切符を三枚買つた處第三女が連れて行つて呉れといふので連れて行きました。切符が一枚足りないから斷つてゐるとそこへもと英文科で教へた人が出て來てなによろしう御座いますといつて入れてくれました。幸田、楠、頼母木等の諸先生が見えました。シーモアと云ふ異人もゐました。然しもう少し人を呼びたかつた樣です。然らずんばみんなよりぬきの鑑賞家丈をあつめたかつた。私の樣なものがあの中に交るのは何だか氣の毒ですが或は私同樣の彌次馬が這入つてゐるかも知れません。其彌次馬を勘定に入れてあの位の入りなんだから氣の毒です
 粟餅で發熟したのは珍らしくて愛嬌があります。私はいそがしいから是でやめますあなたの病氣見舞の代りに此手紙を書きます 頓首
    十一月九日               夏目金之助
   中島六郎樣
 
      一〇五四
 
 十一月二十日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 拜啓其後は御無沙汰滿韓より歸りて一寸伺ふ筈の處不相變多忙にて失禮致居候
 さて思ひも寄らぬ事と御驚きならんが實は今度朝日新聞に文藝欄といふを開店し二十五日頃より始めるに就ては僕の友人などより話をきゝ又は原稿をもらつて文藝の時事に關する事を記載しなければ立ち行かぬ事と相成たるにより、どうぞ御迷惑でも此男に逢つてやつてくれ玉へ是は森田草平といつて、僕自身拜趨萬事願ふ所を多忙だから代理に頼むのである。
 委細は森田より御聞取、朝日文藝欄のスベシアル・コントリビユーターとなる事を兎に角御承認を願ふ
 いづれ拜眉萬々 艸々頓首
    十一月二十日               夏目金之助
   大 塚 樣
 
      一〇五五
 
 十一月二十日 土 永井壯吉へ
 拜啓御名前は度々御著作及西村などより承はり居り候處未だ拜顔の機を得ず遺憾の至に御座候
 次今回は森田草平を通じて御無理御願申上候處早速御引受被下深謝の至に不堪候只今逗子地方にて御執筆のよし承知致候御完成の日を待ち拜顔の榮を樂み居候右不取敢御挨拶迄草々斯如御座候 以上
    十一月二十日               金之助
   永井荷風樣
 
      一〇五六
 
 十一月二十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ
 拜啓左の如き端書が來たから面倒でも一寸行つて呉れ玉へ。二三日前同じく端書で月謝を納めろと云つて來たが、本人に一先づ聞き合せ樣と思つて問合せの手紙を出した。當人は唐津炭坑にゐるさうであるから少々ひまがかゝる夫迄埒を明けるのを待つてもらつて呉れ玉へ
 第一、一學期の月謝未納とは何の事だか分らない。一學期が未納で卒業が出來るのかな 以上
    十一月二十一日               金之助
   豐 隆 樣
 
      一〇五七
 
 十一月二十五日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ〔はがき〕
 拜啓文藝欄を設けるため度々森田を以て御邪魔を致し不相濟候咋二十四日の音樂會の評難有存候淨書の上二三日中に掲載可致候右御禮迄 草々頓首
 
      一〇五八
 
 十一月二十八日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Schmeltzer,Geisbergstrasse 39,Berin W. 寺田寅彦へ
 君が度々手紙を寄こして呉れるのにたゞの一度も返事を出した事がない。正直をいふともらふ度に今度は出さう/\と思ふが、あまり溜つてゐるから、書くなら長いものを書かう抔と贅沢を極めてゐるうちに、まあ手近な用を片付けなければならなくなる。實は御存じの通り坐つてする仕事がいくらやつても遣り切れない位積つてゐる。夫で失敬ばかりする。僕は九月|一《原》日から十月半過迄滿洲と朝鮮を巡遊して十月十七日に漸く歸つて來た。急性の冒カタールでね。立つ間際にひどく參つたのを我慢して立つたものだから道中非常に難義をした。其代り至る所に知人があつたので道中は甚だ好都合にアリストクラチツクに威張つて通つて來た。歸るとすぐに伊藤が死ぬ。伊藤は僕と同じ船で大連へ行つて、僕と同じ所をあるいて哈爾賓で殺された。僕が降りて踏んだプラトホームだから意外の偶然である。僕も狙撃でもせ〔ら〕れゝば胃病でうん/\いふよりも花が咲いたかも知れない。
 夫からキチナーといふ男がくる。宇都宮で大演習をや〔る〕。中々賑やかな東京になつた。僕は新聞でたのまれて滿韓ところ/”\といふものを書いてゐるが、どうも其日の記事が輻輳するとあと廻し〔に〕される。癪に障るからよさうと思ふと、どうぞ書いてくれといふ。だから未だにだら/\出してゐる。其所へもつて來て此二十五日から文藝欄といふものを設けて小説以外に一欄か一欄半づゝ文藝上の批評やら六號活字で埋めてゐる。君なぞが海外から何か書いてくれゝば甚だ光彩を添へる譯だが、僕は手紙を出さない不義理があるからヅウ/\しい御頼みも出來かねる。尤も文藝欄の性質は文學、美術、音樂、なんでもよし。ハイカラな雜報風なものでも、純正な批評でもいゝとして可成多方面にわたつて、變化を求めてゐる。あとで六號活字を愛嬌につける。今はハウプトマンだの※[エに濁點]デキンドだのゝ逸話見た樣なものを載せてゐる。是は小宮が書いてくれるのだが、ぢきに種が盡きさうで困る。まあ食後に無駄な時間でもあつたら繪端書へでもいいから何か書いて呉れ玉へ。評論にしても一回讀切りを主としてやる、どうも長くなると弱るからね。
 近頃はモミアゲの處に白髪が大分生えて御爺さんになつた。昔し教へた御弟子が立派になるから恐縮だ。松根は式部官になつた。森田は文藝欄の下働きをしてゐる。社員にしやうと思つたら社長があゝ云ふ人は不可ないといふんだから弱つた。
 今日は上野に音樂會がある。いゝ天氣だ。行つて見やうかとも思つてゐる。四五日前は有樂座でロイテル氏の御披露演奏會があつた。ピやノが旨いさうだ。※[エに濁點]ルグマイステルは君知つてゐ〔る〕ね。幸田の姉さんが僕の旅行中に休職になつて、すぐ外國へ行つて仕舞つたさうだ。神戸さんが歸つて來た。昨夜は同じく有樂座で森鴎外譯のイブセンのボルクマンを左團次や何かゞやつたさうだ。是は小山内薫が主宰してゐる自由劇場の興行である。
 文部省の展覽會もある。此間見に行つたが、日本人も段々旨くなるね。前途有望だ。不折は不相變ヂヾイの裸をかいた。虎の皮の犢鼻褌をしてゐるからえらい。然し肉の色は甚だ可かつた。背景は拙惡極まるものだ。
 僕の家は輕濟が膨脹して金が入つて困る。然しまだ借金は出來ない。君の留守にとう/\ピやノを買はせられた。歸つたら演奏會をやりにき給へ。君が買へ/\と云つてゐたから、ピやノが到着した時は第一に君の事を想ひ出した。君がゐたら嘸喜ぶだらうと思つた。筆が稽古をしてゐる。それで來年の春は同じ位の年の人と一所に演奏會へ出て並んで何かやるんださうだからえらいね。さうして中島さん(筆の先生)が十|時《原》の休息時間に僕に何か挨拶をしろといふんだから猶々驚ろく。
 僕は此度「それから」といふ小説を書いた。來年の正月春陽堂かち出るから送つて上げる。獨乙でハイカラな寫眞を撮つたら寄こし玉へ。今日は好い天氣だ。縁側でこれを書いてゐる。山茶花が咲いてゐる。もう何も書く事がなくなつたやうだからやめる 以上
    十一月二十八日               金之助
   寅 彦 樣
 
      一〇五九
 
 十一月二十九日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ
 拜啓文藝欄設立につき御援助を願ひ候處早速樂界の爲に御奮ひ被下難有既にロイテル氏披露會の御評を賜はり又秋季演奏會の御評も頂戴深謝の至に不堪候
 然る處先日のロイテル氏の分はあれでは文藝欄の五號批評としては一般の讀者に通じがたきにつき森田に命じてあれをまとめて一篇の概括的批評文を作らしめ候、處が森田は音樂に對して零の智識を有し候事小生と同一につき遂に尊意を誤まり候箇所など相生じ候由實以て申譯なく恐縮致候。時間さへあれば一應御檢閲を仰ぐ處なれど取いそぎ候爲め事實大兄に對し失禮を敢てしたると同一の結果に陷り甚だ濟まぬ事に相成候わるい氣ではないのですからどうぞ御ゆるしありて、勇氣阻喪を御禁じ下さつて何卒御盡力を願上候
 西村君の評は自分の義務と思つて書いた事と存候。元來編輯會議では文藝欄を設けないでも藝術文學の批評はやるのだからさう云ふ種類のものをまとめて小生の管理の下に該|覽《原》中に收めたらよからうと云ふ相談故、強く抗議を申込めばやめさせる事も出來候へどもあれはたゞ雜報の筆がすべつたもの位に見逃しても差支ないと存候是亦漸次改良の積故さう一時に御立腹なく完成の機迄御見屆願上候
 秋季演奏會の御批評は都合上或は六號にて全部掲載するやも計りがたく候につきあらかじめ御含み願上候猶訂正の箇所(もしあれば)時間の都合にて一應入貴覽る積なれど萬一間に合はぬ時はすぐに出し可申間どうぞ御勘辨を願候其代り充分注意可致候
 右御返事迄 艸々頓首
    十一月二十九日                金之助
   中 島 樣
 
      一〇六〇
 
 十一月三十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 玉稿たしかに落掌御多忙中難有存候紙面の都合次第掲載可仕候
 只今森田氏不在につき小生より御禮申上候 艸々
    十一月三十日
 
      一〇六一
 
 十一月三十日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 少々御相談申上度事有之明一日早く御出願はれ候や右用事迄 草々
    十一月三十日
 
      一〇六二
 
 十一月三十日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區彌生町三新海竹太郎へ
 拜啓過日は森田艸平まかり出御邪魔を致候朝日文藝欄に何か高説掲載の榮を得度旨申出候由の處早速御承諾難有存候實は小生まかり出最初より篤と御依頼可申上筈の處色々用事立て込み不得已森田に依頼致候譯に有之候間あしからず御容赦被下度候
 目下開店早々にて、しかも森田事こつちの了見も知らず何だ|が《原》編輯主任をしてまごつかせ居候御多忙中恐入候へども何か一般の文藝好に興味ありて分る樣な事御寄送願はれまじくや時下の問題に接觸致し候へば猶更好都合に御座候右御願迄艸々如斯 以上
    十一月三十日夜              夏目金之助
   新海竹太郎樣
 
      一〇六三
 
 十二月三日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神戸市中山手通四丁目二〇淺野方東新へ
 拜啓御手紙拜見金圓御用立の件御申越の通御返却にてよろしく候其地の學校は萬事意外の事のみにて定めて面白からぬ事と被察候がまあ當分御辛抱可然かと存候只今多忙にて長い返事をかく譯に參らず候故是にて御免蒙り候。先達てはアナグマの皮一枚御惠投にあづかり深謝致候あれは何にしたらよきやチヤン/\可然か序に御教へ願候先は右迄 草々
    十二月三日                夏目金之助
   東 新 樣
 
      一〇六四
 
 十二月三日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 御手紙拜見かねての講演御催促にて恐縮致候が御承知の如く文藝欄開店の爲め事務不少其上滿韓ところ/”\を今月中つゞけた上に、新年の阪朝に十日つゞき位のものを書く事に相成何とも思索の餘地無之甚だ違約がましく不快なれどどうぞ事情御諒察の上御勘辨被下度候
 右御詫迄 州々頓首
    十二月三日                夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一〇六五
 
 十二月十五日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓其後は打絶御無沙汰に打過不本意至極に候滿洲より歸朝後多忙日〔に〕加はり愈厄介と相成降參の體に候。大兄御變りも無く日々事務御勵精の事と存候不堪慶賀の至却説御親切にわざわざ御惠投の鑵詰御書状と前後到着難有拜受致候東京は今日より頗る寒氣加はり手水鉢に氷が張り候。御地も段々冬となる事と存候御加養專一に存候右不取敢御禮迄 艸々頓首
    十二月十五日                夏日金之助
   渡 邊 樣
 
      一〇六六
 
 十二月二十二日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇ろ七増田方林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓其後は失敬試驗を休んだ由どうして休んだのか、無暗に缺席をしては不可ない。あとから受けられるのかね。
 どこかへ行くなら行つて來給へ。正月に御出で 以上
    十二月二十|三《原》日            金之助
   耕 三 樣
 
      一〇六七
 
 十二月二十七日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麻布區廣尾町一五九木村秀雄へ
 今度御足勞の處不得面接爲に御立腹の由承知致候
 觀自在宗御弘めの爲機關御入用の由なれど夫は觀自在宗の信徒の有したる新聞か雜誌でなければ駄目に候然らずば金を儲けて自身に機關を設くるより外に致し方なかるべきか
 胃病を癒してやるとの仰せ難有候然し御心配御無用に候。小生の胃は過去の因縁にて起りつゝあるものに候。過去の因縁消滅すれば大兄の力を藉らずとも自然に全快可致候小生は妄りに人の力によりて何うかして貰ふ事がきらひ故御厚意を顧みずわざと辭退致候
 右御返事迄 艸々
    十二月二十七日               夏目金之助
   木村秀雄樣
 
 明治四十三年
 
      一〇六八
 
 一月二日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町相木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 恭賀新年
 能|勢《原》が來て君に「それから」を評してもらへと申します。さうして本を一部送れと申します。本は便次第送ります。御批評は願ひます。(朝日文藝欄なら二三回以下にて)
 
      一〇六九
 
 一月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町三九濱崎方皆川正※[示+喜]へ
 恭賀新年
 忙がしいから端書で失禮當地も暖かな好新年である。謠は御勉強の由御出京の節御相手可致候
 
      一〇七〇
 
 一月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣修善寺新井方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 恭賀新年
 「それから」は一部上げる積で居たのに惜しい事をした
    三日
 
      一〇七一
 
 一月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
 謹賀新年
    一月三日
        牛込早稻田南町七
                夏目金之助
 
      一〇七二
 
 一月四日 火 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町谷津鈴木三重吉へ〔はがき〕
 謹賀新年
 今年より御活動のよし大慶の至に存候
    一月四日
 
      一〇七三
 
 一月十一日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ〔はがき〕
 古本御序の節御求めを乞ふ 代金はあとから御返上可致候 以上
 
      一〇七四
 
 一月十四日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京都市二條川東疏水西厨川辰夫へ
 拜啓朝日文藝欄に御同情被下玉稿わざ/\御寄送被下難有御禮申上候小包は只今到着いまだ拜見不仕候へども慥かに落手致候。舊冬中よりの原稿少々たまり候上前日掲載ものゝ反駁やら何やらあり且つ其間に起る時事に就て少々は意見を發表する必要も刻々起り候故出來る丈早く掲載の積には候へども多少の時日を要し候事故其邊はあしからず御含置願度候
 又雜誌の原稿も同時に着是も出來る丈早く御希望の通に取計ふ所存に御座候中央公論が不可なければ外の雜誌をも聞き合せ可申其節は今一度御問合可致候
 「それから」御ほめにあづかり難有候
 右不取敢御返事迄 草々頓首
    一月十四日                夏目金之助
   厨川辰夫樣
 
      一〇七五
 
 一月十九日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓此間の池松常雄氏(赤城元町三十四)へ二十四日の會の番組とくる樣に案内とを出す樣にカンノウさんか高野さんに電話で頼んでくれ。何か役をつける事も頼んでくれ。うまい人だから尊敬した役をつけるがいゝと云つてくれ
 
      一〇七六
 
 一月二十一日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 59 Airedale avenue,Chiswick,London  大谷正信へ
 拜啓其後は御無沙汰御地着の上只今はもはや御落付御研究最中と存候
 御出立後東京も別段の變化無之。正月も例年の通り。降雪二回。曇日は寒き方に候。倫敦抔防寒的に家屋の構造の出來てゐる處は却つて我々の書齋よりも遙かに暖國に候。芝居其他御遊覽に相成候や。倫敦ほど雜駁な處は世界中にこれあるまじく考へ樣次第にては内地よりもずつと呑氣なものに候へば久し振りにて老書生に立ち歸り勝手に世帶の苦勞なく御消光可然と存候
 「それから」出版致し候につき一部此手紙と同便にて進呈致候。日本の小説抔却つて御歸りの時の御邪魔にも相成るべくとは存じ候へどもかねて御愛讀を辱ふせる御厚意に對する記念として差上候もの故御落手被下度候
 昨年末より朝日(東京)紙にて文藝欄なるものを開始し、毎日一段もしくは一段半位の批評もしくは文藝上の論文抔かゝげ居候。其下に六號活字にて柴漬と申すものを置き是には西洋の雜誌抔より通信、消息、報道等人の面白がりさうなものをごちや/\にならべ居り候。大體一項十行内外に候。
 御地御見聞上の事にてもし現下日本の文藝上の時事問題に直接もしくは間接に關係ある御意見もしくは報知も有之候はゞ時々御寄稿被下度幸不過之候。又どこかへ御遊覽の節(ハンプトンコート抔)繪端書の裏へ寫生文の樣なもの五六行御書き被下候へば消息として今申したる柴漬の後へ載せたき考に候。
 どうせ新聞故大論文や長時間を費やすものに就て御迷惑をかける料簡にては無之。たゞ霧が降つて人の顔がぼんやり映るとか、シヨーの脚本をどこ座で見たが面白くなかつたとか、何とか云ふ事を五六行にてよろしく。もし又一二時間の御閑も有之ば文藝欄の五號活字として載せ得るもの一欄か一欄半位にて讀み切りのもの……何とか蚊とか手前勝手のみ申し募り候。御笑ひ可被下候 草々
    一月十九日                夏目金之助
  繞 石 老 臺
        座下
 
      一〇七七
 
 一月二十一日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Schmeltzer,Geisbergstrasse 39,Berlin W. 寺田寅彦へ
 マクベスの芝居の報知と※[エに濁點]ニスからの端書が來た。※[エに濁點]ニスのを六號活字にして文藝欄のなかへ掲載した。時々あゝ云ふ通信がくると載せるに都合が好い。外國にゐる人は何でもないと思つてもこちらでは面白い。異彩を放つ譯になるから時々五六行で好いから繪端書の裏へ何か書いて寄こして呉れ給へ。
 御正月が來た。相變らずであるが今月はもう雪が二度降つた。僕のうちの小供は段々大きくなるさうしてあとが續て生れる。今は六人と9|10丈生きてゐる。家族が殖えると金も入る。中々厄介である。外國で遊んでゐるうちが余程氣樂だよ。
 此間森田と小宮が主催で方々へ招待状を出して僕の宅で新年宴會を開いた。まあ眞面目に七變人の茶番を演じた樣なものだ。其プログラムには松根式部官の一中節だの森田の關係のある婦人の藤間流の踊だの、行徳醫學士の薩摩琵琶だのあつたが、まあ妙なものだつた。中にも松根式部官の一中の先生が生憎二階から落ちて頭を割つたとか云ふので來られなかつたのは妙だつた。夫から女連には大塚の奥さんや物集の御孃さん姉妹が來た。安倍能成が醉つて高《原》架へ這入つて反吐を澤山はいたあとへ小供が入つて臭い/\と云つてゐた。
 文部省の繪畫展覽會が去年の末あつた。日本の繪畫も年々上手になる。音樂ではロイテルだのエルグマイステルだの何とか夫人とかいふ獨唱家も來た。此間小山内薫の催しで有樂座でイブセンのボルクマンを遣つた。僕は見に行かなかつた。が譯は森鴎外のもので役者左團次君以下であるが面白かつたさうである。そこで早稻田文學では小山内君に推賛の辭を呈するとかいふ話である。
 「それから」が出來たから一部此手紙と同便で送る。もう少しすると又小説を書き出さなければならない。又いそがしくなる。君がゐなくなつたので理科大學の穴倉生活抔が書けなくなつた。慧星の知つたか振りの議論も出來ない。又赤坂の三河屋を思ひ出した。あの藝者はどうなつたらう。我々が變化する如く彼女も變るだらう。
 只今兩國國技館で大相撲最中。人氣は悉くこれに集つてゐる。 草々
    一月十九日                金之助
   寅 彦 樣
 
      一〇七八
 
 一月二十一日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 御手紙拜見致候美學會の件につき何遍も御手數をかけ不相濟る事と存候が其後始終ごた/\致し毫も頭に餘裕無之甚だ殘念ながら「出來た時に」と云ふ條件にて延期を願ふより外に致し方なくと存候右不取敢御迷惑ながら御返事申上候 早々
    一月二十日                 夏目金之助
   阿倍《原》次郎樣
 
      一〇七九
 
 一月二十一日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下大森八景坂上杉村廣太郎へ
 拜啓本日御葬送とは存候へども本門寺ではちと遠方故失禮致候
 此間中より毎々倶樂部の御馳走に相成好都合至極何か御禮と思へど大した思付もなし。幸ひ今迄拙著を進呈したる事なき故珍らしくてよろしからんと存じ近刊それからを一部座右に呈し候中に何か書かうと思へども本屋の方で小包用につゝんである故まづい字抔はと考へ直して其儘差出候
 御葬式其他にて嘸かしの御混雜の際に閑言を弄し恐縮なれど氣の付いた時出さないと人が來てそれから夫へと奪つて行く故あるうちにと存じ敢て場合を顧みず。失禮御高免の事。猶萬事了畢後の道體保安を祈る 草々頓首
    一月二十一日                金之助
   楚人冠盟臺
       座下
 
      一〇八〇
 
 一月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓八重子さんの赤ん坊の事で此間から心配してゐた處昨日の手紙で安産のよしを聞いて漸く安心した。男子の上發育も充分御産も輕かつた由何より結構の事無人で御困り嘸かしと御察し申候二日徹夜では定めし弱つたらう猶是からが大變だ中々八釜敷ものだよ 先ば《原》不取敢御祝迄 草々
    一月末日                  金之助
   豊 一 郎 様
 
      一〇八一
 
 一月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町池内信嘉へ
 拜啓霞寶會につき拜趨の上篤と御相談致したる上にて會費取極めたく存居候處申込書御郵送につき至急を要し候事と存じ不取敢五つ口丈擔當致す事に致し候間可然御取計願上候猶發起人としてもつと分擔の必要も生じ候へば御協議の上何とも可致候
 右御返事迄草々
    一月三十一日                夏目金之助
   池内信嘉樣
 
      一〇八二
 二月二日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豊隆へ〔はがき〕
 拜啓「通盛」が君の所に行つてゐやしないか。もしあつたら明日の木曜に持つて來てくれ玉へ。此間七騎落を西神田倶樂部へ置いて來ちやつた
 
      一〇八三
 
 二月三日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 拜啓森田へ御端書の所當人事文藝欄休刊多き故日々出勤仕らず御返事が後れ候ては不相濟と存じ小生より申上候
 過日の原稿は難有頂戴。よせ鍋中癡郎と有之候處あまり匿名のみつゞきては面白からず本名の峙樓を名乘つては如何と小生案じ煩ひ候に森田差支なかるべしと申出候につき御本名を書き加へ候。それからよせ鍋では薩摩汁の前後に(編輯上)鼻につき候故何とか工夫なきやと相談致し候折|勢《〔能〕》成君一讀「自ら知らざる自然主義者」ではどうだと發意一同賛成右に決し候。次に肝心の御抗議の花袋咆鳴の件は實を云ふと草平の提案にて改正致候もの〔に〕有之候。
 右は僭越にも尊稿を改めたる個所及び事情に有之。偖右につき御申越の趣委〔細〕承知致候。さう眞正面から御切り込みになりてはたゞ叩頭罪を謝するの外に道なく候が、さう嚴肅に權利問題とせずに少々此方の開陳する所を御清聽に達し度候間御怒りなく御聽取被下度候
 小生は大兄と今日迄左したる交際無之從つて玉稿を隨意にどうするのといふ考は(親疎の關係上よりして)起らぬ次第なれど、大兄と二三子(たとへば草平能成豐隆の如き)との間柄は此位なフリードムを敢てしても御氣にさわらぬ程の圓熟せる御交際かと承知致し候ため、其際は何の氣もつかず、許諾致候。是は小生の粗忽とも云ふべきか平に御高免にあづかり度候。其上花袋咆鳴云々を改めたる所が貴論の本旨に殆んど大した影響を與へぬ程な些末な點と愚考致したる故左迄御氣にもかゝるまじと早斷致候次第に候。左れば個人としての大兄に侮辱を加へると云ふ了見は毛頭無之又此方の便宜の爲に貴意を顛倒錯亂せしめたるといふ自覺も無之御手紙を頂戴する迄は至つて呑氣に構居候。小生の寧ろ難色ありしは題を勝手に改め匿名を雅號に修正する方に有之候ひき。其時小生は阿|倍《原》君が怒りやしないかと念を押したる位に候。
 右は事情を申上げて幾分か此問題を法律的なる權利問題より遠からしめんとする辯護に有之候。又事實問題として修正の箇所(花袋咆鳴云々)が左程貴論に※[ワに濁點]イタルならざりしならんとの辯解に候。
 辯護も辯解も只緩和剤に候。是にて大兄の御不滿が少しにても取れ候へば小生は難有仕合に存候
 御承知の通原稿は先月末に出すべき筈の處議會にて始終休まれる爲め延々になり居候處昨日森田電話にて掛合此次に組込む筈に致候旨申來候につき時日切迫の爲め或は貴意の如く元の通りに致しかね候やも計りがたく候へども正誤の件可成早く何か分別可致。御目にかゝり御話をすればよけれどかけ離れ居候爲め無《原》重寶なる筆にて御詫を入れ申候あしからず御宥恕願候 草々
    二月三日                 夏目金之助
   阿|倍《原》次郎樣
 諸方より來る原稿中削除もしくは書改める事有之。是は原稿が文をなさゞる場合にのみ限り候。又は少し手を入れる事あり。是投稿者へ却つて敬意を表する場合にも致候。大兄のとは全然趣を異に致し候故是も序に申上置候
 
      一〇八四
 
 二月三日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區大久保余丁町一〇六安倍能成へ
 御手紙拜見致候先達ては失禮致候御來旨の趣は阿|倍《原》君よりも森田へ問合せ來り候處森田參らざる故小生より返事を出し置候
 花袋云々の件は阿倍氏の書き方の前後より押して毫も全篇の主意に痛痒を與へざるものと見傚したる故森田より相談を受けたる時夫でもよろしからんと申候。森田の考は阿倍君とあすこの處丈が違つた故に訂正を申し出したるならんとは其時存じ候。人の書いたものを一字でも手を入れる事に許諾を與へたるは阿倍氏は森田小宮抔と親交ありて、あの位の事はあとから斯う云ふ譯だと話せばあゝさうかと笑つて仕舞ふ位の間柄と思ひし故に候。權利問題を呈出されて事が六づかしくならう抔と想像し得る程の大關係の箇所とも思はず、又森田對阿倍の關係が夫程フオーマルに禮儀を盡さねば手落となりて後で抗議を受けるとも思ひ居らざりし故に候。
 小生は文藝欄擔任記者として凡ての論文に對し自ら責任を負ふ積り故文章が意味を爲さゞる場合は森田に書き直させ候事も有之候。又長ければつゞめさせる事も有之。右兩樣共寄稿者並びに文藝欄の體面上雙方の便宜と思ふ場合に有之。從つて是等の場合は寄稿者に寧ろ尊敬を拂ひし爲の手續と考へ居候。阿倍氏のは右兩樣の場合とは異なり。却つて懇意づくより他の原稿を多少どうかし得るフリードムありと信じたる親密を森田阿倍兩氏の間に測定せるより起るものに候。
 此測定が人を侮辱せるもの也との抗議ならば不敏を謝するより外無之候。謹んで大兄と阿倍君に御詫び可致候。
 有體に申候へば今の所謂自然派(自然派をかたち作る人物)が嫌に候。是は其説が如何にも粗漏放慢にして相手の人格及び意見に對して毫も敬意を拂はざる表現法をのみ用ひるが故に御座候。かの人々自からのコンシートを撤回せざる限りは到底かの人々の議論に對し敬意を拂ひがたく候。敬意を拂ひ得る丈に議論は周到ならず、態度は士君子流ならざる故に候。この嫌惡の情の爲に左右せられて森田の提議に應じたるかの質問に對しては寧ろ然りと答へるの事實なるべきを公言致したき位に候。去れども徹底《原》に彼等兩人は自然派たり得ずと理智の判斷に支配さ《原》られたるも事實に候。最後に尤も多く余を動かしたるはどうでも好い所だと云ふ念と、懇意づくの間柄だからと云ふ心持とに候。夫が貴兄等の尤も癪に障つた所だらうと後悔致し候。論議は公正ならざる可らず、意見は不偏不黨ならざる可らざる事は御説の如くに候。小生が許諾を與へて訂正せしめたるも此公平と不偏不黨を傷けざる範圍内の出來事位に暗々の裏に思惟せるとしか自分には考へられず候。夫を然らずと御思ひありては只恐縮の外なく候へども致し方も無之候。小生はあの時大兄の題をつけかへて、匿名を峙樓に直したる森田の擧動を寧ろ不穩當と感じいさゝかためらひ申候へども、前述の通り是も懇意づく故君等がリバーチーを與へられたるものと信じ矢張り承諾致候
 小生不行屆にて諸君子に煩を及ぼし慚汗不少候。右返事により幾分か小生の心意を致すを得ば幸に候。猶期御面會申候 以上
    二月三日                夏目金之助
   安倍|勢《原》成樣
 
      一〇八五
 
 二月六日 日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓虚子轉地の由編輯御多忙ならんと存候。小生此間の謠會に七騎落を西神田倶樂部へ忘れし樣なり、御序の節幹事に願つて取つてもらつてくれ玉はぬか右御願迄、 八重子さ〔ん〕赤坊共御健勝の事と存候
 
      一〇八六
 
 二月十日 木 牛込區早稻田南町七より 栃木縣芳賀郡山前村字道祖土高松甚一郎へ
 御手紙拜見私のものを御愛讀被下るよし難有い事でどうぞ今後も御讀を願ひます。近頃の本でノンビリと氣の樂になる樣なものはあんまりありません。私の友人の高濱虚子といふ人の書いた俳諧師といふのがあります。民友社の出版で並製壹圓以下と覺えてゐます、あれでも讀んで御覽なさい右御返事迄 草々
    二月十日                 夏目金之助
   高松甚一郎樣
 
      一〇八七
 
 二月十六日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 柴漬難有頂戴明木曜日もし御光來なら本郷で掌中醫方と申す小冊子(壹圓程か)を御買求め被下度右願上候 草々
    二月十六日
 
      一〇八八
 
 二月二十日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 別紙の如き端書參り候御序の節御返事御出し被下度候當用のみ 草々
    二月廿日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一〇八九
 
 三月二日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校寄宿舍東寮一一乙林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓三月記念祭にて切符わざ/\難有候小供生憎學校にて參るひまなく殘念に候いづれ拜眉萬々
 本日の新聞には會の景況色々記載有之候大分賑かの樣被存候小説執筆中にて多忙今度はゆるゆる書いて居候
    三月二日                  夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一〇九〇
 
 三月四日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Schmeltzer,Geisbergstrasse 39,Berlin W.寺田寅彦へ
 端書拜見其後御變りもなき事と存候。今度音樂家で山田といふ人が岩崎の金で伯林へ留學する幸田の所をたよる由。此人の友人で筆の先生の中島さんから君へも序に頼んでくれといふから一寸御報知する。何かの機會もあつたら世話をしてやつてくれ玉へ。
 段々春めいてきて少しは暖かになつた。昨日湯に入つたら今朝始めて鶯をきゝましたよ。まだ下手ですねと云つてゐた。宅では※[竹/賈]《原》笥の上に御雛樣を飾つてゐる。山田といふ奥さんから虎屋の雛の菓子をもらつて飾つた。二日の夜明に又御産があつて大混雜。又女が生れた。僕は是で子供が七人二男五女の父となつたのは情ない。鬢の所に白髪が大分生えた。又小説をかき出した。三月一日から東京大阪兩方へ出る。題は門《もん》といふので、森田と小宮が好加減につけてくれたが、一向門らしくなくつて困つてゐる。小宮も森田も中々有名になつた。虚子が去年の末腸チフスをやつて漸く快復したがまだ衰弱してゐる。其他異状なし 草々
    三月四日御天氣のいゝ日           金之助
   寅 彦 樣
 
      一〇九一
 
 三月十一日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 雜誌拜受玉稿面白さうなれど未だ讀まず。あの六號活字は誰が書くにや。僕と楚人冠と確執してゐる樣に書いてある。僕が十五二十四兩日に幹部會議に出るため社へ行くと會議の濟むのが何時でも午頃になる。すると楚人冠が何時でもおい夏目君飯を食《原》ふぢやないかと僕を誘つて表へ出る。さうしてつい傍の交詢社へ行つて會食する。僕は倶樂部の會員でないから費用は何時でも楚人冠の擔任だ。僕は楚人冠の誘を受けるとうん御馳走し玉へと云つて一所に出る。是ぢやあまり確執でもあるまい。
 蒼瓶がジヨナリズム(自然派攻撃)の非難を書いた時、楚人冠が新聞界で自分のやつてゐるジヨーナリズムの意味にとつて反駁した事がある。其時僕はストーブの前へ《原》君あんな事を書くと君と僕と喧嘩してゐる樣に世間で思ふよ。かくなら文藝欄のうちへ書かないかと云つたら、楚はうんさうかと云つてゐた
 六號抔はどうでも好いが是も一つの材料だから虚子が霞寶會の事を辯じた樣に風聞録か抔ぞ《原》へ六號へ事實を書いて呉れないか。たゞし僕が自分で正誤する程なら自分の新聞でやるから、そこは君の取計で如何樣にも願たい。尤もこんな事は始終あるから別に氣にもならないから、君の方の都合が好かつたら材料として使つて貰はう位の所に過ぎない 草々
    三月十一日                 金之助
   豐一郎樣
 森田のやつこが楚人冠へ答辯をかいた時は僕に原稿を檢閲す〔る〕ひまを與へずにすぐ社へ持つて行つた。あれを僕は書き方がよくないと叱つた位だ
 
      一〇九二
 
 三月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓ルンドシヤウ一、二月號同時に着。瞥見するにあまり材料なき樣也。御序の節可差上候 草々
    十二日
 
      一〇九三
 
 三月十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 本日風聞録で楚人冠記事拜見御手數難有候。ミナも拜見あれは面白く候此前の新小説のと共に佳作に候。「赤門前」よりはよろしく候
 
      一〇九四
 
 三月十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校寄宿舍東寮一一乙林原(當時岡田)耕三へ
 御手紙拜見指が痛いつて云ふのは何の病氣かね醫者にはかゝつてゐるのかね、指が痛くつて筆が持てなくつては學生は出來ない位だ養生をしなくつちや不可ない
 人世觀とか世界觀とかいふものは段々變るものだが其時其場合には誰にもしつかりした處があつて欲しい。何物にか逢着したのは君の仕合だ。
 印は押し候 草々
    三月十三日                金之助
   耕 三 樣
 
      一〇九五
 
 三月十六日 水 牛込區早稻田南町七より 大塚楠緒へ〔封筒なし〕
 先日は御光來の處何の風情も無失禮致候其節御話の竹柏園の演説の事一應考へ候へども何分餘裕無之甚だ御氣の毒ながら御斷り申上候佐々木氏へ左樣御傳被下度候
 大塚氏神經衰弱未だ御回復なき由神經衰弱は現代人の一般に罹る普通のもの故御心配なき樣冀候。逢つて話をする男は悉く神經衰弱に候。是は金病とともに只今の流行病に候右御返事迄 草々
    三月十六日                 金之助
   大塚楠緒子株
 
      一〇九六
 
 三月十八日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區九段中坂望遠館松根豐次郎へ〔はがき〕
 御歸京の由、御父さんの病氣は如何。此間少々用事あり七時頃君の處へ行つたら、今御國へ御歸りと云つた。用事は今濟んだ。何れ其うち、御産は安産、性は女子、名づけてひなといふ三月二日朝三時の生れ。
 
      一〇九七
 
 三月十九日 土 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓永井荷風氏より別紙の通申來候條件次第にて御引受可然か、小生より返事するか又は君が直接に荷風氏と交渉するか何れでもよろしく候
 柴漬の參考の米國新聞いまだ机上にありどうぞ御序の節御返し願候 草々頓首
    三月十八日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一〇九八
 
 三月十九日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 拜啓原稿頂戴致候。近頃文藝〔欄〕不規則にてすぐ出す譯に參らず。御氣の毒に候。上の方はすでに編輯へ廻し置き候御禮迄 草々
    三月十九日
 
      一〇九九
 
 三月二十三日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔はがき〕
 今日能不參に候。御手紙咋夜着今朝披見御返事後れ申候。來月の霞寶會の能には壇風有之是には是非御招待致度と存居候 早々
 
      一一〇〇
 
 三月二十九日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ
 御手紙拜見春雨の候御地は如何。淋しい由。色々な意味にて誰も淋しく候。小鳥の巣毎日拜見隨分御苦心の事と存じ候へども書きかけたもの故是非共始末を奇麗に御付可被成候學校授業執務の外に小説を毎日書くのは定めて御難義とは存居候。小生は胃の加減わるく氣に任せて長く筆を執ると疲勞する故大抵毎日一回位で胡魔化し居り候、いづれ委細は御面晤 草々頓首
    三月二十九日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一一〇一
 
 三月二十九日〔四十三年?〕 中川治作へ〔封筒なし〕
 拜啓未だ不得拜顔の榮候處愈御清穆奉賀候
 御惠送の粕漬一箱過日小包にて到着難有賞味仕候
 大兄とは未だ一回も書信にて往復致候覺なきやに存居候が突然かゝる御寄贈を受け甚だ恐縮致候
 御序の節どうして小生を御承知なるや御洩し被下候へば幸に候。夫とも小生記憶あしく御芳名を忘れ候なれば猶以て汗顔の至に候
 不取敢御禮迄如斯に候以上
    三月二十九日               夏目金之助
   中川治作樣
 
      一一〇二
 
 三月三十日 水 前8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 拜啓白樺一號御惠送にあづかり拜受。卷頭の「それから」評未だ熟讀不致候へども直ちに一寸眼を通し候。拙作に對しあれ程の御注意を御拂ひ被下候のみならず、多大の頁を御割愛被下候事感佩の至に候。深く御好意を謝し申候。御批評の内容は未だ熟讀を經ざる事故何とも申上かね候へども所々肯綮に當り候所も多き樣に存候。中にも「それから」が運河だと云ふのは恐らく尤も妙なる譬喩ならんと存候。「それから」のとめ方の御辯護もあの通りの愚見にて候ひし。先は御禮迄 草々
 
      一一〇三
 
 四月六日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 拜啓「代助と良平」頂戴難有候都合次第掲載可致候間しばらく御猶豫願上候。右御禮迄 草々
 (森田參るべき處多忙にて電話にて御迷惑願候事と存候御免被下度候)
 
      一一〇四
 
 四月十日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御出發の際は御見送も不致海陸御無事御地に御着のよし大慶の至に候春雨濛々とか黄鶴樓とか申す言葉をきくと是非一遊致し度相成候當地も春景色にて諸新聞ともに花信を掲載致居候處生憎筆に祟られ外出不仕憫然の至に候。朝日文藝欄にては時々清君を煩はし畫界の事に關し御執筆願居候。御地にて何か面白き報知も有之候はゞ同欄のなかへ掲載致度考に候。どうも文藝欄を擔任してより商買氣多く相成困入候。
 書畫骨董隨分御清賞不淺事と存候 草々
    四月九日                 金之助
   橋 口 貢 樣
 
      一一〇五
 
 四月十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 御端書拜見致候あの文句を玉稿中に挿入する事はどこかツギ〔二字傍点〕の出來る樣な氣がして、どうも旨く行きませんから已めました。右あしからず。御旅行の由充分の御保養を祈る
 
      一一〇六
 
 四月十二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 貴墨拜誦再度申上候。自然主義が滑つても轉んでも小生も毛頭異存無之候へども、自然主義を振り廻す人と同商買故何うでもよくなくなり候。それから自分は何うでもよいとしても斯ういふものに支配される若い人が澤山有之候故、矢張り何とか蚊と〔か〕誤《原》詫をならべて文藝欄を賑はし、且つ其人々にあまり片寄らぬ樣な所見を抱かし度考になり候。
 然し毎日自然主義がどうしたとか斯うしたとかにては小生も讀者も大兄も辟易故、たまには大兄の御得意の鳥獣草木も是非御紹介を願度候。然し根が新聞故講義體に堂々と例證ばかり出てきて何日もつゞくと困り候故、一般讀者並びに文藝好の人に興味のある樣な事にて八十行位で一寸面白く讀まれ得るも〔の〕切望に候。然し此方から注文を出すと又六づかしく相成恐縮致候が、もし御閑もあらば御含置の上たまには御認め被下度あらかじめ願置候 艸々
    四月十二日                  金之助
   芥 舟 樣
 
      一一〇七
 
 四月十六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓小鳥の巣は題名の通り小鳥の巣に至つて始めて君の眞面目を發揮致し候。あゝいふ事の敍述は今の文壇無之。從つて甚だ興味深く候 草々
 
      一一〇八
 
 四月二十二日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 佐賀縣神埼郡三田川村苔野行徳二郎へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過候過日俊則君御歸郷の砌り一寸御近况を伺ひ候當時は學校をやめて御郷里にて御靜遊のよし奉賀候
 兩三日前御惠投の苗木芽生數種到着幸ひ植木屋參り居候故直ちに適當の所を擇ひ植付來春に至り花頃に植かへる事と致候御多忙中御親切の段深く感謝致候不取敢右御禮申上度草々如斯に候 頓首
    四月二十二日                 夏目金之助
   行徳二郎樣
 御兩親樣ならびに御令兄へよろしく願上候
 
      一一〇九
 
 四月二十四日 日 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 池邊吉太郎へ
 今日は日曜なれば會議如何あらんと存候へども念の爲め出社候までの處わざ/\御斷りにて恐縮致候明日に御繰延しの事も拜承致候實は小説手おくれの氣味にて多少狼狽の姿故ことによると欠席致すやも計りがたく候につき時間に參り不合候はば御構なく御開き願上候委細は拜眉の上萬縷 艸々
    四月二十四日夜               金之助
   池 邊 樣
 
      一一一〇
 
 四月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 茨城縣結城郡岡田村長塚節へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過候偖先般は森田草平氏を通じて突然なる御願に及び候處早速御聞屆被下候段感謝の至に候其後草平君より再度の照|回《原》に對する御返事正に拜見致候小生の小説はいつ完結するや實の處本人にも不明に候へどもごく短かくても九十回にはなるべきかと豫想致居候只今六十回故今より御起草被下候へば小生も安心。萬々一の事にて夫よりも早く片付候ても毫も心配無之故失禮をも不顧伺候次第に候御返事の趣にて一旦御引受の上は不都合なき由御申聞難有候東京と茨|木《原》とは少々懸隔居候故自然懸念も相生じ杞憂相洩し候樣の譯あしからず御高免願上候右御挨拶旁御願迄如斯に候 草々頓首
    四月二十九日                夏目金之助
   長 塚 樣
 
      一一一一
 
 五月二日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 玉稿はたしかに入手致しました。都合つき次第掲載致します。毎度御迷惑をかけて濟みません此後も時々願ひます。白樺も慥かに頂戴。右御禮迄 草々
 
      一一一二
 
 五月三日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓安奉線は御申越通りならんと思但しよく知らず、もう一つの方はあれで慥かに宜しい。君の時計らしいのが忘れてある。催促も探索もしないところがえらい。東さんにトルストイの御禮を云つてくれ
 
      一一一三
 
 五月十一日 水 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町三九濱崎方皆川正※[示+喜]へ
 拜啓其後は御無沙汰奉謝候御手紙難有拜見致候近來は東京朝日に文藝欄を設け諸君子の文藝上の意見を紹介致し居候獨文の方は中々活躍英文の方は少々振はず候ちと御投稿如何に候や
 謠は小生も熱心に候此夏御上京の節は御相手致度候
 「門」御愛讀被下候よし難有存候近頃身體の具合あしく書くのが退儀にて困り候早く片付けて休養致し度、今度は或は胃腸病院にでも入つて充分療治せんかと存候四十を越すと元氣がなくなり申候
 野間君も健在の事と存候よろしく
 御職業の事精々心掛可申候隨分困難につき御《〔其〕》邊は御承知願上候
 野村も一度は地方へ參る由申居候
 先は御返事迄 草々
    五月十一日                夏目金之助
   皆川正※[示+喜]樣
 
      一一一四
 
 五月二十二日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓其後は御無沙汰致候御地着後新らしき山川人情定めて御眼新らしき事と存候
 當地櫻も散り若葉の時節。咋二十日は英國先帝の遙拜式有之大分盛大の模樣、白馬會と太平洋畫會と同時に開會賑やかに候。小生胃病烈しく外出を見合せ世の中を頓と承知不仕候
 御送の寫眞數葉着御好意深謝致候日英博覽會記念繪葉〔書〕一組御目にかけ候スタンプは押してなく候へどもそれは差支なくと存じたゞ葉書のみ差上候
 先は御禮迄 艸々
    五月二十一日                 夏目金之助
   橋 口 樣
 
      一一一五
 
 五月二十二日 目 前11-12 牛込區早稻田南町七より 佐賀縣神埼郡三田川村吉田行徳源誠へ
 拜啓未だ不得拜眉の榮候處愈御壯勝奉賀候御令息俊則樣並に二郎樣にはかねてより御近づきの事とて時々色々の用事抔相願ひ失禮のみ重ね居候
 今度二郎君御出京につき保證人御依囑につき印形丈押し申候外別に何の御役にも立ち不申不本意の處わざ/\御禮状被差遣却つて汗顔の至に候
 二郎氏御出京の節は結構なる御土産頂戴是亦深く御禮申上候
 右御返事旁御挨拶迄 艸々
    五月二十一日                 夏目金之助
   行徳源誠樣
 
      一一一六
 
 五月二十三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 拜啓「それから」に就き御丁寧なる御批評難有頂戴御多忙中甚だ恐縮致候實は「それから」が拙著なるの故にあの樣に委曲なるものを三日もつゞけて文藝欄へ出して場所を塞げるのが少々面目なき心地致候。是は御論の内容とは丸で關係なき只小生の氣がねに候。種々配合の都合も有之候へば森田とも相談の上掲載の日取取極度しばらく御猶豫願候。玉稿最初の一句宿約云々は削除致しても差支なくや一寸伺ひ候。大兄の進まぬのをわざと書かして自己の文藝欄で吹聽する樣にて恐れ候。實は新刊の書物ももつと澤山文藝欄で批評して居るとこんな時には遠慮が入らなくてよろしけれどついひまなく森田も多忙にて其方を怠り候ため一寸勇氣を失ひ候。
 玉稿の内容は面白く候ことに會話などに作爲のあとあるところ御同感に候其他御説として伺ひても小生のしか思はぬ點も有之候。
 消極的の衒氣のみならず積極的にも大分あるやに見受られ申候。だから小生は自分の作を本になつてから讀んだ事は無之候。近頃四篇のうちに文鳥と申す短篇を収め候を豐隆が校正致し大いに賞め候故こわ/”\ながら讀み返し候處是は左のみ厭味も感じ申さず候ひし。何事も書いてゐるうちが花に候後を抗りかへると冷汗のみに候
 「四篇」もし御入用なら差上可申候
 右御禮旁申述候いづれ拜眉萬々 艸々
    五月二十三日               夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一一一七
 
 五月二十四日 火 前6-7 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 御返事拜見致候。二葉亭の全集に就ては社と特別の關係もある事故是非何か書きたくと存候已を得ねば又魯庵先生でも煩はし度と思ひ居候が、大兄もし御閑なら其方を先にして「それから」の前に出して下さる餘裕ありや一寸伺ひ候。一存にては二葉亭と「冷笑」でもやつたあとに「それから」を廻し度と存候
 
      一一一八
 
 五月二十八日 土 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ
 拜啓先日は失禮其節御あづかり申上候玉稿あれからすぐにホトヽギスヘ送り申候處早速同君より別紙の如き返事あり候間御目にかけ候
 猶同君の意見向後御述作上の御參考になりて可然かと存候 草々
    五月二十八日                夏目金之助
   山田|茂《原》子樣
 
      一一一九
 
 五月三十一曰 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五六戸川明三へ〔はがき〕
 啓四篇と申すもの拵らえ申候間御目にかけ申候いづれ拜眉 艸々
 
      一一二〇
 
 五月三十一日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 此間中より度々手紙頂戴。原稿も頂だい面白く候。近著四篇今度御出の節差上度と存候 艸々
    五月三十一日
 
      一一二一
 
 六月四日 土 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王杉村廣太郎へ
○拜啓「新聞紙上の印象主義」慥かに落掌。其理由も正に拜承。至極賛成。僕は年來惡口ばかり云はれてゐるから、まだしもだが、君は甚だ迷惑だらう。よし兩人とも構はないとしても社のために惡いから、こんな方法をとるのは此際結構だらう。深く御手數を謝す。
○其上「新聞紙上の印象主義」は新らしくて面白い。ことに文藝欄に投書してくれる人は、商買氣がないから、ゆつくり辛抱して讀めば相應の事を云つてるのだけれども、夫程手つ取り早く片付ける方法を講じて呉れないで困る。かう云ふ人に讀ませる丈でも甚だ利益がある。
○此間の英國皇帝の遙拜式の記事(築地會堂の)は讀んで面白かつた。且書き方がうまいと思つた。あれも一面から云へば印象的な描寫ぢやないか。僕はあの記事を讀んだ時、新聞記事として大變新らしいといふ感じを起した。あれは君のかいたものではないか。
○玉稿中×から×迄は少し論旨がそれる樣だ。それを布衍しては又長くなるから割愛した。あしからず。
○「四篇」といふ書物を出版す。朝日に出た舊作をあつめたもの也。君もし入用なら何時でも進呈。
    六月四日夜                 金之助
   楚   兄
 
      一一二二
 
 六月五日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁曰武者小路實篤へ〔はがき〕
 拜啓草稿正に落掌致し候。あれで宜しいと思ひます。たゞ全局に渉つての議論になると、あゝばかりも行くまいと思ひます。今少し原稿がたまつてゐますから少し後れますから其積に願ひます。少し位時日が經過しても腐る種でないから構はないでせう。毎々難有存じます。
 
      一一二三
 
 六月九日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神田區駿河臺鈴木町一七大野方橋田丑吾へ
 拜復「猫」手元になき爲め前後の關係不明なれど御答申上候
 メジヨー・ペンデニス。(サツカレーの小説ペンデニス中に出て來る人物。世俗的知識に冨めど高尚な理想も何もなき所謂世間的の人、或は俗物)
 ベオウルフ。 アングロサクソン時代のエピツク詩の主人公。ガルガ galga は現今の英語の gallows 絞首臺の事
 ピヤース・プローマン。 十四世紀頃の英國の詩の名。ブラツクストーンは有名な英國の法律家 Commentaries of the Laws of England の著者
 先は右迄 艸々
    六月九日                  夏目金之助
   橋田丑吾樣
 
      一一二四
 
 六月十日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 拜啓 自分の小説中に書き込む必要ありて「われに三等の弟子あり所謂猛烈にして諸縁を放下し專一に己事を究明するこれを上等といふ云々の戒を大燈國師の遺誡として書いたる所ある人よりあれは夢窓國師の遺誡だ大|灯《原》のではないといふ注意を受けたり。さうらしくもある。どつちだ|が《原》御教示を乞ふ。又何に出てゐるか其邊も序に御教へ被下相成るべくは出所の書物を一見致度候
 又|塔頭《タツチウ》を塔中と書いたとて注意を受けたが是も僕の心得違で塔頭でなければならんのだらうな。又室内といふ言葉はあるが室中とは聞かないと注意した男がある。夫もさうらしいが能く知らず序に御教示を待つ
 胃病にて長與病院に行く胃くわいようの疑あり。ことによると入院の積。
 君の不眠如何。クスグツタイ感じ如何。老頽頭を壓して至御互に棺でも作つて置く事ぢや 艸々
    六月十日                   金之助
   虎 雄 樣
 
      一一二五
 
 六月十日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓赤門前御出版の由承知致候あれは如仰小生よく讀まざりしものなれど讀んだうちに大分不本意の所有之君もいま繰り返したらば定めて色々な缺點に氣がつくだらうと思ふ何卒其邊に御注意の上よく御訂正あり度切望致候
 新文藝に出た崖下の家面白く候今日の萬朝の六號につまらないものゝ樣にかいてあり候があれは嘘に候
 僕は君の短篇の方が却つて赤門前より優れてゐるのがあると思つてゐる。
 漸く小説を書き終つたらば色々な雜用が出來矢張忙殺。胃腸病院に行く胃くわいようの疑あるとの事にて只今糞便檢査中なり 金ばかり入つて困る。君の投稿未だに出さず甚だ御氣の毒原稿が重なると方々へ義理がわるくなる
 右御返事迄 艸々
    六月十日                   金之助
   豐 一 郎 樣
 肝心の序文の事を忘れたり。君が書き直したのを一寸見た上にしたし如何にや夫でなければ又外に一工夫致すぺく候
 
      一一二六
 
 六月十二日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣多可郡黒田庄村藤井節太郎へ
 拜啓五月五日附の御書面に對してとくに御返事可致筈の處種々雜用にとり紛れ荏苒今日に至り候怠慢の罪御ゆるし可被下候
 御編輯の引例一寸拜見致候斯樣に頁多きものを根氣に御書き拔の段敬服の至に存候嘸かし御辛勞の事と存候
 右に就き一寸御注意迄に申上候が斯樣の引例は理論の例證として必要の場合多く從つて己れにしかとしたる議論なければ左のみ用をなさぬものにて候(小生の文學論中にある分類はよろしからず例も面白からねばあれは論ずるに足らず候)
 夫でなければ單に文章の手引草として類別し讀者の讀みたいと思ふ所を索引の便宜にて隨時に讀ましむるに有之。此點にては可成面白き例を撰む必要相生じ〔候〕
 右兩樣のうち何れにてもよろしく候間御盡力希望致し候
 只實際上の困難は夫程浩瀚の書物を書肆が引き受けて出版するの勇氣あるかの問題に候。現今の樣な不景氣の時には先づ以て絶望の姿と存じ候此邊はよく/\御注意可然と存候
 玉稿は別封小包にて御返却申上候先は御答迄 草々 頓首
    六月十一日夜                夏目金之助
   藤井節太郎樣
 
      一一二七
 
 六月十二日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 啓 「門」の中に吾に三等の弟子あり所謂猛烈にして諸縁を放下し云々の遺誡を大燈國師のものとして掲出す。ある人報じて曰くあれは夢窓國師の遺誡なり大燈國師のにあらずと、第二の人又報じて曰くあれは正覺國師の遺誡也と第三の知人は即ち曰くあれは關山國師の作る所と
 小生無識にて適從する所を知らず。御社の森大狂先生は斯道の人也。願くは御序の《原》同君に出所を御確め被下たし。又其出てゐる本の名及び出來得るなら本其物を拜見したき由御依頼被下度候
 右用事迄 艸々
    六月十二日                  金之助
   豐一郎樣
 
      一一二八
 
 六月十二日 日 牛込區早稻田南町七より 富士川游へ
 拜啓未だ御目にかゝらず候處愈御清適奉賀候
 却説過般來森田草平より度々朝日文藝欄掲載の論説につき御迷惑をかけ恐縮此事に御座候今回は御多忙中わざ/\御轉地先より寄稿を辱ふし萬謝の至に不堪候
 實は早速御禮を差出すべき筈の處森田參りたらば本人よりと思ひ差控居候處同人少々事故出來候由にて二三日參らず候につき小生より代つて御挨拶申上候遲延の段御ゆるし可被下候
 目下生憎原稿込み合ひ居候につき玉稿掲載の日取りは小生に御一任相成度是は少時仕舞つて置いても腐らぬ原稿に對して小生の時々申出候我儘に御座候先は右御禮迄草々如斯に候 以上
    六月十二日                 夏目金之助
   富土川 游樣
 
      一一二九
 
 六月十三日 月 前0-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一表北裏七一號朝倉方林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓先刻外泊屆の印をもらふための屆書に肝心の印を捺さずに屆書を其儘封入して送くつたやうに思ふ故別紙白紙の好加減な所に印を押して上げる故本文はそちらにて御認めありたく候 艸々
    六月十二日                  夏目金之助
  岡田耕三樣
 
      一一三〇
 
 六月十七日 金 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王杉村廣太郎へ
 啓上※[礪の旁]人※[礪の旁]語記念特製參拾號御惠送を受け拜謝 あの表紙は女の兒の記念にはうつりの好い美くしいものである。夫にしては「※[礪の旁]人※[礪の旁]語」が少々強過ぎる
 僕胃潰〓《原》の嫌疑にて明日から内幸町の長與病院に入る。交詢社の御馳走も當分駄目となる
 右迄 艸々頓首
    六月十七日                   金之助
   楚 人 冠 兄
 
      一一三一
 
 六月十七日 金 牛込區早稻田南町七より 秋田縣雄勝郡駒形村小野崎淳芳へ〔うつし〕
 拜啓「猫」御通讀を蒙り難有存候
 御注意の通殿面は殿閣の誤にて是は柳公權の句、禅家にて利用せるは何時の事なるや、たしか碧巖に見えたりと記憶致居候
 應無所往生其心も御注意の方正しく候所無住は無論誤植に候序の節訂正致し度と存候
 右御禮迄草々
    六月十七日                  夏目金之助
   小野崎淳芳樣
 
      一一三二
 
 六月十八日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區大久保余丁町一〇六安倍能成へ
 拜啓御病氣の事は承はり候へどもついに御見舞にも參上致さず怠慢に打過候御回復の模樣は小宮抔より折々耳に致しひそかに喜び居候粥が食べられる樣になつた事も小宮から聞き候もう大丈夫とは存じ候へども精々御攝生專一に存候小生は其後不相變胃病に苦しみ居候處十日程前決意長與の胃腸病院へ參り候處胃潰|〓《原》の疑にて遂に入院する事に相成明十八日より轉移致候いつ出るか分りかね候。もし君丈夫になつても未だ入院中ならちと遊びに御出掛被下度候
 「土」は御説の通うまく候。「四篇」御高覽の由難有候
 先は右迄 艸々
    六月十七日夜                 夏目金之助
   安倍能|勢《原》樣
 
      一一三三
 
 六月十九日 日 後7-8 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區九段中坂望遠館松根豐次郎へ
 拜啓此間は御手紙を難有う。夫から醫者の勸にてとう/\表面の處へ入院、食物も、臥起も、萬事醫者の指圖通。運動もいけず、入浴もまだ許されず。徒然無聊。たま/\閑に乘じ此手紙をかく。さうして御返事に代ふ。小鳥を飼つてゐる病人あり。ちちちちと鳴いてゐる。 艸々
    六月十九日                 金之助
   豐 次 郎 樣
 今日の新聞に獨乙國賓松根式部官の案内にて云々とあり
 
      一一三四
 
 六月二十一日 火 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 拜啓それからの御批評掲載おそく相成不相濟候(五月二十一日)とある論文が丸一ケ月後の六月二十一日に掲載濟になるのも何か最初から工夫したるやうの偶然に候。
 改めて申候御批評は上中下共立派に拜見特に中を美事に存候。下は「それから」の筋を明瞭に記|臆《原》してゐる人でないと讀むに骨の折れる所有之候。然し長いものを短かくつゞめる爲には已を待ぬ譯かとも被存候兎に角中を讀んだ時は突然自分が偉大に膨脹した樣に覺え後で大いに恐縮致候
 御蔭を以て「それから」も立派な作物と相成候。作家は評家により始めて理解せらるべきものかと思ひ候位に候。多くの作者が一二行の惡口で葬らるゝ中に小生は君の如き批評を受くるは面目にも光榮にも有之改めて御禮申上候 艸々頓首
    六月二十一日                 夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一一三五
 
 六月二十三日 木 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 本二十三日の柴漬にアプリルフールとあるが英語ではエープリルフールと云ふので、四月をアプリルなんて發普されては文藝欄擔任の※[さんずい+嫩の旁]《原》石の英學者としての名前に關る。元來獨乙語なら獨乙語でいゝからアプリルナールとでも書いたら好いぢやないか。何を苦しんで半解の英語なんか振り舞すのだか要領を得ない。病院〔に〕も病人にも左右の兩隣にも變化なし。 艸々
    六月二十三《原》
 
      一一三六
 
 六月二十六日 日 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 茨城縣結城郡岡田村長塚節へ
 書状にてわざ/\の御見舞篤く御禮申上候年來の宿痾一層の進歩を加へ胃潰瘍とか申す病氣の由にて當分當院内に靜養まかり在候「土」御苦心の御模樣嘸かしと御推察申上候是は自分にも經驗ある事とて大兄の御心状よく相分り候御健康可成御かばひ可然か夏より秋にかけての御慰みの草花も御培養の御閑なき趣かうなると創作も人の子を賊するやの感を生じ候。「土」は毎朝拜見。一般に評判よき樣に候。何卒今暫くの御辛抱願上候先は右御挨拶迄 草々頓首
    六月二十五日                夏目金之助
   長 塚 節 樣
 
      一一三七
 
 六月二十八日 火 後3-4 麹町區内幸町胃腸病院より 北海道小樽區量徳町五八林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 試驗濟にて御歸省の由結構に存候充分御攝生專一と存候。小生胃潰瘍といふ病氣にて十日前此所に入院靜養中。左したる事も無之候へば御心配に及ばず。先は御返事迄 艸々
    六月二十八日
 
      一一三八
 
 六月二十八日 火 後5-6 麹町區内幸町胃腸病院より 兵庫縣多可郡黒田庄村藤井節太郎へ
 拜啓御手紙拜見致候御手漁の香魚御心にかけられわざ/\御送難有存候然る處殘念な事に陽氣の爲め腐敗致し居候由なるが或は箱の中でむれたのかと存候小生は只今病氣にて當院に靜養中に有之。どうしても香魚に縁なき身に候故腐つて〔も〕腐らないでも物質上の利害は同一に候たゞ御芳志に對し辱く御禮申上候 草々頓首
    六月二十八日                夏目金之助
   藤井節太郎樣
 
      一一三九
 
 七月三日 日 後1-2 麹町區内幸町胃腸病院より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓御手紙難有拜見致候其後とう/\思ひ切つて入院致し最初の一週〔間〕位は轉地の如く呑氣に消光致候處出血とまりて二週間目より蒟蒻《コンニヤク》で腹をやくんだと云つて火の樣な奴を乘せられるので一驚を喫し申候。のみならず一日にて腹が火ぶくれに相成り見るも淺間しく恐縮の體に候。昨今病氣よりも此方が苦痛に候。
 新潮は昨日宅より屆き一見致候。夏目|※[さんずい+嫩の旁]《原》石論抔と大きな活字が目につくと、今迄世の中と無關係に暮したものが急に裟婆氣づき何だか又人間に立ち歸る樣な情なき心持に候。
 第一の印象はよくも漱石の爲めにブラフ君がかく迄に方々を馳け回り、諸家又※[さんずい+嫩の旁]石のためによくもこんな面倒な事を敢てしてくれたかといふ勿體なき感じに候。然し新潮は新潮で又自分勝手の意味も有之べければ自然捕つた大兄等丈が御迷惑な譯に相成まことに申譯なく候。こと|は《原》大體の上に於て諸君が好意を以て同情を以て小生を批評せられてゐる樣なのは難有き慰藉とも可申か。
 まゝ誤謬誤解等あるも是亦文壇一時の即興景氣づけ位の所と思へば夫迄に候。のみならず到底歴史逸話傳記類に徹頭徹尾本當のものは無之事を深く感じ居候昨今には、間違が却つて面白く候。
 大兄は冒頭より※[さんずい+嫩の旁]石黨と名乘つて出でられ候御厚意御奮發に對して小生とくに他の諸君以上に御禮を申さねばならぬ義務有之候。然る處御批評のなかに※[さんずい+嫩の旁]石は付合ひにくひ男と有之。是も貴意を諒し候へども甚だ心細く候。小生から申せば大兄は小生に對しあまりに慇懃過ぎて付合にくく候。是を兩方で撤回してもつと無遠慮になつたらもつと御互が樂になるだらうと存候。小生は御評を拜見せぬ前より常にさう考へ居候處あれを見て愈思ひ當り候樣な心持に候。私はいつでも無遠慮になれる男に候。大兄はみんなから淡泊な人と評されて居らるゝ紳士に候。御相談の上是から交際法を變化して見たらどうだらうかと存候。貴意如何。と申し〔た〕からと云つて別に御返事を豫期する譯にも無之。まづ病中のいたづらと御聞流し可被下候 艸々頓首
    七月三日                  金之助
   秋 骨 先 生
 
      一一四〇
 
 七月十二日 火 後2-3 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 一寸御願あり病氣中に謠本の揃つたのを綴ぢて置きたいと思ふ。
 宅へ行つて調べて五冊づゝかり綴になつてゐる奴を相馬屋か何處かへ持つて行つて綴ぢさしてくれ給へ。
 あとからも綴ぢるのに表紙がちがつては困るから、其邊の都合のつく位澤山ある表紙を撰んでくれ玉へ。内外にて表紙を區別してもよし。
 表紙に白紙を貼付する事も頼んでくれ玉へ(あとから名前を書き込む)
 「松風」は|ど《原》ぢ込まずにあるが、あれを入れて五冊にまとまるならあれも入れて呉れ。あれは新の本だが何時迄立つても歸せと云はないから貰つてもよからう。しかも相手が新だから色々な點に於て、是を斷行しても差支ない理由がある。
 揃はない分を寫してくれる人があるなら頼んでだん/\纒めたし。夫も一寸聞き合して呉れ。面倒でも揃はない分の名前を表にしてそれを持つて行つて頼んでくれ。(是は事が面倒ならやらなくても好い) 以上
    七月十一日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一一四一
 
 七月十四日 木 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓昨日願候諸本寫取の件朱點入に願へれば大變面倒省け好都合に候。四方太君のおとつさんへ餘計御禮をしてさう願へればさう致し度野上へ一寸御依頼願候 以上
    十四日
 
      一一四二
 
 七月二十一日 木 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 拜啓御懇切なる御見舞状頂戴難有候小生病症は胃潰瘍にて今少しすれば退院位は出來さうに候、平生も御無沙汰病氣になると猶御無沙汰まことに不相濟候右御禮迄 艸々
    七月二十日
 
      一一四三
 
 七月二十一日 木 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓此間は御見舞難有候御手紙も拜見致し候もう少しで退院位出來さうに候。小鳥の巣島へ行く所から大變よろしき樣被存候、あの調子で始めから行かなかつたのが甚だ殘念に候右迄 艸々
 
      一一四四
 
 七月二十九日 金 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 北海道小樽區量徳町五八林原(當時岡田)耕三へ
 手紙をもらつて返事を出さうと思つても人が不絶來るのと懶いのとで甚だ失禮した
 胃潰瘍の療治は一段落ついて今は消化試驗やら胃液の試驗やらをやつてゐる。もう少〔し〕したら退院の許可が出るだらうと思ふ。時々散歩を許されたので日比谷やら銀座へ出かける。病院《〔?〕》で時々原稿をかく。人のくるのはいゝが床の上に横になりたくなる。北海道では山が破裂して大騷ぎ、此間友人が(ノ)ボリベツの温泉へ行けと勸めたが是ぢや危險の樣だ。
 君の病氣は如何涼しい所だからいゝだらうと思ふ。手のシビレるのはどうも氣になつてならん、全體何の病氣だかそれが分らないのは變である。是非とも療治の必要がある樣に思ふ
 今九月御上京の節に御目にかゝらう折角攝生を祈る 艸々
    七月二十九日                金之助
   耕 三 樣
 
      一一四五
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
 拜啓先日は御見舞難有候あの朝久し振で詩を考へ候それはあなたの扇子へ何か書いて見たくなつたからに候一時間ばかりして詩は出來候
  來宿山中寺
  更加老衲衣
  寂然禅夢底
  窓外白雲歸
といふのです、夫から墨を磨つてあの扇へ書きました處飛んだ字が出來上りました、扇は持つて歸りましたがあれは私が頂戴して置きます 艸々
    八月二日                   夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一一四六
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔はがき〕
 病中は御暑い所をわざ/\御見舞難有存候漸く輕快退院、田部君にはどうか大兄よりよろしく願上候。不取敢御禮と御報をかねて右申上候
 
      一一四七
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 入院中は御見舞難有候漸く輕快に赴き退院致候右不取敢御禮旁御報迄 早々
 御令弟へよろしく
 
      一一四八
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ〔はがき〕
 入院中は度々御見舞をうけ千萬難有候漸く輕快退院の運に至候、御禮のため參上致す筈の處攝生の都合にて時間甚だ窮屈故端書にて御免蒙り候 艸々
 
      一一四九
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ〔はがき〕
 入院中は御見舞難有候其節のグロキシニヤ珍重に眺めくらし候 漸く輕快退院致し候右御禮かたがた御通知申上候 艸々
    八月二日
 
      一一五〇
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇森卷吉へ〔はがき〕
 入院中は度々御出被下難有候退院(やつと)致候いづれ九月に御目にかゝり可申候 艸々
    八月二日
 
      一一五一
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 入院中は御見舞難有候漸く輕快退院致候
 右御禮旁御通知申上候 艸々
 
      一一五二
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 漸く退院、病中の御見舞を謝候 艸々
    八月二日
 
      一一五三
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 入院中は度々御見舞難有候漸く輕快退院の運に至り候右御禮旁御通知迄 艸々
    八月二日
 
      一一五四
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區彌生町二栗原元吉へ〔はがき〕
 病中は御多忙中御見舞難有候漸く輕快にて退院の許可を得候御禮と御報をかねて右不取敢申上候 艸々
    八月二日
 
      一一五五
 
 八月二十一日 日 前11-後2 靜岡縣修善寺菊屋本店より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ〔はがき〕
 拜誦御訪ねを蒙り奉鳴謝候目下落付き居候間機を見て歸京靜養之心組に御座候
 右不取敢御禮旁申上候 敬具
    八月廿一日
 
      一一五六
 
 九月十一日 日 靜岡縣修善寺菊屋本店より 牛込區早稻田南町七夏目筆子、夏目恒子、夏目榮子へ〔手帳の紙一枚の表と裏とに〕
 八《原》月十一日
 けさ御前たちから呉れた手紙をよみました。三人とも御父さまの事を心ぱいして呉れて嬉しく思ひます。
 此間はわざ/\修善寺迄見舞に來てくれて難有う。びよう氣で口がきけなかつたから御前たちの顔を見た丈です。
 此頃は大分よくなりました。今に東京へ歸つたらみんなであそびましよう。
 御母さまも丈夫でこゝに御出です。
 るすのうちはおとなしくして御祖母さまの云ふことをきかなくつてはいけません。
 三人とも學校がはじまつたらべんきようするんですよ。
 御父さまは此手紙あおむけにねてゐて萬年ふででかきました。
 からだがつかれて長い御返事が書けません
 御祖母さまや、御ふささんや、御梅さんや清によろしく。
 今こゝに野上さんと小宮さんが來てゐます
 東京へついでのあつた時修善寺の御見やげをみんなに送つてあげます。
 左樣なら
                        父より
    筆子
    恒子へ
    えい子
 
      一一五七
 
 十月二十日 木 後2-3 麹町區内幸町胃腸病院より牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 拜啓面會謝絶にて御出の時も碌々口もきかず、定めし御氣に障る事と存候へども病氣の我儘序に當分御許容被下度候。實際只今の小生の唯一の樂は只一人で其日を暮す事に有之候。
 御約束の文藝欄原稿第一回御送致し候間可然御取計願上候。毎日送る事も隔日になる事も、或は三四日拔く事も有之候はんも少しは長くつゞく事と存候。長さも内容も不定に候へば其邊も時時御見計ひの上他のものと一所又は獨立して御掲載願上候。 不一
    十月二十日
 
      一一五八
 
 十月二十六日 水 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内池邊吉太郎へ
 啓今度は大字にて認め申候青崖先生より借用の書籍は日本人又は支那人中にて先生の尤も愛誦せらるゝ詩集一二部拜見致度候ことに日本の詩人中にて如何なるを好まるゝか夫が承知致度候
 然らずは義堂絶海などの集もし御あきならば拜借願度と存候只今別に書物に事をかく次第も無之只御厚意に甘へて右樣申上候御多忙の砌わざわざの御手數にては却つて恐縮致し候小生入院中もし國分氏に御面晤の機も有之候はゞしか御依頼願上候 匆々
    二十六日                  金之助
   三 山 先 生
         硯北
 病氣療養中執筆無用の御叱り敬承致候然し醫者の許諾を得て時々の寄稿は退屈凌ぎの一種平生の娯樂位の處と御認めの上御勘辨にあづかり度候
 
      一一五九
 
 十月三十一日 月 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區臺町二七鳳明館東新へ〔はがき〕
 拝啓ランゲンシヤイツの獨英丸善より着致候。直接に病院へ送る様申上候處矢張早稻田の宅へ送り候。他の佛英及び英佛未着なれど、もし丸善よりあるならば直接病院へ屆く様御取計願上候。色々御手數恐縮致候。 匆々
    十月三十日
 
      一一六〇
 
 十月三十一日 月 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 御見舞難有候。段々軽快に候御喜可被下候。一寸妻が御禮に上るべき筈の處取紛れ未だに缺禮致居候。面會謝絶は御聞及の通に候。夫でも時々襲はれ申候。原稿に就ての御注意難有候。他の人からも叱られ申候。然し無理は不致候。御案じ被下間敷候。何事もたゞ閑靜なるが今の小生に取りては結構に候。本など取り散らし讀み居候。人に逢ふより本を讀む方遙かにうれしく候。日本の雜誌はいやに候。小説もいやに候。
 
      一六一一
 
 十月三十一日 月 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 きのふ御前から御醫者の禮の事に關し不得要領の事を聞かされたので今朝迄不愉快だつた。御前も忙がしい、坂元も忙がしい、池邊も忙がしい、澁川は病氣だから寐てゐるおれの考通り着々進行する事は六づかしいが、病人の方から云ふ〔と〕あんな事は萬事知らずにゐるか、さうでなければ一日も早く醫者にも病人にも其他の關係者にも滿足の行く樣にはやくてきぱきと片付く方が心持がよろしい。どうか今度其話をする時はもつと要領を得る樣に願ひたい。
 今のおれに一番藥になるのはからだの安靜、心の安靜である。必ずしも藥を飲んでゐる許や寐てゐる許が養生ぢやない。いやな事を聞かされたり、思ふ樣に事が運ばなかつたり、不愉快な目に逢はせられたりするのは、藥の時間を間違へたり菓子を一つぬすんで食ふよりも惡いかも知れない。昨夕も云ふ通り今のおれは今迄の費用のかたがはつきり就いて、病室の出入がざわ/\しないで、朝から晩迄閑靜に暮す事が出來て、(自分の隨意に一人で時間を使ふ事)さうして日々身体が回復して食慾が増しさへすれば目前はまあ幸福なのである。病人だから勝手な事をいふが、實際さうだよ。
 一 澁川に返す本の事を忘れてはいけない。
 一 野上に謠の本をどうする積だときく事を忘れてはいけない。
 世の中は煩はしい事ばかりである。一寸首を出してもすぐ又首をちゞめたくなる。おれは金がないから病氣が癒りさへすれば厭でも應でも煩はしい中にこせついて神經を傷めたり胃を傷めたりしなければならない。しばらく休息の出氣るのは病氣中である。其病氣中にいら/\する程いやな事はない。おれに取つて難有い大切な病氣だ。どうか樂にさせてくれ 穴賢
    十月三十一日               金之助
   鏡 子 殿
 
      一一六二
 
 十一月五日 土 麹町區内幸町胃腸病院より 京橋區新肴町二大和館森次太郎へ
 啓先刻御出被下候節は午前中原稿をかきたる爲にやいたく疲勞致居つい失禮千萬御海恕願上候
 さてかねて御話しの藏澤の竹一幅わざ/\小使に持たせ御屆披見大驚喜の體、假眠も急に醒め拍手※[足+勇]躍致居候いづれ御目にかゝり篤く御禮可申上候へども不取敢御受取旁一札如此に候 匆々
    十一月五日                 金之助
   圓 月 樣
       硯北
 
      一一六三
 
 十一月九日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より Bei Frau Lotheisen,Planckstrasse18,Go※[ウムラウトあり]ttingen 寺田寅彦へ〔繪はがき 修善寺獨鈷の湯〕
 僕は漸く輕快になつて此病院に歸臥してゐる。まづ當分は死にさうもない、喜んで呉れ玉へ。先達ての旅行の手紙は面白かつた。あれを朝日の文藝欄に載せた。又何か書いてくれ玉へ。僕病中の回顧録を「思ひ出す事など」と題して新聞にぽつ/\書き始めた。何れ出版のとき單行にするか、他と合本にするだらうから其時あげる
 
      一一六四
 
 十一月十日 木 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區市谷甲良町二〇金子雄太郎へ〔はがき〕
 拜啓小生病氣につき御懇篤なる御見舞難有拜見致候。俳句の事承知致候。畫帖小包にて御屆ありたく候。すぐと申す譯には參りかね候はんか、句も新らしく作るや舊作にて間に合すや計りがたく候右御承知願上候
 
      一一六五
 
 十一月十二日 土 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 御手紙拜見致候其後は如仰頓と來客に接せず專ら靜養をつとめ居候體力は漸々回復の模樣まづ御休神願上候
 病中の難有き閑靜を思ふと世の中へ飛び出すのが恐ろしく候
 謠も再興出來可申か頗る覺束なく候へども先づやれるものとして過日愚妻に依頼願上候四方太の御父さんに可然御たのみ可被下候
 病院では來客を謝絶し讀書に耽り居候少々佛語を勉強致居候分らぬ字を佛獨の字書で引き分らぬ獨乙語があると又獨英で引くといふやうな手間のかゝる方法を用ひ居候退院迄には双方とも物に致し度と存候。犬の科料話の種に候成程壹圓二十錢では高過申候能成の小便も始めて承はり候。もう巣鴨の邊は秋の景色で嘸よき眺めならんと存候今年の秋の景色は想像する丈で遂に冬になるべきか幸ひに南側にて暑い程好く日が射し込み候故冬の日は籠るに便宜かとも存居候其|向《原》方に向ひ候はゞ拜顔の上萬縷可申述候不取敢御禮迄 匆々不一
    十一月十一日夜                金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一六六
 
 十一月十二日 土 使ひ持參 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先日御寄贈の竹病院の壁間に懸け毎日眺め暮らし候今朝不圖一句浮び候まゝ記念の爲め短冊に認め進呈致し候病院に在つて自家になき小生の句としては甚だ嘘の樣なれど先づ家に歸りたる時の光景と御思ひ可被下候先は右迄餘は拜眉 草々
    十一月十二日               金之助
   森 樣
 
      一一六七
 
 十一月十五日 火 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區辨天町一七二山田繁へ〔繪はがき 修善寺虎溪橋〕
 新橋で御出迎を受けてからまだ御目にもかゝらず、御禮も申上ません。私は段々好い方で、毎日毎日生き延びて居ります。電話の御取次を度々願ひまして濟みません。昨日は又奇麗な花をわざ/\御屆下さいまして、まことに難有う御座います。あの〔花は〕甚だ勢が好う御座います。枕元に置いて眺めてゐます。 頓首
 
      一一六八
 
 十一月十七日 木 麹町區内幸町胃腸病院より 金子雄太郎へ〔うつし〕
 拝啓 今朝はわざ/\御見舞頂き難有奉謝候其節かねて御依頼の畫帖並びに短冊二葉たしかに落掌致候御希望により拙筆相認め申候につき明朝にても御序の時に乍御面倒使のもの御遣はし相成度候、平生拙筆の上出来事外あしく候へども既に書きたる後にて消を致す餘地も無之不得已恥を御目にかけ候
 病院にて雅印一個も持合せ無之もし御懇望に候へば畫帖早稻田宅へ御持越し其所にて漱石の落款御押し相成候ても宜しく候。午前中なれば愚妻在宅故書齋にある紫檀の小形の硯箱にある印と仰せあれば分り候。其中に手頃の印兩三顆有之筈に候。どれにても任貴意候先は御返事まで 艸々頓首
    十一月十七日                金之助
   金子薫園樣
       座右
 
      一一六九
 十一月二十一日 月 後3-4 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區五番町三高濱清へ
 拝啓其後は御無沙汰に打過候。修善寺にては御見舞をうけ難有候、猶入院中の事とて御禮にもまかり出ず失禮致居候
 別封宮寛と申す男より參り候中に大兄に関する事も有之候故入御覽候
 此人は昔の高等學校生にて不治の病氣の爲め廢學致候ものなる事御覚の如くに候
 かゝる人の書いたものをホトヽギスへでも載せてやつたら嬉しがるだらうと思ひかた/”\入御覽候
 文中小生の事のみ多く自分より云へば夫が憚に候。文字は別段の光彩も無之内容も夫程には見え不申、たゞ普通のものよりは幾分か新しき事あらんかと存候
 右用事迄申上候、當節は小説も雜誌もきらひにて、日本書はふるい漢文か詩集の樣なもの然らざれば外國の小六づかしきものを手に致し候夫がため文海の動靜には不案内に候。其方却つてうれしく候。新聞も實は見たくなき氣持致候 草々頓首
    十一月二十一日                金之助
   虚 子 樣
 
      一一七〇
 
 十一月二十九日 火 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區辨天町一七二山田繁へ
 先刻は又電話の御取次を願ひました處早速御引受被下好都合難有う存じます
 夫から結構な薔薇をわざ/\車夫に持たせて御よこし下さいまして是亦厚く御禮を申し上ます
 薔薇は早速花活に插して眺めてゐます看護婦が好い香がすると申しますまことに美事であります 草々
    十一月二十八日               夏目金之助
   山田|茂《原》子樣
 
      一一七一
 
 十二月一日 木 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓其後御無音小生順當に漸次回復御安神願候
 却説別紙長野の信濃新聞主筆桐生悠々君より到來致候處幸弘大兄は與平さんと御懇意乍御面倒御周旋被下度候猶初刷に入要の事故急がねば間に合はぬ事と〔存〕候故其御積にて萬事願上候
 先は用事迄 草々頓首
    十二月一日                 金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一七二
 
 十二月五日 月 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓先日は與平さんに御依頼早速御快諾をうけ難有候其旨直ちに桐生悠々君に通知致候處別紙の通申越候。然るに○を打つた所よく讀めず閉口なれど與平さんには分るだらうと存候につき御示し願上候。
 猶差出先は長野市旭町信濃毎日新聞に有之候につきこれも合せて御通知願候
 小生漸々よろしく候。朝起きた時は少し痛々しく見え候然し晝から夜へかけて人相又々わるく逆戻を致し候。謠も今少ししたら御|中《原》間入をして稽古が出來る事と存候 草々
    十二月五日                  金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一七三
 
 十二月七日 水 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 京都市吉田近衛一五厨川辰夫へ
 御書面拜見致候夏中より御病氣の由にて御臥床の由嘸かし御困却の事と存候小生も御承知の通大病に罹り一時は危篤に候ひしも幸ひに回復只今猶表記の病院にて靜養中に御座候間乍憚御休神可被下候時下追々寒氣相募り候折柄折角御自愛可然候先は御挨拶迄 艸々頓首
    十二月七日                 夏目金之助
   厨川辰夫樣
 
      一一七四
 
 十二月十二日 月 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓御紙面拜見致候小生の寫眞にて御役に立ち候はゞ御使用被下度一向差支無之候右御返事迄
 
      一一七五
 
 十二月十三日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓。だれと酒を飲んだとか、だれと藝者をあげたとかいふことは一々報知して貫はないでも好い。其末に悲しいとか、濟まないとか云ふ事は猶更書いて貰はないで可い。余は平凡尋常の人である。凡ての出來事を平凡尋常の出來事として手紙に書いてくれる人を好む。 艸々
 
      一一七六
 
 十二月十四日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔はがき〕
 啓上。小宮が御嫁さんを貰ふから何かやつたら好からう。國へ歸る前の方が好くはないか。品物は別に心當なし。毛織の厚い襯衣《シヤツ》薄いのと引替たし。御序の節御持參を乞ふ。中村杉村の件は都合次第御片付可然。子供をあんなはにかみ屋に仕立てゝは行《原》けぬ。御用心。時々病院へ連れて來て無理にも口を利かせる樣に御教育あるべし 以上。
 
      一一七七
 
 十二月十四日 水 後8−9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓君の結婚につき何か祝ひのものを上げろと妻に手紙を出して置いた。可成歸國前がよからうとも書き添へた但し品物は心當りなき旨も報知して置いた。もし細君の着物でも買ふなら妻と相談して夫を買つて貰つたらどうだらう。或は君が別に望むものがあるなら夫を妻の方に通じ給へ。記念になるものと思ふが別に妙案も浮ばず。内丸と野村のときは發句を染め拔いた縮緬の伏《原》※[示+沙]をやつた。
 
 あゝいふ端書を見たら心持を惡くするだらうと思つてゐた。けれどもあゝ書かなくては僕の主意が君に通じない樣な心持がした。僕の心持も通じないでたゞ君の感情を害した丈なら眞に無益の所爲である。僕は自分の腹立まぎれにあの端書を上げたのではない。君の近來の傾向にアンチシーシスを與へる積で書いた。君の樣な手紙は森田とか次郎にやるべきである。僕からあんな返事を貰つたら世の中には草平や次郎ばかり居らないといふ事に氣がつき給へ。君の心持を害したる事は不得已して冒したる僕の罪なり、後に餘波をとゞむる事御無用なり 草々
    十四日夜                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一一七八
 
 十二月十七日 土 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 「極光」が宿替を致し「思ひ出す事など」が毎日顔を出すに至りて少々面喰ひ候如何なる事情にや
    十二月十七日
 
      一一七九
 
 十二月十八日 日 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 拜啓御手紙拜見致候。文中時効〔二字右○〕にかゝりたりとて活版をコハシとある意味分りかね候。何の事なるや
    十二月十八日
 
      一一八〇
 
 十二月二十日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 啓時効にかゝつた事情ぢやない「時効にかゝる」といふ字面の意味が解しかねるのである。活版をコハシテ報知しなければ報知してくれと仰やい。
 ※[ヰに濁點]ジユアリゼーシヨンでも※[ヰに濁點]ジユアライゼーシヨンで〔も〕同じ事也。ゼーの所にアクセントガあるから前のシラブルの母音は長くても短かくても差支なきなり。東などをオーソリチーにせず改めるなら字引を御引きなさい。
 
      一一八一
 
 十二月二十六日 月 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 啓「今年の劇界」五六回つゞき候上は編輯長に掛合ひ都合(雙方の)よきとき丈文藝欄を擴張「思ひ出す事など」も同日の紙面に載せる樣に出來ずや。但し小生のは無論毎日と申す譯にてはなし
 
      一一八二
 
 十二月二十七日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 歳晩嘸かし御多忙の事と存候御風邪如何に候や御大事に御療養可然候小生日に増し快氣の方御安心可被下候
 偖別紙端書例の悠々先生より參り候につき御目にかけ候毎々御手數恐入候へどもどう〔か〕與平氏に御申傳願上候
 八重子さんに久しく御目にかゝらず不相變赤ん坊で忙しい事と存候
 先は右迄 艸々
    十二月二十七日              金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一八三
 
 十二月二十七日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 千葉縣成田町在押畑鈴木三重吉へ
 歳晩寒く候田舍は一層と存候病院にて越年珍らしく覺え候支那水仙猩々木薔薇など飾り居候寒梅をかぐ丈の風流も無之候
 「小鳥の巣」の事春陽堂へ申入候何とか返事ある樣致し置候參り次第早速御通知可申候然し今から宛にする事必ず御無用に候
 太陽へ書く事賛成に候御書き可被成儀 艸々
    十二月二十七日               金之助
   三 重 吉 樣
 
      一一八四
 
 十二月三十日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 元日のものは何も書かず候。客去客來思ひ出す事なども昨日迄書けず候
 
 明治四十四年
 
      一一八五
 
 一月一日 日 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷一一一狩野享吉へ〔印刷のはがき〕
恭賀新年
 昨年來度々御見舞に預り難有御禮申上候尚目下引續き入院中につき萬事缺禮仕候
    明治四十四年正月元旦  夏目金之助
          牛込區早稻田南町七番地
 
      一一八六
 
 一月 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區駒込千駄木町森林太郎へ〔封筒表側に「森田草平氏持參」とあり〕
 新年の御慶目出度申納候
 修善寺にて病氣の節はわざ/\御見舞を忝ふし拜謝の至歸京後はとくに貴著を給はり是亦深く御禮申上候參上の上親しく御高話も可承の處未だに在院中にて諸事不如意今度出版の拙著森田氏に托し左右に呈し候御藏書中に御加へ被下候はば幸甚に候 艸々頓首
    四十四年正月〔封筒の裏に「十二月三十一日」とあり〕                   夏目金之助
   鴎 外 先 生
         座右
 
      一一八七
 
 一月(日附不明) 《〔?〕》6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 埼玉縣南埼玉郡鷲宮村宮寛へ〔はがき〕
 謹賀新年
 去臘は無斷にて大兄の手紙をホトヽギスへ送り失禮致候
 一陽と共に御病苦のなからん事を祈候
    元日
 
      一一八八
 
 一月二日 月 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 鹿兒島市第七高等學校野間眞綱へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 修善寺の御見舞後引きつゞき生き延び候、御安心願上候
 
      一一八九
 
 一月二日 月 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 鹿兒島市春日町八七皆川正※[示+喜]へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 漸く生き延び候、一句かき可申候
 
      一一九〇
 
 一月三日 火 前11-12 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 正月早々苦情を申候。われ等は新らしきものゝ味方に候。故に「新潮」式の古臭き文字を好まず候。草平氏と長江氏はどこ迄行つても似たる所甚だ古く候。我等は新らしきものゝ味方なる故敢て苦言を呈し候。朝日文藝欄にはあゝ云ふ種類のもの不似合かと存候
 
      一一九一
 
    
 一月|五《〔?〕》日 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 小言を豫期して書かれてはたまらない。あんな書方は「新潮」式だから「新潮」式と申すにて古臭き故に古臭きに候
 石井のをくれと云はれてすぐ日取をかへてあしたに出した動機が――文藝欄にとられては厭だといふ了簡なら玄耳は氣の毒な男なり。君たしかにさう思ふか
 
      一一九二
 
 一月五日 木 後1-2 麹町區内幸町胃腸病院より 佐賀縣神埼郡三田川村苔野行徳二郎へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 くれには御母上と御令妹も御病氣のよし嘸御難儀と存候
 私は次第によろしく候、御歸りの節御目にかゝり可申候
 
      一一九三
 
 一月六日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 下谷區上野櫻木町二八阿部次郎へ〔はがき〕
 賀正  (門差上てもよろしく候、期御面會の日)
 御風邪の由御大切に可被成候。五日の拙稿御ほめに預かり難有候、小生老人を以て自ら居り大兄青年を以て自ら任ず、左すれば小生の書いたものが一回だも君の氣に入るは、却つて小生の若き所を曝露したるに等し。呵々。
 趣味は年に從つて變ず、永き年を通じて融通の利く趣味を有するものは其人の幸福に候。二十五の時は二十五の趣味、三十の時は三十の趣味丈ならばあまりいき苦しく候。
 
      一一九四
 
 一月八日 日 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 昨七日夜出したる「思ひ出す事など」二十四の末にある詩
  秋露下南澗 黄花粲照顔
  欲行沿澗遠 却〔右○〕得與雲還
のうち○をつけた却の字を還と間違へて書いたかも知れず。もし間違つてゐたら御正し下さい
 
      一一九五
 
 一月二十日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 埼玉縣南埼玉郡鷲宮村川羽田隆へ
 御手紙を拜見致しました。小生の病氣で色々御心配被下難有う御座います。病氣は段々快くなります。今では病氣前よりも目方なども増しました。たゞ用心の爲め病院の人となつて居ります。多分は二月一杯位居るでせう。「思ひ出す事など」御讀み被下候よし御禮を申し上げます。毎日出る必要もないので途切れ/\になります。
 南埼玉郡鷲宮とあるので宮寛君の事かと思ひました。あなたは同君を知つて御出ですか 艸々
    二十日                  夏目金之助
   川羽田 隆樣
 
      一一九六
 
 一月二十日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 神奈川縣逗子町新宿田坂方坂元三郎へ
 無事御安着結構に候。
 人から長い手紙をもらふとよく|な《原》んな時間をつぶしてくれたと思ふ。君のも其一例である。何でもない事をこま/”\書いてあるのに面白味があつて愉快に讀んだ。まづ妻君も妻君の御兩親も至つて平和さうで何よりも目出度い心持である。折角山と海で養生して旨く三度の食事が出來る樣にならん事を希望する。昨夜から雪で今は市中眞白になつてゐる。逗子も天氣がわるいのぢやないか知らんと思ふ。
 獨乙へ手紙を出す。英國へたよりを書く。森田に小言を云ふ。知らぬ人の書翰に禮の返事を出す。それや是やで今朝は病院も大分多事、長い御返事も出來ない。小宮は歸つた朝すぐ芝居へ行つたさうだ。大將どう云ふ了見かな。君は妻に先生は中々政畧が上手になつたと云つたさうだ。妻に松本の西洋料理を奢つたさうだ。森成さんから越後の謙信の話を大分聽いて面白かつた。町井さんが脉をとると脉が急に早くなるのは事實です。大方化物に捕まつたと思ふせゐだらうと云ふ事に歸着した。 艸々
    二十日                  金之助
   三 郎 樣
 奥樣にも御老人にもよろしく。逗子抔へ引込んで畠を作つてゐられる人は眞に羨ましい
 
      一一九七
 
 一月二十日 金 後0-1 麹町區内幸町胃腸病院より Bei Frau Lotheisen,Planckstrasse18,Go※[ウムラウトあり]ttingen 寺田寅彦へ〔繪はがき〕
 ワイナハトの手紙正に拜見。面白かつた。病氣段々よろし。體重十四貫半。病院には用心のため二月迄ゐるつもり。此方の新聞は千里眼、透視、念射などて大分賑なり。「門」一部送り候。歸りに船の中ででも御讀み下さい。
    一月二十日                  夏目金之助
 
      一一九八
 
 一月二十四日 火 後(以下不明) 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 過日手紙にて申上たる件につき御協|義《原》仕りたし。妥協の道あらば成案を持つて御來院を乞ふ。
    一月二十四日
 
      一一九九
 
 一月二十九日 日 前7-8 麹町區内幸町胃腸病院より 兵庫縣御影町前川清二へ
 拜啓先日御申越に相成候拙句御依頼通原稿紙に認め御送申上候兩方共認め候につき御氣に入りたる方を御存しあまれるを御※[手偏+止]捨被下度候御氣に召し給はずは猶幾枚にても書き直し可申候 草々頓首
    一月二十八日               夏目金之助
   前川清二樣
 
      一二〇〇
 
 二月一日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 千葉縣成田町成田中學枚鈴木三重吉へ
 新年早々ストライキがあつた由學校の教師をすれば是から同樣の事が何度となく起るものと思はなければなるまい。今は世の中の門口を潜つた許りだ。第一の經驗として興味のある事件と思ひ給へ。和尚さんが君を辭職させないのは好い。生徒を罸しないのも好い。君も平氣で居れ。
 此月二十六日に退院の都合、何故二十六日といふと妻が易者の所へ行つて見てもらつたのださうだ。夫で差支ないからうらなひの云ふ通り妻の申す通りにする積である。二三日東京は大變暖かい。暖かいと戸外へ出たくなる。 艸々
    二月一日                   金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二〇一
 
 二月一日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 好い家に御引移のよし。此方はまだ入院中。二月二十六日に出る筈。體重十五貫弱。毎週増加の模樣。是ならば當分生き延る事に候。野間君へよろしく
 
      一二〇二
 
 二月一日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 名古屋市島田町田島道治へ〔はがき〕
 此方よりも御無沙汰御新婚御目出度存候猶病院にあり、二月末退院の筈。謹んで御夫婦の御清福を祈る。
 
      一二〇三
 
 二月一日 水 前(以下不明) 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ〔はがき〕
 長い手紙を難有う。長い手紙を書きたいが色々用事があるから是で失禮する。僕は此月末に退院する。あつたかくなると戸外へ出たい。澤山金を持つて遊んで暮したい。
 
      一二〇四
 
 二月二日 木 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 着物と草履と雜誌は受取つた。大嶋の着物を不斷着にする程惡くして仕舞つたのかな。あの羽織のがらは嫌だ。買つたものだから仕方がないから着る。實はドテラももう大《原》なしになつたよ。どうせ仕《原》着るなら大嶋もよこして呉れ。
 眼がまはつて倒れる抔は危險だよく養生をしなくては不可ない。全体何病なのか。具合が少しよくなつたら、よくなつたと郵便で知らせて呉れ。御前が病氣だと不愉快で不可ない。あまり天狗などの云ふ事ばかり信用しないがいゝ。
 うたひの本は病院で大聲を出して謠はれもせんから寄こしても大丈夫である。夫から是からさき一年やめろなら已めてもいゝが、やめる必要もないならやる方がいゝ。醫者に聞いて見る。
 あつたかになると病院が急にいやになつた。早く歸りたい。歸つても御前が病氣ぢやつまらない。早くよく御なり。御見舞に行つて上げやうか。
 子供へ皆々へよろしく
    二月二日                    金之助
   鏡 子 ど の
 
      一二〇五
 
 二月三日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓其後御無沙汰。小生豫約の謠本に加入の旨能成を通じて申込たる處其後一向音沙汰なき模樣、あとから一度に金を取られるのは恐れるが、序の時一寸幹事に聞き合せて呉れ玉へ 艸々
 
      一二〇六
 
 二月四日 土 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 着物届き候。大嶋の衣物と下着とはよく考へると實は不用に候。然し此方へ取つて置き候。
 大嶋の下に着る下着の胴の色あれでは羽織の裏の如く甲斐絹と同樣にて見惡く候。白茶か、あらい模樣宜し|た《原》申したる積に候。元の大嶋の羽織を不斷に着る程わるくなり候や。夫よりも只今着てゐる鐵色の方わるくならずや。又不斷着ならば支那のケンドンの重い方が結構かと存候。いづれ歸つて見た上に致すべく候。
 羽織の方チヨイ/\着なればあの裏にては駄目に候あれは下等な風呂敷の模樣に候。いつか取り換たく候。織屋から買つた糸織とかの不斷の羽織とかはどうなり候や。それへあの裏をつけたら好からうと存候。
 謠本は病院では大聲で謠へる筈なく候。只退屈故申入候。森成さん抗議を申込み候も差支なく候。常識なき醫者の忠告に候。取合ふに及ばぬ事に候。謠本はとぢたもの宅に餘り候を二三冊入用と申候。 以上
    二月四日                 金之助
   鏡 子 殿
 
      一二〇七
 
 二月九日 木 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 御序の節關晴瀾氏の原稿を本人へ御返しのため、又タツミ氏に依頼されたるものを屆ける爲め、社に出らるゝ前一寸御立寄願候
 
      一二〇八
 
 二月十日 金 後(以下不明) 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 拜啓本日回診の時病〔院〕長平山金|三《〔藏〕》先生と左の通り談話仕候間御參考のため御報知申上候。
 旦那樣「もう腹で呼吸《いき》をしても差支ないでせうか」
 病院長「もう差支ありません」
 旦  「では少し位聲を出して、――たとへば謠などを謠つても危險はありますまいか」
 病院長「もう可いでせう。少し習《な》らして御覽なさい」
 旦  「毎日三十分とか一時間位づゝ遣《や》つても危險はないですね」
 院 長「ないと思ひます。もし危險があるとすれば、謠位|已《や》めて居たつて矢張り危險は來《く》るのですから、癒《なほ》る以上は其位の事は遣《や》つても構はないと云はなければなりません」
 旦  「さうですか。難有う」
 右談話の正確なる事は看護婦町井いし子孃の堅く保證するところに候。して見ると、無暗に天狗と森成大家ばかりを信用されては、亭主程可哀想なものは又とあるまじき悲運に陥る次第、何卒此手紙届き次第御改心の上、萬事|夫《おつと》に都合よき樣御取計被下度候 敬具
    二月十日午後四時町井いし子|立會《たちあひ》の上にて認む      夏目金之助
   奥 樣 へ
 
      一二〇九
 
 二月十二日 日 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 風葉は謝絶になり候や。夫にて可然事と存候。つぎは貴兄御書きあるぺく候。池邊氏と談合の上必要の猶豫を得らるゝもよろしく候。先日申上候もの取に御立寄ならず。如何なされ候や。端書一枚位は書くひま有べき筈
 
      一二一〇
 
 二月十三日 月 前11-12 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
  原稿料送ルニ及バズ
 衛藤東田の「新ラオコーンに就て」とか云へるもの前後三回に渡りて興の覺めたるものかな。出來得る限り以來こんなもの没喜可被成候。又ロマンチズムと云ふ言葉ありやクラジツクとも云ふや
 
      一二一一
 
 二月十三日 月 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 御目出度人御惠投たしかに頂戴御禮を申します。私は段々よろしくなります。今月二十六日に病院を出て人間界に入ります 草々
    二月十三日
 
      一二一二
 
 二月十三日 月 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 一月のBu※[ウムラウトあり]hne und Welt が來た それは結構だが去年の十一月のDeuts|he《sic》 Rundschau が來たには驚ろいた。君は全體何月號迄よんだ。森田が間違へてNeue R.S.をたゞの R.S. として引繼ぎ注文をしたのではないか。一寸御聞合せ申し候
 
      一二一三
 
 二月十四日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 長耳生のカペルマン音樂會評中に曰く雀羅孟〔二字右○〕求を囀るに似たりと。
 雀羅とは雀を捕る網の事なるべし。アミが囀るとは不可思議千萬に候。又孟求と云ふもの見たる事なし。蒙〔右○〕求の誤ならん。君が書けるにや東がかけるにや。好加減な事ハヨス方ガイヽ
 
      一二一四
 
 二月十七日 金 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ〔はがき〕
 御手紙拜見致候。御申越の件は至極よろしからんと存候。出來得る丈早く御取極可然かと存候。右御返事迄。私は二十六日に退院致候
 
      一二一五
 
 二月十七日 金 後2-3 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 武者小路から御目出度人と云ふのを送つてくれた。戀の進行を明らさまに書いたものである。今の作家の戀を打ち明けた|の《原》ものは大概世にすれからした萬事を心得顔(ことに女性を)の主人公か又は墮落生と同程度の徳義心を持つた主人公である。然るに是は若い、女を知らない、相當の考のある、純粹な人の戀を其儘書いたものである其所に價|價《原》がある、君讀んで見ないか、森田の見た樣に無暗にがらないから好い。
 夫から鴎外から烟塵といふものをくれた。此前の涓滴といふのももらつてある。
 以上三書に就て何か書くなら書いて見ないか 艸々
    二月十七日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一二一六
 
 二月二十一日 火 麹町區内幸町胃腸病院より 文部省專門學務局長福原※[金+燎の旁]二郎へ
 拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知があつたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました。
 學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます。然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。 敬具
    二月二十一日              夏目金之助
   專門學務局長福原※[金+燎の旁次《〔二〕》]郎殿
 
      一二一七
 
 二月二十四日 金 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓からだを大事にしろとの御忠告御尤なり、隨分氣をつけてゐる積なり(笑ふ勿れ)木曜會で菓子を食ふはあの位食つても差支ないと云ふ自信ある故也否あの位儉約したつてどうせ胃はよくならないと云ふ信念ある爲なり、わるい信念なり出來丈撤回に力むべし
 夫から別問題に就て 女に對する戀が徹底とか猛烈だとか云ふ分子さへあれば戀で、其他のわるい處があつても戀だと云ふのは勝手だが是丈が戀だと思ふのは間違だよ。
 君の云ふ事は好惡の區別であつて戀になるならぬの問題ぢやない。茶が好きなものを見て何でもブランデーの樣にヒリツカなくては飲料でないと云ふのは可笑しいぢやないか。
 武者小路のは不徹底ぢやない、あれ程徹底する事は君にや出來ない、只内氣で亂暴を働かない丈である。そこに初心の可愛らしい處があるのである。あれを眞山青果流にやつて見ろ猛烈かも知れないが其一面には下劣な處が出來る。
 一體君は口で徹底とか何とか生意氣を云ふが其實を云ふ〔と〕不徹底な男である。さうして不徹底の好所を了解せぬ男である。
 武者小路のヒーローに何等下劣な所ありや、たゞあゝ云ふ戀と思ふぺし。戀の一種類と思ふべし。さうして其特所に同情すべし 草々
    二月二十三日夜                金之助
   豐 隆 樣
 
      一二一八
 
 二月二十四日 金 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 神奈川縣逗子町新宿田坂方坂元三郎へ
 拜復僕は二十六日に退院の筈からだは當分持つだらうと思ふ、謠はうたひ出した、出てもつと大きな聲を出してやりたい、
 長い手紙に對しては感謝の意を表したのである、諷諭などの了簡は更にない、僕はあてこすりは云はない男である(といふと君はエヘヽヽヽと笑ふかも知れないが)
 夜酒を用ひないと寐られないと云ふのはどこか異状があるに相違ない、君の心臓はわるいさうだ、ひどい病氣に堪へない位惡ひさうだ、力めて養生しなくては不可ない、養生は若いうちの事だ、
 小宮が酒を飲んだとか藝者を揚げたとか云ふ事を臆面なく僕の前で話すのを僕は可愛い男と思つてゐる、然しあまり相槌は打たない、どころか始終罵倒してゐる、夫で向ふでも平氣でゐる、從つて此方でも遠慮なく云へる、あれがつゝみ隱しをする樣になつては隔てが自然出來るからあゝ親しくは行かない、小宮は馬鹿である、(凡ての人がある點に於て馬鹿である如く)、其馬鹿を僕の前で批判を恐れずに曝露してゐる、あれは廉恥心がないと云ふのぢやない弱點を批評せられる未來の不便を犠牲に供して顧みないのである、僕は彼の行爲飲酒其他を倫理的に推稱しない、けれども敗徳の行爲とは認めない、つけ/\罵倒するにも拘はらず、不徳義漢とは考へてゐない、あれで可いぢやないか、
 僕は君の凡てを知らない、君は君の凡てを僕に語らない、つまり君は僕に遠慮がある、從つて僕も君には遠慮がある、其所に禮義はあるかも知れぬが打ち解けない所もある、是は君から見ても事實だらう、
 僕は散歩して赤坂田町の方や大倉喜八郎の邸の周圍や又は芝公園や烏森や木挽町や色々な知らない所を歩いて面白がつてゐる、もう二三日しか歩けないから殘り惜い、
 妻は春になつたら君の所だか逗子の事だか何しろ遊びに行きたいと云つてゐる、
 君は萬事心得た顔をして振舞つてゐると人から評せられたさうだが、實際さう見える所があるんだよ、君が不安云々は是亦一面の事實で誰にでもつけ絡つてゐるのだらうと思ふ。
 ※[さんずい+樣の旁]虚集を讀んだら嘸つまらないもの許だらうと思ふ、僕は自分で自分の著書が怖いから可成讀み直さない樣にしてゐる、 艸々
    二月二十四日                夏目金之助
   坂元三郎樣
 
      一二一九
 
 三月三日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 麹町區九段中坂望遠館松根豐次郎へ
 拜啓今夜は帝國劇場にて滿堂の紳士貴女のうちを時めき給ふらんと遙かに想像致し居候
 偖別紙は山田繁子さんの作の雛の俳句なるが面白いと思ふ故送る故國民に出して上げて頂きたく候如何にや山田さんは名前丈も御承知の事と存候此間來て俳句をやりたいと申せし故雛といふ題を課したら持つて參りしものに候 艸々
    二《原》月二日夜               金
   東 洋 城 樣
 
      一二二〇
 
 三月三日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 校正の件大倉へ申遣候、猫のうちに薫風南來殿閣微涼生といふ所と應無所住生其心といふ所に誤植ある由先年申來りたるものあり此際訂正したき故其所が來たら御注意を乞(多分下卷)
 
      一二二一
 
 三月四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 病中は色々御心配をかけ候去る二十六日漸々退院致候一寸上がらうと思ふが中々さう行かず手紙で御報致し候 艸々
 
      一二二二
 
 三月四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學松本文三郎へ〔はがき〕
 先日はわざ/\御見舞難有候漸く退院致候間御安|御《原》神願候
  藤代君へ一寸君からさう云ふて呉れ玉へ
    三月四日
 
      一二二三
 
 三月四日 土 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷町一一一狩野享吉へ〔はがき〕
 病中は色々御世話に相成候漸く去る二十六日退院の運に至り候一寸御禮に出る筈なれど中々さう參りかねこゝに端書で右御報知申上候 艸々 三月四日
 
      一二二四
 
 三月七日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市第七高等學校野間眞綱へ
 病氣の折はわざ/\修善寺迄遠路を呼び出した樣にあたり甚だ濟まぬ事と思ひ居候定めて休暇中のプランが破壞された事と存候御氣の毒に存候、然しあれで死ぬとしたら一寸でも逢つて置く方が御互に好かつたかも知れず候
 病氣は其後段々よろしく遂に去月二十六日退院の運に至り候間御喜び可被下候
 皆川君へは別段手紙を出さぬ故君より宜敷願候何でも立派な家を借りたとかで得意の樣に見受られ候が夫程立派に候や謠は不相變勉強にや小生も退院ぽつ/\始め候今度來た時は一所に謠はうと存候皆川君のくれた臺は未だ使はず誰か來て謠ふ折には持ち出さんと構へ居候
 奧さんへ宜敷、修善寺の帶は御氣に入候や 草々
    三月七日                  金之助
   眞 綱 樣
 
      一二二五
 
 三月七日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京都大徳寺中黄梅院黒本植へ
 拜啓其後は打絶御無音に打過候處愈御清勝奉賀候御近況は時々行徳生より承はり居候目下洛北に御閑居終日筆硯を友とせらるゝ由欣羨の至に存候病氣御尋被下難有候一時は危篤に候ひしも幸に全快只今は病氣前より肥滿うちくつろぎ居候
 學位辭退につき分に過ぎたる御褒詞却つて慚愧の至に候玉詩一首御惠送是亦故人のたまものと深く筐底に藏し置可申候
 先は右御挨拶迄 艸々頓首
    二《原》月七日                 金之助
   黒 本 先 生
         坐下
 
      一二二六
 
 三月八日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ〔はがき〕
 先日は失禮致しました。俳句を松根に送つ〔て〕やつたら大喜びで是非勸誘して作る樣に盡力してくれと申して來ました。さうして何時か紹介してくれと申します。松根につらまると大變だから紹介は當分見合せます。然し句は御作りなさい。山田さんに宜敷
 
      一二二七
 
 三月九日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 拜啓漸々春暖に相向ひ候處愈御清勝奉賀候偖小生病中は特に病院迄御見舞を辱ふし感謝の至に不堪候其節は身体順調をかき御面會も叶はず失禮致候年末には又奥樣より自宅へ御見舞を受け是亦取紛れ其儘に致し居候由無申譯候
 却説小生其後漸次回復去月二十六日漸く退院の運に至候間乍憚御休神願上候早速御禮の爲|可《原》まかり可出の處彼是多忙にて且つ氣が落ち付かず今日迄御無沙汰に打過候此分にては何日御禮の爲め御近傍へまかり出候やも計りがた〔き〕につき一寸手紙にて御挨拶申候
 先は右迄 艸々
    三月九日                  夏目金之助
   齋藤阿具樣
 
      一二二八
 
 三月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市山下町六〇ケリーウヲルシ會社内久内清孝へ
 拜啓病氣中は御見舞難有候あの繪端書は大分諸方へ送り申候退院の時一寸御通知する筈でしたが何しろ混雜やら落付かないやらで失禮しましたあなたのケリーウヲルシにゐる事は始めて承知しましたマードツク先生の日本歴史は慥かに受取りました御手數を謝します。大變に重い厚い本ですね十圓では日本ではあまり賣れないでせう紙や表装や活版はもう少しハイカラに出來さうに思ひます
 先は右御禮迄 艸々
    三月十日                  夏目金之助
   久内清孝樣
 濱武からも時々音信があります此間長崎のカステラを呉れました
 
      一二二九
 
 三月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 新居の趣如何築地と早稻田にては一寸電車を利用しても憶《原》劫である 庭梅漸く滿開春意可人君の方の海の色は知らず、只今風邪にて鼻つまり氣分宜しからず
 「門」を讀んでくれるなら上げるが今は全くやり悉して仕舞つた、其後人の懇望で一二冊春陽堂から取つた位である、君のも取るがもう少し待ち玉へ 右迄 艸々
    三月十日                    金
   豐 次 郎 樣
 
      一二三〇
 
 三月十日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區新肴町二大和館森次太郎へ
 退院後別段の變化もなく無事に暮し居候御安心可被下候
 蒲鉾御惠投難有風味仕候、と申して實は小生は食はず妻君及び子供が代理をつとめ候久し振りに風邪を引いて鼻が出て頭が重くて困つて居ます 右不取敢御禮迄 艸々頓首
    三月十日                   夏目金之助
   森 圓 月 樣
 
      一二三一
 
 三月十二日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 校正御苦勞に存候早速御廻送致候可然御取計願候
 大倉のものいびきをあくびと訓じて平氣なり、君もそれに氣づかぬ樣子どうか御注意を願ひたい、縁側は縁の字可然か 艸々
    三月十二日                  金
   豐 隆 樣
 
      一二三二
 
 三月十四日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 先達て依頼せる早矢仕と武田二氏へ名刺持參の件はどうなりしや
 「マードツク先生の日本歴史」上下面白くなけれど約束故稿したり御送を乞ふ。原稿は時間の許す限り檢閲したし。その積にて願ふ。坂元のも同封にて送る。是は左程面白くなくて長さは二段近くあるから詰めてよきや否や只今問ひ合せたり、返事來り次第面倒でも一回分に御削りを願ひたし。先方でつめると云ふなら原稿を返してやるぺし、何れとも不明
 
      一二三三
 
 三月十四日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 拜啓先刻送りたる日本歴史批評は掲載の節上下とも二枚づゝ送つてくれる樣配達掛へ御依頼願候マードツク先生へ送る爲に候 艸々
    十四日夜
 
      一二三四
 
 三月十六日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ
 拜啓御書面にてかねて御惠投の旨被仰越たる國光一名雪の下の一箱咋十五日午後漸く到着實はあまり大きくて嚴重に打ち付けてあるのでまだ葢を開け不申候御心にかけられ遙々の御寄贈うれしく受納仕候御地は寒氣未だ烈しかるべく折角御自愛祈り候小生退院後さしたる變化も無之此分にてはまづ大丈夫と存じ候久しく歩行せざりし爲めあるくと足のかゝと痛み頗る苦痛を覺え候一度は北の國へも遊び御國の林檎の模樣抔拜見致度ものと存居候がまだ仙臺以北に行く機會なくて今日迄打過ぎ申候
 先は右御禮迄 草々
    三月十六日                 夏目金之助
   安田秀次郎樣
 
      一二三五
 
 三月十七日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜啓其後は矢張御多忙にや別紙は山田の奥さん(繁子)から來たけれどもよくない、然し君もあゝ云つたものだから一應見せる、一二句でも物にしてやつては如何 原稿は面倒でも一寸返して呉れ玉はぬか 艸々
    三月十七日                 金
   東 洋 城 樣
 
      一二三六
 
 三月十八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ
 手紙到着拜見ホトトギスの小説は仰の如一讀何か賛辭を呈し度と思ひしかどもあの主人公が僕にはどうしても少年らしく受取れなかつたので其儘にせり、夫からあまり長過ぎる嫌もあるやに思つた、
 僕も段々小説をかく時機が近付いてくるのに辟易してゐる何か書けるだらうかと考へる
 人が毎日苦しんで新聞小説を書いてゐると世間ぢや存外平氣でゐる、風葉などに對しても氣の毒である。けれども是が職業となると却つてくだらない方面から閑却される方が薩張して心持が好い場合もある
 成田の文豪には驚ろいた、あの新体詩は創体として珍重すべきであらうと思ふ
 近來ぐづ/\で強《原》強もせず遊びもせず退院後は小康を貪ると申す有樣自分でもいやになる事あり
 右迄 艸々
    三月十八日                  金
   三 重 吉 樣
 東洋城築地二の三九に新宅を構ふ、まだ行かず。間數三と云ふ。狹いものならん
 
      一二三七
 
 三月十九日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 文藝欄編輯の件と小説原稿料の件に付ては懇々森田に話したる事あり、其懇々が未だ君に傳つてゐぬためあんな長い手紙を書く必要が起つたのぢやないか、もう一遍森田に會見して僕の意志を聞いて見給へ、うちへ來れば僕が話してもよし。
 森田が小説を書き出したら編輯を君がする事森田にも僕にも便利也。たゞし(報酬問題としてなら猶相談の餘地あらん)手紙にてすぐ確定しがたし
 
      一二三八
 
 三月二十一日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 札幌北六條西七丁目八山内義人へ
 拜啓去年は橋本君を通じて玉稿をわざ/\御送相成候處多忙やら病氣やらにて思ひながらつい/\其儘に打過候處に又々御新作御寄贈に相成狼狽致し幸ひ目下小閑あるを機として早速年賀状丈を拜讀致しました
 偖其所感を無遠慮に申上ますとあれはまだ公けに出來る程成つてゐません。元來黒人のかくものは巧でも黒人臭いいやな所があります。其意味からして黒人離れのした樣なナイーヴなものは大に珍重可致ですが、御作には此黒人離れのした素人としての好處がありません。中にはちよい/\面白いと思ふ所もありますが手紙では悉せま〔せ〕んから申上ません。
 失禮だけれども御忠告をしますが、もつと短かいものをもつと念入にかいたら(御作は書きなぐり過ぎます。餘計な批評などが澤山這入つてゐます)何うですか。夫でなければ北海道邊で丸で内地人に知られない珍らしい景色や人情や風俗の寫生を御やりになつては如何ですか。小説にしやうとなさるから黒人離もしない上に素人臭いものも出來上るのですが小説抔といふ色氣を離れてたゞ事實のうちで面白い事、愉快な事、珍らしい事、種になりさうな事を平生御見聞の裡から御書きになつたらと思ひます。玉稿中にある犬の事に關するゲーテの詩の譯の所など即ち其一部であります。あれは作つたつて一寸出來やしません。(たゞ何とか云ふ助教授をあゝ頭からチヤカシて書かないでもつと眞面目に御遣んなさい。たとひ批評をしてももつと本式に御遣りなさい。)
 まだ申上る事はありますが長くなるから休めます。あれ丈の長いものを書く努力は大變です夫を一言にケナスのだからケナス方も心苦しいのであります。たゞ未來の御參考の爲と存じて失禮を申上ます。御赦を願
ひます
 東京邊の雜誌に載る小説も御參考になります。ひまの時御讀になる事を希望します 艸々
    三月二十一日                 夏目金之助
   山内義人樣
 病中は寫眞繪端書等御親切に御送り下さいまして難有う存じます序と申して失禮ですが茲に改めて御禮を申上ます。橋本君にも宜しく願ます
 
      一二三九
 
 三月二十二日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ
 小宮が君の代りに文藝欄をやる事を社に話してさうして君の小説を獨立した人間のそれと同價に買ふ事を僕は決して拒んだ事はない、否寧ろ僕の方からさうしたら何うだと云ひ出した位だ、さうすればたゞ必然の勢君が小説を濟ましてから又もとの文藝欄に立ち戻る事が不慥になる(むしろ出來なくなる)と云ふ危險がある丈である、此危險を冒す氣なら僕は君の原稿を五圓で買つてやつてくれと社に要求しても宜いと小宮に云つたのである、それが否なら文藝欄に關係をつけて置いて原稿料を少なく貰ふより外はあるまい、
 小宮は何うしても先生を承知させると云つたとか、さうして僕の前では丸で理窟らしい事は無論、殆んど何も云はなかつた、それなら分り切つた事を繰り返して押し懸ける必要もなささうなものだ
 君は僕の意に從ふといふ、それは難有い、然し君も小宮も僕の云ふ事を尤もとは口外しない、たゞ僕の云ふ事でそれに背けば今の處物質的に損だからまあ云ふ事を聞かうと云ふ樣な調子に見える、僕はいやだね、人を強るのは否だ、僕が無理を云ふなら抗辯しても構ない、此際已を得ないから感心はしないが意に從つて置かう抔は甚だ癪だよ 艸々
                        金之助
   米 松 樣
 
      一二四〇
 
 三月二十四日 金 牛込區早稻田南町七より 内田榮造へ
 拜啓先日病院へ御光來被下候時は臥床中とて甚だ失禮申候其後病勢漸く退却去月二十六日退院の運に至り候間御安心可被下候
 偖御惠投のインベの茶器一組正に到着難有御禮申上候わざ/\小生の爲に御求め御國元より御持參被下候趣一層嬉しく候不取敢御挨拶迄 艸々
    三月二十四日               夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一二四一
 
 三月二十七日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區内幸町胃腸病院内森成麟造へ〔はがき〕
 拜啓二十九日に杉本さんを新橋迄送つて行かうと思つてゐましたが朝早くて時間の都合が少々困るのでとう/\失敬する事に極めてしまひました。夫で甚だ申譯がないからあなたから何うぞよろしく願ひたいのです。杉本さんの健康と成功を祈る旨を御傳下さい
 
      一二四二
 
 三月二十八日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
○眼《め》を白黒《しろくろ》くする(濁らず)      東京語
○心が晴々《せい/\》する               東京語
○青軸《あをじゆく》             梅の一種 東京語か
 右御返事迄 艸々
    三月二十八日
 
      一二四三
 
 三月三十日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓退院後一寸御禮の爲め參上可致の處あたまも身體も自由にならず未だに失敬致居候
 偖御存じの文藝欄につき又々責任相生じ原稿は時間の許す限り一應眼を通す事に相成候昨日森田より玉稿廻送拜見致候あゝ云ふ文教上の時事問題を一束にして短評を時々試むるのは至極よろしき思付と存候があれをもう〔少〕し刈り込み度候が如何にや刈込み方御任せ被下るゝ譯には參りかね候や伺ひ候、尤も御主意は改めぬ積に候たゞし最初の文部省が器量をさげたとか癪に障るとか申す言葉は博士問題の相手たる小生の關係する朝日文藝欄として當局者と喧嘩を始めぬ限りちと差し控へたい心持が致し候、其他はたゞ御要旨を存し一回分位につゞめる丈に候、夫から愚翁は御本名にては御差支有之候や是も序に一寸伺上候
 漸々好い時候に相成候目下試驗休みにて御閑散と存候ちと御出掛の程待上候先は右御伺ひ迄 艸々敬具
    三月三十日                 金之助
   秋 骨 先 生
 
      一二四四
 
 三月三十日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓退院以後一寸御禮に上る覺悟の處今に愚圖々々致居候御免可被下候
 此頃懸物を一二幅表装したいと思ひ候が經師屋を知らないので困ります近所か區内に信頼すべきもの有之ば御教示を願度と存候固より千古の名幅でも何でもないから非常の名人に頼む必要は無論無之候たゞ相應ののを心懸候御心當りもあらば御返事願上候 艸々
    三月三十日                  金之助
   五 葉 先 生
 
      一二四五
 
 四月一日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 秋骨氏曰く加筆しても構はんと、然るに原稿を君が持つて歸つて直す事が出來ない、持つて來てくれ、秋骨氏のでも「門」の批評でも置いて行けばいゝのに持つて歸つたつて何にもならんぢやないか
 
      一二四六
 
 四月二日 日 夜0-1 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔はがき〕
 拜啓御許諾を得て玉稿に手をかけ出しました處中々思ふ樣に參らず、仕舞には小生にもあきたらず大兄にも面白くないものが出來上りさう故とう/\思ひ切つて已めてしまひました。おもちやにした樣で甚だ濟みませんがどうぞ御許し下さい、
 あなたの文章は御ひやらかしの言葉で充滿してゐます、夫をもう少し穩やかにしやうと思ふととても出來ない、根本が違つてゐるので失敗したのだらうと思ひます、他日御目にかゝつて御詫を致します
 
      一二四七
 
 四月五日 水 牛込區早稻田南町七より 札幌北六條西七丁目八山内義人へ
 拜啓玉稿到着拜見致候今度のは前回よりも數等出來よろしく面白く拜見致候
 然したゞ面白く拜見した丈では不可ないからどこかへ公けにしたいとも一方では考へ候が此頃雜誌の原稿は諸方とも堆積の模樣にて撰|澤《原》も一時よりは大分嚴密になり候故急にどうなるやそこは小生にも心配かつ(こんな事を申上ては失禮なれど)原稿料が取れるか取れないかゞ疑問に候故少々躊躇致候次第に候
 雜誌と申したればとて小生の間接に知るは一二に過ぎず候へども以上の事情御承知の上は一應相談致して見る考に候尤も大兄の方より何の御依頼もなきに差出がましき事を致し失禮なれど其邊は御容赦にあづかり度候又出なくても御勘辨を願ひ候最後に出ても金になるかならないか分らないと覺召し被下度候
 何れとも其内御報知可致候 艸々
    四月五日                  夏目金之助
   山内義人樣
 
      一二四八
 
 四月九日 日 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 和歌山縣新宮町佐藤豐太郎へ
 拜啓春暖の節愈御多祥奉賀候陳ば咋八日生田長江君來訪御惠贈にかゝる寄品二點正に拜受致候遙々の御厚意一層難有存候石も牙も共に机上に据朝夕愛撫不淺候
 長江君よりの話にて拙筆御所望とやら承知致候書と申すものを習ひし事なき小生に取つては甚だ困難に候へども從來色々の關係上已むなく惡筆を揮ひ候機會にも乏しからず貴所のみに對し御辭退申上る必要も無之下手を御承知の上なれば何なりと認め御送り可申上につき何なりとも仰聞られ度候
 先は右御禮迄 艸々
    四月九日                  夏目金之助
   佐藤豐太郎樣
 
      一二四九
 
 四月十日 月 牛込區早稻田南町七より 森成麟造へ
 拜啓御歸國前に御約束の肝臓會を開かんと存じ候が十二、十三、十四のうちで御閑な時を今日中に知らせて下さい、阪《原》元や何かに知らせる都合があるから中一日の余裕がある方が好いです 艸々
                          夏目金之助
   森 成 樣
 
      一二五〇
 
 四月十日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 森成さんが歸國するにつき十二日午後三時から拙宅で肝臓會を開く御都合の上御出席を乞ふ寫眞を撮るつもり御馳走といふ程のものなし 艸々
    四月十日
 
      一二五一
 
 四月十一日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓明十二日の肝臓會は午後三時からに致し候故其積で御出を乞ふ。時に寫眞を記念に撮る積故望月でも九段の長谷川でも頼んで同刻に連れて來て呉れ玉へ。大きさは不明なれど餘り大いと保存に不便ならん
 
      一二五二
 
 四月十三日 木 牛込區早稻田南町七より 文部省專門學務局長福原鐐二郎へ
 拜啓學位辭退の儀は既に發令後の申出にかゝる故、小生の希望通り取計ひかねる旨の御返事を領し再應の御答を致します。
 小生は學位授與の御通知に接したる故に、辭退の儀を申し出でたのであります。夫より以前に辭退する必要もなく、又辭退する能力もないものと御考へにならん事を希望致します學位令の解釋上、學位は辭退し得べしとの判斷を下すべき余地あるにも拘はらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一圖に辭退し得ずと定められたる文部大臣に對し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。
 文部大臣が文部大臣の意見として小生を學位あるものと御認めになるのは已を得ぬ事とするも、小生は學位令の解釋上、小生の意思に逆つて、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。
 最後に小生は目下我邦に於る學問文藝の兩界に通ずる趨勢に鑑みて、現今の博士制度功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します
 右大臣に御傳へを願ひます。學位記は再應御手元迄御返付致します。 敬具
    四月十三日                 夏目金之助
  專門學務局長
   福原鐐二郎殿
 
      一二五三
 
 四月十四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓玉稿落手致候前半は出來得るならば少々つゞめ度考に候。何れにしても機を得て掲載可致候 艸々
    四月十四日
 
      一二五四
 
 四月十五日 土 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓不折の馬今度は出來損ひ申候よし畫の方は何時でも相應には行くものとのみ思ひ居候ひしが左樣旨くも參らぬものと見え候
 日本橋の賛其内どうとか片付可申候近頃は詩を作る氣分もなく候故何時出來るか一寸御受合は致しかね候故其邊は御海恕願候
 時につかぬ事を伺ふ樣なれど大兄御編輯の雜誌に何か下働でもする男一名御入用には無之や實は頼まれて氣の毒にもなりし人一名有之東洋協會雜誌の編輯の下働きといふ事を一寸思ひつき突然ながら伺ふ次第に候が御迷惑ながら一言御樣子御洩し被下候はゞ幸に候 右迄 艸々
    四月十五日                夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一二五五
 
 四月十七日 月 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓銅牛の後には今日の音樂評を載せたく候故右御含み置被下度候
 順序は戸川、銅牛、音樂、四郎に候
 
      一二五六
 
 四月十八日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆方鈴木三重吉へ〔速達便〕
 拜啓只今歸宅電報披見
 敏君は十五日に西京に歸れる筈もし居れば下谷練塀町(壹丁目?)齋藤方なり電話帳にて御確め可然候
 敏君は十五日に歸ると云ひし故電報の返事を出す程急かないでもよいと思ひ速達にて用を辨じ候 艸々
    四月十八日                  金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二五七
 
 四月十九日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 御不平御尤に候。然し越後記と南歐の何とかいふものと文藝欄を脊負払込んだページだと思つて見ればまあ仕方がない。あれでも佐藤は充分骨を折つた積かも知れないよ。呵々。僕は柏亭の樣な記事の出るのを喜ぶから柏亭を壓しても文藝欄で幅を利かさうといふ氣はない。たゞし上下をきるのはよくないが、そんな例はいくらもあるのだらう
 
      一二五八
 
 四月二十日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學文科大學上田敏へ
 拜啓先日御出京の節はわざ/\御訪問被下難有存候其砌御話しの同志社の教師の件につき鈴木三重吉より電報并びに書面にて本人採用の義大兄迄願置候趣就ては可相成本人の希望通御取計被下候へば本人に取つて無此上好都合小生に於ても難有仕合せと存候御多用中御迷惑とは存候へども何とか御斡旋被下度先は右御願迄艸々如斯に候 敬具
    四月二十日                  夏目金之助
   上 田 敏 樣
 野上には夫から面會不致大兄と同人との關係(該事件につき)は全く承知不仕候故本文に申上候事或は唐突に亙り候やも計りがたく野上に動く意志あるを抑えて鈴木をどうか致し度と申す次第には無之に就き右は御含み置願候
 
      一二五九
 
 四月二十三日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一蓋平館支店鈴木三重吉へ
 上田敏氏よりの返事届き候故御送申候京都へは佐治秀壽が參る事になりたる由につき多分斷りの手紙なるべく候
 右につき佐治の今迄の口海城中學二十五時間にて四十圓はち〔と〕惡き方なれど此際是非にと思ひ佐治氏に依頼致候處早速引受明二十四日午後五時頃君の所迄行く筈につき御面會の上御相談可然候、もし會へなかつたら君の方から御出向き御面會可然候同君番地は本郷森川町一番地橋下三八六月岡方に候
 右用事迄 艸々
    四月二十三日夜                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二六〇
 
 四月二十四日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 今日文藝欄やすみにつき音樂評間に合ひ候ば臼川の前に出したく候。尤も明日臼川の「上」が出れば已を得ねど明日も文藝欄休みなら左樣御取計願候。檢閲は宜敷願
 
      一二六一
 
 四月二十四日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓昨日は子供難有う過日の寫眞出來につき木曜にでも遊びながら來て下さい 艸々
    四月二十四日
 
      一二六二
 
 四月二十八日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 五葉氏未だ在京のよし太平洋畫會の批評依頼方御世話被下度候。序に小杉の畫と滿谷の景色畫に就て特に同氏の意見を聞かれたし 艸々
 カフエー・プランタンといふ伊太利料理を食はす處京橋日吉町に出來たり。知るや否や。
 
      一二六三
 
 四月二十九日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一蓋平館支店鈴木三重吉へ
 拜啓手紙の事承知致候小生の口添如何程の功力あるやは計られねど了信坊とは知り合故一書を裁し御周旋可申候もしどつちか口が余つたら野村、野上のうちへ廻してやつて呉れ玉へ、
 野村はまだ引き受ける時間あるべし昨日宅へ行つたら氣の毒になつた
 野上も學校があれば雜誌をやめたいと云つてゐる、此間も敏君に京都を頼んだらしい 艸々
    四月二十九日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二六四
 
 四月二十九日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區三宅坂陸軍衝戍病院中勘助へ
 拜啓本日野上臼川より承り候處大兄御病氣にて目下御入院中の由御重態には無之るべきも隨分御加養の上一日も早く御出院の程希望致候
 小生病中はわざ/\御見舞をいたゞき候處其後どうかかうか本復目下は歸宅諸方飛び廻り居候につき御安意被下度候右御見舞の序に申上候
 かさねて精々御養生御全快を只管に折り申候 艸々
    四月二十九日                 夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一二六五
 
 五月五日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 茨城縣筑波町小林修二郎へ
 拜復御手紙拜見致候處何か御國許に御變事ありたる御容子たゞ/\痛嘆の至深く御同情申上候此際可成身體御大事に御攝生可然追つて萬事御濟御上京の節は又御目にかゝり可申候先は不取敢御弔詞迄 艸々
    五月五日                   夏目金之助
   小林修二郎樣
 
      一二六六
 
 五月六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 御房さんの式は午前十一時のよし故右一寸御通知申上候也 艸々
    五月六日
 
      一二六七
 
 五月十日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 和歌山縣新宮町佐藤豐太郎へ
 拜啓過日御依頼を承りてより荏苒延引申譯無之漸く拙筆を揮ひ了り候間小包にて御目にかけ候墨薄く色あしく候へども御勘辨被下度候
 先は右迄 艸々拜具
    五月十日                   夏目金之助
   佐藤豐太郎樣
 
      一二六八
 
 五月十日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣御影町前川清二へ
 拜啓其後は御無音に打過申候偖先般御依頼の半切の件にて失敗致候てより以來日々遵約の意を行はず今日迄放抛致候段眞に申譯なく候此間中小閑を偸んでやうやく認め小包にて差出候間御受取願候右用事迄申述候 草々頓首
    五月十日                夏目金之助
   前川清二樣
 
      一二六九
 
 五月十二日 金 後17-4 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓高田の横町に火事があつたといふ事を始めて聞きました。みんなが森成さんは燒けやしなからうかと心配して居ます。坂元は御見舞を出したさうですが御返事がないさうです。横町といふ所はどの位廣い所か分りませんが高田の事だから狹いのだらうと云ふ評判です。其狹い町内から火事が出たんだから森成さんの家も助からなかつたらうと云ふ結論です。私は此結論がどうぞうそであれば可いと願つてゐます
 後れながら右御見舞迄申上ます 艸々
    五月十二日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一二七〇
 
 五月十二日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓此間一寸御尋したら御留守で殘念でした。此頃新聞で見ると山形が大火で全市悉く烏有に歸すと云ふ樣な凄い事が書いてありますがあなたの家も多分燒けたんぢやないかと思ふと甚だ驚ろかれます或は屋敷町かな|い《原》ぞで助つたら夫こそ結構に存じます。もう當分櫻ん坊も頂けない事と諦めます。少々後れましたが御見舞迄に一寸申上ます 艸々
    五月十二日                 金之助
   芥 舟 先 生
 
      一二七一
 
 五月十二日 金 牛込區早稻田南町七より 在英國倫敦大谷正信へ
 此間は長い御手紙を難有う御座いました。私は御音信をしやう/\と思つてゐながらつい御無沙汰をします、病後はことに疎慵になりました。御ゆるし下さい。バイブルの展覽會は面白う御座いました。センサスの件は噴き出しました。アタランタインカリドンの評はタイムスで見ました。あの評はよかつた。タイムスの文藝評は時としてくだらないのがありますが、あの評は頗よかつた樣に思ひました。
 東京も變ります、あなたが歸る頃にはまだ變ります。何しろ電車といふ怪物が出來て凄まじい勢で方々の往來を破壞して行くのだから堪りません。此間帝國劇場と云ふ芝居が出來て開場式に招かれました。立派な建物です、西洋のと變りません、八十萬圓程かゝつたさうです。此二十頃から一週間ばかり坪内さんの文藝協會でハムレツトをやるさうです。私は優|侍《原》券をもらひました。本所の牡丹、大久保のつゝじ、堀切の菖蒲例の如くであります。吉原は此間丸燒になりました。近來にない火事でした。それを明る日迄知らずに濟まして居たのだから東京は廣いに違ありません。二三日前は山形市が丸燒になりました。戸川君は謠をうたつてゐます、四方太も謠ひます、私もやります。大分流行します。
 あなたの碁のレクチユアーも新年の舞踏會も讀みました。孰れも面白う御座いました。近頃は小説だの文學が下火になりました。小説抔は大いに賣れないさうです、私のも前に比べると賣れなくなりました。虚子もホトヽギスの維持と發展で苦心してゐます。
 文藝院と云ふものが立つさうで文部省では文藝委員を選定中であります。妙に入り亂れた顔觸が出來るだらうと思ひます。
 先達ての御通信を朝日の文藝欄へ半分程頂戴して載せました。バイブルの事は原語が多過ぎるから省きました。
 寺田に御逢ひになつたら宜敷仰つて下さい。 以上
    五月十二日                 金之助
   大 谷 様
 
      一二七二
 
 五月十四日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豊隆へ〔はがき〕
 昨日の原稿たしか「中」の處に文士を救濟〔二字右○〕の文句あり救濟ぢや貧乏人か燒出された貧民の様でわるいから保護とか何とか直して置いてくれ玉へ 以上
    五月十四日
 
      一二七三
 
 五月十五日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拝啓うちに送つて來る「英語青年」と云ふ雜誌を見たら君の東湖書簡集の評註があつたので、此前も讀んだから此度も讀んで見た。所が第一のパラグラフの仕舞に so much for Sugimura. と云ふのを君は譯して杉村ならやりかねないことだと書いてゐるが、あれは間違つてゐやしないか、「杉村の事は此位にして置かう」即ち是から後は自分の事を述べると云ふ意味だと僕は思ふ。
 英語青年といふ雜誌はこんな事を詮議して八釜しく云ふ雜誌だから一寸御注意をする。此つぎの號に正誤し玉へ。僕は慥かにさう解釋する方が正しいと思ふ。尤も念の爲だから外の人にも聞いて見給へ。匆々 頓首
    五月十五日                 金之助
   楚   兄
 
      一二七四
 
 五月十八日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ〔はがき〕
 君はとう/\女の賛成者を生捕つたが僕は敢て抗議を入れる。あのAlas!と云ふのはね、『杉村に就てもつと creitable な事を云ひたいが、御氣の毒だが、嗚呼是より外に一寸かく事がないから、泥棒事件丈で御免蒙る』と云ふ意味なんぢやないか。尤も Sugimura ノ下にある變な棒(ダツシ?)は少し胡亂だ。何の爲とも見當がつかない。
 ロイドが何とか云つて來たら一寸教へてくれ玉へ。ルースの妹のパラフレーズは何だか胡魔化しの樣な氣がするよ。どうもあゝパラフレーズする根據が分らない。或は彼の女が君に御覺召があつて、ことさらに君の意を迎へるんぢやないかな。萬歳!
 
      一二七五
 
 五月二十日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一、橋通須田方林原(當時岡田)耕三へ
 若いうちから君の樣に弱くつては駄目だ。からだの弱い人は弱いなりに人一倍用心をして比例を保たなくてはならない、人並にしては弱る丈だ。精々注意して身を殺さないやうにし玉へ。僕は小樽の火事で内々心配してゐたが君の手紙には何ともないからまあ無難なのだらうと思つてゐる。鈴木の澁谷の宿所は下澁谷七四廣尾橋下車祥雲寺墓地の横といふ所だよ。
 右迄 艸々
    五月二十|一《原》日             金之助
   耕 三 樣
 
      一二七六
 
 五月二|十《〔?〕》日 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 さう女軍を引率して遣つて來られては降參だ。若しやと思つて手近にあるものを調べて見たがどうも君の云ふ樣な意味のものを見出し得ない。ロイドは男だから僕に賛成するだらうと思ふ。萬一ロイドが女の肩を持つたら仕方がない、僕がわるいと仕樣、其代りロイドの説明を教へて呉へ《原》玉へ。
  ――So much for him.
  Now for ourself and for this time of meeting:
  Thus much the business is.――
 是はハムレツトの始めの方にある。今頃沙翁などを引いて議論でもなからうが、あんまり淋しいから横へ書いて景氣を添へた。尤も僕の意味を確める丈で外に何の役にも立たない。
                          金之助
   楚  兄
 御葉書は二枚同封で御返しする。もし僕が負けたら其始末を堂々と英語青年で發表するのかな。ひどいなあ。僕は勝つた時丈引き合に出してもらひたいなあ。
 
      一二七七
 
 五月二十一日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町二丁目三二安倍能成へ
 拜啓玉稿落手致候然る處あれは餘り六づかしくて專門的な所があるのと、又梗概としては勃※[穴/卒]に過ぎて※[口+茲]《原》味に乏しく哲學雜誌の紹介の如き故もう少《原》平たく且趣味ある樣に書き直すか又はオイケンでも好いから外の問題で書いて被下間敷や原稿は小宮が持つて歸り候同人から御受取願候 匆々
    五月二十一日                 金之助
   能 成 樣
 
      一二七八
 
 五月二十一日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣南埼玉郡鷲宮村川羽田隆へ
 拜啓御手紙拜見致しました。新緑の時節で當地も幾分か暢適の心持が致します。田舍の生活は嘸かしだらうと想像致します。
 文藝欄は近縣の地方版には出ない事になつたさうで夫は私が入院中の事でちつとも知りませんでした。何でも市内版のほしいものには社から直接に市内版を送るといふ社告を出したとか聞きました。なんなら社にさう云つて市内版を御取りなさい。さう云ふ人さへ澤山殖えると地方版にも文藝欄を拔かない樣になるでせう
 先は御答迄 艸々
    五月二十一日                 夏目金之助
   川羽田 隆樣
 
      一二七九
 
 五月二十一日 日 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜啓ロイドの解釋拜見。ロイドの引用した句は自分の説の出處を示した丈で、其自分の説はまあ僕と同樣なのだから、あの句を君の樣に取るのはロイドの意ではなからうけれども、多少は君の意義も含んで居ない事もないから、前後の關係から調べて見やうと思つてヘンリ八世を見たがあの句は見當らなかつた。
 尤もあの場合に君の意味を含んでゐると云ふのは、首を斬る制裁がBukinghamの方へ向ふのだから so much を for B の for に意味があるが、so much for Sugimura の場合では、action が杉村に向つて〔三字右○〕(for)働らきかけるのでなくつて、杉村自身が action の張本人なのだから for の意味が全く變になる。ルースのパラフレーズが根據がないと云つたのは此が爲だつたのだよ。
 尤も議論しなくつても慣用上さう使つてゐる例が澤山出れば夫迄なのだけれども、さう云ふ例は恐らくなからう。
    五月二十一日                 金
   楚  兄
 
      一二八〇
 
 五月二十三日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 啓帝國劇場から招待が來たから封入して上げる氣が向いたら行つて御覽、僕は昨夜見た、遲く行つて早く歸つた、つまらなかつた、右迄 匆々
    五月二十三日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一二八一
 
 五月三十日 火 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜啓雅樂演奏の招待状正に拜受難有候
 御手紙には七月三日とあれど招待状には六月三なり七月は多分偶然の書き損ならん
 服装の儀は紺などの脊廣にてはあしきや一寸伺ひ候
 可成君も御出ありたく候 艸々
    五月三十日                   金
   豐 次 郎 樣
 
      一二八二
 
 六月三日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 名古屋市熱田玉の井浦瀬七太郎へ〔うつし〕
 拜啓のらくら三人男愈御出版の運に至り結構の至に候、一本わざ/\御寄贈深く御禮申上候、小生段々丈夫になり候 右迄艸々
 
      一二八三
 
 六月九日 金 前5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 カツテ正誤を頼んだ所は
○薫風南より來て殿閣〔右○〕微凉を生ず(殿角〔右○〕は誤)
○應無所住而生其心(應無の二字の所が何とか顛倒してゐる由(而は入れても入れなくてもよし)
 ○懸崖に手を撤(サツ)して(向ふの校正の通り撒にあらず)
 
      一二八四
 
 六月十六日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 又々柏亭の美術博覽會があり候尤も僅か二回故出して仕舞ふ事に取極め候。其他に關晴瀾の彫刻物の審査に就てといふのが一つあり候是は小生手を入れて出す事に致候右御含迄に申上置候
 其他歸る迄に相談しておく事はなき樣に存候 匆々
    六月十六日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一二八五
 
 六月二十二日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長野市長野師範學校附屬小學校守屋喜七へ
 拜啓長野にてわざ/\御待合せ沿道諏訪迄とくに御案内恐縮致候御蔭にて種々面白い景色を尤も有益に見物致し感興更に深きを覺え申候あれより豫定の講演を終へ咋二十一日夜無事着京仕候不取敢右御禮申上候
 匆々敬具
    六月二十二日                夏目金之助
   守屋喜七樣
 
      一二八六
 
 六月二十二日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長野縣長野教育會副會長渡邊敏へ
 拜啓今回ははからずも御會の御招きにて御地にまかり越候處諸事御手厚き御接待にて甚だ恐縮致候猶小生講演につきわざ/\の御禮状却つて痛み入候
 小生夫より高田直江津を經過諏訪に立寄昨夜歸京仕候
 右不取敢御挨拶迄如斯に候 匆々頓首
    六月二十二日              夏目金之助
   渡邊 敏樣
 
      一二八七
 
 六月二十二日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓今回は不圖高田へ御邪魔に出る氣になり思ひも寄らぬ御迷惑を不時に相掛まことに申譯無之ことに招魂祭で旅宿が塞がつてゐた爲御宅にづう/\しく寐泊りをして新婚早々の令夫〔人〕を驚ろかし奉り實以て相濟まぬ儀と心中大に漸愧を感じ居候
 生憎雨が降つて町内の見物も思ふに任せず佗びしい高田のみを記念として立去るべく餘儀なくされたのは返す/”\、遺憾です、高田で私の氣に入つたのは紅葉の垣であります、それから和倉樓の座敷の構造の昔し風に現代を超越してゐた事です、あすこで御湯に入つて十五分許寐た時は實際いゝ心持でした。願くはあの部屋で春の海ののた〔り〕/\する有樣を見たいと思ひました
 諏訪の牡丹屋といふ家は好い宿です、湯槽が大理石で甚だ心持がよう御座いました。
 奥樣へどうぞよろしく願ひます。御とつさんが御出なら是亦可然敬意を表して置いて頂きたい。あなたの護謨輪と御とつさんのつんつるてんの絣と比較すると矛盾を感じない譯に行かないですな
 田川校長と菊池校長へは別に禮状を出さないからあなたから宜敷願ひます、武田君には一寸書きます
 先は不取敢御禮迄 艸々頓首
    六月二十二日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一二八八
 
 六月二十二日 木 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨夜歸京越後高田直江津迄參り歸りは諏訪甲府經過からだは旅の方よろしく候、木曾へ廻らぬが殘念に候
 
      一二八九
 
 六月二十四日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 美學會の時日刻限差支なく候、端書の尻尾を見なかつたものだから問合せの書面と思はず、通知の書面と思ひ今日迄返事を出さずに居候 失禮
 
      一二九〇
 
 六月二十四日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區九段中坂望遠館津田龜次郎へ
 拜啓一昨日は失禮其節御話の事今日社に相談して見た處插畫の需用ある趣故大兄の事中入候。
 あなたの畫を三四枚(種類の異つたもの一枚づゝ、精密なるもの疎なるもの等)至急京橋區瀧山町四朝日新聞内澁川柳次郎宛にて御送被下度候
 澁川氏は其儀につき一覽の上適當と認むるならばかう云ふ種類とかあゝ云ふ種類とか指定して改めて御願致す筈に候
 右用事迄匆々申上候 以上
    六月二十四日              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一二九一
 
 六月二十四日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓其後乍存御無沙汰に打過候處愈御清勝御勤務奉賀候小生不相變無異消光乍憚御休神可被下候
 清君には毎々書物の意匠で御厄介に相成居候同君より時々大兄の御近况を聞知致し居候風流の本家の事故書畫文房具の類は定めて御手に入る事と存候御歸京の日は拜覽の榮を得度と存じ只今より樂み居候
 却説楚國※[手偏+頡]英なる見事の喜畫帖忽然御寄贈を受け驚喜不斜日々机上に載せ展玩致居候扇の恰好を其儘張り込んだる處から扇の地が古色蒼然と時代づきたる處に装※[さんずい+黄]の白紙が如何にも美事に映り合ひて一種の雅趣を添へ申候、小生はあんなものが大好き故非常に嬉しく候右早速御禮迄申上候段々夏になり暑く候隨分時候を御厭ひ被成度候 艸々頓首
    六月二十四日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一二九二
 
 七月一日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓自然主義の觀察によれば明日は計畫通り玉川へ參る事覺束なき模樣に候。其準備として他の方法御一考置願度候。
 (拙宅に御出無論差支なし。たゞ拙宅にてどんな事をしてどんなものを食ふかの準備也)
 
      一二九三
 
 七月五日 水 後10 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓別紙の如き書面只今到着致候明日に間に合ふため早速車夫に持たせ差出候間どうぞ宜しく願候
 こんな間違はある筈がないと思へども小生は君が惡いのか社が惡いのか分をず候もし君がわるいなら御氣をつけられ度候 早々
    七月五日                   金之助
   豐 隆 樣
 
      一二九四
 
 七月七日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨村六六〇江南武雄へ
 拜啓御手紙を拜見してすぐ御返事を上げやうと思ひましたがさて何と書いたら貴方の御滿足を得るかしらんと考へて別に是といふ推擧すべき本がないのでつい遲くなりました。
 あなたから云ふと英文學とか外國文學をやつたものがあなたの質問に答へられない譯はないと御思ひになるでせうが私はいつでも人から何を讀んで好いかと聞かれる度に困るのであります、夫は質問に對して適當な返事をする丈今迄讀んだ本を明瞭に同時に比較する樣に頭が出來てゐないのです。
 外國ものを樂しみに御讀み〔に〕なるなら、まあ安價なものを買つて來て手當り次第に讀んで氣に入つたら仕舞迄よむ厭なら途中でやめるといふ樣にしたら何うかと思ひます。
 もつと特殊の問題に立ち入つたら或はもつと明瞭な御返事が出來るかも知れませんが、今は是位しか申されません、まことに人を馬鹿にした樣で惡いのですが是より外に申樣がないから不惡、御返事を上げないでは猶失禮と思ひますから一寸右迄 匆々
    七月|八《原》日             夏目金之助
   江南武雄樣
 あなたはどんな畫を御書きになりますか
 
      一二九五
 
 七月十日 月 夜 牛込區早稻田南町七自宅に置手紙 小宮豐隆へ
 拙稿一つかく筈の處差支ありて不果候野上の插畫《さしゑ》の批評と樂堂の俳論と二日分御送り置願候
 今夜はケーベル先生方へ參り候
    七月十日                   金
   蓬梨雨先生
 
      一二九六
 
 七月十一曰 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町二丁目三二安倍能成へ
 拜啓昨夜は難有う。西洋の例によると御馳走の翌日は名刺を持つて門口迄御禮に行くのが禮式ださうであるが昨夜のは正式の招待でもなし、ケーベル先生もそんな面倒な事を意とするたちでなし、第一此炎天に駿河臺迄名刺を持つて行くのも降參だからやめにする、どうか久保君から宜敷先生に云つてくれる樣にたのんで呉れ玉へ
 昨夜も話した通僕の家が洋式に出來てゐると先生を招待したいのだが椅子もテーブルもないのだから已を得ない。
 久保君にも色々御世話になつたから君から宜敷願ひます 匆々
    七月十一日                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一二九七
 
 七月十四日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓別紙は齋藤與里よりの寄稿なるが已に臼川ものを載せたる故重複も面白からず君の御配慮により國民か讀賣へ依頼致度御面倒ながら御紹介願候
 原稿はどうか/\なるべく候、大阪より過日の演説をつゞきものに纒めてくれと申來候に少々恐縮致居候 匆々
    七月十四日                  金之助
   蓬梨雨先生
 吉エモンとか申すもの暑さの砌故成るべく中らぬ樣あつさり願候
 
      一二九八
 
 七月十七日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長野縣諏訪郡豐平村二九永田登茂治へ
 御手紙拜見致候子規の遺墨御入用の儀御申越相成候故筐底相調べ候處悉く小生宛のもののみにて小生以外のものが所持致し居りても何等の意味もなきものに候せめて俳句にてもと存じ短冊を探し候處僅かに二葉を存し候も是亦小生を送る句にて候
 右の次第折角の御懇望御氣の毒とは存じ候へども割愛致しかね候故不惡御了知被下度候
 諏訪にては拙講御聽被下候由御芳志奉謝候先は右御返事迄 匆々
    七月十七日                夏目金之助
   永田登茂治樣
 
      一二九九
 
 七月二十六日 水 前6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町七九中村將爲へ
 拜復今朝御光來の節は取急ぎ社へ送らねばならぬもの有之乍不本意失禮致候、御書面にて御申越の趣拜承致候。「朝※[貌の旁]」につきさう何回も紙面を埋むる事實は如何と存居候へども行掛上大兄は是非御高見發表の御必要も有るならんと存じ可相成御便宜取計ふ積に御座候。尤も原稿の順序其他の都合も有之御寄稿の翌日掲載と申す譯には參りかね候やも計りがたく夫は御承知置願候
 原稿は新聞の字詰にて八九十行以下を原則と致居候(一段六十五行、一行十八字詰)是も乍序申添候
 文藝欄の原稿は可成朝日の讀者に興味ある樣の希望故小宮を相手にする意味でなく讀者を相手にする御積にて御執筆被下候はゞ仕合せに候是は蛇足ながら失禮をも不顧申上候先は右御返事迄 匆々
    七月二十五日夜               夏目金之助
   中 村 樣
 
      一三〇〇
 
 七月二十八日 金 後6-7 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱小林別莊菅虎雄へ
 先達て御訪問の時は長野迄旅行してゐて失禮した、此間一寸鎌倉迄呼ばれてゐつたが、君の家を尋ねるひまがなかつたのでとう/\夫なり歸つて來た
 此間のあらしは鎌倉も大分損害があつたさうだが實は君の家の事も虚子の家の事も忘れてつい見舞もせず打過ぎて甚だ相濟まん、大した事もあるまいが海岸丈に氣にかゝるどんな模樣かね 匆々
    七月二十八日                 金之助
   虎 牡 樣
 
      一三〇一
 
 七月二十八日 金 牛込區早稻田南町七より 宮本叔へ
 拜啓其後は御無沙汰暑さの砌御變もなき事と存じます、偖小生の知人にて社會學專攻の文學士小林郁と申す人此度廣島高等師範教授を辭し米國シカゴ大學へ研完の爲め參る事になりました處本人事昨年末腸チフスに罹り其後回復は致したれど全然平生の健康と申す程に行かず從つて長途の航海風土の變化につき多少の心配を抱きて此際大兄に一應診察を願ひ猶養生法等篤と承はり置度故紹介をしてくれとの依頼あり、御多忙中御迷惑とは存じますが、もし御暇もあらはどうぞ御會ひ下さい、又御差支の折は時日を期し御呼寄せ下さい、甚だ勝手な事を申上て濟みませんが宜敷願ひます
    七月二十八日                夏目金之助
   宮 本 樣
 
      一三〇二
 
 七月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 御注文にて吉右衛門論なるものを早速拜見致候。大分骨の折れたものと思ふ。なぜ骨が折れたらうと讀者に思はれるかと云へば徹頭徹尾緊張してゐるからである。さうして至極徹底してゐるからである。かう云ふと君の目的通り讀者の眼に映つたといふ事になつて君は滿足だらう。君は君の遣つた仕事に對して滿足して然るべきである。
 けれどもあの緊張はね、内容の充實から來たといふより寧ろ態度の利かぬ氣から出たものと僕には思へる。神經の緊張で思索の緊張ぢやない。非力なものが向ふ鉢卷で體力以上の長時間力んでゐる體に見える。其證據には言葉遣ひや文句に隙間がないと同時に、主意主張其物は殆んど同じ所を※[行人偏+※[氏/一]]徊して毫も讀者を甲から乙迄否應なしに運び去つたといふ大力無雙な點が見えない。いたづらに神經がぴり/\張り詰めてゐるから、讀者もたゞ此暑いのに神經を昂ぶらさせられる丈で、其割合に理知の方面に何等の夫程の新らしい經驗を得ない。
 君の平生口にする緊張とか充實とか云ふのは何だか神經作用ぢやないかと思ふ。もつと鷹揚にもつと落ち付つ《原》いて、もつと讀手の神經をざらつかせずに、穩やかに人を降參させる批評の方が僕は眞に力のある批評だと云ひたい。
 僕は吉右衛門氏を知らない。夫から君の論に夫程同情がない。だから斯う見えるのかも知れない。然し夫も批評の一角度だから、君は參考にしても損はあるまい。君あれをもう少し張ると腹の皮が割けるよ。夫が内部の實質で大きく膨れ出すんでなくて徒らに腹に空氣をつめて緊張させるからだらう。願くはもつと落ち付き玉へ。あの書き方は文藝欄に一欄位のものを書く短かい時間内に應用すべきものではないか。暑中だからあつさり願ひ度と云つたら君は畏まりましたと云ふに拘はらず君はあんな暑苦しいものを書いた。暑苦しい思をする以上は其代りに何か頂だかなくつちや割に合はない。君は何を與へたといふ積だらう。
 中村星湖が君に答たいから書かして呉れといつて來たから承諾した。八月一日に出すから切拔を送つて上げやう。まあつまらんものだ。
 其地皆樣御無事當方も變りなく御目出度候。暴風雨はすさまじきものに候 以上
    七月三十一日                金之助
   豐 隆 樣
 
      一三〇三
 
 八月一日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 拜啓今一日の新聞に出た中村星湖の文章の切拔を御目にかけ申候
 小生九日頃東京を出て大坂に行き和歌山と明石と堺で講演をする事になり候、暑いのに氣の知れぬ事に候それが大阪の新聞のどの位の利益になり候や疑問に候
 今日から暑くなり候。秋聲の小説今日から出申候。文章しまつて、新らしい肴の如く候 艸々
    八月一日                   金之助
   豐 隆 樣
 
      一三〇四
 
 八月三日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 長野縣下伊那郡飯田町鹽澤直市へ
 拜啓芳墨拜見子規の遺畫わざ/\御送御厚意奉謝候如仰中には隨分拙なるものも有之候へども一寸面白きものも見受申候故人の記念として永く御保存可然と存候
 貴命に任せ該畫は御添書持參の人參る迄當方に御預り置可申候先は右迄 艸々
    八月三日                  夏目金之助
   鹽澤直市樣
 
      一三〇五
 
 八月八日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 岡山市古京町内田榮造へ〔はがき〕
 わざ/\の御手紙恐入候。明石にて講演の日割は十三日に候へども可成御出なき事を希望致候あまり遠い所から來て聞いてもらうやうな講演は出來さうもなく候右御返事迄 艸々
  岡山へは日取の都合あしく參られざりし譯に候
 
      一三〇六
 
 八月十五日 火 後5-8 和歌の浦より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔繪はがき〕
 講演存外長びき今日當所夫よりさかひ大坂兩所打上て歸京謠會も甚だ心元なく候
    八月十五日  和歌の浦にて
                        夏目金之助
 
      一三〇七
 
 九月八日 金 後7-8 大阪市東區今橋三丁目湯川胃腸病院より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 病院の三階に寐てゐる。窓から大坂城の櫓が見える。色々な西洋館が見える。夫から山が見える。大《原》閤の居を卜した所丈ある。毎日粥を食ふ。おかづは豆腐と麩丈で甚だ心細い。今日のひる刺身を四切食つた。早く東京へ歸りたい。國華の畫を繰返し/\見てゐる。無事御歸京結構
  蝙蝠の宵々毎や薄き粥
    九月八日
 
      一三〇八
 
 九月十四日 木 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 今朝は御多忙中ありがたく候
  灯を消せば凉しき星や窓に入る
  蝙蝠の宵々毎や薄き粥
   (右病院にて)
 
      一三〇九
 
 九月二十日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 肛門切開本日頃より少し樂になり候只今は不足の睡眠取り返し中に候時々御來訪を待つ
  風折々萩先づ散つて芒哉
 
      一三一〇
 
 九月二十五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 啓上耳痛愈甚敷よし御氣の毒の至り何とか分別なきや 肛門の方は段々よけれど創口未だ肉を上げずガーゼの詰替頗る痛み候
 連句つゞけたけれど庄屋の門にゴム輪の句氣に入らず何とか工夫の道もあるやうにてつい後れ申候
 貴句遊女屋つゞき外》》を賣るとある外郎とは何の事にて何とよむにや一寸教へを仰ぎたく候
 仰臥執筆不自由御察し被下度候いづれ出來次第送り可申候
  耳の底の腫物を打つや秋の雨
  切口に冷やかな風の厠より
              艸々
    二十五日                   ※[さんずい+嫩の旁]《原》石
   東 洋 城 樣
 
      一三一一
 
 九月二十五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓先日は痔の御見舞を難有う。實は御世話になりつゞけで歸つたらゆつくり御禮の手紙を出さうと思つてゐた所はからず肛門を切開夫が爲め萬事手違凡て御寛容を乞ふ。漸く今日起き直りて演説の訂正を始めた所へ池邊三山が來てそんな餘計な事はせんでもよいと云つて例の草稿筆記を奪つて持つて行つて仕舞つた。斯うなると僕もどうする事も出來ない。尤も先日小西君から病中の事故あの儘出しても宜しいとの手紙もあつたさうだけれども、苟も豫告をして金をとつて無責任なものを賣つては濟まんと思ひますが、元來攝津守は何日迄に原稿が入るのかせい/”\延ばせる丈延ばした處を一寸聞いて下さい。夫でもどうしても間に合はなければ仕方がない。あなたに何とも申樣がない御迷惑だが池邊氏の勸告通り一切の訂正抹殺増補をあなたに一任致したい。然し是は飛んだ御厄介だから出來る丈自分が始末をつける積故何卒少し待つ事を攝津守に談判して下さい。
 高原の妻君の見舞も申さず歸臥、其後如何なりしや同君よりは却つて見舞状ありしもこちらからは夫切故何卒よろしく、奥さんは大丈夫の事と存候
 其他攝津守を始め土屋和尚西村天囚、牧放浪、氏へも其儘に致し居候故序にどうぞよろしく願ひます。社長村山氏は二度も見舞つて呉れ上野さんもわざ/”\病院へ來てくれたれど是亦同樣の譯にて無挨拶に打過居候故村山氏出社の節御序もあらば申譯願候上野さんの方は社へ顔を出さないだらうがもし機會もあらは矢張同前に願ひます
 仰臥して認める故亂筆御推讀を乞ふ 艸々
    二十五日                  金之助
   是《原》 如 閑 樣
 
      一三一二
 
 九月二十七日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 大阪では御見舞をうけかたじけなく候西川君も來て下され是亦篤く御禮申候小生歸京後かの地にて萌し候痔疾急に劇しく起り切開の結果今に臥牀夫故手紙も差出さず御兄さんへもどうぞよろしく願候
 一草亭君の原稿頂戴致候掲載の運つけ可申候
 寐たまゝ手紙を書き候故亂筆にて甚だ恐縮凡て御海容を乞ふ 艸々
    九月二十七日       ※[さんずい+嫩の旁]《原》石
   青 楓 樣
 
      一三一三
 
 九月二十九日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓秋冷の候愈御清適奉賀候先般大阪表に旅行中第一の御手紙は拜見當時如仰少々病氣にて入院中故其儘に致し置き歸京せる處又々御手紙是には御返事をと思ひしも又々痔疾切開の不幸にて仰臥中如何とも致しがたく打過候今二十九日又々三度目の御手紙に對し甚だ申譯なく此返事を認め候。
 鮎はたしかに頂戴まことに難有く歸つて見たら本箱の上に飾つてあり候何だと思つたら魚なので失笑致し候
 御申越の事承知は致し居れど只今漸く起き直る位故全快後どうにか致し可申候
 子規の書いたものは多少あれど皆小生に關係あるものばかり是を他人が有つて居ても詰らないだらうと存候が如何にや
 是公二三目前大連へ歸申〔候〕由今度は病氣で會はず向ふも小生の病氣を知らず其儘に立ち分れ申候
 只今大阪の講演を豫約出版するとかにて速記の訂正を依頼され病氣を力めて片付けにかゝり居候夫等にて甚だ失禮病氣はもう大分快復御心配被下間敷候 草々頓首
    九月二十九日              夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一三一四
 
 九月二十九日 金 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 耳少々はよろしき由大慶に存候小生も漸次快方御放念被下度候連句は少々取いそぎ候用事出來其儘無申譯候大阪地方にての講演を豫約出版とかにて訂正をたのまれ衰弱の許す|が《原》きり手を着けぬと飛んだ無責任のものを豫約處に送虞有之それ故庄屋の門もあれぎり中絶不惡御海恕願上候今日冷氣に候ゆかたにて床の上に起き直き《原》少々寒さを感じ申候
 無句 艸々
    九月二十九日      ※[さんずい+嫩の旁]《原》石
   東 洋 城 樣
 
      一三一五
 
 十月四日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ
 拜啓澁川氏より別紙の通申來候が危險云々の事につきては念を押し置かれ候や後で紛々が起ると又迷惑なるが一寸伺ひ候 草々
    四 日                  金之助
   草 平 樣
 
      一三一六
 
 十月四日 水 牛込區早稻田南町七より 麻布區龍土町六二弓削田精一へ〔うつし〕
 其後御無沙汰、僕大阪表より歸京するや否や痔疾に苦しめられ切開の結果、まだ床をのぺて寢てゐる次第故社へも久しい間顔を出すことが出來なかつた所、昨日三山君が來て主筆をやめたと突然いふので大變驚ろいた、
 事の起りは森田の攻撃から始まつた其餘波として君が三山君との言葉の行違から大事に至つたのだといふ顛未を概略耳にした時愈驚ろいた、僕は君等二人の間に立つて兄分らしく調停の勞を取る抔といふ位地にも居らず深い年來の親しみにも乏しいかも知れず第一そんな力量も人格もない男だが森田の事が動機になつて朝日の幹部に破綻が生したと云へばまあ責任者は文藝の方面の擔當をしてゐる僕だと云はなければならない、僕が原因になつて十五年以上も同じ社に机を並べて親しくしてゐた兩君に出るの引くのといふ騷ぎをされては實に面目がない、入社の時|阪《原》本を介して間接に交渉の衝に當つてくれたものは君である、それは君も覺えてゐて呉れるだらう、さう云ふ關係もあり旁々君に逢つて篤と話がしたい、平生ならすぐ車を飛ばす筈たが、今云ふ通り毎日ガーゼを取り換えてゐる位だから車に乘る譯には行かない、と云つて來て呉れまいかと頼んだつて、君の前へ行つてそんな話をする必要はないと跳付けられゝば一言もないが、是は痛心の極から出た御依頼だ、まことに遠方といひ御繁忙の君に早稻田の奥迄といふのは申かねた次第だが、何時でも繰合せのついた時來てくれまいか、昔し君は何時か遊びに行かう/\といつて夫なりついに來なかつた、今度は仕方がないから前約を果す氣で行つてやらうと云ふ心持で來てくれ玉へ、車で乘り廻すのは一寸困難だが床の上に起き返つて友人と話をするには一向差支ないのだから
 右用事迄 艸々
    十月四日                   金之助
   弓 削 田 兄
 
      一三一七
 
 十月十日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内高原操へ
 拜啓過般阪地滞留の節は種々御厚誼を辱ふし殊に病氣の折は一方ならぬ御厄介に相成不堪深謝至候歸京後すぐ御挨拶可申上の處早速餘病にとりつかれつい/\今日迄愚圖々々に打過無申譯候
 阪地引上の折御令閨御病氣の旨如是閑氏より傳聞如何かと案じ煩ひ候へども遂に拜顔の期《原》其儘にて東歸遺憾千萬に候追て御輕快最早御退院の事と存候へども時節がら隨分御攝養可然と存候
 右乍遲延御禮迄 匆々頓首
    十月十日                 夏目金之助
  高原 操樣
 
      一三一八
 
 十月十一日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區南久寶寺町二丁目水落義一へ
 拜啓高秋の候も漸く近き候處御健康如何に候や入院中は毎々の御見舞恐れ入候ことに再三御藏書を拜借爲めに病床の慰籍不尠歸東後早速御禮可申上筈の處又々餘病繼發つい昨今迄苦しみ居候ため乍不本意失禮をかさね候何卒御海容被下度
 御心配をかけ候痼疾今は殆んど平癒餘病は痔にて此方は少々癒し損ひの氣味も候へどもまづ一應の起臥には無差支に至り候御安心可被下候
 右延引の御詫をかね御報旁御禮迄 匆々頓首
    十月十一日                  金之助
   露 石 樣
 
      一三一九
 
 十月十一日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 廣島市新川場丁二二金子健二へ
 拜啓過般は叮重なる手紙を御遣はしの處生憎病氣にて大阪の病院に居り御返事も差上げず歸京後は又々餘病の痔に苦しめられ切開の結果もよろしからす今に猶治療中なれど大分快よくそろ/\戸外をあるくやうに相成候につき此手紙を御詫旁差出し候俳人遺物箱の上に認めるものを御求めにや又はあの絹へかいたものを其儘他と一所に箱に納められ候にや夫から書くとは記念の爲の俳句にても書く義に候や又は如何なる種類の事を書き可申やもう少し判然した所を御報知願度候猶申入候|候《原》はあの絹には今度再三揮毫抔たのまれ候も墨のらず到底書はかけぬものに候
 右用事旁申譯迄 匆々
    十月十一日                 夏目金之助
   金子健二樣
 
      一三二〇
 
 十月十一日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區道修町一丁目青木新護へ〔繪はがき〕
 拜啓御地にて入院の節はわざ/\御親切に御見舞難有御禮申上候歸京後又々痔を苦しみ御挨拶も今日迄遲延先は御詫方々御禮迄 匆々
 
      一三二一
 
 十月十一日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下大久保百人町一四五服部嘉香へ〔繪はがき 海晏寺の紅葉〕
 御書拜見大阪にて病氣御《原》出被下候由なれど留守にて殘念に存候。歸京後は餘病の痔を切開臥床。然し今日頃より、少々は外出木曜の御出待上候尤も同席者あるかも知れず御不都合の用事なら餘日を選みてもよろしく候
 
      一三二二
 
 十月十三日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓夫からは大無沙汰を致しました。先達は大患後一週年の時日を御忘れなくわざ/\電報を賜はり候處實は御耻しいかなあの時は大坂で又々やつつけて入院してゐたのです。
 どうも矢張り自分の咎なのでせう、誰を恨む譯もないが、事情を御話しますとね、大阪の社から講演をたのまれて明石和歌山堺大阪の四ケ所で喋舌つたのです、其堺あたりから少々腹が妙になつてこいつはといふ懸念も起りましたがもう一つだと思つて大阪を片付けて宿屋で寐てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとう/\胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろいて湯川胃腸病院へ這入つて三週間程加養して夫から東京へ歸つて又々須賀さんにかゝりました。すると何の因果か歸京の翌日から肛門周炎とかいふ下卑た病氣になつてとう/\切開しました。夫が惡性なので三週間後の今日もまだ細い穴が塞がらない所があつて膿が出るのです。
 右の譯であの電報に對しても梨の礫の御無沙汰といふ譯で今日迄打過ぎましたのは甚だ申譯がありません。須賀さんの御蔭で胃は殆んど平癒しました。其方は安心して下さい。
 此間病中の感想などを新聞にかいたものを入れた隨筆樣のものを出版しました。是は記念のためだから是非一本を差上たいと思つてゐますが、まだ其儘してあります、何れ其内送ります。
 近頃は大分高田で流行なさる事だらうと妻とも申し合つてゐます。御令閨へどうかよろしく先は右迄 匆々
    十月十三日                 金之助
   森 成 樣
 
      一三二三
 
 十月十五日 日 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込淺嘉町坂元三郎へ
 拜啓先達は御見舞難有候偖其後消息も打絶居候川淵正幸氏死去の趣突然承知仕り洵に氣の毒の至に堪えず早速同家宛弔辭は送り置候へども猶明十六日午後一時青山にて神葬の由につきもし御會葬にも候はゞ封入の名刺小生代として葬儀がゝり手元迄御渡し願度尤も明日は月曜にて時間の具合も不便なれば或は御出無之やとも存候其節は一向無差支候間其儘に御打捨置願候右乍唐突御依頼迄 匆々
    十月十五日                 金之助
   坂 元 樣
 追白 病氣未だ全快せず漸く車にて醫者へ行く位に候但し神樂坂邊迄の歩行は差支なき模樣に候へば御放念可被下候
 
      一三二四
 
 十月十八日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓先便にて子規の遺墨御所望の趣承知は致したれど例の病氣にて億劫なりしためつい/\遲延無申譯候漸く起臥にも差支なき程に至り候につき短い書翰を戸棚の中より取出し同封にて差上候御受納可被下候 匆々敬具
    十月十八日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一三二五
 
  十月十八日 水 後1-5 牛込區早稻田南町七より 布哇ホノルル布哇中學校田島金次郎へ
 拜啓未だ拜顔の榮を得ず候處愈御清勝奉賀候。過般は拙著貴校にて教科書として御使用の趣光榮不過之と存候。其後右拙著に關する繪端書御出版につき惡筆を御求めに相成甚だ慚愧の至とは存じ候へども御望みに任せ候處御役に立ち好都合に存候
 今回は圖らずも切地二種わざ/\御遠方より御送をうけ感佩此事に候。内地にては珍らしき織物のみ何れも美しく眺められ申候。何に致してよきや未だ好分別も浮び不申|簟《原》の裏に一先づ納め置候右乍早速御禮迄先づ申上度 匆々敬具
    十月十八日                夏目金之助
   田島金次郎樣
 
      一三二六
 
 十月二十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 此間は久々にて三君の御顔を拜し候久々といひ遠方の御來駕といひ甚だ粗末な接待振に耻入候。するめ正に屆き候難有候。包が破れて五六枚ひきちぎつてあるには腹が立ち候呉れといふなら呉れるのに、怪しからん奴ですね。どうか參考の爲だから貴任者へ事實を教へて注意を促がして下さい。 匆々
 
      一三二七
 
 十月二十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 戒名ハ
 滄溟院殿水月一如(又ハ一夢)大姉
にては御氣に入りかね候や戒名と字の大さと書體が分ればすぐ菅を頼ひ《原》可申候 匆々
 
      一三二八
 
 十月二十日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓大阪表にて病氣加養の節はわざ/\御見舞状を賜り難有候其後輕快歸東の處即日より肛門周炎と申すものに襲はれ久しく困臥のため御無沙汰に打過無申譯候
 拙著「切拔帖より」寄せあつめものにて氣色頗る不揚候へども一部御目にかけ候敢て高著に對する御禮と申す程にも無くまあ御挨拶旁のものに候へば時節がらの松茸位の處と御思召御笑納可被下候 匆々敬具
    十月二十日                金之助
   臨 風 先 生
 
      一三二九
 
 十月二十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 浩洋院殿では水月云々に即かず不賛成に候、滄溟の二字惡くば慈海院殿、寂空院殿、觀海院殿、虚明院殿、淨皓院殿など如何にや。
  たのまれて戒名選む鷄頭哉
 
      一三三〇
 
 十月二十二日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨日ある本を見たら海の事を靈源といふやうに覺え候
 靈源院殿は戒名らしく候如何にや
 
      一三三一
 
 十月二十三日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 其後は御無沙汰あれから又痔を病んでとう/\切開漸く一週間程〔前〕に起坐然し少々癒損つて未だに醫者に通つてゐる
 此間の本の事は出さうかといふ望みのある男どこかへ旅行して歸り來らず此間甲州より畫端書が來たから多分そこに居るのだらう
 右の爲め返事も出さず甚だ失禮まあ出せる處でもあつたら手紙を上げるから夫迄待つてくれ玉へ
 此頃は好い天氣だ。鹿兒島が見たい。野間によろしく。野村は岡山へ行つた。忙いから是で失敬
    十月二十三日                金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一三三二
 
 十月二十三日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓乍唐突御願がある戒名を一つ書いて貰ひたい、縁喜が惡いけれども是非願ひたい
 是は僕の教へた法學士今式部官松根といふ男の父母のである。書体は正楷字くばり封入の劃の通り右は父左は母と御承知ありたし(母のは靈《◎・レイ》源院殿)
 松根といふ男は引越の時君が僕の門札を書く所を見てゐたから君に頬みたいといふのである
 石屋が催促するので可成早い方希望、用紙は厚い方石屋には都合よき由右迄 匆々
    十月二十三日                金之助
   虎 雄 樣
 
      一三三三
 
 十月二十三日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 實は先刻菅に手紙を書いて頼んでしまつたり。毎日手紙の返事をためて置くと大變故今度はすぐ片付けた積で大得意の處模樣替には一寸困り候今更よすと云ふのも異なものではないか
 小生書いて見たい樣な己惚もあり、靈源〔二字右○〕も通知後故あの儘にて可ならん、但しもつと面白いのが出來たら改正してもよし
 
      一三三四
 
 十月二十五日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 原稿を歸して呉れといふ端書は拜見したが、二十四日には社へ出る必要があるので夫迄でいゝと思つて返事を上げなかつた。
 所で今度ある意味から森田にやめて貫はなければならない事になつた。森田が居なくなれば文藝欄の編輯者の問題が出る譯だが、僕は少し思ふ處があつて文藝欄を廃止する相談を〔編〕輯部の人として仕舞つた。今迄は色々御世話になり又是迄骨を折つたものを放棄するのは惜しいものであるが、社全體の紙面の改良や原稿の選擇に就いて僕が何か無遠慮の事を云はうとすると、どうしても僕が先づ是丈の犠牲を拂つて置かなければならない。文藝欄を維持する積なら維持はいくらでも出來る、又改良も出來る。然しさうすると他人の領分へは口を出し惡くなる。僕は今度池邊君が退社したに就て或は自分も出やうかと考へたが殘る人々から事状を聞いて見るとさう意地を通す必要もないから居る事にした。のみならず自分の直轄してゐる文藝欄の棒を永久流して仕舞つた。是は僕が猶將來に朝日をより好くし得る見込を抱いた爲であつて、決して自分の地位を安固にするため他人の云ふ通りになつたのではない。夫は君にどう思はれても構はないが、向後到底僕の發見し得る「朝日」の點々に於て改善の身《原》込が立たないとなつたら、多分僕はやめるだらうと思ふ。
 夫からもう一つは文藝欄は君等の氣※[火+陷の旁]の吐き場所になつてゐたが、君等もあんなものを斷片的に書いて大いに得意になつて、朝日新聞は自分の御蔭で出來てゐる抔と思ひ上る樣な事が出來たら夫こそ若い人を毒する惡い欄である。君抔にそんな了見はあるまいが、近來君の行爲やら述作に徴して見ると僕は何だか心細くなる樣な點もある。あれで好いつもりで發展したらどうなるだらうと云ふ氣が始終つけまつはつてゐる。要するに朝日文藝欄抔があつて、其連中が寄り合つて互に警醒する事はせずに互に挑撥し會《原》ふのも少しは毒になつてゐるだらうと考へる。それで文藝欄なんて少しでも君等に文藝上の得意場らしい所をぶつつぶしてしまつた方が或は一時的君や森田の藥になるかも知れない。
 僕は向後文藝上の事に關して君等の援助を仰がなければならない場合が澤山あるだらうと思ふ。現に援助を仰ぎつゝあるのに、こんな事を云ふのは甚だ失禮でもあり諸君も氣を惡くするかも知れないが實際昨今の僕はさう感ずるより外に仕方がないのだから、※[さんずい+嫩の旁]《原》石は本當にしか感じてゐるのだと思つてくれ給へ。さうし〔て〕笑ふとも怒るともして呉れ玉へ。
 玉稿は同封で歸す。あの端書の書き方抔を兎角申すのは何だか小八釜しい樣だが「闇から闇へ」抔いふ文學的形容詞は用ひない方が穩當であらう。殊に「夫は堰へられない」に至つては讀む方では一種厭な感じがする。自分の書いたものが自分の豫期した時間内に新聞に出ないのは不愉快には違ない。又其原稿がどうなつたか分らないのも不平には違あるまい。けれども夫に堰へられないといふのは自分の書いたものが左も/\重大な論文で、夫を掲載しない新聞が左も/\不徳義で、之を草した自分は左も/\大家である樣に讀まれる。以上の諸條項を備へないで猶且つ下らない事に堪へるとか堪へられないとかいふのは一種のセンチメ〔ン〕タリストか或は片寄つた文壇の流行語を故意に使用するコン※[エに濁點]ンシヨナリストである。
 僕の近來の君に注意したい點は道徳的にも藝術的にも此手紙のうちに含まれてゐると思ふから、とくにそれを長く説明したのである。
 原稿は五回分丈社に回つてゐた。僕は自分から請求して、悉くそれを持ち歸つた。理窟から云へば掲載の有無に拘はらず原稿料を拂はなければならない。が僕は君等が單に原稿料をとる爲にのみ書いてゐると思はれるのが厭だから、わざ〔と〕請求しないのである。
 以上
    十月二十五日                夏目金之助
   小宮豐隆樣
 津田君には廻送してやる方を御勸め致し候
 
      一三三五
 
 十一月一日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜啓先夜は失禮昨日菅氏參り戒名數通の楷書見せ候處何れも棄てがたき故みんな御日にかけ申候小生のよしと思ふのに朱圜を附し置申候
 封入の切符頼まれものに候どうか買つて下さい
 今日辭表を出し候社長出てくる迄何とも方づかざるべし
 右迄 匆々
    十一月一日                  金之助
   豐次郎樣
 
      一三三六
 
 十一月十五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
 拜啓先達御依頼の川端先生の畫の賛美事にやり損ひ申候、仕方なしに上部を切り取り短かい所へ蝶去つて又蹲踞る小 哉と書いてわざと猫の畫を中間に挾み猫と云ふ字を省き申候是ぢや多分駄目かとも存じ不《原》申候へども此次御出の節入御覽可申候
 子規の對幅には釣鐘のうなるばかりに野分哉といふ
句を認め候是亦出來榮あまりよろしからず不可なければ何枚で〔も〕書き直す積に候先は右御報迄 匆々頓首
    十一月十五日                 金之助
   森 圓月樣
 
      一三三七
 
 十一月十五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 麹町區永田町鍋島侯尚邸内中島清へ
 拜啓かねて御あつかり申候玉稿とくに拜讀致す筈の處色々取り紛れつい今日に及び無申譯候兩三日五十|牧《原》程よみ夫にて大體の見當相つき候、甚だ露骨にて失禮には候へどもあれは失敗の作かと存候詳しき事は御面會の上御納得のあるやう申上度考に候
 明日は木曜なれど已みがたき所用のため午前は外出致候午後は在宅の積に候然らずは今一つ次の木曜にても御面語致しても宜敷候右用事迄申上候 匆々
    十一月十五日                 夏目金之助
   中|川《〔島〕》清樣
 
      一三三八
 
 十一月十五日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區林町六四水上齊へ〔うつし〕
 拜啓小生大阪表にて病氣の砌り玉稿をホトヽギスへ掲載御依頼の尊書拜讀致候へども病中とて御返事もなりかね其後歸京又々餘病のため荏苒拜讀の機を失し無申譯候此頃漸く小閑を得て拜見面白く存候ホトトギスへ御周旋申上度は存じ候へども同紙は近來革新の結果原稿料を拂はぬ事に相成候故控へ候其他の雜誌聞合せ位は一二出來候はんもコレ亦今が今といふ間に合ひかね候事と存候玉稿は御手元へ御歸り《〔?〕〕》可申や又は私保存時機をまちどこかへ頼んで見可申やいづれにても御高見に從ひ可申候先は御詫旁々右御伺ひ迄 匆々敬具
    十一月十五日                夏目金之助
   水 上 齊 樣
 
      一三三九
 
 十一月二十二日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 岡山市二番町五野村傳四へ
 俳句はみな駄目川柳は蒲團の句位がいゝだらう
拜復大阪で病氣をしてゐる頃君が岡山へ行つた話を聞いた、其後東京へ歸つてから何か學校に騷動がある由も聞いて實は心配してゐたが是は君が行く前からの騷動だから君は其善後策の一部分として招聘されたのだらうと思つて先づ安心してゐた
 君の手紙を見ると萬事がよく分つたまあ當分我慢してゐたまへ苦しいたつて東京の佐内坂にゐた時より増しだらうあの家を見た時は少々氣の毒になつた。大阪朝日の方へ原稿を廻した事も知らなかつたが出る事は一遍出たのかね夫でも出ればまだ好いのだ。東京の社でも少々ごた/\があつて僕もとう/\出やうとしたがみんながとめて呉れるのでまあ思ひとまつた、僕見たやうに横着をしてゐて夫で不平がましく出るの引くのといふのは實際義理知らずのやうでもある。
 痔が癒り損なつて末だ尻に細い穴が出來てゐる、是が結核性で追つて腸結核にでもなつちあ夫限りだと心細い事を考へたりしてゐる。實際そんな例もあるのだからな
 森田は已めて貰つた、森田と僕の腐れ縁を切るには好い時機なのである。當人は無論筆で立つ氣だらう
 此半きれは字を書いてやつて禮にもらつたものだが生涯こんな結構なものを使ふ事は二度とふたゝびあるまいと思つてゐる何でも越前か何かの名産ださうだ
 漸々寒くなるので日の遠い書齋がいやになる日當りのいゝ家をたてゝごろ/\してゐたい、
 右迄 匆々
    十一月二十二日              金之助
   傳 四 樣
 奥さんへよろしく
 
      一三四〇
 
 十二月一日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜借末女死去につき懇篤な御弔詞に接し千萬難有拜誦實は幼兒の事故入らぬ人騷せも憚と思ひわざと何處へも通知を發せざりし次第故あしからず
 葬式も喪車に生等夫婦と亡兒の姉妹兄弟位がついて行く丈の極めて簡單なものにしてしまいました是も御含み迄に申上て置きます
 君はじめ他の社内諸君が多忙の時間を割くべく心配せられては却つて恐縮だから其邊はよろしく願ます
 死んだ子は夕飯を食ひつゝ突然つツ伏した儘死んだのださうです大人なら脳溢血だが小供では何だか分りません豐田君も不思議だ/\と繰返してゐました
 萬事は御目にかゝつた折の事まづ不取敢御禮迄 匆々
    十二月一日                  金之助
   杉 村 老 兄
  荊妻よりも宜敷御禮を申上ます
 
      一三四一
 
 十二月十九日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區臺町二七鳳明館東新へ
 御手紙拜見致候ロダンの談話は通俗的のものに有之候や又は面倒なものにや餘堅過ぎて新聞むきならず雜誌向ならば其方へ廻したら如何かと存候
 右伺ひたる上にて紹介して見るべく候一寸御返事願度候 草々
    十二月十九日                 金之助
   東   樣
 
      一三四二
 
 十二月二十八日 木 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓年も押しつまり候如何御暮しにや永らく御病氣のよしちつとも不知失禮致候もう御全快の由結構に存候小生は痔の方まだ治らず隔日に醫者の厄介になり居候
 愈小説をかく事と相成候へども健康を氣遣ひ日に一回位の割にて龜の子の如く進行する積に候
 此間中は東京の方にごた/\有之小生も一|事《原》は罷めやうかと思ひ候へども色々他の勸告もあり又御厄介になる事と致候丈夫になつて又大坂へ參り講演でも致して氣?をあげ度候
 右御返事迄 艸々
    臘月二十八日                金之助
   如是閑樣
 
      一三四三
 
 十二月三十日 土 牛込區早稻田南町七より 佐世保市石坂町濱武元次へ〔はがき うつし〕
 鯨相届候段々御好意難有候拙著一部御返禮に差上終《〔?〕》歳無日定めて御急がしき事と存候何れ永日
 
      一三四四
 
 月日不詳 川村鐵太郎へ〔うつし〕
 〔以上省略〕一は宛なし貴方の書きたいものを全部書き上げて夫を私に御見せになる事(是はいやだと仰やる)一は四五の短篇を文學雜誌の上に公けにして貴方の力量を世間に御示しになる事です失禮ながら其出來榮えを保證として私は貴方と交渉の歩を進めたいと思ひます〔以下省略〕
 
 明治四十五年 大正元年
 
      一三四五
 
 一月一日 月 前0-5 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔印刷したる年賀状の瑞に〕
 去年は三君にて御光來失禮二君によろしく
 
      一三四六
 
 一月一日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區湯島順天堂病院第一三號室中勘助へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 御病氣の由御大事に可被成候
 
      一三四七
 
 一月十三日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 長野縣諏訪郡豐平村二九永田登茂治へ〔はがき〕
 拜復子規の書翰只今多忙にて探しがたく候其内閑を得候はゞ見つけ可申候差支なきもの出で候へば差上可申候
 
      一三四八
 
 一月十《〔?〕》三日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ〔はがき〕
 拜啓御贈のカキは三十一日の夜半を過ぎ一日の午前三時半到着門口をドン/\叩き候。御蔭で元日の客に振舞申候難有御禮申上候拙著「切拔帖より」一部御目にかけ候
 
      一三四九
 
 一月十三《〔?〕》日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷甲良町二〇金子雄太郎へ〔はがき〕
 拜復まづい字を御所望の由承知致候其うち都合よき時書き可申候句は作り不申候みな古いものに候何か御望みも有之候や伺ひ上候
 
      一三五〇
 
 一月二十四日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區指ケ谷町一三三内田榮造へ〔はがき〕
 拜啓水蜜の鑵詰小包にて御送難有拜受病兒とともにあまき汁を吸ふ積に候不取敢御禮迄 艸々
 
      一三五一
 
 一月二十八日 日 牛込區早稻田南町七より 鳥居赫雄へ
 拜啓先便にて獨乙御出立の由は承知致せしが何時頃御着か分らず其儘に打過候處今朝御端書にて愈御歸朝の趣に接し先以て海陸御無事御歸國大慶の至に存候
 實は今朝神田へ參り候故さうと知つたらば一寸御尋ね致せばよかつたと存候。此頃小説を書き居り今日も是から是非一回書かないと大阪のゲラが後れるといふ始末故拜趨を怠たり候明後日は又午前中に神田へ行かねばならぬ故其節は一寸顔を出し可申候尤も諸方御出向の必要も有之べく無理に御待受は恐入候。病餘自分の健康を氣づかひわざと毎日一回分の小説外か《原》書かざる爲め其日其日に追はれ落付きかね候不取敢御歸朝の御喜び迄餘は拜眉萬縷 草々敬具
    一月二十八日                 金之助
   素川老兄坐下
 
      一三五二
 
 二月九日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 御手紙難有拜見致候御叮嚀なる御招待辱なく候ことに横山畫伯も御來會と承はり候へば是非都合つけ參り度と存候へども打明けた御耻づかしき處を申すと目下御承知の小説に追はれ一日後れると社の方で一日休まねばならぬ始末にて大弱りの處に候 過日時々休んで呉れと申し叱られ候木曜の面會日などは殆んど書き損はぬ許り危うき思を屡繰り返し居候尤も旨い具合に行けば一夕の餘裕位はとれ可申れど十二日は朝のうち參る人ありひるから四時位の間には小生の痩腕にては一回書き上げる事覺束なく候へば或は失禮致す事に相成るべきかと存候右の譯故もし小生の爲ならば會合の日を他日に御延ばし彼岸過に至れば幸甚もし又他の諸賢との御會合ならば小生は繰合せつけば參上もし書けなかつたら失敬する位の處にて御勘辨願度候
 甚だ我意にて定めて御迷惑とは存じ候へども右の次第故どうぞあしからず御海容被下度候不參の節は大觀君に大兄より宜しく敬意を致され度 先は右不取敢御返事迄 艸々敬具
    二月九日                  金之助
   臨 風 賢 契
         座下
 
      一三五三
 
 二月十二日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 拜復毎日小説を書いてゐるので氣が落ち付かなくつて何も外の事が出來ません甚だ苦痛です。御手紙の「凍」といふのは一月號ですか一月號ならことによると無くなつたかも知れません二月號に出て是から送つて呉れる内にあるなら是非拜見します
 
      一三五四
 
 二月十三日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓伊豫文よりの御状拜見あゝ美人迄御揃にて敬意を表されては大に恐縮致候
 あの日半分書きかけたる處に寶生新といふ謠の先生見え稽古をしてもらふと四時で入湯喫飯を除きとう/\八時半になり漸く社へ送り候始末夫が爲め御兩君にも失禮美人にも失禮無申譯候 小説をやめて高等遊民として存在する工夫色々勘考中に候へども名案もなく苦しがり居候
 大觀君によろしく御傳願候雲峯君の雅名承知の如くにて思ひ出せず候同君にもよろしく願候餘は彼岸過拜眉の節萬々 頓首
    二月十三日                金之助
   臨 風 老 臺
         机下
 
      一三五五
 
 二月二十三日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 拜啓「凍」を讀みました是から毎號つゞけて拜見致します。飽きずに仕舞迄御書きなさいまし
    二月二十|四《原》日
 事實の書き方はあれで結構だと思ひます
 
      一三五六
 
 二月二十八日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓文學士の竹山成美といふ人が今迄本郷順天堂わきの中學(開成?)へ出てゐた處今度端書で秋田の學校へ行く事になつたといつて寄こした。さうすると後任はどうなつたか恐らくはもう極つたかも知れないが一寸聞き合せて奔走して見るのも好いかも知れない。右御報知迄 艸々
    二月二十八日
 
      一三五七
 
 三月十一日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 四谷區左門町五四三須※[金+卯]へ
 拜啓御手紙拜見致候愚兄より貴所の御名前を承はり候は餘程久しき以前の樣に記憶致候其當時は何時御來訪にやと心待に待居候處遂に御光來なく自然尊名も忘れ居候處突然の御來信事情よく相分り候小生御覽の通りの惡筆に候へども若し御所望に候へば何なりと認め可申候但只今小説執筆中にて諸方の用事も其儘に打棄置候始末故今しばらく御猶豫願度候小生面會日は木曜日につき同日もし御來訪被下候へば御目にかゝれ得候事と存候是も小説の濟んだあとの方都合よろしく候又平日にてももし必要の節は時間を拵へ御目に懸りても差支なく候故さういふ時は無御遠慮豫め御一報被下度先は右御返事迄 艸々頓首
    三月十一日                 夏目金之助
   三 須 ※[金+卯] 樣
 
      一三五八
 
 三月十二日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 拜啓「凍」の(二)を拜見致しました。前回より面白い樣です。私の小説より面白さうです。此次の分も拜見致します。 草々
    三月十二日
 
      一三五九
 
 三月十三日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ
 御手紙拜見致しました野上君の御病氣は驚ろきました。あなたも嘸御心配でせう。此間の端書に熱が出て腸が惡いと書いてあつた樣ですが大した事もあるまいと思つて返事も出さずに置きました。昨日御手紙と同日に寶生氏に逢ひまして大學へ入院されたといふ話を聞いて夫は困つたと思つてゐた處であります菅能さんの診斷ではさう輕い方ではないとか賣生氏が申しましたが御手紙の模樣では大した事にもならずに濟みさうでまことに結構です、夫に入院さへしてゐれば手當は充分出來るから貴方は安心して寐て入らつしやい。もし何か手が足りないとか何とかいふ場合に私の出來る事なら仕て上げますから遠慮なくさう云つて御寄こしなさい。見舞にも行く積でゐますが熱の高い時面會抔して高くなると不可ないから一寸控へます但し當人が誰も來なくつて心細い樣だと困るからそんな時には是非知らせて下さい御令弟は見舞に行けるだらうから樣子が分るでせうあなたは身體のしつかりする迄傍へ寄らない方がいゝチフスだから感染すると不可ない
 謠本は慥かに屆きました御忙しい處を恐れ入ります 先は御返事迄 艸々
    三月十三日                 金之助
   八 重 子 樣
 
      一三六〇
 
 三月十四日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 先刻は失禮約束の紹介別封相認め候間御受取被下度候先は當用のみ 匆々頓首
    三月十四日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一三六一
 
 三月十四日 木 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 其後は御無沙汰に打過候偖今般友人津田青楓君上野に自畫の展覽會相開か|ら《原》れ候につき該件につきもし御手すきならば一寸御目に懸り度由に付御面會被下候へば幸甚に候 敬具
    三月十四日                 夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一三六二
 
 三月十七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 福岡醫科大學久保猪之吉へ
 拜啓時下餘寒猶烈敷候處愈御清適奉賀候却説小生知人に長塚節と申す歌人有之故子規と根岸短歌會抔にて研究致し其後は小説抔に趣味を持ち現に一昨年は東京朝日紙上に「土」と申す長篇小説を載せ候男に候此人不幸にして喉頭結核を患ひ岡田博士の治療を受け先頃退院致し候處今度思ひ立ち明日より九州地方漫遊の途に上り候に就いては自然御地へも參るべくにつき是非共貴所の診察を受け度希望の由にて小生に紹介を依頼致し候小生も知人の事とて甚だ氣の毒に存じ未だ御懇談も致したる事なき學兄に對し失禮とは存じ候へども思ひ切つて引受此書面を認むる事と致し候何卒事情御諒祭の上右長塚節氏御地へ參り候節は一應御診察の上相當の御注意御與被下候へば難有候先は右御願迄 匆々敬具
    三月十七日                夏目金之助
   久保猪之吉樣
 
      一三六三
 
 三月十七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓今日展覽會を拜見に參りました。あのうちの非賣品のせーブルといふのを讓つて頂けますまいか尤もあまり高くては困りますが。夫が不可なければ京都岡崎町といふのと宗○橋とかいふ十八圓のを二枚頂きたいと思ひます。
 事務へ何とも申して參りませんから、貴方からよろしく願ひます。もし右の外に貴方の推賞なさるのがあるなら御相談の上以上のをやめて其方に致してもよろしう御座います。
 青木君の繪を久し振に見ましたあの人は天才と思ひます。あの室の中に立つて自から故人を惜いと思ふ氣が致しました。 以上
    三月十七日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一三六四
 
 三月十七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜復講演へ出ろとの御|條《原》承知致候只今小説に心を奪はれ講演抔の事を考へる餘地無之候からだの方は至極調子よき方なれどもう少し立つて見ねば分らず
 いづれ能く考へたりからだの樣子を見たりして確とした處を御返事可致候先は右迄 艸々頓首
    三月十七日                 夏目金之助
   長谷川萬次郎樣
 
      一三六五
 三月十八日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 昨日あの手紙を出したあとで同日に展覽會を見た寺田君から別紙の樣に云つて來ました。畠の向に人家のあるといふのは私は一寸思ひ出せないが貴方はどう思ひますもし其方がよければそれにしてもよろしう御座います 以上
    三月十八日                  夏目金之助
   津田青楓君
 
      一三六六
 
 三月二十日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下北品川三九九中村蓊へ
 拜啓彼岸過迄のあとに大兄の小説を載せる事に相談出來候大兄は其後書き直しつゝありや
 地方へくばる引札廣告の豫告は成る可く早きがよき由作の名前と右豫告(是は法螺丈で澤山のよし)を澁川君に廻して呉れ玉へ
 載る前に一寸書き振其他につき拜見心付きたる處御注意致してもよろしく候先は右迄 匆々頓首
    三月二十日                夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      一三六七
 
 三月二十二日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜復二月より盲腸炎にて御臥床の由承はり驚き入候ちつとも知らず見舞も申不上失禮御海恕臼川も先日來腸窒扶斯にて大學に入院貧乏人の病氣程困るも〔の〕無之候然し順潮に御快方結構此上なく候
 小説の義は小生の分今少々つゞき可申夫に大兄の六十回を加へれば御快癒迄に充分間に合ひ可申あとは其時々々に御執筆にて無差支事と存候間に短篇をはさむ事も人撰に一寸困るべく又君の前に名前の左程あがらぬ人を載せて新顔が二人つゞくのも妙ならず時間さへあれば小生も玉稿を拜見し書き直しも請求致すやも計られねど今は小生も多忙ことに大兄も病中なればいつそ其儘にて出し可申御異存なくば澁川君に承諾の旨御報被下度候
 段々春暖の候好い心持に候毎日小説を一回づゝ書いてゐると夫が唯一の義務の樣な氣がして何にも外の事をせず早く切り上げて遊んだり讀書をしたりするのが樂みに候
 「雨の降る日」につき小生一人感懷深き事あり、あれは三月二日(ひな子の誕生日)に筆を起し同七日(同女の百ケ曰)に脱稿、小生は亡女の爲好い供養をしたと喜び居候
 先は右迄 艸々
    三月二十一日                 金之助
   蓊   樣
 引札廣告の件御忘なき樣願上候
 
      一三六八
 
 四月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 つは蕗一部御惠贈難有拜受致候櫻雲駘蕩の時節筆硯愈御清勝奉賀候
 御禮迄 草々
 
      一三六九
 
 四月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町三丁目一六内田貢へ〔うつし〕
 從吾所好御珍藏のところ特別の御芳情にて御割愛御贈與難有御禮申上候三村清三郎の書甚だ美事にて敬服致候尤も同君如何なる人なるやは承知不仕候 いづれ好事家と存候、小生考古癖少なく珍書といふものに盲目なれど集中の寫眞版悉く滅多になきものと思ひ面白く眺め居候毎月一回御會合なら小生の友人狩野享吉君を是非會員に推擧致し度候 あの男は向不見の古書狂に候其狂熱あるがため今迄獨身でゐられる位なれば名譽會員にしても充分の資格ある人物かと存候 右御禮旁紹介迄艸々
    四月二日                夏目金之助
   魯庵先生坐下
 
      一三七〇
 
 四月三日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔はがき〕
 御手紙の趣承知しました。十五六日迄はつなげ候。尤も其時になつて具合がわるければもう少しつゞけて書きたいと思ひます。大阪からは鳥居君が此間聞きに寄こしました。寺尾君にはあなたからさういつて遣つて下さい
 
      一三七一
 
 四月三日 水 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜復僕の方へも澁川君より來書にて君の手紙と同樣の事を申し來り候
 白鳥氏のは販賣よりの依頼もある由申添有之大兄は氣拔の姿にて御殘念ならんも身體の爲には其方却つて御便宜なるべきかと存候
 存分御攝養祈望致候 艸々
    四月三日                   金之助
   蓊   樣
 
      一三七二
 
 四月六日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區大學病院三浦内科傳染病室野上豐一郎へ
 其後は病勢も次第に減退食事も少々はあるやうに御回復先以て結構に存候 あれからもう一遍見舞に行かう/\と思ひながらつい時間と序なく夫限になつて甚だ不相濟 今は上野も向島も花の眞盛新聞では毎日消息を聞かぬ事なし、小説まだ濟まぬ故何處へも不參尤も隔日に神田の醫者へ赴く途上江戸川の分は電車より賞翫、昨日は久振で虚子の訪問を受けしばらく話し候 病牀嘸御退屈の事と御察し申候まだ讀書抔の騷ぎにてもあるまじく精々ひまにあかせて空想に御耽り可然か 何れ其内參院萬々可申述候 以上
    四月六日                   金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一三七三
 
 四月六日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 岡山市二番町五野村傳四へ
 拜啓花の頃愈御清適奉賀候上野も墨堤も人の出盛のよし新聞で見るばかり、久しく花には御無沙汰岡山の櫻は如何にや 四月の樣に遊ぶ事の多い月に小説を書くのは甚だ無風流の至り來年からは注意してやめに致したい。
 小供が死んだんで美しい香爐わざ/\御送り御芳志無此上喜び居候新らしい家にて佛壇といふものなく机の上に線香を焚いてゐる丈なれど香爐は持合せを使つてゐる故あの高麗燒は僕の机の上に置き候。あれはコマヤキぢやないよ。砥部燒といつて伊豫の松山で出來るものだ。願くは四圓五十錢の端溪にしたかつた尤も四圓五十錢の端溪も頗る怪しいものだが端溪にあらずとて輕蔑するには當らない大事になさい
 只今一家無事長女小學校を卒業高等女學校に入る、アイ子幼稚園より小學に移る。主人の白髪段々濃くなる細君は益肥る、まあ其位なもの也 君の方にても御變りなく結構
 右不取敢御禮迄 艸々
    四月六日                  金之助
   傳 四 樣
 
      一三七四
 
 四月十四日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御地此間よりの騷亂にて定めし物騷の事とひそかに心配致居候處別段の事もなくまづ結構に存候
 御通知の隋代の香爐の銘 横卷のもの着古雅と可申か甚だ面白きものに候机上にそなへ日夕珍重可致候夫から北周小碑拓本は參らず或は御忘になりたる事かと存候
 端溪の硯安きもの有之ば求めても宜敷御意に叶ひ候ものもあらば御買置序を以て御送願候代は此方より爲替にて可差出候
 五葉君に久しく面會せず半次郎君は英國行のよし、傳四岡山にて不平を並べ居候 久留幸吉が美くしい奥さんをもらひ三四日前同伴來訪
 東臺の花散り春風砂を卷き居候
    四月十|六《原》日              夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一三七五
 
 四月十五日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 端書毎度ありがたく拜見 彼岸過迄はもう一週間内にて完結のつもりなれどつもりがあやしき故少々の遲速は可有之か
 遊びに御光來なら御待ち申上候一つどこかへ御供致してもよろしく候
 ひまになつたら惡筆をふるひ此間のぬめを汚し可申色々の人から頼まれて居候處いづれも延ばしてある故一時に眞黒に致し候此間ある人來りやけになると純潔な處女を悉く墮落させて愉快を呼びたいと申候小生の絹や※[糸+光]を汚すのも同樣の結果だと思ふと聊か遠慮致し度考も起り候
 右御返事迄 草々頓首
    四月十五日                  金之助
   東 洋 城 樣
 
      一三七六
 
 四月十六日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 今度學士院で表彰されるものゝ敷昨年の三倍四倍になりたり、小生の思ひ通りになりて學海のため甚だうれし。其内寺田寅彦の名が出てくる事を希望致し候
 
      一三七七
 
 四月十八日 木 牛込區早稻田南町七より 高濱清へ〔五月一日發行『ホトトギス』より〕
 拜啓、久しく書物を讀まずに居りました處。二三日前あなたから頂戴した『朝鮮』を讀む氣になりまして只今讀み切りました。私も朝鮮へ參りましたが、とてもああは書けません。お京さんといふのが天眞樓の何とかいふ女中のやうな氣がします。豐隆は平壌の方をくさしたやうに記憶してゐますが怪からん没分曉漢です。矢張り結構です。
 仕舞の舟遊びは樂屋總出で賑かな事です。
 私は前後を通じてあなたが(?)お筆といふ女と假の夫婦になつて歸る處と、夫からそのお筆の手紙とが一番好きです。中々うまいです。一寸敬意を表します。 頓首。
    四月十八日
 
      一三七八
 
 四月二十一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡市外東公園久保頼江へ
 拜啓過日久々にて御出被下候節は失禮のみ御海恕可被下候其みぎり御約束の猫の中卷本屋より取寄せ小包にて御送り申候御受取願上候
 花も散りました十九日に潮干狩に行つて風と雨で散ざんな目に逢ひました。
 此間いたゞいた博多織はとう/\半井さんにやりました。
 福岡はもうそろ/\あつくなるでせう。儉約をして御金を御ためなさい。時々拜借に出ます。右迄 草々
    四月二十一日                夏目金之助
   久保頼江樣
 御良人樣へよろしく此度御出京の節は是非御目にかゝり度と存候
 
      一三七九
 
 四月二十三日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓過日御寄贈にあづかりたる隋代の鼎の銘の御禮に木版の畫端〔書〕を四五十|牧《原》入御覽ます是は廣重のと國華などに出た古代の名畫の縮版に候
 不案内にて清國で税をとられるかどうか知らずもし取られたら御免可被下候
 花も散り申候此間中は潮干の時節に候もう暑くなり申候
 先は右迄 艸々
    四月二十二日               夏目金之助
   橋口貢樣
 
      一三八〇
 
 四月二十五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ〔はがき〕
 拜啓同窓會御報知難有候成るべく繰り合せ出席致し度心得に候萬一不參の節は已を得ぬ差支と承知願候 以上
 
      一三八一
 
 四月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ
 拜啓林檎一箱御寄贈被下難有存候早速取り出し知人にもわかち申候
 五葉氏の繪の事本人へ照會致すべく承知の上はあなたより御依頼可然と存候
 右御禮旁御報迄 草々
    四月二十五日                 夏目金之助
   安田秀次郎樣
 
      一三八二
 
 四月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓其後は御無音奉謝候此間御令兄より隋代の鼎銘とか申すもの送り越され甚だ雅なものにて愛玩まかりあり候
 御近作も有之候や本日漸く小説を書き上げ候につきひまになり候故其内伺ひ可申候
 却説青森に居る男にて小生と一面の識あるものより別紙參り候もし御承諾も有之候はゞ仕合せの至早速本人へ申つかはし可申候 否や一寸御報願度と存候 艸々
    四月二十五日               夏目金之助
   五 葉 樣
 
      一三八三
 
 四月二十七日 土 後く6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 御退院御目出度存候隨分長々の拘留嘸かし御退屈の事と存候猶病後の御健康萬事御氣をつけ御かまひ可然と存候
 御入院中は生憎小説に追はれしげ/\御見舞も出來かね殘念に候 此二三週間は又胃に酸が出て運動すると形勢不穩故成るべく靜養の工夫致し候 夫に神經もよろしからず閉口致し候。けれども根が呑氣な生《原》分故まあどうかなるだらうと存居候。然し大兄の方は漫性的のものでなき故成るべく一時に癒して置く事必用に候出來る丈轉地でも何でもしてゆつくり損失を取返す御工面可然と存候老生如きは損をすれば損のし損まことに心細く候
 いづれ其内拜眉萬々 八重子樣へよろしく
 此間御話の通安倍と中が二人づれにて參り候 安倍は藤村氏の妹をもらふよし何かたしかな糊口の口はないか抔申居候こしらへて遣りたくも無能力にて如何とも致しがたく候
 先は右迄 艸々
    四月二十七日                金之助
   豐一郎樣
 
      一三八四
 
 四月二十八日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ〔はがき〕
 橋口氏へ話候處御申越の條件にて五月十二《原》過ならかいて上げる由につき改めて大兄より御依頼ありたく候 草々
    四月二十八日
 
      一三八五
 
 五月一日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓厨川氏の著書評する事もなき由承知致候。然し折角讀んでやつたものだから、讀んでやつたしるし迄に十行でも二十行でも思つた通りの事を書いてやつてはいかん。
  君の新小説の劇評家といふものを一寸拜見したが益竪くるしくて讀者を苦しめるから、もう少しなだらかにしたら何うだらう
 
      一三八六
 五月−日 水 後11-12 牛込直早稻田南町七より 大阪市東區廣小路町一七高原操へ
 拜復其後は此方よりも御無沙汰不相變御健勝にて結構に存候却説高著序文の儀拜承實は今もある人の小説に序を頼まれて通讀中に候大兄のは何日頃迄に御入用なるや碌なものは書けねど何か差上てもよろしく候其代りゲラ刷なり校正刷なりを一寸御見せ被下度候
 右至急御返事迄 艸々
    五月一日                 夏目金之助
   高原 操樣
 
      一三八七
 
 五月十三日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内高原操へ
 拜啓貴著の序文早く書き上げ御送付致し度心得居候處色々差支起りつい遲く相成無申譯候別封粗末の出來ながら入御覽候もし御氣に入らずは御使用なくとも構ひ不申候後段少々惡口めいた所有之御氣の毒なれど成るべく障らぬ樣認め置候御參考にも相成候はゞ幸甚に候先は當用迄 匆々頓首
    五月十三日               夏目金之助
   高原 操樣
 極東の日本小包にて差出候肥後十年は仰により今しばらく手元に留め置候
 
      一三八八
 
 五月十七日 金 牛込區早稻田南町七より 市原隆作へ〔封筒なし〕
 拜復先日は檜物町へ御同道被下御蔭にて面白き一夕を消し候其内折を見計ひ又々御供致し度と存候
 からだ差したる事もなく御放念可被下候先は御禮旁御返事迄 匆々
    五月十七日                 夏目金之助
   市原隆作樣
 あすこの御上さんと御作さんへよろしく願上候大層面白かつたと御傳願候いづれ其内又御邪魔に上りたいと云つてゐたと御吹聽被下度候
 
      一三八九
 
 五月十九日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓先日は御光來の處生憎謠の先生あり不得閑談不本意に存候
 却説牛込御門内雅樂所の黒塀を通り過ぎ二三軒行くと同じ側の角の長谷川といふ古道具屋に二幅對の山水あり遠くから見ると古名畫の樣にて頗る尊とく見え候主人不在にて妻君にたづね候處二十五圓の由にて筆者は周文と申居候二十五圓の周文は少々滑稽に候へども念の爲故よく近づきて見候處人の顔や波の紋に非常に繊細なシンカキをもつて書きたる如きコキ線あり。周圍と調和せぬ樣なる上松の木の幹の内部のウロコのかき方など甚だ妙チキリンに感ぜられ申候
 然る處小生斯樣な大家の筆墨を多く見ざる故巧拙さへ判じがたく僞物にもせよ一錢五厘のものか二十五圓のものかまどひ候。
 繪畫に對する直覺も薫育もなき右樣の始末甚だ耻かしく存候へども慾の上からもし畫家より見て相當のものなら奮發して買つて見やうかと存候。大兄もし御散歩の序もあらば一つ御鑑定被下間敷やよければすぐ參り可申、又御手元にて御買置後より小生辨償致せば猶更便宜と存候
 小生の見る所では牙軸表装丈にても相當の價格のものと思はれ候。畫は遠方より見れば慥かに品よく高尚に候
 右不取敢冒險御願迄 匆々頓首
    五月十九日                 夏目金之助
   五 葉 先 生
         座下
 
      一三九〇
 
 五月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 明日午後四時より九段能樂堂にて忠度、調伏曾我、隅田川の能あり、小生の席はあまりひろくなけれど窮屈さへ御忍びなら御光來如何にや、かねての御約束故一寸御案内申上候。たゞし御老人御同道にて不時に來て何處かへ割り込んで呉れと云つてもどうかなるだらう
 
      一三九一
 
 五月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 あしたの御能に愚妻が先達御案内をしたさうだが、ことによると人數が多過ぎて席が足りないかも知れないから見合はして呉れ玉へ。君はあまり能に興味もなささうだから。此つぎに延ばしてもいゝだらう。尤も來て見て僕の席に入り切れねば外の席を買ふて一人其所へ移つてもいゝが、夫程の熱心家でもないのだらう
 
      一三九二
 
 五月二十六日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓先日は夜能にて久々の拜顔うれしく存候其折申上候難物の賛思ひ切つて本日試み申候、趣向は、是は一所不住の沙門にて候といふ前書の後へ、雪の夜や佐野にて食ひし粟の飯といふ句を書き、其下へ自在に鍋の釣るしてある傍に行脚僧の笠を描けば夫で御仕舞の至極單簡なものに候。
 然る處絹地を勿體らしく展べて書いて見ると大き過ぎたり小さ過ぎたり墨色な《原》變になり過ぎたりして遂に物にならず恐縮してやめに致し候何遍書いても弘法大師以上に行く氣もないのですが、字の巧拙以外に私の字はどう見ても畫の賛らしく見えないのが、たゞ畫家泣かせの種となる許で氣の毒故折角思ひ切つてやり出したのを又思ひ切つてやめに致し候。實をいふとどうしても畫と賛は同人が同時に書かなくてはならぬものかとも存じられ候。然らずは畫の上へ賛をするが順當に候。賛をかいて其下へ繪をかゝせる事は古今に其例あるや否や存ぜざれど少くとも小生の場合は畫家を雪隱詰にすると同樣の意地の惡い仕業に相成候
 本日健筆會と申すものを見候、其内に女義の瓢がまづい繪の上にまづい字の賛を致し居候。雙方ともまづい事は受合候へども雙方とも差したる厭味なく且釣合の取れてゐるに感心致し候、斯うなると漱石もついに女義のなれの果に及ばぬ心細い譯になり申候、
 序故不折の惡口を一寸申候。あの男の畫も書も駸々乎としで邪道に進歩致し候、あゝ恰好ばかり奇拔がつてどうするかと思ひ候。不折先生の善所と申せば昔の一高の生徒が無暗に武張つて是が世の中で一番いゝのだと力み返つたる、あの若殿原の善所に候。高士達人其他色々の人格も有之べけれど一高の蠻カラを標榜する人格は大したものには無之べきか。あまり自分の惡口のみ申すと甚だ不愉快故惡口の材料に不折を生捕申候。夫は單に自他抑揚のためにて決して吹聽の爲には無之故其邊は御含置被下度候
 先は右長々の御約束を履行する能はざる事情迄匆々如此に候。
    五月二十六日                夏目金之助
   秋 骨 先 生
         座下
 賛はとてもだめに候。今日も惡詩を二枚同時にかき候が是は拙ながらどうにかかうにか納まり候厚顔さへ承知なら依械人へ送り得候。あなたへ上る賛丈はいかに厚顔でも逡巡に終り申候
 
      一三九三
 
 五月二十七日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 此間は御老人わざ/\弊席へ御出被下難有存候狹苦しくて嘸かし御窮屈の事と存候
 久振にて東京の御能御氣に召し候由滿足不過之候御多忙中御禮に御出などゝは思ひも寄らぬ事に有之必ず左樣の御心配なきやう君より御傳被下度候
 別封小包にて小生の詩と書を御覺に入候是は先頃君が僕も一つ書いてもらはうかと云はれし故此間十餘枚一度に認めたる節大兄の分として特に書きたるもの故決して安いものに無之其積にて御保存願候尤も表装などはなされぬ方結構に候書道も上達の見込有之故長命致せばもつとうまいものを記念としてあとへ置いて行つて上げる考に候然しいつ死ぬか分らぬ故まあ是を上げて置いてもし長生をしたら出來のよいものと取替やうといふ意味に候。詩は或は大兄の御氣に入るやも計られずと存候
 健筆會と申すもの一覽坂井さんの横に南洋將軍といふ張紙あり一寸奇拔故御吹聽に及候其他久米八の畫やら竹本瓢の畫やら有之。不折例によつて不良少年の惡達者を發揮致し居候
 先は右迄 匆々不一
    五月二十七日               金之助
   寅 彦 樣
 御老人へよろしく
 
      一三九四
 
 五月二十七日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 宇治山田市神宮皇學館湯淺廉孫へ
 此節御東上の砌は如例匆々甚だ遺憾を覺申候去年御約束の畫をかゝんと思ひ立ち候處少々氣進まず言譯のため詩を書いて小包にて送り申候、小生もいつ死ぬか分らぬ故記念として御保存被下度候。もし生きてゐれば其うち畫も屹度かいて入御笑覽積に候。まづ今度丈は字にて御免可被下候。字も段々うまくなる覺悟故うまくなつた時は時々取替可申候先は右迄 匆々頓首
    五月二十七日                金之助
   孫   樣
 
      一三九五
 
 五月二十七日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 四谷區左門町五四三須※[金+卯]へ
 拜啓かねて御依頼の書とくに差上べき筈の處つい/\多忙に紛れ遲延甚申譯なく此間小閑を得て宿債を一時に果し候處大兄の分に至り美事に失敗夫から昨日別の絹へ認め候處此方幾分か体裁よろしく候につき其方を御目に懸け候書き損じも同封にて御送り致し候寸法少々のび或は御不都合かとも存候へとも氣つかずついに書流し申候或は其内折を見て書き直してよろしく候 先は右用事迄 匆々
    五月二十七日                夏目金之助
   三須 ※[金+卯]樣
 
      一三九六
 
 五月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 昨夜御近火のよし距離ある事と存じ候へども多少御騷ぎと存じ候一寸御見舞申上候
 
      一三九七
 
 五月二十八日 火 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔封筒なし〕
 拜啓|昨《原》日はわざ/\御斷りの手紙を差上候處今日午前に至り不圖自畫自賛試みたく相成生れて始めて畫をかき候然る所我ながら見上げた出來榮に有之大に喜び此手紙と同便にて差出候間御受取り願候。繪は最明寺殿が後向になつてあるいてゐる所と御承知被下度候。斜に出てゐるものは杖にて決して刀には無之。山妻は侍が帶劔の姿と間違候間念のため説明を加へ置候。最後に申上候是はほんの記念として差上るもの故決して表装の上床の間へ御懸け被下に及ばず装飾品としては其うち書畫ともに上達の見込あればうまくなつた時改めて立派なものを入御覺る覺悟に候 以上
    五月二十八日                金之助
   秋 骨 先 生
         坐下
 
      一三九八
 
 五月二十九日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 五月十三日附の御手紙四五日前着拜見致候繪端書は四月二十三日に此方を出し候改もうとくに着致して居らねばならぬ筈と存じ受取を持ち郵便局へ掛合に參り候處先方へ聞き合すとの返事に候 恐らくは途中でとられたものにてはなきやと存候 大兄の御送り被下候硯も今以て落手不仕是もどうかと案じられ候 北周の碑文も同樣の運命にてはなきやと疑ひ候 支那日本間の小包物はあてにならぬ樣前々から思ひ居候が大兄より種々の頂戴物間違なく屆き候より大丈夫といふ心を生じ候處に又々斯樣の始末にて信用の逆戻に候
 御地骨董の御慰み定めて御愉快ならんと想像致居候當地は中々夫所には無之然し健筆會とか無聲會とか色々の催し有之隨分面白く御座候小生も誰に劣らぬのらものに候へばひまが充分だと手習やら繪やら致さぬとも限らず候現に此間は頼まれて奇體な畫を一枚かき申候只今も玉澗流の山水を一枚かき候(笑つてはいけません)大兄が御歸國の時分には眼識高き君にさへ一枚書いて上げる位に上達してゐるかも知れ不申候
 先は時候御見舞旁雙方の小包不着の事御通知 匆々敬具
    五月二十八日               夏目金之助
   橋 口 樣
 
      一三九九
 
 五月三十日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓昨日手紙にて硯屆かぬ旨わざ/\申上候處今朝に至り到着滿足の至直ちに先便を取消し申侯
 東京では五圓ではとても買へぬかと存候難有御禮申上候然るに無殘にも上葢の前後カケ甚だしき不體裁是には涙が出る程痛ましく被感候
 金子は御仰の通り序を以て清君に托し赤坂の御宅へ御屆致す事に仕るべく候先は不取敢右御禮迄 匆々頓首
    五月三十日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四〇〇
 
 五月三十日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 昨日の墨畫御氣に召し候よし滿足の至り必ず差上べく候金持の旦那なら表装をしてもらつて貰ふ處なれどまだ御馳走をして謠を聞いてもらふ程の餘裕なき故畫もあの儘にて差上候
 但し今朝つら/\あれを熟視するに何だか薄ぎたなく少々愛想のつき候點も有之候へどもまあ小生の顔位の映點故筆者相應の價値は充分と自信致し居候
 尤も懸物にするには一ケ月も眺めた上是なら差支ないと思つた所で表具へやるのが上分別と小生は愚考仕候、一ケ月あゝして襖に張らして置く事を御承知なら小生表装の可否を大兄の爲に判じ申すべく候 何事もせいては仕損じやすきものに候
 先は御答迄 匆々頓首
    五月三十日                   金
   東洋城樣
 
      一四〇一
 
 六月三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓咋六月二日御送の鄭板橋の書六葉正に到〔着〕御手數毎々ながら奉深謝候
 板橋の字は奇拔峭勁に候去りながら氣韻含蓄の趣に至つては最高とは申しがたく候
 近來當地にては六朝一派無暗に幅を利かし自分の字をかゝずに矢鱈に四角張つたものを作り箱の樣な展覽を催し喜び居候
 あんな傑張粗※[獣偏+廣]の體しかも中に何物をも藏せぬ昔の糟粕ねぶりこそ心得難き似せ書家に候
 繪端書はついに着致さずや君の方のものは着々參るに此方のものゝみは屆かぬとは情なく候然し高が畫端書に候價は三四圓のものに候其内何か御目にかけ度と思ひ居候
 先は右迄 匆々
    六月三日               夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四〇二
 
 六月三日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 宇治山田市神宮皇學餌湯淺廉孫へ
 拜啓先達ては畫をかゝぬ申譯に書を認めて差出候處只今寐ながら考へてゐて突然あの詩の平起ならねばならぬ筈の處に仄起にてやつつけた粗忽を思ひ出し大弱り致候去りながら一遍送りたるものを取戻すのも馬鹿げた事故あれはあの儘にて御裂棄願度今度はまた下手なりに|で《原》僕相當の畫か詩をかいて是非うまい所をほめて頂くべく候平仄の間違で故人を驚ろかしては甚だ不相濟冷汗背に滴るとか何とか口上をいはねばならぬ所に候何卒御海恕被下度あの書は申出通り燒くかさくか何方かに願度候
 先は右御詫旁御願迄 匆々頓首
    六月三日                  金之助
   廉 孫 樣
 
      一四〇三
 
 六月三日 月 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜啓其後は御無沙汰御變もなく結構に存候先年小生の詩を見て氣に入りたる故書いてくれとの事大兄は御忘れかも知らねど小生の方はよく覺え居候小説が濟んでから少し氣晴しに書でも書いて見やうといふ氣になり昨日御約束のものを書き候故小包にて差上候
 僕としてはうまく出來たる方可成御賞賛にあづかり度候外のものと同時に書きたる《原》つい病中の作とする代りに春日偶成と書いて仕舞さりとて書き代へべき絹なき故其儘に致候大兄さへ其意味を承知の上は他人は勿論構なく候放たゞ事情丈を申添候 いづれ拜眉萬々 頓首
    六月三日                 夏目金之助
   楚 人 冠 兄
 
      一四〇四
 
 六月三日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷甲良町二〇金子雄太郎へ
 拜啓先般拙筆御求めに相成承知致しながらつい/\遲延致候
 閑を得て昨日書き候故御目にかけ候
 書くものは俳句なるや歌なりや相分らず手前の都合にて惡詩一首認め申候
 先は用事迄 匆々頓首
    六月三日                   夏目金之助
   金子薫園樣
 
      一四〇五
 
 六月三日 月 牛込區早稻田南町七より 中川芳太郎へ〔封筒なし〕
 此間は手紙をありがたう一寸返事を書かう/\と思ひながらつい後れて仕舞つて申譯がない其上近頃は何を讀んでどうしてゐるなどといふ細かい報知をす〔る〕餘裕もない今此手紙は朝から五本目でいかなひま人でも五本ものべつに手紙をかくといや〔に〕なる甚だ失禮だが是で御免蒙るいづれ其内 早々
    六月三日                  金之助
   芳 太 郎 樣
 
      一四〇六
 
 六月七日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下大久保百人町五八安倍能成へ
 拜復御申越の儀につき御返事申上候御入用の金子もし生存上の必要なる實費不足の意味ならば一時御用立申してもよろしく候もし又近來流行の色彩とか音樂とか申すものゝ憧憬より生じ候費用ならば願くは御免蒙り申度候
 返濟の義は今年末と御取極被下候方好都合に候是は年末には臨時入費相かさみ候故其方の填補として利用致度考も有之故に候
 金は何時でも御都合のよき折御渡し可申につき御足勞を煩はし度と存候小生不在にても妻にて相分り可申候
 右御尋旁御返事迄 草々不一
    六月七日                 夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一四〇七
 
 六月七日 金 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 音樂會へ御出御賛成のよし敬承致候切符も御買被下候由御手數ありがたく候御老人も御出向の趣是も可然と存候當日は午後一時頃迄に御宅へ御誘にまかり出べく候間それまで御待被下度候
 露西亞音樂團の合唱は服装やら歌の調子甚だ珍品に候土曜の午後六時にもう一遍神田の青年會館で催ふす由なれば都合して御出掛可然御老人も是非御勸め申候當日は日本の謠《ウタ》を二三うたつて聞かせる由申居候何しろ四五十人のコーラス故大したものに候
 近頃畫をかき候山水畫を襖に貼付候御出の節御鑑定願度候
 先は御返事迄 草々不一
    六月七日夜                  金之助
   寅 彦 樣
 
      一四〇八
 
 六月十七日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 拜復試驗は落第ときまりたる御模樣心細く候へども猶の事心細きは御健康と頭の具合に候小生も試驗には長年の經驗有之候へども未だ御申越の如き苦痛を感じたる試無之果して仰の如き状態なら甚だ困つた事に候出來るなら手傳つて濟ませて上たい位なれど人の頭はいくら明いて居ても間に合はねば致し方なく候
 あの手紙を書くうちにももう苦しくて書けないとかいふ意味の言葉有之何だか悲惨な小説か戯曲を讀むやうで薄氣味惡く候
 かうなつちや是非及第しろと強い言も出でず去りとて落第を希望すといふ電報をかける勇氣も出ず途方に暮れ申候
 まあどうしてそんな頭に生れて來たか返す/\不思議に候も小生だつて仕事の最中に心を亂す事あればもつと烈しい状態に陷らぬとは申されず夫を思へば隨分心苦しき報知に候いけなければ途中で試驗を抛つてもよろしかるべくあんまり苦にせぬがよからんと存候
 毎日徹夜して頭脳が麻痺する人の心を想像するさへ恐ろしく候 然し氣が弱くて人の行かれる所へ行き得ぬ人も有之候へば退却も停止も勇進もとくと吾心と相談して自分に無理のない樣人道を御盡し可然 夫が神を胸に有つ人間の行爲に候 先は御返事迄 匆々
    六月十七日                 金之助
   耕 三 樣
 
      一四〇九
 
 六月十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜復壁十句至急御入用の由につき御目にかけ候すら/\と書き上げて讀み直して見ると成程まづく候へども不得已候たゞ作つた丈が殊勝位の處にて御ほめ置被下度候他日油がのり候節は目覺しく十八世紀にて出陣仕るべく候十八世紀も之では威張る自信も出不申候
 以上
    六月十七日                  金之助
   東洋城樣
  壁隣り秋稍更けしよしみの灯
  懸物の軸だけ落ちて壁の秋
  行く春や壁にかたみの水彩畫
  壁に達磨それも墨畫の芒かな
  如意拂子懸けてぞ冬を庵の壁
  錦畫や壁に寂びたる江戸の春
  鼠もや出ると夜寒に壁の穴
  壁に脊を涼しからんの裸哉
  壁に映る芭蕉夢かや戰ぐ音
  壁一重隣に聽いて砧かな
 
      一四一〇
 
 六月十九日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京都府葛野郡花園村妙心寺前北門前西原國子へ
 私は字も下手だし俳句も作らないし夫からさう一々人の索に應ずる譯に行かないから近來短冊などを書いて人にやる事もやめました。然し貴方には書いて上げたいと思つて居ました。夫はあなたは小さい女の子だらうと思つたからです。處があなたの手紙をなくなして今日迄其儘にしてゐた所今朝本を片づけてゐたら偶然端書が出てあなたの端書が出て來たから夫で書いて送ります。
 御望みの句がある以上は或は小さい女の子でないかも知れないがあなたの手紙の字は小供らしく文句も小學校の生徒らしくて甚だよろしいから書きました 左樣なら
    六月十八日                夏目金之助
   西原國子樣
 
      一四一一
 
 六月二十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓梅雨鬱陶敷御座候處愈御發展奉賀候同封新聞切拔批點の上一寸御目にかけ候御參考にも相成候へば幸甚に候 以上
    六月二十三日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一四一二
 
 六月二十五日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇森卷吉へ〔はがき〕
 此間は失禮あの節御紛失の杖は植木屋が參り玄關前の植込の中に懸つてゐたのを見出し候矢張二男の所爲ならんと存候。あの子は馬鹿故責任も記憶もなきに候
 
      一四一三
 
 六月二十七日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨夜御持たせの懸物に落款を加へ申候字配り甚だ惡く字も下手にて殊の外恐縮其内出來よろしきものと取替度 先は御詫旁御報迄 匆々頓首
    六月二十七日
 
      一四一四
 
 七月三日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 竹茣蓙又々着毎々難有候かう始終頂戴致しては恐縮に候
 絽の如き(帶か)織物氣が付かず候處新聞紙のうちより出現致し候由にて直ちに浴衣の腰に卷きつけ申候
 此間清君を訪問其節硯の代を御頼み致候 呉春の卷物四卷其みぎり拜見腕の冴えたる男と感服然し毫も重厚の趣なきは畫風として致方なきにや光琳派の草花一雙同時に披見呉春と比較して品位の高きに驚ろき申候
 硯葢破損の處修繕とゝのふやの由にて只今唐木細工屋へ依頼致し置候色合つぎ具合うまく行けばと案じ居候
 支那の騷ぎも一先落着の模樣昨今は堀出物にて忙殺され玉ふ事と存候可成多く御持歸り御見せ被下樣今から願置候
 先は不取敢御禮旁近況御報迄 艸々
    七月三日                夏目金之助
   橋 口 樣
 
      一四一五
 
 七月十三日 土 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 笹川種郎、横山秀麿へ
 拜復御手紙難有拜見致候幸ひ氣分もよろしく候へば貴意に任せ御指定の場所へまかり可出候先は右御返事迄 艸々頓首
    七月二《原》十三日              金之助
   笹 川 樣
   横 山 樣
 
      一四一六
 
 七月十五日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓一昨日はとくに御多忙中小生の爲に孟蘭盆會御開披下難有候平野水ばかり呑んで一向浮かれず中途にて茶漬をくひ退出甚だ我意の振舞平に御高免被下度候一寸御挨拶申上度も其爲にわざ/\罷出るも仰山故手紙にて一寸御禮旁御詫を申上候いづれ不日拜眉の節萬々可申上候 不一
    七月十五日                 金之助
   臨 風 詞 兄
         座下
 
      一四一七
 
 七月十六日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡市福岡醫科大學前きりや山本器械店方中勘助へ
 拜啓御令妹御病氣面白からぬ御模樣にて御地にて御看護の由嘸かし御心配の事と存候
 貴稿の儀は拜見の約束有之候も社の方へは何にも交渉致し居らずたとひ交渉致候も文藝欄全廢の今曰小生と編輯とは全く無關係の姿故如何相成可申かも分らず候へば御任意にて適宜に御まとめ可然かと存候決して夫程堅き約束にてもなき事に執着して無理をなされぬ樣呉々も希望致し候尊稿の運命小生の手中にて自由にならぬ今日は猶更御懸念の入らぬ事と御承知被下度候
 御病氣は性質のよろしからぬものゝ樣被存候時節柄一層の御心配と深く同情申上候兎に角御攝養專一と存候先は右御返事迄艸々如此候 不一
    七月十五日                 夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一四一八
 
 七月二十三日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 福岡市紺屋町一六藤澤方中勘助へ
 拜啓御令妹御養生の甲斐なく遂に御逝去の由嘸かし御愁傷の事と遙察たゞ御同情の念に不堪候
 後事萬端の御處理是亦定めて御心勞と存候
 二三日前鎌倉へ小供をやり候につきあの地へ參り候ため御報に接しながら筆を執るの遑なく御挨拶も後れ申候 昨夜歸京不取敢御弔詞迄如此候 いづれ御歸東後拜眉萬々可申述候 以上
    七月二十三日                夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一四一九
 
 七月二十五日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市上龍尾町九三野間眞綱へ
 拜啓其後は御無沙汰の處愈御清適奉賀候小生も不相變消光たゞ病後は前と違ひ少々烈敷活動するとすぐ胃部に故障を生じやすく夫が爲め本年大阪社にて催ふしの講演も斷はり申候 只今は何の變りもなく此間小供を鎌倉へやり歸京後は淋しく暮し居候
 皆川君へも御無沙|沙《原》汰是亦異状なく謠道も上達の事と存候
 御申越の御轉任の儀敬承精々心掛可申候へども高等學校抔はとても餘地なき模樣其他は小生にも分らず圖書館も人は要らぬ事と思はれ候暑中御東上もよけれど活動の方面と成否を多少御考の上にて御奮發にならねば不可かと存候尤も久々にて遊びの爲なら無論御勸め致候
 橋口の兄よりは時々音便有 清君にも時々面會致候
 永らくの御籠城如何な故郷も少々鼻につき可申御同情に不堪候不取敢右御返事迄 艸々拜具
    七月二十五日               金之助
   眞 綱 樣
 
      一四二〇
 
 七月二十五日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓今日にても御序あらば例の漫遊案内と申す本を御貸し被下樣願候 草々頓首
 
      一四二一
 
 七月二十五日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓過日青玉雨龍彫筆架わざ/\御送被下難有存候あゝいふものを見る時あんなものを撫摩愛玩する時一種いふべからざる愉快を感じ申候只今机上に置き朝夕おもちやに致し嬉しがり居候
 御不便ならざる大きさと御手數の範圍に於て求められる文房具は何なりと歡迎致積り御迷惑ながら何卒右御含置御買入願度代價は郵税共其都度清君を通じて赤坂の方へ御屆可申候又當地にて調ひ候刊行物其他は御遠慮なく御申聞被下候はゞ何時にても御送可申上候間夫も御含置被下度候
 先達の硯葢修復を命じ候處存外うまく出來色合は固より繼目も分りかね候程にて非常に嬉しく候
 聖上御重患にて上下心を傷め居候今朝の樣子にては又々心元なきやに被察洵に御氣の毒に存候
 此暑氣と御不例とにて客商買のものは嘸かしの困難と被存候
 此間菅の家に行き大に書道を承り近《〔?〕》刻の何紹基其他の書を見せられ候
 清人何紹基抔の書のうま味は小生には分りかね候菅はそれを情ないと申侯小生は清人の書は猶清人の詩の如く氣格頗る下ると吹いて置き申候
 先は右迄 艸々
    七月二十五日               夏目金之助
   橋口 貢樣
 
 七月二十六日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ
 子供の御世話嘸かし御迷惑と存候皆々いたづら故何分よろしく願候
 朝日新聞には假名つきの活字あり音と訓と間違て振つてなければ悉く正しきものと御思ひ凡て切拔原稿の通に願候
 も〔し〕切拔帖の原稿あらず候はゞ春陽堂へ御催促被下度候
 校正料二十圓もし今御入用ならば春陽堂より其地へ送る事に取計ひ可申候もし差|通《原》り御必要もなければ御歸京の上にてしか取計可申候
 子供の監督上電光石火の危險を感ずるは少々大袈裟に候へども君の樣な神經家より云へば事實かも知らずまことに御氣の毒に候
 松根式部官も陛下の御病氣にて忙がしく自分の方が病氣になるのも近々の事と存候
 右迄 匆々
    七月二十六日                  金之助
   耕 三 枝
 
      一四二三
 
 七月二十八日 日 前10-11 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ
 拜復
 ふりがなは大體にてよろしく候へども漢字に小生の好加減にふつたものには間違多きかと存候尤も小生のわざ/\かう讀ませやうといふ氣でふつたのもあります。昨夜怖がる抔はどちらでも小生は一向頓着なく候雜もザフでもザウでも構ひ不申候。然〔し〕鈴はレイに候すゞは神社などにあるもの鈴《レイ》は山伏抔のもつものに候。あの場合わざと「レイ」とかなを振り居候
 ばらせん(錢)御《お》ぜん如仰に候。暖《あた》たかくは暖《あつ》たかくなるべし東京にてはあつたかくと申候
 矢張《やつぱ》りは小生わざとやつぱりとふ|る《原》たる處多し やはりに御直しありても大抵の處は差支なかるべきか、然しある處はやつぱりに願ひ度心地致候
 甚だ我儘な申分ながら自分の言葉の間違は正して貰ひたし。自分の言葉は他に弄くられたくない心持致し候
 子供の事拜承致し候ことに長女は十四にてそろ/\女になりかける時期故親共も外の腕白ものよりも注意の必要を感じ居候然し親の目から見るとまだほんとの子供としか思はれぬ故君の樣な若い人に托したる次第に候。何とぞたゞの頑是なき小兒として御取扱願候。若し夫で不可なれば小生よりの依頼と御申聞相成度候。尤も性|質《原》ひらめきといふ君の言葉は解釋の仕樣で色々になり候。親は馬鹿なものに候。かほどの事に神經を勞し候。性的のひらめきの意味をもう少し精しく御教被下度候 以上
    七月二十八日                 金之助
   耕 三 樣
 
      一四二四
 
 七月二十八日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 校正に付ては今朝申上候通りなれど御參考迄に大體の御注意を致候
  (一)大體新聞切拔を信用する事(是はルビ付の活字あるのみならず。小生自身眼を通して特殊の場合には特殊のカナを付けた積故也)
  (二)誰の眼にも間違と見ゆるは構ハズ御訂正の事
  (三)愈決しがたき時は御照會の事
右迄
 ゆふべ、ゆうぺ抔ニテ心配御無用。同じ發音ガデレバ夫デ結構也
 
      一四二五
 
 七月二十九日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
○女ツ氣のつもり。上品に云へば女氣《をんなけ》ならんもしかいふ場合は多からざるぺし
○日暮は日暮《ヒクレ》なり
○ねづみたけ、だけ 何れにてもよし
○「さかなと肉の間位」 此時の位は「ぐらゐ」と必ず濁つて讀む。「この位」「どの位」などいふ時は「くらゐ」といふが當前なるも。
○「それで好《よ》い」は東京語ならず東京ではいつでも「それで好《い》い」といふ。
○飼ふ。飼う。いづれでもよし。カ〔右○〕とよめる方を望む。コ〔右○〕にはあらず
○伴なう 伴なふ。是もどつちでもよし。文法にて正しき方可ならん。
 さつき是と同樣の端書を出したが所書を忘れた氣がするから又此一枚を書きて出し候
 
      一四二六
 
 八月八日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 暑中御變もなく結構に存候小生とうにかかうにか生き居候御安心可被下候 明治のなくなつたのは御同樣何だか心細く候
 朝日の議論記事三山在世の頃よりは劣り行くとの御感左もあるべきかなれど小生は不注意故夫程も眼につかず候三山のゐる頃から云ひたき事は數々候ひしのみ國民は此度の事件にて最もオベツカを使ふ新聞に候オベツカを上手の編輯といへば彼の右に出るもの無之候 いづれにしても諸新聞の天皇及び宮庭に對す〔る〕言葉使ひ極度に仰山過ぎて見ともなく又讀みづらく候
 先は御挨拶迄 艸々
    八月八日                  金之助
   圓 月 樣
 
      一四二七
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 昨日新聞か何かで葉柳の二版の廣告を見て一部貰ひたい位の慾な考を起してゐると晩になつて書物が屆きました萬事斯ういふ風に行くと世間も樂なものです昨夜寐ころんで光琳の論だの何だのをあちらこちら讀み散らしました
 何處かへ御出掛になりますか暑いぢやありませんか私は子供を鎌倉へやつてあるので時々あちらへ出掛ます先は御禮迄 艸々
    八月九日                  夏目金之助
   臨 風 賢 契
         坐下
 
      一四二八
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘林原(當時岡田)耕三へ
○「それを互違に繰返した後」 前後の關係不明にていづ〔れ〕とも申しがたし。但し俗語に近きときは「あと」、文章として俗語を丸で離れても差支なき場合なら「のち」にてよろし。好加減に見計つて願ひます
○駒形 なるべし。形は「カタ」。「ガタ」にあらず
○脱字を補入する場合に無暗に他の行を縮めて見苦しく、よみぐるしくしては困るが、夫程でなき場合は寛容の精神でやる
○「しかも……違ひない。其代り……」※[読點を○で囲む]でもよろしきやうなり※[句點を○で囲む]でも差支なきやうなり。前後を見ねば見當つかず。是もよろしく願ひます
○次のも同斷。然し是はわざと※[句點]にして置いたやうな記憶あり 以上
   耕 三 樣                金之助
 
      一四二九
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福井縣遠敷郡小濱青濱館東新へ
 こま/”\と委細の御手紙御多忙中御好意うれしく拜見致候小生も旅に出る筈の處鎌倉にゐる伸六が猩紅熱にかゝり夫が爲め頓挫を來し候然し彼の病氣は大した事なく餘兒は至つて健康の樣に見え候 此間小宮が來て一晩とまり候 海へはいつて黒くなつてゐるのは潔ぎよきものに候 小生は今は東京に居り候其内旅に出ねば又鎌倉へ參り候 エリセフ君は不相變にやよろしく願候 君が其上日に焦げたら定めて物凄じい事だらうと想像致候 昨夜三重吉が妻君同道にて參り候 只今宅は夕立のあとの如くしんとして靜に候 以上
    八月九日                   夏目金之助
   東 新 樣
 
      一四三〇
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目恒子へ〔繪はがき〕
 大佛のなかはいつたかい。中はくらひことだらう。八幡さまの鳩に餌をやつたかい。
 御父さまは又ぢき行きます。まだ旅はしません。ことによれば旅をやめて鎌倉へ行つたり來たりしやうかと思つてゐます
                          夏目父より
 
      一四三一
 
 八月十日 土 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目筆子へ〔繪はがき上欄署名の所に「夏目父より」とあり〕
 大佛の御腹のなかへは御父さまもまだはいつた事がない、御前方はいゝ事をした。御父さまも海へはいりたい。東京のうちは靜だ、下飯坂さんの端書は受取つたらう
    八月十日
 
      一四三二
 
 八月十日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]へ〔はがき」
 暑中御變もなく結構に存候「凍」は毎號面白く拜見してゐます御精勵を祈る
    八月十日
 
      一四三三
 
 八月十日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込淺嘉町六四坂元三郎へ
 啓先日御光來の節は不在にて失禮目下御病氣の由御大事に御攝養可然候
 厨川君には久振にて小生も會ひ度候可成早く御出被下度候但明日午前は二時間程不在に候
 妻も子供も鎌倉表にて御客樣には茶を出す事すら困難に候夫は御承知の上にて御出向願度候
 右御返事迄 艸々
    八月十日                   夏目金之助
   坂元三郎樣
 
      一四三四
 
 八月十日 土 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目恒子へ
 つね子御前のところへゑはがきが來たから屆けて上げる 御友達へ御返事を御あげなさい
                           父より
 
      一四三五
 
 八月十日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 近頃は御目に懸らず御變りなきや小生月の初に鎌倉へ參り兩三日逗留末の子が猩紅熱に罹り長谷の病院に這入り狹い處を消毒やら何やらの大騷ぎ目下は在京御ひまもあらば御出被下度候久し振に海に入るのはよい心持に候海を見た丈にても氣分が晴々致候いつか一寸行つて黒くならうぢやありませんか(若し君と僕が此上黒くなる餘地ありとすれば) 以上
    八月十日                   金之助
   寅 彦 樣
 
      一四三六
 
 八月十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 小川まち。停留じよ(所ならん場では〔な〕からう)
 小宮先生今日西歸。三重吉氏電車でぐる/\廻つて五圓の會費をこしらへて深川寧に赴く。
    八月十一日
 
      一四三七
 
 八月十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊夏目榮子へ〔繪はがき 牡鷄の畫〕
 えい子さん御きげんはいかゞですか 私はかわりもあ〔り〕ません
 このとりがたまごをうみますから にて御上がんなさい
    八月十一日                 父より
 
      一四三八
 
 八月十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目愛子へ〔繪はがき 滑稽畫。宛名に「夏目あい子さん」とあり〕
 あい子さんおにのゑは〔が〕ぎ《原》をかつて上げようとおもつたらあいにくありませんからがまの御夫婦を御目にかけます
    八月十一日                  父より
 
      一四三九
 
 八月十二日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 大分暑いぢやありませんか高田はどうですか東京は隨分です 此間子供を鎌倉へやりました狹苦しい借屋に蠅のやうに遊んでゐます然るに伸六と申す末の奴が猩紅熱にとりつかれて消毒やら入院やらで大騷ぎをやりました 私は須賀さんにかゝつてゐます日に六回づゝ藥を飲みます三回にしたらどうも具合が惡くなつたので又逆戻りです何うも少し活動をすると宜しくありません何だかもう長くはないやうな氣がします 鎌倉へ行つて泳ぎました、運動はよくないが泳ぐのはこたへないやうです如何なる譯でせう 旅行をしやうと思ふが相手が御大喪やら何やらで延びました。大分患者が殖ゑましたか門前市をなすといふ盛況でせう結構です 妻は鎌倉へ行つてゐます筆は大きくなりました
 奥さまへよろしく
 先は暑中伺迄(突然諸方から暑中見舞がくるので私も思ひついて此手紙をかきました笑つちや不可ません)
    八月十二日                  夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一四四〇
 
 八月十二日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 其後は久しく御顔を見ず御變りもなきや此度の事件後定めて御繁多の事と妻とも申合居候今に病氣になりはせぬだらうかと皆々心配致居候此間新聞に侯爵松根豐次郎とあつたので驚ろいたら隣の人の肩書が君の方へまぎれ込んだのであつた
 子供は鎌倉にゐる實に狹いきたない家だが山と松と見えるもしひまなら一所に行かう一晩位とまるのも一興に候 此間小宮が來て歸つた 彼は國へ歸つた 細君に會ふといふよりも財政整理の爲め、妻君こそいゝ面の皮だ。彼曰く私は氣立がやさしいから藝者に惚れられますと 丸ではなしかの材料になる若旦那の如し 先は近況御伺ひ迄 艸々
    八月十二日                  金之助
   東 洋 城 樣
 
      一四四一
 
 八月十四日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 只今鎌倉より歸り候 明晩來ぬか。明後十六日より旅行致候へば。留守に鎌倉へ行つて遊んでやつてくれてもよし
    八月十四日
 
      一四四二
 
 八月十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 此間謠を二晩うたつた世間へ遠慮するせゐかうたふ樣な心持がしなかつた。昨日一泊後の鎌倉より歸る。明日怱々亦北に向つて去る。土用稽古も出來さうになし。君の健康を祈る 八重子さんへよろしく
 
      一四四三
 
 八月十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目筆子へ〔繪はがき 聖路易市ベルリン・アヴェニュー〕
 西洋の屋敷町はこんなよくとゝのつて綺麗に出來てゐます。心持がいゝでしよう
 御父さまは是から北の方の温泉へ行きます又歸つて來ます。御母さまは又ぢき鎌倉へいらつしやるでせう
    八月十|六《原》日              父より
 
      一四四四
 
 八月十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木庭紅ケ谷田山別荘夏目恒子へ〔繪はがき〕
 つね子さん是はアメリカのシカゴといふところの湖水のそばにあるみちですひろいでしよう
 御父さまはけさからたびをします 歸つて來たら又逢ひに行きます
    八月十|六《原》日朝              父より
 
      一四四五
 
 八月十六日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京都府下宇治醍醐薮錦山へ
 御手紙拜見あなたは字が御上手だと思ふのに何で生等の如き拙なものに揮毫を御依頼になるか殆んど判らないけれども御懇望だから從仰下手な所を御目に懸けます 以上
    八月十六日                  夏目金之助
   薮錦山樣
 
      一四四六
 
 八月十八日 日 後2-5 栃木縣鹽原古町米屋別館より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊夏目恒子へ〔繪はがき 鹽原〕
 恒子さん 修善寺とどつちが好いですか
     鹽原温泉米屋別館 夏目金之助
 
      一四四七
 
 八月十八日 日 後2-5 栃木縣鹽原古町米屋別館より 牛込區早稻田南町七夏目方中根倫へ
 拜啓出立の際御話の件中村氏に話し候處早速承諾此手紙と同時に柳生君へ一封差出しくれ候猶封入の名刺持參被成候へば面會の都合出來る樣取計はれたき旨右手紙の中に書添あり候へば其積にて御利用可然候先は用事迄 草々
    八月十八日                  夏目金之助
   中根倫樣
 追白中村君の手紙は叮嚀親切なるものにて末段に二宮君との關係も一二行書き添あり候
 
      一四四八
 
 八月二十一日 水 後2-5 栃木縣鹽原古町米屋別館より 牛込區早稻田南町七夏目方中根倫へ
 御手紙拜見右は中村君へも示し候處同君申し候は歸京後自身柳生氏に會ひはつきりした處を聞合せべしとの事に候夫迄御待可然候夫にて行けるとか行けぬとか事極り候上にて改めて將來の方針を立てられぺく候先は右迄 匆々
 留守中は種々御厄介に相成候篤く御禮申上候
    八月二十一日                 金之助
   倫   樣
 小生二十三日當地出發或は信州地より名古屋へ出るやも計られず候
 
      一四四九
 
 八月二十六日 月 (時間不明) 長野縣輕井澤油屋より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 昨夜當家にて十二時頃電報着何事かと驚ろき候處皆々無事歸京の趣にて安心致候
 小生も別段の障りもなく身體は至極無事なれば御休神被下度候日光で馬にのり中禅寺に登り夫からすぐ引き返し候節は馬の動搖のため胃に酸出で瓦斯を釀し多少の苦痛あり少々心配致候も一日安眠の後は平生と異なる所なく便通の如きは却つて東京に居るよりも快く候
 今日は長野の先豐野といふ所から下車上林とかい〔ふ〕温泉に參る都合に候人に聞いた通りをやると意外によかつたり又は豫想外にわるかつたり妙な頓珍漢ばかりに候中村一※[さんずい+氣]車先に出て善光寺を見物すると申し出立致候小生は是から輕井澤の樣子を見て長野にて落合ふ筈に優
 先は御報知迄 匆々
    八月二十五日?(日は忘れ申候)
                           金之助
   鏡 子 ど の
 皆々へよろしく
 
      一四五〇
 
 八月二十七日 火 後8-11 長野縣下高井郡上林温泉塵表閣より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
〔表に〕
 旦那さまに日々御世話になります  中村是公
〔裏に 右端下の印刷したる月に目鼻が描きてあり〕
こんな山の中に來た。今迄で一番閑靜な所なり。
                          金之助
    八月二十七日
 
      一四五一
 
 八月三十日 金 後8-11 長野縣下高井郡上林温泉塵表閣より 滿洲大連滿鐵本社内上田恭輔へ〔繪はがき〕
 中村總裁夏目先生と同遊致し俟   力石雄一郎
 赤ちやんは御丈夫ですか               夏目金之助
  豪傑集合恰似山賊寨        村田俊彦
 〔右端下の印刷したる月に目鼻と顎鬚とが描きてあり〕
  力石君はあいかわらず下の通りです 是公
    二十九日
 
      一四五二
 
 八月 讀書之友へ〔大正元年九月五日發行『讀書之友』第五號掲載〕
 明治の作物で後世に傳はるものは無論あるでせうが、夫は公平で冷靜な後世が自分で撰擇して自分で極める丈で、現在の作者や作物に對して不純な利害好惡の念を挾む吾々現代人は、それを見越す眼力を有つてゐないと云つた方が先づ慥かだらうと思ひます。
 
      一四五三
 
 九月一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 金澤市池田町三番町二一大谷正信へ
 當夏は御地にて御勉強のよし結構に存候小生去月中旬より旅行昨日漸く歸京御手紙を拜見致候實は金澤の方は全く知らぬ地ゆへいつか行つて見たく思ひ居候ひしも今度は信野兩州にて立ち歸り申候からだが惡いと人並の活動も出來かねつれにも心配をかけ甚だ腑甲斐なき事のみに候 先は右御挨拶のみ 匆々頓首
    九月一日                 夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一四五四
 
 九月一日 曰 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓其後は打絶御無沙汰實〔は〕去月より旅行昨夜歸京暑中の御見舞状を拜見大いに恐縮早速此書を認め候 此間から日光鹽原信州などうろ/\經めぐり歸り候へば何だか遠くの人が知らぬ生活をしてゐる社會へ這入り込んだやうな氣持に候 段々時候もよく相成候へばいづれ其内拜眉の機を可得萬づ其時に可申述候先は右御挨拶迄 匆々頓首
    九月一日                  夏目金之助
   秋 骨 先 生
 
      一四五五
 
 九月一日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓 泗川産竹の筆立福州の蝋石硯屏及び青玉の筆架三點正に拜受難有御禮申上候早速机上に陳列眺め居候あの竹の形《原》好は頗る異なものに候。硯屏は日に向つて立てると透きて綺麗に候就中玉帶は三個のうちにて最も見事に候玉といふものは實に色々種類のあるものにて人間の顔のやうに夫々趣味のあるものゝやう被感申候
 「土」「朝鮮」御所望により差出候「朝鮮」は人に貸し居候故少し後れ可申侯
 先は右迄 匆々
    九月一日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 瀬戸物で出來た筆筒が欲しいが見當りますまいか。ひゞやきで詩が細字で染め付けてあるのを菅が持つてゐます。底に萬暦云々と銘があります。三圓位だとか云ひました。然し運送の際壞れるなら買つて頂かない方がましかも知れない、
 
      一四五六
 
 九月一日 日 牛込區早稻田南町七より 長谷川達子へ〔封筒なし〕
 其後は私を《原》御無沙汰を致しました脚氣の爲に御なやみの由隨分御養生御大事に御座候
 去月十六日より出京信州野州邊を徘徊昨夜歸京御手紙を拜見致候
 暑中はとくに過ぎ候も後れながら御挨拶迄如此候 匆々頓首
    九月一日                  夏目金之助
   長谷川達子樣
 
      一四五七
 
 九月二日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓鎌倉にては種々御世話に相成候小生は其後信野兩州をふらつき一昨三十一日夜歸京致候相手は滿鐡の中村是公氏にて此手紙を差上ぐるも實は旅中兩人の間に生じたる話題が源因になりたる譯に候
 或時中村是公氏余に向つて學徳の高い漢學者で滿州へ來て修養上の講話をして呉れるものはないかとの相談故余はいつそ名僧知識でも招聘しては如何と云ひしに禅僧にても結構なり誰が好からんと聞く故余は斯ういふ點に於て一番名の賣れたる宗演禅師を學げたり。是公氏いふ長時にわたりて招聘の事は重役と相談の上ならでは出來がたきも一二ケ月の日子にて大連并びに沿線の社員并びに在留同胞の爲に講話の勞を執つてくれるなら喜んで歡迎するから都合を聞いてくれまいか出來れば本月中旬自分が歸任の時同行しても差支なしと。余曰く長時にわたつての招聘は宗演和尚も困るかも知れないが一二ケ月の事なら許諾するかも知れない。是公いふ是非君の方で都合を聞き合せてくれまいか。余曰く諾。
 問答は大方以上の樣なものに候然る處小生は宗演禅師と其後音信不通の有樣にて是公氏よりは此方面にかけて關係深からんも君よりは餘程薄からんと思ふ。君も宗演さんとは餘り懇意な間柄ではない樣だが丁度鎌倉に居る事だし面識もある事だから一寸都合を聞いて見てくれぬか甚だ自由かましい事で恐縮だが。尤も君がいやだといふなら無理に願はんでもいゝから其代り誰の所へ持つて行けば老師の都合が聞かれるか一寸其手續を教へてくれまいか。いざとなれば僕なり中村君なり又は兩人して老師に依頼に出ても差支ない。又是は必ず宗演禅師に限つた事もないので外に好い人があるといふなら其方の周旋を願つてもよろしい。たゞ御記憶を願ひたいのは布教の爲めの渡滿となつては滿鐡として少々困るので中村君の主意は禅師の講話で在外人(重に社員)が精神上の慰籍を得るのが第一の目的で同しく精神的の修養を得るのが第二の目的であるさうなから其邊は御含み置誤解のないやうに取計はれたい
 先は右用事迄 匆々不一
    九月二日                   金之助
   虎 雄 樣
 
      一四五八
 
 九月こ日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 校正をやり直さなければならなくなつた由、此暑いのに御多忙中甚だ御氣の毒の至で何とも申し上げやうがない、印刷所及び書肆の手落とあるが、まあどうした粗漏から始まつたのだらう。僕は出版の遲速などは左程苦にならないが、君がいやな校正を二度やるのを想像すると實に濟まない心持がする。まあ馬鹿氣た世の中だと我慢して呉れ玉へ。若し試驗に差支へるなら斷然やめても構はない。其内ひまな人が出て來るのを待つてゆつくり取りかゝれはいゝからちつとも遠慮は入らないから中止にし玉へ。
 しかめつら。うすきみ。だれしも。だれひとり(ぢやないか。前後の關係で斷言しがたし)。いりぐち。せんかうたて。云ひつぱなし(ぢやないかしら)。あがりぐち。怪訝《けげん》(言海には希見《けげん》とあり其方可然か)
    九月二日                  金之助
   耕 三 樣
 
      一四五九
 
 九月|四《〔?〕》日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
○ぶち込む なるべし。打《う》ち込むといふ言葉は東京にて使はず。
○市《いつ》さんなり。いちさんと形式づくめに呼ぶのは教育の程度如何に關せず臆《原》劫なり
○「浪漫−」の−はダツシなり。たゞし長過ぎる故短かくせり
○刺戟よろしからん
○小|器《ぎ》用なり。濁るにきまつたものなり
○端は俗語にては皆はじなり。文章にて「はし」と讀む事もあらん。俗語を筆に上すときは先づ「はじ」と言葉を思ひ次に是を漢字にてあらはしたら何と云ふ字が來るだらうと思ひ漸く端といふ字が出て來る順序なり。去れば書いた本人から云へば「端」といふ字脚があつてそれを「はし」にするか「ほじ」にするかの問題にあらず。まづ「はじ」といふ音あつて其音を何といふ漢字で表現するかから「端」になつた迄なり。從つて端といふ字はどうなつてもよき心地す。然し「はじ」は動かしがたき心地す
○先達ての端書の須永は無論敬太郎の間違也。但し「主張した」は切拔帖に訂正して置いた通にてよろし。
 毎々御手數をかけ濟みません。校正料は御取りにや遠慮なく御懸合被下度候
    九月四日                   金之助
   耕 三 樣
 
      一四六〇
 
 九月四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜復早速宗演師に御會ひ被下御厚意深く謝し奉り候
 只今是公氏より別紙の通り返事あり候につき御目にかけ申候
 是は小生の氣のついた處なれど十一|ケ《原》月になると滿州は少々寒いかとも存候が是はいざとなりて能く小生より中村君に聞き合せ可申候
 電報を其儘可入御覽積の處轉載の方便宜とも存じ左に寫しを御目にかけ申候
  文見た。一一月でもよろし。頼む。一所に行き面會する必要あるか。
 右の通りに候が此後の事は老師に禮を失はざる樣小生責任を以て何とか致す所存に候故御存じよりの處無御遠慮御申聞披下度候先は右不取敢御返事迄 匆々
 度々の御足勞恐入候も此返事を宗演師に知らす丈の御骨折は是非願はねばならぬかと存候
    九月四日                   金之助
   虎 雄 樣
 
      一四六一
 
 九月四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下代々木九一安倍能成へ
 其後は御目にかゝらず候御變もなく結構に存候小生信野兩州を少々うろつき八月盡歸京道中馬などに乘り具合あしかりしも家に落付てよりは旅行前よりは丈夫な心持を感じ申候
 御轉居にて家賃向上の趣何よりなれど位置の東京の中心を去る意味より申せば却つて向下ならずやと思はれ候如何にや
 新小説の高作昨日拜讀いつもながら面白く存候あれも大部分は事實の樣相見候平淡な所中々味ひ深く覺候小説としていへは聊か締括りの足らぬ處もあるやに讀まれ候もそこが事實らしく自然の儘にて却つて宜しきかも知れず候しばらくはひまに候些と御出掛の程待入候 早々以上
    九月四日                  夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一四六二
 
 九月六日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
○うたぐつて見た
○……同時に、もし差向ひで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、(こゝ迄句點なし)
○瘢痕 はんこん。依託。人《にん》選。端は「はじ」なり。凡て はじ に願ひます 以上
   耕 三 樣
 昨夜三重吉來 猫の追悼會を開く事を主張して歸る
 
      一四六三
 
 九月六日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 尊翰拜誦御多忙再度の御登山恐縮に存候御蔭を以て萬事好都合に相運び滿足無此上候十日より十九日迄の間老師在庵の頃を見計ひ中村君同伴にて訪問の積に候日取相極り候節は小生名義にて老師宛右の趣通知致し置く方双方の便宜かと存候夫にて宜敷や若し御高見もあらば御指揮に任せ可申候先は御禮旁右迄 匆々頓首
    九月六日                   金之助
   虎 雄 樣
 此間寫眞版の法帖十種程注文過半は到着時機を得て御目に掛度と存居候孫過庭の書譜も其内に有之候
 旅中小生の虚名時々不得已筆を執り紙に臨むの厄に會ひ候可笑しきうちにも修業に相成申候
 
      一四六四
 
 九月九日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜復段々秋冷と相成候處如何御暮し被成候や御大葬の濟む迄は嘸かし御繁多の事と御察し申上候小生は八月三十一日に歸京一寸御知らせ致す筈の處雜誌やら書信やらを片付けてゐてつい/\失敬致候身體は幸無事御安神被下度候 鹽原にて相當の女を見あとにて君の爲に住所番地でも確めて置いたらと思ひ是亦失敬 兎角あとから氣がつく事ばかりにて申譯なく候
 奉悼や奉送の句はどうも出來ないね天子樣の悼亡の句なんか作つた事がないから仕方がない
  御かくれになつたあとから鷄頭かな
    奉  送
  嚴かに松明振り行くや星月夜
 まづ此位にて御免可被下候其内御出被下度候
 猫の追善をやるとか申して騷いで居候が京都へ御出なら多分御留守中ならんと存候 以上
    九月八日                   金之助
   東洋城樣
 
      一四六五
 
 九月九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓其後は打絶御無音に打過候
 却説小生知人に廣島の井原市次郎と申すもの有之此間君の畫を淡彩にて短冊にかいてもらひたき由にて手紙を以て依頼致したる處始めて〔の〕事とて御返事もなき故小生から依頼してくれるやう申來候甚だ御面倒とは存候へども一筆何か願度題目は新年に縁故あるものとの注文に候御承諾の上は短冊は小生より御送り可申又御禮の儀も承はり度由につき是た御手數ながら御一報願度と存候
 短冊の數は二枚にて内一枚は新年に縁故あるものあとは隨意に御氣に召したものとの事に候
 先は右當用迄 匆々頓首
    九月九日                   夏目金之助
   中村不折樣
 
      一四六六
 
 九月九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 長野縣上水内郡信濃尻村野尻石田津右衝門方中勘助へ〔繪はがき〕
 御手紙拜見いつの間に旅行をしましたか。私も信州の北の方へ行つて少し居ました輕井澤を通るとき野上を尋ねやうと思つて果しませんでした。君の居る所はどの見當ですか、何でそんな寒い所にゐるのです。東京もいゝ氣候になりました。早く御歸りなさい
    九月九日
 
      一四六七
 
 九月十日 火 本郷區森川町一小吉館に置手紙 小宮豐隆へ
 田岡嶺雲兄の葬の歸りに一寸參上の旨を認めんと存じ候處宿の婆さん八釜しく入室に抗議を申し込む
    九月十日                   金之助
                             頓首
   豐 隆 先 生
 然る故にわざと上り込んで認めたくなりたり
 
      一四六八
 
 九月十二日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓かねて御配慮を煩はし候滿州へ宗演繹師巡錫の件咋十一日滿鐡總裁中村君并びに同理事犬塚君同道にて登山正式の挨拶を濟し候中村君も君に御禮を申述る筈なれど御大葬やら何やらにて中々多忙のやうに見受られ候間小生より代つて御禮申上候右惡からず 宗演師は歳の所爲か前年よりは顔に愛嬌がつきたるやに見受申候
 先は御挨拶迄餘は拜眉の上萬々
    九月十二日                金之助
   虎 雄 樣
 
      一四六九
 
 九月十三日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御寄贈の高士傳正に拜受毎々の御親切難有御禮申上候 御約束の虚子の朝鮮本日手に入り候につき兩三日中に小包にて差出す積に候
 本日は御大葬にて市中は消極的な第《原》祭日と相成食物を食ひたくても食へず湯に入りたくても入れずいやはや妙な現象に候
 今夜は幸ひ天氣が持ちさうにて拜觀人は勿論從轜車の人々にも非常の好都合に候大分怪我人のある事と思ひ要心して小生は蟄居と决定致侯
 沙市に暴動起りたる旨新聞にて承知然し大した事もなく日本領事館無事と有之候故安心致候如何にや兎角支那は物騷な國柄に御座候
 段々秋景色に相成候好い心持に候御地も定めて鶉のなく氣候かと存候御攝生專一に存候 草々不一
    九月十三日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四七〇
 
 九月十五日 日 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓井原氏件につき早速御返事賜はり難有候就ては短冊二葉小包にて御送申上候につき可然御揮毫の上尊兄より直接に本人へ御送願度候
 先は右當用迄 匆々頓首
    九月十五日                  夏目金之助
   中村不折樣
 
      一四七一
 
 九月十五日 日 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓御所望の短冊三葉相認め小包にて御送り申上候
 不折君へは小生より短冊二葉相送り申候同君の手紙に承諾の旨と揮毫料は御隨意の事ぢかに大兄へ返事差出したる由申來候右返書は御受取御覽の事と存候先は用事のみ 草々頓首
    九月十五日                  夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一四七二
 
 九月二十一日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 御大葬後定めて御疲勞と存候明日明後日の御休のうち一日遊んでは如何但し錢はなし 匆々
    九月二十一日
 
      一四七三
 
 九月二十二日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 栃木縣鹽原妙雲寺平元徳宗へ
 秋冷の候益御清適奉賀候却説當夏鹽原避暑の折は不都合なる服装にて參堂失禮の段深く耻入申候當夜御來訪の節は何の風情も〔無之〕是又惡からず御海恕願上候其砌御依頼の何か鹽原に關する詩賦御目にかける程のものも出來かね候へども御好意に對する記念とも存じ七絶一首別紙相認め小包にて御送り申上候御叱正可被下候貴寺の常樂のたきを泳じたるものとして御讀願上候俗人多忙にて臨池の暇も無之拙惡の邊は幾重にも御詫致候
 本月中旬去る用務を帶び楞伽窟へ登山宗演老師に面會鹽原の事など語り合ひ申候
 先は當用のみ 匆々敬具
    九月二十二日                夏目金之助
   平元徳宗師
       御許
 
      一四七四
 
 九月二十二日 日 後4−5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓拙著彼岸過迄漸く出版の運に至候同書とは執筆當時より縁故淺からざる大兄と大觀畫伯にまづ一本を呈して記念と致し度小包にて差出候間御受取被下度願上候
 嶺雲子葬送の節は拜眉の機を得候も高話拜聽の暇もなく遺憾に存候先は右迄 匆々敬具
    九月二十二日                金之助
   臨 風 兄
       座下
 小生監督不行届なりしため装|禎《原》甚だまづく候
 
      一四七五
 
 九月二十二日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 啓廣島産干鮎御送り被下難有存候小生は生鮎よりも干した方が好物に候
 短冊代は請求する積でもなんでもなく只便宜上當方にて買ひとゝのへ候ものなれど折角の事故御受取可申上候
 不折氏への揮毫料は高が短冊故十圓にて充分と存候尤も短冊よりは畫の方に價値あるは無論故價格はどうともつけやう次第なるべく候たゞ揮毫料としてならそれで濟むかと存候右御返事迄 匆々
    九月二十二日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一四七六
 
 九月二十九日 日 前10-11 神田區錦町一丁目一〇佐藤醫院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 愈小説を書きはじめられたる由當分の間は隨分骨の折れる事ならんも收入の點よりして財政整理のたすけともなるなれば申す迄もなく御勵精の事と遙察奉る。作の出來榮一回にても拜讀の榮を得んと思ひ看護婦に聞いたら生憎讀賣は來ぬ由にて遺憾ながら其儘に致したり
 御尻は最後の治療にて一週間此所に横臥す。僕の手術は乃木大將の自殺と同じ位の苦しみあるものと御承知ありて崇高なる御同情を賜はり度候。
 犬塚氏への金子貳百九圓は愚妻より御渡し候由先方へ御屆の上は御苦勞ながら例の株も手に入り候節は御持參願上候 以上
    九月二十八日                  金
   豐 隆 樣
 
      一四七七
 
 九月二十九日 目 前10-11 神田區錦町一丁目一〇佐藤醫院より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 啓
 二十六日最後に御尻を切り其儘還らず此所に寐てゐる一週間にて退院の筈十句集も氣が乘らずそれなりなり發句を書いてくれと所望されると作らねばならぬと思ふが左もなきときは作る了見も出ず濟度致しがたき俗物と相成候
 まだいそがしきや一度此二階へ話しに來ぬか
  かりそめの病なれども朝寒み
    九月二十八日夜                  金
   城  樣
 
      一四七八
 十月二日 水 前0-6 神田區錦町一丁目一〇佐藤醫院より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓高著御惠送御好意萬謝致候二十六日より肛門の治療の爲め表記に入院明日歸宅致し候今晩宅より九郎判官相届今一頁を讀み始めた處に候今時の小説とは違つて頗る妙な感じが起り候病院などにゐると斯ういふ感じが甚だ愉快に候何れ其内拜眉萬々不取敢御禮迄 匆々
    十月一日夜                    金
   臨風兄座下
 
      一四七九
 
 十月四日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區南紺屋町一二實業之日本社内渡邊新三郎へ
 拜啓先般御光來の節は取次のもの御來意を通ぜずたゞひたすらに面會謝絶の旨申上候由あとにて承はり甚だ申譯なく存居候ひしが其後病氣にて治療上入院の折も御足勞ありし趣今日も亦御尋ねの由歸宅後承知重ね/\失禮のみ實に恐縮の至に候
 御用の次第は勿論高濱君を通じとくに承諾の事にて候へばいつにても御便宜の折御相談可仕候たゞし最初の計畫通り今年は講演に參らず仕舞に終り候へば先年の分にてよろしきや伺ひ候
 條件の事は御目にかゝり取極め可申候毎日午前は醫者に參り候午後なら病床にて失禮ながら御目にかゝり可申候先は右迄 匆々敬具
    十月四日                  夏目金之助
   渡邊白水樣
 追白去年の講演は朝日社の催にかゝるものにて其後右講演は同社の出版(豫約)にかゝる朝日講演集なるものゝうちに収められ候右講演集只今人に貸し居候へば早速取寄せて御目に懸け可申夫にてよろしくば御出版の御相談に應じ可申候
 
      一四八〇
 
 十月四日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷町一二狩野享吉へ
 拜啓本日新聞にて承知致候處大兄病氣の爲めいづれへかへ入院中の處先頃御退院の趣實は其後久敷御無沙汰にて一向御近況も知らず失禮をかさね居候ため御見舞にも參らず不本意千萬に存候然し既に御退院とあるからは御全癒か御輕快か二者其一なるべくと安堵致居候老生も一週間程前に痔を切開し目下の處歩行差とめられ居候へば參上も叶ひがたく乍畧儀手紙を以て御起居伺候猶々時節がら御攝養專一と存侯 草々不一
    十月四日                  金之助
   狩野享吉樣
 
      一四八一
 
 十月四日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區本郷五丁目一九宮島方太田正雄へ
 拜啓先日は高著和泉屋染物店惠送にあつかり難有存候 あの装釘は近頃小生の見たる出版物中にて最も趣きあるものとして深く感服仕候拙著彼岸過迄御覽の如く意|匝《原》萬端粗惡に出來上り甚だ御恥かしくは候へども製本出來につき一部御目にかけ候御禮と申す程の品にも無之候へどもあの砌は謝状も差出さず其儘に打過候につき御宿所聞き合せ同便小包にて郵送に付し候につき御落手被下度候先は右迄 匆々頓首
    十月|五《原》日              夏目金之助
   太田正|男《〔原〕》樣
 
      一四八二
 
 十月六日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 先日御尊來の節は病床にて甚だ失禮致候却説例の文展の件につき本日大塚博士訪問懇々批評擔當の儀頼入候處御存じの退嬰主義の男の事とて容易に承諾致しくれず中々手古ずり申候が最後に大約|右《原》の處にて話を切り上げ申候
 (一)十三日に文展を見に行く事(招待を受けぬ故十二日は行きがたき由)
 (二)十四日午後若くは十五日朝電話にて何か捕まへ所が出來て批評が書けさうだとか或は全く思ひ付がなくて書く種がないとか返事する事。
 但し十四午後ならば社の方へ十五日朝なれば澁川氏宛に電話をかける事
 大塚君より電話にて何か種があつたと聞いたら貴下なり外の人なり同君方へ出向き談話筆記の任に當られ度候
 同君がかく迄慎重なるは意見を世に發表する學者の態度として其意味小生にはよく分り候責任を重んじ名譽を重んずる人に對して是より以上強ひる事は無禮になり候故其邊は可然御諒察被下度候
 小生は病氣も大分宜しかるべくと存候につき十三日に寺田博士と同行を的し申候是亦何か書ける種が出來たら書いて送る積に候小生はなくとも寺田君には何か頭にひらめく事と夫を頼に致し居候先は右御返事迄 匆々敬具
    十月六日                  夏目金之助
   山本松之助樣
     本郷西片町十     大塚保治
 
      一四八三
 
 十月八日 火 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜復御歸りの由珍重に存候小生病氣は順當に直り居候御安神可被下候 是公氏宗演和尚と滿洲行は訛傳なるべきか宗演和尚を滿洲へ巡錫してもらふ手傳を致したるを小生も共に參るものと早合點したるものなるべし。
    痔を切りに行きし時
  秋風や屠られに行く牛の尻
 まだ床を取つて其上にて此手紙を認め候 少々贅澤の沙汰なれど人がくると病氣と稱し床の上にて面會何だか王侯貴人の心持に候 以上
    十月八日夜                  金之助
 
      一四八四
 
 十月九日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓先日は御出被下候處生憎入院中にて失禮致候其節は面白い花瓶を御惠與にあづかり御好意深く奉|奉《原》候廣島より御手紙いたゞき候砌り御返事差上たく存候ひしもかりそめの御宿とのみ承知致したるため御住所も其儘反故に致しつい御無音を打重ね候
 彼岸過迄出版につき一部御目にかけ申候御出の節を待ち候ひしも漸々遲れ候故小包にて差出申候御受取可被下候 文展も近づき秋興も稍景氣づき申候
 先は右迄 匆々頓首
    十月九日                  夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一四八五
 
 十月十一日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 拜啓十二日には早朝神田錦町の醫者からすぐ上野へ參る積故九時頃文展の前のあたりで御待合被下度雨天ならちと困却致候が文展の下足の邊にうろ/\して居ては如何にや(但し小生早ければ小生の方でウロ/\致し可申候)
 
      一四八六
 
 十月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下大井町字森五四四五阿部次郎へ
 拜復葉書をありがたう「門」が出たときから今日迄誰も何もいつて呉れるものは一人もありませんでした。私は近頃孤獨といふ事に慣れて藝術上の同情を受けないでもどうか斯うか暮らして行けるやうになりました。從つて自分の作物に對して賞賛の聲などは全く豫期して居ません。然し「門」の一部分が貴方に讀|※[連の草書]《原》れてさうして貴方を動かしたといふ事を貴方の口から聞くと嬉しい滿足が湧いて出ます。私は此滿足に對して貴方に感謝しなければ義理が惡いと思ひます。私は私が喜んであなたのアツプリシエーシヨンを受けた事を明言する爲に此手紙を書きます。
 「彼岸過迄」はまだ二三部殘つてゐます。もし讀んで下さるなら一部小包で送つて上げます。夫とも忙しくて夫所でなければ差控ます。虚に乘じて君の同情を食ぼるやうな我儘を起して今度の作物の上にも「門」同樣の鑒賞を強ひる故意とらしき行爲を避けるためわざと伺ふのです。いづれ拜眉の上萬々
    十月十二日                 夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一四八七
 
 十月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣由比町林香寺内江連重次へ
 拜啓あなたの小説は今日迄かゝつて漸く讀みました。あなたは野上に紹介を頼むときにあの小説を私によんで貰ふといふ用事を丸で云はなかつたさうですが、夫はあなたが善くないです。人に紹介を頼むとき斯ういふ用事で逢ひたいと打明けて頼まなければ不可ません。野上もあとから其話を聞いて變な氣色がしたと云つてゐました。
 偖御作は中々面白う御座いました。文章も大變好い所があります。たゞ始めの方に主題に關係のない插話が多過ぎる樣です。其插話はそれ自身は中々捨てがたいいゝものもありますが筋を運ばせる興味を停止し過ぎます。
 次に母の病氣の經過があまり長過ぎはしませんか。
 遺骨爭ひの條も長過ぎます。
 高野山で血を吐く所はいゝが山の敍述は少々芝居がゝりです。
 然し概していふとあなたのあの小説は材料がありあまる程ある。皆面白い材料ばかりである。そこに大變な強味がある。外の人のはもつと面白い小道具をさがさなければならないのを貴方のは少々篩にかけなければいけないのです。
 私が考へるにはあれをいくつかの短篇に割つてそれを順々に雜誌へでも出してはどうかと思ふのです。勿論もつと改めてかゝらなければならないですが。あのまゝで長篇の小説として新聞へ出す事は少し困難かと思ひます。
 それから序に申します。篇中の人物松さんだの祖父さんだの中々面白いのが澤山あります。
 終にのぞんで年の若いあなたのにがい經驗に對して同情の意を表したいと同時に此苦い經驗が藝術上の役に立つて面白いものゝ書けたのを祝します 以上
    十月十二日               夏目金之助
   江連重次樣
 
      一四八八
 
 十月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御通知のありし玉文房具今か今かと待居候處突然郵便局より關税壹圓持參受取に參れとの報知ありすぐさま使を走らせ持還り候。此前は同樣の品にても無税なりしに今度は如何なる譯かと思へども税は横濱でかゝつたもの故つい其儘に致し候
 偖御送三點のうち硯屏は折を見て臺をつけ装飾用に可仕考に候 あとの香爐の葢の取手も其うち利用致す考に候。或は印|材《〔?〕》に出來はせぬかとも考候 あの文鎭は大分簡略なものに候へどもいくつあつても役に立ち申候故決してぞんざいには仕らず候。
 文展愈明日より公開御在京なら一所に見物御高見も伺ひ度と存候小生寅彦君同伴にて何か感想の樣なものを新聞に書く積に候。御地の蟹は結構の由何だか詩的に候。雅な硯の水さしの樣なものはなくや。ひしやく付の變なものにてもよし
 是から送つてもらふものことに此方から注文するものは代價を御拂する事に致し度候。あの玉の三品は二圓は法外の安價と存候あれは然したゞで頂いて置く事に致し候。
 追々菊もよろしく成候秋になるとまだ生きてゐたのを嬉しく思ひ申候沙市邊の景色も夢になりと遊覽致し度候 右迄 匆々頓首
    十月十二日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四八九
 
 十月二十一日 月 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 御手紙拜見文展の批評思つたより長くなり候。一二回にて濟むべき筈を十回以上になり候。御通讀ありがたく候。
 雜誌記者御紹介なれど今一寸都合わるし、斷り度候。先方へ可然御通じ願上候 以上
    十月二十一日
 
      一四九〇
 
 十月(日附不明) 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜啓成績の績は糸へんに候。此間は足へんに訂正の樣覺え候故わざと御注意迄申上候。或は其反對な|り《原》かも知れず夫なら結構に候
 
      一四九一
 
 十月二十四日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ〔はがき〕
 御手紙拜見。明後土曜日文展に行きませうか。御差支なければ八時半頃江戸川の終點で出合ひませう。
 
      一四九二
 
 十月三十日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓此間は失敬あの椿は壁にかけたらあそこで見た時よりも引立つなと思ひ居候何しろあゝいふものを買ふのは當世一流のハイカラでなくては出來ないといふ意味で大敬禮に捧銃を致したい
 僕は賣れ殘りの蜻蛉の壁かざりとあの女の描いた靜物でも買はうと思ふがまだ其所迄の決心相つかず其内ヒユーザン會も閉會になるだらうと存候
 ノートルダームの書状幸ひ筐底に藏し居候故同封にて差出申候御落手願候
 此間歸つてから今日迄寐て暮し申候あの夜は胃がつゝぱつて弱り候其後は横着の引續きにて人間並に行動す〔る〕のがいやになりたる故兩三日人間を辭職致したる譯に候 以上
    寐てゐて日を忘れ候             金之助
   寅 彦 樣
 
      一四九三
 
 十一月二日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保三八金木九萬へ
 拜啓拙文貴下編輯の雜誌へ御轉載御希望の趣承知致し候へども實は多都美と申す雜誌を承知不仕定めて畫家向の專|問《原》雜誌と存候へども念の爲め一部御寄贈被下度願上候たつみ畫會とか申すものゝ機關雜誌めきたるものは時々寄贈致し呉れ居候或はあれかとも存候へども不案内につき伺ひ候
 先は御返事迄 匆々頓首
    十一月二日                 夏目金之助
   金木九萬樣
 
      一四九四
 
 十一月五日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 一昨日は御馳走奉謝候十日午後六時紅葉舘の※[足+勇]の會へ君の切符も注文しておいた。一所に人らつしやい。
 
      一四九五
 
 十一月八日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 をどりを見に行きがけ十日の午後四時誘ひに行かうと思ふ。然し雨天ならやめるかも知れず。夫からもし先方から切符を送つて來ない時もやめる。(尤も先方へ行けば買へるのだから御熱心なら參つてもよし)
 小生は三度に一度位は行つた方が義理が立つ位の意味と夫からをどりといふものはどんなものか一寸研究會の樣子が見たいと二つなり 以上
    七日                    金之助
   東 洋 城 樣
 
      一四九六
 
 十一月八日 金 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 長谷川時雨女史をどりの切符二枚注文致せし處小生への招待切符をも併せ送れり一枚あまる事に相成候金は小生拂ひ候が御出如何
 小生は午後四時頃(十日)松根を誘ふ筈、尤も松根の態度堅き約束ならぬ故はきとは分らず又雨天の節は小生貳圓を拂つて行く事は御免蒙るつもり
 
      一四九七
 
 十一月九日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 西川君の小生宛の論文切拔御親切に御送難有候
 あれに對して小生が又書くと面白いのですが面倒だからやめませう。つまり御令兄は小生の副義と認めるものを藝術の本義になされたいのでせう。夫から紙や筆や木やのみは媒介物だといふ御説ですが、此媒介物は自己を表現する必要〔二字右○〕の媒介物で邪魔ぢやないのです。此媒介物をなくなして直ちに人の心に、もしくは時や空の上にわが藝術をやきつけるとすれば、やきつけ方にもよるでせうが、まあ藝術ぢやなくなつてしまひます。直接のはたらきになると愛と愛のやりとりといふ樣なものになつて仕まふんですから意味が違つてくるでせう。私は御答をせぬ積で何か御答をしてゐるやうですから是でやめませう。後日もしひまがあつたら其邊をもう少し詳くまとまつた意見として發表しませう。御令兄へよろしく。今日土曜劇場はどうでしたか 僕は腹が減つてね。木曜にまた入らつしやい 以上
    十一月九日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一四九八
 
 十一月九日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 手紙を上げやう上げやうと思つてゐても中々書けないうちに御無沙汰をしてしまふ誠に申譯がない野間も野村も同樣どこを向いても不義理だらけで恐縮の至である。大病後どうしてもからだが丈夫にならないやゝともするとやりそこなふ是では長生は無論かうやつて生きてゐてもまあ癈人のやうなものである。此夏は信州から野州の方を旅行した歸つてから愚圖々々してゐるうちに又小説を書かなければならない譯になつてもうそろ/\書き出さなければならない。東京は不相變賑やかな事で毎日音樂會とか芝居とか色々の催ふし丈をあるいてゐるととても見盡せない又あるきつくせない。ありがたいやうな厭なやうな所である。謠は御大葬後しばらく休んでゐたが十一月から又始めた。割合に進歩しない。近頃僕に書をかいてくれといふ醉興ものがある。たまには畫をといふ變人がある。君の所の校長は君と大した年の差違がなさゝうだがつまり文部省などにゐるから早く校長などになるのさ。英語の教師なんかは白髪になつても校長なんかにはなれない。アングロサクソンの研究とは恐れ入つたものだ、此間中川が來て羅甸語を學校で教へてゐる上ホーマーの原書を讀むといつたので甚だ恐れ入つたが君のも决して恐れ入らない譯には行かない。そんなものも好きならいくらでもやるがよからうが僕には一向興味がない。引越した由低廉の方好都合に相違無之。小生も子供が多くて家が狹くて弱つてゐる。どうか越したい金が欲しいと思つてゐる。野間は不相變かと思ふよろしくいふてくれ玉へ。出られるなら二人ともはやく東京へ出て來たまへ 早々
    十一月九日                 金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一四九九
 
 十一月十日 日 後 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
  小生今より松根方へ參り候
 拜啓御手紙拜見今夜は折角御誘ひ申候處御出叶はぬ由不本意千萬去りながら萬一繰合せもつき候へば此手紙受取次第松根方へ御出掛願候小生は四時少し過ぎる迄同君方で御待申上候、昨日は土曜劇場に參り候不入で氣の毒に候 以上
                           金之助
   豐 隆 樣
 
      一五〇〇
 
 十一月十一日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 啓御問合の個所は三ケ所とも。と御承知ありたく候 以上
    十一月十|二《原》日
 
      一五〇一
 
 十一月十三日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
○「文藝が社會に生れるか、或は社會が文藝を生むか」 なる程同じ事を繰り返してゐて變である。是は「文藝が杜會に生まれるか、或は文藝が社會を生むか」とか、「社會が文藝を生むか又は文藝に生まれるか」とかしなくてはならないかと存候
○乖離はカイリなるべし。但し字引は引かず
○奔走に衣食すといふ言語は韓退之の文章にあるので、我々時代の人間は「君」とか「僕」とかいふ漢語同樣日常に使用致し候。去りながら衣食に奔走すとしても固より差支無之候
○「も」といふ字を入れる事は必要に候。御入れ被下度候 以上
    十一月十三日               金之助
   耕 三 樣
 
      一五〇二
 
 十一月十三日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 サツキ返事を忘れ候アルトルイスチツクの意味は利他(利己に對する)に候 以上
 
      一五〇三
 
 十一月十四日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓展覽會の目録御送被下難有存候いつか御伴をして行つて見ませう
 高村君の批評の出てゐる讀賣新聞もありがたう 一寸あけて見たら藝術は自己の表現にはじまつて自己の表現に終るといふ小生の句を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと斷言してゐます、其癖まだ讀まないと明言してゐます。私は高村君の態度を輕薄でいやだと感じました夫であとを讀む氣になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に對してはあつく御禮を申上ます 草々
    十一月十三日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五〇四
 
 十一月十五日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ
 拜啓其後は打絶御無沙汰を致しました。さて今度大阪の社の方で新進作家の小説を日曜附録へ(長さ新聞にて一頁)載せたき由にてあなたにも一つ願つて見てくれと申します。どうか御繁多中恐縮ですが書いてやつて下さいませんか。いづれ社員の小池君と申す人がそのために參上致しますから其時は都合して會つてやつて委しい話を聞いてやつて下さい。小池君の訪〔問〕は明日か明後日かになるでせう。
 先は右迄 敬具
    十一月十五日               夏目金之助
   武者小路實篤樣
         貴下
 
      一五〇五
 
 十一月十五日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ
 拜啓今度大阪朝日新聞社にて新進作家六七名に託し同紙の日曜附録に長さ一頁程の短篇を載せる由にて大兄にも一つ御盡力を煩はしたき旨申來候來年正月の準備其他にて嘸かし御多忙の事と存候へども御繰合せ御執筆相願〔度〕と存候六七名出る事故誰が先になるか分らねど社の都合は成べく早く原稿を落手したる方便宜かと存候につき其含にて御作被下候はゞ幸甚に候。出來の上は阪朝中長谷川萬次郎宛にて御届被下度候君の外の新進作家の名前も一見致候故爲御參考〔入〕御覽候。中村屋湖、小川未明、谷崎潤一郎、武者小路實篤、志賀直哉等の諸君に候。一頁八段と申せばちよつとした雜誌の短篇に相當可致稿料の儀はしかと問たゞし不申候へども社員の話にてはなみよりも高く拂ふ積とか申居候先は右迄 早々
 御令閨御入院の由承り候例の御病氣にて二週間内には御全快とは存|得《原》へとも精々御加養專一に存候
    十月十五日夜                金之助
   三 重 吉 樣
 
      一五〇六
 
 十一月十六日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 文選集評乾隆版本十六日着御厚意あつく御禮申上候 板は例の如く二枚とも割れ申候殘念に候
 此間中は當地も文部省の展覧會にて大分賑やかに御座候ひし小生も頼まれて入らぬ所へ出しやばり大家などをしきりに罵しり申候。此次は文藝協會の公演に候。其次は音樂學校のユンケルの送別會に候。此間はポストアンプレシヨニストか何だかヒユザン會といふ畫會を讀賣の三階で開き候大兄に見せたいやうなのが大分有之。リーチはエツチングを出品致し居候。何だか面白い事が書きたく候へども筆をとると急に何も書く事がないやうな氣が致し候是にて一寸擱筆致候
 瀬戸物の筆立と水滴は御見當りの節どうか願ひ候代價も必ず御受取願上候 以上
    十一月十六日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一五〇七
 
 十一月十六日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 御手紙拜見きのふは小生の爲すきな芝居も落ついて見て|入《原》られなかつた由御氣の毒の次第實は六時に開場といふのに六時過ぎても切符が來なかつた〔た〕め飯をくつてゐると山田さんから電話を取ついでくれました。然し支度や電車の時間をはかると八時近くでなければ到着が六づかしい。其上切符をかつて這入らなければ入場出來ず這入れば君が既に切符を持つて待つてゐるなどといふ馬鹿はいやだし、入口でまごついて小宮先生に會はしてもらふのも面倒だから夫でやめにして仕舞つた。君も飛んだ目にあふ。僕もつまらない。要するに前日の三時に出した端書が翌日の五時迄名宛の人の手に屆かなかつたのが惡いので責任者は其處で見付出さなければならない。君も僕も御とくさんもみんなわるい事はないんだらうと思ふ。それ丈分ればそれで宜しからうと存候 先は御返事まで 早々不一
    十一月十六日夜               金之助
   豐 隆 樣
 
      一五〇八
 
 十一月十七日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ〔はがき〕
 碧梧桐君早速揮毫送りくれ候故此手紙と同便にて差出候、同君へあなたより直接に禮状でも出して下さい
 
      一五〇九
 
 十一月十八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓私は昨日三越へ行つて畫を見て來ました色々面白いのがあります。畫もあれほど小さくなると自身でもかいて見る氣になります。あなたのは一つ賣れてゐました。同封は今日社から送つて來ましたから一寸入御覽ます書いた人は丸で知らない人です。今日縁側で水仙と小さな菊を丁寧にかきました。私は出來榮の如何より畫いた事が愉快です。書いてしまへば今度は出來榮によつて樂みが増減します。私は今度の畫は破らずに置きました。此つぎ見て下さい。
    十一月十八日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五一〇
 
 十一月十八日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 當前は當然の誤りならんと被存候
 尤もあたりまへでも差支ないぢやありませんか。
 「ロマンチスト」は間違「ロマンチシスト」と御訂正を願ひます
 
      一五一一
 
 十一月(日附不明) 後8-9 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ〔はがき〕
 御申越の旨社の方へ通知致し置候多分それでよい事と存候御令閨御病氣御大切に可被成候
 
      一五一二
 
 十一月二十四日 日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ〔繪はがき〕
 此間の小説の件はそれでも構はないから願ひたいと申來候宜敷御執筆御頼入候
 
      一五一三
 
 十一月二十五日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇俳味社沼波武夫へ
 御叮嚀なる御手紙を頂いて恐縮に存じます私は自分の義務の一端として他人の作を讀むのを當前と考へて居ますひまがなくてよまれぬのを殘念に思つて居りますたま/\あなたのものをよんでさう御禮では甚だ痛み入ります。私も作ばかりに熱心になりたい又は勉強したいのですが少々頭の具合やからだの具合であんなつまらない畫などをかきます。あなた丈なら御目にかける筈ではなかつたのですが野上君が畫をかくためついあなたの前まで耻を曝しました。
 時々御遊びに御出被下|さ《原》い。私はもう小説をかゝなくてはならないので辟易して居ります 以上
    十一月二十五日                夏目金之助
   沼 波 樣
       貴下
 
      一五一四
 
 十一月三十日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 明一日の切符寺田君君の分も買ひ求められ候趣一時頃迄に同君の宅へさそひに寄り度其序君の下宿へ立寄候間御待ち被下度候
 
      一五一五
 
 十二月一日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區白金今里町八四中村蓊へ
 拜啓毎々御手紙ありがたく候實は咋三十日夜漸く一回認め社へむけ發送致置候氣も乘らず自信もなく如何にも書きにくゝ候是が百回以上になるかと思ふと少々恐ろしく候小生の考では創作は天下の根氣仕事の一なるべくと存候
 「から」方々にて評判よろしきやう存候此間森田にも春陽堂へ出版勸誘の儀頼置候諸方にて評判よければ自然公けになる望多きかと存候小生も及ばずながら盡力可致候此さきとも精々御骨折斯道に從事願度候
 澁川氏退社の事廣告にて始めて承知意外に存候小生は事情一向存ぜず矢張寐耳に水の一人に候尤も同氏の評判については先達少々聞き及び候もさう云へば小生などもあまり立派な君子聖者にても無之故其儘になる事とのみ思ひ居候處社長も案外の斷行を敢てしたるものと存候
 返す/\御心配のみかけ御氣の毒に候是と申すも小生の創作に對する興味やら考やら強ひて複雜なものを鮮やかにまとめんとする無駄骨折やさうして最後に來る面倒くさゝやらがかたまつたものと御勘辨願度候 先は御禮迄 匆々頓首
    十二月一日                 夏目金之助
   中村 蓊樣
 今日もからは休み候樣子もし小生の爲めとならば實以て恐縮大兄に對しても社に對しても無申譯次第小生は如何なるまづきものをかいて世間の物笑ひとなつても筆を執らねばならぬ義理合と相成候御心安く御擱筆道體御加養是祈候
 
      一五一六
 
 十二月一日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 富山縣西礪波郡東太美村井澤正義へ〔往復はがき返信用〕
 拜啓御手紙は拜見致候も貴問あまり廣くして一寸御答に困り候今少し何とか狹き意味にて御尋ね被下度候
    十二月一日
 
      一五一七
 
 十二月二日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 十字街の表装拜見しました。徳利は模樣としてはいゝが本の表紙としてはいやですねあの紙も面白いとも思へません。字は頗る氣に入りました。黄色の方は字も模樣も紙も色も好きです。然し夫は支那から出て來た好きだらうと思ひます
 畫は其他何も描きません。山水の方を仰に從ひ土手を不規則にし山を藍にし、屋根を暗い影をつけて益きたなくしました。寺田が見て面白いが近くで見るとびほふ百出できたなくて見るのが厭になるといひました。私はあれをあなたの畫の下の襖へピンで張りつけて次の間の書齋から眺めてさうして愉快がつて居ます。すると小宮が褒めます。岡田がほめます。實に天下は廣いものであります。
 もう小説がせまつてゐるので娯樂は一寸出來ません然しまだ二回しか書きません。それでゐて音樂會抔に行きます。あしたも越路を聞きに行きます。親の目を忍んで女に會ふやうな心持がします。寒くなりました。うんと面白い畫をかいて見せて下さい。あなたの詩をよみました。(劇と詩)あれは駄目ですね。あんなものを書いちや駄目です。(劇と詩)のやうな雜誌へ出すにしても駄目ですよ さよなら
    十二月二日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五一八
 
 十二月二日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「規則づくめ」でせう
 語手(つめて)將碁のつめ手ぢやないか。辣手に至つては解らんよ。恐らく誤植だらう。
    十二月二日夜
 
      一五一九
 
 十二月二日 月 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 女十句集來。倉皇選句實は小説をかゝねばならぬので原稿紙へ向つた處故一寸狼狽の氣味なり從つて集中の一頁にどこへ出すとも書かず失念君願くは書き加へ玉へ 早々
    十二月二日                  金之助
   東 洋 城 樣
         座下
 
      一五二〇
 
 十二月四日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 また手紙を上げます。あの黄色い状袋は手製ですか買つたのですか一寸教へて下さい私もあんなのを使ひたいから
 私も趣味はあると自信してゐる結果人も是非自分に一致しなければ不都合だと思ふ事がありま〔す〕然し十人十色だから杜會の色彩が豐富なのでせうとも思ひます。
 此間あなたの知らない人が來てあなたと齋藤與里君とを並べてあれで氣が合ふだらうかと聞きましたから私は其人にとても合ふまいと答へました。其終りに藝術家といふものは孤獨なものだと云つて聞かせました。藝術家が孤獨に安んぜられる程の度胸があつたら定めて愉快だらうと思ひますあなたはさう思ひませんか。
 私の小説を讀んで下さるのは難有いどうか愛想を盡かさずに讀んで下さい。私は孤獨に安んじたい。然し一人でも味方のある方がまだ愉快です。人間がまだ夫程純乎たる藝術〔家〕氣質になれないからでせう。
 あなたの小説は感《原》のわるい所は一つもありません。御作《原》にならん事を希望します。然しあの詩ことに末段、ことに措辭には變な厭味があります。さうして思想も陳腐です。昔の端唄やなんぞにあんな意味はありやしませんか 早々
    十二月四日                 夏目金之助
   津田青楓君
 活版ずり御送落手致し候、まだ拜見致しませんが何だか大問題が書いてあるやうです。其内拜見致します
 
      一五二一
 
 十二月四日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 昨日は使にて豆の鑵ならびに小鳥二羽留守中に御屆け御好意千萬かたぢけなく候實はつい御近所の新富座へ越路を聞きに參り御入用の書苑もさし上げ不申失禮致候右は初號より取揃所持仕居候故いつにても御用にたて可申候句振はぬとは不申いつもの通り位に考居候
 今夜も新富へ席をとり候由土間の眞中とか申居候 小生小説にてことによると參られず。
 大兄でんの方はあまり御好みなきもやう故御誘ひ不致候
 近頃小説を人に讀んでもらふ勇氣失せ候へども夫でも讀んでもらひたき心も有之候今度のも願くは御讀被下度願候 早々以上
    十二月四日                 金之助
   東洋城樣
 
      一五二二
 
 十二月九日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓段々寒くなりました御變もなくて結構で《原》存じます私もどうにか斯うにか凌いでゐます。山の手は霜が降ります、横濱は如何ですか、鮭は今日うちのものが食べてゐます毎度ありがたう御ざいます。此間越路を聞きに新富座へ二晩連れ出されました。其前二十世紀の時は有樂座で桑原君を見受けました、尤も口は聞《原》きませんでした。小説を書くんで忙がしう御座います。不取敢御禮を申上ます 以上
    十二月九日                夏目金之助
   渡邊和太郎樣
        貴下
 
      一五二三
 
 十二月十一日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜復愈御結婚のよし御目出度存候御披露の御案内難有候二十二日五時頃三河屋へ參上可仕候猶御祝として何か差上度も急に思つきも無之荊妻とも談合の上其うち寸志を表し度心得に候
 猶序故申上候二三目前拙宅へ電話据付相濟候番號は番町四五六〇に候御用の節は御呼出被下度候
 新世帶何角御不自由と存候何か手前方にて出來候事何なりと御申聞相成度候 先は御祝詞旁御答まで 早々敬具
    十二月十一日                夏目金之助
   安倍能成樣
      榻下
 
      一五二四
 
 十二月十七日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内高原操へ
 拜復欧洲へ御出立の趣今朝紙上にて拜見致居り候處へ御手紙にて委曲明瞭に相成結構の事と大に御祝ひ申上候時日切逼のため貴地より直ちに御出發の由敬承御着後時々面白き御通信拜見の機を樂み居候拙序御改正の趣是亦承知御都合よろしきやう相願候
 先は右不取敢御挨拶まで 匆々
    十二月十七日                 夏目金之助
   高原 操樣
       貴下
 
      一五二五
 
 十二月十七日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 長野縣諏訪郡豐平村二九永田登茂治へ
 拜復子規遺墨の件につき尊書を領し候處右はいつ頃の事に候ひしや或は小生と關係深きものばかり故適當のもの見當りたらば差上てもよし抔申したるやも知れず。さうなればまだ發見仕らず候遺憾ながら左樣御承知被下度候
 序に伺ひ候大兄は小生が長野の教育會で演説を致したる節輕井澤迄御出迎ひ被下候御人に候や記|臆《原》あしくしかと相極めかね候故一寸伺ひ候
 先は右迄 匆々
    十二月十七日               夏目金之助
   永田登茂治樣
 
      一五二六
 
 十二月十八日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 御尋ねの箇所小生にも不明然し。「多く書物」では語をなさないから「多くの」としやうぢやありませんか
    十二月十八日夜                金之助
   耕 三 樣
 
      一五二七
 
 十二月二十六日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇俳味社沼波武夫へ
 拜啓江連君の事につき御手紙拜見致候あの作物は先達御話し申上候かとも存候があのまゝにては少々不賛成に候故小生は手紙にて本人へあれを短篇に崩して雜誌へ載せるやう勸告致候處本人はそれが不愉快らしく候もと/\江連君の希望は朝日紙上に載るにあれど夫にしても朝日の方で引受るや否は小生と雖も受合かね候。といふのは小生は只今朝日の文藝に關して編輯上何等の役目もなくたゞ向ふから相談された時にのみ愚考を述候丈故に候。其上もし小生のつぎに朝日へ載せるなら小生は江連君のよりも恰好と思ふものを一つ持ち居候先づ其方を先に推擧致したき考に候。
 重ねて江連君の爲に申候あれ|ば《原》中々面白きものに候ことに處女作としては天晴な出來榮に候然し通讀してゐるうちに入らぬ事や冗漫な記事が澤山有之。固より是は小生等に最も多き缺點に候へども始めて名を出す人としては惜むべき疵に候。小生未だ他人の作を自費にて出版して世間へ出してやる程の力量もなく候へども亦夫程感激したる例も無之。江連君に就ても同樣の感を抱き居候。然し大兄の御推擧も有之以前より小生も同情致し居る事故時機さへあれば出來る丈の好都〔合〕を同君へ與へたき心は充分有之候。大兄は自己を孤立と仰せられ候が孤立の意味はよく承知致居候小生もあなたに劣らぬ孤立ものに候
 未醒君の記事面白く拜見致候あれをたゞの散文にて當り前に御書きになつたらまだ面白い小品が出來るだらうと存候
 年末にて知人未知人より色々な要求あり小生も個人として存在する工夫以外に大した働らきもなく甚だ氣の毒と思ひながら返事さへまだ出し兼たるむきも有之今朝一寸小説を書く前の寸暇を偸んで此御返事を認め候いづれ來春ゆつくり御目にかゝり御高話も拜聽致し度と存候 匆々頓首
    十二月二十六日               夏目金之助
   沼波武夫樣
       座右
 
      一五二八
 
 十二月三十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 愈年のくれと相成申候諒闇中とて頗る不景氣かど松も立てぬ家多く候一昨日より昨日へかけて大雪にて甚だ寒氣強く今朝に至りはじめて快晴に相成候御地の冬定めて奇觀と存候
 此間の銅の水滴はたしかに拜受あれは此方より御依頼致候もの故ねだん御知らせ願候又筆筒も三四日前着正に落手三圓のよし安いと存候實はもつと多《原》きなひゞ燒のものか又染付にて藍色に細字の詩など描き出されたる處を想像致し居候處あれは全く別物にて却つて珍らしき處も有之候然し書が一向目立ちて見えぬ處遺憾に候
 右代價は序を以て御令弟の方へ御送申上べく候 寒き故からだ御大切に可被成候 何か御所望のものも候へば御送り申べく無御遠慮被仰聞度候 以上
    十二月三十日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一五二九
 
 十二月三十日 月 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣坂越岩崎太郎次へ
 拜啓 此間中より富士登山の畫につき度々御申聞相成候處一向覺無之故其儘に致し置候處右小包今日に至り發見致しはからず絹地の畫を拜見致し候是は右着の折多忙にてそれなりになりたる後忘れて今日に至り候も何とも無申譯候早速小包にて御返し候間御落掌被下度候名古屋より參り候茶も右小包中の貴翰に御通知ありしを開封せざりしため今日〔迄〕御禮も差し出さざる次第是亦あしからず御容赦願上候 早々
    十二月三十日                夏目金之助
   岩崎太郎《〔次〕》樣
 
 
 大正二年
 
      一五三〇
 
 一月七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓一陽來復御目出度存候諒闇中にて型の如き年始状は廢し候去りながら蟹はたしかに屆き申候何處から來たか分らないけれども大抵あなたと見當相つき候然る處其蟹を猫に食はれ候尤も小生少々は味はひ申候へども 笹あめを下さるとか下さらぬとか御手紙にありしやうなれど何方だかつい忘れ申候。もし來《く》る方だつたら申上ますがまだ參りません。
 今年の正月は諒闇中でのんきです。高田は雪がひどいでせう。からだを大事になさい。私はまだ須賀さんの藥を呑んで居ります 草々
    一月六日夜                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一五三一
 
 一月七日 火 後3-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 表慶舘へ御出のよし小生も行きたかつた。ことに繪畫に關する御高評をまのあたり承はりたかつた。
 却説先達大阪の社のもの參り日曜附録に一頁程科學の種を入れたく人はないかと申候故君の事を話し候處何うか頼んで見てくれと申候尤も毎日曜に一頁(八段)は大變故半頁にても又御氣に向いた時でもよろしく新聞向の新らしき記事論御寄稿を願はれますまいか。君の多忙な事も話し置候故強ひて願ふのも恐れ入る次第なるが御都合相つき候はゞ何とか相談にのつて頂き度其内御目にかゝる事と思へどあまり後れる故郵便で一寸伺ひ候 以上
    一月七日                   金之助
   寅 彦 樣
 
      一五三二
 
 一月七日 火 牛込區早稻田南町七より 杉浦重剛へ
 拜啓先日は突然の御光來何の風情も無之恐縮千萬に存候其節御話の留痕録早速御惠與にあづかり正に落手篤く御禮申上候御挨拶旁御新居拜見のため罷り出べき筈の處生憎只今手放しかね候手前用を控居候故しばらくの間缺禮致候右用事濟次第御邪魔ながら參上致度と存候先は御禮かたがた 右迄 草々拜具
    一月七日                  夏目金之助
   杉 浦 先 生
         虎皮下
 
      一五三三
 
 一月八日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜復年末には御歳暮を頂戴致し御禮も申上げずに打過申候正月には或は御出かと思ひ居候處御出なくつい/\手紙も差上る機會を失ひ申候 小説たしかに受取申候小生も只今執筆中にて碌々外出も仕らず旨く書くにも好加減に書くにも困る方先へ立ち候次第にてすぐ拜見と申す譯にも相成かね候 昨夜五六枚拜見致したるのみに候 わるい所と申すは一字一句の文字のならべ具合も含み居候にやさうすれば昨夜の分のみにても文句は有之候。然し全體の價値などは全く分り不申其内拜讀の上愚見御參考までに可申上候
 奧さまへよろしく 草々
    一月八日                  夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五三四
 
 一月十日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇俳味社沼波武夫へ
 啓上
 昨日は御令弟遠路わざ/\御入用の書物御返却に御出被下恐縮致し候其節は又高著三紀行御惠投にあづかり難有御禮申上候老生寒氣を恐れたゞ机邊にかぢりつくのみにて外出も容易に得せず心外千萬に候いづれ其内御面晤の機を得たくと存候先は右御禮迄 草々
    一月十日                夏目金之助
   沼波瓊音樣
       座右
 
      一五三五
 
 一月十日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 啓上寺田博士に日曜附録へ科學の記事を書く事願入候處第一さう日曜ごとに書くひまがない義理へ書いてやらねばならぬ友達の雜誌へも書いてやる事が出來ぬ、それから名前を出す事が困る名前を出すと色々に面倒が生ずる由、
 もし名前が出ないで濟むなら規則的には出來ぬが機會あれば時々は寄稿してもよいやうな挨拶に候
 御返相後れ無申譯候が右如何取計ひ可申や或は寺田君から適當の人でも推擧して貰ひ可申や右御返事旁御伺ひまで 草々
    一月十日                 夏目金之助
   長谷川萬次郎樣
        坐下
 
      一五三六
 
 一月十日 金 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓一陽來復の時節に相成候處諒闇を好機としていづ方へも御無沙汰御海恕可被下候日蓮上人昨夜正に落手御好意奉謝候
 此間は三省堂の破産にて大兄の方へも幾分の影響有しならんと存候然し俗用が省けて却つて呑氣な新年かとも御察し申上候 片田舍は殘雪いまだに堆積隨分出入に寒き感じ有之候 不相變書齋にこびりつき芳ばしき音づれもなく閉塞まかりあり候いづれ其内拜趨萬縷可申述候先は御禮迄 草々拜具
    一月十日                     金
   臨 風 兄
       座側
 
      一五三七
 
 一月十一日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜復其後は手前にかまけつい/\御無沙汰に打過申候今年は諒闇に口實を得てと申すと申譯なき次第ながらつい年賀状も差出さず恐縮の至に候
 御送被下候「滯英二年」正に落手御芳情萬謝仕候相憎包み紙さかさに相成居候ため御署名さかさに相成候事殘念に存候。然し其他には異状無之決して御掛念被下間舗候
 卷頭の小泉先生へのデヂケーシヨンは甚だ結構に候いまだ日本の著書にて八雲先生に捧げたものは一つも無之大いに嬉しく存候。此間沼波瓊音氏より「土」を讀んでゐると申越したる時愉快を覺え候と同一の趣に候「行人」御讀被下候由難有存候先がどうなるやら作者にも相分らずたゞ運次第に候御憫笑可被下候先は右不取敢御禮迄 草々
    一月十日夜                 夏目金之助
   大谷繞石樣
       座下
 
      一五三八
 
 一月十三日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 此間は御來駕の節は御面倒なる事を御願申上候處早速御引受御送難有候直ちに出版屋の方へ送り可申候
 額は御氣に入り結構に存候電車も汽車も無難とは申しながらあの風態は正に看板泥棒と思はれたらうと存候
 先は右御禮迄 草々
    一月十二日                 金之助
   虎 雄 樣
       座右
 
      一五三九
 
 一月十三日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 大分長い御手紙がありましたかにの御自慢には恐入りました。「行人」のなかにかにの珍味なる事を一寸書きました五六日うちに出て來ますから御覽下さい。尤もかにだのあなたを惡くいふ積はありませんたゞの滑稽の御慰に過ぎませんからどうぞ其積で御笑ひ下さいましおこつちやいやですよ。
 諒闇中の御正月だけあつて中々閑靜です來客の一人がいつもこんな呑氣な御正月がしたいと申してゐました。
 笹飴は私はたつた一つしか食べませんあとはみんな小供が食べてしまひました。さうして笹を座敷中へ散らばらしていやはや大變な有樣です
 御普請が出來て結構です見に行きたいがあのガンギといふものを思ひ出すと實に恐れ入ります。いやなものですね。先は御禮迄 草々頓首
    一月十二日                  夏目金之助
   森成麟造樣
       座下
 奧さまへよろしく
 
      一五四〇
 
 一月十三日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區西紺屋町實業之曰本社内渡邊新三郎へ
 啓
 此間中より扉につき御約束を實行せんと思ひ一度は多忙中一寸書いて見候へども何分字にも何にもならず已を得ず友人に頼み書いてもらひ候數葉あるうちいづれでも御氣に入り候ものを御採用願上候字は白字にして青肉のうちへ入れ度と存候が如何に候や尤も青肉は扉内に輪廓を描きそれを青にて埋め其なかに文字をあらはす積に候
 尤も萬事は御都合次第にてよろしく候先は右迄 草々
    一月十二日                 夏目金之助
   渡邊白水樣
       座下
 
      一五四一
 
 一月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 此間は合作のとき大御世話に相成候あの畫は記念のため取つて置きたいと存候 さて先達御送の小説拜見致候ものが外國もの故新らしく存候然し割合に興味が乘らないのは殘念に候。妻君の事が氣にかゝるのを一筋道に進行させ其うちに經又は緯としてあの夫婦子供の事を書き入れその副物として又自分の貧乏と金に不自由なくて獨乙の女に愛され居るMを配したら面白いだらうと思ひます。あのうちで小生の好いと思つた所は
 ○Mが女と寐てゐるのを外から見た所
 ○夫婦喧嘩の仕舞の處。然しあの發展ではまだ物足らず。もう少し細かくありたし。
 ○貧乏で喪狗の如く巴理の賑やかな通りをぶらつく處
 ○油が盡きて本の讀めぬ所
等に候。たゞ全體が少々纒つて居らず。又局部々々も物足らず。最後の畫を貼りつける處はある因果の結末として適當ならんもあれでは少々不服に候。
 字違ひ、假名違ひ。又は句の調はぬ所など小生にも眼のつく所有之候。猶詳細は拜顔の節委曲申述べくと存候先は右迄 草々
    一月十三日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五四二
 
 一月十五日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜啓先達ては御多忙中御無理なる御願申上御返事にて到底物にならぬ事を確め候へども念の爲め先方へ通知致候處該附録主任長谷川萬次郎氏より別紙の如き回答あり候につき御覽に入れ候是はたゞほんの御參考まで故其積で御覽願上候萬一御氣に召し候はゞ御寄稿願度と存候先は右用事まで 草々頓首
    一月十五日夜                金之助
   寅 彦 樣
 
      一五四三
 
 一月十六日 木 前6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜啓先日御話し致候大阪日曜附録につき長谷川君より別紙の通り申來候間御參考までに申上候。此樣子にては先日申上候原稿取まとめに對する報酬はちと六づかしきやに被存候 先は右御返事まで 草々
    一月十五日夜                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一五四四
 
 一月十八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 啓上くれの廿九日には御約束のとほり深川亭へ參るべき筈の處生憎雪ふり早稻田の奥より兩國まで出掛けるのが難義にて失禮致候尤も小宮君は嚴格に約を重んじ拙宅まで被參候それを小生引きとめ此天氣では松根君も疑がはしき故やめても差支あるまじと申候是は大兄より小宮の手紙に對して御返事なかりし由故或は不參ならんと此方の都合よきやうに解釋致したる過失に候そこで電話にて御通知に及ばんと色々工夫を費やし候處生憎斷線にて毫も通ぜず。電報にては時間おくれ已を得ず其儘に致し候。使者を御宅〔へ〕走らする事さへ時間及ばず(尤も是丈は其時小生の頭に浮ばず候ひし)
 右の譯にて不行屆の段御詫致さんと存候處御歸國の由に承はり差控え申居候處能樂何とかへ御出席のよし新聞にて承知もう御歸京と存じ不取敢手紙にて右の事情と此方の不都合とを御詫び申候御ゆるし可被下候 草々
    一月十七日                 夏目金之助
   松根豐次郎樣
        座下
 
      一五四五
 
 一月十八日 土 牛込區早稻田南町七より 大谷正信へ〔封筒なし〕
 拜啓御高著更に御送被下難有存候先のにて澤山なりし處餘計な事を申上候段まことに御手數にて恐縮の至に不堪候もとの方貴命により小包にて御返送申上候間御落手被下度候
 先は右迄 草々
    一月十八日                  夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一五四六
 
 一月二十三日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町樋口秀雄へ
 御高著うつくしく出來上り結構に存候御惠投の一卷正に拜受御厚意千萬奉謝候
 目下手前用にかまけ拜讀の機を得ず其内諸用片付次第拜見の榮を可得候先は右不取敢御禮迄 草々不一
    一月二十三日                 夏目金之助
   樋口龍峽樣
       坐下
 
      一五四七
 
 一月二十七日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓美音會員章及び會員紹介章正に落手致候御手數奉謝候同日參られるか何うか分らず候故席はことさらに注文の必要無之かと存候不取敢右御禮迄 早々
 
      一五四八
 
 一月二十七日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 神田區山本町萬佐方門間春雄へ
 啓上長塚氏よりの紹介状は先日參り候實は御仰せの如く原稿製造に中々手間取り存外餘裕無之候へども木曜の夕方ならば一寸は時間あるならんと存候間もし御差支なくば其節御出被下度候先は右御返事迄 草々頓首
    一月二十七日               夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一五四九
 
 二月五日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓此間は又久々にて突然素川君來訪少時談話に實が入り申候
 別稿大した知人にてもなけれど何處かへ出して呉れぬかとの依頼故入貴覽申候若し日曜附録にても出る事なら幸と存候書き手は相州鎌倉圓覺寺續燈庵林空水といふ男に候 先は右用まで
 安倍能成君の手翰貴下へ直接に相屆き候事と存候 匆々頓首
    二月四日                夏目金之助
   長谷川如是閑樣
         貴下
 
      一五五〇
 
 二月五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜復先般は久々にて御出京御多忙中遠路わざ/\御來駕被下難有存候生憎小生も其晩に片づけなければ濟まぬ用を控え居候ため心ゆく迄御話も出來かね遺憾千萬に存候其節御約束の西條柿一箱正に到着風味は御自慢の通り正によろしく家人に講釋をしてたべさせ來訪中の某夫〔人〕にも茶の時の菓子としてわけ與へ申候
 例の如く多用と怠慢にて御返事も御禮も遲くなり無申譯相成候あしからず先は右迄 匆々不一
    二月五日                 夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一五五一
 
 二月八日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 啓上新年以後末だ御目にかゝらず候處愈御清適奉賀候岡山産名物吉備團子御送被下難有拜受今朝少々風味致し候箱破れ中より國子がころがり出候處もつけの幸に御座候先は御禮迄 匆々不一
    二月八日                  夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一五五二
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜啓先日は失禮致候御夫婦御招待の時日いまだ相極め不申候そのうち御都合可伺候
 偖別紙大阪の長谷川氏より到着致候が如何返事して可然やこれは大兄より直接の御返事では一寸御困りと存候につき一寸小生迄御洩らし被下度候 以上
    二月十日                   夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一五五三
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早碍田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓昨日妻より御送致候大阪朝日日曜附録のうちに林空水(社では間違へて雲水にしてゐるかも知れず)のもの掲載相成居候はば乍御手數一寸御送り願候本人へ送り申候
 
      一五五四
 
 二月十日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田鶴卷町一一〇飯田政良へ
  渡邊君の宿所は西大久保三七四に候
 拜啓實業の日本社員渡邊新三郎氏(號白水)より編輯上の用ある由にて甚だ安くて氣の毒なれども御所望ならば願つてもよろしとの事に候故明日午前中御繰合せ同氏宅へ御出向被下度候、若し先達ての事にて衣食の方面充分なれば夫にてよろしく候へどももし御不足なれば好機會故御出向御面會可然と存候
    二月十日                 夏目金之助
   飯田政良樣
 
      一五五五
 
 二月十五日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區神谷町池松常雄へ
 拜啓先日御光來の節は生憎他出の折とてとう/\玄關拂を喰はせ申候失禮甚だ無申譯ひらに御容赦願上候書畫帖御急ぎには有之間敷と存候へども寸閑を利用し相認め申候間小包にて御受取願上候 先は右迄 匆々
    二月十五日                夏目金之助
   池松常|雅《〔雄〕》〕樣
 
      一五五六
 
 二月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 其後御無沙汰に打過候日來稍輕暖を覺え候も北國にては如何にや矢張り雪に鎖されて御難儀の事と存候
 却説先般は御高著拜受ことにわざ/\御引換被下御厚志深く奉謝候拙著「社會と自分」出來につき御目にかけ申候くだらぬものをあつめ候殆んど御高覽の價値も無之と存候が極めて喋舌を弄し居候へば讀むに面倒も無之御寸暇も有之ば一二頁にても御覽願上候先は右迄 堂々頓首
    二月二十一日                夏目金之助
   大谷繞右樣
 
      一五五七
 
 二月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町樋口秀雄へ
 啓上先達ては高著近代思想の解意御寄贈にあつかり難有存候拙著社會と自分煩貴覽程のものにも無之候へど幸印行濟につき御目にかけ候小包にて差出候間御受納願上候先は右迄 匆々不一
    二月二十一日                 夏目金之助
   龍 峽 先 生
         坐下
 
      一五五八
 
 二月二十六日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓其後は失禮申上候偖小生小説「歸つてから」と申す分濟み次第あとのを掲載せねばならず候。然るに先般小生方へ二つの作を見てくれと頼み來候いづれも面白く無名の文士を紹介する積にて朝日に掲載しても毫も耻かしき事無之しかも其うちの一篇は文學土中勘助と申す男の作りしものにて彼の八九歳頃の追立記と申すやうなものにて珍らしさと品格の具はりたる文章と夫から純粹な書き振とにて優に朝日で紹介してやる價値ありと信じ候。尤も繪入小説の如く變化や進行はあまり無之其邊は御承知の上にて小生の後には何うか此中勘助君を御掲載願度電話でと思ひしもあまり長く相成候につき手紙にて申上候過日名倉君に面會の節も其話は致し置候右御相談の上何とか御都合相願度(電話にてよろしく)小生も出ると極まればもう一遍本人に歸して推敲やら書直しやら致させ度故一寸右伺ひ候餘は拜眉萬々
    二月二十六日                夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五五九
 
 二月二十七日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜啓先日來御約束申上候御案内の件段々色々の事情にてのび/\に相成無申譯候
 明後土曜三月一日もし御繰合せ相つき候はゞ御兩人御揃にて御枉駕被下候はゞ幸甚に候夕食の仕度と申す程のものも無之寒厨あり合せのものにて夕飯差上度候間夕景より御越し被下度是も序を以て願置候萬一御不都合も有之ば一寸御報知被下候はゞ好都合に御座候先は右迄 匆々 乍筆末御令閨へよろしく御傳聲願上候 以上
    二月二十七日                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一五六〇
 
 三月一日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜復其後は御無沙汰御手紙の趣にては大分骨董金石書畫など御樂しみのやうに被存候が清國にては左樣のものでも愛玩するが一番の風流かと存候小生は手習は致さずたゞ五六の法帖を時々披見致すのみにて候 鄭道昭の石碑はかつて不折かたにて披見致候がふか痘痕の如く頗る難解の變なものに有之候
 拙著つまらぬものながら新刊につき御目にかけ申候御ひまな時少々宛御覽願候 先は右迄 匆々頓首
    三月一日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一五六一
 
 三月三日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓先日は電話にて失禮致候其後與謝野さんの方は如何相成候や。偖同便にて差出候小包中には二種の羅馬字で出版した新著を入れ置候
○羅馬字での著書は日本にて始めての由
○一は理學博士田丸卓郎氏の「震動」と稱するものにて「震動」の原理を斯う簡單に且つ手落なくつづめ得るのは大變御手際の入るものゝ由
○今一冊は同じく理學博士寺田寅彦君の海の物理學と稱するものにて|も《原》是も薄き頁少なき割には中味非常に該博にてとても一通りや二通りの力量にてはかうつゞめられぬ由承り候
○兩氏は是を朝日紙上にて紹介して貰ひたいと小生に依頼致候。然る處目〔下〕議會やら相撲やらにて多忙の紙面故新刊紹介の部なら頼んで見やうと承諾し置き候何とぞ其道の人にどうぞ御頼|ひ《原》願度候
○夫からもう一つ御願有之候。宮本和吉といふ文學士オイケンの著者を新約致し候につき安倍能成君其批評をかき候がそれは三段ばかりのものゝ由なるが、どうぞ小生の小説「行人」の後へでも出して呉れまいかとの相談に候
 小生編輯上の事全く不案内に候へども右は折角の依頼故黙つて居る譯にも參りかね、御都合を伺ふ次第に候名倉君とも御相談の上何とか御都合被下候はゞ幸に候尤もオイケンの批評の事はあまり長いならつめさせてもよろしく候、又は前二書と同じ樣に新刊の處へ割り込まして頂いても結構其旨は小生より先方へ掛合可申候先は右御願迄 匆々頓首
    三月三日                夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五六二
 
 三月四日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 先日はわざ/\御まねき申し何の風情もなく甚だ遺憾に存候偖御話のオイケン譯の評社の方へ懸合ひ申候處只今月初にて廣告意外に多く候へどもすきを見計ひ二日つゞきにて掲載致す樣取計つてもよろしとの返事につき草稿を朝日社(京橋區瀧山町四)名倉聞一宛にて右の事情相添御送り被下度候出る日限の義は一寸御受合出來かね候へども右にて御許容願度と存候
 御令閨へよろしく 匆々
    三月四日夜                 夏目金之助
   安倍能成樣
       座下
 
      一五六三
 
 三月四日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓先日の御手紙拜見小生は小説すみ次第友達の件にて奔走する約束あり夫から高等工業で演説もせねばならず色々多忙到底最初の講義などは出來ず最初の約束通りまづ|一《原》に一度か或はそれも六づかしいかと存居候小生は寧ろ名前を貸した位に思ひ居候 匆々
 別紙甚だ恐縮ながら中勘助君に御差出願度同君のゐる御寺の名を忘れ申候
 御令閨へよろしく
    三月四日                 夏目金之助
   野上臼川樣
 
      一五六四
 
 三月四日 火 牛込區早稻田南町七より 下谷區上野櫻木町四四眞如院内 中勘助へ
 久々の御無沙汰御宥し被下度候かねて御あづかり申上候小説實は僕のあとへと思ひ其旨社へ懸合候處澁川氏在社のみぎり與謝野の妻君に巴理から歸つたら書かせる約束をして置いたとかにて先方で四月一日頃からの積で書いて居る由尤も小生の小説が存外早く終り、向ふの準備が思ふ樣はかどらねば大兄の分を先にするかも知れねども左もなくば晶子夫人のを先にする事に相談相極め申候其代り其後には訖《原》度大兄のを載せるといふ契約を電話で取り極め候故右甚だ遲れ勝にて御迷惑とは存候へども御承諾被下度候
 御寺は御寒い事と存候老生夜は火鉢とストーブにて凌ぎ居候 匆々
    三月四日                  夏目金之助
   中 勘助樣
 追白あれは新聞に出るやう一回毎に段落をつけて書き直し可然候。ことに字違多く候故御注意專一に候、夫から無暗と假名をつゞけて讀みにくゝも候夫には字とかなと當《原》分によろしく御混交可然か、
 
      一五六五
 
 三月八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一波邊和太郎へ
 啓横濱大火の新聞で吃驚致し候やけた處をしらべて見るに元濱町と申す所不見當矢張り御無事と存候へども地理不案内につき何所迄燒けて來たか分らず即ち此見舞状を書たる譯に候もし見當違だつたら眞平御免下さい。近火だつたら大に同情の意を表します 先は右迄 匆々
    三月八日                 夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一五六六
 
 三月八日 土 後8−9 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓
 深川大火の由新聞にて拜見致候處貴君の御住居はどの邊なるや承知仕らず元來深川は不案内にて何所も承知致さず候所に何だか大兄が燒けたやうな又燒けないやうな氣分に相成萬餘計な事とは承知の上にて御見舞状を差上候多分御火災の難は無之事と存じゆつくり構へ居しものゝ神經が咎める故一通如此に候 匆々頓首
    三月八日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 二伸過日願候安倍君の論は書肆の都合上少々出版の時機後れ候につき四月に入り改めて願ふ事に相成其節は何分よろしく願上候 早々頓首
    三月八日
 
      一五六七
 
 三月八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 先達ては失禮君の御歸りの後すぐ同封の端書參候早速御屆可申上筈の處八丈島云々の話も聞き居り候へばどうせ出る氣はないものと心得其儘に捨置申候もし猶在籍もしく〔は〕出席必用なら何うにか工面の道も可有之小|一《原》生立替申てもよろしく候 先は右用事迄 匆々
    三月八日                 夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一五六八
 
 三月十日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓昨日はわざ/\電話にて南米博覽會御誘引難有存候あれから十分程して出かけ候處二時三十分にて御約束の二時十五分に間に合はず殘念ながら一人で光風會を見て電車で歸り申候
 光風會は可成見物有之聞いて居るとみんな僕見たやうな半可を振り廻し居候再度御注意ありたる例のはだかのマンドリンを持つた女はつく/”\拜見致候があれは人間にあらず怪物に御座候膝頭其他に林檎を括りつけたるやうな趣有之甚だ奇異に候のみならずあれを五分間わき目も振らず見て居られるものがあつたら一等賞に價する鑒賞家と存候 先は右迄 匆々
    三月十日                  金之助
   寅 彦 樣
 青楓君の畫如何御覽なされ候やあゝやつて他と比較すると何だか下手なやうな感が致候
 
      一五六九
 
 三月十一日 火 前8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 啓上小生「杜會と自分」六版の節正誤を致す考に有之候につき大谷君のは今日渡邊君に廻し置候大兄御氣〔付〕の分もしあらば可成早く同君宛にて御送被下候へば幸に候 以上
 
      一五七〇
 
 三月十六日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區小日向水道町九二中勘助へ
 拜啓君の小説は小生の次に掲載する事に相成候
 與謝野の妻君は目下懷妊中にて執筆困難の由社へ申込候よし
 回數は少々増しても構はず一回を一段と十行位にした方が讀み好からんとの社員の意見に候御意見も可有之候へども若し出來得るならばさうしたら宜しからんと存候
 序を以て右蛇足をつけ加へ申候 以上
    三月十六日夜               夏目金之助
   中 勘助樣
 小生の小説は今月一杯位つゞくやも知れず大兄の豫告かねてより御作り置き被下度五六行にて結構に候
 小生第一回の冒頭に矢張五六行の序の樣なものを紹介のためかく積に候
 
      一五七一
 
 三月十七日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 拜復養子の件承知致候有望の所ならば此方より御勸め申上度候然し當時小生方に寄寓などゝ嘘を吐く必要は有之間敷たゞ小生方へ朝晩出入する位にて可然かと存候事實はその通りなる故其方將來のために好都合かと存候
 金の爲め御困りの樣子是〔亦〕承知致候も〔し〕百圓位にて此難關が切り拔けられるものなら差上げてもよろしく候、然しそれ位では燒石に水と相成候へば差上げぬ方却つて雙方の便宜に御座候 先は右御返事旁御伺び迄 匆々頓首
    三月十七日                 夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一五七二
 
 三月十九日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 しばらく御無沙汰をしました折角御約束をして濟まんと存じましたがつい機會があつたものですから光風會を二度見ました。色々面白いのがありました。あなたの瓶に團扇は好いやうに思ひます其代海(ことに大きな方)は賛成致しかねます。有島君の靜物と花は面白う御座いました。
 さて御願があります。私は一昨年の秋に一つ半になる女子を失ひました。今雜司ケ谷へ埋めてありますが何うか其墓を拵らえてやりたいと思つてゐますが、あなたに其圖案を作つて頂けますまいか。普通の石塔は氣に食ひません。何とか工夫はないものでせうか。字は此方でだれかに頼むつもりです、でなければ娘の事だから自分で書かうかと思つてゐます
 圖案科と申すほどの御禮も差上られませんが其邊は骨を入れる棺や石の代と比較した上で何とか致します。先は右御伺ひ迄 匆々
    三月十九日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五七三
 
 三月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區小日向水道町九二中勘助へ
 拜啓御手紙拜見致候 作者の名は中勘助が最上等なれどそれで不都合なら致し方なく候 那迦、奈迦、或は勘助、かんすけ、抔如何に御座候や 小生の小説中々濟まず自分も困り大兄にも御氣の毒に候或は來月へ出るやも計りがたく候。稿料の義は未だ相談の運に至らず候へども小生中に立ち候上は相當の御禮は可致候然し無名氏の君の事故いくら面白くてもさう澤山は出さぬものと始めから御覺悟は被下度候
 猶々御老母御病氣御大事に御看護必要と存候 安倍も歸郷致候由 先は御返事迄 匆々頓首
    三月二十一日              夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一五七四
 
 三月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓手前よりも御無音に打過申候兎角出無精にて諸方へ失禮のみ重ね居候御詫び致し候小説御讀み下さる丈にても難有き仕合せことに今回はことの外の御賞美にあづかり嬉しき限に候近來は自分の書いたものを朝新聞で讀んで自分で滿足か不滿足を感ずる丈にて天下に味方は一人もなき心持に候へどもつゞまり相つかず不得已毎朝筆を運び居候次第御ほめにて恐縮致候いづれ其内拜顔萬々 頓首
    三月二十二日               夏目金之助
   戸川秋骨先生
        座側
 
      一五七五
 
 三月二十八日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町一丁目一中島六郎へ
 啓
 其後御無音に打過申候音樂學校卒業式の切符御親切に態々御送被下難有存候然るに天氣模樣と氣分のあしきとそれや是やにて遂に出席を不得遺憾此事に存候御禮にまかり出でべきの處多用を口實に手紙を以て拜趨に相替申候不惡御宥恕被下度候 以上
    三月二十七日               夏目金之助
   中島六郎樣
 
      一五七六
 
 四月二日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓まだ原稿を書くと頭がふら/\し。立つと足がふら/\し。胸も時々痛みますが。今日ためしに一回かきました。是があとずつとつゞくとよう御座いますがあとが危險ですからあなたの方の都合の出來るまで少し溜めて置いて出す譯には參りますまいか。まだ流動物で俊寛の如く存在致居候 匆々
    四月二日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五七七
 
 四月三日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒の表側に「原稿在中」とあり〕
 啓上今日も一回書き候間御送申候此分にでは終局までつゞけて書け可申無御遠慮御連載願候 匆々
    四月三日                  夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五七八
 
 五月十八日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 拜復病氣御見舞被下難有存候其後漸く順當に快方に向ひ旬日にてどうかかうか本復可致と存候間乍他事御休神被下度候病中諸方の見舞状に對して一言も返事を出さず書くのは是が始め位なものに候返事が書ける位故先々御安心願候櫻の時床につき起きる時はもはや子規の鳴く頃と相成候世の中の推移は早いものに候去りとて生れ變つた心地も不致妙に御座候先は右迄 匆々 敬具
    五月十八日                 夏目金之助
   大 谷 賢 臺
         座下
 
      一五七九
 
 五月二十日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 拜復御親切なる御手紙難有拜見致しました病中は又態々御見舞の品を頂戴まだ御禮も不申上萬事御海恕願候 昨今漸く快癒に向ひ候へどもまだ外出は一歩も致さずいづ方へも御無沙汰故どうぞ不惡
 新聞のつゞきものと申すもの臆《原》劫なるものに候へども是で衣食する以上は致し方も無之自分では教師より遙かに好きに候
 病氣をする度に職業がへを勸むる人必ず出て參り候小生も病氣程不面目のものなき樣相成候へども依然病氣にかゝり申候御憫笑被下べく候いづれ其内拜眉萬々可申述候
 釋宗活師には既に御會ひにや至つて温厚の人に候御ひまな節兩忘庵迄御出掛可然か 先は右迄 匆々
    五月二十日               夏目金之助
   沼波瓊音樣
       座下
 
      一五八〇
 
 五月二十日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區小日向水道町九二中勘助へ〔はがき〕
 度々御見舞難有う皮膚病にて御困りの由一日も早く御全快を折る。野上にも其後久しく面會せず。近來は床はとり放し起きたり寐たりの有樣御閑もあらば御遊びに入らつしやい
 
      一五八一
 
 五月二十四日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓小生病中は社員坂崎君を以て再度御見舞を辱ふし御好意深く奉鳴謝候御蔭を以て逐次回復起居も自由に相成候まだ門外へは出ず候へども先づ平生通り振舞居候其内外出も出來可申と存候就ては坂崎君の宿所承知仕り度甚だ恐縮致候へども一寸端書にて御報知願度と存候
 猶序を以て願置候は二十八日池邊追悼會に出來得れば參會致し度又富士見軒へも顔を出し度と存居候がまだ外出不馴の事とて醫師に相談を要し候につき晝餐會出席の儀は未定と致し置度或は出席と致し會費丈差出候てもよろしく其邊可然幹事の方に御傳願度是はあなたに御依頼するのは失禮ですが幹事が分りませんから御手數を煩はしたいと思ひます
 先は右御禮旁御伺迄 匆々頓首
    五月二十四日                夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五八二
 
 五月二十九日 木 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜復御病氣御本復の趣恭挽存候小生漸く床を這出昨日始めて外出致候
 却説大觀の柳表装と箱わざ/\の御使にて御持たせ被下難有存候右代價十八圓五十錢封入差上候間御査收願候先は不取〔敢〕用事迄 匆々頓首
    五月二十九日               夏目金之助
   橋口五葉樣
 
      一五八三
 
 五月三十日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ
 拜復一昨日は久々にて御面晤其節は食堂にての御監視恐縮千萬に存候御蔭にて歸宅何の障りも無之無事起臥罷在候間御安神被下度候
 軸物の御注文にはちと避《原》易致候實以ての惡筆折角頼まれゝば恥曝しを覺悟の上にて依頼者の芳志を空うせざる事をつとむる丈の事に候若し御入用とあれば何枚にても書き可申然し御承知の通りの病躯いつ死ぬか分らぬ故全くの處記念と覺召被下度候
 だから若し生きて居れば今にうまくなつた時書き直さうといふ山氣あり從つて表装は御無用に候
 夫故斯う白状すると是非何か書かねばならぬ義務一寸面喰ひ候へど折角故何時か惡筆を無遠慮にのたくらせ可申候 先は右御返事迄 匆々
    五月三十日               夏目金之助
   松 山 樣
       座右
 
      一五八四
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區東平野町七丁目二八一武宋※[金+珍の旁]七へ
 啓あなたには病中親切な手紙をいたゞいて夫限返事も出さないでゐる甚だ申譯がない病氣は漸く回復しました。諸方からもらつた手紙へ返事を山のやうに出さなくてはならないのが苦痛でのんべんぐらりに今日迄書かずにゐます。今夜は二三本書くつもりです。だから是丈で失禮します又甚だ亂筆で申譯がありませんが病氣御見舞の御禮と行人を讀んだり切拔いたりして下さつた御禮を是で濟まします 匆々頓首
    五月三十日夜                夏目金之助
   武定巨口樣
 
      一五八五
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓病中は御見舞状を賜はり其上早稻田迄御出被下難有存候それから段々回復昨今漸く人間らしく相成候此手紙は御禮に候へども其御禮状を一切放擲して置いた因果として大變書かなくては濟ま〔ず〕悉皆申譯ばかり故其邊は不惡先は右迄 匆々
    五月三十日                夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一五八六
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 森成さんあなたが手紙をくれた時は私はうん/\云つて寐てゐました夫で返事も何も上げませんでした昨今漸く人間らしい氣分になりましたから御返事を致します病名は例によつて例の如くです、見事な血便が出ました丸で履墨の如く鮮なものでした。けれども今度も亦癒りました。御醫者は須賀さん丈でした。此頃手紙を呉れた人へ返事を書くので大騷ぎです今迄怠つたのを後悔します此手紙も後悔の一部です其代り長い事は何も書けません是で御免蒙ります 左樣なら
    五月三十日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一五八七
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 伊豆大島元村千代屋林原(當時岡田)耕三へ
 病中は色々御世話になり候島へ渡つてからは度々御手紙をいたゞきまだ一返も返事を出さず甚だ無申譯候實は少々畫に凝つて他事を閑却遂に失敬尤も碌な畫はかゝず只凝る丈也
 偖島では色々御困難の由どうも御氣の毒の至り君から手紙がくる度に又何か始まつたのだらうと思ふ果して何か始めてゐる。一體兄キから九月迄居る丈の金がくるのかい隨分厄介な話ぢやないか小學校の教師位するが好い疲れたつて勉強しに行つたのぢやないから小供と遊んで居れば好いぢやないか。
 小生一昨二十八日始めて外出、外へ出て見ると寐て居る騷ぢやないから歸つて早速床を上げてしまつた。先づ回復と申して差支な〔し〕安心を乞ふ
 手紙を山のやうに書かなくてはならない こゝで失敬する
    五月三十日             金之助
   耕 三 樣
 
      一五八八
 
 六月一日 日 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 啓病中は御見舞状を賜はり又京都からは面白い畫端書を御送り被下難有存候君の顔を人が見て非常に感服致し居候小生其後順當に快方に向ひ昨今は又人間の群に伍する次第とうぞ御喜び被下度候御禮があまり延び過ぎ候へどもためて置いて一度に出す禮状故其邊は御海恕願候 右迄匆々
    五月三十一日               夏目金之助
   臨 風 兄
       座下
 
      一五八九
 
 六月二日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 啓上小生宿痾再發の砌は御尋ねにあづかり其後御芳書をも賜はり御親切せつに難有候其節は筆を持つ事大儀にて出來る丈義理を延ばす惡い了簡を起し今日迄御禮を申さず甚だ無申譯次第御ゆるし被下度候昨今に至り手紙の返事を書く事の容易ならぬを覺り閉口まかり在候手紙もたまると厄介なものに候此手紙も厄介な一つと申しては恐縮千萬ながら實は此兩三夜手紙責の苦痛を切實に味ひ申候却説病氣の方は御蔭を以て又々人間世界に暫時立ち還る事と相成候先づ尋常人に近き行動をとる事を心掛居候間乍憚御安心被下度候先は右御禮旁御挨拶申述候 以上
    六月二日                夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一五九〇
 
 六月二日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 山口縣山口町山口國學院野村傳四へ
 啓君の手紙が來た時は病氣で寐てゐたので返事も出す事が出來ず殘念であつた其後快復はしたが矢張り病後の事でつい筆を執るのが億劫なものだからつい今日迄何も書かなかつた僕の病氣漸く癒つたから先づ安心して呉れ玉へ夫から君が岡山を去つた顛末は君の手紙で委細承知した厭な事のあるのが世の中だとあきらめ玉へ其内又いゝ事が巡回して來るだらうから 山口では書生と同宿の由久し振での書生生活ものん氣で面白いだらう先づ々々辛抱し玉へ勉強は已めぬ由こんな結構な事はない小生は教師をやめてか〔ら〕字引は殆んど引かない自分でも可笑しい位である獨乙や佛蘭西を物にしやうと思ふが時間が足らず近頃は病後恣に閑を貪つて畫ばかりかいてゐる半切がこゝで盡きたから先づ擱筆す
    六月二日                金之助
   傳 四 樣
 
      一五九一
 
 六月三日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ
 御手紙拜見序の御求めも承知致候が是にははたと行當り候實は「殻」の序文をのばしたから何か書いてくれと頼まれ夫が先口だけれども先づ斷はり申候あなたの本は其上何も書く事がないのに少からず弱らせられ候
 却説病中は御手紙にて御尋ね被下難有存候早速御禮を可申述筈の處無精を極めどこへも無沙汰漸く四五日前より禮状丈諸方へ出し候處是亦非常な難事業にて閉口致候 木曜には野上久振にて御出の由待上候萬縷其節に讓り可申候 以上
    六月|四《原》日               夏目金之助
   野上八重子樣
 
      一五九二
 
 六月三日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺北門下河原東入厨川辰夫へ
 拜復御手紙難有存候病氣は漸く本復又しばらく人間界の御厄介に相成る事と相成候行人御高覽にあづかり感謝あとは單行本につけるか新聞に載せるか未定に候大して長くなければ新聞に出すまでもなくと存候近頃は如何なる方面御研究にや先達ての御高著好評にて何版もかさね結構慶賀至極に候先は御挨拶迄 匆々
    六月|四《原》日               夏目金之助
   厨川白村樣
 
      一五九三
 
 六月十日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町ホトトギス發行所高濱清へ
 啓 相模のちり御採録被下候由にて難有存候あれは未知の人なれど折角故たゞ小生の寸志にてしか取計ひたる迄に候紹介樣のもの御入用の由故わざとばかり認め申候。近頃一向御目にかゝらず健康も時々御違和の由承はり居候へども疾に御全快の事とのみ存居候ひしにいまだに御粥と玉子にて御凌ぎは定めて御難澁の事と御察し申上候夫ではひとの病氣處にては無之御見舞状を受けて却つて痛み入る次第に候
 ホトヽギスは漸次御發展の由是亦恭賀小生も何か差上度所存丈はとうから有之候へども身體やら心やら其他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るやうの傾甚だ無申譯候四十を越し候と人間も碌な事には出合はずたゞ斯うしたいと思ふのみにて何事もさう出來し事無之耄碌の境地も眼前に相見え情なく候御能へは多分參られる事と存居候萬事は其節 匆々頓首
    六月十日                  金之助
   虚 子 先 生
         座右
 
      一五九四
 
 六月十日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ
 啓上 傳説の時代につき序文再應の御求めにより臼川君の仰通り手紙を以て事を辨じ申候若し御役に相立候へば幸に候
 小生其後順當に回復外出も致し候九段の御能へも出來れば參る積に候先は用事迄 匆々
    六月十日                 夏目金之助
   野上八重子樣
 
      一五九五
 
 六月十日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 啓上此間は御地名産長生殿と申す菓子一折御惠投にあつかり難有頂戴あれは熊本にゐるうち同僚の一人國元より取寄屡御馳走になりたる記|臆《原》のあるものに候長生殿といふ名は小生には至極縁喜よろしく候然し斯う死にかゝつては生き還つてはいくら長生殿にても夫程御目出度もなく候近頃病氣の方は先々回復致し候へどもある道樂に屈托夫か爲めつい御禮を申述る事を怠り甚だ不相濟候乍遲延一筆如此候初夏不順梅雨鬱陶敷候へば隨分御厭可被成候 以上
    六月十|一《原》日             夏目金之助
   大谷繞石樣
       座右
 
      一五九六
 
 六月十一日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 啓上先達て上野へ行つて太平洋畫會を見ました。あなたの屏風を別の室から拜見した時は大變雄大で面白いと思ひました。所がそばへ行つて能く見るとあの布地へ油繪具を使つたのはどうしても下品で毒々しい感がして殘念でした。もし是が普通の屏風で日本繪具で書いてあつたらと思ふと甚だ遺憾の至です。あの位な大き〔な〕畫を書いて布地と繪具で打ち壞はすのは惜いではありませんか
 私はもう畫を切り上げやう/\と思ひながらま〔だ〕書いてゐます今度來たら又見て忠告をして下さい此間色々いつて貰つたので大變利益を得ました。といふと畫がかけるやうで可笑しいですが、近頃は中々かけますよ三日に一つ位傑作を拵えては一人で眺めてゐます、水彩畫展覽會の方も見ました。小杉未醒のスケツチが面白う御座いました。どの畫を見ても下手な自分と比較すると偉大ですどうして日本にこんな奇麗な畫をかく人が澤山あるかと驚きます 色々くだらぬ事を申上ました。 左樣なら
    六月十|二《原》日              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五九七
 
 六月十一日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區臺町二七渡邊方東新へ
 此間音樂會へ參る日は朝から出て上野の展覽會を見て精養軒で飯を食つて歸りました夫で音樂會の方は失敬しました席を取つて待つてゐて呉れた由難有御禮申ます實は當日切符が玄關で買へなからうと思つたのも一つの原因です。明日の美音會は小宮からも席を取つて置いたと通知して呉れました。明日は久し振で夫婦參るかも知れぬ故切符は差上ません。若し私が行かなければ荊妻も行かないといふ故二枚とも餘る譯になるが其時は仕方がない急に入用の人を見付け得なければ切符は癈物になるのです先は御返事迄 匆々
    六月十|二《原》日             夏目金之助
   東 新 樣
 
      一五九八
 
 六月十八日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 小川千甕先生の畫を御送り被下難有候どうも旨いですねだれの畫を見ても感心の外なくカツ存外な思ひも寄らない所をかきます 斯うなるとあらゆるものに感服し敬服し歡喜する事が出來て甚だ愉快です 私はあれから二三枚妙なものを畫きました其うち一二枚必ず賞められなければ承知の出來ないものでいつか序の時又見て下さい
 右御禮旁御報迄 匆々
    六月忘日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五九九
 
 六月十八日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣駿東郡富士岡村神山勝又和三郎へ
 拜復御手紙で御見舞をいたゞき難有う存じます私の病症は先年と同じく潰瘍です血が澤山下りました。生きてゐますがいつ死ぬか分らないと思つてゐます。小林先生には今見て頂いてゐません。御尋ねの森田の家は牛込矢來町|四《原》。鈴木は青山四丁目です。夫から西村のは滿洲大連ですが今一寸覺えて居りません。何でも子供の娯樂場のやうなものを拵へてゐるのだからさういふ名前でやつたら屆くだらうと思ひます。家内家族無事にくらして居ります。先は貴酬迄 匆々頓首
    六月 《原》日               夏目金之助
   勝又和三郎樣
 
      一六〇〇
 
 六月二十五日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 
 啓本屋から注文の書物をかくひまありや最近歐洲文學といふやうなもの。若し意あらは明木曜御面會致したし。來てくれぬか 匆々
 
      一六〇一
 
 六月二十七日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區西紺屋町實業之日本社内渡邊新三郎へ
 拜啓先日は御光來の處失禮致候其みぎり御話の著書の件昨夜野上氏に面會委曲相話し候處七月十四五日以後に取りかゝる事に致し其前に現在の仕事を片づける積と申居候につき右樣御承知相願候尤も是は大體の相談のみにて立ち入りたる條件其他は丸で問題と致し置かざりし故其邊は御含み置の程願候同氏宿所は巣鴨上駒込三三四にて山の手線にて停留所より僅か五六分の便利なる地位に有之候是も序を以て御參考迄に申上候先は右當用のみ 匆々
    六月二十七日               夏目金之助
   渡邊白水樣
 
      一六〇二
 
 七月二日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川方津田龜次郎へ
 拜復先達て御出の節丁度私の畫の批評を願つてゐる頃尊大人が御逝去になつたとの御報には少々驚ろきました何だか私も責任を免がれない氣が起ります。親の死んだ時涙を流す事の出來ないのは人間の不幸の樣にも思ひます。私の父は私が熊本にゐる頃没しました。私は試驗中でとう/\出京もしませんでした。出《原》京もしませんでした。何しろあつく御くやみを申上ます。
 畫は二三日前からやめました。あまりすさむと外の事が出來ないと思つて紙の盡きたのを好機として切り上ました。其後かいた傑作は今度御歸になつたら見て下さい。どうも鼻もちのならない自畫像があります。高橋廣湖といふ人の層覽會を見て日本畫家のいつもながら鮮やかな御手際に感心しました。西洋人が見たら嘸驚ろくだらうと思ひます。健筆會に支那の呉晶碩といふ人の畫があります。是は文人畫のアンデパンダンだから面白いです。しかも西洋と關係なくフヒユーザン會とも獨立してゐるから妙です。あなたの畫に昨日賛をしました。案の錠《原》遣り損ひました。今度御覽に入れます。私は昨日上野の歸りに古道具やで軸を一幅買ひました。代價は七十錢です。私には面白いと思はれる變てこな畫です。是も御覽を願ひます。私は今日古いスチユーヂオを出して十冊ばかり見ました。さうして感心してゐます。畫かきが畫をかく事の出來ないのは郵便屋の足を切られたと同樣さぞつらいでせう。早く御歸りなさい。御兄さんによろしく 早々
    七月二日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六〇三
 
 七月三日 木 後9-10 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓先達は大きな寫眞の御惠送にて久し振に尊顔を拜し候あれを畫にかいて見た所犬は出來候が人物は妙に相成畫家から芝居がゝりだと笑はれ申候此間は清さんを尋ねた處脚氣がまだよくないやうであつたが夫でも座敷で大分長く話し申候色々畫を見せてもらひ候日曜だつたので半次郎君にも珍らしく面會する事が出來申候同君が南京から持つて歸つたといふ畫を見せてもらひ候
 只今東京では健筆會開會中にて是に支那人の書畫も大分出品致居候中に呉晶碩とか申す老人のものことに目立ち候是は正しく文人畫のアンデパンダンにて頗る振つたものに候其他の支那〔畫〕中には隨〔分〕卑俗なものも有之候何うして本場の畫家があゝ墮落するのかと驚ろかれ申候或は素人かも知れず候中林梧竹老人の半切を見事に表装したるものゝ前で大分|盗《?》心相萌し申候がどうせ我々の手には入るまいと斷念致候 故高橋廣湖といふ人の遺作展覽會も只今開會中に候 日本畫家の手際の綺麗な事には感服の外なく候。小生は此春八重櫻の咲く頃より持病にて二ケ月も寐目下漸く人間らしく相成候病中は御惠與の杜詩を讀み苦悶を消し候 杜詩を一通り眼を通したのは今回が始めてに候是も御好意の御蔭と深く喜び居候。杜詩はえらいものに候。 此間ゴッホの畫集を見候珍な事夥しく候。西洋にも今に大雅堂が出る事と存居候。御贈の拓碑只今着披見小生あの方の道に昧き故歴史的に何にも分らず。只字體の面白き所にのみ興を惹き申候。御芳志難有候書苑と申す雜誌御承知にや隨分珍なるものを載せ申候も中には珍らしきのみにて一向難有からぬものも澤山に有之候御慰みに御取寄せありては如何。畫報社より雅邦大觀と申すもの出で候最初の二卷にて雅邦の價値も相分り申候あれは實に巧みなる人と存候あまり巧み過ぎて窮屈に候其でも品格の落ちぬ所が偉ひ點かと思はれ候 東京は東京で色々面白き事も年中行事丈でも澤山に候支那は支那で隨分風流な書畫骨董あさりも出來可申 いづれ其内御歸りに相成候はゞ色々土産話として伺ひ度と存候 先は右迄 匆々
    七月三日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一六〇四
 
 七月四日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 俳味の裏畫には大なる敬意を表します。まつ風といふ字も旨いです。あのシテの衣裳の線が滅茶々々でしかも滅茶々々ならぬ所がうれしく存候。形而下派の方がどうも勝利になりさうです
 
      一六〇五
 
 七月七日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ
 拜啓先日出社の節は久々にて拜顔折柄の混雜にて思ふやうに御話も出來かね殘念に存候却説かねて御たのみの拙筆此書翰と同便小包にて差出し候故御受取被下度候御斷はり候通りの胡麻化字なれど御所望故耻を御覽に入候次第御一笑の上過般申上候樣御取計被下度侯先は右迄 匆々
    七月七日                  夏目金之助
   松山忠|次《〔二〕》郎樣
 是デモ十枚バカリ書いたうち一番小生ノ氣ニ入ツタモノナリ
 
      一六〇六
 
 七月十二日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 拜復宗活の處へ御出掛の御決心結構に存候いゝ坊さんに候御つき可被成候一昨夜禅をやる男突然參りしきりに其功能を述べ候小生の前にて帶をとき腹など見せ候彼は夫程うれしいのに候。何卒御やり被成度候
 ベルグソンは立派な頭脳を有したる人に候あの人の文を讀むと水晶に對したるが如く美くしき感じ起り候夫カラ其態度が超然として逼らず怒らず餘計な事を云はず又必要な事をぬかさず。人格さへ窺はれ候。奥ゆかしき學者に候。ベルグソンはベルグソン 宗活は宗活として御研究あらん事を切望致し候。
 只今御書を拜受せる折柄一寸ひま故くだらぬ御返事を差出し候、座禅には洋服は駄目かと存候、日本服の方安かるべく被存候。宗活さんに御面會の節は其内小生も久しぶりに話しに行くと御傳へ願候 以上
    七月十二日                夏目金之助
   沼波瓊音樣
 
      一六〇七
 
 七月十八日 金 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區高輪御殿山七一八中村蓊へ
 拜復
 からについての御手紙拜見致候實は先達より何人にも波交渉にてしかも小生には大いに必要な事のために頭を使ひ居り夫がため人のためには一切何事をなすの勇氣も餘裕も無之「から」の事も存じながらつい其儘に相成居候。行人の原稿などは人の事にあらず自分の義務としてもまづ第一に何とか片付べきを矢張まだ書き終らざるにてもしか御承知願上度候勿論社會とも家族とも誰とも直接には關係なき事柄故他人から見れば馬鹿もしくは氣狂に候へども小生の生活には是非共必要に候。それに何とか區切をつけぬうちは中々カラ處の騷でなく全く不人情な話ながらカラ抔はどうでもよく(小生には)相成居候。貴兄よりは怪しからぬ次第なれど小生には當然の事と覺召し被下度候
 春陽堂が一體平氣でゐるがわるいと存候大兄は又大兄でさう/\カラでばかり氣を揉むべきにもあらず候小生五六行を新聞にかきたりとて六七百冊の本が一時に賣れる抔とはのんきな大兄でも想像被成間敷と存候何事も時節因縁を御待ち被成べく候。小生は元來不親切な人間に無之候へども目下は人に親切を表してゐられぬ位自分が大切に御座候其意味は大兄には通じ申す間敷候へども大兄をしばらく小生と客觀視して想像せば人の事どころではないといふ場合のある事も多少思ひ當る御記憶も想像も出來可申候。時機あり候節はカラを忘れる小生に無之又君を忘れる小生にあらざる事は君の小生を忘れざると同じ事に候。斯く露骨なる御返事はやめたく候ひしがあまりに御催促はげしき故貴命に應ずるか又は事實を自白するかどつちかにする必要相生じ候故申上候決して意地わるき意味に御取り被下間敷候 以上
    七月十八日                夏目金之助
   中村 蓊樣
 
      一六〇八
 
 七月十九日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓先月は十六日を忘れたれど今月は十六日を忘れず御約束の金子待ち焦れ居候至急御返濟願上候 以上
 
      一六〇九
 
 七月二十日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 牛込區東五軒町一安倍能成へ
 拜復御京さんの御希望承知しました校正料は僅かなものですが夫で何分かの御小遣になるなら是から時々御願ひする事にしませう今は岡田君が待ち受けてゐるからすぐと申す譯には行きませんが彼も校正料丈を當にして生活する筈がないのだから其内何とか一身上のかたをつけるだらうと思ひます行人を内田が校正したいと二三度依續した事があります然し是は小遣といふ意味とは丸で關係のない動機からですから左右いふ方面は斷る事も容易ですが岡田のやうなのは氣の毒だから當人が何とかする迄は此方からは斷はらない積です先は右御返事迄 匆々
    七月二十日                 夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一六一〇
 
 七月二十日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓其後一寸御伺ひ申上度と存居候處例の御産が氣にかゝり御邪魔ではないかと存じ控へ居候奥さんの御模樣はどうですか、もう生れましたか。油繪の繪具を買ふ事が出來ます。いつか一所に行つて買つて下さいませんか。油繪をかいて見やうといふ心持はまだ起らないのですから決して急ぐ必要はないのですからあなたのいつでも氣の向いた時で結構であります。先は右迄 匆々
    七月二十日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六一一
 
 七月二十一日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區下六番町一〇有島生馬へ
 拜復あなたの御名前は津田君よりかねてから伺つて居りますあなたの畫も展覽會で時々拜見して居ります「蝙蝠の如く」は白樺で拜讀しました時事新報の質問に應じたるうちに高著の名を擧げたるにつき御手紙を賜はりかつ「蝙蝠の如く」を御惠投被下ました御好意を深く感謝致します只今やりかけた仕事のためすぐ拜見する事は出來ませんが少し手がすいたらゆつくり拜讀致す積です不取敢右御禮迄申上ます 匆々不一
    七月二十一日                夏目金之助
   有島生馬樣
 
      一六一二
 
 七月二十一日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 きのふは留守に來て菓子を澤山置いて行つて下さいましてまことに難有う存じますあの時は男の子を二人引連れて高田の馬場の諏訪の森へ遊びに行つてゐましたので失禮しました晩に女客があつて今日は土|曜《原》の入だといふ事を聞きあの菓子は暑中見舞なんだらうと想像しましたがさうなんですか夫とも不圖した出來心から拙宅へ來て寐轉んで食ふ積で買つて來たんですかさうすると大いにあてが外れた譯で恐縮の度を一層強くする事になります兎に角菓子は食ひましたよ學校がひまになつたら又ちよい/\遊びに入らつしやい不取敢御禮旁御詫まで奥樣へよろしく今度小供を連れて來て御覽なさいうちの子供と遊ばせて見るから軍鷄を蹴合せるやうな亂暴はしないから大丈夫です 以上
    七月二十一日                金之助
   寅 彦 樣
 
      一六一三
 
 七月二十六日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓先達中より繪の具などの事にて種々御配慮を煩はし恐縮の至に候何か御禮を致さうと思ひ候へども是といふ思ひつきもなく候此間古道具屋であなたの賞めた皿五枚を差上る事に致しましたわざ/\持つて行くのも臆《環》劫故今度御出の節獻上致度と存候あの箱の上書には乾山向付と有之候が乾山がこんな皿を作るものにや又は皿の種類の名にや不明に候
 此間の撫子は大に手を加へ候夫から紫陽花を一枚描き候今日も何かと思ひ候へども何うも描く材料なく御やめに致候
 赤ん坊はまだですか奥さまへよろしく先は獻上品御吹聽迄 匆々頓首
    七月二十五日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六一四
 
 七月三十日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ
 拜復小生の油繪は例によつて物々騷々たる有樣に御座候大兄の小説毎日拜見の榮を辱ふし居候是からどうなるか當人にも見當たたざる由夫にて結構に候どうせ其内どうにかなつて參るべく候只机に向つて書く時何か出れば澤山に候尤旦三四回にては別段賛辭の呈しやうも無之候があまり際だつた書方をやめて平氣に色氣少なに進行する處を結構と拜見致し候尤も面白くない事は面白くないのに候然し此面白くないはほめた方の面白くないにて惡口の方の面白くないでは無之候誤解なきやう念のため蛇足を追加致し置候先は右迄 匆々
    七月三十日                金之助
   三 重 吉 樣
 
      一六一五
 
 八月五日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 あかん坊が生れたさうで御目出たう御座いますしかも男の子ださうで猶更結構です 名前はまだつかないですか 八月の三日に生れたから八|三《ざう》は如何です、安々と生れたから安丸(ヤス〔二字右○〕クウま〔右○〕レル〔右○〕)では不可ませんか、雙兒だと思つたら一人だから一人《カヅト》又はイチニンはどうです。大分長く待つたから長松は變ですか。高田老松町で生れたから高松では可笑しいですか。いづれも雜談半分な意味で馬鹿氣|で《原》ゐますね、名前は實際つけ惡いものです。いづれ其内 以上
    八月五日                  夏目金之助
  津田青楓樣
 
      一六一六
 
 八月七日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 炎暑のみぎり益御清適奉賀候小生もどうかかうか露命をつなぎ居候此夏は門外不出の御勉強の由結構に存候ガルスウオシーといふ人の作物まだ一篇も讀みたる事無之面白く候や小生の畫は御覽の序に申述候通畫と申すものには無之夫でも人に見せ候此間話の種に見て行かうといふ者あり候御笑ひ可被下候是から行人の續稿をかき夫にて此夏を終るぺく候先は暑中御見舞旁御挨拶迄 匆々以上
    八月七日                夏目金之助
   大谷正信樣
 
      一六一七
 
 八月七日 木 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 先達ては失禮致候偖かねて御翻譯の※[ヱに濁點]デキンドの一節讀賣へ御發表の處右を金澤の山本迷半氏一見あのうちに誤謬ザツト見た所で二十箇所あると申し候由夫を小宮が聞き自分で調べたら山本の言の如く瞥見の下に別紙の通り間違ひあるを見出し候由尤も是は一寸見た丈であとは面倒だから已めたと申候茲に御參考迄に別紙供貴覽候、目下誤譯指摘八ケ|釜《原》折柄御注意可然と存じわざと御報知致候 以上
    八月七日                  金之助
   豐一郎樣
 
      一六一八
 
 八月八日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町六四水上齊へ
 拜啓貴著についての御照會承知致候あれは原稿として滿日の方へ無條件にて讓り渡したるようは記憶致し居らず其當時の原稿料なるものは云はゞ掲載料の意味と解釋致し居候たとひ原稿として滿日が買ひたるにせよ出版を營業とせざる新聞社の事なれば御出版につき不同意にて抗議を申込む憂も無之と存候其上小生の記憶慥ならねど其みぎり他日單行本にて出す事もあるやも知れずそれは御含み置願ひたしと小生より滿鉄の紹介者に申入れたるやに存居候左れば社長も相變り其當時とは性質も異なる(今は獨立の經營にて滿銕は只株主の由)滿日に對しことさらに斷る丈の必要も有之間敷かと存候他日事起り候節は小生御引受可致間無御遠慮御出版被成度終に臨んで貴著の公刊を祝し申候 早々以上
    八月八日                  夏目金之助
   水上 齊樣
 
      一六一九
 
 八月九日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 啓昨日小生の知人|天生目《アマナメ》一治なる男來りある資本家ありて九段下に千代田通信と稱するものを開業せりとの事、其通信事業の一つとして月三回の菊版十頁位づゝの演藝時報といふやうな極めて單簡な雜誌を出したいが人はあるまいかと云へり、月給は三ケ月極めで最初は二十五圓位夫から先は雙方の都合で取極めるさうなり、出勤は九時より四時迄其内に編輯の用を濟ませる(外出も含む)。小生一寸心當りなきが御存じの方で芝居などに興味のあるものはなきや。もし又君が小使取にやるとすれば六づかしき出勤抔を節約し都合よき條件が結べるかも知れず候。實は當人曰くあまり原稿料が高くては困るが小宮さんにも時々何か書いて頂きたい。小生は夫で一寸手紙を差上る氣になりたり、君の資格以下の仕事を周旋しては甚だ恐縮なれど誰しも金の要る今日故一寸御内意を伺ふ譯に候あしからず。野上の讀賣(費)に出した※[ヱに濁點]デキンドは獨力で譯した所でワルテルに聞かない所ださうだ。大將大に避《原》易して大いに調べ直すさうである。ワルテルに教はつた所はもう印刷濟で四校迄取つてあるさうだから夫を又一々直されては印刷屋も定めし驚ろく事だらうが我々の爲にはさうして呉れる方がまだよろしい。因にいふ同人向後の質問相手は能成寅彦の兩名のよし。實はあてにならぬ英譯を基礎としてかゝつたのが根本の誤だと當人も後悔してゐる。夫から君の好意もどうか謝して呉れといふ事である 右は序迄 匆々
    八月八日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一六二〇
 
 八月十日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 暑さの御變りもなく結構です私もどうかかうか暮してゐます高著大疑の前一部御惠與にあづかり慥かに落掌致しました御好意の段深く鳴謝致します兩忘庵には毎日御出掛ですかあついから往復が御難義でせう先は不取敢御禮迄いづれ其内拜眉萬々 頓首
    八月八日                  夏目金之助
   沼波武夫樣
 
      一六二一
 
 八月十日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 御手紙拜見御申越のむねは天生目へ通じ候君の番地を先方へ知らせて會見の時日と場所を聞き合せるやうにと付け加へ置き候或は大兄の御覺召の如く運ぶやも知れず候
 あの小説は矢張ふぢ子にてよろしからんと存候餘計な姓などは拵えぬ方當人のためならんかと考候休憩所の名前不都合ならば取換る事差支なかるべきかと存候
    八月九日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一六二二
 
 八月十三日 水 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓中々あつい事でありますあなたの二階は是でも畫がかけますか安丸君の御祝につまらぬものながら差上ます御受納下さい。夫からあの畫は二枚共私が買ひませう此間傳ベエに手紙をかくと申しましたがふと考へて何だか自分が持つてゐたくなりました。一枚十五圓宛にして下さい。こゝに十五圓入れてあります是は一枚分です、あとは來月にして下さい。私は畫を賞めるが所有にして見たいといふ氣はあまりありません夫で君の畫も可成人に賣つて上げやうと思つたのです然しあの畫を味ひ得るものは天下で自分が一番だといふ氣がしますから自分の寶として宅へ留めて置きたくなりました 先は右迄 匆々
    八月十三日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六二三
 
 八月二十日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寛へ〔はがき〕
 拜啓寅彦さんが御父さんの病氣で歸られたといふ事を神戸から端書で知らして來ましたが其後御病人の御容體は如何なのですか一寸伺ひます。夫から高知の御宅の町名番地は何と申しますか一寸教へて頂きたいと思ひます
 
      一六二四
 
 八月二十二日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區湯島天神町一丁目四四誠靜館勝又和三郎へ
 拜復御出京の由にてサイダア一打御惠投難有存候物茂卿千字文御鑑定の必要にて適當の人御尋ねの件も拜承然る處小生の知人中には此邊の消息に通ずるものなく遺憾に存候大學に黒木欣堂といふ人あり是は斯ういふ事をのみ專|問《原》のやうに致す學者に候住居は千駄木邊と存候若し文科大學へ御問合せ相分らず候へば神田佐久間町一ノ一西東書房(書苑發行所)へ御聞合せになれば相分り候紹介状差上たく候へども此人とは一面識なき故手紙にて先方の都合御問合せの上右千字文御持參可然かと存候御通行の節御立寄被下候はゞ何時にても御目にかゝり可申候大抵は在宿に御座候右御返事迄 匆々不一
    八月二十二日                夏目金之助
   勝又和三郎樣
 
      一六二五
 
 八月二十四日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜復
 貧乏徳利の議論は一應御尤の樣ですが貧富からくる生活の區別が私とあなたとでは夫程懸絶して居りません從つて是はまだ外に深い理由があるのだらうと思ひます。此間の繪について御歸りのあと猶よく考へた處を一寸申上ます。あの畫のバツクは色といひ調子といひ隨分手數のかゝつた粉飾的氣分に富んだものです、少なくとも決して簡易卒直のものではありません然る處其前景になつてゐるものが如何にも無雜作な貧乏徳利と無雜作な二三輪の花です。そこに一種の矛盾があつて看る人の頭に不釣合の感を起させるのでせう。尤も西洋人が見たら貧乏徳利だか何だか分らない位吾々の持つてゐる聯想は起らないかも知れないが然しあの徳利のかき方が如何にも簡單で一と息きであるから精根を籠めたバツクとは其一點で妙にすぐはなくなるのです。私はどうしてもさうだと斷言したいのです。
 夫からあのバツクに就て一言申上ますが。あれは單獨に云つて好きですが、趣味からいふと飾り氣の氣分にみちたものでまあ豐|※[月+叟]《原》な感じのあるものですし、夫からそれをかく爲めには大分な勞力を要する性質のものです。だからあまり叮嚀にかき過ぎても又澤山かき過ぎても厭味が出て參ります。一つ是をかいて見せつけてやらうといふ氣が出てくるのです。
 あなたの大きな畫ではあのバツクがあまり澤山描き過ぎてある、小さな畫では(徳利に比して)叮嚀にかき過ぎてある。それが雙方とも私の意に滿たない原因の大なる一つかと考へます。御參考迄にわざ/\申上ます。あなたから見たらわざ/\聞く必要もないかも知れないがあなたのやうに氣取る事の嫌な人があのバツクに就て不意識の間に氣取つてゐるやうな結果になるから妄言に對する御批判を煩はしたくなつたのです。御考は今度御目にかゝつた節承はります さよなら
    八月二十四日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
     一六二六
 
 八月二十四日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區永田町鍋島侯爵邸内中島清へ
 拜啓御高著出版の件につき知人安倍能成沼波武夫兩氏を煩はし聞き合せ候處安倍君は一軒の本屋は斷はられそれから東亞堂に持ち込候處へ沼波君も同じ書肆に交渉を開きたる結果として同堂より沼波氏宛にて封入の端書到來致候故御目にかけ候右端書に記載の通り同堂主人に御會見萬事御取極相成度候先は右迄 匆々
    八月二十四日                夏目金之助
   中島 清樣
 
      一六二七
 
 八月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 山口縣山口町金古曾九〇野村傳四へ
 暑いのに御變もなくて結構です、私も變りはない病後の身體もどうかかうか一先づ落付いたらもう少しは生きられさうです。高商の方が出來御家族引まとめ御呼び寄せの由甚だ好都合です。其上暮しも安く家もひろく申分はない。子供も生れる女ではある是亦文句はない目出度事ばかり、小生方の子供製造は鑛脈も掘り盡したと見えて其後とんと堀りあてず。
 橋口は先達中脚氣でなやんでゐたが其後まだ見舞に行かぬため容體も分らず多分全快したらうと思ふ皆川が鹿兒島から歸省の途中一寸寄つてくれた。僕も小供が段々大きくなる(筆は十五だよ)家は狹苦しい金があれば地面をかつて生涯の住居でも建てる所だがさうも行かず小供の勉強室もなくて氣の毒な思をしてゐます。新聞はなまけてゐます。追つけ行人のつゞき書いてしまつて夫から新しいものでも書く事になるでせう。一昨日は暴風雨昨日今日は快晴急に秋の氣特になりました。栗も柿もそろ/\出るだらう松茸も膳に上るだらう。今庭で蝉が鳴いてゐる。風が晴れた空を渡つて頗る好い天氣です
 先は右迄 横地君へよろしく 匆々
    八月二十九日               夏目金之助
   野村傳四樣
 
      一六二八
 
 九月一日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 啓始めて確信し得た全實在は頂戴した其日に讀みました私は何より先にあなたの意氣とあなたの心持とに感服致しました近頃は小説も評論もいくらでも出ます然しあゝいふ方面の事はだれも考へてゐません、所があゝいふ方面の事は窮所迄行くと是非共必要になつて來ます 人の事ではないみんな自分の頭の上の事です 私はあゝいふ意味の事で切實な必要を感じつゝいまだ未|程《〔?〕》の地に迷つてゐます どうかしなくてはならないがどうもなりません 平生斯うだと思ひ詰めた事もいざとなるとがらりと轉覆します、全く定力が足りないからだと思ひます 先は右迄 匆々
    九月一日               夏目金之助
   沼 波 樣
 
      一六二九
 
 九月一日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區下六番町一〇有島生馬へ
 啓
 七月末に頂戴した本の御禮に差支があつて只今は拜見が出來ないと申添へた事を記憶して居ります私はそれを八月の三十日三十一日の兩日に讀み得たといふ事を改めて申上げたいのでありますさうして通讀の際尠からざる興味をもち又其興味が讀了の後今ゆたかにつゞきつゝある事を申上たいのであります私は御惠與の好意に對してさう云ふ事を衷心から云ひ得るのを甚だ滿足に且愉快に思ふのであります蝙蝠の如くは御好意に對してばかりでなく私の愛讀書の一つとして永く書架に藏して置きます、失禮を申上げるやうですがあの装傾丈は不服であります。もう少し内容と釣り合つた面白いものにしたらばといふ氣がしてなりません。此手紙は先に申上た約束を履行して高著を讀み了つたといふ御報知ではありません寧ろ通讀の際に感得した多大の興味に對する謝辭であります 頓首
    九月一日                  夏目金之助
   有島生馬樣
 
      一六三〇
 
 九月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 津田さん其後畫はかけましたか私は今月あなたに差上る十五圓を持つて參らうと思ひますがまだ上られませんもし御序もありましたら遊かた/”\取に來て下さい、あなたに見て貰つた四枚の畫は其後又手を入れました、よくなつた積ですから來た時又見て下さい そろ/\又專|問《原》の方でいそがしくなりさうです
 今日の朝日新聞の文藝と云ふ六號活字に夏目|※[さんずい+嫩の旁]《原》石氏津田青楓氏について池畫を研究中だ、同氏は青い色が大變すきで如何なる惡縁か畫を描かずにはゐられないさうだとありました、此惡縁をつくつたものはあなたでせうか私でせうか、此間社のものが來たから油畫を見せてやりました それでこんな事をかいたものでせう 俗人だから下手なのに得意で見せるとでも早合點したのでせう 以上
    九月二日                 夏目金之助
   津田青楓君
 
      一六三一
 
 九月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區湯島天神町一丁目四四誠靜館勝又和三郎へ
 拜復物茂卿の書七條氏の鑑定にては駄目の由なるが何故駄目だか其譯は不相分七條が駄目といつても何でも御落膽には及ばず本物だとして大事に御保存可然候小生の書御希望故其内書いて差上可申候へどもいまだ御在京の時日も有之事故さうせかないで少々待つてゐて下さい私の方にも少々用事があつて今日は書でも書いて責任を果さうといふ氣でも起る餘裕がないと書けませんから 以上
    九月二日                  夏目金之助
   勝又和三郎樣
 
      一六三二
 
 九月十五日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜復御歸京の由拜承此度の事に就ては其後種々なる御心勞其外にて定めし御哀傷の上に一層の御疲れと存候小生はいつ頃御歸りにやと思ひ先頃岡倉覺三氏葬儀の折歸途一寸門口迄伺はうと存候處車夫が違つた道を通りたる爲めつい其儘に相成候御老人の御病氣は小生には突然御逝去も無論意外に有之御老體とは申しながらつい此間強壯な處を拜見した許故ことさらに驚ろき申候
 畫は一寸中絶に候其後の傑作もいかものばかりに候行人を書き上げてから又描かうかと存候
 展覽會音樂會天高馬肥是からはいゝ事だらけに候其うち行樂の御供仕度と存候先は右迄 匆々
    九月十五日                  金之助
   寅 彦 樣
 小生は無法ものにて父の死んだ時勝手に何處へでも出あるき申候最も可笑しかりしは其節友人の父も死にたれば茶の鑵か何か携へて弔みに參り其友人に變な顔をされた事に候
 
      一六三三
 
 九月十七日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町八二大正館林原(當時岡田)耕三へ
 御轉居の趣承知さて小生の行人も本屋で着手してもよいと報知してやらねばならぬ時機となり候處君は檢定の爲大分多忙のやうに見え候が御都合は如何にや、もし御差支あらば内田が是非やらしてくれと云ふてゐるからあちらへまはさうと思ひます。然し内田は月々の小使に困るのでないから君の都合さへつけば君に讓る積だらうと思ふ 右用事迄 匆々
    九月十七日                   金之助
   耕 三 樣
 
      一六三四
 
 九月二十六日 金 後3-4 牛込區早相稻南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓高著畫趣と詩味御惠投正に拜受唯今半分程讀了大兄の知つてゐる事は大抵小生の知らぬ事とて讀過の際利益不尠候右不取敢御禮まで其内拜顔萬々可申述候 匆々敬具
    九月二十六日                  金之助
   臨 風 雅 契
         座下
 
      一六三五
 
 九月二十六日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜啓 本月末表装屋へ三十圓程拂はねばならぬ故あの金の殘額十圓を返して下さい小爲替デモヨシ端書がないから卷紙ニ書きかけたところ金の事を書いてしまつたらも〔う〕何も書く事がなくなつたから是にて失敬
 三重苦は又々引越の由六圓五十錢のうちを二軒とか借りたる由
    九月二十六日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一六三六
 
 九月二十六日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 昨日は失禮致しました今日上野の表慶舘へ參りました處宗達の畫が大分出てゐました何だか雄大で光琳に比べると簡樸の趣があります、其内に墨竹が一幅ありますあなたの好きさうなものです是非御覽を願ひたいと思ひます。夫から抱一の螢狩といふ俗な畫があります抱一ほどの人がどうしてこんな馬鹿なものを描いたかと思ふ位です、宗達の扇散らしの屏風は御物ですが夫程難有はありません、伊年の二枚折の色合は甚だよろしい書き方も面白い是も御參考になります、其他惠心僧都の佛畫があります、素敵なものです 鎌倉時代の佛畫も崇高なものです、是非行つて御覽なさい
 先は右迄 匆々
    九月二十六日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六三七
 
 九月二十九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜復伊年の屏風についての御説は賛成してもよろしう御座います、ちつともあれを辯護する必要はありません たゞ色が古びてゐていゝといふのです、鷄頭の赤い方の花はよろしいと思ひます。もつと思ひ切つて大きく描いたらと思ひました。紫陽花はいけません。全然私もいやです。然し二三間の距離からたゞ色合を眺めて御覽なさい。矢張り好いですよ。
 雅邦のあの畫は全然無價値であります。き用過ぎて小刀細工があつて畫面の大きな割に大きな感がどこにもあ〔り〕ません、卑しい品ですな 明治を代表する格調があの位のものだと思ふと情ない事です。あれより和亭の孔雀の方が遙かに上品です(内面の意味は別として)謝時臣とかいふ人の幅の雨の景はよろしいと思ひましたが、あんなものを外の日本畫と比較する氣も起りませんでした。宗達の竹や鷺や夫から龍、龍を見ると旨いんだか不味いんだか是迄要領を得た事がなかつたがあの龍は旨くて高尚ですね、あなたはどう思ひますか、僕は扇ぢらしの屏風を一雙もらふよりあの龍をもらつた方がいゝ
 一つ宗達流な畫を描いて見る氣はありませんか でなければあの氣分を油繪へ應用して見る氣はありませんか
    九月二十九日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六三八
 
 十月二日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓追々秋の天氣と相成候年々ながら心よく感せられ申候却説先般森圓月君歸省のみぎり津田青楓君の畫について御話したる處大兄買つてもよろしと被申候趣承り候があの畫は二枚とも小生が買ふ事に致し候たつての御懇望ならば御讓り申しても差支なしとは存じ候ひしも御覽になつた譯でもなき故夫にも及ばざる儀と存居つい其儘に致置候然るに右津田氏は純粹敦厚の畫家にて世間に賣る事を求めぬ故從つて家計も餘裕なく氣の毒なる有樣に候大兄若し小生の證言にて滿足被致候ならば小生自身適當と思ふ畫を同氏の作品中にて選擇可致につき一枚買つて御遣り被下間敷や價格大小出來不出來にて差等も有之べく候へどもまづ五十圓以下と見れば差支無之候至急の御返事にも及ばず候へどももし御思召も有之ば御一報願上置候 明月和尚の書御探し被下候由御好意奉謝候何分よろしく願上候早くて不出來のものを入手致すよりもゆつくり好きものを取るが望みには候へども惡しきは惡きで存しよきは好きで其上に藏し置くも一興に候如何樣にても構はず御心掛願上候先は右迄 匆々頓首
    十月二日                  金之助
  霽 月 老 臺
        坐右
 
      一六三九
 
 十月三日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜啓先達て御依頼の松本修氏の書別封小包にて差出し候間乍御面倒大兄より御送願上候
 あのうちの一枚(絹)に書いたものよりあとから手前方にありし紙にかいた方幾分か見よく候故取りかへ申候今一枚のぬめは認め候へども薄墨のため見苦しくに染み申候故反古に致候要するに絹二枚の代りに紙一枚となりたる譯に候へば右の趣先方へあしからず御通知願上候 先は用事迄 匆々
    十月|四《原》日               金之助
   東 洋 城 樣
 
      一六四〇
 
 十月五日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王二六〇〇和辻哲郎へ
 拜復
 あなたの著作が屆いてから返事を上げやうかと思つてゐましたがあまり遲くなりますから手紙丈の御返事を書きます。
 私はあなたの手紙を見て驚ろきました。天下に自分の事に多少の興味を有つてゐる人はあつてもあなたの自白するやうな殆んど異性間の戀愛に近い熱度や感じを以て自分を注意してゐるものがあの時の高等學校にゐやうとは今日迄夢にも思ひませんでした。夫をきくと何だか申譯のない氣がしますが實際其當時私はあなたの存在を丸で知らなかつたのです。和辻哲郎といふ名前は帝國文學で覺えましたが覺へた時ですら其人は自分に好意を有つてゐてくれる人とは思ひませんでした。
 私は進んで人になついたり又人をなつけたりする性の人間ではないやうです。若い時はそんな擧動も敢てしたかも知れませんが今は殆んどありません、好な人があつてもこちらから求めて出るやうな事は全くありません、内田といふ男が來て先生は枯淡だと云ひました。然し今の私だつて冷淡な人間ではありません。あなたに冷淡に見えたのはあなたが私の方に積極的に進んで來なかつたからであります。
 私が高等學校にゐた時分は世間全體が癪に障つてたまりませんでした。その爲にからだを滅茶苦茶に破壞して仕舞ひました。だれからも好かれて賞ひたく思ひませんでした。私は高等學校で教へてゐる間たゞの一時間も學生から敬愛を受けて然るべき教師の態度を有つてゐたといふ自覺はありませんでした。從つてあなたのやうな人が校内にゐやうとは何うしても思へなかつたのです。けれどもあなたのいふ樣に冷淡な人間では決してなかつたのです。冷淡な人間なら、あゝ肝癪は起しません。
 私は今道に人らうと心掛けてゐます。たとひ漠然たる言葉にせよ道に人らうと心掛けるものは冷淡ではありません、冷淡で道に入れるものはありません。
 私はあなたを惡んではゐませんでした、然しあなたを好いてもゐませんでした。然しあなたが私を好いてゐると自白されると同時に私もあなたを好くやうになりました。是は頭の論理で同時にハートの論理であります。御世辭ではありません事實です。だから其事實丈で滿足して下さい。
 私の處へセンチメンタルな手紙をよこすものが時々あります。私は寧ろそれを叱るやうにします。それで其人が自分を離れゝば已を得ないと考へます、が、もし離れない以上私のいふ事は雙方の爲に未來で役に立つと信じてゐます。あなたの手紙に對してもすぐ返事を出さうかと思ひましたが、すこしほとぼりをさます方がよからうと思つて今迄延ばして置きました。 以上
    十月五日                  夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      一六八四l
 
 十月五日 日 牛込區早稻田南町七より 宇治山田市神宮皇學館湯淺廉孫へ〔封筒なし〕
 拜啓其後は存外の御無沙汰如何御暮し被成候や御變もなき事と存候小生無異御放念被下度候いつぞや大阪の病院にて御見舞を受けたる時突然小生の畫を御所望ありて其不意打に驚ろき候以後何とかして描いて上げやうと心掛け居候處繪らしきものは無論出來ず乍不本意其儘に打過候然る《原》過日橋口五葉宅にて北京より取寄せたる鵞《原》セン紙數葉もらひ受け候ため急にそれへ竹がかいて見たくなり三枚ほど墨にて黒く致候、其一葉は津田青楓といふ畫家に、一葉は伊豫の村上霽月といふ舊友に殘る一葉を大兄に差上る事に致候小包にて差し出し候間御落手願候素人の筆故妙なものにて竹とも芦とも分らず候へどもまづ是でも記念にして貫へないと今後いつ的束を履行するや自分にも分りかね候故一先づ送り置候他日もつと上手になつたら旨いものと交換可致候先は右用事迄 匆々頓首
    十月五日                 夏目金之助
   湯淺廉孫樣
 
      一六四二
 
 十月六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 日本橋區檜物町九東雲堂内三木操へ
 啓上
 高著白き手の獵人一部御寄贈被下難有拜受仕候表装瀟洒脊に張りたる紙の色など甚だうつくしく候閑を待ちゆる/\拜讀致し度と存居候右不取敢御禮まで 敬具
    十月六日               夏目金之助
   三木露風樣
 
      一六四三
 
 十月九日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓此間橋口五葉から北京の紙といふのを六七枚貰ひそれへ氣紛れに墨竹を三枚ほど描き申候そのうちの一枚を遙かに大兄に獻上致候間御笑納被下度候三枚のうち一枚は津田青楓へ一枚は伊勢の神宮皇學館教授湯淺廉孫へ殘る一枚を君に差上候まあ三幅對を分けたやうなものに候。君に上げる理由は君があの小さい繪に興味をもつてゐたからでもあるが何といふ事なしに君なら愛玩してくれるだらうといふ氣がするからである。竹は小包にて此手紙より後れて着きます 以上
    十月九日                夏目金之助
   村上霽月樣
 
      一六四四
 
 十月十日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 拜啓昨夜御歸りのあと別紙端書小生宛にて參り候すぐ岡田の所へ送らうと思つた所同人の宿所を書いた端書どうしても見つからず甚だ失禮君は知つてゐるだらうから彼に送り屆けて呉れ玉へ 以上
    十月十日                 夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一六四五
 
 十月十五日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 愈文展が開會になりましたあなたは落選のやうですが其當否は行つて見ないうちは何とも云へませんが兎に角不折などがあの孔子老子に見ゆなどゝいふあの活動の看板に似たものを並べるのにあのナチユールモルトが落第するのはよろしくありませんな。其他にもまだ落第者が澤山あるやうですがどうかして其人々の作品を當選者と對照して見せたい。どうですか山下とか湯淺とかいふ連中と相談して※[ヰに濁點]ーナス倶樂部でも借りて落選展覽會と號して天下に呼號したら。
 雨が降つて鬱陶しいですな。昨日御宅のそば迄行きましたが晝に近かつたから寄りませんでした。あれから又竹の畫を絹に描いて人にやりました 以上
    十月十五日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六四六
 
 十月十六日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 三重吉のやる事は虚榮心ばかりではなく、其作物に對する信念の缺乏から出てゐるのでせう。だから切拔をもつてゐるものが二十人もあれば自分の聲名の保證になるから嬉しいのでせう。氣の毒でもあるが致し方がない。僕が何かいふのは殘酷である。それから大將僕なんかのいふ事を聞く耳をつけてゐない。天然が彼を療治するのを待つより致し方はない。
 
      一六四七
 
 十月二十五日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王二六〇〇和辻哲郎へ
 拜啓高著ニイチエ研究到着正に拜受致しました中々大部な書物ですからすぐ讀む譯にも行きません其うちゆる/\拜見します 早速御返事をあげる處でしたが色々雜用に取り紛れて遲くなりました、是から人の結婚式に行きます長い手紙を書いてゐられません 是で失禮します。 以上
    十月二十五日                夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      一六四八
 
 十月三十一日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 拜啓高著芭蕉の臨終御惠與辱なく候卷頭一頁を開けると此書を夏目漱石先生に獻ずとあつたので大いに驚ろきました。全く意外でしたから。夫ですぐ讀まなければならんと思つて早速讀みました。「芭蕉の臨終」中にある門下生の言葉づかひのうちに少々芝居じみた所がある外一體に面白う御座いました。惟然坊の劇は是亦珍品 あゝいふ趣を芝居にしたものは昔から頓とありません。是から先もまあないでせう。あれをやつて藝術座の連中を招待して見せたら何んなものでせう。不取敢右御禮迄 匆々頓首
    十《原》一月一日              夏目金之助
   沼波瓊音樣
 
      一六四九
 
 十月三十一日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復御惠送の梨到着慥かに頂きました
 私はあなたに書をたのまれた事をつい忘れて仕舞ました甚だ申譯のない事です。夫からあなたの置いて行かれた紙を何かの序に見て急に思ひ出しました。然るに思ひ出した時はもうあなたの名前を忘れてゐました。實際不都合千萬な事ではありますが事實ですから白状致します。御依頼のものが遲れたのは怠慢もありますが右の譯なのです。今度手紙を頂いたので漸く思ひ出しました。夫故忘れずに今度は書きますからどうぞ御《原》惡からず御勘辨下さい。あの時の紙は使つて仕舞ましたから別なのに書きます。然し二三日うちといふ譯には行かないかも知れません、惡筆を無理に欲しがる人が出來て大分たまつてゐますから。其積で少々待つてゐて下さい。
 右御禮旁御詫迄 草々頓首
    十《原》一月一日夜              夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一六五〇
 
 十一月十二日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市根岸町三五八八久内清孝へ
 拜啓其後は御無沙汰致候植物繪端書五枚難有頂戴致候
 あゝいふものを集めてゐるのは面白いでせう私は盆栽が好きだが買へば必ず枯らして仕舞ますから買ひません。近頃は身體の調子がいゝので運動をします郊外は實に好い景色ですね芝居や音樂會へも行きます 以上
    十一月十二日               夏目金之助
   久内清孝樣
 
      一六五一
 
 十一月十二日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 原稿につき色々御配慮難有候。御送のうち色鉛筆で區切つた處分らざりし故悉皆通讀致し黒インキで直し候。猶氣のつきたる處左に申し上置候
 (1)一三六頁(六)の四行に煽風器とあり、同一二一(二)の二行には扇風器とあり、どつちがよきや知らず候へど、一つに御纒め願ひ候
 (2)一三九頁に(跪坐《ひざまづ》く)とあり 是は名詞にくの字をつけたやうにて變なるが構はぬにや。然し夫でよければ小生差支なし
 (3)一四三の九行に「促《うな》がした」とあり、前には「促《うなが》した」とわざ/\直しあり、小生はどつちにても差支なし、是も統一ありたし。
 すつかり讀むうちに赤い字の這入らぬ所で小生の眼につく所少々あり。是は大兄はまだ見ない校正刷かとも存候
 先日の音樂會は晩に白樺のがあつたゝめ行かずに仕舞ひ候御手紙にて行かないでいゝ事をしたと存候 匆々
    十一月十二日                夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一六五二
 
 十一月十二日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷町一一一狩野亨吉へ〔はがき〕
 御約束の書物小包にて御送被下難有存候不取敢御禮迄如此候 以上
    十一月十二日
 
      一六五三
 
 十一月十二日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮迄へ〔はがき〕
 先刻差上げた注意のうち洩れたものを二つ申添ます。
 (1)彼女を(じよ)とした所と(をんな)とした所とありました。
 (2)だけ を※[丈の肩に點]と赤く直してありましたが あれは※[丈の肩に點]ではなく丈だらうと思ひます
    十一月十二日夜
 
      一六五四
 
 十一月十二日 水 牛込區早稻田南町七より 松崎市郎へ〔うつし〕
 拜啓、私は今日の新聞に出てゐる御不幸の廣告と雜報欄に氣がつかないで晩まで居りました。夕飯のとき妻から注意されて始めて御令閨が亡くなられた事を承知致しました。ことに御兩兒とも同じ御病症で目下御入院中と聞き甚だ御同情の念に堰へません。御弔詞を申上るため參上致さうかと思ひますが御繁多の折柄小生の如き平疎あまり御宅へ出入せぬものが參つてはかへつて御面倒な事と存じわざと差控へ失禮ながら手紙で御くやみ申述べます。病院に御出の子供さんを慰めるため妻が何か差上たいと申しますが、子供さんの年が分らないのと、それから病症が病症なので一切のたぺものを御送り致す譯にも參らないので思案してゐます。此際哲郎さんや達郎さんの年を伺ふのは甚だ失禮に存じますが、今でなくとも御落付になつた時に一寸教へて下さいませんか。 敬具
    十一月十二日夜               夏目金之助
   松崎天民樣
 わざ/\年齢を伺つて迄差上げる程の大したものを上げるのではありません。たゞ子供さんが可愛相だからつい御面倒をかけるやうな事を申出るので御座います。
 
      一六五五
 
 十一月十八日 火 後8−9 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜啓二十二日の舞踊研究會は直營茶屋に御出夏目の席と御尋ね被下候へば相分り候につき左樣御承知願上候猶同會切符此手紙の中に封入御送致候間御受取可被下候 以上
    十一月十七日夜                 金之助
   豐次郎樣
 
      一六五六
 
 十一月二十一日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Brandt,Kaiser Friedrich Strasse,Berlin Charlottenburg 高原操へ
 拜復其後は小生も大の御無沙汰御寛容被下度候先々御無事にて諸方御遊結構に存候小生不相變どうにか餘命を貪ぼり居り候間御休神被下度候
 偖御申越の小生著作翻譯の件先榮の至には存じ候へども愚存一通り河田君並びにエ夫人へ申述候、御指名の虞美人草なるものは第一に日本の現代の代表的作|者《原》に無之第二に小六づかしくて到底外國語には譯せ不申、第三に該著作は小生の尤も興味なきもの第四に出來榮よろしからざるものに有之。是等の諸件にて右翻譯の義は平に御免を蒙り度と存候小生も單に藝術上の考よりはとくに絶版に致し度と存居候位に候へども時々檢印をとりにくると幾分か金が這入る故又どうせ一度さらした耻を今更引込めても役に立たぬ事と思ひ其儘に致し置候樣の始末、現に去る劇壇の人あれを芝居にしたらと人づてに(申し込む程判然たる形式をとらねど)小生に傳へ候節も夫丈は勘辨してもらひたしと辭退致し候事實も有之、此上獨乙迄耻をさらすのは外聞わるく候故願くはやめに致したく候。小生作物は讀んでくれる人には誰にでも感謝の念を以て讀んで頂き度候も實は外國に讀者を得やうなどゝは思ひも寄らぬ事にてそんな事は最初より念頭になき故譯しても面白かるまじくと存候、先年ある人現代の日本の小説を英譯するとて小生の分を相談せし時も同樣の返事を致し候が其時は夢十夜〔三字傍点〕といふものゝ一部分を譯してもらふ事に致し候。是は小生のもののみならず凡てゞ二十人位のものゝ寄せ集めものに候。獨乙から片山フオンオルレンベルグとかいふ男(日本人か獨乙人か分らず)小生の坊ちやんを譯したしと申し來りたる時は條件つきでなくては厭だと斷わり申候。
 是非小生の作物獨譯御希望なれば「それから」とか「門」とか「彼岸過迄」とか又は近く(多分今年中)出版になる「行人」とかなら御相談致してもよろしく候。御地にて出版する以上は書肆の冒險と相なるべく損失の時は小生固より責任なきも利益を見る場合には著者として相當の報酬を申受けべく候。小生は是が正當と存候。然るにさうすると事が面倒にて中々運び不申エ夫人も遺樂半分の事業の上本人が日本語が讀める譯でもなし夫程小生の作が好といふ譯にもあるまじければそんな面倒を片付けてから着手するのは隨分迷惑なるべし、小生の方も同樣にて理窟は理窟としてさういふ事を一々人を煩はして運んで行くのは少々辟易致し候、夫故此事業はまあ河田君から事情をエ夫人に話して止めた方がよからうと思ひます。 以上
    十一月二十一日夜             夏目金之助
   高原 操樣
 
      一六五七
 
 十一月二十三日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 今日は久振に御出のよしの處不在失敬此頃は毎日出あるく事多く今日も新大橋から鐵砲洲築地などを通り櫻由本郷町から虎の門迄あるき夫から電車で歸つた處です。此間は津田君と井の頭の辨天へ行きました
 昨夜は舞踊研究會でエリセフや後藤や柏木に會ひました。※[足+勇]は中々面白かつた。
 舞臺協會の切符ありがたう 然るに僕は協會からの勸誘で二十九日の分を二枚買つたから日が違ふ上急に行きたい人も思ひ出せず夫よりか君が知る人で遣つて然るべき人の方へ廻すのがよからうと思ふからあの切符は封入一應御返却する、君もし行くなら僕と同じ晩にしないか。
 近代劇協會の加藤とかいふ男が來て脚本をかいてくれと云つた。帝劇を二十日ばかり打つ積だといふ。さうして是は秘密だといふから僕は受合もせず拒絶もしないがまだ誰にも話さずに黙つてゐる。彼等は今大阪にゐる。何でも「朝日」の勢力を利用したいらしい。大阪から又依頼状をよこして形式上は朝日から近代劇協會に依頼して同紙上にのつた僕の作を遣つてもらふ樣にしたいと云つてきた。隨分蟲のよい事を平氣で失禮とも何とも思はずに書けるものだと思ふ。一|代《原》加藤といふのは何者かね。甚だきたない服装をして頭髪の具合抔も變な男であつた。「近代」の編輯をやるのだとか答へてゐた。序だからこんな餘計な事をかきました。
 小泉鐡といふ人がゴーガンのノア、ノアといふ譯をくれた面白いものだ君も讀んで見玉へ。アー※[ヰに濁點]ングの傳記などあんな長いものをかく必要があるかね、下らないと思ふ。ヘンリアー※[ヰに濁點]ングは夫程の人物かね 以上
    二十三日夜                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一六五八
 
 十一月二十五日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連市山縣通相生由太郎へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過候過日御地俣野君より拙書御求めの由申越し候につき承知の旨廻答致し置候處突然三越より貴命により※[糸+光]六枚(尺五三尺三三枚)持參致候につきそれへ分らぬものをのたくらせ御覽に入れ申候絹の地合と墨の都合にて見苦しく※[者/火]染み出候も何分素人の事故可然御勘辨可被下候猶餘る四枚は勝手なものを書き散らし申候へども惡書惡畫ともに一葉づゝにて澤山と存じそれ丈御送申上候につき御落手願上候
 乍筆末大連滯留中は一方ならぬ御世話にあづかり千萬無辱あつく御禮申上候先は右迄 匆々
    十一月二十五日               夏目金之助
   相生由太郎樣
        貴下
 
      一六五九
 
 十一月二十五日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜啓あなたから依頼された書を其儘しておいて濟みません紙もなくなして申譯がありません二三日前晩翠軒から支那の紙を買つて來て夫へ書いたのを差上ますから御勘辨を願ひますあなたの手紙を拜見すると中々うまい字をかゝれます私の書など差上るのは可笑しいと思ひますが御望故御送り致します何でも紙か絹か忘れましたがあなたの置いて行かれたのは何枚もあつたやうに記憶しますが上げるのはたつた一枚です夫で御許しを願ひます 以上
    十一月二十五日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一六六〇
 
 十一月二十五日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區麹町二丁目二洛陽堂氣付小泉鐡へ
 啓
 ノアノアと申す御高著を御送り被下まして難有う存じます早速拜見しました大變面白う御座います。あんな人は今のヨーロツパにゐるのでせうがまだ一度もあつた事がありません全く想像から出た小説のやうな氣がします。私はあなたの御住所を存じません故此手紙を洛陽堂宛で出します。御禮の遲くなつたのは讀んだ上でと考へたからです 以上
    十一月二十五日               夏目金之助
   小泉 鐵樣
 
      一六六一
 
 十一月二十五日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 君の手紙は全然勘ちがひです。手紙の中に「です」とか「ません」とかいふ敬語を使ふのはあまりぞんざいに書きたくないからです。候文は習慣上さう思はないか知れないが實は大變鄭寧なものです。候文には抗議をしないで「です」や「しません」に對して他人取扱と思ふのは誤つてゐます。日常の言語で手紙をかくのはどうもあまりひどい感じを他に起させやしないかといふ氣が起つてから私は何人に對してもあゝいふ語尾を多く使ふやうになりました。私は自分の小供には日常の言語ですら改つて斯うなさい、あゝなさいとさへ云ひます。談話より一段改つた手紙にあの語尾は禮として相應のものだらうと思ふ。
 僕は偶像でないから君等が批評は何とも思はないそんな事を心配して一日も暮せるものぢやない。ヂスイリユ|ヨ《原》ジヨンとか人と人との隔りとかいふ哲學は別問題であり又人間に普遍的な問題だから何も手紙に就てのみ云々する必要はあるまいと思つて其方は云ひません。さういふ事を手紙の書きぶりから出立して云々するのは馬鹿々々しいのです。僕にも色々わるい所があるが、君は時々今いつたやうな馬鹿々々しい所を露出する男のやうに思はれます。
 右迄 匆々
    十一月二十五日               金之助
   豐 隆 樣
 
      一六六二
 
 十一月二十五日 火 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 此間御上京の節御來訪の砌は失禮致しました御歸りの後の御手紙は難有拜見しました早速御送りの※[糸+光]へ今日まづい字をのたくらせましたから御覽に入れます墨は餘程念を入れて磨つた積ですが丸で薄く出ました夫から少しにじみました同じ墨で紙へも書きましたが此方は墨色がよく出ましたから多分絹の所爲ぢやないかと思ひます、壁に貼つて眺めてゐると段々いやになりますからすぐ小包で出します、今にもつと上手になると書き代へます
 私のそばに花道の未生流といふのがありますが是はたしかあなたの御流義ではありませんか珍らしいと思ひますから一寸御報知致します 以上
    十一月二十五日               夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一六六三
 
 十一月二十八日 金 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 拜復此方よりも打絶御無音無申譯存居候處久々にて芳墨拜誦先以て御變りもなく結構に候野生健康御配慮ありがたく候幸ひ執筆中も執筆後も同じ状態にて何等の別状なく候間乍憚御安意被下度候近頃は毎日運動に二三時間を費やし出來る丈からだに氣をつけ居候行人につき色々の仰難有候此間は松山の一牧師書を寄せて君は行人中の兄さんの樣な男なるべしよろしく聖書を讀み玉へとわざ/\其篇の名を指名しくれ候小生實は聖書をよまず夫から同牧師の注告に從ふ氣にもならず夫故返事も出さず其儘に致し置申候御高著は如仰手元へは參り居らず候行人は製本出來の上是非一本差上度候つら/\思へば人間は耻のかきつゞけの樣なもの故下らぬ書物でも本屋が出すと云へば大抵は我慢して應じ申候舊著など縮刷して出すといふ申込も單に藝術上よりは至つて蹄易なれど多少小遣になると思へば耻のかきついでだから構はぬといふ了見も起り申候(虞美人草と草枕合本縮刷年末出版の筈)それのみか書をかけといへばかき畫をかけといへば應ずるなど近頃は自分ながら物騷千萬な事を臆面なく致し居候高著につき云々の御述懷を承り轉た汗顔の至覺えず右の始末を自白致し候芦屋へ御移轉御健康故の如く御元氣なるやに過般承り候精々のん氣に御消光可然小生も出來る丈無神經になる工夫のみ心掛居候先は御挨拶迄 匆々頓首
    十一月二十八日               夏目金之助
   鳥居素川兄
       座下
 
      一六六四
 
 十一月三十日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜復 岡田の月謝は僕が保證人だからいづれ學校から何とか云つて來たら其時出す氣でゐた此間當人に聞いたら多分年末だらうとの話故夫迄打棄置く氣なりし處へ御書面參り候 僕の方はどつちでもよろし、たゞ借《原》すといふより出してやるといつた方當人も穩當なるべきか 夫はいづれにせよさう悲觀してゐるなら君から右の旨を通じて下さい、又來年四月迄無収入なら夫迄月々二十圓〆八十圓やつてもよろし 其代り普通の人間の如く學校へ出て普通の人の如く及第する義務があります 右迄 匆々
    十一月三十日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一六六五
 
 十一月三十日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復あなたの覺えてゐる畫はまだありますがあれは上げられません。下手なひどい畫ですから。長塚がはゝゝと笑つた意味はまづいものをよく臆面もなく懸けて置くといふ意味からです。私はたゞあの趣丈が好なのです。それで記念のためまだ仕舞つてあります。畫が御望みならひまな時に何かかいて上げますが私のは畫といふよりも寧ろ子供のいたづら見たやうなものです。その小供の無慾さと天眞が出れば甚だうれしいのですがたゞ小ぎたない所丈が小供で厭味は大人らしいから困ります。書でも畫でもかきなれないと一通りのものは出來ず。又書きなれると黒人くさくなつて厭なものです。從つてどうして好いか解りません。正岡の書の批評をした事はもう忘れてゐました。あなたの手紙を見ても思ひ出せません。人に書をやると正岡の事どころではありません自分の品位のあやしいので恐縮する丈です此間人に自分の書を見せたら顔眞卿の肉筆の波璃板と比べて見て丸で比較にならん程顔眞卿は尊く見えるといひました先は右迄 匆々頓首
    十一月三十日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一六六六
 
 十二月一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓先夜は失禮致候小生途中にて電車を待ち合せたる爲め十二時過に相成申候
 却説乍唐突御願の義有之候夫は多分御親類ならんと被存候が渡邊勝三郎君に就ての事に候同君は宏徳會と號し毎年大學の學生の貧困なるものに學資を給與せられ居候此度私方へ參る岡田耕三なるもの右會の補助を受け度旨申出候處來年四月ならでは決定不致旨にて當人は大困却の有樣實は先達迄家元の都合夫程不如意に無之ため學業繼續の所昨今は意外の悲境如何とも致し方なく退學するか宏徳會に救つて貰ふかの二つしかない苦しい難關に陷り居候そこで大兄に願ひたいのは(一)候補者中より右岡田を給與生と撰定する樣勝三郎君に御口添を願ふ事と(二)來年四月よりの規定をどうか來年正月に繰り上げて明年始めより月々のものを遣つてくれる樣同君に御依頼を願ふ事と此二つの件に有之御繁多中實以て恐縮ながら右岡田申すにはさういふ方面から頼んで頂かなくては到底成立しさうにないと申候故右岡田に代つて小生より願ふ次第に御座候岡田なるものは佛文科のものにて宅へは始終出入致候好き人間にて頭脳もことの外明瞭に候途中にて廢學致させ候事如何にも氣の毒故斯樣の事迄貴配を煩はし申候萬一四月よりの給費を一月に繰上げる事かなひ不申候へば一月より四月迄の間は小生がどうかしてやるより外に途はなくなり申候小生も左程富裕にも無之候へども萬一の場合はその位の事は本人のために致しても宜敷その代りどうぞ四月からの候補者中より岡田丈を被給學生として今から定めて頂きたいと存侯さうなれば當人は無論小生も安心致候小生自身勝三郎君に御面會致してもよろしけれどまだ一面識もなき故御遠慮致しとくに舊好ある大兄に御面倒をかける譯に候右あしからず御諒察願上候 匆々頓首
    十二月一日               夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一六六七
 
 十二月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區東五軒町一安倍能成へ
 拜啓昨夜清嘯會で君にあひたいと思つてゐた處御出なく失望、用事は大阪朝日から新年もの讀切小説五六段のものを十二月二十五日頃迄に君に書いてもらひたいと云ふのです都合をして書いてやつて來《原》れませんか 高等學校の講演は可成やめに願ひたいが是非といふなら今から一週間來週の金曜位に何かやる事に致しては如何演題は固より未定それ迄に苦痛ながら何か考へる積です此間申した通り畫を描いたり書を書いたり芝居を見たり運動をしたりしてゐると筋道の立つた思索の方面には頭が働かず働かせるのは頗る不快故都合つけば別の人に願ひたいと思ふのです もう一返折返しそこを聞いて呉れませんか 以上
    十二月二日                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一六六八
 
 十二月三日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町二〇内田榮造へ〔はがき〕
 拜復 (一)氣不精(キブツセイ)(二)拾(ヒロフ)(三)見付ける(此所はミツケル)(四)伸して(ノシテ)(五)無意味(無氣味デハアルマジ)東京デハ無氣味ト云ハズ(六)話しかけらる〔右○〕のが(七)そんな。小生は其んなと書かず。尤も前に假名ばかりつゞいて讀みにくい時は別なり(八)直、御直、間に合ハネバ一定シナクテヨシ。一定出來レバドツチデモヨシ(九)片方(カタハウ)(十)彼女 ドツチニ讀ンデモヨシ(11)何分 コヽハナニブン(12)善過ぎる?好過ぎる?(13)横ヅケデヨロシ
 
      一六六九
 
 十二月七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 拜復
 (一)此所デハ妾《アタシ》と私《わたくし》と使ひ分けるのです。間違でハアリません
 (二)句讀是にてよろし 御膳は「おぜん」と振がなの事
 (三)ちいさい です
 (四)たたう丈です
 (五)行燈は忘れたり まあもとの儘にして置いて下さい
 (六)こみぢん です
 (七)ぶつたぎる です
 (八)姐さんと直して下さい
 昨日音樂會へ參りました歸りに玄關で奥さんにあひました。向ふでも氣がつかないやうだし僕も面倒だから挨拶をやめにしました 大いに失敬
 右迄 匆々
    十二月七日                 夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一六七〇
 
 十二月七日 日 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓昨日は音樂會へ參り留守に御出被下失禮致候樗牛會講演の義折角なれど少々困却致候來る金曜に高等學校でやる事に相成是もまあ無理に依頼されたやうなもの無據處引受申候さうすると又二十日にやるのは隨分苦痛故是は他の名家に讓り度と存候どうぞあしからず 右迄 匆々
    十二月七日                夏目金之助
   芥 舟 樣
 
      一六七一
 
 十二月八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 段々押しつまり候御變りなくや小生は運動をしたり芝居へ行つたり遊んでゐる今日上野美術協會で平泉書屋古書畫展覽會といふのを一覽悉く支那人のものにて文展などより遙かに面白く是非買ひたいのが二三十幅もあつたらうと思ふが金がないから聞いても見ず大兄是非行つて御覽なされたくわざ〔/\〕勸誘のために此手紙を書き申候贋物も澤山 くれても斷りたいものも夥しけれどよきものは書畫共に垂涎の至りなり是非御出可被成候 以上
    十二月八日                 金之助
   寅 彦 樣
 
      一六七二
 
 十二月八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓先日は失禮高芙蓉の畫を見てから僕も一枚かきましたが駄目です
 今日上野の美術協會にある平泉書屋古書畫展覽會といふのを見に行きました夥しい點數です大變面白い私は文展よりもどの位面白かつたか分らないあなたも是非入らつしやい必ず參考になります、中には畫は面白くても贋物らしいのが隨分あります中には本當かも知れないがちつとも難有ないのも澤山ありますもらつても掃溜へ棄てたいのさへ交つてゐます然し好きなものになると堪らないのです。買はうとすれば買へるのだがとても寄りつけまいと思つて聞いても見ませんでした、私は生涯に一枚でいゝから人が見て難有い心持のする繪を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で難有い氣持のする奴をかいて死にたいと思ひます文展に出る日本畫のやうなものはかけてもかきたくはありません、平泉書屋展覽會を御報知する筈の處飛んだ事を申しました先は御報迄 匆々頓首
    十二月八日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 書もいゝのが大分あります、
 あなたの壁飾りには何處か宗達流の調子があります私は時々あれを眺めて愉快を感じます
 
      一六七三
 
 十二月八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 先達ては難有う私は別に岡田さんに禮状を出さないから君から宜しく願ひます景清の畫は閑《原》單で調つてゐて傑作です私にはあんなものは到底かけない高芙蓉の畫を見てから僕も一枚かいたがどうもうまく行かない生涯に一枚でいゝから有がたい感じのする繪が描きたい山水動物花鳥何でも構はないありがたいので人が頭を下げるやうな崇高の氣分を持つたものをかいて死にたい。今日上野美術協會へ行つて平泉書屋古書畫展覧會といふものを見たが文展よりは遙かに面白かつた是非行つて見たまへ非常な點數のうちには厭なものも大分まじつてゐる贋物もある樣子だが好いものは實に好い買ひたいが金がない僕に岩崎の富があれば書畫併せて二三十幅は是非買つて置く所です 先は行覽御|觀《原》誘迄 匆々
    十二月八日                  金之助
   臼 川 樣
 
      一六七四
 
 十二月十一日 木 後9-7 牛込區早稻田南町七より 橋濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓先日は岡田生件につき御面倒なる事御願申上候處早速御承引被下千萬難有候渡邊勝三郎君にも再度御會ひ被下候よし御手紙にて承知御禮申上候いづれ何とか御挨拶ある趣敬承致候御返事相待ち申すやう本人に申聞べく候
 鮭二尾歳末の御寄贈いつもながらの御好意拜謝致候此方よりは何も上げるものもなく候來春拙著行人出來の節は一本を左右に獻じ度く存居候先は右迄 匆々
    十二月十一日              夏目金之助
   渡 邊 樣
 
      一六七五
 
 十二月十一日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜啓インフルエンザの爲め又肺尖の徴ありとかにて御悲觀御尤もなれどインフルが退去すれば片方も撃退される樣子ならば夫にて結構かと存候別に御心配なく御養生願上候御嚴父御死去の爲めの神經ならば幾度も死にかゝつて生き還つた小生の事を考へて樂觀ありたきものに候小生畫をかくのと遊ぶのと運動するのとでいそがしく候畫も明日はやめやう/\と思ひながら其明日がくると急に描きたくなり候まあ酒呑がバーの前を通るやうなものと存候其癖うまいものはかけず飛んだ醉興に候年内には御歸省の由其前いづれ拜顔の機を得萬々可申述候 以上
    十二月十一日               金之助
   寅 彦 樣
 
      一六七六
 
 十二月十四日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ
 拜復小生の早稻田文學に載せたる談話今般御發行のズーデルマンの翻譯に御入用との仰敬承致候へども右はふるきものにて小生の記|臆《原》にはしかととまり居らず從つて其儘の御轉載は少々困却致し候が小生談話の當時早稻田文學に載せられたるものとしてあなたの序なり緒言なりに御引用なるのは一向差支ない義と心得ます右御返事迄 匆々頓首
    十二月十四日              夏目金之助
   小池堅治樣
 
      一六七七
 
 十二月十八日 木 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町六四水上齊へ〔うつし〕
 拜啓 滿鐡より手形參り候につき御送致候御受取願候。さうして受取つた旨を一寸御知らせ(私迄)願上候 草々
    十二月十八日               夏目金之助
   水 上 齊 樣
 
      一六七八
 
 十二月二十三日 火 牛込區早稻田南町七より 秋田市築地本町濱武元次へ〔うつし〕
 御惠投のもの拜受致候毎々御心にかけられ御好意ありがたく御禮申上候御地寒氣殊に烈しからんと想像致居候スキー抔至極の遊戯と被存候東京も中々の寒さにて既に珍しく降雪さへ有之候然しからだは先々無事消光罷在候間乍憚御休神可被下候右不取敢御禮迄 匆々頓首
    十二月二十三日              夏目金之助
   濱武元次樣
 
      一六七九
 
 十二月二十六日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ「はがき〕
 拜復如何とも君のいゝと思ふ樣御取計願候
    十二月二十六日夜
 
      一六八〇
 
 十二月二十八日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 長らく御無沙汰をしました御健康で結構です私も無事です御安心下さい
 智慧と運命ありがたく拜受しました御禮を申します年の暮のせいか私のやうな閑人も何だかせわしない氣がします 文士が假装會などをやります、どういふ興味に驅られるのでせう私は町の中を歩いてる方が餘程面白いと思ひます
 右迄 匆々
    十二月二十八日              夏目金之助
   大谷繞右樣
 
      一六八一
 
 十二月二十九日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 「心と心」についで「生長」がありました、最初にある「それから」の當時の御批評は私にはいゝ記念であります、御禮を申します
    十二月二十九日
 
      一六八二
 
 十二月三十一日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 岡田の事本年より學資をうける事になり候御配慮難有存候
 
      一六八三
 
 十二月三十一日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 麻布區三河臺町二七志賀直哉へ
 御手紙を拜見しましたから御返事を差上げますがそれを御覽になる時は御正月ですから御目出度も一所に申上て置きます 武者小路君を通して御依頼した事につき御承諾の意を御洩し被下まして難有存じます夫に就てわざ/\會見の日取を御問合せになりましたが私の方は今いつが空いてゐるといふ程多忙の身體でもありませんからあなたの方で極めて一寸御通知を願ひたいと思ひます若し私の方で都合が惡ければ其時申上ますから 御宅と私の家とは大變かけ隔つてゐて御氣の毒です 電車は江戸川終點が《原》若松町行の柳町といふ停留所で御降りになるのです、是も序に申上ます 以上
    十二月三十一日夜              夏目金之助
   志賀直哉樣
 
 
 大正三年
 
      一六八四
 
 一月五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區農人橋二丁目池崎忠孝へ
 拜啓 あなたの書いてくれた私に關する評論は御手紙の屆いた大晦日の晩に讀みました。夫迄はいそがしくて見られませんでした。あなたの論文は長いものです、又骨の折れたものです。あなたは外の人よりも私に讀んでもらひたいといふ以上あの論文を書いた動機のうちには私の爲に書くといふ好意が含まれてゐます。私は自分の爲にあなたが是程と《原》勞力と時間を使つて下さつた事を感謝します。
 近頃アセニーアムに私の事を書いたものがあります。私は自分のやうなものをわざ/\英國へ紹介してくれたブライアンといふ人の好意に對して謝さなければならんと考へてゐます。然し彼のいふ所は如何にも空虚です一冊も私の本を讀んでゐずに好加減な人から好い加減な事を聞いて夫を英文にしたものですから私は夫以上に難有いとも何とも思ひません、然しあなたは私の書物を現に讀んでゐるのです、さうしてそれをあなたの頭でまとめたのですから 其點で私は御禮をいはなければなりません(生田長江氏のかいた※[さんずい+嫩の旁]《原》石論もブライアンの毛の生へたものに過ぎません)
 あなたは私を大變ほめてくれました、あなたは御世辭を使つた積ではないでせう。あなたの眼に私があゝ映ずるなら私はえらい人かも知れません。然〔し〕あなたの纒め方は(私の褒貶を離れて見て)まだ足りません。書き方の割合には中の方が薄い心持がします。夫から書き方に大きく見えて其實確かりしてゐない所があります。私は褒められ足りない不滿足を感ずるのではありません、あなたの纒め方や、あなたの書き振にまだ足りない所があると思ひます。然しあなたは全然眞面目で書いてゐるのですから私が今かう云つても恐らく通じないかも知れません。私は私のいふ事が今にあなたに通じる時機がくる事を希望しかつ信ずるのであります。文學に專|問《原》の大家やなどの論文を見ても外部は如何にも立派さうに見えながら其實少しも立派でないのが澤山あります。あなたは此方面を專問する人でないから いつやめるか分らないと思ひますが もし長く文壇に關係しやうと思ふなら 私のいふことを參考にして下さい。さうして是等の大家の行く方向とは反對の方へ歩いて下さい。これが私のあなたに云ひ得る最上のものです。御禮をいふ傍ら失禮も云ひます。年長者の言葉と思つて許して下さい 以上
    一月五日                 夏目金之助
   赤木桁平樣
 
      一六八五
 
 一月六日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 啓 心の花新年號わざ/\の御寄贈難有う。君の大西君に對する追回談を早速讀んだ。僕は大西君を知らないから君の評價が當つてゐるか居ないか丸で分らない。然し君の頭にある大西君は明瞭に虚飾なく秩序正しく出てゐる。あれは談話だけれども君が訂正したからあゝきちりと出來上つてゐるのだらうと思ふ。あのスタイルは甚だ好いと思ふ。あれで澤山だから君は美學に關する論文でも最近欧洲文藝史でも其一部分でも公けにしたら何うだらう。大學でばかり講義をするよりも廣く天下の人に見せる方が僕は賛成だ。どうせ君は學者なのだからいくら著作を輕蔑したつて學者を輕蔑したつて今更始まらない以上學者としての活動をしたらいゝではないか
 大西君の好きなジニアルといふ字を見た時一寸驚ろいた。ジニアルといふ字の意味は知つてゐる積であるがそれをジニアスの形容詞に使つたのは殆んど僕の記憶にない。それで僕は念のために字引を引いて見た。すると成程大西君の用ひる意味の例が出て來た。然し rare とかいてあつた。で僕も落ち付いて。大西君が滅多に用ひられない意味で此形容詞を使はなければならない程ジニアス(天才の人)を認めなかつたかと思ふといかに彼が人を別にした作物や論議丈に重を置いたかゞ分つて面白い。巣鴨のイヂオツトをサブライムだと云つて感心する所などは甚だ面白い。僕は大西君の萬事が此例に出てゐる樣な調子であつたら〔う〕と思ふ。然し僕は彼を知らないのだから多く云ふ權利を有たない 以上
    一月六日                  金之助
   保 治 樣
 
      一六八六
 
 一月七日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐵へ
 昨日あなたへ行人を一部送りました。ノア々々の御禮として記念の爲に上げたのだから受取つて下さい。所がわからないから洛陽堂宛にしました。今日あなたから手紙が來たので始めて御住所を知りました。惜しい事をしました。
 實は昨日あなた〔の〕白樺に出た小説を讀みました。半分以後は呼息がつまるやうな心持がします。まことに悲しいものです。さうして美くしいものです。私は個々の人が個々の人に與へられた運命なり生活なりを其儘にかいたものが作品と思ひます。何となればそれに接した時自分に與へられないものを見出して啓發を受けるからであります。あなたの書いたものも私にとつてその一つであります。
 氣に障るかも知れませんが一口遠慮のない事を云ひます。女主人公の所へくる女友達の手紙の文句にはみんな何かこびりついてゐます。もつとすつきりしたものが欲しいと思ひます。感情をいつわつたものではありませんが、感情に訴へ過ぎるのでせう。女主人公自身の殘した日記のうちにも其痕迹があります。あなたの心を傷けるためにいふのではないから勘辨して下さい。
 あなたにもあの小説に似た悲しい事實の記憶が新らしいやうに人から聞きました。さういふ氣分の所へ行人などを送るのは邪魔になる丈でせう。然し讀まんでもいゝのです。たゞ受取つて置いて下さい。
 私はからだは今の所惡くもありません。あなたは熱が出たさうだがよく御用心をなさい。此間大塚にあつたらあなたの事を話してゐました。 以上
    一月七日                 夏目金之助
   小泉 鐵樣
 
      一六八七
 
 一月七日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 近頃は不勉強にて外國のものを讀まず、佛語と獨乙語の稽古のために雜誌などを見るけれどもそれすら思ふやうに行かんので自分も恐縮してゐます。そこで君の手紙にある、ミス ヂユリアもゼ ストロンガーも知りません、彼のブルーブツクも解りません。然し是は聞いて置きたいから一寸教へて下さい。メンデリズムの方は殆んど無知識だが是は一寸伺ふに時間がかゝるから聞かんでもよろしい。
 僕の講演にあるイミテーシヨンとインデペンデンスはいゝ對語でないかも知れません。然しあなたのいふ類型個型には仰の通り餘程縁の近いものです。私はあれから演繹して類型個型の二文字を點出しそれからクラシシズム ナチユラリズム ロマンチシズムの關係に及ぼさうと思つてゐたのではありませんが頭のなかにはさういふものが今でも往來してゐます。いつかエラボレートして見たいと考へます。
 僕の講演を私立學校を休んでまで聞いて呉れた君にまだ一言の謝辭も述べないのは甚だ濟まないこゝに改めて感謝の意を致し、又あの講演が私立學|教《原》の教授を已めてまで聞く價値のなかつた事を御詫び致して置きます。 匆々
    一月七日                 金之助
   芥 舟 樣
 
      一六八八
 
 一月十一日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 カブキハ行ツテモイヽガアンマリ氣ハ進マナイ、サウ芝居バカリ見ルノハ鼻ニツク。モシ行ケバ僕一人デス、妻ハ行カナイトイフ。此間ノ奇々怪々タルモノヲ二度見ルト思フトアマリイヽ氣もしない。 以上
 
      一六八九
 
 一月十三日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓ストリンドベルヒのものは一冊も讀まず英譯は近頃澤山出るけれども名前を忘れてしまふ故つい伺ひました。御返事に對して御禮を申ます。メンデリズムに就ての御教示も御面倒でしたらう難有う。あれは餘程前に聞きましたね、たしか君から聞いたんぢやないかと思ふ。然し其時から面白いといふ丈で感動しなかつたのみかくだ/\しくて覺える氣にならなかつたのでつい忘れてしまつたのだと思ひます。然しあいつは君簡單すぎて容易に人間の精神抔には應用出來ないでせう。そこ迄メンデリズムが進歩すれば大變なものではありませんか。實驗心理で發見した事は精神界の極めてカタツパシで夫でぐん/\全體が押せるものでないと同じぢやありませんか。從つて僕はメンデリズム抔と文藝などゝは今の所到底結び付けて考へられるものでないと考へてゐますがね。メンデリズムで説明の出來る文藝上のフエノメノンが有つたら是非氣が付いた時知らして呉れ玉へ。其時は大變利益をうけるだらうと考へます。僕は自分で文藝に携はるので文藝心理を純科學的には見られない。又見ても餘所々々しくてとてもそんなものに耳を傾ける氣がしない。僕のはいつでも自分の心理現象の解剖であります。僕にはそれが一番力強い説明です。若しそこに不完全なものがあればそれは心理現象そのものゝ複雜から來るので方法のわるい點からくるとは考へられません。もしメンデリズ|ス《原》が非常に進歩して御前の文藝上の作物はAとBとCと……とからの遺傳がかうなつて出て來てゐると科學者から説明されても僕は僕の頭で自分を解剖して(不完全な解剖でも)いやさうぢやないと斷言するかも知れません。どうでせう。然し文藝で新らしいといつても空論だメンデリズムの遺傳法で來るのだといふ君の主意と意味が僕には徹しないので議論が矛盾になつてゐるかも知れません。新らしいといふのは俗語ですが其俗語のうちに自ら科學的に翻譯し得る意味が籠つてゐます。それを明かに道破し得た時にメンデリズムが文藝に口を出す權利が始めて出てくるのではありませんか。至つて不秩序で失禮。
 臨風と御光來を願ひます。此次の土曜は駄目です。若し時を極めてくるなら飯でも差上げてゆる/\御話をしたい如何でせう。 以上
    一月十三日                  金之助
   芥 舟 樣
 
      一六九〇
 
 一月十三日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓
 此間行人を一部送りましたが屆きましたらう。三十部も四十部も署名してゐるうちに送つたか送らないか解らなくなつてしまひます。石井柏亭にわざ/\斷りを云つてやつたら先方から本は慥かに屆いた何かの考違だらうなどゝ云つて來ました隨分耄碌してゐます。
 それは偖置舊冬御配慮を願つた宏徳會の件其後同會より岡田耕三を本年一月から會員にしてやるといふ手紙が來ました是で本人も安心して勉強が出來ます御骨折に就ては私から感謝致します渡邊君に御會の節はどうぞよろしく願ひます早速御禮を申上げるべき筈の處ごた/\で後れて濟みません。實は此事も或は年賀状の表に附記して御禮を述べたかも知れませんが賀状を出す時は書物をやる時よりも滅茶々々ですから或は失念したかも知れません。今改めて御禮を申上げたいと思ひます 匆々
    一月十三日                夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一六九一
 
 一月十四日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 御手紙拜見しました「素人と黒人」を御ほめ下さつて難有う御座います、幅物を持つて御還りださうですが拜見したいものです 霽月にやつた墨竹は其時は可なりの出來と思つたが今もう一遍見ないと何とも云へません、本人がいゝと思つて表装するなら格別それでなければそれには及びません、あなたに頼まれた達磨はあれぎりですが外に色々かきました私の上げてもいゝと思ふものゝうちで思召に叶ふものがあるなら達磨の代りに上げてもよろしう御座います右迄 匆々
    一月十四日                夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一六九二
 
 一月十四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 御無沙汰をしました此間は海老と笹飴をありがたう何も上げるものもありませんから行人を一部呈上致します御受取を願ひます。杉本さんは歸つて來ましたね私は音樂合で一遍電車の中で一遍會ひました然し患者としてはまだ交渉がありません。まあ仕合せなんでせう。柏戸は本場所を休んでゐますね。強くなつたやうですね 以上
    一月十四日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一六九三
 
 一月十四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保六六戸川明三へ
 拜啓其後は久しく御目にかゝりません御健勝の事と存じます私も變りはありません。
 今度私の行人が出版になりましたに就いて一本を差上たいと思ひ小包で差出しました御受取を願ひます。行人の出てゐるうちは時々御ほめの言葉を頂戴しましたのを記憶してゐます。それで感謝の記念に御送り致します 右迄 匆々
    一月十四日                 夏目金之助
   秋 骨 樣
 
      一六九四
 
 一月十八日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 新潟縣糸魚川山崎良平へ
 拜啓良寛詩集一部御送被下正に落手仕候御厚意深く奉謝候上人の詩はまことに高きものにて古來の詩人中其匹少なきものと被存候へども平仄などは丸で頓着なきやにも被存候が如何にや然し斯道にくらき小生故しかと致した事は解らず候へば日本人として小生は只今其字句〔の〕妙を諷誦して滿足可致候上人の書は御地にても珍らしかるべく時々市場に出でも小生等には如何とも致しがたかるべきかとも存候へども若し相當の大さの軸物でも有之自分に適〔當〕な代價なら買ひ求め度と存候間御心掛願度候右御禮旁御願迄 匆々頓首
    一月十七日                夏目金之助
   山崎良平樣
 
      一六九五
 
 一月二十l日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 拜復二十四日御兩君の御出を待ちます、粗飯を差上度其つもりで御出下さい、但しとくべつに何もなし西洋人に呼ばれたと同じ事です
 
      一六九六
 
 一月二十一日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐡へ〔はがき〕
 拙著を再度御讀み下さつた由それにつき色々の御感想ありがたく伺ひました、水原ふぢ子といふ人の原稿は決して急いで入用ではありません、ゆつくり御とめ置き下さい
 
      一六九七
 
 一月二十四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜復今日は宅で畔柳と笹川とを呼んで夕飯を食ふ約束があるので謠には出られません 折角の招待まことに殘念です 坂元が隅田川をやるなら脇の語で威嚇してやりたいが已を得ない 妻は晩に森田のところの※[足+勇]の浚に行かなければならないから是亦行かれません
 此間もらつた粕漬は大變うまかつた又くれたまへ 匆々
    一月二十四日                金之助
   豐一郎樣
 
      一六九八
 
 一月二十四日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓御惠贈の魚鑵入にて本日到着ありがたく御禮申上候まだ見た許で何の魚とも判然せず大方ふなだらうと存候 近頃は雪で嘸御寒い事と思びますが東京は幸好天氣がつゞいてゐます然〔し〕寒氣は隨分です 時節柄御身體を大切になさい 御禮迄 頓首
    一月二十四日                夏目金之助
   大 谷 樣
 
      一六九九
 
 一月二十四日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市上龍尾町九三野間眞綱へ
 拜復今度の爆發では實際びつくりした新聞が大袈裟なのか事實がひどいのか何しろ驚ろかされたが電報が不通といふので安否を問ひ合せる譯にも行かず困つてゐたのです。夫でも返電がきて無事とあるので安心した夫から手紙も來た 隨分不安の事だつたらうと思ふがそんな事に出會ふのも生涯の經驗としては再度とないといふ意味で面白い氣が大分ある出來れば其時に鹿兒島にゐてあとから其時の樣子を書いて見たいと思ふ マードツクさんも無事だらうと思ふもしあつたら宜敷いつてくれ玉へ皆川君も無事でよかつた 僕は十二日はたしか芝居に行つてゐたと記憶する其時君等が逃げ出してゐやうとは氣がつかなかつた 先は御喜びまで 匆々
    一月二十四日                金之助
   眞 綱 樣
 
      一七〇〇
 
 一月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 あたまがわるくてまた學校を休んでゐるさうぢやないか、夜寐られなけ〔れ〕ば眠藥を買ふ金位どうでもするから學校へは成るべく出る事にしたいと思ふ。
 偖縮刷の三四郎、それから、門合本の校正をやる人が必要だが君出來るか。安倍の方でも都合よければしたいといふ。或は半分づゝにしてもよいと考へてる、然し君に金の必要が非常にあるなら全部君に讓つてもいゝ 如何
    一月三十日                  金之助
   耕 三 樣
 
      一七〇一
 
 一月三十日 金 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 啓 藏山と藏澤の箱出來早速御屆け下さいましてありがたう御座います、まだ外に兩三個願ひたいのですが寸法もありますから今度御出の時に又御面倒を願ひたいと思ひます 紙は受取りました其内何か書きませう 霽月は清水老人から明月の書をもらつてくれました私は代りに野田笛浦の書を送りました明月はうまいものですそれを表装をしかへなければなりません今度御目にかけたいと思ひます 以上
    一月三十日                 夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七〇二
 
 一月三十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福岡市外東公園久保猪之吉へ
 拜啓
 鼻科學の下卷を御送り下さいまして難有頂戴致しました 頼江さんは昨年暮から御病氣で入院なさつたさうですが一向存じませんでした御病症も解りませんが不日退院といふ御書面故大した事もないのだらうと存じて居ります時節柄精々御加養なさる樣願ひます先は御禮旁御見舞迄 匆々頓首
    一月三十一日                 夏目金之助
   久 保 樣
 
      一七〇三
 
 一月三十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 小包にて印章到着 是は先日小さいぬめに拙字を認めた御禮と思ふ無石先生の御好意を感謝する旨よろしく貴兄より同君に御傳へ被下度候
 斯ういふものを贈つても本人から禮の來ないのは物足らぬもの故どうぞ忘れないやうに無石君へ御傳を願ひます 風が吹いて寒くて困る 以上
    一月三十一日                金之助
   東 洋 城 樣
 
      一七〇四
 
 二月二日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 君の事情も困難かも知れないが君の經濟は猶困難だらうと思ふ校正が足しになるならやつてくれ玉へ、いづれ春陽堂から何か云つて行くだらう
 
      一七〇五
 
 二月七日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓十一日の市村座へは妻の《原》僕の兄をつれ行く君と合せてうづらを一つ取つたら如何 匆々
    二月七日
 
      一七〇六
 
 二月八日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 熊本市内坪井町一二七奧太一郎へ
 拜復今度愈御辭任の上長崎の方へ參られる事になりたる由拜承致候大兄の熊本行は實は小生の推薦の由それは御手紙にて漸く思ひ出したる位十六年の昔故それも道理かと存候然し大兄は小生の配慮を恩義の如く感ぜられわざ/\の御手紙小生は甚だ恐縮致候小生在熊中こそ種々御世話に相成御蔭にて左したる公務上の不都合もなく無事に引上げ候段深く感謝致居候大兄も十六年後の今日漸く別方面へ活動の餘地をつくるための御轉任なれば小生はたゞ心中より喜び申候長崎着の上は女子教育の方にて充分の御成効乍蔭切望致候先は右御挨拶迄 匆々頓首
    二月八日                  夏目金之助
   奥 太一郎樣
 
      一七〇七
 
 二月九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先日御送の玉版箋を二つに切り其一つへ御依頼の書をかき申候處出來具合あまりよろしからず更に自分で畫箋紙を買ひそれへ改めて認め候もの却つてよろしきやう被存候間それを呈上する事に致候尤も二枚とも取り置き候故御覽の上御取捨願候もう一つ畫家への御注文も出來候へども是はことによると他の方へ遣るかも知れぬ故其積に願候小生の御依頼申上置候畫の表装出來候へば其節は恐縮ながら御屆願度其折前述の惡書を差上る事に致し度と申《原》候先は御報知迄 匆々頓首
    二月九日                  夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七〇八
 
 二月十日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓開いた處が只今小包で届きました難有御禮を申上ますあの中には私の讀まない人の文章が可成あるやうですあなたは能く懇《原》氣にあれ丈の仕事をなさいます感心の至です
 此間の鮒の甘露※[者/火]は奥さんのとくに私に下さる積での御手製の由に後から承はりまして猶更恐縮致しましたどうぞ奧さまへよろしく御傳下さいまし
 不取敢本の御禮の序に鮒の御禮を繰り返します 匆々
    二月十日                 夏目金之助
   大谷繞石樣
       座下
 兩三日前雪が降りました珍らし〔い〕位で御蔭で道は散々になりました
 
      一七〇九
 
 二月十四日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町一二木村恒へ
 拜啓小説を拜見しました あれも決して傑作ではありません、即ち公表するに足る程なものではありませんでした。尤もよくない所は白い髭の生えてゐる御爺さんの出てくる處です全體から見て餘計なばかりでなく離して見てもうその色彩に過ぎません。
 始めの出合の處、宅で馬に秣をやるあたり、店の喧嘩、若いものが夜いたづらをする處などはよろしう御座います。
 構想からいふと女と一所になれないので父が死ねばいゝと思ふのはよろしい。其父が死ぬ偶然はよくもありわるくもある。よく行けば自然でかつ奇拔であるが惡く行けば全然作りごとになる。あなたのは恐らく兩方なのではないか。其父の死から出る心理上の變化も自然にかけばあれで面白いがあれでは作者の概念を事實にする爲に事件を拵らえたとしか見られないです。
 あなたが急ぐやうだから急いで見ました。さうして手紙で評をかきました。玉稿は御出迄あづかつて置きます。 匆々頓首
    二月十四日                  夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一七一〇
 
 二月十八日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓東京は段々暖かになつて來ます金澤は如何ですか矢張も〔う〕春の心持がするだらうと思ひます、春になると金澤などの田舍の景色を想像して夢のやうに描いてゐます、偖突然妙な事を願ひますが實は私の大學で教へた英文科の卒業生のうちに皆川正※[示+喜]といふ男がゐます是が今の處は鹿兒嶋高等學校の教授ですけれども國は越後と會津の境あたりで家には父母がまだあるのです、所が其老人達が淋しいのでせう彼を自分達の傍へ呼びたがるのです、それで彼は好加減に辭職して郷里へ歸らうかとも考へたのださうです。然る〔に〕今度あなた〔の〕學校の西川君が鹿兒嶋へ轉任したに就いて彼は其後任になつて郷里へ近い金澤へ行きたいから是非あなたに依頼して見て呉れろと云ふのですが如何なものでせう。皆川といふ人は正直で極めて好い人間です顔を見ると神經質のやうで氣性はちつとも神經質ではありません學問も書物はよく讀む方だと思ひます、まだ西川君の代りが出來てゐないなら此男もどうぞ後任の候補者の中に數へて下さいませんか。私は皆川からの依頼で其依頼をあなたに又御依頼せねばならないやうな位地に立つて居ります、あしからず御了承を願ひます 以上
    二月十八日                夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一七一一
 
 二月十八日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町二一六皆川正※[示+喜]へ
 拜復其後も一週に一度位は降灰の趣セルロイドの眼鏡で外出するなどは奇觀である 偖御依頼の件本日金澤の繞石へ申して遣りました大谷とは始終書信の往復があるから遠慮も入らないので都合がよかつた然し大谷の方でどんな返辭をよこすか夫は全く知らずいづれ何とか云つてき次第すぐしらせませう野間君へよろしく 以上
    二月十八日                  金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一七一二
 
 二月十九日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復御旅行中は時々畫端書頂戴難有候ことに奈良よりの法皇の瓦の圖は頗る美事なるものにて愉快に候却説觀光中御老人御病氣の由にていそぎ御歸郷の處間に合はず既に御永眠の後なりし由定めて御落膽の事と深く御察し申上候不取敢微意を寸楮に託し哀傷の辭をつらね候時下餘寒猶料※[山+肖]の折柄折角御自愛是祈候 右迄 匆々
    二月十九日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一七一三
 
 二月二十三日 月 牛込區早相田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 拜啓先達の御依頼により金澤の大谷君へ委細打開たのみたる處別紙の如き返事あり君の轉任の事は是にて當分六づかしき有樣也 大谷君の手紙は逐一事情を明かにしあれば御參考の爲め同封にて御送り致し候御披見可然候 昨日より雪にて今猶降り已まず中々の寒氣に候 御地降灰は如何にや 右迄 匆々
    二月二十三日                 金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一七一四
 
 二月二十四日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓其後は御無沙汰御變りもなきや 脚氣の方はもうさつぱり御平癒の事と存じます偖此間散歩に出た序に古道具屋で山水の小幅の氣に入りたるものあり價格も低廉故求め歸り候處筆者不相分落※[疑の旁が欠]には瓜廬散人と有之候政畫家人名辭書など繰りひろげ探したれど見當つかずもし大兄御存じならば伺ひ度と存候もし御承知な|ら《原》ば序の節調べるか誰かに聞いて頂きたいと思ひます固より急ぐ事ではありません又分らなければならない程必要でもありませんが知れゝば知りたいのですちと御出掛なさい私も其内御邪魔に出ます 以上
    二月二十四日                 夏目金之助
   橋口五葉樣
 
      一七一五
 
 二月二十六日 木 後4-5 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ〔はがき〕
 拜啓 此間の佛蘭西の珍書の名前はよく解らないから西洋紙へインキで書いてもう一返送つて下さい 以上
 
      一七一六
 
 二月二十八日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜復 短冊四葉御求めの由承知致候處不幸手元に一葉もなく候故色紙にて用を辨じ申候 是は偶然四枚有之候いつぞや誰か持つて來て其儘になりたるものにてわるき色紙にも無之故夫へかきて差上候御受取被下度候 此間の柿は大變うまいものに候 以上
    二月二十八日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一七一七
 
 三月一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町一二木村恒へ
 あなたの手紙を讀みました夫からあなたの小説をよみました、だから事實の興味に驅られて小説としての價値がつけにくゝなりました 然しどうも無疵ではあるが一體からいつて高級に屬するものではないやうです。まあ世間並といふのが適當な所と思ひます
 大阪行の事及び其原因も承はりました世の中には色々な波瀾の起る必要があるのだから御決心を翻がへさすやうな事は申しませんがあの地へ行つてすぐ新聞などに入社の手續になるといふ事は殆んど困難かと存じます大阪朝日には知人が兩三名あります然しあなたを紹介した所でおいそれとあなたを記者に採用するやうな事は到底出來ないでせう、もし自活の必要があるなら大阪へ行くのはもう一度御考へなさい困る丈だから、夫よりもあなたの御兩親の信用してゐる人に頼んでもう一度あなたの所志を貫くやうな運動をして御貰ひなさい其方がいゝでせう、萬一大阪へ行くなら朝日に長谷川萬次郎といふ人がゐるから私の名をいつて會つて御覽なさい 然し彼にあつた所で何も出來ないのは殆んど明白ですから其邊もあらかじめ失望しないやうに御注意申して置きます 以上
    三月一日                 夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一七一八
 
 三月二日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓私は當分芝居へ行かないから市村座の番づけを持つて來るのを宮村さんに斷つて下サイ、若シ行ケバ番付をクレナクテモ行キマスカラ
 
      一七一九
 
 三月四日 水 前6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 成程菊五郎の浦島は素人でもありません又黒人でもありません。それぢや天才かといふとさうでもありません。素人と黒人の間に立往生をして齒掻いでくの坊が出來上つてゐるのです。
 私は芝居に大した興味を持ちません、菊五郎輩から問題を投げかけられたつて私の知つた事ぢやありません、吉右衛門に會ふのも當人が望んで會ひたいといふなら會ひます、然し君が勸めてつれてくるなら御免蒙ります。僕は君に對する好意の方向を求むる所のない吉右衛門に轉換して振りかへる譯に行かないのだから
 私は狂言座の顧問を斷りました。當分芝居は見たくありません。役者の心得方や芝居へ這入る藝者輩の氣分が藝術と飛び離れた不快な念を私に起させます。 以上
    三月三日夜               金 之 助
   豐 隆 樣
 
      一七二〇
 
 三月四日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 甚だ御面倒ながら一寸願ひます。社のものが永井荷風君に會ひたいと云ひます。所が同君は新聞記者には會はない人ださうです。夫で僕に紹介をくれと云ひますが、僕は君を煩はした方が有効だらうと思つてさう答へました。どうか永井君に頼んで東朝記者に會ふやうにして下さい、さうして永井君の都合のいゝ日を知らして下さい 草々
    三月四日
 
      一七二一
 
 三月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町渡邊傳右衛門へ
 拜啓此間は帝劇で失禮しました其節御話しの臺灣の茶二鑵今日到着正に拜受しました御厚意の程深く感謝致しますまだ飲んで見ませんが我々はハルピンで分捕つたとかいふ腐つた茶でも飲んでゐたのかも知れませんから早速一つ試して見やうと思ひますあの晩御話した通り私は狂言座の顧問を斷はりました顧問をしてゐても顧問榮がしませんからです漸々暖かになつて愉快です芝居などでくさい空氣を呼吸するより郊外を散歩でもした方が遙かにましだと思ひます。此間の晩は御存じの津田青楓君も來てゐました御會ひでしたか 先は不取敢御禮を申上ます 以上
    三月四日                 夏目金之助
   渡邊傳右衛門樣
 
      一七二二
 
 三月十三日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓先達の朝書畫帖が一冊屆きました夫から晩方に綺麗な百合の花が又屆きました花は下さつたのだらうと思つて翌日花瓶に挿しました珍らしいと思つて眺めてゐますが來客は一向氣がつかない樣です人間は隨分不注意千萬なものです 花も珍らしいがあの荷作りの手數は大變なものだらうと推察して御好意を深く感謝致します 所があの書畫帖の方は何の爲なのだか一寸迷ひます大方御手紙があとから參る事と思つて待つてゐましたが一向ありません夫で下さつたのかあれへ何か書けといふ意味が《原》解らないのです 御禮を申上る序に一寸夫を伺ひます 大分春めいて暖かになりました 博覽會へ御出掛になりませんか 右迄 匆々
    三月十三日              夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一七二三
 
 三月十八日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜啓昨日は御出下さいました處留守でとんだ失禮を致しました此間大塚君がきて其考を承はりました時此上佐々木さんと打合せの必要もあるまいから火曜の午後でよければ砂土原町へ出掛けやうと申して置きました大塚君はあなたの都合を聞いて時間を知らせる積だといひました所が其午後は五時頃迄宅に居りましたが何の御通知もないので大方御差支だらうと思つて友達を送つて四谷塩町迄參りました後へ御出下さつたのでした私はあなたが打合せの爲めわざ/\御出向にならうとは丸で豫想して居りませんでした第一打合せの必要もあるまいと考へてゐた位ですからどうも濟まん事でありますが以上の譯ですからあしからず御勘辨を願ひます
 偖取次のものへの御申置には木曜の午後六時頃に再度御出掛下さるとの事で御座いますが木曜は面會日でことに夕景は若い人などが落ち合ふ恐があるので閑談には少々不便を感する次第でありますが御多忙中御差繰を願つては濟まん事と存じますが出來得るならばほかの日を御擇び下さる譯には參りますまいか私の方は大抵都合をつけます夫から御足勞を省くため私から參上致しても宜しう御座います如何で御座いませうか 敬具
    三月十八日               夏目金之助
   佐々木信綱樣
 
      一七二四
 
 三月二十日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓御新著頂戴難有う存じます私はガルスヲーシーといふ人のものを讀んだ事がありませんからあれをすぐ通讀しましたあれは全体として大陸ものゝやうな氣がします、あのうちの二つか三つには感心させられました私はまた小説を書かなければなりません書く前には氣分をそちらへ持つて行く必要があります夫には誰の小説でも讀んでゐるうちに自分も自然創作的氣分に侵されてくるやうになるのです、私はガルスヲーシーを讀む時さういふプラクチカルな考を懷いてゐました、さうして讀んで了つたら幾分か自分の目的が達せられたやうに思ひます偶然ながらあなたの御蔭です御禮を申上ます 以上
    三月二十日                夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一七二五
 
 三月二十二日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ
 拜啓高著フラウゾルゲ御出版につき小生のかつて著者に對して申したる言葉御引用御取消につき御鄭重なる御手紙拜見却つて恐縮致候御寵贈の書物は大倉書店より正に屆き申候難有御禮申上候
 右不取敢御挨拶迄 匆々
    三月二十二日               夏目金之助
   小池秋草樣
 
      一七二六
 
 三月二十九日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜復
 御目出〔度〕う御座います。生れたてから親の注意を惹くやうな肝癪ではさぞ骨が折れるでせう。好い名を御つけになりました。奥樣へよろしく
    三月二十八日
 
      一七二七
 
 三月二十九日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣修善寺菊屋津田龜次郎へ
 まだ修|禅《原》寺に御逗留ですか 私はあなたが居なくなつて淋しい氣がします面白い畫を澤山かいて來て見せて下さい金があつてからだが自由ならば私も繪の具箱をかついで修善寺へ出掛たいと思ひます 私は四月十日頃から又小説を書く筈です 私は馬鹿に生れたせゐか世の中の人間がみんないやに見えます夫から下らない不愉快な事があると夫が五日も六日も不愉快で押して行きます、丸で梅雨の天氣が晴れないのと同じ事です自分でも厭な性分だと思ひます
 あなたの兄さんが百合を送つて呉れました夫から書畫帖を寄こされました、呉れたのか何か書けといふ意味かと思つて聞き合せたら呉れたんぢやないのです、さうかと云つてみんな書けといふのでもないのです、私は其儘預かつて置きます
 世の中にすきな人は段々なくなります、さうして天と地と草と木が美しく見えてきます、ことに此頃の春の光は甚だ好いのです、私は夫をたよりに生きてゐます
    三月二十九日                 漱石
   津田青楓樣
 「皿と鉢を買ひました。もつと色々なものを買ひたい。藝術品も天地と同じ樂みがあります」
 
      一七二八
 
 三月三十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓御教示の趣承知致しました 今度は短篇をいくつか書いて見たいと思ひます、その一つ一つには違つた名をつけて行く積ですが豫告の必要|用《原》上全體の題が御入用かとも存じます故それを「心《こゝろ》」と致して置きます。
 此他に豫告の文章は要らぬ事と思ひます。 敬具
    三月三十日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一七二九
 
 四月七日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ〔はがき〕
 御手紙を拜見しました私にはあなたからさう慕はれる程の徳も才もありません甚だ慚愧の至でありますあなたの御自愛を祈ります
    四月七日
 
      一七三〇
 
 四月九日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四阿部次郎へ〔はがき〕
 拜啓 三太郎日記御寵贈にあづかり難有御禮申上候あの「三太郎日記」といふ名は小生の好まぬものに候中味は讀んだのと讀まないのとありいづれ拜見致す心得に候 御禮迄 匆々
 
      一七三一
 
 四月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜復御歸りの由畫が五六枚かけた由結構です其うち見せてもらひに行きます昨日は御出とも氣がつかず博覽會へ出掛けて失禮しました美術館を見ましたいやな畫が大半です朝鮮舘の出口に昔の陶器と佛像があります、其うちには面白いものがあります、座禅舘といふ中にある木像も二つ程氣に入りました私もあなたと同じやうに何かやりかけて油がのる時分に止める都合になるのが殘念です、畫もいやになる迄かいて夫から又文學なり批評なりに移つて行きたいと思ひます小説ももう書き始めなければなりません、夫で畫はやめました、あの馬の畫の柳へポツ/\を打ちました多少よくなりました今度來て見て下さい 以上
    四月十日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一七三二
 
 四月十日 金 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 御手紙を拜見致しましたが號などは入らぬものですからよしになさい私は號を有つてゐるが號を有つてゐない人がつまらないといふ譯にはなりませんつまり私は餘計なものをもつてゐるのであります 右迄
    四月十日                 夏目金之助
   四方田美男樣
 
      一七三三
 
 四月十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 表装代殘り三圓五十餞小爲替にて御送り致候御受取願上候重ねて御光來の節と存じ候へども夫もいつか分りかね候事故御手數をも顧みず爲替に致候
 此間の瓜廬山人はわかりかね候や蘭亭吉祥も古城氏には判然致さず候や序を以て伺ひ申候 以上
    四月十一日                 夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七三四
 
 四月十四日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓久々御目にかゝらず御起居如何と思ひ居候處一昨日曜に御尋ね被下候由歸宅後承はり殘念に存候あの日は家のもの柏木華州園と申すに辨當持參にて遊びに參り候故小生もあとより散歩旁徒歩にて出向き申候夫にて出違ひと相成候近頃は人を尋ねずあまり人も好まず何だかつまらなさうに暮し居候小説も書かねばならぬ羽目に臨みながら日一日となまけ未だに着手不仕候是も神經衰弱の結果かも知れず厄介に候博覽會へは二度參り候繪はひどいもの多く候朝鮮李王家の出品中陶器及び古佛像に面白きもの朝鮮舘の出口に有之御覽にや其内拜眉萬々 以上
    四月十四日                金之助
   寅 彦 樣
 
      一七三五
 
 四月十七日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目馬場勝彌へ
 其後は御無沙汰を致しましたいつも御變りない事と存じます此間平出君の永訣式の時一寸御顔を見ましたがつい御挨拶をしませんでした
 モーパサンの傑作集を御惠贈下さいましてありがたう存じます不取敢手紙で御禮を申上ますあゝいふものにはあなたの署名が欲しいと思ひます夫は私ばかりでなく書物を贈られたものはみんなさう思やしませんか私ももとは氣がつかずに其儘差出しましたが近頃は一々私の名先方の名を書く事に致しました御禮の序に失禮な事を申上まして濟みません 以上
    四月十七日                夏目金之助
   馬場勝彌樣
 
      一七三六
 
 四月十八日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
  Russia of the Russians by Harold Whitmore Williams.(Pitman & Sons,6S.net)
 此本のうちにはツルゲネーフ以後現代の作家迄が紹介してある由間に合ふなら見て御覽なさい
 
      一七三七
 
 四月十九日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 拜復あなたの御手紙を拜見しました何か返事を寄こせとありますから筆をとりましたが別に何も書く事も出て來ませんあなたが私の本をよんで下さるのは私にとつて難有い事です私は御禮を申上ます薮の中で猫をよんだといふ事は可笑しいです あなた方の修業の方から見たら餘計な小説などをよむと定めて叱られるでせう まあ叱られない程度で御やめなさい 私は時々あなたの手紙を下さるのを讀みたいと思ひます 夫から私はあなたが將來座禅を勉強して立派な師家になられん事を希望します 右迄 匆々
    四月十九日                 夏目金之助
   鬼村元成樣
 新聞社からあなたの手紙を廻送して來た時不足といふ黒い判が捺してありました不足税は新聞社の方で拂つたのでせう
 
      一七三八
 四月二十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ〔はがき〕
 拜復秩父の繪端書を十枚御送り下さいましてありがたう存じます大變好い所のやうに見えます私もいつか秩父の山奥へ遊びに行きたいと思つてゐます、御禮迄 匆々
 
      一七三九
 
 四月二十四日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣印南郡大國村松尾寛一へ
 あの「心」といふ小説のなかにある先生〔二字傍点〕といふ人はもう死んでしまひました、名前はありますがあなたが覺えても役に立たない人です、あなたは小學の六年でよくあんなものをよみますね、あれは小供がよんでためになるものぢやありませんからおよしなさい、あなたは私の住所をだれに聞きましたか、
    四月二十四日                夏目金之助
   松尾寛一樣
 
      一七四〇
 
 四月二十六日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 昨日は參堂失禮しましたあの竹の畫には實際恐縮しましたあれ程まづいとも思ひませんでした近いうち何か御氣に入るものをかいて取替たいと思ひますどうぞ夫迄は御あづかりを願ひます額の方も思つたより惡う御座いますがまだあれは畫よりもましです有島君の注意の自然といふ文字をしらべて見ましたら老子に道法自然とあるさうで、自然は矢張り名詞に使はれてゐますからまああれでも構はないでせう
 奥さんへよろしくどうぞ喧嘩をなさらないやうに願ひます
    四月二十六日                夏目金之助
   津田青楓樣
 あの壁かくしは大變よろしいが私の家の敷物ではあまり赤が勝ち過ぎますそれから單獨にいつて地の色がもう少し沈んで刺戟のない方が私の神經には結構のやうに存じます
 
      一七四一
 
 四月二十九日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六尚文堂氣付野上豐一郎へ
 拜復 沼波君が若し希望されるなら小生の名前を出してもよろしく候 さうでなければ控えて置きたく候 夫から私は無名會の會員だから切符を買ふ義務があるやうですがさうすると自由講座の方からも買ふ事になるのですか 一寸伺ひます 以上
    四月二十九日                 金之助
   豐一郎樣
 
      一七四二
 
 四月二十九日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より麻布區三河臺町二七志賀直哉へ
 御手紙を拜見しました又關西へ御出のよし承知しました小説は私があらかじめ拜見する必要はないだらうと思ひます夫から漢字のかなは訓讀音讀どちらにしていゝか他のものに分らない事が多いからつけて下さい夫でないと却つてあなたの神經にさわる事が出來ます尤も社にはルビ付の活字があるからワウオフだとか普通の人に區別の出來にくいものはいゝ加減につけて置くと活版が天然に直してくれます
 あなたに用の出來た時は仰の通り麻布三河台へ手紙を上げる事に致します 以上
    四月二十九日                夏目金之助
   志賀直哉樣
 
      一七四三
 
 四月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區銀座一丁目一讀賣新聞讀書會『讀書世界』へ〔應間五月一日發行『讀書世界』より〕
 人から實例をあげて自分の意見を問はれた場合にはある程度迄の返事は出來ますが此方からかういふ著及び斯ういふ節が會心のものだととくに御答する事は困難であります。
                          夏目金之助
 
      一七四四
 
 五月十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜復午過は大概小説をかいてしまつてゐますから會へるでせう然しそれは特別で私の希望は木曜です。木曜にきて來足りない時に他の日に御出でなさい。からだはまあよろしい。
 
      一七四五
 
 五月十五日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 大阪府下濱寺羽衣松南水落義一へ
 拜復御手紙をいたゞきましてありがたう御座います御病氣で濱寺の方へ御療養に御出との事嘸御退屈だらうと存じます此間ある雜誌であなたの濱寺からの俳句を拜見した事がありますがまだ同じ處に御出なのですか精々御加養御全快を祈ります私はどうかかうか生きてつまらないものを書いてゐます俳句は殆んど作りませんが此間どういふはづみか十七字がならべて見たくなつて四五十ばかり書きつけました虚子には其後久しく會ひません何だか仕舞の稽古などをしてゐるとかいふ噂さです私が大阪で病氣をして御世話になつたのももう大分になりますつい此間だと思つてゐるうちにいつか年を取つてゐるには自分ながらあきれますあきれるよりも心細いといつた方が適當かも知れません東京は博覽會で大分賑やかです若葉も綺麗です御回復を祈ります 以上
    五月十五日                夏目金之助
   水落露右横
       座下
 
      一七四六
 
 五月二十日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ〔はがき〕
 畫を一幅買ひました。(蕪村といふのを)旨いものと思ひます、夫から畫を一枚かきました。明日午後日のあるうちに來て見てくれませんか(兩方を)
    二十日
 
      一七四七
 
 五月二十一日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復御無沙汰をして居ります昨日は又ずるい了見から總務局の呼出しに應ぜずその爲め色々な御手數を掛けまして何うも申譯がありません。社長の一同に通知された事を御親切に御教示下さいましてありがたう存じます詳しい事は自身出席しても忘れるものですから大して必要がなければ教へて頂かなくてもよろしう御座いますまあ社員優遇の事と思つて喜んで居ります 右御禮まで 匆々
    五月二十一日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一七四八
 
 五月二十五日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪府下濱寺羽衣松南水落義一へ
 拜復私が畫をかくとか箇人展覽會を開くとか新聞にあつたからもし開いたら見せてくれといつて來た人がありますしかも夫は畫を專門にする人でした私は驚いて事實を否定してやりましたあなたの御手紙で其出所が漸く分りました時事新報では大方冗談半分にそんな事を書いたのでせう私の畫を御所望の由承はりまして恐縮致します書もたのまれゝば書耻を忘れて書きますがもと/\氣の向いた時か夫でなければ筆と墨をつきつけられた時に限るのですから只今と申す譯には參りませんがそのうち機會があつたら變なものでも御笑ひ草に御覽に入れませうあなたの御病氣はまだよくならないのですか談話を禁じられるやうでは嘸かし淋しいだらうと思ひますし又さう輕いやまひとも思はれませんどうぞ御養生を大事になさつて御全快になる事を切望致します 以上
    五月二十五日               夏目金之助
   水落露右樣
       座右
 
      一七四九
 
 五月二十五日 月 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 拜復私に自信のある作物を御きゝになつても何うも困ります是は謙遜でも何でもありませんがさう是非讀んでいたゞきたいものもないのです夫から過去の作物はいづれもいやな氣がするものですから自分で人にすゝめる氣になれないのです、あなたの方で作物のうちで名前をあげてこれとこれとどつちをよむ方がいゝかと御聞きになれば御返事は出來ます
 あなたは一體何をしてゐる人ですか生活に餘裕がないといふのはどんな職業をしてゐられる爲ですか、夫から學校へ行つた事がないといふのは東京の學校といふ意味ですかあなたが文學者になれるなれないはとても容易には申されません、然し文學者として食つて行く事は大抵な人には困難です、私はみんなに忠告してやめさせてゐます 以上
    五月二十五日                夏目金之助
   四方田美男樣
 
      一七五〇
 
 五月三十日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣修善寺菊屋津田龜次郎へ
 また修善寺へ行つたさうですね湯に入りながら繪をかいて樂しんでゐるのは好い心持でせう此間不折に會ひました話の樣子によると達磨の繪などは寧ろ得意らしく見えます氣の毒ですあの鼻を曲げた處で繪が上手にならない以上役に立たないからさうか/\と云つて歸りました呉春は蕪村を學んだのですか夫であの人物のかき方が始めて合點行きました。あれは大變好い畫と思ひますあなたが何遍も見てゐるうちには好になると思ひます寺田は見るとすぐ賞めました、私はあんなものを見てあるくがあれ程のものにはまだ出あひません海だか湖だかある繪を御注意通り直しました大變好くなつた積です、今度見て評價して下さい私は軸にして殘して置かうかと考へてゐます面白い畫をかいて持つて入らつしやい 左樣なら
    五月三十日                夏目金之助
   津田青楓樣
 寺田は不折の畫を深川邊の活動寫眞の看板よりまづいと云つてゐました、當人が聞いたら怒る事と思ひます
 
      一七五一
 
 六月二日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 長い手紙を下さいましてありがたう病氣は如何ですか病氣の時は可成醫者に診て御貰ひなさい國へ歸つたといふから親の處かと思つたら生れた家ではないのですね夫でもさうして靜養の出來る處があるのは結構です早くよくなつて又僧堂の飯を御上がんなさい神戸に祥福寺といふ寺のあるのは何の邊ですかあんな雜沓した處より出雲國の方が修業には好いかも知れません寫眞も拜受しました 中々姿勢がよろしい 夫から寫眞で見ると中々好男子です、然しあゝした姿勢を見ると何だかわざ/\拵えて旨く出來過ぎてゐるやうにも思はれます、私はあなたの顔の外にまだあなたの郷里のあなたのゐ〔る〕御寺の景色を想像して何んな處だらうと思つてゐます 姉さんは大根おろしを作つてくれる人だからあんまり惡口をいはないがよろしい 寺だから廣くて自分の室もあつて結構です 先は右迄 匆々
    六月二目                  夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一七五二
 
 六月二日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓梅雨の季節になつたと見えて雨滴の音がしきりにしますあなたの居る方は如何ですか 此間は寫眞をありがたう蘭の鉢か何か眼につきます、私も此春九花蘭といふのを買って支那鉢に植ゑて其香をかぎました、此間武者小路にあったらあなたの話をしてゐました 私は蕪村の畫を買ひました(十二圓で)私は好い畫だと思って毎日眺めてゐます人は僞物といふかも知れませんが私は一向頓着なしに樂しんでゐます。印材二顆は御報知があつても容易に屆かないので紛失したと思つたら漸つと來ましたありがたう 君からは時々色々なものを贈つてもらふ丈で御禮も何もしないで甚だ濟まない氣がします
 もうそろ/\東京へ一度歸つて見たらどうですか公務上さう自由もきゝませんか。山座は氣の毒な事をしましたねあの男はもと同級でしたが話をした事は一度もありません
 私は金を五六萬圓持つて支那を漫遊して好なものを買つてあるきたい 五葉君には久しく會ひません いつかあなたの留守宅から私に書を書いてくれといふ註文で變てこなものを書いたのを記憶してゐますがいつかあれを書き直したいと思ひながらついまだ其儘にしてあります。支那人の畫で五拾圓位ぢや中々面白い畫は手に入らんでせうね 其位で好いものを買はうといふ蟲の好い考を持つてゐる私は東京では精々奮發して拾圓位です呵々
 此位にして置きます
    六月二日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一七五三
 
 六月二日 火 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 此間はあなたの文章(新聞に出てゐる)を拜見しました勿論御承知の事と思ひますがあれは新聞向きですねしやれたものですけれども藝術的なものではありません、あなたが私によこす手紙の方がよろしい。然しあなたのやうな筆を執る事の好な人が新聞社に這入る事が出來たのは仕合せです充分働らいて御父さんや兄さんから認められて勞働をしないでも好いといふ許可を得るやうになさい。歩いてゐる間に本をよんだり文章を書いたりするのは大變です好だから出來るのです、私などには出來ません。私の書物で好んで好いものはありませんあなたは行人をよんださうですが夫で澤山ですから外の人のものを御讀みなさい手の屆く限り何でも御讀みなさい、時間の許すかぎり。あなたの新聞に石坂養平といふ人が何か書いてゐましたね、あれは私の知つた人ではありませんが、もし會へるなら御會ひなさいさうして話を御聞きなさい 以上
    六月二日                  夏目金之助
   四方田美男樣
 
      一七五四
 
 六月九日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜復 御聞合せの畫を出す一件は貴説の如く願下げにして下さい 以後もそんな事をいつて來たら一應問ひ合せた上にして下さい 私は咽喉が急にはれて熱が出ました三十八度五分程出ました夫で久し振に床をとつて寐てゐました頭と咽喉を氷でひやしました 今朝は思ひ切つて又水浴をやつてやりました まだ食氣がなくていけません
 右迄 匆々
    六月九日                  金之助
   白 川 樣
 
      一七五五
 
 六月九日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ〔はがき〕
 さくらんぼうをありがたう御座います二三日風邪で寐てゐましたので御禮を出しませんでした 以上
    六月九日
 
      一七五六
 
 六月九日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 祥福寺の繪葉書をありがたう御座います 私は今咽喉がはれて熱が出て床を敷いて寐てゐますもう直りかけの所ではありますが退儀だから長い手紙は書けません 私の手元に「三四郎、それから、門」この三書を縮刷にしたのが一部餘分にありますから夫を今日小包で送りますからもし御氣に召したら御讀み下さい。あなたのやうな若い人がそんなひどい胃病にかゝるのは一寸變ですが病名が分りますか出來るなら專|問《原》の醫者にみてもらふといゝが田舍の事だから仕方がないでせう よく療養をなさい、夫から御寺に何か讀む本のないのも變ですが是も焚けたのなら致し方もない 然し景色がよくつて靜だからそんな所でも味つて御樂しみなさい 以上
    九《腹》月六日               夏目金之助
   鬼村元成樣
 祥福寺は大變よさゝうな所ですね今度あちらへ行つたら見に行きませう
 
      一七五七
 
 六月十五日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ〔はがき〕
 あの本は返さないでよござんす、鶉籠の縮刷は其うち本屋から取り寄せて上げませう
    六月十五日
 
      一七五八
 
 六月二十二日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 拜啓 例年の佳例により櫻の實一折御送難有拜受仕候此間は小松氏よりも同樣の贈ものをうけ候
 早速御禮まで 匆々
    六月二十二日
 
      一七五九
 
 六月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先刻は御光來被下ました處生憎原稿を書いてゐましたのでまた來るとかで御歸りになつたさうですが甚だ御無禮を申上て濟みません近頃は午前中に原稿を書く癖がついてゐるので夫を怠たると心持がわるくつて仕方がない爲め時々こういふ失禮を敢てするのですどうぞ御勘辨を願ひます 今日はことに面會日の木曜だから猶恐縮致します平日でも午後なら大抵在宅で時間も御座いますからもし御閑があつたら御出を願ひます 以上
    六月二十五日               夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七六〇
 
 六月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓越後の笹餅といふものは始めてゞすあのまゝ一つ食べました夫から砂糖をつけて二つ食べましたあとは家のものがみんな食べましたありがたう御座います大して美味とは思はれませんが珍奇なものには相違ありません夫から越後からきたのだから猶うまいのでせう御禮を上げやうと思つてつい忘れて居ました濟みません、 以上
    六月二十五日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一七六一
 
 六月二十八日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 此間は御地の名産の昆布の砂糖づけを下さいましてありがたう御座います、をばさんに宜敷仰つて下さい あなたの病氣はどうですか胃擴張には運動がわるいやうに思ひますが醫者は何といひますか 處美人草の縮刷を本屋から取寄せましたから一冊上げます、是はよんでもつまりませんが折角だから小包で送るのです 御養生を專一に願ひます 以上
    六月二十七日               夏目金之助
   鬼村元成樣
 あゝ號を書くのを忘れた露塔でしたかね。失敬。夫から習慣はどうでもいゝが、自分より年上のものへ手紙をやる時には自分の號はかゝないのが禮になつてゐます、たゞし宛名のときは書くのが尊敬を表する事になるのです。然し今の世だから實際はどつちでも構ひません。
 
      一七六二
 
 六月二十八日 日 牛込區早稻田南町七より 明治大學校長木下友三郎へ〔封筒なし〕
 拜啓毎年の卒業式に御案内を蒙り有難存じます。然るに毎年共文學博士を辭したる小生を文學博士として御招待下さるのは私に多大の苦痛を與へる事になります。それが重なると私は明治大學から愚弄されてゐるやうな厭な心持になります。あなたの方では私を侮辱なさる覺召は萬々ある筈がないのでありますが結果は私に取つて略同樣のものになります故向後はどうぞ文學博士としての御案内状丈は御差留下さる樣願ひ上ます。 匆々頓首
    六月二十八日               夏目金之助
   明治大學校長
    木下友三郎樣
 
      一七六三
 
 七月七日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町一四北島英一へ
 拜復突然御書面をいたゞきまして拜見致しました私の作物の御氣に入らぬ處はよく私にも解つてゐるやうです近頃はそんな書方もしない積で居ります
 「それから」を御讀み下さつたさうでありがたう御座います。御氣に入るやうな處が少しでもあれば滿足の至です。元來舊作を縮刷にして出すのは別に藝術上の良心に許可をうけたと申す譯ではなく本屋に勸められると幾分か慾心が萌すからであります私は今も小説を書いてゐますが自分の書いたものは私生兒のやうな氣がします。自分には可愛いけれども人中へ出すのはいやに候。若し金があれば縮刷などをして耻を二度かく愚は致さぬ積に候
 只今も小説を書いてゐますので午前はふさがつて居ますが午過ぎなら御目にかゝれます木曜の午後なら面會日ですから猶好都合です
 あなた〔が〕卒直に申される通り私も露骨な事を申上ますが私は實はあなたの名を存じませんでしたどこの新聞へ小説を書いて居らつしやいますか甚だ失禮のやうですがあなたを承知致さない故一寸伺ふのであります柳川君は知人であります。御面會の節はよろしく願ひます 以上
    七月七日                 夏目金之助
   北島英一樣
 
      一七六四
 
 七月九日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内佐藤眞一へ〔封筒表の宛名に「朝日新聞編輯長殿」とあり〕
 拜啓小生小説「心」の校正につき一寸申上ます。校正者は無暗にてにはを改め意味を不通にする事があります。それからわざと字をかへてしまひます。今七月九日の最初の「先生〔二字右○〕の座敷」などは先生では全くトンチンカンにて分りかね候。小生は先生と書いたる覺更に無之私〔右○〕とかいたかと思へどそれもたゞ今は覺えず。小生は自分に校正の必要ありて訂正致さねばならず。甚だ御迷惑ながら御調を願ひます。又甚だ失禮ですが御返事を願ひます。夫から向後の校正にもう少し責任を帶びてやるやうにそのかゝりのものに御注意を願ひます。あれ以上出來ないなら已を得ませんからゲラを小生の方へ一應御廻送を願ひます。小生の書いたものは新聞として大事でなくとも小生には大事であります。小生は讀者に對する義務をもつて居ります。小生は今日山本氏に電話をかけた處旅行中で留守であります、何處へ此事件を申していゝか分りませんそれであなた宛で出します 以上
    七月九日                 夏目金之助
   朝日新聞編輯長殿
 
      一七六五
 
 七月十日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内佐藤眞一へ
 拜啓昨日申上た苦情に對し御多用中御丁寧なる御返書をいたゞきまして痛み入ります、校正の人も人間ですから誤をするのは當然で私のものなどは日に一二所位は今迄屹度あつたのですが一々正誤する程の重大な點でもありませんから黙つて居りましたが、あまり烈しくなると何だか私のばかり粗末にされるやうな癖《原》みが起るのでつい失禮を申上て濟みません、わざとした事でないといふ保証を御つけ下さつた上向後の注意を掛りのものに御命じ下されば私はそれで滿足であります、右御挨拶迄に一寸申上ます 以上
    七月十日                 夏目金之助
   佐藤眞一樣
 
      一七六六
 
 七月十日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町一四北島英一へ〔はがき〕
 拜啓高著誰が子正に頂戴ありがたう存じます只今多忙で一寸よめませんが閑を得て拜見致したいと存じて居ります御禮まで 匆々
 
      一七六七
 
 七月十一日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町一二木村恒へ
 拜啓御手紙は拜見しました朝日へ入社の御希望で松山君に御面會のよし、夫から今日社會部長に會つて私と關係のある事を云つて差遣ひないかとの御言葉ですが事實を仰しやるに何の差支のあらう筈はありません、然し私の門下生だといふ事があなたに取つてどれ程の利益になるか其處は保證出來ません私は編輯上何もしてゐないのですから。のみならず黨派的な意味に解釋されでもすると却つてあなたの迷惑にならないとも限りません。私は祀會部長からあなたの事を聞いてきた時はあなたに都合のいゝ返事を出來る丈しませう、然し此方から社會部長に電話であなたを依頼するのはいやです。やつても構ひませんが夫程役には立つまいと思ひますから 以上
    七月十一日                夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一七六八
 
 七月十一日 土 後1−2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 この前の木曜には岡君と二度きて下さつたさうですが二度とも留守で甚だ申譯がありませんあの時は宅にゐるのが厭になつたので面會日にも拘はらず飛び出して漂泊者の如く方々歩いたのです
 雜誌の切拔拜見あんな女房がありますかね少し誇張ぢやないでせうか
 私は自分の書いた山水と黒猫と夫から酒渇愛江清の五字一行ものを表装しました今度見て下さい、黒猫が一番わるいやうです 酒渇は中々上出來です 山水は今かけてあります、蘭亭といふ盲目詩人の書も懸けてあります うまいものです 以上
    七月十一日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一七六九
 
 七月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓久々御無音奉謝候此間一寸電話を御宅へかけた處御旅行中で今日頃御歸りといふ御返事でしたから一寸用事丈申上ます、兩三日前志賀直哉君(當時雲州松江に假寓小説の件をかねて上京)見え、實は引きうけた小説の材料が引き受けた時と違つた氣分になつてもとの通りの意氣込でかけな|た《際》な|た《原》たから甚だ勝手だがゆるして貰ひたいといふのです。段々事情を聞いて見ると先生の人生觀といふやうなものが其後變化したため問題を取り扱ふ態度が何うしてもうまく行かなくなつたのです、違約は勿論不都〔合〕ですが、同君の名聲のため朝日のためにも氣に入らない變なものを書く位なら約束を履行しない方が雙方の便宜とも思ひましたが、多少私の責任もありますし、又殘念といふ好意もあつたので再考を煩はしたのです、所が今朝口約の通り返事がきて好意は感謝するが今の峠を越さなければ筆を執る譯に行かないといふのです。それで私の小説も短篇が意外の長篇になつてあれ丈でもう御免を蒙る間際になつてゐる際ですからあとを至急さがす必要があるのですが御心當りはありますまいか。如何でせう。私は先年鈴木にも高濱にも頼まれましたが兩氏とも今となつて都合つくや否は疑問であります、小川氏も間接に相談はありましたがあの人のものは如何かと存じます、徳田君は今東京にゐないやうです、夫に途中で行きつまる恐があります。中勘助が銀の匙のつゞきを書いてゐるやうですが、あれなら間に合ふかも知れません、兎に角私の責任問題ですからいざとなれば先生の遺書の外にもう一つ位書いてもいゝですがどつちかといふとあれで一先づ切り上げたいと思つてゐますから御《原》邊御含みの上一應御熟考を煩はしたいと思ひます。先は用事迄 以上
    七月十三日                夏目金之助
   山本笑月樣
 
      一七七〇
 
 七月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麻布區三河臺町二七志賀直哉へ
 御書拜見どうしても書けな〔い〕との仰せ殘念ですが已を得ない事と思ひます社の方へはさう云つてやりました、あとは極りませんが何うかなるでせう御心配には及びません、他〔日〕あなたの得意なものが出來たら其代り外へやらずに此方へ下さい先は右迄 匆々
    七月十三日                夏目金之助
   志賀直哉樣
 
      一七七一
 
 七月十四日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 御注意ありがたう、私の見たのは房州の何處だらう、金谷とか那古とかいふ邊かも知れない、然しあれは想像ではありません、たしかに見たのです。沖の島とか鷹の島とかへ行けばあんな所がありますか一寸教へて下さい
 
      一七七二
 
 七月十五日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 旅行先より御歸京のよしたまの骨休めも嘸かし御忙がしい事と存じます小説についての御教示は承知致しました。可成「先生の遺書」を長く引張りますが今の考ではさう/\はつゞきさうもありません、まあ百回位なものだらうと思ひます、實は私は小説を書くと丸で先の見えない旨目と同じ事で何の位で濟むか見當がつかないのです夫で短篇をいくつも書といつた廣告が長篇になつたやうな次第です、「先生の遺書」の仕舞には其旨を書き添へて讀者に詫びる積で居ります。斯うして考へてゐると至極|單《原》單なものが原稿紙へ向ふといやにごた/\長く《原》るのですから其邊は御容赦を願ひます。
 つぎの人に就ては別段どんな若手といふ希望をもつた人も差當りあ《原》ません、志賀の斷り方は道徳上不都合で小生も全く面喰ひましたが藝術上の立場からいふと至極尤もです。今迄愛した女が急に厭になつたのを強ひて愛したふりで交際をしろと傍からいふのは少々殘酷にも思はれます。
 谷崎、田村俊子、岩野泡鳴、數へると名前は出て來ますが一向纏まりません、猶よく考へませうがあなたの方でも何うが御撰澤を願ひます 先は右迄 匆々
    七月十五日                夏目金之助
   山本松之助樣
 十三日の朝日にケーベルさんを停車場に送つて行つたやうな事を川田君が書きましたがどうした間違でせう。私は今夜ケーベルさんの所へ晩餐に呼ばれてゐます。先生は來月十二日頃船で歸るのです
 
      一七七三
 
 七月十六日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一〇九齋藤方太田正雄へ
 拜啓南蠻寺門前一冊御惠贈ありがたく御禮を申します、此前のと同樣に大變好い表装ですなかの插畫も面白う御座います、何しろ書物を開けた丈で字はまだ讀みませんから肝心の御作については申す事もなくて甚だ不本意ですが其うち閑を得てゆるりと拜見する積で居ります。兎に角不取敢御禮丈をいはないと氣が濟まないので一通差し上げて置きます 以上
    七月十六日                夏目金之助
   太田正雄樣
 
      一七七四
 
 七月十七日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔速達便〕
 拜啓昨日は失敬短篇集を出す事社に相談せし處賛成の由返答有之就いては君一つ十回もしくは十二回位のものを直ぐ着手して出來る丈早く作つてくれ玉へ、其上あとへ出る二三の人をこしらへてくれ玉へ。それはむづかしく云つても仕方がないが無暗に親しいものがつゞかないで其間に變化のある方が面白くもあり又僕の立場からいつてもよろしい、兎に角君のは僕の終る前に間に合ふやうにしてくれ玉へ 以上
    七月十七日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一七七五
 
 七月十七日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 拜啓其後は御無沙汰御惠投の鮎今朝着すぐ腸をさき午餐の膳に上せました大變美事なもので玉川邊ではとても見られない大きなものですあつく御禮を申します、配達夫が水が出る/\といつてぶつ/\云つてゐたさうですが箱のなかの氷が解けたのでした右不取敢御禮まで 匆々
    七月十七日               夏目金之助
   田嶋道治樣
 
      一七七六
 
 七月十八日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 啓上私の小説はまあ百回といふ見積ですが私の事だから(夫に社の方で可成長くしてくれとの注文ですからもう少しは出るかも知れません)然し君の方ではまあ百回を目やすに置いて絞り出すなりひり出すなりして貰ひたいと思ひます。未明君の返事が來たら教へて下さい、其あとが幹彦俊子では少々つくやうですが其處へ何かはさみたい然しそんな事をいつてゐる場合でないから何でもいゝとして順序はこちらで變化してもよからうと思ひます。君にも氣の毒だが精々奮發し〔て〕やつてもらひたい例の通り凝るのは却つていけない只いゝ筋をつらまへてぐい/\書いた方が數倍面白からうと思ふが、然し是は私の兎や角いふべき筋でないたゞ參考に申上げる迄です先は御禮旁御返事まで 匆々
    七月十八日               夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一七七七
 
 七月十八日 土 後10−12 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 拜復今朝七時發の御手紙拜見秋聲白鳥兩君ともに結構御頼ひ《原》下さい、小川君引受のよし是又結構私は武者小路に頼みましたまだ返事がありません、然し出來るなら武者小路氏と外に一名里見とか小泉とか長與とかいふ人を入れるやうに頼んだのです、多分むづかしいかも知れません、夫から彌生子は異存はありませんが亭主を置いて細君ばかり頼むのも妙ですな臼川の此前のものはわるくはありませんよ。然し少し人數を勘定してかゝらないと無暗に多くなると困るから其邊もよく胸に疊んで置いて下さい 以上
    七月十八日夜十時              金之助
   三 重 吉 樣
 
      一七七八
 
 七月二十日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 久しく御無沙汰を致しました 偖今度朝日の小説欄で私のが濟んだら諸家の短篇十回もしくは十二回のものを連載する事になりました夫で事が急なので狼狽して方々に依頼しました處 女の人も一二名あつた方が色彩になつてよいと思ふのですが八重子さんは何か書いてくれないでせうか。もう一人田村俊子さんです。一度に原稿を集める必要もありませんが編輯上は順序をとゝのへる點に於て早く頂きたいのです。八月五日から十日迄の間に出來ませうか。(もし書いてくれるとしたら。右につき一寸八重子さんの考を聞いて下さいませんか 以上
    七月二十日                 夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      一七七九
 
 七月二十日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 淺草區田原町三丁目一〇久保田万太郎へ
 拜復小宮君から申上げた事につき早速御承諾の御返事をいたゞき滿足至極に存じます。實は一人十回もしくは十二回位の見當で勘定をつけて居ります故どうぞ其積で願ひたいと思ひます。又此暑い所を御せき立て申しては濟まん事と存じますが原稿はいつ頃迄に出來ませうか。實は今日迄引き受けてもらつた人のは大概八月五日もしくは十日迄の約束になつてゐます。私の方では順々に載せるのですからさう一度に原稿は入用でもありませんが實は讀者にも作者にも都合よく順序をならべたいので斯んな御無理を申上げる次第ですがどうぞ外の人なみに願はれゝば結構と存じます。尤も編輯者の都合の好いやうにばかりも參りますまいから貴君の方では極早い所いつまでに御屆下さいませうか失禮ですがもう一度御返事を願ひます右迄 匆々
    七月二十日                 夏目金之助
   久保田萬太郎様
 
      一七八〇
 
 七月二十二日 水 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豊一郎へ
 拝啓本日の時事新報に岡田半太郎氏四男勝氏死去の報あり明二三日午前十時谷中齋場にて葬式の由なれど私は通知も受けぬ上差支ありて行かれぬ故 もし君が行くなら封入の名刺持參其旨受付に御話し願ひたく早速用事迄 匆々
    七月二十二日                夏目金之助
   野上豊一郎樣
 
      一七八一
 
 七月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 色々御骨折ありがたう、今日迄の経過左に
  鈴  木
  武者小路 (八月五日乃至十日)
  幹  彦 (同)
  未  明 (同)
  俊  子 (同)
  里見醇《〔※[弓+惇の旁]〕》(九月頃承諾)
  久保田(承諾 原稿着日まだ不明)
  青  木(八月五日乃至十日)
  谷  崎(九月十日)
  八重子(まだ返事なし)
  後  藤(まだ返事なし)
    七月二十二日                 金之助
   三 重 吉 様
 
      一七八二
 
 七月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拝啓私の小説は八月へかゝります。次の短篇作家は一々御相談のひまがなかったので私の方でみんな極めました。斷わられるかも知れないと思ってゐたらまづみんな承諾の形になったのもその源因の一つです。何うぞあしからず。
 別紙に其人名と順序を御目にかけます 順序をよくしないと變化がなくて面白くあるまいと思ひますから専断でさう極めて置きました。いざといふ場合ひ多少の變化は免がれないでせう。豫告に是等の人の姓名をずつと並べるか又はだまってゐて不意に、明日から誰《だれ》と斷つて行くか夫は考へものでせう。然し私が短篇をいくつも書く筈の處意外の長篇になつたのでこれ丈でやめるといふ事は其中に一寸斷わつて置いて頂きたいと思ひます
    七月二十二日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一七八三
 
 七月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區元數寄屋町對鶴館大倉一郎へ
 あなたの御手紙を拜見しました。肯定否定の議論も拜見しました。あの議論はあなたの心持を書いたものとして見ればあれで結構です。然し人に見せるとなると表現が不充分のやうに思はれます。夫から俳句も拜見しました中々面白う御座います。あなたは新傾向ですね。然し窮屈の先の先まで行つた新傾向でないから何處かに餘裕があつてよろしいと思ひます。私は舊派です。十八世紀の俳句の形式がすきです
    七月二十二日                夏目金之助
   大倉一郎樣
 
      一七八四
 
 七月二十八日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜啓中央公論の脚本の批評を時事で拜見、大體の上賛成ですが、出來榮の等級がついてゐないからどれもこれも同程度に下らないやうに思はれて好い作者に氣の毒です。
 白鳥〔二字右○〕のは及第(但し尻がまだあるべき筈のを切つてしまつた感あり)
 雨雀 是も及第 恐らく自然で一番まとまつてゐるだらう
 吉井勇 及第 是には一種の面白味がある。
 秋聲 まあ及第。脚本よりも小説にすべきもの、
 中村吉藏〔四字右○〕 落第 あゝ拵らえた痕迹が見え透いちや氣の毒だ
 長田秀雄〔四字右○〕 落第。是は君の評通り、たゞ劇的効果ばかりねらつて内的の力なし
 田村俊子落〔五字右○〕第、あんなものは芝居にならぬのみか男子が屈辱を感ずるやうなもの
 木下杢太郎〔五字右○〕 落第 つまらぬ事夥し
 島村抱月 落〔五字右○〕第 河童の屁
 武者小路〔四字右○〕 及落の中間 いつもより惡いかも知れず
 久保田萬太郎〔六字右○〕 正に落第 ごちや/\ごちや/\
 上司小劍〔四字右○〕 落第 一體ど|か《原》がどうしたといふのだ
 小山内薫〔四字右○〕 落第 是が芝居になる積りか、積りならやつて見ろ。
  以上
    七月二十八日                 夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      一七八五
 
 七月二十八日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 拜復暑中御變もなく結構です霽月は尋ねてくれましたあの結婚問題も聞きました私は血族でも構はんと思ふがどうですかね
 私の小説を暑いのに一度に讀んで下さるあなたは私にとつてありがたい御得意です、御批評も承はりました、何だか一揚一抑一擒一縱といつた風の書き方で惡口だか讃辭だか分りませんね
 早く小説を書いてしまつて外の事がしたいと思ひます霽月から明月の二幅を分捕つたさうぢやありませんか今度御見せなさい、取りはしませんから 以上
    七月二十八日                 夏目金之助
   森 圓月樣
 君の方に好い家はありませんか〔冒頭餘白に〕
 
      一七八六
 七月二十八日 火 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復御心配をかけてまことに相濟みません私は回數に間違をした覺がないのですが百二百四とつゞけて見るとつゞく樣ですから全く私粗忽から生じた事と存じます、恐縮致します、百四を百三と御訂正の上御掲載願ひます、
 猶其以後の分は一回づゝぐれる事にな|る《原》ますが私の方は間違なりに進行致させますからあなたの方で一つづゝ御直し下さる事を希望致します、私が正すと却つて混雜するかと思ひますから序に申上ます里見武者小路、野上久保田後藤悉く承諾致しました、原稿料をきめずに頼みましたが是は一列一體に同じにするか等級をつけるか何だか面倒になりさうです、比較的好い稿料を拂へば一列不別で差支ないでせうがさうでないと文句が出るかも知れないと思ひます。それは追つて御相談致します何しろすぐ金に替へなくては困る人が多いやうですから其邊はあらかじめ御承知を願つて置きます、
 先は御返事迄 匆々
    七月二十八日              夏目金之助
   山本笑月樣
 
      一七八七
 
 七月三十日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 此間は暑い所を御出恐縮しました生憎客が來てゐてゆつく〔り〕御話も出來ず失禮しました其節御話のあつた明月和尚の無絃琴といふ額は咋二十九日着きましたすると其處へ偶然圓月君が同和尚の雙幅をもつて見えました無絃琴はうまいと思つてゐたがあの八字を見るととても及ばないといふ事に氣がつきました不動如の三字などはことに見事です。時にあの額の價を伺ふのを忘れてゐました爲替で送りますから教へて下さいませんか。梧竹の圖南といふのをはづしてあれを懸けかへて眺めてゐます、御令孃の事は考へてもうまい考は出ませんあなたの方が材料をいくらでも持つてゐるのだから仕方がないやうにも思ひます、まあ他人の私から云へば無責任かも知れないが血族でも差支ないと思ふのです 以上
    七月三十日                 夏目金之助
   村上霽月樣
 
      一七八八
 
 七月三十一日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 御手紙拜見僕のはもう十回乃至十五回つゞきます。武者小路君は清書をしない丈で書き終つたと云つて來ました、それを一回に廻すやうに交渉しました、多分承諾と思ひます、小川君のは何うなつてゐるか知れませんが約東通來れば君より先にしてもよろしう御座いますあまり固くならないであつさりやつて下さい三十圓は全部出來上つた上で返してもらへば澤山です 以上
    七月三十一日               夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 このあつさでは誰でもヘコタレさうですがまあ受合つたのだから發奮して片付けて下さい
 
      一七八九
 
 七月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 日本橋區本町三丁目博文館『文章世界』へ〔應問 八月十五日發行『文章世界』より〕
 折角の御尋ですから御答をしたいと思ひますが、どうも何處で區切をつけて好いか分らない質問ばかりなので困ります。さうした意味で困るのも、必竟は私の頭の中でスーパラチーブをつけて考へてゐるものが少ないせゐだと御承知を願ひます。
                        夏目金之助
 
      一七九〇
 
 八月一日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓私の小説は今日差上げるので漸く片附きました。次の豫告のうちに短篇をいくつか書く筈のところ最初のものが長くなつたから已めると斷つて下さいませんか。
 夫から鈴木が一番先《さき》へ書く所ヘコタレまして、後へ廻してくれと申しますから武者小路君のものを一番目へ廻します、同君からは四五日うちに原稿がくる事になつてゐます。序でに折を見て原稿料の事も御相談したいと思ひます、但し雜誌其の他の振合もありますからそれを御承知ならばあなたの方で御|極《き》め下さつてもよろしう御座いますが、さうでないと文句が私の方へ廻つてきさうで辟易する次第であります。三重吉などは五圓くれなどゝ吹きかけます、是は撃退した積です。雜誌でいふと一枚八十錢壹圓、壹圓二十錢位の所をうろついてゐるのであります。
 夫から何かの御參考のために書く人の住所を別紙で御報告致して置きます。
    八月一日                 夏目金之助
   山 本 樣
 
      一七九一
 
 八月一日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神田區駿河臺鈴木町ケーベル内久保勉へ
 拜啓暑いのに出發の御仕度や何やかで嘸御忙がしい事と存じます
 此間ケーベル先生に呼ばれた時是非新橋へ送つて行くやうな事を申しましたが後から考へて見ると先生の迷惑だといふのにことさら我を通すのも餘計な事だと氣がつきましたからやめに致します。どうぞあなたから先生へよろしく云つて下さい。夫から私のボン ※[オに濁點]アイアージを先生に傳へて下さい
 あの時先生の御依頼になつた告別の言葉はたしかに引受けました。社の人と相談十二日に出す事にしてあります。私は其前に原稿を書いて社へ送る筈になつてゐます。是も先生にさう云つて下さい
 先生は自分では淋しくないやうな事をいつてゐられるやうですが私共がはたから見ると何だか淋しさうな感じがしますどうぞよく世話をして上げて下さい 以上
    八月一日                  夏目金之助
   久保 勉樣
 
      一七九二
 
 八月一日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 松江市殿町一七四大谷正信へ
 拜啓あつい事で御座います私は早から晩〔まで〕サル股一つでゐます御郷里の方は多少涼しい事と存じます、御招きにあつかりありがたう存じます私も山陰は始めてですから行つて見たい氣がしますが參られるかどうか分りません若し參られるやうでしたらどうぞ御案内を願ひます今日小説をやつと片付ました百十回程になりましたあつい時も寒い時も執筆は退儀です折角御自愛を祈ります 以上
    八月一日                 夏目金之助
   大谷繞石横
 
      一七九三
 
 八月二日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 御手紙拜見しました、中々暑い事で嘸御難儀でせう。私のやうな宅にゐるものでも弱ります。
 原稿料均一四圓の御考のよし、それなら苦情も文句もある筈なきかと存じます。さうして頂きませうか。
 私は筆で食つてゐる人間としては成るべく他人の原稿を高く買つてやりたいのです。然し社の營業の方面から見ると、安く買へるものをわざ/\高く買はないでもとも考へるのです。
 現に先年讀賣で新らし《原》人の作を連載した時の稿料などを考へるとひどいものです。夫でもあの人たちは書くのですから。
 然し朝日は資格も違ひますし、それに營業から云つても廣告にもなる事ですから財政上その位拂つていゝといふ御考ならば無論賛成を致します。どうぞさうしてやつて下さい。(ある人には一回四圓は俗にいふ御の字〔三字傍点〕かも知れませんが)
 尤もあとの例にもなる事ですから其邊も考へる必要もありませうが、後はあとで勝手にねぎつても(其場合に應じて)構はないかと思ひます。
 此方で頼んだ人は進んで書きたいやうに云ふ人の方が多いのです。是は朝日の爲に結構な事と存じます、原稿料がいゝに違ないとばかり思つてゐるのではないらしくもあります。現に原稿料はいくら呉れるなどと聞いたものは一人もありません。(後藤末雄君丈が其事を鈴木に云つて來たさうですが)
 御參考に申しませうなら今國民に花袋氏が出してゐるのが一回四圓とか聞きました。先は右迄匆々
    八月二日                  夏目金之助
   山本笑月兄
 
      一七九四
 
 八月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下 代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 拜啓原稿料の事は社と協儀《原》の上畧まとめました、各家均一で一回四圓の積です、小川君の原稿はまだありません、いつ寄こす積なのですか、同君が寄こさなければ武者小路君のあとを君に願ひます、私のは百十回程で仕舞になります、二三日前書き上けました 以上
    八月三日                  夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一七九五
 
 八月四日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔はがき〕
 小川君原稿二十日迄に屹度間に合ひ候へば二番目に間に合ひ候、君は三番目に可相成候、同君の原稿は二十日に小生迄ヂカに御送願はれる樣乍御面倒御依頼願上候 以上
    八月四日
 
      一七九六
 
 八月九日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓 東京も非常なあつさです雨が降らないのでたまりません其處へ獨乙と露西亞の戰爭で猶々あつくなります此先どうなるか分りませんが何だか新聞は一號活字ばかりです偖御惠贈の拓本は頗る珍らしく拜見しました あれは古いのではないでせうが面白い字で愉快です、私は今度の小説の箱表紙見返し扉一切合切自分の考案で自分で手を下してやりました其内の表紙にあれを應用致しました出來上つたら御目にかけませう 私はあなたから時々何かいたゞく丈で此方からは何も上げた事がない恐縮してゐます 先は御禮迄 以上
    八月九日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一七九七
 
 八月十日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復豫告は御都合でよろしく願ひます、武者小路君の稿料御手數でした、ケーベルさんの事の原稿御約束の如く十一日組込に間に合ふやう差上ます六面は夫程でもないから載せていたゞけるでせう。ケーベルさんは多分立つでせうもし延ばすやうな事があつたら電話で申上ます 以上
    八月十日                 夏目金之助
   山 本 樣
 
      一七九八
 
 八月十二日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上八重へ
 拜啓玉稿死たしかに屆きました早速社の方へ送つて置きました武者小路君の今書いてゐるのが都合で死といふ名に改まりました、あなたのも死ですが私の豫定だと二つの間に大分外の人を入れる積だからいゝが萬一都合で二つの原稿がつゞいて出るか又は一つ二つ間を置いて出る場合には少々變ですが何とか題の變更しやうはありませんか、
 原稿料は社の方から二三日うちに御屆する筈です、一回四圓ですさう思つて下さい
 御父さんの病氣はどうですかいつ國へ立ちますか、先は御禮旁御照會迄 匆々
    八月十二日                夏目金之助
   野上八重子樣
 
      一七九九
 
 八月十三日 木 前l0-11 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐡へ
 拜復明日御出の趣承知致しました御待ち申します、然し今日のやうな天氣なら別に無理をして約束通りになさらないでよろしう御座います、何うせ家にゐるのですから、昨夜郵便函を開けるのを忘れて今朝御手紙を見たので御返事が後れました今夜中に此手紙があなたの手に落ちれば幸です 以上
    十三日午前十時              夏目金之助
   小泉 鐵樣
 
      一八〇〇
 
 八月十三日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓先日御送被下候明月和尚の額代十二圓小爲替にて差出候間御落手願上候咋十二日夜より暴風雨にて久し振に地面もうるほひ冷氣加はり申候御地暑氣如何にや時節柄隨分御攝養可然と存候先は當用迄 匆々
    八月十三日                夏目金之助
   村上霽月樣
 
      一八〇一
 
 八月十五日 土 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 拜復ケーベル先生についての御高見承知致しましたが私の考ではもうそんな餘地はないやうに思はれますから云ひ出すのは已めます、今年上田敏君が上京來訪の砌そんな話を持ち出して自分で勸誘に出かけるやうな事を云ひましたから私は賛成しました然るにケーベルさんに聞いたら上田は來ないといひました其席に深田君がゐてあれは問題にならないと云ひました(尤も上田君の考は同志社と關係をつけさせる積りだつたのださうです)そんな譯ですから斷わられるのは略わかつてゐるやうですからまあ已めて置きます 以上
    八月十五日                夏目金之助
   鳥 居 樣
 戰爭と暑さで大變ですね御自愛を祈ります
 
      一八〇二
 
 八月十六日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓十三日に約束の長田、田村兩氏の小説未着に候如何相成候やまだ差支には無之候へど約束故一寸御尋ね申上候 以上
 
      一八〇三
 
 八月十六日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓久々御無沙汰に打過ぎ申譯がありません却説今朝の新聞にあなたが盲腸炎の事が出てゐましたので吃驚しましたちつとも知らなかつたものだからつい御見舞もせずに濟まん事を致しました經過の事はちつとも出てゐないので丸で判斷が出來かねますがもう峠を通過して順當に御回復期に向はれてゐる事を切望致します、參上致す筈ですが却つて御邪魔になるとわるいと思つて御遠慮致します 草々
    八月十六日                 夏目金之助
   笹川臨風樣
 
      一八〇四
 
 八月十七日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 淺草區田原町三丁目一〇久保田万太郎へ
 拜啓雨以來少々涼しくなりました御變りも御座いませんか、さて先達て御願ひした小説はたしか八月十五日迄の御約束と覺えでゐますがまだ出來ませんでせうか無理を申上げて御急き立てして濟みませんが私の方でも其日をあてにしてゐますので御通知がないと不安になりますから一寸御伺ひ致します 以上
    八月十七日                夏目金之助
   久保田萬太郎樣
         机下
 
      一八〇五
 
 八月十八日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 拜復おあつい所を御面倒を願つて相濟みません、私が直接に御依頼をする筈でしたが御住所をよく存じませんのと鈴木の方が御懇意だといふ意味から間接に御願ひ致した譯であります、鈴木は八月五日乃至十日にあなたから原稿が屆く約束だと申しました、夫から十三日迄延期を申し込まれたと申しました十六日に鈴木に會つて間接では却つて困るから直接に返事が聞きたいと申しました、二十日迄位よからうとは彼一存の考かと存じます、彼はその事に就いて一言も私には申しません。二十二日迄に御出來になるならそれ迄でよろしう御座いますからどうぞ間違なく御屆下さいまし、甚だ勝手がま〔し〕う御座いますが私の方にも夫々手筈がありますから失禮とは存じますが蛇足とは知りながら念を押して置きます。鈴木は都合によつてあの中へは加へない事にしました 以上
    八月十八日                夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八〇六
 
 八月十九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓稍凌ぎよくなりましたが欧洲の戰爭は段々烈しくなるやうです嘸御多忙の事と存じます却説私の万でまとめる御約束の例の短篇中鈴木三重《原》君は都合により省きました長田幹彦君もことによると省くかも知れません、其わけは機會があつたらよく御話し致しますが只今は右丈御含み置を願ひ置きます 草々
    八月十九日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八〇七
 
 八月二十二日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 愈圖案が出來上つたさうですね面白いだらうと思ひます見に行きたいのですが何だか氣分がわるいので出る氣になりません決して同情がないのでもありませんたゞ動くのがいやなのです何うぞあしからず思つて下さい 日本美術院の演説は斷りました又いつか何處かで駄辯でも弄する時には聞きに來て下さい 右迄 草々
    八月二十二日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一八〇八
 
 八月二十三日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓今度の短篇につき死の題材が多く加之死といふ標題が續々あらはれるに就ての御注意拜承仕候右につき早速後藤末雄氏へ照會致候處同君より別紙返事有之候故供貴覽候同君の考通「柳」といふ題に御改めの程願上候猶其他の人のも段々ある筈なるがこと/”\し《原》く死を取扱ふ譯にてもあるまじくと存じ居候全く偶然の暗合から變な事に相成恐縮の至に候先は右迄 匆々
    八月二十三日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八〇九
 
 八月二十三日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 啓玉稿十七の娘只今頂だい致しました御暑い所を御急き立て申して濟みません 稿料は二三日中に杜から屆けさせる事に取計ひます一回四圓の筈になつて居りますからどうぞ其御積で御不承下さいまし
 夫から掲載の順序はどうぞ私に御任せを願ひたいと思ひます是は讀者のため作家のため私の方で好きやうに取計ひたいのですから。
 先は右御禮かた/”\御挨拶迄 匆々
    八月二十三日              夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八一〇
 
 八月二十四日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 啓昨日は失禮其節一寸御話申上候見返しの裏へつける判は別紙のやうなものに取極め申候故不取敢入御覽候可然御取計被下候はゞ幸甚 草々
    八月二十四日              夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八一一
 
 八月二十五日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 拜啓あなたの病氣は段々よくなるさうで結構です早くよくなつて神戸へ入らつしやい私は大して變りはありませんまあどうか斯うか生きてゐます、戰爭が始まりましたたまにはあんな事も經驗のため好からうと思ひます歐洲のものどもは長い間戰爭を知らずにゐますから。あなたはあつい所にゐて寐てゐますかあなたの方からいへば寐るのも禅でせう、私は精神がぼうつとして其結果晝寐をします、私の頭には却つて夫がいゝのです、からだを御大事になさい 以上
    八月二十五日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一八一二
 
 八月二十五日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長崎市長崎高等商業學校浦瀬七太郎へ〔うつし〕
 拜呈暑い事です 御變もありませんか 却説かねて御依頼の書本日小包で學校宛に出しましたから受取つて下さい あの※[糸+光]は出來損つたから紙二枚で勘辨して下さい 夫から※[糸+光]の心棒になつてゐる新聞紙の中にある墨と筆はあなたが送つてくれたのですか 私は人から頼まれたのを一所にまとめて書きましたので其墨と筆との贈主が分らなくなつたのですが多分あなただらうと思つて御禮申上ます萬一間違つたら一寸知らして下さい 以上
    八月二十五日               夏目金之助
   浦瀬七太郎樣
 
      一八一三
 
 八月二十五日 火 後10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區飯田町六丁目長田幹彦へ〔はがき〕
 御病氣の趣嘸かし御難儀の事と存候御身体に御障りなき範圍内にて御執筆願上度御報の如く明後日迄に入手出來候へば幸に候へど切に御療養祈り候 以上
    二十五日夜
 
      一八一四
 
 八月二十六日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷三二九鈴木三重吉へ
 拜復須永の話を分冊にするならば二冊にして一度に出して下さい。それから兩方で二百頁になるやうに何か好い加減なものをつめ込むのは少々困ります、分冊なら分冊でいゝからはつきり二冊にして頂きたいと思ひます、右は無理かも知れませんが私の方の都合もありますからどうぞあしからす 草々
    八月二十六日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一八一五
 
 八月二十八日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓不相變時局で御多忙な事と存じます却説私の友人の畫家の津田青楓といふ人が旅順の攻撃に參加した時の日記があるのださうですがそれをいつか手を入れて置きたいと思つてゐた處只今小閑が出來たので書き直すといふについて今度の戰爭もある事だからそれを朝日新聞にのせてくれないかといふのです私は今六面は廣告が少ないやうだから社の都合では出來るかも知れないともかくも聞いて見やうと申しました夫で一寸伺ひます諾否の御挨拶については無論御遠慮も入らないのですが私は一寸自分の責任を果すために取次ぐ丈ですからどうぞ一言御返事を願ひます 頓首
    八月二十八日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八一六
 
 八月三十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ〔封筒表左側下に「奥附在中開封用心」とあり〕
 拜啓奥づけ兩三枚書いて見たうち一番よささうなものを御目にかけ申候此中に著者發行所印刷所の名を朱字で細かく配置する譯に相成候が「猫」の奧づけを覽ると大體の見當相つき申候 猶委細は御面語の上高々
    八月三十一日             夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八一七
 
 八月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『新潮』へ〔應問 九月一日發行『新潮』より〕
 最近新作家とはどこで區切をつけて好いか分りませんから一寸困りますが、小生の讀んだうちで人の評判に上らないもの二三を申上ます。
 (一)七月の「我等」卷頭にある萬造寺齊君の「斷片」。
 (二)「白樺」にある長與善郎君の「旨目の川」といふつゞきもの。
 (三)八月の「新小説」にある濱村米藏君の「むくろ」。
 以上の外にまだありますが最近新作家の部に入れていゝかどうか分りませんから省きます。夫れから以上三篇はいゝところ丈を見て例に擧げたので、缺點を云へと頼まれゝば隨分云へもしませうから、それは御承知を願ひます。又私はすべての雜誌を讀まないから自然不公平になるかも知れません、其積りでゐて下さい。夫れから讀んだ時は面白いと思つても咄嗟の場合に急に思ひ出せないものもありますから、それも御斷りを致して置きます。
 概していふと近頃は小説をかく人がみんな器用になつて、一般の水平が高くなつたやうです。私は是丈云へば特殊の例を擧げないでも澤山だと思ひます。私にはかうした概括的の意見の方が却つて讀者の參考になるやうに考へられるのですが何うでせう。つぎに作家が各自行きたい道を勝手に歩いてゐる傾向も見えるやうですが、是も大變結構な事ではありませんか。
 
      一八一八
 
 九月一日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町在山口井本(當時青木)健作へ
 拜啓小説殘骸十一回今朝拜受致しました御暑い所を御面倒を願つて濟みません玉稿は早速社の方へ送ります原稿〔料〕は社の會計から御屆けするやうに取計ひます、それから今度の原稿料は誰も彼も皆四圖(一回)の筈になつてゐますから左樣御承知を願ひます先は御禮旁御通知迄草々
    九月一日                  夏目金之助
   青木健作樣
 
      一八一九
 
 九月四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓 昨夜は失禮致しました 今朝あの旅順の日記を拜見しましたがあれはどうも新聞向でありません雜誌がいゝでせう反響かほとゝぎすはどうですか
 昨夜御話した通り社へ返事をしてくれといつてやつたのに○○といふ男は黙つてゐます不都合だと思ひます返事をしない處へあれを送るのは厭です其意味からしてももう社へは交渉しませんどうぞあしからず 草々
    九月四日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一八二〇
 
 九月四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓短篇の原稿をまとめる事を社の方でやつて頂きたいと思ひます今迄とくに來るべきで來ないのは長田と久保田です。長田は心臓ケイレンだとかいつて二三日待つてくれといつたのがもう餘程前になります夫からどうしたか知りません久保田は九月二三日迄に是非くる筈でまだ來ません。私はかう人に催促をするのが厭になりました
 其外に谷崎は九月十日の約束です夫から里見は九月一杯にかく事を八分通り受合つてゐます是等はもし來たら此方から差上ます
 つぎに出すのを武者小路か高濱との御注文でしたが私はまだ雙方とも懸合ません、武者小路君はすでに出たし長いものをかく種があるか分らないからです高濱は近頃小説には遠かつてゐますし其砌は旅行中でした。
 あとのものに就ての心當りは少々ありますが是はあなたの方で御極めになりたい人があるなら私を省略して直接に御極め下さい
 御多忙中閑文字をつらねて濟みません 草々
    九月四日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八二一
 
 九月五日 土 前9-10 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜啓此間あつた時小説を書きたいやうなな話をされたし私もよからう位には答へて置いたやうにも思ふが其所が明瞭な約束でなかつたため其後君の事は丸で忘れてしまつたのです、忘れても差支はないが實は一昨日手紙で原稿の取まとめ方をちやんと社の方へ讓り渡してしまつたのです夫には少し事情もあるが面倒だから申しません、ともかくも僕が萬事取り計つてゐるうちなら其内の融通も利くが此方から人名と約束の期日を知らして凡て事務引繼の如き事をやつたあとではもう私の手を離れたと同樣だから今新たに君を入れるのは私からは云ひにくくなつてゐます、尤も長田や久保田は書く約束を何度でも延ばすからもし其方を破約して君を入れるなら出來るかも知れないがそれは社の方の考で今では私の意見には參らない私が當事者なら長田は斷わるかも知れないが夫より凡ての面倒を社の方に任せる方が好からうと思つて斷わらずにさうしたのです長田が心臓痙攣とかいつて寄こしたのは大分前ですが其後病氣がわるいのかなまけてゐるのか見當はつかないのです、も《原》うも御氣の毒のやうですが以上の譯だから我慢して外へ廻して下さい夫でなければ薄井にでも頼んで山本に話して御もらひなさい 失敬
    九月五日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一八二二
 
 九月五日 土 前9-10 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 御手紙を拜見致しました小宮が何か申上たさうでそれがため御氣に障つたと見えますどうも恐れ入りました 小宮は馬鹿ですからどうぞ取り合はないように願ひます あれは大暑でも何でも毎日芝居ばかりへ行つて知つたものゝ顔を見ると要らざる話をして喜こんでゐると見えます 私は「あれがあの人の癖だ」抔と申した覺はありません、私があなたの手紙に對して加へた評について露骨な有體の事をこゝに繰返すのは私の責任でもあり又難事とも思ひませんが手紙でくどくどしい事を申すのも手間が取れますから今後もし機會があつて御目にかゝる事が出來た時 御質問が出れば何でも御滿足の行くやうに御話を致す考で居ります 右迄 草々
    九月五日                  夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八二三
 
 九月六日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓青肉にて押す檢印を書いて見たれどうまく行きませんまづ其うちの出來の好いと思ふのを御覽に入れますもし是が間に合はなければ普通のものを普通の印判屋〔に〕彫らせたらどうかと思ひます 以上
    九月六日                  夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八二四
 
 九月七日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓昨夜御送の序文中必要の文句丈加へましたからよろしく願ひます夫から目次の方も同封で御送ですが序を直す以上目次に手をつける必要もあるまいと思ひますから是は其儘御返し致します 當用迄 草々
    九月七日                  夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八二五
 
 九月七日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 拜啓大事な原稿がなくなつたさうで甚だ驚ろきました新聞社だの活版所などゝいふものは第一に原稿を大事にしなければ濟まないのにどうした事でせう實に不都合だと思ひますもう一返御書きになるならば無論もう一返原稿料を取るやうになさい。社のものはあやまりましたか。あやまらなければ私の所へ云つてきて下さい。責任者か〔ら〕一應の挨拶を致させるやうにします 以上
    九月七日夜               夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八二六
 
 九月十六日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 病氣の御見舞状をうけ難有存じます 今日やつと起き上つて此手紙をかきます 床はまだ上げず 然し今度のはいつもの病氣ではなくひどい胃カタールです
 右御禮まで 草々
    九月十六日                夏目金之助
   臨風老 兄
 
      一八二七
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 下谷區上野櫻木町四四眞如院中勘助へ
 君は知るまいが僕は其後煩つてまだひよろ/\してゐる 原稿は受取りましたがとてもあの長いものをよむ勇氣はない 其外にも依頼されてよまねばならぬものもあるがまだ放擲してゐますどうぞあしからず思つて下さい
    十月十七日               夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一八二八
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ〔はがき〕
 啓レツシング御高譯たしかに頂戴致しました病中にて其儘に致し甚だ不相濟候どうぞ御許し下さい
 
      一八二九
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下大井町濱川山口舘秋山眞澄へ
 私は病中あなたの御手紙を拜見致しましたが筆を執る事が不可能なのでつい御返事を上げませんでしたまだ少しひよろ/\してゐますが折角の御手紙に對する私の責任として一言御答を致します實を申し上げると御指名の御作はまだ拜見して居りません又早稻田文學も手元に御座いませんもし雜誌を御送りになれば氣分のいゝ時に拜見した上單簡な愚見を申上げられるだらうと存じます 右迄
    十月十七日                夏目金之助
   秋山眞澄樣
 
      一八三〇
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣野邊地野坂十二郎へ〔はがき〕
 私は病後で當分書畫など書けないだらうと思ひますからあしからず 以上
 
      一八三一
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二木村恒へ
 私は病氣が略癒つて手紙が書けるやうになつたからあなたに御禮をいふ爲めに此手紙をかきます 果物と鉢をありがたう 原稿は見ましたが二つともあまり好くありません、小説の方よりは脚本の方がまだ好いでせうあれは人によつたらほめるかも知れません 脚色が芝居的だから 然し其脚色があるにも拘はらず一篇の主意が少し變です「海へ行く」といふ主意が不自然に讀まれるのです、疲勞で長い事が書けませんから是丈で御免蒙ります 以上
    十月下浣                 夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一八三二
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 大阪のなだ萬のでんぶと鼈の味噌頂戴ありがたう 病氣は略よろしい然しまだ床は上げず 是も必竟は勤のない時間に制限の要らぬ爲かも知れず ある夜のまど|ひ《原》といふ句集面白く拜見、あのうちにゐる素石といふ男は人に短冊を書いてくれといつて書いてやると一言も禮を云はぬ不都合な奴なり 寐ながら句を作らうと思ふが一向出來ず
  酒少し徳利の底に夜寒哉
  酒少しありて寐たる夜寒哉
  眠らざる夜半の灯や秋の雨
  電燈を二燭に易へる夜寒哉
 一向句にならず
 此間岩波が來て僕の句集を出したいといふから僕の句は散亂してまとまらないと云つたら夫は自分が方々へ行つて書きあつめると云つた 僕は恐縮して未だに許諾を與へずにゐる
    十月下浣                 夏目金之助
   東 洋 城 樣
 
      一八三三
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 此間は拙著の装幀について御同情のある御批評を下さいましてありがたう存じます 御禮を申上げる筈でしたが病氣で一ケ月許寐てゐましたのでつい其儘にして置いて濟まん事を致しました承はればあなたもまだよくないさうで御手紙では三四日中に温泉場へでも御出向のやうに書いてありましたがもう御本復御歸りの事と存じますが如何ですか
 畫の展覽會が澤山ありますがまだ外出も出來ないのでどれも見ません 貢君が漢大吉磚瓦硯を送つて呉れました私は机の上に載せて飽かず眺めては樂しんでゐます 以上
    十月下浣                 夏目金之助
   橋口 清樣
 
      一八三四
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 君の手紙を受取つた時私は病氣で寐てゐました病氣は長くつゞいて昨今漸く手紙などぽつ/\書き始めました「心」を一部上げたいと思つてゐたがもう名古屋で御求めのやうだから止めませう夫から前から御依頼の書も書かう/\と考へて紙を買ひに出るのが暑くてたまらなく面倒だつたものだから一日々々と延ばしてゐるうち病氣の爲に打ち倒されたやうな次第でまことに濟みません其内かきますからさう思つてゐて下さい 以上
    十月下浣                 夏目金之助
   田嶋道治樣
 
      一八三五
 
 十月二十一日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市第七高等學校皆川正※[示+喜]へ
 君が來てから又病氣をして寐てゐた 鮎は御國元から頂戴したが生僧の病氣で喰ふ譯にも行かず殘念でした 琉球がすり慥かに屆きました妻から御金は送つたらうと思ふもし未だなら送ります、「心」一部差上ますから御受取を願ひます 野間君へよろしく 以上
    十月二十一日                夏目金之助
   皆川正※[示+喜]樣
 
      一八三六
 
 十月二十三日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣野邊地野坂十二郎へ
 啓御贈の貝の干したものありがたく存じます昨日到着致しました私は病後で堅いものが食べられさうにないけれどいつ迄置いても腐敗の恐もないだらうと思ふから身體がよくなつたら食べます
 先は右御禮まで 草々
    十月二十三日                夏目金之助
   野坂十二樓樣
 
      一八三七
 
 十月二十四日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓好い時候になりました此間は松茸を御贈り被下ありがたう御座いましたあの時は病氣で寐てゐました病氣の《原》例の通りのものです約一ケ月以上かゝつて漸く起きました夫であれは食べられませんでしたが御手紙文は拜見しました御禮に上げるものもありませんから近著「心」を一部小包で差上ますどうぞ御受取下さい 以上
    十月二十四日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一八三八
 
 十月二十四日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣腰越津村渡邊傳右衝門へ〔はがき〕
 茶屆きました有難う御座います、實は先達ての御茶の御禮に書物を上げたのですのに又茶を頂戴しては濟まん事です、儲かつたのは大慶です
 
      一八三九
 
 十月二十六日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ〔はがき〕
 彼岸過迄と四篇の縮刷を校正する時間と意思がありますか折返し御返事願ひます 草々
 
      一八四〇
 
 十月二十七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 下谷區上野櫻木町四四眞如院中勘助へ
 拜啓病氣はまあ癒りました御安心下さい一昨日と昨日とで玉稿を見ました 面白う御座います、たゞ普通の小説としては事件がないから俗物は褒めないかも知れません 私は大變好きですことに病後だから又所謂小説〔四字右○〕といふ惡どいものに食傷してゐる所だから甚だ心持の好い感じがしました、自分と懸け離れてゐる癖に自分とぴたりと合つたやうな親しい嬉しい感じです、尤も惡い所もありますが夫はまあ俗にいふ微疵であります。私はあゝした性質のものを好む人が少ない丈それ丈あゝいふものに同情と尊敬を拂ひたいのです
 原稿は御あづかりして置きませうか又は一先づ御返ししませうか どつちでもあなたの御都合の好いやうに取計ひます 草々不一
    十月二十七日                夏目金之助
  中 勘|介《〔助〕》樣
 
      一八四一
 
 十月二十八日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓久々御無沙汰を致しました此間手紙をいたゞいた時は病氣で寐てゐましたので御返事をする事も出來ずつい失禮しました 此頃漸く回復致しましたから今日は御挨拶かた/”\此手紙を書きます
 あの書畫帖へ出鱈目なものを書きましたのは事實ですそれを青楓君に見せたのも事實ですが實は不愉快で不愉快でたまらなかつたのでむしやくしや紛れに書いて仕舞つたのです夫をあとから見るととても人に差上られるやうなものではありあ《原》りませんので其儘に〔し〕てゐるうちについ病氣で寐てしまつたのです私はあなた〔が〕是非欲しいと仰やるなら其内自分で書畫帖を買つて來て相應のものを書きたいと思ひますあれはどうぞ勘辨して下さい始から貰つたもので〔も〕ないのに勝手に書き散らして御詫もしない罪は御許し下さい黙つてゐて濟まん事と存じまして一言言譯がましい事を申上ます、好い季節になりましたが私はまだ展覽會ものぞかずに居ります
    十月二十九《原》日             夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一八四二
 
 十月二十九日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込動坂町高田元三郎へ〔うつし〕
 拜啓 あなたの手紙を見たのは丁度病中で筆を執る事が出來ないのでつい其儘にして置いて濟みません
 ローレンスさんの講義の件につい〔て〕の御尋ねももう時候後れだらうと思ひます まあよく御勉強をなさい あなたの置いて行つた小説の原稿は夏中讀んで見ましたが あなたのは無駄が多くつてどうもしまらなくつて不可ません 筋をもつとしつかり立つて夫を成る可く緊張させて進ませるやうにしなくては讀み惡いと思ひます夫でなければ無駄そのものに大な興味が湧くやうな面白いものを捕まへる必要があります、夫からあなたの友人の書かれたものもよみました 小説としてはあなたのよりずつとまとまつてゐます 然し夫もまあ何うか斯うかまとめられてゐるといふ丈でとくに取り立てていふ程の事はありません 惡口を云へば甘過ぎます、さうして寧ろ生硬です、私は惡意を以て批評するのではありません 好意で出來る丈あなた方の將來に有利な結果が來るやうに祈つて 無禮な言を申すのですから 無遠慮の點はどうぞ誤解しないやうに許して下さい 以上
    十月二十九日               夏目金之助
   高田元三郎樣
 
      一八四三
 
 十一月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 大阪府下濱寺羽衣松南水落義一へ
 啓あなたの御病氣は如何ですか私も病氣をして長い事寐てゐました今日は久し振に人から頼まれた書を大分書きました其うちにあなたのも一枚加へました畫といふ御注文でしたけれど畫はかけませんから書を書きました書もまづいのですがまあ已を得ません御氣に召したら御笑納を願ひます、是でも書くのは中々臆《原》劫です今日は紙を切るやら墨をするやら色々の事で一日の三分二位つぶしました段々秋風がさびしくなります御身體を御大事になさい 以上
    十一月四日                夏目金之助
   水落露石樣
 
      一八四四
 
 十一月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 森成さんいつか私に書をかいてくれといひましたね私は正直だからそれを今日書きましたあなた許りので〔は〕ありません方々のを一度にかためて書いたのです一日の三分一程費やしましたあなたのは御氣に入るかどうか知りませんが私の記念だと思つて取つて置いて下さい
 良寛はしきり〔に〕欲いのですとても手には入りませんか 以上
    十一月四日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一八四五
 
 十一月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都府下宇治醍醐藪錦山へ
 拜啓あなたは私に畫をかいて自分の詩を賛にしろとしきりに御請求になるが有休の事を申上ると東京のものは大分多忙でさういふ風流の交際ばかりしてゐる譯に行かないのです、あなたの手紙が來た時私は病氣で寐てゐました催促が何度も來た時も病氣で寐てゐました夫で御返事も上げられなかつたのです今日はかねてから頼まれた書を一《原》枚ほど書きましたあなたに畫や自畫賛は御注文通り差上られないが一枚の書なら拙いながら書けると思つて書きました旨いのではありません實をいふと手數がかゝらんからです仕方がないからそれを畫と賛の代りに送りますもし氣に入らなければ破つて御すてなさい一向構ひません、私が書をかいてしまつた所へ端書で柿を送つてくださるといふ通知がありました柿は夜つ〔き〕ました有難う御座います 以上
    十一月四日夜                夏目金之助
   藪 錦山樣
 
      一八四六
 
 十一月六日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)詩經ニ窈窕たる淑女ハ君子ノ好|逑《キウ》とあり。逑は配偶ノコト求《キウ》即チ求メルといふ字に※[□の中に※[しんにょうの古い形]]ヲツけタモノ。ノベルは述ニテ朮ニ※[しんにょうの古い形]ナリ
 (二)ナンコをツカムにて差支ナシ
 (三)○ヨリヽの方ヨカラン
 (四)ベラ/\で差支ナシ上ニ※[ネを○で囲む]ヲ加ヘてモ加ヘナクツテモヨシ
 
      一八四七
 
 十一月七日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)汐汲か汐酌みか知ラナイ、君ノ好い方ニシテ下サイ
 (二)大神樂ナルベシ
 (三)調子ナルベシ
 (四)滅茶苦茶ナルベシ
  以上
    十一月七日
 
      一八四八
 
 十一月八日 日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 今日の校正のうち赤いしるしの附してない所を二三ケ所氣がついたから直して置きました 以上
    十一月八日
 
      一八四九
 
 十一月八日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓其後は御無沙汰を致しました たしか去年の事と思ひますがあなたは私に何か書いてくれと云はれました其時私は傑作が出來たら上げませうと答へました 傑作は無論出來ませんが約束を履行しやうと思つてあれから一枚書いたのです然し拙いので上げる氣にもなれないので其儘にして置いたのです此間病氣をした時に御見舞を頂いた後私は永らく寐てゐました 起きてから十日目頃に今迄頼まれた書を諸方へ送らうと思つて一度に片付けました約束《原》十五六枚あつたでせう其内去る人の自壽の詩に次韻したものを注文で書く義務があつたのですが外のものはまあ好い加減に胡麻化したのですが其一枚が何う書き直してて《原》書けない爲めとう/\大變な時間を潰して仕舞に腰がいたくなりました、今御贈りする五絶は其時序と云つつ《原》て失禮ですがまあ序に書いたのです無論豫約の通り傑作とは參りませんが何だか差上げないと氣が濟まんから御笑覽に供します私は多病でいつ死ぬか分らない人間ですがもし生きてゐればもつと旨くなつて貴兄に御滿足の行くやうなものを書き直してあげて前債を償ひたいと思つてゐますがいつ死ぬか分りませんから拙くてもまあ是を差上げて置く事に致しますどうか御納め下さい 以上
    十一月八日                夏目金之助
   臨 風 學 兄
         座下
 
      一八五〇
 
 十一月九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五〇岡田正之へ
 啓上
 此間は講演の事につき御出被下ありがたう御座います本月二十五日か來月二日かに御極め〔の〕よし承知致しました私はどちらでも構ひませんが早い方が便利で御座いますから十一月二十五日に出る事に致します然し時間について一寸申上ますが三時からだと四時か四時過になる事と存じます近頃は日が短かう御座いますから電燈をつけるには早しつけないでは暗〔し〕といふ時間になつて遣る方も聞く方も氣が落ち付かないかと思はれますが出來るなら二時からに致したいと思ひます
 夫から學習院はたしか目白の女子大學の先と心得てゐますがさうで御座いますか
 學校へ參つたらあなたの名を指して御面會を申入れてよろしう御座いますか
 次に演題はまだ未定でありますからどうぞ其御積に願ひます
 最後に入らぬ事ながら學校が學校だから蛇足とは存じますが一言つけ加へます掲示其他に私の姓名の上に文學博士と書く事は御會釋を頗ひます私は博士でも何でもありません現に私方へある書信に文學博士と誤つて書いてくるのも殆んど絶無で御座いますから間違もなからうと思ひますが官邊に縁の深い學校の事ですから此點はとくに御願を致して置く譯であります掲示の必要がありますなら演題未定夏目漱石もしくは金之助とのみ御書き下さいまし右御挨拶序用件のみ申述ました餘は拜眉の節萬々申上る積であります 以上
    十一月九日                 夏目金之助
   岡田正之先生
        座下
 
      一八五一
 
 十一月九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二木村恒へ
 玉稿は拜見しました藥屋を始めたら藥屋の事を是から御書きなさいさうして家業に精を御出しなさい玉稿の價値はまあ一通りのものです原稿の拂底な雜誌なら或は載せるかも知れません只もう少し奥へ進んだ所が一個所あつてそれが扇のカナメのやうになつてゐると一《原》變好いと思ひます、あれは御返ししますか又は御預りして置きますか 御返事次第でどうとも致します 以上
    十一月九日               夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一八五二
 
 十一月九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 牛込區喜久井町三六牛尾方吉永秀へ
 拜復此間は御出下さい《原》つた處留守で失禮致しましたあなたは私の書物を愛讀して下さるさうですが感謝致します、然し人の作物はよんで面白くても會ふと存外いやなものですだから古人の書物が好きになるのです 私は御目にかゝるのは構へ《原》ませんが御目にかゝる價値のない男ですから夫程御希望でないなら御止めなさい、夫から私に會つてどうなさる御つもりですかたゞ會ふのですか私は物質的には無論精神的にあなたに利益を與へる事は到底出來まいと思ひます
 失禮ですがあなた《原》大變奇麗で讀み易い字を御書きになります私は此通り亂暴です御推讀を願ひます 不悉
    十一月九日                 夏目金之助
   吉永 秀樣
 
      一八五三
 
 十一月十日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「痩せてゝも」だらうと思ひます。御推讀の通りだらうと考へます 以上
    十一月十日
 
      一八五四
 
 十一月十一日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜啓 原稿は受取申候 然しあれは社會部の權利に屬するものにて小生はあまり容喙するを好まず 現に今出てゐる與謝野昌《〔晶〕》子女子の感想など小生から云へば無論没書にする底のものに候へども私の關係する筋でなき故其儘に致し居り候 私に依頼したら直接に頼んで見ろといふ返事を得たといふ事をかいて社の山本松之助君宛で原稿と手紙を出し〔て〕御覽なさい ことによればのせるかも知れないから。原稿は必要ならすぐ返しますが木曜にでもくるなら其時迄取つて置きます 以上
    十一月十一日               夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      一八五五
 
 十一月十二日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校菅虎雄へ
 拜啓昨日は突然飛んだ事を御依頼ことに遠路拙宅迄御光來を願ひ何とも申譯なき次第平に御海恕可被下候不在中電話にて好都合に運び候趣あとにて承知御好意萬謝致候同夜天台遺士祝賀委員一同の名を以て左の通りの書面を領し此事件も是にて一段落と相成申候ひとへに御盡力の結果と感佩不淺候手紙の寫念の爲め左に差添申候
 「拜啓昨日御送申上候天台道士還暦祝賀會趣意書中文學博士の四字を貴名の上に冠せしは誤植にて何とも申譯無之候一般の方面へは未だ一葉も發送不仕候故必ず四字抹消の上配達可仕又既に發送致したる二百枚(發起人の分)に對しては端書を以て早速取消可申候間何卒御海恕被成下度此段願上候 敬具
    十一月十一日
             祝賀會委員一同」
 ついては小生よりは祝賀會へも前田君へも何等の手紙も出さず候故大兄より電話なり何なりにて宜敷御傳願上候
 右御報旁御禮迄 草々頓首
    十一月十二日               金之助
   虎 雄 樣
       座下
 
      一八五六
 
 十一月十二日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五〇岡田正之へ
 拜復時刻の儀は三時ならでは御差支のよし承知致候同日(二十五日)同刻にまかり出る考に御座候博士といふ肩書つきの掲示其他については何分の御挨拶なきも無論御承諾の事と心得改めて念を押す事なく參上の決心に候此問題につき昨今妙な行違より自他共に迷惑致し隨分の手數を相手にかけ申候につきわざとらしくは候へども一言申添候次第不惡御了察願上候先は右迄 草々敬具
    十一月十二日                夏目金之助
   岡田正之樣
 
      一八五七
 
 十一月十三日 金 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社へ〔十二月十五日發行『佐藤北江』より〕
 拜啓、佐藤君哀悼誌中に何か書けといふ御手紙を最初拜見致した時出來得るならば書きたいと思ひました、然し有體に自白すると私は佐藤君と交が淺いのです、御辭儀をする位の面識があつた丈なのです、夫でも何か特色のある事を記憶してゐればすぐそれを材料にして差上るのですけれども生憎そんな機會に出會はなかつたので遺憾ですが君の性質は誰でも知つてゐる、又口にする丈の事しか云はれないのです、夫で今日迄黙して居りました所へ再度の御手紙があつたのです、私は最初右の事情を述べて御詫を致さなかつた事を後悔致しますが、然し今でもまだ沈黙してゐるよりは幾分か禮儀に合ふだらうと思つて何故私が佐藤君の事を書かない、否書けないかの意味を御詫までに書きます、どうぞ御諒察を願ひます 敬具
    十一月十三日
 
      一八五八
 
 十一月十四日 土 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成舘林原(當時岡田)耕三へ
 拜復 私が生より死を擇ぶといふのを二度もつゞけて聞かせる積ではなかつたけれどもつい時の拍子であんな事を云つたのです然しそれは嘘でも笑談でもない死んだら皆に柩の前で萬歳を唱へてもらひたいと本當に思つてゐる、私は意識が生のすべてであると考へるが同じ意識が私の全部とは思はない死んでも自分〔は〕ある、しかも本來の自分には死んで始めて還れるのだと考へてゐる 私は今の所自殺を好まない恐らく生きる丈生きてゐるだらうさうして其生きてゐるうちは普通の人間の如く私の持つて生れた弱點を發揮するだらうと思ふ、私は夫が生だと考へるからである 私は生の苦痛を厭ふと同時に無理に生から死に移る甚しき苦痛を一番厭ふ、だから自殺はやり度ない 夫から私の死を擇ぶのは悲觀ではない厭世觀なのである 悲觀と厭世の區別は君にも御分りの事と思ふ。私は此點に於て人を動かしたくない、即ち君の樣なものを私の力で私と同意見にする事を好まない。然し君に相當の考と判斷があつて夫が私と同じ歸趣を有つてゐるなら已を得ないのです、私はあなたの手紙を見て別に驚ろきもしないが嬉しくも思へなかつた寧ろ悲しかつた 君のやうな若い人がそんな事を考へてゐるかと思ふと氣の毒なのです。然し君は私と同じやうに死を人間の歸着する最も幸福な状態だと合點してゐるなら氣の毒でもなく悲しくもない却つて喜ばしいのです
 江口と喧嘩をしたら仲直りをしたら好いでせう、仲直りの出來ないやうな深い喧嘩なら仕方がない 江口はそんなに仲直りの出來ない程感じのわるい人とは思はない 以上
    十一月十三日                金之助
   耕 三 樣
 
      一八五九
 
 十一月二十二日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(常時岡田)耕三へ〔はがき〕
 縮刷についての御忠告拜承何分ともよろしく願上候小生は何等の考もなし(本を見ないから)
 
      一八六〇
 
 十一月二十四日 火 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜啓大塚君の件につき其儘に致し置き無申譯候御申越の日限のうち二十九日の午後に小生よりまかり出でべくと存候先は右御返事迄 匆々敬具
    十一月二十三日              夏目金之助
   佐々木信綱樣
 
      一八六一
 
 十一月二十七日 金 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜復大阪よりの御土産拜受ありがたく存候「心」御約束の處其後署名を怠り居候ためそれからそれからとなくなり只今手|本《原》に一冊も無之候尤も書店から取寄てあげる事は譯なく候 もし急に御入用ならば其旨御申越次第小包にて差出可申候もし然らずばいつでも御面會の節に取計ひ可申候 以上
    十一月二十七日               夏目金之助
   松根豐次郎樣
 
      一八六二
 
 十二月二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ
 拜復 彼はカレ〔二字傍線〕他はひと〔二字傍線〕でもた〔傍線〕でもよろしく候 たう然と醉ふとあるのは漢字にすれば無論陶然なるべく存候 頓首
    十二月二日                夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一八六三
 
 十二月三日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜復鈴木君へ御問合せの段御手數奉謝候然るに鈴木氏は一二日前拙宅まで被參種々談合被致候私は其節私の責任を以て大塚君の返事を同君迄申入候是は先方にて内意を聞きたる上出來る丈圓滿の解決を告げたき旨の希望にもとづきたるものと御承知被下度候小生は念の爲め貴下を大塚家の代理人と見傚して可然やと質問致候處同氏は不然と答へ候故に小生は同氏に對して此間の返事を洩す必要も義務もなきは無論に候へども話したりとて事實上差支なきものと思ひ左樣取計ひ申候同氏は然らばすぐ是より黒岩氏方に行き相談の上何かの方法もあらば講じて見るぺしとて歸られ候黒岩氏は栃木縣|奈《〔那〕》須あたりに居らるゝ由故夫より直ちに行くとするも相談に多少の時間はかゝるべきかと存候小生は同君に佐々木氏迄何とか挨拶されたし小生はもし日曜迄にたよりなければ延期と思ひ砂土原町へは出向かずと申し先方も其覺悟にて拙宅を辭され候右の事情故日曜迄にはどちらにしても鈴木君から貴所へは何とか返事ある事と存候もし日曜迄にあなた樣へ何とも回答なき折はこちらは直接大塚家と交渉時日取極めたくと存候以上はすぐ貴所ならびに保治君へも御報可仕筈の所如何なる譯にや怠りても差支なしといふ心持有之(其意味は小生も解意せねばよく判然せず)そのため貴書を拜讀する迄は其儘に打棄置候保治君へも御序あらば御傳へ願ひ上候又右鈴木氏へ小生一存を以つてあの時の相談の結果を御列席も願はずに御傳候事不都合に候はばひらに御容赦にあづかり度と存候先は右御返事迄 匆々頓首
    十二月三日                 夏目金之助
   佐々木信綱樣
 御贈被下候雜誌二部ありがたく頂戴致候
 
      一八六四
 
 十二月六日 日 牛込區早稻田南町七より 福井利吉郎へ
 拜啓此間御來臨の節御求めの拙書恐縮とは存候へども折角の御希望故御約束に從ひ試みに相果し小包にて差上候間御落掌願上候御預りの玉版箋は二枚とも墨をなすくつて見申候箋下に(一)と記したる分(二)よりもまだ増しかとも被存候へども是は御面語の砌申上候通義務なき試み故御採否は無論御自由と御承知被下度候萬一一枚御役に立ち候場合には殘る一枚は御裂きすての程希望致候雙方共落第の節は二枚とも反古籠へ御入れ被下度候右當用迄 匆々敬具
    十二月六日                夏目金之助
   福井利吉郎樣
 
      一八六五
 
 十二月七日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 御問合せのるびの事はあの通りでよろしう御座います
 雛《〔宵〕》子にはたしかに「さん」がつけてあります
 東京語ではあゝいふ場合「ひとつかみ」とはいふけれども「一とつまみ」とはいひません、「一つまみ」といふ事も時と場合ではあるけれどもその例は今思ひ出せません。尤も一つまみでも大した間違にはなりません。
 
      一八六六
 
 十二月八日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌へ〔はがき〕
 葉卷の煙御途被下ありがたく奉鳴謝候不取敢右御禮迄委細は拜眉の節に讓り可申候 以上
 
      一八六七
 
 十二月八日 火 牛込區早稻田南町七より 秋田市築地本町濱武元次へ〔はがき うつし〕
 御手紙拜見 鮭も參り候當分は秋田にて御靜養可然か御寒い事と存候書も畫も一寸出來ずつい失念致し候 恐縮
 
      一八六八
 
 十二月十日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 御無沙汰を致しまして申譯がありません鮭一尾例年の吉例にて御惠贈ありがたう存じます大分寒くなりましたあなたの病氣は如何ですか隨分御注意をなさいまし私は死につゝさうして生きつゝあります 以上
    十二月十日                 夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一八六九
 
 十二月十一日 金 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ
 啓本日午後五時頃歸宅せる處別紙催促状參り居候故御約束の通御送付申候校正料を懸合つて先へもらつて急場を凌いでは如何
 右迄 匆々
    十二月十一日                 夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一八七〇
 
 十二月十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 御手紙で恐れ入りました鮭は二尾ださうです私は迂濶だものだから包もとかずについ一尾と思ひ込んだのでせう、御手數をかけて濟みません、御勘辨を願ヒまス
 
      一八七一
 
 十二月十四日 月 後2−3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(常時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「情なささうな」の方がよいやうに思はれます
    十二月十四日
 
      一八七二
 
 十二月十四日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町渡邊良法へ
 拜啓過般は金子君を通して拙筆御求めの處多忙にて其儘に致し置御返事も差上ず甚だ失禮申候御送の絹は二枚とも出來思はしからずさき捨申候紙二枚へ書き候分本日小包にて差出候間御入手被下度候それとてもまづき一方にてとても御老人の鑑賞などにはとても相成まじけれど拙をつくせる意味を以て御勘辨相願度候
 先は右迄 匆々
   十二月十四日               夏目金之助
   渡邊良法樣
 
      一八七三
 
 十二月十五日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成舘林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜復
 岡君の訂正の通りでよいかと思ひます何分とも宜敷やう願ひます 以上
 
      一八七四
 
 十二月十五日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜啓奥さん御歸りの由よろしく偖一寸必要ありて大分縣東國|東《サキ》郡臼杵國廣知二(三十六)(駒場農科大學|專《原》科出身現時二六新聞社事務長)此人の素行性質其他知れるだけの事を知りたいのですが御面倒でも一寸調べて教へて呉れませんか私も頼まれたのです結婚の問題の事です 以上
    十二月十五日               夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      一八七五
 
 十二月十七日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「十時迄に」の方がよからうと思ひます
    十二月十七日
 
      一八七六
 
 十二月十八日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ〔はがき〕
 御手紙ありがたう早速當人に知らせます、もし其人(即ち父)が君に逢ひたいといつたらどうぞ會つてやつて下さい
    十二月十八日
 
      一八七七
 
 十二月十八日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ
 此間御出の節は色々頂戴物を致しまして濟みません あの時の玉稿は拜見致しました 短かいけれども面白いものですイソツプ物語を複雜にしたやうな感じが致します此前拜見したものゝうちにもあんなものがあつたやうに記|臆《原》して居りますがあゝいふ種類のものは一まとめにして保存して御置になつたらよろしからうと存じます、
 玉稿のうち解らない言葉が一箇所あります傍に黒い線を引いておきました 以上
    十二月十八日                夏目金之助
   山田繁子樣
 
      一八七八
 
 十二月二十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌へ
 拜啓あなたの御母さんの御亡くなりになつた事を廣告で承知致しました謹んで御弔みを申上ます今日御葬式のある事も存じて居りますが少し氣分が勝れませんので參りかねますので甚だ失禮とは存じますが手紙で哀悼の微意を表するのでありますどうぞあしからず 敬具
    十二月二十一日               夏目金之助
   馬場勝彌樣
 
      一八七九
 
 十二月二十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 此間もらつた君の梅と竹の畫の表装が出來て來ましたから掛けてゐます中々立派です私のも出來て來ましたが是はどうもあなたが賞めて下さつた程感心しません今度の木曜にでも來てまづあなたのを見て下さい、私は酒さへ飲めればあなたの爲に祝盃を擧げたいと思つてゐます。齋藤與里君に頼まれて繪(靜物)を一枚買はせられました 以上
    十二月二十一日              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一八八〇
 
 十二月二十一日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ
 (一)ところ〔三字傍線〕を所にしませう
 (二)枠はとりませう
 (三)漱石は是でももう少し大きくてもよろしいでせう。
或は漱石を此儘にして彼岸過迄に就てをもう少し小さくしたら何うでせう
 (四)「ゴシツク」と肩をならべるか、見出しの風呂の後の風と比べるか、どつちともよろしきやう願ひます
    十二月二十一日               夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一八八一
 
 十二月二十二日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町渡邊良法へ
 拜啓拙筆に對し懇なる謝状拜受却つて痛入候御惠投の干柿一箱正に到着直ちに風味名産の事とて味殊の外見事に候 右御禮迄 匆々頓首
    十二月二十二日               夏目金之助
   渡邊良法樣
 
      一八八二
 
 十二月二十二日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)「二三間先に〔右○〕大きな寺がある」の間違かと思ひます
 (二)「口を開《あ》きません」です 以上
    十二月二十二日
 
      一八八三
 
 十二月二十三日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)シエクスピヤ (二)盤 (三)ばうはく (四)天ぷら屋
 右の通りに候間よろしく願ひます
    十二月二十三日
 
      一八八四
 
 十二月二十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本所區番場町凸版印刷會社外來校正室林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)藺《ゐ》でよからうと思ひます。私も實物を忘れてしまつた。(二)テナゲダンでも手《シユ》擲彈でもよろしきやう願ひます(三)此將軍は戰爭丈には〔二字右○〕熱心で……で差支ないと思ひます。(四)少し面白くなかつたから……矢張り元の通りだと思ひます 一寸變だけれども。
 徹宵の御努力甚だ恐縮します
 
      一八八五
 
 十二月二十七日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區喜久井町三六牛尾万吉永秀へ
 あなたの御話を伺つた時私は非常に御氣の毒に思ひました然し私の力ではあなたをどうして上げる譯にも行かないと思ひまし|て《原》只今御手紙が參つてあなたはまだ東京に居られる事を知りましたさうして又教師になつて生活されるといふ御決心を知りました私はそれを嬉しく思ひます どうぞ教師として永く生きて居て下さい 以上
    十二月二十七日               夏目金之助
   吉永秀子樣
 
      一八八六
 
 十二月二十七日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二木村恒へ
 拜復アイヒエンドルフの譯正に受取りました 序を書けといふ御注文だから何か書かうと思ひますが譯を讀むひまがありません 歳は行き詰まる私の氣分も行きつまる何をするのも厭であります たとひあなたの翻譯を讀み了せたとて今年中の出版には間に合ひますまい だから一層書かない方があなたの方の便宜かも知れないと思ふのです 實をいふと私はよく内容も見ずに序文丈を書くやうな手つとり早い事は不得手なのです夫から嫌なのです 以上
    十二月二十七日              夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一八八七
 
 十二月三十日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣駿東郡富士岡村神山勝又和三郎へ〔印刷したる大正四年の年賀状の端に〕
 ミカンをありがたく頂戴しました御禮を申上ます序だから申ますが私は文學博士〔四字右○〕ではありません
 
 大正四年
 
      一八八八
 
 一月一日 金 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔印刷したる年賀状の端に」
 今年は僕が相變つて死ぬかも知れない
 
      一八八九
 
 一月六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 あなたからは去年も年賀状をいたゞいたのですが此方はあまり遲くなつて極りが惡いから上げませんでした、此年は思つてゐた所又同樣の失敗をくり返して恐縮に堪へませんどうぞ失禮を御許し下さい
 
      一八九〇
 
 一月九日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「親展」とあり〕
 御無沙汰をしました。去冬阪朝から新年に何かといふ注文があつたのを七草過迄延ばして貰ふ事に相談が出來ました。それを今ぢかにあなたの方へ廻します。もし此方でも都合がつくなら載せて頂きたいからです。然し無理をする必要もない程のものですから御都合が惡いなら御手數ですがどうぞあなたの方から大阪の長谷川君の方へ廻して上げて下さい。又載せられるならゲラ丈をすぐ送つて上げて下さい 以上
    一月九日                  夏目金之助
   山本松之助樣
 筆の序だから申します近頃出る世界的たらんとする日本の文藝とか何とかいふ標題のものはひどいものですね。西本翠陰とかあるから西本波太君ぢやなからうかと思ひますが私の見る所では書き手は誰だらうとあれは馬鹿ゲて下らないものゝ樣にしか見えません。私はあなたや西本君の感情を害する爲にこんな惡口をいふのではありません。全くもつて滅茶に近いものだから事實を御參考迄に申上げるのです。氣を惡くされては困ります。 多罪
 
      一八九一
 
 一月二十日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 拜復あなたの送つて下さつた瓦煎餅は今朝屆きましたあの小包は坊さ〔ん〕が胸にぶらさげてゐるものに似てゐました。煎餅は壞れてゐます。私も子供も食べました、あゝしたものは僧堂のなかでは樂しん〔で〕皆さんが食べるだらうと察せられますがあなたはそれを私に送つて下さつたのだから餘慶にありがたい氣がします。其代り幸ひ手元に彼岸過迄の縮刷がありますから小包で差上ます。あなたの手紙にある知客寮とか殿司寮とか除策とか認定とかいふ言葉は私には大變面白いのですあなたの胃はまだ癒りませんか御大事になさい東京は昨今却つてあつたかです、私の風邪は漸くよくなりました御安神下さい、胃の方は宿痾だから癒らんけれども今はまあ無事に濟んでゐます 以上
    一月二十日                夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一八九二
 
 一月二十二日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町三四後町方今井みとしへ
 拜復御手紙を拜見致しました私に御會ひになりたいと仰やるのは何か事情のある事なのですか又はたゞ會つて見たいのですか、紹介状をもらふ人はありませんか、あなたは何處の人で何處の學校へ行つて何をしてゐるのですか。私に會つても會ふとつまらないですよ。だからもう一遍考へて夫でも會ふ氣なら私の今の質問に對する返事を下されば其上で會ふべき筋なら日を極めて御目に懸りますから 以上
    一月二十二日               夏目金之助
   今井みとし樣
 
      一八九三
 
 一月二十五日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町三四後町方今井みとしへ
 私が諏訪へ行つて講演をした時あなたが聞きに來て居た事は丸で知りませんでした、私もあの時分から見ると大分年を取りました
 私の面會日は木曜です、然し近頃は原稿を書いてゐるので午前は駄目です午後から夜へかけてなら御目にかゝれます、但し夜は何時でも若い男の人達が落ち合ひますから夫に御宅も御遠方ですからまあ午後の方が宜しいでせう。然し今度の木曜の午後には一人の男の人が來るかも知れません、今日來たから木曜の午後に來いと斷つたのですから、もしそれで御差支がなかつたなら入らつしやい。私は構ひませんから 以上
    一月二十|六《原》日            夏目金之助
   今井みとし樣
 
      一八九四
 
 一月二十五日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校寄宿舍中寮八番藤森秀夫へ
 拜復私はあなたからなつかしいとか親しいとか云はれる資格のない男でありますがあなたの方でさう思つて下されば私にとつては甚だありがたいのです。もしあなたが私と懇意になつて私の惡い所ばかりに眼が着くやうになつたら貴方は屹度其言葉を翻がへすでせう然しあなたの第一印象に映じた私を私自身で打ち崩す必要も權利もないのですから何うぞさう思つてゐて下さい。手紙のなかにある新體詩に就いて私はあなたが僞を述べてゐるとは申さないのですがよく洗錬された感情と技巧と一致すればもつと好いもの〔が〕出來るに極つてゐるのです、私は其日のあなたに來るのを待つのです、其時はあなたもあんなものを〔と〕云はれるだらうと信じてゐます
 あなたの虚無があなたの全體を支配〔して〕行住坐臥離れなかつたならあなたは私の前へ出てあんな態度に《原》譯がないかと思ひます、あなたは私をあまり眼中に置き過ぎて堅くなつてゐました、もつと自由にくつろがなくては決して相手を親しいとか懷かしいとか云ひ得ない程あなたは束縛されてゐました。尤もそれは詩の批評の方が氣にかゝつてゐたのかも知れませんが、今日は是丈にとめて置きます
    一月二十|六《原》日            夏目金之助
   藤森秀夫樣
 
      一八九五
 
 一月二十九日 金 後3-1 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣加古郡神野村石村善正寺富澤敬道へ
 あなたは鬼村さんの友達ださうですが鬼村さんは時々手紙をよこしてくれます、夫から此間は神戸の祥福寺から瓦煎餅を送つてくれました、よくみんなで食べないで送つてくれたものと思ひます
 あなたも胃や肝臓がわるいさうですがたゞ黄|胆《原》ならすぐ癒るでせうが肝臓を冒すと慢性になつて療治が困難でせう、あれは大變氣分が鬱陶敷なるものゝやうに聞いてゐますが何うですか 迷亭流にやつてゐられますか
 今は忙がしいから是丈しか書きません 以上
    一月二十九日                夏目金之助
   富澤不外樣
  墓場には一抱ある椿かな
  手折くる無住の寺の椿かな
などは面白いですよ
 
      一八九六
 
 一月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京都市京都帝國大學寄宿舍山田卓爾へ
 拜復御手紙を拜見しました、あれ丈長い手紙をかくのは容易な事でありません、ことに私の爲に書いて下さつたのですから讀まない筈はないのです、私は此間大阪から來た人の手紙を半日かかつて讀みました位です。私の作物があなたに興味を與へるのみならず精神的に何物をか付け加へたのが果して事實とすれば私はありがたい事に思ひます、私はあなたに感謝して頂くよりも私の方で感謝すべきだと思ひます。私は賞められるのが嫌とは云はないのです理由もないのに賛辭を呈せられるのが苦痛なのです、それから利害心から來た御世辭に對してどう返答して好いか分らないのてす
 私は色々なものを書きました、私が書き始めてから十餘年になります、今から回顧して見ると藝術的な意味で全然書き直したいものが澤山あります絶版にしたいと思ふものもあります、けれども其耻は藝術上の耻で徳義上の耻でないからまあ我慢してゐるのですあなたから色々云はれると甚だ勿體ない氣がします。あの御手紙に對して其儘にして置くのは非禮と存じまして一口御挨拶を致します是から外の人へも三四本手紙を書かなければなりませんから是でやめます 以上
    一月二十九日               夏目金之助
   山田卓爾樣
 
      一八九七
 
 一月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 御手紙を《〔?〕》拜見しました名古屋へは生れてまだ行つた事がありませんから機會があつたら行きたいと思つてゐます其節はよろしく願ひます然し今の所では何時出る氣になるやら一向不得要領です
 昨日今井みとしといふ女が來ました新渡戸さんの世話になつた事のある女ださうですあなたを知つてるかと聞いたら知つてると答へました新渡戸さんから強情だといはれたと云つてゐました、私は正直な好い人のやうに思ひました 以上
    一月二十九日               夏目金之助
   田嶋遺治樣
 
      一八九八
 
 一月二十九日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京都府中郡吉原村中西市二へ〔往復はがき返信用〕
 明治の初年には好い小説家はないでせう。近頃では誰のでも大抵讀み得るのです。文藝雜誌を手當り次第に讀んで自分で好きらひを御極めなさいまし。私は二三と指名するよりも全體が旨くなつたと申したいのです
 
      一八九九
 
 二月三日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 北海道夕張郡登川村字夕張炭山谷口盛へ〔はがき〕
 あなたの考は甚だ面白いのです、失禮ながら思想を錬つた事のない人には珍らしいと思ひます、然し問題が非常に大きいのだからもつと研究なさる必要があるでせう。私にも一寸簡單には御答が出來ません。忙がしいので猶更です。參考書は東京へ來て圖書館へでも入らなければありません。
 
      一九〇〇
 
 二月三日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町三四後町方今井みとしへ〔はがき〕
 先日は失禮致しました、其節申しました通り木曜なら何時でも御目にかゝれます。(今は午前中はいけませんが)私は別にあなたを感化する能力はアリません。然し御話しは誰とでも時間さへあれば致す考です
 
      一九〇一
 
 二月五日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ〔はがき〕
 私のものがそんなに好きで私にあひたいなら木曜に來るやうに云つて下さい、もう少し經てば朝でもよろしいが今は原稿をかくから午後。夜は色々な人がくるから向が困るだらう。君の御父さんの病氣は如何
 
      一九〇二
 
 二月九日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町五丁目八一齋藤茂吉へ〔はがき〕
 拜啓長塚節氏死去の御報知にあづかりありがたう存じます、實は昨日久保猪之吉君から電報で知らせて來てくれた處です、惜しい事を致しました。私は生前別に同君の爲に何も致しませんのを世話をしたやうに思つてゐられるのでせうか。何うも氣の毒でなりません
 
      一九〇三
 
 二月九日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 あの牛屋はなくなりましたかちつとも知りませんでした、「其頃あつた」と訂正して置きました、
 ちと硝子窓のそとへ出やうと思ひますが面倒だからまだ引込んでゐます
 
      一九〇四
 
 二月九日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡市東公園久保猪之吉氣付小布施順次郎へ
 拜啓長塚君御病氣の處遂に御不起のよし昨八日久保君より電報有之今日は齋藤茂吉君から通知も參り何とも御愁傷の事と遙察致候九州にての變故御取かたづけ等萬事御面倒なるべく御察申上候御令父さまへもよろしく哀悼の意を御傳へ被下度候不取敢右御弔詞迄 匆々敬具
    二月九日                夏目金之助
   小布施順次郎樣
 わざ/\電報で知らせてくれた久保さんによろしく云つて下さい
 
      一九〇五
 
 二月十三日 土 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓此間花の御禮をいつた後で芍藥と牡丹を間違へたといつて人から笑はれました御免下さい然しいくらそんな事を間違ても花を賞翫する事はしてゐるのですから。それから後に紙が着ました實はまだ竹の封筒の中から取り出して見ませんが多分玉版箋位のやうに思ひますが何ですかあれは下さつたのですか何か書けと仰やるのですか。津田君が立つ時には會ひませんでした 私の畫風などゝは實に面目ない次第です滅茶々々を畫風とする位なものです竹田も何もあつたものではないのです夫より青楓君の描いてくれた梅竹の圖が大變結構に出來ました今度上京なすつたら御目にかけます あなたの今度の手紙の字は大變旨いですね、私は招待會なんて大袈裟なものは嫌です、然し大袈裟でない人が寄るなら面白いとも思ひますがまあ少しの間「硝子戸の中」を出る譯には行きません、私はひまが出來て氣が向いたら書畫帖を賣《原》つて來て此間の賠償として心經か何かを書いて御贈したいと思つてゐます然し多分又出來損ふだらうと考へます先は右迄 匆々
    二月十三日               夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九〇六
 二月十四日 目 前0-7 牛込區早稻田南町七より 福島市三郡共立病院南四號室門間春雄へ
 拜復御手紙を拜見致しました處痔で御入院との事私はちつとも知りませんでした早く養生をして御出院なさいませ退屈なので私の手紙が見たいと云はれるから早く書かうと思つたのですが生僧用が立て込んで其閑がありませんでした先達は長塚君の事に就いて御注意ありがたう御座いましたあの御禮もまだ出さずにゐて濟みません、あのあなたの手紙の着く前に福岡の小布施順次郎氏から長い手紙で其旨を通じて來てくれました、あなたの今度の手紙には長塚の事がありませんが氣の毒な事に八日に亡くなつたのです、是は新聞であなたも御承知の事と存じます、私は若い人が死ぬのを甚だ悲しく考へては自分の生きてゐるのが濟まないと思ふ事もあるのです。貴方の令弟が喜久井町にゐやうとは丸で知りませんでした、あんな事を書くと色々の關係から遠方にゐる思ひ懸けない人に興味を與へる事もあるものですね、もう病親も大分よくなつたでせう一日も御退院の速かならん事を祈ります 以上
    二月十三日                 夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一九〇七
 
 二月十五日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓御手紙拜見「硝子戸の中」を昨日切り上げたあとで御手紙がありました、それであの問題はまあ書かずに置きませう。私は死なないといふのではありません、誰でも死ぬといふのです、さうしてスピリチユアリストやマーテルリンクのいふやうに個性とか個人とかゞ死んだあと迄つづくとも何とも考へてゐないのです。唯私は死んで始めて絶對の境地に入ると申したいのですさうして其絶對は相對の世界に比べると尊い氣がするのです(此尊いといふ意味を此間議論しにきた人があつて弱りましたが)
 報酬問題に裁ての御異存も相當な根據のある御考と思ひますが、私の見方はかうです。醫者がいくら親切をつくしても患者が夫程ありがた〔が〕らないのは藥禮をとるからで、もし施療的に同樣の親切を盡してやつたなら藥價診察料を収めた時以上に患者の方で親切を餘計恩にきるのが必然のサイコロジーだと思ふのです。だから實をいふと品物も受けるのは嫌です。品物なら先方の好意が私に徹するやうなもの、即ち私の趣味其他を理解した品物が欲しいのですが夫が解るものではありませんからつまり何にも持つて來ない方がよくなるのです。それでなければ煎餅一袋位が却つてよろしい(其理由は面倒だから略します)
 もう一言書き添へると私は世間でやる交換問題といふ奴はあまり好まないのです、つまりプラスマイナスで〇になつてあとには人情も好意も感激も何も殘らないからです。全く營業的に近いからです。(然しやらなければならん時もありませうが)
 右あら/\御返事迄 匆々
    二月十五日               夏目金之助
   芥 舟 樣
 
      一九〇八
 
 二月十七日 永 前10-11 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町五丁目八一齋藤茂吉へ
 拜復長塚君の死去廣告中友人として小生の名前が若し御入用ならばどうぞ御使用下さい小布施君がわざ/\御出には及びませんから、其位の事で長塚君に好意が表せるものなら私は嬉しく思ひます
 節氏の死去の報が新聞に出た翌朝沼波武夫君が來て(わざ/\)向後長塚君の事に關し何かやる(遺稿を出版するとか其他)なら自分も加盟したいからどうぞ通知してくれと頼んで行きました私は自分の方では發起せぬがあなた方の方で萬一そんな企てがあつて通知を受けたら御知らせしやうと約束して置きました、是は今手紙を書く序だから申上ますがもしそんな計畫があるやうでしたらどうぞ私同樣沼波君へも通知して下さい同君は生前から長塚君に會ひたがつてゐたのですさうして「土」の愛讀者なのです、同君の任所は本郷西片町十番地です 右迄 匆々
    二月十七日                夏目金之助
   齋藤茂吉樣
 
      一九〇九
 二月二十日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寛彦へ
 拜啓 小生のとるアセニーアムといふ雜誌に「空間時間の理論」といふ書物の批評があるから御目にかけます、君は專問《原》家だから既に此書物を御承知かも知れず又つまらない書物かも知れないがとにかく此間の話で君が時間空間の研究中だといふ事が解つた故御參考までに御覽に入れるのです 以上
    二月二十日                 金之助
   寅 彦 樣
 
      一九一〇
 
 二月二十七日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜復御手紙を拜見致しました御配慮は御尤ものやうに考へます然し大塚君は斷わる時にそんな氣の毒な思ひをせずに濟む人らしいのですが如何なものでせう、尤も形式上から云へばいつ斷つても一向差支ないやうにはなつてゐるのです、つまり大塚君は此點に關して思慮分別が缺乏してゐるのではないのだから當人の隨意でも構はないかとも考へます、尤も家庭教師としてゐるうちにそれ以上の精神上又は肉体上の關係が起ると想像すれば又問題が違つて參りますがそれは多分ないかと思ひます、細君の候補者は佐々木さんに頼んだら好からうと申しましたが無ければ已を得ません私の方でも是といふ人は持ち合せないのです、交際の狹い私の胸の中にそんな人が出てきたら固より大塚君に申入る積で居ります、あなたもどうぞ御心掛下さい 以上
    二月二十七日               夏目金之助
   佐々木樣
 
      一九一一
 
 二月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『新潮』へ〔應問 三月一日發行『新潮』より〕
 私は日當りの好い南向の書齋を希望します。明窓淨机といふ陳腐な言葉は私の理想に近いものであります。
 
      一九一二
 
 三月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町太田正雄へ〔はがき 表書の名宛任所に「本郷區西片町十カラ橋の下通」とあり〕
 唐草表紙一部御惠贈ありがたく御禮を申上ます例の如く装傾甚だ美事に拜見致しました 草々
    三月二日
 
      一九一三二
 
 三月二日 火 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜啓野間眞綱君が今度洋行する事になりました夫で君が外國へ行く時使つたあの※[病垂/尨]《原》大鞄を貸してやる事に約束したのですがあれは今空いてゐるでせうかもし都合がつくなら貸すやうに用意して置いて下さいいづれ僕の方から人を取りに上げる積ですから、次に若し野間君に融通するとなると君の時のやうにずつくを被せなけれはならないと思ふが君はそれをどこでこしらへたか一寸教へてくれ給へ、夫から姓名の書具合なども參考になるから出來るなら上づゝみの儘渡してくれませんか 以上
    三月二日                  金之助
   寅 彦 樣
 風邪はも〔う〕御全快の事と存じますが如何ですか赤ん坊はもう生れたのでせうね萬歳
 
      一九一四
 
 三月五日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市上龍尾町九三野間眞綱へ
 先日御上京の節は失敬 體格檢査も無事に通過愈洋行と事がきまりたる由結構です夫に就いて例の鞄の事だがあれは兩三日前寺田君から送付濟になつて今僕の所にある、もし都合がつけば君が出てくる前にズツクの蔽を掛けて置いてあげる積です、然し君が出て來て好いやうに自分が注文しても充分間に合ふ事とも思ひます、再度御面會の期を待ちつゝ 匆々
    三月四日                  金之助
   眞 綱 樣
 
      一九一五
 
 三月五日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼海岸武者小路實篤へ〔はがき〕
 御無沙汰に打過ぎました「彼が三十の時」立派な本に出來て結構ですありがたく頂だ|き《原》しました其うち「硝子戸の中」といふ小品が出たら上げませう、小泉君が展覽會の切符をくれたが行かれませんでした、よろしく
 
      一九一六
 
 三月九日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ
 御安着の由結構です僕も遊びに行きたくなつた小説は四月一日頃から書き出せばどうか間に合ふらしいのです夫で其前なら少しはひまも出來ると思ひますまだ是非行くとまでは決心もしてゐませんが大分心は動いてゐるのです、然し行くとすれば矢張り京都のどこかへ宿をとってさうして君の宅へ遊びにでも出掛る譯になるのでせうか、そんな點についてもし君の心に餘裕があるなら注意してくれませんか、僕は京都に少々知人があるが大學の人などに挨拶に廻るのも面倒だから人に知られないで呑氣に遊びたいのです其邊は御含みを願ひたいのです、まだはっきりともしないのに既に取極めたやうな事をいって自分でも變です。
 畫を見てもらふ人がゐなくなったので少々困つてゐます 以上
    三月九日                  夏目金之助
   津田青楓様
 奥さんへよろしく
 
      一九一七
 
 三月十八日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔はがき〕
 京都の津田の所へ明日行く積、日限せまり君と相談する譯に參らず失禮致します、
    十八日
 
      一九一八
 
 三月十八日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拝啓
 私は一寸旅行致します今月一杯には歸るつもりですそれから「柿二つ」のあとの原稿を書くつもりです四月中旬迄つゞくといふ話ですからそれで間に合ふだらうと信じてゐます、私は虚子の小説が出来る丈長くなるのを希望して居ります、萬一虚子君が豫定より十回以上早く切り上げるやうな事があったら已を得ないから中勘|介《〔助〕》のを先へ出して頂きたいと思ひます原稿は留守でもわかるやうにして置きますから、右迄草々
    三月十八日                夏目金之助
   山本松之助様
 
      一九一九
 
 三月二十四日 水 後9-10 京都市三條木屋町北大嘉より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ〔はがき〕
 奈良へ行くなら此手紙着次第すぐ此所へきたまはぬか、一所に京都から立たう。旅費は失禮ながら僕が擔任の事。もし行かれぬなら一寸御返事を下さい、すぐ 右迄
 
      一九二〇
 
 三月二十八日 日 後9-10 京都市三條木屋町北大嘉より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔はがき〕
 病氣もほぼよろしく候色々な人に世話になり候、ことに津田君と津田君の兄さんと御多佳さんの世話になり候津田君は寐てゐるうち始終ついてゐてくれました、姉は氣の毒をしました、歸れないでわるかつた
 
      一九二一
 
 四月十五日 木 後5-6 京都市三條木屋町北大嘉より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内鎌田敬四郎へ〔うつし〕
 拝啓御手紙をありがたう小説はとうから取掛るべきでありますが横着の爲めつい/\延びまして其結果編輯上御心配をかけまことに申譯がありません可成早く書いて御催促を受けないで濟むやうにしますテニエルの切拔もありがたう讀んで見ました九十四迄生きた人はあんまりないやうですね一平さんの漫畫はまだ出版になりませんか一平さんの畫は百穗君の插畫なとより評判がいゝやうです一平さんの赤ん坊が死ん〔だ〕事は始めて承知しました今度會つたらどうぞ忘れずに弔詞を述べて置いて下さい私は一平さんに妻君があらうとも思ひませんでした實際わかい顔をしてゐるではありませんか右迄 拜
    四月十五日              夏目金之助
   鎌田敬四郎樣
 新聞も近頃のやうに事件が多くては嘸御骨が折れるでせう
 
      一九二二
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓留守宅へも御出被下京都でも御尋ね被下毎々の御心配甚だ恐縮實は御目にかゝり候節申上候通り歸宅後萬事御詫を致す心算にてなまけて居候次第あしからず御海恕願上候豫期の通り八時五十六分の汽車にて東上十七日無事歸宅仕候手紙やら何やら山の如く机上に堆積今日漸く其始末に取りかゝり申候
 先は右御禮旁御挨拶迄 匆々
    四月十八日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九二三
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ
 拜啓 京都にて大阪よりの御見舞状拜見致し候處御返事も不致失禮致し候病氣は左したる事もなかりしが愚妻の西下を好機會に所々見物爲致候ため滞在長びき咋十七日漸く歸宅致しました色々御配慮を煩はしたる事を感謝致します
 御禮旁一寸御挨拶を申上ます 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   松山忠二郎樣
 
      一九二四
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 留守中御尋ね被下かつ京都へ御見舞状被遣御芳志奉謝候妻が西下致したるを幸ひ所々見物|被《原》致爲に意外の日子を費やし昨十七日漸く歸宅致候 方々へ禮状やら返事やら出すので大變多忙是で御免蒙ります、病氣は左したる事にてもなく候故御放念被下度候 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一九二五
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ
 啓
 京都では一方ならぬ御厄介になりました出立の際は夜中わざ/\停車場まで來ていたゞいて濟みません久しく京の言葉をきいてゐたものですから東京へ歸つて東京の言葉をきくと妙な心持がする位です道中は無事につきましたすぐ手紙を上げるのですが昨日は一日休息しました机の上は山のやうに手紙や何かゞのつてゐて手のつけやうがありません今日からぽつ/\返事を書き始めます夫で長い手紙はかけません書畫帖は其うちいたづらをかいて送ります東京へ歸ると急に心持がいそがしくなつて畫だの字をかいてゐられない氣分になります京都は穩かです東山が眼に浮びます同時に御君さんの三味線と金ちやんの常盤津も思ひ出します左樣なら御歌さんへよろしく
    四月十八日                夏目金之助
   野村御君さん
 
      一九二六
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 拜啓私は先月十九日から京都へ旅行しました其留守へあなたの手紙が來たのでつい返事も上げずに失禮しました昨日漸く歸つてあなたの書いてくれた禅堂の坊さんの生活を面白く讀みました私には珍らしいので大變愉快でした天目中峯和尚の遣誡はいゝものです私は大燈國師のも夢窓國師のもごちや/\に覺えてゐます中峯和尚のも生死事大云々の文句は覺えてゐます、私は禅學者ではありませんが法語類(ことに假名法語類)は少し讀みました然し道に入る事は出來ませんたゞの凡夫で恐縮してゐます身體がよければ奈良の方へ行く積でした大阪から神戸へ行つてあなたの顔を見たかも知れませんが健康の具合で京都ぎりにしました妻があとから來たので見物をさせるので長くなつて昨日歸りました歸ると机の上に山程手紙だの雜誌だのが積んであります私は大に辟易します今日ぼつ/\返事を書き出しました是が十一本目の手紙です隨分疲れます今日は是で御免下さい寫眞〔は〕近頃撮りません今度とつたら忘れないやうに屹度上げます 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   鬼村元成樣
 どうぞ修業をして眞面目に立派な坊さんになつて下さい私の書物などは成るべく讀まないやうになさい然し今度出來た「硝子戸の中」は記念のため其うち送ります
 
      一九二七
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區高麗橋二丁目五三加賀正太郎へ
 拜啓京都を立つ時は御見送りを受けましてありがたう存じます※[さんずい+氣]車の中で寐て歸つて昨日は一日ぼんやりしてゐました若い人が來てくれても碌々口も利かないでゐました今日は調子が好いのでよく活動してゐます机の上に手紙や雜誌が山のやうに積んであるのを見ると恐ろしくなります現に今かく手紙は正に十三通目のものでありますまだ數通書かなければなりません右の次第で別荘の名もまだ出來ません其うち思ひついたら申上ますあなたも精々勉強して早く落成するやうになさい
  寶寺の隣に住んで櫻哉
 蕪村の句につと立ちて雉追ふ犬や寶寺とかいふ句があつたやうに夢のやうに記|臆《原》してゐますが御承知はありませんか忙がしいから是で御免蒙ります 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   加賀正太郎樣
 私はあなたの呑氣さうな心持に對して敬意を拂ふものであります(惡口ではありません)
 
      一九二八
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園新橋磯田多佳へ
 啓
 滯京中は色々御世話になりましたことにあなたの宅で寐てゐたのは甚だ恐縮ですあゝいふ商賣をしてゐる所で寐てゐられては嘸迷惑でしたらう私も愉快に歸りたかつたが是非に及ばなかつたのですどうか御母さんや何かによろしくいつて下さい歸る時には御見送りをありがたう無事に歸りました昨日はたゞ漫然としてゐましたが今日からは働らき出しました手紙や雜誌が山の如く机の上に積んであります一々返事を出したり用を片付けなくてはなりません此手紙は十四本目です(加賀さんのは十三本目)一中節や河東節は大變面白う御座いました是も木屋町へ偶然宿をとつた御蔭かも知れません色々御世話になつた御禮をする積ですがまだそんな所へは手が屆きませんあなたは浮世繪がすきらしいが浮世繪の寫眞版になつた本はいやですか色彩は無論ありませんからどうかと思ひますが一寸伺ひます、ぬめの額は右の次第ですぐは書けません、東京の生活はあなたのと違つて隨分猛烈に色々な事が押し寄せて來ますから當分待つて下さい右迄御機嫌よう妻よりもよろしく申します 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   磯田多佳樣
 岡本さんに禮状を出さうと思ひますが名前がよく解らないからあなたからよろしく願ひます
 
      一九二九
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 福島市三郡共立病院内門間春雄へ
 啓私は先月から旅行をして昨十七日歸りました御手紙は拜見致しました畫はかきたいが拙いのと一つは東京の生活が如何にも猛烈なので落ちついて描いてゐられないのです久しく留守にしたものだから手紙を書かなくつてはならないので朝から夫ばかりにかゝつてゐます今午後十時です長い事は何も云へません失禮ながら是で御免蒙ります 以上
    四月十八日                夏目金之助
   門間春雄樣
 御病氣を御大事になさいまし
 
      一九三〇
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣武庫郡蘆屋山手長谷川萬次郎へ
 京都ではわざ/\の御訪問恐縮致しました其後大した事もなく妻の西下を幸ひ舊都の見物を致させ咋十七日漸と歸京致しました色々御心配をかけて濟みません山本君も京都で尋ねてくれました右御禮迄 匆々
    四月十八日               夏目金之助
   長谷川萬次郎樣
 
      一九三一
 
 四月十九日 月(時間不明) 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓
 今度は久し振で京都へ參り御多用の處を色々御厄介に相成まことにありがたう存じますことに病氣にかゝり意外の御配慮を煩はし恐縮の至に堪えません又歸りには夜中にも拘はらずわざ/\停車場迄御見送り下さいまして恐れ入ります汽車中別に故障もなく十七日に歸宅致しました其日は終日茫然と致して暮しましたが今日から又少々活動に取りかゝりました手紙や雜誌が山のやうに机の上に載せてあるには辟易致しました
 かねて御送りの書畫帖にかいた字を今日書齋整理の節一寸見ましたら其時程いやな感じも致しません所も御座いますから何事も御笑草と存じ思ひ切つて御送り致す事に致しますいやと覺召す所は切り拔いて下さいまし全部御氣に入らなければ御破り下さい其後御送の紙へはまだ何も認める餘暇が御座いません其内氣が向きましたら何か書きます
 夫から京都へ歸《原》る前かいて置いた山水二枚を御鑑定を乞ふため御送り致しますからどうぞ御遠慮のない所を御批評下さいまし津田君にも頼んで置きましたからどうぞ兩君御鑑査の上もしものになつてゐたら其地で表装して下さいいけなければ駄目とあきらめます忙がしいから是でやめます 以上
    四月十八日                夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九三二
 
 四月十九日 月(時間不明) 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園末吉町梅垣きぬへ
 啓
 京都では色々御世話になりましたことに三味線を彈いたり歌を唄つて聞かせて下すつてまことに面白う御座いました打ち明け話も感心して聽きましたゴリ押しをなさいゴリ押に限ります私は無事に東京へ着きました方々へ一度に手紙を出すので大變です今日朝から晩迄手紙のかきつゞけです書畫帖は其うち送ります都豆は大變小供がよろこんでたべてゐますあなた方は人のうちへくると屹度何かくれますね私は反對でついぞ人の宅へ土産を持つて行つた事はありません然し約束の短冊懸は送ります然し今は忙がしくていけません少し待つて下さい御歌さんによろしく 以上
    四月十八日                夏目金之助
   梅垣きぬ樣
 
      一九三三
 
 四月二十二日 木 後7-8 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺富澤敬道へ
 御手紙をありがたう御病氣が癒つて神戸へ御歸り猛烈に己事御究明の由何よりの事と思ひます私はあなたよりいくつ年上か知りませんがあなたが立派な師家になられた時あなたの提唱を聽く迄生きてゐたいと願つてゐます其時もし死んでゐたらどうぞ私の墓の前で御經でも上げて下さい又間に合つたら葬式の時來て引導を渡して下さい私に宗旨はありませんが私に好意をもつてくれる偉い坊さんの讀經が一番ありがたいと考へます、鬼村さんは忙がしいのに禅堂の生活を長々と書いてくれました親切な事です然しあまりそんな事で時間をつぶさない方が修業の爲によくはないでせうか門外の私にはよく解りませんがもし左樣だつたらやめた方がいゝでせう(私はありがたいけれども)鬼村さんはあなたの事をいつでも富澤樣と書いて來ます多分あなたの方が先輩なのでせう感心の事です。雉の句は好くありません。序だから伺ひますが祥福寺の和尚さんは何といふ人ですか。多分御爺さんだらうと思ひますがどうですか。それから祥福寺の開山は誰で臨濟の何派に屬するのですかそれとも本山なのですか。こんな質問は急いて知る必要もありませんたゞ序だから伺ふのです。私は禅坊さんとあまり交際がありません。然し禅坊さんが好きです。だからあなたや鬼村さんにこんな事をよく聽くのです。ペンで手紙をかく事は今の世では輕便で時を省いて好いでせう御師匠さんがいけないといふなら御師匠さん丈に墨で書いて御上げなさい。昔の禅坊さんには字の旨い人が澤山ありますが是からは時勢が時勢だからさうは行きますまい。字が拙くても道を體得すれば其方がどの位いゝか分りませんね。今度もし關西へ行つたら祥福寺へ行つてあなたと鬼村さんに會ひたいと思ひます。最後に勇猛の御工夫を祈ります 以上
    四月二十二日               夏目金之助
   宮澤敬道樣
 
      一九三四
 
 四月二十三日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ
 拜啓京都では一方ならぬ御厄介になりました歸つてからすぐ手紙を上げやうと思つたのですが或はも〔う〕山口へ出掛けられた事と思つてつい其儘にして置いたらあなたから手紙が來てまだ桃陽園に居らつしやる事を承知しました早く行つて金を儲けて入らつしやい東京は變りはありませんどこも浮世は變てこなものです私は神戸の祥福寺の若い禅坊さんの二人と文書の往復をしてゐます二人と〔も〕心持の好い人です親切でさうして俗人のやうにいやな臭味がありません其うちの一人が今に名僧になつて私の前で碧巖の提唱をすると云つて來ましたあなたも立派な繪をかいて私を感服させて下さい畫と云へば山水を二枚一草亭のもとに送りましたあなたと二人で鑑査してもらひたいのです奥さんによろしく 以上
    四月二十三日               夏目金之助
   津田青楓樣
 桃陽園主にもらひものゝ禮を云ハズニ來マシタドウゾ宜敷云ツテ下サイ
 
      一九三五
 
 四月二十四日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 旅行から歸つたら手紙のかきつゞけです君の奥さんも小供も病氣のやうだが大事になさい病人は一番心配なものだから 「椅子戸の中」は君の分が署名してうちに殘してあります然し岩波からでも貰つたら二重になる譯だが今度きたら持つて行き給へ ほめてくれてありがたう 小手川さんからは味噌がきましたまだ禮状を出さずにゐるから今日書きますあれは小手川武馬でせうねいそぐから此で失禮します 以上
    四月二十|五《原》日           金之助
   豐一郎樣
 
      一九三六
 
 四月二十七日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大分縣臼杵町小手川武馬へ
 拜啓先日は味吟一樽遠方よりわざ/\御送被下ありがたく存候早速御禮申上べきの處長く旅行致し居り歸りては雜用に取紛れ其上御所と御名前がしかと判然致さゞりし爲めつい/\遲引恐縮の至御寛恕可被下候先は右御禮迄匆々如此に候 以上
    四月二十七日                夏目金之助
   小手川武馬樣
 
      一九三七
 
 四月二十七日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌内馬場勝彌後援會へ〔はがき〕
 後援會文集御送たしかに受取りました御手數と御厚意に對し一言御挨拶を申上ます 以上
 
      一九三八
 
 四月二十九日 木 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區下六番町加賀正太郎へ〔封筒の表側に「御歸阪ナラ御轉送を乞フ」とあり〕
 啓御山荘の名前を御約束しながら遲くなりて濟みません考へんのではありませんが何にも頭に浮んで來ないのです然し度々の御催促で御氣の毒になりましたから昨日の午後から今日の午前へかけて一應古い句などをしらべて見ましたが矢張り面白いと思ふほどのものも見當りませんたゞ御約束ですから放つて置いたやうで申譯がないからそれを義務塞げに少々御目にかけます
 (一)水明荘〔三字右○〕 杜詩に殘夜水明樓とありますが是は今築地の旅館に水明館といふのがあるから駄目でせう。
 (二)冷々莊 冷々修竹待王歸といふ是も杜詩にあります然しよくはないですね
 (三)竹外莊〔三字右○〕 竹外風烟開秀色 是は文衡山の句です竹の中をくゞつて上にある山荘だから斯うつけて見たのです
 (四)竹外三川莊〔五字右○〕 前のに三川を加へただけであります。あすこから川が三つ見えるからです
 (五)三川荘〔三字右○〕 前の竹外丈を省いたのです
 (六)虚白山莊〔四字右○〕 莊子に虚室白を生ずとあります、又虚白高人靜なりといふ句もあります
 (七)曠然莊〔三字右○〕 王維の詩に曠然蕩心目とあります。
 (八)如一山莊〔四字右○〕 是も王摩詰の句です雲水空如一とあるのです
 (九)澄懷山莊〔四字右○〕 凝神書を著はし澄懷道を觀ずといふ句から取つたのです。
 (十)從生山莊〔四字右○〕 功名多く窮中に向つて立て、禍患常に巧處より生ずの從〔右○〕巧處生〔右○〕を約したものです
 (十一)回觀莊〔三字右○〕 靜中見得天機妙、閑裡回觀世路難といふ句から出ました。
 (十二)澄明莊〔三字右○〕 澄明〔二字右○〕遠水生光重疊暮山聳翠
 (十三)半眞莊〔三字右○〕 心事半眞〔二字右○〕半假世故半濃半淡
 (十四)空碧莊 草堂春緑竹溪空碧〔二字右○〕
 まあこんなものですもし氣に入つたらどれか御取り下さい氣に入らなければ遠慮は入りませんから落第になさいもつといゝ名があるかも知れませんが頭が疲れる丈で厭になるから今回はこれで御免蒙ります 以上
    四月二十九日              夏目金之助
   加賀正太郎樣
 此間は菓子をありがたう奈良屋からの繪端書も届きました、
 
      一九三九
 
 四月三十日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 青森縣野邊地野坂十二郎へ
 啓私あなたに畫か字を送るといつて受合つた覺があります夫であなたから一二度催促された事も記憶してゐます今度の御手紙も拜見しました然し私は東京にゐるとする事がいくらでもあつて頭が始終忙がしいのですそれは一寸あなたに想像出來ないだらうと思ひます諸方から短冊だの絹だの送つて來たのをみんな一まとめにして縁側に積んであります或人が見てあれではたまりませんねと同感してくれた位です私はあなたの御希望通りかいて上げたいのですけれども義理合や何かでもうとくに書かねばならぬもの迄放つてある始末なのですからどうぞさう思つて許して下さい私には是丈の手紙をかく事すら可なりの荷なのです先は右迄 匆々
    四月三十日                 夏目金之助
   野坂十二郎樣
 
      一九四〇
 
 五月三日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 山口縣山口町後川原鈴木方津田龜次郎へ
 山口で繪を書いて御出の由結構です私の畫の批評ありがたう。參考になりました然し敬服は致しません。一草亭からはまだ何とも云つて來ません。一草亭の雀を書齋にかけて見たがどうしてもつり合はないから取り外しました。銀座に小川一眞の拵え〔た〕昔の名畫の原物大の複製が九十點ばかり陳列されたのを見に行きました、好いのがありますよ。今の人の畫を買ふよりあれを買つて參考にした方が餘程有利だと思ひます。楊舟といふ清人の虎はいゝですよ。夫から竹田雀に竹なんかも氣韻の高いものですね。芒生といふ人は知りません。私の句を月並だと云つてもちつとも腹は立ちません。私の句には月並もあります。また月並でないのもあります。芒生君の二句は二つとも少しもよくありません。私はそろ/\事業に取りかゝります。小宮の家であなたの椿の屏風を見ました。あれはいけません。あなたは百圓で賣る積ださうですが、あれを六十圓で買ふ〔者〕があると小宮が云ひますから僕が許諾を與へるから構はず賣つてやれと云ひました。六十圓で賣れゝば結構ですよ。早く金にしてしまひなさい 以上
    五月二日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一九四一
 
 五月三日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園新橋磯田多佳へ
 御多佳さん「椅子戸の中」が屆かないでおこつてゐたさうだが、本はちやんと小包で送つたのですよ。さつき本屋へ問合せたら本屋の帳面にも磯田たかといふ名前が載つてゐるといつて來たのです。私はあの時三四十冊の本を取寄せて夫に一々署名してそれを本屋からみんなに送らせたのだから間違はありません。もしそれが屆いてゐないとするなら天罰に違ない。御前は僕を北野の天神樣へ連れて行くと云つて其日斷りなしに宇治へ遊びに行つてしまつたぢやないか。あゝいふ無責任な事をすると決していゝむくひは來ないものと思つて御出で。本がこないと云つておこるより僕の方がおこつてゐると思ふのが順序ですよ。それはとにかく本はたしかに送つたのです。然し先年北海道の人に本をやつたら屆かないといふので其人に郵便局をしらべさせたら隅の方にまぎれ込んでゐた例もあるからことによると郵便局に轉がつてゐるかも知れない。もう一冊送る位は何でもないけれども屆かない譯がないのに屆かないのだから郵便局にひそんでゐやしないかと思ふのですが、それを問ひ合せる勇氣がありますか。もし面倒なら端書をもう一遍およこし、さうしたらすぐ送ります。
 君の字はよみにくゝて困る。それに候文でいやに堅苦しくて變てこだ。御君さんや金ちやんのは言文一致だから大變心持よくよめます。御多佳さんも是からサウドスエ〔五字傍点〕で手紙を御書きなさい。
 芋はうまいが今送つてもらひたくない。其外是と云つて至急入用なものもない。
 うそをつかないやうになさい。天神樣の時のやうなうそを吐くと今度京都へ行つた時もうつきあはないよ 以上
    五月二日夜                 夏目金之助
   磯田多佳樣
 
      一九四二
 
 五月四日 火 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 畫の批評をして下すつてありがたう存じます、あの赤黒い方は仰の通りドス黒くて變てこな色です暗いと云はれても仕方ありません、下部の方が面白いとの事滿足の至です、上部はしまりが足りないでせうか、それはもつと説明を畫に就いて承つて置くと參考になるだらうと思はれるので〔す〕けれども遠方の事だから致し方がありません、もう一枚の畫はあたまでつかち尻つぼまりの所爲で構圖上に變な落ち付かな〔い〕感が起るのではないでせうか。青楓君はあの花に點をうたないと不調和だと云ひます。私も花の色が落ち付かないのみならず樹が小過ぎて上部のデカイ山に壓されると思ひます、二つとも表装の價値があるといふ御見込なら表装させて下さい、代は御報次第爲替で送ります、歸宅後あなたの畫を掛けて兩三日眺めてゐましたがどうしてもあれは私の書齋では周圍と釣り合ひません、矢張り御多佳さんの所のやうな座敷がよくうつると思ひます、先は御禮旁御願迄 匆々
    五月四日                 夏目金之助
   西川一草亭樣
 あの盆の御禮で恐縮致します、あれは何とか塗と云ひますねサヌキの方で出來たり久留米の方で出來たりします、あれはたしか久留米製だと記憶してゐます
 
      一九四三
 
 五月八日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ
 啓
 御たのみの畫帖をとつて歸つて早くかたづけやうと思つて一生懸命に精出して今日漸く書きましたから三冊とも一所に小包で送ります、私は畫かきでも書家でもないのだが折角の御頼みと夫から京都で色々御世話になつたから記念のために下手な書畫をなすりつけました丈です下手でも書は早くかけますが畫はさうは行きません大變時間がかゝりました出來榮丈では努力の程度は分りませんいくらまづくても非常に手數のかゝつたものと思つて下さい、私はひとが千圓やるからと云つてもこんな面倒な事はやりやしません全く約束のための好意だと思つて下さい夫から此次京都へ行つてももう何にも書きませんよ さよなら
    五月八日                夏目金之助
   御 君 さ ん
   金 ち や ん
 
      一九四四
 
 五月八日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 今度の御手紙始めてあなたの本音が吹き出たやうな氣がします、あなたの批評はまあ痛快といふやうな所です内容はあれでよろしいが言葉が少々あらつぽすぎます、何だか興奮して書いたやうな所がありますが如何ですか
 あゝなつて見ると表装する價値も何にもないやうですがもし其方が本當ならやめにして下さい。又あれ程罵つても表装の價値があると思ふなら構はないから表装して下さい、どつちにしても遠慮は要らないから思つた通りを正直にやつて下さい。加賀氏の別莊の名は約束で已を得ないから十四五つけたのです私はあの外にいゝ名を誰かにつけて貰つたらいゝと思ひます、夫からあの印を頼む事は是非見合せて置いて下さい、私は印なんか金持からねだつて拵えてもらつたやうになるのは不愉快ですから。此手紙に對して御返事は無論要りません。私も段々多忙になりつゝあります 以上
    五月八日                  夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九四五
 
 五月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京都市東三本木南町横地敏へ
 拜啓此間御父さんが東京へ御出の節あなたに何か書いて上げてくれとの御依頼でありますから短冊を二枚と西のうち位な大さの紙へ詩を一つ書いて御送り致しますからどうぞ御受取下さいまし、もつと大きなものをと存じましたけれども私も色々と心が忙がしいのでさういふ譯に參りませんからどうぞ是で御勘辨を願ひます私はあなたの顔を見た事があるかないか覺えて居りませんがずつと昔し松山の中學に居る時分御父さんの御世話になつたものであります
 右迄 匆々
    五月十二日                 夏目金之助
   横地敏子樣
 
      一九四六
 
 五月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓 先日は御手紙で白牡丹の賛御催促恐縮實は取り紛れ其儘に致し置きたるのみならず別に句も浮びさうにもなき故考へる苦痛を避くると同時に毎日々々に追はれて等閑に付したる次第どうぞ御ゆるし下さい
今日外のものもしたゝめた故あの畫を出して眺めたあと無理に一句を題し小包で送りますから受取つて下さい 以上
    五月十二日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一九四七
 
 五月十六日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園新橋磯田多佳へ
 今日小包と手紙が屆きました、小包の中には玉子素麺と清水燒のおもちやと女持の紙入がありました(夫は妻にすぐやりました)いゝ紙入ですあいつのやうな不粹なものには勿體ない位です。どうもありがたう。此間の茶碗と昆布もたしかに頂きました。兩方ともあつく御禮を申ます。
 あなたをうそつきと云つた事についてはどうも取消す氣になりません。あなたがあやまつてくれたのは嬉しいが、そんな約束をした覺がないといふに至つてはどうも空とぼけてごま化してゐるやうで心持が好くありません。あなたは親切な人でした夫から話をして大變面白い人でした。私はそれをよく承知してゐるのです。然しあの事以來私はあなたもやつぱり黒人だといふ感じが胸のうちに出て來ました。私はいやがらせにこんな事を書くのではありません。愚痴でもありません。たゞ一度つき合ひ出したあなた――美くしい好い所を持つてゐるあなたに對して冷淡になりたくないからこんな事をいつ迄も云ふのです。中途で交際が途切れたりしたら殘念だから云ふのです。私はあなたと一ケ月の交際中にあなたの面白い所親切な所を澤山見ました。然し倫理上の人格といつたやうな點については雙方ともに別段の感化を受けずに別れてしまつたやうに思ふのです。そこでこんな疑問が自然胸のうちに湧いてくるのです。手短かにいふと、私があなたをそらとぼけてゐるといふのが事實でないとすると私は惡人になるのです。夫からもし夫が事實であるとすると、反對にあなたの方が惡人に變化するのです。そこが際どい所で、そこを互に打ち明けて惡人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかへてあやまるのが人格の感化といふのです。然し今私はあなたが忘れたと云つてもさう思へないやつぱりごま化してゐるとしか考へられないのだから、あなたは私をまだ感化する程の徳を私に及ぼしてゐないし、私も亦あなたを感化する丈の力を持つてゐないのです。私は自分の親愛する人に對してこの重大な點に於て交渉のないのを大變殘念に思ひます。是は黒人たる大友の女將の御多佳さんに云ふのではありません普通の素人として|も《原》御多佳さんに素人の友人なる私が云ふ事です。女將の料簡で野暮だとか不粹だとか云へば夫迄ですが、私は折角つき合ひ出したあなたに對してさうした黒人向の輕薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。私はあなたの先生でもなし教育者でもないから冷淡にいゝ加減な挨拶をしてゐれば手數が省ける丈で自分の方は樂なのですが私はなぜだかあなたに對してさうしたくないのです。私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでゐるとしか考へられないのです。それで是丈の事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい、又眞面目に聞いて下さい。
 東京もあたゝかになりました。繪の展覽會を見たり露西亞の音樂會をきゝに行つたりしてのらくらしてゐます。今日は早稻田へベースボールを見に行きました。彌次馬の應按の騷々しい事は大友の六疊に寐てゐるよりも百倍がた此方のほうが盛です。又《原》宅へ歸つて湯に入つて塵埃を拂つた所です。こんな事をしてゐますが心の中は大變忙がしいのです。さうして是からが愈忙がしくなるのです。
 白川の蛙の聲はいゝでせう。私は昨日の朝《原》の眞中へ椅子を持ち出して日光を浴びながら本をよみました。私には此頃の温度が丁度適當のやうです。
 本は賣り切れてもう一冊もありませんから小賣屋から取寄せてそれを送る事にしませう。京都の郵便局になければ此方でさがしたつて判る筈がありません。書留小包でないから調べてくれるにしても出ては來ません。こんな事は滅多にない事です。此間芝川さんが來てくれました。もう此位にしてやめにします。 以上
    五月十六日夜                夏目金之助
   御多佳さん
 病氣はもういゝのですか御大事になさい〔冒頭餘白に〕
 
      一九四八
 
 五月十六日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區安土町二丁目水落義一へ
 啓其後は御無沙汰を致しました近頃は御加減は如何ですか氣候もあたゝかになりましたからもう御回復の事と存じます
 今日は下萌集を御寄贈下さいましてまことに有難う存じますあんな心地のいゝ贅澤な本はあなたでなくては容易に出來ません中々手數の入つた事だらうと思ひます
 近頃は句も作りませんのに時々短冊などをつきつけられて變な月並を讀むのは我ながら苦笑せざるを得ぬ仕義であります
 下萌集の卷末を見たら和達陽太郎といふ名前が見えましたがあれは高等學校で同級にゐた男でありますよく出來た人です私は下の方にゐたからあまり口もき〔か〕ずにしまひましたが顔は覺えてゐます四角な顔でせう先は不取敢御禮まで 匆々
    五月十六日夜               夏目金之助
   水落露石樣
       座右
 
      一九四九
 
 五月三十一日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區女子大學精華寮今井みとしへ
 拜復あなたの御手紙を見て一寸返事を上げたいと思つてゐた處色々ごた/\してそれぎりになつて濟みません
 女子大學の寄宿舍では日曜以外には外出が出來ないさうですが其善惡はとにかくとして隨分困るでせう私の家へきたいといふ御希望があるなら日曜に來ても差支ありません然し今は少々忙がしいから午前は駄目です夫から午後でもことによると人のうちへ行かなければならない事や其他の場所へ行く必要が出て來るかも知れませんそんな時には斷ります然しひまがあれば御目にかゝります手紙を澤山溜めて置くので返事を一度に書かなければなりませんから今日は是で失禮します 以上
    五月三十一日               夏目金之助
   今井みとし樣
 
      一九五〇
 
 五月三十一日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市東三本木南町横地敏へ
 拜復御手紙と御茶と同時に屆きましたくだらないものを書いて上げたのに御禮などをいたゞいては却つて恐縮です此間の御手紙にあつた松山で私の下宿してゐた所にゐた頼江さんといふ人は今福岡大學の久保猪之吉といふ博士の妻君になつてゐます東京へくると屹度寄つてくれます、御禮に本を上げやうと思ひますが今賣り切れてありませんから製本が出來たら送りませう 右迄 匆々
    五月三十一日               夏目金之助
   横地敏子樣
 
      一九五一
 
 六月四日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜啓
 此次の小説を書きたいといふ御希望の書面拜見しました。
 此間山本君にあつたら此次は有名な人のを載せたいといひました。それから私は徳田秋聲君の意向を聞きました所同君は大いに書きたいといふ意志を或人を通して洩らしました。又社の方では徳田君の原稿が遲延するのを恐れて、永井君などに頼んだらといふ考もあ〔つ〕たやうです。然し私は荷風君は書くまいと思ふと答へて置きました。
 右の譯でまだ判然と誰とは極つてゐませんがあなたの方は多分駄目だらうと思ひます。此前もあなたのものを撃退して御氣の毒です。然しあの時はさうあなたのばかり續けて出すのは不可ないといふのが私の主意でした。實は原稿はどの位旨いものか知らなかつたのです。
 たゞ今ある人から矢張りあなた同樣の申し込があります。私はいつといふ返事は確答しませんが、兎に角作物を一應拜見した上の御相談ならすると云つてやりましたら其人は書いて見せると申しました。是は三週間も前の話です
 あなたの作に對して失禮ながら私は同樣の事を申上げなければならないと思ひます。書いて御覽なさい。さうして好ければ社の方へ推擧しませう。(若し前いつたある人とあなたとの作物の程度が同等とすれば或は向ふを先へ廻さないとも限りませんが)。とにかく此次は多分六づかしからうと思ひます
    六月四日               夏目金之助
   中 村 樣
 
      一九五二
 
 六月六日 日 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓其後御變りもありませんか私は不相變やつてゐます、偖唐突ですが御願が出來たから聞いて下さい此手紙を持つて行く人は中村豐といつて年は二十五です小學を卒業して十五の時から今日迄當人の希望で經師屋職をやつてゐるのですが、どうか一度京都へ行つて其所の仕事をして見たいからといふので私が京都へ行つた事をきいて頼んできたのです、私は別に知人もありませんので一番そんな方面に接觸の多いあなたに紹介を書く事になりました
 此人の家はもと軍人の家ださうですが今は私のそばで御母さんと姉さんが紙屋をしてゐるのです私は其縁故によつて依頼を引きうけました、甚だ御手數でせうがどうぞあなたの知つてゐる經師屋さんに紹介してやつて下さい、すぐ其家で使つて貰はないでも構はないのださうです時機のくる迄は待つ丈の(一ケ月位)用意はあるのださうです 用事丈で御免蒙ります 以上
    六月六日                 夏目金之助
   西川源兵衛樣
 
      一九五三
 
 六月七日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より
 
野間眞綱へ
 君が立つ時は是非送る積でゐたのですがつい京都で病氣をして寐てゐたものだから失敬してしまつたカバンは手人をして置いたが御役に立つて結構です、修復料は餞別のつもりの處置いて行かれたので却つて恐縮します、大島紬は笑談から出た眞のやうな結果になつて甚だ氣の毒です、あれは妙にゴチヤ/\した絣です、細カイから嘸高いのだらうと思ふ。君のシカゴから來た手紙は受取つた。戰爭中だから容易に歐洲へ渡れないで嘸困るでせう、其代り亞米利加が見られるからつまり同じ事です。今小説を書いてゐます。毎日一回づゝ書いて百回以上かくのだから中々手間がとれます。相撲が始まつてゐます。段々顔が變つて行くのが變に早いので驚ろきます。私などは文壇へ出て十年餘もまだ斯うしてゐるまあ仕合せだと思ひます。然し氣は若くても年はとります、白髪は段々殖えます。此間早稻田と一高のベースボールを見に行つて谷山さんに會ひました。何か書いてくれと云はれて恐縮しました。野村は佐賀鹿島へ轉任しました。橋口の兄は今月支那から歸ります。五葉は浮世繪を研究中ださうです。此間光琳の二百年の記念展覧會であひました。書く事があるやうでないやうで一向取りとめがありません、まあ此位にして置きませう
    六月七日                 金之助
   眞 綱 樣
 
      一九五四
 
 六月十五日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼海岸武者小路實篤へ
 御手紙を拜見致しました。私はたしかにあの文章を見ました。然し少しも氣になりませんでした。それは自分のものでないからかも知れませんが、あゝいふ所へ出るものは好加減な出鱈目に近い事が多いといふのが大理由かと思ひます。然し間違はだれしも嬉しくはありません、ことにあなたのやうな正直な人から見れば厭でせう。それを神經質だと云つて笑ふのは、其うらにある正しい氣性を理會し得ないスレツカラシの云ふ事です。私はあなたに同情します。
 けれども私はあの記事を取り消させる丈の權力は持ちません。あれを書いたもの及び編輯者はたとひそれが誤謬と知つても、わざ/\取り消すには餘りに小さ過ぎるといふ考で、ごた/\した外の雜事に頭を使ふ事だらうと思ひます。此際私のあなたの爲に出來る事はあの手紙を社に送つてあなたの趣意を了解させた上、あとの處置はあちらの適宜にまかせるといふ事丈のやうに思はれます。私はあなたの爲にそれ丈の手續きを盡します。私は是からあなたの手紙を社會部長の山本松之助君迄送つて、よろしく頼むと云つてやります。
 私もあなたと同じ性格があるので、こんな事によく氣を惱ませたり氣を腐らせたりしました。然しこんな事はいつ迄經つても續々出て來て際限がないので、近頃は出來る丈これらに超越する工夫をして居ります。私は隨分人から惡口やら誹謗を受けました。然し私は黙然としでゐました。猫を書いた時多くの人は翻案か、又は方々から盗んだものを並べたてたのだと解釋しました。そんな主意を發表したものさへあります。
 武者小路さん。氣に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事は塵芥の如く澤山あります。それを清める事は人間の力で出來ません。それと戰ふよりもそれをゆるす事が人間として立派なものならば、出來る丈そちらの方の修養をお互にしたいと思ひますがどうでせう。
 私は年に合せて氣の若い方ですが、近來漸くそつちの方角に足を向け出しました。時勢は私よりも先に立つてゐます。あなたがそちらへ眼をつけるやうになるのは今の私よりもずつと若い時分の事だらうと信じます。 以上
    六月十五日                夏目金之助
   武者小路實篤樣
                    〔冒頭餘白に〕
 文學評論をよんで下さつた由ありがたう。
 道草〔二字傍点〕もよんで下さるさうで感謝致します。
 
      一九五五
 
 六月十七日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 櫻ん坊がつきましたありがたう少し腐つたのもありましたが子供がよろこんで食べました長塚さんの追憶談のうちで上野の鳥屋であなたが香取秀眞氏にあつた事がかいてありましたね變な事がありますね私はまだあゝいふ場合に出合つた事がありません 以上
    六月十七日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一九五六
 
 六月十七日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 段々あつくなりますもう白地の單衣をきてゐます梅雨が二日ほど降つて急に霽れたものですから丸で眞夏です日中は散歩もできません
 此間は粽をありがたう然しあれは堅くてまづいですね私一つたべて驚ろいてやめてしまひましたよ御禮状を出さう/\と思つて忘れてゐました所が漸く書くと惡口で甚だ濟まぬ次第であります
 御變りもありませんか私は午前は毎日執筆して居ります 以上
    六月十七日               夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一九五七
 
 六月二十一日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 横濱市日本郵船會社支店氣付富山丸神谷久賢へ
 拜復煙草をありがたう御座います結構なものをいたゞいて嬉しう御座いますぷか/\のんでゐます
 あなたに御目にかゝつてからもう餘程になりますあなたはもう學校を出て立派な船員になられる私は段々ぢゞいになる少しの間に世の中は變つて行きます
 あなたの船は倫敦から紐育へ行くのですか私は郵船會社にそんな航路のある事は知りませんでした、獨乙の潜航艇にやられないやうに御氣を御つけなさい米滿さんは其後どうしました會つたらよろしく道草を讀んで下さるさうでありがたく感謝してゐます 以上
    六月二十日夜               夏目金之助
   神谷久賢樣
 
      一九五八
 
 六月二十二日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓今日(二十二日)の十九回目の道草〔二字傍点〕の仕舞から二行目にある「裡《うち》に強い健三の頭」は「理《り》に強い健三の頭」です。意味が通じなくなるから一寸御注意を願ひます。
 私の原稿が汚ないのに校正を云々するのは氣の毒ですから、大概は其儘にして置きます。是も其儘で宜しいので正誤には及びません、たゞ校正者に一寸通じて置いて下さい 以上
    六月二十二日                夏目金之助
   山 本 樣
 
      一九五九
 
 六月二十五日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓私のあとの小説につき追つて御相談の御約束のまゝうちちやらかして置きまして濟みません。私はそれから秋聲君に原稿遲延の事を聞きたゞしましたる所、大阪のは速達を普通郵便で出したため一回後れた事實はあるさうですが其他は故障なく書いたのださうです。夫から先方では十二三回一度によこせといふのを讀賣と懸持であつたため三四回位づゝしかやれなかつた迄だといふ事です。(小池君の不平は此事ぢやないでせうか)。次に此前東朝へ「かび」を書いた時は一回も缺席はしなかつたさうです。
 今度もし東朝へ書くやうになれば、八月一杯位に二三十回は書きためて一度に送る事が出來るさうです。
 次に題材の事ですが是はたしかに書きたい或物を有つてゐるとの事です。
 同君は單に原稿料の爲ばかりでなく藝術的の意味で朝日に筆を執りたい希望があるのですが、もし社の方で異議があるなら引き退がつてもよいと申されます。
 私は是丈慥めればよからうと思ひますが何うでせう。たゞ原稿遲延といふ丈の故障なら前の辨《原》解でも略不都合のない丈の見當はついてゐますから御賛同下さる譯にはありませんか。
 他に御意見があるなら遠慮のない所を仰つて下さい
 何れにしても御返事を待ちます 以上
    六月二十五日               夏目金之助
   山 本 樣
 
      一九六〇
 
 六月二十五日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區道修町一丁目青木新護へ
 御手紙を拜見しました。俳畫展覽會の事は何處かで見たやうに記憶してゐます。然しそれへ出品の御勸誘を受けたのは――あゝ間違ひました。多分摺物か何かで餘程前御勸誘があつたのをぼんやり放つて置いたので、頭がごちや/\になつてゐるのかも知れません。どうも恐縮の至です。
 そこで畫ですが、私は時々變てこなものを描きますが、どうも展覽會へ出した事などはないので弱ります。其上今は下らない事で朝のうちを潰してゐます、ひるからは散歩をした〔り〕休んだりしますので、そんな事をする氣がないのです。それから展覽會へ出さうといふ料簡ではひまがあつても描けないのです。
 もし強いてと仰やるなら京都の津田青楓君(深草大龜谷桃陽國)の所に小さなきれに籠の中に投げ込んだ水仙を描いたのがある筈です。是なら小さいから或は間に合うかも知れませんが、生憎俳畫でも何でもないので、とても俳趣味とは釣り合はないだらうと思ひます。然しもし津田君が出しても見ともなくないと云ひあなたの方で夫でも構はないと思ふなら、私はどうでも構ひませんから、津田君に交渉して見て下さい。
 斷然御斷りをしても御氣の毒の樣ですからくど/\しい御返事のやうですが右委細を申上た次第であります。急ぐので萬年筆で失禮します 以上
    六月二十五日               夏目金之助
   青木月斗樣
 
      一九六一
 
 六月二十八日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ
 もう京都へ御かへりですか私は毎日小説を書いてゐます七月にはまた東京へ御出の由其方が好いでせうが細君の御腹は大丈夫ですかうちの妻は好くなからうといひます山口では御金が儲かりましたか、新聞の切拔はだれが書いたものですかね見當が付きません、みんなゐます、君が歸つて來たら喜ぶでせう、内田君は鳥を四十羽以上飼つてゐます早く御歸りなさい 以上
    六月二十八日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一九六二
 
 七月二日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼海岸武者小路實篤へ
 拜啓此間はわざ/\切符を送つて頂いてありがたう御座います。私〔は〕あなたの「わしも知らない」のうちにある好い處と好くない所とをかなり明かに(舞臺の上で)見たやうな氣がします。然し私は今五六本の手紙を書かなければなりませんから御參考の爲にそれを申上げるいとまのないのを遺憾に思ひます。何しろ私は大變好い所が背景と役者と相待つて出たやうに思ひます。御釋迦樣や木蓮は好いですね、ことに木蓮はよろしい。木蓮の鼻を横から見てゐると大變嬉しい。あの役者は下廻りださうですが木蓮としては一番好いですね
 竹の里人の評はたわいないものですが何うしても不眞面目過ぎますもう少し「わしも知らない」を眞面目に評すべきです。尤も前の「惡魔の曲」といふのは要領を得ない妙な脚本ですね。
 小宮に會つたらあなたのものを面白いと云つてほめてゐました。竹の里人のやうな評が出るのでどこかへ何か書かうかと云つてゐましたから書けとすゝめて置きました
 右御禮の序にくだらない事を書き添へた迄です 以上
    七月二日                 夏目金之助
   武者小路實篤樣
 
      一九六三
 
 七月二日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 啓鬼村さん私はあなたの徴兵事件がどうなるかと思つて心配してゐました。然し丙種はちと殘酷な落第のしやうですねそれ程胃がわるいのですか困りますね。五錢の診察料をとる醫者は頗る氣に入りました。富澤さんも胃がわるいのですか其癖須磨にうまい天麩羅があるからもし來たら一所に食ひに行かう抔と云ひます。何しろ二人とも養生なさい。新聞などを讀むひまがない位いそがしい方が人間は好いのでせう、新聞は碌な事が書いてありませんからね、私も昔し一時新聞を廢してゐた事があります、然し一向困つた事はありません。あなた方が貴重な時間を割いて長い手紙を書いてくれるのを私は大變な親切だと思つて嬉しがつてゐるのです、夫に私はあなた方に十分一の長さの返事も出せないのですからまことに申譯がありません其上私は今からだが疲れ眠くつて大した面白いものも書けないから猶氣の毒に思ひます、寫眞は此間家族のものはみんな撮りましたが私はとりませんでした。若しあなた方が東京へ來たら私の宅へとめて上げませうきたない宅ですけれどもあなた方の食べたいものを御馳走して上げます。然し修業中は中々出られないでせうね。あなたは役が變つたさうでそれは多分榮進なのでせう結構です、修業を充分なさい、然し養生もなさい、富澤さんによろしく 以上
    七月二日                夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一九六四
 
 七月二日 金 牛込區早稻田南町七より 在シヤム井田芳子へ〔うつし〕
 拜啓 今日は七月の二日です。私は今湯に入つて風呂場の板の間で仰向に寢てゐました、夫から書齋へ歸ると娘がしきりにピアノを彈いてゐます、私は今日着いたあなたの手紙に對して此をかきます、あなたのには六月六日の日づけがありますが私の手紙を出した日を忘れて一向覺がないのでどの位東京からあなたの所迄郵便がかゝるか頓と分らないのですが何しろ長い日數を要するのですね。是なら亞米利加の方が餘程交通上便利ではありませんか、今日は七月二日です。紫陽花の咲いてゐる裏庭を子供が自轉車で廻つてゐます、其子供スツパダカです、東京も中々暑いのです、夫でも芝居も寄席もあります、しかもみんながそこへ汗をカキに行きます、つい二三日前も私は帝劇へ行きました、其所で私は武者小路さんにあひました、それは其筈です、帝劇で三日間武者小路(弟)さんの作つた脚本をやつたのですから。武者小路(兄)さんはあなたも御存じでせう。色の淺黒い好男子です、私に倫敦タイムスの切拔を渡して「夏目さんこゝに柴田環のマダムバターフライの評があります、今友達が送つてくれたから御讀みなさい」と云つて、切拔をくれました、所が私は暗いストールスの中ではもう活字が小かくて讀めないのです(私はもうそんなに年をとつちまつたのです)私はそれを貰つてとう/\宅迄歸つて來ました。あなたが武者小路の兄さんを知つてゐるだらうと思つてこんな事を書きました。私は近頃毎日朝の日課として小説を書いてゐます、多分九月へかゝるでせう、夫でも死なずにまだ筆を執つてゐるからまあ喜んで下さい。此間久し振に和子さんが來てくれました。藤浪さんは畫が好きなのださうですね。私は下手な(板へかいた)抽畫を一枚上げました。それは私が油畫をかき出した最初の一枚です、最初といふと大分かいた樣ですが其後不勉強でちつともかきません。あなたも畫をくれと云ひますね、私は藤浪さんに書をたのまれたのです。私の書や畫を懇望する人のあるのは嬉しいやうな恥かしいやうな又面倒臭い樣な變な心持がします、大抵は斷ります、義理や好意のある方面では引受ますが偖それを果す段になると中々手間がかゝります、あなたも何かくれと仰しやるから描いて上げやうと思ひますが責任を果すのはいつになるでせうか、自分ながら分りません、私の書齋の縁側には諸方から送つた短冊だの紙だの絹だのが山のやうに積んであります、みんな仕樣がないから放つて置くのです。私は勿體ぶるのでも何でもありません。どうもさう/\人の注文に應ずる譯には行かないからです。何分敵は大勢味方は一人といふ有樣ですからね。和子さんは好い奥さんになりました。氣を置かずに何でも話します。矢つ張お嫁に行つた人の方が處女より話しがし易いやうです。
 シヤムの猫は是非下さい。待つてゐます。忘れては不可せんよ。 以上
    七月二日                夏目金之助
   井田芳子樣
 坂本はツリをやつてゐるさうです、無論太公望だから何も釣れないだらうと思ふのです。
 
      一九六五
 
 七月八日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜啓金子たしかに受取ましたあんなにいそがなくても此方は都合がわるくはなかつたのです
 小説を御書のよし出來たら拜見したいと思ひますがあんまり長いもので雜誌や何かに載せられないと新聞にでも出さなくつちやならないだらう。すぐに單行本に出來るならそれも好いが。何しろそんな事も考へて書く必要がありはせぬかと思ひます、八重子さんの病氣はどうですか御大事になさい 以上
    七月八日                  金之助
   豐一郎樣
 
      一九六六
 
 七月十二日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下中野町三三一六神田十拳へ
 拜復御手紙の内容篤と拜讀致しました私が御役に立つか何うか分りませんが御目にかゝつた上でもし私の意見がまとめられるものならまとめて御參考にして上げたいと思ひます明十三日の午後三時頃か明後十四日の同時刻に私の宅迄御出になる譯に行きませんか 以上
    七月十二日                夏目金之助
   神田十拳樣
 
      一九六七
 
 七月十四日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 金澤市川岸町八大谷正信へ
 拜啓其後は御無音いつも御健勝にて結構で御座います今日は又金澤名産の長生殿一折御惠贈にあつかりましてありがたう存じますあれは頗る上品な菓子で東京には御座いません、家族のものと風味致します小説も職業になると出來る丈早く書いてあとの時間を外の事に費やしたくなりますそれでも遺草をよんでゐて下さるのはありがたい氣がします今年は何處へも御出掛になりませんか、どうぞ御身体を御大事に奥さまへよろしく 以上
    七月十四日                 夏目金之助
   大谷繞右樣
 
      一九六八
 
 七月十六日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二中川九郎へ
 拜啓書畫研究法二冊御出版御惠贈被下ありがたく存候装幀高尚にて坐右に置きても心持よく眺められ候ことに夏向の暑凌ぎに讀むには恰好の書物御蔭にて面白き一日を消すべく候不取敢御禮迄 匆々
    七月十六日                夏目金之助
   中川九郎樣
 
      一九六九
 
 七月十七日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 芝區高輪南町三〇大河内方大谷正信へ〔はがき〕
 此間は奥さんが御出京の由に聞いてゐました處貴方も御供で暑い所へ御出のよし是非御目にかゝりたいと思ひます。然し此暑いのに日中高輪から牛込迄御出は大變です。どこかへ御供してもいゝが世間知らずの私にはいゝ思ひつきもありません。夕方から拙宅で御飯を上げたいが來て下さいませんか。多少は涼しいでせう。あなたの都合のいゝ日を知らして下さいませんか。奥さんも一所に入らつしやれませんか。御返事を待つて居ります。
 
      一九七〇
 
 七月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區三十間堀一丁目一やまと新聞へ〔應問 七月二十二日『やまと新聞』より〕
 拜啓私は戰後に於ける日本人の覺悟などに就いて考へて見た事はありません。日本人から見れば戰後も戰前も同じ態度で同じ覺悟で進んで行けば夫で澤山ぢやないでせうか。
 戰爭の影響は無論色々の方面に現はれて來るでせう。ことに軍事に密接の關係のある飛行機、潜航艇、無線電信などには目覺ましい改革が起るかも知れません。然し夫が日本に何う響いてくるでせう。御承知の通りの貧乏と無人ではたとひ外國でどんな發明があつても何うする譯にも行かないぢやありませんか。一時代も二時代も後れて後を追懸けて行くより外に途のないものを捉まへて今更のやうに覺悟などといふ大袈裟な言葉を使ふからしてが私には既に變に思はれます。
 それでなくても日本人は新らしいものを見るとすぐ食ひ付きたがります。是は新らしいからと云ふよりも、新らしい事を自分が知つてるのを世の中に廣告したい精神から大分出てゐるやうです。其證據には少し時期が立つとすぐ知らん顔をして、又別の廣告の種を拾つて歩いてゐます。
 オイケン、ベルグソン、タゴール斯んな名はもう食傷する程聽かされました。ケーベルさんに會つた時、オイケンもベルグソンも好い著者だらうがさう朝から晩迄のべつに云ひつづけてゐるやうでは困ると云つて笑つてゐました。永久のべつに云ひつづけるなら好いですが、自分の自慢にする間丈彼等の名前を口にしてあとは零落した故舊を見て見ぬ振をするやうに打ち遣つて仕舞ふのだから心掛からしてが好くありません。
 此間或る友人が來て日本人は新しくさへあれば何でも飛びつきたがる國民だと云ひました。その通りです。然し彼等の飛び付きたがるのは輸入品に限るやうです。御手製ではどんなに好いものがあつても手を出さないから不思議です。私の友人の作つたある科學上の著書は無論全力を傾注した著述ではありませんが、科目が新しい丈に西洋人の參考になる位新しい事實だの研究だのが隨分其中に含まれてゐるのです。然し夫を出版した本屋は千部刷つて僅四百部しか賣る事が出來なかつたのです。
 萬事が此通りですから、戰後の覺悟とか何とか口で云つた所でまあ駄目なんぢやないかと思ひます。たゞ有識の士が其時其場合に應じて出來る丈の事を不平なく日本の爲にしてゐたら夫れが好いのでせう。戰前も戰後も區別はないでせう。よしあつたつて手も足も出せなければ仕方がないぢやありませんか。若し覺悟といふ覺悟が必要なら、日本は危險だとさへ思つて、それを第一の覺悟にしてゐれば間違ひはありますまい。
 再度の御足勞に對して何か上げなければならんと存じまして是丈の事を書きました。 以上
 
      一九七一
 
 七月二十二日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ〔はがき〕
 御無沙汰をしました、丈夫ですか、暑い事です、津田君が歸つて來ました、粽をありがたう、私はいつでも御節句にある奥さんから虎屋の粽をもらひます、腐ると不可いといふので早速たべました、津田さんはひげをそつて綺麗になつてゐました。あつきらせつではないやうです
 
      一九七二
 
 七月二十六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ〔はがき〕
 禅のしをりを送つて下すつてありがたう中の日課行事もありがたう。暑くて堪らないですね。そして眠くて仕方がありません、此暑いのに勞役をする坊さんはつらいでせう。御禮迄 匆々
    七月二十六日
 
      一九七三
 
 七月二十六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ〔はがき〕
 先日は御東上の由ちつとも知りませんでしたが澁柿といふ雜誌〔に〕一寸そんな事が出てゐたので承知しました、暑いですね、堪らないやうに暑くなりました
    七月二十六《原》
 
      一九七四
 
 七月二十六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ〔はがき〕
 長良川の鮎をありがたう大變大きくて旨う御座います、玉川などのは駄目ですね。あれを食べてから鮎が急に好きになりました
    七月二十六日
 
      一九七五
 
 八月二日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 大變御無沙汰をしました御變りもありませんか、暑い事です、此間は津田君が歸つて來た時例の懸物を持つて來てくれました、御面倒をかけました段恐れ入ります、あれから又手を入れたら掛物の裏へ墨が透つてぽつ/\が現はれました、もう一つのが出來てからと思つて代金の儀を御問合せも致さずに置きましたがあれを待つて後にすると大分時間がかゝりさうですからあの方丈でも先へ御拂ひ致したいと思ひますが代價は如何程ですか一寸御知らせ下さい
 中村の息子は御宅へ出て大變御世話になつたさうで是もとうに御禮を申上なければならないのをつい怠けてゐました、今ゐる所よりは(二三ケ月すると)好い經師屋へ行かれるとか申す事で當人はそれを待つてゐるやうであります、此後とも何うぞよろしく願ひます、京都へ行つた時は少し御宅へ御厄介になつてゐたさうで是亦恐縮の至です、
 あなたの送つた紙へ心經を書いて見ましたら三枚で濟んでしまひましたしかも不謹慎な草書です、御覽に入れても好いと思ひますがあまり氣が進まないので餘程前から机の上に載せたなりであります 以上
    八月二日                 夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九七六
 
 八月七日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「親展」とあり〕
 中々暑い事です御變りもありませんか。
 先年「朝日」へ小説を書く筈で書けなかつた徳田秋江君が此間來て下の樣な依頼をしました。
 (一)朝日へ書かしてもらひたい。
 (二)少々遊び過ぎて金が要るから、掲載前に原稿(全部ではなし)と引かへに稿料を渡してもらひたい
 (三)題目は北濱銀行の破産といつた風のものを書きたい。
 (四)九月から書き出すから、書いた丈其時に買つてくれまいか
 大畧右の樣な事を云ひますから、よく相談して置かうと云つて歸しました。私には何といふ考もありません、ことに金の事などは社の方に規定もあつてさう早くから渡せない場合も或は出來るかも知れないと思ひます、
  御一考の上御返事を願ひます 以上
    八月七日                  夏目金之助
   山 本 樣
 私の小説の誤植は是から面倒でもそのつど訂正して頂く事にしませうか。さうすれば校正者にも何處が間違つたといふ事も分るし、それから新聞で切拔などを拵へてゐる人が少しはあるやうですから、さういふ人への義務にも親切にもなりますから。先づ今日のを二つばかり指摘しますから明日か明後日もし後れば其あとでも構ひません故活字でさう斷つて下さい
 
      一九七七
 
 八月七日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市當小路御池西川源兵衛へ
 啓 心經を御笑覽に入れます御氣に入らなかつたら反故にして下さい
 印は入用の時でなければ御頼み下さるなと願つて置きました夫から後でも書面で御斷りを致して置きました。私は私のために刻してくれた人の好意を感謝致しますが何うも貰ふ譯にも買ふ譯にもありません甚だ困却致すばかりです何とかそちらで御片付下さいませんか 先は用事迄 匆々
    八月七日                 夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九七八
 
 八月九日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 福井市寶永寺町九五山田卓爾へ
 あなたは歸省して御出と見えますね福井の方はそれでも此方よりは涼しいでせう東京は大分暑いです十七になる女の子と十三になる女の子が富士へ登りましたが私は原稿をかくので凝として坐つてゐますウニをあ
りがたうあれは福井の名産ですね
 あなたはいつ卒業しますか何科を專問《原》になさる御考ですか
 右迄 匆々
    八月九日                夏目金之助
   山田卓爾樣
 
      一九七九
 
 八月九日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一徳田末雄へ
 拜啓岡君を通じて私のつぎに朝日へ載せる小説の御執筆を御願致した處早速御引受下さいまして有難う存じます右につき先達て岡君が參られある娼妓の一代記といふやうなものを書きたいと思ふが何うだろうとあなたからの御相談のやうに申されましたから、私一個としては異存はないが社の方の都合もある事だから一應問合せて見やうと申ましたら岡君はぢやもう一遍徳田に訊いて御返事をするといつたぎり音沙汰がありません、思ふに岡君は歸阪したのでせう。
 私は昨日電話で社と相談して見ましたが社の方では御存じの通りの穩健主義ですから女郎の一代記といふやうなものはあまり歡迎はしないやうです。然したとひ娼妓だつて藝者だつて人間ですから人間として意味のある叙述をするならば却つて華族や上流を種にして下劣な事を書くより立派だらうと考へますので其通りを社へ申しましたら社でも其意を諒としてもしあなたが社の方針やら一般俗社界に對する信用の上に立つ營業機關であるといふ事を御承知の上筆を執つ〔て〕下されば差支なからうといふ事になりました。
 私は右を御報知旁御注意を致すために此手紙を差上げるのです。私は他人の意志を東縛して藝術上の作物を出してくれといふ馬鹿な事はしたくありませんから萬一餘程の程度に御趣向を御曲げにならなければ前申した女の一代記が書きにくい樣なら「かび」の續篇でも何でも外のものを御書きにならん事を希望致すのです。若し又社の所謂〔四字右○〕露骨な描寫なしに娼妓の傳が何の窮屈なしに書けるなら無論それで結構だらうと思ひます。
 私はそんな腕のある女の生涯などを知りません、又書かうと思つても書けません、人間を知るといふ上に於てさうした作物は私の參考になるんだから喜んで拜見したいのでありますけれども右の事状故其邊はどうぞ御含みの上御執筆下さるやうあらかじめ願つて置きます。
 早く申上げる方が御都合がいゝだらうと考へまして失禮ではありますが手紙で用を辨じます 御免下さい 頓首
    八月九日                夏目金之助
   徳田秋聲樣
 
      一九八〇
 
 八月二十日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 新潟縣東蒲原郡揚川村皆川正※[示+喜]へ
 今日は非常にあついです 昨日端書が來ました其前に百合の根が着いたので禮をいはうかと思つて油紙の差出人の名前の所だけ切り拔いて置いた處です、どうも有難う あくを拔くにひまがかゝるとかいつてまだ食はない、黒百合は見た事がないから一つ地を堀つて種を埋めて見る積です
 朝のうち毎日原稿を書いてゐます、もうぢき濟ます積です、歸りに是非東京へ寄つて行き給へな 僕の處へ泊つてもいゝ 子供もつれて來たまへ
 君の所と野間の處から同時に手紙が着いた
 先は右迄
    八月二十日               夏目金之助
   皆川正※[示+喜]樣
 
      一九八一
 
 八月二十四日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 用事ではありませんが
 一寸申し上げます。「男女貞操問題」を筆記する人の文章は明瞭で簡略で要を盡してゐて、それで調つてゐて 結構なものと思ひます。恐らく話をする當人よりも立派な頭をもつてゐるんぢやないだらうかと思ひます。私は誰だか知れませんが、其人に對して敬意を表するものであります、餘計な事のやうですが、どうぞ私の志を御傳へ下さいまし、夫から序の節に其人の名を教へて下さい
 此間野口米氏の浮世繪春信論に就いてある人から朝日にはあらずもがなと評して來ました。橋口に笑はれさうなものだと云つて來ました。其男は文部省の古社寺寶物取調嘱託の福井利吉郎といふ男です。光琳考といふものを今書いてゐます。橋口の浮世繪研究は近頃です。どの位の程度のものか私は知りませんが、是も何かの御參考になるだらうと思つて序に御知らせします
    八月二十四日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九八二
 
 九月三日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓 徳田君の模樣を聞き合せたら同君から返事がありました。別紙の通りですから御參考のため御送り致します。
 例の通り正誤の御手數を願ひます。 以上
    九月三日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九八三
 
 九月四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 素麺をありがたう いつぞや句集發刊の事につき岩波への御依頼は先方へ申傳へたには傳へたが算盤が取れるか取れないかの點で念を押され小生も受合かね多分儲かるまいと云ひたる儘今日に至りたる次第 拜顔の節御話し致す積の處つい/\其機會なく御禮の序にあらましを御返事致して置きます 以上
    九月四日               夏目金之助
   松根豐次郎樣
 
      一九八四
 
 九月五日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ〔はがき〕
 校正は薄い方十圓厚い方二十圓にてよろしいかと思ひます修善〔右○〕寺が本當なれ〔ど〕詩の平灰《原》上あすこは禅〔右○〕にして置いたのです。他の處は何方でも構ひません
 
      一九八五
 
 九月七日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ
 拜啓先達は失禮あの時見た懸物と額のまづいにはあきれました何うかして書き直すか破りすてたいと思ひますが君も錢をかけて表装したものだから只破る譯に行くまいから不得已書き直しませう軸の方は引きかへますが額は半きれへかいたもの故長さの寸法を教へてもらつてその字丈を取りかへたらと考へます寸法を(着物の寸法をはかる物指で)はかつて教へてくれたまへ 以上
    九月七日                 夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一九八六
 
 九月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 臺灣花蓮港南濱一山口忠三へ
 臺灣茶一罐到着正に拜受致しました未知未見の小生に對しての御親切嬉しい事に存じます私の書いたものが何かの御慰になれば滿足の至であります不取敢御禮迄申上げます 以上
    九月十日                夏目金之助
   山口忠三樣
 
      一九八七
 
 九月十四日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下千駄ケ谷八三二武者小路實篤へ〔はがき〕
 御本を有難う御座います。一部はたしかに小宮が來た時に渡します。或は此方から送つてやります。兎に角御寄贈の事丈はすぐ知らせてやります。鵠沼はもう引上げたのですか。近頃あなた方の連中は吾孫子方面に移るぢやありませんか。あなたが吾孫子へ圖書館を建てゝゐるといふのは本當ですか
 
      一九八八
 
 九月十四日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 武者小路君から「向日葵」を二部送つて來て一部を君に上げてくれとの事です送つてよろしいが序があつたら持つて行つて下さい。署名がしてあります。原文に曰く「それから律義(?)すぎる話かも知れませんが二部御送りいたしますから一部小宮豐隆氏におついでの節あげて下さい。少し賞められるとすぐいゝ氣になります」同君の宿所は千駄ケ谷八三二なり
 
      一九八九
 
 九月十五日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ〔はがき〕
 久々御無沙汰今日貢君を訪問來る土曜日に拙宅へ來て夕食を食ふ事の承諾を得たに就いて一人ではあまり淋しき故君と上野君を招待したいと思ふが御都合はどうですか。もし好ければ次の土曜のあかるいうちから來て下さい。上野君にもさう云つて下さい。(番地が分らないから)。もし厭か差支があるなら是もさう云つて下さい。上野君の返事も聽いて下さい御手數恐れ入りますが。
 
      一九九〇
 
 九月二十日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓あの草花の横長い畫は達者なものでありますあれは津田君には書けますまい、ある人が見て是は四條派を習つたものだと申しました題辭はどうかくのかよく解りませんから曲りなりに詩を書いて置きました無理に作るのだから手間ばかりかゝつて面白いものは一向出來ません詩〔に〕紅蓼青蘋といふ字を使ひましたがあなたの畫の何處にもそんなものは見當らないのです、あの中で私は斷腸花より外何も知りませんからこんなうそで御免蒙る次第であります、御承知の通り紅蓼は白蘋とつゞきますが白蘋では平灰《原》が合はないので已を得ず青蘋にしました尤も青蘋といふ字もある事はあるのです下手な詩とうその詩の言譯の爲に數言を費やしました、
 もう一つの畫は色は好いが構圖がまとまつてゐないと考へます、何だか途切れてゐます、鷄はうまいですね、桐もわるくはありませんね然し全體の統一がどうしても取れないやうに思はれます、
 畫も題も小包で御送り致しますから御落手を願ひます 以上
    九月二十日                夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九九一
 
 九月二十三日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 拜啓大島紬と上布の見本たしかに受取御面倒ありがたう島へ注文すると目下戰爭の影響で半額位で買入れられるならば鹿兒島でも自然其結果として安價であるべき筈と思ふが市の方ではまだ其所迄行き詰つてゐないのだらうか、又島の方では何で欧洲戰爭の影響がそんなに特別の不景氣を與へるのだらうか 是は門外漢の僕には一寸分りかねますがもし事實とすれば半額で買へる方が誰も希望に違ありませんからさう願ひたいと思ひます、若し半額だとすると普通四五十圓のものが二十圓か二十五圓で買へる譯だから上等のを買つて差支ありません、又
 全體が訛傳であるとすれば見本のうち三十圓程度のものを得たいと思ひます。柄はきり拔いて送りますが其通りでなくてもよろしい つまりあまりアラく〔三字傍点〕なくつて(細かで)少し離れて見た所でもはつきりしたのがよろしいのです。まあ見本に似たやうなのを擇つて下さい。それから此返事に添へて金を上げるのだがまだねだんが分らないのに夫から銀行迄行くのが一寸面倒だからたゞ返事丈書きます、もし立替られるなら立替て置いて下さい、夫とも貧乏で餘裕がなければ價格をさう云つてくれゝば爲替で送ります、色々御手數をかけて濟みません 以上
    九月二十三日              夏目金之助
   皆川眞拆樣
 
      一九九二
 
 九月二十三日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜復
 俳書再版についての御注文は少々弱り入候 此間中よりそんなもの二三受合候ため小説脱稿後やつと責任を果したる處にて一寸句など作る勇氣なき有樣 ことに小生只今は俳道と縁なき身體何とかそちらにて御都合御放免の程願上候 先は右御返事迄是も無精にてつい/\後れ申候 乍序御詫も附加へ置候 多罪々々
    九月二十三日              夏目金之助
   東 洋 城 樣
 
      一九九三
 
 九月二十四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣印南郡西神吉松尾博市へ〔はがき〕
 拜復「道草」は百二回で完了です。「三四郎」は春陽堂(日本橋通り四丁目)、「椅子戸の中」「心」は神田南神保町岩波書店發行「道草」は目下印刷中矢張岩波發行であります
 
      一九九四
 
 九月二十五日 土 牛込區早稻田南町七より 徳田浩司へ〔大正七年七月十八日發行『文壇名家書簡集』より〕
 拜啓先日御依頼の件は月中に御返事を致す御約束の處杜より何等の消息もなくかつ小説も今が今といふ次第でもなき上大兄よりの御催促も受けざりし故つい無精を極め込みずる/\に致し申譯なき事になりました
 二三目前機會があつたのでもう一度社の意向を確めましたら御大典や何かで色々取り込んでゐた爲返事をしたものと思ひ込んでゐたとの事です、どうぞ御勘辨を願ひますそこで御返事丈を中上ますと斯ういふ事になります
 十一月十五〔二字右○〕日迄に原稿半分、(かりに百回と見なし五十〔二字右○〕回分)丈御差出が出來れば今の秋聲君のあとへあなたのものを載せても宜しいのですがもし御間に合ひかねるとなると一寸御約束が致しにくいのですが如何なものでせうか
 原稿には社の方でも隨分テコズリたる例もあるとかで今度は是非其通りにして私が保證でもしなければ社がいふ事を聽きさうにもありません、從つて受合へば社に對しては私の責任が生じ、また私に對してはあなたの責任が重くなる譯ですから御自信のある程度内ではつきりした御返事を伺はなければならないやうな始末と御承知を願ひたいのです
 此方の勝手ばかり申して濟まんやうですが秋聲君のあとをそろ/\極める必要が出て來たので出來る丈早く御返事を伺ふ必要があるのですから御決意次第一兩日中に御一報を煩はしたいのであります 右迄 匆々
    九月二十五日                夏目金之助
   徳田秋江樣
 
      一九九五
 
 九月二十八日 火 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一新泉舘林原(當時岡田)耕三へ
 弟が大變な事になつて嘸困るでせう、御察し申します。どうも驚ろいた。友達は追拂ふがよし。然し學校を休ませて校正させる積りは僕にも毛頭なかつたのです。
 これ位(時によりぐらゐにもなる事あり)。この位(必ず清む)。それ位(是も時により濁る)。その位(必ず清むと考へる)。あれ位(時により清又は濁)。あの位(必ず清)。どの位(清むと思へば間違なし)。どれ位(時により清濁あり。清と思へば間違なし)。
 「どの位でもない」を僅の意に用ひるなら「どれ程でもない」といふだらう。若し用ひるとすれば清音なるべし
 先は右迄 匆々
    九月二十七日夜十時             夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一九九六
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓先日の御手紙拜見後近松秋江君へ條件委細申送り廻答を求め候處昨夜拙宅訪問の上右保件つきにて執筆致し度旨の返事有之候故小生は精々念を入れ手違なきやう駄目を押したる上にて承諾致し候。即ち十一月十五日迄半分(五十回位)を是非出してくれとの註文をしかと受合せたる儀に候同氏も此前不義理をしたる關係もあれば今度は是非とも責任を果す積なりと明言爲《原》致候。色々話してゐるうちに稿料の事をつい忘れ申候が是は最初に取極める必要あれば後より相談致してもよろしく又御急ぎなくは此儘にて原稿受取の際取極ても間違にはなるまじくと存候
 右不取敢御報申上候故秋聲君のあとは近松氏と御取きめ相願度候先は用事まで 匆々頓首
    九月二十七日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九九七
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 先達て杉浦重剛先生の代理に日本中學の小林義忠といふ人がきて同校が移轉するにつき寄附金を出してくれとの依頼故發起人の名前を見ると君も出てゐたから菅に聞いて見て御返事を致しませうといつて歸した、寄附金名簿には百圓だの五拾圓だのとあるばかりで少々面喰ふが5圓位出して置いても好いかね一寸君に御相談を致します 如何なものでせう 以上
    九月二十八日               金之助
   虎 雄 樣
 
      一九九八
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 先達の手紙のうちに書き込む事をわすれましたから一寸申上ますが此間願つて置いた一幅の表装の方はまだ出來ますまいか日本一の經師屋でなくても構ひませんから御弟子にやらして早く送つて下さい。既に送つて頂いた奴はあとから手を入れて又散々黒く惡戯をしてしまひました。實は表装代を兩方一所に差上たいのであれも其儘に放つてある譯ですから今度の時は是非雙方の代價を纒めて御報知を願ひます右迄 匆々
    九月二十八日              夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九九九
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 拜啓昨夜は電話を御掛下さいまして失禮しました本當をいふと今日は大して差支があるのではありませんが此二三日來客が多かつたり外出をしなくてはならなかつたりで少し時間が欲しかつたのでまあ多少あなたを回避したやうな痕跡があるのです甚だ濟みません御勘辨を願ひます、偖例の一件ですがあの事を後から考へて見ると其時私が申上た通りどうも滿足な本が出來さうにないのです、それから私の本が新らしくもないのに無暗に且つ無意義に變装したり假装したりして出るのを私は苦しく思てゐる最中なのです、私も金は大好ですが目下の状態活計と書物の濫發とを比較して見るとどうも後者の方を引きしめる必要が生じて來ます。現にあなたが歸られるとすぐあとから私の警句集といつたやうなものを分類して持つて來て是非出版の許諾を得たいと私に逼つたものがあります私は氣の毒だとは思ひましたが仕方なしに斷わりました。あなたの場合も矢張り會見の結果御斷りをしなければならなくなりはしまいかと恐れてゐます。だから會ふのが御氣の毒になるのです。電話で差支があるといふ御返事をしたのも實は此意味も大いに含まれてゐたのです。
 まだ御目にかゝらないうちに斷るのは甚だ濟まんやうな譯ですが右の事情を御察し下さつて此度は編纂を御斷念下さいませんか。時機がきて相當の書物が出來るやうになつたら其時改めて御相談にあづかる事に致しますから 以上
    九月二十八日               夏目金之助
   松本道別樣
 
      二〇〇〇
 
 九月二十九日 水 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一新泉館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 しんしやう 身上
 丸まつちく
 技倆カ伎倆カ知ラズ
    九月二十八日夜
 
      二〇〇一
 
 九月三十日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 水戸市上梅香菊池謙二郎へ
 拜復いつも御無沙汰をしてゐます近頃講演は殆んど遣らぬ事に自然なつて仕舞ました是は小生の無精と時間のないのと夫を知つて頼む人が來なくなつたからです先年も謝絶今度も御斷りでは甚だ濟みませんが右の譯で中々遠方へ出掛ける勇氣も餘裕も時間も根もありませんからどうぞ御勘辨を願ひます小生は旅行をするといつでも病氣をします今春も京都へ行つて寐ましたまあ癈人の部に屬すべき人間です不取敢御返事迄 匆々不一
    九月盡                 夏目金之助
   菊池謙二郎樣
        座下
 
      二〇〇二
 
 九月三十日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一新泉館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 妾はすべてあたし〔三字傍線〕にてよろしからん
 
      二〇〇三
 
 九月三十日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 啓來月三日夜七時開場七時半開演の華族會舘の音樂會へ行つて見ませんか音樂學校のシヨルツといふ人がシヨパンの曲を十二ばかり彈くのださうです
 此回《原》は月に會費五十錢で切符が二枚とれる會員組織のものです、僕は人の餘分を一枚もらつたから行くが其席で入會しても構はんのだらうと思ふ兎に角斯ういふ會の存在だけを知らせますからあとは御便宜になさい
 帝劇の喜歌劇は綺麗だから御孃さんを連れて行つてやりたまへ、然し今晩かぎりかも知れないからもう駄目かも知らん 以上
    九月三十日              夏目金之助
   寺田寅彦樣
 
      二〇〇四
 
 十月二《〔?〕》日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 僕は上野直昭といふ會の幹事のやうな事をしてゐる男から切符をもらつたのだから、上野に會へばすぐどうかして呉れると思ひます。上野は文學士です。門前に待つてゐるのは迷惑かも知れないから先へ入つて上野に會つて話した方がいゝかも知れません。右迄 匆々
 
      二〇〇五
 
 十月四日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ〔はがき〕
 奈良へ遊びに行つたさうですね面白かつたでせう段々氣候が好くなりますから外出に大變結構です御勉強を祈ります
 
      二〇〇六
 
 十月四日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ〔はがき〕
 倫敦消息ノ一はわざと取り去つたのですから御免蒙ります二と三も已を得ず多少手を入れましたのです。大正名著文庫といふ本はひどい本ですねあれで壹圓二十錢とは驚ろきました。私はあの装釘なら斷ると云つて番頭に話しました
 
      二〇〇七
 
 十月四日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ〔はがき〕
 大光社へ行つて支那畫を見て來ました大變面白い是非御出掛なさい。銀座二丁目の東側の裏河岸通にあります。二階にある複製の藝阿彌の雙幅は非常によろしい。
 
      二〇〇八
 
 十月五日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ
 「結《ゆ》ひ付け」で好いでせう
 「一|色《しき》」是も好いでせう
 「三四郎」は「與次郎」の誤り
 Thea《テア》で切れるのです。Viewといふ字です。テアトロンは見る場所といふ意味です
 ある所は〔右○〕 の誤り
 此次に でよろしい
 以上
 
      二〇〇九
 
 十月十一日 月 後7-8 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地一丁目六鎌田敬四郎へ〔うつし〕
 拜啓あなたが米國へお出の事は此間山本君から聞きました 十四日御出發の事も聞きました
 外圖も長くなると飽きるでせうが當分は面白いばかりでなく經驗にも經歴にもなつて好いでせう 精々御利用にならん事を希望致します
 御産のため御多忙との事出發前に片付いて結構であります
 十四日には何時に立ちますか 東京驛ですか 私は御存じの通りの人間だから時間を承知してゐても氣に《原》向かないと行かないかも知れないが 氣が向けば又送りに出掛けないとも限らない人間です 夫で一寸伺ふやうな譯であります 以上
    十月十一日                夏目金之助
   鎌田敬四郎樣
 
      二〇一〇
 
 十月十一日 月 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 寫眞到着ありがたく拜受致しました幸に痘痕もうつらず結構の出來多々謝々たゞ光線があまり強過ぎたるやの感あり是は素人觀なるや伺ひます
 畫と賛の事承知は致しましたが先約の如是閑さへ片付ない位故自分ながら少々心細い事です
 松茸の好時節如仰不消化なれど決して御遠慮には及ばず何時でも頂戴の上口から尻へ押し出します 先は御禮迄 匆々
    十月十一日               夏目金之助
   鳥居素川樣
 
      二〇一一
 
 十月十三日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地一丁目六鎌田敬四郎へ〔はがき うつし〕
 あしたの木曜日な事に氣がつかずにゐました 面會日だから朝から人が來るかも知れないので無駄足をさせるのも氣の毒だから御見送りをしませ〔ん〕御健康と御成効を祈ります
 
      二〇一二
 
 十月十四日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復段々好い時節になります身體は御蔭で大して惡い方ではありません毎日展覽會などを見て歩いてゐます
 梨を送つて下さいましてありがたう篤く御禮を申し上ます文鎭はまだ持つて來て呉れません屆いたら御挨拶を致します「道草」はまだ私の處へも見本が來てゐる丈です装幀は津田君がやりました面白いものですが表紙に大變金がかゝりました木版で七八度刷ださうです
 かつてあなたに書いて上げた書はあまり下手いから近々あれを撤回してもらつてもう少し好いのと交換してもらはうと考へてゐます然し多忙で中々其處迄手が出せないから是も何時素志を果せるか解りません 以上
    十月十四日               夏目金之助
   門間春雄樣
 
      二〇一三
 
 十月十五日 金 後01 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ〔はがき〕
 拜復風過古潤〔右○〕秋風超の潤は澗もしくは※[石+間]の誤デス普通澗の方を使ヒマス。達人は太田達人といふ現存ノ私ノ友人ノ名デ間違デハアリマセン。人達《ヒトタチ》とサレテハ困リマス。其他不審ノ所ハ電話デモイヽカラ訊イテ下サイ
 
      二〇一四
 
 十月二十一日 木 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 拜啓江連重次君はかつて野上臼川君の紹介で知り合になつた人ですかねて書いた長編を切つて短篇とした改新小説へても載せる周旋を依頼されますから革新號以後の該雜誌の方針を話して私は謝絶しましたが若し原稿が非常に面白いものとすると君の方で採用にならないとも限るまいかとも考へ直しかつ本人の希望を滿足させないのも如何かと存じ紹介丈致しますから少しの時間を割いて會つてやつて下さい委細は本人より御聽取を願ひます御迷惑な事を御依頼しで《原》濟みません 以上
    十月二十一日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      二〇一五
 
 十月二十二日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 文展だの御大典だので中々陽氣な事で御座います時に突然武者小路君から別紙のやうなもの寄こして朝日へ出して呉れないかといふ依頼です私には御都合が分りませんから一應御目にかけますもし差支があるなら甚だ恐縮ですが御返送を願ひます其時は白樺に載せる積だといふ事ですから 右迄
    十月二十二日             夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇一六
 
 十月二十二日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 昨日の木曜日に木村芳雨君が例の文鎭を持つて來てくれました色々な話をしました銅印も見ました私も一二顆依頼して置きました不取敢御禮旁御報迄 匆々
    十月二十二日              夏目金之助
   門間春雄樣
 
      二〇一七
 
 十月二十二日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 清國北京日本公使館白神榮松へ
 拜復私の書物を御愛讀下さいます由有難く御禮を申します
 寫眞を寄こせとの御言葉ですが寫眞はあまり撮りません夫から人に遣りません夫で殘念ながら御希望に應ずる譯に參りませんあしからず御承知を願ひます 右迄 匆々
    十月二十二日             夏目金之助
   白神榮松樣
 
      二〇一八
 
 十月二十三日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 大阪市南區細工谷町五五〇一佐治秀壽へ〔はがき〕
 松茸をありがたう此年は出來がわるいとか聞きましたが名古屋からも京都からも呉れました御禮迄 匆々
 
      二〇一九
 
 十月二十五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 會の事御知らせ難有う東君よりも通知あり小生は生憎の木曜故出席致さず候兩國の美術倶樂部へ參り候沈石田の畫に面白きものありたり其他にも色々すきなもの有之候
 
      二〇二〇
 
 十月二十六日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町菊富士樓本店池崎忠孝へ〔はがき〕
 讀賣新聞をありがたう、人の小説を批評するなんて事は中々面倒な事です。ことに多忙なあなたに取つて甚だしい煩だつたらうと思ひます。「道草」のためにつぶさせたあなたの時間は私から見るとあなたの損のやうな心持がして御氣の毒です。謹んで御好意を感謝します
 
      二〇二一
 
 十一月五日 金 牛込區早稻日南町七より 鳥居赫雄へ
 拜啓御大典でさぞ御忙がしい事と存じます毫潮の手紙は御所望故御目にかけますが御覽の如く手摺煤染み頗る好事家に見限られさうなもの〔に〕なつてゐます御氣に入らなければ反故籠へなりと御放り込み下さい 右迄匆々
    十一月五日              夏目金之助
   鳥居素川樣
 
      二〇二二
 
 十一月六日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 拜啓 書物をありがたう 四日頃とゞいたがごた/\してすぐ御禮も差上ずといつてまだ一頁も讀まず申譯のない事です 本が賣れなくては困るでせうだれかに頼んで批評をして貰つたらどうです尤も新刊紹介には何處でも出るだらうけれども
 九日頃から一週間程旅行を致します僕のやうな無精なものは誘はれないと※[さんずい+氣]車などへ乘る機會はないのだからたまに誘つてくれる人のあるのは天惠かも知れない
 奥さんへよろしく 以上
    十一月六日               夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      二〇二三
 
 十一月七日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市川岸町八大谷正信へ
 拜啓此間はつまらない作物につき御叮嚀な御注意を御拂ひ下さいまして誤植表まで御拵らへをいたゞき御好意の段幾重にも鳴謝致します
 御惠贈の品物は双方ともありがたく頂戴致しました始め來たのが鳥かと思つたら柿だつたので一寸驚ろきました是は模樣がへになつた事と思つてゐる所へ今度は鳥が着きましたどうも色々の御配慮で恐縮致します柿は御庭先のものを御自身で樹に上つて取つて下さつた由さう伺へば一層の珍味ですが私が食べようと思つて妻に持つて來いといふともう子供が平げてしまつて一つもありませんでしたまことに殘念でした
 鳥はまだ頂きませんあれがシイナとかいふものですが《原》私は見た事がない鳥です食べた事は無論ありませんやが〔て〕食膳に上せて風味致すのを樂しんで居ります先は御禮迄乍筆末奥樣へよろしく 以上
    十一月七日                夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      二〇二四
 
 十一月七日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 久々御無沙汰を致しました御變りもなくて結構です又松茸を澤山にありがたう此間から名古屋大阪京都の三市から松茸を幾度も貰ひ幾度も茸飯を食ひました胃にはよくないといひますが寐ないうちは何でも食ふ事に致しましたあなたのは北國の産だから(ことに謙信の城祉の産だから)自ら味も特別だらうと思つて是から風味に取りかゝります何時もながら御好意を感謝致します新著「道草」を上げやうかとも思ひますがもらつても仕方があるまいと思つてわざと差控へてゐます
 時々先年御依頼した良寛の事を思ひ出します良寛などは手に入らないものとあきらめてはゐますが時々欲しくなりますもし縁があつたら忘れないで探して下さい
 奧さまへよろしく 以上
    十一月七日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      二〇二五
 
 十一月七日 日 後7-8 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ
 
 (一)ある因数を〔右○〕の誤り
 (二)奥さん
 (三)元の通りニテ仕方ナシ
 (四)元の通デヨロシカラン。積《セ》ハ容積の事。セキ〔二字傍線〕がない、セキ〔二字傍線〕がある は東京の俗語 餘裕といふやうなもの
 (五)平岡は〔右○〕の誤
 (六)何時までも の誤
 (七)呼息デ惡ければ呼吸カ
 (八)貴方を貴女にしても無論好イガ貴方でも構ハナカナイカ
 
      二〇二六
 
 十一月八日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「用事」とあり〕
 拜啓先日は電話にで《原》失禮致しました。
 私は明九日から約一週間ばかり伊豆の湯河原の方へ旅行を致します。それで十五日には多分歸京出來まいと思ひます。所が十五日は例の近松君から原稿の來る日ですから若し又々違約といふ事になるとすぐ他の方面をあたつて見る必要が生ずるだらうと思ひますので御打合せかた/”\御手紙を認めます
 突然候補をきめる事は困難でありますが、もし萬一の場合の節は谷崎君などがよからうと思ひます。同君は向嶋邊で宿所を知りませんが、支那料理の偕樂園で聞き合せればすぐ分ります。谷崎でなければ武者小路君もいゝだらうと思ひますが是は先方が十の六迄引き受けられないだらうと思ひます。同君の宿所は千駄ケ谷です。番地の《原》兄さんの所(麹町元園丁)で聞き合せれば解ります。それから此前話のあつた志賀直哉君は目下吾《原》孫子にゐます。此間會つたら近々短かいものを書いて見るとか云つてゐましたから、或は五六十回のものなら秋聲君の後に間に合ふかも知れません
 以上は不時の用意に御報知して置いて立ちたいと思ひまして先刻御宅へ電話をかけましたら生憎御留守ださうですから御歸りになつたら此方へ御掛け下さるやうに願つて置きましたがことによる〔と〕夜遲くなるかも知れず明日は又早く私が出ますから思ひ直して手紙で用を辨ずる事に致しました。
 近松氏もあれ丈念を入れて置けば九分通り大丈夫だらうとは思ひますが從來に徴して見ると決して安心は出來ません。非力な上に正月の中央公論などに手を延ばされてはとても此方へ約束通り寄こす事は出來ないでせう。其中央公論は無論斷ると云ひましたし瀧田の方でも必ず正月號でなくても濟むと云ひますから恐らく專心朝日の方に取りかゝつてはゐるでせうが、今度の十五|回《原》も違約する樣な事があつたら斷然謝絶する方が社のためまた體面のためよろしからうといふのが私の意見でありますからそれも序をもつて付け加へて置きます 以上
    十一月八日夜               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇二七
 
 十一月十四日 日 神奈川縣湯河原天野屋より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ〔繪はがき 伊豆山相模屋〕〔表に〕
 夏目先生と旅行いたし日々教訓を垂れたまいつゝあり
                  是公
 教訓とともに野糞も垂れたまひつゝあり
 然しいまだ帝都三遷の厄に遇ハズ
 謹んで閣下の健康を祝す          金之助
〔裏に〕
 二伸
 咋十二日湯河原から熱海へ參る途中此所にて晝食をしたゝめ五十錢の茶代で此繪葉書をもらひました。是公君は今日獵に行き雉一羽と兎一羽を獲て歸りました。たゞし雙方共獵師が打つたのださうです。同君は一發も放てなかつたと申しますうそぢやないでせう 金之助
 
      二〇二八
 
 十一月十七日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 旅先で新聞を見ると東京は大變な騷だから嘸御忙がしい事と存じます
 私は今十七日午後歸りました。例の小説の件はどうなりましたか差支なく進行致しますれば何も御尋ねする必要も御座いませんがもし何かの手違がありましし《原》私が何か致す必要でも生じはしまいかと存じ歸京御報旁一寸伺ひます 匆々
    十一月十七日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇二九
 
 十一月十七日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜復外國雜誌の件につき御配慮を煩はして恐縮です。社の内情を知らないものだから飛んだ横着を致して濟みません。是から能く氣を付けます。アセニーアムも社の方で取つてもらつて、其上送つて貰つては手數を掛ける丈ですから是から私の方で取る事にしませう。此間引繼注文の雜誌に就いては貴兄よりの御申越にも拘はらず丸善の方からは何とも云つて來ません一應間ひ合せて處置を致します右迄 匆々
    十一月十七日                夏目金之助
   杉浦《〔村〕》廣太郎樣
 
      二〇三〇
 
 十一月十七日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 佐賀縣鹿島町高津原野村傳四へ
 拜啓道草〔二字傍点〕の御禮に茶碗などを貰つては濟みません、然し貰へば結構です、有難く御禮を申ます、あの茶碗は肌合が非常に滑かで美しいもので、それに模樣と格好がよく調和して何方かといふと女性的な 粹な處のあるものです。僕があれで食ふと少々不釣合だ。客が來た時茶碗に使ひます。多謝々々
 金がないのに無暗に品物などを送る心配はしない方がよろしいと思ふ。けれども此方は貰へば嬉しいんだから矢張り使つた金は活きる譯には違ない。たゞ君と僕の富力から云つて僕は君から一品の贈與を受けるべき地位に立つてゐない。たゞ僕の方から君に物を遣るべきだらうと思ふ。好意は感謝するが是から餘り斯んな所へ金を使つて心配しないがよろしい 以上
    十一月十七日               夏目金之助
   野村傳四樣
 
      二〇三一
 
 十一月十九日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ殯菅虎雄へ
 拜啓唐突ながら伺ひ度事あり郭尚先といふ人を御承知ならは明人なるや清人なるや將朝鮮人なるや御教へ被下度もし又御承知なくば誰か漢學者か書の好きな人か好事家かに聞き合せて頂き度候近頃右落※[疑の旁が欠]つきの書を手に入れ候處何人なるや判然致さず表具師に紙の鑑定を依頼致候處土佐唐紙にて彼土のものに無之由にて疑念相生じ候につき御手數を煩はす次第に候固より閑中の好奇心故取急く譯にも無之候へども早く解り候へば一層の好都合に候先は右御願迄 匆々頓首
    十一月十九日               金之助
   虎 雄 樣
       座右
 
      二〇三二
 
 十一月二十二日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 拜啓御かげで金剛草も出來上りました嘸御骨の折れた事と存じます厚く御禮を申します
 私は縮刷でも新刊でも再讀しない男なのですが今日何かの拍子に金剛草をよんでスヰフトの仕舞の處を見ますと「まだ論ずべき事は澤山あるが餘り長くなるから一先づこれで筆を擱く事にする」といふ所に至りどうも尻切トンボの樣な批評で腑に落ちませんから原本を出して調べて見ると果して是はあなたの拵らへた文章だといふ事が分りました。あの位手を入れても好いのですがあれぢや讀んで行つてガツクリ落ちがしてヘナチヨコになつてしまひます。いつそ……とでもして置けば好かつたのです。もう間に合ひませんから何うも致し方がないのですがもし運よく次回増刷の運びにでも到る事がありましたら訂正して頂きたいと思ひます。學習院の講演の最初もちぎれてゐま〔す〕があれはまあ構ひません、其他にもあんな所がありますか序だから一寸伺つて置きます、先は右御禮旁御願迄 匆々
    十一月二十二日             夏目金之助
   松本道別樣
 
      二〇三三
 
 十一月二十二日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 佐世保市上町行徳俊則へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過ぎ申候今般は御令弟南洋行につき至急の場合金貳百圓御立替申候處早速御送付相成正に落手仕候猶御地産名物一箱是亦慥かに相届き申候御厚意の段深く感謝致候先は右御報旁御禮迄 匆々頓首
    十一月二十二日             夏目金之助
   行徳俊則樣
 
      二〇三四
 
 十一月二十三日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 啓郭尚光の儀につき早速御返事難有候御手數奉謝候小生も大倉書店出版の支那畫家人名辭書を取調へ候處郭尚光號石蘭清人とあり略分明に相成候然し御來翰にては郭尚先〔右○〕の如く拜讀致候が該字書には郭尚光〔右○〕と明記致し居候いづれが正しきものにや軸物の落※[疑の旁が欠]は※[先の草書]〔右○〕とある故光先兩樣に讀みなされ候序ながら念の爲め一寸伺上候猶此頃御光來の節は右軸物可〔供〕貴覽何分の御批評願度と存候先は右迄 匆々
    十一月二十三日              金之助
   虎 雄 樣
 
      二〇三五
 
 十一月二十四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 金剛草につき訂正色々御骨折被下御手數奉謝候至誠堂の方も賣行可成の由同店の爲に安心致候
 道草御所望にまかせ一部御覽に供し候御閑の節御通讀被下候へば光榮の至に候金剛草と申すは草の名の由小子固より見た事も無之候へども何か名前をつけろとの御相談ありし時歳時記を披見致候處そこに偶然有之候故其儘用ひ申候何の意味たるやは肝心の當人さへ承知致さずたゞの名前で意味なきものと御吹聽被下度候無責任との非難あらば甘んで《原》受け可申候
 先は右迄 頓首
    十一月二十四日             夏目金之助
   松本道別樣
 
      二〇三六
 
 十二月二日 木(時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二島崎友輔へ
 拜復御丁寧な御書面で恐れ入ります實は私も貴方の友輔さんで居らつしやるか否かに就て半信半※[獣偏+各]で居りました加賀美五郎七といふ人が柳塢さんは友さんの事だと教へては呉れましたが夫でもまだ果してどうかと疑つてゐたのです今回はからず御手紙を頂きまして昔の夢を思ひ出すやうな心持が致しますわざ/\の御光來は恐れ入る次第で私方から參上致すべきでは御座いますがもし御序も御座いましたら茅屋へ御立寄を願ひたいと存じますあなたの日常は定めて御多忙の事と存じますが私の閑生涯もそれ相當の仕事が始終身邊に堆積致して居りますので平常は木曜日を面會日と極めて居ります只今は何も毎日の書きもの御座いませんから木曜なら朝から人々に御目にかゝる事に致して居ります私方から時日などを指定致すのは失禮で御座いますが御照會故御返事を申上るので御座います私も彌生町二番地には知人が御座いますから其内折を得たら參上御高話を伺ひたいと存じます 頓首
    十二月二日               夏目金之助
   嶋埼《〔崎〕》柳塢樣
            几下
 
      二〇三七
 
 十二月二日 木 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 芋を澤山ありがたう 田舍から芋の俵をもらふといふ事は何だか野趣があつて甚だ愉快ですいつか北海道の南瓜をもらつた時のやうな心持がします
 御新著を讀み始めた處中途で一寸旅行をしましたので夫限になつてゐます他から寄贈された書物は其著者の好意に對して可成通讀して置きたいといふ心懸はありますが續々來るのでとても實行出來ないのは遺憾です 此度の新小説に赤木桁平君〔が〕君の書物に就いて何か長いものを書いてゐます私は一寸見ました
 又東京へ來た時御寄りなさい 奥さんへよろしく 敬具
    十二月二日
   和辻哲郎樣               夏目金之助
 
      二〇三八
 
 十二月二日 木 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保二〇一白日社氣付三木操へ
 拜啓御高著二種御寄贈にあづかり正に落手難有御禮申上ます御住居を承知致しませんので不得已白日社氣付として此手紙を認めました同社より滯りなく御手元に屆くやうに希望して居ります 頓首
    十二月二日               夏目金之助
   三木露風樣
 
      二〇三九
 
 十二月四日 土 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 拜復いたづら三枚御目にかけます御取捨御隨意也
 題詩題句ともに古きものゝみにて間に合せ候臆《原》劫を厭ふ所年の所爲と御勘辨可被下候但し畫も無責任のもの故どう相成つても毛頭遺憾なく候先は右迄 頓首
    十二月四日               夏目金之助
   鳥居素川樣
 一つ印章を逆さまに押したり
 
      二〇四〇
 
 十二月七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ〔はがき〕
 「大黒天考」慥かに拜受致しました御好意を謝します私は大黒樣の因縁をよく存じませんが貴方がそんな事に興味を持つてゐられやうとは夢にも思ひませんでした一寸驚ろきました松本も驚いたでせう、松本は私の同級生デス
 
      二〇四一
 
 十二月十一日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 封入の入場券もし時間間に合ひ候節は是非御利用可然諸家の珍藏中には大變御參考になるもの有之候右迄 匆々
    十二月十一日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      二〇四二
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓久々御無沙汰を致しました御變りもない事と存じます鮭例年の通御送にあづかり難有御禮を申上ます書物二冊程岩波書店から御屆けするやうに致します書物が出來た時は近頃貰ひ手が多くなつたせゐか忘れてしまひます歳末乾鮭を見て急に思ひ出す始末です怠慢の罪を御ゆるし被下まし 以上
    十二月十四日              夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      二〇四三
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ〔はがき〕
 「心」と「道草」を一部づゝ横濱市元濱町一渡邊和太郎宛で送つて下さい 御手數恐れ入りますが 以上
    十四日
 
      二〇四四
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜復國華社展覽會御氣に召し小生も滿足の至に存侯偖個々の陳列品に對する御高見御洩し被下大部《原》參考に相成難有候が中には愚存と一致せざる向も有之候故御笑草の爲此一札を認め申候
 山越の阿彌陀は小生には有難き心地少なく候あのベタに金を塗つた彌陀の像のカラダ胸以下の處は何うもタコの化物の如く見え申候普賢はよささうに候それからマンダラも結構に存候然しあの辨天樣は一番藝術的の態度と恰好をしてゐると思ひ候
 御推賞の紫式部日記繪卷物といふもの小生の眼に入らず濟み候或は見たかも知れねど感じなかつたのかも知られずさうなると小生眼睛も少々疑はれ心細く候周文の三益齋は結構ながらあの遠景の山の書き方は頗るいやに候あれよりも無名氏の詩軸の方が拙眼には難なく思はれ申候啓書記はまづ御同感あれは複製と毫も異なる所なきものに候|華《〔崋〕》山が左程の技巧を蟲魚の圖に發揮してゐるにや是亦迂生には君程の感覺なく打過申候燕村に就ては大に異議有之候あの人のものを印刷で見てゐたうちは大に渇仰致し候も此間中よりあの種のもの五六幅を通覽するに及んで思つたよりも調子の低い畫をかく人だとの考目下しきりに小生の心に起り居候乾山の畫も殆んど見逃し申候雪村の李白などは厭なものに候正信の三笑はくれたら貰ふ位な程度と御承知願上候
 小生の好な畫少々御吹聽申候、まづ第一に雪舟の着色山水に候あれを見ると張瑞圖のクシやクシや山水などはなくもがなと思ひ候實に偉い高い感を引起し候夫からあの傍にある文靖の維摩の肖像です是亦氣高きものに候錢選筆赤い人物は何とも云へぬ落付きと巧者と高さを有して居り候が大兄には如何御覽なされ候や。最後〔に〕場中尤も劣惡のものを擧ぐれば呉春の鯉に松と存候元來あの第三席のうちには高い畫無之候梁楷が一つある丈に候が其梁楷のかいた布袋か何かの着物は太い筆の先を割いて墨の黒い奴でシやアと一筆に塗つたも今時の人がやればすぐ非難を招く事受合と存候。夫から大雅の横卷は珍品として眺め候いつもの大雅とはまるで違つてゐるから妙だと存候大雅の特色あるものゝうちで最上等のもの一幅及び竹田の極いゝものを一幅加へたい氣が致し候 右迄 匆々
    十二月十四日              夏目金之助
   寺田寅彦樣
 
      二〇四五
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓例の徳田秋江先生よりは其後何とも拶挨《原》無之去る十日三十回分持參の約束も全く其儘の姿に候へども先日坂崎君への御言傳にて谷崎君の方既に成立せる事故安心致し捨置申候右の次第而徳田秋江君より例の問題につき何とか申來候とも(申來るやうにも思はれず候へども)もう立消になつたものとして交渉に應ぜぬ事に取極め候右御含み迄申上候
 猶同坂崎君を通じて大坂の方の新年に何か書くやうにとの注文有之候が双方書き分くるも面倒故同じ原稿をあちらへ廻し度と存候夫は元日に組み込まれなくても新年に出さへすればよからうと存候が如何にや其邊一寸如是閑君と御打合願上候尤も拙稿は一回にはあらず新年に關係なきかは知らねどぽつ/\途切れながら續かせる覺悟に候夫も御通知願上候 以上
    十二月十四日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇四六
 
 十二月十八日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 和歌山縣新宮町佐藤豐太郎へ
 拜啓御國培養の佛手柑三顆御惠贈にあづかり有難く奉謝候早速盆にもり飽かず眺め入候又先年頂戴致したるシヤチの牙齒は先達漸く機會ありて去る篆刻家に託し雅印を仕上げて貰ふ事に致し候へども未だ出來上らず候
 先は遙々の御好意に對し早速御禮迄 匆々頓首
    十二月十八日             夏目金之助
   佐藤豐太郎樣
 
      二〇四七
 
 十二月二十二日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓談書會の件につき御高配を煩はし恐縮の至に存候會誌四冊正に到着大に今《原》情を慰め申候楷法溯源といふものも大兄の御命令とかにで持來り候買つて買へぬ事はなけれど夫程必要のものにも無之候故他日に讓り申候先日御歸りの節は火鉢額懸物にて嘸かし御難儀の事と存候右御禮迄 匆々頓首
    十二月二十二日               金之助
   虎 雄 樣
 二伸此度の御手紙は前年度のものに比し遙かに上出來に候あの分ならば友達の縁故を以て保存致し置可申候猶斯道の爲め御奮励祈候 珍重々々
 
      二〇四八
 
 十二月二十五日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓御約束の元日組込のものを今日書かうと思つて机に向つて見ましたがどうも御目出度いものとなると一向趣向が浮びませんので甚だ御氣の毒ですが去年の例にならひ正月上旬迄延ばして下さい大阪もあてにしてゐるでせうから是はあなたから宜敷御取なしを願ひます
 私の正月から書くものゝ名は點頭録といふ題で漫筆みたやうなものです
 どうも違約を致して申譯がありません御目にかゝつて萬々御詫を致す積です 以上
    十二月二十五日              夏目金之助
   山本松之助樣
 リヨマチで腕が痛みますつゞけて机に※[憑の心が儿]る事が出來ません
 
      二〇四九
 
 十二月二十九日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 栃木縣那須郡烏山町屋敷町江口※[煥の火偏がさんずい]へ
 拜啓御結婚の由御祝ひ申上ます御父さんとの間柄も圓滿に解決萬事御滿足の御樣子何よりの事です私は久しくあなたが來ないから何うしたのだらうと思つてゐました岡田も結婚君も結婚さうして學校へ出席して卒業さへすれば此上はないと思ひます先は御祝詞旁右迄 匆々頓首
    十二月二十九日              夏目金之助
   江 口 ※[煥の火偏がさんずい]樣
 
 大正五年
 
      二〇五〇
 
 一月八日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜復 男子御出生の由大慶に存候命名の儀承知致候へども別段の思案も無之候今年は辰年故辰の正月にちなみ辰一は如何にや或は大正五年一月を以て生れたる故大一。正五、正一などは如何大一は小生亡兄の名に有之候正一は手品師の名にも有之候故御勸めする氣も無之候辰は龍にて龍《原》にて天に上るもの故|昇《ノボル》では如何正岡子規の名は升《ノボル》に有之其他辰之助、春五。四國、(三田四國町で生れたる故)など考へ付きたれど何れも是はといふ樣な好きものは無之候
 右のうちにてもし御氣に入りたら御命名可然もし又ぞつとしないものばかりなら已めに被成度決して御遠慮に及ばず候名をつけるのは誕生より幾日迄に必要なるかを知らず候へども其内思ひつき浮び候へば此方より又可申上候 以上
    一月八日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      二〇五一
 
 一月八日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 相撲に關する書物わざ/\御送り被下ありがたく御禮申上候今日は原稿を書かうと思つてゐる處〔へ〕謠の先生が來其稽古中君より電話がかゝりたる故御斷り致したる處赤木桁平君が八丈島へ行くとて暇乞に見えた次第是では君を斷らないでも同じ事になつた譯に候色紙正に落手氣が向いたら絹を汚し可申候
 先は右迄 匆々
    一月八日                 夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 
      二〇五二
 
 一月十日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 御手紙拜見好き名思ひ出さず、金五とは金五郎の略字の樣で如何がかと思ふ。金吾或は金伍にては如何 右迄 匆々
    一月十日
 
      二〇五三
 
 一月十三日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 御手紙は拜見致しましたが別に是といつて名案もありませんたゞ御氣の毒に思ふ丈です世の中にはあなた位な境遇にあるものが幾人ゐるか分らないと云ふ事實が充分な慰籍ニナリハシマセンカ
 
      二〇五四
 
 一月十三日 木 牛込區早稻田南町七より 在シヤム井田芳子へ〔うつし〕
 お手紙が正月十日頃着きました。私は御無沙汰をして濟まないと思ひながらつい臆《原》劫だものだから無精を極めてしまふのに貴女は時々厭きもせずに音信を下さる。まことに感心です。尤も用がなくつて怠屈だから仕方なしに手紙を書くんだろうと思ふと有難味も大分減る譯だが夫でも私よりも餘程人情に篤い所があるから矢張り私から云へば感心です。
 和子さんにはそれから二三遍會ひました。書をかけと云ふから書きました。下手な字を書かせて御禮を云つて持つて行く人の氣が解らないですね。和子さんと云へば貴女も和子さんも御嫁に入つてからの方が樣子が好くなりましたね。是は男子というものに對して臆面がなくなるからでせう。あなた方は結婚前からあまり臆面のある方ぢやなかつたが夫でも娘の時分より細君になつた方が私共には話しやすい樣な氣がします。
 あなたのゐる方は暑いさうだが此方は又御承知の通り馬鹿に寒いんで年寄は辟易です。氣分はいつでも若い積でゐるがもう五十になりました。白髪のぢゞいです。あなた方から見たら御とつさんの樣な心持がするでせう。いやだなあ。
 今日は好い天氣です。縁側で日向ぼつこをしながら此手紙をかいてゐます。シヤムの御正月は變な心持でせう。單衣を着て御雜煮を祝ふのは妙でせうね。
 シヤムと云へば長田秋濤さんは死にましたね。あなたの旦那樣や西さん達と一所に撮つた寫眞が太陽か何かに出てゐたから大方秋濤さんはシヤムへ遊びに行つたのでせう。だからあなたも知つてゐるに違ない。人間の壽命はわかりませんね。此次あなたが日本へ歸る時分には私も死んでしまふかも知れない。心細いですね。とは云ふものの腹の中ではまだ/\何時迄も生きる氣でゐるのだから其實は心細い程でもないのです。
 昨日は露西亞の皇帝の叔父さんとかに當るえらい御客さんが東京驛に着いたので天子樣が出迎に行つたのです。其何とかいふ長い名の御客さんは今日午は伏見宮晩は閑院宮へ呼ばれて御馳走になるとかで新聞に其獻立が出てゐましたが、あゝつゞけて食べた日にや却つて遣り切れないだらう。餘計なお世話だが一寸御氣の毒に思ひます。
 明日から國技館で相撲が始まります。私は友達の棧敷で十日間此春場所の相撲を見せてもらふ約束をしました。みんなが變な顔をして相撲がそんなに好きかくと訊きます。相撲ばかりぢやありません。私は大抵のものが好きなんです。
    一月十三日                夏目金之助
   井田芳子樣
 
      二〇五五
 
 一月十九日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内松山忠二郎へ
 拜復御案内有難く候小生去冬以來風邪の氣味にてそれが爲か左の肩より腕へかけては鈍痛はげしくリヨマチか肩の凝か知らざれど兎に角醫者の手に合はず困り入候現に原稿などをかくのが非常の苦痛と努力に候去年以來約束の相撲見物丈は原稿より骨が折れない故どうか斯うか今日迄繼續致候も愈となれば是も欠席の覺悟に候此際の御案内甚だ無禮ながら我儘を申せば聊か苦痛の氣味に有之候久しく諸君と會せざる故かういふ好時機を利用したきは山々なれどどうも坐つて居られさうにもなく候相撲は後ろへ寄りかゝり背中をしきりに動かしどうにか斯うにか持ち應へ居候も夜中は痛みの爲安眠の出來ぬ始末に候
 電話で御返事する等の處くだ/\しくて却つて面倒故書面にて申上候何卒あしからず
 萬一向後諸君と會合の場合もあらば其節參上萬々御詫可申上候 以上
    一月十九日               夏目金之助
   松山忠二郎樣
 
      二〇五六
 
 二月十七日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下下池谷一二二小泉鐡へ
 拜啓秦《原》西の繪畫彫刻四卷御惠贈にあづかりましてまことに有難う存じます厚く御禮を申上ます私はリヨマチで此間中から轉地を致して居りましたが昨日歸京致しました書物は何時參つたか存じませんでした故御挨拶が遲くなりました御勘辨を願ひます 以上
    二月十七日               夏目金之助
   小泉 鐡樣
 
      二〇五七
 
 二月十七日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下中野町桐ケ谷一〇一八阿部次郎へ〔はがき〕
 拜啓赤い部屋ありがたく頂戴しました轉地をしてゐたので御挨拶が後れました昨日湯河原から歸りました
    二月十七日
 
      二〇五八
 
 二月十八日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町神福寺鬼村元成へ
 拜啓 私はリヨマチの氣味で轉地して相州湯河原といふ温泉に廿日間ばかり暮してゐました一昨夜歸つて御手紙を見ました 病氣の方はまあよい方です あなたの胃病は中々難症のやうですね大事になさい 多數の飯を焚くのは隨分難義でせうね 私は歸りに鎌倉へ行つて宗演さんの病氣を見舞つて來ました宗演さんには會ひませんでしたが敬俊といふ御坊さんに會つて見舞の挨拶をして來ました あなたは多分知らないでせうね
 富澤さんへよろしく 以上
    二月十九《原》日            夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二〇五九
 
 二月十八日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 私はリヨマチで轉地を致しまして二十日ばかり留守にしました一昨十六日晩歸りました點頭録をずる/\べつたりにして濟みません 轉地中に稿をつぐつま《原》りでありました所先方に知つた人があつて一所にのらくらして居たものだからつい御無沙汰を致しました 歸つてからあとをどうしたものだらうかと考へてゐます 谷崎君のあとの小説は書かなければならないのだからそれ次第とも考へますが同君のものは大體の所何日頃迄つゞきますか一寸伺ひます それによつて準備を致しますから御面倒でも教へて下さい 以上
    二月十九《原》日            夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇六〇
 
 二月十九日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下田端四三五芥川龍之介へ
 拜啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを讀んで見ましたあなたのものは大變面白いと思ひます落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます文章が要領を得て能く整つてゐます敬服しました。あゝいふものを是から二三十並べて御覽なさい文壇で類のない作家になれます然し「鼻」丈では恐らく多數の人の眼に觸れないでせう觸れてもみんなが黙過するでせうそんな事に頓着しないでずん/\御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身體の藥です
 久米君のも面白かつたことに事實といふ話を聽いてゐたから猶の事興味がありました然し書き方や其他の點になるとあなたの方が申分なく行つてゐると思ひます。成瀬君のものは失禮ながら三人の中で一番劣ります是は當人も卷未で自白してゐるから蛇足ですが感じた通りを其儘つけ加へて置きます 以上
    二月十九日               夏目金之助
   芥川龍之介樣
 
      二〇六一
 
 二月二十二日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校菅虎雄へ
 拜啓二三日前副島蒼海伯の書を得た處讀めぬ處あり臨※[莫/手]貴覽を煩し御判定を仰ぎ度と存候書は七絶にて左の如し
  〔副島伯七言絶句寫し略〕
 是は山上陰雲一鷲沖。山須原豁急西風。我行久在〔二字右○〕深
林  《・〔二字不明〕》送〔三字右○〕(?)(又は道〔右○〕?)此〔右○〕 《・〔一字不明〕》《◎》兀 《・〔一字不明〕》空 と讀むのだらう思ふが○をつけた處は不確實◎をつけた字は全然不明なり他日機會があれば見て貰ふがまあ一寸見ないで讀んでくれ玉へ 以上
    二月二十二日              金之助
   虎 雄 樣
 〔後略〕
 
      二〇六二
 
 二月二十二日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓別紙廣告の書物古るにてもし安く手に入り候はゞ御求め置き被下度候又古るにて出る見込のなきものならば此際七圓で貫はうかとも存居候 如何なものにや 以上
    二月二十二日               夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      二〇六三
 
 二月二十四日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 あなたは病氣で寐てゐるさうですねちつとも知らなかつた痛いでせう然し内臓の病氣よりはまだ樂かも知れない辛防なさい本が讀みたいといふから何か送つて上げやうと思ふが何を上げていゝか分らない注文があるなら買つて送つて上げませうどんな種類の本ですか云つて御よこしなさい無暗に高い本は不可ません 以上
    二月二十四日               夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二〇六四
 
 二月二十六日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐡へ〔はがき〕
 ストリンドベルグの譯第一集御惠贈正に頂戴致しました毎々御心にかけられての御配慮深く御好意を謝します右迄 匆々
 
      二〇六五
 
 二月二十六日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市日本郵船會社支店氣付富山丸神谷久賢へ
 拜復御手紙をありがたう煙草も正に頂きました他に御土産を買つてくるといふ事は餘程親切に心掛ても中々出來にくいものですどうも恐縮です私はあなたから夫程思はれて可然事を何もしてゐないのだから
 湯河原からは一週間程前に歸りましたリヨマチは略快癒しました少々腕がシビレる位です
 潜航艇の難をまぬがれたかと思ふとすぐ世界周航ですか隨分怱《〔?〕》忙ですね然し若いうちは夫が却つて刺戟になつて面白いのでせう御無事と御成功とを折ります 以上
    二月二十六日             夏目金之助
   神谷久賢樣
 
      二〇六六
 
 二月二十六日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 昨日は失敬又あの竹の繪を床の間で見たら實に辟易しましたもう畫だの字だのを決して人にやるものぢやないと思つた位辟易したのですどうぞあれを返して下さい私の耻はまあ可いとして畫家をもつて立つ君の體面にもかゝはりますから。
 あの屏風はどうしてもいけませんね正直な所もう一遍考へ直す必要があります私を忠實な助言者と御思ひなさいうそは申しません商買とはいひながら君だつて責任もあり名譽もあります無暗に手を拔いたからと云つて不愉快は何時迄經つても不愉快に極つてゐませう然し君はあの描法を新らしいものと信じてゐるのだから決して惡意があるとは認めませんがあれを一年間仕舞つて置いて急に取り出して見たら今の私と同感になるに極つてゐます
 決して頑固を押し通し給ふ事なかれ 珍重々々
    二月二十六日               夏目金之助
   津田青楓樣
 いつぞや書いた我師自然といふ額の字もどうか撤回したいと思つてゐます今度寸法を取つて置いて下さいませんか夫に合はせて書き直しますさうして張り替へます、方々へ耻の掻き棄をやつてゐるので尻拭に骨が折れるばかりです、其尻拭が一年經たないうちに又耻ざらしになるのだから甚だ情ない次第です奥さんへよろしく
 
      二〇六七
 
 二月二十八日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 啓金剛草といふ本を送ります詰らんものですもし病中の徒然を慰める事が出來るなら幸福です
 馬場孤蝶後援集といふものはうちにありましたが此間こんな本を悉く人にあづけましたから其方にあるかも知れません或はなくなつたかも知れませんもしあつたら屆けます
 あなたは岡山の寂巖といふ坊さんを知りませんか此人の書は見事だといつて他から注意されました私は其人の書が見たくなりました欲しくなつたのかも知れません是はたゞ序だから伺ふのです 以上
    二月二十八日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 富澤さんへよろしく。病氣を御大事になさい。あなたの老師は字がうまいですか。私は書や畫が好きだからついこんな事を聽きたがります
 
      二〇六八
 
 二月二十八日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ〔はがき〕
 拜啓此間君が持つて歸つた本のうちに馬場孤蝶後援集がありますかもしあれば神戸平野祥福寺鬼村元成宛デ小包デ送つて下さい面倒ながら 以上
    二月二十八日
 
      二〇六九
 
 三月三日 金 後10-12 牛込區早相稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 拜啓今日上野へ行つて國民美術協會の展覽會を見ましたあなたの屏風は傑作ですあの位なものは滅多に出來ないでせうあれを他にやるのは惜しい氣がします何なら私が讓り受けてはと迄思ひましたあれは大變手がかゝりましたらうが本式ですどうかみんなあの位に出來ればいゝと思ひます出來さへよろしければ手を拔いても何でも構はないのは無論でありますが
 右御報知迄 以上
    三月三日                夏目金之助
   津田青楓樣
 天岡※[金+均の旁]一といふ人を知つてゐますかあそこへ銅器や陶器を出品した人ですもし知つてゐるなら宿所を教へて下さい夫からどこ出の人でどんな事をしてゐるかも教へて下さい
 
      二〇七〇
 
 三月四日 土 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ 使ひ持歸
 復軍鷄澤山にありがたう効能書もかゝる時には非常にきゝ目あるやうにて喰はぬ先から旨い氣特が致します仰の如く今夜膳に上せ大いに賞味する覺悟右不取敢御禮迄 匆々
    三月四日              金之助
   米 松 樣
       座下
 
      二〇七一
 
 三月九日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓先日は久し振で御尋ね致したる處御病氣の爲め不得御面語遺憾此事に存候奥さんの御話にてはもう大した事もなからうとの事故安心致し其儘御見舞も申上ず今日迄打過居候然し其後の御消息頓と相分らず或はまだ快くならず御伏せりではなきかと思ひそれで手紙で一寸御見舞を致す譯に御座候
 此間は湯河原より歸京後にて御藏幅拜見の機もあらばと存じ參上したる次第向後そんな場合もあらば素志相果し度是も序を以て願置候 以上
    三月八日                  金之助
   寅 彦 樣
 
      二〇七二
 
 三月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區一番町二松學舍木下國一へ〔はがき〕
 私はあなたに何も慰藉を與へる譯に行きますまい然し會ふ前のあなたの煩悶の大体を手紙で書いて來て御覽なさいそれによつて會ふと會《原》ふ必要がないとか返事をしますから
 
      二〇七三
 
 三月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區一番町二松學舍木下國一へ〔はがき〕
 御手紙は拜見致しましたが私の手際では何うして上げる譯にも參りません甚だ御氣の毒の至ではありますが御斷りの御返事を差上ルヨリ外に仕方ガアリマセン
 
      二〇七四
 
 三月十六日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜復良寛上人の筆蹟はかねてよりの希望にて年來御依頼致し置候處今回非常の御奮發にて懸賞の結果漸く御入手被下候由近來になき好報感謝の言葉もなく只管恐縮致候
 良寛は世間にても珍重致し候が小生のはたゞ書家ならといふ意味にてはなく寧ろ良寛ならではといふ執心故※[草がんむり/松]翁だの山陽だのを珍重する意味で良寛を壁間に挂けて置くものを見ると有つまじき人が良寛を有つてゐるやうな氣がして少々不愉快になる位に候
 さて良寛の珍跡なるは申す迄もなく從つて是を得るにも隨分骨の折れる位は承知致候所で是はどうしてもたゞで頂戴致すべき次第のものに無之故相應の代價を乍失禮御取り下さるやう願ひ上候御依頼の當初より其覺悟に有之候旨は其節既に御話し致し候とも記憶致し居候へば誤解も有之間敷とは存じ候へども念の爲故わざと申添候たゞし貧生嚢中幾何の餘裕あるかは疑問に候へば其邊は身分相應の所にとゞめ置き度是も御含迄に申上候
 其外に拙筆御所望とあれば何なりと御意に從ひ塗抹可仕良寛を得る喜びに比ぶれば惡筆で耻をさらす位はいくらでも辛防可仕候
 先は右不取敢御返事迄餘は四月上旬御來京の節拜眉の上にて萬々可申述候 以上
    三月十六日               夏目金之助
   森成麟造樣
 兩三日來風邪に〔て〕臥蓐此手紙床の上に起き直りて書いたものに候乍筆末奥さんへよろしく猶良寛幅代價御面會の節差上度考故あらかじめ其都合に致し置度と存候間前以て一寸金額丈御報知被下は幸甚に候
 
      二〇七五
 
 三月十八日 土 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ
 御彼岸の牡丹餅ありがたく頂戴ドストユヴスキ小説序を以て御返却致候
 先日願置きたる安藤現慶氏の住所御報知願上候
 後刻使まかり出候時紙片へでも御認め御渡し被下度候其節小生書籍にて御手元にあるもの一應御返し願候方々へ貸したるを整理の必要上一度取りもどす譯に候 右迄 以上
    三月十八日               金 之 助
   米 松 樣
 
      二〇七六
 
 三月十八日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 愛知縣安城町大字赤松安藤現慶へ
 拜啓愈御多祥奉賀候偖先年拜借致したる佛書三部其後拜顔の機をまち御返却可致心算に御座候處生憎面語の折なく今日に至り無申譯な《原》く候過日來兩三度御宿所を森田君に尋ね今日漸く相分り候につき右御藏書小包にて御郵送申上候につき御落手被下度候 以上
    三月十八日               夏目金之助
   安藤現慶樣
 
      二〇七七
 
 三月十九日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ〔はがき〕
 私の腕の痛は大分好くなりました御尋ね下すつて有難う御座います湯河原からは餘程前に歸りました
 
      二〇七八
 
 三月十 《〔?〕》日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町菊富士樓本店池崎忠孝へ〔はがき〕
 眞山民詩集正に着御好意ありがたく候 此次代價差上可申候 御禮迄 匆々
 
      二〇七九
 
 四月十二日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓御上京の節は何の風情もなく失禮致候良寛和歌につき結果如何と案じ煩ひ居候處木浦氏手離しても差支なき旨の御報何よりの好都合に候十五圓だらうと百圓だらうと乃至千圓萬圓だらうともと/\買手の購買力と買ひたさの程度一つにて極り候もの其他に高いの安いのといふ標準は有り得べからざる品物に候へば幸身分相應の代價にて讓り受ける事相叶ひ候へば有難き仕合せに候猶此點につき大兄の一方ならぬ御盡力と木浦氏の所藏割愛の御好意とを深く感謝致し候
 代金十五圓は荊妻に命じ爲替と致し此中に封入差出申候につき御落手被下度侯早速經師屋を呼び兩幅とも仕立直し忙中の閑日月を得て良寛の面影に親しみ可申候先は御禮旁右迄 匆々
    四月十二日               夏目金之助
   森成麟造樣
       座下
 
      二〇八〇
 
 四月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 此間中は御老人御病氣の爲め御歸省の由幸御快氣の趣にて再び御東上結構に存候 心越禅師の幅物手に入り候由何よりの堀り出し物羨ましき限に候 小生も良寛の書を二幅程得候内一幅は小品なれど大變結構の出來に候今度心越禅師を拜見の序を以て可供高覽候
 小生の英書或は御手元に殘り居り候はゞ一應御返却願度段々人に貸して行衛不明のもの出來候につき一寸整理致し度と存じ此間中よりそちこちと徴發致し居候元より至急を要する事にてはなけれど右の事情故どうぞ其積にて序もあらば御持參願上候 右迄 匆々
    四月十二日                金之助
   豐一郎樣
 
      二〇八一
 
 四月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨村池袋七四六前田利鎌へ
 拜復私はあなたの名を忘れてゐました前田利鎌といふ名前を眺めてゐるうちに若しやあの人ではなかつたかと思ひ出しましたがそれも半信半疑でありました穴八幡の處で會つた人があなただらうとは夢にも思ひませんでした若しあれがあなたなら私の小説の縮刷を手にしてゐはしませんでしたか
 私は多忙だから面會日の外は普通の御客には會はない事に極めてゐます面會日は木曜日ですが木曜は學校があるからあなたも忙がしいでせう然し學校が濟んでから來る勇氣があるなら入らつしやいお目にかゝりますから 以上
    四月十二日               夏目金之助
   前田利鎌樣
       座下
 
      二〇八二
 
 四月十九日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜復 謠會の御招待有難く存候然る處小生近日稽古を廢し此種の會合には當分出ない積故葵上の役割はどうか他に御選定を願ひ度候考へて見るに謠は一人前になるには時間足らず今許す時間内にては碌な事は出來ず已めた方が得策と存候其上近來○○といふ男の輕薄な態度が甚だ嫌になり候故已めるのは丁度よき時機と思ひつき遂に斷行致し候序を以て餘計な御シヤベリを致し御清聽を涜し嘸御聞きにくき事と存侯 右迄 匆々
    四月十九日                 金之助
   豐一郎樣
 愚存にては○氏より小鍛冶の方が數等眞摯なる藝術家に候然しあれも其内スポイルされる事と存候
 
      二〇八三
 
 四月二十日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓過日は久振にて拜顔色々御高話承はり滿足此事に候迂生病氣につき種々御心配是亦深く奉鳴謝候乃ち御高配に從ひ十九日朝より二十日朝に至る迄二十四時間の尿を一部分差出し候間可然御檢査相成度候猶其後の食物表別紙の如くに候間是亦御參考の爲め御覽被下度候如仰蛋白のみ攝取致候と反つて酸を増し候にや胃痛も起り運動も出來かね候老境に近くと段々色々の故障ばかりにて甚だ心細き次第に候
 猶向後の養生方其他に就ては檢尿の上何分の御注意賜はり度電話にて御都合御報被下候へば又々御邪魔ながら本郷迄出掛可申候先は右用事迄 匆々
    四月二十日               夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
 
      二〇八四
 
 四月二十二日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓先日は御手紙頂戴有難く拜見致候早速岩波へ問合せ候處果して間違にて昔の手紙に棒を引いてなかつたためと判然致候同人より其旨申上たる筈なれど猶小生よりも御手數を煩はしたる儀につき御挨拶申上候岩波は書籍返送の儀申入候樣に承り候がそれも御面倒と存じ候へば御打棄置被下度候若しや渡邊傳君へあの本を上げてなかつたら餘り物で失禮には候へども貰つて頂きたいとも存候如何のものにや序の節同君に御たづね被下度候若し又岩波の申上候通同店へ御送附濟に候へば是亦それにて宜敷以上の御配慮御無用に候先は右御詫旁當事のみ 匆々敬具
    四月二十二日              夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      二〇八五
 
 四月二十二日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓先日は御面倒相願多謝猶本日御指定通り昨日の尿三回分差出候間可然御取計願上候
 咋一日の食事表及び目下服用中のソーダ剤處方是亦貴意の如く相添御參考に供し候向後も宜敷樣御指圖被下度出來る丈は確定方針を守る心得に御座候 右迄 敬具
    四月二十二日               夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
        榻下
 
      二〇八六
 
 四月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『文章倶樂部』へ〔應問 五月一日發行『文章倶樂部』(寫眞版)より〕
 「文章初學者に與ふる最も緊要なる注意」といふ御質問をうけましたがちと問題が大きくて一口に申上かねるやうです。然し一番ためになるのは他の眞似をしやうと力めないで出來る丈自分を表現しやう〈と努力させる注意ではないでせうか。他から受ける感化や影響は既に自分のものですから致し方がありませんが好んで他を眞似るのは文章の稽古にも何にもならないやうです自分の發達を害する許だと思ひます。從つて感化と模倣の區別をよく教へてやるのも好い方法かと考へます
 何か御返事を上げないのも失禮だと存じて一口御答を致します固より深く考へた上の事でありませんから粗雜至極のものです 以上
                        夏目金之助
 
      二〇八七
 
 五月一日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓御指定の通尿三瓶差出候可然御取計願上候昨日の食事表も相添申候當用迄 匆々
    五月一日                 夏目金之助
   眞 鍋 樣
 
      二〇八八
 
 五月二日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ
 御手紙をありがたう私も久しく御無沙汰を致しました御變もなくつて結構です私は病氣をしに生れて來たやうなものですから始終どこかわるいのです然し今は起きてゐますさうして近いうちにくだらないものを新聞に書かなければなりません
 金ちやんはゴリオシが出來なくつて例の男が妻君をもらつちまつたといふ話ですねどうも氣の毒の至です然し早速あとを見付けて代りにすればちつとも差支ないでせう私のカヽアへの手紙は歸つたら渡しますカヽアは今外出して宅に居ませんまづ此位で御免蒙ります さよなら
    五月二日                 夏目金之助
   野村御君樣
 花をありがたう東京では御花見に一遍も行きません
 
      二〇八九
 
 五月六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 下關市觀音崎町永福寺鬼村元成へ
 あなたの出來ものはもう全快したさうで結構です下關へ行かれたさうですが其邊で好い御寺が見つかりますか あなたはまだ若いから和尚さんになるのは骨が折れるでせう然しなれたら又和尚さんらしい便利だの自由が得られるでせう 下關は一度町を通つた事がある丈で慥かな記憶がありませんが何でも細長い町だと覺えてゐます 富澤さんは勉強して知識になると云つてゐましたが此頃でも一生懸命に修業をしてゐますか 私は始終からだ〔が〕惡くて困りますまあ病氣をしに生れに《原》來たやうな氣がします 是から又小説を書くので當分忙がしくなります 以上
    五月六日                 夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二〇九〇
 
 五月十八日 木 牛込區早稻田南町七より ジヨーンズへ〔うつし〕
 拜啓小生先日來病氣にて打臥り居候ため御申越の拙著翻譯の件に關する御返事相後れ甚だ遺憾に候右に就き卑見は左の如くに候
 (一)「二百十日」の英文出版が教育のため、若くは他の公共の目的の爲め、或は單なる物數奇の爲にて、利得に關係なきものなる以上、小生は無條件にて出版を承諾するもの〔に〕有之候 又右に就き御兩君の御盡力を銘謝するものに候
 (二)もし又相當の物質上の収入を目標としての事業なる上は作者としての小生も應分の取得を請求可致候是は利得の問題といふよりも寧ろ理非の問題として斯く申す次第に候
 元來「二百十日」は大した實質ある作物にても何でもなく英譯の價値ありとも存じ居らず候へば可相成は出版御見合せの程こそ小生に取りて願はしき事に御座候
 右返事迄 敬具
    五月十八日               夏目金之助
   ジョー〔ン〕ズ樣
 
      二〇九一
 
 五月二十一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓此間中から少々不快臥牀それで小説の書き出しが豫定より少々遲くなつて濟みませ〔ん〕谷崎君の二十日完了の筈のものが二十四迄延びたのも夫が爲の御斟酌かと存じ恐縮してゐます此分では毎日一回宛は書けさう故御安心下さい
 却説小生の宅へ來る赤木桁平と申す人が今度の「明暗」の原稿を是非貰ひたいと申します私は斷るのも氣の毒ですから社へ聞き合せて置かうと申しましたが如何なものでせう若し御差支なくば、又大した御手數にならないならば御保存の上完結後取り纒めて同氏へ渡してやりたいと思ひます一寸手紙で御都合を伺ひます 以上
    五月二十一日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇九二
 
 五月二十一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ
 拜啓高著生殖器崇拜〔教〕の話遙々御惠贈にあづかり有難く御禮申上候小生斯ういふ學問に就ては全くの門外漢故拜讀の際種々の點に於て利益を受け候事尠〔か〕らず候不取〔敢〕右御挨拶迄 匆々不一
    五月二十一日               夏目金之助
   上田恭輔樣
 
      二〇九三
 
 五月二十一日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみ、梅垣きぬへ〔はがき〕
 粽をありがたう何か御禮に上げますから欲しい食べたいものを云つて御寄こしなさい、東京にあるものはみんな京都にありさうで見當がつかないから。
 うまい鹽煎餅はいかゞ
 
      二〇九四
 
 五月二十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 御手紙拜見致しました至誠堂は氣の毒ですが斷りました外に約束がありま〔す〕から、それに私の本は新らしいのでもさう澤山は賣れやしません
 それから絹に書く事は白耳〔義《?》〕の爲でも何の爲でも御免蒙ります近頃は時々そんな突飛な注文を受けて撃退するのに困る事があります 呵々
    五月二十五日               金之助
   松本道別樣
 
      二〇九五
 
 五月二十八日 日 牛込區早稻田南町七より ジヨーンズへ〔うつし〕
 御手紙拜見致しました。「二百十日」はかつて羅馬字會で出版したいと申しました節許諾を與へましたので其本が御手元に渡つたため今回の英語翻譯となつたのだらうと推察されます。既に英語教授の目的で御翻譯になる以上それを同樣の目的で他の學校に使用される事は毫も差支御座いません。幾分か學生の便宜になる事だらうと思ひますから。
 但し作物として藝術上翻譯の價値があるかないかの問題になると、私は全く自信がありません故、若し御翻譯が教育上の目的にせよ一般に流布されるやうな場合には緒言にでも「作者を代表するに足る好い著述ではないが羅馬字で出版されてゐるので、英譯上便宜があるから、著者の意向如何に拘はらず、とくにこれを翻〔譯〕した」と御注意下さるやう願ひます。
 私の考へでは「二百十日」よりも「坊ちやん」の方がまだ増しだらうと考へます。私の友人が鹿兒嶋の高等學校にゐた英人に「坊ちやん」を讀んでやつてゐた事があります。(英人へ日本語を教へるため)是は餘計な事ですが御參考のため書き添へます。
 英語で御返事をかくのが臆《原》劫ですから日本語で書きました。それも羅馬字で書いた方がよろしからうと存じましたが、今回も御知り合の日本の教授方を煩はす事にして、書きよい書き方で御免蒙ります。以上
    五月二十八日               夏目金之助
   ジヨー〔ン〕ズ樣
 
      二〇九六
 
 六月四日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ〔はがき〕
 拜啓明日の編輯會へは成るべく都合して出ますが若し出なかつたら小説執筆の爲め時間の差繰がつかなかつた事と思つて下さい
 
      二〇九七
 
 六月九日 金 後7-8 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木六九下山儀三郎へ
 拜啓昨日は失禮致しました其節御依頼の御令孃命名の儀は小生の漱石の石をとりいし子と致しました自分の雅號などを人につけて遣る事を私は甚だ好まないのでありますが昨日の御話を伺つて見ると御斷りを致すのが如何にも御氣の毒でありますから僭越を忍んで御希望の如くに取計ひました向後健全の御發育と立派なる御成長とは小生の切望する所であります 敬具
    六月九日                 夏目金之助
   下山儀三郎樣
 
      二〇九八
 
 六月十日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓今日さき程投函致しました明暗(二十四)の一番仕舞際に「其小路を行き盡して突き當りにある藤井の門を潜つた時、彼は突然彼の一間ばかり前に起る砲〔右○〕聲を聞いた」といふやうな文句がありますが、もし砲〔右○〕聲となつてゐたらそれを銃聲と訂正して置いて頂きます。もし又砲聲とも銃聲ともなく他の「どんといふ音」とか「鐵砲の書」とかなつてゐたらその儘でよろしう御座います。何だか書いたあとで不圖氣が付いた樣で其癖自分の使用した句をはつきり覺えてゐない樣なので つい不得要領な御願を致す事になりました 以上
    六月十日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇九九
 
 六月十日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ〔はがき〕
 佐久良んぼう一箱正に頂戴致しました御禮を申上ます 以上
    六月十日
 
      二一〇〇
 
 六月十四日 水 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町五六中島六郎へ
 拜啓。長い御手紙で御譴責を蒙りまして恐縮の至であります
 あれを拜見すると私が貴下に對して申し譯のない陋劣な所業でも致したやうに感ぜられますが、私はそれを意外に存じます、又遺憾に存じます、何となれば私には一向其理由が解らんからであります、
 私は只今迄娘共を親切にお教授下すつた貴下に對して感謝の意をもつて居りました、其微意を表するため愚妻と娘とは近日中御禮のため參上致す事になつて居りました、然しあゝいふ御手紙を頂いた上は、何うして好いか解らなくなりました、何となれば貴下があゝいふお考をもつて居られる以上は、此方の好意を好意としてお受け下さらないだらうといふ掛念があるからであります、侮辱を受けるために妻や娘を他人の家に遣はす事を私は夫とし又親として耻づるからであります、貴下はあの手紙によつて惡意のない貴下の既往のお弟子と其父兄とが貴下に對して表しやうとする感謝の念を如何なる方法によつても發表する事が出來ないやうにしてしまつたのだとお認めにならん事を希望致します。
 妻と娘がお禮旁出た上で詳しくお話を致す筈になつて居りましたが、以上の理由で當分參上する自由を得ませんから、父として私から申し上げます、
 娘は此月からもうピヤノの御教授を貴下から受けない事になりました、
 既往のお教授ぶりに就いてのお禮は、他の方法によつて之を貴下へ通ずる手段を有たない今日、已を得ませんから、一言こゝに付け加へ置きます、何うぞ父としての謝辭をお受け下さい、
 お手紙中にある他の事項に關しては何も申し上げる必要を認めません。 以上。
    六月十四日                夏目金之助
   中嶋六郎樣
 
      二一〇一
 
 六月十四日 水 牛込區早稻田南町七より 麹町區三番町一二有島生馬へ
 啓「南歐の日」一部御惠投ありがたく存候貴方のものは大抵讀んだ積で居りますがあの中には或はまだ未讀のものもあるかも知れません故閑を得て拜見する積で居ります不取敢右御禮迄 匆々頓首
    六月十四日                夏目金之助
   有島生馬樣
       座下
 
      二一〇二
 
 六月十五日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 金澤市川岸町八大谷正信へ
 拜啓御惠贈の御菓子折正に頂戴致しました毎度ながら御心にかけられての御親切ありがたく御禮を申上ます小説も毎日二回づゝ讀んで頂くのは恐縮の至でありますが自分の我儘の方から申せば其方が嬉しいのには違ありませんさういふ熱心な讀者に對して何うか滿足の行くやうな旨いものが書きたいと冀ふ次第であります
 先は不取敢右御禮迄 匆々
    六月十五日              夏目金之助
   大谷繞石樣
       座下
 
      二一〇三
 
 六月二十一日 水 前0-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜復御來示の趣有がたく承はり候明晩御光來の程待上候 明後日なら午後に願度と存候と申すは小生午前中は執筆と相きめ下らぬものを毎日精出して書き居候故大抵のものは斷はり居候わざ/\の御光臨に文句をつけ甚だ恐縮の至なれど右の次第故惡からず 先は御挨拶迄 匆々頓首
    六月二十日夜              夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      二一〇四
 
 六月二十一日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 啓御指命により尿三瓶例の如く差出候食事表も相添へ申候
 昨夜の尿は食後二時間目を間違へて三時間目に取り申候故不注意の御詫旁御斷り申候 頓首
    六月二十一日              夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
 
      二一〇五
 
 六月二十二日 木 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木六九下山儀三郎へ
 拜啓此品輕少ながら赤坊さんの夏着として御笑納被下度是は荊妻がミシンで拵へた手製に御座候故御祝としては幾分か記念にも可相成かとも存じ石子さんに差上る次第に候 頓首
    六月二十二日              夏目金之助
   下山儀三郎樣
 
      二一〇六
 
 六月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『新潮』へ〔應問 七月一日發行『新潮』より〕
 私は不幸にしてタゴール氏に面會の機を得ません。それから同氏の書いたものも讀んで居りません。私の同氏に關する知識はたゞ新聞に出る寫眞丈であります。其寫眞から推すと氏は多數の日本人よりも風采の點に於てはるかに立派なやうに思はれます。其他に何の感想も有ちません。
 
      二一〇七
 
 七月四日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 拜復伊達家入札會の切符わざ/\御送有難う本日午後行つて看て來ました中々面白いものがあります 一休の下手な書が一番眼につきましたあれは(三行もの)何で懸物などにする價値があるのでせう あんまり人が多いので落付て看られないのが不愉快でした 君の好な斑竹の畫簾は結構ですが實用に使用するのは勿體なし といつて仕舞つて置いてはつまらなし厄介なものぢやありませんか 先は御禮旁御報迄 匆々頓首
    七月四日夜              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      二一〇八
 
 七月五日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木六九下山儀三郎へ〔はがき〕
 拜借新選俳句大觀一部御惠贈ありがたく奉謝候早速御禮迄如此に御座候 以上
      七月五日
 
      二一〇九
 
 七月九日 日 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目二眞鍋嘉一郎へ
 拜啓毎々尿を試驗して頂いて有難う御座います御蔭で糖分も減退腕の神經痛も癒りました感謝してゐます何か御禮をしやうと思ふが親切でして下さるものへ町醫者と同じやうな事をしてはならないと思つて少々考へたが別に方法もないので下らんものを御目にかける事にしました失禮かも知れませんが私の志だから受納して置いて下さい夫から尿の試驗表を作つて下さる君の助手の方へも御禮の心ばかりに同性質のものを差上る事にしました然し名前も住所も能く知らないので貴方から渡して頂く事にしたいと思ひます御迷惑でも何うぞ宜敷願ひます自身御禮に上りたいのですが何時上つたら御邪魔にならずに濟むか解らないし夫からこんなものを自分で持參するのは厭だから車夫を差出ます、封が二つあるうちで貴方の名前の書いてある名刺を貼り付けた方があなたので名刺のない方が助手君のであります先は用事のみ 匆々頓首
    七月九日                夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
 
      二一一〇
 
 七月十一日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓「外報」といふ名前でM、M、C(明暗中烟草の名)はMCCの間違だと注意して呉れた人があります。その人はその間違をあなたに話したさうですから、あなたは其人を御存じだらうと思ひますので、此手紙をあなたに差上ます。
 「實は私はMMCとばかり思ひ込んでゐました。然し御注意により書物にするときにはMCCと訂正致します。有難う御座います。」
 是丈傳へて下さい。
 夫から其人の端書のうちに「エラタ」と假名で書いてありますが、エラタは誤謬の複數で、單數の時はエラタムになります。是は故意に意趣返しの積でいふのでも何でもありませんが、羅甸語を英語に移したものだから間違へると氣が付《つ》かない事もあります故其人に注意して上げて下さい。序に云ふのですから手紙の主題とは何等の關係もない事ですけれども、たゞほぢくる爲の惡意でない事丈は先方に傳はる樣に願ひます 以上
    七月十一日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二一一一
 
 七月十五日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 212 West 122 Street,New York 厨川辰夫へ
 拜復其後愈御勉強結構に存じます。私の病氣を御見舞下さいまして有難う御座います。私は始終病氣です。但起きてる時と寐てゐる時とある丈です。
 上田敏君が死にました。十三日に葬式がありました。人間は何時死ぬか分りません。人から死ぬ死ぬと思はれてゐる私はまだぴく/\してゐます。
 私の書物なんか亞米利加人に讀んでもらふやうなものは一つもありません。
 御返事迄 匆々
    七月十五日              夏目金之助
   厨川辰夫樣
 
      二一一二
 
 七月十八日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本所區龜澤町一丁目二六大石泰藏へ
 拜復「明暗」のかき方に就ての御非難に對しては何も申上る程の事はないやうです。私はあれで少しも變でないと思つてゐる丈です。但し主人公を取かへたのに就ては私に其必要があつたのです。それはもつと御讀下されば解るだらうと思ひます。アンナカレニナは第何卷、第何章といふ形式で分れてゐますが内容から云へば私の書方と何の異なる所もありません。私は面倒だから二 二、三、四、とのべつにしました。夫が男を病院に置いて女の方が主人公に變る所の繼目はことさらにならないやうに注意した積です。要するにあなたは常識で變だといひ私も常識で變でないといふのです。すると二人の常識がどこか違つてゐるのでせうか呵々
    七月十八日                夏目金之助
   大石泰藏棟
 
      二一一三
 
 七月十九日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本所區龜澤町一丁目二六大石泰藏へ
 あなたの第二の手紙は私のあなたに對する興味を引き起しました。第一の書信を受取つた時私は(實を云ふと)面倒な事を云つてくる人だと思ひました。黙つて放つて置かうかとも思ひました。然し第二の御手紙に接した私は、あなたの御不審のある所が漸く判然したやうに考へるやうになりました。それで又此返事を差上ます。
 あなたはお延といふ女の技巧的な裏に何かの缺陷が潜んでゐるやうに思つて讀んでゐた。然るに、其お延が主人公の地位に立つて自由に自分の心理を説明し得るやうになつても、あなたの豫期通りのものが出て來《こ》ない。それであなたは私に向つて、「君は何の爲に主人公を變へたのか」と云ひたくなつたのではありませんか。
 あなたの豫〔期〕通り女主人公にもつと大袈裟な裏面や凄まじい缺陷を拵へて小説にする事は私も承知してゐました。然し私はわざとそれを回避したのです。何故といふと、さうすると所謂小説になつてしまつて私には(陳腐で)面白くなかつたからです。私はあなたの例に引かれるトルストイのやうにうまくそれを仕遂げる事《こと》が出來なかつたかも知れませんが、私相應の力で、それを試みる丈の事なら、(もしトルストイ流でも構はないとさへ思へば)、遣《や》れるだらう位に己惚れてゐます。
 まだ結末迄行きませんから詳しい事は申し上げられませんが、私は明暗(昨今御覽になる範圍内に於て)で他から見れば疑はれるべき女の裏面には、必ずしも疑ふべきしかく大袈沙《原》な小説的の缺陷が含まれてゐるとは限らないといふ事を証明した積でゐるのです。それならば最初から朧氣に讀者に暗示されつゝある女主人公の態度を君は何う解決するかといふ質問になり〔ま〕せう。然しそれは私が却つてあなたに掛けて見たい問に外ならんのであります。あなたは此女(ことに彼女の技巧)を何う解釋なさいますか。天性か、修養か、又其目的は何處にあるか、人を殺すためか、人を活かすためか、或は技巧其物に興味を有つてゐて、結果は眼中にないのか、凡てそれ等の問題を私は自分で讀者に解せられるように段を逐ふて叙事的に説明して居る積と己惚れてゐるのです。
 斯ういふ女の裏面には驚ろくべき魂膽が潜んでゐるに違ないといふのがあなたの豫期で、さう云ふ女の裏面には必ずしもあなた方の考へられるやうな魂膽ばかりは潜んでゐない、もつとデリケートな色々な意味からしても矢張り同じ結果が出得るものだといふのが私の主張になります。
 あなたの方が眞實でないとは云ひません。然し其方の眞實は今迄の小説家が大抵書きました。書いても差支ありません、又陳腐でも構はないとした所で、もし讀者が眞實は例の通り一本筋なものだと早合點をすると、小説は飛んだ誤解を人に吹き込むやうになります。今迄の小説家の慣用手段を世の中の一筋道の眞として受け入れられた貴方の豫期を、私は決して不合理とは認めません、然し明暗の發展があなたの豫期に反したときに、成程今迄考へ〔て〕ゐた以外此所にも眞があつた、さうして今自分は漱石なるものによつて始めて、新らしい眞に接觸する事が出來たと、貴方から云つて頂く事の出來ないのを私は遺憾に思ふのであります。さう思はれないのは、私の手腕の缺乏、私の眼力の不足、色々な私の缺點から出て、毫も讀者たる貴方の徳を煩はすに足りないかも知れませんが、兎に角私の精神丈は其所にある事を御記憶迄に申上て置きます。
 終にのぞんで親切なる讀者の一人として私はあなたが如何なる種類階級に屬する人であるかを知りたいと思ひます。
    七月十九日               夏目金之助
   大石泰藏樣
 
      二一一四
 
 七月三十一日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 前橋市曲輪町六小池壽子へ
 拜復
 バタを澤山に送つて下さいまして有難う存じます厚く御禮を申します參考書を御聞き合せですが私にも何がいゝか分りません。あなたの方で本の名前を並べてくれば取捨はして上げられる樣な氣もしますが一体何ういふ方面の參考書の意味ですか
 此手紙はもつと早く書く筈でしたがごた/\してつい遲くなりました 以上
    七月三十一日              夏目金之助
   小池壽子樣
 
      二一一五
 
 八月五日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 拜復此夏は大變凌ぎいゝやうで毎日小説を書くのも苦痛がない位です僕は庭の芭蕉の傍に疊み椅子を置いて其上に寐てゐます好い心持です身體の具合か小説を書くのも骨が折れません却つて愉快を感ずる事があります長い夏の日を藝術的な勞力で暮らすのはそれ自身に於て甚だ好い心持なのです其精神は身體の快樂に變化します僕の考では凡ての快樂は最後に生理的なものにリヂユースされるのです。賛成出來ませぬか。
 小説を書いたら當分寐かして置くが好いです人に批評して貰ふよりも寐かして置いて後で見る方がいくら發明する所が多いか分りません。(僕の樣なそれを職業とするものは特別として)
 木曜は午後から夜へかけて何時でも居ります近頃は新思潮の同人がやつて來ますちと御出掛なさい 以上
    八月五日                 夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      二一一六
 
 八月五日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪府北河内郡四傑村野崎池崎忠孝へ
 拜啓此間は御手紙を有難う此年は大變いつもより涼しいので凌ぎ安いやうです毎日小説を書くのも汗が出ないで樂です長くていつ暮れるか分らない午時を室内で氣を永く暮らしてゐるのは好い心持です 今日から蝉が鳴き出しました子供がそれを捕つて喜んでゐます いづれ九月に御目にかゝります私の小説は何時濟むか分りません厭きずに仕舞まで讀んで下さい 以上
    八月五日                夏目金之助
   池崎忠孝樣
 
      二一一七
 
 八月九日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區根津西須賀町七紅葉舘山田幸三郎へ
 拜復御手紙拜見致しました「草枕」を獨譯なされる事は始め〔て〕承知致ましたあんなものに興味をもたれ御譯し下さるゝ段甚だ有難い仕合せです私の方から御禮を申上ます。然しあれは外國語などへ翻譯する價値のないものであります現在の私はあれを四五頁つゞけて讀む勇氣がないのです。始めから御相談があれば無論御斷り致す積でしたさういふ譯ですから雜誌はよろしう御座いますが單行本にして出版する事丈はよして下さいまし 以上
    八月九日                 夏目金之助
   山田幸三郎樣
 
      二一一八
 
 八月十一日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 小倉市高砂町二丁目小住方佐藤宗太郎へ
 拜復 御手紙の趣承知致し候へども生憎其方面の人々と接觸の機なく遺憾思ひ通り迅速に運びさうも無之候故別の方面より御運動可然かと存候猶便宜も有之候節は私よりも間接に誰かに依頼可致候
 先は右不取敢御返事迄 頓首
    八月十一日               夏目金之助
   佐藤宗太郎樣
 
      二一一l九
 
 八月十一日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓 昨日小閑を倫みかねて御依頼の素明畫伯の繪に賛を致し候不出來ながら御勘辨願上候御急ぎにても有之間敷とは存じ候へども一寸御通知致置候間木曜の午後何時にても御入來被下候へば御渡し可申候 頓首
    八月十一日               夏目金之助
   圓 月 樣
 
      二一二〇
 
 八月十四日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 下關市觀音崎町永福寺鬼村元成へ
 拜啓御無事で結構です私もどうか斯うか小説を書いてゐます。でんぶを有難う。中々うまいです。あなたはあんまり金はないでせうからあんな心配はせぬ方がよろしいと思ひます。私の家は狹いのです。子供が六人ゐるのです。それで邸内にある小さな家を借りてそこを子供の勉強室にしてゐるのです。此前宅へ泊めて上げるといつたのは此小さな家の事です。夜は誰も寐ないから泊れる事は泊れるだらうと思つてさう云つて上げたのです。愈貴方がたが來るとなつたら御知らせなさい。都合をよく考へて妻とも相談して見ますから。十月頃は小説も片づくかも知れませぬ、さうすれば私もひまです。
 あなたは久留米の梅林寺の献禅さんを知りませんか。あの人は墨梅と書がうまいと聞きました。書いて貰はうと思ふがツテがありませんので一寸伺ふのです。私などにも何か書いてくれ/\といふものがあります。私は面倒だから知らない人のは其儘にして置きます。だから自分の方で人に依むのも自然氣が引けるのです。富澤さんがいつか愚堂和尚の書をやると云つてきました私は大變うれしがつてゐますが、そんなものを無暗に人にくれるのは勿體なくはないかと考へると甚だ濟まん氣がするので此方からは何とも云つて上げません。當澤さんも其後國へ歸つたか歸らないか知りませんので其儘です。哲學の書物は送つて上げます。然し能く解るやうに書いたものがあるかどうか其所は受合ひかねます。但し解らないから六づかしいと思つては不可せん。書き手がヘタで解らなくなる場合もありますから 以上
    八月十四日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二一二一
 
 八月十四日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓若い禅僧が下のやうな手紙をよこしました。「……近頃私は哲學を少し暇だからしらべて見たいと思つてゐますが何分哲學のテの字も知りませんからどういふ本が手ほどきにいゝのか見當がつきません。……何かいゝ本があつたら教へて頂けますまいか、そして哲學にはそれ/”\派があると聞いてゐますが其中でどんなのがいゝでせうか御暇な時に一寸教へて下さい」
 僕は此人に本を送つてやりたいのです。君が好いと思ふのを一二冊送つて下さい代價は後で拂ひます。送り先は下關市觀音崎永福寺内鬼村元成です。 以上
    八月十四日              夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      二一二二
 
 八月十八日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 福岡市外東公園久保頼江へ
 拜啓御手紙を拜見しました御惠贈の烟草と葛素麺も正に頂戴しました御厚意を感謝致します私は挨及烟草を呑んで昔の事を思ひ出しましたそれは倫孰《原》にゐた時分の事です夫から滿洲と朝鮮をあるいた時分の事です。私は東京では貫はないと挨及烟草は滅多に呑みませんあまり贅澤だと思つて遠慮してゐるのです。偶に呑んでも倫孰などを思ひ出す事はありませんでした。
 小供は大きくなりました長女は十八ですそろ/\御嫁にやらなければなりませんが私のやうな交際の狹いものは斯ういふ時に困る丈です。然しまだ學校へ行つてゐると思つてまあよからうといふ積で呑氣に構へてゐます。夫でも此間口が一つ二つあつたには驚ろきました。あれでも此方から懇願しないで嫁に行けるかと考へると多少氣丈夫になりました。
 娘三人は名古屋の親類へ行きました。其所の叔父に伊勢へ連れて行つてもらつたさうです。家内は殘りの三人をつれて逗子に行きました此所にも家内の妹がゐるのですが是は旅《原》屋へ行つた樣です。そこへ名古屋から娘が合併して都合七人で何かしてゐるのでせう。先刻電話がかゝつて今夜歸ると云つてきました。寫眞の事は歸つたらよく申します。あなたの寫眞も參りました。よく取れ過ぎてもゐますまい。まああんなものでせう。背景に波がある所などは少々活動寫眞めいてゐます。私は一向寫眞をとりません。普通にとれるとみんながよすぎると申します。有の儘にとれると私の方できたな過ぎると申したくなります。まあとらないでも生きてゐられるんだから構はないと思つてゐます。何れ妻からも御返事を上げるでせうが不取敢烟草の御禮を私から差上ます。御良人は歸省されたさうですね。もう御歸博になつた頃と存じます。どうぞよろしく。小説をほめて下すつて有難う。何だか馬鹿に長くなりさうで弱ります。然し此夏は大變凌ぎやすいので書くのに骨が折れないで仕合せです。 以上
    八月十八日              夏目金之助
   久保頼江樣
 
      二一二三
 
 八月二十一日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館久米正雄、芥川龍之介へ
 あなたがたから端書がきたから奮發して此手紙を上げます。僕は不相變「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快樂、器械的、此三つをかねてゐます。存外凉しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出來ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出來るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ作りたくなつてそれを七言絶句に纒めましたから夫を披露します。久米君は丸で興味がないかも知れませんが芥川君は詩を作るといふ話だからこゝへ書きます。
  尋仙未向碧山行。佳在人間足道情。
  明暗雙雙三萬字。撫摩石印自由成。
 (句讀をつけたのは字くばりが不味かつたからです。明暗雙々といふのは禅家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。原稿紙で勘定すると新聞一回分が一千八百字位あります。だから百回に見積ると十八萬字になります。然し明暗雙々十八萬字では字が多くつて平仄が差支へるので致し方がありません故三萬字で御免を蒙りました。結句に自由成とあるは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)
 一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隱遁するならあの位ぢや不充分です。もつと景色がよくなけりや田舍へ引込む甲斐はありません。
 勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空氣を輸入したいと思ひます。それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。是は兩君とも御同感だらうと思ひます。
 今日からつく/\法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて來たのでせう。
 私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ證據に書くのです。さういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する爲に書くのです。夫からさういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の聲で埋つてゐます。 以上
    八月二十一日              夏目金之助
   久米正雄樣
   芥川龍之介樣
 
      二一二四
 
 八月二十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 赤坂區新坂町八二三宅安へ〔はがき〕
 今日ハ暑イデスネ。原稿ハ二ツトモ御返シ致します。評は(一)の仕舞ニ書イテアリマス。アナタの脚氣は何うです。妊娠中ダカラ可成注意ナサイ。私ハ腹ガ下リマス
 
      二一二五
 
 八月二十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜啓此間御來書の時は東北地方へ御旅行とあつた故返事を出しませんでした。それから僕の小説の後は正宗白鳥君と略極つてゐるので君の原稿をいそいで讀んでも仕方がないと思つて其儘にして置きました。然し君は何度でも書き直すといふ決心だから早く讀まないと惡いとも考へ直して今日の午後眼を通しました。
 感じた通りを申ますと、どうも小説(好い意味でいふのですが)らしい感じが乏しいのです。ことに最初の赤子を殺す氣狂の如きは滑稽な感じが起る丈です。是は氣狂になる人の心的状態が毫もないので同情が起らないからではありませんか。氣狂になるには氣狂になる徑路がありませう。それが讀者の腑に落ちないでは主人公に氣の毒だとか可哀さうだとかいふ氣は起し得ません。たゞ殘酷な人だといふ事を強ひつける積ではないでせう。又夫なら藝術品として何の價値もないでせう。もしさういふ意味で書いたのでないとするなら、氣狂に至る經過其物即ち他から見た事實もしくは事實の推移其物の敍述、換言すればある連續した原因結果を具像《原》的に示し得る眞〔右○〕の發揮でなければなりません。即ち氣狂のやる行爲が一々奇拔だとか刺戟に富んでゐるとか悉く陳腐と平凡を離れた意味で讀者の眼を驚ろかし同時に啓發しなければなりますまい。不幸にして赤子殺しにはそれをも見出し得ません。なぜとなれば彼はたゞ妻をいぢめてゐる丈ぢやありませんか。一言にさう云へばそれで盡せるのです。他奇なしです。同じムードを繰り返してゐるのです。さうして最後に突然子を殺すのです。子を殺すのは奇拔です。成程氣狂らしいです。其所丈が新しい刺戟です。然しそれが君の目的にかないませうか。
 次の方は赤ン坊殺しより餘程いゝと思ひます。多少の發展があるからです。順序がともかくも辿れるからです。從つて當人のサイコロジーの方から見ても外面的に敍述される事實の連鎖からいつてもいゝやうです。(然し赤ン坊を殺すのと比べて見てまだ増しだといふ位なものです)。僕の考では是とても藝術品にはなつてゐないと思ひます。「癲狂院の中より」といふ見出しで中央公論か新小説の二段欄の頁へ出るべき性質のものぢやなからうかと思ひます。
 御返事が遲くなつて濟みません原稿は一先づ御返し致します。
 先達て中央公論に出た蕃人の事を書いたものは面白う御座いました。
 私は自分で變な小説をかいて君のものをけなして惡いと思ひます、然し自分の事は棚へ上げて只批評眼丈を御求めにより働らかせました丈です。どうぞあしからず 以上
    八月二十四日              夏目金之助
   中村 蓊樣
 
      二一二六
 
 八月二十四日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介、久米正雄へ
 此手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙がま|あ《原》りに溌剌としてゐるので、無精の僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はゞ君等の若々しい青春の氣が、老人の僕を若返らせたのです。
 今日は木曜です。然し午後(今三時半)には誰も來ません。例の瀧田樗陰君は木曜日を安息日と自稱して必ず金太郎に似た顔を僕の書齋にあらはすのですが、その先生も今日は缺席するといつてわざ/\斷つて來ました。そこで相變らず蝉の聲の中で他から頼まれた原稿を讀んだり手紙を書いたりしてゐます。昨日作つた詩に手も入れて見ました。「癲狂院の中より」といふ色々な狂人を書き分けたものだといふ原稿を讀ませられました。中々思ひ付きを書く人があるものです。
 芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立體俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り畫は久米君の方がうまいですね。久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。成程あれなら三宅恒方さんの繪をくさす筈です。くさしても構はないから、僕にいつか書いて呉れませんか。(本當にいふのです)。同時に君がたは東洋の繪(ことに支那の畫)に興味を有つてゐないやうだが、どうも不思議ですね。そちらの方面へも少し色眼を使つて御覽になつたら如何ですか、其所には又そこで滿更でないのもちよい/\ありますよ、僕が保證して上げます。
 僕は此間福田半香(華《崋》山の弟子)といふ人の三幅對を如何はしい古道具屋で見て大變旨いと思つて、爺さんに價を訊いたら五百圓だと答へたので、大いに立腹しました。是は繪に五百圓の價がないといふのではありません。爺なるものが僕に手の出せないやうな價を云つて、忠實に半香を鑑賞し得る僕を吹き飛ばしたからであります。僕は仕方なしに高いなあと云つて、店を出てしまひましたが、其時心のうちでそんならおれにも覺悟があると云ひました。其覺悟といふのを一寸披露します。笑つちやいけません。おれにおれの好きな畫を買はせないなら、已を得ない。おれ自身で其好き〔な〕畫と同程度のものをかいてそれを掛けて置く。と斯ういふのです。それが實現された日にはあの達磨などは眼裏の一翳です。到底芥川君のラルブルなどに追ひ付かれる譯のものではないのですから、御用心なさい。
 君方は能く本を讀むから感心です。しかもそれを輕蔑し得るために讀むんだから偉い。(ひやかすのぢやありません、賞めてるんです)。僕思ふに日露戰爭で軍人が露西亞に勝つた以上、文人も何時迄恐露病に罹つてうん/\蒼い顔をしてゐるべき次第のものぢやない。僕は此氣?をもう餘程前から持ち廻つてゐるが、君等を惱ませるのは今回を以て嚆矢とするんだから、一遍丈は黙つて聞いてお置きなさい。
 本を讀んで面白いのがあつたら教へて下さい。さうして後で僕に借して呉れ玉へ。僕は近頃めちやめちやで昔し讀んだ本さへ忘れてゐる。此間芥川君がダヌンチオのフレーム オフ ライフの話をして傑作だと云つた時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが其後何時も坐つてゐる机の後ろにある本箱を一寸振り返つて見たら、其所に其本がちやんとあるので驚ろいちまひました。たしかに讀んだに相違ないのだが何が書いてあるかもうすつかり忘れてしまつた。出して見たら或は鉛筆で評が書いてあるかも知れないが面倒だから其儘にしてゐます。
 きのふ雜誌を見たらシヨウの書いた新らしいドラマの事が出てゐました。是はとても倫敦で興行出來ない性質のものださうです。グレゴリー夫人の勢力ですら、ダブリンの劇場で跳ね付《つ》けたといふ猛烈のもので、無論私の刊行物で數奇者の手に渡つてゐる丈なのです。兵隊がV.C.を貰つて色々なうそを並べ立てゝ景氣よく應募兵を煽動してあるく所などが諷してあるのです。シヨウといふ男は一寸いたづらものですな。
 一寸筆を休めて是から何を書かうかと考へて見たが、のべつに書けばいくらでも書けさうですが、書いた所で自慢にもならないから、此所いらで切り上げます。まだ何か云ひ殘した事があるやうだけれども。
 あゝさうだ。/\。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。決してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。
 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老猾なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事《こと》ある相の子位な程度のものです。
 あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うん/\死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞《き》くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 是から湯に入ります。
    八月二十四日             夏目金之助
   芥川龍之介樣
   久米 正雄樣
 君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は氣にしないでも構ひません。
 
      二一二七
 
 八月二十九日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 下關市丸山町四七二津室勇夫へ〔往復はがき返信用〕
 近頃寫眞はとりません、夫から知らない人に寫眞は送りません、だから上げません。あなたが苦沙彌といふ人と兄弟のやうな氣がするならば、顔もあなたに似た人だと思つてゐれば、それで可いでせう。迷亭さんの寫眞は猶手に入れにくう御座います
    八月二十九日
 
      二一二八
 
 九月一日 金 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介、久米正雄へ
 今日は木曜です。いつもなら君等が晩に來る所だけれども近頃は遠くにゐるから會ふ事も出來ない。今朝の原稿は珍らしく九時頃濟んだので、今閑である。そこで昨日新思潮を讀んだ感想でも二人の所へ書いて上げようかと思つて筆を取り出しました。是は口で云へないから紙の上で御目にかけるのです。
 今度の號のは松岡君のも菊池君のも面白い。さうして書き方だか樣子だか何方にも似通つた所がある。或は其價値が同程度にあるので、しか思はせるのかも知れない。兎に角纒つた小品ですそれから可い思付を見付けてそれを物にしたものであります。
 思ひ付といふと、芥川君のにも久米君のにも前二氏と同樣のポイントがあります。さうして前の二君のが「眞」であるのに對して君方のが兩方共一種の倫理觀であるのも面白い。さうして其倫理觀は何方もいゝ心持のするものです。
 是から其不滿の方を述べます。芥川君の方では、石炭庫へ入る所《ところ》を後から抱きとめる時の光景が物足りない。それを解剖的な筆致で補つてあるが、その解剖的な説明が、僕にはびし/\と逼らない。無理とも下手とも思はないが、現實感が書いてある通りの所まで伴つて行かれない。然しあすこが第一大切な所である事は作者に解つてゐるから、あゝ骨を折つてあるに違ないとすると、(讀者が君の思ふ所迄引張られて行けないといふ點に於て)、君は多少無理な努力を必要上遣つた、若くは前後の關係上遣らせられた事になりはしませんか。僕は君の意見を聽くのです、何うですか。それから最後の「落ち」又は落所はあゝで面白い又新らしい、さうして一篇に響くには違ないが、如何せん、照應する雙方の側が、文句として又は意味として貧弱過ぎる。と云ふのは「expressiveであり乍ら力が足りないといふのです。副長に對スル倫理的批評の變化、それが骨子であるのに、誤解の方も正解の方も(敍述が簡單な爲も累をなしてゐる)強調されてゐない、ピンと頭へ來《こ》ない。それが缺點ぢやないかと思ひます。
 此所《こゝ》迄書いた所へ丁度かの○○○○先生が來《き》ました。(先生はしきりに僕の作物の惡口を大つぴらに云ふので恐縮します。然し僕はあの人を一向信用しません。だから啓發する譯にも行かず、又啓發を受ける譯にも行かないのです。先生は何だか原稿の周旋を頼むために僕の宅へ出入りをする人のやうに思はれてならないのです)。その後へ例の豪傑瀧田樗陰君がやつて來て、大きな皿をくれました。あの人は能く物を呉れるので時々又呉れるのかと疳違して、彼の小脇に抱へ込んでゐる包に眼を着ける事があります。其代り能く僕に字を書かせます。僕はあの人を「ボロツカイ」又は「あくもの食《ぐ》ひ」と稱してゐます。此あくもの食《ぐ》ひは大きな玉版箋をひろげて屏風にするから大字を書けと注文するのです。僕は手習をする積だから何枚でも書きます。其代り近頃は利巧になつたから、書いた奴をあとからどん/\消しにします。あくもの食ひは此方で放つて置くと何でも持つてちまひます。晩には豐隆、臼川、岡田、エリセフ、諸君のお相手を致しました。エリセフ君はペテルブルグ大學で僕の「門」を教へてゐるのだから、是には本式の恐縮を表します。其上僕の略傳を知らせろといふのです。何でも「門」を教へる前に、僕の日本文壇に於る立場、作風、etcといふ樣な講義をしたといふのだから驚天します。みんなの歸つたのは十一時過ですから、君等に上る手紙は其儘にして今九月一日の十一時少し前から再び筆を取り出したのです。
 偖久米君は高等學校生活のスケツチを書く目的でゐるとか何處かに出てゐましたが、材料さへあれば甚だ好い思ひ付です。どうぞお遣り下さい。今度の艶書も見ました。Pointは面白い、叙述もうまい、行と行の間に氣の利いた文句の使ひ分などがびよい/\ありますが、是は御當人自覺の事だから別に御注意する必要もありますまい、但じ《原》あの淡いうちにもう少し何かあつて欲しい氣がします。艶書を見られた人の特色(見る方の心理及び其轉換はあの通りで好いから)がもつと出ると充分だと思ひます。あれはあゝ云ふ人だと云ふ事丈分ります。然しあれ丈分つたのでは聊か喰ひ足りません。同じ平面でも好いからもつと深く切り下げられるか、或は他の斷面に移つて彼の性格上に變化を與へるとか何とかもう少し工夫が出來るやうに考へられます。(「競漕」はあれ以上行けないのです。又あれ以上行く必要がないのです)
 最後に芥川君の書いた「創作」に就いて云ひます。實は僕はあれをごく無責任に讀みました。芥川君の妙な所に氣の付く(アナトールフランスの樣な、インテレクチユアルな)點があれにも出てゐます。然しあれはごく冷酷に批評すると割愛しても差支ないものでせう。或は割愛した方が好いと云ひ直した方が適切かも知れません。
 次に此間君方から貰つた手紙は面白かつた。又愉快であつた。に就いて、其所に僕の眼に映つたつ《原》た可くないと思ふ所を參考に云ひませう。一、久米君のの中に「私は馬鹿です」といふ句があります。あれは手紙を受取つた方には通じない言葉です。從つて意味があつさり取れないのです。其所に厭味が出やしないかと思ひます。それから芥川君のの中に、自分のやうなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないがといふ句がありまま《原》した。あれも不可せん。正當な感じをあんまり云ひ過ぎたものでせう。False modesty に陷りやすい言葉使ひと考へます。僕なら斯う書きます。「なんぼ先生だつて、僕から手紙を貰つて迷惑だとも思ふまいから又書きます」――以上は氣が付《つ》いたから云ひます。僕がそれを苦にしてゐるといふ意味とは違ひます。それから極めて微細な點だから黙つてゐて然るべき事なのですが、つい書いてしまつたのです。
 あなた方は句も作り繪もかき、歌も作る。甚だ賑やかでよろしい。此間の端書にある句は中々うまい、歌も上手だ。僕は俳句といふものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、十八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首位づゝ作ります。自分では中々面白い、さうして隨分得意です。出來た時は嬉しいです。高青邱が詩作をする時の自分の心理状態を描寫した長い詩があります。知つてゐますか。少し誇張はありますがよく藝術家の心持をあらはしてゐます。つまりうれしいのですね。最後に久米君に忠告します。何うぞあの眞四角な怒つたやうな字はよして下さい。是でお仕舞にします。 以上
    九月一日                 夏目金之助
   芥川龍之介樣
   久米正雄樣
 
      二一二九
 
 九月二日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復此間は失禮致しました紙澤山にありがたう厚く御禮を申ます只今詩作中長い返事を書く能はず是にて御免 頓首
    九月二日               夏目金之助
   瀧 田 樣
 
      二一三〇
 
 九月二日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介へ
 啓只今「芋粥」を讀みました君が心配してゐる事を知つてゐる故一寸感想を書いてあげます。あれは何時もより骨を折り過ぎました。細敍絮説に過ぎました。然し其所に君の偉い所も現はれてゐます。だから細敍が惡いのではない。細敍するに適當な所を捕へてゐない點丈がくだ/\しくなるのです。too laboured といふ弊に陷るのですな。うんと氣張り過ぎるからあゝなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイーヴな點に面白味が伴ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔繪を施しました。是は惡い結果になります。然し。芋粥の命令が下つたあとは非常に出來がよろしい。立派なものです。然して御手際からいふと首尾一貫してゐるのだから文句をつければ前半の内容があれ丈の勞力に價しないといふ事に歸着しなければなりません。新思潮へ書く積りでやつたら全體の出來榮もつと見事になつたらうと思ひます。
 然し是は惡くいふ側からです。技巧は前後を通じて立派なものです誰に對したつて耻しい事はありません。段々晴の場所へ書きなれると硬くなる氣分が薄らいで餘所行はなくなります。さうしてどんな時にも日常茶飯でさつさと片付けて行かれます。その時始めて君の眞面目は躍然として思ふ存分紙上に出て來ます。何でも生涯の修業でせうけれどもことに場なれないといふ事は損です。
 此批評は君の參考の爲めです。僕自身を標準にする譯ではありません。自分の事は棚へ上げて君のために(未來の)一言するのです。たゞ芋粥丈を(前後を截斷して)批評するならもつと賞めます。
 今日カマスの干物が二人の名前できました。御好意を謝します。なにか欲しいものがあるなら送つて上げます。遠慮なく云つて御寄こしなさい。 頓首
    九月二日夜               夏目金之助
   芥川龍之介樣
 此卷紙と状袋は例のアクモノグヒが呉れたものであります。彼は斯ういふ賄賂を時々刻々に使ひます。僕は彼の親切を喜ぶと共に氣味をあ《原》るくします。同時に平氣で貰ひます。久米君へよろしく
  秋立つや一卷の書の讀み殘し
 是はもつとうまい句だと思つて即興を書いてしまつたのであとから消す譯に行かなくなつたから其儘にして置きます。
 
      二一三一
 
 九月五日 火 牛込區早相田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復御書拜見致し候本日御招きに可相成處御幼兒御不快のため御延引との事拜承致候實は小生も此間中より下痢の氣味にて御馳走は多少辟易の體に有之故丁度都合よろしく候八日に若し下痢がはげしさうなれば其前一寸御通知可致候へどももし御序も有之候はゞ電話で都合を訊いて下されば猶更結構に候昨日消閑のため歸去來辭を書き候此間よりはよろしく候へども誤字一餘字二字程有之候此次御來駕の節可供貴覽候先は右迄 敬具
    九月五日               夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 病氣御大事の事と存候
 
      二一三二
 
 九月五日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保六六戸川明三へ
 拜復其後小生も存外の御無沙汰に打過ぎ何とも無申譯次第平に御海恕可被下候 拙作につき色々の御同情乍毎度有難存候當夏は例年より涼しき爲か暑さの苦痛もなくどうか斯うか書きつゞけ居候 然るに昨今に至り仰の如く段々暑逆戻りの體多少辟易致居候平生から出無精の處へ此暑さと午前中の執筆にていづ方へも御無沙汰と申すと何だか不斷は義務を盡し居るやうにて吾ながら可笑しく相成候 兎も角も御挨拶旁御詫まで 草々頓首
    九月五日                 夏目金之助
   戸川明三樣
 
      二一三三
 
 九月六日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復アクモノグヒの手紙が芥川の處へ廻つて行つてしかも君の眼に觸れやうとは全く以て意外是では惡い事は出來ない筈ですないや何うも恐縮しました以來は慎みます何うぞ御海容を祈ります
 八日には出來る丈勉強して出ますが行くものとして今から御肴の用意などをされると困ります
 御子さん御快方の由結構に存じます
 皿ありがたう兩方とも結構ですがことに四角な奴は雅味があります丸いのは高麗ですか
 いづれ明日拜顔の節萬々 敬具
    九月六日               夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 
      二一三四
 
 九月六日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王二一三八橋田丑吾へ
 肅啓御老母樣御病氣の處御療養の甲斐もなく御逝去の由嘸かし御愁傷の事と存候乍略儀こゝに書面にて哀悼の微意を表し申候 敬具
    九月六日                 夏目金之助
   橋田丑吾樣
 
      二一三五
 
 九月七日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓此手紙持參の人は中村武羅夫と申し新潮といふ雜誌の編輯をする小生の知人に候中村君は右肩より右手の先へかけ倦怠鈍痛の感じを生じ今年三月頃より惱まされ居り今に全快の運びに至らず近頃君と小生との關係を聞き知り君に治療して頂きたいから紹介して貰ひたいと申され候故此手紙を認め候若し御手紙御披見の時が都合惡ければ何時でもよろしき故一寸御診察の上適當の治療法御授けの程願上候 頓首
    九月七日                夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
        貴下
 小生の驗尿も其内また御厄介になる事と存候御都合次第何時にても御送可致候故適當の期日參り候はゞ其旨御申聞相成度候目下少々下痢の氣味にて十日程相つゞき居候但し身體には何等の別條なき故其儘に致し置候
 
      二一三六
 
 九月二十四日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ
 拜復小生の作物につき過分の御褒辭を賜はり恐縮致候次に御申越の旨は委細承〔知〕致候近頃小生作物のうち二百十日を小樽のジヨーズなる人が英譯致候本にするといふ故教育上の爲なら差支なしと申しやり候處何とかいふ雜誌へ載せる趣申來候。是は始めから英譯する價値なしと小生の斷はりたるものに候。次に八高の山田君が草枕を獨譯致されつゝある旨申來られ候譯後是も書物にする筈の處夫丈は御免蒙り候草枕は甚だ劣作なる故に候倫敦塔は草枕よりはまだ増しかも知れず候へども是亦つまらぬもの故止せるなら御止しになつた方がよからうかとも存候然し是非にとの御希望なれば已を得ざる譯故たつて御斷りは不仕候和獨對兩文を後から御出版になる事も教授用としてうち/\に行はれるならば差支なく候へどもこんなものに夫程の御手數をかける上に出版迄させては不相濟儀ことに小生に於ては得意には無之儀御含み願上候獨譯は小生眼を通す丈の學力なく拜見致しても盲人のかき覗き故御手數に及ばず候。山田君の草枕は獨乙人に見てもらふ由に候
 右迄 匆々
    九月二十四日             夏目金之助
   小池堅治樣
 
      二一三七
 
 九月二十五日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓昨日御送り致しました明暗百三十回の最後の一頁(十一頁?)一寸訂正の必要有之候故乍御面倒御返送願上候
 猶申添候先日は明暗原稿坂崎君を通して御却送御手數奉謝候然るところあれには十數回のぬけた回數ある由原稿をもらつたものより申來候故御序の節どうぞ御送り願ひ上候
 用事迄 頓首
    九月二十五日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二一三八
 
 九月二十五日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 祥福寺へ御歸りの由承知來月宮澤さんと一所に東京へ御出の由是も承知 昨日妻に譯を話したら都合出來るといひました。もつと住み易い場所があれば近所へ探して置いて上げます。其節は無論私の家へ御逗留なさる代りですから物質上何等の心配は要りません。私はまだ毎日午前中は執筆してゐますので案内をして方々見せて上げる譯に行かないかも知れません。但し午後と夜中は自由ですから御話し相手は出來るでせう。夫から時間と病躯が許すなら一二度は何處かへ一所に行きませう。見たい所を考へて御置きなさい。
 用意の都合があるから立つ前もう一返日と時間を報知なさい。東京驛から此所へくるには誰かに聽いて電車に乘つて、大久保新宿行の電車に乘り易へて牛込柳町の停留所で卸ろして御貰ひなさい 以上
    九月二十五日             夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二一三九
 
 九月二十七日 水 前0-7 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺富澤敬道へ
 拜復此間鬼村さんからも手紙が來ました故承知の旨を返事して置きました 變てこな宅ですがまあ都合丈はつける積です氣に入らなければ濟松寺の方へでも御出なさい 濟松寺は好い寺です私の家より住み心地が好いでせう然し禅寺にばかりゐて俗人の家を知らないのも經驗にならんかも知れな〔い〕とも思ひますから此方の方が好いかも知れません其上寺は窮屈でせう。私のうちも窮屈でせうが窮屈さが違ふから我慢し易いといふ所もありませう。もつと好い場所があつたら探して置いて上げます。東京見物の御金が足りなければ少々位上げます。御坊さんはあんまり金がないでせう、私も金持ではありませんが貴方方に上ける小遣位はあります。たゞ今小説を書いてゐるので多く時間を潰して案内をして上る譯には行かんかも知れません 以上
    九月二十六日              夏目金之助
   富澤敬道樣
 愚堂和尚の掛物を下さる由有がたい仕合せです。東京へ來る時持つてきて下さい
 
      二一四〇
 
 十月四日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都府中郡吉原村中西市二へ〔はがき 代筆〕
 前略御申越の事折角の御依頼にて誠に失禮には候へ共只今多忙の爲どなた樣へ〔も〕皆御ことわり申上居候故何卒惡しからず御思召しの程ねがひ上候
 
      二一四一
 
 十月九日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 滿洲奉天南滿醫學堂太田正雄へ
 拜復奉天へ御赴任の趣敬承滿洲は上海抔とは違ひ支那の本色は如何かと存候へども自ら本地とは異つた面白味可有之ことに大兄の樣な東洋趣味もある人には隨分愉快な收獲も有之ならんと存候繪や骨董は何んなものやら知らねど日本よりも手に入り易くはなきかとも存候精々滯在の機會を利用して面白味を御吸收時々は雜誌でそれを御發表の程願上候先は御挨拶迄 匆々敬具
    十月九日                夏目金之助
   太田正雄樣
 
      二一四二
 
 十月十八日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 名古屋市東區徳源僧堂祥福會下鬼村元成へ
 あなた方は夜中に名古屋を出るのですね けれども東京へ十時三十五分に着けるから便利です。停車場へは出て行かないから獨りで宅迄來て下さい。荷物があるなら停車場ですぐ車を雇つて來るし、電車へ乘る程な小さな包みなら提げて電車へ乘るのです。電車は東京驛の前の大通りを向つて左へ走るのへ乘るのです。それで水道橋迄來て乘り易へます。其所から新宿行といふのへ乘つて牛込柳町といふ停留で下ります。そこから宅迄五六分です。
 或は東京驛で下りるとすぐ前の通りを左へ行くと二重橋だの帝劇だの日比谷公園だのが見られるから荷物を驛へあづけてそれ丈見ても便利です。
 猷禅さんの懸物に就いて御心配は恐れ入ります。そんなに骨を折つて頂くとこつちが恐縮するから好い加減でよろしう御座います 右迄 匆々
    十月十八日               夏目金之助
  鬼村元成樣
 あなたの名前はキムラでしたね。夫からげンジヨウですね。いつか教へて下すつたが忘れてしまつたから聞きます。始めて逢つて間違をいふとおかしいから訊くのです
 
      二一四三
 
 十月十八日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓此間は書物を御屆ありがたうあの漢籍を買つた家は二軒あるうちの君の方へ近いうちですがあすこに清詩別裁といふ唐本がありますそれをあの時買ふ積であつたがあんまり一どきで辟易したなりになつてゐるが一寸欲しい故買つて屆けてもらひたいのです 價は三四圓位ぢやないかと思ひます、それは君の小僧が來た時に拂ふから小僧にさう云つて教へて置いて下さい 以上
    十月十八日              夏目金
   岩 波 樣
 
      二一四四
 
 十月十八日 永 後1-2 牛込區早稲田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 拜啓明月の大字わざ/\御送り御手數萬謝拜借中の機を利用して雙幅とも座敷へ懸けて眺め居候
 近頃の鑑賞眼少々生意氣に相成候其生意氣な所を是非聞いて頂きたいので此手紙を書きます。
 あの字はいま一息といふ所で止まつてゐます。だから其所を標準に置いて嚴格にいふと大半といふよりまづ悉く落第です。然し私はあれを見て輕蔑するのではありません、嗚呼惜いと思ふのです。今一息だがなと云ふのです。あの字は小供じみたうちに洒落氣があります。器用が崇《原》つてゐます。さうして其器用が天巧に達して居りません。正岡が今日迄生きてゐたら多分あの程度の字を書くだらうと思ひます。正岡の器用はどうしても拔けますまいと考へられるのです。
 あれよりも私のもらつた六十の時の詩の方がどの位良いか分りません、夫から半折二行の春風云々の七言絶句の方がはるかに結構です。
 良寛はあれに比べる〔と〕數等旨い、旨いといふより高いのでせうか、寂嚴といふ人のはまだ見ませんから何とも申上かねます。
 是丈の氣?をもち應へてゐると腹の毒ですから一寸排泄致しました。臭い事です 以上
    十月十八日               夏目金之助
   圓 月 樣
 
      二一四五
 
 十月二十日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 名古屋市東區徳源僧堂祥福會下鬼村元成へ
 拜復 指を切つたさうですね飛んだ事です。然しあの手紙が書ける位なら大した事ではありますまい折角樂にして東京見物をしやうといふ矢先だから我慢して御出でなさい。宅の眞前に醫師があります其所で毎日洗つてもらふ事が出來ます。うちで頼んで上げます 以上
    十月二十日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二一四六
 
 十月二十五日 水 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 此手紙持參の僧二人は神戸祥福寺僧堂に修業する釋僧に御座候此度機會を得て東上所々見物の處是非杜の輪轉機を一見致し度由につき若し御差支なくば運轉の模樣一寸でも傍觀御許可被下度邪魔にならぬ範圍にてよろしく御座候
 雲水の名は宮澤敬道鬼村元成とて小生の知人に御座候 右迄 頓首
    十月二十五日            夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二一四七
 
 十月二十八日 土 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
  木浦正君持參
 拜啓其後御無沙汰失敬
 却説今般越後の木浦正君是非一度貴君に御面會の榮を得たき趣につき御紹介致候につき御閑も有之候はゞ御引見被下度候木浦君は好事家にてことに越後の事とて良寛の愛好者にて今度も面白き切張帖持參被致候今度出京の用向の一部分は大兄に面談御所藏の古法帖等拜見致す爲の由に候へば其邊の御便宜も出來得る限り御與へ被下度願上候 先は右用事迄 頓首
    十月二十八日              夏目金之助
    中村不折樣
        梧前
 
      二一四八
 
 十月三十一日 火 後人6-7 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 拜啓段々寒くなります御變りもありませぬか 私も無事です 松茸をありがたう あれは何處から來たのですか中々方々から松茸をくれます 此間は電話である人の奥さんが松茸があり過ぎて困るから少し貰つてくれと頼んで來ました 此松茸なるものは私の小供の時分は滅多に口にする事の出來ない珍味でした それが今日になると昔を回顧する度に妙な心持を誘ふやうに松茸が出てくるのだから不思議千萬です 先は御禮迄 匆々頓首
    十月三十一日             夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      二一四九
 
 十一月三日 金 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復昨日は失禮畫帖早速出來御好意奉謝候芥川君は昨夜參貴意申傳候處正月は既に新潮と文章世界の兩方へ受合ひたるため他へは手をのばす餘地無之由に候若したつての御所望なれば直接の御交渉も可然と存候へども今回は是にて御斷念來春を期し好きもの御書かせに相成候へば中央公論の爲にも本人の爲にもよろしかるべきかと存候御禮旁御返事の序に愚考乍蛇足つけ加へ申候先は右まで 敬具
    十一月三日               夏目金之助
   瀧田樗陰樣
        座右
 
      二一五〇
 
 十一月四日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺富澤敬道へ
 今朝御手紙が來ました 御滯留中は何にも愛想がなくて御氣の毒でした小説を書いてゐるので私が自身案内して上る事が出來ず殘念でした夫でも御滿足の趣委細承はりまして愉快です カラカサも屆きました 畫帖は頼んだらすぐ直して呉れましたから此手紙と一所に送ります。來年もひまがあつたら遊びに入らつしやい私はあなた方の御宿をして色々禅の話を聽いて大變參考になりました是は篤く御禮を申上たいと思つてゐる所であります。鬼村さんへどうぞよろしく。御兩君とも御勉強を祈ります 以上
    十一月四日               夏目金之助
   富澤敬道樣
 
      二一五一
 
 十一月四日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町六丁目一〇八小宮豐隆へ
 拜啓アグラフエーナ御送難有存候今日拜見致候所が小生には殆んど何等の感興なきものなるを《原》事を發見し大いに驚ろいてゐる次第に候 君の面白がる點此次御面語の節委細承はり候へば參考にも可成かと存居候。小生の見る所ではもしあれが日本人の手になつたとすれば何人も一顧も拂はない味のなき作物として葬られてしまふだ〔ら〕うと考へ申候 隨分長いわりに一頁として小生の心を溌溂ならしめたる所なきには閉口仕候 先は右御禮旁御返事迄餘拜眉の上萬々 頓首
    十一月四日               夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      二一五二
 
 十一月四日 土 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 小石川區關口水道町六六近藤春吉へ
 拜啓過般拜借致し其儘になつてゐました東京市史稿市街篇第一第二及び地圖二葉御返却致します。永々留めて置いて濟みませんもつと早く御返し致す積で居ました所今に讀まう讀まうといふ氣があつたものですからつい今日迄おくれ〔た〕のです其癖遂に讀もせずに御返し致すのです。御笑ひ下さい 以上
    十一月四日                夏目金之助
   近藤春吉樣
 
      二一五三
 
 十一月六日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町六丁目一〇八小宮豐隆へ
 啓 御手紙拜見 屹度何か云つてくるだらうと思つたら云つて來た。實をいふと僕は君が何にも書かずに澄ましてゐる方を希望してゐたのです。何故? それは大抵解るでせう。もつと人間に餘裕を作るのです。無暗に反應を呈しないのです。さうして樂になるのです。他に返事を書かないのを賞める譯ではないが無暗に文壇で云ひ合ひをする癖でも取れて行くかと思ふからです。
 然し手紙の中味を見た時は少々感服しました。君は屹度あの作物を辯護して來るだらうと考へてゐた所大いにそんな私いや我をすてゝゐるからまあ是丈でも君は少々人間として進歩したのでせう
 却説あの小説にはちつとも私はありません。僕の無私といふ意味は六づかしいのでも何でもあ