書簡集(残り)
 
藏書の餘白に記入されたる短評竝に雜感
 
講義
英文學形式論
 
講演
倫敦のアミユ−ズメント
教育と文芸
模倣と独立
無題
カーライル博物館藏書目録  (省略)
漱石山房藏書目録      (省略)
 
談話
英國現今の劇況
批評家の立場
戰後文界の趨勢
現時の小説及び文章に付て
本郷座金色夜叉
イギリスの園藝
みづまくら
無題
昔の話
予の愛讀書
「余が文章に裨益せし書籍」
文學談片
落第−士の中學時代」−
夏目漱石氏文學談
文章の混亂時代
文學談
「現代讀書法」
女子と文學者
人工的感興
作中の人物
文章一口話
文學者たる可き青年
「自然を寫す文章」
余が『草枕』−「作家と著作」と
滑稽文學
將來の文章
家庭と文學
僕の昔
漱石一夕話
無題−桂月の事−
愛讀せる外國の小説戯曲
夏目漱石氏談
『坑夫』の作意と自然派傳奇派の交渉
近作小説二三に就て
無題−倫敦といふ處は−
「露國に赴かれたる長谷川二葉亭氏」
獨歩氏の作に?趣味あり
文章之變遷
正岡子規
「處女作追懷談」
「何故に小説を書くか」
文學雜話
無教育な文士と教育ある文士
専門的傾向
「小説中の人名」
無題−文部省の展覽會−
「文藝は男子一生の事業とするに足らざる乎」
「新年物と文士」
ミルトン雜話
「私の經過した學生時代」
文壇の變移
私のお正月
「文士と酒、煙草」
小説に用ふる天然
ポーの想像
「予の描かんと欲する作品」
作家としての女子
『俳諧師』に就て
讀書と創作
メレデイスの訃
感じのいゝ人−「故二葉亭氏追憶録」−
「夏」
テニソンに就て
「文士と八月」
「執筆 時間、時季、用具、場所、希望、經驗、感想等」
汽車の中−國府津より新橋まで−
「昨日午前の日記」
色氣を去れよ
對話−本間久著『枯木』序−
語學養成法
博士問題
博士問題の成行
西洋にはない
夏目漱石氏の談片
稽古の歴史
漱石山房より
『サアニン』に對する四名家の評
「文士の生活」
漱石山房座談
釣鐘の好きな人
夏目先生の談片
文壇のこのごろ
沙翁當時の舞臺
文體の一長一短
 
以下、補遺より
雜篇
漢詩文
俳句
斷片
書簡
講演
談話
 
     六九〇
 
 五月四日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 七夕さまは「縁」よりもずつと傑作と思ふ 讀み直して驚ろいた。燈籠を以て着物を見に行く所は非常によい。末段はあれでよろし
 
      六九一
 
 五月四日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 七夕さまをよんで見ました、あれは大變な傑作です。原稿料を奮發なさい。先達てのは安すぎる。
 
      六九二
 
 五月四日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 花瀬川はものにならず傳四先生何を感じて此劣作をなせるか怪しむべし
 
      六九三
 五月十二日 日 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ
 先日は結構なものを難有頂戴致しました。拙著文學論一部御禮に其内差上ます。校正者の疎漏の爲め非常に誤植多き故訂正表を添へて上げます
 
      六九四
 
 五月二十二日 水 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 大阪市南區東清水町中橋東入塚本槌三郎へ〔はがき〕
 拜啓「斑鳩の里の一夜」拜見面白く候。其面白き意味は事實の裏面に空想的連想を點出するにあるかと存候。是は小生の最も好んで用うる手段に候。虚子之に次ぎ、四方太の面白味は全く之と遠かり居り候。此手段は動ともすると故意に陷り易きものに候。厭味に流れ易きものに候。小生のかいたものにも大分此弊所あらんかと存候。大兄のにも少しは有之候。先は右御返事迄匆々頓首
 
      六九五
 
 五月二十七日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大森八景坂上杉村内中村蓊へ
 今日は上野をぬけ淺草の妙な所へ散歩したらつい吉原のそばへでたから丁度吉原神社の祭禮を機として白晝廓内を逍遥して見たが娼妓に出逢ふ事頻りなり。いづれも人間の如き顔色なく悲酸の極なり。歸りがけにある引手茶屋の前に人が黒山の如く寄つて居るので覗いて見たら祭禮の爲め藝者がテコ前妻で立つて居た。夫が非常に美しくて人形かと思つて居たら、ふいと顔を上げたので矢張り生きて居ると氣がついた。
 夫から橋場の渡しを渡つて向島へ行つたら藤棚があつて其下の床几に毛布が敷いてあつたから、そこで上野から買つて行つた鯛飯を食つて晝寐をして、うちへ歸つたら君の長い手紙が來てゐた。
 あの手紙をよんでいつぞや君が僕の文學論の序に同情してくれた事を思ひ出して成程と其意味が分つた。僕はあんな序をかく積りではなかつたがある事情で書く事に決心してしまつた。あれに對して同情してくれる君は恐らく僕よりも不愉快な境遇であつたかも知れない。君の手紙で君の家の事抔も判然して見るとかへつて僕の方から同情を寄せねばならんと思ふ。甚だ御氣の毒である。然し世の中にはまだ/\苦しい連中が澤山あるだらうと思ふ。おれは男だと思ふと大抵な事は凌げるものであるのみならず、却つて困難が愉快になる。君抔もこれからが事を成す大事の時機である。僕の樣に肝心の歳月をいも蟲の樣にごろ/\して過ごしては大變である。大に勇猛心を起して進まなければならない。抔と講釋を云ふのは野暮の至である。世の中は苦にすると何でも苦になる苦にせぬと大概な事は平氣で居られる。又平氣でなくては二十世紀に生存は出來ん。君も平氣に大森から大學へ通つて居るがよからうと思ふ。
 君が中川の序文を訂正したのを見た學生が最後の所を讀んで痛快だと云ふた。中川は必ずしも傲慢不遜といふ男ではないのだらう。只日本文をかきつけないから、あんなものが出來たのだらう。僕は序に對しては君程苛酷な考は持つて居らん。 右御返事迄 匆々
    五月二十六日夜            夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 將來君の一身上につき僕の出來る事ならば何でも相談になるから遠慮なく持つて來給へ。尤も僕の出來る範圍は極めて狹いものである。
 
      六九六
 
 五月二十八日 火 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓又手紙を差し上げます。わが朝日新聞に於て社員諸君は所得税に對して如何なる態度を取られますか。社の方では一々税務署の方へ生等の所得高を通知されますか。又は税務署の方から照會又は檢査に參りますか。所得の申告をしろと催促状か來ましたから一寸參考に伺ひたいと思ひます。夫からあなたはどういふ風になさいますか。御役人をやめられてから始めての所得申告と云ふ點が小生と一寸似て居ますから是も參考に一寸聽かして下さいませんか。色々御面倒を願つて濟みません 以上
    五月二十八日               金之助
   玄 耳 先 生
 
      六九七
 
 五月二十九日 水 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 熊本市内坪井町一二七奥太一郎へ
 新緑の候愈御清適奉賀候其後は打絶頓と御無沙汰に打過候處忽然芳音に接し感謝此事に御座候御地學校改革後諸事復舊當分御無事結構の至に存候公退後は灌花栽培の御樂もある由閑適の餘事風流欣羨の至に候。小生大學退職後小説家と相成り講義の必要もなく又高等學校の調の爲めセンチユリーの厄介になる事もなくなり心中大に愉快に候。只今の住居前後にいさゝかの庭園あり四時の眺めと申す程の事も無之候へども時々矚目遣悶の花樹も數種有之多少は得意に候。人生五十流轉のうちに殘喘を託し候身のいつ何時いづ方へ轉居致し候やも計りがたく昔の人は一戸を構へたるを一人前の證據の如く言ひ囃し候事あながちの弊にも有之間敷か。
 日々書齋にて讀書冥想ひる寐も折々致し候。然し夫から/\と雜用出來心事は存外等閑ならず候御察し可被下候。小兒も見る間に成長致候何となく後ろか〔ら〕追ひかけられる樣に覺え候。早く何事かして死にたく候。一日が四十八時間になるか、脳が二通り出來るかいづれにか致し度候。去りながら半世の鴻爪全く是癡夢にひとしく此儘枯木と相成候とも苦しからずそこへ行くと頗るのん氣に候。
 右偸寸閑近況御報迄に御座候 草々不一
    五月二十九日            夏目金之助
   奥 樣
 御令閨へよろしく御傳聲願上候
 
      六九八
 
 五月二十九日 水 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込西片町一〇反省社内瀧田哲太郎へ
 御手紙拜見實は咋日金尾が來て十八世紀文學出版の禮を云ふて瀧田君が野上さんと一所にやりたいと云ひますがどうでせうといふから夫もよからうと云ふたら立派なものが出來ますかと聞いたから夫は受合へない。自分のものは自分がやるより外にうまく出來る筈がない。ことに二人や三人でやつでは却つていけまいと云ふた。夫から可成は一人でやるがいゝだらうと附加した。すると金尾の云ふには瀧田君はとても一人では出來ますまいと云ふた。僕答へて瀧田君は文章は達者だが專|問《原》が法律家だからあの講義のうちのある所は面倒かも知れないと答へた。それでは外に人はありませんかときいたから、人はいくらでもあるが、瀧田君が持つて歸つたものだから、まあ瀧田君に相談して見たらよからう、瀧田が進んでやるのが面倒ならば森田にでも頼んだらやつてくれるだらうと云ふた。話は夫れぎりで分れた。金尾はもう出版する積りで廣告抔の事迄云ふて歸つた。
 僕は君が十八世紀文學を書き直すに就てどの位の興味を有して居るか知らぬ。又それを家計上のたすけにする必要あつての事とも知らぬ。夫故以上の如き返事をして置いた。君と金尾の間の面白くない事も全く知らなかつた。金尾は其事に就て一言も云はなかつた。
 右の譯である以上はたとび金尾から十八世紀を出すにしても君がやらなくては少し君として面白くない事になるだらう。金尾からもし君の所へ相談に來たら夏目さんと相談した上返事をすると云つて歸し玉へ。
 右の出版に關しては君の都合のいゝ樣又僕の都合のいゝ樣に相談をするから出來るなら木曜に來てくれ玉へ尤もいそぐ事でないから君さへよければいつでもよろしい。金尾の方へは適當な人を見付ける迄は廣告其他見合せる樣に云ふてやる
 金尾と君の關係は僕が口を出してよいかどうか分らない。君を無報酬で使ふ積でもないだらう。君が關係をつける時に月々の報酬をどの位ときめて、それを拂はぬなら不都合の至である。
 君の一分が立つ樣に金尾にかうつけ加へてやる。「十八世紀文學は瀧田君との關係上から同君に對する好意上許諾をしたものだから向後の談判は出版の手續に至る迄契約書をとり更す迄はすべて同君を經て御協議を經度く候」
 委細は御面語の上虞美人草は廣告丈で一向要領を得ない人がくる用事が出來る。どんな虞美人草が出來る事やら思へばのんき至極のものなり。匆々不一
    五月二十九日             夏目金之助
   瀧 田 樣
 追白 手許に十圓ばかりあり。御不如意の由なれば失禮ながら用を辨ぜられ度し。御返濟は卒業して金がウナル程出來た時でよろし。御母上の御病氣御大事と存候。試驗には是非共及第する程に勉強可被成候
 
      六九九
 
 五月二十九日 水 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓驩迎會につき御叱りは恐れ入りました面會日と知らずに受けやつたのがわるいのだから可成出席仕る事に致します。實は面會日に來客を謝絶すると面會日以外に來た人を謝絶する口實を失ふのが苦しいのです。入社以后ひまになつたと心得て無暗に勝手にやつて來て小説をかくどころの騷ぎぢやありませんから愈面會日を励行しやうと思ふ矢先だから先づ以て自分の方から面會日丈は守らうと云ふ利己主義から出立した義理を立てやうと思つたのであります。それで御叱りを頂戴致してどうもすみません。あんまり叱ると虞美人草が飛んで仕舞さうです。
 次に所得税の事を御聞き合せ被下まして御手數の段どうも難有存じます。實はあれもほかの社員なみにズルク構へて可成少ない税を拂ふ目算を以て伺つた譯であります。實は今日迄教師として充分正直に所得税を拂つたから當分所得税の休養を仕るか左もなくばあまり繁劇なる拂ひ方を遠慮する積りでありました。然る所公明正大に些々た〔る〕所得税の如き云々と一喝された爲めに蒼くなつて急に貴意に從つて眞直に屆け出でる氣に相成りました。御安心被《原》さい。毎日入らぬ手紙ばかり書いてゐます。 頓首
    五月二十九日              金 之 助
   澁 川 先 生
 
      七〇〇
 
 五月三十日 木 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都市外下加茂村二四狩野亨吉方菅虎雄へ〔はがき〕
 文學論が出來たから約束により一部送る。校正者の不埒な爲め誤字誤植雲の如く雨の如く癇癪が起つて仕樣がない。出來れば印刷した千部を庭へ積んで火をつけて焚いて仕舞いたい。
 
      七〇一
 
 五月三十一日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ〔「文學論」正誤表の最後の頁に認めあり〕
 先日は御出のよし失禮致候。御約束の文學論差上候。小包にて御落手被下度候。是は正誤表に候。古今獨歩の誤植多き書物としで珍本として後世に殘る事受合なれば御秘藏被下度候
    五月三十一日              夏目金之助
   久内清孝樣
 
      七〇二
 
 六月三日 月 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布歩兵三聯隊八中隊一年志願兵濱武元次へ〔はがきうつし〕
 トルコの煙草到着難有ブカブカふかし候洋行以後トルコも埃及も呑まず。呑むは今日に始まる。一兩日中に小説のかき方に取りかゝらねばならず。君の名烟によりてインスピレーシヨンが起る事と信ずる。先は御禮迄 匆々
 
      七〇三
 
 六月四日 火 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
    廣告
 今日から愈虞美人草の製造にとりかゝる。何だかいゝ加減な事をかいて行くと面白い。
     ――――――――――
 僕の顔を高等官一等とは恐れ入つた。どうか猫をかく樣な顔付に生れたいものだ。金子堅太郎君は親任官であつたかな、君。金堅君を下る事一等の顔になつちまつた。ほめられたつて感謝は出來ない。
 
      七〇四
 
 六月四日 火 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ〔はがき〕
 拜啓愈御結婚の由恭賀候。實は五六日前結婚をするものがきて其あとへすぐ君の手紙が來たので間違へて名宛を野上豐一郎として御祝状を出した。失敬々々。小生今日より虞美人草の製造にとりかゝる當分行かれぬ其うち行く
 
      七〇五
 
 六月七日 金 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓虞美人草についての御返事承知致候かきかけると御産がありましてね。御醫者がくる。細君がうなる。それやこれやで漸く一篇丈しかかきません。實の所は可成早くかいて安心して仕舞ひたいと思ふのですが夫が困難らしいから可成南翠先生の長からん事を希望してゐます。大阪の方では讀賣へ大きな廣告を出しましたねあれでぐつと恐縮してしまひました。三越呉服店にも讓らざる大廣告ですよ。
 そこで虞美人草の原稿をもらひたいと云ふ物數奇な人間が出て來たのですが、社の方では返してくれますか。もし返せないなら此男が自分で寫して、寫した分を差し上げる事にしたいと申|す《原》ます。一寸御返事を願ひます。
 夫から昨日端書投書について色々な事をきゝました。文士仲間では人の作を惡口したり、自分の作をほめたりする投書をよくやるさうです。ことに自分がある新聞のつゞきものを受合ひ度い時は今出て居る小説を長過ぎるとか、早くやめろとか云ふ投書を續々出すさうです。此位の事がないにしても一人の作畧で日に何枚でも善惡の投書は出來ます。だから向後投書に對しては賛否兩樣ともあまり重を置かぬ方がよからうと思ひます。先は用事迄申上ます 以上
    六月|八《原》日            金 之 助
   澁 川 先 生
 
      七〇六
 
 六月十七日 月 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ
 御手紙拜見長い手紙をかく餘裕がない毎日虞美人草の事ばかり考へてゐる今日杜から原稿をとりにくる九十七枚わたした。
 折角苦心してかいた所もあとから讀み直すと何だこんなものかと思ふ事多し。つまらない。
 當分は君にも逢へない。リースの子が僕の作物をよんでくれるのは難有い。僕の妻なんか天で僕の作には手をつけない。どうも婦人には苦手の樣だ。紫影先生原稿出版の義御斷はりの趣承知不得已事と思ふ其旨先方へ通知致すべし。赤ん坊は中々大きい由無暗に大小兒を生んで國家に貢獻する所もなく心細い事なり
 先は用事のみ 草々
    六月十七日夕             金
   豐 次 郎 樣
 
      七〇七
 
 六月二十一日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 御手紙拜見
 君はウーンと云つて還つて呉たからいゝが大概はうんとも何とも云はず這入つて來る。
 虞美人草が出來る迄謝絶と思ふたが中々前途遼遠いつかき了るか分らない。かき上げた時は嘸愉快だらう。今では小説が本業だからいつ迄かゝつても時間は惜しくない。例の通り急行列車に乘る必要がなくなつた代りに書物をよむひまがなくなるだらうと思ふ。
 七夕さまへ感服して呉れたのはうれしい。瀧田樗陰書を三重吉に寄せて曰く夏目先生があんなものをほめるに至つては聊か先生の審美眼を疑はざるを得ずと。樗陰はあれを洩薄といふさうだ。樗陰は二三日中君の所へ來訪の筈よく説諭して呉れ玉へ。あれは北國で仙臺鮪ばかり食つてゐたからそんな事をいふのだらうと思ふ
 生田先生は正に二十圓を拉し去る。言譯に曰く飲んだんではありませんと。
 其他の諸君子を見ざる事久し。豐隆時々臺所に來る。明日歸るさうなり。昨日中村蓊來る。寫眞をくれといつて持つて行く。第二義の顔を方々へ進呈して甚だ不平なり。君雲右衝門なるものを聽いたかい。
    六月二十一日              金
   米 松 先 生
 
      七〇八
 
 六月二十一日 金 後(以下不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 本日虞美人草休業。肝癪が起ると妻君と下女の頭を正宗の名刀でスパリと斬つてやり度い。然し僕が切腹をしなければならないからまづ我慢するさうすると胃がわるくなつて便秘して不愉快でたまらない僕の妻は何だ|が《原》人間の樣な心持ちがしない。
 中學世界での評なんかはどうでもよし知人を雇ふて方々の雜誌に稱賛の端書を送つたらよからうと思ふ。
    六月二十一日              金
   三 重 吉 樣
 
      七〇九
 
 六月二十四日 月 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 拜啓一寸御願が出來た又面倒な例の文學論の事だが。あの中に肯定と否定の間違が四五ケ所あつて普通の誤植とは思へぬ程念の入つたものであるにより。大倉を以て秀英舍へ掛合つた所。秀英舍は責任なしと威張つて居る由。僕よつて之を朝日新聞紙上に於て筆誅せんと欲するに就ては例の虞美人草祟りをなして筆を執る事面倒なり。どうか君僕の代りに書いてくれ玉へ。間違の箇所は僕の所にわかつてゐるから序でに來て見て呉れ給へ 御願頓首
    二十四日                 金
   三 重 吉 樣
 
      七一〇
 
 六月二十六日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ〔はがき〕
 今日澁川先生がわざ/\きて君の投書を歡迎すると云ふて來た。然し都合によると六號にする由。但し侮るべからざる六號にする由。僕は何とも云はなかつた。然し出してやつてくれ給へ
 
      七一一
 
 六月二十六日 水 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 御手紙拜見毎日かいたりかゝなかつたり。人が來たりする。面會謝絶にも拘らず呑氣なり。虞美人草をよんでくれて難有い。八重子さんにもよろしく。八重子さんにはオーステンは面白くないかも知れない。
 
      七一二
 
 六月二十七日 木 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 君此つぎ國民へ短かいものをかくなら其代りにうちの新聞へ書いてくれ玉へ。
 梅雨はげしく降つて中々侘びしい。小説をやめて本がよみたい
 
      七一三
 
 六月二十七日 木 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ
 御手紙拜見君の事をほめる手紙を谷山舍監にやる傳四觀は論文としてはひまが入るけれども手紙ならぢき出來る御安い用なり一兩日うちに谷山氏へ出すつもりなり先生の名〔は〕初七郎かね一寸伺ひ度名前が間違ふと折角の傳四觀も信用がなくなる
    六月二十七日            金
   傳 四 先 生
 
      七一四
 
 六月二十八日 金 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 拜啓朝日新聞の澁川玄耳氏より別紙の如き書面あり候につき可然御回答を與へられ度候。(京橋區瀧山町四番地朝日新聞内澁川柳次郎宛)本宅ならば麹町區隼町四番地)
 右用事迄 匆々
    六月二十七日             金 之 助
   三 重 吉 樣
 
      七一五
 
 六月二十九日 土 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 晩は大抵散歩夫からは日によると休業。尤も日中でも頭と相談の上時々休業仕候。段々暑くなると小説をかくのが厭になる
    六月二十九日
 先達ては奥さんがわざ/\難有うつい御禮を忘れて居た
 
      七一六
 
 七月二日 火 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 先日は失敬
 一寸行きたいが愚圖々々して居る。偖うちの新聞で醫學上の事を簡易に書く人を周旋してくれといふが君の弟に聞いて呉れぬか。是は社員といふ譯ではない投書をしてくれゝばよいのである。原稿料は出すさうである
    七月二日                金
   虎 雄 樣
 
      七一七
 
 七月三日 水 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡津川村小宮豐隆へ
 昨日君の長信が來た久々で國へ歸つて大持ての事羨望々々途上の繪端書は一々落手多謝。今頃は九州は嘸暑い事だらうと思ふ西片町も中々あつくなつた。蚊帳をつる。大きな蚊帳で一人で寐るのは勿體ない。來客謝絶にも不關時々御來臨。臼川、三重吉、諸先生健在、朝日へ何かかくなら書かぬか。
 御母さんと御婆さんの御機嫌をとつて大事にせんとわるい。後世《ごせ》が大事だ。冥罰がおそろしい。僕漫然たり。臼川天|笠《原》牡丹なるものをくれる。文學論二版御蔭にて出來深謝。十八世紀は樗陰森田兩君に依頼する事となれり。坪内先生來訪早稻田へこいとの相談である。評判によれば慶應義塾へも行くさうだ。近々一萬圓で家を建てるさうだ。小供がシツヲかいて困る。中央公論を約束したがまだ見ない。公《原》告には筑水君の「文學論に因みて」が出て居ない。或は送らんで濟むかも知れぬ。竹風君の評は新小説に出た。是はそちらで買へるだらうから送らない。小説は中々進行しない。暑いと中止したくなる。
 君の手紙は色女が色男へよこす樣だ。見ともない。男はあんな愚な事で二十行も三十行もつぶすものぢやない。
 久しく靴屋の娘を見ず。あれはめかけの由。是から又虞美人草をかく。
    七月三日朝九時             金
   豐 隆 樣
 
      七一八
 
 七月五日 金 後2-3 本郷區駒込西片町lOろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ〔はがき〕
 駒込上富士前町五番地(王子通岩崎別莊向横町右入)に貸家あり。廣瀬といふ人の所有僕に貸したいと云ふ序の時散歩でもしたら見て呉れ給へ。家の向を知らず圖面は見たり
 
      七一九
 
 七月八日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より  福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 枇杷到着難有候。何か上げやうと思ふが何がいゝか分らんうちに君が東京へ歸るだらう。面會謝絶でも毎日面會してゐる。昨夜藤戸を謠つた。中々うまい。謠を再興しやうかと思ふ
 
      七二〇
 
 七月八日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 近頃の讀賣に君の事がよく出るね。御用心。虞美人草の御批評拜受。善くても惡くても本當に讀んでくれゝば結構。僕ハウチノモノガ讀マヌウチニ切拔帳ヘ張込ンデシマウ。ワカラナイ人ニ讀ンデモラウノガイヤダカラデアル
 
      七二一
 
 七月八日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 拜啓高松中學の件承知致候昨今の場合或は御赴任可然やとも存候然し愈とならねば地方行は御見合せを希望す。明治學院五〇では到底暮しがたかるべくことに妻帶の上は子供も豫算に這入る事故何とか工夫を要し候小生も種々考へては居れど別に名案も無之自分で世話も出來ぬものを無理に東京に引きとむるも不都合の至故其邊は是非なきかと存候新聞の方も聞き合せるは容易なれどあの事業は少々明快なる頭脳と敏捷なる手腕を要し且つ外國電報抔は夜十二時過迄は社に殘らねばならず而して必竟ずるに第二流の新聞記者たるを免がれず考へ物に候。君に今少し覇氣があり野心があれば結構夫でなくても今少し活氣があり精根があればよろしからんも君の樣にてはあとで困るかも知れず。然しよく考へてやつて見る氣なら紹介は喜んでする積故遠慮なく申來らるべく候外國電報主任弓削田精一といふ人は正直にて一本氣の至極よき人間に候かゝる人に就て電報の修業をするは仕合せとも存候朝日には妙な人間居らず池邊を始め皆立派な男と信ず。小生は二名ばかり周旋したり。白仁も這入る。然し白仁はそんなに月給を餘計にもらうまじ中村蓊も入社の筈是も白仁と同斷なるべしもし不時の入用抔にて差當り困難の時は少しの都合はつく積りなり遠慮なく申來らるべく候先は御返事迄 匆々頓首
    七月七日                金
   眞 綱 樣
 
      七二二
 
 七月十日 水 後5(以下不明) 本郷區西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓寺田君より別紙の續稿到着につき差上候。都合により多少の削除御隨意の由。先達の獨樂は早く出さないと時候後れになるさうです 以上
    七月十日                夏目金之助
   澁川柳次郎樣
 
      七二三
 
 七月十一日 木 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一二〇行徳俊則へ
 拜啓例の件につき色々御世話に相成難有存候御問合せの人御兩名とも都合あしき由承知致候大兄にてよろしければとの御意見辱く存候もし御希望なら無論喜んで杜の方へ紹介致すべくもし又迷惑ながら小生へ對する義理として當分引受けてやるとの御親切ならば左のみ急く事にも有之間敷大兄も御歸省其他にて御多忙と存候間別に其儀に及ばずと愚考致候右如何の御意見にや一寸手紙にてよろしく御洩らし願上候 以上
    七月十日夜             夏目金之助
   行徳俊則樣
 
      七二四
 
 七月十一日 木 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 其後動靜如何當地存外凉氣にて例年より凌ぎよし小説脱稿次第北の方へ遊びに行かうかと思ふが。いつ脱稿する事やら分らず。ビハは小供が喜んでたべた。三重吉が時々くる
 
      七二五
 
 七月十一日 木 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 君のくれた天|笠《原》牡丹が今日の雨で落ちて仕舞つた何だか淋しくなつた。今度の日曜には人がくるかも知れぬ君もひまなら來給へ
 
      七二六
 
 七月十二日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓京都より御歸りの由毎日出社御精勤の事と存候。小生一昨十日總務局より臨時賞與として五十圓貰へり。定めて入社當時に話しのあつた盆暮の賞與の意味なるぺし。夫ならば大分話が違ふ。始め君の周旋の時は一年二期に給料の二ケ月分宛位といふ事であつた。其後愈となつたら弓削田氏より君への返事に言ふ所は先づ一ケ月位との事であつた。僕が池邊氏にあつて最低額は一ケ月分と定めて差し支なきやと質したる時氏は然りと答へられた。
 僕は賞與がなくとも其日には困らぬ。又實際アテにもする程の自覺もない。然し貰つて見るといやである。金の多少でいやといふより池邊、弓別田兩君の如き君子人が當初の條件を守られぬといふ事がいやである。
 入社の日が淺いから今年は出さぬといふなら辯解になる。同上の理由で今年は少ないと云ふなら尤である。
 以上の理由は誰からもきかぬ。只一|今《原》で、しか解釋すべきものか。
 受取つた五十圓は難有く頂戴する。返却は仕らぬ。不足だからもつと餘計くれとも云はぬ。只事實は條件を無視してしかも一言の辯解|に《原》伴ふて居らんといふ事を、入社の周旋をしてくれた君に參考の爲め申し送る。
 池邊弓削田兩氏は君子人なれば此邊の消息は知らぬ事なるべし。知つても當初の事は忘れたるなるべし。いづれにても故意ならぬ所作ならば介意するに及ばず。序での節兩君の存意を確められたし。
 
 小生が朝日に對してなし得る事は微少なり五十圓にも當らず。只それは入社の條件とは別問題なり。是は誤解なきを祈る。
 
 虞美人草はまだ片付かず。いつ果つべしとも見えざりけり 以上
    七月十二日             夏目金之助
   白仁三郎樣
 
      七二七
 
 七月十二日 金 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 あの謎は謎として解かない方が面白い。凡ての謎は解くと愛想が盡きるものである。神秘をやさしい言葉デ言ふと上品トナル
 
      七二八
 
 七月十二日 金 使ひ持參 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜啓一寸出る筈ですが出ると長くなつて御邪魔になりますから手紙で用を辨じます
 あなたの萬朝へ御書きになつたものを岡田さんの方が先へ出るとすればあまる事だらうと思ひまして朝日の方へ話しをしたらもし五十回以上百回位迄のものなら頂戴は出來まいかと申して來ました是は虞美人草のあとへ四迷先生の短かいものを出して其次に出す計畫の由です
 萬朝の方が御都合がつけばこちらへ廻して下さいませんか 以上
    七月十二日                金 之 助
   大塚御奥樣
 
      七二九
 
 七月十三日 土 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 拜啓御多忙の處をわざ/\池邊氏を御尋ね御返事を御聞き被下て難有候
 御申越の理由詳細判然承知致候
 六ケ月以内のものが貰はぬが原則ならば小生の貰ふたのが異數なるぺし。深く池邊氏の御注意を謝す。
 池邊君に御面會の節は小生が御尤もと納得したる上同君の御好意を感謝しつゝある旨を傳へられたし
 ことに君が此件につき御奔走の勞を謝す。
 醫者に御通ひ中のよし御病氣なるや大事にせられたし 以上
    七月十四《原》日            夏目金之助
   白仁三郎樣
 
      七三〇
 
 七月十四日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔はがき〕
 啓、單軌鐡道の事が今日の讀賣に出たさうです。今から出すと後れますから御休めなさい。寺田が心配して居たが讀賣を讀んで大に殘念がつてゐます。匆々
    七月十四日
 
      七三一
 
 七月十六日 火 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 啓 松山へ御歸りの事は新聞で見ました。一昨日東洋城からも聞きました。私が弓をひいた※[土+朶]がまだあるのを聞いて今昔の感に堪へん。何だかもう一遍行きたい氣がする。道後の温泉へも這入たい。あなたと一所に松山で遊んでゐたら嘸呑氣な事と思ひます
 大内旅館についての多評は好景氣の樣也三重吉は大變ほめてゐました。寅彦も面白いと云ひました。そこへ東洋城が來て三人三樣の解釋をして議論をしてゐました。小生はよく御《原》其議論をきかなかつた。小生の思ふ所は。大内旅舘はあなたが今迄かいたものゝうちで別機軸だと思ひます。そこがあなたには一變化だらうと存じます。即ちあなたの作が普通の小説に近くなつたと云ふ意味と。夫から普通の小説として見ると大内旅館がある點に於て獨特の見地(作者側)がある樣に見える事であります。詳しい事はもう一遍讀まねば何とも云へません。とにかく色々な生面を持つて居るといふ事はそれ自身に能力であります。御奮勵を祈ります。
 五六日前一寸何を考へたか謠をやりました。一昨日東洋城が來た時は滅茶々々に四五番謠ひました。ことによつたら謠を再興しやうと思ひます。いゝ先生はないでせうか。人物のいゝ先生か。藝のいゝ先生か。どつちでも我慢する。兩者揃へば奮發する。虞美人草はいやになつた。早く女を殺して仕舞たい。熱くてうるさくつて馬鹿氣てゐる。是インスピレーシヨンの言なり。 以上
    七月十|七《原》日             金
   虚 先 生
 
      七三二
 
 七月十六日 火 前8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一二〇行徳俊則へ〔はがき〕
 啓朝日新聞件先方へ通知致候處主任澁川柳次郎氏(麹町區隼町四)御面會申度由につき乍御面倒御出向願度候。毎朝八時迄ならいつでも在宅とあり
 
      七三三
 
 七月十九日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔はがき〕
 御迷惑でもまた虞美人草の續稿をとりによこして下さいませんか。汽車が全通しないで大阪の方が間に合はないと氣の毒であります。行徳は昨日歸りに寄りました。
 
      七三四
 
 七月十九日 金 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 服岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 手紙が來たから一寸返事をあげる。東京は雨で毎日々々鬱陶しい其代り頗る涼しくて凌ぎいゝ。大井川が切れて※[さんずい+氣]車が通じない郵便が後れる事と思ふ。叡山で講話會をやるから出てくれと云ふて來た。多分出ない事。ひまが出來たら北の方へ行く三重吉も行くと云ふ
 虞美人草は毎日かいてゐる。藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が缺乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。うまく殺せな
ければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲學をつける。此哲學は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する爲めに全篇をかいてゐるのである。だから決してあんな女をいゝと思つちやいけない。小夜子といふ女の方がいくら可憐だか分りやしない。――虞美人草は是で御仕舞。
 金子筑水の議論は念の入つたものではない。昨日上田柳村君が來て文學論について云々して去つた。大塚は眞面目に讀んで呉れて批評をしにやつて來た。博覽會へ行つてwaterシュートへ乘らうと思ふがまだ乘らない。伏見の宮さまが英國で大歡迎だと云ふ話である。僕は英國が大嫌ひあんな不心得な國民は世界にない。英語でめしを食つてゐるうちは殘念でたまらなかつたが昨今の職業は漸く英語を離れて晴々した。所が早稻田と慶應義塾で教師になれといふて來た。食へなければ狗にでもなる。英語を教へるのはワン/\と鳴く位な程度であるからいざとなればやる積であるが、虞美人草の命があるうちはまづ御免蒙る。朝鮮の玉樣が讓位になつた。日本から云へばこんな目出度事はない。もつと強硬にやつてもいゝ所である。然し朝鮮の王樣は非常に氣の毒なものだ。世の中に朝鮮の王樣に同情してゐるものは僕ばかりだらう。あれで朝鮮が滅亡する端緒を開いては祖先へ申譯がない。實に氣の毒だ。朝日新聞の湯島近邊といふのを讀んで御覽。ああ云ふ小説もかいて好《よ》いと云ふ御許しが出ると小説家の氣も大きくなる。僕もまだ二三十年は英語を教へないでどうかかうか飯が食へさうだ。
 惡縁で英語を習ひ出したが是から可成英語を倹約して獨乙と佛語にしたいと思ふ。先づ獨乙を君に教はりたい。夏休み以後は少しやつてくれ玉へ。 以上
    七月十九日               金
   豐 隆 樣
 
      七三五
 
 七月十九日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 神奈川縣鎌倉長谷大塚楠緒へ
 拜啓金尾文淵堂であなたの萬朝に出る小説を頂いて本にしたいと申ます夫で此男があなた〔に〕紹介してくれと申ます御迷惑でなければ一寸逢つてやつて下さい 以上
  七月十九日                金 之 助
   大塚楠緒庸子樣
 
      七三六
 
 七月二十日 土 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 昨夜散歩から歸ると君の名刺があつて三省堂の事も書いてあつた。毎日あの方へ參る由夫で學校以外の收入も多少はあるとの事安心致し候 四國の方は御斷りの趣是亦承知致候字引事業はいつ頃迄つゞくものにや字引が濟んでも似た樣なものが出て來さうに思ふが如何
 毎日雨にて鬱陶しい然し仕事をするには凉しくて却つてよろし。皆川には其後逢はず。小説はまだ書き了らず氣の長い事驚ろくぺし。胃はよろしからず。旅行が致したし。昨日《きのふ》から大塚さんの小説が萬朝に出るから見てゐる。朝日に湯島近邊といふのがある。是もよんでゐたが二三行よむと何がかいてあるかすぐ分る。簡便でよい小説である。十八世紀文筆の講義を金尾で出したいといふから承知した。森田、瀧田兩君が書き直してくれる筈。此年は無暗に書物ばかりこしらへる。而して今日の「國民」にある如く五割の印税をとつたら僕も今頃は一萬圓のうち位貫へるだらうに。 以上
    七月二十日               金
   眞 綱 樣
 
      七三七
 
 七月二十日 土 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ
 君は何を思つたか深夜頓首して手紙をよこした。さうして内容は僕に會つた時と別に變つた事が書いてない。妙だよ。豐隆子が長い手紙をよこした。米を賣つて仕舞へといつて婆さんに叱られたとある。其癖婆さんから相談を受けたのださうだ。是は愈妙だよ。小説は中々氣が長いから僕も困る君も困る。八月になつたら早速出掛給へ。僕もし出來得べくんば君のゐる所へ廻つて行く。然らずんば何でもどつかで待ち合せる。然らずんば僕がどうしても東京を出られなくなつて君は一つ所にぶら下がる。是は大に氣の毒だが、今日の形勢を案ずるに或は西片町を去る事が出來ぬかも知れない。何しろ急行小説はやめたんだから。だら/\虞美人でいつ迄引張られるか自分にも見當がつかない。もしかうなると違約になる甚だ御氣の毒だ。さうなつたら二三日でもいいから君と前約履行のかたでどつかで遊ばう。僕近來ズルクなつて(廣島の意味)困る。何でも急がぬ方針だ。而して方針も何もない。生きてゐて、食つてゐて、而し〔て〕漫然たり 以上
    七月二十日                金
   三 重 吉 樣
 
      七三八
 
 七月二十一日 日 後2-3 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町二三八幸川方鈴木三重吉へ〔はがき〕
 漱石山房といふ印が俗でいやになつたひまが出來たら一人でもつとうまい奴を刻つてやる。昨夜は失敬
 
      七三九
 
 七月二十一日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 今日の讀賣に正當防禦と題して早稻田の人が君を攻撃してゐる見玉へ。全體君は何をかいたのか。何をかいてもあんな攻撃をするのは早稻田の若イ人ダ
 
      七四〇
 
 七月二十二日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 拜啓人の攻撃を攻撃しかへすときは面白半分にからかふ時の事なり。ひまが惜しければやるべからず。堂々たる攻撃は堂々たる辯駁を要す。是は惜しい時間を割いてやる事なり。
 僕未だ新聞雜誌に出たものに對して辯解の勞をとりし事なし。そんな事をするひまに次の作物か論文をかく方が遙かに有益也。
 あんなものに眞面目に相手になる位なら始からあゝ云ふ風な評論をかゝれぬがよろしからうと思ふ。何かいふ事があらば駁論とせず。次の作物か論文のうちに充分君の主張を述べらるべし。夫が自分は自由の行動をとつてしかもくだらぬ世評に頓着して居らぬ事を事實に證明する所以と思ふ。
 君は文を好む文を好めば將來かゝる場合多かるべし。皆この例にならつて決せられん事を希望す。
 尤も暑中休暇故ひまがあるならいたづらにいくらでも喧嘩をなさるのも一興と思ふ。
 しかし喧嘩をし出すと、相手次第で暑中休暇後迄もやる積でないと行《原》けません。途中でやめちやいけない。まあ愚になるね。 以上
    七月二十一日               金
   豐 一 郎 樣
 
      七四一
 
 七月二十二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき〕
 今日もひるから來客で多忙鈴木は明日から房|洲《原》へ行く由淋しくなる。何か謠を稽古したくなつた。
   此處發句をかく筈にてあけたが出來ない
 
      七四二
 
 七月二十二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓先日御話し致し候小山内薫君目下困り居られ候につき小生より一應大兄迄照會あり度旨春陽堂の高見君より依頼を受け候が如何のものにや白仁君中村君に御聞き被下候へば同君の性行等は御分りの事と存候先は用事のみ 草々頓首
    七月二十二日             夏目金之助
   澁 川 先 生
 
      七四三
 
 七月二十三日 火 後8−9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 暑いのに牛込迄通ふのは難義だ抔といふのは不都合だ口を糊するに足を棒にして脳を空《から》にするのは二十世紀の常である。不平抔をいふより二十世紀を呪|咀《原》する方がよい。
 夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。君の夫婦が親しけ〔れ〕ぱ原則に叶ふ親しからざれば常態に合すいづれにしても外聞はわるい事にあらず
 君の事を心配したからといふて感涙抔を出すべからず僕は無暗に感涙抔を流すものを嫌ふ。感涙抔を云々するは新聞屋が○○の徳を讃し奉る時に用ひるべき言語なり
 僕は君に世話がして上げたくても無能力である。金は時々人が取りに來る。有るものは人に借すが僕の家の通則である。遠慮には及ばず。結婚の費用を皆川の樣な貧乏人に借りるのは不都合である。
 細君は始めが大事也。氣をつけて御し玉へ。女程いやなものはなし。
 どこかへ遊びに行きたいが虞美人草をかいて仕舞ふ迄は動き度ない。
 野村には一向逢はない。毎日客がくる。
 君は氣が弱くていけない。一所になつて泣けば際限のない男である。ちとしつかりしなければ駄目だよ。 頓首
    七月二十三日               金
   眞 綱 樣
 
      七四四
 
 七月二十六日 金 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬岩館鈴木三重吉へ
 犬岩館とかいふ所に御神輿を据ゑられたるよし。是は何でも僕が通つた所らしい。ことによると昔し宿つた所かも知れぬ岩のなかに彫り込んだ宿屋抔は頗る面白い
 東京は甚だ涼しい。土用でも土用の感じがない東洋城が來てとまつて一日ごろついて謠を三四番歌つて歸つて行つた。其他色々な人がくる。十八世紀文學は金尾をやめて春陽堂にした。昨日服部の印税未納をしらべたら八百圓程ある。僕も中々寛大な著作家たるに驚ろいた。服部も通知を受けて驚いたらう。勿驚印税八百圓といつてすぐ持つてくればえらい。あれは版權を大倉へ讓り渡してしまふ方が得策だ。僕も便利だ。
 虞美人草はだら/\小説七顛八倒虞美人草と名づけて未だ執筆中
 あまり潮風に吹かれると女が惚れなくなるにつきいゝかげんに御養生可然候 以上
    七月二十六日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      七四五
 
 七月二十九日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 暑中如何御暮し被成候事と存候ひしに不相變御健勝の由大慶の至に存候下つて小生如例碌々乍憚御休神願上候。虞美人草御讀被下候よし難有存候小生もあれが爲め今年夏も依然多忙實ははやく切り上げて遊びにでも參り度と存候へども因果にて如何とも致しがたく弱り切り候。小説もかうだら/\では讀者より著作者の方が先へ參り候御憐笑可被下候いづれ其内拜眉萬々先は御挨拶迄 匆々
    七月二十九日               夏目金之助
   大 谷 兄
 文學論も御求め被下候由あの一版は大變な誤植に候もし御入用ならば正誤表一部可差上候
 
      七四六
 
 七月三十日 火 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬若館鈴木三重吉へ
 啓日々御水浴結構に候。甲野さんの日記は毫も不自然ならず。甲野さんの日記は京都の宿屋の所に出てゐる。つまり其つゞきである。しかしてかゝる哲學者のかいた日記をぽツ/\引き合ニ出スノハアル意味ニ於テ甲野サンヲ貫ヌカシムル方便デアル。實ハ此ヤリ口ハ僕ノ創體デハナイ英ノメレヂスの作に屡此手ガアル。僕ハ之ヲ踏襲シタト評サレテモ仕方ガナイ。
 「オや御這入」と云ふ句はチツトモ可笑シクハナイ。アレヲ可笑シガルノハ分ラナイ。廣イウチデ銘々部屋ヲ持ツテゐる。母ノ部屋ヘ娘ガ行く。オや御這入ヨリ云ヒ樣ガナイ。而シテ尤も母ラシイ言葉でアル此言葉デ母ラシイ所ガ直チニ出ル。君ハ廣島ダカラサウ云フ意味ニ聽キ慣レテゐナイノダラウ。アレハ實ハ最上等ノ句ダヨ。
 ワルイ所ヲ摘發スルナラバモツト此方ガ閉口スル所ガ澤山アルノニ、アスコガ目にツタノハ可笑イ。
 此小説ハノンキ小説トモ、ダラ/\小説トモ、又ハ七顛八倒小説トモ稱シテ容易ニ片ヅク景色ナシ。然シ毎日カク。
 二三日非常ニアツクナツタ。妻君ガ六十圓デ紋付ガコシラヘタイト云フ。君ノ前ダガソンナモノハ要ラナイ樣ダネ。妻君ニシテ六十圓ノ紋付ヲコシラヘルナラ。僕モ薩摩上布ノ上等ヲ買ツテ向ヲ張ル積デアル。
 中川カラアヅカツテ居ル百圓ハ利子ノ勘定や何カ面倒デイケナイ。アレハ自分ノ名デ預ケ替タラヨカラウ。歸ツタラ君カラ話シテクレ玉ヘ。 以上
    七月三十日              金
   三 重 吉 樣
 且アノ日記ハ母子ノ間柄ヲ裏面カラアラハス故甲野サンノ日記云々トカク方ガ切實デアルノデアル〔六字右○〕(此所巽軒口調ナリ)
 
      七四七
 
 七月末〔?〕 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 大阪市南區天王寺上の町三六六九武定※[金+珍の旁]七へ〔はがき」
 貴句拝見虞美人草御よみ被下候よしダラ/\になりて申譯なく候
  のうぜんの花を數へて幾日影
 
      七四八
 
 八月一日 木 後2-3 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 岩代國耶麻郡鹽川町陸軍御用九重本舗栗村千代吉君方製造衛生滋養輕便珍菓九重(會津品評會銅牌受領)以上一箱本日午前十時文學士北郷二郎君ヨリ落手多謝々々
 
      七四九
 
 八月一日 木 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拝啓今度専門學校の師範科を卒業した田中美成(?)と云ふ人が中學を出てゐないとかで教師が出來ないとかで糊口に困つてゐるから新聞へ聞いてくれと四方太がたのみます此人は學校の成績は優等ださうです月に二十|拾《原》もあれば當分いゝといふのだから一寸伺ふのです何か用を命じてさうして其功績の報酬を出したら二十圓位にはなりさうなものだと思ひますどうでせうさういふ用はありませんか 以上
    八月一日               金
   澁 川 樣
 
      七五〇
 
 八月二日 金 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
  拝啓 爲菅で十圓あげる新婚の御祝に何か買つて上げやうと思ふが二十世紀で金の方が便利だらうと思ふから爲替にした。
 暑いのに三省堂迄行くのは苦しからう然し世の中にはまだ苦しい事をしてゐるものも澤山ゐる。馬鹿で金を澤山とる奴はどうせ好い事はない。近いうちに祟があるものだ。君安心して業に就て可なり。
 僕は毎日小説を四五枚かく其外に何もしない。
 先達皆川と三浦白水君が来た。其他來客中々多し。小説さへ濟めば快談せんと思ふが今は澁談で氣の毒である。
 君には毎度御菓子やら何やらもらつてゐる。些少の爲替では引き足らん。決して禮を云ふては可けない。此間印税がとれたから上げる許だ。上げなくつてもどうせ使つて仕舞ふ金だ。さう思つてうまいものでも兩君で食ひ玉へ
    七月末日              金
   野間眞綱樣
 
     七五一
 
 八月二日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 大學も駿河臺も滿員の由自宅にては嘸御不便と思ふが|今《原》朝早く尼子氏を訪問もう一遍相談あつては如何。他の病院を紹介してもらうか。或は適當なる醫師を周旋してもらうか也。もし尼子氏擔任すると云はゞ夫にてもよかるべし。あの人は信用してよい人故自分が出來なければ駄目といふべし。故に「外の病院を又は外の人を周旋してくれと云ふべし。それと同時に先生がやつて下さつても私方はよろしと云ふべし。夫で向の返事を待つべし 以上
    八月二日夜              金
   森田米松樣
 右注意迄
 
      七五二
 
 八月三日 土 後8−9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 手紙が來た。また何だか長々と女性的文字がかいてあるには恐縮したね。今日高須賀淳平が來て小宮さんはことによると戀病をすると云つた。氣を付けないといけない。※[さんずい+嫩の旁]《原》石病なら心配はないが御絹病などになると甚だ痛心の至だ。僕の妻が赤門前の大道易者に僕の八卦を見てもらつたら女難があると云つたさうだ。しかも逃れられない女難ださうだ。早くくればいゝと思つて日夜渇望してゐる。大旱の雲霓を望むが如し。
 あつくてだら/\してゐる。門司迄芝居を見に行く方はない。東京へ歸つてゆつくり見るものだ。田舍へ行つたら芝居氣をすてゝ田舍ものになるがいゝ。此間印税が這入つた君が居れば何か奢つてやらうと思ふが幸不在だからやめた。文學論は三版になつた。但し五百部。虞美人草については世評はきかず。みんなが六づかしいと云ふ。凡てわからんものどもはだまつてゐれば好いと思ふ。それが普通の人間である。餘計な事をいふ奴は朝鮮國王の徒だ。况んや漱石先生に如何程の自信あるかを知らずして妄りに褒貶上下して先生の心を動かさんとするをや。君の前だが先生はしかく安價なる先生ならず。しかく安價なる作物を作りつゝあらざるなりか。
 三重吉は洞穴《ホラアナ》生活の由何をして居る事やら。歸つたら屹度漁師の神さんに惚れられたとか。アマに見染められたとか云ふに違ない。
 森田ノ赤ン坊ガ死ニカヽル。二三日何にもしない由。
 野上が一兩日前來た。
 エイ子さんのシツ追々本復す。姉妹悉くシツカキ性なるには愛想がつきた。エイ子さんが一番温良でユツタリしてゐて好い子だ。赤ン坊は豪傑の相がある。又寫眞をとらうと思ふ。 頓首
    八月三日               金
   豐 隆 樣
 
      七五三
 
 八月四日 目 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 日本橋區本町三丁目博文館編輯局内巖谷季雄へ〔往復はがき返信用〕
 拜復西園寺侯爵の招待答禮につき相談小集の御通知を受け御手數の段難有奉謝候然るに當日は無據處差支有之出席仕兼候につき左樣御了知被下度先は右御返事迄匆々頓首
 
      七五四
 
 八月四日 日 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬岩館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 小宮先生ニ舞子ガ懸想シタ由扇デ以テ親切に煽いでくれたと云ふ。
 一本の褌と風流いづれぞや
 
      七五五
 
 八月四日 日 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき〕
 癖三醉君に田島金次郎〔五字右○〕といふ人の住所と經歴を聞いて置いて一寸知らしてくれ玉へ。今度逢ふ時でよろしい
 
      七五六
 
 八月四日 日 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 先日の御手紙拜見本月は一應御歸京の由。其節は御面會致し度と存候
 大鼓を打たれる由鼓を打つ人と鼓の音をきくと頗る人意を強うします。廿世紀にあんな閑日月があると思ふからです。僕も御指定の教師に從つて謠の稽古を致し大に時勢を後ろへ進歩致したい。近頃自然派とかいふて無暗に前へ出たがるから小生は不自然派でもおつ立てゝ後《うし》ろの方へ參らうかと思ひます。自然だらうが、不自然だらうが只主義を標榜する丈で主義相應の作物を出して見せなくつちあ仕樣がないぢやありませんか。圍爐裏のはたで一生懸命に水|錬《原》の藝術を説いてゐる樣なものだ。――以上はどうでもいゝ事ですが。是からが用になります。西村濤蔭と云ふ人が糸櫻と云ふ長篇小説を持つて來てホトヽギスへ出したいから八月十日頃迄に讀んでくれと云ひました所が心よく受合つた事は受合つたが、例の虞美人草の爲めによむひまがない。そこで濤蔭先生へ其旨を云ふてやつて虚子へ送るか、又は虚子が歸る迄預つて置くかと聞き合せてゐます。然し君の方の御都合もある事だらうから此事實丈を一寸御通知して置きます。
 藤尾と御糸の會話をほめて下さつて難有う存じます。まだ褒められる所が段々出てくる事を希望して毎々執筆します。 頓首
    八月四日                金
   虚 子 樣
 
      七五七
 
 八月五日 月 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬若館鈴木三重吉へ
 日々暑い事だ。偖旅行の儀は延引又延|行《原》今月の半頃ならばと思つてゐるが一方では段々考へて見ると例の小説がどうも百回以上になりさうだ。短かく切り上げるのは容易だが自然に背く調《原》子がとれなくなる。如何に漱石が威張つても自然の法則に背く譯には參らん。從つて自然がソレ自身をコンシユームして結末がつく迄は書かなければならない。するとことによると君と同伴行脚の榮を辱ふする譯に參らんかも知れぬ。旅行も大事だが虞美人草は胃病よりも大事だから其邊はどうか御勘辨を願ひたい。トルストイ。イプセン。ツルゲネフ。抔は怖い事更になけれど只自然の法則は怖い。もし自然の法則に背けば虞美人草は成立せず。從つて誰がどう云つてもゾラが自然派でフローベルが何とか派でも其他の人が何とか蚊とか云つてもどうしても自然の命令に從つて虞美人草をかいて仕舞はねばならぬ萬一八月下旬に自然から御許が出たら早速端書をあげる。夫迄は吉原の美人でも見てインスピレーシヨンを起して居たまへ。もし自然の進行が長引けば此年一杯でも原稿紙に向つてゐなければならない。嗚呼苦しいかな。
    八月五日                 金
   三 重 吉 樣
 
      七五八
 
 八月五日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき〕
 
 夏目漱石先生著
   吾輩ハ猫デアル
       松林伯知述  〔各行の下に横書きで〕八月五日夜
 
 本郷日蔭町ヲ通ツタラコンナ看板ガアツテ面食ツタ。全體ドンナコトヲ述ベル了簡カシラ
 
      七五九
 
 
 八月五日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 一昨日御話をした絲櫻といふ小説はいそがぬから私に見てくれといひますからあなたへは送りません。
 今日東亞の光といふ雜誌を見たら小林一郎(哲學の文學士)といふ人が近頃漱石氏の名前が出るにつれて追々非難攻撃するものが殖えて來た。もう少〔し〕文學者は雅量がなくてはいかんとありましたが。どうですか。私は未だ非難攻撃といふ程な非難攻撃に接した事がない。何だか小林君の説によると迫害でも受けてゐる樣に見えて可笑しい。漱石をほめるものが少なくなつたのは事實であります。然し是は漱石が作家として一般の讀書子から認められたからであります。漱石をえらい作家と認めれば認める程世間は無暗にほめなくなる譯だと思ひます。六號活字抔を以て漱石を非難攻撃抔といふのは頗る輕重の標準を失してゐるではありませんか。
 今めしを食つて散歩に出る前に一寸時間がありますから氣?を御目にかけます。
 長い小説の面白い奴をかいて御覽なさらないか。さうして朝日新聞へ出しませんか。
 今度の「同窓會」は駄目ですね。あれは駄目ですよ。あなたを目するに作家を以てするから無暗にほめません。ほめないのはあなたを尊敬する所以であります。 頓首
    八月五日                金
   虚 子 先 生
 
      七六〇
 
 八月六日 火 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保百人町一五三戸川明三へ
 拜啓酷暑の候愈御清適奉賀候頃日來御掲載の郊外生活多大の趣味を以て歡迎日々愛讀今日は飛んだ所で漱石が引合に出て大に面目の次第に候が玉稿が急に六號活字に縮少せるには驚ろき候。夫でひめゆりとか申すつゞきものゝ小説つきの廣告が繪入で巾を利かして居るには恐縮しました。新聞屋も餘程金がほしいと見え候。郊外生活は可成長く可成面白からん事を希望致候 以上
    八月六日                金之助
   秋 骨 樣
 
      七六一
 
 八月六日 火 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 豐隆先生 僕の小説は八月末には書き上げるだらうと思ふから九月早々出て來たまへ。旅行は多分やめるだらう。小説をかいて仕舞はないと雜誌さへ讀む氣にならん。旅行抔は來年に延ばして仕舞ふ。あの小説をかいてゐるうちは腹のなかにカタマリがあつて始終氣が重い。妊娠の女はこんなだらう。
 僕が洋行して歸つたらみんなが博士になれ/\と云つた。新聞屋になつてからそんな馬鹿を云ふものがなくなつて近來晴々した。世の中の奴は常識のない奴ばかり揃つてゐる。さうして人をつらまへて奇人だの變人だの常識がないのと申す。御難の至である。ちと手前共の事を考へたらよからうと思ふがね。あんな御目〔出〕度奴は夏の螢同樣尻が光つてすぐ死ぬ許だ。さうして分りもしないのに虞美人草の批評なんかしやがる。虞美人草はそんな凡人の爲めに書いてるんぢやない。博士以上の人物即ち吾黨の士の爲めに書いてゐるんだ。なあ君。さうぢやないか。
 三重吉が下總の國で吉原の別嬪を見たといふ。物騷千萬な事だ。君の御絹さんと同じ事だ。
 森田の子供が死にかゝつて森田先生毎日僕の所へ病氣の經過を報告にくる。可愛らしい男であります。火事を出しかけて長屋の人が來て揉み消してくれたといふ。御蔭で五圓進上せざるを得ざるの已を得ざるに至つたといふ。惜い事也
 小説をかいて仕舞つたら書物をよんで諸君子と遊ばうと思ふ。それを樂しみに筆を執る。君謠を稽古してゐるか。僕は近々再興する積だ。一所に謠はう。
 今日は坐つてゐても汗が出る中々あつい事だ。僕の嫌な蝉の聲がする。花壇にはまだ花が咲いてゐる。不思議なものだ。僕も小説家としてもう少しの間は大丈夫だ。博士にならなければ飯《めし》が食へないと思ふものに好例を示してやる
    八月六日                金
   豐 隆 樣
 
      七六二
 
 八月八日 木 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓虞美人草の校正に付ては今迄色々校正者の注意により小生の間違も直して頂いた事もあつて大に感謝の念に堪へん譯でありますが、時々原稿をわざ/\御|易《かへ》になつた爲め讀者から小生方へ尻が飛び込む事があります。横川《よかは》を横《よこ》川と改められたの抔は一例であります。そんな事は、此方《こつち》の間違と差引て此方が得をしてゐる位だからいゝですがね。今日は少々因りますから一寸申上ます。
     (十)の三
 「もう明けて四ツヽ〔三字傍点〕になります」
といふ處がありますが、あれは少々困る。三十四、一十四、四十四抔を畧して東京では四《シ》になつたとか、四《シ》だとか云ひますが四《よ》つになつたとは申しません。四《よ》つになつては藤尾が赤ん坊の樣になつて仕舞ます。私は判然「四《シ》になります」と書いた積です。しかも二ケ所共|四《よ》つに改めてある。困りましたね。
 校正に云ふて下さい。叮嚀なる校正で甚だ感謝をするが、時々はこんな事もある。然しこの位な間違はどうせ免かれぬ事でせう。だから仕方がない。向後もあるでせう。然しかう云ふのがあつたと云ふ丈を校正者に話して下さい
    八月八目               金 之 助
   澁 川 樣
 
      七六三
 
 八月九日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓先日は御不幸御氣の毒の至に不堪實は御悔みに上がらうと思ふがオツカサンや奥さんで却つて御迷惑と思つて控へてゐる。先日生田君の取りに來たものは乍些少香奠として差上るから其積にて御使用下さい。
別に何か上げやうと思つたら細君が申すにあれを上げた方がよからうとあるから小生も其儀に同意した譯である。
 昨日は來客、昨夜は東洋城とまり込み今猶のらくらしてゐる。虞美人草は昨今兩日共休業もし御閑なら入らつしやい 頓首
    八月九日                金
   米 松 樣
 
      七六四
 
 八月十五日 木 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 禰岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 拜啓トルストイの獨譯を賣《原》つた。今二三頁讀んだ(但しいゝ加減)所があれをかくに際して沙翁を繙讀したのが七十五歳だと稱してゐる。其前にも度々讀んだとある。トルストイの樣に氣力があると僕も大作物を出す。
 トルストイは沙翁を讀んで人の樣に面白くないと公言してゐる。そこが甚だよろしい。好漢愛すべしである。What is Art でも自分の思ふ事を勝手に述べてゐる。あの男の頭には感服せんがあの意氣には感服する。ライトと云ふ Dialectic Society で字引を編輯した人は四十になる迄英語の外は知らなかつたと云ふ。夫が今では大變な語學者になつた。西洋人はえらい根氣のある奴が居る。
 漱石は沙翁を繰り返す氣もなし語學者になる氣もないが、此兩人の根氣丈はもらひたい。小説をじ然と發展させて行くうちには中々面倒になつてくる。是で見るとヂツケンスやスコツトが無暗にかき散らした根氣は敬服の至だ。彼等の作物は文體に於て漱石程意を用ひてゐない。ある點に於て侮るべきものである。然しあれ丈多量かくのは容易な事ではない。
 僕も八十位迄非常な根氣のいゝ人と生れ變つて大作物をつゞけ樣に出して死にたい。
 君の手紙をよんだ。返事の代りに之をかく。
 是から文壇に立派な批評家と創作家を要求してくる。今のうち修養して批評家になり玉へ。
 今より十年にして小説は漸移して只今流行の作物は消滅すべし。其時專|問《原》の批評家出でゝ眞正の作家を紹介すべし。
 今の文壇に一人の評家なし批評の素養あるものは評壇に立たず。徒らに二三子をして二三行の文字を得意氣に臚列せしむ。
 英、佛、獨、希臘、羅甸をならべて人を驚かす時代は過ぎたり。巽軒氏は過去の装飾物なり。いたづらに西洋の自然主義をかついで自家の東西を辨ぜざるもの亦將に光陰の過ぐるに任せて葬られ去らんとす。而る後批評家は時代の要求に應じて起るぺし。豐隆先生之を勉めよ。樗牛なにものぞ。豎子只覇氣を弄して一時の名を貪るのみ。後世もし樗牛の名を記憶するものあらば仙臺人の一部ならん。
 謹んで檄す。 頓首
    八月十五日                金
   豐 隆 樣
 
      七六五
 
 八月十六日 金 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大森八景坂上杉村方中村蓊へ
 昨日は暑中見舞の書状難有拜見、杉村氏歸京にて御多忙の事と推察致候
 小生未だ小説を脱稿せず百回でやまざる故どこ迄行くか夫子自身心元なし Penelope's webと 申す事あり。永劫に虞美人草攻となる了簡なり。
 細民はナマ芋を薄く切つて、夫れに敷割抔を食つて居る由。芋の薄切は猿と擇ぶ所なし。殘忍なる世の中なり。而して彼等は朝から晩迄眞面目に働い|で《原》ゐる。
 岩崎の徒を見よ!!!
 終日人の事業の妨害をして(否企|で《原》ゝ)さうして三食に米を食つてゐる奴等もある。漱石子の事業は此等の敗徳漢を筆誅するにあり。
 天候不良也脳巓異状を呈して此激語あり。蓊先生願くは加餐せよ 以上
    八月十六日              夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      七六六
 
 八月十六日 金 後8-9 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬若館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 君の御蔭にて閑庭未だ花絶えず日々寂寥を慰す。昔人曰熱時には闍梨ヲ熱殺スト漱石ハ然ラズ擧シテ云フ熱時ニハ闍梨ヲ凉殺ス
 
      七六七
 
 八月十|七《〔?〕》日 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 大分縣大分郡松岡村吉峰竟也へ〔はがき〕
 四海同胞の好みを以て御書被遣拜見致候虞美人草の人物の名二葉亭氏に有之由御注意難有候實は其面影をよまず夫が爲めかゝるコントラストを生じ候先は御答迄 草々
 
      七六八
 
 八月十八日 日 前10-11 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 松山市一番町一九池内方高濱清へ
 濱で御遊びの由大慶に存じます大きな鼓を御うちの由是も大慶に存じます。松本金太郎君はどこにゐますか。私のゐる所からあまり遠方では少々恐れ入ります。謠の道にかけては千里を遠しとする程の不熱心ものであります。專門の學問をしに倫敦へ參つた時ですら遠くつて/\弱り切りました。
 金太郎君へ入門の手續はどうしますか月謝はいくらですか。相成るべくは相互の便宜上師弟差向ひで御稽古を願ひたい。敢て同門の諸君子を恐るゝにあらず。度胸が据らざるが爲めなり。
 あなたは二十日頃御出京と承はりました。然し御令兄の御病氣ではいけますまい。どうか御大事になさい。
 人の惡口を散々ついてあとからあれは奨勵の爲めだと云ふのは面白いですね。六號活字の三行批評家や中學生徒に奨勵されちやたまらない。以上
  八月十|九《原》日              金
   虚 子 先 生
 謠の件は近々御歸り迄待ちましてもよろしう御座います。いそぐ事ではありません
 
      七六九
 
 八月十九日 月 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣海上郡高神村犬若犬岩館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 おとつさんが肺病になつた由御氣の毒なり。森田の兄が死んで川下江村は小田原で倒る。――吾等は難有く其日を送る。幸福なり。
 其代りうちの下女は主人をおびやかしにかゝる。異な事なり。漱石下女の爲めに人生觀を易へる事あらば漱石と下女とは同程度の人物なるぺし 呵々。
    八月十九日
 
      七七〇
 
 八月十九日 月 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 君が歸京前最後の手紙としてこれをかく。三重吉と一所にこしらへてくれた花壇は未だに花が絶えぬ御蔭で日々慰めになる。虞美人草をかく時にも大なる注意物となつた。筆を以《原》て漫然とあの花畠を見てゐる。署があけて秋が來て朝夕は涼しい。小供が蟲籠を軒へかけた。蟲がなく。少し書物が讀みたい。此夏も江山の氣を得ずに籠城して仕舞さうだ。三重吉のおとつさんが肺病になる。川下江村といふ人が卒業してすぐ死んでしまつた。
 世の中は妙な考を持つてゐるものだ。殿下樣が漱石の敵だと云へば漱石はすぐ恐れ入るかと考へてゐる。至極呑氣に出來てゐる。殿下樣はえらいかも知れないが、漱石がさう安つぽく出來てゐた日にや小説なんかかく必要がなくなつて仕舞ふ。尤も甚しい例は漱石の文は時候後れだと云へばすぐ狼狽して文體をかへるかと思つてる。漱石は獨乙が讀めないと云つて冷評すれば漱石は翌日から性格を一變するかと心得てゐる。どう考へても世の中は呑氣だなあ、豐隆子。こんな人間がごろ/\してゐるうちは漱石もいさゝか心丈夫だ。
 島からの端書到着。石は何で出來てゐると聞いた人は傑作家に違ない。
 君が歸る迄は花壇に花があるだらう。小説は今月中には方づくだらう
    八月十九日               金
   豐 隆 樣
 
      七七一
 
 八月二十口 火 前9-10 本郷區駒込酉片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき 署名に「夏目道易禅者」とあり〕
 問ふて曰く男女相惚の時什麼
 漱石子筆ヲ机頭ニコロガシテ曰ク天|笠《原》ニ向ツテ去レ
     讃曰
  春の水岩ヲ抱イテ流レケリ
 問ふテ曰ク相思の女、男ヲ捨テタル時什麼
 漱石子筆ヲ机頭ニ竪立シテ良久曰ク日々是好日
     讃曰
  花落チテ碎ケシ影ト流レケリ
 
      七七二
 
 八月二十一日 水 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき〕
    心中するも三十棒
  朝貌や惚れた女も二三日
    心中せざるも三十棒
  垣間見る芙蓉に露の傾きぬ
   道へ道へすみやかに道へ
  秋風や走狗を屠る市の中
 
      七七三
 
 八月二十三日 金 前9-10 本郷囁駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 野村さん二十五日に朝日新聞へ給料をとりに行つて呉れないか。どうせひまだらう。午後がよろしい。以上
 
      七七四
 
 八月二十六日 月 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 玉稿ハ新聞ヘ屆ケタリ。天陰、滿庭コトゴトク蝉聲。漫然トシテ座ス。興趣無盡。理科ノ不平ヲヤメテ白雲裡に一頭地ヲ拔キ來レ
 
      七七五
 
 八月二十八日 水 前(以下不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 大水にて大騷一寸見物に行きたい樣《原》が致すがもう三四日は虞美人草故外出を見合せる
 時に君も朝日へ入社の由大慶一人でも知つた人が這入るのは喜ばしい
 御舍弟の御病氣の事は森田氏より承はりたり。御氣〔の〕毒と思ふ。
 「うきふね」は二三の書店へ話丈はして置いたが只今出版界不景氣だからと云ふので春陽堂抔は一寸逃げた。かうでもしたらどうだらう。君が「うきふね」持參大倉へ行つて原平吉に逢ふ僕が是非出版してくれといふ添状をかく。其後は君の談判に任せる。
 それからまだこんな事がある。昨夕も森田に話したのだが。僕は月給の約束で明治大學で三十圓宛取つて居た。所が朝日へ這入るに就て明治大學も辭職した。その月(即ち三月か四月と思ふ)の月給をくれない。そこで一應は内海月杖君に催促したら先生は早速會計に申して取計ふといふ返事丈よこしてまだ寄こさない。君僕の代理として君の事情を打明けて之を内海氏からとるか上田敏君から受取つて貰ふかする勇氣があればその三十圓を君に上げる。
 夫で歸國の旅費が足りなければ十月十日になると僕は二三百圓金が這入るそのうち二十圓位なら君にやつてもいゝ。昨夜は森田君に貳拾圓かし。其他へもチヨイ/\貸シタリやツタリスルノガ重ナルト何ダカ心細イ。然シ十月迄待テバソノ位ナ勇氣は回復スル
 右一應御返事迄
 兎に角九月初句に一寸來給へゆつくり相談をする
    八月二十八日            夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      七七六
 
 九月二日 月 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 此間は失敬うちの家賃を三十五圓にするといふ三十五圓ぢやいやだから出る積だどこか好い所はないかね。無暗向不見に家賃を上げる家主は御免だ。御もよりに相當なのを御聞及なら一寸しらせてくれ玉へ 頓首
    九月二日               金
   虎 雄 樣
 
      七七七
 
 九月二日 月 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區本郷四丁目四二喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 野村さん。家主が家賃を三十五圓にするといふ。今月中に越すつもり好いうちがあるなら心掛けて教へて呉れ玉へ
    九月二日
 
      七七八
 
 九月二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣一の宮一の宮館畔柳都太郎へ
 端書拜見肺せんかたるの疑ありとの事大した事も有之間敷けれど隨分勉強して遊んだらよからうと思ふ僕も小説が脱稿に及んだから出掛て二三日馬鹿話でもしたいがどうも一の宮とあつては一寸行く氣にならん。實は此間大塚に誘はれて別荘地見分〔五字右○〕の爲め參つたのでね。一の宮より稻毛の方がよくはないか。
 家賃を三十五圓にするといふから只今逃亡の仕度最中だ。君いゝうちを知らないか。○○は無暗に借りろ/\といふ。あんなのは何だか氣味がわるい。實際僕の崇拜者でもないものが家を貸す爲に崇拜者になるなんて怪しからん譯だ。
 僕例の立派な湯屋へ行つて體重をはかるに十二貫半である。今日かゝつた〔ら〕十二貫の半の《原》半である。家賃と體重は反比例するものかと思ふ。今に家賃が百圓位になれば體量○即ち大往生の域に達する事だらう。胃が惡クテイケナイ。之を稱してキツツエンカタールト名ケル。一の宮位ぢや中々癒らない。火葬場のストーブで煖めないと到底全治しないさうだ。
 先は御返事迄 匆々頓首
    九月二日               金
   畔 柳 樣
 
      七七九
 
 九月二日 月 後11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ
 殘暑にも拘らず御機嫌よきや小生不相變消光小説は漸く脱稿せり。先日佐治君が來て明治學院を斷つたと云ふ。其代の野村も斷つたといふ。其代はもう出來たのかね。もし出來なければ森田米松を入れてやつてくれないか。尤も君も時間が《原》可成澤山持つ方がいゝから餘つたらば餘つた丈を周旋してやつてくれないか先は用事迄 匆々頓首
    九月二日               金
   眞 綱 樣
 
      七八〇
 
 九月四日 水 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 爾後御疎遠に打過申候不相變御清穆奉賀候小生漸く小説を脱稿今暫く小康をむさぼる積に候
 偖突然ながら曙町でも何でもよろしきが小生の這入る位の貸家は無之やもし御見當り又は御聞及ならば端書にて御一報願上度實は今月中に此家を引拂はねばならぬ事と相成候につきもしやと思ひ唐突ながら伺上候 以上
    九月四日                金之助
   繞 石 詞 兄
 
      七八一
 
 九月四日 水 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる万森田米松へ
 淨土宗の方は先約にて森卷吉氏にきまる明治學院の方は國史料の何とかいふ人が出來た由此人愛知人にて無暗に利巧に立ち廻り學院の方でも難有なき由なれば森田君が覺召がある事が今少し早く分つてゐれば譯なかつたのにと野間から云つて來た
 右の次第にて雙方共駄目也。但し森卷吉は瀧の川の耶蘇夜學校をやめる筈だらうと思ふ。夜中瀧の川迄通ふ勇氣があれば聞き合せて見るが如何
    九月四日                金
   米 松 樣
 
      七八二
 
 九月四日 水 後11-12 本郷萬駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓先日は郊外生活の件につき一寸申上俟處早速御返事にて却つて恐縮致候
 偖甚だ唐突ながら其郊外生活の儀につき御迷惑ながら伺ひ上げ候が小生の家主家賃を上げる事に堪能なる人物にて二十七圓を忽ちに三十圓と致し今や三十圓を三十五圓に致さんと準備最中にて此方にも御同樣立退の準備を取り急ぎ候。そこで斯樣な立ち入つた話を致し候も實は貴君御住居の近邊に適當なる立退場 御承知にもやと存じての御願の前置に候とくに御探しを願ふと申す樣な横着心にては萬々無之、もし御心づきの貸家も有之候はゞ何卒端書にて御一報被下問鋪候や御多忙中甚だ失禮を申上候何卒御|用《原》捨被下度候 匆々頓首
    九月四日               夏目金之助
   戸川秋骨樣
 金魚は面白く拜見致候
 
      七八三
 九月七日 土 前9-18 本郷萬駒込西片町一〇ろ七より 千葉縣一の宮一の宮館畔柳都太郎へ
 僕の胃ガン君の肺尖竹風の美的生活早稻田の自然主義大抵同程度なものだらう何れも心配するに及ばず。
 あの繪は傑作だ。あの音樂も大結構だ。タンホイゼル位な所だ。海邊へ行くとシーインスピレーシヨンの御蔭で色々なものが出來る
 昨夜机の上に載せて置いたニツケルの時計と鋏と小刀を盗まれた。隨分安直な泥棒だ。
 四方に檄を飛ばして貸家を捜がしてゐる。君の所を二軒かりるもいゝが庭はまるで無いぢやないか
 虞美人草脱稿後來客ストリームの如く流れ來る。主人ひと攻めとなる。
 東京は中々暑い暑いのと人が來るので書物は一枚もよめない。グー/\寐る。寐る事は免許以上の腕前だね。
 大阪の新聞で虞美人草を一回ぬかして濟して掲載してゐる。呑氣な不都合もあるもんだ。讀者は何とも云はない。氣のついたのは作者ばかりだらう
 中川は一體熊本へ行くのかな何だか些とも分らない
 まづ此位でやめる。
 もう一つある。體量は十二貫半から半の半に減じた翌日から急に十三貫に増して昨日は十三・一あつた。此樣子で見ると體量と家賃は正比例するものと見て差支ない右正誤迄 草々
    九月七日               金之助
   芥 舟 先 生
 
      七八四
 
 九月八日 日 後3-4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 拜啓
 此間中から八重子さんが御病氣の由大した事もないだらうと思つてゐたら昨日鈴木の話では熱が四十度もある由それでは普通風邪位な事ではないのだらう中々大病で君も看病に骨が折れる事だらうと思ふ一寸見舞に行かうと思ふが此あついので僕も大分弱つてゐるそこへ朝から人ばかり來るので益弱るばかりそれで手紙で失敬する何か不便な事があるならして上げる云ふて來給へ 以上
    九月八日                金之助
   豐一郎樣
 
      七八五
 
 九月八日 日 後5-6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 御面倒の御願を致した處早速御返事頂戴難有存候
 御地近邊に一二軒は空星有之よしいざとならばまかり出たくと存候。實は意外に繁殖力多き家族にて大供五人プラス小供五人の大景氣故五六間にては少々間に合ふまじかとそれが心配に候然し家賃頻る廉なるに免じて少々の我慢も致しかねまじき趨勢いざとなればなにか|ど《原》御厄介になる事と存候
 小生も御近邊にて時々御邪魔でも致す方を望み居候何だ|が《原》西片町通はエラ過ぎる樣に相成候
 郊外生活は洪水の爲め一時御中止のよしもう大分退いた樣子故又御始めにならん事を希望致します
 先は御禮迄 匆々
    九月八日               金之助
   秋 骨 先 生
 
      七八六
 
 九月八日 曰 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ
 「やもり」まあ負けて面白いとする。欠點は一初めは御房さんが山になる樣だ(二)所が荒物屋が主になつて仕舞つた。(三)そこでツギハギ細工の樣な心持がする(四)始からやもりに關する記|臆《原》をツナゲル體で讀者に是が中心點だと思はせない樣に兩者を並列する心得があれば此矛盾は防げたらうに(五)さう云ふ態度で並べた話ならもつと渾然としてくる。如何となればいくつ並べてもやもりで貫いてゐるから。――又文章の感じが一貫してゐるから である。
 文章の感じは君の特長を發揮してゐる。矢張ドングリ感、龍舌蘭感である。此種の大人しくて燐で、しかも氣取つてゐなくつて、さうして何となくつやつぽくつて、底にハイカラを含んでゐる感じは外の人に出しにくい。君には是より以外に出せないかも知れない。先は一口評迄。早速虚子に送る
    九月八日                 金
   寅   彦
 
      七八七
 
 九月十日 火 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 拝啓
 御手紙拝見虞美人草を出版したき人有之由實はあれはもうとくの昔に約束濟にて既に最初の方は活版に組み込んで今日から校正が来た位故何とも致しがたく先方へよろしく御断り願候。それから僕が君のうちへ引き越したのは判然何月か覺えてゐない。何でも正月歸國して夫から方々家を探がして漸く君のうちへ這入ると間もなく四月になつて學校へ出勤した様に記憶してゐる。其時うちを消毒した事があるそれを僕は見分に行った其時の感じは何でも嚴寒の候ではない。だから三月頃だと思ふ。只今山妻不在歸つたら聞いて見る女は年月をよく覺えてゐるものだから。 以上
    九月九日               金之助
   齊《原》 藤 學 兄
 
      七八八
 
 九月十日 火 後6-7 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町二大谷正信へ
 先刻は御多用の所御邪魔失禮致候御親切に御案内被下候段難有奉謝候偖眞宗大學の口は喜んで應ずる人は澤山可有之と存候が早速思ひつき候人を二三御紹介及候古きかた御望の由につき
 (一)戸川明三。是は明治學院出にて英文撰科卒業。山口高等學校教授廢校後出京。御存じの秋骨君に候
 (二)名須川 良。是は熊本高等學校教授たりし所衝突の結果出京
 (三)野間眞綱 是は前の二人と違ひ門弟に候四年許前に卒業只今明治學院の教師先達士官學校をやめたり
 其他御望とあれば猶二三人はあるべし。新しくて濟めばいくらでも有之候
 先方へ問ひ合す前に一寸御意向を伺ひ置候先は右御返事迄 匆々頓首
    九月十日               金之助
   大 谷 樣
 
      七八九
 
 九月十四日 土 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓戸川君の信仰事件は小生も知りませんが一つきいて見ませう。きいて耶蘇信者だと云つたら仕方がないが。信者だらう丈でやめるのは少々殘念ですから。
 家の事色々御盡力難有く存じます廣瀬君のうちは落成せぬうちから借りろ/\といふ好意でしたが實はまだ行つて見ません。名須川君の新居はどこか知りませんどこですか。其近所のうちは何だかよさゝうに思ひますが。御世話序にもう少し聞いて下さいませんか。出來ればこゝ五六日うちに極めて下旬には引き移る事に致す積です。もうどこへでも飛んで行く積です。
以上
    九月十四日               夏目金之助
   繞 石 兄
 
      七九〇
 
 九月十四日 土 前9-10 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓先日はわざ/\御光來被下ました處何の風情もなくまことに失禮致しました。偖大谷君から直接に御照會になつたさうですが例の眞宗大學授業の件ですが實は小生も大兄を推擧して置いた處昨日大谷君から手紙で當局者のいふには戸川君は耶蘇教ぢやないだらうかさうすると京都の頑固連に對して困るといふ返事ださうです。そこで大谷君があなたの信仰の有無を私へ聞き合せに來たのですが私はそんな事は一切知らないから――まあ戸川君に聞いて見るから待つてくれと大谷君に今手紙をかいた所です。
 それで大兄があまり御望にならんものを信仰の有無など問ひ正す樣なホジクリは不必要と認めますが萬一目下の御事情該校出稼御希望なればだまつて其儘にして置いては却つて御不便宜かと存じ入らぬ事ながら一寸伺ひます。尤も直接に大谷さんの方へ御返事をなさつてもよろしう御座います。先は用事まで 匆々
    九月十四日              金之助
   秋 骨 樣
 
      七九一
 
 九月十四日 土 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 寶生新君件委細難有候。早速始めたいが轉宅前はちと困ります。轉宅後も遠方になると五圓では氣の毒に思ひます。いづれ落付次第又御厄介を願ひませう
 
      七九二
 
 九月十四日 土 後4-5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓其後は御無沙汰偖今般大塚さんの奥さんが萬朝に連載した露と題する小説を文淵堂から出版するに就てあなたに表紙の意匠を願ひ度と申しますがどうか御面倒でも一つ書いて下さいませんか。口繪は滿谷さんに頼むさうですが出來るなら滿谷さんの繪を御宅へ持つて行く樣にしますからそれと調和する樣にやつて見て下さい。いづれ表向は文淵堂が參りますが私は個人として大塚さんの代りに御願申して置きます。
 私も小説が濟んで少々閑になつたから其うち上がります。あなたの繪はどうですかまだ忙がしいですか
 貢さんによろしく
 今月中に轉宅をしなければならんので方々聞き合せ中です 先は用事迄 匆々頓首
    九月十四日                金
   橋 口 清 樣
 
      七九三
 
 九月二十三日 月 後1-2 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京都文科大學狩野享吉へ
 拜啓小生今月中に轉宅の必要生じ候處色々探索の家未だ思はしからず又確と極らず然し今月中には是非出なければならず。自然至急を要する場合にはかりに大兄御所持の北町の家へ立退同樣の體に御置き被下間敷やさうすれば安心して探す事が出來ると存候。但し永くは居る間敷と存候從つて大した御迷惑はかけぬ積なり。あの方面で精々探索致すぺく候
 君の北町のうちは當分賣れる見込なしと存じ候。だから少々の間貸しても損はなからうと存じ候
 隣ノチヤンコロの下宿は不都合千萬に候
 まだ家も見ず間數も知らねど萬一を慮りて一書を呈して御願致候折返し是非とも承知の御返事を頂き度く候
 尤も十中七八迄は夫迄にきまる事と存候 以上
    九月二十三日               夏目金之助
   狩野享吉樣
 但し拜借すれば屋賃は三十圓迄出す覺悟に候
 
      七九四
 
 九月二十三日 月 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 今日千駄ケ谷を探索君の家(即ち石門)を見んと存ぜし處千駄ケ谷も隨分廣い所にて何とも蚊とも相分らず。代々木代々幡抔をぶらついて大に健康を養成致候
 それで念の爲めもう一遍石門館を見たいと思ひ候が御慈悲に明日御連被下間敷や尤も明日は社の運動會が玉川にある。三時に散會といふ御布令だから其前に御免を蒙つてもよろしい故どこか御出張を願つて待ち合せたいと思ふが適當の場所と時を御指定願ひたい。それとも都合によりては運動會を御免蒙つてもよろしい。
 猶都合によつては石門館の番地町名を御報にあづかりたい左すれば小生一名にて出掛候 以上
    九月二十三日夜             夏目金之助
   森田緑苹先生
 
      七九五
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 私の新宅は
  牛込早稻田南町九番地
デアリマス。アシタ越シマス
 
      七九六
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ〔はがき〕
 家の事にて種々御心配恐縮漸く左記の處へ本月中に移轉の都合に相成候右御禮旁御通知迄 匆々
  牛込區早稻田南町九番地
    九月二十八日
 
      七九七
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 小生明日左記の處へ轉居す
  牛込區早稻田南町九番地
    九月二十八日
 
      七九八
 
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ〔はがき〕
 先達は家の事で御面倒相願難有候今度牛込區早稻田南町九番地へ轉居する事に相成今月中に引移る事に致候右御禮旁御報迄 匆々
 
      七九九
 九月二十八日 土 前11-12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ〔はがき〕
 昨日は失敬色々御面倒を懸多謝家は例のにきめ候
  牛込區早稻田南町七
 明日移轉の積右一報
    九月二十八日
 
      八〇〇
 
 九月二十八日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區白金臺町一丁目八一野間眞綱へ〔はがき〕
 明日曜牛込早稻田南町九へ轉居ヒマナラ彌次馬に乘ツテ御出征如何
 
      八〇一
 
 九月二十八日 土 後0-1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 明日曜牛込區早稻田南町九へ轉居の筈ヒマガアルナラ見物旁手傳に來ラレンコトヲ希望
 
      八〇二
 
 十月二日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二〇行徳俊別へ〔はがき〕
 家屋の儀色々御世話にあづかり難有候今月より表記の所へ移り候間右御通知申上候 以上
    十月二日
 
      八〇三
 
 十月四日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓爾來等閑に打過候段怠慢の罪ひとへに御海恕願上候御惠送〔の〕鮑今日着寒厨一段の芳味を秋夜に添へ可申御好意奉萬謝候
 新居僻遠にていづ方へも御無沙汰閑人ならでは參るものなき邊鄙に有之候へどももし御上京の節御氣でも向き候へば御枉駕被下度待上候
 虞美人草御讀被下候由本月末にて完了の筈御批評願上候
 今度の引越につき始めて借家の拂底を感じ書物が邪魔になり殆んどいやになり申候昔の人は自分の家藏を持たねば一人前でないとか申居候漂浪を分とする小生如きものも成程と思ひ當り候漸々郊外へ退却の外無之我ながら憫笑
 先は御返事かた/”\御禮迄匆々如斯候 以上
    十月初四                夏目金之助
   渡 邊 樣
 
      八〇四
 
 十月四日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓また御面倒なる事につき一書を呈する事と相成候
 勸業銀行の有尾敬重氏の息子が今度中學を卒業して高等學校へ這入る迄英語の練習をして貰ひたいとの申込を引受候處意外の遠方へ引うつりたる爲めどう〔か〕近邊なる大兄に紹介して呉れぬかとの事に候(同氏は富士前町住に候)
 小生は一週に一兩度ひまな時にはと申置候が其位の御閑は出來不申候や。實は大兄の御多忙の事も一應申置候。又御都合次第にては甚だ失禮ながら相應の御報酬を差出す樣に致すだらうと存候
 實は御面倒で申上るのも甚だ恐縮とは存ぜしも小生移轉の爲め平生交際ある友人(醫學士尼子氏)の依頼をもだしがたくかく御難題を吹きかけ申候
 御遠慮なき處御返事被下候はゞ幸甚 頓首
    十月四日              夏目金之助
   大谷正信樣
 
      八〇五
 
 十月六日 日 後1-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ〔はがき〕
 御多忙の處御好意難有候早速有尾氏へ通知致す事に取計ひ可申、或は先方より直接に御願に出るやも計りがたく其節はよろしく御相談願上候
 
      八〇六
 
 十月七日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓御手紙の趣承知致候實は十月十日に銀座貳丁目服部書店より猫の印税殘部貳百七十圓持參の筈故そのうちを貳拾圓君に用立て樣と思つて居た然し十日に君が出立するとなると間に合はない故封入の僕の名刺を持つて同店に行つて談判して一日でも早く取つてくれてそのうち二十圓差引いて殘りのうちで七十圓三十銭(九月丸善から取りに來た書代)を丸善へ拂つて殘りの百八十圓を僕の所へ持つて來て呉れゝば好都合である
 もし服部が十日でなければ出來ぬといふならば君の出立日を一二日延べるより致方あるまい
 序だが右猫印税の受取も入れて置く引替に渡してくれ給へ
    十月七日                夏目金之助
   中 村 君
 
      八〇七
 
 十月八日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓寶生の件は御急ぎに及ばずいづれ落付次第此方へ招待仕る方雙方の便宜かと存候實はケチな事ながら家賃が五圓増した上に月謝が五六圓出ると少々答へる故一寸樣子を伺つた上に致さうかと逡巡仕る也
 魯庵氏への紹介状別封差上候間御使可被下候
 先は用事迄 匆々頓首
    十月八日                 金
   虚 子 先 生
 
      八〇八
 
 十月八日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 御小兒御病氣如何もし御樣子よくば木曜の夕茸飯を食ひに御出掛下さい尤も飯の外には何もなき由人間は連中どや/\參る事と存候紹介状サツキ郵便で出しました
 
      八〇九
 
 十月八日 火 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
     祝滿洲日々新聞創刊
  朝日のつと千里の黍に上りけり
 昨日は失敬御約束の句右の如くにて御免蒙り候尤も御取捨は御隨意に候 以上
    十月八日                夏目金之助
   森   樣
 
      八一〇
 
 十月八日 火 牛込區早稻田南町七より 内田貢へ〔うつし〕
 拜啓其後は御無沙汰御ゆるし可被下候偖知人高濱虚子より大兄へ紹介の依頼を受け候につき一寸寸楮を呈し候同人は年來の懇意に有之面白き人物に御座候もしまかり出候節は御面話被下度右願上候先は用事迄匆々 頓首
    十月八日                 金之助
   魯 庵 先 生
 
      八一一
 
 十月九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓先日願候有尾氏子息稽古の件につき同氏より先生の御出にては恐縮故此方よりまかり出で御教授にあづかり度と申出られ候御迷惑の次第とは存じ候へども右にて御聞入被下間敷候や。小生は直接に有尾氏を知らず只小生に依頼せる知人の言によれば同氏は平民的なる謙遜家なりと云へば子弟の教育上より家庭へ先生を呼びつける如き仰山な所置を好まぬ爲とか手紙にて申越候色々御面倒なる事のみ願失敬千萬に候へども何とか今一應御熟考を煩はし度と存候 以上
    十月九日                  夏目金之助
   大 谷 學 兄
 
      八一二
 
 十月九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 服部件種々御盡力難有候同店主人本|人《原》小生方へ持參の由なれどどうせ其うちより君に上げるものを出す譯故君の方で受取つてくれた方が便利に御座候主人もわざ/\早稻田迄出張する迷惑がはぶけて便利な筈に候。よつて御面倒ながら本日君が行つて取つて下さい。其方が雙方の便利であり且つ確かである 以上
    十月九日                  夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      八一三
 
 十月九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 日本橋區本町三丁目博文館内巖谷季雄、田山録彌へ〔はがき〕
 謹啓西園寺侯爵招待の日どり御變更につき又々御通知を煩はし御手數恐縮の至に候當日は生憎差支にて出席仕かね候間左樣御承知被下度右折返し御返事迄匆々
 
      八一四
 
 十月十日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ〔はがき〕
 御依頼の件御親切に御引受被下難有候早速先方へ申つかはし候定めて喜ぶ事と存候
 先〔は〕御禮迄 匆々
 
      八一五
 
 十月十日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先日願上候人の履歴別紙の如くに候間御廻送申上置候につきもし本人相當の事も有之候はば可然御周旋被下度先は當用のみ 草々頓首
    十月十日                 夏目金之助
   森 賢 臺
 
      八一六
 
 十月十一日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓玉稿拜受難有候早速社の方へ廻付致置候輪廓文學は面白く拜見致候
 偖御匿名の件は過般御面會の節は一應面白きかとも存じ候ひし處よく考へ候に失張公然の方可然と愚考仕り且つモデル問題八釜敷際あとにてあれは秋骨君だといふ事が分つてはモデル問題に關係深き大兄が却つて他より入らざる揣摩を受けらるゝ事あらんかと存じ專斷を顧みず公然と雅號拜借致候一應は御相談の上可取計處左程の大事件にても有之間數(寄稿の内容より察して)と存じ一存にて取計申候もし不都合なれば後日御面會の節御叱責を甘受可仕候 以上
    十一日                  夏目金之助
   秋 骨 兄
 
      八一七
 
 十月十三日 日 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込曙町一一大谷正信へ
 拜啓過般來毎々御面倒相願候有尾氏令息授業の件につき御紹介及候間御面會被下度委細は拜眉の上萬々可申述候 以上
    十月十三日                 金之助
   大 谷 樣
 
      八一八
 
 十月十四日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓モデル問題朝日社より返附致來候につき御廻送申上候御改作の分出來候節は頂戴可仕と存候
 右當用迄 草々
    十月十四日                  金之助
   戸 川 樣
 
      八一九
 
 十月十六日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區本郷四丁目四一喜多方野村傳四へ〔はがき〕
 蓄音器を買ふ樣な餘裕のある人に金を寄附するなんて勿體ない。蓄音器どころではないセツパ詰つて借りに來る人がある。さう云ふ時に貸す方が有効で有益である。だから寄附は御免蒙り候
 
      八二〇
 
 十月二十一日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ
 拜啓尾崎より別紙參り候間供御高覽候返事は直接に同人へ御つかはし相成〔度〕候
    二十一日                  金
   豐 次 郎 樣
 宿所は廣島市水主町三六に候
 
      八二一
 
 十月二十一日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野亨吉へ〔はがき〕
 昨日は御出の處外出失敬御惠投の石と人形難有拜受致候。大兄の出京の頻繁なる驚くに堪たり今度はいつ迄御滯京にや京都の蜂は猛烈なるものと被存候
 學校の休業未曾有也
 
      八二二
 
 十月二十六日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 草雲雀の序遲延無申譯漸く半日の閑を偸んで書き了る。あまり御氣に入りますまいがこゝいらで御勘辨を願度候
    十月二十六日               金之助
   草平大人座下
 
      八二三
 
 十月二十八日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鳥取縣西伯郡境町谷尾長へ
 貴翰拜誦拙著御愛讀被下候よし難有存候御尋ねの箇所相しらぺ候處小生の分は
 「枕を」の次の行に
 「外して居る。凡そ人間に於て何が見苦しいと云つて口を開けて寐る程の不」
の一行有之夫より「不《原》体裁云々」に接續致居候。小生の分は九版に候。御取寄の本に間違はなき筈なれども如何致せるものにや書店へ御懸合御引替可然かと存候先は右御返事迄早々頓首
    十月二十八日               夏目金之助
   谷 尾 長 樣
 
      八二四
 
 十月二十九日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓先日霽月に面會致候處御幼兒又々御病氣の由にて御看護の由嘸かし御心配の事と存候
 偖別封(小説葦切)は佐瀬と申す男の書いたもので當人は是をどこかへ載せたいと申しますからホトヽギスはどうだらうと思ひ御紹介致します尤も當人貧乏にて多少原稿料がほしい由に候
 御一覽の上もし御氣に入らずば無御遠慮御返却相成度ほかを聞いて見る事に致します 先は用事迄 匆々
    二十九日                 金之助
   虚 子 先 生
 
      八二五
 
 十一月二日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京都市外下加茂村葵橋東詰北入厨川辰夫へ〔はがき〕
 御紙面拜見京都へ御轉任の事はかねて聞及候御地は熊本より萬事好都合の事と存候先々結構に候小野さんのモデル事件は小生も新聞にて讀み候。勝手な事を申すやからに候。定めし御迷惑の事と存候。勝手な事を勝手な連中が申す事故小生も手のつけ樣なく候
 
      八二六
 
 十一月二日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓乙骨君の事難有存候同君の御隨意にてよろしき事と存候同君の宿所がわかれば改めて社員がまかり出萬事正式に御依頼致すぺくと存候小生も參りて直接に參上の上御頼を致してもよろし
 
      八二七
 
 十一月五日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ〔はがき〕
 古道具屋で左の印を買つて來た處何と讀むやら分らず教へてもらひたい
 
      八二八
 
 十一月六日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 姫路市外平野村三一五池内松太郎へ
 拝復此前御つかはしの御書状は大坂の社より廻送し來候へども書中の意味は二三の來客に示し候へどもとんと不得要領其儘に打棄置候
 今度のには姓名住所判然と御書入につき御返事致候小生は大坂の社には居らず表面の處にまかりあり
 貴兄の御差出の書面は(十餘回)と承はれど一回も受取りたる事なし貴兄の作物月見草其他も未だ拝見も致さず通知も受けず候。是は大坂社より御受もどし可然と存候但し書面には簡明直截に用事と姓名住所を御認め可然然らざれば又々社の方で取り合はぬ事と存候
 右御返事迄 匆々
 
      八二九
 
 十一月八日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豊一郎へ〔はがき〕
 御手紙毎度難有八重子様より妻への書面も屆申候下女の義御心配奉謝候是は妻より何とか御返事致し可申と存候先は御返事迄 匆々
 
      八三〇
 
 十一月九日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ〔はがき〕
 篆字を調べてもらつた處はいゝが版權免許は驚ろいたね元來何に使つたものだらうどうも御苦勞さま難有いがつまらない
 
      八三一
 
 十一月十日 日 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇上田敏へ
 拜啓其後は御無沙汰御海恕被下度候偖植村正久氏所屬教會の婦人を以て組織せられたる家族講話會にて貴兄に一場の御話を願度旨同君より依頼につき御紹介申上候につき可相成は御面會の上御便宜を與へられ度願上候實は植村君自身御訪問の上相願ふぺくの處色々多忙にて或は會員代理にて參上致すやも計りがたく候につき右御含み迄に申上候 匆々頓首
    十《原》月十日             夏目金之助
   上 田 學 兄
 
      八三二
 
 十一月十一日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 先日は失禮御依頼の序文をかきました御氣に入るかどうだか分りませんがまあ御覽に入れます。
 ゆふべ大體の見當をつけて今朝十時頃から正四時迄かゝりました。然し讀み直して見ると詰らない然し大分奮發して書いたのは事實であります。そこを御買ひ下さい 頓首
    十一月十日                 金
   虚 子 樣
 當分序|分《原》ハカヽナイ事ニシマス。ドウモ何ヲカイテ好イカ分ラナイ。
 然シアナタノ作ヲ讀ムノハヒマガ入ラナカツタ。アレデハ頁ガ多クナリマセンネ
 
      八三三
 
 十一月十三日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 山形縣飽海郡酒田濱町伊藤悦太郎へ〔はがき〕
 拜啓御地製の黒柿紙卷莨入は先日到机右へ備へ日夕撫摩致居候右御禮迄 匆々
    十一月十二日
 
      八三四
 
 十一月十五日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區丸山福山町四伊藤はる方森田米松へ
 拜啓久しく拜顔を得なかつた處御手紙で虞美人草の批評をかいて居られる由承知右皆々へ披露致候斯樣に御丹精御研究の上御批評あらんとは思ひも寄らぬ所たとひ虞美人草が夫程の價値なきにせよ又其批評が褒貶いづれに向ふにせよ小生は心中より深く君の好意を感謝致候大喜雀躍は單に自分の爲のみならず近來の批評は寄席へ行つて女義太夫を評する格にて文壇の爲め頗る物足らぬ節有之所へ君が出て一批評をかく爲めに露西亞派を研究獨乙の哲學を研究、最後にシラーの傳迄しらべるに至つては其嚴正の態度堂々の獻立敬服の外なくしかも夫程骨を折つて貰ふ作物はといふと僕のかいたものに候故一層嬉しく思はれ候。君の批評を先鋒として日本の批評が從來の態度を一新する樣になつたら嘸よろしからうと存候深田|庚《〔康〕》算が獨乙から手紙にて僕の作物を評したいことに文學論と其外の議論文の學界に未だ甞つてあらざりし所以を述べて精細なる批評を試みたいと申し來候。かゝる人がかゝる態度にて拙著を取扱つてくれるのはまことに心嬉しきものに候。もし夫れ大町桂月君の夏目漱石論に至つてはいくらほめられても小生の爲にも批評界の爲にもならぬ事と存候委細は拜眉を期候。うれしき故一筆御禮を申上置度と存じ此ふみ入御覽候一日も早く批評拜見致し度と存候中には隨分手痛き所も有之べく夫は承知故可成堂々とあゝやつたりやつたりと云ふ風に立派に眞の批評らしく御やり被下度候 以上
    十一月十五日               金之助
   草 平 先 生
 
      八三五
 
 十一月十八日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓讀賣の白雲子の事抔でわざ/\端書を寄こす必要があるものか寄こすなら御笑ひ草として寄こすべし。あれで胸糞がわるくなると申すは讀賣新聞自身に云ふべき事なり讀者は面白がつて然るべき論文也。
 あの白雲子なる人はかつて僕の處へ話をきゝに來て僕が玄關先で返した趣味の男の由。至つて大人しい口も碌にきけさうもなき神經質の男也。それだからあゝ云ふ事をかく。あゝ云ふ男が相應の學間をしないであゝ云ふ事をかく時は少し氣が變になつて居る時分である。恐るべき事だ。あの人は生涯あれで蒼い顔で苦しんでさうして人から馬鹿にされて死んで仕舞ふ 穴賢
    十一月十八日                金
   豐 隆 樣
 
      八三六
 
 十一月十八日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 昨日は御馳走になりました私は廿二〔二字右○〕日入場の文藝協會の演藝會の特等の招待券をもらひました。(壹圓五十銭)あなたはもらひませんか。もし行くなら一所に行きませう。一人ならそんなに行き度もない
 
      八三七
 
 十一月十八日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨夜君の處へ行かうと思つたら途中で虚子と牛肉を食つて遲くなつてやめにした。不愉快ださうで御見舞に行く所であつた。讀賣を君もよむと見える。何と思つてあんなものをかいたのかな。氣の毒な
 
      八三八
 
 十一月二十四日 日 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓明日上田敏氏送別會にて午後四時頃迄に上野精養軒へ參り候につき甚だ御迷惑ながら例のもの「朝日」社にて御受取置被下度行きがけに頂戴に立ち寄り可申候
 右御依頼迄 匆々頓首
    十一月二十四日                金之助
   豐 隆 樣
 
      八三九
 
 十二月二日 月 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓其後御無沙汰拙作表紙も御蔭にて出來上り候由春陽堂より承はり御手數の段奉謝候
 偖當夏中願上置候大塚楠緒女子著「露」愈出版の運びに至候に就てはかねての通表紙模樣御面倒ながら御認め被下度願上度候
 此手紙持參の人は萬朝記者本橋氏にて即ち該書出版者に御座〔候〕へば御面會の上可然御協議被下度候先は右用事迄 匆々不一
    十二月二日                  夏目金之助
   橋 口 清 樣
 
      八四〇
 
 十二月九日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上八重へ〔はがき〕
 玉稿二篇とも拜見。「紫苑」は少々觸れ損ひの氣味にて出來榮あまりよろしからず。「柿羊羹」の方面白く候。是も非難を申せば吉田さんが不自然の自《原》然に出來上つて居り候へども、大體の處|桔《原》構に御座候。いづれを新小説いづれをホトヽギスとなると私にも判斷がつき不申候。たゞ柿羊羹の方が上等の代物と覺召し御取計可然候 以上
 
      八四一
 
 十二月十日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館鈴木三重吉へ〔はがき〕
 小説を御脱稿のよし大慶不過之候。樗陰は有卦に入り可申候。小生も三十日つゞきのものを只今たのまれた許りに候。小説と行かなくても三十日はつゞける義務が出來候。可相成は二十九日位で御勘辨を願はんかと存候。御風邪の趣折角御養生專一に候。小子奥方も風邪にて伏せり居候。從つて御見舞にもあがりかね候。羊羹は勿論の事御あきらめ可然候。八重子さんは小説を二つかき候。新小説とホトヽギスへ出す由に候。風呂が洩りて湯がたゝぬ由。何だか湯に這入り度候。風が吹き候。存外あたゝかに候。地震も有之候。
    十二月十日
 
      八四二
 
 十二月十三日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓乙骨三郎君の美學の論文の載つてゐる哲學雜誌(近刊のもの二冊)今度御出の節本郷にて御求め御持參願上候 以上
 
      八四三
 
 十二月十六日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 ケラーの小説を十圓で御求めの由ケラーと〔は〕何者なるや一向存ぜぬ名前に候。近頃は妙な名前がポツ/\出て來て時々寐耳を驚かし候よくなき事に候。クツの紐御求め被下候由、哲學雜誌も御買被下難有候。小生矢張り執筆中。毎日二三回かく豫定
  文債に籠る冬の日短かゝり
 
      八四四
 
 十二月十八日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原在早川村清光館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 御轉地〔の〕よし精々御養生可然候もし手紙を出す氣分でも出たらひまな時御送被下度候。何でも氣を長く平氣に御暮し可被成候。小生執筆にて多忙。東京は寒く候。御地は如何。風を引かぬ樣御注意あるべく候 以上
 
      八四五
 
 十二月二十二日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 毎度用事を御たのみ申相濟まぬ事と存候御禮は此世では六づかしき故いづれ未來にてうんと可仕候故氣を長く御待可被下候。フオルケルトは隨分高いね。讀まなければ莫大な損だ
 
      八四六
 
 十二月二十四日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓上社へ俸給をもらひに行つてくれる時は預けてある見とめの印を持て行く方安全に候。今日の平凡の御糸さんはうまいね。あゝは中々かけないよ 以上。
    二十四日
 
      八四七
 
 十二月二十八日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓又銀行へ御使を願ひたいものですが明日午前中に可成早く來て頂きたいですが。どうも恐れ入ります。
 
      八四八
 
 十二月二十八日〔四十年?〕 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂本多直次郎へ〔封筒表に「高須賀淳平氏持參」とあり〕
 拜啓昨日は失禮致候偖佐藤紅緑氏ユーゴーの譯二百枚ほどのもの此暮中にいづれへか賣却致し度由につき御紹介申上候間各種の條件其他に就ては此者と御協議相願度御多用中恐縮に存候へども右願用迄申上候 以上
    十二月二十八日               夏目金之助
   本多直次郎樣
 
 明治四十一年
 
      八四九
 
一月八日〔?〕 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓また御迷惑ながら明日早く來て野田先生の處へ原稿をもつて行つてくれ玉はぬか。「坑夫」は諸君子妨害の爲一向不進歩
 
      八五〇
 
 一月十日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 昨日は失敬斑女には大弱り〔に〕弱り候。偖本朝本間久と申す人別紙原稿をよこしホトヽギスか中央公論へ周旋してくれぬかとの依頼故先づ以て原稿を供貴覽候御氣に入り候はゞ御掲載の榮を賜はり度候
 本人の申條に曰くある雜誌記者曰く本間久は翻譯ばかりして創作は出來ぬ男だと是に於て此作ありと、即ち敵愾心の結果になれるものと覺候
 原稿の價値は大したものにあらず少々物足らぬ樣也然し折角の希望故御紹介致し候 以上
    正月十日                 金
   虚子方丈下
 
      八五一
 
 一月十日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓又御願が出來候。今日坑夫氏乘り又話を聞いたら僕の間違を發見した。シキ〔二字傍点〕と申すのは坑の事を、銅山の構内と思ひ違へて無暗に使つたから、大に恐縮して正誤しやうと思ふんだが、君もう一遍九浦先生の所へ行つて原稿を持つて來てくれ玉へ。尤もシキ〔二字傍点〕と云ふ字の出初めは銅山へ着したすぐ前からだから此間の原稿の仕舞の方になる。回數ぢや一寸分らないが、何でも長藏さんが坑夫に向つて「左りがシキ〔二字傍点〕だよ」と云ふ所がある。そこからさきを貰つてきてくれゝばいゝ。是は仕舞の方だから一寸持つて歸つても野田君の迷惑にはならない。それから、すぐ直して又持つて行つてもらひたい。どうも度々君子を煩はし奉つて恐縮千萬
 
      八五二
 
 一月十四日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神田區上白壁町五天籟畫塾野田九浦へ
 拜啓坑夫插畫校正刷二葉御惠投にあつかり拜謝致候二葉とも頗る上出來甚だ面白く拜見致候あれは今迄のうちにて尤も成功せるものかと迄思ひ候紙もあの方遙かに品よろしく候實は大阪の新聞を切りぬき繪入記念にまとめ居候がもし校正刷の方頂戴出來候へば其方を貼り付ける事に致し度と存候右御禮旁御願迄匆々不備
    正月十四日                夏目金之助
   九 浦 先 生
 「坑夫」はことによると七十回以上に上るやも計りがたく御迷惑とは存じ候へども何分よろしき樣願候
 
      八五三
 
 一月十九日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 神田區上白壁町五天籟畫塾野田九浦へ
 御書拜見校正刷度々御廻付にあつかり難有候いづれも見事に拜見致候右御禮迄申述候 頓首
    十九日                  金之助
   野 田 樣
 
      八五四
 
 一月二十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓御惠投の鑵詰今日着段々の御好意深く奉鳴謝候小子疎慵常にいづ方へも御無沙汰ことに舊臘より例の小説をたのまれたる上三女とも病氣にて病院開業の有樣ほとんど閉口今以て看護婦を一人頼み居候始末厄介無此上候大兄も御病氣の由然し大した事にも無之趣先以て安心然し御養生專一と存候淺井畫伯は惜しき事致候小生いつか同君の水彩を※[木+眉]間にかけ度と存居候ひしにまだたのみもせぬうちに故人となられ候。家がないから畫などたのんだつて駄目だと思つてるうちに畫の方が駄目に相成候。同君歸朝後の事業半途にて遠逝畫界のため深く惜むべき事に候不折もよろしからぬ由心痛致候小生も本年は四十二の厄年故どうなるか知れず。例の胃もよろしからず候
 御惠投の鑵づめは平生參り候諸君子へすゝめて一餐の快をともにする積に候
 坑夫かき上げる迄は氣がせいてなまけてゐながら忙しく困居候
 先は右御禮旁雜况迄 匆々頓首
    正月二十日                金
   渡 邊 樣
 
      八五五
 
 一月二十二日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 拜啓其後は御無沙汰小説がまだ濟まないんで何處へも出ない。時に僕例の胃病で一寸醫者に見てもらつたら小便を試驗して是は糖分があるといふコイツには參つたね。それで自宅には器械がないから糖分ノペルセントを大學で調べてもらつてくれろといふんだがね。僕の療治法は其ペルセントで極るんださうだ。そこで色々頼む人も考へればあるが君の親類の人に見てもらつてくれないかな。承知して呉れるなら時間と日どりを極めて小便をビールの瓶に入れて大學へ持たせてやる早い方が此方の便宜だ否や御廻答を願ひます
 それから去月から病人ばかりで今は小供が口腔炎とかいふものを煩つて口が腫れてヒー/\泣いて氣毒でたまらない。此泣聲をきくと小説が一枚も書けなくなる。そこへ妻が寐ちまつた。仕方がないから看護婦を二人又雇つた。それでも雇へる丈が幸頑だ
 君のうちの病人は如何御大事になさい 以上
    二十一日                金之助
   虎 雄 樣
 
      八五六
 
 一月二十四日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區高輪南町三〇中牟田方中村蓊へ
 拜啓先日は失敬。三四日前小生方へ別封をよこしたるものあり書中の人は君の近所のもの故入御覽候。尤も新聞の種になるや否やは知らず候 以上
    二十四日                金之助
   中 村 蓊 樣
 
      八五七
 
 一月二十六日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 下谷區西黒門町二丁目二高橋方市川文丸へ
 拜啓先夜は失禮其節は好物御持參御蔭にて諸君子一夕の歡を添へ申候十和田山諸景寫眞數葉是亦御親切に御寄贈難有御禮申上候豐年祭は面白き事と存候出來るなら御供致し度然し種々用事も控居候事故是非の御約束も仕かね候先は右御禮迄 匆々頓首
    一月二十六日              夏目金之助
   市川文丸樣
 
      八五八
 一月二十八日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓別紙の樣なものゝ捌き方をたのまれ候
 もし慈善兼御保養の御覺召もあらば御出被下度候。もし御いやなら其儘御打棄置願上候
 岐阜訓盲院といふ《原》小生友人の父なる人の創立せるもの此男中年明を失ひ此事業に從事。今回の事はおもに其薫陶を受けたる人の發起に候。先は用事迄 匆々
    一月二十八日              金之助
   渡邊和太郎樣
 演藝會は六日八日の兩日のよしこゝろみに兩日の分二葉宛差上候もし御入用ならそれを御取りあとは御都合にて小生方へ御返し被下るか又は賣りつけて被下候へば猶難有候
 
      八五九
 
 二月一日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓本日は久々にて參上致候處御留守にて不本意千萬に存候玉稿《原》薄謝ながら社より封の儘相屆候につき御査収願上候
 夫から例の朝日文學欄につき玄耳氏と篤と相談致たる處此三四月に至り紙面擴張の意見實行出來れば附録ごとに文學もの入要なれどそれまでは閑文字の入れ所なき由に候
 小生も右文學欄の出來るのを待ち居候へども是は單に編輯者の一存故主權者の方ではどうなるやら分らず候
 もし左樣の改革も實行出來候曉には先日御話しの通小生知人に依頼面白きもの書いて頂き度と存じ居候其節は是非御盡力相願度と存候
 先づ夫迄は小生は先日申上候位のナマニエの體で打過ぎる了簡故大兄も御投稿は一先づ御控え被下度候
 先は右用事迄 匆々
    二月一日             金之助
   秋 骨 老 兄
 御令閏より拜聞の上歸途横井氏の門内に這入り申候未だ赴任なき由故遠慮して家のなかは見ずに參り候
 
      八六〇
 
 二月日日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 牛込區大久保余丁町馬場勝彌へ
 拜啓本日趣味を一寸のぞき候處例のリードルの件と思ひの外小生の人格に對し大々的御辯護の勞を辱ふし甚だ嬉しく候實は小生も云へば云ふ事はいくらでも候へども白雲子なるものゝ態度傍若無人故相手になるのを差控へ候始末。然しあれに對しそれ程の御同情を得んとは存じも寄らず。一兩〔度〕御目にかゝり候のみにて小生の心事深く御承知なき昨今別して知己の感に堪へず。茲に謹んで御禮を申述候
 先日御紹介の早稻田學生に面會來意も判然其うち御邪魔にまかり出度と存候先は右迄 匆々
    二月四日                金之助
   孤 蝶 樣
        侍曹
 
      八六一
 
 二月四日 火 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ
 拜複文學評論につき御申譯承知致候徹夜にては恐れ入候適當の所にて御まとめ願上候
 虞美人草は既にとくの昔より一冊も無之先般御申込の節も既に出拂の姿に候へばあしからず
 夏目漱石論が來月の中央公論に出る由聊か恐縮致候。先達中より大分漱石論が出で申候。もう澤山に候。出來得べくんば百年後に第二の漱石が出て第一の漱石を評してくれゝばよいとのみ思ひ居候
 坑夫御氣に召さぬ由已を得ざる次第に候。九十六回にて完結致候尤も東京朝日では祭日休刊を補ふ爲め二回一所に載する事ある故九十三回位にて終る事と存候 先は右迄
    二月四日                 夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 
      八六二
 
 二月五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣大磯角半方渡邊和太郎へ〔はがき〕
 拜啓御病中をも顧みず御無禮の事相願恐縮の至。大磯では例の切符も何の御役にも立つまじく甚だ御氣の毒に存候。昨今の御模樣如何に御座候や。折角御養生專一に候。先は御禮迄 匆々頓首
 
      八六三
 
 二月七日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町四森卷吉へ
 啓上
 御老人御逗留定めて御多忙の事と存候例の切符は先方の人大磯へ病氣療養の轉地中にて賣り損へり。然し御愛嬌に一枚は買つて呉れ候。小生も一枚頂戴致候
 土曜には參る筈なれど小宮が行きたさうだから切符をやり申候あゝ云ふ處は若い人の方が出席する資格多きかと存じ割愛致候
 此次の木曜に寶生氏を頼む積なり。尤も三時頃からみんなが來て遊ぶ由御出待ち候
 切符代は大磯より爲替のまゝ差上度どうか御面倒ながら御受取願度夫から小生の分は現ナマにて封じ入候御落手願候
 御老人へ御挨拶の爲め參上致す筈の處御混雜中と云ひ且つ御迷惑と存じ差控居候あしからず御容赦先は右迄 匆々
    二月七日                  金之助
   森 卷 吉 樣
 右の外に訓盲院の爲めに寄附金など御募りの計畫あらば多少は喜捨仕るべく又發起人として途附を受けたる切符四枚購買の義務有之は無論あと二枚は受持可申御遠慮なく御申聞被下度候
 
      八六四
 
 二月七日 金 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓上謠本五冊わざ/\御持たせ御遣はし御懇切の段感謝致候小生萬事不案内につき御仰の通り寶生先生と相談の上御指定のうちを願ひ可申候今夜班女は少しにて濟む事と存候もし御都合もつき候へば御入來御兩人にて一番御謠あらまほしく候 先は御禮迄 匆々
    二月七日                  金
   高 濱 樣
 
      八六五
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區白金志田町一五野間眞綱へ
 拜啓其後は御無沙汰小生も小説をかいて仕舞ふと其間にたまつた用事を片付けねば〔な〕らず片付けてゐるとあとからすぐ雜誌やら何やら追かけてくる實に身體丈は閑であたまは多忙を極めてゐるのでついどこへも出でず昨日久しぶりで十二社へ行つて夫から銀世界を廻つて歸つて來た。梅は二三本開いてゐた。
 妻君を國へ御歸しの由承知それで地方へ出かせぎの件も承知。小島へ依頼の件も承知萬事承知致候。是から此墨で手紙を十敷通(端がきとも)かく。其内で小島氏へも認める所也
 坑夫は面白い由面白ければ難有い仕合せ。虞美人草はわからぬ由是は少々困つた事也。もう少し賞めてもらひたい。高田が報知でほめてくれた。逢つた時よろしく願ひます。
 今度の木曜に來るなら皆川君と來ぬか。(午後より)晩には寶生新が來て講をうたつてみんなにきかせる筈。君謠がきらひなら仕方がない。
 野村のうちは多勢御客があるさうだ 以上
    二月十日                 夏目金之助
   野間眞綱樣
 
      八六六
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 松山市松山中學校小島武雄へ
 拜啓漸々春暖の候に相成候處愈御清勝奉賀候却説御知り合ひの英文卒業生野間眞綱事事情あつて地方へ出かせぎに參り度由にて大兄の三月限り松山を去らるゝ由を博聞しどうか小生から其後任として推擧ある樣依頼致候につき御手紙を差上る事に相成候
 もし大兄の退松が事實に候はゞどうか野間君を御周旋願度ものに候。同君は御存じの通の好人物學問も小生保證致し候。履歴は陸軍士官學校、明治學院其他の英語教師に候
 先は右御願迄 匆々
    二月十日                 夏目金之助
   小島武雄樣
 
      八六七
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原在早川村消光館林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓過日御出京の砌は御怱々にて失禮其節橋本醫士の診斷にては肺部に異状もなき由何よりの事此上は頭の方を精々御療養御歸京相成度候小生の糖尿もさしたる事も無之比例は〇・二に候へば當分死ぬ恐も無之候。大いなる蒲鉾わざ/\御送難有御禮申上候來る木曜には諸君子弊廬に會する約あり一きれ宛みんなに振舞はんと存候先は右迄 匆々
    二月十日               夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      八六八
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 此次の木曜には諸君子三時頃參りてごた/\に飯をくふ由。晩には寶生氏美聲にて三山實盛を謠はれ候
    二月十日
 
      八六九
 
 二月十六日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓青木健作氏論文拜見致候ホトヽギスへ掲載之儀は如何樣にてもよろしかるべきか是非共のせるべき程の名論文とも存じ不申然し載せてはホトヽギスの資格に害を與ふるとは無論思ひ不申候。昨日青年會舘にて 演舌今日之を通讀問題が大に似たる處有之興味を感じ申候 以上
    二月十|五《原》日            夏目金之助
   高濱老兄
 
      八七〇
 
 二月十七日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 芝區白金志田町一五野間眞綱へ
 拜啓本日小島氏より返事到來一足違にて後任相きまり御氣の毒の由後任は深江種明の由に候。故に君がもし越後高田を望むならば小島よりすぐに掛合ふ故電報(可相成)にて小島氏へ依頼ある樣申來り候。萬〔一〕越後の校長深江を手放さぬか又は松山難治の爲め深江の方で辭退すれば直ちに大兄を推擧可致旨に候。先は右御答迄 匆々頓首
    二月十七日                夏目金之助
   野間眞綱樣
 
      八七一
 
 二月十七日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 大阪市中之島三丁目西照庵野田九浦へ
 拜啓西照庵へ御落付の由奉賀候校正刷毎度難有興味を以て拜見致居候東京の板屋より廻送すべき分まだ到着不仕候に付御序の節どうか御催促願度と存候先は右御禮旁御挨拶迄匆々頓首
    二月十七日夜                夏目金之助
   野田九浦樣
 
      八七二
 
 二月十七日〔四十一年?〕 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔「紹介長谷川萬次郎君」とあり〕
 其後は御無沙汰小生友人長谷川萬次郎氏は大阪朝日の社員で今回同紙上に世界のいろ/\といふカツト其他を毎日出すにつき大兄の許よりも何か材料を給してもらひたい。此手紙を持參長谷川君が出たらどうぞ面會の上委細を同氏から御聞きを願ひたい。實は僕も社員だから自身で參上して御依頼する譯だが長谷川君の方が此方〔の〕專|問《原》だから御紹介をする。右用事迄 草々
    二月十七日                  金之助
   狩 野 樣
 
      八七三
 
 二月十八日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓「御隣り」拜見仕舞の方は頗る面白く候。惜むらくは前が左程にあらず。もつと詰めたらどうだらう。然しあれでもいゝかも知れぬ
 
      八七四
 
 二月二十四日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 朝日の講演速記は未だ參らず如何なり候にやかゝりは中村蓊に候。金曜に鼓を以て御出結構に存候。渇望致候。ホトヽギスヘ出す時には訂正致し度と存候。時間ガアレバアヽ云フ者デマトマツタモノヲ書キ度候
  鼓打ちに參る早稻田や梅の宵
 
      八七五
 
 二月二十六日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 啓新米は仰の方正しからんと存候御注意難有候講演會の筆記は朝日で出さなければホトヽギス四月號に出る筈です夫でなければ講演集を出すさうですが多分今度は講演集は出ますまい
 
      八七六
 
 二月二十九日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜復
 夫から夫へと用事が出てくるので御無沙汰をして居ります。かねて願ひました小説は正月から掲載の筈の處色々な事情が出來上りまして私が大阪の方へかく事になり夫を東京へも載せる事になりました。夫が爲めあなたの方も夫ぎりに放り出して置いた譯で甚だ申譯がありません
 一週間程前社の玄耳といふ男が旅行から戻りまして面會の上あなたの小説の事に就て同人も心配してゐましたんで相談の結果近日社から人を御宅へ出して改めて願ふ事に致して置きました。其時同人の話では書きかけて下さつたのは家庭ものだらうか夫ならば繪入の方へ出しても御承知下さるだらうか、又一ケ月もあれば纒まるだらうか抔と申して居りました。
 右の譯でありますから御葉書を玄耳の方へすぐ廻して社のものを御宅へ伺は〔せ〕る事に致しますから、原稿の方はどうか御已めにならずに御繼續を願つて置く方が結構だらうと思ひます 先は右御返事迄 匆々不一
    二月二十九日               金之助
   大 塚 樣
 
      八七七
 
 三月八日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓甚だ勝手がましくは候へども虞美人草再版印税來る拾壹日までに御屆け被下間敷や御願申上候也。
    三月八日                 夏目金之助
   本多直次郎樣
 
      八七八
 
 三月十二日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 拜啓野間の郷里の郡、村、番地御面倒ながら一寸至急御しらせ願候 以上
    十|三《原》日
 
      八七九
 
 三月十三日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 今日の俳諧師は頗る上出來に候。敢て一葉を呈して敬意を表す 頓首
    三月十|四《原》日
 
      八八〇
 三月十六日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 藪柑子先生「伊太利人」と申す名作を送り候。木曜に御出なければ締切に間に合ふ樣取りに御寄こしか、此方より御送致す事に致候。小生演説は明日位から取りかゝる考に候。今夜御都合にて〔一字不明〕衣御懷中可然候
 
      八八一
 
 三月十六日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘鈴木三重吉、小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓此次の面會日は休日に致候につき御光來被下間敷候。 頓首
    三月十六日
 
      八八二
 
 三月十六日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓此度の木曜は面會日を休日と致し候につき御出被下間敷候 以上
    三月十六日
 
      八八三
 
 三月十七日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 拜啓講演をかきかけて見ましたら中々長くなりさうですがよろしう御座いませうか
 
      八八四
 
 三月十八白 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一〇寺田寅彦へ〔はがき〕
 日曜の音樂會には行きたいと思ふ。フロツクコートを着て新らしい外套を着て行きたい。切符御求願候。待合せる時と場所御報を乞ふ。ホトヽギスヘ掲載の演舌書き直して見ると中々長くなり骨が折れさう也。萬一出られねば前日迄に斷はり状を出し候。但し切符代はどちらにしても小生擔任の事
 
      八八五
 
 三月十八日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 ものうき爲め人間謝絶の處又々金を借せと申すもの出來候甚だ御面倒ながら銀行へ御出被下間敷や。
 勝手のとき丈は御光來を仰ぐ次第に候 以上
 
      八八六
 
 三月十九日 木 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜復ページ數相分り候とよろしく候へども未だ判然不仕定めて御迷惑と存候が、いくら長くてもよしとの御許故安心致、可相成全速力にて取片附一日も早く御手元へ差出し度と存候。
 御風邪未だ御全快無之由存分御大事に願候。本日の面會日は謝絶致候。近來何となく人間がいやになり。此木曜丈は人間に合はずに過ごし度故先達失禮ながら御使のものに其旨申入候。尤も謠の御稽古丈は特別に御座候。呵々
 鏡花露伴兩氏の作只今持ち合せず。草迷宮は先達て森田草平持ち歸り候。玉かづらは最初より無之候。
 近日來の俳諧師大にふるひ居候。敬服の外無之候。益御健筆を御揮ひ可然候。 以上
    三月十九日                 金之助
   虚 子 樣
 
      八八七
 
 三月二十四日 火 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 出來るならば一欄に組んで頂きたいと思ひます
 題は創作家の態度と致して置きませう。
 拜啓多分明日は出來るだらうと思ひます。十九字詰十行の原稿紙で只今二百五十枚許かいて居ります。多分三百枚内外だらうと思ひます。明日書き終つて、一遍讀み直して、差し上げたいと思ひます。何だかごた/\した事が出來て、少々ひまをつぶします。頭がとぎれ/\になるものだから大變な不經濟になります 頓首
    二十四日                  金之助
   虚 子 樣
 御風邪は如何で御座いますか。
 
      八八八
 
 四月四日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 御病氣の由精々御大事に可被成候近頃の風邪はチフスに成る傾あるとか承り候。尤も東洋城の云ふ事故あまりあてにならず候。全快の上可成早く論文御片付可然候 以上
 
      八八九
 
 四月五日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓先日は失禮其節御話しの鹿兒島高等學校教師の件につき小生は文學士野間眞綱を推薦致し候がもし大兄の方へも聞き合せあり居候へば何卒同人御周旋願上度本人は第五出身にて至極の好人物且篤學の人良教師として高等學校の先生として耻かしからぬ事は受合候。目下同人は郷里鹿兒島へ歸省中。小松原氏へも其旨相通じ置候間右御合の上宜敷御取計願度候。一寸參堂の積の處毎日々々何か事が起りつい/\容易に出られぬ事に歸着致候 以上
    四月五日                 金之助
   芥 舟 老 兄
 
      八九〇
 
 四月五日〔四十一年?〕 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓其後御無沙汰無申譯候
 偖小生知人二宮行雄より郷里のものゝ碑文揮毫方を大兄に御依頼致度につき小生より紹介致し呉れ間敷やとの希望につきもし御寸暇も有之ば此手紙持參の人に御面會の上御高教賜はり度候右用事迄餘は拜顔の上萬々可申述候 以上
    四月五日                  夏目金之助
   中村不折樣
       座側
 
      八九一
 
 四月十二日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 尊書拜見ホトヽギスは五部程もらひたれど來る人がみな持ち去りて只今一部餘り居るものを昨日芥舟先生に進呈する約束をしたる故今は小生の分(誤植を正したる)ものゝみ手元に有之。折角故社の方へ申しつかはし可申然し殘部あるや否や分りかね候間其邊は御容赦を願候。夫から毎月送る事については是迄僕が二部宛もらつて居るから其一部を君の方へ廻す事にしたらよからうと思ひ候是も社の方へ依頼致し置候
 森田先生は一昨日小生方を引き拂ひ下宿したり。牛込築土八幡前町二十四植木屋方に候。是は同學の高辻法學士の寓居にて同君が親切に自分の方へ來いといふからにて候。こんな時には趣味嗜好の友達よりも人間としての友達の方が有益なるものと被存候高辻氏は基督教のよし但し文學は一切知らぬ男なるべし
 春雨蕭々日來小閑を得て二三無沙汰見舞をなし居候大阪の素川氏又々來阪を促がす中々上方の花抔を見て居る譯に參らず候
 先達てある書生が書を寄せて漱石の小説はまとめて讀むべきものなり新聞にて日々讀めばつまらぬ故漱石の名を損するのみ早く退社せよとありたり。小生も至極御同感に御座候。然し退社して單行本ばかりでは食へないから矢張り新聞小説をかく積りに候。
 同書生又曰くよろしく悠々自適の生活を送るべしと。是も至極賛成に候。然し金をやるからとも何ともなきのみならず本人自身大の貧乏書生にて文を賣る口を周旋してくれと云はぬ許りの口吻也。小生此人に朝日新聞の小説欄を讓るべきか。呵々
    四月十二日                 夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      八九二
 
 四月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 讀賣新聞社へ〔四月十五日『讀賣新聞』より〕
 好む飲料は別段無之候。只朝毎に鹽水をコツプに一杯飲み候。
 人がやつて見ろと申した故に候。處がやつて見ると申す程の効能も無之樣子故近々やめやうかと考居候。
                          夏目金之助
 
      八九三
 
 四月十七日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ
 尊書拜見致候拙著御愛讀被下候趣難有存候御手紙の次第委細承知致候面白からんと思ふ人に逢へば却つてつまらぬものに候。然し折角の御希望御序の節は御立寄相成度候小生都合は毎木曜日(面會日)よろしけれど遠方よりわざ/\の御出ならばいつにても在宅の節は御目にかゝり可申候此手紙到着の節は既に東京表へ御出立の後と存候へども仰せに任せ折返し御返事如此に候 以上
    四月十七日夜八時半             夏目金之助
 安田秀次郎樣
 
      八九四
 
 四月十九日 日 後8 牛込區早稻田南町七より 本郷區金助町二七清秀館安田秀次郎へ〔はがき〕
 御手紙只今拜見明日御出被下候て差支無之候右御返事迄 草々頓首
    四月十九日八時
 
      八九五
 
 四月二十五日 土 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ
 拜啓此手紙持參の人は大兄第五在職中一年間御世話になりたる小嶋武雄氏とて英文卒業の學士に候卒業後直ちに松山中學に赴任三十四年より今日迄在勤の處少しく思ふ所ありて上京糊口の道を求むる折柄名古屋高等學校新設の機に合ひ出來得るならば同校英語教師の一人として微力を蓋したき希望小生迄打明られ候然るに小生同校校長大嶋義修氏とは殆んど面識なきと同然につき大兄より小嶋氏を澤柳氏に紹介を願ひ、同氏より大嶋氏方の模樣を知るの便宜を得てもし都合もよろしくは同君より周旋の勞を取られん事を希望致し候。小嶋氏は小生在熊中の學生にて人物學力共に第八教授としては申し分なき良師たるは小生の固く信じて疑はざる所に御座候
 先は右乍御面倒御依頼迄 草々不一
    四月二十五日                金之助
   狩 野 樣
 
      八九六
 
 四月二十六日 日 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ〔はがき〕
    春色到吾家
  おくれたる一本櫻憐也
    南風故國情
  逝く春やそゞろに捨てし草の庵
 右御採用にはなりませんか
 
      八九七
 
 五月六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
 端午の贈物難有存候。薫風南より來つて日々無腸の鯉をふくらます。天下の新緑又愁人の眼をよろこばしむ。多謝々々
 
      八九八
 
 五月六日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜復
 あの女はほかに行く處がきまつてゐる由御失望御察し申候へども一方にては大いに賀すべき事に候學校を卒業もしないうちからさう萬事が思ひ通りに運んでは勿體な過ぎますさうして人間が一生グウタラになります。勝者は必ず敗者に了るも〔の〕に御座候。ことに金や威力の勝者は必ず心的の敗者に了るが進化の原則と思ひ候。先は右御祝辭迄 草々頓首
    五月六日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      八九九
 
 五月八日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島縣重富村平松野間眞綱へ〔はがき〕
 御令閨御安産のよし奉賀候愈おとつさんの責任を生じ候事大事件に有之候。造士舘の方の成功を祈る
 
      九〇〇
 
 五月十一日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜啓御手紙拜見致候先月中より御病氣の趣始めて承知ことに御輕症にてはなき御容子切に御加養を祈り候。新聞の方御心配に及ばず小生どうせ一兩日中に澁川氏へ參る積につき面會の上萬事同氏へ相談可致置候につき御介意なく御療養可然と存候もし御轉地先にて御徒然の餘り御執筆の運にも至り候へば好都合と存じ夫のみ祈り居候
 そらだきは文章に御苦心の樣に見受申候趣向は此後如何發展致し可申や御完結の上ならではと存じ凡て差控申候
 藤村氏のかき方は丸で文字を苦にせぬ樣な行き方に候あれも面白く候。何となく小説家じみて居らぬ所妙に候然しある人は其代り藤村じみて居ると申候。あれも長きもの故萬事は完結後ならでは兎角申しかね候
 さし繪御氣に入らぬ由殘念に候。然し普通の新聞さし畫はまああんなものぢやありませんか。
 轉地はどこへなさいますか。あんまり小田原近所だと却つて肺病に危險だからよせと醫者から云はれた人があります。あなたのは肺炎だから左程傳染の心配はないでせうがまあ可成安全な所へ入らつしやい。
 此手紙は候文と言文一致の相の子のであります 頓首
    五月十一日                 金之助
   大塚楠緒子樣
 一週間に一返手紙をよこせとか毎日よこせとか云つて無花果を半分づゝ食ふ所がありましたね。あすこが面白い。今迄ノウチデ一番ヨカツタ
 
      九〇一
 
 五月十六日 土 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚楠緒へ
 拜啓今夜澁川君から別紙がありましたから御參考の爲めに御目にかけます。もし御都合であとが書く事が出來れば私も結構社の方も大喜に候。只今主筆池邊氏被參無理に御執筆を願出御心の通りのもの出來ねば御氣の毒であり且それが爲め御病氣に障る樣な事があつては濟まぬと申され居り候へば決して御心配には及び不申只私共の希望丈を申上るのみでありますから其積で御讀を願ひます 草々頓首
    五月十五日夜               金之助
   大塚楠緒子樣
 
      九〇二
 
 五月十八日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 啓
 飛んだ夢を御覽になつたものに候。あんな夢はかいてくるに及ばず候。近頃の樣になまけて居ては駄目に候。もう少し勉強をなさい。
 坑夫の校正は大抵にてよろしく候。少し位誤植があつても平氣に候。讀む人は猶平氣に候。
 大塚さんのそらだきが好評嘖々の由社より報知有之先以て安心致候。池邊主筆曰くあれは中々うまいですねと。池邊主筆すらうまいと云ふ。讀者の歡迎するや尤なり。
 追々短篇をちよい/\かく積りに候。
 筆はルイレキの由度々御面倒に御座候。うまいものを食はせて夏は海岸へでもやらうかと存候
 妻君未だ臥床困り入り候。いゝ加減に死んで呉れぬかと相談をかけ候處中々死なない由にて直ちに破談に相成候
 サランボーと云ふものを讀み居候。瑰麗無比のものに候。中々うまいものに候。フローベルは兩刀使に候。エラク候。今夜寐しなに御手紙をかき候是も入らぬ事に候。只筆が持ちたくなつたからに候 草々以上
    五月十七日夜               金之助
   豐 隆 樣
 
      九〇三
 
 五月十九日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原在早川村清光館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 先日は失禮大阪の日曜附録には蕪稿掲載なし多分此つぎ位に廻したるならん。病氣御大事に御療養の事。小生無異
    五月十八日
 
      九〇四
 
 五月二十八日 木 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓
 此手紙持參の人は宮澤※[金+柔]一郎とて俳道執心のものに有之よし今般四年がゝりにて俳諧辭書編輯を了へ大倉書店より出版につき大兄の序文もしくは校閲願度旨にて參上仕候につき御面倒ながら御面會相願度と存候本人は小生未知の人に候へども大倉書店よりの依頼にて一筆申上候たゞし大兄には運座の節一兩度御目にかゝり候由先は右當用のみ 草々不一
    五月二十八日               金之助
   虚 子 先 生
         梧下
 
      九〇五
 
 五月三十日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高殯清へ〔はがき〕
 拜啓木曜には雨天にて御出無之。俳諧師頗る面白く候。十風が北海道へ行つてからが心配に候。あともどうかあの位に御振ひ可被下候。
 
      九〇六
 
 六月三日 水 牛込區早稻田南町七より 松根豐次郎へ
   〔大正六年二月二十日發行『浪柿』より〕
 昨夜御出の時には少々無言の業を修しかけ居候爲め定めて無愛嬌の事と存候。談話は如何なる場合にても埒なきものに候。時々は相對無言の方遙かに面白く候。貴意如何にや。
  短夜を交す言葉もなかりけり
 
      九〇七
 
 六月七日 日 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓今回の演説再應御依頼なれど胸中無一物にて發展致し樣も無之甚だ我儘ながら此次へ御廻し被下度候戸張岩村兩氏へ露伴氏でも加へたらば丁度よき時間と存候大塚氏辭退は如何なる譯にや殘念に候。
 御斡旋の御都合も有之べくと存じ折返し御返事申上置候 以上
    六月七日                  夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      九〇八
 
 六月九日 火 牛込區早稻田南町七より 高須賀淳平へ
   〔六月十一日『國民新聞』より〕
 (前略)俳譜師十風夫婦の段は敢て江湖に推擧致し度候女郎上りの細君の性格をかいて斯樣に活躍せるもの明治にあつて正に空前に候而して其夫の十風なるものも亦非凡の出來に候。世間に振はぬのは情なく候世間が讀まないかと存じ候。俳譜師は筋の纒つた讀物にてはあるまじく三藏一代記の樣なものなるべくと存じ候。小生視る所によれば今日迄の出來榮は二葉亭の平凡以上と存じ候。但し十風夫婦北海道へ參りたる今日小光とか云ふ女義太夫が十風の細君の如くうまく描き出さるゝかゞ問題に候。もし小光が面白く寫し出されたらは又々三藏一代記中の好波瀾と存じ日々樂しみに愛讀致し居り候 以上
    六月九日                  金之助
   淳 平 樣
 
      九〇九
 
 六月十四日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市山下町四四〇上邑清延方野間眞綱へ
 久々にて御手紙拜見鹿兒島の方は其後どうなる事と思つて居つた處漸く落着是で君も當分安心御親父も御都合よく大に結構 小松原氏も居る事だから萬事便宜だらうと思ふどうか強勉して學校並びに自分の爲になる樣に働らかれる事を望む。小兒が大きくなつた由小兒の大きくなるのは實に早いものでおやぢは毎日の樣に驚ろかされるものだ。僕のうちは惣勢五人で今年の未か來年正月頃には又生れるさうだ。かう毎年多事になつてはたまらない。人口を繁殖して御上に御奉公をする割には収入が増さないから、いかに憂國の士でも御奉公は考へものである。皆川には其後二遍逢つた。畔柳は喉頭結核にかゝつた。君も身體を大事にせんといけない。野村は氣樂らしい。あの男はからだ丈は大丈夫らしい。マードツクさんは僕の先生だ。近頃でも運動に薪を割つてるかしらん。英國人もあんな人許だと結構だが、英國紳士抔といふ名前にだまされて飛んだものに引かゝる。櫻島の温泉に這入つて見たい。此間橋口の弟が歸省したが君には逢へなかつたさうだ。人吉迄※[さんずい+氣]車がかゝつたさうだ。玖《原》摩川の沿岸の景色は定めて好いだらう。おとつさんが硯を呉れると云ふなら是非もらひたい。但し急がないから忘れない樣に御父さんに話して置いてくれ給へ年寄は萬事忘れつぽくつて困る。僕は野村に新婚の御祝をやらうと思つていまだに忘れてゐる。又其うち小説をかき出すといそがしくなる。先は右迄 草々頓首
    六月十四日                 金之助
   眞 綱 樣
 
      九一〇
 
 六月十九日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 芝區伊皿子町三五皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 拜啓御惠投のぜんまい到着難有候あれは水につけてふやかすものかと存候 以上
    十 九 日
 
      九一一
 
 六月二十一日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓陽炎拜見頗る面白く候はやく後篇を御廻附あり度候愚見は御目にかゝりたる時可申上候わる口も申上度候。然しあれは紙上にて大喝采を博す小説に相違無之ひそかに君の成功を祝し申候もう少しハイカラに書くか洗錬して「春」の後を飾り度心地も致し候。委細は御目にかゝりたる時に讓り可申右不取敢申上候 以上
    六月二十一日               夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      九一二
 
 六月二十一日 日 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
 先刻は失禮御依頼の發句二つ程短冊に認め入貴覽候御氣に入らぬ方を御捨て可被下候
 右當用迄 草々頓首
    六月二十一日                夏目金之助
   森   樣
 
      九一三
 
 六月二十二日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學松本文三郎へ
 尊書拜讀舊臘御出京の節御約束申上候隨意講義の件につき改めての御依嘱却つて恐縮致候たとひ短時間の講義にても御希望を滿すを得ば小生の光榮と存居候へども何角多忙にて纏まりたる考も浮ばず從つていつ京都へ參り何の問題にてどの位の時間開講致す樣の確たる御返事も致しがたく甚だ御氣の毒と存候。又社の方は萬一講義調へ了りたる時は其節一應許諾を得る心持につき夫迄は打棄置候考に御座候。隨意臨時の性質なれば強ひて故障を入るゝ必要も無之と存候。否當初御相談に乘り候節は幾分か大阪朝日の便宜にもなり候はんかの愚存も有之候位なれば其點は左したる心配も無之候へども只講義が出來るや否やに就ては頗る背約に終りはせぬかと心配致候。(表立ちたる講師任命抔の事は貴君も小生も新聞社も此際迷惑なるべければ先づ小生の分は臨時飛入位の御含位に留め置かれ公然時間割の發表は無論、名前も其間際迄は御出し被下問敷樣願上候)
 右甚不得要領にて御氣の毒ながら當座の御返事迄申上候曖昧の段は平に御|堪《原》辨にあづかり度候  早々
    六月二十|三《原》日             金之助
   松 本 學 兄
 
      九一四
 
 六月三十日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目一戸田方松根豐次郎へ〔はがき〕
    悼 亡
  青梅や空しき籠に雨の糸
    六月晦日
 
      九一五
 
 六月三十日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ〔はがき〕
 今日の北湖先生磊々として東西南北を壓倒致し候には驚入候欣羨々々
  五月雨や主と云はれし御月並
    六月三十日
 
      九一六
 
 七月一日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜復小光はもつとさかんに御書きになつて可然候決して御遠慮被成間敷候今消えては大勢上不都合に候。鼠骨でも今日の彌次郎兵衛の處は氣に入る事と存候。「文鳥」十月號に御掲載被下候へば光榮の至と存候十月なれば東朝へ承諾を求むる必要も無之かるべくと存候。文鳥以外に何か出來たら差上べく候へども覺束なく候。ドーデのサツフオーと云ふ奴を一寸御讀みにならん事を希望致候名作に御座候。俳諧師の著者には大いに參考になるだらうと存候
 今日の能樂堂例により不參に候。明日御令兄宅の御催し面白さうに候。ことによれば拜聽に罷り可出候。小生夢十夜と題して夢をいくつもかいて見樣と存候。第一夜は今日大阪へ送り候。短かきものに候。御覽被下度候。盆につき親類より金を借りに參り候。小生から金を借りるものに限り遂に返さぬを法則と致すやに被存甚だ遺憾に候。おれが困ると餓死する許りで人が困るとおれが金を出すばかりかなあと長嘆息を洩らし茲に御返事を認め申候 頓首
    七月一日
  鮟鱇や小光が鍋にちんちろり
   虚 子 先 生
         座右
 
      九一七
 
 七月四日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓又餘計な事を申上て濟みませんが小光入湯の所は少々綿密過ぎてくだ/\敷はありませんか。小光をも描かず小光と三藏との關係も描かず、云はゞ大勢に關係なきものにて只風呂桶に※[行人偏+※[氏/一]]徊してゐるのではありませんか。さうして其※[行人偏+※[氏/一]]徊がそれ自身に於てあまり面白くない。どうか小光と三藏と雙方に關係ある事で段々發展する樣に書いて頂きたい。さうでないと相撲にならない。妄言多罪 頓首
    四 日                   金之助
   虚 子 先 生
 
      九一八
 
 七月五日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 前文御|用《原》捨御尋ねの豐彦は勿論豐國の間違に御座候どうか直して下され
    七月五日夜
 
      九一九
 
 七月十一日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜復
 御ふさ〔さ〕んは異存はなからうと愚妻が申します。然し松根がもらひたひのですかあなたが御周旋になるのですか伺つてくれと申します。
 御ふささんは妻のイトコです貧乏です。支度も何もありません。 以上
    七月十一日                  金
   虚 子 樣
 
      九二〇
 
 七月十二日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 又啓
 あなたが此事件で歩を御進めになれば自然松根に直接意見をきく事になります。さうすると公平を保つ爲めに私の方でも御房さんに其事を話さなければなりません。即ちあなたの思ひつきで松根に向つて御房さんをもらはないかと口をかける由と通知するのであります。それで本人が否だといふたら直ぐ無駄な御骨折を御中止を願ひます。又異存なしと答へたら何分にも御面倒を願ひませう。只今愚妻留守につき歸り次第御房さんの考を〔き〕かせますから左樣御承知を願ひます 頓首
    七月十二日                 金之助
   虚 子 先 生
 
      九二一
 
 七月十三日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 廣島市猿樂町鈴木三重吉へ
 拜啓國元よりの御手紙にて御歸國の處御親父の御逝去に間に合はず御心殘り無此上事と存候諸事御片付方嘸かし御心配と遙察致候御身御大事に暑中御厭ひ萬障を排し御奮戰の義偏へに願候委細は東京にて拜眉の上萬々可申述不取敢御弔詞迄如斯に候 以上
    七月十三日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      九二二
 
 七月十四日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 謹白
 「私は無教育でありまして到底高等の教育を受けた人の奥樣になる資格はありませんが――もう一年も仕事でも勉強して――」
 御房さんがこんな事をもしくは之に類似した事を愚妻迄申し出たさうです。これに由つて之を觀ると謙遜の樣にもあり。いきたい樣にもあり。一寸分りませんな。然し否ではないんでせう。さう手詰に决答を逼る必要もないから愚妻はよく御考へなさいと申したら、御房さんはよく考へて見ますと申したさうであります。
 右は小生の直接研究に無之候へども大體の見當は間違つた愚妻の報知とも思はれません
 右迄 草々
    七月十三日                 金
   虚 子 先 生
 
      九二三
 
 七月十八日 土 前6-7 牛込區早稻田南町七より 京都市室町通今出川下ル高畠方中村蓊へ
 拜啓御令弟突然御死去の爲め御西下の趣拜承嘸かし御愁傷の事と遙察致候乍然例の病氣にて長びきては御本人は無論大兄も隨分御苦痛の事と存候へば天壽にて早世被致候方將來の爲には却つて御都合かとも被存候
 玉稿「春」のあとへ出ず烏の後に相成候趣御經濟の方は夫にてよろしきや。小生は阪朝鳥居君の依頼にて九月初旬より掲載の小説にとりかゝる筈なれども原稿料其他にて大兄の御不都合を招く事あらば「春」のあとへは寧ろ掲載を望まぬ方に候。何れ其うち御歸京とも存じ候へば御面會の上諸事御相談致度と存候
 先は右御弔詞旁當用のみ申述候 頓首
    七月十七日夜                 金之助
   中 村 蓊 樣
 
      九二四
 
 七月二十一日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麻布區山元町三六小島武雄へ
 啓上御尋ねの伊藤政市君につき皆川正※[示+喜]氏より別紙の如き回答有之候故爲御參考入御覽候
 先〔は〕當用迄 艸々以上
    七月二十一日                 夏目金之助
   小島武雄樣
 
      九二五
 
 七月二十一日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 要するにプロフエソーの批評はプロフエソーの人物の如きものである。自分が知らない水練の批評を講堂ですると同じである。彼はかれの力學をすぐ實際に應用出來ると思へり。それすら亂暴也。況んや其力學の頗る覺束なきをや
  只今春陽堂來る。十六頁程多しと云へり
  獨乙のプロフエソーは蒟蒻問答の樣ナ愚論ヲシテ居ルノデハナキカ。
 
      九二六
 
 七月二十三日 木 前8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓別封花物語は寅彦より送り越し候もの中には中々面白きもの有之出來得るならば八月のホトヽギスへ御出し被下度候
 新旅行小石川同心町の住人代稽古に參り候中々上手に御座候何と申す人にや大藏省へ隔日に宿直する人の由
 修善寺は如何に候ひしや 頓首
    七月二十三日                 金
   虚 子 先 生
 
      九二七
 
 七月二十七日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 酷暑の砌愈御清勝奉賀候小弟無異碌々消光御休神可被下候。拙作御所望にあづかり汗顔只今東朝に「春」と申す長編掲載了のあとを引き受ける事に相成九月初より兩新聞に又々顔をさらす始末にて只今腹案を調へ中三四日中に執筆に取りかゝり度と存居候へども何だか漠然として取り留めなく自分ながら恐縮の體に御座候。掲載の上は何か|ど《原》御助力にあづかり度と存候
 近來俳句を作らず作らうとしても出來かね候。道後の温泉へでも浸らねば駄目と存候
  まのあたり精靈來たり筆の先
    七月二十七日                 金
   霽 月 老 臺
         座右
 
      九二八
 
 七月三十日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 佐世保市港町四一石井方鈴木三重吉へ
 御手紙拜見東京の暑は大變なもので此二三日は非常に恐縮して小さくなつてゐる。夫でも堪らないから時々湯殿へ行つて水を浴びて漸く凌いで見たがすぐからだがほてつて氣が遠くなつて仕舞ふ。そこへもつて來てエルドマン氏のカントの哲學を研究したものだから頭が大分變になつた。どうかトランセンデンタル・アイに變化して仕舞たいと思ふ。
 小宮からも手紙が來て君と停車場で落合つたとかいてある。何でも洋服屋の小僧に逆鱗してゐたとかいてあつた。小説をかゝなければならない。八月はうん/\云つて暮す譯になるが、まあ命に別條がなければいゝがと私かに心配して居る。君の手紙や小宮の手紙を小説のうちに使はうかと思ふ。近頃は大分ずるくなつて何ぞといふと手近なものを種にしやうと云ふ癖が出來た。
 小宮ノ婆さんは達者なのださうだ。風邪でも引いて寐てゐて呉れなければ折角歸つた甲斐がないと云つて來た。
 藩主の弟が死んで今日は市ケ谷から染井迄香爐持に雇はれたと東洋城から云つて來た。今日は君大變な暑さだ。東洋城が途中でひつくり返りはしないかと思ふ。大方神主の服装を着て行つたのだらう。神主の服に夏服があるかな。
 あまり暑いから是で御免蒙る。 艸々頓首
    七月三十日                 金
   三 重 吉 樣
 
      九二九
 
 七月三十日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 拜啓 道中の手紙も着の手紙も到着拜見。御婆さん御無事の由結構に存じます。第一銀行の株は其後又下がつた樣だよ。東京は熱い事夥だしい水を二三度浴びてゐる。明後日あたりから小説をかく。君や三重吉の手紙もことによつたら中へ使はうかと思ふ。
 家内無事妻君の御腹は段々擴張。筆はブツ/\が出來て貧民の餓鬼の樣である。猫が無暗に反吐をはいて始末がわるい。森田草平横寺町正何とか院へ轉居。東洋城香爐を捧げて御葬に染井迄行く藩主の弟が死んだのださうだ。
 割合に蚊が少なくて凌ぎいゝ。夜此手紙と三重吉への手紙とそれからもう一本かく。
、珍らしく近所で義太夫を語つてゐる。何だか分らない。負けない氣で謠でもやらうと思ふが一人では心細いから虚子先生を待つてゐる。 艸々
         木曜の晩
    七月三十日                   金之助
   豐 隆 樣
 
      九三〇
 
 八月三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ〔はがき)
 小説はまだかゝない。いづれ新聞に間に合ふ樣にかく。中々あつい。田舍も東京も同じくわるい人が居るのだらう。此分では極樂でも人殺しが流行るだらう。僕高等出齒龜となつて例の御孃さんのあとをつけた。歸つたら話す。小供が丸裸でゐる。どうも天眞爛※[火+曼]として出來ものだらけだ。驚ろいた。
 
      九三一
 
 八月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔封筒なし〕
題名――「青年」「東西」「三四郎」「平々地」「
 右のうち御擇み被下度候。小生のはじめつけた名は三四郎に候。「三四郎」尤も平凡にてよろしくと存候。たゞあまり讀んで見たい氣は起り申すまじくとも覺候。
 (田舍の高等學校を卒業して東京の大學に這入つた三四郎が新らしい空氣に觸れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接觸して、色々に動いて來る。手間《てま》は此空氣のうちに是等の人間を放《はな》す丈である。あとは人間が勝手に泳いで、自《おのづ》から波瀾が出來るだらうと思ふ。さうかうしてゐるうちに讀者も作者も此空氣にかぶれて是等の人間を知る樣になる事と信ずる。もしかぶれ甲斐のしない空氣で、知り榮《ばえ》のしない人間であつたら御互に不運と諦《あきら》めるより仕方がない。たゞ尋常である。摩※[言+可]不思議はかけない。)以上を豫告に願ひます
                         金
   澁 川 樣
 
      九三二
 
 八月十九日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 御書面拜見朝日への短篇遂に御引受のよし敬承御多忙中嘸かし御迷惑と存候然し是にて澁川君は大なる便宜を得たる事と存候
 今日「三四郎」の豫告出で候を見れば大兄の十二日の玉稿如何にもつなぎの樣にて小生は恐縮致候。全く大阪との約束上より出でたる事と御海恕願候。「春」今日結了最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。序を以て大兄へ御通知に及び候。あの五六行が百三十五回にひろがつたら大したものなるべくと藤村先生の爲めに惜しみ候
 咋紅線來訪久し振に候。絽縮緬の羽織に絽の※[糸+需]《原》絆をつけ候。なか/\座附作者然としたる容子に候ひし大兄を訪ふ由申居候參りしや。暑氣雨後に乘じ捲土重來の模樣小生の小説もいきれ可申か 草々
    八月十九日                 金之助
   虚 子 先 生
 
      九三三
 
 八月二十三日 日 前10-11 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 拜啓御惠投の雅印難有頂戴篆刻は御地有名の鐵筆家の由材は御親父の吉野より御持歸りの櫻の趣いづれも興味深く覺候永く机上にそなへ愛玩可仕、現に今朝も新着の洋書へ藏書印として一顆試み候。字体其他恰も石材の趣に候
 只今三四郎執筆中例により多忙を極め候
 殘暑雨後一段の威を加へ候やに存候御地の炎威如何に候や御療養專一に存候、秋來又御目にかゝるべく萬事は期其節候草々頓首
    八月二十三日                夏目金之助
   田嶋道治樣
 
      九三四
 
 八月二十四日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 麻布區山元町三六小島武雄へ
 拜啓大谷繞石君今般金澤高等學校へ赴任相成候については其あとが明く樣子に候。眞宗大學京北中學東洋大學の三所に候。大谷君は後任周旋の委任を受け居らぬ由にて各自學校にて人撰中との事に候。御運動如何にや。右一寸氣づき候まゝ御通知申上候 以上
    八月二十四日                夏目金之助
   小島武雄樣
 
      九三五
 
 八月二十四日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ
 此間は御出の處謠の稽古中にて御歸りの趣夢十夜の畫大仕事と存候今日冷氣にて少々意外に候。今年は夏の方がいゝ心地に候。秋がくるのがいやに候。
 社から月給をもらひたいに付ては御ひまな時封入の名刺を以て京橋區瀧山町四の社の會|社《原》へ行つて御受取を願度と存候。二十五日の午後が渡す日なれど今月末迄のうちにていつにてもよろしく候 用のある時丈使つて濟まぬ事と存候。小説如何なり候や。小生も折角苦心中。八重子樣へよろしく 以上
    八月二十四日                 金之助
   豐一郎樣
 
      九三六
 
 八月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓森田友人にて高辻と申す法學士が謠がすきで今度の日曜に僕の宅へ來て謠ひたいと申すよしに候。所が先生非常の熱心家なれど今年の正月からやつたのだから僕と兩人でやつたらどんな事に相成り行くか大分心細く候につき音頭取りとして御出が願はれますまいか。其上高辻氏は何を稽古してゐるか分らず小生の番數は御承知の通り共通のものがなければ駄目故旁御足勞を煩はし度と思ひますがどうでせう。此人は城數馬のおやぢさんに毎晩習ふんださうです。きのふも尾上に習ひました。尾上は中々うまい。
 温泉宿完結奉賀候趣意は一貫致し居候樣に被存候が多少説明して故意に納得させる傾はありますまいか。一篇の空氣は甚だよろしき樣被存候
 三四郎はかどらず昨日の如きはかゝうと思つて机に向ふや否や人が參り候。是天の呪|咀《原》を受けたるものと自覺しとう/\やめちまいました
 右當用に添へ御通知申上候 草々
    二百十日                   金
   虚 子 先 生
 
      九三七
 
 九月五日 土 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 麻布區山元町三六小島武雄へ
 拜啓明治學院講師皆川正※[示+喜]氏今般鹿兒島高等學校へ赴任につき後任として大兄を推擧する樣野間眞綱氏より依頼ありたる旨につきもし御希望も有之候へば芝伊血子三五番地皆川正※[示+喜]宛にて履歴書至急御送り相成〔度〕由に御座候先は右當用迄 草々頓首
    九月四日午後                 夏目金之助
   小島武雄樣
 
      九三八
 
 九月十一日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市下龍尾町一九一野間眞綱へ
 拜啓皆川は立ち申候鹿兒島中學の教師として副島は如何に候や三次には氣候其他の關係にて在任希望せぬことに先頃より持病とかにて郷里に歸省中とか申來候が目下もはや歸任せるや否や存じ不申。同人かねての志願に海岸にて暖かき所と有之便利は大分あしき樣なれど郷里にも近ければ如何ならんかと存候
 右用事迄申入候 以上
    九月十日                  夏目金之助
   野間眞綱樣
 郷里の所は忘れたり
 
      九三九
 
 九月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目二山口方松根豐次郎へ〔はがき〕
 御安着を祝す。繪端書無數頂戴一々所藏まかり居候。小説を書いてゐる爲め返事を出さず候。エイ子百日ゼキ。其他の小動物悉く異状アリ。草合出來一部獻上致度候。小宮歸着。大イニ紳士ヲ氣取リ居候。三重吉未ダ歸ラズ。三四郎マダ書ケズ
 
      九四〇
 
 九月十四日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目二山口方松根豐次郎へ〔はがき〕
  廣島市猿樂町鈴木三重吉へ〔はがき〕
  府下巣鴨町上駒込三八八内海方野上豐一郎へ〔はがき〕
  本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
〔猫へっついの上で死去車屋に埋葬頼む、主人三四郎執筆中といった文妻の画像あり、省略〕
 〔野上宛の端書には「箱詰にて」が「蜜柑箱へ入れて」とある〕
 
      九四一
 
 九月十六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中清水町五橋口清へ
 拜啓草合せ御蔭にて漸く出來御盡力奉謝候
 表紙奇麗に且丈夫さうに見え候。結構に御座候
 扉「坑夫」の方は甚だ面白く拜見致候へど野分の結婚の方は少々不出來と存候大兄御自身の御考は如何に候や。有體を申せばあの方は増版の時に何とか御再考を願はんかと我儘な事を希望致し候がどうでせうか
 小説濟しだい參上御禮可申上候。
 インキ壺の中の銀ツボ義其道のものゝ説を承はり候處矢張腐蝕の憂有之由エナメルでも掛ける譯にはいかぬものにやもし御序も有之候はゞ御相談願上候。貢樣へよろしく 以上
    九月十六日                  金之助
   橋 口 樣
 
      九四二
 
 九月十六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣久良岐郡金澤村萩原爲則へ〔はがき〕
 拜復繪端書難有拜受致候十月にホトヽギスへのせるのは舊稿の短篇にて原稿無之大阪朝日に出たものをもとにして活字に組み直す迄の事に御座候間右一寸御返事迄申し上候 以上
 
      九四三
 
 九月二十一日 月 後1-5 牛込區早稻田南町七より 淺草區代地瓦町小山内薫へ〔はがき〕
 啓先日は御親切に貴著「窓」御寄贈にあづかり難有存候拙作「草合」御禮のしるし迄に一部進呈仕度と存候小包にて差出置候間御落手被下度候 草々頓首
    九月二十一日
 
      九四四
 
 九月二十九日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 水戸市釜神町三菊池謙二郎へ〔はがき〕
 啓上
 佳肴厨に來り青燈室を照す北人南人秋古今なり深謝
 拙著草合春陽堂に托して御屆可申候御落手願上候
    二十九日
 
      九四五
 
 十月四日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 Urban,Die Literatische Gegenwart 3,25 なるもの丸善ニ來レリ。
 買フ氣ハナキカ
 
      九四六
 
 十月六日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學松本文三郎へ
 拜啓先日御上京の節はわざ/\御光來を蒙り候處執筆中にて失禮其後一寸御旅館へ參上の積の處是又多忙に妨げられて果さず萬車御容赦可被下候
 偖講義の件につき御歸洛後御申聞の趣拜承致し可相成は都合相つき御間に合せ申度心得に有之候處段々考へて見ると夫から夫へと追はれる一方にて到底講義をプレペやアする時間抔は到底出來さうに無之たゞぼんやり京都に滯在する餘裕も出て來ない有樣に候。先日の御話では舊い講義でもとの御注意も有之候へども此際古い講義丈はどうあつても御免を蒙り度左ればとて新らしいのは今申したる次第實に汗顔の至に不堪然し不得已事情御憐察の上何時|來《く》る抔といふ事はあてにせずに御出を願度候。あまり御氣の毒故御詫のしるし迄に一書を呈し候 草々不一
    十月六日                  金之助
   松 本 兄
 
      九四七
 
 十月七日 水 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞文學部編輯へ〔十月十日『國民新聞』より〕
 啓、「專門的傾向」漱石氏談といふのを拜見致候處小生の話方惡かりし爲少し徹底せず何だかこんぐらかり候樣に存候が夫は迷惑にも無之候。唯其内に坪内さんは見當違ひの説を吐かれたといふ言語がある樣に候があれは坪内さんに對して失禮故御取消を願ひ度候。私は坪内さんとは少し反對だと申候。坪内さんが見當違だとは甞て申さず候。反對は小生の自由に候。先輩の考を見當違と言び放つは小生の敢てせざる所に候。それから序故もう一つ申候。イーツのものが危險だから出版せぬとあり候。イーツ程無害のものは無之候。出版少なきは賣れぬからに候。十月七日。
 
      九四八
 
 十月十二日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 先日は失敬御病人御變もなき由御大事に可被成候當分自炊の由隨分厄介な事と御察し申候
 入院證御依頼の通捺印御廻送及候御受取可被下候
  朝寒や自ら炊ぐ飯二合
    十月十二日                  金之助
   豐一郎樣
 
      九四九
 
 十月十九日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町田中屋鈴木三重吉へ
 愈御乘込のよし定めて御地は大賑の事と存候東京では成田へ行つたから成田屋あとみんなが申居候然るに住所は當分田中屋のよし。多分宿屋と存候。隨分酒を御飲過にならぬ樣願上候
 小生八王子以來生活機能の降下を示し何にもたべる慾心無之。實は驚居候。然し毎日一食位で事が濟めば結句難有ものに候。四十二の厄から生活組織一轉日々紅茶一椀を口にするのみ。それでも童顔ピン/\して健康少年を凌ぐとか何とか後世の史家に書いて貰はうと思つて居る。ヱイ子熱が出て四十度になる四五日同じ事。何の爲の熱やら分らず。ゆふべは熱の爲の惡|感《原》を痙攣《ケイレン》と間違へて青くなる。昨日は猫の三十五日に當る。細君鮭一切れと鰹節飯一椀を佛前に供す。筆子※[ワに濁點]イオリン入學。虚子近來木曜に來らず。文部省の美術展覽會は愚なり。和田三造の鐵工場見られざる|ぶ《原》るなり。小説の方が畫より數等進歩して居る。目出度/\ 草々
    十月十九日                  金之助
   三 重 吉 樣
 いつか參らんと存候。御|前樣《ゼンサマ》へ宜敷願上候。秋晴に印|幡《原》沼の鰻の居所を見てあるきたく候
 
      九五〇
 
 十月二十日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 廣島縣山縣郡加計町加計正文へ
 其後は僕も大變な御無沙汰をした。仰の如く千駄木から西片町へ移り西片町から此處へ變つて小供はもう五人ある其上此暮か來春早々又一人生れる。鬢の所に白髪が大分生える。顔も頗る年寄になつたらうと思ふ。君も細君を持つて小供が出來る由で御目出度。君の弟が東京で三重吉と一所にゐたさうだがつい一返も逢はずに仕舞つた。昨今は米國艦隊の何とかで市中は大騷ぎ。と云つた所でただ旗を立てゝ幕を張る頗る錢の入らない驩迎である。安ツポクツテ騷々しいのは日本人の特色である。三重吉が教頭になつて昨今威儀を正してゐるさうだが頗る氣の毒の至だと考へられる。威儀三百とか云つて威儀をつくらふのも容易の業ではない。近々成田へ行つて慰問しやうと思つてゐる。君の家ではもう炬燵を用ひるさうだ東京は袷、フラネル、乃至綿入、中にはまだ單衣の絣で間に合せてゐるものもある。大變融通の利く好時節である。先達て家の猫が死んで裏に御墓が出來た。二三日前に三十五日が來て佛前へ鮭一切れ、鰹節飯一椀をそなへた。
 鮎の干したのを頂戴。いくらでも食べるものが澤山居る。あれは水へ漬けて半日許グヅ/\※[者/火]るべきものと思ふ如何
 右不取敢御返事迄草々不一
    十月二十日                夏目金之助
   加計正文樣
 
      九五一
 
 十月二十三日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 啓寺田に聞いて見ました處小説集に名前を出す事はひらに御免蒙りたいのださうであります。序の事は本人は知らないらしかつた。然し厭でもないのでせう黙つてゐました。一遍集めたものを讀み直した上の事に致したいと存じます 以上
    十月二十三日                金之助
   虚 子 樣
 
      九五二
 
 十月二十七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 廣島縣山縣郡加計村加計正文へ
 啓鮎到着致候難有候柿も其内到着の事と慾張居候三重吉は生徒を引率鎌倉地方へ旅行の由。上野に文部省の展覽會有之大部分はマズサ比の展覽會に候。加計町の景色を見て巨《原》燵にあたつてゐる方が人生の意義にかなひ居候。二三日前箪笥の上にサンマの燒いたのがのつてゐたから何うしたのかと聞いたら猫の供物だと申候。第三女が百日咳から腸チフスになり昨今漸く快方に赴き候。熟の高い時は日に氷五十斤を要すと聞いて大に驚き、一斤いくらかと尋ねたら二錢だと云ふんで漸く安心せり。然し五人の小供がないと今頃は倉の一とまい位持てると思ふ事なきにあらず。「三四郎」出版の節は一本を獻上仕る覺悟に候 右迄草々
    十月二十七日                夏目金之助
   加計正文樣
 
      九五三
 
 十月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 日本橋區本町三丁目博文館『中學世界』へ〔應問 十一月二十日發行『中學世界』より〕
 小生の號は、少時蒙求を讀んだ時に故事を覺えて早速つけたもので、今から考へると、陳腐で、俗氣のあるものです。然し、今更改名するのも臆劫だから、其儘用ひて居ります。慣れて見ると、好も嫌ひもありません。夏目と云ふ苗字と同じ樣に見えます。
 
      九五四
 
 十一月六日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町紅養館林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓先日はわざ/\御來訪の處御遠慮にて玄關より御引取遂に不得御面語甚だ遺憾に存候其節の頂戴物正に拜受難有候御禮を申さうと思つた君の宿所が分らぬ故其儘にして置き申候三女は腸チフスで一時は熱が高く弱つたれど只今は回復期に向ひまず安心に候家族が多いと始終何かある寧日なき有樣夫でも多數の人よりもまだ/\大分幸頑の方ならん君も大分一身上の心配やらごた/\やらある由頭の具合近來は如何にや
 草合せを上げやうと思つて居たが皆なくなつて仕舞つた。三四郎が本になつたら上げやうと思ふ。
 右迄 草々
    十一月六日                  金之助
   岡田耕三樣
 
      九五五
 
 十一月六日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町二丁目内田貢へ〔うつし〕
 御《原》後無沙汰御海恕、只今高著「復活」丸善より寄贈あり函中に御惠書を發見御芳志萬謝致候 訂《原》袋は流石に魯庵君一流の嗜好と感服致候、函の色、形、貼紙、の具合甚だ品ありて落付拂ひ居候。本書表紙も清雅にて頗る得吾意申候但表紙の復活の二大字は不賛成に候。あれは小生なら寧ろ白の儘に致し置可申か。バツクは無異議候 插畫面白く候。何人にや、日本にてあれ程西洋じみたものを書き得る人有之候や。小生實は英譯の「復活」を讀まず或は原書の插畫を其儘御用ひかとも存候。卷頭の肖像も頗る上出來賛成に候。本文を少しも賛めないで表装許り云々致し候甚だ失禮御免被下度候。實は昔し日本新聞で拜見せる儘に候。活字鮮明なれど紙は左程になき樣に存候殘念に候。ゴスの譯したイプセンのものにあの通りの體裁のものを一部所持致し居候三四郎御批評難有候。今が中途に候。そろ/\惡口が始まる時分と覺悟を致し居候。思ひ掛なき援兵にて大いに元氣を得候。先達拙著を御送りしやうと思ひたれど何だか氣に入らざりし故其儘に致したり。いづれ拜眉の節萬々
    十一月六日                  金之助
   魯 庵 先 生
         坐下
 
      九五六
 
 十一月二十日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 牛込區横寺町正定院内森田米松へ〔はがき〕
 今二十日の國民文學抱月君の談話を御覽下さい。君はプロツトを排斥してゐる。さうして「壁」に就ての自説を辯護してゐる。其辯護を煎じつめるとつまりプロツトが好いからと云ふ事に歸着しさうだ。どうぞ御覽下さい。
 ロジカル先生閣下
 
      九五七
 
 十一月二十二日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉那今出町村上半太郎へ
 過日御來京の節はわざ/\御枉駕を辱ふし千萬難有候生憎例の多忙にて何の風情も無之失敬平に御容赦被下たく候御惠送の砥部燒安着厚く御禮申上候。只今東京は日々好天氣にて小春の好時節に候。御地も定めて俳興多き空模樣ならんと遙察致候萬事期再會 以上
    十一月二十一日               夏目金之助
   村上霽月樣
 
      九五八
 
 十一月二十三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町横町黒川方鈴木三重吉へ
 御手紙拜見仰の如く文學評論で大弱りの状態しかもくだらぬ努力故つく/”\いやに成候此分にては當分成田行も駄目に候。
 東京は日々好天氣小春うれしき日向也。新小説は御見合せの由殘念に候。何でも書いたらよからうと思ひ候
 草平氏相變らず煤烟に腐心。文壇の現況に憤慨來年は大いに評壇を賑はすと申居候、如何にや。横丁の先生もちと御奮發ありたく候。先日御能を久し振りにて拜見中々退屈のものにて候。其時秋聲君に紹介され候。子供まだ蓐を離れず。細君の腹愈せり出せり。夫子フラネルの腹卷す。
 右の條々迄
    十一月二十二日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      九五九
 
 十一月二十九日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 今日は難有候ダヌンチオあらば買つていたゞき度候、紅葉狩は郵便で送り候
    十一月二十九日
 
      九六〇
 
 十一月三十日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 昨夜は失禮其節御話し致候森田の煤烟が見本丈あり候間入御覽候見本丈でよく分りかね候。新聞に出す積りで回を切つて書いてない樣に候。興味の具合は如何にや(然し是は小生の申すべき文句に無之)是丈だと事實の樣に思はれ候。今に生田長江だの小生が引つ張り出されて端役を務める事に可相成と存候
 兎に角御覽の上御決定願候。も少し先が御入用ならば取寄てもよろしく候 右迄草々
    十一月三十日                 金之助
   玄 耳 先 生
 
      九六一
 
 十一月三十日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區横寺町正定院内森田米松へ
 只今二度御訪ね申候處御不在不得已引取候。「煤烟」朝日の採用する處と相成明日八千號を期し其豫告をする由にて相談に參候につき坂本(白仁)氏同道にてまかり出たる譯也。御不在小生好加減に取極め文句は坂本氏に依頼致候
 原稿料はあとで小生と相談の事。書き上げた分は社へ渡しそれ丈稿料に代へ年を越せる樣にする事
 今夜電話にて春陽堂へ一寸斷わる事
 右の件依頼致置候。漸く落着一先づ安心に御座候
 書直すひま惜しとて歸りながら二度行つても居らず。何所をあるいて居るにや。あまり呑氣にすると向後も屹度好い事なき事受合に候。先は右迄 早々
    十一月三十日夜               夏目金之助
   森田米松樣
 
      九六二
 
 十二月十九日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町吾妻屋鈴木三重吉へ
 又々御轉宅のよし承知致候學校定めて御多忙の事と存候休みには泊りがけに御出京可然候。先達泥棒這入る。兩三日前赤ん坊生る。是にて今年も無事なるべきか。文壇紛々悉く是空洞の響なり。壇上の人亦遊戯三昧と心得て一生を了し得べし。馬鹿々々しき事を馬鹿々々しく思ひつゝ眞面目に進行さする事遊戯三昧の境に達せざる時は神經衰弱となり喪心失氣となる。天壽可惜。閑日月を抱いて齷齪の計をなす。可ならずとせんや。 草々
    十二月十九日                金
   三 重 吉 樣
 
      九六三
 
 十二月二十日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 先達ての論文を出すなら新聞では到底載せ切れまい。雜誌がよろしからう。新らしく書くなら新聞でも差支あるまじ。
 あんまり僕をたよりにすべからず自分の考を自分で書いて漱石何かあらんと思ふべし。早稻田のあるものゝ書いたものは驚ろくべく愚也。あれは生活難の爲に先輩の指導を受くる餘裕なきによる。あゝならぬ君は幸福なれど餘裕あるが爲に萬事僕に見せてからの何のと思案するは獨立心なき事なり。是でよいと自己で自己を極める分別ありたきものなり。
 
 文壇に出る一歩は實際的ならざるべからず。今の愚なるものに分り易く、讀み易く、柏手になる樣に見えて、侮りがたき思を起さしめざる可らず。從つて論旨は短からざるべからず、興味は時事問題ならざるべからず、其他色々の資格なかるべからず。之を重ねて行くうちに自から大いなる根底ある議論を出しても人が讀む樣にも耳を傾ける樣にも(今の樣に生活難と黨派心が盛では夫でも六づかしい)なる。始めから偉いものを書いたつて人は相手にしない。相手にするものは日本に五六人しか居ない。而して其五六人はみんな黙つて相手にしてゐるのみである。
 
 文壇に立つものはあらゆる競爭排※[手偏+齊]に伴ふ墮落的行動に對して從容事を辨ぜざるべからず。もし清きを以て自ら居り高きを以て自から處せんとせば一日も留まるべからず。
 
 文壇の諸公皆賢なるにあらず。又正なるにあらず。而して賢の如く正の如くに見せる術を日夜に講じつゝあり。憤るべからず。社會が胡魔化される程度にあるが爲なり。傍觀すべからず。社會は進む期なし。
 
 今の文壇に立つものより生活難を引き去れ彼等の十中七八は喜んで文壇を引き上ぐべし。彼等は文壇に立ちながら苦悶しつゝあり。
 
 君もし以上の諸件を承知の上ならば筆を執るも可なり。たゞ一時虚子の依頼にて出來心よりするは人魂のふわつく姿なり。夫にてもよし人魂を以て任ずるがいやならば始めから其覺悟をせざる可らず。
 
 今の自然派とは自然の二字に意味なき團體なり。花袋、藤村、白鳥の作を難有がる團體を云ふに外ならず。而して皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品を云へば大抵君より下等なり、理窟を云へば君よりも分らずや多し。生活を云へば君よりも甚しく困難なり。さるが故に君の敢て爲し能はざる所云ひ能はざる所を爲す。君是等の諸公を相手にして戰ふの勇氣ありや。君を此渦中に引き入るゝに忍びざるが故に此言あり。 以上
    十二月二十|一《原》日            夏日金之助
   小宮豊隆樣
 
      九六四
 
 十二月二十二日 火《〔?〕》 11-12 牛込區早稻田南町七より 宮崎縣宮崎郡宮崎町杉田作郎へ
 拜啓御親父樣御逝去の由遙かに御弔詞申上候。短冊|切《原》角とり紛れ今日迄其儘に致置候甚だ怠慢の至御容赦願上候。同封にて一句入御覽候久敷俳句をやめ居り句らしきものも出來不及候書は例の如くみくるしきものに候 以上
    十二月二十二日                夏目金之助
   杉田作郎樣
 
      九六五
 
 十二月二十六日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 拜啓ホトヽギス咋廿五日と今二十六日をつぶし拜見諸君子の作皆面白く候。其中で臼川のが一番劣り候。あれは少々イカサマの分子加はり居候。他は皆眞物に候。
 大兄の作先夜伺つた時は少々失敬致しよく分らず仕舞の處活版になつて拜見の上大いに恐縮あれは大兄の作つたうちにて傑作かと存候
 猶向後もホトヽギス同人の健在と健筆を祈りて聊か茲に敬意を表し候。他の雜誌御覽なりや。どの位の出來か彼等の得意の處を拜見致度候 以上
    十二月二十六日                 金
   虚 子 樣
 子供の名を伸六とつけました。申の年に人間が生れたから伸で六番目だから六に候。此間の旦は取消故併せて御吹聽に及候
 ホトヽギスは廣く同人の小説を掲載すると同時に大いに同人間の論客を御養成如何にや。樂堂の舞踏談抔面白く候
 
      九六六
 
 十二月三十日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 今度御上京以後不得拜眉殘念に候。過日は幸ひ小閑の處門口より御立歸り何とも失敬。其節の御短冊正に落手惡筆にて一枚書き損じ候故今日玉川堂にて似た奴を買つて參り候。發句は近來頓と作らねど何とも分らぬものを御望み通り書き可申候此間御贈印の御禮に草合せを差上度思ひしに御住所小石川と許にて一向分らず遂に其儘と致置候
 目出度年を御取りなされ度候以上
    十二月三十日夜              夏目金之助
   田嶋道治樣
 
 明治四十二年
 
      九六七
 
 一月二日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌へ〔はがき〕
 恭賀新年
 御病氣の由御大事に可被成候小生なまけてどこへも年頭に參らず、賀状も返事を出す丈に留め居候。いづれ永日萬々
   煤烟出來榮ヨキ樣にて重疊に候
 
      九六八
 
 一月三日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 謹賀新年
    明治四十二年一月三日
         牛込早稻田南町
                夏目金之助
 
      九六九
 
 一月三日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
 頂戴の時計を遲いからねぢつて早くしたら時を打たなくなつた。どうした〔ら〕なるだらう。
    一月三日
 
      九七〇
 
 一月五日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
 頂戴の時計今日より又鳴り出し申候御安神可被下候 以上
    一月四日
 
      九七一
 
 一月七日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣三戸郡是川村市川文丸へ
 拜啓御歸省中の由承知仕候定めて雪深き春を迎へられたる事と存候當地別に變りたる松飾もなく無事の正月に候
 御惠送の山鳥一羽安着御芳志難有候先年の一夕を思ひ出し候來る人あらば又一椀の羮をわかたんと存候
 御用立申候金子については御心配御無用に候
 寒氣烈敷砌隨分御自愛可然 草々頓首
    一月七日                  夏目金之助
   市川文丸樣
 
      九七二
 
 一月十日 日 牛込區早稻田南町七より 坂元三郎へ〔うつし〕
 病氣中長い手紙を難有う。長い手紙をかくのは難儀だが貰ふ方は面白いものだ。此間は妙な關係で敦賀に居る若い婦人から君の二三倍ある手紙を受取つた。是も面白かつた。昔し正岡抔と往來する時分には隨分ひまに任せて長い手紙のやりとりをした。今では忙しくてとても出來ない。此間も大阪から「原稿まだ出來ませぬか」といふ電報をかけられて大に狼狽した。新年の原稿さへ書けないのだから長い手紙は書けないのも無理はない。
 高須賀が來たから君も病氣ださうだといふと何金病でせうと答へてゐたが矢張り本當の病氣の樣に見える一體どんな徴候なのかね。謠をうたふ位ならば大した事もないのだらう。がまづ/\用心し玉へ。高須賀が金山の話やら品川埋立事件の話やら何でも大分面白い話をして呉れたので新年に餘程變化のある世界を見た。そのあとへ僕の小學校の友達キーちやんなるものが何十年振かで尋ねて來て、是又鑛山の話をした。會津の奥で千二百萬坪の鑛區をかりて月々税丈納て居る。時機を見て採掘をやるといつてゐた。袂から妙な石を出して是がその蛋白石だと教へてくれた。隨分面白い人がやつて來る。一番陳腐なのは雜誌記者だらうと思ふ。主人公に何等の利益をも與へない。夫でもつて來て雜誌へ人のわる口を書く。會津の奥で蛋白石でも捜してゐる方が餘程氣が利いてゐる。
 君の友達の話は中々面白い少し工夫したらば種になる樣に思ふ。わざ/\の御報知難有い。
 水彩は全く廃止だから上げない。これで實は水彩に愛想をつかして書かないのぢやない。書くひまがないのだ。からだは病人の樣に机にばかりへばりついて、夫で頭丈火の車の樣に働らくべく餘儀なくされてゐる。文學も大きな世間を見渡すと窮屈千萬で人間がシミタレて、顔が蒼くなつて、胃病や脳病が起つてよくない樣だ。
 今年は元日には謠はなかつた其代り大晦日に松根東洋城と二三番謠つた。八日に新が黒紋附を着て來て稽古初めをして呉れた。士車といふのはゆるしものださうだが是を少し教はつた。
 御産はあつた。母子共健全。申の年に生れた人間で六人目だから伸六とつけた。人間も半ダース子供がある樣では頗る時勢後れだ。一人が十分づゝ泣いても丁度一時間かゝる。八釜敷事甚しい。彼等の前途を考へると皺が寄りさうである。
 申の年の子丈あつて頭に毛が眞黒に生えてゐる。四五年前生れた子は頭がはげて居た。姙娠中○○○○○○○○○○ぢやないかと思つて大いに恐れを抱いてゐたら、漸く人間並に毛が生えて來た。妙なものだ。
 雪が降るので火鉢を擁して此手紙をかく。夫から又原稿をかく。何でも夢十夜の樣なものとの註文だから毎日一つ宛かいて大阪へ送る積りである。僕が原稿の催促を受けて書き出すと相撲が始つて記事が不足しない樣になる。社の方では氣が利かないと思つてゐるだらう。 以上
    正月十日                金之助
   坂元三郎樣
 
      九七三
 
 一月十二日 火 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 拜啓昨夜寐る時下女が信書函からあなたの御手紙と雜誌を持つて來ました。手紙はすぐ拜見しました。坪内先生のも拜見しました。色々御事情のある事と御同情申します。私も別に主管してゐる雜誌のある譯でもなし夫から本屋に大勢力のある譯でもないから、こんな場合にはいつでも困つてゐます。然し御作を拜見した上で何とか御相談も致しませう。
 只今は少々取り込んだ用事があつてゆる/\御作をよんでゐられません其上正月から用をしやうと思ふとはからぬ人に襲はれて無暗に時をつぶして仕舞ひます。是非やらなければならない大阪へ日々やる原稿をかくかかゝない位です。夫であなたのものを拜見するのももう少し待つて頂きたいがどうでせう
 尤も木曜は面會日ですから何時でも御目にかゝります人がゐる時がいやなら朝のうちでも入らつしやい。
 今日の午後御出の由だが右の譯だから出來るなら木曜にのばして下さい。木曜に入らしつてもまだあなたの作物は讀んでゐますまいが、兎に角御目にかゝつて御話丈は致します。御互に忙がしい切りつめた世の中に生きてゐるのだから御互に讓り合はなくては不可ない。隨分窮窟の至です。先は御返事迄 草々
    十二日                  夏目金之助
   飯田政良樣
 
      九七四
 
 一月十三日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓御預けの預金帳のうちで金五拾圓を明十四日受取り明後十五日高須賀君に御渡し被下度候
 印形は封入致候
 手紙は淳平氏持參致候
 先は右御願迄度々御面倒相願恐縮致候 草々頓首
    一月十三日                夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      九七五
 
 一月十七日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣小田原小峯梅林大久保神社内林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 暮から病氣がよくない由御大事の事。毎日人が來て時間を奪はれるので仕事をする事が出來ず閉口なり。胃病よろしからず。南方に旅寐して梅花を見たし
 
      九七六
 
 一月二十一日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓石菖屋の婆さん拜見あれは破甕よりは數等上等の作、御進境、嬉敷存候。たゞ時々同材料を引つ張りスギテ、クドイ所あり。今少短カク隙間ナクスル方モ考ヘラルベシ。トニカク大體ニ於テ、此調子ハ本物也
 
      九七七
 
 一月二十四日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町吾妻屋鈴木三重吉へ
 御手紙拜見致候酒を御やめの事當然と存候、酒をのむならいくら飲んで〔も〕平生の心を矢はぬ樣に致したし君の樣に一升にも足らぬ酒で組織が變つては如何にも安つぽくつてへら/\しして不可ない。のみならずはたのものが危險不安の念を起す。
 黒髪は何だか氣乘がしなかつた。君自身あきがきたといふ。夫が正しい所ぢやないかと思ふ。精々勉強して御互に書かなくては不可ない。
 虚子へは序を以て貴意を傳ふべし 以上
    二十四日                  金之助
   三 重 吉 樣
 
      九七八
 
 一月二十四日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内中村蓊へ
 拜啓煤煙が二三日出ない樣に候がどんな事情に候や是迄朝日の小説は一回も休載なきを以て特色と致し候に森田草平に至つて此事あるは不審也。本人の不心得の爲とも存じ候へどもわけを一寸御報知願度君が一番森田に就て近い關係があるから御尋する。もし本人の不都合から出たなら僕は責任がある實に困る
                           金之助
   中 村 蓊 樣
 序に露國二葉亭の宿所を知らして呉れ玉へ
 
      九七九
 
 一月二十六日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 草平今日の煤烟の最後の一句にてあたら好小説を打壞し了せりあれは馬鹿なり。何の藝術家かこれあらん
 
      九八〇
 
 二月三日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ〔はがき〕
 拜啓文學評論原稿(活版に廻したるもの)413と414とつけたる中間一枚紛失致し居り。活版屋は夫に御構なく先を組み候。一先づ御とめ下さい。さうして捜して組直しを御命じ下さい。紛失と事が極れば新たに原稿を書いてあげます。(【そこが片づかなければ、さきを直しても駄目だから校正を見合せます】)
 
      九八一
 
 二月七日 日 後4-5 牛込區早稻田南町七より 金澤市櫻畠九番町一九大谷正信へ
 拜啓其後は御無沙汰奉萬謝候當時不相變電車の如き生活毎日頭のみ忙がはしく御座候二三日來氣候も少々ゆるみ少しは春めき候〔へ〕ども氷はまだ張り候。北の方は嘸かしと存候。隨分御大切に御攝生可然と存候カキ〔二字傍点〕わざ〔/\〕御贈御厚意深く奉謝候。あれは先年も誰か《原》ゝら(四方太と氣がつき候。四方太のは鳥取の蟹で大兄のは金澤のかになるが味も鳥取と金澤との相違可有之か。風味の上批判可致候
 御地仕事の模樣拜承外國人への御教授も面白きかと存候先日佐治秀壽の言にも其邊の消息有之。俳句は只今一句も出來ず。大兄は不相變御勉強。永日小品は面白いのと面白くないのと有之よしどうぞ參考の爲め面白いのと面白くないのとを指摘被下度候右不取敢御禮申上候 草々
    二月五日                  金之助
   繞 石 兄
       座右
 
      九八二
 
 二月七日 日 牛込區早稻田南町七より 牛込區横寺町正定院内森田米松へ
 拜啓煤烟世間にて概して評判よき由結構に候。先日四方太は激賞の手紙をよこし候。
 然る所一から六迄はうまい。(其中要吉が寺へ行つて小供に對する所は少し變也)七になつて神部なるものが出て來て會話をする所如何にもハイカラがつて上調子なり。罵倒して云へば齒が浮きさうなり。どうか御氣を御付け下さい。病院の會話も然りあれでは病氣見舞に行つたよりもあゝ云ふ會話をやりに行つたやうなり否あゝいふ會話が出來る事も讀者に示す爲に書いたやうなり。頗るよろしからず。君もし警句を生かさんが爲に小説をかゝば顔の美を保存せんとて手術は御免蒙り夫が爲に命をとられる虚榮心強き婦人と同じ。警句が生きると同時に小説滅びる事あるべし。切に注意ありたし。夫から田舍から東京へ歸りて急に御種の手を握るのは不都合也。あれぢや、あとの明子との關係が引き立つまい。要吉は色魔の樣でいかん。
 要吉は細君に對して冷刻なる觀察其他要吉の名譽にならぬ事をしたり云つたりする。五六行先へ行くと必ずそれを自覺して自己を咎めてゐる。是草平が未だ要吉を客觀し得ざる書き方なり。自己の陋を描きながら自から陋に安んずる能はずして一解ごとに辯解しつゝ進まば厭味にあらずして何ぞや。但し是は書き方にあらず寧ろ書き方の呼吸なるべし。御注意ありたし
 四方太激賞の後二三日前出會す。彼曰く今迄大に擔いだが今更困ると。余曰く忠告すれば元氣阻喪しさうだし。忠告せざれはます/\あんな風に會話をかくだらう困つたと。小宮もあの會話に不賛成なり。
 たゞしあの會話も時と場合にて活きる事あらん。君の用ひたる時と場合にては全くうそ〔二字傍点〕の會話也。
 右の條々御注意迄に申入候猶御努力可然候 草々
    二月七日                  金之助
   草 平 樣
 今日の所持ち直しの氣味なり
 
      九八三
 
 二月八日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 原稿は御希望通只今郵便にて春陽堂へ送り申候先方より其内諾否の返事をくれるやうにたのみ置候故其事がきまらぬうちは「町の湯」を外《ほか》へ出す事は御控被成ぺく候。尤《原》論の事なれど御注意迄に申上候。文章世界差上候
 先は右迄 草々
    二月八日                   夏目金之助
   飯田政良樣
 
      九八四
 
 二月九日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町六丁目一〇六坂元三郎へ
 拜啓御尋ねの書物小生の記憶になしよく調べ又は聞き合せて御返事すべし。多分ないだらうと思ふ
 死際といつても色々比較して何か一定の概括が出る樣なら面白いが到底出來まいそれに天才とはどんなものかきめてかゝらなければならない。それから死ぬ時の有樣の區別
 (一)病氣 キーツ肺病。ニイチエ、モーパサン等氣狂、スヰフ|オ《原》同上輕病等
 是等は何かまとめられる。
 (二)天才使用の社會的結果。ナボレオン。ユーゴの島流し(是は死ニアラズ)。あらゆるマータヤー
 (三)窮*楠獨身 シオペンハワー(是も死際にあらず)
 (四)楠正成、西郷隆盛の類
 (五)窮死チヤタートン
 (六)放狂※[エに濁點]ルレーン等
 其他色々になるぺし。よく御考の上類別可然候。
 楳《原》烟のどこを見てそんな氣を起したものか。天才は塩原抔へは行かない方が多い樣なり。尤も塩原行の天才もあるべしと云へど是は寧ろ例外ならん
 御承知のロンブロゾーの「天才と狂氣」といふ本に特色が澤山かいてある但し死際はさう書いてない 以上
    二月|十《原》日               夏目金之助
   坂 元 樣
 
      九八五
 
 二月十七日 水 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 
 拜啓友人生田長江氏今般ニイチエの代表的作物ザラツストラ全部の翻譯を思ひ立ち候に就ては右出版の件につき貴堂を煩はし度旨依頼有之候につき御紹介申上候。どうぞ御面會の上御相談被下度候。此間の御話では翻譯ものはちと御迷惑の樣なりしもザラツストラは少部分竹風君によつて翻譯せられたるのみにてまだ何人も手を着けて居らぬ樣子故如何かと存じ一寸申上候 以上
    二月十七日                 夏目金之助
   本多直次郎樣
 
      九八六
 
 二月二十二日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區元數寄屋町三太平洋通信サンデー發行所内安成二郎へ
 昨日はサンデーへの談話の件につきわざ/\御來訪の處多忙中不盡其意遺憾に存じ候間あらためて手紙にて小生の考を申上候
 近來雜誌に諸家の談話を掲載する事流行なれどあけて見るとつまらぬもの多く購買者は色々な名が行列して居るのでだまされて買ふと一般に候。甚だよろしからぬ弊風と存候。それからもう一つは青年子弟があんな馬鹿氣た談話を見て所謂文學者の談話意見とはこんなものかと思ひ込みたまはゞ骨の折れた研究に價する論文抔が出ても始めから面倒がつて眼さへ觸れぬ事に候。是は雜誌にも責任あれどはなす方にも責任有之小生は深く此無責任の談話をはづるの結果從來の行掛上不得已特別の關係ある雜誌にあらねばはなしを御免蒙る方針を立て候。それからもう一つは自分がいそがしくて一々雜誌記者に談話をして居る事が出來ぬのも源因の一つに候。時々談話に誤謬があつて人に迷惑を及ぼすのも源因に候。
 右の諸事情からして一應御斷り致候譯なれど木曜に御出を願つて講釋をするがものはなく候故手紙にて右の主意を申上候。あしからず 馬場君へもよろしく 草々
    二十一日                  夏目金之助
   安 成 二 郎 樣
 
      九八七
 
 二月二十三日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區元數寄屋町三太平洋通信サンデー發行所内安成二郎へ
 拜啓再應の御手紙拜見致候小生の特別の縁故ある雜誌と申すはホトヽギス其他二三從來の關係上已を得ざるものを指す意味に候。其他の雜誌はさきに申上たる理由にて今度より段々御斷わりを致さうと決心せる矢先故甚だ御氣の毒なれど談話は掲載の義は御容赦にあつかり度と存候。小生身心閑適にて充分自己の意見をまとめて一々訪問記者の御滿足にある樣出來候へば始めよりかかる氣の毒な事は誰にも口外せずして濟む次第に御座候其邊は御承知被下度候 以上
    二月二十三日                夏目金之助
   安 成 二 郎 樣
 
      九八八
 
 二月二十四日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 俳諧趣味とか俳句に對する君の考とかは黙つてゐた方がいゝ。俳句を研究する人に任せべき事だ。夫より有益な大問題はいくらでもごろ/\してゐる。尤も特別の考あれば無異義。俳人何ぞ君の俳論ヲキクヲ要セン
 
      九八九
 
 三月一日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂へ〔はがき〕
 啓「三四郎」原稿校正は小宮氏に依頼の處都合により牛込區早稻田南町五十一西村誠三郎氏に依頼變へ致し候につき校正は同氏方へ御廻送願上候 以上
    三月一日
 
      九九〇
 
 三月三日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市山下町三六五佐藤平蔵方皆川正※[示+喜]へ
 拝啓御地は暖國だから梅抔もとうから咲いたらう。當地は今が盛なれど町内には一本もない樣也。見に行く所もないうちに散つて仕舞ひさうだ。今日は御節句で長閑で好い心持だ。然し風が強くて不可ん。小松原が今朝立ったので新橋迄送りに行つた。歸りに丸善へ寄つて佛蘭西の小説(英譯)を三四冊買つて歸つた。丸善の通は改正で見違へる様になりつゝある。
 ザボンの鑵詰着難有う。細かに切つて食つてゐる。あれは甘ひものだが澤山食ふと胃の毒だね。近頃葡萄酒を食毎に呑んでゐる
 此一週間程少々心地が閑適で生命が延びつゝある。それに春風が何よりの薬だ。鶯が時々鳴く、あれは好いものだ。西洋人は知らないものだ。文學評論が一週位すると出來る。上げるから學生に紹介して呉れ玉へ。
 野間は不相變丈夫の事だらう。久しく無沙汰をしてゐる。よろしく。此間坂牧善辰が来て教師を探してゐた。今日副島に逢つたら日本の美術を研究する男の顧問になつて鎌倉に居るさうだ。 草々
    三月三日                  金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      九九一
 
 三月七日 日 牛込區早稻田南町七より 相馬由也へ〔三月十三日『讀賣新聞』より〕
 拝啓、讀賣新聞新築落成の紀念を御出しになるさうですが、一つ盛んなやつを出して、みんなを驚ろかしたら好いでせう。私は尾崎紅葉氏が小説を書く時分に讀賣新聞を愛讀したもので、其の時分は私ばかりぢやない、うちのものが、みんな讀賣でなくつちや不可ない樣なことを云つてゐました。夫から全々御無沙汰をしてゐたが、何かの拍子で、三年許前から又拜見する事になつた。すると今度は日曜附録とかいふものに、私の人身攻撃が堂々と出るには少々面喰ひました。それで厭になつて讀賣新聞はもう御免蒙らうと思つたが、今迄の惰性でのんべんだらりんに、つい此間迄取つてゐました所へ、あなたが來て自分が五頁を編輯するからしばらく見ろと云つて、送つて下さるものだから、又當分の間拜見する事になつて、一ケ月許前迄は讀んで居りました。
 それから以後『讀賣』の事は一寸忘れてゐましたが先達て外國へ立つ友達を送つて新橋迄行つた歸りに、丸善へ廻らうと思つて、圖らず御社の前を通つて始めて氣が付いて見ると成程新築の建物が落成しかゝつてゐる。同時に紀念號と、あなたの事が又頭の中に浮んで來た。
 讀賣新聞は古い文學的な歴史を持つた好い新聞であります。新築と共に益々健全な發達を遂げらるゝのは私の切望する所で、あなたの編輯が、此健全な發達を助長せらるゝ事も私の大いに期待する所でありますから、一寸新築紀念號の御祝詞を申上ます。以上
    三月七日                 夏目金之助
 
      九九二
 
 三月十三日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 アンドレーフをならひてより急に獨乙語趣味が出た樣なれば此機に乘じて次の仕事に取りかゝる迄大いに勉強仕度、どうぞ日數を御ふやし下さい。尤も来月のホトヽギスに何か書くなら御掛念に及ばず
 
      九九三
 
 三月二十日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ〔はがき〕
 鳩の話早速拜見。面白く候すぐ虚子の手許へ廻し候來月は附録を出すとか出さぬとか申居候故都合によりては如何と思ひ候へども出來るならば掲載する樣|頼《原》ひ置候
 
      九九四
 
 三月二十四日〔四十二年?〕 牛込區早稻田南町七より 幣原坦へ〔うつし〕
 拜啓其後は御無音奉謝候偖小生の友人森次太郎君朝鮮の事に關して大兄に御尋ね致し度旨にて此手紙持參御伺ひ可申につきもし罷り出候はゞ御都合にて御面會の上御高話願度と存候先は右用事迄 艸々頓首
    三月二十四日                夏目金之助
   幣 原 坦 樣
 
      九九五
 
 三月二十九日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市下龍尾町一九一野間眞綱へ
 其後御無沙汰先達ては御親戚のものより御惠投の香爐御地産錫の盃一個と黒柿の杖正に拜受早速御禮状を出す筈の處當時「文學評論」出版の砌にてそれを一冊添へて手紙を書かうと思ひ居りたるに「文學評論」春陽堂から小生の方へ獻本せざる先に悉皆本屋の方へ廻したる爲め再版來るを待ちとう/\御無沙汰をせりいづれ二三日中には君と皆川君へ宛贈り候間御ひまもあらば御一覽學生へ御紹介を乞ふ。先日寺田寅彦外國へ留學星岡茶寮にて送別會相開き傳四も參り候。過日皆川よりザボンの砂糖漬到來早速禮状を出し候處もとの下宿へあてたる爲め屆かぬと覺え聞合せ參候へども其内宛名の下宿より屆けて呉れる事と存じ打遣り置きたり御面會の節右御傳可被下候。春暖落梅鶯啼の好時節御地は櫻さへ咲たる事と察せらる。一年の佳節すべからく遊樂すべく遙かに御勸め申候 以上
    三月二十九日                金之助
   眞 綱 樣
 
      九九六
 
 四月二日 金 前6-7 牛込區早稻田南町七より 千葉縣千葉町仁山堂病院内鈴木三重吉へ
 昨夜豐隆歸京君が醉拂ひになぐられて眼に創を拵らへたといふ警報に接し大に御氣の毒に思ひ居候。眼球の故障の方は心配なき由につき先々安心なれどわるくすると藪睨みの悲運に廻り合ふやも知れぬ由隨分精出して御療治可然かと存候。好男子惜むらくは遠近を知らず抔とあつては甚だ心細く候。
 豐隆申候には「三重吉が眞面目くさつて、どうも私の不徳の致す所だ……」といつたとて大いに笑ひ候。私の不徳の致す所は近來の大出來と存候。
 此間中より食傷の結果胃痛にて困難罷在候。三四日蟄居の體何か持つて御見舞に上り度れど、どうも其内には退院になりさうであるから一先づ手紙を以て御左右を伺ひ奉る。
 草平大怪?を揚げてやに下り居候。大兄も何か一つ我黨の爲に御書き被成度候。豐隆アンドレーフ論をホトヽギスに送り候。小生は豐隆にアンドレーフを教はり居候 以上
    三月三十一日〔封筒の裏には四月一日とあり〕
                        金之助
   三 重 吉 樣
 
      九九七
 
 四月三日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 金澤市櫻畠九番町一九大谷正信へ
 春暖の候愈御清適奉賀候。其後は存外御無音に打過申譯無之候。過日文學評論出來の節早速一部進呈の積の所初版は賣切とかにて漸く手元へ一部持參致したる迄にて其他は今日に至る迄いまだ納本仕らず從つて諸君へも未だ寄贈の運に至らざりし處御地にて態々御購求御一覽を賜はり候のみならずとくに御推奨の辭を辱ふし加之御叮嚀に誤植の表迄も御示しにあづかり感佩此事に候。萬事行屆かぬ事多く自分にも不滿足の箇所多く有之候へども若し御氣付の所も有之候へば御示教にあづかり度と存候
 永日小品はなぜ東京へ載せなくなり候や小生にも分らず候。四月下旬より又大阪の方へ少し續くものをたのまれ執筆〔の〕都合につき御讀被下候へば幸甚に候。東京の方は煤烟のあとを與謝野鐵幹がかきそのあとを小生がかくべき役割の樣に承はり候右御禮旁御返事迄 草々不一
    四月三日                  金之助
   繞 石 兄
       座下
 折角の御訂正二版には間に合かね候。もし三版も出る好機も有之ば御厚志を利用致し度と存候
 
      九九八
 
 四月三日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 拜啓かねて大學在職中にやつた講義ののこりものを又出版したから御覽に入れる。もう是で大學に縁のあるものはなくなつた。大學は君の周旋で這入つた處だから夫が縁故で出來た著書は皆君が間接に書かした樣なものだから記念の爲め一部机右に御備へ置を願ひたい。中は讀んでも讀まなくてもいゝが可相成は讀んでくれる方がいゝ。さうして批評をしてくれゝば猶結構である 艸々
    四月三日                   金之助
   大 塚 樣
 先達て奥さんが御出の節文學評論が一部欲しいと仰しやつたさうだがもし別に今一部御入用なら、まだ二三部あるから夫を獻上してもいゝ。然し君にあげれば大抵よからうと思つて一部にして置いた。よろしく
 
      九九九
 
 四月三日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町二丁目内田貢へ〔うつし〕
 拜啓御無沙汰恐縮致候 文學評論と申す本を春陽堂より出版致候につき一部御目にかけ度小包にて差出候間御落手被下度候 背の字と石摺樣の文字は濱村藏のかけるもの漱石山房の印は大直大我といふ爺さんの刻せるものに候。何とか趣向も候へども一向妙案もなく通俗なるラシヤ紙とトリノコにて相濟し候何れ拜眉萬縷可申述候 草々頓首
    四月三日                  金之助
   魯 庵 樣
 
      一〇〇〇
 
 四月十二日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 千葉縣千葉町仁山堂病院内鈴木三重吉へ
 拜啓御病氣漸次御回復結構に候入院其他の費用嵩み御困難の由承知御無心の五十圓ちと辟易なれど外の事にも無之兩三日に御迭附可申につき御安心御療養可然候。大阪へ今月末から小説をかく約束あり何にも履行する了見起らず。花が咲く所爲と存候
 小宮の評論中々タチよろしく候當地にても眞面目な人には評判よき方結構に候。森田のも世間では大分もてゝ居る由。
 先は右迄 草々
    十一日                    金之助
   三 重 吉 樣
 咋今風にて上野の花大分散り候よしに承はり候澤山錢をもつて湯治に參り度と存候
 今日散歩の歸りに鰹節屋を見たら亭主と覺しきもの妙な顔をして小生を眺め居候。果して然らば甚だ氣の毒の感を起し候。其顔に何だか憐れ有之候。定めて女房に惚れてゐる事と存じ是からは御神さんを餘り見ぬ事に取極め申候
 右は序迄餘は拜眉に讓る
 
      一〇〇一
 
 四月十九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内坂元三郎へ
 御手紙の趣承知せり六月十日より掲載となつては大分切迫の感あり。出來る丈大塚さんを延ばす御運動を乞ふ
 小生かくものは長短不定なり。(長い方の御注文なれど)短かければ年内に分量的に勘定の立つ樣に何遍もかく積也右迄 草々
    四月十九日                  夏目金之助
   坂元三郎樣
 
      一〇〇二
 
 四月二十二日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内坂元三郎へ
 拜啓森田草平の煤烟は社へ掲載の約束なりたる當時原稿料は大塚氏のそらだき同樣にてよろしきやとの澁川氏の問に對し承知の旨を答へ置候。
 そらだき原稿料は一回四圓五十錢と記憶致し候が間違に御座候や
 本日森田參り社へ稿料をもらひに行つたら煤烟は一回參圓五十錢なる故最早渡すべき金なしと山本君より言はれたる由
 それで小生の考と原稿料の點に於て少々矛盾相生じ候。もしそらだきが一回參圓五十錢ならば小生の覺え違草平に對して小生の責任に候が小生は四圓五十錢と記憶致居候につき念の爲め御問合せ申候。御多忙中恐縮なれど一寸御しらべの上御一報願度候 以上
    四月二十二日                夏目金之助
   坂|本《原》三郎樣
 
      一〇〇三
 
 四月二十四日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町三一雄集館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜復急用なればいつでもよろし急がずば木曜の都合の好い時に御出可被成候文學評論を一部上げでも好いが忙がしくて讀めないだらう
 
      ー〇〇四
 
 四月二十四日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 千葉縣千葉町仁山堂病院内鈴木三重吉へ
 拜啓病氣漸々御快復奉賀候當日麗日好風嚢中無一物にして何となく表をあるきたき心なり
 草平一回分參圓五十錢のを四圓五十餞と間違へ朝日へ原稿料をとりに行つて拒絶を食ひ蒼く成居候是は實は小生の記|臆《原》違より出づ。滑稽よりも氣の毒なり。〆て百圓程の損
 小宮のアンドレーフ論を御褒めのよし是から褒める時は可成公共の機關を利用して天下に廣告ありたし。國文の文學欄抔至極よろしからん。由來吾黨の士は内々で褒めてゐる許だから戰國亂世の今日には丸で無能力と一般に候。彼徒のなす所を見ると敵の機關を借りて迄傍若無人の法螺を叩き居候。あれ程押が強くなければ日糖事件の今日には文士として通用致さぬにて候
 小説は大阪へ出すにて候。まだ一回も書かず候。何だか如是閑と申す男が?といふ標題で今しきりに書いて居り候。其あとへでも載せる氣にや一向催促も參らず候。然し小生ももう書き始める積りに候唯何を書いてよきか分らぬ丈に候
 細君子宮内膜炎、ヱイ子肺炎、アイ子純一風邪、家内不安全 一時は當惑、小生も精神過勞にて陰莖内膜炎にでもなりさうな氣が致したり。現今諸人平癒に向び候。漸く安堵
 遲櫻、山吹 若芽甚だ快適 以上
    四月二十四日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一〇〇五
 
 五月三日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市第七高等學校野間眞綱へ
 追々暖かに成候御機嫌の事と存候先日手紙にて御問合せの件松根東洋城に相談致候處御引受致してもよろしくとの事故玉稿同人方へ御廻付可然候住所は赤坂表町一丁目貳番地山口方に候先は用事迄 草々
    五月|二《原》十五日             金之助
   眞 綱 樣
 
      一〇〇六
 
 五月三日 月 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓先日御話申候文學評論誤植以序差出置候間改版の節何とか御工夫被下度候右用事迄 草々頓首
    五月三日                   夏目金之助
   本多嘯月樣
 
      一〇〇七
 
 五月七日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市長田町城ケ谷一二一林久男へ
 其後達者にて御暮し奉賀候時々は薩摩へ行つて櫻島が見度なり候ものゝ其日々々に追はれると是も夢に候砂糖漬わざ/\御送り被下難有拜受此間皆川からも貰ひ候あのザボンの砂糖漬の偉大なるには驚き候西郷隆盛の砂糖漬の樣なものに候「三四郎」不日出來につき出來たら御返禮に差上度と存候
 右御禮迄 草々
    五月七日                  夏目金之助
   林 久男樣
 小宮は徴兵の件にて郷里へ歸り候御婆さんは食物を食はず腹を下して可成からだを疲らして歸つて來いと云つて來た由さうして其手紙を書留〔二字右○〕にして小宮へ送つた由愛嬌に御座候
 
      一〇〇八
 
 五月九日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ
 拜復安倍能|勢《〔成〕》宇宙の評をかく由結構に候。あれはどこで〔も〕評をせず。不都合に候。帝文に内田夕闇といふ人有之あの人の方が天弦より理窟の云へる樣に御座候。序に御依頼如何に候や。美學に乙骨三郎といふ人有之時々書いてもらつたら面白い事があるかも知れないと存候。其他澤山あるべく候。親類にごた/\ある由御面倒御察し申候。小生愈小説にかゝらねばならぬと存じバザンの小説を二卷よみ候いづれも駄作に候。 右迄 草々
    五月八日夜                   金之助
   豐一郎樣
 
      一〇〇九
 
 五月二十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ〔はがき〕
 拜啓「三四郎」出來につき一部進呈仕候御落掌被下度候 草々
    五月二十三日
 
      一〇一〇
 
 五月二十三日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區彌生町三と九渡邊方栗原元吉へ〔はがき〕
 
 拜啓大兄はわざ/\文學評論を買つて御よみ被下候由感謝致候「三四郎」出來につき一部進呈仕候草々
 
      一〇一一
 
 五月二十四日 月 後6-7 坪内雄藏、内田貢へ〔うつし〕
 拜啓二葉亭氏船中にて逝去の由御同樣痛嘆至に不堪候右につき同氏に對する諸家の感想御取集御刊行の由結構に存候然る處小生は同氏とは同社員の間柄にも不關交際極めて淺く前後僅かに三四回程面談其うち差向にて對座せるは單に一回に候、いたづらに杜撰の文字を弄して故人を傷けもしては自己を語るも何となく不愉快に御座候右の事情につき折角の御計畫なれど小生は故人を語る資格なきものと覺へ候御容赦願候右御返事迄草々
    五月二十四日                夏目金之助
   坪内雄藏樣
 
      一〇一二
 
 五月二十五日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 赤坂區仲町一九橋口清へ
 拜啓先達ては多勢まかり出御邪魔致候三四郎御盡力にて漸く出版難有存候
 表紙の色模樣の色及び兩者の配合の具合よろしく候
 然し文字は背も表紙もともに不出來かと存候
 小生金石文字の嗜好なく全く文盲なれど畫家にはある程度|度《原》此種の研究必要かと存候、尤も大作を以て任ずる大兄に對して插畫家もしくは圖案家に對する注文抔持出しては御叱りあるべけれど、此は研究のみならず娯樂としても充分面白き業かとも存候。
 不取敢御禮旁無遠慮なる惡口申上候失禮御ゆるし可被下候 以上
    五月二十五日                夏目金之助
   橋 口 清 樣
 二伸 御令兄へよろしく御傳聲先達拜見の畫皆々面白く存じ候
 
      一〇一三
 
 五月二十八日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 金澤市櫻畠九番町一九大谷正信へ
 拜啓三四郎の切拔態々御送被下難有御禮申上候あれは進呈本の代りに小生方に記念として所藏可致候又々小説に取りかゝらねばならぬ事と相成候。來月末より東京大阪雙方へ掲載の筈に御座候。先便中の下旬と申候は都合により延期致候ものに有之候
 先不取敢御禮迄 草々頓首
    五月二十八日                 金之助
   繞 石 老 兄
 
      一〇一四
 
 六月二日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 横濱市根岸町三六二二久内清孝へ〔はがき〕
 拜啓御惠送のピツクルス二瓶着難有拜受致候右不取敢御禮迄申上候。文學評論御通讀被下拜謝此事に候
 
      一〇一五
 
 六月四日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
    舌  代
 菓子少々御目にかけ候につき御つまみ被下度候 以上
    四日                    夏目金之助
   飯田政良樣
 
      一〇一六
 
 六月十二日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓大塚女子のあとの小説掲載の日どり御報知奉謝候
 小生の小説の名は「それから」と申候今月二十〔日〕前後に二三十回纏めて御送附可致候
 「それから」は大阪と交渉まとまり東朝と同日より向ふにても掲載の筈につき右御含みの上可然御取計願上候
 豫告の文字必用なれば五六行相認め可申候さらずばたゞ「それから」丈を御豫告願候
 右用事迄 草々頓首
    六月十二日                 夏目金之助
   東朝社會部
    山 本 樣
 
      一〇一七
 
 六月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復
 「それから」の豫告別紙認め候、可然御取計願上候。大阪へは小説の名前通知致し置かず候故豫告文とともに御廻し願上候
 原稿は十八九日迄に出來た丈可差出候 草々
    十二日夜                   夏目金之助
   社會部主任
    山 本 樣
 
      一〇一八
 
 六月十二日 土 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓京都大學圖書館長島文次郎氏より別紙の如く申來候については甚だ御面倒ながら文學評論一部御堂より同氏宛にて京都大學へ御寄贈被下度候右用事迄 草々頓首
    六月十二日                  夏目金之助
   本多直次郎樣
 
      一〇一九
 
 六月二十二日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓
 別紙萬朝の召波たまね君より參りました。御一覽の上差支がなければ都合の好い時に御載せ下さい。
 御手數を煩はして濟みません
 此會には私もたのまれて關係があるから頼んで來たのであります 草々
    六月二十二日                 夏目金之助
   山 本 樣
 
      一〇二〇
 
 七月一日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 其後は意外の御無沙汰益御健勝の事と存候横濱は開港五十年祭で大變な賑はひの由大分面白からうと只でさへ出掛て見たき心持に候
 昨日は御招きの御手紙を頂戴御親切の段鳴謝致候
 家のもの《書生》は行つて御覽なさいと勸め候小生も行きたく候然るに例の如く只今小説起草の低氣壓を感じ新聞より肉薄を受け居る最中其上客抔參ると一日つぶされる。昨日抔も音樂の先生が朝から晩迄居つた爲め今日はせめて一回でも埋合せをせねばならぬと氣を焦ち候。
 あなたの招いて下さる時は何か故障があつて何時でも快よく參上した覺がない私も甚だ遺憾に思つてゐます。が今度も右の譯故斷念します、もう一ケ月もすると小説を書き上げてしばらくは樂になります其時もし機會でもあつたら御目にかゝりたいと思つてゐます
 あなたに歌舞伎へさそはれ|と《原》事があるが此間とう/\行つて芝居を見ました。不折も行きました。不折も私も素人だから面白い。ツンボが蓄音機を買ふ樣なものですな。草々
    七月一日                    金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一〇二一
 
 七月五日 月 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ
 拜啓國民文學原稿料拜受
 水上|齋《〔齊〕》の原稿をたのまれて虚子に紹介し置きたる處別紙端書到着につき一寸高濱君に御聞合せ願度候
 あれは多分駄目と思ふ虚子多忙なら一寸見てやつてくれ玉へいけなければ水上へ返してやつて呉れ玉へ 以上
    七月五日                    金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一〇二二
 
 七月六日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜復
 「三四郎」を包んで畔柳都太郎樣といつもの如く書いて置いたら森卷吉が來て奪つて行つた事は慥也本人をつらまへて御糺明被下たし。
 實は拙著をやる所はいつでもやり、やらぬ所はいつでも遣らぬ故今度は少し方針を易へて今迄の人を拔いたる趣也。其故知何となれば。――
 あまり小生の本ばかり貰つても持て餘す連中あるべし。引越の時厄介だ抔といふ人が出來てもつまらないから少々此方で遠慮しやうと云ふデリカシーなり。然るに大兄は御迷惑でなき由そこが明らかなれば是からの著書を必ず一部づゝ進呈仕るべし。其代り御保存の責任は無論有之候。今一ケ所から君同樣の苦情を擔ぎ込まれたり。
 若杉三郎なるものは、あなたの作つたものは屹度一冊宛下さいと約束を逼り候。此方がやる方では先方の意志明瞭にて都合よろしく候。
 本屋に申付御送可取計候。もし又中に何か書く必要あらば序を以て認むべく候 草々以上
    七月六日                   金之助
   芥 舟 先 生
 
      一〇二三
 
 七月六日 火 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ
 拜啓甚だ申かね候へども「三四郎」を赤坂區表町一丁目二番地松根豐次郎方と、夫から本郷西片町十畔柳都太郎方と、二ケ所へ一部づゝ御送り被下度願上候。毎度御手數恐縮致候 以上
    七月六日                   夏目金之助
   本多嘯月樣
 
      一〇二四
 
 七月八日 木 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 美學の會へは僕の方が傍聽に出たいと思つてゐる。御話し抔はとても出來さうもない。
 拜復
 文學評論を通讀して呉れて寔とに難有い。其上わざ/\批評を書いて貰つて濟まない。大變に過重な褒辭を得て少々辟易するが矢張り嬉しい。それから惡い所をもつと色々指摘してもらひたかつた。もつと無遠慮に僕の參考になる樣に云つてくれると猶よかつた。がそれは忙がしい君に望むのは僕の方の無理かも知れない。
 國民の野上が君の所に文學評論の印象を聞きに行つたら君は斷はつた。其手紙を僕に見せた。僕も仕方なしにその儘にして置いた。
 實はあれを國民文學へ出したい。君も別段異存もあるまいと思ふから、失敬だけれど專斷で送る。
 何故送るといふと矢張り自分の書物を廣告したいといふ事に歸着するが、もう一つは君の意見を公衆の參考にしたい。(そこでもつと僕の缺點があげてあれば結構だと云つたのである。)
 君の所に御産があつた樣に聞く。奥さんも赤坊も御壯健ならん事を祈る。菅の細君病氣長びき困却の樣子。僕其後未だ逢はず。
 また小説をかき始めて多忙御目にかゝつたら萬々不取敢御禮旁御願迄 草々
    七月七日                    金之助
   大 塚 樣
 書いて仕舞つて考へると私書を無斷で出すのもわるい樣だ。もし不可なら、端書を一本くれ玉へ。國民の方へ通知ヲ出ス
 
      一〇二五
 
 七月十五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓別封の如きもの小生の手許へ參り候。大兄とは直接關係なけれど一寸面白き故御目にかけ候。封入の爲替は販賣部へ御廻し可然御取計の程本人の爲に願上候 草々頓首
    七月十五日                    金之助
   山 本 樣
 
      一〇二六
 
 七月十五日 木 牛込區早稻田南町七より 岡山市古京町内田榮造へ
 拜啓御手紙と玉稿到着致候直ちに拜見の上何分の御批評可申上筈の處只今拙稿起草中にて多忙故夫が濟む迄しばらく御待被下度候
 尤もホトヽギス掲載方御希望につき原稿は虚子の方へ一應廻付致し可申候虚子が適當と思へば此次位に載せるならんと存候へども其邊は編輯の權なき小生には何とも申しかね候
 右御返事迄 草々
   七月十五日                 夏目金之助
  内田榮造樣
 
      一〇二七
 
 七月十八日 日 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 拜啓
 三島霜川といふ人はいゝ人だけれども金の事は丸で當にならないさうである。此間中村武羅夫に逢つたらあの人に頼んぢや駄目だといつて居た。其時徳田秋聲なら好いと云つた。
 もしつてがあるなら徳田君にでも逢つて見給へ
 ホト、ギスへも出來るなら周旋する事は出來る。が夫は物次第である。
 金を五圓上げるから又湯にでも這入つて氷水でも呑み給へ 草々
    七月十八日                夏目金之助
   飯田青凉樣
 
      一〇二八
 
 七月二十日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ〔はがき〕
 秋骨先生僕の文學評論の評を二六へかいてくれた由二六はとつてゐず。御面倒ながら君の所にあるのを切拔いてくれ玉はぬか 以上。
 今日は稍涼し大慶
 
      一〇二九
 
 七月二十六日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 千葉縣北條字八幡江戸屋畔柳都太郎へ
 御手紙拜見
 避暑結構小生書齋にて執筆中々暑い事に候。昨日齋藤阿具青木昌吉兩氏參り夕刻迄談話二人とも○○○○○○○○○○○○○糞の如く申しゐたり。是はたしか大兄も御嫌の一人故とくに御吹聽に及び候。
 「それから」の主人公は小生だとの御斷定拜承所があの代助なるものが姦通を致しさうにて弱り候。小生にもそんな趣味があれば別段抗議を申入るゝ勇氣も無之候
 大塚の文學評論評は局部々々に小生の妙に思ふ所有之。然し大塚の樣な無精ものが書いてくれた事故大いに感謝の意を表し居候。秋骨は二六に書いてくれ候。
 大塚は重箱の如くキチンとしたる頭の男に候。形式家としては整然たるものに候。面白い説を吐く人としては一寸推服致しがたかるべきか。尤も夫程大塚のものを讀まぬ故何とも申しがたし。一日も早く此説を正誤致し度考に候。
 森卷吉は沼津に參り候。小生小供の爲にピアノを買はせられ候。ピン/\ポン/\中々好音を發し申候
    七月二十六日                  金
   芥 舟 先 生
 大學の英文に井上十吉氏入る由高等學校の方は如何
 
      一〇三〇
 
 八月三日 火 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ
 御手紙拜見
 折角だけれども今借して上げる金はない。家賃なんか構やしないから放つて置き給へ。僕の親類に不幸があつてそれの葬式其他の費用を少し辨じてやつた。今はうちには何にもない。僕の紙入にあれば上げるが夫もからだ。
 君の原稿を本屋が延ばす如く君も家賃を延ばし玉へ。
 愚圖々々云つたら、取れた時上げるより外に致し方がありませんと取り合はずに置き給へ。
 君が惡いのぢやないから構はんぢやないか 草々
    八月一日                  夏目金之助
   飯田育凉樣
 紙入を見たら一圓あるから是で酒でも呑んで家主を退治玉へ
 
      一〇三一
 
 八月十六日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 千葉縣北條字八幡江戸屋畔柳都太郎へ
 拜啓當地暑氣少々ゆるみ稍凌ぎよく相成候。御地は如何。菅の細君長々病氣の處十五日死去氣の毒に存候。小供澤山にて大弱りの體。小生漸く小説脱稿是から讀書が出來る事と樂み居候雜誌のたまつたものを片付ける丈でも一仕事に候。森は教授になり先々結構。
 此近年避暑といふものをした事なく旅行を思ひ立つても時間の惜いのと金の惜し〔い〕ので成就せず。
 大倉といふ爺さんが朝日新聞記者にめしを食はして常盤津を聞かして是が私の道樂で御座いといふ樣な事を實例で示したのは大倉の口振ぢやないが好うがすな。外の奴より餘程洒落てゐる。朝日の記者は恐らく常盤津も何も分らない奴で辟易したんだらうと思ふ。其分らない所を分つた樣に書いたり振舞つたりしてゐるから、大倉の爺さんに舐められてゐるのみならず、讀者も少々氷魂先生を踏み倒したくなる。私はあの實業家廻りを面白く讀んでゐるあれは下手な小説を讀むより可うがすよ。國民には先達てから文士の遊び振りといふのが出てゐる。笹川臨風、田岡嶺雲、姉崎嘲風、樋口龍峽こと/”\く生捕られ候。御覽にや面白く候。
 エリスのセツクスの心理といふ本を二冊買ひ候。こんな本は讀んでゐるうちは面白くて讀んで仕舞ふと誰かに遣つても惜しくない種類のもの多く候。
 關東に大地震が有之候。寺田が立つ時近いうちに大きな地震があるかも知れませんと云つたが、果して豫言適中なり先づ/\我々は厄逃の氣味に候。
 ゆる/\御養生御歸京の上何れ御目にかゝり可申候 以上
    八月十六日                 金之助
   芥 舟 先 生
 
      一〇三二
 
 八月十九日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣御影町前川清二へ
 御手紙拜見致候御藏書小生の爲に御割愛被下候由難有仕合に存候頂戴可致候頂戴の上は御寄贈の御厚志に對し永く丁重に保存可致候右不取敢御返事迄 草々頓首
    八月十九日                 夏目金之助
   幾《原》川清二樣
 二伸小生不日旅行の積につき留守中に御受取の際は自然御禮状を忘るやも計りがたくにつき其邊は御容赦被下度候
 
      一〇三三
 
 八月二十四日 火 前6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ
 拜復小生病氣につきわざ/\御見舞状を頂き難有存候。小生は御承知の通り年來の胃弱なれど今回の如く急性カタルを起したるは始めてにて一時は嘔吐烈敷自分ながら生きてるのが厭になり候處うまくしたものにて今日位から少々人間の慾望出來此手紙も寐ながら書ける樣に相成候まづ/\御安心被下度候。大兄も少々腸胃の御加減よろしからぬ由隨分御養生專一と存候然し大兄の如く強壯無比のものは少しは腸胃病に冒さるゝ方色氣ありてよろしかるぺくと存候
 偖諸先生御招飲の件最初は「それから」執筆中次には荊妻臥蓐中第三には小生の病氣最後には滿洲旅行にて漸々順繰りに延引甚だ恐縮の至是はとくに此書面にて御詫を申上度と存候
 滿洲旅行は友人の勸めて參る事に相成滯在日子も不定なれど歸京の上は天地神明に誓つて前約履行の覺悟に候へば天高馬肥の時期に乘じ諸君子腹を抱いて御來駕被下候樣あらかじめ願置候
 右御禮旁御詫迄 草々不一
    八月二十三日                金之助
   中 島 樣
 
      一〇三四
 
 八月二十四日 火 牛込區早稻田南町七より 岡山市古京町内田榮造へ
 御手紙拜見老猫批評の件頓と失念致居候甚だ申譯なく存候小説脱稿後種々の用事重なり居候處へ急性胃カタールにりり臥蓐の爲め何やら蚊やら取紛れ申候あしからず御海恕願候
 蓐中早速「老猫」を拜見致候筆ツキ眞面目にて何の衒ふ處なくよろしく候。又自然の風物の敍し方も面白く思はれ候。たゞ一篇として通讀するに左程の興味を促がす事無之は事實に候。今少し御工夫可然か。尤も着筆の態度、觀察其他はあれにて結構に御座候へば其點は御心配御無用に候。虚子の評によれば面白からぬ樣に候へども小生の見る所は虚子よりも重く候。猶御奮励御述作の程希望致候
 花筵一枚御贈被下候由難有候小生病氣全快次第旅行にまかり出候につき留守中到着候節は御返事も怠り可申につき其邊はあしからず
 先は右御返事迄 草々頓首
    八月二十四日               夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一〇三五
 
 九月二日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞文學部編輯へ〔はがき〕
 是より出發す。風聞録に出立とある時は在京、見合せとあるとき時《原》は出京。噂と事實とは大概此位の差違あるべきか。ホトヽギス到着臼川君の鵜飼面白く候
    九月二日午後二時
 
      一〇三六
 
 九月七日 火 前11-後1 鐵嶺丸船中より 赤坂區田町二丁目一松根豐次郎へ〔繪はがき〕
 胃病如何。小生健全。今晩大連着。伊香保より航海の方愉快なるべし。もう山から御歸りの事と存じ候
    六日
 
      一〇三七
 
 九月七日 火 前11-後1 滿洲大連大和ホテルより 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
 只今大連着ヤマトホテルと云ふ旅舘につく。
    六日                  夏目金之助
 
      一〇三八
 
 九月七日 火 前11-後1 滿洲大連大和ホテルより 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔繪はがき〕
 君の風邪如何。小生の胃病大分よし。只今大連のヤマトホテル着。隣の室で西洋人の女がしきりにピヤノを彈じてゐる。
    六日午後七時
 
      一〇三九
 
 九月十三日 月 後11-12 滿洲大連大和ホテルより 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき 滿鐵總裁官舍〕
    九月十|四《原》日
 御前も無事。小供も丈夫の事と思ふ。此方にも別状なし。毎日見物やら、人が來るのでほとんど落付いてゐられず。昨夕は講演をたのまれ今夜も演説をしなければならない。中村の御蔭で色々な便宜を得た。西村へよろしく。其他の人にも宜敷
 〔裏に〕
 是は總裁中村是公の家。旅順の戰場を見て二泊昨日歸り。明十四日北の方へ向け出發の豫定。其後胃が時々いたい。此地は非常に晴れ具合の奇麗な處。
 
      一〇四〇
 
 九月十九日 日 大連長春線車中より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
 今十九日湯崗子と云ふ温泉發奉天に向ふ。同行舊友札幌農學校教授橋本左五郎氏
 久々にて御面會致し毎日愉快に同行致居候 橋本左五郎
 
      一〇四一
 
 九月二十一日 火 前11-後2 滿洲奉天※[さんずい+審]陽館より 千葉縣成田中學校鈴木三重吉へ〔繪はがき〕
 是からハルビンに行く積り歸りには朝鮮へ出る。歸る頃に遊びに出て來給へ。かうしてゐると文學だの小説だのといふ事は丸で頭の中から消えて仕舞ふ。
 〔裏に清國女優二名の寫眞あり〕
 こんなのは如何です
 
      一〇四二
 
 十月九日 土 前9-11 朝鮮京城旭町總督府官舍鈴木穆方より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
 三十日に京城に來て三四日で立たうと思つた所とう/\一週間程宿屋にゐた。七日の晩に穆さんの新官舍に移つてしばらく厄介になる。穆さんが切角親切に來い/\と云つてくれるからである。立派な清潔な家だ。穆さんは馬を二頭持つてゐる。日本なら男爵以上の生活だ。其うち歸る。
    十月九日                   金之助
 
      一〇四三
 
 十月九日 土 前9-11 朝鮮京城旭町總督府官舍鈴木穆方より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ〔繪はがき〕
    十月九日               京城 夏目金之助
 其後は御無沙汰去月三十日に來り未だ逗留二三日うちに立つ積り。雜誌屋に雜誌新着といふ赤いのぼりがあつたから這入つて見たら十月のホトヽギスと中央公論抔があつた。君の小説も小宮安倍抔の論文がある。讀まうと思つてまだ讀まない。朝鮮は好い天氣の國だ。
  秋晴や山の上なる一つ松
  諸君へよろしく
 
      一〇四四
 
 十月九日 土 前9-11 朝鮮京城旭町總督府官舍鈴木穆方より 神田區錦町三丁目錦城中學校野村傳四へ〔繪はがき〕
 君が鹿兒島から歸る前に僕は滿洲に旅行した。今京城に來て朝鮮人を毎日見てゐる。京城は山があつて松があつて好い處だ。日本人が多いので内地にゐると同樣である。
    十月九日                 夏目金之助
 
      一〇四五
 
 十月十九日 火 前6-17 牛込區早稻田南町七より 麹町區下二番町三〇野村傳四へ〔はがき〕
 僕は昨朝歸つた君は病氣の由大切に御養生をなさい。御見やげは何にもない。癒つたら來給へ。方々へ禮状を出すので忙がしくて困る
 
      一〇四六
 
 十月十九日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 滿洲旅順警視總長佐藤友熊へ
 拜啓東京へ歸つて見たら急に雨が降り出した忽ち寒くなつて困る。旅順の天氣はまだ朗だらうと思ふ。昨日君の所へ端書をかいてあとはゆつくり長い手紙を書かうと思ふ所へ今日例の君に依頼して通譯にでもと思つた男が來た。其人は別紙の如き履歴の人だが實は今度旅順の三澗堡といふ所の公學堂が明いたので大久保とかいふ人の周旋で其方へ出る運動をしてゐるがどうか白仁さんに頼んでくれといふ。僕いふ白仁君より先達て君の話をして置いた佐藤君に頼んでやらう。
 そこで君は教育掛の男ではあるまいがもし序もあらばよろしく口添を願ひたい。
 夫から當人に通譯志望の意志あるや否やを聞いた處、通譯でも公學堂でもどつちでも早く出來る方がいゝとしきりに依頼した。さう云ふ譯だからどうぞよろしく願ひたい。通譯なら可成出來る樣に云つてゐた。ことに監獄上の言語は悉く調べたさうだ。
 君の子供は丈夫かよろしく云つてくれ。鶉は結構だつた。朝餐の御馳走に呼ばれたのは生れてあれが二度目だつた。
 僕は旅行中胃カタールで非常に難義をした。是から少々靜養だ 先は以上
    十月十九日                金之助
   友 熊 樣
 
      一〇四七
 
 十月十九日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 韓國釜山南濱井本靖憲へ
 拜啓釜山にて御所望の短冊寸閑をぬすみ別葉に認め差出候御落掌願上候天長節の句は今出來ぬ故差上げず候 あしからず 草々頓首
    十月十九日                夏目金之助
   井本靖憲樣
 
      一〇四八
 
 十月二十二日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 朝鮮京城通信管理局官舍矢野義二郎へ
 矢野君京城では色々御世話になつて難有かつた御蔭で方々見物が出來て萬事好都合であつた。釜山では草梁から矢野君が※[さんずい+氣]車へ乘つて船迄案内して呉れた。僕は此間一寸電報をかけた通り去る十七日歸つた。胃はまだ惡いことによれば一つ洗滌して見樣かと思ふ。
 御禮といふ程のものでもないが今日小包を一つ出したから受取つて呉れ玉へ
 奥さんによろしく
 右口上迄 草々
    十月二十二日                夏目金之助
   矢野義二郎樣
 
      一〇四九
 
 十月三十日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪市天下茶屋遊園地遠藤方長谷川萬次郎へ
 拜啓
 濱寺では御馳走になりました。あの時向坐敷の小僧が欄に倚つて反吐をはく處は實に面白かつた。こゝに御禮として淺草海苔二鑵を小包にて呈上すどうぞ御受取被下。小供がいたづらをして一つの箱の賠紙を剥がして仕舞ひました 以上
    十月三十日                  金之助
   如是閑樣
 
      一〇五〇
 
 十月末〔?〕 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
  〔初めの部分切れてなし、漱石山房原稿用紙第七頁より始まる〕
 區劃をなして居る自治團の樣なものであります。夫から營口へ行つた時も捕まつて同所の倶樂部で講演をする事になりました何れも一時間位の長さのものです。奉天でも相談を受けましたが日取が一日狂つた爲めとう/\逃れました。京城でも切に望まれましたが、何しろプログラムが切り詰めてあるのと、少時でも宅にゐると人が來たり電話が掛つたり碌々飯も落ち付いて食はれない有樣だつたので、依頼者も斷念して歸りました。
 講演以外に苦しんだのは字を書く事です。字は下手だと云つても承知せず句は作らないと斷つても容して呉れず。甚だ辟易しました。ある所では宿屋の御神さんに是非書いて行けと責められて已を得ず宿帳の樣なものに分らな〔い〕事を書いて置いて來ました。京城にそれから會と云ふのがあつて、其會員は娯樂の一法として歌留多をやるさうですが、百人一首を讀む前に何でも一首別の歌を朗讀して音聲を調へるんださうです。所が會の名がそれから會丈あつて、此會員は是非私に其|空《から》歌と云ふのを作つて呉れと云ふんです。私は生れて歌なんかよんだ覺はないが、何しろそれから會の名に對しても濟まぬ事と思つて、とう/\三首程短冊に書いて置いて來ました。其歌ですか歌は斯う云ふんです。名歌だから御聞きなさい。
  高麗百濟新羅の國を我行けば
       我行く方に秋の白雲
  草茂る宮居の迹を一人行けば
       礎を吹く高麗の秋風
  肌寒くなりまさる夜の窓の外に
       雨を欺くボプラアの音
 ボプラアですか。えゝ彼地《あつち》には澤山あります。
 此度旅行して感心したのは日本人は進取の氣象に富んでゐて貧乏世帶ながら分相應に何處迄も發展して行くと云ふ事實と之に伴ふ經營者の氣概であります。滿韓を遊歴して見ると成程日本人は頼母しい國民だと云ふ氣が起〔以下缺〕
 
      一〇五一
 
 十一月六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内池邊吉太郎へ
 拜啓先夜は長座失禮致候
 鏡花子のあとの小説はまづ森鴎外氏を煩はしてみる積に候或は出來ぬかも知れず候へども其節は又何とか致す了見に候
 滿韓ところ/”\此間の御相談にてあとをかくべく御約束致候處伊藤公が死ぬ、キチナーが來る、國葬がある、大演習がある。――三頁はいつあくか分らず。讀者も滿韓ところ/”\を忘れ小生も氣が拔ける次第故只今澁川君の手許にてたまりゐる二三回分にてまづ御免を蒙る事に致し度候
 右用事迄 草々
    十一月六日                 金之助
   池 邊 樣
 
      一〇五二
 
 十一月七日 日 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區日吉町國民新聞社内野上豐一郎へ〔はがき〕
 虚子から催促された夢の如しの評入御覽候。願くは一日に御掲載願候先達停車場|へ《原》四方太に逢つたら同人よりも何か書けと云はれ候 以上
    十《原》月七日
 
      一〇五三
 
 十一月九日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ
 拜啓御手紙わざ/\病中に御認め御厚意難有候露語通譯の件は只今手紙にて中村へ申つかはし候處御推擧の人物はもし先方より何とか申來候節は慥かに申開べく候
 普樂會へは娘をつれてフロツクで出掛ました。ソソツカシイので本郷の中央會堂へ行つて仕舞ました。夫から又三崎町へ取つて返した處幸まだ開會に至らず。こと/”\く拜聽の榮を得候。小生音樂の耳なく甚だ遺憾たゞ面白く聞いたには相違なけれど恐らく何を聞いても同程度に面白い位の耳なるべく寺田を連れて行かなかつたのを殘念に思ひ居候。いくら文學者でも此位の耳では音樂會を天下に吹聽するの勇氣乏しく候
 西村はとう/\大連へ參り候在京中は色々御世話になりました。
 音樂會の切符を三枚買つた處第三女が連れて行つて呉れといふので連れて行きました。切符が一枚足りないから斷つてゐるとそこへもと英文科で教へた人が出て來てなによろしう御座いますといつて入れてくれました。幸田、楠、頼母木等の諸先生が見えました。シーモアと云ふ異人もゐました。然しもう少し人を呼びたかつた樣です。然らずんばみんなよりぬきの鑑賞家丈をあつめたかつた。私の樣なものがあの中に交るのは何だか氣の毒ですが或は私同樣の彌次馬が這入つてゐるかも知れません。其彌次馬を勘定に入れてあの位の入りなんだから氣の毒です
 粟餅で發熟したのは珍らしくて愛嬌があります。私はいそがしいから是でやめますあなたの病氣見舞の代りに此手紙を書きます 頓首
    十一月九日               夏目金之助
   中島六郎樣
 
      一〇五四
 
 十一月二十日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 拜啓其後は御無沙汰滿韓より歸りて一寸伺ふ筈の處不相變多忙にて失禮致居候
 さて思ひも寄らぬ事と御驚きならんが實は今度朝日新聞に文藝欄といふを開店し二十五日頃より始めるに就ては僕の友人などより話をきゝ又は原稿をもらつて文藝の時事に關する事を記載しなければ立ち行かぬ事と相成たるにより、どうぞ御迷惑でも此男に逢つてやつてくれ玉へ是は森田草平といつて、僕自身拜趨萬事願ふ所を多忙だから代理に頼むのである。
 委細は森田より御聞取、朝日文藝欄のスベシアル・コントリビユーターとなる事を兎に角御承認を願ふ
 いづれ拜眉萬々 艸々頓首
    十一月二十日               夏目金之助
   大 塚 樣
 
      一〇五五
 
 十一月二十日 土 永井壯吉へ
 拜啓御名前は度々御著作及西村などより承はり居り候處未だ拜顔の機を得ず遺憾の至に御座候
 次今回は森田草平を通じて御無理御願申上候處早速御引受被下深謝の至に不堪候只今逗子地方にて御執筆のよし承知致候御完成の日を待ち拜顔の榮を樂み居候右不取敢御挨拶迄草々斯如御座候 以上
    十一月二十日               金之助
   永井荷風樣
 
      一〇五六
 
 十一月二十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ
 拜啓左の如き端書が來たから面倒でも一寸行つて呉れ玉へ。二三日前同じく端書で月謝を納めろと云つて來たが、本人に一先づ聞き合せ樣と思つて問合せの手紙を出した。當人は唐津炭坑にゐるさうであるから少々ひまがかゝる夫迄埒を明けるのを待つてもらつて呉れ玉へ
 第一、一學期の月謝未納とは何の事だか分らない。一學期が未納で卒業が出來るのかな 以上
    十一月二十一日               金之助
   豐 隆 樣
 
      一〇五七
 
 十一月二十五日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ〔はがき〕
 拜啓文藝欄を設けるため度々森田を以て御邪魔を致し不相濟候咋二十四日の音樂會の評難有存候淨書の上二三日中に掲載可致候右御禮迄 草々頓首
 
      一〇五八
 
 十一月二十八日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Schmeltzer,Geisbergstrasse 39,Berin W. 寺田寅彦へ
 君が度々手紙を寄こして呉れるのにたゞの一度も返事を出した事がない。正直をいふともらふ度に今度は出さう/\と思ふが、あまり溜つてゐるから、書くなら長いものを書かう抔と贅沢を極めてゐるうちに、まあ手近な用を片付けなければならなくなる。實は御存じの通り坐つてする仕事がいくらやつても遣り切れない位積つてゐる。夫で失敬ばかりする。僕は九月|一《原》日から十月半過迄滿洲と朝鮮を巡遊して十月十七日に漸く歸つて來た。急性の冒カタールでね。立つ間際にひどく參つたのを我慢して立つたものだから道中非常に難義をした。其代り至る所に知人があつたので道中は甚だ好都合にアリストクラチツクに威張つて通つて來た。歸るとすぐに伊藤が死ぬ。伊藤は僕と同じ船で大連へ行つて、僕と同じ所をあるいて哈爾賓で殺された。僕が降りて踏んだプラトホームだから意外の偶然である。僕も狙撃でもせ〔ら〕れゝば胃病でうん/\いふよりも花が咲いたかも知れない。
 夫からキチナーといふ男がくる。宇都宮で大演習をや〔る〕。中々賑やかな東京になつた。僕は新聞でたのまれて滿韓ところ/”\といふものを書いてゐるが、どうも其日の記事が輻輳するとあと廻し〔に〕される。癪に障るからよさうと思ふと、どうぞ書いてくれといふ。だから未だにだら/\出してゐる。其所へもつて來て此二十五日から文藝欄といふものを設けて小説以外に一欄か一欄半づゝ文藝上の批評やら六號活字で埋めてゐる。君なぞが海外から何か書いてくれゝば甚だ光彩を添へる譯だが、僕は手紙を出さない不義理があるからヅウ/\しい御頼みも出來かねる。尤も文藝欄の性質は文學、美術、音樂、なんでもよし。ハイカラな雜報風なものでも、純正な批評でもいゝとして可成多方面にわたつて、變化を求めてゐる。あとで六號活字を愛嬌につける。今はハウプトマンだの※[エに濁點]デキンドだのゝ逸話見た樣なものを載せてゐる。是は小宮が書いてくれるのだが、ぢきに種が盡きさうで困る。まあ食後に無駄な時間でもあつたら繪端書へでもいいから何か書いて呉れ玉へ。評論にしても一回讀切りを主としてやる、どうも長くなると弱るからね。
 近頃はモミアゲの處に白髪が大分生えて御爺さんになつた。昔し教へた御弟子が立派になるから恐縮だ。松根は式部官になつた。森田は文藝欄の下働きをしてゐる。社員にしやうと思つたら社長があゝ云ふ人は不可ないといふんだから弱つた。
 今日は上野に音樂會がある。いゝ天氣だ。行つて見やうかとも思つてゐる。四五日前は有樂座でロイテル氏の御披露演奏會があつた。ピやノが旨いさうだ。※[エに濁點]ルグマイステルは君知つてゐ〔る〕ね。幸田の姉さんが僕の旅行中に休職になつて、すぐ外國へ行つて仕舞つたさうだ。神戸さんが歸つて來た。昨夜は同じく有樂座で森鴎外譯のイブセンのボルクマンを左團次や何かゞやつたさうだ。是は小山内薫が主宰してゐる自由劇場の興行である。
 文部省の展覽會もある。此間見に行つたが、日本人も段々旨くなるね。前途有望だ。不折は不相變ヂヾイの裸をかいた。虎の皮の犢鼻褌をしてゐるからえらい。然し肉の色は甚だ可かつた。背景は拙惡極まるものだ。
 僕の家は輕濟が膨脹して金が入つて困る。然しまだ借金は出來ない。君の留守にとう/\ピやノを買はせられた。歸つたら演奏會をやりにき給へ。君が買へ/\と云つてゐたから、ピやノが到着した時は第一に君の事を想ひ出した。君がゐたら嘸喜ぶだらうと思つた。筆が稽古をしてゐる。それで來年の春は同じ位の年の人と一所に演奏會へ出て並んで何かやるんださうだからえらいね。さうして中島さん(筆の先生)が十|時《原》の休息時間に僕に何か挨拶をしろといふんだから猶々驚ろく。
 僕は此度「それから」といふ小説を書いた。來年の正月春陽堂かち出るから送つて上げる。獨乙でハイカラな寫眞を撮つたら寄こし玉へ。今日は好い天氣だ。縁側でこれを書いてゐる。山茶花が咲いてゐる。もう何も書く事がなくなつたやうだからやめる 以上
    十一月二十八日               金之助
   寅 彦 樣
 
      一〇五九
 
 十一月二十九日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町三丁目一一中島六郎へ
 拜啓文藝欄設立につき御援助を願ひ候處早速樂界の爲に御奮ひ被下難有既にロイテル氏披露會の御評を賜はり又秋季演奏會の御評も頂戴深謝の至に不堪候
 然る處先日のロイテル氏の分はあれでは文藝欄の五號批評としては一般の讀者に通じがたきにつき森田に命じてあれをまとめて一篇の概括的批評文を作らしめ候、處が森田は音樂に對して零の智識を有し候事小生と同一につき遂に尊意を誤まり候箇所など相生じ候由實以て申譯なく恐縮致候。時間さへあれば一應御檢閲を仰ぐ處なれど取いそぎ候爲め事實大兄に對し失禮を敢てしたると同一の結果に陷り甚だ濟まぬ事に相成候わるい氣ではないのですからどうぞ御ゆるしありて、勇氣阻喪を御禁じ下さつて何卒御盡力を願上候
 西村君の評は自分の義務と思つて書いた事と存候。元來編輯會議では文藝欄を設けないでも藝術文學の批評はやるのだからさう云ふ種類のものをまとめて小生の管理の下に該|覽《原》中に收めたらよからうと云ふ相談故、強く抗議を申込めばやめさせる事も出來候へどもあれはたゞ雜報の筆がすべつたもの位に見逃しても差支ないと存候是亦漸次改良の積故さう一時に御立腹なく完成の機迄御見屆願上候
 秋季演奏會の御批評は都合上或は六號にて全部掲載するやも計りがたく候につきあらかじめ御含み願上候猶訂正の箇所(もしあれば)時間の都合にて一應入貴覽る積なれど萬一間に合はぬ時はすぐに出し可申間どうぞ御勘辨を願候其代り充分注意可致候
 右御返事迄 艸々頓首
    十一月二十九日                金之助
   中 島 樣
 
      一〇六〇
 
 十一月三十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 玉稿たしかに落掌御多忙中難有存候紙面の都合次第掲載可仕候
 只今森田氏不在につき小生より御禮申上候 艸々
    十一月三十日
 
      一〇六一
 
 十一月三十日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 少々御相談申上度事有之明一日早く御出願はれ候や右用事迄 草々
    十一月三十日
 
      一〇六二
 
 十一月三十日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區彌生町三新海竹太郎へ
 拜啓過日は森田艸平まかり出御邪魔を致候朝日文藝欄に何か高説掲載の榮を得度旨申出候由の處早速御承諾難有存候實は小生まかり出最初より篤と御依頼可申上筈の處色々用事立て込み不得已森田に依頼致候譯に有之候間あしからず御容赦被下度候
 目下開店早々にて、しかも森田事こつちの了見も知らず何だ|が《原》編輯主任をしてまごつかせ居候御多忙中恐入候へども何か一般の文藝好に興味ありて分る樣な事御寄送願はれまじくや時下の問題に接觸致し候へば猶更好都合に御座候右御願迄艸々如斯 以上
    十一月三十日夜              夏目金之助
   新海竹太郎樣
 
      一〇六三
 
 十二月三日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神戸市中山手通四丁目二〇淺野方東新へ
 拜啓御手紙拜見金圓御用立の件御申越の通御返却にてよろしく候其地の學校は萬事意外の事のみにて定めて面白からぬ事と被察候がまあ當分御辛抱可然かと存候只今多忙にて長い返事をかく譯に參らず候故是にて御免蒙り候。先達てはアナグマの皮一枚御惠投にあづかり深謝致候あれは何にしたらよきやチヤン/\可然か序に御教へ願候先は右迄 草々
    十二月三日                夏目金之助
   東 新 樣
 
      一〇六四
 
 十二月三日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 御手紙拜見かねての講演御催促にて恐縮致候が御承知の如く文藝欄開店の爲め事務不少其上滿韓ところ/”\を今月中つゞけた上に、新年の阪朝に十日つゞき位のものを書く事に相成何とも思索の餘地無之甚だ違約がましく不快なれどどうぞ事情御諒察の上御勘辨被下度候
 右御詫迄 州々頓首
    十二月三日                夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一〇六五
 
 十二月十五日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓其後は打絶御無沙汰に打過不本意至極に候滿洲より歸朝後多忙日〔に〕加はり愈厄介と相成降參の體に候。大兄御變りも無く日々事務御勵精の事と存候不堪慶賀の至却説御親切にわざわざ御惠投の鑵詰御書状と前後到着難有拜受致候東京は今日より頗る寒氣加はり手水鉢に氷が張り候。御地も段々冬となる事と存候御加養專一に存候右不取敢御禮迄 艸々頓首
    十二月十五日                夏日金之助
   渡 邊 樣
 
      一〇六六
 
 十二月二十二日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇ろ七増田方林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓其後は失敬試驗を休んだ由どうして休んだのか、無暗に缺席をしては不可ない。あとから受けられるのかね。
 どこかへ行くなら行つて來給へ。正月に御出で 以上
    十二月二十|三《原》日            金之助
   耕 三 樣
 
      一〇六七
 
 十二月二十七日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麻布區廣尾町一五九木村秀雄へ
 今度御足勞の處不得面接爲に御立腹の由承知致候
 觀自在宗御弘めの爲機關御入用の由なれど夫は觀自在宗の信徒の有したる新聞か雜誌でなければ駄目に候然らずば金を儲けて自身に機關を設くるより外に致し方なかるべきか
 胃病を癒してやるとの仰せ難有候然し御心配御無用に候。小生の胃は過去の因縁にて起りつゝあるものに候。過去の因縁消滅すれば大兄の力を藉らずとも自然に全快可致候小生は妄りに人の力によりて何うかして貰ふ事がきらひ故御厚意を顧みずわざと辭退致候
 右御返事迄 艸々
    十二月二十七日               夏目金之助
   木村秀雄樣
 
 明治四十三年
 
      一〇六八
 
 一月二日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町相木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 恭賀新年
 能|勢《原》が來て君に「それから」を評してもらへと申します。さうして本を一部送れと申します。本は便次第送ります。御批評は願ひます。(朝日文藝欄なら二三回以下にて)
 
      一〇六九
 
 一月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町三九濱崎方皆川正※[示+喜]へ
 恭賀新年
 忙がしいから端書で失禮當地も暖かな好新年である。謠は御勉強の由御出京の節御相手可致候
 
      一〇七〇
 
 一月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣修善寺新井方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 恭賀新年
 「それから」は一部上げる積で居たのに惜しい事をした
    三日
 
      一〇七一
 
 一月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區竹早町狩野享吉へ〔はがき〕
 謹賀新年
    一月三日
        牛込早稻田南町七
                夏目金之助
 
      一〇七二
 
 一月四日 火 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町谷津鈴木三重吉へ〔はがき〕
 謹賀新年
 今年より御活動のよし大慶の至に存候
    一月四日
 
      一〇七三
 
 一月十一日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ〔はがき〕
 古本御序の節御求めを乞ふ 代金はあとから御返上可致候 以上
 
      一〇七四
 
 一月十四日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京都市二條川東疏水西厨川辰夫へ
 拜啓朝日文藝欄に御同情被下玉稿わざ/\御寄送被下難有御禮申上候小包は只今到着いまだ拜見不仕候へども慥かに落手致候。舊冬中よりの原稿少々たまり候上前日掲載ものゝ反駁やら何やらあり且つ其間に起る時事に就て少々は意見を發表する必要も刻々起り候故出來る丈早く掲載の積には候へども多少の時日を要し候事故其邊はあしからず御含置願度候
 又雜誌の原稿も同時に着是も出來る丈早く御希望の通に取計ふ所存に御座候中央公論が不可なければ外の雜誌をも聞き合せ可申其節は今一度御問合可致候
 「それから」御ほめにあづかり難有候
 右不取敢御返事迄 草々頓首
    一月十四日                夏目金之助
   厨川辰夫樣
 
      一〇七五
 
 一月十九日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓此間の池松常雄氏(赤城元町三十四)へ二十四日の會の番組とくる樣に案内とを出す樣にカンノウさんか高野さんに電話で頼んでくれ。何か役をつける事も頼んでくれ。うまい人だから尊敬した役をつけるがいゝと云つてくれ
 
      一〇七六
 
 一月二十一日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 59 Airedale avenue,Chiswick,London  大谷正信へ
 拜啓其後は御無沙汰御地着の上只今はもはや御落付御研究最中と存候
 御出立後東京も別段の變化無之。正月も例年の通り。降雪二回。曇日は寒き方に候。倫敦抔防寒的に家屋の構造の出來てゐる處は却つて我々の書齋よりも遙かに暖國に候。芝居其他御遊覽に相成候や。倫敦ほど雜駁な處は世界中にこれあるまじく考へ樣次第にては内地よりもずつと呑氣なものに候へば久し振りにて老書生に立ち歸り勝手に世帶の苦勞なく御消光可然と存候
 「それから」出版致し候につき一部此手紙と同便にて進呈致候。日本の小説抔却つて御歸りの時の御邪魔にも相成るべくとは存じ候へどもかねて御愛讀を辱ふせる御厚意に對する記念として差上候もの故御落手被下度候
 昨年末より朝日(東京)紙にて文藝欄なるものを開始し、毎日一段もしくは一段半位の批評もしくは文藝上の論文抔かゝげ居候。其下に六號活字にて柴漬と申すものを置き是には西洋の雜誌抔より通信、消息、報道等人の面白がりさうなものをごちや/\にならべ居り候。大體一項十行内外に候。
 御地御見聞上の事にてもし現下日本の文藝上の時事問題に直接もしくは間接に關係ある御意見もしくは報知も有之候はゞ時々御寄稿被下度幸不過之候。又どこかへ御遊覽の節(ハンプトンコート抔)繪端書の裏へ寫生文の樣なもの五六行御書き被下候へば消息として今申したる柴漬の後へ載せたき考に候。
 どうせ新聞故大論文や長時間を費やすものに就て御迷惑をかける料簡にては無之。たゞ霧が降つて人の顔がぼんやり映るとか、シヨーの脚本をどこ座で見たが面白くなかつたとか、何とか云ふ事を五六行にてよろしく。もし又一二時間の御閑も有之ば文藝欄の五號活字として載せ得るもの一欄か一欄半位にて讀み切りのもの……何とか蚊とか手前勝手のみ申し募り候。御笑ひ可被下候 草々
    一月十九日                夏目金之助
  繞 石 老 臺
        座下
 
      一〇七七
 
 一月二十一日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Schmeltzer,Geisbergstrasse 39,Berlin W. 寺田寅彦へ
 マクベスの芝居の報知と※[エに濁點]ニスからの端書が來た。※[エに濁點]ニスのを六號活字にして文藝欄のなかへ掲載した。時々あゝ云ふ通信がくると載せるに都合が好い。外國にゐる人は何でもないと思つてもこちらでは面白い。異彩を放つ譯になるから時々五六行で好いから繪端書の裏へ何か書いて寄こして呉れ給へ。
 御正月が來た。相變らずであるが今月はもう雪が二度降つた。僕のうちの小供は段々大きくなるさうしてあとが續て生れる。今は六人と9|10丈生きてゐる。家族が殖えると金も入る。中々厄介である。外國で遊んでゐるうちが余程氣樂だよ。
 此間森田と小宮が主催で方々へ招待状を出して僕の宅で新年宴會を開いた。まあ眞面目に七變人の茶番を演じた樣なものだ。其プログラムには松根式部官の一中節だの森田の關係のある婦人の藤間流の踊だの、行徳醫學士の薩摩琵琶だのあつたが、まあ妙なものだつた。中にも松根式部官の一中の先生が生憎二階から落ちて頭を割つたとか云ふので來られなかつたのは妙だつた。夫から女連には大塚の奥さんや物集の御孃さん姉妹が來た。安倍能成が醉つて高《原》架へ這入つて反吐を澤山はいたあとへ小供が入つて臭い/\と云つてゐた。
 文部省の繪畫展覽會が去年の末あつた。日本の繪畫も年々上手になる。音樂ではロイテルだのエルグマイステルだの何とか夫人とかいふ獨唱家も來た。此間小山内薫の催しで有樂座でイブセンのボルクマンを遣つた。僕は見に行かなかつた。が譯は森鴎外のもので役者左團次君以下であるが面白かつたさうである。そこで早稻田文學では小山内君に推賛の辭を呈するとかいふ話である。
 「それから」が出來たから一部此手紙と同便で送る。もう少しすると又小説を書き出さなければならない。又いそがしくなる。君がゐなくなつたので理科大學の穴倉生活抔が書けなくなつた。慧星の知つたか振りの議論も出來ない。又赤坂の三河屋を思ひ出した。あの藝者はどうなつたらう。我々が變化する如く彼女も變るだらう。
 只今兩國國技館で大相撲最中。人氣は悉くこれに集つてゐる。 草々
    一月十九日                金之助
   寅 彦 樣
 
      一〇七八
 
 一月二十一日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 御手紙拜見致候美學會の件につき何遍も御手數をかけ不相濟る事と存候が其後始終ごた/\致し毫も頭に餘裕無之甚だ殘念ながら「出來た時に」と云ふ條件にて延期を願ふより外に致し方なくと存候右不取敢御迷惑ながら御返事申上候 早々
    一月二十日                 夏目金之助
   阿倍《原》次郎樣
 
      一〇七九
 
 一月二十一日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下大森八景坂上杉村廣太郎へ
 拜啓本日御葬送とは存候へども本門寺ではちと遠方故失禮致候
 此間中より毎々倶樂部の御馳走に相成好都合至極何か御禮と思へど大した思付もなし。幸ひ今迄拙著を進呈したる事なき故珍らしくてよろしからんと存じ近刊それからを一部座右に呈し候中に何か書かうと思へども本屋の方で小包用につゝんである故まづい字抔はと考へ直して其儘差出候
 御葬式其他にて嘸かしの御混雜の際に閑言を弄し恐縮なれど氣の付いた時出さないと人が來てそれから夫へと奪つて行く故あるうちにと存じ敢て場合を顧みず。失禮御高免の事。猶萬事了畢後の道體保安を祈る 草々頓首
    一月二十一日                金之助
   楚人冠盟臺
       座下
 
      一〇八〇
 
 一月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓八重子さんの赤ん坊の事で此間から心配してゐた處昨日の手紙で安産のよしを聞いて漸く安心した。男子の上發育も充分御産も輕かつた由何より結構の事無人で御困り嘸かしと御察し申候二日徹夜では定めし弱つたらう猶是からが大變だ中々八釜敷ものだよ 先ば《原》不取敢御祝迄 草々
    一月末日                  金之助
   豊 一 郎 様
 
      一〇八一
 
 一月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町池内信嘉へ
 拜啓霞寶會につき拜趨の上篤と御相談致したる上にて會費取極めたく存居候處申込書御郵送につき至急を要し候事と存じ不取敢五つ口丈擔當致す事に致し候間可然御取計願上候猶發起人としてもつと分擔の必要も生じ候へば御協議の上何とも可致候
 右御返事迄草々
    一月三十一日                夏目金之助
   池内信嘉樣
 
      一〇八二
 二月二日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豊隆へ〔はがき〕
 拜啓「通盛」が君の所に行つてゐやしないか。もしあつたら明日の木曜に持つて來てくれ玉へ。此間七騎落を西神田倶樂部へ置いて來ちやつた
 
      一〇八三
 
 二月三日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 拜啓森田へ御端書の所當人事文藝欄休刊多き故日々出勤仕らず御返事が後れ候ては不相濟と存じ小生より申上候
 過日の原稿は難有頂戴。よせ鍋中癡郎と有之候處あまり匿名のみつゞきては面白からず本名の峙樓を名乘つては如何と小生案じ煩ひ候に森田差支なかるべしと申出候につき御本名を書き加へ候。それからよせ鍋では薩摩汁の前後に(編輯上)鼻につき候故何とか工夫なきやと相談致し候折|勢《〔能〕》成君一讀「自ら知らざる自然主義者」ではどうだと發意一同賛成右に決し候。次に肝心の御抗議の花袋咆鳴の件は實を云ふと草平の提案にて改正致候もの〔に〕有之候。
 右は僭越にも尊稿を改めたる個所及び事情に有之。偖右につき御申越の趣委〔細〕承知致候。さう眞正面から御切り込みになりてはたゞ叩頭罪を謝するの外に道なく候が、さう嚴肅に權利問題とせずに少々此方の開陳する所を御清聽に達し度候間御怒りなく御聽取被下度候
 小生は大兄と今日迄左したる交際無之從つて玉稿を隨意にどうするのといふ考は(親疎の關係上よりして)起らぬ次第なれど、大兄と二三子(たとへば草平能成豐隆の如き)との間柄は此位なフリードムを敢てしても御氣にさわらぬ程の圓熟せる御交際かと承知致し候ため、其際は何の氣もつかず、許諾致候。是は小生の粗忽とも云ふべきか平に御高免にあづかり度候。其上花袋咆鳴云々を改めたる所が貴論の本旨に殆んど大した影響を與へぬ程な些末な點と愚考致したる故左迄御氣にもかゝるまじと早斷致候次第に候。左れば個人としての大兄に侮辱を加へると云ふ了見は毛頭無之又此方の便宜の爲に貴意を顛倒錯亂せしめたるといふ自覺も無之御手紙を頂戴する迄は至つて呑氣に構居候。小生の寧ろ難色ありしは題を勝手に改め匿名を雅號に修正する方に有之候ひき。其時小生は阿|倍《原》君が怒りやしないかと念を押したる位に候。
 右は事情を申上げて幾分か此問題を法律的なる權利問題より遠からしめんとする辯護に有之候。又事實問題として修正の箇所(花袋咆鳴云々)が左程貴論に※[ワに濁點]イタルならざりしならんとの辯解に候。
 辯護も辯解も只緩和剤に候。是にて大兄の御不滿が少しにても取れ候へば小生は難有仕合に存候
 御承知の通原稿は先月末に出すべき筈の處議會にて始終休まれる爲め延々になり居候處昨日森田電話にて掛合此次に組込む筈に致候旨申來候につき時日切迫の爲め或は貴意の如く元の通りに致しかね候やも計りがたく候へども正誤の件可成早く何か分別可致。御目にかゝり御話をすればよけれどかけ離れ居候爲め無《原》重寶なる筆にて御詫を入れ申候あしからず御宥恕願候 草々
    二月三日                 夏目金之助
   阿|倍《原》次郎樣
 諸方より來る原稿中削除もしくは書改める事有之。是は原稿が文をなさゞる場合にのみ限り候。又は少し手を入れる事あり。是投稿者へ却つて敬意を表する場合にも致候。大兄のとは全然趣を異に致し候故是も序に申上置候
 
      一〇八四
 
 二月三日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區大久保余丁町一〇六安倍能成へ
 御手紙拜見致候先達ては失禮致候御來旨の趣は阿|倍《原》君よりも森田へ問合せ來り候處森田參らざる故小生より返事を出し置候
 花袋云々の件は阿倍氏の書き方の前後より押して毫も全篇の主意に痛痒を與へざるものと見傚したる故森田より相談を受けたる時夫でもよろしからんと申候。森田の考は阿倍君とあすこの處丈が違つた故に訂正を申し出したるならんとは其時存じ候。人の書いたものを一字でも手を入れる事に許諾を與へたるは阿倍氏は森田小宮抔と親交ありて、あの位の事はあとから斯う云ふ譯だと話せばあゝさうかと笑つて仕舞ふ位の間柄と思ひし故に候。權利問題を呈出されて事が六づかしくならう抔と想像し得る程の大關係の箇所とも思はず、又森田對阿倍の關係が夫程フオーマルに禮儀を盡さねば手落となりて後で抗議を受けるとも思ひ居らざりし故に候。
 小生は文藝欄擔任記者として凡ての論文に對し自ら責任を負ふ積り故文章が意味を爲さゞる場合は森田に書き直させ候事も有之候。又長ければつゞめさせる事も有之。右兩樣共寄稿者並びに文藝欄の體面上雙方の便宜と思ふ場合に有之。從つて是等の場合は寄稿者に寧ろ尊敬を拂ひし爲の手續と考へ居候。阿倍氏のは右兩樣の場合とは異なり。却つて懇意づくより他の原稿を多少どうかし得るフリードムありと信じたる親密を森田阿倍兩氏の間に測定せるより起るものに候。
 此測定が人を侮辱せるもの也との抗議ならば不敏を謝するより外無之候。謹んで大兄と阿倍君に御詫び可致候。
 有體に申候へば今の所謂自然派(自然派をかたち作る人物)が嫌に候。是は其説が如何にも粗漏放慢にして相手の人格及び意見に對して毫も敬意を拂はざる表現法をのみ用ひるが故に御座候。かの人々自からのコンシートを撤回せざる限りは到底かの人々の議論に對し敬意を拂ひがたく候。敬意を拂ひ得る丈に議論は周到ならず、態度は士君子流ならざる故に候。この嫌惡の情の爲に左右せられて森田の提議に應じたるかの質問に對しては寧ろ然りと答へるの事實なるべきを公言致したき位に候。去れども徹底《原》に彼等兩人は自然派たり得ずと理智の判斷に支配さ《原》られたるも事實に候。最後に尤も多く余を動かしたるはどうでも好い所だと云ふ念と、懇意づくの間柄だからと云ふ心持とに候。夫が貴兄等の尤も癪に障つた所だらうと後悔致し候。論議は公正ならざる可らず、意見は不偏不黨ならざる可らざる事は御説の如くに候。小生が許諾を與へて訂正せしめたるも此公平と不偏不黨を傷けざる範圍内の出來事位に暗々の裏に思惟せるとしか自分には考へられず候。夫を然らずと御思ひありては只恐縮の外なく候へども致し方も無之候。小生はあの時大兄の題をつけかへて、匿名を峙樓に直したる森田の擧動を寧ろ不穩當と感じいさゝかためらひ申候へども、前述の通り是も懇意づく故君等がリバーチーを與へられたるものと信じ矢張り承諾致候
 小生不行屆にて諸君子に煩を及ぼし慚汗不少候。右返事により幾分か小生の心意を致すを得ば幸に候。猶期御面會申候 以上
    二月三日                夏目金之助
   安倍|勢《原》成樣
 
      一〇八五
 
 二月六日 日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓虚子轉地の由編輯御多忙ならんと存候。小生此間の謠會に七騎落を西神田倶樂部へ忘れし樣なり、御序の節幹事に願つて取つてもらつてくれ玉はぬか右御願迄、 八重子さ〔ん〕赤坊共御健勝の事と存候
 
      一〇八六
 
 二月十日 木 牛込區早稻田南町七より 栃木縣芳賀郡山前村字道祖土高松甚一郎へ
 御手紙拜見私のものを御愛讀被下るよし難有い事でどうぞ今後も御讀を願ひます。近頃の本でノンビリと氣の樂になる樣なものはあんまりありません。私の友人の高濱虚子といふ人の書いた俳諧師といふのがあります。民友社の出版で並製壹圓以下と覺えてゐます、あれでも讀んで御覽なさい右御返事迄 草々
    二月十日                 夏目金之助
   高松甚一郎樣
 
      一〇八七
 
 二月十六日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 柴漬難有頂戴明木曜日もし御光來なら本郷で掌中醫方と申す小冊子(壹圓程か)を御買求め被下度右願上候 草々
    二月十六日
 
      一〇八八
 
 二月二十日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 別紙の如き端書參り候御序の節御返事御出し被下度候當用のみ 草々
    二月廿日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一〇八九
 
 三月二日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校寄宿舍東寮一一乙林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓三月記念祭にて切符わざ/\難有候小供生憎學校にて參るひまなく殘念に候いづれ拜眉萬々
 本日の新聞には會の景況色々記載有之候大分賑かの樣被存候小説執筆中にて多忙今度はゆるゆる書いて居候
    三月二日                  夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一〇九〇
 
 三月四日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Schmeltzer,Geisbergstrasse 39,Berlin W.寺田寅彦へ
 端書拜見其後御變りもなき事と存候。今度音樂家で山田といふ人が岩崎の金で伯林へ留學する幸田の所をたよる由。此人の友人で筆の先生の中島さんから君へも序に頼んでくれといふから一寸御報知する。何かの機會もあつたら世話をしてやつてくれ玉へ。
 段々春めいてきて少しは暖かになつた。昨日湯に入つたら今朝始めて鶯をきゝましたよ。まだ下手ですねと云つてゐた。宅では※[竹/賈]《原》笥の上に御雛樣を飾つてゐる。山田といふ奥さんから虎屋の雛の菓子をもらつて飾つた。二日の夜明に又御産があつて大混雜。又女が生れた。僕は是で子供が七人二男五女の父となつたのは情ない。鬢の所に白髪が大分生えた。又小説をかき出した。三月一日から東京大阪兩方へ出る。題は門《もん》といふので、森田と小宮が好加減につけてくれたが、一向門らしくなくつて困つてゐる。小宮も森田も中々有名になつた。虚子が去年の末腸チフスをやつて漸く快復したがまだ衰弱してゐる。其他異状なし 草々
    三月四日御天氣のいゝ日           金之助
   寅 彦 樣
 
      一〇九一
 
 三月十一日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 雜誌拜受玉稿面白さうなれど未だ讀まず。あの六號活字は誰が書くにや。僕と楚人冠と確執してゐる樣に書いてある。僕が十五二十四兩日に幹部會議に出るため社へ行くと會議の濟むのが何時でも午頃になる。すると楚人冠が何時でもおい夏目君飯を食《原》ふぢやないかと僕を誘つて表へ出る。さうしてつい傍の交詢社へ行つて會食する。僕は倶樂部の會員でないから費用は何時でも楚人冠の擔任だ。僕は楚人冠の誘を受けるとうん御馳走し玉へと云つて一所に出る。是ぢやあまり確執でもあるまい。
 蒼瓶がジヨナリズム(自然派攻撃)の非難を書いた時、楚人冠が新聞界で自分のやつてゐるジヨーナリズムの意味にとつて反駁した事がある。其時僕はストーブの前へ《原》君あんな事を書くと君と僕と喧嘩してゐる樣に世間で思ふよ。かくなら文藝欄のうちへ書かないかと云つたら、楚はうんさうかと云つてゐた
 六號抔はどうでも好いが是も一つの材料だから虚子が霞寶會の事を辯じた樣に風聞録か抔ぞ《原》へ六號へ事實を書いて呉れないか。たゞし僕が自分で正誤する程なら自分の新聞でやるから、そこは君の取計で如何樣にも願たい。尤もこんな事は始終あるから別に氣にもならないから、君の方の都合が好かつたら材料として使つて貰はう位の所に過ぎない 草々
    三月十一日                 金之助
   豐一郎樣
 森田のやつこが楚人冠へ答辯をかいた時は僕に原稿を檢閲す〔る〕ひまを與へずにすぐ社へ持つて行つた。あれを僕は書き方がよくないと叱つた位だ
 
      一〇九二
 
 三月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓ルンドシヤウ一、二月號同時に着。瞥見するにあまり材料なき樣也。御序の節可差上候 草々
    十二日
 
      一〇九三
 
 三月十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 本日風聞録で楚人冠記事拜見御手數難有候。ミナも拜見あれは面白く候此前の新小説のと共に佳作に候。「赤門前」よりはよろしく候
 
      一〇九四
 
 三月十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校寄宿舍東寮一一乙林原(當時岡田)耕三へ
 御手紙拜見指が痛いつて云ふのは何の病氣かね醫者にはかゝつてゐるのかね、指が痛くつて筆が持てなくつては學生は出來ない位だ養生をしなくつちや不可ない
 人世觀とか世界觀とかいふものは段々變るものだが其時其場合には誰にもしつかりした處があつて欲しい。何物にか逢着したのは君の仕合だ。
 印は押し候 草々
    三月十三日                金之助
   耕 三 樣
 
      一〇九五
 
 三月十六日 水 牛込區早稻田南町七より 大塚楠緒へ〔封筒なし〕
 先日は御光來の處何の風情も無失禮致候其節御話の竹柏園の演説の事一應考へ候へども何分餘裕無之甚だ御氣の毒ながら御斷り申上候佐々木氏へ左樣御傳被下度候
 大塚氏神經衰弱未だ御回復なき由神經衰弱は現代人の一般に罹る普通のもの故御心配なき樣冀候。逢つて話をする男は悉く神經衰弱に候。是は金病とともに只今の流行病に候右御返事迄 草々
    三月十六日                 金之助
   大塚楠緒子株
 
      一〇九六
 
 三月十八日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區九段中坂望遠館松根豐次郎へ〔はがき〕
 御歸京の由、御父さんの病氣は如何。此間少々用事あり七時頃君の處へ行つたら、今御國へ御歸りと云つた。用事は今濟んだ。何れ其うち、御産は安産、性は女子、名づけてひなといふ三月二日朝三時の生れ。
 
      一〇九七
 
 三月十九日 土 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓永井荷風氏より別紙の通申來候條件次第にて御引受可然か、小生より返事するか又は君が直接に荷風氏と交渉するか何れでもよろしく候
 柴漬の參考の米國新聞いまだ机上にありどうぞ御序の節御返し願候 草々頓首
    三月十八日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一〇九八
 
 三月十九日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 拜啓原稿頂戴致候。近頃文藝〔欄〕不規則にてすぐ出す譯に參らず。御氣の毒に候。上の方はすでに編輯へ廻し置き候御禮迄 草々
    三月十九日
 
      一〇九九
 
 三月二十三日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔はがき〕
 今日能不參に候。御手紙咋夜着今朝披見御返事後れ申候。來月の霞寶會の能には壇風有之是には是非御招待致度と存居候 早々
 
      一一〇〇
 
 三月二十九日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ
 御手紙拜見春雨の候御地は如何。淋しい由。色々な意味にて誰も淋しく候。小鳥の巣毎日拜見隨分御苦心の事と存じ候へども書きかけたもの故是非共始末を奇麗に御付可被成候學校授業執務の外に小説を毎日書くのは定めて御難義とは存居候。小生は胃の加減わるく氣に任せて長く筆を執ると疲勞する故大抵毎日一回位で胡魔化し居り候、いづれ委細は御面晤 草々頓首
    三月二十九日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一一〇一
 
 三月二十九日〔四十三年?〕 中川治作へ〔封筒なし〕
 拜啓未だ不得拜顔の榮候處愈御清穆奉賀候
 御惠送の粕漬一箱過日小包にて到着難有賞味仕候
 大兄とは未だ一回も書信にて往復致候覺なきやに存居候が突然かゝる御寄贈を受け甚だ恐縮致候
 御序の節どうして小生を御承知なるや御洩し被下候へば幸に候。夫とも小生記憶あしく御芳名を忘れ候なれば猶以て汗顔の至に候
 不取敢御禮迄如斯に候以上
    三月二十九日               夏目金之助
   中川治作樣
 
      一一〇二
 
 三月三十日 水 前8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 拜啓白樺一號御惠送にあづかり拜受。卷頭の「それから」評未だ熟讀不致候へども直ちに一寸眼を通し候。拙作に對しあれ程の御注意を御拂ひ被下候のみならず、多大の頁を御割愛被下候事感佩の至に候。深く御好意を謝し申候。御批評の内容は未だ熟讀を經ざる事故何とも申上かね候へども所々肯綮に當り候所も多き樣に存候。中にも「それから」が運河だと云ふのは恐らく尤も妙なる譬喩ならんと存候。「それから」のとめ方の御辯護もあの通りの愚見にて候ひし。先は御禮迄 草々
 
      一一〇三
 
 四月六日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 拜啓「代助と良平」頂戴難有候都合次第掲載可致候間しばらく御猶豫願上候。右御禮迄 草々
 (森田參るべき處多忙にて電話にて御迷惑願候事と存候御免被下度候)
 
      一一〇四
 
 四月十日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御出發の際は御見送も不致海陸御無事御地に御着のよし大慶の至に候春雨濛々とか黄鶴樓とか申す言葉をきくと是非一遊致し度相成候當地も春景色にて諸新聞ともに花信を掲載致居候處生憎筆に祟られ外出不仕憫然の至に候。朝日文藝欄にては時々清君を煩はし畫界の事に關し御執筆願居候。御地にて何か面白き報知も有之候はゞ同欄のなかへ掲載致度考に候。どうも文藝欄を擔任してより商買氣多く相成困入候。
 書畫骨董隨分御清賞不淺事と存候 草々
    四月九日                 金之助
   橋 口 貢 樣
 
      一一〇五
 
 四月十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 御端書拜見致候あの文句を玉稿中に挿入する事はどこかツギ〔二字傍点〕の出來る樣な氣がして、どうも旨く行きませんから已めました。右あしからず。御旅行の由充分の御保養を祈る
 
      一一〇六
 
 四月十二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 貴墨拜誦再度申上候。自然主義が滑つても轉んでも小生も毛頭異存無之候へども、自然主義を振り廻す人と同商買故何うでもよくなくなり候。それから自分は何うでもよいとしても斯ういふものに支配される若い人が澤山有之候故、矢張り何とか蚊と〔か〕誤《原》詫をならべて文藝欄を賑はし、且つ其人々にあまり片寄らぬ樣な所見を抱かし度考になり候。
 然し毎日自然主義がどうしたとか斯うしたとかにては小生も讀者も大兄も辟易故、たまには大兄の御得意の鳥獣草木も是非御紹介を願度候。然し根が新聞故講義體に堂々と例證ばかり出てきて何日もつゞくと困り候故、一般讀者並びに文藝好の人に興味のある樣な事にて八十行位で一寸面白く讀まれ得るも〔の〕切望に候。然し此方から注文を出すと又六づかしく相成恐縮致候が、もし御閑もあらば御含置の上たまには御認め被下度あらかじめ願置候 艸々
    四月十二日                  金之助
   芥 舟 樣
 
      一一〇七
 
 四月十六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓小鳥の巣は題名の通り小鳥の巣に至つて始めて君の眞面目を發揮致し候。あゝいふ事の敍述は今の文壇無之。從つて甚だ興味深く候 草々
 
      一一〇八
 
 四月二十二日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 佐賀縣神埼郡三田川村苔野行徳二郎へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過候過日俊則君御歸郷の砌り一寸御近况を伺ひ候當時は學校をやめて御郷里にて御靜遊のよし奉賀候
 兩三日前御惠投の苗木芽生數種到着幸ひ植木屋參り居候故直ちに適當の所を擇ひ植付來春に至り花頃に植かへる事と致候御多忙中御親切の段深く感謝致候不取敢右御禮申上度草々如斯に候 頓首
    四月二十二日                 夏目金之助
   行徳二郎樣
 御兩親樣ならびに御令兄へよろしく願上候
 
      一一〇九
 
 四月二十四日 日 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 池邊吉太郎へ
 今日は日曜なれば會議如何あらんと存候へども念の爲め出社候までの處わざ/\御斷りにて恐縮致候明日に御繰延しの事も拜承致候實は小説手おくれの氣味にて多少狼狽の姿故ことによると欠席致すやも計りがたく候につき時間に參り不合候はば御構なく御開き願上候委細は拜眉の上萬縷 艸々
    四月二十四日夜               金之助
   池 邊 樣
 
      一一一〇
 
 四月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 茨城縣結城郡岡田村長塚節へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過候偖先般は森田草平氏を通じて突然なる御願に及び候處早速御聞屆被下候段感謝の至に候其後草平君より再度の照|回《原》に對する御返事正に拜見致候小生の小説はいつ完結するや實の處本人にも不明に候へどもごく短かくても九十回にはなるべきかと豫想致居候只今六十回故今より御起草被下候へば小生も安心。萬々一の事にて夫よりも早く片付候ても毫も心配無之故失禮をも不顧伺候次第に候御返事の趣にて一旦御引受の上は不都合なき由御申聞難有候東京と茨|木《原》とは少々懸隔居候故自然懸念も相生じ杞憂相洩し候樣の譯あしからず御高免願上候右御挨拶旁御願迄如斯に候 草々頓首
    四月二十九日                夏目金之助
   長 塚 樣
 
      一一一一
 
 五月二日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 玉稿はたしかに入手致しました。都合つき次第掲載致します。毎度御迷惑をかけて濟みません此後も時々願ひます。白樺も慥かに頂戴。右御禮迄 草々
 
      一一一二
 
 五月三日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓安奉線は御申越通りならんと思但しよく知らず、もう一つの方はあれで慥かに宜しい。君の時計らしいのが忘れてある。催促も探索もしないところがえらい。東さんにトルストイの御禮を云つてくれ
 
      一一一三
 
 五月十一日 水 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町三九濱崎方皆川正※[示+喜]へ
 拜啓其後は御無沙汰奉謝候御手紙難有拜見致候近來は東京朝日に文藝欄を設け諸君子の文藝上の意見を紹介致し居候獨文の方は中々活躍英文の方は少々振はず候ちと御投稿如何に候や
 謠は小生も熱心に候此夏御上京の節は御相手致度候
 「門」御愛讀被下候よし難有存候近頃身體の具合あしく書くのが退儀にて困り候早く片付けて休養致し度、今度は或は胃腸病院にでも入つて充分療治せんかと存候四十を越すと元氣がなくなり申候
 野間君も健在の事と存候よろしく
 御職業の事精々心掛可申候隨分困難につき御《〔其〕》邊は御承知願上候
 野村も一度は地方へ參る由申居候
 先は御返事迄 草々
    五月十一日                夏目金之助
   皆川正※[示+喜]樣
 
      一一一四
 
 五月二十二日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓其後は御無沙汰致候御地着後新らしき山川人情定めて御眼新らしき事と存候
 當地櫻も散り若葉の時節。咋二十日は英國先帝の遙拜式有之大分盛大の模樣、白馬會と太平洋畫會と同時に開會賑やかに候。小生胃病烈しく外出を見合せ世の中を頓と承知不仕候
 御送の寫眞數葉着御好意深謝致候日英博覽會記念繪葉〔書〕一組御目にかけ候スタンプは押してなく候へどもそれは差支なくと存じたゞ葉書のみ差上候
 先は御禮迄 艸々
    五月二十一日                 夏目金之助
   橋 口 樣
 
      一一一五
 
 五月二十二日 目 前11-12 牛込區早稻田南町七より 佐賀縣神埼郡三田川村吉田行徳源誠へ
 拜啓未だ不得拜眉の榮候處愈御壯勝奉賀候御令息俊則樣並に二郎樣にはかねてより御近づきの事とて時々色々の用事抔相願ひ失禮のみ重ね居候
 今度二郎君御出京につき保證人御依囑につき印形丈押し申候外別に何の御役にも立ち不申不本意の處わざ/\御禮状被差遣却つて汗顔の至に候
 二郎氏御出京の節は結構なる御土産頂戴是亦深く御禮申上候
 右御返事旁御挨拶迄 艸々
    五月二十一日                 夏目金之助
   行徳源誠樣
 
      一一一六
 
 五月二十三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 拜啓「それから」に就き御丁寧なる御批評難有頂戴御多忙中甚だ恐縮致候實は「それから」が拙著なるの故にあの樣に委曲なるものを三日もつゞけて文藝欄へ出して場所を塞げるのが少々面目なき心地致候。是は御論の内容とは丸で關係なき只小生の氣がねに候。種々配合の都合も有之候へば森田とも相談の上掲載の日取取極度しばらく御猶豫願候。玉稿最初の一句宿約云々は削除致しても差支なくや一寸伺ひ候。大兄の進まぬのをわざと書かして自己の文藝欄で吹聽する樣にて恐れ候。實は新刊の書物ももつと澤山文藝欄で批評して居るとこんな時には遠慮が入らなくてよろしけれどついひまなく森田も多忙にて其方を怠り候ため一寸勇氣を失ひ候。
 玉稿の内容は面白く候ことに會話などに作爲のあとあるところ御同感に候其他御説として伺ひても小生のしか思はぬ點も有之候。
 消極的の衒氣のみならず積極的にも大分あるやに見受られ申候。だから小生は自分の作を本になつてから讀んだ事は無之候。近頃四篇のうちに文鳥と申す短篇を収め候を豐隆が校正致し大いに賞め候故こわ/”\ながら讀み返し候處是は左のみ厭味も感じ申さず候ひし。何事も書いてゐるうちが花に候後を抗りかへると冷汗のみに候
 「四篇」もし御入用なら差上可申候
 右御禮旁申述候いづれ拜眉萬々 艸々
    五月二十三日               夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一一一七
 
 五月二十四日 火 前6-7 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 御返事拜見致候。二葉亭の全集に就ては社と特別の關係もある事故是非何か書きたくと存候已を得ねば又魯庵先生でも煩はし度と思ひ居候が、大兄もし御閑なら其方を先にして「それから」の前に出して下さる餘裕ありや一寸伺ひ候。一存にては二葉亭と「冷笑」でもやつたあとに「それから」を廻し度と存候
 
      一一一八
 
 五月二十八日 土 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ
 拜啓先日は失禮其節御あづかり申上候玉稿あれからすぐにホトヽギスヘ送り申候處早速同君より別紙の如き返事あり候間御目にかけ候
 猶同君の意見向後御述作上の御參考になりて可然かと存候 草々
    五月二十八日                夏目金之助
   山田|茂《原》子樣
 
      一一一九
 
 五月三十一曰 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下大久保仲百人町一五六戸川明三へ〔はがき〕
 啓四篇と申すもの拵らえ申候間御目にかけ申候いづれ拜眉 艸々
 
      一一二〇
 
 五月三十一日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 此間中より度々手紙頂戴。原稿も頂だい面白く候。近著四篇今度御出の節差上度と存候 艸々
    五月三十一日
 
      一一二一
 
 六月四日 土 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王杉村廣太郎へ
○拜啓「新聞紙上の印象主義」慥かに落掌。其理由も正に拜承。至極賛成。僕は年來惡口ばかり云はれてゐるから、まだしもだが、君は甚だ迷惑だらう。よし兩人とも構はないとしても社のために惡いから、こんな方法をとるのは此際結構だらう。深く御手數を謝す。
○其上「新聞紙上の印象主義」は新らしくて面白い。ことに文藝欄に投書してくれる人は、商買氣がないから、ゆつくり辛抱して讀めば相應の事を云つてるのだけれども、夫程手つ取り早く片付ける方法を講じて呉れないで困る。かう云ふ人に讀ませる丈でも甚だ利益がある。
○此間の英國皇帝の遙拜式の記事(築地會堂の)は讀んで面白かつた。且書き方がうまいと思つた。あれも一面から云へば印象的な描寫ぢやないか。僕はあの記事を讀んだ時、新聞記事として大變新らしいといふ感じを起した。あれは君のかいたものではないか。
○玉稿中×から×迄は少し論旨がそれる樣だ。それを布衍しては又長くなるから割愛した。あしからず。
○「四篇」といふ書物を出版す。朝日に出た舊作をあつめたもの也。君もし入用なら何時でも進呈。
    六月四日夜                 金之助
   楚   兄
 
      一一二二
 
 六月五日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁曰武者小路實篤へ〔はがき〕
 拜啓草稿正に落掌致し候。あれで宜しいと思ひます。たゞ全局に渉つての議論になると、あゝばかりも行くまいと思ひます。今少し原稿がたまつてゐますから少し後れますから其積に願ひます。少し位時日が經過しても腐る種でないから構はないでせう。毎々難有存じます。
 
      一一二三
 
 六月九日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神田區駿河臺鈴木町一七大野方橋田丑吾へ
 拜復「猫」手元になき爲め前後の關係不明なれど御答申上候
 メジヨー・ペンデニス。(サツカレーの小説ペンデニス中に出て來る人物。世俗的知識に冨めど高尚な理想も何もなき所謂世間的の人、或は俗物)
 ベオウルフ。 アングロサクソン時代のエピツク詩の主人公。ガルガ galga は現今の英語の gallows 絞首臺の事
 ピヤース・プローマン。 十四世紀頃の英國の詩の名。ブラツクストーンは有名な英國の法律家 Commentaries of the Laws of England の著者
 先は右迄 艸々
    六月九日                  夏目金之助
   橋田丑吾樣
 
      一一二四
 
 六月十日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區久堅町七四菅虎雄へ
 拜啓 自分の小説中に書き込む必要ありて「われに三等の弟子あり所謂猛烈にして諸縁を放下し專一に己事を究明するこれを上等といふ云々の戒を大燈國師の遺誡として書いたる所ある人よりあれは夢窓國師の遺誡だ大|灯《原》のではないといふ注意を受けたり。さうらしくもある。どつちだ|が《原》御教示を乞ふ。又何に出てゐるか其邊も序に御教へ被下相成るべくは出所の書物を一見致度候
 又|塔頭《タツチウ》を塔中と書いたとて注意を受けたが是も僕の心得違で塔頭でなければならんのだらうな。又室内といふ言葉はあるが室中とは聞かないと注意した男がある。夫もさうらしいが能く知らず序に御教示を待つ
 胃病にて長與病院に行く胃くわいようの疑あり。ことによると入院の積。
 君の不眠如何。クスグツタイ感じ如何。老頽頭を壓して至御互に棺でも作つて置く事ぢや 艸々
    六月十日                   金之助
   虎 雄 樣
 
      一一二五
 
 六月十日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓赤門前御出版の由承知致候あれは如仰小生よく讀まざりしものなれど讀んだうちに大分不本意の所有之君もいま繰り返したらば定めて色々な缺點に氣がつくだらうと思ふ何卒其邊に御注意の上よく御訂正あり度切望致候
 新文藝に出た崖下の家面白く候今日の萬朝の六號につまらないものゝ樣にかいてあり候があれは嘘に候
 僕は君の短篇の方が却つて赤門前より優れてゐるのがあると思つてゐる。
 漸く小説を書き終つたらば色々な雜用が出來矢張忙殺。胃腸病院に行く胃くわいようの疑あるとの事にて只今糞便檢査中なり 金ばかり入つて困る。君の投稿未だに出さず甚だ御氣の毒原稿が重なると方々へ義理がわるくなる
 右御返事迄 艸々
    六月十日                   金之助
   豐 一 郎 樣
 肝心の序文の事を忘れたり。君が書き直したのを一寸見た上にしたし如何にや夫でなければ又外に一工夫致すぺく候
 
      一一二六
 
 六月十二日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣多可郡黒田庄村藤井節太郎へ
 拜啓五月五日附の御書面に對してとくに御返事可致筈の處種々雜用にとり紛れ荏苒今日に至り候怠慢の罪御ゆるし可被下候
 御編輯の引例一寸拜見致候斯樣に頁多きものを根氣に御書き拔の段敬服の至に存候嘸かし御辛勞の事と存候
 右に就き一寸御注意迄に申上候が斯樣の引例は理論の例證として必要の場合多く從つて己れにしかとしたる議論なければ左のみ用をなさぬものにて候(小生の文學論中にある分類はよろしからず例も面白からねばあれは論ずるに足らず候)
 夫でなければ單に文章の手引草として類別し讀者の讀みたいと思ふ所を索引の便宜にて隨時に讀ましむるに有之。此點にては可成面白き例を撰む必要相生じ〔候〕
 右兩樣のうち何れにてもよろしく候間御盡力希望致し候
 只實際上の困難は夫程浩瀚の書物を書肆が引き受けて出版するの勇氣あるかの問題に候。現今の樣な不景氣の時には先づ以て絶望の姿と存じ候此邊はよく/\御注意可然と存候
 玉稿は別封小包にて御返却申上候先は御答迄 草々 頓首
    六月十一日夜                夏目金之助
   藤井節太郎樣
 
      一一二七
 
 六月十二日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 啓 「門」の中に吾に三等の弟子あり所謂猛烈にして諸縁を放下し云々の遺誡を大燈國師のものとして掲出す。ある人報じて曰くあれは夢窓國師の遺誡なり大燈國師のにあらずと、第二の人又報じて曰くあれは正覺國師の遺誡也と第三の知人は即ち曰くあれは關山國師の作る所と
 小生無識にて適從する所を知らず。御社の森大狂先生は斯道の人也。願くは御序の《原》同君に出所を御確め被下たし。又其出てゐる本の名及び出來得るなら本其物を拜見したき由御依頼被下度候
 右用事迄 艸々
    六月十二日                  金之助
   豐一郎樣
 
      一一二八
 
 六月十二日 日 牛込區早稻田南町七より 富士川游へ
 拜啓未だ御目にかゝらず候處愈御清適奉賀候
 却説過般來森田草平より度々朝日文藝欄掲載の論説につき御迷惑をかけ恐縮此事に御座候今回は御多忙中わざ/\御轉地先より寄稿を辱ふし萬謝の至に不堪候
 實は早速御禮を差出すべき筈の處森田參りたらば本人よりと思ひ差控居候處同人少々事故出來候由にて二三日參らず候につき小生より代つて御挨拶申上候遲延の段御ゆるし可被下候
 目下生憎原稿込み合ひ居候につき玉稿掲載の日取りは小生に御一任相成度是は少時仕舞つて置いても腐らぬ原稿に對して小生の時々申出候我儘に御座候先は右御禮迄草々如斯に候 以上
    六月十二日                 夏目金之助
   富土川 游樣
 
      一一二九
 
 六月十三日 月 前0-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一表北裏七一號朝倉方林原(當時岡田)耕三へ
 拜啓先刻外泊屆の印をもらふための屆書に肝心の印を捺さずに屆書を其儘封入して送くつたやうに思ふ故別紙白紙の好加減な所に印を押して上げる故本文はそちらにて御認めありたく候 艸々
    六月十二日                  夏目金之助
  岡田耕三樣
 
      一一三〇
 
 六月十七日 金 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王杉村廣太郎へ
 啓上※[礪の旁]人※[礪の旁]語記念特製參拾號御惠送を受け拜謝 あの表紙は女の兒の記念にはうつりの好い美くしいものである。夫にしては「※[礪の旁]人※[礪の旁]語」が少々強過ぎる
 僕胃潰〓《原》の嫌疑にて明日から内幸町の長與病院に入る。交詢社の御馳走も當分駄目となる
 右迄 艸々頓首
    六月十七日                   金之助
   楚 人 冠 兄
 
      一一三一
 
 六月十七日 金 牛込區早稻田南町七より 秋田縣雄勝郡駒形村小野崎淳芳へ〔うつし〕
 拜啓「猫」御通讀を蒙り難有存候
 御注意の通殿面は殿閣の誤にて是は柳公權の句、禅家にて利用せるは何時の事なるや、たしか碧巖に見えたりと記憶致居候
 應無所往生其心も御注意の方正しく候所無住は無論誤植に候序の節訂正致し度と存候
 右御禮迄草々
    六月十七日                  夏目金之助
   小野崎淳芳樣
 
      一一三二
 
 六月十八日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區大久保余丁町一〇六安倍能成へ
 拜啓御病氣の事は承はり候へどもついに御見舞にも參上致さず怠慢に打過候御回復の模樣は小宮抔より折々耳に致しひそかに喜び居候粥が食べられる樣になつた事も小宮から聞き候もう大丈夫とは存じ候へども精々御攝生專一に存候小生は其後不相變胃病に苦しみ居候處十日程前決意長與の胃腸病院へ參り候處胃潰|〓《原》の疑にて遂に入院する事に相成明十八日より轉移致候いつ出るか分りかね候。もし君丈夫になつても未だ入院中ならちと遊びに御出掛被下度候
 「土」は御説の通うまく候。「四篇」御高覽の由難有候
 先は右迄 艸々
    六月十七日夜                 夏目金之助
   安倍能|勢《原》樣
 
      一一三三
 
 六月十九日 日 後7-8 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區九段中坂望遠館松根豐次郎へ
 拜啓此間は御手紙を難有う。夫から醫者の勸にてとう/\表面の處へ入院、食物も、臥起も、萬事醫者の指圖通。運動もいけず、入浴もまだ許されず。徒然無聊。たま/\閑に乘じ此手紙をかく。さうして御返事に代ふ。小鳥を飼つてゐる病人あり。ちちちちと鳴いてゐる。 艸々
    六月十九日                 金之助
   豐 次 郎 樣
 今日の新聞に獨乙國賓松根式部官の案内にて云々とあり
 
      一一三四
 
 六月二十一日 火 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ
 拜啓それからの御批評掲載おそく相成不相濟候(五月二十一日)とある論文が丸一ケ月後の六月二十一日に掲載濟になるのも何か最初から工夫したるやうの偶然に候。
 改めて申候御批評は上中下共立派に拜見特に中を美事に存候。下は「それから」の筋を明瞭に記|臆《原》してゐる人でないと讀むに骨の折れる所有之候。然し長いものを短かくつゞめる爲には已を待ぬ譯かとも被存候兎に角中を讀んだ時は突然自分が偉大に膨脹した樣に覺え後で大いに恐縮致候
 御蔭を以て「それから」も立派な作物と相成候。作家は評家により始めて理解せらるべきものかと思ひ候位に候。多くの作者が一二行の惡口で葬らるゝ中に小生は君の如き批評を受くるは面目にも光榮にも有之改めて御禮申上候 艸々頓首
    六月二十一日                 夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一一三五
 
 六月二十三日 木 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 本二十三日の柴漬にアプリルフールとあるが英語ではエープリルフールと云ふので、四月をアプリルなんて發普されては文藝欄擔任の※[さんずい+嫩の旁]《原》石の英學者としての名前に關る。元來獨乙語なら獨乙語でいゝからアプリルナールとでも書いたら好いぢやないか。何を苦しんで半解の英語なんか振り舞すのだか要領を得ない。病院〔に〕も病人にも左右の兩隣にも變化なし。 艸々
    六月二十三《原》
 
      一一三六
 
 六月二十六日 日 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 茨城縣結城郡岡田村長塚節へ
 書状にてわざ/\の御見舞篤く御禮申上候年來の宿痾一層の進歩を加へ胃潰瘍とか申す病氣の由にて當分當院内に靜養まかり在候「土」御苦心の御模樣嘸かしと御推察申上候是は自分にも經驗ある事とて大兄の御心状よく相分り候御健康可成御かばひ可然か夏より秋にかけての御慰みの草花も御培養の御閑なき趣かうなると創作も人の子を賊するやの感を生じ候。「土」は毎朝拜見。一般に評判よき樣に候。何卒今暫くの御辛抱願上候先は右御挨拶迄 草々頓首
    六月二十五日                夏目金之助
   長 塚 節 樣
 
      一一三七
 
 六月二十八日 火 後3-4 麹町區内幸町胃腸病院より 北海道小樽區量徳町五八林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 試驗濟にて御歸省の由結構に存候充分御攝生專一と存候。小生胃潰瘍といふ病氣にて十日前此所に入院靜養中。左したる事も無之候へば御心配に及ばず。先は御返事迄 艸々
    六月二十八日
 
      一一三八
 
 六月二十八日 火 後5-6 麹町區内幸町胃腸病院より 兵庫縣多可郡黒田庄村藤井節太郎へ
 拜啓御手紙拜見致候御手漁の香魚御心にかけられわざ/\御送難有存候然る處殘念な事に陽氣の爲め腐敗致し居候由なるが或は箱の中でむれたのかと存候小生は只今病氣にて當院に靜養中に有之。どうしても香魚に縁なき身に候故腐つて〔も〕腐らないでも物質上の利害は同一に候たゞ御芳志に對し辱く御禮申上候 草々頓首
    六月二十八日                夏目金之助
   藤井節太郎樣
 
      一一三九
 
 七月三日 日 後1-2 麹町區内幸町胃腸病院より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓御手紙難有拜見致候其後とう/\思ひ切つて入院致し最初の一週〔間〕位は轉地の如く呑氣に消光致候處出血とまりて二週間目より蒟蒻《コンニヤク》で腹をやくんだと云つて火の樣な奴を乘せられるので一驚を喫し申候。のみならず一日にて腹が火ぶくれに相成り見るも淺間しく恐縮の體に候。昨今病氣よりも此方が苦痛に候。
 新潮は昨日宅より屆き一見致候。夏目|※[さんずい+嫩の旁]《原》石論抔と大きな活字が目につくと、今迄世の中と無關係に暮したものが急に裟婆氣づき何だか又人間に立ち歸る樣な情なき心持に候。
 第一の印象はよくも漱石の爲めにブラフ君がかく迄に方々を馳け回り、諸家又※[さんずい+嫩の旁]石のためによくもこんな面倒な事を敢てしてくれたかといふ勿體なき感じに候。然し新潮は新潮で又自分勝手の意味も有之べければ自然捕つた大兄等丈が御迷惑な譯に相成まことに申譯なく候。こと|は《原》大體の上に於て諸君が好意を以て同情を以て小生を批評せられてゐる樣なのは難有き慰藉とも可申か。
 まゝ誤謬誤解等あるも是亦文壇一時の即興景氣づけ位の所と思へば夫迄に候。のみならず到底歴史逸話傳記類に徹頭徹尾本當のものは無之事を深く感じ居候昨今には、間違が却つて面白く候。
 大兄は冒頭より※[さんずい+嫩の旁]石黨と名乘つて出でられ候御厚意御奮發に對して小生とくに他の諸君以上に御禮を申さねばならぬ義務有之候。然る處御批評のなかに※[さんずい+嫩の旁]石は付合ひにくひ男と有之。是も貴意を諒し候へども甚だ心細く候。小生から申せば大兄は小生に對しあまりに慇懃過ぎて付合にくく候。是を兩方で撤回してもつと無遠慮になつたらもつと御互が樂になるだらうと存候。小生は御評を拜見せぬ前より常にさう考へ居候處あれを見て愈思ひ當り候樣な心持に候。私はいつでも無遠慮になれる男に候。大兄はみんなから淡泊な人と評されて居らるゝ紳士に候。御相談の上是から交際法を變化して見たらどうだらうかと存候。貴意如何。と申し〔た〕からと云つて別に御返事を豫期する譯にも無之。まづ病中のいたづらと御聞流し可被下候 艸々頓首
    七月三日                  金之助
   秋 骨 先 生
 
      一一四〇
 
 七月十二日 火 後2-3 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 一寸御願あり病氣中に謠本の揃つたのを綴ぢて置きたいと思ふ。
 宅へ行つて調べて五冊づゝかり綴になつてゐる奴を相馬屋か何處かへ持つて行つて綴ぢさしてくれ給へ。
 あとからも綴ぢるのに表紙がちがつては困るから、其邊の都合のつく位澤山ある表紙を撰んでくれ玉へ。内外にて表紙を區別してもよし。
 表紙に白紙を貼付する事も頼んでくれ玉へ(あとから名前を書き込む)
 「松風」は|ど《原》ぢ込まずにあるが、あれを入れて五冊にまとまるならあれも入れて呉れ。あれは新の本だが何時迄立つても歸せと云はないから貰つてもよからう。しかも相手が新だから色々な點に於て、是を斷行しても差支ない理由がある。
 揃はない分を寫してくれる人があるなら頼んでだん/\纒めたし。夫も一寸聞き合して呉れ。面倒でも揃はない分の名前を表にしてそれを持つて行つて頼んでくれ。(是は事が面倒ならやらなくても好い) 以上
    七月十一日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一一四一
 
 七月十四日 木 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓昨日願候諸本寫取の件朱點入に願へれば大變面倒省け好都合に候。四方太君のおとつさんへ餘計御禮をしてさう願へればさう致し度野上へ一寸御依頼願候 以上
    十四日
 
      一一四二
 
 七月二十一日 木 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 拜啓御懇切なる御見舞状頂戴難有候小生病症は胃潰瘍にて今少しすれば退院位は出來さうに候、平生も御無沙汰病氣になると猶御無沙汰まことに不相濟候右御禮迄 艸々
    七月二十日
 
      一一四三
 
 七月二十一日 木 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓此間は御見舞難有候御手紙も拜見致し候もう少しで退院位出來さうに候。小鳥の巣島へ行く所から大變よろしき樣被存候、あの調子で始めから行かなかつたのが甚だ殘念に候右迄 艸々
 
      一一四四
 
 七月二十九日 金 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 北海道小樽區量徳町五八林原(當時岡田)耕三へ
 手紙をもらつて返事を出さうと思つても人が不絶來るのと懶いのとで甚だ失禮した
 胃潰瘍の療治は一段落ついて今は消化試驗やら胃液の試驗やらをやつてゐる。もう少〔し〕したら退院の許可が出るだらうと思ふ。時々散歩を許されたので日比谷やら銀座へ出かける。病院《〔?〕》で時々原稿をかく。人のくるのはいゝが床の上に横になりたくなる。北海道では山が破裂して大騷ぎ、此間友人が(ノ)ボリベツの温泉へ行けと勸めたが是ぢや危險の樣だ。
 君の病氣は如何涼しい所だからいゝだらうと思ふ。手のシビレるのはどうも氣になつてならん、全體何の病氣だかそれが分らないのは變である。是非とも療治の必要がある樣に思ふ
 今九月御上京の節に御目にかゝらう折角攝生を祈る 艸々
    七月二十九日                金之助
   耕 三 樣
 
      一一四五
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
 拜啓先日は御見舞難有候あの朝久し振で詩を考へ候それはあなたの扇子へ何か書いて見たくなつたからに候一時間ばかりして詩は出來候
  來宿山中寺
  更加老衲衣
  寂然禅夢底
  窓外白雲歸
といふのです、夫から墨を磨つてあの扇へ書きました處飛んだ字が出來上りました、扇は持つて歸りましたがあれは私が頂戴して置きます 艸々
    八月二日                   夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一一四六
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔はがき〕
 病中は御暑い所をわざ/\御見舞難有存候漸く輕快退院、田部君にはどうか大兄よりよろしく願上候。不取敢御禮と御報をかねて右申上候
 
      一一四七
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 入院中は御見舞難有候漸く輕快に赴き退院致候右不取敢御禮旁御報迄 早々
 御令弟へよろしく
 
      一一四八
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ〔はがき〕
 入院中は度々御見舞をうけ千萬難有候漸く輕快退院の運に至候、御禮のため參上致す筈の處攝生の都合にて時間甚だ窮屈故端書にて御免蒙り候 艸々
 
      一一四九
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ〔はがき〕
 入院中は御見舞難有候其節のグロキシニヤ珍重に眺めくらし候 漸く輕快退院致し候右御禮かたがた御通知申上候 艸々
    八月二日
 
      一一五〇
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇森卷吉へ〔はがき〕
 入院中は度々御出被下難有候退院(やつと)致候いづれ九月に御目にかゝり可申候 艸々
    八月二日
 
      一一五一
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木四三三阿部次郎へ〔はがき〕
 入院中は御見舞難有候漸く輕快退院致候
 右御禮旁御通知申上候 艸々
 
      一一五二
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 漸く退院、病中の御見舞を謝候 艸々
    八月二日
 
      一一五三
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 入院中は度々御見舞難有候漸く輕快退院の運に至り候右御禮旁御通知迄 艸々
    八月二日
 
      一一五四
 
 八月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區彌生町二栗原元吉へ〔はがき〕
 病中は御多忙中御見舞難有候漸く輕快にて退院の許可を得候御禮と御報をかねて右不取敢申上候 艸々
    八月二日
 
      一一五五
 
 八月二十一日 日 前11-後2 靜岡縣修善寺菊屋本店より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ〔はがき〕
 拜誦御訪ねを蒙り奉鳴謝候目下落付き居候間機を見て歸京靜養之心組に御座候
 右不取敢御禮旁申上候 敬具
    八月廿一日
 
      一一五六
 
 九月十一日 日 靜岡縣修善寺菊屋本店より 牛込區早稻田南町七夏目筆子、夏目恒子、夏目榮子へ〔手帳の紙一枚の表と裏とに〕
 八《原》月十一日
 けさ御前たちから呉れた手紙をよみました。三人とも御父さまの事を心ぱいして呉れて嬉しく思ひます。
 此間はわざ/\修善寺迄見舞に來てくれて難有う。びよう氣で口がきけなかつたから御前たちの顔を見た丈です。
 此頃は大分よくなりました。今に東京へ歸つたらみんなであそびましよう。
 御母さまも丈夫でこゝに御出です。
 るすのうちはおとなしくして御祖母さまの云ふことをきかなくつてはいけません。
 三人とも學校がはじまつたらべんきようするんですよ。
 御父さまは此手紙あおむけにねてゐて萬年ふででかきました。
 からだがつかれて長い御返事が書けません
 御祖母さまや、御ふささんや、御梅さんや清によろしく。
 今こゝに野上さんと小宮さんが來てゐます
 東京へついでのあつた時修善寺の御見やげをみんなに送つてあげます。
 左樣なら
                        父より
    筆子
    恒子へ
    えい子
 
      一一五七
 
 十月二十日 木 後2-3 麹町區内幸町胃腸病院より牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 拜啓面會謝絶にて御出の時も碌々口もきかず、定めし御氣に障る事と存候へども病氣の我儘序に當分御許容被下度候。實際只今の小生の唯一の樂は只一人で其日を暮す事に有之候。
 御約束の文藝欄原稿第一回御送致し候間可然御取計願上候。毎日送る事も隔日になる事も、或は三四日拔く事も有之候はんも少しは長くつゞく事と存候。長さも内容も不定に候へば其邊も時時御見計ひの上他のものと一所又は獨立して御掲載願上候。 不一
    十月二十日
 
      一一五八
 
 十月二十六日 水 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内池邊吉太郎へ
 啓今度は大字にて認め申候青崖先生より借用の書籍は日本人又は支那人中にて先生の尤も愛誦せらるゝ詩集一二部拜見致度候ことに日本の詩人中にて如何なるを好まるゝか夫が承知致度候
 然らずは義堂絶海などの集もし御あきならば拜借願度と存候只今別に書物に事をかく次第も無之只御厚意に甘へて右樣申上候御多忙の砌わざわざの御手數にては却つて恐縮致し候小生入院中もし國分氏に御面晤の機も有之候はゞしか御依頼願上候 匆々
    二十六日                  金之助
   三 山 先 生
         硯北
 病氣療養中執筆無用の御叱り敬承致候然し醫者の許諾を得て時々の寄稿は退屈凌ぎの一種平生の娯樂位の處と御認めの上御勘辨にあづかり度候
 
      一一五九
 
 十月三十一日 月 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區臺町二七鳳明館東新へ〔はがき〕
 拝啓ランゲンシヤイツの獨英丸善より着致候。直接に病院へ送る様申上候處矢張早稻田の宅へ送り候。他の佛英及び英佛未着なれど、もし丸善よりあるならば直接病院へ屆く様御取計願上候。色々御手數恐縮致候。 匆々
    十月三十日
 
      一一六〇
 
 十月三十一日 月 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 御見舞難有候。段々軽快に候御喜可被下候。一寸妻が御禮に上るべき筈の處取紛れ未だに缺禮致居候。面會謝絶は御聞及の通に候。夫でも時々襲はれ申候。原稿に就ての御注意難有候。他の人からも叱られ申候。然し無理は不致候。御案じ被下間敷候。何事もたゞ閑靜なるが今の小生に取りては結構に候。本など取り散らし讀み居候。人に逢ふより本を讀む方遙かにうれしく候。日本の雜誌はいやに候。小説もいやに候。
 
      一六一一
 
 十月三十一日 月 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 きのふ御前から御醫者の禮の事に關し不得要領の事を聞かされたので今朝迄不愉快だつた。御前も忙がしい、坂元も忙がしい、池邊も忙がしい、澁川は病氣だから寐てゐるおれの考通り着々進行する事は六づかしいが、病人の方から云ふ〔と〕あんな事は萬事知らずにゐるか、さうでなければ一日も早く醫者にも病人にも其他の關係者にも滿足の行く樣にはやくてきぱきと片付く方が心持がよろしい。どうか今度其話をする時はもつと要領を得る樣に願ひたい。
 今のおれに一番藥になるのはからだの安靜、心の安靜である。必ずしも藥を飲んでゐる許や寐てゐる許が養生ぢやない。いやな事を聞かされたり、思ふ樣に事が運ばなかつたり、不愉快な目に逢はせられたりするのは、藥の時間を間違へたり菓子を一つぬすんで食ふよりも惡いかも知れない。昨夕も云ふ通り今のおれは今迄の費用のかたがはつきり就いて、病室の出入がざわ/\しないで、朝から晩迄閑靜に暮す事が出來て、(自分の隨意に一人で時間を使ふ事)さうして日々身体が回復して食慾が増しさへすれば目前はまあ幸福なのである。病人だから勝手な事をいふが、實際さうだよ。
 一 澁川に返す本の事を忘れてはいけない。
 一 野上に謠の本をどうする積だときく事を忘れてはいけない。
 世の中は煩はしい事ばかりである。一寸首を出してもすぐ又首をちゞめたくなる。おれは金がないから病氣が癒りさへすれば厭でも應でも煩はしい中にこせついて神經を傷めたり胃を傷めたりしなければならない。しばらく休息の出氣るのは病氣中である。其病氣中にいら/\する程いやな事はない。おれに取つて難有い大切な病氣だ。どうか樂にさせてくれ 穴賢
    十月三十一日               金之助
   鏡 子 殿
 
      一一六二
 
 十一月五日 土 麹町區内幸町胃腸病院より 京橋區新肴町二大和館森次太郎へ
 啓先刻御出被下候節は午前中原稿をかきたる爲にやいたく疲勞致居つい失禮千萬御海恕願上候
 さてかねて御話しの藏澤の竹一幅わざ/\小使に持たせ御屆披見大驚喜の體、假眠も急に醒め拍手※[足+勇]躍致居候いづれ御目にかゝり篤く御禮可申上候へども不取敢御受取旁一札如此に候 匆々
    十一月五日                 金之助
   圓 月 樣
       硯北
 
      一一六三
 
 十一月九日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より Bei Frau Lotheisen,Planckstrasse18,Go※[ウムラウトあり]ttingen 寺田寅彦へ〔繪はがき 修善寺獨鈷の湯〕
 僕は漸く輕快になつて此病院に歸臥してゐる。まづ當分は死にさうもない、喜んで呉れ玉へ。先達ての旅行の手紙は面白かつた。あれを朝日の文藝欄に載せた。又何か書いてくれ玉へ。僕病中の回顧録を「思ひ出す事など」と題して新聞にぽつ/\書き始めた。何れ出版のとき單行にするか、他と合本にするだらうから其時あげる
 
      一一六四
 
 十一月十日 木 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區市谷甲良町二〇金子雄太郎へ〔はがき〕
 拜啓小生病氣につき御懇篤なる御見舞難有拜見致候。俳句の事承知致候。畫帖小包にて御屆ありたく候。すぐと申す譯には參りかね候はんか、句も新らしく作るや舊作にて間に合すや計りがたく候右御承知願上候
 
      一一六五
 
 十一月十二日 土 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 御手紙拜見致候其後は如仰頓と來客に接せず專ら靜養をつとめ居候體力は漸々回復の模樣まづ御休神願上候
 病中の難有き閑靜を思ふと世の中へ飛び出すのが恐ろしく候
 謠も再興出來可申か頗る覺束なく候へども先づやれるものとして過日愚妻に依頼願上候四方太の御父さんに可然御たのみ可被下候
 病院では來客を謝絶し讀書に耽り居候少々佛語を勉強致居候分らぬ字を佛獨の字書で引き分らぬ獨乙語があると又獨英で引くといふやうな手間のかゝる方法を用ひ居候退院迄には双方とも物に致し度と存候。犬の科料話の種に候成程壹圓二十錢では高過申候能成の小便も始めて承はり候。もう巣鴨の邊は秋の景色で嘸よき眺めならんと存候今年の秋の景色は想像する丈で遂に冬になるべきか幸ひに南側にて暑い程好く日が射し込み候故冬の日は籠るに便宜かとも存居候其|向《原》方に向ひ候はゞ拜顔の上萬縷可申述候不取敢御禮迄 匆々不一
    十一月十一日夜                金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一六六
 
 十一月十二日 土 使ひ持參 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先日御寄贈の竹病院の壁間に懸け毎日眺め暮らし候今朝不圖一句浮び候まゝ記念の爲め短冊に認め進呈致し候病院に在つて自家になき小生の句としては甚だ嘘の樣なれど先づ家に歸りたる時の光景と御思ひ可被下候先は右迄餘は拜眉 草々
    十一月十二日               金之助
   森 樣
 
      一一六七
 
 十一月十五日 火 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區辨天町一七二山田繁へ〔繪はがき 修善寺虎溪橋〕
 新橋で御出迎を受けてからまだ御目にもかゝらず、御禮も申上ません。私は段々好い方で、毎日毎日生き延びて居ります。電話の御取次を度々願ひまして濟みません。昨日は又奇麗な花をわざ/\御屆下さいまして、まことに難有う御座います。あの〔花は〕甚だ勢が好う御座います。枕元に置いて眺めてゐます。 頓首
 
      一一六八
 
 十一月十七日 木 麹町區内幸町胃腸病院より 金子雄太郎へ〔うつし〕
 拝啓 今朝はわざ/\御見舞頂き難有奉謝候其節かねて御依頼の畫帖並びに短冊二葉たしかに落掌致候御希望により拙筆相認め申候につき明朝にても御序の時に乍御面倒使のもの御遣はし相成度候、平生拙筆の上出来事外あしく候へども既に書きたる後にて消を致す餘地も無之不得已恥を御目にかけ候
 病院にて雅印一個も持合せ無之もし御懇望に候へば畫帖早稻田宅へ御持越し其所にて漱石の落款御押し相成候ても宜しく候。午前中なれば愚妻在宅故書齋にある紫檀の小形の硯箱にある印と仰せあれば分り候。其中に手頃の印兩三顆有之筈に候。どれにても任貴意候先は御返事まで 艸々頓首
    十一月十七日                金之助
   金子薫園樣
       座右
 
      一一六九
 十一月二十一日 月 後3-4 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區五番町三高濱清へ
 拝啓其後は御無沙汰に打過候。修善寺にては御見舞をうけ難有候、猶入院中の事とて御禮にもまかり出ず失禮致居候
 別封宮寛と申す男より參り候中に大兄に関する事も有之候故入御覽候
 此人は昔の高等學校生にて不治の病氣の爲め廢學致候ものなる事御覚の如くに候
 かゝる人の書いたものをホトヽギスへでも載せてやつたら嬉しがるだらうと思ひかた/”\入御覽候
 文中小生の事のみ多く自分より云へば夫が憚に候。文字は別段の光彩も無之内容も夫程には見え不申、たゞ普通のものよりは幾分か新しき事あらんかと存候
 右用事迄申上候、當節は小説も雜誌もきらひにて、日本書はふるい漢文か詩集の樣なもの然らざれば外國の小六づかしきものを手に致し候夫がため文海の動靜には不案内に候。其方却つてうれしく候。新聞も實は見たくなき氣持致候 草々頓首
    十一月二十一日                金之助
   虚 子 樣
 
      一一七〇
 
 十一月二十九日 火 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區辨天町一七二山田繁へ
 先刻は又電話の御取次を願ひました處早速御引受被下好都合難有う存じます
 夫から結構な薔薇をわざ/\車夫に持たせて御よこし下さいまして是亦厚く御禮を申し上ます
 薔薇は早速花活に插して眺めてゐます看護婦が好い香がすると申しますまことに美事であります 草々
    十一月二十八日               夏目金之助
   山田|茂《原》子樣
 
      一一七一
 
 十二月一日 木 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓其後御無音小生順當に漸次回復御安神願候
 却説別紙長野の信濃新聞主筆桐生悠々君より到來致候處幸弘大兄は與平さんと御懇意乍御面倒御周旋被下度候猶初刷に入要の事故急がねば間に合はぬ事と〔存〕候故其御積にて萬事願上候
 先は用事迄 草々頓首
    十二月一日                 金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一七二
 
 十二月五日 月 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓先日は與平さんに御依頼早速御快諾をうけ難有候其旨直ちに桐生悠々君に通知致候處別紙の通申越候。然るに○を打つた所よく讀めず閉口なれど與平さんには分るだらうと存候につき御示し願上候。
 猶差出先は長野市旭町信濃毎日新聞に有之候につきこれも合せて御通知願候
 小生漸々よろしく候。朝起きた時は少し痛々しく見え候然し晝から夜へかけて人相又々わるく逆戻を致し候。謠も今少ししたら御|中《原》間入をして稽古が出來る事と存候 草々
    十二月五日                  金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一七三
 
 十二月七日 水 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 京都市吉田近衛一五厨川辰夫へ
 御書面拜見致候夏中より御病氣の由にて御臥床の由嘸かし御困却の事と存候小生も御承知の通大病に罹り一時は危篤に候ひしも幸ひに回復只今猶表記の病院にて靜養中に御座候間乍憚御休神可被下候時下追々寒氣相募り候折柄折角御自愛可然候先は御挨拶迄 艸々頓首
    十二月七日                 夏目金之助
   厨川辰夫樣
 
      一一七四
 
 十二月十二日 月 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓御紙面拜見致候小生の寫眞にて御役に立ち候はゞ御使用被下度一向差支無之候右御返事迄
 
      一一七五
 
 十二月十三日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓。だれと酒を飲んだとか、だれと藝者をあげたとかいふことは一々報知して貫はないでも好い。其末に悲しいとか、濟まないとか云ふ事は猶更書いて貰はないで可い。余は平凡尋常の人である。凡ての出來事を平凡尋常の出來事として手紙に書いてくれる人を好む。 艸々
 
      一一七六
 
 十二月十四日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔はがき〕
 啓上。小宮が御嫁さんを貰ふから何かやつたら好からう。國へ歸る前の方が好くはないか。品物は別に心當なし。毛織の厚い襯衣《シヤツ》薄いのと引替たし。御序の節御持參を乞ふ。中村杉村の件は都合次第御片付可然。子供をあんなはにかみ屋に仕立てゝは行《原》けぬ。御用心。時々病院へ連れて來て無理にも口を利かせる樣に御教育あるべし 以上。
 
      一一七七
 
 十二月十四日 水 後8−9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓君の結婚につき何か祝ひのものを上げろと妻に手紙を出して置いた。可成歸國前がよからうとも書き添へた但し品物は心當りなき旨も報知して置いた。もし細君の着物でも買ふなら妻と相談して夫を買つて貰つたらどうだらう。或は君が別に望むものがあるなら夫を妻の方に通じ給へ。記念になるものと思ふが別に妙案も浮ばず。内丸と野村のときは發句を染め拔いた縮緬の伏《原》※[示+沙]をやつた。
 
 あゝいふ端書を見たら心持を惡くするだらうと思つてゐた。けれどもあゝ書かなくては僕の主意が君に通じない樣な心持がした。僕の心持も通じないでたゞ君の感情を害した丈なら眞に無益の所爲である。僕は自分の腹立まぎれにあの端書を上げたのではない。君の近來の傾向にアンチシーシスを與へる積で書いた。君の樣な手紙は森田とか次郎にやるべきである。僕からあんな返事を貰つたら世の中には草平や次郎ばかり居らないといふ事に氣がつき給へ。君の心持を害したる事は不得已して冒したる僕の罪なり、後に餘波をとゞむる事御無用なり 草々
    十四日夜                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一一七八
 
 十二月十七日 土 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 「極光」が宿替を致し「思ひ出す事など」が毎日顔を出すに至りて少々面喰ひ候如何なる事情にや
    十二月十七日
 
      一一七九
 
 十二月十八日 日 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 拜啓御手紙拜見致候。文中時効〔二字右○〕にかゝりたりとて活版をコハシとある意味分りかね候。何の事なるや
    十二月十八日
 
      一一八〇
 
 十二月二十日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 啓時効にかゝつた事情ぢやない「時効にかゝる」といふ字面の意味が解しかねるのである。活版をコハシテ報知しなければ報知してくれと仰やい。
 ※[ヰに濁點]ジユアリゼーシヨンでも※[ヰに濁點]ジユアライゼーシヨンで〔も〕同じ事也。ゼーの所にアクセントガあるから前のシラブルの母音は長くても短かくても差支なきなり。東などをオーソリチーにせず改めるなら字引を御引きなさい。
 
      一一八一
 
 十二月二十六日 月 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 啓「今年の劇界」五六回つゞき候上は編輯長に掛合ひ都合(雙方の)よきとき丈文藝欄を擴張「思ひ出す事など」も同日の紙面に載せる樣に出來ずや。但し小生のは無論毎日と申す譯にてはなし
 
      一一八二
 
 十二月二十七日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 歳晩嘸かし御多忙の事と存候御風邪如何に候や御大事に御療養可然候小生日に増し快氣の方御安心可被下候
 偖別紙端書例の悠々先生より參り候につき御目にかけ候毎々御手數恐入候へどもどう〔か〕與平氏に御申傳願上候
 八重子さんに久しく御目にかゝらず不相變赤ん坊で忙しい事と存候
 先は右迄 艸々
    十二月二十七日              金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一一八三
 
 十二月二十七日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 千葉縣成田町在押畑鈴木三重吉へ
 歳晩寒く候田舍は一層と存候病院にて越年珍らしく覺え候支那水仙猩々木薔薇など飾り居候寒梅をかぐ丈の風流も無之候
 「小鳥の巣」の事春陽堂へ申入候何とか返事ある樣致し置候參り次第早速御通知可申候然し今から宛にする事必ず御無用に候
 太陽へ書く事賛成に候御書き可被成儀 艸々
    十二月二十七日               金之助
   三 重 吉 樣
 
      一一八四
 
 十二月三十日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 元日のものは何も書かず候。客去客來思ひ出す事なども昨日迄書けず候
 
 明治四十四年
 
      一一八五
 
 一月一日 日 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷一一一狩野享吉へ〔印刷のはがき〕
恭賀新年
 昨年來度々御見舞に預り難有御禮申上候尚目下引續き入院中につき萬事缺禮仕候
    明治四十四年正月元旦  夏目金之助
          牛込區早稻田南町七番地
 
      一一八六
 
 一月 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區駒込千駄木町森林太郎へ〔封筒表側に「森田草平氏持參」とあり〕
 新年の御慶目出度申納候
 修善寺にて病氣の節はわざ/\御見舞を忝ふし拜謝の至歸京後はとくに貴著を給はり是亦深く御禮申上候參上の上親しく御高話も可承の處未だに在院中にて諸事不如意今度出版の拙著森田氏に托し左右に呈し候御藏書中に御加へ被下候はば幸甚に候 艸々頓首
    四十四年正月〔封筒の裏に「十二月三十一日」とあり〕                   夏目金之助
   鴎 外 先 生
         座右
 
      一一八七
 
 一月(日附不明) 《〔?〕》6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 埼玉縣南埼玉郡鷲宮村宮寛へ〔はがき〕
 謹賀新年
 去臘は無斷にて大兄の手紙をホトヽギスへ送り失禮致候
 一陽と共に御病苦のなからん事を祈候
    元日
 
      一一八八
 
 一月二日 月 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 鹿兒島市第七高等學校野間眞綱へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 修善寺の御見舞後引きつゞき生き延び候、御安心願上候
 
      一一八九
 
 一月二日 月 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 鹿兒島市春日町八七皆川正※[示+喜]へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 漸く生き延び候、一句かき可申候
 
      一一九〇
 
 一月三日 火 前11-12 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 正月早々苦情を申候。われ等は新らしきものゝ味方に候。故に「新潮」式の古臭き文字を好まず候。草平氏と長江氏はどこ迄行つても似たる所甚だ古く候。我等は新らしきものゝ味方なる故敢て苦言を呈し候。朝日文藝欄にはあゝ云ふ種類のもの不似合かと存候
 
      一一九一
 
    
 一月|五《〔?〕》日 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 小言を豫期して書かれてはたまらない。あんな書方は「新潮」式だから「新潮」式と申すにて古臭き故に古臭きに候
 石井のをくれと云はれてすぐ日取をかへてあしたに出した動機が――文藝欄にとられては厭だといふ了簡なら玄耳は氣の毒な男なり。君たしかにさう思ふか
 
      一一九二
 
 一月五日 木 後1-2 麹町區内幸町胃腸病院より 佐賀縣神埼郡三田川村苔野行徳二郎へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 くれには御母上と御令妹も御病氣のよし嘸御難儀と存候
 私は次第によろしく候、御歸りの節御目にかゝり可申候
 
      一一九三
 
 一月六日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 下谷區上野櫻木町二八阿部次郎へ〔はがき〕
 賀正  (門差上てもよろしく候、期御面會の日)
 御風邪の由御大切に可被成候。五日の拙稿御ほめに預かり難有候、小生老人を以て自ら居り大兄青年を以て自ら任ず、左すれば小生の書いたものが一回だも君の氣に入るは、却つて小生の若き所を曝露したるに等し。呵々。
 趣味は年に從つて變ず、永き年を通じて融通の利く趣味を有するものは其人の幸福に候。二十五の時は二十五の趣味、三十の時は三十の趣味丈ならばあまりいき苦しく候。
 
      一一九四
 
 一月八日 日 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 昨七日夜出したる「思ひ出す事など」二十四の末にある詩
  秋露下南澗 黄花粲照顔
  欲行沿澗遠 却〔右○〕得與雲還
のうち○をつけた却の字を還と間違へて書いたかも知れず。もし間違つてゐたら御正し下さい
 
      一一九五
 
 一月二十日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 埼玉縣南埼玉郡鷲宮村川羽田隆へ
 御手紙を拜見致しました。小生の病氣で色々御心配被下難有う御座います。病氣は段々快くなります。今では病氣前よりも目方なども増しました。たゞ用心の爲め病院の人となつて居ります。多分は二月一杯位居るでせう。「思ひ出す事など」御讀み被下候よし御禮を申し上げます。毎日出る必要もないので途切れ/\になります。
 南埼玉郡鷲宮とあるので宮寛君の事かと思ひました。あなたは同君を知つて御出ですか 艸々
    二十日                  夏目金之助
   川羽田 隆樣
 
      一一九六
 
 一月二十日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 神奈川縣逗子町新宿田坂方坂元三郎へ
 無事御安着結構に候。
 人から長い手紙をもらふとよく|な《原》んな時間をつぶしてくれたと思ふ。君のも其一例である。何でもない事をこま/”\書いてあるのに面白味があつて愉快に讀んだ。まづ妻君も妻君の御兩親も至つて平和さうで何よりも目出度い心持である。折角山と海で養生して旨く三度の食事が出來る樣にならん事を希望する。昨夜から雪で今は市中眞白になつてゐる。逗子も天氣がわるいのぢやないか知らんと思ふ。
 獨乙へ手紙を出す。英國へたよりを書く。森田に小言を云ふ。知らぬ人の書翰に禮の返事を出す。それや是やで今朝は病院も大分多事、長い御返事も出來ない。小宮は歸つた朝すぐ芝居へ行つたさうだ。大將どう云ふ了見かな。君は妻に先生は中々政畧が上手になつたと云つたさうだ。妻に松本の西洋料理を奢つたさうだ。森成さんから越後の謙信の話を大分聽いて面白かつた。町井さんが脉をとると脉が急に早くなるのは事實です。大方化物に捕まつたと思ふせゐだらうと云ふ事に歸着した。 艸々
    二十日                  金之助
   三 郎 樣
 奥樣にも御老人にもよろしく。逗子抔へ引込んで畠を作つてゐられる人は眞に羨ましい
 
      一一九七
 
 一月二十日 金 後0-1 麹町區内幸町胃腸病院より Bei Frau Lotheisen,Planckstrasse18,Go※[ウムラウトあり]ttingen 寺田寅彦へ〔繪はがき〕
 ワイナハトの手紙正に拜見。面白かつた。病氣段々よろし。體重十四貫半。病院には用心のため二月迄ゐるつもり。此方の新聞は千里眼、透視、念射などて大分賑なり。「門」一部送り候。歸りに船の中ででも御讀み下さい。
    一月二十日                  夏目金之助
 
      一一九八
 
 一月二十四日 火 後(以下不明) 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 過日手紙にて申上たる件につき御協|義《原》仕りたし。妥協の道あらば成案を持つて御來院を乞ふ。
    一月二十四日
 
      一一九九
 
 一月二十九日 日 前7-8 麹町區内幸町胃腸病院より 兵庫縣御影町前川清二へ
 拜啓先日御申越に相成候拙句御依頼通原稿紙に認め御送申上候兩方共認め候につき御氣に入りたる方を御存しあまれるを御※[手偏+止]捨被下度候御氣に召し給はずは猶幾枚にても書き直し可申候 草々頓首
    一月二十八日               夏目金之助
   前川清二樣
 
      一二〇〇
 
 二月一日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 千葉縣成田町成田中學枚鈴木三重吉へ
 新年早々ストライキがあつた由學校の教師をすれば是から同樣の事が何度となく起るものと思はなければなるまい。今は世の中の門口を潜つた許りだ。第一の經驗として興味のある事件と思ひ給へ。和尚さんが君を辭職させないのは好い。生徒を罸しないのも好い。君も平氣で居れ。
 此月二十六日に退院の都合、何故二十六日といふと妻が易者の所へ行つて見てもらつたのださうだ。夫で差支ないからうらなひの云ふ通り妻の申す通りにする積である。二三日東京は大變暖かい。暖かいと戸外へ出たくなる。 艸々
    二月一日                   金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二〇一
 
 二月一日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ〔はがき〕
 好い家に御引移のよし。此方はまだ入院中。二月二十六日に出る筈。體重十五貫弱。毎週増加の模樣。是ならば當分生き延る事に候。野間君へよろしく
 
      一二〇二
 
 二月一日 水 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 名古屋市島田町田島道治へ〔はがき〕
 此方よりも御無沙汰御新婚御目出度存候猶病院にあり、二月末退院の筈。謹んで御夫婦の御清福を祈る。
 
      一二〇三
 
 二月一日 水 前(以下不明) 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ〔はがき〕
 長い手紙を難有う。長い手紙を書きたいが色々用事があるから是で失禮する。僕は此月末に退院する。あつたかくなると戸外へ出たい。澤山金を持つて遊んで暮したい。
 
      一二〇四
 
 二月二日 木 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 着物と草履と雜誌は受取つた。大嶋の着物を不斷着にする程惡くして仕舞つたのかな。あの羽織のがらは嫌だ。買つたものだから仕方がないから着る。實はドテラももう大《原》なしになつたよ。どうせ仕《原》着るなら大嶋もよこして呉れ。
 眼がまはつて倒れる抔は危險だよく養生をしなくては不可ない。全体何病なのか。具合が少しよくなつたら、よくなつたと郵便で知らせて呉れ。御前が病氣だと不愉快で不可ない。あまり天狗などの云ふ事ばかり信用しないがいゝ。
 うたひの本は病院で大聲を出して謠はれもせんから寄こしても大丈夫である。夫から是からさき一年やめろなら已めてもいゝが、やめる必要もないならやる方がいゝ。醫者に聞いて見る。
 あつたかになると病院が急にいやになつた。早く歸りたい。歸つても御前が病氣ぢやつまらない。早くよく御なり。御見舞に行つて上げやうか。
 子供へ皆々へよろしく
    二月二日                    金之助
   鏡 子 ど の
 
      一二〇五
 
 二月三日 金 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓其後御無沙汰。小生豫約の謠本に加入の旨能成を通じて申込たる處其後一向音沙汰なき模樣、あとから一度に金を取られるのは恐れるが、序の時一寸幹事に聞き合せて呉れ玉へ 艸々
 
      一二〇六
 
 二月四日 土 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 着物届き候。大嶋の衣物と下着とはよく考へると實は不用に候。然し此方へ取つて置き候。
 大嶋の下に着る下着の胴の色あれでは羽織の裏の如く甲斐絹と同樣にて見惡く候。白茶か、あらい模樣宜し|た《原》申したる積に候。元の大嶋の羽織を不斷に着る程わるくなり候や。夫よりも只今着てゐる鐵色の方わるくならずや。又不斷着ならば支那のケンドンの重い方が結構かと存候。いづれ歸つて見た上に致すべく候。
 羽織の方チヨイ/\着なればあの裏にては駄目に候あれは下等な風呂敷の模樣に候。いつか取り換たく候。織屋から買つた糸織とかの不斷の羽織とかはどうなり候や。それへあの裏をつけたら好からうと存候。
 謠本は病院では大聲で謠へる筈なく候。只退屈故申入候。森成さん抗議を申込み候も差支なく候。常識なき醫者の忠告に候。取合ふに及ばぬ事に候。謠本はとぢたもの宅に餘り候を二三冊入用と申候。 以上
    二月四日                 金之助
   鏡 子 殿
 
      一二〇七
 
 二月九日 木 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 御序の節關晴瀾氏の原稿を本人へ御返しのため、又タツミ氏に依頼されたるものを屆ける爲め、社に出らるゝ前一寸御立寄願候
 
      一二〇八
 
 二月十日 金 後(以下不明) 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 拜啓本日回診の時病〔院〕長平山金|三《〔藏〕》先生と左の通り談話仕候間御參考のため御報知申上候。
 旦那樣「もう腹で呼吸《いき》をしても差支ないでせうか」
 病院長「もう差支ありません」
 旦  「では少し位聲を出して、――たとへば謠などを謠つても危險はありますまいか」
 病院長「もう可いでせう。少し習《な》らして御覽なさい」
 旦  「毎日三十分とか一時間位づゝ遣《や》つても危險はないですね」
 院 長「ないと思ひます。もし危險があるとすれば、謠位|已《や》めて居たつて矢張り危險は來《く》るのですから、癒《なほ》る以上は其位の事は遣《や》つても構はないと云はなければなりません」
 旦  「さうですか。難有う」
 右談話の正確なる事は看護婦町井いし子孃の堅く保證するところに候。して見ると、無暗に天狗と森成大家ばかりを信用されては、亭主程可哀想なものは又とあるまじき悲運に陥る次第、何卒此手紙届き次第御改心の上、萬事|夫《おつと》に都合よき樣御取計被下度候 敬具
    二月十日午後四時町井いし子|立會《たちあひ》の上にて認む      夏目金之助
   奥 樣 へ
 
      一二〇九
 
 二月十二日 日 後6-7 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 風葉は謝絶になり候や。夫にて可然事と存候。つぎは貴兄御書きあるぺく候。池邊氏と談合の上必要の猶豫を得らるゝもよろしく候。先日申上候もの取に御立寄ならず。如何なされ候や。端書一枚位は書くひま有べき筈
 
      一二一〇
 
 二月十三日 月 前11-12 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
  原稿料送ルニ及バズ
 衛藤東田の「新ラオコーンに就て」とか云へるもの前後三回に渡りて興の覺めたるものかな。出來得る限り以來こんなもの没喜可被成候。又ロマンチズムと云ふ言葉ありやクラジツクとも云ふや
 
      一二一一
 
 二月十三日 月 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 御目出度人御惠投たしかに頂戴御禮を申します。私は段々よろしくなります。今月二十六日に病院を出て人間界に入ります 草々
    二月十三日
 
      一二一二
 
 二月十三日 月 後8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 一月のBu※[ウムラウトあり]hne und Welt が來た それは結構だが去年の十一月のDeuts|he《sic》 Rundschau が來たには驚ろいた。君は全體何月號迄よんだ。森田が間違へてNeue R.S.をたゞの R.S. として引繼ぎ注文をしたのではないか。一寸御聞合せ申し候
 
      一二一三
 
 二月十四日 火 前10-11 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 長耳生のカペルマン音樂會評中に曰く雀羅孟〔二字右○〕求を囀るに似たりと。
 雀羅とは雀を捕る網の事なるべし。アミが囀るとは不可思議千萬に候。又孟求と云ふもの見たる事なし。蒙〔右○〕求の誤ならん。君が書けるにや東がかけるにや。好加減な事ハヨス方ガイヽ
 
      一二一四
 
 二月十七日 金 前8-9 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田南町一〇飯田政良へ〔はがき〕
 御手紙拜見致候。御申越の件は至極よろしからんと存候。出來得る丈早く御取極可然かと存候。右御返事迄。私は二十六日に退院致候
 
      一二一五
 
 二月十七日 金 後2-3 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 武者小路から御目出度人と云ふのを送つてくれた。戀の進行を明らさまに書いたものである。今の作家の戀を打ち明けた|の《原》ものは大概世にすれからした萬事を心得顔(ことに女性を)の主人公か又は墮落生と同程度の徳義心を持つた主人公である。然るに是は若い、女を知らない、相當の考のある、純粹な人の戀を其儘書いたものである其所に價|價《原》がある、君讀んで見ないか、森田の見た樣に無暗にがらないから好い。
 夫から鴎外から烟塵といふものをくれた。此前の涓滴といふのももらつてある。
 以上三書に就て何か書くなら書いて見ないか 艸々
    二月十七日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一二一六
 
 二月二十一日 火 麹町區内幸町胃腸病院より 文部省專門學務局長福原※[金+燎の旁]二郎へ
 拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知があつたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました。
 學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます。然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。 敬具
    二月二十一日              夏目金之助
   專門學務局長福原※[金+燎の旁次《〔二〕》]郎殿
 
      一二一七
 
 二月二十四日 金 前9-10 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓からだを大事にしろとの御忠告御尤なり、隨分氣をつけてゐる積なり(笑ふ勿れ)木曜會で菓子を食ふはあの位食つても差支ないと云ふ自信ある故也否あの位儉約したつてどうせ胃はよくならないと云ふ信念ある爲なり、わるい信念なり出來丈撤回に力むべし
 夫から別問題に就て 女に對する戀が徹底とか猛烈だとか云ふ分子さへあれば戀で、其他のわるい處があつても戀だと云ふのは勝手だが是丈が戀だと思ふのは間違だよ。
 君の云ふ事は好惡の區別であつて戀になるならぬの問題ぢやない。茶が好きなものを見て何でもブランデーの樣にヒリツカなくては飲料でないと云ふのは可笑しいぢやないか。
 武者小路のは不徹底ぢやない、あれ程徹底する事は君にや出來ない、只内氣で亂暴を働かない丈である。そこに初心の可愛らしい處があるのである。あれを眞山青果流にやつて見ろ猛烈かも知れないが其一面には下劣な處が出來る。
 一體君は口で徹底とか何とか生意氣を云ふが其實を云ふ〔と〕不徹底な男である。さうして不徹底の好所を了解せぬ男である。
 武者小路のヒーローに何等下劣な所ありや、たゞあゝ云ふ戀と思ふぺし。戀の一種類と思ふべし。さうして其特所に同情すべし 草々
    二月二十三日夜                金之助
   豐 隆 樣
 
      一二一八
 
 二月二十四日 金 後4-5 麹町區内幸町胃腸病院より 神奈川縣逗子町新宿田坂方坂元三郎へ
 拜復僕は二十六日に退院の筈からだは當分持つだらうと思ふ、謠はうたひ出した、出てもつと大きな聲を出してやりたい、
 長い手紙に對しては感謝の意を表したのである、諷諭などの了簡は更にない、僕はあてこすりは云はない男である(といふと君はエヘヽヽヽと笑ふかも知れないが)
 夜酒を用ひないと寐られないと云ふのはどこか異状があるに相違ない、君の心臓はわるいさうだ、ひどい病氣に堪へない位惡ひさうだ、力めて養生しなくては不可ない、養生は若いうちの事だ、
 小宮が酒を飲んだとか藝者を揚げたとか云ふ事を臆面なく僕の前で話すのを僕は可愛い男と思つてゐる、然しあまり相槌は打たない、どころか始終罵倒してゐる、夫で向ふでも平氣でゐる、從つて此方でも遠慮なく云へる、あれがつゝみ隱しをする樣になつては隔てが自然出來るからあゝ親しくは行かない、小宮は馬鹿である、(凡ての人がある點に於て馬鹿である如く)、其馬鹿を僕の前で批判を恐れずに曝露してゐる、あれは廉恥心がないと云ふのぢやない弱點を批評せられる未來の不便を犠牲に供して顧みないのである、僕は彼の行爲飲酒其他を倫理的に推稱しない、けれども敗徳の行爲とは認めない、つけ/\罵倒するにも拘はらず、不徳義漢とは考へてゐない、あれで可いぢやないか、
 僕は君の凡てを知らない、君は君の凡てを僕に語らない、つまり君は僕に遠慮がある、從つて僕も君には遠慮がある、其所に禮義はあるかも知れぬが打ち解けない所もある、是は君から見ても事實だらう、
 僕は散歩して赤坂田町の方や大倉喜八郎の邸の周圍や又は芝公園や烏森や木挽町や色々な知らない所を歩いて面白がつてゐる、もう二三日しか歩けないから殘り惜い、
 妻は春になつたら君の所だか逗子の事だか何しろ遊びに行きたいと云つてゐる、
 君は萬事心得た顔をして振舞つてゐると人から評せられたさうだが、實際さう見える所があるんだよ、君が不安云々は是亦一面の事實で誰にでもつけ絡つてゐるのだらうと思ふ。
 ※[さんずい+樣の旁]虚集を讀んだら嘸つまらないもの許だらうと思ふ、僕は自分で自分の著書が怖いから可成讀み直さない樣にしてゐる、 艸々
    二月二十四日                夏目金之助
   坂元三郎樣
 
      一二一九
 
 三月三日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 麹町區九段中坂望遠館松根豐次郎へ
 拜啓今夜は帝國劇場にて滿堂の紳士貴女のうちを時めき給ふらんと遙かに想像致し居候
 偖別紙は山田繁子さんの作の雛の俳句なるが面白いと思ふ故送る故國民に出して上げて頂きたく候如何にや山田さんは名前丈も御承知の事と存候此間來て俳句をやりたいと申せし故雛といふ題を課したら持つて參りしものに候 艸々
    二《原》月二日夜               金
   東 洋 城 樣
 
      一二二〇
 
 三月三日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 校正の件大倉へ申遣候、猫のうちに薫風南來殿閣微涼生といふ所と應無所住生其心といふ所に誤植ある由先年申來りたるものあり此際訂正したき故其所が來たら御注意を乞(多分下卷)
 
      一二二一
 
 三月四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 病中は色々御心配をかけ候去る二十六日漸々退院致候一寸上がらうと思ふが中々さう行かず手紙で御報致し候 艸々
 
      一二二二
 
 三月四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學松本文三郎へ〔はがき〕
 先日はわざ/\御見舞難有候漸く退院致候間御安|御《原》神願候
  藤代君へ一寸君からさう云ふて呉れ玉へ
    三月四日
 
      一二二三
 
 三月四日 土 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷町一一一狩野享吉へ〔はがき〕
 病中は色々御世話に相成候漸く去る二十六日退院の運に至り候一寸御禮に出る筈なれど中々さう參りかねこゝに端書で右御報知申上候 艸々 三月四日
 
      一二二四
 
 三月七日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市第七高等學校野間眞綱へ
 病氣の折はわざ/\修善寺迄遠路を呼び出した樣にあたり甚だ濟まぬ事と思ひ居候定めて休暇中のプランが破壞された事と存候御氣の毒に存候、然しあれで死ぬとしたら一寸でも逢つて置く方が御互に好かつたかも知れず候
 病氣は其後段々よろしく遂に去月二十六日退院の運に至り候間御喜び可被下候
 皆川君へは別段手紙を出さぬ故君より宜敷願候何でも立派な家を借りたとかで得意の樣に見受られ候が夫程立派に候や謠は不相變勉強にや小生も退院ぽつ/\始め候今度來た時は一所に謠はうと存候皆川君のくれた臺は未だ使はず誰か來て謠ふ折には持ち出さんと構へ居候
 奧さんへ宜敷、修善寺の帶は御氣に入候や 草々
    三月七日                  金之助
   眞 綱 樣
 
      一二二五
 
 三月七日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京都大徳寺中黄梅院黒本植へ
 拜啓其後は打絶御無音に打過候處愈御清勝奉賀候御近況は時々行徳生より承はり居候目下洛北に御閑居終日筆硯を友とせらるゝ由欣羨の至に存候病氣御尋被下難有候一時は危篤に候ひしも幸に全快只今は病氣前より肥滿うちくつろぎ居候
 學位辭退につき分に過ぎたる御褒詞却つて慚愧の至に候玉詩一首御惠送是亦故人のたまものと深く筐底に藏し置可申候
 先は右御挨拶迄 艸々頓首
    二《原》月七日                 金之助
   黒 本 先 生
         坐下
 
      一二二六
 
 三月八日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ〔はがき〕
 先日は失禮致しました。俳句を松根に送つ〔て〕やつたら大喜びで是非勸誘して作る樣に盡力してくれと申して來ました。さうして何時か紹介してくれと申します。松根につらまると大變だから紹介は當分見合せます。然し句は御作りなさい。山田さんに宜敷
 
      一二二七
 
 三月九日 木 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ
 拜啓漸々春暖に相向ひ候處愈御清勝奉賀候偖小生病中は特に病院迄御見舞を辱ふし感謝の至に不堪候其節は身体順調をかき御面會も叶はず失禮致候年末には又奥樣より自宅へ御見舞を受け是亦取紛れ其儘に致し居候由無申譯候
 却説小生其後漸次回復去月二十六日漸く退院の運に至候間乍憚御休神願上候早速御禮の爲|可《原》まかり可出の處彼是多忙にて且つ氣が落ち付かず今日迄御無沙汰に打過候此分にては何日御禮の爲め御近傍へまかり出候やも計りがた〔き〕につき一寸手紙にて御挨拶申候
 先は右迄 艸々
    三月九日                  夏目金之助
   齋藤阿具樣
 
      一二二八
 
 三月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市山下町六〇ケリーウヲルシ會社内久内清孝へ
 拜啓病氣中は御見舞難有候あの繪端書は大分諸方へ送り申候退院の時一寸御通知する筈でしたが何しろ混雜やら落付かないやらで失禮しましたあなたのケリーウヲルシにゐる事は始めて承知しましたマードツク先生の日本歴史は慥かに受取りました御手數を謝します。大變に重い厚い本ですね十圓では日本ではあまり賣れないでせう紙や表装や活版はもう少しハイカラに出來さうに思ひます
 先は右御禮迄 艸々
    三月十日                  夏目金之助
   久内清孝樣
 濱武からも時々音信があります此間長崎のカステラを呉れました
 
      一二二九
 
 三月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 新居の趣如何築地と早稻田にては一寸電車を利用しても憶《原》劫である 庭梅漸く滿開春意可人君の方の海の色は知らず、只今風邪にて鼻つまり氣分宜しからず
 「門」を讀んでくれるなら上げるが今は全くやり悉して仕舞つた、其後人の懇望で一二冊春陽堂から取つた位である、君のも取るがもう少し待ち玉へ 右迄 艸々
    三月十日                    金
   豐 次 郎 樣
 
      一二三〇
 
 三月十日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區新肴町二大和館森次太郎へ
 退院後別段の變化もなく無事に暮し居候御安心可被下候
 蒲鉾御惠投難有風味仕候、と申して實は小生は食はず妻君及び子供が代理をつとめ候久し振りに風邪を引いて鼻が出て頭が重くて困つて居ます 右不取敢御禮迄 艸々頓首
    三月十日                   夏目金之助
   森 圓 月 樣
 
      一二三一
 
 三月十二日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 校正御苦勞に存候早速御廻送致候可然御取計願候
 大倉のものいびきをあくびと訓じて平氣なり、君もそれに氣づかぬ樣子どうか御注意を願ひたい、縁側は縁の字可然か 艸々
    三月十二日                  金
   豐 隆 樣
 
      一二三二
 
 三月十四日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 先達て依頼せる早矢仕と武田二氏へ名刺持參の件はどうなりしや
 「マードツク先生の日本歴史」上下面白くなけれど約束故稿したり御送を乞ふ。原稿は時間の許す限り檢閲したし。その積にて願ふ。坂元のも同封にて送る。是は左程面白くなくて長さは二段近くあるから詰めてよきや否や只今問ひ合せたり、返事來り次第面倒でも一回分に御削りを願ひたし。先方でつめると云ふなら原稿を返してやるぺし、何れとも不明
 
      一二三三
 
 三月十四日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 拜啓先刻送りたる日本歴史批評は掲載の節上下とも二枚づゝ送つてくれる樣配達掛へ御依頼願候マードツク先生へ送る爲に候 艸々
    十四日夜
 
      一二三四
 
 三月十六日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ
 拜啓御書面にてかねて御惠投の旨被仰越たる國光一名雪の下の一箱咋十五日午後漸く到着實はあまり大きくて嚴重に打ち付けてあるのでまだ葢を開け不申候御心にかけられ遙々の御寄贈うれしく受納仕候御地は寒氣未だ烈しかるべく折角御自愛祈り候小生退院後さしたる變化も無之此分にてはまづ大丈夫と存じ候久しく歩行せざりし爲めあるくと足のかゝと痛み頗る苦痛を覺え候一度は北の國へも遊び御國の林檎の模樣抔拜見致度ものと存居候がまだ仙臺以北に行く機會なくて今日迄打過ぎ申候
 先は右御禮迄 草々
    三月十六日                 夏目金之助
   安田秀次郎樣
 
      一二三五
 
 三月十七日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜啓其後は矢張御多忙にや別紙は山田の奥さん(繁子)から來たけれどもよくない、然し君もあゝ云つたものだから一應見せる、一二句でも物にしてやつては如何 原稿は面倒でも一寸返して呉れ玉はぬか 艸々
    三月十七日                 金
   東 洋 城 樣
 
      一二三六
 
 三月十八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町鈴木三重吉へ
 手紙到着拜見ホトトギスの小説は仰の如一讀何か賛辭を呈し度と思ひしかどもあの主人公が僕にはどうしても少年らしく受取れなかつたので其儘にせり、夫からあまり長過ぎる嫌もあるやに思つた、
 僕も段々小説をかく時機が近付いてくるのに辟易してゐる何か書けるだらうかと考へる
 人が毎日苦しんで新聞小説を書いてゐると世間ぢや存外平氣でゐる、風葉などに對しても氣の毒である。けれども是が職業となると却つてくだらない方面から閑却される方が薩張して心持が好い場合もある
 成田の文豪には驚ろいた、あの新体詩は創体として珍重すべきであらうと思ふ
 近來ぐづ/\で強《原》強もせず遊びもせず退院後は小康を貪ると申す有樣自分でもいやになる事あり
 右迄 艸々
    三月十八日                  金
   三 重 吉 樣
 東洋城築地二の三九に新宅を構ふ、まだ行かず。間數三と云ふ。狹いものならん
 
      一二三七
 
 三月十九日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 文藝欄編輯の件と小説原稿料の件に付ては懇々森田に話したる事あり、其懇々が未だ君に傳つてゐぬためあんな長い手紙を書く必要が起つたのぢやないか、もう一遍森田に會見して僕の意志を聞いて見給へ、うちへ來れば僕が話してもよし。
 森田が小説を書き出したら編輯を君がする事森田にも僕にも便利也。たゞし(報酬問題としてなら猶相談の餘地あらん)手紙にてすぐ確定しがたし
 
      一二三八
 
 三月二十一日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 札幌北六條西七丁目八山内義人へ
 拜啓去年は橋本君を通じて玉稿をわざ/\御送相成候處多忙やら病氣やらにて思ひながらつい/\其儘に打過候處に又々御新作御寄贈に相成狼狽致し幸ひ目下小閑あるを機として早速年賀状丈を拜讀致しました
 偖其所感を無遠慮に申上ますとあれはまだ公けに出來る程成つてゐません。元來黒人のかくものは巧でも黒人臭いいやな所があります。其意味からして黒人離れのした樣なナイーヴなものは大に珍重可致ですが、御作には此黒人離れのした素人としての好處がありません。中にはちよい/\面白いと思ふ所もありますが手紙では悉せま〔せ〕んから申上ません。
 失禮だけれども御忠告をしますが、もつと短かいものをもつと念入にかいたら(御作は書きなぐり過ぎます。餘計な批評などが澤山這入つてゐます)何うですか。夫でなければ北海道邊で丸で内地人に知られない珍らしい景色や人情や風俗の寫生を御やりになつては如何ですか。小説にしやうとなさるから黒人離もしない上に素人臭いものも出來上るのですが小説抔といふ色氣を離れてたゞ事實のうちで面白い事、愉快な事、珍らしい事、種になりさうな事を平生御見聞の裡から御書きになつたらと思ひます。玉稿中にある犬の事に關するゲーテの詩の譯の所など即ち其一部であります。あれは作つたつて一寸出來やしません。(たゞ何とか云ふ助教授をあゝ頭からチヤカシて書かないでもつと眞面目に御遣んなさい。たとひ批評をしてももつと本式に御遣りなさい。)
 まだ申上る事はありますが長くなるから休めます。あれ丈の長いものを書く努力は大變です夫を一言にケナスのだからケナス方も心苦しいのであります。たゞ未來の御參考の爲と存じて失禮を申上ます。御赦を願
ひます
 東京邊の雜誌に載る小説も御參考になります。ひまの時御讀になる事を希望します 艸々
    三月二十一日                 夏目金之助
   山内義人樣
 病中は寫眞繪端書等御親切に御送り下さいまして難有う存じます序と申して失禮ですが茲に改めて御禮を申上ます。橋本君にも宜しく願ます
 
      一二三九
 
 三月二十二日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ
 小宮が君の代りに文藝欄をやる事を社に話してさうして君の小説を獨立した人間のそれと同價に買ふ事を僕は決して拒んだ事はない、否寧ろ僕の方からさうしたら何うだと云ひ出した位だ、さうすればたゞ必然の勢君が小説を濟ましてから又もとの文藝欄に立ち戻る事が不慥になる(むしろ出來なくなる)と云ふ危險がある丈である、此危險を冒す氣なら僕は君の原稿を五圓で買つてやつてくれと社に要求しても宜いと小宮に云つたのである、それが否なら文藝欄に關係をつけて置いて原稿料を少なく貰ふより外はあるまい、
 小宮は何うしても先生を承知させると云つたとか、さうして僕の前では丸で理窟らしい事は無論、殆んど何も云はなかつた、それなら分り切つた事を繰り返して押し懸ける必要もなささうなものだ
 君は僕の意に從ふといふ、それは難有い、然し君も小宮も僕の云ふ事を尤もとは口外しない、たゞ僕の云ふ事でそれに背けば今の處物質的に損だからまあ云ふ事を聞かうと云ふ樣な調子に見える、僕はいやだね、人を強るのは否だ、僕が無理を云ふなら抗辯しても構ない、此際已を得ないから感心はしないが意に從つて置かう抔は甚だ癪だよ 艸々
                        金之助
   米 松 樣
 
      一二四〇
 
 三月二十四日 金 牛込區早稻田南町七より 内田榮造へ
 拜啓先日病院へ御光來被下候時は臥床中とて甚だ失禮申候其後病勢漸く退却去月二十六日退院の運に至り候間御安心可被下候
 偖御惠投のインベの茶器一組正に到着難有御禮申上候わざ/\小生の爲に御求め御國元より御持參被下候趣一層嬉しく候不取敢御挨拶迄 艸々
    三月二十四日               夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一二四一
 
 三月二十七日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區内幸町胃腸病院内森成麟造へ〔はがき〕
 拜啓二十九日に杉本さんを新橋迄送つて行かうと思つてゐましたが朝早くて時間の都合が少々困るのでとう/\失敬する事に極めてしまひました。夫で甚だ申譯がないからあなたから何うぞよろしく願ひたいのです。杉本さんの健康と成功を祈る旨を御傳下さい
 
      一二四二
 
 三月二十八日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
○眼《め》を白黒《しろくろ》くする(濁らず)      東京語
○心が晴々《せい/\》する               東京語
○青軸《あをじゆく》             梅の一種 東京語か
 右御返事迄 艸々
    三月二十八日
 
      一二四三
 
 三月三十日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓退院後一寸御禮の爲め參上可致の處あたまも身體も自由にならず未だに失敬致居候
 偖御存じの文藝欄につき又々責任相生じ原稿は時間の許す限り一應眼を通す事に相成候昨日森田より玉稿廻送拜見致候あゝ云ふ文教上の時事問題を一束にして短評を時々試むるのは至極よろしき思付と存候があれをもう〔少〕し刈り込み度候が如何にや刈込み方御任せ被下るゝ譯には參りかね候や伺ひ候、尤も御主意は改めぬ積に候たゞし最初の文部省が器量をさげたとか癪に障るとか申す言葉は博士問題の相手たる小生の關係する朝日文藝欄として當局者と喧嘩を始めぬ限りちと差し控へたい心持が致し候、其他はたゞ御要旨を存し一回分位につゞめる丈に候、夫から愚翁は御本名にては御差支有之候や是も序に一寸伺上候
 漸々好い時候に相成候目下試驗休みにて御閑散と存候ちと御出掛の程待上候先は右御伺ひ迄 艸々敬具
    三月三十日                 金之助
   秋 骨 先 生
 
      一二四四
 
 三月三十日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓退院以後一寸御禮に上る覺悟の處今に愚圖々々致居候御免可被下候
 此頃懸物を一二幅表装したいと思ひ候が經師屋を知らないので困ります近所か區内に信頼すべきもの有之ば御教示を願度と存候固より千古の名幅でも何でもないから非常の名人に頼む必要は無論無之候たゞ相應ののを心懸候御心當りもあらば御返事願上候 艸々
    三月三十日                  金之助
   五 葉 先 生
 
      一二四五
 
 四月一日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ〔はがき〕
 秋骨氏曰く加筆しても構はんと、然るに原稿を君が持つて歸つて直す事が出來ない、持つて來てくれ、秋骨氏のでも「門」の批評でも置いて行けばいゝのに持つて歸つたつて何にもならんぢやないか
 
      一二四六
 
 四月二日 日 夜0-1 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔はがき〕
 拜啓御許諾を得て玉稿に手をかけ出しました處中々思ふ樣に參らず、仕舞には小生にもあきたらず大兄にも面白くないものが出來上りさう故とう/\思ひ切つて已めてしまひました。おもちやにした樣で甚だ濟みませんがどうぞ御許し下さい、
 あなたの文章は御ひやらかしの言葉で充滿してゐます、夫をもう少し穩やかにしやうと思ふととても出來ない、根本が違つてゐるので失敗したのだらうと思ひます、他日御目にかゝつて御詫を致します
 
      一二四七
 
 四月五日 水 牛込區早稻田南町七より 札幌北六條西七丁目八山内義人へ
 拜啓玉稿到着拜見致候今度のは前回よりも數等出來よろしく面白く拜見致候
 然したゞ面白く拜見した丈では不可ないからどこかへ公けにしたいとも一方では考へ候が此頃雜誌の原稿は諸方とも堆積の模樣にて撰|澤《原》も一時よりは大分嚴密になり候故急にどうなるやそこは小生にも心配かつ(こんな事を申上ては失禮なれど)原稿料が取れるか取れないかゞ疑問に候故少々躊躇致候次第に候
 雜誌と申したればとて小生の間接に知るは一二に過ぎず候へども以上の事情御承知の上は一應相談致して見る考に候尤も大兄の方より何の御依頼もなきに差出がましき事を致し失禮なれど其邊は御容赦にあづかり度候又出なくても御勘辨を願ひ候最後に出ても金になるかならないか分らないと覺召し被下度候
 何れとも其内御報知可致候 艸々
    四月五日                  夏目金之助
   山内義人樣
 
      一二四八
 
 四月九日 日 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 和歌山縣新宮町佐藤豐太郎へ
 拜啓春暖の節愈御多祥奉賀候陳ば咋八日生田長江君來訪御惠贈にかゝる寄品二點正に拜受致候遙々の御厚意一層難有存候石も牙も共に机上に据朝夕愛撫不淺候
 長江君よりの話にて拙筆御所望とやら承知致候書と申すものを習ひし事なき小生に取つては甚だ困難に候へども從來色々の關係上已むなく惡筆を揮ひ候機會にも乏しからず貴所のみに對し御辭退申上る必要も無之下手を御承知の上なれば何なりと認め御送り可申上につき何なりとも仰聞られ度候
 先は右御禮迄 艸々
    四月九日                  夏目金之助
   佐藤豐太郎樣
 
      一二四九
 
 四月十日 月 牛込區早稻田南町七より 森成麟造へ
 拜啓御歸國前に御約束の肝臓會を開かんと存じ候が十二、十三、十四のうちで御閑な時を今日中に知らせて下さい、阪《原》元や何かに知らせる都合があるから中一日の余裕がある方が好いです 艸々
                          夏目金之助
   森 成 樣
 
      一二五〇
 
 四月十日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 森成さんが歸國するにつき十二日午後三時から拙宅で肝臓會を開く御都合の上御出席を乞ふ寫眞を撮るつもり御馳走といふ程のものなし 艸々
    四月十日
 
      一二五一
 
 四月十一日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓明十二日の肝臓會は午後三時からに致し候故其積で御出を乞ふ。時に寫眞を記念に撮る積故望月でも九段の長谷川でも頼んで同刻に連れて來て呉れ玉へ。大きさは不明なれど餘り大いと保存に不便ならん
 
      一二五二
 
 四月十三日 木 牛込區早稻田南町七より 文部省專門學務局長福原鐐二郎へ
 拜啓學位辭退の儀は既に發令後の申出にかゝる故、小生の希望通り取計ひかねる旨の御返事を領し再應の御答を致します。
 小生は學位授與の御通知に接したる故に、辭退の儀を申し出でたのであります。夫より以前に辭退する必要もなく、又辭退する能力もないものと御考へにならん事を希望致します學位令の解釋上、學位は辭退し得べしとの判斷を下すべき余地あるにも拘はらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一圖に辭退し得ずと定められたる文部大臣に對し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。
 文部大臣が文部大臣の意見として小生を學位あるものと御認めになるのは已を得ぬ事とするも、小生は學位令の解釋上、小生の意思に逆つて、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。
 最後に小生は目下我邦に於る學問文藝の兩界に通ずる趨勢に鑑みて、現今の博士制度功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します
 右大臣に御傳へを願ひます。學位記は再應御手元迄御返付致します。 敬具
    四月十三日                 夏目金之助
  專門學務局長
   福原鐐二郎殿
 
      一二五三
 
 四月十四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓玉稿落手致候前半は出來得るならば少々つゞめ度考に候。何れにしても機を得て掲載可致候 艸々
    四月十四日
 
      一二五四
 
 四月十五日 土 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓不折の馬今度は出來損ひ申候よし畫の方は何時でも相應には行くものとのみ思ひ居候ひしが左樣旨くも參らぬものと見え候
 日本橋の賛其内どうとか片付可申候近頃は詩を作る氣分もなく候故何時出來るか一寸御受合は致しかね候故其邊は御海恕願候
 時につかぬ事を伺ふ樣なれど大兄御編輯の雜誌に何か下働でもする男一名御入用には無之や實は頼まれて氣の毒にもなりし人一名有之東洋協會雜誌の編輯の下働きといふ事を一寸思ひつき突然ながら伺ふ次第に候が御迷惑ながら一言御樣子御洩し被下候はゞ幸に候 右迄 艸々
    四月十五日                夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一二五五
 
 四月十七日 月 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓銅牛の後には今日の音樂評を載せたく候故右御含み置被下度候
 順序は戸川、銅牛、音樂、四郎に候
 
      一二五六
 
 四月十八日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆方鈴木三重吉へ〔速達便〕
 拜啓只今歸宅電報披見
 敏君は十五日に西京に歸れる筈もし居れば下谷練塀町(壹丁目?)齋藤方なり電話帳にて御確め可然候
 敏君は十五日に歸ると云ひし故電報の返事を出す程急かないでもよいと思ひ速達にて用を辨じ候 艸々
    四月十八日                  金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二五七
 
 四月十九日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 御不平御尤に候。然し越後記と南歐の何とかいふものと文藝欄を脊負払込んだページだと思つて見ればまあ仕方がない。あれでも佐藤は充分骨を折つた積かも知れないよ。呵々。僕は柏亭の樣な記事の出るのを喜ぶから柏亭を壓しても文藝欄で幅を利かさうといふ氣はない。たゞし上下をきるのはよくないが、そんな例はいくらもあるのだらう
 
      一二五八
 
 四月二十日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都帝國大學文科大學上田敏へ
 拜啓先日御出京の節はわざ/\御訪問被下難有存候其砌御話しの同志社の教師の件につき鈴木三重吉より電報并びに書面にて本人採用の義大兄迄願置候趣就ては可相成本人の希望通御取計被下候へば本人に取つて無此上好都合小生に於ても難有仕合せと存候御多用中御迷惑とは存候へども何とか御斡旋被下度先は右御願迄艸々如斯に候 敬具
    四月二十日                  夏目金之助
   上 田 敏 樣
 野上には夫から面會不致大兄と同人との關係(該事件につき)は全く承知不仕候故本文に申上候事或は唐突に亙り候やも計りがたく野上に動く意志あるを抑えて鈴木をどうか致し度と申す次第には無之に就き右は御含み置願候
 
      一二五九
 
 四月二十三日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一蓋平館支店鈴木三重吉へ
 上田敏氏よりの返事届き候故御送申候京都へは佐治秀壽が參る事になりたる由につき多分斷りの手紙なるべく候
 右につき佐治の今迄の口海城中學二十五時間にて四十圓はち〔と〕惡き方なれど此際是非にと思ひ佐治氏に依頼致候處早速引受明二十四日午後五時頃君の所迄行く筈につき御面會の上御相談可然候、もし會へなかつたら君の方から御出向き御面會可然候同君番地は本郷森川町一番地橋下三八六月岡方に候
 右用事迄 艸々
    四月二十三日夜                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二六〇
 
 四月二十四日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 今日文藝欄やすみにつき音樂評間に合ひ候ば臼川の前に出したく候。尤も明日臼川の「上」が出れば已を得ねど明日も文藝欄休みなら左樣御取計願候。檢閲は宜敷願
 
      一二六一
 
 四月二十四日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 拜啓昨日は子供難有う過日の寫眞出來につき木曜にでも遊びながら來て下さい 艸々
    四月二十四日
 
      一二六二
 
 四月二十八日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 五葉氏未だ在京のよし太平洋畫會の批評依頼方御世話被下度候。序に小杉の畫と滿谷の景色畫に就て特に同氏の意見を聞かれたし 艸々
 カフエー・プランタンといふ伊太利料理を食はす處京橋日吉町に出來たり。知るや否や。
 
      一二六三
 
 四月二十九日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一蓋平館支店鈴木三重吉へ
 拜啓手紙の事承知致候小生の口添如何程の功力あるやは計られねど了信坊とは知り合故一書を裁し御周旋可申候もしどつちか口が余つたら野村、野上のうちへ廻してやつて呉れ玉へ、
 野村はまだ引き受ける時間あるべし昨日宅へ行つたら氣の毒になつた
 野上も學校があれば雜誌をやめたいと云つてゐる、此間も敏君に京都を頼んだらしい 艸々
    四月二十九日                 金之助
   三 重 吉 樣
 
      一二六四
 
 四月二十九日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區三宅坂陸軍衝戍病院中勘助へ
 拜啓本日野上臼川より承り候處大兄御病氣にて目下御入院中の由御重態には無之るべきも隨分御加養の上一日も早く御出院の程希望致候
 小生病中はわざ/\御見舞をいたゞき候處其後どうかかうか本復目下は歸宅諸方飛び廻り居候につき御安意被下度候右御見舞の序に申上候
 かさねて精々御養生御全快を只管に折り申候 艸々
    四月二十九日                 夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一二六五
 
 五月五日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 茨城縣筑波町小林修二郎へ
 拜復御手紙拜見致候處何か御國許に御變事ありたる御容子たゞ/\痛嘆の至深く御同情申上候此際可成身體御大事に御攝生可然追つて萬事御濟御上京の節は又御目にかゝり可申候先は不取敢御弔詞迄 艸々
    五月五日                   夏目金之助
   小林修二郎樣
 
      一二六六
 
 五月六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 御房さんの式は午前十一時のよし故右一寸御通知申上候也 艸々
    五月六日
 
      一二六七
 
 五月十日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 和歌山縣新宮町佐藤豐太郎へ
 拜啓過日御依頼を承りてより荏苒延引申譯無之漸く拙筆を揮ひ了り候間小包にて御目にかけ候墨薄く色あしく候へども御勘辨被下度候
 先は右迄 艸々拜具
    五月十日                   夏目金之助
   佐藤豐太郎樣
 
      一二六八
 
 五月十日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣御影町前川清二へ
 拜啓其後は御無音に打過申候偖先般御依頼の半切の件にて失敗致候てより以來日々遵約の意を行はず今日迄放抛致候段眞に申譯なく候此間中小閑を偸んでやうやく認め小包にて差出候間御受取願候右用事迄申述候 草々頓首
    五月十日                夏目金之助
   前川清二樣
 
      一二六九
 
 五月十二日 金 後17-4 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓高田の横町に火事があつたといふ事を始めて聞きました。みんなが森成さんは燒けやしなからうかと心配して居ます。坂元は御見舞を出したさうですが御返事がないさうです。横町といふ所はどの位廣い所か分りませんが高田の事だから狹いのだらうと云ふ評判です。其狹い町内から火事が出たんだから森成さんの家も助からなかつたらうと云ふ結論です。私は此結論がどうぞうそであれば可いと願つてゐます
 後れながら右御見舞迄申上ます 艸々
    五月十二日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一二七〇
 
 五月十二日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓此間一寸御尋したら御留守で殘念でした。此頃新聞で見ると山形が大火で全市悉く烏有に歸すと云ふ樣な凄い事が書いてありますがあなたの家も多分燒けたんぢやないかと思ふと甚だ驚ろかれます或は屋敷町かな|い《原》ぞで助つたら夫こそ結構に存じます。もう當分櫻ん坊も頂けない事と諦めます。少々後れましたが御見舞迄に一寸申上ます 艸々
    五月十二日                 金之助
   芥 舟 先 生
 
      一二七一
 
 五月十二日 金 牛込區早稻田南町七より 在英國倫敦大谷正信へ
 此間は長い御手紙を難有う御座いました。私は御音信をしやう/\と思つてゐながらつい御無沙汰をします、病後はことに疎慵になりました。御ゆるし下さい。バイブルの展覽會は面白う御座いました。センサスの件は噴き出しました。アタランタインカリドンの評はタイムスで見ました。あの評はよかつた。タイムスの文藝評は時としてくだらないのがありますが、あの評は頗よかつた樣に思ひました。
 東京も變ります、あなたが歸る頃にはまだ變ります。何しろ電車といふ怪物が出來て凄まじい勢で方々の往來を破壞して行くのだから堪りません。此間帝國劇場と云ふ芝居が出來て開場式に招かれました。立派な建物です、西洋のと變りません、八十萬圓程かゝつたさうです。此二十頃から一週間ばかり坪内さんの文藝協會でハムレツトをやるさうです。私は優|侍《原》券をもらひました。本所の牡丹、大久保のつゝじ、堀切の菖蒲例の如くであります。吉原は此間丸燒になりました。近來にない火事でした。それを明る日迄知らずに濟まして居たのだから東京は廣いに違ありません。二三日前は山形市が丸燒になりました。戸川君は謠をうたつてゐます、四方太も謠ひます、私もやります。大分流行します。
 あなたの碁のレクチユアーも新年の舞踏會も讀みました。孰れも面白う御座いました。近頃は小説だの文學が下火になりました。小説抔は大いに賣れないさうです、私のも前に比べると賣れなくなりました。虚子もホトヽギスの維持と發展で苦心してゐます。
 文藝院と云ふものが立つさうで文部省では文藝委員を選定中であります。妙に入り亂れた顔觸が出來るだらうと思ひます。
 先達ての御通信を朝日の文藝欄へ半分程頂戴して載せました。バイブルの事は原語が多過ぎるから省きました。
 寺田に御逢ひになつたら宜敷仰つて下さい。 以上
    五月十二日                 金之助
   大 谷 様
 
      一二七二
 
 五月十四日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豊隆へ〔はがき〕
 昨日の原稿たしか「中」の處に文士を救濟〔二字右○〕の文句あり救濟ぢや貧乏人か燒出された貧民の様でわるいから保護とか何とか直して置いてくれ玉へ 以上
    五月十四日
 
      一二七三
 
 五月十五日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拝啓うちに送つて來る「英語青年」と云ふ雜誌を見たら君の東湖書簡集の評註があつたので、此前も讀んだから此度も讀んで見た。所が第一のパラグラフの仕舞に so much for Sugimura. と云ふのを君は譯して杉村ならやりかねないことだと書いてゐるが、あれは間違つてゐやしないか、「杉村の事は此位にして置かう」即ち是から後は自分の事を述べると云ふ意味だと僕は思ふ。
 英語青年といふ雜誌はこんな事を詮議して八釜しく云ふ雜誌だから一寸御注意をする。此つぎの號に正誤し玉へ。僕は慥かにさう解釋する方が正しいと思ふ。尤も念の爲だから外の人にも聞いて見給へ。匆々 頓首
    五月十五日                 金之助
   楚   兄
 
      一二七四
 
 五月十八日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ〔はがき〕
 君はとう/\女の賛成者を生捕つたが僕は敢て抗議を入れる。あのAlas!と云ふのはね、『杉村に就てもつと creitable な事を云ひたいが、御氣の毒だが、嗚呼是より外に一寸かく事がないから、泥棒事件丈で御免蒙る』と云ふ意味なんぢやないか。尤も Sugimura ノ下にある變な棒(ダツシ?)は少し胡亂だ。何の爲とも見當がつかない。
 ロイドが何とか云つて來たら一寸教へてくれ玉へ。ルースの妹のパラフレーズは何だか胡魔化しの樣な氣がするよ。どうもあゝパラフレーズする根據が分らない。或は彼の女が君に御覺召があつて、ことさらに君の意を迎へるんぢやないかな。萬歳!
 
      一二七五
 
 五月二十日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一、橋通須田方林原(當時岡田)耕三へ
 若いうちから君の樣に弱くつては駄目だ。からだの弱い人は弱いなりに人一倍用心をして比例を保たなくてはならない、人並にしては弱る丈だ。精々注意して身を殺さないやうにし玉へ。僕は小樽の火事で内々心配してゐたが君の手紙には何ともないからまあ無難なのだらうと思つてゐる。鈴木の澁谷の宿所は下澁谷七四廣尾橋下車祥雲寺墓地の横といふ所だよ。
 右迄 艸々
    五月二十|一《原》日             金之助
   耕 三 樣
 
      一二七六
 
 五月二|十《〔?〕》日 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 さう女軍を引率して遣つて來られては降參だ。若しやと思つて手近にあるものを調べて見たがどうも君の云ふ樣な意味のものを見出し得ない。ロイドは男だから僕に賛成するだらうと思ふ。萬一ロイドが女の肩を持つたら仕方がない、僕がわるいと仕樣、其代りロイドの説明を教へて呉へ《原》玉へ。
  ――So much for him.
  Now for ourself and for this time of meeting:
  Thus much the business is.――
 是はハムレツトの始めの方にある。今頃沙翁などを引いて議論でもなからうが、あんまり淋しいから横へ書いて景氣を添へた。尤も僕の意味を確める丈で外に何の役にも立たない。
                          金之助
   楚  兄
 御葉書は二枚同封で御返しする。もし僕が負けたら其始末を堂々と英語青年で發表するのかな。ひどいなあ。僕は勝つた時丈引き合に出してもらひたいなあ。
 
      一二七七
 
 五月二十一日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町二丁目三二安倍能成へ
 拜啓玉稿落手致候然る處あれは餘り六づかしくて專門的な所があるのと、又梗概としては勃※[穴/卒]に過ぎて※[口+茲]《原》味に乏しく哲學雜誌の紹介の如き故もう少《原》平たく且趣味ある樣に書き直すか又はオイケンでも好いから外の問題で書いて被下間敷や原稿は小宮が持つて歸り候同人から御受取願候 匆々
    五月二十一日                 金之助
   能 成 樣
 
      一二七八
 
 五月二十一日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣南埼玉郡鷲宮村川羽田隆へ
 拜啓御手紙拜見致しました。新緑の時節で當地も幾分か暢適の心持が致します。田舍の生活は嘸かしだらうと想像致します。
 文藝欄は近縣の地方版には出ない事になつたさうで夫は私が入院中の事でちつとも知りませんでした。何でも市内版のほしいものには社から直接に市内版を送るといふ社告を出したとか聞きました。なんなら社にさう云つて市内版を御取りなさい。さう云ふ人さへ澤山殖えると地方版にも文藝欄を拔かない樣になるでせう
 先は御答迄 艸々
    五月二十一日                 夏目金之助
   川羽田 隆樣
 
      一二七九
 
 五月二十一日 日 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜啓ロイドの解釋拜見。ロイドの引用した句は自分の説の出處を示した丈で、其自分の説はまあ僕と同樣なのだから、あの句を君の樣に取るのはロイドの意ではなからうけれども、多少は君の意義も含んで居ない事もないから、前後の關係から調べて見やうと思つてヘンリ八世を見たがあの句は見當らなかつた。
 尤もあの場合に君の意味を含んでゐると云ふのは、首を斬る制裁がBukinghamの方へ向ふのだから so much を for B の for に意味があるが、so much for Sugimura の場合では、action が杉村に向つて〔三字右○〕(for)働らきかけるのでなくつて、杉村自身が action の張本人なのだから for の意味が全く變になる。ルースのパラフレーズが根據がないと云つたのは此が爲だつたのだよ。
 尤も議論しなくつても慣用上さう使つてゐる例が澤山出れば夫迄なのだけれども、さう云ふ例は恐らくなからう。
    五月二十一日                 金
   楚  兄
 
      一二八〇
 
 五月二十三日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 啓帝國劇場から招待が來たから封入して上げる氣が向いたら行つて御覽、僕は昨夜見た、遲く行つて早く歸つた、つまらなかつた、右迄 匆々
    五月二十三日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一二八一
 
 五月三十日 火 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜啓雅樂演奏の招待状正に拜受難有候
 御手紙には七月三日とあれど招待状には六月三なり七月は多分偶然の書き損ならん
 服装の儀は紺などの脊廣にてはあしきや一寸伺ひ候
 可成君も御出ありたく候 艸々
    五月三十日                   金
   豐 次 郎 樣
 
      一二八二
 
 六月三日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 名古屋市熱田玉の井浦瀬七太郎へ〔うつし〕
 拜啓のらくら三人男愈御出版の運に至り結構の至に候、一本わざ/\御寄贈深く御禮申上候、小生段々丈夫になり候 右迄艸々
 
      一二八三
 
 六月九日 金 前5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 カツテ正誤を頼んだ所は
○薫風南より來て殿閣〔右○〕微凉を生ず(殿角〔右○〕は誤)
○應無所住而生其心(應無の二字の所が何とか顛倒してゐる由(而は入れても入れなくてもよし)
 ○懸崖に手を撤(サツ)して(向ふの校正の通り撒にあらず)
 
      一二八四
 
 六月十六日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 又々柏亭の美術博覽會があり候尤も僅か二回故出して仕舞ふ事に取極め候。其他に關晴瀾の彫刻物の審査に就てといふのが一つあり候是は小生手を入れて出す事に致候右御含迄に申上置候
 其他歸る迄に相談しておく事はなき樣に存候 匆々
    六月十六日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一二八五
 
 六月二十二日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長野市長野師範學校附屬小學校守屋喜七へ
 拜啓長野にてわざ/\御待合せ沿道諏訪迄とくに御案内恐縮致候御蔭にて種々面白い景色を尤も有益に見物致し感興更に深きを覺え申候あれより豫定の講演を終へ咋二十一日夜無事着京仕候不取敢右御禮申上候
 匆々敬具
    六月二十二日                夏目金之助
   守屋喜七樣
 
      一二八六
 
 六月二十二日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長野縣長野教育會副會長渡邊敏へ
 拜啓今回ははからずも御會の御招きにて御地にまかり越候處諸事御手厚き御接待にて甚だ恐縮致候猶小生講演につきわざ/\の御禮状却つて痛み入候
 小生夫より高田直江津を經過諏訪に立寄昨夜歸京仕候
 右不取敢御挨拶迄如斯に候 匆々頓首
    六月二十二日              夏目金之助
   渡邊 敏樣
 
      一二八七
 
 六月二十二日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓今回は不圖高田へ御邪魔に出る氣になり思ひも寄らぬ御迷惑を不時に相掛まことに申譯無之ことに招魂祭で旅宿が塞がつてゐた爲御宅にづう/\しく寐泊りをして新婚早々の令夫〔人〕を驚ろかし奉り實以て相濟まぬ儀と心中大に漸愧を感じ居候
 生憎雨が降つて町内の見物も思ふに任せず佗びしい高田のみを記念として立去るべく餘儀なくされたのは返す/”\、遺憾です、高田で私の氣に入つたのは紅葉の垣であります、それから和倉樓の座敷の構造の昔し風に現代を超越してゐた事です、あすこで御湯に入つて十五分許寐た時は實際いゝ心持でした。願くはあの部屋で春の海ののた〔り〕/\する有樣を見たいと思ひました
 諏訪の牡丹屋といふ家は好い宿です、湯槽が大理石で甚だ心持がよう御座いました。
 奥樣へどうぞよろしく願ひます。御とつさんが御出なら是亦可然敬意を表して置いて頂きたい。あなたの護謨輪と御とつさんのつんつるてんの絣と比較すると矛盾を感じない譯に行かないですな
 田川校長と菊池校長へは別に禮状を出さないからあなたから宜敷願ひます、武田君には一寸書きます
 先は不取敢御禮迄 艸々頓首
    六月二十二日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一二八八
 
 六月二十二日 木 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨夜歸京越後高田直江津迄參り歸りは諏訪甲府經過からだは旅の方よろしく候、木曾へ廻らぬが殘念に候
 
      一二八九
 
 六月二十四日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 美學會の時日刻限差支なく候、端書の尻尾を見なかつたものだから問合せの書面と思はず、通知の書面と思ひ今日迄返事を出さずに居候 失禮
 
      一二九〇
 
 六月二十四日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區九段中坂望遠館津田龜次郎へ
 拜啓一昨日は失禮其節御話の事今日社に相談して見た處插畫の需用ある趣故大兄の事中入候。
 あなたの畫を三四枚(種類の異つたもの一枚づゝ、精密なるもの疎なるもの等)至急京橋區瀧山町四朝日新聞内澁川柳次郎宛にて御送被下度候
 澁川氏は其儀につき一覽の上適當と認むるならばかう云ふ種類とかあゝ云ふ種類とか指定して改めて御願致す筈に候
 右用事迄匆々申上候 以上
    六月二十四日              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一二九一
 
 六月二十四日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓其後乍存御無沙汰に打過候處愈御清勝御勤務奉賀候小生不相變無異消光乍憚御休神可被下候
 清君には毎々書物の意匠で御厄介に相成居候同君より時々大兄の御近况を聞知致し居候風流の本家の事故書畫文房具の類は定めて御手に入る事と存候御歸京の日は拜覽の榮を得度と存じ只今より樂み居候
 却説楚國※[手偏+頡]英なる見事の喜畫帖忽然御寄贈を受け驚喜不斜日々机上に載せ展玩致居候扇の恰好を其儘張り込んだる處から扇の地が古色蒼然と時代づきたる處に装※[さんずい+黄]の白紙が如何にも美事に映り合ひて一種の雅趣を添へ申候、小生はあんなものが大好き故非常に嬉しく候右早速御禮迄申上候段々夏になり暑く候隨分時候を御厭ひ被成度候 艸々頓首
    六月二十四日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一二九二
 
 七月一日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓自然主義の觀察によれば明日は計畫通り玉川へ參る事覺束なき模樣に候。其準備として他の方法御一考置願度候。
 (拙宅に御出無論差支なし。たゞ拙宅にてどんな事をしてどんなものを食ふかの準備也)
 
      一二九三
 
 七月五日 水 後10 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓別紙の如き書面只今到着致候明日に間に合ふため早速車夫に持たせ差出候間どうぞ宜しく願候
 こんな間違はある筈がないと思へども小生は君が惡いのか社が惡いのか分をず候もし君がわるいなら御氣をつけられ度候 早々
    七月五日                   金之助
   豐 隆 樣
 
      一二九四
 
 七月七日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨村六六〇江南武雄へ
 拜啓御手紙を拜見してすぐ御返事を上げやうと思ひましたがさて何と書いたら貴方の御滿足を得るかしらんと考へて別に是といふ推擧すべき本がないのでつい遲くなりました。
 あなたから云ふと英文學とか外國文學をやつたものがあなたの質問に答へられない譯はないと御思ひになるでせうが私はいつでも人から何を讀んで好いかと聞かれる度に困るのであります、夫は質問に對して適當な返事をする丈今迄讀んだ本を明瞭に同時に比較する樣に頭が出來てゐないのです。
 外國ものを樂しみに御讀み〔に〕なるなら、まあ安價なものを買つて來て手當り次第に讀んで氣に入つたら仕舞迄よむ厭なら途中でやめるといふ樣にしたら何うかと思ひます。
 もつと特殊の問題に立ち入つたら或はもつと明瞭な御返事が出來るかも知れませんが、今は是位しか申されません、まことに人を馬鹿にした樣で惡いのですが是より外に申樣がないから不惡、御返事を上げないでは猶失禮と思ひますから一寸右迄 匆々
    七月|八《原》日             夏目金之助
   江南武雄樣
 あなたはどんな畫を御書きになりますか
 
      一二九五
 
 七月十日 月 夜 牛込區早稻田南町七自宅に置手紙 小宮豐隆へ
 拙稿一つかく筈の處差支ありて不果候野上の插畫《さしゑ》の批評と樂堂の俳論と二日分御送り置願候
 今夜はケーベル先生方へ參り候
    七月十日                   金
   蓬梨雨先生
 
      一二九六
 
 七月十一曰 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町二丁目三二安倍能成へ
 拜啓昨夜は難有う。西洋の例によると御馳走の翌日は名刺を持つて門口迄御禮に行くのが禮式ださうであるが昨夜のは正式の招待でもなし、ケーベル先生もそんな面倒な事を意とするたちでなし、第一此炎天に駿河臺迄名刺を持つて行くのも降參だからやめにする、どうか久保君から宜敷先生に云つてくれる樣にたのんで呉れ玉へ
 昨夜も話した通僕の家が洋式に出來てゐると先生を招待したいのだが椅子もテーブルもないのだから已を得ない。
 久保君にも色々御世話になつたから君から宜敷願ひます 匆々
    七月十一日                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一二九七
 
 七月十四日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓別紙は齋藤與里よりの寄稿なるが已に臼川ものを載せたる故重複も面白からず君の御配慮により國民か讀賣へ依頼致度御面倒ながら御紹介願候
 原稿はどうか/\なるべく候、大阪より過日の演説をつゞきものに纒めてくれと申來候に少々恐縮致居候 匆々
    七月十四日                  金之助
   蓬梨雨先生
 吉エモンとか申すもの暑さの砌故成るべく中らぬ樣あつさり願候
 
      一二九八
 
 七月十七日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長野縣諏訪郡豐平村二九永田登茂治へ
 御手紙拜見致候子規の遺墨御入用の儀御申越相成候故筐底相調べ候處悉く小生宛のもののみにて小生以外のものが所持致し居りても何等の意味もなきものに候せめて俳句にてもと存じ短冊を探し候處僅かに二葉を存し候も是亦小生を送る句にて候
 右の次第折角の御懇望御氣の毒とは存じ候へども割愛致しかね候故不惡御了知被下度候
 諏訪にては拙講御聽被下候由御芳志奉謝候先は右御返事迄 匆々
    七月十七日                夏目金之助
   永田登茂治樣
 
      一二九九
 
 七月二十六日 水 前6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町七九中村將爲へ
 拜復今朝御光來の節は取急ぎ社へ送らねばならぬもの有之乍不本意失禮致候、御書面にて御申越の趣拜承致候。「朝※[貌の旁]」につきさう何回も紙面を埋むる事實は如何と存居候へども行掛上大兄は是非御高見發表の御必要も有るならんと存じ可相成御便宜取計ふ積に御座候。尤も原稿の順序其他の都合も有之御寄稿の翌日掲載と申す譯には參りかね候やも計りがたく夫は御承知置願候
 原稿は新聞の字詰にて八九十行以下を原則と致居候(一段六十五行、一行十八字詰)是も乍序申添候
 文藝欄の原稿は可成朝日の讀者に興味ある樣の希望故小宮を相手にする意味でなく讀者を相手にする御積にて御執筆被下候はゞ仕合せに候是は蛇足ながら失禮をも不顧申上候先は右御返事迄 匆々
    七月二十五日夜               夏目金之助
   中 村 樣
 
      一三〇〇
 
 七月二十八日 金 後6-7 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱小林別莊菅虎雄へ
 先達て御訪問の時は長野迄旅行してゐて失禮した、此間一寸鎌倉迄呼ばれてゐつたが、君の家を尋ねるひまがなかつたのでとう/\夫なり歸つて來た
 此間のあらしは鎌倉も大分損害があつたさうだが實は君の家の事も虚子の家の事も忘れてつい見舞もせず打過ぎて甚だ相濟まん、大した事もあるまいが海岸丈に氣にかゝるどんな模樣かね 匆々
    七月二十八日                 金之助
   虎 牡 樣
 
      一三〇一
 
 七月二十八日 金 牛込區早稻田南町七より 宮本叔へ
 拜啓其後は御無沙汰暑さの砌御變もなき事と存じます、偖小生の知人にて社會學專攻の文學士小林郁と申す人此度廣島高等師範教授を辭し米國シカゴ大學へ研完の爲め參る事になりました處本人事昨年末腸チフスに罹り其後回復は致したれど全然平生の健康と申す程に行かず從つて長途の航海風土の變化につき多少の心配を抱きて此際大兄に一應診察を願ひ猶養生法等篤と承はり置度故紹介をしてくれとの依頼あり、御多忙中御迷惑とは存じますが、もし御暇もあらはどうぞ御會ひ下さい、又御差支の折は時日を期し御呼寄せ下さい、甚だ勝手な事を申上て濟みませんが宜敷願ひます
    七月二十八日                夏目金之助
   宮 本 樣
 
      一三〇二
 
 七月三十一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 御注文にて吉右衛門論なるものを早速拜見致候。大分骨の折れたものと思ふ。なぜ骨が折れたらうと讀者に思はれるかと云へば徹頭徹尾緊張してゐるからである。さうして至極徹底してゐるからである。かう云ふと君の目的通り讀者の眼に映つたといふ事になつて君は滿足だらう。君は君の遣つた仕事に對して滿足して然るべきである。
 けれどもあの緊張はね、内容の充實から來たといふより寧ろ態度の利かぬ氣から出たものと僕には思へる。神經の緊張で思索の緊張ぢやない。非力なものが向ふ鉢卷で體力以上の長時間力んでゐる體に見える。其證據には言葉遣ひや文句に隙間がないと同時に、主意主張其物は殆んど同じ所を※[行人偏+※[氏/一]]徊して毫も讀者を甲から乙迄否應なしに運び去つたといふ大力無雙な點が見えない。いたづらに神經がぴり/\張り詰めてゐるから、讀者もたゞ此暑いのに神經を昂ぶらさせられる丈で、其割合に理知の方面に何等の夫程の新らしい經驗を得ない。
 君の平生口にする緊張とか充實とか云ふのは何だか神經作用ぢやないかと思ふ。もつと鷹揚にもつと落ち付つ《原》いて、もつと讀手の神經をざらつかせずに、穩やかに人を降參させる批評の方が僕は眞に力のある批評だと云ひたい。
 僕は吉右衛門氏を知らない。夫から君の論に夫程同情がない。だから斯う見えるのかも知れない。然し夫も批評の一角度だから、君は參考にしても損はあるまい。君あれをもう少し張ると腹の皮が割けるよ。夫が内部の實質で大きく膨れ出すんでなくて徒らに腹に空氣をつめて緊張させるからだらう。願くはもつと落ち付き玉へ。あの書き方は文藝欄に一欄位のものを書く短かい時間内に應用すべきものではないか。暑中だからあつさり願ひ度と云つたら君は畏まりましたと云ふに拘はらず君はあんな暑苦しいものを書いた。暑苦しい思をする以上は其代りに何か頂だかなくつちや割に合はない。君は何を與へたといふ積だらう。
 中村星湖が君に答たいから書かして呉れといつて來たから承諾した。八月一日に出すから切拔を送つて上げやう。まあつまらんものだ。
 其地皆樣御無事當方も變りなく御目出度候。暴風雨はすさまじきものに候 以上
    七月三十一日                金之助
   豐 隆 樣
 
      一三〇三
 
 八月一日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡縣京都郡犀川村小宮豐隆へ
 拜啓今一日の新聞に出た中村星湖の文章の切拔を御目にかけ申候
 小生九日頃東京を出て大坂に行き和歌山と明石と堺で講演をする事になり候、暑いのに氣の知れぬ事に候それが大阪の新聞のどの位の利益になり候や疑問に候
 今日から暑くなり候。秋聲の小説今日から出申候。文章しまつて、新らしい肴の如く候 艸々
    八月一日                   金之助
   豐 隆 樣
 
      一三〇四
 
 八月三日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 長野縣下伊那郡飯田町鹽澤直市へ
 拜啓芳墨拜見子規の遺畫わざ/\御送御厚意奉謝候如仰中には隨分拙なるものも有之候へども一寸面白きものも見受申候故人の記念として永く御保存可然と存候
 貴命に任せ該畫は御添書持參の人參る迄當方に御預り置可申候先は右迄 艸々
    八月三日                  夏目金之助
   鹽澤直市樣
 
      一三〇五
 
 八月八日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 岡山市古京町内田榮造へ〔はがき〕
 わざ/\の御手紙恐入候。明石にて講演の日割は十三日に候へども可成御出なき事を希望致候あまり遠い所から來て聞いてもらうやうな講演は出來さうもなく候右御返事迄 艸々
  岡山へは日取の都合あしく參られざりし譯に候
 
      一三〇六
 
 八月十五日 火 後5-8 和歌の浦より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔繪はがき〕
 講演存外長びき今日當所夫よりさかひ大坂兩所打上て歸京謠會も甚だ心元なく候
    八月十五日  和歌の浦にて
                        夏目金之助
 
      一三〇七
 
 九月八日 金 後7-8 大阪市東區今橋三丁目湯川胃腸病院より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 病院の三階に寐てゐる。窓から大坂城の櫓が見える。色々な西洋館が見える。夫から山が見える。大《原》閤の居を卜した所丈ある。毎日粥を食ふ。おかづは豆腐と麩丈で甚だ心細い。今日のひる刺身を四切食つた。早く東京へ歸りたい。國華の畫を繰返し/\見てゐる。無事御歸京結構
  蝙蝠の宵々毎や薄き粥
    九月八日
 
      一三〇八
 
 九月十四日 木 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 今朝は御多忙中ありがたく候
  灯を消せば凉しき星や窓に入る
  蝙蝠の宵々毎や薄き粥
   (右病院にて)
 
      一三〇九
 
 九月二十日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 肛門切開本日頃より少し樂になり候只今は不足の睡眠取り返し中に候時々御來訪を待つ
  風折々萩先づ散つて芒哉
 
      一三一〇
 
 九月二十五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 啓上耳痛愈甚敷よし御氣の毒の至り何とか分別なきや 肛門の方は段々よけれど創口未だ肉を上げずガーゼの詰替頗る痛み候
 連句つゞけたけれど庄屋の門にゴム輪の句氣に入らず何とか工夫の道もあるやうにてつい後れ申候
 貴句遊女屋つゞき外》》を賣るとある外郎とは何の事にて何とよむにや一寸教へを仰ぎたく候
 仰臥執筆不自由御察し被下度候いづれ出來次第送り可申候
  耳の底の腫物を打つや秋の雨
  切口に冷やかな風の厠より
              艸々
    二十五日                   ※[さんずい+嫩の旁]《原》石
   東 洋 城 樣
 
      一三一一
 
 九月二十五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓先日は痔の御見舞を難有う。實は御世話になりつゞけで歸つたらゆつくり御禮の手紙を出さうと思つてゐた所はからず肛門を切開夫が爲め萬事手違凡て御寛容を乞ふ。漸く今日起き直りて演説の訂正を始めた所へ池邊三山が來てそんな餘計な事はせんでもよいと云つて例の草稿筆記を奪つて持つて行つて仕舞つた。斯うなると僕もどうする事も出來ない。尤も先日小西君から病中の事故あの儘出しても宜しいとの手紙もあつたさうだけれども、苟も豫告をして金をとつて無責任なものを賣つては濟まんと思ひますが、元來攝津守は何日迄に原稿が入るのかせい/”\延ばせる丈延ばした處を一寸聞いて下さい。夫でもどうしても間に合はなければ仕方がない。あなたに何とも申樣がない御迷惑だが池邊氏の勸告通り一切の訂正抹殺増補をあなたに一任致したい。然し是は飛んだ御厄介だから出來る丈自分が始末をつける積故何卒少し待つ事を攝津守に談判して下さい。
 高原の妻君の見舞も申さず歸臥、其後如何なりしや同君よりは却つて見舞状ありしもこちらからは夫切故何卒よろしく、奥さんは大丈夫の事と存候
 其他攝津守を始め土屋和尚西村天囚、牧放浪、氏へも其儘に致し居候故序にどうぞよろしく願ひます。社長村山氏は二度も見舞つて呉れ上野さんもわざ/”\病院へ來てくれたれど是亦同樣の譯にて無挨拶に打過居候故村山氏出社の節御序もあらば申譯願候上野さんの方は社へ顔を出さないだらうがもし機會もあらは矢張同前に願ひます
 仰臥して認める故亂筆御推讀を乞ふ 艸々
    二十五日                  金之助
   是《原》 如 閑 樣
 
      一三一二
 
 九月二十七日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 大阪では御見舞をうけかたじけなく候西川君も來て下され是亦篤く御禮申候小生歸京後かの地にて萌し候痔疾急に劇しく起り切開の結果今に臥牀夫故手紙も差出さず御兄さんへもどうぞよろしく願候
 一草亭君の原稿頂戴致候掲載の運つけ可申候
 寐たまゝ手紙を書き候故亂筆にて甚だ恐縮凡て御海容を乞ふ 艸々
    九月二十七日       ※[さんずい+嫩の旁]《原》石
   青 楓 樣
 
      一三一三
 
 九月二十九日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓秋冷の候愈御清適奉賀候先般大阪表に旅行中第一の御手紙は拜見當時如仰少々病氣にて入院中故其儘に致し置き歸京せる處又々御手紙是には御返事をと思ひしも又々痔疾切開の不幸にて仰臥中如何とも致しがたく打過候今二十九日又々三度目の御手紙に對し甚だ申譯なく此返事を認め候。
 鮎はたしかに頂戴まことに難有く歸つて見たら本箱の上に飾つてあり候何だと思つたら魚なので失笑致し候
 御申越の事承知は致し居れど只今漸く起き直る位故全快後どうにか致し可申候
 子規の書いたものは多少あれど皆小生に關係あるものばかり是を他人が有つて居ても詰らないだらうと存候が如何にや
 是公二三目前大連へ歸申〔候〕由今度は病氣で會はず向ふも小生の病氣を知らず其儘に立ち分れ申候
 只今大阪の講演を豫約出版するとかにて速記の訂正を依頼され病氣を力めて片付けにかゝり居候夫等にて甚だ失禮病氣はもう大分快復御心配被下間敷候 草々頓首
    九月二十九日              夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一三一四
 
 九月二十九日 金 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 耳少々はよろしき由大慶に存候小生も漸次快方御放念被下度候連句は少々取いそぎ候用事出來其儘無申譯候大阪地方にての講演を豫約出版とかにて訂正をたのまれ衰弱の許す|が《原》きり手を着けぬと飛んだ無責任のものを豫約處に送虞有之それ故庄屋の門もあれぎり中絶不惡御海恕願上候今日冷氣に候ゆかたにて床の上に起き直き《原》少々寒さを感じ申候
 無句 艸々
    九月二十九日      ※[さんずい+嫩の旁]《原》石
   東 洋 城 樣
 
      一三一五
 
 十月四日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ
 拜啓澁川氏より別紙の通申來候が危險云々の事につきては念を押し置かれ候や後で紛々が起ると又迷惑なるが一寸伺ひ候 草々
    四 日                  金之助
   草 平 樣
 
      一三一六
 
 十月四日 水 牛込區早稻田南町七より 麻布區龍土町六二弓削田精一へ〔うつし〕
 其後御無沙汰、僕大阪表より歸京するや否や痔疾に苦しめられ切開の結果、まだ床をのぺて寢てゐる次第故社へも久しい間顔を出すことが出來なかつた所、昨日三山君が來て主筆をやめたと突然いふので大變驚ろいた、
 事の起りは森田の攻撃から始まつた其餘波として君が三山君との言葉の行違から大事に至つたのだといふ顛未を概略耳にした時愈驚ろいた、僕は君等二人の間に立つて兄分らしく調停の勞を取る抔といふ位地にも居らず深い年來の親しみにも乏しいかも知れず第一そんな力量も人格もない男だが森田の事が動機になつて朝日の幹部に破綻が生したと云へばまあ責任者は文藝の方面の擔當をしてゐる僕だと云はなければならない、僕が原因になつて十五年以上も同じ社に机を並べて親しくしてゐた兩君に出るの引くのといふ騷ぎをされては實に面目がない、入社の時|阪《原》本を介して間接に交渉の衝に當つてくれたものは君である、それは君も覺えてゐて呉れるだらう、さう云ふ關係もあり旁々君に逢つて篤と話がしたい、平生ならすぐ車を飛ばす筈たが、今云ふ通り毎日ガーゼを取り換えてゐる位だから車に乘る譯には行かない、と云つて來て呉れまいかと頼んだつて、君の前へ行つてそんな話をする必要はないと跳付けられゝば一言もないが、是は痛心の極から出た御依頼だ、まことに遠方といひ御繁忙の君に早稻田の奥迄といふのは申かねた次第だが、何時でも繰合せのついた時來てくれまいか、昔し君は何時か遊びに行かう/\といつて夫なりついに來なかつた、今度は仕方がないから前約を果す氣で行つてやらうと云ふ心持で來てくれ玉へ、車で乘り廻すのは一寸困難だが床の上に起き返つて友人と話をするには一向差支ないのだから
 右用事迄 艸々
    十月四日                   金之助
   弓 削 田 兄
 
      一三一七
 
 十月十日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内高原操へ
 拜啓過般阪地滞留の節は種々御厚誼を辱ふし殊に病氣の折は一方ならぬ御厄介に相成不堪深謝至候歸京後すぐ御挨拶可申上の處早速餘病にとりつかれつい/\今日迄愚圖々々に打過無申譯候
 阪地引上の折御令閨御病氣の旨如是閑氏より傳聞如何かと案じ煩ひ候へども遂に拜顔の期《原》其儘にて東歸遺憾千萬に候追て御輕快最早御退院の事と存候へども時節がら隨分御攝養可然と存候
 右乍遲延御禮迄 匆々頓首
    十月十日                 夏目金之助
  高原 操樣
 
      一三一八
 
 十月十一日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區南久寶寺町二丁目水落義一へ
 拜啓高秋の候も漸く近き候處御健康如何に候や入院中は毎々の御見舞恐れ入候ことに再三御藏書を拜借爲めに病床の慰籍不尠歸東後早速御禮可申上筈の處又々餘病繼發つい昨今迄苦しみ居候ため乍不本意失禮をかさね候何卒御海容被下度
 御心配をかけ候痼疾今は殆んど平癒餘病は痔にて此方は少々癒し損ひの氣味も候へどもまづ一應の起臥には無差支に至り候御安心可被下候
 右延引の御詫をかね御報旁御禮迄 匆々頓首
    十月十一日                  金之助
   露 石 樣
 
      一三一九
 
 十月十一日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 廣島市新川場丁二二金子健二へ
 拜啓過般は叮重なる手紙を御遣はしの處生憎病氣にて大阪の病院に居り御返事も差上げず歸京後は又々餘病の痔に苦しめられ切開の結果もよろしからす今に猶治療中なれど大分快よくそろ/\戸外をあるくやうに相成候につき此手紙を御詫旁差出し候俳人遺物箱の上に認めるものを御求めにや又はあの絹へかいたものを其儘他と一所に箱に納められ候にや夫から書くとは記念の爲の俳句にても書く義に候や又は如何なる種類の事を書き可申やもう少し判然した所を御報知願度候猶申入候|候《原》はあの絹には今度再三揮毫抔たのまれ候も墨のらず到底書はかけぬものに候
 右用事旁申譯迄 匆々
    十月十一日                 夏目金之助
   金子健二樣
 
      一三二〇
 
 十月十一日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區道修町一丁目青木新護へ〔繪はがき〕
 拜啓御地にて入院の節はわざ/\御親切に御見舞難有御禮申上候歸京後又々痔を苦しみ御挨拶も今日迄遲延先は御詫方々御禮迄 匆々
 
      一三二一
 
 十月十一日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下大久保百人町一四五服部嘉香へ〔繪はがき 海晏寺の紅葉〕
 御書拜見大阪にて病氣御《原》出被下候由なれど留守にて殘念に存候。歸京後は餘病の痔を切開臥床。然し今日頃より、少々は外出木曜の御出待上候尤も同席者あるかも知れず御不都合の用事なら餘日を選みてもよろしく候
 
      一三二二
 
 十月十三日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓夫からは大無沙汰を致しました。先達は大患後一週年の時日を御忘れなくわざ/\電報を賜はり候處實は御耻しいかなあの時は大坂で又々やつつけて入院してゐたのです。
 どうも矢張り自分の咎なのでせう、誰を恨む譯もないが、事情を御話しますとね、大阪の社から講演をたのまれて明石和歌山堺大阪の四ケ所で喋舌つたのです、其堺あたりから少々腹が妙になつてこいつはといふ懸念も起りましたがもう一つだと思つて大阪を片付けて宿屋で寐てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとう/\胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろいて湯川胃腸病院へ這入つて三週間程加養して夫から東京へ歸つて又々須賀さんにかゝりました。すると何の因果か歸京の翌日から肛門周炎とかいふ下卑た病氣になつてとう/\切開しました。夫が惡性なので三週間後の今日もまだ細い穴が塞がらない所があつて膿が出るのです。
 右の譯であの電報に對しても梨の礫の御無沙汰といふ譯で今日迄打過ぎましたのは甚だ申譯がありません。須賀さんの御蔭で胃は殆んど平癒しました。其方は安心して下さい。
 此間病中の感想などを新聞にかいたものを入れた隨筆樣のものを出版しました。是は記念のためだから是非一本を差上たいと思つてゐますが、まだ其儘してあります、何れ其内送ります。
 近頃は大分高田で流行なさる事だらうと妻とも申し合つてゐます。御令閨へどうかよろしく先は右迄 匆々
    十月十三日                 金之助
   森 成 樣
 
      一三二三
 
 十月十五日 日 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込淺嘉町坂元三郎へ
 拜啓先達は御見舞難有候偖其後消息も打絶居候川淵正幸氏死去の趣突然承知仕り洵に氣の毒の至に堪えず早速同家宛弔辭は送り置候へども猶明十六日午後一時青山にて神葬の由につきもし御會葬にも候はゞ封入の名刺小生代として葬儀がゝり手元迄御渡し願度尤も明日は月曜にて時間の具合も不便なれば或は御出無之やとも存候其節は一向無差支候間其儘に御打捨置願候右乍唐突御依頼迄 匆々
    十月十五日                 金之助
   坂 元 樣
 追白 病氣未だ全快せず漸く車にて醫者へ行く位に候但し神樂坂邊迄の歩行は差支なき模樣に候へば御放念可被下候
 
      一三二四
 
 十月十八日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓先便にて子規の遺墨御所望の趣承知は致したれど例の病氣にて億劫なりしためつい/\遲延無申譯候漸く起臥にも差支なき程に至り候につき短い書翰を戸棚の中より取出し同封にて差上候御受納可被下候 匆々敬具
    十月十八日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一三二五
 
  十月十八日 水 後1-5 牛込區早稻田南町七より 布哇ホノルル布哇中學校田島金次郎へ
 拜啓未だ拜顔の榮を得ず候處愈御清勝奉賀候。過般は拙著貴校にて教科書として御使用の趣光榮不過之と存候。其後右拙著に關する繪端書御出版につき惡筆を御求めに相成甚だ慚愧の至とは存じ候へども御望みに任せ候處御役に立ち好都合に存候
 今回は圖らずも切地二種わざ/\御遠方より御送をうけ感佩此事に候。内地にては珍らしき織物のみ何れも美しく眺められ申候。何に致してよきや未だ好分別も浮び不申|簟《原》の裏に一先づ納め置候右乍早速御禮迄先づ申上度 匆々敬具
    十月十八日                夏目金之助
   田島金次郎樣
 
      一三二六
 
 十月二十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 此間は久々にて三君の御顔を拜し候久々といひ遠方の御來駕といひ甚だ粗末な接待振に耻入候。するめ正に屆き候難有候。包が破れて五六枚ひきちぎつてあるには腹が立ち候呉れといふなら呉れるのに、怪しからん奴ですね。どうか參考の爲だから貴任者へ事實を教へて注意を促がして下さい。 匆々
 
      一三二七
 
 十月二十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 戒名ハ
 滄溟院殿水月一如(又ハ一夢)大姉
にては御氣に入りかね候や戒名と字の大さと書體が分ればすぐ菅を頼ひ《原》可申候 匆々
 
      一三二八
 
 十月二十日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓大阪表にて病氣加養の節はわざ/\御見舞状を賜り難有候其後輕快歸東の處即日より肛門周炎と申すものに襲はれ久しく困臥のため御無沙汰に打過無申譯候
 拙著「切拔帖より」寄せあつめものにて氣色頗る不揚候へども一部御目にかけ候敢て高著に對する御禮と申す程にも無くまあ御挨拶旁のものに候へば時節がらの松茸位の處と御思召御笑納可被下候 匆々敬具
    十月二十日                金之助
   臨 風 先 生
 
      一三二九
 
 十月二十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 浩洋院殿では水月云々に即かず不賛成に候、滄溟の二字惡くば慈海院殿、寂空院殿、觀海院殿、虚明院殿、淨皓院殿など如何にや。
  たのまれて戒名選む鷄頭哉
 
      一三三〇
 
 十月二十二日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨日ある本を見たら海の事を靈源といふやうに覺え候
 靈源院殿は戒名らしく候如何にや
 
      一三三一
 
 十月二十三日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 其後は御無沙汰あれから又痔を病んでとう/\切開漸く一週間程〔前〕に起坐然し少々癒損つて未だに醫者に通つてゐる
 此間の本の事は出さうかといふ望みのある男どこかへ旅行して歸り來らず此間甲州より畫端書が來たから多分そこに居るのだらう
 右の爲め返事も出さず甚だ失禮まあ出せる處でもあつたら手紙を上げるから夫迄待つてくれ玉へ
 此頃は好い天氣だ。鹿兒島が見たい。野間によろしく。野村は岡山へ行つた。忙いから是で失敬
    十月二十三日                金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一三三二
 
 十月二十三日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓乍唐突御願がある戒名を一つ書いて貰ひたい、縁喜が惡いけれども是非願ひたい
 是は僕の教へた法學士今式部官松根といふ男の父母のである。書体は正楷字くばり封入の劃の通り右は父左は母と御承知ありたし(母のは靈《◎・レイ》源院殿)
 松根といふ男は引越の時君が僕の門札を書く所を見てゐたから君に頬みたいといふのである
 石屋が催促するので可成早い方希望、用紙は厚い方石屋には都合よき由右迄 匆々
    十月二十三日                金之助
   虎 雄 樣
 
      一三三三
 
 十月二十三日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 實は先刻菅に手紙を書いて頼んでしまつたり。毎日手紙の返事をためて置くと大變故今度はすぐ片付けた積で大得意の處模樣替には一寸困り候今更よすと云ふのも異なものではないか
 小生書いて見たい樣な己惚もあり、靈源〔二字右○〕も通知後故あの儘にて可ならん、但しもつと面白いのが出來たら改正してもよし
 
      一三三四
 
 十月二十五日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 原稿を歸して呉れといふ端書は拜見したが、二十四日には社へ出る必要があるので夫迄でいゝと思つて返事を上げなかつた。
 所で今度ある意味から森田にやめて貫はなければならない事になつた。森田が居なくなれば文藝欄の編輯者の問題が出る譯だが、僕は少し思ふ處があつて文藝欄を廃止する相談を〔編〕輯部の人として仕舞つた。今迄は色々御世話になり又是迄骨を折つたものを放棄するのは惜しいものであるが、社全體の紙面の改良や原稿の選擇に就いて僕が何か無遠慮の事を云はうとすると、どうしても僕が先づ是丈の犠牲を拂つて置かなければならない。文藝欄を維持する積なら維持はいくらでも出來る、又改良も出來る。然しさうすると他人の領分へは口を出し惡くなる。僕は今度池邊君が退社したに就て或は自分も出やうかと考へたが殘る人々から事状を聞いて見るとさう意地を通す必要もないから居る事にした。のみならず自分の直轄してゐる文藝欄の棒を永久流して仕舞つた。是は僕が猶將來に朝日をより好くし得る見込を抱いた爲であつて、決して自分の地位を安固にするため他人の云ふ通りになつたのではない。夫は君にどう思はれても構はないが、向後到底僕の發見し得る「朝日」の點々に於て改善の身《原》込が立たないとなつたら、多分僕はやめるだらうと思ふ。
 夫からもう一つは文藝欄は君等の氣※[火+陷の旁]の吐き場所になつてゐたが、君等もあんなものを斷片的に書いて大いに得意になつて、朝日新聞は自分の御蔭で出來てゐる抔と思ひ上る樣な事が出來たら夫こそ若い人を毒する惡い欄である。君抔にそんな了見はあるまいが、近來君の行爲やら述作に徴して見ると僕は何だか心細くなる樣な點もある。あれで好いつもりで發展したらどうなるだらうと云ふ氣が始終つけまつはつてゐる。要するに朝日文藝欄抔があつて、其連中が寄り合つて互に警醒する事はせずに互に挑撥し會《原》ふのも少しは毒になつてゐるだらうと考へる。それで文藝欄なんて少しでも君等に文藝上の得意場らしい所をぶつつぶしてしまつた方が或は一時的君や森田の藥になるかも知れない。
 僕は向後文藝上の事に關して君等の援助を仰がなければならない場合が澤山あるだらうと思ふ。現に援助を仰ぎつゝあるのに、こんな事を云ふのは甚だ失禮でもあり諸君も氣を惡くするかも知れないが實際昨今の僕はさう感ずるより外に仕方がないのだから、※[さんずい+嫩の旁]《原》石は本當にしか感じてゐるのだと思つてくれ給へ。さうし〔て〕笑ふとも怒るともして呉れ玉へ。
 玉稿は同封で歸す。あの端書の書き方抔を兎角申すのは何だか小八釜しい樣だが「闇から闇へ」抔いふ文學的形容詞は用ひない方が穩當であらう。殊に「夫は堰へられない」に至つては讀む方では一種厭な感じがする。自分の書いたものが自分の豫期した時間内に新聞に出ないのは不愉快には違ない。又其原稿がどうなつたか分らないのも不平には違あるまい。けれども夫に堰へられないといふのは自分の書いたものが左も/\重大な論文で、夫を掲載しない新聞が左も/\不徳義で、之を草した自分は左も/\大家である樣に讀まれる。以上の諸條項を備へないで猶且つ下らない事に堪へるとか堪へられないとかいふのは一種のセンチメ〔ン〕タリストか或は片寄つた文壇の流行語を故意に使用するコン※[エに濁點]ンシヨナリストである。
 僕の近來の君に注意したい點は道徳的にも藝術的にも此手紙のうちに含まれてゐると思ふから、とくにそれを長く説明したのである。
 原稿は五回分丈社に回つてゐた。僕は自分から請求して、悉くそれを持ち歸つた。理窟から云へば掲載の有無に拘はらず原稿料を拂はなければならない。が僕は君等が單に原稿料をとる爲にのみ書いてゐると思はれるのが厭だから、わざ〔と〕請求しないのである。
 以上
    十月二十五日                夏目金之助
   小宮豐隆樣
 津田君には廻送してやる方を御勸め致し候
 
      一三三五
 
 十一月一日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜啓先夜は失禮昨日菅氏參り戒名數通の楷書見せ候處何れも棄てがたき故みんな御日にかけ申候小生のよしと思ふのに朱圜を附し置申候
 封入の切符頼まれものに候どうか買つて下さい
 今日辭表を出し候社長出てくる迄何とも方づかざるべし
 右迄 匆々
    十一月一日                  金之助
   豐次郎樣
 
      一三三六
 
 十一月十五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿二〇九森次太郎へ
 拜啓先達御依頼の川端先生の畫の賛美事にやり損ひ申候、仕方なしに上部を切り取り短かい所へ蝶去つて又蹲踞る小 哉と書いてわざと猫の畫を中間に挾み猫と云ふ字を省き申候是ぢや多分駄目かとも存じ不《原》申候へども此次御出の節入御覽可申候
 子規の對幅には釣鐘のうなるばかりに野分哉といふ
句を認め候是亦出來榮あまりよろしからず不可なければ何枚で〔も〕書き直す積に候先は右御報迄 匆々頓首
    十一月十五日                 金之助
   森 圓月樣
 
      一三三七
 
 十一月十五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 麹町區永田町鍋島侯尚邸内中島清へ
 拜啓かねて御あつかり申候玉稿とくに拜讀致す筈の處色々取り紛れつい今日に及び無申譯候兩三日五十|牧《原》程よみ夫にて大體の見當相つき候、甚だ露骨にて失禮には候へどもあれは失敗の作かと存候詳しき事は御面會の上御納得のあるやう申上度考に候
 明日は木曜なれど已みがたき所用のため午前は外出致候午後は在宅の積に候然らずは今一つ次の木曜にても御面語致しても宜敷候右用事迄申上候 匆々
    十一月十五日                 夏目金之助
   中|川《〔島〕》清樣
 
      一三三八
 
 十一月十五日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區林町六四水上齊へ〔うつし〕
 拜啓小生大阪表にて病氣の砌り玉稿をホトヽギスへ掲載御依頼の尊書拜讀致候へども病中とて御返事もなりかね其後歸京又々餘病のため荏苒拜讀の機を失し無申譯候此頃漸く小閑を得て拜見面白く存候ホトトギスへ御周旋申上度は存じ候へども同紙は近來革新の結果原稿料を拂はぬ事に相成候故控へ候其他の雜誌聞合せ位は一二出來候はんもコレ亦今が今といふ間に合ひかね候事と存候玉稿は御手元へ御歸り《〔?〕〕》可申や又は私保存時機をまちどこかへ頼んで見可申やいづれにても御高見に從ひ可申候先は御詫旁々右御伺ひ迄 匆々敬具
    十一月十五日                夏目金之助
   水 上 齊 樣
 
      一三三九
 
 十一月二十二日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 岡山市二番町五野村傳四へ
 俳句はみな駄目川柳は蒲團の句位がいゝだらう
拜復大阪で病氣をしてゐる頃君が岡山へ行つた話を聞いた、其後東京へ歸つてから何か學校に騷動がある由も聞いて實は心配してゐたが是は君が行く前からの騷動だから君は其善後策の一部分として招聘されたのだらうと思つて先づ安心してゐた
 君の手紙を見ると萬事がよく分つたまあ當分我慢してゐたまへ苦しいたつて東京の佐内坂にゐた時より増しだらうあの家を見た時は少々氣の毒になつた。大阪朝日の方へ原稿を廻した事も知らなかつたが出る事は一遍出たのかね夫でも出ればまだ好いのだ。東京の社でも少々ごた/\があつて僕もとう/\出やうとしたがみんながとめて呉れるのでまあ思ひとまつた、僕見たやうに横着をしてゐて夫で不平がましく出るの引くのといふのは實際義理知らずのやうでもある。
 痔が癒り損なつて末だ尻に細い穴が出來てゐる、是が結核性で追つて腸結核にでもなつちあ夫限りだと心細い事を考へたりしてゐる。實際そんな例もあるのだからな
 森田は已めて貰つた、森田と僕の腐れ縁を切るには好い時機なのである。當人は無論筆で立つ氣だらう
 此半きれは字を書いてやつて禮にもらつたものだが生涯こんな結構なものを使ふ事は二度とふたゝびあるまいと思つてゐる何でも越前か何かの名産ださうだ
 漸々寒くなるので日の遠い書齋がいやになる日當りのいゝ家をたてゝごろ/\してゐたい、
 右迄 匆々
    十一月二十二日              金之助
   傳 四 樣
 奥さんへよろしく
 
      一三四〇
 
 十二月一日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜借末女死去につき懇篤な御弔詞に接し千萬難有拜誦實は幼兒の事故入らぬ人騷せも憚と思ひわざと何處へも通知を發せざりし次第故あしからず
 葬式も喪車に生等夫婦と亡兒の姉妹兄弟位がついて行く丈の極めて簡單なものにしてしまいました是も御含み迄に申上て置きます
 君はじめ他の社内諸君が多忙の時間を割くべく心配せられては却つて恐縮だから其邊はよろしく願ます
 死んだ子は夕飯を食ひつゝ突然つツ伏した儘死んだのださうです大人なら脳溢血だが小供では何だか分りません豐田君も不思議だ/\と繰返してゐました
 萬事は御目にかゝつた折の事まづ不取敢御禮迄 匆々
    十二月一日                  金之助
   杉 村 老 兄
  荊妻よりも宜敷御禮を申上ます
 
      一三四一
 
 十二月十九日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區臺町二七鳳明館東新へ
 御手紙拜見致候ロダンの談話は通俗的のものに有之候や又は面倒なものにや餘堅過ぎて新聞むきならず雜誌向ならば其方へ廻したら如何かと存候
 右伺ひたる上にて紹介して見るべく候一寸御返事願度候 草々
    十二月十九日                 金之助
   東   樣
 
      一三四二
 
 十二月二十八日 木 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓年も押しつまり候如何御暮しにや永らく御病氣のよしちつとも不知失禮致候もう御全快の由結構に存候小生は痔の方まだ治らず隔日に醫者の厄介になり居候
 愈小説をかく事と相成候へども健康を氣遣ひ日に一回位の割にて龜の子の如く進行する積に候
 此間中は東京の方にごた/\有之小生も一|事《原》は罷めやうかと思ひ候へども色々他の勸告もあり又御厄介になる事と致候丈夫になつて又大坂へ參り講演でも致して氣?をあげ度候
 右御返事迄 艸々
    臘月二十八日                金之助
   如是閑樣
 
      一三四三
 
 十二月三十日 土 牛込區早稻田南町七より 佐世保市石坂町濱武元次へ〔はがき うつし〕
 鯨相届候段々御好意難有候拙著一部御返禮に差上終《〔?〕》歳無日定めて御急がしき事と存候何れ永日
 
      一三四四
 
 月日不詳 川村鐵太郎へ〔うつし〕
 〔以上省略〕一は宛なし貴方の書きたいものを全部書き上げて夫を私に御見せになる事(是はいやだと仰やる)一は四五の短篇を文學雜誌の上に公けにして貴方の力量を世間に御示しになる事です失禮ながら其出來榮えを保證として私は貴方と交渉の歩を進めたいと思ひます〔以下省略〕
 
 明治四十五年 大正元年
 
      一三四五
 
 一月一日 月 前0-5 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔印刷したる年賀状の瑞に〕
 去年は三君にて御光來失禮二君によろしく
 
      一三四六
 
 一月一日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區湯島順天堂病院第一三號室中勘助へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 御病氣の由御大事に可被成候
 
      一三四七
 
 一月十三日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 長野縣諏訪郡豐平村二九永田登茂治へ〔はがき〕
 拜復子規の書翰只今多忙にて探しがたく候其内閑を得候はゞ見つけ可申候差支なきもの出で候へば差上可申候
 
      一三四八
 
 一月十《〔?〕》三日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ〔はがき〕
 拜啓御贈のカキは三十一日の夜半を過ぎ一日の午前三時半到着門口をドン/\叩き候。御蔭で元日の客に振舞申候難有御禮申上候拙著「切拔帖より」一部御目にかけ候
 
      一三四九
 
 一月十三《〔?〕》日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷甲良町二〇金子雄太郎へ〔はがき〕
 拜復まづい字を御所望の由承知致候其うち都合よき時書き可申候句は作り不申候みな古いものに候何か御望みも有之候や伺ひ上候
 
      一三五〇
 
 一月二十四日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區指ケ谷町一三三内田榮造へ〔はがき〕
 拜啓水蜜の鑵詰小包にて御送難有拜受病兒とともにあまき汁を吸ふ積に候不取敢御禮迄 艸々
 
      一三五一
 
 一月二十八日 日 牛込區早稻田南町七より 鳥居赫雄へ
 拜啓先便にて獨乙御出立の由は承知致せしが何時頃御着か分らず其儘に打過候處今朝御端書にて愈御歸朝の趣に接し先以て海陸御無事御歸國大慶の至に存候
 實は今朝神田へ參り候故さうと知つたらば一寸御尋ね致せばよかつたと存候。此頃小説を書き居り今日も是から是非一回書かないと大阪のゲラが後れるといふ始末故拜趨を怠たり候明後日は又午前中に神田へ行かねばならぬ故其節は一寸顔を出し可申候尤も諸方御出向の必要も有之べく無理に御待受は恐入候。病餘自分の健康を氣づかひわざと毎日一回分の小説外か《原》書かざる爲め其日其日に追はれ落付きかね候不取敢御歸朝の御喜び迄餘は拜眉萬縷 草々敬具
    一月二十八日                 金之助
   素川老兄坐下
 
      一三五二
 
 二月九日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 御手紙難有拜見致候御叮嚀なる御招待辱なく候ことに横山畫伯も御來會と承はり候へば是非都合つけ參り度と存候へども打明けた御耻づかしき處を申すと目下御承知の小説に追はれ一日後れると社の方で一日休まねばならぬ始末にて大弱りの處に候 過日時々休んで呉れと申し叱られ候木曜の面會日などは殆んど書き損はぬ許り危うき思を屡繰り返し居候尤も旨い具合に行けば一夕の餘裕位はとれ可申れど十二日は朝のうち參る人ありひるから四時位の間には小生の痩腕にては一回書き上げる事覺束なく候へば或は失禮致す事に相成るべきかと存候右の譯故もし小生の爲ならば會合の日を他日に御延ばし彼岸過に至れば幸甚もし又他の諸賢との御會合ならば小生は繰合せつけば參上もし書けなかつたら失敬する位の處にて御勘辨願度候
 甚だ我意にて定めて御迷惑とは存じ候へども右の次第故どうぞあしからず御海容被下度候不參の節は大觀君に大兄より宜しく敬意を致され度 先は右不取敢御返事迄 艸々敬具
    二月九日                  金之助
   臨 風 賢 契
         座下
 
      一三五三
 
 二月十二日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 拜復毎日小説を書いてゐるので氣が落ち付かなくつて何も外の事が出來ません甚だ苦痛です。御手紙の「凍」といふのは一月號ですか一月號ならことによると無くなつたかも知れません二月號に出て是から送つて呉れる内にあるなら是非拜見します
 
      一三五四
 
 二月十三日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓伊豫文よりの御状拜見あゝ美人迄御揃にて敬意を表されては大に恐縮致候
 あの日半分書きかけたる處に寶生新といふ謠の先生見え稽古をしてもらふと四時で入湯喫飯を除きとう/\八時半になり漸く社へ送り候始末夫が爲め御兩君にも失禮美人にも失禮無申譯候 小説をやめて高等遊民として存在する工夫色々勘考中に候へども名案もなく苦しがり居候
 大觀君によろしく御傳願候雲峯君の雅名承知の如くにて思ひ出せず候同君にもよろしく願候餘は彼岸過拜眉の節萬々 頓首
    二月十三日                金之助
   臨 風 老 臺
         机下
 
      一三五五
 
 二月二十三日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 拜啓「凍」を讀みました是から毎號つゞけて拜見致します。飽きずに仕舞迄御書きなさいまし
    二月二十|四《原》日
 事實の書き方はあれで結構だと思ひます
 
      一三五六
 
 二月二十八日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓文學士の竹山成美といふ人が今迄本郷順天堂わきの中學(開成?)へ出てゐた處今度端書で秋田の學校へ行く事になつたといつて寄こした。さうすると後任はどうなつたか恐らくはもう極つたかも知れないが一寸聞き合せて奔走して見るのも好いかも知れない。右御報知迄 艸々
    二月二十八日
 
      一三五七
 
 三月十一日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 四谷區左門町五四三須※[金+卯]へ
 拜啓御手紙拜見致候愚兄より貴所の御名前を承はり候は餘程久しき以前の樣に記憶致候其當時は何時御來訪にやと心待に待居候處遂に御光來なく自然尊名も忘れ居候處突然の御來信事情よく相分り候小生御覽の通りの惡筆に候へども若し御所望に候へば何なりと認め可申候但只今小説執筆中にて諸方の用事も其儘に打棄置候始末故今しばらく御猶豫願度候小生面會日は木曜日につき同日もし御來訪被下候へば御目にかゝれ得候事と存候是も小説の濟んだあとの方都合よろしく候又平日にてももし必要の節は時間を拵へ御目に懸りても差支なく候故さういふ時は無御遠慮豫め御一報被下度先は右御返事迄 艸々頓首
    三月十一日                 夏目金之助
   三 須 ※[金+卯] 樣
 
      一三五八
 
 三月十二日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 拜啓「凍」の(二)を拜見致しました。前回より面白い樣です。私の小説より面白さうです。此次の分も拜見致します。 草々
    三月十二日
 
      一三五九
 
 三月十三日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ
 御手紙拜見致しました野上君の御病氣は驚ろきました。あなたも嘸御心配でせう。此間の端書に熱が出て腸が惡いと書いてあつた樣ですが大した事もあるまいと思つて返事も出さずに置きました。昨日御手紙と同日に寶生氏に逢ひまして大學へ入院されたといふ話を聞いて夫は困つたと思つてゐた處であります菅能さんの診斷ではさう輕い方ではないとか賣生氏が申しましたが御手紙の模樣では大した事にもならずに濟みさうでまことに結構です、夫に入院さへしてゐれば手當は充分出來るから貴方は安心して寐て入らつしやい。もし何か手が足りないとか何とかいふ場合に私の出來る事なら仕て上げますから遠慮なくさう云つて御寄こしなさい。見舞にも行く積でゐますが熱の高い時面會抔して高くなると不可ないから一寸控へます但し當人が誰も來なくつて心細い樣だと困るからそんな時には是非知らせて下さい御令弟は見舞に行けるだらうから樣子が分るでせうあなたは身體のしつかりする迄傍へ寄らない方がいゝチフスだから感染すると不可ない
 謠本は慥かに屆きました御忙しい處を恐れ入ります 先は御返事迄 艸々
    三月十三日                 金之助
   八 重 子 樣
 
      一三六〇
 
 三月十四日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 先刻は失禮約束の紹介別封相認め候間御受取被下度候先は當用のみ 匆々頓首
    三月十四日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一三六一
 
 三月十四日 木 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 其後は御無沙汰に打過候偖今般友人津田青楓君上野に自畫の展覽會相開か|ら《原》れ候につき該件につきもし御手すきならば一寸御目に懸り度由に付御面會被下候へば幸甚に候 敬具
    三月十四日                 夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一三六二
 
 三月十七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 福岡醫科大學久保猪之吉へ
 拜啓時下餘寒猶烈敷候處愈御清適奉賀候却説小生知人に長塚節と申す歌人有之故子規と根岸短歌會抔にて研究致し其後は小説抔に趣味を持ち現に一昨年は東京朝日紙上に「土」と申す長篇小説を載せ候男に候此人不幸にして喉頭結核を患ひ岡田博士の治療を受け先頃退院致し候處今度思ひ立ち明日より九州地方漫遊の途に上り候に就いては自然御地へも參るべくにつき是非共貴所の診察を受け度希望の由にて小生に紹介を依頼致し候小生も知人の事とて甚だ氣の毒に存じ未だ御懇談も致したる事なき學兄に對し失禮とは存じ候へども思ひ切つて引受此書面を認むる事と致し候何卒事情御諒祭の上右長塚節氏御地へ參り候節は一應御診察の上相當の御注意御與被下候へば難有候先は右御願迄 匆々敬具
    三月十七日                夏目金之助
   久保猪之吉樣
 
      一三六三
 
 三月十七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓今日展覽會を拜見に參りました。あのうちの非賣品のせーブルといふのを讓つて頂けますまいか尤もあまり高くては困りますが。夫が不可なければ京都岡崎町といふのと宗○橋とかいふ十八圓のを二枚頂きたいと思ひます。
 事務へ何とも申して參りませんから、貴方からよろしく願ひます。もし右の外に貴方の推賞なさるのがあるなら御相談の上以上のをやめて其方に致してもよろしう御座います。
 青木君の繪を久し振に見ましたあの人は天才と思ひます。あの室の中に立つて自から故人を惜いと思ふ氣が致しました。 以上
    三月十七日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一三六四
 
 三月十七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜復講演へ出ろとの御|條《原》承知致候只今小説に心を奪はれ講演抔の事を考へる餘地無之候からだの方は至極調子よき方なれどもう少し立つて見ねば分らず
 いづれ能く考へたりからだの樣子を見たりして確とした處を御返事可致候先は右迄 艸々頓首
    三月十七日                 夏目金之助
   長谷川萬次郎樣
 
      一三六五
 三月十八日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 昨日あの手紙を出したあとで同日に展覽會を見た寺田君から別紙の樣に云つて來ました。畠の向に人家のあるといふのは私は一寸思ひ出せないが貴方はどう思ひますもし其方がよければそれにしてもよろしう御座います 以上
    三月十八日                  夏目金之助
   津田青楓君
 
      一三六六
 
 三月二十日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下北品川三九九中村蓊へ
 拜啓彼岸過迄のあとに大兄の小説を載せる事に相談出來候大兄は其後書き直しつゝありや
 地方へくばる引札廣告の豫告は成る可く早きがよき由作の名前と右豫告(是は法螺丈で澤山のよし)を澁川君に廻して呉れ玉へ
 載る前に一寸書き振其他につき拜見心付きたる處御注意致してもよろしく候先は右迄 匆々頓首
    三月二十日                夏目金之助
   中 村 蓊 樣
 
      一三六七
 
 三月二十二日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜復二月より盲腸炎にて御臥床の由承はり驚き入候ちつとも知らず見舞も申不上失禮御海恕臼川も先日來腸窒扶斯にて大學に入院貧乏人の病氣程困るも〔の〕無之候然し順潮に御快方結構此上なく候
 小説の義は小生の分今少々つゞき可申夫に大兄の六十回を加へれば御快癒迄に充分間に合ひ可申あとは其時々々に御執筆にて無差支事と存候間に短篇をはさむ事も人撰に一寸困るべく又君の前に名前の左程あがらぬ人を載せて新顔が二人つゞくのも妙ならず時間さへあれば小生も玉稿を拜見し書き直しも請求致すやも計られねど今は小生も多忙ことに大兄も病中なればいつそ其儘にて出し可申御異存なくば澁川君に承諾の旨御報被下度候
 段々春暖の候好い心持に候毎日小説を一回づゝ書いてゐると夫が唯一の義務の樣な氣がして何にも外の事をせず早く切り上げて遊んだり讀書をしたりするのが樂みに候
 「雨の降る日」につき小生一人感懷深き事あり、あれは三月二日(ひな子の誕生日)に筆を起し同七日(同女の百ケ曰)に脱稿、小生は亡女の爲好い供養をしたと喜び居候
 先は右迄 艸々
    三月二十一日                 金之助
   蓊   樣
 引札廣告の件御忘なき樣願上候
 
      一三六八
 
 四月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]七へ〔はがき〕
 つは蕗一部御惠贈難有拜受致候櫻雲駘蕩の時節筆硯愈御清勝奉賀候
 御禮迄 草々
 
      一三六九
 
 四月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町三丁目一六内田貢へ〔うつし〕
 從吾所好御珍藏のところ特別の御芳情にて御割愛御贈與難有御禮申上候三村清三郎の書甚だ美事にて敬服致候尤も同君如何なる人なるやは承知不仕候 いづれ好事家と存候、小生考古癖少なく珍書といふものに盲目なれど集中の寫眞版悉く滅多になきものと思ひ面白く眺め居候毎月一回御會合なら小生の友人狩野享吉君を是非會員に推擧致し度候 あの男は向不見の古書狂に候其狂熱あるがため今迄獨身でゐられる位なれば名譽會員にしても充分の資格ある人物かと存候 右御禮旁紹介迄艸々
    四月二日                夏目金之助
   魯庵先生坐下
 
      一三七〇
 
 四月三日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔はがき〕
 御手紙の趣承知しました。十五六日迄はつなげ候。尤も其時になつて具合がわるければもう少しつゞけて書きたいと思ひます。大阪からは鳥居君が此間聞きに寄こしました。寺尾君にはあなたからさういつて遣つて下さい
 
      一三七一
 
 四月三日 水 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜復僕の方へも澁川君より來書にて君の手紙と同樣の事を申し來り候
 白鳥氏のは販賣よりの依頼もある由申添有之大兄は氣拔の姿にて御殘念ならんも身體の爲には其方却つて御便宜なるべきかと存候
 存分御攝養祈望致候 艸々
    四月三日                   金之助
   蓊   樣
 
      一三七二
 
 四月六日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區大學病院三浦内科傳染病室野上豐一郎へ
 其後は病勢も次第に減退食事も少々はあるやうに御回復先以て結構に存候 あれからもう一遍見舞に行かう/\と思ひながらつい時間と序なく夫限になつて甚だ不相濟 今は上野も向島も花の眞盛新聞では毎日消息を聞かぬ事なし、小説まだ濟まぬ故何處へも不參尤も隔日に神田の醫者へ赴く途上江戸川の分は電車より賞翫、昨日は久振で虚子の訪問を受けしばらく話し候 病牀嘸御退屈の事と御察し申候まだ讀書抔の騷ぎにてもあるまじく精々ひまにあかせて空想に御耽り可然か 何れ其内參院萬々可申述候 以上
    四月六日                   金之助
   豐 一 郎 樣
 
      一三七三
 
 四月六日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 岡山市二番町五野村傳四へ
 拜啓花の頃愈御清適奉賀候上野も墨堤も人の出盛のよし新聞で見るばかり、久しく花には御無沙汰岡山の櫻は如何にや 四月の樣に遊ぶ事の多い月に小説を書くのは甚だ無風流の至り來年からは注意してやめに致したい。
 小供が死んだんで美しい香爐わざ/\御送り御芳志無此上喜び居候新らしい家にて佛壇といふものなく机の上に線香を焚いてゐる丈なれど香爐は持合せを使つてゐる故あの高麗燒は僕の机の上に置き候。あれはコマヤキぢやないよ。砥部燒といつて伊豫の松山で出來るものだ。願くは四圓五十錢の端溪にしたかつた尤も四圓五十錢の端溪も頗る怪しいものだが端溪にあらずとて輕蔑するには當らない大事になさい
 只今一家無事長女小學校を卒業高等女學校に入る、アイ子幼稚園より小學に移る。主人の白髪段々濃くなる細君は益肥る、まあ其位なもの也 君の方にても御變りなく結構
 右不取敢御禮迄 艸々
    四月六日                  金之助
   傳 四 樣
 
      一三七四
 
 四月十四日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御地此間よりの騷亂にて定めし物騷の事とひそかに心配致居候處別段の事もなくまづ結構に存候
 御通知の隋代の香爐の銘 横卷のもの着古雅と可申か甚だ面白きものに候机上にそなへ日夕珍重可致候夫から北周小碑拓本は參らず或は御忘になりたる事かと存候
 端溪の硯安きもの有之ば求めても宜敷御意に叶ひ候ものもあらば御買置序を以て御送願候代は此方より爲替にて可差出候
 五葉君に久しく面會せず半次郎君は英國行のよし、傳四岡山にて不平を並べ居候 久留幸吉が美くしい奥さんをもらひ三四日前同伴來訪
 東臺の花散り春風砂を卷き居候
    四月十|六《原》日              夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一三七五
 
 四月十五日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 端書毎度ありがたく拜見 彼岸過迄はもう一週間内にて完結のつもりなれどつもりがあやしき故少々の遲速は可有之か
 遊びに御光來なら御待ち申上候一つどこかへ御供致してもよろしく候
 ひまになつたら惡筆をふるひ此間のぬめを汚し可申色々の人から頼まれて居候處いづれも延ばしてある故一時に眞黒に致し候此間ある人來りやけになると純潔な處女を悉く墮落させて愉快を呼びたいと申候小生の絹や※[糸+光]を汚すのも同樣の結果だと思ふと聊か遠慮致し度考も起り候
 右御返事迄 草々頓首
    四月十五日                  金之助
   東 洋 城 樣
 
      一三七六
 
 四月十六日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 今度學士院で表彰されるものゝ敷昨年の三倍四倍になりたり、小生の思ひ通りになりて學海のため甚だうれし。其内寺田寅彦の名が出てくる事を希望致し候
 
      一三七七
 
 四月十八日 木 牛込區早稻田南町七より 高濱清へ〔五月一日發行『ホトトギス』より〕
 拜啓、久しく書物を讀まずに居りました處。二三日前あなたから頂戴した『朝鮮』を讀む氣になりまして只今讀み切りました。私も朝鮮へ參りましたが、とてもああは書けません。お京さんといふのが天眞樓の何とかいふ女中のやうな氣がします。豐隆は平壌の方をくさしたやうに記憶してゐますが怪からん没分曉漢です。矢張り結構です。
 仕舞の舟遊びは樂屋總出で賑かな事です。
 私は前後を通じてあなたが(?)お筆といふ女と假の夫婦になつて歸る處と、夫からそのお筆の手紙とが一番好きです。中々うまいです。一寸敬意を表します。 頓首。
    四月十八日
 
      一三七八
 
 四月二十一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡市外東公園久保頼江へ
 拜啓過日久々にて御出被下候節は失禮のみ御海恕可被下候其みぎり御約束の猫の中卷本屋より取寄せ小包にて御送り申候御受取願上候
 花も散りました十九日に潮干狩に行つて風と雨で散ざんな目に逢ひました。
 此間いたゞいた博多織はとう/\半井さんにやりました。
 福岡はもうそろ/\あつくなるでせう。儉約をして御金を御ためなさい。時々拜借に出ます。右迄 草々
    四月二十一日                夏目金之助
   久保頼江樣
 御良人樣へよろしく此度御出京の節は是非御目にかゝり度と存候
 
      一三七九
 
 四月二十三日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓過日御寄贈にあづかりたる隋代の鼎の銘の御禮に木版の畫端〔書〕を四五十|牧《原》入御覽ます是は廣重のと國華などに出た古代の名畫の縮版に候
 不案内にて清國で税をとられるかどうか知らずもし取られたら御免可被下候
 花も散り申候此間中は潮干の時節に候もう暑くなり申候
 先は右迄 艸々
    四月二十二日               夏目金之助
   橋口貢樣
 
      一三八〇
 
 四月二十五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五七齋藤阿具へ〔はがき〕
 拜啓同窓會御報知難有候成るべく繰り合せ出席致し度心得に候萬一不參の節は已を得ぬ差支と承知願候 以上
 
      一三八一
 
 四月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ
 拜啓林檎一箱御寄贈被下難有存候早速取り出し知人にもわかち申候
 五葉氏の繪の事本人へ照會致すべく承知の上はあなたより御依頼可然と存候
 右御禮旁御報迄 草々
    四月二十五日                 夏目金之助
   安田秀次郎樣
 
      一三八二
 
 四月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓其後は御無音奉謝候此間御令兄より隋代の鼎銘とか申すもの送り越され甚だ雅なものにて愛玩まかりあり候
 御近作も有之候や本日漸く小説を書き上げ候につきひまになり候故其内伺ひ可申候
 却説青森に居る男にて小生と一面の識あるものより別紙參り候もし御承諾も有之候はゞ仕合せの至早速本人へ申つかはし可申候 否や一寸御報願度と存候 艸々
    四月二十五日               夏目金之助
   五 葉 樣
 
      一三八三
 
 四月二十七日 土 後く6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 御退院御目出度存候隨分長々の拘留嘸かし御退屈の事と存候猶病後の御健康萬事御氣をつけ御かまひ可然と存候
 御入院中は生憎小説に追はれしげ/\御見舞も出來かね殘念に候 此二三週間は又胃に酸が出て運動すると形勢不穩故成るべく靜養の工夫致し候 夫に神經もよろしからず閉口致し候。けれども根が呑氣な生《原》分故まあどうかなるだらうと存居候。然し大兄の方は漫性的のものでなき故成るべく一時に癒して置く事必用に候出來る丈轉地でも何でもしてゆつくり損失を取返す御工面可然と存候老生如きは損をすれば損のし損まことに心細く候
 いづれ其内拜眉萬々 八重子樣へよろしく
 此間御話の通安倍と中が二人づれにて參り候 安倍は藤村氏の妹をもらふよし何かたしかな糊口の口はないか抔申居候こしらへて遣りたくも無能力にて如何とも致しがたく候
 先は右迄 艸々
    四月二十七日                金之助
   豐一郎樣
 
      一三八四
 
 四月二十八日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 青森縣北津輕郡板柳村安田秀次郎へ〔はがき〕
 橋口氏へ話候處御申越の條件にて五月十二《原》過ならかいて上げる由につき改めて大兄より御依頼ありたく候 草々
    四月二十八日
 
      一三八五
 
 五月一日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓厨川氏の著書評する事もなき由承知致候。然し折角讀んでやつたものだから、讀んでやつたしるし迄に十行でも二十行でも思つた通りの事を書いてやつてはいかん。
  君の新小説の劇評家といふものを一寸拜見したが益竪くるしくて讀者を苦しめるから、もう少しなだらかにしたら何うだらう
 
      一三八六
 五月−日 水 後11-12 牛込直早稻田南町七より 大阪市東區廣小路町一七高原操へ
 拜復其後は此方よりも御無沙汰不相變御健勝にて結構に存候却説高著序文の儀拜承實は今もある人の小説に序を頼まれて通讀中に候大兄のは何日頃迄に御入用なるや碌なものは書けねど何か差上てもよろしく候其代りゲラ刷なり校正刷なりを一寸御見せ被下度候
 右至急御返事迄 艸々
    五月一日                 夏目金之助
   高原 操樣
 
      一三八七
 
 五月十三日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内高原操へ
 拜啓貴著の序文早く書き上げ御送付致し度心得居候處色々差支起りつい遲く相成無申譯候別封粗末の出來ながら入御覽候もし御氣に入らずは御使用なくとも構ひ不申候後段少々惡口めいた所有之御氣の毒なれど成るべく障らぬ樣認め置候御參考にも相成候はゞ幸甚に候先は當用迄 匆々頓首
    五月十三日               夏目金之助
   高原 操樣
 極東の日本小包にて差出候肥後十年は仰により今しばらく手元に留め置候
 
      一三八八
 
 五月十七日 金 牛込區早稻田南町七より 市原隆作へ〔封筒なし〕
 拜復先日は檜物町へ御同道被下御蔭にて面白き一夕を消し候其内折を見計ひ又々御供致し度と存候
 からだ差したる事もなく御放念可被下候先は御禮旁御返事迄 匆々
    五月十七日                 夏目金之助
   市原隆作樣
 あすこの御上さんと御作さんへよろしく願上候大層面白かつたと御傳願候いづれ其内又御邪魔に上りたいと云つてゐたと御吹聽被下度候
 
      一三八九
 
 五月十九日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓先日は御光來の處生憎謠の先生あり不得閑談不本意に存候
 却説牛込御門内雅樂所の黒塀を通り過ぎ二三軒行くと同じ側の角の長谷川といふ古道具屋に二幅對の山水あり遠くから見ると古名畫の樣にて頗る尊とく見え候主人不在にて妻君にたづね候處二十五圓の由にて筆者は周文と申居候二十五圓の周文は少々滑稽に候へども念の爲故よく近づきて見候處人の顔や波の紋に非常に繊細なシンカキをもつて書きたる如きコキ線あり。周圍と調和せぬ樣なる上松の木の幹の内部のウロコのかき方など甚だ妙チキリンに感ぜられ申候
 然る處小生斯樣な大家の筆墨を多く見ざる故巧拙さへ判じがたく僞物にもせよ一錢五厘のものか二十五圓のものかまどひ候。
 繪畫に對する直覺も薫育もなき右樣の始末甚だ耻かしく存候へども慾の上からもし畫家より見て相當のものなら奮發して買つて見やうかと存候。大兄もし御散歩の序もあらば一つ御鑑定被下間敷やよければすぐ參り可申、又御手元にて御買置後より小生辨償致せば猶更便宜と存候
 小生の見る所では牙軸表装丈にても相當の價格のものと思はれ候。畫は遠方より見れば慥かに品よく高尚に候
 右不取敢冒險御願迄 匆々頓首
    五月十九日                 夏目金之助
   五 葉 先 生
         座下
 
      一三九〇
 
 五月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 明日午後四時より九段能樂堂にて忠度、調伏曾我、隅田川の能あり、小生の席はあまりひろくなけれど窮屈さへ御忍びなら御光來如何にや、かねての御約束故一寸御案内申上候。たゞし御老人御同道にて不時に來て何處かへ割り込んで呉れと云つてもどうかなるだらう
 
      一三九一
 
 五月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 あしたの御能に愚妻が先達御案内をしたさうだが、ことによると人數が多過ぎて席が足りないかも知れないから見合はして呉れ玉へ。君はあまり能に興味もなささうだから。此つぎに延ばしてもいゝだらう。尤も來て見て僕の席に入り切れねば外の席を買ふて一人其所へ移つてもいゝが、夫程の熱心家でもないのだらう
 
      一三九二
 
 五月二十六日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓先日は夜能にて久々の拜顔うれしく存候其折申上候難物の賛思ひ切つて本日試み申候、趣向は、是は一所不住の沙門にて候といふ前書の後へ、雪の夜や佐野にて食ひし粟の飯といふ句を書き、其下へ自在に鍋の釣るしてある傍に行脚僧の笠を描けば夫で御仕舞の至極單簡なものに候。
 然る處絹地を勿體らしく展べて書いて見ると大き過ぎたり小さ過ぎたり墨色な《原》變になり過ぎたりして遂に物にならず恐縮してやめに致し候何遍書いても弘法大師以上に行く氣もないのですが、字の巧拙以外に私の字はどう見ても畫の賛らしく見えないのが、たゞ畫家泣かせの種となる許で氣の毒故折角思ひ切つてやり出したのを又思ひ切つてやめに致し候。實をいふとどうしても畫と賛は同人が同時に書かなくてはならぬものかとも存じられ候。然らずは畫の上へ賛をするが順當に候。賛をかいて其下へ繪をかゝせる事は古今に其例あるや否や存ぜざれど少くとも小生の場合は畫家を雪隱詰にすると同樣の意地の惡い仕業に相成候
 本日健筆會と申すものを見候、其内に女義の瓢がまづい繪の上にまづい字の賛を致し居候。雙方ともまづい事は受合候へども雙方とも差したる厭味なく且釣合の取れてゐるに感心致し候、斯うなると漱石もついに女義のなれの果に及ばぬ心細い譯になり申候、
 序故不折の惡口を一寸申候。あの男の畫も書も駸々乎としで邪道に進歩致し候、あゝ恰好ばかり奇拔がつてどうするかと思ひ候。不折先生の善所と申せば昔の一高の生徒が無暗に武張つて是が世の中で一番いゝのだと力み返つたる、あの若殿原の善所に候。高士達人其他色々の人格も有之べけれど一高の蠻カラを標榜する人格は大したものには無之べきか。あまり自分の惡口のみ申すと甚だ不愉快故惡口の材料に不折を生捕申候。夫は單に自他抑揚のためにて決して吹聽の爲には無之故其邊は御含置被下度候
 先は右長々の御約束を履行する能はざる事情迄匆々如此に候。
    五月二十六日                夏目金之助
   秋 骨 先 生
         座下
 賛はとてもだめに候。今日も惡詩を二枚同時にかき候が是は拙ながらどうにかかうにか納まり候厚顔さへ承知なら依械人へ送り得候。あなたへ上る賛丈はいかに厚顔でも逡巡に終り申候
 
      一三九三
 
 五月二十七日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 此間は御老人わざ/\弊席へ御出被下難有存候狹苦しくて嘸かし御窮屈の事と存候
 久振にて東京の御能御氣に召し候由滿足不過之候御多忙中御禮に御出などゝは思ひも寄らぬ事に有之必ず左樣の御心配なきやう君より御傳被下度候
 別封小包にて小生の詩と書を御覺に入候是は先頃君が僕も一つ書いてもらはうかと云はれし故此間十餘枚一度に認めたる節大兄の分として特に書きたるもの故決して安いものに無之其積にて御保存願候尤も表装などはなされぬ方結構に候書道も上達の見込有之故長命致せばもつとうまいものを記念としてあとへ置いて行つて上げる考に候然しいつ死ぬか分らぬ故まあ是を上げて置いてもし長生をしたら出來のよいものと取替やうといふ意味に候。詩は或は大兄の御氣に入るやも計られずと存候
 健筆會と申すもの一覽坂井さんの横に南洋將軍といふ張紙あり一寸奇拔故御吹聽に及候其他久米八の畫やら竹本瓢の畫やら有之。不折例によつて不良少年の惡達者を發揮致し居候
 先は右迄 匆々不一
    五月二十七日               金之助
   寅 彦 樣
 御老人へよろしく
 
      一三九四
 
 五月二十七日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 宇治山田市神宮皇學館湯淺廉孫へ
 此節御東上の砌は如例匆々甚だ遺憾を覺申候去年御約束の畫をかゝんと思ひ立ち候處少々氣進まず言譯のため詩を書いて小包にて送り申候、小生もいつ死ぬか分らぬ故記念として御保存被下度候。もし生きてゐれば其うち畫も屹度かいて入御笑覽積に候。まづ今度丈は字にて御免可被下候。字も段々うまくなる覺悟故うまくなつた時は時々取替可申候先は右迄 匆々頓首
    五月二十七日                金之助
   孫   樣
 
      一三九五
 
 五月二十七日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 四谷區左門町五四三須※[金+卯]へ
 拜啓かねて御依頼の書とくに差上べき筈の處つい/\多忙に紛れ遲延甚申譯なく此間小閑を得て宿債を一時に果し候處大兄の分に至り美事に失敗夫から昨日別の絹へ認め候處此方幾分か体裁よろしく候につき其方を御目に懸け候書き損じも同封にて御送り致し候寸法少々のび或は御不都合かとも存候へとも氣つかずついに書流し申候或は其内折を見て書き直してよろしく候 先は右用事迄 匆々
    五月二十七日                夏目金之助
   三須 ※[金+卯]樣
 
      一三九六
 
 五月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 昨夜御近火のよし距離ある事と存じ候へども多少御騷ぎと存じ候一寸御見舞申上候
 
      一三九七
 
 五月二十八日 火 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ〔封筒なし〕
 拜啓|昨《原》日はわざ/\御斷りの手紙を差上候處今日午前に至り不圖自畫自賛試みたく相成生れて始めて畫をかき候然る所我ながら見上げた出來榮に有之大に喜び此手紙と同便にて差出候間御受取り願候。繪は最明寺殿が後向になつてあるいてゐる所と御承知被下度候。斜に出てゐるものは杖にて決して刀には無之。山妻は侍が帶劔の姿と間違候間念のため説明を加へ置候。最後に申上候是はほんの記念として差上るもの故決して表装の上床の間へ御懸け被下に及ばず装飾品としては其うち書畫ともに上達の見込あればうまくなつた時改めて立派なものを入御覺る覺悟に候 以上
    五月二十八日                金之助
   秋 骨 先 生
         坐下
 
      一三九八
 
 五月二十九日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 五月十三日附の御手紙四五日前着拜見致候繪端書は四月二十三日に此方を出し候改もうとくに着致して居らねばならぬ筈と存じ受取を持ち郵便局へ掛合に參り候處先方へ聞き合すとの返事に候 恐らくは途中でとられたものにてはなきやと存候 大兄の御送り被下候硯も今以て落手不仕是もどうかと案じられ候 北周の碑文も同樣の運命にてはなきやと疑ひ候 支那日本間の小包物はあてにならぬ樣前々から思ひ居候が大兄より種々の頂戴物間違なく屆き候より大丈夫といふ心を生じ候處に又々斯樣の始末にて信用の逆戻に候
 御地骨董の御慰み定めて御愉快ならんと想像致居候當地は中々夫所には無之然し健筆會とか無聲會とか色々の催し有之隨分面白く御座候小生も誰に劣らぬのらものに候へばひまが充分だと手習やら繪やら致さぬとも限らず候現に此間は頼まれて奇體な畫を一枚かき申候只今も玉澗流の山水を一枚かき候(笑つてはいけません)大兄が御歸國の時分には眼識高き君にさへ一枚書いて上げる位に上達してゐるかも知れ不申候
 先は時候御見舞旁雙方の小包不着の事御通知 匆々敬具
    五月二十八日               夏目金之助
   橋 口 樣
 
      一三九九
 
 五月三十日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓昨日手紙にて硯屆かぬ旨わざ/\申上候處今朝に至り到着滿足の至直ちに先便を取消し申侯
 東京では五圓ではとても買へぬかと存候難有御禮申上候然るに無殘にも上葢の前後カケ甚だしき不體裁是には涙が出る程痛ましく被感候
 金子は御仰の通り序を以て清君に托し赤坂の御宅へ御屆致す事に仕るべく候先は不取敢右御禮迄 匆々頓首
    五月三十日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四〇〇
 
 五月三十日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 昨日の墨畫御氣に召し候よし滿足の至り必ず差上べく候金持の旦那なら表装をしてもらつて貰ふ處なれどまだ御馳走をして謠を聞いてもらふ程の餘裕なき故畫もあの儘にて差上候
 但し今朝つら/\あれを熟視するに何だか薄ぎたなく少々愛想のつき候點も有之候へどもまあ小生の顔位の映點故筆者相應の價値は充分と自信致し居候
 尤も懸物にするには一ケ月も眺めた上是なら差支ないと思つた所で表具へやるのが上分別と小生は愚考仕候、一ケ月あゝして襖に張らして置く事を御承知なら小生表装の可否を大兄の爲に判じ申すべく候 何事もせいては仕損じやすきものに候
 先は御答迄 匆々頓首
    五月三十日                   金
   東洋城樣
 
      一四〇一
 
 六月三日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓咋六月二日御送の鄭板橋の書六葉正に到〔着〕御手數毎々ながら奉深謝候
 板橋の字は奇拔峭勁に候去りながら氣韻含蓄の趣に至つては最高とは申しがたく候
 近來當地にては六朝一派無暗に幅を利かし自分の字をかゝずに矢鱈に四角張つたものを作り箱の樣な展覽を催し喜び居候
 あんな傑張粗※[獣偏+廣]の體しかも中に何物をも藏せぬ昔の糟粕ねぶりこそ心得難き似せ書家に候
 繪端書はついに着致さずや君の方のものは着々參るに此方のものゝみは屆かぬとは情なく候然し高が畫端書に候價は三四圓のものに候其内何か御目にかけ度と思ひ居候
 先は右迄 匆々
    六月三日               夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四〇二
 
 六月三日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 宇治山田市神宮皇學餌湯淺廉孫へ
 拜啓先達ては畫をかゝぬ申譯に書を認めて差出候處只今寐ながら考へてゐて突然あの詩の平起ならねばならぬ筈の處に仄起にてやつつけた粗忽を思ひ出し大弱り致候去りながら一遍送りたるものを取戻すのも馬鹿げた事故あれはあの儘にて御裂棄願度今度はまた下手なりに|で《原》僕相當の畫か詩をかいて是非うまい所をほめて頂くべく候平仄の間違で故人を驚ろかしては甚だ不相濟冷汗背に滴るとか何とか口上をいはねばならぬ所に候何卒御海恕被下度あの書は申出通り燒くかさくか何方かに願度候
 先は右御詫旁御願迄 匆々頓首
    六月三日                  金之助
   廉 孫 樣
 
      一四〇三
 
 六月三日 月 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜啓其後は御無沙汰御變もなく結構に存候先年小生の詩を見て氣に入りたる故書いてくれとの事大兄は御忘れかも知らねど小生の方はよく覺え居候小説が濟んでから少し氣晴しに書でも書いて見やうといふ氣になり昨日御約束のものを書き候故小包にて差上候
 僕としてはうまく出來たる方可成御賞賛にあづかり度候外のものと同時に書きたる《原》つい病中の作とする代りに春日偶成と書いて仕舞さりとて書き代へべき絹なき故其儘に致候大兄さへ其意味を承知の上は他人は勿論構なく候放たゞ事情丈を申添候 いづれ拜眉萬々 頓首
    六月三日                 夏目金之助
   楚 人 冠 兄
 
      一四〇四
 
 六月三日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷甲良町二〇金子雄太郎へ
 拜啓先般拙筆御求めに相成承知致しながらつい/\遲延致候
 閑を得て昨日書き候故御目にかけ候
 書くものは俳句なるや歌なりや相分らず手前の都合にて惡詩一首認め申候
 先は用事迄 匆々頓首
    六月三日                   夏目金之助
   金子薫園樣
 
      一四〇五
 
 六月三日 月 牛込區早稻田南町七より 中川芳太郎へ〔封筒なし〕
 此間は手紙をありがたう一寸返事を書かう/\と思ひながらつい後れて仕舞つて申譯がない其上近頃は何を讀んでどうしてゐるなどといふ細かい報知をす〔る〕餘裕もない今此手紙は朝から五本目でいかなひま人でも五本ものべつに手紙をかくといや〔に〕なる甚だ失禮だが是で御免蒙るいづれ其内 早々
    六月三日                  金之助
   芳 太 郎 樣
 
      一四〇六
 
 六月七日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下大久保百人町五八安倍能成へ
 拜復御申越の儀につき御返事申上候御入用の金子もし生存上の必要なる實費不足の意味ならば一時御用立申してもよろしく候もし又近來流行の色彩とか音樂とか申すものゝ憧憬より生じ候費用ならば願くは御免蒙り申度候
 返濟の義は今年末と御取極被下候方好都合に候是は年末には臨時入費相かさみ候故其方の填補として利用致度考も有之故に候
 金は何時でも御都合のよき折御渡し可申につき御足勞を煩はし度と存候小生不在にても妻にて相分り可申候
 右御尋旁御返事迄 草々不一
    六月七日                 夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一四〇七
 
 六月七日 金 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 音樂會へ御出御賛成のよし敬承致候切符も御買被下候由御手數ありがたく候御老人も御出向の趣是も可然と存候當日は午後一時頃迄に御宅へ御誘にまかり出べく候間それまで御待被下度候
 露西亞音樂團の合唱は服装やら歌の調子甚だ珍品に候土曜の午後六時にもう一遍神田の青年會館で催ふす由なれば都合して御出掛可然御老人も是非御勸め申候當日は日本の謠《ウタ》を二三うたつて聞かせる由申居候何しろ四五十人のコーラス故大したものに候
 近頃畫をかき候山水畫を襖に貼付候御出の節御鑑定願度候
 先は御返事迄 草々不一
    六月七日夜                  金之助
   寅 彦 樣
 
      一四〇八
 
 六月十七日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 拜復試驗は落第ときまりたる御模樣心細く候へども猶の事心細きは御健康と頭の具合に候小生も試驗には長年の經驗有之候へども未だ御申越の如き苦痛を感じたる試無之果して仰の如き状態なら甚だ困つた事に候出來るなら手傳つて濟ませて上たい位なれど人の頭はいくら明いて居ても間に合はねば致し方なく候
 あの手紙を書くうちにももう苦しくて書けないとかいふ意味の言葉有之何だか悲惨な小説か戯曲を讀むやうで薄氣味惡く候
 かうなつちや是非及第しろと強い言も出でず去りとて落第を希望すといふ電報をかける勇氣も出ず途方に暮れ申候
 まあどうしてそんな頭に生れて來たか返す/\不思議に候も小生だつて仕事の最中に心を亂す事あればもつと烈しい状態に陷らぬとは申されず夫を思へば隨分心苦しき報知に候いけなければ途中で試驗を抛つてもよろしかるべくあんまり苦にせぬがよからんと存候
 毎日徹夜して頭脳が麻痺する人の心を想像するさへ恐ろしく候 然し氣が弱くて人の行かれる所へ行き得ぬ人も有之候へば退却も停止も勇進もとくと吾心と相談して自分に無理のない樣人道を御盡し可然 夫が神を胸に有つ人間の行爲に候 先は御返事迄 匆々
    六月十七日                 金之助
   耕 三 樣
 
      一四〇九
 
 六月十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜復壁十句至急御入用の由につき御目にかけ候すら/\と書き上げて讀み直して見ると成程まづく候へども不得已候たゞ作つた丈が殊勝位の處にて御ほめ置被下度候他日油がのり候節は目覺しく十八世紀にて出陣仕るべく候十八世紀も之では威張る自信も出不申候
 以上
    六月十七日                  金之助
   東洋城樣
  壁隣り秋稍更けしよしみの灯
  懸物の軸だけ落ちて壁の秋
  行く春や壁にかたみの水彩畫
  壁に達磨それも墨畫の芒かな
  如意拂子懸けてぞ冬を庵の壁
  錦畫や壁に寂びたる江戸の春
  鼠もや出ると夜寒に壁の穴
  壁に脊を涼しからんの裸哉
  壁に映る芭蕉夢かや戰ぐ音
  壁一重隣に聽いて砧かな
 
      一四一〇
 
 六月十九日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京都府葛野郡花園村妙心寺前北門前西原國子へ
 私は字も下手だし俳句も作らないし夫からさう一々人の索に應ずる譯に行かないから近來短冊などを書いて人にやる事もやめました。然し貴方には書いて上げたいと思つて居ました。夫はあなたは小さい女の子だらうと思つたからです。處があなたの手紙をなくなして今日迄其儘にしてゐた所今朝本を片づけてゐたら偶然端書が出てあなたの端書が出て來たから夫で書いて送ります。
 御望みの句がある以上は或は小さい女の子でないかも知れないがあなたの手紙の字は小供らしく文句も小學校の生徒らしくて甚だよろしいから書きました 左樣なら
    六月十八日                夏目金之助
   西原國子樣
 
      一四一一
 
 六月二十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 拜啓梅雨鬱陶敷御座候處愈御發展奉賀候同封新聞切拔批點の上一寸御目にかけ候御參考にも相成候へば幸甚に候 以上
    六月二十三日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一四一二
 
 六月二十五日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇森卷吉へ〔はがき〕
 此間は失禮あの節御紛失の杖は植木屋が參り玄關前の植込の中に懸つてゐたのを見出し候矢張二男の所爲ならんと存候。あの子は馬鹿故責任も記憶もなきに候
 
      一四一三
 
 六月二十七日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨夜御持たせの懸物に落款を加へ申候字配り甚だ惡く字も下手にて殊の外恐縮其内出來よろしきものと取替度 先は御詫旁御報迄 匆々頓首
    六月二十七日
 
      一四一四
 
 七月三日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 竹茣蓙又々着毎々難有候かう始終頂戴致しては恐縮に候
 絽の如き(帶か)織物氣が付かず候處新聞紙のうちより出現致し候由にて直ちに浴衣の腰に卷きつけ申候
 此間清君を訪問其節硯の代を御頼み致候 呉春の卷物四卷其みぎり拜見腕の冴えたる男と感服然し毫も重厚の趣なきは畫風として致方なきにや光琳派の草花一雙同時に披見呉春と比較して品位の高きに驚ろき申候
 硯葢破損の處修繕とゝのふやの由にて只今唐木細工屋へ依頼致し置候色合つぎ具合うまく行けばと案じ居候
 支那の騷ぎも一先落着の模樣昨今は堀出物にて忙殺され玉ふ事と存候可成多く御持歸り御見せ被下樣今から願置候
 先は不取敢御禮旁近況御報迄 艸々
    七月三日                夏目金之助
   橋 口 樣
 
      一四一五
 
 七月十三日 土 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 笹川種郎、横山秀麿へ
 拜復御手紙難有拜見致候幸ひ氣分もよろしく候へば貴意に任せ御指定の場所へまかり可出候先は右御返事迄 艸々頓首
    七月二《原》十三日              金之助
   笹 川 樣
   横 山 樣
 
      一四一六
 
 七月十五日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓一昨日はとくに御多忙中小生の爲に孟蘭盆會御開披下難有候平野水ばかり呑んで一向浮かれず中途にて茶漬をくひ退出甚だ我意の振舞平に御高免被下度候一寸御挨拶申上度も其爲にわざ/\罷出るも仰山故手紙にて一寸御禮旁御詫を申上候いづれ不日拜眉の節萬々可申上候 不一
    七月十五日                 金之助
   臨 風 詞 兄
         座下
 
      一四一七
 
 七月十六日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡市福岡醫科大學前きりや山本器械店方中勘助へ
 拜啓御令妹御病氣面白からぬ御模樣にて御地にて御看護の由嘸かし御心配の事と存候
 貴稿の儀は拜見の約束有之候も社の方へは何にも交渉致し居らずたとひ交渉致候も文藝欄全廢の今曰小生と編輯とは全く無關係の姿故如何相成可申かも分らず候へば御任意にて適宜に御まとめ可然かと存候決して夫程堅き約束にてもなき事に執着して無理をなされぬ樣呉々も希望致し候尊稿の運命小生の手中にて自由にならぬ今日は猶更御懸念の入らぬ事と御承知被下度候
 御病氣は性質のよろしからぬものゝ樣被存候時節柄一層の御心配と深く同情申上候兎に角御攝養專一と存候先は右御返事迄艸々如此候 不一
    七月十五日                 夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一四一八
 
 七月二十三日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 福岡市紺屋町一六藤澤方中勘助へ
 拜啓御令妹御養生の甲斐なく遂に御逝去の由嘸かし御愁傷の事と遙察たゞ御同情の念に不堪候
 後事萬端の御處理是亦定めて御心勞と存候
 二三日前鎌倉へ小供をやり候につきあの地へ參り候ため御報に接しながら筆を執るの遑なく御挨拶も後れ申候 昨夜歸京不取敢御弔詞迄如此候 いづれ御歸東後拜眉萬々可申述候 以上
    七月二十三日                夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一四一九
 
 七月二十五日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市上龍尾町九三野間眞綱へ
 拜啓其後は御無沙汰の處愈御清適奉賀候小生も不相變消光たゞ病後は前と違ひ少々烈敷活動するとすぐ胃部に故障を生じやすく夫が爲め本年大阪社にて催ふしの講演も斷はり申候 只今は何の變りもなく此間小供を鎌倉へやり歸京後は淋しく暮し居候
 皆川君へも御無沙|沙《原》汰是亦異状なく謠道も上達の事と存候
 御申越の御轉任の儀敬承精々心掛可申候へども高等學校抔はとても餘地なき模樣其他は小生にも分らず圖書館も人は要らぬ事と思はれ候暑中御東上もよけれど活動の方面と成否を多少御考の上にて御奮發にならねば不可かと存候尤も久々にて遊びの爲なら無論御勸め致候
 橋口の兄よりは時々音便有 清君にも時々面會致候
 永らくの御籠城如何な故郷も少々鼻につき可申御同情に不堪候不取敢右御返事迄 艸々拜具
    七月二十五日               金之助
   眞 綱 樣
 
      一四二〇
 
 七月二十五日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓今日にても御序あらば例の漫遊案内と申す本を御貸し被下樣願候 草々頓首
 
      一四二一
 
 七月二十五日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓過日青玉雨龍彫筆架わざ/\御送被下難有存候あゝいふものを見る時あんなものを撫摩愛玩する時一種いふべからざる愉快を感じ申候只今机上に置き朝夕おもちやに致し嬉しがり居候
 御不便ならざる大きさと御手數の範圍に於て求められる文房具は何なりと歡迎致積り御迷惑ながら何卒右御含置御買入願度代價は郵税共其都度清君を通じて赤坂の方へ御屆可申候又當地にて調ひ候刊行物其他は御遠慮なく御申聞被下候はゞ何時にても御送可申上候間夫も御含置被下度候
 先達の硯葢修復を命じ候處存外うまく出來色合は固より繼目も分りかね候程にて非常に嬉しく候
 聖上御重患にて上下心を傷め居候今朝の樣子にては又々心元なきやに被察洵に御氣の毒に存候
 此暑氣と御不例とにて客商買のものは嘸かしの困難と被存候
 此間菅の家に行き大に書道を承り近《〔?〕》刻の何紹基其他の書を見せられ候
 清人何紹基抔の書のうま味は小生には分りかね候菅はそれを情ないと申侯小生は清人の書は猶清人の詩の如く氣格頗る下ると吹いて置き申候
 先は右迄 艸々
    七月二十五日               夏目金之助
   橋口 貢樣
 
 七月二十六日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ
 子供の御世話嘸かし御迷惑と存候皆々いたづら故何分よろしく願候
 朝日新聞には假名つきの活字あり音と訓と間違て振つてなければ悉く正しきものと御思ひ凡て切拔原稿の通に願候
 も〔し〕切拔帖の原稿あらず候はゞ春陽堂へ御催促被下度候
 校正料二十圓もし今御入用ならば春陽堂より其地へ送る事に取計ひ可申候もし差|通《原》り御必要もなければ御歸京の上にてしか取計可申候
 子供の監督上電光石火の危險を感ずるは少々大袈裟に候へども君の樣な神經家より云へば事實かも知らずまことに御氣の毒に候
 松根式部官も陛下の御病氣にて忙がしく自分の方が病氣になるのも近々の事と存候
 右迄 匆々
    七月二十六日                  金之助
   耕 三 枝
 
      一四二三
 
 七月二十八日 日 前10-11 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ
 拜復
 ふりがなは大體にてよろしく候へども漢字に小生の好加減にふつたものには間違多きかと存候尤も小生のわざ/\かう讀ませやうといふ氣でふつたのもあります。昨夜怖がる抔はどちらでも小生は一向頓着なく候雜もザフでもザウでも構ひ不申候。然〔し〕鈴はレイに候すゞは神社などにあるもの鈴《レイ》は山伏抔のもつものに候。あの場合わざと「レイ」とかなを振り居候
 ばらせん(錢)御《お》ぜん如仰に候。暖《あた》たかくは暖《あつ》たかくなるべし東京にてはあつたかくと申候
 矢張《やつぱ》りは小生わざとやつぱりとふ|る《原》たる處多し やはりに御直しありても大抵の處は差支なかるべきか、然しある處はやつぱりに願ひ度心地致候
 甚だ我儘な申分ながら自分の言葉の間違は正して貰ひたし。自分の言葉は他に弄くられたくない心持致し候
 子供の事拜承致し候ことに長女は十四にてそろ/\女になりかける時期故親共も外の腕白ものよりも注意の必要を感じ居候然し親の目から見るとまだほんとの子供としか思はれぬ故君の樣な若い人に托したる次第に候。何とぞたゞの頑是なき小兒として御取扱願候。若し夫で不可なれば小生よりの依頼と御申聞相成度候。尤も性|質《原》ひらめきといふ君の言葉は解釋の仕樣で色々になり候。親は馬鹿なものに候。かほどの事に神經を勞し候。性的のひらめきの意味をもう少し精しく御教被下度候 以上
    七月二十八日                 金之助
   耕 三 樣
 
      一四二四
 
 七月二十八日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 校正に付ては今朝申上候通りなれど御參考迄に大體の御注意を致候
  (一)大體新聞切拔を信用する事(是はルビ付の活字あるのみならず。小生自身眼を通して特殊の場合には特殊のカナを付けた積故也)
  (二)誰の眼にも間違と見ゆるは構ハズ御訂正の事
  (三)愈決しがたき時は御照會の事
右迄
 ゆふべ、ゆうぺ抔ニテ心配御無用。同じ發音ガデレバ夫デ結構也
 
      一四二五
 
 七月二十九日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
○女ツ氣のつもり。上品に云へば女氣《をんなけ》ならんもしかいふ場合は多からざるぺし
○日暮は日暮《ヒクレ》なり
○ねづみたけ、だけ 何れにてもよし
○「さかなと肉の間位」 此時の位は「ぐらゐ」と必ず濁つて讀む。「この位」「どの位」などいふ時は「くらゐ」といふが當前なるも。
○「それで好《よ》い」は東京語ならず東京ではいつでも「それで好《い》い」といふ。
○飼ふ。飼う。いづれでもよし。カ〔右○〕とよめる方を望む。コ〔右○〕にはあらず
○伴なう 伴なふ。是もどつちでもよし。文法にて正しき方可ならん。
 さつき是と同樣の端書を出したが所書を忘れた氣がするから又此一枚を書きて出し候
 
      一四二六
 
 八月八日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 暑中御變もなく結構に存候小生とうにかかうにか生き居候御安心可被下候 明治のなくなつたのは御同樣何だか心細く候
 朝日の議論記事三山在世の頃よりは劣り行くとの御感左もあるべきかなれど小生は不注意故夫程も眼につかず候三山のゐる頃から云ひたき事は數々候ひしのみ國民は此度の事件にて最もオベツカを使ふ新聞に候オベツカを上手の編輯といへば彼の右に出るもの無之候 いづれにしても諸新聞の天皇及び宮庭に對す〔る〕言葉使ひ極度に仰山過ぎて見ともなく又讀みづらく候
 先は御挨拶迄 艸々
    八月八日                  金之助
   圓 月 樣
 
      一四二七
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 昨日新聞か何かで葉柳の二版の廣告を見て一部貰ひたい位の慾な考を起してゐると晩になつて書物が屆きました萬事斯ういふ風に行くと世間も樂なものです昨夜寐ころんで光琳の論だの何だのをあちらこちら讀み散らしました
 何處かへ御出掛になりますか暑いぢやありませんか私は子供を鎌倉へやつてあるので時々あちらへ出掛ます先は御禮迄 艸々
    八月九日                  夏目金之助
   臨 風 賢 契
         坐下
 
      一四二八
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘林原(當時岡田)耕三へ
○「それを互違に繰返した後」 前後の關係不明にていづ〔れ〕とも申しがたし。但し俗語に近きときは「あと」、文章として俗語を丸で離れても差支なき場合なら「のち」にてよろし。好加減に見計つて願ひます
○駒形 なるべし。形は「カタ」。「ガタ」にあらず
○脱字を補入する場合に無暗に他の行を縮めて見苦しく、よみぐるしくしては困るが、夫程でなき場合は寛容の精神でやる
○「しかも……違ひない。其代り……」※[読點を○で囲む]でもよろしきやうなり※[句點を○で囲む]でも差支なきやうなり。前後を見ねば見當つかず。是もよろしく願ひます
○次のも同斷。然し是はわざと※[句點]にして置いたやうな記憶あり 以上
   耕 三 樣                金之助
 
      一四二九
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福井縣遠敷郡小濱青濱館東新へ
 こま/”\と委細の御手紙御多忙中御好意うれしく拜見致候小生も旅に出る筈の處鎌倉にゐる伸六が猩紅熱にかゝり夫が爲め頓挫を來し候然し彼の病氣は大した事なく餘兒は至つて健康の樣に見え候 此間小宮が來て一晩とまり候 海へはいつて黒くなつてゐるのは潔ぎよきものに候 小生は今は東京に居り候其内旅に出ねば又鎌倉へ參り候 エリセフ君は不相變にやよろしく願候 君が其上日に焦げたら定めて物凄じい事だらうと想像致候 昨夜三重吉が妻君同道にて參り候 只今宅は夕立のあとの如くしんとして靜に候 以上
    八月九日                   夏目金之助
   東 新 樣
 
      一四三〇
 
 八月九日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目恒子へ〔繪はがき〕
 大佛のなかはいつたかい。中はくらひことだらう。八幡さまの鳩に餌をやつたかい。
 御父さまは又ぢき行きます。まだ旅はしません。ことによれば旅をやめて鎌倉へ行つたり來たりしやうかと思つてゐます
                          夏目父より
 
      一四三一
 
 八月十日 土 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目筆子へ〔繪はがき上欄署名の所に「夏目父より」とあり〕
 大佛の御腹のなかへは御父さまもまだはいつた事がない、御前方はいゝ事をした。御父さまも海へはいりたい。東京のうちは靜だ、下飯坂さんの端書は受取つたらう
    八月十日
 
      一四三二
 
 八月十日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區上本町五丁目妙中寺内武定※[金+診の旁]へ〔はがき」
 暑中御變もなく結構に存候「凍」は毎號面白く拜見してゐます御精勵を祈る
    八月十日
 
      一四三三
 
 八月十日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込淺嘉町六四坂元三郎へ
 啓先日御光來の節は不在にて失禮目下御病氣の由御大事に御攝養可然候
 厨川君には久振にて小生も會ひ度候可成早く御出被下度候但明日午前は二時間程不在に候
 妻も子供も鎌倉表にて御客樣には茶を出す事すら困難に候夫は御承知の上にて御出向願度候
 右御返事迄 艸々
    八月十日                   夏目金之助
   坂元三郎樣
 
      一四三四
 
 八月十日 土 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目恒子へ
 つね子御前のところへゑはがきが來たから屆けて上げる 御友達へ御返事を御あげなさい
                           父より
 
      一四三五
 
 八月十日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 近頃は御目に懸らず御變りなきや小生月の初に鎌倉へ參り兩三日逗留末の子が猩紅熱に罹り長谷の病院に這入り狹い處を消毒やら何やらの大騷ぎ目下は在京御ひまもあらば御出被下度候久し振に海に入るのはよい心持に候海を見た丈にても氣分が晴々致候いつか一寸行つて黒くならうぢやありませんか(若し君と僕が此上黒くなる餘地ありとすれば) 以上
    八月十日                   金之助
   寅 彦 樣
 
      一四三六
 
 八月十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 小川まち。停留じよ(所ならん場では〔な〕からう)
 小宮先生今日西歸。三重吉氏電車でぐる/\廻つて五圓の會費をこしらへて深川寧に赴く。
    八月十一日
 
      一四三七
 
 八月十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊夏目榮子へ〔繪はがき 牡鷄の畫〕
 えい子さん御きげんはいかゞですか 私はかわりもあ〔り〕ません
 このとりがたまごをうみますから にて御上がんなさい
    八月十一日                 父より
 
      一四三八
 
 八月十一日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目愛子へ〔繪はがき 滑稽畫。宛名に「夏目あい子さん」とあり〕
 あい子さんおにのゑは〔が〕ぎ《原》をかつて上げようとおもつたらあいにくありませんからがまの御夫婦を御目にかけます
    八月十一日                  父より
 
      一四三九
 
 八月十二日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 大分暑いぢやありませんか高田はどうですか東京は隨分です 此間子供を鎌倉へやりました狹苦しい借屋に蠅のやうに遊んでゐます然るに伸六と申す末の奴が猩紅熱にとりつかれて消毒やら入院やらで大騷ぎをやりました 私は須賀さんにかゝつてゐます日に六回づゝ藥を飲みます三回にしたらどうも具合が惡くなつたので又逆戻りです何うも少し活動をすると宜しくありません何だかもう長くはないやうな氣がします 鎌倉へ行つて泳ぎました、運動はよくないが泳ぐのはこたへないやうです如何なる譯でせう 旅行をしやうと思ふが相手が御大喪やら何やらで延びました。大分患者が殖ゑましたか門前市をなすといふ盛況でせう結構です 妻は鎌倉へ行つてゐます筆は大きくなりました
 奥さまへよろしく
 先は暑中伺迄(突然諸方から暑中見舞がくるので私も思ひついて此手紙をかきました笑つちや不可ません)
    八月十二日                  夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一四四〇
 
 八月十二日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 其後は久しく御顔を見ず御變りもなきや此度の事件後定めて御繁多の事と妻とも申合居候今に病氣になりはせぬだらうかと皆々心配致居候此間新聞に侯爵松根豐次郎とあつたので驚ろいたら隣の人の肩書が君の方へまぎれ込んだのであつた
 子供は鎌倉にゐる實に狹いきたない家だが山と松と見えるもしひまなら一所に行かう一晩位とまるのも一興に候 此間小宮が來て歸つた 彼は國へ歸つた 細君に會ふといふよりも財政整理の爲め、妻君こそいゝ面の皮だ。彼曰く私は氣立がやさしいから藝者に惚れられますと 丸ではなしかの材料になる若旦那の如し 先は近況御伺ひ迄 艸々
    八月十二日                  金之助
   東 洋 城 樣
 
      一四四一
 
 八月十四日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 只今鎌倉より歸り候 明晩來ぬか。明後十六日より旅行致候へば。留守に鎌倉へ行つて遊んでやつてくれてもよし
    八月十四日
 
      一四四二
 
 八月十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 此間謠を二晩うたつた世間へ遠慮するせゐかうたふ樣な心持がしなかつた。昨日一泊後の鎌倉より歸る。明日怱々亦北に向つて去る。土用稽古も出來さうになし。君の健康を祈る 八重子さんへよろしく
 
      一四四三
 
 八月十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別荘夏目筆子へ〔繪はがき 聖路易市ベルリン・アヴェニュー〕
 西洋の屋敷町はこんなよくとゝのつて綺麗に出來てゐます。心持がいゝでしよう
 御父さまは是から北の方の温泉へ行きます又歸つて來ます。御母さまは又ぢき鎌倉へいらつしやるでせう
    八月十|六《原》日              父より
 
      一四四四
 
 八月十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉材木庭紅ケ谷田山別荘夏目恒子へ〔繪はがき〕
 つね子さん是はアメリカのシカゴといふところの湖水のそばにあるみちですひろいでしよう
 御父さまはけさからたびをします 歸つて來たら又逢ひに行きます
    八月十|六《原》日朝              父より
 
      一四四五
 
 八月十六日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京都府下宇治醍醐薮錦山へ
 御手紙拜見あなたは字が御上手だと思ふのに何で生等の如き拙なものに揮毫を御依頼になるか殆んど判らないけれども御懇望だから從仰下手な所を御目に懸けます 以上
    八月十六日                  夏目金之助
   薮錦山樣
 
      一四四六
 
 八月十八日 日 後2-5 栃木縣鹽原古町米屋別館より 神奈川縣鎌倉材木座紅ケ谷田山別莊夏目恒子へ〔繪はがき 鹽原〕
 恒子さん 修善寺とどつちが好いですか
     鹽原温泉米屋別館 夏目金之助
 
      一四四七
 
 八月十八日 日 後2-5 栃木縣鹽原古町米屋別館より 牛込區早稻田南町七夏目方中根倫へ
 拜啓出立の際御話の件中村氏に話し候處早速承諾此手紙と同時に柳生君へ一封差出しくれ候猶封入の名刺持參被成候へば面會の都合出來る樣取計はれたき旨右手紙の中に書添あり候へば其積にて御利用可然候先は用事迄 草々
    八月十八日                  夏目金之助
   中根倫樣
 追白中村君の手紙は叮嚀親切なるものにて末段に二宮君との關係も一二行書き添あり候
 
      一四四八
 
 八月二十一日 水 後2-5 栃木縣鹽原古町米屋別館より 牛込區早稻田南町七夏目方中根倫へ
 御手紙拜見右は中村君へも示し候處同君申し候は歸京後自身柳生氏に會ひはつきりした處を聞合せべしとの事に候夫迄御待可然候夫にて行けるとか行けぬとか事極り候上にて改めて將來の方針を立てられぺく候先は右迄 匆々
 留守中は種々御厄介に相成候篤く御禮申上候
    八月二十一日                 金之助
   倫   樣
 小生二十三日當地出發或は信州地より名古屋へ出るやも計られず候
 
      一四四九
 
 八月二十六日 月 (時間不明) 長野縣輕井澤油屋より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ
 昨夜當家にて十二時頃電報着何事かと驚ろき候處皆々無事歸京の趣にて安心致候
 小生も別段の障りもなく身體は至極無事なれば御休神被下度候日光で馬にのり中禅寺に登り夫からすぐ引き返し候節は馬の動搖のため胃に酸出で瓦斯を釀し多少の苦痛あり少々心配致候も一日安眠の後は平生と異なる所なく便通の如きは却つて東京に居るよりも快く候
 今日は長野の先豐野といふ所から下車上林とかい〔ふ〕温泉に參る都合に候人に聞いた通りをやると意外によかつたり又は豫想外にわるかつたり妙な頓珍漢ばかりに候中村一※[さんずい+氣]車先に出て善光寺を見物すると申し出立致候小生は是から輕井澤の樣子を見て長野にて落合ふ筈に優
 先は御報知迄 匆々
    八月二十五日?(日は忘れ申候)
                           金之助
   鏡 子 ど の
 皆々へよろしく
 
      一四五〇
 
 八月二十七日 火 後8-11 長野縣下高井郡上林温泉塵表閣より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔繪はがき〕
〔表に〕
 旦那さまに日々御世話になります  中村是公
〔裏に 右端下の印刷したる月に目鼻が描きてあり〕
こんな山の中に來た。今迄で一番閑靜な所なり。
                          金之助
    八月二十七日
 
      一四五一
 
 八月三十日 金 後8-11 長野縣下高井郡上林温泉塵表閣より 滿洲大連滿鐵本社内上田恭輔へ〔繪はがき〕
 中村總裁夏目先生と同遊致し俟   力石雄一郎
 赤ちやんは御丈夫ですか               夏目金之助
  豪傑集合恰似山賊寨        村田俊彦
 〔右端下の印刷したる月に目鼻と顎鬚とが描きてあり〕
  力石君はあいかわらず下の通りです 是公
    二十九日
 
      一四五二
 
 八月 讀書之友へ〔大正元年九月五日發行『讀書之友』第五號掲載〕
 明治の作物で後世に傳はるものは無論あるでせうが、夫は公平で冷靜な後世が自分で撰擇して自分で極める丈で、現在の作者や作物に對して不純な利害好惡の念を挾む吾々現代人は、それを見越す眼力を有つてゐないと云つた方が先づ慥かだらうと思ひます。
 
      一四五三
 
 九月一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 金澤市池田町三番町二一大谷正信へ
 當夏は御地にて御勉強のよし結構に存候小生去月中旬より旅行昨日漸く歸京御手紙を拜見致候實は金澤の方は全く知らぬ地ゆへいつか行つて見たく思ひ居候ひしも今度は信野兩州にて立ち歸り申候からだが惡いと人並の活動も出來かねつれにも心配をかけ甚だ腑甲斐なき事のみに候 先は右御挨拶のみ 匆々頓首
    九月一日                 夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一四五四
 
 九月一日 曰 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓其後は打絶御無沙汰實〔は〕去月より旅行昨夜歸京暑中の御見舞状を拜見大いに恐縮早速此書を認め候 此間から日光鹽原信州などうろ/\經めぐり歸り候へば何だか遠くの人が知らぬ生活をしてゐる社會へ這入り込んだやうな氣持に候 段々時候もよく相成候へばいづれ其内拜眉の機を可得萬づ其時に可申述候先は右御挨拶迄 匆々頓首
    九月一日                  夏目金之助
   秋 骨 先 生
 
      一四五五
 
 九月一日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓 泗川産竹の筆立福州の蝋石硯屏及び青玉の筆架三點正に拜受難有御禮申上候早速机上に陳列眺め居候あの竹の形《原》好は頗る異なものに候。硯屏は日に向つて立てると透きて綺麗に候就中玉帶は三個のうちにて最も見事に候玉といふものは實に色々種類のあるものにて人間の顔のやうに夫々趣味のあるものゝやう被感申候
 「土」「朝鮮」御所望により差出候「朝鮮」は人に貸し居候故少し後れ可申侯
 先は右迄 匆々
    九月一日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 瀬戸物で出來た筆筒が欲しいが見當りますまいか。ひゞやきで詩が細字で染め付けてあるのを菅が持つてゐます。底に萬暦云々と銘があります。三圓位だとか云ひました。然し運送の際壞れるなら買つて頂かない方がましかも知れない、
 
      一四五六
 
 九月一日 日 牛込區早稻田南町七より 長谷川達子へ〔封筒なし〕
 其後は私を《原》御無沙汰を致しました脚氣の爲に御なやみの由隨分御養生御大事に御座候
 去月十六日より出京信州野州邊を徘徊昨夜歸京御手紙を拜見致候
 暑中はとくに過ぎ候も後れながら御挨拶迄如此候 匆々頓首
    九月一日                  夏目金之助
   長谷川達子樣
 
      一四五七
 
 九月二日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓鎌倉にては種々御世話に相成候小生は其後信野兩州をふらつき一昨三十一日夜歸京致候相手は滿鐡の中村是公氏にて此手紙を差上ぐるも實は旅中兩人の間に生じたる話題が源因になりたる譯に候
 或時中村是公氏余に向つて學徳の高い漢學者で滿州へ來て修養上の講話をして呉れるものはないかとの相談故余はいつそ名僧知識でも招聘しては如何と云ひしに禅僧にても結構なり誰が好からんと聞く故余は斯ういふ點に於て一番名の賣れたる宗演禅師を學げたり。是公氏いふ長時にわたりて招聘の事は重役と相談の上ならでは出來がたきも一二ケ月の日子にて大連并びに沿線の社員并びに在留同胞の爲に講話の勞を執つてくれるなら喜んで歡迎するから都合を聞いてくれまいか出來れば本月中旬自分が歸任の時同行しても差支なしと。余曰く長時にわたつての招聘は宗演和尚も困るかも知れないが一二ケ月の事なら許諾するかも知れない。是公いふ是非君の方で都合を聞き合せてくれまいか。余曰く諾。
 問答は大方以上の樣なものに候然る處小生は宗演禅師と其後音信不通の有樣にて是公氏よりは此方面にかけて關係深からんも君よりは餘程薄からんと思ふ。君も宗演さんとは餘り懇意な間柄ではない樣だが丁度鎌倉に居る事だし面識もある事だから一寸都合を聞いて見てくれぬか甚だ自由かましい事で恐縮だが。尤も君がいやだといふなら無理に願はんでもいゝから其代り誰の所へ持つて行けば老師の都合が聞かれるか一寸其手續を教へてくれまいか。いざとなれば僕なり中村君なり又は兩人して老師に依頼に出ても差支ない。又是は必ず宗演禅師に限つた事もないので外に好い人があるといふなら其方の周旋を願つてもよろしい。たゞ御記憶を願ひたいのは布教の爲めの渡滿となつては滿鐡として少々困るので中村君の主意は禅師の講話で在外人(重に社員)が精神上の慰籍を得るのが第一の目的で同しく精神的の修養を得るのが第二の目的であるさうなから其邊は御含み置誤解のないやうに取計はれたい
 先は右用事迄 匆々不一
    九月二日                   金之助
   虎 雄 樣
 
      一四五八
 
 九月こ日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 校正をやり直さなければならなくなつた由、此暑いのに御多忙中甚だ御氣の毒の至で何とも申し上げやうがない、印刷所及び書肆の手落とあるが、まあどうした粗漏から始まつたのだらう。僕は出版の遲速などは左程苦にならないが、君がいやな校正を二度やるのを想像すると實に濟まない心持がする。まあ馬鹿氣た世の中だと我慢して呉れ玉へ。若し試驗に差支へるなら斷然やめても構はない。其内ひまな人が出て來るのを待つてゆつくり取りかゝれはいゝからちつとも遠慮は入らないから中止にし玉へ。
 しかめつら。うすきみ。だれしも。だれひとり(ぢやないか。前後の關係で斷言しがたし)。いりぐち。せんかうたて。云ひつぱなし(ぢやないかしら)。あがりぐち。怪訝《けげん》(言海には希見《けげん》とあり其方可然か)
    九月二日                  金之助
   耕 三 樣
 
      一四五九
 
 九月|四《〔?〕》日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
○ぶち込む なるべし。打《う》ち込むといふ言葉は東京にて使はず。
○市《いつ》さんなり。いちさんと形式づくめに呼ぶのは教育の程度如何に關せず臆《原》劫なり
○「浪漫−」の−はダツシなり。たゞし長過ぎる故短かくせり
○刺戟よろしからん
○小|器《ぎ》用なり。濁るにきまつたものなり
○端は俗語にては皆はじなり。文章にて「はし」と讀む事もあらん。俗語を筆に上すときは先づ「はじ」と言葉を思ひ次に是を漢字にてあらはしたら何と云ふ字が來るだらうと思ひ漸く端といふ字が出て來る順序なり。去れば書いた本人から云へば「端」といふ字脚があつてそれを「はし」にするか「ほじ」にするかの問題にあらず。まづ「はじ」といふ音あつて其音を何といふ漢字で表現するかから「端」になつた迄なり。從つて端といふ字はどうなつてもよき心地す。然し「はじ」は動かしがたき心地す
○先達ての端書の須永は無論敬太郎の間違也。但し「主張した」は切拔帖に訂正して置いた通にてよろし。
 毎々御手數をかけ濟みません。校正料は御取りにや遠慮なく御懸合被下度候
    九月四日                   金之助
   耕 三 樣
 
      一四六〇
 
 九月四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜復早速宗演師に御會ひ被下御厚意深く謝し奉り候
 只今是公氏より別紙の通り返事あり候につき御目にかけ申候
 是は小生の氣のついた處なれど十一|ケ《原》月になると滿州は少々寒いかとも存候が是はいざとなりて能く小生より中村君に聞き合せ可申候
 電報を其儘可入御覽積の處轉載の方便宜とも存じ左に寫しを御目にかけ申候
  文見た。一一月でもよろし。頼む。一所に行き面會する必要あるか。
 右の通りに候が此後の事は老師に禮を失はざる樣小生責任を以て何とか致す所存に候故御存じよりの處無御遠慮御申聞披下度候先は右不取敢御返事迄 匆々
 度々の御足勞恐入候も此返事を宗演師に知らす丈の御骨折は是非願はねばならぬかと存候
    九月四日                   金之助
   虎 雄 樣
 
      一四六一
 
 九月四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下代々木九一安倍能成へ
 其後は御目にかゝらず候御變もなく結構に存候小生信野兩州を少々うろつき八月盡歸京道中馬などに乘り具合あしかりしも家に落付てよりは旅行前よりは丈夫な心持を感じ申候
 御轉居にて家賃向上の趣何よりなれど位置の東京の中心を去る意味より申せば却つて向下ならずやと思はれ候如何にや
 新小説の高作昨日拜讀いつもながら面白く存候あれも大部分は事實の樣相見候平淡な所中々味ひ深く覺候小説としていへは聊か締括りの足らぬ處もあるやに讀まれ候もそこが事實らしく自然の儘にて却つて宜しきかも知れず候しばらくはひまに候些と御出掛の程待入候 早々以上
    九月四日                  夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一四六二
 
 九月六日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
○うたぐつて見た
○……同時に、もし差向ひで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、(こゝ迄句點なし)
○瘢痕 はんこん。依託。人《にん》選。端は「はじ」なり。凡て はじ に願ひます 以上
   耕 三 樣
 昨夜三重吉來 猫の追悼會を開く事を主張して歸る
 
      一四六三
 
 九月六日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 尊翰拜誦御多忙再度の御登山恐縮に存候御蔭を以て萬事好都合に相運び滿足無此上候十日より十九日迄の間老師在庵の頃を見計ひ中村君同伴にて訪問の積に候日取相極り候節は小生名義にて老師宛右の趣通知致し置く方双方の便宜かと存候夫にて宜敷や若し御高見もあらば御指揮に任せ可申候先は御禮旁右迄 匆々頓首
    九月六日                   金之助
   虎 雄 樣
 此間寫眞版の法帖十種程注文過半は到着時機を得て御目に掛度と存居候孫過庭の書譜も其内に有之候
 旅中小生の虚名時々不得已筆を執り紙に臨むの厄に會ひ候可笑しきうちにも修業に相成申候
 
      一四六四
 
 九月九日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜復段々秋冷と相成候處如何御暮し被成候や御大葬の濟む迄は嘸かし御繁多の事と御察し申上候小生は八月三十一日に歸京一寸御知らせ致す筈の處雜誌やら書信やらを片付けてゐてつい/\失敬致候身體は幸無事御安神被下度候 鹽原にて相當の女を見あとにて君の爲に住所番地でも確めて置いたらと思ひ是亦失敬 兎角あとから氣がつく事ばかりにて申譯なく候
 奉悼や奉送の句はどうも出來ないね天子樣の悼亡の句なんか作つた事がないから仕方がない
  御かくれになつたあとから鷄頭かな
    奉  送
  嚴かに松明振り行くや星月夜
 まづ此位にて御免可被下候其内御出被下度候
 猫の追善をやるとか申して騷いで居候が京都へ御出なら多分御留守中ならんと存候 以上
    九月八日                   金之助
   東洋城樣
 
      一四六五
 
 九月九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓其後は打絶御無音に打過候
 却説小生知人に廣島の井原市次郎と申すもの有之此間君の畫を淡彩にて短冊にかいてもらひたき由にて手紙を以て依頼致したる處始めて〔の〕事とて御返事もなき故小生から依頼してくれるやう申來候甚だ御面倒とは存候へども一筆何か願度題目は新年に縁故あるものとの注文に候御承諾の上は短冊は小生より御送り可申又御禮の儀も承はり度由につき是た御手數ながら御一報願度と存候
 短冊の數は二枚にて内一枚は新年に縁故あるものあとは隨意に御氣に召したものとの事に候
 先は右當用迄 匆々頓首
    九月九日                   夏目金之助
   中村不折樣
 
      一四六六
 
 九月九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 長野縣上水内郡信濃尻村野尻石田津右衝門方中勘助へ〔繪はがき〕
 御手紙拜見いつの間に旅行をしましたか。私も信州の北の方へ行つて少し居ました輕井澤を通るとき野上を尋ねやうと思つて果しませんでした。君の居る所はどの見當ですか、何でそんな寒い所にゐるのです。東京もいゝ氣候になりました。早く御歸りなさい
    九月九日
 
      一四六七
 
 九月十日 火 本郷區森川町一小吉館に置手紙 小宮豐隆へ
 田岡嶺雲兄の葬の歸りに一寸參上の旨を認めんと存じ候處宿の婆さん八釜しく入室に抗議を申し込む
    九月十日                   金之助
                             頓首
   豐 隆 先 生
 然る故にわざと上り込んで認めたくなりたり
 
      一四六八
 
 九月十二日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓かねて御配慮を煩はし候滿州へ宗演繹師巡錫の件咋十一日滿鐡總裁中村君并びに同理事犬塚君同道にて登山正式の挨拶を濟し候中村君も君に御禮を申述る筈なれど御大葬やら何やらにて中々多忙のやうに見受られ候間小生より代つて御禮申上候右惡からず 宗演師は歳の所爲か前年よりは顔に愛嬌がつきたるやに見受申候
 先は御挨拶迄餘は拜眉の上萬々
    九月十二日                金之助
   虎 雄 樣
 
      一四六九
 
 九月十三日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御寄贈の高士傳正に拜受毎々の御親切難有御禮申上候 御約束の虚子の朝鮮本日手に入り候につき兩三日中に小包にて差出す積に候
 本日は御大葬にて市中は消極的な第《原》祭日と相成食物を食ひたくても食へず湯に入りたくても入れずいやはや妙な現象に候
 今夜は幸ひ天氣が持ちさうにて拜觀人は勿論從轜車の人々にも非常の好都合に候大分怪我人のある事と思ひ要心して小生は蟄居と决定致侯
 沙市に暴動起りたる旨新聞にて承知然し大した事もなく日本領事館無事と有之候故安心致候如何にや兎角支那は物騷な國柄に御座候
 段々秋景色に相成候好い心持に候御地も定めて鶉のなく氣候かと存候御攝生專一に存候 草々不一
    九月十三日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四七〇
 
 九月十五日 日 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
 拜啓井原氏件につき早速御返事賜はり難有候就ては短冊二葉小包にて御送申上候につき可然御揮毫の上尊兄より直接に本人へ御送願度候
 先は右當用迄 匆々頓首
    九月十五日                  夏目金之助
   中村不折樣
 
      一四七一
 
 九月十五日 日 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓御所望の短冊三葉相認め小包にて御送り申上候
 不折君へは小生より短冊二葉相送り申候同君の手紙に承諾の旨と揮毫料は御隨意の事ぢかに大兄へ返事差出したる由申來候右返書は御受取御覽の事と存候先は用事のみ 草々頓首
    九月十五日                  夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一四七二
 
 九月二十一日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 御大葬後定めて御疲勞と存候明日明後日の御休のうち一日遊んでは如何但し錢はなし 匆々
    九月二十一日
 
      一四七三
 
 九月二十二日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 栃木縣鹽原妙雲寺平元徳宗へ
 秋冷の候益御清適奉賀候却説當夏鹽原避暑の折は不都合なる服装にて參堂失禮の段深く耻入申候當夜御來訪の節は何の風情も〔無之〕是又惡からず御海恕願上候其砌御依頼の何か鹽原に關する詩賦御目にかける程のものも出來かね候へども御好意に對する記念とも存じ七絶一首別紙相認め小包にて御送り申上候御叱正可被下候貴寺の常樂のたきを泳じたるものとして御讀願上候俗人多忙にて臨池の暇も無之拙惡の邊は幾重にも御詫致候
 本月中旬去る用務を帶び楞伽窟へ登山宗演老師に面會鹽原の事など語り合ひ申候
 先は當用のみ 匆々敬具
    九月二十二日                夏目金之助
   平元徳宗師
       御許
 
      一四七四
 
 九月二十二日 日 後4−5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓拙著彼岸過迄漸く出版の運に至候同書とは執筆當時より縁故淺からざる大兄と大觀畫伯にまづ一本を呈して記念と致し度小包にて差出候間御受取被下度願上候
 嶺雲子葬送の節は拜眉の機を得候も高話拜聽の暇もなく遺憾に存候先は右迄 匆々敬具
    九月二十二日                金之助
   臨 風 兄
       座下
 小生監督不行届なりしため装|禎《原》甚だまづく候
 
      一四七五
 
 九月二十二日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 啓廣島産干鮎御送り被下難有存候小生は生鮎よりも干した方が好物に候
 短冊代は請求する積でもなんでもなく只便宜上當方にて買ひとゝのへ候ものなれど折角の事故御受取可申上候
 不折氏への揮毫料は高が短冊故十圓にて充分と存候尤も短冊よりは畫の方に價値あるは無論故價格はどうともつけやう次第なるべく候たゞ揮毫料としてならそれで濟むかと存候右御返事迄 匆々
    九月二十二日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一四七六
 
 九月二十九日 日 前10-11 神田區錦町一丁目一〇佐藤醫院より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 愈小説を書きはじめられたる由當分の間は隨分骨の折れる事ならんも收入の點よりして財政整理のたすけともなるなれば申す迄もなく御勵精の事と遙察奉る。作の出來榮一回にても拜讀の榮を得んと思ひ看護婦に聞いたら生憎讀賣は來ぬ由にて遺憾ながら其儘に致したり
 御尻は最後の治療にて一週間此所に横臥す。僕の手術は乃木大將の自殺と同じ位の苦しみあるものと御承知ありて崇高なる御同情を賜はり度候。
 犬塚氏への金子貳百九圓は愚妻より御渡し候由先方へ御屆の上は御苦勞ながら例の株も手に入り候節は御持參願上候 以上
    九月二十八日                  金
   豐 隆 樣
 
      一四七七
 
 九月二十九日 目 前10-11 神田區錦町一丁目一〇佐藤醫院より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 啓
 二十六日最後に御尻を切り其儘還らず此所に寐てゐる一週間にて退院の筈十句集も氣が乘らずそれなりなり發句を書いてくれと所望されると作らねばならぬと思ふが左もなきときは作る了見も出ず濟度致しがたき俗物と相成候
 まだいそがしきや一度此二階へ話しに來ぬか
  かりそめの病なれども朝寒み
    九月二十八日夜                  金
   城  樣
 
      一四七八
 十月二日 水 前0-6 神田區錦町一丁目一〇佐藤醫院より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓高著御惠送御好意萬謝致候二十六日より肛門の治療の爲め表記に入院明日歸宅致し候今晩宅より九郎判官相届今一頁を讀み始めた處に候今時の小説とは違つて頗る妙な感じが起り候病院などにゐると斯ういふ感じが甚だ愉快に候何れ其内拜眉萬々不取敢御禮迄 匆々
    十月一日夜                    金
   臨風兄座下
 
      一四七九
 
 十月四日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區南紺屋町一二實業之日本社内渡邊新三郎へ
 拜啓先般御光來の節は取次のもの御來意を通ぜずたゞひたすらに面會謝絶の旨申上候由あとにて承はり甚だ申譯なく存居候ひしが其後病氣にて治療上入院の折も御足勞ありし趣今日も亦御尋ねの由歸宅後承知重ね/\失禮のみ實に恐縮の至に候
 御用の次第は勿論高濱君を通じとくに承諾の事にて候へばいつにても御便宜の折御相談可仕候たゞし最初の計畫通り今年は講演に參らず仕舞に終り候へば先年の分にてよろしきや伺ひ候
 條件の事は御目にかゝり取極め可申候毎日午前は醫者に參り候午後なら病床にて失禮ながら御目にかゝり可申候先は右迄 匆々敬具
    十月四日                  夏目金之助
   渡邊白水樣
 追白去年の講演は朝日社の催にかゝるものにて其後右講演は同社の出版(豫約)にかゝる朝日講演集なるものゝうちに収められ候右講演集只今人に貸し居候へば早速取寄せて御目に懸け可申夫にてよろしくば御出版の御相談に應じ可申候
 
      一四八〇
 
 十月四日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷町一二狩野享吉へ
 拜啓本日新聞にて承知致候處大兄病氣の爲めいづれへかへ入院中の處先頃御退院の趣實は其後久敷御無沙汰にて一向御近況も知らず失禮をかさね居候ため御見舞にも參らず不本意千萬に存候然し既に御退院とあるからは御全癒か御輕快か二者其一なるべくと安堵致居候老生も一週間程前に痔を切開し目下の處歩行差とめられ居候へば參上も叶ひがたく乍畧儀手紙を以て御起居伺候猶々時節がら御攝養專一と存侯 草々不一
    十月四日                  金之助
   狩野享吉樣
 
      一四八一
 
 十月四日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區本郷五丁目一九宮島方太田正雄へ
 拜啓先日は高著和泉屋染物店惠送にあつかり難有存候 あの装釘は近頃小生の見たる出版物中にて最も趣きあるものとして深く感服仕候拙著彼岸過迄御覽の如く意|匝《原》萬端粗惡に出來上り甚だ御恥かしくは候へども製本出來につき一部御目にかけ候御禮と申す程の品にも無之候へどもあの砌は謝状も差出さず其儘に打過候につき御宿所聞き合せ同便小包にて郵送に付し候につき御落手被下度候先は右迄 匆々頓首
    十月|五《原》日              夏目金之助
   太田正|男《〔原〕》樣
 
      一四八二
 
 十月六日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 先日御尊來の節は病床にて甚だ失禮致候却説例の文展の件につき本日大塚博士訪問懇々批評擔當の儀頼入候處御存じの退嬰主義の男の事とて容易に承諾致しくれず中々手古ずり申候が最後に大約|右《原》の處にて話を切り上げ申候
 (一)十三日に文展を見に行く事(招待を受けぬ故十二日は行きがたき由)
 (二)十四日午後若くは十五日朝電話にて何か捕まへ所が出來て批評が書けさうだとか或は全く思ひ付がなくて書く種がないとか返事する事。
 但し十四午後ならば社の方へ十五日朝なれば澁川氏宛に電話をかける事
 大塚君より電話にて何か種があつたと聞いたら貴下なり外の人なり同君方へ出向き談話筆記の任に當られ度候
 同君がかく迄慎重なるは意見を世に發表する學者の態度として其意味小生にはよく分り候責任を重んじ名譽を重んずる人に對して是より以上強ひる事は無禮になり候故其邊は可然御諒察被下度候
 小生は病氣も大分宜しかるべくと存候につき十三日に寺田博士と同行を的し申候是亦何か書ける種が出來たら書いて送る積に候小生はなくとも寺田君には何か頭にひらめく事と夫を頼に致し居候先は右御返事迄 匆々敬具
    十月六日                  夏目金之助
   山本松之助樣
     本郷西片町十     大塚保治
 
      一四八三
 
 十月八日 火 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 拜復御歸りの由珍重に存候小生病氣は順當に直り居候御安神可被下候 是公氏宗演和尚と滿洲行は訛傳なるべきか宗演和尚を滿洲へ巡錫してもらふ手傳を致したるを小生も共に參るものと早合點したるものなるべし。
    痔を切りに行きし時
  秋風や屠られに行く牛の尻
 まだ床を取つて其上にて此手紙を認め候 少々贅澤の沙汰なれど人がくると病氣と稱し床の上にて面會何だか王侯貴人の心持に候 以上
    十月八日夜                  金之助
 
      一四八四
 
 十月九日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓先日は御出被下候處生憎入院中にて失禮致候其節は面白い花瓶を御惠與にあづかり御好意深く奉|奉《原》候廣島より御手紙いたゞき候砌り御返事差上たく存候ひしもかりそめの御宿とのみ承知致したるため御住所も其儘反故に致しつい御無音を打重ね候
 彼岸過迄出版につき一部御目にかけ申候御出の節を待ち候ひしも漸々遲れ候故小包にて差出申候御受取可被下候 文展も近づき秋興も稍景氣づき申候
 先は右迄 匆々頓首
    十月九日                  夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一四八五
 
 十月十一日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 拜啓十二日には早朝神田錦町の醫者からすぐ上野へ參る積故九時頃文展の前のあたりで御待合被下度雨天ならちと困却致候が文展の下足の邊にうろ/\して居ては如何にや(但し小生早ければ小生の方でウロ/\致し可申候)
 
      一四八六
 
 十月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下大井町字森五四四五阿部次郎へ
 拜復葉書をありがたう「門」が出たときから今日迄誰も何もいつて呉れるものは一人もありませんでした。私は近頃孤獨といふ事に慣れて藝術上の同情を受けないでもどうか斯うか暮らして行けるやうになりました。從つて自分の作物に對して賞賛の聲などは全く豫期して居ません。然し「門」の一部分が貴方に讀|※[連の草書]《原》れてさうして貴方を動かしたといふ事を貴方の口から聞くと嬉しい滿足が湧いて出ます。私は此滿足に對して貴方に感謝しなければ義理が惡いと思ひます。私は私が喜んであなたのアツプリシエーシヨンを受けた事を明言する爲に此手紙を書きます。
 「彼岸過迄」はまだ二三部殘つてゐます。もし讀んで下さるなら一部小包で送つて上げます。夫とも忙しくて夫所でなければ差控ます。虚に乘じて君の同情を食ぼるやうな我儘を起して今度の作物の上にも「門」同樣の鑒賞を強ひる故意とらしき行爲を避けるためわざと伺ふのです。いづれ拜眉の上萬々
    十月十二日                 夏目金之助
   阿部次郎樣
 
      一四八七
 
 十月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣由比町林香寺内江連重次へ
 拜啓あなたの小説は今日迄かゝつて漸く讀みました。あなたは野上に紹介を頼むときにあの小説を私によんで貰ふといふ用事を丸で云はなかつたさうですが、夫はあなたが善くないです。人に紹介を頼むとき斯ういふ用事で逢ひたいと打明けて頼まなければ不可ません。野上もあとから其話を聞いて變な氣色がしたと云つてゐました。
 偖御作は中々面白う御座いました。文章も大變好い所があります。たゞ始めの方に主題に關係のない插話が多過ぎる樣です。其插話はそれ自身は中々捨てがたいいゝものもありますが筋を運ばせる興味を停止し過ぎます。
 次に母の病氣の經過があまり長過ぎはしませんか。
 遺骨爭ひの條も長過ぎます。
 高野山で血を吐く所はいゝが山の敍述は少々芝居がゝりです。
 然し概していふとあなたのあの小説は材料がありあまる程ある。皆面白い材料ばかりである。そこに大變な強味がある。外の人のはもつと面白い小道具をさがさなければならないのを貴方のは少々篩にかけなければいけないのです。
 私が考へるにはあれをいくつかの短篇に割つてそれを順々に雜誌へでも出してはどうかと思ふのです。勿論もつと改めてかゝらなければならないですが。あのまゝで長篇の小説として新聞へ出す事は少し困難かと思ひます。
 それから序に申します。篇中の人物松さんだの祖父さんだの中々面白いのが澤山あります。
 終にのぞんで年の若いあなたのにがい經驗に對して同情の意を表したいと同時に此苦い經驗が藝術上の役に立つて面白いものゝ書けたのを祝します 以上
    十月十二日               夏目金之助
   江連重次樣
 
      一四八八
 
 十月十二日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓御通知のありし玉文房具今か今かと待居候處突然郵便局より關税壹圓持參受取に參れとの報知ありすぐさま使を走らせ持還り候。此前は同樣の品にても無税なりしに今度は如何なる譯かと思へども税は横濱でかゝつたもの故つい其儘に致し候
 偖御送三點のうち硯屏は折を見て臺をつけ装飾用に可仕考に候 あとの香爐の葢の取手も其うち利用致す考に候。或は印|材《〔?〕》に出來はせぬかとも考候 あの文鎭は大分簡略なものに候へどもいくつあつても役に立ち申候故決してぞんざいには仕らず候。
 文展愈明日より公開御在京なら一所に見物御高見も伺ひ度と存候小生寅彦君同伴にて何か感想の樣なものを新聞に書く積に候。御地の蟹は結構の由何だか詩的に候。雅な硯の水さしの樣なものはなくや。ひしやく付の變なものにてもよし
 是から送つてもらふものことに此方から注文するものは代價を御拂する事に致し度候。あの玉の三品は二圓は法外の安價と存候あれは然したゞで頂いて置く事に致し候。
 追々菊もよろしく成候秋になるとまだ生きてゐたのを嬉しく思ひ申候沙市邊の景色も夢になりと遊覽致し度候 右迄 匆々頓首
    十月十二日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一四八九
 
 十月二十一日 月 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 御手紙拜見文展の批評思つたより長くなり候。一二回にて濟むべき筈を十回以上になり候。御通讀ありがたく候。
 雜誌記者御紹介なれど今一寸都合わるし、斷り度候。先方へ可然御通じ願上候 以上
    十月二十一日
 
      一四九〇
 
 十月(日附不明) 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜啓成績の績は糸へんに候。此間は足へんに訂正の樣覺え候故わざと御注意迄申上候。或は其反對な|り《原》かも知れず夫なら結構に候
 
      一四九一
 
 十月二十四日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ〔はがき〕
 御手紙拜見。明後土曜日文展に行きませうか。御差支なければ八時半頃江戸川の終點で出合ひませう。
 
      一四九二
 
 十月三十日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓此間は失敬あの椿は壁にかけたらあそこで見た時よりも引立つなと思ひ居候何しろあゝいふものを買ふのは當世一流のハイカラでなくては出來ないといふ意味で大敬禮に捧銃を致したい
 僕は賣れ殘りの蜻蛉の壁かざりとあの女の描いた靜物でも買はうと思ふがまだ其所迄の決心相つかず其内ヒユーザン會も閉會になるだらうと存候
 ノートルダームの書状幸ひ筐底に藏し居候故同封にて差出申候御落手願候
 此間歸つてから今日迄寐て暮し申候あの夜は胃がつゝぱつて弱り候其後は横着の引續きにて人間並に行動す〔る〕のがいやになりたる故兩三日人間を辭職致したる譯に候 以上
    寐てゐて日を忘れ候             金之助
   寅 彦 樣
 
      一四九三
 
 十一月二日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保三八金木九萬へ
 拜啓拙文貴下編輯の雜誌へ御轉載御希望の趣承知致し候へども實は多都美と申す雜誌を承知不仕定めて畫家向の專|問《原》雜誌と存候へども念の爲め一部御寄贈被下度願上候たつみ畫會とか申すものゝ機關雜誌めきたるものは時々寄贈致し呉れ居候或はあれかとも存候へども不案内につき伺ひ候
 先は御返事迄 匆々頓首
    十一月二日                 夏目金之助
   金木九萬樣
 
      一四九四
 
 十一月五日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ〔はがき〕
 一昨日は御馳走奉謝候十日午後六時紅葉舘の※[足+勇]の會へ君の切符も注文しておいた。一所に人らつしやい。
 
      一四九五
 
 十一月八日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 をどりを見に行きがけ十日の午後四時誘ひに行かうと思ふ。然し雨天ならやめるかも知れず。夫からもし先方から切符を送つて來ない時もやめる。(尤も先方へ行けば買へるのだから御熱心なら參つてもよし)
 小生は三度に一度位は行つた方が義理が立つ位の意味と夫からをどりといふものはどんなものか一寸研究會の樣子が見たいと二つなり 以上
    七日                    金之助
   東 洋 城 樣
 
      一四九六
 
 十一月八日 金 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 長谷川時雨女史をどりの切符二枚注文致せし處小生への招待切符をも併せ送れり一枚あまる事に相成候金は小生拂ひ候が御出如何
 小生は午後四時頃(十日)松根を誘ふ筈、尤も松根の態度堅き約束ならぬ故はきとは分らず又雨天の節は小生貳圓を拂つて行く事は御免蒙るつもり
 
      一四九七
 
 十一月九日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 西川君の小生宛の論文切拔御親切に御送難有候
 あれに對して小生が又書くと面白いのですが面倒だからやめませう。つまり御令兄は小生の副義と認めるものを藝術の本義になされたいのでせう。夫から紙や筆や木やのみは媒介物だといふ御説ですが、此媒介物は自己を表現する必要〔二字右○〕の媒介物で邪魔ぢやないのです。此媒介物をなくなして直ちに人の心に、もしくは時や空の上にわが藝術をやきつけるとすれば、やきつけ方にもよるでせうが、まあ藝術ぢやなくなつてしまひます。直接のはたらきになると愛と愛のやりとりといふ樣なものになつて仕まふんですから意味が違つてくるでせう。私は御答をせぬ積で何か御答をしてゐるやうですから是でやめませう。後日もしひまがあつたら其邊をもう少し詳くまとまつた意見として發表しませう。御令兄へよろしく。今日土曜劇場はどうでしたか 僕は腹が減つてね。木曜にまた入らつしやい 以上
    十一月九日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一四九八
 
 十一月九日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 手紙を上げやう上げやうと思つてゐても中々書けないうちに御無沙汰をしてしまふ誠に申譯がない野間も野村も同樣どこを向いても不義理だらけで恐縮の至である。大病後どうしてもからだが丈夫にならないやゝともするとやりそこなふ是では長生は無論かうやつて生きてゐてもまあ癈人のやうなものである。此夏は信州から野州の方を旅行した歸つてから愚圖々々してゐるうちに又小説を書かなければならない譯になつてもうそろ/\書き出さなければならない。東京は不相變賑やかな事で毎日音樂會とか芝居とか色々の催ふし丈をあるいてゐるととても見盡せない又あるきつくせない。ありがたいやうな厭なやうな所である。謠は御大葬後しばらく休んでゐたが十一月から又始めた。割合に進歩しない。近頃僕に書をかいてくれといふ醉興ものがある。たまには畫をといふ變人がある。君の所の校長は君と大した年の差違がなさゝうだがつまり文部省などにゐるから早く校長などになるのさ。英語の教師なんかは白髪になつても校長なんかにはなれない。アングロサクソンの研究とは恐れ入つたものだ、此間中川が來て羅甸語を學校で教へてゐる上ホーマーの原書を讀むといつたので甚だ恐れ入つたが君のも决して恐れ入らない譯には行かない。そんなものも好きならいくらでもやるがよからうが僕には一向興味がない。引越した由低廉の方好都合に相違無之。小生も子供が多くて家が狹くて弱つてゐる。どうか越したい金が欲しいと思つてゐる。野間は不相變かと思ふよろしくいふてくれ玉へ。出られるなら二人ともはやく東京へ出て來たまへ 早々
    十一月九日                 金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一四九九
 
 十一月十日 日 後 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
  小生今より松根方へ參り候
 拜啓御手紙拜見今夜は折角御誘ひ申候處御出叶はぬ由不本意千萬去りながら萬一繰合せもつき候へば此手紙受取次第松根方へ御出掛願候小生は四時少し過ぎる迄同君方で御待申上候、昨日は土曜劇場に參り候不入で氣の毒に候 以上
                           金之助
   豐 隆 樣
 
      一五〇〇
 
 十一月十一日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 啓御問合の個所は三ケ所とも。と御承知ありたく候 以上
    十一月十|二《原》日
 
      一五〇一
 
 十一月十三日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
○「文藝が社會に生れるか、或は社會が文藝を生むか」 なる程同じ事を繰り返してゐて變である。是は「文藝が杜會に生まれるか、或は文藝が社會を生むか」とか、「社會が文藝を生むか又は文藝に生まれるか」とかしなくてはならないかと存候
○乖離はカイリなるべし。但し字引は引かず
○奔走に衣食すといふ言語は韓退之の文章にあるので、我々時代の人間は「君」とか「僕」とかいふ漢語同樣日常に使用致し候。去りながら衣食に奔走すとしても固より差支無之候
○「も」といふ字を入れる事は必要に候。御入れ被下度候 以上
    十一月十三日               金之助
   耕 三 樣
 
      一五〇二
 
 十一月十三日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 サツキ返事を忘れ候アルトルイスチツクの意味は利他(利己に對する)に候 以上
 
      一五〇三
 
 十一月十四日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓展覽會の目録御送被下難有存候いつか御伴をして行つて見ませう
 高村君の批評の出てゐる讀賣新聞もありがたう 一寸あけて見たら藝術は自己の表現にはじまつて自己の表現に終るといふ小生の句を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと斷言してゐます、其癖まだ讀まないと明言してゐます。私は高村君の態度を輕薄でいやだと感じました夫であとを讀む氣になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に對してはあつく御禮を申上ます 草々
    十一月十三日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五〇四
 
 十一月十五日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ
 拜啓其後は打絶御無沙汰を致しました。さて今度大阪の社の方で新進作家の小説を日曜附録へ(長さ新聞にて一頁)載せたき由にてあなたにも一つ願つて見てくれと申します。どうか御繁多中恐縮ですが書いてやつて下さいませんか。いづれ社員の小池君と申す人がそのために參上致しますから其時は都合して會つてやつて委しい話を聞いてやつて下さい。小池君の訪〔問〕は明日か明後日かになるでせう。
 先は右迄 敬具
    十一月十五日               夏目金之助
   武者小路實篤樣
         貴下
 
      一五〇五
 
 十一月十五日 金 後11-12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ
 拜啓今度大阪朝日新聞社にて新進作家六七名に託し同紙の日曜附録に長さ一頁程の短篇を載せる由にて大兄にも一つ御盡力を煩はしたき旨申來候來年正月の準備其他にて嘸かし御多忙の事と存候へども御繰合せ御執筆相願〔度〕と存候六七名出る事故誰が先になるか分らねど社の都合は成べく早く原稿を落手したる方便宜かと存候につき其含にて御作被下候はゞ幸甚に候。出來の上は阪朝中長谷川萬次郎宛にて御届被下度候君の外の新進作家の名前も一見致候故爲御參考〔入〕御覽候。中村屋湖、小川未明、谷崎潤一郎、武者小路實篤、志賀直哉等の諸君に候。一頁八段と申せばちよつとした雜誌の短篇に相當可致稿料の儀はしかと問たゞし不申候へども社員の話にてはなみよりも高く拂ふ積とか申居候先は右迄 早々
 御令閨御入院の由承り候例の御病氣にて二週間内には御全快とは存|得《原》へとも精々御加養專一に存候
    十月十五日夜                金之助
   三 重 吉 樣
 
      一五〇六
 
 十一月十六日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 文選集評乾隆版本十六日着御厚意あつく御禮申上候 板は例の如く二枚とも割れ申候殘念に候
 此間中は當地も文部省の展覧會にて大分賑やかに御座候ひし小生も頼まれて入らぬ所へ出しやばり大家などをしきりに罵しり申候。此次は文藝協會の公演に候。其次は音樂學校のユンケルの送別會に候。此間はポストアンプレシヨニストか何だかヒユザン會といふ畫會を讀賣の三階で開き候大兄に見せたいやうなのが大分有之。リーチはエツチングを出品致し居候。何だか面白い事が書きたく候へども筆をとると急に何も書く事がないやうな氣が致し候是にて一寸擱筆致候
 瀬戸物の筆立と水滴は御見當りの節どうか願ひ候代價も必ず御受取願上候 以上
    十一月十六日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一五〇七
 
 十一月十六日 土 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ
 御手紙拜見きのふは小生の爲すきな芝居も落ついて見て|入《原》られなかつた由御氣の毒の次第實は六時に開場といふのに六時過ぎても切符が來なかつた〔た〕め飯をくつてゐると山田さんから電話を取ついでくれました。然し支度や電車の時間をはかると八時近くでなければ到着が六づかしい。其上切符をかつて這入らなければ入場出來ず這入れば君が既に切符を持つて待つてゐるなどといふ馬鹿はいやだし、入口でまごついて小宮先生に會はしてもらふのも面倒だから夫でやめにして仕舞つた。君も飛んだ目にあふ。僕もつまらない。要するに前日の三時に出した端書が翌日の五時迄名宛の人の手に屆かなかつたのが惡いので責任者は其處で見付出さなければならない。君も僕も御とくさんもみんなわるい事はないんだらうと思ふ。それ丈分ればそれで宜しからうと存候 先は御返事まで 早々不一
    十一月十六日夜               金之助
   豐 隆 樣
 
      一五〇八
 
 十一月十七日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ〔はがき〕
 碧梧桐君早速揮毫送りくれ候故此手紙と同便にて差出候、同君へあなたより直接に禮状でも出して下さい
 
      一五〇九
 
 十一月十八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜啓私は昨日三越へ行つて畫を見て來ました色々面白いのがあります。畫もあれほど小さくなると自身でもかいて見る氣になります。あなたのは一つ賣れてゐました。同封は今日社から送つて來ましたから一寸入御覽ます書いた人は丸で知らない人です。今日縁側で水仙と小さな菊を丁寧にかきました。私は出來榮の如何より畫いた事が愉快です。書いてしまへば今度は出來榮によつて樂みが増減します。私は今度の畫は破らずに置きました。此つぎ見て下さい。
    十一月十八日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五一〇
 
 十一月十八日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 當前は當然の誤りならんと被存候
 尤もあたりまへでも差支ないぢやありませんか。
 「ロマンチスト」は間違「ロマンチシスト」と御訂正を願ひます
 
      一五一一
 
 十一月(日附不明) 後8-9 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ〔はがき〕
 御申越の旨社の方へ通知致し置候多分それでよい事と存候御令閨御病氣御大切に可被成候
 
      一五一二
 
 十一月二十四日 日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ〔繪はがき〕
 此間の小説の件はそれでも構はないから願ひたいと申來候宜敷御執筆御頼入候
 
      一五一三
 
 十一月二十五日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇俳味社沼波武夫へ
 御叮嚀なる御手紙を頂いて恐縮に存じます私は自分の義務の一端として他人の作を讀むのを當前と考へて居ますひまがなくてよまれぬのを殘念に思つて居りますたま/\あなたのものをよんでさう御禮では甚だ痛み入ります。私も作ばかりに熱心になりたい又は勉強したいのですが少々頭の具合やからだの具合であんなつまらない畫などをかきます。あなた丈なら御目にかける筈ではなかつたのですが野上君が畫をかくためついあなたの前まで耻を曝しました。
 時々御遊びに御出被下|さ《原》い。私はもう小説をかゝなくてはならないので辟易して居ります 以上
    十一月二十五日                夏目金之助
   沼 波 樣
       貴下
 
      一五一四
 
 十一月三十日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 明一日の切符寺田君君の分も買ひ求められ候趣一時頃迄に同君の宅へさそひに寄り度其序君の下宿へ立寄候間御待ち被下度候
 
      一五一五
 
 十二月一日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區白金今里町八四中村蓊へ
 拜啓毎々御手紙ありがたく候實は咋三十日夜漸く一回認め社へむけ發送致置候氣も乘らず自信もなく如何にも書きにくゝ候是が百回以上になるかと思ふと少々恐ろしく候小生の考では創作は天下の根氣仕事の一なるべくと存候
 「から」方々にて評判よろしきやう存候此間森田にも春陽堂へ出版勸誘の儀頼置候諸方にて評判よければ自然公けになる望多きかと存候小生も及ばずながら盡力可致候此さきとも精々御骨折斯道に從事願度候
 澁川氏退社の事廣告にて始めて承知意外に存候小生は事情一向存ぜず矢張寐耳に水の一人に候尤も同氏の評判については先達少々聞き及び候もさう云へば小生などもあまり立派な君子聖者にても無之故其儘になる事とのみ思ひ居候處社長も案外の斷行を敢てしたるものと存候
 返す/\御心配のみかけ御氣の毒に候是と申すも小生の創作に對する興味やら考やら強ひて複雜なものを鮮やかにまとめんとする無駄骨折やさうして最後に來る面倒くさゝやらがかたまつたものと御勘辨願度候 先は御禮迄 匆々頓首
    十二月一日                 夏目金之助
   中村 蓊樣
 今日もからは休み候樣子もし小生の爲めとならば實以て恐縮大兄に對しても社に對しても無申譯次第小生は如何なるまづきものをかいて世間の物笑ひとなつても筆を執らねばならぬ義理合と相成候御心安く御擱筆道體御加養是祈候
 
      一五一六
 
 十二月一日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 富山縣西礪波郡東太美村井澤正義へ〔往復はがき返信用〕
 拜啓御手紙は拜見致候も貴問あまり廣くして一寸御答に困り候今少し何とか狹き意味にて御尋ね被下度候
    十二月一日
 
      一五一七
 
 十二月二日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 十字街の表装拜見しました。徳利は模樣としてはいゝが本の表紙としてはいやですねあの紙も面白いとも思へません。字は頗る氣に入りました。黄色の方は字も模樣も紙も色も好きです。然し夫は支那から出て來た好きだらうと思ひます
 畫は其他何も描きません。山水の方を仰に從ひ土手を不規則にし山を藍にし、屋根を暗い影をつけて益きたなくしました。寺田が見て面白いが近くで見るとびほふ百出できたなくて見るのが厭になるといひました。私はあれをあなたの畫の下の襖へピンで張りつけて次の間の書齋から眺めてさうして愉快がつて居ます。すると小宮が褒めます。岡田がほめます。實に天下は廣いものであります。
 もう小説がせまつてゐるので娯樂は一寸出來ません然しまだ二回しか書きません。それでゐて音樂會抔に行きます。あしたも越路を聞きに行きます。親の目を忍んで女に會ふやうな心持がします。寒くなりました。うんと面白い畫をかいて見せて下さい。あなたの詩をよみました。(劇と詩)あれは駄目ですね。あんなものを書いちや駄目です。(劇と詩)のやうな雜誌へ出すにしても駄目ですよ さよなら
    十二月二日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五一八
 
 十二月二日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「規則づくめ」でせう
 語手(つめて)將碁のつめ手ぢやないか。辣手に至つては解らんよ。恐らく誤植だらう。
    十二月二日夜
 
      一五一九
 
 十二月二日 月 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 女十句集來。倉皇選句實は小説をかゝねばならぬので原稿紙へ向つた處故一寸狼狽の氣味なり從つて集中の一頁にどこへ出すとも書かず失念君願くは書き加へ玉へ 早々
    十二月二日                  金之助
   東 洋 城 樣
         座下
 
      一五二〇
 
 十二月四日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 また手紙を上げます。あの黄色い状袋は手製ですか買つたのですか一寸教へて下さい私もあんなのを使ひたいから
 私も趣味はあると自信してゐる結果人も是非自分に一致しなければ不都合だと思ふ事がありま〔す〕然し十人十色だから杜會の色彩が豐富なのでせうとも思ひます。
 此間あなたの知らない人が來てあなたと齋藤與里君とを並べてあれで氣が合ふだらうかと聞きましたから私は其人にとても合ふまいと答へました。其終りに藝術家といふものは孤獨なものだと云つて聞かせました。藝術家が孤獨に安んぜられる程の度胸があつたら定めて愉快だらうと思ひますあなたはさう思ひませんか。
 私の小説を讀んで下さるのは難有いどうか愛想を盡かさずに讀んで下さい。私は孤獨に安んじたい。然し一人でも味方のある方がまだ愉快です。人間がまだ夫程純乎たる藝術〔家〕氣質になれないからでせう。
 あなたの小説は感《原》のわるい所は一つもありません。御作《原》にならん事を希望します。然しあの詩ことに末段、ことに措辭には變な厭味があります。さうして思想も陳腐です。昔の端唄やなんぞにあんな意味はありやしませんか 早々
    十二月四日                 夏目金之助
   津田青楓君
 活版ずり御送落手致し候、まだ拜見致しませんが何だか大問題が書いてあるやうです。其内拜見致します
 
      一五二一
 
 十二月四日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 昨日は使にて豆の鑵ならびに小鳥二羽留守中に御屆け御好意千萬かたぢけなく候實はつい御近所の新富座へ越路を聞きに參り御入用の書苑もさし上げ不申失禮致候右は初號より取揃所持仕居候故いつにても御用にたて可申候句振はぬとは不申いつもの通り位に考居候
 今夜も新富へ席をとり候由土間の眞中とか申居候 小生小説にてことによると參られず。
 大兄でんの方はあまり御好みなきもやう故御誘ひ不致候
 近頃小説を人に讀んでもらふ勇氣失せ候へども夫でも讀んでもらひたき心も有之候今度のも願くは御讀被下度願候 早々以上
    十二月四日                 金之助
   東洋城樣
 
      一五二二
 
 十二月九日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓段々寒くなりました御變もなくて結構で《原》存じます私もどうにか斯うにか凌いでゐます。山の手は霜が降ります、横濱は如何ですか、鮭は今日うちのものが食べてゐます毎度ありがたう御ざいます。此間越路を聞きに新富座へ二晩連れ出されました。其前二十世紀の時は有樂座で桑原君を見受けました、尤も口は聞《原》きませんでした。小説を書くんで忙がしう御座います。不取敢御禮を申上ます 以上
    十二月九日                夏目金之助
   渡邊和太郎樣
        貴下
 
      一五二三
 
 十二月十一日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜復愈御結婚のよし御目出度存候御披露の御案内難有候二十二日五時頃三河屋へ參上可仕候猶御祝として何か差上度も急に思つきも無之荊妻とも談合の上其うち寸志を表し度心得に候
 猶序故申上候二三目前拙宅へ電話据付相濟候番號は番町四五六〇に候御用の節は御呼出被下度候
 新世帶何角御不自由と存候何か手前方にて出來候事何なりと御申聞相成度候 先は御祝詞旁御答まで 早々敬具
    十二月十一日                夏目金之助
   安倍能成樣
      榻下
 
      一五二四
 
 十二月十七日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内高原操へ
 拜復欧洲へ御出立の趣今朝紙上にて拜見致居り候處へ御手紙にて委曲明瞭に相成結構の事と大に御祝ひ申上候時日切逼のため貴地より直ちに御出發の由敬承御着後時々面白き御通信拜見の機を樂み居候拙序御改正の趣是亦承知御都合よろしきやう相願候
 先は右不取敢御挨拶まで 匆々
    十二月十七日                 夏目金之助
   高原 操樣
       貴下
 
      一五二五
 
 十二月十七日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 長野縣諏訪郡豐平村二九永田登茂治へ
 拜復子規遺墨の件につき尊書を領し候處右はいつ頃の事に候ひしや或は小生と關係深きものばかり故適當のもの見當りたらば差上てもよし抔申したるやも知れず。さうなればまだ發見仕らず候遺憾ながら左樣御承知被下度候
 序に伺ひ候大兄は小生が長野の教育會で演説を致したる節輕井澤迄御出迎ひ被下候御人に候や記|臆《原》あしくしかと相極めかね候故一寸伺ひ候
 先は右迄 匆々
    十二月十七日               夏目金之助
   永田登茂治樣
 
      一五二六
 
 十二月十八日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 御尋ねの箇所小生にも不明然し。「多く書物」では語をなさないから「多くの」としやうぢやありませんか
    十二月十八日夜                金之助
   耕 三 樣
 
      一五二七
 
 十二月二十六日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇俳味社沼波武夫へ
 拜啓江連君の事につき御手紙拜見致候あの作物は先達御話し申上候かとも存候があのまゝにては少々不賛成に候故小生は手紙にて本人へあれを短篇に崩して雜誌へ載せるやう勸告致候處本人はそれが不愉快らしく候もと/\江連君の希望は朝日紙上に載るにあれど夫にしても朝日の方で引受るや否は小生と雖も受合かね候。といふのは小生は只今朝日の文藝に關して編輯上何等の役目もなくたゞ向ふから相談された時にのみ愚考を述候丈故に候。其上もし小生のつぎに朝日へ載せるなら小生は江連君のよりも恰好と思ふものを一つ持ち居候先づ其方を先に推擧致したき考に候。
 重ねて江連君の爲に申候あれ|ば《原》中々面白きものに候ことに處女作としては天晴な出來榮に候然し通讀してゐるうちに入らぬ事や冗漫な記事が澤山有之。固より是は小生等に最も多き缺點に候へども始めて名を出す人としては惜むべき疵に候。小生未だ他人の作を自費にて出版して世間へ出してやる程の力量もなく候へども亦夫程感激したる例も無之。江連君に就ても同樣の感を抱き居候。然し大兄の御推擧も有之以前より小生も同情致し居る事故時機さへあれば出來る丈の好都〔合〕を同君へ與へたき心は充分有之候。大兄は自己を孤立と仰せられ候が孤立の意味はよく承知致居候小生もあなたに劣らぬ孤立ものに候
 未醒君の記事面白く拜見致候あれをたゞの散文にて當り前に御書きになつたらまだ面白い小品が出來るだらうと存候
 年末にて知人未知人より色々な要求あり小生も個人として存在する工夫以外に大した働らきもなく甚だ氣の毒と思ひながら返事さへまだ出し兼たるむきも有之今朝一寸小説を書く前の寸暇を偸んで此御返事を認め候いづれ來春ゆつくり御目にかゝり御高話も拜聽致し度と存候 匆々頓首
    十二月二十六日               夏目金之助
   沼波武夫樣
       座右
 
      一五二八
 
 十二月三十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 愈年のくれと相成申候諒闇中とて頗る不景氣かど松も立てぬ家多く候一昨日より昨日へかけて大雪にて甚だ寒氣強く今朝に至りはじめて快晴に相成候御地の冬定めて奇觀と存候
 此間の銅の水滴はたしかに拜受あれは此方より御依頼致候もの故ねだん御知らせ願候又筆筒も三四日前着正に落手三圓のよし安いと存候實はもつと多《原》きなひゞ燒のものか又染付にて藍色に細字の詩など描き出されたる處を想像致し居候處あれは全く別物にて却つて珍らしき處も有之候然し書が一向目立ちて見えぬ處遺憾に候
 右代價は序を以て御令弟の方へ御送申上べく候 寒き故からだ御大切に可被成候 何か御所望のものも候へば御送り申べく無御遠慮被仰聞度候 以上
    十二月三十日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一五二九
 
 十二月三十日 月 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣坂越岩崎太郎次へ
 拜啓 此間中より富士登山の畫につき度々御申聞相成候處一向覺無之故其儘に致し置候處右小包今日に至り發見致しはからず絹地の畫を拜見致し候是は右着の折多忙にてそれなりになりたる後忘れて今日に至り候も何とも無申譯候早速小包にて御返し候間御落掌被下度候名古屋より參り候茶も右小包中の貴翰に御通知ありしを開封せざりしため今日〔迄〕御禮も差し出さざる次第是亦あしからず御容赦願上候 早々
    十二月三十日                夏目金之助
   岩崎太郎《〔次〕》樣
 
 
 大正二年
 
      一五三〇
 
 一月七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓一陽來復御目出度存候諒闇中にて型の如き年始状は廢し候去りながら蟹はたしかに屆き申候何處から來たか分らないけれども大抵あなたと見當相つき候然る處其蟹を猫に食はれ候尤も小生少々は味はひ申候へども 笹あめを下さるとか下さらぬとか御手紙にありしやうなれど何方だかつい忘れ申候。もし來《く》る方だつたら申上ますがまだ參りません。
 今年の正月は諒闇中でのんきです。高田は雪がひどいでせう。からだを大事になさい。私はまだ須賀さんの藥を呑んで居ります 草々
    一月六日夜                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一五三一
 
 一月七日 火 後3-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 表慶舘へ御出のよし小生も行きたかつた。ことに繪畫に關する御高評をまのあたり承はりたかつた。
 却説先達大阪の社のもの參り日曜附録に一頁程科學の種を入れたく人はないかと申候故君の事を話し候處何うか頼んで見てくれと申候尤も毎日曜に一頁(八段)は大變故半頁にても又御氣に向いた時でもよろしく新聞向の新らしき記事論御寄稿を願はれますまいか。君の多忙な事も話し置候故強ひて願ふのも恐れ入る次第なるが御都合相つき候はゞ何とか相談にのつて頂き度其内御目にかゝる事と思へどあまり後れる故郵便で一寸伺ひ候 以上
    一月七日                   金之助
   寅 彦 樣
 
      一五三二
 
 一月七日 火 牛込區早稻田南町七より 杉浦重剛へ
 拜啓先日は突然の御光來何の風情も無之恐縮千萬に存候其節御話の留痕録早速御惠與にあづかり正に落手篤く御禮申上候御挨拶旁御新居拜見のため罷り出べき筈の處生憎只今手放しかね候手前用を控居候故しばらくの間缺禮致候右用事濟次第御邪魔ながら參上致度と存候先は御禮かたがた 右迄 草々拜具
    一月七日                  夏目金之助
   杉 浦 先 生
         虎皮下
 
      一五三三
 
 一月八日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 拜復年末には御歳暮を頂戴致し御禮も申上げずに打過申候正月には或は御出かと思ひ居候處御出なくつい/\手紙も差上る機會を失ひ申候 小説たしかに受取申候小生も只今執筆中にて碌々外出も仕らず旨く書くにも好加減に書くにも困る方先へ立ち候次第にてすぐ拜見と申す譯にも相成かね候 昨夜五六枚拜見致したるのみに候 わるい所と申すは一字一句の文字のならべ具合も含み居候にやさうすれば昨夜の分のみにても文句は有之候。然し全體の價値などは全く分り不申其内拜讀の上愚見御參考までに可申上候
 奧さまへよろしく 草々
    一月八日                  夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五三四
 
 一月十日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇俳味社沼波武夫へ
 啓上
 昨日は御令弟遠路わざ/\御入用の書物御返却に御出被下恐縮致し候其節は又高著三紀行御惠投にあづかり難有御禮申上候老生寒氣を恐れたゞ机邊にかぢりつくのみにて外出も容易に得せず心外千萬に候いづれ其内御面晤の機を得たくと存候先は右御禮迄 草々
    一月十日                夏目金之助
   沼波瓊音樣
       座右
 
      一五三五
 
 一月十日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 啓上寺田博士に日曜附録へ科學の記事を書く事願入候處第一さう日曜ごとに書くひまがない義理へ書いてやらねばならぬ友達の雜誌へも書いてやる事が出來ぬ、それから名前を出す事が困る名前を出すと色々に面倒が生ずる由、
 もし名前が出ないで濟むなら規則的には出來ぬが機會あれば時々は寄稿してもよいやうな挨拶に候
 御返相後れ無申譯候が右如何取計ひ可申や或は寺田君から適當の人でも推擧して貰ひ可申や右御返事旁御伺ひまで 草々
    一月十日                 夏目金之助
   長谷川萬次郎樣
        坐下
 
      一五三六
 
 一月十日 金 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓一陽來復の時節に相成候處諒闇を好機としていづ方へも御無沙汰御海恕可被下候日蓮上人昨夜正に落手御好意奉謝候
 此間は三省堂の破産にて大兄の方へも幾分の影響有しならんと存候然し俗用が省けて却つて呑氣な新年かとも御察し申上候 片田舍は殘雪いまだに堆積隨分出入に寒き感じ有之候 不相變書齋にこびりつき芳ばしき音づれもなく閉塞まかりあり候いづれ其内拜趨萬縷可申述候先は御禮迄 草々拜具
    一月十日                     金
   臨 風 兄
       座側
 
      一五三七
 
 一月十一日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜復其後は手前にかまけつい/\御無沙汰に打過申候今年は諒闇に口實を得てと申すと申譯なき次第ながらつい年賀状も差出さず恐縮の至に候
 御送被下候「滯英二年」正に落手御芳情萬謝仕候相憎包み紙さかさに相成居候ため御署名さかさに相成候事殘念に存候。然し其他には異状無之決して御掛念被下間舗候
 卷頭の小泉先生へのデヂケーシヨンは甚だ結構に候いまだ日本の著書にて八雲先生に捧げたものは一つも無之大いに嬉しく存候。此間沼波瓊音氏より「土」を讀んでゐると申越したる時愉快を覺え候と同一の趣に候「行人」御讀被下候由難有存候先がどうなるやら作者にも相分らずたゞ運次第に候御憫笑可被下候先は右不取敢御禮迄 草々
    一月十日夜                 夏目金之助
   大谷繞石樣
       座下
 
      一五三八
 
 一月十三日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 此間は御來駕の節は御面倒なる事を御願申上候處早速御引受御送難有候直ちに出版屋の方へ送り可申候
 額は御氣に入り結構に存候電車も汽車も無難とは申しながらあの風態は正に看板泥棒と思はれたらうと存候
 先は右御禮迄 草々
    一月十二日                 金之助
   虎 雄 樣
       座右
 
      一五三九
 
 一月十三日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 大分長い御手紙がありましたかにの御自慢には恐入りました。「行人」のなかにかにの珍味なる事を一寸書きました五六日うちに出て來ますから御覽下さい。尤もかにだのあなたを惡くいふ積はありませんたゞの滑稽の御慰に過ぎませんからどうぞ其積で御笑ひ下さいましおこつちやいやですよ。
 諒闇中の御正月だけあつて中々閑靜です來客の一人がいつもこんな呑氣な御正月がしたいと申してゐました。
 笹飴は私はたつた一つしか食べませんあとはみんな小供が食べてしまひました。さうして笹を座敷中へ散らばらしていやはや大變な有樣です
 御普請が出來て結構です見に行きたいがあのガンギといふものを思ひ出すと實に恐れ入ります。いやなものですね。先は御禮迄 草々頓首
    一月十二日                  夏目金之助
   森成麟造樣
       座下
 奧さまへよろしく
 
      一五四〇
 
 一月十三日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區西紺屋町實業之曰本社内渡邊新三郎へ
 啓
 此間中より扉につき御約束を實行せんと思ひ一度は多忙中一寸書いて見候へども何分字にも何にもならず已を得ず友人に頼み書いてもらひ候數葉あるうちいづれでも御氣に入り候ものを御採用願上候字は白字にして青肉のうちへ入れ度と存候が如何に候や尤も青肉は扉内に輪廓を描きそれを青にて埋め其なかに文字をあらはす積に候
 尤も萬事は御都合次第にてよろしく候先は右迄 草々
    一月十二日                 夏目金之助
   渡邊白水樣
       座下
 
      一五四一
 
 一月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 此間は合作のとき大御世話に相成候あの畫は記念のため取つて置きたいと存候 さて先達御送の小説拜見致候ものが外國もの故新らしく存候然し割合に興味が乘らないのは殘念に候。妻君の事が氣にかゝるのを一筋道に進行させ其うちに經又は緯としてあの夫婦子供の事を書き入れその副物として又自分の貧乏と金に不自由なくて獨乙の女に愛され居るMを配したら面白いだらうと思ひます。あのうちで小生の好いと思つた所は
 ○Mが女と寐てゐるのを外から見た所
 ○夫婦喧嘩の仕舞の處。然しあの發展ではまだ物足らず。もう少し細かくありたし。
 ○貧乏で喪狗の如く巴理の賑やかな通りをぶらつく處
 ○油が盡きて本の讀めぬ所
等に候。たゞ全體が少々纒つて居らず。又局部々々も物足らず。最後の畫を貼りつける處はある因果の結末として適當ならんもあれでは少々不服に候。
 字違ひ、假名違ひ。又は句の調はぬ所など小生にも眼のつく所有之候。猶詳細は拜顔の節委曲申述べくと存候先は右迄 草々
    一月十三日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五四二
 
 一月十五日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜啓先達ては御多忙中御無理なる御願申上御返事にて到底物にならぬ事を確め候へども念の爲め先方へ通知致候處該附録主任長谷川萬次郎氏より別紙の如き回答あり候につき御覽に入れ候是はたゞほんの御參考まで故其積で御覽願上候萬一御氣に召し候はゞ御寄稿願度と存候先は右用事まで 草々頓首
    一月十五日夜                金之助
   寅 彦 樣
 
      一五四三
 
 一月十六日 木 前6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜啓先日御話し致候大阪日曜附録につき長谷川君より別紙の通り申來候間御參考までに申上候。此樣子にては先日申上候原稿取まとめに對する報酬はちと六づかしきやに被存候 先は右御返事まで 草々
    一月十五日夜                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一五四四
 
 一月十八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地二丁目三九松根豐次郎へ
 啓上くれの廿九日には御約束のとほり深川亭へ參るべき筈の處生憎雪ふり早稻田の奥より兩國まで出掛けるのが難義にて失禮致候尤も小宮君は嚴格に約を重んじ拙宅まで被參候それを小生引きとめ此天氣では松根君も疑がはしき故やめても差支あるまじと申候是は大兄より小宮の手紙に對して御返事なかりし由故或は不參ならんと此方の都合よきやうに解釋致したる過失に候そこで電話にて御通知に及ばんと色々工夫を費やし候處生憎斷線にて毫も通ぜず。電報にては時間おくれ已を得ず其儘に致し候。使者を御宅〔へ〕走らする事さへ時間及ばず(尤も是丈は其時小生の頭に浮ばず候ひし)
 右の譯にて不行屆の段御詫致さんと存候處御歸國の由に承はり差控え申居候處能樂何とかへ御出席のよし新聞にて承知もう御歸京と存じ不取敢手紙にて右の事情と此方の不都合とを御詫び申候御ゆるし可被下候 草々
    一月十七日                 夏目金之助
   松根豐次郎樣
        座下
 
      一五四五
 
 一月十八日 土 牛込區早稻田南町七より 大谷正信へ〔封筒なし〕
 拜啓御高著更に御送被下難有存候先のにて澤山なりし處餘計な事を申上候段まことに御手數にて恐縮の至に不堪候もとの方貴命により小包にて御返送申上候間御落手被下度候
 先は右迄 草々
    一月十八日                  夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一五四六
 
 一月二十三日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町樋口秀雄へ
 御高著うつくしく出來上り結構に存候御惠投の一卷正に拜受御厚意千萬奉謝候
 目下手前用にかまけ拜讀の機を得ず其内諸用片付次第拜見の榮を可得候先は右不取敢御禮迄 草々不一
    一月二十三日                 夏目金之助
   樋口龍峽樣
       坐下
 
      一五四七
 
 一月二十七日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉舘小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓美音會員章及び會員紹介章正に落手致候御手數奉謝候同日參られるか何うか分らず候故席はことさらに注文の必要無之かと存候不取敢右御禮迄 早々
 
      一五四八
 
 一月二十七日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 神田區山本町萬佐方門間春雄へ
 啓上長塚氏よりの紹介状は先日參り候實は御仰せの如く原稿製造に中々手間取り存外餘裕無之候へども木曜の夕方ならば一寸は時間あるならんと存候間もし御差支なくば其節御出被下度候先は右御返事迄 草々頓首
    一月二十七日               夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一五四九
 
 二月五日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓此間は又久々にて突然素川君來訪少時談話に實が入り申候
 別稿大した知人にてもなけれど何處かへ出して呉れぬかとの依頼故入貴覽申候若し日曜附録にても出る事なら幸と存候書き手は相州鎌倉圓覺寺續燈庵林空水といふ男に候 先は右用まで
 安倍能成君の手翰貴下へ直接に相屆き候事と存候 匆々頓首
    二月四日                夏目金之助
   長谷川如是閑樣
         貴下
 
      一五五〇
 
 二月五日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜復先般は久々にて御出京御多忙中遠路わざ/\御來駕被下難有存候生憎小生も其晩に片づけなければ濟まぬ用を控え居候ため心ゆく迄御話も出來かね遺憾千萬に存候其節御約束の西條柿一箱正に到着風味は御自慢の通り正によろしく家人に講釋をしてたべさせ來訪中の某夫〔人〕にも茶の時の菓子としてわけ與へ申候
 例の如く多用と怠慢にて御返事も御禮も遲くなり無申譯相成候あしからず先は右迄 匆々不一
    二月五日                 夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一五五一
 
 二月八日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 啓上新年以後末だ御目にかゝらず候處愈御清適奉賀候岡山産名物吉備團子御送被下難有拜受今朝少々風味致し候箱破れ中より國子がころがり出候處もつけの幸に御座候先は御禮迄 匆々不一
    二月八日                  夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一五五二
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜啓先日は失禮致候御夫婦御招待の時日いまだ相極め不申候そのうち御都合可伺候
 偖別紙大阪の長谷川氏より到着致候が如何返事して可然やこれは大兄より直接の御返事では一寸御困りと存候につき一寸小生迄御洩らし被下度候 以上
    二月十日                   夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一五五三
 
 二月十日 月 後3-4 牛込區早碍田南町七より 本郷區森川町一小吉館小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓昨日妻より御送致候大阪朝日日曜附録のうちに林空水(社では間違へて雲水にしてゐるかも知れず)のもの掲載相成居候はば乍御手數一寸御送り願候本人へ送り申候
 
      一五五四
 
 二月十日 月 牛込區早稻田南町七より 牛込區早稻田鶴卷町一一〇飯田政良へ
  渡邊君の宿所は西大久保三七四に候
 拜啓實業の日本社員渡邊新三郎氏(號白水)より編輯上の用ある由にて甚だ安くて氣の毒なれども御所望ならば願つてもよろしとの事に候故明日午前中御繰合せ同氏宅へ御出向被下度候、若し先達ての事にて衣食の方面充分なれば夫にてよろしく候へどももし御不足なれば好機會故御出向御面會可然と存候
    二月十日                 夏目金之助
   飯田政良樣
 
      一五五五
 
 二月十五日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區神谷町池松常雄へ
 拜啓先日御光來の節は生憎他出の折とてとう/\玄關拂を喰はせ申候失禮甚だ無申譯ひらに御容赦願上候書畫帖御急ぎには有之間敷と存候へども寸閑を利用し相認め申候間小包にて御受取願上候 先は右迄 匆々
    二月十五日                夏目金之助
   池松常|雅《〔雄〕》〕樣
 
      一五五六
 
 二月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 其後御無沙汰に打過候日來稍輕暖を覺え候も北國にては如何にや矢張り雪に鎖されて御難儀の事と存候
 却説先般は御高著拜受ことにわざ/\御引換被下御厚志深く奉謝候拙著「社會と自分」出來につき御目にかけ申候くだらぬものをあつめ候殆んど御高覽の價値も無之と存候が極めて喋舌を弄し居候へば讀むに面倒も無之御寸暇も有之ば一二頁にても御覽願上候先は右迄 堂々頓首
    二月二十一日                夏目金之助
   大谷繞右樣
 
      一五五七
 
 二月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町樋口秀雄へ
 啓上先達ては高著近代思想の解意御寄贈にあつかり難有存候拙著社會と自分煩貴覽程のものにも無之候へど幸印行濟につき御目にかけ候小包にて差出候間御受納願上候先は右迄 匆々不一
    二月二十一日                 夏目金之助
   龍 峽 先 生
         坐下
 
      一五五八
 
 二月二十六日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓其後は失禮申上候偖小生小説「歸つてから」と申す分濟み次第あとのを掲載せねばならず候。然るに先般小生方へ二つの作を見てくれと頼み來候いづれも面白く無名の文士を紹介する積にて朝日に掲載しても毫も耻かしき事無之しかも其うちの一篇は文學土中勘助と申す男の作りしものにて彼の八九歳頃の追立記と申すやうなものにて珍らしさと品格の具はりたる文章と夫から純粹な書き振とにて優に朝日で紹介してやる價値ありと信じ候。尤も繪入小説の如く變化や進行はあまり無之其邊は御承知の上にて小生の後には何うか此中勘助君を御掲載願度電話でと思ひしもあまり長く相成候につき手紙にて申上候過日名倉君に面會の節も其話は致し置候右御相談の上何とか御都合相願度(電話にてよろしく)小生も出ると極まればもう一遍本人に歸して推敲やら書直しやら致させ度故一寸右伺ひ候餘は拜眉萬々
    二月二十六日                夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五五九
 
 二月二十七日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 拜啓先日來御約束申上候御案内の件段々色々の事情にてのび/\に相成無申譯候
 明後土曜三月一日もし御繰合せ相つき候はゞ御兩人御揃にて御枉駕被下候はゞ幸甚に候夕食の仕度と申す程のものも無之寒厨あり合せのものにて夕飯差上度候間夕景より御越し被下度是も序を以て願置候萬一御不都合も有之ば一寸御報知被下候はゞ好都合に御座候先は右迄 匆々 乍筆末御令閨へよろしく御傳聲願上候 以上
    二月二十七日                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一五六〇
 
 三月一日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜復其後は御無沙汰御手紙の趣にては大分骨董金石書畫など御樂しみのやうに被存候が清國にては左樣のものでも愛玩するが一番の風流かと存候小生は手習は致さずたゞ五六の法帖を時々披見致すのみにて候 鄭道昭の石碑はかつて不折かたにて披見致候がふか痘痕の如く頗る難解の變なものに有之候
 拙著つまらぬものながら新刊につき御目にかけ申候御ひまな時少々宛御覽願候 先は右迄 匆々頓首
    三月一日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一五六一
 
 三月三日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓先日は電話にて失禮致候其後與謝野さんの方は如何相成候や。偖同便にて差出候小包中には二種の羅馬字で出版した新著を入れ置候
○羅馬字での著書は日本にて始めての由
○一は理學博士田丸卓郎氏の「震動」と稱するものにて「震動」の原理を斯う簡單に且つ手落なくつづめ得るのは大變御手際の入るものゝ由
○今一冊は同じく理學博士寺田寅彦君の海の物理學と稱するものにて|も《原》是も薄き頁少なき割には中味非常に該博にてとても一通りや二通りの力量にてはかうつゞめられぬ由承り候
○兩氏は是を朝日紙上にて紹介して貰ひたいと小生に依頼致候。然る處目〔下〕議會やら相撲やらにて多忙の紙面故新刊紹介の部なら頼んで見やうと承諾し置き候何とぞ其道の人にどうぞ御頼|ひ《原》願度候
○夫からもう一つ御願有之候。宮本和吉といふ文學士オイケンの著者を新約致し候につき安倍能成君其批評をかき候がそれは三段ばかりのものゝ由なるが、どうぞ小生の小説「行人」の後へでも出して呉れまいかとの相談に候
 小生編輯上の事全く不案内に候へども右は折角の依頼故黙つて居る譯にも參りかね、御都合を伺ふ次第に候名倉君とも御相談の上何とか御都合被下候はゞ幸に候尤もオイケンの批評の事はあまり長いならつめさせてもよろしく候、又は前二書と同じ樣に新刊の處へ割り込まして頂いても結構其旨は小生より先方へ掛合可申候先は右御願迄 匆々頓首
    三月三日                夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五六二
 
 三月四日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區水道町五四安倍能成へ
 先日はわざ/\御まねき申し何の風情もなく甚だ遺憾に存候偖御話のオイケン譯の評社の方へ懸合ひ申候處只今月初にて廣告意外に多く候へどもすきを見計ひ二日つゞきにて掲載致す樣取計つてもよろしとの返事につき草稿を朝日社(京橋區瀧山町四)名倉聞一宛にて右の事情相添御送り被下度候出る日限の義は一寸御受合出來かね候へども右にて御許容願度と存候
 御令閨へよろしく 匆々
    三月四日夜                 夏目金之助
   安倍能成樣
       座下
 
      一五六三
 
 三月四日 火 後11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜啓先日の御手紙拜見小生は小説すみ次第友達の件にて奔走する約束あり夫から高等工業で演説もせねばならず色々多忙到底最初の講義などは出來ず最初の約束通りまづ|一《原》に一度か或はそれも六づかしいかと存居候小生は寧ろ名前を貸した位に思ひ居候 匆々
 別紙甚だ恐縮ながら中勘助君に御差出願度同君のゐる御寺の名を忘れ申候
 御令閨へよろしく
    三月四日                 夏目金之助
   野上臼川樣
 
      一五六四
 
 三月四日 火 牛込區早稻田南町七より 下谷區上野櫻木町四四眞如院内 中勘助へ
 久々の御無沙汰御宥し被下度候かねて御あづかり申上候小説實は僕のあとへと思ひ其旨社へ懸合候處澁川氏在社のみぎり與謝野の妻君に巴理から歸つたら書かせる約束をして置いたとかにて先方で四月一日頃からの積で書いて居る由尤も小生の小説が存外早く終り、向ふの準備が思ふ樣はかどらねば大兄の分を先にするかも知れねども左もなくば晶子夫人のを先にする事に相談相極め申候其代り其後には訖《原》度大兄のを載せるといふ契約を電話で取り極め候故右甚だ遲れ勝にて御迷惑とは存候へども御承諾被下度候
 御寺は御寒い事と存候老生夜は火鉢とストーブにて凌ぎ居候 匆々
    三月四日                  夏目金之助
   中 勘助樣
 追白あれは新聞に出るやう一回毎に段落をつけて書き直し可然候。ことに字違多く候故御注意專一に候、夫から無暗と假名をつゞけて讀みにくゝも候夫には字とかなと當《原》分によろしく御混交可然か、
 
      一五六五
 
 三月八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一波邊和太郎へ
 啓横濱大火の新聞で吃驚致し候やけた處をしらべて見るに元濱町と申す所不見當矢張り御無事と存候へども地理不案内につき何所迄燒けて來たか分らず即ち此見舞状を書たる譯に候もし見當違だつたら眞平御免下さい。近火だつたら大に同情の意を表します 先は右迄 匆々
    三月八日                 夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一五六六
 
 三月八日 土 後8−9 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓
 深川大火の由新聞にて拜見致候處貴君の御住居はどの邊なるや承知仕らず元來深川は不案内にて何所も承知致さず候所に何だか大兄が燒けたやうな又燒けないやうな氣分に相成萬餘計な事とは承知の上にて御見舞状を差上候多分御火災の難は無之事と存じゆつくり構へ居しものゝ神經が咎める故一通如此に候 匆々頓首
    三月八日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 二伸過日願候安倍君の論は書肆の都合上少々出版の時機後れ候につき四月に入り改めて願ふ事に相成其節は何分よろしく願上候 早々頓首
    三月八日
 
      一五六七
 
 三月八日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 先達ては失禮君の御歸りの後すぐ同封の端書參候早速御屆可申上筈の處八丈島云々の話も聞き居り候へばどうせ出る氣はないものと心得其儘に捨置申候もし猶在籍もしく〔は〕出席必用なら何うにか工面の道も可有之小|一《原》生立替申てもよろしく候 先は右用事迄 匆々
    三月八日                 夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一五六八
 
 三月十日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓昨日はわざ/\電話にて南米博覽會御誘引難有存候あれから十分程して出かけ候處二時三十分にて御約束の二時十五分に間に合はず殘念ながら一人で光風會を見て電車で歸り申候
 光風會は可成見物有之聞いて居るとみんな僕見たやうな半可を振り廻し居候再度御注意ありたる例のはだかのマンドリンを持つた女はつく/”\拜見致候があれは人間にあらず怪物に御座候膝頭其他に林檎を括りつけたるやうな趣有之甚だ奇異に候のみならずあれを五分間わき目も振らず見て居られるものがあつたら一等賞に價する鑒賞家と存候 先は右迄 匆々
    三月十日                  金之助
   寅 彦 樣
 青楓君の畫如何御覽なされ候やあゝやつて他と比較すると何だか下手なやうな感が致候
 
      一五六九
 
 三月十一日 火 前8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 啓上小生「杜會と自分」六版の節正誤を致す考に有之候につき大谷君のは今日渡邊君に廻し置候大兄御氣〔付〕の分もしあらば可成早く同君宛にて御送被下候へば幸に候 以上
 
      一五七〇
 
 三月十六日 日 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區小日向水道町九二中勘助へ
 拜啓君の小説は小生の次に掲載する事に相成候
 與謝野の妻君は目下懷妊中にて執筆困難の由社へ申込候よし
 回數は少々増しても構はず一回を一段と十行位にした方が讀み好からんとの社員の意見に候御意見も可有之候へども若し出來得るならばさうしたら宜しからんと存候
 序を以て右蛇足をつけ加へ申候 以上
    三月十六日夜               夏目金之助
   中 勘助樣
 小生の小説は今月一杯位つゞくやも知れず大兄の豫告かねてより御作り置き被下度五六行にて結構に候
 小生第一回の冒頭に矢張五六行の序の樣なものを紹介のためかく積に候
 
      一五七一
 
 三月十七日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 拜復養子の件承知致候有望の所ならば此方より御勸め申上度候然し當時小生方に寄寓などゝ嘘を吐く必要は有之間敷たゞ小生方へ朝晩出入する位にて可然かと存候事實はその通りなる故其方將來のために好都合かと存候
 金の爲め御困りの樣子是〔亦〕承知致候も〔し〕百圓位にて此難關が切り拔けられるものなら差上げてもよろしく候、然しそれ位では燒石に水と相成候へば差上げぬ方却つて雙方の便宜に御座候 先は右御返事旁御伺び迄 匆々頓首
    三月十七日                 夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一五七二
 
 三月十九日 水 後11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四一津田龜次郎へ
 しばらく御無沙汰をしました折角御約束をして濟まんと存じましたがつい機會があつたものですから光風會を二度見ました。色々面白いのがありました。あなたの瓶に團扇は好いやうに思ひます其代海(ことに大きな方)は賛成致しかねます。有島君の靜物と花は面白う御座いました。
 さて御願があります。私は一昨年の秋に一つ半になる女子を失ひました。今雜司ケ谷へ埋めてありますが何うか其墓を拵らえてやりたいと思つてゐますが、あなたに其圖案を作つて頂けますまいか。普通の石塔は氣に食ひません。何とか工夫はないものでせうか。字は此方でだれかに頼むつもりです、でなければ娘の事だから自分で書かうかと思つてゐます
 圖案科と申すほどの御禮も差上られませんが其邊は骨を入れる棺や石の代と比較した上で何とか致します。先は右御伺ひ迄 匆々
    三月十九日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五七三
 
 三月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區小日向水道町九二中勘助へ
 拜啓御手紙拜見致候 作者の名は中勘助が最上等なれどそれで不都合なら致し方なく候 那迦、奈迦、或は勘助、かんすけ、抔如何に御座候や 小生の小説中々濟まず自分も困り大兄にも御氣の毒に候或は來月へ出るやも計りがたく候。稿料の義は未だ相談の運に至らず候へども小生中に立ち候上は相當の御禮は可致候然し無名氏の君の事故いくら面白くてもさう澤山は出さぬものと始めから御覺悟は被下度候
 猶々御老母御病氣御大事に御看護必要と存候 安倍も歸郷致候由 先は御返事迄 匆々頓首
    三月二十一日              夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一五七四
 
 三月二十二日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保一五六戸川明三へ
 拜啓手前よりも御無音に打過申候兎角出無精にて諸方へ失禮のみ重ね居候御詫び致し候小説御讀み下さる丈にても難有き仕合せことに今回はことの外の御賞美にあづかり嬉しき限に候近來は自分の書いたものを朝新聞で讀んで自分で滿足か不滿足を感ずる丈にて天下に味方は一人もなき心持に候へどもつゞまり相つかず不得已毎朝筆を運び居候次第御ほめにて恐縮致候いづれ其内拜顔萬々 頓首
    三月二十二日               夏目金之助
   戸川秋骨先生
        座側
 
      一五七五
 
 三月二十八日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷砂土原町一丁目一中島六郎へ
 啓
 其後御無音に打過申候音樂學校卒業式の切符御親切に態々御送被下難有存候然るに天氣模樣と氣分のあしきとそれや是やにて遂に出席を不得遺憾此事に存候御禮にまかり出でべきの處多用を口實に手紙を以て拜趨に相替申候不惡御宥恕被下度候 以上
    三月二十七日               夏目金之助
   中島六郎樣
 
      一五七六
 
 四月二日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓まだ原稿を書くと頭がふら/\し。立つと足がふら/\し。胸も時々痛みますが。今日ためしに一回かきました。是があとずつとつゞくとよう御座いますがあとが危險ですからあなたの方の都合の出來るまで少し溜めて置いて出す譯には參りますまいか。まだ流動物で俊寛の如く存在致居候 匆々
    四月二日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五七七
 
 四月三日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒の表側に「原稿在中」とあり〕
 啓上今日も一回書き候間御送申候此分にでは終局までつゞけて書け可申無御遠慮御連載願候 匆々
    四月三日                  夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五七八
 
 五月十八日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 拜復病氣御見舞被下難有存候其後漸く順當に快方に向ひ旬日にてどうかかうか本復可致と存候間乍他事御休神被下度候病中諸方の見舞状に對して一言も返事を出さず書くのは是が始め位なものに候返事が書ける位故先々御安心願候櫻の時床につき起きる時はもはや子規の鳴く頃と相成候世の中の推移は早いものに候去りとて生れ變つた心地も不致妙に御座候先は右迄 匆々 敬具
    五月十八日                 夏目金之助
   大 谷 賢 臺
         座下
 
      一五七九
 
 五月二十日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 拜復御親切なる御手紙難有拜見致しました病中は又態々御見舞の品を頂戴まだ御禮も不申上萬事御海恕願候 昨今漸く快癒に向ひ候へどもまだ外出は一歩も致さずいづ方へも御無沙汰故どうぞ不惡
 新聞のつゞきものと申すもの臆《原》劫なるものに候へども是で衣食する以上は致し方も無之自分では教師より遙かに好きに候
 病氣をする度に職業がへを勸むる人必ず出て參り候小生も病氣程不面目のものなき樣相成候へども依然病氣にかゝり申候御憫笑被下べく候いづれ其内拜眉萬々可申述候
 釋宗活師には既に御會ひにや至つて温厚の人に候御ひまな節兩忘庵迄御出掛可然か 先は右迄 匆々
    五月二十日               夏目金之助
   沼波瓊音樣
       座下
 
      一五八〇
 
 五月二十日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區小日向水道町九二中勘助へ〔はがき〕
 度々御見舞難有う皮膚病にて御困りの由一日も早く御全快を折る。野上にも其後久しく面會せず。近來は床はとり放し起きたり寐たりの有樣御閑もあらば御遊びに入らつしやい
 
      一五八一
 
 五月二十四日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓小生病中は社員坂崎君を以て再度御見舞を辱ふし御好意深く奉鳴謝候御蔭を以て逐次回復起居も自由に相成候まだ門外へは出ず候へども先づ平生通り振舞居候其内外出も出來可申と存候就ては坂崎君の宿所承知仕り度甚だ恐縮致候へども一寸端書にて御報知願度と存候
 猶序を以て願置候は二十八日池邊追悼會に出來得れば參會致し度又富士見軒へも顔を出し度と存居候がまだ外出不馴の事とて醫師に相談を要し候につき晝餐會出席の儀は未定と致し置度或は出席と致し會費丈差出候てもよろしく其邊可然幹事の方に御傳願度是はあなたに御依頼するのは失禮ですが幹事が分りませんから御手數を煩はしたいと思ひます
 先は右御禮旁御伺迄 匆々頓首
    五月二十四日                夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一五八二
 
 五月二十九日 木 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜復御病氣御本復の趣恭挽存候小生漸く床を這出昨日始めて外出致候
 却説大觀の柳表装と箱わざ/\の御使にて御持たせ被下難有存候右代價十八圓五十錢封入差上候間御査收願候先は不取〔敢〕用事迄 匆々頓首
    五月二十九日               夏目金之助
   橋口五葉樣
 
      一五八三
 
 五月三十日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ
 拜復一昨日は久々にて御面晤其節は食堂にての御監視恐縮千萬に存候御蔭にて歸宅何の障りも無之無事起臥罷在候間御安神被下度候
 軸物の御注文にはちと避《原》易致候實以ての惡筆折角頼まれゝば恥曝しを覺悟の上にて依頼者の芳志を空うせざる事をつとむる丈の事に候若し御入用とあれば何枚にても書き可申然し御承知の通りの病躯いつ死ぬか分らぬ故全くの處記念と覺召被下度候
 だから若し生きて居れば今にうまくなつた時書き直さうといふ山氣あり從つて表装は御無用に候
 夫故斯う白状すると是非何か書かねばならぬ義務一寸面喰ひ候へど折角故何時か惡筆を無遠慮にのたくらせ可申候 先は右御返事迄 匆々
    五月三十日               夏目金之助
   松 山 樣
       座右
 
      一五八四
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區東平野町七丁目二八一武宋※[金+珍の旁]七へ
 啓あなたには病中親切な手紙をいたゞいて夫限返事も出さないでゐる甚だ申譯がない病氣は漸く回復しました。諸方からもらつた手紙へ返事を山のやうに出さなくてはならないのが苦痛でのんべんぐらりに今日迄書かずにゐます。今夜は二三本書くつもりです。だから是丈で失禮します又甚だ亂筆で申譯がありませんが病氣御見舞の御禮と行人を讀んだり切拔いたりして下さつた御禮を是で濟まします 匆々頓首
    五月三十日夜                夏目金之助
   武定巨口樣
 
      一五八五
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓病中は御見舞状を賜はり其上早稻田迄御出被下難有存候それから段々回復昨今漸く人間らしく相成候此手紙は御禮に候へども其御禮状を一切放擲して置いた因果として大變書かなくては濟ま〔ず〕悉皆申譯ばかり故其邊は不惡先は右迄 匆々
    五月三十日                夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一五八六
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 森成さんあなたが手紙をくれた時は私はうん/\云つて寐てゐました夫で返事も何も上げませんでした昨今漸く人間らしい氣分になりましたから御返事を致します病名は例によつて例の如くです、見事な血便が出ました丸で履墨の如く鮮なものでした。けれども今度も亦癒りました。御醫者は須賀さん丈でした。此頃手紙を呉れた人へ返事を書くので大騷ぎです今迄怠つたのを後悔します此手紙も後悔の一部です其代り長い事は何も書けません是で御免蒙ります 左樣なら
    五月三十日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一五八七
 
 五月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 伊豆大島元村千代屋林原(當時岡田)耕三へ
 病中は色々御世話になり候島へ渡つてからは度々御手紙をいたゞきまだ一返も返事を出さず甚だ無申譯候實は少々畫に凝つて他事を閑却遂に失敬尤も碌な畫はかゝず只凝る丈也
 偖島では色々御困難の由どうも御氣の毒の至り君から手紙がくる度に又何か始まつたのだらうと思ふ果して何か始めてゐる。一體兄キから九月迄居る丈の金がくるのかい隨分厄介な話ぢやないか小學校の教師位するが好い疲れたつて勉強しに行つたのぢやないから小供と遊んで居れば好いぢやないか。
 小生一昨二十八日始めて外出、外へ出て見ると寐て居る騷ぢやないから歸つて早速床を上げてしまつた。先づ回復と申して差支な〔し〕安心を乞ふ
 手紙を山のやうに書かなくてはならない こゝで失敬する
    五月三十日             金之助
   耕 三 樣
 
      一五八八
 
 六月一日 日 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 啓病中は御見舞状を賜はり又京都からは面白い畫端書を御送り被下難有存候君の顔を人が見て非常に感服致し居候小生其後順當に快方に向ひ昨今は又人間の群に伍する次第とうぞ御喜び被下度候御禮があまり延び過ぎ候へどもためて置いて一度に出す禮状故其邊は御海恕願候 右迄匆々
    五月三十一日               夏目金之助
   臨 風 兄
       座下
 
      一五八九
 
 六月二日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 啓上小生宿痾再發の砌は御尋ねにあづかり其後御芳書をも賜はり御親切せつに難有候其節は筆を持つ事大儀にて出來る丈義理を延ばす惡い了簡を起し今日迄御禮を申さず甚だ無申譯次第御ゆるし被下度候昨今に至り手紙の返事を書く事の容易ならぬを覺り閉口まかり在候手紙もたまると厄介なものに候此手紙も厄介な一つと申しては恐縮千萬ながら實は此兩三夜手紙責の苦痛を切實に味ひ申候却説病氣の方は御蔭を以て又々人間世界に暫時立ち還る事と相成候先づ尋常人に近き行動をとる事を心掛居候間乍憚御安心被下度候先は右御禮旁御挨拶申述候 以上
    六月二日                夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一五九〇
 
 六月二日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 山口縣山口町山口國學院野村傳四へ
 啓君の手紙が來た時は病氣で寐てゐたので返事も出す事が出來ず殘念であつた其後快復はしたが矢張り病後の事でつい筆を執るのが億劫なものだからつい今日迄何も書かなかつた僕の病氣漸く癒つたから先づ安心して呉れ玉へ夫から君が岡山を去つた顛末は君の手紙で委細承知した厭な事のあるのが世の中だとあきらめ玉へ其内又いゝ事が巡回して來るだらうから 山口では書生と同宿の由久し振での書生生活ものん氣で面白いだらう先づ々々辛抱し玉へ勉強は已めぬ由こんな結構な事はない小生は教師をやめてか〔ら〕字引は殆んど引かない自分でも可笑しい位である獨乙や佛蘭西を物にしやうと思ふが時間が足らず近頃は病後恣に閑を貪つて畫ばかりかいてゐる半切がこゝで盡きたから先づ擱筆す
    六月二日                金之助
   傳 四 樣
 
      一五九一
 
 六月三日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ
 御手紙拜見序の御求めも承知致候が是にははたと行當り候實は「殻」の序文をのばしたから何か書いてくれと頼まれ夫が先口だけれども先づ斷はり申候あなたの本は其上何も書く事がないのに少からず弱らせられ候
 却説病中は御手紙にて御尋ね被下難有存候早速御禮を可申述筈の處無精を極めどこへも無沙汰漸く四五日前より禮状丈諸方へ出し候處是亦非常な難事業にて閉口致候 木曜には野上久振にて御出の由待上候萬縷其節に讓り可申候 以上
    六月|四《原》日               夏目金之助
   野上八重子樣
 
      一五九二
 
 六月三日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺北門下河原東入厨川辰夫へ
 拜復御手紙難有存候病氣は漸く本復又しばらく人間界の御厄介に相成る事と相成候行人御高覽にあづかり感謝あとは單行本につけるか新聞に載せるか未定に候大して長くなければ新聞に出すまでもなくと存候近頃は如何なる方面御研究にや先達ての御高著好評にて何版もかさね結構慶賀至極に候先は御挨拶迄 匆々
    六月|四《原》日               夏目金之助
   厨川白村樣
 
      一五九三
 
 六月十日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町ホトトギス發行所高濱清へ
 啓 相模のちり御採録被下候由にて難有存候あれは未知の人なれど折角故たゞ小生の寸志にてしか取計ひたる迄に候紹介樣のもの御入用の由故わざとばかり認め申候。近頃一向御目にかゝらず健康も時々御違和の由承はり居候へども疾に御全快の事とのみ存居候ひしにいまだに御粥と玉子にて御凌ぎは定めて御難澁の事と御察し申上候夫ではひとの病氣處にては無之御見舞状を受けて却つて痛み入る次第に候
 ホトヽギスは漸次御發展の由是亦恭賀小生も何か差上度所存丈はとうから有之候へども身體やら心やら其他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るやうの傾甚だ無申譯候四十を越し候と人間も碌な事には出合はずたゞ斯うしたいと思ふのみにて何事もさう出來し事無之耄碌の境地も眼前に相見え情なく候御能へは多分參られる事と存居候萬事は其節 匆々頓首
    六月十日                  金之助
   虚 子 先 生
         座右
 
      一五九四
 
 六月十日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上八重へ
 啓上 傳説の時代につき序文再應の御求めにより臼川君の仰通り手紙を以て事を辨じ申候若し御役に相立候へば幸に候
 小生其後順當に回復外出も致し候九段の御能へも出來れば參る積に候先は用事迄 匆々
    六月十日                 夏目金之助
   野上八重子樣
 
      一五九五
 
 六月十日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 啓上此間は御地名産長生殿と申す菓子一折御惠投にあつかり難有頂戴あれは熊本にゐるうち同僚の一人國元より取寄屡御馳走になりたる記|臆《原》のあるものに候長生殿といふ名は小生には至極縁喜よろしく候然し斯う死にかゝつては生き還つてはいくら長生殿にても夫程御目出度もなく候近頃病氣の方は先々回復致し候へどもある道樂に屈托夫か爲めつい御禮を申述る事を怠り甚だ不相濟候乍遲延一筆如此候初夏不順梅雨鬱陶敷候へば隨分御厭可被成候 以上
    六月十|一《原》日             夏目金之助
   大谷繞石樣
       座右
 
      一五九六
 
 六月十一日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 啓上先達て上野へ行つて太平洋畫會を見ました。あなたの屏風を別の室から拜見した時は大變雄大で面白いと思ひました。所がそばへ行つて能く見るとあの布地へ油繪具を使つたのはどうしても下品で毒々しい感がして殘念でした。もし是が普通の屏風で日本繪具で書いてあつたらと思ふと甚だ遺憾の至です。あの位な大き〔な〕畫を書いて布地と繪具で打ち壞はすのは惜いではありませんか
 私はもう畫を切り上げやう/\と思ひながらま〔だ〕書いてゐます今度來たら又見て忠告をして下さい此間色々いつて貰つたので大變利益を得ました。といふと畫がかけるやうで可笑しいですが、近頃は中々かけますよ三日に一つ位傑作を拵えては一人で眺めてゐます、水彩畫展覽會の方も見ました。小杉未醒のスケツチが面白う御座いました。どの畫を見ても下手な自分と比較すると偉大ですどうして日本にこんな奇麗な畫をかく人が澤山あるかと驚きます 色々くだらぬ事を申上ました。 左樣なら
    六月十|二《原》日              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五九七
 
 六月十一日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區臺町二七渡邊方東新へ
 此間音樂會へ參る日は朝から出て上野の展覽會を見て精養軒で飯を食つて歸りました夫で音樂會の方は失敬しました席を取つて待つてゐて呉れた由難有御禮申ます實は當日切符が玄關で買へなからうと思つたのも一つの原因です。明日の美音會は小宮からも席を取つて置いたと通知して呉れました。明日は久し振で夫婦參るかも知れぬ故切符は差上ません。若し私が行かなければ荊妻も行かないといふ故二枚とも餘る譯になるが其時は仕方がない急に入用の人を見付け得なければ切符は癈物になるのです先は御返事迄 匆々
    六月十|二《原》日             夏目金之助
   東 新 樣
 
      一五九八
 
 六月十八日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 小川千甕先生の畫を御送り被下難有候どうも旨いですねだれの畫を見ても感心の外なくカツ存外な思ひも寄らない所をかきます 斯うなるとあらゆるものに感服し敬服し歡喜する事が出來て甚だ愉快です 私はあれから二三枚妙なものを畫きました其うち一二枚必ず賞められなければ承知の出來ないものでいつか序の時又見て下さい
 右御禮旁御報迄 匆々
    六月忘日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一五九九
 
 六月十八日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣駿東郡富士岡村神山勝又和三郎へ
 拜復御手紙で御見舞をいたゞき難有う存じます私の病症は先年と同じく潰瘍です血が澤山下りました。生きてゐますがいつ死ぬか分らないと思つてゐます。小林先生には今見て頂いてゐません。御尋ねの森田の家は牛込矢來町|四《原》。鈴木は青山四丁目です。夫から西村のは滿洲大連ですが今一寸覺えて居りません。何でも子供の娯樂場のやうなものを拵へてゐるのだからさういふ名前でやつたら屆くだらうと思ひます。家内家族無事にくらして居ります。先は貴酬迄 匆々頓首
    六月 《原》日               夏目金之助
   勝又和三郎樣
 
      一六〇〇
 
 六月二十五日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 
 啓本屋から注文の書物をかくひまありや最近歐洲文學といふやうなもの。若し意あらは明木曜御面會致したし。來てくれぬか 匆々
 
      一六〇一
 
 六月二十七日 金 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區西紺屋町實業之日本社内渡邊新三郎へ
 拜啓先日は御光來の處失禮致候其みぎり御話の著書の件昨夜野上氏に面會委曲相話し候處七月十四五日以後に取りかゝる事に致し其前に現在の仕事を片づける積と申居候につき右樣御承知相願候尤も是は大體の相談のみにて立ち入りたる條件其他は丸で問題と致し置かざりし故其邊は御含み置の程願候同氏宿所は巣鴨上駒込三三四にて山の手線にて停留所より僅か五六分の便利なる地位に有之候是も序を以て御參考迄に申上候先は右當用のみ 匆々
    六月二十七日               夏目金之助
   渡邊白水樣
 
      一六〇二
 
 七月二日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川方津田龜次郎へ
 拜復先達て御出の節丁度私の畫の批評を願つてゐる頃尊大人が御逝去になつたとの御報には少々驚ろきました何だか私も責任を免がれない氣が起ります。親の死んだ時涙を流す事の出來ないのは人間の不幸の樣にも思ひます。私の父は私が熊本にゐる頃没しました。私は試驗中でとう/\出京もしませんでした。出《原》京もしませんでした。何しろあつく御くやみを申上ます。
 畫は二三日前からやめました。あまりすさむと外の事が出來ないと思つて紙の盡きたのを好機として切り上ました。其後かいた傑作は今度御歸になつたら見て下さい。どうも鼻もちのならない自畫像があります。高橋廣湖といふ人の層覽會を見て日本畫家のいつもながら鮮やかな御手際に感心しました。西洋人が見たら嘸驚ろくだらうと思ひます。健筆會に支那の呉晶碩といふ人の畫があります。是は文人畫のアンデパンダンだから面白いです。しかも西洋と關係なくフヒユーザン會とも獨立してゐるから妙です。あなたの畫に昨日賛をしました。案の錠《原》遣り損ひました。今度御覽に入れます。私は昨日上野の歸りに古道具やで軸を一幅買ひました。代價は七十錢です。私には面白いと思はれる變てこな畫です。是も御覽を願ひます。私は今日古いスチユーヂオを出して十冊ばかり見ました。さうして感心してゐます。畫かきが畫をかく事の出來ないのは郵便屋の足を切られたと同樣さぞつらいでせう。早く御歸りなさい。御兄さんによろしく 早々
    七月二日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六〇三
 
 七月三日 木 後9-10 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓先達は大きな寫眞の御惠送にて久し振に尊顔を拜し候あれを畫にかいて見た所犬は出來候が人物は妙に相成畫家から芝居がゝりだと笑はれ申候此間は清さんを尋ねた處脚氣がまだよくないやうであつたが夫でも座敷で大分長く話し申候色々畫を見せてもらひ候日曜だつたので半次郎君にも珍らしく面會する事が出來申候同君が南京から持つて歸つたといふ畫を見せてもらひ候
 只今東京では健筆會開會中にて是に支那人の書畫も大分出品致居候中に呉晶碩とか申す老人のものことに目立ち候是は正しく文人畫のアンデパンダンにて頗る振つたものに候其他の支那〔畫〕中には隨〔分〕卑俗なものも有之候何うして本場の畫家があゝ墮落するのかと驚ろかれ申候或は素人かも知れず候中林梧竹老人の半切を見事に表装したるものゝ前で大分|盗《?》心相萌し申候がどうせ我々の手には入るまいと斷念致候 故高橋廣湖といふ人の遺作展覽會も只今開會中に候 日本畫家の手際の綺麗な事には感服の外なく候。小生は此春八重櫻の咲く頃より持病にて二ケ月も寐目下漸く人間らしく相成候病中は御惠與の杜詩を讀み苦悶を消し候 杜詩を一通り眼を通したのは今回が始めてに候是も御好意の御蔭と深く喜び居候。杜詩はえらいものに候。 此間ゴッホの畫集を見候珍な事夥しく候。西洋にも今に大雅堂が出る事と存居候。御贈の拓碑只今着披見小生あの方の道に昧き故歴史的に何にも分らず。只字體の面白き所にのみ興を惹き申候。御芳志難有候書苑と申す雜誌御承知にや隨分珍なるものを載せ申候も中には珍らしきのみにて一向難有からぬものも澤山に有之候御慰みに御取寄せありては如何。畫報社より雅邦大觀と申すもの出で候最初の二卷にて雅邦の價値も相分り申候あれは實に巧みなる人と存候あまり巧み過ぎて窮屈に候其でも品格の落ちぬ所が偉ひ點かと思はれ候 東京は東京で色々面白き事も年中行事丈でも澤山に候支那は支那で隨分風流な書畫骨董あさりも出來可申 いづれ其内御歸りに相成候はゞ色々土産話として伺ひ度と存候 先は右迄 匆々
    七月三日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一六〇四
 
 七月四日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
 俳味の裏畫には大なる敬意を表します。まつ風といふ字も旨いです。あのシテの衣裳の線が滅茶々々でしかも滅茶々々ならぬ所がうれしく存候。形而下派の方がどうも勝利になりさうです
 
      一六〇五
 
 七月七日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ
 拜啓先日出社の節は久々にて拜顔折柄の混雜にて思ふやうに御話も出來かね殘念に存候却説かねて御たのみの拙筆此書翰と同便小包にて差出し候故御受取被下度候御斷はり候通りの胡麻化字なれど御所望故耻を御覽に入候次第御一笑の上過般申上候樣御取計被下度侯先は右迄 匆々
    七月七日                  夏目金之助
   松山忠|次《〔二〕》郎樣
 是デモ十枚バカリ書いたうち一番小生ノ氣ニ入ツタモノナリ
 
      一六〇六
 
 七月十二日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 拜復宗活の處へ御出掛の御決心結構に存候いゝ坊さんに候御つき可被成候一昨夜禅をやる男突然參りしきりに其功能を述べ候小生の前にて帶をとき腹など見せ候彼は夫程うれしいのに候。何卒御やり被成度候
 ベルグソンは立派な頭脳を有したる人に候あの人の文を讀むと水晶に對したるが如く美くしき感じ起り候夫カラ其態度が超然として逼らず怒らず餘計な事を云はず又必要な事をぬかさず。人格さへ窺はれ候。奥ゆかしき學者に候。ベルグソンはベルグソン 宗活は宗活として御研究あらん事を切望致し候。
 只今御書を拜受せる折柄一寸ひま故くだらぬ御返事を差出し候、座禅には洋服は駄目かと存候、日本服の方安かるべく被存候。宗活さんに御面會の節は其内小生も久しぶりに話しに行くと御傳へ願候 以上
    七月十二日                夏目金之助
   沼波瓊音樣
 
      一六〇七
 
 七月十八日 金 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區高輪御殿山七一八中村蓊へ
 拜復
 からについての御手紙拜見致候實は先達より何人にも波交渉にてしかも小生には大いに必要な事のために頭を使ひ居り夫がため人のためには一切何事をなすの勇氣も餘裕も無之「から」の事も存じながらつい其儘に相成居候。行人の原稿などは人の事にあらず自分の義務としてもまづ第一に何とか片付べきを矢張まだ書き終らざるにてもしか御承知願上度候勿論社會とも家族とも誰とも直接には關係なき事柄故他人から見れば馬鹿もしくは氣狂に候へども小生の生活には是非共必要に候。それに何とか區切をつけぬうちは中々カラ處の騷でなく全く不人情な話ながらカラ抔はどうでもよく(小生には)相成居候。貴兄よりは怪しからぬ次第なれど小生には當然の事と覺召し被下度候
 春陽堂が一體平氣でゐるがわるいと存候大兄は又大兄でさう/\カラでばかり氣を揉むべきにもあらず候小生五六行を新聞にかきたりとて六七百冊の本が一時に賣れる抔とはのんきな大兄でも想像被成間敷と存候何事も時節因縁を御待ち被成べく候。小生は元來不親切な人間に無之候へども目下は人に親切を表してゐられぬ位自分が大切に御座候其意味は大兄には通じ申す間敷候へども大兄をしばらく小生と客觀視して想像せば人の事どころではないといふ場合のある事も多少思ひ當る御記憶も想像も出來可申候。時機あり候節はカラを忘れる小生に無之又君を忘れる小生にあらざる事は君の小生を忘れざると同じ事に候。斯く露骨なる御返事はやめたく候ひしがあまりに御催促はげしき故貴命に應ずるか又は事實を自白するかどつちかにする必要相生じ候故申上候決して意地わるき意味に御取り被下間敷候 以上
    七月十八日                夏目金之助
   中村 蓊樣
 
      一六〇八
 
 七月十九日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓先月は十六日を忘れたれど今月は十六日を忘れず御約束の金子待ち焦れ居候至急御返濟願上候 以上
 
      一六〇九
 
 七月二十日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 牛込區東五軒町一安倍能成へ
 拜復御京さんの御希望承知しました校正料は僅かなものですが夫で何分かの御小遣になるなら是から時々御願ひする事にしませう今は岡田君が待ち受けてゐるからすぐと申す譯には行きませんが彼も校正料丈を當にして生活する筈がないのだから其内何とか一身上のかたをつけるだらうと思ひます行人を内田が校正したいと二三度依續した事があります然し是は小遣といふ意味とは丸で關係のない動機からですから左右いふ方面は斷る事も容易ですが岡田のやうなのは氣の毒だから當人が何とかする迄は此方からは斷はらない積です先は右御返事迄 匆々
    七月二十日                 夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一六一〇
 
 七月二十日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓其後一寸御伺ひ申上度と存居候處例の御産が氣にかゝり御邪魔ではないかと存じ控へ居候奥さんの御模樣はどうですか、もう生れましたか。油繪の繪具を買ふ事が出來ます。いつか一所に行つて買つて下さいませんか。油繪をかいて見やうといふ心持はまだ起らないのですから決して急ぐ必要はないのですからあなたのいつでも氣の向いた時で結構であります。先は右迄 匆々
    七月二十日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六一一
 
 七月二十一日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區下六番町一〇有島生馬へ
 拜復あなたの御名前は津田君よりかねてから伺つて居りますあなたの畫も展覽會で時々拜見して居ります「蝙蝠の如く」は白樺で拜讀しました時事新報の質問に應じたるうちに高著の名を擧げたるにつき御手紙を賜はりかつ「蝙蝠の如く」を御惠投被下ました御好意を深く感謝致します只今やりかけた仕事のためすぐ拜見する事は出來ませんが少し手がすいたらゆつくり拜讀致す積です不取敢右御禮迄申上ます 匆々不一
    七月二十一日                夏目金之助
   有島生馬樣
 
      一六一二
 
 七月二十一日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 きのふは留守に來て菓子を澤山置いて行つて下さいましてまことに難有う存じますあの時は男の子を二人引連れて高田の馬場の諏訪の森へ遊びに行つてゐましたので失禮しました晩に女客があつて今日は土|曜《原》の入だといふ事を聞きあの菓子は暑中見舞なんだらうと想像しましたがさうなんですか夫とも不圖した出來心から拙宅へ來て寐轉んで食ふ積で買つて來たんですかさうすると大いにあてが外れた譯で恐縮の度を一層強くする事になります兎に角菓子は食ひましたよ學校がひまになつたら又ちよい/\遊びに入らつしやい不取敢御禮旁御詫まで奥樣へよろしく今度小供を連れて來て御覽なさいうちの子供と遊ばせて見るから軍鷄を蹴合せるやうな亂暴はしないから大丈夫です 以上
    七月二十一日                金之助
   寅 彦 樣
 
      一六一三
 
 七月二十六日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓先達中より繪の具などの事にて種々御配慮を煩はし恐縮の至に候何か御禮を致さうと思ひ候へども是といふ思ひつきもなく候此間古道具屋であなたの賞めた皿五枚を差上る事に致しましたわざ/\持つて行くのも臆《環》劫故今度御出の節獻上致度と存候あの箱の上書には乾山向付と有之候が乾山がこんな皿を作るものにや又は皿の種類の名にや不明に候
 此間の撫子は大に手を加へ候夫から紫陽花を一枚描き候今日も何かと思ひ候へども何うも描く材料なく御やめに致候
 赤ん坊はまだですか奥さまへよろしく先は獻上品御吹聽迄 匆々頓首
    七月二十五日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六一四
 
 七月三十日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町四丁目二二鈴木三重吉へ
 拜復小生の油繪は例によつて物々騷々たる有樣に御座候大兄の小説毎日拜見の榮を辱ふし居候是からどうなるか當人にも見當たたざる由夫にて結構に候どうせ其内どうにかなつて參るべく候只机に向つて書く時何か出れば澤山に候尤旦三四回にては別段賛辭の呈しやうも無之候があまり際だつた書方をやめて平氣に色氣少なに進行する處を結構と拜見致し候尤も面白くない事は面白くないのに候然し此面白くないはほめた方の面白くないにて惡口の方の面白くないでは無之候誤解なきやう念のため蛇足を追加致し置候先は右迄 匆々
    七月三十日                金之助
   三 重 吉 樣
 
      一六一五
 
 八月五日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 あかん坊が生れたさうで御目出たう御座いますしかも男の子ださうで猶更結構です 名前はまだつかないですか 八月の三日に生れたから八|三《ざう》は如何です、安々と生れたから安丸(ヤス〔二字右○〕クウま〔右○〕レル〔右○〕)では不可ませんか、雙兒だと思つたら一人だから一人《カヅト》又はイチニンはどうです。大分長く待つたから長松は變ですか。高田老松町で生れたから高松では可笑しいですか。いづれも雜談半分な意味で馬鹿氣|で《原》ゐますね、名前は實際つけ惡いものです。いづれ其内 以上
    八月五日                  夏目金之助
  津田青楓樣
 
      一六一六
 
 八月七日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 炎暑のみぎり益御清適奉賀候小生もどうかかうか露命をつなぎ居候此夏は門外不出の御勉強の由結構に存候ガルスウオシーといふ人の作物まだ一篇も讀みたる事無之面白く候や小生の畫は御覽の序に申述候通畫と申すものには無之夫でも人に見せ候此間話の種に見て行かうといふ者あり候御笑ひ可被下候是から行人の續稿をかき夫にて此夏を終るぺく候先は暑中御見舞旁御挨拶迄 匆々以上
    八月七日                夏目金之助
   大谷正信樣
 
      一六一七
 
 八月七日 木 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 先達ては失禮致候偖かねて御翻譯の※[ヱに濁點]デキンドの一節讀賣へ御發表の處右を金澤の山本迷半氏一見あのうちに誤謬ザツト見た所で二十箇所あると申し候由夫を小宮が聞き自分で調べたら山本の言の如く瞥見の下に別紙の通り間違ひあるを見出し候由尤も是は一寸見た丈であとは面倒だから已めたと申候茲に御參考迄に別紙供貴覽候、目下誤譯指摘八ケ|釜《原》折柄御注意可然と存じわざと御報知致候 以上
    八月七日                  金之助
   豐一郎樣
 
      一六一八
 
 八月八日 金 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町六四水上齊へ
 拜啓貴著についての御照會承知致候あれは原稿として滿日の方へ無條件にて讓り渡したるようは記憶致し居らず其當時の原稿料なるものは云はゞ掲載料の意味と解釋致し居候たとひ原稿として滿日が買ひたるにせよ出版を營業とせざる新聞社の事なれば御出版につき不同意にて抗議を申込む憂も無之と存候其上小生の記憶慥ならねど其みぎり他日單行本にて出す事もあるやも知れずそれは御含み置願ひたしと小生より滿鉄の紹介者に申入れたるやに存居候左れば社長も相變り其當時とは性質も異なる(今は獨立の經營にて滿銕は只株主の由)滿日に對しことさらに斷る丈の必要も有之間敷かと存候他日事起り候節は小生御引受可致間無御遠慮御出版被成度終に臨んで貴著の公刊を祝し申候 早々以上
    八月八日                  夏目金之助
   水上 齊樣
 
      一六一九
 
 八月九日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 啓昨日小生の知人|天生目《アマナメ》一治なる男來りある資本家ありて九段下に千代田通信と稱するものを開業せりとの事、其通信事業の一つとして月三回の菊版十頁位づゝの演藝時報といふやうな極めて單簡な雜誌を出したいが人はあるまいかと云へり、月給は三ケ月極めで最初は二十五圓位夫から先は雙方の都合で取極めるさうなり、出勤は九時より四時迄其内に編輯の用を濟ませる(外出も含む)。小生一寸心當りなきが御存じの方で芝居などに興味のあるものはなきや。もし又君が小使取にやるとすれば六づかしき出勤抔を節約し都合よき條件が結べるかも知れず候。實は當人曰くあまり原稿料が高くては困るが小宮さんにも時々何か書いて頂きたい。小生は夫で一寸手紙を差上る氣になりたり、君の資格以下の仕事を周旋しては甚だ恐縮なれど誰しも金の要る今日故一寸御内意を伺ふ譯に候あしからず。野上の讀賣(費)に出した※[ヱに濁點]デキンドは獨力で譯した所でワルテルに聞かない所ださうだ。大將大に避《原》易して大いに調べ直すさうである。ワルテルに教はつた所はもう印刷濟で四校迄取つてあるさうだから夫を又一々直されては印刷屋も定めし驚ろく事だらうが我々の爲にはさうして呉れる方がまだよろしい。因にいふ同人向後の質問相手は能成寅彦の兩名のよし。實はあてにならぬ英譯を基礎としてかゝつたのが根本の誤だと當人も後悔してゐる。夫から君の好意もどうか謝して呉れといふ事である 右は序迄 匆々
    八月八日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一六二〇
 
 八月十日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 暑さの御變りもなく結構です私もどうかかうか暮してゐます高著大疑の前一部御惠與にあづかり慥かに落掌致しました御好意の段深く鳴謝致します兩忘庵には毎日御出掛ですかあついから往復が御難義でせう先は不取敢御禮迄いづれ其内拜眉萬々 頓首
    八月八日                  夏目金之助
   沼波武夫樣
 
      一六二一
 
 八月十日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 御手紙拜見御申越のむねは天生目へ通じ候君の番地を先方へ知らせて會見の時日と場所を聞き合せるやうにと付け加へ置き候或は大兄の御覺召の如く運ぶやも知れず候
 あの小説は矢張ふぢ子にてよろしからんと存候餘計な姓などは拵えぬ方當人のためならんかと考候休憩所の名前不都合ならば取換る事差支なかるべきかと存候
    八月九日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一六二二
 
 八月十三日 水 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓中々あつい事でありますあなたの二階は是でも畫がかけますか安丸君の御祝につまらぬものながら差上ます御受納下さい。夫からあの畫は二枚共私が買ひませう此間傳ベエに手紙をかくと申しましたがふと考へて何だか自分が持つてゐたくなりました。一枚十五圓宛にして下さい。こゝに十五圓入れてあります是は一枚分です、あとは來月にして下さい。私は畫を賞めるが所有にして見たいといふ氣はあまりありません夫で君の畫も可成人に賣つて上げやうと思つたのです然しあの畫を味ひ得るものは天下で自分が一番だといふ氣がしますから自分の寶として宅へ留めて置きたくなりました 先は右迄 匆々
    八月十三日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六二三
 
 八月二十日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寛へ〔はがき〕
 拜啓寅彦さんが御父さんの病氣で歸られたといふ事を神戸から端書で知らして來ましたが其後御病人の御容體は如何なのですか一寸伺ひます。夫から高知の御宅の町名番地は何と申しますか一寸教へて頂きたいと思ひます
 
      一六二四
 
 八月二十二日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區湯島天神町一丁目四四誠靜館勝又和三郎へ
 拜復御出京の由にてサイダア一打御惠投難有存候物茂卿千字文御鑑定の必要にて適當の人御尋ねの件も拜承然る處小生の知人中には此邊の消息に通ずるものなく遺憾に存候大學に黒木欣堂といふ人あり是は斯ういふ事をのみ專|問《原》のやうに致す學者に候住居は千駄木邊と存候若し文科大學へ御問合せ相分らず候へば神田佐久間町一ノ一西東書房(書苑發行所)へ御聞合せになれば相分り候紹介状差上たく候へども此人とは一面識なき故手紙にて先方の都合御問合せの上右千字文御持參可然かと存候御通行の節御立寄被下候はゞ何時にても御目にかゝり可申候大抵は在宿に御座候右御返事迄 匆々不一
    八月二十二日                夏目金之助
   勝又和三郎樣
 
      一六二五
 
 八月二十四日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜復
 貧乏徳利の議論は一應御尤の樣ですが貧富からくる生活の區別が私とあなたとでは夫程懸絶して居りません從つて是はまだ外に深い理由があるのだらうと思ひます。此間の繪について御歸りのあと猶よく考へた處を一寸申上ます。あの畫のバツクは色といひ調子といひ隨分手數のかゝつた粉飾的氣分に富んだものです、少なくとも決して簡易卒直のものではありません然る處其前景になつてゐるものが如何にも無雜作な貧乏徳利と無雜作な二三輪の花です。そこに一種の矛盾があつて看る人の頭に不釣合の感を起させるのでせう。尤も西洋人が見たら貧乏徳利だか何だか分らない位吾々の持つてゐる聯想は起らないかも知れないが然しあの徳利のかき方が如何にも簡單で一と息きであるから精根を籠めたバツクとは其一點で妙にすぐはなくなるのです。私はどうしてもさうだと斷言したいのです。
 夫からあのバツクに就て一言申上ますが。あれは單獨に云つて好きですが、趣味からいふと飾り氣の氣分にみちたものでまあ豐|※[月+叟]《原》な感じのあるものですし、夫からそれをかく爲めには大分な勞力を要する性質のものです。だからあまり叮嚀にかき過ぎても又澤山かき過ぎても厭味が出て參ります。一つ是をかいて見せつけてやらうといふ氣が出てくるのです。
 あなたの大きな畫ではあのバツクがあまり澤山描き過ぎてある、小さな畫では(徳利に比して)叮嚀にかき過ぎてある。それが雙方とも私の意に滿たない原因の大なる一つかと考へます。御參考迄にわざ/\申上ます。あなたから見たらわざ/\聞く必要もないかも知れないがあなたのやうに氣取る事の嫌な人があのバツクに就て不意識の間に氣取つてゐるやうな結果になるから妄言に對する御批判を煩はしたくなつたのです。御考は今度御目にかゝつた節承はります さよなら
    八月二十四日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
     一六二六
 
 八月二十四日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區永田町鍋島侯爵邸内中島清へ
 拜啓御高著出版の件につき知人安倍能成沼波武夫兩氏を煩はし聞き合せ候處安倍君は一軒の本屋は斷はられそれから東亞堂に持ち込候處へ沼波君も同じ書肆に交渉を開きたる結果として同堂より沼波氏宛にて封入の端書到來致候故御目にかけ候右端書に記載の通り同堂主人に御會見萬事御取極相成度候先は右迄 匆々
    八月二十四日                夏目金之助
   中島 清樣
 
      一六二七
 
 八月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 山口縣山口町金古曾九〇野村傳四へ
 暑いのに御變もなくて結構です、私も變りはない病後の身體もどうかかうか一先づ落付いたらもう少しは生きられさうです。高商の方が出來御家族引まとめ御呼び寄せの由甚だ好都合です。其上暮しも安く家もひろく申分はない。子供も生れる女ではある是亦文句はない目出度事ばかり、小生方の子供製造は鑛脈も掘り盡したと見えて其後とんと堀りあてず。
 橋口は先達中脚氣でなやんでゐたが其後まだ見舞に行かぬため容體も分らず多分全快したらうと思ふ皆川が鹿兒島から歸省の途中一寸寄つてくれた。僕も小供が段々大きくなる(筆は十五だよ)家は狹苦しい金があれば地面をかつて生涯の住居でも建てる所だがさうも行かず小供の勉強室もなくて氣の毒な思をしてゐます。新聞はなまけてゐます。追つけ行人のつゞき書いてしまつて夫から新しいものでも書く事になるでせう。一昨日は暴風雨昨日今日は快晴急に秋の氣特になりました。栗も柿もそろ/\出るだらう松茸も膳に上るだらう。今庭で蝉が鳴いてゐる。風が晴れた空を渡つて頗る好い天氣です
 先は右迄 横地君へよろしく 匆々
    八月二十九日               夏目金之助
   野村傳四樣
 
      一六二八
 
 九月一日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 啓始めて確信し得た全實在は頂戴した其日に讀みました私は何より先にあなたの意氣とあなたの心持とに感服致しました近頃は小説も評論もいくらでも出ます然しあゝいふ方面の事はだれも考へてゐません、所があゝいふ方面の事は窮所迄行くと是非共必要になつて來ます 人の事ではないみんな自分の頭の上の事です 私はあゝいふ意味の事で切實な必要を感じつゝいまだ未|程《〔?〕》の地に迷つてゐます どうかしなくてはならないがどうもなりません 平生斯うだと思ひ詰めた事もいざとなるとがらりと轉覆します、全く定力が足りないからだと思ひます 先は右迄 匆々
    九月一日               夏目金之助
   沼 波 樣
 
      一六二九
 
 九月一日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區下六番町一〇有島生馬へ
 啓
 七月末に頂戴した本の御禮に差支があつて只今は拜見が出來ないと申添へた事を記憶して居ります私はそれを八月の三十日三十一日の兩日に讀み得たといふ事を改めて申上げたいのでありますさうして通讀の際尠からざる興味をもち又其興味が讀了の後今ゆたかにつゞきつゝある事を申上たいのであります私は御惠與の好意に對してさう云ふ事を衷心から云ひ得るのを甚だ滿足に且愉快に思ふのであります蝙蝠の如くは御好意に對してばかりでなく私の愛讀書の一つとして永く書架に藏して置きます、失禮を申上げるやうですがあの装傾丈は不服であります。もう少し内容と釣り合つた面白いものにしたらばといふ氣がしてなりません。此手紙は先に申上た約束を履行して高著を讀み了つたといふ御報知ではありません寧ろ通讀の際に感得した多大の興味に對する謝辭であります 頓首
    九月一日                  夏目金之助
   有島生馬樣
 
      一六三〇
 
 九月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 津田さん其後畫はかけましたか私は今月あなたに差上る十五圓を持つて參らうと思ひますがまだ上られませんもし御序もありましたら遊かた/”\取に來て下さい、あなたに見て貰つた四枚の畫は其後又手を入れました、よくなつた積ですから來た時又見て下さい そろ/\又專|問《原》の方でいそがしくなりさうです
 今日の朝日新聞の文藝と云ふ六號活字に夏目|※[さんずい+嫩の旁]《原》石氏津田青楓氏について池畫を研究中だ、同氏は青い色が大變すきで如何なる惡縁か畫を描かずにはゐられないさうだとありました、此惡縁をつくつたものはあなたでせうか私でせうか、此間社のものが來たから油畫を見せてやりました それでこんな事をかいたものでせう 俗人だから下手なのに得意で見せるとでも早合點したのでせう 以上
    九月二日                 夏目金之助
   津田青楓君
 
      一六三一
 
 九月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區湯島天神町一丁目四四誠靜館勝又和三郎へ
 拜復物茂卿の書七條氏の鑑定にては駄目の由なるが何故駄目だか其譯は不相分七條が駄目といつても何でも御落膽には及ばず本物だとして大事に御保存可然候小生の書御希望故其内書いて差上可申候へどもいまだ御在京の時日も有之事故さうせかないで少々待つてゐて下さい私の方にも少々用事があつて今日は書でも書いて責任を果さうといふ氣でも起る餘裕がないと書けませんから 以上
    九月二日                  夏目金之助
   勝又和三郎樣
 
      一六三二
 
 九月十五日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜復御歸京の由拜承此度の事に就ては其後種々なる御心勞其外にて定めし御哀傷の上に一層の御疲れと存候小生はいつ頃御歸りにやと思ひ先頃岡倉覺三氏葬儀の折歸途一寸門口迄伺はうと存候處車夫が違つた道を通りたる爲めつい其儘に相成候御老人の御病氣は小生には突然御逝去も無論意外に有之御老體とは申しながらつい此間強壯な處を拜見した許故ことさらに驚ろき申候
 畫は一寸中絶に候其後の傑作もいかものばかりに候行人を書き上げてから又描かうかと存候
 展覽會音樂會天高馬肥是からはいゝ事だらけに候其うち行樂の御供仕度と存候先は右迄 匆々
    九月十五日                  金之助
   寅 彦 樣
 小生は無法ものにて父の死んだ時勝手に何處へでも出あるき申候最も可笑しかりしは其節友人の父も死にたれば茶の鑵か何か携へて弔みに參り其友人に變な顔をされた事に候
 
      一六三三
 
 九月十七日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町八二大正館林原(當時岡田)耕三へ
 御轉居の趣承知さて小生の行人も本屋で着手してもよいと報知してやらねばならぬ時機となり候處君は檢定の爲大分多忙のやうに見え候が御都合は如何にや、もし御差支あらば内田が是非やらしてくれと云ふてゐるからあちらへまはさうと思ひます。然し内田は月々の小使に困るのでないから君の都合さへつけば君に讓る積だらうと思ふ 右用事迄 匆々
    九月十七日                   金之助
   耕 三 樣
 
      一六三四
 
 九月二十六日 金 後3-4 牛込區早相稻南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓高著畫趣と詩味御惠投正に拜受唯今半分程讀了大兄の知つてゐる事は大抵小生の知らぬ事とて讀過の際利益不尠候右不取敢御禮まで其内拜顔萬々可申述候 匆々敬具
    九月二十六日                  金之助
   臨 風 雅 契
         座下
 
      一六三五
 
 九月二十六日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜啓 本月末表装屋へ三十圓程拂はねばならぬ故あの金の殘額十圓を返して下さい小爲替デモヨシ端書がないから卷紙ニ書きかけたところ金の事を書いてしまつたらも〔う〕何も書く事がなくなつたから是にて失敬
 三重苦は又々引越の由六圓五十錢のうちを二軒とか借りたる由
    九月二十六日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一六三六
 
 九月二十六日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 昨日は失禮致しました今日上野の表慶舘へ參りました處宗達の畫が大分出てゐました何だか雄大で光琳に比べると簡樸の趣があります、其内に墨竹が一幅ありますあなたの好きさうなものです是非御覽を願ひたいと思ひます。夫から抱一の螢狩といふ俗な畫があります抱一ほどの人がどうしてこんな馬鹿なものを描いたかと思ふ位です、宗達の扇散らしの屏風は御物ですが夫程難有はありません、伊年の二枚折の色合は甚だよろしい書き方も面白い是も御參考になります、其他惠心僧都の佛畫があります、素敵なものです 鎌倉時代の佛畫も崇高なものです、是非行つて御覽なさい
 先は右迄 匆々
    九月二十六日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六三七
 
 九月二十九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜復伊年の屏風についての御説は賛成してもよろしう御座います、ちつともあれを辯護する必要はありません たゞ色が古びてゐていゝといふのです、鷄頭の赤い方の花はよろしいと思ひます。もつと思ひ切つて大きく描いたらと思ひました。紫陽花はいけません。全然私もいやです。然し二三間の距離からたゞ色合を眺めて御覽なさい。矢張り好いですよ。
 雅邦のあの畫は全然無價値であります。き用過ぎて小刀細工があつて畫面の大きな割に大きな感がどこにもあ〔り〕ません、卑しい品ですな 明治を代表する格調があの位のものだと思ふと情ない事です。あれより和亭の孔雀の方が遙かに上品です(内面の意味は別として)謝時臣とかいふ人の幅の雨の景はよろしいと思ひましたが、あんなものを外の日本畫と比較する氣も起りませんでした。宗達の竹や鷺や夫から龍、龍を見ると旨いんだか不味いんだか是迄要領を得た事がなかつたがあの龍は旨くて高尚ですね、あなたはどう思ひますか、僕は扇ぢらしの屏風を一雙もらふよりあの龍をもらつた方がいゝ
 一つ宗達流な畫を描いて見る氣はありませんか でなければあの氣分を油繪へ應用して見る氣はありませんか
    九月二十九日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六三八
 
 十月二日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓追々秋の天氣と相成候年々ながら心よく感せられ申候却説先般森圓月君歸省のみぎり津田青楓君の畫について御話したる處大兄買つてもよろしと被申候趣承り候があの畫は二枚とも小生が買ふ事に致し候たつての御懇望ならば御讓り申しても差支なしとは存じ候ひしも御覽になつた譯でもなき故夫にも及ばざる儀と存居つい其儘に致置候然るに右津田氏は純粹敦厚の畫家にて世間に賣る事を求めぬ故從つて家計も餘裕なく氣の毒なる有樣に候大兄若し小生の證言にて滿足被致候ならば小生自身適當と思ふ畫を同氏の作品中にて選擇可致につき一枚買つて御遣り被下間敷や價格大小出來不出來にて差等も有之べく候へどもまづ五十圓以下と見れば差支無之候至急の御返事にも及ばず候へどももし御思召も有之ば御一報願上置候 明月和尚の書御探し被下候由御好意奉謝候何分よろしく願上候早くて不出來のものを入手致すよりもゆつくり好きものを取るが望みには候へども惡しきは惡きで存しよきは好きで其上に藏し置くも一興に候如何樣にても構はず御心掛願上候先は右迄 匆々頓首
    十月二日                  金之助
  霽 月 老 臺
        坐右
 
      一六三九
 
 十月三日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜啓先達て御依頼の松本修氏の書別封小包にて差出し候間乍御面倒大兄より御送願上候
 あのうちの一枚(絹)に書いたものよりあとから手前方にありし紙にかいた方幾分か見よく候故取りかへ申候今一枚のぬめは認め候へども薄墨のため見苦しくに染み申候故反古に致候要するに絹二枚の代りに紙一枚となりたる譯に候へば右の趣先方へあしからず御通知願上候 先は用事迄 匆々
    十月|四《原》日               金之助
   東 洋 城 樣
 
      一六四〇
 
 十月五日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王二六〇〇和辻哲郎へ
 拜復
 あなたの著作が屆いてから返事を上げやうかと思つてゐましたがあまり遲くなりますから手紙丈の御返事を書きます。
 私はあなたの手紙を見て驚ろきました。天下に自分の事に多少の興味を有つてゐる人はあつてもあなたの自白するやうな殆んど異性間の戀愛に近い熱度や感じを以て自分を注意してゐるものがあの時の高等學校にゐやうとは今日迄夢にも思ひませんでした。夫をきくと何だか申譯のない氣がしますが實際其當時私はあなたの存在を丸で知らなかつたのです。和辻哲郎といふ名前は帝國文學で覺えましたが覺へた時ですら其人は自分に好意を有つてゐてくれる人とは思ひませんでした。
 私は進んで人になついたり又人をなつけたりする性の人間ではないやうです。若い時はそんな擧動も敢てしたかも知れませんが今は殆んどありません、好な人があつてもこちらから求めて出るやうな事は全くありません、内田といふ男が來て先生は枯淡だと云ひました。然し今の私だつて冷淡な人間ではありません。あなたに冷淡に見えたのはあなたが私の方に積極的に進んで來なかつたからであります。
 私が高等學校にゐた時分は世間全體が癪に障つてたまりませんでした。その爲にからだを滅茶苦茶に破壞して仕舞ひました。だれからも好かれて賞ひたく思ひませんでした。私は高等學校で教へてゐる間たゞの一時間も學生から敬愛を受けて然るべき教師の態度を有つてゐたといふ自覺はありませんでした。從つてあなたのやうな人が校内にゐやうとは何うしても思へなかつたのです。けれどもあなたのいふ樣に冷淡な人間では決してなかつたのです。冷淡な人間なら、あゝ肝癪は起しません。
 私は今道に人らうと心掛けてゐます。たとひ漠然たる言葉にせよ道に人らうと心掛けるものは冷淡ではありません、冷淡で道に入れるものはありません。
 私はあなたを惡んではゐませんでした、然しあなたを好いてもゐませんでした。然しあなたが私を好いてゐると自白されると同時に私もあなたを好くやうになりました。是は頭の論理で同時にハートの論理であります。御世辭ではありません事實です。だから其事實丈で滿足して下さい。
 私の處へセンチメンタルな手紙をよこすものが時々あります。私は寧ろそれを叱るやうにします。それで其人が自分を離れゝば已を得ないと考へます、が、もし離れない以上私のいふ事は雙方の爲に未來で役に立つと信じてゐます。あなたの手紙に對してもすぐ返事を出さうかと思ひましたが、すこしほとぼりをさます方がよからうと思つて今迄延ばして置きました。 以上
    十月五日                  夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      一六八四l
 
 十月五日 日 牛込區早稻田南町七より 宇治山田市神宮皇學館湯淺廉孫へ〔封筒なし〕
 拜啓其後は存外の御無沙汰如何御暮し被成候や御變もなき事と存候小生無異御放念被下度候いつぞや大阪の病院にて御見舞を受けたる時突然小生の畫を御所望ありて其不意打に驚ろき候以後何とかして描いて上げやうと心掛け居候處繪らしきものは無論出來ず乍不本意其儘に打過候然る《原》過日橋口五葉宅にて北京より取寄せたる鵞《原》セン紙數葉もらひ受け候ため急にそれへ竹がかいて見たくなり三枚ほど墨にて黒く致候、其一葉は津田青楓といふ畫家に、一葉は伊豫の村上霽月といふ舊友に殘る一葉を大兄に差上る事に致候小包にて差し出し候間御落手願候素人の筆故妙なものにて竹とも芦とも分らず候へどもまづ是でも記念にして貫へないと今後いつ的束を履行するや自分にも分りかね候故一先づ送り置候他日もつと上手になつたら旨いものと交換可致候先は右用事迄 匆々頓首
    十月五日                 夏目金之助
   湯淺廉孫樣
 
      一六四二
 
 十月六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 日本橋區檜物町九東雲堂内三木操へ
 啓上
 高著白き手の獵人一部御寄贈被下難有拜受仕候表装瀟洒脊に張りたる紙の色など甚だうつくしく候閑を待ちゆる/\拜讀致し度と存居候右不取敢御禮まで 敬具
    十月六日               夏目金之助
   三木露風樣
 
      一六四三
 
 十月九日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓此間橋口五葉から北京の紙といふのを六七枚貰ひそれへ氣紛れに墨竹を三枚ほど描き申候そのうちの一枚を遙かに大兄に獻上致候間御笑納被下度候三枚のうち一枚は津田青楓へ一枚は伊勢の神宮皇學館教授湯淺廉孫へ殘る一枚を君に差上候まあ三幅對を分けたやうなものに候。君に上げる理由は君があの小さい繪に興味をもつてゐたからでもあるが何といふ事なしに君なら愛玩してくれるだらうといふ氣がするからである。竹は小包にて此手紙より後れて着きます 以上
    十月九日                夏目金之助
   村上霽月樣
 
      一六四四
 
 十月十日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 拜啓昨夜御歸りのあと別紙端書小生宛にて參り候すぐ岡田の所へ送らうと思つた所同人の宿所を書いた端書どうしても見つからず甚だ失禮君は知つてゐるだらうから彼に送り屆けて呉れ玉へ 以上
    十月十日                 夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一六四五
 
 十月十五日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 愈文展が開會になりましたあなたは落選のやうですが其當否は行つて見ないうちは何とも云へませんが兎に角不折などがあの孔子老子に見ゆなどゝいふあの活動の看板に似たものを並べるのにあのナチユールモルトが落第するのはよろしくありませんな。其他にもまだ落第者が澤山あるやうですがどうかして其人々の作品を當選者と對照して見せたい。どうですか山下とか湯淺とかいふ連中と相談して※[ヰに濁點]ーナス倶樂部でも借りて落選展覽會と號して天下に呼號したら。
 雨が降つて鬱陶しいですな。昨日御宅のそば迄行きましたが晝に近かつたから寄りませんでした。あれから又竹の畫を絹に描いて人にやりました 以上
    十月十五日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一六四六
 
 十月十六日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 三重吉のやる事は虚榮心ばかりではなく、其作物に對する信念の缺乏から出てゐるのでせう。だから切拔をもつてゐるものが二十人もあれば自分の聲名の保證になるから嬉しいのでせう。氣の毒でもあるが致し方がない。僕が何かいふのは殘酷である。それから大將僕なんかのいふ事を聞く耳をつけてゐない。天然が彼を療治するのを待つより致し方はない。
 
      一六四七
 
 十月二十五日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王二六〇〇和辻哲郎へ
 拜啓高著ニイチエ研究到着正に拜受致しました中々大部な書物ですからすぐ讀む譯にも行きません其うちゆる/\拜見します 早速御返事をあげる處でしたが色々雜用に取り紛れて遲くなりました、是から人の結婚式に行きます長い手紙を書いてゐられません 是で失禮します。 以上
    十月二十五日                夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      一六四八
 
 十月三十一日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇沼波武夫へ
 拜啓高著芭蕉の臨終御惠與辱なく候卷頭一頁を開けると此書を夏目漱石先生に獻ずとあつたので大いに驚ろきました。全く意外でしたから。夫ですぐ讀まなければならんと思つて早速讀みました。「芭蕉の臨終」中にある門下生の言葉づかひのうちに少々芝居じみた所がある外一體に面白う御座いました。惟然坊の劇は是亦珍品 あゝいふ趣を芝居にしたものは昔から頓とありません。是から先もまあないでせう。あれをやつて藝術座の連中を招待して見せたら何んなものでせう。不取敢右御禮迄 匆々頓首
    十《原》一月一日              夏目金之助
   沼波瓊音樣
 
      一六四九
 
 十月三十一日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復御惠送の梨到着慥かに頂きました
 私はあなたに書をたのまれた事をつい忘れて仕舞ました甚だ申譯のない事です。夫からあなたの置いて行かれた紙を何かの序に見て急に思ひ出しました。然るに思ひ出した時はもうあなたの名前を忘れてゐました。實際不都合千萬な事ではありますが事實ですから白状致します。御依頼のものが遲れたのは怠慢もありますが右の譯なのです。今度手紙を頂いたので漸く思ひ出しました。夫故忘れずに今度は書きますからどうぞ御《原》惡からず御勘辨下さい。あの時の紙は使つて仕舞ましたから別なのに書きます。然し二三日うちといふ譯には行かないかも知れません、惡筆を無理に欲しがる人が出來て大分たまつてゐますから。其積で少々待つてゐて下さい。
 右御禮旁御詫迄 草々頓首
    十《原》一月一日夜              夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一六五〇
 
 十一月十二日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市根岸町三五八八久内清孝へ
 拜啓其後は御無沙汰致候植物繪端書五枚難有頂戴致候
 あゝいふものを集めてゐるのは面白いでせう私は盆栽が好きだが買へば必ず枯らして仕舞ますから買ひません。近頃は身體の調子がいゝので運動をします郊外は實に好い景色ですね芝居や音樂會へも行きます 以上
    十一月十二日               夏目金之助
   久内清孝樣
 
      一六五一
 
 十一月十二日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 原稿につき色々御配慮難有候。御送のうち色鉛筆で區切つた處分らざりし故悉皆通讀致し黒インキで直し候。猶氣のつきたる處左に申し上置候
 (1)一三六頁(六)の四行に煽風器とあり、同一二一(二)の二行には扇風器とあり、どつちがよきや知らず候へど、一つに御纒め願ひ候
 (2)一三九頁に(跪坐《ひざまづ》く)とあり 是は名詞にくの字をつけたやうにて變なるが構はぬにや。然し夫でよければ小生差支なし
 (3)一四三の九行に「促《うな》がした」とあり、前には「促《うなが》した」とわざ/\直しあり、小生はどつちにても差支なし、是も統一ありたし。
 すつかり讀むうちに赤い字の這入らぬ所で小生の眼につく所少々あり。是は大兄はまだ見ない校正刷かとも存候
 先日の音樂會は晩に白樺のがあつたゝめ行かずに仕舞ひ候御手紙にて行かないでいゝ事をしたと存候 匆々
    十一月十二日                夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一六五二
 
 十一月十二日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區雜司ケ谷町一一一狩野亨吉へ〔はがき〕
 御約束の書物小包にて御送被下難有存候不取敢御禮迄如此候 以上
    十一月十二日
 
      一六五三
 
 十一月十二日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮迄へ〔はがき〕
 先刻差上げた注意のうち洩れたものを二つ申添ます。
 (1)彼女を(じよ)とした所と(をんな)とした所とありました。
 (2)だけ を※[丈の肩に點]と赤く直してありましたが あれは※[丈の肩に點]ではなく丈だらうと思ひます
    十一月十二日夜
 
      一六五四
 
 十一月十二日 水 牛込區早稻田南町七より 松崎市郎へ〔うつし〕
 拜啓、私は今日の新聞に出てゐる御不幸の廣告と雜報欄に氣がつかないで晩まで居りました。夕飯のとき妻から注意されて始めて御令閨が亡くなられた事を承知致しました。ことに御兩兒とも同じ御病症で目下御入院中と聞き甚だ御同情の念に堰へません。御弔詞を申上るため參上致さうかと思ひますが御繁多の折柄小生の如き平疎あまり御宅へ出入せぬものが參つてはかへつて御面倒な事と存じわざと差控へ失禮ながら手紙で御くやみ申述べます。病院に御出の子供さんを慰めるため妻が何か差上たいと申しますが、子供さんの年が分らないのと、それから病症が病症なので一切のたぺものを御送り致す譯にも參らないので思案してゐます。此際哲郎さんや達郎さんの年を伺ふのは甚だ失禮に存じますが、今でなくとも御落付になつた時に一寸教へて下さいませんか。 敬具
    十一月十二日夜               夏目金之助
   松崎天民樣
 わざ/\年齢を伺つて迄差上げる程の大したものを上げるのではありません。たゞ子供さんが可愛相だからつい御面倒をかけるやうな事を申出るので御座います。
 
      一六五五
 
 十一月十八日 火 後8−9 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜啓二十二日の舞踊研究會は直營茶屋に御出夏目の席と御尋ね被下候へば相分り候につき左樣御承知願上候猶同會切符此手紙の中に封入御送致候間御受取可被下候 以上
    十一月十七日夜                 金之助
   豐次郎樣
 
      一六五六
 
 十一月二十一日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より Bei Frau Brandt,Kaiser Friedrich Strasse,Berlin Charlottenburg 高原操へ
 拜復其後は小生も大の御無沙汰御寛容被下度候先々御無事にて諸方御遊結構に存候小生不相變どうにか餘命を貪ぼり居り候間御休神被下度候
 偖御申越の小生著作翻譯の件先榮の至には存じ候へども愚存一通り河田君並びにエ夫人へ申述候、御指名の虞美人草なるものは第一に日本の現代の代表的作|者《原》に無之第二に小六づかしくて到底外國語には譯せ不申、第三に該著作は小生の尤も興味なきもの第四に出來榮よろしからざるものに有之。是等の諸件にて右翻譯の義は平に御免を蒙り度と存候小生も單に藝術上の考よりはとくに絶版に致し度と存居候位に候へども時々檢印をとりにくると幾分か金が這入る故又どうせ一度さらした耻を今更引込めても役に立たぬ事と思ひ其儘に致し置候樣の始末、現に去る劇壇の人あれを芝居にしたらと人づてに(申し込む程判然たる形式をとらねど)小生に傳へ候節も夫丈は勘辨してもらひたしと辭退致し候事實も有之、此上獨乙迄耻をさらすのは外聞わるく候故願くはやめに致したく候。小生作物は讀んでくれる人には誰にでも感謝の念を以て讀んで頂き度候も實は外國に讀者を得やうなどゝは思ひも寄らぬ事にてそんな事は最初より念頭になき故譯しても面白かるまじくと存候、先年ある人現代の日本の小説を英譯するとて小生の分を相談せし時も同樣の返事を致し候が其時は夢十夜〔三字傍点〕といふものゝ一部分を譯してもらふ事に致し候。是は小生のもののみならず凡てゞ二十人位のものゝ寄せ集めものに候。獨乙から片山フオンオルレンベルグとかいふ男(日本人か獨乙人か分らず)小生の坊ちやんを譯したしと申し來りたる時は條件つきでなくては厭だと斷わり申候。
 是非小生の作物獨譯御希望なれば「それから」とか「門」とか「彼岸過迄」とか又は近く(多分今年中)出版になる「行人」とかなら御相談致してもよろしく候。御地にて出版する以上は書肆の冒險と相なるべく損失の時は小生固より責任なきも利益を見る場合には著者として相當の報酬を申受けべく候。小生は是が正當と存候。然るにさうすると事が面倒にて中々運び不申エ夫人も遺樂半分の事業の上本人が日本語が讀める譯でもなし夫程小生の作が好といふ譯にもあるまじければそんな面倒を片付けてから着手するのは隨分迷惑なるべし、小生の方も同樣にて理窟は理窟としてさういふ事を一々人を煩はして運んで行くのは少々辟易致し候、夫故此事業はまあ河田君から事情をエ夫人に話して止めた方がよからうと思ひます。 以上
    十一月二十一日夜             夏目金之助
   高原 操樣
 
      一六五七
 
 十一月二十三日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 今日は久振に御出のよしの處不在失敬此頃は毎日出あるく事多く今日も新大橋から鐵砲洲築地などを通り櫻由本郷町から虎の門迄あるき夫から電車で歸つた處です。此間は津田君と井の頭の辨天へ行きました
 昨夜は舞踊研究會でエリセフや後藤や柏木に會ひました。※[足+勇]は中々面白かつた。
 舞臺協會の切符ありがたう 然るに僕は協會からの勸誘で二十九日の分を二枚買つたから日が違ふ上急に行きたい人も思ひ出せず夫よりか君が知る人で遣つて然るべき人の方へ廻すのがよからうと思ふからあの切符は封入一應御返却する、君もし行くなら僕と同じ晩にしないか。
 近代劇協會の加藤とかいふ男が來て脚本をかいてくれと云つた。帝劇を二十日ばかり打つ積だといふ。さうして是は秘密だといふから僕は受合もせず拒絶もしないがまだ誰にも話さずに黙つてゐる。彼等は今大阪にゐる。何でも「朝日」の勢力を利用したいらしい。大阪から又依頼状をよこして形式上は朝日から近代劇協會に依頼して同紙上にのつた僕の作を遣つてもらふ樣にしたいと云つてきた。隨分蟲のよい事を平氣で失禮とも何とも思はずに書けるものだと思ふ。一|代《原》加藤といふのは何者かね。甚だきたない服装をして頭髪の具合抔も變な男であつた。「近代」の編輯をやるのだとか答へてゐた。序だからこんな餘計な事をかきました。
 小泉鐡といふ人がゴーガンのノア、ノアといふ譯をくれた面白いものだ君も讀んで見玉へ。アー※[ヰに濁點]ングの傳記などあんな長いものをかく必要があるかね、下らないと思ふ。ヘンリアー※[ヰに濁點]ングは夫程の人物かね 以上
    二十三日夜                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一六五八
 
 十一月二十五日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連市山縣通相生由太郎へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過候過日御地俣野君より拙書御求めの由申越し候につき承知の旨廻答致し置候處突然三越より貴命により※[糸+光]六枚(尺五三尺三三枚)持參致候につきそれへ分らぬものをのたくらせ御覽に入れ申候絹の地合と墨の都合にて見苦しく※[者/火]染み出候も何分素人の事故可然御勘辨可被下候猶餘る四枚は勝手なものを書き散らし申候へども惡書惡畫ともに一葉づゝにて澤山と存じそれ丈御送申上候につき御落手願上候
 乍筆末大連滯留中は一方ならぬ御世話にあづかり千萬無辱あつく御禮申上候先は右迄 匆々
    十一月二十五日               夏目金之助
   相生由太郎樣
        貴下
 
      一六五九
 
 十一月二十五日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜啓あなたから依頼された書を其儘しておいて濟みません紙もなくなして申譯がありません二三日前晩翠軒から支那の紙を買つて來て夫へ書いたのを差上ますから御勘辨を願ひますあなたの手紙を拜見すると中々うまい字をかゝれます私の書など差上るのは可笑しいと思ひますが御望故御送り致します何でも紙か絹か忘れましたがあなたの置いて行かれたのは何枚もあつたやうに記憶しますが上げるのはたつた一枚です夫で御許しを願ひます 以上
    十一月二十五日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一六六〇
 
 十一月二十五日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區麹町二丁目二洛陽堂氣付小泉鐡へ
 啓
 ノアノアと申す御高著を御送り被下まして難有う存じます早速拜見しました大變面白う御座います。あんな人は今のヨーロツパにゐるのでせうがまだ一度もあつた事がありません全く想像から出た小説のやうな氣がします。私はあなたの御住所を存じません故此手紙を洛陽堂宛で出します。御禮の遲くなつたのは讀んだ上でと考へたからです 以上
    十一月二十五日               夏目金之助
   小泉 鐵樣
 
      一六六一
 
 十一月二十五日 火 後5-6 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 君の手紙は全然勘ちがひです。手紙の中に「です」とか「ません」とかいふ敬語を使ふのはあまりぞんざいに書きたくないからです。候文は習慣上さう思はないか知れないが實は大變鄭寧なものです。候文には抗議をしないで「です」や「しません」に對して他人取扱と思ふのは誤つてゐます。日常の言語で手紙をかくのはどうもあまりひどい感じを他に起させやしないかといふ氣が起つてから私は何人に對してもあゝいふ語尾を多く使ふやうになりました。私は自分の小供には日常の言語ですら改つて斯うなさい、あゝなさいとさへ云ひます。談話より一段改つた手紙にあの語尾は禮として相應のものだらうと思ふ。
 僕は偶像でないから君等が批評は何とも思はないそんな事を心配して一日も暮せるものぢやない。ヂスイリユ|ヨ《原》ジヨンとか人と人との隔りとかいふ哲學は別問題であり又人間に普遍的な問題だから何も手紙に就てのみ云々する必要はあるまいと思つて其方は云ひません。さういふ事を手紙の書きぶりから出立して云々するのは馬鹿々々しいのです。僕にも色々わるい所があるが、君は時々今いつたやうな馬鹿々々しい所を露出する男のやうに思はれます。
 右迄 匆々
    十一月二十五日               金之助
   豐 隆 樣
 
      一六六二
 
 十一月二十五日 火 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 此間御上京の節御來訪の砌は失禮致しました御歸りの後の御手紙は難有拜見しました早速御送りの※[糸+光]へ今日まづい字をのたくらせましたから御覽に入れます墨は餘程念を入れて磨つた積ですが丸で薄く出ました夫から少しにじみました同じ墨で紙へも書きましたが此方は墨色がよく出ましたから多分絹の所爲ぢやないかと思ひます、壁に貼つて眺めてゐると段々いやになりますからすぐ小包で出します、今にもつと上手になると書き代へます
 私のそばに花道の未生流といふのがありますが是はたしかあなたの御流義ではありませんか珍らしいと思ひますから一寸御報知致します 以上
    十一月二十五日               夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一六六三
 
 十一月二十八日 金 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 拜復此方よりも打絶御無音無申譯存居候處久々にて芳墨拜誦先以て御變りもなく結構に候野生健康御配慮ありがたく候幸ひ執筆中も執筆後も同じ状態にて何等の別状なく候間乍憚御安意被下度候近頃は毎日運動に二三時間を費やし出來る丈からだに氣をつけ居候行人につき色々の仰難有候此間は松山の一牧師書を寄せて君は行人中の兄さんの樣な男なるべしよろしく聖書を讀み玉へとわざ/\其篇の名を指名しくれ候小生實は聖書をよまず夫から同牧師の注告に從ふ氣にもならず夫故返事も出さず其儘に致し置申候御高著は如仰手元へは參り居らず候行人は製本出來の上是非一本差上度候つら/\思へば人間は耻のかきつゞけの樣なもの故下らぬ書物でも本屋が出すと云へば大抵は我慢して應じ申候舊著など縮刷して出すといふ申込も單に藝術上よりは至つて蹄易なれど多少小遣になると思へば耻のかきついでだから構はぬといふ了見も起り申候(虞美人草と草枕合本縮刷年末出版の筈)それのみか書をかけといへばかき畫をかけといへば應ずるなど近頃は自分ながら物騷千萬な事を臆面なく致し居候高著につき云々の御述懷を承り轉た汗顔の至覺えず右の始末を自白致し候芦屋へ御移轉御健康故の如く御元氣なるやに過般承り候精々のん氣に御消光可然小生も出來る丈無神經になる工夫のみ心掛居候先は御挨拶迄 匆々頓首
    十一月二十八日               夏目金之助
   鳥居素川兄
       座下
 
      一六六四
 
 十一月三十日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜復 岡田の月謝は僕が保證人だからいづれ學校から何とか云つて來たら其時出す氣でゐた此間當人に聞いたら多分年末だらうとの話故夫迄打棄置く氣なりし處へ御書面參り候 僕の方はどつちでもよろし、たゞ借《原》すといふより出してやるといつた方當人も穩當なるべきか 夫はいづれにせよさう悲觀してゐるなら君から右の旨を通じて下さい、又來年四月迄無収入なら夫迄月々二十圓〆八十圓やつてもよろし 其代り普通の人間の如く學校へ出て普通の人の如く及第する義務があります 右迄 匆々
    十一月三十日                 金之助
   豐 隆 樣
 
      一六六五
 
 十一月三十日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復あなたの覺えてゐる畫はまだありますがあれは上げられません。下手なひどい畫ですから。長塚がはゝゝと笑つた意味はまづいものをよく臆面もなく懸けて置くといふ意味からです。私はたゞあの趣丈が好なのです。それで記念のためまだ仕舞つてあります。畫が御望みならひまな時に何かかいて上げますが私のは畫といふよりも寧ろ子供のいたづら見たやうなものです。その小供の無慾さと天眞が出れば甚だうれしいのですがたゞ小ぎたない所丈が小供で厭味は大人らしいから困ります。書でも畫でもかきなれないと一通りのものは出來ず。又書きなれると黒人くさくなつて厭なものです。從つてどうして好いか解りません。正岡の書の批評をした事はもう忘れてゐました。あなたの手紙を見ても思ひ出せません。人に書をやると正岡の事どころではありません自分の品位のあやしいので恐縮する丈です此間人に自分の書を見せたら顔眞卿の肉筆の波璃板と比べて見て丸で比較にならん程顔眞卿は尊く見えるといひました先は右迄 匆々頓首
    十一月三十日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一六六六
 
 十二月一日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓先夜は失禮致候小生途中にて電車を待ち合せたる爲め十二時過に相成申候
 却説乍唐突御願の義有之候夫は多分御親類ならんと被存候が渡邊勝三郎君に就ての事に候同君は宏徳會と號し毎年大學の學生の貧困なるものに學資を給與せられ居候此度私方へ參る岡田耕三なるもの右會の補助を受け度旨申出候處來年四月ならでは決定不致旨にて當人は大困却の有樣實は先達迄家元の都合夫程不如意に無之ため學業繼續の所昨今は意外の悲境如何とも致し方なく退學するか宏徳會に救つて貰ふかの二つしかない苦しい難關に陷り居候そこで大兄に願ひたいのは(一)候補者中より右岡田を給與生と撰定する樣勝三郎君に御口添を願ふ事と(二)來年四月よりの規定をどうか來年正月に繰り上げて明年始めより月々のものを遣つてくれる樣同君に御依頼を願ふ事と此二つの件に有之御繁多中實以て恐縮ながら右岡田申すにはさういふ方面から頼んで頂かなくては到底成立しさうにないと申候故右岡田に代つて小生より願ふ次第に御座候岡田なるものは佛文科のものにて宅へは始終出入致候好き人間にて頭脳もことの外明瞭に候途中にて廢學致させ候事如何にも氣の毒故斯樣の事迄貴配を煩はし申候萬一四月よりの給費を一月に繰上げる事かなひ不申候へば一月より四月迄の間は小生がどうかしてやるより外に途はなくなり申候小生も左程富裕にも無之候へども萬一の場合はその位の事は本人のために致しても宜敷その代りどうぞ四月からの候補者中より岡田丈を被給學生として今から定めて頂きたいと存侯さうなれば當人は無論小生も安心致候小生自身勝三郎君に御面會致してもよろしけれどまだ一面識もなき故御遠慮致しとくに舊好ある大兄に御面倒をかける譯に候右あしからず御諒察願上候 匆々頓首
    十二月一日               夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一六六七
 
 十二月二日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區東五軒町一安倍能成へ
 拜啓昨夜清嘯會で君にあひたいと思つてゐた處御出なく失望、用事は大阪朝日から新年もの讀切小説五六段のものを十二月二十五日頃迄に君に書いてもらひたいと云ふのです都合をして書いてやつて來《原》れませんか 高等學校の講演は可成やめに願ひたいが是非といふなら今から一週間來週の金曜位に何かやる事に致しては如何演題は固より未定それ迄に苦痛ながら何か考へる積です此間申した通り畫を描いたり書を書いたり芝居を見たり運動をしたりしてゐると筋道の立つた思索の方面には頭が働かず働かせるのは頗る不快故都合つけば別の人に願ひたいと思ふのです もう一返折返しそこを聞いて呉れませんか 以上
    十二月二日                夏目金之助
   安倍能成樣
 
      一六六八
 
 十二月三日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町二〇内田榮造へ〔はがき〕
 拜復 (一)氣不精(キブツセイ)(二)拾(ヒロフ)(三)見付ける(此所はミツケル)(四)伸して(ノシテ)(五)無意味(無氣味デハアルマジ)東京デハ無氣味ト云ハズ(六)話しかけらる〔右○〕のが(七)そんな。小生は其んなと書かず。尤も前に假名ばかりつゞいて讀みにくい時は別なり(八)直、御直、間に合ハネバ一定シナクテヨシ。一定出來レバドツチデモヨシ(九)片方(カタハウ)(十)彼女 ドツチニ讀ンデモヨシ(11)何分 コヽハナニブン(12)善過ぎる?好過ぎる?(13)横ヅケデヨロシ
 
      一六六九
 
 十二月七日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ
 拜復
 (一)此所デハ妾《アタシ》と私《わたくし》と使ひ分けるのです。間違でハアリません
 (二)句讀是にてよろし 御膳は「おぜん」と振がなの事
 (三)ちいさい です
 (四)たたう丈です
 (五)行燈は忘れたり まあもとの儘にして置いて下さい
 (六)こみぢん です
 (七)ぶつたぎる です
 (八)姐さんと直して下さい
 昨日音樂會へ參りました歸りに玄關で奥さんにあひました。向ふでも氣がつかないやうだし僕も面倒だから挨拶をやめにしました 大いに失敬
 右迄 匆々
    十二月七日                 夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一六七〇
 
 十二月七日 日 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓昨日は音樂會へ參り留守に御出被下失禮致候樗牛會講演の義折角なれど少々困却致候來る金曜に高等學校でやる事に相成是もまあ無理に依頼されたやうなもの無據處引受申候さうすると又二十日にやるのは隨分苦痛故是は他の名家に讓り度と存候どうぞあしからず 右迄 匆々
    十二月七日                夏目金之助
   芥 舟 樣
 
      一六七一
 
 十二月八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 段々押しつまり候御變りなくや小生は運動をしたり芝居へ行つたり遊んでゐる今日上野美術協會で平泉書屋古書畫展覽會といふのを一覽悉く支那人のものにて文展などより遙かに面白く是非買ひたいのが二三十幅もあつたらうと思ふが金がないから聞いても見ず大兄是非行つて御覽なされたくわざ〔/\〕勸誘のために此手紙を書き申候贋物も澤山 くれても斷りたいものも夥しけれどよきものは書畫共に垂涎の至りなり是非御出可被成候 以上
    十二月八日                 金之助
   寅 彦 樣
 
      一六七二
 
 十二月八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓先日は失禮高芙蓉の畫を見てから僕も一枚かきましたが駄目です
 今日上野の美術協會にある平泉書屋古書畫展覽會といふのを見に行きました夥しい點數です大變面白い私は文展よりもどの位面白かつたか分らないあなたも是非入らつしやい必ず參考になります、中には畫は面白くても贋物らしいのが隨分あります中には本當かも知れないがちつとも難有ないのも澤山ありますもらつても掃溜へ棄てたいのさへ交つてゐます然し好きなものになると堪らないのです。買はうとすれば買へるのだがとても寄りつけまいと思つて聞いても見ませんでした、私は生涯に一枚でいゝから人が見て難有い心持のする繪を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で難有い氣持のする奴をかいて死にたいと思ひます文展に出る日本畫のやうなものはかけてもかきたくはありません、平泉書屋展覽會を御報知する筈の處飛んだ事を申しました先は御報迄 匆々頓首
    十二月八日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 書もいゝのが大分あります、
 あなたの壁飾りには何處か宗達流の調子があります私は時々あれを眺めて愉快を感じます
 
      一六七三
 
 十二月八日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 先達ては難有う私は別に岡田さんに禮状を出さないから君から宜しく願ひます景清の畫は閑《原》單で調つてゐて傑作です私にはあんなものは到底かけない高芙蓉の畫を見てから僕も一枚かいたがどうもうまく行かない生涯に一枚でいゝから有がたい感じのする繪が描きたい山水動物花鳥何でも構はないありがたいので人が頭を下げるやうな崇高の氣分を持つたものをかいて死にたい。今日上野美術協會へ行つて平泉書屋古書畫展覧會といふものを見たが文展よりは遙かに面白かつた是非行つて見たまへ非常な點數のうちには厭なものも大分まじつてゐる贋物もある樣子だが好いものは實に好い買ひたいが金がない僕に岩崎の富があれば書畫併せて二三十幅は是非買つて置く所です 先は行覽御|觀《原》誘迄 匆々
    十二月八日                  金之助
   臼 川 樣
 
      一六七四
 
 十二月十一日 木 後9-7 牛込區早稻田南町七より 橋濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓先日は岡田生件につき御面倒なる事御願申上候處早速御承引被下千萬難有候渡邊勝三郎君にも再度御會ひ被下候よし御手紙にて承知御禮申上候いづれ何とか御挨拶ある趣敬承致候御返事相待ち申すやう本人に申聞べく候
 鮭二尾歳末の御寄贈いつもながらの御好意拜謝致候此方よりは何も上げるものもなく候來春拙著行人出來の節は一本を左右に獻じ度く存居候先は右迄 匆々
    十二月十一日              夏目金之助
   渡 邊 樣
 
      一六七五
 
 十二月十一日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜啓インフルエンザの爲め又肺尖の徴ありとかにて御悲觀御尤もなれどインフルが退去すれば片方も撃退される樣子ならば夫にて結構かと存候別に御心配なく御養生願上候御嚴父御死去の爲めの神經ならば幾度も死にかゝつて生き還つた小生の事を考へて樂觀ありたきものに候小生畫をかくのと遊ぶのと運動するのとでいそがしく候畫も明日はやめやう/\と思ひながら其明日がくると急に描きたくなり候まあ酒呑がバーの前を通るやうなものと存候其癖うまいものはかけず飛んだ醉興に候年内には御歸省の由其前いづれ拜顔の機を得萬々可申述候 以上
    十二月十一日               金之助
   寅 彦 樣
 
      一六七六
 
 十二月十四日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ
 拜復小生の早稻田文學に載せたる談話今般御發行のズーデルマンの翻譯に御入用との仰敬承致候へども右はふるきものにて小生の記|臆《原》にはしかととまり居らず從つて其儘の御轉載は少々困却致し候が小生談話の當時早稻田文學に載せられたるものとしてあなたの序なり緒言なりに御引用なるのは一向差支ない義と心得ます右御返事迄 匆々頓首
    十二月十四日              夏目金之助
   小池堅治樣
 
      一六七七
 
 十二月十八日 木 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町六四水上齊へ〔うつし〕
 拜啓 滿鐡より手形參り候につき御送致候御受取願候。さうして受取つた旨を一寸御知らせ(私迄)願上候 草々
    十二月十八日               夏目金之助
   水 上 齊 樣
 
      一六七八
 
 十二月二十三日 火 牛込區早稻田南町七より 秋田市築地本町濱武元次へ〔うつし〕
 御惠投のもの拜受致候毎々御心にかけられ御好意ありがたく御禮申上候御地寒氣殊に烈しからんと想像致居候スキー抔至極の遊戯と被存候東京も中々の寒さにて既に珍しく降雪さへ有之候然しからだは先々無事消光罷在候間乍憚御休神可被下候右不取敢御禮迄 匆々頓首
    十二月二十三日              夏目金之助
   濱武元次樣
 
      一六七九
 
 十二月二十六日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ「はがき〕
 拜復如何とも君のいゝと思ふ樣御取計願候
    十二月二十六日夜
 
      一六八〇
 
 十二月二十八日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 長らく御無沙汰をしました御健康で結構です私も無事です御安心下さい
 智慧と運命ありがたく拜受しました御禮を申します年の暮のせいか私のやうな閑人も何だかせわしない氣がします 文士が假装會などをやります、どういふ興味に驅られるのでせう私は町の中を歩いてる方が餘程面白いと思ひます
 右迄 匆々
    十二月二十八日              夏目金之助
   大谷繞右樣
 
      一六八一
 
 十二月二十九日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 麹町區元園町一丁目武者小路實篤へ〔はがき〕
 「心と心」についで「生長」がありました、最初にある「それから」の當時の御批評は私にはいゝ記念であります、御禮を申します
    十二月二十九日
 
      一六八二
 
 十二月三十一日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 岡田の事本年より學資をうける事になり候御配慮難有存候
 
      一六八三
 
 十二月三十一日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 麻布區三河臺町二七志賀直哉へ
 御手紙を拜見しましたから御返事を差上げますがそれを御覽になる時は御正月ですから御目出度も一所に申上て置きます 武者小路君を通して御依頼した事につき御承諾の意を御洩し被下まして難有存じます夫に就てわざ/\會見の日取を御問合せになりましたが私の方は今いつが空いてゐるといふ程多忙の身體でもありませんからあなたの方で極めて一寸御通知を願ひたいと思ひます若し私の方で都合が惡ければ其時申上ますから 御宅と私の家とは大變かけ隔つてゐて御氣の毒です 電車は江戸川終點が《原》若松町行の柳町といふ停留所で御降りになるのです、是も序に申上ます 以上
    十二月三十一日夜              夏目金之助
   志賀直哉樣
 
 
 大正三年
 
      一六八四
 
 一月五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區農人橋二丁目池崎忠孝へ
 拜啓 あなたの書いてくれた私に關する評論は御手紙の屆いた大晦日の晩に讀みました。夫迄はいそがしくて見られませんでした。あなたの論文は長いものです、又骨の折れたものです。あなたは外の人よりも私に讀んでもらひたいといふ以上あの論文を書いた動機のうちには私の爲に書くといふ好意が含まれてゐます。私は自分の爲にあなたが是程と《原》勞力と時間を使つて下さつた事を感謝します。
 近頃アセニーアムに私の事を書いたものがあります。私は自分のやうなものをわざ/\英國へ紹介してくれたブライアンといふ人の好意に對して謝さなければならんと考へてゐます。然し彼のいふ所は如何にも空虚です一冊も私の本を讀んでゐずに好加減な人から好い加減な事を聞いて夫を英文にしたものですから私は夫以上に難有いとも何とも思ひません、然しあなたは私の書物を現に讀んでゐるのです、さうしてそれをあなたの頭でまとめたのですから 其點で私は御禮をいはなければなりません(生田長江氏のかいた※[さんずい+嫩の旁]《原》石論もブライアンの毛の生へたものに過ぎません)
 あなたは私を大變ほめてくれました、あなたは御世辭を使つた積ではないでせう。あなたの眼に私があゝ映ずるなら私はえらい人かも知れません。然〔し〕あなたの纒め方は(私の褒貶を離れて見て)まだ足りません。書き方の割合には中の方が薄い心持がします。夫から書き方に大きく見えて其實確かりしてゐない所があります。私は褒められ足りない不滿足を感ずるのではありません、あなたの纒め方や、あなたの書き振にまだ足りない所があると思ひます。然しあなたは全然眞面目で書いてゐるのですから私が今かう云つても恐らく通じないかも知れません。私は私のいふ事が今にあなたに通じる時機がくる事を希望しかつ信ずるのであります。文學に專|問《原》の大家やなどの論文を見ても外部は如何にも立派さうに見えながら其實少しも立派でないのが澤山あります。あなたは此方面を專問する人でないから いつやめるか分らないと思ひますが もし長く文壇に關係しやうと思ふなら 私のいふことを參考にして下さい。さうして是等の大家の行く方向とは反對の方へ歩いて下さい。これが私のあなたに云ひ得る最上のものです。御禮をいふ傍ら失禮も云ひます。年長者の言葉と思つて許して下さい 以上
    一月五日                 夏目金之助
   赤木桁平樣
 
      一六八五
 
 一月六日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇大塚保治へ
 啓 心の花新年號わざ/\の御寄贈難有う。君の大西君に對する追回談を早速讀んだ。僕は大西君を知らないから君の評價が當つてゐるか居ないか丸で分らない。然し君の頭にある大西君は明瞭に虚飾なく秩序正しく出てゐる。あれは談話だけれども君が訂正したからあゝきちりと出來上つてゐるのだらうと思ふ。あのスタイルは甚だ好いと思ふ。あれで澤山だから君は美學に關する論文でも最近欧洲文藝史でも其一部分でも公けにしたら何うだらう。大學でばかり講義をするよりも廣く天下の人に見せる方が僕は賛成だ。どうせ君は學者なのだからいくら著作を輕蔑したつて學者を輕蔑したつて今更始まらない以上學者としての活動をしたらいゝではないか
 大西君の好きなジニアルといふ字を見た時一寸驚ろいた。ジニアルといふ字の意味は知つてゐる積であるがそれをジニアスの形容詞に使つたのは殆んど僕の記憶にない。それで僕は念のために字引を引いて見た。すると成程大西君の用ひる意味の例が出て來た。然し rare とかいてあつた。で僕も落ち付いて。大西君が滅多に用ひられない意味で此形容詞を使はなければならない程ジニアス(天才の人)を認めなかつたかと思ふといかに彼が人を別にした作物や論議丈に重を置いたかゞ分つて面白い。巣鴨のイヂオツトをサブライムだと云つて感心する所などは甚だ面白い。僕は大西君の萬事が此例に出てゐる樣な調子であつたら〔う〕と思ふ。然し僕は彼を知らないのだから多く云ふ權利を有たない 以上
    一月六日                  金之助
   保 治 樣
 
      一六八六
 
 一月七日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐵へ
 昨日あなたへ行人を一部送りました。ノア々々の御禮として記念の爲に上げたのだから受取つて下さい。所がわからないから洛陽堂宛にしました。今日あなたから手紙が來たので始めて御住所を知りました。惜しい事をしました。
 實は昨日あなた〔の〕白樺に出た小説を讀みました。半分以後は呼息がつまるやうな心持がします。まことに悲しいものです。さうして美くしいものです。私は個々の人が個々の人に與へられた運命なり生活なりを其儘にかいたものが作品と思ひます。何となればそれに接した時自分に與へられないものを見出して啓發を受けるからであります。あなたの書いたものも私にとつてその一つであります。
 氣に障るかも知れませんが一口遠慮のない事を云ひます。女主人公の所へくる女友達の手紙の文句にはみんな何かこびりついてゐます。もつとすつきりしたものが欲しいと思ひます。感情をいつわつたものではありませんが、感情に訴へ過ぎるのでせう。女主人公自身の殘した日記のうちにも其痕迹があります。あなたの心を傷けるためにいふのではないから勘辨して下さい。
 あなたにもあの小説に似た悲しい事實の記憶が新らしいやうに人から聞きました。さういふ氣分の所へ行人などを送るのは邪魔になる丈でせう。然し讀まんでもいゝのです。たゞ受取つて置いて下さい。
 私はからだは今の所惡くもありません。あなたは熱が出たさうだがよく御用心をなさい。此間大塚にあつたらあなたの事を話してゐました。 以上
    一月七日                 夏目金之助
   小泉 鐵樣
 
      一六八七
 
 一月七日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 近頃は不勉強にて外國のものを讀まず、佛語と獨乙語の稽古のために雜誌などを見るけれどもそれすら思ふやうに行かんので自分も恐縮してゐます。そこで君の手紙にある、ミス ヂユリアもゼ ストロンガーも知りません、彼のブルーブツクも解りません。然し是は聞いて置きたいから一寸教へて下さい。メンデリズムの方は殆んど無知識だが是は一寸伺ふに時間がかゝるから聞かんでもよろしい。
 僕の講演にあるイミテーシヨンとインデペンデンスはいゝ對語でないかも知れません。然しあなたのいふ類型個型には仰の通り餘程縁の近いものです。私はあれから演繹して類型個型の二文字を點出しそれからクラシシズム ナチユラリズム ロマンチシズムの關係に及ぼさうと思つてゐたのではありませんが頭のなかにはさういふものが今でも往來してゐます。いつかエラボレートして見たいと考へます。
 僕の講演を私立學校を休んでまで聞いて呉れた君にまだ一言の謝辭も述べないのは甚だ濟まないこゝに改めて感謝の意を致し、又あの講演が私立學|教《原》の教授を已めてまで聞く價値のなかつた事を御詫び致して置きます。 匆々
    一月七日                 金之助
   芥 舟 樣
 
      一六八八
 
 一月十一日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 カブキハ行ツテモイヽガアンマリ氣ハ進マナイ、サウ芝居バカリ見ルノハ鼻ニツク。モシ行ケバ僕一人デス、妻ハ行カナイトイフ。此間ノ奇々怪々タルモノヲ二度見ルト思フトアマリイヽ氣もしない。 以上
 
      一六八九
 
 一月十三日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓ストリンドベルヒのものは一冊も讀まず英譯は近頃澤山出るけれども名前を忘れてしまふ故つい伺ひました。御返事に對して御禮を申ます。メンデリズムに就ての御教示も御面倒でしたらう難有う。あれは餘程前に聞きましたね、たしか君から聞いたんぢやないかと思ふ。然し其時から面白いといふ丈で感動しなかつたのみかくだ/\しくて覺える氣にならなかつたのでつい忘れてしまつたのだと思ひます。然しあいつは君簡單すぎて容易に人間の精神抔には應用出來ないでせう。そこ迄メンデリズムが進歩すれば大變なものではありませんか。實驗心理で發見した事は精神界の極めてカタツパシで夫でぐん/\全體が押せるものでないと同じぢやありませんか。從つて僕はメンデリズム抔と文藝などゝは今の所到底結び付けて考へられるものでないと考へてゐますがね。メンデリズムで説明の出來る文藝上のフエノメノンが有つたら是非氣が付いた時知らして呉れ玉へ。其時は大變利益をうけるだらうと考へます。僕は自分で文藝に携はるので文藝心理を純科學的には見られない。又見ても餘所々々しくてとてもそんなものに耳を傾ける氣がしない。僕のはいつでも自分の心理現象の解剖であります。僕にはそれが一番力強い説明です。若しそこに不完全なものがあればそれは心理現象そのものゝ複雜から來るので方法のわるい點からくるとは考へられません。もしメンデリズ|ス《原》が非常に進歩して御前の文藝上の作物はAとBとCと……とからの遺傳がかうなつて出て來てゐると科學者から説明されても僕は僕の頭で自分を解剖して(不完全な解剖でも)いやさうぢやないと斷言するかも知れません。どうでせう。然し文藝で新らしいといつても空論だメンデリズムの遺傳法で來るのだといふ君の主意と意味が僕には徹しないので議論が矛盾になつてゐるかも知れません。新らしいといふのは俗語ですが其俗語のうちに自ら科學的に翻譯し得る意味が籠つてゐます。それを明かに道破し得た時にメンデリズムが文藝に口を出す權利が始めて出てくるのではありませんか。至つて不秩序で失禮。
 臨風と御光來を願ひます。此次の土曜は駄目です。若し時を極めてくるなら飯でも差上げてゆる/\御話をしたい如何でせう。 以上
    一月十三日                  金之助
   芥 舟 樣
 
      一六九〇
 
 一月十三日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓
 此間行人を一部送りましたが屆きましたらう。三十部も四十部も署名してゐるうちに送つたか送らないか解らなくなつてしまひます。石井柏亭にわざ/\斷りを云つてやつたら先方から本は慥かに屆いた何かの考違だらうなどゝ云つて來ました隨分耄碌してゐます。
 それは偖置舊冬御配慮を願つた宏徳會の件其後同會より岡田耕三を本年一月から會員にしてやるといふ手紙が來ました是で本人も安心して勉強が出來ます御骨折に就ては私から感謝致します渡邊君に御會の節はどうぞよろしく願ひます早速御禮を申上げるべき筈の處ごた/\で後れて濟みません。實は此事も或は年賀状の表に附記して御禮を述べたかも知れませんが賀状を出す時は書物をやる時よりも滅茶々々ですから或は失念したかも知れません。今改めて御禮を申上げたいと思ひます 匆々
    一月十三日                夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一六九一
 
 一月十四日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 御手紙拜見しました「素人と黒人」を御ほめ下さつて難有う御座います、幅物を持つて御還りださうですが拜見したいものです 霽月にやつた墨竹は其時は可なりの出來と思つたが今もう一遍見ないと何とも云へません、本人がいゝと思つて表装するなら格別それでなければそれには及びません、あなたに頼まれた達磨はあれぎりですが外に色々かきました私の上げてもいゝと思ふものゝうちで思召に叶ふものがあるなら達磨の代りに上げてもよろしう御座います右迄 匆々
    一月十四日                夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一六九二
 
 一月十四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 御無沙汰をしました此間は海老と笹飴をありがたう何も上げるものもありませんから行人を一部呈上致します御受取を願ひます。杉本さんは歸つて來ましたね私は音樂合で一遍電車の中で一遍會ひました然し患者としてはまだ交渉がありません。まあ仕合せなんでせう。柏戸は本場所を休んでゐますね。強くなつたやうですね 以上
    一月十四日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一六九三
 
 一月十四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保六六戸川明三へ
 拜啓其後は久しく御目にかゝりません御健勝の事と存じます私も變りはありません。
 今度私の行人が出版になりましたに就いて一本を差上たいと思ひ小包で差出しました御受取を願ひます。行人の出てゐるうちは時々御ほめの言葉を頂戴しましたのを記憶してゐます。それで感謝の記念に御送り致します 右迄 匆々
    一月十四日                 夏目金之助
   秋 骨 樣
 
      一六九四
 
 一月十八日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 新潟縣糸魚川山崎良平へ
 拜啓良寛詩集一部御送被下正に落手仕候御厚意深く奉謝候上人の詩はまことに高きものにて古來の詩人中其匹少なきものと被存候へども平仄などは丸で頓着なきやにも被存候が如何にや然し斯道にくらき小生故しかと致した事は解らず候へば日本人として小生は只今其字句〔の〕妙を諷誦して滿足可致候上人の書は御地にても珍らしかるべく時々市場に出でも小生等には如何とも致しがたかるべきかとも存候へども若し相當の大さの軸物でも有之自分に適〔當〕な代價なら買ひ求め度と存候間御心掛願度候右御禮旁御願迄 匆々頓首
    一月十七日                夏目金之助
   山崎良平樣
 
      一六九五
 
 一月二十l日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 拜復二十四日御兩君の御出を待ちます、粗飯を差上度其つもりで御出下さい、但しとくべつに何もなし西洋人に呼ばれたと同じ事です
 
      一六九六
 
 一月二十一日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐡へ〔はがき〕
 拙著を再度御讀み下さつた由それにつき色々の御感想ありがたく伺ひました、水原ふぢ子といふ人の原稿は決して急いで入用ではありません、ゆつくり御とめ置き下さい
 
      一六九七
 
 一月二十四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜復今日は宅で畔柳と笹川とを呼んで夕飯を食ふ約束があるので謠には出られません 折角の招待まことに殘念です 坂元が隅田川をやるなら脇の語で威嚇してやりたいが已を得ない 妻は晩に森田のところの※[足+勇]の浚に行かなければならないから是亦行かれません
 此間もらつた粕漬は大變うまかつた又くれたまへ 匆々
    一月二十四日                金之助
   豐一郎樣
 
      一六九八
 
 一月二十四日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓御惠贈の魚鑵入にて本日到着ありがたく御禮申上候まだ見た許で何の魚とも判然せず大方ふなだらうと存候 近頃は雪で嘸御寒い事と思びますが東京は幸好天氣がつゞいてゐます然〔し〕寒氣は隨分です 時節柄御身體を大切になさい 御禮迄 頓首
    一月二十四日                夏目金之助
   大 谷 樣
 
      一六九九
 
 一月二十四日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市上龍尾町九三野間眞綱へ
 拜復今度の爆發では實際びつくりした新聞が大袈裟なのか事實がひどいのか何しろ驚ろかされたが電報が不通といふので安否を問ひ合せる譯にも行かず困つてゐたのです。夫でも返電がきて無事とあるので安心した夫から手紙も來た 隨分不安の事だつたらうと思ふがそんな事に出會ふのも生涯の經驗としては再度とないといふ意味で面白い氣が大分ある出來れば其時に鹿兒島にゐてあとから其時の樣子を書いて見たいと思ふ マードツクさんも無事だらうと思ふもしあつたら宜敷いつてくれ玉へ皆川君も無事でよかつた 僕は十二日はたしか芝居に行つてゐたと記憶する其時君等が逃げ出してゐやうとは氣がつかなかつた 先は御喜びまで 匆々
    一月二十四日                金之助
   眞 綱 樣
 
      一七〇〇
 
 一月三十日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ
 あたまがわるくてまた學校を休んでゐるさうぢやないか、夜寐られなけ〔れ〕ば眠藥を買ふ金位どうでもするから學校へは成るべく出る事にしたいと思ふ。
 偖縮刷の三四郎、それから、門合本の校正をやる人が必要だが君出來るか。安倍の方でも都合よければしたいといふ。或は半分づゝにしてもよいと考へてる、然し君に金の必要が非常にあるなら全部君に讓つてもいゝ 如何
    一月三十日                  金之助
   耕 三 樣
 
      一七〇一
 
 一月三十日 金 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 啓 藏山と藏澤の箱出來早速御屆け下さいましてありがたう御座います、まだ外に兩三個願ひたいのですが寸法もありますから今度御出の時に又御面倒を願ひたいと思ひます 紙は受取りました其内何か書きませう 霽月は清水老人から明月の書をもらつてくれました私は代りに野田笛浦の書を送りました明月はうまいものですそれを表装をしかへなければなりません今度御目にかけたいと思ひます 以上
    一月三十日                 夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七〇二
 
 一月三十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福岡市外東公園久保猪之吉へ
 拜啓
 鼻科學の下卷を御送り下さいまして難有頂戴致しました 頼江さんは昨年暮から御病氣で入院なさつたさうですが一向存じませんでした御病症も解りませんが不日退院といふ御書面故大した事もないのだらうと存じて居ります時節柄精々御加養なさる樣願ひます先は御禮旁御見舞迄 匆々頓首
    一月三十一日                 夏目金之助
   久 保 樣
 
      一七〇三
 
 一月三十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 小包にて印章到着 是は先日小さいぬめに拙字を認めた御禮と思ふ無石先生の御好意を感謝する旨よろしく貴兄より同君に御傳へ被下度候
 斯ういふものを贈つても本人から禮の來ないのは物足らぬもの故どうぞ忘れないやうに無石君へ御傳を願ひます 風が吹いて寒くて困る 以上
    一月三十一日                金之助
   東 洋 城 樣
 
      一七〇四
 
 二月二日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 君の事情も困難かも知れないが君の經濟は猶困難だらうと思ふ校正が足しになるならやつてくれ玉へ、いづれ春陽堂から何か云つて行くだらう
 
      一七〇五
 
 二月七日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 啓十一日の市村座へは妻の《原》僕の兄をつれ行く君と合せてうづらを一つ取つたら如何 匆々
    二月七日
 
      一七〇六
 
 二月八日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 熊本市内坪井町一二七奧太一郎へ
 拜復今度愈御辭任の上長崎の方へ參られる事になりたる由拜承致候大兄の熊本行は實は小生の推薦の由それは御手紙にて漸く思ひ出したる位十六年の昔故それも道理かと存候然し大兄は小生の配慮を恩義の如く感ぜられわざ/\の御手紙小生は甚だ恐縮致候小生在熊中こそ種々御世話に相成御蔭にて左したる公務上の不都合もなく無事に引上げ候段深く感謝致居候大兄も十六年後の今日漸く別方面へ活動の餘地をつくるための御轉任なれば小生はたゞ心中より喜び申候長崎着の上は女子教育の方にて充分の御成効乍蔭切望致候先は右御挨拶迄 匆々頓首
    二月八日                  夏目金之助
   奥 太一郎樣
 
      一七〇七
 
 二月九日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先日御送の玉版箋を二つに切り其一つへ御依頼の書をかき申候處出來具合あまりよろしからず更に自分で畫箋紙を買ひそれへ改めて認め候もの却つてよろしきやう被存候間それを呈上する事に致候尤も二枚とも取り置き候故御覽の上御取捨願候もう一つ畫家への御注文も出來候へども是はことによると他の方へ遣るかも知れぬ故其積に願候小生の御依頼申上置候畫の表装出來候へば其節は恐縮ながら御屆願度其折前述の惡書を差上る事に致し度と申《原》候先は御報知迄 匆々頓首
    二月九日                  夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七〇八
 
 二月十日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓開いた處が只今小包で届きました難有御禮を申上ますあの中には私の讀まない人の文章が可成あるやうですあなたは能く懇《原》氣にあれ丈の仕事をなさいます感心の至です
 此間の鮒の甘露※[者/火]は奥さんのとくに私に下さる積での御手製の由に後から承はりまして猶更恐縮致しましたどうぞ奧さまへよろしく御傳下さいまし
 不取敢本の御禮の序に鮒の御禮を繰り返します 匆々
    二月十日                 夏目金之助
   大谷繞石樣
       座下
 兩三日前雪が降りました珍らし〔い〕位で御蔭で道は散々になりました
 
      一七〇九
 
 二月十四日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町一二木村恒へ
 拜啓小説を拜見しました あれも決して傑作ではありません、即ち公表するに足る程なものではありませんでした。尤もよくない所は白い髭の生えてゐる御爺さんの出てくる處です全體から見て餘計なばかりでなく離して見てもうその色彩に過ぎません。
 始めの出合の處、宅で馬に秣をやるあたり、店の喧嘩、若いものが夜いたづらをする處などはよろしう御座います。
 構想からいふと女と一所になれないので父が死ねばいゝと思ふのはよろしい。其父が死ぬ偶然はよくもありわるくもある。よく行けば自然でかつ奇拔であるが惡く行けば全然作りごとになる。あなたのは恐らく兩方なのではないか。其父の死から出る心理上の變化も自然にかけばあれで面白いがあれでは作者の概念を事實にする爲に事件を拵らえたとしか見られないです。
 あなたが急ぐやうだから急いで見ました。さうして手紙で評をかきました。玉稿は御出迄あづかつて置きます。 匆々頓首
    二月十四日                  夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一七一〇
 
 二月十八日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓東京は段々暖かになつて來ます金澤は如何ですか矢張も〔う〕春の心持がするだらうと思ひます、春になると金澤などの田舍の景色を想像して夢のやうに描いてゐます、偖突然妙な事を願ひますが實は私の大學で教へた英文科の卒業生のうちに皆川正※[示+喜]といふ男がゐます是が今の處は鹿兒嶋高等學校の教授ですけれども國は越後と會津の境あたりで家には父母がまだあるのです、所が其老人達が淋しいのでせう彼を自分達の傍へ呼びたがるのです、それで彼は好加減に辭職して郷里へ歸らうかとも考へたのださうです。然る〔に〕今度あなた〔の〕學校の西川君が鹿兒嶋へ轉任したに就いて彼は其後任になつて郷里へ近い金澤へ行きたいから是非あなたに依頼して見て呉れろと云ふのですが如何なものでせう。皆川といふ人は正直で極めて好い人間です顔を見ると神經質のやうで氣性はちつとも神經質ではありません學問も書物はよく讀む方だと思ひます、まだ西川君の代りが出來てゐないなら此男もどうぞ後任の候補者の中に數へて下さいませんか。私は皆川からの依頼で其依頼をあなたに又御依頼せねばならないやうな位地に立つて居ります、あしからず御了承を願ひます 以上
    二月十八日                夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一七一一
 
 二月十八日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町二一六皆川正※[示+喜]へ
 拜復其後も一週に一度位は降灰の趣セルロイドの眼鏡で外出するなどは奇觀である 偖御依頼の件本日金澤の繞石へ申して遣りました大谷とは始終書信の往復があるから遠慮も入らないので都合がよかつた然し大谷の方でどんな返辭をよこすか夫は全く知らずいづれ何とか云つてき次第すぐしらせませう野間君へよろしく 以上
    二月十八日                  金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一七一二
 
 二月十九日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復御旅行中は時々畫端書頂戴難有候ことに奈良よりの法皇の瓦の圖は頗る美事なるものにて愉快に候却説觀光中御老人御病氣の由にていそぎ御歸郷の處間に合はず既に御永眠の後なりし由定めて御落膽の事と深く御察し申上候不取敢微意を寸楮に託し哀傷の辭をつらね候時下餘寒猶料※[山+肖]の折柄折角御自愛是祈候 右迄 匆々
    二月十九日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一七一三
 
 二月二十三日 月 牛込區早相田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 拜啓先達の御依頼により金澤の大谷君へ委細打開たのみたる處別紙の如き返事あり君の轉任の事は是にて當分六づかしき有樣也 大谷君の手紙は逐一事情を明かにしあれば御參考の爲め同封にて御送り致し候御披見可然候 昨日より雪にて今猶降り已まず中々の寒氣に候 御地降灰は如何にや 右迄 匆々
    二月二十三日                 金之助
   正 ※[示+喜] 樣
 
      一七一四
 
 二月二十四日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 拜啓其後は御無沙汰御變りもなきや 脚氣の方はもうさつぱり御平癒の事と存じます偖此間散歩に出た序に古道具屋で山水の小幅の氣に入りたるものあり價格も低廉故求め歸り候處筆者不相分落※[疑の旁が欠]には瓜廬散人と有之候政畫家人名辭書など繰りひろげ探したれど見當つかずもし大兄御存じならば伺ひ度と存候もし御承知な|ら《原》ば序の節調べるか誰かに聞いて頂きたいと思ひます固より急ぐ事ではありません又分らなければならない程必要でもありませんが知れゝば知りたいのですちと御出掛なさい私も其内御邪魔に出ます 以上
    二月二十四日                 夏目金之助
   橋口五葉樣
 
      一七一五
 
 二月二十六日 木 後4-5 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ〔はがき〕
 拜啓 此間の佛蘭西の珍書の名前はよく解らないから西洋紙へインキで書いてもう一返送つて下さい 以上
 
      一七一六
 
 二月二十八日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜復 短冊四葉御求めの由承知致候處不幸手元に一葉もなく候故色紙にて用を辨じ申候 是は偶然四枚有之候いつぞや誰か持つて來て其儘になりたるものにてわるき色紙にも無之故夫へかきて差上候御受取被下度候 此間の柿は大變うまいものに候 以上
    二月二十八日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一七一七
 
 三月一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町一二木村恒へ
 あなたの手紙を讀みました夫からあなたの小説をよみました、だから事實の興味に驅られて小説としての價値がつけにくゝなりました 然しどうも無疵ではあるが一體からいつて高級に屬するものではないやうです。まあ世間並といふのが適當な所と思ひます
 大阪行の事及び其原因も承はりました世の中には色々な波瀾の起る必要があるのだから御決心を翻がへさすやうな事は申しませんがあの地へ行つてすぐ新聞などに入社の手續になるといふ事は殆んど困難かと存じます大阪朝日には知人が兩三名あります然しあなたを紹介した所でおいそれとあなたを記者に採用するやうな事は到底出來ないでせう、もし自活の必要があるなら大阪へ行くのはもう一度御考へなさい困る丈だから、夫よりもあなたの御兩親の信用してゐる人に頼んでもう一度あなたの所志を貫くやうな運動をして御貰ひなさい其方がいゝでせう、萬一大阪へ行くなら朝日に長谷川萬次郎といふ人がゐるから私の名をいつて會つて御覽なさい 然し彼にあつた所で何も出來ないのは殆んど明白ですから其邊もあらかじめ失望しないやうに御注意申して置きます 以上
    三月一日                 夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一七一八
 
 三月二日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜啓私は當分芝居へ行かないから市村座の番づけを持つて來るのを宮村さんに斷つて下サイ、若シ行ケバ番付をクレナクテモ行キマスカラ
 
      一七一九
 
 三月四日 水 前6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 成程菊五郎の浦島は素人でもありません又黒人でもありません。それぢや天才かといふとさうでもありません。素人と黒人の間に立往生をして齒掻いでくの坊が出來上つてゐるのです。
 私は芝居に大した興味を持ちません、菊五郎輩から問題を投げかけられたつて私の知つた事ぢやありません、吉右衛門に會ふのも當人が望んで會ひたいといふなら會ひます、然し君が勸めてつれてくるなら御免蒙ります。僕は君に對する好意の方向を求むる所のない吉右衛門に轉換して振りかへる譯に行かないのだから
 私は狂言座の顧問を斷りました。當分芝居は見たくありません。役者の心得方や芝居へ這入る藝者輩の氣分が藝術と飛び離れた不快な念を私に起させます。 以上
    三月三日夜               金 之 助
   豐 隆 樣
 
      一七二〇
 
 三月四日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 甚だ御面倒ながら一寸願ひます。社のものが永井荷風君に會ひたいと云ひます。所が同君は新聞記者には會はない人ださうです。夫で僕に紹介をくれと云ひますが、僕は君を煩はした方が有効だらうと思つてさう答へました。どうか永井君に頼んで東朝記者に會ふやうにして下さい、さうして永井君の都合のいゝ日を知らして下さい 草々
    三月四日
 
      一七二一
 
 三月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町渡邊傳右衛門へ
 拜啓此間は帝劇で失禮しました其節御話しの臺灣の茶二鑵今日到着正に拜受しました御厚意の程深く感謝致しますまだ飲んで見ませんが我々はハルピンで分捕つたとかいふ腐つた茶でも飲んでゐたのかも知れませんから早速一つ試して見やうと思ひますあの晩御話した通り私は狂言座の顧問を斷はりました顧問をしてゐても顧問榮がしませんからです漸々暖かになつて愉快です芝居などでくさい空氣を呼吸するより郊外を散歩でもした方が遙かにましだと思ひます。此間の晩は御存じの津田青楓君も來てゐました御會ひでしたか 先は不取敢御禮を申上ます 以上
    三月四日                 夏目金之助
   渡邊傳右衛門樣
 
      一七二二
 
 三月十三日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓先達の朝書畫帖が一冊屆きました夫から晩方に綺麗な百合の花が又屆きました花は下さつたのだらうと思つて翌日花瓶に挿しました珍らしいと思つて眺めてゐますが來客は一向氣がつかない樣です人間は隨分不注意千萬なものです 花も珍らしいがあの荷作りの手數は大變なものだらうと推察して御好意を深く感謝致します 所があの書畫帖の方は何の爲なのだか一寸迷ひます大方御手紙があとから參る事と思つて待つてゐましたが一向ありません夫で下さつたのかあれへ何か書けといふ意味が《原》解らないのです 御禮を申上る序に一寸夫を伺ひます 大分春めいて暖かになりました 博覽會へ御出掛になりませんか 右迄 匆々
    三月十三日              夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一七二三
 
 三月十八日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜啓昨日は御出下さいました處留守でとんだ失禮を致しました此間大塚君がきて其考を承はりました時此上佐々木さんと打合せの必要もあるまいから火曜の午後でよければ砂土原町へ出掛けやうと申して置きました大塚君はあなたの都合を聞いて時間を知らせる積だといひました所が其午後は五時頃迄宅に居りましたが何の御通知もないので大方御差支だらうと思つて友達を送つて四谷塩町迄參りました後へ御出下さつたのでした私はあなたが打合せの爲めわざ/\御出向にならうとは丸で豫想して居りませんでした第一打合せの必要もあるまいと考へてゐた位ですからどうも濟まん事でありますが以上の譯ですからあしからず御勘辨を願ひます
 偖取次のものへの御申置には木曜の午後六時頃に再度御出掛下さるとの事で御座いますが木曜は面會日でことに夕景は若い人などが落ち合ふ恐があるので閑談には少々不便を感する次第でありますが御多忙中御差繰を願つては濟まん事と存じますが出來得るならばほかの日を御擇び下さる譯には參りますまいか私の方は大抵都合をつけます夫から御足勞を省くため私から參上致しても宜しう御座います如何で御座いませうか 敬具
    三月十八日               夏目金之助
   佐々木信綱樣
 
      一七二四
 
 三月二十日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 金澤市茨木町四五大谷正信へ
 拜啓御新著頂戴難有う存じます私はガルスヲーシーといふ人のものを讀んだ事がありませんからあれをすぐ通讀しましたあれは全体として大陸ものゝやうな氣がします、あのうちの二つか三つには感心させられました私はまた小説を書かなければなりません書く前には氣分をそちらへ持つて行く必要があります夫には誰の小説でも讀んでゐるうちに自分も自然創作的氣分に侵されてくるやうになるのです、私はガルスヲーシーを讀む時さういふプラクチカルな考を懷いてゐました、さうして讀んで了つたら幾分か自分の目的が達せられたやうに思ひます偶然ながらあなたの御蔭です御禮を申上ます 以上
    三月二十日                夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      一七二五
 
 三月二十二日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ
 拜啓高著フラウゾルゲ御出版につき小生のかつて著者に對して申したる言葉御引用御取消につき御鄭重なる御手紙拜見却つて恐縮致候御寵贈の書物は大倉書店より正に屆き申候難有御禮申上候
 右不取敢御挨拶迄 匆々
    三月二十二日               夏目金之助
   小池秋草樣
 
      一七二六
 
 三月二十九日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 拜復
 御目出〔度〕う御座います。生れたてから親の注意を惹くやうな肝癪ではさぞ骨が折れるでせう。好い名を御つけになりました。奥樣へよろしく
    三月二十八日
 
      一七二七
 
 三月二十九日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣修善寺菊屋津田龜次郎へ
 まだ修|禅《原》寺に御逗留ですか 私はあなたが居なくなつて淋しい氣がします面白い畫を澤山かいて來て見せて下さい金があつてからだが自由ならば私も繪の具箱をかついで修善寺へ出掛たいと思ひます 私は四月十日頃から又小説を書く筈です 私は馬鹿に生れたせゐか世の中の人間がみんないやに見えます夫から下らない不愉快な事があると夫が五日も六日も不愉快で押して行きます、丸で梅雨の天氣が晴れないのと同じ事です自分でも厭な性分だと思ひます
 あなたの兄さんが百合を送つて呉れました夫から書畫帖を寄こされました、呉れたのか何か書けといふ意味かと思つて聞き合せたら呉れたんぢやないのです、さうかと云つてみんな書けといふのでもないのです、私は其儘預かつて置きます
 世の中にすきな人は段々なくなります、さうして天と地と草と木が美しく見えてきます、ことに此頃の春の光は甚だ好いのです、私は夫をたよりに生きてゐます
    三月二十九日                 漱石
   津田青楓樣
 「皿と鉢を買ひました。もつと色々なものを買ひたい。藝術品も天地と同じ樂みがあります」
 
      一七二八
 
 三月三十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓御教示の趣承知致しました 今度は短篇をいくつか書いて見たいと思ひます、その一つ一つには違つた名をつけて行く積ですが豫告の必要|用《原》上全體の題が御入用かとも存じます故それを「心《こゝろ》」と致して置きます。
 此他に豫告の文章は要らぬ事と思ひます。 敬具
    三月三十日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一七二九
 
 四月七日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ〔はがき〕
 御手紙を拜見しました私にはあなたからさう慕はれる程の徳も才もありません甚だ慚愧の至でありますあなたの御自愛を祈ります
    四月七日
 
      一七三〇
 
 四月九日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四阿部次郎へ〔はがき〕
 拜啓 三太郎日記御寵贈にあづかり難有御禮申上候あの「三太郎日記」といふ名は小生の好まぬものに候中味は讀んだのと讀まないのとありいづれ拜見致す心得に候 御禮迄 匆々
 
      一七三一
 
 四月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜復御歸りの由畫が五六枚かけた由結構です其うち見せてもらひに行きます昨日は御出とも氣がつかず博覽會へ出掛けて失禮しました美術館を見ましたいやな畫が大半です朝鮮舘の出口に昔の陶器と佛像があります、其うちには面白いものがあります、座禅舘といふ中にある木像も二つ程氣に入りました私もあなたと同じやうに何かやりかけて油がのる時分に止める都合になるのが殘念です、畫もいやになる迄かいて夫から又文學なり批評なりに移つて行きたいと思ひます小説ももう書き始めなければなりません、夫で畫はやめました、あの馬の畫の柳へポツ/\を打ちました多少よくなりました今度來て見て下さい 以上
    四月十日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一七三二
 
 四月十日 金 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 御手紙を拜見致しましたが號などは入らぬものですからよしになさい私は號を有つてゐるが號を有つてゐない人がつまらないといふ譯にはなりませんつまり私は餘計なものをもつてゐるのであります 右迄
    四月十日                 夏目金之助
   四方田美男樣
 
      一七三三
 
 四月十一日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 表装代殘り三圓五十餞小爲替にて御送り致候御受取願上候重ねて御光來の節と存じ候へども夫もいつか分りかね候事故御手數をも顧みず爲替に致候
 此間の瓜廬山人はわかりかね候や蘭亭吉祥も古城氏には判然致さず候や序を以て伺ひ申候 以上
    四月十一日                 夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七三四
 
 四月十四日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓久々御目にかゝらず御起居如何と思ひ居候處一昨日曜に御尋ね被下候由歸宅後承はり殘念に存候あの日は家のもの柏木華州園と申すに辨當持參にて遊びに參り候故小生もあとより散歩旁徒歩にて出向き申候夫にて出違ひと相成候近頃は人を尋ねずあまり人も好まず何だかつまらなさうに暮し居候小説も書かねばならぬ羽目に臨みながら日一日となまけ未だに着手不仕候是も神經衰弱の結果かも知れず厄介に候博覽會へは二度參り候繪はひどいもの多く候朝鮮李王家の出品中陶器及び古佛像に面白きもの朝鮮舘の出口に有之御覽にや其内拜眉萬々 以上
    四月十四日                金之助
   寅 彦 樣
 
      一七三五
 
 四月十七日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目馬場勝彌へ
 其後は御無沙汰を致しましたいつも御變りない事と存じます此間平出君の永訣式の時一寸御顔を見ましたがつい御挨拶をしませんでした
 モーパサンの傑作集を御惠贈下さいましてありがたう存じます不取敢手紙で御禮を申上ますあゝいふものにはあなたの署名が欲しいと思ひます夫は私ばかりでなく書物を贈られたものはみんなさう思やしませんか私ももとは氣がつかずに其儘差出しましたが近頃は一々私の名先方の名を書く事に致しました御禮の序に失禮な事を申上まして濟みません 以上
    四月十七日                夏目金之助
   馬場勝彌樣
 
      一七三六
 
 四月十八日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ〔はがき〕
  Russia of the Russians by Harold Whitmore Williams.(Pitman & Sons,6S.net)
 此本のうちにはツルゲネーフ以後現代の作家迄が紹介してある由間に合ふなら見て御覽なさい
 
      一七三七
 
 四月十九日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 拜復あなたの御手紙を拜見しました何か返事を寄こせとありますから筆をとりましたが別に何も書く事も出て來ませんあなたが私の本をよんで下さるのは私にとつて難有い事です私は御禮を申上ます薮の中で猫をよんだといふ事は可笑しいです あなた方の修業の方から見たら餘計な小説などをよむと定めて叱られるでせう まあ叱られない程度で御やめなさい 私は時々あなたの手紙を下さるのを讀みたいと思ひます 夫から私はあなたが將來座禅を勉強して立派な師家になられん事を希望します 右迄 匆々
    四月十九日                 夏目金之助
   鬼村元成樣
 新聞社からあなたの手紙を廻送して來た時不足といふ黒い判が捺してありました不足税は新聞社の方で拂つたのでせう
 
      一七三八
 四月二十日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ〔はがき〕
 拜復秩父の繪端書を十枚御送り下さいましてありがたう存じます大變好い所のやうに見えます私もいつか秩父の山奥へ遊びに行きたいと思つてゐます、御禮迄 匆々
 
      一七三九
 
 四月二十四日 金 後2-3 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣印南郡大國村松尾寛一へ
 あの「心」といふ小説のなかにある先生〔二字傍点〕といふ人はもう死んでしまひました、名前はありますがあなたが覺えても役に立たない人です、あなたは小學の六年でよくあんなものをよみますね、あれは小供がよんでためになるものぢやありませんからおよしなさい、あなたは私の住所をだれに聞きましたか、
    四月二十四日                夏目金之助
   松尾寛一樣
 
      一七四〇
 
 四月二十六日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 昨日は參堂失禮しましたあの竹の畫には實際恐縮しましたあれ程まづいとも思ひませんでした近いうち何か御氣に入るものをかいて取替たいと思ひますどうぞ夫迄は御あづかりを願ひます額の方も思つたより惡う御座いますがまだあれは畫よりもましです有島君の注意の自然といふ文字をしらべて見ましたら老子に道法自然とあるさうで、自然は矢張り名詞に使はれてゐますからまああれでも構はないでせう
 奥さんへよろしくどうぞ喧嘩をなさらないやうに願ひます
    四月二十六日                夏目金之助
   津田青楓樣
 あの壁かくしは大變よろしいが私の家の敷物ではあまり赤が勝ち過ぎますそれから單獨にいつて地の色がもう少し沈んで刺戟のない方が私の神經には結構のやうに存じます
 
      一七四一
 
 四月二十九日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六尚文堂氣付野上豐一郎へ
 拜復 沼波君が若し希望されるなら小生の名前を出してもよろしく候 さうでなければ控えて置きたく候 夫から私は無名會の會員だから切符を買ふ義務があるやうですがさうすると自由講座の方からも買ふ事になるのですか 一寸伺ひます 以上
    四月二十九日                 金之助
   豐一郎樣
 
      一七四二
 
 四月二十九日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より麻布區三河臺町二七志賀直哉へ
 御手紙を拜見しました又關西へ御出のよし承知しました小説は私があらかじめ拜見する必要はないだらうと思ひます夫から漢字のかなは訓讀音讀どちらにしていゝか他のものに分らない事が多いからつけて下さい夫でないと却つてあなたの神經にさわる事が出來ます尤も社にはルビ付の活字があるからワウオフだとか普通の人に區別の出來にくいものはいゝ加減につけて置くと活版が天然に直してくれます
 あなたに用の出來た時は仰の通り麻布三河台へ手紙を上げる事に致します 以上
    四月二十九日                夏目金之助
   志賀直哉樣
 
      一七四三
 
 四月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區銀座一丁目一讀賣新聞讀書會『讀書世界』へ〔應間五月一日發行『讀書世界』より〕
 人から實例をあげて自分の意見を問はれた場合にはある程度迄の返事は出來ますが此方からかういふ著及び斯ういふ節が會心のものだととくに御答する事は困難であります。
                          夏目金之助
 
      一七四四
 
 五月十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町三増田方林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜復午過は大概小説をかいてしまつてゐますから會へるでせう然しそれは特別で私の希望は木曜です。木曜にきて來足りない時に他の日に御出でなさい。からだはまあよろしい。
 
      一七四五
 
 五月十五日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 大阪府下濱寺羽衣松南水落義一へ
 拜復御手紙をいたゞきましてありがたう御座います御病氣で濱寺の方へ御療養に御出との事嘸御退屈だらうと存じます此間ある雜誌であなたの濱寺からの俳句を拜見した事がありますがまだ同じ處に御出なのですか精々御加養御全快を祈ります私はどうかかうか生きてつまらないものを書いてゐます俳句は殆んど作りませんが此間どういふはづみか十七字がならべて見たくなつて四五十ばかり書きつけました虚子には其後久しく會ひません何だか仕舞の稽古などをしてゐるとかいふ噂さです私が大阪で病氣をして御世話になつたのももう大分になりますつい此間だと思つてゐるうちにいつか年を取つてゐるには自分ながらあきれますあきれるよりも心細いといつた方が適當かも知れません東京は博覽會で大分賑やかです若葉も綺麗です御回復を祈ります 以上
    五月十五日                夏目金之助
   水落露右横
       座下
 
      一七四六
 
 五月二十日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ〔はがき〕
 畫を一幅買ひました。(蕪村といふのを)旨いものと思ひます、夫から畫を一枚かきました。明日午後日のあるうちに來て見てくれませんか(兩方を)
    二十日
 
      一七四七
 
 五月二十一日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復御無沙汰をして居ります昨日は又ずるい了見から總務局の呼出しに應ぜずその爲め色々な御手數を掛けまして何うも申譯がありません。社長の一同に通知された事を御親切に御教示下さいましてありがたう存じます詳しい事は自身出席しても忘れるものですから大して必要がなければ教へて頂かなくてもよろしう御座いますまあ社員優遇の事と思つて喜んで居ります 右御禮まで 匆々
    五月二十一日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一七四八
 
 五月二十五日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大阪府下濱寺羽衣松南水落義一へ
 拜復私が畫をかくとか箇人展覽會を開くとか新聞にあつたからもし開いたら見せてくれといつて來た人がありますしかも夫は畫を專門にする人でした私は驚いて事實を否定してやりましたあなたの御手紙で其出所が漸く分りました時事新報では大方冗談半分にそんな事を書いたのでせう私の畫を御所望の由承はりまして恐縮致します書もたのまれゝば書耻を忘れて書きますがもと/\氣の向いた時か夫でなければ筆と墨をつきつけられた時に限るのですから只今と申す譯には參りませんがそのうち機會があつたら變なものでも御笑ひ草に御覽に入れませうあなたの御病氣はまだよくならないのですか談話を禁じられるやうでは嘸かし淋しいだらうと思ひますし又さう輕いやまひとも思はれませんどうぞ御養生を大事になさつて御全快になる事を切望致します 以上
    五月二十五日               夏目金之助
   水落露右樣
       座右
 
      一七四九
 
 五月二十五日 月 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 拜復私に自信のある作物を御きゝになつても何うも困ります是は謙遜でも何でもありませんがさう是非讀んでいたゞきたいものもないのです夫から過去の作物はいづれもいやな氣がするものですから自分で人にすゝめる氣になれないのです、あなたの方で作物のうちで名前をあげてこれとこれとどつちをよむ方がいゝかと御聞きになれば御返事は出來ます
 あなたは一體何をしてゐる人ですか生活に餘裕がないといふのはどんな職業をしてゐられる爲ですか、夫から學校へ行つた事がないといふのは東京の學校といふ意味ですかあなたが文學者になれるなれないはとても容易には申されません、然し文學者として食つて行く事は大抵な人には困難です、私はみんなに忠告してやめさせてゐます 以上
    五月二十五日                夏目金之助
   四方田美男樣
 
      一七五〇
 
 五月三十日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣修善寺菊屋津田龜次郎へ
 また修善寺へ行つたさうですね湯に入りながら繪をかいて樂しんでゐるのは好い心持でせう此間不折に會ひました話の樣子によると達磨の繪などは寧ろ得意らしく見えます氣の毒ですあの鼻を曲げた處で繪が上手にならない以上役に立たないからさうか/\と云つて歸りました呉春は蕪村を學んだのですか夫であの人物のかき方が始めて合點行きました。あれは大變好い畫と思ひますあなたが何遍も見てゐるうちには好になると思ひます寺田は見るとすぐ賞めました、私はあんなものを見てあるくがあれ程のものにはまだ出あひません海だか湖だかある繪を御注意通り直しました大變好くなつた積です、今度見て評價して下さい私は軸にして殘して置かうかと考へてゐます面白い畫をかいて持つて入らつしやい 左樣なら
    五月三十日                夏目金之助
   津田青楓樣
 寺田は不折の畫を深川邊の活動寫眞の看板よりまづいと云つてゐました、當人が聞いたら怒る事と思ひます
 
      一七五一
 
 六月二日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 長い手紙を下さいましてありがたう病氣は如何ですか病氣の時は可成醫者に診て御貰ひなさい國へ歸つたといふから親の處かと思つたら生れた家ではないのですね夫でもさうして靜養の出來る處があるのは結構です早くよくなつて又僧堂の飯を御上がんなさい神戸に祥福寺といふ寺のあるのは何の邊ですかあんな雜沓した處より出雲國の方が修業には好いかも知れません寫眞も拜受しました 中々姿勢がよろしい 夫から寫眞で見ると中々好男子です、然しあゝした姿勢を見ると何だかわざ/\拵えて旨く出來過ぎてゐるやうにも思はれます、私はあなたの顔の外にまだあなたの郷里のあなたのゐ〔る〕御寺の景色を想像して何んな處だらうと思つてゐます 姉さんは大根おろしを作つてくれる人だからあんまり惡口をいはないがよろしい 寺だから廣くて自分の室もあつて結構です 先は右迄 匆々
    六月二目                  夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一七五二
 
 六月二日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓梅雨の季節になつたと見えて雨滴の音がしきりにしますあなたの居る方は如何ですか 此間は寫眞をありがたう蘭の鉢か何か眼につきます、私も此春九花蘭といふのを買って支那鉢に植ゑて其香をかぎました、此間武者小路にあったらあなたの話をしてゐました 私は蕪村の畫を買ひました(十二圓で)私は好い畫だと思って毎日眺めてゐます人は僞物といふかも知れませんが私は一向頓着なしに樂しんでゐます。印材二顆は御報知があつても容易に屆かないので紛失したと思つたら漸つと來ましたありがたう 君からは時々色々なものを贈つてもらふ丈で御禮も何もしないで甚だ濟まない氣がします
 もうそろ/\東京へ一度歸つて見たらどうですか公務上さう自由もきゝませんか。山座は氣の毒な事をしましたねあの男はもと同級でしたが話をした事は一度もありません
 私は金を五六萬圓持つて支那を漫遊して好なものを買つてあるきたい 五葉君には久しく會ひません いつかあなたの留守宅から私に書を書いてくれといふ註文で變てこなものを書いたのを記憶してゐますがいつかあれを書き直したいと思ひながらついまだ其儘にしてあります。支那人の畫で五拾圓位ぢや中々面白い畫は手に入らんでせうね 其位で好いものを買はうといふ蟲の好い考を持つてゐる私は東京では精々奮發して拾圓位です呵々
 此位にして置きます
    六月二日                夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一七五三
 
 六月二日 火 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 此間はあなたの文章(新聞に出てゐる)を拜見しました勿論御承知の事と思ひますがあれは新聞向きですねしやれたものですけれども藝術的なものではありません、あなたが私によこす手紙の方がよろしい。然しあなたのやうな筆を執る事の好な人が新聞社に這入る事が出來たのは仕合せです充分働らいて御父さんや兄さんから認められて勞働をしないでも好いといふ許可を得るやうになさい。歩いてゐる間に本をよんだり文章を書いたりするのは大變です好だから出來るのです、私などには出來ません。私の書物で好んで好いものはありませんあなたは行人をよんださうですが夫で澤山ですから外の人のものを御讀みなさい手の屆く限り何でも御讀みなさい、時間の許すかぎり。あなたの新聞に石坂養平といふ人が何か書いてゐましたね、あれは私の知つた人ではありませんが、もし會へるなら御會ひなさいさうして話を御聞きなさい 以上
    六月二日                  夏目金之助
   四方田美男樣
 
      一七五四
 
 六月九日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三三四野上豐一郎へ
 拜復 御聞合せの畫を出す一件は貴説の如く願下げにして下さい 以後もそんな事をいつて來たら一應問ひ合せた上にして下さい 私は咽喉が急にはれて熱が出ました三十八度五分程出ました夫で久し振に床をとつて寐てゐました頭と咽喉を氷でひやしました 今朝は思ひ切つて又水浴をやつてやりました まだ食氣がなくていけません
 右迄 匆々
    六月九日                  金之助
   白 川 樣
 
      一七五五
 
 六月九日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ〔はがき〕
 さくらんぼうをありがたう御座います二三日風邪で寐てゐましたので御禮を出しませんでした 以上
    六月九日
 
      一七五六
 
 六月九日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 祥福寺の繪葉書をありがたう御座います 私は今咽喉がはれて熱が出て床を敷いて寐てゐますもう直りかけの所ではありますが退儀だから長い手紙は書けません 私の手元に「三四郎、それから、門」この三書を縮刷にしたのが一部餘分にありますから夫を今日小包で送りますからもし御氣に召したら御讀み下さい。あなたのやうな若い人がそんなひどい胃病にかゝるのは一寸變ですが病名が分りますか出來るなら專|問《原》の醫者にみてもらふといゝが田舍の事だから仕方がないでせう よく療養をなさい、夫から御寺に何か讀む本のないのも變ですが是も焚けたのなら致し方もない 然し景色がよくつて靜だからそんな所でも味つて御樂しみなさい 以上
    九《腹》月六日               夏目金之助
   鬼村元成樣
 祥福寺は大變よさゝうな所ですね今度あちらへ行つたら見に行きませう
 
      一七五七
 
 六月十五日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ〔はがき〕
 あの本は返さないでよござんす、鶉籠の縮刷は其うち本屋から取り寄せて上げませう
    六月十五日
 
      一七五八
 
 六月二十二日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 拜啓 例年の佳例により櫻の實一折御送難有拜受仕候此間は小松氏よりも同樣の贈ものをうけ候
 早速御禮まで 匆々
    六月二十二日
 
      一七五九
 
 六月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓先刻は御光來被下ました處生憎原稿を書いてゐましたのでまた來るとかで御歸りになつたさうですが甚だ御無禮を申上て濟みません近頃は午前中に原稿を書く癖がついてゐるので夫を怠たると心持がわるくつて仕方がない爲め時々こういふ失禮を敢てするのですどうぞ御勘辨を願ひます 今日はことに面會日の木曜だから猶恐縮致します平日でも午後なら大抵在宅で時間も御座いますからもし御閑があつたら御出を願ひます 以上
    六月二十五日               夏目金之助
   森 圓月樣
 
      一七六〇
 
 六月二十五日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓越後の笹餅といふものは始めてゞすあのまゝ一つ食べました夫から砂糖をつけて二つ食べましたあとは家のものがみんな食べましたありがたう御座います大して美味とは思はれませんが珍奇なものには相違ありません夫から越後からきたのだから猶うまいのでせう御禮を上げやうと思つてつい忘れて居ました濟みません、 以上
    六月二十五日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一七六一
 
 六月二十八日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 此間は御地の名産の昆布の砂糖づけを下さいましてありがたう御座います、をばさんに宜敷仰つて下さい あなたの病氣はどうですか胃擴張には運動がわるいやうに思ひますが醫者は何といひますか 處美人草の縮刷を本屋から取寄せましたから一冊上げます、是はよんでもつまりませんが折角だから小包で送るのです 御養生を專一に願ひます 以上
    六月二十七日               夏目金之助
   鬼村元成樣
 あゝ號を書くのを忘れた露塔でしたかね。失敬。夫から習慣はどうでもいゝが、自分より年上のものへ手紙をやる時には自分の號はかゝないのが禮になつてゐます、たゞし宛名のときは書くのが尊敬を表する事になるのです。然し今の世だから實際はどつちでも構ひません。
 
      一七六二
 
 六月二十八日 日 牛込區早稻田南町七より 明治大學校長木下友三郎へ〔封筒なし〕
 拜啓毎年の卒業式に御案内を蒙り有難存じます。然るに毎年共文學博士を辭したる小生を文學博士として御招待下さるのは私に多大の苦痛を與へる事になります。それが重なると私は明治大學から愚弄されてゐるやうな厭な心持になります。あなたの方では私を侮辱なさる覺召は萬々ある筈がないのでありますが結果は私に取つて略同樣のものになります故向後はどうぞ文學博士としての御案内状丈は御差留下さる樣願ひ上ます。 匆々頓首
    六月二十八日               夏目金之助
   明治大學校長
    木下友三郎樣
 
      一七六三
 
 七月七日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町一四北島英一へ
 拜復突然御書面をいたゞきまして拜見致しました私の作物の御氣に入らぬ處はよく私にも解つてゐるやうです近頃はそんな書方もしない積で居ります
 「それから」を御讀み下さつたさうでありがたう御座います。御氣に入るやうな處が少しでもあれば滿足の至です。元來舊作を縮刷にして出すのは別に藝術上の良心に許可をうけたと申す譯ではなく本屋に勸められると幾分か慾心が萌すからであります私は今も小説を書いてゐますが自分の書いたものは私生兒のやうな氣がします。自分には可愛いけれども人中へ出すのはいやに候。若し金があれば縮刷などをして耻を二度かく愚は致さぬ積に候
 只今も小説を書いてゐますので午前はふさがつて居ますが午過ぎなら御目にかゝれます木曜の午後なら面會日ですから猶好都合です
 あなた〔が〕卒直に申される通り私も露骨な事を申上ますが私は實はあなたの名を存じませんでしたどこの新聞へ小説を書いて居らつしやいますか甚だ失禮のやうですがあなたを承知致さない故一寸伺ふのであります柳川君は知人であります。御面會の節はよろしく願ひます 以上
    七月七日                 夏目金之助
   北島英一樣
 
      一七六四
 
 七月九日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内佐藤眞一へ〔封筒表の宛名に「朝日新聞編輯長殿」とあり〕
 拜啓小生小説「心」の校正につき一寸申上ます。校正者は無暗にてにはを改め意味を不通にする事があります。それからわざと字をかへてしまひます。今七月九日の最初の「先生〔二字右○〕の座敷」などは先生では全くトンチンカンにて分りかね候。小生は先生と書いたる覺更に無之私〔右○〕とかいたかと思へどそれもたゞ今は覺えず。小生は自分に校正の必要ありて訂正致さねばならず。甚だ御迷惑ながら御調を願ひます。又甚だ失禮ですが御返事を願ひます。夫から向後の校正にもう少し責任を帶びてやるやうにそのかゝりのものに御注意を願ひます。あれ以上出來ないなら已を得ませんからゲラを小生の方へ一應御廻送を願ひます。小生の書いたものは新聞として大事でなくとも小生には大事であります。小生は讀者に對する義務をもつて居ります。小生は今日山本氏に電話をかけた處旅行中で留守であります、何處へ此事件を申していゝか分りませんそれであなた宛で出します 以上
    七月九日                 夏目金之助
   朝日新聞編輯長殿
 
      一七六五
 
 七月十日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内佐藤眞一へ
 拜啓昨日申上た苦情に對し御多用中御丁寧なる御返書をいたゞきまして痛み入ります、校正の人も人間ですから誤をするのは當然で私のものなどは日に一二所位は今迄屹度あつたのですが一々正誤する程の重大な點でもありませんから黙つて居りましたが、あまり烈しくなると何だか私のばかり粗末にされるやうな癖《原》みが起るのでつい失禮を申上て濟みません、わざとした事でないといふ保証を御つけ下さつた上向後の注意を掛りのものに御命じ下されば私はそれで滿足であります、右御挨拶迄に一寸申上ます 以上
    七月十日                 夏目金之助
   佐藤眞一樣
 
      一七六六
 
 七月十日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町一四北島英一へ〔はがき〕
 拜啓高著誰が子正に頂戴ありがたう存じます只今多忙で一寸よめませんが閑を得て拜見致したいと存じて居ります御禮まで 匆々
 
      一七六七
 
 七月十一日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷船河原町一二木村恒へ
 拜啓御手紙は拜見しました朝日へ入社の御希望で松山君に御面會のよし、夫から今日社會部長に會つて私と關係のある事を云つて差遣ひないかとの御言葉ですが事實を仰しやるに何の差支のあらう筈はありません、然し私の門下生だといふ事があなたに取つてどれ程の利益になるか其處は保證出來ません私は編輯上何もしてゐないのですから。のみならず黨派的な意味に解釋されでもすると却つてあなたの迷惑にならないとも限りません。私は祀會部長からあなたの事を聞いてきた時はあなたに都合のいゝ返事を出來る丈しませう、然し此方から社會部長に電話であなたを依頼するのはいやです。やつても構ひませんが夫程役には立つまいと思ひますから 以上
    七月十一日                夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一七六八
 
 七月十一日 土 後1−2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 この前の木曜には岡君と二度きて下さつたさうですが二度とも留守で甚だ申譯がありませんあの時は宅にゐるのが厭になつたので面會日にも拘はらず飛び出して漂泊者の如く方々歩いたのです
 雜誌の切拔拜見あんな女房がありますかね少し誇張ぢやないでせうか
 私は自分の書いた山水と黒猫と夫から酒渇愛江清の五字一行ものを表装しました今度見て下さい、黒猫が一番わるいやうです 酒渇は中々上出來です 山水は今かけてあります、蘭亭といふ盲目詩人の書も懸けてあります うまいものです 以上
    七月十一日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一七六九
 
 七月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓久々御無音奉謝候此間一寸電話を御宅へかけた處御旅行中で今日頃御歸りといふ御返事でしたから一寸用事丈申上ます、兩三日前志賀直哉君(當時雲州松江に假寓小説の件をかねて上京)見え、實は引きうけた小説の材料が引き受けた時と違つた氣分になつてもとの通りの意氣込でかけな|た《際》な|た《原》たから甚だ勝手だがゆるして貰ひたいといふのです。段々事情を聞いて見ると先生の人生觀といふやうなものが其後變化したため問題を取り扱ふ態度が何うしてもうまく行かなくなつたのです、違約は勿論不都〔合〕ですが、同君の名聲のため朝日のためにも氣に入らない變なものを書く位なら約束を履行しない方が雙方の便宜とも思ひましたが、多少私の責任もありますし、又殘念といふ好意もあつたので再考を煩はしたのです、所が今朝口約の通り返事がきて好意は感謝するが今の峠を越さなければ筆を執る譯に行かないといふのです。それで私の小説も短篇が意外の長篇になつてあれ丈でもう御免を蒙る間際になつてゐる際ですからあとを至急さがす必要があるのですが御心當りはありますまいか。如何でせう。私は先年鈴木にも高濱にも頼まれましたが兩氏とも今となつて都合つくや否は疑問であります、小川氏も間接に相談はありましたがあの人のものは如何かと存じます、徳田君は今東京にゐないやうです、夫に途中で行きつまる恐があります。中勘助が銀の匙のつゞきを書いてゐるやうですが、あれなら間に合ふかも知れません、兎に角私の責任問題ですからいざとなれば先生の遺書の外にもう一つ位書いてもいゝですがどつちかといふとあれで一先づ切り上げたいと思つてゐますから御《原》邊御含みの上一應御熟考を煩はしたいと思ひます。先は用事迄 以上
    七月十三日                夏目金之助
   山本笑月樣
 
      一七七〇
 
 七月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麻布區三河臺町二七志賀直哉へ
 御書拜見どうしても書けな〔い〕との仰せ殘念ですが已を得ない事と思ひます社の方へはさう云つてやりました、あとは極りませんが何うかなるでせう御心配には及びません、他〔日〕あなたの得意なものが出來たら其代り外へやらずに此方へ下さい先は右迄 匆々
    七月十三日                夏目金之助
   志賀直哉樣
 
      一七七一
 
 七月十四日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 御注意ありがたう、私の見たのは房州の何處だらう、金谷とか那古とかいふ邊かも知れない、然しあれは想像ではありません、たしかに見たのです。沖の島とか鷹の島とかへ行けばあんな所がありますか一寸教へて下さい
 
      一七七二
 
 七月十五日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 旅行先より御歸京のよしたまの骨休めも嘸かし御忙がしい事と存じます小説についての御教示は承知致しました。可成「先生の遺書」を長く引張りますが今の考ではさう/\はつゞきさうもありません、まあ百回位なものだらうと思ひます、實は私は小説を書くと丸で先の見えない旨目と同じ事で何の位で濟むか見當がつかないのです夫で短篇をいくつも書といつた廣告が長篇になつたやうな次第です、「先生の遺書」の仕舞には其旨を書き添へて讀者に詫びる積で居ります。斯うして考へてゐると至極|單《原》單なものが原稿紙へ向ふといやにごた/\長く《原》るのですから其邊は御容赦を願ひます。
 つぎの人に就ては別段どんな若手といふ希望をもつた人も差當りあ《原》ません、志賀の斷り方は道徳上不都合で小生も全く面喰ひましたが藝術上の立場からいふと至極尤もです。今迄愛した女が急に厭になつたのを強ひて愛したふりで交際をしろと傍からいふのは少々殘酷にも思はれます。
 谷崎、田村俊子、岩野泡鳴、數へると名前は出て來ますが一向纏まりません、猶よく考へませうがあなたの方でも何うが御撰澤を願ひます 先は右迄 匆々
    七月十五日                夏目金之助
   山本松之助樣
 十三日の朝日にケーベルさんを停車場に送つて行つたやうな事を川田君が書きましたがどうした間違でせう。私は今夜ケーベルさんの所へ晩餐に呼ばれてゐます。先生は來月十二日頃船で歸るのです
 
      一七七三
 
 七月十六日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一〇九齋藤方太田正雄へ
 拜啓南蠻寺門前一冊御惠贈ありがたく御禮を申します、此前のと同樣に大變好い表装ですなかの插畫も面白う御座います、何しろ書物を開けた丈で字はまだ讀みませんから肝心の御作については申す事もなくて甚だ不本意ですが其うち閑を得てゆるりと拜見する積で居ります。兎に角不取敢御禮丈をいはないと氣が濟まないので一通差し上げて置きます 以上
    七月十六日                夏目金之助
   太田正雄樣
 
      一七七四
 
 七月十七日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔速達便〕
 拜啓昨日は失敬短篇集を出す事社に相談せし處賛成の由返答有之就いては君一つ十回もしくは十二回位のものを直ぐ着手して出來る丈早く作つてくれ玉へ、其上あとへ出る二三の人をこしらへてくれ玉へ。それはむづかしく云つても仕方がないが無暗に親しいものがつゞかないで其間に變化のある方が面白くもあり又僕の立場からいつてもよろしい、兎に角君のは僕の終る前に間に合ふやうにしてくれ玉へ 以上
    七月十七日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一七七五
 
 七月十七日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 拜啓其後は御無沙汰御惠投の鮎今朝着すぐ腸をさき午餐の膳に上せました大變美事なもので玉川邊ではとても見られない大きなものですあつく御禮を申します、配達夫が水が出る/\といつてぶつ/\云つてゐたさうですが箱のなかの氷が解けたのでした右不取敢御禮まで 匆々
    七月十七日               夏目金之助
   田嶋道治樣
 
      一七七六
 
 七月十八日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 啓上私の小説はまあ百回といふ見積ですが私の事だから(夫に社の方で可成長くしてくれとの注文ですからもう少しは出るかも知れません)然し君の方ではまあ百回を目やすに置いて絞り出すなりひり出すなりして貰ひたいと思ひます。未明君の返事が來たら教へて下さい、其あとが幹彦俊子では少々つくやうですが其處へ何かはさみたい然しそんな事をいつてゐる場合でないから何でもいゝとして順序はこちらで變化してもよからうと思ひます。君にも氣の毒だが精々奮發し〔て〕やつてもらひたい例の通り凝るのは却つていけない只いゝ筋をつらまへてぐい/\書いた方が數倍面白からうと思ふが、然し是は私の兎や角いふべき筋でないたゞ參考に申上げる迄です先は御禮旁御返事まで 匆々
    七月十八日               夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一七七七
 
 七月十八日 土 後10−12 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 拜復今朝七時發の御手紙拜見秋聲白鳥兩君ともに結構御頼ひ《原》下さい、小川君引受のよし是又結構私は武者小路に頼みましたまだ返事がありません、然し出來るなら武者小路氏と外に一名里見とか小泉とか長與とかいふ人を入れるやうに頼んだのです、多分むづかしいかも知れません、夫から彌生子は異存はありませんが亭主を置いて細君ばかり頼むのも妙ですな臼川の此前のものはわるくはありませんよ。然し少し人數を勘定してかゝらないと無暗に多くなると困るから其邊もよく胸に疊んで置いて下さい 以上
    七月十八日夜十時              金之助
   三 重 吉 樣
 
      一七七八
 
 七月二十日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 久しく御無沙汰を致しました 偖今度朝日の小説欄で私のが濟んだら諸家の短篇十回もしくは十二回のものを連載する事になりました夫で事が急なので狼狽して方々に依頼しました處 女の人も一二名あつた方が色彩になつてよいと思ふのですが八重子さんは何か書いてくれないでせうか。もう一人田村俊子さんです。一度に原稿を集める必要もありませんが編輯上は順序をとゝのへる點に於て早く頂きたいのです。八月五日から十日迄の間に出來ませうか。(もし書いてくれるとしたら。右につき一寸八重子さんの考を聞いて下さいませんか 以上
    七月二十日                 夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      一七七九
 
 七月二十日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 淺草區田原町三丁目一〇久保田万太郎へ
 拜復小宮君から申上げた事につき早速御承諾の御返事をいたゞき滿足至極に存じます。實は一人十回もしくは十二回位の見當で勘定をつけて居ります故どうぞ其積で願ひたいと思ひます。又此暑い所を御せき立て申しては濟まん事と存じますが原稿はいつ頃迄に出來ませうか。實は今日迄引き受けてもらつた人のは大概八月五日もしくは十日迄の約束になつてゐます。私の方では順々に載せるのですからさう一度に原稿は入用でもありませんが實は讀者にも作者にも都合よく順序をならべたいので斯んな御無理を申上げる次第ですがどうぞ外の人なみに願はれゝば結構と存じます。尤も編輯者の都合の好いやうにばかりも參りますまいから貴君の方では極早い所いつまでに御屆下さいませうか失禮ですがもう一度御返事を願ひます右迄 匆々
    七月二十日                 夏目金之助
   久保田萬太郎様
 
      一七八〇
 
 七月二十二日 水 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豊一郎へ
 拝啓本日の時事新報に岡田半太郎氏四男勝氏死去の報あり明二三日午前十時谷中齋場にて葬式の由なれど私は通知も受けぬ上差支ありて行かれぬ故 もし君が行くなら封入の名刺持參其旨受付に御話し願ひたく早速用事迄 匆々
    七月二十二日                夏目金之助
   野上豊一郎樣
 
      一七八一
 
 七月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 色々御骨折ありがたう、今日迄の経過左に
  鈴  木
  武者小路 (八月五日乃至十日)
  幹  彦 (同)
  未  明 (同)
  俊  子 (同)
  里見醇《〔※[弓+惇の旁]〕》(九月頃承諾)
  久保田(承諾 原稿着日まだ不明)
  青  木(八月五日乃至十日)
  谷  崎(九月十日)
  八重子(まだ返事なし)
  後  藤(まだ返事なし)
    七月二十二日                 金之助
   三 重 吉 様
 
      一七八二
 
 七月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拝啓私の小説は八月へかゝります。次の短篇作家は一々御相談のひまがなかったので私の方でみんな極めました。斷わられるかも知れないと思ってゐたらまづみんな承諾の形になったのもその源因の一つです。何うぞあしからず。
 別紙に其人名と順序を御目にかけます 順序をよくしないと變化がなくて面白くあるまいと思ひますから専断でさう極めて置きました。いざといふ場合ひ多少の變化は免がれないでせう。豫告に是等の人の姓名をずつと並べるか又はだまってゐて不意に、明日から誰《だれ》と斷つて行くか夫は考へものでせう。然し私が短篇をいくつも書く筈の處意外の長篇になつたのでこれ丈でやめるといふ事は其中に一寸斷わつて置いて頂きたいと思ひます
    七月二十二日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一七八三
 
 七月二十二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區元數寄屋町對鶴館大倉一郎へ
 あなたの御手紙を拜見しました。肯定否定の議論も拜見しました。あの議論はあなたの心持を書いたものとして見ればあれで結構です。然し人に見せるとなると表現が不充分のやうに思はれます。夫から俳句も拜見しました中々面白う御座います。あなたは新傾向ですね。然し窮屈の先の先まで行つた新傾向でないから何處かに餘裕があつてよろしいと思ひます。私は舊派です。十八世紀の俳句の形式がすきです
    七月二十二日                夏目金之助
   大倉一郎樣
 
      一七八四
 
 七月二十八日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜啓中央公論の脚本の批評を時事で拜見、大體の上賛成ですが、出來榮の等級がついてゐないからどれもこれも同程度に下らないやうに思はれて好い作者に氣の毒です。
 白鳥〔二字右○〕のは及第(但し尻がまだあるべき筈のを切つてしまつた感あり)
 雨雀 是も及第 恐らく自然で一番まとまつてゐるだらう
 吉井勇 及第 是には一種の面白味がある。
 秋聲 まあ及第。脚本よりも小説にすべきもの、
 中村吉藏〔四字右○〕 落第 あゝ拵らえた痕迹が見え透いちや氣の毒だ
 長田秀雄〔四字右○〕 落第。是は君の評通り、たゞ劇的効果ばかりねらつて内的の力なし
 田村俊子落〔五字右○〕第、あんなものは芝居にならぬのみか男子が屈辱を感ずるやうなもの
 木下杢太郎〔五字右○〕 落第 つまらぬ事夥し
 島村抱月 落〔五字右○〕第 河童の屁
 武者小路〔四字右○〕 及落の中間 いつもより惡いかも知れず
 久保田萬太郎〔六字右○〕 正に落第 ごちや/\ごちや/\
 上司小劍〔四字右○〕 落第 一體ど|か《原》がどうしたといふのだ
 小山内薫〔四字右○〕 落第 是が芝居になる積りか、積りならやつて見ろ。
  以上
    七月二十八日                 夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      一七八五
 
 七月二十八日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 拜復暑中御變もなく結構です霽月は尋ねてくれましたあの結婚問題も聞きました私は血族でも構はんと思ふがどうですかね
 私の小説を暑いのに一度に讀んで下さるあなたは私にとつてありがたい御得意です、御批評も承はりました、何だか一揚一抑一擒一縱といつた風の書き方で惡口だか讃辭だか分りませんね
 早く小説を書いてしまつて外の事がしたいと思ひます霽月から明月の二幅を分捕つたさうぢやありませんか今度御見せなさい、取りはしませんから 以上
    七月二十八日                 夏目金之助
   森 圓月樣
 君の方に好い家はありませんか〔冒頭餘白に〕
 
      一七八六
 七月二十八日 火 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復御心配をかけてまことに相濟みません私は回數に間違をした覺がないのですが百二百四とつゞけて見るとつゞく樣ですから全く私粗忽から生じた事と存じます、恐縮致します、百四を百三と御訂正の上御掲載願ひます、
 猶其以後の分は一回づゝぐれる事にな|る《原》ますが私の方は間違なりに進行致させますからあなたの方で一つづゝ御直し下さる事を希望致します、私が正すと却つて混雜するかと思ひますから序に申上ます里見武者小路、野上久保田後藤悉く承諾致しました、原稿料をきめずに頼みましたが是は一列一體に同じにするか等級をつけるか何だか面倒になりさうです、比較的好い稿料を拂へば一列不別で差支ないでせうがさうでないと文句が出るかも知れないと思ひます。それは追つて御相談致します何しろすぐ金に替へなくては困る人が多いやうですから其邊はあらかじめ御承知を願つて置きます、
 先は御返事迄 匆々
    七月二十八日              夏目金之助
   山本笑月樣
 
      一七八七
 
 七月三十日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 此間は暑い所を御出恐縮しました生憎客が來てゐてゆつく〔り〕御話も出來ず失禮しました其節御話のあつた明月和尚の無絃琴といふ額は咋二十九日着きましたすると其處へ偶然圓月君が同和尚の雙幅をもつて見えました無絃琴はうまいと思つてゐたがあの八字を見るととても及ばないといふ事に氣がつきました不動如の三字などはことに見事です。時にあの額の價を伺ふのを忘れてゐました爲替で送りますから教へて下さいませんか。梧竹の圖南といふのをはづしてあれを懸けかへて眺めてゐます、御令孃の事は考へてもうまい考は出ませんあなたの方が材料をいくらでも持つてゐるのだから仕方がないやうにも思ひます、まあ他人の私から云へば無責任かも知れないが血族でも差支ないと思ふのです 以上
    七月三十日                 夏目金之助
   村上霽月樣
 
      一七八八
 
 七月三十一日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 御手紙拜見僕のはもう十回乃至十五回つゞきます。武者小路君は清書をしない丈で書き終つたと云つて來ました、それを一回に廻すやうに交渉しました、多分承諾と思ひます、小川君のは何うなつてゐるか知れませんが約東通來れば君より先にしてもよろしう御座いますあまり固くならないであつさりやつて下さい三十圓は全部出來上つた上で返してもらへば澤山です 以上
    七月三十一日               夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 このあつさでは誰でもヘコタレさうですがまあ受合つたのだから發奮して片付けて下さい
 
      一七八九
 
 七月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 日本橋區本町三丁目博文館『文章世界』へ〔應問 八月十五日發行『文章世界』より〕
 折角の御尋ですから御答をしたいと思ひますが、どうも何處で區切をつけて好いか分らない質問ばかりなので困ります。さうした意味で困るのも、必竟は私の頭の中でスーパラチーブをつけて考へてゐるものが少ないせゐだと御承知を願ひます。
                        夏目金之助
 
      一七九〇
 
 八月一日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓私の小説は今日差上げるので漸く片附きました。次の豫告のうちに短篇をいくつか書く筈のところ最初のものが長くなつたから已めると斷つて下さいませんか。
 夫から鈴木が一番先《さき》へ書く所ヘコタレまして、後へ廻してくれと申しますから武者小路君のものを一番目へ廻します、同君からは四五日うちに原稿がくる事になつてゐます。序でに折を見て原稿料の事も御相談したいと思ひます、但し雜誌其の他の振合もありますからそれを御承知ならばあなたの方で御|極《き》め下さつてもよろしう御座いますが、さうでないと文句が私の方へ廻つてきさうで辟易する次第であります。三重吉などは五圓くれなどゝ吹きかけます、是は撃退した積です。雜誌でいふと一枚八十錢壹圓、壹圓二十錢位の所をうろついてゐるのであります。
 夫から何かの御參考のために書く人の住所を別紙で御報告致して置きます。
    八月一日                 夏目金之助
   山 本 樣
 
      一七九一
 
 八月一日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神田區駿河臺鈴木町ケーベル内久保勉へ
 拜啓暑いのに出發の御仕度や何やかで嘸御忙がしい事と存じます
 此間ケーベル先生に呼ばれた時是非新橋へ送つて行くやうな事を申しましたが後から考へて見ると先生の迷惑だといふのにことさら我を通すのも餘計な事だと氣がつきましたからやめに致します。どうぞあなたから先生へよろしく云つて下さい。夫から私のボン ※[オに濁點]アイアージを先生に傳へて下さい
 あの時先生の御依頼になつた告別の言葉はたしかに引受けました。社の人と相談十二日に出す事にしてあります。私は其前に原稿を書いて社へ送る筈になつてゐます。是も先生にさう云つて下さい
 先生は自分では淋しくないやうな事をいつてゐられるやうですが私共がはたから見ると何だか淋しさうな感じがしますどうぞよく世話をして上げて下さい 以上
    八月一日                  夏目金之助
   久保 勉樣
 
      一七九二
 
 八月一日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 松江市殿町一七四大谷正信へ
 拜啓あつい事で御座います私は早から晩〔まで〕サル股一つでゐます御郷里の方は多少涼しい事と存じます、御招きにあつかりありがたう存じます私も山陰は始めてですから行つて見たい氣がしますが參られるかどうか分りません若し參られるやうでしたらどうぞ御案内を願ひます今日小説をやつと片付ました百十回程になりましたあつい時も寒い時も執筆は退儀です折角御自愛を祈ります 以上
    八月一日                 夏目金之助
   大谷繞石横
 
      一七九三
 
 八月二日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 御手紙拜見しました、中々暑い事で嘸御難儀でせう。私のやうな宅にゐるものでも弱ります。
 原稿料均一四圓の御考のよし、それなら苦情も文句もある筈なきかと存じます。さうして頂きませうか。
 私は筆で食つてゐる人間としては成るべく他人の原稿を高く買つてやりたいのです。然し社の營業の方面から見ると、安く買へるものをわざ/\高く買はないでもとも考へるのです。
 現に先年讀賣で新らし《原》人の作を連載した時の稿料などを考へるとひどいものです。夫でもあの人たちは書くのですから。
 然し朝日は資格も違ひますし、それに營業から云つても廣告にもなる事ですから財政上その位拂つていゝといふ御考ならば無論賛成を致します。どうぞさうしてやつて下さい。(ある人には一回四圓は俗にいふ御の字〔三字傍点〕かも知れませんが)
 尤もあとの例にもなる事ですから其邊も考へる必要もありませうが、後はあとで勝手にねぎつても(其場合に應じて)構はないかと思ひます。
 此方で頼んだ人は進んで書きたいやうに云ふ人の方が多いのです。是は朝日の爲に結構な事と存じます、原稿料がいゝに違ないとばかり思つてゐるのではないらしくもあります。現に原稿料はいくら呉れるなどと聞いたものは一人もありません。(後藤末雄君丈が其事を鈴木に云つて來たさうですが)
 御參考に申しませうなら今國民に花袋氏が出してゐるのが一回四圓とか聞きました。先は右迄匆々
    八月二日                  夏目金之助
   山本笑月兄
 
      一七九四
 
 八月三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下 代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 拜啓原稿料の事は社と協儀《原》の上畧まとめました、各家均一で一回四圓の積です、小川君の原稿はまだありません、いつ寄こす積なのですか、同君が寄こさなければ武者小路君のあとを君に願ひます、私のは百十回程で仕舞になります、二三日前書き上けました 以上
    八月三日                  夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一七九五
 
 八月四日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔はがき〕
 小川君原稿二十日迄に屹度間に合ひ候へば二番目に間に合ひ候、君は三番目に可相成候、同君の原稿は二十日に小生迄ヂカに御送願はれる樣乍御面倒御依頼願上候 以上
    八月四日
 
      一七九六
 
 八月九日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 清國湖北省沙市日本領事館橋口貢へ
 拜啓 東京も非常なあつさです雨が降らないのでたまりません其處へ獨乙と露西亞の戰爭で猶々あつくなります此先どうなるか分りませんが何だか新聞は一號活字ばかりです偖御惠贈の拓本は頗る珍らしく拜見しました あれは古いのではないでせうが面白い字で愉快です、私は今度の小説の箱表紙見返し扉一切合切自分の考案で自分で手を下してやりました其内の表紙にあれを應用致しました出來上つたら御目にかけませう 私はあなたから時々何かいたゞく丈で此方からは何も上げた事がない恐縮してゐます 先は御禮迄 以上
    八月九日                 夏目金之助
   橋口 貢樣
 
      一七九七
 
 八月十日 月 後11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜復豫告は御都合でよろしく願ひます、武者小路君の稿料御手數でした、ケーベルさんの事の原稿御約束の如く十一日組込に間に合ふやう差上ます六面は夫程でもないから載せていたゞけるでせう。ケーベルさんは多分立つでせうもし延ばすやうな事があつたら電話で申上ます 以上
    八月十日                 夏目金之助
   山 本 樣
 
      一七九八
 
 八月十二日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上八重へ
 拜啓玉稿死たしかに屆きました早速社の方へ送つて置きました武者小路君の今書いてゐるのが都合で死といふ名に改まりました、あなたのも死ですが私の豫定だと二つの間に大分外の人を入れる積だからいゝが萬一都合で二つの原稿がつゞいて出るか又は一つ二つ間を置いて出る場合には少々變ですが何とか題の變更しやうはありませんか、
 原稿料は社の方から二三日うちに御屆する筈です、一回四圓ですさう思つて下さい
 御父さんの病氣はどうですかいつ國へ立ちますか、先は御禮旁御照會迄 匆々
    八月十二日                夏目金之助
   野上八重子樣
 
      一七九九
 
 八月十三日 木 前l0-11 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐡へ
 拜復明日御出の趣承知致しました御待ち申します、然し今日のやうな天氣なら別に無理をして約束通りになさらないでよろしう御座います、何うせ家にゐるのですから、昨夜郵便函を開けるのを忘れて今朝御手紙を見たので御返事が後れました今夜中に此手紙があなたの手に落ちれば幸です 以上
    十三日午前十時              夏目金之助
   小泉 鐵樣
 
      一八〇〇
 
 八月十三日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓先日御送被下候明月和尚の額代十二圓小爲替にて差出候間御落手願上候咋十二日夜より暴風雨にて久し振に地面もうるほひ冷氣加はり申候御地暑氣如何にや時節柄隨分御攝養可然と存候先は當用迄 匆々
    八月十三日                夏目金之助
   村上霽月樣
 
      一八〇一
 
 八月十五日 土 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 拜復ケーベル先生についての御高見承知致しましたが私の考ではもうそんな餘地はないやうに思はれますから云ひ出すのは已めます、今年上田敏君が上京來訪の砌そんな話を持ち出して自分で勸誘に出かけるやうな事を云ひましたから私は賛成しました然るにケーベルさんに聞いたら上田は來ないといひました其席に深田君がゐてあれは問題にならないと云ひました(尤も上田君の考は同志社と關係をつけさせる積りだつたのださうです)そんな譯ですから斷わられるのは略わかつてゐるやうですからまあ已めて置きます 以上
    八月十五日                夏目金之助
   鳥 居 樣
 戰爭と暑さで大變ですね御自愛を祈ります
 
      一八〇二
 
 八月十六日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔はがき〕
 拜啓十三日に約束の長田、田村兩氏の小説未着に候如何相成候やまだ差支には無之候へど約束故一寸御尋ね申上候 以上
 
      一八〇三
 
 八月十六日 日 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓久々御無沙汰に打過ぎ申譯がありません却説今朝の新聞にあなたが盲腸炎の事が出てゐましたので吃驚しましたちつとも知らなかつたものだからつい御見舞もせずに濟まん事を致しました經過の事はちつとも出てゐないので丸で判斷が出來かねますがもう峠を通過して順當に御回復期に向はれてゐる事を切望致します、參上致す筈ですが却つて御邪魔になるとわるいと思つて御遠慮致します 草々
    八月十六日                 夏目金之助
   笹川臨風樣
 
      一八〇四
 
 八月十七日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 淺草區田原町三丁目一〇久保田万太郎へ
 拜啓雨以來少々涼しくなりました御變りも御座いませんか、さて先達て御願ひした小説はたしか八月十五日迄の御約束と覺えでゐますがまだ出來ませんでせうか無理を申上げて御急き立てして濟みませんが私の方でも其日をあてにしてゐますので御通知がないと不安になりますから一寸御伺ひ致します 以上
    八月十七日                夏目金之助
   久保田萬太郎樣
         机下
 
      一八〇五
 
 八月十八日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 拜復おあつい所を御面倒を願つて相濟みません、私が直接に御依頼をする筈でしたが御住所をよく存じませんのと鈴木の方が御懇意だといふ意味から間接に御願ひ致した譯であります、鈴木は八月五日乃至十日にあなたから原稿が屆く約束だと申しました、夫から十三日迄延期を申し込まれたと申しました十六日に鈴木に會つて間接では却つて困るから直接に返事が聞きたいと申しました、二十日迄位よからうとは彼一存の考かと存じます、彼はその事に就いて一言も私には申しません。二十二日迄に御出來になるならそれ迄でよろしう御座いますからどうぞ間違なく御屆下さいまし、甚だ勝手がま〔し〕う御座いますが私の方にも夫々手筈がありますから失禮とは存じますが蛇足とは知りながら念を押して置きます。鈴木は都合によつてあの中へは加へない事にしました 以上
    八月十八日                夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八〇六
 
 八月十九日 水 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓稍凌ぎよくなりましたが欧洲の戰爭は段々烈しくなるやうです嘸御多忙の事と存じます却説私の万でまとめる御約束の例の短篇中鈴木三重《原》君は都合により省きました長田幹彦君もことによると省くかも知れません、其わけは機會があつたらよく御話し致しますが只今は右丈御含み置を願ひ置きます 草々
    八月十九日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八〇七
 
 八月二十二日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 愈圖案が出來上つたさうですね面白いだらうと思ひます見に行きたいのですが何だか氣分がわるいので出る氣になりません決して同情がないのでもありませんたゞ動くのがいやなのです何うぞあしからず思つて下さい 日本美術院の演説は斷りました又いつか何處かで駄辯でも弄する時には聞きに來て下さい 右迄 草々
    八月二十二日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一八〇八
 
 八月二十三日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓今度の短篇につき死の題材が多く加之死といふ標題が續々あらはれるに就ての御注意拜承仕候右につき早速後藤末雄氏へ照會致候處同君より別紙返事有之候故供貴覽候同君の考通「柳」といふ題に御改めの程願上候猶其他の人のも段々ある筈なるがこと/”\し《原》く死を取扱ふ譯にてもあるまじくと存じ居候全く偶然の暗合から變な事に相成恐縮の至に候先は右迄 匆々
    八月二十三日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八〇九
 
 八月二十三日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 啓玉稿十七の娘只今頂だい致しました御暑い所を御急き立て申して濟みません 稿料は二三日中に杜から屆けさせる事に取計ひます一回四圓の筈になつて居りますからどうぞ其御積で御不承下さいまし
 夫から掲載の順序はどうぞ私に御任せを願ひたいと思ひます是は讀者のため作家のため私の方で好きやうに取計ひたいのですから。
 先は右御禮かた/”\御挨拶迄 匆々
    八月二十三日              夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八一〇
 
 八月二十四日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 啓昨日は失禮其節一寸御話申上候見返しの裏へつける判は別紙のやうなものに取極め申候故不取敢入御覽候可然御取計被下候はゞ幸甚 草々
    八月二十四日              夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八一一
 
 八月二十五日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 島根縣簸川郡出西村全昌寺鬼村元成へ
 拜啓あなたの病氣は段々よくなるさうで結構です早くよくなつて神戸へ入らつしやい私は大して變りはありませんまあどうか斯うか生きてゐます、戰爭が始まりましたたまにはあんな事も經驗のため好からうと思ひます歐洲のものどもは長い間戰爭を知らずにゐますから。あなたはあつい所にゐて寐てゐますかあなたの方からいへば寐るのも禅でせう、私は精神がぼうつとして其結果晝寐をします、私の頭には却つて夫がいゝのです、からだを御大事になさい 以上
    八月二十五日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一八一二
 
 八月二十五日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 長崎市長崎高等商業學校浦瀬七太郎へ〔うつし〕
 拜呈暑い事です 御變もありませんか 却説かねて御依頼の書本日小包で學校宛に出しましたから受取つて下さい あの※[糸+光]は出來損つたから紙二枚で勘辨して下さい 夫から※[糸+光]の心棒になつてゐる新聞紙の中にある墨と筆はあなたが送つてくれたのですか 私は人から頼まれたのを一所にまとめて書きましたので其墨と筆との贈主が分らなくなつたのですが多分あなただらうと思つて御禮申上ます萬一間違つたら一寸知らして下さい 以上
    八月二十五日               夏目金之助
   浦瀬七太郎樣
 
      一八一三
 
 八月二十五日 火 後10-11 牛込區早稻田南町七より 麹町區飯田町六丁目長田幹彦へ〔はがき〕
 御病氣の趣嘸かし御難儀の事と存候御身体に御障りなき範圍内にて御執筆願上度御報の如く明後日迄に入手出來候へば幸に候へど切に御療養祈り候 以上
    二十五日夜
 
      一八一四
 
 八月二十六日 水 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷三二九鈴木三重吉へ
 拜復須永の話を分冊にするならば二冊にして一度に出して下さい。それから兩方で二百頁になるやうに何か好い加減なものをつめ込むのは少々困ります、分冊なら分冊でいゝからはつきり二冊にして頂きたいと思ひます、右は無理かも知れませんが私の方の都合もありますからどうぞあしからす 草々
    八月二十六日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      一八一五
 
 八月二十八日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓不相變時局で御多忙な事と存じます却説私の友人の畫家の津田青楓といふ人が旅順の攻撃に參加した時の日記があるのださうですがそれをいつか手を入れて置きたいと思つてゐた處只今小閑が出來たので書き直すといふについて今度の戰爭もある事だからそれを朝日新聞にのせてくれないかといふのです私は今六面は廣告が少ないやうだから社の都合では出來るかも知れないともかくも聞いて見やうと申しました夫で一寸伺ひます諾否の御挨拶については無論御遠慮も入らないのですが私は一寸自分の責任を果すために取次ぐ丈ですからどうぞ一言御返事を願ひます 頓首
    八月二十八日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八一六
 
 八月三十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ〔封筒表左側下に「奥附在中開封用心」とあり〕
 拜啓奥づけ兩三枚書いて見たうち一番よささうなものを御目にかけ申候此中に著者發行所印刷所の名を朱字で細かく配置する譯に相成候が「猫」の奧づけを覽ると大體の見當相つき申候 猶委細は御面語の上高々
    八月三十一日             夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八一七
 
 八月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『新潮』へ〔應問 九月一日發行『新潮』より〕
 最近新作家とはどこで區切をつけて好いか分りませんから一寸困りますが、小生の讀んだうちで人の評判に上らないもの二三を申上ます。
 (一)七月の「我等」卷頭にある萬造寺齊君の「斷片」。
 (二)「白樺」にある長與善郎君の「旨目の川」といふつゞきもの。
 (三)八月の「新小説」にある濱村米藏君の「むくろ」。
 以上の外にまだありますが最近新作家の部に入れていゝかどうか分りませんから省きます。夫れから以上三篇はいゝところ丈を見て例に擧げたので、缺點を云へと頼まれゝば隨分云へもしませうから、それは御承知を願ひます。又私はすべての雜誌を讀まないから自然不公平になるかも知れません、其積りでゐて下さい。夫れから讀んだ時は面白いと思つても咄嗟の場合に急に思ひ出せないものもありますから、それも御斷りを致して置きます。
 概していふと近頃は小説をかく人がみんな器用になつて、一般の水平が高くなつたやうです。私は是丈云へば特殊の例を擧げないでも澤山だと思ひます。私にはかうした概括的の意見の方が却つて讀者の參考になるやうに考へられるのですが何うでせう。つぎに作家が各自行きたい道を勝手に歩いてゐる傾向も見えるやうですが、是も大變結構な事ではありませんか。
 
      一八一八
 
 九月一日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 千葉縣成田町在山口井本(當時青木)健作へ
 拜啓小説殘骸十一回今朝拜受致しました御暑い所を御面倒を願つて濟みません玉稿は早速社の方へ送ります原稿〔料〕は社の會計から御屆けするやうに取計ひます、それから今度の原稿料は誰も彼も皆四圖(一回)の筈になつてゐますから左樣御承知を願ひます先は御禮旁御通知迄草々
    九月一日                  夏目金之助
   青木健作樣
 
      一八一九
 
 九月四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 拜啓 昨夜は失禮致しました 今朝あの旅順の日記を拜見しましたがあれはどうも新聞向でありません雜誌がいゝでせう反響かほとゝぎすはどうですか
 昨夜御話した通り社へ返事をしてくれといつてやつたのに○○といふ男は黙つてゐます不都合だと思ひます返事をしない處へあれを送るのは厭です其意味からしてももう社へは交渉しませんどうぞあしからず 草々
    九月四日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一八二〇
 
 九月四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓短篇の原稿をまとめる事を社の方でやつて頂きたいと思ひます今迄とくに來るべきで來ないのは長田と久保田です。長田は心臓ケイレンだとかいつて二三日待つてくれといつたのがもう餘程前になります夫からどうしたか知りません久保田は九月二三日迄に是非くる筈でまだ來ません。私はかう人に催促をするのが厭になりました
 其外に谷崎は九月十日の約束です夫から里見は九月一杯にかく事を八分通り受合つてゐます是等はもし來たら此方から差上ます
 つぎに出すのを武者小路か高濱との御注文でしたが私はまだ雙方とも懸合ません、武者小路君はすでに出たし長いものをかく種があるか分らないからです高濱は近頃小説には遠かつてゐますし其砌は旅行中でした。
 あとのものに就ての心當りは少々ありますが是はあなたの方で御極めになりたい人があるなら私を省略して直接に御極め下さい
 御多忙中閑文字をつらねて濟みません 草々
    九月四日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一八二一
 
 九月五日 土 前9-10 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜啓此間あつた時小説を書きたいやうなな話をされたし私もよからう位には答へて置いたやうにも思ふが其所が明瞭な約束でなかつたため其後君の事は丸で忘れてしまつたのです、忘れても差支はないが實は一昨日手紙で原稿の取まとめ方をちやんと社の方へ讓り渡してしまつたのです夫には少し事情もあるが面倒だから申しません、ともかくも僕が萬事取り計つてゐるうちなら其内の融通も利くが此方から人名と約束の期日を知らして凡て事務引繼の如き事をやつたあとではもう私の手を離れたと同樣だから今新たに君を入れるのは私からは云ひにくくなつてゐます、尤も長田や久保田は書く約束を何度でも延ばすからもし其方を破約して君を入れるなら出來るかも知れないがそれは社の方の考で今では私の意見には參らない私が當事者なら長田は斷わるかも知れないが夫より凡ての面倒を社の方に任せる方が好からうと思つて斷わらずにさうしたのです長田が心臓痙攣とかいつて寄こしたのは大分前ですが其後病氣がわるいのかなまけてゐるのか見當はつかないのです、も《原》うも御氣の毒のやうですが以上の譯だから我慢して外へ廻して下さい夫でなければ薄井にでも頼んで山本に話して御もらひなさい 失敬
    九月五日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      一八二二
 
 九月五日 土 前9-10 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 御手紙を拜見致しました小宮が何か申上たさうでそれがため御氣に障つたと見えますどうも恐れ入りました 小宮は馬鹿ですからどうぞ取り合はないように願ひます あれは大暑でも何でも毎日芝居ばかりへ行つて知つたものゝ顔を見ると要らざる話をして喜こんでゐると見えます 私は「あれがあの人の癖だ」抔と申した覺はありません、私があなたの手紙に對して加へた評について露骨な有體の事をこゝに繰返すのは私の責任でもあり又難事とも思ひませんが手紙でくどくどしい事を申すのも手間が取れますから今後もし機會があつて御目にかゝる事が出來た時 御質問が出れば何でも御滿足の行くやうに御話を致す考で居ります 右迄 草々
    九月五日                  夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八二三
 
 九月六日 日 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓青肉にて押す檢印を書いて見たれどうまく行きませんまづ其うちの出來の好いと思ふのを御覽に入れますもし是が間に合はなければ普通のものを普通の印判屋〔に〕彫らせたらどうかと思ひます 以上
    九月六日                  夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八二四
 
 九月七日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓昨夜御送の序文中必要の文句丈加へましたからよろしく願ひます夫から目次の方も同封で御送ですが序を直す以上目次に手をつける必要もあるまいと思ひますから是は其儘御返し致します 當用迄 草々
    九月七日                  夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      一八二五
 
 九月七日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中天王寺町三四田村俊へ
 拜啓大事な原稿がなくなつたさうで甚だ驚ろきました新聞社だの活版所などゝいふものは第一に原稿を大事にしなければ濟まないのにどうした事でせう實に不都合だと思ひますもう一返御書きになるならば無論もう一返原稿料を取るやうになさい。社のものはあやまりましたか。あやまらなければ私の所へ云つてきて下さい。責任者か〔ら〕一應の挨拶を致させるやうにします 以上
    九月七日夜               夏目金之助
   田村俊子樣
 
      一八二六
 
 九月十六日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 病氣の御見舞状をうけ難有存じます 今日やつと起き上つて此手紙をかきます 床はまだ上げず 然し今度のはいつもの病氣ではなくひどい胃カタールです
 右御禮まで 草々
    九月十六日                夏目金之助
   臨風老 兄
 
      一八二七
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 下谷區上野櫻木町四四眞如院中勘助へ
 君は知るまいが僕は其後煩つてまだひよろ/\してゐる 原稿は受取りましたがとてもあの長いものをよむ勇氣はない 其外にも依頼されてよまねばならぬものもあるがまだ放擲してゐますどうぞあしからず思つて下さい
    十月十七日               夏目金之助
   中 勘助樣
 
      一八二八
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ〔はがき〕
 啓レツシング御高譯たしかに頂戴致しました病中にて其儘に致し甚だ不相濟候どうぞ御許し下さい
 
      一八二九
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下大井町濱川山口舘秋山眞澄へ
 私は病中あなたの御手紙を拜見致しましたが筆を執る事が不可能なのでつい御返事を上げませんでしたまだ少しひよろ/\してゐますが折角の御手紙に對する私の責任として一言御答を致します實を申し上げると御指名の御作はまだ拜見して居りません又早稻田文學も手元に御座いませんもし雜誌を御送りになれば氣分のいゝ時に拜見した上單簡な愚見を申上げられるだらうと存じます 右迄
    十月十七日                夏目金之助
   秋山眞澄樣
 
      一八三〇
 
 十月十七日 土 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣野邊地野坂十二郎へ〔はがき〕
 私は病後で當分書畫など書けないだらうと思ひますからあしからず 以上
 
      一八三一
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二木村恒へ
 私は病氣が略癒つて手紙が書けるやうになつたからあなたに御禮をいふ爲めに此手紙をかきます 果物と鉢をありがたう 原稿は見ましたが二つともあまり好くありません、小説の方よりは脚本の方がまだ好いでせうあれは人によつたらほめるかも知れません 脚色が芝居的だから 然し其脚色があるにも拘はらず一篇の主意が少し變です「海へ行く」といふ主意が不自然に讀まれるのです、疲勞で長い事が書けませんから是丈で御免蒙ります 以上
    十月下浣                 夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一八三二
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 大阪のなだ萬のでんぶと鼈の味噌頂戴ありがたう 病氣は略よろしい然しまだ床は上げず 是も必竟は勤のない時間に制限の要らぬ爲かも知れず ある夜のまど|ひ《原》といふ句集面白く拜見、あのうちにゐる素石といふ男は人に短冊を書いてくれといつて書いてやると一言も禮を云はぬ不都合な奴なり 寐ながら句を作らうと思ふが一向出來ず
  酒少し徳利の底に夜寒哉
  酒少しありて寐たる夜寒哉
  眠らざる夜半の灯や秋の雨
  電燈を二燭に易へる夜寒哉
 一向句にならず
 此間岩波が來て僕の句集を出したいといふから僕の句は散亂してまとまらないと云つたら夫は自分が方々へ行つて書きあつめると云つた 僕は恐縮して未だに許諾を與へずにゐる
    十月下浣                 夏目金之助
   東 洋 城 樣
 
      一八三三
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ
 此間は拙著の装幀について御同情のある御批評を下さいましてありがたう存じます 御禮を申上げる筈でしたが病氣で一ケ月許寐てゐましたのでつい其儘にして置いて濟まん事を致しました承はればあなたもまだよくないさうで御手紙では三四日中に温泉場へでも御出向のやうに書いてありましたがもう御本復御歸りの事と存じますが如何ですか
 畫の展覽會が澤山ありますがまだ外出も出來ないのでどれも見ません 貢君が漢大吉磚瓦硯を送つて呉れました私は机の上に載せて飽かず眺めては樂しんでゐます 以上
    十月下浣                 夏目金之助
   橋口 清樣
 
      一八三四
 
 十月二十日 火 後0-1 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 君の手紙を受取つた時私は病氣で寐てゐました病氣は長くつゞいて昨今漸く手紙などぽつ/\書き始めました「心」を一部上げたいと思つてゐたがもう名古屋で御求めのやうだから止めませう夫から前から御依頼の書も書かう/\と考へて紙を買ひに出るのが暑くてたまらなく面倒だつたものだから一日々々と延ばしてゐるうち病氣の爲に打ち倒されたやうな次第でまことに濟みません其内かきますからさう思つてゐて下さい 以上
    十月下浣                 夏目金之助
   田嶋道治樣
 
      一八三五
 
 十月二十一日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市第七高等學校皆川正※[示+喜]へ
 君が來てから又病氣をして寐てゐた 鮎は御國元から頂戴したが生僧の病氣で喰ふ譯にも行かず殘念でした 琉球がすり慥かに屆きました妻から御金は送つたらうと思ふもし未だなら送ります、「心」一部差上ますから御受取を願ひます 野間君へよろしく 以上
    十月二十一日                夏目金之助
   皆川正※[示+喜]樣
 
      一八三六
 
 十月二十三日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 青森縣野邊地野坂十二郎へ
 啓御贈の貝の干したものありがたく存じます昨日到着致しました私は病後で堅いものが食べられさうにないけれどいつ迄置いても腐敗の恐もないだらうと思ふから身體がよくなつたら食べます
 先は右御禮まで 草々
    十月二十三日                夏目金之助
   野坂十二樓樣
 
      一八三七
 
 十月二十四日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓好い時候になりました此間は松茸を御贈り被下ありがたう御座いましたあの時は病氣で寐てゐました病氣の《原》例の通りのものです約一ケ月以上かゝつて漸く起きました夫であれは食べられませんでしたが御手紙文は拜見しました御禮に上げるものもありませんから近著「心」を一部小包で差上ますどうぞ御受取下さい 以上
    十月二十四日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一八三八
 
 十月二十四日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣腰越津村渡邊傳右衝門へ〔はがき〕
 茶屆きました有難う御座います、實は先達ての御茶の御禮に書物を上げたのですのに又茶を頂戴しては濟まん事です、儲かつたのは大慶です
 
      一八三九
 
 十月二十六日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 小石川區白山御殿町一一〇内田榮造へ〔はがき〕
 彼岸過迄と四篇の縮刷を校正する時間と意思がありますか折返し御返事願ひます 草々
 
      一八四〇
 
 十月二十七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 下谷區上野櫻木町四四眞如院中勘助へ
 拜啓病氣はまあ癒りました御安心下さい一昨日と昨日とで玉稿を見ました 面白う御座います、たゞ普通の小説としては事件がないから俗物は褒めないかも知れません 私は大變好きですことに病後だから又所謂小説〔四字右○〕といふ惡どいものに食傷してゐる所だから甚だ心持の好い感じがしました、自分と懸け離れてゐる癖に自分とぴたりと合つたやうな親しい嬉しい感じです、尤も惡い所もありますが夫はまあ俗にいふ微疵であります。私はあゝした性質のものを好む人が少ない丈それ丈あゝいふものに同情と尊敬を拂ひたいのです
 原稿は御あづかりして置きませうか又は一先づ御返ししませうか どつちでもあなたの御都合の好いやうに取計ひます 草々不一
    十月二十七日                夏目金之助
  中 勘|介《〔助〕》樣
 
      一八四一
 
 十月二十八日 水 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓久々御無沙汰を致しました此間手紙をいたゞいた時は病氣で寐てゐましたので御返事をする事も出來ずつい失禮しました 此頃漸く回復致しましたから今日は御挨拶かた/”\此手紙を書きます
 あの書畫帖へ出鱈目なものを書きましたのは事實ですそれを青楓君に見せたのも事實ですが實は不愉快で不愉快でたまらなかつたのでむしやくしや紛れに書いて仕舞つたのです夫をあとから見るととても人に差上られるやうなものではありあ《原》りませんので其儘に〔し〕てゐるうちについ病氣で寐てしまつたのです私はあなた〔が〕是非欲しいと仰やるなら其内自分で書畫帖を買つて來て相應のものを書きたいと思ひますあれはどうぞ勘辨して下さい始から貰つたもので〔も〕ないのに勝手に書き散らして御詫もしない罪は御許し下さい黙つてゐて濟まん事と存じまして一言言譯がましい事を申上ます、好い季節になりましたが私はまだ展覽會ものぞかずに居ります
    十月二十九《原》日             夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一八四二
 
 十月二十九日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込動坂町高田元三郎へ〔うつし〕
 拜啓 あなたの手紙を見たのは丁度病中で筆を執る事が出來ないのでつい其儘にして置いて濟みません
 ローレンスさんの講義の件につい〔て〕の御尋ねももう時候後れだらうと思ひます まあよく御勉強をなさい あなたの置いて行つた小説の原稿は夏中讀んで見ましたが あなたのは無駄が多くつてどうもしまらなくつて不可ません 筋をもつとしつかり立つて夫を成る可く緊張させて進ませるやうにしなくては讀み惡いと思ひます夫でなければ無駄そのものに大な興味が湧くやうな面白いものを捕まへる必要があります、夫からあなたの友人の書かれたものもよみました 小説としてはあなたのよりずつとまとまつてゐます 然し夫もまあ何うか斯うかまとめられてゐるといふ丈でとくに取り立てていふ程の事はありません 惡口を云へば甘過ぎます、さうして寧ろ生硬です、私は惡意を以て批評するのではありません 好意で出來る丈あなた方の將來に有利な結果が來るやうに祈つて 無禮な言を申すのですから 無遠慮の點はどうぞ誤解しないやうに許して下さい 以上
    十月二十九日               夏目金之助
   高田元三郎樣
 
      一八四三
 
 十一月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 大阪府下濱寺羽衣松南水落義一へ
 啓あなたの御病氣は如何ですか私も病氣をして長い事寐てゐました今日は久し振に人から頼まれた書を大分書きました其うちにあなたのも一枚加へました畫といふ御注文でしたけれど畫はかけませんから書を書きました書もまづいのですがまあ已を得ません御氣に召したら御笑納を願ひます、是でも書くのは中々臆《原》劫です今日は紙を切るやら墨をするやら色々の事で一日の三分二位つぶしました段々秋風がさびしくなります御身體を御大事になさい 以上
    十一月四日                夏目金之助
   水落露石樣
 
      一八四四
 
 十一月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 森成さんいつか私に書をかいてくれといひましたね私は正直だからそれを今日書きましたあなた許りので〔は〕ありません方々のを一度にかためて書いたのです一日の三分一程費やしましたあなたのは御氣に入るかどうか知りませんが私の記念だと思つて取つて置いて下さい
 良寛はしきり〔に〕欲いのですとても手には入りませんか 以上
    十一月四日                 夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一八四五
 
 十一月五日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都府下宇治醍醐藪錦山へ
 拜啓あなたは私に畫をかいて自分の詩を賛にしろとしきりに御請求になるが有休の事を申上ると東京のものは大分多忙でさういふ風流の交際ばかりしてゐる譯に行かないのです、あなたの手紙が來た時私は病氣で寐てゐました催促が何度も來た時も病氣で寐てゐました夫で御返事も上げられなかつたのです今日はかねてから頼まれた書を一《原》枚ほど書きましたあなたに畫や自畫賛は御注文通り差上られないが一枚の書なら拙いながら書けると思つて書きました旨いのではありません實をいふと手數がかゝらんからです仕方がないからそれを畫と賛の代りに送りますもし氣に入らなければ破つて御すてなさい一向構ひません、私が書をかいてしまつた所へ端書で柿を送つてくださるといふ通知がありました柿は夜つ〔き〕ました有難う御座います 以上
    十一月四日夜                夏目金之助
   藪 錦山樣
 
      一八四六
 
 十一月六日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)詩經ニ窈窕たる淑女ハ君子ノ好|逑《キウ》とあり。逑は配偶ノコト求《キウ》即チ求メルといふ字に※[□の中に※[しんにょうの古い形]]ヲツけタモノ。ノベルは述ニテ朮ニ※[しんにょうの古い形]ナリ
 (二)ナンコをツカムにて差支ナシ
 (三)○ヨリヽの方ヨカラン
 (四)ベラ/\で差支ナシ上ニ※[ネを○で囲む]ヲ加ヘてモ加ヘナクツテモヨシ
 
      一八四七
 
 十一月七日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)汐汲か汐酌みか知ラナイ、君ノ好い方ニシテ下サイ
 (二)大神樂ナルベシ
 (三)調子ナルベシ
 (四)滅茶苦茶ナルベシ
  以上
    十一月七日
 
      一八四八
 
 十一月八日 日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 今日の校正のうち赤いしるしの附してない所を二三ケ所氣がついたから直して置きました 以上
    十一月八日
 
      一八四九
 
 十一月八日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓其後は御無沙汰を致しました たしか去年の事と思ひますがあなたは私に何か書いてくれと云はれました其時私は傑作が出來たら上げませうと答へました 傑作は無論出來ませんが約束を履行しやうと思つてあれから一枚書いたのです然し拙いので上げる氣にもなれないので其儘にして置いたのです此間病氣をした時に御見舞を頂いた後私は永らく寐てゐました 起きてから十日目頃に今迄頼まれた書を諸方へ送らうと思つて一度に片付けました約束《原》十五六枚あつたでせう其内去る人の自壽の詩に次韻したものを注文で書く義務があつたのですが外のものはまあ好い加減に胡麻化したのですが其一枚が何う書き直してて《原》書けない爲めとう/\大變な時間を潰して仕舞に腰がいたくなりました、今御贈りする五絶は其時序と云つつ《原》て失禮ですがまあ序に書いたのです無論豫約の通り傑作とは參りませんが何だか差上げないと氣が濟まんから御笑覽に供します私は多病でいつ死ぬか分らない人間ですがもし生きてゐればもつと旨くなつて貴兄に御滿足の行くやうなものを書き直してあげて前債を償ひたいと思つてゐますがいつ死ぬか分りませんから拙くてもまあ是を差上げて置く事に致しますどうか御納め下さい 以上
    十一月八日                夏目金之助
   臨 風 學 兄
         座下
 
      一八五〇
 
 十一月九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五〇岡田正之へ
 啓上
 此間は講演の事につき御出被下ありがたう御座います本月二十五日か來月二日かに御極め〔の〕よし承知致しました私はどちらでも構ひませんが早い方が便利で御座いますから十一月二十五日に出る事に致します然し時間について一寸申上ますが三時からだと四時か四時過になる事と存じます近頃は日が短かう御座いますから電燈をつけるには早しつけないでは暗〔し〕といふ時間になつて遣る方も聞く方も氣が落ち付かないかと思はれますが出來るなら二時からに致したいと思ひます
 夫から學習院はたしか目白の女子大學の先と心得てゐますがさうで御座いますか
 學校へ參つたらあなたの名を指して御面會を申入れてよろしう御座いますか
 次に演題はまだ未定でありますからどうぞ其御積に願ひます
 最後に入らぬ事ながら學校が學校だから蛇足とは存じますが一言つけ加へます掲示其他に私の姓名の上に文學博士と書く事は御會釋を頗ひます私は博士でも何でもありません現に私方へある書信に文學博士と誤つて書いてくるのも殆んど絶無で御座いますから間違もなからうと思ひますが官邊に縁の深い學校の事ですから此點はとくに御願を致して置く譯であります掲示の必要がありますなら演題未定夏目漱石もしくは金之助とのみ御書き下さいまし右御挨拶序用件のみ申述ました餘は拜眉の節萬々申上る積であります 以上
    十一月九日                 夏目金之助
   岡田正之先生
        座下
 
      一八五一
 
 十一月九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二木村恒へ
 玉稿は拜見しました藥屋を始めたら藥屋の事を是から御書きなさいさうして家業に精を御出しなさい玉稿の價値はまあ一通りのものです原稿の拂底な雜誌なら或は載せるかも知れません只もう少し奥へ進んだ所が一個所あつてそれが扇のカナメのやうになつてゐると一《原》變好いと思ひます、あれは御返ししますか又は御預りして置きますか 御返事次第でどうとも致します 以上
    十一月九日               夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一八五二
 
 十一月九日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 牛込區喜久井町三六牛尾方吉永秀へ
 拜復此間は御出下さい《原》つた處留守で失禮致しましたあなたは私の書物を愛讀して下さるさうですが感謝致します、然し人の作物はよんで面白くても會ふと存外いやなものですだから古人の書物が好きになるのです 私は御目にかゝるのは構へ《原》ませんが御目にかゝる價値のない男ですから夫程御希望でないなら御止めなさい、夫から私に會つてどうなさる御つもりですかたゞ會ふのですか私は物質的には無論精神的にあなたに利益を與へる事は到底出來まいと思ひます
 失禮ですがあなた《原》大變奇麗で讀み易い字を御書きになります私は此通り亂暴です御推讀を願ひます 不悉
    十一月九日                 夏目金之助
   吉永 秀樣
 
      一八五三
 
 十一月十日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「痩せてゝも」だらうと思ひます。御推讀の通りだらうと考へます 以上
    十一月十日
 
      一八五四
 
 十一月十一日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜啓 原稿は受取申候 然しあれは社會部の權利に屬するものにて小生はあまり容喙するを好まず 現に今出てゐる與謝野昌《〔晶〕》子女子の感想など小生から云へば無論没書にする底のものに候へども私の關係する筋でなき故其儘に致し居り候 私に依頼したら直接に頼んで見ろといふ返事を得たといふ事をかいて社の山本松之助君宛で原稿と手紙を出し〔て〕御覽なさい ことによればのせるかも知れないから。原稿は必要ならすぐ返しますが木曜にでもくるなら其時迄取つて置きます 以上
    十一月十一日               夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      一八五五
 
 十一月十二日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校菅虎雄へ
 拜啓昨日は突然飛んだ事を御依頼ことに遠路拙宅迄御光來を願ひ何とも申譯なき次第平に御海恕可被下候不在中電話にて好都合に運び候趣あとにて承知御好意萬謝致候同夜天台遺士祝賀委員一同の名を以て左の通りの書面を領し此事件も是にて一段落と相成申候ひとへに御盡力の結果と感佩不淺候手紙の寫念の爲め左に差添申候
 「拜啓昨日御送申上候天台道士還暦祝賀會趣意書中文學博士の四字を貴名の上に冠せしは誤植にて何とも申譯無之候一般の方面へは未だ一葉も發送不仕候故必ず四字抹消の上配達可仕又既に發送致したる二百枚(發起人の分)に對しては端書を以て早速取消可申候間何卒御海恕被成下度此段願上候 敬具
    十一月十一日
             祝賀會委員一同」
 ついては小生よりは祝賀會へも前田君へも何等の手紙も出さず候故大兄より電話なり何なりにて宜敷御傳願上候
 右御報旁御禮迄 草々頓首
    十一月十二日               金之助
   虎 雄 樣
       座下
 
      一八五六
 
 十一月十二日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町五〇岡田正之へ
 拜復時刻の儀は三時ならでは御差支のよし承知致候同日(二十五日)同刻にまかり出る考に御座候博士といふ肩書つきの掲示其他については何分の御挨拶なきも無論御承諾の事と心得改めて念を押す事なく參上の決心に候此問題につき昨今妙な行違より自他共に迷惑致し隨分の手數を相手にかけ申候につきわざとらしくは候へども一言申添候次第不惡御了察願上候先は右迄 草々敬具
    十一月十二日                夏目金之助
   岡田正之樣
 
      一八五七
 
 十一月十三日 金 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社へ〔十二月十五日發行『佐藤北江』より〕
 拜啓、佐藤君哀悼誌中に何か書けといふ御手紙を最初拜見致した時出來得るならば書きたいと思ひました、然し有體に自白すると私は佐藤君と交が淺いのです、御辭儀をする位の面識があつた丈なのです、夫でも何か特色のある事を記憶してゐればすぐそれを材料にして差上るのですけれども生憎そんな機會に出會はなかつたので遺憾ですが君の性質は誰でも知つてゐる、又口にする丈の事しか云はれないのです、夫で今日迄黙して居りました所へ再度の御手紙があつたのです、私は最初右の事情を述べて御詫を致さなかつた事を後悔致しますが、然し今でもまだ沈黙してゐるよりは幾分か禮儀に合ふだらうと思つて何故私が佐藤君の事を書かない、否書けないかの意味を御詫までに書きます、どうぞ御諒察を願ひます 敬具
    十一月十三日
 
      一八五八
 
 十一月十四日 土 前(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成舘林原(當時岡田)耕三へ
 拜復 私が生より死を擇ぶといふのを二度もつゞけて聞かせる積ではなかつたけれどもつい時の拍子であんな事を云つたのです然しそれは嘘でも笑談でもない死んだら皆に柩の前で萬歳を唱へてもらひたいと本當に思つてゐる、私は意識が生のすべてであると考へるが同じ意識が私の全部とは思はない死んでも自分〔は〕ある、しかも本來の自分には死んで始めて還れるのだと考へてゐる 私は今の所自殺を好まない恐らく生きる丈生きてゐるだらうさうして其生きてゐるうちは普通の人間の如く私の持つて生れた弱點を發揮するだらうと思ふ、私は夫が生だと考へるからである 私は生の苦痛を厭ふと同時に無理に生から死に移る甚しき苦痛を一番厭ふ、だから自殺はやり度ない 夫から私の死を擇ぶのは悲觀ではない厭世觀なのである 悲觀と厭世の區別は君にも御分りの事と思ふ。私は此點に於て人を動かしたくない、即ち君の樣なものを私の力で私と同意見にする事を好まない。然し君に相當の考と判斷があつて夫が私と同じ歸趣を有つてゐるなら已を得ないのです、私はあなたの手紙を見て別に驚ろきもしないが嬉しくも思へなかつた寧ろ悲しかつた 君のやうな若い人がそんな事を考へてゐるかと思ふと氣の毒なのです。然し君は私と同じやうに死を人間の歸着する最も幸福な状態だと合點してゐるなら氣の毒でもなく悲しくもない却つて喜ばしいのです
 江口と喧嘩をしたら仲直りをしたら好いでせう、仲直りの出來ないやうな深い喧嘩なら仕方がない 江口はそんなに仲直りの出來ない程感じのわるい人とは思はない 以上
    十一月十三日                金之助
   耕 三 樣
 
      一八五九
 
 十一月二十二日 日 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(常時岡田)耕三へ〔はがき〕
 縮刷についての御忠告拜承何分ともよろしく願上候小生は何等の考もなし(本を見ないから)
 
      一八六〇
 
 十一月二十四日 火 前6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜啓大塚君の件につき其儘に致し置き無申譯候御申越の日限のうち二十九日の午後に小生よりまかり出でべくと存候先は右御返事迄 匆々敬具
    十一月二十三日              夏目金之助
   佐々木信綱樣
 
      一八六一
 
 十一月二十七日 金 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜復大阪よりの御土産拜受ありがたく存候「心」御約束の處其後署名を怠り居候ためそれからそれからとなくなり只今手|本《原》に一冊も無之候尤も書店から取寄てあげる事は譯なく候 もし急に御入用ならば其旨御申越次第小包にて差出可申候もし然らずばいつでも御面會の節に取計ひ可申候 以上
    十一月二十七日               夏目金之助
   松根豐次郎樣
 
      一八六二
 
 十二月二日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ
 拜復 彼はカレ〔二字傍線〕他はひと〔二字傍線〕でもた〔傍線〕でもよろしく候 たう然と醉ふとあるのは漢字にすれば無論陶然なるべく存候 頓首
    十二月二日                夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一八六三
 
 十二月三日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜復鈴木君へ御問合せの段御手數奉謝候然るに鈴木氏は一二日前拙宅まで被參種々談合被致候私は其節私の責任を以て大塚君の返事を同君迄申入候是は先方にて内意を聞きたる上出來る丈圓滿の解決を告げたき旨の希望にもとづきたるものと御承知被下度候小生は念の爲め貴下を大塚家の代理人と見傚して可然やと質問致候處同氏は不然と答へ候故に小生は同氏に對して此間の返事を洩す必要も義務もなきは無論に候へども話したりとて事實上差支なきものと思ひ左樣取計ひ申候同氏は然らばすぐ是より黒岩氏方に行き相談の上何かの方法もあらば講じて見るぺしとて歸られ候黒岩氏は栃木縣|奈《〔那〕》須あたりに居らるゝ由故夫より直ちに行くとするも相談に多少の時間はかゝるべきかと存候小生は同君に佐々木氏迄何とか挨拶されたし小生はもし日曜迄にたよりなければ延期と思ひ砂土原町へは出向かずと申し先方も其覺悟にて拙宅を辭され候右の事情故日曜迄にはどちらにしても鈴木君から貴所へは何とか返事ある事と存候もし日曜迄にあなた樣へ何とも回答なき折はこちらは直接大塚家と交渉時日取極めたくと存候以上はすぐ貴所ならびに保治君へも御報可仕筈の所如何なる譯にや怠りても差支なしといふ心持有之(其意味は小生も解意せねばよく判然せず)そのため貴書を拜讀する迄は其儘に打棄置候保治君へも御序あらば御傳へ願ひ上候又右鈴木氏へ小生一存を以つてあの時の相談の結果を御列席も願はずに御傳候事不都合に候はばひらに御容赦にあづかり度と存候先は右御返事迄 匆々頓首
    十二月三日                 夏目金之助
   佐々木信綱樣
 御贈被下候雜誌二部ありがたく頂戴致候
 
      一八六四
 
 十二月六日 日 牛込區早稻田南町七より 福井利吉郎へ
 拜啓此間御來臨の節御求めの拙書恐縮とは存候へども折角の御希望故御約束に從ひ試みに相果し小包にて差上候間御落掌願上候御預りの玉版箋は二枚とも墨をなすくつて見申候箋下に(一)と記したる分(二)よりもまだ増しかとも被存候へども是は御面語の砌申上候通義務なき試み故御採否は無論御自由と御承知被下度候萬一一枚御役に立ち候場合には殘る一枚は御裂きすての程希望致候雙方共落第の節は二枚とも反古籠へ御入れ被下度候右當用迄 匆々敬具
    十二月六日                夏目金之助
   福井利吉郎樣
 
      一八六五
 
 十二月七日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 御問合せのるびの事はあの通りでよろしう御座います
 雛《〔宵〕》子にはたしかに「さん」がつけてあります
 東京語ではあゝいふ場合「ひとつかみ」とはいふけれども「一とつまみ」とはいひません、「一つまみ」といふ事も時と場合ではあるけれどもその例は今思ひ出せません。尤も一つまみでも大した間違にはなりません。
 
      一八六六
 
 十二月八日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌へ〔はがき〕
 葉卷の煙御途被下ありがたく奉鳴謝候不取敢右御禮迄委細は拜眉の節に讓り可申候 以上
 
      一八六七
 
 十二月八日 火 牛込區早稻田南町七より 秋田市築地本町濱武元次へ〔はがき うつし〕
 御手紙拜見 鮭も參り候當分は秋田にて御靜養可然か御寒い事と存候書も畫も一寸出來ずつい失念致し候 恐縮
 
      一八六八
 
 十二月十日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 御無沙汰を致しまして申譯がありません鮭一尾例年の吉例にて御惠贈ありがたう存じます大分寒くなりましたあなたの病氣は如何ですか隨分御注意をなさいまし私は死につゝさうして生きつゝあります 以上
    十二月十日                 夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      一八六九
 
 十二月十一日 金 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ
 啓本日午後五時頃歸宅せる處別紙催促状參り居候故御約束の通御送付申候校正料を懸合つて先へもらつて急場を凌いでは如何
 右迄 匆々
    十二月十一日                 夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一八七〇
 
 十二月十三日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ〔はがき〕
 御手紙で恐れ入りました鮭は二尾ださうです私は迂濶だものだから包もとかずについ一尾と思ひ込んだのでせう、御手數をかけて濟みません、御勘辨を願ヒまス
 
      一八七一
 
 十二月十四日 月 後2−3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(常時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「情なささうな」の方がよいやうに思はれます
    十二月十四日
 
      一八七二
 
 十二月十四日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町渡邊良法へ
 拜啓過般は金子君を通して拙筆御求めの處多忙にて其儘に致し置御返事も差上ず甚だ失禮申候御送の絹は二枚とも出來思はしからずさき捨申候紙二枚へ書き候分本日小包にて差出候間御入手被下度候それとてもまづき一方にてとても御老人の鑑賞などにはとても相成まじけれど拙をつくせる意味を以て御勘辨相願度候
 先は右迄 匆々
   十二月十四日               夏目金之助
   渡邊良法樣
 
      一八七三
 
 十二月十五日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成舘林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 拜復
 岡君の訂正の通りでよいかと思ひます何分とも宜敷やう願ひます 以上
 
      一八七四
 
 十二月十五日 火 後6-7 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜啓奥さん御歸りの由よろしく偖一寸必要ありて大分縣東國|東《サキ》郡臼杵國廣知二(三十六)(駒場農科大學|專《原》科出身現時二六新聞社事務長)此人の素行性質其他知れるだけの事を知りたいのですが御面倒でも一寸調べて教へて呉れませんか私も頼まれたのです結婚の問題の事です 以上
    十二月十五日               夏目金之助
   野上豐一郎樣
 
      一八七五
 
 十二月十七日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 「十時迄に」の方がよからうと思ひます
    十二月十七日
 
      一八七六
 
 十二月十八日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ〔はがき〕
 御手紙ありがたう早速當人に知らせます、もし其人(即ち父)が君に逢ひたいといつたらどうぞ會つてやつて下さい
    十二月十八日
 
      一八七七
 
 十二月十八日 金 牛込區早稻田南町七より 牛込區辨天町一七二山田繁へ
 此間御出の節は色々頂戴物を致しまして濟みません あの時の玉稿は拜見致しました 短かいけれども面白いものですイソツプ物語を複雜にしたやうな感じが致します此前拜見したものゝうちにもあんなものがあつたやうに記|臆《原》して居りますがあゝいふ種類のものは一まとめにして保存して御置になつたらよろしからうと存じます、
 玉稿のうち解らない言葉が一箇所あります傍に黒い線を引いておきました 以上
    十二月十八日                夏目金之助
   山田繁子樣
 
      一八七八
 
 十二月二十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌へ
 拜啓あなたの御母さんの御亡くなりになつた事を廣告で承知致しました謹んで御弔みを申上ます今日御葬式のある事も存じて居りますが少し氣分が勝れませんので參りかねますので甚だ失禮とは存じますが手紙で哀悼の微意を表するのでありますどうぞあしからず 敬具
    十二月二十一日               夏目金之助
   馬場勝彌樣
 
      一八七九
 
 十二月二十一日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三津田龜次郎へ
 此間もらつた君の梅と竹の畫の表装が出來て來ましたから掛けてゐます中々立派です私のも出來て來ましたが是はどうもあなたが賞めて下さつた程感心しません今度の木曜にでも來てまづあなたのを見て下さい、私は酒さへ飲めればあなたの爲に祝盃を擧げたいと思つてゐます。齋藤與里君に頼まれて繪(靜物)を一枚買はせられました 以上
    十二月二十一日              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一八八〇
 
 十二月二十一日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ
 (一)ところ〔三字傍線〕を所にしませう
 (二)枠はとりませう
 (三)漱石は是でももう少し大きくてもよろしいでせう。
或は漱石を此儘にして彼岸過迄に就てをもう少し小さくしたら何うでせう
 (四)「ゴシツク」と肩をならべるか、見出しの風呂の後の風と比べるか、どつちともよろしきやう願ひます
    十二月二十一日               夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一八八一
 
 十二月二十二日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町渡邊良法へ
 拜啓拙筆に對し懇なる謝状拜受却つて痛入候御惠投の干柿一箱正に到着直ちに風味名産の事とて味殊の外見事に候 右御禮迄 匆々頓首
    十二月二十二日               夏目金之助
   渡邊良法樣
 
      一八八二
 
 十二月二十二日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)「二三間先に〔右○〕大きな寺がある」の間違かと思ひます
 (二)「口を開《あ》きません」です 以上
    十二月二十二日
 
      一八八三
 
 十二月二十三日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込追分町五興成館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)シエクスピヤ (二)盤 (三)ばうはく (四)天ぷら屋
 右の通りに候間よろしく願ひます
    十二月二十三日
 
      一八八四
 
 十二月二十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本所區番場町凸版印刷會社外來校正室林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 (一)藺《ゐ》でよからうと思ひます。私も實物を忘れてしまつた。(二)テナゲダンでも手《シユ》擲彈でもよろしきやう願ひます(三)此將軍は戰爭丈には〔二字右○〕熱心で……で差支ないと思ひます。(四)少し面白くなかつたから……矢張り元の通りだと思ひます 一寸變だけれども。
 徹宵の御努力甚だ恐縮します
 
      一八八五
 
 十二月二十七日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 牛込區喜久井町三六牛尾万吉永秀へ
 あなたの御話を伺つた時私は非常に御氣の毒に思ひました然し私の力ではあなたをどうして上げる譯にも行かないと思ひまし|て《原》只今御手紙が參つてあなたはまだ東京に居られる事を知りましたさうして又教師になつて生活されるといふ御決心を知りました私はそれを嬉しく思ひます どうぞ教師として永く生きて居て下さい 以上
    十二月二十七日               夏目金之助
   吉永秀子樣
 
      一八八六
 
 十二月二十七日 日 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區原町一二木村恒へ
 拜復アイヒエンドルフの譯正に受取りました 序を書けといふ御注文だから何か書かうと思ひますが譯を讀むひまがありません 歳は行き詰まる私の氣分も行きつまる何をするのも厭であります たとひあなたの翻譯を讀み了せたとて今年中の出版には間に合ひますまい だから一層書かない方があなたの方の便宜かも知れないと思ふのです 實をいふと私はよく内容も見ずに序文丈を書くやうな手つとり早い事は不得手なのです夫から嫌なのです 以上
    十二月二十七日              夏目金之助
   木村 恒樣
 
      一八八七
 
 十二月三十日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 靜岡縣駿東郡富士岡村神山勝又和三郎へ〔印刷したる大正四年の年賀状の端に〕
 ミカンをありがたく頂戴しました御禮を申上ます序だから申ますが私は文學博士〔四字右○〕ではありません
 
 大正四年
 
      一八八八
 
 一月一日 金 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔印刷したる年賀状の端に」
 今年は僕が相變つて死ぬかも知れない
 
      一八八九
 
 一月六日 水 後0-1 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ〔印刷したる年賀状の端に〕
 あなたからは去年も年賀状をいたゞいたのですが此方はあまり遲くなつて極りが惡いから上げませんでした、此年は思つてゐた所又同樣の失敗をくり返して恐縮に堪へませんどうぞ失禮を御許し下さい
 
      一八九〇
 
 一月九日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「親展」とあり〕
 御無沙汰をしました。去冬阪朝から新年に何かといふ注文があつたのを七草過迄延ばして貰ふ事に相談が出來ました。それを今ぢかにあなたの方へ廻します。もし此方でも都合がつくなら載せて頂きたいからです。然し無理をする必要もない程のものですから御都合が惡いなら御手數ですがどうぞあなたの方から大阪の長谷川君の方へ廻して上げて下さい。又載せられるならゲラ丈をすぐ送つて上げて下さい 以上
    一月九日                  夏目金之助
   山本松之助樣
 筆の序だから申します近頃出る世界的たらんとする日本の文藝とか何とかいふ標題のものはひどいものですね。西本翠陰とかあるから西本波太君ぢやなからうかと思ひますが私の見る所では書き手は誰だらうとあれは馬鹿ゲて下らないものゝ樣にしか見えません。私はあなたや西本君の感情を害する爲にこんな惡口をいふのではありません。全くもつて滅茶に近いものだから事實を御參考迄に申上げるのです。氣を惡くされては困ります。 多罪
 
      一八九一
 
 一月二十日 水 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 拜復あなたの送つて下さつた瓦煎餅は今朝屆きましたあの小包は坊さ〔ん〕が胸にぶらさげてゐるものに似てゐました。煎餅は壞れてゐます。私も子供も食べました、あゝしたものは僧堂のなかでは樂しん〔で〕皆さんが食べるだらうと察せられますがあなたはそれを私に送つて下さつたのだから餘慶にありがたい氣がします。其代り幸ひ手元に彼岸過迄の縮刷がありますから小包で差上ます。あなたの手紙にある知客寮とか殿司寮とか除策とか認定とかいふ言葉は私には大變面白いのですあなたの胃はまだ癒りませんか御大事になさい東京は昨今却つてあつたかです、私の風邪は漸くよくなりました御安神下さい、胃の方は宿痾だから癒らんけれども今はまあ無事に濟んでゐます 以上
    一月二十日                夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一八九二
 
 一月二十二日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町三四後町方今井みとしへ
 拜復御手紙を拜見致しました私に御會ひになりたいと仰やるのは何か事情のある事なのですか又はたゞ會つて見たいのですか、紹介状をもらふ人はありませんか、あなたは何處の人で何處の學校へ行つて何をしてゐるのですか。私に會つても會ふとつまらないですよ。だからもう一遍考へて夫でも會ふ氣なら私の今の質問に對する返事を下されば其上で會ふべき筋なら日を極めて御目に懸りますから 以上
    一月二十二日               夏目金之助
   今井みとし樣
 
      一八九三
 
 一月二十五日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町三四後町方今井みとしへ
 私が諏訪へ行つて講演をした時あなたが聞きに來て居た事は丸で知りませんでした、私もあの時分から見ると大分年を取りました
 私の面會日は木曜です、然し近頃は原稿を書いてゐるので午前は駄目です午後から夜へかけてなら御目にかゝれます、但し夜は何時でも若い男の人達が落ち合ひますから夫に御宅も御遠方ですからまあ午後の方が宜しいでせう。然し今度の木曜の午後には一人の男の人が來るかも知れません、今日來たから木曜の午後に來いと斷つたのですから、もしそれで御差支がなかつたなら入らつしやい。私は構ひませんから 以上
    一月二十|六《原》日            夏目金之助
   今井みとし樣
 
      一八九四
 
 一月二十五日 月 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校寄宿舍中寮八番藤森秀夫へ
 拜復私はあなたからなつかしいとか親しいとか云はれる資格のない男でありますがあなたの方でさう思つて下されば私にとつては甚だありがたいのです。もしあなたが私と懇意になつて私の惡い所ばかりに眼が着くやうになつたら貴方は屹度其言葉を翻がへすでせう然しあなたの第一印象に映じた私を私自身で打ち崩す必要も權利もないのですから何うぞさう思つてゐて下さい。手紙のなかにある新體詩に就いて私はあなたが僞を述べてゐるとは申さないのですがよく洗錬された感情と技巧と一致すればもつと好いもの〔が〕出來るに極つてゐるのです、私は其日のあなたに來るのを待つのです、其時はあなたもあんなものを〔と〕云はれるだらうと信じてゐます
 あなたの虚無があなたの全體を支配〔して〕行住坐臥離れなかつたならあなたは私の前へ出てあんな態度に《原》譯がないかと思ひます、あなたは私をあまり眼中に置き過ぎて堅くなつてゐました、もつと自由にくつろがなくては決して相手を親しいとか懷かしいとか云ひ得ない程あなたは束縛されてゐました。尤もそれは詩の批評の方が氣にかゝつてゐたのかも知れませんが、今日は是丈にとめて置きます
    一月二十|六《原》日            夏目金之助
   藤森秀夫樣
 
      一八九五
 
 一月二十九日 金 後3-1 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣加古郡神野村石村善正寺富澤敬道へ
 あなたは鬼村さんの友達ださうですが鬼村さんは時々手紙をよこしてくれます、夫から此間は神戸の祥福寺から瓦煎餅を送つてくれました、よくみんなで食べないで送つてくれたものと思ひます
 あなたも胃や肝臓がわるいさうですがたゞ黄|胆《原》ならすぐ癒るでせうが肝臓を冒すと慢性になつて療治が困難でせう、あれは大變氣分が鬱陶敷なるものゝやうに聞いてゐますが何うですか 迷亭流にやつてゐられますか
 今は忙がしいから是丈しか書きません 以上
    一月二十九日                夏目金之助
   富澤不外樣
  墓場には一抱ある椿かな
  手折くる無住の寺の椿かな
などは面白いですよ
 
      一八九六
 
 一月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京都市京都帝國大學寄宿舍山田卓爾へ
 拜復御手紙を拜見しました、あれ丈長い手紙をかくのは容易な事でありません、ことに私の爲に書いて下さつたのですから讀まない筈はないのです、私は此間大阪から來た人の手紙を半日かかつて讀みました位です。私の作物があなたに興味を與へるのみならず精神的に何物をか付け加へたのが果して事實とすれば私はありがたい事に思ひます、私はあなたに感謝して頂くよりも私の方で感謝すべきだと思ひます。私は賞められるのが嫌とは云はないのです理由もないのに賛辭を呈せられるのが苦痛なのです、それから利害心から來た御世辭に對してどう返答して好いか分らないのてす
 私は色々なものを書きました、私が書き始めてから十餘年になります、今から回顧して見ると藝術的な意味で全然書き直したいものが澤山あります絶版にしたいと思ふものもあります、けれども其耻は藝術上の耻で徳義上の耻でないからまあ我慢してゐるのですあなたから色々云はれると甚だ勿體ない氣がします。あの御手紙に對して其儘にして置くのは非禮と存じまして一口御挨拶を致します是から外の人へも三四本手紙を書かなければなりませんから是でやめます 以上
    一月二十九日               夏目金之助
   山田卓爾樣
 
      一八九七
 
 一月二十九日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ
 御手紙を《〔?〕》拜見しました名古屋へは生れてまだ行つた事がありませんから機會があつたら行きたいと思つてゐます其節はよろしく願ひます然し今の所では何時出る氣になるやら一向不得要領です
 昨日今井みとしといふ女が來ました新渡戸さんの世話になつた事のある女ださうですあなたを知つてるかと聞いたら知つてると答へました新渡戸さんから強情だといはれたと云つてゐました、私は正直な好い人のやうに思ひました 以上
    一月二十九日               夏目金之助
   田嶋遺治樣
 
      一八九八
 
 一月二十九日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京都府中郡吉原村中西市二へ〔往復はがき返信用〕
 明治の初年には好い小説家はないでせう。近頃では誰のでも大抵讀み得るのです。文藝雜誌を手當り次第に讀んで自分で好きらひを御極めなさいまし。私は二三と指名するよりも全體が旨くなつたと申したいのです
 
      一八九九
 
 二月三日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 北海道夕張郡登川村字夕張炭山谷口盛へ〔はがき〕
 あなたの考は甚だ面白いのです、失禮ながら思想を錬つた事のない人には珍らしいと思ひます、然し問題が非常に大きいのだからもつと研究なさる必要があるでせう。私にも一寸簡單には御答が出來ません。忙がしいので猶更です。參考書は東京へ來て圖書館へでも入らなければありません。
 
      一九〇〇
 
 二月三日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 淺草區小島町三四後町方今井みとしへ〔はがき〕
 先日は失禮致しました、其節申しました通り木曜なら何時でも御目にかゝれます。(今は午前中はいけませんが)私は別にあなたを感化する能力はアリません。然し御話しは誰とでも時間さへあれば致す考です
 
      一九〇一
 
 二月五日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ〔はがき〕
 私のものがそんなに好きで私にあひたいなら木曜に來るやうに云つて下さい、もう少し經てば朝でもよろしいが今は原稿をかくから午後。夜は色々な人がくるから向が困るだらう。君の御父さんの病氣は如何
 
      一九〇二
 
 二月九日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町五丁目八一齋藤茂吉へ〔はがき〕
 拜啓長塚節氏死去の御報知にあづかりありがたう存じます、實は昨日久保猪之吉君から電報で知らせて來てくれた處です、惜しい事を致しました。私は生前別に同君の爲に何も致しませんのを世話をしたやうに思つてゐられるのでせうか。何うも氣の毒でなりません
 
      一九〇三
 
 二月九日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ〔はがき〕
 あの牛屋はなくなりましたかちつとも知りませんでした、「其頃あつた」と訂正して置きました、
 ちと硝子窓のそとへ出やうと思ひますが面倒だからまだ引込んでゐます
 
      一九〇四
 
 二月九日 火 後3-4 牛込區早稻田南町七より 福岡市東公園久保猪之吉氣付小布施順次郎へ
 拜啓長塚君御病氣の處遂に御不起のよし昨八日久保君より電報有之今日は齋藤茂吉君から通知も參り何とも御愁傷の事と遙察致候九州にての變故御取かたづけ等萬事御面倒なるべく御察申上候御令父さまへもよろしく哀悼の意を御傳へ被下度候不取敢右御弔詞迄 匆々敬具
    二月九日                夏目金之助
   小布施順次郎樣
 わざ/\電報で知らせてくれた久保さんによろしく云つて下さい
 
      一九〇五
 
 二月十三日 土 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓此間花の御禮をいつた後で芍藥と牡丹を間違へたといつて人から笑はれました御免下さい然しいくらそんな事を間違ても花を賞翫する事はしてゐるのですから。それから後に紙が着ました實はまだ竹の封筒の中から取り出して見ませんが多分玉版箋位のやうに思ひますが何ですかあれは下さつたのですか何か書けと仰やるのですか。津田君が立つ時には會ひませんでした 私の畫風などゝは實に面目ない次第です滅茶々々を畫風とする位なものです竹田も何もあつたものではないのです夫より青楓君の描いてくれた梅竹の圖が大變結構に出來ました今度上京なすつたら御目にかけます あなたの今度の手紙の字は大變旨いですね、私は招待會なんて大袈裟なものは嫌です、然し大袈裟でない人が寄るなら面白いとも思ひますがまあ少しの間「硝子戸の中」を出る譯には行きません、私はひまが出來て氣が向いたら書畫帖を賣《原》つて來て此間の賠償として心經か何かを書いて御贈したいと思つてゐます然し多分又出來損ふだらうと考へます先は右迄 匆々
    二月十三日               夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九〇六
 二月十四日 目 前0-7 牛込區早稻田南町七より 福島市三郡共立病院南四號室門間春雄へ
 拜復御手紙を拜見致しました處痔で御入院との事私はちつとも知りませんでした早く養生をして御出院なさいませ退屈なので私の手紙が見たいと云はれるから早く書かうと思つたのですが生僧用が立て込んで其閑がありませんでした先達は長塚君の事に就いて御注意ありがたう御座いましたあの御禮もまだ出さずにゐて濟みません、あのあなたの手紙の着く前に福岡の小布施順次郎氏から長い手紙で其旨を通じて來てくれました、あなたの今度の手紙には長塚の事がありませんが氣の毒な事に八日に亡くなつたのです、是は新聞であなたも御承知の事と存じます、私は若い人が死ぬのを甚だ悲しく考へては自分の生きてゐるのが濟まないと思ふ事もあるのです。貴方の令弟が喜久井町にゐやうとは丸で知りませんでした、あんな事を書くと色々の關係から遠方にゐる思ひ懸けない人に興味を與へる事もあるものですね、もう病親も大分よくなつたでせう一日も御退院の速かならん事を祈ります 以上
    二月十三日                 夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一九〇七
 
 二月十五日 月 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇畔柳都太郎へ
 拜啓御手紙拜見「硝子戸の中」を昨日切り上げたあとで御手紙がありました、それであの問題はまあ書かずに置きませう。私は死なないといふのではありません、誰でも死ぬといふのです、さうしてスピリチユアリストやマーテルリンクのいふやうに個性とか個人とかゞ死んだあと迄つづくとも何とも考へてゐないのです。唯私は死んで始めて絶對の境地に入ると申したいのですさうして其絶對は相對の世界に比べると尊い氣がするのです(此尊いといふ意味を此間議論しにきた人があつて弱りましたが)
 報酬問題に裁ての御異存も相當な根據のある御考と思ひますが、私の見方はかうです。醫者がいくら親切をつくしても患者が夫程ありがた〔が〕らないのは藥禮をとるからで、もし施療的に同樣の親切を盡してやつたなら藥價診察料を収めた時以上に患者の方で親切を餘計恩にきるのが必然のサイコロジーだと思ふのです。だから實をいふと品物も受けるのは嫌です。品物なら先方の好意が私に徹するやうなもの、即ち私の趣味其他を理解した品物が欲しいのですが夫が解るものではありませんからつまり何にも持つて來ない方がよくなるのです。それでなければ煎餅一袋位が却つてよろしい(其理由は面倒だから略します)
 もう一言書き添へると私は世間でやる交換問題といふ奴はあまり好まないのです、つまりプラスマイナスで〇になつてあとには人情も好意も感激も何も殘らないからです。全く營業的に近いからです。(然しやらなければならん時もありませうが)
 右あら/\御返事迄 匆々
    二月十五日               夏目金之助
   芥 舟 樣
 
      一九〇八
 
 二月十七日 永 前10-11 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町五丁目八一齋藤茂吉へ
 拜復長塚君の死去廣告中友人として小生の名前が若し御入用ならばどうぞ御使用下さい小布施君がわざ/\御出には及びませんから、其位の事で長塚君に好意が表せるものなら私は嬉しく思ひます
 節氏の死去の報が新聞に出た翌朝沼波武夫君が來て(わざ/\)向後長塚君の事に關し何かやる(遺稿を出版するとか其他)なら自分も加盟したいからどうぞ通知してくれと頼んで行きました私は自分の方では發起せぬがあなた方の方で萬一そんな企てがあつて通知を受けたら御知らせしやうと約束して置きました、是は今手紙を書く序だから申上ますがもしそんな計畫があるやうでしたらどうぞ私同樣沼波君へも通知して下さい同君は生前から長塚君に會ひたがつてゐたのですさうして「土」の愛讀者なのです、同君の任所は本郷西片町十番地です 右迄 匆々
    二月十七日                夏目金之助
   齋藤茂吉樣
 
      一九〇九
 二月二十日 土 後1-2 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寛彦へ
 拜啓 小生のとるアセニーアムといふ雜誌に「空間時間の理論」といふ書物の批評があるから御目にかけます、君は專問《原》家だから既に此書物を御承知かも知れず又つまらない書物かも知れないがとにかく此間の話で君が時間空間の研究中だといふ事が解つた故御參考までに御覽に入れるのです 以上
    二月二十日                 金之助
   寅 彦 樣
 
      一九一〇
 
 二月二十七日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ
 拜復御手紙を拜見致しました御配慮は御尤ものやうに考へます然し大塚君は斷わる時にそんな氣の毒な思ひをせずに濟む人らしいのですが如何なものでせう、尤も形式上から云へばいつ斷つても一向差支ないやうにはなつてゐるのです、つまり大塚君は此點に關して思慮分別が缺乏してゐるのではないのだから當人の隨意でも構はないかとも考へます、尤も家庭教師としてゐるうちにそれ以上の精神上又は肉体上の關係が起ると想像すれば又問題が違つて參りますがそれは多分ないかと思ひます、細君の候補者は佐々木さんに頼んだら好からうと申しましたが無ければ已を得ません私の方でも是といふ人は持ち合せないのです、交際の狹い私の胸の中にそんな人が出てきたら固より大塚君に申入る積で居ります、あなたもどうぞ御心掛下さい 以上
    二月二十七日               夏目金之助
   佐々木樣
 
      一九一一
 
 二月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『新潮』へ〔應問 三月一日發行『新潮』より〕
 私は日當りの好い南向の書齋を希望します。明窓淨机といふ陳腐な言葉は私の理想に近いものであります。
 
      一九一二
 
 三月二日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町太田正雄へ〔はがき 表書の名宛任所に「本郷區西片町十カラ橋の下通」とあり〕
 唐草表紙一部御惠贈ありがたく御禮を申上ます例の如く装傾甚だ美事に拜見致しました 草々
    三月二日
 
      一九一三二
 
 三月二日 火 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔封筒なし〕
 拜啓野間眞綱君が今度洋行する事になりました夫で君が外國へ行く時使つたあの※[病垂/尨]《原》大鞄を貸してやる事に約束したのですがあれは今空いてゐるでせうかもし都合がつくなら貸すやうに用意して置いて下さいいづれ僕の方から人を取りに上げる積ですから、次に若し野間君に融通するとなると君の時のやうにずつくを被せなけれはならないと思ふが君はそれをどこでこしらへたか一寸教へてくれ給へ、夫から姓名の書具合なども參考になるから出來るなら上づゝみの儘渡してくれませんか 以上
    三月二日                  金之助
   寅 彦 樣
 風邪はも〔う〕御全快の事と存じますが如何ですか赤ん坊はもう生れたのでせうね萬歳
 
      一九一四
 
 三月五日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市上龍尾町九三野間眞綱へ
 先日御上京の節は失敬 體格檢査も無事に通過愈洋行と事がきまりたる由結構です夫に就いて例の鞄の事だがあれは兩三日前寺田君から送付濟になつて今僕の所にある、もし都合がつけば君が出てくる前にズツクの蔽を掛けて置いてあげる積です、然し君が出て來て好いやうに自分が注文しても充分間に合ふ事とも思ひます、再度御面會の期を待ちつゝ 匆々
    三月四日                  金之助
   眞 綱 樣
 
      一九一五
 
 三月五日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼海岸武者小路實篤へ〔はがき〕
 御無沙汰に打過ぎました「彼が三十の時」立派な本に出來て結構ですありがたく頂だ|き《原》しました其うち「硝子戸の中」といふ小品が出たら上げませう、小泉君が展覽會の切符をくれたが行かれませんでした、よろしく
 
      一九一六
 
 三月九日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ
 御安着の由結構です僕も遊びに行きたくなつた小説は四月一日頃から書き出せばどうか間に合ふらしいのです夫で其前なら少しはひまも出來ると思ひますまだ是非行くとまでは決心もしてゐませんが大分心は動いてゐるのです、然し行くとすれば矢張り京都のどこかへ宿をとってさうして君の宅へ遊びにでも出掛る譯になるのでせうか、そんな點についてもし君の心に餘裕があるなら注意してくれませんか、僕は京都に少々知人があるが大學の人などに挨拶に廻るのも面倒だから人に知られないで呑氣に遊びたいのです其邊は御含みを願ひたいのです、まだはっきりともしないのに既に取極めたやうな事をいって自分でも變です。
 畫を見てもらふ人がゐなくなったので少々困つてゐます 以上
    三月九日                  夏目金之助
   津田青楓様
 奥さんへよろしく
 
      一九一七
 
 三月十八日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ〔はがき〕
 京都の津田の所へ明日行く積、日限せまり君と相談する譯に參らず失禮致します、
    十八日
 
      一九一八
 
 三月十八日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拝啓
 私は一寸旅行致します今月一杯には歸るつもりですそれから「柿二つ」のあとの原稿を書くつもりです四月中旬迄つゞくといふ話ですからそれで間に合ふだらうと信じてゐます、私は虚子の小説が出来る丈長くなるのを希望して居ります、萬一虚子君が豫定より十回以上早く切り上げるやうな事があったら已を得ないから中勘|介《〔助〕》のを先へ出して頂きたいと思ひます原稿は留守でもわかるやうにして置きますから、右迄草々
    三月十八日                夏目金之助
   山本松之助様
 
      一九一九
 
 三月二十四日 水 後9-10 京都市三條木屋町北大嘉より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ〔はがき〕
 奈良へ行くなら此手紙着次第すぐ此所へきたまはぬか、一所に京都から立たう。旅費は失禮ながら僕が擔任の事。もし行かれぬなら一寸御返事を下さい、すぐ 右迄
 
      一九二〇
 
 三月二十八日 日 後9-10 京都市三條木屋町北大嘉より 牛込區早稻田南町七夏目鏡へ〔はがき〕
 病氣もほぼよろしく候色々な人に世話になり候、ことに津田君と津田君の兄さんと御多佳さんの世話になり候津田君は寐てゐるうち始終ついてゐてくれました、姉は氣の毒をしました、歸れないでわるかつた
 
      一九二一
 
 四月十五日 木 後5-6 京都市三條木屋町北大嘉より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内鎌田敬四郎へ〔うつし〕
 拝啓御手紙をありがたう小説はとうから取掛るべきでありますが横着の爲めつい/\延びまして其結果編輯上御心配をかけまことに申譯がありません可成早く書いて御催促を受けないで濟むやうにしますテニエルの切拔もありがたう讀んで見ました九十四迄生きた人はあんまりないやうですね一平さんの漫畫はまだ出版になりませんか一平さんの畫は百穗君の插畫なとより評判がいゝやうです一平さんの赤ん坊が死ん〔だ〕事は始めて承知しました今度會つたらどうぞ忘れずに弔詞を述べて置いて下さい私は一平さんに妻君があらうとも思ひませんでした實際わかい顔をしてゐるではありませんか右迄 拜
    四月十五日              夏目金之助
   鎌田敬四郎樣
 新聞も近頃のやうに事件が多くては嘸御骨が折れるでせう
 
      一九二二
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓留守宅へも御出被下京都でも御尋ね被下毎々の御心配甚だ恐縮實は御目にかゝり候節申上候通り歸宅後萬事御詫を致す心算にてなまけて居候次第あしからず御海恕願上候豫期の通り八時五十六分の汽車にて東上十七日無事歸宅仕候手紙やら何やら山の如く机上に堆積今日漸く其始末に取りかゝり申候
 先は右御禮旁御挨拶迄 匆々
    四月十八日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九二三
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ
 拜啓 京都にて大阪よりの御見舞状拜見致し候處御返事も不致失禮致し候病氣は左したる事もなかりしが愚妻の西下を好機會に所々見物爲致候ため滞在長びき咋十七日漸く歸宅致しました色々御配慮を煩はしたる事を感謝致します
 御禮旁一寸御挨拶を申上ます 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   松山忠二郎樣
 
      一九二四
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 留守中御尋ね被下かつ京都へ御見舞状被遣御芳志奉謝候妻が西下致したるを幸ひ所々見物|被《原》致爲に意外の日子を費やし昨十七日漸く歸宅致候 方々へ禮状やら返事やら出すので大變多忙是で御免蒙ります、病氣は左したる事にてもなく候故御放念被下度候 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      一九二五
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ
 啓
 京都では一方ならぬ御厄介になりました出立の際は夜中わざ/\停車場まで來ていたゞいて濟みません久しく京の言葉をきいてゐたものですから東京へ歸つて東京の言葉をきくと妙な心持がする位です道中は無事につきましたすぐ手紙を上げるのですが昨日は一日休息しました机の上は山のやうに手紙や何かゞのつてゐて手のつけやうがありません今日からぽつ/\返事を書き始めます夫で長い手紙はかけません書畫帖は其うちいたづらをかいて送ります東京へ歸ると急に心持がいそがしくなつて畫だの字をかいてゐられない氣分になります京都は穩かです東山が眼に浮びます同時に御君さんの三味線と金ちやんの常盤津も思ひ出します左樣なら御歌さんへよろしく
    四月十八日                夏目金之助
   野村御君さん
 
      一九二六
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 拜啓私は先月十九日から京都へ旅行しました其留守へあなたの手紙が來たのでつい返事も上げずに失禮しました昨日漸く歸つてあなたの書いてくれた禅堂の坊さんの生活を面白く讀みました私には珍らしいので大變愉快でした天目中峯和尚の遣誡はいゝものです私は大燈國師のも夢窓國師のもごちや/\に覺えてゐます中峯和尚のも生死事大云々の文句は覺えてゐます、私は禅學者ではありませんが法語類(ことに假名法語類)は少し讀みました然し道に入る事は出來ませんたゞの凡夫で恐縮してゐます身體がよければ奈良の方へ行く積でした大阪から神戸へ行つてあなたの顔を見たかも知れませんが健康の具合で京都ぎりにしました妻があとから來たので見物をさせるので長くなつて昨日歸りました歸ると机の上に山程手紙だの雜誌だのが積んであります私は大に辟易します今日ぼつ/\返事を書き出しました是が十一本目の手紙です隨分疲れます今日は是で御免下さい寫眞〔は〕近頃撮りません今度とつたら忘れないやうに屹度上げます 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   鬼村元成樣
 どうぞ修業をして眞面目に立派な坊さんになつて下さい私の書物などは成るべく讀まないやうになさい然し今度出來た「硝子戸の中」は記念のため其うち送ります
 
      一九二七
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區高麗橋二丁目五三加賀正太郎へ
 拜啓京都を立つ時は御見送りを受けましてありがたう存じます※[さんずい+氣]車の中で寐て歸つて昨日は一日ぼんやりしてゐました若い人が來てくれても碌々口も利かないでゐました今日は調子が好いのでよく活動してゐます机の上に手紙や雜誌が山のやうに積んであるのを見ると恐ろしくなります現に今かく手紙は正に十三通目のものでありますまだ數通書かなければなりません右の次第で別荘の名もまだ出來ません其うち思ひついたら申上ますあなたも精々勉強して早く落成するやうになさい
  寶寺の隣に住んで櫻哉
 蕪村の句につと立ちて雉追ふ犬や寶寺とかいふ句があつたやうに夢のやうに記|臆《原》してゐますが御承知はありませんか忙がしいから是で御免蒙ります 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   加賀正太郎樣
 私はあなたの呑氣さうな心持に對して敬意を拂ふものであります(惡口ではありません)
 
      一九二八
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園新橋磯田多佳へ
 啓
 滯京中は色々御世話になりましたことにあなたの宅で寐てゐたのは甚だ恐縮ですあゝいふ商賣をしてゐる所で寐てゐられては嘸迷惑でしたらう私も愉快に歸りたかつたが是非に及ばなかつたのですどうか御母さんや何かによろしくいつて下さい歸る時には御見送りをありがたう無事に歸りました昨日はたゞ漫然としてゐましたが今日からは働らき出しました手紙や雜誌が山の如く机の上に積んであります一々返事を出したり用を片付けなくてはなりません此手紙は十四本目です(加賀さんのは十三本目)一中節や河東節は大變面白う御座いました是も木屋町へ偶然宿をとつた御蔭かも知れません色々御世話になつた御禮をする積ですがまだそんな所へは手が屆きませんあなたは浮世繪がすきらしいが浮世繪の寫眞版になつた本はいやですか色彩は無論ありませんからどうかと思ひますが一寸伺ひます、ぬめの額は右の次第ですぐは書けません、東京の生活はあなたのと違つて隨分猛烈に色々な事が押し寄せて來ますから當分待つて下さい右迄御機嫌よう妻よりもよろしく申します 以上
    四月十八日                 夏目金之助
   磯田多佳樣
 岡本さんに禮状を出さうと思ひますが名前がよく解らないからあなたからよろしく願ひます
 
      一九二九
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 福島市三郡共立病院内門間春雄へ
 啓私は先月から旅行をして昨十七日歸りました御手紙は拜見致しました畫はかきたいが拙いのと一つは東京の生活が如何にも猛烈なので落ちついて描いてゐられないのです久しく留守にしたものだから手紙を書かなくつてはならないので朝から夫ばかりにかゝつてゐます今午後十時です長い事は何も云へません失禮ながら是で御免蒙ります 以上
    四月十八日                夏目金之助
   門間春雄樣
 御病氣を御大事になさいまし
 
      一九三〇
 
 四月十九日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣武庫郡蘆屋山手長谷川萬次郎へ
 京都ではわざ/\の御訪問恐縮致しました其後大した事もなく妻の西下を幸ひ舊都の見物を致させ咋十七日漸と歸京致しました色々御心配をかけて濟みません山本君も京都で尋ねてくれました右御禮迄 匆々
    四月十八日               夏目金之助
   長谷川萬次郎樣
 
      一九三一
 
 四月十九日 月(時間不明) 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓
 今度は久し振で京都へ參り御多用の處を色々御厄介に相成まことにありがたう存じますことに病氣にかゝり意外の御配慮を煩はし恐縮の至に堪えません又歸りには夜中にも拘はらずわざ/\停車場迄御見送り下さいまして恐れ入ります汽車中別に故障もなく十七日に歸宅致しました其日は終日茫然と致して暮しましたが今日から又少々活動に取りかゝりました手紙や雜誌が山のやうに机の上に載せてあるには辟易致しました
 かねて御送りの書畫帖にかいた字を今日書齋整理の節一寸見ましたら其時程いやな感じも致しません所も御座いますから何事も御笑草と存じ思ひ切つて御送り致す事に致しますいやと覺召す所は切り拔いて下さいまし全部御氣に入らなければ御破り下さい其後御送の紙へはまだ何も認める餘暇が御座いません其内氣が向きましたら何か書きます
 夫から京都へ歸《原》る前かいて置いた山水二枚を御鑑定を乞ふため御送り致しますからどうぞ御遠慮のない所を御批評下さいまし津田君にも頼んで置きましたからどうぞ兩君御鑑査の上もしものになつてゐたら其地で表装して下さいいけなければ駄目とあきらめます忙がしいから是でやめます 以上
    四月十八日                夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九三二
 
 四月十九日 月(時間不明) 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園末吉町梅垣きぬへ
 啓
 京都では色々御世話になりましたことに三味線を彈いたり歌を唄つて聞かせて下すつてまことに面白う御座いました打ち明け話も感心して聽きましたゴリ押しをなさいゴリ押に限ります私は無事に東京へ着きました方々へ一度に手紙を出すので大變です今日朝から晩迄手紙のかきつゞけです書畫帖は其うち送ります都豆は大變小供がよろこんでたべてゐますあなた方は人のうちへくると屹度何かくれますね私は反對でついぞ人の宅へ土産を持つて行つた事はありません然し約束の短冊懸は送ります然し今は忙がしくていけません少し待つて下さい御歌さんによろしく 以上
    四月十八日                夏目金之助
   梅垣きぬ樣
 
      一九三三
 
 四月二十二日 木 後7-8 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺富澤敬道へ
 御手紙をありがたう御病氣が癒つて神戸へ御歸り猛烈に己事御究明の由何よりの事と思ひます私はあなたよりいくつ年上か知りませんがあなたが立派な師家になられた時あなたの提唱を聽く迄生きてゐたいと願つてゐます其時もし死んでゐたらどうぞ私の墓の前で御經でも上げて下さい又間に合つたら葬式の時來て引導を渡して下さい私に宗旨はありませんが私に好意をもつてくれる偉い坊さんの讀經が一番ありがたいと考へます、鬼村さんは忙がしいのに禅堂の生活を長々と書いてくれました親切な事です然しあまりそんな事で時間をつぶさない方が修業の爲によくはないでせうか門外の私にはよく解りませんがもし左樣だつたらやめた方がいゝでせう(私はありがたいけれども)鬼村さんはあなたの事をいつでも富澤樣と書いて來ます多分あなたの方が先輩なのでせう感心の事です。雉の句は好くありません。序だから伺ひますが祥福寺の和尚さんは何といふ人ですか。多分御爺さんだらうと思ひますがどうですか。それから祥福寺の開山は誰で臨濟の何派に屬するのですかそれとも本山なのですか。こんな質問は急いて知る必要もありませんたゞ序だから伺ふのです。私は禅坊さんとあまり交際がありません。然し禅坊さんが好きです。だからあなたや鬼村さんにこんな事をよく聽くのです。ペンで手紙をかく事は今の世では輕便で時を省いて好いでせう御師匠さんがいけないといふなら御師匠さん丈に墨で書いて御上げなさい。昔の禅坊さんには字の旨い人が澤山ありますが是からは時勢が時勢だからさうは行きますまい。字が拙くても道を體得すれば其方がどの位いゝか分りませんね。今度もし關西へ行つたら祥福寺へ行つてあなたと鬼村さんに會ひたいと思ひます。最後に勇猛の御工夫を祈ります 以上
    四月二十二日               夏目金之助
   宮澤敬道樣
 
      一九三四
 
 四月二十三日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ
 拜啓京都では一方ならぬ御厄介になりました歸つてからすぐ手紙を上げやうと思つたのですが或はも〔う〕山口へ出掛けられた事と思つてつい其儘にして置いたらあなたから手紙が來てまだ桃陽園に居らつしやる事を承知しました早く行つて金を儲けて入らつしやい東京は變りはありませんどこも浮世は變てこなものです私は神戸の祥福寺の若い禅坊さんの二人と文書の往復をしてゐます二人と〔も〕心持の好い人です親切でさうして俗人のやうにいやな臭味がありません其うちの一人が今に名僧になつて私の前で碧巖の提唱をすると云つて來ましたあなたも立派な繪をかいて私を感服させて下さい畫と云へば山水を二枚一草亭のもとに送りましたあなたと二人で鑑査してもらひたいのです奥さんによろしく 以上
    四月二十三日               夏目金之助
   津田青楓樣
 桃陽園主にもらひものゝ禮を云ハズニ來マシタドウゾ宜敷云ツテ下サイ
 
      一九三五
 
 四月二十四日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 旅行から歸つたら手紙のかきつゞけです君の奥さんも小供も病氣のやうだが大事になさい病人は一番心配なものだから 「椅子戸の中」は君の分が署名してうちに殘してあります然し岩波からでも貰つたら二重になる譯だが今度きたら持つて行き給へ ほめてくれてありがたう 小手川さんからは味噌がきましたまだ禮状を出さずにゐるから今日書きますあれは小手川武馬でせうねいそぐから此で失禮します 以上
    四月二十|五《原》日           金之助
   豐一郎樣
 
      一九三六
 
 四月二十七日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 大分縣臼杵町小手川武馬へ
 拜啓先日は味吟一樽遠方よりわざ/\御送被下ありがたく存候早速御禮申上べきの處長く旅行致し居り歸りては雜用に取紛れ其上御所と御名前がしかと判然致さゞりし爲めつい/\遲引恐縮の至御寛恕可被下候先は右御禮迄匆々如此に候 以上
    四月二十七日                夏目金之助
   小手川武馬樣
 
      一九三七
 
 四月二十七日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷田町二丁目一馬場勝彌内馬場勝彌後援會へ〔はがき〕
 後援會文集御送たしかに受取りました御手數と御厚意に對し一言御挨拶を申上ます 以上
 
      一九三八
 
 四月二十九日 木 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區下六番町加賀正太郎へ〔封筒の表側に「御歸阪ナラ御轉送を乞フ」とあり〕
 啓御山荘の名前を御約束しながら遲くなりて濟みません考へんのではありませんが何にも頭に浮んで來ないのです然し度々の御催促で御氣の毒になりましたから昨日の午後から今日の午前へかけて一應古い句などをしらべて見ましたが矢張り面白いと思ふほどのものも見當りませんたゞ御約束ですから放つて置いたやうで申譯がないからそれを義務塞げに少々御目にかけます
 (一)水明荘〔三字右○〕 杜詩に殘夜水明樓とありますが是は今築地の旅館に水明館といふのがあるから駄目でせう。
 (二)冷々莊 冷々修竹待王歸といふ是も杜詩にあります然しよくはないですね
 (三)竹外莊〔三字右○〕 竹外風烟開秀色 是は文衡山の句です竹の中をくゞつて上にある山荘だから斯うつけて見たのです
 (四)竹外三川莊〔五字右○〕 前のに三川を加へただけであります。あすこから川が三つ見えるからです
 (五)三川荘〔三字右○〕 前の竹外丈を省いたのです
 (六)虚白山莊〔四字右○〕 莊子に虚室白を生ずとあります、又虚白高人靜なりといふ句もあります
 (七)曠然莊〔三字右○〕 王維の詩に曠然蕩心目とあります。
 (八)如一山莊〔四字右○〕 是も王摩詰の句です雲水空如一とあるのです
 (九)澄懷山莊〔四字右○〕 凝神書を著はし澄懷道を觀ずといふ句から取つたのです。
 (十)從生山莊〔四字右○〕 功名多く窮中に向つて立て、禍患常に巧處より生ずの從〔右○〕巧處生〔右○〕を約したものです
 (十一)回觀莊〔三字右○〕 靜中見得天機妙、閑裡回觀世路難といふ句から出ました。
 (十二)澄明莊〔三字右○〕 澄明〔二字右○〕遠水生光重疊暮山聳翠
 (十三)半眞莊〔三字右○〕 心事半眞〔二字右○〕半假世故半濃半淡
 (十四)空碧莊 草堂春緑竹溪空碧〔二字右○〕
 まあこんなものですもし氣に入つたらどれか御取り下さい氣に入らなければ遠慮は入りませんから落第になさいもつといゝ名があるかも知れませんが頭が疲れる丈で厭になるから今回はこれで御免蒙ります 以上
    四月二十九日              夏目金之助
   加賀正太郎樣
 此間は菓子をありがたう奈良屋からの繪端書も届きました、
 
      一九三九
 
 四月三十日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 青森縣野邊地野坂十二郎へ
 啓私あなたに畫か字を送るといつて受合つた覺があります夫であなたから一二度催促された事も記憶してゐます今度の御手紙も拜見しました然し私は東京にゐるとする事がいくらでもあつて頭が始終忙がしいのですそれは一寸あなたに想像出來ないだらうと思ひます諸方から短冊だの絹だの送つて來たのをみんな一まとめにして縁側に積んであります或人が見てあれではたまりませんねと同感してくれた位です私はあなたの御希望通りかいて上げたいのですけれども義理合や何かでもうとくに書かねばならぬもの迄放つてある始末なのですからどうぞさう思つて許して下さい私には是丈の手紙をかく事すら可なりの荷なのです先は右迄 匆々
    四月三十日                 夏目金之助
   野坂十二郎樣
 
      一九四〇
 
 五月三日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 山口縣山口町後川原鈴木方津田龜次郎へ
 山口で繪を書いて御出の由結構です私の畫の批評ありがたう。參考になりました然し敬服は致しません。一草亭からはまだ何とも云つて來ません。一草亭の雀を書齋にかけて見たがどうしてもつり合はないから取り外しました。銀座に小川一眞の拵え〔た〕昔の名畫の原物大の複製が九十點ばかり陳列されたのを見に行きました、好いのがありますよ。今の人の畫を買ふよりあれを買つて參考にした方が餘程有利だと思ひます。楊舟といふ清人の虎はいゝですよ。夫から竹田雀に竹なんかも氣韻の高いものですね。芒生といふ人は知りません。私の句を月並だと云つてもちつとも腹は立ちません。私の句には月並もあります。また月並でないのもあります。芒生君の二句は二つとも少しもよくありません。私はそろ/\事業に取りかゝります。小宮の家であなたの椿の屏風を見ました。あれはいけません。あなたは百圓で賣る積ださうですが、あれを六十圓で買ふ〔者〕があると小宮が云ひますから僕が許諾を與へるから構はず賣つてやれと云ひました。六十圓で賣れゝば結構ですよ。早く金にしてしまひなさい 以上
    五月二日                 夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一九四一
 
 五月三日 月 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園新橋磯田多佳へ
 御多佳さん「椅子戸の中」が屆かないでおこつてゐたさうだが、本はちやんと小包で送つたのですよ。さつき本屋へ問合せたら本屋の帳面にも磯田たかといふ名前が載つてゐるといつて來たのです。私はあの時三四十冊の本を取寄せて夫に一々署名してそれを本屋からみんなに送らせたのだから間違はありません。もしそれが屆いてゐないとするなら天罰に違ない。御前は僕を北野の天神樣へ連れて行くと云つて其日斷りなしに宇治へ遊びに行つてしまつたぢやないか。あゝいふ無責任な事をすると決していゝむくひは來ないものと思つて御出で。本がこないと云つておこるより僕の方がおこつてゐると思ふのが順序ですよ。それはとにかく本はたしかに送つたのです。然し先年北海道の人に本をやつたら屆かないといふので其人に郵便局をしらべさせたら隅の方にまぎれ込んでゐた例もあるからことによると郵便局に轉がつてゐるかも知れない。もう一冊送る位は何でもないけれども屆かない譯がないのに屆かないのだから郵便局にひそんでゐやしないかと思ふのですが、それを問ひ合せる勇氣がありますか。もし面倒なら端書をもう一遍およこし、さうしたらすぐ送ります。
 君の字はよみにくゝて困る。それに候文でいやに堅苦しくて變てこだ。御君さんや金ちやんのは言文一致だから大變心持よくよめます。御多佳さんも是からサウドスエ〔五字傍点〕で手紙を御書きなさい。
 芋はうまいが今送つてもらひたくない。其外是と云つて至急入用なものもない。
 うそをつかないやうになさい。天神樣の時のやうなうそを吐くと今度京都へ行つた時もうつきあはないよ 以上
    五月二日夜                 夏目金之助
   磯田多佳樣
 
      一九四二
 
 五月四日 火 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 畫の批評をして下すつてありがたう存じます、あの赤黒い方は仰の通りドス黒くて變てこな色です暗いと云はれても仕方ありません、下部の方が面白いとの事滿足の至です、上部はしまりが足りないでせうか、それはもつと説明を畫に就いて承つて置くと參考になるだらうと思はれるので〔す〕けれども遠方の事だから致し方がありません、もう一枚の畫はあたまでつかち尻つぼまりの所爲で構圖上に變な落ち付かな〔い〕感が起るのではないでせうか。青楓君はあの花に點をうたないと不調和だと云ひます。私も花の色が落ち付かないのみならず樹が小過ぎて上部のデカイ山に壓されると思ひます、二つとも表装の價値があるといふ御見込なら表装させて下さい、代は御報次第爲替で送ります、歸宅後あなたの畫を掛けて兩三日眺めてゐましたがどうしてもあれは私の書齋では周圍と釣り合ひません、矢張り御多佳さんの所のやうな座敷がよくうつると思ひます、先は御禮旁御願迄 匆々
    五月四日                 夏目金之助
   西川一草亭樣
 あの盆の御禮で恐縮致します、あれは何とか塗と云ひますねサヌキの方で出來たり久留米の方で出來たりします、あれはたしか久留米製だと記憶してゐます
 
      一九四三
 
 五月八日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ
 啓
 御たのみの畫帖をとつて歸つて早くかたづけやうと思つて一生懸命に精出して今日漸く書きましたから三冊とも一所に小包で送ります、私は畫かきでも書家でもないのだが折角の御頼みと夫から京都で色々御世話になつたから記念のために下手な書畫をなすりつけました丈です下手でも書は早くかけますが畫はさうは行きません大變時間がかゝりました出來榮丈では努力の程度は分りませんいくらまづくても非常に手數のかゝつたものと思つて下さい、私はひとが千圓やるからと云つてもこんな面倒な事はやりやしません全く約束のための好意だと思つて下さい夫から此次京都へ行つてももう何にも書きませんよ さよなら
    五月八日                夏目金之助
   御 君 さ ん
   金 ち や ん
 
      一九四四
 
 五月八日 土 後6-7 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 今度の御手紙始めてあなたの本音が吹き出たやうな氣がします、あなたの批評はまあ痛快といふやうな所です内容はあれでよろしいが言葉が少々あらつぽすぎます、何だか興奮して書いたやうな所がありますが如何ですか
 あゝなつて見ると表装する價値も何にもないやうですがもし其方が本當ならやめにして下さい。又あれ程罵つても表装の價値があると思ふなら構はないから表装して下さい、どつちにしても遠慮は要らないから思つた通りを正直にやつて下さい。加賀氏の別莊の名は約束で已を得ないから十四五つけたのです私はあの外にいゝ名を誰かにつけて貰つたらいゝと思ひます、夫からあの印を頼む事は是非見合せて置いて下さい、私は印なんか金持からねだつて拵えてもらつたやうになるのは不愉快ですから。此手紙に對して御返事は無論要りません。私も段々多忙になりつゝあります 以上
    五月八日                  夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九四五
 
 五月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京都市東三本木南町横地敏へ
 拜啓此間御父さんが東京へ御出の節あなたに何か書いて上げてくれとの御依頼でありますから短冊を二枚と西のうち位な大さの紙へ詩を一つ書いて御送り致しますからどうぞ御受取下さいまし、もつと大きなものをと存じましたけれども私も色々と心が忙がしいのでさういふ譯に參りませんからどうぞ是で御勘辨を願ひます私はあなたの顔を見た事があるかないか覺えて居りませんがずつと昔し松山の中學に居る時分御父さんの御世話になつたものであります
 右迄 匆々
    五月十二日                 夏目金之助
   横地敏子樣
 
      一九四六
 
 五月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 廣島市大手町一丁目井原市次郎へ
 拜啓 先日は御手紙で白牡丹の賛御催促恐縮實は取り紛れ其儘に致し置きたるのみならず別に句も浮びさうにもなき故考へる苦痛を避くると同時に毎日々々に追はれて等閑に付したる次第どうぞ御ゆるし下さい
今日外のものもしたゝめた故あの畫を出して眺めたあと無理に一句を題し小包で送りますから受取つて下さい 以上
    五月十二日                夏目金之助
   井原市次郎樣
 
      一九四七
 
 五月十六日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市祇園新橋磯田多佳へ
 今日小包と手紙が屆きました、小包の中には玉子素麺と清水燒のおもちやと女持の紙入がありました(夫は妻にすぐやりました)いゝ紙入ですあいつのやうな不粹なものには勿體ない位です。どうもありがたう。此間の茶碗と昆布もたしかに頂きました。兩方ともあつく御禮を申ます。
 あなたをうそつきと云つた事についてはどうも取消す氣になりません。あなたがあやまつてくれたのは嬉しいが、そんな約束をした覺がないといふに至つてはどうも空とぼけてごま化してゐるやうで心持が好くありません。あなたは親切な人でした夫から話をして大變面白い人でした。私はそれをよく承知してゐるのです。然しあの事以來私はあなたもやつぱり黒人だといふ感じが胸のうちに出て來ました。私はいやがらせにこんな事を書くのではありません。愚痴でもありません。たゞ一度つき合ひ出したあなた――美くしい好い所を持つてゐるあなたに對して冷淡になりたくないからこんな事をいつ迄も云ふのです。中途で交際が途切れたりしたら殘念だから云ふのです。私はあなたと一ケ月の交際中にあなたの面白い所親切な所を澤山見ました。然し倫理上の人格といつたやうな點については雙方ともに別段の感化を受けずに別れてしまつたやうに思ふのです。そこでこんな疑問が自然胸のうちに湧いてくるのです。手短かにいふと、私があなたをそらとぼけてゐるといふのが事實でないとすると私は惡人になるのです。夫からもし夫が事實であるとすると、反對にあなたの方が惡人に變化するのです。そこが際どい所で、そこを互に打ち明けて惡人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかへてあやまるのが人格の感化といふのです。然し今私はあなたが忘れたと云つてもさう思へないやつぱりごま化してゐるとしか考へられないのだから、あなたは私をまだ感化する程の徳を私に及ぼしてゐないし、私も亦あなたを感化する丈の力を持つてゐないのです。私は自分の親愛する人に對してこの重大な點に於て交渉のないのを大變殘念に思ひます。是は黒人たる大友の女將の御多佳さんに云ふのではありません普通の素人として|も《原》御多佳さんに素人の友人なる私が云ふ事です。女將の料簡で野暮だとか不粹だとか云へば夫迄ですが、私は折角つき合ひ出したあなたに對してさうした黒人向の輕薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。私はあなたの先生でもなし教育者でもないから冷淡にいゝ加減な挨拶をしてゐれば手數が省ける丈で自分の方は樂なのですが私はなぜだかあなたに對してさうしたくないのです。私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでゐるとしか考へられないのです。それで是丈の事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい、又眞面目に聞いて下さい。
 東京もあたゝかになりました。繪の展覽會を見たり露西亞の音樂會をきゝに行つたりしてのらくらしてゐます。今日は早稻田へベースボールを見に行きました。彌次馬の應按の騷々しい事は大友の六疊に寐てゐるよりも百倍がた此方のほうが盛です。又《原》宅へ歸つて湯に入つて塵埃を拂つた所です。こんな事をしてゐますが心の中は大變忙がしいのです。さうして是からが愈忙がしくなるのです。
 白川の蛙の聲はいゝでせう。私は昨日の朝《原》の眞中へ椅子を持ち出して日光を浴びながら本をよみました。私には此頃の温度が丁度適當のやうです。
 本は賣り切れてもう一冊もありませんから小賣屋から取寄せてそれを送る事にしませう。京都の郵便局になければ此方でさがしたつて判る筈がありません。書留小包でないから調べてくれるにしても出ては來ません。こんな事は滅多にない事です。此間芝川さんが來てくれました。もう此位にしてやめにします。 以上
    五月十六日夜                夏目金之助
   御多佳さん
 病氣はもういゝのですか御大事になさい〔冒頭餘白に〕
 
      一九四八
 
 五月十六日 日 後10-12 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區安土町二丁目水落義一へ
 啓其後は御無沙汰を致しました近頃は御加減は如何ですか氣候もあたゝかになりましたからもう御回復の事と存じます
 今日は下萌集を御寄贈下さいましてまことに有難う存じますあんな心地のいゝ贅澤な本はあなたでなくては容易に出來ません中々手數の入つた事だらうと思ひます
 近頃は句も作りませんのに時々短冊などをつきつけられて變な月並を讀むのは我ながら苦笑せざるを得ぬ仕義であります
 下萌集の卷末を見たら和達陽太郎といふ名前が見えましたがあれは高等學校で同級にゐた男でありますよく出來た人です私は下の方にゐたからあまり口もき〔か〕ずにしまひましたが顔は覺えてゐます四角な顔でせう先は不取敢御禮まで 匆々
    五月十六日夜               夏目金之助
   水落露石樣
       座右
 
      一九四九
 
 五月三十一日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區女子大學精華寮今井みとしへ
 拜復あなたの御手紙を見て一寸返事を上げたいと思つてゐた處色々ごた/\してそれぎりになつて濟みません
 女子大學の寄宿舍では日曜以外には外出が出來ないさうですが其善惡はとにかくとして隨分困るでせう私の家へきたいといふ御希望があるなら日曜に來ても差支ありません然し今は少々忙がしいから午前は駄目です夫から午後でもことによると人のうちへ行かなければならない事や其他の場所へ行く必要が出て來るかも知れませんそんな時には斷ります然しひまがあれば御目にかゝります手紙を澤山溜めて置くので返事を一度に書かなければなりませんから今日は是で失禮します 以上
    五月三十一日               夏目金之助
   今井みとし樣
 
      一九五〇
 
 五月三十一日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都市東三本木南町横地敏へ
 拜復御手紙と御茶と同時に屆きましたくだらないものを書いて上げたのに御禮などをいたゞいては却つて恐縮です此間の御手紙にあつた松山で私の下宿してゐた所にゐた頼江さんといふ人は今福岡大學の久保猪之吉といふ博士の妻君になつてゐます東京へくると屹度寄つてくれます、御禮に本を上げやうと思ひますが今賣り切れてありませんから製本が出來たら送りませう 右迄 匆々
    五月三十一日               夏目金之助
   横地敏子樣
 
      一九五一
 
 六月四日 金 後8-9 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜啓
 此次の小説を書きたいといふ御希望の書面拜見しました。
 此間山本君にあつたら此次は有名な人のを載せたいといひました。それから私は徳田秋聲君の意向を聞きました所同君は大いに書きたいといふ意志を或人を通して洩らしました。又社の方では徳田君の原稿が遲延するのを恐れて、永井君などに頼んだらといふ考もあ〔つ〕たやうです。然し私は荷風君は書くまいと思ふと答へて置きました。
 右の譯でまだ判然と誰とは極つてゐませんがあなたの方は多分駄目だらうと思ひます。此前もあなたのものを撃退して御氣の毒です。然しあの時はさうあなたのばかり續けて出すのは不可ないといふのが私の主意でした。實は原稿はどの位旨いものか知らなかつたのです。
 たゞ今ある人から矢張りあなた同樣の申し込があります。私はいつといふ返事は確答しませんが、兎に角作物を一應拜見した上の御相談ならすると云つてやりましたら其人は書いて見せると申しました。是は三週間も前の話です
 あなたの作に對して失禮ながら私は同樣の事を申上げなければならないと思ひます。書いて御覽なさい。さうして好ければ社の方へ推擧しませう。(若し前いつたある人とあなたとの作物の程度が同等とすれば或は向ふを先へ廻さないとも限りませんが)。とにかく此次は多分六づかしからうと思ひます
    六月四日               夏目金之助
   中 村 樣
 
      一九五二
 
 六月六日 日 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓其後御變りもありませんか私は不相變やつてゐます、偖唐突ですが御願が出來たから聞いて下さい此手紙を持つて行く人は中村豐といつて年は二十五です小學を卒業して十五の時から今日迄當人の希望で經師屋職をやつてゐるのですが、どうか一度京都へ行つて其所の仕事をして見たいからといふので私が京都へ行つた事をきいて頼んできたのです、私は別に知人もありませんので一番そんな方面に接觸の多いあなたに紹介を書く事になりました
 此人の家はもと軍人の家ださうですが今は私のそばで御母さんと姉さんが紙屋をしてゐるのです私は其縁故によつて依頼を引きうけました、甚だ御手數でせうがどうぞあなたの知つてゐる經師屋さんに紹介してやつて下さい、すぐ其家で使つて貰はないでも構はないのださうです時機のくる迄は待つ丈の(一ケ月位)用意はあるのださうです 用事丈で御免蒙ります 以上
    六月六日                 夏目金之助
   西川源兵衛樣
 
      一九五三
 
 六月七日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より
 
野間眞綱へ
 君が立つ時は是非送る積でゐたのですがつい京都で病氣をして寐てゐたものだから失敬してしまつたカバンは手人をして置いたが御役に立つて結構です、修復料は餞別のつもりの處置いて行かれたので却つて恐縮します、大島紬は笑談から出た眞のやうな結果になつて甚だ氣の毒です、あれは妙にゴチヤ/\した絣です、細カイから嘸高いのだらうと思ふ。君のシカゴから來た手紙は受取つた。戰爭中だから容易に歐洲へ渡れないで嘸困るでせう、其代り亞米利加が見られるからつまり同じ事です。今小説を書いてゐます。毎日一回づゝ書いて百回以上かくのだから中々手間がとれます。相撲が始まつてゐます。段々顔が變つて行くのが變に早いので驚ろきます。私などは文壇へ出て十年餘もまだ斯うしてゐるまあ仕合せだと思ひます。然し氣は若くても年はとります、白髪は段々殖えます。此間早稻田と一高のベースボールを見に行つて谷山さんに會ひました。何か書いてくれと云はれて恐縮しました。野村は佐賀鹿島へ轉任しました。橋口の兄は今月支那から歸ります。五葉は浮世繪を研究中ださうです。此間光琳の二百年の記念展覧會であひました。書く事があるやうでないやうで一向取りとめがありません、まあ此位にして置きませう
    六月七日                 金之助
   眞 綱 樣
 
      一九五四
 
 六月十五日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼海岸武者小路實篤へ
 御手紙を拜見致しました。私はたしかにあの文章を見ました。然し少しも氣になりませんでした。それは自分のものでないからかも知れませんが、あゝいふ所へ出るものは好加減な出鱈目に近い事が多いといふのが大理由かと思ひます。然し間違はだれしも嬉しくはありません、ことにあなたのやうな正直な人から見れば厭でせう。それを神經質だと云つて笑ふのは、其うらにある正しい氣性を理會し得ないスレツカラシの云ふ事です。私はあなたに同情します。
 けれども私はあの記事を取り消させる丈の權力は持ちません。あれを書いたもの及び編輯者はたとひそれが誤謬と知つても、わざ/\取り消すには餘りに小さ過ぎるといふ考で、ごた/\した外の雜事に頭を使ふ事だらうと思ひます。此際私のあなたの爲に出來る事はあの手紙を社に送つてあなたの趣意を了解させた上、あとの處置はあちらの適宜にまかせるといふ事丈のやうに思はれます。私はあなたの爲にそれ丈の手續きを盡します。私は是からあなたの手紙を社會部長の山本松之助君迄送つて、よろしく頼むと云つてやります。
 私もあなたと同じ性格があるので、こんな事によく氣を惱ませたり氣を腐らせたりしました。然しこんな事はいつ迄經つても續々出て來て際限がないので、近頃は出來る丈これらに超越する工夫をして居ります。私は隨分人から惡口やら誹謗を受けました。然し私は黙然としでゐました。猫を書いた時多くの人は翻案か、又は方々から盗んだものを並べたてたのだと解釋しました。そんな主意を發表したものさへあります。
 武者小路さん。氣に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事は塵芥の如く澤山あります。それを清める事は人間の力で出來ません。それと戰ふよりもそれをゆるす事が人間として立派なものならば、出來る丈そちらの方の修養をお互にしたいと思ひますがどうでせう。
 私は年に合せて氣の若い方ですが、近來漸くそつちの方角に足を向け出しました。時勢は私よりも先に立つてゐます。あなたがそちらへ眼をつけるやうになるのは今の私よりもずつと若い時分の事だらうと信じます。 以上
    六月十五日                夏目金之助
   武者小路實篤樣
                    〔冒頭餘白に〕
 文學評論をよんで下さつた由ありがたう。
 道草〔二字傍点〕もよんで下さるさうで感謝致します。
 
      一九五五
 
 六月十七日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 櫻ん坊がつきましたありがたう少し腐つたのもありましたが子供がよろこんで食べました長塚さんの追憶談のうちで上野の鳥屋であなたが香取秀眞氏にあつた事がかいてありましたね變な事がありますね私はまだあゝいふ場合に出合つた事がありません 以上
    六月十七日                夏目金之助
   門間春雄樣
 
      一九五六
 
 六月十七日 木 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 段々あつくなりますもう白地の單衣をきてゐます梅雨が二日ほど降つて急に霽れたものですから丸で眞夏です日中は散歩もできません
 此間は粽をありがたう然しあれは堅くてまづいですね私一つたべて驚ろいてやめてしまひましたよ御禮状を出さう/\と思つて忘れてゐました所が漸く書くと惡口で甚だ濟まぬ次第であります
 御變りもありませんか私は午前は毎日執筆して居ります 以上
    六月十七日               夏目金之助
   森成麟造樣
 
      一九五七
 
 六月二十一日 月 前0-7 牛込區早稻田南町七より 横濱市日本郵船會社支店氣付富山丸神谷久賢へ
 拜復煙草をありがたう御座います結構なものをいたゞいて嬉しう御座いますぷか/\のんでゐます
 あなたに御目にかゝつてからもう餘程になりますあなたはもう學校を出て立派な船員になられる私は段々ぢゞいになる少しの間に世の中は變つて行きます
 あなたの船は倫敦から紐育へ行くのですか私は郵船會社にそんな航路のある事は知りませんでした、獨乙の潜航艇にやられないやうに御氣を御つけなさい米滿さんは其後どうしました會つたらよろしく道草を讀んで下さるさうでありがたく感謝してゐます 以上
    六月二十日夜               夏目金之助
   神谷久賢樣
 
      一九五八
 
 六月二十二日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓今日(二十二日)の十九回目の道草〔二字傍点〕の仕舞から二行目にある「裡《うち》に強い健三の頭」は「理《り》に強い健三の頭」です。意味が通じなくなるから一寸御注意を願ひます。
 私の原稿が汚ないのに校正を云々するのは氣の毒ですから、大概は其儘にして置きます。是も其儘で宜しいので正誤には及びません、たゞ校正者に一寸通じて置いて下さい 以上
    六月二十二日                夏目金之助
   山 本 樣
 
      一九五九
 
 六月二十五日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓私のあとの小説につき追つて御相談の御約束のまゝうちちやらかして置きまして濟みません。私はそれから秋聲君に原稿遲延の事を聞きたゞしましたる所、大阪のは速達を普通郵便で出したため一回後れた事實はあるさうですが其他は故障なく書いたのださうです。夫から先方では十二三回一度によこせといふのを讀賣と懸持であつたため三四回位づゝしかやれなかつた迄だといふ事です。(小池君の不平は此事ぢやないでせうか)。次に此前東朝へ「かび」を書いた時は一回も缺席はしなかつたさうです。
 今度もし東朝へ書くやうになれば、八月一杯位に二三十回は書きためて一度に送る事が出來るさうです。
 次に題材の事ですが是はたしかに書きたい或物を有つてゐるとの事です。
 同君は單に原稿料の爲ばかりでなく藝術的の意味で朝日に筆を執りたい希望があるのですが、もし社の方で異議があるなら引き退がつてもよいと申されます。
 私は是丈慥めればよからうと思ひますが何うでせう。たゞ原稿遲延といふ丈の故障なら前の辨《原》解でも略不都合のない丈の見當はついてゐますから御賛同下さる譯にはありませんか。
 他に御意見があるなら遠慮のない所を仰つて下さい
 何れにしても御返事を待ちます 以上
    六月二十五日               夏目金之助
   山 本 樣
 
      一九六〇
 
 六月二十五日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區道修町一丁目青木新護へ
 御手紙を拜見しました。俳畫展覽會の事は何處かで見たやうに記憶してゐます。然しそれへ出品の御勸誘を受けたのは――あゝ間違ひました。多分摺物か何かで餘程前御勸誘があつたのをぼんやり放つて置いたので、頭がごちや/\になつてゐるのかも知れません。どうも恐縮の至です。
 そこで畫ですが、私は時々變てこなものを描きますが、どうも展覽會へ出した事などはないので弱ります。其上今は下らない事で朝のうちを潰してゐます、ひるからは散歩をした〔り〕休んだりしますので、そんな事をする氣がないのです。それから展覽會へ出さうといふ料簡ではひまがあつても描けないのです。
 もし強いてと仰やるなら京都の津田青楓君(深草大龜谷桃陽國)の所に小さなきれに籠の中に投げ込んだ水仙を描いたのがある筈です。是なら小さいから或は間に合うかも知れませんが、生憎俳畫でも何でもないので、とても俳趣味とは釣り合はないだらうと思ひます。然しもし津田君が出しても見ともなくないと云ひあなたの方で夫でも構はないと思ふなら、私はどうでも構ひませんから、津田君に交渉して見て下さい。
 斷然御斷りをしても御氣の毒の樣ですからくど/\しい御返事のやうですが右委細を申上た次第であります。急ぐので萬年筆で失禮します 以上
    六月二十五日               夏目金之助
   青木月斗樣
 
      一九六一
 
 六月二十八日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京都府下深草村字大龜谷桃陽園津田龜次郎へ
 もう京都へ御かへりですか私は毎日小説を書いてゐます七月にはまた東京へ御出の由其方が好いでせうが細君の御腹は大丈夫ですかうちの妻は好くなからうといひます山口では御金が儲かりましたか、新聞の切拔はだれが書いたものですかね見當が付きません、みんなゐます、君が歸つて來たら喜ぶでせう、内田君は鳥を四十羽以上飼つてゐます早く御歸りなさい 以上
    六月二十八日               夏目金之助
   津田青楓樣
 
      一九六二
 
 七月二日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼海岸武者小路實篤へ
 拜啓此間はわざ/\切符を送つて頂いてありがたう御座います。私〔は〕あなたの「わしも知らない」のうちにある好い處と好くない所とをかなり明かに(舞臺の上で)見たやうな氣がします。然し私は今五六本の手紙を書かなければなりませんから御參考の爲にそれを申上げるいとまのないのを遺憾に思ひます。何しろ私は大變好い所が背景と役者と相待つて出たやうに思ひます。御釋迦樣や木蓮は好いですね、ことに木蓮はよろしい。木蓮の鼻を横から見てゐると大變嬉しい。あの役者は下廻りださうですが木蓮としては一番好いですね
 竹の里人の評はたわいないものですが何うしても不眞面目過ぎますもう少し「わしも知らない」を眞面目に評すべきです。尤も前の「惡魔の曲」といふのは要領を得ない妙な脚本ですね。
 小宮に會つたらあなたのものを面白いと云つてほめてゐました。竹の里人のやうな評が出るのでどこかへ何か書かうかと云つてゐましたから書けとすゝめて置きました
 右御禮の序にくだらない事を書き添へた迄です 以上
    七月二日                 夏目金之助
   武者小路實篤樣
 
      一九六三
 
 七月二日 金 後10-12 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 啓鬼村さん私はあなたの徴兵事件がどうなるかと思つて心配してゐました。然し丙種はちと殘酷な落第のしやうですねそれ程胃がわるいのですか困りますね。五錢の診察料をとる醫者は頗る氣に入りました。富澤さんも胃がわるいのですか其癖須磨にうまい天麩羅があるからもし來たら一所に食ひに行かう抔と云ひます。何しろ二人とも養生なさい。新聞などを讀むひまがない位いそがしい方が人間は好いのでせう、新聞は碌な事が書いてありませんからね、私も昔し一時新聞を廢してゐた事があります、然し一向困つた事はありません。あなた方が貴重な時間を割いて長い手紙を書いてくれるのを私は大變な親切だと思つて嬉しがつてゐるのです、夫に私はあなた方に十分一の長さの返事も出せないのですからまことに申譯がありません其上私は今からだが疲れ眠くつて大した面白いものも書けないから猶氣の毒に思ひます、寫眞は此間家族のものはみんな撮りましたが私はとりませんでした。若しあなた方が東京へ來たら私の宅へとめて上げませうきたない宅ですけれどもあなた方の食べたいものを御馳走して上げます。然し修業中は中々出られないでせうね。あなたは役が變つたさうでそれは多分榮進なのでせう結構です、修業を充分なさい、然し養生もなさい、富澤さんによろしく 以上
    七月二日                夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      一九六四
 
 七月二日 金 牛込區早稻田南町七より 在シヤム井田芳子へ〔うつし〕
 拜啓 今日は七月の二日です。私は今湯に入つて風呂場の板の間で仰向に寢てゐました、夫から書齋へ歸ると娘がしきりにピアノを彈いてゐます、私は今日着いたあなたの手紙に對して此をかきます、あなたのには六月六日の日づけがありますが私の手紙を出した日を忘れて一向覺がないのでどの位東京からあなたの所迄郵便がかゝるか頓と分らないのですが何しろ長い日數を要するのですね。是なら亞米利加の方が餘程交通上便利ではありませんか、今日は七月二日です。紫陽花の咲いてゐる裏庭を子供が自轉車で廻つてゐます、其子供スツパダカです、東京も中々暑いのです、夫でも芝居も寄席もあります、しかもみんながそこへ汗をカキに行きます、つい二三日前も私は帝劇へ行きました、其所で私は武者小路さんにあひました、それは其筈です、帝劇で三日間武者小路(弟)さんの作つた脚本をやつたのですから。武者小路(兄)さんはあなたも御存じでせう。色の淺黒い好男子です、私に倫敦タイムスの切拔を渡して「夏目さんこゝに柴田環のマダムバターフライの評があります、今友達が送つてくれたから御讀みなさい」と云つて、切拔をくれました、所が私は暗いストールスの中ではもう活字が小かくて讀めないのです(私はもうそんなに年をとつちまつたのです)私はそれを貰つてとう/\宅迄歸つて來ました。あなたが武者小路の兄さんを知つてゐるだらうと思つてこんな事を書きました。私は近頃毎日朝の日課として小説を書いてゐます、多分九月へかゝるでせう、夫でも死なずにまだ筆を執つてゐるからまあ喜んで下さい。此間久し振に和子さんが來てくれました。藤浪さんは畫が好きなのださうですね。私は下手な(板へかいた)抽畫を一枚上げました。それは私が油畫をかき出した最初の一枚です、最初といふと大分かいた樣ですが其後不勉強でちつともかきません。あなたも畫をくれと云ひますね、私は藤浪さんに書をたのまれたのです。私の書や畫を懇望する人のあるのは嬉しいやうな恥かしいやうな又面倒臭い樣な變な心持がします、大抵は斷ります、義理や好意のある方面では引受ますが偖それを果す段になると中々手間がかゝります、あなたも何かくれと仰しやるから描いて上げやうと思ひますが責任を果すのはいつになるでせうか、自分ながら分りません、私の書齋の縁側には諸方から送つた短冊だの紙だの絹だのが山のやうに積んであります、みんな仕樣がないから放つて置くのです。私は勿體ぶるのでも何でもありません。どうもさう/\人の注文に應ずる譯には行かないからです。何分敵は大勢味方は一人といふ有樣ですからね。和子さんは好い奥さんになりました。氣を置かずに何でも話します。矢つ張お嫁に行つた人の方が處女より話しがし易いやうです。
 シヤムの猫は是非下さい。待つてゐます。忘れては不可せんよ。 以上
    七月二日                夏目金之助
   井田芳子樣
 坂本はツリをやつてゐるさうです、無論太公望だから何も釣れないだらうと思ふのです。
 
      一九六五
 
 七月八日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜啓金子たしかに受取ましたあんなにいそがなくても此方は都合がわるくはなかつたのです
 小説を御書のよし出來たら拜見したいと思ひますがあんまり長いもので雜誌や何かに載せられないと新聞にでも出さなくつちやならないだらう。すぐに單行本に出來るならそれも好いが。何しろそんな事も考へて書く必要がありはせぬかと思ひます、八重子さんの病氣はどうですか御大事になさい 以上
    七月八日                  金之助
   豐一郎樣
 
      一九六六
 
 七月十二日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下中野町三三一六神田十拳へ
 拜復御手紙の内容篤と拜讀致しました私が御役に立つか何うか分りませんが御目にかゝつた上でもし私の意見がまとめられるものならまとめて御參考にして上げたいと思ひます明十三日の午後三時頃か明後十四日の同時刻に私の宅迄御出になる譯に行きませんか 以上
    七月十二日                夏目金之助
   神田十拳樣
 
      一九六七
 
 七月十四日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 金澤市川岸町八大谷正信へ
 拜啓其後は御無音いつも御健勝にて結構で御座います今日は又金澤名産の長生殿一折御惠贈にあつかりましてありがたう存じますあれは頗る上品な菓子で東京には御座いません、家族のものと風味致します小説も職業になると出來る丈早く書いてあとの時間を外の事に費やしたくなりますそれでも遺草をよんでゐて下さるのはありがたい氣がします今年は何處へも御出掛になりませんか、どうぞ御身体を御大事に奥さまへよろしく 以上
    七月十四日                 夏目金之助
   大谷繞右樣
 
      一九六八
 
 七月十六日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二中川九郎へ
 拜啓書畫研究法二冊御出版御惠贈被下ありがたく存候装幀高尚にて坐右に置きても心持よく眺められ候ことに夏向の暑凌ぎに讀むには恰好の書物御蔭にて面白き一日を消すべく候不取敢御禮迄 匆々
    七月十六日                夏目金之助
   中川九郎樣
 
      一九六九
 
 七月十七日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 芝區高輪南町三〇大河内方大谷正信へ〔はがき〕
 此間は奥さんが御出京の由に聞いてゐました處貴方も御供で暑い所へ御出のよし是非御目にかゝりたいと思ひます。然し此暑いのに日中高輪から牛込迄御出は大變です。どこかへ御供してもいゝが世間知らずの私にはいゝ思ひつきもありません。夕方から拙宅で御飯を上げたいが來て下さいませんか。多少は涼しいでせう。あなたの都合のいゝ日を知らして下さいませんか。奥さんも一所に入らつしやれませんか。御返事を待つて居ります。
 
      一九七〇
 
 七月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區三十間堀一丁目一やまと新聞へ〔應問 七月二十二日『やまと新聞』より〕
 拜啓私は戰後に於ける日本人の覺悟などに就いて考へて見た事はありません。日本人から見れば戰後も戰前も同じ態度で同じ覺悟で進んで行けば夫で澤山ぢやないでせうか。
 戰爭の影響は無論色々の方面に現はれて來るでせう。ことに軍事に密接の關係のある飛行機、潜航艇、無線電信などには目覺ましい改革が起るかも知れません。然し夫が日本に何う響いてくるでせう。御承知の通りの貧乏と無人ではたとひ外國でどんな發明があつても何うする譯にも行かないぢやありませんか。一時代も二時代も後れて後を追懸けて行くより外に途のないものを捉まへて今更のやうに覺悟などといふ大袈裟な言葉を使ふからしてが私には既に變に思はれます。
 それでなくても日本人は新らしいものを見るとすぐ食ひ付きたがります。是は新らしいからと云ふよりも、新らしい事を自分が知つてるのを世の中に廣告したい精神から大分出てゐるやうです。其證據には少し時期が立つとすぐ知らん顔をして、又別の廣告の種を拾つて歩いてゐます。
 オイケン、ベルグソン、タゴール斯んな名はもう食傷する程聽かされました。ケーベルさんに會つた時、オイケンもベルグソンも好い著者だらうがさう朝から晩迄のべつに云ひつづけてゐるやうでは困ると云つて笑つてゐました。永久のべつに云ひつづけるなら好いですが、自分の自慢にする間丈彼等の名前を口にしてあとは零落した故舊を見て見ぬ振をするやうに打ち遣つて仕舞ふのだから心掛からしてが好くありません。
 此間或る友人が來て日本人は新しくさへあれば何でも飛びつきたがる國民だと云ひました。その通りです。然し彼等の飛び付きたがるのは輸入品に限るやうです。御手製ではどんなに好いものがあつても手を出さないから不思議です。私の友人の作つたある科學上の著書は無論全力を傾注した著述ではありませんが、科目が新しい丈に西洋人の參考になる位新しい事實だの研究だのが隨分其中に含まれてゐるのです。然し夫を出版した本屋は千部刷つて僅四百部しか賣る事が出來なかつたのです。
 萬事が此通りですから、戰後の覺悟とか何とか口で云つた所でまあ駄目なんぢやないかと思ひます。たゞ有識の士が其時其場合に應じて出來る丈の事を不平なく日本の爲にしてゐたら夫れが好いのでせう。戰前も戰後も區別はないでせう。よしあつたつて手も足も出せなければ仕方がないぢやありませんか。若し覺悟といふ覺悟が必要なら、日本は危險だとさへ思つて、それを第一の覺悟にしてゐれば間違ひはありますまい。
 再度の御足勞に對して何か上げなければならんと存じまして是丈の事を書きました。 以上
 
      一九七一
 
 七月二十二日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ〔はがき〕
 御無沙汰をしました、丈夫ですか、暑い事です、津田君が歸つて來ました、粽をありがたう、私はいつでも御節句にある奥さんから虎屋の粽をもらひます、腐ると不可いといふので早速たべました、津田さんはひげをそつて綺麗になつてゐました。あつきらせつではないやうです
 
      一九七二
 
 七月二十六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ〔はがき〕
 禅のしをりを送つて下すつてありがたう中の日課行事もありがたう。暑くて堪らないですね。そして眠くて仕方がありません、此暑いのに勞役をする坊さんはつらいでせう。御禮迄 匆々
    七月二十六日
 
      一九七三
 
 七月二十六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ〔はがき〕
 先日は御東上の由ちつとも知りませんでしたが澁柿といふ雜誌〔に〕一寸そんな事が出てゐたので承知しました、暑いですね、堪らないやうに暑くなりました
    七月二十六《原》
 
      一九七四
 
 七月二十六日 月 後6-7 牛込區早稻田南町七より 名古屋市島田町田島道治へ〔はがき〕
 長良川の鮎をありがたう大變大きくて旨う御座います、玉川などのは駄目ですね。あれを食べてから鮎が急に好きになりました
    七月二十六日
 
      一九七五
 
 八月二日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 大變御無沙汰をしました御變りもありませんか、暑い事です、此間は津田君が歸つて來た時例の懸物を持つて來てくれました、御面倒をかけました段恐れ入ります、あれから又手を入れたら掛物の裏へ墨が透つてぽつ/\が現はれました、もう一つのが出來てからと思つて代金の儀を御問合せも致さずに置きましたがあれを待つて後にすると大分時間がかゝりさうですからあの方丈でも先へ御拂ひ致したいと思ひますが代價は如何程ですか一寸御知らせ下さい
 中村の息子は御宅へ出て大變御世話になつたさうで是もとうに御禮を申上なければならないのをつい怠けてゐました、今ゐる所よりは(二三ケ月すると)好い經師屋へ行かれるとか申す事で當人はそれを待つてゐるやうであります、此後とも何うぞよろしく願ひます、京都へ行つた時は少し御宅へ御厄介になつてゐたさうで是亦恐縮の至です、
 あなたの送つた紙へ心經を書いて見ましたら三枚で濟んでしまひましたしかも不謹慎な草書です、御覽に入れても好いと思ひますがあまり氣が進まないので餘程前から机の上に載せたなりであります 以上
    八月二日                 夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九七六
 
 八月七日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「親展」とあり〕
 中々暑い事です御變りもありませんか。
 先年「朝日」へ小説を書く筈で書けなかつた徳田秋江君が此間來て下の樣な依頼をしました。
 (一)朝日へ書かしてもらひたい。
 (二)少々遊び過ぎて金が要るから、掲載前に原稿(全部ではなし)と引かへに稿料を渡してもらひたい
 (三)題目は北濱銀行の破産といつた風のものを書きたい。
 (四)九月から書き出すから、書いた丈其時に買つてくれまいか
 大畧右の樣な事を云ひますから、よく相談して置かうと云つて歸しました。私には何といふ考もありません、ことに金の事などは社の方に規定もあつてさう早くから渡せない場合も或は出來るかも知れないと思ひます、
  御一考の上御返事を願ひます 以上
    八月七日                  夏目金之助
   山 本 樣
 私の小説の誤植は是から面倒でもそのつど訂正して頂く事にしませうか。さうすれば校正者にも何處が間違つたといふ事も分るし、それから新聞で切拔などを拵へてゐる人が少しはあるやうですから、さういふ人への義務にも親切にもなりますから。先づ今日のを二つばかり指摘しますから明日か明後日もし後れば其あとでも構ひません故活字でさう斷つて下さい
 
      一九七七
 
 八月七日 土 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市當小路御池西川源兵衛へ
 啓 心經を御笑覽に入れます御氣に入らなかつたら反故にして下さい
 印は入用の時でなければ御頼み下さるなと願つて置きました夫から後でも書面で御斷りを致して置きました。私は私のために刻してくれた人の好意を感謝致しますが何うも貰ふ譯にも買ふ譯にもありません甚だ困却致すばかりです何とかそちらで御片付下さいませんか 先は用事迄 匆々
    八月七日                 夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九七八
 
 八月九日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 福井市寶永寺町九五山田卓爾へ
 あなたは歸省して御出と見えますね福井の方はそれでも此方よりは涼しいでせう東京は大分暑いです十七になる女の子と十三になる女の子が富士へ登りましたが私は原稿をかくので凝として坐つてゐますウニをあ
りがたうあれは福井の名産ですね
 あなたはいつ卒業しますか何科を專問《原》になさる御考ですか
 右迄 匆々
    八月九日                夏目金之助
   山田卓爾樣
 
      一九七九
 
 八月九日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一徳田末雄へ
 拜啓岡君を通じて私のつぎに朝日へ載せる小説の御執筆を御願致した處早速御引受下さいまして有難う存じます右につき先達て岡君が參られある娼妓の一代記といふやうなものを書きたいと思ふが何うだろうとあなたからの御相談のやうに申されましたから、私一個としては異存はないが社の方の都合もある事だから一應問合せて見やうと申ましたら岡君はぢやもう一遍徳田に訊いて御返事をするといつたぎり音沙汰がありません、思ふに岡君は歸阪したのでせう。
 私は昨日電話で社と相談して見ましたが社の方では御存じの通りの穩健主義ですから女郎の一代記といふやうなものはあまり歡迎はしないやうです。然したとひ娼妓だつて藝者だつて人間ですから人間として意味のある叙述をするならば却つて華族や上流を種にして下劣な事を書くより立派だらうと考へますので其通りを社へ申しましたら社でも其意を諒としてもしあなたが社の方針やら一般俗社界に對する信用の上に立つ營業機關であるといふ事を御承知の上筆を執つ〔て〕下されば差支なからうといふ事になりました。
 私は右を御報知旁御注意を致すために此手紙を差上げるのです。私は他人の意志を東縛して藝術上の作物を出してくれといふ馬鹿な事はしたくありませんから萬一餘程の程度に御趣向を御曲げにならなければ前申した女の一代記が書きにくい樣なら「かび」の續篇でも何でも外のものを御書きにならん事を希望致すのです。若し又社の所謂〔四字右○〕露骨な描寫なしに娼妓の傳が何の窮屈なしに書けるなら無論それで結構だらうと思ひます。
 私はそんな腕のある女の生涯などを知りません、又書かうと思つても書けません、人間を知るといふ上に於てさうした作物は私の參考になるんだから喜んで拜見したいのでありますけれども右の事状故其邊はどうぞ御含みの上御執筆下さるやうあらかじめ願つて置きます。
 早く申上げる方が御都合がいゝだらうと考へまして失禮ではありますが手紙で用を辨じます 御免下さい 頓首
    八月九日                夏目金之助
   徳田秋聲樣
 
      一九八〇
 
 八月二十日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 新潟縣東蒲原郡揚川村皆川正※[示+喜]へ
 今日は非常にあついです 昨日端書が來ました其前に百合の根が着いたので禮をいはうかと思つて油紙の差出人の名前の所だけ切り拔いて置いた處です、どうも有難う あくを拔くにひまがかゝるとかいつてまだ食はない、黒百合は見た事がないから一つ地を堀つて種を埋めて見る積です
 朝のうち毎日原稿を書いてゐます、もうぢき濟ます積です、歸りに是非東京へ寄つて行き給へな 僕の處へ泊つてもいゝ 子供もつれて來たまへ
 君の所と野間の處から同時に手紙が着いた
 先は右迄
    八月二十日               夏目金之助
   皆川正※[示+喜]樣
 
      一九八一
 
 八月二十四日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 用事ではありませんが
 一寸申し上げます。「男女貞操問題」を筆記する人の文章は明瞭で簡略で要を盡してゐて、それで調つてゐて 結構なものと思ひます。恐らく話をする當人よりも立派な頭をもつてゐるんぢやないだらうかと思ひます。私は誰だか知れませんが、其人に對して敬意を表するものであります、餘計な事のやうですが、どうぞ私の志を御傳へ下さいまし、夫から序の節に其人の名を教へて下さい
 此間野口米氏の浮世繪春信論に就いてある人から朝日にはあらずもがなと評して來ました。橋口に笑はれさうなものだと云つて來ました。其男は文部省の古社寺寶物取調嘱託の福井利吉郎といふ男です。光琳考といふものを今書いてゐます。橋口の浮世繪研究は近頃です。どの位の程度のものか私は知りませんが、是も何かの御參考になるだらうと思つて序に御知らせします
    八月二十四日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九八二
 
 九月三日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓 徳田君の模樣を聞き合せたら同君から返事がありました。別紙の通りですから御參考のため御送り致します。
 例の通り正誤の御手數を願ひます。 以上
    九月三日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九八三
 
 九月四日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 素麺をありがたう いつぞや句集發刊の事につき岩波への御依頼は先方へ申傳へたには傳へたが算盤が取れるか取れないかの點で念を押され小生も受合かね多分儲かるまいと云ひたる儘今日に至りたる次第 拜顔の節御話し致す積の處つい/\其機會なく御禮の序にあらましを御返事致して置きます 以上
    九月四日               夏目金之助
   松根豐次郎樣
 
      一九八四
 
 九月五日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ〔はがき〕
 校正は薄い方十圓厚い方二十圓にてよろしいかと思ひます修善〔右○〕寺が本當なれ〔ど〕詩の平灰《原》上あすこは禅〔右○〕にして置いたのです。他の處は何方でも構ひません
 
      一九八五
 
 九月七日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ
 拜啓先達は失禮あの時見た懸物と額のまづいにはあきれました何うかして書き直すか破りすてたいと思ひますが君も錢をかけて表装したものだから只破る譯に行くまいから不得已書き直しませう軸の方は引きかへますが額は半きれへかいたもの故長さの寸法を教へてもらつてその字丈を取りかへたらと考へます寸法を(着物の寸法をはかる物指で)はかつて教へてくれたまへ 以上
    九月七日                 夏目金之助
   内田榮造樣
 
      一九八六
 
 九月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 臺灣花蓮港南濱一山口忠三へ
 臺灣茶一罐到着正に拜受致しました未知未見の小生に對しての御親切嬉しい事に存じます私の書いたものが何かの御慰になれば滿足の至であります不取敢御禮迄申上げます 以上
    九月十日                夏目金之助
   山口忠三樣
 
      一九八七
 
 九月十四日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下千駄ケ谷八三二武者小路實篤へ〔はがき〕
 御本を有難う御座います。一部はたしかに小宮が來た時に渡します。或は此方から送つてやります。兎に角御寄贈の事丈はすぐ知らせてやります。鵠沼はもう引上げたのですか。近頃あなた方の連中は吾孫子方面に移るぢやありませんか。あなたが吾孫子へ圖書館を建てゝゐるといふのは本當ですか
 
      一九八八
 
 九月十四日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 武者小路君から「向日葵」を二部送つて來て一部を君に上げてくれとの事です送つてよろしいが序があつたら持つて行つて下さい。署名がしてあります。原文に曰く「それから律義(?)すぎる話かも知れませんが二部御送りいたしますから一部小宮豐隆氏におついでの節あげて下さい。少し賞められるとすぐいゝ氣になります」同君の宿所は千駄ケ谷八三二なり
 
      一九八九
 
 九月十五日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ〔はがき〕
 久々御無沙汰今日貢君を訪問來る土曜日に拙宅へ來て夕食を食ふ事の承諾を得たに就いて一人ではあまり淋しき故君と上野君を招待したいと思ふが御都合はどうですか。もし好ければ次の土曜のあかるいうちから來て下さい。上野君にもさう云つて下さい。(番地が分らないから)。もし厭か差支があるなら是もさう云つて下さい。上野君の返事も聽いて下さい御手數恐れ入りますが。
 
      一九九〇
 
 九月二十日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 拜啓あの草花の横長い畫は達者なものでありますあれは津田君には書けますまい、ある人が見て是は四條派を習つたものだと申しました題辭はどうかくのかよく解りませんから曲りなりに詩を書いて置きました無理に作るのだから手間ばかりかゝつて面白いものは一向出來ません詩〔に〕紅蓼青蘋といふ字を使ひましたがあなたの畫の何處にもそんなものは見當らないのです、あの中で私は斷腸花より外何も知りませんからこんなうそで御免蒙る次第であります、御承知の通り紅蓼は白蘋とつゞきますが白蘋では平灰《原》が合はないので已を得ず青蘋にしました尤も青蘋といふ字もある事はあるのです下手な詩とうその詩の言譯の爲に數言を費やしました、
 もう一つの畫は色は好いが構圖がまとまつてゐないと考へます、何だか途切れてゐます、鷄はうまいですね、桐もわるくはありませんね然し全體の統一がどうしても取れないやうに思はれます、
 畫も題も小包で御送り致しますから御落手を願ひます 以上
    九月二十日                夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九九一
 
 九月二十三日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 鹿兒島市春日町一二六皆川正※[示+喜]へ
 拜啓大島紬と上布の見本たしかに受取御面倒ありがたう島へ注文すると目下戰爭の影響で半額位で買入れられるならば鹿兒島でも自然其結果として安價であるべき筈と思ふが市の方ではまだ其所迄行き詰つてゐないのだらうか、又島の方では何で欧洲戰爭の影響がそんなに特別の不景氣を與へるのだらうか 是は門外漢の僕には一寸分りかねますがもし事實とすれば半額で買へる方が誰も希望に違ありませんからさう願ひたいと思ひます、若し半額だとすると普通四五十圓のものが二十圓か二十五圓で買へる譯だから上等のを買つて差支ありません、又
 全體が訛傳であるとすれば見本のうち三十圓程度のものを得たいと思ひます。柄はきり拔いて送りますが其通りでなくてもよろしい つまりあまりアラく〔三字傍点〕なくつて(細かで)少し離れて見た所でもはつきりしたのがよろしいのです。まあ見本に似たやうなのを擇つて下さい。それから此返事に添へて金を上げるのだがまだねだんが分らないのに夫から銀行迄行くのが一寸面倒だからたゞ返事丈書きます、もし立替られるなら立替て置いて下さい、夫とも貧乏で餘裕がなければ價格をさう云つてくれゝば爲替で送ります、色々御手數をかけて濟みません 以上
    九月二十三日              夏目金之助
   皆川眞拆樣
 
      一九九二
 
 九月二十三日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區明石町六一松根豐次郎へ
 拜復
 俳書再版についての御注文は少々弱り入候 此間中よりそんなもの二三受合候ため小説脱稿後やつと責任を果したる處にて一寸句など作る勇氣なき有樣 ことに小生只今は俳道と縁なき身體何とかそちらにて御都合御放免の程願上候 先は右御返事迄是も無精にてつい/\後れ申候 乍序御詫も附加へ置候 多罪々々
    九月二十三日              夏目金之助
   東 洋 城 樣
 
      一九九三
 
 九月二十四日 金 前10-11 牛込區早稻田南町七より 兵庫縣印南郡西神吉松尾博市へ〔はがき〕
 拜復「道草」は百二回で完了です。「三四郎」は春陽堂(日本橋通り四丁目)、「椅子戸の中」「心」は神田南神保町岩波書店發行「道草」は目下印刷中矢張岩波發行であります
 
      一九九四
 
 九月二十五日 土 牛込區早稻田南町七より 徳田浩司へ〔大正七年七月十八日發行『文壇名家書簡集』より〕
 拜啓先日御依頼の件は月中に御返事を致す御約束の處杜より何等の消息もなくかつ小説も今が今といふ次第でもなき上大兄よりの御催促も受けざりし故つい無精を極め込みずる/\に致し申譯なき事になりました
 二三目前機會があつたのでもう一度社の意向を確めましたら御大典や何かで色々取り込んでゐた爲返事をしたものと思ひ込んでゐたとの事です、どうぞ御勘辨を願ひますそこで御返事丈を中上ますと斯ういふ事になります
 十一月十五〔二字右○〕日迄に原稿半分、(かりに百回と見なし五十〔二字右○〕回分)丈御差出が出來れば今の秋聲君のあとへあなたのものを載せても宜しいのですがもし御間に合ひかねるとなると一寸御約束が致しにくいのですが如何なものでせうか
 原稿には社の方でも隨分テコズリたる例もあるとかで今度は是非其通りにして私が保證でもしなければ社がいふ事を聽きさうにもありません、從つて受合へば社に對しては私の責任が生じ、また私に對してはあなたの責任が重くなる譯ですから御自信のある程度内ではつきりした御返事を伺はなければならないやうな始末と御承知を願ひたいのです
 此方の勝手ばかり申して濟まんやうですが秋聲君のあとをそろ/\極める必要が出て來たので出來る丈早く御返事を伺ふ必要があるのですから御決意次第一兩日中に御一報を煩はしたいのであります 右迄 匆々
    九月二十五日                夏目金之助
   徳田秋江樣
 
      一九九五
 
 九月二十八日 火 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一新泉舘林原(當時岡田)耕三へ
 弟が大變な事になつて嘸困るでせう、御察し申します。どうも驚ろいた。友達は追拂ふがよし。然し學校を休ませて校正させる積りは僕にも毛頭なかつたのです。
 これ位(時によりぐらゐにもなる事あり)。この位(必ず清む)。それ位(是も時により濁る)。その位(必ず清むと考へる)。あれ位(時により清又は濁)。あの位(必ず清)。どの位(清むと思へば間違なし)。どれ位(時により清濁あり。清と思へば間違なし)。
 「どの位でもない」を僅の意に用ひるなら「どれ程でもない」といふだらう。若し用ひるとすれば清音なるべし
 先は右迄 匆々
    九月二十七日夜十時             夏目金之助
   岡田耕三樣
 
      一九九六
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓先日の御手紙拜見後近松秋江君へ條件委細申送り廻答を求め候處昨夜拙宅訪問の上右保件つきにて執筆致し度旨の返事有之候故小生は精々念を入れ手違なきやう駄目を押したる上にて承諾致し候。即ち十一月十五日迄半分(五十回位)を是非出してくれとの註文をしかと受合せたる儀に候同氏も此前不義理をしたる關係もあれば今度は是非とも責任を果す積なりと明言爲《原》致候。色々話してゐるうちに稿料の事をつい忘れ申候が是は最初に取極める必要あれば後より相談致してもよろしく又御急ぎなくは此儘にて原稿受取の際取極ても間違にはなるまじくと存候
 右不取敢御報申上候故秋聲君のあとは近松氏と御取きめ相願度候先は用事まで 匆々頓首
    九月二十七日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一九九七
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 先達て杉浦重剛先生の代理に日本中學の小林義忠といふ人がきて同校が移轉するにつき寄附金を出してくれとの依頼故發起人の名前を見ると君も出てゐたから菅に聞いて見て御返事を致しませうといつて歸した、寄附金名簿には百圓だの五拾圓だのとあるばかりで少々面喰ふが5圓位出して置いても好いかね一寸君に御相談を致します 如何なものでせう 以上
    九月二十八日               金之助
   虎 雄 樣
 
      一九九八
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都市富小路御池西川源兵衛へ
 先達の手紙のうちに書き込む事をわすれましたから一寸申上ますが此間願つて置いた一幅の表装の方はまだ出來ますまいか日本一の經師屋でなくても構ひませんから御弟子にやらして早く送つて下さい。既に送つて頂いた奴はあとから手を入れて又散々黒く惡戯をしてしまひました。實は表装代を兩方一所に差上たいのであれも其儘に放つてある譯ですから今度の時は是非雙方の代價を纒めて御報知を願ひます右迄 匆々
    九月二十八日              夏目金之助
   西川一草亭樣
 
      一九九九
 
 九月二十八日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 拜啓昨夜は電話を御掛下さいまして失禮しました本當をいふと今日は大して差支があるのではありませんが此二三日來客が多かつたり外出をしなくてはならなかつたりで少し時間が欲しかつたのでまあ多少あなたを回避したやうな痕跡があるのです甚だ濟みません御勘辨を願ひます、偖例の一件ですがあの事を後から考へて見ると其時私が申上た通りどうも滿足な本が出來さうにないのです、それから私の本が新らしくもないのに無暗に且つ無意義に變装したり假装したりして出るのを私は苦しく思てゐる最中なのです、私も金は大好ですが目下の状態活計と書物の濫發とを比較して見るとどうも後者の方を引きしめる必要が生じて來ます。現にあなたが歸られるとすぐあとから私の警句集といつたやうなものを分類して持つて來て是非出版の許諾を得たいと私に逼つたものがあります私は氣の毒だとは思ひましたが仕方なしに斷わりました。あなたの場合も矢張り會見の結果御斷りをしなければならなくなりはしまいかと恐れてゐます。だから會ふのが御氣の毒になるのです。電話で差支があるといふ御返事をしたのも實は此意味も大いに含まれてゐたのです。
 まだ御目にかゝらないうちに斷るのは甚だ濟まんやうな譯ですが右の事情を御察し下さつて此度は編纂を御斷念下さいませんか。時機がきて相當の書物が出來るやうになつたら其時改めて御相談にあづかる事に致しますから 以上
    九月二十八日               夏目金之助
   松本道別樣
 
      二〇〇〇
 
 九月二十九日 水 前0-7 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一新泉館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 しんしやう 身上
 丸まつちく
 技倆カ伎倆カ知ラズ
    九月二十八日夜
 
      二〇〇一
 
 九月三十日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 水戸市上梅香菊池謙二郎へ
 拜復いつも御無沙汰をしてゐます近頃講演は殆んど遣らぬ事に自然なつて仕舞ました是は小生の無精と時間のないのと夫を知つて頼む人が來なくなつたからです先年も謝絶今度も御斷りでは甚だ濟みませんが右の譯で中々遠方へ出掛ける勇氣も餘裕も時間も根もありませんからどうぞ御勘辨を願ひます小生は旅行をするといつでも病氣をします今春も京都へ行つて寐ましたまあ癈人の部に屬すべき人間です不取敢御返事迄 匆々不一
    九月盡                 夏目金之助
   菊池謙二郎樣
        座下
 
      二〇〇二
 
 九月三十日 木 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一新泉館林原(當時岡田)耕三へ〔はがき〕
 妾はすべてあたし〔三字傍線〕にてよろしからん
 
      二〇〇三
 
 九月三十日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 啓來月三日夜七時開場七時半開演の華族會舘の音樂會へ行つて見ませんか音樂學校のシヨルツといふ人がシヨパンの曲を十二ばかり彈くのださうです
 此回《原》は月に會費五十錢で切符が二枚とれる會員組織のものです、僕は人の餘分を一枚もらつたから行くが其席で入會しても構はんのだらうと思ふ兎に角斯ういふ會の存在だけを知らせますからあとは御便宜になさい
 帝劇の喜歌劇は綺麗だから御孃さんを連れて行つてやりたまへ、然し今晩かぎりかも知れないからもう駄目かも知らん 以上
    九月三十日              夏目金之助
   寺田寅彦樣
 
      二〇〇四
 
 十月二《〔?〕》日 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 僕は上野直昭といふ會の幹事のやうな事をしてゐる男から切符をもらつたのだから、上野に會へばすぐどうかして呉れると思ひます。上野は文學士です。門前に待つてゐるのは迷惑かも知れないから先へ入つて上野に會つて話した方がいゝかも知れません。右迄 匆々
 
      二〇〇五
 
 十月四日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ〔はがき〕
 奈良へ遊びに行つたさうですね面白かつたでせう段々氣候が好くなりますから外出に大變結構です御勉強を祈ります
 
      二〇〇六
 
 十月四日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ〔はがき〕
 倫敦消息ノ一はわざと取り去つたのですから御免蒙ります二と三も已を得ず多少手を入れましたのです。大正名著文庫といふ本はひどい本ですねあれで壹圓二十錢とは驚ろきました。私はあの装釘なら斷ると云つて番頭に話しました
 
      二〇〇七
 
 十月四日 月 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ〔はがき〕
 大光社へ行つて支那畫を見て來ました大變面白い是非御出掛なさい。銀座二丁目の東側の裏河岸通にあります。二階にある複製の藝阿彌の雙幅は非常によろしい。
 
      二〇〇八
 
 十月五日 火 後1-2 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ
 「結《ゆ》ひ付け」で好いでせう
 「一|色《しき》」是も好いでせう
 「三四郎」は「與次郎」の誤り
 Thea《テア》で切れるのです。Viewといふ字です。テアトロンは見る場所といふ意味です
 ある所は〔右○〕 の誤り
 此次に でよろしい
 以上
 
      二〇〇九
 
 十月十一日 月 後7-8 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地一丁目六鎌田敬四郎へ〔うつし〕
 拜啓あなたが米國へお出の事は此間山本君から聞きました 十四日御出發の事も聞きました
 外圖も長くなると飽きるでせうが當分は面白いばかりでなく經驗にも經歴にもなつて好いでせう 精々御利用にならん事を希望致します
 御産のため御多忙との事出發前に片付いて結構であります
 十四日には何時に立ちますか 東京驛ですか 私は御存じの通りの人間だから時間を承知してゐても氣に《原》向かないと行かないかも知れないが 氣が向けば又送りに出掛けないとも限らない人間です 夫で一寸伺ふやうな譯であります 以上
    十月十一日                夏目金之助
   鎌田敬四郎樣
 
      二〇一〇
 
 十月十一日 月 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 寫眞到着ありがたく拜受致しました幸に痘痕もうつらず結構の出來多々謝々たゞ光線があまり強過ぎたるやの感あり是は素人觀なるや伺ひます
 畫と賛の事承知は致しましたが先約の如是閑さへ片付ない位故自分ながら少々心細い事です
 松茸の好時節如仰不消化なれど決して御遠慮には及ばず何時でも頂戴の上口から尻へ押し出します 先は御禮迄 匆々
    十月十一日               夏目金之助
   鳥居素川樣
 
      二〇一一
 
 十月十三日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地一丁目六鎌田敬四郎へ〔はがき うつし〕
 あしたの木曜日な事に氣がつかずにゐました 面會日だから朝から人が來るかも知れないので無駄足をさせるのも氣の毒だから御見送りをしませ〔ん〕御健康と御成効を祈ります
 
      二〇一二
 
 十月十四日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 拜復段々好い時節になります身體は御蔭で大して惡い方ではありません毎日展覽會などを見て歩いてゐます
 梨を送つて下さいましてありがたう篤く御禮を申し上ます文鎭はまだ持つて來て呉れません屆いたら御挨拶を致します「道草」はまだ私の處へも見本が來てゐる丈です装幀は津田君がやりました面白いものですが表紙に大變金がかゝりました木版で七八度刷ださうです
 かつてあなたに書いて上げた書はあまり下手いから近々あれを撤回してもらつてもう少し好いのと交換してもらはうと考へてゐます然し多忙で中々其處迄手が出せないから是も何時素志を果せるか解りません 以上
    十月十四日               夏目金之助
   門間春雄樣
 
      二〇一三
 
 十月十五日 金 後01 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ〔はがき〕
 拜復風過古潤〔右○〕秋風超の潤は澗もしくは※[石+間]の誤デス普通澗の方を使ヒマス。達人は太田達人といふ現存ノ私ノ友人ノ名デ間違デハアリマセン。人達《ヒトタチ》とサレテハ困リマス。其他不審ノ所ハ電話デモイヽカラ訊イテ下サイ
 
      二〇一四
 
 十月二十一日 木 牛込區早稻田南町七より 府下代々木山谷二九五鈴木三重吉へ
 拜啓江連重次君はかつて野上臼川君の紹介で知り合になつた人ですかねて書いた長編を切つて短篇とした改新小説へても載せる周旋を依頼されますから革新號以後の該雜誌の方針を話して私は謝絶しましたが若し原稿が非常に面白いものとすると君の方で採用にならないとも限るまいかとも考へ直しかつ本人の希望を滿足させないのも如何かと存じ紹介丈致しますから少しの時間を割いて會つてやつて下さい委細は本人より御聽取を願ひます御迷惑な事を御依頼しで《原》濟みません 以上
    十月二十一日              夏目金之助
   鈴木三重吉樣
 
      二〇一五
 
 十月二十二日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 文展だの御大典だので中々陽氣な事で御座います時に突然武者小路君から別紙のやうなもの寄こして朝日へ出して呉れないかといふ依頼です私には御都合が分りませんから一應御目にかけますもし差支があるなら甚だ恐縮ですが御返送を願ひます其時は白樺に載せる積だといふ事ですから 右迄
    十月二十二日             夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇一六
 
 十月二十二日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ
 昨日の木曜日に木村芳雨君が例の文鎭を持つて來てくれました色々な話をしました銅印も見ました私も一二顆依頼して置きました不取敢御禮旁御報迄 匆々
    十月二十二日              夏目金之助
   門間春雄樣
 
      二〇一七
 
 十月二十二日 金 後0-1 牛込區早稻田南町七より 清國北京日本公使館白神榮松へ
 拜復私の書物を御愛讀下さいます由有難く御禮を申します
 寫眞を寄こせとの御言葉ですが寫眞はあまり撮りません夫から人に遣りません夫で殘念ながら御希望に應ずる譯に參りませんあしからず御承知を願ひます 右迄 匆々
    十月二十二日             夏目金之助
   白神榮松樣
 
      二〇一八
 
 十月二十三日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 大阪市南區細工谷町五五〇一佐治秀壽へ〔はがき〕
 松茸をありがたう此年は出來がわるいとか聞きましたが名古屋からも京都からも呉れました御禮迄 匆々
 
      二〇一九
 
 十月二十五日 月 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ〔はがき〕
 會の事御知らせ難有う東君よりも通知あり小生は生憎の木曜故出席致さず候兩國の美術倶樂部へ參り候沈石田の畫に面白きものありたり其他にも色々すきなもの有之候
 
      二〇二〇
 
 十月二十六日 火 前10-11 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町菊富士樓本店池崎忠孝へ〔はがき〕
 讀賣新聞をありがたう、人の小説を批評するなんて事は中々面倒な事です。ことに多忙なあなたに取つて甚だしい煩だつたらうと思ひます。「道草」のためにつぶさせたあなたの時間は私から見るとあなたの損のやうな心持がして御氣の毒です。謹んで御好意を感謝します
 
      二〇二一
 
 十一月五日 金 牛込區早稻日南町七より 鳥居赫雄へ
 拜啓御大典でさぞ御忙がしい事と存じます毫潮の手紙は御所望故御目にかけますが御覽の如く手摺煤染み頗る好事家に見限られさうなもの〔に〕なつてゐます御氣に入らなければ反故籠へなりと御放り込み下さい 右迄匆々
    十一月五日              夏目金之助
   鳥居素川樣
 
      二〇二二
 
 十一月六日 土 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 拜啓 書物をありがたう 四日頃とゞいたがごた/\してすぐ御禮も差上ずといつてまだ一頁も讀まず申譯のない事です 本が賣れなくては困るでせうだれかに頼んで批評をして貰つたらどうです尤も新刊紹介には何處でも出るだらうけれども
 九日頃から一週間程旅行を致します僕のやうな無精なものは誘はれないと※[さんずい+氣]車などへ乘る機會はないのだからたまに誘つてくれる人のあるのは天惠かも知れない
 奥さんへよろしく 以上
    十一月六日               夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      二〇二三
 
 十一月七日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 金澤市川岸町八大谷正信へ
 拜啓此間はつまらない作物につき御叮嚀な御注意を御拂ひ下さいまして誤植表まで御拵らへをいたゞき御好意の段幾重にも鳴謝致します
 御惠贈の品物は双方ともありがたく頂戴致しました始め來たのが鳥かと思つたら柿だつたので一寸驚ろきました是は模樣がへになつた事と思つてゐる所へ今度は鳥が着きましたどうも色々の御配慮で恐縮致します柿は御庭先のものを御自身で樹に上つて取つて下さつた由さう伺へば一層の珍味ですが私が食べようと思つて妻に持つて來いといふともう子供が平げてしまつて一つもありませんでしたまことに殘念でした
 鳥はまだ頂きませんあれがシイナとかいふものですが《原》私は見た事がない鳥です食べた事は無論ありませんやが〔て〕食膳に上せて風味致すのを樂しんで居ります先は御禮迄乍筆末奥樣へよろしく 以上
    十一月七日                夏目金之助
   大谷繞石樣
 
      二〇二四
 
 十一月七日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 久々御無沙汰を致しました御變りもなくて結構です又松茸を澤山にありがたう此間から名古屋大阪京都の三市から松茸を幾度も貰ひ幾度も茸飯を食ひました胃にはよくないといひますが寐ないうちは何でも食ふ事に致しましたあなたのは北國の産だから(ことに謙信の城祉の産だから)自ら味も特別だらうと思つて是から風味に取りかゝります何時もながら御好意を感謝致します新著「道草」を上げやうかとも思ひますがもらつても仕方があるまいと思つてわざと差控へてゐます
 時々先年御依頼した良寛の事を思ひ出します良寛などは手に入らないものとあきらめてはゐますが時々欲しくなりますもし縁があつたら忘れないで探して下さい
 奧さまへよろしく 以上
    十一月七日                夏目金之助
   森成麟造樣
 
      二〇二五
 
 十一月七日 日 後7-8 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ
 
 (一)ある因数を〔右○〕の誤り
 (二)奥さん
 (三)元の通りニテ仕方ナシ
 (四)元の通デヨロシカラン。積《セ》ハ容積の事。セキ〔二字傍線〕がない、セキ〔二字傍線〕がある は東京の俗語 餘裕といふやうなもの
 (五)平岡は〔右○〕の誤
 (六)何時までも の誤
 (七)呼息デ惡ければ呼吸カ
 (八)貴方を貴女にしても無論好イガ貴方でも構ハナカナイカ
 
      二〇二六
 
 十一月八日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「用事」とあり〕
 拜啓先日は電話にで《原》失禮致しました。
 私は明九日から約一週間ばかり伊豆の湯河原の方へ旅行を致します。それで十五日には多分歸京出來まいと思ひます。所が十五日は例の近松君から原稿の來る日ですから若し又々違約といふ事になるとすぐ他の方面をあたつて見る必要が生ずるだらうと思ひますので御打合せかた/”\御手紙を認めます
 突然候補をきめる事は困難でありますが、もし萬一の場合の節は谷崎君などがよからうと思ひます。同君は向嶋邊で宿所を知りませんが、支那料理の偕樂園で聞き合せればすぐ分ります。谷崎でなければ武者小路君もいゝだらうと思ひますが是は先方が十の六迄引き受けられないだらうと思ひます。同君の宿所は千駄ケ谷です。番地の《原》兄さんの所(麹町元園丁)で聞き合せれば解ります。それから此前話のあつた志賀直哉君は目下吾《原》孫子にゐます。此間會つたら近々短かいものを書いて見るとか云つてゐましたから、或は五六十回のものなら秋聲君の後に間に合ふかも知れません
 以上は不時の用意に御報知して置いて立ちたいと思ひまして先刻御宅へ電話をかけましたら生憎御留守ださうですから御歸りになつたら此方へ御掛け下さるやうに願つて置きましたがことによる〔と〕夜遲くなるかも知れず明日は又早く私が出ますから思ひ直して手紙で用を辨ずる事に致しました。
 近松氏もあれ丈念を入れて置けば九分通り大丈夫だらうとは思ひますが從來に徴して見ると決して安心は出來ません。非力な上に正月の中央公論などに手を延ばされてはとても此方へ約束通り寄こす事は出來ないでせう。其中央公論は無論斷ると云ひましたし瀧田の方でも必ず正月號でなくても濟むと云ひますから恐らく專心朝日の方に取りかゝつてはゐるでせうが、今度の十五|回《原》も違約する樣な事があつたら斷然謝絶する方が社のためまた體面のためよろしからうといふのが私の意見でありますからそれも序をもつて付け加へて置きます 以上
    十一月八日夜               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇二七
 
 十一月十四日 日 神奈川縣湯河原天野屋より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ〔繪はがき 伊豆山相模屋〕〔表に〕
 夏目先生と旅行いたし日々教訓を垂れたまいつゝあり
                  是公
 教訓とともに野糞も垂れたまひつゝあり
 然しいまだ帝都三遷の厄に遇ハズ
 謹んで閣下の健康を祝す          金之助
〔裏に〕
 二伸
 咋十二日湯河原から熱海へ參る途中此所にて晝食をしたゝめ五十錢の茶代で此繪葉書をもらひました。是公君は今日獵に行き雉一羽と兎一羽を獲て歸りました。たゞし雙方共獵師が打つたのださうです。同君は一發も放てなかつたと申しますうそぢやないでせう 金之助
 
      二〇二八
 
 十一月十七日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 旅先で新聞を見ると東京は大變な騷だから嘸御忙がしい事と存じます
 私は今十七日午後歸りました。例の小説の件はどうなりましたか差支なく進行致しますれば何も御尋ねする必要も御座いませんがもし何かの手違がありましし《原》私が何か致す必要でも生じはしまいかと存じ歸京御報旁一寸伺ひます 匆々
    十一月十七日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇二九
 
 十一月十七日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内杉村廣太郎へ
 拜復外國雜誌の件につき御配慮を煩はして恐縮です。社の内情を知らないものだから飛んだ横着を致して濟みません。是から能く氣を付けます。アセニーアムも社の方で取つてもらつて、其上送つて貰つては手數を掛ける丈ですから是から私の方で取る事にしませう。此間引繼注文の雜誌に就いては貴兄よりの御申越にも拘はらず丸善の方からは何とも云つて來ません一應間ひ合せて處置を致します右迄 匆々
    十一月十七日                夏目金之助
   杉浦《〔村〕》廣太郎樣
 
      二〇三〇
 
 十一月十七日 水 後8-9 牛込區早稻田南町七より 佐賀縣鹿島町高津原野村傳四へ
 拜啓道草〔二字傍点〕の御禮に茶碗などを貰つては濟みません、然し貰へば結構です、有難く御禮を申ます、あの茶碗は肌合が非常に滑かで美しいもので、それに模樣と格好がよく調和して何方かといふと女性的な 粹な處のあるものです。僕があれで食ふと少々不釣合だ。客が來た時茶碗に使ひます。多謝々々
 金がないのに無暗に品物などを送る心配はしない方がよろしいと思ふ。けれども此方は貰へば嬉しいんだから矢張り使つた金は活きる譯には違ない。たゞ君と僕の富力から云つて僕は君から一品の贈與を受けるべき地位に立つてゐない。たゞ僕の方から君に物を遣るべきだらうと思ふ。好意は感謝するが是から餘り斯んな所へ金を使つて心配しないがよろしい 以上
    十一月十七日               夏目金之助
   野村傳四樣
 
      二〇三一
 
 十一月十九日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ殯菅虎雄へ
 拜啓唐突ながら伺ひ度事あり郭尚先といふ人を御承知ならは明人なるや清人なるや將朝鮮人なるや御教へ被下度もし又御承知なくば誰か漢學者か書の好きな人か好事家かに聞き合せて頂き度候近頃右落※[疑の旁が欠]つきの書を手に入れ候處何人なるや判然致さず表具師に紙の鑑定を依頼致候處土佐唐紙にて彼土のものに無之由にて疑念相生じ候につき御手數を煩はす次第に候固より閑中の好奇心故取急く譯にも無之候へども早く解り候へば一層の好都合に候先は右御願迄 匆々頓首
    十一月十九日               金之助
   虎 雄 樣
       座右
 
      二〇三二
 
 十一月二十二日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 拜啓御かげで金剛草も出來上りました嘸御骨の折れた事と存じます厚く御禮を申します
 私は縮刷でも新刊でも再讀しない男なのですが今日何かの拍子に金剛草をよんでスヰフトの仕舞の處を見ますと「まだ論ずべき事は澤山あるが餘り長くなるから一先づこれで筆を擱く事にする」といふ所に至りどうも尻切トンボの樣な批評で腑に落ちませんから原本を出して調べて見ると果して是はあなたの拵らへた文章だといふ事が分りました。あの位手を入れても好いのですがあれぢや讀んで行つてガツクリ落ちがしてヘナチヨコになつてしまひます。いつそ……とでもして置けば好かつたのです。もう間に合ひませんから何うも致し方がないのですがもし運よく次回増刷の運びにでも到る事がありましたら訂正して頂きたいと思ひます。學習院の講演の最初もちぎれてゐま〔す〕があれはまあ構ひません、其他にもあんな所がありますか序だから一寸伺つて置きます、先は右御禮旁御願迄 匆々
    十一月二十二日             夏目金之助
   松本道別樣
 
      二〇三三
 
 十一月二十二日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 佐世保市上町行徳俊則へ
 拜啓其後は御無沙汰に打過ぎ申候今般は御令弟南洋行につき至急の場合金貳百圓御立替申候處早速御送付相成正に落手仕候猶御地産名物一箱是亦慥かに相届き申候御厚意の段深く感謝致候先は右御報旁御禮迄 匆々頓首
    十一月二十二日             夏目金之助
   行徳俊則樣
 
      二〇三四
 
 十一月二十三日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 啓郭尚光の儀につき早速御返事難有候御手數奉謝候小生も大倉書店出版の支那畫家人名辭書を取調へ候處郭尚光號石蘭清人とあり略分明に相成候然し御來翰にては郭尚先〔右○〕の如く拜讀致候が該字書には郭尚光〔右○〕と明記致し居候いづれが正しきものにや軸物の落※[疑の旁が欠]は※[先の草書]〔右○〕とある故光先兩樣に讀みなされ候序ながら念の爲め一寸伺上候猶此頃御光來の節は右軸物可〔供〕貴覽何分の御批評願度と存候先は右迄 匆々
    十一月二十三日              金之助
   虎 雄 樣
 
      二〇三五
 
 十一月二十四日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 金剛草につき訂正色々御骨折被下御手數奉謝候至誠堂の方も賣行可成の由同店の爲に安心致候
 道草御所望にまかせ一部御覽に供し候御閑の節御通讀被下候へば光榮の至に候金剛草と申すは草の名の由小子固より見た事も無之候へども何か名前をつけろとの御相談ありし時歳時記を披見致候處そこに偶然有之候故其儘用ひ申候何の意味たるやは肝心の當人さへ承知致さずたゞの名前で意味なきものと御吹聽被下度候無責任との非難あらば甘んで《原》受け可申候
 先は右迄 頓首
    十一月二十四日             夏目金之助
   松本道別樣
 
      二〇三六
 
 十二月二日 木(時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二島崎友輔へ
 拜復御丁寧な御書面で恐れ入ります實は私も貴方の友輔さんで居らつしやるか否かに就て半信半※[獣偏+各]で居りました加賀美五郎七といふ人が柳塢さんは友さんの事だと教へては呉れましたが夫でもまだ果してどうかと疑つてゐたのです今回はからず御手紙を頂きまして昔の夢を思ひ出すやうな心持が致しますわざ/\の御光來は恐れ入る次第で私方から參上致すべきでは御座いますがもし御序も御座いましたら茅屋へ御立寄を願ひたいと存じますあなたの日常は定めて御多忙の事と存じますが私の閑生涯もそれ相當の仕事が始終身邊に堆積致して居りますので平常は木曜日を面會日と極めて居ります只今は何も毎日の書きもの御座いませんから木曜なら朝から人々に御目にかゝる事に致して居ります私方から時日などを指定致すのは失禮で御座いますが御照會故御返事を申上るので御座います私も彌生町二番地には知人が御座いますから其内折を得たら參上御高話を伺ひたいと存じます 頓首
    十二月二日               夏目金之助
   嶋埼《〔崎〕》柳塢樣
            几下
 
      二〇三七
 
 十二月二日 木 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 芋を澤山ありがたう 田舍から芋の俵をもらふといふ事は何だか野趣があつて甚だ愉快ですいつか北海道の南瓜をもらつた時のやうな心持がします
 御新著を讀み始めた處中途で一寸旅行をしましたので夫限になつてゐます他から寄贈された書物は其著者の好意に對して可成通讀して置きたいといふ心懸はありますが續々來るのでとても實行出來ないのは遺憾です 此度の新小説に赤木桁平君〔が〕君の書物に就いて何か長いものを書いてゐます私は一寸見ました
 又東京へ來た時御寄りなさい 奥さんへよろしく 敬具
    十二月二日
   和辻哲郎樣               夏目金之助
 
      二〇三八
 
 十二月二日 木 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保二〇一白日社氣付三木操へ
 拜啓御高著二種御寄贈にあづかり正に落手難有御禮申上ます御住居を承知致しませんので不得已白日社氣付として此手紙を認めました同社より滯りなく御手元に屆くやうに希望して居ります 頓首
    十二月二日               夏目金之助
   三木露風樣
 
      二〇三九
 
 十二月四日 土 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内鳥居赫雄へ
 拜復いたづら三枚御目にかけます御取捨御隨意也
 題詩題句ともに古きものゝみにて間に合せ候臆《原》劫を厭ふ所年の所爲と御勘辨可被下候但し畫も無責任のもの故どう相成つても毛頭遺憾なく候先は右迄 頓首
    十二月四日               夏目金之助
   鳥居素川樣
 一つ印章を逆さまに押したり
 
      二〇四〇
 
 十二月七日 火 前11-12 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ〔はがき〕
 「大黒天考」慥かに拜受致しました御好意を謝します私は大黒樣の因縁をよく存じませんが貴方がそんな事に興味を持つてゐられやうとは夢にも思ひませんでした一寸驚ろきました松本も驚いたでせう、松本は私の同級生デス
 
      二〇四一
 
 十二月十一日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 封入の入場券もし時間間に合ひ候節は是非御利用可然諸家の珍藏中には大變御參考になるもの有之候右迄 匆々
    十二月十一日                夏目金之助
   津田青楓樣
 
      二〇四二
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓久々御無沙汰を致しました御變りもない事と存じます鮭例年の通御送にあづかり難有御禮を申上ます書物二冊程岩波書店から御屆けするやうに致します書物が出來た時は近頃貰ひ手が多くなつたせゐか忘れてしまひます歳末乾鮭を見て急に思ひ出す始末です怠慢の罪を御ゆるし被下まし 以上
    十二月十四日              夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      二〇四三
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ〔はがき〕
 「心」と「道草」を一部づゝ横濱市元濱町一渡邊和太郎宛で送つて下さい 御手數恐れ入りますが 以上
    十四日
 
      二〇四四
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜復國華社展覽會御氣に召し小生も滿足の至に存侯偖個々の陳列品に對する御高見御洩し被下大部《原》參考に相成難有候が中には愚存と一致せざる向も有之候故御笑草の爲此一札を認め申候
 山越の阿彌陀は小生には有難き心地少なく候あのベタに金を塗つた彌陀の像のカラダ胸以下の處は何うもタコの化物の如く見え申候普賢はよささうに候それからマンダラも結構に存候然しあの辨天樣は一番藝術的の態度と恰好をしてゐると思ひ候
 御推賞の紫式部日記繪卷物といふもの小生の眼に入らず濟み候或は見たかも知れねど感じなかつたのかも知られずさうなると小生眼睛も少々疑はれ心細く候周文の三益齋は結構ながらあの遠景の山の書き方は頗るいやに候あれよりも無名氏の詩軸の方が拙眼には難なく思はれ申候啓書記はまづ御同感あれは複製と毫も異なる所なきものに候|華《〔崋〕》山が左程の技巧を蟲魚の圖に發揮してゐるにや是亦迂生には君程の感覺なく打過申候燕村に就ては大に異議有之候あの人のものを印刷で見てゐたうちは大に渇仰致し候も此間中よりあの種のもの五六幅を通覽するに及んで思つたよりも調子の低い畫をかく人だとの考目下しきりに小生の心に起り居候乾山の畫も殆んど見逃し申候雪村の李白などは厭なものに候正信の三笑はくれたら貰ふ位な程度と御承知願上候
 小生の好な畫少々御吹聽申候、まづ第一に雪舟の着色山水に候あれを見ると張瑞圖のクシやクシや山水などはなくもがなと思ひ候實に偉い高い感を引起し候夫からあの傍にある文靖の維摩の肖像です是亦氣高きものに候錢選筆赤い人物は何とも云へぬ落付きと巧者と高さを有して居り候が大兄には如何御覽なされ候や。最後〔に〕場中尤も劣惡のものを擧ぐれば呉春の鯉に松と存候元來あの第三席のうちには高い畫無之候梁楷が一つある丈に候が其梁楷のかいた布袋か何かの着物は太い筆の先を割いて墨の黒い奴でシやアと一筆に塗つたも今時の人がやればすぐ非難を招く事受合と存候。夫から大雅の横卷は珍品として眺め候いつもの大雅とはまるで違つてゐるから妙だと存候大雅の特色あるものゝうちで最上等のもの一幅及び竹田の極いゝものを一幅加へたい氣が致し候 右迄 匆々
    十二月十四日              夏目金之助
   寺田寅彦樣
 
      二〇四五
 
 十二月十四日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓例の徳田秋江先生よりは其後何とも拶挨《原》無之去る十日三十回分持參の約束も全く其儘の姿に候へども先日坂崎君への御言傳にて谷崎君の方既に成立せる事故安心致し捨置申候右の次第而徳田秋江君より例の問題につき何とか申來候とも(申來るやうにも思はれず候へども)もう立消になつたものとして交渉に應ぜぬ事に取極め候右御含み迄申上候
 猶同坂崎君を通じて大坂の方の新年に何か書くやうにとの注文有之候が双方書き分くるも面倒故同じ原稿をあちらへ廻し度と存候夫は元日に組み込まれなくても新年に出さへすればよからうと存候が如何にや其邊一寸如是閑君と御打合願上候尤も拙稿は一回にはあらず新年に關係なきかは知らねどぽつ/\途切れながら續かせる覺悟に候夫も御通知願上候 以上
    十二月十四日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇四六
 
 十二月十八日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 和歌山縣新宮町佐藤豐太郎へ
 拜啓御國培養の佛手柑三顆御惠贈にあづかり有難く奉謝候早速盆にもり飽かず眺め入候又先年頂戴致したるシヤチの牙齒は先達漸く機會ありて去る篆刻家に託し雅印を仕上げて貰ふ事に致し候へども未だ出來上らず候
 先は遙々の御好意に對し早速御禮迄 匆々頓首
    十二月十八日             夏目金之助
   佐藤豐太郎樣
 
      二〇四七
 
 十二月二十二日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鎌倉由井ケ濱菅虎雄へ
 拜啓談書會の件につき御高配を煩はし恐縮の至に存候會誌四冊正に到着大に今《原》情を慰め申候楷法溯源といふものも大兄の御命令とかにで持來り候買つて買へぬ事はなけれど夫程必要のものにも無之候故他日に讓り申候先日御歸りの節は火鉢額懸物にて嘸かし御難儀の事と存候右御禮迄 匆々頓首
    十二月二十二日               金之助
   虎 雄 樣
 二伸此度の御手紙は前年度のものに比し遙かに上出來に候あの分ならば友達の縁故を以て保存致し置可申候猶斯道の爲め御奮励祈候 珍重々々
 
      二〇四八
 
 十二月二十五日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓御約束の元日組込のものを今日書かうと思つて机に向つて見ましたがどうも御目出度いものとなると一向趣向が浮びませんので甚だ御氣の毒ですが去年の例にならひ正月上旬迄延ばして下さい大阪もあてにしてゐるでせうから是はあなたから宜敷御取なしを願ひます
 私の正月から書くものゝ名は點頭録といふ題で漫筆みたやうなものです
 どうも違約を致して申譯がありません御目にかゝつて萬々御詫を致す積です 以上
    十二月二十五日              夏目金之助
   山本松之助樣
 リヨマチで腕が痛みますつゞけて机に※[憑の心が儿]る事が出來ません
 
      二〇四九
 
 十二月二十九日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 栃木縣那須郡烏山町屋敷町江口※[煥の火偏がさんずい]へ
 拜啓御結婚の由御祝ひ申上ます御父さんとの間柄も圓滿に解決萬事御滿足の御樣子何よりの事です私は久しくあなたが來ないから何うしたのだらうと思つてゐました岡田も結婚君も結婚さうして學校へ出席して卒業さへすれば此上はないと思ひます先は御祝詞旁右迄 匆々頓首
    十二月二十九日              夏目金之助
   江 口 ※[煥の火偏がさんずい]樣
 
 大正五年
 
      二〇五〇
 
 一月八日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ
 拜復 男子御出生の由大慶に存候命名の儀承知致候へども別段の思案も無之候今年は辰年故辰の正月にちなみ辰一は如何にや或は大正五年一月を以て生れたる故大一。正五、正一などは如何大一は小生亡兄の名に有之候正一は手品師の名にも有之候故御勸めする氣も無之候辰は龍にて龍《原》にて天に上るもの故|昇《ノボル》では如何正岡子規の名は升《ノボル》に有之其他辰之助、春五。四國、(三田四國町で生れたる故)など考へ付きたれど何れも是はといふ樣な好きものは無之候
 右のうちにてもし御氣に入りたら御命名可然もし又ぞつとしないものばかりなら已めに被成度決して御遠慮に及ばず候名をつけるのは誕生より幾日迄に必要なるかを知らず候へども其内思ひつき浮び候へば此方より又可申上候 以上
    一月八日                  金之助
   豐 隆 樣
 
      二〇五一
 
 一月八日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 相撲に關する書物わざ/\御送り被下ありがたく御禮申上候今日は原稿を書かうと思つてゐる處〔へ〕謠の先生が來其稽古中君より電話がかゝりたる故御斷り致したる處赤木桁平君が八丈島へ行くとて暇乞に見えた次第是では君を斷らないでも同じ事になつた譯に候色紙正に落手氣が向いたら絹を汚し可申候
 先は右迄 匆々
    一月八日                 夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 
      二〇五二
 
 一月十日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 芝區三田四國町二、一號小宮豐隆へ〔はがき〕
 御手紙拜見好き名思ひ出さず、金五とは金五郎の略字の樣で如何がかと思ふ。金吾或は金伍にては如何 右迄 匆々
    一月十日
 
      二〇五三
 
 一月十三日 木 後0-1 牛込區早稻田南町七より 埼玉縣秩父郡樋口村四方田美男へ
 御手紙は拜見致しましたが別に是といつて名案もありませんたゞ御氣の毒に思ふ丈です世の中にはあなた位な境遇にあるものが幾人ゐるか分らないと云ふ事實が充分な慰籍ニナリハシマセンカ
 
      二〇五四
 
 一月十三日 木 牛込區早稻田南町七より 在シヤム井田芳子へ〔うつし〕
 お手紙が正月十日頃着きました。私は御無沙汰をして濟まないと思ひながらつい臆《原》劫だものだから無精を極めてしまふのに貴女は時々厭きもせずに音信を下さる。まことに感心です。尤も用がなくつて怠屈だから仕方なしに手紙を書くんだろうと思ふと有難味も大分減る譯だが夫でも私よりも餘程人情に篤い所があるから矢張り私から云へば感心です。
 和子さんにはそれから二三遍會ひました。書をかけと云ふから書きました。下手な字を書かせて御禮を云つて持つて行く人の氣が解らないですね。和子さんと云へば貴女も和子さんも御嫁に入つてからの方が樣子が好くなりましたね。是は男子というものに對して臆面がなくなるからでせう。あなた方は結婚前からあまり臆面のある方ぢやなかつたが夫でも娘の時分より細君になつた方が私共には話しやすい樣な氣がします。
 あなたのゐる方は暑いさうだが此方は又御承知の通り馬鹿に寒いんで年寄は辟易です。氣分はいつでも若い積でゐるがもう五十になりました。白髪のぢゞいです。あなた方から見たら御とつさんの樣な心持がするでせう。いやだなあ。
 今日は好い天氣です。縁側で日向ぼつこをしながら此手紙をかいてゐます。シヤムの御正月は變な心持でせう。單衣を着て御雜煮を祝ふのは妙でせうね。
 シヤムと云へば長田秋濤さんは死にましたね。あなたの旦那樣や西さん達と一所に撮つた寫眞が太陽か何かに出てゐたから大方秋濤さんはシヤムへ遊びに行つたのでせう。だからあなたも知つてゐるに違ない。人間の壽命はわかりませんね。此次あなたが日本へ歸る時分には私も死んでしまふかも知れない。心細いですね。とは云ふものの腹の中ではまだ/\何時迄も生きる氣でゐるのだから其實は心細い程でもないのです。
 昨日は露西亞の皇帝の叔父さんとかに當るえらい御客さんが東京驛に着いたので天子樣が出迎に行つたのです。其何とかいふ長い名の御客さんは今日午は伏見宮晩は閑院宮へ呼ばれて御馳走になるとかで新聞に其獻立が出てゐましたが、あゝつゞけて食べた日にや却つて遣り切れないだらう。餘計なお世話だが一寸御氣の毒に思ひます。
 明日から國技館で相撲が始まります。私は友達の棧敷で十日間此春場所の相撲を見せてもらふ約束をしました。みんなが變な顔をして相撲がそんなに好きかくと訊きます。相撲ばかりぢやありません。私は大抵のものが好きなんです。
    一月十三日                夏目金之助
   井田芳子樣
 
      二〇五五
 
 一月十九日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内松山忠二郎へ
 拜復御案内有難く候小生去冬以來風邪の氣味にてそれが爲か左の肩より腕へかけては鈍痛はげしくリヨマチか肩の凝か知らざれど兎に角醫者の手に合はず困り入候現に原稿などをかくのが非常の苦痛と努力に候去年以來約束の相撲見物丈は原稿より骨が折れない故どうか斯うか今日迄繼續致候も愈となれば是も欠席の覺悟に候此際の御案内甚だ無禮ながら我儘を申せば聊か苦痛の氣味に有之候久しく諸君と會せざる故かういふ好時機を利用したきは山々なれどどうも坐つて居られさうにもなく候相撲は後ろへ寄りかゝり背中をしきりに動かしどうにか斯うにか持ち應へ居候も夜中は痛みの爲安眠の出來ぬ始末に候
 電話で御返事する等の處くだ/\しくて却つて面倒故書面にて申上候何卒あしからず
 萬一向後諸君と會合の場合もあらば其節參上萬々御詫可申上候 以上
    一月十九日               夏目金之助
   松山忠二郎樣
 
      二〇五六
 
 二月十七日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下下池谷一二二小泉鐡へ
 拜啓秦《原》西の繪畫彫刻四卷御惠贈にあづかりましてまことに有難う存じます厚く御禮を申上ます私はリヨマチで此間中から轉地を致して居りましたが昨日歸京致しました書物は何時參つたか存じませんでした故御挨拶が遲くなりました御勘辨を願ひます 以上
    二月十七日               夏目金之助
   小泉 鐡樣
 
      二〇五七
 
 二月十七日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 府下中野町桐ケ谷一〇一八阿部次郎へ〔はがき〕
 拜啓赤い部屋ありがたく頂戴しました轉地をしてゐたので御挨拶が後れました昨日湯河原から歸りました
    二月十七日
 
      二〇五八
 
 二月十八日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町神福寺鬼村元成へ
 拜啓 私はリヨマチの氣味で轉地して相州湯河原といふ温泉に廿日間ばかり暮してゐました一昨夜歸つて御手紙を見ました 病氣の方はまあよい方です あなたの胃病は中々難症のやうですね大事になさい 多數の飯を焚くのは隨分難義でせうね 私は歸りに鎌倉へ行つて宗演さんの病氣を見舞つて來ました宗演さんには會ひませんでしたが敬俊といふ御坊さんに會つて見舞の挨拶をして來ました あなたは多分知らないでせうね
 富澤さんへよろしく 以上
    二月十九《原》日            夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二〇五九
 
 二月十八日 金 後1-2 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 私はリヨマチで轉地を致しまして二十日ばかり留守にしました一昨十六日晩歸りました點頭録をずる/\べつたりにして濟みません 轉地中に稿をつぐつま《原》りでありました所先方に知つた人があつて一所にのらくらして居たものだからつい御無沙汰を致しました 歸つてからあとをどうしたものだらうかと考へてゐます 谷崎君のあとの小説は書かなければならないのだからそれ次第とも考へますが同君のものは大體の所何日頃迄つゞきますか一寸伺ひます それによつて準備を致しますから御面倒でも教へて下さい 以上
    二月十九《原》日            夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇六〇
 
 二月十九日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 府下田端四三五芥川龍之介へ
 拜啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを讀んで見ましたあなたのものは大變面白いと思ひます落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます文章が要領を得て能く整つてゐます敬服しました。あゝいふものを是から二三十並べて御覽なさい文壇で類のない作家になれます然し「鼻」丈では恐らく多數の人の眼に觸れないでせう觸れてもみんなが黙過するでせうそんな事に頓着しないでずん/\御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身體の藥です
 久米君のも面白かつたことに事實といふ話を聽いてゐたから猶の事興味がありました然し書き方や其他の點になるとあなたの方が申分なく行つてゐると思ひます。成瀬君のものは失禮ながら三人の中で一番劣ります是は當人も卷未で自白してゐるから蛇足ですが感じた通りを其儘つけ加へて置きます 以上
    二月十九日               夏目金之助
   芥川龍之介樣
 
      二〇六一
 
 二月二十二日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 本郷區第一高等學校菅虎雄へ
 拜啓二三日前副島蒼海伯の書を得た處讀めぬ處あり臨※[莫/手]貴覽を煩し御判定を仰ぎ度と存候書は七絶にて左の如し
  〔副島伯七言絶句寫し略〕
 是は山上陰雲一鷲沖。山須原豁急西風。我行久在〔二字右○〕深
林  《・〔二字不明〕》送〔三字右○〕(?)(又は道〔右○〕?)此〔右○〕 《・〔一字不明〕》《◎》兀 《・〔一字不明〕》空 と讀むのだらう思ふが○をつけた處は不確實◎をつけた字は全然不明なり他日機會があれば見て貰ふがまあ一寸見ないで讀んでくれ玉へ 以上
    二月二十二日              金之助
   虎 雄 樣
 〔後略〕
 
      二〇六二
 
 二月二十二日 火 後8-9 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓別紙廣告の書物古るにてもし安く手に入り候はゞ御求め置き被下度候又古るにて出る見込のなきものならば此際七圓で貫はうかとも存居候 如何なものにや 以上
    二月二十二日               夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      二〇六三
 
 二月二十四日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 あなたは病氣で寐てゐるさうですねちつとも知らなかつた痛いでせう然し内臓の病氣よりはまだ樂かも知れない辛防なさい本が讀みたいといふから何か送つて上げやうと思ふが何を上げていゝか分らない注文があるなら買つて送つて上げませうどんな種類の本ですか云つて御よこしなさい無暗に高い本は不可ません 以上
    二月二十四日               夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二〇六四
 
 二月二十六日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下下澁谷一二二小泉鐡へ〔はがき〕
 ストリンドベルグの譯第一集御惠贈正に頂戴致しました毎々御心にかけられての御配慮深く御好意を謝します右迄 匆々
 
      二〇六五
 
 二月二十六日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 横濱市日本郵船會社支店氣付富山丸神谷久賢へ
 拜復御手紙をありがたう煙草も正に頂きました他に御土産を買つてくるといふ事は餘程親切に心掛ても中々出來にくいものですどうも恐縮です私はあなたから夫程思はれて可然事を何もしてゐないのだから
 湯河原からは一週間程前に歸りましたリヨマチは略快癒しました少々腕がシビレる位です
 潜航艇の難をまぬがれたかと思ふとすぐ世界周航ですか隨分怱《〔?〕》忙ですね然し若いうちは夫が却つて刺戟になつて面白いのでせう御無事と御成功とを折ります 以上
    二月二十六日             夏目金之助
   神谷久賢樣
 
      二〇六六
 
 二月二十六日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 昨日は失敬又あの竹の繪を床の間で見たら實に辟易しましたもう畫だの字だのを決して人にやるものぢやないと思つた位辟易したのですどうぞあれを返して下さい私の耻はまあ可いとして畫家をもつて立つ君の體面にもかゝはりますから。
 あの屏風はどうしてもいけませんね正直な所もう一遍考へ直す必要があります私を忠實な助言者と御思ひなさいうそは申しません商買とはいひながら君だつて責任もあり名譽もあります無暗に手を拔いたからと云つて不愉快は何時迄經つても不愉快に極つてゐませう然し君はあの描法を新らしいものと信じてゐるのだから決して惡意があるとは認めませんがあれを一年間仕舞つて置いて急に取り出して見たら今の私と同感になるに極つてゐます
 決して頑固を押し通し給ふ事なかれ 珍重々々
    二月二十六日               夏目金之助
   津田青楓樣
 いつぞや書いた我師自然といふ額の字もどうか撤回したいと思つてゐます今度寸法を取つて置いて下さいませんか夫に合はせて書き直しますさうして張り替へます、方々へ耻の掻き棄をやつてゐるので尻拭に骨が折れるばかりです、其尻拭が一年經たないうちに又耻ざらしになるのだから甚だ情ない次第です奥さんへよろしく
 
      二〇六七
 
 二月二十八日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 啓金剛草といふ本を送ります詰らんものですもし病中の徒然を慰める事が出來るなら幸福です
 馬場孤蝶後援集といふものはうちにありましたが此間こんな本を悉く人にあづけましたから其方にあるかも知れません或はなくなつたかも知れませんもしあつたら屆けます
 あなたは岡山の寂巖といふ坊さんを知りませんか此人の書は見事だといつて他から注意されました私は其人の書が見たくなりました欲しくなつたのかも知れません是はたゞ序だから伺ふのです 以上
    二月二十八日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 富澤さんへよろしく。病氣を御大事になさい。あなたの老師は字がうまいですか。私は書や畫が好きだからついこんな事を聽きたがります
 
      二〇六八
 
 二月二十八日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四三内田榮造へ〔はがき〕
 拜啓此間君が持つて歸つた本のうちに馬場孤蝶後援集がありますかもしあれば神戸平野祥福寺鬼村元成宛デ小包デ送つて下さい面倒ながら 以上
    二月二十八日
 
      二〇六九
 
 三月三日 金 後10-12 牛込區早相稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 拜啓今日上野へ行つて國民美術協會の展覽會を見ましたあなたの屏風は傑作ですあの位なものは滅多に出來ないでせうあれを他にやるのは惜しい氣がします何なら私が讓り受けてはと迄思ひましたあれは大變手がかゝりましたらうが本式ですどうかみんなあの位に出來ればいゝと思ひます出來さへよろしければ手を拔いても何でも構はないのは無論でありますが
 右御報知迄 以上
    三月三日                夏目金之助
   津田青楓樣
 天岡※[金+均の旁]一といふ人を知つてゐますかあそこへ銅器や陶器を出品した人ですもし知つてゐるなら宿所を教へて下さい夫からどこ出の人でどんな事をしてゐるかも教へて下さい
 
      二〇七〇
 
 三月四日 土 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ 使ひ持歸
 復軍鷄澤山にありがたう効能書もかゝる時には非常にきゝ目あるやうにて喰はぬ先から旨い氣特が致します仰の如く今夜膳に上せ大いに賞味する覺悟右不取敢御禮迄 匆々
    三月四日              金之助
   米 松 樣
       座下
 
      二〇七一
 
 三月九日 木 前11-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區向ケ岡彌生町二寺田寅彦へ
 拜啓先日は久し振で御尋ね致したる處御病氣の爲め不得御面語遺憾此事に存候奥さんの御話にてはもう大した事もなからうとの事故安心致し其儘御見舞も申上ず今日迄打過居候然し其後の御消息頓と相分らず或はまだ快くならず御伏せりではなきかと思ひそれで手紙で一寸御見舞を致す譯に御座候
 此間は湯河原より歸京後にて御藏幅拜見の機もあらばと存じ參上したる次第向後そんな場合もあらば素志相果し度是も序を以て願置候 以上
    三月八日                  金之助
   寅 彦 樣
 
      二〇七二
 
 三月十日 金 前11-12 牛込區早稻田南町七より 麹町區一番町二松學舍木下國一へ〔はがき〕
 私はあなたに何も慰藉を與へる譯に行きますまい然し會ふ前のあなたの煩悶の大体を手紙で書いて來て御覽なさいそれによつて會ふと會《原》ふ必要がないとか返事をしますから
 
      二〇七三
 
 三月十三日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 麹町區一番町二松學舍木下國一へ〔はがき〕
 御手紙は拜見致しましたが私の手際では何うして上げる譯にも參りません甚だ御氣の毒の至ではありますが御斷りの御返事を差上ルヨリ外に仕方ガアリマセン
 
      二〇七四
 
 三月十六日 木 後1-2 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜復良寛上人の筆蹟はかねてよりの希望にて年來御依頼致し置候處今回非常の御奮發にて懸賞の結果漸く御入手被下候由近來になき好報感謝の言葉もなく只管恐縮致候
 良寛は世間にても珍重致し候が小生のはたゞ書家ならといふ意味にてはなく寧ろ良寛ならではといふ執心故※[草がんむり/松]翁だの山陽だのを珍重する意味で良寛を壁間に挂けて置くものを見ると有つまじき人が良寛を有つてゐるやうな氣がして少々不愉快になる位に候
 さて良寛の珍跡なるは申す迄もなく從つて是を得るにも隨分骨の折れる位は承知致候所で是はどうしてもたゞで頂戴致すべき次第のものに無之故相應の代價を乍失禮御取り下さるやう願ひ上候御依頼の當初より其覺悟に有之候旨は其節既に御話し致し候とも記憶致し居候へば誤解も有之間敷とは存じ候へども念の爲故わざと申添候たゞし貧生嚢中幾何の餘裕あるかは疑問に候へば其邊は身分相應の所にとゞめ置き度是も御含迄に申上候
 其外に拙筆御所望とあれば何なりと御意に從ひ塗抹可仕良寛を得る喜びに比ぶれば惡筆で耻をさらす位はいくらでも辛防可仕候
 先は右不取敢御返事迄餘は四月上旬御來京の節拜眉の上にて萬々可申述候 以上
    三月十六日               夏目金之助
   森成麟造樣
 兩三日來風邪に〔て〕臥蓐此手紙床の上に起き直りて書いたものに候乍筆末奥さんへよろしく猶良寛幅代價御面會の節差上度考故あらかじめ其都合に致し置度と存候間前以て一寸金額丈御報知被下は幸甚に候
 
      二〇七五
 
 三月十八日 土 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町六二森田米松へ
 御彼岸の牡丹餅ありがたく頂戴ドストユヴスキ小説序を以て御返却致候
 先日願置きたる安藤現慶氏の住所御報知願上候
 後刻使まかり出候時紙片へでも御認め御渡し被下度候其節小生書籍にて御手元にあるもの一應御返し願候方々へ貸したるを整理の必要上一度取りもどす譯に候 右迄 以上
    三月十八日               金 之 助
   米 松 樣
 
      二〇七六
 
 三月十八日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 愛知縣安城町大字赤松安藤現慶へ
 拜啓愈御多祥奉賀候偖先年拜借致したる佛書三部其後拜顔の機をまち御返却可致心算に御座候處生憎面語の折なく今日に至り無申譯な《原》く候過日來兩三度御宿所を森田君に尋ね今日漸く相分り候につき右御藏書小包にて御郵送申上候につき御落手被下度候 以上
    三月十八日               夏目金之助
   安藤現慶樣
 
      二〇七七
 
 三月十九日 日 後1-2 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ〔はがき〕
 私の腕の痛は大分好くなりました御尋ね下すつて有難う御座います湯河原からは餘程前に歸りました
 
      二〇七八
 
 三月十 《〔?〕》日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 本郷區菊坂町菊富士樓本店池崎忠孝へ〔はがき〕
 眞山民詩集正に着御好意ありがたく候 此次代價差上可申候 御禮迄 匆々
 
      二〇七九
 
 四月十二日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 高田市横町森成麟造へ
 拜啓御上京の節は何の風情もなく失禮致候良寛和歌につき結果如何と案じ煩ひ居候處木浦氏手離しても差支なき旨の御報何よりの好都合に候十五圓だらうと百圓だらうと乃至千圓萬圓だらうともと/\買手の購買力と買ひたさの程度一つにて極り候もの其他に高いの安いのといふ標準は有り得べからざる品物に候へば幸身分相應の代價にて讓り受ける事相叶ひ候へば有難き仕合せに候猶此點につき大兄の一方ならぬ御盡力と木浦氏の所藏割愛の御好意とを深く感謝致し候
 代金十五圓は荊妻に命じ爲替と致し此中に封入差出申候につき御落手被下度侯早速經師屋を呼び兩幅とも仕立直し忙中の閑日月を得て良寛の面影に親しみ可申候先は御禮旁右迄 匆々
    四月十二日               夏目金之助
   森成麟造樣
       座下
 
      二〇八〇
 
 四月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 此間中は御老人御病氣の爲め御歸省の由幸御快氣の趣にて再び御東上結構に存候 心越禅師の幅物手に入り候由何よりの堀り出し物羨ましき限に候 小生も良寛の書を二幅程得候内一幅は小品なれど大變結構の出來に候今度心越禅師を拜見の序を以て可供高覽候
 小生の英書或は御手元に殘り居り候はゞ一應御返却願度段々人に貸して行衛不明のもの出來候につき一寸整理致し度と存じ此間中よりそちこちと徴發致し居候元より至急を要する事にてはなけれど右の事情故どうぞ其積にて序もあらば御持參願上候 右迄 匆々
    四月十二日                金之助
   豐一郎樣
 
      二〇八一
 
 四月十二日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨村池袋七四六前田利鎌へ
 拜復私はあなたの名を忘れてゐました前田利鎌といふ名前を眺めてゐるうちに若しやあの人ではなかつたかと思ひ出しましたがそれも半信半疑でありました穴八幡の處で會つた人があなただらうとは夢にも思ひませんでした若しあれがあなたなら私の小説の縮刷を手にしてゐはしませんでしたか
 私は多忙だから面會日の外は普通の御客には會はない事に極めてゐます面會日は木曜日ですが木曜は學校があるからあなたも忙がしいでせう然し學校が濟んでから來る勇氣があるなら入らつしやいお目にかゝりますから 以上
    四月十二日               夏目金之助
   前田利鎌樣
       座下
 
      二〇八二
 
 四月十九日 水 後2-3 牛込區早稻田南町七より 府下巣鴨町上駒込三二九野上豐一郎へ
 拜復 謠會の御招待有難く存候然る處小生近日稽古を廢し此種の會合には當分出ない積故葵上の役割はどうか他に御選定を願ひ度候考へて見るに謠は一人前になるには時間足らず今許す時間内にては碌な事は出來ず已めた方が得策と存候其上近來○○といふ男の輕薄な態度が甚だ嫌になり候故已めるのは丁度よき時機と思ひつき遂に斷行致し候序を以て餘計な御シヤベリを致し御清聽を涜し嘸御聞きにくき事と存侯 右迄 匆々
    四月十九日                 金之助
   豐一郎樣
 愚存にては○氏より小鍛冶の方が數等眞摯なる藝術家に候然しあれも其内スポイルされる事と存候
 
      二〇八三
 
 四月二十日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓過日は久振にて拜顔色々御高話承はり滿足此事に候迂生病氣につき種々御心配是亦深く奉鳴謝候乃ち御高配に從ひ十九日朝より二十日朝に至る迄二十四時間の尿を一部分差出し候間可然御檢査相成度候猶其後の食物表別紙の如くに候間是亦御參考の爲め御覽被下度候如仰蛋白のみ攝取致候と反つて酸を増し候にや胃痛も起り運動も出來かね候老境に近くと段々色々の故障ばかりにて甚だ心細き次第に候
 猶向後の養生方其他に就ては檢尿の上何分の御注意賜はり度電話にて御都合御報被下候へば又々御邪魔ながら本郷迄出掛可申候先は右用事迄 匆々
    四月二十日               夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
 
      二〇八四
 
 四月二十二日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 横濱市元濱町一丁目一渡邊和太郎へ
 拜啓先日は御手紙頂戴有難く拜見致候早速岩波へ問合せ候處果して間違にて昔の手紙に棒を引いてなかつたためと判然致候同人より其旨申上たる筈なれど猶小生よりも御手數を煩はしたる儀につき御挨拶申上候岩波は書籍返送の儀申入候樣に承り候がそれも御面倒と存じ候へば御打棄置被下度候若しや渡邊傳君へあの本を上げてなかつたら餘り物で失禮には候へども貰つて頂きたいとも存候如何のものにや序の節同君に御たづね被下度候若し又岩波の申上候通同店へ御送附濟に候へば是亦それにて宜敷以上の御配慮御無用に候先は右御詫旁當事のみ 匆々敬具
    四月二十二日              夏目金之助
   渡邊和太郎樣
 
      二〇八五
 
 四月二十二日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓先日は御面倒相願多謝猶本日御指定通り昨日の尿三回分差出候間可然御取計願上候
 咋一日の食事表及び目下服用中のソーダ剤處方是亦貴意の如く相添御參考に供し候向後も宜敷樣御指圖被下度出來る丈は確定方針を守る心得に御座候 右迄 敬具
    四月二十二日               夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
        榻下
 
      二〇八六
 
 四月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『文章倶樂部』へ〔應問 五月一日發行『文章倶樂部』(寫眞版)より〕
 「文章初學者に與ふる最も緊要なる注意」といふ御質問をうけましたがちと問題が大きくて一口に申上かねるやうです。然し一番ためになるのは他の眞似をしやうと力めないで出來る丈自分を表現しやう〈と努力させる注意ではないでせうか。他から受ける感化や影響は既に自分のものですから致し方がありませんが好んで他を眞似るのは文章の稽古にも何にもならないやうです自分の發達を害する許だと思ひます。從つて感化と模倣の區別をよく教へてやるのも好い方法かと考へます
 何か御返事を上げないのも失禮だと存じて一口御答を致します固より深く考へた上の事でありませんから粗雜至極のものです 以上
                        夏目金之助
 
      二〇八七
 
 五月一日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓御指定の通尿三瓶差出候可然御取計願上候昨日の食事表も相添申候當用迄 匆々
    五月一日                 夏目金之助
   眞 鍋 樣
 
      二〇八八
 
 五月二日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみへ
 御手紙をありがたう私も久しく御無沙汰を致しました御變もなくつて結構です私は病氣をしに生れて來たやうなものですから始終どこかわるいのです然し今は起きてゐますさうして近いうちにくだらないものを新聞に書かなければなりません
 金ちやんはゴリオシが出來なくつて例の男が妻君をもらつちまつたといふ話ですねどうも氣の毒の至です然し早速あとを見付けて代りにすればちつとも差支ないでせう私のカヽアへの手紙は歸つたら渡しますカヽアは今外出して宅に居ませんまづ此位で御免蒙ります さよなら
    五月二日                 夏目金之助
   野村御君樣
 花をありがたう東京では御花見に一遍も行きません
 
      二〇八九
 
 五月六日 土 前10-11 牛込區早稻田南町七より 下關市觀音崎町永福寺鬼村元成へ
 あなたの出來ものはもう全快したさうで結構です下關へ行かれたさうですが其邊で好い御寺が見つかりますか あなたはまだ若いから和尚さんになるのは骨が折れるでせう然しなれたら又和尚さんらしい便利だの自由が得られるでせう 下關は一度町を通つた事がある丈で慥かな記憶がありませんが何でも細長い町だと覺えてゐます 富澤さんは勉強して知識になると云つてゐましたが此頃でも一生懸命に修業をしてゐますか 私は始終からだ〔が〕惡くて困りますまあ病氣をしに生れに《原》來たやうな氣がします 是から又小説を書くので當分忙がしくなります 以上
    五月六日                 夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二〇九〇
 
 五月十八日 木 牛込區早稻田南町七より ジヨーンズへ〔うつし〕
 拜啓小生先日來病氣にて打臥り居候ため御申越の拙著翻譯の件に關する御返事相後れ甚だ遺憾に候右に就き卑見は左の如くに候
 (一)「二百十日」の英文出版が教育のため、若くは他の公共の目的の爲め、或は單なる物數奇の爲にて、利得に關係なきものなる以上、小生は無條件にて出版を承諾するもの〔に〕有之候 又右に就き御兩君の御盡力を銘謝するものに候
 (二)もし又相當の物質上の収入を目標としての事業なる上は作者としての小生も應分の取得を請求可致候是は利得の問題といふよりも寧ろ理非の問題として斯く申す次第に候
 元來「二百十日」は大した實質ある作物にても何でもなく英譯の價値ありとも存じ居らず候へば可相成は出版御見合せの程こそ小生に取りて願はしき事に御座候
 右返事迄 敬具
    五月十八日               夏目金之助
   ジョー〔ン〕ズ樣
 
      二〇九一
 
 五月二十一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓此間中から少々不快臥牀それで小説の書き出しが豫定より少々遲くなつて濟みませ〔ん〕谷崎君の二十日完了の筈のものが二十四迄延びたのも夫が爲の御斟酌かと存じ恐縮してゐます此分では毎日一回宛は書けさう故御安心下さい
 却説小生の宅へ來る赤木桁平と申す人が今度の「明暗」の原稿を是非貰ひたいと申します私は斷るのも氣の毒ですから社へ聞き合せて置かうと申しましたが如何なものでせう若し御差支なくば、又大した御手數にならないならば御保存の上完結後取り纒めて同氏へ渡してやりたいと思ひます一寸手紙で御都合を伺ひます 以上
    五月二十一日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇九二
 
 五月二十一日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 滿洲大連南滿洲鐵道株式會社内上田恭輔へ
 拜啓高著生殖器崇拜〔教〕の話遙々御惠贈にあづかり有難く御禮申上候小生斯ういふ學問に就ては全くの門外漢故拜讀の際種々の點に於て利益を受け候事尠〔か〕らず候不取〔敢〕右御挨拶迄 匆々不一
    五月二十一日               夏目金之助
   上田恭輔樣
 
      二〇九三
 
 五月二十一日 日 後8-9 牛込區早稻田南町七より 京都市高臺寺枡屋町大虎野村きみ、梅垣きぬへ〔はがき〕
 粽をありがたう何か御禮に上げますから欲しい食べたいものを云つて御寄こしなさい、東京にあるものはみんな京都にありさうで見當がつかないから。
 うまい鹽煎餅はいかゞ
 
      二〇九四
 
 五月二十五日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町七〇松本道別へ
 御手紙拜見致しました至誠堂は氣の毒ですが斷りました外に約束がありま〔す〕から、それに私の本は新らしいのでもさう澤山は賣れやしません
 それから絹に書く事は白耳〔義《?》〕の爲でも何の爲でも御免蒙ります近頃は時々そんな突飛な注文を受けて撃退するのに困る事があります 呵々
    五月二十五日               金之助
   松本道別樣
 
      二〇九五
 
 五月二十八日 日 牛込區早稻田南町七より ジヨーンズへ〔うつし〕
 御手紙拜見致しました。「二百十日」はかつて羅馬字會で出版したいと申しました節許諾を與へましたので其本が御手元に渡つたため今回の英語翻譯となつたのだらうと推察されます。既に英語教授の目的で御翻譯になる以上それを同樣の目的で他の學校に使用される事は毫も差支御座いません。幾分か學生の便宜になる事だらうと思ひますから。
 但し作物として藝術上翻譯の價値があるかないかの問題になると、私は全く自信がありません故、若し御翻譯が教育上の目的にせよ一般に流布されるやうな場合には緒言にでも「作者を代表するに足る好い著述ではないが羅馬字で出版されてゐるので、英譯上便宜があるから、著者の意向如何に拘はらず、とくにこれを翻〔譯〕した」と御注意下さるやう願ひます。
 私の考へでは「二百十日」よりも「坊ちやん」の方がまだ増しだらうと考へます。私の友人が鹿兒嶋の高等學校にゐた英人に「坊ちやん」を讀んでやつてゐた事があります。(英人へ日本語を教へるため)是は餘計な事ですが御參考のため書き添へます。
 英語で御返事をかくのが臆《原》劫ですから日本語で書きました。それも羅馬字で書いた方がよろしからうと存じましたが、今回も御知り合の日本の教授方を煩はす事にして、書きよい書き方で御免蒙ります。以上
    五月二十八日               夏目金之助
   ジヨー〔ン〕ズ樣
 
      二〇九六
 
 六月四日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 麹町區平河町六丁目五松山忠二郎へ〔はがき〕
 拜啓明日の編輯會へは成るべく都合して出ますが若し出なかつたら小説執筆の爲め時間の差繰がつかなかつた事と思つて下さい
 
      二〇九七
 
 六月九日 金 後7-8 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木六九下山儀三郎へ
 拜啓昨日は失禮致しました其節御依頼の御令孃命名の儀は小生の漱石の石をとりいし子と致しました自分の雅號などを人につけて遣る事を私は甚だ好まないのでありますが昨日の御話を伺つて見ると御斷りを致すのが如何にも御氣の毒でありますから僭越を忍んで御希望の如くに取計ひました向後健全の御發育と立派なる御成長とは小生の切望する所であります 敬具
    六月九日                 夏目金之助
   下山儀三郎樣
 
      二〇九八
 
 六月十日 土 後3-4 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓今日さき程投函致しました明暗(二十四)の一番仕舞際に「其小路を行き盡して突き當りにある藤井の門を潜つた時、彼は突然彼の一間ばかり前に起る砲〔右○〕聲を聞いた」といふやうな文句がありますが、もし砲〔右○〕聲となつてゐたらそれを銃聲と訂正して置いて頂きます。もし又砲聲とも銃聲ともなく他の「どんといふ音」とか「鐵砲の書」とかなつてゐたらその儘でよろしう御座います。何だか書いたあとで不圖氣が付いた樣で其癖自分の使用した句をはつきり覺えてゐない樣なので つい不得要領な御願を致す事になりました 以上
    六月十日                 夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二〇九九
 
 六月十日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 福島縣信夫郡瀬上町門間春雄へ〔はがき〕
 佐久良んぼう一箱正に頂戴致しました御禮を申上ます 以上
    六月十日
 
      二一〇〇
 
 六月十四日 水 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町五六中島六郎へ
 拜啓。長い御手紙で御譴責を蒙りまして恐縮の至であります
 あれを拜見すると私が貴下に對して申し譯のない陋劣な所業でも致したやうに感ぜられますが、私はそれを意外に存じます、又遺憾に存じます、何となれば私には一向其理由が解らんからであります、
 私は只今迄娘共を親切にお教授下すつた貴下に對して感謝の意をもつて居りました、其微意を表するため愚妻と娘とは近日中御禮のため參上致す事になつて居りました、然しあゝいふ御手紙を頂いた上は、何うして好いか解らなくなりました、何となれば貴下があゝいふお考をもつて居られる以上は、此方の好意を好意としてお受け下さらないだらうといふ掛念があるからであります、侮辱を受けるために妻や娘を他人の家に遣はす事を私は夫とし又親として耻づるからであります、貴下はあの手紙によつて惡意のない貴下の既往のお弟子と其父兄とが貴下に對して表しやうとする感謝の念を如何なる方法によつても發表する事が出來ないやうにしてしまつたのだとお認めにならん事を希望致します。
 妻と娘がお禮旁出た上で詳しくお話を致す筈になつて居りましたが、以上の理由で當分參上する自由を得ませんから、父として私から申し上げます、
 娘は此月からもうピヤノの御教授を貴下から受けない事になりました、
 既往のお教授ぶりに就いてのお禮は、他の方法によつて之を貴下へ通ずる手段を有たない今日、已を得ませんから、一言こゝに付け加へ置きます、何うぞ父としての謝辭をお受け下さい、
 お手紙中にある他の事項に關しては何も申し上げる必要を認めません。 以上。
    六月十四日                夏目金之助
   中嶋六郎樣
 
      二一〇一
 
 六月十四日 水 牛込區早稻田南町七より 麹町區三番町一二有島生馬へ
 啓「南歐の日」一部御惠投ありがたく存候貴方のものは大抵讀んだ積で居りますがあの中には或はまだ未讀のものもあるかも知れません故閑を得て拜見する積で居ります不取敢右御禮迄 匆々頓首
    六月十四日                夏目金之助
   有島生馬樣
       座下
 
      二一〇二
 
 六月十五日 木 後8-9 牛込區早稻田南町七より 金澤市川岸町八大谷正信へ
 拜啓御惠贈の御菓子折正に頂戴致しました毎度ながら御心にかけられての御親切ありがたく御禮を申上ます小説も毎日二回づゝ讀んで頂くのは恐縮の至でありますが自分の我儘の方から申せば其方が嬉しいのには違ありませんさういふ熱心な讀者に對して何うか滿足の行くやうな旨いものが書きたいと冀ふ次第であります
 先は不取敢右御禮迄 匆々
    六月十五日              夏目金之助
   大谷繞石樣
       座下
 
      二一〇三
 
 六月二十一日 水 前0-7 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜復御來示の趣有がたく承はり候明晩御光來の程待上候 明後日なら午後に願度と存候と申すは小生午前中は執筆と相きめ下らぬものを毎日精出して書き居候故大抵のものは斷はり居候わざ/\の御光臨に文句をつけ甚だ恐縮の至なれど右の次第故惡からず 先は御挨拶迄 匆々頓首
    六月二十日夜              夏目金之助
   森 次太郎樣
 
      二一〇四
 
 六月二十一日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 啓御指命により尿三瓶例の如く差出候食事表も相添へ申候
 昨夜の尿は食後二時間目を間違へて三時間目に取り申候故不注意の御詫旁御斷り申候 頓首
    六月二十一日              夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
 
      二一〇五
 
 六月二十二日 木 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木六九下山儀三郎へ
 拜啓此品輕少ながら赤坊さんの夏着として御笑納被下度是は荊妻がミシンで拵へた手製に御座候故御祝としては幾分か記念にも可相成かとも存じ石子さんに差上る次第に候 頓首
    六月二十二日              夏目金之助
   下山儀三郎樣
 
      二一〇六
 
 六月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 牛込區矢來町三新潮社『新潮』へ〔應問 七月一日發行『新潮』より〕
 私は不幸にしてタゴール氏に面會の機を得ません。それから同氏の書いたものも讀んで居りません。私の同氏に關する知識はたゞ新聞に出る寫眞丈であります。其寫眞から推すと氏は多數の日本人よりも風采の點に於てはるかに立派なやうに思はれます。其他に何の感想も有ちません。
 
      二一〇七
 
 七月四日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町三七津田龜次郎へ
 拜復伊達家入札會の切符わざ/\御送有難う本日午後行つて看て來ました中々面白いものがあります 一休の下手な書が一番眼につきましたあれは(三行もの)何で懸物などにする價値があるのでせう あんまり人が多いので落付て看られないのが不愉快でした 君の好な斑竹の畫簾は結構ですが實用に使用するのは勿體なし といつて仕舞つて置いてはつまらなし厄介なものぢやありませんか 先は御禮旁御報迄 匆々頓首
    七月四日夜              夏目金之助
   津田青楓樣
 
      二一〇八
 
 七月五日 水 後3-4 牛込區早稻田南町七より 府下淀橋町柏木六九下山儀三郎へ〔はがき〕
 拜借新選俳句大觀一部御惠贈ありがたく奉謝候早速御禮迄如此に御座候 以上
      七月五日
 
      二一〇九
 
 七月九日 日 牛込區早稻田南町七より 麹町區富士見町四丁目二眞鍋嘉一郎へ
 拜啓毎々尿を試驗して頂いて有難う御座います御蔭で糖分も減退腕の神經痛も癒りました感謝してゐます何か御禮をしやうと思ふが親切でして下さるものへ町醫者と同じやうな事をしてはならないと思つて少々考へたが別に方法もないので下らんものを御目にかける事にしました失禮かも知れませんが私の志だから受納して置いて下さい夫から尿の試驗表を作つて下さる君の助手の方へも御禮の心ばかりに同性質のものを差上る事にしました然し名前も住所も能く知らないので貴方から渡して頂く事にしたいと思ひます御迷惑でも何うぞ宜敷願ひます自身御禮に上りたいのですが何時上つたら御邪魔にならずに濟むか解らないし夫からこんなものを自分で持參するのは厭だから車夫を差出ます、封が二つあるうちで貴方の名前の書いてある名刺を貼り付けた方があなたので名刺のない方が助手君のであります先は用事のみ 匆々頓首
    七月九日                夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
 
      二一一〇
 
 七月十一日 火 後2-3 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓「外報」といふ名前でM、M、C(明暗中烟草の名)はMCCの間違だと注意して呉れた人があります。その人はその間違をあなたに話したさうですから、あなたは其人を御存じだらうと思ひますので、此手紙をあなたに差上ます。
 「實は私はMMCとばかり思ひ込んでゐました。然し御注意により書物にするときにはMCCと訂正致します。有難う御座います。」
 是丈傳へて下さい。
 夫から其人の端書のうちに「エラタ」と假名で書いてありますが、エラタは誤謬の複數で、單數の時はエラタムになります。是は故意に意趣返しの積でいふのでも何でもありませんが、羅甸語を英語に移したものだから間違へると氣が付《つ》かない事もあります故其人に注意して上げて下さい。序に云ふのですから手紙の主題とは何等の關係もない事ですけれども、たゞほぢくる爲の惡意でない事丈は先方に傳はる樣に願ひます 以上
    七月十一日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二一一一
 
 七月十五日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 212 West 122 Street,New York 厨川辰夫へ
 拜復其後愈御勉強結構に存じます。私の病氣を御見舞下さいまして有難う御座います。私は始終病氣です。但起きてる時と寐てゐる時とある丈です。
 上田敏君が死にました。十三日に葬式がありました。人間は何時死ぬか分りません。人から死ぬ死ぬと思はれてゐる私はまだぴく/\してゐます。
 私の書物なんか亞米利加人に讀んでもらふやうなものは一つもありません。
 御返事迄 匆々
    七月十五日              夏目金之助
   厨川辰夫樣
 
      二一一二
 
 七月十八日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本所區龜澤町一丁目二六大石泰藏へ
 拜復「明暗」のかき方に就ての御非難に對しては何も申上る程の事はないやうです。私はあれで少しも變でないと思つてゐる丈です。但し主人公を取かへたのに就ては私に其必要があつたのです。それはもつと御讀下されば解るだらうと思ひます。アンナカレニナは第何卷、第何章といふ形式で分れてゐますが内容から云へば私の書方と何の異なる所もありません。私は面倒だから二 二、三、四、とのべつにしました。夫が男を病院に置いて女の方が主人公に變る所の繼目はことさらにならないやうに注意した積です。要するにあなたは常識で變だといひ私も常識で變でないといふのです。すると二人の常識がどこか違つてゐるのでせうか呵々
    七月十八日                夏目金之助
   大石泰藏棟
 
      二一一三
 
 七月十九日 水 後5-6 牛込區早稻田南町七より 本所區龜澤町一丁目二六大石泰藏へ
 あなたの第二の手紙は私のあなたに對する興味を引き起しました。第一の書信を受取つた時私は(實を云ふと)面倒な事を云つてくる人だと思ひました。黙つて放つて置かうかとも思ひました。然し第二の御手紙に接した私は、あなたの御不審のある所が漸く判然したやうに考へるやうになりました。それで又此返事を差上ます。
 あなたはお延といふ女の技巧的な裏に何かの缺陷が潜んでゐるやうに思つて讀んでゐた。然るに、其お延が主人公の地位に立つて自由に自分の心理を説明し得るやうになつても、あなたの豫期通りのものが出て來《こ》ない。それであなたは私に向つて、「君は何の爲に主人公を變へたのか」と云ひたくなつたのではありませんか。
 あなたの豫〔期〕通り女主人公にもつと大袈裟な裏面や凄まじい缺陷を拵へて小説にする事は私も承知してゐました。然し私はわざとそれを回避したのです。何故といふと、さうすると所謂小説になつてしまつて私には(陳腐で)面白くなかつたからです。私はあなたの例に引かれるトルストイのやうにうまくそれを仕遂げる事《こと》が出來なかつたかも知れませんが、私相應の力で、それを試みる丈の事なら、(もしトルストイ流でも構はないとさへ思へば)、遣《や》れるだらう位に己惚れてゐます。
 まだ結末迄行きませんから詳しい事は申し上げられませんが、私は明暗(昨今御覽になる範圍内に於て)で他から見れば疑はれるべき女の裏面には、必ずしも疑ふべきしかく大袈沙《原》な小説的の缺陷が含まれてゐるとは限らないといふ事を証明した積でゐるのです。それならば最初から朧氣に讀者に暗示されつゝある女主人公の態度を君は何う解決するかといふ質問になり〔ま〕せう。然しそれは私が却つてあなたに掛けて見たい問に外ならんのであります。あなたは此女(ことに彼女の技巧)を何う解釋なさいますか。天性か、修養か、又其目的は何處にあるか、人を殺すためか、人を活かすためか、或は技巧其物に興味を有つてゐて、結果は眼中にないのか、凡てそれ等の問題を私は自分で讀者に解せられるように段を逐ふて叙事的に説明して居る積と己惚れてゐるのです。
 斯ういふ女の裏面には驚ろくべき魂膽が潜んでゐるに違ないといふのがあなたの豫期で、さう云ふ女の裏面には必ずしもあなた方の考へられるやうな魂膽ばかりは潜んでゐない、もつとデリケートな色々な意味からしても矢張り同じ結果が出得るものだといふのが私の主張になります。
 あなたの方が眞實でないとは云ひません。然し其方の眞實は今迄の小説家が大抵書きました。書いても差支ありません、又陳腐でも構はないとした所で、もし讀者が眞實は例の通り一本筋なものだと早合點をすると、小説は飛んだ誤解を人に吹き込むやうになります。今迄の小説家の慣用手段を世の中の一筋道の眞として受け入れられた貴方の豫期を、私は決して不合理とは認めません、然し明暗の發展があなたの豫期に反したときに、成程今迄考へ〔て〕ゐた以外此所にも眞があつた、さうして今自分は漱石なるものによつて始めて、新らしい眞に接觸する事が出來たと、貴方から云つて頂く事の出來ないのを私は遺憾に思ふのであります。さう思はれないのは、私の手腕の缺乏、私の眼力の不足、色々な私の缺點から出て、毫も讀者たる貴方の徳を煩はすに足りないかも知れませんが、兎に角私の精神丈は其所にある事を御記憶迄に申上て置きます。
 終にのぞんで親切なる讀者の一人として私はあなたが如何なる種類階級に屬する人であるかを知りたいと思ひます。
    七月十九日               夏目金之助
   大石泰藏樣
 
      二一一四
 
 七月三十一日 月 後10-12 牛込區早稻田南町七より 前橋市曲輪町六小池壽子へ
 拜復
 バタを澤山に送つて下さいまして有難う存じます厚く御禮を申します參考書を御聞き合せですが私にも何がいゝか分りません。あなたの方で本の名前を並べてくれば取捨はして上げられる樣な氣もしますが一体何ういふ方面の參考書の意味ですか
 此手紙はもつと早く書く筈でしたがごた/\してつい遲くなりました 以上
    七月三十一日              夏目金之助
   小池壽子樣
 
      二一一五
 
 八月五日 土 後4-5 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 拜復此夏は大變凌ぎいゝやうで毎日小説を書くのも苦痛がない位です僕は庭の芭蕉の傍に疊み椅子を置いて其上に寐てゐます好い心持です身體の具合か小説を書くのも骨が折れません却つて愉快を感ずる事があります長い夏の日を藝術的な勞力で暮らすのはそれ自身に於て甚だ好い心持なのです其精神は身體の快樂に變化します僕の考では凡ての快樂は最後に生理的なものにリヂユースされるのです。賛成出來ませぬか。
 小説を書いたら當分寐かして置くが好いです人に批評して貰ふよりも寐かして置いて後で見る方がいくら發明する所が多いか分りません。(僕の樣なそれを職業とするものは特別として)
 木曜は午後から夜へかけて何時でも居ります近頃は新思潮の同人がやつて來ますちと御出掛なさい 以上
    八月五日                 夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      二一一六
 
 八月五日 土 後5-6 牛込區早稻田南町七より 大阪府北河内郡四傑村野崎池崎忠孝へ
 拜啓此間は御手紙を有難う此年は大變いつもより涼しいので凌ぎ安いやうです毎日小説を書くのも汗が出ないで樂です長くていつ暮れるか分らない午時を室内で氣を永く暮らしてゐるのは好い心持です 今日から蝉が鳴き出しました子供がそれを捕つて喜んでゐます いづれ九月に御目にかゝります私の小説は何時濟むか分りません厭きずに仕舞まで讀んで下さい 以上
    八月五日                夏目金之助
   池崎忠孝樣
 
      二一一七
 
 八月九日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 本郷區根津西須賀町七紅葉舘山田幸三郎へ
 拜復御手紙拜見致しました「草枕」を獨譯なされる事は始め〔て〕承知致ましたあんなものに興味をもたれ御譯し下さるゝ段甚だ有難い仕合せです私の方から御禮を申上ます。然しあれは外國語などへ翻譯する價値のないものであります現在の私はあれを四五頁つゞけて讀む勇氣がないのです。始めから御相談があれば無論御斷り致す積でしたさういふ譯ですから雜誌はよろしう御座いますが單行本にして出版する事丈はよして下さいまし 以上
    八月九日                 夏目金之助
   山田幸三郎樣
 
      二一一八
 
 八月十一日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 小倉市高砂町二丁目小住方佐藤宗太郎へ
 拜復 御手紙の趣承知致し候へども生憎其方面の人々と接觸の機なく遺憾思ひ通り迅速に運びさうも無之候故別の方面より御運動可然かと存候猶便宜も有之候節は私よりも間接に誰かに依頼可致候
 先は右不取敢御返事迄 頓首
    八月十一日               夏目金之助
   佐藤宗太郎樣
 
      二一一l九
 
 八月十一日 金 後4-5 牛込區早稻田南町七より 麹町區内山下町一丁目一東洋協會内森次太郎へ
 拜啓 昨日小閑を倫みかねて御依頼の素明畫伯の繪に賛を致し候不出來ながら御勘辨願上候御急ぎにても有之間敷とは存じ候へども一寸御通知致置候間木曜の午後何時にても御入來被下候へば御渡し可申候 頓首
    八月十一日               夏目金之助
   圓 月 樣
 
      二一二〇
 
 八月十四日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 下關市觀音崎町永福寺鬼村元成へ
 拜啓御無事で結構です私もどうか斯うか小説を書いてゐます。でんぶを有難う。中々うまいです。あなたはあんまり金はないでせうからあんな心配はせぬ方がよろしいと思ひます。私の家は狹いのです。子供が六人ゐるのです。それで邸内にある小さな家を借りてそこを子供の勉強室にしてゐるのです。此前宅へ泊めて上げるといつたのは此小さな家の事です。夜は誰も寐ないから泊れる事は泊れるだらうと思つてさう云つて上げたのです。愈貴方がたが來るとなつたら御知らせなさい。都合をよく考へて妻とも相談して見ますから。十月頃は小説も片づくかも知れませぬ、さうすれば私もひまです。
 あなたは久留米の梅林寺の献禅さんを知りませんか。あの人は墨梅と書がうまいと聞きました。書いて貰はうと思ふがツテがありませんので一寸伺ふのです。私などにも何か書いてくれ/\といふものがあります。私は面倒だから知らない人のは其儘にして置きます。だから自分の方で人に依むのも自然氣が引けるのです。富澤さんがいつか愚堂和尚の書をやると云つてきました私は大變うれしがつてゐますが、そんなものを無暗に人にくれるのは勿體なくはないかと考へると甚だ濟まん氣がするので此方からは何とも云つて上げません。當澤さんも其後國へ歸つたか歸らないか知りませんので其儘です。哲學の書物は送つて上げます。然し能く解るやうに書いたものがあるかどうか其所は受合ひかねます。但し解らないから六づかしいと思つては不可せん。書き手がヘタで解らなくなる場合もありますから 以上
    八月十四日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二一二一
 
 八月十四日 月 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓若い禅僧が下のやうな手紙をよこしました。「……近頃私は哲學を少し暇だからしらべて見たいと思つてゐますが何分哲學のテの字も知りませんからどういふ本が手ほどきにいゝのか見當がつきません。……何かいゝ本があつたら教へて頂けますまいか、そして哲學にはそれ/”\派があると聞いてゐますが其中でどんなのがいゝでせうか御暇な時に一寸教へて下さい」
 僕は此人に本を送つてやりたいのです。君が好いと思ふのを一二冊送つて下さい代價は後で拂ひます。送り先は下關市觀音崎永福寺内鬼村元成です。 以上
    八月十四日              夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      二一二二
 
 八月十八日 金 後5-6 牛込區早稻田南町七より 福岡市外東公園久保頼江へ
 拜啓御手紙を拜見しました御惠贈の烟草と葛素麺も正に頂戴しました御厚意を感謝致します私は挨及烟草を呑んで昔の事を思ひ出しましたそれは倫孰《原》にゐた時分の事です夫から滿洲と朝鮮をあるいた時分の事です。私は東京では貫はないと挨及烟草は滅多に呑みませんあまり贅澤だと思つて遠慮してゐるのです。偶に呑んでも倫孰などを思ひ出す事はありませんでした。
 小供は大きくなりました長女は十八ですそろ/\御嫁にやらなければなりませんが私のやうな交際の狹いものは斯ういふ時に困る丈です。然しまだ學校へ行つてゐると思つてまあよからうといふ積で呑氣に構へてゐます。夫でも此間口が一つ二つあつたには驚ろきました。あれでも此方から懇願しないで嫁に行けるかと考へると多少氣丈夫になりました。
 娘三人は名古屋の親類へ行きました。其所の叔父に伊勢へ連れて行つてもらつたさうです。家内は殘りの三人をつれて逗子に行きました此所にも家内の妹がゐるのですが是は旅《原》屋へ行つた樣です。そこへ名古屋から娘が合併して都合七人で何かしてゐるのでせう。先刻電話がかゝつて今夜歸ると云つてきました。寫眞の事は歸つたらよく申します。あなたの寫眞も參りました。よく取れ過ぎてもゐますまい。まああんなものでせう。背景に波がある所などは少々活動寫眞めいてゐます。私は一向寫眞をとりません。普通にとれるとみんながよすぎると申します。有の儘にとれると私の方できたな過ぎると申したくなります。まあとらないでも生きてゐられるんだから構はないと思つてゐます。何れ妻からも御返事を上げるでせうが不取敢烟草の御禮を私から差上ます。御良人は歸省されたさうですね。もう御歸博になつた頃と存じます。どうぞよろしく。小説をほめて下すつて有難う。何だか馬鹿に長くなりさうで弱ります。然し此夏は大變凌ぎやすいので書くのに骨が折れないで仕合せです。 以上
    八月十八日              夏目金之助
   久保頼江樣
 
      二一二三
 
 八月二十一日 月 後4-5 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館久米正雄、芥川龍之介へ
 あなたがたから端書がきたから奮發して此手紙を上げます。僕は不相變「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快樂、器械的、此三つをかねてゐます。存外凉しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出來ません。厭になればすぐ已めるのだからいくつ出來るか分りません。あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたので一つ作りたくなつてそれを七言絶句に纒めましたから夫を披露します。久米君は丸で興味がないかも知れませんが芥川君は詩を作るといふ話だからこゝへ書きます。
  尋仙未向碧山行。佳在人間足道情。
  明暗雙雙三萬字。撫摩石印自由成。
 (句讀をつけたのは字くばりが不味かつたからです。明暗雙々といふのは禅家で用ひる熟字であります。三萬字は好加減です。原稿紙で勘定すると新聞一回分が一千八百字位あります。だから百回に見積ると十八萬字になります。然し明暗雙々十八萬字では字が多くつて平仄が差支へるので致し方がありません故三萬字で御免を蒙りました。結句に自由成とあるは少々手前味噌めきますが、是も自然の成行上已を得ないと思つて下さい)
 一の宮といふ所に志田といふ博士がゐます。山を安く買つてそこに住んでゐます。景色の好い所ですが、どうせ隱遁するならあの位ぢや不充分です。もつと景色がよくなけりや田舍へ引込む甲斐はありません。
 勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空氣を輸入したいと思ひます。それから無暗にカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたいと思ひます。是は兩君とも御同感だらうと思ひます。
 今日からつく/\法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて來たのでせう。
 私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ證據に書くのです。さういふ心持の中に入つてゐる自分を君等に紹介する爲に書くのです。夫からさういふ心持でゐる事を自分で味つて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の聲で埋つてゐます。 以上
    八月二十一日              夏目金之助
   久米正雄樣
   芥川龍之介樣
 
      二一二四
 
 八月二十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 赤坂區新坂町八二三宅安へ〔はがき〕
 今日ハ暑イデスネ。原稿ハ二ツトモ御返シ致します。評は(一)の仕舞ニ書イテアリマス。アナタの脚氣は何うです。妊娠中ダカラ可成注意ナサイ。私ハ腹ガ下リマス
 
      二一二五
 
 八月二十四日 木 後5-6 牛込區早稻田南町七より 府下北品川御殿山七一八中村蓊へ
 拜啓此間御來書の時は東北地方へ御旅行とあつた故返事を出しませんでした。それから僕の小説の後は正宗白鳥君と略極つてゐるので君の原稿をいそいで讀んでも仕方がないと思つて其儘にして置きました。然し君は何度でも書き直すといふ決心だから早く讀まないと惡いとも考へ直して今日の午後眼を通しました。
 感じた通りを申ますと、どうも小説(好い意味でいふのですが)らしい感じが乏しいのです。ことに最初の赤子を殺す氣狂の如きは滑稽な感じが起る丈です。是は氣狂になる人の心的状態が毫もないので同情が起らないからではありませんか。氣狂になるには氣狂になる徑路がありませう。それが讀者の腑に落ちないでは主人公に氣の毒だとか可哀さうだとかいふ氣は起し得ません。たゞ殘酷な人だといふ事を強ひつける積ではないでせう。又夫なら藝術品として何の價値もないでせう。もしさういふ意味で書いたのでないとするなら、氣狂に至る經過其物即ち他から見た事實もしくは事實の推移其物の敍述、換言すればある連續した原因結果を具像《原》的に示し得る眞〔右○〕の發揮でなければなりません。即ち氣狂のやる行爲が一々奇拔だとか刺戟に富んでゐるとか悉く陳腐と平凡を離れた意味で讀者の眼を驚ろかし同時に啓發しなければなりますまい。不幸にして赤子殺しにはそれをも見出し得ません。なぜとなれば彼はたゞ妻をいぢめてゐる丈ぢやありませんか。一言にさう云へばそれで盡せるのです。他奇なしです。同じムードを繰り返してゐるのです。さうして最後に突然子を殺すのです。子を殺すのは奇拔です。成程氣狂らしいです。其所丈が新しい刺戟です。然しそれが君の目的にかないませうか。
 次の方は赤ン坊殺しより餘程いゝと思ひます。多少の發展があるからです。順序がともかくも辿れるからです。從つて當人のサイコロジーの方から見ても外面的に敍述される事實の連鎖からいつてもいゝやうです。(然し赤ン坊を殺すのと比べて見てまだ増しだといふ位なものです)。僕の考では是とても藝術品にはなつてゐないと思ひます。「癲狂院の中より」といふ見出しで中央公論か新小説の二段欄の頁へ出るべき性質のものぢやなからうかと思ひます。
 御返事が遲くなつて濟みません原稿は一先づ御返し致します。
 先達て中央公論に出た蕃人の事を書いたものは面白う御座いました。
 私は自分で變な小説をかいて君のものをけなして惡いと思ひます、然し自分の事は棚へ上げて只批評眼丈を御求めにより働らかせました丈です。どうぞあしからず 以上
    八月二十四日              夏目金之助
   中村 蓊樣
 
      二一二六
 
 八月二十四日 木 後6-7 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介、久米正雄へ
 此手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙がま|あ《原》りに溌剌としてゐるので、無精の僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はゞ君等の若々しい青春の氣が、老人の僕を若返らせたのです。
 今日は木曜です。然し午後(今三時半)には誰も來ません。例の瀧田樗陰君は木曜日を安息日と自稱して必ず金太郎に似た顔を僕の書齋にあらはすのですが、その先生も今日は缺席するといつてわざ/\斷つて來ました。そこで相變らず蝉の聲の中で他から頼まれた原稿を讀んだり手紙を書いたりしてゐます。昨日作つた詩に手も入れて見ました。「癲狂院の中より」といふ色々な狂人を書き分けたものだといふ原稿を讀ませられました。中々思ひ付きを書く人があるものです。
 芥川君の俳句は月並ぢやありません。もつとも久米君のやうな立體俳句を作る人から見たら何うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思ひます。其代り畫は久米君の方がうまいですね。久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。成程あれなら三宅恒方さんの繪をくさす筈です。くさしても構はないから、僕にいつか書いて呉れませんか。(本當にいふのです)。同時に君がたは東洋の繪(ことに支那の畫)に興味を有つてゐないやうだが、どうも不思議ですね。そちらの方面へも少し色眼を使つて御覽になつたら如何ですか、其所には又そこで滿更でないのもちよい/\ありますよ、僕が保證して上げます。
 僕は此間福田半香(華《崋》山の弟子)といふ人の三幅對を如何はしい古道具屋で見て大變旨いと思つて、爺さんに價を訊いたら五百圓だと答へたので、大いに立腹しました。是は繪に五百圓の價がないといふのではありません。爺なるものが僕に手の出せないやうな價を云つて、忠實に半香を鑑賞し得る僕を吹き飛ばしたからであります。僕は仕方なしに高いなあと云つて、店を出てしまひましたが、其時心のうちでそんならおれにも覺悟があると云ひました。其覺悟といふのを一寸披露します。笑つちやいけません。おれにおれの好きな畫を買はせないなら、已を得ない。おれ自身で其好き〔な〕畫と同程度のものをかいてそれを掛けて置く。と斯ういふのです。それが實現された日にはあの達磨などは眼裏の一翳です。到底芥川君のラルブルなどに追ひ付かれる譯のものではないのですから、御用心なさい。
 君方は能く本を讀むから感心です。しかもそれを輕蔑し得るために讀むんだから偉い。(ひやかすのぢやありません、賞めてるんです)。僕思ふに日露戰爭で軍人が露西亞に勝つた以上、文人も何時迄恐露病に罹つてうん/\蒼い顔をしてゐるべき次第のものぢやない。僕は此氣?をもう餘程前から持ち廻つてゐるが、君等を惱ませるのは今回を以て嚆矢とするんだから、一遍丈は黙つて聞いてお置きなさい。
 本を讀んで面白いのがあつたら教へて下さい。さうして後で僕に借して呉れ玉へ。僕は近頃めちやめちやで昔し讀んだ本さへ忘れてゐる。此間芥川君がダヌンチオのフレーム オフ ライフの話をして傑作だと云つた時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが其後何時も坐つてゐる机の後ろにある本箱を一寸振り返つて見たら、其所に其本がちやんとあるので驚ろいちまひました。たしかに讀んだに相違ないのだが何が書いてあるかもうすつかり忘れてしまつた。出して見たら或は鉛筆で評が書いてあるかも知れないが面倒だから其儘にしてゐます。
 きのふ雜誌を見たらシヨウの書いた新らしいドラマの事が出てゐました。是はとても倫敦で興行出來ない性質のものださうです。グレゴリー夫人の勢力ですら、ダブリンの劇場で跳ね付《つ》けたといふ猛烈のもので、無論私の刊行物で數奇者の手に渡つてゐる丈なのです。兵隊がV.C.を貰つて色々なうそを並べ立てゝ景氣よく應募兵を煽動してあるく所などが諷してあるのです。シヨウといふ男は一寸いたづらものですな。
 一寸筆を休めて是から何を書かうかと考へて見たが、のべつに書けばいくらでも書けさうですが、書いた所で自慢にもならないから、此所いらで切り上げます。まだ何か云ひ殘した事があるやうだけれども。
 あゝさうだ。/\。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。決してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。
 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老猾なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事《こと》ある相の子位な程度のものです。
 あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うん/\死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞《き》くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 是から湯に入ります。
    八月二十四日             夏目金之助
   芥川龍之介樣
   久米 正雄樣
 君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は氣にしないでも構ひません。
 
      二一二七
 
 八月二十九日 火 後4-5 牛込區早稻田南町七より 下關市丸山町四七二津室勇夫へ〔往復はがき返信用〕
 近頃寫眞はとりません、夫から知らない人に寫眞は送りません、だから上げません。あなたが苦沙彌といふ人と兄弟のやうな氣がするならば、顔もあなたに似た人だと思つてゐれば、それで可いでせう。迷亭さんの寫眞は猶手に入れにくう御座います
    八月二十九日
 
      二一二八
 
 九月一日 金 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介、久米正雄へ
 今日は木曜です。いつもなら君等が晩に來る所だけれども近頃は遠くにゐるから會ふ事も出來ない。今朝の原稿は珍らしく九時頃濟んだので、今閑である。そこで昨日新思潮を讀んだ感想でも二人の所へ書いて上げようかと思つて筆を取り出しました。是は口で云へないから紙の上で御目にかけるのです。
 今度の號のは松岡君のも菊池君のも面白い。さうして書き方だか樣子だか何方にも似通つた所がある。或は其價値が同程度にあるので、しか思はせるのかも知れない。兎に角纒つた小品ですそれから可い思付を見付けてそれを物にしたものであります。
 思ひ付といふと、芥川君のにも久米君のにも前二氏と同樣のポイントがあります。さうして前の二君のが「眞」であるのに對して君方のが兩方共一種の倫理觀であるのも面白い。さうして其倫理觀は何方もいゝ心持のするものです。
 是から其不滿の方を述べます。芥川君の方では、石炭庫へ入る所《ところ》を後から抱きとめる時の光景が物足りない。それを解剖的な筆致で補つてあるが、その解剖的な説明が、僕にはびし/\と逼らない。無理とも下手とも思はないが、現實感が書いてある通りの所まで伴つて行かれない。然しあすこが第一大切な所である事は作者に解つてゐるから、あゝ骨を折つてあるに違ないとすると、(讀者が君の思ふ所迄引張られて行けないといふ點に於て)、君は多少無理な努力を必要上遣つた、若くは前後の關係上遣らせられた事になりはしませんか。僕は君の意見を聽くのです、何うですか。それから最後の「落ち」又は落所はあゝで面白い又新らしい、さうして一篇に響くには違ないが、如何せん、照應する雙方の側が、文句として又は意味として貧弱過ぎる。と云ふのは「expressiveであり乍ら力が足りないといふのです。副長に對スル倫理的批評の變化、それが骨子であるのに、誤解の方も正解の方も(敍述が簡單な爲も累をなしてゐる)強調されてゐない、ピンと頭へ來《こ》ない。それが缺點ぢやないかと思ひます。
 此所《こゝ》迄書いた所へ丁度かの○○○○先生が來《き》ました。(先生はしきりに僕の作物の惡口を大つぴらに云ふので恐縮します。然し僕はあの人を一向信用しません。だから啓發する譯にも行かず、又啓發を受ける譯にも行かないのです。先生は何だか原稿の周旋を頼むために僕の宅へ出入りをする人のやうに思はれてならないのです)。その後へ例の豪傑瀧田樗陰君がやつて來て、大きな皿をくれました。あの人は能く物を呉れるので時々又呉れるのかと疳違して、彼の小脇に抱へ込んでゐる包に眼を着ける事があります。其代り能く僕に字を書かせます。僕はあの人を「ボロツカイ」又は「あくもの食《ぐ》ひ」と稱してゐます。此あくもの食《ぐ》ひは大きな玉版箋をひろげて屏風にするから大字を書けと注文するのです。僕は手習をする積だから何枚でも書きます。其代り近頃は利巧になつたから、書いた奴をあとからどん/\消しにします。あくもの食ひは此方で放つて置くと何でも持つてちまひます。晩には豐隆、臼川、岡田、エリセフ、諸君のお相手を致しました。エリセフ君はペテルブルグ大學で僕の「門」を教へてゐるのだから、是には本式の恐縮を表します。其上僕の略傳を知らせろといふのです。何でも「門」を教へる前に、僕の日本文壇に於る立場、作風、etcといふ樣な講義をしたといふのだから驚天します。みんなの歸つたのは十一時過ですから、君等に上る手紙は其儘にして今九月一日の十一時少し前から再び筆を取り出したのです。
 偖久米君は高等學校生活のスケツチを書く目的でゐるとか何處かに出てゐましたが、材料さへあれば甚だ好い思ひ付です。どうぞお遣り下さい。今度の艶書も見ました。Pointは面白い、叙述もうまい、行と行の間に氣の利いた文句の使ひ分などがびよい/\ありますが、是は御當人自覺の事だから別に御注意する必要もありますまい、但じ《原》あの淡いうちにもう少し何かあつて欲しい氣がします。艶書を見られた人の特色(見る方の心理及び其轉換はあの通りで好いから)がもつと出ると充分だと思ひます。あれはあゝ云ふ人だと云ふ事丈分ります。然しあれ丈分つたのでは聊か喰ひ足りません。同じ平面でも好いからもつと深く切り下げられるか、或は他の斷面に移つて彼の性格上に變化を與へるとか何とかもう少し工夫が出來るやうに考へられます。(「競漕」はあれ以上行けないのです。又あれ以上行く必要がないのです)
 最後に芥川君の書いた「創作」に就いて云ひます。實は僕はあれをごく無責任に讀みました。芥川君の妙な所に氣の付く(アナトールフランスの樣な、インテレクチユアルな)點があれにも出てゐます。然しあれはごく冷酷に批評すると割愛しても差支ないものでせう。或は割愛した方が好いと云ひ直した方が適切かも知れません。
 次に此間君方から貰つた手紙は面白かつた。又愉快であつた。に就いて、其所に僕の眼に映つたつ《原》た可くないと思ふ所を參考に云ひませう。一、久米君のの中に「私は馬鹿です」といふ句があります。あれは手紙を受取つた方には通じない言葉です。從つて意味があつさり取れないのです。其所に厭味が出やしないかと思ひます。それから芥川君のの中に、自分のやうなものから手紙を貰ふのは御迷惑かも知らないがといふ句がありまま《原》した。あれも不可せん。正當な感じをあんまり云ひ過ぎたものでせう。False modesty に陷りやすい言葉使ひと考へます。僕なら斯う書きます。「なんぼ先生だつて、僕から手紙を貰つて迷惑だとも思ふまいから又書きます」――以上は氣が付《つ》いたから云ひます。僕がそれを苦にしてゐるといふ意味とは違ひます。それから極めて微細な點だから黙つてゐて然るべき事なのですが、つい書いてしまつたのです。
 あなた方は句も作り繪もかき、歌も作る。甚だ賑やかでよろしい。此間の端書にある句は中々うまい、歌も上手だ。僕は俳句といふものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、十八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首位づゝ作ります。自分では中々面白い、さうして隨分得意です。出來た時は嬉しいです。高青邱が詩作をする時の自分の心理状態を描寫した長い詩があります。知つてゐますか。少し誇張はありますがよく藝術家の心持をあらはしてゐます。つまりうれしいのですね。最後に久米君に忠告します。何うぞあの眞四角な怒つたやうな字はよして下さい。是でお仕舞にします。 以上
    九月一日                 夏目金之助
   芥川龍之介樣
   久米正雄樣
 
      二一二九
 
 九月二日 土 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復此間は失禮致しました紙澤山にありがたう厚く御禮を申ます只今詩作中長い返事を書く能はず是にて御免 頓首
    九月二日               夏目金之助
   瀧 田 樣
 
      二一三〇
 
 九月二日 土 後10-12 牛込區早稻田南町七より 千葉縣一ノ宮町一ノ宮館芥川龍之介へ
 啓只今「芋粥」を讀みました君が心配してゐる事を知つてゐる故一寸感想を書いてあげます。あれは何時もより骨を折り過ぎました。細敍絮説に過ぎました。然し其所に君の偉い所も現はれてゐます。だから細敍が惡いのではない。細敍するに適當な所を捕へてゐない點丈がくだ/\しくなるのです。too laboured といふ弊に陷るのですな。うんと氣張り過ぎるからあゝなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイーヴな點に面白味が伴ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔繪を施しました。是は惡い結果になります。然し。芋粥の命令が下つたあとは非常に出來がよろしい。立派なものです。然して御手際からいふと首尾一貫してゐるのだから文句をつければ前半の内容があれ丈の勞力に價しないといふ事に歸着しなければなりません。新思潮へ書く積りでやつたら全體の出來榮もつと見事になつたらうと思ひます。
 然し是は惡くいふ側からです。技巧は前後を通じて立派なものです誰に對したつて耻しい事はありません。段々晴の場所へ書きなれると硬くなる氣分が薄らいで餘所行はなくなります。さうしてどんな時にも日常茶飯でさつさと片付けて行かれます。その時始めて君の眞面目は躍然として思ふ存分紙上に出て來ます。何でも生涯の修業でせうけれどもことに場なれないといふ事は損です。
 此批評は君の參考の爲めです。僕自身を標準にする譯ではありません。自分の事は棚へ上げて君のために(未來の)一言するのです。たゞ芋粥丈を(前後を截斷して)批評するならもつと賞めます。
 今日カマスの干物が二人の名前できました。御好意を謝します。なにか欲しいものがあるなら送つて上げます。遠慮なく云つて御寄こしなさい。 頓首
    九月二日夜               夏目金之助
   芥川龍之介樣
 此卷紙と状袋は例のアクモノグヒが呉れたものであります。彼は斯ういふ賄賂を時々刻々に使ひます。僕は彼の親切を喜ぶと共に氣味をあ《原》るくします。同時に平氣で貰ひます。久米君へよろしく
  秋立つや一卷の書の讀み殘し
 是はもつとうまい句だと思つて即興を書いてしまつたのであとから消す譯に行かなくなつたから其儘にして置きます。
 
      二一三一
 
 九月五日 火 牛込區早相田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復御書拜見致し候本日御招きに可相成處御幼兒御不快のため御延引との事拜承致候實は小生も此間中より下痢の氣味にて御馳走は多少辟易の體に有之故丁度都合よろしく候八日に若し下痢がはげしさうなれば其前一寸御通知可致候へどももし御序も有之候はゞ電話で都合を訊いて下されば猶更結構に候昨日消閑のため歸去來辭を書き候此間よりはよろしく候へども誤字一餘字二字程有之候此次御來駕の節可供貴覽候先は右迄 敬具
    九月五日               夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 病氣御大事の事と存候
 
      二一三二
 
 九月五日 火 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下西大久保六六戸川明三へ
 拜復其後小生も存外の御無沙汰に打過ぎ何とも無申譯次第平に御海恕可被下候 拙作につき色々の御同情乍毎度有難存候當夏は例年より涼しき爲か暑さの苦痛もなくどうか斯うか書きつゞけ居候 然るに昨今に至り仰の如く段々暑逆戻りの體多少辟易致居候平生から出無精の處へ此暑さと午前中の執筆にていづ方へも御無沙汰と申すと何だか不斷は義務を盡し居るやうにて吾ながら可笑しく相成候 兎も角も御挨拶旁御詫まで 草々頓首
    九月五日                 夏目金之助
   戸川明三樣
 
      二一三三
 
 九月六日 水 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復アクモノグヒの手紙が芥川の處へ廻つて行つてしかも君の眼に觸れやうとは全く以て意外是では惡い事は出來ない筈ですないや何うも恐縮しました以來は慎みます何うぞ御海容を祈ります
 八日には出來る丈勉強して出ますが行くものとして今から御肴の用意などをされると困ります
 御子さん御快方の由結構に存じます
 皿ありがたう兩方とも結構ですがことに四角な奴は雅味があります丸いのは高麗ですか
 いづれ明日拜顔の節萬々 敬具
    九月六日               夏目金之助
   瀧田樗陰樣
 
      二一三四
 
 九月六日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 府下大森山王二一三八橋田丑吾へ
 肅啓御老母樣御病氣の處御療養の甲斐もなく御逝去の由嘸かし御愁傷の事と存候乍略儀こゝに書面にて哀悼の微意を表し申候 敬具
    九月六日                 夏目金之助
   橋田丑吾樣
 
      二一三五
 
 九月七日 木 牛込區早稻田南町七より 本郷區東京帝國大學醫科大學物理的治療室眞鍋嘉一郎へ
 拜啓此手紙持參の人は中村武羅夫と申し新潮といふ雜誌の編輯をする小生の知人に候中村君は右肩より右手の先へかけ倦怠鈍痛の感じを生じ今年三月頃より惱まされ居り今に全快の運びに至らず近頃君と小生との關係を聞き知り君に治療して頂きたいから紹介して貰ひたいと申され候故此手紙を認め候若し御手紙御披見の時が都合惡ければ何時でもよろしき故一寸御診察の上適當の治療法御授けの程願上候 頓首
    九月七日                夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
        貴下
 小生の驗尿も其内また御厄介になる事と存候御都合次第何時にても御送可致候故適當の期日參り候はゞ其旨御申聞相成度候目下少々下痢の氣味にて十日程相つゞき居候但し身體には何等の別條なき故其儘に致し置候
 
      二一三六
 
 九月二十四日 日 後5-6 牛込區早稻田南町七より 仙臺市清水小路五〇小池堅治へ
 拜復小生の作物につき過分の御褒辭を賜はり恐縮致候次に御申越の旨は委細承〔知〕致候近頃小生作物のうち二百十日を小樽のジヨーズなる人が英譯致候本にするといふ故教育上の爲なら差支なしと申しやり候處何とかいふ雜誌へ載せる趣申來候。是は始めから英譯する價値なしと小生の斷はりたるものに候。次に八高の山田君が草枕を獨譯致されつゝある旨申來られ候譯後是も書物にする筈の處夫丈は御免蒙り候草枕は甚だ劣作なる故に候倫敦塔は草枕よりはまだ増しかも知れず候へども是亦つまらぬもの故止せるなら御止しになつた方がよからうかとも存候然し是非にとの御希望なれば已を得ざる譯故たつて御斷りは不仕候和獨對兩文を後から御出版になる事も教授用としてうち/\に行はれるならば差支なく候へどもこんなものに夫程の御手數をかける上に出版迄させては不相濟儀ことに小生に於ては得意には無之儀御含み願上候獨譯は小生眼を通す丈の學力なく拜見致しても盲人のかき覗き故御手數に及ばず候。山田君の草枕は獨乙人に見てもらふ由に候
 右迄 匆々
    九月二十四日             夏目金之助
   小池堅治樣
 
      二一三七
 
 九月二十五日 月 後0-1 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓昨日御送り致しました明暗百三十回の最後の一頁(十一頁?)一寸訂正の必要有之候故乍御面倒御返送願上候
 猶申添候先日は明暗原稿坂崎君を通して御却送御手數奉謝候然るところあれには十數回のぬけた回數ある由原稿をもらつたものより申來候故御序の節どうぞ御送り願ひ上候
 用事迄 頓首
    九月二十五日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二一三八
 
 九月二十五日 月 後8-9 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 祥福寺へ御歸りの由承知來月宮澤さんと一所に東京へ御出の由是も承知 昨日妻に譯を話したら都合出來るといひました。もつと住み易い場所があれば近所へ探して置いて上げます。其節は無論私の家へ御逗留なさる代りですから物質上何等の心配は要りません。私はまだ毎日午前中は執筆してゐますので案内をして方々見せて上げる譯に行かないかも知れません。但し午後と夜中は自由ですから御話し相手は出來るでせう。夫から時間と病躯が許すなら一二度は何處かへ一所に行きませう。見たい所を考へて御置きなさい。
 用意の都合があるから立つ前もう一返日と時間を報知なさい。東京驛から此所へくるには誰かに聽いて電車に乘つて、大久保新宿行の電車に乘り易へて牛込柳町の停留所で卸ろして御貰ひなさい 以上
    九月二十五日             夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二一三九
 
 九月二十七日 水 前0-7 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺富澤敬道へ
 拜復此間鬼村さんからも手紙が來ました故承知の旨を返事して置きました 變てこな宅ですがまあ都合丈はつける積です氣に入らなければ濟松寺の方へでも御出なさい 濟松寺は好い寺です私の家より住み心地が好いでせう然し禅寺にばかりゐて俗人の家を知らないのも經驗にならんかも知れな〔い〕とも思ひますから此方の方が好いかも知れません其上寺は窮屈でせう。私のうちも窮屈でせうが窮屈さが違ふから我慢し易いといふ所もありませう。もつと好い場所があつたら探して置いて上げます。東京見物の御金が足りなければ少々位上げます。御坊さんはあんまり金がないでせう、私も金持ではありませんが貴方方に上ける小遣位はあります。たゞ今小説を書いてゐるので多く時間を潰して案内をして上る譯には行かんかも知れません 以上
    九月二十六日              夏目金之助
   富澤敬道樣
 愚堂和尚の掛物を下さる由有がたい仕合せです。東京へ來る時持つてきて下さい
 
      二一四〇
 
 十月四日 水 前11-12 牛込區早稻田南町七より 京都府中郡吉原村中西市二へ〔はがき 代筆〕
 前略御申越の事折角の御依頼にて誠に失禮には候へ共只今多忙の爲どなた樣へ〔も〕皆御ことわり申上居候故何卒惡しからず御思召しの程ねがひ上候
 
      二一四一
 
 十月九日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 滿洲奉天南滿醫學堂太田正雄へ
 拜復奉天へ御赴任の趣敬承滿洲は上海抔とは違ひ支那の本色は如何かと存候へども自ら本地とは異つた面白味可有之ことに大兄の樣な東洋趣味もある人には隨分愉快な收獲も有之ならんと存候繪や骨董は何んなものやら知らねど日本よりも手に入り易くはなきかとも存候精々滯在の機會を利用して面白味を御吸收時々は雜誌でそれを御發表の程願上候先は御挨拶迄 匆々敬具
    十月九日                夏目金之助
   太田正雄樣
 
      二一四二
 
 十月十八日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 名古屋市東區徳源僧堂祥福會下鬼村元成へ
 あなた方は夜中に名古屋を出るのですね けれども東京へ十時三十五分に着けるから便利です。停車場へは出て行かないから獨りで宅迄來て下さい。荷物があるなら停車場ですぐ車を雇つて來るし、電車へ乘る程な小さな包みなら提げて電車へ乘るのです。電車は東京驛の前の大通りを向つて左へ走るのへ乘るのです。それで水道橋迄來て乘り易へます。其所から新宿行といふのへ乘つて牛込柳町といふ停留で下ります。そこから宅迄五六分です。
 或は東京驛で下りるとすぐ前の通りを左へ行くと二重橋だの帝劇だの日比谷公園だのが見られるから荷物を驛へあづけてそれ丈見ても便利です。
 猷禅さんの懸物に就いて御心配は恐れ入ります。そんなに骨を折つて頂くとこつちが恐縮するから好い加減でよろしう御座います 右迄 匆々
    十月十八日               夏目金之助
  鬼村元成樣
 あなたの名前はキムラでしたね。夫からげンジヨウですね。いつか教へて下すつたが忘れてしまつたから聞きます。始めて逢つて間違をいふとおかしいから訊くのです
 
      二一四三
 
 十月十八日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓此間は書物を御屆ありがたうあの漢籍を買つた家は二軒あるうちの君の方へ近いうちですがあすこに清詩別裁といふ唐本がありますそれをあの時買ふ積であつたがあんまり一どきで辟易したなりになつてゐるが一寸欲しい故買つて屆けてもらひたいのです 價は三四圓位ぢやないかと思ひます、それは君の小僧が來た時に拂ふから小僧にさう云つて教へて置いて下さい 以上
    十月十八日              夏目金
   岩 波 樣
 
      二一四四
 
 十月十八日 永 後1-2 牛込區早稲田南町七より 府下青山原宿一七〇、一四號森次太郎へ
 拜啓明月の大字わざ/\御送り御手數萬謝拜借中の機を利用して雙幅とも座敷へ懸けて眺め居候
 近頃の鑑賞眼少々生意氣に相成候其生意氣な所を是非聞いて頂きたいので此手紙を書きます。
 あの字はいま一息といふ所で止まつてゐます。だから其所を標準に置いて嚴格にいふと大半といふよりまづ悉く落第です。然し私はあれを見て輕蔑するのではありません、嗚呼惜いと思ふのです。今一息だがなと云ふのです。あの字は小供じみたうちに洒落氣があります。器用が崇《原》つてゐます。さうして其器用が天巧に達して居りません。正岡が今日迄生きてゐたら多分あの程度の字を書くだらうと思ひます。正岡の器用はどうしても拔けますまいと考へられるのです。
 あれよりも私のもらつた六十の時の詩の方がどの位良いか分りません、夫から半折二行の春風云々の七言絶句の方がはるかに結構です。
 良寛はあれに比べる〔と〕數等旨い、旨いといふより高いのでせうか、寂嚴といふ人のはまだ見ませんから何とも申上かねます。
 是丈の氣?をもち應へてゐると腹の毒ですから一寸排泄致しました。臭い事です 以上
    十月十八日               夏目金之助
   圓 月 樣
 
      二一四五
 
 十月二十日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 名古屋市東區徳源僧堂祥福會下鬼村元成へ
 拜復 指を切つたさうですね飛んだ事です。然しあの手紙が書ける位なら大した事ではありますまい折角樂にして東京見物をしやうといふ矢先だから我慢して御出でなさい。宅の眞前に醫師があります其所で毎日洗つてもらふ事が出來ます。うちで頼んで上げます 以上
    十月二十日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二一四六
 
 十月二十五日 水 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓 此手紙持參の僧二人は神戸祥福寺僧堂に修業する釋僧に御座候此度機會を得て東上所々見物の處是非杜の輪轉機を一見致し度由につき若し御差支なくば運轉の模樣一寸でも傍觀御許可被下度邪魔にならぬ範圍にてよろしく御座候
 雲水の名は宮澤敬道鬼村元成とて小生の知人に御座候 右迄 頓首
    十月二十五日            夏目金之助
   山本松之助樣
 
      二一四七
 
 十月二十八日 土 牛込區早稻田南町七より 下谷區中根岸町三一中村ニ太郎へ
  木浦正君持參
 拜啓其後御無沙汰失敬
 却説今般越後の木浦正君是非一度貴君に御面會の榮を得たき趣につき御紹介致候につき御閑も有之候はゞ御引見被下度候木浦君は好事家にてことに越後の事とて良寛の愛好者にて今度も面白き切張帖持參被致候今度出京の用向の一部分は大兄に面談御所藏の古法帖等拜見致す爲の由に候へば其邊の御便宜も出來得る限り御與へ被下度願上候 先は右用事迄 頓首
    十月二十八日              夏目金之助
    中村不折樣
        梧前
 
      二一四八
 
 十月三十一日 火 後人6-7 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣鵠沼七二〇〇和辻哲郎へ
 拜啓段々寒くなります御變りもありませぬか 私も無事です 松茸をありがたう あれは何處から來たのですか中々方々から松茸をくれます 此間は電話である人の奥さんが松茸があり過ぎて困るから少し貰つてくれと頼んで來ました 此松茸なるものは私の小供の時分は滅多に口にする事の出來ない珍味でした それが今日になると昔を回顧する度に妙な心持を誘ふやうに松茸が出てくるのだから不思議千萬です 先は御禮迄 匆々頓首
    十月三十一日             夏目金之助
   和辻哲郎樣
 
      二一四九
 
 十一月三日 金 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇瀧田哲太郎へ 使ひ持歸
 拜復昨日は失禮畫帖早速出來御好意奉謝候芥川君は昨夜參貴意申傳候處正月は既に新潮と文章世界の兩方へ受合ひたるため他へは手をのばす餘地無之由に候若したつての御所望なれば直接の御交渉も可然と存候へども今回は是にて御斷念來春を期し好きもの御書かせに相成候へば中央公論の爲にも本人の爲にもよろしかるべきかと存候御禮旁御返事の序に愚考乍蛇足つけ加へ申候先は右まで 敬具
    十一月三日               夏目金之助
   瀧田樗陰樣
        座右
 
      二一五〇
 
 十一月四日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺富澤敬道へ
 今朝御手紙が來ました 御滯留中は何にも愛想がなくて御氣の毒でした小説を書いてゐるので私が自身案内して上る事が出來ず殘念でした夫でも御滿足の趣委細承はりまして愉快です カラカサも屆きました 畫帖は頼んだらすぐ直して呉れましたから此手紙と一所に送ります。來年もひまがあつたら遊びに入らつしやい私はあなた方の御宿をして色々禅の話を聽いて大變參考になりました是は篤く御禮を申上たいと思つてゐる所であります。鬼村さんへどうぞよろしく。御兩君とも御勉強を祈ります 以上
    十一月四日               夏目金之助
   富澤敬道樣
 
      二一五一
 
 十一月四日 土 後2-3 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町六丁目一〇八小宮豐隆へ
 拜啓アグラフエーナ御送難有存候今日拜見致候所が小生には殆んど何等の感興なきものなるを《原》事を發見し大いに驚ろいてゐる次第に候 君の面白がる點此次御面語の節委細承はり候へば參考にも可成かと存居候。小生の見る所ではもしあれが日本人の手になつたとすれば何人も一顧も拂はない味のなき作物として葬られてしまふだ〔ら〕うと考へ申候 隨分長いわりに一頁として小生の心を溌溂ならしめたる所なきには閉口仕候 先は右御禮旁御返事迄餘拜眉の上萬々 頓首
    十一月四日               夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      二一五二
 
 十一月四日 土 使ひ持參 牛込區早稻田南町七より 小石川區關口水道町六六近藤春吉へ
 拜啓過般拜借致し其儘になつてゐました東京市史稿市街篇第一第二及び地圖二葉御返却致します。永々留めて置いて濟みませんもつと早く御返し致す積で居ました所今に讀まう讀まうといふ氣があつたものですからつい今日迄おくれ〔た〕のです其癖遂に讀もせずに御返し致すのです。御笑ひ下さい 以上
    十一月四日                夏目金之助
   近藤春吉樣
 
      二一五三
 
 十一月六日 月 後1-2 牛込區早稻田南町七より 赤坂區青山南町六丁目一〇八小宮豐隆へ
 啓 御手紙拜見 屹度何か云つてくるだらうと思つたら云つて來た。實をいふと僕は君が何にも書かずに澄ましてゐる方を希望してゐたのです。何故? それは大抵解るでせう。もつと人間に餘裕を作るのです。無暗に反應を呈しないのです。さうして樂になるのです。他に返事を書かないのを賞める譯ではないが無暗に文壇で云ひ合ひをする癖でも取れて行くかと思ふからです。
 然し手紙の中味を見た時は少々感服しました。君は屹度あの作物を辯護して來るだらうと考へてゐた所大いにそんな私いや我をすてゝゐるからまあ是丈でも君は少々人間として進歩したのでせう
 却説あの小説にはちつとも私はありません。僕の無私といふ意味は六づかしいのでも何でもありません。たゞ態度に無理がないのです。だから好い小説はみんな無私です。完璧に私があつたら大變です。自家撲滅です。だから無私といふ字に拘泥する必要は全くないのです。
 然らば無私な態度のあの作が何故つまらない? 好い作物は無私だが、無私だからといふて詰らないものはつまらないのは當然な譯ですから、僕はあの無私を認めても矢張り詰らないといふのです。
 其説明はよく分析を經ないと明瞭には云へないけれども厭味も衒氣もなんにも無いうちに味といふものがすりつぶされてしまつてゐるのです。仙臺鮪は大味といふが大味ならまだしも何んな味もないのです、まあ湯を呑ませられるのです。しかも湯を三合も四合も一度に呑まされるのです。あすこにあるものは人間と人間との接觸から出る味でなくつて、人生の經路の輪廓です。線丈で其線がそれ自身に溌溂と運動しつゝ進行しないからあれは固定した人生の型を書いて其型なりに歸着點を示したものです。斯うしろあゝしろと注意を加へない説教のやうなものです。哲學として云へば女子供に云ひきかせるための哲學です(もつと六づかしい事がワカラナイから已を得ず)イソツプ物語の長いやうなものです。男を順々に拵へて行く變化はあるが其一轉ごとが利かないから變化も應へて來ません。まだ云ふ事が殘つてゐるやうだけれどもよく分らないから書けません。
 要するにあれは態度の惡い作物ぢやないのです。缺點は外にあるのです。
 此返事を書く主意は辯解しなくつてはゐられないからではありません。面倒だけれども書いた方が君の爲になると思つて書いたのです 決して私はありません 以上
    十一月六日              夏目金之助
   小宮豐隆樣
 
      二一五四
 
 十一月十日 金 後3-4 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺鬼村元成へ
 拜復先達の手紙は拜見難有う御座います大して御世話もしないであんな丁寧な御禮を云はれては痛み入ます然しそれが縁になつて修業大成の御發心に變化すれば私に取つて是程滿足な事はありません。私は日本に一人の知識を拵へたやうなものです。富澤さんも略あなたと同樣の事を云つて來ました。坊さん方の奇特な心掛は感心なものです。どうぞ今の決定の志を翻へさずに御奮勵を祈ります。私は私相應に自分の分にある丈の方針と心掛で道を修める積です。氣がついて見るとすべて至らぬ事ばかりです。行住坐臥ともに虚僞で充ち/\てゐます。耻づかしい事です。此次御目にかゝる時にはもう少し偉い人間になつてゐたいと思ひます。あなたは二十二私は五十歳は二十七程違ひます。然し定力とか道力とかいふものは坐つてゐる丈にあなたの方が澤山あります。
 子供にやる繪端書は何でも構ひません。兄は純一弟は伸六です。
 富澤さんが薪折《原》をしてゐるといふ事を云つて來ましたから一寸一句御覽に入れます
  まきを割るかはた祖を割るか秋の空
といふのです。禅坊さんは禅臭いのを嫌ひませう日常坐つたり提唱を聽いたりして禅といふ字が鼻についてゐるでせう。然し素人は又とかく實力もないのに禅とか何とか振り廻して見たくなるものです。何うも惡い癖ですね 呵々
    十一月十日              夏目金之助
   鬼村元成樣
 
      二一五五
 
 十一月十五日 水 後1-2 牛込區早稻田南町七より 神戸市平野町祥福寺冨澤敬道へ
 啓 饅頭を澤山ありがたう。みんなで食べました。いやまだ殘つてゐます。是からみんなで平げます。俳句を作りました。
  饅頭に禮拜すれば晴れて秋
  饅頭は食つたと雁に言傳よ
    徳山の故事を思ひ出して
  吾心點じ了りぬ正に秋
  僧の示れし此饅頭の丸きかな
    瓢|簟《原》はどうしました
  瓢|簟は鳴るか鳴らぬか秋の風
 副司といふ役は會計をやるんですか面倒でせう。詩は拜見しました。作務の間に詩作をするのは風流です。然しあなたの詩はまだ旨い所へ行つてゐませんね。昔の人の作例を讀んで深い感興が湧きさへすればもつと好い詩が出來る筈だと思ひますが何うですか。是は惡口ぢやありません。折角遣り出したものだからもつと上手になつて欲しいといふ心持です。
 無孔の鐵槌とは何ですか 禅語ですか、たゞ上面の意味でも可いから此次序に教へて下さい。
 二三日前作つた私の詩を書き添へます
  自笑壺中大夢人
  雲裏縹緲忽忘神
  三竿旭日紅桃峽
  一丈珊瑚碧海春
  鶴上晴空仙?靜
  風吹靈草藥根新
  長生未向蓬莱去
  不老只當養一眞
 是もまだ改良の餘地があるやうですが專問《原》家でないから好加減な程度であなたに見せる丈です
 變な事をいひますが私は五十になつて始めて道に志ざす事に氣のついた愚物です。其道がいつ手に入るだらうと考へると大變な距離があるやうに思はれて吃驚してゐます。あなた方は私には能く解らない禅の專問家ですが矢張り道の修業に於て骨を折つてゐるのだから五十迄愚圖々々してゐた私よりどんなに幸福か知れません、又何んなに特《原》勝な心掛か分りません。私は貴方方の奇特な心得を深く禮拜してゐます。あなた方は私の宅へくる若い連中よりも遙かに尊とい人達です。是も境遇から來るには相違ありませんが、私がもつと偉ければ宅へくる若い人ももつと偉くなる筈だと考へると實に自分の至らない所が情なくなります。
 飛んだ蛇足を付け加へました。御勉強を祈ります
 以上
    十一月十五日             夏目金之助
   宮澤敬道樣
 
      二一五六
 
 十一月十六日 木 後3-4 牛込區早稻田南町七より 420 West 116th Street,New York成瀬正一へ〔はがき〕
 
 御安着結構です。あなたの獨探の話(航海中の)は新思潮で讀みました。面白いです。通信もよみました。あなたはヒポドロームへ芝居を見る氣か何かで飛び込みましたね。芥川君は賣ツ子ニなりました。久米君もすぐ名が出るでせう。二人とも始終來ます。菊池君丈は新聞記者で忙がしいので來ません。もう一人の連中 哲學者(越後の)も來ます。「明暗」は長くなる許で困ります。まだ書いてゐます。來年迄つゞくでせう。本になつたら讀んで下さい。コレラハもう下火です。文展ももう御仕舞になります。昨日から寒くなりました。右迄 草々
 
      二一五七
 
 十一月十七日 金 後6-7 牛込區早稻田南町七より 神田區南神保町一六岩波茂雄へ
 拜啓此手紙のうちに切拔きたる廣告の書物四卷乍御面倒御買取御屆被下まじくや毎度御手數恐入候へども今日天氣あしく外出退儀故願上候 以上
    十一月十七日              夏目金之助
   岩波茂雄樣
 
      二一五八
 
 十一月十九日 日 後3-4 牛込區早稻田南町七より 金澤市第四高等學校大谷正信へ
 拜啓昨日山鳥が到着致しましたので何處から來たのかと思つたら大谷正信といふ札が付いてゐました。何うも有難う御座います。私は貴方の事を忘れてゐるのに貴方は私の事を考へて下さるのみならず時々魚だの鳥だの御菓子だのを頂戴するのは勿体ない事です。尤も忘れるといつても記憶に消されてしまふ譯ではないのだから御容赦を願ひます。一寸御禮迄 草々
    十一月十九日              夏目金之助
   大谷正信樣
 
 補遺
 
      四六A
 
 明治二十八年四月十二日 金 へ便 愛媛縣松山尋常中學校より 本郷區駒込東片町(?)金華樓玉蟲一郎一へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜呈仕候先日一寸端書にて御報申上候通去る九日當地へ安着無事消光致居候間乍憚御休神可被下假偖先般一寸承はり候處(大兄より直接ではなく)御地中學校に教師入用の由にて大兄を迎へ度由申し來り候やに聞き及び候然るに大兄の御意向はあまり御進なさらぬ樣子と伺ひ居候右教員は最早塞がり申候や實は當尋常中學に大學一年まで修め其後中學の教育に從事し老練なる人有之此人色々の事情にて他に轉任を希望致居候授業課目は歴史英語地理の免状を所持致居候よし月給は四十圓の望みに御座候若し大兄の御周旋にて早《原》談出來候事ならば甚だ好都合に御座候右は甚だ突然の次第には御座候へども至急伺ひ上候也
 當人の履歴書御所望に御座候はゞ早速御屆可申上く候
    四月十二日夜               夏目金之助
   玉 蟲 學 兄
         座下
 
      七〇六A
 
 明治四十年六月十七日 月 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 澁川柳次郎へ〔うつし〕
 拜啓只今高須賀淳平參り社の方が突然の間にきまりたる由一寸御報知に參り候と申候。實は左程早く御採用とは思はず小生も甚だうれしく篤と本人にも勉強する樣申聞け候。本人も望外の喜悦にて是から足を伸ば
して樂に寢られると申居候今日既に廢兵  《二字不明〕》して少し材料をあつめし由に候。小生も世話のし甲斐ありて甚だ愉快深く大兄の御親切を謝す次第に候先は右御禮まで匆々如斯候頓首
    六月十七日夜               金之助
   玄 耳 大 兄
 
      七一六A
 
 明治四十年七月二日 火 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 澁川柳次郎へ〔うつし〕
 拜啓御手紙拜見秀英舍の件は出す事御不賛成の由なれども御賛否は論外としてどうか出して頂き度と存候。小生の立場としてどうしても出して頂かねばならん事情になつて居ります。朝日の大主|議《原》もしくは大利害に關係ある以上はとにかく然らずんば小生の云ふ事を抂げて御通し被下度候。其代り科學でも醫學でも色々周
          
旋をやります。  《〔二字不明〕》はのけて無理を願ひます 以上
    七月二日               夏目金之助
   澁川玄耳樣
 
      七二五A
 
 明治四十年七月十一日 木 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 澁川柳次郎へ〔うつし〕
 拜啓昨日留守中に高須賀君立寄御依頼の封筒殘し置かれ歸宅後正に落掌臨時賞與としての一封難有頂戴仕候
 總務局と申すものはどこにあるか知れぬ故貴兄より宜敷御禮被下度候
 あれに「臨時賞與」と有之候があれが入社の時に池邊君やら前田《〔弓削田?〕》君から承つた盆暮の賞與にあたるものですか參考の爲め一寸伺つて置きたいと思ひます。
 醫學小話の事は聞き合せた人々二三差支にて不得其意、聞いてもらつた當人の云ふ私でよければ御間に合せてもよろしと、是は醫科の學生に候、本人の希望なら紹介してもよく、又小生への義理なら心配に及ばずと申しやりました、夫から其他の方面できゝ合せてもゐますが是はまだ返事がありません、大抵の見當は大學助手位な所を覘つてゐます、日々御多忙の事と存じます、いつか閑な日を得て清遊を仕り度と思ひます、池邊君の病氣も傳聞の儘見舞にも參らず御面會の節はよろしく御依頼〔申〕上候 匆々
    十一日                  金
   澁 川 大 人
         坐下
 
      一〇一八A
 
 明治四十二年六月十九日 土 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓拙稿「それから」二十回分御手許へ差出候につき可然御取計願上候。あとは又二三十回宛まとめて時々差出す事に可致と存候
 右迄 草々
    六月十九日               夏目金之助
   山本松之助樣
 〔初めの餘白に〕
 「それから」の長さ自分にも判じかね候故萬一を慮かり次回の小説の執筆者は精々早く御取極御依頼の程願置候
 
      一三五七A
 
 明治四十五年三月十一日 月 牛込區早稻田南町七より 白石大へ〔うつし〕
 拜啓御手紙拜見致候文學御希望の由拜承致し候へども文學などをして世に立つ事今日の時勢甚だ困難に候故たゞ本業の傍ら娯樂として御耽り可然と存候又今の世に弟子とか師匠とか申すものもなき樣子故只何か御話になりたき時御面會致せば夫で澤山ならんかと存候小生面會日は木曜に候大兄御勤務の都合あれば日曜か土曜に御相談の上一度位時間を設けてもよろしく候尤も何れも只今多忙故少々御待被下度候實は小説を書いて居候故夫が濟んでからだと小生も好都合に候右御含み迄申上候先は御返事如斯候草々
 
      一四八二A
 
 大正元年十月八日 火 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓洋畫の批評を黒板君に御依頼の御考の由同君は色々な意見を發表する事を寧ろ好む傾向の人の樣に被存候故畫に於ても頼まれれば承諾するならんと存候も小生は未だ曾て此方面の學者としても趣味ある鑒賞家としても黒板君の名を聞き及びたる事なく候自分の如きものが文展につき云々する今日他人につき彼是申すは妙に候へども同君に洋畫の批評をたのむはちと見當違にてはなく候や餘計な御世話ながらもう一度御考直し願度候尤も小生寡聞にて同君の技能を知らざるため斯樣に失禮をいふのかも知れず夫ならば固より徹《原》回は覺悟の上、小生に構はず諸事御進行可然候へどもあまり妙に聞え候まゝ差出口とは存候へども婆言を左右に呈し申候いづれ拜眉の機もあらは萬々不一
    十月八日               夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一四八四A
 
 大正元年十月十日 木 前9-10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「要事」とあり〕
 拜啓大塚より別紙の通申越候同君の立場としては至極尤のやう被存候社の方の御希望如何に候や御差支なくば同君の申出の通取計はれたく右得貴意候匆々不一
    十月十日                夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一四八八A
 
 大正元年十月二十一日 月 前10-11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓上大塚博士より別紙の如く申來候間乍御手數來意の通御取計被下度願上候 勿々不一
    十月二十一日               夏目金之助
   山本松之助樣
        坐下
 
      一六三一A
 
 大正二年九月三日 水 後10-12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞祀内山本松之助へ
 啓此間は帝劇にて失禮候かねて約束ある徳田君より別紙到着につき供御披見候或は社の催促に對しての挨拶かとも存候へども念の爲め故御廻送致置候間此上とも臨機の御處置仰たくと存候 匆々
    九月四《原》日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
【藏書の餘白に記入されたる】短評并に雜感
〔入力者注、英語の書の書誌及び頁は略した。〕
 
 William Shakespeare
  The Tragedy of Hamlet
 
○ホレシオ流の答ナリ、一句ニテHヲ點ズ、他ト異ナルヲ示ス
○何故ニGhostハ二度登場スルヤ
○Young H.ヲ點ズル所自然ナリColeridgeノ説妥當
○奇抜
○同樣ノ事ヲ異樣ノ語ニテ重疊シテ用フ沙ノ擅場ノ技ナリ
○凡テ用辨ノ語ハ劇中ニテ必要ノ語ナリ而モツマラナキ語ナリ
○H.ノ最初ノ語ナリ注意シテ見ヨ、此不得要領底ノ言語ノ心理ヲ論ゼヨ、Col.參考
○kingトQueenノ語ノ異ナルヲ注意セヨ H.ノ答方KトQニテ異ナルヲ見ヨ
○初メテHノ眞面目ヲ點出ス、其不平ナル理由ヲ明ニス
○皮肉ノ語ト解釋スベシ
○Hヨリfatherヲintroduceス妙
○幽靈ノ話ヲ出ス處少々マヅシ、余ナラバのH.ノ「余父ヲ見ル樣ニ思フ」ト云フノヲHo.ガ聞イテ薄氣味惡キ思ヲナシアタリヲ見廻ハストHガ不審ヲ起シテ之ヲ詰問スルスルトHoガ實ハカタ/\ト云フ風ニカク積リナリ
○警句
○寫生的 全体活動ス
○Oph.ノ答辯ノ簡畧ナルヲ見ヨ
○此等の句にヨレバHamletノ年齢ハ二十五以下に見ユ
○Polは己レノ子ノ藝妓ノ如キヲ欲スル者ナリ。彼ノ自ラ誇る智慧分別ハ悉ク月並ナリ彼ノ娘ニ要求スル所ノ者ハスレカラシニナレト云フ義ナリ シテ見ルト彼自身はスレカラシノ大將ナリ、イヤナ奴ナリ
○Pol.ハ學問モナク見識モナク只現世界ノ游泳術ヲ年功デ覺エタル卑俗ノ輩ナリ。人ヲ見レバ泥棒ト思ヘ油斷スルナ。ト云フコトヲ確信スル下等ナル智慧ノミ發達セル馬鹿者ナリ。自己ノ心ニ誠ナキ故ニ天下ノ何人モ誠ナシト判斷スル男ナリ。此親ト此娘ガ合シテHノ運命ニ一種ノ影響ヲ及ボス所頗ル面白シ。要スルニ三人ノ中ニテPOlハ尤モ下等ナリ。HamトOph.ハ弱點ハアレドモ下等ナ所ハナキナリ
○寫實的
○竪に棒ヲ引ケル處戯ノ全面ニ何等ノ關係ナキノミカ、只此局部丈ヲ批評スルモ詩的ニテモナク寫實的ニテモナシ。アルモ妨ゲズト云ハンヨリハナキ方可ナリ、父ノ死後間モナク母ハ叔父ト結婚シ、不平欝勃ノ所ヘホレシオの報知ニテ父ニ似タル幽靈ヲ見ニクル「ハムレツト」ノ心中ハ命ガケナリ浮キタル處ナシ。來テ見レバ遠方ニテ絃歌宴舞ノ聲ヲ聞ク、此所迄ハ頗る可ナリ、此所迄來タナラバ何故之ヲ聞いてハムレツトガ感慨スル所ヲ叙セザル カヽル不必要ノ事ヲ述ベズニ半ば母ト叔|母《原》ヲ恨ム言語ヲ挿入セバ一段ノ興味アルベキ筈ナリ
○奇想
○佳
○月ヲ挿入スル所佳
○幽靈ノ登場ニテ一段落。幽靈ノハムレツトヲ麾ク所ニテ二段落 カクスレバ觀客は愈幽靈ニ重キヲ置クナリ。出テ來テ直チニ口ヲ開クヨリモ面白キ波瀾ヲ生ズ
○幽靈始メテ口ヲ開ク(三段落)
○幽靈ノ話一歩ヲ進ム四段落
○「マーダー」ニ至ツテ話頭又一歩ヲ進ム五段落
○Lethe ト云フ所多少姿致アリ
○叔父ヲ點綴ス六段落
○一句ヲ插入ス精彩ヲ見ル
○母ヲ出ス七段落
○佳
○ハムレツトの誓フ所ハ此場ノ大段落ナリ戯ノ發展に大關係アリ。此邊ノ叙方甚佳ナリ
○此句は突飛ナリ其理由如何(1)故意ニ狂氣ヲ装フ始メノ態度カ(2)カヽル場合ニハカヽル突飛ノ滑稽的輕薄の句ガ出るモノカ、非常ニ怖シキ事カ驚ロクべき事又は神經ヲ刺激スルトキハ狂氣ニナリ得ルトハ事實ト認ムルコトヲ得ベシ。狂氣ニナルトスレバ、カヽル返事ヲスルノハ當然ノ事ナルベシ、偖狂氣ニナラザルモ其當時は狂氣ノ人ト同ジ樣ナ心的現象ヲ一時的ニ生ズルコトモアリ得ベシ、若シ是アリトスレバ、カヽル返事ヲスルノハ矢張リ當然ノ事トナル。然シナガラ何人モ必ズカクナルカト云ヘバ多クノ証明ト統計ヲ有《原》ス一方ヨリ見レバ種々ノ場合ニ於テ其時ヨリ急ニ躁狂的態度ニ變化スルコトハアリ得ベカラザルやニモ思ハル。……異常の事は讀者ノ凡テ又ハ多クノ經驗に上ラザレバ如何ナル心的現象ヲ引キ起スカ分ラズト云フヨリ仕方ナシ。若シ分ラヌトスレパ此句ノ如キハ批評ヲ許サヾル句ナリ。詩人文人異常ノ事件ヲ設けて其影響ノ人物に及ブ所ヲ叙スルトキハ白トモ黒トモナシ得ベシ是トキ非トモ評シ得ベキナリ。是讀者ノ心得ベキコトナリ。文學は吾人ノ記臆《原》ニ訴フ(Vernon LeeノContemporary Review ニ説ク所要ヲ得タリ)ル以上は自己ノ經驗ニナキ其類ナキコトハ何トモ批判シ難キハ勿論ナリ。但シ役者自身ノヤリ方ニテハ此句ヲイカスコトモ死ナスコトモ出來得ベシ。モシカヽル句ヲカヽル場合ニ用イテ毫モ突飛ノ感ヲ起サヌ樣ニ演ズル役者アラバ其人ハヨク沙翁ヲ飲ミ込ミタル者ナルベシ。又觀客の記臆ノ根底ニ潜ム暗流ヲ振盪シ得タル者ト云フベシ。コルリツヂの樣ニ議論シ説明シタレバトテ此句ガ自然ニ感ジ得ル樣ニハナリガタシ。且コルリツヂは兩天秤ノ議論ヲシテ(1)(2)ヲゴ茶マゼニ述ベタリ
 但シ之ヲquasi-contrastトシテ解釋スレバ非常ノ凄味ヲ生ズ
○Seymourノ説面白シ
○佳 (1)Swearノ重キヲ示ス爲メ
   (2)場ノ光景ヲ凄愴ナラシムル爲メ
○此句モ前のヒロ、イロ云々ノ句ト同ジク突飛ナリ。心理ハ知ラズ。又ハムレツトノ意向モ知ラズ但此突飛ナ句は非常ノ凄味ヲ生ズ。否生ジ得ルナリ。余ノ講義中quasi-contrastノ條ヲ見ヨ
○彼ノ言語は彼自身ニトツテハ頗ル氣ノ利イタル積リナリ、故ニ傍人ヨリ見レバ猶更愚弄的ノ分子ヲ含ム
○Pol.ノconceitヲ見ヨ、自ラ利口ブル者ハ徃往々此滑稽ヲ演ジテ自ラ知ラズ、猶滑稽ナリ
○彼ノ己惚ヲ見ヨ、此己惚ガ失敗スル所滑稽趣味ヲ發揮スルト共ニ道徳的感ジヲ滿足セシム
○一語天外ヨリ落下シテPol.ノ膽ヲ奪フ妙。必ズシモ解釋ト説明ヲ要セズ
○此句ハ三方ニ關係アリ
  (1)Pol.ノ心ヲ半分滿足サセ半分不安心ナラシム。滿足サセルトハ彼ノ推察通リナルヲ以テナリ不安心トハ娘ノ身ノ上ニ就テナリ
  (2)H.ノO.ノ事ヲ多少脳中ニ思フテ居ルコトヲ示ス。多少戀ノ趣アリ  (3)女全体ヲ危儉ナ者ダ。信用出來ヌ者ダト云フ意ヲホノメカス 是ハ母ノ品行ヲ目撃シテ得タル彼ノ結論ナリ。此一事ハ彼ノ心ヲ發表スルニ尤モ親切ナ點ト思フ。如何ニ彼ガ母ヲ信ゼ〔ザ〕ルヨ。母ヲ信ゼザルガ爲メ如何ニ他ノ女子ニ信ヲ置カザルカヲ見ヨ
○Pol.ノ獨リ合點ノ所ヲ見ヨ
○又一寸Pol.ヲ驚カシテ頭ヲハル所妙
○此句ノ如何ニ佯竟狂的ニシテ且悽愴ナルカヲ見ヨ。Clarkeノ説可ナリ
○一句H.ノ本領ヲ示シテ他ニ對スルハトクニ佯リ狂フコトヲ示ス。此句ナケレバ眞カ僞カ一寸明瞭ヲカク。且如何ニモ自然ニアリサウナル句ナリ
○Ros.サグリヲ入レル
○奇語
○witty
○此邊案外に平凡ナリ。只前後の急流直下的の場所を救ふ爲めに存在するも妨なし。もし獨立して論ずれば當時の人に興味ありしといふの外何等の取る所なし
○自ラ〔二字右○〕感慨ヲ含ム妙
○此語尊敬ノ意ヲ含マズシテH.ノ心情ヲアラハス ヨシ
○此解シ得ル如ク解シガタキ如クニシテ妙
○一句ヨシ
○再ビOp.ニ説キ至ル佳 不即不離
○此句無量ノ感慨ナリ 此句ヲ繰リ返す所尤も姿致アリ
○H.己れ自身に愛想ヲつかして居る
○Polノ主張ヲ見∃、vanityノアル所ヨクアラハル
○此所は局面の調子をゆるめるに過ぎず然しH.の俳優に對する批評は當今の吾邦の役者の上に用いるを得べし
○男ラシクテヨシ
○疑團猶在
○事實明白トナル
○Hamletノwit妙ナリ他ヲ翻弄スル手際ヲ見ヨ
○Polハイツデモ利ロブツテ機先ヲ制スル策ヲ講ジテ得々タリ然ルニ小計反ツテ身ノ仇ヲナス所妙
○大雨到ラントシテ纔カニ過ギ去る
○Jobnsonハ此speechヲ以テtoo horrbleニテH.ノCharacterヲmarスルトナス。Hazlittハ之ヲ以テ躊躇ノexcuseナリトナス。余思フニHハ此通リヲ意味セルナルベシ。當時ハ斯ノ如キ猛烈ナル世ニテアリシナリ(Steevensノ例參考)。
 吾人日本人は此ヲ讀ンデhorribleト感ゼズ
 (一)ダムネ−シヨンニ對スル感冷ナルカ
 (二)復讐ノ)念強キカ
   或ハ兩方カ
○隱レテ居ルPol.ガ大聲ヲ出サネバナラヌ樣ニ自然トナル所妙
○佳
○痛快、此時Hハ毫モ惡イ事ヲシタト云フ考ナシ。激セル際《原》中ナリ○敷句奇峭峻酷ナリ
○是モ猛烈ナ語ナリ
○己レノ怠慢ヲ責ム
○Macbethノhimト云フ所參照
○Good nightヲ繰り返ス所妙、是で寫實ニナル
○母ガ折レテ而ル後自分ガ折レル 自然ナリ
○此句何トナク物凄クテヨシ 獨白ニアラズ……の説誤テリ
○自ラmadニアラザルヲ辯ズ
○屍体ヲ引キズリ去ル所ヨシ
○感慨ノ如ク、嘲罵の如ク、滑稽ノ如シ。
○此段H.ガ他ヲ翻弄スル所妙ヲ極ム。彼ノ言語ハ有意ア《原》ルガ如ク無意ナルガ如ク妖嬌陸離端倪スベカラズ
○佳
○H又己ヲ責ム
○ flattery
  lust      ingratitude
         cuckoldom
  dimness of sight
○KingノHニ手ヲツケ得ザル理由
○H近來ノ所作ハremissニアラズ。King自身ニハ猶シカク見ユベシ。然ルニカク云フハ芝居ノ爲ニシテ。芝居ノ爲ナル所痕迹ノアル所ナリ。去レドモHノ一生ヨリ論ズレバ此評ハ正當ナルベシ。Hハ立派ナル男ナリ。Kingハ之ヲ認識スルナリ 去レドモ此立派ナル所ヲ思慮ノ足ラザル所ノ如ク考フ。凡俗ハ常ニコノ見解ヲナス。
 
 Macbeth
○Seymour says the scene is not genuine on account of it having no advantage.This is the most unpoetical critism《sic》.Coleridge's good sense and insight are shown in this case;for he thinks it necessary as it strikes the key-note of the character of the whole drama.
○伏線
○Deighton's note on this word is wrorlg.It is an interjection from Icel.heill.
            far heill=farewell
            kom heill=Welcome
○meaning is quite clear without any emendations
○cf.Chauce
○照應何故ニ面白キカ。
○伏線
  First Witch.Lesser than Macbeth,/and greater.
  Sec.Witch.Not so happy,/yet much happier.
  Third Witch.Thou shalt get Kings,/though thou be none:
 行ヲワリテ 二人ノWガ話スコトトスレバ猶面白キ感ヲ生ズベシ
○In Schmidt“learn”he is not sure of it
○passage is rather obscure
○Many commentators in terpret《sic》s“thick”in the sense of“rapid.”There is no use of making such a fuss over the word.
○照應
○Hudson's explanation is in keeping with the context but not grammatical(I see nothing but what is unreal)
○照應
○There is no justification for making H“the eye”the subject of let,as Delius has proposed.Instead of improving the meaning,it only adds to the confusion.
○(Why stars?)and not“moon”or“sun”
○(手紙ヲ讀ミナガラ出テクルハ何故面白キカ)
○(Why“they”and not“witches”?)
○Striking line
○(始メテweird sistersヲ點出ス)
○點綴マク性質及夫人マク性質
○(何故milk云々ノ語ヲナスヤ 「マク」ハ狂※[獣偏+悖の旁]《原》ノ人ニアラズヤ 其理由)
○此passagノeffectヲ見ヨ、(1)Relief(2)King's perfect trust and innocence(3)heightens the sense of tragedy
○夫婦ノ問答ニテ局面ニ曲折姿致ヲ生ズルヲ見ヨ
○Hudson It is said that Mrs.Siddons used to utter the close of this speech in a scream,asthough she were almost frightened out of her wits by the audacity of her own tongue.
○Steevens“Macbeth having casually employed the former part of the common phrase:if we fail,We fail,his wife designedly completes it.”Cf.Jameson p.375,Where she describes the three successive intonations adopted by Mrs.Siddons.Jameson seems to endorse the opinion of Steevens.
○此pauseト前ノSc.viノpauseトヲ比較セヨ
○ActT.Sc.vi.ノpauseハreliefナリ是ハ豫備ナリ、前ハホツト息ヲツグ方ナリ是ハ息ヲ殺スpauseナリ前ハノドカナル日ナリ、是ハ凄キ日ナリ、燕、新鮮ナ空氣等ノ景物ト此處ノ景物ヲ比較セヨ、(2)前ハDuncanトMacノcontrastニシテ景物之ニ副フ、是ハBanquoトMacノcontrastニシテ景物之ニ副フ
○Seymour objects to the delivery of the passage with fear and surprise;he would rather have it done with animation and eagerness,taking the vision as an intervention of supernatural agency.For my part,I prefer the delivery according to the current conception.The daggeris evidently the creation of M's oppressed brain and he is aware of it,at least after the first heat is over.
○For“crickets”see Brand vol III p.190
 “OwIs,raven,crickets,seem the watch of death”――Dryden's Oedipus
○Coleridge's criticism of the passage
○in conclusion,equivocates him in a sleep,and,giving him the lie,leaves him
○cf.Davies' opinion
○照會《原》
○cf.III,i,8
○1st preparation for the ghost
○2nd preparation for the ghost
○Third preparation to the ghost
○性格一轉
○伏線
○I think the word shave some reference to the first apparition and what it told Macbeth
○性格又一轉
○照應
○? see Nares' Glossary
○? see Schmidt
○?
 
 〔見返しに挿入しありし紙片に〕
1.Call to mind the witches'words.照應
2.Association of both in our minds(mechanical)
3.No connection,whatever,between the witches and Macbeth,at least the latter has no idea of the witches waiting
4.This man,wholly disconnecte dwith the witches as far as his mental condition goes,speaks just the same idea as the witches:at least he uses the same words “fair”and“foul”
5.The reader recollects the sentence of the witches by these words of Macbeth,and knowing that he has still nothing to do with the witches on his part and at the same time being struck with the similarity of both idea and expression which is rather obscure and dark,jumps at once to the conclusion that Macbeth is already under the spell of the witches,which brings along with it a sense of weirdness and heights《sic》 his interest as to the evolution of the character under the mysterious sway of witchcraft.
6.This is one of the most subtle passages,worthy of the name of Shakespeare.No commentators has《sic》 ever pointed out the slgnificance of this most powerful line.They have given themselves much trouble in explaining away“foul”and“fair”and trying to find a logical link between these twowords,all the while losing sight of the logic of the emotion. ……(第一枚表)
 First Witch Lesser than Macbeth
 2nd W.             and greater
 3ra W.  Not so happy
 1st W.         yet mhc hhappier
 2nd W.  Thou shalt get kings.
 3rd W.         though thou be none
 If we break the predition《sic》of the witches in this way instead of reading it according to the origlnal text,the effect will be far greater than it is.
 1.A certain pause is necessary between these sets Of antithetical utterances,in order to intensify the sense of wonder on the part of hearer.
 2.Two different or rather opposite ideas uttered by two different witches,heighten on one hand the individuality of the witches and consequently it is all the more perplexing when hearers try to soIve the enigma.If uttered by one witch,the hearer may still have hope of soIving the enigma as it is the utterance of one individual being.But if broken to two and spoken by two,it will certainly increas ethe bewildering sensation,as the hearer will be all the more at a loss how to interpret the meaning.(第一枚裏)
           contrast
 he world of the devil   | he world of the man
       Sharp transition
            |
           Knocking
I Effect.Examples
       1.Gradual food,tobacco
            person
       2.Sudden――
 
Usuddenナラシムル道具、突然起ル者ナラザル可ラズ、突然起ル者ノ中ニ一番吃驚スル者感ズル者換言スレバ正氣ニ復スル者ハloud noiseナリ、大砲ノ音ヲ突然聞ケバ吃驚シテ今迄ノ考事ガナク〔ナ〕ルコトアレドモ陸軍大將ニ突然御目ニカヽツテモ何トモナイ、シンダ人ヲ元ニモドスニハ耳ニ口ヲツケテ呼べドモ品物ヲ見セルコナシ
sddden mentl changeヲ引キ起ス者ハloud noiseナリ
 佛光國師ノ例
V加之此soundタルヤ、夜中ナリ萬籟寂タル時ナリ、perpetratorハnoiseヲ恐ルトキナリ、又普通ノ人ハnoiseヲexpectセザルトキナリ、故ニ一層ノeffectヲ生ズ(第二枚表)
煙草
毒  gradual
   sudden――
Suddenness is the necessary condition of−
Means of causing this sudden change
  1)Loud noise inquiet hours
  2)Strong flash of light in the darkness
  3)Other strong stimuli.
    −Striking,blows etc.
    −Se《sic》f−inflicting pain,such as pinches to make sure our existence.
The case is illustrated by the so called“revelation”which may suddenly fall upon the Zen sect priests.
  a)case of  佛光國師
  b)   大燈國師
  c)   雲門
In these cases the noise,the pain have nothing to do with the intuitive cognition of the universal truth.They are only means of bringing this consciousness of truth to a high relief,thus making it everlasting consciousness in their after-life.
 Macbeth's case admits of similar psychologlcal explanation;it is all the more interesting in as much as the knocking puts the Macbeth as well as the audience in mind of the existence of the outer world which has been totally lost sight of before this sudden knocking and as it serves to imprint the terrible truth that we have been in the devil's world(第二枚裏)
 Gbost
  1)One or two?
    Reappearance not artistic,(Knight)
    Why?
    Reappearance is as artistic as the first appearance:nay more artistic justified by the psychological context.
  2)Banquo’s or Duncan's
    Banquo’s decidedly.If it were D's the lines preceding and following the appearance would los emuch of their effect.
   a.)Those who are in favour of Banquo
      Twenty murders etc
   b)Those who are in favour of Duncan
     Charnel house and grav eetc
     Macbeth's challenge to the ghost
  These are only material.Psychology would have Banquo's ghost here.There are three passages in which Macbeth refers to Banquo's absence and the ghost appears immediately after them.Macbeth pretends to regret the absence of B,yet rejoIces that the latter is safe abidingin a ditch.This hypocrisy and this secret triumph is crushed when he sees the ghost of Banquo(notthat of D.)I tadds the sense of amazement,surprise and bewilderment,in addition to the common feeling at the sight of a ghost viz. fear.And this sense of surprise gives much effect on the stage calling forth bitter disappoint《sic》 on the part of Macbeth and sense of irony or mockery on the part of the audience.All this simply because the ghost is Banquo’s.If it were Duncan's,all these psychological effects would be gone
  3)Hallcination or apparition?
  Easily explained by regarding it as hallucination but not necessary to have recourse to hal.for explanation.It is an apparition as well.Apparitions are quite admissible in literature even in these enlightened days.Why?(See my lecture on Literature).The only advantage of bringing in the theory of hallucination is that while this apparition is doing its work on the stage;it prevents the audience's mind recurring now and then to the possibility of the real appearance of a ghost,thus destroylng the charm orlook down upon the plece,after the play is finished,as being absurd,regretting that they have abandoned themselves even for a time to the illusion.(第三枚)
 
 Macbeth
○most unpoetical criticism(p.3.seymourの註釋に就て)
○good(p.3.coleridgeの註釋に就て)
○It is no hypocrisy;he wants to say “Amen” partly invited by the prayer of the sleeper and partly impelled half unconsciously in the desire of propitiating God by way of atonement:But when he finds his “Amen” stick in his throat,he is for the first time brought face to face with the real situation he is in after this direful deed.(p.101.……に對するBodenstedtの註釋に就て)
 
 The Merry Wives of Windsor
○落語家ノ棺桶ノ中カラモラツテ置ケ/\ト云フ格ナリ
    Fenton−Anneノ好ム所
○Anneヲwooスル者 Slender−Mr.pageノ推擧スル所
           Caius−Mr.pageノ欲スル所
 
 Measure for Measure
○cf.Macbeth
○……
○此談話頗る無遠慮にてindecentナリ其例トシテ見ルベシ
○貞節
○duke FrialトナツテClaudioヲ慰ム、坊主ノ説教東西ヲ比較セヨ
○貞節
○詩的ナリ
○Barnardineノ呑氣ナル是一種ノ性格ナリ
○可ナリ
 
  Wimter's Tale
○沙翁ノ小兒
○甚佳
○Hermione夫ノ怒ニフレテ牢ニ下ル 此女ノ性格
○ArtトNature
○激越ノ辭
 
  King Richard the Second.
○Associative use of language
○Ass.
○暴語
○Loy.
○L
○格言
○人ノ死セントス〔ル〕や其言ヨシ
○Italyノマネヲスル……ノ……ヲ參考
○格言
○pun
○Patienceノ例
○感應
○Shノ子供Percy
○暴語
○此邊ハ漢楚軍談ジミタリ
○RichardUノ最後ノ感慨、彼ノ心ノ如何ニ悲ト情ト怒トニ滿チタルカヲ見ヨ
○生死ノ權ヲ把ル者相手ヲ稱シテ陛下ト云フ
○暴語
○K.Rノwit
○K.RicFardノシヤレ
 
 Kimg Henry IV。−PartT
○As.
○Princeニ對スルFal.ノ口調ヲ見ヨ
○graceノシヤレ
○格言
○Fal.ノ旅客ヲ威嚇スル語ヲ見ヨ
○Coarse
○妻女ノ夫ニ對スル語ヲ見ヨ是日本人ナラズ
○夫ノ妻ニ對スル語ヲ見ヨ是西洋人ナラズ
○妻ノ言語ノ露骨ナルヲ見ヨ而シテヨク女ノ性質ヲ示セリloveハ女ノ生命ナレバナリ
○Falノ法螺
○矛盾
○遁辭
○暴語
○惡口
○日輪懷ニ入ルト夢ミテ孕ムノ類ナリ
○暴語
○Lady PノChracterヲ研究セヨ、夫ニ對スル乱暴ナ語ヲ見ヨ
○暴語
○Coarse
○Falノ婦人觀
○暴語
○Hotspurノ氣質ヲ見ヨ
○Honour論 Falノ哲學
○Swagger and lying
 
 Kimg Henry IV.−PartU
○Com.As
○as.
○シヤレ
○ClassicalA1.
○父子ノ情
○謠曲ノ物狂抔ト同格ナリ
 藤戸 隅田川
 子ヲ失ヒタル人ノ恨、單ニ恨ムニアラズ、世ノ中ヲ子ト同ジ運命ニ陷レントスルナリ否我身ヲモシカシテ悔ザルナリ
 true to Natureナリ
○虚言
○cf.Browning's Paracelsus
○生レナガラニシテ白頭 老?ノ如シ
○Swinburne Atalanta in Calydon classical allusion
○cf.Sheridan's“The Rivals”Mrs.Malaprop's speech.Perhaps S.had go tthe idea from Shaks.
○cf.“DonQuixote”in the first book of which the same practical joke is played upon−.
○cf.Bacon's Essay and Helps' Essays
○眠 Kingノ嘆
○Kingノ嘆
○KingトP.Henryトノ意氣ノ差ヲ見ヨ
○格言
○ActV.Sc.i.ノHenry Wノ句ヲ比較セヨ
○日本ト同ジ語
 
  King Henry VI.−PartT
○Ass.
○日本ノ芝居ニアリサウナリ
○「ジヤンダーク」ノ氣※[陷の旁+炎]
○Talbotノ氣※[陷の旁+炎]
○暴語
○戰爭的氣概
○classical
○暴語
 
  King Richard V
○formulae
○ass.use of langguage
○Ass.
○As.
○Glosterノ言語ノ劇烈ナルヲ見ヨ Coriolanus參考
○Formulae
○Glosterノ罵ラルヽニモ關セズ戀ラザルヲ見ヨ
○GloSterハ女ノWeaknessヲ見拔ケルナリ最モ巧妙ナル謀計ナリ
○Anne ハゴマカサレントス
○然り、女ハイツデモ此手ニカヽルナリ
○此成功ハGlosterニハ revelationナリ彼茲ニ至ツテ始メテ己レノ醜ヲ忘ルヽコトヲ得
○女ノ心モ一轉シ男ノ心モ一轉ス其心理頗ル妥當ニテ叙事頗ル巧妙ナリ此自然ナリ小説ニアラズ
○暴語
○此間ノ問答凡是匹夫匹婦ノ爭ナリ
 (1)Elizabethan風ヲアラハス
 (2)天眞爛※[火+縵の旁]《原》 天子モ車夫モ同一ナルヲアラハス
 (3)literary langguageノfreedomヲアラハス
○暴語
○高い木ニハ風ガアタル
○好人ノ意中
○abstract truth
○小兒ノ無邪氣
○格言
○好物ノ言フコトハ賢人ノ如シ
○物凄キ言語ナリ、Glosterノ口ヨリ出デ、一種ノeffectヲ有ス
○同斷
○暴言
○Apostrophe
○罪上加罪
○Illusionヲ起サシムル手段
 
  Coriolanus
○As.L.
○母ノ愛國心
○女ノ尚武ノ氣象
○女房堅氣
○Mノ高潔
○滑稽趣味
○母ト女房ノ使ワケ
○滑稽
○Mノ大氣※[陷の旁+炎]
○老母氣質
○Cor.ノ氣※[陷の旁+炎] 人民ヲ罵ル
○格言
○Formulae Poetical language
 
 Julius Caesar
○No man but Shakespeare could have written this scene
 讀至此齣始知沙翁筆端有神矣
○一句出意外妙也
 借「カシアス」問使讀者知「ブルタス」所以憤老手老手「ポーシヤ」一句妙不可言不覺俯頭低地
 
 Much Ado About Nothing
〔見返しに〕
 Naive――死ンダ佯ヲスル  Hero
              Hermione
              Juliet
 Downright――Villains   Iago
              Don John(Borachio and Conrade)
              Iachimo
     ――Rings
       murder   RichardIII
             Macbeth
       人違ヒ   Twelfth Night
             Merchant of Venice
             Measure for Measure
             −DukeガFriarトナリテIsabella及ビClaudioト語ル 最後ニDukeトナリAngelo等ノ面前ニアラハレ又Friarとなりて來ル、誰モ氣ガツカズ
             As You Like It
 
〔見返しに挿入しありし紙片に〕
 ShakespeareノCharacterノ間違
 1、A Winter's Tale Florizel DoriclesトナリテPolixenesノ前ニ出デPerditaト相愛スルコト樣《原》アリ、 Polixenes《原》ノ前ニ在ルヲ知ラズ
 2、Merchan tof Venice Portiaハlawyerトナツテher loverハ之ヲ知ラズ
 3、Kin gLear.Kentハ己レbanishセラレナガラ形ヲ變ジテLearノservantトナルLear之ヲ知ラズ、EdgarハBedlam Beggarトナルヲloucesterハ見テ知ラズ
 4、As You Like It 女ノ男装
 5、Twelfth Nihgt女ノ男装Twinノ分別ヲアヤマル
    Olivia,sea captain etc.
〔同別紙に〕
 激越ノ辭
 
 Macbetb
  Gloucesterノ語RichardV?
  Winter's Tale,Florizel Perditaト結婚セラレヌ時ノ語
 
○Formula 女ノ語
○容貌ノ趣味
○Wit
○男嫌ヒ         
○男心ト秋ノ空
○Contrast
○Learノ娘ヲ罵ル語ト比較セヨ
○Winter's Taleノhermioneト比較セヨ
○Beatriceノ注文是亦現今ノ人情ニ合セザルナリ
○Duke of Gloucesterノ口説ト比較セヨ
 カヽル劇ニ出デ來ル口説ト日本ノ小説謠ニ出ヅル口説ヲ比較セヨ、日本ノハ〔sensuous and emotional(moral)elementガpredominate スルヲ見ルベシ西洋ノハ大ニintellectual elementガ加ハルヲ見ルベシ、其優劣ヲ論ゼヨ
 藤戸、
 攝待
 日本ノハ人情ヲ離レタルpoetryヲ交ユ西洋ノハ寧ロ寫實的ナリ
○LeonatoトClaudioノ爭ハ必然ノ結果トシテ起ルベキナリ、一方ヨリ云ヘバClaudioハ好ンデ爭ヒヲ起セルガ如シ現今ノ人情ヨリスレバ Claudioハ公衆ノ面前ニ於テHeroノ不徳ヲ云々スルコトナシ、只体裁ヨク謝絶スベキナリ或ハ私カニ之ヲ打明ルベキナリ
○此自白ニテモ現今ノ時勢ニ適セズ、現今ナラバ法律的ニ証據立テラルヽカ若クハ良心ノ力挽回シ來リテ前非ヲ侮るかノ二ヨリ外カヽルコトナシ、現今ノ目ヲ以テ見レバカヽルコトハgrossナリ
○此劇自然ノ句少ナシ
○Winter's Taleノ結末ト同趣向ナリ
 
 Othello
○此所construction不明ト思フ
○此constructionモ不明ナリ
○ntellectual elements
○Sir JoShua Reynoldsノ説參考
   ――――――――――
 Ossian
  Carric=thura
○武士道
 
 Fingal
○exaggeration
○日本武士ノ如シ
○奇
 
 The Battle of Lora
○當時の寶
    ――――――――――
 
 John Webster
  he Duchess of Malfi
○cf.Macbeth
○cf.Lear
○Exravagant styleノ例
○此邊indecentナルヲ見ヨ
○cf.Macbeth
○凶徴
○Juliaハ有夫ニテCardinalノ情婦ナリDelio.亦斯ク云フ乱暴ナ世ノ中ナリ 是ヲ劇ニ上スハ當時コンナコトガ何デモナキヲ証ス
○good
○positiveノ用方
○cf.the cauldron's ingredients in Macbeth
○人生觀文體沙翁ト比較セヨ
○Ferd.ノ神經病、Macbethト比較セヨ
○奇
○Card.Ferd.眞似ヲシテ狂フトモ諸人來リテ助クル勿レト云フ、少々痕迩アル結構ナリ
    ――――――――――
 John Milton
  Paradise Lost
○赤裸々 淨洒々
○Sublimeノ例
○Sublimeノ例
  Samson Agonistes
○cf.Macbeth
○cf.faulty marriage
○Samson――God――Israel
 Dagon――his deity――Philistine
○Samsonノ婦人觀ハ東洋的ナリ
○カヽルクドキ句法ヲ日本語ニ譯セダ《原》目ナリ
○婦人往々カヽル暴言ヲナス
○Is weakness thy excus? ミルトン一家ノ語ナリ
○SノDヲ罵ル矢張Godヲ引合ニ出スGodハドコ迄モ主ナリ
○「女ハ容目ヨリ心」ノ諺
 ミルトンノ婦人觀至是又東洋的ナリ
○cf.Sh.
○Sノ剛勇堅忍ハ常ニGodニ關連ス
○cf.Macbeth
○Indirect
○多少武士的ノ趣味アリ
    (1)whole――question
 (2)S's death――〃――answer
   (3)shame   (3)crown
           (4)unwounded
 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)Conclusion
○result 宗教的ナリ
○Divine justice
 
 Comus
○cf.Witches’ dance in Macbeth
○cf.Tennyson)
○cf.Rossetti Blessed Damosel
○cf.Macbeth brinded cat
○cf.Macbeth
○Comus and Lady Christabelト比較セヨ
○此ladyノCharacterヲ見ヨ
○ComusノLadyニ云フ語ヲ見ヨ
 
 Arcades
○植木屋的ノ神
    ――――――――――
 
 Daniel Defoe
  Robinson Crusoe
○餘計ナ事ニテrealisticナル者
○海中暴風雨ノ景況ヲ比較シテ見ヨ。テームナリ
○il.
○三度
○又出
○又難船
○カヽル感想ハ無筆ナルsailorノ感想ナリ
○始メテ精神ノ描寫アリ
○Fridayガイツノマニカ英語ヲ學ンデゐる
○クドキコトヲ見ヨ。
 The advantage and disadvantage of such a realism
 
 Journal of the Plague in London
○報告書ナリ
○例、Hearnノ例ト同ジ
     ――――――――――
 
 Jonathan Swift
  A Tale of A Tub
○文學的ノ所
○Allegoryハアレどモ比喩其者が文學的ナラザル例但カゾリツクノ成行ヲアレゴリカルニアラハシサヘスレバ濟ムト云フカキ振ナリ。比喩其者ガ文學的ニ面白味ナケレバ是ハ文學的ノアレゴリナラズ。用辨ノアレゴリナリ。
○斯ンナ風ニユケバヨシ
○此アレゴリヲ見テモ文學的デナイ
○コヽノ諷刺ハ文學的ナリ
      ――――――――――
 
  Alexander Pope
  Autumn.The Third Pastoral
○可
 
  The Rape of the Lock
○双關
○conventional word
○C.Ex.
○C.t
○諷
○CowperノTaskト參照
○可笑
○諷
○classical al.
〇Scott's Ladyヲ參照セヨ
○Stephenノ評ヲ參考
 
 Sappho to Phaon
○Climax
○Antithesis
○愛人ヲ夢ム Abelard and Eloisa Pot of Basil
○cf.Shelley
 
 January and May
○Coarse
○cf.Tennyson
○○There is exactly the same scene in one of the modern plays.
○Coarse
 
 TFe Wife of bath
○Wifeノ亭主ニ對スル氣※[陷の旁+炎]
○Coarse
 
  Summer:The Second Pastoral
○羊飼の語ニアラズ
 
  Autumn:The Third Pastoral
○規則正シ
 
  Windsor Forest
○cf.Windsor F.135et seq.
  Pure stream in whose transparent wave
  My youthful limbs I wont to lave;
  No torrents stain thy limpid source,
  No rocks impede thy dimpling course,
  That sweetly warbles o'er its bed,
  With white,round,polish'd pebbles spread;
  While,lightly pois'd,the scaly brood
  In myriads cleave thy crystal flood;
  The sprlnging trout in speckled pride;
  The salmon,monarch of the tide;
  The ruthless pike,intent on war;
  The silver eel and mottled par
    ……smolett “Ode to Leven Water”
○Abstract
○Concrete
○Conventional
○Concrete
○Antithesi
○庭園的景色
○Conventional
○十八世紀ノnature
○cf.近松叙景
○此邊ヨリ何等ノ興味ナシ
 
 Essay on Criticism
○As.
○Criticノ分類六號活字ノ悪口ナリ
○二句ト下ノ句トハ何ノ関係アルカ
○是Popeノ實行セル所
 
 The Rape of the Lock
○Sylphノ形容精細ヲ極ム
○何等ノ細緻
○落
○諷刺
○落
○コンナ所ハwitノミナラズ滑稽アリ。且字句流暢些の阻礙ヲ見ズ。眞ニ才筆ナリ
○bodkinノ歴史面白シ
 
 Eloisa to Abelard
○Symmetricalナルヲ見ヨ
○Contrast
○コノ擬人法ト冒頭ノ擬人法ヲ比較セヨ如何ニ其間ニ差アルカヲ見ヨ
○Symmetry
○antithesis
○cf Keats Isabella
○antithFesis
○Good
 
 An Essay on Man
○pantheistic?
○平凡ノ議論何ノ役ニ立ツカ
○antithesis
○As.
 
 Thhe Dunciad
○穿ツテル
○Verseノツヾク例 
○Curllガauthorヲ捕ヘントスル所滑稽ニモアラズ眞面目ニモアラズ。ツマラン。全体ガ此調子デアル
○lineノツヾク例
○ツマラヌ
     ――――――――――
 
 Henry Fielding
  The History of the Adventures of Joseph Amdrews and his Friend Mr.Abraham Adams
○日本ノ娼妓ト對照
○十八世紀ノ体
     ――――――――――
 
 Tobias Smollett
 The Expedition of Humphry Clinker
○man.
○Ph.
     ――――――――――
 
 Willam Blake
  Blnd=man's Buff
平民的
 
  The Chimney=Sweeper
平民的
 
  To Mr.Butts
mystic
 
  Broken Love
mystie (pLいか)
 
  The Crystal Cabinet
mystic
 
  Auguries of Innocence
畜《原》生ニ對スル同情
○奇句
 
  The Memtal Traveller
Symbolic
 
  William Bond
mystic
     ――――――――――
 
 W.Wordworth
  The White Doe of Rylstone
○quoted by De Quincey in his Confession
  Ruth
○cf.Shelley
 
  Simon Iee
○Prose! What is the use of this?
○Shorten this into a line and put it in the last.
 
  Fidelity
○Good
 
  Hart=Leap Well
○Wordsworthian
 
  The Complaint of a Forsaken Indian Woman
 
○星落ちて空に聲あり
 銀河流れて夢に入る
 
  The Leech=Gatherer
○This is not poetical
○I don't like these reflections inserted in narratives. Why this philosophising and moralising?
○good
○quoted by De Quincey in his“Opium Eater”
○Wordsworthian
 
  The Brothers
○cf.Byron“The Prisoner of Chillon”
 
  Miehael
○Prose Poemノ好例ナリPopeト比較セヨ
○Wordsworthian
○quite classical in treatment. Thereis order,Proportion,and unity of form,With the perfect contrOl over the passionate feelings which are liable to be glven vent to in other poets of RomanticSchooI
 
  Margaret
○Wordsworthノ自然觀は常ニ斯ノ如シ
○Wordsworthian
○W
 
  Laodameia
○cf.Pope,
○for tree-Spirit cf.Virgil
 
  Poetry and Science
○Brillg out the naked truth and you will find poets are no better than scientists
○No!
 
 Sir Walter Scott
  Waverley
○叙田斜光景繊巧如目睹
 
  The Bride of Lammermoor
○畫家ハ自分デカク思フ
 
 S.T.Coleridge
  The Poetical Works of Samuel Taylor Coleridge Vol.T.
 
〔見返しに貼付けたる紙片に〕
○Genevieve
×Epitaph on an Infant
 Monody on the Death of Cllatterton(not yet read)
○Ancient Mariner
 Fears in Solitude(not like much)
○Love
○Lewti
 The Picture,Or the Lover's Resolution(not like much)
○The Foster-mother's Tale(Cf.Shelley's Alastor)
○Lines composed in a Concert Room(Cf.Chinese Poems)
 This Lime-tree Bower my Prison(not like much-but read again-nature)
 To William Wordsworth(not like-but read again)
×The Nightingale(read again)
×Frost at Midnight(Read again)
×The Three Graves
 Dejection(not like,but Read again)
×Kubla Khan(read again)
×The Pains of Sleep(Cf.DeQuincey's Dreams)
○A Day Dream
×Work without Hope
×Firs tAdvent of Love
 Blossoming of the solitary Date Tree(like it not much-read again)
 Love Hope and Patience in Education(Only readable-reasoning)
 
  On the Poetical Tenets and Poetry of Wordsworth
○Vague,neither philosophical nor scientific,just like remarks of many other literary men.
○I must confess I cannot understand what Coleridge means here in this section
○For this opinion of W.cf.ToIstoy and Schopenhauer
○Good!well driven at.
○You assume without explaining.
○Is there any Japanese who can find such difference as is pointed out by Coleridge in these verses?
○Mr.Coleridge is quite right W.is unintelligible.Not only he butall poets more or less sometimes.
 
  On Poesy or Art
○what is associative power?How does it act?
○Dogmatic,sweeping
 What is the use of such arguments;nay it is only statements not worth the name of arguments
     ――――――――――
 Thomas Moore
  Lalla Rookh
○cf.Hyperion Paradise Lost
     ――――――――――
 Thomas Ingoldsby
  The Ghost
○cf.Hamlet
○Wordsworth?
 
  The Witches' Frolic
○cf.Tennyson's Maud
 
  The Lay of St.Odille
○Odille's Race  cf.Atalanta in Calydon
     ――――――――――
 Lord Byron
  Childe Harold
○Gram.
○Conceit
○Wordsworthian
○loose construction
○cf.Paradise Lost,Bk.U.
○Byron's Manifesto
○Macbeth III,iv,24
○Congreve Morning Bride
○Virgil Aeneid11.
○For lay for lie see Shelley,Passage of the Apennines.
          Listen,listen,Mary mine etc.
○Yesty waves Macbeth IV,i,43
     ――――――――――
 Jane Austen
  Sense and Sensibility
〔見返しに〕
 Very tame,insipid,no excitement but very natural,every character well delineated with nice distinction,no moralising as Eliot,yet healthy intone. Drawing room novel,fit for girls' reading.Style,natural not terse,vigorous,a lady's stiye no fire.no passion
 
P.85 General opinion about Nature in the time of Jane Austen
P237 Disobedience in order to do right held up as integrity.(Contrast between the morals between Japan an dEngland)also cf.234 ChapterXLIV
P276 cf.Jane Eyre and the Cloister and the Hearth
P340 Marianne is born to act against her own maxim that no second attachment is excusable Finished en18th Jan.1901
 
 Pride and Prejudice
 
〔見返しに〕
 humorous east《sic》y
 Calm,serene,never excited
 No page either describing nature or passion which may be called‘prose poetry,’dramatic but not poetic nor romantic.
 No arrant knave except Wickham,no perfectman,both sides of human nature are neverlost sigbt of.
 Little idioms,much less slang for there are no characters who use it
 The style so monotonous that it always goes at an even pace regardless of the particular phase of mind or the certain phenomenon of nature which it is the object of the author to describe adequately
 Characters Elizabeth
      Jane
      Mr.Bennet
      Mrs. 〃
      Lady Catherine
      Darcy
 All they are drawn with a masterly hand
249 Lydia,s elopement with Wickham
   cf.The Vicar of Wakefield.
Chapter LVI Conversation between Elizabeth and Lady Catherine
  〃 ]]]TV Darcy's proposal
        V Darcy's letter
 
  Emma
○Bronte's verdict on Austen's work.Apt and pithy,worthy of her I am quite of the same opinion with her.Jan30,1901
     ――――――――――
 Perey B.Shelley
  Laon and Cythna
○P philosophy or purport
○P
○cf.Keat's Hyperion
○cf.Byron‘Prisoner of Chillon’
 
  Rosalind and Helen
○P
○loveliness of the snake cf.Coleridge Ancient Mariner
○シツコイ標本
○cf.Laon and Cythna
  裸体畫的
 
  Lines written among the Euganean Hills
○Ph
○cf.Milton quoted by De Quincey
 
  Hymn to Intellectual Beauty
○Ph
 
  The Cenci
○Christian notion about Self-murder
 
  Prometheus Unbound)
○P
○cf.Laon and Cythna
○The passage reminds one of English pantomimes
○another pantomimic scene
 
  A Vision of the Sea
○cf.Laon and Cythna(P・279・11・137L8)
 
  Ode to Liberty
○P
 
  Epipsychidion
○P
 
  Hellas
○P
○cf.Browning
 
  Prince Athanase
○P
 
  Peter Bell the Third
○cf.Spectator
 
  Charles the First
○Ph.
 
  Sonnet:England in 1819
○P
 
  Song to the Men of England
○P
 
  Lines written durirng the Castlereagh Administration
○P
 
  Fragment:To the People of England
○P
 
  Ode to Naples
○cf.Tennyson Ulysses
     ――――――――――
 John Keats
  Endymion(The poetical Works of John Keats.
○是迄不用ナリ
○日本支那ニテハ背迄ヲ序トス詩ノ中ニ収メズ 可ナリ 去レドモ必要ヲ見ズ
○beautiful
○日本ノ傳説ニアルベシ
○cf.St.Agnes'Eve
○cf.Pope“Rape of the Lock”
○cf.Shelley“Prometheus Unbound”
〇Rather ludicrous!滑稽ナリ 馬鹿々《原》シイ
○西洋ノクドキ例ノ模範ナリ
○是等モ頗ルクドシ且何遍モ同ジ感ヲ繰返スノミ
○Apostrophe to the Moon
○Address to the Moon cf.p.144
○quoted by Gayly in his Classic Myths in Eng. Lit.p/.218
○Circe and her own 醜ナル例
○象ノ訴頗ル滑稽ナリ
○字
 
  Hyperion
○cf.Milton
○佳
○Good simile
○Sub
○cf.Milton
 
〔“The Poetical Works of John Keats”の見返しに貼付けたる紙片に〕
 Keats  ○1,×2,Å
 ×Hyperion Book I-is interesting
         t he rest-I do not like
○Ode to a Nightingale
ÅOde to a Grecian Urn(not like)
×SonnetIX
×Woman!when I behold thee flippant,vain
×Imitation of Spenser
○To Hope
○Calidore
×Specimen of an Induction to a Poem
○I stood tip-toe upon a little hill
ÅSleep and poetry
 Stop and consider!−(Stanza,very fine)
ÅEndymion(BookI)
○Eve of St.Agnes
○To Autumn
×Isabella The Pot of Basil
○Lamia
○In a drear-nighted December
○La Belle Dame Sans Merci
     ――――――――――
 Bulwer Lytton
  Rienzi
○如讀韓非説難
○讀此一節余俣開愁眉
 
 W.H.Aimsworth
  The Tower of London
○此邊局面轉換ノ處頗ル急劇粗硬ニシテ本邦ノ劇曲ヲ讀ムガ如シ
○是モ日本ノ芝居ナリ
○Axe
○間接除法 結果思フ如クナラズ
○此所佳
○感應
     ――――――――――
 Alfred Tennyson
  In Memoriam
○bad
○abont pantheism
  Maud and Other Poems
○P
○poisoned poison cf.CymbelineI,6,112
○And Otto,leaving the group to which he had been piping stepped toward the embrasure of a window where a lady stoods.Prince Otto p.40
○And Lamech said unto his wives:
  Adah and Zillah,hear my voice;
  Ye wives of Lamech,hearken unto my speech:
  For I have slain a man for wounding me,
  And a young man for bruising me.
       ――Genesis4.23
     ――――――――――
 Charles Dickens
  A Tale of Two Cities
○Dickens流ナカキカタナリ。Hungerヲ寫スニコノ筆ヲ以テスルハ上乘ト云フベカラズ
○是ガ著者ノ癖ナリ
○是等モ西洋小説ノ陳腐ナ趣向ナリ。コンナ事ヲカイテ威張ツテ居レバ世話ハナイ
○一人ノ女ニ三人ノ男ガ惚レル趣向抔ハ愚ノ極デアル。然モ其惚レサセ方ガ頗ル拙デアルカラ駄目だ。コトニ此カートンノ惚レ方ニ至ツテハ齒ノウク樣ナ惚レカタデアル。讀賣新聞ノ小説ノホレカタデアル。
○コノ所面白シ。探偵ノ葬式ハコンナ目ニ逢ふガ當然ナリ
○親ガ泥棒ニ出ルアトヲ子ガ好奇心デツケテ行クノハ面白イ趣向ダ
○面白イ
○結構上ヨリウマク出來テ居ル。
○Wine shopノ親方ノDefargeガ全篇ヲ通ジテカクprominent partヲplayセネバナラヌト云所ガ普通ノ小説デアル。親方トシテplayスルニアラズ革命者トシテplayスル所ガ普通ノ小説デアル。普通ノ小説ハ必ズ最初ニ出シタ人物ヲ仕舞迄利用シタガル。無理デモ利用シタガル。不自然デモ突飛デモ利用シタガル。革命者トシテManetteヲ利用スル所ハ巧妙ナリ。Defargeヲ應用スル所ハ只ムダヲ出サヌ趣向ト云フ迄デアル。アマリ無駄ガナクナルト作ツタ樣ニヤ《原》ル。從ツテ普通ノ小説ニナル
○コレモ自然ナリ
○是等モ普通ノ小説家ノ手段ナリ。アマリウマ過ギル
○是モ小説ダ因果ガアマリ強過ギル
○CartonガDarnay ノ代リニ死ヌノハ小説トシテ結構デアルガmotiveガ弱イカラ不自然ナ氣持ガスル
     ――――――――――
 Robert Browning
  Sordello
○gro.
○       address to the reader
 narrative(reasoning)narrative
       philosophy
         remarks
○ムヅカシキ例
○例 心理學書ノ如シ
   Paraeelsus
○Common Christian error
○The degradation to which Japanese Scholars of the day are apt to fall.
○A favollrite theory with the Western literary men.It is not so sound as they profess to be
○?
  How They Brought the Good News from Ghent to Aix
○cf.Incident of the French Camp
 
  The Bishop Orders His Tomb at Saint Praxed's Church
   Up at a Villa――Down in the City
○cf.Confessions
   Epilogue to Fifine at the Fair
 
  Up at a Villa――Down in the City
○cf.Burns
     ――――――――――
 Charles Reade
  The Cloister and the Hearth
〔見返しに〕
Begun on Jan.2,1901
 P 7   bottom
 P 53
 P 80  following
  326 following Fortification
  425 Description of the Bohemians
 P.556 cf.Jane Eyre
 P 595 Washing pilgrlms' feet as penance
 Chapt.LXXVII
 P 614  cf.P 556
 P 619  cf.P 556
 CbaptLXXXVII
 P 709
]CIV
XCV
XCVI
 
 Charlotte Bronte
  Jane Eyre
○natural!
○Kind-heart
○Too cruel;hard to read−
○What shame!
○Bad,bad,bad,bad man!
○Good consolation
○Natural,I would do the same
○True Christian
 
  Shirley
○如是事ガ西洋人ノ癖ナリ
○Unreal.So unlike the child of ten
○not like a boy's speech
○コンナ長イ獨言ヲ言フ者ガアル者カ
○男女ノ態度ヲ見ヨ
 
 Charles Eingsley
  Alton Locke
○ph
○p
 
 George Meredith
  The Ordeal of Richard Feverel
○RichardトFarmer Blaize
 Bノ氣風 Rノpride
○格言 Meredithian
○Meredithian
○Nature and Beauty
○Beautyノrescription
○Love
○Nature
○Love again
○Love
○Lovers duet
○格言
○Loveニ就テCold Blood及ビHot Bloodノ兩側面
○格言Nature
○此邊ノhumour頗る佳なり
○Just like Meredith
○     自己ノ意志
 結婚ニ就キ       西洋ノ風
      親ニ對スル義務
○Storm
 
 Rhoda Fleming
〔見返しに〕
 P.1,2nd paragraph a new style
  94 Some remarks about the English stage
 179 Some resemblance to Eliot
 191 Robert Eccles' letter of challeIlge to Edward Blancove
 195 Some sarcastic remarks about English soldiers
 248 Some remarks about Algernon's foolishness
 264
 297-98 Consideration of money in the Eng. minds Edward.Algernon,Sedgett.Everybody seems to beget the desire of golng to colonies,when he has done some mischief and has got into a scrape.Judge then what sort of people we have to deal with in Japan.
 313&314 Compare Edward with the hero of Silas Marner
 Chap.XXXIV.Mark the conversation between Sir Wm and Edward and judge how the common English gentleman is educated.
 314-315 Edward's oplnion of Eng.society girls
 348
 XL Anthony Hackbut is like one of Dickens' Characters.
 372 Rhoda exult《sic》 over the idea that she is free from the mesh oflove
 380 style
 386 Contrast Rhoda's firm principle with Dahlia's tenderlove.
 393 Father Wm Fleming's principle
 397  〃
 399  〃
〔目次ノ下ニ〕
 S style
 M manner
 Ph phrase
 V views of life
 
○S
○M
○Ph
○V
 
  The Tale of Chloe and Other Stories
〔見返しに〕
 P6. Meredith against Mediaevalism and Hellenism
 
○Ph.
 
  Vittoria
○著者ノ態度
○Indirect
○女ニ手ヲ出サヌ所ヲ見ヨ
 
  Beauchamp's Career
○此ノReneeの變化面白シ。但シ反對の變化も起り得べく。一様に面白くかく事も出來ルナラン
○正直
○カヽル結末は容易になし 餘|音《原》と云ふは此事なり
 
  The Tragic comedians
 〔見返しに〕
 西洋ノ男ト西洋ノ女ガ惚レタ時ノ言葉バ《原》西洋料理ノ如ク。コテ/\シタル者ナリ。アマツタルコツクツテゲンナリスル丈ナラ我慢スルガ到底馬鹿氣テ居テ讀マレナイ。ソレヲ直譯スルカラ妙ナ小説ガ出來ル。日本人ガアンナ。イやラシイコトヲノベツノツペラポーニ喋舌ルモノカAIvanト云フ男ハ四十デアル。
 此ノAIvanトClotildeノアマイ會話ハ固ヨリ後段ノSeparationノeffectヲ heighten スル爲ニハ相違ナシ。然シベラ棒ナリ
 
○アマイ哉是モ比較研究ノ材料也
○此sceneハ日本人ニ興味アリ。比較研究ノ材料ニナル
 
  The Amazing Marriage
○メレヂスの書中ニハ必ズドコカニコンナ篇ガアル。情中ニ景ヲ寫シ景中ニ情ヲ描ク頗ル詩趣アリ
○此篇モ前ト同ジ傾向ヲ有ス
○Woodseerノ日記
○美人ノ形容。普通ノモノト如何に異なるかを見よ
○再ビ美人ノ形容
○萬事如意ナル人|貴《〔?〕》子ガアルsituationニ於テ己レノ尊敬セヌwifeヨリ命令ヲ受ケタル場合
 
  Sandra Belloni
○女月下ニハープヲ彈ズ
○Good
○英國ノ社會ハ是ナリ
○Phil
○Crisisハ書キニクキ者ナリ
 
  Lord Ormont and his Aminta
○L.Charlotteノ講釋(Weyburnニ)生意氣ナル女ナリ
○The husband's command to his wife! a rare case in England.
○Critical chapter.Circumstances bring old lovers togethe,making them travel a longway by themselves
○Old love? or ned?
〔裏見返しに〕
 Lor dOrmont wedded to Aminta in Spain at the British Embassy.A,was of humble origln not worthy the rank of her husband.Tord Ormont's sister,the unconquerable passionate and proud Charlotte would not recognise her as Lady Ormont.Meanwhile she fell in love with Lord Ormont's handsome Secretary Weyburn.They were old lovers when they were children.They fell in love again and the handsome brunett was carried off abroad by Weyburn.They lived as school master and一mistress to Switzerland,establishing there their ideal school,according to their well planned schemes when Lord Ormont came to visit it and they met once more.The crisis passed away like a threatening cloud without any peal of thunder.
 The work is far inferior to the authers' other works,such as Vittoria and Egoist.Charlotte is the character,however,which is really worth the pen of Meredith both in its intensity of conception and power of delineation.
 
 Diana of the Crossways
○witty conversation
     ――――――――――
 Thomas Hardy
  Far from the Madding Crowd
○This theory does not hold good.
○true
○The best and the worst have no sins and no indecorums.Only the average know them
○Dif of T.No!
○The whole passage is a scene typical of the Western courting.Much difference in manner between the East and West.The woman is too ungrateful and too independent
○A startling figure!
○clever!
○Apotheosis ends(1)in infatuation,in which case all is well(2)in pulling down which is too often the case with married couples.IdoIs should be broken sooner or later,especially female idols.○both are silly.
○The girl is indeed silly,to tease a man in this way.The man is equally silly to take such slight token in earnest.
○Man often falls in love with a fair woman at her sight and calls it prophetic instinct,just to avoid the censure of his being too hasty.Silly!
○The greatest fool is he who loves a woman that does not return your love.
○funny a man who can lecture in this way should love the very person whom he reprimands so much
○good!
○There are such women in the West whose name is legion.They don't know what female virtue is.
○right
○Dif of Taste
 No gentleman in Japan would say such a thing to a girl whom he saw for the first time.Except to his inferior in joke
○Some women are very skilful in shedding artistic tears.
○You have lost nothing!
○A man of forty talking in this childish fashion is really amusing
○This fool of a farmer is indeed a pitiable character
○pathetic indeed!
 
  The Woodlanders
○The sacred name of the Lord of Lords and King of Kings should not be used in this way and it is not only wrong but in very bad taste Mr.Hardy.
 
  A Group of Noble Dames
○good!
○well paid out!
○The position of man and woman is reversed
○Rather too extraordinary situation.The thing will not happen in Japan unless the position of the sexes is reversed.
○you foolish woman!
○foolish husband and foolish wife
○This cousin of Laura is anincorrigible simpleton.No sensible person would care to claim a woman whose heart has been won by another
     ――――――――――
 HenryJames
  The Golden Bowl
○カヽル精細ナル女ノ記述は古人ノ夢想セザル所ナリ。此傾向ノ得失價値及ビ發達如何
○此人ノ文ハ分ルコトヲワカリニクキ言語デカクノヲ目的ニスルナリ
     ――――――――――
 R.L.Stevenson
  The Dynamiter
〔見返しに〕
 Cycle and epicycle orb in orb.Kaleidscopic《sic》in change.Surprise awaits us on everyside.
 Kind,genial,half humorous even indistress,so unlike English,to which epithet I always attach something of stolid tenacity and obtuse stubbornness.
 Stevenson is champagne,light,sparkling and exhilarating.That English heaviness which we find in stout ale is quite absent in every word he puts down
 
  Kidnapped
〔扉に〕
 107 Alan's father gave all the money he had had from the king to the porter when he went out of the palace
 117 Example of short periods
 142 The Highlanders forbidden to wear their natural costume
 209 about the fiery cross
 
○Ph
○Style
○M
 
  Catriona
〔扉に〕
 3  caddies,cf.Humphrey Clinker
 Chap.V the latter part.Balfour before the ladies,reminds one of ――
 108 and further.Conversation between Catriona and Balfour.C.looks like a Japanese samurai's girl.
151 See the description
156 Geese fishing cf.Cormorant fishing
212 Catriona rescues her father from the prson
XX Miss Grant tantalizes David Balfour.Her forwardness and want of modesty herlaughs,jokes womanly intrigues.Compare her with a Japanese woman.
253 Catriona's narration of her early life
XXII Masterly description of Catriona's passage into the boat from the merchant during high seas.
297
331 XXVIII“Coward!”said Catriona to Balfour who seemed to her to shun the duel with her father.
356 Honour
362
363  Notice Catriona's harsh words to her fatber
○Pb
○M
○G−
 
  The Black Arrow
○調子
○DickトMatchamノ會話ヨロシ Dickノ小供然タルMの女トシテ大人ビタル
○梁山伯
○good
○Swearingハ西洋ニ於テ斯ノ如ク重大ナル者ナリ
○Ainthworth《sic》ノTower of LondonノPasageノ邊ト比較セヨ
○archaic
○archaic again
 
  The Master of Ballantrae
○此問答ハBalladヲ讀ム如シ
○Super Natural
○Super
○objective dramatic
 
  The Wrecker
○a favorite expression with Stevenson
 
  Prince Otto
○夫婦ノ關係
○good description
○夫婦ノ關係 顯倒(東西) next pageヲ見ヨ
○西洋(ノ)夫
     ――――――――――
 H.A.Jones
  The Crusaders
〔見返しに〕
此脚本ハ作品トシテSecond Mrs.Tanquerayニ劣ルコト遠シ。去レドモ巧ニ世態ト人間ノ弱點を描き出して、其下ニ一貫せる主義ヲ示セリ。去レドモ性格的脚本トシテハ上乘ノモノナラズ。事件ノ脚本トシテハ不自然《原》アルヲ免カレズ
 此一篇ニ伏在セル主意ハ開化ニ厭キナガラ開化ヲ癈《原》スル能ハザル十九世紀末の人心の不安とアキラメト希望トヲヨク示セリ 隆々タル希望ト熱烈ナル情操ト青春の意氣ニ充チタル世ノ中ニハコンナ色合ノ脚本ハ出ヂ來ラザルベシ
 悲シムベキ徴候ヲホノメカセル脚本ナリ
 
○此心的變化一寸目につく
 
  The Manoeuvres of Jane
〔見返しに〕
結構巧ならざるにあらず。只全篇を通じて眞個の滑稽なし。一道の光明なし。半點自然の氣なし。是を都會の文學といふ。澆季の世の文學と云ふ。輕薄の文學といふ。二十世紀初期に於る倫敦一般の風尚は此一篇にて察するに難からず。
 日本人はやゝもすれば英國々々といふ。英國の人間は生れから高尚の樣に思ふ。豈計らんや彼等は愚物と奸物と俗物の大部分よりなる國民なる事を。其俗と奸と愚を學んで揚々得々たるものは世界中只一の日本人あるのみ。
 
  The Liars
〔見返しに〕
 Falknerハ他人ノ女房ニ惚れて横取りをしやうとして平氣な男である。是は狂人だ
 Lady JessicaハFalknerニ惚れてSir Christopherノ説諭デスグ志ヲ翻ヘス 甚だ安直ノモノナリ
 Sir Christハ終ノ幕では大變面白い男らしい氣性であるが。全篇を通じて一樣でない
 あとの人物はfrivolous極まつた。文明的虚僞的の俗物の集會《原》である。
 劇として深厚なる趣も何もない。Jessicaノ爲に寄つてたかつて嘘を製造してやる所へGilbertが來て皆を詰問する所、夫から最後にJessicaが思ひ切つてTell him the truthと云ふ所は一篇の山であつて而も此J.ノ一言は心機の一轉を示す自然ノ語である、此脚本中に意味のある句があるとすれば只此一句である。
 所謂社會劇を見れば見る程love trickや女房が亭主を翻弄する事や、喧嘩をする事や、ゴマコ《原》ス事や虚榮心や自惚心ばかりでいやな感じ許り殘る。
 今の樣な太平の世にはハムレツトの樣なものは沙翁が出ても書けないのである。
 
○此Falknerナル人物ハ日本人カラ見レバ狂人デアル 
     ――――――――――
 A.W.Pinero
  The Second Mrs.Tanqueray
〔見返しに〕
 此脚本ハ構造自然ニシテ然モ事件が作者ノ自由ニ發展ス。頗る巧妙ニ出來て居る 日本の現代の脚本作者ハコンナ者デモ研究スレバヨイノデアル
 
○此幕ノ構造甚ダ巧ナリ事件ガ作者ノ思ハク通リニ發展シテ然モ寸毫ノ不自然ヲ感ゼズ。余程考ヘヌト此位ニハ出来ヌ
 且P.ノ性質描キ得テ深刻ナリ 現時ピヨコ/\出ル本郷座邊の作ハ此十分一ニモ出来テ居ラヌinsightガ足ラヌカラデアル
○是ハ妙ナ言葉だ
○Elleanヲ世話スルハMrs C.ヨリ以外ニナク、
 PハElleanヲ Mrs.Cniニハ世話ヲサセタクナイ、}此衝突ガ自然ニ出来テ居ル
○新事件、Elleanノ急ニ巴理ヨリ歸る理由ニモ彼等が手紙ヲダシタ理由にもなる
○又山
○第一回ニ照應スル 巧
○第一幕ニ照應
 
  The Benefit of the Doubt
〔見返しに〕
 此脚本に美くしいと云ふ感少なし。妙な所を捉へたと云ふが取り所なるべし。然し夫も深刻といふ程にもあらず。セコンド、ミツシス、タンカレーに劣る事遠し。是も十九世紀以來の社會劇なり、どう見ても前世紀のものにあらず
 
 Trelawmy of the“WelIs”
〔見返しに〕
 此脚本は上出来なり。ベナフイツト、オフ、ダウトの比に|な《原》らず。結構は多少不自然の所なきにあらざるも大体の上に於てよく纒つて居る。夫からある所は詩的で美くし|て《原》くて然も深い感じを起させる。
 
 The Times
〔見通しに〕
 此脚本は「ゴマカシ」の到底世ノ中デ續クベキモノデナイト云フ主意ヲ發揮シタ點ニ於テ面白ク讀マレル。而シテ所謂世ノ中ハコンナゴマカシデ充滿シテ居ル。或ル者ハ已ヲ得ズシテゴマカシ。アル者ハ已ヲ得テモゴマカシ。又アル者ハゴマカシテ得々タル風でアル。此輩に一大打撃ヲ加フルニハコンナ脚本ヲカヽネバナラヌ。此打撃ガアルト云フ點ニ於テ此脚本ハ痛快デアル。同時に此等ノ俗物共デ世間的以外ニ何等ノ見識もなき奴原が集合シテ劇ヲ構成シテ居ルノガイやナ氣持デ〔ア〕ル。ダカラシテ一人ノBerylノ如キ正直ナ娘が出テタルト非常に愉快デ敬慕スベキ念ガ出テクル。Berylノ如キハ他ニ何等ノ取ルベキ所モナイ只正シイ〔三字傍線〕のである。親、子、親類がミナ胡魔化し主義ヲ信仰シテ失敗スル中に、其失敗セザル前カラ正直一方デ通ス所ガ大ニ觀客ノ同情ヲ惹クノデアル。然シ事實上カヽル俗物共ノ間にコンナ正シイ娘ガ一人デモ出テクレバ此娘ハ父母朋友ノ歡心ヲ得ザルノミカ變物トシテ疎外セラルヽデアラウ。ソンナcaseハ隨分アルコトヂヤ。
○落語家の一席料
○女役者ノ地位
 
  Letty
 〔見返しに〕
 Epilogueハ無暗にシツコクなくてよろしい。且頗る美しい感じがある。是がもう少し書き過ぎると切角の感じが壞れる所である。前篇のいやな感じが最後に洗ひ落される様でよい。
 他のactsハうまいが餘り感心せぬ所が多い。
 Letchmere家の性質を伏線にして照應をとつた所は面白い。
 
○此Lettyノ態度を英國婦人の當世氣質と見るべし。少なくとも表面は《原》あらはれたる社會一般から是認せられたる態度と見るぺし。沙翁のテンペスト中にあるミランダのフアーヂナンドに説く所と照對せよ。非常な差違なり。
     ――――――――――
 Oscar Wilde
  The Picture of Dorian Gray
〔扉に〕
 近代のヒーローのうちにて解すべからざるもの曰ク死の勝利の主人公曰くドリアングレー曰ク煤烟の要吉。彼等は要するに氣狂也。しかるも《原》左も通常人であるかの如き權威を以て至當の如く叙述するが故に變也。
 肖像がドリアン、グレーの上に斯様の影響を與ふる事既に愚也。少なくとも書き方が愚なり。ホーソン流の不可思議也。次に其影響で畫家を殺す事尤も愚也。最後ニシ※[ヰに濁點]ル※[エに濁點]ゴーンの兄弟にイーストエンドで逢つて殺されさうになる所は芝居也。此偶然の出來事がなぜ芝居に近いかといふにシ※[エに濁點]《原》ーンの復讐的行動の發展を毫も描かずして突然東倫敦でグレーに逢はしむるが故に此偶然の出来事がさも作者に都合のよく挿入されてあるかの感を起す故也。但し復讐を受けて殺されざる所が芝居にならずしてよし。
 後半は因果の樣な、徴《原》象の様な、神秘の樣な、浪漫的な樣な、妙な空氣しかも、遂に因果にも徴象にも神秘にもなり得ざる鵺の樣な空氣を以て充滿す。前半の方平明にしてよし。それで澤山也
 
  Salome
 〔見返しに〕
 讀ミ初メテ何等ノ奇ナシ。只退屈ヲ覺フ。末段ニ至ツテ全篇皆振フ。漸ク作者ノ技倆ヲ見ル
     ――――――――――
 George Gissing
  Veranilda
〔見返しに〕
○副波
○主波
○波
○波′
○波′′
○波′′′
○波中波
○佳
○二波
○三波
○急波
○此篇色彩アリ繪畫的芝居的ナリ
○波
○波
○critical
○此篇ハcrisisナリ。Marcianノ陰謀始メテ讀者ニアラハレ。V.ノ如何ニBasilヲ愛スルカモアラハル、打撃(虚構)ヲ受ケタルV.ノ態度
○波
○此人ノ作ヨクカヽル掉尾ノ句アリ
○此篇ハ此小説ノ山ナリ。然モ凡テガ未ダ解決セラレズ
○V.B.ニ過去ヲ語る。M.ノ親切ニ見えたる所一ノ疑惑トシテ頗る妙
○山ノ引キツヾキ
 B.トV.ノ對話
○安心ノ解釋
 此篇ハ照應トシテ有効ナリ。一種ノ人生觀ヲ有ス
○結末ヨシ
○此篇空氣本邦ノ佛刹及僧侶ノ空氣ニ似タリ
○此結末モ繪ニナル
○Gissing自身ノ經驗ニアラザルカ
○Gissing自身モTottenham Court R.ニ住居セリト記憶ス矢張リ此ノ如キ生活ヲ送リタルナリ
○カヽルコトハ澤山アルベシ。余ノ經驗ニモアリ。然シ此反對モ亦アルベシ
Tottenham Court R.
 
  TheTowm Traveller
○good
○good joke
     ――――――――――
 Joseph Conrad
  The Nigger of the “Narcissus”
 〔見返しに〕
○何ガ故ニThe Nigger of the Narcissusト云フや。仰セノ如クNiggerハ出デ來ル。然モ pregnant future ヲ有スルカノ如クニ出デ來ル。シカモ遂ニ何ノ爲ス所ナシ。龍頭ニシテ登場蛇尾ニシテ退場。
○航海ノ記述、船夫ノ生活トシテハ立派ナル作物ナリ。コトニ暴風雨ノ叙寫ノ如キハ決シテ素人ニカケルモノニアラズ。
○是丈ニテ澤山ナリ。然ルニモ拘ハラズ物ニナラヌNiggerヲ雇ヒ來ツテ左モ物ニナリサウニ胡魔化シカヽリタルタメ如何ニモ物足ラヌモノニナリタリ可惜。
○Gorkyニハカヽル叙述ノ才ナカルベシ。然シ是ヨリモ小説ラシキモノヲ書キ得ベシ
○Niggerヲheroトシテ取リ扱ハズ他ノ水夫共ト同一表面ニ置キ讀者ノ注意ヲ海ノ記述文ニ注ガシムベシ。サウスレバ結構ニナル。サウシテ是ハ航海ト暴風雨ヲ描キタル小説ダト標榜スベシ。夫デ澤山ナリ。
○此書中ニ描寫サレタルハnatureト人間ノwillデアル。willハitselfニ於テ美ナリ(廣義ニ云フ)。去レドモ無暗ニ英國人ヲ例ニトリテwillノ權化デアルカノ如クエラサウニ書ク。御國自慢カ己惚カ。快感ヲ減ズルコト五割強。
 
○What is a gentleman
     ――――――――――
 C.H.Chambers
  The Tyramny of Tears
 〔見返しに〕
 Woodwardノ性格一寸面白き所あり。但し全体脚色の上ニ於テ不自然ノ痕迩あるは惜むべし
 所々寫實的の所あるはうれし
 Mrs Parburyハexaggerationデアル
 
○西洋人ノ妻ニ對シテ遠慮スルコトヲ見ヨ Cf.p38 丸デ客に對スル如シ
 凡テ此邊ヲ一讀スベシ
○西洋人ノ妻ニ對スルヲ見ヨ
 日本人ナラバスグweノ意味ヲ説明スベシ
○是ハ作リ過ギタリ
 此事件ガ波瀾ニナル大切ノ所デアルガ不自然ナルハ可惜
○此邊ヲ見ルト兩人が喧嘩をして居る樣だ。西洋人は一方では非常に鄭重かと思ふとこんな點もある わからぬ
     ――――――――――
 Rudyard Kipling
  Plain Tales from the Hills
○壯快、滑稽、塊奇
  Kim
○cf.Hedda Gabler
○cf.Scott
 
 Honoré de Balzac
  Old Goriot
○No,every woman runs after a man of success.
○This is a paradox.Ten to one they prefer a milksop.They never like,nor can ever like a Cromwell
○Not always.If genius persists,they crush it sometimes.
○A man who prides himself on going in a graceful curve is likewise an idiot who believes in beauty.
○Many do not believe in virtue and are not virtuous
○Yes
○Pshaw!man you don't know yourself
○To love a married woman!This is French indeed!
○This woman as well as this man are the best example of fooIs
○All this is nonsense
○There are many wives who wish to be rid of their husbands and many husbands to be rid of their wives
○Your husband will be only too glad to give you to this gentleman.
 
  Shorter Stories from Balzaac
 〔裏見返しに〕
 平等ハ平等ナ人間ヲ生ズ――試驗
 構門ノ犬 自立ノ紙屑商
 Chance多キハselective principle不完全ナル故ナリ
 Public opinion−justice=此二ヨリ來ルjusticeハ着々行ハル――
――{嫉妬――甲ニナレザルヨリ甲ノ地位ヲchangeト  セントス
   嫌惡――乙ノ地位ヲ嫌惡スル故ニ乙ノ地位ヲchangeセントス、キタナイ首ヲ見テ目ヲ背ケルノ類ナリ
 
  The unknown Masterpiece
 此篇ノ落處ハ余ノ解スル所ニアラズ只一種ノ畫狂ヲ描出シタル者カ
 
  A Seashore Drama
 ドーレ《原》のChild Spy。メリメのFalcone及ビ此篇ハ皆同一ノ趣向ナリ。而モ三篇共各其特性ヲ發揮シテ愉快カギリナシ。
     ――――――――――
 Prosper Mérimée
  Carmen
 〔中扉の裏に〕
 Carmenは有名ナル作品ニモ關ラズ。結構ノ點ヨリ云ヘパ寧ロlooseナリ。主ナル篇ハ(三)ニアリ。(四)ハ丸デ不必要ナリ。(一)卜(二)ハ主要ナル話シト關係ナキニアラザレドモ話題ノ中心ヲ亂ス點ニ於テ却ツテナキガヨシト思ハルヽ位ナリ。
 話ノ性質カラ云ヘバ日本ノ艸草紙的ナル者ヲ十九世紀ノ空氣ニツヽンダ位ノモノニ過ギズ。只鬼神ノ御松の如キCarmenナルジプシーの性格ガウマク描〔寫〕サレタル所ガ艸草紙ノ及バザル所ナリ。
 (一)ニアツテハ旅客ガ主ニシテJoséガ客ナリ(二)ニアツテモ旅客ガ主ニシテCarmenガ客ナリ(三)ニアツテハJoséトCarmenガ連結セラレタル便宜ハアレドモ旅客は單ニlistenerトシテ後景ノウチニ隱ルヽガ故ニ吾心ノ注意ガ/\/\/\ノ如クネヂ向ケラレテ迷惑ヲ感ズ(四)ニ至ツテハ全ク不必要ナリ
 故ニ此篇ハ短篇ニ於テ尤モ腕前ヲ見スベキ點ニ於テ全ク不注意ナリ
 (三)丈ヲ今少シexpandシテ他ヲ省ケバ完璧トナルベシ
 
○奇
○Carmenヲ殺スニ至ル邊ヨシ、
 
  The Taking of the Redoubt
 〔中扉の裏に〕
 現今ノ英人ナラバトニカク メリメ時代ニ此單純ナル出來事ヲ散文ニスル英人ハアルベカラズ。彼等モシ此問題ヲ捕ヘタリトスレバ其表現ハ必ズ詩形ヲカルベシ
 
○是ハ昔ノバラツドヲ今樣ニシタル樣ナ感ジガアル
 
  Mateo Falcone
 〔中扉の裏に〕
 此悲劇ハsituationヲ以テ勝ル。結構モマトマツタモノナリ。日本人ハコンナ際ドイモノヲカクコトガスキナレドモ、大概ハメロドラマニテ終ルナリ。此篇ハ是デ充分〔ナ〕レドモ主人公ノ性格ニ前後ノ照應ト發展ナキ爲メ、最後ノ一曲二於テ必勢〔二字右○〕ト云フ大活力ヲ認ムル能ハズ。
 因果ヲ脱却シテ突然其主人公ガ義烈ナ振舞ヲシタリ悲壯ナ行爲ヲやルコトハ日本ノ昔ノ作者ノ常ニナシタ所ナリ。此篇モ此點ニ於テ彼我相似タリ。
 一歩進メテ論ズレバ日本人ハ只當面ノ事實ノ詩的ナルヲ好ム、戯曲的ナルヲ好ム。悲壯的ナルヲ好ム。其源因ノ徐々と發展シテ自然ニクライマツクスに達スルト云フ點ニ於テ技倆ヲ有セズ。又眼識ヲ有セズ。又無頓着ナリシガ如シ。今ノ日本作家モ多少コノ傾向アリ。
 
○是モ日本ノ戰國時代ニアル話ナリ
○是モ多少日本的デアル
 
  The Venus of Ille
 〔中扉の嘉に〕
 此篇ハArtトシテハ申分ナク發展シテ毫モ手落ガナイ所ガ感心デアル。然シミスチツクナル所ガ余リ想像ニ過ギル樣ナリ。Gautierノ神秘的ナルハ遙カニヨキ感ジヲ起ス。是ハ末段ノ頂點ニ至ツテ切角〔ノ〕詩趣ヲウチ崩シテweirdナルuglyナモノトナス
 思想ハ鏡花ニ似タリ。然シ技巧ハ鏡花ヨリモ十數等上ナリ
 
 Alfred de Musset
  Barberine
○遠キ人ノ心ヲ照ラス鏡
○沙翁劇ニ此仕組アリ
○Imogenヲ引用
 
  Fantasio
○此scene尋常ノ作家ニハ出来ズ。Fantasioヲ創造セル人ハ平凡ナ人デハナイ
     ――――――――――
 Théophile Gautier
  The Fleece of Gold
○此雨景ヨシ
○人間批評
○落所巧ナラザルニアラズ末ダ天籟ノ妙音ト云フベカラズ
 
  Arria Marcella
○叙景ノ筆妙ナリ。單ニ華麗ナル語ヲ陳列セズ皆寫生ナリ。
○女ノ形容うまし
○山
○此理ウマク言現ハサレタリ
 
 結構モ、思想モ、措辭モ共ニウマイ者デアル。コンナ者ヲ書カウ/\ト思フテ居ルウチ、イツノ間ニヤラ此男ガ製作シテ居タ。
 
  The Dead Leman
○女ノ鼻ノ穴ヲ叙スルノハ新ラシイ
○妙ナコトヲ書イタ、此作家ノカキカタハnervousデアル英國人ノカキカタハ遲鈍デアル
○奇想
 
 美シキ奇想ナリ、キーツノレミヤニ似タリ、幽遠ノ趣アリテ然モ主意明晰ナリ、
 平凡ナル者ハ美ナラザルコトアリ、故ニ奇ヲ求ム、奇ヲ求メテ已マザレバ怪ニ陷ル、怪ニ陷レバ美ヲ失ス、詩人ハ此呼吸ヲ知ル、
 鏡花ハ此呼吸ヲ知ラズ。
 詩人ノ想ハ詩想デアル、鏡花ノ如キハ狂想デアル〔“Théophile Gautier”の見返しに〕
 現代日本の小説家は概して短篇作者なり 去れども未だ一人も此著者の如き程度に達せるものなし
     ――――――――――
 Gustave Flaubert
  A Simple Heart
○冷静ナルカキ振リナリ。冷静ナル事實ニハアラズ。去レドモ一篇ヲ通ジテ人間ガ無暗ニ死ニ、鸚鵡モ死ニ、最後ニ主人公モ死ヌト云フヨリ外ニ何等ノ人ノ心ヲ引キ立ツル山ナキ點ヨリ云ヘバ是亦冷静ナル事實ト云フモ不可ナキガ如シ。余ノ如キ刺激ヲ好ム者ニハカヽル書キブリトカヽル事實トハ餘リニ平板ニシテ一讀ノ後何トナク物足ラヌ心地ス。
 實ハ今ニ何カ起ルノダラウダラウと思フテツイニ仕舞迄讀ンデ、オや是丈カト思ツタ。
 但一事ノ敬服スベキ事ハ表題ノ非常ニ適切ナルコトナリ。此表題デ此事實ヲカイテアル以上ハ、是以外ニ出デズトモ不平ハ云ハレナイ
○小兒はカクノ如キ者ナリ。只此小兒ニ餘計ナコトヲ教ヘルガ爲メニ金ヲ化シテ鐡トナス。金ヲ化シテ鐵トナシテ得々タル者アリ。昔ノ人ハ之ヲ小人ト云フ。今ノ人ハ之ヲ賢人ト云フ。未來ノ人ハ之ヲ何ト云フカ知ラズ。
○佳謔
○Dickensガカヽル光景ヲ描キタリト假定セヨ。是丈デハ決シテ濟マサヾルベシ
○Holy Spilitヲparotニ似夕者卜思フ。コイツハ面白イ
○Simple
○結末多少ノシマリアリ
 
  Herodias
○good
○good
 
 瑰麗※[王+奇]華光彩陸離トシテ人ノ目ヲ奪フ。名篇ナリ。
 カヽル文篇ハ一字一句ゴトニ念ヲ入レテユルリト讀マザル可カラズ。其點ニ於テ詩ト同樣ノ價値アル者ナリ
 
  salambo
 〔見返しに〕
 Monumentalwork.
 戰爭ハアマリ澤山過ギル
 ヘルンに此poetryアリ。此雄大ノ構想ナシ。
 サランボーは單ニ天才ノ作ニアラズ。非常ナル歴史的研究ノ努力ヲ待ツテ始メテナル。ロモラヲ作ルヨリモ困難ナリ。
 英國ノ作者ニテ此種ノ作ニ於テサランボー以上ノモノヲ書ケルモノナシ。
 只アル所ハpoeticalニ過ギテweirdナリbizarreナリ。
 人間ヲ寫セルモノトシテ見ルベカラズ。
     ――――――――――
 Edmond and Jules de Goncourt
  La Faustin
 〔見返しに〕
 Heroは前半ニ出デ來ラズ。他ノcharacterハ途中デ消えテ仕舞フ。從ツテcharactersノarrangementトevolutionヨリ云ヘバ文句多シ
 Heroineノ主人ガ自殺スル抔ハ安ツボイ。丸デ作リモノナリ然シ是モArtトシテハ有効ナリ。heroineガ之ヲ聞イテ安心スル程Wmヲ愛スルト云フコトヲアラハスArtナリ
  【叶戀の不滿足】
  【叶ふ戀】    此第二ノ山アル爲ニ新シキ小説トナル 第一ノ山丈デハ如何ニ立派ニカイテモ陳腐也
 然シ第二ニ屬スルchapterハ何ダカ粗末ニ讀マレル即チアマリ短カキ爲ト概説的記事多クシテ第一ニ屬スルchapterト釣合ガトレヌ爲ナラン
 從ツテ第二ニ屬スルchapterヲ讀ミ始メタトキハ餘波ヲ描キタルモノト云フ感ヲ起ス
 撃劍ノ先生トノ場ハArtトシテ有効ナレドモ猥褻ナリ英人ナラバ避ケテ書カザルベシ
 風呂場ノ處ハ寧ロ非人情ナリ然シ英人ナラバ女優ヲ寫ストスルモカヽル所迄ハカヽザルベシ
 今一ト《原》際ドキ所ハ“come”ト云フ所ナリ
 
○ワソナリ
○?
○結末甚佳
 
  Renée Mauperin
 〔見返しに〕
○總ジテ氣ノ乘ラヌ小説ナリ。其理由ハヨク考ヘテ解剖セネバ分ラネドモ、
○構造アシキ爲ナリ。此人ハ殆ンド構造ノ何者タルヲ解セザル樣ニ思ハル。
○Sceneアリテ發展ナシ。Sceneノ斷篇《原》ヲツギ合セタリ。銀座通リノ店ヲ一軒々々覗イテ歩クガ如シ
○會話アリテ性格ナシ。從ツテ上滑リスル心地ナリ。
○女主人公ヲ描キタル者ニや、何ヲ描キタル者ニヤ纒マラズ。
○悲シカルベキ樣子ヲ寫シタリ。成程悲シカルベシトハ思ハズ
○稍統一アルハ後半ナレドモ、悲シカルベシト感ゼザルガ爲ニ役ニ立タズ。
○色々ナ點ヨリ見テ死セル小説ナリ。
○エヂターハ何故ニLa Faustinヲ撰バザリシカ
     ――――――――――
 Alexandre Dumas
  The Black Tulip
 〔見返しに〕
 萬事都合よく出來てゐる所が舊式の小説也。舊式の小説とは小説の爲の小説にて人生の爲の小説にあらざるをいふ。
 作者の天地と實際の天地と隔離するをいふ。夫にも拘はらず作者は之を實際の天地なりと讀者に強るをいふ。
 DumasはBlack Tulipなる世界を創造せり其構造は自然以上に具合よく出來たり。しかしてDumasは之を自然なりと僞はる。巧妙にして拙劣なり。老練にして幼稚なり。彼は小説術に於ける下級の巧妙と老練を心得たれども高級のそれ等を未だ曾て夢想し得ざるが爲に此下級の意味に於て巧妙老練の小説を作れり。菊人形の巧妙なるが如く操人形の老練なると一般也。高き眼より見れば巧妙なればなる程拙劣にて、老練なればなる程幼稚なるに過ぎず。かゝる作物を出して全歐の文名を一身に負へる著者は眞に幸運なり。
     ――――――――――
 Alphonse Daudet
  The Beaucaire Diligence
○此パラグラフで全篇活動ス。實ハ此前ノ節迄ヨンデ是デハ物ニナラヌト思ツタラ。最後ノ一節ニ至ツテ成程ト感心シタ。流石ハ文豪デアル
 
  Master Conille's Secret
 モシ此篇ガ(23)頁ノ終デ結末ヲ告ゲタナラ、夫デツヾマリハツクカモ知レヌガ平凡ナ作ニナツテシマフ。所ガ一歩開拓シテ一種ノ對照ヲ構造シタカラ此篇モ亦活動シテ來タ。矢張リ名手デアル
 
  The Pope's Mule
○愉快々々
 
  The Cure of Cucugnan
 コレモ短詩ノ材料ナリ。英人ナラバverseニスルナラン
 
  Old Folks
 〔中扉の裏に〕
 此人ノ作ハ徃々ニシテホトヽギス派ノ寫生文ニ似タル所アリ。カノ寫生文ヲ作リ出セル人ハ此等ノ文章ヲ模範ニセルニアラズ。全ク他ノ方面ヨリ獨立シテ此領分ヲ開拓セルナリ。
 此篇ノ如キハ尤モ普通ノ小説二遠ク尤モ普通ノ寫生文ニ近キ者ナリ。但シコレニテモ普通ノ寫生文ヨリモ幾分カ小説ニ近キ所アリ。如何トナレバ叙事其物ハ半日カ一日ノ出來事ニテ紀行文ノ一節ノ如キ者ニ過ギザレドモ其ヨリ受クル感情ハ是ニテ完キモノナリ。
 ホトヽギス派ノ寫生文ハ人間ノ手一本、足一本ヲウマク畫ケル畫ノ如キ場合多シ。其丈デ技巧ハ充分ナレドモ吾人ガソレヨリ受クル感ジハ藝術的ニ完キモノニアラズ
 
○輕妙
 
  The Death of the Dauphin
 〔中扉の裏に〕
 此篇ノ落所ハironyナルニアリ。左レドモ其面白キ所ハpathosニ存ス。小供ニシテDauphinノ死ヌ時ハサモカウアリサウナリ。立派ナル手腕ナリ
○good
 
  The Last Class
 カツテ、アル讀本ヲ校訂シテ非常ナ名文ニ出合《原》ツテ少々驚ロイテ結末ニ至ルトDaudetト署名シテアツタノデ成程ト思ツタ
 余ガ其時ニ感心シタ文章ハ即チコレデアル
 
  The Game of Billiards
 此篇ハ日本ノ講釋師ノヤルベキ一席モノニ似タリ。佛人ト日本人ハ多少カヽル點ヲ喜ブ所ニ於テ相似タリ
 
  The Child Spy
 メリメの作ニ親子ノ關係ノ之ニ似タル者アリ彼ニ在ツテハ父、子ヲ銃殺シ。是ニ在ツテハ父自ラ死ニ赴ク。而シテ名譽ノ爲メニスルハ兩者共ニ一ナリ
 
  Mothers
 〔中扉の嘉に〕
 此篇モ一種ノ寫生文ニ近キ者ナリ。憐レナレドモ涙ヲ流スニ至ラズ。涙ヲ流スニ至ラザレドモ憐ナリ。結構モ簡單極マレルモノナリ。
 寫生文ノ上乘ナル者ニ至ツテハ優ニ之ト拮抗スルニ足ル
 
  The Siege of Berlin
 趣向ヲ一轉スレバ宛然タル落語ナリ。
 
  Sapho
 〔見返しに〕
一、結構ノ巧妙ナルコトヲ見ヨ。自然を失スル程ニモ巧妙を極めたり。是單ナル思索の結果ニアラズ。佛人固有ノartistic senseアルニヨル。
二、SaphoノCharacterニ斯程ノ曲折アラントハ最終ノ頁ヲ讀ム迄モ遂ニ氣ガ付カヌ程ナリ。Geniusニシテ始めて之ヲconceiveシ得ベシ。之ヲ寫シ得テ巧妙ナルヲ見ヨ。自然ヲ失スル程ニモ巧妙ヲ極メタリ。
三、極メテlooseナル社會ヲ描ケリ。然レドモ終ニ一人ノ刻薄冷酷ナル人間ナシ。如何ニ男女ノ關係ガ自由ニテモ有夫ノ妻ニ姦シテヒソカニ其夫ノ愚ヲ笑フガ如キ不愉快ノ分子ナシ。此點ニ於テ此書ハカノRestoration Drama抔ト同日ニ論ズベキ下等ノモノニアラザルヲ知ルベシ。タヾ男女ノ關係ガ自由ナル迄ナリ。而シテ之ヲ公言スルコトヲ憚カラヌ迄ナリ。日本ノ元緑時代ナリ乃至ハ王朝時代ナリ。但シ罪惡ノ時代ニアラズ。其放肆ナルウチニ温カキ人情〔二字右○〕アレバナリ。(一種ノ道義アレバナリ。) 此點ニ於テ余ハMadame Bovaryヨリモ此篇ヲ好ム。何トナナ《原》クtoneガ温カキ故ナリ。但シ出來榮ヨリ云フモBovary以上ナルベシ。
○春水流ノ小本ヲ極端ニ發達セシメタラバ茲ニ達スベキや??
 
○See Alice's episode is not a mere episode.It is really a warp in the history of Gaususin
○Just like uncle Césaire
 
 The Nabob
 〔見返しに〕
 結構ト性格に一種人巧的ノ臭味アル處アリ。可惜。此false noteハDickensノソレトヨク似タリ。去レドモDickensノヨクシ得ザル佳所ヲモ含ム。
 此artificialityアルガ爲ニSaphoニ比スレバズツト幼稚ナリトモ評シ得ベシ。去レドモSaphoニ比スレバ、アル人トアル物トアル意味トヲ描カント力メタルハ爭フ可カラズ。只此アル人ト此アル物ト此アル意味ニ囚ハレタルガ故ニSaphoニ劣ルニ至リタルナリ。
 末段ノ結構ニテ篇中ノ人物トinterestトヲヲ《原》出來ル丈綜合シテ不自然ナラザルハ大手腕ナリ。
 
○Dickensianism or Yenyuism
○此processハ眞ニ近シ
     ――――――――――
 Anatole France
  Thaïs
○good
○此節アリテ始メテ佛蘭西現代ノ人ノ作ナルコトヲ証ス
 
  The red Lily
 〔見返しに〕
 ある意味にて非常ニrefineナル作なり。他の意味にて甚だgrossなる作なり。此grossナル所は決して佛人の眼に映ぜざる所也。
 藝術的作品としては上なり。頁60其他に書き込みたる評を見るべし
 
○p.60ノ評ヲ見ヨ
○是等ノ會話ハ後段二人ノ交情ニ急變化ヲ來ス爲にアラカジメ故意ニ用意ヲナセル如クニテ、反ツテ痕迹アリ。夫ヨリモ二人ノ交情ノ眞ノ愛ニアラザルヲ事實ニ証明シ置カネバナラヌ所ナリ。紙數不足ト云へバ夫迄ナリ。
○此所ヲ見ルトキハ是等ハテレサの性格ナリト思ヘリ。XXIニ至ツテ始メテテレサトロバートの關係ヲアラハス爲ト知レリ
○p.60ノ評ヲ見ヨ
○p.60ノ評ヲ見ヨ
○たゞennuiノ爲ニloveシタル婦人ヲコトサラニ描イテ、後段ヲ生カサント力メタル所却ツテワロシ。ennuiノ爲ニloveeスルハ可ナリ。ennuiノ爲ニloveシタル如キ樣子ヲワザ/\〔四字右○〕loverニ示シテ置クノハ不自然ナリ。loverニハ素振モ見セネド、又自分デモ判然ト分ラザレド中《原》心ハ何トナクloverニ滿足セズ。loveナケレバ猶滿足セズト云フ風ニ書キタシ。
 カウ書クナラ一層Robertニ厭氣ガサシテ既ニDechartreニ氣ガ移ツテ仕舞ツタ樣ニシタラ、マダ自然デアル。
○此一席甚ダ佳 但シ
 Dechartreノテレサヲ捕獲スルコト突然ノ樣ナリ
 篇首カラ多少下ゴシラヘヲ爲ス方ヨロシ。一篇ニgradualナ歩調ヲ與ヘテ中途ヲアブラプトニ飛躍セシムル恐ナキ故ナリ。
 Robertニ就テハ下拵アレドモ痕迹アリ。Dechartreニ就テハ大波瀾ヲ起セドモ下拵ナシ。
 故ニ前半〔二字傍線〕ガ丸デ引キ立タヌ感アリ。全然會話丈デ持チ切ツテゐる樣二思ハレル。
 
  The Garden of Epicurus
 〔見返しに〕
 久シ振デ此種の文學ヲ讀ンダ。love hatredアラユル七情の迸バシル小説ニ中毒サレタモノニハ愉快ナル讀物である。
 
○Science and moral nature モウ少シ考ヘベキナリ
○モウ少シ考フブ《原》シ
○good!
 
  The Crime of Sylvstre Bonnard
 〔見返しに〕
 スターンを思び出す事あり。Man of feelingを思ひ出す事あり。調子ガ似タレバナリ
 スヰフトを思ひ出す事あり。Fairyノ叙述ある爲なり。しかも調子が異なればなり
 スチーブンソンを思ひ出す事あり。Adventureがロマンチツクなればなり。けれどもボナールのadventureニハトボケた分子多を占むる故ニ異なれり。
 ボナールはよく描かれたり。テレサもよく描かれたり。此内の淡なる調子はフランスの特有なるべし。枯れたものなり。何が故ニpathosや感投詞澤山のreflectionヲ使ひ過ぎるや。最後のpatheticなる一節は全体に關して何の用をなすか
 偶然の出來事を點出する時讀者は之を見て故《原》意わざとらしいの感を起す場合と、こいつは不思議で、振つてゐて、思ひ切つて飛び離れてゐて、未練氣がないと感ずる場合と二つある。ロマンスの美は此後者に存してこそ面白味があるのである。篇中の偶然の出來事はいづれに屬するや讀者考へ見るべし。
     ――――――――――
 Guy de Maupassant
  The Horla
 愚作ナリ
 
  Little Soldier
 是モ愚作ナリ
 
  A Coward
 是モ愚作ナリ
 
  VainBeauty
 面白イ。然シ要スルニ愚作ナリ。モーパサンは馬鹿ニ違ナイ。コンナ愚ナコトヲ考ヘツク者ハ輕薄ナル佛國ノ現代ノ社會ニ生レタ文學者デナケレバナラナイ。毫モ真摯ナ所ガナイ。シカモ毫モ滑稽ナ所ガナイ。只人ヲ釣リ込ンデ讀マセル技術ト之ヲ釣リ込ム夫婦ノ關係アルノミデアル而シテ其夫婦ノ關係タルヤ、馬鹿氣テ居テ毫モ人生ノ大問題ニワタラナイ。西洋ノ夫婦ハ夫婦ヲ大事ニスルト公言シナガラ其口ノカハカヌ内ニコンナ輕薄ナイタヅラヲ到ル所ニ演ジテ居ル。英國デモサウデ〔ア〕ル。佛國ハ尤モ甚シイ。――日本ナラバ噺家ノヤリサウナコトダ。何等ノ趣味モナイ考モナイ寄席ヘ行ツテ手ヲパチ/\叩く連中が歡迎スルノミデアル。文學ハコヽニ至ツテ墮落デアル。此技術アル文學者ガ墮落シタノハ尤モ厭ナ感ジデアル。容色ノイヽ女デオキやンナノト同樣デアル。
 英國ノ貴夫人抔ト云フ者ハ之ヲヨンデ拍手スル連中バカリデアル。要スルニ高尚ナ趣味モ何モ分ラナイノデアル
 
  The Piece of String
○モーパサンは何時でもこゝ迄かくからいけない。こゝ迄かけば不自然ニナツテ、折角ノ話ヲ打壞して仕舞ふ。
 
  Moonlight
 是ハヨシ
 
  The Necklace
○此落チガ、嫌デアル。コヽニ至ツテ今迄ノイヽ感ジガ悉ク打チ壞サレテ仕舞フ。ナゼモーパサンはかうだらう。此一節ガナケレバ夫婦ノ辛苦シタノハ全ク義理堅イ美徳デ輕薄ナル細君モ此出來事ノ爲メニ眞正ナル人間トナツタノダカラ、讀者モ非常ニ同情ヲモツテ讀ンデ行カレルノニ、此結末ノ一節ノ爲メニ夫婦ハ丸デ馬鹿ニサレテ仕舞フ。ツマリ毫モ利目ノナイ美徳ヲツクシテ居タノデアル。
 天下ニ何ガ愚ダト云ツテ、人ニ馬鹿ニサレナガラ善ヲ骨ヲ折ツテ汲々爲シツヽアル程愚ナコトハナイ。換言スレバ其人ノナス善行ガ善行トシテ寸毫ノ結果モ生ジナイ程愚ナコトハナイ。モシ運命ガ相手(此話ノ場合ノ如キ)デアルナラバ讀ミ了ツテ馬鹿々々シイ感ジガスル。モシスレカラシのワル者ガ相手ナラバ讀ミ了ツテ其相手ガニクラシクナル。相手ガニクラシクナルノハ、夫婦ニ同情ヲ増ス譯ダカラ少シモ構ハナイ。相手ガ運命デアルトキニハ夫婦自身ガ馬鹿々々シク感ズル程讀者モ馬鹿〔々々〕シク感ズル。
 モーパサンは何ヲ苦シンデ此夫婦ノ美徳ヲ殺シテ仕舞ツタノカ分ラナイ。ツマリ佛國ノ現代ノ社會ニ生息シテ其冷刻ナ、皮肉ナ空氣デ自身ガ臭クナツテ居ルカラデアル。
 
  Tallow=Ball
 是ハ立派ナル作物ナリ。
 但シ後段ノ食物ヲ馬車中ニ食フ人々ガ賣春婦ノ恩ヲ忘レテ、一片の肉ヲモ與ヘザル所ハ、著者得意ノ所ニシテ却ツテ不自然ナリ。其前迄ニテ澤山ナリ
 
  A Woman's Soul
 〔扉に〕
○完全ナル藝術的作品ニアラズ
○作者ハJeanneノ一生ノ運命ヲ描ケリ。一生ノ運命ニハcontinuityナキコト多シ
○一生ノ運命ハカヽル小冊ニテ書キ了セベキモノニアラズ。モシ書キ了セントセバ冒頭ヨリ其心組ニテ掛ラザル可カラズ。作者ハ普通ノ小説ト同ジク筆ヲ著ケ始メタリ。
○從ツテ簡ナルベキ筈ノ處却ツテ密ニ密ナルベキ筈の所(後半)ハ却ツテ粗ナリ。前半ノクダクダ敷ニ反シテ終リノ方ノ如何ニ急ギ足ナルカヲ見ヨ
○事件ニ連續アリ。事件ニ中心ナシ。河ハ平面ヲウネリ行クニ過ギズ。途切レヌト云フ迄ナリ。此故ニツヾクト雖局部局部ノ見所ガ違フ。即チドレガ主眼ナルヤヲ辨ゼズ。此點ニ於テ興味散漫ニ傾ク。
 モシ主人公ノ一生の運命ソノモノガ興味〔ノ〕中心ナリト云はゞ夫迄ナリ
○Jeanneノ夫ハ下女ト通ジ。其上有夫姦ヲ犯ス。Jeanneノ父モ母モ不品行ナリ。コトサラニ斯ル人物ヲ集メテ小説ヲ作ル必要ヲ認メズ
○Jeanneノ叔母サンアリ何ノ爲ニ出デ來ルや
○Characterizationトシテハ人物ノイヅレモガ入神ナラズ。是ガ物足リヌ大源因カモ知レズ
○作者ハ只事件ノ推移ニヨリテJeanneノ運命ノミヲ描カントアセリ過ギタルニハアラザルカ。
 
○此二三頁書キ過ギタリ。モツト墨ヲ惜ムベシ。
 安價
○good
○too much
 
  Pierre and Jean
 〔見返しに〕
 名作ナリ。Une Vieの比ニアラズ
 
○Original
     ――――――――――
 Paul Bourget
  Monica and Other Stories
 〔中扉に〕
○モニカ〔三字傍線〕 始ノウチハ日本ノ昔話を讀ム樣ナ心持ス。
後段ニ至ツテ複雜ニナル。細君ノ性格ヨシ。然レドモ遂ニ天才ノ作物ニアラズ
○アチチユード〔六字傍線〕 甚ダ面白キ思付ナリ。但シ書方ニハ異存アリ。ドウモ切實デナイ所ガアル
○グラチチユド。大したものにあらず。然しさら/\して好し。趣向はシルゴ※[エに濁點]ストル、ボナールの前半を思ひ出さしむ。
○軍事小品
 (1)小供ノ時の親友を敵味方になつて普佛軍のときに殺す話也
 (2)戰爭ノ時犬ばかり育てゝゐる畸人を寫したものなり
 (3)女役者にはまつた士官がある日兵隊の馬の取扱方を見て鞭を加へて辱しめたのを兵隊が將軍ニ訴へぬ話也。此將軍は兵隊に敬愛せられてゐる。此士官は又將軍に愛されてゐる。だから兵隊が將軍に免じて黙つてゐる。それを將軍が聞いて自分で兵隊に謝罪するといふ武士氣質をかいたものなり。兵卒を無暗に毆打する日本の軍人は之をよんだら妙に思ふだらう。日本だつて兵士が何時迄こんな壓制を受けてゐるものか。もう少し氣を付けるがいゝ。今に大變な事になる。
 
 The Weight of the Name
 〔見返しに〕
 父ノ執事がわるくて破産しやうとする。父の友達が死んで莫大な遺産を得る。と同時に此友達は母と密通してゐた事が分る。母と此友達の往復の艶書を無名で父に送つたものは執事である。執事は父の家財を賣り拂ふ用意をして其コンミシヨンを取らんと思ふ折柄だから、もし父が此遺産を受ければコンミシヨンに有付く事が出來なくなる。だから此遺産は密通して出來た子に傳はるものだと知らせれば父は之〔を〕辭するに違ない。さうすれば自分に利得がある。執事の思はくは斯うである。
 自分が眞の子と思つて居たものが間男の子であつたといふ事を發見してから父の心的状態――子を見〔る〕に忍びなくなる所から、愈子供が外國へ行くといふ間際に急にもとの愛情が出て再び眞の親子の樣な情合が出る變化が甚だ面白い。
 前半はプロツトが巧妙である丈それ丈、くさい所がある。けれども全然僞構のプロツトだと非難する程でもない。自然的構設的の論は置いてかゝるプロツトを組み立てるといふ事が既に手際である。
     ――――――――――
 René Bazin
  The Coming Harvest
 〔見返しに〕
 コレハ一流の作ニアラズ。寧ロ庸才ノ産物ナリ。
 
  Redemption
 〔見返しに〕
 百二十三頁迄讀ンデ何等の天才ノ痕迩ナシ。小杉天外と同程度ナリ。アトヲ讀ム勇氣アリや否ヤ覺束ナシ。
 
 Calderon
  The Painter of his own Dishonour
○カヽル場ハ讀者ノ考ヘ樣ニテ不自然ナリ。又觀客ノ見樣ニテモ不自然ナリ。古來カラ劇ニハコンナ場ガヨクアル者ナリ。日本ノ劇ニハ尤モ多キ樣ナリ
○サキニAlvaroガSerafinaノ家ニテ戸棚ニ隱れる場アリ コヽニ又Princeノかくれる場あり。聊か重複
○ノコル人(Prince−Serafina)
      ×――此Situationウマク出來タリ
 出テ行ク人(Alvaro−Porcia)
○Juan畫工ニ姿ヲヤツス、是ハ偸マレタ妻ノ行末ヲ探ル爲ナリ。此趣向モ日本ニ澤山アリ然シ寶ノ詮議、カタキノ在所ヲサガス爲メ、モシクハ忠トカ孝トカニ限ルガ如シ
○此照應妙ナリ
 
  Keep your own Secret
○女ヲ太陽ニ比ス
○愛厭咄嗟ノ變
○Shakespeareノfoolsト比較セヨ
○PrinceノCesarトLazaroヲ弱ラセル所面白シ
 然シ是モ日本ノ講談落語ニアル事ナリ
○佳
○Laz.ノ困シマギレノ口上 是モ日本ニアル
○此話面白シ
○妙
○佳
○cf.HenryW.Falstaff
○佳
○自然ヲ欠ク 然レドモ佳
○Solution
 
  Gil Perez,the Gallician
 此劇ハ水滸傳ニ似タリ。日本ノ講釋ニ似タリ
 
○cf.Scott's Ivanhoe
○友ノ爲ニ公吏ニ抗ス 壯快。是等ハ日本ニモアル
○Ped.Gil.ニ話シカケル、Gil氣ガツカズ獨リ言ヲ云フ。是不自然ニテ寧ロ陳腐ノ手段ナリ
 
○ped.到る所Gilニ逢ふ 此趣向は一寸工夫せんと出來ぬ
○古來カラ惡人は死ヌ時必ズ懺悔ス。是は作の上ニ都合ヨキ爲カ或ハ事實上ソンナ場合ガ多イノカ、
 
  Three Judgments at a Blow
○自ラ赦免ヲ請ヒテ赦罪ヲ得タル人ヲ再ビ罪センコトヲ乞フ。此ヲウマクhandleスレバ一寸面白イironyガ出來ル。カルデロンハ失敗ト云フ程デハナイガ非常ナ成功デハナイ
○兄弟ノ愛。知ラズシテ相戀フ。日本ニモアル
 
  The Mayor of Zalamea
○コンナ再會モ現今デハ芝居ニナリカネル
 
  Beware of Smooth Water
○Coach
 
 Dante Alighieri
  The Inferno
○憂の國に行かんとする者は此門をくゞれ
 永劫の呵責に遭ハんとする者は此門をくゞれ
 迷惑の人と伍せんとするものは此門をくゞれ
 正義は高き主を動かし、神威われを作る、最上智、最初愛。
 我前に物なし只無窮あり、われは無窮に忍ぶものなり、此門を過ぎんとするものは一切の望をすてよ
     ――――――――――
 Gabriele D'Annunzio
  The Triumph of Death
 〔見返しに〕
 結末よし。此結末に達する筋道よろしからず。人間の手際にて是より以上書けぬかと思へば小説も頼母しからぬ心地す。
 此人は美くしき物に非常に神經鋭どき人也。
 此人は男女のイチヤツキ方に多大の興味を有する人也。但し終日終夜イチヤツク故鼻について一向難有からず。始《原》末には嘔吐を催ふすに至る。
 篇首の方却つて人間らしき人間を描けり。讀むべき價あり。
 事件の連續 錦畫の畫帖をはぐり行くが如し。陳列なり。道中にあらず。そこが厭氣のさす大原因也。
 主人公は何の爲に生きる人なるや。たゞ云へ愛の爲めにと。此一語以て貴重なる人生の内容を代表するも耻かしからず。されども此人は遂に愛の爲に生きたりと云ひ得ず。しかも花の爲めにも月の爲にも、シヤンパンの爲にも生きたるにあらず。憐むべき人間也。他人にも自己にも滿足を與ふる能はざるegoist也。たゞ酒を飲み。花を嗅ぎ、歌を聞き、女を近づけて、しかも酒を解し花を解し、花《原》を解し、歌を解し、女を解する能はずんば、かれ其egoistたるの點に於て何の得る所ぞや。
 
  The Child of Pleasure
 
 〔見返しに〕
 A series of love affairs and nothing but love affairs.Love begot of the heavy alr,highly charged with the artificial perfume of decadent civilization.Love that flitters from this flower to that,seeking this and forsaking that,like butterflies.But those gold variegated wings of his are not made by nature;they are the gratuitous product of elaborate artifice,with the specious appearance of reality.Such is the skill of the juggler!
 A love,all brilliant and hot,set in an intoxicating garomatic scene.Another love,equally sensuous and glowing with colour,set in another earthly paradise.That scarcely over,a third one in the midst of roses,violets,brocade,and damask curtains.So on ad nauseam.There is no phrase in English so fit for the title of the book as“The Child of Pleasure.”Only the child is not the child of nature,and too spoiled to pursue pleasure with innocence.Nor is he even for a moment conscience stricken,being too refined and civilized for that.He is a doomed child,never realising the horror and misery of his doom.
 An Italian it is that has written the book.Was he conscious,When he wrote it,of the effect wrought upon him,by the climate,the art the society,and the so-called civilization of his own country
 
○not the end!
 
 Hermann Sudermann
  The Undying Past
 〔見返しに〕
 事件が層々累々として續出する所既ニ凡手にあらず。Scene及びSituationも亦之に從つて陸離として變化す。一章既に一章の要點を具し各自の情趣を具ふ(嚴刻に云へば情趣皆強烈なるが爲め感興を惹く事深きと共に幾分か作爲の痕を留む)。而して此累々たるものが相互に關連し援護して全篇を構成して中心たる趣向の大發展を促がし来る。同時に篇中の性格は境に應じ景に觸れて變化し抽開し相倚り相待つて集散離合して全精神の面目を根底の深奥なる極所より發揮し來る。觀察の精密なる、剖《原》解の綿密なる、活躍面の多樣なる複雜なる、しかも錯綜のうちに整然として一絲を亂さずして全体を瞭然たらしむる。驚嘆の外なし。大作なり、又傑作なり
 豐富なる想像と豐富なる理性を具する事かくの如きは羨むべし。萬事に貧弱なる吾等は之を手本とすべし。
 Uncle某最初に出でゝ遂に埋没し去る。是遂ニLeoの爲にuncleヲ借ルモノカ、
 Felicitasノ性格ハ分化綜合ノ極度(今日の所)に達したるmodel chalacterナリ。生涯に一度かゝる性格を描くを得ば遺憾なし。題をUndying Pastと云ふ。Felicitasはundying characterナリ
 Meredithと雖モ描いて茲に至る能はず。Felicitasヲcreateシ得る小説家は天才ナリ
 
○此Chaterハ前ノChapterト反照シ前々のChapterト呼應ス按排頗ル可。
○此sceneモ對照アリ面白シ
 
  Dame Care
 〔見返しに〕
 是ハtalentノ作物也Geniusノ作物ニアラズ。(アクヌケ)ノセヌ面白味ヲ有ス。二十代ノ人ノ喜ブモノナリ。英國流ノ趣味ナリ。
 “Undying Past”ノ方遙カニ優レリ
 此篇ハ巧ナレドモ何トナク幼稚ノ感アリ。“Frau Sorge”抔ヲ一貫セシムル所巧ニ似テ非ナリ。
 Paulノ性質ハ半眞半僞ノCreationナリ。アル所ハ大ニ活躍ス。去レドモ何ダカJobノ様ナmisfortuneヲ重ネル所ガイヤニナル。其虚勢《原》的ナル破戒ノ丑松ニ似タリ。何トナク馬鹿ラシクシテウソラシイ。幼稚ノ讀者ハ之ヲ妙ト云フベシ。
 其他ノChracterモ皆人形ニイキヲ吹キ込ンダ様ナモノナリ。
 總體ガ作リモノナリ。然シ作リモノモ是位ナレバマヅ佳ナラン。
 冗長ナルハ矢張(破戒)ト同ジ
 
  Regina
 〔見返しに〕
一 道徳ノ自然ニ抵抗シガタキヲ結末ニ點綴ス。是一篇ノ主意ナリ
二 自然ノ愛ト形式ニ束縛セラレタル愛ヲ對照ス。ReginaトHelene是ナリ。余モ此頃コレニ似タル戀ノ比較ヲ寫サント思ヒツヽアリシニ此篇ヲ見テ先ヲ越セ《原》レタル如キ感アリ。やメ樣カ。やツテ見樣カ。
二《原》 Reginaハ驚クベキoriginalナルcharacterナリ。之ヲcreateシ得ルモノハ天才ナリ
三 BoleslavトReginaノ情ノ濃カニナリ行ク徑路ヲ層々ト順次ニ描寫シ去ル手際ハ慥カニ名手ナリ。順次ノ變化ヲカ樣に叙述シ得ルモノ日本ニ一人モナシ
四 イブセンヲ讀ムトキヨリモ難有キ心持アリ。Ibsenハ未ダセンチメントニナラザル、若シクハ、ナリカケツヽアル哲學ヲ骨子トシテ成ルガ故ナリ。心根ヲ傾ケテ感興シガタキ餘地アルガ故ナリ
五、 一章毎ニ強キ刺激ヲ有スルガ故ニセンセーシ∃ナルニ陷ラントスルコト屡ナリ。去レドモ斯ク刺激ヲ重ネテ自然ト事件ヲ運ビ去ルハ非常ノ苦心ナカルベカラズ
六 Plotハ深ク考ヘテ遺|滲《原》ナク作リ上ゲタルモノナリ
七 最後ノパラグラフハ割愛ヲ可トス
    四十一年四月
 
○此chapterニ凡庸ノ氣アリ。Frau Sorgeヲ讀ムトキノ感ジト同樣也
○〔p.347.11.4-13.鉛筆にて縱横に抹殺しあり〕
 
  Magda
○平凡
○成程平凡ニアラズ
 
  The Joy of Living
 〔見返しに〕
 “Friedensfest”ノあとにこれを讀んだら知らぬ他郷から本國へ歸つた様な心持がした。
 
○姦通ノ哲學
     ――――――――――
 Gerhart Hauptmann
  The Weavers
 〔扉に〕
 タヾweaverトmanufacturerトノ関係ヲ寫セル者トナリ了ル。personalナinterestガ一貫セザル故ナリ。作者モシコヽニ注意ヲ拂ヒシナラバ立派ナル作品タリシヲ得ン。惜ムベシ
 此篇ヲ讀ンデウマク出来テ居ルト思ヒナガラ何ダカ物足ラヌ樣ナ感ガアルノハ全ク是ガ爲ナリ。換言スレバ其源囚ノ大部分ハlast actニ基因スルガ如シ。猶ヨク研究スベシ
 
  The Coming of Peace
 〔見返しに〕
 變なり。
 アマリニtypeヲ離れて、あまりに個性的なる人間多きが故ニ變なり。
 
 Ivan Turgenev
  Rudin
○Rudinニ對スル諸人ノ評アリテ始メテ佳。然ラザレバRハ一個ノidolニナリ了ル。
 冒頭ノRトPigasovノ問答ニテPガ始終ヤリ込メラルヽ所ナゾハ何トナク幼稚ノ感アリ。
 (一)普通ノ人ガアンナ場合ニアヽ迄議論ハセヌ者ナリ
 (二)議論ヲスレバRガ必ズ勝ツ。Pハカタナシナリ。Pハシカク馬鹿ニアラズ
 (三)カウ判然ト勝負ノツク迄議論サセルノハ如何ニモRヲエラクセントノ不自然ナルartト見ユ
 (四)議論ノ勝負ハ此場合ニ左程Rノ人格ヲアゲル方便ナラズ
○佳
○Characterガ互ヲ説明スル方法ハ最モ佳ナリ。カクシテ相互ノ欠點ハ明白トナル。作者ハ此法ヲ解セリ
○此二三頁ヲ讀ンデ余ノ「虞美人草」ガコヽラカラアルhintヲ得タ樣ニ思フ人ガアルカモ知レヌト感ジタ。驚イタ。「虞美人草」ヲカク前ニRudinヲ讀メバヨカツタ。コンナ嫌疑ノ起ラヌ樣ニカイタモノヲ。
 LガRヲ批評スル言葉ハ少ナクトモ宗近サンガ小野サンヲ見ル眼ト同ジデアル
○佳
○此答ハRノ性格ヲ發揮ス
     ――――――――――
 Anton Tchekhoff
  The Black Monk
第三流ノ作ナリ
 
  Sleepyhead
○此所迄カケバモーパサンニナツテ仕舞フ。不賛成ナリ
 
  Ward No.6
 Black Monkナドトハ比較ニナラヌ名作ナリ
     ――――――――――
 Dmitri Merejkowski
  The Depth of the Gods
 〔見返しに〕
(一)話トシテハ少シクincoherentナルコトヲ免カレズ。continuityヲカク。diffuseナリ 不要の章ヲ抜キ去ルベシ
(二)Characterizationトシテハ少シクcrudeナルコトヲ免カレズ。タヾJulianノlatter halfハ描寫シ得テヨシ。(continuous unfoldingアル爲に)
(三)人間ヲカキタルモノトセズHellenismトHebraismトノ爭ヒツヽアリシageヲ描ケル小説トセバ是ニテヨロシ
(四)恐ラクハQuo Vadis以下ノ出来ナリ。然レドモハQuo Vadis以上ノphilosophyナリQuo Vadis以上ノgrand conceptionナリ。Artノ點ヨリ見テSalamboニ劣ルハ勿論ナリ
○good
○此収束ハ不自然ナリ
○good
 
  The Forerunner
 〔扉に〕
(一)前半ハgigantic scaleニ拘ハラズ層々發展の希望アリ。中途ヨリ又diffuseトナリcompactnessヲ失ヒincoherentトナリ了ス。其何ノ爲ナルヤヲ知ラズ。
(二)一篇ヲ貫イテ主ナルstoryハVinciトGiocondaノ話ナラザル可カラズ。而シテ此話ハlast bookノ一部ヲカザルニ過ギズ。可惜。
(三)作者ハVinciノ生涯ヲ描ケリ。生涯中ニ起リタル首尾アル話ヲ描カズ。是小説ト云ハンヨリハ寧ロ傳記ナリ
(四)作者ハVinciノ生涯ヲ描キタランヨリモ當時ノ文藝復興ヲ描ケリ。故ニ傳記ト云ハンヨリハ寧ロrenascenceノpanoramic pictureナリ
 
○cf.p28&p27
 
  Peter and Alexis
 
 〔見返しに〕
(1)Terrible romance
(2)Constructionヨリ云ヘバtrilogy中ノ尤モ卓絶セル者ナリ。中心アリ發展アリ歸着アリ。而シテ悉篇皆organic wholeヲ構成ス
(3)但シTichonノ話ハepisodeトシテ單ニ扁首ニノミ置クベキモノ必ズシモ之ヲ収束スルヲ須ヒズ。Tichonノ話ニ収束ヲツケタルハartisticallyニ不必要ナルノミナラズ。肝要ナル中心話頭ヲ擦過シテ徒ラニ強弩ノ末勢ヲ人ニ誇ルノ愚ヲ敢テセルモノナリ。一ノ膳モ二ノ膳モ順序ヨク滿足ニ馳走セルアトニ、カケ離レタル平凡ノ三ノ膳ヲ供スルガ如シ
 尤モ著者ノ宗教的主義ヨリ云ヘバ Tichonノvisionヲ以テ局ヲ結ブヲ以テ大團圓ト稱シ得ベキガ如シ。但此場合ニ此終局ガconstructionトシテノartヲ阻礙スルハ明カナリ
 PeterトAlexisヲ描ケルトシカ思ハレヌ小説ノ局ヲ結ブニ、ChristトAntichristヲ對照シテ成レル小説ニシテ始メテ首肯シ得ベキ結末ヲ附シタルガ故ニartisticナラズト云フナリ
 Artノ見解ヨリスレバ Afrossiniaノ結末ヲツケヌハ缺點也
(4)必竟ズルニgreat novelナリ。
     ――――――――――
 Maxim Gorky
  Theree of Them
 〔見返しに〕
○末段ノ一解イブセンニ似タリ
○多數ノ人物ノ徃來錯綜ス。而シテ彼等ノ利害得失モ亦徃來錯綜ス。是丈ノモノヲ作ルニハ頭脳ガ要ル。哲學ガ要ル。觀察ガ要ル。平凡ニアラズ。庸劣ニアラズ。
○寫實ナリ、而シテ又芝居ナリ。此二面ヲ兼有スル所ニ長短ヲ併セ得タリ。
 
 Henrik Ibsen
  The Pillars of Soeiety
○照應
○A bad man cannot be a pillar of society−this is nonsense Mr.Ibsen! Worm-eaten decayed wood crumbles−pillars are not made of sand−
○社會ノ爲抔云フ人間如斯耳
○Well done Mr.Ibsen−
○True,indeed−
 
  Ghosts
○Ghosts!
○Artfnl
○Gos.those whose deeds are evil.
 
  An Enemy of Society
○Splendid!
 
〔“The Pillars of Society”の裏返しに〕
 −妙ナ女ナリ
  Gabler
  Regina――Ghosts
  Dina ――P.of Society
  Mrs Alving−コンナprogressiveナ女ハナイ
       \母トシテハ日本ニモアル
        妻トシテモ    アル
 
  The Master Builder
 〔扉に〕
 全クSymbolicナリ
 Hildaノ如キ少女ヲcreateスル想像ハトニカク。之ヲ活動シテ人間ラシクスル手際ハ感服ナリ。
 Master Builderノmadnessモ然り、
 百尺竿頭。一歩ヲ進ムレバ落ツ。進メザレバ元ノ杢阿彌ナリ。速カニ道ヘ。
 Hilda聲ニ應ジテ曰ク一歩ヲ進メテ速カニ落チ來レ。頭骨粉摧。
 
○Borkman,first Act.pp.49,50
 
  Little Eyolf
 〔見返しに〕
 アマリ面白カラズ。コレ丈ノideaガアレバモツトウマク書イテ見セル
 
  When We Dead Awaken
○GoncourtノLa Faustin
○BorkmanノElia Rentheimヲ見ヨ
○Master Builder
 
  V.Hugo:William Shakespeare
○Hugoハ自分ノ言フテ居ルコトヲ解スルヤ否や
○Hugoノ文ハエラサウで少しも判然しない
○名著の公衆を動かす力???
 
  J.Dennis:The Age Of Pope
○Pope訴ヲ恐レテ策ヲ講ズ。ポープハイやナ奴ナリ
 
  Thomas De Quince:Pope
○cf.De Quincey's another article on Pope
 
  J.Morley:Voltaire
○I shall rather draw back than press forward in that climacterie.
 
  F.Brunetiére:Honoré de Baizac
○モデル論頻ナル今日面白キ事實也
○何故に題目ヲ無視シ得ルカヲ説カズ。余ノ文學論ノ方根本ニ觸レタリ。自然派ヲ説クハ甚佳。然レド|ル《原》自然派ト浪漫派ノ區別ヲ説クニ表現取材の兩面ニワタラズ且其何故ニ雙方共ニartトシテ成立シ得ルカヲ論ゼズ。故ニ徹底セズ
○賛成
 
  Tourguéneff and His French Circle
○Yes!
○foreign language
 
  Essays of William Hazlitt
○Genius reaches involuntarily his desired result:he is unconscious of the merits of his work
○What he says about America is partly applied to Japan of today
○cf.Schopenhauer
 
  Essays by Sainte=Beuve
○It is the same in one nation when compared with another.It is different among in dividuals in one nation.EIse a history or psychology of a people would be impossible
○?
○“Pilgrim's Progress”is placed much higher than“Hudibras”even in England
○Evanescent ideas,coming no one knows whence,and golng no one knows whither.
 Coleridge,S KublaKhan
○his favourable opinion about Pope
○often quoted
 
B.Wendell:The Temper of the Seventeenth Century in English Literature
○Doune! Doune
○Miltonノgreatnessト他ノgreatnessノ差 此議論ハ當レルガ如クニシテ實ハ妙ナ議論ナリ
  H.A Beers:A History of English Romanticism in the Eighteenth Century
○特性 敷句善悉せり
 
  H.A Beers:A History of sm in the Nineteenth Century
○此ニハ比較スベキ性質ノ者ニアラズ故ニ軒  スベカラズ著者ノ意ノ那邊ニアルカヲ疑フ
 
  L.Stephen:English Literature amd Society in the Eighteemth Century
○? why
○This is true enough but the reatment is not scientific and leaves much tobe said
○日本ノ士流ト一般カ
○The Wits'faults good
○Some of Blake's poems,are,I think,influenced by the Ossian.
 
  W.L.Phelps:The Beginnings of the Romantic Movement
○此譯ハ前卜對照スルニClassical spiritヲ見ルニ最モ便ナリ
○Wordsworthian 然り
○Eediaevalism 然り
○Squire of Dames 此詩ノ結構面白シ
○ミルトンノ影響 是亦グレー式ナラズヤ
○Grayノ影響ト云ハンヨリOssianノ影響ナリ
 
  E.Dowden:The French Revolutuion and English Literature
○此書亦改革派ニ屬ス理ヲ情ノ上ニオク故ナリ
 改|命《原》ハ慣習、傳風、威例、ニ對スル道理ノ反抗ナレバナリ
 
  J.Olipant:Victorian Novelists
○然り御同意
○是モ御同意ナリ
○是ハ大ニ不賛成ナリ
○然リ彼ノ小説ノinfluenceハnegativeニシテpositiveナラズ去レドモ是一種ノ小説ナリ去ルガ故ニツマラヌ小説ト云ヒ難キナリ
○僕モ左様思フ genius程濫用セラルヽ字ハナシgenius程不明瞭ナル字ハナシ
 
  G.White:Outline of the Philosophy of English Literature Part.T.
○Asceticism of the time 佛教ト比較
○有爲轉變 無常迅速
 
  J.Bascom:Philosophy of English Literature
○Formトハ如何ナル者ヲ指ス意カ
○是モ解シガタシ
 
  G.Saintbury:Hitory of Critcism Vol.T.
○These theories as are based on the given facts are genellary narrow and not exhaustive .In appraising them we must always bear in mind this fact that we may give them their due value.
 
  G.Saintsbury:The Later Nineteenth Century
○Yes!
○This attack on Naturalism may serve as the best example of the author's muddy−headedness.So puerile and so allthoritative!
○too harsh!
○This man's criticism has all the conclusions,without any arguments leading to them;and those conclusions almost always harsh and sweeping.This is a man full of matte:yet not endowed with the power of arranging and expressing it,to the reader's as well as to his own satisfaction.
○In a sense,Shakespeare,s characters are as obsolete as Ibsen's are.Saintsbury judges but does not criticise.
○What are morals,mind and speech? Weakin what way?
○Gentleman! What is a gentleman? Who is a gentleman? The most ungentlemanlike English people never tire of harplng on this everlasting string.
 
  H.James:Notes on Novelists
○私は何時もゾラに就て斯う考へてゐた。
 
  G.Brandes:Main Currents in Nineteenth Century Literature Vol.T.Emigrant Literature
○pretty!
○Sickly sentimental
○此女ハ馬鹿ナリ生意氣ナリ不品行ナリ
○佛、獨英文學ノ特性、然ルカ?
○然り
○是佛國ニ限ラヌナリ天下皆然り
○Taineモ亦斯ノ如キ説ヲ述べシヤニ覺ユ果シテ此ノ如キカ、日本人ト比較セバ如何
○是等ヲ文人ノ文ト云フ何ノ事ダカ分ラン、今少シ哲學的ニカクベシ
 
 Vol.U.The Romantic School in Germamy
○Schlegelノ婦人論M.Wollstonecraftト比較セヨ双方トモRousseau反對也
○no nature!
○英國ニ如此詩ナシ是狂人ノ作ナリ
 
  Vol.IV.Naturalism in England
 〔見返しに〕
 面白ク書キコナシタリ。或場所ハ殆ンド一種ノ美文ヲ讀ム感アリ。去レドモ自然主義〔四字右○〕ノ四字ノモトニ此等ノ諸家ヲアツメテ論ジ去リタルハ如何ナル主意ナルカ了解シ難シ。ブランデスの自然主義トハ普通人の思考シ得ザル一種マトマリノツカザル意味ヲ有スルガ故ニ自然主義ト云フハ自然主義ト云ハザルノ自然ナルニ若カズ
 
○カヽル大袈裟ナコトヲ云フ必要ハ毫モナシ
○此思想面白シ
○?
○是ハヨシ
○此anecdoteハ有名ナリ。近頃アル批評家コトサラニ此話ヲ引イテScottノ眞詩人ニアラザルヲ辯ジタリSymonsト思フ
○Emmet! 余ハエメツトノ傳ヲ作ラントス。Emmet!
○帝王ハ古今來カクノ如ク野卑ナル者ナリ。平民ト帝王ト個人トシテ毫モ異ナルナクンバ個人トシテ平民ハ帝王ヲ尊敬スルノ理由アルナシ。况ンや貴族ヲや、况ンや素封家ヲや。但渠レ漫ニ自己ヲ高シトシテ下ニ臨ム。渠等ハ人間ノ根本義ヲ解セザルナリ故ヲ以テ百年ニ一度若クハ五十年ニ一度大打撃ヲウク
○是ハドコヘデモ出ル語ナリ
○小説的ナ旅行ナリ
 
  Vol.V.Young Germany
○Heine's popularity.WFy?
○此比較ヨシ
○36letters
○コンナ女房ハヨシ、アシ、。幸カ不幸カ
○コンナ夫婦ハ珍ラシイ
 
  R.A.Scott=Jpmas:Modernism and Romance
〔扉に〕
 前二三十頁ト最後ノ一章面白シ 中間ニハ無用ノ贅辯多シ
 
○此章ハ何ノ爲カ
○ツマラヌ
 
  E.Gosse:A history of Eighteenth Century Literature
○左様
 
  G.Hunet:Saint Julien I'Hospitalier
○袈裟御前の話に似たり
 
  E.Gosse:French Profiles
○是ヲ事實トスレバ天下英國人ヨリ高尚ナルハナク之ヲ事實ナラズトセバ天下英人ヨリliarナルハナシ。ironyヲ用ヒレバ、英人ハ必ズ其ironyヲ用イタル人ニ背クト。英國國民上ハエドワードヨリ下カツブマンに至つて悉ク相互ニ背キ合ヒタルトキイヅクニ英人ノ存在スルコトアランヤ。英人ハironyアルガ爲ニ存在スル國民ナリ。
 
  O.Heller:Studies in Modern German Literature
○?
○Yes!
○No!
 
  V.M.Crawford:Studies in Foreign Literature
○Is this logical?
 
  A.J.Grant:Greece in the Age of Pericles
○コヽハ日本ト違フナリ
 
  The Holy Bible
○夫婦ノ教で忠孝ノ教ニアラズ
○赤裸々生 赤裸々死
○Oriental
○Orient
○聖賢去我遠
 
  Thomas à Kempis:Of the Imitation of Christ
○Those aphorisms bear a close resemblance to the sayings of ancient Chinese sages.
○This is living truth attained only by intuition,incommunicable to others by words or figures.
○This is rather Buddhistic in idea
○This is the state of mind only attained by Religion
○These are all beautiful gems;I wonder whether Emerso never studied the atlthor
○Conscience moves and virtues change according to time and place.They are not absolute,yet necessary factors in making one's life happy,for they are given.
○是從天命ノ意なり
○These are all contained in Chinese classics.Only we have to change God for Providence
○That's why I am dead
○no struggle?
○These are all good.The question is how far we can carry them out.EIse they are mere words.Even I can compose something like these.
○?What is the meaning of“familiar”?
○Because they are not genuine good
○What if others do not tell?
○quite so
○This is rather too narrow and ascetic
○Franklin,I think,makes the same remarks somewhere in his autobiography.日三省ノ意
○柔能制剛
○So were Buddha and Confucius
○A true man and a good man always despises himself.
○It is only great men that are up to this.Their lives prove it.We small creatures are constantly vexed,irritated and terrified−no peace!
 “Forget thyself”is the best thing we can attain in this world.Self‐consciousness always destroys the charm of every object though worth admiration.
○“Know thyself”is the Greek motto.One who really knows oneself can only forget oneself.
○One of our poets says:−“Have a good conscience and God will defend thee,even if you do not pray”
○This the art of conquering by stooping.Our proverb says:−The weak conquers the strong
○What is glory? It is only happiness,Peace and sweet contentment with one's lot.There is no glory outside ourselves.Look inward,then you shall find glory if thou canst.
○Learning has not much to do with good one can do.Schopenhauler was not a goo dman.Kant was not good enough.Spinoza was great because he acted what he thought.His philosophy of Pantheism influenced the thoughts of Goethe and others in Germany.Because it is poetical.
○Ihave this bad tendency.I hope I have done with it now.
○true!
○good!
○Yes,it is surely a manly thing.
○I am one of those?
○good
○What is the meaning?
○Replace Jesus by Truth and religion becomes philosophy.Truth is abstract:but Jesus is concrete.The former is intellectual,the latter emotional therefore more poetical.
○This protest against sensuousness has been preached so mnch practised so little.Why? because
○Much depends upon the interpretation of Jesus.
○“The love of God”is nothing more than“the love ofman.”If not interpreted in this sense the phrase itself is devoid of any meaning whatever.
○Create spiritual comfor twithin yourself by your own merit.Why ask it of God as a gift? It is only a slave who would do that.
○The conception of an ideal God,perfect and immaculate and the conception of self full of defects necessarily beget humility.Thus humility is the product of an Ideal,not necessarily of the recognition of the actual existence of God.Our actual self is man:Our ideal self is God.
○Self-denial.The doctrine of reninciation was common both in the East and West at this time
○Renunciation again
○This is the concentration of thought in one object
○Ren.
○This is admirable but not in itself:admirable in the eyes of others who receive benefit from him and give injuries in return.The reason why they admire such characters is simply the result of selfishness,Which is innate in man
 
  Essays of Schopenhauer
○Simplicity cf.ToIstoy
○quite so
○Do you like men to be true and genuine?
○Strange I have often experienced this.But whenever I have mentioned it to my friends,they have never been able to understand
○yes
○true!
○very suggestive
○Is this truly acting for the welfare of the future generation?
○No!
○Oh dear me!
 
  R.W.Emerson:Representative Men
○實然實然
○詞句雄拔
○妙々
○善ク分ラズ讀返スなり
 
  W.James:The Varieties of Religious Experience
○Ribotモ亦此功能ヲ述ベタリ
○然り
○conversionヲ受ヌ人ニテモ同様ノnatural goodnessヲ有スルナリ
○Photisms 無盡燈論ニ所謂幻境ナル者カ
○SaintsハIdeal Societyニadaptスルナリ
○Jamesノ解釋、普通ノConsciousnessハ意識ノ一種ナリ
○Buckeノcosmic conciousness 禅者ノ口吻ト似ルコト甚シ
 
  F.Nietzsche:Thus Spake Zarathustra
○cf Shelley“Revolt of Islam”
○He who maketh no secret of himself is the wisest fool.Fool he is because clothing makes him look other than he really is.Wisest he is,because no one can hide himself by clothing.
○Forlove is personal and in woman,s love.She concentrates all the love she is capable of in one object.She has nothing to give towards other things.That's why it is precious to the person who has it
○old stuff in new apparel
○Valuation begins when the importance of a thing as contributing toward the preservation of society and individuals is recognised.What is most valuable to a person is the least valuable when possessed by him.FooIs we are,for we value most those qualities which are least valuable in us.Conscienceis the reflection of others' valulation in us.Befooled by them we have transplanted it in our minds and have called it our own.
○of course
○naturally
○What is this?
○nonsense mere jargon
○Create out of your neighbours an ideal men.Love
 your neighbours;but worship this ideal man.Worship this ideal man and lo! he is a god.Try to be he and you are“Uebermensch.”Bulddha is“Uebermensch,”so is Christ.Nietzsche' s“Uebermensch”is the worst phase of this ideal man
○Solitude is not a crime,it is a punishment.Think why we have formed a society.It is simply to avoid this punishment
○disconnected thoughts strung together without making a whole.
○true
○true too
○This is oriental.Strange to find such an idea in the writirlgs of an European.
○What significance is there in this jargon? All is nonsense
○Our saying is
 “It is dishonour not to die at the right time”
 The question is to find out the right time.Moralists say that it is not one' s life and therefore it is immoral to take away one' s life by oneself.Very well,but our parents gave birth to us without ourconsent.Thus we find no reason why we should feel any obligation toward any body as regards our lives.Our lives are our own and we are perfectly free to kill ourselves the moment we think it is the right time.Consider whether it is right time or not and decide for yourselves
○Try if you can and you will find that you fare the worse for it.Try again you may beat them all.Society is always a creator but you cannot always be one.
○good
○good
○What is an unreasonable world?
○“Love one and pity all”says the woman.
 “Love all and pity thyself”says man and there is Christianity
 “Love all and love thyself too”says man again and ther eis Buddhism
 “Love theyself only”says man again and there is Nietzsche' s“Uebermensch”
○“Surrender thyself and God will save thee”Says the Christian.“Assert thyself and thou shalt save thyself”says the Bllddhist.Thus there is only one Christ on earth and so many Buddhas in the world.Think if thou art made an object of worship or a subject of worship.Choose
○For some to be virtuous means to avoid punishment by society.For others it means to obtain the sanction of conscience.Either materially or materially a reward is the object of“to be virtuous”and are ward is always personal.Know ye Virtuous ones ye are not so unselfish and disinterested as your conceit would have it.
○The free spirits have lived both in deserts and in town.Freer they are,fonder of town
○He who makes law for others must abide by it himself.He who commands others,commands himself withall《sic》
○Men are equal:men are not equal.Start from the former and your each Buddhism and Christianity.Start from the latter you reach Carlyle,Huxley,Nietzsche and many others.
 Worship a woman and you become a milksop
 Worship a God and you become an idolator
 Worship a hero and you become a slave
 Do away with any form of worship and then you will see the truth of equality.
○All of us are lyer《sic》s:of all the lyer《sic》s poets are the greatest.Only they lie in truth.TIlat's the only difference.The sword is made to cut,the dagger to drink blood.They are always thirsty.Men are made to lie.Some lie for their own sake others for others' sake.Third lie without knowing what they lie for.They say we are not madeto speak truth.Well,the razor serves as well the purpose of cutting as that of shaving.
○All women are silly:most men are silly too.Of all men poets are the most feminine,so they are the silliest among men.They create their own world and live init,and think that it is an actual and existing world.Sometimes they hit the mark by random shafts and are proud of their intuition.They are vaind reamers.What is worse,they want to make realities of their dreams.
○good
○yes
○Greatest nonsense ever uttered by human beings
○Good,but how could you effect it.Try if you can.The world is not made for you.You are a monster,−an one eyed monster like a Cyclop.
○Mere willing often imprison us in stead of delivering
○Every willer becomes a prisoner too!
○Punishment is preventive,not retributive
○‘It was’is a fragment:but this fragment begets‘it will be’Apart from‘it was’there will be no‘it will be.’Without‘it will be,’you can never identify‘Thus I would have it’with‘thus I could have it’and therefore will can never become the liberator.
○Why are you favourable and sympathetic towards a modest person? because he does not encroach upon your interests.You like modesty because you are selfish.Analyze your mind and you will get this truth at the bottom of it.
○foolish rhapsody
○Man has conquered every animal not by his courage,but by his tricks.For man is the most cunning of all animals.
○Submission is prudence as well as cowardice.For it is the safest way,as it pleases others most.It is a woman's virtue.Rather die a man than live a woman.They would sometime shave us submit to them by some indirect means−by playlng upon us.This is worse than the frank demand for submission by force.They are more cowardly than the submissive ones.Spit upon them in order that they might know they are no better than dogs.
○You might as well say:‘Innocent of its greatness is everything great.’
○good
○Love unto oneself is primary;that unto neighbours is secondary.Mature reflection will show it to every one;science will prove it to every student.Confusion arises when the secondary love becomes the primary by custom and tradition.And once amalgamation takes place one cannot sift them and distinguish one from the other.The only practical question is to love oneself with wisdom.And it comes to the same thing as‘loving one's neighbours’in most cases.
○good.
 We are all our own creators.What we have created has significance for us only but not for others.What they have created has meaning and value for others only but not for us.Creation is not difficult but it is diffiult to let our creation have the same significance for others as it has for us.Here is the struggle;here is life and here is death.Those who have no creative faculty lie in mud contented with any creation.Fortunate for heroes that there are so many pigs in the world.
○The happiest man in the world is he for whom necessity becomes freedom itself.This is the practical end for which so many Zen priests and many confucian students have worked.And they have reached far higher stage of perfection than any ever attained by occidental students.Christians have never dreamt that there is such a freedom.It is the religion for many,for the weak,for the woman and for the slavish and helpless.And they call it the very religion of the most civilized nations! Their conceit seems to know no bounds.Let them preach humbleness to themselves every morning and they will know what humbleness is in a hundred years' time.
○There is deep sense in this.
 Christian sense of‘Redemption’is nonsense itself.
○good
○One third of what they call good and evil is nothing but illusion but the rest is not
○All is fate and all is freedom at the same time.Great men attain this.But there have not been uch great men in Christian countries.
○The holiness of such words rests simply on the fact that they are against truth.Monsters are holy sometimes because they are untruth.
 Break the old tables and then you will have new tables.See whether they bebette rthan th eold.
○There is no redemption in the true sense of the word.What we have done,We have done and what we have said,We have said.How can we redeem it? It is Christian effeminacy that preach《sic》 this redemption.The redemption not through ourselves but through an idoI whose name is Christ.
○Wherefore die? Even death itself is vanity
○The most unworthy enemy of all is one who attacks us in an underhand manner,giving us no handle to deal with.He is truly despicable for he dodges the responsibility of what he has done.It is not so much the sense of pain caused by his stings as that of loathsomeness which we feel at the sight of filth,that we hate him.And when his stings are of no effect,that feeling of contempt and disgust remains all the same.The world contains such mean creatures and they are too many.
I have seen many in Japan,and I have met more in England.I wonder where is the pride of these countries? They have no sense of honour.Their foreheads are branded with the mark of‘meanness.’Religion? Where is your religion? you have no sense of what moral shame is.I despise you,I pity you,you religious people!
○true
○good.quite so
○There is fine poetry in these seven pieces.
○Go to England to see what is meant by good manners.They say this is nice,that is nice.Everything seems to them nice enough.Strange to say,however,it is those who use the word most that do not know its meaning.Go along dirty streets of London,and you may pick up any quantity of‘nice.’Thereis no place where‘nice’is sold at such a cheap rate and in such abundance.And what for? merely to please others! They do not know a person may be offended by being called nice by those who do not know what‘Lnice’is.
○True!
○good!
○If the loving one loves beyond reward and retaliation,the hating one hates beyond revenge and punishment.Their love and hatred are beyond the control of others sometimes of themselves,above all,of God.This abnormal phenomenon appears when−
○Look within yourself and you will find two Gods.God of love and God of anger.Project the former from yourself and you have Christian God.Project the latter and you have Nemesis.Both are shadows for they have no real existence without you.Both are idoIs as they are objectified by you.God of Love becomes sometimes superannuated;that of anger sometimes assumes not only the shape of beasts but of their ferocious characters.Both develop and degenerate as they are only the shadows cast by ourselves wjich vary from time to time.
○What is best always be longs to the strongest
○In the presence of God,We are equal,except that God is not present.In the presence of the mob we are not equal.
○The nation who has not God has no ideal:the natio nwho has an ideal may have no God
○Yes petty folk have become master.But petty folk looked in one light,is the great folk looked in another light,as woman who is the weaker vessel in a sense,is the stronger in another.The struggle for ascendency is by the greatness we possess,not by the pettiness we are endowed with.
○Much depends upon the definition of evil
○Everybody pretends to be virtuous beyond his ability−especially woman
○half-truth
○The innocent are liked,not because they are innocent but because they are free from artificialness which means a very dangerous thing sometimes.FooIs are companionable in so far as they are innocent.Women are uncompanionable,as they are always conscious of what they are doing and saying.They are never innocent,very often too artificial.Confucius said many centuries ago:“Don' t give shelter to women and small men.”Let Europeans read this and reflect.I wonder Whether they will admit this truth.For all they are slaves of women;they do every thing for the sake of silly women,wicked women and conceited women,and spare no pains to spoil them.
 
  R.Eucken:The Meaning and Value of Life
○コレガ分つてゐれば何にもグヅ/\云フ必要ハナイジヤナイカ
○Why?
○Is it so?
○a great deal
○一体此人ノLifeニa meaningヲ與ヘルト云フ。a meaningといふ語が分らない。
○Sophistry
○Independentト云フ而モin manト云フ。然ラバ如何ナルspiritual lifeカト云ヘバマダ説明セズ、何ダカ要領ヲ得ルニ苦シム
○? 例デモ擧ゲテ呉レ。漠々トシテ困ル
○ソレダカラ?
○如何ナルspontaneityモcausal necessityノone formナラズヤ
○此双方ヲ同様ト見做ス事モ出来ルデハナイカ。サウスレパ同ジ物ニ違ツタ名ヲ付ケテ喜ブト同ジ事ニ歸着スル
○Independentトハphenomenaカラカ?natureカラカ?everydaylifeカラカ?manカラカ?
○Lifeノmeaningト云フコトハ(1)自分ノwillヲfreely exerciseスルコト(2)此willガ宇宙ノ建設ニ與ツテ力《原》ルコトニ歸着スルニ似タリ。是ハ當然ニテ陳腐ナリ。只問題ハ此兩者ガドノ點迄行ケルカニアリ。著者モシabsolutelyニト云フ意ナラバfactヲneglect セルモノナリ。 ○例 理窟ヂヤ不可ないと云ふに過ぎず。理窟はresultantノanalysisデアル。夫デ人間ヲ活躍行動セシムルタメニアラズ。當リ前ヂヤナイカ
○何ヲサスノカ
○concreteデナイカラ明瞭でない
 
  H.Bergson:Time and free Will
 〔扉に〕
 文學書ノ面白イモノヲ讀ンデ美シイ感ジノスルノハ珍ラシクナイガ哲理科學ノ書ヲ讀ンデ美クシイト思フノハ殆ンドナイ。此書ハ此殆ンドナイモノヽウチノ一ツデアル。第二篇ノ時間空間論ヲ讀ンダ時余ハ眞ニ美クシイ論文ダト思ツタ
○余ハ常にシカ考ヘ居タリ、ケレドモ斯ウシステムヲ立テ、遠イ處カラ出立シ此所ヘ落チテ來ヤウトハ思ハザリシ
 
  G.Santayana:The Life of Reason
○?
○此人モimaginationノfacultyヲ獨立サセテartヲ説ク。然シimaginationヲ説明セズ。説明シテモ頗る曖昧ナリ
 
  J.B.Crozier:History of Intellectural Developmemt Vol.T
○愚論ナリ
○so?
○? 輕卒の論
○Does this reasoning hold good if it is known that disciples of Buddhism look up to Buddha as their ideal just as Christians to Christ
○and Buddhism?
○So does Buddhism
○This chapter is the best specimen of sophistry and inaccurate reasonimg
 lt is not Buddhism that has promoted science but neither can it be said of Christianity that it has helped in any way the advancement of science.On the contrary history shows that it has been a great obstacle to the evolution of it.
 If they at present utilise the result of science for the welfare of people,Why should not the Buddhis?
○against evolution
○我々ハ公等ノ生活スル耶蘇教國コソ權利義務一點張ノ國ト思ツテ居ルヨ
○道コは發展ノ中心ノ一 此ページの説は余と同じ考也
○是モ尤ナレドモ論ジ方ガ逆也 GodノConceptionハethical and intellectual dexelopmentニdependスト説クベシ 其故ハGod ハ人間ノ理想をprojectセル者ナレバナリ 且moral codeノミニテGodノConcept.ヲ判ズルハ間違ヘリ intellectual sideヲ見ネバナラヌ
○SchopenhauerノMetaphysics of Love參照
○現今宗教家の愚昧 賛成!
○耶蘇ノ宗教ノ融通ノキク處
○此點デハ耶蘇教ノ牧師ナドヨリ禅家ノ坊サンノ方ガ遙カニ上デスヨ
○佛教ダツテ左樣ダ
○左樣?
○ソンナ者ヂヤナイヨ
○ナゼソンナコトガ言ヘルカ
○耶蘇ハカクノ如キ忘《原》想家カ
○君ハresurrectiOnト云ヒascensionト云ヒ miraclesト云ヒ毫モ之ヲ怪シマヌ樣子デアルガ實際信じテ居ルノカネ
○清淨ナル人ニシテ死ヲ免カル此何デモナシ
 清淨ナル人ニシテ他ノ罪業ヲ滅スル爲ニ好ンデ死ニ就クコレ世道ニ大關係アリ
 此段ノlogicノ面白キヲ見ヨ
○ChistianityトRoman political interestsノ衝突 日本ト比較セヨ
○愚論ナリ 何ノ事カ分ラン
 
  Vol.V.
○好喩
○遺徳ノ變移ヲ見ヨ note down
○英國ニliberty,equality,fraternityノ主義ノ入ラザル所以 Suggestivityノ?《原》參考
○此説不徹底
○否々左樣ハ限ラズ
○大勢進歩ノ原則 是單ニ人間ノ私慾ナル動物ナルヲ証スルノミ
○Anglo-Saxon Raceノ義務、難有キ仕合セナリ
○御尤ナリ然シCasteハchanceヲ防グナリ
○英國人ノCharacterニ就テ有スルIdeal參考セヨ
○Monotheistic Bibleハ融通ガキカヌナリ 例ハ前ノページヲ見ヨ
○前ト衝突シテ居ルヨ
○一國一時ニtrueデモuniversalニtrueナラズ善ク考フベシ
○日本教育ノ現況ト同ジ
 
  J.B.Crozier:Civilization and Progress
○?
○文學的ノ叙法ナリ、讀過ノ際頗ル興味アリ
○歴史ハ變遷ヲ教フト 勿論ノ事ヂヤ
○余ニ多少ノ議論アリ
○Instituonハsame effectsヲ有スト 是ハ疑モナクhuman mindヲ古今同一ト見テノ議論ナリ human mindガsameナリ(古今東西)トハ証明シ得ルカ
○Historyハtrue idealノ標本ヲ與ヘズ 余モ固ヨリ然リト思フ歴史中ノ偉人ト云フ物ノ半以上ハ性ノ知レヌ物ナリ
○essential?−What is essential? and accidental?
○否pastトprsentトcoincideスルガ爲ナリexperiencesハpastトpresentトヲ含ムナリ何故ニpresentヲ主トスルカト云ハヾ過去ハ信ジ難ケレバナリト云フ外ノ道理アル可ラズ著者ノ説ノ如キハ好ンデ經驗ノ範圍ヲ狹ムル者ナリ
○何故歴史ノ功ヲ茲ニ限ルカ 頗ル不論理ナリ
○コハ歴史ノドノ方面ニモ應用シ得ベキニアラズヤ
○ethnographyヲ見ヨ君ガ信ジ得ヌ事實續々アラハレ來ルベシ此時ニ當ツテ君ノ態度如何
○今日起リ得ヌコトガ過去ニ起リシハ人性ノ變遷ニアラズヤ
○Miracleガ過去ニ起リシトmiracleノbeliefガ過去ニ起リシトハ別物ナリ此beliefガ過去ニ起リシハ君モ疑ハザル可シ之ヲ疑ハズンバ過去ノ歴史ハ矢張吾人ノ研究ニ材料ヲ給スルナリ
○現在ノ智識ニテ過去ノ一時代ヲ標準トスル場合ハ矢張リ過去ガ標準ナリ、此邊ニ至ツテ此人ノ歴史ト云フハ科學史又ハ智識發達歴史ト同一物ナルやノ感アリ、而〔モ〕此等ノ例証ハ毫モ他ノ諸家ノ歴史的研究ノ社會學若クハ開化史ヲ打破スルニ足ラザルナリ
○此弊ハアリ然シmetaphysicianニ尤モ多カラン又君ノ云フinsight連ニ尤モ多カラン
○此hypothesisニ在ツテ勿論ノコトナリ凡テノhypothesisハprobabilityナレバナリ
○No! 吾人ノinsightトハexperienceノgeneralisationナリpastモpresentモ此experience中ノ者ナリ 且pastトpresentトイヅレノ處ニテ判然タル區別ヲツケ得ルカ吾人ノ經驗智識ハ皆pastナリ
○賛成
○Uniformity of the laws of N. ハnecessary certaintyナラザルハ勿論ナリ、beliefハ何故ニnecessary certaintyナルカ
○勿論ナリ
○然リ
○because 此because頗ル薄弱ナリ余云フcertaintyトハexperienceノsanctionヲ得タル者ヲ云フ之ヲcertainニアラズト云フ人ハ他ニcertainナル者アルヲ主張スル權利ナキナリexperienceヲ離レテcertaintyアルコトヲ云フハ視覺ヲ離レテ色アリト主張スルガ如シ色ハsightノfunctionナルヲ忘レタルナリ
○コヲrevelationトシ得ベキカ
○問題ハ此beliefガ成立スルカ否カニアリ
○此邊ハ余ノ説ト異ナルナシ
○然リ余モ同意見ナリ
○Self-interest the basis然リ余モ左樣思フ
○何故ニ開化スルカ
○何故此conscienceノ出處ヲ説カザル 余ニ一ノ説アリ
○然リ 此困難ヲ如何ニ解釋スルカ
○然リ 同時ニorderモnatureノendナルヲ如何ニセン
○是外國ノ例ナリ東洋ノ例ニアラズ
○君ノ所謂laws of honorモdutyナラズヤ
○dutyノideaハmoveスルヲ許ス故ニ斯樣ナコトナシ
○此篇ハ少々感服仕ラズliteraryニテscientificナラズ
○higer animalsトsocietyノ差 社會モfixedナリ(其時々ニ)animal structureモ時ヲ經レバ變化スルニアラズヤ
○cell變化セバ動物モ變化スベシ如何
○コハpossibilityヲ云フノミ實際は職業|々《原》ニテ開化ノ進ム程functionガ定マルナリ只free choiceアルカナキカノ差ノミ
○至極ノ御議論ナリ
○然リ
○英雄ノ變化 然リ余モ御同説ナリ
○然リ
○謹デ御説ヲ承ハルベク候
○harmonyトハ何ゾ
○余ハ之ヲprojectionノ結果卜云フbeliefニアラズ便宜上ノ假定ナリ
○余ハ之ヲinferenceト云フ勿論hypothetical inferenceナリ
○m.v.matterノsuperiorityトハ何ノ意タルヲ解セズheroism云々ハ過去ノ經驗ノvaluationニ過ギズ
○No.It is a fact and as such requires no explanation or i sbeyond explanation
○Causeトハphenomenaニ付テ云フコトナリ此意義ヲ擴大シテ現象以外ニcauseアリト云ヘバワカラヌ世界ニcauseナル字ヲ運ビ去ルナリ用ウベカラザル處ヘcauseノideaヲ持込ムナリ
 Phenomena界ニ住スル人間ガPhenomena以外ノ事ヲ彼是云フハ水中ニアル魚ガ太氣中ノコトヲ論ズルガ如シ論ズベキ權能ナキナリ、若シhypothesisナリトセバ入ラザルhypothesisナリ若シ宗教心ノ爲ト云ハヾ吾人ハexperienceノ許サヾル處ニアル者ヲ律シ安慰ヲ得ルノ勇氣ナキ者ナリト斷ズ、幻《原》象外ニ實体アリト云フハcorrelativeヲ製造セルニ過ギズ○諸家ノattributes of God皆吾人ノpersonalityヲ押付タルニ過ギズ
○是既ニ自己willヲprojectセル者ナリ、説明スベカラザル者ヲ捉ヘテ己レノ意志ヲ付着シテ説明シ得タリトスルナリ
○是ヲharmonyト云フハselfヲprojectシテ他ヲinterpretスル上ニ於テharmonyナリ去レドモ此方法ニテinterpretス可ラザル處ニ此方法ヲ應用スルニ於テ何ノharmonyカ之レ有ン
○前ヲbelieveスルハヨク《原》夫故ニDeityヲbelieveスルトハ申サレヌナリ
○コンナlogicガ何處カラクル
○此論頗ル惡シ
○ソレハ「コント」ノ隨意デアル
○ソンナBeautyガアル者カ
○コレCarlyleト同説ナラズヤ愚論ノミ
○ツマラヌ論ナリ
○何ノ事ダカ分ラヌ
○コンナ結論ハドコカラ出ル
○論得ヨシ
○Religion a matter of Emotion?
○余モ同説
○然り
○EmersonノCompensationヲcf.セヨ
○Religionハstern realityノcompesantionトbalanceニナレバ結構ナリ ナリ得ベキヤ否ヤ
○futureノassuranceヲ得ンガ爲ト云ヘバ方便ナリ 理義ノ辯ニアラズ ○カヽル信仰ヲDivine Willニオクハ愚ナリ 己レノ力ニテ成就スベキナリ
○GroupsトIndividualsヲ支配スルprinciple異ナリト 勿論ナリ
○御尤ナリ
○英國人ニシテカヽルコトヲ云フ頗フ《原》奇異ノ思アリ
○是ハ然ルベシ
○moralityハ宗教ニdependスルカ
○然リ
○成程
○左樣ナ事ガ出來ルカ
○何故之ヲ説明セザル
 
 〔裏見返しの裏に〕
〔表、略〕
○コハHegelノ説ナラズヤ
 
  J.M.Baldwin:Social and Ethical Interpretations in Mental Development
○All That Mr.Kidd attempts to bring forward hinges on the notion of“rational.”He has never tried to define and explain what“rational”is.Hence this objection and it is a good one.
○コンナ時ガアツタカネ
○and not in A?
○?
 
  H.Sidgwick:The Methods of Ethics
○アル程度迄ハWillハfreeナリアル程度ヲ超ユレバfreeナラズSidgwickノ此説眞ナリ日常ノ経験之ヲ証ス吾人ハ又mindノevolutionヨリSeientificallyニ之ヲ証明スルヲ得ベシ
○tasteノ上ニテgoodトpleasantトヲ分ツハ何ニテ分ツヤ、美的判断ハpleasureヲ閑却スル能ハザルニアラズヤ
○goodトpleasureノ比較 此説如何
○此subjectiveニ考ヘタルgoodトobjective goodノ合セザルノミ何ノ議論ヲ要セン
○qualityノ異ナル者ニlessトカmoreトカ云ヒ得ルカ?(二種ノ意味ニ於テノ外)
○此説誤マレリ
○然ルカ
○此事實ハpsychologicallyニモツトヨク説明ガ出來ル
○yes!
○Dutyハ吾人ノ利ナリトノ説ハ如何
 
  J.H.Muirhead:The Elements of Ethics
○賛成ナレドモ御説未ダ明瞭ナラズ
○Metaphysicsナル者ガ成立シ得ベキカ
○コンナコトハ承知ガ出來ヌ
○コレハ君ノdefinitionトスレバイヽ昔カラキマツタ者デハナイ
○“Oguht”ニappealスルトハconvinceスル意ナル可シpractiseセシムル意ナラバ余ハ其空論タルヲアヤブム
○議論上差支ナシ 何故highest Selfヲ定メザル
○Representative Menニアリシト思フ
○何故goodヲdefineセザルヤ
○マダ説明シテナイ
○Given? Yes but without consent! ツマラヌ議論哉
○何故Moral and Intellectualト分ツカ 便宜ト云ハヾヨシphilosophicalト云ハバ誤テリ
○formトesSenceトハ同一視シ得ズprinciple同ジト云フベキナリ
○頗ルマヅイ議論ナリwithinトカwithoutトカ何ヲ云フカ
○是モワカラヌ議論ナリ
 
 〔裏見返しに〕
 New factors−new Ethics9
 Modern time,antitheses
         Difference of degree
          Suggestion at this stage impossible
Japan  Europe
      Difference of direction
Assimilation taking place
――Law of the conquest of the stronger
――Selective prlnciple choose F F=European.
Doubt of Sophist−日本トノ比較
 
Athensト日本ト異ナル所
 
Theoretical interest−Intellectual necessity
Stimuli−data of contradiction         reflectionヲ生ズ
next generation 
          學者兼窮踐實行者
          學者、A″ヲ行フニ躊躇セン又言行背馳セン
 其generationノdisposalニアルhighest intellectual resultヲ以テhighestナラザレバmoralナラズ
 甲  乙
  甲ノactionハ乙ニ對シテmoralナリ
  〃    ハ乙以外ニunmoralナリ
  〃    ハ己ニ對シテimmoralナリ
    矛盾 乙ノpleasureヲ目的トス
       乙ノfutureヲ目的トス
       etc
 
  E.Pearson:The Ethic of Freethought
○What are individuals,What is the universe? What the law infinite?
○I was ever of this opinion;but I left it off as I could not prove it.
○no wonder after reading your Grammar of Science this lecture is so futile
○Sollen=Wollen?
○What is the meaning of the word?
○This is Eng.marriage
○no!
 
  E.Pearson:The Grammar of Science
○You leave one important factor out of consideration.Your statement is only partially true.
○Your reasoning is not quite bad but not well driven at.I hope I shall be able to state the relation between science and literature with more lucidity in my work.
○Nothing can be more true than this argument on the external universe,I have been fostering in me just the same opinion for thesemonths.
○good
 
  C.Read:Natural and Social Morals
 此書を讀んで一〇〇頁位に至り不得已中絶。何等の得る所なき故なり。
 
○Why unity? 他がcon.ヲ有スル事ガ自他ノunityヲproveシ得ルカ。其前ニ自他ノcon.ハ同一体デアルト云フコトヲ証明セザル可ラズ
 
  B.Kidd:Social Evolution
○Poor souls!
○What reasoning is this?
○look at
○是ハゑたヲ輕蔑スルト同様也natuarl selectionニアラズracial prejudiceナリ
○何ゾ横暴ノ甚しき 之ヲ自然ノ結果ト云フハ愚論ナリ
○其説ヲ聞カン
○斯ク云へばとて社會主義ヲ撼かすには足らぬ
○Rational basisニEthicsヲ置ク能ハズンバRational B.Religionヲ置き難し 是僻論ナリ
○野蠻人ノ宗教モ此主義ニアテハマルカ
○Supernatural sanctiOnハアラン然シ此s.n.sanctiOnガ必ズ其societyノprogressニ必要ナルsocial actionヲsanctionスル者カ然ラザレバproofニハナラヌ
○Religion of Humanityガ何故Religionナラザルカ 君ノ定義ニ適ハザルノミ、Religionナラズト云フヨリ「余ハReligionト思ハズ」トカクベシ
○Religionハ社會ト共ニ存シ滅スルコトナシsocietyヲgrowスルfirst principleナレバナリIndividual interestガ勝テバ社會ハ退ク、此ヲsocial interestニsubordinateスレバrationalナラズ、故ニultrarational sanctionニテsocietyヲ維持ス、此宗教ナリ
○C.no product of Reason.――Reasonガ働カヌト云フハ如何ナル意カ
○日本ニ似タリ
○This movement intellectual?
○This is not an intelectual movement too.
○What reason have you to reject the idea,if it does not exist at present?
○是ハ吾輩ノ説ト同ジ
○吾年来考ヘタル問題ナリ
○此位ナ議論デハ証據ニナランデハアリマセンカ
○GladstOneナンテ云フ難有屋ノ云フ説ガ何デ証據ニナル者カ
○貧乏子澤山
○妙喩
 
  B.Kidd:Principles of Western CivilizatiOn
○當然デハナイカ
○Infinite futureトハ何ゾヤ
○此男Futureニ付テEvolutionノコトヲ云々スレドモ必竟如何ナル發明ナリヤ如斯多クノ紙數ヲ費ヤシテ述ベズトモ知レキツタコトナリpast:preSentト云フformulaアレバpresent:fut.ナルformulaハ其内ニ含マレ居ルニアラズヤ
○presentヨリFutureヲevolveスルノミ、ソレ故ニ、Futureガlarger importanceト云フ結論ヲナシ得ルカ
○Presentニflourishスル人民ノconditionハFutureニfavorableナリトノ意カ、ワカラヌ
 總体此人ノ文章ハdiffuseニテ要領ヲ得ズ
○過去ガ現在ヲ生ジタリトハ一間題ナリ之ニ聯帶シテ現在ハ未來ヲ生ズト云ヒ得ベシ然シ未來ガ現在ヨリモ大切ナリ重要ナリトハ別問題ナリ著者ハ之ヲ混同シ居ラザルカ、ヨシ自然|陶《原》汰ニテ現在ノ利害ガ冥々ノ裡ニ未來ノ犠牲トナリツヽアルトスルモソレガ爲ニ重要不重要ノ問題ハ解釋セラレザルナリ、但シ重要トハワレカラ之ヲ定ムルノ意ニアラズシテ之ヲ輕視セントスルモ自然ノ進行之ヲ輕視スルヲ許サズトノ意カ 然ラバ可ナリ
○カヽルコトヲ大意見ノ如ク述立ルコト甚其意ヲ得ザルコトナリ
○如何ニ日本及東洋ト異ナルカヲ見ヨ西洋ハself《-interest》ガ主ナリ東洋ハ他《-duty》ガ主ナリ
○余ノ疑ヒシハコヽニアリ、余ノ未來ヲ何故ニ重要ナリト言フカヲ怪シ〔ミ〕シモコヽニアリ
○君ノ説ハ何故ニSpencerヨリ正シキカ
○カヽル説明ハ詳細ナル論証ヲ要ス
○是丈デハ人ヲconvinceスルニ足ラヌデハナイカ
○何ゾ冗漫ナル 簡單々々
○何故ニinherent necessityト云フカ
○何返同ジ事ヲ繰リ返スニヤ
○何故?
○君ハヨク此字ヲ使用スルガ何故カヲ説明セヌ
○頗ル曖昧ナリ シツカリ説明スベシ
○此人ノカキカタ頗ルbombasticナリ然モ要領ヲ得ズ同ジformulaヲ百遍モ二百遍モ繰返スナリ讀者ハ甚ダ迷惑ナリ
○君ノ云フ所ハ此一字ニ外ナラズ
○此人ノカイタ者ナンカ何ニモナラヌ ツマラナイ觀察バカリシテ居ル
○然り
○通篇放語多クシテ切實ナラズ論旨|※[病垂/尨]《原》大ニシテ要領ヲ欠ク同一ノ形式ヲ繰返スノミニテ徹底セル處一カ所モナシ、但感心ナルハ著者ノ述作ノ上ニ骨ヲ折リタル事ナリ若夫彼ノ得意氣ニ振廻ス形式ノ如キハ常識アル者ノ知ル處タヾ斯ノ如クヨソ行ノ衣服ヲツケテ人ノ前ニアラハスノ術ヲ知ラザルノミ
 
  G.Le Bon:The Psychology of Socialism
○of course!
○Destinies of Japan and China What sweeping argument are these!
○Of course,Think a little and find out its cause.
○What sorts of barbarians?
○cf.Crozier
○Yes!
 
  L.F.Ward:Dynamic Sociology Vol.T
 〔見返しに〕
○斯樣に門構の廣く玄關の立派な本は滅多になし。
○著者自身の廣告に釣られて段〔々〕奧の方へ這入つて見ると、奧行は存外淺いものである
○前置はえらいが、いざと云ふ場合になると大抵は中途半端で已めて仕舞ふ。何處といつて肝心な處に徹底した處は少しもない。賣藥の廣告と同じく飲んでちつとも効目がなく見て大變えらさうである。
○よくこんなに材料をならべたと思ふ。さうしてよく是丈の事を何遍々々も重複して平氣でゐられると思ふ。普通の人が是丈の事を云ふなら少くとも此十分一の紙數で澤山である。又普通の學者が書けば此うちの一チャプターを一卷の書物として出版するに極つてゐる。其點から見て此著者は常識を失してゐる。
○ダイナミツクと云ふ名にだまされて、とう/\仕舞迄讀んだのは殘念である。
○然し長い道中のうちに退屈ながら色々の事物を見たり聞いたりしたのは幸である。只巡禮の參詣すべき御堂が何處にも見當らないのを遺憾とする。
    四十三|月《原》十一月十七日夜
 
○此處gapアルニ似タリ。過渡圓滑ならず
○Yes!
 
  Vol.U.
○此人の“happiness”頗る曖昧也、滔々數千言遂に空論に終らずんば幸也
○?
 
  F.H.Giddings:The Elements of Sociology
○Spencer G.Allenト同説
○是ハ智仁勇兼備ト云フ意|也《〔?〕》
 
  Ch.Letourneau:Property:Its Origin and Development
○人間ヨリエライ
○老テ子ナキヲ去ル 之ハ子ナクシテ死スレバ品物ニ僞リアリトテ償金ヲトル
○ウソ
 
 〔裏見返しに〕
 art
 contradiction ヲ免カレズ
 orgin Develヲneglect
 Present ideaノpresent emotiOnニappealスル故ニ
 正直 produce admiration
 盗   〃    〃
 助人  〃    〃
 殺人  〃    〃
 
  Ch.Letourneau:The Evolution of Marriage and of the Family
○Sexual licenceノ例 之ヲ見テpromu.トスルハ非
○希臘羅馬ノ文學 日本封建時代ノ風ト比較セヨ
○コンナコトガアルカ馬鹿ヲ云ヘ
○馬鹿ヲ云ヘ
○何故貴樣ノ國ノ事ヲカヽナイ
○然リ
○此字ノ意義ヲ示セ
○是ハベーロシヤ連ノ説也
○君ノ所謂開化トハ如何ナル者ヲ云フカ、女ノ地位ガ何故又ドレ程開化ニ影響スルカ、
○佛ノ教也
 
  J.F.Nisbet:Marriage and Heredity
○Yes it is a great stain and a great impediment to her marriage.○Nothing particular about Goethe.
○no!
○What do you know about the Eastern literature and art?
○Nonsense!
○Yes!
○What conclusions have you brought us to,concerning the proper mode of marriage,with your two hundred and thirty pages?
 
  A.Weismamn:The Germ-Plasm:A Theory of Heredity
○然り/\
 
  J.M.Guyau:Education and Heredity
○孔子ノ教ノマサル所以 至極結構ナ議論ナリ
○此説ハWeismannノtheoryヲ閑却セル者ナリ
○是Marshallト同ジ説ナラズヤ
○面白キ例ナリ
○面白シ
○Impulsive forceト云フベキカ
○義務ハpowerナリ コハ解釋ノ如何ニヨル
○左様モ限ルマジ
○Fighting spiritモheredityニアラズヤ
○日本ニモ適スル評ナリ
○左様
○斯様ナ叙方ハ文學者ノ云フコトデ頗ル明瞭ヲ缺ク
○此議論ヨシ トルストイノ説ハ固ヨリ理ニ適ハズ
○日本ノ漢書又英書ノ講讀ノ如クスル意カ
 
  M.Guyau:L'Art au Point de Vue Sociologique
○此字曖昧ニ使用セラル。是デハ天才ハイヂアリズムでなければならぬやうになる
○是丈デサウ旨ク行キマスカ
○是ハ俗人ノ誤解
○然リ テインの不充分ナル所
○是ハ成功シタ天才ノ事 迫害ヲ受けタ天才ノ事ハ此に論ゼザルカ
○或特別ナル人には「artノ爲ノ人生」といふ意味ガ成立ス
○L'art pour l'artヲ他ノ意味ニ解釋セヨ、然る時吾人ハ全ク他ノ結論ニ到着スベシ
○「ロチ」ト「スタンレー」とを比較セル「ゴス」の文章アリ
○not absolutely!
○Hugo自身ハ如何?
○只souvenirハtrivialヲeliminateト《原》スルトいフ説ハ役ニ立タズ、現在デモ眼ガアレバ同ジ事ナリ。第一論理ニナラズ
○記憶ハ氣ガ拔ケルト云フコトハ勘定ニ入レルヤ。ソレカラ其記|臆《原》ノ程度ニ就テハ何モ云フ必要ナキヤ。アマリ近イ記憶トアマリ遠イ記憶ハドチラモ駄目ナモノナリ。(概シテ云へば)
○人間ハequilibriumデアル然シactionハ其破裂デアル。故ニTaineノ説ノ如クcharacter dominantニナルカモ知レヌ。然シソレヲstretchスルト單調ナ化物ヲ描出スルニ過ギズ。ドーデの作物ノ或物ノ如キハ是デアル。故ニ著者ノ論理ニ不充分ナ點ガアルト云ハナケレバナラナイ。何處ニ缺陷ガアルカハ畧明瞭デアルガ面倒ダカラ茲に書カナイ
○此人ハ支那ト日本ノ詩ヲ了解スル事ガ出来ズ。又それを知ラズ
 
  G.F.Stout:Analytic Psychology Vol.T.
○This is your aim,not all the psychologist
○so?
○too bold!
○cf.Pearson
○unnecessary argument
○What is this?
○I am very sorry M.Stout.
○How are you sure?
○automatic through habit?−Hobbes
○cf.Hirn
 
  Vol.U.
 〔見返しに〕
 Apperceptionニ就テ 日本 西洋
 
○?
○v.
○       conflict
appercipient A′−○     ○−appereipient A
 apperceived
○unconscious inconsistencies  v.
 
 E.W.Scripture:The New Psychology
 〔見返しに插込まれたる紙片に〕
○Scientific
  light wave length
  Sound wave length
  Heat
  Cold  number     objectivity
  Literature−subjectivity
○Scientific imagination−
  1.Science associationノ力similarity
  2.literatureノassociation
  3.DarwinノImagination
   Lapraceノlmagination
  4.Shakespeareノlmagination
〔図省略〕
 Violet
 Winchester
 Dickens
 
 Daisies
 Primrose
 
○是ハ無論ノ事ナリ
 
  C.Loyd Morgan:An lntroduction to Comparative Psychology
○Scriptureノlatent and lag《sic》 of timeナリ
○是ハダレカノ書ニquoteシテアリ 忘レタ
○此話ハGroos? ニ引用セラル
○State of Consc.
    |
 Presentative(Impression)+R or R
  or       marginal
 Repres.(Idea)+P or R
○New sensations Scriptureノexperiment參考
○此ハ議論ノアル處ナリproveセラレタリト云ハズ
○Scripture參考
○〔図省略〕
○?Authorハ此者アリト云フ
○大ニ我意ヲ得タリ至極御同意ナリ
 
  C.Lombroso:The Man of Genius
○Ribotニ此例ヲ引ケリ
○是等ハ格段ナルsensitivenessト云フ可ラズpleasureハenergy spentニproportionalナレバナリ
○コハ事實カモ知レズ
○牢不可拔
○人ノ云フコトハ分ラズ
○耶蘇ノ自大病
○耶蘇ノ不人情
○奇亦極
○愚
○コンナコトハ毫モ証明ニナラヌ
○chance
○何ゾ東洋ノ詩人ニ類セル
 
  M.Nordau:Degeneration
○?
○此説如何?
○此説誤マレリ
○uglyトbadノpleasureヲ與フル場合ハ其美ナルelementミヲ見ル故ナリ又彫刻繪畫ニ在ツテ之ヲ切リハナスコトガ出来ルナリ 此説如何?
○詩ニ在ツテハ然ラズ、此説如何?
○前後ニ關係ナキコトヲ持チ來ル
○Theoreticallyニ此説ハ間《原》缺アリ
○_? 彼ノinterestニ由テselectセルrealityノ一部ト云フノミreality itselfノ一部ハreality itselfナラズト云ヒ得ルカ之ヲsubjeetiveト云ハザル可ラザルカ
 
  P.Mantegazza:Physiognomy and Expression
○日本人モ碗《原》豆ノ乾シタ色カ 情ナイナ
○黒眼ヲケナス者
○ソンナコトハ駄目サ
○Mosso之ヲ駁セリト思フ
○LaughterトSmile 此ニ關シテ諸家ノ説アレドモ余ハ此説ヲ正シト思フ○愚論ナリ取ルニ不足
○愚論ナリ
○是亦愚論ナリ
○devotionノ態度 日本ト同じ
○尖リ鼻ニ就テ、此ハナヲ持ツ人ハ惡人ナリトハ analogyヨリ來ルニアラザルカ
○hatredニハsocial restraintアリテloveニハナシ是宗教ノ結果ナリ
○コンナコトハ日本ニナイ
○是モ如何
○コハ fighting spiritヨリ出ルニアラザルカ
○此expressionハ一寸ムヅカシ
○日本ニナシ
○コンナコトハ智識アル婦人デナケレバ氣ガ付カヌ
○コンナコトハ毫モアテニナラヌチツトモscientificデナイ
○孟子ノ言
○泣かざりき石となりたる心にしあれば
 
  G.Allen:Falling in Love
○WFat is a half-idiotic countenance.Remember you are not writing a novel.
○You are too hasty!
○After all you have proved nothing or suggested nothings;only flourishes of rhetoric.
 
  G.Allen:The Colour=Sense
○Pain and Pleasure  Marshallト比較セヨ
○why?
○Brown Fine ArtsノBroadト云フ處參考
 
  G.Allen:The Evolution Of The Idea of GOd
○not quite so
○夜の鶴石に蒲團も着せられず 其角
○not so in Japan
 
  M.Arnold:Literature and Dogma
○總収無餘漏如讀漢文
○然リ
○然リ然リ
○論得痛快
○一應御尤ノ様ニ存ズル
 
  H.R.Marshall:Pain,Pleasure,and Æsthetics
○左様カ
○hateハ何處ニ入ルヽカ
○僕ハ常ニ斯ク考ヘテ居マシタ大賛成
○ソンナコトガアルカ
○僕ノ説ト同ジ
○デaesthetic fieldヲキメテハ如何
○inefficiencyノ曖昧ナル事ハ Spencerノmedium activityト同ジデハナイカ
○1.no storage-pain――――――S>R
 2.storage-pleasure――――――S<R
 3.no storage-indifference――S=R
○モツト説明シナケレバ分ラナイ
○?
○此人ノ説は
  Sub.     obj.
  pleasure――beauty
  pain ―― ugly
○菓子ヲ食ツタ後デ密《原〜柑ヲ食ツテ御覽ナサイ
○是は當然ナリ又necessityナリ
○君ハ343ニShakespeareノdramaノcharacterニattentionヲshiftスル仕組アルコトヲ述ベルガ甲ノcharacterカラ乙ノcharacterニ注意ヲカヘルノハsame organノ働キデハナイカ
 
  K.Groos:The Play of Man
○婦人ノハンケチ 西洋人ノ眼鏡
○ソーデスカ
○ソバ
○hypnosisナラバartノqualityヲ吟味スルコトガ大切ダ
○Bücherノ楽器ノorigin説
 カゴカキ、地|行《原》 キヤリ 米搗、道普請
○小兒ノ火イタヅラ 倫敦ノ市デ小兒ハ火ヲ燃シテ遊ンデ居ル
○西洋人ハlightヲ重ンズル 故ニ此説アリ
○此dancingノinfluenceヲ余ノ所謂Mono-conscious Theoryニテ解釋セバ如何
○トンボ蝶 日本ニモアリ
○日本ノネツキ
○recognitionハaesthetic enjoymentノ基點ナリ、繪サガシ、謎、列ジ物、落語皆然リrecog.ノelementナキナシ
○否
○此Illusionハ色々ナ忘《原》語トナル、虫ガシラセル 何トナク左様感ジタ抔ト云フ 愚ナリ
○?
○是ヲdivided consciousnessト云フカ? 必要
○divided consciousness Lukrezノ説 Burke de Quinceyノ説參考
○藏情的 心《原》棒クラベ、腕相撲、喰競
○東洋流ト異ナル所
○人間ハ無責任ナル邊ニ祉ヂ無責任ナル處ニ驕ル
○耶蘇ハ笑ハズト何ノ意ゾ
○Groosノ説(Fighting Theory)ニヨレバcatastropheニpleasureヲ有スルコトハトケヌ 故ニ云々ノ説アリ Ribotノ説ニ從ヘバ之ガトケルナリ○Volkltノ此説至當ナリ
○MarshallノImpulseのloveヲ參考セヨ
○Hirn參考
○兩氏ノ説大ニ我意ヲ得タリ賛成
○西洋ニモ此事アリ
○御尤
○此喩ハ藪鶯ノ如シ
○cf.Brown Eine Arts−The Significant in Art
○余ノlanguageニ從ヘバ(A+a)ナル過去ノexperienceアリテA′ヲperceiveスルトキニaヲ呼ビ起スナリ
 fuionトハ何ノ意ナルヤヲ知ラズ
○是ハ西洋ノ女ノ事
○MarshallトGroos Groosノ方正シ
○Originは必ズシモ宗教ニアラズ
○芝居ニ就テ著者ノ意見尤ナリ
○Spencerノ説ナラズヤ
○Central Impulseヲ建立ス 是faculty theoryニ復スルモノニアラザルカ
 
  W.Knight:The Philosophy of the Beautiful PartT.
○此Idealハイヅコヨリ來ルカ
○?
○是ハ間違
○シヨベント同説ジヤナイカ
○Kantノ説ナラズや 誤テリ
○human faceノillustration 此説余ノ説ニ近シ
○no!
○Imaginationノroom Lessingト參照 Marshallニquoteセラル
○no! tasteノ差
○是ハ西洋許リ見タ議論也
○人間ニ似ル程beautifulナリ コンナ馬鹿ナコトヲ云フ奴ガアルモンカ○此評當レリ
○當リ前ダ 愚ナ事ヲ云フ勿レ
○mystice elementハ必要カ
○是ハ僕ノ説ト同ジ
○是ハ因襲ノ然ラシムル處
○Humeニ似合ハヌ説ナリ
○見ヨ
○good!
○是ハ作リ事
○ナンダ馬鹿ナ
○御尤ナリ
○是ハ僕ト同説
○左樣
 
  Part U.
○何ダ
○何ノ事ダカ分ランデハナイカ
○心界外界ノ類似 是ハ單ニEgoヲprojectスルノミ
○是ハ無論ノ事是ヲ閑却スルナラArtハ成立セズ
○コンナ「ボンやり」シタ説ガ何ニナル
○Ding an sichハ分ラズ 分ラヌ者ヲArtニmanifestデキルカ 是ヲChimera説ト云フ
○substanceハ分ラヌ者ナリ
○是ハ間違ナリ
○v.association
○出来マス
○good.
○コンナ論ハ分ラナイ
○是モ分ラン Hegelianニカブレタ者カ
○essenntial,permanentトハ何カ
○粗笨ナ議論多シ
○君ノ云フIdealトハ頗ル曖昧デアルモツトシツカリ書テ貰ヒタイ
○チツトモ要領ヲ得ナイ Rhetoricバカリダ
○此syntheticナル語モ要領ヲ得ン
○毫モscientificデナイ
○是必竟※[口+(合/廾)]※[口+藝]ノ語ノミphilosophicalノ説明ニモアラズseientificノ解釋ニモアラズ
○忘我 此人ハ彼我ノ関係ヲ知ラヌ故カヽル説ヲナスナリ
○Musicノeffectハinvariablyニmoralナリ、ソンナ事ハナイ
 
  W.M.Conway:The Domain of Art
○此説過マレリ
○Sense of beautyハSelection?
○他ヲ喜バシムルハ己レノ喜ヲ人ニ傳フルニアリ
Tolstoy and Guyau參考
○Artistハ他ノ未ダ夢想セザルquality of beautyヲ人ニ與フルコトアリ是transferenceニテ他ノhorizon of beautyヲexpandスルナリ惜ムラクハ著者未ダ其程度種類ヲ示サズ所説漠然ニ歸ス
 
  Y.Hirn:The Origins of Art
○They are mistaken
○no!
○utility of art  Yes.
○quite so
○Is it so?
○Is not aesthetic craving itself an exception?
○This inferenee is not sound,because it is not based upon any quantitative method
○You don't explain why.
○Weak reasoning again
○This is again loose.
○no!
○?
○This paragraph is rather vague
○please explain more fully
○Well driven at
○What is gracefulness?
○Why does not the emotional nature of individuais change?
○一ヲ聞カシテ十ヲ知ラシムル位ナ處カネ コンナ六ヅカ敷言ハ使ハナイ事サ
○言語足ラズ
○何ト云フ議論ダ
○Art as an intellectual function
○good
○good again  This is my view
○cf.Prof Pearson  Women's position in Germany
○Only married women in old Japan
○? l don't know
○good
○Who is your authority Nonsense! Our women's teeth are whiter than yours.
○日本ノ盆踊リハ如何デス
○然リ
○grimaec and war  親父ガニラム樣ナ者サ
 
  A.C.Haddon:Evolution in Art
○?
○文章可ナリ
 
  The Laocoo,and Other Prose Writings of Lessing
○コハLessing一家ノ解釋ニ過ギザルベシ
○climaxノ不可representationニ 能、俳句(永き日や、長き夜)ニ極端ヲ避クルハ是ト同一理ナリ去レドモ一歩進ムルヲ得ベシ 不安ノ念是ナリ 加之
○笑、寒山拾得ノ畫ハ如何
○Circeガ人ヲ豚ニ化シタル畫ヨリモ豚ニ化セザル前ガヨキカ
 (1)incessantニShriekセザル故畫ニスベカラズトハ何ノ意ゾ (2)inecssantニ見ユレバ其表ハサレタルmomentノ感ヲ強クスルナリ 何ノ故ニeffeminate weaknessトナスや、カヽルeffectヲ生ズルハ時間ヲ含ムrepresentationニアツテ同一ノ變化ナキ態度ノトキニノミ限ル
○火事抔ハクライマツクスヲ寫ス方可ナリ、美人ノ二十五六はクライマツクスナリ然シ十五六ノ方必ズシモ可シト限ラズ、花一輪ヲ畫クトキハ莟ヨリモ開キタル方ヲ選ブベシ是completenessノ感アル爲ナリ
 Momentノperpetuationハ何レノmomentヲトルモ同ジ事ナリ、climaxモ其前モ異ナル所ナシ、momentary phaseヲperpetuateスルガ爲ニアシトナラバ其前ノphaseヲトルモアシキ譯ナリ
 前後ヲ忘却シテ繪畫彫刻又詩文ニ同化スルトキ尤モ愉快ナリ 左ラバrepresentation以後又ハ以前ノphasesヲimagineスルトキハカヽル餘裕アルダケ夫丈拙作カ? 曰クunStableナルphase即チドウシテモソコニトドマリ能ハザルphaseヲ寫ストキハ常ニ此imaginationヲ起ス、(如何ニrepresentationガウマクトモ)Lionノ將ニ飛ビカヽラントスルガ如シ 是ハrepresentation中ニ時ヲ含ムナリone Sectionニテハcompleteナラザル故ナリ 
 〔同じ頁に挿入しありし紙片に〕
 胸ヲ打チ髪ヲ亂シ號泣慟哭愁ニ堪ザル状ヲ寫シテ神ニ人ルトト《原》センニ單ニ此representationヲ見バ大ニ同情ヲ生ズベシ去レドモ一度ビ其源因ヲ探リテソレガ己ガ家ノ飼鳥ガ隣ノ犬ノ爲ニ食殺サレタルカ又ハ國元ヨリ來リシ五圓ノ爲替ガナクナリシニアルヲ發見スルトキハ此同情ハ一變シテ可笑〔二字傍線〕ノ感トナルヲ免カレズ representation其物ハ同情ヲ牽クニ足ル者ト雖ドモ其源因ノ智識如何ニヨリテハ却ツテ反對ノ結果ヲ生ズル以上ハ若シ其源因ニシテ適當ノモノナラ〔ン〕ニハ此representationニ對スル感ジヲ一層深クスルヲ得ベシ
 
○必ズシモ然ラズ momentary improprietyハ全局ヲ破壞スルコトアリ淑女ガ一日密夫ヲ作ルガ如シ
○TurnerノUlyssesトPolyphemusヲ見ズヤ
○繪ニナルガ故ニ必ズシモ善詩ナラズ 繪ニナラヌカラトテ惡詩ニモアラズ
○必ズシモ然ラズ
○progressive actionノsingle momentハ立派ナル畫ニナルナリ、actionヲアラハス畫トシテハ詩ニ及バザルベケレドモstateヲアラハス畫トシテハ詩ヨリモ優ルベキナリ、stateトハsingle momentノstateナリ、
○此議論要領ヲ得ルガ如クニシテ要領ヲ得ザルニ似タリ
○然リ
○LessingノCaylusノ圖案ヲ攻撃スル所必ズシモ然ラズ
○此二passageヲ引クモ別段ノillustrationニナラヌナリ双方共同樣ノ感ヲ起スニ過ギズ只異ナル點アリトスレバ單ニ強弱ノ度ノミ
○説得テ未ダ精緻ナラズ
○幽靈ヲ出セバilludeスル能ハザルカ
○good
○此一段頗ル面白ク説カレタリ癢キ所ニヨク手ノ届ク樣ナカキ振ナリ去レドモpityヲ曲中ノ人物ニ即シテ云ヒ得ベクンパ同樣ノ強度ヲ以テfearモ亦曲中ノ人物ニ即シテ云ヒ得ベキニアラズやpityハ曲中ノ人物ニ即シテ云ハザルベカラズfearハ觀客自家ニ即シテ云ハザル可ラザル理由ハイヅクニアルカヨシカク區別スルモ吾人ノ所得幾何カアランやfearヲ曲中ノ人物ニ即シテ論ズルモ同樣ノ結論ニ到着スベシト思フ若シAristotleガLessingノ云フ如キ意味ニテfearヲ使用セシナラバ不必要ノ區別ヲナセシ者ナリ又Mendelssohnノ如キ意味ニテ用シナラバ是亦不必要ナルfearテフ文字ヲ建立セル者ナリ
 
  L.ToIstoy:What is Art?
○? But how do you give the definition?
○really?
○well driven at!
○illogical!
○Truth is for everybody.Yet it is not everybody's lot to see truth.Can ToIstoy assert that becaus etruth is not recognised by everybody,it follows either that to know the truth is not the vital matter it is represented to be or that that truth which we call truth is not the real thing?
○If‘religious concept.’has no limits,why should‘enjoyment’have? If‘enjoyment’has limits,‘religious concept.’may also have limits‘religious conception’is not a good term
○?
○religious hence popular?
○quite so!
○fair reasoning
○Why unjust?
○weak reasoning!
○The majority eat bread and fruit,because they are accustomed to them.They will eat rotten eggs,if they are used to them.It is the question of habit only.
○We habituate ourselves inmoral codes,in religlous ideas,and art.They are good moral codes,good religious ideas and good art which tend to promote the happiness of mankind or in other words which tend to change the phase of our struggle for existence for the better.
○It is only the result of their habit.
○Bold words! only because you lack habit
○This tantamounts to saying that man's aesthetic sentiment is glven and needs no cullture.It is the same in all
○only because he has got that feeling by oulture
○no!
○?
○only 2 cases?
○good
○If art needs such delicate expression,do you think all the people can discern its beauty? Does not it belong to the elect?
○good!
○You may be sure that the picture pleased you partly because the subject was congenial to you.
○That depends on the man too! not only on the nature of the work.
○cf.Shelley
○This is often brought forward I am rather skeptic about this.Unless one is endowed with the finest sense of perception,he cannot distinguish sincerity and falsehood
○good
○Why religious?
○Certainly but always a good guide?
○Does it? Please explain
○Very good
○true
 
  H.Blair:Lectures on Rhetoric and Belles Lettres
○not philosophical
○Is it so?
○ナンダコンナ愚論ハ
○divine originトハ何ノ事ダ
○日本語
○此ハ始終使用シテ居るよ
○是ハ支那ノ双關法ダ 頗る自然ヲ欠ク
○音調ヨキ例 Milton 日本人ニワカルカ
○音調あしき例 日本人ニワカルカ
○左様カ
○コンナ事ヲ日本語デ云ヘバ厭味ガ出ル
○and the Chinese
○Theocritus ゴチヤ/\ お持屋の展覽會
 
  W.Raleigh:Style
○然リ
○No!
 
  Th.W.Hunt:Literature Its Principles and Problems
 〔見返しに〕
 題目の立派なる割に内容なし。知識のみあつて頭脳なき人の著述なり。
 
  H.C.Beeching:Two Lectures lntroductory to the Study of Poetry
○是ハ universalト衝突スルニアラズや、(もしpoetノ手ニ觸レテ直チニuniversalニ化スト云フ仮定ナクンバ)此假定ヲナシ得ルカ
 
  L.Magnus:Introduction to Poetry
○是ハCourthopeノ説ナラン
 
  L.A.Sherman:Analytics of Literature
○極めて粗雜なる議論也
○此區別甚ダ疑ハシ。國民性ニ基クト云ハンヨリハ偶然ニアラザルカ。
○prospectiveトretrospectiveヲ以テClassicalトGothicヲ分タントスルハ單ニ髪ノ色ニテ日本人ト歐州人ヲ分ツヨリモ小項《〔?〕》ナリ
 
  W.B.Worsfold:The Principles of Criticism
○AddisonノImagination説は頗る曖昧のものなり。只Aristotleより範圍を擴げけるのみ
○是は毫モphilosophic formノstatementニアラズ
○Imaginationトハ何ヲ指スカ 愚ナリ
○何ノ事?
○此邊ハnatureノ議論ニアラズ
○日本人ハ日本人トシテ此等ノ詩ヲ讀マザルベカラズ
○カヽルsentimentハ一種ノconventiOnトシテ日本人ニ普通ナリ 是ヲ讀ンデmalady of the centuryヲ思フ者アラズ
○若シ日本人ガ此想ヲアラハス時ニハ十中八九共散文ノ形ヲ擇ムベシ。吾人ノ詩ト云フ觀念ト西洋人トハ根本ニ於テ余程違フナリ。未ダ此邊ヲ充分ニ論ジタル者ナキハ遺憾ナリ
○Dramaノ衰退ノ理由。果シテ然ルカ?
○Meredith prefers prose to verse as the more proper means of expressing human ideas
○賛成!
○此説ヨク我意ヲ得タリ。Moultonノintroductionニモ此主意アリ。此點ヲ布衍シテ精細ナル批評論ヲナスヲ得ベシ
○Partial validityナル語妥當ナリ
 
  W.J.Courthope:Life in Poetry:Law in Taste
○カタノ如キ者ヲ論証トス何ニモナラヌ
○Inspiration from withoutナル語ヲ説明セヨ、何ノ事カワカラヌ 古來文人ノカイタ者ハカクノ如キ者多シ
○カヽル詩ガドコガ面白イ
○カクノ如キ思想ハ東洋ニ在ツテ陳腐ナリ
○Metre−a necessity?
○日本人ハproseデモコンナコトヲ申シマスヨ
○何故?
○詩ノ功能 是偏見ナリ
○現代ノ人ノ詩ニ對スルIdeaノ著者ト異ナル所
〔図あり、省略〕
○Simile丈ノ議論デGreek epicノ興癈ヲ決セントス 無理ナリ
○コノ位ナ事デ何ニモナラヌ
○Exaggeration
○余ハ此説明ヲ解セズ Milton今ニ至ツテ如何
○Public opinionトsettled conscience of the peopleトヲ區別ス是君ノ議論上不得已ベシ去レドモscientificallyニ之ヲ區別セザル以上ハ之ヲ建立スル必要ナキナリTolstoiノ文藝論ノ弱點茲ニ存ス
○why?
○馬琴ノheroハ如何
○possible?
○ab omnibusナラpopularityヲモ含ムベシ而〔モ〕pop.ハ詩價ノ標準ナラズト君ハ斷ゼシニアラズヤ
○何者カuniversalナルヤ
○?
 
  G.H.Lewes:The Principles of Success in Literature
○so?
○yes.
○good
○Metap.
○truthトArtノ部ノ參考
○此邊ノ議論毫モ徹底セズ悉ク通俗ノ辨《原》也
○人間は皆虚僞心ニ富ム者ナリ文人殊ニ然リ、此議論ハ單ニ通俗ノ駄論ニ過ギズ、眞個不得要領底新聞屋ノ議論也
○How can you distinguish the sincerity and insincerity of an author? What is its objective condition? You may often fail in estimating one's value after years' intercourse with him and quite naturally.It is a psychologjcal law that civilized people do not give an onest expression to their thoughts and feelings.We are constantly made dupes of by others and are making dupes of them.Sometimes we deceive ourselves.The most curious thing is that we are not aware of the fact when we are making dupes of ourselves.
○You confuse two elements which contribute to the making of good form in lit.and which are essentially different in nature
○No! How can you say such superficial things with such assurance!
○Image is not symbol  an image is an image.Words are symboIs of image
○What is a sincere style  There is no sincerity in style;there may be some sincerity in man.
○much depends upon this of course
○good
○celebrated couplets
○Yes poetry is imitative in certain ways
○?
○This not exact
○good
○著者ノ論(1)詩ノ内容ハ道徳的ノ影響(2)道徳的ノ影響ハ宗教觀點ニ歸著ス
○This part is interesting
○疑ハシ
○是議論根據ナシ cf.M.Arnold s Essay on Wordsworth
○Is this religion?
○Yes.What is meant by deduction here is nothing but interpretation of things according to one's own view.And we interpret everything according to our own fashion
○The influence of culture is only superficial.Test those who boast it,and you will find it only skindeep.Down upon them all! What is noble in man is best shown in his nudity,and his powerfulness in nakedness.We are animals clad in men's skins which thick enough to deceive ourselves and but thin enough to be mangled with the first out-burst of our inner spirits which are animality itself.
○nonsense
○of course  Science can do no more than this.
 
  G.B.Brown:The Fine Arts
○余説ヲ參考
○此節ノ論アヤシ
○コンナコトハナイ
 
  J.Ruskin:Modern Painters Vol.U
○彼ハ東洋ノ美術ヲ知ラズ故ニ此言アリ
 
  C.Waldstein:Art in the Nineteenth Century
○cf.Courthope
 
  B.Bosanquet:A History of Æsthetic
○Yes!
○What do you mean?
○What argument is this?
○good
○how?
○What are they?
○This is a historical fact;but not the reason why the ugly should enter the domain of art.
○可笑
○?
 
  Royal Academy of Arts:A Catalogue
○小兒は人形ナリ 死ンデ居ル
○不惑
○此繪ノ馬鹿ラシキヲ見ヨ(1)センターナシ(2)ゴジヤ/\ナリ(3)ハダカ野蠻人ノ繪ナリ
○二者何ゾシカク異ナル
○ミソロヂーヲ知ラヌ者ニ何ノ興味カ〔ア〕ラン 木ニノボリ居ル獣足ノ人ヲ見ヨ
○甚佳
○甚佳
○立派ナル繪ナリ 然シ話ヲ知ラザル者ニ何ノ面白味アル
○宗教心ナキ者ヲシテ見セシメヨ
○歴史ヲ知ラザルモ可
○カヽル木ノ形ハ甚ダ不愉快ナリ
○此人ノ面ハ色ガ白イ
○此木ノ交叉セル愚ナル形ヲ見ヨ
○甚佳 歴史ヲ知ラヌ者デモヨイ
○甚佳
○〔Rembrandt〕ノ風景 日向日影ノ差甚妙
○〔Rubens〕ノ顔ハ皆白イ
○田舎ノ光景
○此愚ナル繪ヲ見ヨ
○佳  然シ不意義ナリ
○是モ愚ナリ
○甚佳
○是頗稚ナリ未日本畫ニ及バズ  三笑
○題筆意共日本畫ニ近シ
○194ト同ジ
○佳
○日本畫ノ題目ナリ
 
  M.O'Rell:John Bull and His Island
○cf.Taine
○cf.Taine
○Good joke!
 
  A.Barrère and C.G.Leland:A Dictionary of Slang,Jargon and Cant Vol.T.
 〔裏見返しに〕
 freeナルハ幸ニシテ不幸
  不幸ナル方
 FF′F″ノSelection 1.universal intellect
           2.partially univ.
           3.chance association
            日本人ニハコレガ出來ズ
            故ニ不幸ナリ
  高尚 アキカゼ
     秋風
  勿論ナイ クタバル
       崩
  上品  アヽラ吾ツマ
      一寸御前サン
 此等ヲselectスルTasteハideaノtasteニ關セズformノtasteニモ多ク關セズ只chanceニテcreateセラレタルformノtasteニdependス、故ニ此tasteヲ有セザル者ハ口ヲ出ス能ハズ
 吾人ハ大抵西文ヲ取捨スルモ(1)ワカル、ワカラヌ(2)expression etcデスル(3)デスルコト少ナシ猶西人ガ日本語ヲ用ルガ如シ、(オマンマ)抔云フ是ガ爲ナリ然モ(オマンマ)ナルformニハideaトハindependentニintellectヲ満足スルセヌトニハindependentニ又expression,novel等トハindependentニ單ニ(オマンマ)ナルformニ一種ノemotionヲattractスル故ニ此一種ノemotionヲ満足セザル使方ヲスレバ可笑シキナリ
 
 
 俳諧三佳書 (【高濱虚子編 明治三十六年五月四版 俳書堂發行】)
 
續あけからす
 
 春之部 (九一頁)
 概して明治の句より揃ひてよし
 あらためた手は膝に有更衣 (一一一頁)
 不可
 船に寐て古郷百里天の川 (一三二頁)
 書生調
 
五車反古
 
 春の月鷄裂(ケ)はくもりけり (一八九頁)
 奇想
 
 元禄俳家々集 第一篇(【高濱虚子編 明治三十六年三月 俳書堂發行】)
 
浪化句集
 
 出て居るや〔五字左傍線〕梅の莟に三日の月 (一二頁)
 虹足
 山吹やよく/\〔四字左傍線〕下は水の吾 (二七頁)
        月並
 松風にほそみ〔三字左傍線〕の出る四月かな (二八頁)
     月並ノ元祖
 つりそめて蚊屋の句ひや二三日 (三一頁)
 佳
 二三日蚊帳の匂ひや五月雨 (三三頁)
 つりそめて蚊帳の匂ひや二三日の句あり
 時鳥二聲かゝる一枚田 (三三頁)
 奇想
      に尻をむけたる
 時鳥尻に聞せて〔三字左傍線〕飛脚かな (三三頁)
     少しく厭味あり
 
凉菟句集
 
 それも應これも應なり今朝の春 (一頁)
 それもいやこれも否なり年の暮ハドウデス
 市中や馬にかけ行く凧 (三頁)
 此趣味は局部ノ人デナケレバワカラヌ
 鶯の音にはねかへれ雪の竹 (四頁)
 命令詞ワルシ
 何事をふれてまはるぞ燕 (四頁)
 此擬人法一應ヨシ
 何事のあはたゞしさぞ雉の聲 (四頁)
 此モ同|段《原》然シ耳馴タル爲イヤナ感アリ
 ふら/\〔四字左傍線〕と歸りかねてや小田の雁 (五頁)
 如何
 橋渡る人にしづまる蛙かな
 佳
 梅が香や火燵を出でゝ遠からず
 佳
 赤うなり白うなる梅の雫かな (六頁)
 巧ニ過タリ
 習ひ出の笛吹く花の月夜かな (六頁)
 時々キカセラレマス
 一つなるあるじや櫻作兵衛 (六頁)
         一寸思ツキナリ
     午食に歸るや
 鍬さげて 叱りに出るや桃の花 (七頁)
 藁草履で
 水無月やちんばも見えて大井川 (一〇頁)
 此滑稽アマリキカズ
 人かげのちらりと涼し竹の中 (一一頁)
 佳
 凉しさのまことは杉の梢より (一一頁)
 只言廻し方也
 拍手の袂も凉し木の雫 (一一頁)
 同樣
 うつの山よろりとした〔六字左傍線〕るあつさかな (一一頁)
      何ノ事ダ
 袷着ていざそろ/\と出ありかう (一二頁)
 ヨシ
 あの山を我物にして田植かな (一四頁)
 惡
 早乙女や祭のやうに揃ひ出る (一四頁)
 凡
        タルメリ
 さしあたる用も先なし〔三字傍線〕夕すゞみ (一五頁)
 一歩ヲ誤てば月並トナル
 力なう入りかゝる日や須磨の秋 (二六頁)
 ヨロシカラズ
 この橋をかけた大工よけふの月 (三〇頁)
 ワルシ
 夕ぐれはいつもあれども秋の海 (三一頁)
 ダメ
 寢る人は寢させて月は晴にけり (三一頁)
 
 几董全集(【高濱虚子編 明治三十三年九月再版 ほととぎす發行所發行】)
 
 醫得眼前瘡※[宛+立刀]却心頭肉 (七四頁)
 何等※[口+(合/廾)]※[口+藝]
 乞食かへる徑の木槿しほみけり (九二頁)
 少失奇
 椎の實の落て音せよ檜笠 (九二頁)
 佳
 遠く遊ぶ子にもらひたる紙衣かな (一一五頁)
 遊子とあるべし
 凍え來し手足うれしくあふ夜かな (一一六頁)
 佳
 のとかさに落もさためぬ落葉かな (一三一頁)
 巧
 日の影の枯枝に配る〔二字左傍線〕落葉かな (一三一頁)
        今少しにて月並に落つ
 朝毎の法りや旅寐の一大事 (一三六頁)
 一大事も糸爪も糞もあらはこそ 咄此檐板漢
 
 春夏秋冬 夏之部(【河東碧梧桐、高濱虚子選 明治三十五年五月 文淵堂發行】)
 
 風涼し裸体に蚊帳を吹きつける 桃村 (九頁)
 蚊帳青く涼しき顔に吹きつける
 城跡に誰住む人や紙幟 釣月 (一三頁)
    人住んで誰が
 川狩や河童の宿も踏み盡す 青々 (一八頁)
        を
 人住んで窟の中の蚊遣かな 秋窓 (三三頁)
 芝居ナリ
 
 〔裏表紙に〕
 【座と手と】襟を正して見たり更衣
 衣更て見たが家から出て見たが
 
 春夏秋冬 冬之部(【河東碧梧桐、高濱虚子選 明治三十六年一月 俳書堂發行】)
 
 墓見えて冬の鳥啼く樫木原 四方太 (八頁)
 かゝる景色余の目にうかばず
 こほる手やしをりの總の紅に 子規 (一一頁)
 此句ハ余ノ好マザル句ナリ
 つく息の酒こほるらん冬の月 虚子 (一一頁)
 奇想ナレドモ余ハトラズ
 
 【校補點註】禅門法語集(【山田孝道校補點註 光融館發行】)
 
   正編 (明治四十年三月五版)
 
 〔扉の裏に〕
 禅家の要ハ大ナル疑ヲ起シテ我ハ是何物と日夕刻々討究スルニアルガ如シ。我ハ是何物ト疑ツテ寢食ヲ廢スル者ハ西洋ニモアルベキ道理ナリ。眞ニ逢着セント欲スル者ハ皆多少此疑ヲ抱クガ故ニ求眞ノ念切實ナル泰西ノ學者ハ皆コヽニ懸命ナル精彩ヲ着スベキ筈ナリ。然ルニ希臘以來未ダ甞テ我ハ悟ツタト吹聽シタル者ヲキカズ。怪シムベシ。
 要スルニ非常ニ疑深キ性質ニ生レタル者ニアラネバ悟レヌ者トアキラメルヨリ致方ナシ。從ツテ隻手ノ聲、栢樹子、麻三斤 悉ク珍分漢ノ囈語ト見ルヨリ外ニ致シ方ナシ。珍重
 
   懷奘 光明藏三昧
 
○コレハ譯ノ分ツタ人ノ云條ナリ。眞ノ常識ナリ。悟ヲ標榜スルヨリ愚ナルハナシ。悟ラヌ証據ナリ (二三頁四−八行)
 
   無住 妻鏡
 
○Schopenhauer (三三頁八行−)
 
   大智 假名法語
 
○是モ眞ノ常識ナリ。意味ハ前ト同ジコトナリ (六一頁五−七行)
 
   夢窓 二十三問答
 
○此和尚ハ無の方面ヨリ説キ來ル。讀ム人誤マラレントス (七三頁一行−)
○何ノ念モナキ樣ニナツテタマルモノカ。馬鹿氣タコトヲ云フ故大衆ヲ迷ハスナリ (九四頁一行「何の念もなきやう」)
 
   拔隊 假名法語
 
○シキリに目心自性ト云フ。ソンナモノガ離レテ存在スベキニアラズ。芋ヲ食ヒ屁ヲヒリ。人ヲ殺シ。人ヲ扶ク是ガ自心自性ナリ。何ヲ以テ本來ノ面目ヲ云々スルノ要カ〔ア〕ル (九九頁)
○是丈ガ出來レバソレデ澤山ナリ是ヨリ以上ヲやルノハ水ヲ飲ンデナゼ冷タイカト疑フガ如シ (一〇二頁九、一一、一二行)
 
   卍庵 假名法語
 
○非常ナ達文ナリ (四八〇頁)
 
  續編 (明治四十年六月四版)
 
   永平 假名法語
 
○コンナ意味ナラバ公案ハ茶番ナリ (八頁二−五行)
 
   大應 假名法語
 
○コレハ論理的ニチカシ 棒喝ノ類ニアラズ (九頁一行−一〇頁)
○哲學ト禅ハ此相違ヲ存ス (一一頁八−一四行)
 
   正三 驢鞍橋  中卷
 
○此男時々問答ヲ研究シタル樣ナコトヲ云フ。我ナラバ……ト云フカラドンナコトヲ云フカト思フトツマラヌ事ヲ云フテ居ル。ダマツテ居ルニ若カズ (三五頁六行−)
○問答ノ爲メニ問答ヲスルノハ議論ノ爲メニ議論ヲスルノト同ジク醉興ノ沙汰ナリ。禅坊主ニハ此癖アリト見ユ。愚ナル問答ヲナスヨリアクビヲ一ツスル方ガ心持ヨキモノナリ (三六頁)
○中々旨イ事、中々分ラヌ事ヲ云フ傍ラ中々詰ラヌ事ヲ云フ。ドウモ禅學ヲやツタ人程矛盾ノ多イモノハナイ。 (四三頁)
 
   正三 驢鞍橋  下卷
 
○此人ハヨク機ト云フコトヲ云フ。腹ヲ立テタ機抔ハ頗ル面白イ。侍丈ノコトハアル (一六頁七行−)
○諸人ガ正三ガ所ヘ來ル時ハ是デヨシ。正三ガ諸人ノ所ヘ行ク時ハドウスルゾ。ドコヘ歸ルゾ (一九頁三行)
○勝ツベキ娑婆ガナイト仰セラレルデハナイカ (三一頁一−二行)
○此人口ヲ開ケバ守ル守ルト云フ。偖々苦シイ悟デアル。守ルウチハ失フ恐レガアルカラダ。左程に懸念ガアルナラ悟ル必要モ何ニモアルマイ (三一頁八行)
〇一切ヲ放下スル意味ハ明瞭ナリ。只一切ヲ眞ニ放下シ得ルニ至ル苦行ト放下セズシテ苦シムトハ時間ノ長短アルモ全体ノ量ニ於テ同ジカルベシ。苦ヲ逃レンガ爲メニ悟ルト云フ。シカシ其悟ニハ大變ナ苦ガアル。シテ見レバ悟ランデ苦シンデモ損得ハ同ジコトデハナイカ。只自性ヲ究メタイノ一心カラ悟リニ達スルノハ咎ムル樣モナシ。是ハ苦ヲ逃レン爲ノ修業ニアラズシテ研究好奇ノ念、自然ニ起ル疑團ナレバナリ。醉興デモ何デモ仕方ナカルベシ。凡テ悟リトカ悟リデナイトカ云フ人々ハ系統的ノ智識ヲ有セヌ故悟ヲ有チナガラ色々雜多ナ言語ヲ列ネテ得意デアル。氣ノ毒ナコト共デアル。(四〇頁一一行−)
○悟レドモコンナコトヲ云フカラ悟ラヌ人ニ馬鹿ニサレル (四四頁三行−)
○此人ノ機移リト云フノハinfluenceヲ受ケルト同ジコトニナル (四五頁三行)
○此人ノ機ガ拔ケルト云フコトハ意氣銷沈ト云フコトノ樣ダ。 (四五頁一三行)
○カヽル人ハ生理的状態や身体的状態ヲ丸デ考ニ入レヌナリ。
 悟ツテモ腹ガ減ルノガ生理状態デアル如ク悟ツテモ心臓病ノ人ハドキ/\スルナリ。サウデナイ悟リハ悟リニアラズ魔法ナリ (四六頁五行−)
○一切ヲ放下スルニむさい糞袋/\ト觀ジテ放下スル必要イヅクニアル。實際ナニガムサイノゾ
 此老人ハ要スルニ愚物ナリ。カヽル人ノ會下ニ修業スルニハソレ相應ノ取捨アルベシ。凡テ弟子共盲目ナルヨリシテ妙ナコトガ妙ナ風ニ後世迄傳ハルナリ (六四頁六行−)
 
   正三 麓草分
 
○一切ヲ放下ストハpreservation o fselfナル根本義ヲ滅スルノ謂ナリ。心はselfニアラズ。故にselfハpreserveスル必要ナシト觀ズルナリ。心ハ不死不生ナリ。故ニselfハpreserveスルニ及バズト云フコトナリ。○Selfヲpreserveスルニ及バザル故ニ凡ノ苦悶ガ消滅スルナリ。selfヲpreserveスルニ及バザル如ク之ヲdestroyスル必要モナキ故縁ニ從ツテ生存スルナリ。七情の去來ハ去來ニ任セテ顧ミザルナリ。心ノ本体ニ關係ナキ故ニ可モ不可モナキナリ。心ノ用ハ現象世界ニヨツテアラハル。其アラハレ方ガ電光モ石火モ及バヌ程に早キナリ。心ノ体ト用トノ移リ際ノ働ヲ機ト云フナリ。「オイ」ト呼バレテ「ハイ」ト返事ヲスル間ニ体ト用が現前スルナリ。ソレガ不可思議ニ早イナリ。ダカラ考ヘテ居ル樣デハ分ラヌナリ。ソレガ考ヘズニ相應ズルコトガ出來レパ以心傳心ニナル譯ナリ。
 一タビ心ヲ知レバドウナツテモヨキナリ。此浮世デドウナツテモヨカラヌ善惡邪正數々ヲ守ル裡ニドウナツテモ構ハヌ度胸ガ出來上ルナリ。安樂ニナルナリ。カホドノ事は僧俗ニ限ラズ皆悟ルベキ筈ナリ。タヾ此境界に常住シテ活溌々地ノ活用ヲナスガ困難ナルナリ此困難ヲ排セン爲メニ坐禅ノ修業ガ必要ナルナルベシ。シカラザレバ何ノ爲メニ打坐シ何ノ爲ニ悶々シ何ノ爲ニ苦慮スルヤヲ解スベカラズ。(一六頁四行−)
 
   正眼國師法語  上卷
 
○一人デ仕事ヲスル者ハ誰デモ此感ヲ起ス (三二頁七−一四行)
○此一節ハ普通ノ禅坊主ノ樣ニ禅臭クナクシテ甚ダ心地ヨシ。普通ノ語録ハ無暗ニ六ヅカシイ語ヲツラネルノミカ六祖ガドウノ二祖ガドウノ臨濟ガドウノト大ニ人ヲオビヤカシテナラヌモノダ。此和尚サンハ只自分丈ノ事ヲ眞直ニ云フテ居ル (三三頁)
 
   正眼 心經抄
 
○是ハ至言ナリ。只生のおもはくを愛し死のおもはくを憎む。愛憎はおもはくとおもはくならざるとに論なし。影なるが故に愛憎なし、もしくは愛憎すべからず。もしく〔は〕愛憎を生ぜずと云ふは和尚等の事なり。吾人のあづかり知る所にあらず。故に生死は單におもはくなるを知ると雖ども、吾等の不生不滅なるを知ると雖ども、生死は依然として嚴存す。誰カ之を爭ふものぞ。かの禅坊主を捕へ來つて一々拷問にかけて見よ。許せ/\と悲鳴を擧げる事必定なり。擧げざれば人間にあらず。妖怪變化の類なり。(七頁九−一〇行)
 
 新小説 (明治三十八年八月一日)
 
   夏目漱石 戰後文界の趨勢(談)
 
 春陽堂の本多直次郎君が來て戰後の文壇に對する所感をきゝたいと云ふから話したら、本多君が筆記して新小説にのせた。本多君の文章は余の文章より旨い樣だ。こんなものをとつて置くのは後日よんで見て面白いものだ。(「戰後之文壇」一頁)
 
   畔柳芥舟 三策(談)
 芥舟先生えらい事を云つて本多先生を追拂つたものだ。(「戦後之文壇」八頁)
 
漱石全集第32巻(別冊上)、221頁、800円、1957.9.12(80.3.5.5刷)
 
講義
 
    英文學形式論
    ――【明治三十六年四月より同年六月まで東京帝國大學文科大學に於て講〔皆川正禧筆記〕】――
 
   General Conception of Literature
 
 吾々の日常使用する言語の中には、其内容の曖昧朦朧《ヴエーダ、アンド、オブスキユーア》なものが多い。吾々は此を使用するに當り、その内包、外延の意味《インテンスイーヴ、アンド、エキステンスイーヴ、ミーニング》を知らずに唯曖昧の意味を朧げに傳へる。此を傳へられた人も、亦曖昧に聽いて曖昧に解するのみである。更に或場合には符號《シンボル》の表はす内容に付き、何等の概念《コンセプシヨン》なくして用ゐることさへある。それで、必要があつて或言葉の意義を確めようとする時、若くはその意義を他人に問はれた場合に當つては、遂に要領を得ないことが多い。これ、吾々が内容其者を思考の材料としないで、記號《シンボル》その者を以て考へるからである。文學《リテラチユーア》と云ふ言語も此種の言葉の一である。
 普通の教養を持つて居る人々の目には、文學なる言葉は極めて解し易いもののやうに見える。だが、此言葉の内容が甚だ漠然として居ることは爭はれない事實である。今數個の西洋の學者に付き、彼等が文學をどんな風に解釋したかを見ると、(中には文學の概念を述べることなしに直ちに此を取扱つて居るセンツベリー〔六字傍線〕の如き人も居る)マツスユー、アーノルド〔十字傍線〕(Matthew Arnold.1822-88)は「文學とは世界に此まで考へられ、云はれたるものの最善《ベスト》を知得《アツクヱーント》させるものだ」、と茫漠たる定義を與へて居り、ヘンリー、ハラム〔七字傍線〕(Henry Hallam.1777-1859)は、彼の文學史中に人間知識のあらゆる方面を網羅し、微積分學《フラクシヨナル、カルキユラス》あり、ケプラー〔四字傍線〕の積分學《インテグラル、カルキユラス》あり、ベエコン、スピノーザ〔九字傍線〕等の哲學あり、思想、情操《ソート、アンド、フイーリング》に關する一切の書を蒐めて、これを文學と見做して居る。彼は文學の定義より出立しては居ないが、文學に就いての彼の概念《コンセプシヨン》は暗々裏《イムプリシツトリ―》に玩味することが出來る。英國のバツクル〔四字傍線〕(Henry Thomas Buckle.1821-62)もこれと同じく、文學に|廣い見解《ワイド、ヴユー》を持して居る。その『英國文明史』(History of Civilzaton in England)に文學と政府とが文明に如何なる影響《インフリウエンス》を及ぼせるかを論ずる章に、
 “I use the word“literature”not as opposed to seience, but inits large sense, including everything whch is written,――taking the term of literature in its primary sense, of application of letters to records of facts or opinions.”
と云つて居る。斯の如く文學に廣い意味を附する人のある爲め、文學の範圍は判明しにくくなる。博士ジヨンソン〔五字傍線〕はポープ〔三字傍線〕傳の終の所に、
 “After all this, it is superfluous, to answer the quesion that has once been asked, whether Pope was a poet? otherwise than by askiug in return, if Pope be not a poet, where is poetry to be found. To circumscribe poetry by a definition will only show the narrowness of the definer, thougj a definition which shall exclude Pope will not be easily made.”
と云つて居るが、爰にジヨンソン〔五字傍線〕が詩に付いて論ずる所をば、同樣の威力《フオース》を以て文學の定義に應用《アプライ》することが出來る。
 文學 literature と云ふ語は羅甸語の litera(文字)と云ふ語に起原して居る。それが今日の意義に發達するまでには、轉々使用せられる中に、何等の約束もなく、唯以心傳心に幾度か内容の變化を起して居る。此漠然たる意義のものを唯一行や二行の定義で表し盡されるものでないのだ。然し一方から云ふと世人は文學と云ふものに一定の内容を有《たもた》しめない爲め、又如何樣にも定義を下すことが出來る。即ち至れり盡せり《エキゾーステイヴ》の定義は下し難い代りに部分的眞理《パアシアル、ツル―ス》を持つたる定義を與ふることは、反つて容易である。例へば「文學は時代精神《ツアイトガイスト》を表すものなり。」と云つても善からう。又「文學は當時の風俗、習慣の反映なり。」「文學は吾人の情緒《センチメント》を上品《レフアイン》にし、趣味を純淨《ピユリフアイ》するものなり。」「文學は美を目的としたる一切の記述なり。」などと定義しても、此等を其義狹しと難ずることは出來るが、其何れをも文學の意義から排斥《エキスクルード》して了ふことは出來ない。故に古來の學者、文人の藝術又は詩を定義するのを見ると、一々相應の理由は持つて居る。例へばアリストートル〔七字傍線〕(Aristotle)は“Art is imitation.”と云ひ、又彼の『詩論』(Poetics)の初めに、
 “Epic poetry,tragedy,comedy,and music of the flute and lyre, in most of their general forms, are all in their general conception, modes of imitation.”
とある。文學は確かに一部分には模倣がある。文學は内心模倣《インナー、イミテーシヨン》だと云つた人もある。近頃グロース〔四字傍線〕(Groos)や、ヒルン〔三字傍線〕(Hirn.其著 Growth of Art の中に)も模倣を以て藝術の定義として居る。――其所に使用する模倣《イミテーシヨン》の意義には種々の議論はあらうが廣義の意味に相違ない――。デイオ、クリソスタム〔九字傍線〕(Dio Chrysostum)は藝術に定義を下して、
 “Concrete form in which tge artist gives adequate reality to conceptions which before and apart from such realization are not definite.”
即ち藝術家は不定《インデフイニツト》の概念に適宜なる現實性を與ふるものだと云ふのだ。此にも首肯すべき眞理はある。シエークスピーア〔八字傍線〕の『中夏の夜の夢《エ、ミツドサンマー、ナイツ、ドリーム》』の中に此と同意味の言葉がある、
  And as imagination bodies forth
  The forms of things unknown, the poet's pen
  Turns them to shapes and gives to airy nothing
  A local habitation and a name.(ActV. Sc.1.)
 此外獨逸諸學者の説は擧げたならば際限がないから省略するとして、ド、クウインスイー〔八字傍線〕はポープ〔三字傍線〕を論ずる際に、Literature of knowledge と Literature of powerとに分けち、
 What is it that we mean by literature? Popularly,and amongst the thoughtless,it is held to include everything that is printed in a book.Little loglc is required to disturb that definition;themost thoughtless person is easily made aware,that in the idea of literature one essential element is,−some relation to a general and common interest of man,so that,what applies only to a local,or professional,or merely personal interest,even though presenting itself in a shape of the book,will not belong to literature.
と云ひ進んで、
 There is first,the literature of Knowledge and secondly the literature of power.The function of the first is ――to teach;the function of the second is――to move:The first is the rudder,the second,an oar or a sail.The first speaks to more discursive understanding,the second speaks ultimately,it may happen,to a higher understanding or reason,but always through affections of pleasure and sympathy.
と云つて居る。又一例を擧げるとトルストイ〔五字傍線〕である、彼はその『藝術とは何ぞや』に快樂主義《プレジユア、セオリー》や耽美主義《ビウテイー、セオリー》を矢鱈に攻撃し、往々非論理的の議論はするが、藝術に下した定義は大體に於て要領を得て居ることは否まれない。彼のはContagion theoryである。
 To evoke in one's self a feeling one has once experienced,and having evoked it in one's self,then,by means of movements,lines,colours,sounds,or forms expressed in words,so to transmit that feeling,that others may experience the same feeling.That is the activity of Art.
これはシエレー〔四字傍線〕の『詩の辯護《デフエンス、オブ、ポエツトリー》』に云ふ所と酷似して居る。彼が更に、
 Art is a human activity,consisting ln this,that one man consciously,by means of certain external signs,hands on to others feeling he has lived through,and that othe rpeople are infected by these feelings,and also experience them.
と云ふ處は、心理學に云ふSympathyを根柢とした定義である。(Prof.KnighT――“Philosophy of the Beautiful”Vol.T參照)
 以上に掲げたる諸定義は、その何れにも尤もらしく思はれる點のあると同時に、又何れも物足らない感じがする。然らば文學を如何に定義し、如何に解説して宜いか。元來文學と云ふ文字には各人が勝手の見地から勝手の意義を與へることが出來るものであるから、甲の人の考と、乙の人の考とは、相合致する場合もあり、相容れない點も出來て、此を遺憾なく定義し得たものなく、又遺憾なく述べ得るやう、文學と云ふ文字が明確に使用せられてはないのである。私は此の講義を進めるに當つて一個の窮地《デイレンマ》に陷《はま》つた。即ち吾々は黙認的《イムプリシツトリー》に出立すべきか、又は一個の決定を以て進むべきかと云ふことである。困るのは諸君と私と豫め考へおいたことが相異ることだ。出來得べくばかう云ふものが文學であると、定義を掲げて後に説明に進みたいのだが、充分な定義を與へることは私に取つて困難であるにより、勢ひ黙認的《イムプリシツトリー》に出立するより外はないのだ。さればと云つて、それでも甘く行けるか、どうかは甚だ疑しいものであることを斷つておく。唯私が抱いて居る文學と云ふものの思想を幾分諸君に傳へ得れば滿足である。又私は文學なるものは科學の如く定義を下すべき性質のものでなく、下し得るものとも考へて居らない。唯私は此講義に於ては、吾々日本人が西洋文學を解釋するに當り、如何なる經路《プロセス》に據り、如何なる根據《グラウンド》より進むが宜しいか、かくして吾々日本人は如何なる程度まで西洋文學を理解することが出來、如何なる程度がその理解の範圍外であるかを、一個の夏目と云ふ者を西洋文學に付いて普通の習得ある日本人の代表者と決めて、例を英國の文學中に取り、吟味して見たいと思ふのである。
 抑も文學の定義に關し、以上の如き紛々たる諸説を見る理由は、何であるかと云ふに、或は創作家の方面より、或は讀者の方面より、或は兩者の間に起る關係より、或は内容のみを見て、或は形式のみを見て説を立てるからだ。吾々は此等の諸説を讀むに當り、此を秩序正しく按排するでなければ、その中に卷込まれて了つて、要領を得ざるに終るであらう。例へばミルトン〔四字傍線〕は詩を A simple sensuous impulsion と云ひ、コールリツヂ〔六字傍線〕は The best words in the best order と云つて居る。此二説は一見、相互に、何等の關係ありとも覺えず、從つて此二説を一所に纏めることは出來得ないやうに思はれる。然かも一方は詩の形式を定義したもの、一方はその品質を定義したもので、共に相竝んで存在し、決して矛盾するものではないのだ。ストツフオード、ブルツク〔十一字傍線〕(Stopford Brooke)のそれは此等兩者を兼有して居る。
  By literature we mean the written thought and feeling of intelligentmen and women,arranged in a way which will give pleasure to the reader.
この定義は極めて通俗的である。聽明なる紳士淑女とは、内容に付き定義したもので、何等の細説《スペシフイケーシヨン》をしてはない。讀者に快樂を云々はその形式の定義だが、此も同樣で、頗る漠然たるの憾みがある。然らば吾々は文學を如何《どう》考へて《コンスイブ》宜いか。これは上にも述べたやうに、一行や二行の短い言葉で述べ得ないのであるから、私は文學に關する重要なる原則《プリンシプルズ》を列記し、その項目《ヘツデイング》を追うて行かうとしたが、それでは、その原則以外のものを述べることが出來ないと云ふ窮屈に陷る恐れがあり、且つ混雜が生ずるにより、此の方法は思ひ止り、講義の終りに夫等を還元《レデユ―ス》する積りで、先づ文學をば
  Form
  Matter
に大別した。此區別にも種々の議論はあらうが、常識を以て此區別を立てるのだ。第一に形式に付いて述べる。此を述べるに當り、先づ形式に限界《リミツト》を附する必要がある。限界を附した形式に付いて一々説明する。それより内容に移つて、此にも限界を定め、内容は奈何なる要素から成立するか、奈何なる種類《ヴアライテイー》を有つて居るか、そして内容は何に憑據《デペンド》するものかを調べる。斯うして、私の所謂文學の形式、内容の奈何なるものかが分つた上、其兩者の關係を論じ、進んで内容が時によつて分化《デイフエレンシエート》するかを究めたい。更に進んで文學が人間に及ぼす效果《エフエクト》は如何、其效果は奈何なる規則によつて支配せられるものかを見、最後に藝術家が製作する時の快樂と、讀者の快樂とを分析する積りである。
 
    FORM
 
 ブルツク〔四字傍線〕は「文學の形式は讀者に快樂を與へるやうに排列した言葉である」と云つて居る。私も一切著作《エニー、リツトユン、ウアーク》の形式《フオーム》は趣味《テースト》――好《ライク》、不好《デイスライク》の義で、哲學上の六ケしい意味ではない――に訴ふ《アツピール》べきものと定める。然らば如何なるものが趣味に訴へるかと云ふに、これは主觀的に人によつて異り、客觀的に物によつて異るものであるが、人によつて異るものは爰に論ずる限りではない。今|形式《フオーム》の客觀的條件《オブジエクチイーブ、コンヂシヨン》を分類《クラシフアイ》して見る。
Form
   T.   Arrangement of words as conveying the meaning.
     (A)Form pleasant as satisfying intellectual demands.
     (B)Form pleasant from various associations in a general way,outside of mere intellectulal demands=Miscellaneous.
    (C)Form chosen by our taste culti
    vated in historical development.
   U.  Arrangement of words as conveying combinations of sounds.
   V.  Arrangement of words as conveying combinations of shapes of words.
TのA Form pleasant as satisfying intellectual demands
 意義《ミ―ニング》を|傳へる《コンヴエー》語の排列は、先づ智力的要求を充たすことが第一義である。吾々が外國文學を研究するに當り、種々の困難を覺ゆるが中にも、その形式を會得することが至難の事に屬する。然し吾々とても彼等の言語に馴るゝに伴れ、その形式に對し幾分かは彼等と同一の興味を起すことが出來る。そして特に吾々の會得し易いものは、理解力に訴へる形式、即ち言語が智力《インテレクト》の自然的順序《ナチユラルオールダー》に排列せられた場合である。カント〔三字傍線〕(Kant)は、
  Aesthetic form is the adaptation of the object to our faculty of knowing.
と云つて居る。又ヘルバート〔五字傍線〕派の美學者シタウト〔四字傍線〕(Stout)は、彼の心理學の形式美《ビウテイー、オブ、フオーム》を述べる所に、
  Analysis shows that it consists in certain arrangements or grouplng of the parts of a whole,which facilitate attention.
と云つて居る。此言葉に從へば、|數學の解答經路《プログレス、オブ、マセマチカル、ソリユーシヨン》も美である。科學の實驗も、簡單有效《シムプル、アンド、エフエクチイブ、デヴアイス》なる方法である以上、美の形式を供へたものとなる。斯かる意味の美感《イセテイク、フイ―リソグ》を文學に應用する時は、吾々とても外國文學の形式を鑑賞する權能を持つことにならないだらうか。何となれば此際の要求は、吾々の智力的要求《インテレクチユアル、デマンド》を滿足さするか否かにあり。そして、その智力的要求は萬人を通じて普遍《ユニヴアーサル》のものであるからである。スペンサー〔五字傍線〕(Spencer)の『文體論』(Philosophy of Style)も此と同論旨である。爰にランダア〔四字傍線〕(Landor)の『ジユリアン〔五字傍線〕伯』(Count Julian)の中に、次のやうな章句がある。
  No airy and light passion stirs abroad
  To ruffle or to soothe him;all are quell'd
  Beneath a mightier,sterner,stress of mind.
  WakefuI he sits,and ionely,and unmoved,
  Beyond the arrow,shouts and views of men−
  As often-times an eagle,ere the sun
  Throws o'er the varylng earth his early ray,
  Stands solitary−stand immovable
  Upon some highest cliff,and rolls his eye,
  Clear,constant,unobservant,unabased,
  In the cold light above the dews of morn.
これをド、クウインスイー〔八字傍線〕は評して、
  One change suggests itself to me as possible for the better,viz.,if the magnificient line,――‘Beyond the arrows,shouts and views of men’――were transferred to the secondary object,the eagle,placed after what is now the last line,it would give a fuller rhythmus,to the close of entire passage;it would be more literally applicable to the majestic and solitary bird,than to the majestic and solitary man.
と云つて居る。字下線のある行を鷲の形容辭に改める方がよい、此句は人間よりも猛鳥の形容に一層適當であるから。と主張するのだ。吾々は容易に此批評に賛成するのみならず、此種の智力的要求を滿足さする形式は吾々とても指摘することが困難ではない。文體に於て明瞭《リユースイデイテイー》と順序《オ―ルダー》を尊ぶのは|智力の流れ《インテレクチユアル、フロー》を妨げられない爲めである。マツスユー、アーノルド〔十字傍線〕の文章の名文たるは、此要求を滿足させ、讀み去つて何等の障害を感じない點にあると思ふ。他の人の文章にして此を缺いても名文と稱せられるものはある、然しそれは此點を缺いて居るが故に名文たるのではなく、外に優れた長所の存在するからである。――此所に注意しておくことは、私は、智力(intellect)と云ふ文字は通常使用の意義に用ゐ、理解力と云ふと同意義に過ぎない。
 扨て此智力(Intellect)に訴へ得る形式は前述のやうに吾々が見て面白いものであるが、文章を讀むに當つて感ずる所の面白さは、形式より來るものと、それ以外の要素から來るものとがある。それで混同を避ける爲め、且つ私の使用する普遍(universal)と云ふ文字に限界《リミツト》を附する爲め智力に訴へる諸要素を分解《アナライズ》する必要がある。
 (a.)第一には文章を構成する各語(separate word)の意義が吾々の智力に訴へる場合である。各語の持つて居る思想が理解し易い場合、例へば
  The boy goes to school.
と云ふ文章に於て、それを組立つる各語は明瞭であつて、日本人でも西洋人と同じやうに理解することが出來る。即ち此文章の各語の思想は普遍的《ユニヴアーサル》である。反之、各語の思想(idea)が普遍的でない場合がある。西洋人には善く理解されるが日本人では分らない場合がある。例へばチセペル(Chapel)とかトリニテイー(Trinity)とか云ふものは、彼國には目馴れた思想のものであるが、吾國では、さうは行かない。尤もこれは無知から起る結果で、一旦分つて來れば普遍である。持つて居る思想《アイデア》その者が六ケしいのではないのだから。此場合を準普遍《スユードー、ユニヴアーサル》(Pseudo-universal)と名付ける。それで各語の思想には普遍のものと準普遍のものとがある譯だ。
 (b.)第二には各思想を表はす符號(symbol)即ち語(word)が智力に訴へる場合である。茲に一箇の思想を表はすに二ツ以上の同義語《スイノニム》あつて、解し易い程度が違ふことがある。デイレーイ(delay)と云へば解し易くプロクラステイネーシヨン(procrastination)と云へば解しにくい。但し此相違は習慣から起るものである。前者は普遍的で、後者は準普遍的である。
 (c.)第三には、各語より組立てられた言葉全體の思想が吾々の智力に|訴へる《アツピール》場合である。此場合に於ては、各語それ自身としては解し易いが、全體として解しにくいことがある。例へば
  He is she.
と云ふ句の如きは智力《インテレクト》に滿足《サテイスフアクシヨン》を與へにくい。此第三の場合は洋の東西を問はず萬人を通じて同一である、即ち普遍的《ユニヴアーサル》である。
 (d.)第四には、結合したる思想を現はす言語の順序(words-order)である。此の順序の良否によつて、智力に解、不解を起させるので、此には普遍と準普遍とがある。例へば日本語では、
 ――主格《サブゼクト》――目的格《オブゼクト》――賓辭《プレデイケート》
と云ふ順序であるが英語では、
 主格――賓辭――目的格
と云ふ順である。此場合は準普遍である。
 以上を表で示す。
   lntellectにappealして興味を起す場合
partial a.idea――(universal),(pseudo-universal).
     b.symbol――(universal),(pseudo-universal).
whole  c.idea――(universal),(pseudo-universal).
     d.Order of words――(universal),(pseudo-universal).
 aとcとは思想(idea)から、bとdとは形式(form)から來る。注意を要することは以上の分類は理論上《セオレテイカル》のものであつて、實際上《プラクチカル》のものではない。實際上は、aとb、cとdは、分離させることは困難である。例へば或文章が明晰で、善く理解力を滿足させる時、その思想が明瞭なる爲めに、さうなるのか、言葉の順序が宜しいので、さうなるのか、判然しない場合が多い。それから準普遍と名けておいたものも、嚴格に云へばのことであつて、吾々外國語を學んだ者には殆んど普遍と云つて差支ないものであることを言ひ足しておく。
 今、形式のみが吾々に滿足を與へて思想の全く缺けた文例を擧げる。此種の文例は至つて稀であることは云ふまでもない。心理學者のジエームス〔五字傍線〕(James)の見出した例より取る。
  The flow of efferent fluid of all these vessels from their outlets at the terminal loop of each culminate links on the surface of unclear organism is continuous as their respective atmosphere fruitage up to altitudinal limit of their expansibility whence when atmosphered by like but coalescing-essences from higher altitudes――those sensibiy expressed as the essential qualities of external form;――they descend and become assimilated by the afferents of unclear organism.
 全く無意味の文である。形式があつて思想はない。その形式ある爲めに、幾分|智力《インテレクト》に滿足を與へるのみである。
 次に形式と思想とが、混雜を來し、双方共明晰でなくなつた例を擧げる。但し此は智力《インテレクト》に關してのみ云ふので、感激性《エモーシヨン》に關して云ふのではない、マツスユー、アーノルド〔十字傍線〕の『ソーラブとルストム』(Sohrab and Rustum)の一節である。
  As when some hunter in the sprlng hath found
  A breeding eagle sitting on her nest,
  Upon the craggy isle of a hill-lake,
  And pierced her with an arrow as she rose,
  And followed her to find herw here she fell
  Far off;anon her mate comes winglng back
  From hunting,and a great way off descries
  His huddling young left sole;at that,he checks
  His pinion,and with short uneasy sweeps
  Circles above his eyry,with loud screams
  Chidingh is mate back to her nest;but she
  Lies dying,with the arrow in her side,
  In some far stony gorge out of his ken,
  A heap of the fluttering feather,――never more
  Shall the lake glass her,flying over it;
  Never the black and dripplng precipices
  Echo her stormy screams as she sails by,――
  As that poor bird flies home,nor knows his loss,
  So Rustum knows not his own loss,but stood
  Over his dying son,and knew him not.
此は互ひに索《さが》し合つて居る父子の二勇士が敵味方となつて戰場に一騎打をし、子は父の爲に殺される。殺した勇士を始めて己が子と覺つて、悲嘆する樣を描いたものだが、思ふに今引用した節は、形式も思想も半ば不可解である。此一節は二つの部分から成立つて居る。一は比喩《スイミル》であつて一はその比喩を用ゐる本件である。今此二つを比べて見ると、本件では父と子の二人、比譬では鳥の雌雄、雛鳥、獵師の四個が出て居る。そして本件では父が子を殺すのだが、比喩では獵師が親の雌鳥を殺し、雄鳥と仔鳥とが殘る。此比喩自身の面白い、面白くないは別問題として、簡單な事件を複雜の比喩を用ゐて解し惡いものとして了つて居る。比喩は本件と照應、平行して進まなければ、效果がないものである。これでは部分部分のみが頭脳に入つても、全體としての思想が纏らなくなる。又比喩の方では、雄鳥が雌鳥の歸り來ないのを嘆くのだが、本件では父が子を殺したのを悔い悲しむのは未來の事に屬して居る即ち本件にないことを比喩のみに述べたことになる。
此を圖解すると、
  a――b――c(比喩)
     \ :
  a′――b′……c′(本件)
本件と比喩とは平行して、cc′で結合するのが當然であるのに、比喩の方は本件よりbcの距離――雄鳥が雌鳥を呼び立てる敍述――丈長い爲め(又は本件のb′c′までを省いた爲めと云ふもよい)b′cを結び付けねばならぬやうな不都合を生じた。作者は此を救ふ爲めに、
  So that poor bird……
と戻しを附けたが、尚更に面白くない。
 最後に形式なくて思想のみを持つてゐるものの例を示す。
  Lost and gone and lost and gone!
  A breath,a whispe――some divine farewell;
  Desolate sweetness――far and faraway.
 此は思想の方から云へば完全のものだ。各語としても、又全體としても、意義は通ずるけれども、形式即ち|言葉の順序《オールダー、オプ、ウアーヅ》は缺けて居る。文法的の形式は持つて居ない。讀んで面白いのは、斯々の意味だと推測の出來るからだ。これを準普遍と云つてよろしい。
 以上の例に於て第一には形式あつて思想のないもの、次に思想と形式とが混同したもの、最後に思想はあるが形式を缺いたものを示した。文體《スタイル》論としては、思想と形式の分解し難いことを許すのは常である。ウオリター、ラレー〔八字傍線〕(Walter Raleigh)もその『文體論』(Style)の中に、
  So subtly is the connection between the two that it is equally possible to call language the form given to the matter of thought,or,inVerting the application of the figure,to speak of thought as the formal princiPle that shapes the raw material of language.(p.63)
と云つて居る。
    TのB Miscellaneous
 次に形式《フオーム》T中のBに屬するものを説く。此を「雜のもの」と名付けた理由は、明晰に解剖することが出來ないからで、その性質も大體を述べることが出來るのみである。此がAの形式と共同の點は、この形式も意味《ミーニング》を傳達《コンヴエー》するものである以上、或程度まで智力を滿足させる點である。又一方に於て音(sound)調音(euphony)等を含有して、Uの形式と共通な要素がある。即ち「雜のもの」の特徴は、一方の端《はし》はAに入り、他の一端はUの中に入り、其中央に兩者を兼有すると云つたやうのものだ。其外種々の聯想(association)から來る要素をも此部に入らせておくので、解剖が面倒である。今數例を擧げて説明して見る。
 佛蘭西のフローベール〔六字傍線〕(Flaubert)は、文體に付いて八釜しい男である。或人は彼を評して、
  ……Possessed of an absolute belief that there exists but one way of expressing one thing,one word to call it by,one adjective to qualify,one verb to animate it,he gave himself to superhuman labour for the discovery in every phrase,of that verb,that epithet.In this way,he believed in some mysterious harmony of expression,and when a true word seemed to him to lack euphony,still went on seeking another,with invincible patience,certain that he had not yet got hold of unique word…….A thousand preoccupations would beset him at the same moment,always with the desperate certitude fixed in his spirit:Among all the expressions in the world,all forms of expressions,there is but one――one form,One mode――to express What I want to say.
と云うて居る。英吉利のウオーター、ペエター〔九字傍線〕(W.Pater)はフローベール〔六字傍線〕にも讓らない喧《やかま》し屋《や》である。彼の『鑑賞』(Appreciation)の中に上記の章を引用し、
  The one word for the one thing,the one thought,amid the multitude of words,terms,that might just do:the problem of style was there! Unique word,phrase,sentence,paragraph,essay,or song absolutely proper to the single mental presentation or vision within.(p.29)
と云つて同感を表して居る。彼等の云ふ所は、或一物を寫し出すに、此にぴつたりと適合する唯一ケの名詞、一ケの形容詞、一ケの動詞がある、それ以外には存在しない、と云ふのだ。かう氣六ケしさが嵩じては、また厄介である。例へば天地間にわれと意氣相投ずる人間は一人あり、唯一人に限ると云ふと同じ理窟だ。世の中に此種の氣六ケし屋、贅澤屋の出て來るのは自然の勢でもあらうが、吾々は此等の人々の心に立入つて解剖することは困難である。假令解剖が出來ても、彼等の精選したる、一名詞、一動詞を一々御尤もと拜見する程贅澤にはなつて居らない。唯吾々日本人は、甲なる言葉が乙なる言葉よりも此場合、一層適切であると考へる位に、彼等に同情をすることが出來るのみであつて、此を秩序的に分析し、何故に甲が乙よりも勝つて居るかを示すことは出來ない。文章に於ても左樣で、英國の作者の文體につき、此《これ》は夫《それ》よりも勝つて居る、ステイーヴンソン〔八字傍線〕は明快でキツプリング〔六字傍線〕は豪壯で、カーライル、エマーソン〔十字傍線〕は突飛だ、と云ひ得る程に感ずることは出來るけれど、ペエター〔四字傍線〕やフローベール〔六字傍線〕の樣な氣六かし屋にはなり得ない。今ステイーブンソン〔八字傍線〕の一文を取つて、私の力相應の解剖を試み、面白いと感ぜられる理由を調べて見よう。面白しと思ふ客觀的要素を取出して、上述の形式に如何に當嵌まるかを檢査して見よう。
 これはステイーヴンソン〔八字傍線〕の特徴の極端に現れて居る『バラントレー〔六字傍線〕の總領』(The Master of Ballantrae)の一節である。總領か、弟のヘンリー〔四字傍線〕か、誰か一人戰爭に赴かなければならない。兄弟互ひに行くことを爭つた上、終に貨幣投げで行くものを決定せうとする。
  “I will stand and fall by it,”said Mr.Henry.“Head,I go;shiield,I stay.”
  The coin was spun,and it fell shield.
  “So there is lesson for Jacob,”says the master.
  “We shall Iive to repent of this,”says Mr.Henry.and flung out of the hall.As for Miss Alison,she caught up that piece of gold which had just sent her lover to the war and flung it clean through the family shield in the great painte dwindow.
  “If you loved me as well as I loved you,you would have stayed,”cried she.
  “I could not love you,dear,so well,loved I not honour mere,”sang the Master.
 Oh! she cried,“you have not heart――i hope you may be killed! ”and she ran from the room,and in tears,to her own chamber.
  It seems the Master turned to my lord with his most comical manner,and says he,“This looks a devil of a wife.”
  “I think you are a devil of a son to me,”cried his father,“You that have always been the favourite,to my shame be it spoken.Never a good hour have I gotten of you,since you were born,no,never one good hour,”and repeated it again the third time.
 此一章は面白いと思はれる。自白すると、私はステイーヴンソン〔八字傍線〕の文章を適度外に面白がる癖を持つて居るかも知れない。此章を讀む度に恰も古い民謠《バラツド》を讀むやうの感じがする。その理由の第一は全章を通じて難文字のないこと。第二には長綴の字がなく、殆んど單綴のみであること。第三に單文章多く、關係代名詞を用ゐないこと。複文章も一二はあるが、それも容易のもので單文章と違はないこと。第四に全體を通じて冗語なく、一閑筆なく、簡潔で弛みのないこと等である。若し他の小説家例へば、スコツト〔四字傍線〕などが此場面を書いたならば、五六枚に亙る長文を作したに相違ない。立腹、怨情の場面はこんな風に書いてよいものか、どうかと云ふ實際問題は別として、兎に角、簡筆を用ゐて居ることは爭はれない。さて吾々は此を讀んで、簡潔《シムプリシテイー》と雄健《ヴイゴア》の感じを受けると云ふ事は主觀的の批評である。此を客觀的に文の要素を取調べて、その面白味の何處までが、Aの形式から來るか、何處までが音の結合から來るか、何處までがBの形式即ち「雜のもの」の固有性に據るかを考へると、
 一、全文が平易の言葉のみから成立して居るといふことは、二樣の説明が附けられる。即ち思想が平易であるか、又は思想の符號なる言語が平易であるか、の二ツである。此を一々語に當つて吟味するのは倦怠の業であるから略するが、ステイーブンソン〔八字傍線〕はフローベール〔六字傍線〕やペエター〔四字傍線〕にも引けを取らない八釜し屋の文體家であるから推しても、單に思想の簡潔を期した外に符號――言語――をも精選したものと見られる。その結果は簡潔《シムプリシテイ―》の感じを吾々に與へるので、此要素はAの範疇《カテゴリー》に屬する。 二、長い語なく、大部分は單綴りの語であると云ふ事は、如何云ふ事になるか。吾々が同等の力と速力で長い語と短い語とを發音する場合、長い語は時と力とを失ふに反し、短い語は手取早く、勢強く發音する事が出來る。例へば“but”と“trans-substantiation”とを比較すると、前者は迅速《ラピデイテイー》と直截《デイレクトネス》とに利得するに反し、後者は此を口に上せて、優長で、緩慢で、如何にも力のないものである。故に長い言葉のないと云ふ事の結果は雄健《ヴイゴア》で、Uの範疇に入るべきものである。
 三、單文章の多いこと、單文が複文よりも解し易いことは當然で、文法上の形式から云つても左樣である。即ちAの形式に屬する。又句章に切目多く、whoやwhichなどの關係代名詞が缺けて居ると云ふことは、口に上《のぼ》す際に時と力とに益がある。此はUに屬すべきもので、結果は簡潔《シムプリシテイ―》、雄健《ヴイゴア》である。
 以上述べた外に他の要素もあらうけれど、此を引出して説明することは困難であるから止める。全體を通じて云へば、此一章に於て推服すべきは、唯此丈の言語で、斯程の思想《アイデア》を表し得たる手腕にある。わがスコツト〔四字傍線〕などに於ては此五六倍の文字を使つても、此程の效果を擧げ得るか疑しい。
 私は「雜のもの」の例として此文章を引いたが、元來Bの形式はAとUとを合併し、外に一々述べることの困難なる雜多の要素を包有して居る。しかしその雜多の要素の中から或一ケを取り出して指示することは敢へて難事ではない。今カーライル〔五字傍線〕の文章に付いて此を試みる。
  And now do but contrast this Oliver with my right honorable friend Sir Joseph Windbag,Mr.Facing-bothways,Viscount Mealy-Mouth,Earl of Windle-straw or what other Cagliostro,Cagliostrino,Cagliostraccio,the course of Fortune and Parliamentary Majorities has constitutionally guided to that dignity,anytime during these last sorrowful hundred-and-fifty years!(Past and Present)
 これは政治界に人才のないことを憤慨し、それ等凡庸の鼠輩に種々の異名を付けて嘲つたものである。此に用ゐた符號《シムボル》は目馴れない、解し難《にく》いものなるに拘らず、思想は單純である、平易簡單の思想を表すに不可思議な、奇怪な符號を用ゐて居る所が面白いのである。即ちAとは反對の、解し易からざる要素を持つて居る故に面白いと云ふ場合である。通常吾々の|智力流れ《インテレクチユアル、フロー》の害せられないのは、文章が刺激的でない爲めであるが、それでは解し易い長所のあると同時に、一本調子になる嫌ひが出來る。その單調を破る丈の刺激を與へることによつて、一種の感興を喚起することが出來る。カーライル〔五字傍線〕の此文章は平易なるにより、善く智力に訴へる場合とは反對に、智力《インテレクト》が些少の刺激を受けて、且つ留まり、且つ進み行く所に興味が生ずるのだ。例へば物蔭にかくれて、出し拔けに人を驚かした時、それと分つてから可笑さ面白さが續いて湧いて來ると同樣である。然し此種の刺激は其程度を超せば却つて快味を亡くすることになる。同じ人の
  His Excellency the Titular――
  Herr Ritter Kauderwelsch
  Von Pferde-fuss-Quacksalber.
の樣なのは刺激が極端となつて、愉快を感ずる事が出來るとは思はれない。彼の文體が兎角|野蠻《バーバラス》の批評を受けるのはその爲である。今彼の文章の面白さを感ぜさする刺激的要素を擧げて見ると、
 一、頭文字を多く使用すること。
 二、接續詞、動詞、代名詞等を落し去ること。
 三、名詞を動詞に變化すること。
等である。
 カーライル〔五字傍線〕のやうな癖のある文章を分析することは容易しい。其他の人の文體に付ても大概の見當はつく。例へばミルトン〔四字傍線〕(Milton)や、クーパー〔四字傍線〕(Cowper)のやうな長い複雜の文章と、ドライデン〔五字傍線〕(Dryden)やアデイソン〔五字傍線〕(Addison)の平易な優麗な文體の區別は誰しも見別が付く。ジヨンソン〔五字傍線〕體(Johnsonian style)とヴイクトリア〔六字傍線〕時代の文體との相違なども、比較分析することは極めて造作がない。然し甲と乙とを比較して何處かに違つて居る點はあるが、明かにそれと云ふことが出來ない場合がある。十年以前に出逢つたことのある人に會見して、其の顔が何となく變つては居るが、さて何處《どこ》と説明の出來ないと一般である。此を心理學では直感綜合(A noetic synthesis)と云ふ。支那の詩から西洋の詩に移つて見ると、如何にも違つて居るやうではあるが、讀みさして居る中には俄かに其相違點を擧げることの出來ないのも同樣な心理状態である。諸君も文體に付て此種の經驗をする場合が多からうと思ふ。
 如此分析の出來ない場合の起るのは文體《スタイル》(style)と云ふ語に廣漠なる意義を含ませるに因ることもある。例へば佛蘭西のビユフオン〔五字傍線〕(Buffon)の有名な言葉に、
  ‘Style is the man himself.’
と云ふ句がある。シヨーペンハワー〔八字傍線〕(Schopenhauer)は其文體論の初めに、
  ‘Style is the physiognomy of min dand safer index to character than the face.’
とある。爰に云ふ文體(Style)を、私の所謂|形式《フオーム》の意義に解すると、廣漠に過ぎるのだ。ビユフオン〔五字傍線〕やシヨーペンハワー〔八字傍線〕は吾々の頭脳中の内容《インハルト》、例へば節抑《テムペランス》と熱烈《ヴイメンス》、誇大《エキジアジエレ―シヨン》と謙遜《モデステイー》、温和《テンダーネス》と粗暴《ラツフネス》と云つたやうな性質を文體《スタイル》の中に含めさせるのである。|雜のもの《ミツクスト、フオ―ム》、Bが分析し惡い理由は此所にある。然し兎に角、此Bが或程度まで、面白さを吾々に與へる以上、問題は何處まで吾々が此を會得し得るかにある。そしてその程度は決して秩序的《システマチカリー》に或は論理的《ロジカリー》には演繹《デヂユース》されないものに屬する。今此|形式《フオーム》を有する一例を擧げて、吾等日本人が此に對し如何樣に感じ、又如何なる評語を下し得るかを見たい。例はヒウー、ブレエア〔七字傍線〕(Hugh Blair.1718-1800.スコツトランドの僧侶)の『修辭學講義』(Lectures on Rhetoric.Edin《エヂンバラー》.に試みた大仕掛の講義だが、センツベリイー〔六字傍線〕は彼を|つむじ曲の《バーヴアース》批評家と罵倒して居る)中、アデイソン〔五字傍線〕の『想像の快樂』(Pleasure of Imagination.Spectator.p.411)に對する批評から取る。序でに云つておくが、アデイソン〔五字傍線〕の此文は美文《ベル、レツター》の發達を論ずる時によく引用せられる。
  “Our sight is the most perfect and most delightful of all our senses.……It fills the mind with the largest variety of ideas;converses with its objects at the greatest distance;and continues the longest in action,without being tired or satiated with its proper enJoyments.”
ブレエア〔四字傍線〕は此を批評して
  This sentence deserves attention,as remarkably harmonious andwell constructed.It possesses,indeed,almost all the properties of a perfect sentence.It is entirely perspicuous;it is loaded with no superfluous or unnecessary words.For“tired”or“satiated,”towards the end of the sentence,are not used for synonymous terms.They convey distinct ideas,and refer to different members of the period;that this sense“continues the longest in action without being tired,”that is,without being fatigued with its action;and also,“without being satiated with its proper enjoyments.”That quality of a good sentence which l termed its unity,is here perfectly preserved.It is“our sight”of which he speaks.This is the object carried through the sentence,and presented to use in every member of it,by those verbs,“fills,”“converses,”“continues,”to each of which it is clearly the nominative.Those capital words are disposed to in the most proper places;and that uniformity is maintained in the construction of the selltence,which suits the unity of the object.
  Observe,too,the music of the period;consisting of three members,each of which,agreeably to a rule I formally mentioned,grows and rises above the other in sound,till the sentence is conducted,at last,to one of the most melodious closes,which our language admltS:“without being tired or satiated with its proper enjoyments.”“Enjoyments”is a word of length and dignity,exceedingly proper for a close which is designed to be a musical one.The harmony is the more happy,as this disposition of the members of the period,which suits the sound so well,is no less just and proper with respect to the sense.It follows the order of nature.First,We have the variety of objects mentioned,which sight furnishes to the mind:next,We have the action of the sight on those objects,and lastly,we have the time and continuance of its action.No order could be more natural or happy.
  This sentence has still another beauty.It is figurative without being too much so for the subject.A metaphor runs through it.The sense of sight is,in some degree,personified.We are told of its“conversing”with its objects;and of its not being“tired”or“satiated”with its“enjoyments;”all which expressions are plain allusions to the actions and feelings of men.This is that slight sort of personification,which,without appearance of boldness,and without elevating the fancy much above its ordinary state,renders discourse pIcturesque,and leads us to conceive the author' s meaning more distinctly,by clothing abstract ideas,in some degree,with sensible colours.Mr.Addison abounds with this beauty of style beyond most authors;and the sentence which we have been considering is very expressjve of his manner of writing.There is no blemish in it whatever,unless that a strict critic might perhaps obJect,that the epithet“large”which he applies to variety――“the largest variety of ideas:”is an epithet more commonly applied to extent than to number.It is plain,that he here employed it to avoid the repetition of the word “great,”which occurs immediately afterward.
と云ふ。此要點を擧げると、
 一、アデイソン〔五字傍線〕の此文章の統一《ユニテイー》あること。
 二、音樂的《ミユーズイカル》なること。
 三、人格化《パーソニフイケーシヨン》の巧妙なること。
である。一、統一は雜の形式中のものではあるが、Aの部に屬させても差支はない、理解力に訴へるものであるから。二、音調の事は未だ説かないから省く。三、人格化は其性質上から云へば思想《アイデア》に屬し、方法《マンナ―》から云へば形式に屬するのだから、特に何れに屬するかを論定する必要はない。
 扨て、吾々はブレエア〔四字傍線〕の評を讀まない前に、アデイソン〔五字傍線〕の文に對し、如何程の感興を催して居つたかと考へて見るに、私には少くとも、何等の感興を起さなかつたと思ふ。假に幾分の興味を感じたとした所で、我々はブレエア〔四字傍線〕のやうに數百千言を費す程の要を感じなかつたに相違ない。凡て吾々は解剖をしてから感ずるものでなく、感じた後に如何なる要素が斯く感ぜさするかと解剖をする。それで批評と云ふものが出來ることになる。恐らくブレエア〔四字傍線〕も斯く|感じ《フイル》て後に分析《アナライズ》したのであらう。然るに多くの場合、吾々は自分よりも|力強い《パワーフル》ものに模倣しようとする傾向があつて、或時は批評より趣味を造られることがある。扨今ブレエア〔四字傍線〕の説を聞いてアデイソン〔五字傍線〕の此章句に興味を起したかと問はれると、私自身に於ては成程と感服してしまふことの出來ないのは事實である。然し此批評家の説は間違つて居ると云つて其缺點を指摘することは出來ない。云ひ換へると、私は此文章に付いて、何等の鑑賞《アプレシエーシヨン》をも持たないと云ふことになる。かう云つた例は世の中に隨分多い。人間は賛成しなければ反對すべしと云ふ議論はない筈であるから、私もブレエア〔四字傍線〕の説に賛成もせず、不賛成を稱へなくとも不都合はない次第である。統一がある、音樂的である、と云ふ彼の説に對し、統一はないとも、音樂的でないとも云ひ得ない代りに、さうであるとも云ひ得ない、立往生の姿である。
 上の例は吾々の鑑賞を計る好個の例ではないが、秩序立つた例證を上げることが出來ないので此を掲げたのみである。次にも二三斷片的のものを擧げて見る。アール〔三字傍線〕教授(Prof.Earle.“The Philosophy of English Tongue”の著者)の『英散文、その要素と歴史と』(English Prose:its Elements and History)に、
  I remember some years ago,at the time when the Telephone was a novelty,being where many were assembled to see the new medium of communication,in a place which was not exactly a public place,and yet where many who were unknown to each other came together without ceremony.A young couple,faultless in dress and in manner,were calculated to attract attention,and in fact they were observed with interest by several of the company.By turns we all went to try the Telephone,and to say something in the way of dialogue with the voice on the other end.The young gentleman in question said:“Speak rather more loudly,”――and from that moment the interest in him and his companion visibly slackened.
電話を珍しがつて集つた數多の男女の中、極めて人目を引く若い夫婦があつた。所が其紳士が“speak rather more loudly”と云つたので一同の興を覺してしまつたと云ふ話である。成程 more loudly は拙い云ひ廻しであらうが、唯此一事を以て此紳士を教養のない人間と斷じてしまふのは早計ではあるまいか。唯彼國の人は、斯かる言葉使ひをする人は下品の人物だと、歴史的に一つの習慣を造つて居る。吾々日本人には、此事が必ずしも教養のある、ないの區別の符號《シンボル》とはならない。
 ドライデン〔五字傍線〕の『劇詩論』(Essay Of Dramatic Poesie)を書いた時、彼は、
  Terror I was in.
と云ふやうな英語風《アングリシズム》を用ゐて居るのに氣がつき、
  Terror in which I was .
と書き代へたとある。吾々は前置詞を代名詞の前に置くことが、後におくことよりも、左程推稱の價値ありとは考へない。これは歴史的趣味の有無より來る所の彼我の相違で、外に理由のある譯ではない。in 又は to の如き前置詞を代名詞の前におくのが高尚で、後におくを|間拔の文體《スラギツシ、スタイル》とする古典派の文章家の説を聞かされても、吾々は只左樣云ふものかと、理窟で認知するに止まり、此を成程と感服する譯には至らない。
 又近頃、割り不定法(Split infinitive)とて、“to”と動詞根との間に副詞を挾み to――see と云ふ形が流行になつて居る。
  to constantly maintain.
  to merely hold.
とある書き方だ。然し吾々は此を
  to maintain constantly.
  to hold merely.
と書いたのと全く同一に感ぜられる。前者を好んで用ゐる著者に對し、一方に此を攻撃する議論があるので、不思議に思ふ位である。これは各人の趣味に據り、其趣味は重に歴史的に養成されたものである。次にBの中より此歴史的の要素丈を取り出して此を論ずる。
 
    TのC Frm chosen by our taSte Cultivated in historic development
 
 Bは種々の要素を持つて居る。中にもカーライル〔五字傍線〕の樣な奇癖ある文體に包含される要素は、直ぐにそれと了解されるが、精錬した文體になると、甲にある要素と乙の持つて居る要素との見分が面倒である。田舍の村長と、村會議員と見分が付かん位に面倒である。特に歴史的に養成せられた文體になると、吾々日本人と西洋人との間に、趣味の一致することはない。洋の東西にある二つの國民の趣味が――文體上の趣味のみと云はず――一致しよう筈がない。一致する事があつてもそれは偶然である。日本人は過去の教養《カルチヴエ―シヨン》によりて、我等のあるが樣になつたものであり、英國人も亦過去の教養により、彼等がある如きものとなつたのであるから。かくして英國人は過去の因縁で一つの趣味を保ち、吾々も過去の因縁で他の異る趣味を保つて居るが、兩者互に他を知る爲には、是非共因縁たる歴史を研究せねばならない。文體の歴史的研究は決して容易の業でなく、短い時間で述べるのは不可能の事ではあるが、至極簡草に、その一通りを話して見る。
 教授アール〔三字傍線〕(Prof.Earle)は英國の文體を三個の絶頂期(three culminations)に分ち、
 第一絶頂を十世紀に、
 第二絶頂を十五世紀に、
 第三絶頂を十九世紀に、
置いて居る。十世紀に於て、英語は第一期の|不變性と安定《パーマネンスイー、アンド、スタビリティー》に達した。これよりノルマン〔四字傍線〕征服《コンクエスト》を經て、十五世紀に至り第二期を形成する。此期に於ける重要なる運動《ムーヴメント》は、サー、トーマス、マロリー〔十字傍線〕(Sir Thomas Malory)の『アーサー〔四字傍線〕の死』(Morte d 'Arthur)が此を代表して居る。アール〔三字傍線〕の言葉に從へば、十世紀に成形したるものがマロリー〔四字傍線〕によつて完成されたのだ。次いで文藝復興(Revival of Letters)の運動《ムーヴメント》によつて影響せられた英語の散文は、中に外國の散文癖《プローズ、イヂオムズ》を取込んで、變な、不自然な文體を|持出す《インツロデユース》こととなつた。そして此状況は幾分引續いて十九世紀に入つて居る。十六世紀十七世紀の英語は、その主柱《バツク、ボーン》としてはマロリー〔四字傍線〕の英語を持つて居るけれど、大體に於ては古典の支配(Dominance of Classicism)を蒙つて居ると云つて差支のない位に羅甸系統の長い章句が巾を利かせて居る。ミルトン〔四字傍線〕(Milton)の散文《プローズ》、フーカー〔四字傍線〕(Hooker)の『教會制度』(Ecclesiastica Polity)の如き其好例である。然るに十七世紀の後半に於て、反動が起り、アイザツク、ウオルトン〔十字傍線〕(Izaak Walton)の『釣りの名人』(Complete Angler)やカウレー〔四字傍線〕(Cowley)の論文(Essays)に於て見るやうに、平易な文體を書き出し、アデイソン〔五字傍線〕やステイール〔五字傍線〕の文章に近いものとなつて來た。十八世紀になると、一方にはアデイソン、ステイール〔九字傍線〕あると同時に、一方ではジヨンソン〔五字傍線〕派の羅甸語亂用者の輩出を見たが、これとてもフーカー〔四字傍線〕などのやうに甚しくはない。サー、トーマス、ブラウン〔十字傍線〕(Sir Thomas Browne)などから脱化して來たる、一體に難澁を脱した、簡潔なものとなつた。チヤールス、ラム〔七字傍線〕(Charles Lamb)やド、クウインスイー〔八字傍線〕(De Quincey)などは、其系統に屬する。十九世紀に於てはジヨンソン〔五字傍線〕風が骨子となつてラスキン〔四字傍線〕(Ruskin)やペエター〔四字傍線〕(Pater)のやうに、羅甸系の長い語や句を持つた文章をかく人もあつたが、一般の文章の傾向は簡單《シヨ――トネス》である。句も章も短くなつて、生地の英語(Vernacular English)即ちサクソン〔四字傍線〕系の英語が復活して來た。かくして英國の文體は、十世紀を起點として一箇の圓を畫いた觀がある。今此等の各時代を代表する例を上げて見る。但し十世紀のものは除く。此を擧げた所で現今の文體に何等の影響をも見出しにくいからである。十五世紀の例としてはマロリー〔四字傍線〕の『アーサー〔四字傍線〕の死』の一節を引く。アーサー〔四字傍線〕傳説が從來|退化《デジエネレート》した形《フオーム》で傳はつたものを散文に書き纏め、此に無比《ユニーク》な地位《ボジシヨン》を與へたのは、一にマロリー〔四字傍線〕の效績である。今引用する所をテニスン〔四字傍線〕の『アーサー〔四字傍線〕の死』に比較して見れば、如何に後者が前者に負ふ所多いかが分る。
  But my time hieth fast,said King Arthur unto Sir Bedivere,Therefore take thou Excalibur my good sword,and go with it unto yonder water-side,and when thou comest there,I charge thee,throw my sword into that water and come again and tell me what thou shalt see there.My Lord,said Sir Bedivere,your commandment shalt be done,and lightly bring you words agaln.So Sir Bedivere departed,and by the way he beheld that noble sword,that the pommel and the haft were all of precious stones,and then he said to himself:If I throw this rich sword into the water,thereof shall nevercome good,but harm and loss.And then Sir Bedivere hid Excalibur under a tree,and so,as soon as he might he came agaln unto the king,and said he had been at the water and had thrown the sword into the water.What sawest thou there,said the king.Sir,said he,I saw nothing but waves and wind. That is untruly said of thee,said the king,therefore go thou lightly agaln and do my commandment;as thou art to me lief and dear,spare not,but throw it in.Then Sir Bedivere returned agaln,and took the sword in his hand;and then him thought sin and shame to throw away that noble sword.And so eft he hid the sword,and returned again,and told to the king that he had been at the water and done his commandment.What saw thou there? Said the king.Sir,he said,I saw nothing but the waves wap and waves wan.Ah,traitor untrue,said King Arthur,now hast thou betrayed me twice.Who would have weened that,thou that hast been unto me so lief and dear? and thou art named a noble knight,and wouldst betray me for the richness of the sword.But now go again lightly,for thy long tarrying putteth me in a great jeopardy of my life,for I have taken cold.And but if thou do now as I bid thee,and if ever I may see thee,I shall slay thee with mine own hands;for thou wouldst for my rich sword see me dead.Then Sir Bedivere departed and went to the sword,and lightly took it up,and went to the water-side:and there he bound the girdle about hilts,and then he threw the sword as far into the water as he might;and there came an arm and an hand above the water,and met it and caught it,and shook it thrice,and brandished,and then vanished away the hand with the swordin the water.
此のやうに古典語法《クラシカル、デイクシヨン》の感化を受けない、單純《シムオウル》な自然《ナチユラル》な文體《スタイル》であつたのが、十六世紀には文藝復興によ
コンストラタンヨンインツロデユース
つて、羅典語や、羅典文の構造《》が大に|持込まれる《》こととなつた。千五百二十四年に出たモーア〔三字傍線〕(More)の『ユートピア』(Utopia)、千五百七十九年に現はれたジヨン、ライリー〔七字傍線〕(John Lyly)の『ユーフユーズ』(Euphues)や、サー、フイリツプ、シデウニー〔十二字傍線〕(Sir Philip Sidney)の『アーケーデイア』(Arcadia)、同人の『詩の辯』(Apology of Poetry.1595)、フーカー〔四字傍線〕(Hooker)の『教會制度』(Ecclesiastical Polity.1594)等何れも古典の影響を受けないものはない。其等の中で尤も有名なものは『ユーフユーズ』であるが、羅典的要素が如何に文體を變化させたかを見るにはフーカー〔四字傍線〕の『教會制度』を適當と思ふ。文章の句切の間が大層長くて、甚だしいのは四百五六十字に上るやうな長句を成して居る。
  Wherein I must plainly confess unto you that before ……But when once,as near as my slender ability would serve,I had with travail and care performed that part of the Apostle’s advice and counsel in such cases,whereby he willeth “to try all things,”and was come at the length so far,that there remained only the other clause to be satisfied wherein he concludeth that what good is must be held;there was in my poor understanding no remedy,but to set down this as my final resolute persuasion;surely the present form of Churchrgovernment,Which the laws of this land have established,is such,as no law of God nor reason of man,hath hitherto been all eged of force sufficient to prove they do ill,who to the utmostof their power withstand the alteration thereof:contrariwise;the other,which,instead of it,We are required to accept,is only by error and misconceit named the ordinance of Jesus Christ,no one proof as yet brought forth,whereby it may clearly appeal to be so in very deed.
  The explication of which-two-things I have here thought good to offer into your hands;heartily beseeching you,even by the meekness of Jesus Christ whom I trust ye love,that as ye tender the peace and quietness of this Church,if there be in you that gracious humility which has ever been the crown and glory of a ChristianIy-disposed mind;if your own souls,hearts,and consciences(the soundi ntegrity whereof can but hardly stand with the refusal of truth in personal respects)be,as I doubt not but theyare,things most dear and precious unto you;“let not the faith which ye have in our Lord Jesus Christ,”be blemished with “partialities,”regard not who it is which speaketh,but weigh only whatis spoken.(Vol.T.A preface.p.10.)
 斯う云ふ文體の傾向はミルトン〔四字傍線〕時代に二つに分岐し、その一は轉化してアデイソン〔五字傍線〕等の文章を生んだ。十七世紀の始めにはベーコン〔四字傍線〕(Bacon)の『學問の進歩』(Advancement of Learning.1605)現れ、次いでサー、トーマス、ブラウン〔十字傍線〕(Sir Thomas Browne)の『或醫師の宗教』(Religio Medici.1643)、ホツブス〔四字傍線〕(Hobbes)の『鯨』(Leviathan.1651)、アイザツク、ウオルトン〔十字傍線〕(Izaak Walton)の『釣の名人』(The Complete Angler.1653)、クラレンドン〔六字傍線〕(Clarendon)の『叛亂史』(History of Rebelion.1641)、ドライデン〔五字傍線〕(Dryden)の『劇詩論』(Essays on Dramatic Poesie.1668)が現れて居る。此處に先づミルトン〔四字傍線〕の文例を示して、彼の文體の面白いか、面白くないかを吾々の趣味に訴へて吟味して見る。文例は 1641 に出た『スメクチムヌウスに對する抗議論者の辯難批評』(Animadversion upon the Remonstrant's Defence against Smectymunuus)より取る。Smectymunuus とは Stephen,Marshal 等五人の文士の頭文字を取つて造つた假名である。
  I had no fear but that the authors of Smectymunuus to all the shew of solidity,which the remonstrant could bring,were prepared both with skill and purpose to return a sufficing answer,and were able enough to lay the dust and pudder in antiquity,which he and his,out of stratagem,are wont to raise;but when I saw his weak arguments headed with sharp taunts and that his design was,if he could not refute them,yet at least with quips and snapping adages to vapour them out,which they,bent only upon the business,were minded to let pass;by how much I saw them taking little thought for their own injuries,I must confess I took it as my part the less to endure,that my respected friends,through their own unnecessary patience,should thus lie at mercy of a coy flirting style;to be girded with frumps and curtal gibes,by one who makes sentences by the statute,as if all above three inches long were confiscate.
 「此文章を朗讀された丈で意味を解する人があるか。聞いたのみでなく、自分で此を讀んでも普通の人には解することが困難である。趣味は變化した。此の如き丹精の文體(elaborate style)を好む時代は去つてしまつた」と、エドワード、モーリス〔九字傍線〕(Edward Morris)の批評して居るのを見ると、西洋人も既に此種の文體に感興を失つて居ることが分る。然し、これを書いた本人は無論面白さを感じたのであるのみならず、近代になつてもマツスユー、アーノルド〔十字傍線〕の如きはミルトン〔四字傍線〕の散文を賞揚して居るが、これは歴史的に養成せられた趣味によりて快感を得るからである。吾々とてもミルトン〔四字傍線〕やフーカー〔四字傍線〕に没頭して研究したならば其面白味を解するやうになるかも知れない。但しその時の面白味は特殊の聯想より來るもので、決して普遍的《ユニヴアーサル》のものではない。羅典系の文體はかくしてフーカー〔四字傍線〕よりミルトン〔四字傍線〕まで勢力を逞しうしたが、アイザツク、ウオルトン〔十字傍線〕の『|釣の名人《コンプリート、アングラー》』に至つて文體は餘程穩かのものに|和げられ《スムーズ、ダウン》た。『釣の名人』はとミルトン〔四字傍線〕とアデイソン〔五字傍線〕との架橋《ブリツヂ》である、後者の優雅《グレエスフル》な平易《イーズイー》な文體《スタイル》は此に負ふ所多いのである。次にその文例を擧げる。
  I think fit to tell thee these following truth;that l did neither undertake nor write,nor publish,and much less own,this discourse to please myself;and,having been too easily drawn to do all to please others,as I propose not the gaining of credit by this undertaking,so I would not willingly lose any part of that to which I had a just title before I began it;and do therefore desire and hope,if I deserve not commendations,yet I may obtain pardon.
   And though this Discourse may be liable to some exceptions,yet I can not doubt but that most readers may receive so much pleasure or profit by it,as may make it worthy the time of their perusal,if they be not too grave or too busy men,and this is all the confidence that I can put on,concerning the merits of what is here offered to their consideration and censure;and if the last prove too severe,as I have aliberty,so I have resoIved to use it,and neglect all sour consures.(Preface)
 此種の文體が一層に平易に優美になつたのはアデイソン〔五字傍線〕のそれであり、稍硬張つて露骨になつたのがデフオー〔四字傍線〕(Defoe)やスモーレツト〔六字傍線〕(Smollet)やフイールデイング〔八字傍線〕(Fielding)等の文章である。ジヨンソン〔五字傍線〕(Johnson)の文はギボン〔三字傍線〕(Gibbon)一派を生んで、十九世紀に入りペエター〔四字傍線〕(Pater)やラスキン〔四字傍線〕(Ruskin)の文體を作つた。然し十九世紀の半頃にはラム〔二字傍線〕(Lamb)のやうな十七世紀風の文體もあり、ランダア〔四字傍線〕(Landor)のやうな別派もあるが、十九世紀の重なる特徴は生地の英語(Vernacular English)の復興と、文章の段節《パラグラフ》が短くなつた二つである。此特色を持つ適例をチヤールズ、リード〔八字傍線〕(Charles Reade)とキツプリング〔六字傍線〕(Kipling)より引用する。前者は『改心に晩過ぎることはない』(It is never too late to amend)と云ふ小説より掲げる。(因に云ふリード〔三字傍線〕の“Cloister and Hearth”は歴史小説の上乘のものの一つである。)
 ジヨージ〔四字傍線〕と云ふ男が濠洲に行つて種々の冒險をする中の、鱶に追はれる黒奴を石を投付けて助ける一段である。
  This soon became a fearful certainty.Just before he dived next time,a dark object was plainly visible on the water close behind him.George was wild with fear for poor blackee.He shouted at the monster,he shouted and beckoned to the swimmer;and last,snatching up a stone,he darted up a little bed of rock,elevated about a yard above the shore.The next dive the black came up within thirty yards of this very place,but the shark came at him the next momen…….Up came the savage panting for the breath.The fish made a dart,George threw a stone;it struck him with such a fury on the shoulders that it spun off into the air and fell into the sea forty yards off.Down went the man,and the fish afte rhim…….“Creesh!”went the sea-tiger’s flesh and teeth and the blood squirted in the circle.Down went the shark like a lump of lead literally felled by the crashing stroke.(P.314)
 文中 visible と elevated とを除けば羅典系の語は一つもない。千八百五十六年頃の此文章を近頃の『アカデミー、アンド、リテラチユーア』(“Academy and Literature.”London Times から出る)などの文章と比較して見ると、文體の面白い變化が見られる。
 次ぎにキツプリング〔六字傍線〕より、彼の特色は長短兩句を巧に配することにある。此は文の單調を避くるに必要の工夫で、彼のみと云はず、ド、クウインスイー〔八字傍線〕やマコーレー〔五字傍線〕も此方法を用ゐて居るが、ド、クウインスイー〔八字傍線〕やマコーレー〔五字傍線〕の使用する句を………… …………程の長さとすればキツプリング〔六字傍線〕のは…… ……と云つた比例に短縮きれて居る。そして中に使用する文字自身も簡易であるから、文體は自然|雄健《ヴイゴラス》な、|強さ《ストレングス》に富んだものである。その代りにアデイソン〔五字傍線〕やアーヴイング〔六字傍線〕(Irving)などの優雅《グレース》を失ひ稍殺風景の趣きがある。然し此種の男性的文體《マンリー、スタイル》が現今では勢力を得て居る。爰に『山國小話』(Plain Tales from the Hills.1888)一節を掲げる。
  Before we knew where we were,the dust storm was on us,and everything was roaring,whirling darkness.The supper-table was blown bodily into the tank.We were afraid of staying anywhere near the old tomb for fear it might be blown down.So we felt our way to the orange-tree where the horses were picketed and waited for the storm to blow over,The little light that was left vanished,and you could not see your hand if before your face.The air was heavy with dust and sand from the bed of the river,that filled boots and pockets and drifted down necks,and coated eyebrows and musstaches.It was one of the worst dust-storms of the year.We were all huddled to-gether close to the trembling horses,with the thunder chattering over-head and lightening spurting like water from a sluice,all ways at once.There was no danger of course,unless the horses broke loose.I was standing with my bead downward and my hands over my mouth,hearing the trees thrashing each other.I could not see who was next me till the flushes came.Then I found that I was packed near Saumarez and eldest Miss Capleigh,with my own horse just in front of me.I recognized the eldest Miss Capleigh,because she had a puggree round her helmet,and the younger had not.All the electricity in the air had gone into my body,and I was quivering and tingling from head to foot-exactly as a corn shoots and tingles before rain.It was a grand storm.The wind seemed to be picking up the earth and pitching it to leeward in great heaps;and the heat beat up from the ground like the heat of the Day of Judgement.
 全く日本の墨繪を見るやうだ。思想《アイデア》を外にして、形式《フオーム》それ自身が剛健《ヴイゴラス》である。
 以上は十五世紀から十九世紀まで、英國人の文體に對する趣味の推移を示す爲めに目立つた文例を掲げて見たのである。しかし、一世紀毎に唯一例を示した位では勿論不足である。元來變化は繼續的の者であるから、此を世紀別などに出來得るものではない。唯英語の文體の變化につき一般の概念を與へるに滿足する。且つ掲げた諸例の要素を分析的に列擧するには時間がない。又その必要を認めない。諸君は此を直觀的《インチユイテイーヴリー》に認め得たものとして講義を進める。
 此に注意しておきたい。マロリー〔四字傍線〕の『アーサー〔四字傍線〕の死』は簡素《シムプル》であるに反し、ミルトン〔四字傍線〕やフーカー〔四字傍線〕の文章は|重苦しく《ヘヴイー》難澁《カムブラス》である。十八世紀のアデイソン〔五字傍線〕や、ステイール〔五字傍線〕は優雅《グレースフル》であるに引き代へ、十九世紀のキツプリング〔六字傍線〕は豪壯《ヴイゴラス》である。その豪壯の文體がよいか、優美の文體がよいか、と云ふ質問を受けたとする。これは趣味の問題である、趣味は各人の氣分によるものだから、それ自身では善惡の區別は立たない。現今の英國人はアデイソン〔五字傍線〕の優雅を去つてキツプリング〔六字傍線〕の豪壯を好むのは、先着に倦んで、變化を求めた結果である。從つて現代の文體とても何時かは倦まれる運命を持つて居る。再び優雅の文體の古に新局面が回轉されるかも知れない。現在の趣味は獨立して存在するものではなく、必ずや、前代の趣味に頼據《デペンド》する、此を前代のものから切り離す時はその價値を變じてしまふものである。故に趣味の流の中に入つて、一緒に推し流されるのでなければ、現在の文體を標準とすることが出來ない譯であり、又標準とするにも及ばない理窟である。然し、今優雅も豪壯も共に文章に必要なる要素だから此等を以て説明するよりもミルトン〔四字傍線〕やフーカー〔四字傍線〕の文體を以て説明すると、私の云ふ意味がより善く了解されるかも知れない。ミルトン〔四字傍線〕やフーカー〔四字傍線〕の文章は故意に不可解的に――即ち|智力の要求《インテレクチユアル、デマンド》を滿見させぬ樣に書かれて居る。それで、彼等と同樣に歴史的に養成された趣味を持たなければ、彼等の文體に興味を起さない譯である。彼等の文體が十六世紀十七世紀に亙つて全盛を極めたのを見ると、吾々の趣味と云ふものは、歴史的關係から豫想外の處に面白味を持つに至ると云ふ事が解る。彼等英國人がフーカー〔四字傍線〕やミルトン〔四字傍線〕を好んだ理由は、第一に、彼等が羅典文を讀み馴れて居たこと。羅典文を讀むことが教育ある人の誇りであつたこと。次に羅典文體を英文體に應用することが起つたこと等である。かうなると、羅典語を上品のものと心得、此に模倣するを誇りとするに到り、羅典文の構造に興味の生ずるは自然の勢である。然し吾々のやうに彼等と同樣の境遇に居らぬものに取つては、その入り込んだ構造の文體も全く無意味であり、從つて何等好惡の意見を表はすことも出來ないのである。
 要之、英國の文體は種々の變化《チエンジ》を經、幾多の感化《インフルーエンス》を受けて今日の特性《キヤラクタリステイツクス》を生んだ。言ひ換へると、歴史的進化《ヒストーリカル、エヴオリユーシヨン》の結果、今日の英國人は|短い言葉《シヨート、ウアード》と、|短い句《シヨート、センテンス》と、生地の英語《ヴアーナキユラー、イングリツシ》とを好むのである。吾々が彼等と趣味を一致させる爲めには、|同一の變遷《アイデンテイカル、ヴイシスイテユード》を|受け《アンダーゴー》ねばならぬ。即ち彼等と|同一の經過《アイデンテイカル、プログレス》を必要とする。さもなければ、吾々の趣味《テースト》が偶然にも彼等の趣味と暗合する必要がある。此二條件の中、同一の變遷を受けると云ふことは唯空想的の事である。何となれば吾々は羅典文の構造を知るさへ容易の事でないのであるから。それで彼我趣味の一致する唯一の條件は偶然の暗合であるが、さう云ふ機會は極めて少い。決して普遍的《ユニヴアーサル》のものでない。寧ろ、さる場合を認めない方が穩當である。そこで見 地《ポイント、オプ、ヴユー》を換へて云へば、英國人は文體に付き斯々の趣味を有するが故に吾々も斯々のものを好まねはならぬと云ふ理由はない事になる。彼等は進化《エヴオリユーシヨン》の必然的進程《ネセツサリー、プロセス》によつて一ケの趣味から他の趣味へ移つた。否、移るやうに自然《ネエチユーア》より命ぜられた。軈て現在の趣味にも倦んで、昔時の趣味に立歸るか、或は又別に他の形式《フオーム》を選ぶやうに自然に命ぜられるかでなければ、彼等は現在の文體を棄てる譯に行かないのである。反之、彼等の如き過去を持たず、過去の因縁に束縛せられない吾々は、英國人の如く不自由ではない。英文の標準點を定むるに當り、現在の英文に趣味を持つも可なり。十七世紀の文體を好むも可なり。十八世紀の文體に私淑するも又自由である。何となれば束縛のない吾等は各時代を通じ自由の選擇權を有するからである。彼等と同樣の趣味を持たねばならぬと心得るのは自らを狹め自らを束縛するものである。魚に厭きない中に肉でなければならんと云ふのは愚である。
 さもあれ、吾々が彼等の持つ歴史的趣味から自由であると云ふことは、一方から見れば幸福であるが、他方から見れば不幸である。一方に束縛を持たない爲め、他方に彼等と同じ趣味を共有する權利を失つて居る。それで、吾々が英文の形式を取捨するに當つて第一に重きをなす要因《フアクタア》は其形式が代表する思想《アイデア》即ち内容《コンテソツ》である。而して、其思想を表し出すに二ケ以上の形式ある場合には、種々の點より決定するけれど、先づ一ツの形式が他のものよりも、より善く理解力に訴へるか否かで定める。此も同等である場合には、一方が他のものよりも、斬新であるとか、力があるとか、又は優美であるとか、表明的《エキスプレツスイブ》であるとか云ふ根據《グラウンド》で批判する。要するに全然普遍のものを根據として批評するか、さもなければ或程度まで外國人として解し得る性質《クオリテイー》が客觀的《オブジエクテイーブ》に存在する場合に、此を批評の要因《フアクタア》と定めるのである。然し以上の標準のみならば評價の場合左程の困難を感ずることはないが、爰に又|偶然《チアンス》の聯想《アツソシエーシヨン》よりして、或形式に吾々が愛着する趣味《テースト》で以て取捨を決する場合がある。そして其場合が存外に多いのである。此が外國文學を鑑賞するに困難なる所以である。思想その者に好惡を表して取捨を決する事は當然で不思議はない。又思想を表はす形式が解しにくいから捨てる、斬新だから取ると云ふのも當然である。然るに思想も形式も同價値で、理窟の付く諸點は悉く同等であつて、しかも甲を好み乙を嫌ふと云ふ時、其時の好惡は偶然の因習から來るのである。從つて同樣なる因習を經た人々でなければ、取捨好惡する事は出來ない。此取捨好惡が出來なければ、外國文學の形式を味ふ上に大なる損失となる譯である。
 例へば日本語で「秋風《しうふう》」と「あきかぜ」とは形式は異つて居て思想は同じである。「亡くなる」と「ごねる」、「あゝわが夫《つま》」と「お前さん」も同斷である。此等につき何を標準として選擇を行ふか。あらゆるものが同等であるが、只習慣上、此|各組《イーチ、ペーア》に附着《アツタツチ》する感情的要素《エモーシヨナル、エレメント》が違ふ、それが標準となる要素である。「秋風《しうふぅ》」は高尚で、「あきかぜ」は下卑て居ると云ふ理窟はないに拘らず、甲を取つて乙を棄てるのは、習慣に着き纏ふ感情を標準とするからである。そして此種の選擇を行はない場合には|不似合の結果《インコングリユーアス、ユフユクト》が生ずる。立場を變へると西洋人とても同樣でなければならない。それで第一には思想を標準として、第二には形式が理解《インテレクト》に|訴へる《アツピール》か否かで、第三には雜多《ミツセレーネアス》の諸點で、最後には此感情的要素《エモーシヨナル、エレメント》で取捨を決定する。吾々日本人は西洋人の文章を稽古しても、此最後の要素が我有《わがもの》となるかどうかが甚だ疑しい。假令我有となることがあつても、それは單に部分的《パーシアル》のものに過ぎまいと思はれる。之は吾々の缺點《デフエクト》で、どうすることも出來ない。唯吾々の意を強くすることは、元來これは根據のない嗜好であるから、始終浮動變化して居る。日本語の例を上げると、「……たる可し」と云ふ語は「だんべい」と云ふよりも眞面目の感じがあるけれど、それは習慣上の感じである。或は軈て「だんべい」と云ふ言葉が上品とせられる時代が來るかも知れない。下女がピアノを練習して居たら、生意氣だと評するけれども、ピアノと云ふものが日本の家毎に不斷のものとならば、左樣云ふ抗議は跡を斷つに至ると同理窟である。然し兎に角、吾々は此最後の要素を持たない爲めに、趣味の一部分が空虚となつて居る。そして此種の趣味が文學に於ては存外勢力を有するものであるから、吾々は大なる損失を受けて居ると云ふことになる。――尤もそれが爲め公平の批評家たり得ると云ふ利益がないでもない。
 現代の趣味を外人同樣の程度に持たなければ完全に外國文が解せないと云ふことは上述の理由で明白である。今ド、クウインスイー〔八字傍線〕より一例を擧げる。此は彼が新聞文學《ジアーナリステイク、リテラチユーア》の爲め英語が變化を蒙り明晰《リユーシデイテイー》を缺いた、變なものとなりつゝあると云つて慨嘆した所である。彼は宿屋を漁り廻り、或下宿屋の神さんと談判をする。そして其かみさんが漢語を話すのに業《ごふ》を※[者/火]やすのである。
  “Some eight years ago,we had occasion to look for lodging in a newly-built suburb of London to the south Of the Thames.The mistress of the house(with respect t owhom we have nothing to report more than that she was in the worst sense a vulgar woman;That is,not merely a low-bred person――so much might have been expected from her occupation――but morally vulgar by the evidence of her own complexp recautions agalnst fraud,reasonable enough in so dangerous a capital,but calling for the very ostentatious display of them which she obtruded upon us)was in regular training,it appeared,as a student of newspapers.She had no children;the newspapers were her children.There lay her studies;tha tbranch of learning constituted her occupation from morning to night;and the following were amongst the words which she――this semibarbarian poured her cornucopia during the very few minutes of our interview;which interview was brought to an abrupt issue by mere nervous agitation upon our part.The words,as noted down within an hour of the occasion,and after allowing a fair time for our recovery were these:――
  First,“Category;”secondly,“Predicament”(Where,by the way,twofold iteration of the idea――Greek and Roman――it appears that the old lady was twice armed);thirdly,“individuality;”fourthly,“Procrastination;”fifthly,“speaking diplomatically,would not wish to commit herself;”who knew but that inadvertently she might even compromise both herself and her husband;sixthly“would spontaneously adopt the several modes of domestication to reciprocal interest,”etc;and finally(Which word it was that settled us;we heard it as we reached the topmost stair on the second floor;and,without further struggle against our instincts,round we wheeled,rushed down forty-five stairs,and exploded from the house with a fury causing us to impringe against an obese or protuberant gentleman,and calling for mutual explanations;a result which nothing could account for,but steel bow or mustachios on the lips of an elderiy woman;meanwhile the fatal word was),seVenthly,“anteriorly.”Concernlng Which word we solemnly depose and make a fndavit,that neither from man,woman nor book,had we ever heard it before this unique rencontre with this abominable woman on the stair-case.The occasion which furnished the excuse for such a word was this:From the stair-case-window we saw a large shed in the rear of the house;apprehending some nuisance of“manufacturing industry”in our neighbourhood,――what's that? We demanded.Mark the answer:“A shed;that's what it is;videlicet a shed;and anteriorly to the existing shed there was――,”What there was,posterity must consent to have wrapt up in darkness,for there came on our nervous,seizure,which intercepted further communication.”(Style)
 吾々は此話を讀んで何を推定《インフアー》し得るか。ド、クウインスイー〔八字傍線〕がお神さんに對し不平で、輕蔑の言葉を弄するは、原づく所彼女の人格でなく、彼女の言語その者である。彼女の言葉が慣用語的談話體《イデイオマチツク、コロクイアル》でなく、新聞紙かぶれの、小生意氣なるものであるからである。然し吾々が此樣の女と出逢つた時、ド、クウインスイー〔八字傍線〕同樣の感を起すであらうか。それを起すには第一、書物上の英語と會話の英語の區別を知らねばならぬ。第二に會話の英語に趣味を持たねばならぬ。第三に書物の英語と會話の英語とは各領分を異にして、決して犯し合つてはならぬことを信じ。第四、これを犯した場合には不調和《インコングリユーイテイー》の點から滑稽《リユーデイクラス》感を起すやうでなければならぬ。以上の條件を具へなければド、クウインスイー〔八字傍線〕と同樣の感は起さない。然るに吾々の多くは、書物の英語と會話の英語との區別を知ること詳かでない。吾々は英國に成長したのでないから、英語の知識は書物を通して來て居る。會話の英語を知つて居るとしても、その多分は書物を讀んで得たものである。從つて兩者の區別分明でなく、相互の領土を犯しても、爲めに不都合の感を起すことは少い。又會話其者に格段の興味を持たず、かゝる興味や趣味を惹起《ひきおこ》さす所の歴史も持たない。其證據には諸君英語の方の學生は可笑しい言葉を見れば夫に興味を催すであらうが、哲學の方の學生などはそれを當り前の言葉と聞き流すことが往々あらう。要するに吾々は趣味を起すに充分な言葉に對する歴史の所有者ではないのである。趣味の歴史的經路を通過して居ないのである。例へば爰に
  (Saxon)  (Romanic)  (Latin)
   abide    endure     tolerate
   anger    fury      choler
   binding   duty      oblige
   bewail    lament     deplore
   brink    verge     mergin
   choose    prefer     select
   fair     clear      pure
   gift     grant      confer
   hinder    delay      deter
   lead     guide     direct
等の語がある。此等の語の語原も、普通の用法も知らない人に對ひ、意味のみを説明して、三種の語中何れを善しとするかを尋ねたならば、問はれた人は此字の發音が美しいとか、彼字の形が面白いとか云つて、選擇をする外はあるまい。其音も形も會得しやうのない人間ならば、宜しく願ひますと云つて引込む外はない。即ち言語の起原や、日常使用の具合やら、その歴史やらを知つて、それ等より起り來る趣味を持つでなければ、甲も乙も丙も、何等の差別はない。文句の構成に對しても左樣である。例へば林檎賣女《アツプルウーマン》が
  “I will avail myself of your kindness.”)
と云つた所で、此を聞いて可笑しい、生意氣だと思ふのは、林檎賣はこんな言葉を使はないものだ、と云ふ習慣的假定から起る。吾々が此假定令に從ふべき部員《メンバー》でない限りは、その規定に從はないでもよい譯である。又從ふことは出來得ないのである。
 若し又此所に吾々が蜜柑賣娘《オレンジガール》や林檎賣女《アツプルウーマン》の言葉を可笑しいとか、生意氣だとか感ずることあれば、それはその言葉の思想《アイデア》そのものによるのだ。今例をリチアード、ブリンスリー、シヱリダン〔リチ〜傍線〕(Richard Brinsley Sheridan.1751-1816)から取る。彼の『競爭者』(The Rivals)の中、マラプロツプ〔六字傍線〕夫人(Mrs.Malaprop)は、自分では氣が付かずに思想《アイデア》の間違つた言葉を使つて居る。此は上に云つた林檎賣女《アツプルウーマン》の場合の可笑味とは違ふ。
 “Thus,sir,she should have supercilious《(superficial)》 knowledge in accounts,and as she grew up,I should have her instructed in geometry《(geography)》,that she might know something of contagious《(contjguous)》 countries.But above all,Slr Authory,she should be mistress of orthodoxy《(ortnography)》,that she might not misspell and mispronounc ewords,so shamefully as girls usually do,and likewise that she might reprehend《(comprehend)》 the true meaning what she is saylng.This,Sir Authory,is what l would have a woman know,and l don't think there is a superstitious《(superfluous)》 article in it.”
 これならば、思想自身を對比する事によりて、歴史的の趣味なく共面白味を感ずる事が出來る。
 マコーレー〔五字傍線〕の『ジヨンソン〔五字傍線〕論』の末尾に、『ジヨンソン〔五字傍線〕の文章語と會話語との相違を指摘し、後者は簡易で、
エナージチツク     ピクチユアレスク
|力あつ《》て、生々とし《》て居るが前者は秩序的に不精確(Systematically vicious)だと云つて兩者を對照して居る。
  會話 has not wit enough to keep it sweet.
          |       |   |
  文章     vitality   preserve putrefaction
吾々は此を讀んで文章語の方を不精確だと考へることは出來ず。會話語の方を成程簡易で力があるとは氣付ても、|生々とし《ピクチユアレスク》て居るとまでは考へられない。更に
  會話 bounced.  dirtyfellow.  lie.
  文章 started up.a man of black.repose.
の如き例になると、双方熟知の程度は同等で、その何れが平易であり、何れが難澁であるかを云ひ難い。從つて、言葉その者の性質としては、甲を取り乙を捨てるべき趣味は頭脳中に持たないのである。成程私の高等學校時代と、只今とは文字の知識に於て相違はあらうが、感じの上――趣味上――の相違は略ぼ同じである。從つて趣味よりの取捨は私には出來得ない。
 ジエームス、オリフアント〔ジエ〜傍線〕(James Oliphant)は、その『ヴイクトリア〔六字傍線〕朝の小説家』(Victorian Novelists.Victorian Era Series 中の一部)の中で、スコツト〔四字傍線〕(Scott)の小説中の會話を形式的《フオーマル》で、念入りに造り上げた句が竝べられた、竹馬式文體(stilted-form――竹馬に乘つたやうな文、例へば馬琴の、「喃|某主《なにがしぬし》」と云つたやうな――)で一向氣乘りがしない、と云つて居る。これは現今の會話を標準として、此と比較して云ふのである。十九頁の處に「………彼の得意の個所が過ぎ去ると、ぎごちない文體となつてしまふ。理性のある人間は到底あのやうな言語を使用することは出來ない…………」とて『好古家』、ジヨージ〔四字傍線〕三世(Antiquary.GeorgeV)の節を引いて居る。
  “Mr.Lovel”answered Miss Wardour,“I trust you will not,――I am sure you are incapable of abusSing the advantages given to you by the services you have rendered us,which,as they affect my father,can never be sufficiently acknowledged or repaid.Could Mr.Lovel see me Without his own peace being affected,――could he see me as a friend,as a sister,――no man will be,――and from all I have ever heard of Mr.Lovel,ought to be,more welcome,but――”
 “Forgive me if I interrupt you,Miss Wardour;You need not fear my intruding upon a subject where l have been already severely repressed:――but do not add to the severity of repelling my sentiments the rigour of obliging me to disavow them.”
 “I am much embarrassed,Mr.Lovel.”replied the young lady,“by your――I would not willingly use the strong word――your romantic and hopeless pertinacity.It is for yourself I plead,that you would consider the calls which your country has upon your talents,――that you will not waste,in an idle and fanciful indulgence of an ill-placed predilection,time,which,well redeemed by active exertion,should lay the foundation of future distinction.Let me entreat that you would form a maniy resolution――”
 オリフアント〔六字傍線〕は更に附加へて、「此は偶然彼の言ひ方の拙いものを擧げ得たのではない。彼の小説の會話は皆此種の竹馬式に屬する。引用した章は、男女共激しい感動を起すべき場面であるのに、双方共頗る冷淡な言葉を話させられて居る。特に女は、後に此男の伯爵であることが解つてから、結婚するのだから、その心中餘程の感激を起して居たのだ。スコツト〔四字傍線〕の時代では、今日のやうに明晰に眞直に物云ふことが少かつたと、假定しても此のやうな會話はしまい。豫め文句を考へて置いてそれを諳誦するやうである。「ウエーブアーレー、ノヴエルズ」(Waverley Novels)の缺點は此所にある」と云つて居る。
 彼の攻撃は次の三條である。
 (一)、現在を基として考へると、當時の人間も此のやうな形式的な言葉を用ゐなかつたに相違ない。だによつて此を讀んでも一向氣乘りはしない。
 (二)、若い戀人同士はそのやうな長くどい言葉で話しをするものでない。否、出來ないものである。
 (三)、關係句(Relative Clause)の多いこと。
 中に(二)の抗議は心理學の問題である。感情の激する場合には、男女共に切れ切れの言葉を話すのが一般であるから、此批評は至當でもあらう。しかし此は普遍的の問題で、此所に取立てて論ずるにも及ばない。
 (三)は唯文章が六ケしいと云ふこと、即ち智力に訴へるか、訴へないかの問題である。上に度々説いて居る。
 (一)の抗議、即ち現在はこのやうの言葉を使はない。故に讀んで氣乘りがしない、と云ふことに付いては、吾々は賛否の權利がない。現在の形式に適ふ、適はないで、氣乘りがし、或は氣乘りがしないのは、吾々の持つて居ない所の趣味を根柢としての論であるから、賛成する必要のないと同時に、原著を味ふ場合に必要なる暗示《サツジエスシヨン》とはならない。
 要之、歴史的習慣より養はれたる趣味は偶然のものである。此に付き束縛を感ぜない吾々は、|文學の形式《リテラリー、フオーム》を鑑賞《アプレツエート》するに於て鈍感《ダル》であり、損失《ロス》が多い譯である。或は云ふものがあらう、上に擧げた諸例を見ると、吾々としても批評家等の云ふが如くに感じ得るではないか、と。然し人の批評を讀んでからその説に同感するのと、讀まない前に同じやうに感ずるのとは別物である。私の恐れる所は左樣云ふ事を申出るものは、ド、クウインスイー〔八字傍線〕や、マコーレー〔五字傍線〕の信頼すべき批評家であると云ふ先入主があつて、彼等の意向を迎へる傾向がありはしまいか。言ひ換へると、それ等の人々は批評家の説を讀まない前にも同樣の感を起し得るであらうか、或はその説を讀んだ後でもよろしい、他の類例を與へられた時ド、クウインスイー〔八字傍線〕やマコーレー〔五字傍線〕のやうに感じ得るであらうか。批評家の云ふ所を聞いて、それに相違ないと合點するのは、イアゴー〔四字傍線〕(Iago)の惡人たることを一目して解つたと云ふと同じである。批評家によつて指摘された場所は兎に角、指摘されない同樣な場所に於て、彼等と同じ感を起すのでなければ原則《プリンシプル》として解《わか》つたものとは云へない。
    U Arrangement of words as conveying combination of Sounds
 次に音の結合としての形式、即ち重に詩に付て説きたい。文の形式の中で最も吾々外國人に解し難いものは、音の結合より成るもの――重に詩――のそれである。散文にも韻律《リズム》がないことはないが、特に興味ある音の形式は詩である。此詩の形式が吾々に取りどれ程に面白いか、面白いのは如何《どん》な性質のものか。
 詩の形式は吾々に取つて最も鑑賞し難いものである。しかしそれも程度問題で、ある詩の形式は吾々とても解し得る。例へば人によつて違ふであらうが、
 1)These things seem small and undistinguishable
   Like far-off mountains turned into clouds.
             (Mid.S.N.ActIV.Sc. I. 190. )
 2)All in a moment through the gloom were seen
   Ten thousand banners rise into the air,
   With orient colours waving.
             (Paradise L.B.I.544. )
 3)I heard the ripple washing in the reeds
   And the wild water lapplng on the crags.
             (Passing of Arthur)
 4)The curfew tolls the knell of parting day
  The lowing herd winds slowly o'er the lea.
             (Elegy)
 5)I wandered lonely as a cloud
   That floats on high o'er dales and hills.
             (Daffodils)
のやうなのは、吾々日本人もその旋律《メロデイー》と韻律《リズム》の或部分を解することが出來る。然し西洋人の耳に面白いものが必ずしも吾々にも面白いとは限らない。即ち彼等の最善は必ずしも吾々の最善とは一致しないと思はれる。例へばシエレー〔四字傍線〕の『雲雀の歌』の中の
  The blue deep thou wingest
  And singing still doest soar and sOaring ever singest.
に於ける二行目 s の頭韻《アリタレーシヨン》は叱聲(hissing sound)をなして吾々の耳には不愉快《アンプレザント》に響く。此 s が例へば“strong”のやうに他の子韻によつて從はれる場合は、爲めに和げられるけれども、母韻がこれに從ふ時は|鋭い強い音《シアープ、アンド、ストロソグ、サウンド》となる。今此詩の場合では五ケの s 中四ケは母韻によつて從はれてゐるから、強過ぎて耳障りとなるのである。しかしこれが西洋人には面白いのかも知れない。でなくとも少くとも吾々程には不愉快に感じないと見える。
 斯くの如くに吾々とても或程度までは音の善惡を判斷する事が出來る。然し、其程度を超えると直ぐに吾々の鑑賞の範圍外となる。此事實を説明するには極端の例を引くのが最も便利である。何故と云ふに、普通の韻文《ヴアース》は或思想あつて、此を表現する爲めに或音の或結合をなしたものである。吾々が此を讀んで面白いと感ずる時、その感興は詩の内容の爲めに起る感激《エモーシヨン》と、音より起る感激《エモ―シヨン》との合併したもので、如何程迄が形式から起る興味であるか、如何程までが、内容即ち思想から起る興味であるかは明確に分らない。それであるから音のみに對し、吾々が如何程興味を持つたかを知る爲には、内容はなくて音のみを持つて居る形式を取つて吟味するが一番善い理由である。唯此の如き形式が果して成立し得るか、否かが疑問である。近來佛國の象徴主義者《シムボリスト》は上述のやうな傾向の詩を作り得ることを公言して居る。即ち彼等の要求する所は、詩句《ライン》は意義《センス》より獨立して、|單に音ばかり《メアリー、バイ、イツツ、サウンド》で思ふ通の感興を起させねばならぬ、と云ふのである。(Arthur Symonsの“Symbolist Movement in France”及び Max Nordau の“Degeneration”參照)獨逸では“Emotional and melodious sound is only true poetry”(感興を起す好調音のみが眞の詩である)と云ふテイーク〔四字傍線〕(Tieck)が居る。ノヴアリス〔五字傍線〕(Novalis)の言葉によれば「吾々は夢に見る雜多の場面よりも纏りの少い度合の詩を作ることを想像する。即ち前後貫徹せず、好調子で美しい言葉ばかりで、意味も内容もない、唯處々に意味の解かる節《スタンザ》は散在して居るが、それとて連絡も關係もないやうな詩を作り得ると思ふ。」(Brandesの“German Romantics”)參照)と云つて居る。斯んな主義を極端まで運んで行くと、思想拔きの「音の結合」が出來る譯だ。そんな風の詩を標準として吾々が音に對する趣味を吟味したならば、吾々と西洋人と如何程の程度まで一致するかが容易に判るであらうが、惜しいかな、英語には此種の詩を發見しない。スウインバーン〔七字傍線〕(Swinburne)の詩中には稍々此に接近したものはあるが、それとても單に音のみの興味ではなく、各語の有する|別個の光景《セパレート、ピクチユアー》が頭脳の中に入つて來て興味を助けることが多い。私がロンドン〔四字二重傍線〕に居た時ケアー〔三字傍線〕(Ker)教授――(“Epic and Romance”の著者、“Periods of Eurpean Literature”中の“Middle Age”の部を書いて居る、――の講義を聞いたが、詩には思想なく音調のみで、他の思想のあるものと同樣の興味を起すことが出來るとて、コールリツジ〔六字傍線〕(Coleridge)の『クブラ、カン』(Kubla Khan)をその例に引いた。此詩は作者が千七百九十八年、病中、魔睡剤を服用して夢中に得たものとして知られて居る。醒めてから記憶に殘つた所を書きとめて居る所へ來客があつて、或行の後は忘れてしまひ、其續きをかけなかつたと云ふ。成程此詩には統一も連絡もなく、|連續した興味《サステーンド、インテレスト》の缺乏して居ることは事實であるが、行々《ライン、ライン》には思想が存在して、單に音のみを持つ所の詩ではない。故に此を以て音のみより成る詩を鑑賞して見る手段とはならない。
  A damsel with a dulcimer
  In a vision once I saw:
  It was an Abyssinian maid,
  And on her dulcimer she play'd
  Singing of Mount Abora.
とあるやうに、一節《ワン、スタンザ》と他節《アナザー、スタンザ》との連絡は兎に角、一ケの節としては意味がある。次にメーターリンク〔七字傍線〕(Maeterlinck)の『無聊』(Ennui)と名づくる詩の英譯を掲げる。此詩の方が反つて類音(assonance)を續けるのみで意味をなさない。
  The careless peacocks,the white peacocks have flown,
  The white peacocks have flown from the tedium of awaking.
  I see the white peacocks――the peacocks of today,
  The peacocks that went away during my sleep.
  The careless peacocks――the peacocks of today
  Reach laziiy the pond where no sun is.
  I hear the white peacocks,the peacocks of Ennui
  Waiting lazily for the time when no sound is.
 佛の原文では、“en”と云ふ音が重つて來て面白いけれども英譯ではその類音《アツソナンス》が失せ去つて何の佳調もない。英語で思想の缺けた例を求めようとすると、固有名詞(音の外に何等の聯想をも齎らさない固有名詞)の連續にある。次に一二の例を掲げる。
 或女が一日説教を聞き、程過ぎてから説教師を訪れ、先日承つた御話の中にメソポタミア〔六字二重傍線〕(Mesopotamia)と云ふ言葉がありましたが、其言葉は私に大層な靈的利益《スピリチユアル、ベネフィツト》を與へて呉れましたと、自白した話がある。此は Mesopota と云ふ音から或種の感興を受けたものである。次にはロセツテイー〔六字傍線〕の『淨福の乙女』(Blessed Damosel)の一節を引く。
 “We two”she said,“will seek the groves
    Where the lady Mary is
  With her five handmaids,whose names
    Are five sweet symphonies,
  Cecily,Gertrude,Magdalen
    Margaret and Rosalys.”
終りの二行に列擧した五世紀六世紀の固有名詞が果して作者自らの云ふ如く、「五つの美しい樂の音」(five sweet symphonies)と聞えるであらうか、此等の固有名詞の來歴を知つて讀んだならば、多少の感興《エモーシヨン》を起すに相違ないが、それは別問題である。私自身に於ては此音調が作者の起したやうのエモーシヨンを感じ得ないことを自白する。
 次はミルトン〔四字傍線〕の『失樂園』中から、
         ……and what resounds
  In fable or romance or Uther's son,
  Begirt with British and Armoric knights,
  Jousted in Asperamont,or Montal-ban
  Damasco or Moracco,or Jubisand
  Or whom Biserta sent from Afric shore
  When Charlemain with all his peerage fell
  By Fontarabia.(Paradise Lost.B.I.579−587.)
 七行の中に固有名詞が十二ある。此等の名詞は單に音の爲に選んだものである。此場合に於ても、私は彼等が與へる歴史的聯想を外にして、音調自身の美は解せないのがある。――因に云ふ、英詩では英語の性質である單綴調(Mono-syllabic tone)を破る爲に、固有名詞を插入することが一種の技術となつて居る。特にスコツト〔四字傍線〕はよく此|技《アート》を用ゐる。(Marmion.Canto W.Stanza 33.を參照。)――要之《つまり》彼等西洋人と同一の耳を持つて居ない譯である。
 以上の例は吾々に興味を感ぜしめるものと、さうでないものの極端の例を秩序なしに掲げたものであるが、此によつて兎に角、吾々日本人と西洋人とは同一の耳を持たないことは解つた。然らば音の形式(Sound form)について、吾々が解し得る領分は何處までであるか。云ひ換へると、英語の音に於て吾人が解する要素は何々であるか。今便宜上假に其要素を三つに分けて説明する。
 (一)、音(Sound)自身の連續したる性質即ち旋律(Melody)
 (二)、尾韻(Rhyme)と頭韻(Alliteration)其他の反復音(Repetition of sounds)
 (三)、韻律(Rhyme)――讀む時の語勢(Stress)及び行(Line)の長短(Quantity)を意味する。音脚(Foot)や律格(Metre)は此部に入る。此三ケ條に付て吾々の面白いと思ふもの、さうでないものとを吟味して見る。
 (一)、旋律(Melody)に付では云ふべき所は少い。何故と云ふに、或詩は讀んで調子がよく、他の詩は讀んで調子が惡いことは自明のことである。しかも、如何なる音の結合が好調で、如何なる音の結合が調子が惡いかを説明することは容易の仕事でない。旋律《メロデイー》は實際問題で之を理窟にすれば二、及び三、の問題に立入らねばならない。唯注意しておくことは、西洋人の耳に面白く感ずる音の結合は必ずしも吾々に面白くはないと云ふことである。
 (二)、旋律《メロデイー》を獲得する手段として尤も顯著のものは尾韻(Rhyme)と頭韻(Alliteration)とである。前者|尾韻《ライム》は行の終に繰返されるもので、|前行の尾韻《プレシーデイング、ライン、ライム》が未だ吾々の記憶を去らない中に、又はその音が極限意識(marginal consciousness)となつて存在する間に繰返へす必要がある。さもないと何等の效能もなくなつてしまふ。然るに此極限意識となつて存在する時間の長さが、日本人と西洋人とに於て違つて居るやうである。吾々は西洋の詩を讀み、必然の結果として、彼我此時間に長短あることを推論する。從つて彼等の面白い尾韻《ライム》が吾々には面白くない場合が生ずることとなる。例へば、
  With ravished ears
  The monarch hears
  Assumes the god
  Affects to nod
  And seems to shake the spheres.
           (Dryden,Alexander's Feast)
のやうなものは初行の ears と云ふ音が記憶ある中に次の hears が來る。斯く行の短いものは吾々素人にも善く解る。
  On the ground
  Sleep sound,
  I'll apply
  To your eye,
  Gentle lover,remedy.(Mid.S.N.V.U.)
も同樣である。然し行が短くとも尾韻が一行置きとなれば、對になつて居るものよりも感じにくい。
  O'er the mountains…………………………………a
    And o'er the waves……………………………b
  Under the fountains…………………………………a
    And under the grave;…………………………b
    (Percy's Relicks.Love will find out the way.)
の如きは、前に掲げた二つの例よりも感じにくい。スコツト〔四字傍線〕の『湖の女』(Lady of the Lake)は一對づゝに押韻したる四律格(Tetrameter)である。此詩が邦人に面白がられる大半の理由は此點にあると思ふ。
  The shade of eve came slowly down,………………A
  The woods are wrapt in deeper brown,……………A
  The owl awakens from her deil,……………………B
  The fox is heard upon the fell.………………………B
テニスン〔四字傍線〕の『イン、メモーリアム』(In Memoriam)は同じく四律格《テトラ、ミーター》ではあるが、押韻はAB,BAと云ふ姿である。故に中央の二行は興味を感じ得るけれど、第一行と第四行の韻は感じにくい。
  'Tis well,'tis something,we may stand……………A
   Where he in English earth is laid,…………………B
   And from his ashes maybe made …………………B
  The violet of his native land.………………………A
五律格(Penta-meter)となるとホープ〔三字傍線〕の用ゐたヒローイツタ、カプレツト(Heroic Couplet)AA,BB……の尾韻でも吾々には適切に感じ得られない。
  What beck'ning ghost,along the moon-light
    shade………………………………………………A
  Invites my steps,and points to yonder glade?………A
  'Tis she! but why that bleeding bosom
    gor'd?………………………………………………B
  Why dimly gleams the visionary sword………………B
此五律格がAB,ABとなる時には餘程|解《わか》り惡い。グレー〔三字傍線〕(Gray)の哀歌がそれである。
  Now fades the glimmering landscape on the
    sigbt…………………………………………………A
  And all the air a solemn stillness holds,………………B
  Save where the beetle wlleels his drowing
    flight…………………………………………………A
  And drowsy tinklings lull the distant folds,……………B
更に複雜したる
 一、Ottava Rima.AB,AB,AB,CC.(Byron の Don Juan、Keats の Isabella)
 二、Spenserian Stanza.AB,AB,BC,BCC.(Byron の Childe Harold.Spenser の Faerie Queene)
 三、Terza Rima.ABA,BCB,CDC,DED.(Shelley の Ode to West Wind)の如きになると無韻詩《ブランク、ヴアース》を聞くと殆んど變らない。更に、
 四、Sonnet に於ては
             (Milton)(Tennyson)(Shakespeare)
    Octava 1 Quatrain   A    A      A
               B    B      B
               B    B      A
               A    A      B
        2 Quatrain   B    A      C
               A    B      D
               A    B      C
               B    A      D
Quatorzain
    Sestet  1 Tercet    C    C      E
               D    D      F
               F    C      E
        2Tereet    C    D      F
               D    C      S
               F    D      S
のやうに複雜を極めて來ると全く解らなくなる。此を以て見ると西洋人の極限意識は吾々のとは異つて居ると云ふ結論になる。吾々には行が短かければ短い程、韻と韻との結合が少ければ少い丈解り易い。
 次に頭韻(Alliteration)について述べる。最も感じ易い例を上げるとポー〔二字傍線〕の『からす』の中に、
  What this grim,ungainly、ghastly gaunt
     And ominous birdof yore
  Meant in croaking“never more.”(Ravwn)
gが第一行目に四度繰返されて居る。gは強い音であるから直ぐ氣が付く、面白い面白くないは別問題として兎に角注意は引かれる。そして注意を引かれると云ふことは面白味を感ずるに前つ必要條件である。g よりも弱い b の音も同樣感ずることは出來る。例へばシエークスピーア〔八字傍線〕の
  Whereat with blade,with the bloody blamefull blade,
  He bravely broached his boiling bloody breast.
              (Mid.S.N.Act X.Sc.T)
には二行の中にb音が九回も繰返されてゐて、少し滑稽に響く。此 B よりも更に輕い L 音の例を上げる、
  Ye lie,ye lie,ye liars loud,
  Sae loud I hear ye lie ! (Otter-burn)
此所にある L の頭韻の左程可笑しく聞えないのは「愛」を歌ふストレスがある爲である。即ち激した思想を歌ふ場合であるから、同音の繰返しを大目に見ると云ふ心理作用が加はるのである。最も和な音は母音である。
  Apt Alliteration's artful aid (Charles Churchill)
此母音は效力の最も少い爲に使用する人は至つて稀である。
 以上の諸例は吾々の鑑賞し得る範圍に屬する。然し頭韻も二ケ以上の吾が入り雜つて、それも不規則に出來て居る場合には吾々は此に氣が付かずに讀み過し、錯綜したる語調《ハーモニー》より生ずる興味を逸し去ることがある。
  Befor high-piled books,charact'ry
  Hold like rich garnels the full-ripen'd grain
              (Keats,Terror of Death.)
此所に頭韻の排列は
   b   l  b  r   r
   l  l  g  l   r  g
となつて居る。どうして此排列が面白いかは私には解らない。ロセツテイー〔六字傍線〕の『五人の侍女』の場合も錯雜したる頭韻が使用されて居る。
  Cecily,Gertrude,Magdalen
    Margaret and Rosalys
  l  g  r  m  g  l
  m  r  g  r  r  l
此も吾々の感じ難い部類に入つて居る。
 以上を約言すると
 一、音が強ければ強い程、
 二、反復の度數が多ければ多い程、
 三、反復の仕方が規律正しければ正しい程、
吾々は善く聞き取ることが出來る。
 (三)、韻律(Rhythm)
 西詩のどう云ふ韻律《リズム》が吾々に最も解り易いか、
  Day and night and night and day.
に於て、此を讀んで上記のやうに語勢《ストレス》をおくことは容易である。文字は皆單綴りで、and よりも day と night とが大切な意味を持つて居ることは明白であるから。然るに同じ重要の度合の文字が連續して來乘る時になると、意味の上ばかりでは何處に語勢《ストレス》を置いてよいか判じにくくなる。從つてその韻律を失ひ易い。
  Tell me / not in / mournful / members /
  Life is / but an / empty / dream / .
此第二行は誤りにくいけれど、第一行は
  Tell me / not in /
と語勢を付けて讀まれないこともない、一寸迷はせられる、しかし次に mournful と云ふ語が續いて來るので tell me と讀まねばならぬことが解る。
  The cur/few tolls / the knekk of part/ing day
  The low/ing herd / winds slow/ly oe'r / the lea./
に於て第二行の herd,winds,slowly.は共に同程度の|重大さ《イムポータンス》を持つて居るが、第一行のアイアムビツク(Iambic)であることが明白であるから同じ語勢《ストレス》で讀み續けられる。然しながら、
  Many / a green / isle needs / mustb be /
  In / the deep / wide sea / of misery. /
                  (Shelly)
に於ては第一行目のgreen isle、needs、共に同じ程度に必要な文字が連つて居り、第二行目に於てもdeep,wide,sea.共に同じ重大さであるから、アイアムビツク(Iambic)ともトロキー(Trochee)とも勝手に定められる。
 普通二綴以上の文字が行の中に發見せられる時は、其文字のアクセントを知れば、韻律《リズム》を定めるに便宜である。
  Under / a spread/ing chest/nut tree /
  The vil/lage smi/thy stands /
然し三綴以上のものとなると、アクセントを間違へるよりも|行の分量《ライン、クオンテイテイー》の觀念を失ふことの爲めに困難に陷る場合もある。
          ……or inspires
  Easy / my im/preme/dita / ted verse /
                  (Paradise Lost)
の如きはimpremeditatedと云ふ六綴の語の爲め五脚に充分間を取らせて數へ行くのが厄介である。又『マクベス』(Macbeth)にある
  No,this / my hand / will rath/er
  The mul/titu/dinous seas / incar/nadine /
のやうに長い文字が二行目のみにある場合は第一行と第二行とは同時間を保つて讀むことが困難である。
 もう一つの困難は音脚(foot)の性質に變化を起すこと、例へば、アイアムビツクの中にトロキーが入り來ることを氣付かないことである。要するに韻律に付いて吾々は、
 第一、文字の意義の重大の程合が一見判然しない時は、それのリズムを誤り易いこと。
 第二、長い文字が混じ來る時はリズムの時間を失ひ易いこと。
 第三、音脚《フート》の性質に變化を起す時、變化したるリズムの趣味を捉へ難いこと。
と云ふ一般的事實を持つて居る。此事實は吾々と英國人との間にのみ存するものか。吾々ならぬ他國民例へば獨逸人と、英國人との間にも同樣であるかを調べて見る。
 エドマンド、ゴツス〔八字傍線〕(Edmund Gosse)の『近代英國文學』(Modern English Literature)三百八頁バイロン〔四字傍線〕(Byron)の評論中に、「彼の詩の大缺點は律語《ヴアース》が滅多に正確な事はないと云ふ點だ。彼にはテニスン〔四字傍線〕やミルトン〔四字傍線〕やシエレー〔四字傍線〕などに見る一種説明の出來ない形式の結合(Combination of form)が缺けて居る。そしてその微妙な缺點は英國人でなければ氣が付かない。外國の批評家等がバイロン〔四字傍線〕を目して英國一流の詩人とするのは此所に耳がない爲である、」と云つて居る。バイロン〔四字傍線〕が大陸に於て賞讃されて居るのは事實である。そして彼が精錬を缺いて居る事もゴツス〔三字傍線〕を待つて始めて云はれたことではないが、所謂微妙な缺點は、詩の調子に關し、比較的日本人よりは勝れて居る大陸の批評家の眼を脱れる位だから、日本人の吾々が之に氣が付かないのは無理でない。
 コールリツジ〔六字傍線〕の『沙翁論』(Table Talk)中に、「彼の韻律《リズム》は非常に完全なもので、若し或行を上手《うま》く讀み得ない時は其行の眞の力を理解せずに終る。例へば彼の不完の行(Hemistich)を讀んで黙讀句切(Mental pause)をおく
  ――――……     (Femistich)
  ――――――     (complete)
時間は、その時間とヘミステイツチを讀んだ時間とを合して、次行の完全の行を讀む時間と同じやうにせねばならない」と云つて居る。然し此を聞いて吾々は成程と感心はするけれど、そんな面倒な讀み方は出來さうではない。英國の學者とても出來ないことを自白して居る。
 センツベリー〔六字傍線〕の『批評史』(History of Criticism.Vol.T.p.199)に希臘語の音調を述べて、「一つの困難は希臘人の立場に達するに不可能の點が吾等に存することだ。即ち希臘語の發音や音樂に特別に趣味を持つ人であつても、|散文の韻律《プローズ、リズム》に關したる個所は充分に理解は出來ない。希臘散文の韻律の基底音脚(basefoot)としてクリーテイツクス Cretics――即ち−(−又はピーオンズ(Paeons)−(((,(((−を使用することの特に適當であることは、恐らくは何人にも了解は出來まい」と、云つて居る。
 同樣の事が現時の英國人と佛國人との間にも起る。此場合は上述の希臘語の場合程の困難はないにせよ、同じ|國民特有の困難《ナシヨナル、デイフイカルテイー》が期待される。例へはボシユエー〔五字傍線〕(Jacques Benigne Bossuet.1627-1704.佛國の神學者)の或文章は佛人の耳には最上の壯嚴な旋律(ne plus ulta majestic melody)と聞えるが、英人に取つては充分に教養のある耳にも單に修辭的騷音(rhetorical jngle)と普くに止まるであらう。佛國人に付いて云へば、彼等は自ら熱列なる開明なる批評家と自重して居るでもあらうが、彼等は英國詩人に關して、ムーア〔三字傍線〕とシエレー〔四字傍線〕の音樂《ミユーズイツク》の何れが優れて居るかを判じ得まい、寧ろムーア〔三字傍線〕を優れりと考へて居るかも知れない。此によつて英人と佛人との間に存する趣味の相違が呑込まれる。センツベリー〔六字傍線〕が韻律《リズム》を説く時は何時《いつ》も言此に及んで居る。その批評史第一卷、百三十一頁に、「余は人から耳がよいと云はれる方ではある、しかしドクミアツク(Docmiac)(−(−の效能を解することが出來ない。又ピーオンズ(Paeons)も何の爲に用ゐたものか解せない。クヰンチリアン〔七字傍線〕(Quintilian.羅馬の修辭學者)の文章には如何なる批評をも下すことが出來ない」。同書三百十五頁に、「クヰンチリアン〔七字傍線〕は希獵語の phi を羅甸語の f,v に比較し、前者は美しく、後者は嫌はしい耳障《みゝざは》りの音だと云つて居るけれど、普通の人には何れがすぐれて美しいかが解らない、例へば Frngit の F 音は英人の耳には好調(harmonious sound)である」。同書四百三十九頁に、「ダンテ〔三字傍線〕(Dante)が“De Vulgari Eloquio”を批評した中に、此字の音は善し、彼字の音は惡しと批評して居る個所がある。今ダンテ〔三字傍線〕の惡いと難じた文字の音を見るに何故に惡いのかが充分解らない」とある。
 以上述べた所から次の命題を得た。
 一、音《サウンド》に對する趣味《テースト》は時代によりて變化しつゝあり。希臘人の趣味は今日の英人の趣味でなく、古のダンテ〔三字傍線〕の趣味は今日のセンツベリー〔六字傍線〕の趣味とは違ふ。
 二、音に對する趣味は國民によつて違ふ。英國人の趣味は佛國人の趣味ではない。
 次いで起る疑問は趣味の相異なる同士の中、何れが正しいかと云ふことである。然し此は容易に判定を許さない、何故と云ふに人間は進化と退化とを思ひ違ひすることが往々あり、且兎角現在を標準としたがる癖があるからである。然らば古今と東西とで斯く趣味の異る理由原因は何であらうか、此を充分に述べるには、私の講義の時間が不足する。それで、其筋道丈を云つて見ると、
 第一の原因は聯想である。人は聯想《アツソシエーシヨン》によつて或種の音を面白いものに考へるものである。――此所に云ふ聯想は廣義のそれで、氣隨の聯想(Arbitrary association)を指す――。
 第二の原因は反復(repetition)の充分と不充分とである。或音に對する訓練《トレーニング》の程度如何が、趣味に相違を起させる。
 第三の原因は第二の反復《レペテイシヨン》に從つて起る辨別力(discriminating power)の足、不足にある。
 第四は旋律《メロデイー》それ自身を再現《レプロデユ――ス》することの困難である。此は理論でなく、實際問題である。西洋人のやうに讀んでも必ずしも面白くはない筈であるのに、讀み方を知らない吾々が我流に讀み流して西洋の詩が面白い筈はない。
 
  總括
 
 以上を總括《レカピテユレート》する。文學と云ふものを話す爲めに、此を内容と形式と分つた、そして其形式のみに付ての説明であつた。此所に不都合なのは形式を述べるのに其定義から出發せなんだことである。然し諸君はその如何なるものなるかを既に承知されて居ると假定して始めた。そして形式の列學《エニユメレーシヨン》によつて一般概念を暗々裏に與へた積りであつた。同時に英文學よりの文例を引いて日本人は英文學の形式を如何なる程度まで解し得るかを相竝行《サイド、バイ、サイド》して説明した。その目的の爲めに形式を分類した。文學の形式は面白いもの、即ち吾々の趣味に訴へるものでなければならぬ。然らば趣味に訴へるものは奈何なる形式か、
 A.吾々の理解力に訴へてさらりと分るもの、普遍的《ユニヴアーサル》のもの。
 B.は種々の分子を含む、理解力に訴へる部分もあり、音調の部分もある。その外|刺激的《スチミユラス》のもの、珍奇《ノヴエリテイー》なもの、等を含むので此を「|雜のもの《ミツセレーネアス》」と名付けた。
 C.は單に歴史的に興味のある外に理由のない形式であつて、別項を設ける必要もないのであつたが、Bの中で最も重大なものであるから別に取り出して論じた。そして此は地方的趣味《ローカル、テ―スト》に支配されるものだから無論|普遍的《ユニヴアーサル》ではない。
 此の三ケの形式は皆|意義《ミーニング》を表はす爲の序列《オーダー》であつて音(sound)には關係しない。最後に音《サウンド》に付いて述べた。
 
  講演
 
 倫敦のアミユーズメント
      ――明治三十八年三月明治大額に於て――
 
 諸君私が夏目先生です。(笑聲起る)一體私は斯ういふ所で話をしたことがないのですけれども隈本さんが無理にしろと云ふので、ツイ引受けたものですから何かやらなければならぬことになつて仕舞ひました。然し當分はそれなり濟んで居りましたが、モウ趣向がついたらうと思ふから此二月には是非やれといふ話であつたが、然し二月といつても差迫つて居りまして、私は斯う見えても大變忙しいのです。なか/\遊んでる身體ぢやないのですから斷つた。其代り三月になれば必ず何かやりますと言質を取られた譯であります。それで三月になつて見ると、今度は先方から十一日に是非何かやれといふ譯でございますから、筆記なんかされるといふこととは少しも考へずに出て參つたのです。(笑聲起る)それでどうも非常に忙しいのですから、其爲に何の用意も出來ませんが、仕方がない、モウ時日が差迫つたものですから本を持つて來ました。詰り此本の中にある事を饒舌るのです。別にどうもえらい演説をする材料もありませず、さういふ蓄へもないですから、唯此本のことに付いて、一寸御話をします。然も本のことを能く呑込んで居れば、本を持つて來ないで覺えて居るやうな顔をして御話をしますが、それも出來ませんから、閊へたら本を見るといふことに致します。(笑聲起る)
 それで問題は――「演題未定」としてあります。誰も知らなかつた。唯今まで當人も能く分らなかつた。此本は「アミユーズメント、オブ、オールド、ロンドン」と云ふ名の本で二卷ありますが、是れは其一卷であります。二卷持つて來ても仕方がございません。それで此中の或部分に付いて御話をするといふので、詰り今日言ふことは是だけが資本《もとで》なんですな。此本は併し好い本であります。(笑聲起る)斯ういふ繪が這入つて居りますから。(此時書物を示す)此繪は普通の繪ではないのです。手で以つて繪の具を使つたので高い本です。是れは餘りないでせうから、此中の御話は少しは珍しいかと思ふのです。中にどんなことが書いてあるかと云ふと、餘り面白くはありませんかも知れませんが、倫敦の昔の、此表題にもある通り「アミユーズメント」ですな、娯樂と云ひますかな、先づ日本で云ひますと興行物です。見世物、今はないのですけれども、昔どんなものが流行つたかといふやうなことが書いてありますから、――尤も今日御集りになつた方は法律などを御遣りになる方も大分ござんせうが、併し此英語の本などを御讀みになる方には、大變知つて居つて便利になるやうなことが書いてございます。それを二三掻摘んで御話をしようかと思ふのです。
 それで先づ吾々の考では西洋人といふものは大變人道を重んずる。マア畜生、犬牛馬などに大變叮嚀である。叮嚀であると云つても挨拶は致しませんけれども、取扱方が頗る鄭重である。現に今世紀になつてから動物を優待するといふ會が出來た。優待といふのは可笑しいですけれども、苛酷に取扱はないといふ會が出來て居ります。それで吾々の考や、又吾々が平生犬や何かを取扱つて居る所を西洋人に見せては恥しい位吾々は惨酷である、と斯う自分も思ひ又西洋人も言ふのです。併しながら西洋人だつて吾々だつて人間としてそんなに異つたことはない。少し前に遡つて見ますといふと、隨分猛烈な惨酷な娯樂をやつて樂しんだものである。現に今でも西班牙では、彼の闘牛と言ひまして、牛をじらして、傷付けて樂しむといふことは今日でも皆やつて居る。それはマア西班牙邊に限ることで、英吉利、佛蘭西邊には迚も行はれない。又行はれさせない位な惨酷なるものとなつて居りますが、それと似寄つたやうなことが此十八世紀、今から百年ばかり前には英國にも行はれた。百年前と言はんよりも十九世紀に這入つて、十九世紀の始め頃には、隨分惨酷な、まさか是れと同樣でもありますまいが、餘程近いやうな亂暴な娯樂がありました。
 それがどういふ所で行はれるかと云ふと、矢張淺草の奧山といふやうな所である。――倫敦は御承知の通り今では非常に廣い所になつて居りますが、昔は極く狹い、今から百年前は、――二百年前に遡れば尚更でありますけれども、――今の殆ど何十分の一位なもので、現に此世紀の始めには、彼の動物園のある所――「ズーロジカル、ガーデン」と云つて非常に廣い所で、一度私は行つたことがありますが、半日位、中で十分費される所です。中に料理店などがありまして一日でも暮せます。尤も寐て居れば何時までも暮せますが、休まず歩いても半日位掛る非常に廣い所です。其處へ十九世紀の初め、未だ動物園の出來ない時には兎や何かが出て來て樹木を齧りましたり作物を荒して大變いかぬといふ事でした。現に今生きて居る人の阿父さん位な年輩に當る人の若い時分には其邊で能く猟をしたのですな。獵と云つてしし〔二字傍点〕なんかは居ますまいが、一寸した鳩とか雉とかいふものが捕れたさうです。今ではそれが殆ど倫敦の中央でもありませんけれども、先づマア決して外廓といふ方の側には屬して居らない。で、是で見ても倫敦の延長する激しい度合は恐しいものであります。隨つて娯樂の場所も人口に比例し、面積に比例して非常に殖えて居りますから何處に何があるといふことを數へたら大變でありませうが、今御話を仕ようといふのはさういふ繁華な今日の御話でなく極く昔の御話でありますから、隨つて娯樂の場所といふものも先づ一二指を屈すれば大概分る筈です。殊に取立てて御話をしようといふのは、「ホックレー、イン、ゼ、ホール」と云ひまして、是れは「クラーケンウエル」といふ所にあります。其「ホツクレー、イン、ゼ、ホール」といふのは一つの建物、興行場ですな。錦輝館みたやうな所ででもありませうか。其處で娯樂のため、いろ/\興行をやつた。其事に付いて御話をしようと思ふ。さうすれば外のものも自から分らうといふ、斯ういふだけの話です。
 扨「ホツクレー、イン、ゼ、ホール」はどんな所かと云ふと、今ではないのです。是れは大變濕地でありまして、東京で申すと本所、深川といふ樣なヂク/\した濕つぼい所で、始終水が出て大變不潔な所である。そこで市區改正の結果として其處は土臺を高くして仕舞つたのです。高くして仕舞ひましたから今では其家は無論取拂はれて居て其場所も何處だか、分らなくなつて居りますが、前には隨分汚なさうでございました。併し御承知の通り……ではない、御承知でないかも知れませんが、今申す通り大變ヂク/\した所で邊鄙な所であります。本所、深川といふやうな場末でありますからして近所近邊餘り其品格の善い人が住つて居りません。汚ない家がズツと建て列ねてありまして其周圍には、博勞とか或は破落漢《ごろつき》とかブツチヤーとか何とかいふ人が澤山住んで居て甚だ危險な場所になつて居る。無暗にそんな所へ足を踏込むとどんな目に遇ふか分らない。それで品格のある人、身分のある人は容易に足を踏込まない。縱令踏込んでも餘り人に知らせないやうに隱れて行く。また行つた所が汚くつて仕樣がない所である。
 そこで其の時の廣告を見ると「ジエントルマン」といふ字が殊更に書いてある。――「ジエントルマン」といふと紳士、今では紳士といふことを誰でも使ひます。日本でもさうです。恰も奧さんといふことを誰でも使ひます通りです。マア巡査の女房でも、味噌漉を提げて豆腐を買ひに行くものでも奧さんと云ふ。或は八百屋から生姜などをぶらさげて來る女房でも奧さんと云ふ如くに「ジエントルマン」といふ言葉も大層使はれて居る。吾輩も無論「ジエントルマン」であります。あなた方も無論「ジエントルマン」であります。(笑聲起る)誰でも「ジエントルマン」でありますが、其時分はさうは往かないです。話が脇へ外れますけれども一體「ジエントルマン」といふ語は、あれは「レツサー、ノビリテイー」と云ひまして貴族のかたわれです。先づ貴族を別けて公侯伯子男是れは「グレーター、ノビリテイー」。第一が.Duke.第二が Marquis.第三が.Earl.第四が.Viscount.第五が.Baron.日本の通りです。此五爵を「グレーター、ノビリテイー」と申します。それから「レツサー、ノビリテイー」になると、第一が「エスクアヤー」、今では私共の所へ來る手紙には「エスクアヤー」と書いてある。私は貴族ではないけれども、併し既に「ジエントルマン」になつた以上は決して「エスクアヤー」になれないことはない。未だ「バロン」と書いて來たのはないけれども、もう少し經つたら其位になりませう。それから「エスクアヤー」の次が即ち「ジエントルマン」、「ジエントルマン」の次が「ヨーマン」、「ヨーマン」といふと、英吉利の土着の郷士豪族のやうなもので、彼の戰國時代には大きな長い弓を持つて戰爭に從つたものです。先づそれだけ位を失張「ノビリテイー」の一つと數へてあるのです。だから「ジエントルマン」と云ふと今ではそれが通俗になりましたが、本統の意味を云ふと六ケ敷いものであります。
 そこで御話が元へ戻つて廣告に「ジエントルマン」とある。――「ジエントルマン」の爲に特に席を設けたから「ジエントルマン」に御光來を願ふといふ廣告がある。前申す通りの場所柄ですから、夏などでありますと、非常に臭い。息が能く通はない。夫故に、殊に「ジエントルメンス、クール、ガレリー」と云ひまして風通しの宜い二階などを設けて、――席料で申すと特に壹圓貳拾五錢位の所を設けて此處に入れた。其廣告が未だに殘つて居るのである。其位なことを態々廣告する所でありますから、其他の汚かつたことは推して想像が出來るのであります。だから「ジエントルマン」などは滅多にさういふ所へ這入らなかつた。
 汚ない所でありますが、其中でやる事柄即ち娯樂は一般英吉利人の大いに嗜好に投じたものでいろ/\なことをやりました。第一にやるのが所謂「ベヤ、ベーチング」あなた方が英吉利の本を御讀みになると時々さういふ字に御遇ひになるでせう。「ベヤ」といふのは熊です。「ベーチング」は調戯ふ。「ベヤ、ベーチング」は熊に調戯ふ。熊に調戯つて遊ぶのです。
 どうして調戯ふかといふと是れは又面白いのです。先づ字の起源から御話をするが、「ベヤ、ベーチング」といふ娯樂の起源は餘程古いものださうです。能く知りませんけれども何でも「キング、ヂヨン」の時に伊太利人が初めて「熊」を英吉利へ持つて來まして、さうして其時から此娯樂が起つたと傳へられて居る。代々下等社會のみならず上等社會と雖も隨分此娯樂には熱中したものです。彼の有名なる「クイン、エリザベス」は非常に是れが好きでありまして、其時分には「ベヤ、ガーデン」といふ一種の今御話する「ホツクレー、イン、ゼ、ホール」に似たやうな場所があつて、其所で「ベヤ、ベーチング」の慰みをして樂しみました。隨分盛んに行はれたもので、其盛んに行はれたといふ事は下の御話でも分ります。
 元來此「ベヤ、ベーチンゲ」は、おもに月曜日と木曜日にやるのです。大抵晝やります。所が「クイン、エリザベス」先生は大變此遊が好きですから、「ベヤ、ベーチング」をやる爲に當日は芝居を禁じた事もある位です。芝居も興行でありますから毎日やらなければならぬ。けれども月曜は「ベヤ、ベーチング」をやる爲に其方へ見物を取られてはいかないからといふので、「クイン、エリザベス」が態々御觸れを出しまして芝居をやつてはいかぬ、見るなら「ベヤ、ベーチング」を見ろと云ふ。眞に盛んなことで、其時分の熊は大層なもので、丁度常陸山とか梅ケ谷といふ資格を有つて居る。「パブリツク、キヤラクター」――「パブリツク、キヤラクター」といふと公けな人物、熊だから人物ではありませんけれども、譯すればさうです。一個人の所有ではない、全體の人が寄つてたかつて彼の熊はどうとか、此熊はどうとか言つて評判したのです。
 そこで「ベーチング」といふことを未だ説明しなかつたですが、「ベーチング」といふは何を嗾けて調戯ふかといふと犬を嗾ける。下らない話です。熊に犬を嗾けて樂しむといふ。どういふ了簡か分らないのです。けれども人間は、了簡が分らないでもやつて居ると段々分るやうになつて參ります。日本でも「ベヤ、ベーチング」が始まれば大變面白い/\と騷ぎ出すに極つて居ます。それでどんな具合に犬を熊に嗾けると申すと先づ杭を立てるです。此位な杭を立てましてさうして鎖を結付ける。鎖の長さが一丈五尺、是れは本統です。其先きへ以て行つて熊に頸輪をして其鎖へ結付けるです。するといふと熊が杭の周圍をグル/\廻ることが出來ますな。圓を劃して熊は廻ることが出來ますけれども鎖がありますから其外へ飛出すことが出來ない。其處へ以て來て犬を嗾ける。熊或は牛。――牛の話は後でしますが、熊などはあゝいふ厚い皮を着て居ります。厚い皮を着て居りますから犬が喰付いても容易に何か喰ひ取つて持つて來る譯に往かないですな。喰ひ取る譯に往かないでせう。そこでいろ/\考へたものですな。此眉間へ薔薇の花、造り花ですよ、夫をチヤンとくつ付けるのです。犬といふ奴は何處へ食ひ付くか分りませんけれども、斯ういふ所を目的にやつて來ます。若し犬が「ロゼツト」、造り花の薔薇に食ひ付いてそれを持つて來ると名譽です。それからはえらい犬になつて仕舞ひます。犬の番附の順が昇る譯です。大變珍重されたものです。
 そこで、熊は御承知の通り犬が掛つて行くと四つ足にはして居りません。立つです。二本足で立つて仕舞ふ。是れは日本でもさうです。北國の方で熊狩りをします。槍で突きますな、さうすると熊は立つて應ずる。熊が手で以て槍を斯う外へ撥る。是れは英吉利の話ではない日本の話です。ですけれども何處の熊でもさうです。二本足で立つて犬を拘へて締めるから犬が死んで仕舞ふ。それでなければ犬の上へ轉がつて上から締付ける。さうすると犬の息が止つて仕舞ふ。そこで其廣告を見ますといふと、犬を何遍掛けるといふ事が明記してあります。「レツトゴー」と云ひます。「フアイブ、レツトゴー」と言つたり、「スリー、レツトゴー」と言つたりする。三遍嗾けたり四遍嗾けたり、五遍嗾けたり、或は二疋嗾けたり三疋の犬を嗾けたりいろ/\あります。それが非常に流行つたもので其處へ行く者は無論賭をする爲に行くのです。熊が犬に食はれるか、食はれないか、斯ういふやうなことを賭をしに行つて、マアいろ/\八釜しいことを言つて其處等で一日騷いだものです。
 熊は御承知の通り餘り澤山居りませんから、遠くから持つて來なければなりません。だから成るべく珍重したものです。珍重すると言ひますと、熊を犬で責めて殺して仕舞ふまでに熊を痛めない、好い加減の時に、熊を元の通りに仕舞つてしまふ。夫から次回に又熊を元のやうに出す。是れが所謂「ベヤ、ベーチング」といふ奴です。併しながら、「ベヤ、ベーチング」はそんなに熊が澤山居りませんからして、隨つてどうもさうボピユラーでないけれども、第二の、是れから御話するのは、其「ベヤ、ベーチンゲ」よりは餘程流行つたものです。それは「ブル、ベーチング」です。
 「ブル、ベーチンゲ」といふのは御承知の通り牛です。牛を調戯ふのです。熊を調戯つた揚句牛を調戯ふのです。其調戯ひ方は失張同じですな。牛を矢張杭へ繋ぎまして頸ツたまへ鎖を結付けて矢張花を眉間へ置くです。角の尖きを圓くするです。圓くしないと牛が角で、犬を引掛けますから犬を痛めない爲に成るべく角を圓くして置く。或はいろ/\工夫をしまして牛の角の尖きを少し切りまして、さうして切つた上へ以て來て又他の大きな角を繼ぐのです。斯う長い角が出來るのです。それでイザ犬を嗾けるときに牛が應じないことがあります。應じないときには燒鏝を當てるのです。酷いことをやつたものです。燒鏝を當ててさうして牛が大いに怒つて突掛かる。之を面白がつたものです。さうして時々は牛ですからモーと聲を出す。其鳴聲を珍重したのです。彼の鳴聲は良い牛だ、彼の牛に限るなどと、いろ/\な評判が出たものです。(笑聲起る)これは本統です。それから犬を嗾けまして犬が食ひ付いたり何かしますから、牛の口の所は血だらけになる。さうすると其口の血を拭取らせる。
 犬はいろ/\な種類の犬を嗾けるのでありませうが、其持主が牛の前へ持つて行くのに耳を捉へまして持つて來る。さうしてなか/\放さない。牛の前へ持つて行つて、犬が摺り拔けて飛掛らう飛掛らうとする奴を持つて押へて居ります。イザ、非常に犬が怒つて、是れならばといふときに放すです。さうすると其犬が一直線に突掛つて行くです。それで犬の巧拙が分るです。巧く行く奴は咽喉笛へ行く、或は眉間へ行くです。是れは局所ですな。此處に今の「ロゼツト」と言ひまして薔薇の花がくつ着いて居る。其所へ行く奴がありますし、それから拙な犬になりますと、或は卑怯な犬になりますと樣子を見て居て容易に行かない。時々ぶつかつて見ちやア又今の鎖より遠い距離へ行つて黙つて見て居る。もつと下等な犬になりますと初めから行かない。初めから少しも掛らない奴がある。若し飛掛つて行つて、牛の角で以て撥ねられるといふと、是れは高い所へ行くのです。三十尺も昇るです。さうして或本に書いてある所に據ると三階に居つた女の前垂の上へ落ちて來たといふ話がある。何だか大變高く上つたものですな。それからさういふ高い所から犬が落ちるから、グサツと潰れる譯ですが、潰さしては資本が無くなりますから、犬の持主が犬が角で捲上げられるや否や直ぐ走つて出て受ける。或は棒を持つて行く。さうして落ちて來た所へ棒をあてがふと、犬が棒を滑つて降りて落ちますから餘り怪我をしないでも濟む。猛烈な犬になるとさういふ風に撥上げられて跛になります。跛になつても飛掛る。非常に聞かん氣の犬があります。一旦飛掛つて食ひつくと放さない。それは大變なものです。見て來たやうな御話をするが、チヤンと本に書いてあります。なか/\放さない。どうしても放さないといふ時には棒を持つて來て、外の人が牛を捉へて居ると、犬の口の中へ其棒を入れてさうして捻るですな。さうすると漸く犬が放すといふ。それがマア「ブル、ベーチング」の激しいのです。是れも亦賭ばかりをして、さうして客を引いたものです。
 ブツチヤーの話に、――ブツチヤーといふのは牛屋の亭主です。其牛屋の亭主の話に依りますと、牛を絞る前に斯うやるが宜いと云ふ。牛を絞る前には斯うやつて犬にかゝらせて置くと殺したときに肉が軟くなるといふ話ですが、どうか分りません。
 此遊戯は大層流行つたものです。現に十九世紀の始まりまで大いに流行つたので、或人などは大變熱中しまして死ぬ時に遺言して死んだといふ話がある。どうか俺が死んでも「ブル、ベーチング」だけは年に一回興行して貰ひたい。其代りそれに關する費用は俺の財産の中から拂つて宜しいからと斯ういふ立派な遺言をして死んだといふが、今では禁じられて居りますからさういふ風になつて居りますまい。多分其人の言ふ通りにならなかつたかも知れませんけれども、其位熱心な人がある位一般に行はれた娯樂なのです。
 又其他には犬と犬を噛合はせることもやります。又或時は廣告などにありますが、六尺の虎を何日何時何處そこで以て犬に苦しめさせるから來て見ろといふやうなこともある。或時は馬をやつた事もあります。此馬は何とかいふ、「ローチエスター」伯の持馬でありましたが非常に性質の惡い馬で、他の馬を噛殺すといふので仕方がないから、「ホース、ベーチング」をやつて殺して仕舞はうといふ譯ですな。愈々といふとき其馬へ犬を嗾けた所が、よく/\惡運の強い馬と見えて、なか/\噛殺されない。仕方がないから仕舞に馬の持主が馬を曳いて倫敦ブリツデまで來た。所が前の廣告に犬を嗾けて殺すまで馬を苦しめるから來て見ろと言つて來たのですから、見物人が承知しない。倫敦ブリツヂまで歸つて來ると、見物が騷ぎ出した。嘘の廣告を出した怪しからん、といふので小屋を叩き壞したといふことがあります。
 其他いろ/\な珍談がありますが、そんなことは略して仕舞つて、其位より知らないから其位にして、それから今度は人間といふ動物がさういふ所で喧嘩をする事を一寸申し上げませう。
 これは、其「マスター、オブ、ゼ、アート、オブ、セルフ、ヂフエンス」と稱する手合のする事です。今では柔術家が西洋へ渡つて居りますが、其柔術を「セルフ、ヂフエンス」のアートと稱へて居りますが、此言葉は近來製造したのではない。其昔十八世紀頃からあるのです。是れが一種の「プロフエツション」職業になつて居つて所謂劍客は此仕合を商賣道具として客を引いたものです。それは何をするかといふと、面も着けず籠手も嵌めず胴も着けないで、普通の姿をして出て刀で斬合ふ。隨分酷いことをやるです。日本では撃劍の勝負はありますけれども、刀で斬合つて見せることはない。所がそれをやるです。眞創勝負をやるです。其廣告はいろ/\あります。一人の人の「チヤレンジ」がある。吾輩誰某は今まで何百何十度の試合をして一遍も後れを取つたことはない。然るに今回誰某に向つて決闘を申込むとあると、其「アンサー」が付いて居る、答が付いて居る。吾輩誰某は誰からの申込を快く諾けた、若し神が許すならば、許さんだつて出れば出られますが、若し神の思召に叶ふならば當日出て大いに目覺しい働きをして相手を斬殺してやらうといふやうなことがある。
 偖當日になつて、どんなことをするかと見に行くと、矢張本統にやるです。其武器はいろ/\なのがあります。刀もありますし、其刀も日本の刀みたいに刃が一方について居る刀もあれば、突く刀もある。或は刀でないと「クオタースタツフ」、日本の棒ですな、突棒刺股と言ひますな、彼の棒を用ゐる。西洋の小説を讀んで見ますと棒使ひの名人が出て來ますが、西洋でも棒を珍重したものです。其棒を使用してやります。そこで不思議なことがある。何が不思議かと云ふと、さういふ風に決闘を毎日のやうに興行するにも拘はらず人が死なないのです。死んだ例がない。百年の間に唯一人死んだ。それは膝脹脛を斬られてパクリと創口が開いたのです。それだけの傷です。何でもない、――何でもなくはないけれども生命に別條がないです。ないけれどもそれから毒が這入つて死んだ。それが唯一の場合です。其外に死んだ奴はない。大抵眉間に傷を付けられたり、腕をやられましたり、いろ/\なことをやりますけれども死なないです。死ぬ程はやらない。死ぬ程やらないといふのは相談づくでやつて居るかといふと、何だかそれが分りませんけれども、死ぬ程深くもやらない、又やる積りもない。さういふ興行物をして人の目を引く爲にやりますから殺さないです。そこで一遍傷を受けると鉢卷をして出て來まして復やる。仕舞には死ぬまでやるかと思ふと死ぬまでやらないで何時か止めて仕舞ふのです。
 それで「リチヤード、スチール」といふ英吉利の文學者――十八世紀の文學者――其人の書いた「スペクテーター」、御承知の通り、「アヂソン」が書いたので、其中のある場所を「スチール」が手傳つて書いてあります。が其「スペクテーター」に撃劍家の事がかいてあります。「ホツクレー、イン、ゼ、ホール」の傍の「ビヤホール」みたやうな所へ先生が這入つて酒を飲んで居ると、其處へ二人の撃劍使ひが來た。さうしてお互ひに話合つて居る。何日の何時に御前と何處で立合はうなどと言つて居た。宜しい、そこで傷は僕が受けるか、君が受けるかと相談して居る。僕が受けると片一方の奴が言ふ。但餘り深く斬つて貰つては困る。好い加減に斬つて呉れる以上は僕が傷を受ける番にならうといふことを相談し合つて居つたとありますが、それは内幕を發いて或は諷刺的のことかも知れませんけれども、兎に角一人も長い間に死んだ者がないといふ所を思ひますと、そんなことがあつたかも知れない。是れが人間を闘はせる娯樂の一つでありますが、人間もさうなると動物見たやうなものであります。
 其次には女です。其女の扮装を見ると肉襦袢見たやうな極く身體へピタツとくつ着く「ヂヤケツト」を着て、西洋の女は御承知の通り、長い裾を引摺つて居ります。あんな物を着て居つては迚も出來ませぬから短い裳を着けて、それから又「ズボン」のピタツと着く物を着、白い靴足袋を穿き、其下へ以て來て「パンプス」と云ひまして護謨の靴を穿く。是れは自由自在に動けるため、今舞踏をする時に穿くやうな靴です。其靴を穿いて女が御互ひに名乘を揚げて、吾輩――吾輩とは云ひますまいが、私何の某は誰某と喧嘩をしました、と斯う云ふ。それで殘念で堪りませんから公衆の面前で決闘をして恨みを晴らさうと思ふ。若し引受けるならば何日の何時に何處そこまで來い、といふ斯ういふ申込み廣告ですよ。廣告へ申込が出て居るといふと、それに對する答がチヤンと出て居る。其答には其申込は快く承諾する。私も今まで人と喧嘩をしたけれども敗けたことはない。今度あつた時には言葉よりも「ブロー」を餘計與へてやらう、といふことが書いてあるのです。大變な女です。それでイザといふ場合に女が出て來て擲り合ひをするですな。マア何と言つて宜いか分らない。可笑しいことには其女が掌へ金を入れて握つて居る。握つて居つて若し金を落すと其方が敗けになる。それは女は一體猿の性分を承けて引掻く方が得意ですから、引掻かしてはいけない。拳固でやらなければいけない。即ち拳固を使はない虞があるから金を掌に入れまして、どうしても爪を使はないやうに、掌を開けるが否やそれが敗けとなるといふ趣向です。時には夫婦共に喧嘩をすることがある。是れは夫婦喧嘩ではない。相手が夫婦、此方も夫婦、夫婦共稼ぎに喧嘩をすることがある。(笑聲起る)それも例が出て居る。夫等がマア此「ホツクレー、イン、ゼ、ホール」といふ所でやつた娯樂のおもなるもので其他まだ御話することはないのでもないですが、……是れだけでは未だ短いですな。するといふと、モウ少し何か御話をしたいがどうもいけないな。そろ/\本を見る。(笑聲起る)
 今度御話をするのは「コツク、ピツト」と云ふ、蹴合です。モウどうせ今日は碌な御話は出來ない斯ういふ下卑た御話ばかり、「コツク、ピツト」鷄の蹴合、此鷄の蹴合が非常なる勢力のあるもので、決して日本見たやうな汚ならしい鷄ではない。大變なものです。又鷄の歴史を研究して見ますといふと、……隨分さういふと大層ですけれども、或人の説に依ると是れは希臘から傳つたものだと斯んなことを言つて居ります。それは果してさうか、どうかは分りませんが、何でも希臘の「セミストクレス」が戰爭に行く時に田舍を通つたのです。するといふと鷄が二人で――二人ではないな、二羽で喧嘩をして居た。さうするとそれが「セミストクレス」の目に留まつたといふ。「セミストクレス」がどうも鷄でさへもあゝいふ風に喧嘩をして居る。況や人間たる者が喧嘩せざるを得んではないか。諸君あれ見給へと言つたです。見ると一生懸命に蹴合をやつて居る。あの鷄は國の爲に闘ふのか恨みの爲に闘ふのか、何の爲に闘ふのか分らないぢやないか。彼は喧嘩する爲に喧嘩するのではないか。武士の標本だ。戰へ/\と言つて大いに戰爭をした。それから「セミストクレス」の催しで毎年一回鷄の蹴合會を拵へた。是れは希臘人の勇氣を助ける爲にさう云ふ吉例としまして毎年一回づゝ鷄を蹴合はしたと云ふ。是れが抑も蹴合の濫觴であるといふやうなことが書いてある。(笑聲起る)嘘かも知れません、――嘘かも知れませんが、兎に角東洋から來たものだと、斯ういふことだけは確かなやうでありますが、其東洋からして如何なる人が傳へたか、それもマア分らないとあります。分らないけれども、「ヘンリー」二世などは大いに之を奨勵して、そして悦んでやられたと云ふ話ですから大變古くからあつたものに違ひないのです。
 御承知の通り鷄の蹴合の運命にも餘程消長がありまして、或時は非常に流行り、或時は非常に流行らなかつたと言ひます。彼の「クロムエル」などといふ先生が出た時は鷄を蹴合はせるは怪しからん、止めて仕舞へと云つて鷄を一羽も蹴合はせなかつたと云ふ。(此の時校外へ號外賣來る)所へ號外が來た。(笑聲起る)どうもあんなものが來るといふと、奉天の方が面白いですからな。鷄の蹴合より日本と露西亞の蹴合つてる方が餘程面白いです。(哭聲起る)何處をやつてるんだか一向分らない。――鷄の蹴合ですな。鷄の蹴合のことを敍したものがあります。鷄の蹴合のことに付いて大いに書いたものがあります。是れは御承知の通り「ペピス」といふ人がありまして、「ペピス」といふ人が昔の日記を書いたのであります。其「ペピス」の日記は有名なものでありまして、今でも文學者、歴史家の材料には大變なるです。何月何日何處そこへ行つてどんなことがあつたとか、誰がいやな奴だとか自分のことでも他人のことでも遠慮無しに書いてある。これは人に見せる爲に書いた物でもありますまいが、どういふ具合か遺つて居る。此中に「ピツト」の話が書いてある。「ペピス」先生が書いたので、それは千六百六十三年に「シユー、レーン」へ行つて見たといふ、其時の話が長く書いてありますが、面倒ですからそんなことは略して仕舞つて大體の御話を申しますと、かうです。
 どうも其鷄は非常に頑固な奴で、一遍蹴合をしだしたらば何時まで經つても止めない。何時までもやるひどい鷄だと書いてある。さうして側の者がワイ/\八釜しく言つて始終賭をして喧嘩をする。どうも厄介な所だとも書いてある。そこで此鷄の蹴合をする場所は今の「ペピス」先生の「デスクリプシヨン」でも大分分りますが、實に下らない。大變亂暴な野蠻なものであつたらしいです。それから其構造は――「コツク、ピツト」、此處に繪がありますが、(此時書中の繪を示す)小さいから迚も分りますまい。一寸面白い繪です。日本の蹴合と違ひません。家が圓形に出來て居るのです。圓く出來て居りまして、中央が低くなつて居つて周圍が階段になつて居ります。さうして上から見るやうに出來て居ります。
 此「コツク、ピツト」の繪には有名なホガースといふ人が書いたのがあります。それは有名な繪です。今日は持つて來ようと思つたのですけれども忘れて仕舞ひました。持つて來たつて、此位な大きさの繪ですからあなた方に御分りになりますまいが、持つて來れば宜かつたけれども忘れましたから序での時に、或は普通の時間に御見せ申しても宜いです。それはどうでもいい。但構造は今御話しする通り圓く段々になつて其處で蹴合をやるやうな仕組になつて居るのです。
 それから、――何かツイ其諸方をチヨイ/\言ひますから途切れ/\で甚だ續かないから聽き苦しいか知れませぬが、マア御勘辨を願つて聽いて戴くですが、此「コツク、フアイチンゲ」は、英吉利へ移つてどういふ風にやつたかといふと、英吉利では初めは田舍者がやつたものです。市街の者、都の者は斯ういふ事を好まなかつたものと見えまして先づ田舍で鷄でも飼つて居る者、或は鷄屋の亭主見たやうな者がやつたものと見えます。
 娯樂として田舍に限つたものが、漸々後になつて都の人、身分の高い人、雲上人までもやるやうになつた。日本の鷄の蹴合は近頃はやりませぬが、あれは鷄屋の親方がおもにやる。華族さん抔が鷄を蹴合はせるといふことはない樣です。所が英吉利では、上等社會もやつたのですから隨つて鷄の種類、――後に御話しますが――又あの蹴合をする時の扮装や何かは鷄に扮装などはありませんけれども、――大變なものですよ。そこで此鷄の蹴合といふのは殊に英吉利人の非常に熱中したもので、大陸の方では餘りなかつたのです。あつたかは知りませんけれども英吉利ほど盛んでなかつた。獨逸人が英苦利へ來て「コツク、ピツト」を見て非常に驚きまして、其盛んなること皆が熱中して居ることに驚いて故郷へ手紙を遣つたといふ話がある。英吉利で英吉利人が狂氣の樣に騷ぐのは、國會議員の選擧と、それから鷄の蹴合だと書いてある。ですから非常に熱心にやつたものと思はれるです。
 是れからどんな鷄を選ぶかといふことに付いて一寸御話をしますが、先づ第一形ですね。それから色、それからどの位鷄が強いかといふこと、強くなければ駄目ですからね。それから蹴爪です。其等の點を綜合して是れは良い鷄だ、是れは惡い鷄だといふやうなことを判斷をして仕立てるのです。先づ形の方から言ひますといふと餘り大きくつてはいけないですな。後で御話をしますが、此鷄を蹴合はせるに付いては目方を量るです。何ポンド以上のものは這入れない。何ポンド以下のは這入れない。好い加減な重さの鷄でなければいけないのですから、餘り大きな鷄も小さな鷄もいけない。色は鼠色、黄色、或は赤色、或は胸だけが黒いといふ。黄色の鷄などといふのがあるでせうか。併し本にはチヤンと書いてある。それから鷄がどの位強いかといふことは鷄のチヤンと立つて居る姿勢で分るといふ。歩き方などが鷹揚に歩く鷄は強いだらう。それから鳴き方で分るだらうといふ。そんなことから是れは良い、是れは惡いといふことを極めるのです。
 それから爪ですな。此爪は鋭い爪である。或は鈍い爪であると鑑定をつける。そんなことで何うか斯うか其鷄の善惡を極める。併しながら其鷄がさういふ風に大切な鷄でありますから初めから卵から孵すこともやるのです。買ふこともありませうが、途中から卵を孵すときになると、誰と誰の卵だといふことを大變吟味するのです。どの鷄とどの鷄でつがつて出來た卵だと斯ういふのです。それからそれを孵しますな。それから養育をするといふ。或は卵を盗みに行くといふ騷ぎになる。大變な騷ぎ、非常に熱心なものです。そこで卵が手に入つて由緒正しい卵だといふ認めが付くと孵します。孵しますときには非常に注意して見て居るです。其見て居つて駄目なのがある。適當な徴候を現はさない。すると仕樣がないから是れは絞めて食つて仕舞ふといふ。斯ういふ譯、當然の話ですが。どういふのが惡い徴候かと申しますと斯ういふことが書いてあります。
 鷄が六ケ月以前に鳴いてはいかない。妙なことですな。六ケ月以前に鳴いてはいけず、然も其鳴方が明かなる聲を出してさうして太い聲を出して鳴いてはいかない。それから時を限らないで鳴いてはいかない。朝か晩か分らないで無暗にコケコツコと鳴く鷄は迚も駄目です。そんな時を知らない鷄は迚も物に成れない。是れは蹴合には使へない。是れは臆病で、さうして嘘を吐くやうな鷄だと云ふ。成程夜明けに鳴くべき鷄が夜鳴くと嘘を吐いて居る。さういふことはいけないと云ふ。
 それとは反對で本統の鷄になりますといふとどうも時を限つて何時でも間違ひのない所を鳴くと斯ういふのです。さういふ鷄は十分仕立てるといふ譯です。其仕立てる方法がマア大變難しいのですな。
 先づマア「ピツト」と云ひまして蹴合をさせる場所に入れる前にはいろ/\な養育が要るですな。「トレーニング」、丁度今で云ふと運動會の「トレ―ニング」或は短艇レースをやる前に皆が食物とか飲物を非常に氣を付けるのと同じことのやうに鷄でも、それが六週間掛ります。初めの四日は何を食はせるかと云ひますと、麺麭を食はせる。麺麭を四角に切りまして此位な小さな四角な片にして食はせる。それを其、日の出る時位に食はせるですな。それから晝丁度ドンが鳴ると食はせる。日が没すると食はせる。三遍食はせる。さういふ風に四日間麺麭を食はせて置いて、それから今度五日目になりますと外の鷄と假りに試合をさせる。本統にさせるのではない。マアどの位喧嘩が出來るかといふ、是れは Spar《スパー》と云つて外の鷄と假りに試合をさせる。其時には手袋のやうな物を嵌めて蹴合をさせる。滅多に引掻いてはいかない。手袋ではない。足へ嵌めますから足袋と言ひますか、皮で拵へた袋を嵌めて蹴合をさせて見るのです。それが濟むといふと今度は汗を發かせます。汗を發かせるといふのはどういふことかと云ふと、桶の中へ藁を一杯詰めまして其中へ鷄を入れる。藁湯をつかはせるといふ位に温い所へ入れてやるです。さうして砂糖水を飲ませます。それから牛酪を舐めさせます。大變な手數です。それから夕刻になるといふとストーブの中から出してやります。ストーブの中から出してやつて眼と頭を飼主が舐めてやる。何故舐めるんだか分らないと此本に書いてあります。(笑聲起る)分らないでせうな。併しながら舐める方が強くなると云ふ。元來日本でも鷄冠などを舐めて居ますよ。走れがマアその修業の第一期ですな。
 それから後に食はせる物は先づビスケットを食はせたり、或は麥の粉を食はせる。或はビールを飲ませますな。(笑聲起る)それから卵の白味を食はせる。鷄のくせに卵を食ふのは妙ですな。自分で自分を食つて居るやうなものですな。尤も白味だけを食ふのです。それから運動をさせる。其運動の方法は此位の圍つた所へ其鷄を入れて置きまして、私なら私が蹴合の出來ない極く駄鳥ですな、役に立たない鷄を抱いて見せる。さうして追駈けさせる。私が鷄を持つて逃げると其鷄が跡を駈けて來ませう。さういふ風にして日々運動をする。時々は其鷄を出して突つかして見るといふことをする。それから後に又菜葉を食はせる。牛酪を舐めさせるといふ。斯の如くトレーニングを重ねて行きまして、それから先づ第一ケ月が濟んで愈々試合の始まる二週間ばかり前になるといふと、斯んなに運動させては身體に障るといふので止めるのです。それから戯談の蹴合、是れも暫く止めさせます。唯時々は下らない鷄を追駈けさしたりするのです。愈々四日前から碌に運動もしなければ、何もしないでも宜い。唯遊ばして寢かせて置くのです。それから四日目には、今度は愈々蹴合をさせるといふので愈々身體を飾るです。其飾り方は面白いのですがな。頭の毛は坊主にヂヨキ/\切つて仕舞ふ。クリ/\坊主にする。五分刈三分刈にする。それから頸の所も切つて仕舞ふ。其他尻尾は丁度扇を開いた如く切ります。
 それから羽ですな。翼ですな。翼を一本々々に斜かけに切るです。一本々々に切るのです。是れは羽搏きしたときに敵の眼を潰すためです。それから足へ以て來て、針を嵌めます。吾々が靴の此處へ嵌めるやうなもの、足で蹴るのでせう。蹴るときに普通の蹴り方ではいかないから其處へ以て來て外科醫者の使ふやうな曲つた針を嵌めるのです。それは銀で出來て居るのと、鋼で出來て居るのがあります。賭の安い時には鋼の方を使ふ。といふのは鋼の方が強うございますからウンとやると早く勝負が着いて仕舞ふ。銀は左程に鋭くないから長く戰爭が續くので大きな賭をする。百磅とか二百磅とかいふ大きな金で賭をする時は成るべく闘ひを長引かせる方が宜いですから銀を嵌める。
 斯うやつて初めて蹴合の場所へ出すのですから、なか/\金が要る。貧乏人には出來ないことです。日本の鷄屋の親方などがやるのとは大變な相違です。非常に金の掛る、手數の掛ることをやらなければならんのです。それから鷄を愈々出すことが出來るといふ場合になると、今度は鷄の會といふものをやります。蹴合をする會といふものが始まる。
 其會には幾通りもありますが、其大きなものを「メイン」と言ひます。字の意味から云ふと、主なるものと云ふ義であります。相撲なら相撲で云ふと、それは大相撲といふやつです。其中には「バイバツトル」、或は「ウエルチ」、或は「バツトル、ローヤル」といふのがあります。それは後から説明しますが。
 そこで「メイン」といふことをやる前に、即ち大相撲をやらせる前には大變な儀式が要るものです。即ち鷄を澤山寄せまして目方を量らねばならぬ。誰と誰とを蹴合はせるといふことを極めねばならぬ。即ち愈々大相撲の始まる一週間前位或は何日か前にそれをやるです。其何月何日に出會つて目方を量るといふことは其個條書があつて細々しいことに至るまで是れは法律的の文句でチヤンと認めてある。併しながら此鷄と此鷄と蹴合はせることが極つて未だ三日なら三日蹴合をするまでは間があれば其間に目方を増さうとも勝手次第。増さうと思へば美味しい物を食はせたりして成るべく精をつけてやる。それは當人の勝手次第でありますけれども、其目方を掛け合はせる時は非常に嚴重な手續を要するのです。それで其目方はどの位あるかと云ふと、先づ三ポンド八オンスから四ポンド十オンスと斯ういふ。それよりも重い鷄、それよりも輕い鷄は皆掃出されて仕舞ふ。尤も是れはそれより重い鷄でも番組の中へ這入れないからして、番外御好みといふことでやらしても構はない。
 それで此「メイン」といふのは三通りあります。即ち今の大相撲といふのが三通りありまして、一番長いのが一週間續く、毎日々々やつて一週間續く。是れは倫敦に居る總ての鷄の持主と地方の鷄の持主との競爭の相撲です。倫敦の鷄と地方の鷄と競爭する。一週間の蹴合だといふので地方から態々出て來るのです。是を「ロング、メイン」と唱へます。それから短いのになると三日或は二日位で濟む。
 それからモウ一つ「ウエルチ」といふのがある。此「ウエルチ」には金盃を懸けたり豚何頭を賭けたり其他いろ/\な褒美を遣つてやるのですが、是れは「ウエルチ、メイン」と稱へるのです。是れは十六羽の鷄を選んで八羽づゝ組合はせてやる。勝つて殘つた八羽を又四羽づゝに分けて又やらせる。四羽殘つた鷄を、又分けて今度は二羽になるまでやつて、二羽で何方か勝つたものが最後の勝利を占めるといふ遣り方です。
 又「バツトル、ローヤル」は十羽とか二十羽の鷄を一度に放し、勝手次第に喧嘩をさせる。誰が誰を突つくやら、後から突ついたり前から突ついたり何處の敵を蹴つて居るか分らない。それから役人が立會ひます。行司といふ譯で。それが二人でありまして、「フイーダース」、又は「セタースツー」と云ふ名であります。是れは鷄と鷄が場所へ出ますと鷄の態度を拵へてやる。鷄の嘴と嘴とを持つて來てチヤンと合はせるやうにしてやる。又毛氈や何かに足をからんだりすると直してやる。さういふ役をする人が二人。モウ一つは「テラー、オブ、ゼ、ロー」と言ひまして法律を話す人と譯のつく役です。それは審判官です。此審判官はどんなことをするかと云ふと此場所では大變な賭をする。金錢の出入でありますから頗る八釜敷い。從つて其賭をやるには非常に六ケ敷い儀式、細々しいことを覺えて居らなければならぬ。滅多なことをやると爭ひが出來ますから、專門にこんな役を作つて便宜を計つたものと見えます。さうして其賭には大變なのがあります。五百磅から千磅、日本の五千圓から一萬圓といふのがある。尤も賭の種類には一度毎にかけるのと悉皆の全勝に賭けるのといろ/\ありますけれども、兎に角さういふ莫大な賭をする。そこで「テラー、オブ、ゼ、ロー」といふのが前申す通り勝負の上についていろ/\な世話を燒くです。例へば鷄にも狡猾なのがありまして、敵に容易に掛らない。遠くから形勢を觀望して居るのがあります。さうすると困るです。「ロング、メイン」と言ひまして、例へば一週間も續くときには到底早く片付けなければならぬのに何時までも「待つた」をして愚圖々々して居つては仕樣がない。其時は此「テラー、オブ、ゼ、ロー」が斯んな風な捌き方をする。即ち勘定をするのです。一、二、三、四、と、二十迄を二遍繰り返します。それでも鷄が立ち合はなければ、又十を十遍繰返して百まで云ひます。然も其間にいろ/\な文句を言ふ。「ワンス、レフユーズド」とか、「トワイス、レフユーズド」とか、十の切れ目毎に呼びます。夫で十を十遍くり返して時を計つてもまだ鷄が、蹴合はない事がある。すると見物の中から其鷄は駄目だから止めろと云ふ。若し其鷄が勝だと賭ける者があるならばこちらでは四十賭けるがどうだと云つて土俵の上へ帽子を投げて相手を探がすのです。それでも應ずる者がないと鷄は土俵から下げられて仕舞ふ。凡てこんな處置をつける爲に、「テラース、オブ、ゼ、ロー」がくつ着いて居る。
 それから先刻一寸御話をしました「ホガース」といふ人のかいた蹴合の圖の中に斯ういふ所がかいてあります。鷄が蹴合をして大勢見て居ると、何だか畫面へ影が射して居る。其影が妙な影で、段々調べて見ると斯ういふ譯なのです。
 賭をする場所ですな。賭をする場所に金を持たないで這入り込む奴が時々ある。或は贋金を使ふ奴があります。さういふ奴は妙な刑罰になるのです。籠がありましてギユーツと旗竿の上へ釣す具合に其籠の中へ其人間を入れて棒の先きへ釣して見せるです。ホガースの畫にある所は其興行場の屋根の先きへ其奴がつるされて時計を出して居る所が地面に寫つたものださうです。此時計を遣るから勘辨して呉れ、降して呉れ、降して呉れといふ意味を畫で示したものださうです。詰り自分が金を持たずに賭をしたのは誠に濟まないから、此時計を賭の代りに取つて呉れと云ふことを畫工だから、かう云ふ趣向で描いたのです。
 マア、そんなものですな。モウ三時十分ですから大抵宜うございませう。今度は面白い話をしますよ。今日は面白くないのみならずゴタ/\して秩序がなくつて御聞き苦しかつたでせう。併し此でも面白いと思ふ人は勝手に面白いと思って下さい。(拍手喝采)
      −明治三八、四、八−五、八『明治學報』−
 
 ヘ育と文藝
   ――明治四十四年六月十八日長野縣會議事院に於て――
 
 私は思ひがけなく前から當地のヘ育會の御招待を受けました。凡そ一ケ月前に御通知がありましたが、私は、その時になつて見なければ、出られるか出られぬか分らぬ爲に、直にお答をすることが出來ませんでした。しかし、御懇切の御招待ですから義理にもと思ひまして體だけ出懸けて參りました。別に面白いお話も出來ません、前申した通り體だけ義理にもと出かけたわけであります。
 私のやる演題はかういふヘ育會の會場での經驗がないのでこまりました。が、名がヘ育會であるし、引受ける私は文學に關係あるものであるから、ヘ育と文藝と云ふ事にするが能いと思ひまして、かう云ふ題にしました。此のヘ育と文藝と云ふのは、諸君が主であるからまげてヘ育をさきとしたのであります。
 よく誤解される事がありますので、そんな事があつては濟みませんから、一寸注意を申述べて置きます。ヘ育と云へばおもに學校ヘ育である樣に思はれますが、今私のヘ育といふのは社會ヘ育及家庭ヘ育までも含んだものであります。
 又私のこゝにいはゆる文藝は文學である、日本に於ける文學といへば先小説戯曲であると思ひます。順序は矛盾しましたが、廣義のヘ育、殊に、コ育とそれから文學の方面殊に、小説戯曲との關係連絡の?態に就てお話致します。日本に於けるヘ育を昔と今とに區別して相比較するに、昔のヘ育は、一種の理想を立て、其の理想を是非實現しようとするヘ育である。而して、其の理想なるものが、忠とか孝とか云ふ、一種抽象した概念を直ちに實際として、即ち、この世に有り得るものとして、それを理想とさせた、即ち孔子を本家として、全然その通りにならなくとも兎に角それを目あてとして行くのであります。
 尚委しく云ひますと聖人と云へば孔子、佛と云へば釋迦、節婦貞女忠臣孝子は、一種の理想の固まりで、世の中にあり得ない程の、理想を以て進まねばならなかつた。親が、子供の云ふ事を聞かぬ時は、二十四孝を引き出して子供を戒めると、子供は閉口すると云ふ樣な風であります。それで昔は上の方には束縛がなくて、上の下に対する束縛がある、これは能くない、親が子に對する理想はあるが子が親に對する理想はなかつた。妻が夫に臣が君に對する理想はなかつたのです。即ち忠臣貞女とか云ふが如きものを完全なものとして孝子は親の事、忠臣は君の事、貞女は夫の事を許り考へてゐた。誠にえらいものである。其の原因は科學的精神が乏しかつた爲で、其の理想を批評せず吟味せずに是を行つて行つたと云ふのである。又昔は階級制度が嚴しい爲に過去の英雄豪傑は非常にえらい人の樣に見えて、自分より上の人は非常にえらく且古人が世の中に存在し得ると云ふ信仰があつた爲、また、一は所が隔たつてゐて目のあたり見なれぬ爲に遠隔の地の人のことは非常に誇大して考へられたものである、今は交通が便利である爲にそんな事がない、私などもあまり飛び出さないと大家と見られるであろう。
 さて當時は理想を目前に置き、自分の理想を實現しようと一種の感激を前に置いてやるから、一種の感激ヘ育となりまして、知の方は主でなく、インスピレーシヨンとも云ふ樣な情緒のヘ育でありました。なんでも出來ると思ふ、精神一到何事不成と云ふ樣な事を、事實と思つて居る。意氣天を衝く。怒髪天をつく。炳として日月云々と云ふ如き、斯う云ふ詞を古人は盛に用ひた。感激的といふのはこんな有樣で情緒的ヘ育でありましたから一般の人の生活?態も、エモーシヨナルで努力主義でありました。さういふヘ育を受ける者は、前のような有樣でありますが社會は如何かと云ふと、非常に嚴格で少しのあやまちも許さぬと云ふ樣になり、少しく申譯がなければ坊主となり切腹すると云ふ感激主義であつた、即ち社會の本能からさう云ふことになつたもので、大體より之が日本の主眼とする所でありました、それが明治になつて非常に異つてきました。
 四十餘年間の歴史を見ると、昔は理想から出立したヘ育が、今は事實から出發するヘ育に變化しつゝあるのであります、事實から出發する方は、理想はあるけれども實行は出來ぬ、概念的の精神に依つて人は成立する者でない、人間は表裏のあるものであるとして、社會も己もヘ育するのであります。昔は公でも私でも何でも皆孝で押し通したものであるが今は一面に孝があれば他面に不孝があるものとしてやつて行く。即ち昔は一元的、今は二元的である、すべて孝で貫き忠で貫く事はできぬ。是は想像の結果である。昔の感激主義に對して今のヘ育はそれを失はするヘ育である、西洋では迷より覺めると云ふ、日本では意味が違ふが、まあデイスイリユージヨン、さめる、と云ふのであります。なぜ昔はそんな風であつたか。話は餘談に入るが、獨逸の哲學者が概念を作つて定義を作つたのであります。しかし巡査の概念として白い服を着てサーベルをさして居るときめると一面には巡査が和服で兵兒帶のこともあるから概念できめてしまふと窮屈になる。定義できめてしまつては世の中の事がわからなくなると佛國の學者は云ふて居る。
 物は常に變化して行く、世の中の事は常に變化する、それで孔子と云ふ概念をきめてこれを理想としてやつて來たものが後にこれが間違であつたといふことを悟るといふ樣な場合も出來て來る。斯う云ふ變化はなぜ起つたか、これは物理化學博物などの科學が進歩して物をよく見て、研究して見る。かういふ科學的精神を、社會にも應用して來る。又階級もなくなる交通も便利になる、かういふ色々な事情からつひに今日の如き思想に變化して來たのであります。
 道コ上の事で、古人の少しもゆるさなかつたことを、今の人はよほど許容する、我儘をも許す、社會がゆるやかになる、畢竟道コ的価値の變化と云ふ事が出來て來た。即ち自分と云ふものを發揮してそれで短所欠點悉くあらはす事をなんとも思はない。そして無理の事がなくなる。昔は負惜みをしたものだ、殘酷な事も忍んだものだ。今はそれが段々なくなつて、自分の弱點をそれほど恐れずに世の中に出す事を何とも思はない。それで古の人の弊はどんな事かと云ふと、多少僞の點がありました。今の人は正直で自分を僞らずに現はす、かういふ風で寛容的精神が發達して來た。而して社會も亦これを容れて來たのであります。昔は一遍社會から葬られた者は、容易に恢復する事が出來なかつたが、今日では人の噂も七十五日と云ふ如く寛大となつたのであります。社會の制裁が弛んだと云ふかも知れませんが一方から云ひましたならば、事實に然う云ふ缺點のあり得る事を二元的に認めて、是に寛容的の態度を示したのであります。畢竟無理が無くなり、概念の束縛が無くなり、事實が現はれたので有ります。昔スパルタのヘ育に、狐を隱してその狐が自分の腸をゑぐり出しても、猶黙つて居たと云ふことがあるが、今は然う云ふ痩我慢はなくなつたのである。現今のヘ育の結果は自分の特點をも露骨に正直に人の前に現はす事を非常なる恥辱とはしないのであります。是は事實と云ふ第一の物が一元的でないと云ふ事を豫め許すからである。私の家へよく若い者が訪ねて參りますがその學生が歸つて手紙を寄こす。其の中にあなたの家を訪ねた時に思ひきつて這入らうかイヤ這入るまいかと暫く躊躇した、成る可くならお留守であればよい、更に逢はぬと云つて呉れゝば可いと思つたと云ふ樣な露骨な事が書いてある。昔私等の書生の頃には、人を訪問して居なければ可いがと思うても然う云ふ事を其の人の前に告白する樣な正直な實際的な事はしなかつたものである。痩我慢をして實は堂々たるものの如く装つて人の前にも是を吹聽したのである。感激的ヘ育概念に囚れたる薫化が斯う云ふ不正直な痩我慢的な人間を作り出したのである。
 扨一方文學を攷察して見まするに是を大別してローマンチシズム、ナチユラリズムの二種類とすることが出來る、前者は適當の譯字がない爲に私が作つて浪漫主義として置きましたが、後者のナチユラリズムは自然派と稱して居ります。此兩者を前に申述べたヘ育と對照いたしますと、ローマンチシズムと、昔のコ育即ち概念に囚れたるヘ育と、特徴を同うし、ナチユラリズムと現今の事實を主とするヘ育と、相通ふのであります。以前文藝は道コを超絶すると云ふ議論があり、又之を論じた大家もあつたのでありますけれども、是は大なる間違で、成程道コと文藝は接觸しない點もあるけれども、大部分は相連つて居る。只僅かに倫理と藝術と兩立せないで、何方かを捨てねばならぬ場合がないではありません。例へば私が此の机を推して居る、何時しか此の机と共に落ちたとします。此の落ちたと云ふ事實に對して、諸君は必ず笑はれるに違ひない。然し倫理的に申したならば、人が落ちたと云ふに笑ふ筈がない、氣の毒だと云ふ同情があつて然る可きである、殊に私の樣な招かれて來た者に對する禮儀としても笑ふのは倫理的でない事は明である。けれども笑ふと云ふ事と、氣の毒だと思ふ事と、どちらか捨てねばならぬ場合に、滑稽趣味の上に是を觀賞するは、一種の藝術的の見方であります。けれども私が、脳振盪を起して倒れたとすれば、諸君の笑は必ず倫理的の同情に變ずるに違ひありますまい。斯う云ふ風に或程度迄藝術と倫理と相離るゝ部分はあるけれども、最後又は根柢には倫理的認容がなければならぬのであります。從つて小説戯曲の材料は七分まで、コ義的批判に訴へて取捨選擇せられるのであります。戀を描くにローマン主義の場合では途中で、單に顔を合せた許りで直ぐに戀情が成立ち、此の爲に盲目になつたり、跛足になつたりして、煩悶懊惱すると云ふ樣なことになる。しかしこんな事實は、實際あり得ない事である。其處が感激派の小説で、或情緒を誇大して、即ち抽象的理想を具體化した樣なものを作り上げたのであります、事實からは遠いけれど感激は多いのであります。
 ローマンチツクの道コは何となしに對象物をして大きく偉く感じさせる。ナチユラリズムの道コは、自己の缺點を暴露させる正直な可愛らしい所がある。
 ローマンチシズムの藝術は情緒的エモーシヨナルで人をして偉く大きく思はせるし、ナチユラリズムの藝術は理智的で、正直に實際を思はしめる。即ち文學上から見てローマンチシズムは僞を伝へるがまた人の精神に偉大とか崇高とかの現象を認めしめるから、人の精神を未來に結合さする。ナチユラリズムは、材料の取扱ひ方が正直で、また現在の事實を發揮さすることに勉むるから、人の精神を現在に結合さする、例へば人間を始めから不完全な物と見て人の缺點を評したるものである。ローマンチシズムは、己以上の偉大なるものを材料として取扱ふから、感激的であるけれども、其の材料が讀む者聞く者には全く、没交渉で印象にヨソ/\しい所がある、是に引き換へてナチユラリズムは、如何に汚い下らないものでも、自分と云ふものが其の鏡に写つて何だか親しくしみ/”\と感得せしめる。能く/\考へて見ると人と云ふものは、平時に於ては輕微の程度に於けるローマンチシズムの主張者で、或者を批評したり要求するに自己の力以上のものを以てして居る。
 一體人間の心は自分以上のものを、渇仰する根本的の要求を持つて居る、今日よりは明日に一部の望みを有するのである。自分より豪いもの自分より高いものを望む如く、現在よりも將來に光明を發見せんとするものである。以上述べた如くローマンチシズムの思想即ち一の理想主義の流れは、永久に變ること無く、深く人心の奧底に永き生命を有して居るものであります。從つてローマン主義の文學は永久に生存の權利を有して居ります。人心の此の響きに觸れて居る限り、ローマン主義の思想は永久に傳はるものであります。之に反してナチユラリズムの道コは前述の如く、寛容的精神に富んで居る。事實を事實としてありの儘を描いたものが、眞のナチユラリズムの文學である。自己解剖、自己批判、の傾向が段々と人心の間に廣まりつゝあり、精神が極めて平民的に、換言すれば平凡的になつて來たのであります。人間の人間らしい所の寫實をするのが自然主義の特徴で、ローマン主義の人間以上自己以上、殆んど望んで得べからざる程の人物理想を描いたのに對して極めて通常のものを其の儘、其の儘と云ふ所に重きを置いて世態をありの儘に缺點も、弱點も、表裏共に、一元にあらぬ二元以上に亙つて實際を描き出すのであります。從つてカーライルの英雄崇拜的傾向の欲求が永久に存在する事は前述の通りであるが今は是れに多少の變化を來たしたと云ふ譯であります。
 さて斯く自然主義の道コ文學の爲に、自己改良の念が淺く向上渇仰の動機が薄くなるといふことは必ずあるに相違ない。是は慥に缺點であります。
 從つて現代のヘ育の傾向、文學の潮流が、自然主義的である爲にボツ/\其の弊害が表はれて、日本の自然主義と云ふ言辭は甚だしく卑しむ可きものになつて來た。けれども是は間違である。自然主義はそんな非倫理的なものでは無い、自然主義其のものは日本の文學の一部に表はれた樣なものでは無く、單に彼等は其の缺點のみを示したのである。前にも言つた通り如何に文學と雖も決して倫理範圍を脱して居るものではなく、少くも、倫理的渇仰の念を何所にか萌さしめなければならぬものであります。
 人間の心の底に永久に、ローマン主義の英雄崇拝的情緒的の傾向の存する限り、此の心は永存するものであるが、夫を全く無視して、人間の弱點許りを示すのは、文學としての眞価を有するものでない、片輪な出來損ひの藝術であります。如何に人間の弱點を書いたものでも、其の弱點の全體を讀む内に何處にか之に對する惡感とか、或は別に倫理的の要求とかが讀者の心に萌え出づる樣な文學で無ければならぬ。之が人心の自然の要求で、藝術も亦此の範圍にある。今の一部の小説が人に嫌はれるは、自然主義其のものの缺點で無く取扱ふ同派の文學者の失敗で、畢竟過去の極端なるローマン主義の反動であります。反動は正動よりも常規を逸する。故に吾々は反動として多少此間の消息を諒とせねばならぬ。 さて自然主義は遠慮なく事實その儘を人の前に暴露し、又は描き出すため種々なる缺點を生ずるに至りましたが、之を救ふは過去のローマン主義を復興するにあらずして、新ローマン主義とも云ふべきものを興すにあらうかと思ふ。新ローマン主義と云ふも、全く以前のローマン主義とは別物である。凡そ歴史は繰返すものなりと云ふけれども、歴史は決して繰返さぬのである、繰返すといふのは間違である。如何なる場合にも後戻りをすることなく前へ前へと走つて居る。
 ヘ育及び文藝とても、自然主義に弊害があるからとて、昔には戻らぬ。もし戻つてもそれは全く新なる形式内容を有するもので、淺薄なる觀察者には昔時に戻りたる感じを起させるけれ共、實は左樣ではないのであります。而して自然主義に反動したものとするならば、新ローマン主義とも云ふべきものは、自然主義對ローマン主義の最後に生ずる筈である。新ローマン主義と云ふとも決して、昔のローマン主義に返つたのでは無い、全く別物なのであります。
 即ち新ローマン主義は、昔時のローマン主義の樣に空想に近い理想を立てずに、程度の低い實際に近い達成し得らるゝ目的を立てて、やつて行くのである。社會は常に、二元である。ローマン主義の調和は時と場所に依り、其の要求に応じて二者が適宜に調諧して、甲の場合には自然主義六分ローマン主義四分と云ふ樣に時代及び場所の要求に伴うて、兩者の完全なる調和を保つ所に、新ローマン主義を認める。將來は斯うなる事であらうと思ふ。
 昔の感激的のヘ育と、當時の情緒的なローマン主義の文藝と今の科學上の眞を重んずるヘ育主義と、空想的ならざる自然主義の文藝と、相連つて兩者の變遷及び關係が明瞭になるのであります。斯くして人心に向上の念がある以上、永久にローマン主義の存續を認むると共に、總ての眞に價値を發見する自然主義も亦充分なる生命を存して、此の二者の調和が今後の重なる傾向となるべきものと思ふのであります。
 近頃ヘ育者には文學はいらぬと云ふものもあるが、自分の今迄のお話は全くヘ育に關係がないといふ事が出來ぬ。現時のヘ育に於て小學校中等學校はローマン主義で大學などに至つては、ナチユラル主義のものとなる。此の二者は密接なる關係を有して、二つであるけれどもつまりは一つに重なるものと見てよろしいのであります。故に前申した通り文學とヘ育とは決して離れないものであるのであります。(文責記者にあり)
     −明治四四、七、一『信濃ヘ育』−
 
模倣と独立
     ――【大正二年十二月十二日第一高等學校に於て】――
 
 今日は圖らず御招きに預りまして突然參上致しました次第でありますが、私は元此學校で育つた者で、私にとつては此學校は大分縁故の深い學校であります。にも拘はらず、今日迄かう云ふ、即ち辯論部の御招待に預つて、諸君の前に立つた事は御座いませんでした。尤も御依頼も御座いませんでした。又遣る氣もありませんでした。只今私を御紹介下さつた速水君は知人であります。昔は御弟子で今は友達――いや友達以上の偉い人であります。然し、知り合ではありますけれども、速水さんから頼まれた譯でもありません。今度私が此處に現はれたのは安倍能成と云ふ――これも偉い人で、矢張り私のヘへた人でありますが――其人が何でも辯論部の方と御懇意だと云ふので、其安倍能成君を通じての御依頼であります。其時私は實は御斷りをしたかつた。と云ふのは、近來頭の具合が惡い。と云ふよりも、頭の働き方が斯う云ふ所へ參つて、組織立つた御話をするに適しないようになつて居ります。――一口に言へば、面倒臭いので、一應は御斷りを致したのであります。けれども私の斷り方が餘程正直だつたので、――是非遣らなければならないならば出るが、まあ何うか許して貰ひたい――かう云ふ風に返辭をした。所が是非遣らなければならんから出ろ、と云ふのです。後から考へると、餘り私が正直過ぎたと思ひます。尤も、是非遣らなければならんと云ふのは何う云ふ譯だ、といつて問ひ詰める程の問題でもありませんから、遣らなければならんものとして出て參りました。安倍君は君子であります。頼んだ事は引き受けさせようと云ふ方の君子。速水君も君子であります。是は頼まない方の君子、遠慮された方の君子でありますが。さう云ふ譯で今日は出ましたので、演説をする前に言譯がましい事を云ふのは甚だ卑怯な樣でありますけれども、大して面白い事も御話は出來ないと思ひますし、また問題が有つても、學校の講義見たやうに秩序の立つた御話は出來兼ねるだらうと思ひます。安倍君曰く、何を言つたつて構ひません、喜んで聴いて居るでせう。
 夫に、私は此校《こゝ》でヘ師をして居たことがあります。其時分の生徒は皆恐らく今此所には一人も居ないでせう、卒業したでせうけれども、然し貴方がたは其後裔と云ひますか、跡續ぎ見たやう子分見たやうな者で、其親分を此ヘ場で度々虐めて居た事などがあるから、其子か孫に當るやうな人などは何とも思つて居らんので、チヤンと準備をして出て來る程旨く行かなかつた。
 私はヘ師として此學校に四年間居りました。のみならず其以前には、貴方がたの樣に、生徒として此學校に――何年間居りましたか知らん――落第したと思つちやいけません。元々私は此所へ這入つて來たのじやない。此學校が豫備門と云つて丁度一ツ橋外に在りました。今の高等商業の在る界隈一面が此學校兼大學であつた。明治十七年、貴方がたがまだ生れない先、私は其所へ這入つたのです。それから――實は落第して居ります。落第して愚圖々々して居る内に此學校が出來た。此學校が出來て最も新らしい所へいの一番に乘り込んだ者は私――丈ではないが、其一人は確かに私である。吾々のヘ室は本館の一番北の外れの、今食堂になつてゐる、あそこにありました。文科のヘ室で。それが明治二十二年位でした。其時分の事を今の貴方がたに比べると、吾々時代の書生と云ふものは亂暴で、餘程不良少年と云ふ傾き――人によると寧ろ氣概があつた。天下國家を以て任じて威張つて居つた。吾々の年配の人は、いつも今の若い者はと云ふやう事を云つては、自分達の若い時が一番偉かつたやうに思つて居るけれども、私はさうは思はない。今でもさうは思はない。貴方がたの前に立つてかうして御話をするときは、尚さう思はない。貴方がたの方が吾々時代の者より餘程偉い。先刻から偉い偉いと云ふことを速水君が言はれましたが、貴方がたの方が遙かに大人しい、能く出來て居ると思ひます。吾々は實に亂暴であつた。その惡戯の例は幾らも有ります。夫を御話する爲に此處へ登つたんじやないが、如何に吾々が惡かつたかと云ふことを懺悔する爲に御話するのであるから、其眞似をしちやいけませんよ。現に彼處にヘ場に先生の机がある。先づ私達は時間の合間合間に砂糖わりの豌豆豆を買つて來てヘ場の中で食べる。その豌豆豆が殘ると其殘つた豌豆豆を先生の机の抽斗の中に入れて置く。歴史の先生に長澤市藏と云ふ人が居る。吾々が是を渾名してカツパードシヤと運つて居る。何故カツパードシヤと云ふかといふと、なんでもカツパードシヤとか何とか云ふ希臘の地名か何かある。今は忘れてしまひましたが、希臘の歴史をヘへる時、其先生がカツパードシヤカツパードシヤと一時間の内幾回となく繰り返す。夫でカツパードシヤと云ふ渾名が付いた。此長澤先生の時間と覚えて居りますが、其先生がカツパードシヤカツパードシヤとボールドへ書くので、そのカツパードシヤを書かうとしてチヨークを捜す爲に抽斗を明けると、其抽斗の中から豆ががら/\と出て來たと云ふやうな話がある。これは先生を侮辱した譯ではありません、また先生に見せる爲に態々遣つたのでもありませんが、兎に角餘程予備門などに居つた吾々時代の書生の風儀は亂暴でありました。現に此學校の中を下駄で歩くのです。私も下駄で始終歩いた一人で、今は序だから話しますが、私が此所に這入つた時に丁度杉浦重剛先生が校長で此所の呼び者になつて居た。此時二十八歳だつたかと思ひます。大變若くて呼び者であつたが、暫くするとかういふ貼出しが出ました。學校の中を下駄を穿いて歩いてはいけない。夫は當然の事ですが、態々貼り出さなければならん程下駄を穿いて歩いてゐたものと私は考へる。然るに貼出しがあつて暫くしても、私は下駄を穿いて歩いて居た。或日の事、丁度三時過ぎです。今頃で、もう誰も居まいと思つて、下駄を穿いて、威張つて歩けと思つて、ドン/\歩いて行つた。すると廊下を曲る途端に杉浦重剛さんにパタリと出會つた。私は亂暴書生ではない。極く氣の小さい大人しい者である。杉浦さんに出會つて何うしたと思ひます。私は急に下駄から飛び降りた。飛び降りたばかりではありません、飛び降りていきなり下駄を握つて一目散に逃げ出しました。だから一口も叱られもせず又捉まへられもせずに濟んで仕舞つた。これは唯自分で覚えて居るだけで人に話した事はありません、今日初めて位のものでありますが、此間或所で杉浦先生に久々振りで御目に掛つた。大分先生も年を取つて居られる。其時私が、先生かう云ふ事を覚えて御出でですか、私は下駄を穿いて歩いて斯う/\だつたと御話したら、杉浦さんは、いや夫は何うも大變な違ひだ、私は下駄を穿いて學校を歩くことは大賛成である、穿いちやあならんと云ふ貼出しが出たのは、あれは文部省が惡い。兎角文部省はやかましい事を言ふが、私は其下駄論者だつたと言ふ。私も驚いて、杉浦さんが下駄論者だと仰しやるのは何う云ふ譯ですかと聞くと、先生の曰く、抑も下駄は齒が二本しかない、それで幾ら學校の中を下駄で歩いたところで、床に印する足跡と云ふものは二本の齒の底だけである、然るに靴は踵から爪先まで足の裏一面が着くじやないか。若し是が兩方とも同じ程度に汚すのであるならば、學校の床を汚す面積は靴の方が下駄より遙かに偉大である、だから私は其下駄で差支ないと云ふことを切りに主張したが、どうも文部省の當局が分らないから、それで已むを得ずあゝいふ貼出しをした。それぢや私は逃げる所でなかつた大いに賞められて然るべきであつた惜しい事をした、と云つて笑つた。其時分は杉浦さんも二十八位でまだ若かつたから暴論を吐いて文部省を弱らせたのでせう。下駄の方が宜いと云ふ譯はないと考へるのです。まあさう云ふやうな時代を貴方がたが想像したら、隨分亂暴な奴が澤山居つたと云ふことが御分りになるでせうが、實際今よりも惡い惡戯な奴が澤山居つた。ストーブをドン/\焚いて先生を火攻にしたり、ヘ場を眞闇にして先生がいきなり這入つて來ても何處も分らない樣な事をしたり、さう云ふ所を經過して始めて此校《こゝ》へ這入つたものであります。
 それから此校《こゝ》に二年ばかり居つて、大學に入つて、大分御無沙汰をして、夫から外國に行きまして、外國から歸つて來て、復た此校《こゝ》へ這入つた。故郷へ錦を着ると云ふ程でもないが、まあヘ師になつて這入つた。さうして初めてヘへたのが、今云ふ安倍能成君等であります。此校《こゝ》を出て、大學を出て、諸方を迂路ついて居る時にヘへたのが、此處に居る速水君であります。速水君をヘへる時分は熊本でヘ員生活をして居つた時で漂泊生でありました。速水君をヘへてゐた時分は偉くなかつた、或は偉い事を知らなかつたか、何方《どつち》かでせう。兎に角速水君をヘへた事は確かであります。形式的に。無論偉くない人だから本統に啓發する程ヘへなかつたが、ヘ場に立つて先生と呼ばれ、生徒と呼んだことは確かにある。猶自白すれば、熊本に來たてであります。私の前に誰か英語を受持つて居つて、私は其後を引受けた。エドマンド・バークの何とか云ふ本でありますが、それは私の嫌な本です。此位解らない本はない。演説でも英吉利人が解るものならば日本人が字引を引いて解らないことはない筈である。が、實際解らない本です。其解らない物をヘへた時に丁度速水君が生徒だつたから、偉くない偉くないと云ふ考へが何時までも退かないのかも知れません。それで其後英語も大分ヘへて年功を積みましたが、速水君に斷りますが、其後發達した今日の私の英語の力でも、あのバークの論文は矢張り解らない。嘘だと思ふなら速水君があれをヘへて御覽になれば直ぐ分る。――こんな下らない事を言つて時間ばかり經つて御迷惑でありませうが、實は時間を潰す爲に、さういふ事を言ふのであります。大した問題も有りませんから。
 それで、先刻演題と云ふ話でしたが、演題と云ふやうなものは無いから、何か好加減に一つ題は貴方がたの方で後で拵へて下さい。チヨツと複雜過ぎて簡單な題にならん樣な高尚な事なんだらうと思ふ。何か御話しようと思ひましたが、實は先刻申上げたやうな譯で、時間もなし、今日も人が來ますし、チツとも考へられない。それだから云ふ事は餘り大した事ではありません。が、もう少しの間、極く雜としたところを御話して御免蒙る事にしませう。
 私はこの間文展を見に行きました。(私は御存知の通り、職業が職業ですから、御話する事は一般の事でも、或は文藝と云ふことが例になつたり、又其方から出立する事が多いかも知れませんから、其方に興味のない方には御氣の毒ですが、まあ仕方がない、御聴きを願ひます。)で、今申しましたやうに、この間文展を見に行きました。夫で文展を見てチヨツと感じました。何うも私は文部省の展覽會に反對をしたり、博士を辭したり、甚だ文部省に受けが惡い人間でありますが今度の文展も公には書きませんでしたが、何うも大變面白くありませんでした。殊に私は日本畫の方で、まあさうだと思ひます。西洋畫の方に就いても云へば云へますが、其方は後にして置いて、日本畫の方に就いて申します。
 一向面白くなかつた。あの畫の内何れを見ても面白くない。中には例外はありますけれども、何れを見ても面白くない。唯面白くないと云つても分らぬから、譯を云はなくちやならんが、何れを見てもノツペリして居る。ノツペリして居ると云ふ意味は御手際が好いと云ふので、褒めて居るのかと云へば、さうではない。惡く言ふ意味で、御手際が大變好いのです。言葉を換へて云へば、腕力は有る、腕の力は有る。それぢや何處が惡いかと言えば、頭が無い。頭が無くて手だけで描いて居る。職人見た樣なものである。さうまで云ふと御氣の毒だから、夫丈は公にしません。――是丈公にして居れば澤山だが――私は別に畫家や文展の非難を遣つて居るのではありません、畫家を個人的に惡口を言つて居る譯ではありません。只感じた事に就いてチヨツと必要だから申すのでありますが、唯ノツペリとして居る。例へばシミ〔二字傍点〕がなく、マダラ〔三字傍点〕がなく、ムラ〔二字傍点〕がなく、仕上げが綺麗に出來て居る。あゝいふ手際と云ふものは、丁稚奉公をして五年十年遣らなければ出來ないでせうけれども、夫以外に何かあるかと聞かれても、私には分らない。丁度人間で言ひますと、矢張り紳士といふものに能く似て居ると思ふ。紳士とは何んな者かといふと、紳士と云ふものは、唯ノツペリして居る。顔ばかりぢやありません。マナーが――態度及び擧止動作が――ノツペリして居る人間で、手を出して握手をしたりする。下層社會の女などがよくあの人は樣子が宜いと云ふことを云ふが、樣子が宜い位で女に惚れられるのは、男子の不面目だと思ひます。樣子が宜いと云ふのは、人を外らさないと云ふことになる。唯御座なりを言ふと云ふことになる。餘りブツキラボーでない、當り觸りが宜いと云ふので御座います。鮮かで穩かで寔に宜い。夫は惡い事とは思ひません。さういふ人に接して居る方が野蠻人に接してゐるよりは宜い。一口感情を害しても直ぐに擲られると云ふ樣な人より宜い。夫を攻撃する譯ぢやありませんが、然し夫丈では人格問題ぢやない。人格問題ぢやないといふのは――隨分惡い事をして、人の金をたゞ取るとか、法律に觸れる樣な事をしない迄も非道いずるい事をしたり、種々雜多な事をやつて、立派な家に這入つて、自動車なんぞに乘つて、さうして會つて見ると寔に調子が好くて、品が好くて、ノツペリして居る。さうして人格と云ふものはどうかと云ふと、餘り感服出來ない人が澤山有りませう。夫が紳士だと思つてはいけません。けれどもさういふ者が紳士として通用して居る。詰り人格から出た品位を保つて居る本統の紳士もありませうが、人格といふものを度外に置いて、只マナーだけを以て紳士だとして立派に通用して居る人の方が多いでせう。まあ八割位はさうだらうと思ひます。それで文展の繪を見て何方の方の紳士が多いかと云ふと、人格の乏しい繪だ。人格の乏しい繪だと云つて、何も泥棒が繪描になつて居ると云ふ樣な譯ではない。さういふ侮辱の意味ぢやない。けれども尊敬した意味ぢや無論ない。大變何うも頭が――何と云つて宜いか――氣高いと云ふものがない。御覽になつても分る。氣高いと云ふことは富士山や御釋迦樣や仙人などを描いて、それで氣高いと云ふ譯ぢやない。假令馬を描いても氣高い。猫をかいたら――尚氣高い。草木禽獣、何んな小さな物を描いても、どんなインシグニフイカントな物を描いても、氣高いものは幾らもあります。さういふ樣な意味の繪には何うも缺乏し切つて居るのが文展である。是を逆に云ふと、さういふ繪を排斥してゐるのが文展である。かう云ふ譯であるから、夫が一列一帶にチヤンと御手際丈は出來て居らないといけない。御手際が出來てない物は皆落第する――のですか何うか分らないが、兎に角さういふことを私は文展に於て認め、且其文展に於ける繪の特色と人間の特色と相對していわゆるゼントルマンに比較して考へたのであります。
 それから其次に或人が外國から歸つて展覽會を開いた、夫を見に往きました。二人でありました。其一人の繪を見ると、油繪で西洋の色々な繪を描いて居る。アンプレツシヨニストの樣な繪も描いてゐる。クラシカルな、ルーベンス抔に非常に能く似た樣な繪も描いて居る。佛蘭西派であるが、あれを公平に考へて見ると、彼の人は何處に特色があるだらう。他人の繪を描いて居る。自分といふものが何處にもない樣ですね。巧い拙いに拘はらず、他人《ひと》の描いた樣なものは幾らでも描くんですが、それぢや自分は何所にあるかと云ふと、チヨツと何所にあるか見えないやうな繪を展覽會で見せられました。其次にもう一つの外國から歸つた人の繪を見た。それは品の宜い、大人しい繪でした。それで誰が見ても、まあ惡感情を催さない繪でありました。私は其中の一つを買つて來て家の書齋に掛けようかと思ひました。が、止しました。けれども、まあ買つても宜いとは思ひました。何故買つても宜いと云ひますと、相當に出來て居るからです。内へ持つて來て掛けるのは何故かと云ふと、英吉利風の繪なら繪を、相當に描きこなして居つて、部屋の装飾として突飛でない、丁度平凡でチヨツと好からうと思つたから買つて來ようかと思つたけれども、買つて來ませんでした。其人の繪は誰が見ても習つた繪だと云ふことが分る。習つて或程度迄進んだ繪である。それだから見苦しくない、と云ふことは分る。其代り其作者を俟つて初めて描ける樣な繪は一つも無いのです。例へば其内の一を選んで内に掛けるにしても、其特別なる畫家を煩はさないでも、外の人に頼んでも、夫と同じ樣な繪が出來さうな繪でありました。夫から私はもう一つ見ました。これは日本に居る人で、日本に居る人の或外國の繪でありました。前の二つは帝國ホテル及び精養軒と云ふ立派な料理屋で見ました。御客樣も何うも華やかな人が多い。中には振袖を着て居る女などが居りました、あんな女などに解るのかと思ふほどでした。第三に見たのは、これは何うも反對ですね。所は讀賣新聞の三階でした。見物人は吾々位の紳士だけれども、何だか妙な、繪かきだか何だか妙な判じものの樣な者や、ポンチ畫の廣告見たやうな者や、長いマントを着て尖つたやうな帽子を被つた和蘭の植民地に居るやうな者や、一種特別な人間ばかりが行つて居る。繪もさう云ふ風な調子である。見物人も綺麗な人は一人も居ない。何うも其繪はそれで或程度まではチヤンと整うては居ないと思ひます。然し、自分が自分の繪を描いて居る、と云ふ感じは確かにしました。然し其の色の汚い方の繪は未成品だと思ひます。夫だから同情もあり夫を描いた人に敬意も持ちますけれども、態々金を出して内に買つて來て書齋に掛けようと思はない繪ばかりでありました。
 かう云ふ風に色々違ふ繪があるからして、其點から出立して御話をしませう。――それで文展の畫家や西洋から歸つて來た二人は自分で自分の繪を描かない。夫から今の日本の方のは自分で自分の繪は描くけれども未成品である。感想は夫丈ですがね。それに就いて夫をフイロソフイーにしよう――夫をまあこじつけてフイロソフイーにして演説の體裁にしようと云ふのです。何う云ふ風にこじつけるかが問題であります。夫が旨く行けば聽かれさうな演説である。巧く行かなければ夫だけの話である。まあ何う云ふ風に片付けるかと云ふ御手際の善惡抔は何うでも宜いのですから。
 人間と云ふ者は大變大きなものである。私なら私一人が斯う立つた時に、貴方がたは何う思ひます。何う思ふと云つた所で漠然たるものでありますが、何う思ひますか。偉い人と速水君は思ふか知らんが、そんな意味ぢやない。私は往來を歩いてゐる一人の人を捉まへてかう觀察する。此人は人間の代表者である。かう思ひます。さうでせう神樣の代表者ぢやない、人間の代表者に間違ひはない。禽獣の代表者ぢやない、人間の代表者に違ひない。從つて私が茲處にかう立つてゐると、私は是でヒユーマン・レースをレプレゼントして立つてゐるのである。私が一人で澤山ある人間を代表してゐると、夫は不可ん君は猫だと意地惡く云ふものがあるかも知れぬ。若し貴方がたがかう云つたら、さうしたら、いや猫ぢやない、私はヒユーマン・レースを代表して居るのであると、かう斷言する積りである。異存は無いでせう。夫ならば、それで宜しい。
 同時に夫丈かと云ふとさうでもない。ぢや何を代表して居るかと云ふと、その一人の人は人間全體を代表してゐると同時に其人一人を代表して居る。詰らない話だがさうである。私は斯うやつて人間全體の代表者として立つて居ると同時に自分自身を代表して立つて居る。貴方がたでもなければ彼方がたでもない、私は一個の夏目漱石と云ふものを代表して居る。此時私はゼネラルなものぢやない、スペシアルなものである。私は私を代表して居る、私以外の者は一人も代表して居らない。親も代表して居らなければ、子も代表して居らない、夫子自身を代表して居る。否夫子自身である。
 さうすると、人間と云ふものはさう云ふ風に二通りを代表して居る――と云ふと語弊が有るかも知れませんが――二通りになるでせう。其處です/\、夫を云はないと能く解らない。
 夫で此ヒユーマン・レースの代表者と云ふ方から考へて、人間と云ふ者は何んな特色、何んな性質を持つて居るか。第一私は人間全體を代表する其人間の特色として、第一に模倣と云ふことを擧げたい。人は人の眞似をするものである。私も人の眞似をしてこれまで大きくなつた。私の所の小さい子供なども非常に人の眞似をする。一歳違ひの男の兄弟があるが、兄貴が何か呉れろと云へば弟も何か呉れろと云ふ。兄が要らないと云へば弟も要らないと云ふ。兄が小便がしたいといへば弟も小便をしたいと云ふ。夫は實にひどいものです。總て兄の云ふ通りをする。丁度其後から一歩々々就いて歩いて居るやうである。恐るべく驚くべく彼は模倣者である。
 近頃讀んだ本でありませんがマンテガツツアの『フイジオロジー・エンド・エキスプレシヨン』といふ本の中にイミテーシヨンと云ふことに就いて例を澤山擧げてありましたが、私は今一々人間と云ふ者は眞似をするものであると云ふことの澤山な例を記憶して居りませんが、茲處に二つ三つあります。例へば、一人の人が往來で洋傘を廣げて見ようとすると、同行して居る隣りの女も屹度洋傘を廣げると云ふ。かう云ふ風に一般に或程度迄はさうです。往來で空を眺めて居ると二人立ち三人立つのは譯はなくやる。夫で空に何かあるかと云ふと、飛行船が飛んで居る譯でも何でもない。けれども飛行船が飛んで居るとか何とか云へば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る。其時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出來ないとも限らない。
 それ程人間と云ふ者は人の眞似をするやうに出來て居る情けないものであります。それでその、人の眞似をするといふことは、子供の内から始まつて、今言つたやうな些末の事柄ばかりでない、道コ的にも或は藝術的にも、社會上に於てもさうである。無論流行などは人の眞似をする。吾々が極く子供の内は東京の者はこんな薩摩飛白などは決して着せません。田舍者でなければ着ないものでした。夫を今の書生は大抵皆薩摩飛白を着る。安いからか知りませんが、皆着るやうになつた。夫から一時白い羽織の紐の毛絲か何かの長いのをかう――結んで胸から背負つて頸に掛けて居つた。あれも一人遣るとあゝなるのであります。私達の若い時は羽織の紋が一つしきやないのを着て通人とか何とか云つて喜んで居た。夫が近頃は五つ紋をつける樣になつた。夫も大きなのが段々小さくなつたやうだが、近頃何の位になつて居るのか。私は羽織の紋が餘り大きいから流行に後れぬやうに小さくした位夫ほど流行と云ふものは人を壓迫して來る。壓迫するのぢやないが、流行に此方から赴くのです。イミテーターとして人の眞似をするのが人間の殆ど本能です。人の眞似がしたくなるのです。かう云ふ洋服でも二十年前の洋服は餘り着られない。此間着て居た人を見たけれども可笑しいです。あまり見つとも宜いものではない。殊に女なんぞは、二十年前の女の寫眞なんぞは非常に可笑しい。本來の意味では可笑しいとは自分で思つて居ないけれども、熟々見ると、矢張り模倣と云ふことに重きを置く結果、どうもその自分と異つた物、あるいは世間と異つたものは可笑しく見えるのであります。さう云ふ風に夫を道コ上にも應用が出來ます。それから藝術上は無論の事ですね。そんな例は澤山擧げても宜いけれども、時間がないから略して置きます。兎に角大變人は模倣を喜ぶものだと云ふこと、それは自分の意志からです、壓迫ではないのです。好んで遣る、好んで模倣をするのです。
 同時に世の中には、法律とか、法則とか云ふものが在つて、是は外壓的に人間と云ふものを一束にしようとする。貴方がたも一束にされてヘ育を受けて居る。十把一からげにしてヘ育されて居る。さうしないと始末に終へないから、已むを得ず外壓的に皆さんを壓迫して居るのである。是も一種の約束で、さうしないとヘ育上に困難であるからである。其約束、法則と云ふものは政治上にもヘ育上にもソシヤル・マナーの上にもある。飯を食べるのにサラ/\グチヤ/\は不可ないと云ふ。さういふのは是は法則でせう。夫から道コの法則、是は當り前の話で、金を借りれば何うしても返さねばならぬやうになつて居る。夫から藝術上の法則と云ふのがある。是が又在來の日本畫だとか、御能だとか、芝居の踊りだとか云ふものには、非常に究屈な面倒な固まつた法則があつて、動かすことが出來ない樣になつて居ります。夫等の例を一々擧げると宜いのですが、夫は一々擧げません。例を省くと詰らないものになりますが、早く濟みますから、詰らなくして早く切り上げて了はうと思ふ。
 夫から、法則と云ふものは社會的にも道コ的にも亦法律的にもあるが、最も劇しいのは軍隊である。藝術にでも總てさう云ふ樣な一種の法則と云ふものがあつて、夫を守らなければならぬ樣に周圍が吾人に責めるのであります。一方ではイミテーシヨン、自分から進んで人の眞似をしたがる。一方ではさう云ふ法則が有つて、外の人から自分を壓迫して人に從はせる。此二つの原因が有つて、人間と云ふものの特殊の性と云ふものは失はれて、平等なものになる傾きが有る。其意味で私なら私が、人間全體を代表することが出來る資格を有ち得るのであります。
 私は人間を代表すると同時に私自身をも代表して居る。其私自身を代表して居ると云ふ所から出立して考へて見ると、イミテーシヨンと云ふ代りにインデペンデントと云ふ事が重きを爲さなければならぬ。人がするから自分もするのではない。人がさうすれば――他人《ひと》は朝飯に粥を食ふ俺はパンを食ふ。他人《ひと》は蕎麥を食ふ俺は雜※[者/火」を食ふ、吾々は自分勝手に遣らう御前は三杯食ふ俺は五杯食ふ、と云ふ樣なさう云ふ事はイミテーシヨンではない。他人《ひと》が四杯食へば俺は六杯食ふ。それはイミテーシヨンでないか知らぬが、事によると故意に反對することもある。是は不可ない。世の中には奇人と云ふものがありまして、何うも人並の事をしちやあ面白くないから、何でも人とは反對をしなければ氣が濟まない。中には廣告する爲にやる奴もある。普通のことでは面白くないから、何か特別な事をして見たいと云ふので、髪の毛を伸ばして見たり、冬夏帽を被つて見たり――夫は此處の生徒などにもよく有る。が、あれは無頓着から來るのでせう。人が冬帽を被つて居ると云ふ事に氣が付けば自分も被り度くなるでせう。故意に俺は夏帽を被ると云つた日には餘程奇人となる。私の茲にインデペンデントと云ふのは、此故意を取り除ける。次には奇人を取り除ける。氣が付かないのも勘定の中に這入らない。それぢやあ何う云ふのがインデペンデントであるか。人間は自然天然に獨立の傾向を有つて居る。人間は一方でイミテーシヨン、一方で獨立自尊、と云ふ樣な傾向を有つて居る。其内で區別して見れば、横着な奴と、横着でない奴と、横着でないけれども分らないから横着をやつて、まあ朝八時に起きる所を自然天然の傾向で十時頃まで寐てゐる。夫はインデペンデントには違ひないが、甚だどうも結構でない事かも知れません。夫は我儘、横着であるが自然でもある、インデペンデントともなるけれども、是も取り除けと云ふことになる。最後に殘るのは――貴方がたの中で能く誘惑と云ふことを言ひませう。人と歩調を合はして行きたいと云ふ誘惑を感じても、如何せん何うも私には其誘惑に從ふ譯に行かぬ。丁度跛を兵式體操に引き出したやうなもので、如何せん何うも歩調が揃はぬ。それは、諸君と行動を共にしたいけれども、何うもさう行かないので仕方がない。かう云ふのをインデペンデントと云ふのです。勿論夫は體質上のさう云ふ一種のデマンドぢやない、精神的の――ポジチブな内心のデマンドである。或は是が道コ上に發現して來る場合もありませう。或は藝術上に發現して來る場合もありませう。精神的になつて來ると――さうですね、古臭い例を引く樣でありますが、坊さんと云ふものは肉食妻帶をしない主義であります。夫を眞宗の方では、ずつと昔から肉を食つた、女房を持つて居る。是はまあ思想上の大革命でせう。親鸞上人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根柢の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出來ない。言葉を換へて言へば親鸞は非常なインデペンデントの人と云はなければならぬ。あれだけのことをするには初めからチヤンとした、シツカリした根柢がある。さうして自分の執るべき道はさうでなければならぬ、外の坊主と歩調を共にしたいけれども、如何せん獨り身の僕は唯女房を持ちたい肉食をしたいと云ふ、そんな意味ではない。其時分に、今でもさうだけれども、思ひ切つて妻帶し肉食をすると云ふことを公言するのみならず、斷行して御覽なさい。何の位迫害を受けるか分らない。尤も迫害などを恐れるやうではそんな事は出來ないでせう。そんな小さい事を心配するやうでは、こんな事は仕切れないでせう。其所は其人の自信なり、確乎たる精神なりがある。其人を支配する權威があつて初めてあゝ云ふことが出來るのである。だから親鸞上人は、一方ぢや人間全體の代表者かも知らんが、一方では著しき自己の代表者である。
 今は古い例を擧げたが、今度はもつと新しい例を擧げれば、イブセンと云ふ人がある。イブセンの道コ主義は御承知の通り、昔の道コと云ふものは何うも駄目だと云ふ。何が駄目かと云へば、あれは男に都合の宜い樣に出來たものである。女と云ふものは眼中に置かないで、強い男が自分の權利を振り廻す爲に自分の便利を計る爲に、一種の制裁なり法則と云ふものを拵へて、弱い女を無視して夫を鐡窓の中に押し込めたのが今日までの道コと云ふものであると云つて居る。夫でイブセンの道コと云ふものは二色にしなければならぬのである。男の道コ、女の道コと云ふ樣にしなければならぬ。女の方から見ますれば、夫が逆にまあならなければならないと云ふのです。其思想、主義から出發して書いたものがイブセンの作の中にある。最も著しい例は、ノラと云ふやうなものであります。夫がイブセンと云ふ人は人間の代表者であると共に彼自身の代表者であると云ふ特殊の點を發揮して居る。イミテーシヨンではない。今迄の道コはさうだから、たとひ其道コは不都合であるとは考へてゐても、別に仕樣がないからまあ夫に從つて置かう、と云ふ樣な餘裕のある、そんな自己ではない。もつと特別な猛烈な自己である。夫が爲イブセンは大變迫害を受けたと云ふ譯であります。無論事實不遇な人でありました。夫のみならずあの人は特殊な人で、人間全體を代表して居ると云ふより彼自身を代表して居る方が餘程多い。そこで國を出て諸方を流浪して、偶に國へ歸つても評判が宜くないから、國へは滅多に歸らなかつた。或時國へ歸つて來た。國へ歸つても家がないから宿屋に泊つて居る。其時ブランデスと云ふ人がイブセンが來たから歡迎會を開かうと云ふと、イブセンはそんな歡迎會などは御免蒙ると言つて居る。然し折角の催しで人數も十二人丈だからと云つて、漸くイブセンを説き伏せた。面倒を省く爲にイブセンの泊つて居る宿屋で、帝國ホテル見たやうなところで開くと云ふことになり、夫で愈當日になつて丁度宜い時刻になつたから、ブランデスはイブセンの室に行つてドアーをコツ/\と叩いて、衣服の用意は出來たかと外から聞いたら、イブセン曰く衣服などは持つて居らぬ、自分は決して服装などは改めた事はない。シヤツを着て居る。シヤツと云つても露西亞邊では家の中では斯んな冬の日には温度が七十度位にしてある。本でも讀む時は上衣をとつて居る。外に出る時はかう云ふものを着るでせう。夫でシヤツを着て居るのは宜いが、皆んなは燕尾服を着て來て居るのだからといふと、イブセンは自分の行李の中には燕尾服などは這入つて居ない、若し燕尾服を着なければならぬやうなら御免蒙ると云ふ。御客を呼んで、其御客が揃つて居るのに、御免を蒙られては大變だから――そんなことを言はないで何うか出て貰ひたい、それぢや出ると云ふ事になつたが、ブランデスが實は十二人だつた所が、段々と人數が殖えて二十四人になつたと云ふと、そんな嘘を吐くならもう出ないと云ふ。實に手古摺らされたと云ふことをブランデス自身が書いてゐる。そんな事で色々面倒なことがあつた末、やう/\連れて行つてチヤンと坐らせた。所が大將大いにふくれてゐて一口も口を利かない、黙つて居る。まだ面白い話があるけれどもまあ此位で切り上げてしまひませう。兎に角人間を代表しても獣《けだもの》を代表しても、イブセンはイブセンを代表して居ると言つた方が宜い。イブセンはイブセンなりと言つた方が當つて居る。さう云ふ特殊な人であります。此話は幼稚でありますが、今のイブセンの道コの見解から云つても、イブセンはイミテーシヨンと云ふ側の反對に立つた人と云はなければならない譯であります。
 夫で、人間には此二通りの人がある。と云ふと、片方と片方は紅白見たやうに別れて居る樣に見えますが、一人の人が此兩面を有つて居ると云ふことが一番適切である。人間には二種の何とかがあると云ふことを能く云ふものですが、夫は大變間違ひだ。さうすると片方は片方だけの性格しか具へて居ない樣になる。議論する人はさう云ふ風になるから、あとが何うも事實から出發して居ない議論に陷つて了ふ。兎に角二通りの人間が有ると云ふことを言ふが、是は此兩面を持つて居ると云ふのが、是が本統の事でせう。いくらオリヂナルの人でもイミテーシヨンの分子を何處かに持つてゐる。イミテーシヨンの側に立つて考へると、是はどう云ふ人がイミテーターかと云ふと、要するにイミテーターと云ふものは人の眞似をする。夫だから自分に標準は無い。或は有つても標準を立て通すだけの強い猛烈な勇氣を缺いて居るか、何方かなのである。然しながらインデペンデントの側の方は、自分に一種の目安がある。アイデアル・センセーシヨン、夫が個人的になつて居つて、兎に角夫を言ひ現はし、夫を實行しなければ居ても立つても何うしても居られない。風變りではあるが、人からいくら非難されても、御前は風變りだと言はれても、どうしても斯うしなければ居られない。藪睨みは藪睨みで、何うしても横ばかり見て居る。是はインデペンデントの方の分子を餘計有つて居る人である。だからかう云ふ人と云ふものは寔に厄介なもので、世の中の人と歩調を共にすることは出來ない。おい君湯に行かう、僕は水を被る、君散歩に行かないか、俺は行かない座禅をする、君飯を食はんか、僕はパンを食ふ、さう云ふ樣なインデペンデントな人になつては手が付けられない。到底一緒に住む事は困難である。然し人に困難を与へるから氣の毒な感じが無いかと云ふと、さうではない。唯そんな事は考へて居られないのでせう。それが本統のインデペンデントの人と云はなければならぬ。厄介ではあるけれども、イミテートする人或は自己の標準を缺いて居て差し障りのない方が間違ひが無くて安心だと云ふ樣な人に比べれば、自己の標準が有る丈でも此方の方が恕すべく貴ぶべし――と云つたらどんな奴が出て來るか分らぬが、事實貴ぶべき人もありませう。兎に角インデペンデントの人にはまあ恕すべきものがあると思ふです。
 元來私はかう云ふ考へを有つて居ます。泥棒をして懲役にされた者、人殺をして絞首臺に臨んだもの、――法律上罪になると云ふのはコ義上の罪であるから公に所刑せらるゝのであるけれども、其罪を犯した人間が、自分の心の徑路を有りの儘に現はすことが出來たならば、さうして其儘を人にインプレツスする事が出來たならば、總ての罪惡と云ふものはないと思ふ。總て成立しないと思ふ。夫をしか思はせるに一番宜いものは、有りの儘を有りの儘に書いた小説、良く出來た小説です。有りの儘を有りの儘に書き得る人があれば、其人は如何なる意味から見ても惡いと云ふことを行つたにせよ、有りの儘を有りの儘に隱しもせず漏らしもせず描き得たならば、其人は描いた功コに依つて正に成佛することが出來る。法律には觸れます懲役にはなります。けれども其人の罪は、其人の描いた物で十分に清められるものだと思ふ。私は確かにさう信じて居る。けれども是は、世の中に法律とか何とか云ふものは要らない、懲役にすることも要らない、さう云ふ意味ではありませんよ。それは能く申しますると、如何に傍から見て氣狂じみた不道コな事を書いても、不道コな風儀を犯しても、其經過を何にも隱さずに衒はずに腹の中をすつかり其儘に描き得たならば、其人は其人の罪が十分に消える丈の立派な證明を書き得たものだと思つて居るから、さつき云つたやうな、インデペンデントの主義標準を曲げないと云ふことは恕すべきものがあると云つた樣な意味に於て、立派に恕すべきであると云ふ事が出來ると、私は考へるのであります。
 然し斯う云ふ風にインデペンデントの人と云ふものは、恕すべく或時は貴むべきものであるかも知れないけれども、其代りインデペンデントの精神と云ふものは非常に強烈でなければならぬ。のみならず其強烈な上に持つて來て、其背後には大變深い背景を背負つた思想なり感情なりがなければならぬ。如何となれば、若し薄弱なる背景がある丈ならば、徒にインデペンデントを惡用して、唯世の中に弊害を與へるだけで、成功はとても出來ないからである。
 此處に成功と云ふ意味に就いても説明を要する。又強い背景と云ふ事に就いても説明を要するが、強い背景と云ふものは何だと云ふと、夫は別なものではありません。例へば私なら私が世の中の仕來りに反したことを、斷言し、宣言し、さうして夫を實行する。其時に、若し夫が根柢のない事を遣つて居るならば、如何に私自身には夫が必然の結果であり、私自身には必要であらうとも、人間として他の人の爲にならない。何らの影響を與へる事が出來ない。何らの影響を與へる事が出來なければ、私は文字に現はれたるインデペンデントであつて、其文字に現はれたるインデペンデントなことをして、最後に文字に現はれたるインデペンデントで死ななければならない。人には何等の影響を與へざるのみならず、其インデペンデントは人の感情を害し、法則と云ふものに一種の波動を起して、人に一種の不愉快を釀させるに過ぎないのであります。夫ではどんな風な深い背景を有つて居なければならないかと云ふと、例へば非常に個人主義の樣な佛蘭西革命でも、明治改革でも宜しう御座居ます。コ川家が將軍に成つた末で餘り勢ひは強くなかつたけれども、兎に角將軍と云ふものが政權を持つて居つて其上に天子樣が居られると云ふ。是は一般の法則でないと云ふ處から、習慣的に續いて來た幕府と云ふものを引つ繰り返したと云ふのは、其引つ繰り返ると云ふ時の人の胸中に同情があつて、其同情を惹き起すと云ふ事が出來なければ、あれは成功は出來ないのである。だから徒にインデペンデントと云ふことは不可ない。人間の自覚と云ふものは一歩先へ先へと來るものである。一歩遲れたら人より一歩遲れて歩行かなければならない。人は相當の時期が來れば其通りになるべき運命を持つて居るのだから、一歩先に啓發しなければならぬ。夫が強い深い背景と云へば云へる。夫がなければ成功は出來ない。
 成功と云ふことに就いて歴史などの例を擧げたが、誤解されるといけないから茲に手近い例をもう一つ擧げて置きたい。學校騒動があつて其學校の校長さんが代る。此學校ではありませんよ。さうすると後に新しい校長さんが來ませう。さうして其學校騒動を鎭めに掛る。其時は色々思案もやりませう計畫も要りませう。刷新も色々ありませう。さうして旨く往けばあの人は成功したと云はれる。成功したと云ふと、其人の遣口が刷新でもなく、改革でもなく、整理でもなくても、その結果が宜いと、唯その結果だけを見て、あの人は成功した、成程あの人は偉いと云ふことになる。ところが騒動が益大きくなる。さうすると今迄遣つた其人の一切の事が非難せられる。同じ事を同じやうに遣つても、結果に行つて好ければ成功だと云ふが、同じ事をしても結果に行つて惡いと、直ぐにあの人の遣口は惡いと云ふ。その遣方の實際を見ないで、結果ばかりを見て云ふのである。その遣方の善し惡しなどは見ないで、唯結果ばかり見て批評をする。夫であの人は成功したとか失敗したとか云ふけれども、私の成功と云ふのはさう云ふ單純な意味ではない。假令その結果は失敗に終つても、其遣ることが善いことを行ひ、夫が同情に値ひし、敬服に値ひする觀念を起させれば、夫は成功である。さう云ふ意味の成功を私は成功と云ひたい。十字架の上に磔にされても成功である。かう云ふのは餘り宜い成功ではないかも知らぬが、成功には相違ない。是はテンポラルな意味で宗ヘ的の意味ではない。乃木さんが死にましたらう。あの乃木さんの死と云ふものは至誠より出でたものである。けれども一部には惡い結果が出た。夫を眞似して死ぬ奴が大變出た。乃木さんの死んだ精神などは分らんで、唯形式の死だけを眞似する人が多いと思ふ。さう云ふ奴が出たのは假に惡いとしても、乃木さんは決して不成功ではない。結果には多少惡いところがあつても、乃木さんの行爲の至誠であると云ふことはあなた方を感動せしめる。夫が私には成功だと認められる。さう云ふ意味の成功である。だからインデペンデントになるのは宜いけれども、夫には深い背景を持つたインデペンデントとならなければ成功は出來ない。成功と云ふ意味はさう言う意味で云つて居る。
 夫で人間と云ふものには二通りの色合があると云ふことは今申した通りですが、此イミテーシヨンとインデペンデントですが、片方はユニテー――人の眞似をしたり、法則に囚はれたりする人である。片方は自由、独立の徑路を通つて行く。是は人間のそのバライエテーを形作つて居る。かう云ふ兩面を持つて居るのではありますけれども、先づ今日までの改正とか改革とか刷新とか名のつくものは、さう云ふやうな意味で、知識なり感情なり經驗なりを豐富にされる土臺は、インデペンデントな人が出て來なければ出來ない事である。若し夫が出來なかつたならば、吾々は吾々の過去の歴史を顧みて如何に貧弱であるかと云ふことを考へれば、其人は如何に吾々の經驗を豐富にして呉れたかと云ふことが能く分るのであります。其意味でインデペンデントと云ふものは大變必要なものである。私はイミテーシヨンを非難して居るのではないけれども、人間の持つて生れた高尚な良いものを、若し夫だけ取り去つたならば、心の發展は出來ない。心の發展は其インデペンデントと云ふ向上心なり、自由と云ふ感情から來るので、吾々もあなた方も此方面に修養する必要がある。さう云ふことをしないでも生きては居られます。また自分の内心にさう云ふ要求の無いのに、唯其表面だけ突飛なことを遣る必要は無論ない。イミテーシヨンで濟まし得る人は夫で宜しい。インデペンデントで働きたい人はインデペンデントで遣つて行くが宜しい。インデペンデントの資格を持つて居つて、夫を抛つて置くのは惜しいから、夫を持つて居る人は夫を發達させて行くのが、自己の爲日本の爲社會の爲に幸福である。かう云ふのです。
 繰り返して申しますが、イミテーシヨンは決して惡いとは私は思つて居らない。どんなオリヂナルの人でも、人から切り離されて、自分から切り離して、自身で新しい道を行ける人は一人もありません。畫かきの人の繪などに就いて言つても、さう新しい繪ばかり描けるものではない。ゴーガンと云ふ人は佛蘭西の人ですが、野蠻人の妙な繪を描きます。佛蘭西に生れたけれども野蠻地に這入つて行つて、あれだけの繪を描いたのも、前に佛蘭西に居つた時に色々の繪を見て居るから、野蠻地に這入つてからあれだけの繪を描くことが出來たのである。幾らオリヂナルの人でも前に外の繪を見て居らなかつたならば、あれ丈のヒントを得ることは出來なかつたと思ふ。ヒントを得ると云ふこととイミテートすると云ふこととは相違があるが、ヒントも一歩進めばイミテーシヨンとなるのである。然しイミテーシヨンは啓發するやうなものではないと私は考へて居る。
 夫から、イミテーシヨンは外壓的の法則であり、規則であると云ふ點から、唯打ち毀して宜いと云ふものではない。必要がなくなれば自然に毀れる。唯、利益、存在の意義の輕重によつて、夫が豫期したより十年前に自ら倒れるか、十年後に倒れるかである。又オリヂナルの方が早く自然に滅亡するか、イミテーシヨンの方が先に滅亡するかであつて、大した違ひはない。片方だけを惡いとは決して言はない。兩方とも各々存在するには存在すべき理由があつて存在して居るのである。殊にヘ育を受ける諸君の如きものに向つて規則を無くしたら迚も始末が付かない。又兵式體操なども出來ない。子供の内は親の云ふことばかり聞いて居つても、段々一人前になつて來るとインデペンデントと云ふものは自然に發達して來る。また發達しても然るべきやうな時期に到着するのであります。一概に唯インデペンデントであると云ふことを主張するのではないのであります。
 けれども近來の傾向を見て、世の中の調子を見て、大體はインデペンデントに賛成である。今日の?况を以て學校の規則を蔑視して自分勝手にしろと云ふのではありません。夫は別問題ですが、今の日本の現在の有樣から見て、何方に重きを置くべきかと云ふと、インデペンデントと云ふ方に重きを置いて、其覚悟を以て吾々は進んで行くべきものではないかと思ふ。吾々日本人民は人眞似をする國民として自ら許して居る。また事實さうなつて居る。昔は支那の眞似ばかりして居つたものが、今は西洋の眞似ばかりして居ると云ふ有樣である。夫は何故かと云ふと、西洋の方は日本より少し先へ進んで居るから、一般に眞似をされて居るのである。丁度あなた方のやうな若い人が、偉い人と思つて敬意を持つて居る人の前に出ると、自分も其人のやうになりたいと思ふ――かどうか知らんが、若しさう思ふと假定すれば、先輩が今迄踏んで來た徑路を自分も一通り遣らなければ茲處に達せられないやうな氣がする如く、日本が西洋の前に出ると茲處に達するにはあれだけの徑路を眞似て來なければならない、かう云ふ心が起るものではないかと思ふ。また事實さうである。然し考へるとさう眞似ばかりして居らないで、自分から本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期はもう來ても宜しい。また來るべき筈である。
 日露戦争と云ふものは甚だオリヂナルなものであります。インデペンデントなものであります。あれをもう少し遣つて居つたならば負けたかも知れない。宜い時に切り上げた。その代り澤山金は取れなかつた。けれども兎に角軍人がインデペンデントであると云ふことはあれで證據立てられてゐる。西洋に對して日本が藝術に於てもインデペンデントであると云ふ事ももう證據立てられても可い時である。日本は動もすれば恐露病に罹つたり、支那のやうな國までも恐れて居るけれども、私は輕蔑して居る。そんなに恐しいものではないと思つて居る。是はあなた方を奨勵する爲に斯う云ふことを言つて居るのである。夫からまた日本人は雜誌などに出る一寸した作物を見て、西洋のものと殆ど比較にならぬと云ふが、夫は嘘です。私の書いた小説なども雜誌に出ますが、夫を云ふのぢやない。間違へられては困る。夫以外のもので、文壇の偉い人の書いたものは大抵偉いのです。決して惡いものぢやありません。西洋のものに比べてちつとも驚くに足らぬ。唯竪に讀むと横に讀むだけの違ひである。横に讀むと大變巧いやうに見えると云ふのは誤解であります。自分で夫程のオリヂナリテーを持つて居ながら、自分のオリヂナリテーを知らずに、飽くまでもどうも西洋は偉い/\と言はなくても、もう少しインデペンデントになつて、西洋をやつつけるまでには行かない迄も、少しはイミテーシヨンをさうしないやうにしたい。藝術上ばかりではない。私は文藝に關係が深いから兎角文藝の方から例を引くが、其他に於ても決して追つ着かないものはない。金の問題では追つ着かないか知らぬが、頭の問題ではそんなものではないと思つて居る。あなた方も大學を御遣りになつて、さうして益インデペンデントに御遣りになつて、新しい方の、本當の新しい人にならなければ不可ない。蒸返しの新しいものではない。さう云ふものではいけない。
 要するに何方の方が大切であらうかと云ふと、兩方が大切である、何方も大切である。人間には裏と表がある。私は私を茲に現はして居ると同時に人間を現はして居る。夫が人間である。兩面を持つて居なければ私は人間とは云はれないと思ふ。唯何方が今重いかと云ふと、人と一緒になつて人の後に喰つ付いて行く人よりも、自分から何かしたい、かう云ふ方が今の日本の?况から言へば大切であらうと思ふのであります。
 文展を見てもどうもそつちの方が缺乏して居るやうに見えるので、特にさう云ふ點に重きを置いて、御參考の爲に申し上げたやうな次第であります。(第一高等學校校友會雜誌所載の筆記による)
 
無題
        ――【大正三年一月十七日東京高等工業學校に於て】――
 
 私は此學校は初めてで――エー來るのは初めてだけれども、御依頼を受けたのは決して初めてではありません。二、三年前、田中さんから頼まれたのです。その頃頼みに來て下さつた方はもう御卒業なさつたでせう。それ以來十數回の御依頼を受けましたが、みんな御斷りしました。斷るのが面白いからではなく、已むを得ないからで、此已むを得ない事が度重なつて御氣の毒なので、その結果今日やつて來ました。言はゞ根くらべで根がつきて出て來たやうなしまつであります。だから面白い御話も出來兼ねます。今からとにかく一時間ばかり御話します。それ故、題なんかありません。
 私は専門があなた方とは全然違つてゐます。こんな機會でなければ顔を合はすことはありませんが、是でも私は工業の部門に屬する専門家にならうとした事がありました。私は建築家にならうと思つたのです。何故つて云ふ樣な問題ではない。けれども序だから話します。
 まだ子供のとき、財産がなかつたので、一人で食はなければならないと云ふ事は知つてゐました。忙がしくなく時間づくめでなくて飯が食へると云ふ事について非常に考へました。然し立派な技術を持つてさへゐれば、變人でも頑固でも人が頼むだらうと思ひました。佐々木東洋と云ふ医者があります。此医者が大へんな變人で、患者をまるで玩具か人形の樣に扱ふ、愛嬌のない人です。夫ではやらないかと云へば不思議な程はやつて、門前市をなす有樣です。あんな無愛想な人があれ丈はやるのは矢張り技術があるからだと思ひました。夫だから建築家になつたら、私も門前市をなすだらうと思ひました。丁度夫は高等學校時分の事で、親友に米山保三郎と云ふ人があつて、此人は夭折しましたが、此人が私に説諭しました。セント・ポールズの樣な家は我國にははやらない。下らない家を建てるより文學者になれと云ひました。當人が文學者になれと云つたのはよほどの自信があつたからでせう。私は夫で建築家になる事をふつつり思ひ止まりました。私の考は金をとつて、門前市をなして、頑固で、變人で、と云ふのでしたけれども、米山は私よりは大變えらい樣な氣がした。二人くらべると私が如何にも小ぽけな樣に思はれたので、今迄の考を止めてしまつたのです。そして文學者になりました。その結果は――分りません。恐らく死ぬまで分らないでせう。夫で私とあなた方とは専門が違ふ事になつたのですが、此會は文藝の會で、ベルグソンなども出る樣ですから、多少は共通してゐる處もある樣にも思はれます。夫でまあ私も御話をするといふ樣な譯であります。よく講演なんて云ふと西洋人の名前なんか出て來てきゝにくい人もある樣ですが、私の今日の御話には片仮名の名前なんか一つもでてきません。
 私はかつて或所で頼まれて講演した時、日本現代の開化と云ふ題で話しました。今日は題はない。分らなかつたから、こしらへませんでした。
 その講演のとき開化の definition を定めました。開化とは人間の energy の發現の徑路で、此活力が二つの異つた方向に延びて行つて入り亂れて出來たので、その一つは活力節約の移動といつて energy を節約せんとする吾人の努力、他の一つは活力を消耗せんとする趣向、即ち consumption of energy である。此二つが開化を構成する大なる factors で、これ以外には何もない。故に此二つのものは開化の factors として sufficient and necessary である。
 それで第一の活力を節約せんとする努力は種々の方向へ出るが、先づ距離をつめる、時間を節約する。手でやれば一時間かゝる事も、機械で三十分でやつてしまふ。或は手でやれば一時間かかつて一つ出來る所を、十も二十もつくる。さうして吾々の生活の便を計るのです。之があなた方の専門のものであります。他の factor 即ち consumption of energy の努力は積極的のもので、或種の人達からは國力等の立場より見做して消極的なものと誤解されて居る、文學、美術、音樂、演劇等は此方面に屬します。是等のものはなくてすむものであります、しかもありたいものなのです。是等は、幾分か片方で切りつめて餘つた energy を此方の方に向ける、どちらかと云へば押しのふとい方なのです。私等は此方面へ向つて行く。此方面から云へば時間距離なんて云ふ考はありません。飛行機――飛行機の樣な早いものの必要もなく、堅牢なものの必要もなく、數でこなす必要もない。生涯にたつた一つだつていゝものを書けばいゝのです。即ち私共とあなた方とはかく反對になつてゐるのです。――二つのものの性質を概括して云ふと、あなた方の方は規律で行き、私共の方は不規律で行く。その代り報酬は極惡い。金持になる人、なりたい人は、規律に服從せねばならない。あなた方の方は mechanical science の應用で、私共の方は mental なのだから割がいゝ樣だが、實は大變に損をしてゐるのです。然しあなた方は自由が少いが、私共は自由と云ふものがなければ出來ない仕事であります。猶云ひかへれば、あなた方は仕事に服從して我と云ふものをなくなさなければ出來ないのです。各自個々勝手な方面へ行つたなら、仕事はできない。私共の方は我を發揮しなければ、何も出來ません。
 そこで、あなた方の方でする仕事と云ふものを見ると、普遍的即ち universal の性質を持つてゐる。私共の方は universal でなくて personal の性質を持つてゐます。尚敷衍して云へば、あなた方はまづ公式を頭の中に入れて、その application が必要である。それは人間が考へたものに違ひないけれども、私が此ものがいやだと云つても御免蒙ることはできない。universal と云ふことは personality と云ふ個人としての人格ぢやなく、personality を eliminate し得る仕事なのです。此鐡道は誰が敷設したと云ふ事は素人にはあまり參考になりません。此講堂は誰が作つたつて問題にならない。あすこにぶらさがつてるランプだか、電氣だか何だか知らないが、是には何の personality もない。即ち自然の法則を apply した丈なのであります。
 然らば吾々の文藝は法則を全然無視して居るかと云ふと、さうでもない。ベルグソンの哲學には一種の法則みたいなものがある。フランスではベルグソンを立場として、フランスの文藝が近頃出て來てゐる。然し吾々の方では sex の問題とか naturalism とか世間に知れ亙つた法則等から出立するものは、其 abstraction の輪廓を畫いてその中につめこんだのでは、生きて來ない。内から發生した事にならない。拵へものになる。即ち吾々の方面では、abstraction からは出立されないのです。然らば文學者の作つたものから一つの法則を reduce することはできないかと云ふと、夫はできる。然し夫は作者が自然天然に書いたものを、他の人が見てそれに philosophical の解釋を與へたときに、その作物の中からつかみ出されるもので、初めから法則をつかまへて夫から肉をつけると云ふのではありません。吾々の方でも時には法則が必要です。何故に必要であるかと云へば、之がために作物の depth が出てくるからである。あなた方の法則は universal のものであるが、吾々の方では personal なものの奧に law があるのです。と云ふのは既に出來た作物を讀む人々の頭の間をつなぐ共通のあるものがあつた時、そこに abstract の law が存在してゐると云ふ證據になるのです。personal のものが、universal ではなくても、百人なり二百人なりの讀者を得たとき、その讀者の頭をつなぐ共通なものが、なくてはならぬ。これが即ち一つの law である。
 文藝は law によつて govern されてはいけない。personal である。free である。然らばまるで無茶なものかと云ふと、決して左樣ではないと云ふのであります。
 斯樣にあなた方の出發點と吾々文藝家の出發點とは違つて居る。
 そのものの性質より云へば、吾々の方のものは personal のもので、作物を見て作つた人に思ひ及ぶ。電車の軌道は誰が敷いたかと考へる必要はないが、藝術家のものでは、誰が作つたと云ふことがぢき問題になる。從つて製作品に對する情緒が是にうつつて行つて、作物に對する好惡の念が作家にうつつて行く。尚ひろがつて作家自身の好惡となり、結局道コ的の問題となる。それ故當然作物からのみ得られべき感情が作家に及ぼして、仕舞には justice と云ふ事がなくなつて、贔負と云ふものが出來る。藝人には此贔負が特に甚だしい。相撲なんかそれです。私の友人に相撲のすきな人があるが、此人は勝つた方がすきだと申します。此人なんか正義の人で、公平で、決して贔負ではない。贔負になるとこんな事が出來ない。かく藝を離れて當人になつてくるのは角力か役者に多い。作物になると左程でもない樣にも見える。
 これ程までに藝術とか文藝とか云ふものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。自己がなくなつたら personal でなくなるのはあたり前であるが、其自己がなくなれば藝術は駄目である。
 あなた方に尊ぶことは、自己でなくして腕である。腕さへあれば能事了れりと云うてもよい。工場では人間がいらない程あつても、その人間は機械の一部分の樣なものである。mechanical に働く、機械よりも巧妙に働く、腕が必要である。が、吾々の方は人間であると云ふ事が大切な事で、社會上より云ふときは御互に社會の一員であるけれ共、吾々の方は貴方がたに比べて人間と云ふ事が大事になる。
 所がこゝに腕の人でもなく頭の人でもない一種の人がある。資本家と云ふものが夫である。この capitalist になると、腕も人間も大切でなく、唯金が大切なのである。capitalist から金をとり上げればゼロである。何にも出來ない。同樣にあなた方から腕をとり上げても駄目である。吾々は腕も金もとり上げられてもいゝが、人間をとり上げられてはそれこそ大變である。
 あなた方の方では技術と自然との間に何らの矛盾もない。然し私共の方には矛盾がある。即ちごまかしがきくのです。悲しくもないのに泣いたり、嬉しくもないのに笑つたり、腹も立たないのに怒つたり、こんな講壇の上などに立つてあなた方から偉く見られようとしたりするので――是は或程度まで成功します。是は一種の art である。art と人間の間には距離を生じて矛盾を生じやすい。あなた方にも人格にない art を弄してゐる事がたくさんある。即ちねむいのに、睡くない樣なふりをするなどは其一例です。かく art は恐ろしい。吾々にとつては art は二の次で、人格が第一なのです。孔子樣でなければ人格がない、なんて云ふのぢやない。人格といつたつてえらいと云ふ事でもなければ、偉くないと云ふ事でもない。個人の思想なり觀念なりを中心として考へると云ふことである。
 一口に云へば、文藝家の仕事の本體即ち essence は人間であつて、他のものは附屬品装飾品である。
 此見地より世の中を見わたせば面白いものです。かう云ふのは私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。尤も私は親が生んだので、親はまた其親が生んだのですから、私は唯一人でぽつりと木の股から生れた譯ではない。其處でかう云ふ問題が出て來る。人間は自分を通じて先祖を後世に傳へる方便として生きてゐるのか、又は自分其者を後世に傳へるために生きてゐるのか。是はどつちでもいゝ事ですけれども、とり樣では二樣にとれる。親が死んだからその代理に生きてゐるともとれるし、左樣でなくて己は自分が生きてゐるんで、親は此己を生むための方便だ、自分が消えると氣の毒だから、子に傳へてやる、と云ふ事に考へても差支ない。此論法から云ふと、藝術家が昔の藝術を後世に傳へるために生きてゐると云ふのも、不見識ではあるが、矢つ張必要でせう。ことに舊芝居や御能なんかはいゝ例です。繪畫にもそれがある。私は狩野元信のために生きてゐるので、決して私のためには生きてゐるのではないと看板をかける人もたくさんある。かう云ふのは身を殺して仁をなすと云ふものでせう。然し personality の論法で行くと、之は問題にならない。こんな人はとりのけて、ほんとに自覺したらどうだろう。即ち personality から出立しようとする、狩野の爲に生きるのをよして自分の爲に生きようとする事にしたらどうだらう。世の中には全く同じ事は決して再び起らない。science ではどうだか知らないけれども、精神界では全く同じものが二つは來ない。故に幾ら舊樣を守らうとしても、全然舊には復らない。尚他の一つは舊にかへるのではなく新しい departure をする。是等によつて essential な personality を發揮する事ができる。
 導體的の文藝家美術家も、必要かも知れないが、人間の本分として、凡ての人は自覺しなければならない。此所が大切な所で充分に説明しなければいけないんですが、今日は時間がないから之でやめます。
 私の云ふた事は、あなた方と私共との職業の違ひから出立して、私共の方の事を精しく云つたのでありますけれども、同時に又あなた方の方にも或程度までは應用が利くかと思ひます。あなた方の職業の方面に於て幾分か參考になる事がありはしないかと思ふのです。尤も文藝部の會ですから應用が利かなくつても、威張つて左樣云ふ權利があります。然し個人としてなり職業としてなり、あなた方の御參考になれば、私は非常に嬉しいのであります。――それ丈です。
   (東京高等工業學校校友會雜誌所載の略記による)
 
【カーライル博物館所藏】カーライル藏書目録〔137頁〜157頁、省略〕
 
漱石山房藏書目録〔後から1頁〜93頁、省略〕
 
漱石全集第33巻(別冊中)、273頁、850円、1957.9.27(80.4.4.5刷)
 
談話
 
  英國現今の劇況
 
 西洋の芝居と云つても、此前に話をした事があつた英吉利の芝居のことでして、別に其時も調べて纏つた話でもなかつたのですけれど、只記憶しただけの事を話したのみなのでした。尤も誰でも知つてる事で、殊に近頃は外國へ芝居を調べに行つた人もあつて、その人達の見て來た事も、他の文藝の雜誌に出ますから、それを殊更私がその專門の雜誌に向つて、お話をするといふ程の價値《ねうち》もないと思ひますが、折角の御依頼でありましたから、お話を致しませう。
 大體はこの間話をした通りでありますが、草稿もないし忘れて居ますから、すつかりとは行きませんけれど、そのあらましを云つて見ますと、この倫敦には芝居と名の附くものが五十ばかりあつて、その外にミウジツク、ホールといつて歌舞音曲の樣なものを演《や》る(日本で云ふ寄席のやうなもの)處が、大小合はせて五百ばかりあります。それでその大きなものになると、譬へばストランド街にあるカ※[エに濁点]ント、ガーデン座が三千五百人位入りますが、最下等のホワイトチヤペルと云ふ處にある極安の芝居になると、四千人程入ります。だけれど均《なら》して普通五六百人といふ處でせう。だからして五百人平均とすると、毎夜この興行物を見て暮す人は、二十七萬五千人になります。それでこれ丈の澤山な人が行きますが、その内で重なる座をいふと、今いつたカ※[エに濁点]ント、ガーデン座ですが、これは純然たる芝居と云ふよりも、寧ろオペラやフアンシー、ボールなぞを演《や》る處です。それからストランド街の東の方でテームス河に架かつて居る、ウオータールー橋の畔《ほとり》にあるドルーレー、レーン座が大きなもので、これは由緒のある劇場《しばゐ》でして、昔の有名なガリツクだとかキインだとか、或はケンブル或はシドンス夫人なぞが出勤した處なのでして、此座の特長はクリスマスの時分に、パントマイム(編者曰く。この説明は後にあり)を演《す》るので有名なのです。その次はその近所《そば》に現今英吉利の團十郎たるアー?ングが出勤する、ライシイアム座と云ふのがあるのです。それからその邊りには澤山有名な座もありますが、その名前ばかり擧げても詰らないから略しませう。そこで中央道路たるオクスフオード街から、所謂流行の根源地(流行と云ふ事が日本の重に花柳社會から來るのとは違つて、英吉利では上等社會から流行り出すのです)たるウエスト、エンド一帶の方へ行きますと、一番に目立つのがヒズ、マゼステイ座でして、こゝは先達てまで女皇の御在世《おいで》の時は、ハー、マゼステイ座と云ひましたが、崩御の後はヒズ、マゼステイ座と改稱してトリーといふ役者が出る處です。『新小説』か何かにトルストイの劇を演つたといふ、抱月さんの通信のあつた劇場です。その向側にそんなに大きくはないけれど、ヘーマーケツト座といふのがあります。又二三町隔てて西南の方のセント、ゼームス街に街《まち》の名を附けた、セント、ゼームス座といふのがあつて、そこはアレキサンダーと云ふ役者の出る處で、ステーヴン、フヒリプスの劇詩、パオロ、エンド、フランチエスカを演つたのが即ち此座《こゝ》なのです。その他この界隈ストランド街邊りには、同じ樣なものが澤山あります。それからこのウエスト、エンドには所謂ヴアラエテイと稱して、純粹の劇場ではないけれども、曲馬、手品或は道化芝居といふものを混ぜて興行して居る有名な、パラスとかエンパヤーとかいふものが四五軒ありまして、これは皆大劇場と匹敵する位な、寧ろそれより内部の構造なぞは立派な建築なのです。その他單に芝居と號して居るものは、先にお話をした通りの數で一々擧げる事は出來ないが、その純粹の芝居を演《す》る處は少いので、或處では道化芝居や茶番見たいのものを演つたり、或は音樂人の狂言見たいのものを演つたり、所謂高尚の意味に於での劇を演《す》る處は寧ろ少いのです。
 それからその劇場には、この座長といふものがあつて、これをマネジング、デレクターと稱して、それは同時に芝居の持主或は借主を兼ねて居て、しかも役者の内の大頭がやつて居るのです。假令《たとへ》ば先刻お話をしたヒズ、マゼステイ座の座長及持主はトリーで、セント、ゼームス座の座長及借主はアレキサンダーといふ風になつて居ります。尤も小さい芝居とかイースト、エンドの方の場末の芝居になると、そんなものはない樣ですが、場末の芝居なぞにはない譯で、つまり極つた役者が出ないからです。然し代り/”\何々一座といふのが廻つて來るのでして、これはまあ田舍も同じ樣に廻つて來ては興行するのです。それからウエスト、エンドなぞで大きなものが當ると、その興行を打上げて、時には廻つて來る事もありますけれども、多くの場合には當つた芝居を、他の一座が傳授を受けて方々持つて歩くので、謂はゞ當り狂言の忠臣藏といふ樣なものを、この場末へ來て演《す》るのです。さういふ澤だから大きな役者の座長とかいふものは、かういふ座には附いては居ないのです。その他は今のマネジング、デレクターの外にジエネラル、マネジヤーと稱して、一般の事務を支配する事務長といふやうなものがあり、それから舞臺の事を管理するステージ、マネジヤーといふ者があり、又その座の音樂を監督するミウジカル、デレクターといふ者があります。それで今度はどういふ芝居をやるとか、役をどう付けるとかいふのは座長がやるので、又道具立をどう仕ようとか光線の工合をどうとか心配をするのはステージ、マネジヤーがやるので、音樂や何かはミウジカル、デレクターがやり、一般の客の待遇《あしらひ》とか、合間々々に客が出て飲食等をする注意をしたりその他の雜務、假令《たとへ》ば芝居に就いての手紙の交渉等はジエネラル、マネジヤーがやるのでして、皆さういふ風な機關で出來て居るのです。
 それから劇場の中の見物する席に就いてお話をしますと、席料の一番|高價《たか》いのはプライ※[エに濁点]ート、ボツクスといつて、これは五十圓から十圓位で一間買切つて、その中へ勝手に幾人でも入るので、その値段に高下のあるのは、一番低い處が高價いので、段々になつて二階三階となるほど廉價《やす》くなるのです。このボツクスは數に限りがあつて澤山はないので、其處は舞臺を臨んでその兩側に、舞臺を斜に見る樣に一側づゝ段々と三階位のものが付いて居るだけなのです。これが高價い處であるけれども、見るには横からですから、見好い事はなからうと思ひます。その次はストールといつて、これは日本の土間で、もつとも正面から舞臺を見る處ですが、見るのには一番好い場處ですから從つて價《ね》も高く、大概大きな芝居ですと、一人席五圓二十五錢位です。このストールの後に少し高くなつて矢張舞臺を正面から見る安い席があります。これをピツトといつて、そのピツトの一番初めの側はストールの一番後の席と付いて居るから、極上等で、値段は安く一圓二十五錢位です。併し場末の芝居へ行くと、このストールも從つて大變に安くなつて二圓位の處もあります。その次のはぐるりと階廊の樣になつて居る二階で、これは座によつて名が違ひ、或はバルコニーとも云ひ、或は他の座へ行くとドレス、サークルともいつて、一人席三圓七十五錢位です。その次になると、又その上に三階が廻つてあつて、これも處によつて名が違ひますが、まあアツパー、サークルといつて居りまして、これも一人席二圓五十餞位です。又その頂上をガレリーといつて、こゝが日本の追込、即ち一番最下等の處で、一人前二十五錢位です。尤も大きな座になると、このガレリーの下にまだもう一つ階廊の樣なものが付いてあります。
 そこで席にはリザーブド、シートと、アンリザーブド、シートの區別があつて、前のリザーブド、シートといふ方は一人が一人の席を占める樣に出來て居て、その席は緩りとしたもので、腕をかけるやうな處が腰掛の兩方に付いて居て、それが海老茶色の天鵞絨で張詰めてあり、さうして出入には腰掛が自由になるやうになつて居て、坐る時には疊んで上げてあるのを下ろし、出る時には元の樣に疊むので、これをチツプ、アツプ、シートといつて見事なものであつて、大抵今の海老茶色で出來て居て、下の踏む處も同樣です。それには皆番號が振つてあつて、一側目の第何番目とか、二側目の第何番目とか云つて、それでその切符を買つて了ふと、外の人はとても其席へ坐る事は出來ないので、遲く行つても早く行つても勝手です。それを買ふには、芝居の入口にボツクス、オフヒスといふ切符賣捌所があつて、そこで買ふか又はその芝居まで行かなくとも諸向に代理店のやうなものがあつて、そこから買ふ事が出來るけれど、もつとも流行る芝居になると、今夜行つて見たいからといつて、切符賣捌所へ行つても中々席が手に入らない。だから大抵二三日前、若しくは一週間前にどこの何番といふ札を買つて置いて出掛けるのですが、又その流行る芝居ですと、明日ので何席が明いて居るとか、三日目の何席の何番、四日目の何席の何番といふ樣な工合にして買ふのです。そこでアンリザーヴド、シートといふのは前のと違つて、一人に就いて一席を設けてないのでして、ピツト或はガレリーはさうなのです。そこへ入るには幾ら金があつても、幾ら前から誂へても席は取つてある氣遣はないのだから、早く行つて順番に早く入る方が好い處へ行けるといふのです。それで皆入口が違つて居る。土間へ行く人は正面から入りますが、ピツトへ行きたいものはピツトの入口で待ち、ガレリーへ行きたいものはガレリーの入口で待つて居て、その入口で金を拂ふのですが、入口は興行前大抵三十分に開くのです。だから我勝に待つて居て入るのですけれども、餘程規律の正しいもので、順番に二列になつて後から來た者は、跡から/\と後へ蹤いて待つて居るので、かういふ樣に開場刻限の少し前になると、待つて居る人が、ピツトの入口でも、ガレリーの入口でも、長い行列になつて居るので、時によると一町も一町半も續いて、横町を曲つてはみ出して居る事もあるのです。それでさういふ見物人は熱心であるから、前へ出て好い席を取らうと思つて、非常に早く行つて待つて居るので、大抵夜の八時か八時半に始まるのに、晝飯を食べると詰め掛けて居る者もあります。でこれに就いて面白い話があるのは、餘り熱心に客が詰め掛けるものだから、座主が時によると早く來た者に、お茶を出したといふ事があつて、大抵英吉利ではアフタヌン、チーといつて、四時か四時半には紅茶を飲むもので、日本の茶うけの樣にやりますから、この時刻が來ると客へ出すやうにして茶を饗應《ちそう》したといふ事です。それにまだ似寄つた面白い話といふのは、この間ゲイエテー座といふ芝居が改築になつて、初めて興行した時に、一番初めにこの夜興行を見るので詰め掛けた人は、朝の六時半頃でした。それから段々にぽつり/\と集つて來たのですが、何しろ夜の芝居を朝から寄つて來たのだから、終には餘り退屈になつて代理人を雇つて、自分の番をさせたものがあつたので、その代理人になつたのは、メセンジヤ、ボーイといつて、一定の服装で一寸使ひをする小供があるので、その小供を雇つて來て、自分の代りに置いた人が大分あつたのです。そこが人情といふものは妙なものでして、そんな小供を雇つて錢を拂ふ位なら、ちやんとリザーヴド、シートの處へ行けば、その錢で待ち遠い目を仕なくとも、追込でない處へ入れるのだが、そんな事をやつた人が大分あつたといふ事でした。だから前に云つた通りこのアンリザーブド、シートの處へ入るには隨分苦しい思ひを仕なければならないし、又行列に入つて待つて居まいと思ふと、人の後になつて立つて居らなければならないのです。それにこのガレリーは芝居の一番高い天井に近い處であるから、そこで舞臺を見下ろすと、大きな芝居になると丁度山の上から谷底を見たやうな、或は噴火口から中を覗いたやうな有樣であつて只遙に下の方で美しいものが動いて居るやうに見えるのです。併し私の思ふのには、芝居といふものの見方にも依りますけれど、只美しいものを見るといふなら、芝居の筋とか白《せりふ》とか役者の技藝を別にして、只美しいものの活動をして居る處を見ると思へば、そのガレリーが一番好いと思ひます。なぜなれば丁度夢に龍宮へ行つた心持がする樣であるから、それだけで滿足すべき美感があると思ふのです。
 それで序に見物人の事を云ひますが、それは大變靜肅でして、今の追込なぞに入る連中としても決して騷がしい事はなく、殊に人の席を奪ふなぞといふ事は決してないので、假令《たとへ》その人が一時出ても、歸つて來るとその跡に入つた人は直に退いてやるといふ風です。それから此席の前にオペラ、グラスといふものが附いて居て、それへ錢を入れると葢が開いて、中から眼鏡が出るやうになつて居て、それで舞臺を見るのであるから、見たい人は勝手に錢を入れて見るのだが、見た眼鏡を正直に跡へ入れない者はないと見えて、未だにその法が行はれて居ります。丁度日本で云ふと、今日ではあるまいが、その以前瀬戸物町の伊勢本といふ講釋の晝席で菓子の箱が客の中に出て居て、勝手に食べて錢を入れたもので、それを只食つて仕舞ふといふ人もなかつたやうであつたが、それと今いふ眼鏡を見て持つて行つて仕舞はないのと同じ樣な事です。それから上等な見物人になると、皆燕尾服を着し、又女は肩を出した禮服を着て行きますが、矢張非常に嚴重に靜肅で、寺の中が靜肅でありますそれ程でもないが、日本人のとは違つて極く眞面目であつて、聲を出すと云ふ事はなく、只手を拍つきりです。それでその合間々々には席を外して、酒とか珈琲を飲むリフレツシメント、バースといふ場處へ行つて、又元の席へ來て見物するといふ譯です。興行は今いつた通り八時から十一時頃までで、晝間あるのは水曜と土曜日でして、二時位から五時頃までで、この晝の興行をマチネと云つて、遠くに居る人などは、それを見に行くのに遲くならないから便利です。そこで場末のイースト、エンドの方の芝居へ行くと見物人が喧しくつて、下品で、客種が大變に落ち、ワイ/\といつて肝腎の泣く處を笑つて居て、禮服なぞは着て居るものは殆ど皆無で、着て居ると却つて一つ笑ひになる位なのです。こゝの場處はイースト、セントラルといつて、銀行とか商會とかいふ、晝は勤め人が居て、夜は淋しくなるといふ處の後の方にある、風の惡い人間が住んで居る地ですから、つまり身分の良い人はこゝへは出入をしないのです。
 それから次に舞臺の話を少しやりませうが、元來西洋の舞臺といふものは、今は非常に立派になつて居りますが、昔は詰らないものであつたので、歴史は委しく云はないけれど、英吉利ではエリサベス朝の劇が、最も盛な時代であつたが、その舞臺は極詰らないものでして、藁の樣なものを敷いたのです。又この時分には道具立といふものも殆ど無く、パリス、ミランといつて、札に書いて出して此處は何の場、此處は何處だと極めたもので、見物は其處と思つて見て居たものです。それから幕はその時分からありましたが、何しろ麁末なものであつたのです。そこで英吉利の舞臺で一寸目覺しい改良をしたといふのは、十八世紀の終りにド、ルーサブルグといつて確か獨逸生れの人と思ひましたが、その人が大改良をしたので、假令《たとへ》ば書割に光線を映す事とか、月を見せたり星を見せたりする事とか、それから銀の屑を使つたり、紗或は金屬の青い板で水を見せたりする事を發明しました。これが有名なものでして、この人が英吉利へ來て先刻お話をした、ガリツクといふ役者の爲にドルーレー、レーン座の道具立をやつたので、それはガリツク先生が、自分で書いたものなのでした。この時に青い木が段々と焦茶色になる處を出し、月が段々と登つて來て雲の側を通る處なぞをやつたのでして、これを見て當時の看客は非常に驚いたのです。それが單に普通の看客のみならず、英吉利の第一流の畫家《ゑかき》とも云はれて居る、レノルヅですら、非常に嘆賞したといふ位で、確にこのド、ルーサブルグといふ男の道具立は、この舞臺の道具立の歴史に於て、一時期を形作つて居るものです。その後段々發達して、それで現今の俗にステイジ、リフオームといつて、舞臺改革といふ詞が出來て來たので、それは何時からといふと千八百八十年頃から興つたので、彼の※[ヰに濁点]エンナの劇場《しばゐ》が燒けてから以後の事であるのです。その所謂舞臺改革の重なる點といふのは、一方では道具立を何でも自然を出來るだけ眞似て、實物そのものを舞臺の上へ出さうといふ趣意でそれが一つ、もう一つは現今の科學、器械學又は水力學を舞臺に應用するといふ事なのです。で、英吉利にあつて最も輓近にこれを實行したのが、千九百二年にカ※[エに濁点]ント、ガーデン座でやつたその時に、サークスといふ建築家が意匠を凝らしてやつたのです。その他英吉利では斯ういふ事に關して、役者では、アー※[ヰに濁点]ング又はトリーなどが、大分熱心に改革を企てた方で、畫家ではハーコマーやアルマタデマなどが、皆舞臺の改革に盡力したのです。それで今の舞臺は昔と違つて、舞臺を五六の區劃に分かち、これを電氣の力で以て動かし、書割は上から吊して然も錘《おもり》仕掛に出來て居るから、一人位の力で大きな道具の上げ下げが簡易に出來るので、それから電氣を用ゐて四つの色を出さうといふ譯です。それに又昔は舞臺が傾斜になつて居たのが、現今のは平たくなつて居るので、舞臺には木で出來たものと、木と鐡で出來たものと、鐡製のものと、かういふ風に別があるので、木で出來たものは、人の力で運轉をし、木と鐡のも同じくであるが、鐡で出來たものは、人の力も無論の話であるけれど、これは水力及電氣の力でやるのです。まだその外に舞臺に關しては近頃種々やつて、米國ではセリ出しの舞臺を作つたのがあり、又獨逸では日本の廻り舞臺の樣なものをやつたのがありますが、長く續くかどうだか分らないのです。それに舞臺上の光線は下からと横からと上からと三通りに取る事が出來て、下からが俗にフート、ライトといつて、舞臺の前にあつて下から役者の顔を照らし上げるので、上からがバトンといふもので取り、横からがウイング、ラダーといふものから取ると云ふ由ですけれど、その器械や構造の精しい事は知りません。
 それから西洋で近頃は一つの立派な劇《しばゐ》をするといふと、重に一人好い畫家を雇ふか相談するかで、その人が種々《いろ/"\》と道具の書割や何か工夫するのでして、アー※[ヰに濁点]ングがコリオレーナスを演つた時には、アルマタデマの意匠を藉り、それからキング、アーサーを演つた時にはバーンヂヨーンスの助けを藉りたので、是等は皆第一流の畫家であるのです。それで舞臺の畫を描く事に關しては、英吉利は今では歐羅巴で殆ど一流の地位を占めて居て、他の國には劣らないのです。倫敦でかういふ劇《しばゐ》を演《や》るといつて、他の國へ行く時は、その道具立まで持つて行くのですから、道具立も劇の一部分として重くなつて居るのです。
 それから今度は英吉利で劇を演《や》る事に就いてお話をしますと、その演《や》る事は甚だ振はない方で、どうかと云ふと下火なのです。そこで實に愚にも附かない劇を演つて居るが、然も大入であつて場末へまで持つて行つて演《や》るといふ位に盛んなのです。或人|假令《たとへ》はクレイギー夫人といふ有名な女流文學者の如きは、かういふ批難を云つて居るのでして、「どうも英吉利の役者といふものは、自然といふ事を舞臺に演じる事を勤めないし、出來ない樣になつて居る。それは一つの型が出來て了つて居て、その型に適《はま》らないものは不可ない樣になつて居るから、自分では面白くないと思つても、是非それを演らなければならないと云ふ樣になつて居て、妙な氣取つた事などを演《や》るから慣れない人がこれを見ると、極く嫌味があつて可笑しいので、どうしても夫を止めなければ、劇は發達しないだらう」とかういつた樣な譯です。それで現代の劇《しばゐ》が、教育ある人の目から見て重きを置かれて居らないといふのは、一般の事實であつて、或人は交際祀會へ出て劇《しばゐ》の話をしない位であるが、その癖自分は劇《しばゐ》へ行くのです。何故《なぜ》その劇《しばゐ》の話をしないかといふと、まあ相手にもよりますが、何處へ行くと聞かれた時に、劇場《しばゐ》へ行くと云へば、彼樣《あんな》下らない處へ行くかと相手がいふかも知れないといふ事を憚つて云はないのでせう。まづ云つて見ると、「貴方は何處へ」「劇場《しばゐ》へ行きます」「劇場《しばゐ》は何を見に行きますか」「何々を見に行くのです」「それは誰が書いたものです」「あのピネロが書いたものです」「ピネロとは誰の事ですか」と斯の如き談話は、もつとも文學的な人に逢つても珍らしい事ではなく、然もピネロといふのは現今英吉利の脚本家では、第一流の作者なのです。そこで又或人の説に據ると、英吉利には隨分文才のある人もあるけれども、その人は脚本は書かない、何故書かないといふと、今云つた樣な譯だからといふのです。それに大變面白い脚本を書いて座長の處へ持つて行くと、座長はそれを讀んで、成程面白いと思つたつても、これを直ぐと劇場《しばゐ》で演《や》る譯には行かないと云ひ、それでこの脚本は己のする役はあつても、己の女房の演《す》る役がないとかういふ譯で戻すので、又これを他の座へ持つて行くと、今度は己の女房の演《す》る役はあつても、己の演《す》る役がないとかういふ口實を付けるのです。さういふ理由だから少し文才のある人でも脚本は書きたくないと、かういふ事になるかも知れないのです。現にこの間或人の書いたものを見たら、倫敦に二十五年前は凡そ劇場《しばゐ》が二十五あつて、その内の二十といふものは眞實《ほんたう》の劇《しばゐ》を演つて居つたが、現今は劇場《しばゐ》へ行く人は三倍にも四倍にもなつたに拘はらず、眞實《ほんたう》の劇《しばゐ》を演《や》る處は七ツ位で濟むといふ譯であつて、その多くは道化|劇《しばゐ》或は茶番といふものを演つて居るのです。で、その或人がこの風ではいけないと云ふので、外國ではどんなに劇《しばゐ》を保護して居るかと、その例を調べて見たら、どうしても保護をしなければ段々墮落して仕舞ふから、國立とか市立とかいふものを拵へなければ不可ない、それでないと遠からずして、劇《しばゐ》は一種の寄席見たいな物に下落して仕舞ふと云つて居るものがあるのです。之を要するに今演つて居る新作脚本の大部分といふものは、重に社會的の寫實劇なのでして、然も滑稽に傾いたものが多いので、中には中々面白いものがあるやうだけれど、大いに流行《はや》つたり何かしたもので、行つて見ると極めて馬鹿氣たものも大分あるのです。だから斯ういふ風に劇場《しばゐ》の前途を憂へる人が出るのも無理ではあるまいと思はれます。そこで現代の劇《しばゐ》といふものは、私の見た處では脚本が善いとか惡いとか云ふよりも、寧ろ道具立とか光線とか書割とかそんなものが主で、則ち附屬物たる物が主となつて居るやうな傾きに見えるのです。尤も實際道具立その他のものは、實に想像にも及ばない位見事に出來て居るので、先づさういふものに費す金が十週間の與行として、十萬圓乃至十六萬圓位費して、あらゆる輓近の科學的知識を應用するから、立派に出來上がるし、又好くも見られる筈なのです。その最も立派なものの一つとして毎年人が待ち設けて居るのが、最初一寸お話をした、ドルーレー、レーン座のパントマイムであつて、それは毎年暮に演《や》るもので、そのパントマイムといふものは、奈何《どん》なものかといふと、日本でいふ謂はゞ桃太郎の話といふのに、滑稽を混ぜて一つに繋ぎ合はせたものを劇《しばゐ》風にして、その時事の當込みなどをチヨツ/\と入れて仕組んだものであるから、劇《しばゐ》として見ると實に詰らないものでありますが、まあ多少の滑稽があるといふだけの話です。だからこれは小供の慰みとしてクリスマス時分に興行するものになつて居るのですが、それにも拘はらず小供ばかりでなく大供が出掛けて行くのです。これは道具立が綺麗で大した金を掛けて立派なものを造るからで、それは/\實に美麗を極めたもので、一つの道具立が下へ下がると、それが又下がり、又その奧にあるといふ譯になつて來たり、又舞臺から噴水が出て、その噴水がしかも五色の色に變つて行つたり、舞臺の上に馬が出てドシ/\駈けて歩いたり、或は舞臺の上へ百人近くの女が十人位づゝ一組になつて、その一組が同じ着物で、互に離れたり合つたりして舞ひ、中には羽翼《はね》を生して飛んだりするので、その美は想像も及ばない事でして、毎年その美しい度が増して來るのです。先達て話をした時は、かういつた樣な戯謔《おどけ》だといつて讀んで見せましたが、今晩はそれだけ略します。で、そこにダン、リーノといふ道化師があつて、丁度日本でいふと落語家の圓遊といふ風な男でして、それを見に行くのと、道具立の綺麗なのを見に行くのです。併し要するに大抵の看客は道具立に歸着するので、煎じ詰めて見ると、日本にはまだ無いが、道具立は舞臺を幾つにも割つて、飾り立てる方に赴き、肝腎の脚本は更に振はないのでして、或人の説に據ると、型ばかり演つて居るから、さうなつて仕舞ふので、劇その物の爲に不可んといふのです。併しこの型といつても、日本でいふ舊劇の型なぞといふものとは、その趣は違つて居るのでして、寫實そのものに對して、自然といふ事を舞臺で演じないで、妙に臭い擧動《そぶり》をするからなのです。まあざつと此樣《こんな》ものでして、これで英國の劇況も略分るでせうと思ひますから、こゝらで了ひと致しませう。
       −明治三七、七、一-八、一『歌舞伎』−
 
  批評家の立場
 
 小説の批評を見ると作者の爲に甚だ氣の毒な事がある。多くの批評家は評すべき個條を各方面から一々に擧げないで、局部々々をのみ論ずるやうな傾がある。
 帝國文學で齋藤信策君が『新曲浦島』を評したのを見た。男らしい、しつかりした、秩序立つてゐる、立派な批評だ。けれどもあれで見ると、樂劇といふものはかういふものだ、例へば『沈鐘』だとか『タンホイゼル』だとかあゝいふ情緒を寫さなければならぬものだ、この風で行かなければならぬものだと、『沈鐘』なり『タンホイゼル』なりを標置して、この二作に標準を求めねばならぬらしい口吻である。かくては作者に不利益で、作者を誘掖することが少い。
 元より樂劇には『沈鐘』『タンホイゼル』より外に面白いものがないとなれば、この二つを標準とするに不都合はない。けれどもあれより面白いものがあつて見ると、この標準は變なものになる。新たに拵へたものをある標準を立てて論ずるのは、兎角窄めるやうな感がある。『沈鐘』『タンホイゼル』を例に擧げて、參考にこんなものもあるといふのは差支ない。けれどもかうなくては面白くないといふ語勢が見えては、餘り窄め過ぎた遣り方だ。殊に坪内博士の主義と『沈鐘』『タンホイゼル』のとは其プレインが違ふかも知れない。西洋の評家でも日本の評家でもこの弊をうけてゐるやうだ。
 脚本は性格を寫さなければならぬものと定めて置くものだから、プロツトから出た面白味を見て、性格が現はれない、この作はつまらないと云ふ。脚本必ずしも性格を寫さねばならぬといふ事を云ひ得るだらうか。それからまた性格の寫されざるものはドラマに非ずといふ事を云ひ得るだらうか。
 ドラマは性格を寫すものだといふ事は、以前のものに向つても不可だし、これから又如何なる變り種が出ないとも云へない。櫻草にも色々な※[ワに濁点]ライエテイがある。今までの櫻草を標準にして櫻車はこんなものに限るといつて居ると、其口の下から直ぐ變り種が出來る。
 歴史を見ると、必ず標準を置いて是に合せないものは不可だと云つてゐるものに、長續きのした例がない。五十年位立つと其標準は自然に打破される。歴史が先づこの標準説を打破するのだ。
 小説にしても、あらゆる小説を組織する要素を見て、其あらゆる方面から詳評しなければならん。作家は自分の特色を發揮しようとし、批評家はあらゆる方面から評することにして、決して規則標準の如きものを與ふべきでない。
 標準は自分でなくてはならん。自分を以て人の標準に合せしめようとするのは、自己の特色を歿するものだ。
 近頃西洋の名を得た人の作を標準にして無闇と西洋がるものがある。西洋の作にも甚だいかゞはしいのがある。餘り西洋崇拜をして自己と我國との特色を歿するのは遺憾だ。
 長谷川天溪といふ人がトルストイ翁の『アンナ・カレニナ』か何かを見て、長くて到底讀み切れないと云つて居たのを見た。餘り大作といふ名にかぶれないで、日本人のやうな洒脱な淡白なものを好むものは、忌憚なく、こつてりしたものは嫌ひだといつたらよからう。天溪君のやうな正直な發表が望ましい。
 今時セキスピアを讀んで其作物を非難するものは、自己の馬鹿を世間に發表するやうなものだ。だから知ると知らざるとに關はらず、沙翁の作はうまい/\と云つてゐる。そんなに何も阿諛せんでも正直な態度を保つたらよからう。
 僕は軍人がえらいと思ふ。西洋の利器を西洋から貰つて來て、目的は露國と喧嘩でもしようといふのだ。日本の特色を攪張するため、日本の特色を發揮するために、この利器を買つたのだ。文學者が西洋の文學を用ゐるのは、自己の特色を發揮する爲でなければならん。それが一見奴隷の觀があるのは不愉快だ。
 人は壓迫せられた時自己の無能を思ふもので、明治維新の當時無闇と横文字が跳梁したので、一般に横文字は好いもの難有いものとなつたが、西洋ばかりが必ずしもえらいのではない。日本には日本固有の特色がある。其特色を發揮することが何よりえらいのだ。同時に自己の特色を發揮するのがえらいのだ。
 高山林次郎君なぞの評は標準的のもので、自己の氣に入つたものは氣に入つた標準の下に論じ去つてゐるやうな嫌ひがある。作者を啓發する處は何物もない。
 モルトンといふ人が沙翁の作をアナライズして科學的にやらうとしたのがあつたが、それは餘り機械的に流るゝ氣味があつた。然しそれでも幾分か僕の批評家に對する要求を滿してゐる。
 
  近作短評
 
 風葉君の『深川女房』は如何にも深川女房らしい。牛込女房や麻布女房ぢやない。第一「深川」といふ名がいゝ。それに會話が自然だ。一二ケ所變だなと心付いた處はあつたが。
 『天うつ浪』のお龍お?なぞの會話は決して自然だとは云はんが、あの階級に丁度適した言葉つきだ。さうして其階級以外に渉らない處がうまい。
 鏡花君の『敍短冊』は草雙紙時代の思想と明治時代の思想とを綴ぎはぎしたやうだ。夢幻ならば夢幻で面白い。明治の空氣を呼吸したものなら、また其空氣を寫したので面白い。唯綴ぎはぎものでは纏つた興趣が起らない。然し確かに天才だ。一句々々の妙はいふべからざるものがある。古沼の飽くまで錆にふりたものだと見たものが、鯰の群で蠢動めいてゐるなどは餘程の奇想だ。若しこの人が解脱したなら、恐らく天下一品だらう。
 『謎の女』は生田葵山といふ人の作だ。あゝいふ事を書いたのは新らしいと思ふ。或は翻譯ではあるまいか。
           −明治三八、五、一五『新潮』−
 
  戰後文界の趨勢
 
 兎に角日本は今日に於ては連戰連捷――平和克復後に於ても千古空前の大戰勝國の名譽を荷ひ得る事は爭ふべからずだ。こゝに於てか啻に力の上の戰爭に勝つたといふばかりでなく、日本國民の精神上にも大《おほい》なる影響が生じ得るであらう。
 今日までは――維新後西洋なるものを知つて以來、西洋との戰爭はなかつたのである。然しそれは砲烟彈雨の間に力を角するの戰爭はなかつたといふまでで、物質上、精神上には平和の戰爭は常に爲されつゝあつたのである。で、この平和の戰爭のために獨立も維持される、文明は倍々《ます/\》盛んになるといふ有樣であつた。これは西洋から輸入された文化の庇蔭《おかげ》であつた、が然しこの庇蔭《おかげ》を蒙る上からその報酬として幾分か彼に侵蝕される傾向《かたむき》はあつたのである。これは諸事萬端がさうであつた。精神界の學問の事は無論として、禮義、作法、食物、風俗の末に至るまで漸くこれに則《のつと》るといふやうなことになつた。つまり風俗人情の異つた西洋が主となつて來た。即ちこの平和の戰爭には敗北した。
 それでその結果が妙な所に來て、西洋には敵《かな》はない、何事も西洋を學ばねばならぬ、眞似なければならないといふ觀念――これが年來、今日まで養成された事實かも知れぬ。否、事實以上の感じが起るのは明らかである。
 それで物がかうなると、又これに對する反動が起る。國粹保存主義が一時此趨勢に對する反動として起つたのも、それであつた。然しそれは一部の人が局部の弊を見て反抗したに過ぎぬ、で、この國粹保存といふことは昔の日本の事を再び今日に繰返さうといふ精神が基礎であつたと思ふ。然しそれは到底時代の大趨勢には敵すべきものでない。
 日本と西洋とは無論歴史からも、建國の基礎からも違つて居るが、東西交通の今日に於て昔のまゝをそのまゝに繰返さうといふ國粹保存主義は事情が許さぬ。從つてこの主義もやかましく言つただけの效力が無かつたのである。一時反抗した國粹主義も遂に時代の大趨勢に壓せられてしまつた。これが一般の形勢であつた。
 自體我日本は不幸にして、文學の方面に於ては昔から外國に向つて誇り得る――誇るに足るべき文學はないと思ふ。或は比較的あるかも知れぬ。然し大きな顔をして世界の舞臺に濶歩し得るやうなものは、どうも見當らない。それで文學以外に、例へば繪畫とか乃至は装飾品では、十分に西洋人からその價値を認められて居るものがある。然しそれですらも一時は時代の趨勢に壓せられて國民は盡くこれを棄てた。況んや前に傑作の無い文學は無論自分から見縊つて、つまらぬ文學的の國民としては、文學を以て外國と角逐することは出來ぬと自認し、外國の書籍を見ても日本人の夢想せざる點が開拓されて頗る發逢して居るのを氣付くと、その方が非常にえらく思はれて來て、模範は彼に在る、鑑《てほん》は外國に求《と》らねばならぬといふ、この風潮が深く浸み込んだ。
 尤もかゝる風潮は、これは自分を知り、亦他を知るといふ點に於て、もつとも公平な觀察で決して惡くはない。けれどもその弊をいふとつまり一も二もなく西洋を崇拜するといふことになつて、標準がなくなつて來て唯彼を眞似る、彼を崇拜するといふに止まる。加之その極端に至つては、自分が讀んでおもしろいものでなくつても、これを無理におもしろがらなければならないやうに、或は世間の手前お世辭に褒めちぎらねばならないやうに感ずる。啻に感ずるばかりでなく、これを敢てするに至るのである。西洋の批評家が云ふことは何所まで正しいか、日本人の立場としては何所まで信ずるかといふことを吟味もせずに、唯これを傳へるに過ぎなかつた。
 成程日本には文學としては西洋に向つて誇るに足るものなく、彼は頗る發達しで居たかも知れない。然し日本と西洋とは凡ての點に於て異つて同じくない。敢て故意に日本を區別するのではなく、事實異つて居る。その異なる國民であれば、一種の文明、一種の歴史といふやうに、日本としての特性を有つて今の世の中に生存して居るので、よしんばどの位西洋に感服しても、これを國民に紹介するに當つては日本人としての特性を忘れてはならんので、これを判斷するのもその通り日本人としての特性を離れてはならぬ。
 凡て物を判斷するの標準は世と時とを問はず現在が標準である。自己が標準となるのである。千古に貫く標準とか或は東西を通じた標準もあらう。然し茲所にはそれはさて措いて、つまりこれらの有無に拘はらず標準は自分自身で定めねばならぬ。昔から今日に至るまでの歴史の中から自らが得來つた趣味と、西洋の文化から自らが得來つた趣味とが標準となるので、これが吾人の標準である。これが自分の標準となるのである。然《さ》るをそれを棄てて單に西洋の批評家が言つた事をそのまゝに解釋しなければならぬ、さう解釋したくはないが西洋人が言つたことであるからなどといふのは、西洋に心醉したもので隨分馬鹿氣た話である。縱令西洋の標準がよい、それがよろしいとしても、吾人はこれを經驗に訴へねばならぬ。また經驗して貰はねばならぬ。さてこの上で吾人の得た標準から判斷するのを正當とするのである。文學上の判斷としても決してこれ以外に亙るべきものではあるまい。
 チースは西洋人が喜んで食べるから、日本人たる吾等は嫌ではあるが食べねばならぬといふのはつまらぬ話で、嫌な人が食べぬといふのは正當である。西洋人が好きであるから好かねばならぬといふのは不道理で、況んや嫌でありながら好きですと吹聽するのは苦しい話である。馬鹿々々しいことだといはなければならぬ。
 それで凡ての發達は如何しても人間に氣力――精神がなければ出來ぬ。精神といふのは自分はこれだけの事が出來るといふ自信自覺の力である。この自覺自信の無い國民は國民として起つことは出來ぬ。個人としても墮落したもの、自ら立つといふことは出來ない。漸く人眞似をするより仕方がない。これを移して文學の方面にいへば、その製作にも特性を具へたものは出來ないのである。然し今日の場合は大勢は是の如くである。自覺自信が無い――無いのではない衰へて居る。同じ事を言つても西洋人の言つた事であれば肯づかれる。同じ事を書いても洋語で書いたものは立派なものとされる。大勢は實に是の如きものである。
 日本人は由來武士魂といふ。この負けじ魂を有つて居るといふが、西洋人に負けて居たのは事實である。然し負けながらこの魂の維持されたのは今までの有樣であつた。それであるからこの日本人の特性であると誇りつゝある武士魂でさへ、負けながらの中にやつと維持されつゝあつた。かゝる時に、文學などでも世を驚かし人を愕すといふやうな立派なものが出來よう道理はない。といふのは自己を基礎とした標準がない。西洋が標準である。自己の特性を發揮するといふことが出來ない。他を眞似るといふにとゞまるからである。
 コ川時代に漢文が盛んであつた。然し當時は支那が標準であつた、縱令《よし》傑作があつたといつてもそれも特殊なのは無い。支那人と同じやうなのか、若しくはそれ以下で決してそれ以上に出るといふことは出來なかつた。今の文學界も亦こんな樣がある。
 吾々は大和魂――又は武士魂といふことを今までも口にしたが、然しこれを今日まで無暗に口にしたといふのは、或必要から出たのではあるまいか。これを事實の上に現ずる事なしに、その聲をして高からしめんと叫んだのは、一方に精神の消耗といふ事を思はせるのと、一方には恐怖といふことを抱いたが爲ではあるまいかと臆測するものがあるのも餘儀ないことになる。自信があつていつたのでなくてその精神の消耗を杞憂する恐怖といふ語の呼び換へられた叫びであると思はしめたのも餘儀ないのである。
 然るに茲に今回の戰爭が始つて以來非常な成功で、對手《あひて》は名におふ歐洲第一流の頑固で強いといふ露西亞である。それを敵にして連戰連捷といふ有樣――この連戰連捷といふ意味は船を沈め敵を斃すといふ物質の事であるが、然しこの反響は精神界へも非常な元氣を與へるので、今日まで恐れの叫びを高くして、今度戰爭をするのにも――當局の成算は吾々の窺ひ知る所ではないが、吾々は最初から死力を盡し、生きるか、死ぬかといふ精神であつたが、斯う勝を制して見ると國民の眞價が事實の上に現はれた心地がする。或はこれは多少期して居たかも知れないが、然し忌憚なくいへば決して吾々には所信があつて今日の大成功を期して居たとはいはれない。或はいへば暗に豫期(?)して居た位であつた。それが斯う事實が發展して來ると、つまり今日まで苦しまぎれに言つた大和魂は、眞實に自信自覺して出た大なる叫びと變化して來た。これと同時に同じ日本といつても、言ふことは同じだが言ふ人の了簡が違つて來る。人間の氣分が大きくなつて、向ふも人なら、吾も人だといふ氣になる。ネルソンも偉いかも知れぬが、我が東郷大將はそれ以上であるといふ自信が出る。この自信自覺が開けてくると、この反響はあらゆる方面に波及して來る。
 サ、かうなつて來ると、文學の方面にも無論この反響は來るのである。今までは西洋には及ばない、何でも西洋を眞似なければならぬと、一も二もなく西洋を崇拜し、西洋に心醉して居たものが、一朝飜然として自信自覺の途が啓けて來ると、その考へも違つて來る。日本はどこまでも日本である。日本には日本の歴史がある。日本人には日本人の特性がある。あながちに西洋を模倣するといふのはいけぬ。西洋ばかりが模範《てほん》ではない、吾々も模範《てほん》となり得る。彼に勝てぬといふことはないと、かう考へが付いて來る。
 日本の文學界の製作物として立派なものがある、近松はセクスピヤと比較し得るといつたやうな昔の國粹保存主義時代の考へではなく、今日から自信自覺の位地に起《た》つた國民は、吾々は國民として全世界の何所までも通用する。我邦の過去には文學としては大なる成功を爲したものはないが、これからは成功する。これからは大傑作が製作される。決して西洋に劣《ひ》けは取らぬ。西洋のに比較され得るもの、いやそれ以上のものを出さねばならぬ。出すことも出來得るといふ――氣概が出て來る。これが反響として國民に自覺され自信される事になるのは自然の勢ひである。で、この趨勢から生れて來る日本の文學は今までとは違つて頗る有望なものになつて來るであらう。
 それでもう一つは日本の文學の見方――在來のものを批評するのでも大分違つた見方が出て來るであらう。例へば繪畫である、西洋畫の標準で日本のを見れば全然《まるで》方《かた》なしであるが、然し見方を更へれば日本畫には亦日本畫として西洋畫には發見されぬおもしろさが存在する。日本人は西洋の畫を持ち出して標準を西洋に取るが、これは餅屋の標準で酒屋を評するのと一つだ。ところが西洋では既に自分に倦きて居るから、能くその間に日本畫を見て、日本畫に新しき所を發見する。マクネル、ホイツスラーなどは日本の繪畫から發見して平面的に物を寫して美しい理想を現はすのは日本繪畫の特徴であると稱して、その發見を應用して自身の繪畫に能くこれを現はしたが、これを日本人が聞くと首肯する所がある如く、日本の文學も在來の見方でなく繪畫のやうに觀察點を違へたなら亦或は未發のおもしろさを見ることもあらう。日本の芝居は西洋の劇から云へば比較にならぬかも知れぬが、或一種の技術としては特別な發達をして居る美しい價値を認めることが出來る。これらは人が氣を付けるが、文學の方は人があまり氣を付けぬ。然《け》れども俳句の如きものに付いても考へ直す餘地は十分にあるかも知れぬ。
 それで戰後の影響としては前言つたやうに自然の勢ひが西洋を標準としないで、日本といひ、自身を標準とすることになるから人間が窮屈でなくなる。文學界の製作としても非常に濶達になる、のび/\した感じを以て對することになる。批評の上にも自由な行動が出來るやうにならうと思ふ。
 或はもう一つ、戰後に於ける經濟的變化で、日本の富が在來よりも膨脹して來れば、すべての贅澤な職業とか事業とかが從つて發達して來る。文學の如きも無論この部分に屬して發逢して來るので、富の力はかゝる種の事業を必要ならしめる。由來衣食が足らないで禮節を知るといふことは難いのと同じく、富の力に十分な餘裕が無いとすれば向上的な精神界の娯樂は興らない。餘財があつて初めてこれらのものは發達勃興するのである。世間に餘力が出來て來なければ大文學者が居つても用ふるに處なしで、餘財が出來て始めて立派なものも作られもし、亦歡迎もされる事になるのである。で、富の力が膨脹すればするほどこれらの需要も多くなり、これに對する名譽も報酬も多くなるといふことになる。從つてこれらの事業も發逢して來るのである。
 それで今の老人株に屬して居る人達は、個人としては兎も角、概して一般に文學などの方面には――富豪の名のある人でもあまり關係したり深い嗜好を有つて居る人は尠い。それは今日までの時勢がさうあつたのであるが、これからは現代の青年時代の人が漸次《だん/\》に家を成し、亦家族をなせば氣風が一變して來る。書籍を讀むとか雜誌を見るとかいふことは、おのづから國民として、業務の餘暇にはかゝる事を娯樂とするといふ方に向つて來るであらう。英國などでは、必ず業務の餘暇には書籍を讀むことにして居る。それが下等の階級に在るものでも、かゝる習慣が作られて居る。これは一方には經濟的問題である、即ち富の力が餘つて來なければならないのと、一方には業務の餘暇は斯くの如くして費すべきものであるといふ習慣が浸み渡つて來なければ出來ないのである。然し日本も今や漸次にこれに近づきつゝあると思ふ。これは戰後に起る影響として勘定すべき事實であらう。ある人は日本は文學に今まで大なる成功がないから今後とても怪しいものだといふ。それには種々なる原因を數へるであらうが、然し單に今までに成功がないからといふのを以て今後を律することは出來ない。或方面に著しき活動があれば、其活動の餘波はあらゆる方面に影響して來るものである。この餘波が文學の方面に入れば、茲にも一變化を起すのは順序である。單に從來が斯うであつたからといふを以て絶望の判斷を下すことは出來ない。英國のヱリサベス時代の文學の興つたのは一つはスパニツシ、アーメーダの艦隊を破つたので天地が廣くなつて歡樂を盡す方面に一般の氣風が向き、世の中が自由であるといふ氣で作するから勃々たる生氣が湧いて來て、決して窮屈の態が無い。人を愕すやうにぱつと文學が盛んになつた例證に見ても解ることである。
 それで當時の英國と現代の日本とを比較してお話したらおもしろいと思ふことも澤山あるが、あまり長くなるから今日はこれで止めますが、私が戰後の我が文壇に對しての所感はマア概略《あらまし》こんな所です……。(文責在記者)
           −明治三八、八、一『新小説』−
 
  現時の小説及び文章に付て
 
 今の人の小説を讀むとその中の或點は誰のにも感心する。皆な相當な經驗が積んでゐるから。が、或點から云ふと又つまらないといふ樣な感じもする。好《す》く好かぬは人の好尚であるから是非がない、會つて議論でも戰はしたら、分るだらうがね。あゝ云ふ人は經歴上自然の發達から、あゝ云ふ文章が出來たのだらう。だから、その歴史を知らず、またさう云ふ境遇に養成せられない者は、外國人が日本の物を見ると同じだらうと思ふ。
 それで一般に云ふと斯う感じる。一篇々々の書き振りが寫生的に行かないと思ふことが多い。寫生的に行つてる樣に見えても、實際は左樣でなく、想像から出來たものらしく思はれる。從つてある作のうちには、餘計な、人を釣り込む樣な書き方がある樣に思はれる。釣り込むとは強ひて同情さすることで、然も力を費した割合に周圍の光景が活動しない樣に思はれる。
 其結構に就いて云つても、例令ば女が人に殺されるとか、惡者にひどい目に遇はせらるゝとか云ふ樣な事件を仕組んだり、戰慄せしめる樣な同情を買ふ樣な事件を構《こし》らへて、人を釣る事が主で、平淡の事柄の中に自ら人を釣り込むと云ふ書き方を爲ない。從つて僕等には物足らぬ心持がするのだ。然しこれは或作に對して云ふので、無論凡てが左樣と云ふのではない。
 此等の小説を讀む者は、無學な老婆か老爺かなどで、重に事件を讀んで、明朝の續きを待つもののみである。事實で人の感情を樂しませるものは、大變必要だけれど、それのみに目を着けるのは、發達せぬ讀者に向つて作るので、發逢せる讀者には、事件のみでなく、事件と同時に前後に關係ない一幕、即ち前後を切りはなした一幕其者が、生きてゐなければ、事件許り活動したとて、それ丈では滿足出來ぬと思ふ。さうするには、光景(周圍の)と、人間の擧動及び言語から成り立つてゐる其材料を寫生的に書かぬと何うしても活動は出來ぬ。寫生的に書くと云ふことは、話の筋ばかり書かないで全體が躍出する樣に描寫する方法だから、つまり一つ話を見ても屆書の樣に要件のこと許りでなく、どこかに、餘裕がある樣に思はれる。即ち實際の用事としては不必要であるけれども、活動をさせるには必要な光景とか或は會話とかを持つてくることをいふのだ。さうすると事件を述べる爲の小説でなく、世の中を敍してる小説で、世の中で自然と事件が發達する樣に書きこなされる。然うでなければ世の中から事件だけを引拔いた要事だけの小説が出來る。那麼ものは世の中に存在しないから、見て物足らない感じがする。畢竟世の中は如何でも關はず、事件の成行ばかりを見せるには、これでもよからうが、世間は這麼ものでないと、多少經驗したものから見ると物足らぬ感じが起り易い。
(37) 無論世の中の全體を詳しく寫すことは誰でも出來ぬけれど、或場合にはさう云ふ要らざることをかゝぬと文章に色彩がない。色彩は修辭的のものだと云ふけれど、其種の色彩は薄ペラなもので、本當の活動してる物を背景として其中に世の中の物を活動してる樣に描くのが眞の色彩である。無論事柄は必要である。然し色彩としては無駄な事が是非必要だ。無駄な事とは小説を事件として見れば、全然無用だけれど、世の中を寫したものとすれば、さう云ふ者は決して無用でなく、非常に大切な色彩である。色彩と云ふと普通では修辭を指す。其價値は小さいと云うたが、今話した樣のものを色彩として用ゐる人も、重に景色即ち舞臺を活動させるため景色丈には存外骨を折る人が多い。就中日本人は景色が好きだから多くこの傾がある。それは大變善い事である。然し景色ばかりでなく他のことも同樣と心得なければならぬ。その人物の特異の言語、擧動又その中に直接の關係がない人が、其處に出てきて働くことなどは失張小説家の目から景色を寫すと同じ勞力を用ゐなければならぬ。その無駄が或意味から云ふと色彩であつて、その色彩は今のある作に乏しい樣に思はれる。だから先に云うた如く、用事のみの小説となつてこれを讀んで世間を見てる樣な心持がしない。讀ませるのは話の筋を讀ませるのだから。
 其次に今の小説の多くは普通の程度以上、即ち實際有り得る程度以上、人間の感情などを、ゴムを延ばす樣に引上げる。例へば非常に怒らなくても可い所を、怒らして見たりする。其他泣く、怒る等、感情の發する所に從つて、感情を起らせるのが、世の中の實際と比例を得ない。但或特殊の場合に左樣するのも然るべきであるが、一般の場合に於て斯の如き同情を惹起させるは、二十歳前後の人にのみ效があつて、世の中を知つてる者には却つて可笑しい。で、懸命になつて眞面目に考へた小説は却つて滑稽なものに出來るかも知れぬ。西洋でも其例がある。サツカレーは、或人が評して、彼の人は八分通りしか書かないと云うた。八分通りと云ふ意味に善惡があるが、此處のは善い方の八分通りでつまり極端まで人間の感情を釣り上げることは、餘裕がない樣でもあるし、又作者が讀者の同情を強ひる樣な傾になる。是非一所に煩悶してくれと強ひる樣なことは、日常交際してゐる友人の所に來て一寸氣取つて見せると同じ事で面白くない。小説を作るにしても、文章を作るにしても同じことだ。サツカレーの如きはさう云ふ事を心得てるから、拙な感情に訴へる方を爲なかつたと思ふ。ヂツケンスはこれに反して物を精一杯に進んで書く人である。だから滑稽的になる。それも可笑しいことを云ふ方では成功してるが、泣かせる方ではさう云ふのは失敗し易い。ヂツケンスの人を泣かせるは、殊更にする樣に思ふ。殊更に泣かせる爲に、色々の事件を構へたり、文章をこしらへてつくつてゐる。これも釣り込んで讀ませれば可いが、釣り込まれる先に此程ではないと思ふ感が先づ起る。サツカレーなどは人を泣かせる場合でも多くは一頁と續けて居らぬ。二三句で濟して終ふので其方が或場合は反つて有效である。
 それで今の作のある種類を見ると、普通より釣り上げて書いた方が多い樣に思はれる。此は今の小説を讀む人が二十代の青年で、さう云ふ事を喜ぶのを、作者が當込んで書くかも分らないが、少し世の中の經驗をした人間には、或は向かないかも知れない。
 更に文章について謂へば、文章家とは文字を駢べる謂でない。昔からの成句を暗誦する者の謂でない。又漢字などを餘計に知つてるから、それで文章家ではない。其等の文は要するにすぐの間に合ふ文章に過ぎぬ。其人々は新聞なり雜誌なりを書くときに、早く書けるとか、一通り云ひこなされるとか言ふのに過ぎないので文章家と云ふのでは無論ない。文章に骨を折る、即ち色々注意することは、紅葉などが其例で、其人の作を讀むと調に餘程骨を折つてゐる。文章には調は大切だけれども、それが第一の要件か何だか分らない。其他只修辭と云ふ點、粉色とか云ふ樣な事を巧くやれば文章家だともてはやすが、それも大したものでない。文章と云ふものは、畢竟物でも人間でもそれを如何に解釋するかが現はれるもの、即ちこれが文章である。其解釋は人によつて違ひ、又合することもあらうが、兎に角、その解釋の方法《しかた》が、巧く出來れば巧い文章である。この解釋とは廣い言葉だが、物の解釋は色々出來る。例へば暑さ寒さは寒暖計で解釋ができる。目盛《めもり》になつて顯はれる。これは頭に訴へる解釋の方法で、又人間の心の樣に目に見えぬものを五體の主人とか何とか解釋するのは寧ろ譬喩的又感情的の解釋で、詩人などがするものである。今一つは人間の意志《ウイル》から發達して物に及ぶ解釋である。此は寧ろ宗教的の解釋だと思ふ。それで總てその解釋のし工合、自分を解釋する、人を解釋する、天地を解釋する工合が文章になつて現はれる。その解釋に於て人と一風違うた文章家となる理由で、解釋が人より深ければ勝れたる文章家になられる。で文章は字を知るよりは寧ろ物を觀察することに歸着する。それから又物を如何に感ずるかに歸着する。
 この感じとか、觀察とかを巧く養成すれば、巧い文章家が出來る。それだから言文一致、雅俗折衷などと云ふは、抑も末の話だ。その所謂雅文とか何とか云ふものは、在來の習慣で、今話した文章の原理に重きを置かない、つまり綺麗な言葉を陳列するので、昔から在り來りの言葉の有り合せなどが、主になつてゐるのだ。今の世に擬古文などを行る人は、文章の原理が分らないで、今日までの者のみが文章であると思ひ、さう云ふ風に傾くのではないかと疑しい。さう云ふことが分る以上は、格別擬古文などを擬る必要がない。根本的に必要なのは文字でない。言文一致が莊重でないと云はれるのは、彼の解釋のし樣が、莊重で上品でないからで、その解釋さへ上品ならば自ら上品のものが出來るわけだ。さう云ふ文章を見て、それでも俗だとか下品だとか言ふものは、本當の文章が解らない人だ。唯技巧と云ふ文章だけで、文字の内容と云ふ感じを持たぬ人だ。
 觀察といふことを云うたが、日本人の觀察は、ま一寸譬へれば、鳥が鳴くと云うても、鳥が鳴く本當の形容をしない。海や空も左樣である。鳥がなく吾妻の空とか何とか云うて終つて、吾妻の空の形容にならないごまかした文章になつてしまふ。さう云ふのを文章として來たのだから、物を實地に觀察するよりは、書物の上に聯想を修業するのを主とするのであるまいか。從つて物を觀察すると云ふ事は日本人の中に餘程發達してないと思ふ。尤も科學的の觀察が一方で進んでくると、文章的の精彩が進んでくるであらうが、以前の日本人は科學的でなかつたから、文章に顯はれる物の觀察が餘程|鈍《にぷ》かつたのではあるまいか。で、平生心がけて世の中を、明瞭に見ると云ふことが文章家に必要であるまいか。吾輩が今物を書いて思ひ當るが、さう云ふ風に養成せられて居たら、今頃は餘程巧くなつたと思はれる。文章軌範だとか源平盛衰記の樣な物許りが文章だと思うてゐたから、直接に自然に觸れて觀察しない。實は目前にあるつまらない器物も悉く材料であつたのである。(筆責在記者)
             −明治三八、八、一『神泉』−
 
  本郷座金色夜叉
 
□×君が今朝手紙をよこして、本郷座を評して雜誌にのせる爲に僕の處に乘ると云ふことであるから、私は×君に手紙をやつたのです。僕は何も別に評すこともない、殊に雜誌に出す程の事はあるまい、大抵二言三言言へば意は盡きてしまふだらうからと云つて、手紙を出して斷つた所へ、飯を食ふから來いと云ふことで、さうして今來たら捉まつてしまつた。誠に困るですネ、何も別にお話することはないですがネ。
 △金色夜叉の續篇を熱海の處まで打拔いてやつた、あゝ云ふものが演劇の筋になつて居りませうか。
□僕は初めから見ませんがネ、あれだけでは結局がつきますまい。前は兎に角後の處が結局がついて居らぬ。あの夢で結局がついたやうな積りでせうが、あの夢と云ふものは實にひどいものですネ。
 △貴方が御覽になつたのは新橋のステーシヨンからですか。
□イヤ新橋の處は見ないのです、私が見たのは寫眞をうつす所からです。
 △彼處へ出るのは佐藤の富山ですか。それに木下の宮、藤澤の貫一、饗應する華族が磯野平次郎、あの中で際立つて誰が一番、貴方能かつたでせう。
□別にこれと云ふことはありませんが、却つてあゝ云ふ役々はうまいと思ふですヨ。一體僕のは皆と違つて、平凡な役をすればする程うまいと思ふ。譬へば車夫とか、華族さんとか、義太夫を語つて踊ををどつて居るとか、あゝ云ふ事ばかりやれば宜いと思ふ。ちつとも人が譽めぬやうな小學校の先生とか、上野の中の茶店を出して居る先生とか、あゝ云ふ方が餘程うまいと思ふ。肝腎の、つまり、役をするやつは――大に人に刺激を與へるやうな所作をやつたり何かする者になると、それが六かしい爲か、或は下手な爲か、何方か分らぬが、さうなるとどうも僕は面白くないですヨ。殊に人が何とか言つて譽めますナ、あゝ云ふ處になると一番まづいと思ふですナ。
 △佐藤の富山はどうでした。
□別に何といふ感情もありませんでした。唯さう一役々々に就いて言ふことは何ですけれども、一體高田と云ふ人は人が譽めて居りますナ。又立派な俳優になつて居るのでありませうが、僕にはあの人は、うまいかも知れませぬが、演劇《しばゐ》をする爲に演劇《しばゐ》をして居ると云ふやうな傾向が見えるですナ。さうして臺詞などがまるで講釋口調ですナ、講談ですナ。講談でなければ或は説教とか何とか言つても宜いかも知れませぬ。――演説とか何とか言つても宜いかも知れませぬ。――よく壯士俳優は演説調をやるので打毀して居るが、高田のは講談調だと思ふです。何處でも講談調でやつて居ると思ふです。だから藤澤などと釣合がわるいです。藤澤は當りまへの詞でやつて居ると、高田は講談調でやるから、まるで掛合にはならぬと思ふ。さうしてあの人の口跡と云ふものは松林伯知位の所だらうと思ふのです。伯知のやるやうな人物だらうと思ふ。僕はつまり演劇をする爲に、初めから演劇をしに掛つて居ると思ふ。河合といふ女形、あの方は餘程うまいと思ふです。あれは自然をやつて居る中に演劇をして居ると云ふので、餘程趣きが違ふと思ふです。高田を講釋師の伯知に比較すると、河合は元の死んだ圓朝の女形みたいなもので、餘程|工《たくみ》はありますけれども、その工が不自然でない。自然の中に自ら演劇《しばゐ》をして居ると云ふやうな、輕妙な處が又餘程ある。僕が感じたことはマア其位ですネ。外に何も感じない。デ平凡な役とか何とか云ふものになると非常に好きだ。華族さんが寫眞とるでも何でも宜い。要するに笑はせる方は宜い。泣かせる方怒らせる方になると私にはいけないです。笑はせる方はあれで成つてると思ふです。
 △西洋の演劇などではどうかしら。
□僕の目には矢張り不自然に見えたね。西洋の演劇でも、シエークスピヤとか何とか云ふものを演《や》れば、妙な假聲でやるが、まあ自然ですネ。それは日本人よりもうまいと思ふ。餘程自然です。尤もあゝ云ふのは六かしいからでせう、激したやうな事を演ると云ふ所になると矢張り不自然ですネ。
 △日本の壯士俳優などは、どう云ふ風にしたらば俳優になれるかと云ふことを知らぬではありますまいか。俳優とはどう云ふものであるかと云ふことを、能く知らぬぢやないかと思ふが如何でせう。唯經驗によつて、車の上から往來を歩いて居る人を見て、其通りやれば宜いと云ふやうに……
□併し其通り出來れば結構だけれども、まるで外れたやうな事をやつて居る。
 ○高田などは大に一歩を進める譯でやつてるですネ。當りまへの今迄の小説劇と云ふ上に一派を創める積りで、あゝ云ふ講釋口調のものを發明したんでせう。
□さうかも知れませぬ。併し伊井はあゝ云ふ口調はないでせう、伊井は元からの口調でやつて居る。
 ○マア今度の高田の役は、眞砂座の村田の方が餘程宜いでせう。
□僕は眞砂座は見ないから知らない。
 ○それから一昨年のは宜かつたけれども、高田は一昨年から段々下手になつちまつた。あれが餘り氣取るからでせう。
 △どう云ふ譯で壯士俳優のペイ/\の、車夫などを演る者がうまく寫實にいつて居つて、少し上になるとあゝ云ふ邪路に入るのですか。
□それは仕方がないでせう。ペイ/\俳優を捉まへて來てあゝ云ふ役をさせたら尚まづいだらうと思ふ。詰りあゝ云ふ事をやるのが六かしいのでせう。或は考へ方が違つて居るかも知れませぬナ。併し私等のやうな考にやつたらば、人は感心しまいだらうと思ふです。見物人の中で十人位しか感じないだらうと思ふ。詰る所故意にやると云ふ痕跡が無くなるから、故意にやつてると云ふ所が見える位刺激が強くないと、或は感じまいと云ふ人があるかも知れませぬ。譬へば藤澤などが菓子折を持つて顫へて居る所で幕になる。私などから言ふと衣をふるつて居るやうに見える。見舞の菓子を貰つた所が、灰をふるつて居るとしか見えぬ。何の爲に顫へて居るか分らぬです。あゝ云ふ事を好かぬのです。
 △さうすると貴方の考では、ごく/\下手の者が、どう云ふ工合に發達したら宜しうございませう。
□さうですネ、もつと自然に感情が乘るやうにしたら宜いと思ふが、それはどうしたら宜いかと云ふことは分らぬ。それは俳優などの方が能く考へてやつて居りませうが、併し考へ違ひと云ふことは能くある。譬へは文章を作るのでも、考へ違ひの方に頭を向けて居ると、どうしてもいけない。唯文句だけ練ると云ふことに頭を向けて居ると、其方に成功したいといふ考へ方の根本が誤まつて居るやうなもので、あゝ云ふ技術と云ふものもさうだらうと思ふ。自然と云ふことを土臺に置いて、それに附加へると云ふことにならぬといかぬと思ふ。能とか舊派の劇とか云ふものは一種の形式的のもので、餘程見方も違はなければならぬでありませう。殊に能などは本當の技能的のものだから、寫實の目を以て見てはわるい。自然ではありませぬけれども、全體が不自然で、一種の人工的のものをのべつに作つてしまつたものですから、それで一貫して居るから宜いですがネ。今の壯士のやるのは、寫生が根本に貫くべき所に持つて來て、寫生的でない分子が亂雜に入るものだから、しかもそれが悲しい所をわざ/\見せたいとか、怒つて居る所を故意に見せたいと云ふものが大變あるですネ。尤もさうでもしなければ見物人が承知せんかも知れない、或はさうでもしなければ到底現れぬかも知れませぬが、それでなければ見物人が承知しないと云へば、それはさう云ふ時代なのだから仕方がないですネ。さうしなければ到底あゝ云ふものは出來ないと云ふやうなものなら、或は拙だと云つても仕方がない。又あゝ云ふ人はさう云ふ人工的の、吾々が見て妙な惡い感じを起すやうなものを、故意に宜いと思つて演つて居るのかも知れませぬネ、不自然な事を――。又劇の仕組の方から言つても、譬へば荒尾讓介が途中でもつて宮に逢ひまして、宮を大に説諭する所がありますネ。あれでもちよつと、長年逢はずに居た者が突然逢ひまして、あの位の時間にあの位の事は言はぬのです。さう言ふ事を頭に置いて見ると、假令小説が自然に行つた所が、あれでは少し六かしいと思ふ。所が小説自身がさう行かずにあゝ云ふ事を言はせると云ふことが既に不自然だと私は思ふですネ。だから餘り感じが乘らないです。一體荒尾讓介なる者は妙な人間ですネ。人の家に訪ねて來て、むやみに突立つて坐らなかつたり、頭から何か言ふ。其位なら初から訪ねて來なければ宜い。訪ねて來て、普通の人間で忠告するなら、もつと當りまへに忠告すべきもので、あれでは少し變つて居ますヨ。どうせ變つて居るんでせうけれども、少し氣ちがひですネ。あゝ云ふものを描いて人の喝采を博すと云ふのは異しいと思ふ。あゝ云ふ不自然な性格と云ふか何と云ふか、あるべきものではないと云ふのです。私などは感心しない、高田に向つて同情を表せられないですナ。
 ×眞砂座の時にもあゝ云ふやうに突立ちましたか。
 ○矢張り突立ちますネ。
 △成程一寸をかしいですね、貫一の方で懷しさうに寄つても平然として。……
□原作に依つてでも居るんでせう。
 △原作はどうなつて居ますか。
 ○原作は貫一の處に訪ねて往くと、お婆さんが取次ぎまして――、あの通りです、それで座敷へ坐つて居る所へ貫一が出て來るんではありませんか。
   〔中略〕
□俳優は立つて働きますけれども、私はあゝ云ふ身振とか口跡とか云ふものは、上手な落語家の方が餘程うまいと思ふです。唯だ働かないだけだけれども、顔の表情とか何とか云ふものは、餘程自然で落語家の方がうまいと思ふです。
 ×眞砂座の結末はどう行つたんです。
 ○あれは風葉の結末の通り。
 ×あの夢の處はありませぬか。
 ○ありませぬ。
□あの夢の場は無茶ですナ。
 ○妙ですナ、此には風葉君脚色と書いてあつて、全く風葉には依つて居らぬのでせう。
 △あれは尤もわるい場ですネ。
 ○書割だけ見せた方が宜いのでせう。
□さうだ、黙つて居る方が宜いのだ。
   〔中略〕
 △諸君はあの結末をどうつけますか。
□それは分らんが、兎に角あれはひどい。
 ○風葉の脚色では滿枝は高利貸として居る、貫一が高利貸は止めてくれと云ふことを言ふ、併し滿枝は止めないと云つて出て行つてしまふ。デ滿枝の話はそれ迄……。
□お宮はどうなる。
 ○お宮はそこで氣ちがひになつて出て來る。白い着物の上に被布を着て來るんですよ、夏だから――。さうして熱いとか何とか言ふ。すると暫くして貫一もいろ/\お宮に言ふけれど、話は分らない。それから後になつて貫一と云ふことが分るのです。して貫一はお宮を許すと云ふのです。それで後ろの方では樂隊があつて非常に陽氣に やる、ト貫一は宮に向つて「宮さん淋しいネ」と云ふことを言つて幕が閉づると云ふことにLである。
□其方が宜いでせう、今度のは唯當込みでせう。
 ×どうも孫悟空の鐵棒はひどい。
 △最初貫一が出て乘で、お宮と貫一が助けてくれと云つて喧嘩する、さうするとあれは夢で動くことが出來ぬやうな科をやる。それが二分も經たぬ中に夢が拔けて動くやうになつた、さうすると何處からが夢の切れ目と云ふことが分らぬ。
□それは夢だから忽ち動いて忽ち饒舌つても宜いんだらう、兎に角總體が批評も何も出來ないものなんだから……。
 ×であの場を能のやうに、無言でやると宜いでせう、だんまりで……。
 △さうすれば餘程好いでせう。
□其方が餘程詩的ですネ、さうしてあの鐡棒などは止めるのサ、つまり高田の出ない方が宜い、女二人と男で片を付けてしまへば宜い。
 ○あれは併し餘程考へたんでせうネ。
□さうサ、俗受の宜いやうに……。
   〔中略〕
 ○夢の場に心と云ふ字を上から下げてブラ/\とさせるのがある、あゝ云ふ方が宜いかも知れない……。
□兎に角夢の場に饒舌るのはいかぬ。
 △それから河合の滿枝はどうですか。
□あれはうまいと思ひますね。
 △木下のお宮と比べてどうで厶います。
□滿枝の方が藝をするぢやありませぬか、藝をしなければ成らぬですね、役が……。
 ○さうして河合の嵌り役でせう。
 △木下の顔がお宮になつて居らぬやうですな。
 ×併し思つたよりは宜いやうだな。
 △平生から氣をつけないと云ふお話でありますけれども、木下でも、もつと平素に風俗の事を觀察して居つたら、細君になつてからあんな荒つぽい着付はしないでせう。まるで娘みたいな着付をして居つた。あれは少しも上の社會の家庭を觀察しないからでせう。
□さうでもないでせう、演劇だから、ジミな着物や何かを着ては目につかぬからでせう。
 △全體から言つてどうでせう。
□さうですね。全體から言つて終ひの場がないと宜いと思ふ。パオロ・エンド・フランチエスカよりも宜いと思ふ。あれは見て居られないですな。
 △筋の聯絡がついて居らぬやうですがどうでせう。
 ×割合に聯絡がある方でせう、新俳優のやる方として……。
□それは小説ですから、どうしてもさう巧くは行きますまいよ。
   〔中略〕
 ○この金色夜叉の原本は御覽でしたか。
□もと讀みましたがね、忘れてしまつたです。でその筋や何かハツキリ分りませぬ。あの新聞に出た時私は見ました。
 △畢竟するに車夫とか菓子屋とか學校の先生とか云ふものはうまくつて……。
□うまいですよ、あゝ云ふものは本當にうまいですね。或はうまくなつたのぢやあない、元からうまいのかも知れませぬ。それで詰り泣かしたり怒らしたりするやうな役は、六かしいからあんななのかも知れませぬね。私はあゝ云ふものを見て面白いと云ふのは、さう云ふ處が面白いから見て居る積りなんですね。何か菓子折を持つて震へるとか、高田が大に「渇しても盗泉の」何とか云ふやうな處などは、見に行く氣はないですね。
 ○あゝ云ふ處に喝采が起るが、あの喝采はまるで無茶さ、高田と云ふ人が出れば喝采をやるやうなものだから……。
 △さうすると極々本當の俳優とすると、少しも型も何もなくつて、終ひまで小學校の教師をやつたやうな工合に、自然にならなければならぬと云ふ御考ですか。
□それは型と云ふものは自らある。最も自然を現はすのに都合の好いやうな型と云ふものは、經驗上出來得るでせう。さうすると當分の間それが一番良い法則として、人がそれに從ふやうなものはありませう。譬へば發句が十七字に極つたと云ふのは、それが一番都合が好かつたからそれに極つたと云ふやうなものだから、全然型があるべきものではないと云ふのぢやない。自然と云ふことは矢張り型ですからね。型を外れて自然がないと云ふことだらうと思ふ。法則を外れて事實がないと云ふのと同じことで、自然と云ふものは一種の法則なんですから、法則と云ふものは一種の型ですから、自然と型と言ふものとは矛盾したものでは決してない。たゞ自然と云ふものは非常に型が多いものだから――型がどの位でも變化し得るものだから、其うちで固つたものを拵へて置くと云ふことは、學ぶ者に都合の好いと云ふやうな事もありませう。だから妙處に達した人と云ふものは、型なんと云ふものは無論要らぬだらうと思ふ。本當は要る譯はないですな。それが自然でない、人工的に拵へたものなら、型は要るかも知れませぬ。能とか或は舊派の如きもさうでせう。初は何處から出たか知らぬけれども、さう云ふ型がついて仕舞つた以上は――。けれども自然を本としてやつて居る壯士俳優と云ふものは、型は要らぬだらうと思ふ。で今のやうにして行けば、矢張り舊派の俳優みたいなものになるでせう、終ひには――。今型を作りつゝあるかどうか知りませぬが、譬へば高田流にやるとか何とか云ふことが出來てくれば、さうなつて仕舞ふ。
 △さうすると全體に通じた型がなくて、銘々自分から自得したものばかりになるやうになるですか。
□詰り斯う云ふ時には斯う云ふ風にするものだと云ふやうな事は、一種の型でせう。
 △それは全體に通じないで自分だけに自得することになると、唯禅宗的に、人には言ふことが出來ぬけれども自分だけは斯うだと云ふやうな、一種の味を持つたものばかりで出來るやうになりますか。
□本當はそれが宜いでせうね、けれどもそれが出來ないから眞似るだけの話でせう。
 △さうすると團十郎あたりが舞臺へ出て、自分の家に居るのと舞臺へ出てやるのが少しも違はぬ位になつたとすれば、自然の域に或處まで進んだものでせうな。
□それは型に拘泥しないと云ふだけの話で、家でやるのと舞臺でやるのと心持が同じだと云ふことは、所作が同じだと云ふことではないでせう。平氣だと云ふだけの話でせう。譬へば私が家に居るのと學校に出てやるのと變らないと云つても、言ふことは違つて居る、やる事も違つて居る。氣分が變らぬと云ふだけでありませうから、それは區別をしなければ成らぬでせうな。
 △さうすると高田なら高田が、自分の家に居ると自分だけで、舞臺に出て荒尾讓介になると荒尾讓介の自分になつてしまふ。家へ歸つた時は高田だけれども、舞臺に出ると高田と言ふ者は無くなつて荒尾讓介ばかりになる、で荒尾讓介の心持で總ての所作をする……。
□けれどもそれは荒尾の心持になるのは至極結構だけれども、その讓介の心持の考へ違ひから、あんな事をやつて居るんぢやないのですか。高田の考へて居る荒尾讓介をやつて居るんでせう。だから高田は荒尾讓介になりきつた所で、それがうまい工合に行くと云ふことは出來ない。高田が荒尾讓介はこんな者と考へて、その考へ通りになつた所で、その考が不自然な考と認められるなら、それは矢張りいけませぬナ。演説調などをやるものと違つて居るかも知れませぬ。荒尾讓介がやれば斯う云ふ風にやるべきものであつて、斯う云ふ風に自然に行くから乃公は荒尾讓介だと言つた所で、それは自分が言ふだけで……。
 △さうすると俳優はどうしても舞臺に登る前には――荒尾讓介なら荒尾讓介と言ふ者をやらうと云ふ時分には、自分と言ふものを捨ててしまはなければならぬですナ。
□自分を捨てると言ふことも必要ですけれども、自分を捨てると同時に荒尾讓介と言ふ者を呑込まなければならぬでせう。自分の考が間違はなければ宜いが間違つて居るといけない。だから總ての事の觀察とか、人間と云ふものを解釋することは必要でせう。人間といふ者は斯う云ふ時には斯うするものだと云ふことが一番に分つて、此場合に荒尾讓介は斯う云ふやうな行掛りになつて居るから斯うやるが必然だと云ふ、斯う云ふ分別ですネ。その分別を以て荒尾讓介を頭に描き出して、さうして苦もなく自然にそれになれば、それが善いのでせう。
 ×えらい俳優もえらい美術家も同じですネ。
□それは同じです。英吉利の演劇なども型が多くていかぬ、自然でない、改良しなければならぬと云つて、近頃非常にやかましく言つて居るです。それでも日本の舊派とは無論だけれども、壯士芝居よりも尠いですヨ。壯士演劇で型のなくて自然に行つて居るといふのは、普通の事をやる時、「もう少し其方へ寄つて下さい」とか、「其處へ行くと映りますヨ」とか云ふことは、誠に自然で宜い、少しも作つてない。けれどもいざと言ふ人生の大事件に遭逢した時の事は皆いかぬ。デ高田などは妙に深呼吸をする方です、あれは烈しすぎるです。
 △さうすると俳優でも、總ての者は平素の觀察と云ふものを主にして……。
□それはさうですけれども、それは少し程度を高めなければいけますまい。御互に怒つたり何かするのを見るのは相對の場合ですから、之を十間隔てて相對して居る時のやうな感情を起させる爲には、多少程度を高めなければならぬ。それが忌味の出る所なんだけれども已むを待ぬ。それをやり過ぎると、幾ら遠くから見て居つても、自然に合はぬ。さうでせう。像を建てますネ、像を建てるに普通の比例ぢや拵へませぬネ。高い處に乘せるから、慥か足の方を短かくするかどうかする。遠くから見る爲に、わざ/\普通の比例を破るのです。其通りに俳優が所作をやるのでも、多くの見物に遠くから見せる爲には、寫生から少し變化しなければならぬ。唯寫生と言つたつて、其通り其儘にはいきませぬ。文章でもさうですし何でもさうですから、それは已むを得ぬのみならず必要な事ではありませうけれども、それ以上に不自然になるのは、甚だ遠くに通り越して居るんですからネ。
 △さうしますと、其比例は詰る所ホンの自分だけの攻究になりますネ、どうしても人から聽くべきものでない……。
□それはさうでせう。
 △今の演劇などを評する人が、役の性格が現れて居らぬとか、あの俳優が誰になつて居ないとか云ふことを大變に言ひますが、あれは皆唯目に見て面白いのと、面白味に從ふ所の感じが薄いか濃いかで批評するやうですが、それで差支ないですか。
□それでよいでせう。一體性格がどうの斯うのと云ふことは、面白くないから言ふのでせう。面白ければ性格が不自然とか何とか云ふことは忘れてしまふ。
 △さうすると詰り面白味が性格になりますか。
□それが一つでせう。不自然でも何でも面白くさへあれば、そんな批評を挾む餘地は出て來はしませぬヨ。それで性格が自然ならば面白くなるし、不自然だと面白味が無くなるものだから、それで性格をやかましく言ふのでせう。縱し性格が不自然でも非常に面白い、そんな批評の餘地を容れないやうなものが出たらば、其時に性格論を持出すのは、餘程性格だけに興味を持つ人か何かでなければならぬでせう。けれども性格は大體に於て必要なものでせうから、性格を破ると詰り面白くなくなる。隨つて人が批評をする時に性格云々を言ふのは尤もの事ですけれども、要するに面白ければ宜いのでせう。其他何の必要もない幽靈が出たつて、幽靈が出て馬鹿々々しい、をかしいと言ふ感じを起させさへしなければ宜いですナ。それと同じことに、矛盾したことをやらしたつて、それで面白い/\と思はせるならば結構ですナ。
           −明治三八、八、一『神泉』−
 
  イギリスの園藝
 
    花
 
 ロンドンで二三度菊の展覽會を覘いて見た。大抵は葉のない切花で、それを抛り込んだやうに無造作に竹筒へ挿してある。まゝ、葉のついた切花や鉢植のを陳列して見せたこともある。鉢ものを陳列するのは日本の窖《むろ》のやうな所で、お雛樣を飾るやうに行儀よく段々に列べる。種類は隨分多い。それにいろ/\な名があつて、人名を附けたのが可也ある。いづれも妙な名ばかりで、日本のやうに風流なのは一向ない。元來、イギリスの菊は日本から渡つたものであらうかどうだか、其邊は斯の道の素人たる吾々には判然しないが、兎に角非常な流行である。スコツトランド邊へ行くと、大概な百姓家にでも培養されて居る。
 市中の花戸《はなや》に賣つて居る花も、大抵葉は?《むし》つて仕舞つてある。菊でも水仙でも葉なしであるからとんと妙がない。併し、日本のやうに枝振がどうのかうのといふのではなくつて、只無茶苦茶に花瓶へ抛り込むのであるから、これで宜いのかも知れぬ。
 花瓶は普通一對である。對といへば人聞きがよいが、二つなのである。どう見ても神前の御酒《みき》コ利のやうで、一向たわいがない。
 一寸驚いたのは栗の花見である。吾々の了簡では、なんだつまらない、あんなみすぼらしい花なんぞ……と思はれざるを得ないのであるが、イギリス人は大騷ぎで栗のお花見に出かける。
 
    庭
 
 地質學者ならぬ吾々の土質調べは聊か烏滸がましい次第であるが、全體イギリスの土地は多く石灰質の貝殻交りである。公園もその通りで、美麗《きれい》な花が植ゑてあつても、向島の百花園のやうな宜い感じが起らない。
 イギリスの庭には全く苔がない、無いばかりならそれほど怪しむに足らぬのであるが、有れば掻き落して仕舞ふといふ御挨拶には聊か驚き入らざるを得ない。
 イギリスの庭を飾るものは芝である。普通十坪か二十坪の庭にでも必ず芝生がある。主婦《おかみ》さんが始終器械で刈り込んで美麗にして置く。一體イギリスの芝は一種特別で、常に青い。しかも日本のよりはきめ〔二字傍点〕が細かいから餘程美しい。
 公園の芝地は、刈つた跡を火尉斗でもかけるやうに丸い大石で均《なら》す。初めは向うからこちらへころがす。次はこちらから向うへころがす。ころがし/\して居るうちに、疊の目のやうに一方は向うへ一方はこちらへと筋目が立つて見えるやうになる。それは誠に見事である。
 或時或人に、イギリスの庭には石がないやうですが……と尋ねた事がある。すると、その人は平氣な顔をしてかう答へた。有れば抛り出して仕舞ふ……
      −明治三八、八、一三『日本園藝雜誌』−
 
  みづまくら
 
    俳優と落語家
 
 僕は芝居を見るくらゐなら落語を聞きに行く。この前『パオロ・エンド・フランチェスカ』の芝居を見に行つて、西洋人が出て來たりなんかして驚いて歸つて來た。それつきり芝居見物といふものに出かけた事がなかつたのを、この頃ある人に招待されて本郷座の『金色夜叉』を見た。こんどは夫でも前よりは面白かつた。それからまた落語の圓左會だの、落語研究會だのに行つて、近頃|落語家《はなしか》の顔も大分覺えて來た。僕は落語家小さんの表情動作などは、壯士俳優のやるより餘程旨いと思ふ。人が賞める高田などは、芝居のために芝居をするやうで、肩が凝つて面白くない、餘程不自然だ。まああの白などのやり口は、講談師松林伯知ぐらゐの所だらうと思ふ。河合の女形はよい。あの詞調子態度などは死んだ圓朝其まゝだ。餘程巧でそれで自然だ。僕は寧ろあゝいふ重だつた役をするものより端役をやるものの方が自然で旨いと思ふ。華族さんが寫眞をうつすとか義太夫を語つて踊るとか、あゝいふことばかりすればよいと思ふ。
 能であるとか又舊演劇であるとか、それらは元技能的のもので、所謂新派の芝居とは大いに趣が違ふ。寫眞の眼を以て見るべき劇を、菓子折を持つて震へ出す瘧病みのやうな動作や、講談師調の不自然な白や、乃至は無闇と氣狂じみた性格や、そんなものばかり見せつけられたのぢや、とても堪らない。もつと自然に、感情が乘るやうにしたらよからうと思ふ。
 小さんの煙草を呑む稽古の話は大變面白かつた。御客樣も初めてであらうが、私のやるのも初めてだと云つて居たから、小さんが自分で拵へた噺であるかも知れない。さんざ煙草を喫つた揚句が、ふら/\になつて、仕舞には我慢が仕切れないで、寺に遁げこむ。あとから追つかけて來たやつを坊さんが遣り過した其あとで、やつと戸棚かなんかから出てくる。そこで先づ安心したといふので、一服やらうと云ふのが落ちだ。あの眞面目な顔を種々に使ひ分ける。しかも夫が餘程自然に出來て旨い。落語の方には動作はあまりないのだが、その表情の樣子で動作も伴ふやうに思はれる。劇をやる人もあゝいふ所に少し注意するとよからうと思ふ。
 談が落語の方に移るが、燕枝といふのが柳派にゐる。あれは旨い。蓋し近頃旨くなつたのであらう。圓橘は老い込んで仕舞つた。いや昔から餘り旨くなかつたやうに記憶する。圓喬は僕が以前識つて居る頃は三好と云つてゐた。その時分から旨かつたが、その割合に發達しない。當時と今日とでは餘り變りがないやうだ。世間では圓喬を今日の落語家中で白眉だと云つて居るさうだが、僕は矢張り小さんの方が旨いと思ふ。扇歌といふのも、昔はつばめといつて音曲ばかりを遣つてゐたが、近頃は噺もやる。そしてうまい。圓左は矢張り老巧だ。
 何しろ落語家の方が今日の壯士俳優よりも數等上なる事は慥かだ。
 
    新體詩
 
 僕はあまり新體詩といふものを讀まないから知らんが、この間『しら玉姫』といふのと『塔影』といふ詩集を贈つてくれた。『しら玉姫』の作者の方が『塔影』の作者より才もあり力もあるやうだ。しかし分らない事に至つたら、『塔影』より『しら玉姫』が分らない。
 近頃の新體詩は一體にわからないのが多いやうだ。といつて僕は卷頭四五行より多くを讀まないのだから、讀まずに評する譯には行かないが、どうもさうらしい。有明といふ人の詩を雜誌などで、是も二三行の拾ひ讀みだが、見る。一向わからない。鐡幹といふ人は旨い。それに餘程才があると思ふ。
 今日の新體詩全體からいふと、作る人の考へが違つてゐやしないかと思ふ。どの作り振りを見ても入口は一つで、中頃から枝が出たやうに、あちらへ岐れこちらへ岐れるといふ迄で、其筋道は大抵おんなしだ。もつと思ひ切つて、入口初から在來の風と想も調も變へて見たら、隨分面白いものが出來ようと思ふ。どうも今の新體詩のやり口は無意味に唯ならべる丈のやうに見える。
 丁度こゝに雜誌がある。試にこのうちの新體詩を見給へ。大抵わからない。若しわかるのであれば、即ちくだらない。
 『春の夜』といふ題だ、冒頭が
  櫻花咲く庭隅に
  君と路かへ忍び來ぬ
    木立のあなた灯はもれて
    笑どよめき樂は湧き
    湧きこそ立てや胸の血潮も
といふのだ。「櫻花」といふのが先づ餘計な事だ。「さくら」で澤山だと思ふ。「庭隅に」も窮してゐる。「君と路かへ忍び來ぬ」は厭味だ。其あともくだらないが、兎も角わかる。それから
  ほてるやわ頬に頬をよせば
  聲をのゝきて櫛落ちぬ
    朧月夜の月くらく
    木立のあなた灯はもれて
    今ぞ唄止み歡聲さらに
 「やわ頬」なんて云ふ言葉が元來くだらない。「ほてるやわ頬に頬をよせば」、なんだか厭な感が起るばかりではないか。あとは評するまでもないが
  垂れし項に手をまきて
  そとさゝやけは片靨
    戀する人の息に似て
    風なめらかに枝をすぎ
    緋桃ほろ/\夜更を散りぬ
 少しくかうなつては警視廳の注意がほしい位だ。是等は隨分極端な例としても、くだらなさは多く是と相如くものであらう。然しこんなのはよい、例へば『夢の湖』といふ小説中に插まれた一節の詩だね。
  美はしき我顔ばせも
  今日のみぞたゞ今日のみぞ
  物皆は變り果てなめ
  明日こそは嗚呼明日こそは。
  わがものと君を思ふも
  束の間ぞ嗚呼いつまでぞ
  君にわかれ身はたゞひとり
  死に果てんあはれいづこに。
 同じ雜誌の中でも、是などはよほどうまいと思ふ。要するに今少しく意味のある、蘊蓄のある、しつかりした人が作家にほしいのだ。
          −明治三八、八、一五『新潮』−
 
    無題
 
 夏目漱石氏曰
□巴里の女役者などは實に墮落極まつたもので、通例に云ふのが先づ情夫が三人なければならぬ。第一が劇評家、これは自分の芝居を良く云はれよう爲だ。第二が文士、これは自分のやる脚本を書いて貰ふ爲だ。第三が金持ち、之は云ふ迄もなく、奢侈をやる金庫としてである。
□今の英國の作家では、確かにジヨルジ・メレデスが異色がある。老人ではあるが實に驚嘆すべき大才を懷いて居る。ある人が、メレデスを讀まぬと云ふ人を聞いたことがないが、又メレデスの著作を、末まで讀み通したと云ふ人も聞いたことがないと云つたが、實際メレデスの小説は、一片の文字も、書き伸ばせば、直ちに二三頁の長い文章となるものが多い。隨つて至つて人には分り惡いのである。渠のある小説にこんなことがある。倫敦橋上である人が蜜柑の皮に辷つて轉んだ。その轉んだと云ふことに就いて五六頁書いて居る。こんなことはあれ程の大作家でなければ迚も出來ぬ。
□英國の小説家は成功するに六づかしい。つまり競爭者が多いからだ。が成功した時はまた大變なもので、文學者は皆立派な邸宅に棲んで居る。日本ではまだあれ程に競爭が激しくないだけ、夫れだけあれ程の成功は見られぬやうだ。
□彼方では少し筆の立つ婦人は、皆探偵小説のやうなものを書いて居る。それで出て居る小説は日に何百冊か知れぬが、其中で人の目に通らずに葬られて了るのも何程か解らぬ。
           −明治三八、一一、一『新聲』−
 
    昔の話
 
 昔の御話である。
 大晦日になるとワツセール・ボールと稱ふる鉢へ、香料を加へた麥酒《びーる》を盛つて、門並廻つてあるいた習慣《ならはし》がある。此ワツセール・ボールが廻つてくると吉例として家毎に何分か心添を喜捨したものぢやさうぢや。其時は圍爐裏の傍に多人數集まつて此ワツセール・ボールを順々に次へと飲み廻す。御互に一つ鉢に盛つた酒を飲み乾して、年内の憂苦を忘れるは勿論の事、仲違ひの反目も麥酒《びーる》の泡と共に消えるさうぢや。從來の不和を酒に醉はせて盛り潰すのは一寸趣向である。酒は喧嘩の媒介《なかだち》ともなるが、暢氣《ちやうき》の道具ともなる。酒で始まつた喧嘩は必ず、酒で手を拍つに極まつて居る。酒は人間の窮屈と云ふ角を和げてぐにや/\にする。腹の中へ注いだ酒は、四方八方を循環して、どこもかしこもしなやかになる。ことに眼玉は飲めば飲む程柔かになる。仕舞には持ち切れないで流れ出す。だから四角張つた人間に融通をつけるには、いつでも酒を用ゐる。結構なものを發明したたのぢや。
 蘇格蘭土《すこつとらんと》のある地方には妙な習慣があつた。大晦日の晩には大勢土地の大名の屋敷へ集まる。其内の一人が牛の皮を被つて家のぐるりを馳け廻つてあるく。外のものもめい/\棒を持つて此男を敲いて、追掛ける。寒い時分の事であるから、牛の皮の先生も長い間|戸外《そと》に居る譯には行かん。仕舞に降參をして家の中へ這人らうとする。其時に戸を開いてやるものが、家の中に入れてやるから歌をうたへと云ふと、當人はあらかじめ用意のため、記憶した歌をうたつて家に入るのださうだ。
 是も蘇國《そこく》の話しだが大晦日が過ぎて元日と明ける夜の天氣で一年分の時候を占ふさうぢや。南の風が吹けば暑氣で豐年、西風ならば大漁、北風だと寒くて暴風雨《あらし》、東風の折は果物《くわぶつ》がよくなる。
 元日の贈物も其以前は一般に流行つたものである。今ではクリスマスの贈答で新年は賀状さへもやりとりする者がない位だが昔からかうではなかつた。新年の贈物のうちで一寸面白いのは田舍の小百姓から地主に獻上した物である。是はどう云ふ譯か、先例によつて鷄を用ゐる。尤も皆食料用の鷄である。無論御馳走のため――、文字通りの意味に於て地主の腹を肥やす爲であらう。此外に蜜柑を贈る事がある。蜜柑の周圍《まはり》に丁子の干したのを澤山刺したのを持つて子供抔が戸毎に廻つてあるいたものださうだ。蜜柑の代りに貰ふのは無論金である。此蜜柑を酒壺の中へ釣るして置くと、酒がかびくさくならず、いつでも好い香りがすると云ふ話ぢや。
 ある所では廣い野原のうちに高さ八九尺もあらうと云ふ、大きな石があつて、毎年正月元日になると其近邊のものが總出になつて、月光の下に此石柱をめぐつて踊りあかすのださうだ。樂器は何も用ゐぬ、只調子を合はせて唄をうたふ許りだと云ふから日本の盆踊りに似たものでもあらう。廣い原、高い石、村人、歌……想像すると甚だ興味がある。繪にしたら面白からう。詩にもなる。
 正月酒を飲んで病氣が癒つたと云ふ話がある。ヰリアム・ハンターとか云ふ男ださうだ。年來持病の僂麻質斯《りゆうまちす》で床の中から這ひ出す事も出來なかつたが正月が來て皆が酒を飲むから、自分も病中ながら付合半分に少々飲んだ。所がどう云ふ拍子か少々が少々で濟まないで爛醉と云ふ程度に達した。すると不思議な事に翌朝から手足が自由に利く樣になつたさうだ。猶不思議な事には夫から二十年間只の一度も僂麻質斯に冒された事もなく無病息災に暮したさうだ。正月醉ふのは藥と見える。
 元旦に聖書を開く事も一種の習慣である。家内のものが聚まつて、朝飯前にやる。無論本氣でやる。聖書は閉ぢた儘机の上に置いてある。そこへ一人が出て來て恭しく之を開く。無論好加減に開くのだから、どこが出るか分らない。開くや否やあてずつ法に指を頁の上につける。此指のついた所が大事な場所になる。此二三行の所を大勢寄つて朗讀して、大勢で註釋する。指を載せた本人の當年の運の吉凶は此二三行に含まれて居るのださうだ。觀音樣の御神籤の樣なものだらう。
 ブラントを讀んで居たら、こんな事が載つて居たから一寸――。かゝる消閑のある新年は目出度い。
            −明治三九、一、一『日本』−
 
    予の愛讀書
 
 愛讀書は何だと聞かれると困る。僕には朝夕卷を措かずといふやうな本はない。
 どういふ文章が好きかといふのか。それなら少しはある。
 僕は漢文が好きだ。好きだというても近頃は餘り讀まぬ。然し日本の柔かい文章よりも好きだ。今では暇があれば讀みたいと思うて居るが、暇がないから讀まぬ。アーいふ趣味は西洋にも一寸ないと思ふ。
 所謂和文といふものは餘り好かぬ。又漢文でも山陽などの書いたのは餘り好かぬ。同じ日本人の書いた漢文でも享保時代のものは却て面白いと思ふ。人は擬古文というて輕蔑するが、僕は面白いと思ふ。
 西洋ではスチヴンソン(Stevenson)の文が一番好きだ。力があつて、簡潔で、クド/\しい處がない、女々しい處がない。スチヴンソンの文を讀むとハキ/\してよい心持だ。話も餘り長いのがなく、先づ短篇というてよい。句も短い。殊に晩年の作がよいと思ふ。Master of Ballantrae などは文章が實に面白い。
 スチブンソンは句や文章に非常に苦心をした人である。或人は單に言葉だけに苦心をした處が後に殘らんといふ。さういふ人はどういふ積りか知らぬが、スチヴンソンの書いた文句は活きて動いて居る。彼は一字でも氣に入らぬと書かぬ。人のいふことをいふのが嫌ひで、自分が文句をこしらへて書く。だから陳腐の文句がない。其代り餘り奇拔過ぎてわからぬことがある。又彼は字引を引繰り返して、古い、人の使はなくなつたフレースを用ゐる。さうして其實際の功能がある。スコツトの文章などは到底比較にならぬと思ふ。スコツトは大きな結構を造るとかいふことにはうまいが、文章に贅澤な人からいへば、ダラ/\して讀まれぬ。
 メレデイス(Meredith)の話をせいといふのか。彼は警句家である。警句といふ意味は短い文章の中に非常に多くの意味を籠めていふことを指したのである。エピグラムなどでは彼が一番にえらい。往々|抽象的《アブストヲクト》なアフオリズムが出て來る。非常に意味の多いのを、引延ばして書かぬから、繋ぎ具合、承け具合がわからなくなる。のみならず、夫れだけの頭脳《あたま》のある人でなければよく解らぬ。僕等でもわからぬ所がいくらもある。メレデイスはたゞ寢ころんで讀むべきものでない。スタデーすべきものと思ふ。必ずしも六づかしい所のみではないが、到底讀みよい本とはいはれぬ。
 メレデイスは第一、人の性格をフイロソフイカリーにアナライズすることなどは實にうまいものだ。又次には非常に詩的な所がある。詩的なシチユエーシヨンをつらまへて巧みに描寫することがある。それはメレデイスのユニツクで、メレデイスの前にメレデイスなく、これから後も恐らくメレデイスは出まい。スチヴンソンは文だから眞似手が出るかも知れぬが、メレデイスは頭だからあゝいふ頭を以て考ふる人が出ない中は、あゝいふ文は書けまいと思ふ。然るにあゝいふ頭の人はなか/\世に出ないものである。丁度或人はマコーレーは澤山出るかも知れぬがカーライルは一人しか出まいというたやうに、スチヴンソンは澤山出るかも知れぬが、メレデイスは一人しか出ないかと思ふ。彼の作の中で Egoist と Vittoria などは最も面白いと思ふ。
          −明治三九、一、一『中央公論』−
 
    「余が文章に裨益せし書籍」
      現今諸文章家が文章鍛錬上裨益せし書籍及び文章に就き、聞き得たるに從ひて號を追ひて録せんと欲す。後學に益すること大なるを思へばなり。記者
 
 文章鍛錬上に最も多く裨益した書籍、文章と、特に擧げていふべきものはないが、先づ自分が好きな作家をいへば、英文ではスチブンソン、キツプリング、其他近代の作家である。いづれも十九世紀の初め頃のと違ひ、文章に力があつて間緩《まだるつ》こくない。アー※[ヰに濁点]ングのスケツチブツクは、我が國人間に非常に愛讀されたもので、その文章は美しくなだらかであるが、惜しいことには力がない。これは十九世紀の初期頃のに通じての弊である。自分はかゝる類の書物は好まない。また寫實的のものでは、スヰフトのガリバーズ・トラベルスが一番好きだ。多くの人はこれを名文と思はないが、これは名文の域を通り越してゐるから、普通人には分らぬのである。實に達意で、自由自在で、氣取つてゐない、ケレンがない、ちつとも飾つた所がない。子供にも讀めれば、大人も讀んで趣味を覺える。誠に名文以上の名文であると自分は思ふ。
 次に國文では太宰春臺の『獨語』大橋訥庵の『闢邪小言』などを面白いと思つた。何れも子供の時分に讀んだものであるから、此所が何うの、彼所が斯うのと指摘していふことは出來ぬが、一體に漢學者の片假名ものは、きち/\締つてゐて氣持がよい。
 漢文では享保時代の徂徠一派の文章が好きである。簡潔で句が締つてゐる。安井息軒の文は今も時々讀むが、輕薄でなく洩薄でなくてよい。また林鶴梁の『鶴梁全集』も面白く讀んだ。
 また、明治の文章では、もう餘程以前のことであるが、日本新聞に載つた鐡崑崙といふ人の『巴里通信』を大變面白いと思つた。其頃ひどく愛讀したものである。因に云ふが、鐵崑崙は今の東京朝日の池邊氏であつたさうである。
 一體に自分は和文のやうな、柔かいだら/\したものは嫌ひで、漢文のやうな強い力のある、即ち雄勁なものが好きだ。また寫生的のものも好きである。けれども俳文のやうな、妙に凝つた小刀細工的のものは嫌ひだ。俳文は氣取らないやうで、ひどく氣取つたものである。これを喜ぶのは、丁度樂隱居が古茶碗一つをひねくつて嬉しがるのと同じ事だ。徒にだら/\した『源氏物語』、みだりに調子のある「馬琴もの」、「近松もの」、さては『雨月物語』なども好まない。「西鶴もの」は讀んで面白いとは思ふが、さて眞似る氣にはなれぬ。漢文も寛政の三博士以後のものはいやだ。山陽や小竹のものはだれてゐて厭味である。自分は嫌ひだ。
         −明治三九、三、一五『文章世界』−
 
    文學談片
 
 若し我々が小説を書いて實際の世の中を見るやうな心を讀者に起さしめんと勉むるには、小説中の事件が自然にして、人物の性格が又自然に發展すべきは勿論、同時に又背景を描くことも必要である。背景《バツクグラウンド》は小説中の人物の活《はたら》く舞臺であつて、人物を圍んでる四邊の光景である。小説は素より人間相互の葛藤、或は情交など、有形無形の出來事を寫せるに相違はない。がその出來事たるや、雲の中で起るのでもなければヴオイドの世界に出現するのでもなく、地上に此人間社會に起る現象の一局部である。故に小説を書いて全篇が活動する爲には、是非とも社會其物を寫し、その活動してる社會の中から肝腎の要件となる筋が自《おのづか》ら湧き出すやうに書かねばならない。若し社會の中からして自分に入用なだけの事件を切り離し引き離して他の物は皆捨てて了ひ、たゞ筋だけを紹介するのは、小説の筋その物を了解する爲には便利であるかも知れないが、社會その物の一部の反照としては見られない。隨つて社會一般の景況が眼前に浮ぶと云ふ點に於ては頗る拙なやり方と云はねばならない。例へば魚から骨のみを切り出して示すやうなもので、動物學者が魚を知るには之が必要かも知れないが、生きた魚を知らんとするには肉ある魚を見なければならない。
 文學は吾人のテーストの發表《エキスプレツシヨン》である。即ち好惡を表はすものである。今吾人が世の中に住み、好惡を投げ出して外物に附着する其對象を數へ立つれば、無數にして、之を敷ふるだけでも吾人のテーストの變遷を知ることが出來る程である。要するに之は二つに歸する、即ち天然と人事とである。
 さて吾人が人事に就てわが好惡を表はさんとすれば、これが如何なる種類に區別せらるゝか、と云ふに、私は之を Positive と Negative との二つに分ける。Positive はテーストの一面即ち自分の好きな方面を表はす、一言にして言へば滿足をあらはす文學である。この Positive の方面を分けて又二つとする。その一は現在を本位とするもの、現在の杜會現在の人間現在の?態に滿足するもの、之は人々が各々分に安んじて太平を謳歌すべき國運の際か、又は反對の時代即ち神經が麻痺して憂患を感じない時か、此二つとなつて現はれる。此の如き滿足を表はす文學は時としては諷刺と誤まらるゝことがある。例へば膝栗毛の如し。思ふにコ川時代の文學は不平が現はれて滑稽となつたのではなく、自《みづか》ら失敗をして其を面白く興ずる極めて陽氣な文學である。即ち積極的《ボジチブ》のものである。其にも拘らず此種の文學は學者や批評家の着眼のしかたに依つては諷刺と取らるゝことがある。之は個人に於ても然り、例へば鬘を被つて花見をするやうなものである。他《よそ》から見ると諷刺とも見えようが何ぞ謀らん當人は天下太平の娯《なぐさみ》なのである。ドン・キホーテの如きも此種類に屬する。次は ldealism の文學である。現在の人間、社會の?態には滿足が出來ないが、併し自分に理想とする所があつて之を實現する爲に云ひ表はす文學である。要するに之も自己のテーストを表はすものである。例へば茲に作者があつて、現社會より見れば人が罪惡となすものをよしと思ひ、當事者に同情を寄すると假定する。即ち彼は現社會の制度に不滿足の意を示すため裏面より當事者に同情をよせて之を辯護するのである。さて第二の Negative を以て好惡を表はすもの、これに於ては(Positive に於て好《すぎ》を表はす如く)只厭惡の情を表はす。此傾向は破壞的である、建設的でない。故に消極的《ネガチブ》方面と云ふのである。之を次の如く區別する。第一は自分の厭なものを正面より攻撃する男らしき發表、ヂツケンスが惡人を描くには此筆鋒にてまともに手ひどく當つてゐる。第二は丁寧な嘲弄、之はどこまでも禮を失はず時々氣味の惡い笑《スマイル》をする。アヂソンの如きは之である。丁度御殿女中の惡口のやうなものである。第三は現在に不滿足を有しながらもその不滿足な人或は社會に同情を寄せるもの。而《そ》して第四は顔を赤めて不平を鳴らすやうな幼穉なものではなく、同情なき冷酷の目で浮世を見下して平然と之を罵る。痛切にして深刻なる厭惡の聲である。
 一般に作者と讀者との關係を見るに、作者は非常に苦心して練つて書いても批評家や讀者は之を無造作に讀んで了つて別に心も留めぬ。然るに時としては此反對の事がある。例へば沙翁《セキスピア》の如く頓着なしにすら/\と書いたのまでも、之に理窟をつけて各々説明を異にする。理窟はどんなにでもつくものである、が文學としては何度《なんたぴ》も讀んで讀んで考へねば分らぬやうなものは、餘り多くつまらない。沙翁《セキスピア》なども初よりヴエリオラムを澤山出して呉れる人があらうとは思ひもかけなかつたであらう。(右は夏目氏の談話を摘要したるものなり。××生)
             一明治三九、六、一〇『中學世界』−
 
    落第
     ――「名士の中學時代」――
     現今の名士も甞ては青年であつた。現今の青年も將來は名士たるべきの運命を持つて居る。して見れば今の青年が、今の名士の青年時代を知ると云ふことは、實益もあり趣味もあり、誰でもそれが知りたいのである。〔中略〕其事歴を名士自身の口から聞いて、之を筆記したので、他の新聞雜誌或は書物等を切拔いて綴つたものとは、大に其趣きを異にし、之を精讀する間には、名士の口吻動作等が、あり/\と眼の前に見える所が、至つて面白いのである。編者
 
 其頃東京には中學と云ふものが一つしか無かつた。學校の名もよくは覺えて居ないが、今の高等商業の横邊りに在つて、僕の入つたのは十二三の頃か知ら。何でも今の中學生などよりは餘程小さかつた樣な氣がする。學校は正則と變則とに別れて居て、正則の方は一般の普通學をやり、變則の方では英語を重にやつた。其頃變則の方には今度京都の文科大學の學長になつた狩野だの、岡田良平なども居つて、僕は正則の方に居たのだが、柳谷卯三郎、中川小十郎なども一緒だつた。で大學豫備門(今の高等學校)へ入るには變則の方だと英語を餘計やつて居たから容易に入れたけれど、正則の方では英語をやらなかつたから卒業して後更に英語を勉強しなければ豫備門へは入れなかつたのである。面白くもないし、二三年で僕は此中學を止めて了つて、三島中洲先生の二松學舍へ轉じたのであるが、其時分此處に居て今知られて居る人は京都大學の田島錦治、井上密などで、この間の戰爭に露西亞へ捕虜になつて行つた内務省の小城なども居つたと思ふ。學舍の如きは實に不完全なもので、講堂などの汚なさと來たら今の人には迚も想像出來ない程だつた。眞黒になつた腸《はらわた》の出た疊が敷いてあつて机などは更にない。其處へ順序もなく坐り込んで講義を聞くのであつたが、輪講の時などは恰度カルタでも取る樣な工合にしてやつたものである。輪講の順番を定めるには、竹筒《たけづつぽ》の中へ細長い札の入つて居るのを振つて、生徒は其中から一本宛拔いてそれに書いてある番號で定《き》めたものであるが、其番號は單に一二三とは書いてなくて、一東、二冬、三江、四支、五微、六魚、七虞、八齊、九佳、十灰と云つた樣に何處迄も漢學的であつた。中には一、二、三の數字を拔いて唯東、冬、江と韻許り書いてあるのもあつて、虞を取れば七番、微を取れば五番と云ふことが直に分るのだから、それで定めるのもあつた。講義は朝の六時か七時頃から始めるので、往昔《むかし》の寺子屋を其儘、學校らしい處などはちつともなかつたが、其頃は又寄宿料等も極めて廉く――僕は家から通つて居たけれど――慥か一ケ月二圓位だつたと覺えて居る。
 元來僕は漢學が好で隨分興味を有つて漢籍は澤山讀んだものである。今は英文學などをやつて居るが、其頃は英語と來たら大嫌ひで手に取るのも厭な樣な氣がした。兄が英語をやつて居たから家では少し宛教へられたけれど、教へる兄は癇癪持、教はる僕は大嫌ひと來て居るから到底長く續く筈もなく、ナシヨナルの二位でお終ひになつて了つたが、考へて見ると漢籍許り讀んでこの文明開化の世の中に漢學者になつた處が仕方なし、別に之と云ふ目的があつた譯でもなかつたけれど、此儘で過ごすのは充《つま》らないと思ふ處から、兎に角大學へ入つて何か勉強しようと決心した。其頃地方には各縣に一つ宛位中學校があつて、之を卒業して來た者は殆んど無試驗で大學豫傭門へ入れたものであるが、東京には一つしか中學はなし、それに變則の方をやつた者は容易に入れたけれど、正則の方をやつたものだと更に英語をやらなければならないので、豫備門へ入るものは多く成立學舍、共立學舍、進文學舍、――之は坪内さんなどがやつて居たので本郷壹岐殿坂の上あたりにあつた――其他之に類する二三の豫備校で人學試驗の準備をしたものである。其處で僕も大いに發心して大學豫備門へ入る爲に成立學舍――駿河臺にあつたが、慥か今の曾我祐準の隣だつたと思ふ――へ入學して、殆んど一年許り一生懸命に英語を勉強した。ナシヨナルの二位しか讀めないのが急に上の級《くらす》へ入つて、頭からスウヰントンの萬國史などを讀んだので、初めの中は少しも分らなかつたが、其時は好な漢籍さへ一冊殘らず賣つて了ひ夢中になつて勉強したから、終にはだん/\分る樣になつて、其年(明治十七年)の夏は運よく大學豫備門へ入ることが出來た。同じ中學に居つても狩野、岡田などは變則の方に居たから早く豫備門へ入つて進んで行つたのだが、僕などが豫備門へ入るとしては二松學舍や成立學舍などにまごついて居た丈遲れたのである。
 何とか彼んとかして豫備門へ入るには入つたが、惰けて居るのは甚だ好きで少しも勉強なんかしなかつた。水野錬太郎、今美術學校の校長をして居る正木直彦。芳賀矢一なども同じ級《くらす》だつたが、是等は皆な勉強家で、自ら僕等の怠け者の仲間とは違つて居て、其間に懸隔があつたから、更に近づいて交際する樣なこともなく全然《まるで》離れて居つたので、彼方《むかう》でも僕等の樣な怠け者の連中は駄目な奴等だと輕蔑して居たらうと思ふが、此方でも亦試驗の點許り取りたがつて居る樣な連中は共に談ずるに足らずと觀じて、僕等は唯遊んで居るのを豪いことの如く思つて怠けて居たものである。豫備門は五年で、其中に豫科が三年本科が二年となつて居た。豫科では中學へ毛の生えた樣なことをするので、數學なども隨分澤山あり、生理學だの動物植物鑛物など皆な英語の本でやつたものである。だから讀む方の力は今の人達より進んで居た樣に思はれるが、然し生徒の氣風に至つては實に亂暴なもので、それから見ると今の生徒は非常に温順《おとな》しい。皆な惡戯許りして居たものでストーブ攻などと云つて、教室の教師の傍にあるストーブへ薪を一杯くべ、ストーブが眞赤になると共に漢學の先生などの眞面目な顔が熱いので矢張りストーヴの如く眞赤になるのを見て、クス/\笑つて喜んで居た。數學の先生がボールドに向つて一生懸命説明して居ると、後から白墨《チヨーク》を以つて其背中へ怪しげな字や繪を描いたり、又授業の始まる前に悉く教室の窓を閉めて眞暗な處に靜まり返つて居て、入つて來る先生を驚かしたり、そんなこと許り嬉しがつて居た。豫科の方は三級、二級、一級となつて居て、最初の三級は平均點の六十五點も貰つてやつとこさ通るには通つたが、矢張り怠けて居るから何にも出來ない。恰度僕が二級の時に工部大學と外國語學校が豫備門へ合併したので、學校は非常にゴタ/\して隨分大騷ぎだつた。それがだん/\進歩して現今の高等學校になつたのであるが、僕は其時腹膜炎をやつて遂々《とう/\》二級の學年試驗を受けることが出來なかつた。追試驗を願つたけれど、合併の混雜やなんかで忙しかつたと見え、教務係の人は少しも取合つて呉れないので、其處で僕は大いに考へたのである。學課の方はちつとも出來ないし、教務係の人が追試驗を受けさせて呉れないのも、忙しい爲もあらうが、第一自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中へ立つた處で何事も出來ないから、先づ人の信用を得なければならない。信用を得るには何うしても勉強する必要がある。と、かう考へたので、今迄の樣にうつかりして居ては駄目だから、寧《いつ》そ初めからやり直した方がいゝと思つて、友達などが待つて居て追試驗を受けろと切りに勸めるのも聞かず、自分から落第して再び二級を繰返すことにしたのである。人間と云ふものは考へ直すと妙なもので、眞面目になつて勉強すれば、今迄少しも分らなかつたものも瞭然《はつきり》と分る樣になる。前には出來なかつた數學なども非常に出來る樣になつて、一日《あるひ》親睦會の席上で誰は何科へ行くだらう誰は何科へ行くだらうと投票をした時に、僕は理科へ行く者として投票された位であつた。元來僕は訥辯で自分の思つて居ることが云へない性《たち》だから、英語などを譯しても分つて居乍らそれを云ふことが出來ない。けれども考へて見ると分つて居ることが云へないと云ふ譯はないのだから、何でも思ひ切つて云ふに限ると決心して、其後は拙くても構はずどし/\云ふ樣にすると、今迄は教場などで云へなかつたこともずん/\云ふことが出來る。こんな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕の一身にとつて此落第は非常に藥になつた樣に思はれる。若し其時落第せず、唯誤魔化して許り通つて來たら今頃は何んな者になつて居たか知れないと思ふ。
 前に云つた樣に自ら落第して二級を繰返し、そして一級へ移つたのであるが、一級になるともう專門に依つてやるものも違ふので、僕は二部の佛蘭西語を擇んだ。二部は工科で僕は又建築科を擇んだがその主意が中々面白い。子供心に異《おつ》なことを考へたもので、其主意と云ふのは先づかうである。自分は元來變人だから、此儘では世の中に容れられない。世の中に立つてやつて行くには何うしても根柢から之を改めなければならないが、職業を擇んで日常缺く可からざる必要な仕事をすれば、強ひて變人を改めずにやつて行くことが出來る。此方が變人でも是非やつて貰はなければならない仕事さへして居れば、自然と人が頭を下げて頼みに來るに違ひない。さうすれば飯の喰外れはないから安心だと云ふのが、建築科を擇んだ一つの理由。それと元來僕は美術的なことが好であるから、實用と共に建築を美術的にして見ようと思つたのが、もう一つの理由であつた。僕は落第したのだから水野、正木などの連中は一つ先へ進んで行つて了つたのであるが、僕の殘つた級《くらす》には松本亦太郎なども居つて、それに文學士で死んだ米山と云ふ男が居つた。之は非常な秀才で哲學科に居たが、大分懇意にして居たので僕の建築科に居るのを見て切りに忠告して呉れた。僕は其頃ピラミツドでも建てる樣な心算《つもり》で居たのであるが、米山は中々盛んなことを云うて、君は建築をやると云ふが、今の日本の有樣では君の思つて居る樣な美術的の建築をして後代に遺すなどと云ふことは迚も不可能な話だ、それよりも文學をやれ、文學ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に傳へる可き大作も出來るぢやないか。と米山はかう云ふのである。僕の建築科を擇んだのは自分一身の利害から打算したのであるが、米山の論は天下を標準として居るのだ。かう云はれて見ると成程さうだと思はれるので、又決心を爲直して、僕は文學をやることに定めたのであるが、國文や漢文なら別に研究する必要もない樣な氣がしたから、其處で英文學を專攻することにした。其後は變化もなく今日迄やつて來て居るが、やつて見れば餘り面白くもないので、此頃は又、商賣替をしたいと思ふけれど、今ぢやもう仕方がない。初めは隨分突飛なことを考へて居たもので、英文學を研究して英文で大文學を書かうなどと考へて居たんだつたが……。
        −明治三九、六、二〇『中學文藝』−
 
    夏目漱石氏文學談
 
 下に掲ぐる漱石氏の文學談は、記者が他用のために氏の寓居を訪うた際、ほんの座談として、用意もなく語られた節々を、おもしろしと思つたまゝ、後から纏めたものである。一席の座談を誌上に公にされることは望ましからねど、記者が折角の勞を無にするも氣の毒なればとの事、茲に記者はこの文に關する一切の責を負うて、談話者に累を及ぼさざらんことを希ふ。(一記者)
 『破戒』は讀むに大ぶ手間が取れて、四五日もかゝつて漸《やつ》と讀み了へた位ですから、われ知らず引きつけられるほどに面白いといふものではないが、讀んで了つたあとでは何となく實のあるものを讀んだ樣な氣がしました。あの文章も讀む方では極めて無造作に見て了つて、左程修飾の加はつたものとは思はれないものだが、しかし書かれる作者は隨分骨を折つて苦心したものでせう。讀んでゐる中に所々さういふ感じのするところがあります。文章の上からいつても新らしい。僕は何となく西洋の小説を讀んだやうな氣がした。君の雜誌に小杉天外氏の『破戒』の評が書いてあつたが、あの評は失敬かも知れないが天外氏其人の作に當て嵌まるものだと思ふがどうでせう。尤も『破戒』だつて缺點をいへばいくらもある、第一今少し短くコンデンスせられさうなものだと思ふところもあるが、しかしながら兎も角も『破戒』は明治文壇の作としてあとへ殘るものでせう。
 獨歩といふ人のも『運命』といふのだけを見ました。あの中では『巡査』といふあの極短かいのが一番いゝと思ひます。『酒中日記』などを褒める人もあるやうだがあれは書き振りが私などには面白く思へません。兎に角新しいところのある作だといふことは事實だが、千人中一人の上にのみ在り得る事が多く書いてあるやうですね。
 あの『巡査』のやうな、何といふことはない一寸した作《もの》を書いて、唯それだけのもので、面白いものはドオデエなどにもある。ホトトギス派の寫生文といふものもドオデエなどの眞似をした譯ではないが、よく似て居ますね。普通の寫生文に小説的分子の一寸ばかり入れゝばドオデエになると思ひます。コンラツドの短篇に火事だとか難船だとかいふ光景を細かく寫して唯それツ切り何の意味もないものがある。こんなのも一種の短篇として存在の價値があるでせう。
 自然派とか何派とかいふことも妙なことで、一體文學は進めば進むほどある意味に於て個人的なものであると思ひます。だから別段何々派だと標榜する必要もなからうと考へます。作そのものに直ちにその作者の人格、個人性が出て來る。メレデイス、ステイブンソン、キプリングなどの作には、孰れも作者の強盛な人格、個人性が現はれてゐて、夫々獨自の特色を有してゐる。強い人格が出てゐるからその作は從つてパワフルで、はつきりと特質がわかる。近代個人主義の發達とも無論關係はあるが、しかし一體文學は個人性が見えて來ないうちはまだ幼稚なものといつてもよい。たとへば日本の舊派の和歌などといふものは、作者の名を消して見ればどれも/\殆ど同樣で、一つも明瞭に作者の個人性といふものが現はれてゐない。あれではあんな澤山に歌人が出る必要がないと思ひます。個性が強く發揮されないで面白みがある文字もあるが、それはある他の意味から云ふので一般の傾向から云ふと強い人格の力が十分に出て來なければ立派なものとはいへない。あくまでも個人の自由を十分に與へて働かして見なければいけない。しかし現今の文明が又一方に於てこの個人主義《インデイヴイデユアリズム》に對するレ※[ヱに濁点]リング、テンデンシー(平衡的傾向)とでもいつたやうな傾向があつて、個人的な傾向ばかり進まして置かぬやうになつてゐる。つまり強い烈しい個人主義と、これを平均しようとする一般の傾向と、この二つの相反した傾向が妙な具合に並んで進んで行くのです。詳しく言へば少しは面白い事が云へさうです。で個人主義のことを自覺といつても、無論悟りといふのとは違ひませう。イブセンの描いた人物などが、このレ※[ヱに濁点]リング、テンデンシーに對して個人主義の矛盾を自覺したものでせう。
 問題的文藝が下火になつたといふことは、偶々イブセンが死んだために一寸さう思はれることで、問題的文藝そのものは何時まで經《た》つても在るわけでせう。イブセンのやうな強い盛んな人格の人が亡くなれば、その追隨者といふものは何れ模倣者だ。又後から出るものは模倣はいやだといふのもあらうし、イブセンの生きてゐた時には問題的文藝が行はれたが、イブセンが亡くなつたら今度は何か別のものをやらうといふ氣にもなるだらうし、麥飯がうまい、あの匂ひが好いからといつて麥飯が流行しても、すぐに又米の飯が喰べたくなるやうなもので、米の飯を人が欲しがる時代に麥屋を始めたとて仕方のないものだから、イブセンが亡くなればいろ/\の意味から問題的文藝が下火になつて衰へても驚ろくに當らんでせう。又つゞいて不思議はないでせう。文學の大勢がこれから何のやうに向ふであらうかといつたつて、中々わかるものではない。觀測といふことを過去の經驗によつてやるなら、まづ心理學や社會學なども調べてから研究した上で文學史が立派な一個の科學と成立した曉でなければ分りません。極めて實驗的な天候の事ですら、豫報は大抵あてにならぬのだから、文學の事など尚更わかるものではない。
 一體文學史もある著者のやうに何の本の第何版は何年に出てどの文字が違つたとか訂正せられたとかいふことばかり詳しく書いたつて、生命のある文學史が出來るものでないでせう。セインツベリーほどの大した材料を有ちながら、何故今少し面白く書けないかと思ふ位です。僕にあの人ほど材料があつたら今少し何とかして見られさうなものだと思ふが、矢張り己惚かも知れません。
 新體詩は讀まないから僕にはわからない。只漠然と今少し何とか工夫のありさうなものだ位に思ふばかりです。無理に窮屈な言葉の中に思想を嵌めようとしないでも、今少し自由に、遺憾なく、十分にセンテイメントを歌つて見られさうに思ひます。自己の感情が遺憾なく現はれてゐないからどれも/\同じやうになるのではないですか。あれでもいろ/\流派があつて研究して見たら面白いのだらうが、僕の樣な門外漢には諸家のスタイルの區別すらよく分らないから、こんな事を云ふのが既に失禮かも知れない。例を示せなどと云はれゝば無論出來ないのです。
         −明治三九、八、一『早稻田文學』−
 
    文章の混亂時代
 
 明治初年以來の文體の變遷を大略《おほまか》に觀察して見ると、最初は彼の馬琴調の餘?が凄じかつたが、それが衰へて西鶴張が流行し、次には雅俗折衷文となつた。ところが今日では其折衷文も既に飽きられて馬琴西鶴などを今更祖述する人は殆どなくなつて了つた。
 それでは今日の文章の傾向は? いふ迄もなく通俗になりつゝあるといふことである。雅文も無いではないが、それは極めて少數の人が作るのみで、一般の文章家は通俗文、即ち日常の言語に接近した文體の方に奔つて居るやうだ。斯の如き傾向は何に原因して現はれたかと考へて見るに、日常の言葉を使へば思ふ存分の事が言へて便利であるといふ事に氣が付いたからである。料理屋の勘定書とか電信の文とかいふ正確簡明を貴ぶ實用的の文は勿論のこと、文學的の文章も社會が文學者や文學的頭脳を持つた人のみの集合ではなく、寧ろ生活を必要とする人間が集つて居る社會である以上――假《よ》し又文學的頭脳を持つた人にせよ、一日の中で文學を思ひ浮べるのは僅《ほん》の些少《ちよつと》の間《ま》で、殘餘《あと》は經濟の遣繰を心配するとか、要務の手紙を書くとか人を訪問するとかといつたやうな具合で、何の方面からみても實用向きの事が大部分を占めて居る以上、おのづから實用的の文章が一世の勢力を占めるのは自然の勢であらう。それから文學の方面のみと言つても、其昔|甚麼《どんな》に詩的な辭《ことば》があつたにせよ、其は今人に取つては耳遠く、切實に胸に響かぬ廢物《すたりもの》となつて了つて居るし、他面からみても現代の人自身が既に古語を知つて居らぬから駄目である。それは漢書などを讀めば、一語にして複雜なる意味を現はす便利な字も澤山あるが、其等の字の應用の出來るのは誠に狹い範圍であつて、一般には矢張り耳遠い事となるから、已むを得ず假名を混ぜて通俗平易に書くやうな譯となる。
 が、以上のは些々たる理由であつて、通俗文が勢力を得たに就いては、他に一大原因があるのだ。
 其は時代といふ物と言語との關係上から來たものである。先づ人間の頭脳は時代々々によつて違つてくる、即ち簡單から複雜に變つて來る。從つて簡單の時代に出來た簡單の言語は、複雜の時代に於ける複雜の思想、感興を現はすには不充分となるのである。之は文學の方でも實用の方でも同樣であるが、實用向の方でも通俗の言語さへ使用すれば左程の困難は感じない。因つて、文學的文章の方でも、已を得ず其比較的實用向な通俗語を借り、現代の要求に應じて出來た言語を使つて、此缺陷を補ふ次第である。
 併し茲に困るのは、現代の通俗語には歴史的の意味が含まれてない事である。といふのは、譬へば同じ寺といふものに對する我々の心でも、今日新しく建てられた寺と、京都の知恩院の如き古寺とでは感想が違ふ――木地の新しい、當代《いま》風の寺などは何の有難味もないが、輪奐の美物古りたる知恩院に詣づれば自ら敬虔の念が生じて來る――と同樣で、文學も歴史的聯想と離れぬ所に多くの價値があるのに、それが通俗語で物されては成程適切に響く事はあらうが、古來の書籍に眼を曝して居る人などにとつては、どうも歴史上の美的な、奧床しい感は起らぬ。文學者の中でも、昔の趣味を慕ふ人々は、所謂今の言文一致體を嫌つて、努めて古語古調を使ふ傾きがあるのは無理もない事である。
 最も顯著な例は今の新體詩人といはれる人々だ。あの人々の頭脳《あたま》は確かに普通の人よりも、高い處に憧がれ、清新な趣味を掬ばうとして居る。ところで、其作詩の上に現代の通俗語を使ふのは何となく下卑た樣な感じがするから、勢ひ古語を用ゐる樣になる。すると批評家も讀者も、渠は態と不可解の古語をつらね、古調を帶ばせて幽遠がつて居るなどと攻撃するが、之は全く立脚地の違つた批評である。詩人自身から見れば、あの樣な古語を使ふのは詩的であつて、非常に愉快を覺える所であらう。殊に詩には「自然」其物から得る興と、書籍から感ずる興とがある。後者の場合などには殊に古語を使ふのが一種の愉快と滿足とを與へる事ともなる。
 此點は西洋の詩でも同樣である。能く世人は西洋は言文一致だ/\と云ふが、決して然うではない。メレデイスの作中の文章などには、すこしも日常の言語が入つて居らぬ。渠は一體日常の言語を毛嫌ひして、なにも言文一致でなくば文章の書けぬ事もあるまい、一つ自分獨得の文で書いてやらう、と力んで書いたのだ。ペーターの如きも然うである。彼等のは或程度までは言文一致であるが、全然口語體では決してない。彼のトラジシヨンの如きものも、世が文明開化になると人の頭に入らぬばかりか、或は嫌はれるかも知れぬ。併し如何なる時代にせよ、全く傳説《トラジシヨン》の勢力の下から脱けようとするのは不可能の事で、其空氣は知らず識らずに人の頭に浸潤して居る。即ち詩人は、自分は飽迄も其に制せられまいと思つて居ても、何時か知らずに制せられて居るので、從つて古語などを使ふ事ともなる。
 斯かる現在の有樣であるから、先づ文章界には一種の爭闘《ストラツグル》が行はれて居るといつて好い――大勢を占めつゝあるのは通俗文であるが、他方には例の特殊の趣味感情を現はさうとする人々によつて、文章體が保たれて居る樣な譯である。けれど如何に奮闘しても時世の趨向には勝たれぬ道理で、さういふ方面には讀者が少い。從つて狹い範圍で細く長く保たれては居つても、大勢力は通俗文に歸してゆくのである。
 元來此社會は、國民の氣風を代表するといふ點から觀れば、中等社會が最も勢力がある。と同じく文學に於ても通常《アベレージ》の人に投ずる文が勝利を得てゆくのは無論の事である。併し廣く讀まれるといふ事と、文學上眞價があるといふ事とは違ふ。傑作必ずしも勢力を得ず、勢力を得た物必ずしも傑作ではない。或は意外に趣味の下劣な物が、却つて一般の歡迎を受くることがある。斯ういふ時には社會教育上から論じて、一世の趣味を教育の力を籍りて匡濟する樣な事ともなり、其結果、如何なる文章が最も好いから一般に普及せしめねばならぬといふ研究にもなるだらうが、自分は未だ其處までは考へて居らぬ。
 前に現今の文章界には闘爭が行はれて居ると言つたが、其ストラツグルは一般ばかりではなく個人の頭脳中にも渦卷いて居る。だから現今の文筆の士が烈しく煩悶して居るのは尤もだ。從來の和漢の書籍のみ見て、其に滿足して居る人々ならば知らず、少しでも泰西の文學でも鑑賞する人は、頭脳《あたま》は自然と其趣味と一致して居るのに、さて其を形に現はさうとすると文字が足りぬ。即ち頭脳《あたま》と文字との間には非常な高低が出來て來る、足掻《あが》く、階子を掛けようとする、西洋の文字は豐富だから其儘使はうか? 否、否、希臘や羅甸を無暗矢鱈に擔ぎ廻れば、彼奴衒學者だと來る、仕方が無いから大抵に解る英語ぐらゐを混《い》れて置く。其も數があつては困る事となる。因つて新熟語を構成《こしら》へる必要に迫られるし――※[にんべん]偏《にんべん》に車を書いて俥《じんりきしや》と讀ませるとか、三錢と均一とを續けて三錢均一とするとか(天保の老爺《おやぢ》には三餞は解るが、三錢均一とは何の事やら!)象徴だの觀念だのといふ字が新しい意味で復活するとか――種々な藝當をやらねばならぬ。
 之は併し時世に連れて已むを得ぬ事で、不自然でない限り、文の組織を變へ、新熟語を作つてゆくのは、文章發達の上に必要なることであらう。
         −明治三九、八、一五『文章世界』−
 
    文學談
 
  一日君を千駄木の高居に訪ひて、改良號の本誌に小説を寄稿せられんことを請ひしが、繁忙の故を以て諾せられざりき。座談偶々創作の事に及ぶ、即ち聞き得たるところを筆記して左に掲ぐることとはなしぬ。時に一黒猫あり、徐に勝手元より出で來りて、縁に踞して謹んで君の談話を聞くものの如し。余竊に思ふ、是れ彼の有名なる『猫』先生が、爾抑々奈何の觀察をかなさんとする、我また爾が藥籠中のものたらんかと、苦笑を禁じ得ざりき。(鶴件記)
 筆はさう遲い方ではありません。其中でも『猫』などは最も速く書けます。『坊つちやん』『趣味の遺傳』なども遲い方ではありませんでした。何でも學校へ通つてゐて書いたのですが、左樣『趣味の遣傳』は一週間位もかゝつたでせう。『坊つちやん』は其倍位と思ひます。『まぼろしの盾』『薤露行』などは短い割合には日數がかゝりました。多分十日以上かゝつたやうに記憶して居ります。例へば俳句のやうなものを長く聯ねて文章を書くとすれば、何うしても速くは書けない道理です。
 『猫』ですか、あれは最初は何もあのやうに長く續けて書かうといふ考へもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけで仕舞ふ積り。また斯くまで世間の評判を受けようとは少しも思つて居りませんでした。最初虚子君から「何か書いて呉れ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度其頃文章會といふのがあつて、『猫』の原稿をその會へ出しますと、それを其席で寒川鼠骨君が朗讀したさうですが、多分朗讀の仕方でも旨かつたのでせう、甚く其席で喝采を博したさうです。それで愈々『ホトトギス』に出して見ると、一回には世間の反響は無論なかつたのです。只小山内薫君が『七人』で新手の讀物だとか云つてほめてくれたのを記憶してゐます。虚子君の方では雜誌の埋草にもなるからといふのでせう、「是非後を書け/\」とせがまれまして十回十一回と斯う長くなりました。然しもうさう/\引延ばしても世間が厭きるのみならず第一自分が厭きるから此度で仕舞ひにしました。勿論腹案もなかつたことですから、何う完結を付けたらいゝか分りません。然しどうかしなければならんから、あの通りいゝ加減な所で御免を蒙りました。
 妙なもので、書いて仕舞つた當座は、全然《すつかり》胸中の文字を吐き出して仕舞つて、もう此次には何も書くやうなことはないと思ふ程ですが、扨十日經ち廿日經つて見ると日々の出來事を觀察して、又新たに書きたいやうな感想も湧いて來る。材料も蒐められる。斯んな風ですから『猫』などは書かうと思へば幾らでも長く續けられます。
 僕は無論專門の大家でないから、澤山も書いて居ないが、書きもせぬ前から變な癖があつて、一篇の小説に毎回長短の差が甚だしくあるのが、どうも平均が取れない樣な氣がして嫌です。例へば第一回を十枚書いたとすれば、第二回をも第三回をも大抵平均して十枚位にしなくては氣が濟まないのです。何も毎回毎回に長短があつたからつて、その作物の優劣高下には影響のあるべき筈は無いのですが、然し一回より二回の方が短いとすると、何だか其回の重量《おもみ》が足りない樣な感じがしてならないのです。尤も頁はどうでも内容の比例さへ出來て居れば讀んで不平均な感じはないかも知れませんが、夫でも頁が氣になります。で、第一回にはこれだけの事件を書き、第二回にはあれだけの事件を書くと豫定して置いても、書きかゝつて見て、さう/\思ふやうに旨く枚數が平均して書けるものではありますまい。左樣《さう》かといつて、第一回にも第二回にも大抵一つ宛の山は作つてあるものですから、第二回が短いからといつて、第三回と一緒にして書くわけにはまゐりません。ですから斯ういふ場合には、何か別に材料を見付けて大抵紙數が平均するほどに引延ばすやうに工夫する氣になります。然し延ばすのは下手にやると失敗するでせう。何でもない面白くもない事を書き埋めて唯紙數だけを同じやうに致すことなれば左程に困難なことはありませんが、兎に角面白味を付けて、何うにか斯うにか讀者を倦かしめず讀み續かしめようとするほどに書きこなすのは骨が折れるでせう。
 作者が作中の人物を主觀的に書くといふことは、良否《よしあし》は俄に言ひ難《にく》いことだがまづくやると、出來上つて見て何うも厭味なものになつて仕舞ふ事があるやうに考へます。僕は大抵第三者の地位に立つて、客觀的に人物を觀察する氣で書きますが、此方が書きよくもあり、萬一出來損なつても厭味がない丈良いやうにも思はれます。例へは芝居を見るやうなもので、芝居をやつてゐる役者になつて書いても委しいことが書けようし、又見物の地位に立つても其光景を寫し出すことは出來るが、何方《どつち》がすきかと云へば、見物になつて、客觀的に書いた方が、※[ヰに濁点]ジユアライズする方から云ふと遙かによく寫し出せると思ひます。
 それから普通の小説を作ると假定すれば、世間人事の糾紛を寫し出すことですから、何うしても小説には道コ上に渉つたことを書かなくてはならない。勿論短篇のものなれば、月が清いとか、風が涼しいとか書いただけでも文章の美を味ふことは出來もするが、長篇の小説となると道コ上の事に渉らざるを得ない。扨て茲に長篇の一小説を草するとすると、作者が作中の事件に就いては黒白の判斷を與へ、作中の人物に就いては善惡の批評を施さねばならない。作者は我作物によつて凡人を導き、凡人に教訓を與ふるの義務があるから、作者は世間の人々よりは理想も高く、學問も博く、判斷力も勝れて居らねばならないのは無論のことである。文學は好惡をあらはすもので、普通の小説の如き好惡が道コに渉つてゐる場合には是非共道コ上の好惡が作中にあらはれて來なければならん。此點から見て、文學は矢張り一種の勸善懲惡であります。世間で云ふ道コに反したことをした人物に同情を表して、俗に云ふ間違つたことをするのを奨勵するやうなことを書いても夫は其人の好惡で、其人から云へば矢張り勸善懲惡です。例へば小説中の人物が人殺しをする。人殺しは普通わるい事であるから、其小説を讀んで、人殺しはいやなものだと感ぜしむる樣にかけば無論勸善懲惡です。然しある人がある場合には是非人殺しをしなければならぬ、しても結構だと云ふ考の作家も居らんとも限らん。其人は、ある時、ある場合には人殺しをしても、人が厭と思はぬ樣又進んで人殺しがしたくなる樣にかくかも知れない。夫でもいゝ、此作家に取つては、それが勸善懲惡であります。又は人殺しはわるい。然し其うちに大に恕すべき點がある。罪はにくむべきだが、其人は可哀相だと感ずる樣に筆を使ふ作家が出て來るかも知れない。夫でも構はない。矢張り一種の勸善懲惡であります。
 私の態度は此三の中どれでもよい。唯自分の良心にはづかしからぬ樣に勸善懲惡をやりたい。世間の道コに反對する事もあらうし、又は道コ通りを、道コ通りと示す場合もあらうし、世間の道コを是と感ぜしめると同時にそれを破つたものも大に稱すべき價値がある樣にもかかうし、要するに自己の見識に負《そむ》かぬ樣にしたい。而《さう》して此見識は深く考へ、深く修め、深く讀み、又深く寓して出來るものだから、文學者、殊に此種の小説家は頭脳の修養を怠つてはならんと思ひます。イブセンは自《おのづか》らイブセンで、トルストイは自らトルストイで、彼等の道コ上の好惡は明かに一種の勸善懲惡主義となつて其作品にあらはれて居ます。見識のない作物は此點から云つて價値がない。換言すれば一種の人生觀のまとまらない作物は、其他の點に於ていくら成功しても、物足らないと云うてもよい。
 人生觀と云つたとて、そんなむづかしいものぢやない。手近な話が、『坊つちやん』の中《うち》の坊つちやんと云ふ人物は或點までは愛すべく、同情を表すべき價値のある人物であるが、單純過ぎて經驗が乏し過ぎて現今の樣な複雜な社會には圓滿に生存しにくい人だなと讀者が感じて合點しさへすれば、それで作者の人生觀が讀者に徹したと云うてよいのです。尤も是程な事は誰にでも分つてるかも知れん。つまらぬ人生觀である。然し人が利口になりたがつて、複雜な方ばかりをよい人と考へる今日に、普通の人のよいと思ふ人物と正反對の人を寫して、こゝにも注意して見よ、諸君が現實世界に在つて鼻の先であしらつて居る樣な坊つちやんにも中々尊むべき美質があるではないか、君等の着眼點はあまりに偏頗ではないか、と注意して讀者が成程と同意する樣にかきこなしてあるならば、作者は現今普通人の有してゐる人生觀を少しでも影響し得たものである。然もその人生觀が間違つて居らぬと作者の見識で判斷し得たとき、作者は幾分でも文學を以て世道人心に裨益したのである。勒善徳惡主義を文學上に發揮し得たのである。
 然し此人生觀が間違つてゐると知りつゝも、こんな風に人を動かさうと力めたら、其作家は正しく不コである。たとひ知らざるも間違つた人生觀を説いて人を動かしたら恥辱である。間違つて居らなくても低い人生觀を説いたら、低い作家である。狹い人生觀を説いたら、狹い作家である。だから作家は見識家でなくてはならぬ。頭脳を養はねばならぬ。普通の人の考を聞いて見ると小説家は女の衣装やら、髪のもの、又は粹人や、田舍者の言葉の遣ひわけをやつて達者に文章をかくものだと思つてるが、それは淺薄な考です。普通の小説を作るものの資格は、第一が、人間の行爲行動(夫は大部分道コに關係があります)を如何に解釋するかの立脚地を立てるにあると思ひます。だから學問がなければならぬと思ひます。學問がなくとも見識がなければならんと思ひます。むづかしく云ふと人生觀と云ふものが必要になります。その人生觀は局部的で篇々に斷面があらはれてもよし、又はどの作にも大きい一つのものが貫ぬいて居てもよし、又は前篇と後篇との間に反對があつても構はない。反對の兩方に正しい所があると云ふ事が讀者に通じさへすればよい。かやうに兩極の人生觀を同時に把持し得る人は頭脳の容量の大きい事を證明してゐる。矛盾でも何でもない。
 世の中では小説家を以て、教員とか、官吏とか商人とかと同じ樣な單純なる職業だと思つてゐる。相互道コ上の交渉、問題に付いては、自分と小説家は同程度の批判力しかないと考へて居る。夫は間違つてゐる。小説家も夫で甘んじてはならん。
 學問は教師にきかねばならん、事務は官吏に任せねばならん、金儲は商人に頼まねばならん事がわかれば、吾人が世の中にある立脚地やら、コ義問題の解決やら、相互の葛藤の批評やら、凡て是等は小説家の意見を聞いて參考にせねばならん。小説家も其覺悟がなくてはならん。
           −明治三九、九、『文藝界』−
 
    「現代讀書法」
 
     多讀せよ
 英語を修むる青年は、或程度まで修めたら辭書を引かないで無茶苦茶に英書を澤山と讀むがよい。少し解らない節があつて其處は飛ばして讀んでいつてもドシ/\と讀書してゆくと終には解るやうになる。又前後の關係でも了解せられる。それでも解らないのは滅多に出ない文字である。要するに英語を學ぶものは日本人がちやうど國語を學ぶやうな  状態に自然的慣習によつてやるがよい。即ち幾遍となく繰返し繰返しするがよい。チト極端な話のやうだが之も自然の方法であるから手當り次第讀んでゆくがよからう。彼の難句集なども讀んで器械的に暗誦するのは拙い。殊に彼の樣なものの中から試驗問題等出すといふのは愈々つまらない話である。何故ならば難句集などでは一般の學力を鑑定する事は出來ない。學生の綱渡りが出來るか否やを視る位なもので、學生も要するにきはどい綱渡りは出來ても地面の上が歩けなくては仕方のない話ではないか。難句集といふものは一方に偏して云はゞ輕業の稽古である。試驗官などが時間の節約上且は氣の利いたものを出したいと云ふのであんなものを出すのは、動もすると弊害を起すのであるから斯樣なもののみ出すのは宜しくない。
     音讀と黙讀
 英語の發音をなだらかにする場合には稽古として音讀することもあらう。又謠ふべき性質の詩などは聲を出すのもよからうが、思考を凝らして讀むべき書籍をベラ/\と讀んでは讀者自身に解らないのみならず、あたりのものの迷惑な話ではないか。
     嗜好書籍
 嗜好書籍を一々擧げろと云つたところで、今日の如く多忙の世の中に、愛讀書と云つて朝夕くりかへして讀んで座右を離さないといふやうな事は、閑暇《ひま》な人には出來るかも知れないが我々のやうなものには二回も三回も繰返し仕たいものがあつても忙しいので出來ない譯である。又二遍も三遍も繰返して見るべき書物も亦尠いのである。(文責在記者)
           −明治三九、九、一〇『成功』−
 
    女子と文學者
 
 文學者と成るに左程深い素養は要らぬ、只毎日の實驗なり、觀察なり、或は傳聞なりを面白く書いて多數の人が夫れを面白く讀むならば、即ちそれが文學である、又他人の著述を讀で、それに趣味を持ち、興味を感じて居る讀者は、其著者と、趣味を同うし同じ觀察の範圍に在る、同格の文學者と云つて宜しいのである、例へば茲に有名な、著作物が出來た、それを面白く歡んで讀み、其眞味を解する讀者は、其著作者と感を等うし、又其著者と似たる境遇に接し、觀察も或る程度迄同じうした人である、であるから、社會に有數な文學者著作家としてもてはやさるゝ人も左程豪くもない、又其|秀逸《えら》き著述も何も其人獨りにも限るまいが、畢竟其方面に熱心で、其才を充分發揮するを得たる人に勝利は歸するので、偶然に獲た名もあるが之は稀である、又文學なら文學に天才を備へて居る人はあつても、其方に氣が附かずに過ごす人もあり、又才は有りながら書物讀む事を嫌な人もある、或は境遇なり、事情なり、習慣なりの爲に妨げられて、其方面に向ふ事が出來ぬ人もある、或る知人に學問もなければ素養もないのが、時々《じゞ》手紙を遣すが其手紙の字などは誤字が多くて滿足な文字は少ないのに、其文と云つたら中々面白い、這麼《こん》な樣な天才は、女子の方《はう》にも澤山あらうが、殊に女子は日本では嫁入りするに定まつて居るし、家庭に入つてからは、自然机に向ふ暇も少なくなるのであらうが、兎に角暇を拵へて多く書いてさへ居ると、少し才の有る人には、出來るのである、何の仕事もその通りで金儲を商賣にして居る人を見ると、什麼して彼程金が儲けられたかと他《はた》からは、恠まれるが、其道を求めるに熱心でさへあれば他から視るやうに六ケ敷いものでない。
 又女子だからと云つて哲學的文學或は幽玄なる想像を巧みたる詩的文學が出來ない不得手と云ふ理由《わけ》もない、其方の素養が足りないからである、ジヨージ・エリオツトと云ふ婦人は、四十歳から學問し始めて、初めは哲學をやつて居つたがその著作は隨分六ケ敷哲學的な文學が出來て、男子にも重きを置かれて愛讀せられて居る、是で視て見ると、女子だから奧深い理の文學が書けないとは云へない、然し同じ西洋の女流文學者でもオースチンの文は、極く平易な客觀的の寫實文であるが、其筋は變化も起伏《おきふし》もない平坦な脈であるのに、非常に面白く讀まれるのは、外國人の我々が讀んでみてさへ、其個人の人格其作の上に活動して人物の風貌人格が髣髴として表はれるのである、極く明察に敏捷に其特性を現はしてある、それで何方《どちら》かと云ふと女子には緻密なる觀察を以て客觀的な寫實の文が得意の樣である。
       −明治三九、一〇、一『女子時事新聞』−
 
    人工的感興
 
 例へば創作に就いては色々ある。こゝには創作の方法に就いて自分の知つてゐる人々の二三例話を話さう。
 女流作家のオースチンなどは、芋の皮をむきながら、其隙々に一頁もかく。それから又子供の世話をする、着物の洗濯をする、そして其隙に一頁もかく。何處で始まつてもよい、何處で終つても差支ない。用の都合で鉛筆の跡が終る所を終りにする。それで少しも苦にならぬらしい。そしてあのやうな傑作が出來る。
 エリオツトは其亭主のルイスと同室にゐたが、ルイスのペンの動く音さへ苦になつて書けなかつたといふ。オースチンの無頓着に比べて、是はまた特別の神經家である。
 さうかと思ふとブラウニング夫妻の如きは、伊太利にゐた頃なぞは、御互に詩を作らうと思ふと、二人が離れ/”\になる。そして各自の室に入つて、日課を立てて何時間とか書く。そして又一定の時間に出てくる。殆ど機械的に出來るやうだ。
 サツカレーは自分の書いたものを何日《いつ》でも持ち歩いて居る。銀行に用がある時なぞは銀行へ持つて行つて、暫く待つてゐる間に、原稿を直してゐる。
 バルザツクの如きは、草稿を活版屋にやる。活版屋が校正を送つて來ると、全紙が眞つ黒になる迄直してしまふ。それからまた活版屋にやる。活版星がまたすつかり組みかへて再校の初校を送つてくると、また其大半を直す。こんな鹽梅で、初め活版に附したものは何日《いつ》でも未定稿なのである。つまり其初めは大體の筋だけを書いて、漸次にすつかり直しあげるのであらう。
 英吉利のトロロープは汽車に乘つて居つて、一時間に何頁とか書く。これなぞは餘り物事を苦にしない方ではあらうが、しかし餘り傑作も出來ないやうであつた。
 ユーゴーはまたヨツトに乘つて横になつて、海上で仕組を考へる。それから筆を執ると一氣呵成に出來るのだといふが、スチーブンソンなぞは腹ん這ひになつてゐて書くのださうな。
 是を綜合して考へると、神經質の人もあれば、機械的に出來る人もある。少々くらゐ物に妨げられても構はぬ人もあれば、無暗と物事を氣にする人もある。けれどもかういふ事だけは云へるやうだ。世にインスピレーシヨンが起らねば筆が執れぬと云はれてゐるが、インスピレーシヨンは必ずしも待つてゐて出てくるとは限らない。なぜなら、名家で立派な作物を出す人が、時間を定めて、其|間々《あひだ/\》に用をしながら、然も渾然たるものを作る餘地がある所を以てすると、インスピレーシ∃ンが來なければ筆が執れぬといふ事は、一寸考へる價値があると思ふ。
 其意味は、氣が乘らなければ書けぬといふ事は、事實に相違ない。夫は事實には相違ないが、然し氣が乘るのを待つてゐなければ書けぬといふのは、嘘であらうと思ふ。換言すれば、自分が氣が乘らなければ、自ら氣が乘るやうに仕向けるといふことが必要ではあるまいかと思ふ。いはば人工的インスピレーシヨンとでもいふものを作り出すやうに力めなければなるまいと思ふ。何日まで經つてもインスピレーシヨンが來ないといふので、徒にポカンとして居つて、其來るのを待たうとしても、夫が何時くるか知れたものではない。それの來るやうに仕向けるといふ事が、大事な事であらうと思ふ。さうすれば年に一册しか書けないものでも二册三册と書ける事になるだらうし、また其數の徒に多きを貪るといふのでなく、作の上にも上達を誘ふことになるだらう。つまりインスピレーシヨンを出すやうに工夫するといふ事は、藥を飲んで病氣を治すやうなもので、病氣は打つ遣つて置いても癒るものであらうが、早く癒す爲には是非藥を飲む必要があると同樣であらう。
 然し人工的インスピレーシヨンの出來《でか》し方はどうしたらよいかといふ事は問題である。是は分らないと答へるより仕方がない。唯自分はどうしてインスピレーシヨンを作るかといふ事だけは語られる。自分はインスピレーシヨンなどといふ程の大袈裟なものでもないが、兎に角氣乘りのするやうに工夫する。つまり自分のやうに人から日を限られて頼まれたり、是非書いて貰ひたいなどと云はれたりする時は、どうしても小説を作るやうに氣を向ける必要がある。さうしないと、今論文などを讀んで居るとすると、もう其論文が書いて見たくなつて、創作などは出來なくなる。そこで自分が小説を作らうと思ふ時は、何でも有り合せの小説を五枚なり十枚なり讀んで見る。十枚で氣が乘らなければ十五枚讀む。そしてこんどは其中に書いてあることに關聯して種々の暗示を得る。かういふことがあるが、自分ならば是をかうして見たいとか、是を敷衍して見たいとか、さま/”\の思想が湧いて來る。それから暫くすると書いて見たくなる。それをだん/”\重ねて行くと、だん/”\興が乘つてくる。其興に浮かされて堪へられなくなつた時、筆を執るとよいのであらうが、自分などはそれを待つてゐた事はなく、好加減な所で筆を執り出す。
 餘り創作などの出來さうにも思はれぬ自分が、まあどうかかうか書く。書くうちには其或部分の如き、隨分氣が乘つて書けるやうに思はれるところもある。是は自分で作り出したインスピレーシヨンであらうと思はれる。だから自分などは?この人工的インスピレーシヨンをやることに力めてゐるのである。
 かの氣が向かなければ出來ないと云つて、氣の向くのを待つて居る天才肌の人たちは、元より天才だから自分等には分らないが、然し是等の人は必ず自ら力めることをしないといふ責は免れまい。力めるといふ意味は、無理をするといふ事ではない。誘ふといふ事である。誘ふといふ事もしなければ、何時其インスピレーシヨンが出來てくるか、何時其作物が出來るか分らない。
 吾等が嫌ひだと思ふ運動でも、力めてしなければならぬと云ふやうに、作をやるにも亦自ら鞭つといふ必要があるだらう。だから自分は文章家だから氣が乘らなければ書けないといふやうな事は、いはずとも濟むと思ふ。ちよつとした例であるが、スチーブンソンといふ人がかの有名な『ツレジユア・アイランド』といふを書いた、それはスコツトランドで毎日一章づゝ書くことを日課にして十章ばかり書いた。するとぴたりと止つた。そしてそれからは書けなくなつた。それから何かの書を見たら急に書けるやうになつて來たといふ話がある。これは不用意の際にインスピレーシヨンを作つたものと云はねばならぬ。
 創作に從事する事は一二年に過ぎぬ上、是と云ふ人に誇る程の作物を出さぬ自分が、創作に對する意見抔は人の參考にならうとも思へぬが、折角の來訪だから、今一つ話さう。古人今人の別なく他の書いた書物を讀めば、よんで居るうちに、幾多の暗示は求めずして胸中に湧いて來るものである。創作をやらうと思つてこゝ迄漕ぎつけるのは、別に苦勞も心配も入らぬ、自然に出來る。要は讀書中(こゝには特に讀書中に得たる暗示のみに就いて云ふ)に湧き出したる趣向を如何に仕上げるかに歸着する。創作も草木の種を蒔くのと同じ事で、蒔く種の數は非常なものだが、生えて花を開く數は何分の一にも足らぬ僅かな數である。胸裏に得來りたる趣向の漠然たるものはいくらでもあるが、いざ是を物にしようとなると、大分時がかゝるからして、愈出來上つたものは比例から云ふと極めて少いので、殊に余の如く多忙なものは、到底片端から片付けて行くといふ樣な時間はない。よし幾ら時間のある人でも、此漠然たるものを悉く纏めて明瞭なる體裁に仕上げ切る程の人はあるまいと思ふ。して見ると創作家は種に困ると云はんより、仕上に要する時間と勞力に困るのではないかと思はれる。余一家の經驗からいふと、今迄雜誌其他に載せる迄に書き上げたものは、其何倍かの數が頭のうちにあつたので、其中から、いざとなつたとき好い加減に一つぬき出して來て、此一つ丈を熱心に考へて捏ね上げたものである。出來たあとから見ると、どうして是丈が物になつて外のは依然として曖昧な形で居るか、自分ながら其選擇の意味がちつとも分らない。多くの作家のうちには、自分と同じやうな經驗があるかどうか知らぬが、兎に角自分丈には面白い現象で、然も外の人がまだ云うて居らん樣だから、一寸蛇足ながら御話をする譯である。
         −明治三九、一〇、一五『新潮』−
 
    作中の人物
 
 今の人々の作物を讀んで見ると――勿論一二の人を除いて――描かれて居る人物が何だか恁《か》うリヤルでない樣な氣がする。馬鹿々々しいそんな人間はこの世の中に存在して居ない樣に思はれる。だから興も起らなければ又同情も惹かない。即ち虚僞の樣な架空の樣な氣がするのである。然し自分が今茲でリヤルと云ふのは實際世間に在る人其儘と云ふ意味ではなくで、作者の想像によつて作られた架空の人物でもいゝから、それが讀者をして、今迄曾て見たことも聞いたこともないけれど、世間の何處かにそんな人が在る樣に思はせる其力を云ふので、之がなければ其作物は全然價値のないものだらうと思ふ。
 作家は神と等しく、新たに實際以外の人間或は人間以上の人間をクリエートする力を有つて居る。其創造された人間は常に見て居る隣家《となり》の人の如くでなくてもいゝ、或は人から聞いた樣な者でなくてもいゝ、或は曾て在つた人物でなくてもいゝ、全く此世界にそんな人がなくてもいゝけれども之を讀む人をして眞個《ほんと》に在ると思はせなければならぬ。之が作家の作家たる所以である。眞實だと思へばこそ同情も起れば興も湧く。假令《たとへ》憐れつぼい話を聞いた處が見す/\虚《うそ》だと云ふことが知れたら涙も出ないし泣かれもしまい。作家の力量は創造した人物を如何にも眞實に感ぜしめるのと、何うしても虚《うそ》としか思はれない處に於て區別されるので、人を動かして泣かせたり笑はせたりするのも皆それだらうと思ふ。若し精神的に不具な人間や、理性からしても感情からしても此世に在り得可しと信ずることの出來ない樣な人物を描くならば、其作物には何等の價値もないであらう。更に斷つて置くが此世に在り得可しと信じ得られるものは實際あるもの許りではないので、實際なくても又少々不自然でも、作家の創造する力、絶妙なるアートに依つて之を眞實と思はせることは出來るものである。如何に想像の翼を伸してもそれにアートが伴へば、讀者をして之を信ぜしめ且泣かせたり笑はせたりすることが出來る。そして作家の頭脳《あたま》が精《くは》しければいよ/\細やかに其人を現すことが出來、作家の人格が大きければます/\大人物を描くことが出來、なほ博ければ幾らでも澤山な人間を作ることが出來る。けれども作家に頭脳《あたま》がなく其人格が低いならば到底立派な高い人物をクリエートすることは出來ないのである。
 云ふ迄もなく文學は理性にのみ依つて批判されるものではないから、偏《ひとへ》に理窟上成程と思はせ、道理だと肯かせなくてもよいが、又中には常軌を逸した突飛なものも面白い。又田夫野人の愚痴な戀愛などを書いてもそれが惡いではないけれど、今の小説の多くが心ある人々に擯斥され馬鹿々々しく思はれるのは、思ふにクリエートした人物を眞實だと感ぜしめる力がないからでもある。要するに多くの作家は頭脳《あたま》もなければアートも足りない。
        −明治三九、一〇、二一『讀賣新聞』−
 
    文章一口話
 
 繪畫に impressionist(印象派)といふのがある。是は Turner が元祖である。Turner 自身で斯ういふ一派を創設主唱したのでもなければ、此時代の人からさう認められてゐたのでもない。唯ずつと後世になつて斯かる一派が事實上認められるやうになり、遠く其系統を辿り其根源に遡つて見ると此人に歸着するといふのである。
 傳銃は兎に角、イムプレツシヨニストの特色は、如何なる色を出すにも間色を用ゐぬと云ふ事に歸着する。彼等の考ふる所によれば、凡ての色は主色の重なつたもので混つたものではない、といふ立脚地から出立する。從つて近寄つては何だか分らぬが立離れて一定の距離から見ると自然の色彩を感じ得る樣にかきこなす。其方法は豫め和色板《パレツト》で顔料を混じて其混じたものを畫布に塗りつけるのではない。單純たる主色(pure tones)を一色一色にぢか〔二字傍点〕に塗抹して、其集まつたものを一定の距離から見ると、眼の作用で、其れが其寫すべき實在の色彩に接したと同似の感を起すやうにするのである。色彩に就ての技術は斯うだが、其外筆の用ゐ方に就ても、例へば、こゝが一筆に勢を示し得てゐるとか、或は筆つきで恰も音樂の調和《ハーモニー》のやうな趣を現はしてゐるとかいふ風で、主に技術の側に心を用ゐる。從つて其れがかうじて〔四字傍点〕行くと取材の選擇とか結構の工夫であるとかは、自然第二第三以下の問題となる。從つて composition(結構)から得る感じ、或は idea(思想)を現はすなどはどうでもよい。筆つきなどが巧みに運ばれて居れば、繪畫の能事は終つたやうに考へる程極端になつて來る。
 文章に就ても同じ事が言へると思ふ。即ち文章の上にも亦イムプレツシヨニストがある。文章も、或見方では、餘の事には眼を付けずに、丁度繪畫に關して畫家が其仲間で繪を譽め合ふ如く、技術其物のみを譽めるやうな事がある。或意味から云ふと、さう云ふのは、現在の寫生文家が互に譽め合うてゐる所である。即ち今の寫生文家の立場から云ふと、要するに何を書かうが勝手だ、唯其敍し方さへ巧なればよい。極端に言へば、車夫馬丁の駄洒落でも、馬が屁をひつたことでも、犬が孳してゐるさまでも、其寫敍が精緻であれば、直にうまいと云ひ面白いといふ。唯巧みに書かうといふ弊は、其何を言ふかの目的に多大の注意を拂はぬ樣になる。描き出された部分はそれは極めて明白に巨細に寫されて、間然する所がない程な技巧を示してゐるかも知れぬ。併し讀んだあとで何だか物足らない。淡白で飽き足らないのではない。何だか不滿足である。で、其原因を探ると色々になるが、分類をするのは面倒であるから先づ分り易い例で云ふと、或は中心が無い、或は山が無い、或は人を|惹き付ける《アツトラクト》力が無いと云ふ場合が、比較的に多い樣に見える。盥の中の水に春風が渡つて水面を刷く漣の縮緬皺の一つ一つ細やかに明かではあるが、併し、其水全體に籠る力がないといふ場合もある。面滑かな大洋の浪の何の曲もなきが自ら心ゆく弧線《カーヴ》を作すのとは自ら異つてゐるので、何だか物足らない。そこで、彼等に聞いて見ると寫生だといふ。成程うまく寫生が出來てゐるかも知れない。リヤルかも知れない。併しリヤルであれば其れで充分だと云ふ場合許りはなからう。リヤルでも其物自身がつまらん時は折角の技巧は牛刀を以て鷄を割くと同じ事であらう。余の考では、かゝる場合に於てよし有の儘を有の儘に寫し了せても、attractive でなければ物足らぬ。attractive であれば、如上の意味に於てリヤルでなくても構はぬ。神は創造《クリエート》する。人も創造《クリエート》するがよい。一定の時の一定の事物を隅から隅まで一毫一厘寫さずとも、のみならず、進んで一葉一枝一山一水の削加増減を敢てするとも、宛も一定時の一定事物に接したかの感じを與へ得ればよい。更に一歩を進めると、何時か何處かに果して存在し又は存在すべきことを要せぬ、唯、直に全く實在すると感じられ、實在するであらうかせぬであらうかと遲疑する餘裕のないものならば、其れで澤山だ。是亦一種の意味に於てリヤルである。此意味に於てのリヤルとは、一定の時に一定の場所に起つた事物の證據力ではない、歴史的考證力でもない、躬|方《まさ》に其説述の裏に同化し眞僞の間際に躊躇《たゆた》ふことなき境涯の  状態を意味するのである。斯くて事物の證據力としては許されぬ創造《クリエーシヨソ》は、如上の同化の境涯を眞覺せしめる爲めには、許され得べきのみならず又實に必要である。或場合に在つては、多少の創造《クリエーシヨン》を許すが故に充分 attractive となり、attractive であつて初めて藝術的にリヤルとなる。かうやつたら事實に違はうか、さうしたら嘘にならうか、と戰々兢々として徒に材料たる事物の奴隷となるのは文學の事ではない。感興の趁く所、創造の思ひ切りが大切である。翼々として思ひ切れぬ寫眞術には感興興趣の色彩は撮《と》れぬ。シヱクスピアは、今の人ならばとてもそこまでは思ひ切つて描くことが出來ぬ程のあたりまで、興に任せ筆を走らし立ち入つて描き出す。其思ひ切つた點がいつも其作を活躍せしめてゐる。
 凡そ世の中の事は發達するに從ひ單純から複雜になる。本來を云ふと、文章もどこまでが思想でどこまでが技術か分らぬ程單純なものである。所が漸々人が文章を竪に見たり横に見たりして捏ね廻してゐるうちに、自ら實質と技術とが分れる樣になつて來た。同じものが分れる譯はないが、人間の眼のつけ所が複雜になると、一つのものを色々に差別して見る事が出來るから、斯う云ふ現象が起るのである。例へば、形と色との關係の樣なものだ。一の物體に就て云ふと、其物から色を取れば其形は無くなる、其形を取れば其色は無くなる。二相歸一、色は形で形は色である。併し、人の智識が進むに從ひ、解剖《アナリシス》が出來る樣になるから、此分つことの出來ない色と形とをも假に分けて觀ることが出來る。同一物體から色だけを抽象し、若しくは形だけを抽いて觀ることが出來る。其れと同じ事で、文章も實質と技巧とを分けて觀ることが出來る樣になる。或人は技巧のみを抽いて觀るし、成人は實質のみを抽いて觀る。即ち前者後者の區別から、form(形)に重きを置く技巧派と、matter(質)を主とする實質派とも名づくべき二流派を生ずる。而して前者は、現今の畫界に於けるイムプレツシヨニストと同傾向のものである。
“Art for art”は、文章若しくは繪畫を斯く分解して之を技巧的にのみ觀じ得る程、吾人の頭脳が發達した時に、初めて勃興すべき現象であつて、又必ず起らねばならぬ一派である。其れで今の所謂寫生文家には大に此傾向がある。此傾向のあるのは、時勢の發展上斯ういふ一派が認められべき機運に到着したので、一方から云ふと、寧ろ社會が之を産出するまでに進んで來たのである。歴史上漸次文章界も複雜になつて來た結果、古くよりあつた思想派の外に近頃技巧派が出來た、といふのは開化の潮流がそこまで達したのであらう。唯、此技巧派が極端に走る時には、前に述べた樣な弊害に陷ることは自覺せねばならん。
 前述の次第だから、所謂寫生文は現今の社會からは頗る輕蔑されて、何等の價値もない者の樣に言はれて居るにも拘はらず、自分はさうは思はぬ。日本人の全體、今の所謂小説家などの多分の思ふ如く、寫生文は短くて幼稚だと言ふのは誤りで、幼稚どころか却て進歩發達したものと云うても然るべき事と考へてゐる。否寧ろ發達し過ぎて其弊に陷つた者、一方の極端に走つた者と思ふ。即ち實質其者はどんな平凡な事でも、寫す技巧さへ確かであれば構はない。平たく言へば、事柄は面白くないが敍述はうまからう、と云ふ傾向になつてゐる。それだから或人は大に感服すると同時に、大に不滿足なのだらうと思はれる。
 議論の原則としては、技巧で書いた者は技巧を觀る。趣向が主なら趣向を見る。人情の機微を寫した者なら人情の機微を觀る。唯極端に走り餘弊に陷つた今の寫生文家は、趣向、結構(composition)、筋、仕組み(plot)を考へなければならぬ。
 技巧派の弊が斯の邊にあるに對して、實質派の墮落の一は、唯筋を運ぶ〔四字傍点〕より外に何も知らぬことであらう。其筋も面白ければだが、つまらぬ人情話を容赦もなく運んで行く。丸で地圖を披いて見て居る樣だ。或は造船の設計を眺めて居る樣だ。
 文章上に就て、こんな咄嗟の際に思つた事を述べるとよく盡さぬ事があるので、屡人の誤解を招く事がある。この議論でももつと秩序を立てて長いものにして、判然と納得のゆく樣にしなければならんが、座談だから、さう、うまくは行かん。第一考ふべき事は、文章に於て考ふべき條項は何と何であるか、それから詳しく考へて、さうして相互の關係を論じて見なければならん。然る後小説でも戯曲でも完全な批評は出來るのである。現今の批評といふ者は毫も系統的でない。各々勝手次第に氣のついたことをいゝ加減に竝べる許りである。其代りどれも器械的でない。そこが頼母しい所で、さうして又科學的でない所である。
        −明治三九、一一、一『ホトトギス』−
 
    文學者たる可き青年
 
 我國に大文學の出るのは次の時代である。即ち今の青年及び之から生れる人とに依つて作られるだらうと思ふ。今迄は古來の文學を復起しそして西洋文學を模倣するに止まつたので、眞の日本文學の起るのは何うしてもこれから後でなければならぬ。從來に於ける文學者はコ川時代の文學を再興したと云ふに過ぎぬので更に何等の特色もなく又大作物も出なかつた。そして少し進んだ人々が西洋文學の模倣をした位であるから自家獨得の作物がない。けれどもだん/\進んで行くに從つて、日本在來の文學も讀み尚西洋の文學も充分咀嚼し得られる樣になれば、在來の文學に大作物としてそれ程尊重す可きもののないことも解り、且は西洋のものと云つても驚く可きものでないことを覺るだらうから、其時は自分の目も開いて自家獨得の考も出て來る。自分で自分の思ふことを云つて見たくなる。茲にナシヨナリテーを基礎とした獨得の文學が生れるので、それは模倣でもなければ追從でもなく、虚僞の加はらない眞の聲である。而して現在はその時代の來るを待つて居る準備時代である。だから今の文學者は將來立つ可き青年の爲にその道を拓いて居るので、云はゞ開墾地の石を運んで茨を刈つて居ると少しも違はない。自分等も又その考へで將來大文學が興る爲に幾らでも其扶けとなり、何等かの準備となれば、自分のしたことは其目的を達したものとして滿足することが出來る。在來の文學の跡を辿つたら或は外國文學の模倣をしようとは決して思はない。只自分等のした事が來る可き時代の準備となればいゝのである。然し將來興る可き文學は何んなものかと云ふことは斷言出來ぬので、それは隨分六ケ敷問題である。露西亞の如く壓制された國民の文學は自ら沈鬱になり、英國の如く形式的な國の文學は何處迄も表面は氣の利いたものになる。又佛蘭西の如きは其文學も自然露骨であるが、すべて文學は其國のナシヨナリテーが現れるので、我國の文學にも亦それが現れるであらう。
 要するに、新時代を作る可き人々は今の青年である。今の青年に依つて我國に於ける將來の大文學は生れるのだから、最も有望なるものは今の青年で自ら其責任も重大である。されば將來の文壇に立つ可き人即ち今の青年は充分なる修養を要することは云ふ迄もないが、新時代の文學者たるに最も必要なる資格は何であるか、そして如何なる方面の修養に最も力を盡さねばならぬかを研究するのは、將來文學者たらんとする青年の極めて慎重なる態度を以てす可き問題であらうと思ふ。若し人が自分に向つて將來文學者たらんとする青年の資格を問ふならば、自分は先づ第一に高くして且博い見識を養へと答へる。云ふ迄もなく文學者として具へる可き資格、修養す可き事は甚だ澤山あるに違ひないけれど、見識を養ふことは少くとも其中の最も必要なるものの一つである。評論家にしても創作家にしても從來の樣な不見識では到底將來の文學者として立つことは出來ぬので、ものを觀察したり批評したりする眼を高く鋭くし、且自家獨得の博大な識見からものを批判し筆を執つて行くにあらざれば新時代の文學者たる資格はないものと云つてよい。然らば如何にしたら其見識を養ふことが出來るかと云ふに、之は多少其人の天稟にも依るべけれど或程度迄は平生の心掛及び修養に依つて養ふことが出來るので、大なる修養は自ら大なる見識を作り得るに違ひない。多くの經驗も修養である。精緻な觀察も修養である。深い學問も修養である。是等は悉く見識を養ふ可き修養であるが、其中最も捷徑は博く學問をすることで、見識なるものの多くは慥に學問の力で作り得ることが出來るだらうと思ふ。我邦に於ける在來の文學者には無學のものが多かつた。從つて見識がない。作物も自ら浮薄である。他人の説に依つて我主張を動搖させる樣な人が多かつたから、其作物に眞の生命がないのも無理がないので、例へば批評にしても觀察にしても描寫にしても獨得なそして透徹な見地がなかつたのである。唯一概に學問がないからだと云ふことは出來ないかも知れないが、兎に角見識のないと云ふことは學問がなかつたからだと云ふことに其大部分は歸するので、西洋などには學問のない有名な作家も少くないが、是等は社會的の經歴や其他に依つて學問以上の學問をして居る。例へばゴルキーの如き人は慥に其一人で、彼は更に學校に於ける教育を受けず又書齋に於ける勉強もしなかつたけれど、彼は社會を直ちに大學校として人以上の勉強をし、そして又充分なる見識をも養ひ得たのである。又英國や佛蘭西や獨逸の如き國に在つては一般の國?が進歩して居る爲に、我國の樣に特殊な學校の教育は受けなくとも、普通の生活が既に普通の教育を受け得られる樣な國には、學問をしない人の中にも立派な見識のある作家を出すことが出來るので、是等は全く其國の文明の程度に依るのである。社會的閲歴或は經驗と云つても之に依つて充分立派な見識を作り得られる程の閲歴や經驗は中々一通りでは出來ないのだから、先づ博く學問するのが見識を養ふに最も捷徑である。
         −明治三九、一一、一『中學雜誌』−
 
    「自然を寫す文章」
 
 自然を寫すのに、どういふ文體が宜いかといふ事は私には何とも言へない。今日では一番言文一致が行はれて居るけれども、句の終りに「である」「のだ」とかいふ言葉があるので言文一致で通つて居るけれども、「である」「のだ」を引き拔いたら立派な雅文になるのが澤山ある。だから言文一致は便利ではあらうが、何も別にこれでなければ自然は寫せぬといふ文體はあるまい。けれども漢文くづしの文體が可いか、言文一致の細かいところへ手の屆く文體が可いかといふ事は、韻致とか、精細とかいふ點に於て一寸考へものだらうとは思ふ。
 韻致とか精細とか言ふ事は取りやうにもよるが、精細に描寫が出來て居て、しかも餘韻に富んで居るといふやうな文章はまだ私は見た事がない。或一つの風景について、テンからキリまで整然と寫せてあつて、それがいかにも目の前に浮動するやうな文章は恐らくあるまい。それは到底出來得べからざる事だらうとおもふ。私の考では自然を寫す――即ち叙事といふものは、なにもそんなに精細に緻細に寫す必要はあるまいとおもふ。寫せたところでそれが必ずしも價値のあるものではあるまい。例へばこの六疊の間でも、机があつて本があつて、何處に主人が居つて、何處に煙草盆があつて、その煙草盆はどうして、煙草は何でといふやうな事をいくら寫しても、讀者が讀むのに讀み苦しいばかりで何の價値もあるまいとおもふ。その六疊の特色を現はしさへすれば足りるとおもふ。ランプが薄暗かつたとか、亂難になつて居つたとか言ふ事を、讀んでいかにも心に浮べ得られるやうに書けば足りる。畫でもさうだらう。西洋にもやはり畫家の方でさういふ議論も澤山あるし、日本の鳥羽僧正などの畫でも、別に些しも精細といふ點はないが、一寸點を打つても鴉に見え、一寸棒をくる/\と引つ張つてもそれが袖のやうに見える。それが又見るものの眼には非常に面白い。文章でもさうだ。鏡花などの作が人に印象を與へる事が深いといふのも矢張りかういふ點だらうとおもふ。一寸一刷毛でよいからその風景の中心になる部分を、すツと巧みになすつたやうなものが非常に面白い、目に浮ぶやうに見える。五月雨の景にしろ、月夜の景にしろ、その中の主要なる部分――といふよりは中心點を讀者に示して、それで非常に面白味があるといふやうに書くのは、文學者の手際であらうとおもふ。
 だから長々しく敍景の筆を弄したものよりも、漢語や俳句などで、一寸一句にその中心點をつまんで書いたものに、多大の聯想をふくんだ、韻致の多いものがあるといふのは、畢竟こゝの消息だらうとおもふ。要するに、一部一厘もちがはずに自然を寫すといふ事は不可能の事ではあるし、又なし得たところが、別に大した價値のある事でもあるまい。その證據に、よく敍景などの文をよんで、精しく檢べて見ると、隨分名文の中に、前に西向きになつて居るものが後に東向きになつて居つたり、方角の矛盾などが隨分あるけれども、誰もそんな事を捉まへて議論するものも無ければ、その攻撃をしたものも聞かない。で、要するに自然にしろ、事物にしろ、之を描寫するに、その聯想にまかせ得るだけの中心點を捉へ得ればそれで足りるのであつて、細精でも面白くなければ何にもならんとおもふ。
            −明治三九、一一、一『新聲』−
 
    余が『草枕』
     ――「作家と著作」――
      或は觀察、或は構想、或は描寫、或は主張、或は苦心など凡そ著作に關する事柄を、諸家に就て聞き得たのが、以下の談話である。諸君はこれに依つて、少からざる趣味と裨益とを得らるゝであらうと信ずる。記者
 
 一體、小説とはどんなものか、定義が一定してゐるのか知らん。
 見た所、世間の眞相を穿つたものを書く心理小説とか、一つの哲理を書き現はす傾向小説とか、主として時代の弊のみを發《あば》く一種の傾向小説とか、又は、走馬燈の如き世間の出來事を、何のプロツトもなしに、其まゝに寫し出すものとか、その他いろ/\の種類はあるが、此等、普通に小説と稱するものの目的は、必ずしも美しい感じを土臺にしてゐるのではないらしい。汚なくとも、不愉快でも、一切無頓着のやうである。唯世の中の人間はこんなものである、世の中にはこの位汚ないことがある、こんな弊がある、人間は斯くまでに恐ろしいものであるといふことが、讀者に解りさへすればよいのらしい。もし其上に、ある感じを與へるとすれば、それはかうでもあらう。即ち、だから人間は働かねばならぬ、正直でなければならぬ、惡い者には抵抗して行かねばならぬ、世の中は苦しいけれども忍ばなければならぬ、物事は齟齬して失望落膽は頻りに到るが、常に希望をもつて進んで行かねばならぬ、と。要するに、世の中に立つて、如何に生きるかを解決するのが主であるらしい。
 もし、假に、これのみが今の小説であるとすれば、美を描くといふ主意はいらぬわけだ。唯眞を寫しさへすれば、假令|些《さ》の美しい感じを傳へなくとも構はぬわけだ。
 けれども、文學にして、苟も美を現はす人間のエキスプレツシヨンの一部分である以上は、文學の一部分たる小説もまた美しい感じを與へるものでなければなるまい。勿論、定義次第であるが、もし此定義にして誤つて居らず、小説は美を離るべからざるものとすれば、現に、美を打ち壞して構はぬものに、傑作と云はれるもののあるのは可笑しい。私はこれが不審なんだ。
 私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反對の意味で書いたのである。唯一種の感じ――美しい感じが讀者の頭に殘りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の發展もない。
 茲に、事件の發展がないといふのは、かういふ意味である。――あの『草枕』は、一種變つた妙な觀察をする一畫工が、たま/\一美人に邂逅して、之を觀察するのだが、此美人即ち作物の中心となるべき人物は、いつも同じ所に立つてゐて、少しも動かない。それを畫工が、或は前から、或は後から、或は左から、或は右からと、種々な方面から觀察する。唯それだけである。中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其處に事件の發展しやうがない。
 所が普通の小説ならば、この主人公は甲の地點から乙の地點に移つて行く。即ち其處に事件の發展がある。此場合に於ける作者は、第三の地點に立つて事件の發展して行くのを側面から觀察してゐるのだが、『草枕』の場合はこれと正反對で、作中の中心人物は却つて動かずに、觀察する者の方が動いてゐるのだ。
 だから、事件の發展のみを小説と思ふ者には、『草枕』は分らぬかも知れぬ。面白くないかも知れぬ。けれども、それは構つたことではない。私は唯、讀者の頭に、美しい感じが殘りさへすれば、それで滿足なので、若し『草枕』が、この美しい感じを全く讀者に與へ得ないとすれば、即ち失敗の作、多少なりとも與へられるとすれば、即ち多少の成功をしたのである。
 また、私の作物は、やゝもすれば議論に陷るといふ非難がある。が、私はわざとやつてゐるのだ。もしもそれが爲に、讀者に與へるいゝ感じを妨げるやうではいけないが、これに反して、却つて之を助けるやうならば、議論をしようが、何をしようが、構はぬではないか。要するに、汚ないことや、不愉快なことは一切避けて、唯美しい感じを覺えさせさへすればよいのである。
 普通に云ふ小説、即ち人生の眞相を味はせるものも結構ではあるが、同時にまた、人生の苦を忘れて、慰藉するといふ意味の小説も存在していゝと思ふ。私の『草枕』は、無論後者に屬すべきものである。
 此種の小説は、從來存在してゐなかつたやうだ。また多く書くことは出來ないかも知れぬ。が、小説界の一部に、この意味の作物もなければならぬと思ふ。
 分り易い例を取つて云へば、在來の小説は川柳的である。穿ちを主としてゐる。が、此外に美を生命とする俳句的小説もあつてよいと思ふ。尤も、在來の小説の中にも、此分子が全然無いと云ふのではない。いかにも美しい感じを與へるやうな所もあるが、それが主になつてはをらぬ。汚ないものをも避けずに平氣で寫してゐる。
 で若し、この俳句的小説――名前は變であるが――が成立つとすれば、文學界に新しい境域を拓く譯である。この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論ない。それが日本に出來るとすれば、先づ、小説界に於ける新しい運動が、日本から起つたといへるのだ。
        −明治三九、一一、一五『文章世界』−
 
    滑稽文學
 
      滑稽文學の將來
 將來我が國に滑稽文學が盛んに勃興するだらうか何うだらう?そんなことは豫言者にあらざれば斷言することは出來ない。社會の流行と云ふものは妙なものだ。別に重大な理由がなくても、ちよつとした動機で或ものが流行り出して或るものが廢れる。例へば羽織の五ツ紋が流行るのを見ても別に是と云ふ深い譯があるのぢやないので、多勢の人が今迄三ツ紋許り着て居て多少厭いた樣な傾きがある時、一人が五ツ紋を着出すと是は變つて面白いと云つて隣の人が着る。すると又其隣の人が着ると云ふ風に、だん/\多勢が着る樣になれば、それが即ち流行となるのである。西洋の社會學者は社會は模倣である(society is imitation)と云つたが成程左うかも知れない。人がちよつと珍しいこと、面白いこと、奇拔なことを始めると直に之を模擬《まね》るのは世の中の常で、全く没交渉にして居る譯には行かぬと見える。文學の方面にしても十八世紀の頃一人が錢のアドヴエンチユアを書くと今度はそれをまねて着物のアドヴエンチユアを書くものが出來る。其他いろ/\それに類似したものを多勢が書く樣になるので、是等は慥かに模倣である。然し乍ら人は全く縁のないものをまねると云ふことはしないので、必ず自分と近いものをまねる。たとへば自分の隣に外國人が住んで居て非常に珍らしい異つた風俗をして居れば、直にそれをまねるかと云ふに、それはしない。かけ離れた縁の遠いものはまねようともせず、又まねようとしても出來ないのである。一體模擬と云ふことは、一寸聞けば何となく輕薄な樣だけれど、人のすることをまねした處が何も罪惡になる譯でもなく、人が變つたこと、珍らしいことをするのを見て、それに倣ふのは人情の已むを得ぬ處で、作つてするのでなく、強ひてするのでもなく、自然と其方に傾くのである。で、滑稽文學は將來何うなるだらうか等と云ふ問題に就いて、自分は今まで考へて見たこともないので、又考へても容易に分るまいと思ふが、滑稽文學の興ることなども流行と云へば流行と云へるので、新たに一人傑出した作者が出て大作を出すか、或は他の動機に刺戟されて、非常な勃興を來すかも知れない。けれどもそれを斷言することは六ケ敷い。世の中に金を儲けたがつて居る人は隨分澤山あるが、扨如何にしたら金が儲かるだらうかと云ふことの分る人は極めて少ない。大抵は分らずにまごついて居るので、商賣をして居る者は必ず儲かると鑑定してやるのだらうが、十中の七八は思ふ樣に行かぬ勝である。百人の中に一人か千人の中に一人位よく是等のことの見える人が居て、慥かに恁うと目星を付ければ大抵當るが、文學の方では左うは行かぬ。金儲けなどはビジネスだから思つた通りに働きさへすればいゝが、文學の方では假令今喜劇を一つ出せば屹度當ると云ふことが分つて居ても、自分でそれを書くことが出來なければ何うすることも出來ない。又外に書く人がなければ或は其儘で過ぎて終ふかも知れない。是は頭の問題だからビジネスと同じ樣に論じ難いのである。
      歴史と國民性
 又、滑稽文學が興るか何うかと云ふ問題に就いては、其國の歴史と國民性も少からず關係を有して居る。歴史の事は少時《しばらく》措くとして、その國民性であるが、ヘブライ民族の樣な嚴格な國民には到底滑稽文學のありやう筈がないので、先づ國民一般にユーモアを有つて居なければ、その興る可き第一の資格のないものと云つてよい。云ふ迄もないことである。處が日本の人は元來眞面目氣の少いとぼけた樣な、そしてよく泣きよく笑ふ感じ易い國民である。眞面目でないと云うて語弊があるなら、多血的な神經質な、即ち膽汁質でないと云つたらよからう。何れにしても冷やかな堅苦しい國民でないだけに何れかと云へばロマンチツクな、そしてポエチカルな國民であるから、悲劇を見て泣き得ると同時に喜劇を見ても必ず笑ひ得ることは慥かである。精細に國民性を研究すれば云ふ可きことも隨分多いだらうが、要するに我が國の人々は充分滑稽趣味も有して居るし、之を樂しむ資格もあるのだから、一人傑出した作家が出るとか或は他の動機に依つて非常な隆盛を來すだらうと云ふことは、斷言することは出來ないが信じ得られる。而して今の社會が之を要求して居るのも事實である。
      喜劇の價値
 多くの人の中には悲劇と喜劇とを比較して、悲劇の方にのみ重きをおき喜劇を輕んずる人もあるが是は大に謬見だと思ふ。自分は悲劇も喜劇も其價値は同等で更に輕重がないと思ふ。悲劇に起る事件は概ね死ぬか生きるかと云ふ問題だから重大には違ひなく、又人の心を動かすことも強いが、悲劇に泣く許りが人生ではない。笑ひの間にも人情の機微はあるので、唯悲劇の方が實際的であると云ふに過ぎぬ。赤い血の色は最も人の心を引くと云ふが、悲劇は之を以て彩られて居る爲に、直接に又現實的に人の心を動かすのだらうと思ふ。けれども喜劇に血の色がないからと云つて、直ちに之を輕く見ることは出來ない。本郷座あたりで時々演じられる樣な喜劇を見て價値がないと云ふならば、卑俗な看客が無暗に涙を流す悲劇も矢張り價値がないのである。下らないものは何れも下らないが、眞に上乘の作ならば、何れを何れと云ふことは出來ぬので、其價値は同じだらうと思ふ。悲劇だから貴い喜劇だから卑しいと云ふことはないのであるから、單に悲劇喜劇と云ふ區別で、其輕重を論ずるのは謬見たるを免れぬ。然し各々特長はある。即ち悲劇は血の色を以て人の心を動かす樣な場合が多いから、何處迄も現實的で又實感的である。けれども喜劇には赤い血の色で人の心を動かすと云ふ樣な直接に胸を突く感じがなくて、毎《いつ》も談笑の間に進行して行くのだから、此方は間接的で、何方《どちら》かと云へば空想的な傾向を持つて居る。或は恁《こ》んな處がちよつと見ると輕い樣に思はれるのかも知れない。
      眞の悲劇
 滑稽文學として世にあるものの多くは大抵陳腐でなければ卑しい駄洒落か、嘲笑の氣の充ちたもの許りであるが、滑稽と云ふものは唯駄洒落と嘲笑ばかりではあるまいと思ふ。深い同情もなければならぬ。讀む人に美感をも與へなければならぬ。西洋などには喜劇も隨分多いけれども惡感を起す樣なものが多い。假令其事實が如何に滑稽でも、惡感を起させる樣なものだつたら、決して之を上乘の作と云ふことは出來ぬ。モーパツサンのに次の樣なのがある。
 或處に生活に不自由なく暮して居る仲の好い夫婦があつた。ある時夜會に招待を受けたので、夫は二人で行つて見ようぢやないかと細君に勸めた處が、何う云ふものか別に嬉しさうな顔もせず、唯黙つて鬱ぎ込んで居る。そこで夫は何うしてお前は夜會に行くのを喜ばないかと聞いたら、夜會へ行くのは嬉しいし是非行きたいけれど着るものがないので鬱いで居ると答へた。それぢや其着物を買ふには幾ら位要るのかと聞くと、幾ら/\だと云ふ。聞いて見れば、現在に於ける自分の境遇でそれだけの着物を妻に買つてやるのは不相應なことだけれど、折角行かうと云つたものを着物がないから止めると云ふのも殘念なので、無理算段をしてやつとこさ着物を買つた處が細君、まだ濟まない樣な顔をして居る。欲しいと云ふ着物も出來たのにお前は何故不滿足な顔をして居るのだと云つた處が、着物は是で結構だけれど装飾品《かざり》が一つもない、外の貴婦人や令孃は皆ルビーや眞珠やダイヤモンドを鏤めて燦爛として行くのに、私一人指環さへなくては行くのがいやだと云ふ。成程さうだらうけれど、着物さへ借金までしてやう/\調へたのを此上少からぬ金を出して指環まで買つてやることは到底出來ぬので、それだけは誰かに借りようと云ふことに一決した。それから細君は自分の知つて居る夫人の處へ行つてその事を話すと、早速承諾してダイヤモンドの指環を貸して呉れたので、漸く身の廻りを整へ、夫婦揃つて夜會へ行き踊《をど》つたり舞つたり其夜は樂しく過して歸つたが、扨翌日早速指環を返さうとして見ると、何處へ失くしたのか影も見えない。ちよつと買へる品ではないから、夫婦は狂氣の樣になつて探したけれど、中々出て來ないので、兩人はもう青くなつて終つた。然し失くしたからと云つて其儘濟む譯ではないから、市中のあらゆる寶石屋をさがして、やう/\元借りたのと同じ樣なのを見付け、莫大な金を出してそれを買つた。勿論指環を買つたのは全然借金したのだから、それ以來財政上の苦しみと云ふものは非常で、夫も眞黒になつて働き細君も下女の樣になつて臺所のこと迄し、長い間かゝつてやう/\其借金を返した。其後細君は前に指環を借りた夫人に逢つた處が、細君は敷年間の辛酸の爲に面《かほ》もやつれ、其上勞働の爲に細く美しかつた指も太くなつて、ありし昔の面影を忍ぶことも出來ぬ程になつて居る。そこで夫人はだん/\樣子を聞いて見ると、其原因は自分の貸した指環にあるのでひどく氣の毒に思つたが、夫人の云ふ處によれば、以前貸した指環は眞のダイヤモンドではなくて米を煉つて作つた僞物であつた。
 自分は之を讀んで何だか嫌な感じがするのである。勿論滑稽には違ひないが、終ひにダイヤモンドが僞物だつたと云ふことが知れるので――或は是が全篇の主眼かも知れないけれど――夫婦が指環を失くして虚榮心の充らないことを覺り數年の間眞面目になつて働いたのが、全く嘲《わらひ》の中に葬られて終つた。同情もなければ何にもない。其處いらの劇場《しばゐ》で之に類した喜劇を演つたら大に喝采を博すだらうが、其價値は別として、自分は恁《こ》んなのを喜ぶことは出來ない。此喜劇は指環を失くして狼狽する處が既に滑稽である。あとで僞物だつたと云つて、無理に笑はせない方が却つていゝと思ふ。僞物だつたと云はれて、滑稽と云ふよりも寧ろ嫌な感がする。世の中と云ふものは恁《こ》んなものだと云つて冷笑した樣な風も見え、更に讀者迄馬鹿にされた樣に思はれる。それならば何んなのがいゝか、と云つて茲に例を擧げることは出來ないが、要するに嘲笑や罵倒が眞の滑稽ではなく、笑ひの間《うち》にも深厚な同情を有するのが、上乘の作だらうと思ふ。(一記者筆記)
          −明治四〇、一、一『滑稽文學』−
 
    將來の文章
 
 近頃の文章では未だ充分に思想があらはされぬやうだ。將來はもつとよくもつと容易《たやす》く現はす事が出來るやうにならなくてはいかぬ。
 私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで西洋の思想で考へた事がどうしても充分の日本語では書き現はされない。これは日本語には單語が不足だし、説明法《エキスプレツシヨン》も面白くないからだ。反對に日本の思想で考へた事は又充分西洋の語で書けない。それは私に西洋語の素養が足りないからである。
 兎に角思想が西洋に接近して來れば夫に從つて、眞似るのではないが日本でも自然西洋の程度に進まなければならぬ。即ち今日の文章よりも、もつと複雜な説明法《エキスプレヅシヨン》と廣い言葉とが生れねば叶はぬ。今でも「何々かくの如く」など飜譯的の方法が入つて來て居るものも澤山あるが、中々これは便利である。今後もづん/\新しい方法が出來るであらう。
 元來單語でも西洋語の方が多く、殊に英語などには種々の語源があつて、一つの事でも幾通りにも云ひ現はす事が出來るから、時と場合によつて、よく細密なる點までが抽《ひ》かれるのである。
 今の言文一致は細かい處まで書き現はされる點はあらうけれども、唯語尾が變化したまでで何も擬古文と相違はない。であるから會話の込入つたものなどは到底書きあらはす事は不可能である。其要求に應じて、今日ではだん/\新語が出來、新語法が生れつゝあるけれども、一般に通じないものもあり、又まだ出來つゝあるものもあり、此等を普通に認識されるには中々時間もかゝる。
 辭句を非常にうまく配列するとか、力あるものを書くとか又優しい云ひあらはし方を初めるとか云ふ事は其人々の工夫であつて、これは天才に待つより外はない。著し一人の天才が現はれたならば、次第にこれを眞似るものが出來るから、其方には進歩するだらう。
 云ひあらはし方が巧妙になり、單語の數が増え、ぼんやりした事が明らかになると云ふのは、人の頭が複雜になり、精密になり、明晰になるに從つて、現實するであらう。けれどもこれはそれ相當の時を要するのだ。時さへ經てば、さうなつて行く事は殆ど必然の勢である。
 然しながら一人の名文家が出て、これを眞似ると云ふ方から進歩するのは、時が經つても其天才が出なければ駄目だ。其かはり何時でも出さへすれば時間を要せず發達する。
 要するに此二つの成行で、現時の文章は進歩し、發達しなければならぬものであるが、今の言文一致體と云ふ形式は何も惡いと云ふのではない。形式などはどうでも同じい事ぢやないか。(文責在記者)
        −明治四〇、一、一『學生タイムス』−
 
    家庭と文學
 
夏目先生のところへ上り、『家庭と文學』と云ふやうな題目に就いて何かお談《はなし》をと御願ひしたところ、「家庭と文學ですか。さア『家庭と文學』と。格別意見もないなア。第一あんまり考へて見たこともないのだから」とのこと。それでは一つ御暇のとき考へて見て戴きませうと、御願ひして置いて、偖お約束の日、十一月十二日に再び御伺ひした。
「實は先日御願ひしで置きましたことで」
と云ふと、
「あゝ 『家庭と文學』の話ですか」
滿更御忘れにもならなかつたらしい。
「何でも、あの問題を考へて置く筈だつたね」
「は。御多忙中をどうも」
と一應恐縮したが、
「實は一向考へて置かなかつた」
と仰しやるのを聞いて、落膽《がつかり》した。
「考へては置かなかつたが、仕方がない。何か話すことにしよう」
「是非どうか」
「全體どう云ふことを話せばいゝのだ」
「どう云ふことと申しまして、さうですなア。矢張まア家庭と文學、家庭と云ふものと、文學と云ふものとの關係なのです」
「しかし、家庭と文學との關係。只その關係と云つただけでは、何だかつかまへどころがない。一寸困るなア」
「では先生。かう云ふ具合に御願ひ申しませう。よく世間で、或種類の讀物は家庭に入れられないとか、入れても差支ないとか申しますね。さう云ふ方面に、問題を狹く限つて、何か御談《はなし》をして戴きましては、如何で御座いませうか」
「さうだなア。ヂヤ、そんな事にでもしよう」
自分は始めて、ノートブツクと鉛筆とを取り出した。(長江生記)
 「偖第一に家庭と、――元來家庭とはどう云ふものを云ふか、私にはよく解らないのだが、しかし、とにかく、人間がたつた一人で居ては、家庭に成らぬ、家庭を作つて居るとは云へないらしい。家庭と云へば、どうしても二人以上の家族が一團となり、協同の生活をして居なければならぬ。加之、一般の場合に於ては、家庭と云ふ言葉を聞けば、同時に必ずまた少年少女を聯想する。乃ち家庭には子女が在ると云ふ、是れだけの事はまづ明かであるやうに思ふ。……オイ、もう書いてゐるのか」(自分は鉛筆を握つたまゝだまつて頭を下げた)
 「で、一般に、家庭にはまだ年の行かぬ子女なるものが居るとしたところで、かの家庭に入れてもいゝ讀物とか、家庭に入れては惡い讀物とか云ふのは、主としてまた此子女等に對する文學の感化に就いて云ふものであらう。
 「家庭の少年少女に對して、文學の與ふる感化は、それが彼等を利するか、彼等を害するか、もしくは彼等を利しもせず、害しもしないか、此三つの中の一つである、而して或種の作物を家庭に入れて惡いと云ふのは、それが單に利を與へないと云ふのみではなくて、尚害になる點からと云ふのであらう。
 「それならば家庭の少年少女に對して、或種の讀物が害となるとは、抑々それが如何なる點に於て害になるのであらうか。如何なる場合に於てそれが有害無害の問題となるのであらうか。自分の見るところに依れば、それは主として作家の戀愛、男女兩性の愛を描き出す場合にのみ限られて居るらしい。
 「家庭對文學の問題を以上の如き見地より追求して見れば、畢竟《つ吉り》問題の中心は戀愛の一事に存する。即ち戀愛の表現を全然否定し去るか、もしくは之が表現を許すとすれば、如何に之を取扱ふべきか、此二つの問題になる。
 「戀愛の表現を悉く除却し去つて文學特に小説が出來得るや否や、是は實際やつて見なければ分らぬ。出來るとも出來ないとも云へぬ。是が云へなければ、戀愛の表現を全然除却し去るべきや否やは論題外となる。で、それは論題外としたところで、從來の状態よりして之を見れば、一寸した寫生などのやうなものは別として、文學とくに小説脚本の類に於て、戀愛の表現を全然缺乏して居るものはあまり見當らぬ。かの家庭の少年少女に惡影響を受けさせぬやうにとの希望竝びに要求を以て世に現はれたる所謂家庭小説の如きすらも、全然戀愛の表現を斥けては居らぬ。居らぬものが多い。茲に至つて家庭對文學の問題は、一に戀愛の取扱方に關する問題に歸着するのだ。
 「偖、自分の見るところに依れば、此戀愛の取扱ひ方に關して、從來小説の一般に受けたる非難は、決して根柢のない非難では無かつた。そのやうな非難を受けたのは蓋し當然の事なのである。と云ふのは、今日我が國の小説は、爾餘の種々なる文化と共に、西洋からして輸入された、正に直輸入品の一つに屬する。從つて此直輸入品を現在の家庭に入れようとすると、そこに色々不都合なことが起つて來るからだ。
 「抑も、何れの社會に在つても、其社會の現存組織を持續するのに、最も都合のいゝ觀念が、常に他の諸觀念を壓倒して居るものである。御維新以前などは、忠孝と云ふやうな觀念が、當時の社會組織を持續するのに最も都合よく最も重要なる觀念で、從つて他の諸觀念を壓倒して居た最も有力の觀念であつた。で、戀愛などの如きも、戀愛を描いた作品がないではないが、その戀愛たるや、(西鶴だけは別として)大抵皆、世の中の義理なるものとの葛藤なので、葛藤の結果は義理の勝利によつて解決せらるゝものときまつて居た。若しも之が逆《さかさま》に行けば世人の同情は去つて仕舞ひ、その興味も失はれて仕舞ふ。つまり當時の小説に、戀愛を單に戀愛として描いたものの無いのは、專ら身を戀愛に打委せる事は道コ的でないと云ふ當時の考、其考と相伴つて居たものである。
 「然るに右の如き考の、尚少からず人心を支配して居る今日の我國に、新に輸入されて來たところの西洋文學は如何なるものであるか。戀愛を表現する上に日本從來の文學と西洋文學とは如何に相違して居るか。
 「西洋では一般に、本人に愛がなければ結婚は出來ぬ。而して、かく結婚に愛を必要とするのは、やがて結婚の自由を許して居る所以なので、また戀愛に大なるシグニフイカンスを置いて居る證據なのである。かくの如く戀愛に大なるシグニフイカンスを置いて居る社會に於ては、大體、檢束なき戀愛が實際に存在する。たゞに檢束を受けないのみならず、時には忠孝等の爲に此戀愛を捨てるのが不コである罪惡であるとさへ考へられて居る。つまり此戀愛なるものは社會組織を持續する上に決して都合の惡くない觀念なのである。少くとも他のより有力なる觀念の爲に壓倒さるゝが如き憂はない。だからあちら〔三字傍点〕の小説は此社會状態と相應じて、專ら縱《ほしいま》まなる戀愛の表現を主として居るのである。
 「ところが我が日本の新文明と云ふものは、全然西洋から移植された。文學殊に小説なども、其直輸入品の一つなのである。日本在來の社會状態の推移と相竝行して自然の發達を遂げたものではないのだ。現在の社會組織を持續する爲には、やはり忠孝の如き觀念が最も大切なものと考へられ、他の諸觀念は依然として此觀念に壓倒されて居る。かゝる時勢に於て、右に述べたやうな西洋文學が直輸入されたのであつて見れば、そこに色々の不調和や、不滿や、不平の起るのは無理もないことだ。今の小説が一般に、戀愛の取扱に關して、世間から非難を受けると云ふのに、何の不思議もない、尤もな事である。それが世間から非難されて始めて氣が附くなぞは、あまり氣が利かなさ過ぎる。
 「若し強ひて西洋の文學者などと同じやうに、檢束なき戀愛を、忌憚なく書かうとならば、どうしても多少現存の杜會状態を動搖せしめても構はぬと云ふやうな意氣込がなくてはならぬわけだ。ところが格別さう云ふ意氣込があるのではなく、たゞ漫然と所謂戀愛小説を作り、世間、殊に家庭の排斥を受けたとする。排斥を受けて、初めてさうかと氣が附いたとする。それでは一寸困る。
 「以上は今日の小説の今日の家庭に容れられない所以を説明したのだが、要するに、此『家庭と文學』なる問題は、戀愛を全然除却するかしないかの問題にはならないまでも、少くとも、戀愛を表現する上に立ち、如何に取扱つたならばいゝかの問題となる。つまり、其取扱方に關して、家庭の監督者はどれだけの自由を許すか、子女たるものはどれだけの獨立行動を主張するか、また文學者はどれほどまで戀愛を鼓吹するか、是が要點なのである。
 「自分は此問題に對して、こゝに截然たる解決を與ふることが出來ぬ。勿論日本舊來の保守主義其儘でやつて行くのがいゝとは云はない。なぜかと云ふに、今日の社會組織は大體在來の繼續であるとは云ふものゝ、しかも全然在來の儘ではない。現に親子の關係の如き、日一日と變つて行きつゝある。乃ち親は自分自身、日一日と子の方に近づきつゝ、變化しつゝある。而して日一日と子女に負けつゝある。之はたゞに親子の關係にのみ限つたわけではない。凡べてのことに於て、社會の組織は日一日と新しくなりつゝある。從つてかゝる時代に於て、御維新前の趣味傾向を其儘に現はすやうなものを作れば、それで直ちに家庭向きになるとは決して云はぬ。けれどもさうかと云つて、現在の社會状態が、まだ西洋に於けるほど戀愛の自由を與へで居ない今日にあつて、西洋に於けると同じ程度に戀愛を鼓吹するものを作り、或はそのやうな西洋文學を根こぎにして輸入する必要があるとまでは思はぬ。それでは自分の立場は何處にあるのかと聞かれると、實のところ少々困る。仕方がないから戀愛は描かぬ。少くとも今迄は描かないで居た。是から先よしかいたところで、自分は決して現在の社會状態を危くするやうなものは書かない。又、そんな精神でかかうとはせぬ。是だけのことは兎に角明白である。
 「元來戀愛の取扱方如何によつて、社會状態を危くするとか、しないとか云ふ、其取扱方なるものは、全く嚴密に取扱方の義である。表現せらるゝところの情熱の大小強弱は、敢へて問ふ所でない。唯その大小強弱、各々の情熱を如何に表現するか、即ち表現の方法が問題なのだ。而して其方法なるものは、實際に書いて見なければ分らぬ。――自分の事を例に取るのも可笑しなものではあるが、私はあの『草枕』の中で、若い女の裸體を描いたが、あれなどは、格別さう讀む人に厭な感じを與へはしなかつたらうと思ふ。實のところ私は、裸體のやうなものでも、かきやうに依つては、隨分綺麗に、厭な感じを起させないやうに書くことが出來る、強《あなが》ち出來ないものではないと云ふ、その一例としてあれを書いて見たのである。戀愛でも描寫の方法次第で、充分清潔にかき得られないことはなからうと思ふ。尤も實際に試《や》つて見なければ確かなことは云へないが。
 「こゝらあたりで一つ結論を付けて見よう。自分の考では、戀愛は強《あなが》ち排斥するには及ばぬ。熱烈なる戀愛の表現にでも、強ち之を避くるには及ばぬ。また戀愛を他の感情即ち忠孝などの感情に從屬せしむるの必要があるとも限るまい。たゞ作家の方に充分の手腕あり、其表現をして純潔ならしめ、無害ならしむると云ふことだけが肝要である。
 「是迄御話して來たのは、一般に、或種類の文學は、或種類の家庭と相容れないと云ふやうな方面から、『家庭と文藝』なる問題を研究したのであるが、更に飜つて他の一面、『家庭に對する文學の貢獻』と云ふやうな方面から觀察して見ると、文學の效用なるもの亦輕々に看過《みすご》し去ることが出來ぬ。
 「家庭の圓滿なる發達を期する爲には、廣い意味での趣味と云ふものが大切である。從來我が國の家庭に於ては、其子女等は琴とか茶とか花とかを教へられた。名づけて藝と云ふ。實は趣味の教育に外ならぬのを、惜いかな、其教育方法は間違つて居る。方法が間違つて居ると云ふよりも、寧ろ是に對する考が根本的に誤つて居る。趣味の教育としては師匠も教へず、自分も教はらず、親も教はらせぬ。單に器械的にのみやつて居るのであるから、いくら琴を彈いても、花を活けても、茶を立てても、趣味は一向に發達せぬ。あゝ云ふ遣り方では全く駄目だが、若しよく其精神を酌んで之を教へ、之を習ひ、之を習はせれば、誠に嘉すべき趣味の教育である。
 「文筆もまた趣味の教育である。茶の湯や、活花などよりか遙かに大切なる趣味の教育である。
 「本來文學なるものは、趣味の向上と云ふこと以外に目的を有たぬ。而して趣味特に道徳的趣味、例へば、親に對してはかく/\すべきもの、兄弟に對してはかく/\振舞ふべきものと云ふやうな道徳的趣味は、如何にして養はるゝかと問へば、是は專ら目上の者から教はるのだと云ふ。偖その目上のものと云つたところで、親よりも勝れてえらい〔三字傍点〕教育者は、詩人文學者である。して見れば、父兄は其子女の教育を依頼する氣で之を文人の手に委ね、文人も亦それだけの見識を以て筆をとらねばならぬ。とり分け今日の時勢、親は親で、全く子女の趣味を教育する資格はなし、學校は學校で、趣味と云ふ言葉さへ知らないやうな倫理の先生が何の役に立たう。國家已に道徳的趣味の教育を怠り、家庭また其任に堪へずとしたならば、そのよく是を爲し得るもの、かの文人を措いて他に何があらう。趣味教育者としての文人の任務は、今日に於て特に重大なるものがあるのである。
 「然るにだ、然るに今日の父兄は此大切なる文人の感化を子弟に受けさして居ない。其子女に對しては所謂藝などを習はせながら、その子弟に對しては、文學の影響を受けさせないやうにして居る。少くとも受けさせようと云ふことに一向骨を折つて居らぬ。けしからぬことである。さう云ふ父兄だからして、自らも何等の趣味教育がなく、よし學問があるとか、地位があるとか云つたところで、非常に品の惡い、非常に野鄙な人が多い。殆ど今日の日本では自分で趣味の有無を決定されないやうである。
 「是の如き弊風を矯めるのには、文學者たるもの、決して漫然と筆を執つて居てはならぬ。文學は人生の批評と云ふではないか。趣味の高尚とか野鄙とかを、常人よりも二倍、三倍深く觀察して、讀者に之を教ふると云ふのが、彼の任務ではないか。
 「されば父兄が其子女に活花、茶湯を習はすのに、それを單に器械的にのみやつてはいけないのと同じやうに、文學もまた充分其精神を酌んで趣味の涵養に資するやう心掛けねばならぬ。とり分け筆を執る方の人には、此心掛がなくてはならぬ。もし此心掛さへあるならば、よし外觀上、今の家庭に有害なるが如き觀あるものと雖、實際は無害にかき得らるゝものと信ずる。萬々一、此心掛を以てかいたものが、尚有害だとするならば、それは有害であつても構はぬ。それは恐らく、害を受ける者の趣味あまりに低きに過ぐるが爲で、如何とも致し方のないことだ。又もし一旦害を被つて、却つて趣味の高い方に導かれるならば、それこそ一般社會の爲に賀すべきことである。一時の流毒はともあれ、究竟は寧ろ慶ぶべきことなのである。……とまア、是れだけにして置かう。」
          −明治四〇、二、一『家庭文藝』−
 
    僕の昔
 
 根津の大觀音に近く、金田夫人の家や二絃琴の師匠や車宿や、乃至落雲館中學などと、何れも『吾輩は猫である』の篇中で馴染越しの家々の間に、名札も碌に貼つてない古塀の苦沙彌先生の居は、去年の暮おし詰つて西片町へ引越された。君、今度の僕の家は二階があるよと丸善の手代見たやうに群書堆裡に髭をひねり乍ら漱石子が話してゐられると、縁側でゴソ/\と音がする。見てゐると三毛猫の大きな奴が障子の破れからぬうと首を突き出して、ニヤンとこちらを向き乍らないた。
 
 あの猫はね、此方へ引きこしてきてからも、舊《もと》の千駄木の家へ折々歸つて行くのだ。此間も道であいつが小便をたれてゐる處をうまくとつつかまへて連れて戻つた。やつぱし舊《もと》の家といふものは戀しいものかなあ。――何、僕の故家《いへ》かね、君、軽蔑しては困るよ。僕はこれでも江戸ツ子だよ。しかし大分江戸ツ子でも幅の利かない山の手だ、牛込の馬場下で生れたのだ。
 父親《おやぢ》は馬場下町の名主で小兵衛といつた。別に何も商賣はしてゐなかつたのだ。何でもあの名主なんかいふものは庄屋と同じくゴタ/\して、收入なども可なりあつたものと見える。丁度、今、あの交番――喜久井町を降りてきた處に――の向ひに小倉屋といふ、それ高田馬場の敵討の堀部武庸かね、あの男が、あすこで酒を立飲をしたとかいふ桝を持つてる酒屋があるだらう。そこから坂の方へ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずつと入ると、玄關構への朽ち盡した僕の故家《いへ》があつた。もう今は無くなつたかもしれぬ。僕の家は武田信玄の苗裔《いへすち》だぜ。えらいだらう。處が一つえらくないことがあるんだ。何でも何代目かの人が、君に裏切りとかをしたといふことだ。家の紋は井桁の中に菊の紋だ。今あの邊を喜久井町といふのは、僕の父親《おやぢ》がつけたので、家の紋から、菊井を喜久井とかへたのださうな。こんなことはさうさなあ、明治の始め頃の話だぜ、名主といふものがまだあつた時分だらうな。
 名主には帶刀御免とさうでないのとの二つがあつたが、僕の父親はどつちだつたか忘れて仕舞つた。あの相模屋といふ大きな質屋と酒屋との間の長屋は、僕の家の長屋で、あの時分に玄關を作れるのは名主に丈は許されてゐたから、名主一名お玄關樣といふ奇拔な尊稱を父親は頂戴してさかんに威張つてゐたんだらう。
 家は明治十四五年頃まであつたのだが、兄哥等が道樂者でさん/”\につかつて、家なんかは人手に渡して仕舞つたのだ。兄哥は四人あつた。一番上のは當時の大學で化學を研究してゐたが死んだ。二番目のは隨分振つた道樂ものだつた。唐棧の着物なんか着て藝者買やら吉原通ひにさん/”\使つてこれも死んだ。三番目のが今、無事で牛込にゐる。然し馬場下の家にではない。馬場下の家は他人の所有になつてから久しいものだ。
 僕はこんなづぼらな、呑氣な兄等の中に育つたのだ。又從兄にも通人がゐた。全體にソワ/\と八笑人か七變人のより合ひの宅《いへ》見たよに、一日芝居の假聲を遣ふやつもあれば、素人|落語《ばなし》もやるといふ有樣だ。僕は一番上の兄に監督せられてゐた。
 一番上の兄だつて道樂者の素質は十分もつてゐた。僕かね、僕だつてうんとあるのさ、けれども何分貧乏と閑暇《ひま》がないから、篤行の君子を氣取つて猫と首つ引してゐるのだ。小供の時分には腕白者で喧嘩がすきで、よくアバレ者と叱られた。あの穴八幡の坂をのぼつてずつと行くと、源兵衛村の方へ通ふ分岐《わかれ》道があるだらう。あすこをもつと行くと諏訪の森の近くに越後樣といふ殿樣のお邸があつた。あのお邸の中に桑木嚴翼さんの阿母さんのお里があつて鈴木とかいつた。その鈴木の家の息子が折々僕の家へ遊びに來たことがあつた。
 僕の家の裏には大きな棗の木が五六本もあつた。『坊つちやん』に似てゐるつて。或はさうかも知れんよ。『坊つちやん』にお清といふ深切な老婢が出る。僕の家にも事實はあんな老婢がゐて、僕を非常に可愛がつて呉れた。『坊つちやん』の中に、お清から貰つた財布を便所へ落すと、お清がわざ/\それを拾つてもつてきてくれる條《くだり》があつた。僕は下女に金を貰つた覺はないが、財布の一條は實地の話だつた。僕の幼友達で今、名を知られてゐる人は、山口弘一といふ人だけだ。此人はたしか學習院の先生かなんかしてゐられるといふことだ。精しくは知らぬ。
 その中に僕は中學へ這入つたが、途中でよして仕舞つて、豫備門へ入る準備のため駿河臺に其頃あつた成立學舍へ這入つた。其頃の友人には大分えらくなつた奴がある。それから豫備門へ這入つた。山田美妙齋とは同級だつたが、格別心易うもしなかつた。正岡とは其時分から友人になつた。一緒に俳句もやつた。正岡は僕よりももつと變人で、いつも氣に入らぬ奴とは一語も話さない。孤※[山+肖]な面白い男だつた。どうした拍子か僕が正岡の氣に入つたと見えて、打ち解けて交るやうになつた。上級では川上眉山、石橋思案、尾崎紅葉などがゐた。紅葉はあまり學校の方は出來のよくない男で、交際も自分とはしなかつた。それから暫くすると紅葉の小説が名高くなり出した。僕は其頃は小説を書かうなんどとは夢にも思つてゐなかつたが、なあに己だつてあれ位のものはすぐ書けるよといふ調子だつた。
 丁度大學の三年の時だつたか、今の早稻田大學、昔の東京專門學校へ英語の教師に行つて、ミルトンのアレオパジチカといふ六ケ敷い本を教へさゝれて、大變困つたことがあつた。あの早稻田の學生であつて、子規や僕等の俳友の藤野古白は姿見橋――太田道灌の山吹の里の近所の――邊の素人屋に居た。僕の馬場下の家とは近いものだから、折々やつてきて熱烈な議論をやつた。あの男は君も知つてゐるだらう、精神錯亂で自殺して仕舞つたよ。『新俳句』に僕があの男を追懷して、
  思ひ出すは古白と申す春の人
といふ句を作つたこともあつたつけ。――その後早稻田の雇はれ教師もやめて仕舞つた。無論僕が大學學生中の話だぜ。其間僕は下宿をしたり、故家《うち》に居たり、あちらこちらに宿をかへてゐた。僕が大學を出たのは明治廿六年だ。元來大學の文科出の連中にも時期によつて大分變つてゐる。高山が出た時代からぐつと風潮が變つてきた。上田敏君も此期に屬してゐる。この期には中々やり手が澤山ゐる。僕等はその以前《まへ》の所謂沈滯時代に屬するのだ。
 學校を出てから、伊豫の松山の中學の教師に暫く行つた。あの『坊つちやん』にあるぞなもし〔四字傍点〕の訛を使ふ中學の生徒は、こゝの連中だ。僕は『坊つちやん』見たよなことはやりはしなかつたよ。然しあの中にかいた温泉なんかはあつたし、赤手拭をさげてあるいたことも事實だ。もう一つ困るのは、松山中學にあの小説の中の山嵐といふ綽名の教師と、寸分も違はぬのがゐるといふので、漱石はあの男のことをかいたんだといはれてるのだ。決してそんなつもりぢやないのだから閉口した。
 松山から熊本の高等學校の教師に轉じて、そこで暫くゐて、後に文部省から英國へ留學を命ぜられて、行つて歸つて來て、今は大學と一高と明治大學との講師をやつてゐる。中々忙しいんだよ。
 落語《はなし》か。落語《はなし》はすきで、よく牛込の肴町の和良店《わらだな》へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといへば小供の時分には講釋がすきで、東京中の講釋の寄席は大抵聞きに廻つた。何分兄等が揃つて遊び好きだから、自然と僕も落語や講釋なんぞが好きになつて仕舞つたのだ。落語家《はなしか》で思ひ出したが、僕の故家《いへ》からもう少し穴八幡の方へ行くと、右側に松木順といふ人の邸があつた。あの人は僕の小供の時分には時の軍醫總監で羽振りが利いて中々威張つたものだつた。圓遊や其他の落語家が澤山出入りして居つた。
 ――ざつと僕の昔を話したらこんなものだ。この僕の昔の中には僕の今も大分這入つてゐるやうだね。まあ可いやうにやつて置いてくれたまへ。
            −明治四〇、二、一『趣味』−
 
    漱石一夕話
 
     脚本と小説
 
 脚本家になるものは少くて、小説家は多い。それには色々の理由もあらうが、一つは芝居が見物相手の商賣だといふことが原因をなして居るらしい。いつかも言つたことだが、越路を聞きに行く、大隅を聞きに行くといふものはあつても、門左の曾根崎を聞きに行くとか、半二の何を聞きに行くとかいふものは餘りない。つまり作其ものよりも、それをやる其技術に重きを置くといふのが一般の實際であらう。早い話が落語を見てもさうだ。落語の題目は昔から餘り變つたものもないやうだが、それを小さんもやれば、圓遊もやる。其やり方の巧拙に面白いところがあるので、十年一日の如き落語も未だに廢れない。かういつた風に芝居も俳優が主となるのて、脚本家はどうかすると、俳優の從屬らしい關係をつくる。これはどうも已むを得ぬことで、櫻痴の如きを以てすら俳優、もつと適切にいふと見物に左右せられたことは少々でなかつたらしい。小説にも讀者といふ相手はあるが、芝居のやうな束縛はうけない。人は成るべく其自由な方に行く。そこで脚本家は少くて小説家は多いといふ其うち一つの原因にもなるのであらう。
 であるから芝居の立作者といふやうなものになると、どうも掣肘せられることが多くて何だか冷遇せられるやうな氣持もする。西洋でもさうで、人氣役者の型に合ふやうなものを書き下ろしたところで、私はよろしいが妻がやるものがないとか、自分の相手の誰にやらせるものがないとか云ふので、已むを得ずまた書き直すといふやうな事は、自然免れぬことらしい。それ故脚本家が自分の脚本を思ふやうにやらせるには、坪内さんのやうに芝居の外に立つことがよささうだ。渦中に這入つてはなか/\むづかしかろ。
 英吉利では殊に脚本家が少くて小説家が多い。その理由として傳ふる一説によると、ピユーリタンの騷動以來、國民一般に眞面目な宗教觀念につれて、芝居といふものは唯一つの娯樂に過ぎぬ、一日をそんな道樂に過すよりも公園を散歩した方がよいとか、會堂に行つた方がよいとかいふので、芝居は頓と卑まれてしまひ、隨つては脚本家を出すことも少くなつたのだと云ふ。眞僞は知らず、兎もあれ小説家が多くて脚本家は至つて少いといふのは、特に英吉利の異色だ。
 時代は素人法を説く時代となつた。獨り宗教の上ばかりでなく、繪畫にも素人の上手が出れば、音樂にも出る。まだ出ないか知らんが、何だか出さうな。それから文學、殊に小説は所謂小説家の手から全く素人の手に移りさうだ。自分等も素人でやり始めたら、いつの間にか小説家の部に繰り込まれて、近頃は新進の素人小説家の名が喧しい。蓋し壯士劍を提げて起つの時だらう。
 
     僕の水彩蓋と書齋
 
 僕の水彩畫か。あれは『猫』を書いてる頃に勉強したが、この頃では少しも閑がないので、全くお廢しだ。何しろ訪客だ、原稿だ、學校の仕事だといふので、水彩畫なんかやつてる閑がなくなつたのさ。それにどうも性質《たち》が能くないといふのだし、自分も少々呆れ返つたから、廢したよ。だが捨てたものでもないと思つたのは、この間引越しの手傳ひに來てくれた人に、自分の畫帖をやつて、それから後に其人の家に行つて見ると、ちやんと額にして恭しく掛けてるぢやないか。見ると柳は柳らしく見えるし、家鴨は家鴨に見える。こんな事なら廢めないでもよからうかと、我ながら感心したよ。
 『文章世界』に出た書齋か。あれは元の家のだが、あれで見ると、何だか自分はさも骨董家ででもあるらしい。印材が十個餘りもあつて、それを連りに愛撫するなんて書いてあるが、僕の印材はこゝにあるこの三つしかないのさ。これも日本派の俳人が彫つてくれたので、印材は支那の友人から貰つたものだ。固より面白いもので嫌ひではないが、愛撫といふ程でもないのさ。
 
     天下の篆刻家
 
 ところが面白いのはあの書齋が出てから數日の後であつた。或人の紹介で「天下の篆刻家……堂大我」といふ大變な人が來た。座敷へ通すと色々の印材や印譜を出して來て、あなたは篆刻を好ませらるゝさうだがといふ話さ。自分は篆刻のことなぞはわからぬが、唯好きは好きだといふと、いや篆刻のことがわかるといふ者は其實わからんので、まだ至らないものだ。大我先づ自らわからぬといふ。自分はそんなつもりで言つたのではなかつたがと思つてると、其人は語を繼いでいふ。およそ刀を執つて印材に向つたら、刀の先で直ちに字をつくるつもりでなくてはいかぬ。紙に文字を書いて、夫を貼り付けて彫るやうでは、提灯屋と撰ぶ所はない。そんな篆刻は市中の印判屋がやるといふ氣焔さ。
 それから寒山といふ人を知つてるかと聞くと、あれは下らぬ男で、姑蘇城外の寒山寺へ行つたといふので、寒山といふ號をこしらつたのだが、それは嘘で、そんな嘘をいつても信ずる人はないから、寒山の號は廢めたらよからうと、忠告してやつたが、寒山もこの號は追々には廢めるつもりだといふ。自分も大我を號として天地を蓐とするものであるが、大我くらゐでは行かぬから無我の境に入らなければならぬと思つて居る。それ故私も追々に大我を廢めて無我にしようと考へるといふやうな事で、隨分面白い話があつた。それで印刻をやるにも潔齋清淨といつたやうに、數日身體を養ひ、心を養つて、充分興に乘つた時、刀を印材に向ける。其時は唯一氣にすうとやるのださうな。
 僕の書齋の紹介がこんな大袈裟なことになつて、其末が印材は商人なら二十圓といふのだが八圓五十錢にして置くから「仰せつけられい」といふやうな始末さ。いろんな事もやれぬものだよ。それにをかしいのは、或雜誌記者が僕に何か話せといふので、子供時代の話をしたら、其雜誌に出たのを後から見たら、飛んでもない、いなせなお兄イさんになつてゐたのなぞもある。
           一明治四〇、二、一五『新潮』−
 
    無題
 
 何だと、あゝ彼《あ》の事か、何新聞かで、大町桂月と僕とが双方から彼奴は常識が無い男だと蔑《けな》してると云ふ事を書いてあつたね。嘘だよ、あれは。僕は桂月を知らなかつたがね、過般《いつか》松本道別の爲に演説を行《や》るから出て呉れといふ樣な依頼《たのみ》で、一度|先方《むかう》から來て呉れたのだがね。僕は桂月の文を見ては一向に感心しない、何でも無い事を書いてるとしか思つては居なかつたし、今でも書いてる物には左程敬服はしないがね、逢つて見ると感心したよ、と言ふのは桂月は珍らしい善人なんだ。僕は今の世に珍らしい怜例氣《りこうげ》の無い、誠に善い人だと思つたよ。僕は誰にも桂月の事は讃めてるんだがね、新聞屋は惡戯《いたづら》ばかりして欣んでるんだね。
         −明治四〇、四、三『東京朝日新聞』−
 
    愛讀せる外國の小説戯曲
 
 僕は大抵一度讀みつ放しにするだけで、二度と繰返す事は殆どない位だから何を愛讀するかと聞かれると一寸困る。人に就いて云ふにしても、此人では何處がよい、彼の人では斯う云ふ處が旨いと云つた風で、誰が好きだとも云ひ難い。同じやうに思つてる人を擧げたり擧げなかつたりすると不公平になる。
 勿論愛讀すると云へば近代のもので、何時か僕が十八世紀文學の講義をしたので、アヂソンなどが好きだと云つてる人もあるやうだが、アヂソンなどは唯當時のマンナーを時代違ひの現代から髣髴して、隔世の覗き眼鏡を呑氣に眺められる所に興味が多いので、靴の紐の結び方がどうだとか帽子が馬鹿に高いとか云ふやうな處が僕には面白い許りである。宸轉んで閑つぶしに讀むには氣樂でいゝ。然し汗牛充棟の書物のうちからとくに是を抽き出してこれが愛讀書物とは勿論云ふ積りはない。
 イブセンですか。イブセンは豪い。さあ何處が豪いか明瞭に御話をするには讀み盡した上で考を纏めてかゝらなければならない。然しマーテルリンクの戯曲論のうちにこんな意味の事がかいてあります。――色々な事情(内界外界)のために現今の戯曲と云ふものは詩趣的装飾を失つた。この缺陷を補ふために戯曲家は已を得ず人間の意識の奧へ奧へと割り込んで其方面で償をとらなければならない。意識の奧へ這入るためには靈明な意識を捕へて來なければならない。ぼんやりした、分らず屋の眞暗な意識では十歩割り込んでも百歩割り込んでも依然として暗い許で要領を得ない。イブセンの劇は此點に於て意識の最高點に達したものである。劇は固より動作が主である。如何に意識の内部へ這入り込んでも之が動作に變化しなければ劇にならない。所で意識が動作に變化する状態を觀察して見ると願望と義務の衝突に歸著して仕舞ふ。換言すれば情熱と徳義との喧嘩に過ぎない。從つて現代の戯曲家は好んで道徳問題を捕へて來る。否彼等は悉く甲もしくは乙の道徳問題を研究して居ると云つても差支ない。此種の劇はヂユマに始つて現代の佛國の劇場の三分の二は矢張此種の劇を演じて居る。他國の劇は固より佛國《フランス》の反響に過ぎぬ故勿論の事である。然し此種の劇に於て吾人の注意すべき事實はどれもこれも道徳問題を取扱ふにも拘らず其道徳の解釋が最初から觀客に分り切つて居る事である。世間の約束でちやんと杓子定規に極まつてゐるもの許である。女が貞操を汚しても許して差支なからうかとか、相愛の結婚の方が金銀の結婚よりも望ましきものであらうかとか、親と雖も子の戀を壓服する事が出來るだらうかとかと云ふ樣な明々白々毫も世間の習慣から見て解釋に苦しまない問題のみである。だから劇中の所謂義務は平凡なる常人の意識内に起る義務である。劇中の所謂願望も亦平凡なる常人の意識内に起る願望である。從つて意識の奥へ進み度ても、底迄行き度ても、どうする事も出來んのである。そこをハウプトマンやビヨルンソンや(ことに)イブセンは構はず切り込んで先へ進んだのである。然し先へ進む爲には俗以上に明らかな意識を具へて居る人物を作らなければならない。ぼんやりしたどろんけんな意識の所有者では如何に身分が高くても、幅利きでも、評判のいゝ男でも、尊敬される金持でも世間に通用する丈で舞臺には通用しない。意識の最高度をあらはす劇には無用の長物である。古代劇の詩趣的装飾を失つた埋合せをする劇の主人公としては三文の價値もない。だからイブセン抔はそれを避けて意識の尤も明かに進んだ人物を描いたのである。然しながら理論的に考へて見ると眞個開明の極致に達した意識といふものは普通のものよりも遙かに平穩で、忍耐に富んで、抽象的で、概括的でなければならない。又義務の方から云つても其通りである。普通の昏昧な意識中にある義務は時としては謬見である。偏解である。虚僞である。約束である。かの俗界に云ふところの名譽なり、復讐なり、自重なり、虚榮なり、信心なり、悉く流俗の見とめて爭ふべからざる義務の根源と心得るもので、悉く義務とするに足らぬものである。己靈の光輝に遍照の利益を享けたる超凡の人より見れば正しく義務とするに足らぬ義務である。にも拘らず普通の劇なるものは此義務とするに足らぬ義務を中心として成立してゐるのである。そこで再びイブセンに立ち歸つて考へて見ると彼は其劇に於て吾人を人間意識の甚深の急所迄連れ込んで行く男である。たゞ劇には一道の怪焔があつて、終始吾人をつけ纏つて居る。從つてイブセンの劇に於ても吾人が彼と共に最高なる人間の意識を承當すると共に、かれの悲劇の運命を支配する義務が此高邁英靈なる意識の内部より起らずして却つて外方に存するがためにやゝともすると不適度なる自覺もしくは嗜憺たる風狂と化し了るのを悲しむのである。――マーテルリンクの説は大變面白い。イブセンの書いた人間が一拍子攣つてゐるのは全く是が爲で、ドンキホテやピクウイツクに出てくる人間が一拍子變つてゐるのとは主意が違ふのである。又レミゼラブルの主人公が群を離れて變つてゐるのとも自から其主意が違ふのである。つまり普通以上の自覺のある人間を描き出して、其自覺を動作にあらはさうと云ふのが彼の目的なのである。從つて彼の道徳問題に關する解決は常人の解決と違つてくる。途方もない解釋をする。イブセンは此方法で吾人に約束的な解決以上に道徳問題の解釋の方法があると云ふ教訓を與へると同時に、此約束的以上の解釋で現代の劇に不足してゐる詩趣的装飾を償つたのである。其代り彼のかいた人間は一寸面喰ふ樣な無鐡砲ものが多い。考へると馬鹿氣た氣狂染みた人間が雜作なく平氣で出てくる。殆ど應接に遑なき位出頭没頭するから驚ろいて仕舞ふ。それが普通の身分のものである。三度の飯はそれ相應に食つてゐる。活溌溌地に働いてゐる。にくらしい程健全である。隣りの八さんや向ふの熊さんと同じ人間である。只どこか一方が底が拔けてゐる。此底拔趣味の爲めに一篇の劇が成立する。それが彼の慣用手段である。早い話がヘツダ・ガブラなんて女は日本に到底居やしない。日本は愚か、イブセンの生れた所にだつてゐる氣づかひはない。それだからイブセン劇になるのである。只こんな底拔をつらまへて來てさも生きて居る樣に、隣りに住んでゐる樣に、自分と交際して居る樣にかくのがイブセンの藝術家たる所、一大巨匠たる所以である。藝術家と云へばイブセンの劇の構造に就ても云ひ度なるが、あまり長くなるから、たゞ氣のついた二三ケ條のうち一つを御參考に話すが、イブセンの劇のあるものを見ると正に展開し又展開せざる可からずとの豫期を讀者に與へながら、其事件がそれぎり御流れになつて仕舞ふ事がある。例へばマスター・ビルダーの内の序幕に出てくる女の書記と大工との關係は、どうしても、これから先があるなと讀者から發展を待ち設けられても一言もないかき方だ(他の理由も認められるけれども)。所が中途から一種奇妙不思議な女が飛び出して來て、大工と女書記との關係は仕舞迄ちつとも動いて居ない。序幕を忘れて居れば夫迄だが暗に期待しつゝ讀んで行くと何だか物足らない。蒔いた種が何時迄立つても芽の出ない樣な氣がする。此外にも例を擧げれはまだあるが、こんな所は外の人には氣にかゝらないかも知れない。たゞ余にはどうも何だか難有くない。尤も近來はハウプトマンの織子抔と云つて丸で個人としての主人公の存在しない劇が出てくる位だから、此位な事は何でもないかも知れない。シエクスピヤの構造も研究したら色々非難が出るだらうが、結末が纏まつてゐると云ふ點は慥である。其代り何だか不自然に纏めた感じが起らないとも云へない。批評家の研究に價する問題だらうと思ふが、長くなるから此位にして置かう。
 英國のものですか。ピネロだの、ジョーンスだの、シヨー抔のものを少し讀んで見たが、セコンド・ミセス・タンカレーが一番面白かつた樣に記憶してゐる。……近頃面白く感じたのはズーデルマンのアンダイイング・パストで、あの中のフエリシタスと云ふ女の性格と其敍方にはひどく感心した。あんな性格が生涯に一度でも書けたらよからうと思ふ。 (文責在記者)
            −明治四一、一、一『趣味』−
 
    夏目漱石氏談
 
 多年森田を教授し森田も恩師と信頼せる夏目氏は記者に語りて曰く
 狂言と云ふ噂もあるが、それは信ぜられぬ。既に妻君を離別したとすれば、友人なり誰なりの手で明子《はるこ》の親へ結婚を申込めば恐らく話が成立するだらうから敢て狂言をする必要はない。森田は平生厭世の調子を帶んだ事許り云つてゐたが、家出の五日前私の所へ來て衣食の資を得られるやう、懇々と頼んで往つたから、私も其積で準備をしてゐた。して見ると自死の決心があつたやうにも思はれぬが、一面あんな深山へ這入つた點から見ると、矢張死ぬ氣があつたやうだ。
 新時代の青年の頭は複雜で、朝變暮改一寸想像することが出來ぬ。當人に逢つて聞かねば、友人にも私にも眞意は決して分《わか》るものでない。うむ該件の批評《クリチシズム》かね、それは區々として一定すまい。二人を子に持つた古い頭の親と、教へた師匠と、交はつてゐる友人と、若い新思想を持つた青年と、それ/”\見方が異ふべき筈だ。
 と、主人は火箸もて火鉢の灰に二個の水平線と二個の垂直線とを描きて、觀察者の位地、感情、思想の各自《それ/”\》異なれるを示されたり。
      −明治四一、三、二六『東京朝日新聞』−
 
    『坑夫』の作意と自然派傳奇派の交渉
 
 『坑夫』の謂れはかうなんだ。――或日私の所へ一人の若い男がヒヨツクリやつて來て、自分の身上に斯ういふ材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて實は信州へ行き度いのですと云ふ。今は私の家に居るが、其時は一向見知らぬ人だつたので、加之《それに》上田敏君が暇乞に來てごた/\してゐた時だから、私も話を聽いてる隙が無い。で、財布から幾らか掴み出して、これで行けるかと訊くと、行けますと云ふ。今夜はまだ立たぬかと云ふと、居りますとの答。ぢや今夜兎も角も來て其材料といふ奴を話して呉れと一旦歸してやつた。あゝは云ふものゝ、何の、騙《かたり》かなんかなら來やしまいと思つてると、正直に其夜やつて來た。そして三時間ばかり話を聞かせた。それは新聞に書いたのと違つて、主に坑夫になる前の話だつたが、私は個人の事情《パーソナル・アフエア》は書き度くない。相手《むかう》の云つた通りに書けば好いけれども、小説にするにはどうしても話を變化させなきやならん。すると其人が氣の毒の状態《ありさま》になるから、成べくは書き度くない。それで聽いて了つてから、私は、こりや信州へ行つてから君自身で書いちやどうか、出來たものが面白かつたら、雜誌へ載せる丈の盡力はしてやるから、と勸めると、ぢや然《さ》うしませうと云つて歸つて行つた。所が其後信州へも行かなければ、書きもせん樣子。さう斯うする問《ま》に朝日新聞に小説が切れて、島崎君のが出るまで、私が合ひの楔に書かなきやならん事になつた。早速憶ひ出したのは例の話で、本人に、坑夫の生活の所だけを材料に貰ひたいが差支へあるまいかと念を押すと、一向差支無いと云ふ許しを得たから、そこで初めて書出したのが『坑夫』なんだ。最初の考へぢや三十回ぐらゐで終る意《つもり》なのが、とう/\長くなつて九十餘回に上つて了つた。
 あれに出てる坑夫は、無論私が好い加減に作つた想像のものである。坑夫の年齡《とし》は十九歳だが、十九の人としちや受取れぬ事が書いてある。だから現實の事件は濟んで、それを後から回顧し、何年か前のことを記憶して書いてる體となつてゐる。從つてまア昔話と云つた書方だから、其時其人が書いたやうに敍述するよりも、どうしても感じが乘らぬわけだ。それはある意味から云へば文學の價値は下る。其代り(自分を辯護するんぢやないが……」昔の事を回顧してると公平に書ける。それから昔の事を批評しながら書ける。善い所も惡い所も同じやうな眼を以て見て書ける。一方ぢや熱が醒めてる代りに、一方ぢや、さあ何と云つて好いか――遠い感じがある。當りが遠い。所謂センセーシヨナルの烈しい角を取ることが出來る。これは併しある人々には氣に入らんだらう。
 も一つは、あの書方で行くと、ある仕事をやる動機《モーチブ》とか、所作なぞの解剖がよく出來る。元來この動機《モーチブ》の解剖といふ奴は非常に複雜で、我々の氣付かん所が多くある。これを眞に事實として寫せば極く/\煩瑣なものであつて殆ど書現はせない。よし現はせても煩に堪へぬ不得要領のものとなつて了ふ。面白くない故《せゐ》かも知らんが、ある意味から云へば、かゝる方面の事は餘り多くの人がやつて居らん。のを、私は却て夫が書いて見たい――細かくやつて見度い。といふ念があるから、事件の進行に興味を持つよりも、事件其物の眞相を露出する。甲なる事と、乙なる事と、丙なる事とが寄つて、斯うなつたと云ふ風な所に主として興味をもつて書く。――詳しく云へば、原因もあり結果もあつて脈絡貫通した一個の事件があるとする。然るに私はその原因や結果は餘り考へない。事件中の一箇の眞相、例へばBならBに?徊した趣味を感ずる。從つて書方も、Bといふ眞相の原因結果は顧慮せずに、甲、乙、丙の三眞相が寄つてBを成してゐる、夫が面白いと
 
C 脈
  絡  ――真相――丙
  シ
  タ
B(眞相)・――真相――乙
  ル
  一
  事  
A 件
〔入力者注、――真相――丙、――真相――甲は、B(眞相)・の・の部分から斜めに延びる形で書かれている。〕
 
書く。即ち同じ?徊してゐても、分解的に出來てる所が多い。この書方はある人には趣味が無いだらう。もし有るとすれば、Bといふ眞相は、いかなるものが寄つて出來たかと説明して
A仙
 
|智力上の好奇心《インテレクチュアル・キユリオシテイ》を滿足せしめた時に興味が起る。ところが説明を聞いても、那樣《そんな》ことは面白くないとか、自分には到底《とて》も解らんとか云ふ人には、毛頭興味は起らん理窟なのだ。
 此處に一つの行爲がある。例へば活人畫を見物するとする。と、その見方に三つの趣味がある。願くは活人畫の人物が動かずに、長くあの好ましい姿勢を取つてて呉れゝばいゝと希望する趣味が一つ。第二はあの状態《ありさま》が變じたら今度は如何《どう》なるんだらうといふ事を考へるんで、これは事件の筋を悦ぶ人なんだ。また第三は難でも事件の内幕に興味を持つ。即ち活人畫を見せるに至るまでの成立《なりたち》、事情を知らう/\とするのだ。私の先きに云つた書方はこの第三に屬するので、つまりコンポジシヨンをやつた要素を知る所が面白い。
 
『坑夫』の書振は第三のつもりだ。|智力上の好奇心《インテレクチユアル・キユリオシテイ》のない人は、これを餘り面白がらん。だからかういふ人の眼から見れば、活動が鈍くてたゞ徒らに長たらしく、同じ處に何遍も徘徊するものと思はれるだらう。然しこんな書方は私の主義ではない。ある時、ある場合にやつて見たくなる事があるばかしなんだ。
 いや、誤解といふ事は世の中にあるもんで、この頃自然派の議論が益々熾となるにつれて、私は到底その派とは相容れないもののやうに目されて了つた。一體今の自然派はローマンチシズムを攻撃するんでなくて、積極的に自派の主義を主張してゐる。もうローマンチシズム對自然主義ぢやない。絶對的に自然主義萬能論となつて、其餘のものは一顧の價値もなく擯斥されてゐるのだ。自然主義の議論も色々出た。解釋もさま/”\ある。私も一々見たんではないが、見た限りぢや何れも面白い。所で世間では私を自然派と目して居らん。自然主義を主張する人は、間接に私を攻撃して居る樣に外面上見える。この意味から云へば、私は夙《とつく》に辯じて居なければならんのだ。けれども今迄何にも云はない。云へなんだかも知らんが、まア云はなんだ方だ。何となれば、私は自然派が嫌ひぢやない。その派の小説も面白いと思ふ。私の作物は自然派の小説と或意味ぢや違ふかも知らんが、さればとて自然派攻撃をやる必要は少しも認めん。誰が書いても出來損ひは惡く、善い物は善いに極つてゐるんだから、そこで殊更に何といふ意見も發表しなかつた譯なのだ。
 併し自然派の人々から云ふと、我々の書くものでは惡くて、自分たちの作物でなければ文筆で無いかの如くなのだ。斯うなつて來ると、自然派の立場と私の其との比較研究が多少必要となつて來る。第一に自然派とは何ぞや、歴史的に如何なる價値ありて、如何に發展せしものぞ。第二に、自然派は日本に渡つてその小説に如何に現はれしか等を研究しなくちやならん。けれども自然主義は誰にもむづかしいと見えて、自然主義とは何ぞやと問うても、大抵の者は明瞭に答へられん。併し朦朧《ぼんやり》とは解つてる。が、たゞ纏められん。色々の作物を讀んで比較を試み、その共通の要素を拔き出して、自然主義は斯く/\のものだと云ふ事もやり惡い。それは複雜で解剖が出來んからだ。も一つには、自然主義の意味が始終|動搖《ぐらつい》てゐるんぢやなからうか。
 だから歴史的研究は先づ止めて、心理的の物の見方の研究なぞから入ると、やり易くはないか、その極く單純な最初の經驗から出立して、次第に複雜になる所を調べてみれば面白くはあるまいか、と私は考へた。で、素より杜撰な、不完全なものぢやあるが、纏められるだけ纏めて見た。するとその結果は、無論歴史上の自然派とか何派とかいふものは失《な》くなつて來る。が、たゞ其名に結付けて考へてみると、ローマンチシズムとナチユラリズムとは對立してゐると云ふ興味のある一種の現象が出て來る。古典主義《クラシシズム》もこの兩者の中間に入れて這入らん事もないが、古典主義《クラシシズム》は世間でも殆ど何とも云はんから、今度はその名前さへ出さなかつた(今月のホトトギス〔五字傍点〕へ載つてるのが此研究の發表である)。そこで斯かる研究――と云ふのも實は大袈裟だが、こんな風に出立したのに據つてみると、ローマンチシズムと自然主義とは、世の中で考へてるやうに相反してるものぢやない。相對して一所になれんといふものぢやなくて、却て一つの筋がズート進行してるやうなものだ。その筋の兩極端に二主義を置くと、丁度中央の部では半々に交はるところが出來てくる。或は三分の一と三分の二とで交つてる所もある。或は五分の一と五分の四とで交つてるところもある。即ちグラデーシヨンを爲してる形となる。光線をスペクトラムで分解すると七色に分れるが、一色と一色との間は劃然《かつきり》と別れてゐずに、混つてる。丁度そんな事實を認めたんだ。
 すると今迄の人々が考へてたよりも、兩主義を少し接近させて比較することが出來るやうになつた。どちらにか片付けなければならんといふ考へが薄らいで來た。これは一つの參考になる價値はないだらうか。
 も一つは、こんな階段で進行するものは、歴史的には如何に動いてその間を往來してゐるかが問題となる。如何なる社會的状態の時にはローマンチシズムに片寄り、如何なる時には自然主義に傾くかと云ふことが、興味のある問題となつて來る。この點で私の達した結論では、對生に來る――互ひ違ひに來るのが順當《ノーマル》の状態ではなからうかと思ふ。けれども斯う云ふと、ある時機の文學は必ず自然主義で、ある時機のは必ずローマンチシズムと取れるかも知らんが、こゝのところは細かく云ふと、人が見てそれほど明瞭には解らん事もあるだらう。
 さても一つは、兩主義を何方かに片附けなければならんといふ必要は無いんだから、從つて何方かに交つたものが澤山出來て來る。よつて互ひ違ひに來るといふ趨勢は、理論的な大ざつぱの議論に過ぎないことは明白だ。そしてこの二つの傾向が、ある所で平衡《イクイリブリアム》を得る場合には、調和を示す――ある時機には對立しなくて、能く交ることがある。古典主義《クラシシズム》とは歴史的に起つた名前だから、やはり歴史的に定義を下さんければならんが、今のやうな研究から出立して、奈邊にクラシシズムがあるかと云へば、今の平衡《イクイリブリアム》を得た中央にある。此處を名《なづ》けたならば、丁度クラシシズムに相當したやうな所が出て來るんぢやないか。けれども此平均點は僅の度合で破壞される。すると一方例へば自然主義の方が勝つ。勝つた勢ひで極端にズーとローマンチシズムの方へ行つてまた戻つて來る。來て以前の點を通過し、尚ズン/\反對の方向へ向つて馳せてゆく。圖にすると斯うだ。
 
 →
クラシ
シズム
 ←
〔入力者注、下段〕
.ローマン
 チシズム
 ←
 中央
平均點
 →
自然
主義
 で、一寸見ると同じ事を繰返すやうに思はれるが、事實上、繰返してゐるのは傾向だけで、同じ文学を繰返す事は決して出來ない。また無い筈だ。だから同じローマンチシズムでも、五十年前のと今日のとは、當然違はなければならん。自然主義もさうだ。もし古典派《クラシシズム》も存在するとすれば、同じく然りだ。では、傾向だけ繰返して文學そのものは何故繰返さんかと云ふに、そりや知れ切つた話で、例へば前の圖解で、ローマンチシズムが勝つたとする。と、其勢ひで自然主義の方へ押寄せて來るが、極端までゆくと復た以前《もと》へ戻る。其の戻つたのは同じローマンチシズムでも、最初のそれとは違つてゐる。何となれば一旦自然主義の領分を通つて、その材料を含有して歸つて來たからである。
 先づ私は大抵以上のやうな結論に到着したから、些か發表して置いた。これによつて、自然主義とローマンチシズムとは氷炭相容れざるものと云ふ思想を打破する事は出来るだらう。それから、紛らはしい自然主義とかローマンチシズムとかの名に束縛されて、それに拘泥する弊を幾分かは除かれるかとも思ふのだ。
         −明治四一、四、一五『文章世界』−
 
    近作小説二三に就て
 
 私は平素《いつも》多忙であるために、諸方から寄贈される雜誌や小説を悉く讀むわけにはいかぬ。併し近頃は小説を書く人も多くなり、從つて小説の數も殖えて面白いものも出るやうであるが、私は自分で小説を書いて居る間《うち》は、ついそれに追はれて他人《ひと》さんの物を見るわけにゆかず。また自分の方が小説を書き終《しま》ふと、他の書物を讀むために、折角贈つてくれられた月々の雜誌や小説を見落すことが多いのである。が、丁度この四月は春季の雜誌の臨時増刊の物や、其他に出た各雜誌の物も奮發して讀んで見た。尤も無論悉くは讀まぬ。で、私が讀んだ十ばかりの物は、孰《ど》れも面白かつた。例之《たとへば》、小栗風葉君の『ぐうたら女』、田山花袋君の『祖父母』、徳田秋聲君の『二老婆』、(以上は中央公論)、早稻田文學に出て居た眞山青果君の『家鴨飼』其他まだあつたが、とり/”\に面白かつた。で、孰れも面白くは讀んだが、其面白く讀んだ間に、今までは氣が注かなかつたが、考へたわけでもなく、唯不圖斯ういふ事が浮んだのである。それは讀んだ小説の殆ど盡《こと/”\》くが、涙を出す物が一つもないといふ事である。尤も花袋君の『祖父母』には少し其方の傾向があつたかも知れないけれども、外のには一つもなかつた。それで居て大抵は陰鬱なもの厭世的のものである。無論面白くは讀んだのだけれども、何か斯う壓迫を感じたやうな氣がする――讀んで愉快といふのでなく旨いといふ意味で――唯何となく陰鬱な調子が大多數を貫いて居る。孰《いづ》れもが申合せたやうに此調子で書いて居る。これは勿論合議の上ではあるまい。偶然の暗合であらう。併し暗合でも、單にお鬮《みくじ》を抽いて二人が同じに當つたのとは違つて、自から作家に一種の傾向が胸の中にあるのが期せずして同じやうに現れたのだらう。それは四月に見た物に付いていふのだが、恐らく近來――現時我邦に於る小説はさういふ傾向のものが多くはないかと、斯ういふ事に氣が注いた。で、作家諸君は無論、自分は奈何《どう》いふ物を書いて居つて奈何《どう》いふ調子を出さうといふ事は、心得て居られるに相違はない。然《け》れども讀者がそれに對して泣くか泣かないかといふ事は、其念頭にさへなかつたのではないかと思ふ。泣かせてやらうといふ考へは無論ない。さればといつて泣かせるやうなものは書くまいといふ決心も普通ない話であるから、要するに泣き得ないものであるといふ事は、作り上げて氣が付いたのではあるまいか。何故私が泣くとか泣かぬとかいふ事をいふかと云ふのは、是等の作物の大部分のシチユエーシヨンからいふと、泣き得べき條件を具へて居た樣に思ふ。例之《たとへば》、首を縊つて死ぬとか、或は老爺《ぢい》さんが家財道具も何もない一軒の荒屋《あはらや》から追出されるといふ事、其他にも之に類した事は種々あるが、それらの所作を讃んで氣の毒とか可憫《かはいさう》とかいふ心は一寸も起らぬ。一歩進めていへば泣き得る事が出來ない。それは何故だらうか。結局《つまり》悲劇の條件を具へて居つて悲劇のやうに涙を溢す事が出來ないのは、考へて見ると其篇中の人間が、極く狹い意味に於ての現代精神を發揮して居るからである。茲にいふ狹い意味の現代精神といふのは、自我發展の傾向を云ふのである。即ち他に對する道徳でなく、自己に對する道徳に勝つたもの、換言すれば、人に對する道徳が殆ど眼中に無いものを描いたのが多い。もう一つ言ひ直すと、寫された人間が何等の犠牲を排つて居ない。社會の爲にも、親の爲にも、他の爲にも、まづまア自己の損失を敢てする點が無い。有るかも知れぬが作には見當らぬ。夫れ故、窮するとか、困るとか、苦しむとかいふのが、他の爲に窮したり、困つたり、苦しんでするのではなく、たとへ首を縊つて死んでも、まあ義理人情で死ぬんではなく、世の中の壓迫で仕方なく死ぬとか、社會的情況の變化に伴れて自我を發展仕損なつて死ぬ。初めから自我を縮小しようといふ念は少しも見えない。要するに一毫の犠牲だも他に對して拂はぬ。元來氣の毒だとか、同情の念に耐へぬとかいふのは、或意味に於て自分が損害を受けて居らねばならぬのと、及び其損害の受け方が他の道義心を滿足させて居なくつてはならぬ。さうでなければ何程《いくら》腹を切つても、何程《いくら》困却しても、首を縊つても、唯厭な心持ちになるばかりだ。斷つて置くが、斯う言つたからとて作物が劣《まづ》いといふのではない。沈鬱な調子にはなるのだけれども、可憫《かはいさう》な極、泣くといふわけにはいかぬといふのである。
 前に擧げた作物のある物や、このあひだ中出た國木田獨歩君の『竹の木戸』なども然《さ》うである。植木屋の女房《かみさん》が首を縊つて死ぬ。其死ぬのを讀んで見ると、世の中が悲惨なものだといふ感じは起るが、それがため可憫《あはれ》だといふ感じは起らない。
 そこで此泣かせるといふ事は、敢て上等な作物なら必ず無ければならぬといふ譯ではない。前に擧げた作物でも、泣かぬ――泣けぬといふものでも、然も立派な作物である。泣く泣かぬで、其優劣を判ずるのではないが、奈何《どん》な作物は泣き得ないかを考へると、要するに情操に伴はない困窮、讀者からいへば情操を滿足せしめない作中の人物の窮迫は、泣き得ないのは明かである。で例之《たとへば》、イブセンの物――總體は見ないが――まア泣けない物が多い。情死《しんぢゆう》をしたり、怖るべき境遇に陷つたりしたものでも、まづ涙は流さずに讀む。イブセンは一種の哲學者である。哲學者といつても何もカントやヘーゲルを研究はしないが、社會制度に就ての上の哲學者、例之、夫婦の關係とか、個人の自由は此點まで行かねばならぬとか、約束的道徳は打破して宜いとかいふに就て、考へを持つて居る。其考へが骨子になつて戯曲が出來て居る。或解釋からいへば、渠《かれ》の作は其社會的哲學の具體的表現に過ぎない。而して其哲理は中々に意味がある。また尤もである。或は流俗より一歩も二歩も先に出て居るともいはれる。然《け》 れどもが其哲理が情操化されて居らない。從つて此哲理に由つて行動する人物が躍然として出ても、尤もだとは思はれても、行動が無理はない位までは行けても、新しい位迄は感心されても、急に故い世界から組織の異つた世の中へ出た樣な氣持がしても、――どうも泣けない。其泣けないのは、篇中の人物の實行する主義道徳が未だ一般に情操化されて居らない。尤も或意味では社會的にいつて合理的であるかも知れない。然し合理が合理に止まつて、一種のセンチメントが附け加はつて來ぬ。全體道徳には思索上の道徳と、情操化された道徳と二つある。思索上の道徳といふのは、今の世の中は斯ういふ弊があるから、かう改むべきものだと先覺者が考へた結果、案出した道徳である。結構なものには違ひない。然しそれは理論で説明されて尤もだと思ひ、或は戯曲で具體化して成程と思ふまでで、或學者の所謂美學的價値は無い。價《あたひ》を有して居ない。美學的價値は情操化されて、其發現を見ると、思索の暇なく直覺的に評價し得るものである。然るにイブセンの篇中の人物の實践の道徳はそこまで行かぬ。習慣に背いたのが多い。一般からいへば、習慣に從つた道徳に情操が附著して居るのだから、イブセンの新道徳には情操が移憑《うつ》つて居らないのが多い。それだから泣けない。そこで前に擧げた小説――我邦現代の小説の傾向は、イブセンの戯曲のやうに、或哲理を骨子として成つたものとも見えない方が多い。併し作者にイブセンの如き考へがないにしても、言ひ換ゆれば作者が意識して居らないでも、篇中の人物が人物相應の道徳――哲學を實践する。(尤も其哲學が植木屋の女房《かみさん》や長屋の母親《おふくろ》が發揮したりするのだから、哲理と云ふ名をつけるのは勿體ないが。)けれども其動機が、吾人の情操を滿足せしむる意味が尠い。其點に於てはイブセンが書いた人物と同じであるから、何故泣けないかといふ説明は、前いつた哲理を具體化したイブセンに付て、何故泣かないかといふ原因を説明して仕舞へば、今の著作の泣けない理由も其中に含んで説明が出來ると思ふ。
 前にいうた通り、作物は泣かなければならぬものではないから、旨く出來、おもしろく讀んだからそれで宜いのである。が併し、讀む物も讀む物も同じ傾向であつた爲に何か物足らない感じがした。物足らないといふのは何となく壓迫を感じたといふ事で、即ち情操の滿足を少しも得られなかつたのである。で、其時思つたのには、成程人間は時々泣かずには居られないものだと思つた事で、それは時々鰻飯や天麩羅が食ひたくなつた意味に於て、泣きたくなるものだ。泣いて情操の滿足を求めたがるものだらう。泣くといふと苦しいやうに聞えるが、斯ういふ場合の涙は情操を滿足した記號に過ぎないのだから、要するに一種の快感の符徴である。煎じ詰めれば、吾々は作物を讀んで快感を欲しいといふ意味になる。而して其快感は、笑ふ快感や、美しいといふ快感や、勇しいといふ快感と竝び起《た》つて時々は吾々の膝の上に上つて來なければ、楚痛を感ずる時機も來るだらうと思はれる。一時日本の文學が無暗に情操を發揮するので、泣かないでも濟むものに泣いて、やれ菫が咲いたといつて泣いて見たり、星が出たといつて泣いて見たりした、實《まこと》に廉い涙の時代もあつたが、これには辟易するとして、今日は其反動で斯ういふ文學が出來たとはいはぬが、併し一部分は其反動と見てもよろしいであらう。だからしてこれで別に不都合はない。が、出るものも見るものも悉皆《みんな》さうであつたら、矢張笑ひたくなつたり、泣きたくなつたりする讀者も出來るだらうし、作家自身も、自からそちらの方に氣が向いて來るだらうと思ふ。
 遺徳といふものは畢竟時世に伴はねばならぬ。だから杜會の情況に應じて、思索の道徳を情操の道徳と變化する必要がある。特に今日のやうな過渡時代には其必要がある。で、徒らに情操が附着して居るからといつて、古い遺徳を擔いで居る譯にはいかぬ。また擔いで居る間《うち》には社會制度の變化で情操が磨り減つて形式ばかり殘る。夫れ故何の益にも立たぬと同時に、茲に偉い人が在つて、今の社會制度に應じて未來の道徳を思索的に打ち建てるにしても、それが情操を具へて居らなければ、矢張十分の效果を文學の上に收むる事はむづかしい。もつとも宜く收めた極度は、イブセンに於てこれを見得る。而もイブセンは泣き得べき情況を具備しながら泣き得ざる底《てい》の戯曲が多いのだ。從つてイブセンはそれだけ損をして居る。渠は社會の改革者(イブセン自身に思ふ)としての主張を貫徹する爲に、彼の作物の文學的の效果を減ずる事を敢てして居るといつてもよろしい。
           −明治四一、六、一『新小説』−
 
    無題
 
 夏目漱石氏曰く。
 倫敦といふ處は自由の都だとか何とか倫敦の市民は威張つて居るがなか/\以てさうで無い。天然人事共に種々の壓迫がある中に習慣の壓迫といふやうなものは最も激しい。獨逸の某は何年か前倫敦に行つてゼントルマンといふものに就て皮肉な評を下して居る。其は英國でゼントルマンといふのは門閥の立派な人とか有徳の人とかをいふのでは無い。たとへ立派な人でも社交の慣習に通じない人、又獨立して行く財産の無い人、借金を拵へるだけの信用の無い人はゼントルマンとはいへない。其に反し徒ら者でもグード、エヂユケーシヨンがあつて表面上カラクターを維持してゐる限りはパーフエクト、ゼントルマンと見なす。ロンドンのやうな排外的な交際社會になると一層其けじめが細かになる。たとへば女に逢つた時度胸が据つてゐて少しも窮屈で無く心やす立てに取扱ふ事が出來なくてはゼントルマンとはいはれぬので、若しはにかんだり窮屈がつたりする人はゼントルマンではなからうといふ疑ひを惹き起こす。況やデインナーに臨んでソツプのお代りをしたり又は三時に始まつて夜中まで續くブレツクフアストにイーブニングドレツスを着て居るとしたら其人がプリンスでもミリオネアでもゼントルマンではない。……と斯んなことをいつて居る。今でも全く此通りだ。斯んな窮屈な形式的な社會が何で自由の都であるものか。
          −明治四一、七、一『ホトトギス』一
 
    「露國に赴かれたる長谷川二葉亭氏」
 
 二葉亭君とは同じ社に居ても、親しく會つたのは此間大阪の鳥海君が來た折に一緒に飯を食つたのが始めてですから、餘りよく知りません。併し兎に角會つて心持のよい方だと思ひました。それだけです。何か問題を出してもらつてそれに答へるのなら答へませうが、二葉亭君に對する感想と云つてはそれだけですね。
            −明治四一、七、一『趣味』−
 
    獨歩氏の作に?徊趣味あり
 
 余は個人として國木田獨歩氏を知らぬ。西洋から歸つて六年になるが、歸つた當時は、殆ど日本の文壇の樣子を知らなかつた。どんなものが流行つて居るのか、何人の作物が歡迎されて居るのか、雜誌などの種類でも、どれが文藝雜誌で、どれが商業難誌だか、然うした事は全く知らなかつたのである。其中に、家に來る若い學生などの話に聞いて、少しは文壇の消息が分るやうになつた。然し獨歩氏に就いては知らなかつたのである。古く、新體詩なんかを書いて居た當時、獨歩氏の姓名だけは知つて居たが、小説家としての獨歩氏は全く知らなかつたのである。
 所が、或日理學博士の寺田寅彦氏が來て、『獨歩集』を讀んだかと云ふ。一向知らないと云ふと、大變面白いから是非讀んで御覽なさいと云ふ。寺田寅彦氏の『獨歩集』が面白いと云つた意味は、其頃流行の小説と違つて居て、新しくて面白いと云ふのである。確か幸田露伴氏の『天うつ浪』と相前後して出た時だと記憶して居る。兎に角、寺田氏は非常に褒めて居た。世間では斯う云ふ小説を何故黙つて居るであらうか、今少し褒めなければならぬ筈だと、頻りに殘念がつて居た。で、それは余も見たいものだと、早速本屋に行つたが無い。寺田氏に借りようと思つたが、生憎寺田氏も人に貸した儘になつて、手元になかつたので、それなり『獨歩集』は讀まずに了つた。其後雜誌に出たのを時々讀んで居る中に、第二獨歩集と云つたやうな『運命』が出たので、早速讀んで見た。然し其『運命』も全部讀んだのではない、其中の三四篇しか讀んで居らぬ。で、余の獨歩氏に於ける智識は、『運命』に於ける一部分と、其他諸雜誌に散見したものをほんの少し讀んだに過ぎないので、余の獨歩氏の作物に對する智識と云ふものは樋めて淺い。で、他の獨歩氏の作物を全部遺漏なく讀んだ人や、又、幾度でも繰り返して讀んだ人々のやうな、批評の出來る譯もない。それに讀んでから時日も經つし、又讀む時にも、今日あるを豫期して讀んだ譯でもないから、何うも記憶が極めて茫漠として居る。讀んだ當座未だ印象の新しい時にした所が、面白いと感じた所でも、批評するとなると、其面白いと云ふ感じを言ひ現はす爲に、無理に言葉を工夫して、實際自分の面白いと感じた其感じとは、かけ離れた言葉を使用して、批評は虚僞になり易いものである。況して、漫然讀んだ作物の古い記憶を喚び起して云ふのだから、とても完全な批評などと云ふ事を期することは出來ない。で、其事は豫め斷つて置かねばならぬ。
 『運命論者』は面白いと思つて讀んだ。實際面白いと云ふ感があつた。然し、其面白いと云ふ感じは愉快と云ふ感ではない。只、奇であつたのだ。あの作物が自然派の作物であるかどうか余は知らぬが、『運命論者』を讀んで得た感じは、丁度スチヴンソンを讀んで得た感じに近い。スチヴンソン、ブラス或物の面白いと云ふのは、只、奇で面白いのである。スチヴンソンの書いた作物は突飛である。然し、『運命論者』の作者は、此作物を、只、奇で書いたものではない。千人中只一人あるか無いかと云ふやうな、最も珍らしい事件を借り、其事件に依つて、人生の或物を言ひ現はさうとしたので、スチヴンソンの作物とは、其趣きが大變違つて來る。然し、スチヴンソン、プラス、エツキスの方を云ふのではない。私の今面白いと云つた意味は、此『運命論者』の中に現はれた所のシチユエーシヨン、即ち主人公の境遇及び所爲に、ロマンチツク・エーアを帶びて居る其事が面白いと云つたのである。それはエツキスの方にも面白い所があるにはあるが、余は世間で云ふ程、大なる價値を認めて居ない。此『運命論者』プラス、サムシングに就いては餘り感服することが出來ないのである。
 次ぎに今余の記憶に殘つて明らかなるは、『巡査』だけである。『巡査』は只巡査なる一人の人間を描き出したもので、其巡査が好く出て居る。此篇の面白味は、丁度チエホフか誰かの書いたもので『爺』と云ふものがある。其『爺』の面白味が、『巡査』のやうなあゝした面白味である。巡査なら巡査、爺なら爺を現はしたのは、巡査がどうしたと云ふ事を書いたものではない。爺がどうしたと云ふ事を書いたものではない。只巡査なる人は斯う云ふ人であつた、爺なる人は斯う云ふ人であつたと云ふことを書いたに過ぎぬ。其所が面白いのである。巡査なら巡査に就いての觀察を書いたものだからして、前の『運命論者』とは其面白味が違ふ。余の言葉で云ふと、斯う云ふものは?徊趣味と云ふ。巡査がどうして、それから斯うしたと云ふやうに、原因結果を書いたものではない。其巡査が明日はどうなつても、明日のことは構はない。只、巡査其者に?徊して居れば好いのである。小さんが醉漢の話をする。聽者は其醉漢の話を只樂しんで居れば好いのである。其醉漢が明日の朝になつて何うしたとか、斯うしたとか云ふことを聞く必要はない。聞かなくても、醉漢其者の所作行爲に樂しむことが出來る。即ち、筋とか結構とか云ふものが面白いのではなくて、一醉漢なるものに?徊して、其醉漢の醉態を見る其事に興味あり、面白味あるのである。それを余は?徊趣味と云ふ。普通の小説は筋とか結構とかで讀ませる。即ち、其次はどうしたとか、斯うなつたとか云ふ事に興味を持ち、面白味を持つて讀んで行くのである。然し、?徊趣味の小説には、筋、結構はない。或一人の人の所作行動を見て居れば好いのである。『巡査』は、巡査の運命とか何とか云ふものを書いたのではない。或一人の巡査を捉へて其巡査の動作行動を描き、巡査なる人は斯う云ふ人であつたと云ふ、其所が面白い。即ち?徊趣味なる意味に於て、『巡査』を面白く讀んだのである。
 余は高濱虚子氏に其話をしたことがある。所が虚子氏は、『巡査』は嫌ひだと云ふ。面白くないと云ふ。あの敍述が自然でない、どうも拵へたもののやうに思ふ、不自然であると云ふ。然し、私の讀んだ時には、別にそんな感じはしなかつた。
 『酒中日記』は、人は褒めて居たやうだが、私は餘り感服しない。一口に忌憚なく云つて了へば、要するに不自然な所が多いやうに思はれる、では何所が不自然なのかと問はれゝば、一々本を繰つて御話しせねばならぬが、不自然な所が多い爲に、讀みながら感興が乘らなかつたやうに思ふ。
 『竹の木戸』は惡いとは思はぬ。然し、あれが近來出る他の人々の短篇を抽んでて面白いとは思はぬ。殊に獨歩氏の爲に、褒める程のものではない。批難を云ふと、あのお源とか云ふ女が、終りに首をくゝるのは不自然だと思ふ。却つて殺さない方が自然である。若し殺すなら、今少し緊張さして殺した方がよからう。
           −明治四一、七、一五『新潮』−
 
    文章之變遷
 
 如何なる文章が日本文學の骨髄となるかと云へば、從來の如き亂雜紛雜なる文章にては不可なり。即ち漢文の素養あるものは、漢文流の文體を用ひ、國文の素養あるものは、國文流の文體を用ひ、又漢文や國文の素養なき、飜譯者流は、一種の飜譯流の文體を用ふ。かくの如くば文章の統一する時無かるべし。思ふに今日の儘に推移せば吾國の文明を代表する威嚴ある文章は、何れを採るべきに迷ひて、文化の進路を妨害するは疑ひなきことなり。されば今日より東京語を以て本位とする言文一致體を以て、可成簡潔に書き示す事が最も必要の事なり。各派各長短あれど、文明の開發に最も便利なるものを選ぶこそ第一要義なるべし。
            −明治四一、八、三『江湖』−
 
    正岡子規
 
 正岡の食意地の張つた話か。ハヽヽヽ。さうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から歸つて來て僕のところへ遣つて來た。自分のうちへ行くのかと思つたら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此處に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、當人一人で極めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あつた。上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病ださうだから傳染するといけないおよしなさいと頻りにいふ。僕も多少氣味が惡かつた。けれども斷わらんでもいゝと、かまはずに置く。僕は二階に居る、大將は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まつて來る。僕が學校から歸つて見ると、毎日のやうに多勢來て居る。僕は本を讀む事もどうすることも出來ん。尤も當時はあまり本を讀む方でも無かつたが、兎に角自分の時間といふものが無いのだから、止むを得ず俳句を作つた。其から大將は晝になると蒲燒を取り寄せて、御承知の通りぴちや/\と音をさせて食ふ。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食ふ。まだ他の御馳走も取寄せて食つたやうであつたが、僕は蒲燒の事を一番よく覺えて居る。それから東京へ歸る時分に、君拂つて呉れ玉へといつて澄まして歸つて行つた。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せといふ。何でも十圓かそこら持つて行つたと覺えてゐる。それから歸りに奈良へ寄つて其處から手紙をよこして、恩借の金子は當地に於で正に遣ひ果し候とか何とか書いてゐた。恐らく一晩で遣つてしまつたものであらう。
 併し其前は始終僕の方が御馳走になつたものだ。其うち覺えてゐる事を一つ二つ話さうか。正岡といふ男は一向學校へ出なかつた男だ。それからノートを借りて寫すやうな手數をする男でも無かつた。そこで試驗前になると僕に來て呉れといふ。僕が行つてノートを大略話してやる。彼奴の事だからえゝ加減に聞いて、ろくに分つてゐない癖に、よし/\分つたなどと言つて生呑込にしてしまふ。其時分は常盤會寄宿舍に居たものだから、時刻になると食堂で飯を食ふ。或時又來て呉れといふ。僕が其時返辭をして、行つてもえゝけれど又鮭で飯を食はせるから厭だといつた。其時は大に御馳走をした。鮭を止めて近處の西洋料理屋か何かへ連れて行つた。
 或日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の萬松庵に居るからすぐ來いといふ。行つた。ところがなか/\締麗なうちで、大將奥座敷に陣取つて威張つてゐる。さうして其處で鶉か何かの燒いたのなどを食はせた。僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思つてゐた。處が實際はさうでは無かつた。身代を皆食ひつぶしてゐたのだ。其後熊本に居る時分、東京へ出て來た時、神田川へ瓢亭と三人で行つた事もあつた。正岡の足の立つてゐた時分だ。
 正岡の食意地の張つた話といふのは、もうこれ位ほか思ひ出せぬ。あの駒込追分奧井の邸内に居つた時分は、一軒別棟の家を借りてゐたので、下宿から飯を取寄せて食つてゐた。あの時分は『月の都』といふ小説を書いてゐて、大に得意で見せる。其時分は冬だつた。大將雪隱へ這入るのに火鉢を持つて這入る。雪隱へ火鉢を持つて行つたとて當る事が出來ないぢやないかといふと、いや當り前にするときん〔二字傍点〕隱しが邪魔になつていかぬから、後ろ向きになつて前に火鉢を置いて當るのぢやといふ。それで其火鉢で牛肉をぢやあ/\※[者/火]て食ふのだからたまらない。それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴もいつたとか言つて、自分も非常にえらいもののやうにいふものだから、其時分何も分らなかつた僕も、えらいもののやうに思つてゐた。あの時分から正岡には何時もごまかされてゐた。發句も近來漸く悟つたとかいつて、もう恐ろしい者は無いやうに言つてゐた。相變らず僕は何も分らないのだから、小説同樣えらいのだらうと思つてゐた。それから頻りに僕に發句を作れと強ひる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、えゝかとか何とかいふ。こちらは何ともいはぬに、向うで極めてゐる。まあ子分のやうに人を扱ふのだなあ。
 又正岡はそれより前漢詩を遣つてゐた。それから一六風か何かの書體を書いてゐた。其頃僕も詩や漢文を遣つてゐたので、大に彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであつた。或時僕が房州に行つた時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。處が大將頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でも其中に、英書を讀む者は漢籍が出來ず、漢籍の出來るものは英書は讀めん、我兄の如きは千萬人中の一人なりとか何とか書いて居つた。處が其大將の漢文たるや甚だまづいもので、新聞の論説の假名を拔いた樣なものであつた。けれども詩になると彼は僕よりも澤山作つて居り平仄も澤山知つて居る。僕のは整はんが、彼のは整つて居る。漢文は僕の方に自信があつたが、詩は彼の方が旨かつた。尤も今から見たらまづい詩ではあらうが、先づ其時分の程度で纏つたものを作つて居つたらしい。たしか内藤さんと一緒に始終やつて居たかと聞いてゐる。
 彼は僕などより早熟で、いやに哲學などを振り廻すものだから、僕などは恐れを爲してゐた。僕はさういふ方に少しも發達せず、まるでわからん處へ持つて來て、彼はハルトマンの哲學書か何かを持ち込み、大分振り廻してゐた。尤も厚い獨逸書で、外國にゐる加藤恒忠氏に送つて貰つたもので、ろくに讀めもせぬものを頻りにひつくりかへしてゐた。幼稚な正岡が其を振り廻すのに恐れを爲してゐた程、こちらは愈々幼稚なものであつた。
 妙に氣位の高かつた男で、僕なども一緒に矢張り氣位の高い仲間であつた。ところが今から考へると、兩方共それ程えらいものでも無かつた。といつて徒らに吹き飛ばすわけでは無かつた。當人は事實をいつてゐるので、事實えらいと思つてゐたのだ。教員などは滅茶苦茶であつた。同級生なども滅茶苦茶であつた。
 非常に好き嫌ひのあつた人で、滅多に人と交際などはしなかつた。僕だけどういふものか交際した。一つは僕の方がえゝ加減に合はして居つたので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかつたから、まあ出來てゐた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚も圓滑な交際の出來る男ではなかつた。例へば發句などを作れといふ。それを頭からけなしちやいかない。けなしつゝ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とさうなるのであつた。つまり僕の方が人が善かつたのだな。今正岡が元氣でゐたら、餘程二人の關係は違うたらうと思ふ。尤も其他、半分は性質が似たところもあつたし、又半分は趣味の合つてゐた處もあつたらう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかつたのでもあらう。忘れてゐたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近よつて來た。
 彼は僕には大抵な事は話したやうだ。(其例一二省く)兎に角正岡は僕と同じ歳なんだが僕は正岡ほど熟さなかつた。或部分は萬事が弟扱ひだつた。從つて僕の相手し得ない人の惡い事を平氣で遣つてゐた。すれつからしであつた。(惡い意味でいふのでは無い。)
 又彼には政治家的のアムビシヨンがあつた。それで頻りに演説などをもやつた。敢て謹聽するに足る程の能辯でも無いのに、よくのさばり出て遣つた。つまらないから僕等聞いてもゐないが、先生得意になつてやる。
 何でも大將にならなけりや承知しない男であつた。二人で道を歩いてゐても、きつと自分の思ふ通りに僕をひつぱり廻したものだ。尤も僕がぐうたらであつて、こちらへ行かうと彼がいふと其通りにして居つた爲であつたらう。
 一時正岡が易を立ててやるといつて、これも頼みもしないのに占つてくれた。疊一疊位の長さの卷紙に何か書いて來た。何でも僕は教育家になつて何うとかするといふ事が書いてあつて、外に女の事も何か書いてあつた。これは冷かしであつた。一體正岡は無暗に手紙をよこした男で、それに對する分量は、こちらからも遣つた。今は殘つてゐないが、孰れも愚なものであつたに相違ない。
         −明治四一、九、一『ホトトギス』−
 
    「處女作追懷談」
 
 私の處女作――と言へば先づ『猫』だらうが、別に追懷する程のこともないやうだ。たゞ偶然あゝいふものが出來たので、私はさういふ時機に達して居たといふまでである。
 といふのが、もと/\私には何をしなければならぬといふことがなかつた。勿論生きて居るから何かしなければならぬ。する以上は、自己の存在を確實にし、此處に個人があるといふことを他にも知らせねばならぬ位の了見は、常人と同じ樣に持つてゐたかも知れぬ。けれども創作の方面で自己を發揮しようとは、創作をやる前迄も別段考へてゐなかつた。
 話が自分の經歴見たやうなものになるが、丁度私が大學を出てから間もなくのこと、或日外山正一氏から一寸來いと言つて來たので、行つて見ると、教師をやつて見てはどうかといふことである。私は別にやつて見たいともやつて見たくないとも思つて居なかつたが、さう言はれて見ると、またやつて見る氣がないでもない。それで兎に角やつて見ようと思つてさういふと、外山さんは私を嘉納さんのところへやつた。嘉納さんは高等師範の校長である。其處へ行つて先づ話を聽いて見ると、嘉納さんは非常に高いことを言ふ。教育の事業はどうとか、教育者はどうなければならないとか、迚も我々にはやれさうにもない。今なら話を三分の一に聽いて仕事も三分の一位で濟まして置くが、その時分は馬鹿正直だつたので、さうは行かなかつた。そこで迚も私には出來ませんと斷ると、嘉納さんが旨い事をいふ。あなたの辭退するのを見て益依頼し度くなつたから、兎に角やれるだけやつてくれとのことであつた。さう言はれて見ると、私の性質として又斷り切れず、とう/\高等師範に勤めることになつた。それが私のライフのスタートであつた。
 茲で一寸話が大戻りをするが、私も十五六歳の頃は、漢書や小説などを讀んで文學といふものを面白く感じ、自分もやつて見ようといふ氣がしたので、それを亡くなつた兄に話して見ると、兄は文學は職業にやならない、アツコンプリツシメントに過ぎないものだと云つて、寧ろ私を叱つた。然しよく考へて見るに、自分は何か趣味を持つた職業に從事して見たい。それと同時にその仕事が何か世間に必要なものでなければならぬ。何故といふのに、困つたことには自分はどうも變物である。當時變物の意義はよく知らなかつた。然し變物を以て自ら任じてゐたと見えて、迚も一々此方から世の中に度を合せて行くことは出來ない。何か己を曲げずして趣味を持つた、世の中に缺くべからざる仕事がありさうなものだ。――と、その時分私の眼に映つたのは、今も駿河臺に病院を持つて居る佐々木博士の養父だとかいふ、佐々木東洋といふ人だ。あの人は誰もよく知つて居る變人だが、世間はあの人を必要として居る。而もあの人は己を曲ぐることなくして立派にやつて行く。それから井上達也といふ眼科の醫者が矢張駿河臺に居たが、その人も丁度東洋さんのやうな變人で、而も世間から必要とせられて居た。そこで私は自分もどうかあんな風にえらくなつてやつて行きたいものと思つたのである。ところが私は醫者は嫌ひだ。どうか醫者でなくて何か好い仕事がありさうなものと考へて日を送つて居るうちに、ふと建築のことに思ひ當つた。建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶はぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。で、私はいよ/\それにしようと決めた。
 ところが丁度その時分(高等學校)の同級生に、米山保三郎といふ友人が居た。それこそ眞性變物で、常に宇宙がどうの、人生がどうのと、大きなことばかり言つて居る。ある日此男が訪ねて來て、例の如く色々哲學者の名前を聞かされた揚句の果に君は何になると尋ねるから、實はかう/\だと話すと、彼は一も二もなくそれを却けてしまつた。其時かれは日本でどんなに腕を揮つたつて、セント、ポールズの大寺院のやうな建築を天下後世に殘すことは出來ないぢやないかとか何とか言つて、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文學の方が生命があると言つた。元來自分の考は此男の説よりも、ずつと實際的である。食べるといふことを基點として出立した考である。所が米山の説を聞いて見ると、何だか空々漠々とはしてゐるが、大きい事は大きいに違ない。衣食問題などは丸で眼中に置いてゐない。自分はこれに敬服した。さう言はれて見ると成程又さうでもあると、其晩即席に自説を撤回して、又文學者になる事に一決した。隨分呑氣なものである。
 然し漢文科や國文科の方はやりたくない。そこで愈英文科を志望學科と定めた。
 然し其時分の志望は實に茫漠極まつたもので、たゞ英語英文に通達して、外國語でえらい文學上の述作をやつて、西洋人を驚かせようといふ希望を抱いてゐた。所が愈大學へ這入つて三年を過して居るうちに、段々其希望があやしくなつて來て、卒業したときには、是でも學士かと思ふ樣な馬鹿が出來上つた。それでも點數がよかつたので、人は存外信用してくれた。自分も世間へ對しては多少得意であつた。たゞ自分が自分に對すると甚だ氣の毒であつた。そのうち愚圖々々してゐるうちに、この己れに對する氣の毒が凝結し始めて、體のいゝ往生《レシグネーシヨン》となつた。わるく云へば立ち腐れを甘んずる樣になつた。其癖世間へ對しては甚だ氣※[陷の旁+炎]が高い。何の高山の林公抔と思つてゐた。
 その中、洋行しないかといふことだつたので、自分なんぞよりももつとどうかした人があるだらうから、そんな人を遣つたらよからうと言ふと、まアそんなに言はなくても行つて見たら可いだらうとのことだつたので、そんなら行つて見ても可いと思つて行つた。然し留學中に段々文學がいやになつた。西洋の詩などのあるものをよむと、全く感じない。それを無理に嬉しがるのは、何だかありもしない翅を生やして飛んでる人のやうな、金がないのにあるやうな顔して歩いて居る人のやうな氣がしてならなかつた。所へ池田菊苗君が獨乙から來て、自分の下宿へ留つた。池田君は理學者だけれども、話して見ると偉い哲學者であつたには驚ろいた。大分議論をやつて大分やられた事を今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢つたのは、自分には大變な利益であつた。御蔭で幽靈の樣な文學をやめて、もつと組織だつたどつしりした研究をやらうと思ひ始めた。それから其方針で少しやつて、全部の計畫は日本でやり上げる積で西洋から歸つて來ると、大學に教へてはどうかといふことだつたので、そんならさうしようと言つて大學に出ることになつた。(是も今云つた自分の研究にはならないから、最初は斷つたのである。)
 さて正岡子規君とは元からの友人であつたので、私が倫敦に居る時、正岡に下宿で閉口した模樣を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトヽギス』に載せた。『ホトヽギス』とは元から關係があつたが、それが近因で、私が日本に歸つた時(正岡はもう死んで居た)編輯者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱まれたので、始めて『吾輩は猫である』といふのを書いた。所が虚子がそれを讀んで、これは不可ませんと云ふ。譯を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞つたが、兎に角尤もだと思つて書き直した。
 今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトヽギス』に載せたが、實はそれ一回きりのつもりだつたのだ。ところが虚子が面白いから續きを書けといふので、だん/\書いて居るうちにあんなに長くなつて了つた。といふやうな譯だから、私はたゞ偶然そんなものを書いたといふだけで、別に當時の文壇に對してどうかうといふ考も何もなかつた。たゞ書きたいから書き、作りたいから作つたまでで、つまり言へば、私があゝいふ時機に達して居たのである。もつとも書き初めた時と、終る時分とは餘程考が違つて居た。文體なども人を眞似るのがいやだつたから、あんな風にやつて見たに過ぎない。
 何しろそんな風で今日迄やつて來たのだが、以上を綜合して考へると、私は何事に對しても積極的でないから、考へて自分でも驚ろいた。文科に入つたのも友人のすゝめだし、教師になつたのも人がさう言つて呉れたからだし、洋行したのも、歸つて來て大學に勤めたのも、『朝日新聞』に入つたのも、小説を書いたのも、皆さうだ。だから私といふ者は、一方から言へば、他《ひと》が造つて呉れたやうなものである。
         −明治四一、九、一五『文章世界』−
 
    「何故に小説を書くか」
 
   文藝の爲に吾が終生を捧げんと云へる意氣を以て其の第一歩に入れるもの、暫くにして文藝の意義の餘りに空虚にして權威なきが如くに感じ「何故に小説を書かざる可からざるか」と云へる疑問を抱きて之に悶ゆる者少からざるを見る。苦吟懊惱、骨を削つて文字となすもの、單に生きんが爲めに過ぎざるか、更に尊き價値と深き意義とを自覺せるが爲めか。之を現代知名の作家に問うて其僞らざるの感想を掲ぐるは、無用の業に非ざるを知る也。
 
 偉いことを言へば幾らでもあるだらうが、一言にして言へば何も無い。
 「何故に小説を書くか」と、分つたやうな質問ではあるが、何故飯を食ふか」とそれとは違ふが、先づ似たやうな質問で、甘いから食ふとも言へれば、腹が空いたから食ふとも言へる、又食ひたいから食ふとも言へれば、生きたいから食ふとも、或は下女が膳を持つて來るから食ふとも言へる。
 小説を書くのも、單に一つや二つの理由で書くのではないから、それを一々色々な方面から完全に答へようとすれば、二日や三日はかゝつて話さねばならぬ大問題である。今茲で些つと話す譯には行かぬ。それかと云つて即答するなれば、多くの理由の中から一つの理由を抽象して話すに過ぎんので、極く不完全な答へで一部を掩ふぐらゐのものである。それでは聞いた人も滿足を得られなければ、話す者も充らない。それに一言にして盡して了ふと、又それに反對した理由があるので困る。自身の從事して居る職業の理由を問はれて、缺點のあるやうな答へはし度くない。
 例へば、私は今、大學の教師を止めて、小説を書く爲めに新聞社から月給を貰つて、それで生活して居る。つまり一口に云つて了へば、食ふ爲めに小説を書いて居るとも言はれるのだ。が、其反對に、食へない身分に若しもなつた時にでも、或は小説を書きたくて書くかも知れない。然らば、今茲で食ふ爲めに小説を書くと答へて見た所で、その答へは決して完全なものぢやない。
 小説を書く理由は複雜で今茲で一言に答へることは出來ぬ。
           −明治四一、一〇、一『新潮』−
 
    文學雜話
 
○何ですつて?『虞美人草』ですか。ハヽアあれに表はれたラヴが近代的で面白いと云ふのですか。別にさう云ふ積りで書いた譯でもありません。格別新しい事も無いでせう。さうですね、近頃のものでラヴを書いて好く出來てゐるのは色々あるかも知れないが、私の好な一つを云へば、ズーデルマンの『カツツエンステツヒ』(猫橋)――英譯では女主人公の名を取つて『レギーナ』と云つて居る――の書き方です。あれは大變旨い。レギーナは無學文盲な殆ど貞操《ヴアージニテイ》とは何んなものかといふ事も知らぬ位の女で、日本《こちら》で云へば房州あたりの、船頭か何かの娘位なものでせうが、それと、今一人教育ある男とが、ある事情の爲めに社會から隔離されて、一つ屋根の下に共棲してゐる。だから全く交際はない。外へ出れば兩人共迫害を受ける位のものです。それで此女がたゞ一人で其の男の世話をせねばならぬといふ特別なシチユエーシヨンに置かれてある。勿論身分の懸け離れてゐる事からして、男の方ではシムパシーさへも持ち得ない。女の方ではラヴといふ字義さへ知らない。此兩人の間の出來事である。詳しく云ふと女は全然野性の儘で、或る意味から云ふと獣物《けだもの》に近い處がある。それで面白い事には全くインノセントである。と云ふのは操を汚す事などは幾ら行《や》つても、善い事とも思はない代りに惡い事とも考へない。善惡を超越してゐる。從つて行爲上他人から見れば墮落してゐるが、事實上本人から云へば純潔である。本當の自然の儘で、修養とか學問とか見識とかで些ともモデイフアイされて居らぬ。その獣的な自然のまゝの内に、女はたゞ一つの暖かいハートを有つてゐる。ハートが詮りあらゆる行爲の動機力《モーチブ、フオース》で、一擧一動之に支配せられて、而かも其の發動の目的物は此の男の外に無い。けれども夫婦にならうといふ成算のあるでもなく又ラヴとも自覺しない、殆ど無意識に、世話をせねばならぬ、男に慰樂《コンフオート》を與へたいといふ丈の考で、情愛の強い、人情のある方面に非常に活動してゐる。そこで昔の小説にも好く貴人と平民の戀はある。かのグリセリダの話などもそれであるが、そんな場合に我々の眼には單に身分の懸隔といふ事丈が映ずる許りで、身分のインフイーリオリテイーに從つて起る事實上のイグノランスとかブルータリテイーとかは全くネグレクトされて居る。些つとも書いてない。然しズーデルマンのには是等を悉く有るがまゝに、具はれるがまゝに書いてある。其點が新しい。
○そして其の書き方――恁ういふシチユエーシヨンにある二人のラヴの書き方が面白い。男にはシムパシーが無く女にもラヴが無い――或は無意識に働いてゐるかも知れぬが――それが追々に動かされて行くプロセスを旨く書いてある。口で云ふと譯のないやうなものゝ、書くとなると困難な面倒なもので、兎角不自然になり易いのは誰れも知つてゐる事で、ことに刺戟の強い、殆んどセンセーシヨナルに近い場ばかり並べてあるにも拘はらず、それが非常にナチユラルで、デヴエロプメントが層々累々とシフトして行く移り工合が大變旨い。詮り私は深さのある小説だと思ふ。メレジコウスキーのトリロヂー(ピーター、エンド、アレキシスを除く)などは廣さの小説で、パノラマの如く無暗に廣がつてゐる。エキステンションがある。(委しい意見を述べると、メレジコウスキーはプロツトに於て失敗して居るといふ事を説明すべきだが、それは假りに可いとして)兎に角廣い。スケールが尨大《ヂヤイガンチツク》である。人物も多く場處も廣い。レネイサンスといふやうな一代の傾向を書き表はすのだから當然の事かも知れぬが、一方から云ふとデツプスが無いものとなる。茲に云ふデツプスが無いとは、普通にいふ奥行が無い、内部の意味《インナー、ミーニング》が無いとの意味でなく、餘り興味がアクセレレートせられないといふのである。同じインテレストが加速度を受けて段々とインテンシティーが強くなるのが私の所謂深さで、同じインテレストを以て進んで行くからして作に統一《ユニテイー》がある事になる。然し之は動もすれば單調になり易い。そこで統一《ユニテイー》もあつて且つ單調を避けん爲めには、同じインテレストを以て各篇を貫くと同時に、ヱキザクトリーに同じインテレストを各章に繰り返してはならぬといふ事になる。即ち同じ男女の間のラヴ、アツフエーアズでも、毎日出逢つてゐるのに同じ戯《たは》けた話をしても駄目だからして、何等かの變化を與へねばならぬ。而かも其れが場所の動かない處であると、何うも單調になる、變化を與へる事が困難だ。併し變化ばかりあつて統一《ユニテイー》を失つては可けない。だから統一はあつて、單調にならずに、變化を與へて調子を變へて行く。詮りレペテイシヨンをするやうで、段々と新しい所を加へて行くといふ書き方、それが甚だ困難である。
○併し然う書いて行くと、エキステンシヨンは勿論無い。だから興味は統一されるが、云はゞ細い水が一本流れて行くやうなもので、從つてナローになる。だけども同じインテレストでも加速度を以てアクセレレートして層々累々に新味を加へて行くとなると、其處に深さが生ずる。『レギーナ』には此の困難な書き方で、餘程深さを表はしてゐる。あれが其、人里離れた處に男と女をたつた〔三字傍点〕二人出してあるのだから周圍も變らない、同じ家に住んでゐるからして場所も變らぬ、それでゐてズン/\變化して行くのが旨い工合に書いてある。で、一方から云へば、之は決して觀察《オブザ※[ヱに濁点]ーシヨン》だけで書いたものでない、想像《イマジネーシヨン》の所産《オウロダクト》に相違ない。只客觀的に存在してゐるものを忠實に寫したものでなく、頭で拓へて頭でデヴエロプさせて行つたもので、其の發展のプロセスが大變旨い。長谷川さんの『其面影』などは此の書き方に似たもので、矢張男女の間で層々累々と關係が密接になり逼迫して行く風に書いてある。而かも同じインテレストを繰り返し/\してゐながら彼れ丈に飽きないものにしたのは、レペテイシヨンでなくしてアクセレレートしたからであつて、その點が大變の手際だと思ふ。
○併し恁ういふ風の書き方が必ずしも佳いと思ふのでは無い。又凡ての書き方のうちで一番困難だといふのでも無い。が、只かう書くとすれば前に述べたやうな點に困難があると云ふ丈である。同じデツプスを表はす書き方でも、無論是許りではない。何の小説であつたか、男女二人の關係が近づいては離れ、離れては近づくといふ互違ひの形式があつたが、之も面白い書き方で又六づかしい。併し變化《※[ワに濁点]ラエテイー》がある丈に幾らでも書けるが、離れる一方、近づく一方を書くとなると面倒が起る。やゝともすると同じ事が重なるからして書き難い。ことに離れてゐるのが漸々近づく方は猶書き惡い。といふのは冒頭には讀者の興味を惹く刺戟がないからである。其證據には昔の小説は何でも構はず事件のとつ初めから書き出したものである。從つて讀者の興味を釣り込む迄に大分暇が要る。有名な『エスモンド』抔は非常な傑作であるけれ共、最初の二三十頁を讀み終せる丈の根氣がないと、遂に佳境に入る機會がなくつて卷を伏せて仕舞ふ樣な事になる。だから此書き方は事件から云へば自然な書き方だらうが、作家から云へば寧ろ損な遣口である。此損を悟つて氣の短かい現代の讀者を釣り込まうとするには、ある事件が比較的發展して、大いなるインテレストが賭せられつゝある眞最中から書き始めて、最初から讀者の注意を引きつけるに限る。イブセンは此方法を利用する事の最も上手な作家である。(彼の此手段に訴へるのは他にテクニカルの理由のあるのは無論であらうが)。然るにズーデルマンの『レギーナ』は全く此損な方法を取つてゐる。丸で懸隔した男女を一つ所に置いてそれを漸く近づけて行くのだから、好い加減な所から始めるのから見れば隨分困難である。それをあれ丈旨く漕ぎ付けてゐるのは、凡手ではとても出來ない事である。(尤も此困難を少くする爲めに作家は他の方法を同時に講じてゐるのは勿論である。然しそれは長くなるから述べない。)
○エ?『虞美人草』の書き方ですか。格別そんな事を考へたのでもないのです。複雜《コムプリケート》なラヴ、アツフエーアズ其のものを描いたものとしでは極く幼稚なものでせう。又ラヴ丈を書いたものでもないのですからね。ぢや狙つたものは何かといふのですか、――さうですね。ラヴも書いちや居ますがね。ラヴ丈を描く積りならもう少し遣り方もあつたでせう。つまりあれはね、ラヴといふものを唯一のインテレストとして貫ぬいたものぢやないから、戀愛事件の發展として見ると中々不完全です。それなら何處が完全かと云はれると益弱る譯だが、つまり二つか三つのインテレストの關係が互に消長して、それが仕舞に一所に出逢つて爆發するといふ所を書いたのです。書いたのぢやない、書いた積りなのです。
○やはりズーデルマンの『アンダイイング、パスト』になると餘程妙なラヴですね。勿論ラヴの關係は前のとは異《ちが》つてゐるが、矢張り層々累々の書き方を用ゐてゐる。之は女が男を追つかけるのだが、其の女のフエリシタスといふのには夫がある、有夫姦になるので男の方で始終逃げようとする。それを――フイジカリーに追つかけるのではないが――追つかけて/\キヤプテイ※[エに濁点]―トする仕方が如何にも巧妙に、何うしてあゝいふ風に想像がつくかと驚かるゝ位に書いてある。誰もあんなデヴエロプメントをクリエートする事は出來ない。さうして此女が非常にサツトルなデリケートな性質でね、私は此の女を評して「無意識な僞善家《アンコンシアス、ヒポクリツト》」――僞善家と譯しては惡いが――と云つた事がある。其の巧言令色が、努めてするのではなく、殆ど無意識に天性の發露のまゝで男を擒にする所、勿論善とか惡とかの道徳的觀念も、無いで遣つてゐるかと思はれるやうなものですが、こんな性質をあれ程に書いたものは他に何かありますかね、――恐らく無いと思つてゐる。其の代り、之は獨逸の或る批評家に云はせると、センセーシヨナルだと非難してゐる。そしてその男は一方に『フラウ、ゾルゲ』を褒めてゐる。が私の考では然うでない。『フラウ、ゾルゲ』は只、一能才の努力に成つたものとしか思へぬ。(あれが九十版にもなつた作とすれば、版を重ねるのは單に流俗の所爲だと斷言して憚からぬ位です)。併し今云つた小説の方は何うしても天才《ジニアス》のクリエートしたものですねえ。
○『三四郎』は長くなるかといふのですか。然うですね、長く續かせる〔三字傍点〕のですね。サア何を書くかと云はれると、又困りますがね。――實は今御話をした其のフエリシタスですね、之を餘程前に見て面白いと思つてゐたところが、宅に居た森田白楊が今頻りに小説を書いてゐるので、そんなら僕は例の「無意識なる僞善者《アンコンシアス、ヒポクリツト》」を書いて見ようと、串談半分に云ふと、森田が書いて御覽なさいと云ふので、森田に對しては、さう云ふ女を書いて見せる義務があるのですが、他《ほか》の人に公言した譯でもないから、どんな女が出來ても構はないだらうと思つてゐます。實際何んな女になるかも自分で判らない。且つ今お話した層々累々的な敍述丈で進むのではなくエキステンシヨンも這入つてくるんだから、女は何うなつても構はない、と云ふと無責任ですが、出來損なつてもズーデルマン抔を引合に出して冷かしちや不可ません。
○成程――層々累々の書き方と私の云ふ※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味が似てゐるといふのですか。意味の取方にも依るが大きく云へば、ある程度迄は何うしても然うなるでせう。若し小説を離れて寫生文となると、面白味はエキステンシヨンに在る、平面的の興味云はゞ空間的《スペシアル》の特質がある。小説の面白味は寧ろ推移的だから直線をたどる樣なものでせう、(勿論エキステンシヨンも交つてはゐるが)。と云ふ意味は、即ちコーザリテイーを以て貫くと云ふ事なので、其の線の行く先を迹付けて讀者は興味を發見する。だから其極端をいふと、丸でエキステンシヨンのない筋書だけの小説になる。だから又一方には寫生文だけの面白味があつて、小説にならぬものが存在する理由も判るでせう。然し寫生文はパノラマ的エキステンシヨンが重でコーザリテイーから出る興味が主では無い。從つて散漫になり易い。だから寫生文をパノラマとすれば小説は活動寫眞――といふやうなのではありませんかね。
○それで又|本流《メイン、カレント》に全く關係の無いエキステンシヨンはダレて了つて散漫に陷る弊がある。メレジコウスキーの小説を惡いと云つたのは即ち此の點に在るので無暗に延長する爲めに、デイフユーズになつて本流《メイン、カレント》を失つて了ふ。其の代り大きい所はあるが、刺戟が無い。又一方の直線ばかりになると肉も血もない筋書きになる。そこの呼吸が中々六づかしい。エキステンシヨンが一方の妨害をせぬ樣に、着々と筋を運んで行かなければならないんでせう。そこで私の※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味の講釋を始めると隨分長くなるかも知れないから、まあ好い加減にざつと言ひますが、※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味の特色はエキステンシヨンの方に屬するので、直線を迹付ける變化を面白がる方ではないのです。けれども天然自然人事ともに常に活動してゐるものだから、決してエキステンシヨン丈で間に合ふものは少い。まあどんなものを見ても、どんな事を聞いても、移つて行くとしなければならない。から※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味も理想的にエキステンシヨン丈で滿足してゐる譯にも行かない。から斯う説明したら好いでせう。今甲と云ふ事相が乙に移るとすると、直線的の興味は甲を去つて乙になる所が主だから、乙が注意の對象になる。之に反して※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味の方は事相其ものに執着するのだからして、興味の中心が却つて甲にある。即ち乙に移りたくないといふ姿がある。だから此の二つの趣味はどうせ相俟つて行かなければ完全な趣味の起る譯はない。早く甲が乙に變じて呉れゝば可いと思ふ樣では、甲自身が厭きられてゐるのだから、作物としてはそこに陷缺がある。と同時にいつ迄も甲に※[行人偏+※[氏/一]]徊するとなると、いつ迄立つても埒は明かない事になつて仕舞ふ。だから甲にも興味があると同時に甲が乙に移る所にも興味を持つと云ふ風でなければなるまいと思ふ。純粹の寫生文や純粹の筋書的小説は此一方丈を代表したもので、双方共改善の餘地のあるものと考へられる。
○かう説明をして置いて、あと戻りをして、あなたの先の質問に答へたら善く分るでせう。あなたが、前述の層々累々的敍述は※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味ではないかと聞かれた時、私は幾分か※[行人偏+※[氏/一]]趣味に違ひないと答へたが、どこが※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味だか大抵は見當がつく事となつた。即ち今こゝに男女の關係を層々と重ねて描いて行くとすると、各章毎に舊い分子と新らしい分子が交つて來る事になる。全然新らしければ漸次の發展でも何でもない。又全然舊ければ前章の繰返しに過ぎない。だから各章ともに前章のあるものを繰り返すと同時に、前章にないあるものを附加しつゝ進まなければならない。さうなると、其二要素のうちで、新らしい所は前章から脱化した變化であるから直線的に推移の傾向を滿足せしめるし、又古い方は前章を其儘重複するのだから、いつ迄も一所に定住して、※[行人偏+※[氏/一]]徊的に味はひたいと云ふ傾向をも滿足させる。從つて此かき方はエキステンシヨンと直線とを合併したもので、外の言葉でいふと、※[行人偏+※[氏/一]]徊趣味と推移趣味の一致したものに相違ないでせう。此場合に於るエキステンシヨンは無暗に新事相を附加するのでなくて、舊事相の重複なのだからインテレストの統一上最も便宜なものである。それから此場合に於る直線推移は一道のコーザリテイーで發展するから、是亦インテレストの統一を破る憂はない。だから此の書き方は深さを生ずる書き方だと云つたのです。
○纏らぬ話ですが、これ位にして置きませう。
         −明治四一、一〇、一『早稻田文學』−
 
    無教育な文士と教育ある文士
 
 夏目漱石氏曰く
 文學史上の人々を教育の有無に依つて分けて見ると、無教育の文學者は存外多く、彼等の手に成つた名作も少くはない。之に反し教育ある文學者でも必ず傑作を出して居るとは限らない。
 例へは女作家 Jane Austen の作は、隨分世間にも賞讃され自分も或意味に於て感服して居るが、讀み終へると此人は學問をした女でないといふことが誰にも直ぐ判る。之がつまり無教育ではあるが世の中を見、世の中を解釋する力が自から備つて居つた例である。
 之に對して同じく女作家 Geoge Eliot を見ると、彼女は始め小説家にならうと思ふ考へは少しもなく、專ら哲學の研究に耽つたが、中年にして小説に筆を染め終にあんな大作家になつた。其大作といふべきは、前者とは全然反對に、悉く彼女が四十年間學び得たる蘊蓄から來て居るので、あの學問無かりせば終に此の作家は顯はれなかつたのであらう。
 Dickens も亦無學の人である。彼が下層社會に長じ、正式の教育を受くることが出來なかつたから、English gentleman の氣風を描き得ぬとまで言はるゝが、兎に角一派の作家に相違ない。よし作中に缺點があつたとしても、それは無教育から來たことではない。彼の作は學問のお蔭を蒙つてゐないと云つても差支ない。無學の大家である。さうかと思ふと、Meredith の作は其大なる智力の産物である。二者各文學の一面に偏した嫌ひもあらうが、それ相應好き々々に買はるべき大作家たるに相違はない。
         −明治四一、一〇、一『英語青年』−
 
    專門的傾向
 
 絨毯を幅廣に敷き流した西洋間の机の上に、朱肉の附いた刻印が退屈さうに寢轉んでゐる。周圍《ぐるり》の書棚には、一癖ありさうな洋書がギツシリ詰つて金文字の甲羅を干してゐる。書棚の上には、古ぼけた唐本が積み層ねである。日本間の疊の上へキチンと坐つて、キヨト/\四周《あたり》を見廻して、一種の矛盾した壓迫を感じながら、頻りに皺くちやの手巾で鼻の尖を撫でてゐると、唐※[糸+錢の旁]か何かの前掛をした夏目さんが、すうツと這入つて來られる。早速要談にうつる。
 「坪内さんの説『偏狹なる文學』かね、――何も反駁する譯ぢやないが私の考は少々違つてる。勿論坪内さんは若い人達への訓戒をかねて言はれたらしいが」
 と緩い滑かな調子で話しながら二人の間に置いてある卷煙草入から一本取つて火を點ける。
 「坪内さんは確か今の小説が專門的《スペシアル》に傾くのはよくないと言はれたやうだが、之はちと見當違ひと思はれる。私の考では、小説も讀者も段々スペシアライズして行くものだと思ふ。こりや單に文學ばかりぢやない。一般の杜會的現象は漸次にスペシアルになつて行くべきで、凡ての物がヂフエレンシエートするのが自然の順序《プロセス》だね。それでその、作者が自分の覘つた方面を益々深く觀察研究して行つて其結果、始めて深《デイプ》な作物が表はれてくるのだ。スペシアルにならないとデイプなものはどうしても出來ない。そこでね、一方面にスペシアルになつたが爲めに、他の方面と交渉が無くなると思ふ人があるかも知らんが、全然交渉が無くなる譯は無いと思ふ。そりやね、通俗的《ポピユラー》といふ點は無くなるに違ひないが、元來《もと/\》通俗的《ポピユラー》と言ふものが、何れだけの價値《ねうち》があるかは考へものだ。例へばあのイーツね、あの人などは作物が危險だといふので餘り出版されない。たま/\出してもつい五六百部位、それも大抵は同好の士に頒つ位のもので、ホール、ケーンのものが十萬廿萬を賣り盡すのに比べてみると全然《まるで》お話にならぬ。でも常に、新らしいムーヴメントを文壇に起すから仕方ないさ。そこで以前《さつき》のスペシアルだがね、例を引くと、同じ畫家の中にも風景畫家《ランドスケープペンタア》もあれば肖像畫家《ポートレートペンタア》もありで、各自《それ/”\》專門にやつてゐる。專門的にやつてればこそ特殊な觀察も出來るし特殊な研究も進んで行くのだ。ところでね、畫家にせよ又觀る人にせよ、スペシアルな研究を遂げて深い鑑賞も批評も出來るやうになれば、他の違つた方面に對しても相當の鑑賞批評が出來る譯と思ふね」
 夏目さんは燻つた青銅の灰落へ卷煙草の吸差を投げ込んで腕を組む。組んだ腕を又解いて右の手を突き出す。窓越に裏庭の方を向くと疊屋の印半纏が見える。
 「文學がヂフエレンシエートするのは」と五本の指を開いて「此指と此指と此指、といつた風に分れて發達して行く。それを斯う」今度は指をつぼめる。「一つに集めて了つた所を寫すとなると、享ける感じが朦朧《ぼんやり》したものになる。成程誰にも判りはするが、極めて表面的な淺いものになつて了ふ。今の小説を二十年前のものに比べると、種類も度合も非常の相違だ。同じく床屋を寫すにしても、趣も違へば内容も違つてゐる。それがつまり、世間一般が深《デイプ》になつてスペシアライズしたからだ。凡て事物は初め混沌としてゐて、次第次第にヂフエレンシエートしてスペシアルになつて行く、之が自然のプロセスである。元は一つでも斯んな風に」
 卷煙草入から五六本卷煙草を掴み出して疊の上に扇形に並べる。
 「まづ斯んな風に各方面に分れて益々深く進んで行く。之を自然主義とすれば、之が象徴主義《シンボリズム》で之が浪漫派《ロマンチシズム》だね。何處まで發展するかそりや列らんが兎も角も進んで行く。進めば進む程專門的になり、從つて深くなる。例へば自然派の人が肉慾を寫すとする。肉慾を寫すのは何も自然派に始まつた譯ではないが、其描寫の度が前とは大分違つて來た。始めは普通の戀《ラヴ》を寫して滿足したのが、物足りないといふので姦通を書く、兄妹の相姦を書く。それも陳腐になると親子の相通ずる所を書く。餘り極端に走り過ぎると、弊害はあるが何でも新奇新奇と覘ひ出す。矢張自然の勢だ。」
 疊の上の卷煙草を一本とつて啣へる。
 「小説でも何でも、此スペシアルになるのは自然のプロセスであるが、一つは自分の好きからくる。頻にマラルメが何の斯のと通がる人がある。私にはよく判らんが、其人には面白いに違ひない。併しマラルメ黨の人にはキプリングは面白くないに違ひない。――或はキプリングも面白いといふかも知れんが――第一、私などは今の芝居を好かない。見て居て少しも興味がない。どうもこの好き嫌ひは仕樣のないものだ。こゝに藝者が澤山並んでるとする。それを斯う見渡して、どうも彼奴は藝者面がしてないから好かないといつたところで――勿論澁谷邊のは藝者面がしてないかも知れんが――藝者は矢張藝者さね、隨分その好かない奴に二萬圓からかけて落籍さうといふ連中もあるんだからね。」
 又一本卷煙草を取りあげる。
 「そこで又この、スペシアルになると交渉が無くなるといふ點だが、いくら反對の方面に分れて行つたからとて、元來《もと/\》同じ根元から發したものぢやないか、左樣《さう》無暗と關係の無くなることもなからう。表面は全然《まるで》違つてるやうでも、能く調べてみると、おや親類筋なんだね、といつた風になる。あの徳川時代の將軍と諸侯がさうぢやないか。互に南部、薩摩と距てて居ては關係も聯絡も疎くなる。そこで折々江戸で會議を開いて交渉をつける。文學も同じ理窟と思ふ」
 話が略《ほゞ》終《す》んだ時分には、扇形に置かれた卷煙草の形が崩れて二本許になつてゐた。
          −明治四一、一〇、七『國民新聞』−
 
    「小説中の人名」
 
○小説中の人物の名は、却々うまく附けられないものだ。場合によると、あれもいかぬ、之れもいかぬで、二日も三日も考へてみることもあるが、凝つては思案に能はぬで、大抵はいゝ加減に附けて了ふ。
○恁ういふ人物には恁ういふ名でなければならぬと言ふやうな、所謂据わりのいゝ名といふものは、却々無いものだ。早い話が自分の子供の名を附ける場合でも、矢張これならばといふやうな名は、容易に附けえられない。
○この頃は可成判りやすい名を附けるやうにしてゐる。源義經とか何の何雄とか、やかましい名は嫌ひだ。三四郎とか與次郎とか普通の名の方がいゝ。
         −明治四一、一〇、二一『國民新聞』−
 
    無題
 
 夏目漱石曰く、
 文部省の展覽會を見たがまづいものだ。面白いと思はるゝものは二三點しか無い。年に一度の展覽會があれでは心細い。文學の方は毎月出る雜誌の小説でもあんなものでは無い。あれを見ると文學の方が遙に繪畫より進んでゐる。
         −明治四一、一〇、三〇『國民新聞』−
 
    「文藝は男子一生の事業とするに足らざる乎」
 
 文藝が果して男子一生の事業とするに足るか何うかと云ふことに答へる前に、先づ文藝とは如何なるものであるか、と云ふことを明かにしなければならぬ。文藝も見やうに依つて色々に見られるから、足るか足らぬかと爭ふ前に、先づ相互の間に文藝とは如斯ものであると定めてかゝらねばなるまい。自分の云ふ文藝とは斯う云ふものである。貴方の云ふ文藝とは然う云ふものか、では男子一生の事業とするに足るとか、足らないとか論ずべきであつて、若し、相互の間に文藝とは斯う云ふものであると云ふことを定めてかゝらない以上、其論は何時まで經つても終ることはない。それでは文藝とは如何なるものぞと文藝の定義を下すと云ふことは、又些つと難かしいことで、とてもおいそれ〔四字傍点〕とそんな手早く出來ることではない。兎に角斯う云ふ問題は答へるに些つと答へ難い。文藝其物を明らかにしてから言はねばならぬ。それなら、私は明らかであるか何うかと言へば、私は斯う答へる。何人も滿足せしめ得る程に明らかに自分は考へて居ないかも知れない、けれ共自分を滿足せしむる丈けには、相當の考へを持つて居る意《つもり》である。其考へに依つて此の問題を判斷すると何うかと云ふと、例の如く面倒くさくなる。斯う/\斯うであるからして、私は文藝を以て男子一生の事業とするに足る、其理由を一々擧げて來なければならぬから、些つと手輕くは話されない。中々難かしくなる。然し、其理由は拔きにして、結論だけ言へと云ふなら譯はなくなる。自分の文藝に對する考へに基づいて文藝と云ふ其職業を判斷して見ると、世間に存在して居る如何なる立派なる職業を持つて來て比較して見ても、それに劣るとは言へない。優るとは言へないかも知れないが、劣るとは言へない。文藝も一種の職業であつて見れば、文藝が男子一生の事業とするに足らなくて、政治が男子の事業であるとか、宗教が男子一生の事業でなくて、豆腐屋が男子一生の事業であるとか、第一職業の優劣と云ふことが何う云ふ標準を以て附けられるか、甚だ漠然たるもので、其標準を一つに限らない以上は、お互ひに或る標準を打ち立てた上でなくては優劣は付くものでない。一般から標準を立てないで職業と職業とを比較するならば、總べての職業は皆同じで、其間に決して優劣はない。職業と云ふことは、それを手段として生活の目的を得ると云ふことである。世の中に存在する所の總《あら》ゆる職業は、其職業に依つて、其職業の主が食つて行かれると云ふことを證明して居る。即ち、食つて行かれないものなら、それは職業として存在し得られない。食つて行ければこそ、世の中に職業として存在して居るのである。食つて行き得る職業ならば、其職業は、職業としての目的を達し得たものと認めなければならぬ。で、職業としての目的を達し得た點に於で、總ゆる職業は平等で、優劣なぞのある道理はない。然う云ふ意味で言へば、車夫も大工も同じく優劣はない譯である。その如く大工と文學者にも又同じく優劣はない。又文學者も政治家も優劣はない。だから、若し文學者の職業が男子の一生の事業とするに足らぬと云ふならば、政治家の職業を亦男子一生の事業とするに足らないとも言へるし、軍人の職業も男子一生の事業とするに足らぬとも言へる。それを又逆にして、若し、文學者の職業を男子一生の事業とするに足ると云ふならば、大工も豆腐屋も下駄の齒入れ屋も男子一生の事業とするに足ると言つても差支へない。
 けれ共、或る標準を立てると、其間に直ぐ優劣はついて來る。而して其優劣を定める標準は千差萬別で、幾らでも出來る。例へば最も徳義に適つたものが最も好い職業であると、斯う云ふ標準も出來る。其徳義と云ふものは、何う云ふ傾向を持つたものが徳義だとか、何う云ふ時代には何う云ふ傾向を持つたものが徳義だとか、只、徳義と云ふものを割つただけでも、幾らでも出來て來るし、其他幾らでもある。又健康と云ふことを標準として、身體に合つたものが好い職業であるとも言へる。それならば勞働者の方が文學者より偉い。最も危險に近いものが高尚な職業であると云ふ標準を立てるならば、軍人とか、探險家とか云ふものが、一番偉くなる譯だ。或は、最も多い報酬を得る者が一番好い職業だと云ふ標準も立つ。然うすれば實業家が一番偉い職業になつて了ふ。或は金以外評判と云ふものが得られるのが一番好い職業だとも言はれる。すれば藝人とか藝者とか、相撲取りとか云ふものが一番好い職業である。其他其通りのことを列擧すれば幾らでも出て來る。際限の無い話である。從つて文學は男子一生の事業とするに足るとか足らないとか云ふ問題も、要するに標準の立て方で、古今未曾有、無類飛び切り上等の職業ともなるし、天下最下等の愚劣な馬鹿氣た職業となるかも知れない。だから標準の取り方で以て何うにでもなる。では貴方の標準は何所にあるかと、言はれると大體の標準は定まつて居るにした所で、時と場合に依つて其標準が變り得る。例へば大晦日が來て金が一文も無く、最も痛切に金の入用を感ずる場合に、金の收入の少い文學者を職業として居れば、文學者ほど愚劣な職業はないと思ふかも知れない。或は、私が身體の健康を害して、坐つて居つては何うしても健全になれない。そして私が非常に健康と云ふことに重きを置く場合に遭遇する。然うすると何うしても坐つて居らなければならぬ文學者と云ふ者ほど、詰らない稼業はなくなつて了ふ。で、然う云ふ風に標準は始終變つて居るが、それでは、もつと大きな大體の標準を何所に置くかと云ふことを話すことになると、前に云つたやうに、文學の定義を定めてかゝらねばならず、文學とライフとの交渉を研究し、ライフの意味や價値を定めた上で、他の複雜した事業と比較して話さねばならぬ。それでは中々難かしくなつて來るから、其所の所は言ひ得ない。結論だけを言ふならば、それは極く簡單で、只、吾々が生涯從事し得る立派な職業であると私は考へて居るのだ。
 何だか逃げ腰のやうな、ふは/\した答辯で、中までづんと突き入つてないので、何となく物足らない感じがあるかも知れない。それは中へ入つて急所を突いた答へも、すれば出來ないではないが、それでは却つて局部々々を擧げて論ずることになつて不本意であるから、斯う云ふ全體を掩うたやうな答へをして置く。
 で、今迄言つたやうな譯だから、文學は男子一生の事業とするに足らぬとか云ふ人が出て來ても、些とも驚くことはない。又、文學は無類飛切の好い職業で、人生にとつて之れ程意味あり、價値ある職業はないと云ふ人があつても、又決して喜ぶには當らない。文學に大きな價値があるとか無いとか、深い意味があるとか無いとか、兩方で争つて見た所でそれは要するに水掛け議論たるに過ぎない。本當に意味あり根柢のある論爭ではない。各々の標準の立て方で、どちらも異つた根據に依つての議論であるから、何時果てる時はない。一見矛盾の如くにして、實は矛盾ではないのだ。例へば一方は箸の先端を見て箸は細いと云ひ、一方は箸の眞中を見て箸は太いと云つて居るのと同じことで、矛盾のやうで實は矛盾でない。どちらにも根據はある。先づそれを爭ふ前に、二人共著の眞中を見て、太い細いを論ずるのが本當の議論である。
 今日の文學の價値に關しての議論が、其邊の微細な點まで極められた上での議論であるかどうか、或は、まだ可い加減に價値があるとかないとか云つて居て、兩方とも矛盾して居ないやうな氣で、箸の眞中と尖端の邊りを彷徨して居るのか、それは些つと考へて見ねばならぬ問題である。恐らく後者であらう。
           −明治四一、一一、一『新潮』−
 
    「新年物と文士」
 
 春陽堂から催促を受けて『文學評論』の訂正を遣つてゐます。今年中に出すと云ふんで一生懸命ですが、思つたよりひまが掛つて困ります。新年號の『ホトヽギス』に何か書けといふ依頼もありますが、到底閑がありますまい。
           −明治四一、一一、二〇『國民新聞』−
 
    ミルトン雜話
 
 お訪ねしたのは木曜日の夕方。非常にお忙しい樣子で、年末までに書き上げねばならぬものがあるので、近頃は書物の一頁も讀めない程だと云つて居られた。で、そちらから問題を出せとの事に、例の Poe が“Paradise Lost”を評して、あれは短い詩を連ねたもので、其れを散文で補綴《つぎはぎ》してゐる、元來 Long Pem といふ文字からして矛盾してゐるといふやうな事を云ひましたが、……と云ひかけると、氏は
 「左樣、Poe は元來 lyric を好んで、epic なんどは駄目だといふ意見を持つてゐた。で、自分の“The Raven ”などは大分得意の作であるらしい。私は“Paradise Lost”の愛讀者でも無し、又西洋人でもないから深くは解らぬが、“Paradise Lost”と“The Raven”とは到底比較にならぬ。と云ふのは、分量の多少や、巧拙の程度で云ふんで無い、讀んだ時に耳に訴へる感じに就てである。先づ“The Raven”は Trochaic の tetrameter で初まつてゐる。内容の意味は扨置いて、讀んだ時の感じは非常に輕快である。爽かな smooth な調子があると同時に、ハキ/\して齒切りが好い。一言にして云ふと氣の利いた江戸ツ兒語と云つた調子である。“Paradise Lost”は中の subjct を離れても、調子が重い。御承知の通り brank verse で、Iambic pentameter を使つてあるが、非常に長い字や六づかしい字が出て來て、調子が augsut な響を持つて居る。云はゞ、金の草鞋を穿いてドタリ/\と歩いてゐると云つた氣持がする。それで Poe の輕快といふ意味から見ると“Paradise Lost”は heavy でせう、が又 Milton の方から云ふと。“The Raven”は惡くいへばラツパ節みたいなものぢや無いですか。
 「若し reading の方から云つて、私共に面白いのは“The Raven”です。旨い工合に調子づいてゐる。“Paradise Lost”も勿論調子はとれてゐるが、其の調子たるや壯嚴雄大で、或る部分は――むしろ或る部分を除くの外は、大聲不入俚耳の傾がある。之は Subject と關係あるが、趣味から云つても調子から云つても、Milton のものは皆 Latin 語から來てゐるので、Poe などには見られない處です。
 「 Milton の散文は殊に Latin 語の飜譯で、全然 Latin 的な heavy な堂々たる調子がついてゐる。小説などには書けないものですねえ。だから日本人が讀むと、餘り嚴かで讀めない傾がある。のみならず、五行も十行も續いた文章で dependent clause が多い、maze(迷路)に入つたやうなもので、何處に subject があるのか predicate があるのか判らぬ。然しそれでゐて西洋人には面白いのでせうね。云はゞ源氏物語や平家物語が、解らぬながらも一篇の趣が面白く讀まれるといふのも同じ譯でせう。だけども我々日本人には何うしても讀み苦しい。殊に教へるとなると苦しくて堪らぬ。私は甞て早稻田大學で、Milton の“Areopagitica”を先任教師から受繼いで教へた事があつたが、何うも解らなかつた。解るやうで解らない。解らないながらも試《や》つてゐたのですから、當時の生徒は嘸迷惑した事と思ふ。今でも思ひ出しては赤面の至りだが、之は啻に私が若年であつた計りでない、恐らく誰が教へても十分教へ込む事は出來ないだらうと思ふ。
 「あの時代は皆恁んな文章を書いたもので、Milton より少し前の「Richard Hooker の有名な“Ecclesiastical Polity”なども、Latin の語格を英語に輸入したので、六づかしい文章となつてゐる。一寸御覽なさい。」
 と氏は立つて同著の第一卷を持ち出して第一章の初を指された。sentence の長いこと此上もない。二三十行目にピリオドがある。Milton の“Areopagitica”も出して示されたが、sentence の長い事之にも讓らないほどであつた。
 「マア恁んなものです。今再び“Areopagitica”を教へる勇氣があるかと問はれても、矢張り苦しいでせうよ。だが“Paradise Lost”などは詩として讀めば、口調の莊嚴な點はラツパ節よりは有り難いでせう。“Macbeth”に在る有名な
  This my hand will rather
  The multitudinous seas incarnadine
の二行目に在るやうな長い文字を使つて調子を重くする遣り方はEi−tOnも旨かつた。pentameter の中に、地名や神話中の人名などを一行ほど連ねたり、又長い字を疊み込んだりして、滑かで莊重な調子を作るといふのが好く Milton に在る。好い例でもないが“Paradise Lost”の第三卷
  Thee,Father,first they sung.Omnipotent,
  Immutable,Immortal,Infinite,
  Eternal King;thee,Author of all being,
  Fountain of light,……………
の疊み方や第二卷の
     ……………,by them stood
  Orcus and Ades,and the dreaded name
  Of Demogorgon;Rumour next,and Chance,
  And Jumul1t,and Confusion,all embroiled,
  And Discord with a thousand various mouths,
などでも解る。」(文責記者に在り――H生)
         −明治四一、一二、一『英語青年』――
 
    「私の經過した學生時代」
 
     一
 
 私の學生時代を回顧して見ると、殆んど勉強と云ふ勉強はせずに過した方である。從つてこれに關して讀者諸君を益するやうな斬新な勉強法もなければ、面白い材料も持たぬが、自身の教訓の爲め、つまり這麼不勉強者は、斯ういふ結果になるといふ戒を、思ひ出したまゝ述べて見よう。
 私は東京で生れ、東京で育てられた、謂はゞ純粹の江戸ツ子である。明瞭《はつきり》記憶して居らぬが、何でも十一二の頃小學校の門(八級制度の頃)を卒へて、それから今の東京府立第一中學――その頃一ツ橋に在つた――に入つたのであるが、何時も遊ぶ方が主になつて、勉強と云ふ勉強はしなかつた。尤も此學校に通つてゐたのは僅か二三年に止り、感ずるところがあつて自ら退いて了つたが、それには曰くがある。
 此の中學といふのは、今の完備した中學などとは全然異つてゐて、その制度も正則と、變則との二つに分れてゐたのである。
 正則といふのは日本語許りで、普通學の總てを教授されたものであるが、その代り英語は更にやらなかつた。變則の方はこれと異つて、たゞ英語のみを教へるといふに止つてゐた。それで、私は何れに居たかと云へば、此の正則の方であつたから、英語は些しも習はなかつたのである。英語を修めてゐぬから、當時の豫備門に入ることが六ケ敷い。これではつまらぬ、今まで自分の抱いてゐた、志望が達せられぬことになるから、是非廢さうといふ考を起したのであるが、却々親が承知して呉れぬ。そこで、據なく毎日々々辨當を吊して家は出るが、學校には往かずに、その儘途中で道草を食つて遊んで居た。その中に、親にも私が學校を退きたいといふ考が解つたのだらう、間もなく正則の方は退くことになつたといふわけである。
     二
 既に中學が前いふ如く、正則、變則の二科に分れて居り、正則の方を修めた者には更に語學の力がないから、豫備門の試驗に應じられない。此等の者は、それが爲め、大抵は或る私塾などへ入つて入學試驗の準備をしてゐたものである。
 その頃、私の知つてゐる塾舍には、共立學舍、成立學舍などといふのがあつた。これ等の塾舍は隨分汚いものであつたが、授くるところの數學、歴史、地理などいふものは、皆原書を用ひてゐた位であるから、なか/\素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廢《よ》してから、暫く、約一年許りも麹町の二松學舍に通つて、漢學許り專門に習つてゐたが、英語の必要――英語を修めなければ靜止《ぢつと》してゐられぬといふ必要が、日一日と追つて來た。そこで前記の成立學舍に入ることにした。
 この成立學舍と云ふのは、駿河臺の今の曾我柘準さんの隣に在つたもので、校舍と云ふのは、それは隨分不潔な、殺風景極まるものであつた。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒユウ/\と吹き曝し、教場へは下駄を履いたまゝ上がるといふ風で、教師などは大抵大學生が學資を得るために、内職として勤めてゐるのが多かつた。
 でも、當時此の塾舍の學生として居た者で、目今有要な地位を得てゐる者が少くない。一寸例を擧げて言つて見ると、前の長崎高等商業學校長をしてゐた隈本有尚、故人の日高眞實、實業家の植村俊平、それから新渡戸博士諸氏などで、此の外にも未だあるだらう。隈本氏は其の頃、教師と生徒との中間位のところに居たやうに思ふ。又新渡戸博士は、既に札幌農學校を濟して、大學選科に通ひながら、その間に來てゐたやうに覺えて居る。何でも私と新渡戸氏とは隣合つた席に居たもので、その頃から私は同氏を知つてゐたが、先方では氣が付かなかつたものと見え、つい此の頃のことである。同氏に會つた折、
 「僕は今日初めて君に會つたのだ」と初對面の挨拶を交はされたから、私は笑つて、
 「いや、私は貴君《あなた》をば昔成立塾に居た頃からよく知つてゐます」と云ふと、
 「あゝ其那ことであつたかね」と先方《むかう》でも笑ひ出されたやうなことである。
     三
 英語に就ては、その前私の兄がやつてゐたので、それについて少し許り習つたこともあるが、どうも六ケ敷くて解らないから、暫らく廢《よ》して了つた。その後少しも英語といふものは學ばずにゐた者が、兎に角成立學舍へ入ると、前いふ通り大抵の者は原書のみを使つてゐるといふ風だから、教はるといふものゝ、もと/\素養のない頭にはなか/\容易に解らない。從つて非常に骨を折つたものであるが、規則立つての勉強も、特殊な記憶法も執つたわけではない。
 又、英語は斯ういふ風にやつたらよからうといふ自覺もなし、唯早く、一日も早くどんな書物を見ても、それに何が書いてあるかといふことを知りたくて堪らなかつた。それで謂はゞ矢鱈に讀んで見た方であるが、それとて矢張り一定の時期が來なければ、幾ら何と思つても解らぬものは解る道理がない。又、今のやうに比較的書物が完備してゐたわけでないから、多く讀むと云つても、自然と書物が限られてゐる。先づ自分で苦勞して、讀み得るだけの力を養ふ外ないと思つて、何でも矢鱈に讀んだやうであるが、その讀んだものも重にどういふものか、今判然と覺えてゐない。さうかうしてゐる中に豫科三年位から漸々《だん/\》解るやうになつて來たのである。
 私は又數學に就ても非常に苦しめられたもので、數學の時間にはボールドの前に引き出されて、その儘一時間位立往生したやうなことがよくあつた。
 これは、大學豫備門の入學試驗に應じた時のことであるが、確か數學だけは隣の人に見せて貰つたのか、それともこつそり見たのか、まアそんなことをして試驗は漸つと濟したが、可笑しいのは此の時のことで、私は無事に入學を許されたにも關らず、その見せて呉れた方の男は、可哀想にも不首尾に終つて了つた。
     四
 成立學舍では、凡そ一年程も通つたが、その翌年大學豫備門の入學試驗を受けて見ると、前いうたやうにうまく及第した。丁度それが十七歳頃であつたと思ふ。一寸こゝで、此の頃の豫備門に就て話して置くが、始め豫備門の方の年數が四ケ年、大學の方が四ケ年、都合大學を出るまでには八年間を要することになつてゐたが、私の入學する前後はその規定は變じて、大學三年、豫備門五年と云ふことになつた。結局《つまり》總體の年數から云へば前と聊か變りはないが、豫備門丈けでいふと、一年年數が殖えたことになり、その豫備門五年をも亦二つに分ち、豫科三年、本科二年といふ順序でした。
 それで、豫科三年修了者と、その頃の中學卒業生とを比べて見ると、實際は豫科の方が同じ普通學でも遙に進んでゐたやうに思はれた。即ち豫科の方では動物、植物、その他のものでも大抵原書でやつてゐた位であるが、その時の豫科修了者は、中學卒業生と同程度といふことに見做されることになつた。だから中學卒業生は、英語專修科といふに一年入ると、直ぐ豫備門本科に入學することが出來たのである。規則改正の結果、つまり斯ういふことになつたので、豫科を經てゆく者より、中學を卒業して入つた者の方が二年だけ利益《とく》をすることになる。
 私などは中學を途中で廢して、二松學舍、成立學舍などに通ひ、それから豫科に入つたのであるから、非常に迂路《まはりみち》をしたことになる。其那事ではむしろ其儘中學を卒へて豫備門へ入つた方が、年數の上から云つても利益であつたが、私ばかりではない、私と同じやうな徑路をもつて進んだ人が澤山あつた。その人達は先づ損した方の組である。
 で、私は比の豫備門に居る頃も殆んど勉強はしなかつた。此の當時は家から通はずに、神田猿樂町の或る下宿屋に、今の南滿鐡道の副總裁をして居る、中村是公といふ男と一所に下宿してゐたものであるが、朝は學校の始業時間が定つて居るので、仕方なく一定の時間には起床したが、夜睡眠の時間などは千差萬別で、殆んど一定しなかつた。
 矢張り、此の頃も學科に就て格別得意といふものはなかつた。中にも敷學、英語と來ては最も苦しめられた方であるが、と云つて勉強もせずに毎日々々自由な方針で遊び暮してゐた。從つて學校の成績は次第に惡くなるばかりで、豫科入學當時は、今の芳賀矢一氏などと同じ位のところで、可成一所にゐた者であるが、私の方は不勉強の爲め、下へ下へと下りてゆく許り。その外、當時の同級生には今の美術學校長正木直彦、專門學務局長の福原鐐二郎、外《〔?〕》國語學校の水野|繁《〔錬〕》太郎氏などがあつて、それ等の人はなか/\出來る方であつたが、私達遊び仲間の連中は總て不成績で、漸次、是等の諸氏と席の方が遠ざかるばかりであつた。
     五
 不勉強位であつたから、どちらかと云へば運動は比較的好きの方であつたが、その運動も身體が虚弱であつた爲め、規則正しい運動を努めてやつたといふのではない。唯遊んだといふ方に過ぎないが、端艇競漕《ボートレース》などは先づ好んで行《や》つた方であらう。前の中村是公氏などは、中々運動は上手の方で、何時もボートではチヤンピオンになつてゐた位であるが、私は好きでやつたと云つても、チヤンピオンなどには如何してもなれなかつた。
 その他運動と云つても、當時は未だベースボールもなく、庭球《テニス》もなかつたから、普通體操位のもので、兵式體操はやらなかつた。要するに運動といふより氣儘勝手に遊び暮したといふ方で、よく春の休みなどになると、机を悉皆《すつかり》取片附けて了つて、足押、腕押などいふ詰らぬ運動――遊びをしては騷いでゐたものである。試驗になつてもさう心配はしない。「我豈に試驗の點數などに關せんや」と云つたやうな考で、全く勉強といふ勉強はせずに居たから、頭脳は發達せず、成績はます/\惡くなるばかり。一體私は頭の惡い方で――今でも然うだが――それに不勉強の方であつたから、學校での信用も次第と無くなり、遂ひに豫科二年の時落第といふ運命に立ち至つた。
 落第して見ると誰も同じこと、さすがに可い氣持はせぬ。それからは前と違つて、眞面目に勉強もするやうになつたが、矢張り人普通のことをやつたまでで、特別に嚴しい勉強を續けたといふのではない。
 教場へ出てゐても前と異つて、たゞ非常に注意して教師のいはれるのを聞くやうにしたと云ふ位のものであつた。眞面目に勉強し、學校に出ても眞面目に教師のいふことを注意して聞くやうにすれば、然う矢鱈に苦しまなくとも、普通ならやつてゆかれることと思ふ。だから、私は假令《よし》眞面目な勉強をするやうになつた後でも、試驗の前々から決して苦しむやうなことはせず、試驗のその前夜になつて、始めて險べて置くといふやうな方法を採つてゐた位である。
     六
 丁度豫科の三年、十九歳頃のことであつたが、私の家は素より豐かな方ではなかつたので、一つには家から學資を仰がずに遣つて見ようといふ考へから、月五圓の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら豫科の方へ通つてゐたことがある。
 これが私の教師となつた始めで、其私塾は江東義塾と云つて本所に在つた。或る有志の人達が協同して設けたものであるが、校舍はやはり今考へて見ても隨分不潔な方の部類であつた。
 一ケ月五圓と云ふと誠に少額ではあるが、その頃はそれで不足なくやつて行けた。塾の寄宿舍に入つてゐたから、舍費即ち食糧費としては月二圓で濟み、豫備門の授業料といへば月僅に二十五錢(尤も一學期分宛前納することにはなつてゐたが)それに書物は大抵學校で貸し與へたから、格別その方には金も要《かゝ》らなかつた。先づ此の中から湯錢の少しも引き去れば、後の殘分は大抵小遣ひになつたので、五圓の金を貰ふと、直ぐその殘分丈けを中村是公氏の分と合せて置いて、一所に出歩いては、多く食ふ方へ費して了つたものである。
 時間も、江東義塾の方は午後二時間丈けであつたから、豫備門から歸つて來て教へることになつてゐた。だから、夜などは無論落ち附いて、自由に自分の勉強をすることも出來たので、何の苦痛も感ぜず、約一年許りもかうしてやつてゐたが、此の土地は非常に漏氣が多い爲め、遂ひ急性のトラホームを患つた。それが爲め、今も私の眼は丈夫ではない。親はそのトラホームを非常に心配して、「兎に角、そんな所なら無理に勤めてゐる必要もなからう」といふので、塾の方は退き、豫備門へは家から通ふことにしたが、間もなくその江東義塾は解散になつて了つたのである。
 それから、後の學資はいふまでもなく、再び家から仰いでゐたが、大學へ進むやうになつてからは、特に文部省から貸費を受けることとなり、一方では又東京專門學校の講師を勤めつゝ、それ程、苦しみもなく大學を卒へたやうな次第で、要するに何の益するところもなく、私は學生時代を回顧して、むしろ讀者諸君のために戒とならんことを望むものである。
          −明治四二、一、一『中學世界』−
 
    文壇の變移
 
 日本の文壇が將來どうなるだらうか? それは仲々複雜な問題で、到底一口には話せない。第一豫知すると云ふ事が既に困難な問題なのだから、事實に依つて現はれて來るのを待つより外ない。で、ざつと云つて見れば、國や、時代に依つて或る種類のものが非常に流行する。處が此の流行と云ふものは到底續けて永く一|所《ところ》に留る事は出來ないものだ。之れは何れも其の作物に價値がないと云ふのぢやないが、或る一定の時期を過ぎると新しい刺激を失ふ。さうすると今迄は一向に氣が附かなかつた點が、之れは勿論作物の始めつから附いて居た點ではあるが、それが自ら明瞭になつて來る。つまり、餘炎《ほとぼり》が冷めて來ると冷靜な觀察を始める。すると例へ其流行の作物が如何なる種類の作物でも、又如何なる程度の高い作物でも、人がそれに滿足せられなくなる。さうして何か變化をした者を要求する。其變化はどう變化して佳いかと云ふ事は分らないでも、只何か變化發展して貰ひたい氣がする。之は讀者側の方から云つた話だが、作家の方は寧ろ讀者の方よりも前に此事を感ずるのが順序だ。で、人々は或る意味に於て變化をするのだが、其時に突然衆人の豫期したものに當る作家がある。是れは作家自身も全然知らずに居て、其人は衆人から豪く歡迎される。是れが一つである。それからもう一つはそれ程衆人の豫期しない、只一部の人の待つものに新しい領分を見出す作家もある。で、前の方の場合は概して重に今迄の作家とは反對の性質を持つてゐるものが多い樣に思ふ。それから今迄の作物が大分書き盡された樣な場合に多い。さうして後者の方の場合には反對でなくつて變化になる。これはまだ今迄書く事を獵《あさ》り盡されぬ時の場合に多い。まあ大勢はかうであると思ふ。
 で、今の日本の文壇の有樣はどうだと云ふに、或る一種の傾向、例へは人が認めて自然主義と云ふ樣な、まあ一つの團體があるのであるが、是れが丁度柿の樣に自然に熟して、自然に地に落ちる。かう云ふ具合に自然の經過に從つて、一種類のものを遣り盡して他に移るか?どうかと云ふのに、決してそんな餘裕のある場合でない。文壇の連中は悉皆《みんな》急激黨許りで、とても待つてなぞはゐない。では何故《なぜ》待つてゐないのかと云ふに、其原因は頭脳《あたま》が急《いそが》しい、少しも沈重《おちつ》いてゐない世の中に連れて始終動搖してゐる。是れが一つ。それからもう一つは、自分が他の者より先へ出よう/\と云ふ心持ちから起つて來る。最後の一つは、人間の自然の傾向から來るのだが、作物の上に於て格段なる反抗が盛んに起る。つまり人の反對に出懸けようとする。で、かう云ふ具合に眞似るものが一團をなして闘ふ。丁度まだ柿の熟して落ちないうちに、他の新しい柿が熟して來る。從つて一部分の滿足を得る樣なものより外出來なくなつて來る。一般の者を統べると云ふ事は到底出來ない事である。凡てが相對的のものになつて、反對の傾向を帶びると云ふよりも、局部の變化したものになつて進んで行く。何時の間に變つて來たかと思ふ樣にぐらついて變つて行く。故に今迄は何派だが明日からは何派に變ると云ふ樣な事はない。名前はどうでも着けられるが、事實はさう明かなものではないのだ。つまり互が互に影響する。其處でさう云ふ風に互に獵り盡されないうちに壓し壓されてお互の影響を受けるから、互に異を立てるにも係らず、互に共通の分子を持つて來る。從つて其の性質はどうかと云ふに、何處迄も我が特色を有して行くうちに、即ち我が異を立てるうちに、人の特色も認める事が出來る樣になる。即ち共通性が生じるに連れて、特殊性も發達してくる。それで幾つもある團體が此過程を蹈んで一方には互に衝突して分れて行く。又一方には衝突する度に、縁が近くなつて、お互を了解するの結果、ある意味に於て共通性を帶びて來る。斯樣に團體が割れて行くとそれが進んで同團體内の個人と個人が同じ過程を踏む樣になつて來る。かうなつて來た極は、大きな團體は自然に忘れられて、本當の差違は個人間の差違丈になつて來ると云ふ樣な状態になるのが大勢であると思ふ。
 之れを要して言ふと、今の日本の文壇には自然主義と稱する樣な一つの團體がある樣だが、これは必ずしも永く天下を保つてはゐられない。必つと分れ分れになつて來る。個人と個人になる事であるに相違ない。
 第一考へて見ても天下と云ふものはさう無事のものではない。それからまだ此の外に生活問題から來る影響や、外國文學から來る影響だの、到底短い事には十分に話をする事は出來ないのだ。
          −明治四二、一、一『秀才文壇』−
 
    私のお正月
 
      ▲氣樂な正月
 
 私の家には老人もなく、別にやかましく云ふものもなく、私が主人で、私が祖先のやうになつて居ますから、無理に古きを追はねばならぬと云ふ事もありませんから、平素の生活が簡易である如く、正月も矢張り簡單で、頗る氣樂であります。ですから、元旦だからとて、皆が手をついて、おめでたうといふでもなく、只だ屠蘇を飲み、雜※[者/火]を喰つて、新春を祝ふ位なものです。門松を立て注連は玄關に飾るが、家の内には吊らさない。年賀の客は、多く若い人で、四角張つた人は來ないから、別に來客に對する饗應とて、待ち受けの儀式もご馳走もない。そして、私は、廻禮もせず、賀状も出しません。又、遠方に遊ぶと云ふでもありませんから、極|安閑《ひま》な正月をするのです。
 
      ▲子供には特に音樂を習はす
 
 子供は十一を頭に、舊臘十二月十六日生れの赤ぼを合せて、六人ある。上四人は女の子で、下二人が男の子です。家庭はなか/\賑やかなものであるが、私も干渉しませんが、家内も干渉しませんから、まあ、自由放任と云ふ所です。それ故女の子達も、繩飛びもすれば、ぶらんこもする。歌かるた、トランプもすれば、羽根つきもする。別に奨勵もしないが、束縛もしません。只だ、音樂は、特に稽古させてある。長女は琴を習つて居ます。
         −明治四二、一、一『明治之家庭』−
 
    「文士と酒、煙草」
 
 私は上戸黨の方ぢやあ有りません。一杯飲んでも眞赤になる位ですから、到底酒の御交際《おつき》は出來ません。大抵の宴會にも出ない方です。酒を飲んで、氣分の變る人は、何だか險難に思はれて仕樣がない。何日か倫敦に居る時分、淺井さんと一處に、とある料理屋で、たつたビール一杯丈飲んだのですが、大變眞赤になつて、顔がほてつて街中を歩くことが出來ず、隨分、困りました。日本では、酒を飲んで眞赤になると、景氣がつくとか、上機嫌だとか言ひますが、西洋では、全く鼻摘みですからね。烟草は好きです。病中でもやめられません。朝早く眼醒めた時にも、食後にも喫みます。成るべくシガーがいゝのですが、廉くないので、大抵は敷島などを吹かしてゐるのです。日に二箱位は大丈夫でせう。一體、西洋では日本人のやうに不規則に所嫌はず煙草を喫まないやうです。勿論、エリザベス時代には、物好きな人があつて、寢る時に床の近くへ煙草の道具を持つて這入つて、すぱ/\やつたさうですが、之も例外の方です。今は左樣なことはしない。大抵、食後にやるのです。
          −明治四二、一、九『國民新聞』−
 
    小説に用ふる天然
 
 天然を小説の背景に用ふるのは、作者の心持ち、手心一つでせう。天然を作中に入れて引き立つ場合もあれば、入れなくても濟む場合もある。私はどちらとも言ひかねます。
 現にゼーン、オーステン女史の如きは、其の作中に天然を用ゐたところがない樣に記憶してゐます。全く人間ばかりを畫いて居たかと思はれる。トマス、ハーデー氏の如きは、天然を背景に用ゐて居るが、それは、ウヱツセツクス附近の光景に限つたもんで、其地方的特色がハツキリと浮び出て居る。同氏の小説は、一名ウヱツセツクス小説と言はれて居る位で、其背景に用ゐた天然が、巧みに作中にある、人物の活動や、事件の發展を助けて居るやうです。だから此人の作からは殆んど天然を切り離す事が出來かねる位です。スチブンソン氏も亦、其の作中に、天然を用ふる側の人で、背景の趣が如何にも繪畫的に鮮明に見えます。而して其の天然は靜的よりも、動的の方面が多く、又それに深い興味を持つて居るやうです。即ち風の吹きすさむ有樣や、雨の降りしきる光景を、さながらに寫し出すことが上手である。而して、其の觀察力は頗る神經的に鋭敏で、細かいところも脱さぬ爲めに、いき/\した感じを與へます。全體を通じて、其の溌剌たる才氣と、眼の好惡の極めて鋭い處を現はして居るやうです。
 コンラツド氏になると、其の小説の中に天然を描くことが、人一倍好きな所が見えます。而《そ》して、其の背景に、多く海を用ふるのは、氏が若い時から船に乘つて朝晩、海上の光景に親しんだ影響にも依るのでせうか。其作中には、舟火事、難船、航海、暴風雨などを細かく寫したところに、一種獨特の筆致が見えるし、作物の上に、多少の色彩を加味するやうにも思へるが、天然の活動を描く方に氣を取られ過ぎて、ともすると、主客顛倒の現象を呈する事があります。
 メレデス氏の場合には、其の戀物語などの背景として、それにふさはしい詩的な光景を描くことがあります。一口に言ふと、氏の書き方は曲つたねぢくれた書方ですが、自然に對する強烈な感じを、色や、匂ひなどの微妙な點に現はして、詩的な戀物語めいた小説の背景に、ふさはしいやうに出來上つて居る。且つ氏は、普通の物象を普通以上に鋭く濃かに畫いて、強い印象を與へんとして居るやうです。
 之を概括すると、ゼーン、オーステン女史は、作中に天然を用ゐないでも、巧に纏まつた作を出して居りますが、コンラツド氏に至ると、天然に耽るの結果、背景に取り入れた天然の爲めに、却つて一篇の作意を打壞はして居る事があるやうです。他の三氏は、此の中間をいつて、天然を背景に用ゐて、適當の調和を得て居るのみならず、其の作意をも助けて居る點があります。して見ると、天然を作中にとり入れるについては、よいとも、惡いとも言へない。畢竟は、其の時と、場合と、事柄とを考へて、適宜に用ふるの外はありますまい。
         −明治四二、一、一二『國民新聞』−
 
    ポーの想像
 
 去年の九月、本間といふ人の『名著新譯』に序文を送つた。それに書いて置いた事、それ以上に僕の智識は無い。其の文句の復習《おさらへ》でもするより外にない。
 以前に Poe の作物を讀んだ時の感じが僅かに殘つてゐるばかりで、格別研究しようともしなかつた。で、其の漠然たる感じと云ふのは、先づ何でも非常な想像家であつた。而かも其の想像たるや人情或は性格に關する想像でない、云はゞ事件構造の想像、即ち Constructive imagination である。而かも其の事件は、日常聞睹の區域を脱した supernatura もしくは superhuman な愕くべき別世界の消息である。此の愕くべき別世界と云ふのは、彼の詩の“The Raven”に歌つてあるやうな内面的の幽玄深秘で無い、極く外面的な主として讀者の好奇心を釣つて行くと云つた風の、惡く云へば荒唐不稽な嘘話を作るに在る。併し嘘の想像譚と云つても、一種の scientific process を踏んだ想像でそれを精密に明噺に描寫してゐる。こんな風の、とても常人の思ひ附く事も出來ないやうな想像の働き……之に付ては後に附言をしませう。
 さて又序文には短篇作家としての Poe の事を一言した。所謂三卷小説の例を打破した獨創的作家で、今日の短篇的傾向を豫言したものである。彼と今一人の Bret Harte との二人が同じくアメリカ人で、又同じく短篇作家の祖たる名譽を擔つてゐるのは、好く人の云ふ事で、國と人と年代との關係に付て別に一考すべき事柄だと思ふ。
 以上は單に此の序文の復習をしたに過ぎないが、今少し Poe の想像に付て附け足しをしてみよう。一體明かな想像……前に精細且つ明晰な描寫と云つたが、其れは勿論圖拔けて豐贍な想像力がなければ出來ない事で、其の想像にも色んな種類があるが、其の中で、茲に云ふ明かな想像と云ふのは Poe や Swift の如きを意味する。それで二人の比較をすると、Swift は――素より其の作の或る物に付て云ふのだが――何等かの寓意ある架空譚を作つたのであるが、其の寓意と云ふ事を離して云つてみると、其の描寫の仕方が如何にも exact に出來てゐる、objectively に exact に書いてある。委しく云ふと物の大小とか、位置とか部分と部分との關係とか是等が如何にも exact に描いてある。詮じ詰めれば斯かる特點の想像は number に歸着する。例へば Swift の小人島の住人を六インチあるとして置いて、其れを持主とする小人島の物品器具、即ち火鉢とか皿とかは、皆其の六インチに比例して大小が出來てゐる。物の exentiOn 若しくは magnitude の proportion を明かにしてゐる。其の爲めに種々の形容を使つてゐるが、要するに歸着する處は number の觀念を人に與へると云ふ事になる。
 其れが Poe になると更に甚しい。Swift は何倍、何寸とか云ふ種類の exaction を以てする想像家の一人で、云はゞ素人としての exact であるが、Poe になると其れが專門技師の設計の如くに、より exact になる。scientific imagination である。斯かる緻密な想像はMathematiaal な clear head が無くては駄目なのであるが、此の點から見て Poe は Swift よりも大變進んでゐる。だから何うして危んな事を想像する事が出來たかと驚くよりも、何うして恁んなに精密に、數學的に想像する事が出來たかと驚く事になる。
 以上は無論 Poe の全體を盡した論ではない。只其の一面の特色に付てのみ云つたのである。夫れも亦、construction の想像と style の想像と、又 construction の想像だけでも、何と何との種類に歸着するかと云つた方の問題にも觸れてゐない。それを云つてると隨分長くなりさうだから、特色のホンの一部を見た丈のお話に止めて置く。(談話筆記――H生)
           −明治四二、一、一五『英語青年』−
 
    「予の描かんと欲する作品」
 
 如何なるものを描かんと欲するかとの御質問であるが、私は、如何なるものをも書きたいと思ふ。自分の能力の許す限りは、色々種類の變化したものを書きたい。自分の性情に適したものは、なるべく多方面に亙つて書きたい。然し、私のやうな人間であるから、それは單に希望丈けで、其希望通りに書くことは出來ないかも知れぬ。で、御質問に對して漠然としたお答へではあるが、大抵以上に盡きて居る。私は、或る主義主張があつて、其主義主張を創作に依つて世に示して居るのではない。であるから、斯う云ふものを書いて斯うしたいと云ふ、局部的な考へは別にない。從つて、社會一般に及ぼす影響とか、感化とか云ふけれ共、それも、作物の種類、性質に依つて自ら生じて來るものであるから、斯う云ふ方面の人を、斯う云ふ風に、斯う云ふ點で影響しようと云ふのは、茲に判然と具象的に出來上つたものに就て云ふことで、それを、作物の未だ出來上つて居ない未來のことに就て、今茲に判然と云ふことは出來ない。
 では過去の作物に就て話せと云ふのですか。では貴方の方で質問を呈出して下さい。それに就てお答へすることにします。『處美人草』の藤尾の性格は、我儘に育つた我の強い所から來たのか、自意識の強いモダーンな所から來たのかと云ふのですか。それは兩方に跨つて居る。單に自意識の強いモダーンな所を見せようと云ふ、それを目的にして書いたなら、あゝは書かなかつたであらう。併し一面に於てはそれも含んで居る。從順な女と、我の強い女を、藤尾と糸公に依つて對照させ、そして、然うした性格の異る二個の女性の運命を書いて見せたのかと云ふのかね。別に然んな考へはない。必ずしも自意識の強い女はあゝ云ふ風に終るもので、お糸のやうに順良な女は、あゝ云ふ結果になると定つたものではない。從つて、あの作に異つた性格を有する二個の女性の運命が書いてあるからと云つて、直にあの作に依つて世間全體のあゝした性格の女性を説明し盡したと思はれては困る。兩方ともあゝ云ふ性格の女はあゝなると定つては居ない。唯、パテイキユラー、ケースがあゝなると云ふ丈けで、全體があゝ云ふ運命になると云ふことは含んで居ない。
 で、あゝした二個の女性を描き、あの事件を發展させ、そしてあゝした終りになつたのは、何か教訓的意味を含んで居るのではないかとのお尋ねであるが、一體教訓と言へは、所謂昔流の小説に於て、道徳上の制裁を、讀者も、作者も豫期して居た時代に、人の云々した世の中の教訓に合はして拵らへたのかとお聞きになるのならば、然うぢやないとお答へする。それは作家として茲に一種の教訓的の考へを頭に置いて、其考へに都合の好いやうに人物を造り、事件を發展させて作物を捏ね上げたと云ふことは、自分で作家の資格を削り取ると同じことではあるまいか。けれ共、一種の作品が出來て、其作品が、作品として出來上る――即ち作品として外のモーチブに支配を受けないと云ふ意味、更に言葉を換へて詳しく云ふならば、自分が利害關係の爲めに作品を拵らへ上げたとか、或は私憤を洩らす爲めに書き上げたとか、總べて目的の他にある所の作品は、私は作品として出來上つたとは言はない。作品として出來上つたと云ふ意味は、何物の支配命令も拘束も受けずに、作品其物を作り上げるを目的として作られた作品のことである。で、作品として出來上つた所の其作品が、何かの教訓を讀者に與へるなれば、敢て作家の辭する所でない。一向差支へないのである。だから讀者が『處美人草』を讀んで、此の作は斯う云ふ教訓を書くために、それに合せるやうに殊更に作家が筆を曲げて書いたのだと云ふことを感じるなれば、私は其作に殊更故意に書き上げた作爲の痕跡が見える丈け、それ丈け多くの作品としては失敗したものであると言はねばならぬ。
 けれ共、作品としては自然と出來上つたもので、故《わざ》とらしく教訓を狙つて書いたものではないが、自然と出來上つた其作品の中に於て、余は如上の教訓を認め得たと云ふなれば、私は作家として滿足である。其作物に於て是非共現はさなければならぬと云ふ作家の一種の哲學に捉へられて、そして、事件の發展なり、性格の活動なりを、其自分の目的の都合の可いやうに、作家の私で殊更あゝ云ふ結果に持ち來らしたと言はれては、假令、其現はさんとした哲學なり、教訓なりを現はす目的を如何に能く達しても、作家としての私の面目は潰れる譯になる。
 イブセンを能く引合ひに出すやうであるが、イブセンのものを讀むと、彼れは一種の哲學に依つて其作品を作り上げて居るけれ共、然し、其作品を讀んで、作家が一種の哲學に捉へられて書いた作品であるとは思はれない。描き出されて居る人間が動いて居て、シチユエーシヨンが自然に、殊更筆を曲げたやうな痕跡なく、あそこまで煎じ詰められて來て居るのであるから、吾々はイブセンを讀んで、彼れは一種の哲學を發表する爲めに、殊更な非藝術な作品を作つたとは思はないイブセンの作に曲ぐ可らざる生命のあるものは其故だらうと思ふ。所が、バーナード、シヨウになると、私は餘り多くは讀んで居ないが、兎に角自分の讀んだだけの範圍で云ふと、茲に一種の哲學なら哲學があつてそれを現はす爲めに、殊更な劇を組み立てたやうに思はれる。即ち、其哲學に何處までも囚はれて居る。哲學に壓迫された劇である。だから其處にイブセンとシヨウとの間に、大なる差違があるやうに思ふ。即ち同じく哲學を持ち乍ら、其哲學の爲めに作り上げる作品が累ひされて、直ちにそれが讀者の眼に見え透くか、或は自然に作り上げられた作品の中へ、其哲學が疊み込まれるかの別れる處は、ほんの僅かな一線で、其處が呼吸ものだと思ふ。私の『虞美人草』などは問題にもなるまいが、兎に角、其極く幽かな一線の別れ方に依つて、作品として失敗する人と、成功する人とに別れるのである。
 教訓的意味を藝術的作品に依つて、得る必要はないと云ふが、それは、教訓の爲めに作品の價値を曲げては可けないので、自然な作品の中から、自ら教訓が浮いて來るなら一向差支へないと思はれる。で、總ての文藝上の作品は、或る意味に於いて、必ず一種の教訓を持ち來すものである、と私は信じて居る。その教訓の意味とか、何う云ふ譯で教訓になるとか云ふことに就て述べたいが、今は時間がないから略する。尤もこれは今度出版する『文學評論』の中に詳しく書いて置いた。
             −明治四二、二、一『新潮』−
 
    作家としての女子
 
 男女の性《セツクス》は自然に分賦せられて居るものではあるけれ共、教育は男女の別に拘はらず同一の知識を與へる。更らに其れが職業に用ひらるゝ時は、男女と異るところ無く生活を營んで行くのである。其結果此點に於いて、男女のテンペラメント――性質と云はうか――が次第に同化せらるゝ傾きになつて居る樣であります。例へば彼の琴の稽古にしても、男の盲人なぞが習つた琴も、令孃が教へられた琴も、變り無く同樣の音曲節奏となつて現はれる。畫は如何かと云ふと是れも矢張りさうで、或は川端玉章氏に花鳥を學ぶ、跡見女史に何を習ふ、左樣すると其れが書ける。敢て男女にかゝはつた事は無い。尤も題材なぞの取り方が違ふかも知れないが、先づ女子でも男子丈けのものは書ける。又近頃よく婦人の醫師があるがあれは如何でせう。いづれ産科婦人科とか專門の便宜はあらうけれ共、別段女らしい診察と云ふものは無い。感冒には感冒丈けの手當をするに極まつた事でありませう。
 扨て婦人にして小説を職業若くは道樂として居る人があるがあれはどうかとなると、是れは多少|前述《まへ》のものと異つて居るが、併し亦、女だから男子と同樣のものを書くべきもので無いとは云ひ得られないのは勿論である。女であつても其得意とする衣裳や髪容の細かい注意以外に、或は男子の心理状態の解剖を爲し得べき能力あるは、猶ほ男子にして婦人の心理解剖を爲すに等しいものであらう。要は作品の問題で、畢竟佳い作物さへ出來ればそれで宜いのである。外國ではエリオツト女史の如き、隨分男子以上の處まで突き進んで居る者もある。故に其作品から見て、成程※[しんにょう+貞]がは女らしい筆致が見えて居るとか、何とか云ひ得られようけれ共、其れを逆に、其女らしい處が無いから其小説は僞だとか何とか云ふ批評は加へ得られないのであります。
 併し又、一方から作物と作者を分ちて什麼《どう》も恁う云ふ甚しい事を書く樣な女は、嫁にする事は困るとか云ふのは又別で、作物の上には云ひ得られないが作者の上には云つても差支は無い。
 けれ共又、他方から考ふれば作に※[草がんむり/(さんずい+位)]んだ藝術上の我と、然らざる平常の我とは別物であつて、作家は二重人格《ダブルパーソナリテイー》であるべき者だと云つた考へを持つて居るかも知れない。是れも亦不當で無いと思ふのであります。
 女子にして小説に筆を染むる者の出るのは、勿論近代自意識に伴ふ競爭心から來たので、多くは模倣でありませう――尤も男子にだつて其れは免れないが――要するにまだ/\個性を發揮したものは無いのだらうと思はれる。
          −明治四二、二、一『女子文壇』−
 
    『俳諧師』に就て
 
 サア、特製が出ましたね、立派ですよ。批評ですか、さうですね、僕は坂本文泉子の評に賛成してゐる。僕の云ふ事も大抵其れに盡きてるんだからね。
 一體『俳諧師』なんどは新聞でばら/\に讀んでも、一冊に纏つたのを讀んでも、格別異つた印象はない。其の中で佳いのは矢張り十風夫婦の描寫だね。あれほどに性格の活躍してゐるのは無いだらう。併し一體の構造はルーズで、日和見のやうに其の日/\の思ひ附で書いてゐるやうな筆法であるから、書き方にも色んな意味のむらがある。先づ縞柄のむらが目に附く。或所は夜着のやうに大きく、或所は千筋のやうに細かいと云つた風だ。それから調子のむらがある。髪を梳く處などは特に調子の異彩――勿論惡い意味での――を放つてゐる。繁簡のむらは例の浴場の描寫などが然うだ。一冊にする時、著者が如何に書き改めたかは知らないが、新聞に出たまゝだとすると僕は餘り感心しないね。
 フローベルは非常にざつと書いてゐる内に、殆ど比例を失するやうに細かに描寫をやる事がある。併し彼のは餘り平々坦々だから特に色彩を落してみたと云ふ風なので、突然に思はない、妙に感じない。併し『俳諧師』の風呂の處などは徒にくど/\しいいやな氣がする。新聞に現はれた當時、僕ははがきを書いて、さう風呂桶に※[行人偏+※[氏/一]]徊してゐては仕樣が無いでせうと云つて送つた。あつさりと豆腐料理でやつてゐたのが、急に口取づくめになつたやうで嫌だつた。
 まア全體にむらのあるのが『俳諧師』の缺點でせうね。浮世繪が急に土佐繪になつたりすると、讀者の印象が純一で無いから面白味が殺減されるのだと思ふ。
         −明治四二、二、五『東京毎日新聞』−
 
    讀書と創作
 
 どうも閑がなくて、讀書がされなくて困つてゐる。新聞社の小説を書いてゐる間は、忙しくて、勿論讀んで居られず、それを漸つと書いて了ふと、今度は、それまで更に手を着けずに放擲《うつちや》つて置いた、西洋の雜誌三四種に、日本の雜誌もあり、その他外國に注文して置いた書物も來てゐるから、それも讀んで見たいと思ふし、その間には若い人達が書いたものを持つて來て、これを讀んで呉れよとか、批評せよとか言つて來るし、書信の往復もしなければならず、且つ來客への應對もあり、それは隨分忙しい。
 人は、あゝして家に許り閉ぢ籠つてゐるのだから、定めし閑だらうと思ふかも知れないが、如何して其那譯ではない。私は、學校に出てゐる時の方が、今より來客も少し、餘程閑であつた。
 兎に角|恁麼《こんな》風で、致方がないから、その間々の暇を利用して、讀書するやうにはしてゐるが、實際餘り讀めなくつて困つてゐる。
 それで、近頃讀んでゐる物は、無論西洋物許りであるが、それも小説のみに限らず、一體、私は何種の書物でも、讀むといふことは好きであるから、倫理、心理、社會學、哲學、繪畫に關する書物なども、好んで讀むやうにはしてゐるが、何れかと云へば、私は朝は遲し、夜は早く床に就く方であるから、丁度來客もなく、讀書するに最も都合の好い――其樣《そん》な夜は、今度は自分の身體が許さぬといふやうなわけで、無論横になれば、直ぐ眠つて了ふから、床の中で本を見るといふやうなことも更になく、全く私は讀書する暇は僅かしかない。
 創作の方は、書かなければならぬといふ義務があれば、筆を執る氣にもなるが、筆をとれば多少の感興も湧いて來ると云ふ丈けで、非常に興味も感じなければ又特に非常な苦しみも感じない。
 書き始むると、筆は早くもなし、遲くもなし、先づ普通といふところであらう。原稿は一度書いたまゝで後にテニヲハの訂正をする位のもの、時間は、夜でも朝でも晝でも、別に制限はないが、何時にしても、筆を執つてゐる間は、相應な苦しみはある。併し私は、書き始めると、殊更ら勿體をつけて、態と筆を遲らすと云ふやうなことは斷じてしない。
         −明治四二、二、一〇『中學世界』−
 
    メレデイスの訃
 
 ジヨージ、メレデイスが死んだと云ふ外國電報を見て、夏目漱石先生を訪ねて聞いた話。問は自分、答は先生。五月十九日。野上臼川記。
 問 先生はメレデイスの小説を讀みましたか。
 答 大抵皆讀んだ。而《さう》して大變エライと思つてる。
 問 それでは批評して下さい。
 答 批評は急に出來ない。其譯は、纏つた批評の出來る程頭の準備が出來て居ないからである。纏つた批評をしようと思ふと、皆讀み直さなければならぬ。
 問 それは如何いふ譯です。
 答 第一、小説の筋も大抵忘れてしまつたし、其構造も覺えてゐない。たゞ在るものは、是等が變形して百分の頭脳の何物にかなつてゐるもの丈である。既に變形して自分の組織になつてる物を自己以外の或物として出せと云つたつて、どこから出してよいか分らぬ。
 問 それでもメレデイスの感化を受けてるでせう。
 答 無論受けてゐる。今日まで讀んだ本で感化を受けぬ本は殆んど無い。併し感化を受けるのと、其本を覺えるのとは別物である。例へば物を食つたり飲んだりするやうなもので、食つたものの批評も出來ず、味も忘れて仕舞つても、其實體丈は胃の腑から身體へ廻つて、たしかに血肉となつて何時迄も存在してゐる。讀書も批評を目的とするのと、又其筋を記憶することを主とするのと、又批評や筋はどうでも構はない、實際讀んだものが消化れて無形のあるものとなつて頭脳のなかに有意無意の間に存在すれば結構だとするものと、この三通りに區別する事が出來る。
 問 然うすれば先生のメレデイスは其の第三種に屬するのですか。
 答 まア然うだね。例へば僕が人の謠を聞く。それを批評する爲めでも無く、また其通りを眞似る爲めで無いとしても、其謠が何時となしに感化を與へて此方〔二字右○〕の謠が變つて來る場合もあるだらう。本を讀むのも其通りで、別に批評する氣でもなく、又梗概を知る爲でもなく、たゞ無責任に讀んで筋などは大抵忘れて居て、しかも、その實質が、何時か自分の組織の一部分となつてる場合も少くはないだらう。
 問 或本にメレデイスは心理解剖の上に於てジヨージ、エリオツトの後繼者と云ふべき人だと有りましたが、然うでせうか。
 答 エリオツトは全く違ふ。大體の上から云ふと、メレデイスの小説はユニークなものである。あんな小説はメレデイスに始つてメレデイスに終ると云つたらよいだらう。眞似たつて出來ず、又眞似る氣にもなるまい。ことにかのシユーヴイング、オブ、シヤグパツトなどは他に全く類例の無い物である。嚴格に云つたら小説と云ふ可き物では無いかも知れぬが、よく彼んなに盛んな想像力が續かれるものだと思ふ。
 問 誰の小説の特長は何だ、と云ふ樣な事をよく云ふがメレデイスにも然う云ふ事が云へませうか。
 答 夫がつまんで話せる位なら立派に批評が出來る事になるぢやないか。
 問 メレデイスには警句がありますね。
 答 メレデイスにはアフオリズム、警句と云ふ物が多い。あの警句は誰れにも眞似の出來るものぢや無い。オスカー、ワイルドの使ふアフオリズムがよくあれに似てるのがある。併しオスカー、ワイルドのは哲學では無い、氣の利いたウヰツトのやうなものだ。メレデイスのは其が哲學である。
 問 メレデイスが物を書く態度はどんな風ですか。
 答 物を見てもたゞ見た通りに書く人では無い。或は又見た時の感じ丈けを書く人でも無い。メレデイスは物を見て物を感じて、而《さう》してそれを作家として批評的に書く人である。それもイムプリシツトリーでは無く、エクスプリシツトリーに、遠慮なく敍事の間に判斷をしたり講釋をしたりする。其の判斷なり講釋なりには、彼の人間として批評家としてのえらい所が現はれてゐる。且つ他人に望み得べからざる面白い所が現はれてゐる。元來ならこれが邪魔になつて興味を殺ぐ筈であるが、其邪魔をする文句がメレデイスにあつては身上になるのである。
 問 其代り一種の弊に囚はれはしないでせうか。
 答 是等の講釋は動もすると平凡とか陳腐とかに陷り易いものであるが、メレデイスには、そんな弊はない。只時としては厭味に陷る事がある。英語で讀んで居るとそれまでも感じないけれども、もし之を日本語に譯して讀んで見たらばと思ふ事が屡ある。妙な所に間投詞が出て來たり變な擬人法を用ゐたり、をかしな事が多くなるやうである。例を擧げるのが一番分り易いけれども、長くなるから仕方がない。
 問 それはメレデイスと云ふ人間とメレデイスの此やり方に伴ふ短所でせう。
 答 短所には違ひないが、其を没して了へば隨つて長所も又無くなる譯である。眞にメレデイスを味ふ人で無ければ、長所さへも面倒で、贅疣《こぶ》のやうで、讀むに堪へぬだらうと思ふ。今日の日本の多くの小説家の遣り口を正しいものとして見れば、メレデイスは全く駄目である。筋が運んで行く間に作者自身の感想やら意見やらが續々紛出して半分以上は入らぬ物になつて仕舞ふ。
 問 メレデイスは隨分理窟つぼい小説家ですね。
 答 一面では理窟を述べると同時に、一面では極めて詩的な事を書く人である。同じ美しい所を書いても、ダンヌンチオなどの樣な芝居の背景じみた美くしさとは大分趣を異にして居る。描かれる自然のうちに、一種の陽炎の如き感情が斷えずちらついてゐる。鏝でベト/\と塗り附けたのでは無く、感じで描くから情景が躍動して居る。例へば女が月の夜に森の中で竪琴《ハーブ》を彈じて居る所がサンドラ、ベロニにある。それからリチヤード、フエヴアレルの初めにルーシーと云ふ女が男と逢ふ所が描いてある。其他※[エに濁点]ニスの水にゴンドラを浮べて橋の上から見下ろす男と應對をしたり、月の夜に馬を飛ばして戀人に逢つたり、或は廣い海の中で男と女が海豚の如く泳ぎ回つたり、色々な場面があるが、悉く一種の詩趣を帶びてゐる。しかも決して糊細工の樣な浪漫的《ロマンチツク》の臭氣を帶びてゐないから面白い。
 問 英國人の書いた物を見ると、皆メレデイスを褒めて居るが、實際其んなに廣く賞翫されて居るのでせうか。
 答 メレデイスは決してボピユラーな作家では無い。メレデイスの本には第一、二三十錢のチープ、エデイシヨンが一つもない程である。それにも拘らず雜誌などで、メレデイス程惡口を云はれぬ人は無い。まるで國寶か何かの樣に考へて居ると見えて、英國では皆んなが第一流と認めて尊敬を拂つて居るらしい。藝術《アート》としての小説を論ずる時などは、いつでもメレデイスかハーデイーを引合に出す。例へばホール、ケーンの惡口を云ふ爲めには其反對の例として、メレデイスを引合に出すと云ふやうな事が多い。併し一方で此んなに尊敬を拂つて居る人も、其の實どの位の程度までメレデイスを讀んで居るかは疑問である。
 問 メレデイスは最初から評判のよい作家だつたのでせうか。
 答 然うぢやない。初めは頗る評判の惡い小説家だつた。シエーヴイング、オブ、シヤグパツトの出たのが一八五六年で、それから二年程後れてリチヤード、フエヴアレルが出た。少數の人は認めてゐたが、一般の評判は此頃からよくなかつた。其後|約《およ》そ五十年しても――一九〇四年頃の話であるが――メレデイスがまだ此んな事を云つて居る。イギリスの人間は自分の事は何も知つて居ない。彼等と自分との間には相容れぬ處があると見える。書物が出る度にいつも惡口ばかり云はれて居る。初めの一二度は氣にした事もあるが、其以來は自分は自分の氣に入る爲めに書いて居る。此の言葉を見てもメレデイスは自ら普通の英人氣質を以て任じて居ない事が分かる。
 問 メレデイスは普通の英人ぢやなくつてケルトの血が交つてるのでせう。
 答 アイリツシとウヱルシの混合ださうだ。
      −明治四二、五、二一-二二『國民新聞』−
 
    感じのいゝ人
    ――「故二葉亭氏追憶録」――
 
    我文壇に雄鎭として、其飜譯に創作に、縱横の才筆を揮ひ、言文一致體の創始者として仰がれ、明治文學に多大の頁獻をなしたる長谷川二葉亭氏の長逝は、別項時報欄所載の如し。此明治文壇の耆宿としての斯壇の飛將軍を失へるは眞に一大痛恨事といふべし。茲に故人が生前親交ありし諸氏に就て故人に對する追憶談を求め讀者と共に故人の殘貌《おもかげ》を偲び、以て吾人が弔意を表す。(文責在記者)
 
 私は唯同じ朝日新聞社に居たといふ丈けで、殆ど親交がなかつたから、長谷川君に就ては何の話も持たない。尤も私が朝日に入つて以來兩三度會つた事がある。又私も以前は本郷西片町に居たし、長谷川君も同じ所に居たのだから、入社後に、訪ねて往つて、大に語らうと思つて居た事があるが、恰度この時分長谷川君は頭が惡いので、近頃は誰にも會はないといふ事だから、遠慮して訪ねもしないで居たのだが、その後暫らくして、錢湯で會つた事があつたので、頭の方は何うかねと聞いて見たら、まだ惡いといふ事だし、それでは訪ねてもよくない事と思つてそれぎりにしてしまつて、私は此方(早稻田)へ引つ越したものだから、遂々、眞面目に話合つた事もなし、それぎりになつてしまつた。それでも數寄屋橋中の日本倶樂部で合つた事があるが、この時は私のすぐ傍に居たのでなく、朝日の池邊君と、頻りに露西亞の政治の事に就て語つて居たので、私には政治の事は解らないしするから、その時もそのまゝになつてしまつた。又大阪朝日の土屋君と三人で一緒になつた時もあつて、その時には僅かばかり文學の話も出たが、殆ど斷片的だから、これといつて纏まつた意見を交換した譯ではなかつた。或は眞に文學上の意見を交換したら、必《きつ》ともつと面白い話もあらうと思へるのだが、前に言つたやうな次第だから、長谷川君に就ては折角だけれども何の話もない。今朝の讀賣新聞で見ると、ダイナマイトでも云々といふ話をしてあるが、私はさうは思はない。一寸《ちよい》とした話をしたばかりでも、感じのいゝ、立派な紳士で、誠に上品な人と思はれた。先日朝日新聞社へ行つた時に、社員だちが話をして居た中に、日本へ歸つてからにさせたいものだ、途中で棺にはならせたくない。といふ言葉が聞えたけれども、その時には、全く長谷川君の事とは知らなかつたので、今になつて見れば思ひ當るやうな譯である。この春、年始状を呉れたが、その文中に、意氣地がない話だが、此方(露國)の寒さには閉口して居るといふやうな意味の事が書いてあつたので、私も返事を出したいと思つて居たが、何處へ出していゝか判らず、あとで聞けば公使館宛にすればいゝといふ事であつたが、その時には既に歸途に就いたあとで何にもならなかつた。長谷川君の文學上の意見は前に言つたやうに、斷片的に聞いたばかりで、纏まつて意見を交換した譯ではないが、長谷川君はまだ何か考へがありはしなかつたかと思ふ。文學ばかりでなく何かの考へがあつた事と思ふ。それもなさずに死なれたといふのは、當人には氣の毒でならないが、遺族の人だちの事を思ふと、誠に痛ましくてお察して居る次第。
           −明治四二、六、一『新小説』一
 
    「夏」
 
 漱石氏を訪ねたる折、座談として語られた中より、特に此の題に當て嵌る部分のみを拔きて記せるもの。文責元より記者にあり。
 夏は一體に身體の筋肉が緩んで、汗が出て堪へられない。それに私は胃が惡いので夏になると殊に困る。食慾も減じて、暑くなるに從つて段々痩せて來る。總體に身體の工合が惡い。從つて勉強は出來にくい。廣い家に居て風通しが好く、涼しければ出來るかも知れぬが、暑さには閉口する方だ。
 今迄の、夏に於ける私の身體の大體の傾向は然うであつた。然し次第に變つて來るかも知れない。
 私は、夏に於て特に見出せる趣味で、鋭く感じたことはない。草花をいぢつても、蟲の音を聞いても、月を觀ても、同じやうに面白味はあるであらうが、然し、身體に應へるやうな刺戟は起つて來ない。極く適切に感ぜられることは、涼しくて好いとか、或はせい/\して好いとか云ふ位のことである。時候から來る感じは、そんなことである。
 私は昔俳句を作つた。それも、保存はしてない。方々へ散らばつて居るけれども、夏の句が一番少い。つまり、私には夏に於て句を作るだけの感興が湧かなかつたものと見える。
 夏は食物が不味くなつて困る。近來は秋冬春と、つゞいて食物がうまくない。食慾があつて、飯を待ち兼ねて食ふと云ふよりも、義務として食つて居る。胃が惡い故であらう。
 私は酒を飲まぬから、飲みものでは苺水のやうなもの――總て果物の汁が好い。沸騰するものは嫌ひだ。
 日光へ行つた時、暑くて水の中に足を入れたら、暫くして、涼しいと云ふよりは、痛いと云ふ感じがした。それは瀧の水であった。私はその時から瀧の水は痛いものと思つて居る。
 之は甞て涼しかつた經驗とは言へぬかも知れぬ。
 或夏富士へ行つた時、箱根から乙女峠と云ふのを越した。其所を暑い日中に通るのに、樹が一本もなく、燒くやうな烈日の鋭い光線がヂリ/\照り付けて、堪らなく苦しかつた。さして苦しい道と云ふではない。人なら左程感じないかも知れない。然し、私には忘れられない苦しさであつた。
 其時峠を登り切つた茶屋へ休んだ時、晴々とした富士が見えて、風の涼しいといつたらなかつた。
            −明治四二、八、一『新潮』−
 
    テニソンに就て
 
 テニソンに就ての談話と言つて何も無い。が、一つある。
 詩は御承知の通り散文で無いから特別の構造を持つてゐる。此は無論の話であるが、其特別な構造が、讀んで直ぐ耳に愬へるので無ければ、詩としての面白味の半分以上は無くなつてしまふ。其讀んで直ぐ耳に愬へる點、即ち調子の面白味といふものは、外國人に取つては大變に困難な事である。ところが日本の外國文學を遣る人が、詩を研究して其面白味を頻りに説く處を見ると、自然其口調の面白味も其人々にはよく呑込めて居るとしきやあ見えないが、其が自分には頗る不思議である。今日迄外國文學を遣る人で、特に其難かしさを後進に教へた人も無く、目白した人も無い。だからさういふ人には判つてゐるのかも知れないが、自分は自分の經驗から考へて、唯驚く許りである。
 西洋の人がミユージツクがあると言つて讃める句が自分にはちつとも徹へない事がある。例へばコルリツヂの『クブラ・カーン』といふ詩は非常に有名なもので、非常に調子がいゝといふのであるが、自分は少しも感じ無い。(私が英吉利で大學の講義を傍聽に行つた時、プロフェツサーのケーアといふ人が英文學の講義をしてゐたが、講義としては初學者に遣るやうな講義であつたが、其時序であつたか或は其事の講義であつたか忘れたが、『クブラ・カーン』の事が出て來た。さうして初めの二行程を暗誦した。其時私は大變感心して面白く聽いた。斯ういふ經驗はある。)却つて外國人の讃めぬものの方に、自分の耳へ調子としてよく響くのがある。
 私は不束ながら此年迄英文學を專門にやつた男であつて、自分の發音も他の日本人に比べて下位に居る方では無い。又日本、支那、西洋等の文章の調子に無頓着な方では無い。それで居て判らない。他の人が其困難を今日迄稱へないのは不思議でたまらない。
 西洋でもメトリツクスといふものがあつて、メトリシヤンに色々の派があり、或人は科學的に研究するといふ人があれば、或人は直覺的に行くといふ人があり、種々に分れて議論をしてゐる。現にミルトンのプロソデイを專門に書いた人もある。さういふものをひつぺがせば研究は出來る。けれども耳の養成には少しもならぬ。さういふものを研究して詩の調子の面白味を知らうとするのは、文法を研究して旨い文章を作らうとしたり、フオネチツクスを研究して旨い發音を遣らうとしたり、或は謠のゴマ節を研究して旨く謠を謠はうといふのと同じ事で、殆ど役に立たぬ。私は現今は外國文學の研究を怠つてゐるが、假令五十六十になる迄遣つても、恐らく判るまいと思ふ。此困難を認めた人は、私一人ぢやない。外國にもある。バイロンは歐羅巴中に響き渡つた人で、非常に尊敬を受け有名であつた。ところが肝腎の英國人は、大家とはするが其程には買つてゐない。其をゴスといふ人は斯う説明して居る。バイロンの詩は調子の整つてゐない處が大變ある。其故耳の肥えた人には不向きな處が多い。其が外の歐洲人には全く通じない。中の意味の方の面白味は通じても、其缺點が通じない。――此も一つの解釋で、やがて困難といふ證據になる。似通つてゐる外國人間にすら此困難がある。
 所が私に一つの取除けがある。といふのは、テニソンの詩の調子のミユージツクだけはよく判る(尤も程度問題ではあるが)。滑かで旨い具合に音が出て來るといふ所が明かに判る。尤もテニソン以外でも、斷片としては、詩の構造の種類に由つては、日本人によく判るのがある。けれども、我々によく到るのは非常に單純な奴で、ひねくれた込入つた物になつたら判らない。ブラウニングは難かしい詩を作る。同時代では人氣はテニソンに及ばなかつたが、專門の學者になると無論テニソンより上に見る。ブラウニングの詩は特別に研究もしないが、中に書いてある事、人間の腹がよく出てゐるとか、人間がよく現はれでゐるとかいふ點は旨いと思ふ事もあるが、調子になると判らん。(向うの人は評してラゲツドといふが私にもさう思はれる。)一二は面白いと思つたものもあつたが、概して判らん。
 詩許りで無く、散文でも調子は解しにくいけれども、散文の方が私には解しやすい。十九世紀以後の文章家としてはド・クインセー、ウオルター・ペーター、スチーヴンソン、キツプリング等は主なるものである。其他にも此間死んだハーンさんだとか、ラスキンだとか、其他散文の大家として有名な人は幾らでもあるが、四人に就ての私の經驗を話すと、私にはド・クインセーとスチーヴンソンとラスキンとの調子はよく判る。面白い。けれどもウオルター・ペーターは判らん。ウオルター・ペーターのは餘程骨折つて一つの句を作り上げたもので、殊にフレーズのボジシヨンを大變骨折つて組立て、其が一つの句になり、其を其順序で讀むと一種の響が出る、と斯ういふ事であるが、其が私には徹しない。
 散文ですら斯の如くである。詩に至つては愈むづかしい。其中に在つてテニソンの詩だけよく判るのは、私に取つて著明な面白い事實である。私は日本人であるから、私によく判るテニソンの詩のミユージツクの面白味は、恐らく外の日本人にもよく到るだらうと思ふ。固よりテニソンも特に其點に意を用ゐたものらしく、言葉の繪畫的といふのが其の詩の一つの要素、又音樂的といふのも其の一つの要素になつてゐる事は、已に世に定論があるので、是等は私に對しての特別な點が無ければ殊更お話する必要も無いのであるが、其があるからお話するのである。
           −明治四二、八、六『國民新聞』−
 
    「文士と八月」
 
 別に旅行の計畫なし。作物は『それから』を書きつゞけ、中旬頃には完成したき希望。八月の感想にて過去及び現在共特に御報知致したきほど著るしきものなし。
         −明治四二、八、一〇『國民新聞』−
 
    「執筆【時間、時季、用具、場所、希望、經驗、感想等】」
 
 執筆時間は連續的に過ぎても苦痛。斷片的に過ぎても困難。其時の身體の具合、脳の健康状態に依りて適宜なるが本當の所ならん。日中と夜間とにて難易の差なきやうなり。
 季によりて感想は大に異なり。
 必ずペンを用ふ。
 執筆の場所は自分の書齋に限る。但し特別の場合は除く。山の上海の邊書齋よりもよき所あるべし。又必要の場合とあれば衆人稠座のうちにても用を辨ずべし。
         −明治四二、九、三『國民新聞』−
 
    汽車の中 ――國府津より新橋まで――
 
○もう汽車には厭きて了つた。昨夜は京都から乘つたんだが、寢臺列車が滿員で寢られずに困つた。
○京都では高尾栂尾などに行つて見た。紅葉はまだ早い。少し色づきかけたと云ふ丈けだ。其代り遊客がなくつて、眞に一日の清遊であつた。
○柿は今年はまだ食べない。栗は食つた。平壤栗と云ふのがある。小さくて澁皮がとれるんだ。それから林檎のやうな赤い梨を食つた。
○高梁はもう刈りかけて居つた。
○滿洲では日本人が到る所盛んに活動して居る。其の活動は中々目覺しいものである。日本人もえらいと思つた。
○ヤマトホテルには一週間程居て哈爾賓《ハルビン》の方へ行つた。市街の構造は大仕掛であるがまだ未成品の形である。
○朝鮮は滿洲と違つて山が多い處だ。空が澄み渡つていゝ天氣ばかりだつた。京城の雜誌屋に雜誌新着と云ふ赤い幟が立つてゐたから入つて見ると、十月の中央公論やホトトギスなぞがあつた。讀まうと思つて買つたけれど、とう/\讀まなかつた。
○新聞雜誌は殆んど四五十日の間遠ざかつてゐる。大分世間に疎くなつた譯だ。澤柳氏が高等商業の校長になつた位の事を知つてる丈だ。
○到る處多忙で殆んど寧日なしだつた。その代り又色々のお蔭も蒙つた。
○講演には三度引出された。大連で二度營口で一度。京城と奉天ではとう/\斷わつた。
○釜山では山を二つこはして海を埋めてるんだとか云つてゐた。
○馬關に着くと喜多六平太の藤戸があると聞いたから寶生さん(新)も來てるのかと思つた。
〇滿洲にゐる人は滿洲は健康地だと云ふし、朝鮮にゐる人は朝鮮は氣候の好い所だと云ふし、皆自分の働いてゐる所を結構の樣に云つてゐた。自分も左樣思つて歸つて來たが、内地に着いて見ると内地も矢つ張り結構な所だ。
        −明治四二、一〇、一九『國民新聞』−
 
    「昨日午前の日記」
 
 七時に目が醒めた。來てゐた新聞を開いて伊藤さんの死んだ事など、只|標題《みだし》ばかり見る。それから起きて、身體を拭いて、髯を剃つて、飯を食つて、書齋に來たら九時であつた。机の前に坐つて十分過ぎたか過ぎぬに大谷繞石君が來た。セイロンの茶を持つて來てくれた。これは貸してやつた品物の返禮に持つて來たのである。出發が忙しいとか、これから箱根に行くとかで直ぐ歸つた。それから妻が今日日暮に結婚があるとかで、横濱へ行くので、それには三越へ注文した紋服が間に合はぬとか、もし間に合はなければ自動車で三時迄に濱へ持つて行くとかで、ごた/\く大騷ぎをする。妻が出て行つてから、宅《うち》にゐる西村君が銀行へ金を取りに行くといふことで頼んで出してやつた。それから伊藤さんの死んだ顛末のあるいろんな新聞の熟讀をしてゐる處へ清見君が來て、雜誌へ何か話をしないかといつて迫つてゐる。好い加減にごまかしてゐる處へ、貴君と物集のお孃さんとがお出になつた。これから約束があつて相談する人の來るのを待つてゐる。
        −明治四二、一〇、二九『國民新聞』−
 
    色氣を去れよ
 
  禅は春なり、文字は花なり、春來て花開く、猥りに謂ふ勿れ不立文字と。唯心を説き性を説く事をのみ知つて、心を明かにし性を見る事を忘るゝなくんば幸ひ也。編者好禅の餘り大家知名の人に就いて禅を聽く、聽く所録して此一冊を爲す、文章の責は悉く編者に在り。(編者識)
   ――小川煙村・倉光空喝共編『名士禅』――
 
 『野分』を讀んでも『虞美人草』を讀んでも乃至有名な『我輩は猫』を讀んでも、夏目さんの文章には禅味がある。英文學者なる小説家に禅の話を聞かうと早稻田南町の家を訪うた。急な用事なら暫らく待つて呉れとのこと、晴やかな十疊の應接室に通される。「失敬々々、まだ眠むいのに君に起されたから仕方がない、一體何んな用事かね」雨垂際の芭蕉葉がざわついてる。夏目さんの眼蓋にまだ睡りがある。「飛だ早くから失禮しました。實は禅と文學に就いて御意見を承りたいので」「處で私が禅なんぞ知るものか、お間違ひでせう。併し其話は兎に角、私顔を洗つて來るから待つてくれ給へ」夏目さんは小倉帶をずる/\曳摺つて次の室に消える。成程噂さの如き我輩先生である。待つ事三十分! 一時間! 夏目さんのあの顔を洗ふに半日を要するものかと、或は疑ひ或は迷ひ或は呆れ、漸く草臥れて、一寸失敬してあぐらをかく。日當りがよいものだからウツラ/\と睡氣がさす、始めての宅だと思つて我慢してゐたが、何時しか寢て了うたものと見える。「何だ變な匂ひがする、誰ぞ何《どう》かしたかね」夏目さんの聲に眼が覺めた。不覺なりけり、寢て了つて火鉢で髪の毛を焦した。私は禅の事を尋ねられたつて眞實《ほんと》に知らん。況して禅と文學との關係なんぞ。併し明治二十六年の猫も軒端に戀する春頃であつた。私も色氣が出て態々相州鎌倉の圓覺寺迄出掛けた事があるよ。
 マア私の浮氣話を聞いてくれ給へ。お寺に着いた時刻は恰度晝少し過ぎ、奥まつた一室に通つて宗演さんに面會した時に、不圖可笑しくなつて大に吹き出した。だつて昨今なら知らず、其當時の宗演さんはまだ年も若いのに老師々々といふのだから、禅坊主といふ者は隨分矛盾したことを平氣で喋舌る者だと感心した。面會が終はると別室に案内される。當分の間此所に起臥して大に修行する積りである。
 如何なる機縁か、典座寮の宗活といふ僧と仲好しになつて、老婆親切に色々教へて貰つた。さあ明日から接心と云つて一週間は精神を抖※[手偏+數]し萬事を抛つて座禅工夫に從はねばならぬ。其戰さの門出に武者慄ひがつい出る。
 其夜宗活さんが遊びに來て、面白いものを聞かしてくれた。白隱和尚の「大道ちよぼくれ」で、大に振つてゐる。宗活さんは口を尖がらかしていふ。
   〔中略〕
 宗活さんは剽輕な坊さんだと思つた。
 頓て此剽輕な和尚も傍にゐた他の和尚も歸つて了つて、私一人ぽつち、に殘され、禮寺の枯れた匂ひが身を壓して雪舟の描いた達磨が大眼玉をむいて來さうに思はれる。スツポリ坊主臭い煎餅蒲團を頭から被つて鎌倉は頼朝時代北條時代もない、夢の國へと辿つた。
 「夏目さん開靜《かいじやう》ですよ」
 不圖眼を覺ますと宗活さんに搖り起されてゐた。時計を見るとまだ午前二時の未明、ゴオーンと大鐘が鳴る、禅堂では引磬の八釜しい音がする、木板がバン/\響く、半鐘が鳴る、ワイ/\讀經の聲がする、次いで鳴り響く喚鐘の相圖に私等は隱寮に行つた。居士|禅子《ぜんこ》(禅子とは神をやる女)雲水などがウヨ/\ゐる。夫れが代る/\喚鐘を敲いては宗演老師の前に行つて見解を呈し、のち老師の垂戒がすむと鈴が鳴る。次から次へと入室して愈々私の順番となつた。同じ樣に喚鐘を敲いて老師の前に出ると宗演さんは莞爾笑つて簡單な禅の心得を語り、終つて慥か趙州の無字を公案として授かつた。居室に歸り一向專念、無?無?無?無?無?
 其中暮方になり禅堂へ行くとずらりと禅坊が坐つてゐる。見渡した所何れもこれも女の惚れさうなのは一人もない。私も其仲間に入つて坐ると、何となく變な氣特がして吹き出したくなるから大に閉口した。斯くて再び參禅が始まる。私の順番になつて未明に授かつた公案について見解を述べる、言下に退けられて了ふ。今度は哲學式の理窟をいふと尚更駄目だと取合はぬ。禅坊程駄々ツ子はあるまいとほと/\感じた。
 斯樣にして趙州の無字が荷厄介となつて仲々宗演さんは受取つてくれぬ。或日宗活さんは竈の下を焚きつけてゐながら手に一冊の本を持つて讀んでゐた。
 「何といふ本ですか」
 「碧巖集、けれど本は餘り讀むものぢやありません。幾等讀んだつて自分の修行程度しか判らぬから」
 此一句は實に大切な事である。
 平常の修行さへ十分にやると、如何なる人物にもなれる。色氣づいて態々鎌倉迄來たのは抑々私の心掛け違ひだつたかも知れぬ。文學でも人をして感服させる樣なものを書かうとするには先づ色氣を去らなければならぬ。色氣ばかりが澤山で肝腎の實意が乏しくてはぶまな作物が出來るといふものだ。
 實意があればこそ惚れる世の中だもの。
               −明治四三、四、一八−
 
    對話
      ――本間久著『枯木』序――
 
 人−『猫』の著者・『枯木』の著者 時−ある日の朝 所−早稻田南町
 廣さ十疊ばかりの和洋折衷の書齋。四方の壁を背負つて大小幾多の書棚あり。色々な本が色々な彩色を施こして、何の因果か押すな/\とばかり、苦しげにぎつしり詰まつて、どうだ滿足に讀めるか、讀めなけりや出臍をかじつて、豆腐に頭を打つけて死んぢまへと云ふ樣子。『猫』『枯木』相對して語る。對話の間、尻から煙の出るほど煙草をふかす。
 枯木生、そばの包を解き、何か取出す。
 木「これは面白いでせう。其道の工匠《たくみ》が彫つたのではなくて、琵琶師が荒削りにしたんです。此泣いてるやうな笑つてるやうな顔が妙ぢやありませんか。」と勝手な自慢をしながら四邊を見まはし、隣室に朱檀の臺の有るのに目が留ると、いきなり立つて其れを書齋の中央に持出し、琵琶法師の木像を其上にのせる。
 木「如何です? 銅像にも見えませう?」と慾ばる。
 猫「ふウむ。」
 と猫氏は正體の知れぬ返答をする。やがて對話は謠曲に移る。西洋音樂に轉ずる。繪畫に飛ぶ。新聞の評になる。遂に轉々して宗教談に及ぶ。
 木「あなたは今の宗教を御信じになりますか?」
 猫「私は信じない。」
 木「なぜですか?」
 猫氏の威嚴ある顔は一層嚴肅になる。
 猫「なぜ?と言はれると鳥渡困るが、信じられないからです。識者をして信ぜしむるに足るだけの教義も無ければ權威も無いでせう。」
 と言つて枯木生の顔をじろりと見て、
 猫「君は?」
 と反問する。
 木「私もさう思つてゐました。今の宗教なんか、宗教と云ふべき價値が有るだらうかと疑がつて居ます。然し、あなたの不信心と私等のとは違ふでせうか?」
 猫「同じさ! ふゝゝゝ」
 と含み笑ひをする。
 木「さうでせうね、私も味方がふえた。私は本當に癪にさはつて堪らないんです。どうしたつて宗教は元來有り難くなければならないものなんでせう。有りふれた修身道徳の教以上に有り難味が無い位なら、宗教なんか寧ろ不必要だと思ひますね。だから僧侶なども脱俗的な、所謂世捨人と云ふやうな風格が無くつちや取り柄が有りませんね。私はどうも昔の坊さんの方が有り難いやうに思ふ。殊に武家の多くが禅宗に歸依したのなぞ考へて見ると慥かにえらい坊さんが居たものでせう。」
 猫「それはさうだ。然しね、僧侶と云ふ者に對する解釋の仕方によつて違つて來るでせう。我國ではね、僧侶即ち宗教家であらねばならぬと思つて居るが、英國などでは――と言つても私は英國にそんなに長く居たんぢやないから微細の點に至るまで通じてはゐないが――僧侶を一種の商賣としてある。それで僧侶自身も怪しまないし、世人も左樣相心得て居る。だから坊主のデフイニシヨンは、冠婚葬祭の儀式を取扱ふものにしてたまには説教と名づくる講談を一席辯じまするものなり、と言へる。從がつて宗教の眞髄は、學者の仕事になつてるやうです。なアに西洋の坊主も九分通りはつまらない連中ですよ。」
 木「でも、日本の坊主のやうに腐敗しては居ないでせう?英國などは殊に人格を重んずるところだから、僧侶の品行はいゝでせう。宗教と云ふものの解らぬなりにもまじめに自己の職分を行なつて居ませう!」
 猫「それがね」と苦笑ひして「あつちの坊主も隨分ひどい! やはり日本と同じ程度さね。私は何が嫌ひだつて耶蘇坊主が僞善の面を被るのほど嫌ひなものは無い。クリストの教はハンブルで有らねばならぬと説きながら、其自分がハンブルどころか、まるで反對なんだから驚ろく。唾棄するに値ひするね!」
 木「さうですかねえ……」と呆れて「ぢやア現今世に流布して居る宗教は、人を救ふどころか人を賊するものですね。新らしいルーテルが出なきやだめですねえ。」
 猫「さう……稍や取るべき者は、耶蘇教ではカトリツク、佛教では禅宗かとも思ふが、それも怪しいものでせう。」
         *     *     *     *
 此兩者の對話を偸聽《たちぎゝ》して爰に借用するは
             本書のモデル 釋明榮法師
 
 〔以下再版に於て附加〕
 胃腸病院より來信の一節
 對話御使用相成候が、私の筆のやうにも思はれさうにて宜しからず。私が依頼されて何か書くべき處、病中ゆゑ思ふに任せざりし旨斷はられ候方宜しからんか。
                夏目金之助
 
 縄のれんより返信の一節
 あんなヘタナ文を、誰が先生の筆と思ふもんですか。それに、いたづらモデルの名までチヤンと出してあるんですもの。                 久
              −明治四三、一一、三〇−
 
    語學養成法
 
     語學の力の有つた原因
一般に草生の語學の力が減じたと云ふことは、餘程久しい前から聞いて居るが、私も亦實際教へて見て爾《さ》う感じた事がある。果して爾うだとすれば、それは何う云ふ原因から起つたか。その原因を調べなければ學習の方針も教授の方針も立つものでないが、專門的にそれを調べるには、その道の人が幾何もある。私は別に纏まつた考がある譯ではないが、氣附いた事だけを極くざつと話して、一般の教育者と學生の參考にしようと思ふ。――私の思ふ所に由ると、英語の力の衰へた一原因は、日本の教育が正當な順序で發達した結果で、一方から云ふと當然の事である。何故かと云ふに、吾々の學問をした時代は、總ての普通學は皆英語で遣らせられ、地理、歴史、數學、動植物、その他如何なる學科も皆外國語の教科書で學んだが、吾々より少し以前の人に成ると、答案まで英語で書いたものが多い。吾々の時代に成つても、日本人の教師が英語で數學を教へた例がある。恁る時代には伊達に――金時計をぶら下げたり、洋服を着たり、髯を生したりするやうに――英語を使うて、日本語を用ゐる場合にも、英語を用ゐると云ふのが一種の流行でもあつたが、同時に日本の教育を日本語でやる丈の餘裕と設備とが整はなかつたからでも有る。從つて、單に英語を何時間教はると云ふよりも、英語で總ての學問を習ふと云つた方が事實に近い位であつた。即ち英語の時間以外に、大きな意味に於ての英語の時間が非常に澤山あつたから、讀み、書き、話す力が、比較的に自然と出來ねばならぬ譯である。
     語學の力の衰へた原因
 處が「日本」と云ふ頭を持つて、獨立した國家といふ點から考へると、かゝる教育は一種の屈辱で、恰度、英國の屬國印度と云つたやうな感じが起る。日本の nationality は誰が見ても大切である。英語の知識位と交換の出來る筈のものではない。從つて國家生存の基礎が堅固になるに伴れて、以上の樣な教育は自然勢を失ふべきが至當で、又事實として漸々其の地歩を奪はれたのである。實際あらゆる學問を英語の教科書でやるのは、日本では學問をした人がないから已むを得ないと云ふ事に歸着する。學問は普遍的なものだから、日本に學者さへあれば、必ずしも外國製の書物を用ゐないでも、日本人の頭と日本の言語で教へられぬと云ふ筈はない。又學問普及といふ點から考へると、(或る局部は英語で教授しても可いが)矢張り生れてから使ひ慣れてゐる日本語を用ゐるに越した事はない。たとひ翻譯でも西洋語その儘よりは可いに極つてゐる。
 是が自然の大勢であるが、余の見る所では過去の日本に於いて最も著るしく人工的に英語の力を衰へしめた原因がある。それは確か故井上毅氏が文相時代の事であつたと思ふが、英語の教授以外には、出來る丈日本語を用ゐて、日本の language に重きを措かしむると同時に、國語漢文を復興せしめた事がある。故井上氏は、教育の大勢より見た前述の意味で、教授上の用語の刷新を圖つたものか、或は唯だ「日本」に對する一種の愛國心から遣つたものか、その邊は何れとも分らないけれども、要するにこの人爲的に外國語を抑壓したことが、現今の語學の力の減退に與かつて力ある事は、余の親しく目睹した所である。
     改良の功果如何
 以上の理由と事實で、學生の語學の力が前より衰へて來たのは誠に正當な現象で、毫も不思議がる譯はないのであるし、又同時にそれは日本の教育の進んだ證據でもある。從つて最初當局者が恁う云ふ教育方法を採る時には、既に將來語學の力の衰へることを豫想すべきが當然である。然るに井上氏死後何年か後の今日に到つて、その結果が漸く現はれて、誰も彼も語學の出來ぬことを自覺し始めると、今更のやうに苦情が出て、色々な心配をする。色々な調査をする。或は教へ方が惡いのだとか、或は時間が足らぬのだとか云ひ出すのは可笑しな事である。要するに語學力の衰へた眞因は、日本國體の發展と、前述の教育方法の變化に在るのだから、何等の犠牲も拂はずに、日本が日本的の教育を施す方法の案出されない以上は、今更英語の力が足りないと云つて騷ぐ譯には行かない。けれども此の結果は、必然にもせよ、當然にもせよ、良くないと云ふことが事實で、良くない爲めに教育上の或る方面では、非常な苦痛を感ずる以上は、出來る程度で是非共何等かの改良をしなければならぬ。改良すれば無理が出來る。無理をしなければ改良は出來ぬ。双方《どちら》も良いと云ふことはない。私は昨今、中學教育が如何なる程度まで改良せられ、又如何なる方法で施こされて居るかは知らぬが、要するに何う舊發しても、非常な無理をしなければ、英語教授の上に目醒しい功果のありよう筈はないと思ふ。
     改良の三要點
 暫らく立ち入つてもう少し具體的に、何故に改良の功果がないかと考ふるに、つまり普通教育などで、恁う云ふ風の改良をするには、時間、教授法、教師〔七字右・〕の三つ以外には改良すべき方法がないからである。所が幾何喧ましく時間の改良と云つた處で、本末を轉倒して外國語に多數の時間を與ふることが出來ぬのみならず、普通教育の程度以上では、第二外國語をやる必要があるから、迚も時間の繰合せが附かない。又教授法は隨分肝腎なものであるが、いくら細目が立派に出來てゐた所で、教授法自身が活動して呉れる譯でないから、よくそれを體得した教師が、十分の活用をして呉れなければ、功果が揚がるものではない。教授法とは畢竟《つまり》、適當な教師が周圍の事情を見計らつて、これが最良《ベスト》だと思つて實行しつゝある教授を概括して、條項に書き竝べたものに過ぎない。故に適當な教師が居なければ、如何に條項が完備してゐても、到底その運用が出來るものでない。同時に適當な教師さへあれば、教授法などが制定せられなくても、その行ふ所が自然教授法の規定した細目に合ふ譯である。其れ故大家が教授法をこしらへて、汎く一般の教師に遣らさうとしても、空《あだ》な望に歸して了ひはせぬ乎。最後に教師の事を考へて見ると、今の中學の英語教師の大半は、大方故井上氏の方針で頓挫を來した語學教育の中に育つて來た人々である。語學と云へば簡單であるけれど、區分すれば、話すこと、書くこと、讀むこと、譯することなど色々あるが、夫等の各方面に渡つて一通り力のある人でなければ、總てのことが一通り出來る生徒を養成することが出來ない。若し教師が或る點は非常によく出來ても、或る點は全く出來ないと云ふ風に、その力が偏寄つてゐるならば、その生徒は矢張り偏寄つたものと成る譯だ。現今の教師中には英語を日本語に譯することの巧い人が多い――今日の日本では、恁う云ふ人が一番必要かも知れないが――同時に生徒も比較的に英語の意味を取ることが上手である。併し是で滿足する譯には行かぬ。何も彼も一通りは出來なければならぬとしたならば、そんな教師は果して幾人あるだらうか、甚だ覺束ない次第である。
     教師の養成
 恁う三つ共駄目だとすれば、いくら藻掻いたとて功果の揚る筈がない。然るに其處に一つの道がある。それは新たに教師を作ることである。私は曾て大學と第一高等學校に關係を有つてゐる時に次のやうな事を考へた。――文科大學は素と學者を作る所であるが、現在の状況から云へば、その卒業生は大方教師に成る。殊に外國文學を修める者は教師になるのが多いやうである。學者であるべきものが、教師が出來ぬといふ事はないが、教師として不通當でも學者にはなれるのだから、事實を云ふと純文學科にあつては、事實上、大學は、學者よりも教師――もつと切實に云へば、不適當な教師を作つてゐるのである。從つて國家は distribution から、非常な損害をして居る。此の損害を免れる爲めに、私は適當な教師を作る案を立てた。即ち英文科に入るものを、今の樣に、各高等學校に存在せしめずに、悉く是を一高等學校に集めて、一組として、在學中は他と混同せしめず、一年から三年まで特別の教育をする。即ち三年間特に英語に重きを措いた一種の教育を施して、然る後に之を大學に送ることにする。無論その卒業生は、學者に成るも教師に成るも、當人の勝手次第であるが、恁くすれば萬遍なく語學の力を有つた人が得られるに相違ない。余は之を大學から適當な語學教師(英語)を出す唯一の方法と信じた。今でも爾う信じてゐる。大學に入つてからの課目や教授法も、現在とは變へる必要もあらうが、夫は第二の事で、肝心の根本は何うしても斯うして養成しなければ不可ないと思ふ。英文科の志望者を一高等學校に集めるといふ事は、特別の教授をやる上に於いて必要なのみならず、其の道に適當な教師を得て、其の下に學ばしむる方針から云つても、恁うした方が可いのである。
     教師の試驗
 今一つは從來の教師を如何にして改良するかといふ事である。事實行はれ難いことであるかも知れぬが、私は全國の中學の英語教師の試驗を、時々文部省でしてやつたら好からうと思ふ。教師の精勤その他は校長にも分るが、教師達が平生どれ丈自己の修養に努めてゐるかは、恁んな方法でも講じなければ分り樣がない。無論その試驗は隨意で可い。申し出るものに丈に施してもよい。兎に角二年に一度位づゝ成績を取つて置いて、これを校長の報告と比較し、色々考へ合はして、昇級増俸の道を講じてやる。爾うしなければ、中學の教師をして、勉強しよう抔といふ氣は、丸でなくならして仕舞ふ。生徒も不幸である。本人も氣の毒である。尤も是丈の仕事をする爲には、文部省にエキザミナーを澤山傭はねばならない。從つて不經濟ではあるが、此の試驗官は平生他の方面に利用することが出來るから、決して損には成らない。即ち試驗をしない時の彼等は、始終中學の英語教師と氣脈を通じて、修養上其の忠告者となるのである。たとへば語學に關した新著新刊の樣なものは、月二三回づゝ印刷して各中學へ送つてやる。時間が許すなら、其の内容やら體裁やらを報知してやる。又教師の方でも教授上不審の事や、同僚間で疑義の決せぬ折は、書翰で試驗官に問合せる。すると試驗官の方でも一々丁寧にその返事を出すといふ風に、萬事教師の便宜を計つてやる。恁うすれば一方では奨勵に成り、一方では改良になつて、教師も當局者も共に便宜を得る事だらうと思ふ。
     教科書の問題
 教科書は大に考ふべき問題である。今の中學生は色々な書物を讀んで、知らないでも可いやうな字を覺える代り、必要な字を覺えてゐない。誠に馬鹿々々しい話である。普通英吉利人はどれ程の單語を知つてゐるかと云ふに、極めて僅少のものである。日本の中學生は彼等の知らぬ字を却つて知つてゐる。必竟教科書がよく整理されてゐないからである。そこで文部省では中學の英語教科書を作る必要がある。其教科書は一年から五年に通じて、普通の英國人が分る文字と事項とを、萬遍なく割り振つて排列する樣にする。即ち彼等の一般に知つてゐる文字と事柄には、五年中何處かで出逢ふが、其の代り六づかしいジヨンソンの『ラセラス』に出て來る樣な字は全く省いて、生徒に無用な脳力を費やさせない樣にしてやる。爾う云ふ教科書を作るには、何うしたら好いかと云ふに、私は外國の新聞を基礎にするのが一番好いやうに思ふ。『ロンドン、タイムス』でも『デイレー、メール』でも、一月一日から十二月三十一日まで通讀すれば、如何なる文字と如何なる事柄が如何に多く繰り返されて社會に起るかが好く分る。それで大體の統計を取れば、どの字と、どの事柄と、どの句が比較的一番必要であるかが分る。分つた處を組織立てて教科書に編入する。中には三百六十五日の中、何百遍となく繰返されるものもあるに相違ないから、そんなものには重きを措いて、教科書中にも幾度も繰返して置くと同時に、年に一遍とか、半年に一度位しか見當らないものは、全く省くことにする。さうすると二三年立つうちにはかなり經濟的に英語を短かい時間内で教へる事の出來る教科書が、科學的な、秩序立つた系統の下に編成される譯である。恁うして拵らへた教科書を其儘に放り出して置かずに、猶外國新聞を基礎として、時勢の變化に伴つて起る言語文字の推移に注意して、十年に一度位宛改版する積りで、永久事業としたら、生徒は大變な利益を得ることであらう。無論此事業は前に云つた試驗官の平生の仕事の一とするのである。顧問として適當な西洋人を傭ふのも一法である。
     時間の利用
 かくして教師が出來、教科書が出來れば、此度は時間の問題であるが、時間は出來る丈やる。即ち時間の許す限り遣る。細かい教授法、例へば文法何時問、會話何時問と云ふやうなことは、詳しく論ずれば意見もないではないが、かゝる事は臨機應變にやれば可い。たゞ目下の如く、各を獨立せる科目の如くに取扱ふのは可くない。有機的統一のある言語を、種々の科目に分けて教へるのは、丁度區劃しがたき迄一氣に活躍せる肉體を切り離して、神經の專門家、胃腸の專門家、呼吸器の專門家を作るやうなもので、研究の爲めには可いが、大體の知識のない生徒から云ふと、會話とか、文法とか、譯讀とか云ふ風に、教師が專門的に分れて截然區別のある樣に取り扱つて居るのは可くない。どうしても各自が互に連絡のつくやうに教へ込んで行かなければならぬ。吾々日本人は御覽の通り自由自在に日本語を操るが、生れてから今日迄に會て文法を習つたことはない。文法を習はないでも差支なく日本語は話せるのである。英語もその通りで、吾々が子供の時から絶えず日本語を使つて、自然とその文法に通ずるやうに、日々反覆して練習すれば夫で澤山なのである。然し一週間に何時間と時間を限られては、日本に生れたる人でも、かく日本語に上達する譯には行かぬから、今の中學でたゞ練習の結果自然と英語を學ぶのは困難である。已を得ず先づ規則を知つてそれを骨とし、それに肉を着せて互の意志を疎通するやうに話し書く外はない。(少時問の練習では、迚もべちや/\喋舌り散らす域に進むことは出來ないから。)然し根本的に云ふと、文法は何時迄經つても恰度幾何の theorem のやうなもの、譯讀は其活用問題のやうなものであるから、文法を離れて譯はなく、譯を離れて文法はないものと合點しなければならない。高等學校へ入つて來る中學卒業生などを見ると、shall,will のことなどは喧しく云ふが、實際譯讀をさせると妙な誤りをやる。彼等の頭の中には兩者は全く獨立して居る如く私には見える事があつた。これは大弊害である。文法と譯讀は單に例として引いた迄だが、其他の科目、作文、會話、讀方、皆同じ事である。有機的統一と云ふ事を考へて、互に融通の利くやうな親切な教へ方をしなければなるまい。その爲には一つの組を一人で持つて、總ての時間を可い加減に使ひこなす方が便利に成つて來る。さうすれば時間も經濟に成つて、功果も大に揚ることであらう。然しこれはほんの餘談である。要するに目下の必要は教科書編成と教員の養成及び改良である。それに就いて今まで述べた以外に、言ふべきことも澤山あるが、此處では言はぬことにする。――話が教へる方の側ばかりに成つて、つい教はる生徒の方に及ばなかつたのは遺憾であるが、餘り長くなるから是で止める。
         −明治四四、一、一-二、一『學生』−
 
    博士問題
 
 何故學位を辭退したか其理由を話せと言ふんですか。さう几帳面に聞かれると困ります。實は私も朝日の社員ですし、社員の一人が學位を貰ふとか貰はぬとか云ふ事ですから、辭退する前に一應池邊君に相談しようかと思ひましたが、夫程社の利害と關係のある大事件でも無いと思ひましたから、差控へて置きました。實は博士會が五六の人を文學博士に推薦すると云ふ事は、新聞の雜報で一寸見た計りで、眞僞も分らず、一兩日を過しました。すると突然明日午前十時に學位を授與するから文部省へ出頭しろと言ふ通知が、留守宅へ(夜遲く)來たのださうです。左樣、家のものは慥か夜の十時頃とか云つてゐましたが、大方其時下女が夜中郵便函でもあけて取り出したのでせう。それで其翌日の朝電話で、本人は病氣で出られないと云ふ事を文部省へ斷つたさうです。其日の午後妻が病院へ來て通知書を見せたので、私は初めて學位授與の事を承知したのです。さうです、無論代理は出しませんでした。私は其夕方すぐに福原君に學位を辭退したいからと云ふ手紙を出しました。すると私の辭退の手紙と行違に、其晩文部省から――ヱヽと證書と言ひますか、何と言ひますか――學位を授與すると云ふ證書を、小使――家のものは小使と云ひましたが、私は實際誰が持つて來たか知らない――に持たせて宅の方へ屆けて呉れたのです。夫は早速福原さんの手許迄返させました。辭退の出來るものと思つて辭退したのは勿論の事です。私は法律家でないから、法律上の事は知りません。たゞ私に學位が欲しくないと云ふ事實があつた丈です。學位令が勅令だから辭退が出來ないと云ふんですか。そんな法律の事は少しも知りません。然し勅令だから學位令を變更するのが六づかしいと云ふなら、私にも解るが、博士を辭退出來ないと云ふのは、何んなものでせう。何しろ文部省から通知して來て文部大臣が與《く》れるから、唯文部省丈けの事と思つてゐました。文部省の人々に御面倒な御手數を懸けるのは好くないとは思ひましたが、已を得ませんでした。
 貰つて置いて善い者か惡い者か、如其《そんな》理窟に關係した問題は、大分議論が八釜しく成りますし、今必要もありませんから、個々の批評に一任するとして、茲に――私は實に面白いものだと思つて(看護婦に通知状を出させて)居るものがあります。文部省邊の人には當然かも知れませんがね、此通知状を御覽なさい。前文句無しの打突け書で突然《いきなり》「二十一日午前十時同省に於て學位授與相成候條同刻までに通常服云々」。是を見ると、前以て文部省が私に學位を呉れるとか、私が學位を貰ふとか言ふ相談があつて、既に交渉濟になつて、私が承知し切つて居る事を、愈明日執行するからと知らせてきた樣に聞えるでせう。それに此終の但し書に、差支があつたら代理を出せとあるでせう。然し果して此通知状を私が受取つてから、午前十時迄に相當の代理者が頼める者か頼めぬものか、善く分りませんものね。ヤツ、實は社の方計りで無く此方(病院)へも斯う祝ひ手紙が飛び込んで來るんで弱つてゐます。まさか「私は博士ではありません」、と新聞へ書くのも可笑しいと思つて差控へて居りますが。云々
       −明治四四、二、二五『東京朝日新聞』−
 
  拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知があつたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申してありました。
 學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます。然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。 敬具
  二月二十一日    夏目金之助
 專門學務局長福原鐐次郎殿
 
    博士問題の成行
 
 博士事件に就て其後の成行はどうなつたと仰しやるのですか。實はそれぎり何うもならないのです。福原君にも會ひません。芳賀君抔から懇談を受けた事もありません。文部大臣は學位令によつて學位を私に授與したにはしたが、もし辭退した時には何うすると云ふ明文が同令に書いてないから、其場合には辭退を許す權能を有してゐないのだと云ふのが、當局者としての福原君の意見なのですか。成程さうも云はれるのでせう。然しそれでは恰も學位令に博士は辭する事を得ずと明記したと同樣の結果になる樣ですが、實際學位令には辭する事を得ずとも又辭する事を得とも何方とも書いてないのぢやないですか。(甚だ不行屆きですがまだ學位令を調べてゐません。然し慥かさう云ふ風に聞いてゐます。)偖何方とも書いてない以上は、辭し得るとも辭し得ないとも自分に都合のよい樣に取る餘地のあるものと解釋しても可くはないでせうか。すると當局者が自己の威信と云ふ事に重きを置いて「辭する事を得ず」と主張すれば、私の方では自己の意思を楯として「辭する事を得」と判斷しても構はない事になりはしませんか。
 又夫程重大なものならば、萬一を慮つて、(表向き學位令に書いてある通りを執行する前に)、一應學位を授與せられる本人の意思を確める方が、親切でもあり、又御互の便宜であつた樣に思はれます。兎に角に當局者が榮譽と認めた學位を授與する位の本人ならば、其本人の意思と云ふものも學位同樣に重んじてよささうに考へます。
 私は當局者と爭ふ氣も何もない。當局者も亦私を壓迫する了筒は更にない事と信じてゐます。此際直接福原君の立場としては甚だ困られるだらうとは思ふけれども、明治も既に五十年近くになつて見れば、政府で人工的に拵へた學位が、さう何時迄も學者に勿體ながられなければ政府の威信に關すると云ふ樣な考へは、當局者だつてさう鋭角的に維持する必要もないでせう。實は先例があるとか無いとか云はれては、少し迷惑するので、私は博士のうちに親友もありますし、又敬愛してゐる人も少くはないのですが、必ずしも彼等諸君の轍を追うて生活の行路を行かねばならぬと迄は考へてゐないのであります。先例の通りに學位を受けろと云はれるのは、前の電車と同じ樣に、あとの電車も食付いて行かなければならない樣で、丸で器械として人から取扱はれる樣な氣がします。博士を辭する私は、先例に照して見たら變人かも知れませんが、段々個人々々の自覺が日増に發展する人文の趨勢から察すると、是から先も私と同樣に學位を斷る人が大分出て來るだらうと思ひます。私が當局者に迷惑を掛けるのは甚だ御氣の毒に思つてゐるが、當局者も亦是等未來の學者の迷惑を諒として、成るべくは其人々の自由意思通り便宜な取計をされたいものと考へます。猶又學位令に明記がない爲に、今回の樣な面倒が起るのならば、この面倒が再び起らない樣に、どうか御工夫を煩したいと思ひます。學位令のうちには學位褫奪の個條があるさうですが、授與と褫奪が定められて居ながら、辭退に就て一言もないのはちと變だと思はれます。夫ぢや學位をやるぞ、へい、學位を取上げるぞ、へい、と云ふ丈で、此方は丸で玩具同樣に見做されてゐるかの觀があります。褫奪と云ふ表面上不名著を含んだものを、是非共頂かなければ濟まんとすると、何時火事になるか分らない油と薪を脊負された樣なものになります。大臣が認めて不名譽の行爲となすものが必ずしも私の認めて不名譽となすものと一致せぬ限りは、いつ何時どんな不名譽な行爲(大臣のしか認める)を敢てして褫奪の不面目を來たさないとも限らないからです。云々
        −明治四四、三、八『東京朝日新聞』−
 
    西洋にはない
 
 俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。川柳といふやうなものは西洋の詩の中にもありますが、俳句趣味のものは詩の中にもないし、又それが詩の本質を形作つても居ない。日本獨特と言つていゝでせう。
 一體日本と西洋とは家屋の建築装飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の装飾になるが、西洋のやうな大きな構造ではあんな小《ちひ》ぽけなものを置いても一向目に立たない。
 俳句に進歩はないでせう、唯變化するだけでせう。イクラ複雜にしたつて勸工場のやうにゴタ/\並べたてたつて仕樣がない。日本の衣服が簡便である如く、日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便なものである。
             −明治四四、六、一『俳味』−
 
    夏目漱石氏の談片
 
 Thackeray 號發行の爲め、英文學の authority たる夏目漱石氏を訪ひ、何か執筆を願はんと一日片々子は早稻田に氏の邸を訪うた。處が「自分は Thackeray の作は、多くは考の定まらぬ若い時に讀んだので、今度何か Thackeray のことを書くには、少くとも四五冊を讀み直さねばならぬ。がそれは目下多忙であるから出來ぬ」との言であつた。夏目氏は“Thackerayana”等の參考書を貸與しくれ且つ色々の話もあつた。今其の談片の一二を、思ひ出したまゝ此處に紹介する。
 小説は現代に於て進歩したと言ふ者がある。さらばと言つて Thackeray などは捨つべきものでない。今日英國に續々出る小説もつまらないものが多い。俳句は明治に於て進歩したに相違ないが、さらばとて芭蕉や蕪村は矢張り偉いのである。俳句の進歩した今日でも芭蕉や蕪村を讀まねばならぬ樣に、今日でも Thackeray は讀むべきものである。
 Thackeray の文章は實によく締つて居る。巧みなものである。Dickens の文章は大ざつぱで、 Thackeray に比べると遙に劣つて居る。作中の Character でも Thackeray の方がよく描かれて居る。
         −明治四四、七、一五『英語青年』−
 
    稽古の歴史
 
 下懸り寶生派には俳人が澤山居る。然う考へて此流の謠を聞いて見ると、氣の爲か何となく俳味を帶びて何處か變つた趣がある。夏目氏、高濱氏、河東氏と此等の人々の風采を思ひ浮べると、……何か意見を叩いて見たい。殊に文藝家の能樂觀は本誌が兼てから世に紹介するに勉めた所、今後も更に勉めんとして居る所であるから、と、小春日和の一日南町の邸に夏目さんを御訪ねした。然し遺憾ながら、病後の氏は健康の爲とあつて多く語られなかつた。一世を超越して、夢の如き世に安住する氏の眞の意見は他日に讓つて、今は唯僅に聞き得た斷片的のものを御紹介する事と致さう。
 謠の事は何も知りません。唯教はつただけをその通りに唸るだけの事ですからね。
 下懸り寶生を撰んだといふのも別に仔細がある譯ぢやありません。尤も恁う云ふ事はその場合の關係次第で決まる事で、未だ習ひもせぬ先からどの流を習はうなどと言ふ鑑賞力を持つて居る人はありますまい。
 私のなども要するに高濱君との關係からですよ。一體謠曲位習はない人にとつて詰らないものは無いでせう。それを些しの御構ひもなく、側に坐らせて置いて、一番も二番も謠つて聞かせる人がありますが、あれ程惨酷な事は世に多くありますまい。
 私が習ひ初めたのは熊本の學校に居る時分の事でした。同僚の教授連が盛んにやるので私も半年程稽古をしましたが、その後間も無く外國へ行つて了つたので、勿論稽古も出來ず、忘れた樣になつて居たのですがね。それが歸朝《かへ》つて來て、今から五六年程以前の事ですよ。高濱君等の勸めもあり、誰に就いて習はうかと考へて居ました所が、寶生流の某先生が好からうとの事。所が聞いて見ると、此先生は非常な酒好きで忙がしい躯だとの事です。それは大變だ、私には酒の御相手などは所詮出來ない、而已ならず然う言ふ忙がしい先生では月謝も嘸高い事であらう。我れ/\如き貧乏人ではと二の足を踏んで居ると、幸ひ高濱君が見えられて、盛んに下懸り寶生の長所を説かれる。それぢやあといふので、寶生新さんに願ふ事になつたのです。所が寶生さんは率直で、淡泊で、至極面白い人だが、怎うも時間など少しも守つて呉れない。此方に都合の惡い時があつたり、先生が來なかつたりして、兎角停滯勝なものですから、終には面倒になつて來て、もう止して了つて、上懸りに取換へよう、丁度某氏が教へて呉れると言ふ事でしたから。と、其處で府下中野の寶生に宛てて以後稽古は止めるから、と言つて手紙を出しました。何しろ田舍の事ですから、手紙と言つても然う早くは着きません。するとそれから行違ひに新さんが見えられた。其處で實は斯く/\ですと話をすると、あゝ言ふ人ですから、別に感情を害すると言ふ事もなく、「はア然うでしたか」と言つて平氣で稽古を始められる。とう/\それなりけりで矢張り今でも新さんの厄介になつてゐますよ。
 病後末だ一度も稽古は致しません。もうそろ/\初めても好からうと思つてをりますがね。然し何分未だ日が淺い事ですから、怎うやら恁うやら、謠の巧拙位は解りますが、能の事は一切解りませんな。美感を感ずる事はあつても、誰が上手で、誰が下手なのか、今に薩つ張り解つて居りません。
 謠曲の文章は全曲として詰らないものもある樣ですな。能として種々なものが集められて初めて完成された藝術となるのでせう。
           −明治四四、一一、一『能樂』−
 
    漱石山房より
 
 恰度、私が伺つた時は、先生は晝の食事中であつた――十二時少し過ぎ、三十分も廻つて居たらうか。兎も角、客間へ通されて、暫く待つて居た。
  〔中略〕
 「どうも失敬。」さう云つて先生の優しい姿が現はれた。何時か此の春頃お訪ねした時は、如何にも病弱さうであつたのが、色も黒くなられて、頬のあたりも豐かに肉附き、大變元氣さうなのが嬉しかつた。
 「お肥りになりましたなア。――私がお目にかゝつてから此方《こつち》、今度ぐらゐ健康さうなことはありませんね。」私は、思つた儘を正直に言つた。
 先生は和々《にこ/\》した顔の、頬のあたりに一寸手を當てて見て、「そんなに丈夫さうになりましたかね。――さうかも知れない。」と獨りで頷いて居られる。
 先生が今、朝日に連載中の『行人』の話や、徳田秋江氏の話などが出た。私は『行人』は毎朝新聞が來ると第一番に樂しみにして愛讀しつゝあるので、それに就て氣の付いて居ることを云つた。先生は作者としてそれに對していろ/\な話をされた。あの中のエピソードに出て來る三澤に對して送り迎へをすると云ふ靜かな氣の違つた女の印象が強く殘つて居ることを云ふと、先生は笑つて、「つまり、あれは描寫が傑れて印象が深いと云ふよりも、あゝ云ふ事實其の物が總べての人々の心を惹く力を持つて居るのだと思ふ。――妙でしたよ。あゝ云ふ事實が私の若い時分にあつたんです。何でも遠縁の婦人で、私の家にあづかつて居たんだが、私に對してあの通りに、出懸けには、早く歸つて頂戴と、ちやんと送り迎へをするのです。――何う云ふつもりであつたものか……。」
 秋江氏の『疑惑』は褒めて居られた。
 「兎に角、あれだけのことをあゝ正面《まとも》に書き得たのは偉い。――中々面白かつた。」
 「一體秋江氏は、今の文壇でも可也な天分を持つた人のやうに思ひますがね。」
 「さあ、天分と云ふのかな。……或は好い材料を持つたと云ふ方が適當かも知れない。若し、外の材料であつたら、あゝ云ふ風に書き得たか何うか。あの作は立派な作物ではあるが、あの中に現はれた主人公《ヒーロー》は普通から見て極く下らない人物である。其の下らない人物をあくまで正面《まとも》に書いたところにあの作の價値があるのだが、一面から云ふと、若し、あれが作者自身を其の儘描いたのなれば、先づ其の作者は極めて未練深いつまらぬ人間である。しかし、つまらぬ人間をつまらぬ儘に當面に書き得たところに、作者の偉いところがある。」
 津田青楓氏が來られた。何とか云ふ青年も見えた。繪の話、藝術家としての態度の話、建築の批評、話はいろ/\の方面へ亙つて行つた。伺う云ふ問題に對しても、修養の淺い青年の意見をも聞き、又、自分の考へをも述べる――さう云ふところに先生の好もしい若さがあるやうに思つた。先生は、自作の繪など出して津田氏の批評を乞はれた。此の春頃よりは、大分黒人染みたところが感じられた。(丘の人)
           −大正二、一二、一『新潮』−
 
    『サアニン』に對する四名家の評
 
  『サアニン』一たび世に出づるや、果して世評籍甚、最も異色ある傑作として迎へられつゝあり。左に、露國文學第一の大家たる昇曙夢氏及び、漱石、瓊音、臼川諸名家の評を掲ぐ。短言斷章の間、諸子は『サアニン』の特質、長所を看取するに難からざる可し。
 
 『サアニン』の第一頁に、サアニンが幾年振りかで自分の家に歸つて來た、それは
  着いたのは夕方、落附いて從容と、さも此室を出て行つたのが僅に五分間許り前だつたかの樣な風で入つて來た。
と書いてある。何等の感激もない、咏嘆もない、センチメンタリズムの影を絶して、習俗の固陋に寸毫も累はされて居らぬサアニン其人が、早く此數行のうちに髣髴される。私は忙しいので未だ『サアニン』を讀まぬ。併し卷を開いて早く斯くの如き文字を見出したので、非常の興味と期待とを此書に持つてゐる。
           −大正三、二、二一『新文壇』−
 
    「文士の生活」
  夏目漱石氏−收入−衣食住−娯樂−趣味−愛憎−日常生活−執筆の前後
 
 私が巨萬の富を蓄へたとか、立派な家を建てたとか、土地家屋を賣買して金を儲けて居るとか、種々な噂が世間にあるやうだが、皆嘘だ。
 巨萬の富を蓄へたなら、第一こんな穢い家に入つて居はしない。土地家屋などはどんな手續きで買ふものか、それさへ知らない。此家だつて自分の家では無い。借家である。月々家賃を拂つて居るのである。世間の噂と云ふものは無責任なものだと思ふ。
 先づ私の收入から考へて貰ひたい。私にどうして巨萬の富の出來よう筈があるか――と云ふと、ではあなたの收入は?と訊かれるかも知れぬが、定收入といつては朝日新聞から貰つて居る月給である。月給がいくらか、それは私から云つて良いものやら惡いものやら、私にはわからぬ。聞きたければ杜の方で聞いて貰ひたい。それからあとの收入は著書だ。著書は十五六種あるが、皆印税になつて居る。すると又印税は何割だと云ふだらうが、私のは外の人のよりは少し高いのださうだ。これを云つて了つては本屋が困るかも知れぬ。一番賣れたのは『吾輩は猫である』で、從來の菊判の本の外に此頃縮刷したのが出來て居る。此の兩方合せて三十五版、部數は初版が二千部で二版以下は大抵千部である。尤も此三十五版と云ふのは上卷で、中卷や下卷はもつと版數が少い。幾割の印税を取つた處が、著書で金を儲けて行くと云ふ事は知れたものである。
 一體書物を書いて賣るといふ事は、私は出來るならしたくないと思ふ。賣るとなると、多少慾が出て來て、評判を良くしたいとか、人氣を取りたいとか云ふ考へが知らず/\に出て來る。品性が、それから書物の品位が、幾らか卑しくなり勝ちである。理想的に云へば、自費で出版して、同好者に只で頒つと一番良いのだが、私は貧乏だからそれが出來ぬ。
 衣食住に對する執着は、私だつて無い事はない。いゝ着物を着て、美味い物を食べて、立派な家に住み度いと思はぬ事は無いが、只それが出來ぬから、こんな處で甘んじて居る。
 美服は好きである。敢て流行を趁ふ考も無いし、もう年を取つたからしやれても仕方が無いと思つて居るので、妻の御仕着せを黙つて着て居るが、女などがいゝ着物を着たのを見ると、成程いゝと思ふ。
 食物は酒を飲む人のやうに淡泊な物は私には食へない。私は濃厚な物がいゝ。支那料理、西洋料理が結構である。日本料理などは食べたいとは思はぬ。尤も此支那料理、西洋料理も或る食通と云ふ人のやうに、何屋の何で無くてはならぬと云ふ程に、味覺が發達しては居ない。幼穉な味覺で、油つこい物を好くと云ふ丈である。酒は飲まぬ。日本酒一杯位は美味いと思ふが、二三杯でもう飲めなくなる。
 其の代り菓子は食ふ。これとても有れば食ふと云ふ位で、態々買つて食ひたいと云ふ程では無い。煎茶も美味いと思つて飲むが、自分で茶の湯を立てる事は知らぬ。莨は吸つて居る。一時止した事もあつたが、莨を吸はぬ事が別に自慢にもならぬと思つたから、又吸ひ出した。餘り吸つて舌が荒れたり胃が惡くなつたりすれば一寸止すが、癒れば又吸ふ。常に家に居て吸つて居るのは朝日である。値段は幾らだか知らぬが、安いのであらうが、妻がこれ許り買つて置くから、これを飲んで居る。外に出て買ふ時に限つて敷島を吸ふのは、十錢銀貨一つ投り出せば、釣錢が要らずに便利だからである。朝日よりも美味いか如何か、私には解らぬ。
 家に對する趣味は人並に持つて居る。此の間も麻布へ骨董屋をひやかしに出掛けた歸りに、人の家をひやかして來た。一寸眼に附く家を軒毎に覗き込んで一々點數を附けて見た。私は家を建てる事が一生の目的でも何でも無いが、やがて金でも出來るなら、家を作つて見たいと思つて居る。併し近い將來に出來さうも無いから、如何云ふ家を作るか、別に設計をして見た事は無い。
 此家は七間ばかりあるが、私は二間使つて居るし、子供が六人もあるから狹い。家賃は三十五圓である。家主は外との釣合があるから四十圓だと云つて呉れと云つて居るが、別に嘘を云ふ事もないと思つて、人には正直に三十五圓だと云つて居る。家主が怒るかも知れぬ。地坪は三百坪あるから、庭は狹い方では無い。然し植木は皆自分で入れたのだから、こんな庭の附いてゐる家としたら、三十五圓や四十圓では借りられないだらう。植木屋と云ふものは勝手なもので、一度手入れをさせたら、こつちで呼ばないのに、時々若い者を連れて仕事にやつて來る。物の一月餘りもこち/\其處邊《そこら》をいぢつて居る事がある。別に斷わるのも妙だと思つて、何とも云はずに居るが、中々金がかゝる。
 私はもつと明るい家が好きだ。もつと奇麗な家にも住みたい。私の書齋の壁は落ちてるし、天井は雨洩りのシミがあつて、隨分穢いが、別に天井を見て行つて呉れる人もないから、此儘にして置く。何しろ疊の無い板敷である。板の間から風が吹き込んで冬などは堪らぬ。光線の工合も惡い。此上に坐つて讀んだり書いたりするのは辛いが、氣にし出すと切りが無いから、關はずに置く。此間或る人が來て、天井を張る紙を上げませうと云つて呉れたが、御免を蒙つた。別に私がこんな家が好きで、こんな暗い、穢い家に住んで居るのではない。餘儀なくされて居るまでである。
 娯樂と云ふやうな物には別に要求もない。玉突は知らぬし、圍碁も將※[其/木]も何も知らぬ。芝居は此頃何かの行掛り上から少し見た事は見たが、自然と頭の下るやうな心持で見られる芝居は一つも無かつた。面白いとは勿論思はぬ。音樂も同樣である。西洋音樂のいゝのを聞いたら如何か知らぬが、私は今までさう云ふ西洋音樂を聞いた事の無い爲《せゐ》か、未だ一度も良い書畫を見る位の心持さへ起した事は無い。日本音樂などは尚更詰らぬものだと思ふ。只謠曲丈けはやつて居る。足掛六七年になるが、これも怠けて居るから、どれ程の上達もして居ない。下がゝりの寶生で、先生は寶生新氏である。尤も私は藝術のつもりでやつて居るのではなく、半分運動のつもりで唸るまでの事である。
 書畫だけには多少の自信はある。敢て造詣が深いといふのでは無いが、いゝ書畫を見た時許りは、自然と頭が下るやうな心持がする。人に頼まれて書を書く事もあるが、自己流で、別に手習ひをした事は無い。眞《ほんと》の恥を書くのである。骨董も好きであるが所謂骨董いぢりではない。第一金が許さぬ。自分の懷都合のいゝ物を集めるので、智識は悉無である。どこの産だとか、時價はどの位だとか、そんな事は一切知らぬ。然し自分の氣に入らぬ物なら、何萬圓の高價な物でも御免を蒙る。
 明窓淨机。これが私の趣味であらう。閑適を愛するのである。
 小さくなつて懷手して暮したい。明るいのが良い。曖かいのが良い。
 性質は神經過敏の方である。物事に對して激しく感動するので困る。さうかと思ふと、又神經遲鈍な處もある。意志が強くて押へる力のある爲めと云ふのでは無からう。全く神經の感じの鈍い處が何處かにあるらしい。
 物事に對する愛憎は多い方である。手廻りの道具でも氣に入つたの、嫌ひなのが多いし、人でも言葉つき、態度、仕事の遣り口などで好きな人と嫌ひな人がある。どんなのが好きで、どんなのが嫌ひかと云ふ事は、何れ又記す機會があらうと思ふ。
 朝は七時過ぎ起床。夜は十一時前後に寢るのが普通である。畫食後一時間位、轉寢《うたゝね》をする事があるが、これをすると頭の工合の大變よいやうに思ふ。出不精の方で餘り出掛けぬが、時々散歩はする。俗用で外出を已むなくされる事も、偶には無いではない。人を訪問に出る事はあるが、年始とか盆とかの廻禮などは絶對にしない。又する必要は無いと考へて居る。
 執筆する時間は別にきまりが無い。朝の事もあるし、午後や晩の事もある。新聞の小説は毎日一回づゝ書く。書き溜めて置くと、どうもよく出來ぬ。矢張一日一回で筆を止めて、後は明日まで頭を休めて置いた方が、よく出來さうに思ふ。一氣呵成と云ふやうな書方はしない。一回書くのに大抵三四時間もかゝる。然し時に依ると、朝から夜までかゝつて、それでも一回の出來上らぬ事もある。時間が十分にあると思ふと、矢張長時間かゝる。午前中きり時間が無いと思つてかゝる時には、又其の切り詰めた時間で出來る。
 障子に日影の射した處で書くのが一番いゝが、此家ではそんな事が出來ぬから、時に日の當る縁側に机を持ち出して、頭から日光を浴びながら筆を取る事もある。餘り暑くなると、麥藁帽子を被つて書くやうな事もある。かうして書くと、よく出來るやうである。凡て明るい處がよい。
 原稿紙は十九字詰十行の洋罫紙で、輪廓は橋口五葉君に畫いて貰つたのを春陽堂に頼んで刷らせて居る。十九字詰にしたのは、此原稿紙を拵らへた時に、新聞が十九字詰であつたからである。用筆は最初Gの金ペンを用ひた。五六年も用ひたらう。其後萬年筆にした。今用ひて居る萬年筆は二代目のでオノトである。別にこれがいゝと思つて使つて居るのでも何でも無い。丸善の内田魯庵君に貰つたから、使つて居るまでである。筆で原稿を書いた事は、未だ一度もない。
        −大正三、三、二二『大阪朝日新聞』−
 
    漱石山房座談
 
 漱石先生の面會日は週の木曜で有る。其日の夕方から漱石先生の門に出入する若い連中が集まつて、勝手な無駄話をするのが常例に成つて居る。これは隨分舊くからの仕來りで、今に至るも連綿として跡を絶たない。尤も顔觸れは大分變つた。初期の千駄木時代には、高濱虚子、坂本四方太、(此二人はお弟子ではない)寺田寅彦、松根東洋城など、既に一家を成した人々の顔も時々見掛けて、つゞいて三重吉、豐隆、臼川、今は第八高等學校の羅甸語を受持つて居る中川芳太郎なぞが重なる參者で有つた。中にも、三重吉が一人で喋舌つて、一人で巾を利かして居た。自分が始めて寺田さんに會つたのは、失張先生のお宅で、夏の暑い日盛りに氷葡萄を啜りながら、蝶形の黒い襟飾りがカラアを滑つて上へ上がるのを、何遍下ろしても又上がる。それを又氣にして、何遍でも直して居られたのを、傍からこれが理科大學の地下室で玉を磨いてる人かなと思ひながら、まじ/\と見て居た事を今でもおぼえて居る。それは實に今から十年の昔で有る。十年の間には、木曜會もいろ/\變遷した。其頃書生で居た連中も學校を出ると、それ/”\細君を貰つて家を持つた。左樣成ると、木曜日にも餘り顔を出さなく成る。入れ代つて、現在獨逸文科や佛蘭西文科や英文科に籍を置く新手の連中が出來る。今でも木曜日には雨が降つても風が吹いても皆勤の連中が大分有るらしい。餘談は偖置いて、今度自分達が雜誌を出すについて先生にも應援をお願ひした處、前から分つて居る通り新聞との關係上、原稿は遣れない。それは困つた。が、遣れなければ、此方で取る分のことだ。
 先生は演説も旨いが、座談の方が一層旨い。あの口を突いて出る機才と譬諭と、それから一絲亂れざる論理と、宛らにして足れ一つの藝術である。で、それから想ひ着いたのが此の漱石山房座談で有る。が、つく/”\と思ふに、人間が人間の話を傳へるのに正確と云ふことは決して望まれない。彼の人は今日齒が痛んで飯が喫べられないと言つたと云つたやうな、そんな簡單なことを傳ふるんだつて、迚も本人の言つた心持なり氣分なりと寸分も違はぬ樣には出來なからうと思ふ。自分は平生小説のモデル問題について考へて居る。自然主義が始まつて以來、モデルの苦情と云ふやうな事を度々耳にするが、作品の中に現はれた人物の言動については、モデルに成つた當人は少しも責任を帶びる必要がない。あれは描かれた人物よりも描いた人物の性格なり氣分なりを一層ふんだん〔四字傍点〕に含有するもので有る。同じ事が他人の言説を傳ふる場合にも言はれるのではなからうか。即ち此處に題して漱石山房座談と云ふも、それに對する責任は先生よりも寧ろ自分の方が多分に帶ばなければ成らぬもので有らうと。勿論、此座談は出す前に先生の一覽を經るもので有る。が、それにも拘らず、最初にこれだけの事を斷つて置かないと、何うも自分は安んじて筆が執れないので有る。
 最後にこれは云ふ迄もない事だが、一々座談を書いて雜誌に載せられるなぞは、先生には極めて御迷惑なことで有る。又自分とてもそれは先生の座談が其の儘消えて仕舞ふのは惜しい。世間にあれを紹介したいと云ふ念慮も有るには有るが、これが他人の雜誌なら決して遣らない。自分達の雜誌だから出來るので有る。換言すれば、一部でも餘計に雜誌が賣りたいので有る。(森田草平)
 コムミツシヨンと云ふことを君は如何思ふ。(と、先生は自分の顔を見ると行成言はれた。)あれを喧ましく言ふのは詰らないね。幾許喧ましく言つた所で此世にコムミツシヨンがなく成るものでない。あれはコムミツシヨンを取つても可いと云ふことにするんだね。左樣すりや何でもないんだ。それで始めて廓清の實が擧るんだよ。
 實際、コムミツシヨンを取れるやうな地位に居て取らない者は殆どなからう。取らないのは取れないからで有る。そりやア僕も條件次第で取らないとも限らないさ。他人からお禮を貰ふんだつて左樣だからね。一體お禮と云ふものが過去に盡して貰つた骨折に酬ゆる意味が多いか、それとも未來の好意を希望する意味が多いか、何方だか分つたもんぢやない。若し單に過去のためばかりで、少しも未來のためがなく成るとすりや、お禮を持つて行く者は大分少く成るだらうよ。出入りの一商人が盆暮に持つて來る附け屆けなぞは立派な賄賂だね。
 なに、昔は賄賂の行はれるのが少かつたらうて? 如何して昔の方が却て多いさ。今の樣に新聞や雜誌で喧ましく云ふ時代の方がどの位そんな弊が少いか知れない。うむ、吉良上野介も左樣だらうが、俺の家なぞは昔はこれで賄賂で生活して居たと云つても可い位だからね。それやア自分で賞罰の權を握つて居た譯ではないが、賞罰の權を握つてる向きへ上申する役目なんだから、町内でも善い事を最つと善く書いて貰ひたいのや、惡い事を最つと加減して惡く書上げて貰ひたい連中が皆賄賂を持つて來たものだね。(先生の家は人も知る如く、江戸草分名主の一軒である。)
 つまり官紀で縛られて育つて來た人間と云ふものは未だしも當に成る。今の所謂政黨の中に居る人達に軍艦の製造なぞを任して置いたら、何をするか知れたもんぢやない。平生コムミツシヨンを取つて居る代議士がコムミツシヨンを取つた官吏を攻撃するんだから、眞個奇態な現象さね。
 で、僕の考へでは、賄賂を取つて、明日からでも取つた相手を攻撃するだけの覺悟がないやうなものは、賄賂を取る資格がないと云ふんだ。賄賂を取つて、其爲めに自由の意志を拘束されるやうぢや苦しくて堪らない。全く拘束されないよ。尤も、そんな所へは向うでも持つて來ないがね。
 そこで僕が賄賂を取る條件と云ふのは、神社佛閣へ寄附するやうな了簡で金を呉れるものが有れば幾許でも貰ふよ。僕が滿洲へ行つた時、是公からそれでも五六百圓貰つたか知ら――併し明日でも其必要があれば彼んな奴立所に遣つ附けて仕舞ふね。それから新橋堂の主人だ。彼の男が自分の宅で造つて居る組合せ本箱を廣告の爲めだと言つて呉れた。併しそれつ切りで、何にもして遣らない。又文淵堂の主人が未だ失敗しない前に、僕の許へ來て、如何です、家を建てて上げませうかと云ふんだよ。其頃の僕は南極のペンギン鳥の樣なものでそれを貰つて置いたら後難が恐ろしいなぞとは夢にも思はんのだね。只、世には親切な人も有るもんだと思つて居た。が、不思議な事に、其頃は一向家なぞ欲しくなかつたから到頭建てて貰はずに濟んで仕舞つたよ。
 賄賂と云へば、又岩崎太郎次から手紙が來たよ。(と、先生は話頭を轉じられた。)かう成ると、何だか怨靈に祟られてでも居るやうな氣がするね。なに、此男は播州□□の者で、最初は短冊を書いて呉れと云つて來たんだよ。それが何時の手紙でも「失敬申候」と云ふ書出しで、他から遣つて來るやうな、大に貴方の物を愛讀して居ますとか、感服して居ますとか、云ふやうな面倒臭いことは別に云はない。只、いきなり短冊を二三枚書いて呉れと云ふんだよ。面白い男だと思つたから書いて遣つたね。
 こんな事が二三回も有つたらうか。左樣して居る間に、ある日名古屋から小包が屆いた。好いかい、名古屋から屆いたんだよ。播州とも□□とも書いてないんだぜ。所で開けて見ると、お茶が一斤這入つて居る。差出人の名前はなし、今頃こんな物を貰ふ筈はないと思つたが、これは屹度|葉茶舗《はぢやや》が見本に送つて來たんだらうと云ふ妻の鑑定でそれにしても可訝しいとは思つたが、何でも構はない、貰つたもんだから飲んぢまへと云ふのでお茶は飲んで仕舞つた。
 すると、それから二三箇月程經つて、又「失敬申候」が來た。其文面に據れば、二三箇月前に富士登山の畫を送つて賛を求めて置いたが、あれは書いて貫へるか如何ぢや、若し書いて貰へなければ即座に返送して呉れと云ふんだね。此方はそんな富士登山の畫なぞ受取つた覺えはない。何を言つてるやらと思つて打遣つて置くと、續々催促状が來るんだよ。これは的切《てつき》り狂人だと思つたね。で、何と言つて來ても、一切相手に成らぬことにした。
 所がね、或日本棚の上を掃除して見ると、岩崎太郎次から送つた長方形の小包が埃まみれに成つて出て來たんだよ。開けて見ると成程ちやんと富士登山の畫が這入つて居て、それに添手紙が附いて居る。手紙の文面に據ると、失張此畫に賛をして貰ひたい、御禮にはお茶を一斤送ると書いて有るんだね。考へて見ると、彼の當時又小包を送つて來たが、屹度短冊を書いて呉れに違ひない。何度も書いて遣つたんだから、左樣々々書かされては堪らないと思つて、好く檢めもしないで、棚の上に抛り上げて置たんだね。さ、これは惡い事をしたぞと思つたから、早速詑まつて遣つた。お茶は飲んで仕舞つたから何卒勘辨して貰ひたい、と書いて、別に小包で返して遣つたよ。
 で、岩崎太郎次から返辭が來た。お茶は飲んで仕舞ひ、畫の賛は書かずでは餘んまり非道いぢやないか其代りに短冊でも書けと云ふんだね。何か言つて遣らうかとも思つたが、面倒臭いから其儘にして置いた。すると又手紙を寄越して、今度はお茶を返して呉れと云ふんだよ、お茶が返せなければお茶の代として金一圓送れと云ふんだね。それだけなら未だ可いが、何うだ、短冊を書かないか、短冊さへ書けば又お茶を送つて遣るが、如何ぢやと云つて來るんだよ。僕も、此男はこりやアヽヽぢやアないかと思つてね。何うもヽヽか猶太人《ジユウ》でもなけりや、そんな鄙吝なことは云はなからう。所が、此處に播州近くの男で、一つヽヽか何うか聞合せて見て上げませうかと云ふ男が出て來たんだよ。なに、聞いて見ると、□□と云ふは播州でも素封家の揃つて居る所ださうだよ。で、岩崎太郎次の方ぢや最う憤つて仕舞つて、何とも云つて來ないかと思つて居ると、今年の春、又ひよつこり年始状を寄越した。年始状には返辭を出して置いた。すると又、此頃に成つて「失敬申候」と遣つて來るんだね。何かと思へば、失張短冊を書けだよ。
 つまり田舍の人で見れば、此方の手數と云ふものを丸で勘定に入れて居らんのだね。手紙一本書くのが何の位苦痛だなぞと云ふことは、想像も着かんのだらうよ。お茶の代だつて、此處へ取りに來さへすれば一圓ばかりの金は直ぐに遣るさ。此方でもそんな物貰つて置かん方が餘程好いんだからね。只それを送つて遣るだけの手數が堪らないんだよ。
            −大正三、四、一六『反響』−
 
    釣鐘の好きな人
 
 長塚節君と私とを結付けたものは、『ホトヽギス』に出た君の佐渡の紀行文であつた。私はそれを見て面白いと思つた。それで私が朝日の文藝方面を擔任して居た際、君に長篇小説の寄稿を頼んだ。その私の註文に應じて出來たのが『土』であつた。あれは書き方が少し堅くなり過ぎたと思ふ。あの材料を『佐渡ケ島』のやうな筆つきで書いたら、更に一層面白いものになつたらうと思ふ。あれは本當の事を書いたのかと訊いたら、皆本當ですと云つた。あの火事の所も本當かと訊いたら、あすこだけウソですと云つた。
 短篇ものは以前に五六種も發表して居た。『土』を書いたあとで、郷里の茨城や栃木は著しく殺人犯の行はれる所だから、其犯人を細かに書いて見たい、その準備として監獄をよく知りたい、どうか自分で實際罪を犯して入獄することは出來ぬから、看守か押丁を勤めて見る積りだと云つてたが、病氣の爲に其準備にも着手し得なかつた。『土』の續篇も書きたいと云つてたが、これも遂げず了ひであつた。
 長塚君は旅行好きでよく紀行文を書いた。病氣が段々重くなつて來てから、紀行文だけでも纏めて置きたいと云ふ希望が、頻りに起つたらしかつた。君は又アラヽギ派の歌人で、柔い言葉でよく田園の自然を詠んで居た。
 死んだ伊藤左千夫が親友であつた。誰を崇拜して居たかよく知らないが、緑雨が大變好きだつた。美術の方面では釣鐘に非常に趣味をもつて居た。
 長塚君はカラツとした、氣安い、そして眞摯な、美しい人であつた。一體人と對座して話をして居る時には、對して居る人の形がハツキリと前に見えて居るのが、ひどく話をする邪魔になると云ふ事が多い。長塚君は僕と話をする際に、いつも相對してる僕の形を忘れた。その忘れてることが僕によく解つた。向うが此方を忘れるので、こちらも向うを忘れた。尤も僕もいつも長塚君の形を忘れたから、此方が向うを忘れるから向うが此方を忘れるのか、向うが此方を忘れるから此方が向うを忘れるのか、どちらが先だかそこは判然しない。斯う云ふ事は外の人にもだつたか、或は僕にだけだつたか、それも知らない。ともかく長塚君は僕に大變好意を持つてて呉れた。夏目さんには非常に御厄介になつたからゾンザイな手紙を出してはならんと云つてたさうだ。先達て弟から手紙が來たが、どうも大變に丁寧な手紙だつた。これも長塚君が注意をしたのだらう。
 此間愈危篤だといふ事を聞いたものだから、早速病院へ電報で御回復を祈ると云つてやつた。ところが直きに返電が來た。さては死んだのかと思つて、見ると、大變によくなつたとの報知だつた。不思議だと思つて居たが、やはりそれは一時的の事で、到頭駄目でした。
             −大正四、三、一『俳味』−
 
    夏目先生の談片
 
 私は只の一度夏目先生に御目にかゝつた事がありました。それは一昨年〔大正四年〕の九月の中頃、御宅ででしたが、浴衣一枚着た小柄な先生は、口髭に白も交つて、思つたより意氣揚らぬと思ひました。先生は私の身の上を隨分突つ込んで尋ねられました。今度新聞などで見ますと、先生は人の世話を身を入れてなさつた方だとありますが、私に對する質問の如きも親切氣がなくでは出來ぬ事だとその時思ひました。
 談は沙翁に飛びました。先生のいはるゝには「全體として沙翁は偉いに違ひない。何となれば、あれ程多くの人物になり了せて居る作家は外にないからである。併し一つ一つの作を取つていへば一向感心しない。凡てが作り物である。そして人物の心理の動きなども頗る粗大である。とても近代の佛國や露國の作家を讀むやうな味は出ない。リヤ王にしろ、オセロにしろ、あゝいふ事件が近世に起つたとしても、あんな具合にはとても發展しない。とても沙翁などをこれから研究する氣は起らない」
 私は沙翁の評論の讀むべきを尋ねた。先生曰く、
 「ダウデンは沙翁學者といふのだけれども、一向感心しないね。ブランデスか、あの人の沙翁は讀まぬが、あの人も博學な人だと感心はするが、さう偉いとは思はないね。十九世紀文學の思潮だつて、知つてゐた事を書いたといふだけで、一向思潮になつてゐないところがあるからね。まあ讀んでは書き、讀んでは書きして名を揚げた人とでもいつたらよからうか。コールリツヂのものはいゝでせう。何しろ美的批評といふものはあの人に始まつたのだから、何一般の文學批評の書物つて。さう、Laocoon は是非讀んでいゝ本だね。あれほど analytical に着々論歩を進めてゐる書物はまあ珍しいね。Matthew Arnold も suggestive でよい。De Quincey にもいゝものがありますね。
 「僕の愛讀の書だつて。僕は横着なのか何か、書物を二度讀む事のない男で、此間も Gissing を讀むと、あの人は非常に苦學した人だが、その苦しい中でなけなしの金を出して Gibbonを 買ひ、繰返し繰返し讀んだといふが、全く感心するね。近頃僕のところへ來る若い人達は Merejkowsky の、Tolstoy と Dostoievsky に大變感服して批評の典型のやうに云つてゐるが、僕はうまく書いてはあると思ふが感心はせんね。先づ型を拵へておいて、それへ兩作家をたゝき込んだ感があるから」
 
 私は知らずして先生の面會日――木曜に訪ねていったのであった。私の居る内に、背廣を着た四十恰好の中學の先生らしい人と十六七の容貌端正な女學生とが同室に通されて、私と先生との問答をじっと聞いてゐられるので、私は心は殘るけれど、早く切りあげて歸つた。思へばそれが先生と相見た最初にして同時に最終であったか。(石田憲次)
         −大正六、二、一『英語青年』−
 
    文壇のこのごろ
 
 或る雨の日の朝、早稻田に夏目さんをお訪ねした。いつものやうに門が閉って居るので、傍の潜を入って更に壁の落ちた玄関先に立つ。蔦が右手の柱に絡みついて繁つて居る。格子戸を開けようとしたが開かないので、呼鈴の電鈕《ぼたん》を捜すと蔦の葉の影に隱れて居る。電鈕が人に見付けられるのを恐れて居るやうである。門が閉されて、玄関の格子戸が閉つて、さうして呼鈴の電鈕まで人の眼を逃れようとして居る。此の家《や》の主人がいつか私に向つて「懷手して世の中を小さく暮したい」と言つた言葉を、私は其時思ひ出して居た。
 電鈕を押すのを少し氣の毒に思ひながら、私は蜘蛛の巣のやうに腐蝕し切つた霧除けの雨樋の水の穴から、雨水がどう/\落ちて來るのを見て居ると、一人の女中が出て來た。さうして戸を開けずに格子の間から私の名刺を受取つた。
 間もなく私は其の格子戸の中に入ることを許された。煤けた疊に天井から雨でも漏るのか、雜巾を入れた瀬戸引の金盥の置いてあつた脇に外套《コート》を脱いで、私は書齋に通つた。
 
○文壇にあらはれる諸家の作物は、努めて讀むやうにして居るが、此頃讀んだものの中に、コ田秋聲氏の『あらくれ』がある。『あらくれ』は何處をつかまへても嘘らしくない。此嘘らしくないのは、此人の作物を通じての特色だらうと思ふが、世の中は苦しいとか、穢はしいとか――穢はしいでは當らないかも知れない。女學生などの用ひる言葉に「隨分ね」と云ふのがある。私はその言葉をこゝに借用するが、つまり世の中は隨分なものだといふやうな意味で、何處から何處まで嘘がない。
○尤も他の意味で「まこと」の書いてあるのとは違ふ。從つて讀んで了ふと、「御尤もです」といふやうな言葉はすぐ出るが「お蔭樣で」と云ふ言葉は出ない。「お蔭樣で」と云ふ言葉は普通「お蔭樣で有りがたうございました」とか、「お蔭樣で利益を得ました」とか、「お蔭樣で面白うございました」とか云ふ場合に多く用ひられるやうである。私のこゝで云ふ「お蔭樣で」も矢張り同じやうな意味であることは、斷るまでもないであらう。
○どうも徳田氏の作物を讀むと、いつも現實味はこれかと思はせられるが、只それだけで、有難味が出ない。讀んだ後で、感激を受けるとか、高尚な向上の道に向はせられるとか、何か或る慰籍を與へられるとか、悲しい中に一種のレリーフを感ずるとか、只の壓迫でなく、壓迫に對する反動を感ずるやうな、悲しみに對する喜びといふやうな心持を得させられない。「人生とは成る程こんなだらうと思ひます。あなたはよく人生を觀察し得て、描寫し盡しましたね。その點に於てあなたの物は極度まで行つて居る。これより先に、誰が書いても書く事は出來ますまい。」かうは言へるが、然し只それ丈けである。つまり「御尤もです」で止つてゐて、それ以上に踏み出さない。
○況して、人生が果してそこに盡きて居るだらうか、といふ疑ひが起る。讀んで見ると、一應は盡きて居るやうに思はれながら、どうもそれ丈けでは濟まないやうな氣もする。こゝに一つの不滿がある。徳田氏のやうに、嘘一點も無いやうに書いて居ても、何處かに物足りない處が出て來るのは、此爲である。
○他の諸家――徳田氏程深く人生を見て居ない人々の方に、却て徳田氏の作物の中に見出し得ない程の滿足を以て、徳田氏以上の感動を讀者に與へるものがあるやうに思はれる。
○つまり徳田氏の作物は現實其儘を書いて居るが、其裏にフイロソフイーがない。尤も現實其物がフイロソフイーなら、それまでであるが、眼の前に見せられた材料を壓搾する時は、かう云ふフイロソフイーになるといふ樣な點は認める事が出來ぬ。フイロソフイーがあるとしても、それは極めて散漫である。然し私は、フイロソフイーが無ければ小説ではないと云ふのではない。又徳田氏自身はさう云ふフイロソフイーを嫌つて居るのかも知れないが、さう云ふアイデアが氏の作物には缺けて居る事は事實である。初めから或るアイデアがあつて、それに當て嵌めて行くやうな書き方では、不自然の物とならうが、事實其の儘を書いて、それが或るアイデアに自然に歸着して行くと云ふやうなものが、所謂深さのある作物であると考へる。徳田氏にはこれがない。
○徳田氏の作物が、『あらくれ』のみには限らぬが、どうも書きつぱなしのやうに思はれるのは、此ためであらう。その點に行くと、武者小路氏などの方が、意味のあるものを書いて居る。武者小路氏は若い人で、世間に對しては智識も乏しいし、自然に書けば狹い範圍より出ないし、擴げれば不自然になるかも知れぬが、然し徳田氏に見る事の出來ぬやうな、或る意味を書いて居る。尤もそれは手際の問題ではない。作風の問題である。
○手際から云へば、徳田氏の作物には、眞面目で、落着があつて、無駄がなくて、老練である。どんな物を書いても出來損ひがない。然し徳田氏に類似した作風の人は今の文壇に珍らしくはない。
○志賀直哉氏の『范の犯罪』は他の人には書けぬものである。先頃東京朝日に小説を頼んだ時、五十回ばかり書いてよこして呉れたが、自分はどうしても主觀と客觀の間に立つて迷つて居る。どちらかに突き拔けなければ書けなくなつたと云つて、止めて了つた。徳義上は別として、藝術上には忠實である。自信のある作物でなければ公にしないと云ふ信念がある爲であらう。其點に行くと長田幹彦氏などは、頗る達筆家である。三宅雪嶺博士がこの頃よく演説の頼み手があると、何處へでもすぐ出掛けて行つて演説する。長田氏の精力的な點も、丁度雪嶺博士と同じやうなものである。
○有島生馬氏は特色のある作家である。『蝙蝠の如く』などは私の愛讀した一つである。此作などは、誰でも書けると云ふやうな種類の物ではない。有島氏でなくては出來ぬ物である。
○太陽に出た北村清六と名乘る人の『少年の死』も、矢張り特色のあるもので、ありふれたものではない。今日まで始終繰り返へされて來たやうな種類の物ではない。然し作物の價値としては、特に取り立てて賞讃する程のものだとは思はない。
○森鴎外氏のこの頃の作物、例へば『栗山大膳』とか『堺事件』とか云ふやうな、昔の歴史を取扱つた物を、世間では高等講談などと云つて惡く云ふが、私は面白いものだと考へる。物其物が面白いのみならず、目先が替つて居る丈けでも面白い。高等講談などと云つて、一笑に附すべきものではない。尤も高等の文字が附いて居るから、必ずしも冷笑の意味ではないと云ふなら、それでもよい。
           −大正四、一〇、一一『大阪朝日新聞』−
 
    沙翁當時の舞臺
 
 沙翁の三百年に就ては、早稻田の方でも講演會をやるとかいうて、自分にも出講を求められた。又英語青年といふ雜誌でも、何か沙翁に關し書いてくれなど言うて來た。併し自分は兩方共に斷つた。有りふれた事を言つたり書いたりしたのでは面白くないし、有觸れぬ骨のあるやうなものを綴るには容易の事でない。やらねば一大事といふならそりや大にやらぬでもないが、さうでない以上は御免を蒙りたい。――さうね、そんなに研究してゐる人もあるまい。○○氏も翻譯はよく遣るが本統に分つちやゐまい。大學でも卒業論文に沙翁の事を記述したものもあるが、皆よい加減のものぢや。△△氏は多少知つて居る方だらうが今は田舍に居る。普通の事なら知つてゐる人が澤山ある。
 シモンズ氏の書いた沙翁研究の中に、當時の舞臺を寫生的に記したものがある。それでも譯して見ようか。併しこれは僕の話ぢやない、シモンズの書いたものだから僕には全然責任がない事を斷つて貰はにやならぬ。一寸画白いから譯して上げよう。
    *    *    *    *
  エリザベス時代の演技に就ては參考書極めて乏しく、其精密な情況を知る事は出來ぬけれども、諸書の記述を綜合して試みに之を現はして見れば次のやうなものであつたらうか。
  小屋の前には福の女神が立てる下に朱で新番組を書いたビラが下つてゐる。屋根の上には旗が翻り、小屋の内では太鼓が鳴り喇叭の音がして居る。時分は午後三時過で、最早演技に取掛らうといふ時だ。自分は正門より入り梯子段を上り、ポツケツトから鍵を出し戸をあけて自分の席へ這入つた。見ると、天井の低い四角な木造の建物で、一方の隙間から午後の日光が斜に場内に射込んで居るので塵埃が穢らしい。何の事はない見世物小屋(サーカス)である。鉋屑の臭ひや人の息で、胸づまるやうな氣がする。下の土間は安い見物人が一杯に詰つてゐる。其中には油で垢光りのした皮製の而かも肩に主人の紋のついてゐる上衣を著た丁稚が居るかと思へば、威勢の上らぬ馭者も居る。彼等は互に押合ひ犇合うて自分の立つ位置を爭ひ合つて居る。聞くに堪へぬ卑穢な言葉が其處此處で交換されてゐる。
  頭の上の二ペンス部屋(安い室)にも群集が詰め込んで居るが、下の土間と異る所は女が交つてゐるだけだ。勿論其女は下品な者ばかりでどうせ如何はしい商賣をする者でもあるらしい。たゞ二三の特別席には相當な人が居るが、それ等とて出來る丈け身を伸ばして舞臺の上に居る伊達者(見物)と談話を交へて居る。
  舞臺には五六人の若者が既に幕の前に坐つて居る。カルタを弄んで居るもあれば、胡桃を割つて喰うてゐる者もある。さうして幕明を今や遲しと待つて居る。其中を一人の子供があちこちして煙草などを賣付けて、喫む者には火種を與へてゐる。
  舞臺は藺の類で敷きつめられ、二本の柱により前方へ突出したやうな瓦屋根から黄色の幕が下りて居る。三度目の喇叭が鳴つて幕が開く。眞黒い上衣を著た一人の役者が出て來て辭儀をして今やプロログに取掛らうとすると、後方に音がして立派な装をした役人が小姓を連れて出て來た。小姓に對つて「腰かけを持つて來い」と命じ、外套を脱いで白絹の上衣と紺絹の股引になつてプロログ(説述をする者)の側へ行くので、プロログは面喰つて説述を中止する。此樣を見て下の土間に居る連中は猫のやうな迂鳴り聲を出して彼の役人に對して惡口を放ち、果ては林檎を舞臺に抛りつけて一般の見物がプロログを妨害した役人を不愉快に思ふ事を證明した。けれども役人は平然たるもので、惡口雜言には眼も呉れず、威張りかへつて口髭をひねくり、刀の鞘をいぢくり乍ら知人に會釋をして、悠然として觀客から注意を受け易いやうな都合のよい場所へ席を占める。斯かる内にプロログが終り第一幕に取掛つた。
  舞臺正面には城壁の如き壁が立つてゐる。何かと思へば一方に札がかけてあるのに「シーンは羅馬であります」と斷書がしてあるので初めて羅馬だわいと氣がつく。暫らくあつて舞臺の上へ木製の岩と一二株の木が運ばれた。すると掛札へは「此處は森であります」と斷書が出たので、初めて或町外れの森である事が知られた。それほど御粗末千萬な道具建である。
  奇麗に髭を剃つた女(男子の女装せしもの)が出て來た。自分の運命を嘆ち乍ら森の中を彼方此方と歩行してゐると、突然ボール紙で作つた龍が突出された。それを見て女は驚いた樣をして逃げ込んでしまうた。
  古い衣をつけて、胸までも髯を垂らした恐ろしい老人が出て來て一場のスピーチを始めた。コーラスの役をするのであつた。即ち前に出た女の身の上に如何樣な事件が湧起したかを見物人に説明し且つ次の幕で女の悴が如何にして天下を取るかの説明をする。觀客を飽かしめぬ爲めに音樂は絶えず奏せられてゐる。何時の間にやら掏摸が這入つて來たと見えて土間の見物の席に騷ぎが持上つた。幾つもの拳が掏摸の頭上に亂下する。其中に遂に掏摸は舞臺の上に蹴り上げられ、例の二本の柱の一つへ縛りつけられた。見物人がいろ/\の物を投げつける。斯くて芝居の終る迄なぶりものになつてゐた。
  役者一同が跪いて女皇陛下の萬歳を祈る式で芝居が終る。見物人は祈祷の未だ終らぬ内から歸り始める。眞に見物の爲に來たものは、役者、作者及び劇について批評をし乍ら歸つて行く。或者は自分が他日何處かの席上で利用して喝采を博せん爲めに手帳へ面白い文句とか、新作の惡口や警句などを記して行く。又若い人達はガレリーとかボツクスなどで一寸懇意になつた美女と共に近處の料理屋へ這入るのである。
   *   *   *   *
 これで見ると當時は隨分亂暴なものであつたことがわかる。先づ昔の兩國や淺草の奧山の見世物小屋と言つた調子らしい。掏摸を柱に縛りつけて芝居のハネる迄も弄んでゐるなどは亂暴千萬だ。
         −大正五、四、一『日本及日本人』−
 
    文體の一長一短
 
     一
 
 予には、なか/\斯うした問題について意見を述べる事が難しい。責任を感じてと言ふよりも、適當な言ひ現はし方がないからと、いろ/\な理由からとである。殊に、文體の統一などといふ豫言者めいたことも、其のいづれが便利であるかと云ふ事すらも言ひ得ないのである。
 予は小説をかく爲めに柔かい文體を用ゐる事が多い。言文一致と云ふが、兎も角結びの文句は其の式になつて居る。文體はどれが宜いと云ふ事は、其の人の智識の程度に從ふ事として置くが最も無事であらう。また從來それでやつて來たのである。予は文章體、漢字假名交りの文體、漢文脈をひいて居る文章を好む。然し乍ら、其れは言文一致體などに多く觸れて居てたまに之れを讀むのであつて、文章體そのものを特によいと認めて讀むと云ふ意味でもない。
 言文一致體は可なりに擴がつて居る。其のひろがつて行く力は可なりに盛んなやうである。こゝ數年來の傾向として、官廳の布告などにも、此の文體を採用して來た樣である。郵便局、鐵道院などの注意書などを見るとよく分る。此等はもつとも、文章丈けでなしに、言葉なり態度なりの變化と並行して來て居る樣である。
 
     二
 
 言文一致が、如何に便利であると云つても、どの場合にも之れを使ふと云ふ譯には往かぬ。莊重なる文辭を尚ぶところの勅語に於て、「であります」とか、「さうなさい」と云ふが如き文字を用ゐられたとしたら、果してどう受け取られるであらうか。時にもよる、場合にもよる。
 外國の巡査、倫敦の巡査などは、市民との關係が甚だしつくりとして居る。恰も友人關係である。物を問ふにも教へるにも、甚だ叮嚀で役人面をしない。日本の巡査も此の節はコラ/\をモシ/\にかへた樣に、人民に對する言葉づかひなど非常に叮嚀になつて來た樣だ。然し、それは一部分に就ての傾向であつて、税務署員よりも、郵便局よりも、何が威張るつて、巡査の樣に威張るものはあるまい。
 然し、その威張るには相當の理由もありさうである。人民保護、惡人を調べたりなどするには此のコラ/\調子がないといけないのかも知れぬ。又、あまり人民と親しくなると、其處に一種の弊害があるかもしれぬ。比の傳で、勅語なども矢張り堅苦しいと云へば堅苦しい、日常の生活と隔り過ぎて居ても、此の堅苦しい文句を使つた方が有り難く思はれるのである。
 其の特長は何ものにも認める。其の長所を利用し、特長を活かして行く事は、今後も續いて行きさうに思はれる。
 
     三
 
 予は今小説をかいて居る。午前中をその爲めに用ゐるのである。一日の仕事、義務としては一回の小説をかきあげればそれでよいのである。然し、新聞小説は自ら約束があつて、予の如き、最初はなか/\其の約束に背きさうで困つた。或る長さをきめて書いても、往々に豫定よりはみ出すものや、足りない處が出來る。それを處分するのは却々困難な業である。雜誌などの小説ならずん/\先へ行つてもいゝのだが、その約束の爲め相當に頭を惱ます。約束とは適當な分量と、文句の段落が不自然でない樣にする努力である。一因一回のヤマではない。
 予は、小説でない文章にしても、一時間に新聞の一段六十五六行をかき上げるのがやつとである。雜作もない樣に人も思ふし自分も考へるが、やつて見るとなか/\容易でない。殊に此頃は一層以前より筆が遲くなつた。以前の方が達者であつたのかも知れぬ。『猫』などは予自身の興の浮ぶまゝに勝手なものを出してドン/\書いて行つたので骨は折れなかつた。新聞の小説は骨が折れるものである。今も十二三回丈け送つてある。一つはいつ病氣で臥床しても困ると思つたからである。然らば元氣のよい時に二回分もかいて置けばよいのだが、それも出來ない。
 經驗によれば、一日一回なら一回と定めたものには、矢張りそれ丈け力が籠る樣で、二回かいて仕舞ふと、一回分の力が二回分に分割された樣で、なか/\自分を滿足させると云ふ譯にはゆかない。
 
     四
 
 予は愛讀書の問題に到著した。是れなどは質問の内最も困るものの一種である。予は愛讀書と云つて特に無いのだが、無いと云つて斷るのも變である。さりとて是を擧げるは弊害がある。若干の書を限つて之を提出すれば、予はそれのみを愛讀して居るかと思はれると困るのである。書齋に積まれたる全部の英書を以て愛讀書としたら、その方が公平かもしれぬ。英書許りでなく、希獵語の書も拉典語の書も、佛獨の書からも、その好きなのを選つたら大變なものになる。と同時に、予は貴下は誰の影響を受けたかと問はれても困る。鹿兒島の人が西郷南洲翁の影響を受けたと云ふ事を聲明するのは甚だ容易の業であらうが、予は誰からとも明言し得ぬ。予の知識を育てたのは、予の周圍に積まれた書からであるから、さう自白する事が最も通當であると思ふ。
        −大正五、九、二〇『日本及日本人』−
 
漱石全集第34巻(別冊下)、313頁、850円、1957.10.12(80.4.4.5刷)
 
雜篇
 
  〔滿韓視察談〕
 
 滿韓視察談ですか、視察|所《どころ》ぢやない、空《くう》に遊んで來たのだから別段話す程の事もありません。行つた先ですか、行つた先は哈爾賓迄です。九月二日に東京を立つて六日に大連に着きました。大連は諸種の經營が各方面に勃興しつゝあつて、一般に活氣を帶びてゐます。哈爾賓の寐入つたのとは丸で比較にならない樣に見受けました。大連滯在中旅順に行つて古戰爭場も觀て來ました。二〇三高地やら東鷄冠山の砲台やら戰利品陳列所やら色々見物しました。白仁長官だの佐藤警務總長の厚意で夫々當時戰爭に從事した經驗のある專門家を案内に付けて叮嚀に説明さして呉れました。就中河野海軍中佐が自分と〔一〕所に小蒸汽で旅順の港内を殘らず乘り廻して逐一話をして呉れたのは面白かつたです。
 滿銕の經營ですか、是も中村總裁だの國澤副總裁だの其他の理事並び秘書役諸君の特別な盡力で見られる所丈は見ました。書齋に坐つてゐる我々に取つては格別利益のある見物でした。大連を立つときには特別室に入れられました。中村總裁が其時私に向つて、貴樣の生れてからまだ乘つた事のない車に乘せてやると云つて、自分で室《へや》の中に案内して呉れました。成程日本では見た事のない立派なものでした。銕道沿線では撫順の炭坑へ行つて松田坑長の厄介になつたり、營口へ行つて杉原正金支店長や天春《あまかす》君の厚意を受けたり、其他熊岳城、湯崗子の温泉に足を停めたり、奉天の北陵、宮殿、寶等を拜觀して、滿銕公所で佐藤肋骨君の御馳走になつたり頗る景氣が好かつたです。奉天へは前後四泊して夫から例の安|保《〔奉〕》線で安東縣へ出たのです。是は所謂命懸けの銕道だと云ふのですが幸ひ脱線顛覆の危險もなく安東縣迄出ました。然し工事が落成すれば奉天から僅か七八時間で行かれる所を、どうしても二晩泊らなければならないのだから、甚だ不便です。キツチナー將軍もあの線路を經過すると云ふ話だが、滿銕の本線から、急にあの輕便汽車に移されては一寸驚くでせう。
 朝鮮でも友人が多いので大變な便宜を得ました。平生は要路に居て經營の任に當る友達から、別に金を借りる了見もないが、斯う云ふときに世話になると實際好い友達を有つて仕合せだと思ひます。平壤方面では小城所長の世話になつて、殘らず觀るべき所を觀ました。京城では鈴木司税局長や農商工部の菊池局長や、通信管理局の矢野君やでプログラムを作つてくれて、毎日々々そのプログラムを實行するのに忙しかつた位で〔以下原稿用紙一枚分缺〕
區劃をなして居る自治團の樣なものであります。夫から營口へ行つた時も捕まつて同所の倶樂部で講演をする事になりました何れも一時間位の長さのものです。奉天でも相談を受けましたが日取が一日狂つた爲めとう/\逃れました。京城でも切に望まれましたが、何しろプログラムが切り詰めてあるのと、少時でも宅にゐると人が來たり電話が掛つたり碌々飯も落ち付いて食はれない有樣だつたので、依頼者も斷念して歸りました。
 講演以外に苦しんだのは字を書く事です。字は下手だと云つても承知せず句は作らないと斷つても容して呉れず、甚だ辟易しました。ある所では宿屋の御神さんに是非書いて行けと責められて已を得ず宿帳の樣なものに分らな〔い〕事を書いて置いて來ました。京城にそれから會と云ふのがあつて、其會員は娯樂の一法として歌留多をやるさうですが、百人一首を讀む前に何でも一首別の歌を朗讀して音聲を調へるんださうです。所が會の名がそれから會丈あつて、此會員は是非私に其|空《から》歌と云ふのを作つて呉れと云ふんです。私は生れて歌なんかよんだ覺はないが、何しろそれから會の名に對しても濟まぬ事と思つて、とう/\三首程短册に書いて置いて來ました。其歌ですか歌は斯う云ふんです。名歌だから御聞きなさい。
  高麗百濟新羅の國を我行けば
       我行く方に秋の白雲
  草茂る宮居の迹を一人行けば
       礎を吹く高麗の秋風
  肌寒くなりまさる夜の窓の外に
       雨を欺くボプラアの音
 ボプラアですか。えゝ彼地《あつち》には澤山あります。
 此度旅行して感心したのは日本人は進取の氣象に富んでゐて貧乏世帶ながら分相應に何處迄も發展して行くと云ふ事實と之に伴ふ經營者の氣概であります。滿韓を遊歴して見ると成程日本人は頼母しい國民だと云ふ氣が起〔以下缺〕
 
 
  佐賀福岡尋常中学校参観報告書
   福岡佐賀二縣尋常中學參観報告書
第一佐賀縣尋常中學校 十一月八日
 授業參観時数三時間 十時ヨリ一時半ニ到ル(午前八時ヨリ講堂ニ於テ海軍少佐長井氏ノ海軍ニ關スル講話アリ此際依頼ニヨリ英語ニ關シテ一場ノ談話ヲナセリ午後一時半ヨリ同校英語教師ト會シテ教授上ノ質|議《原》ヲナシ又之ニ關シテ卑見ヲ述ブ三時半二了ル故ヲ以テ一日ヲ校中ニ消シタリト雖ドモ三時間以上ノ授業ヲ観ルコトヲ得ズ
 參観年級四年、三年、二年
  四年級
  課目、譯讀
  用書、マコーレー著論文
  教師、専門學校卒業生某氏
  生徒人員、四十名許
  教授法、生徒ヲシテ数行ヲ音讀セシメ而ル後之ヲ翻譯セシム夫ヨリ教師再ビ之ヲ講ズ
  傾向、教師生徒共ニ單ニ意義ヲ解スルコトノ|ノ《原》ミヲ力メテ發音法等ニ注意セザルガ如シ又單語熟語等ノ暗誦ヲ試ミザルニ似タリ用書困難ニシテ此ニ及ブノ餘裕ナキカ將タ此點ニ於テ冷淡ナルカ
  三年級
  課目、譯讀
  用書文部省會話讀本
  教師専門學校卒業生某氏
  生徒四十名内外
  教授法前ニ同ジ
  傾向此級ニ在ツテハ四年級ヨリモ少シハ發音等ニ注意スルガ如シト雖ドモコハ單ニ教師ノミニ止マリ生徒ハ依然トシテ冷淡ナルガ如シ且會話讀本ヲ用ウルニモ關セズ其使用法ハ毫モ會話讀本ノ用ヲナサヾルガ如シ尤モ他ニ會話ノ時間アリテ之ヲ補フガ爲カ
  二年級
  課目會話作文文法
  用書缺
  教師平山氏(永ク洋人ニ就テ學ビタル人)
  生徒人員五十名許
  教授法生徒ヲシテ前回ノ英譯一二句ヲ暗誦セシメ指名ノ上之ヲ講壇ニ上ラシメ他ノ生徒ニ對シテ暗誦セル句ヲ高聲ニ誦セシム(以上會話)次ニ教師暗誦セル英語ノ續キ一二句ヲ日本語ニテ與ヘ生徒ヲシテ之ヲ英譯セシム右終ツテ生徒ノ英譯ヲ黒板ニテ正シ(以上作文)而ル後以上正シタル英譯ニ就キテ文法上ノ質問ヲナシ又此方面ニ向ツテ新知識ヲ授ク(以上文法)
  傾向教師ハ頗ル正則的ニ英語ノ知識ヲ注セント企テ生徒ノ冷淡ナルニモ關セズ着々正則的ニ進歩スルノ見込アリ且一時間内ニ在ツテ會話作文文法ノ三科ヲ教授スルハ諸科ヲ融合シテ打テ一丸トナスノ便利アリ此方法ニ因リテ此師ノ授業ヲ受ケバ少ナクトモ此諸科ニ對スル知識ハ高等學校入學試驗ニ應ズルニ充分ナラン
第二福岡修猷館 十一月九日
 授業参観時數四時間九時ヨリ二時ニ至ル
 參觀年級五年四年三年二年
  二年級
  課目譯讀
  用書讀本
  教師平山氏
  生徒人員五拾名許
  教授法最初ニ各節ノ冒頭ニ於ル綴字及ビ發音ノ練習ヲナシ次ニ讀方ニ移ル初メ教師模範ヲ示シ次ニ生徒一節宛之ヲ練習ス此ノ如クスルコト二回初回ハ出來ヨキ生徒ヨリシ次囘ハ下位ノ生徒ニ及ブ讀方ノ教授法頗ル嚴格ニシテ少疵ヲ寛假セズ譯讀ノ教授法モ亦讀方ニ同ジク教師先ヅ一節ヲ譯シ上位ノ生徒之ニ傚ヒ一巡ノ後下位ノ生徒之ヲ復習スルコト一次ニシテ終ル
  傾向全體ノ傾向ハ讀方ニ重キヲ置キテ嚴ニ發音「アクセント」ヲ練習スルモノノ如シ故ニ生徒ハ此點ニ於テ頗ル進歩セルガ如シ此級ノ生徒ハ中學ニ入リテ始メテ英語ヲ學ベルモノナレドモ他中學ノ生徒ニ比シテ少ナクトモ發音ノ點ニ於テ優ルベキヲ信ズ譯讀モ亦他ト異ニシテ生徒ハ自宅ニ在ツテハ只復習スルニ止マリテ翌日ノ部分ヲ下讀スルノ勞ナキヲ以テ自然ト既ニ稽ヒ得タル部分ヲ反復スルノ餘地アルベシ
  三年級
  課目譯讀
  用書第四讀本
  教師鐸木氏(農學士カ)
  生徒人員四拾名許
  教授法此級ニ在ツテハ二年級ト異ニシテ生徒ハ各自下讀ノ上ニテ教室ニ人ル而シテ指名セラレタル生ハ一節位宛教科書ヲ音讀ノ上ニテ和譯ス而ル後教師又重ネテ之ヲ譯ス
  傾向此級ニ在ツテハ二年生程發音法ニ注意セザルガ如ク教師生徒共ニ意義ニ重キヲ置クガ如シ
  四年級
  課目和文英譯
  題目新艦進水式
  教師小田氏(同志社卒業後米國ニ遊學セル人)
  生徒人員四拾名許
  教授法生徒兩三名ヲシテ自作ノ英譯ヲ黒板ニ書セシメ教師之ヲ批評訂正ス尤モ生徒ノ困難ヲ感ズベキ單語字句ハ豫メ之ヲ教フルモノヽ如シカク一遍訂正セル者ヲ淨書ノ上教師ニ呈出セシム
  傾向教師ハ常ニ英語ヲ用イテ殆ンド日本語ヲ雜ヘズ生徒モ亦力メテ英語ヲ使用セントスルモノノ如シ文章ハ固ヨリ疵※[病垂/蝦の旁]ナキニアラズト雖ドモ中學四年生ノ文章トシテハ大ニ觀ルベキモノアリト思考ス
  五年級
  課目譯|解《原》
  用書「ゴールドスミス」論文集
  教師小田氏
  生徒人員四十名許
  教授法生徒順次ニ一節位宛ヲ和譯スルノ外ハ毫モ日本語ヲ用イズ教師生徒共ニ英語ヲ使用スルニ熱心ナルガ如シ而シテ此時間ハ譯讀ノ課ニ屬スト雖ドモ實際ハ會話及ビ文法ノ授業トナルモノニテ現ニ五年級ノ英語ハ和文英譯ヲ除クノ外ハ皆此授業中ニ含マルヽモノヽ由ナリ
  傾向西洋人ヲ使用セザル學校ニ於テ斯ノ如ク正則的ニ授業スルハ稀ニ見ル所ニシテ從ツテ其功績モ此方面ニ向ツテハ頗ル顯著ナルベキヲ信ズ
第三久留米明善黌 十一月十日
 授業參觀時敷、三時間 此日英語主任教師缺席シテ其授業ヲ觀ルヲ得ズ
 參觀年級一年四年五年
  一年級
  課目譯讀及綴
  用書讀本
  教師失名
  生徒五十六名
  教授法首ニ單語ニ就キ發普及ビ意義ノ復習ヲ行ヒ次ニ譯讀ヲ授ク其方法ハ全ク直譯ニテ「彼ガ彼ノ顔ニ於テ落チシ」等ノ言語ヲ用イ而ル後之ヲ意譯ス故ニ音讀直讀意譯ノ三段落ヲ通ジテ始メテ日課ヲ終ルモノナリ
  傾向生徒教師共ニ正則的方面ニ於テ冷淡ナルガ如シ
  四年級
  課目譯讀
  用書中外讀本
  教師稻津氏
  生徒三十五六名
  教授法教師意義ヲ講ジ終ツテ生徒質問ヲ呈出ス一時間中生徒ハ單ニ教師ノ説ヲ聞クノミ
  傾向教科書比較的ニ難澁ナルノ感アリ參觀ノ時教師ノ講ジタルハ慥カニ十七世紀以前ノ文字ト覺ユ是生徒ノ輪講ヲ試ミザル源因ナルベシカヽル文章ハ高等學校ノ三年生ト雖ドモ解釋シガタカラント思フ從ツテ發音其他ノ點ニ於テ殆ンド注意ヲ與フルノ餘地ナカラン
  五年級
  課目譯讀
  用書「クリミヤ」戰爭記
  教師松下氏
  生徒人員三十名許
  教授法普通行ハルヽ處ノ輪講ニシテ別ニ目立チタル點ナシ
  傾向五年生トシテハ一般ニ學力不足ナルガ如シ然レドモ質問ノ夥多ナルヨリ察スレバ生徒ハアナガチニ不勉強ナルニモアラザルベシ(參觀時間三十分許ナルヲ以テ精細ニ觀察スルヲ得ズ
第四柳河傳習館 十一月十一日
 授業參觀時數三時間九時ヨリ十二時ニ至ル此日午後一時半ヨリ行軍アルヲ以テ午後ノ課業ヲ觀ルヲ得ズ
 參觀年級一年二年三年四年
  一年級
  課目譯讀及綴字
  用書齊藤氏著第二讀本
  教師玉眞氏(長ク米國ニ遊學セル人)
  生徒六拾名許
  教授法生徒ハ勿論日本語ニテ教科書ヲ譯解シ教師モ書中ニアル言語ハ日本語ニテ説明スレドモ「書ヲ開ケ」「翻譯セヨ」等ノ命令的ノ語ハ重ニ英語ヲ用ウルガ如シ
  傾向一般ニ生徒ノ出來モ教師ノ教方モ可ナルガ如シ
  二年級
  課目和文英譯
  用書山《原》崎氏著英語教科書
  教師同志者《原》卒業生某氏
  生徒五拾名内外
  教授法教科書中ニアル和文ヲ英譯セシメ順次ニ之ヲ黒板ニ書カシメ之ヲ訂正ス
  傾向此種ノ書ヲ嚴密ニ教授セバ將來非常ノ利益アルベシ然シ生徒ノ文章中文法ノ誤謬アルハ問ハザルモ綴字ノ亂難ナルハ二年級ニシテ未ダ英字ヲ書スルノ時日短カキガ爲カ
  三年級
  課目和文英譯
  用書齊藤氏著會話文法
  教師農學士某氏
  生徒四拾名内外
  教授法前ト異ナル處ナシ但二年ニ在ツテハ英譯ヲ一々黒板ニ書セシメ此級ニ在ツテハ只生徒ノ口答ニ止マルコト多シ思フニ二年級ニ在ツテハ專ラ文章ヲ學ビ此級ニアツテハ會話ヲ主トスルニアルカ
  傾向然レドモ過半ノ生徒ハ教師ノ間ニ答ヘ能ハゲルノミナラズ會マ答フルモ誤謬多キコト甚シ以テ生徒ノ餘リ英語ニ熱心ナラゲルヲ見ルベシ
  四年級
  課目ユニオン第四讀本
  教師農學士某氏
  生徒三十五名許
  教授法先ヅ生徒ヲシテ輪講セシメ教師再ビ之ヲ講ジ而ル後質問ニ移ル讀方等正則的訓練ニハ餘リ意ヲ用イザルニ似タリ
  傾向注意スベキハ生徒ノ發音ヨカラヌコトナリ又譯讀ノ力モ割合ニ進マザルニ似タリ
 〔明治三十年〕十一月二十三日
        第五高等學校教授夏目金之助
 
  〔イギリスの絵本の卷頭に〕
 
   ――菅虎雄の子供への土産“DROLL DOINGS Illustrations by Harry B.Neilson, with verses by The Cockiolly Bird”の扉對向面に――
いぎりすの御土産
文ちやんと忠ちやんにあげます
            夏目のおぢさんより
 
  〔小宮豐隆に贈りたる扇に〕
 
 四月某日京都の五條邊をあてどもなくぶらつける時此扇を求めて歸京の節豐隆子に贈りて記念とす
                  漱石
               −明治四〇、四−
 
  〔自著を贈る言葉〕
    ――ヤングへ贈れる『吾輩は猫である』の上卷見返しに――
 Herein, a cat speaks in the first person plural, we. Whether regal or editorial, it is beyond the ken of the author to see. Gargantua,Quixote and Tristram Shandy,each has had his day.It is high time this feline King lay in peace upon a shelf in Mr Young’s library. And may all his catspaw‐philosophy as well as his quaint language, ever remain hieroglyphic in the eyes of the occidentals!
                 K.Natsume
          Tokyo,Japan 17 May 1908
 
  〔不知帖自題〕
 
 畫を知らず書をしらずまた恥しらず故に題して不知帖といふ
  乙卯春日
               漱石山人自題
                −大正四、五−
 
  〔文章座右銘〕
則天去私
   −大正五、一一、二〇『【大正六年】文章日記』−
 
 
  〔【川井田藤助著】『英語會話』序〕
 
 今の日本に英語研究の必要を認めぬものがない如く其困難を認めぬものも亦ない。さうして其困難の最なるものは文章と會話である。然し文章は近來中々旨く出來る人が殖えて來た模樣であるが、會話に至ると却つて二十年前よりは下手になつたかも知れない。是は教育界に前程西洋人を餘計使はないのと、教科書を英語のまゝ暗誦する事が行はれなくなつたのが主な原因になつてゐる。
 會話は學問ではない、技術だから其性質として錬修以外に發達の望のないものである。即ち腕組をして考へる代りに、二度でも三度でも同じ事を繰り返せば、繰り返した丈上手になると云ふ意味である。だから、いくら適當な會話書があつても、其中に書いてある會話を日常應用して自然に自由を得る迄の道を講じない以上は、會話書がないのと何の撰む所もない。
 もし我々が日常英語を使ふ機會が多くつて、一つ事を何遍も繰り返さなければならない身分であるとすれば、會話書などゝ云ふ變則なものは頭から不用なのは知れ切つてゐる。我々が日本語を稽古するのにまだ曾て書物の助を藉りた試がないのでも解る。
 不幸にして日本の英語は夫程廣く行はれてゐない。廣く行ほれてゐるにしても、みんな怪しい英語を使つてゐる。從つてこの篇の樣な會話書は若い人に取つて是非共必要になる。是丈は別に新らしい事でもないから序文として何等の動力もないかも知れないが、此外にもう一つ特に此書に就て云ひたい事がある。夫は此書がある意味に於て他の會話篇よりも日本の學生に便利だらうと思はれる點で、實は著者の最も力を盡したのも其邊に存するのではあるまいかと考へられる。著者は種々の題目によつて篇中の會話を一纏めにしてゐるが、其一纏めにした問答を見ると其一人は屹度西洋人で他の一人は必ず日本人である。さうして、悉く西洋に特殊な事情、例へばクリスマスとか、御祭りとか、訪問とか云ふものを問答體で日本人に納得が行く樣に説明して呉れてゐる。だから此會話篇を學ぶものは、たゞ西洋人に對して英語はどんな風に話すものであるかを知るのみならず、西洋人はこんな場合にはかう云ふ習慣を有つてゐて、かう云ふ所作をするんだから、かう云ふ風に話をしなければならないと云ふ事を覺える。其所に大變な利益があると思ふから余は敢て此一篇を世間の青年に勸めたいのである。
  四十三年一月
 
 
    漢詩文
 
   鴻臺 二首
鴻臺冒曉訪神扉 孤磬沈沈斷續微 一叩一推人不答 驚鴉撩亂掠門飛
 
高刹聳天無一物 伽藍半破長松鬱 當年遺跡有誰探 蛛網何心床古佛
 
   題畫
何人鎭日掩柴※[戸/向の1画目なし] 也是乾坤一草亭 村靜牧童翻野笛 簷虚闘雀蹴金鈴 溪南秀竹雲垂地 林後老槐風滿庭 春去夏來無好興 夢魂回處氣冷冷
 
   送奥田詞兄歸國
※[さんずい+氣]笛聲長十里烟 烟殘人逝暗悽然 一朝締好雖新識 廿日※[聲の耳が缶]歡是宿縁 小別無端温緑酒 蕪詩何事上紅箋 又憐今夜刀川客 夢冷蓬窓聽雨眠
 
   離愁次友人韻
離愁別恨夢寥寥 楊柳如烟翠堆遙 幾歳春江分袂後 依稀繊月照紅橋
 
   即時
楊柳橋頭入徃還 緑蓑隱見暮烟間 疎鐘未破滿江雨 一帶斜陽照遠山
 
   即時 二首
雨晴雲亦散 夕照落漁灣 誰道秋江淺 影長萬丈山
 
滿岸蘋花白 青山影欲流 漁翁生計好 畫裡棹輕舟
 
   謝正岡子規見惠小照次其所贈詩韻却呈
              明治二十三年十月二十四日
非是求名滯帝城 唯憐病羸歸思生 憑親黄卷忘栄辱 悔負青山休※[耕の井が辱]耕 銀燭繍屏吟痩影 竹風蕉雨聽秋聲 多情縱任絃歌巷 漠漠塵中傲骨清
 
   無題 【野間眞綱に贈りたる『吾輩は猫である』下篇の見返しに】
一奩樓角雨 閑殺古今人 忽※[耳+吾]彈琴響 垂楊惹恨新
 
   無題
緑水池光冷 青苔砌色寒 竹深啼鳥亂 庭暗落花殘
 
   大井川舟中  年月不詳
青州從事好相親 鼈背嘯風豪氣伸 十八洋頭秋似水 一痕新月度蒼旻
 
   俳句
 
 明治二十八年
 
    十月十二日正岡子規「病餘漫吟」より
疾く歸れ母一人ます菊の庵
 
 明治二十九年
 
   心を俳句に寄せしとき
宗匠となりすましたる頭巾かな
 
わかるゝや一鳥啼て雲に入る
 
 明治三十年
 
  黒木翁三週忌 二月十三日
生き返り御覽ぜよ梅の咲く忌日
 
    三月二十三日正岡子規宛の手紙の中より
梓彫る春雨多し湖泊堂
 
 明治三十二年
 
    一月一日高濱虚子、河東碧梧桐宛の端書の中より
我に許せ元日なれば朝寐坊
 
 明治三十三年
 
    十二月二十七日正岡子規宛の手紙の中より二句
柊を幸多かれと飾りけり
屠蘇なくて醉はざる春や覺束な
 
    空齋の及第せしとき 明治三十三年?
貧乏な進士ありけり時鳥
 
 明治三十七、八年頃
 
    一月三日河東碧梧桐宛の繪端書の中より
ともし寒く梅花書屋と題しけり
 
 明治三十八年
 
    十一月二十七日俳書堂籾山仁三郎の手紙の中より
初時雨故人の像を拜しけり
 
 明治四十四年
 
    八月十四日 和歌の浦にて
四國路の方へなだれぬ雲の峰
女して結はす水仙粽哉
 
 大正四年
 
水仙花蕉堅稿を照しけり
 
 年月不詳
 
老僧に香一※[火+主]の日永哉
野を燒た煙りの果は霞かな
夏艸の下を流るゝ清水かな
驚くや夕顔落ちし夜半の音
    畫賛
穗すゝきに賛書く月の團居哉
はじめての鮒屋泊りをしぐれけり
發句にもまとまらぬよな海鼠かな
    畫賛
水仙や朝風呂を出る妹か肌
 
  〔補遺〕
 
 明治三十年
 
    『續圭虫句集』より
鳴く蛙なかぬ蛙とならびけり
大方はおなじ顔なる蛙かな
 
  斷片 ――明治末頃――
 
     一
 
○二百萬圓づゝ三會社、三會社は来年の三千萬圓を見越して其準備ス、然るに議會は政府の豫算を否決ス、三會杜と政府の困却
○内訌、(一)権力を得て思ふ事を行ハントスルコト(二)勢力を扶植して自己の位地の安固を計ルコト(三)誤解、此三より出る衝突。主裁者は今日迄何度カ欺かれゐる故、絶對に一人を信用する能ハズ、又行き掛り上絶對に他を排斥スル能ハズ、妥協を講ずるのみ。要するに姑息手段に出づ
○越後様の瀧、涎懸ノ地藏戸山の松、松と地蔵ノ間畠
○泥棒と一所ニナル、觀音様のロハ台、泥棒ノ惠をうく、恐怖ノ念、泥棒ニ笑ハル事
 
     二 〔『こゝろ』〕
 
○乃木大將の事
○是は罪惡か神聖か
○男女、(互に嫌ではなき事)、意地で互に反撥する事
○單調を忌む人停滯を嫌ふ人、變化を愛する人、自己の年のいつの間にか重なりて老いて行くのに氣がつき厭な顔をする果敢ない思をする
○ヒガミノ強い人、凡てが氣に入らず、友達家族、世間、悉く不快ニナル、只一人、
○プルコワ、プルコワ
○愛と好きとの相違。愛は管見の下に成立す。然し愛の結果は必ずしも受合ハズ
 
  斷片 ――大正三年二月頃――
 
○湯淺 竹墨
○津田 竹墨 (柿と鳥小形)
○村上霽月 墨竹
○西川一草亭  柳漁夫着色(小形)
○戸川秋骨 (書き直すべきもの)
○名倉聞一 (觀音着色小形)
○薄井秀一 (柳ト釣スル人着色小形)
○臼川   (竹小形)
○志田素琴 (ヌメ小形竹)
○石井   (竹ヌメ半切)
○内田榮造 (竹二枚ヌメ。鳥ニ瀧着色半切)
○森卷吉  (竹ヌメ半切)
○小宮   (半切月夜に竹の賛紙半切)
○岩波   (萩ニ月、自在に鍋、賛紙半切)
○宮澤サンの奧サン (竹藪ニ農夫、鷄、着色小形)
○松根 (墨繪鷄頭)
○小林? (墨繪〔一字不明〕)
○相生由太郎 (墨竹及書)
○俣野義郎 (着色竹及書)
○寶生新三 (着色山水、牛にノル人、橋、青山、〔一字不明〕ノ一筆ガキノ人物、小品牧童
○門間春雄 (書)
○廣島渡邊良法 (書)
○小宮豐隆 (山水着色、ゴテヌリ、七言賛)
○鈴木三重吉 (淡彩竹ト僧)
○森圓月 (着色菊、アケビ、竹、岩、着色)
○村上霽月 (書二行もの大正三 二月)
○清水   (〃  )
 
  斷片 ――大正五年十一月――
 
    食事表
十一月七日 午 カマス 二尾
        パン
        ハ《原》タ
        葱 味噌汁
  〃   晩 牛 玉葱
        ハンペン汁
        栗(八個)
        パン
        バタ
十一月八日 朝 パン
        バタ
        鷄卵フライ一個
 
  書簡
 
明治二十二年
 
      二A
 
 六月五日 水 牛込區喜久井町一より 正岡常規へ〔封筒なし〕
 朶雲拜讀然ば御病氣日々御快癒の趣珍重此事と存候御尋の數學試驗は月曜にてはなく火曜日の午後一時よりの筈なり物理の義に付ては山川中山を始め丸善の大將も試驗を頼まんと待かまへ居れば御安心あるべし久米先生は隅田看花、送古莊校長、教育論の三題中一題作れば平生點を呉れる由又學年試驗は宿題讀大八洲史と云ふ事なり長澤は來々週の水曜日に平生試驗をなす由又學年試驗の問題四十題程あり其内御目にかけべく候時間割は新しく御送付致候間舊表と御對照有之ぺし猶御快氣の際決して輕はづみして後戻り爲給ふべからず攝生加養百年の壽を保ち千二百ページの白帋《ブランク》小説に通客の腹を穿ち「凄イネ〔三字右○〕」の喝采を得給へと云ふは君の親友なる
    五日        菊井之里
                野邊の花
   明治の
   神谷うたゝ殿
 
 
明治二十六年
 
      二九A
 
 三月三十一日 金 ハ便 牛込區喜久井町一より 下谷區上根岸八八正岡常規へ〔はがき〕
 俳諧一部御贈與にあづかり難有奉謝候小生來月より下宿か寄宿舍に入る覺悟下宿の相手なき故少しく困却致居候何れ落付次第御報知可申上候
 
      二九B
 
 四月二日 目ニ便 本郷區臺町四富樫方より 下谷區上根岸八八正岡常規へ〔はがき〕
 拜啓小子遂に左の處に當分寄寓する事と相成候御閑暇の節御來駕の程奉待上候早々
    四月二日
         本郷臺町四番地 富樫方
                夏目金之助
               〔二九A、B 國立國會圖書館藏〕
 
      二九C
 
 七月十二日 水 立花銑三郎へ〔封筒なし〕
 拜呈本夕織田氏方へ參り色々相談仕り候處高師の方は目下經濟上の不都合の爲め多分雇入むづかしからんとの儀に御座候尤も右は未だ確と定り候次第にも無之候得ども餘程あやしく存候に付き此際斷然決意の上學習院の方へ出講致し度因て御迷惑ながら御周旋被下度小生明六時發の※[さんずい+氣]車にて日光へ向け出發兩三日後ならでは歸京不仕候間右乍畧義書状にて御願申上候村田君へも右の事情よろしく御話しの上貴君同樣御□□被下候様御取計ひ□□先は用事のみ餘拜顔の上 匆々頓首
   七月十二日夜     夏目金之助
    立花銑三郎樣
 
      三一A
 
 八月十五日 火 鹽原の立花銑三郎へ〔封筒なし〕
 白雲のたなびく翠微の巓より能《原》々下界への御音信ありがたく拜誦仕候小生近況と申せば過日來糞づまりにて下腹緊張其硬に耐えず下痢剤を以て其筋ばれるを醫せんと存せし處今度は反動にて暴瀉萬丈顔色憔悴宛として紅塵界の羅漢の如く日々うつら/\と坤吟致居候菊池の出仕は磯田の万未だ方付ざる故任命の運びに至らず小生出講の義につきては種々事情出來餘程奇觀に御座候何しろ駄目の事とあきらめ居候如仰小屋君齋藤君は一昨日仙骨を興津より齎し來り候仙骨のみならず銕面牛皮をも兼て持參被致候狩野君は高中の教師探索の爲め未だ歸澤の途につかず過日來小生も段々同氏の説諭にあづかり是非奮發の上赴任してくれろと依託被致候へども未だ諾否の返答は不仕儀最早暑中休暇も僅かに相成候へば漸々寄宿舍も賑かに相成事と存居候大兄も下界御なつかしく相成候はゞ可成早く御出山可然と存候 先は御返しまで 草々頓首
    八月十五日        夏目金之助
  立花兄
    梧前
 
      三一B
 
 八月二十三日 永 リ便 東京帝國大學寄宿舍より 牛込區箪笥町村田祐治へ
 拜啓仕候然らば先日來小子身分の事につき色々御周旋を煩はし奉萬謝候然らば其後の成行は如何相成居候や最早九月に間も無之候へば其模樣承知仕りたる上方向のつけ方も有之候へば何卒至急御報知被下度過日承り候へば茂《〔重〕》見氏學習院の方へきまり候樣にも御座候へば小生方は到底駄目と存候へども猶念の爲め伺ひ上候猶當月一ぱいに落着不仕候はゞ夫迄の縁とあきらめ他の學校へ從事致すべく候間左樣御承知被下度右御含みまで餘拜眉の上萬々
    廿三日          夏目金之助
   村田君
     机下
 
明治二十七年
 
      三六A
 
 四月二十日 金 (時間不明) 東京帝國大學寄宿舍より
   牛込區矢來町四、第二號村田祐治へ〔封筒に「御返事」とあり〕
 拜啓仕候陳ば小生英語教授に關する意見書は別段御參考に供し候程のものにも候はず是は小生高等師範學校に就任の砌り校長の囑托により性來至極の不適任とは存候へども枉て受合候故是非なく取調候位の事にて其價値なき事は自ら※[漸/心]《原》惶致居候然し折角の御申越故御高覽を煩はし御批判をも願度と存居候處該意見書は先日嘉納氏の手許に差出し置候まゝ未だ受取り不申候へば何れ其内一時御手本まで差上る事と可致候
 御轉居の由|能《原》々御報被下ありがたく奉鳴謝候
 過日小生受持生徒譯讀の爲め「ヘルプス」論文集翻刻致候間御校にても御使用被下候樣丸善より大兄へ願呉よと申す事に御座候
    四月二十日        夏目金之助
   村田學兄
 
明治二十八年
 
      四六A
 
 四月十二日 金 イ便 愛媛縣松山尋常中學校より 東京帝國大學清水彦五郎へ
 拜呈
 在學中は何角御厚意にあつかり奉鳴謝候偖迂生今般一身上の都合により當縣尋常中學へ就任仕候出發の際は草々の折柄とて御告別も申上兼候無禮の段御海恕可被下候次に小生在學中の貸費本月より早速御返濟可申上筈の處始めて赴任の折色々の都合にて手元不如意につき兩三月間御猶豫相願度甚だ自由がましき義には候へども右よろしく御含み置願度先は用事まで郵便にて至急申上候也
    四月十一日           夏目金之助
   清水彦五郎殿
 
      四六B
 
 四月十二日 金 ヘ便 愛媛縣松山尋常中學校より 本郷區駒込東片町(?)金華樓玉蟲一郎一へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜呈仕候先日一寸端書にて御報申上候通去る九日當地へ安着無事消光致居候間乍憚御休神可被下候偖先般一寸承はり候處(大兄より直接ではなく)御地中學校に教師入用の由にて大兄を迎へ度由申し來り候やに聞き及び候然るに大兄の御意向はあまり御進なさらぬ樣子と伺ひ居候右教員は最早塞がり申候や實は當尋常中學に大學一年まで修め其後中學の教育に從事し老練なる人有之此人色々の事情にて他に轉任を希望致居候授業課目は歴史英語地理の免状を所持致居候よし月給は四十圓の望みに御座候若し大兄の御周旋にて早《原》談出來候事ならば甚だ好都合に御座候右は甚だ突然の次第には御座候へども至急伺ひ上候也
 當人の履歴書御所望に御座候はゞ早速御屆可申上く候
    四月十二日夜         夏目金之助
   玉蟲學兄
     座下
 
      四六C
 
 四月十七日 水 イ便 松山市一番町愛松亭より 麹町區飯田町神田乃武へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜呈出立の節は色々御厚意を蒙り奉萬謝候私事去る七日十一時發九日午後二時頃當地着任候間乍憚御安意被下度候赴任後序を以て石川一男氏に面會致候貴意申述置候間左樣御承知被下度候同君事は今回石川縣に新設の中學校へ更任相成明日當地出發の筈に御座候小生就任來既に四名の教師は更迭と相成石川君も其一人に御座候何事も知らずに參りたる小生には餘程奇體に思はれ候
 教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中學校の有樣抔は東京に在つて考ふる如き淡泊のものには無之小生如きハーミツト的の人間は大に困却致す事も可有之と存候くだらぬ事に時を費やし思ふ樣に強《原》勉も出來ず且又過日御話の洋行費貯蓄の實行も出來ぬ樣になりはせぬかと竊かに心配致居候
 先は右御報まで餘は後便に讓り申候時下花紅柳緑の候謹んで師の健康を祈り申候 頓首
    四月十六日           金之助
   神田先生
     座右
 
      四九A
 
 六月二十六日 水 ハ便 松山市一番町愛松亭より 東京帝國大學清水彦五郎へ
 御手紙被下拜見仕候時下卑濕の節愈々御酒穆奉恭賀候偖先般は唐突に自由がましき事相願侯處御含み置被下難有奉謝候申し出候期限も既に經過致候に付ては其中何とか致す心得に有之候處忽ち貴書を拜受し慚愧の至りに不堪仰の通り追々兩三月中より月賦にて御返濟可致候間左樣御承知被下度候
 小生當地就任以來教員生徒間の折合よろしく身體も頑健に御座候間乍憚御休神被下度候梅雨陰霖の候切角御加養祈上候先は右御答まで 草々頓首
    六月二十五日           夏目金之助
   清水樣
     侍史
 
明治二十九年
 
      六五A
 
 五月三日 曰 熊本市藥園町六二菅虎雄方より 水落義一へ
 拜呈無事御歸庵有之大慶に存候當地御來遊の節は何の風情も無之實に汗顔の至に存候其後諸所相當の家屋相尋ね候へども何分拂底にて一軒も無之今猶友人に寄宿致居候隨分厄介の極に御座候
 御稿日記日本紙上にて拜見致候御句一々面白く感吟致候
 御同行諸君によろしく御傳聲被下度候
  駄馬つゞく阿蘇街道の若葉哉
    五月三日         愚陀佛
   露右様
 
      七八A
 
 十一月一日 日 熊本市合羽町二三七より 水落義一へ〔封筒なし〕
 秋冷相催ふし候處愈御清適奉賀候其後は兎角取紛れ御無沙汰のみ御海恕可被下候大兄不相變風流三昧に御消光いつもながら御うらやましく存候小生當地着後一向不振日毎に墮落を感じ候には嘆息の至に御座候虚子碧梧兩人近頃新調に傾き候やに承はり候何にもせよ頼もしき事に御座候御依頼の初冬の句生憎持合せがなく皆一夜つくりの安物に御座候へとも折角の御申越御斷はり申上候も失禮と存じ度胸を据て書き流し申候長夜の徒然の御笑草にも相成候はゞ幸甚の至に御座候先は右至急御返事まて 草々頓首
    十一月一日           漱石
   露石詞兄
      硯北
 
明治三十年
 
      八二A
 
 三月二十三日 火 正岡常規へ〔封筒なし うつし〕
 湖泊堂遺稿出版の爲め應分の合力可致御約束致候につき 不取敢輕少ながら金貳圓郵便爲替にて御送付申上候間御受納被下候は本懷の至に御座候 急ぎ候まま當用のみ御免可被下 頓首
  梓彫る春雨多し湖泊堂
    三月二十三日         漱石
   子規樣
 
      八六A
 
 七月七日 水 熊本市合羽町二三七より 熊本縣飽託郡島崎村大字石神安東眞人へ
 拜啓陳ば小弟老父國元にて死去の爲め明八日家族引き纏め一先歸省致候行李匆々拜趨告別暇を得ず失敬御海恕右につき兼て御送致置候日本新聞も暫らくは中絶可致につき是亦不惡御承知可被下候九月來熊の節は住所抔重ねて報道可仕候先は再會の節迄隨分御厭ひ可被成候
    七月七日           金之助
   安東眞人樣
       研北
 
      九〇A
 
 八月五日 木 麹町區内幸町貴族院官舍中根方より 麹町區飯田河岸五號成瀬方赤木通弘へ〔封筒に「用事親展」とあり〕
 拜啓昨日一書差上候今日熊本表より返書到來貴君履歴書并びに大學卒業證書〔六字右○〕寫し至急可差出樣申來候間御都合次第右御手續願上候猶校長の考にては直ちに教授に任用の上官等は七等八百圓支給の積りとの事に御座候右御參考迄に申上候 以上
    八月五日           金之助
   赤木老臺
      榻下
 
      九〇B
 
 八月六日 金 麹町區内幸町貴族院官舍中根方より 牛込區大久保余丁町立花銑三郎へ〔封筒に「用事親展」とあり〕
 拜啓先夜は失敬致候陳ば自身參上の上願ひ上べきの處御存じの無性もの故乍畧儀紙面にて得貴意候明治廿四年出身の工學士にて現今は横濱電話交換局に出仕致候小堀十龜と申す學士有之右小堀氏とは無論御交際は無之と存候へどももし御知己の工學土中に同氏を知るものあるかさらずば清水彦五郎氏より左の諸件御聞合の御手數を願ひ度と存候
 一 同氏性行
 一 同氏身體(持病其他)
 一 繋累の有無多少
其他同氏特異の點にて他人の目につく處例せば非常の借錢の如きもの 實は小生少々依頼致され候へども毫も心當り無大に窮し居候幸ひ大學出の人故清水氏なれば在學中の學業成蹟位は容易に分る事と存候又其他にも以上の諸件中相分る事有之候へば幸福の至なれど左らずとも小堀氏を尤も深く知る親友は何人なるや又教師中にては何人なるや位にてもよろしく候間清水氏に御面會の節序に御尋ね被下間鋪候や尤も是は御都合次第にて決して二三日内と申す譯には無之候故何卒御面倒ながら御聞き合せの上御一報被下度願上候 早々頓首
    八月六日            金之助
   立花樣
 
      九一A
 
 九月六日 月 ハ便 麹町區内幸町貴族院官舍中根方より 牛込區大久保余丁町立花銑三郎へ
 拜呈過日は御不幸のよし御報知により承知仕候嘸かし御愁傷の事と奉御推察候小子去る四日歸京早速御悔みの爲め參堂可仕筈の處愚妻病氣の上校用うち重なり不得已萬事半途にて出發致候次第夫故御訪問も不仕明朝歸熊の途に上り申候不惡御海恕願上候
 先日一寸伺ひ置候水戸校森氏件は都合によりては又々御相談可致と存候間其節は中間にて御周旋の程希望致候是は小生責任を以て御約束申すといふ譯にはあり兼候へども先方へも貴兄より何分よろしく御取次置き被下度もし同氏他日他へ招聘せらるゝ場合には落着一寸大兄を通じて小生迄御通知賜はり度猶本校にて他人採用の場合には此方よりも其旨大兄を通じて同氏へ通知可致候
 小堀十龜氏件は何卒御序の節清水氏へ御問合せの程願上候 以上
    九月六日             金之助
   立花|盟《〔?〕》兄
 
明治三十二年
 
      一〇八A
 
 一月一日 日 イ便 熊本内坪井町七八より 神田區錦町一丁目一二高濱清、河東秉五郎へ〔はがき〕
新歳の御慶目出度申納候
  我に許せ元旦なれば朝寐坊
    一月元日   熊本内坪井七八
               夏目漱石
 
      一一一A
 
 二月十一日 土 ニ便 熊本市内坪井町七八より 四谷區學習院立花銑三郎へ〔封筒に「親展」とあり〕
拜啓愈御清穆奉賀候陳ば當校生徒(一部三年生)にて兵庫縣人阿江銕磨なるもの昨年七月の試驗に少々不出來の爲め落第致し候處今學年始めより又々腸窒布斯にかゝり昨今漸く快復致し候へども中々衰弱甚しく出校仕り難く然るに學校にては永々の缺席故其手續を行ひ除名の運びに至らんとしたる故不得已當人より退學致候
 右の事情にて當人は此儘に致せば他の高等學校へは無論入校(元級へ)致しがたく去りながら是迄の學問を無にするも殘念の次第頻りに心配致し願くば今年九月より御校高等科三年級へ無試驗にて入學許可相成候樣依頼して呉れと申候に就ては小生も甚た氣の毒と存候につき一應御懇談申上候御勘考の上御意見御報知被下候へば幸甚に存候
 猶當人は昨年一回落第は致し候へども是は少々家事の爲め勉強致し兼候事情有之爲めにて決して鈍才の爲には無之先年轉學致し候一瀬權六の如き比には決して無之候間右參考迄に一寸申上置候猶弊校長より工藤氏へ對し同樣の依頼状相呈し申候筈故御含みにて御相談被下度先は用事のみ 匆々頓首
    舊正月元日          金之助
   立花賢臺
      研北
 
      一一三A
 
 五月十九日 金 熊本市内坪井町七八より 四谷區學習院立花銑三郎へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜啓其後は御無沙汰御海恕可被下候先般は阿江銕磨件につき色々御厄介相懸御厚意の段ありかたく御禮申上候就ては右銕磨似よりのもの一名又々貴校へ特別試驗の上入學致し度由申出候につき御迷惑とは存じ候へども左の事情御讀了の上問合せの件につき御回答被下候樣願上候
 當人は當校二部三年生木部守一と申す者に有之學問も人物も餘程上等に御座候元來一部的の人間に有之候處何かの仔細にて二部に入學致居候處昨今愈轉學の必要を感じ因て本校卒業の上特別試驗を經て貴校の大學科へ入學致し度に就ては
 一 試驗は今九月に貴校にて御執行被下候や
 一 願書何月何日頃迄に差出すべきや
 一 特別試驗の課目は如何なるものなるや
 一 右課目の程度はどの位のものなるや
 一 獨乙語は當校にて一年間平均三時間づゝの割にて修學致候へば右を特別試驗課目中より御取去り被下候様願はれ可申や
の件御面倒ながら御一報被下願上候
 猶乍序申上候當人は當校にあつても餘程多望の人間に有之且英語の如きは先第一等に位する出來に候へば可成丈御便宜を御與へ被下候へば幸甚に存候先は右用事のみ 匆々頓首
    五月十九日         金之助
   立花賢臺
      坐側
 
      一一三B
 
 五月十九日 金 正岡子規へ〔封筒なし〕
 拜啓本月分ほとゝぎすに大兄の御持病兎角よろしからぬやに記載有之御執筆もかなはぬ樣相見候嘸かし御苦痛の事と奉遙察候目下如何に御坐候や漸く暑氣相催し候へば隨分御注意御療養專一と存候 俳友諸兄の近況は子規紙上にて大概相分り候いつも御盛の事羨敷存候小生は頓と振ひ不申從つて俳句の趣味日々消耗致す樣に覺申候當地學生間に多少流行の氣味有之候寅彦といふは理科生なれど頗る俊勝の才子にて中々悟り早き少年に候本年卒業上京の上は定めて御高説を承りに貴庵にまかり出る事と存候よろしく御指導可被下候 近來日本の文苑欄は如何致候や湖村先生病氣に候や俳句に遠かると共に漢詩の方に少々興味相生じ候處文苑なき爲め物足らぬ心地致候
 拙作二首御笑覽に供し候批圜は雨山道人に御坐候
 
   古別離
上樓湘水縁。捲簾明月來。雙袖薔薇香。千金琥珀杯〔二十字傍点〕。
窃窕鳴紫※[竹/逐]。徙倚暗涙催〔十字右○〕。二八纔畫眉。早識別離哀〔十字傍点〕。
再會期何日。臨江思※[しんにょう+貌]哉。徒道不相忘。君心曷得回〔二十字右○〕。
迢々從此去。前路白雲堆〔十字右○〕。撫君金錯刀。憐君奪錦才〔十字傍点〕。
不贈貂※[衣+瞻の旁]※[衣+兪]。却報英瓊瑰。春風吹翠鬟。悵※[立心偏+刀]下高臺〔二十字傍点〕。
欲遺君子佩。蘭渚起徘徊〔十字右○〕。
   情思纏緜語言藻薈頗復古調結語遺君子佩歸旨敦厚極得風人之意
 
   咏懷
仰瞻日月懸。俯瞰河岳連。曠哉天地際。浩氣塞大千〔二十字右○〕。
往來暫逍遥。出處唯隨縁。稱師愧※[口+占]※[口+畢]。拜官足緡錢。
澹蕩愛遲日。※[さんずい+抗の旁]※[さんずい+養]送流年。古意寄白雲。永懷撫朱絃〔二十字右○〕。
興盡何所欲。曲肱空堂眠。鼾聲撼屋梁。炊粱※[風+易]黄烟〔二十字傍点〕。
 
被髪駕神※[風+火三つ]。寥※[さんずい+穴]崑崙巓。長嘯抱珠去。飲泣蚊龍淵〔二十字右○〕。
寤寐終歸一。盈歇目後光〔十字右○〕。胡僧説頓漸 老子談太玄
物命有常理。紫府孰求仙。眇然無倚托。俛仰地與天〔二十字右○〕。
   ※[骨+航の旁]※[骨+葬]※[螢の虫が牛]亦復逍遥獨往發幽理於物表遊玄思於形外被髪長嘯數語有神駿不容銜勒之概數聲徹吟超然神遠矣 甲拜讀
 
 右は先日市中散歩の折古本屋で文選を一部購求歸宅の上二三牧《原》通讀致候結果に候どうせ眞似事故碌なものは出來ず候へども一夜漬の手品を一寸御披露申上候 匆々以上
    五月十九日            漱石
   子規庵
     坐下
 
      一二〇A
 
 十一月三日 金 ト便 熊本市内坪井町七八より 東京高等師範學校長尾槇太郎へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜啓御轉任の際は御見送りも不仕不本意千萬に存候其後愈御清適御精勤の事と存候偖甚唐突の至には候へども折入つて御願申上度儀出來候につき御用多の處を不顧少々坐右に申人候
 兼て名前丈は御承知の野々口勝太郎(湖海)事今般熊本縣人たるの故を以て九州鉄道會杜より解雇の辭令に接し急に衣食の途に窮する由にて過日拙宅訪問何とか活計の道を講じ度旨折入つての依頼に候當人志望は雜誌又は新聞抔に入りて文筆に從事致度旨に候へども第二には尋中の漢學教師にでもなりて今一層勉強致し度希望も有之由に候就ては大兄は漢學御專問《原》の上東京御住居のみならず高等師範に御關係の事故小生抔よりは如此人物利用の御便宜有之候事と存候因て甚だ御迷惑とは存候へども右湖海に適當の地位も有之候ば何卒御周旋被下度左すれば當人は勿論小生も難有仕合と存候先は右願用迄申上侯 匆々拜具
    十一月三日            金之助
   長尾賢臺
      研北
 
      一二〇B
 
 十一月二十日 月 ト便 熊本市内坪井町七八より 牛込區南町二九神方恒方長尾慎太郎へ〔封筒に「親剪」とあり〕
 寒冷日々相加はり候處愈御清勝御勤務の由大慶の至に存候偖先般は湖海氏件につき甚た御無理なる事願上候處早速御承諾の上種々御盡力被下候よし千萬難有奉謝候御尋ねに應じ左に二三箇條申述候間御含みの上よろしく御周旋の程偏に願上候
 志望地は別段無之模樣に候教員免状は所持仕らざる由に候是は只今迄教育界に立つ積りなかりし故と存候尤も當人は是より準備にとりかゝり次回の檢定試驗に應ずる決心のよし申開候俸給の義は只今迄約三十圓位の收入有之候由にて相なるべくは右邊の所にて仕官仕り度樣申居候
 猶新聞雜誌の方は論文詩稿等御入用のよし御尤の次第委細承知仕候本人へ通知の上差出す樣に取計ひ可申候
 御多忙中甚だ自由がましき義のみ申募り嘸かし御迷惑とは存候へども當人窮状御憫察の上何分にも宜敷御取計被下度願上候先は右當用のみ申述候 匆々頓首
    十九日          金之助
   雨山先醒
      研北
 
      一二〇C
 
 十一月二十三日 木 ヘ便 熊本市内坪井町七八より 牛込區南町二九神方恒方長尾慎太郎へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜啓過日野々口湖海氏件につき一應御尋ねの條々申上候御披見被下候事と存候其砌申上候通同人論文詩稿御入用のよし申聞候處本日同人より別紙草稿回附致候につき不取敢供※[さんずい+劉]覽候宜敷御取計ひ被下度猶模樣によりては當人直に東上の上處々運動仕り候ても無差支旨申居候今後の樣子にては左樣取計ひ候方可然かとも愚考仕居候間貴意御腹藏なく御洩らし被下度候
 高等師範の方は存外御閑散のよし過日兒島氏より承はり候其代り文部の方は矢張午後四時頃迄御精勤の事と存候御苦勞の程御察し申上候爾後不相變無精にて晝寐のみ致居候御憫笑可被下候狩野君甚だ多忙の由氣の毒に存候御面會の節はよろしく御傳可被下候先は右當用旁雜聞のみ 草々頓首
    十一月二十三日         金之助
   長尾賢臺
      侍史
 
      一二〇D
 
 十二月四日 月 熊本市内坪井町七八より 長尾慎太郎へ〔封筒の表不明〕
 拜啓野々口湖海氏件につき毎々御來示を蒙りふかく奉謝候右の次第早速本人に申聞候處語學の儀は久しき以前に修め候ものゝよしにて到底物の役には立ちかね候よしに御座候さすれば外國語必要の地位には全く不向かと存候當人も其方は斷念致居候樣子に御座候猶御申越の本人學歴別紙の通認めさせ候間供※[さんずい+劉]覽候可然御取計被下度願上候先右用事のみ時下寒冷相加り候〔約六字不明〕 頓首
    十二月四日             金之助
   長尾樣
     坐下
 
明治三十三年
 
      一三八A
 
 十一月十九日 月 85 Priory Road,West Hampstead,London より、c/o E.Meier Melanchtonstrasse 1,Berlin 立花銑三郎へ〔繪はがき〕
 御手紙拜見致候いそがしくて落付かざりし爲め御禮状も出さず失敬學校の講義を聞に行くは愚に候「コーチ」を取る積りに候色々計畫あれど時と金なき爲め何れもはか/\しからず西洋人と交際抔は時と金による事に候此樣子では矢張英國の事情抔は分り申間敷殘念に候然し毎日多少の活た學間をいたし候珍しきは書物に候然し何れも高價にて手に合はずいやな天氣に候いやな雜沓に候藤代芳賀二君へよろしく
    十一月十九日           夏目金之助
   立花銑三郎樣
 
      一四一A
 
 十二月二十七日 木 前0・15 6 Flodden Road,Camberwell New Road,London,S.E.より 下谷區上根岸町八二正岡常規へ
 其後御病氣如何小生東京の深川の如き邊鄙に引き籠り勉學致居候買度ものは書籍なれどほしきものは大概三四十圓以上にて手がつけ兼候
 詳細なる手紙差上度は候へども何分多忙故時間惜き心地致し候故端書にて御免蒙り候
 御地は年の暮やら新年やらにて嘸かし賑かなると存候當地は昨日が 「クリスマス」にて始めて英國の「クリスマス」に出喰はし申候
  柊を幸多かれと飾りけり
  屠蘇なくて醉はざる春や覺束な
    十二月二十六日        漱石
   子規樣
 新年の御慶目出度申納候諸君へよろしく御傳聲願上候
 
明治三十四年
 
      一四三A
 
 一月三日 木 6 Flodden Road,Camberwell New Road,London,S.E.よりGerhardstrasse Berlin 芳賀矢一へ〔繪はがき〕
 其後は小生こそ御無音に打過申候無精と見物と讀書に多忙なる爲と御海恕大兄益御壯健御勉學目出度御越歳の事と存候
 小生三十五に相成候へども洋行迄致して何事もしでかさず甚だ心細き新年に候
 日本人には毫も交際仕らず西洋人にも往來はせず中々そんなぶらつく時間は無之候
 二年間精一パイ勉強しても高が知れたものに候書物でも買つて歸朝の上緩々勉強せんと存候處金なくて夫も出來ず少々閉口に候
 伯林の樣子少し御報被下度候
    一月三日夜             金之助
   芳賀學兄
 「フオークロア」の書物見當り候へば御報可致候
 年始状はどこも畧し居候處突然端書到着狼狽の體に候遲延御許し可被下候
 池邊氏とは暫時同宿十日前程歸朝の途につかれ候
 やる事多くして佛語にも獨語にも手が出し兼申候
 
      一四三B
 
 一月四日 金 6 Flodden Road,Camberwell New Road,London,S.E.より c/o E.Meier Melanchtonstrasse 1,Berlin 立花銑三郎へ〔繪はがき〕
 御旅行のよし結構に候時と金なき爲め未だ旅行も致さず下宿にくすぼり居候僕の見付た下宿は一週悉皆で二十五志だから倫|孰《原》にしては非常に安いが書物を買ふのでいつもピー/\して居ります
 學校抔は行くのがいや學校見物も一遍したぎり幸ひ身體に別條はないから多分生きて日本に歸れるだらうと思ふ國家の爲め教育の爲め君の健康と勵精を祝し且つ折る
 新年の御慶如斯
    三日夜             金之助
   立花兄
 年賀状ヲ「ヌキ」ニシタカラ君ノヲ見テカラ是ヲ出す譯故遲クナツタ 失敬
 
      一五〇A
 
 三月十八日 月 後1・30 6 Flodden Road,Camberwell New Road,London,S.E.より c/o E.Meie Melanchtonstrasse 1,Berlin 立花銑三郎へ
 拜啓其後如何御暮し被成候や先日藤代君よりの書翰に大兄インフルエンザにて御|脳《原》みの由承り嘸かし御不便の事と御察し申上候然し暫時の後御快復の事と存居候處二三日前芳賀藤代兩君よりの報によれば大兄は御病氣の爲來る二十四五日頃當地を經て御歸國の由甚だ驚き入り御氣の毒と存候倫|孰《原》には定めし暫時御滯留の事と存候が久し振にて拜顔を得度御都合相つき候へば小生方へ御滯留如何に御座候や固より少々むさくるしく候へども佳なりな室は二ツ許り明て居候此は日本人の下宿屋を目的と致侯處生恰當地には日本の留學生なき爲め目下小生と今一人下宿致居候のみに候尤も其内には一兩名佛より參あるかも知れぬ事に候先日大兄の事を宿の神さんに話したら暫時でもよいから御立寄は願はれまいかと申候につき一應伺つてやらふと約束致候故茲に手紙にて御都合相伺ひ申候邊鄙のわりには便利よき處に候先は用事のみ餘は拜顔の上 萬縷頓首
 藤代芳賀二君へよろしく
    三月十八日            金之助
   立花學兄
 6 Flodden Road,Camberwell New Road,London,S.E.
 是が宿所に候
 
明治三十六年
 
      一九五A
 
 六月四日 木 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區彌生町三坪井九馬三へ
 拝啓大學圖書館教職員閲覽室隣室の事務員等高聲にて談笑致し静讀を妨ぐる事尠からず候につき小生自身に館員に面會の上相當の注意を乞ひ候へども一向取り合はざる様子に候間貴下より圖書館長に御交渉の上該館の静肅を保つ様御取計被下度右手數ながら御配慮を煩はし度と存候  敬具
             講師 夏目金之助
   文科大學々長坪井九馬三殿
 
      一九八A
 
 六月二十四日 水 前10・40 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區笄町柳原邸内松根豊次郎へ
 拝啓御手紙拝見仕候貴兄當地に御出のよしはかねてより承知致居候へども折あしく御面會の機を得ず遺憾此事に存候只ほとゝぎす紙上にて高吟に接するのみに御坐候遠路御訪問被下候はゞ大幸に存候いつにても御出被下度候田舎にて何の風情も無之候 以上
    六月二十三日       夏目 金
   松根豊次郎様
        坐下
 
      二〇三A
 
 七月三十一日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 久留米市築嶋町小幡方菅虎雄へ
 拝啓御北堂かねて御病氣の處療養の御甲斐もなく御逝去のよし痛哭の至に不堪候金五圓乍些少香奠として爲替を以て差し上候間靈前へ御供へ被下度候先は右用事のみ 匆々頓首
    七月三十一日
                夏目金之助
                大塚保治
                狩野亨吉
   菅虎雄樣
 
      二〇五A
 
 九月三日〔三十六年?〕 山形元治へ
 朝夕はやゝ凌きよく相成候處愈御健勝奉慶賀候御國元に至急の用事起り御歸熊の段拜承致候
 野間氏突然辭任にて嘸かし御迷惑の事と存候右に對しては實は當人の不都〔合〕よりも小生の責任の大なる事と存候
 同氏をして熊本行をいやになる樣に致候は三分二位はたしかに小生の所爲に候尤も岸君を代理にたて熊本の方不都合に相成らぬ樣に致し右岸君の電報迄も披見致候位故左のみ御迷惑にはならぬ事と安心致居候處突然大兄自ら其任にあたられ候由の御手紙にて一驚を喫し候野間氏辭任の爲め大兄が強て抑留せられたるならば甚だ恐縮の至に堪ず小生の不行屆と御勘辨可被下候
 猶大兄向後の事につき御手紙の仔細承知致候精々心掛置可申候
 今回の事は全く野間氏の不都合に無之小生の不都合に候へば此旨よろしく御賢察の上御勘辨可被下候猶御上京の節は拜眉の上萬々可《原》申述度と存候 頓首
    九月三日          夏目金之助
   山形元治樣
       坐下
 
明治三十七年
 
      二一二A
 
 一月二十七日 水 本郷區駒込千駄木町五七より 東京帝國大學清水彦五郎へ〔封筒に「金子入」とあり〕
 拜啓故外山博士奨學資金寄付の件につき御申越の儀拜承右は先年可差出等の處洋行前にて種々取紛れ夫なりに相成居候一般のふり合等も承知不致咋日大學迄まかり出一寸伺度と存候處生憎御不在にて不得其意因て乍些少金五圓不取敢差出候間御査収被下度候先は右用事のみ 匆々頓首
    一月二十七日           夏目金之助
   清水彦五郎樣
 
      二三六A
 
 七月十九日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區彌生町三坪井九馬三へ
 拜啓御申越の趣承知致候然る處札幌中學へは今回卒業の廣野藤吉氏志望の趣にて既に其手續きに及び居候次第につき貴所よりも同氏御推擧相成度右御返事旁々御願申上候 以上
    七月十八日           金之助
   坪井樣
 
      二七二A
 
 十二月三十日〔推定〕 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷臺町六一富士見館田口俊一へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 君の畫は大變うまい。僕は多忙で畫をかいて居られない。是は愚作ですが舊い奴があつたからあげます。出來たら又よこして下さい。深江君もよこして呉れた。深江君も僕よりうまい
 
明治三十八年
 
      二七六A
 
 一月二日 月 前10・20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷臺町六一富士見軒田口俊一へ〔繪はがき自筆水彩畫〕
 君の名を忘れたのではない。かき違へたのだ失敬。
 今度のあの畫は思ひ付きがいゝ。(どなた?)と云ふ題が面白い。深江君が又新年のを送つて呉れた。
 此花の繪は何の趣向も思付もない平凡なものである。只御返事迄に上げる。但し是も舊作です。いづれ其内ひまが出來たら傑作をしてほめてもらはんと心懸て居ります。
 
      二七九A
 
 一月四日 水 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷臺町六一富士見館田口俊一へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 君の樣に繪端書の連發ではちと返事に困る是は今少しのひまをぬすんでかいた。いたづらです。髪は白髪の樣だが是は被りものゝ積りだ
 
      二八一A
 
 一月十五日 日 前9-50 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷臺町六一富士見館田口俊一へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 何ダカ分ラナイ畫ニナリマシタモトハ「ブランギン」デス
 
      二八八A
 
 一月二十八日 土 後5・10 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷臺町六一富士見館田口俊一へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 もう少し甘く書く筈の處例の如く出來損へり
 
      二九〇A
 
 二月五日 日 後1・20 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區本郷臺町六一富士見館田口俊一へ〔繪はがき 自筆水彩畫 山を背景に樹木三本を描き、文章なし〕
 
      二九三A
 
 二月十二日 日 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 北豐島郡巣鴨村大字新田六六千住方田口俊一へ〔繪はがき 自筆水彩畫〕
 僕の肖像を鏡へ向いてかいたらこんなのが出來た。中々好男子だ
 
      三一四A
 
 四月十四日 金 後5 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町水上セイ方三井大作へ
 拜啓本日都城校長近藤氏より別紙の通申來候につき御高覽に供し申候猶右につき御意見も有之候はゞ御通知被下度候 以上
    四月十四日           夏目金之助
   三井大作樣
 
      三一五A
 
 四月十六日 日 本郷區駒込千駄木町五七より 京都市吉田神樂岡八藤田方松根豐次郎へ〔はがき〕
 先日は猫の繪葉書をありがたう。猫を續々かきたいがひまがありません
    四月十六日
 
      三三五A
 
 七月十五日 土 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込吉祥寺町洞泉寺金子健二へ
 拜啓庄内中學にて英語教員一名入用の趣にて相談をうけ候月給は六十圓のよし御覺召あらば履歴書下名迄御送被下度候(郵便でよろし)尤も同時に佐治、濱武兩氏も希望とあれば推擧致す積りに候へども前兩氏は既に他の學校へも交渉相つき居候故如何相成るや預じめわかりがたく候右御含迄申添候 以上
    七月十五日            夏目金之助
   金子健二樣
 
      三六三A
 
 十月十七日 火 前11(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 京橋區築地二丁目二五俳書堂へ〔はがき〕
 拜啓
 蕪村講義春秋二書
 右御惠送にあつかり拜受仕候 草々
 
      三七三A
 
 十一月三日 金 『白百合』宛
 拜啓、白百合は毎々頂戴致しますが、頂戴致す許りでついに御禮を申した事が御座いません。今回は又天長節の紀念號を拜受致して難有く存じます。貴誌には六號活字の惡たいがないので拜見しても何となく上品ないゝ感じが致します。此佳節に際して貴誌の隆盛を祈り且つ祝したく存じます。頓首
    十一月三日         夏目漱石
 
      三九一A
 
 十二月十八日 月 後2・20 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ
 啓先日は參上失禮明日閑暇につき川淵君と一所に遊びに御出なさい。ひる頃に來てめしを食ひ玉へ。但し御馳走はなし。一所にくふといふ丈です
    十二月十八日            金
   白仁君
 
明治三十九年
 
      四四三A
 
 四月十三日 金 前8−9 本郷區駒込千駄木町五七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ〔封筒裏の日付四月十二日〕
 今日御手紙拜見坊つちやん御ほめにあつかり難有奉謝候實は坊つちやんをほめてくれる人は少々有之候へども大概は愉快だと語に候大兄のも愉快だと有之候。ある人はあれをよんで神經衰弱が癒つたと申候
 赤しやつも野田もうらなりも皆空想的の人間に候。津田の所は少々かき候が過半はいゝ加減なものに候。實歴譚でもない樣に候
 先日森氏來訪長らく話し候先御禮かた/\御返事迄 艸々
    四月十二日            金
   霽月樣
 
      四四七A
 
 四月二十一日 土 後(以下不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 仙臺市大町土井林吉へ
 御返事
 京都にては文學科の設備なきやにきく。從つて小生は勸誘をうけたる覺なし。生徒から留任を運動された事もきかず。皆訛傳なるべし。
 只今狩野、谷本、桑木、松本文の面々丈きまれる樣子其他に豫算も何もなき模樣なり。小生は始より冷淡なれば聞き合せもせぬ文學科を設けぬ積の由は餘程以前狩野から聞きたり 艸々以上
    四月二十一日          金之助
   晩翠先生
 
      四七〇A
 
 六月六日 水 後11−12 本郷區駒込千駄木町五七より 小石川區竹早町愛知社中川芳太郎へ〔はがき〕
 啓上かねて御依頼の疊替來る九日頃書齋にとりかゝり候間御手すきならば同日朝御出被下間敷や右願上候 以上
    六月六日
 
      四八九(原物)
 
 七月二十五日 水 後3−4 本郷區駒込千駄木町五七より 千葉縣安房郡北條町濱小松岩谷別莊内濱武元次へ〔はがき〕
 大變な所を見つけて結構。成程何とも云へないだらう。所が此方は毎日御苦しみの方で何とも申されない位。文債を果す約束はある、人はくる、めしを食ふ、腹がはる、藥を飲む、散歩に出る、文章をかく氣がなくなる、かくひまもなくなる。御親切まことに難有く候。どうか精一杯遊んで。秋から又大に勵精し玉へ。
  「無人島の天子とならば涼しかろ」是は發句なり
 
      五一四A
 
 八月二十八日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 麹町區富士見町四丁目八高濱清へ
 近況如何二三日前東洋城來。近頃の俳句の傾向抔をきいて見ていさゝか議論をした所本人曰くそれぢや丸で話せませんと少々凹まされたる次第なり。要するに近來の句ことに碧梧桐抔の句には一向無趣味なものあるが故にきいて見た丈なり東洋城も是には多少賛成なり。然しあの男は君の子分と見えて君の句は大に辯護致し候夫から碧梧桐が本願寺の法主句佛をつらまへて「何々し給ふ」抔と無暗に敬語を使ふのを可笑しいと申したら是にも賛成したり。四方太も先達て逢ふた時さう云ふて居た。四方太は君も其連中の一人に加へてゐた。全體句佛と云ふ男は發句作家としては碧梧桐の門下生であり人物としては同等の程度位なものなるべく學問徳行は寧ろ下の部なるべければどの點から見ても碧梧桐抔からなに/\し給ふ抔といふのは間違つてゐる。あれをやめると碧梧桐も俳人らしい
 本願寺の青坊主を一代の高徳の樣にいふのはどう云ふ了見でせう。句佛先生自身も譯のわかつた男なら却つて迷惑だらう。夫ともあれが得意なら俳句などは作らぬ方がよい。
 時に僕の所へ出入する青年は大概僕を攻撃して歸ります。攻撃は構はんから自宅で談話をして夫で大學から月給を貰ひたい
 東洋城は遠慮のない、いゝ男です。あれは不自由なく暮したからあゝ云ふ風に出來上つたのだらう。夫から俳句をやるからあんなになつたのだらう。僕と友達の樣に話しをする。さうして矢張りもとの先生の樣な心持をもつてゐる。それが全く自然で具合がいゝ。こんど逢つたらさう云ふて下さい
 段々秋になつて好い季候になります雜誌は校正濟になりましたか。猫の原稿五十一圓送るとの通知を得て欣々としてゐます。但し實物はいまだ入手せず。十月の改卷號にはかけさうもないです中央公論も弱りました。
 來客紛として至る舌頭多忙を極む 草々敬具
    二十八日            金
   虚子先生
 
      五一六A
 
 八月三十一日 金 後11−12 本郷區駒込千駄木町五七より 本郷區駒込西片町一〇藤岡作太郎へ
 拜啓拙作草枕につき御懇篤なる御批評を賜はり感謝の至に不堪候在來の小説はいづれも人情的な方面を寫すことに骨を折り純美の客觀的實在を閑却する傾向ある故其反對のものをかいて見樣との考より筆をとり候ものに有之候へば此方面の消息を解する人ならでは殆んど小説と認めざる程の變調なものに候幸に一二好事家の眼にとまりて、主意はこゝにあるぞと之でも鑑賞の特典に浴すれば小生の本望に候
 小生は神を解せず又非人情世界にも住居せず只頻年人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神經も無暗に昂進するのみにて何の所得も無之思ふに世の中には余と同感の人も有之べく此等の人にかゝる境界のある事を教へ又はしばらくでも此裡に逍遥せしめたらばよからうとの精神から草枕を草し候。小生自身すら自分の慰|籍《原》に書きたるものに過ぎず候
 此二種の外色々申上たき事も候へども手紙にては盡しがたき故やめに致候
 御息女小田原表にて御逝去のよしは畔柳氏より先達承はり何とも御氣の毒の至に不堪十歳以下の小兒の病氣程心苦しきものは無之實は小生も四人の小供をもち候夫が時々病氣を致し候節は自分の病氣より遙かに心配に候現に第三女は赤痢にて今朝大學病院に送られ候。かうなると自分の小供の病氣を美文にかいて見樣抔と云ふ餘裕は出る所に無之候。傑作は出來なくてもよいから早く全快してくれゝばよいと、夫のみが苦になり候。五六年後には小供の死もうつくしく感ぜられて小説の材料になるやもはかりがたく候へども現に病人の兒を抱へたる親はいかな詩人でもそんな餘裕はあるまじくと存候。今日病院に入りたる兒はうちへ歸りたい/\と申す由、大兄の御令孃が夏目さん/\と云はれたと同樣に候。
 草枕はふりがなも校正も春陽堂に托したる爲め所々突飛な間違有之厄介に候
 右御返事まで 草々
                  金
   藤岡詞兄
 
      五三六A
 
 九月二十九日 土 本郷區駒込千駄木町五七より 牛込區新小川町一新潮社内高須賀淳平へ
 昨夜は失敬談話の筆記拜見あれにて一向差支なく候間御返却申候
 ページ餘つて居たからよんだ序に妙な事を十行ばかり加へて置き候
 雜誌には筆記(談話)といふ事をかき添へ被下度候 以上
    二十九日             夏目金之助
   高須賀淳平樣
 
      五三七A
 
 九月〔?〕 〔應問 十月一日發行『新公論』より〕
 小生の好む樣な芝居や寄席を興行したら、見物も聽客もなく、極めて不入にて、すぐさま閉場のことゝ存候、從て改良をすれば營業になるまじく、改良をせんでも儲かる方が彼等の目的ならんと存候故、自然の必要が生じ候迄は、だまつて居るべきものと存居候。
 
      五六八A
 
 十月二十四日 水 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ
 何かくれたのかと思つたら原稿であつた。僕が藝者に見とれて居たかも知れんが、君の筆記は决して上乘のものぢやない。朱を加へるのに非常に骨が折れた。もう御免だよ。こんな事なら自分でかく方が余ツ程好い。君は伊達宗城の孫だから華族さん然として聞いてるから駄目だ。圭さんに叱られるぜ。
 發句が書いてあるから讀んで成程東洋城だうまいものだと思つてゐると君のではない太祇のだと云ふ。大きに退義だ。然しあれは實際うまいよ。君御バサンにね。今度參内をしたら僕にも天子樣のチヨツキを貰つてくれ(白いフロツク、コートはいやだ)とたのんでくれ玉へ。さうしてね序に夏目漱石といふ人は恐れ多くも辰襟を安んじ奉る目的を以て小説をかいてゐるんだから、僕の周圍につけまつはる蠅の樣な奴を近衛兵で追拂つて頂きたいと言上してもらつてくれ玉へ。此つぎ君がくる時は巣鴨へ入院してゐるかも知れない
  釣鐘のうなる許りに野分かな
    十月二十四日            夏目先生
   松根本郷座の貴公子樣
 
      五六八B
 
 十月二十四日 水 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔封筒の署名に「自信庵漱石」とあり〕
  またどこかへ行かう〔九字□で囲む〕 其他色々
  祖師堂に晝の灯影や秋の雨
  かき殻を屋根にわびしや秋の雨
  青樓や欄のひまより春の海
  渡殿の白木めでたし秋の雨
  春雨や爪革濡るゝ湯屋迄
  暮れなんとしてほのかに蓼の花を踏む
 
      五七〇A
 
 十月二十六日 金 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ
 今度の木曜に來てね。四方太が來たら、つらまへて「あなたはわたしの事を馬鹿だと、おつしやいましたさうですね」と聞いて御覽。すると四方太が「へヽ、どうして」とか何とか云ふから、さうしたら「先生からきゝました」と云ひ玉へ。すると四方太が「ハヽヽ、あれを見せたんですか」と云ふ。「見せた」と僕がいふ。「馬鹿は少々ひどすぎる」と君が四方太に云ふ。すると四方太が「………」何と云ふか知らない。それで馬鹿といふものも云はれたものも平氣で歸るのだ。あの發句はまづいから駄目だ送らない。四方太を閉口させ樣とするなら禮を卑ふし辭をあつふして馬鹿と云はれた事抔は素知らぬ顔をして西片町の寓居を訪ふて先生の文章論をきいて、さうして敬服して歸つてくる。二週間ばかり立つて又行く又敬服した顔をする。歸りがけに少々自説を述べる。然しそこの所は愛嬌たつぷりにして歸る。三度目には先の理窟には感心し同時に自分の説にも未練がある樣にする。四度目には大に自説を主張する。但し歸りがけに四方太の説も採用する。それから五遍六遍と行くうちに四方太は君の事を馬鹿といふ事をやめて、僕の所へ端書をよこす「東洋城ハ近頃非常ナ熱心家ニナツテタノモシイ。アノ位譯ノワカツタモノハ。澤山アルマイ」そこで君の勝利に歸する。四方太を降參させるのも馬鹿を引きこませるのも俳句一首では駄目だよ。昔は田を三めぐりの抔といふ洒落もあるが今は明治三十九年の十月二十六日ぢやないか、大將シツカリし玉へ。大凡人と喧嘩をするのは一分のうちにも出來る。然し人を閉口させるには十年かゝるか二十〔年〕かゝるか、やり方では生涯凹ませる事は出來ないものだ。たとひ君の重を置かざる四方太と雖豈一句ノ俳句でギやフンと云ふべけんや。まあ二ケ月事業として今年中に降參させれば早いうちだ。
    十月二十六日            金
   豐さま
 
      五八七A
 
 十一月十七日 土 (時間不明) 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔封筒に「平信」とあり〕
 この前の木曜にはくるかと思つて手紙の返事を出さなかつたが來ないから今一寸あげる、あの晩は虚子が來る森田がくる其他大分來た。議論も大分面白かつた。僕は木曜に諸賢を會して高見をきくのが樂しみである。ホトヽギスへは又たちの違つたものをかく積りだ。うまく行つたら御慰みだ。本は Newn 's Ar tLibrary である。其後四方太と兩三度文書の往復をやる。要するに議論合はざるぺし。ともかくも僕は百年計畫だから構はない。近頃大分漱石先生の惡口が見える。甚だ愉快である。わるく云ふ奴があれば直に降參させる丈の事である。僕のわる口を申すものが先非を後悔する迄是非長命であればよいと思ふ。僕讀賣の日曜文壇をたのまれた。竹越の與三さんが主筆になるので僕を指名したのださうだ。僕も中々流行兒だ。はやつてもはやらなくつても百年後には僕丈殘るのだから安心なものだ。
 竹越先生が月給でも奮發すれば直ちに大學の方を辭職して腰ぬけ共を驚かしてやる。然し月給を奮發せんとあれば腰拔共を驚ろかす必要はない。
 今日森田白楊の所へ行つて西洋料理を御馳走して歸り道に彼の身の上話しをきいた所が風葉の青春よりも餘程面白かつた。千駄木邊のワイ/\共は何しに太陽の光線を浴びて居るのか分らない。あんな奴等に空氣を吸はせるのは惜しい氣がする。今に漱石先生の罸でみんな鼻がつまつて口がつまつて屏息して死んで仕舞ふ。どこにどうして居るか鉦と太鼓で探しても存在が不分明になる。四方太が文學論の序を見て敬々服々と申したひやかしたのかと思つたら本當に敬服してゐる。「御降り」を作れと虚子の命令だから十八世紀流の奴を十五六作つて送つた。まづい代りにすぐ出來るから妙だ。
 まあ此位で御免蒙る事に致さう 以上
    十一月十七日
                 金之助
   東洋城先生
 
      六二四A
 
 十二月二十五日 火 本郷區駒込千駄木町五七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ
 拜啓手紙を見た。僕の處へ來ないと來たいの、戀しいのと云ふ君は女の樣だ。實は此間も僕におとつさんになつてくれといふ手紙が來た。是は恐縮だから斷つた。
 僕は是で男には大分ほれられる。女には容易に惚れられない。惚れた女があつても男らしく申し出ないからわからない。
 僕にほれるものは大概は弟子である。下女からは嫌はれる。僕と下女は苦手と見える。二十七日は引越しだよ。西片町ロノ七號邊へ引き越す事になつた。人間も自分の家かないと方々へ行つて戸迷をする。二十七圓も出して下宿見た樣なつまらぬ家へ這入るのは愚だね。發憤借金の上一大邸宅を新築しやうかと思ふ。近き將來に於て諸先生を會して新宅開きをする筈である。但し借家に住んでるうちは決して開かぬ積である。
 ホトヽギスへは野分といふ大文字を押したゲーテのファウストとシエク、のハムレツトを凌ぐ名作だから讀んでくれ給へ。
 正月に屠蘇を飲むか飲まぬかは疑問である。元日は小宮豐隆いふ子をつれて朝から歩く積である。君も散歩黨に加はつては如何
    十二月二十五日          金
   東洋城様
 
明治四十年
 
      六五〇A
 
 一月二十七日 日 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區上根岸四六大川方庄野宗之助へ〔封筒なし〕
 拜啓御手紙を拜見しました。御婆さんの畫は百圓より一厘も引けぬとの仰敬承しました。あの御手紙は大變私には面白い氣に入りました。失敬ながらあなたは畫工としては手腕家かも知れぬが金持ちではありますまい。金持でないあなたが自己の畫に尊敬の意を表して百圓より一厘も負からぬと御主張なさる所が大に愉快であります。小生は固より大兄に依頼されてあれを周旋する譯ではない。つまり餘計な御世話ながら大兄が畫道御研究の御助けにもとの老婆心から入らざる御世話をしかけたのでありますから本心を御諒察下すつて無禮の所があつたら御勘辨下さい。御返事の趣は早速先方へ申してやります。買つてくれともよせとも申してやりません。唯御返事を御返事として申してやります。技術は神聖であります。大兄の如く貧に處して神聖なる技術をけがさぬ御心掛は洵に敬服の至に堪へません。先は御返事迄 艸々
    一月二十七日           夏目金之助
   庄野宗之助樣
 
      六五〇B
 
 二月二日 土 後(以下不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區上根岸四六大川方庄野宗之助へ
 拜啓又御婆さんの畫の事です。
 私が相談をした男が左の手紙をよこしたから見て下さい。かう云ふ以上は御賣りなさい。今度もいやだと云ふと私の顔がつぶれます。買手は横濱の豪商です。渡邊和太郎といふて淺井君や不折君や其他の人の知り合です。小生は倫敦で近付になりました。金は畫をとりに來た時私がもらつて、さうしてあなたに通知する事にしたらどうですか 以上
    二月二日            夏目金之助
   庄野樣
 
      六五一A
 
 二月八日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 下谷區上根岸四六大川方庄野宗之助へ〔書留便〕
 拜啓横濱の渡邊氏より御畫の代價として封入の爲替參り候につき御送付申上候間御落掌可被下候。畫は先方より當方へ取りに參る迄小生方に御預り置き申候先は用事のみ 草々
    二月七日             夏目金之助
   庄野樣
 
      六五八A
 
 二月二十二日 金 後4−5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 江田島海軍兵學校丙號官舍川井田藤助へ
 拜啓御手紙拜見仕候借御希望の證明書は今日學校に行き事務で問ひ合せ候處君は研究科の學生であるから東京に居らねばならんのである東京に居らぬ以上は研究科を退學せねばならぬと云ふ譯で證明は到底出來ないといふ。夫が規則であつて而して夫が正當である。もし胡魔化せば小生が責任となる。あらはれゝば君は忌避となる。よろしくない事と思ふ。夫で願書は持つて歸つて來た。
 僕の考では研究科を退學の上直に徴兵の檢査を受ける事に致されたらよろしからうと思ひ候先は至急御返事迄 艸々頓首
    二月二十一日           夏目金之助
   川井田藤助樣
 
      六六〇A
 
 三月四日 月 後5−6 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元(當時白仁)三郎へ〔はがき表の署名に「ナツメ金」とあり〕
 御手紙拜見出來得ぺくんば金曜の午後三時頃御來駕願度候木曜でも二階で應接は出來候。木曜ならいつでもよろしく候
 
      六七三A
 
 四月七日 曰 大阪朝日新聞社京都支局へ〔封筒なし〕
 拜啓別封は來る九日御社發刊に掲載すべき原稿に有之候鳥居君に御約束致候處少々時日後れ至急を要し候につき御手數ながら此旨本社へ電話にて御通知の上使にて同君手元迄御屆被下度願上候先は用事迄 早々頓首
    四月七日            夏目金之助
   京都大阪朝日
        支局御中
 
      六八二A
 
 四月十四日 日 後3−4 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 第一高等學校寄宿西寮四番佐瀬武雄へ
 拜啓十六橋拜見大に面白く候ホトヽギスへ御出しの由承知致候虚子に送り屆け可申候。然し同人は目下旅行中故歸京次第機を見て相渡し可申候
 小生去月末より京都へ參り十二日歸京出立の際から御手紙を拜見する迄平井晩村君の事を忘却致し居り小生の爲めに出版延期に相成定めし御迷惑の事と御氣の毒の至に不堪候早速拜見の上短かき序文を認めて返上可仕候間同君へよろしく御傳言被下度候
 十六橋の樣なものを續々御かきにならん事を希望致候 先は御返事迄 艸々
    四月十四日           夏目金之助
   佐瀬蘭舟樣
 結末は多少の不自然有之候今少し自然に神秘的にかきたらばと思ひ候
 
      六九三A
 
 五月十二日 日 後4−5 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 府下大久保仲百人町一五三戸川明三へ
 拜啓先日は遠路の處久々にて能《原》々御光來被下候處生憎何の風情も無之失禮千萬に候其節御話しのスチーヴンソンのオツトーの批評家の名前御尋ねにあつかり候處久しき以前の事とて頓と思ひ出しかね候多分英國のある雜誌かと記|臆《原》致し居候か然し折角の御問合せにも關はらず乍殘念御確答申上かね候猶本郷邊に御出向の節は御立寄被下度オツトーに就ての御考抔拜聽致し度と存候 草々頓首
    五月十二日              夏目金之助
   戸川明三樣
 
      七〇一A
 
 五月三十一日 金 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 澁川柳次郎へ〔うつし〕
 又手紙を上げる事に立ち至りました昨夜御渡しといた小生宛の手紙のうちには處美人草の栽培について別紙の通りかいてあります一寸緒言を見ると本人新聞へでも出してもらひたい氣がある樣にも思ふ。さうすると出す價値がないにしても貴兄へ知らせぬのはわるいから一度御覽に入れる。「寫生文熱望の夏目漱石」「植物虐待」等頗る面白い言葉があります「處美人草」の名前丈は有名になつて大分諸方から端書がきますが肝心の本人は昏々矇々として居る隨分驚ろいた事です 以上
    五月三十一日            金
   玄耳先生
 小生に宛てた手紙は無論のせる積りでないでせうから二頁から一寸御通覽を願ひます
 
      七〇五A
 
 六月十二日 水 後0−1 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麹町區隼町五澁川柳次郎へ
 啓
 先日は佐藤君次氏件〔に〕つき御面倒相願候所早速御承引御引見被下難有存候其後本人の模樣不相知候へども着々試驗中の事と存候佐藤氏のあとにすぐ他の人間を推擧する事無暗に自分の關係あるものを社に入れんとする樣にて心苦しけれど御採否は御隨意として多少御配下御入用の由承はり候故たのまれた人間丈を御紹介致し度と存候 高須賀洋平と申すもの有之是は小生愛媛縣にて小供の時に教へた腕白ものに候。其後出京早稻田に入學才氣の爲め中途にて退學其後は色々な事を仕り一時は佐藤紅緑の書生を致し只今は「新潮」の編輯に從事致候此男筆をとると「漱石が…」抔とえらい事を申し候が實は家計上非常に惨憺たるものにて一枚の原稿(活版に組んだ字數)を十錢で無茶苦茶にかきこなし漸く糊口致し居候然る所本人も大分老成して少しは子供の事や自分の病氣の事抔を考へ出しどうか一定の收入ある口を得たいと只管小生に依頼致候小生は別に何といふあてもなく只君の配下に人が入用だと申す事を知り居候故容子を見て話して見樣と受合候然し佐藤を勤めた昨今故あまりと思ひ少々控へ居たれど本人今申す通りの悲境故厚顔にも又々御紹介申上候。偖本人の性質は頗る機敏文才も頗る有之。朝日に出た子守の研究の樣な事は好んでやつて見たいと申候。使ひ樣にては固より佐藤の比にあらずと存候。
 尤も借金や妻子がある故どうしても月五十圓は入用の由故社の用事以外にかせぐ事を多少ゆるしてくれなければ食ふ事が出來ずと存候
 株屋になつたり寄席の帳場へ坐つたりした男に候へば中々經驗は有之候其上禅學抔をやつたから一時は隨分危|儉《原》であつたかも知れねど昨今は左のみ不都合は無之と存候。とにかく使ひ樣にては役に立つと存候が是も試驗の爲め一寸御使用被下譯には參りかね候や本人宿所は小石川區大塚二十七番地(高須賀洋平)に候幸ひに御端書にて御引見も被下候はゞ幸甚に候 以上
    六月十二日             夏目金之助
   澁川先生
 
      七〇六A
 
 六月十七日 月 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 澁川柳次郎へ〔うつし〕
 拜啓只今高須賀洋平參り社の方が突然の間にきまりたる由一寸御報知に參り候と申候。實は左程早く御採用とは思はず小生も甚だうれしく篤と本人にも勉強する樣申聞け候。本人も望外の喜悦にて是から足を伸ばして樂に寢られると申居候今日既に廢兵〔二字不明〕して少し材料をあつめし由に候。小生も世話のし甲斐ありて甚だ愉快深く大兄の御親切を謝す次第に候先は右御禮まで匆々如斯候 頓首
    六月十七日夜            金之助
   玄耳大兄
 
      七〇九A
 
 六月二十四日 月 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ
 拜啓懸葵は僕の處へも來た。當分面會謝絶のうちで酒を飲んだり西洋料理を食つたり馬鹿話をする。殆んど言語道斷である。向一ケ月間無言の業をやらうと思ふが到底出來さうもない。今に小説を書いて仕舞つたら大々的に君とどこぞに遊びに行かう。
 心中は美である由御尤に存候小生は無言の業が一番美である樣に思ふ
 三重吉が花壇をつくつてくれた。豐隆が故郷へ歸る親類の下女同道のよし妙なみち行きと思ふあの人は此間僕の娘を病院へつれて行つてオトツサンと間違られて大に落膽してゐる今度は下女を細君と間違られて怒る事だらう。
 君は豐隆抔へやる手紙にアマツタルイ女の樣な言葉をつかふ由今に暑くなると人間が熔けて仕舞ふから用心をせんといかん 先は匆々
    六月二十四日           金
   東洋城樣
 
      七一五A
 
 六月頃 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔封筒の署名に「寺田寅彦代夏目金之助」とあり うつし〕
 拜啓寺田寅彦君に科學的記事を頼んだら匿名ならば書いてもよいという事なり、日限長短は無制限の事
                   金
   澁川樣
 
      七一六A
 
 七月二日 火 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 澁川柳次郎へ〔うつし〕
 拜啓御手紙拜見秀英舍の件は出す事御不賛成の由なれども御賛否は論外としてどうか出して頂き度と存候。小生の立場としてどうしても出して頂かねばならん事情になつて居ります。朝日の大主|議《原》もしくは大利害に關係ある以上はとにかく然らずんば小生の云ふ事を枉げて御通し被下度候。其代り科學でも醫學でも色々周旋をやります。〔二字不明〕はのけて無理を願ひます 以上
    七月二日              夏目金之助
   波川玄耳樣
 
      七二五A
 
 七月十一日 木 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 澁川柳次郎へ〔うつし〕
 拜啓昨日留守中に高須賀君立寄御依頼の封筒殘し置かれ歸宅後正に落掌臨時賞與としての一封難有頂戴仕候
 總務局と申すものはどこにあるか知れぬ故貴兄より宜敷御禮被下度候
 あれに「臨時賞與」と有之候があれが入社の時に池邊君やら前田君から承つた盆暮の賞與にあたるものですか參考の爲め一寸伺つて置きたいと思ひます。
 醫學小話の事は聞き合せた人々二三差支にて不得其意、聞いてもらつた當人の云ふ私でよければ御間に合せてもよろしと、是は醫科の學生に候、本人の希望なら紹介してもよく、又小生への義理なら心配に及ばずと申しやりました、夫から其他の方面できゝ合せてもゐますが是はまだ返事がありません、大抵の見當は大學助手位な所を覘つてゐます、日々御多忙の事と存じます、いつか閑な日を得て清遊を仕り度と思ひます、池邊君の病氣も傳聞の儘見舞にも參らず御面會の節はよろしく御依頼〔申〕上候 匆々
    十一日             金
   澁川大人
      坐下
 
      七四五A
 
 七月二十九日 月 後11−12 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓大塚夫人に手紙にて懸合たる處來年の正月迄ならば約束をしてもよき故新聞の方へ可然返事をしてくれとの事であります右御含み迄申上ます。艸々
    七月二十九日         金之助
   澁川大人
  何だか奮發してかく樣な事を云つて來ました
 
      七四六A
 
 七月三十一日 水 前11−12 本郷區西片町一〇ろ七より 京橋區五郎兵衛町文淵堂金尾種次郎へ
 拜啓本日森田君より貴兄の御手紙を落手拜見致候十八世紀文學中途にて御斷はり致候段色々の事情有之候にも拘はらず御氣の毒に存候御辯明にて委細の内實も分り候今迄の行違の爲め折角成立しかゝりし出版を見合候事不本意至極に存候然し是には瀧田君の方にも相當の根據有之且小生と相談の上其手續に及候あとにて貴方よりの使同君方に被參候趣にて萬事不得已次第に立ち至り候右不惡御承知被下度候最後に貴店の發展と隆盛とを希望して一言御懇切なる貴翰に對して御挨拶如斯に候 以上
    七月三十一日夜          夏目金之助
   金尾種次郎樣
 
      七七〇A
 
 八月十九日 月 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布笹井町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき うつし〕
 漱石易斷ニ曰ク
 全然無罪。安心安眠ヲ可トス。先方デ何トカ云ツタラ屁ヲカマスベシ
 
      七七四A
 
 八月二十六日 月 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき うつし〕
 閑窓机によつて坐す、庭前花あり、金魚草、マーガレツト、のうぜん。フクシア。遐懷無窮。無暗に心中抔を思ふ勿れ。神經徒らに衰弱す。
 
      七七四B
 
 八月二十六日 月 (時間不明) 本郷區駒込西片町一〇ろ七より 麻布區笄町柳原邸内松根豐次郎へ〔はがき うつし〕
 以來心中ヲ論ゼズ。閑アラバ女ヲヌキニシテ尻ヲ端折ツテ來レ
 
      八二一A
 
 十月二十五日 金 後2−3 牛込區早稻田南町七より 京都市聖護院町松井小路大岩方佐瀬武雄へ
 拜啓玉稿昨日に至り漸く拜見致候
 田園水澤の好詩料收めて簡墨のうちに搖曳する所甚だ愉快なる感致候只説話者が小供にも似合はず詩人の樣な感興や述懷や敍述を致候には少々妙な感じを起させ候
 夫から田舍びたる所と花やかなる所があまり接近し過ぎて居ると思ふ。あんな所があれば僕も住んで見たいと思ふ。鹿の聲を聽いて一寸出ると鰻飯が食へると云ふ樣な所と被存候
 小説としては初から仕舞迄段々膏が乘つてくる所が少ない其代り背景から云ふと頗る雅な寂た面白味がある小生はこんな空氣が大好である學資の足に雜誌へ出したいとの御注文故精々原稿の高い所を問ひ合せて見度候然し新小説抔へは不向かとも存候
 今少々御猶豫を乞ふ 頓首
    十月二十五日            夏目金之助
   蘭舟兄
 
      八二九A
 
 十一月八日 金 前11−12 牛込區早相田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ
 拜啓音樂記事批評寄稿につき文學士乙骨三郎氏に人を以て依頼したる處自分がきゝに行つた時抔に折々の批評ならしてもよいとの事の由夫では其うち改めて社員が御願に上るからよろしく頼んで置いてくれ玉へと話し置候。よつて御面倒ながら西村君でもよろしき故序の節同氏宅へ參つて萬事取極る樣御取計被下度候同君宿所は大塚辻町壹番地にて大分遠方の上不在の折多き由故あらかじめ手紙にて都合聞き合せ置く方便宜と存候右用事迄 匆々
    十一月八日           金之助
   玄耳先生
  小生今金曜夜八時頃より愈御隣を騷がせる稽古を寶生新にたのむ筈に候もし御覺召もあらば聊蠻音〔四字右○〕を弄せられては如何。尤もあまり遠方故強てとは不申稽古日は毎金曜夜八時頃に候
 
      八三三A
 
 十一月十四日 木 藤岡作太郎へ〔封筒なし〕
 拜啓處美人草御推賞にあつかり汗顔の至御親切の段は感謝致候御案内の評議員會には多分缺禮致す事と存候につきあしからす御承知願上候新年號はホトトギスより切なる依頼有之候ひしも不得已謝絶致候帝國文學の方も恐らくは御思召通りに蕪文を差上る譯になりかねるかと心配致居候是亦あしからす御海恕願上候先は右御返事迄草々 頓首
    十一月十四日          金之助
   東圃老兄
 
明治四十一年
 
      八五二A
 
 一月十九日 日 後11−12 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣西宇和郡八幡濱新川岸宮崎ェ義へ〔はがき〕
 御書面の趣委細承知致候鯛白浪難有拜受只今多忙中乍略義端書一寸御免蒙候 以上
 
      九〇七A
 
 六月八日 月 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木町森鴎外へ〔封筒に「中村蓊氏持參」とあり〕
 拜啓
 此手紙持參の人は中村蓊とて去年英文科卒業の文學士にて其後東朝記者となりて小生とは社友の間柄に御座候今般徴兵試驗意外にも砲兵甲種に合格致候に付ては一寸御目にかゝり伺ひ度事有之由にて小生へ一封紹介状依頼につき相認め候定めて御多忙とは存じ候へども本人參上の節は何卒御引見被下度願上候先は右用事迄 草々頓首
    六月八日             夏目金之助
   鴎外先生
      坐下
 
      九一六A
 
 七月二日 木 池邊吉太郎へ〔封筒なし〕
 拜啓此手紙持參の人は嶋根縣人生田鹿之丞と申し大學にて社會學專攻今回卒業の學士に御座候向後新聞記者として世に立ちたき志望の由にてある人の紹介にて小生方へ被參候へども小生は該事業に經驗淺く格別の談話も致しかね候につき本人の希望により貴下へ御紹介致候參堂の節は一應御引見の上御高説御洩し被下候へば本人の向後處世の方針上利益不淺と存候につき御多忙中御迷惑とは存じ候へども御願の爲め一筆相認め申候先は右用事迄餘は拜眉の上萬々 草々頓首
    七月二日              金之助
   池邊様
     几下
 
      九四四A
 
 十月二日 金 前11−12 牛込區早稻田南町七より 日本橋區通四丁目春陽堂内本多直次郎へ〔はがき〕
 拜啓「草合」一部ホトヽギス社より請求被致候につき麹町區富士見町四丁目八番地高濱清宛にて御送り願度段々御手數恐縮に候 草々
    十月二日
 
      九六一A
 
 十二月九日 水 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 赤坂區表町一丁目二山口方松根豐次郎へ〔はがき〕
 昨日は晝より夜にかけて不愉快でたまらず。氣がひけてたまらなんだ。
 今日は何んともなし。一晩寢ればかはればかわりうるものと淺ましく、おかしく、分がわからず。
 御手紙難有う。先夜は失禮。今日は風邪心地なり。火をかつかとおこして火鉢にかぢりついてゐる。
 
明治四十二年
 
      九八〇A
 
 二月三日 水 後8−9 牛込區早稻田南町七より 芝區神谷町一八米山熊次郎へ
 拜啓寒氣烈敷候處愈御多祥奉賀候偖原丁の御邸宅は放火の爲め御全燒の趣驚入候。其節天然居士の寫眞も御紛失につき小生手元にあるもの御復寫の御考承知致候かねて頂戴致したる半身のもの一葉ある積にて種々尋ね候へども一向に見當らず、たゞ小生と二人にて寫したる分のみ殘り居候右にても御間に合可申やと存じ別封にて差上候間御落手被下度候 草々頓首
    二月三日            夏目金之助
   米山熊次郎樣
 
      九八七A
 
 二月二十三日 火 前11−12 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓文學雜誌御地にて御發行の由にて何か書けとの御注文承知致候へども例の通多忙にて甚だ御氣の毒ながら何とも致し方なく、何卒御免を願度候實は近來演説とか談話とか寄稿とか方々より依頼有之一々引き受けてゐると自分は何をするひまもなく從つて不得已大抵は謝絶する事と方針を定め居候右御返事迄 草々頓首
    二月二十三日            金之助
   霽月樣
 
      一〇一三A
 
 五月二十八日 金 後11−12 牛込區早稻田南町七より 芝區神谷町一八米山熊次郎へ
 拜啓本日は遠路わざ/\御光來天然居士寫眞御丁寧に御屆被下難有存候其節は菓子折一個頂戴是亦難有御禮申上候
 さて天然居士の肖像に題すといへる蕪句中|鐸《タク》とあるは寶鐸にて五重塔の軒端などにつるせる風鈴の積りに御座候。寂寞たる孤塔の高き上にて風鈴が獨り鳴るに其音は仰く間もなく空裏に消えて春淋しといふ意味の積の處文字拙なく御質問を受け汗顔の至に候右御返事旁御禮迄申上度候 早々頓首
    五月二十八日            金之助
   米山樣
  寫眞は長く紀念として所藏可致候
 
      一〇一八A
 
 六月十九日 土 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓拙稿「それから」二十回分御手許へ差出候につき可然御取計願上候。あとは又二三十回宛まとめて時々差出す事に可致と存候 右迄 草々
    六月十九日             夏目金之助
   山本松之助樣
 〔初めの餘白に〕
 「それから」の長さ自分にも判じかね候故萬一を慮かり次回の小説の執筆者は精々早く御取極御依頼の程願置候
 
      一〇三四A
 
 八月二十七日 金 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内澁川柳次郎へ〔封筒の表に「紹介泉鏡花君」とあり〕
 拜啓
 泉鏡花君新作六十回分脱稿朝日紙上に掲載なりたき希望の由につき御紹介申上候間何卒御面會御相談被下度侯
 小生滿洲へ遊びに參り時日切迫拜顔の餘日無之につき乍畧義手紙にて辨用候。泉氏は月末にて諾否至急承知相成度旨につき右御含の上何分の御挨拶同君に御傳願はしく候 頓首
    八月二十七日             金之助
   澁川樣
 
      一〇五六A
 
 十一月二十一日 日 水上齊へ〔封筒なし〕
 拜啓先日のボ※[ワに濁点]リー夫人の原稿は滿洲日々新聞の小説としてやる事に致し候。一回(四枚半)の割にて二圓請求致し候につきあれにて四十二圓に相成候。猶取急ぎあとを御譯し願度候
 御相談の上と存ぜしが取り急ぎ候故勝手に取りはからひ申候。但し掲載後の所有權御心配に相成候はゞあらかじめ談判致し御都合よき様取計可申候返す/\あとを御書きつゞけの程願候。あれは二十回程につきそれが出切る迄に二卷を御廻し願度候 艸々頓首
    十一月二十一日           夏目金之助
   水上|齋《原》様
 
      一〇六三A
 
 十二月三日 金 後0−1 牛込區早稻田南町七より 清國大連山縣通一一九號西村誠三郎へ〔封筒に「親展」とあり〕
 拜啓着後御無事御執務の事と結構に候。寒くて嘸困る事だらうと思ふ。もう歸りたくなつてゐる時分だらうと推察してゐる。いくや否や小説を書くのはえらい。其小説の話だが此間滿鐡の山崎正秀といふ人が來て滿日の小説は自《原》後僕に周旋を托したいといふから引受けて森田に話すと、森田も書きたいがすぐの間に合はないので與謝野の妻君にかゝせる事になつた。處が妻君の子供が病氣で、時間が逼つてゐたから山崎の方へは水上夕波のマダムボ※[ワに濁点]リを送つた。二十餘回程やつてあとは今拵らえてゐる。山崎からはすぐ送るといふ返事が來た。然るに君の手紙によるとまだ其原稿が着いてゐない樣だ。がさう云ふ譯だから君のあとはマダムボ※[ワに濁点]リーを載せてくれ給へ。森田も書きたがつてゐる。居所炊事凡て不便だと思ふが辛抱し玉へ。宅は相變らずだ。御梅さんも丈夫だ 以上
    十二月三日              金之助
   誠三郎樣
 
      一〇六五A
 
 十二月十八日 土 牛込區早稻田南町七より 麹町區飯田町中坂望遠館松根豐次郎へ
 拜啓先日の原稿は難有頂戴した。然しあれもどうも載せる譯に行かないので少々氣の毒だから黙つてゐた所である。あれは君少々醉ぱらつて書いた樣だよ。實《ミ》がないんだから、訂正する事も書き直す事も出來ないよ。折角君が直しても好いといふ承諾を與へたのだからどうかしたいとは思つたが何うする事も出來ないから弱つた。君と僕の間柄だから遠慮なくいふが、まあ怒らずにもつと書いて呉れ玉へ。今日迄文藝欄に載せたものを一々非難すればどれも是もあるが、何か云ふ事があつてさうしてそれをある程度迄人が尤だと思ふ樣に云つてある事は慥かだが、君のは第三者が見て尤だと納得する分子が少ない。まあ醉拂ひだよ。どうぞ怒らずにもつと書いて呉れ玉へ 多罪々々
    十二月十八日           金之助
   豐|一《〔次〕》郎樣
 
明治四十三年
 
      一〇六七A
 
 一月一日 土 後11−12 牛込區早稻田南町七より 廣島市高等師範學校金子健二へ〔はがき〕
 恭賀新年
    四十三年元旦            夏目金之助
 
      一〇七二A
 
 一月八日 土 後3−4 牛込區早稻田南町七より 韓國釜山南濱井本靖憲へ〔はがき〕
  獨居や思ふ事なき三ケ日  漱石
 
      一〇七二B
 一月九日 日 後11−12 牛込區早稻田南町七より 江田島海軍兵學校官舍川井田藤助へ
 拜啓會話の序文御依頼の所新年取込其他にて後れ申候。別紙の如く好加減なもの相認め候御役に立たば御使用被下度候。取り急ぎ右迄 草々
    一月九日             夏目金之助
   川井田藤助樣
 
      一〇九四A
 
 三月十三日 日 後0−1 牛込區早稻田南町七より 牛込區若松町一〇五池邊吉太郎へ
 拜啓文藝欄の原稿近來毎日の樣に拘留の厄に遭ひ擔任者少々心細く相成候今少し同情を以て編輯にならん事を暴戻なる佐藤編輯長迄御傳願候。實は若いものが色々不平を訴へ來り小生も困却、振はぬ々々と云つた所で政府の教育事業と同然の性質のものだから政治經濟には負けるのが當然だ抔と胡麻化し居候。然し餘り長く休業がつゞくと新聞としても不體裁に相成、又時々思ひ出した樣に飛び出したり或は月曜の埋草に不得已載せる樣に世間から思はれても外聞よろしからず、其邊はどうか御含を願度と存じ候。
 文藝欄に小説外の批評あるは一般記事に對する社説と一般にて讀者少なく面白き度合も多からざれと勢力維持もしくは擴張の爲には必要かとも存ぜられ候猶本欄に對する御希望も有之候へば御相談の上改良の方法は可相成講ずる覺悟に候
 十五日の會議に申出てはあまり大袈裟故一寸手紙にて愚存丈清聽を煩はし候 草々
    三月十三日           金之助
   池邊樣
 
      一一〇九A
 
 四月二十四日 日 後8−7 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込千駄木林町一七八坂元三郎へ〔はがき〕
 拜呈過日の寫眞出來候につき木曜にでも遊びかてら取りに來て下さい 艸々
    四月廿四日
 
      一一一二A
 
 五月四日 水 後0−1 牛込區早稻田南町七より 下谷區谷中清水町一九黒田朋信へ〔はがき〕
 玉稿頂戴致候都合つき次第掲載可仕候右御禮迄 艸々
    五月四日
 
      一二一九A
 
 六月十六日 木 後5−6 牛込區早稻田南町七より 茨城縣結城郡岡田村長塚節へ〔はがき〕
 拜啓玉稿四回分(十三回迄)正に落掌仕候右不取敢御報知旁御禮迄 艸々
    六月十六日
 
      一一五四A
 
 八月二日 火 後4−5 牛込區早稻田南町七より 牛込區若松町一〇三池邊吉太郎へ
 拜啓入院中は御見舞を辱なふし難有候約壹月半にてやつと退院の許可を得歸宅致候然し輕快になつた迄で全癒には至らぬため食事と食事の時間やら運動の都合やら色々六づかしき規則を實行せねばならぬためまだ何處へも參上致さず候。今少し容子を見た上にて轉地可然との醫師の注意に候
 右御禮旁御報迄申上候。甚だ失禮ながら左の諸君に禮状を差出す事を畧し候故大兄よりよろしく御傳言願度候
 杉村君、弓削田君、松山君、澁川君、上野君、桐生君、松崎天民君、
    八月二日           夏目金之助
   池邊吉太郎樣
  二伸大坂の懸賞小説はいつ迄に閲了致す可や御分りに御なり居り候はゞ一寸御通知願侯
 
      一一五四B
 
 八月三日 水 後8−9 牛込區早稻田南町七より 小石川區大塚町六九島村盛助へ〔はがき〕
 入院中は御多忙中わざ/\御來駕奉謝候病勢漸く輕快退院の運に至り候につき御禮旁御報知申上候、太田正|男《〔雄〕》君へは大兄よりよろしく御傳願度候 艸々
    八月三日
 
      一一六九A
 
 十一月二十三日 水 後0−1 麹町區内幸町胃腸病院より 牛込區早稻田鶴卷町一坂元三郎へ〔繪はがき 修善寺頼家の墓所〕
 又々御病氣の由、去れども大した事にてもなき模樣、まづ/\御用心專一に候。小生御蔭にて大分よろし然し食事はひるに普通の飯を食はせてくれる丈矢張粥ばかり食つてゐる。澁川君が五六日前からブリ返して元氣がなくなつた由、何でも左の下腹が痛いとの事、愚妻も風邪、松方侯は御目出〔度〕い事、あんな騷ぎをやるのは病院で見てゐても厭なり。小生は妙|は《原》性質である。君はすきか。
 
      一一八四A
 
 十二月三十一日 土 前10−11 麹町區内幸町胃腸病院より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ〔繪はがき〕
 拜啓
 御見舞難有候。漸く本復に近づき申候。病院にて越年珍らしく自分ながら存居候。御禮の序謹で祈御健康候 艸々
 
明治四十四年
 
      一二一八A
 
 三月一日 水 前10−11 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓段々暖かになります、御地はもう春だらうと思ひます、東京も明後日の節句を控えて花屋には桃を賣つてゐます、桃どころではない、二三日前は鉢植の牡丹の半開をもらつた位です、開化すると冬でも夏の野菜があつたり夏に冬のものが食へたりすると同樣で節物の均一から季候に特別の聯想がなくなるやうに思ひます、
 東洋城に御言傳の竹籠三組重ねたしかに頂戴あれが松山の産物とは今日迄思はなかつた、實はうちにも二三個机邊に使用してゐるが何處のものとも氣がつかなかつた、
 俳句は不相變御つとめの樣子小生はほとんど駄目、二三日前漸く病院から退出、病院は森君から近いから度々來てくれました
 先は乍後御禮まで 匆々頓首
    三月一日               金之助
   霽月樣
 
      一二一八B
 
 三月二日 木 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ〔繪はがき 和田英作の「雛祭」の繪〕
 漸く退院しました、御端書は病院から廻送して來ました、御同情の件難有う存じます、半年ぶりで世の中を見ました、其記念の繪端書を一枚呈します、艸々
    二《原》月二日            金
   臨風先生
 
      一二二三A
 
 三月四日 土 後0−1 牛込區早稻田南町七より 福島縣岩代國須賀川町鑄造業山縣源太郎へ〔はがき〕
 内藤樣より承り候へ共小錢もやうの鐡の茶たく十五枚程おこしらへ御送りねかひ上候
 
      一二三二A
 
 三月十四日 火 後6−7 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣逗子町新宿田坂方坂元三郎へ〔はがき〕
 玉稿到着せりあれは二段近くになるが少々詰めて差支なきや、又詰めるなら此方で詰めてよきや、一寸御返事を乞ふ、※[さんずい+氣]車賃がなくて能へ行けないとは隨分使ひ盡したものだ
 
      一二八〇A
 
 五月二十七日 土 前11−12 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓新緑の候愈御清勝奉賀候
 偖別紙小説解題は御覽の如きものなるが作者どこかに賣つて金にしなければ困るのでどうか朝日の方を聞いて見てくれと申し候故御相談致し候此男はコ田秋聲抔の代作をしてやつて原稿料の半額以下をもらつて僅かに生活をしてゐる氣の毒な男に候。朝日の方は夫々準備排列の方もきまり居る事とは存じ候へども若し幾分にても一考の餘地も有之候はゞ原稿を御送致し候につき御覽の上御採否御決定を願度、もし又其餘地なければ端書にてもよろしく候間一寸御通知被下候へば仕合せに存候
 取急ぎ用事のみ申上候 艸々
    五月二十七日             夏目金之助
   長谷川萬次郎樣
 
      一二八二A
 
 六月四日 日 後6−7 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓御手紙難有候早速徳田君に相談爲致候處只今迄大阪と東京の朝日丈へは代作を出した事なき故願くは秋聲、育凉合作として御採用願度由に候、社の方の都合も御察し申上候へども秋聲氏も社に對しての良心を重んずる故以上の如く言ふならんと存候、如何のものに候や、今一度御相談願はれゝぱ好都合に候 艸々
    六月四日四時二十五分   夏目金之助
   長谷川樣
 
      一二八三A
 
 六月九日 金 前10−11 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓飯田政良氏小説につき御盡力を煩はし恐縮萬事好都合に運び小生も世話甲斐あり篤く御好意を謝し申候
 原稿料の事は無論承知原稿も既に全部脱稿致し居候事故一應手を入れ次第直ちに悉皆御送可致候右御禮旁御報迄 艸々頓首
    六月九日            夏目金之助
   長谷川樣
 
      一二八四A
 
 六月十六日 金 鈴木穆宛〔封筒なし〕
 拜復遠路御出京の趣はかねて傳聞致し滯朝鮮中の御禮をかね是非一度拜趨仕度心得に候處定めて御多忙の事と存じ且當方も諸事取紛れ其儘に打過申譯無く責めてと存じ歌舞伎へ御案内申上候處御出發の時日御逼りの爲め御都合出來かぬる由御申越拜承仕候殘念ながら致し方なく候當方のこと御掛念御無用に御座候間右一寸御安心のため御返事差上候猶道中御大事に御歸任の程不堪切望の至侯 匆々敬具
    六月十三日           夏目金之助
   鈴木穆樣
 
      一二八七A
 
 六月二十二日 木 後2−3 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓小生去十七日長野から高田へ行き諏訪を經て歸京三ケ所にて講演をやら|せ《原》れ隨分恐縮致候却説飯田の小説色々御手數をかけ難有存候原稿は全部|渡《〔池〕》邊君の手元迄差出したる由申候、右につき當人も秋聲君も差逼り金子の必要あるやにて小生許迄受取方依頼に參り候に就ては御手數ながら社より小生方飯田宛(飯田のうちは小生の隣り)にて御送金の都合相願度可成丈早き方本人等には好都合かと存候 右迄匆々
    六月二十二日            金
   如是閑樣
 
      一二九一A
 
 六月二十五日 日 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇笹川種郎へ
 拜啓南北朝に關する御高著御出版につき一部御寄贈を給はり千萬辱なく篤く御禮申上候
 專|問《原》家ならぬ小生の事故是非の價値は無論詳しく相分りかね候へども御高意のある所は承知致居候且つ小生を同校出身の先輩と御目ざしわざ/\の御配慮甚た恐縮の至に存候御記念として永く保存御好意に酬ひ可申候不取敢右御禮申上候 匆々頓首
    六月二十五日            夏目金之助
   臨風先生
      坐下
 正成の書は美事に見受申候|御《〔後〕》醍醐天皇の筆蹟はかつて史徴墨寶か何かで見たときはもつと上手と記憶致居候があれにあるは左程にも無之思はれ候が如何にや
 
      一二九四A
 
 七月七日 金 〔?〕11−12 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ〔封筒裏日附七月八日〕
 尊書拜見つゞきものを書けとの事承はり候。實は八月より小説をかく筈の處病後暑中の執筆はよくあるまいとの池邊君等の注意にて十月初から掲載の都合に一應繰り下げ置候、尤も今度のは小説ではなくともとの事なるが夫でも突然では少々面喰ひ候此間演説をしましたが是は「道徳と文藝」と云つても「教育と文藝」といつてもよいものですが夫ならつゞきものに纏めて書き上げますが、どうも餘り感心しないでせうな。如何ですか、匆々
    七月八日             金之助
   長谷川樣
 
      一二九九A
 
 七月二十六日 水 〔?〕11−12 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜復度々御手數恐入候が出來るなら十日から十五日の間に願ひ度候夫から和歌山などはまだ行つた事がないからどうか其方へ向けて頂き度候 講演も卓上演説のやうにそこで好加減な愛嬌を振り蒔くなら小生には其才なく、又纏つた事を云ふには少し時間がかゝり候、引受けても御土産がなくては參られぬ故少々時間を請求致す譯に候尤も考へてもうまい考が浮ぶとも限らず時間があつてもなくても同じ結果に歸着するやも計りがたく候へども、何方といへば時間のある方が出來易いだらうと思ひ候、
 講演は二三種こしらへる積に候必要なればそれを繰返してよきや、それから先達やつた「文藝と道徳」といふ奴をどこかで繰り返しても宜しきや、尤も少々長き故京都邊でやるならばと存じ居候
 土地及び聽衆の種類等にて出來る丈斟酌致し度心得に候故場所及び會衆の性質など早く分れば好都合に候 匆々
    七月二十六日            金之助
   長谷川兄
 
      一三〇四A
 
 八月七日 月 山内義人へ〔『小樽新聞』より轉載〕
 拜啓あなたの原稿を、長い間放つて置いて濟みません。色々ごた/\して手が着けられませんでした。今日漸く讀みました。
 あれは面白い材料です。其から發展の仕方も難はありません。文章も簡單で飾らなくつて好い所があります。然し全体から見てもつとどさつと納まらないと不可いかと思ひます。落付が足りないのでせうか。或はもつと簡略にするか、もつと複雜にするか、何方かにしたらまだ好くなるとも思ひます。氣狂になつたのを聞いて急に厭になつて心機が變る所などはどうも書き足りませんし、其からもつと前の所などになるとまだ省いても然るべき箇所があるとも云へます。要するに手を入れゝばずつと器量のよくなる品物と存じます。もし何かの便宜があつたら雜誌へ御周旋致したいと思ひますが近頃は中々雜誌の方も自分から頼んだものでないと載せませんから、ことによると何うも致しかねるかも知れません。御返事が後れて濟みません。原稿は御預り致して置きませう以上
    八月七日             夏目金之助
   山内義人樣
 
      一三〇五A
 
 八月八日 火 池邊吉太郎へ〔封筒なし〕
 拜啓暑中御變もなき御事と存候御病人其後御容體如何に候や時節がら隨分御大事に御療養可然候
 偖かねて申上候通小生阪朝催しの講演會に出席のため九日か十日に彼地へ參り和歌山|界《原》明石三ケ所巡業の上歸り候歸りに高野山に登り伊勢へ廻らうかと考へ候
 夫故十日の評議員會には缺席致し候間右あらかじめ申上候餘は歸京の上萬縷 艸々
    八月八日             金之助
   三山先生
 
      一三〇六A
 
 九月六日 水 後1−2 大阪市東區今橋三丁目湯川胃腸病院より 本郷區順天堂病院内戸川明三へ
 今日病牀にて國民新聞を見たるに其六號活字に大兄の御病氣御入院の事が出て居り甚驚ろき早速御見舞を差上んと存じ居候處へ大兄の御書状を領し却つて御返事を致す事に相成候御來書によれば大した事にてもなく不日御退院との仰どうか一日も早く左樣なるやう希望致候
 小生も輕症なれど未だに愚圖々々致し實はぢれつたき位なれど無暗に動く事ははたで承知せぬ故毎日三階の病室で雲はかり見て暮し居候ならう事なら明日にも東京へ却《原》り度と存候へどもさう旨くは申し不參困り居候
 精々御養生專一に候段々秋風の時節とも相成候へば御療養には尤も適ひ可申と存候御禮旁大阪より御見舞迄 艸々頓首
    九月六日              金之助
   秋骨先生
 
      一三〇八A
 
 九月十六日 土 牛込區早稻田南町七より 清國旅順警視總長佐藤友熊へ
 其後は御無沙汰仕候加賀兄の事につきわざ/\の御通知恐縮致し候本人不都合との事に候へば無論無致方と存候猶今迄色々の御配慮を煩はし候段感謝の至りに不堪候右御挨拶旁御禮迄草々
    九月十六日           金之助
   友熊樣
  只今少々病氣是よりながく書く元氣がない失敬々々
 
      一三一六A
 
 十月七日 土 後0−1 牛込區早稻田南町七より 麹町區日比谷圖書館内今澤慈海へ
 拜復小生著書文學論御館にて多數の講讀者を有する爲め本月御催しの著者講演會出演者の一人として小生へ御相談の儀光榮の至に存候然る處小生過般來和違にて打臥り居昨今漸く輕快に向ひ候へども病中の用事何分山積殆んど處理の道なきを苦しみ居候折柄甚だ乍遺憾御依頼に應じかね候故右様御承知被下度先は右御返事迄 匆々
    十月七日            夏目金之助
   今澤慈海殿
       貴下
 
      一三二三A
 
 十月十七日 火 後0−1 牛込區早稻田南町七より 廣島高等師範學校金子健二へ
 拜復御望により惡筆御目にかけ候是は昨年修善寺にて病氣にかゝりたる折の有樣をのべたるものに候 記念として御保存被下候へば幸甚 匆々
    十月十七日           夏目金之助
   金子健二樣
 
      一三二八A
 
 十月二十日 金 牛込區早稻田南町七より 湯淺廉孫へ〔封筒なし〕
 拜啓大阪では再度の御見舞難有御禮申上候あれから歸るとすぐ痔に襲はれ切開其結果豫期の如くならす今に醫師にかゝり居候然し起臥には差支なき故御安心可被下候
 御たのみの畫賛の方は此間一天只霽月滿地悉光風の二句を得たれどまあ畫を見た上と可致夫から小生の畫の事是は生れて以來の珍品につき餘程ひまな時でなくては出來|候《原》布袋御序の節御送り可被下候機會を得て片付可申候先は御禮旁御知らせ迄 匆々
    十月二十日             金之助
   廉孫樣
 
      一三三八A
 
 十一月十五日 水 牛込區早稻田南町七より 牛込區若松町一〇三池邊吉太郎へ〔封筒に「用事親披」とあり〕
 拜啓昨日は御光來難有候
 其節御示しの社内役割は既に社長より一同へ發表されたるものゝ由洩れ聞候へば社長よりまだ何等の通知も無之候へども社員の一人としてしか承知すべき筈のものと存じ候。さすればかねての御配慮にて御手元に御とめ置被下候辭表も社長の手許迄差出すべき順序かと愚考仕候へば御手數ながら左樣御取計ひ相成度願上候猶辭職濟の上社長樣在京の模樣に候へば一應禮旁挨拶にまかり越したく存候間一寸御教へ被下度先は右當用のみ申述候 匆々敬具
    十一月十五日             金之助
   池邊樣
 
      一三三八B
 
 十一月十九日 日 前10−11 牛込區早稻田南町七より 牛込區若松町一〇三池邊吉太郎へ〔封筒に「御惠披」とあり〕
 拜啓小生進退につき過日來一方ならぬ御配慮を蒙り恐縮の至に不堪候如仰二三日前松山君過訪何とかして心持よく在社の見込なきやとの懇談につき立場をかへ熟考の上挨拶可致約束にて相分れ候まゝ別段の名案も不浮ためつい其儘に打過候處に昨日又々弓削田君の訪問を受け澁川君抔の事も申出られ是非とも考へ直すやうにとの勸告につきさう四方八方へ心配をかけても濟まぬ儀と心得漸く舊態を一變快よく在來の通り置いてもらう事に致し社長へも松山君へも弓削田君を通して小生の意志を傳へてもらひやつと片付申候早速まかり出委曲可申上筈の處少々手間取りかね間敷雜件も有之候故右不取敢書面にて一應申上候追つて其内拜眉の上萬謝可申述候先は右御禮旁御報知迄 匆々敬具
    十一月十九日           金之助
   池邊君
 
      一三四〇A
 
 十二月七日 木 牛込區早稻田南町七より 坂本※[逓のしんにょうなし]藏へ
   〔昭和四十一年十一月十日、神戸新聞社出版部刊、阪本勝編著『コウノトリ』寫眞版より〕
 拜復御地出石城西鶴山の松の上の鶴巣の寫眞一葉御親切にわざ/\御寄贈被下御好意千萬難有候鶴の巣と申すもの生れて見た事なき小生には多大の興味有之候
 過日御地の有志者より右鶴巣に關する詩歌御求めに相成候へども不肖惡筆の上諸大家の題咏も不少やに存じ差控居候
 不取敢右御禮迄匆々如斯に候 頓首
    十二月七日            夏目金之助
   坂本※[逓のしんにょうなし]藏樣
 
      一三四〇B
 
 十二月十日 目 後6−7 牛込區早稻田南町七より 小石川區高田老松町四五澁川柳次郎へ〔速達便〕
 拜啓先日御話致し候魯庵氏原稿料につき只今同封の紙面を受取候故御目にかけ候につき乍御面倒可然御取計被下度右願上候
 此手紙は速達にて參り候故何だか至急入用相生じ候事と存候につき是も御含置被下度候 匆々
    十二月十日            金之助
   澁川様
 
明治四十五年 大正元年
 
      一三五一A
 
 二月七日 水 後2−3 牛込區早稻田南町七より 廣島高等師範學校金子健二へ〔はがき〕
 拜啓御送の蜜柑澤山到着難有御禮申上候不取敢右迄 艸々
 
      一三五七A
 
 三月十一日 月 牛込區早稻田南町七より 白石大へ〔うつし〕
 拜啓御手紙拜見致候文學御希望の由拜承致し候へども文學などをして世に立つ事今日の時勢甚だ困難に候故たゞ本業の傍ら娯樂として御耽り可然と存候又今の世に弟子とか師匠とか申すものもなき樣子故只何か御咄になりたき時御面會致せば夫で澤山ならんかと存候小生面會日は木曜に候大兄御勤務の都合あれば日曜か土曜に御相談の上一度位時間を設けてもよろしく候尤も何れも只今多忙故少々御待被下度候實は小説を書いて居候故夫が濟んでからだと小生も好都合に候右御含み迄申上候先は御返事如斯候 草々
 
      一三八七A
 
 五月十四日 火 牛込區早稻田南町七より 瀧田哲太郎へ〔封筒なし〕
 拜啓池邊君遺稿の序文先日申上候通の次第にて其後の模樣多忙一方にて間に合ひかね候十八日迄に出來れば手紙にて御報知致し候出來ねば先日御話申上候通と御承知願上候 艸々
    十四日              夏目金之助
   瀧田哲太郎樣
 
      一三九八A
 
 五月二十九日 水 後3−4 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜復先日御軸の絹小閑を得て惡筆をふるひ候折森君見へ候故幸便と存じ同君へ差遣方依頼致候處早速の御禮痛み入候稽古と思ひひまさへあれば書き候ものゝ頼んだ人の迷惑は一向苦にならず隨分我儘千萬なる書家に候小生の惡詩御好みの由に洩れ承り此間のうち一つを御都合にては前のと御取替ありてもよろしからんと圓月君に話し置候尤も大兄御入用なら何時でも何枚でも差上可申故夫にも及ばぬ儀ともと存候、此間字をかく必要より詩を十程作り候處十では足らぬ事に相成候詩人でなき故種切と相成つた節は書も亦種切の體に候
 御令孃女子大學の寄宿へ御起臥のよし御淋しき節はちと御遊びに御出被下度御相手のもの年下には候へどもうぢや/\活動致し居候先は御挨拶迄 匆々頓首
    五月二十八日             金之助
   霽月先生
      坐下
 
      一四一四A
 
 七月三日 水 前10−11 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇ろ一若月保治へ〔はがき〕
 御手紙拜見御申越の人物は慥かに小生なべんと存候然るに小生は一向貴君に逢つた事を記憶せず此方でも御詫をせねばならぬ譯に相成候呵々
 
      一四六三A
 
 九月六日 金 牛込區早稻田南町七より 市原隆作へ〔封筒なし〕
 御手紙拜見致候御旅行中の處無事御歸京の趣奉賀候道中處々にて面白き事に御出逢の由今度拜眉の節承り度侯
 小生も先月中少々旅行八月盡日歸宅健康御尋ねにあづかり難有候まあどうにかかうにか命をつなき居候も旅行中少しの無理もすぐ應へ候始末油斷は中々出來不申候先は御挨拶迄 匆々頓首
    九月六日             夏目金之助
   市原隆作樣
 
      一四八二A
 
 十月八日 火 前9−10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 拜啓洋畫の批評を黒板君に御依頼の御考の由同君は色々な意見を發表する事を寧ろ好む傾向の人の樣に被存候故畫に於ても頼まれれば承諾するならんと存候も小生は未だ曾て此方面の學者としても趣味ある鑒賞家としても黒板君の名を聞き及びたる事なく候自分の如きものが文展につき云々する今日他人につき彼是申すは妙に候へども同君に洋畫の批評をたのむはちと見當違にてはなく候や餘計な御世話ながらもう一度御考直し願度候尤も小生寡聞にて同君の技能を知らざるため斯樣に失禮をいふのかも知れず夫ならば固より徹《原》回は覺悟の上、小生に構はず諸事御進行可然候へどもあまり妙に聞え候まゝ差出口とは存候へども婆言を左右に呈し申候いづれ拜眉の機もあらば萬々不一
    十月八目             夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一四八四A
 
 十月十日 木 前9−10 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ〔封筒に「要事」とあり〕
 拜啓大塚より別紙の通申越候同君の立場としては至極尤のやう被存候社の方の御希望如何に候や御差支なくば同君の申出の通取計はれたく右得貴意候 匆々不一
    十月十日              夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一四八八A
 
 十月十四日 月 牛込區早稻田南町七より 河東秉五郎へ〔封筒なし〕
 拜啓廣嶋のものにて井原市次郎と申すもの小生の知人に候處大兄の短册所望の由にて去る九月下旬願上候處其儘に相成殘懷の至故今一應小生よりとくと御依頼申くれ間敷やと申來候 御繁多の砌重々恐縮ながらもし臨池の御序もあらは一二葉御つかはし被下度小生より懇願致候 尤も當人の希望は明治年間の勅題か元旦か新年のものに有之由につき右つけ加へ御願申上候
 其後謠の會なきため拜眉の折も無之御近況は時々寶生氏より承り居候いづれ謠曲會の節御面晤萬縷可申述候 匆々頓首
    十月十四日             夏目金之助
   河東樣
     尊下
 
      一四八八B
 
 十月二十一日 月 前10−11 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓上大塚博士より別紙の如く申來候間乍御手數來意の通御取計被下度願上候 匆々不一
    十月二十一日            夏目金之助
   山本松之助樣
        坐下
 
      一四九四A
 
 十一月五日 火 牛込區早稻田南町七より 林原(當時岡田)耕三へ〔封筒なし うつし〕
 組の見本に對しては一頁はフリガナ多過ぎるからもう少しへし餘の頁は少な過ぎるからもう少しふやせ位の注文にて可然か。。は句切に入れる事。多くなつても其方は差支なかるべきか。二三氣のついたのを入れて見たり。
 ※[、を○で囲む]の代りに。の必要な事も申しやられたし。
 饒舌《しやべ》る。何處《どこ》。かういふのは可成入れたし。分り切つたのにても向ふで入れたら常識を逸せぬ限り活かす方針可然か。もしルビ付で組むなら全部へ假名をふりでも差支なし 右迄
    十一月五日              金之助
 〔以下切り取られてなし〕
 
大正二年
 
      一五五四A
 
 二月十二日 水 〔?〕6−7 牛込區早稻田南町七より 芝區南佐久間町一ノ一ホトヽギス高濱清へ
 拜啓其後御無音に打過候正月は御病氣とか承り居候處其後御回復の報に接し安堵致し居候處今度は又々重ねての御病氣の處既に御離床の趣何より結構に存候右につき雜誌本月分休刊及全力を三月に集注せらるゝ旨敬承致候何とぞ面白きもの拜見致し度と存候小生目下執筆中にて自然多忙御見舞にも出かね候次第略儀ながら書面を以て左右御伺ひ申上候先は右迄 匆々頓首
    二月十二日           夏目金之助
   高濱清樣
 
      一五五四B
 
 二月十三日 木 前6−7 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島大阪朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 啓安倍能成より別紙の通中越候間御目にかけ申候。もし君の方で東京より日曜附録の原稿料を出すとき是より以上出すなら安倍にも同樣の御取扱願度と存候 頓首
    二月十二日            夏目金之助
   長谷川如是閑樣
 
      一五五四C
 
 二月十三日 木 前6−7 牛込區早稻田南町七より 麹町區有樂町南滿銕道會社内龍居頼三へ
 拜復先夜は失禮致候其節御約束の曉星中學の規則書其他都合三葉御親切に御送り被下深く御禮申上候先不取敢右迄 匆々不一
    二月十二日夜            金之助拜
   龍居先生
      尊下
 
      一五五五A
 
 二月十五日 土 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 陸軍省森林太郎へ〔はがき〕
 啓「青年」御送正に落手毎々の御惠投難有候拙著「社會と自分」丁度製本出來につき御目にかけ申候 匆々
    二月十五日
 
      一五七七A
 
 五月十四日 水 牛込區早稻田南町七より 牛込區市谷左内坂町橋口清へ〔封筒に「御禮」とあり〕
 拜復先達は病中態々御見舞を辱ふしことに表装の御面倒をも願ひかたじけなく候其後病勢順當に快方に向ひ昨今は床の上に起き直り毎目畫を樂しみにかき居候全快も其内と存候御安神願候御惠投の屏風難有頂戴か
ゝる大したものを見舞にいたゞいては何だか心濟まず只眼も覺める許りの色彩に見取れて床の裾に立て廻し候返す/\御厚意深謝致候
 あれから又々氣分御すぐれなさらぬ由時節がら隨分御攝養可然よくなれば小生より御邪魔に出掛可申候若し御よろしくば御出掛待入候床の上にてむさ苦しく候へども御話はいくらでも出來申候先は御禮旁御返事迄  匆々拜具
    五月十四日           夏目金之助
   橋口五葉樣
       坐下
 
      一五八九A
 
 六月二日 月 後10−12 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓過般病氣の砌は御見舞状いたゞき難有候其後順當に回復致し候もつい病後の事とて筆を持つのが大儀なのでどこへも書面を書かず昨今に至り一時に義務を果さうとするものだから何處へ《原》碌な手紙は書けず失禮に失禮をかさねるやうなものなれど去りとて出さぬよりはましならんと一筆御禮かた/”\御挨拶迄申上候不日梅雨の季節に入り候へば尊體適宜に御自愛專一に候 頓首
    六月二日            夏目金之助
   霽月老兄
      坐下
 
      一六〇一A
 
 七月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區南鍋町二丁目一二時事新報社へ〔應問 七月七日『時事新報』より〕
 (一) 執筆中は作物に取り上せたる氣味にて眼のくらむ爲かいづれも會心の作の如くわが眼に映じやう。然し一旦書き棄てたる過去の作物を今居る見所より振り返る時は恰も蛇の脱殻のやうにて大いなる感興の起りやうも無之從つて比較的冷靜の脳裏にいづれも不會心不滿足の痕迹を印し居り候がまた常の如く相成居候
 (二) 此春病氣にで志賀直哉氏の『留女』を讀み感心致して、其時は作物が旨いと思ふ念より作者がえらいといふ氣が多分に起り候。斯ういふ氣持は作物に對してあまり起らぬものに候故わざ/”\御質問に應じ申候。有嶋氏の『蝙蝠の如く』も面白いから本になつたのを讀まうと思つてつい讀まずに仕舞ひ申候中勘|介《〔助〕》氏の『銀の匙』も小生を喜ばし申候
 (三) 旅行なれざる小生の眼にも風景のよき處は歐洲滿韓、内地にては九州東北を通じて樣々に候が、とくに一二を擧げる譯には參りかね候。從つて讀者のお參考には相成らず遺憾に候
 
      一六〇五A
 
       七月十日 木 牛込區早稻田南町七より 龍居頼三へ〔封筒なし〕
 拜啓本日狩野享吉君をたづね例の人物につき相談致候處別にこれといふ程の人物も物色し得ず弱りはて候折ふと太田達人の事を思ひ出し候あれなら君とも熟知の間柄故雙方にて氣がねなく至極便利と存候が如何にや彼は大器故秋田の馬鹿知事森正隆よりグヅと思はれ今は樺太に赴任致居候狩野も太田には賛成致候出來得べくんばあの下に腕のきゝたる人一人をつけたら妙ならんと存候何分にも御熟考を煩し度候猶巡回講演者の義につき狩野君は大學の緒方博士にでも衛生の講話をして貰つては如何との事に候小生は夫も一種の變化にてよろしかるべくと存候然ラズハ南條文雄師など有徳の君子人にて結構ならんかと思はれ候同君の宿所は小生も存せず候へども其氣にて手をまはし候へは直ぐ分るかと存候南條師にては多少宗演和尚と即く嫌あり候へどもさしたる不都合も無之と存候丘淺次郎といふ博士を頼んで進化論の講話をしてもらふのも面白かるべく候(尤も辯舌はあまり流暢にても無之候)右思ひつき候まゝ斷片的にかきつけ申候先は用事迄 匆々頓首
    七月十日              金之助
 
      一六一三A
 
 七月二十七日 日 前9−10 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町六三玉井廣平へ
 拜啓小生著書のうち貴著明治文學選中に御採録相成度御希望につき御照會の趣敬承致候然る處御指示の二書は双方とも大倉書店の發行にかゝるものに候間一應右書肆の許諾を得る必要有之と存候春陽堂より御出版の趣なれば同堂より發行の拙著ならば却つて面倒なかるべきかと存候右御返事旁御注意迄に申上候猶蛇足ながら愚考序を以て差加へ候有體の處を申せば小生の古き原稿のうち猫倫敦塔の如きものよりも新らしき方まだ何分かの取柄有之べきか此間も虞美人草と申す六づかしきものを他に無斷にで採録せられ少々赤面致居候次第其邊は可然御含み被下度願候選出の場所文章等についても若し御餘裕も有之ば御相談致してもよろしく候先は右御返事旁御注意迄 匆々
    七月二十七日           夏目金之助
   玉井廣平樣
 
      一六一三B
 
 七月二十九日 火 (時間不明) 牛込區早稻田南町七より 小石川區林町六三玉井廣平へ
 拜復かさねての御手紙拜見致候が小生若し頑として不承諾を申出候へは貴著中より小生の文章を全然取り去るか又は小生の同意する箇所と差換へるか兩者のうち一つを撰ばるゝより外に道無之べきかと存候印刷濟とは御氣の毒に候然し其故に小生のいやなものを載せる理由にはならず候右かさねて御返事申上候 以上
    七月二十九日           夏目金之助
   玉井廣平樣
 
      一六三一A
 
 九月三日 水 後10−12 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内山本松之助へ
 啓此間は帝劇にて失禮候かねて約束ある徳田君より別紙到着につき供御披見候或は社の催促に對しての挨拶かとも存候へども念の爲め故御廻送致置候間此上とも臨機の御處置仰たくと存候 匆々
    九月|四《腹》日         夏目金之助
   山本松之助樣
 
      一六三七A
 
 九月〔?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區南鍋町二丁目一二時事新報社へ〔應問 十月二日『時事新報』より〕
 漱石といふ故事は蒙求にあります。從つて舊幕時代の畫師にも俳人にも同じ名をつけた人があります。私が蒙求を讀んだのは小供の時分ですから前人に同じ雅號があるかないか知りませんでした。然しざらにある名でもなく又全くない名でもなく丁度中途半ぱで甚だ厭味ポイ者です
 
      一六七六A
 
 十二月十四日 日 後10−12 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓明月和尚の書正に入手ことの外美事に候どうかしてあのやうな書がかけるやうになりたいと思ひ候珍らしきもの故さがし出すのに定めて御骨の折れた事と存候幾重にも難有候向後も大幅御見當りの節はどうぞ御買求め被下度代金は小生拂ひ可申候今度は別に何とも仰なき故故人の贈として感謝の意を表し頂戴致候先御禮迄 匆々
    十二月十四日             夏目金之助
   霽月老兄
      坐下
 
      一六七七A
 
 十二月二十一日 日 牛込區早稻田南町七より 寺島幸三、長谷川康子へ〔封筒なし〕
 拜啓先達ては遠路を御出下さいまして甚だ失禮致しました狂言座に就ての刷物拜受致しました顧問と名になつてゐま〔す〕が御存じの通りの譯でちつとも顧問らしい事も出來ず申譯がありません、會員としての申込は名譽特別普通三種のうちどれになつていゝのか森さんや佐々木さんの考を知りませんから分りませんがまあ普通會員として入會して置いて催ふしのある時に必要な切符を人數丈頂く方が私に相應だらうと思ひますからさう致しました左樣御承知を願ひます 以上
    十二月二十一日           夏目金之助
   寺島幸三樣
   長谷川時雨樣
 
大正三年
 
      一七〇四A
 
 二月二日 月 後0−1 牛込區早稻田南町七より 府下大井町四七五五志賀直哉へ
 拜啓兩三日前社へ行つてあなたの小説の事をしつかり極めて來ました、今のが三月一ぱいつゞくさうです私が四月から其後をかきます、あなたのは私のあとへ出す事に致します。私のは何回になるのだかまだ何を書くあてもないから分りませんがまあ順序丈はさういふ筈にしましたから一寸御知らせして置きますどうぞ御積でゐて下さい一寸行かうと思ふが大井ときくと遠方のやうな氣がして無精の私にはまだ足が向きません 以上
    二月二日             夏目金之助
   志賀直哉樣
 
      一七〇四B
 
 二月五日 木 後10−12 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣温泉郡今出町村上半太郎へ
 拜啓清水翁が小生の書を所望せられるとの事故したゝめて差出候大兄も御入用の由につき二枚かき申候落款をあやまつて逆樣に捺したる方少しは増しかと存候いづれなりとよき方御とり被下度候右迄 匆々
    二月五日             夏目金之助
   霽月老兄
      坐下
 
      一七〇九A
 
 二月十四日 土 後5−6 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島公園大阪府立圖書館内今井貫一へ
 拝復御館へ御備付の爲め小生原稿並びに寫眞御求めに相成候處小生原稿は悉く朝日新聞の方へ廻はし手元には一枚も無之故乍殘念差上がたく候又寫眞は圖書館へ備付る程の資格ある小生と自分認めかね候故是亦御斷り申上候右再應の御手紙に對し御返事迄 匆々頓首
    二月十四日            夏目金之助、
   今井貫一樣
 
      一七一六A
 
 二月二十八日 土 牛込區早稻田南町七より 北海道石狩國上川郡鷹栖村近文第一尋常高等小學田中菊雄へ〔田中菊雄『わたしの英語遍歴』研究社刊より〕
 〔前佚〕近頃では全然官費では修業が出來ないかも知れませんが若し其方がどうかなるなら高師に這入つて見るのも或はいゝかも知れません然し是とても必ず文藝上の生活に利益があるといふ譯にも行きませんからよく考へなくてはなりません。色々取込んでゐて御返事を上げるのが遲くなりましたこちらはもう春になつて暖かになつて來ます 以上
    二月二十八日           夏目金之助
   田中菊雄樣
 
      一七二九A
 
 四月七日 火 後0−1 牛込區早稻田南町七より 本郷區千駄木團子坂上森林太郎へ〔はがき〕
 拜啓高著かのやうに一部御惠贈被下ありがたく御禮を申上ます少し取り紛れ御挨拶が後れました失禮
    四月七日
 
      一七七三A
 
 七月十六日 木 後9−7 牛込區早稻田南町七より 福島縣若松市融通寺町田口方小泉鐡へ
 拜復久しぶりで御手紙を拜見しましたあなたは今御郷里に歸つて御出の事は始めて知りました、私はあの方面の景色を丸で知りませんいつか行つて見たいとは思つてゐますがまだ機會がないので其儘にして居りますあなたは是から獨立をして行かなければならないのですが隨分骨が折れるだらうと御察〔し〕します私は今朝のうち原稿をかいてゐますから午後か晩でないと御目にかゝれませんがあなたの歸られる頃はそれも濟んでしまふかも知れませ〔ん〕さうすれば何時でも御目にかゝります然し其前打ち合せをして置かないと外出するかも知れませんから其時はちよつと聞き合せて下さい右迄 匆々
    七月十六日            夏目金之助
   小泉鐵樣
 
      一八二六A
 
 九月十六日 水 前11−12 牛込區早稻田南町七より 麹町區飯田町四ノ一一坂元三郎へ
 「能樂」御經營のため御轉居の話敬承猶同雜誌|講《原》讀の御勸誘承はり候へども私は能樂のよく分らぬものにて近頃は滅多に舞臺も見ず謠も廢止同樣の有樣前金四圓を出す事は厭に御座候いづれ其内氣でも變つたら拜見するやうになるかも知れませんがまあ今の處一應御斷りを致したいと思ひます 以上
    九月十六日            夏目金之助
   坂元三郎樣
 
      一八五四A
 
 十一月十一日 水 牛込區早稻田南町七より 長谷川時雨へ〔封筒なし〕
 拜啓私も其後御無沙汰を致して居ります狂言座の二回興行の事につき詳しき御手紙拜見何しろ結構な御成功と存じます都合がつきますれば拜見にまかり出る考で居ります委細は其節御目にかゝり申上ますが近頃は芝居といふものにあまり參りませんので突然空氣の違つた所へ出るのは牢屋から急に日のあたる場所へ顔を曝すやうな心持が致します不取敢右御挨拶迄 草々頓首
    十一月十一日          夏目金之助
   長谷川時雨樣
 
      一八六六A
 
 十二月八日 火 前10−11 牛込區早稻田南町七より 大阪市東區安土町二丁目水落義一へ〔はがき〕
 御手紙と味噌漬拜受ありがたく候あの字を表装被下候は是亦恐縮、御友達の御希望承知致候へども何だかごた/\致し只今は墨をする勇氣もなく候へばいづれ機會を待ち何とか可致候
 
      一八八〇A
 
 十二月二十一日〔大正三年推定〕 牛込區早稻田南町七より 武者小路實篤へ〔封筒なし〕
 失禮ですがもう一度あなたに手紙を差上たくなつたから讀んで下さい。あなたに最初出した端書は御禮の爲で送つて下さらない本に就てではなかつたのですけれども其本の事が書いてあつたものですからつい批評がましい事を結末に申添へたのでした。私はそれに對して無論御返事がくる事とは豫期しませんでした。然るに又端署を頂戴して拜見すると何故私に其本を下さらないかの理由が判然と素直に書いてあります。ことにあなたの好かない人で私に比較的親密な人の名前迄書いてあります。私にはそれが最初の御手紙よりも遙かに心持がいゝのです。あなたが正直な事を云はないでは居られない性質を持つてゐるのが私には愉快だつたからです。あゝい〔ふ〕人々は過去の因果關係から比較的私とは近い間柄になつてゐますがもと/\人間の事ですから氣に食はない點も厭な所も備へてゐます。先方が私に對するのも矢張同じだらうかと思ひます。從つてあなたの手紙を讀んでも私はたゞあなたの正直な點に同感する丈で其他には何の感じもありません。たゞしあの人々はあなたが蟲が好かないと公言されるけれどもあなたに對して蟲が好かないといふ感情は抱いてゐないやうです。此手紙は用事でも辯解でもありません。たゞあなたの二度目の端書に對して私の受けた印象で、どういふ譯かそれをあなたに報知したくなつたのです。たゞそれぎりのものです。私は目下身心ともに不愉快でちつとも人に手紙などを書く氣は出ないのですがなぜ用事にもならないこんな長いものをあなたに書いたのか其所は私にもよく解剖して見ないと分りません。是は本を送つてくれる呉れないの問題とは全く交渉のない事ですから其點丈は承知して置いて下さい 以上
    十二月二十一日           夏目金之助
   武者小路實篤樣
 
大正四年
 
      一八八八A
 
 一月四日 月 後0−1 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町一〇佐佐木信綱へ〔封筒に「要事」とあり〕
 拜復御手紙拜見致しました。實は去冬末鈴木氏來訪の上大塚家では喜んで從來の感情を一新するにつき保治君にも同樣態度を一變せられたき旨の返事有之候故小生は新らしい事情の生れざる限り又何等かの條件をつけざる以上今迄の行がゝりより推して到底當人にその要求をなし得ざる旨を返答致し置候鈴木氏も納得にて其條件も談合被致候同氏は黒岩氏とも相談すると云つて引き取られ候。同氏の條件とは妾放逐の一事に候是は保治君を離れてもやらねばならぬ事情も有之やに見受られ候もしそれが條件として先方より提出されるならば其時改めて貴兄及び本人の保治君にも御話する積りにて今日迄打過候、押しつまつての事故先方の返事は年内にはとても覺束なしと存居候鈴木氏も其邊はしかと明言致しかねたる樣子に候右條件はたゞ鈴木君から小生が聞きたる丈に留め置く旨を約束致し置き本人保治君には云はず置いてくれと申候故其儘に致し置候
 御手紙により今迄の事情經過一應申述候 匆々敬具
    一月四日             夏目金之助
   佐々木樣
 
      一九〇九A
 
 二月二十一日 日 牛込區早稻田南町七より 瀧澤永二へ〔封筒なし〕
 拜復先達ては失禮致しましたあなたの方へ御約束したものはその中取りまとめ差上げる積でありますからどうぞそれ迄御待ち下さい。「硝子戸の中」に就ての御好意はありがたく御受致しますが實は岩波といふ男が私と色々な意味で關係があるので自費で出す事にすると凡ての面倒は其方へ頼む事にしてあります。利害からいふと岩波よりあなたの方に願つた方が得策だかも知れませんが兎に角色々の意味合からさうするのですから其邊はあしからず御汲取を願ひます 以上
    二月二十一日          夏目金之助
   瀧澤永二樣
 
      一九六一A
 
 六月二十八日 月 後10−12 牛込區早稻田南町七より 本郷區森川町一小吉館岡榮一郎へ
 拜啓先日御話した小生小説のあとを徳田君に願ふ件につき社へ相談致しました處同君に御依頼したいと申して來ましたから君からさう御傳へ下さいたゞし原稿の遲れないことは私が保證したのですから悋なやうで相濟まん譯ですがそれはよく御含を願ひたいと私が申した旨も御傳へ下さい其から社では小生のが切れる前に三十回程いたゞきたいと云つて來ましたが是は先夜も御話のあつた事だから徳田君に御手數を願つてもよいだらうと思ひますどうか御面倒でも其豫算で御取かゝりあるやう願ひます 右迄匆々
    六月二十八日          夏目金之助
   岡榮|三《原》郎樣
 
      一九八一A
 
 九月一日 水 前11−12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區靈南坂二一田中清次郎へ
 此間は失禮しました御話しの麻の手拭御送り下さいましてありがたく存じます所が今朝例の百瀬玄溪先生に診察してもらつた處身體惣體刺戟を禁じられてしまひました、湯も極ぬるい奴へ入つてしかも手で少しこすつて汗を流して置けといふのですから麻でぎう/\こする事は當分出來ません、いづれ快方に向つた節は大いに御親切を利用致す積であります、私の縮刷を賣《原》つて下さつた由つまらんものを御讀み下さいまして甚だ恐縮の至り且感謝の至であります 右迄匆々
    九月一日           夏目金之助
   田中清次郎樣
        坐下
 
      一九八一B
 
 九月二日 木 牛込區早稻田南町七より 坂井義三郎へ〔封筒なし〕
 拜啓先達て御出の節は御面會も致さないでどうも失禮致しました。實は津田君の畫に就いていふ事がないからでもありますが、よく國華社だの其他の用で遣つてくる何とか義三郎といふ甚だ困る人とあなたとを混同してしまつたのです、何とも申譯が御座いませんから、改めて御詫を致します、
 偖津田君に就いては正直の話何ともいふ事がありませんのです、然し懇意な間柄ですし私如きものゝ批評が入用だといふのですから出鱈目ながら短かいものを書きます、或はもう間に合はないかとも思ひますが、若しさうだつたら紙屑籠の中へ入れて下さい 以上
    九月二日           夏目金之助
   坂井義三郎樣
 
      一九八六A
 
 九月十日 金 前11−12 牛込區早稻田南町七より 本郷區千駄木團子坂上森林太郎へ
 「沙羅の木」御贈り被下拜受致しました有難く御禮を申上ます不取敢右迄 匆々
    九月十日
 
      二〇一九A
 十月二十五日 月 牛込區早稻田南町七より 松山市小唐人町安倍榮、安倍能成へ
 拜啓御老父樣御逝去の由拜承嘸かし御力落しの事と存候乍畧儀書面にて哀悼の微意を表し候 敬具
    十月二十五日         夏目金之助
   安倍榮樣
   安倍能成樣
 
      二〇二〇A
 
 十月二十八日 木 前11−12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區靈南坂二一田中清次郎へ〔はがき〕
 此間は手拭をありがたう今度出來た拙著「道草」を一部進呈致したいと思ひますから御笑納下さい 匆々
 
大正五年
 
      二〇六〇A
 
 二月十九日 土 後10−12 牛込區早稻田南町七より 赤坂區靈南坂町二五田中清次郎へ
 御歸京後はサツパリ宜敷い事とのみ思つて安心してゐました所矢張變なのですかどうも困りましたね咳嗽は一時的のものぢやないでせうか熱も咽喉の爲でなくてほかの源因から來たのぢやありませんか兎に角心配になりますどうぞ充分の御療養を願ひます
 湯河原へ御戻りは少々厭ですが四松庵の件もある事だから仕方がないかも知れませんね
 御約束の筒たしかに頂きました大いに氣に入りました篤く御禮を申ます其うち蟇口をくつつけて腰にさした所を御目にかけます少々爺々染みるか年が年だから見えても已を得ません
 野獣からは其後何の沙汰もありません當分里へは出て來ない氣でせう 以上
    二月十九日             金之助
   四松庵主
      坐下
 
      二〇六二A
 
 二月二十二日 火 後8−9 牛込區早稻田南町七より 清國青島山東鐵道管理部佐瀬武雄へ
 拜啓
 素燒の瓶正に頂戴しました閑な時花を活けて眺めたいと思つてゐますあの三本足の所は珍らしい樣ですがどうですか
 君は青島へ何時行つたのですか
 私は無事です君の成功を祈ります 以上
    二月二十二日            夏目金之助
   佐瀬武雄樣
 
      二〇六三A
 
 二月二十五日 金 後3−4 牛込區早稻田南町七より 神奈川縣湯河原天野屋田中清次郎へ
 愈御再遊の報に接しましたが御病氣の方は矢張り不可ませんか小生は歸京後ごたごたしてまだ何事も手につきませんが當分旅行する程の勇氣は出ません四松庵の名がいやになつたさうですね何か考へやうと思つてゐるがいゝ名も浮びませんな書いてくれと仰やるのは庵の記事を書くのですか(たとへば四松庵の記といふやうなものを)急ぐ事でもありませぬが意味が能く解らないから一寸伺ひます
 宿は不相變繁昌の由天野屋は萬歳御こう御さき其他の知己へよろしく序ながら昨日愚妻が新富座へ行つたらエントツに會つた由
 先は右迄 不一
    二月二十四日            夏目破障子
   田中樣
 御歸京後身體の具合がよくなつたら是非君の所の藏幅を見せて下さい御料地も序に拜覽を願ふ事にします
 
      二〇六八A
 
 二月二十八日 月 後(以下不明) 牛込區早稻田南町七より 牛込區柳町四九下川方田内長太郎へ〔はがき〕
 私は貴方に會つても何にもあなたに利益を與へる事は出來マイト思ヒマス第一私ハ思想上あなたと何の位どの點に於て關係してゐるか丸で分らないのですから。私に會フヨリ自分ノスキナ書物ヲ讀ンデソシテ其所カラ解決ヲ得ル方ガ得策デセウ
 
      二〇九九A
 
 六月十日 土 牛込區早稻田南町七より 眞鍋嘉一郎へ〔封筒なし〕
 拜啓尿例によつて御試驗願上候
 今朝(十日)の分は少し條件つきに候故説明致し候。
 七時朝食。七時半便通(同時に尿通)。九時半試驗尿。
以上の次第 朝、食後二時間半、便通後二時間目の尿と御承知願上候先は當用迄 匆々
    六月十日             夏目金之助
   眞鍋嘉一郎樣
 
      二一四一A
 
 十月十五日 日 後1−2 牛込區早稻田南町七より 大阪市北區中之島朝日新聞社内長谷川萬次郎へ
 拜啓其後は御無沙汰失禮却説京都にゐる深澤邦子といふ女が京都支局の方へ女記者として入社したき旨を後醍院君に依頼した處同君は自分の一存には行かないから若し夏目さんを知つてゐるなら同氏から長谷川君へ手紙を書いて貰へとの注文があつた由にて、其女から頼まれ候故此手紙を認め候。同人は女子大學卒業で五六年前東京にゐる時分原稿を見てくれといふので宅へ來たものです。小説は旨くありません。人間は五六度會つた丈だから解りません。若し解つた處丈をいふなら惡人ではなささうだといふ位です。其位の證明では何にもならないでせうが都合がつくなら採用して遣つて下さい 頓首
    十月十五日            夏目金之助
   長谷川如是閑樣
 
      二一四五A
 
 十月二十日 金 牛込區早稻田南町七より 宛先不明〔封筒の表なし うつし〕
 拜啓尿御指令に從ひ持參可致候よろしく願上候實は昨十九日の午後は時間をはかり便所へ參り候處其刹那に取り忘れ瓶の中へ排泄する事を忘れてしま|ま《原》ひ候尤是は昨晩のと今朝の分に候どうぞ其御積にて御檢査願候 以上
    十月二十日            夏目金之助
 
年次未詳
 
      二一五九
 
 一月三日〔明治三十七、八年頃?〕 後3 下谷區上根岸河東秉五郎へ〔繪はがき 自筆水彩畫 昭和十五年一月三十一日發行『柳屋』六十一號より〕
  ともし寒く梅花書屋と題しけり
 
      二一六〇
 
 年月日不明〔明治三十九年十一月十七日?〕 松根豐次郎へ
 日本人を征服するのは容易なものである漱石先生が英國人よりえらいと云ふ事が證明出來れば日英同盟を誇る日本人はすぐグニやりとするのである。そこで僕の生活の目的は先づ英國人よりえらくなる事である。
而して百年立てば漱石先生は遂に英國人よりえらい人物となる。そこで自然の順序として日本人は一も二もなく先生に向つて恐れ入るのである一寸是丈を附記する。何だか今日の手紙は氣※[陷の旁+炎]許りである。是は今日食つた西洋料理の御蔭である
 
      二一六一
 
 年月日不明〔明治四十年頃?〕 松根豐次郎へ
 木曜に御出なら蒲※[魚+牟]と唐饅頭の御禮を申さうと思つてゐた所生憎御缺席故あらためて手紙にて難有く受納仕る事に致した。
 蒲※[魚+牟]は御自慢の如く結構なり。何だかかむと甘い味がする。然し見かけは頗るまづいものだ。夫から唐饅頭に至つては天下の珍品ニガイ事練藥を舐めるが如し。皮の方が餘程よろしい。中味は啖咳の持藥とせば定めて有效ならん。威嚴を冒涜して恐恐惶やむなし。艸々
                   金
   東洋城先生
 昨夜出席の諸君子、三重吉、小宮、中川、八重子の兄さん。寺田深田、森田の二文學士、及び温亭先生と別に雜誌記〔者〕が來てすぐ歸つた。八重子の兄さんが忘れ草をよむ。衆評まち/\なり
 
      二一六二
 
 七月十日〔明治四十年以降〕 宛先不明
 拜啓私はあなたに手紙を出すのを忘れてゐました。私はいつでも御目にかゝれます。面會日は木曜日ですが今は少しの間仕事をしてゐないからいつでもよろしう御座います 氣が向いたら御出でなさい。あなたの手紙によると私に大變な望を屬《原》してゐるやうですがあなたの思ふやうな人は此世界に一人もある筈は無いですから會はない先からもう少し考をかへてそして出て入らつしやい。私はあなたからしかく偉大に考へられる事を厭とは思ひませんがあなたを欺くのは厭ですから面會前に一寸申上るのです。又あなたの手紙には無暗に感傷的な文字が場合のゆるすより以上の分量を以て這入つてきます。是も惡いとは申しませんけれどもう少し控へ目になさる方が男子らしくて心持がいゝやうです。年の若いうちはよく斯んな言葉を浪費して嬉しがるものですが少し熱がさめて見る〔と〕自分で馬鹿々々しくなるものです。用事の序に私も餘計な事を筆にして濟みませ〔ん〕御氣に掛けられない事を希望します 匆々
    七月十日              夏目金之助
 
      二一六三
 
 十二月二日〔明治四十一年?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區築地籾山仁三郎へ〔封筒の表に「天生目一治氏持參」とあり。裏に「十二月一日」とあり〕
 拜啓其後は御無沙汰御海恕可被下候偖今手紙持あの人は天生目一治とて數々俳句上の著書も有之今般芭蕉傳脱稿につきいづれへか|か《原》今年中に相談つけ度由に依頼被致候につき御紹介申上候原稿御覽の上諾否御洩し被下候はゞ幸甚に候 以上
    十二月二日            夏目金之助
   籾山樣
 
      二一六四
 
 七月二十六日〔明治末?〕 牛込區早稻田南町七より 愛媛縣北宇和郡奥南村大字奧浦溜尾庫藏へ〔はがき〕
 私は人の先生などになれません。あなたも文學などに凝らずに自分の家業をなさい。折角の御手紙だから返事を上げます、然し返事は是丈しか書けません
    七月二十六日
 
      二一六五
 
 十二月二十一日〔明治末?〕 牛込區早稻田南町七より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内弓削田精一へ〔封筒の表に「谷山君持參」とあり〕
 啓上其後は御無沙汰奉謝候寒さの候愈御清適の事と存候却説小生知人第一高等學校教授生徒監谷山初七郎君新聞記者志望の一青年の爲め一寸大兄に面會致し度よし申候につき御紹介申候若し御都合相つき候はゞ一寸にても御會被下度候先右御願迄 匆々不一
    十二月二十一日           夏目金之助
   弓別田精一兄
        坐下
 
      二一六六
 
 十月十日〔明治末か大正初?〕 森へ〔封筒なし〕、
 拜啓先日願出候人の履歴別紙の如くに候間御廻送申上置候につきもし本人相當の事も有之候はゞ可然御周旋被下度先は當用のみ 草々頓首
    十月十日              夏目金之助
   森賢台
 
      二一六七
 
 九月二十五日〔大正初?〕 多屋謙吉へ〔封筒なし〕
 秋冷の候愈御多祥奉賀候俳句御執心のよし斯道の爲め御勵精の程希望致候小生目下種々の事情の爲め俳界をしりぞき候始末句作も無之御はづかしき次第に候然し切角の御所望故染筆の上御贈申上候御落手可被下候先は右御返事まで 匆々
    九月二十五日            夏目金之助
   木人樣
     坐下
 
      二一六八
 
 十月十四日〔大正?〕 麻田駒之助へ〔封筒なし〕
 拜啓大文字山の松茸一籠咋十三日到着御芳志の段深く感謝仕候御蔭にて寒厨時ならぬ香氣を添へ申候先は右御禮まで 草々頓首
    十月十四日             夏目金之助
   麻田駒之助樣
 
      二一六九
 
 一月三十日〔大正?〕 牧野謙吉へ〔封筒なし〕
 拜啓雁を二羽御送り被下候よしの御書面拜見遠方よりわさ/”\御親切に好物御寄贈感佩此事に候あつく御禮申上候 草々頓首
    一月三十日             夏目金之助
   牧野謙吉樣
 
      二一七〇
 
 八月八日 牛込區早稻田南町七より 朝鮮全州農工銀行牧野謙吉へ
 拜啓拙筆御所望につき短册二葉御送申上候御落掌被下度候。文字まづく御氣の毒に候 以上
    八月八日              夏目金之助
   牧野謙吉樣
 
      二一七一
 
 五月十日〔年不明〕 山出恒二へ
 拜啓近頃は惡氣の上句作もなき故短册抔御所望のむきは御斷はり致し居候へども御懇篤なる御書面故惡筆を揮ひ申候御受取可被下候 艸々
    五月十日             夏目金之助
   山出恒二樣
 
      二一七二
 
 四月三十日〔年不明〕 今西へ〔昭和十五年一月三十一日發行『柳屋』六十一號より〕
 拜復私は御覽の如き字をかくもので額などは覺束ないのです書けば仕方のない縁故のもの丈書くのですそれさへ多忙で受合ひながらみんな怠つてゐますどうぞ御ゆるし下さい右迄
    四月三十日          夏目金之助
   今西様
 
 書簡番號索引
〔略〕
 
  講演
 
 無題
           ――【明治四十四年六月十九日高田中學校に於て】――
 
 諷刺正に骨に入る「猫」の一篇華々しく全天下の讀書士の荒膽をひん拔き更に筆を轉じて「鶉籠」に「虞美人草」に「三四郎」に洛陽の紙價を高からしめ、今又博士號を突つ返して豪然たる文學博士にあらぬ「唯の金之助」夏目漱石氏が、今回長野教育會に於て講演せられしを期として、曾て氏が主治醫たりし森成麟造氏が一昨日長野へ出張し氏を引張つて來た。かくて昨日午前九時高田中學校に於て氏の講演があつた。フロツクに藍のネクタイも上品に、心持腹を突き出しつつ、左手を衣嚢に右手を演臺に、空嘯いて壇上に立つた氏が、おれの聲はまだいくらでも出るが、君等には此位の所で澤山だと云つた樣な調子で平然と語る所はどうしても天下の皮肉家「猫」の主人、珍野苦|茶味《〔沙彌〕》先生その儘である。かくて先生は何をか語る。崇拜家の一人たる記者は、ここに氏の演説を紹介するの光榮を有する。(紅笑)
 私は長野教育會の講演に參りました所森成君が來て是非高田へ來てくれと云ふので昨夜來ると今度は森成君が當中學の出身だと云ふので何か講演をしてくれと云ふ。私は何もそんな積りで來たのではないから出鱈目でもいゝかと訊くと、結構だとの事です。だから何を云ふかわかりません。(笑聲起る)
 今日は招魂祭で高田ではお目出度い日なので學校でも落付いて授業をする事が出來ない。諸君も一時間でも學校が休まれたら嬉しいに異ひない。話なんか面白くなくても閑つぶしになればそれでいゝ。(笑聲大に起る)まあさう云ふ樣な氣持で聞いて貰ひたい。昨夜來た許りの私は高田について未だ何にも知りませんが、見た所は馬鹿に長い町の樣です。それに美しい家が少しも見當らないで、奇妙な事には屋根に石が乘つてゐて、その上にまた小さな屋根がある。私には解らないので森成君に聞いて見るとあれは明り採りだといふ事です。まあ高田の紀念といつたら此位のものでせう。
(哄笑湧く)
 諸君は私の樣な男を引張り出して演壇に立たせると何か面白い話が聽けると思つてゐるがそれは間違つてゐる。君等は未だ若いからそんな馬鹿な事を考へるが私は君等より年をとつてゐる、また利口であるし、學問もまあ君等より偉い。だが誰に向つても即座に有益な話が出來る程さう融通のつく頭に出來てゐない。
 世間にはよく一日に三ツも四ツも立派な演説をする人があるので、私は感心してゐたが、考へて見るとあれは商買です。西洋の坊樣など仲々巧妙《うま》い演説をやるが演説がみんな極《き》まつてゐるので、例へは六十種の演説をちやんと造つておいて毎日それを片端からやつて行く。六十日たつとまた始めから繰り返してやる。だから巧妙い譯です。學校の先生が丁度さうで毎年同じ事を繰り返して教へてゐる。で聽者の方から見ると甚だ偉さうだが、教へる方では餘り偉いと思はれないのであります。
 諸君は高田で生れ高田で育ち高田で教育を受けてゐる。從つて諸君には自然に高田|氣質《かたぎ》十五萬石氣質と云ふ樣なものが生ずる事になる。即ち自分と他人とを比較する事がない爲愛郷心が非常に深いのであります。けれども諸君が他日多くの人に接すると、どうしてもこの愛郷心が薄くなり、高田氣質が無くなつて日本人氣質と云ふものが出來る。我は高田の何々に非ずして日本の何々也と云ふ風になる。更に一歩を進めると世界的にもなる。だがかうなると愛國心が自然に薄弱になるのであるが私はそれを幸いとも惡いとも言はない。唯かういふ事實があると云ふまでです。教育の結果散漫にはなるが廣く世界的になると云ふまでです。(此時雨大に至り音聲聽こえず、靜まれるをまつて口を開いて)私は出來る丈大きな聲を出しますが雨の方が強ければよします。此雨は大變聲を妨げる雨です。此雨は高田の特色ですがかういふ特色はなくしたいものです――で今申した愛郷心が薄くなるといふ事實は人間が悠々としてこせつかなくなる丈それ丈利益だと思ひます。例へば大臣の樣なものでも常に國家の事なんか思つてはしまい――聽いて見ないから確かに解りませんが――まあさうだと思ひます。だが私はこゝに其善惡を論じない、唯それ丈開けてゐて、呑氣で結構だと言ふ意味であります。
 諸君は皆お父さんから學資を出して貰つてゐる。自分で稼いで自分で勉強して居る樣な人は恐らく諸君の中にあるまいと思ふ。即ち諸君は金錢の屈託なしに悠々として行ける最も幸福な人間です。換言すれば中學生は教育を受けて最も立派な人間に成り得る修養をつむに最も幸福な重大な時期にあるのです。なぜなれば人間は生活問題を離れゝば隨分綺麗な人格になる事が比較的容易なのであります。私だつて金さへあれば、かうすれつからしになりやしません。金の爲めにはお世辭を云つたり、いやでも演説をしたりね――尤も私のはさうぢあありませんが――だから諸君は生活の心配のない今の中に郷臭を去つて大日本人に適する樣な人格を造り更に一歩進んで世界的人物になる樣な人格を造つたら良いと思ひます。世界的人物と云へば東郷大將の樣な者ですが、あれは少し異つてゐまして、その名聲が世界的なので、事業は日本對露西亞的のものに過ぎないのであります。要するに諸君は狹く深い處から廣く淺い方面へ出る樣になる。だがさうならなければならぬといふのではない。唯さうしたら良いだらうといふ意味です。(一寸時計を見て)もう時間がありませんから止しませう、私の話は一向要領を得ませんが此次來る時には何かモ少し面白いものを用意して來ませう。
 これで猫先生の話は終つた、先生の演説は座談と少しも異なる處がない至極平易なもので、その論旨も先生自ら不得要領を以て許す丈あって如何にも煮え切らないものであるが、その一言一句に何とも云へぬ面白い處や皮肉な處があつて、丁度上品な輕い諷刺に滿ちた落語を聽く樣な氣がする。だから記者は出來る丈先生の音調に注意を拂つた積りである。
    −明治四四、六、二〇−二一『高田日報』−
 
  談話
 
 俳句と外國文學
 
 客臘、漱石先生を千駄木の高居に訪うて、雜誌「紫苑」の爲に、一場の講話を乞ひ得たり。即ち聽く所に從て録したるもの左の如し。文責は素より記者に在り。(淺茅)
 私は近頃スツカリ俳句を廢めたのですが、夫れには別に深い理由のあるのでも無いのです。此の間も五城君とも、斯んな話をしましたが、五城君抔も、矢張り全く私と同じ樣な譯けなのです。私も松山に居つた頃等は、一時隨分熱心に俳句をやりました。併し今日から夫れを考へて見て、俳句の爲めに多くの時間を徒費したとか、何んとか、其んなことを少しでも悔ゆる抔と云ふことが無い許りか、今日も尚俳句に對する面白味を充分に認めて、殊に趣味の取捨と云ふことには、俳句から多分の利益を得て居ると云ふことを信じて疑はないのであります。此の趣味の取捨と云ふことは、外國の文學抔にも、應用することが出來るものであると思ふ。夫れは趣味とか又、標準の上にも、種々の點に於て、外國と我との間に、差異のあることは云ふ迄も無いことであるが、亦た明かに共有點と云ふものもある。其の共有なる點に就ては、外國の文學を研究するにも、日本人の標準を用ゐて可からうと思ひます。其の場合に自分に標準と云ふものがあると、例へばマア斯んな強味があるのですナ。假りに英文學抔に於ても、文字の組立とか、音調とかは別として、單に其の内容に就ても、一に外國人の標準に由ると云ふのが、今日外國文學を研究するものゝ普通なのでありますが、併しあのバタと云ふ奴、食ひ馴れぬ者には妙な味がする。夫れでも外國人が旨がつて食ふからと云ふので、御當人には一向旨くないのだが、無理に旨いと云つて食ふ。是れ等は、自分に由る所の標準が少ないからであります。此の場合、自分に確たる標準があつたら、バタを旨く無い、其の英文學は面白く無いと云ふことが出來るだらうと思ひます。また外國文學の中には、成程西洋語として見ると面白く、之れを譯しては一向つまらないと云ふ樣なのも有りますが、又何うかすると、譯文としては素より、原文で讀んで見ても、トント面白く無いと思はれるものがある。夫れでも向ふでは、相應に褒められて居るのです。斯んな場合矢張り自分に標準が定まつて居たら、遠慮無くつまらないと云つて、排斥することが出來ると思ふ。是等の點から見て、所謂趣味の取捨と云ふ樣なことは、俳句から得て來た利益が非常に多いと、自分で今思て居るのであります。即ち趣味の上に於ては、自分は、自分を主とすることが出來ると云ふ利益があるのです。
 私が今日外國文學を研究するにも、單に西洋の批評家の詞に計り、文字通りに從ふことを潔く無いと考へて居るのは、即ち是等の結果であらうと考へます。一體趣味と云ふものは、常に變つて行くもので、昨日非常に、佳いと思つてたものが、今日は最う嫌やになつたりすることが、往々あるのでありますから、外國文學抔を學んでゐても、矢張り現在の標準を標準とするより外ありません。トコロが外國文學の中には、外國人が、見て其んなに感じないことでも、我々が見て面白いとすることがあります。又外國人が大變褒めても、我々には、一向面白く無い樣なものもあります。斯樣なことを比較して見て、外國の文學を捉へて、我々日本人が、此處、が面白いとか、彼處が面白く無いとか説明するのは、研究上非常に面白いことで、又同時に必要なことだらうと考へられるのです。從來斯んな研究をした人が無いのですから、若し我々が、外國の文學でも研究して行かうと、云ふのには、其の下地として、俳句抔を學んで置くと云ふことは、極めて利益あることゝ考へます。而して我々は此點に於て、飽くまでも俳句から利益を得て居ると云ふことを、信じて居るのであります。
 今外國人が日本の文學を批評するには、矢張り彼れの標準に由るのです。然るに我は彼の標準に由る。既に起點《スタート》の間違つた話です。無論彼れの文學の音調とか、詩形とか、又た文字の用法とかは、もと/\歴史的に出てゐることですから、向ふの大家の言を主とする必要もありませう。併し其の内容の材料とか、又た其の材料の、遣り方等は、我々の標準を以て、律し得られることなのです。例へば幽靈ですネ、幽靈を現はすには、手足を書いた方が可いとか惡いとか、又たボンヤリ書くとか、寧そ聲丈で現はすとか、マア斯んなことは一例ですが、此等にして見ても、明かに彼と我と、共に各々主とする所が有て可い譯けなのです。夫れを一圖に西洋人の標準に竢て云爲する抔は間違つた話です。併し夫れには、自分に頼む所の有ると云ふことが肝要です。然んなら何故幽靈なら幽靈を、斯う現はした方が可くて、斯う現はすと可け無いかと云ふ議論をする時になると、夫れは心理學抔に、訴へて來なければならないことになるのですが、面白いと思ふのは、讀む時の感じですから、常に頭の中に、分類して入れて置かなければならないのです。斯う云ふことの爲に自分の標準を作り、趣味を固めて置くと云ふことは、凡ての文學を研究して行く上に、大なる原素《エレメソト》を爲す所以でありませう。俳句は餘り、詩形が小さいと云ふ人がある。夫れは、成程十七字は十七字でも、其の材料とか、文字の配合等の上に、幾變化はありませう。併し詩形が小さいと云ふことは爭はれ無い。而かも其の俳句の趣味なるものが、文學の標準に資する所は、極めて大きいのであります。俳句。漢詩なんども可いのですナ。
 外國の詩中に俳句趣味のものは無いかと云ふのですか。左樣、然う云ふ暇が無くて、仔細にはまだ調べたこともありませんが、何にしろ西洋の詩は隨分長いのが多いのですから、其の一行位の間には、頗る俳趣味を帶びたものが出て來ます。夫れから又た、俳句の趣味を長くしたと云ふ樣なものもあります。隨分日本の小説の、中なンかにも、此の俳句趣味のある奴があるぢやありませんか。即ち何處からと無く、全體の調子の上から受ける感じが、俳句的だと云ふことが、西洋の詩の中抔にも間々あることです。是れは暇があつたら研究して見るのに面白いことで、利益のあることでありませう。
 
 記者曰く、子規先生、曾て俳句と漢詩とを比較對照して論じ玉ひしことあり。當時余輩後進を裨益する者、誠に少々にはあらざりき。而して泰西の詩中の俳趣味を剔抉し來り、具さに比照考竅せんこと、是れ未だ何人も試みざる所にして、而して極めて有益多趣味なること誠に先生の言の如し。先生は現代英文學の權威。若し速に牛刀一下、此の何人も學ばんことを欲して、而かも其人にあらざれば、遂に深く窺知すべからざる、這般絶好の新研究を挈げ來り、之を公にし玉ふこともあらば、其の餘澤に浴するもの、豈啻に我徒の俳壇のみならんや。至嘱々々。
 
 正岡の云つた理屈と云ふことに、疑ひがあると云ふのですナ。成程。西洋の詩抔を讀んでも、理屈では無いかと云ふ樣なことが出て來るが、と云ふお尋ねですナ。然うです。あの正岡抔の云つた理屈と云ふ詞の意味が少し漠然と使はれて居るのですが、一體彼地の詩抔には、極めて抽象的のことを歌つたものが多い。此の事は、又た漢詩抔にも常にある。(例へば、陶淵明や寒山の詩ナンテ云ふのを見て御覽なさい。)で、或る程度までは、確かに詩にも、此の智識的分子《インテレクチユアルヱレメント》と云ふものは許さなければなりますまい。ですから、此の意味に於て、云ふ理屈と云ふものならば、正岡等の説の樣に、俳句の上にも、之を度外に附する譯けには行かないだらうと考へるのです。ツマリ、大體の上に、理屈と云ふことも離れる譯けには行か無いと云ふので理屈と云つても、廣義の理屈の意味です。マアあの庭に松と石とがありますネ。其の配置《アレンジメント》と云ふことは、もと/\理屈的の趣味、即ちインテレクトから割出して來なければならないのです。石を置くのに、松から五間離した方が、可いか、十間離した方が好いかと云ふことを見別けるのは、智識《インテレクト》の働きです。凡そ美を現はすのに、配合、の力を竢つと云ふ場合等は、何うしても、智識(理屈的の趣味)を土臺にして掛からない譯けには行か無いのです。併し人は、推理《リーズン》其のものには餘り感じを惹起さない。但推理したる結論其のものは、開明の世の中、には、人の感興の源泉を爲すことであります。少し話は違ひますが、あの諺と云ふものですネ。あれはマア理屈の結晶なのです。併し其の結果は、人が讀んでアツと感ずることになるのです。夫れは何に感ずるかと云ふと、即ち或る云ひ廻はしの中に含まれてゐる理屈に由るのです。「出る杭は打たれる」と云ふのは、理屈を、云つて居るのです。成程理屈だが論理的《ロジカル》には云つて居ない。併し其の結論は、原子《アトム》の中に電素《ヱレクトロム》の數が幾つと云ふのも同じ譯けなのです。ツマリ或る理屈も、人が纏めて云ふ時には、面白く感ずる道理なので、恐らく正岡の稱へた排理屈と云ふのは、排推理と云ふ意味に外ならぬのでありませう。推理と云ふは、三段論法と云つた樣なもので、人は是れには感ずることが無い。何故感じないかと云ふと、讀んだり聞いたりして、直ぐに頭に響くことが無いからで、人の頭に電の樣に閃めいて來るもので無ければ眞の感興と云ふものは喚起され無い。併し是れにでも感じ得ると云ふ人には、隨分面白いのでありませう。假令推理であつても、又た一方から考へると、人間は頭を働かせることは、一つの愉快なのです。人間が、相當に活動力《アクチビテイ》を働かすと云ふことは面白いことであつて、即ち其の愉快の點丈けで、文學趣味があるとも云へませう。人が感ずれば其處に、文學があるのです。化學者が化學の趣味の面白さを感じたとすれば、ツマリ其れが化學者に取つての文學だとも云へませう。ツマリ人間の智議的活動《インテレクチユアルアクチビテイ》と云ふものは、吾々が手足の運動をして愉快なのと、同じ愉快《プレジユール》を我々に與へるのであります。愉快を與へるものが、文學だと云ふことが出來るとすれば、右の樣な議論にもなるのであります。
 記者曰く、此の間に先生が記者の問に對へて、時として西洋の詩中にも見ゆる、月並的趣味に關する談話ありしが、未だ我が俳句に對する、先輩諸氏の藝術眼的講究の結果が、多く深く世に公にせられ居らざる今日、萬一茲に掲ぐる寸談片話の爲に、就中初心なる讀者諸君の、誤解疑惑を招かんことを恐れて、姑く之を略することゝせり。漱石先生、並に大方讀者諸君の諒焉を庶幾ふ也。
 
 あの悼亡の句抔でもですネ、マア秋風に茄子が一つ殘つたとか何んとか云つて、自分が淋しくなつたなら淋しくなつたと云ふ樣な心持を現はしたとしますと、讀者は夫れを、頭の中で判斷をすることが必要なのであります。即ち幾分讀者の理屈に訴へるのですナ。併し夫れで讀者は或る趣味を感ずる。ツマリ讀者が或る俳句、なら俳句を見て面白く無くなるのは、俗に云ふ通じ無い洒落と云つた樣な奴に出ツくはすからなのですナ。讀者の感じを早く働かすことが出來無いからです。尚言ひ換へれば、讀者の頭に、其の結果の到達が遲いから、なのであります。之れに就て、近頃米國で非常に行はれた、David Harum と云ふ小説の中に、可笑しい、話がありました。主人公のデビッド、ヘーラムと云ふ、至て呑氣な無頓着な爺さまが、或る宴會の席上で、自分が今朝玉子を食べ樣と思つて、其の玉子を割つた所が、丁度エルダー、メービーの火藥《パウダー》の樣に、其の玉子が跳ねかへつて、着物をだいなし〔四字傍点〕にしたと云ふことを語つた所が、人々が笑つて、其んなら其のエルダー、メービース、パウダーの話をして呉れと迫つた、其處でデビッド、ヘーラムが談て云ふには、エルダー、メービーは、鷄を飼つて居たのだが、夫れを盗みに來る奴があつて困るから、或る晩罠を掛けて置いたトコロが其晩に、マンマと其奴が旨く罠に掛つたのです。其處で早速お仕置をしてやらうと云ふので、町へ火藥を買ひに出たが、其の歸り路に大雨が降つて來て、火藥が最うスツカリ濡れて仕舞つた。夫れから先生、其の火藥を乾かさうと云ふので、ストーブの上で灸つたから堪らない。爆然一發、メービーのお爺さん、大怪我をしたと、云ふのです。其處で此の話を聞いた一座が哄然として笑つたが、中に一人の英國人があつて、火藥を炙つたら破裂するのは當り前のことだと云つて、少しも笑はないのですナ。夫れが又可笑しいと云ふので、一座が再び哄然としたと云ふ話がありました。此の英國人の樣な人には、何うも仕方が無いのですナ
 記者曰、談話の主題は是れにて盡きたるも、尚當日記者が親しく聞き得たる、先生が近時の俳壇に對する側面觀とも云ふべきものゝ一節を摘録して、敢て讀者の一燦に供せんとす。
 
 あゝ虚子の技巧論ですカ。讀みました。技巧を全然排斥する抔と云ふことですと、夫れは謂はれの無い話になりますナ。人の日常の態度風采と云ふものからして、第一技巧でせう。大きな五ツ紋に太い紐の附いた羽織を着て居ると、何にか粗朴らしいが、夫れは其の人が粗朴な風が好みなので、是れ亦た一種の技巧に相違ないのですナ。世の中には、目から鼻へ拔ける樣な、マア隅から隅までよく氣の付く、才子風の取り做しの好きな人もありますが、また何處かボーとした樣な、コセ付かない、鷹揚な態度の人がある。夫れは如何にも作り搆へた所が無ささうに見えるが、矢張り其人は其んな風が好きなので、是れも前の才子風と共に、一種の技巧であると云ふ點に就ては一つです。(只嫌やなのは、通人の衣服と云つた樣な好みですナ。)結局人間の、素質抔と云ふことを別にしては、人生《ライフ》其のものからして、ツマリは技巧なのであります。況んや其の人間の作物たる文學に、技巧を排する抔と云ふことは、到底謂はれの無いことになりませう。
 今日は大變順序の無い話しでしたが。……まだ公にしない外國での話をと云ふのですか。夫れは有ります。宜しい、閑な時なら、此の次にまたお話することにしませう。
             −明治三七、一、三一『紫苑』−
 
  余が一家の讀書法
 
   一 暗示を得來る事
 
 讀書の法、自ら種々あり。或は其書に記載せる所の事實及び學理を記憶し、若《もし》くは之を理解感知するを以て目的とするものあり。これ又一方法たるを失はざるべし。然れども此他に於て亦一種の讀書法なしとせざる也。余は必ずしも之を以て總べての人々に適用せよと言ふこと能はざるも、或創作を爲し、論文を草せんとするが如き場合に於て、多少功果ありと思はるゝ方法あり。何ぞや、曰く自己の繙讀しつゝある一書物より一個の暗示《サゼツシヨン》を得べく努むることこれ也。唯漫然として書の内容を記憶し、理解するに止らば、讀書の上に何の功果かあらんや。故に或|暗示《サゼツシヨン》を得んことを心懸けて、書に對すれば、吾人は決してその書の内容以外に何等の新思想、新感情を胎出すること能はざるやうなる場合少かるべき乎。假令その書の全部を讀了せずとも、暗示だに得る時は、宜しく之を逸せざるやう、消滅し去らざるやうに努めて、或は之を文章の上に現はし、若くはその思想を取纏むるを必須とす。カントの哲學を讀むに當りても、唯彼の言ふ所のみを記憶して、其言語文字の中より一個の或暗示を得來らざれば、吾人終にカントの思想以外に獨歩の乾坤を見出すこと能はざらん。乃ち余の所謂暗示を得んとする讀書法に依る時は、如上の平凡に墮することを免れ且つこれを活用することを得て、亂讀家たるの譏を受けざるに庶幾からん。されど余はこれを以て絶對的に一般功果を有すと斷言せざるも、未だ之を知らざる青年諸子に對しては、多少功能ありと信ずる也。
 
   二 思想上の關係を見出す事
 
 青年諸子が其書を讀むに當つてや、既讀の甲書と、今現に繙讀しつゝある乙書との間に、何等かの關係を見出さんとするが如き心懸けあるや否やは、頗る疑問也。大抵のものは、兩者が或方面に於て必然的に似合ひたる箇所あることを發見せんと努めざるが故に、勢ひ讀書の興味を減殺《げんさい》するのみならず、又一面に於て自家思想の散漫に流れ、箱庭的に狹小となり、形式的、機械的の讀書に墮することを防ぐ能はず、これ甚だ不利益なる方法と言ふべし、凡そ如何なる思想感情と雖も、その間何等か共通の點を有し、磨滅すべからざる關係を保持せるに似たり。例せば之を諺の上に徴するも、「出る釘は打たれる」と言ふが如き利害の事に關係せる俗諺と、「苟くも道に戻らざれば、千萬人と雖、吾往かん」と言へる道徳上の金言とは、その間、何等の關係をも有せざるが如しと雖も、若し前者が矢張|謹慎《プルーデンス》の徳より出でしを知らば、必ずしも後者と關係なしと言ふぺからざる也。更らに之を文學上に於て見るに、アリストートルが『戯曲』の上に於て整正《ツンメトリー》と筋とを尊びしが如き見地と、マッシューアーノルドの戯曲上に於ける見解と、その間、一見關係なきが如く見ゆれども、之を歴史的に研究し、且つ一々相對照比較する時は、必ずやその間に於て、一個共通の關係あることを看取すべき也。此方法も亦如何なる場合にも適用せよとは言はざるも、若し機械的詰込主義以外に立脚し、且つ讀書の功果を收めんとする以上は、宜しく之を用ひて、一個の新發見を爲すも可ならずや。しかし乍ら多くの青年諸君は、或甲書と乙書とが如何なる點に於て、關係あるや、漠然としてその共通點を見出すに疎漫なるが故に、何時迄も甲乙兩書が全く異なれる領分を有するものにして、何《いづ》れも別々のものなりと見做すこと少からず、勿論余の見る處の庭前の松も、他の人が之を見る時は、又別樣の感想を起すが故に、萬人萬種、其解釋を異にするは自然の歸結也。されど之を同じ平面に置きて見る時は、必ずやその間に共通の點あるを看取すべき也。今二個の團扇を斜面的にその一端を相接せしむる時は、何れか契合點なるかを知る能はざれど、之を平面的に變ずる時は、明かに兩者の相接するところを見出すに苦まざるぺし。青年諸子にして、這般用意を以て書に對しなば、自ら別樣の知識を得、且つ思想の散漫に失するを防ぐことを得ん。是又一方法也。
 
   三 要訣
 
 要之、右の讀書法二則は、何れも機械的に詰込むと言ふよりも、自發的態度と精神とを以て、その讀書し得たる處より何等かの新思想を得、又一方には雜多なる智識を取纏めて一種の系統を得るやうに心懸くる處に、根據を有する也。これ「余一家の讀書法」とも言ふべき乎。若し此方法、精神を以て文學の書に對する時は、何等かの暗示、何等かの纏りたる思想を得べく、又之によりて多大の興味を感ずべき也。
         −明治三九、九、一『世界的青年』−
 
  生地の色、個性の香
 
 かう云ふ問題は理窟から出立するよりも事實から出立する方が、早道ではありませんか。頭から作家と生地との關係があるものとして、其頭で作物を類別(無理にも)して行くよりも、先づ其作物を見て、澤山讀んでゐるうちに自から、類別が出來たら、其源因を探つて見て、成程作物は作家の生地によつて異つてゐるものだと判するのが適當であり又早判りでありませう。
 それで吾國現代の作家の作物に就ての御話だがあなたが私にさう云ふ質問を記される前に私があなたに聞きたいのはあなたは、是等の作物を澤山讀みこなしてゐるうちに、作物と作家の生地といふ問題が自然に頭のなかへ出て來た程作家に特色があつたのですか、もしそうならば例を出して御覽なさい。私は多少今の日本の人の作を讀んだが、まだ此問題が頭に起つた事がない。云ひ換へれば日本現代の作者は事程左樣に生地とは關係が少ないのであります。
 尤も北の生れだから、北國辯の這入る小説を書く南の産だから南の訛りを使ふかも知れないが是等は單に器械的の區別で、こんな事で作物類別したつて、類別しないのと同じ事でせう。それのみならず、北國辯を使ふのも南國辯を用ひる人も時と場合によつては巧妙なる東京語の入る小説も書いてゐるんだから類別にも何にもならない事になつて仕舞ふ。
 して見ると、あなたの樣に作物と作家の生地には、必ず關係があるものと見做して、其關係を作物の上に就て指摘して見ろと云ふ樣な質問は暫らく措いて、之れを逆に持つて行く方が却つて合點が參るではありませんか。即ち、當然關係のあるべき作物と作家の生地とが、實際に於では思つたよりも無關係であるが其無關係な譯は何故でせう今の日本の作物に對しては寧ろ斯う聞直した方が適當ではありませんか。
 さう云ふ質問ならば、私の返事も簡單で明瞭に遣る事が出來る。即ち斯うである。
 作物にあらはるゝ生地的影響が生地的以外の影響に比べて遙かに少ない樣な社會の下に作家が生きてゐるからである。
 昔し封建時代にあつて日本程孤立してゐる國はない、其日本のうちの一國一州程懸離れてゐた所はない。薩摩の使者が南部の家來と應對の必要があつた時に言語不通で困却の末、習ひ覺えた謠の調子で用を辨じたといふ有名な話が口碑に殘つてゐるのでも分ります。斯う云ふ社會状態のもとに生きて居ると薄々で特|勢《原》の氣風が頑固に出來てくるのは已を得ない。隣國の肥後と薩摩とでも非常な相違があるといふ具合にもなるでせう。從つて其國の人が其國の思想、感情、事件凡てをむき出しに書いたらそれゝゝ特色があつてそれこそ藩別も州別も出來ようも知れない。惜い事に當時の人間にはそれ程の自由もなかつた。たま/\筆を執ると在來の文句で在來の習慣を在來の型で書いたもの許である。從つて藩別州別にするには世界無比の好地位に立つた時ですら御質問の樣な旨い寸法には行かなかつたのであります。山陽の文章を見て誰も京都臭いとは云はない息軒の文章を讀んで九州的だとは云はない。彼等は風土の違つた所に生れながら其違つた所を發揮するよりは寧ろ日本國中に行き渡つた儒教漢學なり空氣の影響を受けて筆を執つたからである。
 況んや現代の日本に於ては、社會状態が封建の昔とは丸で違ふ。交通も斯樣に頻繁である。教育も器械的に平等一列な小學中學其他が行き渡つてゐる。全國の思想感情悉く孤立してゐるものはない今日私のもつてゐる一圓紙幣が明日は北海道へ飛んで行くと同じ事で、是程融通の利く時代はないのであります。此融通から出た一種の現代精神が尤も多く作物にあらはれる以上は、生地抔の傳説的に固定的に、地方的に、局部的な精神は作物に出てくる場合が極めて尠なくなる譯になります。
 自然派抔の作物は皆同じ型に這入つて爲る。あれは以上述べた融通がよく利く世の中に生れた一得とも云ふべきものであります。人の好尚でどうでも變化出來る重寶な條件を具備した社會にゐるからであります。もし生地の影響が是非其作物の上にあらはれなければならない程劇しいものならば、東西南北の人が寄り集つてゐる自然派があゝ似寄つた作物は到底出す譯には行きません。
 今日の日本の状態は生國や故郷で作物の類別抔をやる時機ではありません。日本全國を打つて一丸として、是が日本人の作物だと人に示すべき時代であります。
 それならば東西南北から出て來る作家がみんな同じ樣な作物を作つてゐるのかと云ふと、ある意味即ち日本を代表すると云ふ點から見ると、其通であります。其時代がもう一つ分化して行くと縣別や州別抔ではないが個人別になるのであります
 何派の作といふ代りに誰某の作はと云ふ時代になるのであります。現今の文明は一方では非常に平等主義であると共に一方では大變に個人主義であるから、前の方から見ると日本全體の作物が一列一體の空氣を帶びてくると同時に、後の方に眼を着けて論ずる個人の享受し得る限りの自由を自己の作物の上に發揮して來なくてはなりません。實際さうでもなければ誰が筆を執つて文壇に立つものぢやない。千篇一律人の尻許か
いで歩かなくつちや立ち行かない樣な窮窟な世界は誰が好んで飛び込むものぢやない。昔しの歌人や漢詩人や書家が能くあれで我慢が出來たものだと、私は常に思つてゐる。
 日本作物を一縣一州のものでなく日本的のものとなした事はもう是で濟んだから是からは其日本の作家の誰はかう、誰はあゝと云ふ風に各自の天分好尚に應じた特殊の趣を發揮すべき時代によるのであります。
 藩閥といふ言葉を私小い時分から耳にしたあれは長州だから斯うだ、あれは薩摩だから斯うだなどゝ能く聞かされた者だが、明治四十一年の今日は長州の日本でも薩州の日本でもない。唯日本の日本の樣な氣がする。從つて長州だの薩州だのと云ふ言語はもう無意味ではありませんか、もし比較が必要ならば東郷はどうだと申します。桂はどうだと申します。それが東郷にも桂にも尤幸な批評と思ひます。長州だからどうの、薩州だからどうのと云はれては、一國の一州に屬せざる日本人民の一人たる東郷さんも桂さんも嘸迷惑だらうと考へられます文壇もさうなります。
           −明治四一、二、一『新天地』−
 
  博士辭退問題
 
 死骸となつて棄てられた博士號
 一時天下を騷がせたる夏目漱石氏の博士辭退問題は其後文部當局者が果して之を如何に取扱ふべきか杳として消息なかりしが今回愈々當局者に於ては博士は辭退し得べからざるものたることに決定したるに就て記者は氏が早稻田南町の居を叩いて之に關する氏の意見如何を問ひしに氏は曩《さき》に病頗る重く既に幽明境を異にせんと迄稱されたる大患後の人とも見えざる血色光澤《いろつや》共に美しき顔貌《やうす》にて絣の羽織を襲ね玄關の閾に腰打掛手もて輕く兩膝を掻抱きたる儘温和なる眼眸《ひとみ》を記者の顔面《かほ》に投つゝ春の花野を行く上温《うはねるみ》せるいさゝ小川の靜なる流れの私語《さゝやき》かとも疑はるゝ口調もて然も痛烈骨を刺すが如き秋霜の意見を物語られたり曰く
 はあ、私は知ませんよ退院した許りで知己友人の許へ病氣見舞の返禮抔に廻つた丈で文部省の人達には誰にも未だ會ません、殊に公然文部省から何の通知にも接しないのですからねえ、はあさうですか一體|那樣《そんな》に六ケしいものなら前以て友人を通じてゞも私の内意を確めた上に發表したら好かつたのです。明治も四十四年になつたんだもの博士を人が誰も難有がつて頂戴すると思ふのが間違です、自分の威信を保つ必要もあるでせうが又|夫《それ》と同時に文部省は人の自由意思をも尊重しなければならぬと思ふのです、通知を受けたが最後厭應なしに押附けられねばならぬと云ふに至ては全然《まるで》學位の押入女房ですからねえ、人の迷惑も察して貰ひたいものです、私だつて戯談半分に返したんぢやないんですから今更何うも洵に困るぢやありませんか、文部省の參事官連が相談して辭退することが出來ないと決定したからと云つて元來法令に辭退するを得《う》とも辭退することを得ずとも何とも明文が記載してないんだから夫を參事官連が文部省の都合の好い樣に所謂認定をするならば私は私の都合の好い樣に認定する迄です要するに之は法令上の問題であつて文部省が受取つて呉れないならば夫ぢや私は博士は不用なんだから何處へ返しに行けば可《よ》いのですかと聽《きゝ》に行のですね、夫で分らなければ行政裁判所も可笑しいが那樣《そんな》所《ところ》へでも持て行くのですかね、結局文部省は私に何《どう》しても博士を呉れたと云《いふ》、私は何うしても貰はぬと云ふ、此儘で幾年か經過すれば世間の人達は私が博士を辭退したのだと云ふことは忘れて仕舞ふでせうから文部省は何所迄も私を博士にして仕舞つて私を文學博士夏目金之助と呼ぶのでせう、が私は唯の夏目なにがしで暮したいんですからさう云ふことは甚だ迷惑千萬です、已むを得ずんば其都度私は博士でないと云ことを新聞に廣告するんですね、一體前例々々と云つて人の自由意思を蹂躙するのは甚だ感服出來ないことぢやありませんか、夫は成程電車は何れも極つて前の電車の後を逐《お》つ驅《か》けるでせう、が人間は電車ぢやありませんからねえ云々
           −明治四四、三、七『中央新聞』−
 
  夏目博士座談
 
    妻君携帶で講演會
 
 實際妻君携帶で講演會に臨むなどは世間にあまりない圖で吾ながら可笑く思はれるが實は是は恁う云ふ譯だ。私が信濃教育會に招待されてイザ出かけるとなると妻君が忠義たての諫言が頗る嚴しい。病後の人を滅多に手離して他國へ遣らりやうかと云ふ貞節の妻君の云ひ樣としては尤至極である。じやと云つて妻君の諫言に閉口《へこ》たれて講演會を斷るなぞは尚更夏目の面目が潰れる譯。この處苦心の結果看護人兼療養班として妻君を携帶することになつた。だが是だけではまだ/\世間への言譯には物足りない。即ちこゝで考へついたのは森成醫師のことである、昨年の病氣中には非常に厄介になつたその森成氏が高田に開業して居る。病氣恢復後夫婦揃つて御禮に罷出るのだと云へば表看板は立派になる。そうじや/\と云ふので妻君携帶講演會は恙なく出來たのだ。
 
    徴兵避忌問答
 
  夏目氏は夫人の話に續いて再び子供の笑話を説く
 子供は眞實《ほんと》に油斷は出來ぬ。親の知らぬ中に親の秘事でも何でも嗅付けるから驚く。先日も矢張小學校へ行つてる長男が先生から徴兵避忌は國民の恥辱である、此國民たる義務を遂行しなくては忠良の日本國民ではないと云ふ樣な意味の話を聞かされた時、長男がスツト立上つて「ダツテ先生、私のお父さんは北海道へ行つて徴兵をのがれたのですがお父さんは日本國民ではないのでしやうか」と先生に質問を浴せた。先生グツと行詰つて暫く黙つて居たが漸く思付いて「イヤ、あなたのお父さんは外《そと》の方で國家のお爲になりなさる方だからそれでいゝのです。だが他《よそ》の方がソンナことをなさる樣であつたら必ず諫めて上げなさい」と教へたそうだ。これは後に他《ほか》の人から聞いたのだが父が北海道に轉籍して徴兵避忌をしたなぞ誰が教へたものだか實際驚か〔さ〕れる。
            −明治四四、六、二〇『高田日報』−
 
      やつと安心
 
 實は先刻私の作物が選奨されたと云ふ事を聽いて甚だ困つたと思つてゐた所である。困つたと云ふのは第一に私は先《さき》に博士の學位を返したが文部省の方では出した辭令を引戻す事が出來ないと云ふのだから今回選奨されたとすると無論辭令に文學博士として記入されるだらうしさうすると矢張り貰う譯には行かない。第二に私は文藝委員會に元來主義として反對してゐるのだからそれから選奨を受ける事は出來兼ねる。第三に美術展覧會の方は賞状|許《ばかり》だがこの方は金がついてゐるので自分から云つては變だが相當に暮してゐる者より外《ほか》の比較的困つてゐる人達へ分る方が當然だと思ふから是を受ける事は出來ぬ。要するに以上三點を打消した上でなくては私は受ける事が出來ないし且つ現に小説を書いてゐるので左樣云ふ事に頭を使ふのは甚だ困ると思つてゐたが選奨した品がなかつたと聽いて先安心した。尤も私と雖も選奨されゝば無論感謝する。又一方から云ふと元來文藝院に反對な私の作品を選奨するのも一寸變な事だと思ふ。私は無論選奨の爲めに提出もしない。夏目の作品だけは除外例として選奨しない事にして呉れると面倒が無い。兎に角今回選奨された作品がないとするとそれは今の作品は大した甲乙がなく或は何《いづ》れも傑作許りと云つて差支なく矢張私の意見通りそれらの作品に皆五十圓|宛《づゝ》でも頒つた方がいゝと思ふ
          −明治四五、三、四『讀賣新聞』−
 
    讀書と西洋の社會
 
 日本人は一般に讀書しないと云ふが全く左樣《さう》らしい、私などは讀書に要する金と時とを惜しくも思はず、却つて義務の樣にも感じてゐるが、これは習慣と職業と兩方から來る事と思ふ。一般の日本人は本を讀まぬし少くとも讀まない樣に見える。つまり教員と學者とを除いて一般の日本人には時間が無いのであらう。時間があつても娯樂の爲めに用ひ、讀書は娯樂とは心得ないのであらう。
 日本では社交場裏で新しく出た本が問題になる場合は殆んど無いが、西洋では芝居と同じ程度で問題になつてゐる。
 この西洋の社交場裏で讀書家が如何に問題になるかと云ふ事は下に述べる一寸した話でもわかる、其の話と云ふのは斯うである、ある人が云ふのに作家、著述家となるのは極く一流とか有名になると都合がいゝ。斯う云ふ人が社交場裏に出ると、「貴方の今度書いた××(本の名)と云ふ本は面白かつた」と本を名ざして呉れるからいゝ、又まるで名も知れぬ作家の本ならばてんで〔三字傍点〕問題にならぬからこれもいゝ。所が中途半端の者だと大に迷惑する事がある、と云ふのは其の人の書いた本をよく覺えてゐるのでもなければ又全く忘れてゐるのでもない、そして作家に向つて「貴方の今度出した本は何と云ひましたかネ」ときく。そこで作家は全く忘れられたよりも氣まづい思ひをする事がある。斯う云ふ話を先日ある雜誌で讀んだが、これを見ても作物が社交場裏の一つの問題となつてゐる事がわかる。
 日本ではそれ程問題にはならない、偶《たま/\》作家が社交場裏に顔を出しても、自分の作物はまるで彼等の問題にならぬ、これは却つてある意味から云へば問題にされるよりもさつぱり〔四字傍点〕して心地がいゝが、社會が讀書に重きを置ぬ事は事實である。
 西洋人ははした〔三字傍点〕の時間を利用して讀書する習慣がある、例へば學校の時間と時間との間、※[さんずい+氣]車、電車の中、車の上等僅かの時間を利用して讀む、又英國では軟文學は家庭の人が讀む、それは大抵|巡回文庫《サーキユレーチングライブラリー》に加はつて一年幾らの金を出せば幾册の本を借すと云ふ定《き》めになつてゐる、一般の家庭の妻君や娘は著者の名などに頓着せず來たものから讀んでは返すのである、そしてこの巡回文庫に買はれる丈けでも普通の出版は立行く位に盛なものである。
 でこの巡回文庫では著者もかまはず、優劣も亦問はないが、風俗壞亂丈けは非常にやかましく、加入者から苦情を持出す、つい二三年前の事であるが加入者一同が同盟して委員を設け、作物を檢閲して委員何名以上が風俗壞亂と認めたときには其本は一切巡回文庫に入れぬ事とした、これが文壇の一問題となりやかましい議論を惹起して、檢閲する權利がないとか理由がないとか云はれたが、何しろ巡回文庫の需用は大したものだから、自然の制裁となり、一種の發賣禁止と同樣の效があつた、この巡回文庫の盛んなのを見ても讀書する人の多い事がわかる、これと云ふのも社會的状況がそれ丈けの餘裕を與へるからであらう。(談)
        −大正元、一〇、二〇『讀賣新聞』−
 
漱石全集第35巻(補遺)、231頁、850円、1980.5.6
       〔2013年10月25日(金)午後8時35分、入力終了〕