萬葉集總釋第一 樂浪書院 1935.5.30発行
 
(1)  萬葉集總説
 
(3)   萬葉集概説
                  武田祐吉
 
     上 萬葉集の大觀
 
       一 萬葉集の概要とその作者
 
 萬葉集の歌は、仁徳天皇の御代の歌から、淳仁天皇の天平寶字三年の歌まである。その中でも古い時代のは歌數も少く、飛鳥、藤原の宮時代よりやゝ多くなり、最大多數を占めるのは奈良朝に入つてから、天平の初年頃までの作品であると認められる。ここに注意を要するは、萬葉集には、當時の歌の一部分のみを載せてゐるに過ぎない事である。これは萬葉集が、勅撰であるか又は私撰であるかといふ、成立の性質に關する問題でもあつて、もし勅撰集ならば其の當時の歌のほとんど全般に亙つて、代衷的の作品を收めることも可能であらうし、一個人の集めたものとすれば、それほど廣く手を擴げることも或は出來難い點があらう。この萬葉集の勅撰であるか私撰であるかといふ(4)事については、議論の存する事であるが、大體に於いて考ふるに、萬葉は全體としては個人の撰集、即、私の集であるやうに考へられる。從つて萬葉に收められた當時の歌は、彼の時代に出來た澤山の歌謠の一部分であり、また必しも代表的のものでないと云ふべきである。故に萬葉集に依つて當時の歌全部を見ることは無論出來ないが、併しその一部分であるこの集に存するところを見て、彼の時代の歌謠を窺ひ知ることは出來る。今この機會に於いて、一通り萬葉集全般について觀察しようと思ふ。
 萬葉集に於ける歌の分類には雜歌、相聞、譬喩、挽歌の項目が見える。雜歌には、行幸行旅等の※[覊の馬が奇]旅に屬した歌が多く、これに四季の風物を詠じたものもあり、雜の詠物も少しく交つてゐる。相聞は往來贈答の歌で、男女間の關係のものが大部分であり、その中に正述心緒と寄物陳思との分類のある部分もある。譬喩といふのは戀情を物によせて暗に比喩するので、相聞歌と截然たる分類は爲し難い。挽歌は傷亡の詩である。この分類の項目に就いても知らるゝ如く、儀禮の典に用ゐられた物の多いのは注意すべき事である。
 萬葉集の作者は、大體に於いて上流に偏してゐるとはいふものゝ、當時の上流の生活は簡素であつて、人々の聲に、吾人は親しき人情を聽くことが出來る。
(5) 萬葉人の心には尊い朴直があつた。萬葉集と古今・新古今と違ふ第一義は此處にある。萬葉人は身分よりいへば上流の者が多く、職業からいへば官吏及びその家族が多いのではあるが、平安朝の文學に現れたやうな貴族的傾向、沈鬱とか、まはりくどいとか、疑深いとか、柔弱とか、うはすべりするとかいふやうな病處を持つてゐない。併し一面貴族文藝の長處なる、上品、典雅、流麗、氣のきいた、といふやうな點にも遠くて、むしろ土くさいところがある。例へば、梅を詠じた歌でも、萬葉のは目に見るがまゝ、心に感ずるまゝを歌つて、しひて曲折を求めてゐない。梅を雪かと疑つたのでも
  春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る
  妹が家に雪かも降ると見るまでにこゝだもまがふ梅の花かも
の如く、梅の落花を降雪に比してゐるので極めて自然である。梅の花を目を通じて愛するので、その香を歌つたものは奈良靭後期の作に一首あるのみである。それが古今集になると香のみを主として詠じてゐる。 
  折りつれば袖こそ句へ梅の花ありとやこゝにうぐひすの鳴く
  色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも
(6) 可否はともかく、感情の曲折の、萬葉を過ぎて尋ね來し人を迷はす程のものがある。更に新古今の撰者たちの梅の歌を見よう。
  梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月のかげぞあらそふ(定家)
  梅が香に昔をとへば春の月こたへぬ影ぞ袖にうつれる(家隆)
 萬葉集卷第五の梅花の宴の歌は集中でも隨分風流がつてゐる方であるが、この新古今の風流ぶりには遠く及ばない。
 故に萬葉集の歌には沈鬱が極めて少い。極めて光明的である。佛教思想の浸潤はなほ普くないからして、この世を厭ふ氣分が少い。人心はのどかで、物の怪に襲はれない。
 萬葉時代の官吏生治は氣樂である。官吏をしてゐればまづ相當の食料にはありついた筈で、たゞ官吏生活の悲しさは、時々地方官を仰せつけられて、心にもない旅行をしなければならぬことであつた。交通の不便な當時に於いては、その悲みは中々である。遙任の國司の出來るのも、いや/\が積つての横着であり、防人等が苦痛も其處にあつた。彼等は旅行によつて仲間と離れて孤棲的の人間になる。歌に對する眞の人格は旅行によつて蘇《よみがへ》らねばならぬ。はかないもの寂しい山路、あはれにも纔に生き殘れる吾と彼の鳥と、寂寥と煩悶と、望郷の念と。かくして純粹な文學的結晶は(7)出來る。
 自然の有する感情は、人間に比して、極めて靜寂である。自然を詠じた歌は、社交的な歌よりも、この故におほよそ歌品の高いことが看取されねばならぬ。旅する人の幸は此處にある。彼等は帝都に歸つて來ても、なほ四季のうつり變りに眼を開いた。その看た四季は前庭のうちに止らずして、野と山とに向つた。自然を征服して帝都を築き成さうとする萬葉人の氣力は、これらの歌の上に現れてゐるのである。
 萬葉集の作家が、風雅を意識して來るやうになつては、その取材の範圍の狹いことゝなつて現れてゐる。これらはもともと支那文學の影響を受け、漢學を修業した人々の手に成つたものであるから、その取材も亦、漢詩の題材に製肘せられるのは已むを得ない。蛇、蟻、猿などは、音をあらはす文字として用ゐられるばかりで、内容を有つては一も出て來ない。鹿、鶯、霍公鳥《ほととぎす》、雁などの少數のものが極めて優勢である。植物では、萩、梅など愛好せらるゝ範圍が極つてゐる。午醉木《あしび》、椿の觀賞はやゝ古い時代に屬し、奈良朝に入つては、梅、橘が流行してこれに代つてゐる。
 
       二 萬葉集に於ける作者の自覺
 
(8) 言ふまでもなく萬葉集の歌は、言葉によつて成り立つてゐる。單語と、その意識的な接續とによつて、作者の心が表出されてゐる。その用ゐられてゐる單語の、質、數量等を調べることも、單語の組合せから成る文の研究と共に、作者の心を知る上に於いて重要なことである。ある單語に就いて、その用ゐられる分量が多いことは、その言葉の含む内容の表示せられることの多いのを示す。さてその言葉が、どういふ内容を持ち、どういふ感情や歴史を伴つてゐるか等を知ることは、その言葉を使つた人の心を正確に知ることを意味する。こゝに重要なる一二の語に就いて考察して見よう。
 萬葉集は第一人稱の代名詞「われ」の語が、他の歌集に比して、目立つて多い。「われ」の語が多いことは、「われ」の描寫が詳審であることをも意味する。例へば、萬葉集卷十一、十二の兩卷、古今相聞往來歌類の中にある、「われ」の語を有する歌は、百首中、三八・六の比率を示す。これに對して、ほゞ同一の部類から成る、古今和歌集の戀の部五卷、即、卷十一から、十五までに於ける百分比例は、二六・三を示し、新古今和歌集の戀の部五卷は、同じく一五・〇を示してゐる。斯樣な「われ」の語の少き後の集は、歌謠の主體たる「われ」の直接描寫を省略し、もしくは怠つたものと言ひ得べく、中世の歌學思想に於ける、「したたか」なることを嫌ひ、「幽玄」を喜んだ一の表(9)示であるとも考へられる。明瞭に「われ」を描寫し、「われ」の行を叙述することは、讀者の理解を容易ならしめ、これに伴ふ感興の發動に、障碍を少からしむるものではあるが、人に贈ることを目的として作られた歌にあつては、その限定した讀者に對して、「われ」を説明する要を見ない場合が多いであらう。然るに、萬葉集の相聞往來の歌は、元來が人に贈ることを目的とした歌であるにも拘らず、「われ」の描寫が多いことは、確にこの集の特色の一として擧ぐべきである。
 萬葉集の歌にあつては「われ」は主人公であり、同時に作者であるものが大部分である。併しながら或る場合には、「われ」が歌の作者を指示しないものも存する。例へば、山上憶良は、妻を亡へる人に代り、大伴熊凝に代り、白水郎荒雄が妻子に代つて、歌を作り、大伴家持も亦妻に代つて歌を作り、「われ」の語を以つて、その歌の主人公に擬して作つてゐる。
 これらは「われ」の語に關して、叙事詩中の人物の言葉の如き性質を有するものである。しかし大體に於いて、萬葉集の歌に於ける「われ」が作者をも指示してゐるといふことは出來よう。この意味に於いて、「われ」の直接描寫に富めることは、やがて作者に關する記事に富んでゐることを意味する。隨つて作者の地位の明瞭なるは、読者の理解を容易ならしめ、印象を鮮朋ならしめる効果がある。
(10) 萬葉集に於ける「われ」と「他」との交渉「われ」に受け入れる「他」の形象は、見ゆ、聞ゆ〔四字傍点〕の道程に困るものが、多く記録されてゐる。見ゆ、聞ゆ〔四字傍点〕は、人の感覺のうち最精巧なる機關の働きであつて、この語あるものは「われ」の描寫を詳密にし、全體の理解を鮮明にし容易にする効力を有するものである。而してこれも亦中世以後の歌集に、多く省略せられてゐる。萬葉集に於いて、「われ」と「他」との交渉の徑路を記録してゐる歌の多いことは、また萬葉集の意義ある一の特色である。
  「み吉野の高城の山に白雲は行き憚りてたな引けり」見ゆ(卷三)
  わが夫子《せこ》をあが松原よ見わたせば「あまをとめども玉藻苅る」見ゆ(卷十七)
などがその例である。聞ゆ〔二字傍点〕も、見ゆ〔二字傍点〕に比すれば、その分量こそ少いが、やはり同じ傾向は認められる。見ゆ、聞ゆ〔四字傍点〕は、宇宙の形象を、「われ」に受け入れることを示す動詞であつて、さて、外界の刺戟を受けて、内に發する心象は、思ほゆ・忍ばゆ・泣かゆ〔九字傍点〕等の語によつて多く記録されてゐる。これも亦中世以後の歌に、あまり用ゐられぬ語である。而してこゝに注意すべきは、見ゆ、聞ゆ〔四字傍点〕を始め、これらの諸動詞が、いづれも受身の動詞であることで、「われ」はおのづから外界の影響刺戟を受けて、さる行を爲すといふ心持ちである。勿論、みづから外界に對して働きかける意志を表(11)した歌も多く存する。しかしこの受身の動詞によつて表出されてゐる多くの例を擧げ得ることは、集全體としても、さる傾向に富んでゐることが看取され、これ又この集の一特色と見るべきである。
 「われ」に映じ來る宇宙の影に對して、萬葉集の「われ」は、おびただしく感激の聲を放つてゐる。あな、あはれ、あなに、を、や、はも、かも〔十四字傍点〕等、感激を表す語の種類も多いが、殊にかも〔二字傍点〕はこれに代るかな〔二字傍点〕の發生を見て、中世以後は古語となつてしまふが、この集では特に目立つて用ゐられてゐる。
 「われ」に動き來る「他」の力に激せられて、「われ」は感激の聲を發し、また泣かゆ、忍ばゆ、思はゆ〔九字傍点〕等、心理的行動を取り、これまた多く直接描寫の手法によつて表現せられてある。萬葉集の歌に素朴を感ずるのはこの點に基くものが多い。かくの如くにして読者の心は、萬葉集の「われ」に共鳴し易い。萬葉集の「われ」の生命は、永く人の心に生きることが出來るのである。
 萬葉集の「われ」は自己意識を表示する語であるから、この語の多く用ゐられてゐることは、自家の内容について、相當の覺悟を有することを、おのづから語つてゐるものと思ふ。
 第一に注意されることは、現身《うつせみ》の人なる「われ」の句である。うつせみ〔四字傍点〕、またうつそみ〔四字傍点〕は、現し(12)身の義であつて、肉體を有し、感覺を有する身をいふ。現身の人として生活してゐることを、萬葉集の「われ」は自覺してゐる。
 現身は神と相對する語である。目に見えず、畏怖性に富み、直接に意志表示を爲すことの無い神とは反對に、欺くことも出來れば、笑ふことも出來る。わが愛する人も、死して神となれば、これと接近してゐることを得ない。
  現身し神に堪《あ》へねば、離《はな》り居て朝嘆く君、放《さか》り居てわが戀ふる君、玉ならば手に卷きもちて、衣ならば脱《ぬ》ぐ時もなく、わが戀ふる君ぞ、きぞの夜、夢に見えつる(卷二)
の如き例も、神と現身の人との隔りのあること、對立的のものであることを語つてゐる。
 次に注意されるのは、ますらをと思へる「われ」である。丈夫《ますらを》とは、萬葉集の重なる作者階級の、適當に教育された男性の謂であつて、忠良にして強固なる意志を有し、嚴肅にして節制ある鍛錬を經た者である。「われ」は時に誤つて片戀もし、水城《みづき》の上に涙押し拭ふけれども、自制の心によつて亂に至らぬのである。天地に少し至らぬ丈夫と信じてゐる者である。それほどに、みづから信じ、みづから任ずることの厚いものが、時にますらを心思ほえぬまでの戀をもするのである。後の世の公卿を重なる作者階級とした時代の歌に比して、氣力がそこに滿ちて感ぜられるのは當然であ(13)る。
  ますらをと思へるわれや水莖の水城の上に涙のごはむ(卷六)
  天地にすこし至らぬますらをと思へるわれや雄心もなき(卷十二)
  菅の根のねもころ妹に戀ふるにしますらを心思ほえぬかも(卷十一)
 後世の學者は、萬葉集の歌風を評してますらをぶりと稱したが、そは全く作者の自家評價より生じて來るもので、内容にまた格調に、意識してまた無意識に、その精神の發露を見るのである。
 男子の徳は剛健であつて、この徳の保有者はますらをであるが、これに對して、女子はどこまでも、たよわきをみな、即たわやめ〔四字傍点〕である。時には道守の問に答へむすべも知らぬかに惑ふのである。
  わが夫子《せこ》が往きのまに/\、追はむとは千度思へど、手弱女《たわやめ》のわが身にしあれば、道守の問はむ答を、云ひやらむすべを知らにと立ちて爪づく(卷四)
  石戸《いはと》破る手力《たぢかち》もがも、たよわき女にしあればすべの知らなく(卷三)
 後世の、ひたすらになよ/\として無定見なのとは違ひ、たわやめなる「われ」の自家の力の不足を歎じ、いちじるく自省的であること示し、而も直接描寫の法によつて表出した點が萬葉集に於(14)いて貴重なのである。
 「われ」に對して心を放射してゐるものは人である。歌には、親子、兄弟、親族、朋友、夫婦、君臣、世人、これらの關係にある人々の、善意の方面のみがいちじるく現れてゐる。
 兒《こ》といふ語が、産《う》みの兒の意義と、親愛なるものの意義と、いづれが原義であるかは、たやすく云ひ得ない。むしろ、配偶者、また一般の愛すべき者に對して、産みの兒に對すると、同じ語を用ゐてゐると見るべきかも知れぬ。いざ子どもと、人々を誘ひ立てるのは、愛する部下の意から出て、やゝ廣き範圍にも用ゐられるであらう。女子の名に、安《やす》み兒、さぶる兒、櫻兒、鬘《かづら》兒等といふのは、その實名でなくて、愛すべきものの意が含まれてゐる。
 「われ」をめぐる人々には、性の差別がある。昔は兄弟長幼の別なく、男に對しては「せ」といひ、女に對しては「いも」といつた。而してその時に親愛の意を表示する兒の語の添つたものが「わがせこ」「わぎもこ」である。大來《おほく》の皇女と大津《おほつ》の皇子との兄弟間の親みも、或は大伴田村の大孃と同じ坂上の大孃との兄弟關係もまたこの語によつて表されてゐる。
  わがせこを大和へやるとさ夜更けてあかとき露にわが立ち濡れし(卷二)
  よそにゐて戀ふるは苦し吾妹子をつぎてあひ見むことはかりせよ(卷四)
(15) この語は男子また女子に對する親愛の情を最よく表示するものであるから、いはゆる男女關係に最多く用ゐられてゐることも勿論である。
 
       三 萬葉集の歌の本質
 
 こゝに吾人は、轉じて、萬葉集に於ける戀の歌の本質について考へて見よう。
 萬葉集の部類に於いては、相聞の歌が後世の戀の歌に相當する。相聞とは、支那から渡つた字面で、もと書信を交す意であつて、必しも男女關係に限らない。文字は舶來であるが日本で古く歌垣等にてかけあひを爲したことから發達して來たのが、こゝに名稱を得、文字を得て相聞の歌になつたのである。
 この集に於ける相聞の歌は、男女關係のもとに人に贈り人に答ふる歌が多數を占めてゐる。而して人と贈答する歌は、特定の讀者を豫想してゐるものなるが故に、善意を標榜し、いちじるく儀禮的であることを特色とする。この傾向は、他の部類の行幸遊覽の歌、挽歌等にも亙るものであるが、特に相聞の歌にその甚しきを見る。それにしても作者の生活は、歌の内容の基本を爲すものであつて、殊に明るさを相聞の歌に感ずるのは、作者が快活である爲であらう。萬葉集に於ける相聞(16)の歌の主調は、わが心の態勢を正しく表出しようと努めてゐるやうに見える。これが平安朝時代の戀の贈答になると、わが心の誠の多く報いられざるを恨むところの、怨言を以つて歌の主調となしてゐる。
 すべては親愛の情である。「われ」は親愛を感じ、親愛を放射する。わがせこ、わぎもこ〔八字傍点〕の心持が、どの人倫關係の歌にも滿ちてゐる。相聞の歌は、正述心緒の公明率直な歌ひぶりと、寄物陳思の、人と物との融合一致とに分れるが、わが親愛の情を表出して、猶豫なくこれを受け入れさせることを望んでゐる點に二つはない。
 行幸の際は、詔を下して歌を詠ましめる。公私の宴會にも多く歌を伴ふ。歌人日常の作歌も、これらの場合の練習である意味もあり、同時に、これらの事が、刺戟となり導きとなつて、歌壇を率ゐてゐたことが認められる。
 萬葉の部類の中にも、最陰氣なるべき挽歌について見る。挽歌は、人麻呂に至つて長足の進歩を來す。人麻呂以前の挽歌は、形も小く、内容は死者の遺物について悲哀別離の情を叙するのを主としてゐるが、人麻呂に至つて、生前の事を叙する部分が、長大に發達して來る。人麻呂の挽歌は、殯宮で詠まれる目的で綴られるもので、多數の前に死者の功績を頌するを主眼としてゐる。高市の(17)皇子の殯宮の歌の如き、壬申の亂の戰爭を敍述する部分が主となつてゐる。自己の悲哀を端的に吐露するよりも、多數の前に美辭を陳ぬるといふ方面に發達し來つたのである。
 斯樣に歌が善意の文學であることは、一はわが國民性の光明快活なるにもよるが、實際の歴史を見ると、もとより猜忌疑惑嫉妬の記事の無いわけではない。しかも文學としてはこれらの暗黒な方面は現れない。むしろ文學に現れて光明性なのであるとも云はれよう。
 これは古事記等の日本古史説話にも關し、日本文學の本質の問題であるが、日本文學の出發點が、すべて祭典酒宴の間にあることを思へば、かやうなことは、むしろ當然に過ぎる結果であるとも云へよう。
 
       四 季節と自然
 
 萬葉集の「われ」は季に對して敏感な心を持つてゐる。併し鋭く心が働く中に、夏冬に對する心持ちと、春秋に對する心持ちとは、根本の相違があつて、冬去りて春來り、夏去りて秋の來るのを待ち喜ぶ歌の方が多く、夏や冬の來るのを歡んだ歌は無い。日本の文藝に於ける季の根據は、この間に存するものと考へられる。
(18)  白雪の常しく冬は過ぎにけらしも、春霞たなびく野邊の鶯啼くも(卷十)
 春になつて、もはや雪の時代の去つた喜を宿してゐる歌である。春〔傍点〕の枕詞に冬ごもり〔四字傍点〕といふ詞があるが、これはいまだ冬のあけきらぬうちから、その内にひそむ春のけはひを感ずる意味で春に懸つてゐるのである。
 秋も亦同樣の心で待たれてゐる。
  野邊見ればなでしこの花咲きにけり、わが待つ秋は近づくらしも(卷十)
 この歌は、夏の歌のうちに部類せられてゐる。夏のうちから秋の來るのを喜び待つてゐる。
 萬葉集の歌人が、いかなる詞について直に季節を感じてゐるかといへば、そは主として自然現象についてである。普通の季の定まらぬ詞に、四季の名を冠して用ゐるもの、「春」又は「春の」の語のつく詞では、日、風、雨、霞、山、野、花、葉、楊、鳥。秋は、日、風、雨、露、山、野、田、夜、葉、草、穗、花、萩、柏、香。夏は、山、野、草、葛。冬は、風、柳等であつて、天文地理動植物に限られてゐる。
 萬葉集の編者が、季をいかに取り扱つたかといふことも觀察せられる。萬葉集では季のある歌と無い歌とを區別してゐる。即、季のある歌を卷第八と十とにまとめてある。卷八のは作者の知られ(19)てゐる歌で、卷十のは作者の傳はらぬ作である。歌數から云へば秋の歌が一番多く、次いで春の歌である。これによつても大體、春秋二季が對偶的位置を以つて古人の心を占めてゐたことは考へられる。
 歌を四季に分つには、作られた時季によるものと、作歌の時節を問はずに、ひたすらに内容に依るものとがある。卷八の天平五年閏三月に、笠金村の作つた歌を春雜歌のうちに入れてあるが、この長歌一首短歌二首には少しも季に關する詞が見えない。また
  しぐれの雨間なくな零りそくれなゐににほへる山の散らまく惜しも(卷八)
 この歌は冬十月の維摩講の日に歌はれたものではあるが、編者は、その内容を爲してゐる心持ちによつて、秋の部に收めてゐるのであつて、編者が歌の作られた時期に關せずして内容によつて季を分たうとしたものであることがこの一例によつてもわかる。
 萬葉集の「われ」の季に對する心は、強き實感から出て、春秋の來るのを喜び、やがて春秋に對する愛となり、推して花紅葉に對する親みの基調をなしてゐるものであらう。萬葉の時代には、秋風の聲に驚く感傷的なものは、見ぬところである。秋の夕暮を寂しといひ悲しといふは、平安朝人の風流であつて、秋を草木蕭條の候と觀じて、却つて、大陸文藝の風流、外來思想の飜案を爲して(20)ゐる。上代人の秋を迎へ惜む心は、暑氣の過去を喜び寒氣の襲來を怒るる心である。
  今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寢む(卷三)
  秋萩の枝もとをゝに露霜おき寒くも時はなりにけるかも(卷十)
 生活上の實感から出發した春秋を喜ぶ心も、大陸文藝の思想的影響を受けるやうになつては、春に對しても必しも喜悦ばかりを表さぬやうになる。
  春の野に霞たなびきうら悲し、この夕かげに鶯鳴くも(卷十九)
  うら/\に照れる春日に雲雀揚り心かなしも、獨し思へば(同)
 かやうな傾向が萬葉時代の末期になると看取されてくるのである。
 鳥や獣や蟲や草や木や乃至は自然の無生物に對して、人と同じやうな心を持つものとして感ずるは、その物に對する親愛の情の表れである。
  旅人の宿りせむ野に霜ふらばわが子はぐくめ天のたづむら(卷九)
 鶴に物を云ひかけるのは、親しき者である故にこそ、人も無き韓國の荒き野邊に、わが子の伴侶ともなるべきものと思ふのである。
  あらたまの年の經ゆけばあともふと夜渡る吾をとふ人や誰(卷十)
(21) 擬人法ではあるが、愛すればこそ人のやうにも思ふのである。
 木草の中に花あるものは多く愛せられ易いが、愛は花あるもののみには限らない。殊に松はその音が待つに通ずるよりして、言靈の信あらむことを願ふ心をしば/\寄せられてゐる。次のはその一例である。
  わが宿の松の葉見つゝあれ待たむはや歸りませ戀ひしなぬとに(卷十五)
 自然現象のうちでは、浪、雲、風、霧、さては雨、露の如き動くものに就いて、人の心を感じてゐる。月を月人男《つくひとをとこ》といふは、天を海に比し、月を舟に比し、その舟を漕ぐ人といふより轉生したものではないかと思はれる。
  山の端のさゝらえ男天の原|門《と》渡る光見らくしよしも(卷六)
  秋風の來清きゆふべに天の川舟こぎ渡る月人男(卷十)
 これによつても古人の月に對する親みを看取することが出來る。月ばかりでなく、七夕の歌に、星を擬人化してゐることは、今こゝに列擧するまでもない。
 山や海や川に、神がゐると思はれてゐるものは、即、山海川そのものが神であると考ふべきもののやうである。山の神は妻爭ひをし、また行人をおびやかす。これは海山の恐るべき方面である(22)が、春は花をかざし、秋は紅葉をかざす。春は萌え秋は枯るるは、人の生病老死の縮圖のやうにも考へられる。海はまた朝されば潮を滿たしめ、夕されば潮を干しむ。海や川や、生命あればぞ死にするものとも考へられる。神ありとなす心は恐れが主であるが、愛より出發する心にはたゞ親みの情のみがある。
 萬葉集の「われ」の自然に對する心は愛に出發してゐる。山に對し、川に對し、春に面し、秋に面し、わが愛は注がれ、彼の愛は「われ」を惠む。自然と人との交通は、親密に行はれる。自然に對する心の敏感である所以である。
 
       五 外來の思想
 
 上代に於いて、日本の國民思想に大いなる影響を與へたものは、佛教思想の浸蝕である。それが新知識として渡來してから、一般の人の間に行き渡るまでには、漸次的の階段を經、かつ多くの年數を經たものであらう。切ることの出來ない時間の連續の上に、ある時まで固有思想の時代、ある時からを新來思想の時代といふやうに區劃をつけることは出來ない。萬葉集の上には、この兩思想を見ることが出來るであらうけれども、何天皇の御代までは前期で、何天皇の御代からは後期だと(23)なすことはむづかしい。
 古風の人はこの世は神代のまゝであると信じてゐた。遠き代に、神々の定めた通りに、人々は受け繼ぎ守り繼いで行つたもので、日月は神代のまゝに運行し、草木は神代のまゝに開落する。神のおぼし召し通りにこの世はあるので、惡い事は、やはり神の力によつて拂ひ捨てる。かういふ思想に住めば、この世は光明世界であり、その生活は歎樂的で、嘆美的である。
  戀ひ死なむ後は何せむ生ける日の爲こそ妹を見まくほりすれ(卷四)
の如き歌も生れるのである。
 然し、佛教思想は、まづものしりの上に、知識として侵入して來た。
  この世には人言しげしこむ世にもあはむわがせこ今ならずとも(卷四)
の歌は、明に夫婦の來世を語つてゐる。
 然しながら佛教思想は、萬葉時代の末の人々といへども、その心の底から根をしめてしまふまでには至らなかつた。萬葉集の殿をつとめる家持の歌に佛教思想を詠ずるものは多いが、なほ言葉のはし/\にもとの根ざしを留めて居て、折にふれては底の流れの存してゐることを示してゐる。
 文字が渡來してから後、追々にこれを使ふに馴れたが、聖徳太子は、既に明に文字をもつて史籍(24)を記された。しかし赤人等は、なほ語り繼ぎ云ひ繼ぐと歌つてゐる。家持に至つてはじめて、天地日月と共に萬代に記し繼がむぞと、文字をもて歴史を書くことを歌つてゐる。とかく歌には新知識の入ることの遲いことを示してゐるものと思はれる。
 
       六 社會に對して
 
 家族の延長は祖先であり、子孫である。姓によつて表示されてゐる家々の階級は祖先の功績の評價でもあり、大家族主義に生きる人々に、祖先は極めて尊いものである。「われ」を代表するものは名である。萬葉集のわれは名をいたはつてゐる。ますらをは後の世の語り繼ぐべき名を立つることを希ふ。戀の道にも名を爭つて妻問ひをする。遠つ祖の清きその名を汚さむことを恐れ、いたづらなる戀に君が名わが名の立たむことを惜んでゐる。名を重んじ、これを惜む心が歌に表れて道徳的であるのはいふまでもない。
 萬葉集の歌謠に於ける特殊の修辭法に就きて、特に注意せらるゝは枕詞である。枕詞の發生は、萬葉集より更に前の時代に屬すべきであらうが、その使用は、萬葉集に於いても、な授盛に行はれた。
(25) 枕詞の起原は、やはり詞の裝飾にあらう。わが詞を丸裸で出してやるに忍びない心である。詞を裝飾するは、その物をほめる心である。物に對する愛のほとばしりがほめことばとなつて枕詞となつたもので、歌謠以前に、古い神託の詞、祝詞等に、多く用ゐられるのも、その神性の敬愛によることを表してゐる。
  秋萩を妻間ふ鹿こそ一人子に子もたりといへ、鹿兒じものわが一人子の草枕旅にし行けば(卷九)
 この歌は、まるで枕詞の發生状態を説明してゐるもののやうである。秋萩を妻と慕ひ寄る鹿に、なつかしみを感ずればこそ、遠き旅に出しやるわが一人子の枕詞としても許容せられる。ますらをの愛する劔太刀、たわやめの愛しむ玉、鏡、枕詞の發生は、愛に基く。修飾されるものへの愛、修飾するものへの愛、兩途から出發して、暖い心の修辭である。
 枕詞は、譬喩に基くものと、同音多義に依るものとがある。而してその後者については、言靈の信が特に強く働いてゐる。人の名は神秘であり、物の名にまた言靈は宿る。なのりそよ、物を云ふな。わすれ貝よ、忘れさせよ。序歌の起原は、この言靈の信仰によるものが多い。
 さて吾人は、こゝにほぼ萬葉集の尊き所以を見來つた。古人今人の萬葉集を觀る詞に、眞情の發(26)露といひ、情意の白熱といふ。これらの詞も正にその通りである。而してこれらの語の註解として以上述べ來つたところを以つてすることが出來よう。萬葉集の「われ」は自省し自覺することが多いから、自然虚飾を容るる餘地が乏しくなる。しかも人間の愛と自然の愛とは、これを辿つて、暖き光を放射してゐるから、感情は輝き而して白熱する。一方に、その例外と見るべきものが、殊に末期の作に見えるけれども、こは次期の風潮の前駈として注意せらるべく、全體としては、愛に滿ちた歌集と云つてよいと思ふ。ここにこの集の永久の輝きがあるのである。
 
     下 萬葉集の主要なる歌人
 
       一 柿本人麻呂と高市黒人と
 
 大陸の文化の移入に主力を盡した近江朝の政治は終つて、再び大和の飛鳥の地に都宮を定めた天武天皇の御代は、萬事更新のあわたゞしさに暮れて、未だ文藝の成熟せるものを出すに至らなかつたと思はれる。歌人としては、天武天皇、額田《ぬかだ》の王《おほきみ》等が數へられるが、この方々は、この時代の新人とは云ひ難く、僅に當時の皇后にましました持統天皇、藤原の夫人に指を屈するに過ぎず、作(27)品としても意外に少ない時代である。亡びたる跡よりして古を稽ふれば、次の黄金時代の準備期であつたとも云ひ得よう。
 藤原宮時代に入つて、歌謠は長足の進歩をなした。それは、當時、文字の通用、いよ/\盛にして、身分あるものおほむねこれを解するに至り、文字を以つて書札を通ずるところに、相聞往來の歌、これに伴ふ有樣であつた。
 かくして歌謠を筆録すると共に創作慾も隨伴して盛になつたのである。しかもかやうな文學の盛行は、畢竟大陸文化を崇信し、これを模倣するより出でたことで、漢文學の讀まるることも多く、その刺戟を受けて、一層歌謠の發達を見るに至つたのである。更に、行幸、肆宴などの際に廷臣をして歌を奉らしめる事も屡行はれて、人々はその作を競ふ氣合に驅られ、平日より作歌に精進した結果は、歌を愛し、歌を理解して、自然すぐれた作品をも生ずるに至つたものである。
 藤原の宮時代を代表する歌人として、柿本人麻呂の名を擧げることは、何人も異議なきところであらう。人麻呂の傳記は審かでない。持統文武の兩朝に亙つて、その作品を殘してゐるが、題詞に彼の作としてあるものゝ外、柿本朝臣人麻呂歌集也といへるものあり、これらの記事を、彼の傳記の資料として取るほか、左注に或は人麻呂の作といへるものも參考に資すべきである。これらの萬(28)葉集の記事以外の他書には、何の資料とすべきものもない。柿本氏は、孝昭天皇の皇子|天足彦國押人《あまたらしひこくにおすひと》の命の後、敏達天皇の世に家門に柿の樹があつたので柿本氏といふ。宮仕した人と思はれるが、その位は六位以下であつたことは、その長逝を死の文字で表してあるによつて知られる。忍壁《おしかべ》の皇子、舍人《とねり》の皇子、弓削《ゆげ》の皇子、輕《かる》の皇子、新田部《にひたべ》の皇子に歌を献り、日並《ひな》みし皇子、川島の皇子、高市の皇子、明日香の皇女の薨去に挽歌を作つてゐるのは、歌人としての盛名のもとに、これら高貴の方々の寵遇を被つてゐたのであらう。吉野、紀伊への旅行は、行幸に供奉したのであるが、近江、筑紫、石見への旅は、官吏として赴任したものであらう。人麻呂の妻としては、卷二に、妻の死せる時の長歌二篇あり、その一は輕《かる》の里なる妻を歌ひ、一は大鳥の羽易《はがひ》の山に妻を葬つたことを歌つてゐる。また人麻呂が石見より妻に別れて上京する時の歌、及び人麻呂の死する時、妻|依羅《よさみ》の娘子《をとめ》の哀める歌等が傳へられてゐる。これらによつて、人麻呂の妻が前後別人なりしことが云はれてゐる。さて人麻呂は石見の國府にて病づき、鴨山はその墓地と思はれる。人麻呂の歌中、年代の明なるものゝ最後は、文武天皇の四年四月の明月香の皇女の薨去の時であつて、その頃まで生存し、かつ都に居たことであらうが、その後何時石見に下つて死んだかは未詳である。
 柿本人麻呂が日本の歌謠に於いて時期を劃する大才人であつたことは、今更言ふ必要もない程で(29)ある。然らば人麻呂の事業は、どういふ方面に於いて注意せられるかと云ふに、まづ形式の方面から考へて見ると、日本の歌は、人麻呂に至つて、長歌の分量が大きくなつたといふことが注意せられる。其の次には動搖して居つた歌の形式、即、長歌、短歌、旋頭歌等の一首の句數なり、一句の音數なりが定著したことが看取される。いはゆる長歌に於いては必ず反歌を伴ふことが起つたのは前時代であらうが、固定したのは、この人麻呂によつて代表せられる時代である。かやうに形式の上の増大と固定、かういふ意味に於いて人麻呂の事業が認められる。
 元來、歌謠に限らず上代の文學は、集團的の發生であつて、個人個人に作られたり、産出せられたものではない。此の點、上代の歌謠が讃め言葉の性質を多く含んで來ることになるのである。自分一個の喜び悲みといふよりは、其の屬して居る圖體の喜びなり、悲みなりを歌ふといふ心持であるから、一方に個性に缺けて居る憾みはあるけれども、同時に、非常に明るい社交的な作品に富んで居るのであつて、此の傾向が、引き續いて人麻呂に於いて、其の絶頂に達したものと見ることが出來る。人麻呂の挽歌は、要するに亡くなつた人を極力讃めて居るのであつて、或は其の人の長き經歴を記し、或は其の人の麗しき容態を記するといふやうな性質を有つてゐる。すべてが明るく善意に充ちた文學である。かういふ傾向の讃め言葉から出發した歌を大成したのが人麻呂の事業であ(30)る。
 かやうに歌謠が、人麻呂に至つて長足の發達を爲したのは、明に大陸文藝の影響であると思ふ。その作品に長篇が多いのは、文字を以つて歌を書くに至つたからであらう。感興は刹那的でなくして、理屈で押して來た末に高調に到達してゐる。これも亦漢文學に於ける長篇の影響であり、長歌に反歌を附することも、明に大陸文藝の影響で、人麻呂の時代には必添ふべきものとなつたのである。
 人麻呂の作品は、應詔、應令、挽歌等の宮廷生活に屬するものと、相聞、※[覊の馬が奇]旅等の私的生活に關するものとに分れる。前者には長歌が多く、おほむね大部分を敍述に費し、最後に至つて作者としての感想を敍してゐる。その内容は各々異にしてゐるが、形式は同一轍に出るもので、どこまでも事實描寫の上に立脚して、作者の推量希望感想を述べる古代歌謠の根本形式を守つてゐる。その調子は雄大で、おほむね諧調である。相聞、※[覊の馬が奇]旅等の私生活に屬するものにも、石見の國から妻に別れて上り來る時の如き有數の長歌もあるが、その他は短歌が多い。これらは豐麗なる言辭を以て、作者の眞情の露出を試みてゐる。
 人麻呂の作歌は、おそらくその當時の人にも歡迎せられたであらうが、その歌聖の名は永く後葉(31)に傳へて、今日に至つてゐる。かやうに諸人の愛好するところとなつたのは、その格調雄大にして、才思豐富であつた爲であることは勿論であるが、なほ特に注意すべきことは、その歌はなほ衆人の中に立つて歌ふ民衆本位の内容であることを失はなかつた。この點に人麻呂の作品の多數の人に愛好せられる理由が存してゐる。
 人麻呂と時を同じうした高市黒人の作は、長歌を有せぬ點は人麻呂に一歩を讓るが、その短歌の作は、今日の文學論よりして見れば必しも人麻呂の作に劣るもので無い。人生の深み、觀照の正確はむしろすぐれてゐる。例へば同じく近江の舊都を哀む歌にしても、人麻呂は、
  淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしぬに古思ほゆ
と、國民の一人として往古を追憶する意を歌ふに對し、黒人は、
  古りにし人に我あれやさゝなみの滋賀の都を見れば悲しき
と、自分を描き、作者として自分といふ立場を忘れない。こゝに兩者の主なる相違があつて、黒人は、やがて次の時代に於ける個性の描寫に達する先驅者となつてゐるのである。
 
       二 奈良朝初期の歌人
 
(32) 柿本人麻呂の後を承けて、奈良朝の初期を飾る人々としては、大伴旅人、山上憶良、高橋蟲麻呂、笠金村、山部赤人等の名が數へられる。これらの人々の作品を、まづ形式の方から眺めて見ると、長歌は大體に於いて長さが却つて短くなり、旋頭歌は早くも滅ぶ傾向になつてゐるが、短歌は一層盛になつて來て、やがて、後世の短歌全盛時代の前驅をなして居る。
 奈良朝初期を飾る歌人に二つの流れがあり、その一は、いはゆる宮廷歌人とも稱すべき一派で、赤人、金村に依つて代表せられ、人麻呂の傾向を追うて物を讃美する方向を受け繼いでゐる。他の一は、旅人、憶良、蟲麻呂によつて代表せられ、是等の人々によつて別に個性の表現が漸く發展して來た。奈良朝に入つて、個性發輝の傾向が一層明になつた理由は色々あるが、特に大陸文學の影響は見逃せない事實であらう。今までは口に歌ひそれを耳で聽く、かういふ耳に訴へる歌謠であつたものが、文字の發達に從つて、眼で見るといふやうに變つて來た。口に歌ふ歌謠は、原則として其の聽衆は多數である。是が眼に見るところの文學に移つて行くと、其の相手は複數であることを要しない。むしろ單數である場合が、數多くなつて行くのである。一人に傳へるのを目的とし、その一人は自分であつても宜しい。みづから書いてみづから讀む。かういふところに、所謂獨語的な性質が歌に與へられたのである。
(33) かくの如くこの時代に入つて、歌謠は口から口に歌はれるもの以外に、專文字に書きて目もてこれを讀むものとして發達して行つた。歌人が歌に對するは詩人が詩に封するに異ならぬ。詩人は多く歌人を兼ねる。懷風謀《くわいふうさう》の作家六十四人のうちから、萬葉集の作家を兼ねるもの二十一人も見出す程である。この他孝謙天皇は經国集に詩を、萬葉集に歌を傳へさせられ、山上憶良、大伴池主、大伴家持は萬葉集に詩と歌とを并せ傳へてゐる。これらの人々の中には前代の人もあるが、多數はこの時代の人である。
 かういふ方面を代表すべき最初の人々として、旅人、憶良、蟲麻呂等が擧げられるのは、彼等は此の奈良朝初期に當つて漢字使用によく熟達して居つた人々と見受けられるからである。それ故に歌もみづから記しみづから讀む。又人に記して贈る。かやうな傾向に轉じて來て、故に歌においておのづから自分といふものが發揮せられて來るやうになつて來たのである。同時に支那に於ける文學意識の影響を受けて、日本の歌人も亦みづから文人であるといふ自覺を起したことも、其の一原因であらう。かやうな意味において、奈良朝初頭の人々の中、旅人、憶良、蟲麻呂、是等の人々は、むしろ人麻呂の事業を擴充するといふよりも、個性の發揮といふ方面を開拓した意味で特色を認められる。即吾々は旅人なり憶良なり蟲麻呂なり、彼等の歌の間にそれ/”\の異つた性質を認め得るの(34)である。同時に昔の歌は英雄的であつた。古事記、日本書紀等に現れて居るものは、勿論であるが、人麻呂の作品にしても、其の内容は英雄的で、傑れた人の敍述であり、すぐれた人を讃めて歌つてゐる。それが奈良朝に入ると、凡人の心を歌ふといふ方面に發達して來るのである。普通の人の生活、さういふ方面に歌が進んで行つた。是がまた個性の發展といふことに相關聯して、即、奈良朝初期に於ける重大なる傾向として見るべきものとなつた。この意味に於いて、この時代に於いては歌の凡人主義といふことが、最鮮明に現れた時代であるといふことが出來る。
 歌の方面において個性を發揮した最初の人々も、やはり旅人、憶良、蟲麻呂等であつて、例へば旅人についても、どういふところが旅人その人を現してゐるかといふと、旅人の作品には常に自己中心的な一面が見える。彼は佛教知識には接してをりながら、これを歌の上には卑しめてゐる。みづからは道教の方面の清淡といふやうな心持、神仙を喜ぶといふ心持、さういふ方面に旅人の特色が見られる。
 憶良に於ける主なる作品は、貧窮問答の歌の如く、特に社會的方面を歌ふことに、彼の特殊性が發揮されてゐる。蟲麻呂に於いては、その代表的作品たる、浦島子の歌の如く、傳説を好んで詠み、さうして彼は色彩を好んで描寫する特異性があることが知られる。さうしてこれらの人々(35)は、歌において個性を發揮した最初の人々であるといふことがいひ得られるのであるが、同時にこれらの人々の間にも共通した一つの點がある。それはこれらの人々の作品は、大體に於いて劇的構想をもつて居る作品が多いことである。旅人の松浦河に遊ぶ序を見ると松浦潟の地に魚を釣る處女と歌を贈り答へする。憶良の貧窮問答の歌は貧しき人とそれよりもなほ貧しき人との問ひ答へによつて成立し、いづれも戯曲的な手段を用ゐてゐる。蟲麻呂の歌も、やはり劇的な情景を歌つて居るのが多い。かういふやうな人々によつて歌壇が導かれて行つた。大體に於いて人麻呂の傾向を追ふところのほめ言葉を主とする官吏歌人の一派と、これに個人的な特異性を發揮した人々、これは好んで劇的な手法を用ゐる一派と、かういふ風に二方面に分れて、奈良朝初期の歌壇を飾つたのである。
 
       三 山部赤人と笠金村と
 
 人麻呂に對して、常に對稱せられる歌人は、山部赤人である。赤人の傳記もまた明でない。奈良朝初期に於ける薄官の一人であつたらうと想像するまでである。その足跡は東は駿河の富士、葛飾の眞間の手古奈が墓を詠じ、西は伊豫の温泉に至つてゐる。天平八年六月に、芳野の離宮に行幸あ(36)りし時、詔に應じて歌を詠んだことが、年月の明なる最後である。作品の上に於いて人麻呂と併稱せられてはゐたけれども時代を論ずればやゝ後輩に屬するであらう。
 赤人の作品は、長歌にもさして長篇の作は無い。さりとて極めて短いものでも無く、中庸を得た適當の長さを保つてゐる。題材としては、自然の美を賞する意味のものが、大部分を占めてゐる。神岳に登りて作れる歌、富士の山を望みて作れる歌、伊豫の温泉に至りて作れる歌、芳野その他の離宮にての諸作の如く、いづれも、具體的に自己の矚目する自然を美辭麗句を連ねて描寫し、最後の段に至つて、懷古、詠嘆、祝賀等の意に結んでゐるのが彼の作の常である、その自然描寫は、常に美しい詞句で爲されてゐて、よく讀者をして彼の境地に回遊せしめる。清らかな明るさ、これ赤人の作に對する感じである。
 赤人の自然描寫の力は、短歌の作品に於いて、一層その精粹を集中したやうに見える。其處には短詩形の故に、ひたすらなる自然描寫のみがあつて、祝意も懷古も、多く入り來る餘地が無い。
  若《わか》の浦に潮滿ち來れば潟《かた》を無み葦邊をさして鶴鳴き渡る。
 長歌の反歌ではあるが、こゝにはひたすらに自然の一片を、その儘に切り取り來たが如き美しき描寫がある。
(37)  阿倍《あべ》の島鵜の住む磯に寄する浪間なくこのごろ大和し念ほゆ
の如き歌などにも、語調の快、措辭の明麗は十分に認められるが、これ故にまた強く人に迫る力は、或は忘れられても居るやうである。
 赤人とほゞ時代を同じくし、同じく應詔、※[羈の馬が奇]旅等の作品を遺した笠金村も、注意すべき作家である。これを赤人に比するに、かの自然描寫の美しさは無くして、多く類型的の句を用ゐ、しかも幾分粗雜の感じを與へる。それだけに往々にして、比較的に強い物言ひの見られる歌も存してゐる。
 赤人、金村等の作品は、個性を描くよりも、むしろ民衆に共通せる心を歌ふ色彩が濃い。歿年を論ずれば、旅人や憶良の方が早いのであるが、これらの多く大陸文藝の影響を受けた歌人は、題材としても個性の發輝に都合のよいものを選んでゐる。赤人等の作品に對しては、歌は褒め詞である本義を失はず、傳統の正しさが認められる。
 
       四 高橋蟲麻呂
 
 高橋蟲麻呂の傳は殆知られて居らぬ。生歿の年月はもとより知られぬ。纔に、その作歌、及び題詞の中から零細の記事を拾つてその生活を推すと、蟲麻呂もやはり奈良朝初期に於ける微官の人の(38)一人であつたといふに歸する。
 蟲麻呂の歌詠は大和河内攝津地方の地名あるものと、武藏上總下總常陸地方のものとの二部に分れる。
 蟲麻呂の歌は常陸國風土記の記事と非常に密接の關係があるやうに見える。蟲麻呂にのみ見得る、ころもでの常陸の國といふ枕詞は風土記に、風俗諺云、筑波の岳に黒雲かゝる、ころもでひたちの國と見えてゐる。兩者の密接なる關係を示す一例である。しかも檢税使大伴卿の文字により、風土記撰修時代なる和銅年間に蟲麻呂が常陸の國に官仕して居つたとすると、蟲麻呂を風土記の讀者とするより更に進んで、常陸國風土記は却つて蟲麻呂の遺物と論じ得る機會である。蟲麻呂の歌は非常に諸種の風土説話に富んで居る。
 長歌黄金時代を以つて稱せられる萬葉集にも、流石に長い形式は作りにくかつたと見えて、長歌をよくする歌人は少かつた。その點に於いては蟲麻呂の歌は、萬葉集の爲に氣焔を吐くものがある。彼は聯想が豐富であつて巧妙な形容を用ゐて人をひきつけると同時に觀察も鋭敏で好んで色彩を捕寫する。殊に、その歌に傳説風俗の研究の材料を含んでゐる事は驚くべき程で、これも彼の作が模倣にあらず、文飾にあらずして、生命ある民衆の信仰趣味の上に立つて居るからである。奈良(39)朝初期に於いて、彼は最も外來思想の感化を被らなかつた一人である。
 彼は好んで傳説を詠じた。彼は傳説そのものに興味を有してゐたのである。同一の傳説を取り扱つても、蟲麻呂以外の人のは、いづれも、懷古の哀情が先に立つて居るが、彼のは傳説そのものを述べることを主としてゐる。
 蟲麻呂の描寫は中々精細を極めてゐる。例へば女を描きては、周淮《すゑ》の珠名を
  胸《むな》わけの廣き吾妹《わぎも》、腰細のすがる處女の、その顔のいつくしきに、花の如ゑみて立てれば
と形容してゐる。自然の措寫も中々精密である。難波への往復の途の櫻花を、往と復とによりて描きわけ、はた叙景より陳志に落してゆくあたり、息もつけぬおもしろさがあつて、まことに彼が萬葉集中有數の歌人であることを示してゐる。
 
       五 山上億良と大伴旅人と
 
 大伴旅人は、右大臣の孫、大納言大將軍の子、豪族の長として遂に從二位大納言に至つて薨ぜしまで、その官途は平板に、その生活は安易である。その影響は性格に現はれて風流快活、作品に現れて、流麗明快、頗る傳奇的體裁に富んでゐる。彼は想を構へて屡々娘子を點出し、自己の思想を(40)も、その娘子をして發表せしむる形式を採ることを慣用手段とした。容易に第三者を假設し得る旅人の想像は自由であつた。かくして彼は無情の生物に對してあたかも情を有せるものの如く扱ふことが出來た。
  磯の上に根はふむろの木見し人をいづくぞと問はゞ語りつげむか
 これに反して山上憶良は、四十二歳にして無位、纔に遣唐少録と爲つた彼は、古稀を越えて身は既に痼疾に冒されながら、なほ邊國に國守と爲つて居た。その詠は常に實際的方面のみに限られ、想を構へて娘子を假設するが如き餘裕は無い。七夕の歌の如きも空想の所産では無くして、寧當時の知識のみ。七草の歌も唯ありのまゝを歌つたに過ぎない。胎生より今日に至るまで曾つて作惡《さあく》の心無しと言へる憶良に於いて、最重んずべきはその偉大なる同情心である。これが爲に他人の哀情に同感して屡第一人稱を以つて哀歌を綴る。旅人の妻を亡へるを傷んだ日本挽歌を見て、後人が憶良も妻を亡へるものと誤解したはこれが爲である。假に第三者を設定してそれに自己の思想を言はしむる旅人の生活には餘裕がある。他人の悲哀をも取つて自己の涙を以つて歌ふ憶良の同情心には比ぶべきものが無い。
 旅人は佛教を知つて居つた。然し彼は佛教に信頼せずして現世の安樂に執著して居た。憶良に至(41)つては更に深く佛者の所説に染んで居つた。歌中にもおのづから佛教の厭世思想、或は儒家の忠孝博愛の思想の影響して居ることは見免すべくも無い。然し、當時の宗教はまだ信仰でなくして知識なのであつた。
 旅人と憶良と、年齡の差は僅に五年であるのに、憶良の歌は古風で單純に、旅人は各種の技術に富んで居る。旅人は屡物に寄せて思を托し、また時にあしたづのあなたづ/\Lと言ふ如く、音の上に技術を用ゐることがある。
 憶良に於いては常に正述心緒で同音を利用した技術はない。憶良は長歌に秀でて居るのに、旅人には長歌は短いのが一首あるのみである。然し、小説的奇構に富み、悠揚にして迫らず、悲んでもなほ華麗を存する旅人と、世態を描いて、哀痛直に人の心肝に徹せずには止まぬ憶良とは、神龜天平の歌壇に於ける一對の白璧たるを失はない。
 
       六 天平時代の歌壇の展望
 
 萬葉における天平時代の第一景は筑紫において開かれる。彼の集を繙き見るに、天平の初頭に當つていかに多くの歌人が九州に集つて居つたかが知られる。大宰帥として、その地の歌壇の中心を(42)爲せるが如き觀ある大伴旅人を始め、山上憶良も筑前守として筑紫に居つた。その他、多數の歌人を擁してゐた。そして是等の人々は集つて歌を詠み、また獨でも歌を作つてゐる。無論此の時代、都の方にも歌人が居なかつた譯ではないが、唯萬葉集に現れた天平初頭の歌壇は、まづ筑紫に開かれたといふことが出來る。
 第二景は、奈良の都である。大納言になり、都に歸つた旅人は妻なき寂しさに堪へずして翌天平三年に世を去る。その翌年には西海道の節度使に任ぜられた藤原|宇合《うまかひ》のために高橋蟲麻呂が送別の歌を詠んでゐる。これによつて、蟲麻呂がこの時代に生存してゐたことを窺ひ知ることが出來る。天平五年には遣唐使が任命せられ、山上憶良、笠金村の如き、有名な人々が送別の歌を作つてゐる。又この年に初めて大伴家持の歌が見出される。家持の歌は澤山集に載つて居るが、年代の明なのは、これを以つて最初とする。天平八年には又吉野に行幸があつて山部赤人が歌を詠んでゐる。これが彼の名の見えてゐる最後で、此の後には彼の名を見ることが出來ない。又此の年の夏には新羅に使を遣された。此の新羅に使した人々の歌が、萬葉集の卷の十五の大半を占めてゐる。此の時の副使は大伴三中であつた。翌年には葛城の王が姓を賜つて橘諸兄となつてゐる。
 次の第三景は山城の久邇《くに》の都、難波の都、また甲賀の宮といふ風に、帝都が諸方に轉々した時代(43)で、都も人々の住家も定著を見なかつた時代である。この遷都に從つて新しい都を讃める歌、舊都を悲む歌が集に留められて居る。この遷都に伴ふ歌によつて田邊福麻呂の名が注意される。
 天平十八年になると大伴家持が越中守に任ぜられて赴任をする。これによつて萬葉集に現れた天平時代の第四景は主として越中の國に於いて演ぜられる。其の重なる登場人物は大伴家持を主役として、これに大伴坂上の郎女、大伴池主等が數へられる。
 天平勝寶三年の七月には、家持は少納言に遷任して都に還り、こゝに天平時代の第五景は、また奈良の都を中心として展開せられる。ちやうど盧舍那佛《るしやなぶつ》の像成り開眼した前後であつて、藤原清河等の遣唐の時の歌等を收めてゐる。
 萬葉集に描かれる天平時代の第六景は、家持が兵部少輔として難波に在つた時代で、東國の防人《さきもり》の歌を多く收録してゐる點に特色がある。かくして、萬葉集の最後の幕は、ふたたび奈良の都を中心として演ぜられるが、そは天平勝寶八年に法皇(聖武天皇)崩じ、翌天平寶字元年には橘諸兄薨じて、政治上に一大變革のあつた時代である。同じき年には橘奈良麻呂等の謀泄れて、大伴氏の人人、多くこれに連座した。世間の變移急にして家持は頻に無常を歎じてゐる。かくして家持が因幡守となつて赴任するに當つて、萬葉集の幕は閉ぢられる。
(44) すべてこの時代の萬葉集の記録は、大伴氏を中心として爲されて居り、從つてその家の人々は主役を勤め、その科白に伴つて情景が進展するやうに描かれてゐる。例へば、筑紫に赴く防人の作歌は、天平勝寶二年の際のみに限られてゐないと思はれるのに、この時に限つて多く殘つてゐるのは、家持が兵部少輔としてその事を管掌した爲であると考へられる。
 かくの如くにして萬葉集の幕が永く閉され、雄辯なる語り手であつた大伴家持が口を噤《つぐ》んでしまつてからは、何事があつたとも知られて居ない。華やかなりし天平時代の歌壇は、以上を以つて終つたに等しいのである。
 天平時代の歌壇を大觀するに、前半は、大伴旅人、山上憶良、山部赤人、笠金村、高橋蟲麻呂等の老大家の晩年時代で、後半は、新進の擡頭時代ともいふべく、比較的先輩に湯原の王、大伴坂上の郎女あり、これに市原の王、大伴池主、家持が數へられるのである。
 奈良朝初期の歌壇にあつては、歌が漸く個性を發揮するに至つたこと、前に述べた如くであるが、更に進んで天平の後半になると、いよ/\凡人主義が鮮明に描かれて來る。この時代の代表たる家持にしても坂上の郎女にしても、自己を描くといふ點に於いて進んで居る。家持の作品のうちでも、なほ時代を追うて彼の前半に於いては昔の人の手法を踏襲する遣り方をして居る。さうして(45)後となるほど自己が鮮明に描き出されて來るのである。
 天平時代の歌壇に於いて殊に注意すべき點は、都會の發達に伴ふ人の心の動きである。都會の中に生活する人々によつて作られた歌は、自然に親んでをつた人々の作品に比して大いに巧みを増してくるのである。こまか味を増して來る。したがつて以前のやうな、直に人に迫り來るやうな太い線はなくなるのであるが、これは、自然人から都會人への心の推移であつて、だん/\人の心が複雜に爲つてゆくことに起因してゐるのである。
 文學が文字に據るやうになつてから、文字を知る人によつて文學が殊に親まれる。かうなつてくると歌人の範圍が狹くなつてくるのもまたやむを得ないのであつて、天平時代から歌がだん/\とある一つの階級に限られてゆくやうになつて來て、朝廷に立つ官吏、きういふ人々の間に主として用ゐられた。文字を知らない人々からは、歌が閑却されることはやむを得ないことである。さうして奈良朝の後期に勃興して來た漢文學によつて壓倒せられて、歌は漸くその影が薄らいでゆくのである。
 
       七 湯原の王
 
(46) 湯原の王は天智天皇には皇孫に當り、志貴の皇子の王子で、光仁天皇の皇弟に當る。子として壹志濃《いちしの》の王等のあることが知られるだけで、この世を去られた年も何時であるかまだ知られてゐない。
 湯原の王の歌は卷三に三首、卷四に六首、卷六に三首、卷八に五首、、合せて十七首見えてゐる。これらの歌の製作年代は審でないが大體天平の初年の歌の中に伍してゐる。今その一二を擧げて見よう。
  芳野なる夏實《なつみ》の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる、山陰にして(卷三)
 いかにも物靜けさを見透した歌である。而してこの歌の表現技術が、直叙法によらずして第四句で切り、第五句は回顧の手段に出たのは、萬葉集でも新しい時代の作者としての特色がある。
  彦星《ひこぼし》の思ひ坐すらむ心ゆも見る我くるし夜の更けゆけば(卷八)
 天上の戀をたゞ見てゐるに堪へやらずして、作者自身も焦燥の心を起してゐる。大陸渡來の傳説をその儘直譯した前時代の作に比して、一層自分等の生活に引きつけて解釋してゆくところに、萬葉での新人としての態度が見える。
  玉にぬき消たす賜《たば》らむ秋芽子《あきはぎ》のうれわわらはにおける白露(卷八)
(47) 秋芽子の長い枝の上にはら/\置いた露を散らさずに賜らむといふ、觸《ふ》らば消《け》なむとする玉笹の霰のやうな、ものはかなさを喜ぶ都會人の情緒がこの作者にはあつたのである。而してこの傾向は、平安朝時代の歌の繊細な趣味にのみ落ちた先蹤を爲すもので、歌史の上から最注意すべき事項である。萬葉集に於ける新人の歌風を代表するものとして注意すべき一作者であることを思はせる。
 
       八 大伴家持
 
 あまたの氏族、土地と部民とを私有してゐる事に不便を感じた天智天皇の改革は、當然それらの氏族をして經濟上並に權勢上に於いて不安を感ぜしめた。天智天皇の朝廷に對して不平を抱いた舊族の有力なものは、大和の國を根據地としてゐたので、天智天皇はこれらの勢力から生ずる壓迫を避くる爲に近江に遷都せられたものと論ぜられる。壬申の亂が起るに及び、主として大和に蟄伏してゐた氏族が大海人《おほあま》の皇子に應じたのは、一旦政治の中心から遠ざけられた身を再引き戻すべき手段であつた。大海人の皇子が愈兵を擧げて東國に入つた時に、大和の國に於いて兵を集めてこれに應じたのは、大伴連|吹負《ふけひ》であつた。さうして吹負は美濃の不破の營に、その甥大伴安麻呂等を遣し(48)て事の状を奏せしめる。大海人の皇子大いに喜び給うて吹負を將軍に拜した。この時に使となつて行つた安麻呂が大伴家持の祖父に當る。
 壬申の亂に殊功を立てた大伴氏は、天武天皇の朝廷に非常な寵遇を受けた。かくて大伴氏は新建の功と祖先以來の武族の名譽とを擁して大いに榮えた。その子孫は屡將軍ともなりて兵力に親むやうになつた。
 安麻呂の子旅人の代になつて、なほ在來の惰力によつて將軍となり武臣として身を立てたが、それにもかゝはらず旅人は文學に耽溺した好風流人であつた。旅人一代はともかくも無事に終るが、その跡を紹ぐ家持は、新功を以つて父祖の遺勲を修補せねばならなかつた。
  ますらをは名をし立つべし、後の世に聞きつぐ人も語り繼ぐがね
 彼は祖先の武名を慕ひ、家名を墮さずに保持して行かぬばならぬ。
 大伴家持は旅人の子。父の旅人薨後は、主として叔母の大伴坂上の郎女に育てられたので、その歌の趣味は、旅人と坂上の郎女との二人から來て居るのである。けれども歌人としての家持の生涯は旅人歿後數年に始るので、旅人の生前は幼年であつた爲にまだ歌道に入らなかつた。長ずるに從ひ、古人の歌、殊には父旅人卿の歌詠を慕しく思ひ、又叔母大伴坂上の郎女が人と贈答する歌など(49)を見聞して自分も歌を作るやうになつた。天平十八年に始めて京を離れて越中に赴任してからは殊に作歌に勉勵し、長歌の作をも屡試みて段々上手になつて行く。萬葉集十八の卷までの作は、作歌上に於ける第一期とも見るべきであつて、措辭の拙劣にして意の通らぬも少くない。この間に於いて、彼は家持以前萬葉集から多大の利益を受けてゐる。二三句位づゝを取つて自作の歌に借り用ゐてあるのは、枚擧に遑が無い。すべてが模倣の作である。併し絶間なき練習は、遂に家持をして歌人としての地位を確保せしめるやうになつて來た。十九の卷に入る頃は、慕v振2勇士之名1歌とか、追2和葦屋處女墓歌1とか、題意に於いては、なほ前萬葉集に次ぐ意味の歌が多いが、詞句は既に模倣の域を脱して、やうやうわが思ふことを自由に述べるやうになつた。
 越中守より兵部少輔に轉じたのは彼の悲の始であつた、けだし榮轉の喜を抱いて京に還つた彼の前に、暗黒なる運命の手は伏せられてあつた。彼は職としてまづ防人《さきもり》の哀別に接せぬばならなかつた。それにしても家持は、武族の出ながら不幸にも歌を學んだ。身やゝ病多きこの武人はかくて多感多情の人であうた。彼は防人をあはれむ歌を作る。防人に代つて悲哀を述ぶる歌を作る。出征を厭ふ漢文學の影響を受けた時代思潮とは云ひながら、武人としての生涯はそも/\末である。武族の中心たるべき身からしてこれを見れば、大伴氏の武運ももはや末に近かつたのである。
(50) 奈良朝の昌運は聖武天皇の御代に於いて極る。その晩年に於いては、諸國の國司の京に在留せるものも多く見えて早く次代の紊亂の徴を示してゐる。天平勝寶八歳五月、先帝聖武天皇崩じいまだ旬日ならざるに、大伴古慈悲、淡海三船は朝廷を誹謗せし罪に依つて左右衛士府に監禁せられる。これは間もなく許されたのであるが、この間大伴氏の族に不平の音々成す者もあつたと見えて、家持は六月十七日に至つて、族を諭す歌を作つて、無事を願ひ家名を傷けざらむ事を祈つてゐる。翌天平勝寶九歳正月に前朝の執權橘|諸兄《もろえ》が薨ずると、紫微内相となつた惠美押勝の專横が漸く露骨となつて行つた。
 主として押勝を除き、やがては帝王擁立の功を收めようとした橘奈良麻呂の叛に、多く大伴佐伯の氏の人々の同じたのは、押勝の武族壓迫に對する反抗に基く。奈良麻呂の亂に大伴氏の人々多く失脚してしまつたに拘はらず、家持ひとり幸に身を全くするのを得たのは、實に押勝との姻戚關係があるからであると思はれる。
 天平寶字元年、橘奈良麻呂の亂に際して、胡麻呂《こまろ》、古慈悲《こじひ》、駿河麻呂《するがまろ》、兄人《えびと》、池主《いけぬし》等、大伴氏の名士多く罪に落ち、藤原豐成また右大臣より大宰員外帥に貶された中にあつて、家持はこれに連座せずして、却つて兵部大輔より古中辨の榮職に轉じてゐる。
(51) しかし押勝の世も長くはなかつた。寶字七年ごろから、弓削道鏡が代つて寵用せられるやうになり、やゝその勢威を失つた。八年九月近江に走り、ついで湖上に斬られる。その押勝の亡命と同年の正月、家持は兵部大輔從五位上よりして、正六位下相當の薩摩守に左遷せられた。押勝の誅に伏すると前後して、豐成は右大臣に復し、かつて押勝を斃さんと謀つた藤原良繼、佐伯今毛人、石上宅嗣の徒は悉く復活したにも係らず、家持ひとり海南の一隅、はやひとの薩摩の國に年月を送つてゐる。これ押勝の失勢に伴つて、道鏡の一睨を蒙つたものであらう。四年を經て神護景雲元年に大宰少貳には遷つたが、光仁天皇の御代になるまではなほ九州の地にさすらひの身となつてゐたのである。光仁天皇が即位せられてからは官位も次第に進み、即位の年なる寶龜元年十月には二十一年振で正五位下となり、翌二年十一月には從四位下に昇敍せられた。かくて從三位參議兼左大辨で春宮大夫を兼ねるに至つたが、延暦元年〔二字傍点〕再|氷上眞人川繼《ひがみのまひとかはつぐ》の叛に座するを以つて官位を除かれた。これも同年五月には赦されて原官に復し更に中納言兼春宮大夫となり持節征夷將軍となり、延暦四年八月を以つて薨じた。しかも續日本紀は從三位の高位にあつた彼の長逝を記するに死と記す。彼が長逝してまだ葬られず、二十餘日の時、族人大伴繼人竹良等は長岡の新造宮の處に於いて中納言藤原種繼を射殺した。繼人竹良等は次いで誅せられ、事家持に關すとして彼は官位を奪はれたのであつ(52)た。この事、實は皇太子|早良《さはら》の親王の意に出でたものであつて、やがて早良の親王を廢せらるゝに至つた。皇位の事よりして藤原氏と大伴氏とは爭ふ形となつた。春宮大夫なる家持が死して僅にして早良親王が廢せられるやうになつたのは、家持がなほ生前には若干の侮るべからざる勢力を有してゐた事を示すものである。家持等は罪を被つたけれども、實は罪あるのではない。後に至りて子永主等と共に位を復せられるに至つた。
 かくの如く家持は屡左降の運に接して、しかもその罪が重からず、幾《いくばく》もなくして回復し得て居るのは、何時の事件にも彼が中心人物とならなかつた事を示すものである。これは彼が名族の正統であるといふ自重に基くものであらうが、同時に彼の才の華々しきものでなかつた事を語つて居る。遠つ世の大久米主より榮え來しわが族の日々に亡びゆくを見て、どうする事も出來なかつた。彼の力は、次第にうすれ行くものゝ光である。たゞ歌人として不朽の名を留めえたのをせめてもの慰とせねばなるまい。この點に於いて彼の名は鎌倉右大臣の名を想起せしめる。一旦彼の手を經過した萬葉集が偶然ながら後世に殘つて、日のもとつ國の寶ともいふべき地位に立つことを得たのは、彼に於いて瞑すべき點である。
 
(53)   萬葉集歌人の研究 土屋文明(略)
(73)   萬葉集短歌聲調論 齋藤茂吉(略)
(125)   萬葉假名の研究 森本健吉(略)
(147)   萬葉集時代の社會状態 西岡虎之助
 
(1)   萬葉集 卷第一
 
(3)   卷第一概説
        
          武田祐吉
 
 萬葉集二十卷のうち、卷一は、卷二と共に、二卷で一つの纒まつた形を成してゐる。それはこの二卷で、萬葉集の分類の三大眼目である、雜歌・相聞・挽歌の三を具備すること、この二卷だけは、何々宮御宇天皇代の標目を設けて、その御代の歌をその下に採録してあること等で、かやうに見られるのである。それでこの二卷だけが、古い撰であらうといふ説も出、またこの二卷だけが勅撰であらうといふ説も出てゐるのである。
 内容は、初に雜歌といふ標目があり、相聞及び挽歌にあらざる歌を收めてある筈であるが、實際には相聞の歌と見るべき、額田の王と皇太子との贈答の歌(二〇・二一)等を含んでゐる。大體、旅行・遊覽・献頌等の内容の歌が中心になつてゐる。
 まづ何々宮御宇天皇代の標目を掲記して、その下にその御代の歌を收めてあること、前述の通りであるが、それも、藤原宮御字天皇代として、持統文武兩帝の御代の歌を掲げ、なほ續いて、元明(4)天皇の和銅五年の歌に及び、その次には、たゞ寧樂宮とだけ掲記して、一首の歌を收めてゐる。題詞のもとに、何首と歌數を擧げないのは、この卷だけの特色である。
 歌の時代は、古きは雄略天皇の御製から、新しきは、奈良朝の初の、長皇子の御歌まである。萬葉集の歌の時代は、古きは仁徳天皇の御代の歌からであつて、これは卷二と卷四とにあり、卷十三には允恭天皇の皇太子の御歌と傳ふるものがあるが、卷一の卷頭にある雄略天皇の御製は、古きに於いてこれらに次ぐものである。又新しい方では、萬葉集の歌は、奈良朝の三分の二ほど經過した淳仁天皇の御代の歌まであるのだが、これに對すれば、卷一は奈良朝の初期の歌までであつて、しかも奈良朝に入つてからの歌は數も少いのである。萬葉集の歌は、大體、奈良朝以後のが、數に於いて多數を占めてゐるのであるから、卷一の歌は、集中にあつては、まづは古い時代の歌に屬するのである。
 卷一には長歌と短歌と併せて八十四首を收めてゐる。旋頭歌は一首も無い。今これを時代分けにすると、次の通りである。
   雄略天皇の時代       長一。
   舒明天皇の時代       長三。短二。
(5)   皇極天皇の時代       短一。
   齊明天皇の時代       長一。短七。
   天智天皇の時代       長二。短四。
   天武天皇の時代       長二。短四。
   藤原の宮の時代(持統・文武)長七。短四六。
   奈良の宮の時代       短四。
 右の時代分けには、藤原の宮から奈良の宮に移る時の歌を、しばらく藤原の宮の時代に入れておいた。この表でも分るやうに、大體、古い時代の歌には割合に長歌が多く、藤原の宮時代以後は、短歌の多くなつてゐることが知られる。なほ卷一にも目録があつて、古寫本には目録の最後に、志費皇子御歌の一行があるが、今日、本文にはその御歌は傳つてゐない。
 右の表に擧げた通り、長歌は十六首ある。この中、反歌を伴つてゐるのは十首で、六首は反歌を伴はない。一首の形式も、大體、短句長句の二句の連續したものが單位となつて進行してゐるが、いまだ五音又は七音の句になつてゐないものも多い。また結末も、必しも五七七と止めずに、五三七その他、變形のものも多い。これは長歌形式が動搖しつゝ、漸次五七……五七七の普通の形に落(6)ち着く經路を示してゐるのである。元來、萬葉集の歌は、節をつけて口々に歌はれたものから、文筆に上せられる歌に變つてゆく時代を含むのであるが、卷一の歌は、古いものは、大歌と云つて宮廷で宴會等の場合に、樂器に合せて演奏せられたものと認められる歌があり、それから順次文筆的に移つて行く傾向を有してゐる。それで歌の内容も、おのづから明るく輕快に、讃稱する氣分に富んでゐる。雄略天皇の御製(一)、舒明天皇の御製(二)、天武天皇の吉野に於ける長歌短歌の御製(二五・二七)の如きは、かやうな大歌としての素質を多量に有してゐるものである。
 格調も、おのづから調子よく出來てゐるものが多い。同音を利用することも、各種の行き方があるのは、謠ひものとしての性質を失はずにゐるからであらう。例へば、
 頭韻の歌
  よ〔右○〕き人のよ〔右○〕しとよ〔右○〕く見てよ〔右○〕しと云ひしよ〔右○〕し野よ〔右○〕く見よよ〔右○〕き人よ〔右○〕く見つ(二七)
 腹韻の歌
  綜麻縣《へそがた》の林のさきのさ野榛の衣に著く〔二字右○〕なす目につく〔二字右○〕わが夫《せ》(一九)
 脚韻の歌
  わが夫子《せこ》はいづく行くらむ〔二字右○〕沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ〔二字右○〕(四三)
(7) 同音連續の歌
  いざ子ども早く大和へ大伴の三津の濱松待〔三字右○〕ちこひぬらむ(六三)
 枕詞・序詞等の修辭法も、比較的多く使はれてゐる方であらう。
 題材は、宮廷關係の歌多く、天皇・皇子・諸王の歌があり、然らざるものも、多く行幸・御幸の際の歌、もしくは皇宮・皇都を讃稱した歌である。かやうな點も、この卷が天皇の勅命に依つて撰せられたものであるといふ勅撰説の一根據になつてゐるのである。
 卷中の注意すべき歌としては、まづ、天皇の御製に仰ぐべく尊むべき御歌が多い。中にも雄略天皇の御製(一)には、春光和煕たる中に、岡の邊に若菜を摘む孃子に對せられた古代帝王の御姿が寫され、舒明天皇の御製(二)には、大和の國の、人事と自然と併せた美しさが嘆稱せられてゐる。天智天皇の御製(一三−一五)も、古傳説を取り扱はれて、趣の深い御歌といふべきである。作家としては、額田の王と柿本人麻呂とに注意したい。額田の王は、天智天皇の近江朝時代を中心としてその前後に及んでゐる方であるが、萬葉集中でも婦人作家として重きを爲してゐる。長歌には、春秋の優劣を判ずる歌(一六)、近江の國に下られる時の歌(一七・一八)等いづれも優れて居り、短歌にも婉麗な作品に富んでゐる。柿本人麻呂は、卷二以下にも傑作を殘して居るが、卷一に於ける、近江の荒れたる(8)都を過ぎし時の歌(二九−三一)、吉野の宮に幸せし時の歌(三六−三九)、輕の皇子が騎蹄の野に宿られし時の歌(四五−四八)の如き、その生涯の作中でも有數の作品で、これを除くわけに行かぬ。その他、無名氏の作にも、藤原の宮の役民の歌(五〇)、藤原の宮の御井の歌(五二・五三)の如きは、千古に傳ふべき傑作であつて、萬葉集中の代表作ともいふべきものである。以上の外にも、なほ優れた作品が少くないから、讀者は宜しく注意して看過せぬやうにするを要する。
 本卷の編者は未詳といふ外は無い。本卷にも、原撰と續撰とがあるらしく、さりとてどれだけが原撰であらうとも、いまだ云ひ難い所である。なほ本卷には、詳細なる參考記事を左註として附するものあり、たゞに歌の理解上に有益なるのみならず、各方面に重要なる資料となつてゐる。すなはちその中に引用せる日本紀の文は、現存の日本書紀と、年紀に一年の相違があり、類聚歌林の文は、散佚せるこの書の面影を窺ふべきもの、殊に萬葉集の本文と類聚歌林とに、作者の所傳の相違せるもの多きは注意すべきである。又、左註の中には舊本の文字があつて、これは萬葉集の成立の研究に重要なる資料となる。
 卷一の文字使用法は、漢字をその本來の内容通りに用ゐて訓讀せしむるものと、これを單にある音として用ゐるいはゆる萬葉假字としての用法とを混用してゐる。義理を以つて讀ましめるもの(9)は、さして多くは無いが、往々にしてある。萬葉集中隨一に難訓の歌として知られる莫囂圓隣之(九)の歌も、多分義讀の法に依つて書いてゐるのであらう。また本卷の、文字使用法中には、やゝ新しい用法と思はれるもの、例へば柿本人麻呂の歌(四五)に小竹を四奴と書くべきを、四能と書いてゐるものなどあるは注意すべきである。
 傳本としては、元暦校本が一番古く、神田本がこれに次ぐであらう。傳冷泉爲頼筆本も注意すべき本である。註釋書は、初卷であるだけに澤山あつてほとんど枚擧に遑なき有樣である。
 
(1)   目次(略)
 
(1)   萬葉集 卷第一 武田祐吉
 
(3)   雜歌《ざふのうた》
 
【標目】 ザフノウタ・ザツカ、又はクサグサノウタと讀む。相聞(人に訪れを爲し又答へる歌)挽歌(葬式に用ゐる歌)等の他の部類に入らぬ雜多の歌を集めたといふ意味である。雜歌の標目は、なほ卷三・五・六・七等にもある。一體卷一から雜歌を載せてゐるといふのは、編纂法としては不(4)審である。又古寫本には、この雜歌といふ標目の無い本もあつて、或はその方がもとの形であるかもしれない。
 それで卷一には、雜歌を八十四首集めてあるが、中には、相聞の歌と見るべきもの、例へば額田の王と皇太子の御歌(二〇・二一)の如きも入つてゐる。この雜歌の標目は、卷一全卷に亙る標目であつて、この次に何々の宮に天の下知らしめしし天皇の御代といふ小標目を掲げて、その次に歌を載せてあるのである。
 
   泊瀬《はつせ》の朝倉《あさくら》の宮《みや》に天の下知らしめしし天皇《すはらみこと》の御代 大泊瀬稚武《おほはつせわかたけ》の天皇《すめらみこと》
 
【標目】 泊瀬朝倉《はつせあさくら》の宮《みや》は、雄略天皇の宮室で、大和の國磯城郡にあつた。古代は天皇御一代毎に皇居が移つたので、その皇居の地を擧げて、いづれの天皇であるかを明にするのである。ここは前代の天皇であるから、「天の下知らしめしし」と過去に云ふ。知らしめすは、統御せられる意である。御宇の二字をかく読むのである。御宇はまた馭宇・御寓と書く場合もある。分けて云へば、宇は宇宙天下の義、御は統御の義である。しらしめしし〔六字傍点〕は、又ヲサメタマヒシ等とも讀む。又ラがロに轉じてシロシメシシとも讀んでゐる。すめらみことは、統治せらるる主體、即ち天皇の御事である。
 さて、泊瀬朝倉《はつせあさくら》の宮《みや》に天の下知らしめしし天皇とは、雄略天皇の御事で、そのお方の御代といふ標目(5)で、この下にある歌が、その御代の歌なることを示したのである。かやうに何々天皇の御代といふ標目を掲げて、その御代に屬する歌を列記してあるのは、卷一と二の兩卷のみで、卷三以下には及んでゐない。雄略天皇を、大泊瀬稚武《おほはつせわかたけ》の天皇《すめらみこと》と申すは、當時漢風の謚號を上つてゐないから倭風の御名を以つて申し上げたのである。
 
   天皇御製の歌
1 籠《こ》もよ み籠《こ》持《も》ち 堀串《ふくし》もよ み堀串《ふくし》持ち この岡に 菜摘ます兒 家聞かな 名|告《の》らさね そらみつ 大和《やまと》の國は おしなべて 吾《あれ》こそ居《を》れ 敷きなべて 吾《あれ》こそ坐《を》れ 吾《あれ》こそは 告《の》らめ 家をも名をも
 
【題意】 ただ天皇とのみあるが、泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめしゝ天皇の御代の標目の下にあるから、直に雄略天皇の御製の歌であることが知れる。天皇が、春の日に岡のほとりに菜を摘んでゐる孃子に、歌ひかけられた御製である。
 御製は支那で皇帝の製作に使つてゐる文字で、日本でもこれを踏襲して、天皇の製作にいふ。御製歌を國風には、オホミウタと讀む。世上往々御製といへば、天皇の大御歌と解してゐるが、御製ではお作りになつたものといふだけ、備《つぶさ》には御製の歌といふべく、御製の書、御製の詩等の如き用法も存するのである。
(6)【口譯】 籠《かご》、よいお籠《かご》を持ち、掘る串、よい掘る串を持つて、この岡に菜を摘んでいらつしやるお娘《こ》さん。お宅《うち》はどちらですか。お名をお聞きしたい。この大和の國こそはすべて私の領地です。どこもがわたくしの家です。さうです、私こそは申しませう。家をも名をも。
【語釋】 ○籠もよみ籠持ち こ〔傍点〕はかご〔二字傍点〕の古名で、竹で編んだもの。もよ〔二字傍点〕は感歎の意を表した助詞で、古事記上卷に「吾《あ》はもよ女《め》にしあれば」、日本書紀に顯宗天皇の御製の歌に、「置目《おきめ》もよ淡海《あふみ》の置目《おきめ》明日《あす》よりはみ山がくりて見えずかもあらむ」等の用例がある。この顯宗天皇の御製を古事記には初句置目もや〔二字傍点〕としてあるので、もや〔二字傍点〕とも云ふことが知られる、卷二、「吾《あ》はもや安み兒得たり皆人の得がてにすとふ安み兒得たり」(九五)の用例もある。ここは稱美する意の接頭語。籠もよ〔三字傍点〕といふは、まづ作者が籠に目を附けた氣持を表して、籠の一般性を云ひ、その中でも特によい籠を持つていらつしやると云はうとして、次にみ籠持ち〔四字傍点〕とつけられたのである。次の句の「掘《ふ》串もよみ掘串持ち」も同じ關係を表してゐる。○掘串 根を刺し切つて菜を採るに用ゐる箆《へら》の事である。木製も竹製も堀串《ふくし》と云ひ、金屬製のものはカナフクシ(※[金+讒の旁])と云ふ。○み掘串持ち ミフクシモチ又ミブグシモチ兩者に讀む説があるが、ここでは前者を用ゐる。前のみ籠持ちと同樣の句である。○菜摘ます兒 摘ますは敬意を表する語法である。摘むが、摘ます。告るが、告らすの如く、サ行四段活用になるのである。兒は親愛の情を表していふ語で男にも女にも使ふが、ここは菜を摘む、家や名を問ふ等の事柄から女兒と推定される。しかし相當の年齡に達してゐるであらう。○家(7)聞かな 原文には家吉閑〔三字傍点〕とある。これを家告閉〔三字傍点〕の誤としてイヘノラヘ、又は家告勢〔三字傍点〕の誤としてイヘノラセと讀む説もあるが、誤とせずに、家吉閑〔三字傍点〕の儘で、イヘキカナと讀むが宜からう。な〔傍点〕は自分がかうしたいといふ希望を表はす助詞で、自分が聞きたいと思ふ情を表してゐる。「梅の花咲きたる苑の青柳を鬘《かづら》にしつつ遊び暮らさな」(卷五、八二五)等の用例がある。○名告らさね 告《の》らさ〔二字傍点〕は、告る〔二字傍点〕から轉じた語で、前の摘ますと同じく敬意を表すもの。ね〔傍点〕は他人の行動について希望する辭で、先方にかやうにして欲しいと望む意を表す。前のな〔傍点〕が自分の希望を表すに用ゐられるのに對してゐる。卷五に「汝が名告らさね」の用例がある。此處までで第一段で、孃子に對して問を起されたのである。○そらみつ 大和《やまと》の枕詞である。日本書紀には、饒速日《にぎはやひ》の命が、天の磐船《いはふね》に乘つて、天から見下して大和の國に降りて來たから、それより虚空見つ大和といふと起原傳説が見えてゐる、一概には信じ難いが、さりとて全然顧みる價値が無いとも云はれない。枕詞にはかやうな神話關係のものが多いらしい。ソラニミツとニを入れて讀んだ例は、(卷一、二九)に天爾滿と書いたのが唯一つある。○大倭の國は やまと〔三字傍点〕は大和の國の一部の地名から起つて、大和の中央部の意にも、大和一國の意にも、本洲の名にも、日本國の意にも樣々に用ゐられる。ここでは此の岡を中心とした大和の一國を漠然とさしたものと思はれる。文字は古くは山跡・倭・大倭の字を用ゐ、奈良朝時代には一時大養徳を用ゐたこともあり、更に大和の字に定つた。○おしなべて 總じての意。押し並べての意で、押しは力強くする意の接頭語である。○吾 アレ・ワレと二通りの讀み方がある。アレの方が古いやうであるから、アレを用ゐる。○敷きなべて 敷くは一面に敷き行はれる意。しかし(8)此處では押しなべての押しと同樣に單に接頭語として使はれてゐる。○吾こそ坐れ 坐〔傍点〕をヲルと讀む。これはこの書にも他に用例がある。以前はワレコソマセと讀んでゐた。坐せは敬語であるが、天皇みづから敬語を用ゐる例は、日本書紀の雄略天皇の御製に、「鹿《しゝ》待つと吾がいませば、さ猪《ゐ》待つと吾が立たせば」等の例があり、差支へは無いやうなものの、前の句と對しても居れと讀んだ方が古意のやうに思はれる。○吾こそは告らめ 自分こそは名告りをしようよの意。告目〔二字傍点〕とある本に依つてアレコソハノラジと讀み、否定する意にも説いたこともある。これは前段の意から帝王であることを明にせられた以上、家や名を名告らうでは恐らく意義をなさないと思つたからであつた。今はしばらく普通の訓に復しておく。
【後記】 孃子《をとめ》に對して、家や名を告れといふことは親密な關係を聞かうといふ意味をあらはしてゐる。孃子の方では、名を人に告げることは、その人に從屬する氣分をも表すものである。上代に、雄略天皇が路傍の孃子に歌を詠みかけられた話は、古事記にも見えてゐるが、この歌はまた天皇の御性格の物に滯らない明るさを語つてゐる。いかにものぴやかな古風な味が貴いのである。
 孃子に名を問ふ歌の例は、
  丹比眞人《たぢひのまひと》の歌
  難波潟潮干に出でて玉藻苅る海孃子《あまをとめ》ども汝が名|告《の》らさね (卷九、一七二六)
(9)  和《こた》ふる歌
  漁《いさり》する人とを見ませ草枕旅行く人にわが名は告らじ (同、一七二七)
 この歌は、二段から成つてゐる。前段は、家聞かな名告らさねまでが第一段である。この段は、娘子に物を問ひかけられた文意であるが、まづ最初に、その孃子の描寫をしてゐるのは、全體の空氣を和かなうるほひのあるものとする意味でも甚効果が多い。さて第二段に入つて、作者目身の上を明にして、みづからこの國の帝王であることを明にせられたのは、ずつと引き立つて壯大になつて來る。
 全體の内容は、無論壯重なる意義を有するもので無くして、優雅な親まれ易い氣分に中心があることは明であるが、それにしても天皇の御製としての尊さ、悠揚たる調子が出てゐる所は、よく味ふべきである。
 かやうな古代帝王の御製は、多く大歌として、宮中に於いて宴會などの折に、樂器に合せて演奏せられて傳來したものであるが、この歌も亦、さやうな傳來を有してゐたのであらうと思ふ。全體の調子が、路傍の孃子に親しく御言葉をお懸けになつたことを、幾分興味的に、大きな形になして再現遊ばされたやうな所が存するのである。對手の孃子の有樣を描寫せられた(10)點、この國の帝王である旨を明にせられた點、さういふ所に、さやうな性質が感じられる。
 
   高市《たけち》の岡本《をかもと》の宮《みや》に天の下知らしめしし天皇《すめらみこと》の御代 息長足日廣額《おきながたらしひひろぬか》の天皇《すめらみこと》
 
【標目】 高市の岡本の宮は、舒明天皇の宮室で、以下に掲ぐる歌は、すなはち舒明天皇の御代の歌である。天皇の御製の歌以下長歌三首と、その反歌とを載せてゐる。高市の岡本の宮は、大和の國高市郡にあつた。息長足日廣額の天皇とは舒明天皇の國風の御稱である。
 
   天皇《すめらみこと》 香具山《かぐやま》に登りて望國《くにみ》し給ひし時 御製の歌
2 大和には 群山《むらやま》あれど とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》 登り立ち 國見をすれば 國原《くにばら》は 煙《けぷり》立《た》ち立つ 海原《うなばら》は 鴎《かまめ》立ち立つ うまし國ぞ あきつ島 大和の國は
 
【題意】 舒明天皇が、大和の國の香具山にお登りになつて、國内を御覽になつた時の御製の歌である。香具山、天の香具山ともいひ、今奈良縣磯城郡に屬する。小さい山であるが、古く神の降り著く山として尊重せられてゐた。
(11)【口譯】 この大和の國には、澤山の山々があるけれども、とりわけて見事なこの天《あめ》の香具山《かぐやま》である。今、その山に登り立つて國見をすると、國の廣い所には煙があちらにもこちらにも立ち昇つてゐる。埴安の池の水の面には水鳥がそここゝに舞ひ立つてゐる。立派な良い國であるなあ、この大和の國は。
【語釋】 ○群山 澤山の山々をいふ。大和の國は四方山々に取り圍まれてゐる。○とりよろふ 取り〔二字傍点〕は他の動詞と熟語となつて、その意味を強める接頭語である。よろふ〔三字傍点〕は整ひ具はる意で、山としての條件を持つた美しい山と、香具山をほめる語である。山としては姿の美しさ、樹林の鬱蒼美、神聖なる神話の存在等が、その山の(12)尊さを増す所以になるであらう。○天の香具山 天の〔二字傍点〕の天〔傍点〕は、古くはアメと讀むのが通例で、天の原、高天の原等アマと讀むのは、特別の慣習あをものに限られてゐる。但し中古時代には、アマノカゲヤマと讀んでゐた。此の山は神事に關係の深い處から天の〔二字傍点〕を冠するのであらう。天の〔二字傍点〕は神聖なる、壯美なる等の意を表す場合に使はれてゐる。○國見 其の年の耕地を選擇する爲、高い所に登つて見ることから始つた語で、轉じて眺望の義に使ふ。この御製のは、國情視察の義があるであらう。○國原 國土の廣く平らな處をいふ。原は陸上に限らず平らな廣い所をいふ。○煙立ち立つ 人家の炊煙が所々方々に上る事、すなはち、民のかまどの賑はひをいふ。立ち立つ〔四字傍点〕と同一の動詞を重ねるのは、その事が引き續いて行はれるをいふ、雨の降り降るなどいふ。○海原 香具山の麓にある埴安《はにやす》の池の廣い水面。昔は大和の國の中央部に大きな湖沼があつたやうである。○鴎 かまめ〔三字傍点〕は今日の鴎であるといふ。しかしこの歌では、鴎そのものをのみ指さずに、水禽の舞ひ立つ美しさを印象的に表す爲にそのうちの一つで代表させたものであらう。實際の鴎が居たか居ないかはどうでもよいのである。○うまし國ぞ うまし〔三字傍点〕は食味の美味をいふ詞から轉じて、すべてのほめ詞に用ゐる。結構な國、良い國であるよといふ意。○あきつ島 現にこの世界にある美しい國土の意であらう。この國をほめた語で、そこから大和に冠する樣になつたのであらう。島は本來美しい土地で水に臨んでゐるやうな地形にいふ。水中に離れてある陸地、今日の島でなくても用ゐる。日本書紀に地名起原傳説として、神武天皇が掖上の〓間の丘にお登りになつて、内木綿《うつゆふ》の眞狹《まさ》き國なれども蜻蛉《あきつ》の臀※[口+占]《となめ》せるが如もあるかと仰せられてから出たといふ説話がある。
(13)【後記】 大和は萬葉集中の歌の最大多數の舞臺として常に歌はれてゐる。その國土を讃嘆せる歌としてこの舒明天皇の御製の歌を拜するを得るのは、誠に適切である。國土を讃嘆する歌は、古くから數々あるが大和の國を美《ほ》めた歌には次の如きがある。
 大和は 國のまほろば 畳《たゝ》なづく 青垣 山ごもれる 大和しうるはし (古事記、日本武の尊)
 正月元日讀歌
 そらみつ 大和の國は 神がらか 有りが欲しき 國がらか 住みがほしき 有りが欲しき國は 明つ島 大和 (琴歌譜、景行天皇)
 舒明天皇の御製は、二段から成る。前段は、鴎立ち立つまで。この段で主として客觀性の事實を描寫し、次の第二段で、作者の主觀を描かれる。この形式は、人間が外物に對して、まづ知覺に訴へ、然る後に更に希望、感想、推量、その他の複雜なる心理現象を起すことを形式化した最自然なる表現樣式である。されば古い長歌には、この形を用ゐたものが多い。
 まづ天の香具山を呼格的に呼び起して、その山に登られたことを叙せられる。國原は煙立ち立つは、民衆の繁昌し處を得てゐる状態を、炊煙の立ち昇つてゐることによつて具體的に叙せられ、海原は鴨立ち立つは、この國の自然の美しさを、水面を飛び交ふ水禽に依つて描かれて(14)ゐる。人事と自然との美を兼ねた大和の國の美しさを、僅にこれだけの句で描き出されてゐるのである。さうして此處に始めて、うまし國ぞといふ總評を下して來る。この評語が生きて來るのである。高地から見下した大和の國の美しさが、十分に感じられる傑作である。この歌は、前の歌と同じやうに大歌としての傳來を有してゐたのであらう。
 
   天皇 宇智野《うちの》に遊獵《みかり》し給ひし時 中皇命《なかつすめらみこと》間人連老《はしひとのむらじおゆ》をして獻《たてまつ》らせ給へる歌
3 やすみしし 我が大君の 朝《あした》には 取り撫で給ひ 夕《ゆふべ》には い倚《よ》り立たしし 御執《みと》らしの 梓弓《あづさゆみ》の 中弭《なかはず》の 音すなり 朝獵に 今立たすらし 暮獵《ゆふかり》に 今立たすらし 御執らしの 梓弓の 中弭の 音すなり
 
【題意】 舒明天皇が、大和の宇智《うち》野に、獵に行幸せられた時に、中皇命《なかつすめらみこと》が、間人連老《はしひとのむらじおゆ》といふ者をして獻上せしめた歌で、すなはち間人連老が作つた歌である。宇智野は大和の宇智郡の部内吉野川の下流で.今の五條町の附近である。
 中皇命は、ナカツスメラミコトと讀み、女性にして高貴の位置にあらせられた方をいひ、ここでは天皇の(15)皇后で、後に帝位につかれた皇極齊明天皇をいふ。中つ〔二字傍点〕は、天皇と天皇との間に直に御即位なさるべき方のない時に、皇后が天皇の中繼をなさる、その中繼の意から出た詞であらう。
【口譯】 わが天皇陛下の、朝には愛撫し給ひ、夕方は傍にお倚り立ちになつた.御料の梓弓の中弭の音が致します。朝獵に今お出掛けになると見えます。夕獵に今御出發になると見えます。御料の梓弓の中弭の音が致します。
【語釋】 ○やすみしし 天皇〔二字傍点〕の語を修飾する句であるが、語原は未詳である。古くは八方を統治せられる意から來てゐると云ひ、又安らかに統御遊ばされるからであるとする説もある。○我が大君 この大君〔二字傍点〕は、主上すなはち天皇陛下をさし奉る。これがおほきみ〔四字傍点〕の本義であつて、皇子や王にも用ゐるのは轉義である。○取り撫で給ひ 愛撫せられる。○い倚り立たしし い〔傍点〕は接頭語。立たし〔三字傍点〕は立つの敬意を表する時の語法で、終りのし〔傍点〕は過去を表す時の助動詞の連體形である。お倚り立ちになつた。弓の立ててある所へ天皇のお近づきになつた意。此の句は色々の讀みやうがある。一例イヨセタテテシと讀むと、弓をお傍にお立てになつたの意になつて、敬語があらはれてゐないことになる。○御執らしの 次の梓弓の修飾句である。み〔傍点〕は接頭語で、とらし〔三字傍点〕は取るの敬意をあらはした執らす〔三字傍点〕の活用で、名詞法になり、弓そのものを直ちにみとらし〔四字傍点〕、又はみたらし〔四字傍点〕ともいふ。大刀をみはかし〔四字傍点〕といふ類である。○梓弓の 梓の木で作つた弓。もとアヅサノユミノと中にノを入れてよんでゐたが、古事記日本書紀等には此の用法なく、全部アヅサユミ(16)ノとあり、ここもノを入れずに、アヅサユミノと讀むがよい。○中弭の 弓の上下を本弭《もとはず》末弭《すゑはず》と云ひ、中間を中弭といふので、弓又弓弦と矢とくひあふ所である。鳴弭と讀む説もあるがこれは字を直さなくてはいけないから惡い。又長弭で、弓の先が長いのだといふ説もある。○朝獵に 朝の御獵に。○今立たすらし 立つ〔二字傍点〕の敬語法立たす〔三字傍点〕に、根據のある推量の意の助動詞の添つた句である。
【後記】 この歌は中皇命の御歌か、間人連老の歌かといふ論がある。けれども中皇命の御歌ならば、題の作歌の字に御の字が必要であり、又間人連老が單に御使者に過ぎないならば、題詞に名を載せる事もないであらうといふ所から、これは中皇命の旨を奉じて間人連老が作つた歌と考へるのが穩當である。
 朝には夕にはと對句を用ゐ、朝獵に暮獵にと對句でこれを受けたのには、用意があることが分る。然しながら、一首の中に朝と夕と異る時間を並べたのは、今がいづれの時であるかを明にする事が出來ないといふ缺點がある。他の長歌にも、一首中に春と秋との風物を並べて叙したのもあるが、これも共に印象の集中が出來にくいといふ不利益がある。かやうな矛盾した内容のある對句の場合には、後の句に中心がある筈であるが、この歌は、反歌に朝露ますらむとあつて、實際は朝が中心になつてゐるやうである。
(17) 歌の形は、句數が偶數であつて、最古い形を存してゐる。さうして、對句を用ゐ、同句を繰り返して調子を整へてゐる點など、誠に歌ひものから來た氣分が濃厚で、悠々として迫らざる所がある。これも大歌としての傳來を有してゐたのであらう。
 
   反歌
4 たまきはる 宇智《うち》の大野《おほの》に 馬|雙《な》めて 朝蹈ますらむ その草深野《くさふかの》
 
【題意】 前の長歌の反歌《はんか》である。反歌とは長歌の後に附隨する歌を云ふので、大方は短歌であるが、「み吉野の瀧もとごろに落つる白浪、留りにし妹に見せまく欲しき白浪」(卷十三、三二三三)の如き旋頭歌《せどうか》(五七七、五七七の形式)の例が唯一つだけある。本來古代の長歌に、その末の部分がちぎれて獨立分灘すべき素質があつた所に、支那文學中、例へば荀子の反辭又小歌といふ如きものの影響をうけて、獨立したものである。長歌の内容に對してこれを補足し、その一部を繰り返し、或は別の方面から叙述し、作者の環境を叙する等の性質を有し、長歌に比して、一層詠歎の氣分を集中させる性能を有してゐる。少いのは一首から多いのは五六首に達し、ごく古い長歌にはこれはなく、比較的新しいものには毎歌にこれがついてゐる。ハンカと字音に讀むがよい。歌ひものの末節を歌ひ返したのから起つたのであるから、カヘシウタと讀め(18)ともいふ。長歌は朝夕の獵に御出掛けになる前の勇しい姿がよんであつたが、此の反歌は、愈々獵をなさつておいでになるその御樣子をうたつたもので、長歌の補足をなしてゐる。
【口譯】 大和の字智の大野原に馬を並べて、朝お蹈み遊ばしてでございませう、その草の深い野を。
【語釋】 ○たまきはる 内、命、世〔三字傍点〕等を修飾する枕詞である。語原未詳。魂の極まる〔五字傍点〕だといふ。○宇智の大野に 大和の宇智といふ所の大野原に。野は古くは今日のノにもあらず、ヌにもあらざる別種の音であつたと云はれてある。それで從來ヌの假名で表してゐたが、これはむしろノに近いものであるから、今はやはりこの類の假字をすべてノで表すこととした。○馬雙めて 午を雙《なら》べて。多くの騎馬で獵をせられるからかくいふ。○朝蹈ますらむ 蹈ます〔三字傍点〕は、蹈む〔二字傍点〕の敬語。らむ〔二字傍点〕は、推量の助動詞。この語で作者が狩獵の現場でなく、中皇命の御座所にあることが分る。朝は、長歌の朝夕の朝のみを持つて來たもの。長歌の夕べは語調の上からつけて云つたので、本當の時刻は朝であつたのであらう。○その草深野 宇智の大野原の草の茂つてゐる所。季節は何時とも知られない。狩獵は多く冬から春にかけてもするが、夏にもすることがある。
【後記】 草の深い大野原を、馬を並べて獵をせられる情景が、髣髴として描かれてゐる。初句に枕詞を用ゐたのも、歌の調子を莊重ならしめる効果がある。四句で一寸息を切つて、その草深野と、野原の景を叙して推量の行き届いてゐることを表してゐる。
 
(19)   讃岐《さぬき》の國|安益《あや》の郡《こほり》に幸《いでま》しし時 軍《いくさ》の王《おほきみ》山を見て作れる歌
5 霞《かすみ》立つ 長き春日《はるび》の 晩《く》れにける わづさも知らず 群肝《むらぎも》の 心を痛《いた》み ※[空+鳥]子鳥《ぬえこどり》 うら歎《な》き居れば 珠手繦《たまだすき》 懸《か》けの宜しく 遠つ神 吾が大君の 行幸《みゆき》の 山越す風の 獨|居《を》る 吾が衣手に 朝夕《あさよひ》に 還《かへ》らひぬれば 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《あれ》も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る 手段《たづき》を知らに 網《あみ》の浦の 海孃子《あまをとわ》らが 燒く鹽の 念ひぞ燒くる 吾《あ》が下情《したごころ》
 
【題意】 舒明天皇が讃岐の國の安益《あや》の郡に幸せられた時お供をした軍の王が作つた歌である。
 天皇の讃岐行幸の事は歴史には見えないが、十一年|伊豫《いよ》の温湯《ゆ》の宮に行幸あらせられた時、往還の途次、讃岐の國安益の郡に寄られたのであらう。安益の郡は阿野《あや》(綾)、すなはち、今日の香川縣綾歌郡の北部である。
 作者軍の王は未詳の方である。古語に將軍をイクサノキミ、大將軍をイクサノオホキミと云ふから、或は其のイクサノオホキミ、すなはち大將軍某の意であるかもしれない。
(20)【口譯】 長い/\春の日の、暮れはてゝしまつたとも知らずに、心がつらく、人知れず泣いてゐると、わが天皇陛下のおいでになつてゐる山を越す風が、獨でゐる自分の着物に朝夕に飜るので、その歸るといふ詞は思つても樂しい事ではあるが、立派に男一人前だと思つてゐた自分も、旅先きの事ゆゑ、ちやうど網の浦の海人の孃子が燒く鹽のやうに、物思ひ焦れる事だ、この自分の本心が。
【語釋】 ○霞立つ 春〔傍点〕の枕詞である。然し一方其の時の情況を説明してゐるので、普通の枕詞とは異る性質を有してゐる。○わづきもしらず わづき〔三字傍点〕は他にない語故、づ〔傍点〕は餘分な字でわき〔二字傍点〕すなはち分き、分別の意とする説と、たづき〔三字傍点〕の誤、すなはち手段《たづき》、手著であるとなす説とがあつてはつきりしないが、此の集のみに唯一語ある例もある所から、やたらに修正はしない方がよいので、やはりわづき〔三字傍点〕の儘にしておく。○群肝の 心〔傍点〕に冠する枕詞。群肝の意であらう。きも〔二字傍点〕は臓腑の總稱で、古代には、臓腑の中に人の精神が宿ると信ぜられてゐた。○心を痛み 心が痛さにの意。風を痛み、山を高み等と同例で、時にはを〔傍点〕を用ゐない、月清みの如きものもある。を〔傍点〕は力強くいふ時に用ゐる感動詞である。但し心を痛み〔四字傍点〕の場合には、を〔四字傍点〕の無い例は見當らない。○※[空+鳥]子鳥 うら歎くの枕詞。今日のとらつぐみ〔五字傍点〕で、鳴く時にかなしさうに聲を出すからだといふ。他の歌には※[空+鳥]鳥の〔三字傍点〕とも使つてゐる。○うら歎きをれば 心中に歎息し居ればの意。うら〔二字傍点〕は心裏をいひ、うら寂《さ》ぶ、うら悲しのうら〔二字傍点〕と同義である。ウラナゲキヲレバ、ウラナケヲレバとも讀んでゐ(21)る。○玉手繦 懸け〔二字傍点〕の枕詞。たま〔二字傍点〕は美稱、たすき〔三字傍点〕は今日の襷、たすき〔三字傍点〕はかけるから懸け〔二字傍点〕の枕詞となつてゐる。○懸けの宜しく 心にかけること。よろしく〔四字傍点〕は都合よくあること。旅にして歸るといふ言が、家に歸るといふ意に取り倣《な》されてうれしいのである。○遠つ神 天皇〔二字傍点〕に懸かる枕詞。天皇は神聖にして人倫に遠いから云ふといふことになつてゐる。「住の江の野木の松原遠つ神吾が大君のいでまし處」(卷三、二九五)の例もある。○吾が衣手に 自分の衣に。手〔傍点〕は端といふ意の接尾語だが、譯さなくともよい。○朝夕に 朝はつけたりで、單に夕方にといふ意。夕に主眼がある。○還らひぬれば かへらひ〔四字傍点〕はかへる〔三字傍点〕の連續状態を表す。山を越す風が吹き來つて、衣手に觸れて飜るのでの意。○大夫と 大夫〔二字傍点〕をマスラヲとよむは、支那官吏の身分に大夫といふのがあつてその轉義であると見られてゐる。又、丈夫〔二字傍点〕の誤、大丈夫〔三字傍点〕の丈〔傍点〕の略とも云はれてゐる。勇氣あり思慮ある立派な男子をいふ。「ますらをと思へる吾」といふのは、この集の作者たる男子が、自己の如何なる者であるかを省察してゐる自信を語つてゐる句で、木集にしば/\見える。○草枕 旅〔傍点〕の枕詞。昔の旅は、山野に草を枕として寢るからいふ。○旅にしあれば し〔傍点〕は強めの助詞。旅に來てゐるので。○思ひ遣る 物思ひを遣つてなくする意。慰さまぬ情を放棄する意で、今日いふおもひやり〔五字傍点〕、すなはち同情とは意が異る。○たづきを知らに 手段方法を知らずに。たづき〔三字傍点〕は手段、方法。知らに〔三字傍点〕は知らないで等と譯す。に〔傍点〕はナニヌネと活用する打消の助動詞の古語である。○網の浦の 所在未詳。綱の浦のと爲す説のあるのは宜しく無い。○海孃子らが あま〔二字傍点〕は漁人、をとめ〔三字傍点〕は若い女の稱。この集では必しも未婚の女に限らない。○念ひぞ燒くる 思ひ燒ける、思ひ焦ると譯すべきで、思が燒けるのではな(22)い。煩悶に堪へぬ樣を思ひ燒くといふのである。ぞ〔傍点〕は思ひを強く指示する助詞である。心燒くとも、たゞ燒くともあり、「妹が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燒けつゝ渡れ」(卷十一、二六九七などの例もある。○吾が下情 下情〔二字傍点〕は底の心で、表面に表さない心で、上の思ひ燒くの主體を提示して結んでゐる。「天雲の棚引く山に隱りたる吾が下心木の葉知るらむ」(卷七、一三〇四)。
【後記】 旅に出て望郷戀妻の情に堪へないといふこの歌の内容は單純である。その望郷の人である作者自分自身を描くに、霞立つ長き春日の暮れてしまつたのも知らずにと、空氣から描寫して行つたのは、全體の氣分を印象的ならしめる爲に有効である。序詞として、網の浦の海孃子らが燒く鹽のといふも、作者の位置を示すものとして意義がある。山越す風が夕暮に吹いて來ると一層旅情が催されるといふ點に、この歌の中心があつて、而も作者は大丈夫を以つて自分から任じてゐるので一層にその情が強く出る。
 この歌は、全體一文から成り、枕詞と序詞を多く使つて、單純な思想を長歌にしてゐる所に、古歌らしいのびやかさが見える。しかし此處に至つて、讀者は、大歌系統の傳來で無い歌、いはゞ文筆的な歌の始めを見せられるであらう。
 
(23)   反歌
6 山越しの 風を時じみ 寢《ぬ》る夜おちず 家なる妹を かけて慕《しの》びつ
    右日本書紀を檢するに、讃岐の國に幸《いでま》しし事なし。また、軍の王いまだ詳ならず。但し山上憶良の大夫《まへつぎみ》の類聚歌林に曰はく、紀に曰はく、天皇十一年己亥冬十二月己巳の朔にして壬午の日、伊豫の温湯《ゆ》の宮に幸《いでま》せり云々。一書にいふ、この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹に斑鳩《いかるが》・比米《ひめ》、二つの鳥|太《いた》く集まれり。時に勅して多く稻穗を懸けてこれを養ふ。すなはち作れる歌云々。もし疑はくはこの便より幸《いでま》ししか。
 
【口譯】 山越しに吹いて來る風が時節はづれに吹きまくるので、夜毎夜毎に都の家において來た妻を思つて戀をしたことであつた。
【語釋】 ○風を時じみ 月を清み、心を痛みなどゝ同形で、吹く風が、その時にあらず、時節はづれにの意である。時じみ〔三字傍点〕は、その時にあらざる意の時じ〔二字傍点〕といふ語の活用である。風が吹くべき時にあらずしての意に解する。今は春で、風の強く吹くべき時にもあらぬに吹くのでと云ふ意である。○寢る夜おちず 寢る夜毎にの意。「隈もおちず思ひつゝぞ來る」(卷一、二五)などの例がある。○家なる妹を 妹は婦人に對して親愛の意を以つて呼ぶ語であるが、こゝでは家なる妹、すなはち作者の妻をさすことは明である。○かけて(24)慕びつ かけて〔三字傍点〕は、長歌の懸けの宜しく〔六字傍点〕の懸けと同じく心にかける事。しのぶ〔三字傍点〕は思慕する意。
【後記】 長歌では、纔に歸ることを口にかけるだけでも好ましいと云つただけで、作者の憂鬱の因る所を明にしてゐないが、この反歌に至つては、家なる妹をかけて慕びつと明言してゐる。一首として、長歌よりもよく纒つてゐる。長歌の意を要約して、作者の意のある所を明にしてゐる性質の反歌である。
【左註】 左註はこれが最初である。日本書紀及び類聚歌林によつて、天皇の讃岐の行幸を考證してゐる。かやうな左註は大部分は萬葉集編纂當時からあつたものと考へられる。
 山上憶良の類聚歌林は、やはり萬葉集のやうに、古歌を集めて分類編纂した書と考へられるが、今日傳はつてゐないのは殘念である。たゞ纔に、萬葉集の左註に引用してあるものに依つて、その大體を窺ふことが出來るだけである。この左註では、すなはち作れる歌までが類聚歌林の文章である。類聚歌林には舒明天皇の十一年十二月に、天皇が伊豫に幸せられたから、その序に讃岐にも幸せられたのであらうかといふのである。
 
   明日香川原《あすかがはら》の宮《みや》に天の下知らしめしし天皇の御代 天豐財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》の天皇《すめらみこと》
 
(25)【標目】 明日香川原の宮は、皇極天皇の宮室である。天皇は舒明天皇の后にましまし、舒明天皇の後を受けて位に即かれ、四年にして、同母弟の孝徳天皇に位を讓られ、天皇在位五年にして崩御の後、重祚して再び帝位につかれた。下の天豐財重日足姫の天皇は皇極天皇の御事であるが、明日香川原の宮は孝徳天皇の御代であつて、下の小字は誤とする説もある。
 
   額田《ぬかだ》の王《おほぎみ》の歌 いまだ詳ならず
7 秋の野の み草|苅《か》り葺《ふ》き 宿れりし 兎道《うぢ》の宮處《みやこ》の 假廬《かりほ》し思ほゆ
    右山上憶良の大夫の類聚歌林を檢するに曰はく、一書、戊申の年、比良の宮に幸《いでま》しし大御歌。但し紀に曰はく、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇紀の温湯《ゆ》に至りたまひき。三月戊寅の朔、天皇吉野の宮に幸して肆宴《とよのあかり》きこしめしき。庚辰の日、天皇、近江の平の浦に幸し給ひき。
 
【題意】 額田の王は女王である。此の歌は、題にはどういふ歌とも無いが、かつて假廬《かりほ》を作つて、旅宿りをせられた兎道の宮處を追憶せられて詠まれた歌である。いまだ詳ならずとは、歌を詠まれた時の事情が詳で無いといふのであらう。
(26)【口譯】 さきに天皇の御伴をして旅に行つた時の、あの秋の野の薄を苅つて屋根に葺いて宿つた宇治の行宮の假小舍の風趣がなつかしく憶ひ出される事である。
【語釋】 ○み草苅り葺き み草〔二字傍点〕は立派な草の事で、葺草としては主として薄の事にいふ。薄を苅つて屋根に葺くのである。假家のさまを表す。○宿れりし 宿つて居つた意。し〔傍点〕は時の助動詞で、過去をあらはす。○兎道の宮處 山城の宇治で、大和と近江との交通の路に當つて居り、行幸の時など、こゝに行宮を作られるので、宮處《みやこ》と云つたのである。○假廬し かりそめの小舍である。し〔傍点〕は強く提示する意の助辭。
【後記】 ある時の樂しかつた行旅を思ひ出して、しかも樂しかつたとは口に出さずに、假小舍を作つたありさまを叙述して、その時の樂しかつたさまを現してゐる。實に巧な表現である。初三句の叙述が、全體を生かしてゐる歌である。この人の才氣の程を思はせる。
 
   後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の御代 【天豐財重日足姫の天皇、位《みくらゐ》の後、後の岡本の宮に即位し給ふ。】
 
【標目】 後の岡本の宮は、舒明天皇の高市の岡本の宮と同地である。前の舒明天皇の御代と區別する爲に、後の岡本の宮といふ。齊明天皇の御代である。位の後以下、文章が拙いが、編者の記であるかどうかわか(27)らない。皇極天皇が、初度の帝位の後、孝徳天皇の御代を經て、後の岡本の宮に重祚せられたことを云つてゐる。
 
   額田の王の歌
8 熟田津《にぎたづ》に 船乘《ふなの》りせむと 月待てば 潮《しほ》もかなひね 今は榜《こ》ぎ出でな
    右山上憶良の大夫の類聚歌林を檢するに、曰はく、飛鳥《あすか》の岡本《をかもと》の宮に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉十二月己巳の朔にして壬午の日、天皇、大后、伊豫の湯の宮に幸し給ひき。後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉春正月丁酉の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就き給ひき。庚戌、御船、伊豫の熟田津の石湯の行宮に泊つ。天皇、昔日《むかし》より猶存《のこ》れる物を御覽《みそなは》して、當時《そのかみ》忽に感愛の情を起したまふ。このゆゑにより歌詠を製して哀傷し給ふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製なり。但し額田の王の歌は別に四首あり。
 
【題意】 前の敬と同じ作者の歌である。
 齊明天皇の七年に、新羅を伐たうとして、天皇親しく御船に乘られて西に向はれた。額田の王も御伴の(28)中にあつて、伊豫の熟田津から、舟を出さうとして詠まれた歌である。
【口譯】 伊豫の熟田津で、船に乘つて航海をしようと、滿月の頃になるのを待つてゐると、月も滿ち、潮も船出に都合よくなつた。今は漕ぎ出でませうよ。
【語釋】 ○熟田津に 熟田津は伊豫の道後の温泉附近の舟附場の名である。その熟田津に於いて。○月待てば 滿月の時には潮が滿ちて船出に都合よくなるので、その時を待てば。○潮もかなひぬ 滿潮にもなつたの意で、月のかなつた事も自然に表されてゐる。この一句で、月もかなひ、潮もかなつた事を表してゐるのである。○今は榜ぎ出でな 月も潮も船出に都合よくなつたから、今は漕ぎ出でようと自分の希望を語るのである。今は〔二字傍点〕は今こそと強めて云つた語法である。榜ぎ出でな〔五字傍点〕は家聞かな〔四字傍点〕と同じ語法である。
【後記】 いかにもよく締つた一寸の隙間も無い歌である。よく整つてゐて、それでゐて長く船出の時期を待つてゐて、今その時期に到達した情趣がよく描かれてゐる。月待てばと云つて、月の事をいはずに、直に潮もかなひぬと受けた所などは、實によく出來てゐる。
【左註】 類聚敢林に依つて、齊明天皇の西征の事情を説いてゐる。この行幸は、新羅を討伐せられる爲であつたが、伊豫の温泉に至つて、昔は、夫の君舒明天皇と御同列で、此處にお出になつた事を思ひ出されて、感慨に耽られたのである。哀傷し給ふといふ所までが、類聚歌林の文である。その類聚歌林には、こ(29)の歌は齊明天皇の御製であるといふ。さうして額田の王の歌は、別に四首あるといふが、それは今日は傳つてゐない。この外にも、類聚歌林と萬葉集とで作者の傳へを異にしてゐるものがあり、その多くは額田の王の歌に就いてであるのは、注意するに價する。
 
   紀の温泉に幸しし時 額田の王の作れる歌
9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本
 
【題意】 齊明天皇が紀伊の國の温泉に行幸あらせられた時、額田の王の詠まれた歌である。
【語釋】 この歌は集中第一の難歌と云はれ、昔から實に多樣の讀み方が出來たがいまだ首肯するに足る讀み方がない。今次にその中の二三をあげておく。
 夕月の仰ぎて問ひしわが夫子《せこ》がい立たせるがねいつか逢はなむ
 夕月し覆ひなせそ雲わが夫子《せこ》がい立たせりけむ嚴橿《いつかし》がもと
 紀の國の山越えて行けわが夫子《せこ》がい立たせりけむ嚴橿《いつかし》がもと
 竈《かま》山の霜消えて行けわが夫子《せこ》がい立すがね嚴橿がもと
 香具山の國見さやけみわが夫子《せこ》がい立たすがねいつか會はなも
(30) 眞土山見つゝ飽かにとわが夫子《せこ》がい立たしまさば吾はこゝになも
 三諸の山見つゝ行けわが夫子《せこ》がい立たしけむ嚴橿がもと
右に依つても知られる通り、隨分違つた讀み方があつて、歸する所を知らない。要するにこの歌の上二句は、義理を以つて書いてあるのであらう。さういふ次第で、今日その眞生命を握むことの出來ないのは遺憾である。
 
   中皇命《なかつすめらみこと》紀の温泉に往き給ひし時の御歌
10 君が代も 我が代も知るや 磐代《いはしろ》の 岡の草根を いざ結びてな
 
【題意】 中皇命が、紀伊の温泉にお出でになつた時の歌三首で、中皇命の御作である。此の中皇命とあるはいかなる方か未詳である。前の歌に出たのと同じ方であるかどうかも不明である。天智天皇の皇后である倭姫の命といふ説もあるが確定してゐない。
【口譯】 あなたの將來も私の將來も知つてゐるといふ、この磐代の岡の草を、さあ行く末長かれと結びませうよ。
【語釋】 ○君が代も 君の生涯、君の一生、中皇命から指して夫の君なる天皇を君と申し上げてゐる。○知(31)るや 原文所知哉〔三字傍点〕とあり、シルヤ、シレヤ等と讀むのでむづかしい論がある。また哉〔傍点〕を武〔傍点〕の誤とする説もあるが、誤とするのはいけない。今はシルヤに定める。や〔傍点〕は調子の上から附けていふ語で、天飛ぶや雁、押し照るや難波等のや〔傍点〕と同語である。感動の意を表す助詞。疑問では無い。○磐代 紀伊の國の海岸にある地名で、温泉に行幸啓せられる途次にある。○草根 ね〔傍点〕は接尾語で、地中に根據を有することを表す。草葉を結ぶので、草の根を結ぶのではない。「春の野の草根の茂き」と同例である。○いざ さあといふ語で誘ひ立てる語。○結びてな 結びませうよ。な〔傍点〕は既出。自分に對して自分が希望する意を表す。
【後記】 草を結ぶのは、古代の民間信仰の一で、ムスブといふことにすべての祝ひを籠める意があつた。卷二にある有間の皇子が磐代の岡の松が枝を結んで幸福を祈られた歌は有名である。
 近江の海|水門《みなと》は八十ありいづくにか君が船|泊《は》て草結びけむ(卷七、一一六九)
 妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くな復かへり見む(卷十二、三〇五六)
などいふ歌がある。斯樣な信仰から、君が代も我が代も知るといふ句が出て來たのである。岡のほとりの草葉を結んで、我等の運命を祝はうとする。しかしそれはごく輕い意味での、旅行中のある夕などの出來事であらう。君と共に旅行せられる親しい情愛をよく表してゐる。
 
(32)11 我が夫子《せこ》は 借廬《かりほ》作らす 草《かや》無くば 小松が下《した》の 草《くさ》を苅らさね
 
【口譯】 あなたは旅寢の宿に假の小舍をお作りになる。若し屋根に葺く草が見當らなかつたならば、あの小松の下に生《は》えてゐる草をお苅り遊ばしませ。
【語釋】 ○夫子 せ〔傍点〕は男子に對していふ詞で、親族關係でも、朋友でも、兄弟でも共に用ゐる。こ〔傍点〕は親しみ愛する意を表するに用ゐる。夫子は、朋友、兄弟の他には、最多く配遇者に用ゐられる。この歌ではいかなる關係の方を指してゐるか不明であるが、前の歌と同じく夫の君をさすであらう。○作らす 作るの敬意を表した云ひ方である。○草 カヤと讀めば、屋根を葺くに用ゐる草をいふ。根を有して生えてゐる場合にはクサといふ。○苅らさね ね〔傍点〕は既出。他に對しての願望で、名告らさね〔五字傍点〕と同形語法で、お苅りなさいといふ意。苅らす〔三字傍点〕は苅るの敬意を表した云ひ方である。
【後記】 昔の旅寢の有樣が窺はれる。岡の上の小松のもとなどの草を刈つて、假小舍を作つて宿つた古代の旅行の心持がよく出てゐる。借廬作らす草無くばと云つて、次に近くの草叢を指示した調子が、其處に宿りの用意をしてゐる男たちの傍に、氣を揉んでゐる婦人の姿をよく出してゐる。
 
(33)12 吾が欲《ほ》りし野島《のじま》は見せつ 底深き阿胡根《あこね》の浦の 珠《たま》ぞ給《ひり》はぬ 【或は頭に云ふ、わが欲りし子島は見しを】
    右山上憶良大夫の類聚歌林を檢するに曰はく、天皇の御製の歌云々。
 
【口譯】 私がかね/”\見たいと願つてゐた野島は見せて下さつた。しかしまだ底の深い阿胡根の浦の美しい珠は拾ひませぬ。
【語釋】 ○欲りし 願つてゐた。ほり〔二字傍点〕は欲する意。し〔傍点〕は時を表す助動詞。○野島は見せつ 野島は見せて下さつたの意。あなたが私に見せて下さつたのである。野島〔二字傍点〕は紀伊の國にある地名であらう。阿胡根の浦〔五字傍点〕も同國の地名であらう。○珠ぞ拾はね 珠〔傍点〕は眞珠などの類で、服飾に用ゐたもの。古く男女共に珠を飾に使つたが、この集の時代では主として婦人の身の装飾である。その珠はまだ拾ひません。だから拾ひに行きたいといふ意である。珠を拾ふは集中多く見受けられる事柄で、貝や石の珠とすべきを云つてゐる。ひりふ〔三字傍点〕は拾ふの古語である。○或は頭に云ふ 別の本には、初二句が吾が欲りし子島は見しを〔吾〜傍点〕となつてゐるといふのである。
【後記】 風景のよい野島は見せて下さつたが、ほしいと思ふ珠はまだ拾ひませんと、珠を拾ふ事を願つてゐる意が表れてゐる。いかにも婦人らしい作品である。
                                        (34)   中大兄《なかちおひね》 【近江の宮に天の下知らしめしし天皇】 三山の歌 一首
 
13 香具山《かぐやま》は 畝火《うねび》を愛《を》しと 耳梨《みゝなし》と 相爭ひき 神代より 斯《か》くなるらし 古《いにしへ》も 然なれこそ 現身《うつせみ》も 嬬《つま》を 爭ふらしき
 
【題意】 天智天皇が、まだ皇子でおいでになつた頃、播磨の國に於いて、大和の三山に關する傳説に基いてお詠みになつた歌である。
 三山は、大和の國の天の香具山、耳梨山、畝火山の三をいひ、香具山は東に、畝火山は西に、耳梨山は北にそれ/”\鼎立の形に孤立してゐる山である。傳説は播磨國風土記に出てゐて、三山が互に闘つたといふのであるが、耳梨と畝火は、古代の城寨であり、現に山頂から石鏃も出る。石器時代の戰爭から傳説が生れたものとも思はれる。中大兄は、ナカチオヒネと讀む。大兄が敬語で、皇子と云はずともよい。天智天皇の皇子の時の御稱である。
【口譯】 香具山は、畝火山を愛して、耳梨山と闘つた。神代からこの通り、人を爭つて戰ふといふことはあつたのだ。古代からこの通りであるからこそ、この今の自分も、妻を爭ふのであらう。
【語釋】 ○畝火を愛しと 畝火山は奈良縣高市郡にある山で、三山の中で一番山容が勇しい。愛し〔二字傍点〕は愛すべ(35)きものゝ形容。この句は、香具山と耳梨山が、畝火を爭つたといふので、前二者を男性、後者を女性としてゐるのであるが、畝火は山容が男性的で一番高くもあるので、畝火は男性で、香具山と耳梨山とを女性とする説もある。又三山共に男性で、一の女性を爭つたものとも解せられる。○耳梨 大和の磯城郡、元の十市郡にあつて、今は天神山といふ。○相爭ひき ここ迄が第一段で、傳説の内容が語られてゐる。○神代よりかくなるらし 神代からこの通りであるさうなの意。らし〔二字傍点〕は根據ある推量。○然なれこそ さうだからの意。古い條件法で、然なればこそ〔六字傍点〕と、假にば〔傍点〕を補つて讀むと分る。但しば〔傍点〕が省略されたのでは無く、この方が古い形なのである。○現身も 現《うつ》し身の轉で、うつそみ〔四字傍点〕ともいふ。うつし〔三字傍点〕は現にこの世にある意の形容詞。後には無常觀から空蝉、虚蝉などの字を宛て用ゐるやうになつた。こゝでも虚蝉の字を用ゐてゐるが、古語では明るい語である。生きてゐる身といふだけの意である。○嬬を 配遇者をつま〔二字傍点〕といつて、男性、女性共に用ゐるが、ここは女性を指してゐる。○爭ふらしき こそ〔二字傍点〕の係結に、らしき〔三字傍点〕と結んだのは古い形である。爭ふことであらうの意。
【後記】 此の歌は天智天皇と大海人の皇子(後の天武天皇)とが、額田の姫王に就いて爭はれた事を歌はれたといふ説がある。播磨の國に行啓なされた時、大和三山に關する傳説をお聞きになつて、御身の上に思ひよそへられて詠まれたものであらう。
 昔の人は、今の世は神代の延長として、神代にあつた事柄が今の世にも行はれると信じてゐ(36)たので、妻爭ひも、神代からあつた事として、みづから慰められて詠まれたもの。神代よりかくならしまでが第一段で、傳説の内容を描寫し、第二段は、それを基礎とする感想を述べられてゐる。簡單に三山の爭闘を歌はれた所に、自然に感慨の溢れるものがある。第二段は對句で起してゐるが、對句の前句は短い文となり、後句は、下に懸かつて、條件法となつてゐる。率直な歌ひ方のうちに深い内省が籠められてゐる。得難い作品といふべきである。形式は、末句が五三七の形になつてゐるのは古風である。
 
   反歌
14 香具山と 耳梨山と 會《あ》ひし時 立ちて見に來《こ》し 印南《いなみ》國原
 
【口譯】 香具山と耳梨山と互に戰つた時に、出雲の阿菩の大神が立つて見に來た、この印南《いなみ》の國原まで。
【語釋】 ○會ひし時 兩山が出逢つた意。戰つた意である。あふ〔二字傍点〕は婚姻をもいふが、此處では闘ふである。日本書紀に、「貴人《うまひと》は貴人どちや、親友《いとこ》はも親友《いとこ》どち、いざ會はな我は」の例がある。○立ちて見に來し 出雲の阿菩の大神が印南の國原まで見に來たことをいふのである。○印南國原 播磨の印南の平原をい(37)ふ。國は一地方を指すので、例へば大和の中の、芳野の國、葛城の國などといふ類である。
【後記】 此の歌はたゞ傳説を歌つたのであるが、中心となる主語がない。一寸見ると、印南國原が立つて見に來たとも取れる。播磨國風土記には、揖保の郡の條に、昔、大和の三山の爭つた時に、出雲の阿菩の大神が、これを諫止しようとして上つて來られた時、この郡に來た時に、爭闘が止んだと聞いて、乘つて來た船を覆して坐せられたと傳へられてゐる。印南とは郡も違ふのであるが、これは傳説の事であるから、印南にも同樣の傳説があつたのであらう。それにしても讀者はかういふ傳説を既に心得てゐるものとして歌はれてゐる。歌にはかやうに作者と讀者との間に、ある程度の共通の知識あることを條件としてゐるものがあるのである。これはいはゆる約束で、その上にこの歌なども立つてゐるのである。
 
15 渡津海《わたつみ》の 豐旗雲に 入日さし 今夜《こよひ》の月夜《つくよ》 清《きよ》く明《あか》りこそ
    右一首の歌は、今案ずるに反歌に似ず。但し舊本この歌を反歌に載す。故《かれ》、今猶この次《つぎて》に載す。また紀に曰はく、天豐財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》の天皇《すめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立て(38)て皇太子となす。
 
【口譯】 海上の旗の形の大きな雲に入日が射してゐる。今夜の月は清く明るくあつて欲しいことだ。
【語釋】 ○渡津海の 海をいふ。わた〔二字傍点〕は海洋、わたつみ〔四字傍点〕ほ海神の意で、海洋そのものを海神として崇拜する語。それで海洋の神秘性を現してゐる。○豐旗雲に 旗のやうに引いてゐる雲。豐はユタカで立派な有樣をほめていふ。豐葦原など。○入日さし 入日の光がさして。中止形であるが、こゝまで一應意味が終止するものと見る。○清く明りこそ 願望をあらはすこそ〔二字傍点〕で、清くあかりくれよと希望を表す意になる。アキラケクコソと讀めば、明らけくこそあらめと推量する意になる。
【後記】 三山の歌の反歌として掲げてあるが、左註にも反歌でないやうだと云つてゐる如く、此の歌は全然三山に關係がない。しかし三つの歌共に播磨での御作とすれば、前の二つは三山の傳説を歌はれたもの、こゝに至つて轉じて景色を叙して作者の環境を明にせられたものであつて、全體としての構成上、却つて意義が多い。
 此の歌はいかにも壯大な叙述のやうであるが、語法上に疑問の點があつて、その全生命を味ふことの出來ないのは殘念である。
(39)【左註】 左註は、萬葉集の編纂當時、既にこの歌が、反歌らしくないといふ感を生じてゐたことを語つてゐる。しかし舊本と傳ふるものに、既に反歌となつてゐる通りに扱ふべきである。紀といふは日本書紀。天豐財重日足姫の天皇は、皇極天皇、後に重祚して齊明天皇と申す。それで區別する爲に皇極天皇の御代を先の四年と稱するのである。天皇を立てて皇太子となすといふは、中大兄の皇子を立てて皇太子としたといふ意を、後に書いた書き方である。
 
   近江《あふみ》の大津《おほつ》の宮《みや》に天《あめ》の下《した》知らしめしし天皇の御代 【天命開別《あめみことひらかすわけ》の天皇《すめらみこと》謚を天智天皇と曰す】
 
【標目】 近江の大津の宮は、天智・弘文二代の宮室であるが、ここでは天智天皇の御代として擧げてゐる。天智天皇は大和の舊族の勢力を避ける爲に、近江に都を遷されたと傳へられてゐる。小字で書かれた謚號は古い本にもある。天命開別の天皇は、國風の謚號、天智天皇は漢風の謚號である。天皇の漢風の謚號は、天平勝寶三年に出來た懷風藻にも、既に文武天皇の御號が見えてゐるのであるから、萬葉集に見えても差支ないのである。
 
(40)   天皇内大臣藤原朝臣に詔《みことのり》して 春山の萬花の艶 秋山の千葉の彩を競《あらそ》はしめ給ひし時 額田の王 歌以ちてことわれる歌
16 冬ごもり 春さり來《く》れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 開《さ》かざりし 花も開《さ》けれど 山を茂《しげ》み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木《こ》の葉《は》を 見ては 黄葉《もみぢ》をば 取りてぞ 賞《しの》ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山|吾《われ》は
 
【題意】 天智天皇が、内大臣である藤原鎌足に詔して、春山の多くの花の色彩と、秋山の多くの黄葉《もみぢ》の彩《いろどり》と、どちらがよいかといふことを競はしめ給うた時に、額田の王が、歌でその判斷を爲された、その歌である。作者は額田の王である。春秋の優劣を競つた歌は、平安朝に至つて多く見え、後代まで續いたが、古い所では此の歌がその初見である。
【口譯】 春になつてくると、今まで鳴かなかつた鳥も來て鳴いてゐる。咲かなかつた花も咲いてゐるが、山の木が茂つてゐるので、入つても取らず、草が深いので手に取つても見ない。然し秋山の木の葉を見ては、黄葉を取つて鑑賞することである。黄葉しない青葉があるのを、うち置いて歎くことである。自分は秋山の方を優つてゐると思ふ。
(41)【語釋】 ○冬ごもり 春〔傍点〕の枕詞である。冬ごもり〔四字傍点〕は、冬の終の時節をいふ。それから春になると續くのである。同樣の語に夜ごもり、月《つ》ごもり等があつて、夜の終り方、月の終り方を云つてゐる。○春去り來れば 去る〔二字傍点〕も來る意で、春がやつて來ればの意である。春は草木の芽の出るといふ意の語。○花も開けれど 花も咲いて居れど。○山を茂み 山が茂さに。を〔傍点〕はなくとも同じ。山を高み、風を痛み等の類である。○黄葉をば 植物の葉の、秋になつて色を變へるのを黄葉といふ。この集では常に黄葉と書く。紅葉の例は、卷十(二二〇一)赤葉の例が卷十三(三二二三)にあるのみである。○取りてぞ賞ぶ 賞美する意。外にしのぶ〔三字傍点〕には、過ぎにし方を慕ふ、人を戀ふ、物に耐へ忍ぶ、隱れる等の意がある。○青きをば 秋の木の葉のうち、色を變へないのをいふ。○置きてぞ歎く さしおいて歎息することである。○そこし恨し 其處が恨むべしの意。そこし〔三字傍点〕のし〔傍点〕は強めの助詞、そこ〔二字傍点〕は歎くを受けてゐる。
【後記】 この歌は春秋の優劣を論じて、春を抑へ秋を擧げてゐる。歌としては、初の春の描寫に相當に力が入つてゐる。秋山吾はの句は力強い云ひ方である。初に貶すべき春について、その美點をまづ擧げ、次にその缺點を述べてゐる。さうして次に秋に移るなど、論證方法に於いても整つてゐる。春秋の優劣を論ずる事は、平安朝時代には、拾遺集、伊勢物語、更級日記、源氏物語等に見えてゐる。概して春より秋が賞美されてゐるのは、秋のしづかに落ちついてゐる方が、理性に勝つた者の賛同を受けることが多い爲であらう。この歌も作者のすぐれた理智の(42)力を示してゐる。
 
   額田《ぬかだ》の王 近江の國に下りし時 作れる歌 井戸《ゐのへ》の王 すなはち和《こた》ふる歌
17 味酒《うまさけ》 三輪《みわ》の山 あをによし 奈良の山の 山の際《ま》に い隱《かく》るまで 道の隈《くま》 い積《つも》るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放《みさ》けむ山を 情《こゝろ》なく 雲の 隱さふべしや
 
【題意】 額田の王が近江の宮に召されて行く時、途上奈良山で、故郷を顧みて詠んだ歌である。奈良山は、今の奈良の北方にある低い山で、大和から山城の方へ行くには必ず越えねばならぬ山である。
 井戸の王すなはち和ふる歌とは、額田の王の長歌と反歌一首綜麻縣の云々の歌を指すものであらう。かやうに題詞を續けて書いたのは違例である。この集では和歌とは答の歌の意である。
【口譯】 懷しの三輪の山よ。奈良の山の山の間に、隱れるまでに、道の曲《まが》り角《かど》が積り重なるまでに、十分に見つゝ行かうものを。屡々も遠く望み見ようとするものを、無情にも雲が隱すべきではありますまい。
(43)【語釋】 ○味酒 みわ〔二字傍点〕の枕詞である。上等の酒、酒瓶の古語をミワといふ所から修飾する樣になつた。○三輪の山 額田の王の故郷から見馴れた山。奈良縣磯城部にある山である。この山を呼びかけてゐる語法である。○あをによし 奈良〔二字傍点〕の枕詞である。あをに〔三字傍点〕は緑青の義といひ、又感動詞であるともいふ。よ〔傍点〕は呼びかけの詞、し〔傍点〕は強めていふ詞で、結局よし〔二字傍点〕は助詞である。麻裳よし、玉藻よし等の類例がある。○山の際に 山々の間に。○い隱るまで い〔傍点〕は接頭語。隱れてしまふまで。○道の隈 隈〔傍点〕は曲り角の隅の所。河や道の如き曲つたものに隈があるわけである。河の隈などいふ。○い積るまでに い〔傍点〕は接頭語。積るまでに。○委曲にも つばら〔三字傍点〕はつばらか、つまびらか〔九字傍点〕で、詳細の義。○見放けむ山を 放《さ》く〔傍点〕は距離を作ることである。見放く〔三字傍点〕は、遠望する。を〔傍点〕は感動の助詞。○情無く 無情にも、無理解にも。○隱さふべしや かくさふ〔四字傍点〕は隱すの連續動作を表す。や〔傍点〕は反語である。べけむや〔四字傍点〕に同じで、隱すべきか隱すべきでは無いの意。
【後記】 まづなつかしの三輪山を呼びかける。その山を顧みがちに山路を辿る心を對句で受け取つて表してゐる。しば/\も見放けむ山をと希望を重ね、最後に障害である所の雲に對して恨の詞を述べてゐる。三輪山に對する纒綿たる情をよく現してゐる。三輪山を中心として、少しも離れず、しかも故郷の別れ難さがその中に見えてゐる。
 
(44)   反歌
18 三輪山を しかも隱すか 雲だにも 情《こゝろ》あらなも 隱さふべしや
    右二首の歌は、山上憶良の大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江の國に遷しし時、三輪山を御覽《みそなは》せる御歌なり。日本書紀に曰はく、六年丙寅春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷す。
 
【口譯】 三輪山をそのやうにも隱すことか、せめて雲だけでも心があつてほしいことである。私が見ようと思ふに隱すべきでは無いでありませう。
【語釋】 ○しかも隱すか しかも〔三字傍点〕はその通りにも。終りのか〔傍点〕は詠嘆の意の助詞である。古今集、紀貫之、「三輪山をしかも隱すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ」。○雲だにも 外のものはつれなくあつたとて、せめては雲だけでも。○心あらなも なも〔二字傍点〕は、他人に對して希望する詞。後になむ〔二字傍点〕に轉じた語である。心があつて欲しいと希望してゐる。雲に晴れて欲しいといふのである。
【後記】 長歌の内容を反覆してゐる。形式としては最後の三句をとつて、これを敷衍してゐる。かやうに長歌の詞句を取つて長歌との連絡をつけるのは、反歌として常に行はれる手法で、全體としての構成を整へる。雲だにも情あらなむと希望したことによつて、雲以外のもの、すな(45)はち人は無情なものであることを表してゐる。それを直接に怨言を述べてゐないで、雲に託して間接的に恨んでゐるのは、女流の作としての特色が出てゐる。普通の婦人にしても故郷を離れるのは辛いことであるが、特に額田の王の近江に下ることには、故郷を放れる心細さ以外に他に重大な苦痛があつたともとれる。短歌のみとしても相當に味へるが、長歌と併せて味ふことが、この歌の價値を一層大ならしめる所以である。
【左註】 右の二首は、類聚歌林には、近江に遷都せられた時の御歌であると記してゐる由である。たゞ御歌とあるので、誰方の御歌か分らぬが、特に御名を記してゐないのを見ると、天皇御製の歌の意であらうか。しかしこの二首の歌は、三輪山に別離の情を述べられ、雲だにも心あれかしと歌はれてゐるので、さやうな遷都の際の天皇御製といふが如き内容でないことは明である。心にもあらで近江に下る人の歌として適切である。さればやはり額田の王の歌といふ方がよいのであらう。
 
19 綜麻縣《へそがた》の 林の始《さき》の さ野榛《のはり》の 衣《きね》に著《つ》くなす 眼に著《つ》くわが夫《せ》
    右一首の歌は、今案ずるに、和ふる歌に似ず。但し舊本この次《つぎて》に載す。故以ちて猶載す。
 
(46)【題意】 前の反歌に續いて載せてある一首であつて、別に題詞は無いが、長歌の前の題詞から考へると、額田の王の歌に對する井戸《ゐのへ》の王の和ふる歌と解せられる。しかし、左註にもある如く、歌意は和ふる歌としてはやゝ適切でない所がある。井戸の王は傳未詳で男子とも女子とも分らない。
【口譯】 綜麻縣にある林の口元の野萩が、衣に色を摺り出すやうに、あの方は目に附くお方です。
【語釋】 ○綜麻縣の 綜麻〔二字傍点〕は地名であるが、所在未詳。縣〔傍点〕は地方の義である。○林の始の 茂つた林の端の。○さ野榛 さ〔傍点〕は接頭語。野榛〔二字傍点〕は植物の名。野萩である。但し他に異説もある。○衣に著くなす 衣を野萩の摺衣として、色のつくやうに。なす〔二字傍点〕はの如く〔三字傍点〕の意、玉藻なす寄り寢し妹をなど。以上は目につく〔四字傍点〕と云はんが爲の序である。○目につくわが夫 人目につくわが君よ。夫《せ》は男子に對していふ詞である。このわが夫〔三字傍点〕は、誰方を指すか不明である。額田の王は婦人であるから額田の王を指してゐない事は明である。額田の王の思はれてゐる人をいふであらうか。とにかく額田の王は女性であるのに、その人の作に和へた歌として、わが夫といふは適切でない。或は額田の王の歌の裏面に詠まれてある男性を美《ほ》めて、額田の王の心を慰めたのであるかもしれない。
【後記】 この歌は序歌で、主たる内容は、たゞ五句のみである。四句までは五句のつく〔二字傍点〕を引き出すだけの役目である。この序には種々の訓み方があるが、今は契沖の訓法に依つた。衣服を材料としてゐる所、女性的である。四句と五句とにつく〔二字傍点〕の音を重ね用ゐてゐるのは、一種の技術(47)で、これが爲に歌が非常に輕快になつてくる。從來注意せられなかつた押韻法である。
【左註】 編者がこの歌の和歌らしくないことに注意し、しかし舊本の順序どほりにしておく旨を述べてゐる。
 
   天皇 蒲生野《かまふの》に遊獵《みかり》し給ひし時 額田の王の作れる歌
20 茜《あかね》さす 紫草野《むらさきの》行き 標野《しめの》行き 野守《のもり》は見ずや 君が袖振る
 
【題意】 天智天皇が近江の國の蒲生野に獵を遊ばされた時に、額田の王の詠まれた歌である。
【口譯】 紫草を栽培してゐる御料の禁園に、あち行きこち行きして、貴方が袖を振つて合圖をして居られるのを、禁園の番人は見てゐるではありませんか。
【語釋】 ○西さす 紫〔傍点〕の枕詞である。茜草は葎《むぐら》に似た草の名で、その根から赤い染料をとるので、赤根といふ。それからその色をあかね〔三字傍点〕といふのである。紫は赤味を帶びてゐる所から、赤味を帶びてゐるの意に修飾する樣になつた。○紫草野行き 紫草〔二字傍点〕は草の名で、根から紫色の染料を取り、その染料を以つて、高貴の方の御料に供する。紫草は野生もあるが、それでは足りないので特に栽培したものである。御料の染料を取るので此の草の作つてある所には諸人の亂入を禁じてゐた。○標野行き しめ〔二字傍点〕は占有を表す意で、こ(48)の標野はやはり前の紫草野と同じ野のこと、諸人の亂入を防ぐべく、柵、又は繩で閉ぢてある所をいふ。ここでは御料の園を指す。紫草園すなはち禁園で、主ある處といふ譬喩になる。紫草野行き、標野行き〔九字傍点〕といふのは、紫草野へ行つたり標野へ行つたり、あちこちするといふのでは無く、紫草野すなはち標野へ行つての意である。○野守は見ずや 野の番人は見てゐるではないか。○君が袖振る 袖を振るのは合圖をする事。袖は、衣の手を包む部分の長く餘れるをいふ。だから手を振ることになるのである。
【後記】 この歌は、天智天皇に寵せられてゐる額田の王の現在の身の上をも顧みずに、例へば禁園に入つて勝手な振舞をなすが如きことをなされると云つてゐると云はれてゐる。少くとも額田の王が宮中に奉仕して居つた時代で、妄に狎れるべきでなかつたのであらう。君といふのは、次の歌に依るに、天武天皇である。
 非常に美しい歌である。茜さすの枕詞も、次の紫草野に對して、よく利いてゐる。さうして紫草野ゆき標野ゆきと云つておいて、轉じて、野守は見ずやと他の方面から入つて行く。紫草野、標野は譬喩、野守も譬喩であつて、これらの美しい語を用ゐて、婉曲に事情を盡してゐる。野守は、君が紫草野すなはち標野に立ち入つて袖をふるのを見ずやといふべきを、倒置して、主脈を爲す「君が袖ふる」を最後に置いたのも有効なる行き方である。いかにも婦人の歌らしい、婉麗にして事情を盡した歌といふべきである。
 
(49)   皇太子の答へませる御歌 明日香《あすか》の宮《みや》に天の下知らしめしし天皇 謚して天武天皇と曰す
21 紫《むらさき》の にほへる妹を 憎《にく》くあらば 人妻《ひとづま》ゆゑに 吾《あれ》戀《こ》ひめやも
    紀に曰はく、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野に縱獵し給ひき。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉皆《ことごと》に從へりき。
 
【題意】 前の歌に對する皇太子(後の天武天皇)の答への御歌である。これによつて、前の歌の君が、皇太子であつたことが知られる。
【口譯】 紫の色のやうに美しい貴方を、憎く思ふならば、私は、他人の妻に對しての戀は致さぬでありませう。
【語釋】 ○紫のにほへる妹を にほへる〔四字傍点〕は、色彩の美しくかゞやく状態をいふ。紫のにほへる如き妹の意。紫草の花をいふのではなくて、紫〔傍点〕の色をいふ。妹は女子に對して親みいふ語。○憎くあらば 厭はしくあらば。○人妻ゆゑに 他人の妻であるが故に。直接に戀ふ〔二字傍点〕にかゝるので、人妻故にの戀はの意になる。○吾戀ひめやも や〔傍点〕は反語。も〔傍点〕は感動の助詞。憎くあらば人妻に對しての戀をしないの意。
【後記】 答の歌には、前の歌の詞句を取ることが普通であるので、ここでも、紫草の句を受けて(50)ゐる。然し前のは草の名をいひ、この歌では紫の色を指してゐる。其處に相違變化があるのである。
 「人妻に對しては、集中の歌は、かなり嚴肅な倫理關念を語つてゐる。その良心の教へと、止み難い性の衝動との苦しい爭闘を語るものとして、次の如き歌がある。
  神樹《かむき》にも手は觸るとふをうつたへに人妻といへば觸れぬものかも(卷四、五一七)
  人妻とあぜか其《そ》を云はむ然らばか隣《となり》の衣《きぬ》を借りて著なはも(卷十四、三四七二)
 前の額田の王の歌は、婉曲に事を叙して、困つたことを爲さるの意を、しかも實は内心うれしいやうな表現をしてゐる所にすぐれた味があり、この歌は、それに對しては、むしろ露骨に率直に叙してゐる。この作者の豪傑英雄的にましましたことが、おのづから現れてゐる。前の歌とこれと、併せ鰺つて、一層妙味を感ずるのである。
【左註】 左註は日本書紀を引いて、天智天皇の七年五月五日に、蒲生野に狩を爲されたことを叙してゐる。五月五日は端午の節で、陽氣の重なる日と稱せられてゐる。この日に狩をするのを藥獵といふ。主として鹿狩をして、鹿の袋角を取り、これを藥とするのである。大皇弟は、天智天皇の皇弟で、當時皇太子であらせられた天武天皇をいふ。
 
(51)   明日香《あすか》の清御原《きよみはら》の宮に天の下知らしめしし天皇の御代 【天渟中原瀛眞人《あめのぬなはらおきのまひと》の天皇《すめらみこと》、謚して天武天皇と曰す】
 
【標目】 天武天皇の御代である。天武天皇は、大和の飛鳥《あすか》の淨原《きよみはら》の宮にて天下を御統治あらせられ十四年にして崩御遊ばされた。皇后は天智天皇の皇女で、後に帝位につかれ持統天皇となられたお方である。
 
   十市《とをち》の皇女《ひめみこ》 伊勢の神宮《かむみや》に參赴《まゐむ》き給ひし時 波多《はた》の横山の巖《いはほ》を見て 吹※[くさがんむり/欠]の刀自《とじ》の作れつ歌
21 河の上《へ》の 齋《ゆ》つ磐群《いはむら》に 草|生《む》さず 常にもがもな 常孃子《とこをとめ》にて
    吹※[くさがんむり/欠]の刀自は、いまだ詳ならず。但し紀に曰はく、天皇四年乙亥、春二月乙亥の朔にして丁亥の日、十市の皇女、阿閉の皇女、伊勢の神宮に參赴《まゐむ》き給ひき。
 
【題意】 十市の皇女は天武天皇の皇女であるが、壬申の戰後は天武天皇の宮中にあつて、その四年に阿閉の皇女(後の元明天皇)と共に、伊勢の神宮に參詣せられた。その時に、お供をした吹※[くさがんむり/欠]の刀自が、波多の横山の巖を見て詠んだ歌である。題に十市の皇女のみを擧げたのは、歌の内容が、十市の皇女に深い關係が(52)ある爲であらう。作者吹※[くさがんむり/欠]の刀自は、歌が卷四にも載つてゐる程の婦人であるが、傳記未詳である。刀自とは一家の主婦の稱で、わが兒の刀自、賞《めづ》兒の刀自などゝ若い女に用ゐた例もある。
【口譯】 川のほとりの神聖な岩村に苔が生えないであるやうに、永久に若い女子として變ることなくありたいものです。
【語釋】 ○川の上の 上《へ》は附近をいふ。必しも上方とは限らない。○齋つ磐群に、ゆつ〔二字傍点〕は神聖なる義。いほつ〔三字傍点〕と同じく五百箇すなはち澤山の意に解するのは誤である。ゆ〔傍点〕は湯で、熱湯にて清潔にする潔齋の意から出た語。つ〔傍点〕は體言と體言とを結ぶ助詞で、天つ神、時つ風、沖つ浪のつ〔傍点〕であつて、その傾向、方向を表す。齋つ磐群〔四字傍点〕は、神聖な磐石の群をいひ、古代の大巖石崇拜の意が表れてゐる。○草生さず むす〔二字傍点〕は草や苔の繁殖するに用ゐる。山行かば草生す屍(卷十八、四〇九四)の例もある。○常にもがもな が〔傍点〕が願望の助辭で、下のもな〔二字傍点〕は感動の助詞。常にありたいものだなあ。○常孃子にて とこ〔二字傍点〕は永久不變の意で、孃子〔二字傍点〕は妙齡の婦人をいふ。集中には未通女〔三字傍点〕の字を用ゐてゐる所もあるが、必しも夫の有無には關しない。若い女の意味である。
【後記】 壬申の亂後、その悲劇の中にあつた十市の皇女は、慰む事もないので、そを紛れる爲に伊勢神宮への參拜となり、吹※[くさがんむり/欠]の刀自の、この歌となつたのだといふ説もある。此の歌は、永く老の至らないことを願つてゐる意なので、はつきりさうとも云ひ得ない。むしろ、初老に近(53)くなつた婦人などが、何時までも若くてゐたいと歎いたとして見る方がよいであらう。大巖石を見て、平常嘆息してゐたことが口を衝いて出たといふ如き氣分の歌である。大巖石に對して恒久不變性を感じてゐる氣持がよく出てゐる。常孃子の語も、感じのよい語である。
 この歌の「常にもがもな」の句から、實朝の、
  世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも
の歌が出てゐる。
【左註】 吹※[くさがんむり/欠]の刀自の、傳記未詳の人なることと、日本書紀を引いて、伊勢神宮に參拜せられたこととを記してゐる。
 
   麻績《をみ》の王 伊勢の國|伊良虞《いらご》の島に流さえし時に ある人 哀傷《あいしやう》して作れる歌
23 打麻《うつそ》を 麻績《をみ》の王《おほきみ》 白水郎《あま》なれや 伊良虞が島の 珠藻《たまも》苅《か》り坐《ま》す
 
【題意】 麻績の王が、伊勢の國の伊良虞の島に流された時に、ある人が麻績の王を哀憐して作つた歌である。麻績の王の傳未詳。作者も題にある人とあるので判明しない。伊良虞の島は、今は三河の國に屬して渥美半島の突端となつてゐるが、古代には島であつて、伊勢の國に屬してゐたのである。(54)日本書紀には、因幡に流されたとあり、常陸國風土記には常陸に流されたとあつて、處が一定してゐない。地名は諸國に同名があるので、この混雜を來したのであらう。又流された土地が變更されたと取れない事もない。
【口譯】 麻績の王は漁夫でいらつしやいますからか、伊良虞の島の藻を苅つておいでになるのでせう。
【語釋】 ○打麻を 麻績〔二字傍点〕を修飾する枕詞。打〔傍点〕は宛字で、完全なる意味。打麻〔二字傍点〕は、麻の皮のそつくりの儘である。を〔傍点〕は感動の助詞。打麻の緒〔四字傍点〕と懸かる意味の枕詞。○白水郎なれや 白水部〔三字傍点〕はアマと讀む。漁夫のこと。海邊に住む人の稱である。白水郎又泉部ともあるが、共に支那から傳はつた字であつて、どちらが元か分らない。なれや〔三字傍点〕はにあれや〔四字傍点〕の約で、や〔傍点〕は疑問の辭。海人なのであらうか、海人なればにやの意。○珠藻苅り坐す たま〔二字傍点〕は藻の美しいのをほめていふ語、かり坐す〔四字傍点〕は苅つておいでになるの意で、漁夫の如き生活をお送りになることよと、一端を擧げて哀憐したのである。漁夫の生活を、玉藻を苅るの句で現したのである。
 
   麻績の王、聞きて感傷して和ふる歌
24 うつせみの 命を惜み 浪に濕《ぬ》れ 伊良虞の島の 玉藻苅り食《は》む
(55)    右日本紀を案ずるに曰はく、天皇の四年乙亥の歳夏四月、戊戌の朔にして乙卯の日三位麻績の王、罪ありて因幡に流され、一子は伊豆の島に流され、一子は血鹿の島に流さえき。こゝに伊勢の國伊良虞の島に流さゆといへるは、もし疑はくは、後の人、歌の辭に因りて誤り記せるか。
 
【題意】 麻績の王が前の歌を聞いて感傷して答へた歌である。和へる〔三字傍点〕の和〔傍点〕は倭〔傍点〕の意でなく、答への意であることは前にも記した。
【口譯】 この世の命の惜さに、浪にぬれながら、伊良虞の島の玉藻を苅つて、食べて居りますよ。
【語釋】 ○空蝉の うつせみ〔四字傍点〕は前に出たが、ここでは現に生きてゐる命と續けて枕詞になりかけてゐる。○命を惜み 命惜しさに。山を茂み、草深みの例で、命が惜しいからである。○玉藻苅り食む 藻を苅つて、それを食料にしてゐる意。漁夫としてはかない生活を送つてゐる意を表して、前の歌と應じてゐる。
【後記】 しんみりした寂しい情の深く表れてゐる歌である。うつせみのの枕詞も、いかにもこの世界での意が利いて、全體に濕ひを與へる。第三句の浪に濡れは、具體的でよい。前の歌に比して遙に深く強く響くのは、作者自身がその境に沈んでゐるからであらう。
【左註】 日本書紀に依つて、麻績の王の流された事實を明にし、この歌の題詞を疑つてゐる。血鹿の島は、今日の五島である。
 
(56)   天皇の御製の歌
25 み吉野の 耳我《みゝが》の嶺《みね》に 時なくぞ 雪は降《ふ》りける 間《ま》なくぞ 雨は降《ふ》りける その雪の 時なきが如《ごと》 その雨の 間なきが如 隈《くま》もおちず 思ひつつぞ來《く》る その山道を
 
【題意】 天武天皇が、吉野の山道を行かれた時の御製の歌である。
【口譯】 吉野の耳我《みゝが》の嶺《みね》に、何時とも云はず雪は降つてゐる。間《あひだ》も無く雨は降つてゐる。その雪の何時《いつ》といふことの無いやうに、その雨の間の無いやうに、山道の曲《まが》り(57)角《かど》ごとに、物思ひをしながら來ることである。その山道よ。
【語釋】 ○み吉野の み〔傍点〕は接頭語。三〔傍点〕では無い。み熊野と同じ語法。○耳我の嶺に 吉野山中のある山の名であるが、今は未詳。御金の嶽だともいふ。○時なくぞ その時となく。雪の降るべき時でなくの意。高い山に雨雪が多い事を云つたものである。「彌彦《いやひこ》おのれ神《かむ》さび青雲のたなびく日らに小雨《こさめ》そぼふる」(卷十六、三八八三)。○隈もおちず くま〔二字傍点〕は道などの曲り角に出來る隅をいふ。おちず〔三字傍点〕は漏さずにの意。曲り角毎にの意。○思ひつつぞ來る 物思ひをしながら來《く》るの意。來る〔二字傍点〕をコシと過去に讀む説もあるが、クルの方がよい。○其の山跡を を〔傍点〕は感動詞である。その〔二字傍点〕は調子をつけた、意味を強める語である。須佐の男の命の「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作る、その八重垣を」の第四五句と同樣の語法である。
【後記】 天武天皇の吉野行幸は何度もあつたであらうが、此の歌はいつの時のか詳でない。とにかく、山道を考へごとをしながら通るといふ内容であるから、何か叡慮を悩す事があつたのであらう。政治上の御憂悶であらうともいふが、むしろ戀の歌と解した方がよいであらう。それはこの歌は、天皇の御製となつてゐるが、次にも記すやうに別傳が多く、やはり大歌として歌ひ傳へられた歌のやうであり、有名な歌であつて、人々に歌はれたものと考へられる。それでむしろ戀の内容であらうといふのである。御製は、吉野山中の景を叙して、その山道を物思ひをしながら御通行遊ばされる内容に導いて來てゐるが、對句を用ゐて、悠々として迫らず、歌(58)ひものとしての性質がよく出てゐる。別傳は、すぐ次に或る本の歌として出で、又卷十三にも出てゐる。
  み吉野の 御金《みかね》の嶽《たけ》に 間無《まな》くぞ 雨は降るとふ 時じくぞ 雪は降るとふ その雨の 間《ま》無きが如《ごと》 その雪の時じきが如《ごと》 間《ま》も闕《お》ちず 吾はぞ戀ふる 妹が正香《ただか》に(卷十三、三二九三、反歌略)
又同じく卷十三の次の歌は、材料は違ふが、同樣の構成を持つてゐる歌である。
  小治田《をはりだ》の 愛智《あゆち》の水を 間無くぞ 人は※[手偏+邑]《く》むとふ 時じくぞ 人は飲むとふ ※[手偏+邑]む人の 間無きが如 飲む人の 時じきが如 吾妹子に 吾が戀ふらくは 止む時もなし(卷十三、三二六〇)
 
   或る本の歌
26 み吉野の 耳我《みみが》の山に 時じくぞ 雪は降るとふ 間《ま》なくぞ 雨は降るとふ その雪の 時じきが如 その雨の 間《ま》なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ來《く》る その山道を
    右句句相換れり。これに因りて重ねて載す。
 
(59)【題意】 或る本〔三字傍点〕といふのは、別の本の意で、當時種々なる傳來の存して居た事が知られる。左註に依れば、編輯か改修かは分らないけれども、とにかく萬葉集に手を入れた時に、この歌も入れたのだといふことが知られる。
【語釋】 ○時じくぞ 前に軍の王の歌の反歌に、「風を時じみ」といふ句があつた、あの時じ〔二字傍点〕の副詞形であつて、その時ならずに、雪の降るべき時節で無いのにの意。○雪は降るとふ とふ〔二字傍点〕はと言ふ〔三字傍点〕の義。古くはといふ〔三字傍点〕の略だと云つてゐた。しかしこれは疑問で、言ふ〔二字傍点〕を古くはふ〔傍点〕とのみ云つてゐたので、それにい〔傍点〕といふ接頭語が添つていふ〔二字傍点〕が出來たのだから、とふ〔二字傍点〕からといふ〔三字傍点〕が出來たといふ方が順序である。
 
   天皇 吉野の宮に幸しし時 御製の歌
27 良《よ》き人《ひと》の よしとよく見て よしと言ひし 芳野《よしの》よく見よ よき人よく見つ
    紀に曰はく、八年己卯、五月庚辰の朔にして甲申の日、吉野の宮に幸す。
 
【題意】 これも天武天皇が、吉野の宮に行幸になつた時の御製の歌であるが、前に出た歌との關係は未詳である。吉野の宮は吉野川に臨んだ所にあつた。今の宮瀧といふ地であらう、もつと上流の丹生の川上であるとする説もある。
(60)【口譯】 昔の賢き人が、良しと良く見て、良しと云つた、この吉野をよく見よ、賢き人はよく見たのである。
【語釋】 ○良き人の 尊むべき賢人。その人と指すべきがあつたのであらう。
【後記】 此の歌は、詞句の上にヨの音を用ゐること八個に及んでゐる。これで一首の調子を整へてゐる。ヨの音は柔な音故、重ねて煩はしくもなく、非常に輕快である。天皇の得意の境の御製で、多分帝位に即かれて後、吉野遊覽の際の作品であらう。
 頭韻には種類があつて、語の上からいへば、同語を用ゐたものと、異つた語で上の音だけ同一なのを用ゐたもの、又は音の上からいへば、成音だけ同じなものと、子音だけ同じなものとがある。
 この歌はヨシといふ語を用ゐたので同語の例になるものであるが、ヨキ、ヨシ、ヨクの如く語尾の變化を利用して、重複の感を避けてゐる。
  瀧の音は絶えて久しくな〔右○〕りぬれど名〔右○〕こそ流れてなほ〔二字右○〕聞えけれ
これは別語を用ゐた例で、又子音だけ同じ例としては、
  ぬばたまの甲〔右○〕斐の黒〔右○〕駒》鞍〔右○〕著〔右○〕せば命死なまし甲〔右○〕斐の黒〔右○〕駒〔右○〕(日本書紀)
(61)の如きがある。なほ、
  否と云へど強《し》ふる志斐能《しひの》が強語《しひがたり》この頃聞かずて朕《あれ》戀ひにけり(卷三、二三六)
  來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ、來じといふものを(卷四、五二六)
  秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり(卷八、一五九七)
又この歌は、歌經標式に載つてゐる。それには、
  み吉野を良しと良く見て良しと云ひし良き人吉野良き人良く見
【左註】 日本書紀に依つて、天武天皇の吉野に幸せられた年月を記してゐる。
 
   藤原の宮に天の下知らしめしし天皇の御代 高天の原廣野姫の天皇
 
【標目】 持統天皇の八年十二月、藤原の宮に遷り給ひ、それより文武天皇を經て、元明天皇の和銅三年まで十六年間の帝都となつた。それ故に持統文武兩帝の御名を掲記し奉るべきであるが、ここには持統天皇の御名のみを出し奉つてゐる。これは萬葉集の成立を考へる一資料となるのである。藤原の宮は、大和の國の畝傍・耳梨・香具の三山の間の地で、香具山に近い處と推定せられる。
 
(62)   天皇の御製の歌
28 春過ぎて 夏|來《き》たるらし 白栲《しろたへ》の 衣《ころも》ほしたり 天《あめ》の香具山
 
【題意】 持統天皇が天の香具山を御覽になつた時の御製の歌である。
【口譯】 春が過ぎて夏が來たことゝ思はれる。天の香具山のほとりでは、白い織物の衣を乾してゐる。
【語釋】 ○夏來たるらし 來たる〔三字傍点〕は、來到る〔三字傍点〕の約で、來著するをいふ。らし〔二字傍点〕は推定の辭。○白栲の衣 たへ〔二字傍点〕は植物性の織物の總稱。これから轉じて、何にでも白い物をしろたへ〔四字傍点〕といふやうになつた。しろたへ〔四字傍点〕の雪など。この歌では、實際に白い衣服である。
【後記】 藤原の宮の附近から、天の香具山を望まれたのであらう。その山麓の住民が、白い衣服を乾してゐるのに就いて、夏の到來をお感じになつた歌である。助動詞らし〔二字傍点〕は、推量の辭であるが、事實を基礎として、然る後に出る語意である。この歌では、「白栲の衣ほしたり天の香具山」が推量の根據たる事實になつてゐる。而して事實の根據を先に叙して、然る後に推量に移るのが順序であつて、同じ香具山の歌にしても、例へば、
(63)  ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく、春立つらしも(卷十、一八一二)
の如き形式となる。この形の方が原始的であつて率直感が強いのであるが、今の春過ぎての歌の如く、推量の辭が先に出ると、進んで高雅巧緻の氣分を生ずるのである。この場合には、事實の根據を示す句は、推量の句意を確める氣持がある。
 この歌は、春が來て夏が來たらしいといふ、季節の推移を描かれてゐる。古人の季節感は、實生活から來てゐるので、春秋を喜び夏冬を忌むのは、夏冬の季節が、古人の生活に取つて壓迫的であつたからである。春秋が來ると、古人は蟄伏から開放せられる喜悦を感ずるのである。そこで春秋の來たことを歌ふ歌は多く、夏冬の來たことを歌にすることは少かつた。しかるにこゝに生活が向上して、夏冬に對しても、これを客觀視するだけの餘裕が生じて來て、このやうな作品を生ずるのである。この歌では夏の來たことを、決して嫌つて居られない。むしろその清爽を喜んで居られる。其處に高雅な氣品が生じてゐるのである。
 この歌は百人一首に入つては、
  春過ぎて夏來にけらししろたへの衣ほすてふあまのかぐ山
となつてゐる。これは平安朝人の訓法に依つたものであるが、四句のコロモホステフ〔七字傍点〕は斷じて(64)いけない。それでは、衣をほすといふの意になつて、目のあたり香具山を御覽になつた歌でなく、人づてにお聞きになつた歌になつてしまつた。原歌によらねばならぬ所である。
 
   近江の荒れたる都を過《す》ぎし時 柿本朝臣人麻呂の作れる歌
 
29 玉襷《たまだすき》 畝傍《うねび》の山の 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御代ゆ【或は云ふ宮ゆ】生《あ》れましし 神のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを【或はいふめしけり】 そらにみつ 大和《やまと》を置きて あをにょし 平《なら》山を越え【或は云ふ そらにみつ大和を置き あをによし平山越えて】 いかさまに 思ほしめせか【或は云ふ おもほしけめか】 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど 石走《いはばし》り 淡海《あふみ》の國の 樂浪《さゝなみ》の 大津の宮に 天《あめ》の下 知らしめしけむ 天皇《すめろぎ》の 神の尊《みこと》の 大宮は 此處《ここ》と聞けども 大殿は 此處《ここ》と云へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧《き》れる【或は云ふ 霞立つ春日か霧れる 夏草か繁くなりぬる】 ももしきの 大宮處《おほみやどころ》 見れば悲しも【或は云ふ 見ればさぶしも】
 
【題意】 近江の大津の宮の荒れた跡を通つて、柿本人麻呂の詠んだ歌である。近江の大津の宮は、天智天皇(65)が造営せられ、弘文天皇の御代に壬申の亂の爲に荒廢に歸した。この歌は柿本人麻呂が、地方官として大津の宮址に赴いて、近江朝廷のありし日の名殘を惜んで作つたものと思はれる。
【口譯】 神武天皇が畝傍の橿原の宮に御即位になつてよりこのかた御出現になつた御歴代の天皇は、次々に天の下を御治め遊ばされたのに、天智天皇は何ういふお考へからか、此の大和の國をさし置いて、奈良山を越えて、遠い/\田舍ではあるが、近江の國さゝなみの大津の宮に、天下を御治め遊ばされた。その天皇の尊き御方の大宮は此處であつたと聞いても、大殿は此處にあつたと云ふけれども、今は春草のみ繁く生ひ、霞のかゝつてゐる春の日がぼんやりと照してゐる皇居の跡の大宮處を見れば悲しい事である。
【語釋】 ○玉襷 枕詞。玉の飾ある美しい襷、袖を上に結び上げる紐又は布。頸《うなじ》にかける事から、畝傍を修飾する。また釆女は襷をかけるからうね〔二字傍点〕にかゝるともいふ。○畝傍の山の橿原の日知の御代ゆ 神武天皇は、畝傍の山の麓の橿原の地に宮をお定めになつたので、その御代をいふ。日知〔二字傍点〕は聖〔傍点〕の譯言で、日が天下を照し知るやうに、あらゆる事を知つてゐる意。ゆ〔傍点〕はそれよりこなたの意。○生れましし神のことごと 神武天皇以來御出現遊ばされた天皇悉く。ある〔二字傍点〕は御出現になる意。○樛の木の 枕詞。今の栂の木であらう。ツガ、ツギと音が似よつてゐる所からつぎ〔二字傍点〕を修飾する。○いやつぎ/\に 次第次第に。○知らしめししを しらす〔三字傍点〕は知るの敬語、めす〔二字傍点〕は見るの敬語。助動詞風になつて、單に敬語として使はれる。天下の(66)事をお知り遊ばされるといふことから、統治せられる意になる。下のし〔傍点〕は時を表す助動詞。○そらにそつ 大和〔二字傍点〕の枕詞。一の歌でといた。そらにみつ〔五字傍点〕とに〔傍点〕のあるは此の一例のみである。○あをによし 奈良〔二字傍点〕の枕詞。前述した。○いかさまに思ほしめせか おもほし〔四字傍点〕は思ふの敬語を表したもの。お考へ遊ばされてかの意。この句は前の大和を置きて奈良山を越えにもかゝるもので、句の置き方が前後してゐる。○天離る 夷〔傍点〕の枕詞。都を天としそれから遠く離れてゐる。○夷にはあれど 夷〔傍点〕は田舍、僻邊の地。○石走り 水の石上を走る意で、水〔傍点〕に冠する。○樂浪の 近江の國の南方一帶の地名で、その中に大津、志賀等がある。○天皇の神の尊 天智天皇をいふ。すめろぎ〔四字傍点〕は前代の天皇をいひ、後には現在の天皇をも申し上げるやうになつた。○霞立つ春日の霧れる 霞立つ〔三字傍点〕は春日〔二字傍点〕の枕詞である。きる〔二字傍点〕は水蒸氣の籠つて(67)ゐるをいふ。名詞の霧《きり》も動詞きる〔二字傍点〕から出たものである。この句は下の大宮處〔三字傍点〕を修飾するものである。○ももしきの 大宮〔二字傍点〕の枕詞。しき〔二字傍点〕は礎石で、宮殿建築には澤山の礎石を置くからももしきの〔五字傍点〕といふ。○大宮處 宮殿の地。○見れば悲しも も〔傍点〕は感動詞。○見ればさぶしも さぶし〔三字傍点〕は樂まぬ貌。
【後記】 華やかであつた天智天皇の御事業も、壬申の亂一度起つてより、近江の大津の宮の壯大なりしも、一切の文物と共に灰燼に歸してしまつた。さういふ華やかなあとの寂しさは一層である。人麻呂の當時、なほその滅亡に伴つたあらゆる悲劇が云ひ傳へられてゐたであらう。その悲劇を見て悼む人々の心を代表して人麻呂が詠んだのである。人麻呂の歌には、天下の人心に通じて、人々の感じて云はんと欲する事を、歌つてゐる。ひとり筆を執つて紙に向つて文字を記す態度ではなく、集團の中に立つて高所に歌ふ態度である。故に彼の歌には個人性といふものが乏しく、人をして共鳴させる所が多い。此の歌にしても、人々と共に近江の朝廷の滅亡を悼んでゐるのである。
 此の歌は、神武天皇の古代から説き起して、大きな姿をなし、一國の帝都の荒廢を悼むといふ内容にふさはしい形を有してゐる。叙述の部分が大體を占めて、感慨の所が比較的少ないが、歌中自然に感慨の情を表してはゐる。
 
(68)   反歌
30 樂浪《さゝなみ》の 志賀《しが》の辛碕《からさき》 幸《さき》くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
 
【口譯】 樂浪の志賀の辛碕は、變ることなく榮えてあるが、都が亡びてから、大宮人の船を待つ事が出來なくなつた。
【語釋】 ○志賀の辛碕 樂浪の志賀にある碕の名。○幸くあれど 上の碕〔傍点〕を受けて、同音を重ねてゐる。さきく〔三字傍点〕は幸に榮えあることを形容する。○大宮人の 大宮に仕へる宮人の。男女共に含んでゐる。○船待ちかねつ かねつ〔三字傍点〕は得なかつたの意。船を待つ事が出來なくなつた。
【後記】 サキの音を重ねて巧に調子を整へてゐる。上二句は主格句でありながら、一面下句に對して序詞的な效果をも收めてゐる。巧な歌といふべきである。
 
31 樂浪の 志賀の【一に云ふ 比良の】 大曲《おほわだ》 淀むとも 昔の人に 復《また》も逢はめやも【一に云ふ 逢はむと思へや】
 
【口譯】 樂浪の志賀の大きな灣は、よし水が淀んで動かぬことがあつても、昔の大津の宮時代の(69)人には、二度とあふことはあるまい。
【語釋】 ○大曲 わだ〔二字傍点〕は彎曲せる水面。○淀むとも 水の流れないで滯るのを、よどむ〔三字傍点〕といふ。とも〔二字傍点〕は假説條件法で、若し水が溜つて流れが止る樣な不自然な大事件が起らうともの意。○昔の人に 昔の大津の宮に仕へてゐた人々に。この地に遊覽の船を浮べた、宮廷の佳人臣僚に。○復も逢はめやも や〔傍点〕は反語をなす。復とあはうや、會ふことはないの意。○會はむと思へや や〔傍点〕は反語。前の句のやうにめ〔傍点〕に續くのは多いが、稀には、思ふ〔二字傍点〕の如き動詞に直接に續く。會はうとは思はないの意。アハントモヘヤと讀む。
【後記】 實際にはあるべきでない事を豫想して、もしそのやうな非常の事があつても、故人には復とあふまい。昔の榮華をこの地に見ることは出來まいといふ極端な場合の豫想が、現に太湖の水に面してゐる氣分から出てゐる。
 
   高市古人《ふたけちのふるひと》 近江の舊堵を感傷して作れる歌 或る書にいふ高市連黒人
32 古《ふ》りにし 人に我あれや 樂浪の 故《ふる》き都《みやこ》を 見れば悲しき
 
【題意】 高市古人が、近江の大津の宮の跡を見て、感傷して詠んだ歌である。古人といふは、外に所見が無いので、或る書にいふ高市連黒人といふ小書の方が正しいのであらう。黒人は人麻呂と同時代の人であつ(70)て、短歌をよくした人である。
 舊堵の堵は土垣の意であるが、音トが都と通じる所から堵を用ゐたものである。
【口譯】 自分はもう古くなつた人である爲か、この樂浪の古き都を見ると悲しくなる。
【語釋】 ○古りにし 四音で一句をなしてゐる。古りにし人〔五字傍点〕といふは、年老い心がたゆんで、時勢に後れゆく人の意である。○人に我あれや 人に我があるからかの意。遙に下の悲しき〔三字傍点〕にかゝつてゐる。○樂浪の古き都 近江の樂浪の大津の都。
【後記】 同じ舊都を見ても、人麻呂は古を思ひ、古聖帝の歴史を叙述するに對して、黒人は自分を省みて、古くなつた人である故かと内省してゐる。こゝに兩人の相違してゐる點がある。この外の歌に於いてもこの傾向は十分に見られる。この故に人麻呂の歌は古來萬人に愛誦せられ、黒人の歌は近代人の喜ぶ所となつてゐる。
 古りにし人と同じく集中には古りにし里といふのも多い。やはり時代に取り殘されたといふ意に用ゐてゐる。
  わが里に大雪降れり、大原の古りにし里に降らまくは後(卷二、一〇三)
  淺茅原つばら/\に物念へば古りにし里し思ほゆるかも(卷三、三三二)
 忘れられた都、またわが住み古した里、すなはち古りにし里の心であつて、これと同じく古(71)りにし人も、この歌に於いて、われなほ爲すに足ると思へるに、かの荒墟を見て涙ぐまるゝは、はやく回顧に暮るる昔べの人となつたのではないかと、荒れた都を傷み、またわが傷める心をみづから悲しんでゐるのである。
 
33 樂浪《さゝなみ》の 國つ御神《みかみ》の うらさびて 荒れたる京《みやこ》 見れば悲しも
 
【口譯】 近江の樂浪の地に住む國の神の心が樂まなくなつて、それが爲に荒れはてた都を見れば悲しいことである。
【語釋】 ○國つ御神 その國土の神。國土そのものの信仰から、國土の居住者の意に轉じてゐる。國土を守護する神。天つ神に對して、地上に土著してゐる神をいふ。み〔傍点〕は接頭語で美《ほ》める意がある。○うらさびて うら〔二字傍点〕は心の上にいふ詞。表面に表れない時に用ゐる。うら悲し、うら泣くなど。さび〔二字傍点〕は寂しく樂まない意の動詞。土地を守護する神のみ心が寂びれるので、うらさびて荒れた都と續くのである。○見れば悲しも 前出。
【後記】 この歌は都の荒れたのを見て、守護神の心が緊張しなくなつた結果として、國つみ神の内心を叙してある。土地の荒れた理由を突きつめて行つた所にこの作者の理性的な特色がある。
 
(72)   紀伊《き》の國に幸《いでま》しし時 川島の皇子の作りませる歌 或はいふ 山上臣憶良の作
34 白浪の 濱松が枝《え》の 手向草《たむけぐさ》 幾代までにか 年の經ねらむ 【一に云ふ 年は經にけむ】
    日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊の國に幸したまひき。
 
【題意】 持統天皇が、紀伊の國に行幸あらせられた特、御供にあつた川島の皇子が詠んだ歌である。卷九には山上憶良の作として、一に川島の皇子の御歌として載せてゐる。この卷一のと互に參照を附したものである。
【口譯】 白浪の打ち寄する浜の松が枝にかけた、手向の祭の幣《ぬさ》どもは、幾代までの久しき年を經てゐることであらうか。
【語釋】 ○白浪の浜松が枝の 白浪の打ち寄する濱邊に立てる松の枝のといふ意で簡潔な造句である。○手向草 たむけ〔三字傍点〕は行路にあつて、恙無からむことを願ひて神を祭ること。それから幣帛を獻ずる意になつた。たむけぐさ〔五字傍点〕は手向の祭の材料、すなはち幣帛そのものをいふので、布、木綿、絲、紙が數へられる。ここの歌では、これらのものが古くなつて松が枝に懸つてゐるのを見て、いつの代からのものかと疑ふ意になるのである。○年の經ぬらむ この手向の料物は、幾代を經るまでか、年を輕て、今はあるのだらう(73)の意。らむ〔二字傍点〕は現在の事を推量する。○一に云ふ、年は經にけむ この手向の料物は、幾代まで年を經たことであらうといふ意で、けむ〔二字傍点〕は過去を推量する意。へぬらむ〔四字傍点〕と同意であるが、へぬらむ〔四字傍点〕は現在この實物の存してゐるのについて推量し、へにけむ〔四字傍点〕は必しも存してゐないでもよい。
【左註】 日本書紀に依つて、持統天皇の紀伊の國への行幸の年月を記してゐる。紀伊の國への行幸は、多く牟婁の温泉に行幸あらせられるのである。
 
   勢《せ》の山を越えし時 阿閉《あべ》の皇女《ひめみこ》の作りませる御歌
35 これやこの 大和《やまと》にしては 我が戀ふる 紀路《きぢ》にありとふ 名に負ふ勢の山
 
【題意】 元明天皇がいまだ帝位に即かれざらし以前に、紀伊の國へ行かれた時に途中、勢の山を越えられて詠まれた歌である。この御旅行は、持統天皇四年九月の行幸に從はれたものであらう。皇女の夫君の日並みし皇子は、その前年に薨ぜられてゐる。故に山に託して夫君を慕はれる哀悼を寫されたものである。
【口譯】 これがまあ、大和の國に在つて自分の戀ひ慕つてゐる、夫《せ》といふ名を持つた、紀伊の國へ行く路にありといふところの、あの勢《せ》の山であるのだ。
【語釋】 ○これやこの これがあの何々かといふ語法で、有名なのは百人一首中蝉丸の「これやこの行くも(74)還るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の關」の歌があり、この集には「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻苅るとふ海孃子《あまをとめ》ども」(卷十五、三六三八)などがある。○大和にしては 大和にあつては、大和にあつた時はの意。○我が戀ふる 我が戀ふる夫《せ》と續くのである。夫君草壁の皇子の薨去せられて後なので、この句がある。夫〔傍点〕は夫君草壁の皇子。○紀路にありとふ 紀路は、紀伊の國へ行く路である。とふ〔二字傍点〕はといふ〔三字傍点〕の義。前出。この句は勢の山〔三字傍点〕の修飾語で、主脈から離して見る語法である。○名に負ふ勢の山 名に負ふ〔四字傍点〕は、名に背負ひ持つてゐる義。せ〔傍点〕は男子の稱で、そのわが戀ふる夫といふ名を持つてゐる山の義になる。それで、大和にしては我が戀ふる勢の山、紀路にありといふ勢の山、名に負ふ勢の山といふ各句を受けてここに結んだのである。
【後記】 山の名のせ〔傍点〕を男子の稱によせた趣向で、外にもこの山に就いてはかういふ取扱ひ方を多く存してゐる。一二を擧げると、
  栲領巾《たくひれ》の懸けまく欲しき妹が名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ(卷三、二八五)
吉野川の北岸に勢の山があるので、對岸には妹山の名を作り設けてゐる。
  勢の山に直《たゞ》に對《むか》へる妹の山事|聽《ゆる》せやも打橋わたす(卷七、一一九三)
 
   吉野の宮に幸しし時 柿本朝臣人麻呂の作れる歌
(75)36 やすみしし 吾が大君《おほきみ》の 聞《きこ》し見《め》す 天《あめ》の下に 國はしも 多《さは》にあれども 山川の 清き河内《かふち》と 御心《みこころ》を 吉野《よしの》の國の 花|散《ち》らふ 秋津の野邊《のべ》に 宮柱 太敷《ふとし》きませば ももしきの 大宮人は 船《ふね》竝《な》めて 朝川渡り 舟競《ふなぎほ》ひ 夕川渡る この川の 絶《た》ゆることなく この山の いや高知らす 水はしる 激流《たぎ》の宮處《みやこ》は 見《み》れど飽かぬかも
 
【題意】 持統天皇が、吉野の宮に行幸あらせられた折、供奉して柿本人麻呂の詠んだ歌である。持統天皇は屡々吉野に行幸あらせられたので、いつの度のことかは分らぬ。吉野の宮は、前に出た通り、吉野川の激流に臨んで建造せられてゐる。
【口譯】 わが天皇陛下の御統治遊ばされる天の下に、國は多くありますが、山や川の清い河域であるとて、吉野の國の秋津の野邊に、立派な宮殿をお作りになりますので、お仕へ申す人々も、船を並べては、朝川を渡り、舟を競つては、夕川を渡ります。この川のやうに絶えることなく、この山のやうにいよいよ壯大に御座遊ばされる、水の激する宮處は、見ても/\飽きないことで御座います。
(76)【語釋】 ○やすみしし 大君〔二字傍点〕の枕詞。既出。○聞し見す お聞きになり、御覽になるがもとの意で、これから領地を御統治遊ばされる意になる。○國はしも しも〔二字傍点〕は意味を強める助詞。くに〔二字傍点〕は地方的の區劃をいふ。○山川の 山や川の。○清き河内と 川の流れを中心として、兩岸一帶を含めて河内といふ。清らかな川の流域として。○御心を 御心善し〔四字傍点〕とつゞく。次の吉野〔二字傍点〕に冠した枕詞。を〔傍点〕は感動詞。○吉野の國の 大和の國の南方の一區劃を云つてゐる。○花散らふ 散る〔二字傍点〕の連續状態を表す。花があとからあとから散る意。櫻花の爛漫として散り亂れるの義。○秋津の野邊に 秋津〔二字傍点〕は吉野の中にある地名。○宮柱 宮作りの柱。○太敷きませば 太〔傍点〕は敷く有樣の壯大な事をいふ。(77)柱は太いのをよいとするから、宮柱太敷くといふ。敷く〔二字傍点〕はある地域を占める意で、柱を太く地上にお敷きになればの意となる。○ももしきの 大宮〔二字傍点〕の枕詞。既出。○大宮人 宮殿に仕ふる人々。既出。○船並めて 船をいくつも竝べて。○朝川渡り 朝に川を渡り。○舟競ひ 舟を競走する事。○夕川渡る 朝川渡りに對してゐるので、朝夕に舟を出し先を爭つて川を渡るといふ意。こゝで段が切れてゐる。○この川の絶ゆることなく 吉野川の水の絶えることもなくと、これ以下は前の山や川を受けて、祝賀の意を歌つてゐる。○この山の 吉野の山をいふ。この山の如くの意。○いや高知らす この山の高いやうに、いよいよ高く御占據遊ばされるの意。高知らす瀧の宮處〔八字傍点〕と續くのである。○水はしる 水の奔流する意で、實景である。○激流の宮處は たぎ〔二字傍点〕は水の激しく流れるところ。みやこ〔三字傍点〕は宮室の地。○見れど飽かぬかも いくら見ても/\飽きる事がない。
【後記】 この歌は、二段構成を有してゐる。夕川渡るまで第一段で、事實を描寫し、以下は第二段で作者の感想を叙してゐる。初に諸國の多い中に、特に景色のよい所として、吉野川の流域を選擇し、その地に宮室を建て、その川に大宮人の賑へる樣を叙し、そして、その川のやうに、その山のやうにと、對句を用ゐて祝意を表し、斯樣な景色のよい所の宮室は見ても飽きない事であると叙してゐる。一句/\ほめ詞を用ゐた所がこの歌の特色ともいへるであらう。見れど飽かぬかもといふ最後の、作者の感情を表した句は、人麻呂の創始した句かは分らぬが、非常(78)に模倣が多くて、常套の句にならてしまつてゐる。けれども吉野離宮の景勝をほめるといふ點からは、成功してゐると云へるであらう。見れど飽かぬかもの句を使つた歌、
  山高み白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ激流《たぎ》の河内は見れど飽かぬかも(卷六、九〇九)
  若狹なる三方の海の濱清みい往き還らひ見れど飽かぬかも(卷七、一一七七)
  古の賢《さか》しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも(卷九、一七二五)
  山高み白木綿《しらゆふ》花に落ち激《たぎ》つ夏實《なつみ》の河門《かはと》見れど飽かぬかも(同、一七三六)
 人麻呂のこの歌は、當時から有名であつたと見えて、山部赤人の芳野の歌などもこれを模倣してゐる。
  やすみしわご大君の、高知らす芳野の宮は、たたなづく青垣|籠《ごも》り、河|次《なみ》の清き河内ぞ、春べは花咲き撓《をゝ》り、秋されば霧立ち渡る、その山のいや益々に、この川の絶ゆることなく、もゝしきの大宮人は常に通はむ(卷六、九二三)
 しかも模倣作の悲しさは、人麻呂の歌は、「この山のいや高知らす」と山から高を引き出すので意味があるのだが、赤人の歌では、「この山のいやます/\に」と、高の語を落してゐるので、何がこの山のだかさつぱり分らなくなつてしまつてゐる。
 
(79)   反歌
37 見れど飽かぬ 吉野《よしの》の河の 床竝《とこなめ》の 絶ゆることなく 復《また》還り見む
 
【口譯】見ても/\飽きる事のない吉野の川の、大きな岩床のやうに、永久に絶える事なく又立ち還り見ることでありませう。
【語釋】 ○見れど飽かぬ 長歌の末句を受けて、反歌を起してゐる。○床竝の 川邊の大磐石のならんでゐる所の。これから目前の景物を叙して、絶ゆることなく〔七字傍点〕の序としたのである。吉野川の岸邊の大磐石を取つて、その恒久性により、絶ゆることなくと云ふ序と爲したのである。古代の祭壇であるといふ。また常滑〔二字傍点〕で、水に濕つて常に滑なる所ともいふ。○絶ゆることなく 往來し勤仕することの絶えずにの意である。此の句の類句として、
  み吉野の秋津の川の萬代に絶ゆることなく復《また》かへり見む(卷六、九一一)
  卷向《まきむく》の病足《あなし》の川ゆ往く水の絶ゆることなく復かへり見む(卷六、一一〇〇)
 
38 やすみしし 吾が大君《おほきみ》 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 芳野川《よしのがは》 たぎつ河内《かふち》に 高殿を (80)高しりまして のぼり立ち 國見を爲《せ》せば 疊《たたな》はる 青垣山 山祇《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつぎ》と 春べは 花|挿頭《かざ》し持ち 秋立てば 黄葉《もみぢ》かざせり【一に云ふ 黄葉かざし】 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川の神も 大御食《おほみけ》に 仕へ奉《まつ》ると 上《かみ》つ瀬に 鵜川を立て 下《しも》つ瀬に 小網《さで》さし渡す 山川も 寄《よ》りて奉《まつ》れる 神の御代《みよ》かも
 
【題意】 前の歌と同じく、吉野の宮への行幸の御供をして、柿本人麻呂の詠んだ歌であるが、前のと同じ時か、別の時か明でない。
【口譯】 わが天皇陛下は、神樣の御心の儘に、神樣としての御行ひを爲されると、吉野川の激しく流れる川の邊に、高殿を高くお立てになつて、それに登り立ち國見を遊ばされると、疊まつてゐる青い垣のやうな山は、その山の神の奉る貢として春の頃は花を挿頭《かざし》にして居り、秋が來れば、紅葉を挿頭にして、添うてゐる吉野川の神も、御食膳にお仕へ申し上げようと、上の方の瀬では鵜飼をし、下の方の瀬では、小網をさし渡して魚を取つて居ります。山や川も寄り來つて、お仕へ申し上げる神の御代であります。
【語釋】 ○神ながら 神樣の御心に任せて。神意のまゝに。この世は神の御靈の在りのまゝに動いて行くと(81)いふ意。○神さびせすと 神としての性質を發揮する事、すなはち神としての行ひをする事で、孃子《をとめ》さび、男さび、丈夫《ますらを》さび、翁さび等の用例と同じである。せす〔二字傍点〕は爲《す》の敬語法で、爲されるの意。神樣としての御行動を遊ばすとしての義である。○たぎつ河内に かふち〔三字傍点〕は河を中心として、岸、河原より山に至るまでの大きな範圍をいふ。たぎつ〔三字傍点〕は激しく流れる意、既出。○高知り坐して しる〔二字傍点〕は占有する、領有するの意で、高〔傍点〕はその知る有樣の大きい事をいふ。空に高き宮殿を高く御占據遊ばされての義。○上り立ち 高殿に上るで、天皇の御行動にいふ。○國見を爲せば 高い處から、國中の風景を觀望なさると。せせば〔三字傍点〕は爲るの敬語已然條件法。敬意を表していふ語だが他に用例はない。○疊はる 疊まり重なつてゐる義で、ここでは山岳の重り積つてゐる事をいふ。○山祇の 山の神である。○奉る御調と 獻上する貢物としては。○春べは 春の頃は、春の程は。○花挿頭し持ち かざし〔三字傍点〕は髪に挿す義。人が四季の花を挿頭《かざし》にするやうに、青垣山は、花を挿頭にする。それは、山の神の獻上物として花を挿頭して持つてゐるの意。○秋立てば 秋になれば。○黄葉挿頭せり 山祇の御調としての、春の花の挿頭、秋の黄葉の挿頭と對句にして受けた語法である。○逝き副ふ川の神も 宮殿の前を流れる川を逝き副ふ川といひ、川の神は山の祇に對立してゐる。○大御食に 立派な食物。け〔傍点〕は食物で、おほみ〔三字傍点〕は美稱である。○仕へ奉ると お仕へ申しあげると。○上つ潮に 上流の方の瀬。瀬は水の淺く騷いで流れるところをいふ。○鵜川を立て 鵜を使用して魚を取るを鵜川といふ。立て〔二字傍点〕は、その事を行ふないふ。○下つ瀬に 下流の方の瀬に。○小網さし渡す さで〔二字傍点〕は小さい網、さしわたす〔五字傍点〕は小網を川に入れて漁獵をする意。鵜川を立て小網さし渡すは、もとよ(82)り人のすることであるのを、それを川の神の天皇に對する勤仕と説いたのは、川の神が人をして漁獵せしめる意であつて、すべて神意に出たものと解するのである。これがいはゆる神ながらの義である。上流下流は文章構成上の技巧で、別に分れて異る漁獵なしたのでなく、一般の事を、上下と對立させたまでである。○山川も 山の神も川の神も。○寄りて奉れる まつる〔三字傍点〕は上にもあつた獻上の意で、帝の徳に慕ひ寄つて獻上物をするの義である。○神の御代かも この御代は神の御代であることよと感歎したのである。
【後記】 この歌は、吉野の宮のよい景色に筆をかりて、帝徳の宏大な事を叙してゐるのである。二段構成で、小網さし渡すまで第一段、以下第二段である。人麻呂の歌として、國民を代表して歌つてゐるやうな點があり、然して山の神、川の神の寄つて奉仕するといふ規模の大きい所が、帝徳をたゝへた詠として、大きな特色を爲してゐる。春秋を對句にした所に現在の季節が明に出て來ないといふ弱點もある。この歌は、吉野の離宮を圍む山川の美麗壯大を、作者の所見として叙せずに、天皇の御覽になるとかくの如しと叙する構成を有してゐる。この故に山や川の有樣を、山川の神が奉仕すると叙して、いかにも帝徳の宏大なる有樣が出るのである。この構成は、後に藤原の宮の御井の歌でも用ゐられてゐる。吉野の山川の美しさを叙するのは、要するに、頌賀の意であるから、この形式を取ることに依つて、一層有効になるのである。
 
(83)   反歌
39 山川も 寄りで奉《まつ》れる 神《かむ》ながら たぎつ河内《かふち》に 船出《ふなで》するかも
    右日本紀に曰はく、三年己丑正月、天皇吉野宮に幸す。八月、吉野宮に幸す。四年庚寅二月、吉野宮に幸す。五月、吉野宮に幸す。五月辛卯正月、吉野宮に幸す、といへれば、いまだ詳に知らず、何の月駕に從ひて作れる歌なるかを。
 
【口譯】 山の神も川の神も、寄り來つて奉仕する、その神意のまゝに、大宮人も、激しき流れの河中に船出をすることである。
【語釋】 ○山川も寄りて奉れる 前の長歌の末を受けてゐる。奉れる神ながら〔七字傍点〕と續くところである。○神ながら 山川の神々も、帝徳を仰いで奉仕をする。その神意であるまゝにの意。○たぎつ河内に このかふち〔三字傍点〕は狹意に解して、川中に程度のところ。○船出するかも 船出をすることである。前の三六の長歌の文中の、ももしきの大宮人は船並めて朝川渡り舟競ひ夕川渡るの文意がここに出てゐる。宮殿にお仕へする人たちが、激流ではあるが船出をすると感歎したのである。
【左註】 持統天皇は、吉野の離宮を御愛賞になつて御代の中には數囘行幸あらせられた。それでその何時の(84)度のか分らないといふのである。
 
   伊勢の國に幸《いでま》しし時 京に留りて 柿本朝臣人麻呂の作れる歌
40 嗚呼見《あみ》の浦に 船乘《ふなの》りすらむ 孃子《をとめ》等《ら》が 珠裳《たまも》の裾に 潮滿つらむか
 
【題意】 持統天皇の六年に、伊勢に行幸し給うた時に、飛鳥の京に留つて、行幸の地を思ひやつて、柿本人麻呂の詠んだ歌である。
【口譯】 嗚呼見《あみ》の浦に、船に乘つてゐるであらうあの孃子の、美しい裳の裾には、あたかも潮が滿ちてゐるであらうか。
【語釋】 ○嗚呼見の浦に あみ〔二字傍点〕の浦は伊勢にある浦の名であらう。アゴと讀む説もあるが、この儘ではアミと讀む外は無い。○船乘りすらむ 船乘をしてゐるであらうの意。す〔傍点〕ほ爲。らむ〔二字傍点〕は現在推量の助動詞で、次の句に續く。○珠裳の裾に 裳〔傍点〕は腰部以下に著ける衣服である。珠〔傍点〕は美稱。裾〔傍点〕は衣類の下部。○潮滿つらむか 潮が滿ちて居るであらうか。潮が滿ちて裳裾を濡らすであらうかといふ意である。
【後記】 都にあつて、行幸にお供をした女官等の有樣を想像してよんだので、作者が海邊の旅行を體驗してゐる所から、描寫がはつきりしてゐて、多少肉感的の描寫である。卷十五には、
(85)  阿胡《あご》の浦に船乘《ふなの》りすらむ孃子《をとめ》らが赤裳の裾に潮滿つらむか
として傳へられてゐる。人麻呂の妻が、女官として行幸の一行の中に加つてゐたので、この作があるのである。潮の滿ちて來る所を、孃子の赤裳の裾と限定したのは、その理由に依る。而してこれに依つて印象がはつきりして來て、強く感じか出るのである。
 
41 釧《くしろ》著《つ》く 手節《たふし》の埼《さき》に 今日もかも 大宮人の 玉藻苅るらむ
 
【口譯】 志摩の國の手節の埼に、今日も、大宮人が、玉藻を苅つてゐることであらうか。
【語釋】 ○釧著く 枕詞である。釧〔傍点〕は、金屬や玉等にて作つて腕に卷いて飾とするもの。腕輪の類で、釧を著ける手と續く。○手節の埼に たふし〔三字傍点〕は地名。志摩の國の答志《たふし》郡。埼〔傍点〕は陸地の突き出た所。○今日もかも 二つのも〔傍点〕は力を強める助詞で、か〔傍点〕は疑問の詞。○大宮人 朝廷に仕ふる男女。○玉藻苅るらむ 藻の美しいのを玉藻といふ。玉〔傍点〕は美稱。海濱に遊行するを、漁人の業に擬へて、玉藻苅るといふのである。漁人のやうな生活をするとの意味を、玉藻苅るの句で現してゐる。
【後記】 前と同じ事情のもとに歌はれたので、釧つくも枕詞ではあるが、女官である妻の服飾に及んでゐるのである。大宮人と漠然たる言ひ方をしてはゐるか、歌に想うてゐる中心は、その(86)中の一人にあるのは勿論である。
 
42 潮騷《しほさゐ》に 伊良虞《いらご》の島邊《しまべ》 榜《こ》ぐ船に 妹乘るらむか 荒き島廻《しまみ》を
 
【口譯】 潮が騷ぐ折しも、伊良虞の島の邊を榜ぐ船に、我が思ふ人も乘つてゐるであらうか。荒い島のほとりであるが。
【語釋】 ○潮騷 海水が、潮流の關係又は暗礁等の爲に、ざわ/\立ち騷ぐをいふ。○伊良虞の鳥邊 いらご〔三字傍点〕は地名。今三河の半島に屬してあることは前に述べた。○妹乘るらむか 妹〔傍点〕は婦人に親み呼びかける詞で、作者人麻呂の胸中に、特にある一人の妹と呼ぶべきが、行幸のお供の中にあつたのである。らむか〔三字傍点〕は推量してこれを疑つてゐる。○荒き島廻を 島廻〔二字傍点〕は島のほとり、島のめぐりをいふ。このみ〔傍点〕が地文上の名辭について、浦み〔傍点〕、磯み〔傍点〕、道の隈み〔傍点〕などとなつて、それらの地形が彎曲してゐる地形であることを示すのである。
【後記】 この歌に至つて、始めて妹の語を使つて、意中を明にした。三首併せて連作として味ふべきである。
 
(87)   當麻眞人《たぎまのまひと》麻呂の妻《め》の作れる歌
43 吾が夫子《せこ》は 何處《いづく》行くらむ 沖《おき》つ藻の 名張《なばり》の山を 今日か越ゆらむ
 
【題意】 前の歌と同じく、持統天皇六年の行幸に夫が御供したので、その妻、すなはち當麻麻呂の妻が、京に留つて、夫を思つて詠んだ歌である。
【口譯】わが夫の君は何處を旅行してゐるであらう。あの伊賀の名張の山を今日越えてゐることであらうか。
【語釋】 ○吾が夫子 男子に對して、敬愛の情を籠めて呼ぶ稱である。○何處行くらむ いづれの處を通つてゐるであらう。らむ〔二字傍点〕は現在推量の辭。○沖つ藻の 枕詞である。沖にある海藻は、海水に隱《かく》れるので、隱《なば》るに懸かる。○名張の山 伊賀の山の名。大和と伊勢との通路に當る。○今日か越ゆらむ 今日あたり越えてゐる事であらうか。今日越ゆらむかのか〔傍点〕を上に持つていつたのである。
【後記】 夫の行程を心に留めて早く歸つて來て欲しいと待ちわびてゐる妻の情をよく表してゐる。歌の表では、夫の往路とも歸路とも分らぬが、既に待ち遠になつてゐる心を歌つてゐるので、勿論今日頃は、歸路についてゐるのであらうかと推量してゐるのである。
 
(88)   石上《いそのかみ》の大臣《おほまへつぎみ》 駕《みくるま》に從ひて作れる歌
44 我妹子《わぎもこ》を 去來見《いさみ》の山を 高みかも 大和の見えぬ 國遠みかも
    右、日本紀に曰はく、朱鳥六年壬辰春三月丙寅の朔にして戊辰の日、淨廣肆廣瀬の王等を留守の官となしき。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂《みわのあそみたけちまろ》、その冠位を脱して朝に※[敬/手]上《ささ》げ、重諫して曰ひけらく、農作の前、車駕いまだ動かすべからずと。辛未の日、天皇諫に從はずして遂に伊勢に幸したまふ。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡《あご》の行宮《かりみや》に御《おはしま》しき。
 
【題意】 前の歌と同じく、持統天皇六年の行幸の時に、石上朝臣麻呂が、お供をして詠んだ作である。石上朝臣麻呂は持統天皇の時は大臣ではなかつたが、文武天皇の時に左大臣にまでなつた人であるから、ここには大臣と書いたのである。駕は、天皇の御乘物を云ふ。
【口譯】 わが妻を、さあ見たいと思ふが、國境の去來見の山が高い爲か、大和が見えない。或は又國の遠い爲で倭が見えぬのであらうか。
【語釋】 ○吾妹子を ワガイモコを約してワギモコといふ。婦人に對する敬愛の稱で、ワガセコの男子に對する敬愛の稱に對して使はれる。吾妹子をさあ見ようといふ意に、去來見〔三字傍点〕の枕詞となつてゐる。枕詞では(89)あるものの一首の内容には深い關係のある詞である。○去來見の山を 山の名であつて、一方いさ見〔三字傍点〕とを懸けた詞にしてゐる。この山は、大和と伊勢の間にある高見山の一名であると云はれてゐる。○高みかも 山を高みかも大和の見えぬといふ文脈なので、山が高い故に、故郷が見えぬのかの意。か〔傍点〕は疑問の辭。○大和の見えぬ ぬ〔傍点〕は打消の助動詞で上のか〔傍点〕に呼應してゐる。○國遠みかも 山を高みか〔五字傍点〕を受けて、いや國を遠みかと顧みて云つたのである。山を高みかも大和の見えぬ、否或は國を遠みかも大和の見えぬといふ語法である。
【後記】 山を高みか、國を遠みかと兩方に疑つてゐる。小高い處に立ち登つて故郷の方を見た事でもあらうか。吾妹子をの枕詞も利いてゐる。全體として音調の上から特色のある歌で、歌ひものから發達した性質を多く持つてゐる。
【左註】 此の行幸の時に三輪高市麻呂が諫止したがきかれなかつた事が記されてゐる。高市麻呂はこれによて官位を辭した。此の人の歌は此の集に入つてゐない。この左註は、前の人麻呂の京に留つて詠んだ歌までに懸るのである。
 
   輕《かる》の皇子 安騎《あき》の野に宿り給ひし時 柿本朝臣人麻呂の作れる歌
(90)45 やすみしし 吾が大君《おほきみ》 高照らす 日の皇子《みこ》 神《かむ》ながら 神さびせすと 太敷《ふとし》かす 都《みやこ》を置きて こもりくの 泊瀬《はつせ》の山は 眞木《まき》立つ 荒山《あらやま》道を 石《いは》が根《ね》 楚樹《しもと》おしなべ 坂鳥《さかどり》の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎《あき》の大野《おほの》に 旗薄《はたすゝき》 篠《しの》をおし靡《な》べ 草枕 旅宿《たびやど》りせす 古《いにしへ》思ひて
 
【題意】 輕の皇子(文武天皇)が、大和の宇陀郡の安騎の野にお出でになつて、その野にお宿りになつた時に、柿本朝臣人麻呂の作つた歌である。この野には、皇子の父君なる、今は亡き草壁の皇子が、かつて狩獵にお出になつたことがあるので、全篇、草壁の皇子を慕ひ奉ることが主題になつてゐる。草壁の皇子は日並《ひな》みし皇子の尊といふまたの御名で反歌の第四に出てゐる。
【口譯】 わが皇子樣は、神樣の御心のまゝに、神樣としての御行動を遊ばされるとして、御住みになつてゐる都を出て、かの泊瀬の山は、木立の繁り立つた荒い山道であるのに、石根や、伸びた枝を押し伏せて、朝お越えになり、夕方になりますと、雪の降る阿騎の大野に、薄や篠を押し伏せて、旅の宿りをなさいます、昔の事をお思ひになつて。
【語釋】 ○やすみしし我が大君高照らす日の皇子 高貴の方のたたへ辭《ことば》である。この歌では輕の皇子をおた(91)やへ申しあげてゐる。やすみししわが大君〔九字傍点〕は既出。高照らす〔四字傍点〕は、太陽の照臨する有樣の高大なのを稱へた句。日〔傍点〕の枕詞である。日の御子〔四字傍点〕は、天照らす大神の御子の義である。○神ながら神さびせすと これも既出、三八の歌に出てゐる。○太敷かす 都〔傍点〕の修飾句で、都を立派に地上にお立てになつてゐること。○都を置きて 都をさし置いて、都をうち置いて。藤原の都をおいて。○こもりくの こもり〔三字傍点〕は隱れある意で、く〔傍点〕は處、國の義である。袋のやうに、山間に隱れた地だから泊瀬といふのであらう。泊瀬〔二字傍点〕の枕詞である。○泊瀬の山は はつせ〔三字傍点〕は地名。今の大和の初瀬町附近の山。○眞木立つ ま〔傍点〕は接頭語。木をほめていふ。眞木〔二字傍点〕は、木としての資格を立派に備へてゐるので、森々とした堂々たる樹木をいふ。立派な木の立つてゐる。○荒山道を あら〔二字傍点〕は人の荒く感ずるにいふので、山も嶮岨に、人の往來も少いやうなるにいふ。荒き山道であるものを、泊瀬の山は荒山道なるものをの意。○石が根 ね〔傍点〕は地上に根を張つてゐるものの稱。松が根、岩根、垣根などいふ。岩石そのものの性質上ね〔傍点〕をつけるので、特に岩石の下部を指すのではない。○楚樹押し靡べ しもと〔三字傍点〕は樹木の若い枝、おしなべ〔四字傍点〕は押し靡かせて、邪魔になる木石を押し伏せての意である。○坂鳥の 渡り鳥の未明に山を飛び越ゆるをいふ。そこから、坂鳥〔二字傍点〕は朝越え〔三字傍点〕を修飾する枕詞となつた。○朝越えまして 朝山を越えるのを、朝越え〔三字傍点〕といふ。まし〔二字傍点〕は皇子の御行動なるが故に添へた敬語である。○玉かぎる たま〔二字傍点〕は珠玉、かぎる〔三字傍点〕は玉のきらきら〔四字傍点〕するにいふ。玉の微妙な光彩をいふ詞と思はれる所から、夕・ほのか・はるか〔七字傍点〕等を修飾する枕詞となつてゐる。當時の玉は、普通貝や石を材料とする。○夕さり來れば 夕になつて來れば。○み雪降る み〔傍点〕は接頭語で、雪をほめる詞。これは實景で、當(92)時皆が散らついた事をいふのであらう。○旗薄 冬の薄で、尾花が廣がつて風に動きもするので、旗の如くにある薄をいふ。○篠をおし靡べ 篠〔傍点〕は小竹である。小竹をおし伏せて。○草枕 旅〔傍点〕の枕詞。○旅宿りせす 旅の家を取りで休息するを旅宿りといふ。せす〔二字傍点〕は爲《す》の敬意を表した語法。○古思ひて 昔草壁の皇子の行啓ありしことを思ひて。
【後記】 この長歌も、輕の皇子が、宇陀野においでになることを叙述する部分が發逢してゐる。最後にただ一句、古思ひてと感慨の中心を明にしたのは、一篇の力を強くする上にかなりの効果があること、人麻呂の特徴を表した長歌である。けれども、たゞ古思ひてでは草壁の皇子の御在世を思ふ情が、はつきり出てゐない。これは古い文學の一般として、讀者が少く、皆事柄を知つてゐるので、これだけでもよかつたのである。
 み雪降る、旗薄などの冬の風物を持つて來て、目立たずに季節を表明してゐるのは、全體の味を深くする上に効果が多い。
 
   短歌
46 阿騎《あき》の野に 宿る旅人 うち靡き 眠《い》も寢《ぬ》らめやも 古《いにしへ》おもふに
 
(93)【題意】 以下四首は、前の歌の反歌である。短歌といふのも、長歌に對しての謂であつて、普通は反歌と書くのが例であるが、何とも書かない場合もある。
【口譯】 阿騎の野に宿《やどり》をする旅人は、打ち臥して、睡眠することも出來ないことでありませう。昔の事を思ふに。
【語釋】 ○阿騎の野に 長歌の一句、阿騎の大野に〔六字傍点〕の句から來てゐる。○宿る旅人 皇子を始め御供の人々を旅人と云つてゐる。○うち靡き 横に臥して眠る有樣を形容して、草木の風に靡く姿に連想してゐる。○眠も寢らめやも い〔傍点〕は睡眠の名詞で、ぬる〔二字傍点〕は動詞である。ぬらめやも〔五字傍点〕は、寢られようや寢られないの意で、や〔傍点〕は反語になる。○古思ふに 長歌の末の、古思ひて〔四字傍点〕を受けて、往事を思ふに、睡眠しかねると、上に返る句法である。
【後記】 長歌では、たゞ旅宿りをせられると叙し、反歌の第一首で、眠られないよしを述べて、長歌から一歩進み出してゐる。全體の構成上、重要なる一首である。
 
47 眞草《まくさ》苅る 荒野《あらの》にはあれど 黄葉《もみぢば》の 過ぎにし君が 形見とぞ來《こ》し
 
【口譯】 草を苅り取るやうな荒野でありますが、こゝは、かのお亡くなりなさつた方の形見の地(94)として來たことであります。
【語釋】 ○眞草苅る ま〔傍点〕は接頭語。眞草〔二字傍点〕は眞木〔二字傍点〕に對する語で、立派な草らしい草といふ意。薄荻のやうな堂堂たる草をいふ。實際苅つてゐても居ないでもどうでもよい。ただ荒野の感じを出す爲にこの句を用ゐてゐる。○荒野にはあれど 荒野〔二字傍点〕は、人が手を入れることもなしに、自然のままに任せてある野。阿騎の野の荒涼たる風光を表してゐる。○黄葉の 過ぎにし〔四字傍点〕の枕詞である。○過ぎにし君が すぎにし〔四字傍点〕はこの世を過ぎて行つてしまつた意で、死んだことになる。ここでは君〔傍点〕は草壁の皇子をさす。○形見とぞ來し かつて草壁の皇子が、この地に狩獵に來られた、その皇子の記念としてこの地に來たの意である。
【後記】 この反歌に至つて、長歌以來の「古を思ふ」ことの内容を、始めて明にしてゐる。古といふと、今日では隨分古代感があるが、これらの用法に依つて、ごく近い昔、恐らくは、去年か去々年かといふやうな時を、古と云つてゐることがわかるであらう。
 
48 東《ひむかし》の 野《の》にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月|傾き《かたぶ》きぬ
 
【口譯】 東方の野には、陽炎の立つのが見えて、顧みて西方を見ると、月が傾いて山に入らうとしてゐる。
(95)【語釋】 ○東の 日に向ふ方、日向しの義で、東方をひむかし〔四字傍点〕といふ。○野にかぎろひの かぎろひ〔四字傍点〕は、水蒸氣のちらちらするをいふ。朝東方に日が昇らうとして明るくなつた野の末に、陽炎の動くのが見えるのである。○かへり見すれば かへりみ〔四字傍点〕は後をふり返つて見ること、それをすればの意。西の方を顯れば。○月傾きぬ 月が中央より西の方へ移つた。將に入らうとしてゐる。
【後記】 朝の荒野の宿の情景が巧に描き出されてゐる。眠られなかつた一夜は明けて、曉起きに四方を見渡した情景である。東西の景を一首の中に入れた所が、趣向である。
 
49 日並《ひな》みし 皇子《みこ》の尊《みこと》の 馬|竝《な》めて 御獵《みかり》立たしし 時は來向ふ
 
【口譯】 日並みし皇子樣が、馬を並べて、遊獵にお出でになつた。その時節は、今や來つたことであります。
【語釋】 ○日並みし 草壁の皇子の御稱號で、當時皇太子でおいでになり、天下の大政を攝理しておいでになつた故の御稱である。長歌の古思ひて〔四字傍点〕の内容である輕の皇子の御父草壁の皇子の御名が始めてここに出て來たのである。○皇子の尊の みこと〔三字傍点〕は御言の意で、命令を發する方の尊稱である。特に尊んで皇子の尊と申し上げる。○馬竝めて 馬を並べて。○御獵立たしし たたし〔三字傍点〕は立つの敬語。下のし〔傍点〕は過去の時を(96)表す助動詞。かつてこの野に獵にお立ち遊ばされた意。○時は來向ふ きむかふ〔四字傍点〕は來つて相對する意で、今や皇子の獵にお立ちになつた、その時節にもなつたといふのである。すなはち獵に良い冬の季節になつたのである。亡き皇子の遺跡に來て、正に時を同じくした感慨を述べてゐる。
【後記】 この長歌と反歌とは、輕の皇子の阿騎野にお出でになつて、亡き父君を忍ばれることを中心として詠まれたものである。それを初は大體に叙述し、最後の歌に至つて、日並みし皇子の尊と御名を明にしてゐるのも、全體として統一が取れてゐる。反歌がそれ/”\事を叙し、景を述べ、又は感慨を録してゐるのも、變化に富んでゐる。殊に反歌の第三首に至つて、轉じて野宿の曉の光景を叙して、全體の印象を鮮明ならしめたのは、效果的であり、最後の一首に至つて、全體の意圖を明瞭にしたのもよい。
 なほ草壁の皇子の御薨去あらせられた時の舍人等の歌の中に、
  褻衣《けごろも》を時|片設《かたま》けて御行《みゆき》せし宇陀の大野は思ほえむかも(卷二、一九一)
といふのがある。草壁の皇子が行啓あらせられた宇陀の大野は、後に思出の種となるであらうといふ意の歌である。果して此處に人麻呂のこの歌となつたのであつて、彼と此との間に、何等かの關係があるものと認められる。かの舍人等の中にも人麻呂は入つてゐたであらうし、或(97)は彼の歌も人麻呂の作であらうも知れぬ。少くとも舍人などの間に、將來思出の種となるだらうなあといふ話があつたのであらう。又輕の皇子の一行中でも、亡き皇子の御獵にお供をしてゐた人々が加つてゐて、思出ばなしに一夜を眠らないで明したのであらう。
 
   藤原《ふちはら》の宮《みや》の役《えだち》の民の作れる歌
50 やすみしし 吾が大君《おほきみ》 高照らす 日の御子《みこ》 荒栲《あらたへ》の 藤原が上《うへ》に 食國《をすくに》を 見《め》し 給はむと 都営《おほみや》は 高知らさむと 神《かむ》ながら 思ほすなべに 天地も 寄《よ》りてあれこそ 磐走《いはばし》り 淡海《あふみ》の國の 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の 眞木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を もののふの 八十氏川《やそうぢがは》に 玉藻なす 浮べ流せれ 其を取ると 騷ぐ御《み》民も 家忘れ 身もたな知らに 鴨じもの 水に浮きゐて 吾が作る 日の御門《みかど》に 知らぬ國 寄り巨勢道《こせぢ》ゆ 我が國は 常世《とこよ》にならむ 圖《ふみ》負《お》へる 神《くす》しき龜《かめ》も 新代《あらたよ》と 泉の河に 持ち越せる 眞木《まき》の嬬手《つまで》を 百《もも》足らず 筏《いかだ》に作り 泝《のぼ》すらむ 勤《いそ》はく見れば 神《かむ》なが(98)らならし
    右日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原の宮地に幸し給ふ。八年甲牛春正月、藤原の宮に幸し給ふ。冬十二月庚戌の朔乙卯の日、藤原の宮に遷り居給ふ。
 
【題意】 藤原の宮の造營に奉仕する民衆の、その用材を運搬するのを見て、御代の榮えを祝つた作である。役民の作れる歌とあるが、役民の勞作を見て、ある人の作つた歌で、作者の名は傳はらない。役民とは民戸から召し出して勞役に服せしめる民をいふ。
【口譯】 わが天皇陛下は、藤原の地に天下を統治し給ひ、宮殿をお建てにならうと、神樣の御心の儘にお考へになると共に、天地もお助け申し上げて、近江の國の田上山の、立派な檜の用材を宇治川に浮べ流します。其を陸上すると騷ぐ人民も、家を忘れ、身も悉く知らずに、水に浮いてゐて、(我等の作る立派な宮殿には知らぬ國も寄つて來いと思ふが、その巨勢路から、我が國は常世になるであらう。甲に圖を負うた、不思議な龜も、新しい世を祝つて出て來る)。その泉の川に運び越した、良い木の用材を、筏に作つて、上流へと泝せるのであらう、勤勞してゐるのを見ると、こは神樣の御心であるらしい。
【語釋】 ○やすみしし 枕詞、既出。○我が大君 藤原の宮を御造營遊ばされた持統天皇をいふ。○高照ら(99)す たか〔二字傍点〕は照らす状態の壯大なのを表す爲に附いてゐる。てらす〔三字傍点〕は照るの敬意を表す語法。○日の皇子 天照らす大神の御子孫。ここでは持統天皇。一般に天皇又は尊貴の皇子に用ゐる語。○荒栲の 枕詞。あらたへ〔四字傍点〕は、粗末な膚ざはりの荒い布。藤葛の類の皮の繊維で織るから、藤〔傍点〕の枕詞とする。○藤原が上に 藤原は地名。ふち〔二字傍点〕は今いふ藤の花の如き、蔓のある植物の總稱。ここの藤原は、蔓生植物の生えてゐる原の意であらう。フチはフヂと濁らないのが古い。上〔傍点〕はほとりの義である。○食國を をす〔二字傍点〕は食するの敬語の古語で、領土内の産物を食するより、領地を食國といふことから、ここでは天の下、日本の國の義になる。○見し給はむと めし〔二字傍点〕は見るの敬語法。○高知らさむと 高〔傍点〕は高照らすの高〔傍点〕に同じで、宮殿の事故高〔傍点〕を用ゐる。しらさむ〔四字傍点〕は、知識とする意から、領する、占有するの意になる。○神ながら 天皇の思し召し、すなはち神の御心であるとの思想から、御心どほりに、神樣の示されるとほりにの意。既出。○思ほすなべに おもほす〔四字傍点〕は、お思ひになる。なべ〔二字傍点〕は並べの意で、二つの事が同時に行はれるを示す語。例へば「鶯の音《おと》聞くなべに梅の花|吾家《わぎへ》の苑《その》に咲きて散る見ゆ」(卷五、八四一)は、鶯の音を聞くと、梅の花の散るが見えると、同時に行はれるを示す。この歌では、天皇の思し召しと同時に、天地の神が寄つて、用材を氏川に流すことを示す。天皇の御心に神力の伴ふことを語つてゐる。○天地も寄りてあれこそ 天つ神、國つ神も寄つてあればこそ、云々の事が行はれるの意。寄りてあれこそ浮べ流せれと續く文脈である。○磐走り 枕詞。○衣手の 枕詞。衣手は衣服に長くついてゐる。すなはち袖の部分で、それで手〔傍点〕と續く。○田上山 近江の國栗太郡にある山の名。奈良朝時代には製材所があつたが、當時からあつたのであらう。(100)○眞木さく ま〔傍点〕はほめる意味の接頭語で、眞木は立派な木。既出。さく〔二字傍点〕は立ち割る義で、眞木を立ち割る檜の用材の意に檜の嬬手〔四字傍点〕に續く。○檜の嬬手を 嬬手〔二字傍点〕は角を取つた材木。手〔傍点〕は料の意である。檜の用材を。○もののふの 八十《やそ》の枕詞。武職の臣を物部といひ、軍職の氏は、その數が多いところから續く。○八十氏川 氏川(宇治川)に、軍職の氏は數多きものゆゑ、八十氏〔三字傍点〕と續ける。もののふの八十〔七字傍点〕は、氏〔傍点〕と言はむが爲の序である。宇治川は琵琶湖から出る勢田川が、山城の宇治郡を通るをいふ。○玉藻なす 玉藻の如くに、玉〔傍点〕は美稱。○浮べ流せれ 流せれ〔三字傍点〕は流せりの活用で、上のあれこそ〔四字傍点〕を受けて結んであるのである。浮べ流したの意。ここで段が切れる。○其を取ると 川に流した檜の用材を取つて、陸に上げるのである。○騷ぐ御民も 立ち騷ぐ役民も。御〔傍点〕は天皇の人民であるところからつける。○身もたな知らに たな〔二字傍点〕は動詞について悉く、すべての意を表す。知らに〔三字傍点〕のに〔傍点〕は打消の助動詞である。たな知る〔四字傍点〕の例は「身はたな知らず出でぞ逢ひける」(卷九、一七三九)「身はたな知りて」(同、一八〇七)等、又たな曇る、たな引くなどの用例がある。身をばちつとも知らずに。○鴨じもの 鴨であるもののやうにの意。○吾が作る日の御門に 今我等の作る太陽の如き立派な宮殿に。この句から、新代と〔三字傍点〕までは泉の河〔三字傍点〕の序を爲すものである。○知らぬ國寄り巨勢路ゆ 知らぬ國寄り來せと、外國も歸服せよと祝の意を表し、そして地名の巨勢に掛けてゐる。「吾が作る日の御門に、知らぬ國寄り」までは、巨勢〔二字傍点〕と云はむが爲の序となつてゐる。こせ〔二字傍点〕は來るの敬語法で、命令を表し、希望の意をなす。巨勢は大和にある地名で、藤原からは西南に當る。巨勢路は、巨勢に行く道。ゆ〔傍点〕はより〔二字傍点〕の古語である。○我が國は常世にならむ この國は恒久の變らぬ閥になるであらう(101)と祝の意を表したもので、靈妙な龜の出たのを批評してゐる。常世〔二字傍点〕は理想國で、人壽の恒久なめでたき國をいふ。○圖負へる神しき龜も 龜の甲に模樣のある不思講な龜で、これは支那で禹の時に出たのを始めとして、めでたき兆とされてゐる。藤原の宮を作つた頃にも、かういふ龜が巨勢路から出たのであらう。○新代と この御代は新しい代であるとして。○泉の河に 泉河〔二字傍点〕の名と、新代といづ〔五字傍点〕とを懸けてゐる。以上吾が作る〔四字傍点〕から新代と〔三字傍点〕までは、泉〔傍点〕と云はんが爲の序である。主脈は水に浮き居て泉の河に持ち越せると續くのである。今ここを書き下せば、鴨じもの水に浮き居て『「吾が作る日の御門に知らぬ國寄り(來せ)」巨勢路ゆ「我が國は常世にならむ」圖負へる神しき龜も、新代と(出づ)』泉の川に、となる。泉川〔二字傍点〕は一に木津川ともいつて、伊賀の國から出て、末は淀川と落ち合ふ川である。○持ち越せる眞木の嬬手を 宇治川を流し下した用材を、ある地點で、一旦陸上げし、少許の地上を運んで、泉川に再び浮べ、筏として、今度は溯上させるのである。○百足らず 百に足りない意で、五十《い》の枕詞。○泝すらむ 流を上らせてゐるのであらうと人々の働くを見て推量してゐるので、これによりこの歌の作者が、泉川にのぞめる陸上にゐることが分る。○勤はく見れば いそはく〔四字傍点〕はいそふことすなはち勤めることの意。○神ながらならし 神ながら天皇の思し召すと共に、人民も勤め勵んでゐるのは、自然神の御心が表れるのであるならむと推定した詞である。ならし〔三字傍点〕はにあるらし〔五字傍点〕の約言。前の神ながらを受けてゐる。
【後記】 藤原の宮の造營について、人々が働く状を主として、天と人とが合體するといふ榮えの(102)御代を祝してゐる。全體の構成が、神意のまゝにお思ひになると、その結果が直に具體的に現れる。こは神ながらならむと留めてゐる。大きな構成を有してゐる。途中の序の部分が長くて解釋上やゝまごつかされるが、この部分は祝意を述べる部分なので、内容的には重要なのである。よく纒つてゐる作で、相當手腕のある人の作品であらうと思はれる。古來柿本人麻呂の作ならむとする説もあるが、いまだ是非を判ずるまでに至らない。全體の思想から云へば人麻呂らしい所もある。
【左註】 日本書紀に依つて、藤原の宮に遷居せられた年月を記してゐる。
 
   明日香《あすか》の宮《みや》より 藤原《ふちはら》の宮《みや》に遷居《うつ》りましし後 志貴《しき》の皇子《みこ》の作りませる歌
51 采女《うねめ》の 袖吹きかへす 明日香《あすか》風 都《みやこ》を遠み いたづらに吹く
 
【題意】 持統天皇六年より藤原の宮を造營し、これに遷られたのは七年十二月である。その遷都の後に、もとの飛鳥《あすか》の京の寂れたのを悼んで、志貴の皇子の詠まれた歌である。故にこの歌は持統天皇七年以後の作である。志貴の皇子は、天智天皇の皇子、光仁天皇の御父である。都遷しの後、たま/\舊都に來て詠まれたのであらう。
(103)【口譯】 この地に都のあつた時分は、采女の袖を吹いた飛鳥の地の風が、都が遠くなつたので、さる美人の袖を吹くこともなく、むだに吹いてゐる。
【語釋】 ○采女の うねめ〔三字傍点〕は諸國の郡の少領以上の姉妹子女の容姿端正なるものを貢せしめて、供御に使ふものをいふ。采女〔二字傍点〕を一所にして※[女+采]とし、ここの原文では更に女字を加へて※[女+采]女と書いてゐる。○袖吹き返す 袖を吹いて飜した。○明日香風 明日香〔三字傍点〕は地名で飛鳥〔二字傍点〕とも書く。もと飛ぶ鳥のあすか〔七字傍点〕と云つてゐたので飛鳥〔二字傍点〕をアスカと讀ませるやうになつたことは、春の日のかすが〔七字傍点〕といふところから、春日〔二字傍点〕をカスガと讀ませるやうになつたのと同例である。飛鳥の地を吹く風。佐保風、泊瀬風等の例もある。○都を遠(104)み 都が遠さに。○いたづらに吹く 采女のやうな妙齡の婦人の美しい袂を吹くこともなしに、むだに吹いてあるの義である。
【後記】 舊都の荒れたのを悼んだ歌は多いが、この歌が悲痛な哀情を伴はないのは、藤原に新造の大宮が出來た爲で、悼みながら明るい歌である。殊に采女などの徘徊することもなくなつたといふ所にどこか朗かさが潜んでゐる樣である。大津の宮を詠んだ歌には壬申の亂といふ悲むべき背景が伴ふので、位相寂しさが強くなつてゐるが、采女がゐなくなつて、唯風のみが吹いてゐるといふ内容は、大津の舊都に比し、大なる相違がある。しかしその地を吹く風が、美人の袖を吹き飜すこともなくなつたと叙して舊都の荒れ寂びゆく有樣を描いて、よく情景を寫してゐる歌である。
 
   藤原の宮の御井《みゐ》の歌
52 やすみしし 吾《わ》ご大君《おほきみ》 高照らす 日の皇子《みこ》 荒栲《あらたへ》の 藤井《ふちゐ》が原に 大御門《おほみかど》始め給ひて 埴安《はにやす》の 堤の上に 在り立たし 見《み》し給へば 大和の 膏香具山《あをかぐやま》は 日の(105)經《たて》の 大御門《おほみかど》に 春山と 繁《しみ》さび立てり 畝火《うねび》の この瑞山《みずやま》は 日の緯《よこ》の 大御門に 瑞山《みづやま》と 山さび坐《いま》す 耳高の 青|菅《すが》山は 背面《そとも》の 大御門に 宜《よろ》しなべ 神《かむ》さび立てり 名ぐはし 吉野《よしの》の山は 影面《かげとも》の 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天《あめ》の御蔭《みかげ》 天《あめ》知るや 日の御影《みかげ》の 水こそは 常にあらめ 御井《みゐ》の清水《しみづ》
 
【題意】 藤原の宮の御井を主として、その宮地の景勝を録して、御代を壽いだ作であつて、これも作者は未詳である。井といふのは、今日いふ井よりも意味の廣いもので、すべて水を汲み取る爲に、溜めでおく處で、川中にても、地中にても、朝夕の用に水を汲むやうになつてゐる所が井である。泉にしても、水を汲むならば、井といひ、わざ/\掘つたものには掘井の語がある。此の歌の御井も、宮中の井であるから、特に御を冠したので、相當規模の大きなものであつたらう。埴安《はにやす》の堤の上にあり立たし見し給へばと云つて、下に御井の清水とほめてゐる點から見ると、或は埴安の池の一部を爲してゐるかも知れぬ。藤井が原の名は、この井あるが故の名でもあらう。
【口譯】 わが天皇陛下は、藤井が原に、大宮をお始めになつて、埴安の池の堤の上に、お立ちになつて御覽になれば、天の香具山は東方の御門に、春の山と木立が繁く森々として立つてゐ(106)る。畝傍の瑞々しき山は、西方の御門に、瑞山と、山の威徳を備へて立つてゐる。耳の高い山菅の青い山は、北方の御門に、宜しくも、神の氣はひに立つてゐる。名のよい吉野の山は、南方の御門から天の一方に遠くあつた。此の立派な宮殿の水こそは、永久にあるであらう。この御井の清水は。
【語釋】 ○吾ご大君 ワガのガが下のオに影響せられてワゴになる。歌はれた通りの寫音である。○日の皇子 既出。○荒栲の 枕詞。既出。○藤井が原に 藤原の地と同じ。特に御井の歌なので、藤井が原といふのであらう。○大御門 宮殿の御門をみかど〔三字傍点〕と云ひ、後に宮殿の意となつた。ここでは宮殿の意である。更に後には宮殿の主人公たる天皇をも、みかど〔三字傍点〕と稱ふるやうになつた。大〔傍点〕はほめ詞である。○始め給ひて 從來建築物のなき地に宮殿を創めて建てられて。○埴安の堤の上に 香具山の麓の地に大きな池があつて、これを埴安の池と云つたが今は殘つてゐない。○在り立たし あり〔二字傍点〕は存續の意を示し、立たし〔三字傍点〕は立つの敬語。お立ちになつての意。○見し給へば 見し〔二字傍点〕は見るの敬語。○大和の青香具山は やまと〔三字傍点〕は山の處、すなはち山ある國の意で、大坂平原から東方の地を望んでやまと〔三字傍点〕と稱するやうになつた。この歌の大和の〔三字傍点〕は香具山のほめ詞である。青香具山〔四字傍点〕の青〔傍点〕は、青々と草木の繁茂してゐることをいふ。○日の經の 日の經〔三字傍点〕は東方をさす。支那では南北に亘る線を經、東西に亘る線を緯と云つてゐるが、日本では日飜書紀の或務天皇の卷に、東西を日の縱といひ、南北を日の横と云つてゐる。又單に東方を日の縱、西方を日の(107)横ともいふので、ここのはこの用法である。○大御門に ここでは宮殿の御門をいふ。この歌の大御門〔三字傍点〕は以下皆御門である。○繁さび立てり 森々と繁茂の状態で立つてゐる意で、さび〔二字傍点〕は體言について、そのものの力を發揮することに用ゐる。既出。しみ〔二字傍点〕は繁り。○この瑞山は この〔二字傍点〕は強く指摘してゐる。みづ〔二字傍点〕は生き生きとしてゐるをいふ。○日の緯の 西方をいふ。○山さび坐す 山としての性質を表してゐる。○耳高の 平野の中に耳を出して立つてゐる山。耳梨山を指してゐる。耳梨の誤とする説もある。○青菅山は 青々として山菅の生《は》えてゐる山は。○背面《そとも》の 北方をいふ。山の北は日が當らない方で、山陰を背面〔二字傍点〕といふ。○宜しなべ なべ〔二字傍点〕は並べの意。あるが上に宜しい事の重なつてゐることはの義で、更に宜い事にはといふ意味である。○神さび立てり 神樣としての威徳を發揮して立つてゐる。○名ぐはし 名の立派な。くはし〔三字傍点〕は精妙の義。○影面の 日の當る面、すなはち南方をいふ。かげ〔二字傍点〕は光をいふ。○大御門ゆ 前の三山は近い山だからに〔傍点〕といひ、吉野は遠いからゆ〔傍点〕を用ゐて分けてある。ゆ〔傍点〕はより〔二字傍点〕の義。○雲居 動かない雲。○遠くありける 遠くあつた。上のぞ〔傍点〕を受けて、ける〔二字傍点〕と結んでゐる。ここで一段切れる。○高知るや 高〔傍点〕は知る有樣の壯大なるをいふ。高知る〔三字傍点〕は建築物に、高く聳え立つ意を表す。や〔傍点〕は感動詞。○天の御蔭 天から隱れるところの義で、宮殿をいふ。天の御蔭日の御蔭〔八字傍点〕は、祝詞に出てゐる語。○天知るや 天を知るは高く聳ゆる形容。や〔傍点〕は前の高知るやのや〔傍点〕と同じ。○日の御蔭 日から隱れる所の宮殿の意。○水こそは この宮殿の井の水はと、こそ〔二字傍点〕を用ゐて強く示してゐる。○常にあらめ 水の恒久にあらむことを云ひて、この宮の久しく榮えむことを祝つてゐる。○御井の清水 その水を更にほめて一首を終つてゐる。
(108)【後記】 漢文學の影響を受けて、宮殿の景勝をほめた歌である。四方の山の美を稱《たた》へて、その中の水に云ひ及んだ構成は、實に雄大に堂々としてゐて、大手腕といふべきである。三方に近い山をいひ、最後に南方吉野の遠山を引き出して來たのも、活氣があつてよい。全體の意圖としては、その宮殿の主人公たる天皇が、御覽になるとかくの如しといふ形を取つてゐる。前の人麻呂の吉野にての長歌の第二首と同樣である。藤原の宮の御井の歌として御井を中心に歌つてゐるが、勿論藤原の宮の繁榮を祝つた歌で、宮殿生活の原動力たる井泉を美《ほ》めて、その永久に立ち榮ゆべきに及んでゐるのである。他に井をよんだ歌としては次の如きがある。
  山の邊《へ》の御井《みゐ》を見がてり神風《かむかぜ》の伊勢孃子《いせをとめ》どもあひ見つるかも(卷一、八一)
  落ち激《たぎ》ち走井《はしりゐ》の水の清ければ廢《す》てては吾は去《ゆ》きがてぬかも(卷七、一一二七)
  馬醉木《あしび》なす榮えし君が掘《ほ》りし井の石井《いはゐ》の水は飲めど飽かぬかも(同、一一二八)
  山邊の五十師《いし》の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(卷十三、三二三五)
 
   短歌
53 藤原の 大宮|仕《づか》へ 生《あ》れ繼ぐや 孃子《をとめ》が伴《とも》は 羨《とも》しきろかも
(109)    右の歌 作者いまだ詳ならず
 
【口譯】 この山や水の美しい藤原の宮の宮仕へに、次々と生れ繼いでくる孃子の人々は羨しいことである。
【語釋】 ○藤原の大宮仕へ この山姿水色の美しい藤原の宮にお仕へ申しあげること。○生れ繼ぐや 生れ繼ぎ來るといふ意で、や〔傍点〕は前の高知るや、天知るやのや〔傍点〕と同じく感動の助詞である。故に生れ繼ぐ孃子〔六字傍点〕と續けて解すべきである。○孃子が伴は とも〔二字傍点〕は多數をいふ。丈夫《ますらを》の伴・侫《ねじけ》人の伴等の例もある。○羨しきろかも ろ〔傍点〕は接尾語で、無くても通ずる。「奇《く》し靈魂《みたま》今の現《うつつ》に貴《たふと》きろかも」(卷五、八一三)の用例もある。
【後記】 長歌の方では、主として山容の美しさから、水色の美しさを寫し出してゐた。この反歌では、その山紫水明の宮城に立ち働く孃子たちの美しさを歌つて、一段の生氣を與へてゐる。孃子が伴とは、諸國から召されて來る采女たちをだしてゐると思はれる。この宮廷の花を點出して、自然の描寫と照應させた手段である。
 
   大寶元年辛丑秋九月 太上天皇 紀伊の國に幸《いでま》しし時の歌
54 巨勢山《こせやま》の つらつら椿 つらつらに 見つつ思ふな、巨勢《こせ》の春野を
(110)    右の一首は 坂門人足《さかとのひとたり》
 
【題意】 天武天皇の大寶元年九月に、當時太上天皇にいました持統天皇が、紀伊の國へ幸せられた時に、坂門人足《さかとのひとたり》が詠んだ歌である
【口譯】 この巨勢山の並んで生えてゐる椿、とくと見ながら思ふことである。巨勢の春野の景色はさぞ美しいだらうなあ。
【語釋】 ○巨勢山の 藤原の宮より西南の方にある地名。丘陵で、葛城山の麓近くにあり、紀州へ行く道に當つてある。○つらつら椿 列り茂つてゐる椿。ツラツラの音は、次のつらつらに〔五字傍点〕を起す序となつてゐる。つらつら〔四字傍点〕は列々の意と、(111)てら/\葉の光る意とを兼ねてゐる。○つらつらに 十分によく。熟〔傍点〕の字が當てられる。○見つつ思ふな な〔傍点〕は感動の助詞。今は秋の九月であるが、春の時分の美景を思ひやる意である。ここのな〔傍点〕の例は「妹が名呼びて吾を哭《ね》し泣くな」(卷十四、三三六二)「淺篠原《あさしのはら》腰《こし》煩《なづ》む。空は行かず足よ行くな」(古事記中卷)など見える。○巨勢の春野を を〔傍点〕は感動の助詞。
【後記】 此の歌は、九月の御幸の歌であつて、春野の景色を想ひやつてゐる。二三句の「つらつら椿つらつらに」が、歌ひものから出て來た滑らかな名句である。しかも却つて巨勢の野の秋の景色の美しさが目に見るが如くに寫されてゐる。
 
55 麻裳《あさも》よし 紀人《きひと》羨《とも》しも 亦打山《まつちやま》 行き來《く》と見らむ 紀人|羨《とも》しも
    右の一首は調首淡海《つきのおびとあふみ》
 
【題意】 前の歌と同じ時に、調淡海の詠んだ歌である。
【口譯】 この紀伊の國の人は羨しいなあ、亦打山を行く時にも見、來る時にも見てゐるだらうが、この紀伊の國の人は羨しいなあ。
【語釋】 ○麻裳よし 紀〔傍点〕の枕詞。麻で作つた裳を著るといふ意味に、紀〔傍点〕に懸かる。他の、玉藻よし讃岐、眞(112)菅よし蘇我、あをによし奈良などの枕詞と、同型で、多分同樣の構成を持つてゐるのであらう。さすれば、よし〔二字傍点〕は、通常吉〔傍点〕の字を宛てゝはゐるが、元來は感動の助詞であつて、世間的に、吉〔傍点〕の語意を生じてゐるものである。○紀人羨しも 紀伊の國は、もと木の國と云つたので、後に紀伊の二字となしても、なほキとのみ讀んでゐた。それで紀人といふのである。この二句で切れる。○亦打山 大和から紀伊に入つて吉野川の右岸にある。眞土山とも書く。この山を越えて、紀伊の國の國府の方へ行くのである。○行き來と見らむ 往來の度毎に見るであらうの意。見らむ〔三字傍点〕は、後世の語法にては、見るらむといふべきを、この集では、一段活に限り、見らむといふやうに云つたものである。
【後記】 この歌は二句と五句とに同句を用ゐてゐる。これは集中にも多くあり、やはり歌ひものとしての性質から來てゐる法である。後世は、歌がせち辛くなつて、この法を見なくなつた。この形式は、その音樂的なところがよいのである。一二の例、
  吾はもや安み兒得たり、皆人の得がてにすとふ安み兒得たり(卷二、九七)
  櫻田へ鶴鳴き渡る、愛知潟潮干にけらし鶴鳴きわたる(卷三、二七一)
 
   或る本の歌
56 河の上《へ》の つらつら椿 つらつらに 見れども飽《あ》かず 巨勢《こせ》の春野《はるの》は
(113)    右の一首は 春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》
 
【口譯】 河のほとりに列《つらな》り生えてゐる椿を、十分によく見ても飽きぬことである。この巨勢の春野は。
【語釋】 ○河の上の 前にも出た。河のほとりの意。
【後記】 この歌は、前の五四の歌と詞句が類似してゐるので、萬葉集の編者が、特にここに載せたものとも思はれる。いつ作られたものかは分らないが、前の坂門人足の歌と、關係の無い歌ではないらしい。要するに、一人が「つらつら椿つらつらに」の如き名句を吐くと、我も我もと眞似をするので、どちらが本家か、共に模倣者か分らぬのである。然し歌の内容としては、全く獨立した、別個の歌として見るべきで、これは春の歌である。
 
   二年壬頁 太上天皇 參河《みかは》の國《くに》に幸《いでま》しし時の歌
57 引馬野《ひくまの》に にほふ榛原《はりはら》 入り亂《みだ》り 衣《ころも》にほはせ 旅のしるしに
    右の一首は 長忌寸奧麻呂《ながのいみきおきまろ》
 
(114)【題意】 文武天皇の大寶二年に、持統太上天皇が參河の國に御幸遊ばされた時の長忌寸奧麻呂《ながのいみきおきまろ》の歌で、旅ゆく人を送つた作である。奥麻呂は、卷二(一四二)には意吉麻呂とも書いてゐる。
【口譯】 引馬野に、萩の花が咲き盛つてゐる原に、入り亂れて、衣を萩の花ずりに染めておいでなさい。旅行の記念として。
【語釋】 ○引馬野に 今の遠江の國、濱松附近の平原をいふ。○にほふ榛原 にほふ〔三字傍点〕は花の色が美しく照り映ゆるをいふ。榛〔傍点〕は萩といふ説と、ハンノ木《キ》といふ説とある。いづれも衣を染めることがあるが、ここでは萩でなくては情景が生きて來ない。○衣にほはせ 萩の花摺りに衣を染めよとの意。○旅のしるしに しるし〔三字傍点〕は證據、記念の意。旅行の記念として。
【後記】 作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に與へた作である、多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。御幸先の秋の光景を想像してゐる。よい作である。作者がお供をして詠んだとなす説はいけない。
 
58 何處《いづく》にか 船泊《ふなはて》すらむ 安禮《あれ》の埼《さき》 こぎ廻《た》み行きし 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
    右の一首は 高市連黒人《たけちのむらじくろひと》
 
(115)【題意】 前の歌と同じ御幸の時の作。これは御供して詠んだものである。
【口譯】 何處に船泊りをしてゐるであらう。先程安禮の埼を漕ぎ廻つて行つた、横板も無いやうな、あの小さな舟は。
【語釋】 ○船泊すらむ 今は何處に船を停めてゐるであらうかと、行先を多少懸念してゐる。多分日暮の作であらう。ここで切れる。○安禮の埼《さき》 未詳。新居の埼であらうとも云はれてゐる。○漕ぎ廻み行きし たみ〔二字傍点〕は廻るの意。たむ〔二字傍点〕が原形。漕ぎ廻つて行つた。○棚無し小舟 たな〔二字傍点〕は、舷の上に、舷を丈夫にし、舟人の通行にも便にするやうに附けた板で、その板もないやうな舟は、小さく粗末なもの故、ただ小さな粗末な舟といふ心を十分に表さうが爲に、ここで棚無し小舟と云つたので、實際に、遠くを漕ぎゆく舟の棚がない事を見屆けたわけではない。
【後記】 棚無し小舟の泊てむ處を案じた裏には、御幸の御供とはいへ、自分等の心細い旅の空の感情が含まれてゐる。旅の、然も日暮の心細さを、景物に托して歌つたもので、表面に露骨に云はない所に、却つて無限の風情がある。
 棚無し小舟を歌つた歌の例は、
  四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隱る棚無し小舟(卷三、二七二)
  海孃子《あまをとめ》棚無し小舟漕ぎ出《づ》らし、旅のやどりに※[楫+戈]《かぢ》の音《と》聞ゆ(卷六、九三〇)
(116)などがある。この卷三の歌も黒人の作である。
 
   譽謝《よさ》の女王の作れる歌
59 ながらふる 妻吹く風の 寒き夜《よ》に 吾が夫《せ》の君は ひとりか寢《ぬ》らむ
 
【題意】 同じ御幸の時に、譽謝の女王が、都にお留守居をして、御幸のお供に行かれた夫の君を思はれて詠まれた歌である。夫の君は、誰方であるか不明である。
【口譯】 この世に生き永らへてゐる妻を吹く風の寒い晩に、夫の君は獨お寢《やす》みなされることでありませうか。
【語釋】 ○ながらふる この世に生きて永らへてゐる。○妻吹く風の 妻は配偶者であるが、この歌では、御自身のことをいふ。御自身の上を、客觀的に叙せられてゐる句である。○吾が夫の君は わが夫、すなはち御幸のお供に行つてゐるお方である。○ひとりか寢らむ 獨寢ることならむかと推量してゐる。ぬらむ〔三字傍点〕は、動詞寢〔傍点〕の終止形に、推量の助動詞らむ〔二字傍点〕の接續したもの。
【後記】 自分を吹く風の寒い晩に、わが君も亦獨寢をするならむか、さぞお寒いことであらうと推量してゐる。寒き夜をの一句が利いてゐる。
 
(117)   長《なが》の皇子《みこ》の御歌
60 暮《よひ》に逢ひて 朝《あした》南無《おもな》み 名張《なばり》にか 日《け》長く妹が 廬《いほり》せりけむ
 
【題意】 同じ御幸に、これは長の皇子が、お供に行つたある婦人を想うて詠まれた歌。
【口譯】 昨夜はお逢ひして、今朝は何となく羞しさを覺えて隱れたいと思ふ。(その隱れることは、古語でナバルといふが)あの名張山の邊に、幾日も幾日もわが思ふ妻は、廬してゐるのだらうか。(まだ歸つて來ないことだ)。
【語釋】 ○暮に逢ひて朝面無み この二句は、名張〔二字傍点〕といふ爲の序詞である。よひ〔二字傍点〕は前夜。夜、男に逢つて、朝は羞しいので隱れるといふのである。面無み〔三字傍点〕は、羞しさに。○名張にか 名張は、伊賀の國の地名、大和から伊勢へ行く途中にある。○日長く妹が 時久しくで、日數を重ねて。妹〔傍点〕とは、作者の想ふある女性で、御幸のお供に出た女王又は女官などのうちにあらう。○廬せりけむ 小舍を作つて宿つてゐたことであらうと推量してゐる。
【後記】 暮に逢ひて朝面無みは、序であるが、名張を引き出す句として、非常に巧な句といふべきである。妹を思ふ歌であるから、この句がある。それから轉じて、主題に入つて、待ち切れ(118)ない情を歌つてゐる筈であるが、この序が巧すぎるので、幾分餘裕が感じられる。もつともこの序詞は、やはり何人かが云ひ出すと皆が感心して襲用してゐる程の句であつて、他にも用ゐられてゐる。
  暮に逢ひて朝面無み名張野の萩は散りにき黄葉早繼げ(卷八、一五三六)
 
   舍人《とねり》の孃子《をとめ》 駕に從ひて作れる歌
61 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手挿《たばさ》み 立ち向ひ 射る圓形《まとかた》は 見るに清《さや》けし
 
【題意】 前の歌と同じ御幸の時に御供に從つて行つた舍人の孃子が、伊勢の國で詠んだ歌である。舍人は氏であらう。舍人をしてゐる孃子と解してもよい。二の卷にも舍人の皇子と詠み交した歌が載つてゐる。
【口譯】 勇士が狩獵に用ゐる矢を腋に挿んで、立ち向つて的を射る、その圓方の浦は、見るに清らかである。
【語釋】 ○丈夫の 立派な一人前の男をいふ。○得物矢手挿み さつ〔二字傍点〕は狩獵の獲物をいふ。狩獵に得物を取る矢をさつ矢〔三字傍点〕といふ。さつ〔二字傍点〕弓、さつ〔二字傍点〕人等の例もある。手挿み〔三字傍点〕のた〔傍点〕は接頭語。矢を手に挿んで。○射る圓方は 丈夫は〔三字傍点〕といふのから射る〔二字傍点〕までは、唯まと〔二字傍点〕と云はむが爲の序である。圓方〔二字傍点〕は伊勢の國の海濱の名。○見(119)るに清けし 見るに清らかな海濱であるの意。【後記】 この歌も序歌であつて、よく出來てゐる。内容としては、圓方の浦は清らかであるといふに過ぎない。序の内容、武士が矢を挿んで的に立ち向ふといふ、いかにも颯爽たる氣分で、本筋の内容の印象を助けてゐる。序と主文との内容は無關係であるにも拘らず、その氣分に共通の點があり、かういふ味は、後世の連歌や俳諧に遺傳して行つたものと認められる。序から主文に續く變化の妙を味ふのである。枕詞もかやうな味を含んでゐるものである。
 此の歌は伊勢國風土記に、景行天皇の御製として、
  ますらをの得物矢《さつや》手挿《たばさ》み向ひ立ち射るや圓方濱のさやけさ
と傳へてゐる。
 
   三野連《みののむらじ》名闕く 入唐の時 春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》の作れる歌
62 荒嶺《ありね》よし 對馬《つしま》の渡《わたり》 海《わた》なかに 幣《ぬさ》取り向けて 早《はや》還《かへ》り來《こ》ね
 
【題意】 文武天皇の大寶二年に遣された遣唐使の一行中、三野岡麻呂の行を送つて、春日老の詠んだ歌である。名闕くとは、萬葉集編纂の當時は、この三野連の名が傳へられなかつたので、名を存せぬ由を斷つた(120)ものである。入唐とは、唐を主として云ふ云ひ方で、日本から云へば當を失してゐる。元來漢文の書き方は、支那人が教へたので、自分の方に都合のよいやうにと教へて、かやうな書き方を生じて、恠まなかつたのである。
【口譯】 荒い島山の、かの對馬の海峽の海の途中で、幣を神に奉つて祭をして、早く還つていらつしやい。
【語釋】 ○荒嶺よし 對馬〔二字傍点〕の枕詞、前の麻裳よし〔四字傍点〕と同樣の語法と認められる。ありね〔三字傍点〕は、荒い根で、對馬の島の形容である。○對馬の渡 朝鮮海峽である。渡〔傍点〕は、海でも川でも、此所から彼方へ渡られる地形をいふ。○海なかに わた〔二字傍点〕は海の古名、海の途中で。○幣取り向けて 幣〔傍点〕は、旅行の途中、手向の祭をする時に使ふ。三四の歌參照。海中でも荒ぶる神を鎭めて祭をするのである。○早還り來ね ね〔傍点〕は、先方に對して希望を表す助詞。
【後記】 當時、旅行の困難な時代にあつて、殊に支那大陸へ渡るのは、非常な冒險であつた。その中にも、海の荒いので有名な朝鮮海峽で、神を祭つて無事に行つていらつしやいと歌つたのである。旅に行く人を送るに、かやうに祭をするやうにと心著けた歌はいくつもある。送別の一の儀禮のやうにもなつてゐる。この歌は、初句の枕詞も、荒き對馬の海を描くのに効果がある。わたりわたなかに〔八字傍点〕と云つたのは、同音を利用した句法で、序歌では無いが、いくらか序歌(121)的を氣分を抱かせる。
 
   山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》 大唐に在りし時 本郷を憶ひて作れる歌
63  いざ子ども はやく日本《やまと》へ 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の濱松 待《ま》ち戀《こ》ひぬらむ
 
【題意】 文武天皇の大寶元年に、山上憶良は遣唐少録となつて、大使粟田眞人に從つて唐に渡り、翌々年慶雲元年六月に歸朝した。その唐に在る間に詠んだ作である。大唐と書いたのは、支那を尊んで書いたので前の入唐と同じく大陸崇拜の思潮が現れてゐる。大唐はモロコシ、本郷はフルサト、又はモトツクニと讀む。唐にゐて日本を指してゐるのである。
【口譯】 さあ人々よ、早く日本へ歸りませう。大伴の御津の濱邊の松も待ち戀うてゐることでせう。
【語釋】 ○いざ子ども いざ〔二字傍点〕は誘ひかける詞。子〔傍点〕は若き者又は部下に對して親みいふ詞で、ども〔二字傍点〕は等の意。ここでは船人、從者等を總括していふ。○早く日本へ 日本へ早く行かうの意。ここで句が切れる。○大伴の 難波地方一帶の地は、古くは大伴氏の領土であつたと思はれる。それから、その邊の土地の總稱となつてゐたものである。○御津の濱松 御津は難波の船著場で固有名詞となつてゐる。濱松は濱邊の松。(122)○待ち戀ひねらむ 上の松〔傍点〕と下の待ち〔二字傍点〕と、同じ音を重ねて云つたのである。ぬらむ〔三字傍点〕は確にさうであらうと推量する語。
【後記】 集中に遣唐使や遣新羅使に關する歌は少くないけれども、しかも海外に在つて歌つた作は、唯これ一つである。後には安倍仲麻呂が、やはり支那の明州で月を見て作つたと傳へられてゐる「あをうなばらふり放《さ》け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌と共に珍らしい作品と稱すべきものである。「御津の濱松待ち戀ひぬらむ」の句を用ゐた歌の例。
  ぬばたまの夜明しも船は榜ぎ行かな、御津の濱松待ち戀ひぬらむ(卷十五、三七二一)
これもやはり、マツマチと同音を重ねて、調子を整へたのである。
 
   慶雲三年丙午 難波の宮に幸《いでま》しし時 志費《しき》の皇子の作りませる御歌
64 葦邊《あしべ》ゆく 鴨の羽交《はがひ》に 霜|零《ふ》りて 寒き夕《ゆふべ》は 大和《やまと》し思ほゆ
 
【題意】 文武天皇が、慶雲《きやううん》三年に、難波の宮に行幸遊された時に、御供にあつて志貴の皇子の詠まれた歌である。
(123)【口譯】 葦邊を行く鴨の羽交に霜が降つて、寒い夕は、大和のわが家のことが思はれる。
【語釋】 ○葦邊ゆく 葦邊〔二字傍点〕は葦の生えてゐる邊、すなはち岸を云ふ。○鴨の羽交に はがひ〔三字傍点〕は羽の重《かさな》り合ふ意で、鳥の翼のたたまれてゐるのをいふ。鴨の羽交〔四字傍点〕と云つて一部分を表して、全體の印象を明にするもので、鴨に霜が降るといふのを、鴨の羽交に霜が降ると云つたのである。○寒き夕は 寒い夕暮は。○大和し思ほゆ 大和は、當時帝都のあつた所で、そこには作者の家庭もあるところから、大和と云つて家を表してゐる。
【後記】 海濱の寒い夜の情景をもとにして、故郷を思ふ心を適切に表してゐる。鴨の羽交に霜が降ると、その動物を憐む情から、自分の旅情を顧みてゐるのである。海邊の寒夜の有樣を、この小さい一點に集中して表現してゐる。上四句はこまかく、第五句はおほまかに歌つてゐる。これもよいすぐれた歌である。
 鴨に霜の降ることによつて寒い夜の情を寫してゐる歌に、高橋蟲麻呂集から出た歌がある。
  埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる、己が尾に零り置ける霜を拂ふとならし(卷九、一七四四)
これも鴨に托して、自分の寒夜の旅情を歌つてゐるのである。
 
(124)   長の皇子の御歌
65 霞《あられ》うつ 安良禮《あられ》松原 住吉《すみのえ》の 弟日孃子《おとひをとめ》と、見れど飽かぬかも
 
【題意】 前の歌と同じく、難波の宮に行幸のあつた時の御歌である。
【口譯】 霰のはら/\と打ちつけるこの安良禮松原よ、住吉の弟日孃子と見て居ても、飽きるといふ時を知らぬことである。
【語釋】 ○霰うつ 霞のはらはらと走つてゐる實景で、次の安良禮松原〔五字傍点〕を引き出す用を爲してゐる。○安良禮松原 住吉のほとりにある松原の名。○住吉の弟日孃子と 住吉の地に居る弟日といふ名の娘さんと。
【後記】 霰うつ安良禮松原は、聞くからに清らかな松原の情景である。その松原を孃子と共に見てゐると、何時までも飽きないといふ、松原を讃した歌である。しかし内意は、孃子と共に見てゐるから飽きないので、内容的中心は、むしろこの方に在るのである。すぐれた歌である。
 
   太上天皇 難波の宮に幸しし時の歌
66 大伴の 高師《たかし》の濱の 松が根を 枕《ま》きてし寐《ぬ》れど 家し偲《しの》ばゆ
(125)    右の一首は置始東人《おきそめのあづまひと》
 
【題意】 持統太上天皇が、難波の宮に御幸あらせられた時の歌、これは置始東人の作である。
【語釋】 ○大伴の高師の濱 大伴〔二字傍点〕は、今の大阪灣に面した一帶の地名。その高師の濱である。○枕きてし寢れど し〔傍点〕は強意の助詞。枕として寢れど。松が根を枕として寢るは、野宿の意であるが、ただ海岸の松原に宿ることを、かやうに表してゐると見てよいであらう。○家し偲ばゆ し〔傍点〕は強意の助詞。偲ばゆ〔三字傍点〕は、慕はれる、思はれるの意。この好風景の處に寢れども、家郷は忘れ難さよとである。
【後記】 松が根を枕として寢るといふ所に、海濱に旅寢する風情がよく現れてゐる。しかもさういふ風雅も家郷戀しさの念を如何ともすることが出來ない。そこに又この歌の風情が生ずるのである。
 
67 旅にして 物戀《ものこほ》しきに 鶴《たづ》が音《ね》も 聞えざりせば、戀ひて死なまし
    右の一首は高安大島
 
【口譯】 旅に出て、何となく家戀しさに堪へないのに、もしも鶴の鳴く聲も聞えなかつたら、戀ひ死に死ぬことであらう。
(126)【語釋】 ○物戀しきに鶴が音も これは問題の句で、多く物戀鴫《モノコフシギ》ノ鳴クコトモと讀んでゐる。元原文の文字に缺けた所があつたのを、後人が整理してかやうに詠んでゐたものである。物戀しき〔四字傍点〕に鴫〔傍点〕を懸けた云ひ方がどうも危まれるので、今これを避ける。しかし勿論決定的の訓では無い。ただしばし、かやうに讀んでおくだけである。物戀し〔三字傍点〕は、何となく、特に目的の無い戀しさである。○戀ひて死なまし 戀の爲に死ぬであらうか。死んでしまひたいが、しかし死なないで、せめてもの命を、鶴が音に紛らしてゐる意である。
【後記】 この歌は問題の歌である。他の歌には鶴が音の聞える爲に却つて旅情を増すといふ。從來の訓も賛成出來ないが、今の訓もたゞ形を備へておくだけである。
 
68 大伴の 御津《みつ》の濱なる 忘貝《わすれがひ》 家なる妹を 忘れて念《おも》へや
    右の一首は身入部王《むとべのおほきみ》
 
【口譯】 この大伴の御津の濱にある貝は、忘貝といふ名であるが、さて、家に殘して來た妻は、忘れることが出來ないなあ。
【語釋】 ○大伴の御津 前に山上憶良の作に出た。○忘貝 貝の名で、瀬戸内海に多い。蛤貝に似て小さい扁平な貝だといふ。もつとも歌意から云へば、必しも一種の貝に限らずに、何にても、濱邊に寄せて殘つてゐる貝と見てよいのである。○忘れて思へや や〔傍点〕は反語。この語は、忘れめや〔四字傍点〕といふやうに、め〔傍点〕に續く(127)場合が多いのであるが、かやうに、直接に動詞を受けるものも亦あるのである。「會はむと思《も》へや」など。忘れて思ふ〔五字傍点〕は、忘れることである。思ひ忘るといふやうな意味で、忘れ且思ふでは無い。
【後記】 忘貝の名に依つて、名は實を伴はず、忘れ難いと歌つてゐる。名に依つてその實を想ふのは、常套手段であつて、忘草についても、しば/\用ゐられてゐる。忘貝は、一種の貝とするよりも、浪の打ち寄せて忘れて行つた貝として見る方が趣が深い。
 
69 草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生《はにふ》に にほはさましを
    右の一首は、清江《すみのえ》の孃子《をとめ》、長の皇子に進《たてまつ》れる。 【姓氏いまだ詳ならず。】
 
【口譯】 旅をなさる御方と存じて居りましたならば、岸邊の埴土で、御召物をお染め致しましたものを。
【語釋】 ○知らませば ませば〔三字傍点〕はまし〔二字傍点〕の條件法である。○岸の埴生に はにふ〔三字傍点〕は、埴土のある所。但しなほ疑問があつて、何かの植物の生えてゐる所では無いか、例へば萩生の轉では無いかとは考へられる。○にほはさましを 色に染めたらよかつたが、さうしなかつたの意。上のませば〔三字傍点〕を受けて、對應してゐる。
【後記】 深く思ひ入つた歌では無い、孃子の口を突いて出た歌のやうな滑らかさがある。
 
(128)   太上天皇 吉野の宮に幸《いでま》しし時 高市連黒人の作れる歌
70 大和には 鳴きてか來《く》らむ 呼子鳥《よぶこどり》 象《きき》の中山 呼びぞ越ゆなる
 
【題意】 持統太上天皇が、吉野の宮に御幸あらせられた時、高市連黒人がお供して詠んだ歌である。
【口譯】 都の方では、ちやうどこの喚子鳥が、鳴いて來てゐることであらうか。今この吉野山中では、象の中山を鳴きながら都の方へ飛んで行くのだが。
【語釋】 ○大和には この大和〔二字傍点〕は、大和の國の中央部、すなはち藤原の都の地方を指す。○鳴きてか來らむ 都の方を思ひやつてゐるので、吉野の方から鳴きつつ來るならむかと推量してゐる。○喚子鳥 閑古鳥、かつこう鳥のことだといふ。その鳴く聲が、あたかも人を呼ぶやうに聞えるので、この名があり、その鳴くことを呼ぶと云つてゐる。歌には常に、寂しがつて人を呼ぶといふ所から想を起して、戀の歌に用ゐられてゐる。○象の中山 吉野山中の一の山の名。象のやうな大きな圖體《づうたい》をしてゐる山の名。○呼びぞ越ゆなる 鳴き越ゆなりの意で、ぞ〔傍点〕は強く指定してゐるだけ。
【後記】 作者は、吉野山中に來て、家郷なる藤原のあたりを戀しく思つてゐる。それで、彼方にゐる人は、この呼子鳥を、聞いてゐるならむかの情を下に托してゐる。表面に妻を思ふと露骨(129)に云はない所に、深い趣が存する。吉野山中を鳴き渡る呼子鳥に依つて家郷を思ひやつた歌である。
 
   大行天皇、難波の宮に幸《いでま》しし時の歌
71 大和戀ひ 寐《い》の寢《ね》らえぬに 情《こころ》なく この渚埼廻《すさきみ》に 鶴《たづ》鳴くべしや
    右の一首は忍坂部乙麻呂《おしさかべのおとまろ》。
 
【題意】 文武天皇が難波の宮に行幸あらせられた時、忍坂部乙麻呂の詠んだ歌。大行天皇とは、支那では皇帝が崩御あらせられていまだ謚號ざ奉らざる以前の稱號であるが、日本の奈良朝時代では、文武天皇に限つて、大行天皇と申し上げてゐる。多分、文武天皇の崩後、ある文人の用ゐたものなどが、その儘他の人に依つて襲用せられたものであらうか。
【口譯】 大和を思うて、眠られないのに、心無しにも、この渚の岬の邊で、鶴が鳴くべきでは無いのだ。
【語釋】 ○寐の無らえねに 眠の眠られねにで、眠られないのにの意。○この渚埼廻に 廻〔傍点〕は接尾語で、その地形の彎曲せるを示す。古寫本に依つて補はれた字である。○鶴鳴くべしや 前に出た額田の王の近江(130)に下る時の歌の末句、「心無く雲の隱さふべしや」に準じて解くべきである。鶴鳴くべけむや、鳴くべきでは無いでせう。
【後記】 鶴が鳴くので、故郷戀しさの情が一層増つて來るといふ、鶴に對して歌ひかけたやうな語氣がある。
 
72 玉藻苅る 奥方《おきべ》は榜《こ》がじ 敷栲《しきたへ》の 枕の邊《べ》の人 忘れかねつも
    右の一首は式部卿藤原|宇合《うまかひ》。
 
【口譯】 玉藻を苅るやうな沖の方へは舟を漕ぎ出すまい。かの枕邊の、なつかしき君は忘れ難いことである。
【語釋】 ○玉藻苅る この句で、沖の方の情景を措いてゐる。勿論本當に藻を苅つてゐようが、ゐまいが、そんな事はどうでもよいのである。○敷栲の たへ〔二字傍点〕は、布織物の總稱。敷栲〔二字傍点〕は、織目の茂くある織物の義で、袖・枕〔二字傍点〕などの枕詞になつてゐる。○枕の邊の人 後の本には、人〔傍点〕の字は無いが、古本には皆ある。枕の邊に居る人の義で、妻のことである。
【後記】 この歌は古本に依つて人の字を補ふことに依つて確に生きて來ると思ふ。「枕のあたり」(131)といふが如き漠然たる云ひ方より一歩進めて、しつかりと忘れかねる對象を明示し得るからである。
 
   長の皇子の御歌
73 吾妹子《わぎもこ》を はやみ濱風《はまかぜ》 大和なる 吾《われ》待つ椿 吹かざるなゆめ
 
【口譯】 わが妻を早く見たいと思ふ、その早く吹く濱邊の風よ、大和の國に置いて來た、我を待つてゐるあの椿さんを、訪れて吹いて下さいよ、きつと。
【語釋】 ○はやみ濱風 吾妹子を早く見たいといふことと、早い濱風といふこととを兼ねて云つてゐる。はやみ〔三字傍点〕は、淨み原、赤み鳥などの例と同じで、形容詞の連體形である。○吾待つ椿 椿〔傍点〕は、作者の妻、すなはち歌中の吾妹子を、美しい譬喩で現したもの。原文には吾松椿〔三字傍点〕とあり、待つ〔二字傍点〕の語から、樹木の松を連想して、この椿の語を引き出してゐる。○吹かざるなゆめ 吹かずにあるな、決しての意。故郷の妻戀しさに「今自分の吹かれてゐる濱邊の風に、故郷の妻のもとにも吹いて行つて呉れと、囑望するのである。
【後記】 自分を吹く風が、妹にも觸れよといふが如き思想は、例歌もある。例へば「わが袖に降りつる雪も流れ去にて妹が袂にい行き觸れぬか」(卷十、二三二〇)など。この歌の興味は、妻を(132)椿と云ひ放つた處にあらう。こゝに意外感があり、目覺しさを覺えるのである。しかし、椿は古人の愛した植物で、椿に依つて想を愛人に寄せてゐる歌は、古事記以來、しば/\見受ける所であつて、さういふ古歌の潜在意識が現れたものとも云はれよう。
 
   大行天皇 吉野の宮に幸しし時の歌
74 み吉野《よしの》の 山の下風《あらし》の 寒けくに はたや今夜《こよひ》も 我がひとり寢む
    右の一首、或は云ふ、天皇の御製の歌。
 
【題意】 同じく文武天皇が、吉野の宮に行幸あらせられた時の歌で、作者を記さない。ただ左註に或る説として、天皇の御製であるといふ。しかし歌の内容を按ずるに、天皇の御製としてふさはしく無い歌であるから、多分行幸に御供した臣下の作であらう。
【口譯】 吉野の山の風が寒く吹くのに、今夜も亦、私は獨寢をすることであらうかなあ。
【語釋】 ○寒けくに 寒くあることなるに。○はたや今夜も はた〔二字傍点〕は、又しても。や〔傍点〕は疑問ではあるが、詠嘆の語氣の強い語。今夜も亦かと詠嘆してゐる。
【後記】 何等人目を惹くほどのことは無いが、すら/\と隙間なく出來てゐる。歌に慣れた人の(133)作のやうである。
 
75 宇治間山《うぢまやま》 朝風さむし 旅にして 衣《ころも》借《か》すべき 妹もあらなくに
    右の一首は長屋《ながや》の王《おほきみ》。
 
【口譯】 宇治間山には朝風が寒く吹いてゐる。自分は旅先のことであつて、衣を貸して呉れるやうな妻も無いことである。
【語釋】 ○宇治間山 やはり吉野山中の一山である。○衣借すべき 衣を貸して呉れる筈の。
【後記】 これも初二句は、事實を明記してゐる。宇治間山の寒さが身にしみるやうな感じのする歌である。
 
   和銅元年戊申 天皇の御製の歌
76 丈夫《ますらを》の 鞆《とも》の音《おと》すなり もののふの 大臣《おほまへつぎみ》 楯《たて》立《た》つらしも
 
【題意】 元明天皇は慶雲四年に帝位に即かれたので、和銅元年はその翌年である。丁度其の頃に蝦夷が叛い(134)たので、和銅二年三月に征伐の軍を送つた。その前年に、準備訓練にいそしんである物聲をお聞きになつて、御代の初に事あるを歎かせられた御製である。元明天皇は文武天皇の御母君にあらせられる。
【口譯】 勇士等の矢を放つ音がする。軍人の大臣が、楯を立てて練兵をしてゐることと見える。
【語釋】 ○丈夫の 勇氣あり教養ある立派な一人前の男子。○鞆の音すなり とも〔二字傍点〕は獣の革にて袋やうに作り、中には獣毛などを充つ。これを左の手腕に附けて、矢を射る時、弓弦の反つてこれに當る用にする。その弓弦の當つた音が、鞆の音である。すなり〔三字傍点〕は強い語法で、爲《す》るの意。この句で一段に切れる。勇士が放つ矢の音がするといふ事實を敍したのである。○もののふの 武官、軍人をいふ。○大臣 おほまへつぎみ〔七字傍点〕は朝廷の大官をいふのであるが、ここは、上にもののふの〔五字傍点〕と限定があるので、軍人の大官、すなはち將軍をいふことになる。○楯立つらしも 楯は立てて敵の矢を防ぐにより名づく。らし〔二字傍点〕は事實にもとづく推定の助動詞。も〔傍点〕は感動詞。軍備を整へてゐることと思はれるといふ意。
【後記】 この歌は、表面に別に感情を表す語が見えてゐない。將軍が武備を整へてゐるといふだけで、語法はむしろ強く表されてゐる。しかも事實から推すと、御代の初に事のあるのを嘆かせられてゐるのである。斯樣に感情を表に出さないのは、古歌の趣で、力強い感じを起さしめる所以である。
 
(135)   御名部《みなべ》の皇女《ひめみこ》の和《こた》へ奉《まつ》れる御歌
77 吾《あ》が大君《おほきみ》 ものな思ほし 皇神《すめがみ》の 嗣《つ》ぎて賜《たま》へる 吾《あれ》無《な》けなくに
 
【題意】 御名部の皇女は、元明天皇の御姉君である。前の天皇の御製を見て、慰め奉つた歌である。
(136)【口譯】 わが大君は、物をお案じなされますな。天の神樣が天皇のさし副として、この世にお下しになつた私といふ者もございますものを。
【語釋】 ○吾が大君 大君は元明天皇をさし奉る。○物なおもほし な〔傍点〕は勿れの意。おもほし〔四字傍点〕はお思ひになる。すなはち、物をお考へになりますな、御心配あそばしますなの意になる。前の歌で、天皇が、練兵の物音を聞いて御心を悩ませ給ふ意を表して居られるのが、これで明となる。ここで段が切れる。○皇神の すめがみ〔四字傍点〕は統治者たる神、すなはち皇祖神をいふ。○嗣ぎて賜へる 天皇の副人《そへびと》として、補佐すべくこの世に下し賜つたの意である。皇神が下し賜つたのである。○吾なけなくにl なけ〔二字傍点〕もなく〔二字傍点〕も打消の無〔傍点〕で、打消が二重になるので有ることになる。に〔傍点〕は助詞で、言意を丁寧にするだけの用である。吾なけなくにの例としては「わが夫子《せこ》は物な思ほし、事しあらば火にも水にも吾なけなくに」(卷四、五〇六)がある。非常に強い語法である。
【後記】 力強い感を與へる歌である。末句の否定を重ねて肯定とした表し方も、この場合に最ふさはしい。
 
   和銅三年庚戌春二月藤原の宮より寧樂《なら》の宮に遷《うつ》りましし時 御輿を長屋《ながや》の原《はら》に停《とど》めて古郷《ふるさと》を廻《かへ》り望みて作りませる御歌 一書にいふ 太上天皇の御製
(137)78 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の里を 置きて去《い》なば 君が邊《あたり》は 見えずかもあらむ 【一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ】
 
【題意】 元明天皇の和銅三年二月に、藤原の宮から寧樂の宮に遷居あらせられた。その時に、御輿を長屋の原にお停めになつて、古郷なる明日香の里をお顧みになつて、お詠み遊ばされた御歌で、天皇の御製である。眞弓の岡には、夫君草壁の皇子の御墓もあるので、これに對して名殘を惜まれたのである。一書にいふ、太上天皇といふも、やはり元明天皇の御事で、後になつて書いたので、太上天皇と申し上げてゐるのである。
【口譯】 あの明日香の里をさし置いて、彼方寧樂の宮に遷り行つたならば、自分のなつかしくお慕ひ申し上げてゐる亡き夫君の御墓の邊も、見えなくなることであらうか。
【語釋】 ○飛ぶ鳥の 明日香〔三字傍点〕の枕詞。飛ぶ鳥は、あ〔傍点〕といふ間に見えなくなるからだといふ。○君が邊 亡き夫君草壁の皇子の御墓眞弓の岡の邊である。
【後記】 新しい京に遷られる御喜の中にも、舊きに對する惜別の情がよく出てゐる。なつかしみに滿ちた御製といふべきである。
 
(138)   或る本 藤原の京より寧樂の宮に遷りましし時の歌
79 大君《おほきみ》の 御命《みこと》かしこみ 柔《にき》びにし 家を釋《す》て 隱國《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の川に 船浮けて 吾が行く河の 川隈《かはぐま》の 八十隈《やそくま》おちず 萬度《よろづたび》 かへりみしつつ 玉桙《たまぼこ》の 道行き暮《く》らし あをによし 奈良の京《みやこ》の 佐保川に い行き至りて 我が寢たる 衣《ころも》の上ゆ 朝月夜《あさづくよ》 清《さやか》に見れば 栲《たへ》の穗に 夜《よる》の霜降り 磐床《いはどこ》と 川の水《みづ》凝《こ》り 冷《さ》ゆる夜《よ》を 息《いこ》ふことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 來《き》まさむ君と 吾も通はむ
 
【題意】 或る本に載つてゐた、藤原の宮から寧樂の宮に遷つた當時の歌で、新京に邸宅を經営することを歌つてゐる。作者未詳の長歌である。
【口譯】 天皇陛下の仰せを恐れ懼《かしこ》み、馴れ親んでゐた家を棄てて、かの泊瀬の川に船を浮べて、私の行く川の、數多い曲り角毎に、何處も何處も顧みながら一日中道を行き暮らして、奈良の都の佐保川に行き至つて、野宿をした衣の上に、明け方の月がさやかに照り渡れば、眞白な霜が降つて、岩床のやうに川の水が氷つて、寒い晩でも休むことなく通ひながら作つた家には、千代までに君は御出になるべきこととして、私も通はうと思つてをります。
(139)【語釋】 ○大君の御命かしこみ この句は集中に數多くみえてゐる。王命の尊くして恐懼に堪へないからの意である。○柔びにし 馴れ住んで、親んだ意である。○隱國の 枕詞、既出。○八十隈落ちず 川は曲りの多いものであるから、自然隈が多くなる、その隈毎に、一つも落さずにの意。○玉桙の 枕詞。桙の身〔三字傍点〕と續くといふ。玉の飾の附いた桙。○い行き至りて い〔傍点〕は接頭語。○朝月夜 朝まで殘つてゐる月。下弦の月。○栲の穗に 布織物のすぐれたるものの意。白栲の〔三字傍点〕に同じ。○磐床と 岩石の床を成してゐるものの如くに。○川の水凝り 川の水が氷つて。○來まさむ君と 原文は來座多公與〔五字傍点〕とあり、キマセオホキミトと讀んでゐたのであるが、今富土谷御杖の萬葉燈の説に從つておいたのである。しかしなほ疑問の句とすべく、これで落ち著いたものとは思はれない。君〔傍点〕とは作者の思ひ人をさすのであらう。
【後記】 遷都に伴ふ新邸の經營の辛苦が描かれてゐる。あまり歌作に慣れない人の作であらう。
 
   反歌
80 あをによし 寧樂《なら》の家には 萬代に 吾も通はむ 忘ると念《おも》ふな
    右の歌、作主いまだ詳ならず。
 
【口譯】 この寧樂の京なる家には、萬代までに、私も通はうと思ひます。私が忘れるとはお思ひ下さるな。
(140)【語釋】 ○あをによし 枕詞、既出。○吾も通はむ 長歌の句を取つてゐる。妻をこの家に居させて自分もその許に通はうとである。すべて妻を對手として歌つてゐる。
【後記】 どことなしに、思ふ事が完全に現れてゐないやうな感がある。歌の對手が明瞭でないのもその一因になるであらう。
 
   和銅五年壬子夏四月 長田の王を伊勢の齋《いつき》の宮に遣しし時 山邊の御井にて作れる歌
81 山《やま》の邊《べ》の 御井《みゐ》を見がでり 神風《かむかぜ》の 伊勢|孃子《をとめ》ども 相見つるかも
 
【題意】 和銅五年四月に、長田の王を伊勢神宮にお遣しになつた時に、長田の王が、伊勢の國の山邊の御井で作つた歌である。齋宮は、伊勢神宮に奉仕する内親王をいひ、また伊勢神宮をいふ。ここでは神宮の義。山邊の御井は、所在未詳、卷十三には山邊の五十師の御井とある。離宮があつたので、その井を御井といふのである。
【口譯】 山の邊の御井を見る次手に、折よくも伊勢の國の孃子たちに出逢つたことだつた。
【語釋】 ○御井を見がてり 見がてり〔四字傍点〕は、見る傍、見る次手《ついで》にの意。
【後記】 御井のほとりで、美しい伊勢の孃子どもに逢つた、旅先での愉快な出來事である。孃子(141)に對する興味を中心として歌つてゐる。この御井に水を汲みに集る孃子たちの明るい美しさを讃へてゐる。道具のよく備つてゐる歌である。
 
82 うらさぶる 情《こころ》さまねし ひさかたの 天《あめ》の時雨《しぐれ》の 流らふ見れば
 
【口譯】 荒涼たる心で一杯である。折しも大空から時雨の雨が流れ降るのに逢つて。
【語釋】 ○うらさぶる 心の荒れすさんでゐる。○情さまねし 心があまねく一樣になつてゐる。○ひさかたの 天〔傍点〕の枕詞。語義未詳。○天の時雨の 時雨〔二字傍点〕は、この集では、秋の頃、空が暗くなつて降る雨。○流らふ見れば 流らふ〔三字傍点〕は、流るの連續状態を表す。
【後記】 旅に出て憂欝なる心で一杯であると、まづ心中を叙して、その動機を下の句で更に細に叙してゐる。ひさかたの天の時雨は、いかにも大空遙なる所から降つて來る雨の感じをよく出して、荒涼たる旅情を一層深く感じさせる。よい歌である。
 
83 海《わた》の底 沖《おき》つ白波 立田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
(142)    右二首は、今案ずるに、御井にして作る所に似ず。もし疑はくは、當時誦せりし古歌か。
 
【口譯】 今自分の船は、遠く海上に出てゐるが、その海の沖邊では白波が立ち騷いでゐる。白波の立つといふ縁故のある、あの難波から大和へ越えて行く立田山を、果して何時になつたら越えて行つて、妻の居る邊を見ることが出來るだらうか。
【語釋】 ○海の底沖つ白波 以上は立つ〔二字傍点〕といはむが爲の序詞である。海の底〔三字傍点〕は、文字通り海底ではあるが、此處では沖を引き出す役に用ゐられてゐる。左註にもあるやうに、この歌は、伊勢へ赴いた時の歌らしくない。やはり海上にての旅で歌つた古歌を、吟誦したものであらう。○立田山 生駒山脈中の一峰。大和の國から難波に出るに、殊に奈良の京に遷つてからは、最普通の通路になつてゐた。だからこの歌では、この山を越えて、何時になつたら故郷に入るを得るならむかと歌つてゐるのである。
【後記】 船の廻りに立つ波を使つて序としてゐる。まづそれを呼びかけて、これを序に轉用したといふ方が適してゐるであらう。海上の旅情のよく出てゐる歌である。
【左註】 山邊の御井の邊で作つたらしくないといふ。いかにも尤である。當時吟誦した古歌かといふが、多分その通りであらう。
 
(143)   寧樂《なら》の宮
 
【標目】 元明天皇の和銅三年三月に奈良の都に遷都せられてから、七代七十五年間の帝都となつた。だからこの前の和銅五年云々の前に標記すべきものである。寧樂〔二字傍点〕はなら〔二字傍点〕の意を美字を以つて記したもの。
 
   長の皇子 志貴の皇子と佐紀《きき》の宮《みや》にて倶に宴《うたげ》せる歌
84 秋さらば 今も見る如《ごと》 妻ごひに 鹿《か》鳴《な》かむ山ぞ 高野原《たかのはら》の上《うへ》
    右の一首は長の皇子。
 
【題意】 長の皇子と志貴の皇子とが、佐紀の宮で(144)宴を開かれた時の長の皇子の御歌である。目録にはこの次に志貴の皇子の御歌があるが、これは目録だけで、本文は無い。
【口譯】 秋になつたならば、今も見るやうに、妻を戀ひ慕つて、鹿の鳴く山であらうよ、この高野原のほとりは。
【語釋】 ○秋さらば 秋にならばで、夕さらばと同じ語法。○今も見る如 今も見る如くとは、現に鹿の作り物か何かしてあるのであらう。○高野原の上 佐紀の野の一帶を、高野原の上と云つてゐる。上〔傍点〕は、ほとりといふ程の意である。
【後記】 叙述がやゝ説明的ではあるが、さすがに高原の秋景色を想はしめるものがある。酒宴即興の御作として、よくその景況を寫されてゐる。
 
(145)萬葉集第一奥書
 
 文永《本に云ふ》十年八月八日、鎌倉に於いて書寫し畢《をは》んぬ。
 此の本は、正二位前大納言征夷大將軍藤原卿、はじめ寛元元年初秋の頃より、李部大夫瀕親行《りほうのたいふみなもとのちかゆき》に仰せ付け、萬葉集一部を※[手偏+交]調《けうてう》し書本たらしめむが爲に、三箇の證本を以つて、親行が本に比※[手偏+交]《ひけう》せしめ畢《をは》んぬ。同じき四年正月、仙覺又親行が本并に三箇の本を請《う》け取りて重ねて※[手偏+交]合《けうがふ》し畢んぬ。是則、一人の※[手偏+交]勘、見漏らす事あるべきに依りてなり。三箇の證本とは、松殿入道《まつどのにふだう》殿下の御本【帥中納言伊房卿の手跡なり】 光明峯寺入道前擁政左大臣家《くわうみやうぶじにふだうさきのせつしやうさだいじんけ》の御本、鎌倉右大臣家の本なり。この外又兩三本を以つて比※[手偏+交]せしめ畢んぬ。而して多本に依つて、損字を直し付け落字を書き入れ畢んぬ。寛元四年十二月二十二日、相州|比企《ひき》が谷《やつ》新釋迦堂《しんしやかだう》の僧坊に於いて、治定本《ぢぢやうぼん》を以つて書寫し畢んぬ。同じき五年二月十日※[手偏+交]點し畢んぬ。又重※[手偏+交]し畢んぬ。今この萬葉集の假名は、他本皆漢字の歌一首書き畢つて、假名の歌更にこれを書く、常の儀なり。然れども今の本に於いては、和漢の符合を糺《ただ》さむが爲に、漢字の右に假名を付けしめ畢んぬ。かくの如く治定せしむといへど(146)も、今又これを見るに、不審の文字且千なり。仍りて去んぬる弘長元年の夏の頃、又松殿の御本、并に兩本【尚書禅門眞觀の本、基長中納言の本なり】を以つて、再※[手偏+交]を遂げ、文理の※[言+此]謬を糺し畢んぬ。又同じき二年正月、六條家の本を以つて比※[手偏+交]し畢んぬ。この本他に異り、その徳甚多し。珍重々々。かの本奥書にいふ、
  承安元年六月十五日、平三品《へいさんぼん》 經盛 が本を以つて、手づから書寫し畢んぬ。件の本は、二條院の御本を以つて書寫せし本なり。他本は假名は別にこれを書く。而して叡慮より起りて、假名を眞名に付けらる。珍重々々。秘藏すべし。々々々。
               從三位行備中權守藤原重家
彼の御本は、清輔朝臣これを點ずと云々。愚本の假名、皆以つて符合す。水月融即、千悦萬感なり。弘長三年十一月、又忠定卿の本を以つて比※[手偏+交]し畢んぬ。凡そこの集、既に十本を以つて※[手偏+交]合を遂げ畢んぬ。又文永二年閏四月の頃、左京兆の本【伊房卿の手跡なり】を以つて比※[手偏+交]せしめ畢んぬ。而して後、同じき年五六兩月の間に書寫の功を終へ、初秋一月の内にこれを※[手偏+交]點せしめ畢んぬ。そも/\先度の愚本の假名は、古次の兩點、異説ある歌は、漢字の左右に假名を付け畢んぬ。その上猶心詞※[穴/瓜]曲ある歌に於いては、新點を加へ畢んぬ。かくの如く異説多種の間、その點の(147)勝劣、輙以つて辨へ難き者か。これに依りて、去今兩年二箇度書寫の本は、古點新點を論ぜず、その正訓を取り拾ひて、漢字の右に一筋に點じ下す所なり。その内古次兩點の詞は、その秀逸を撰びて、同じく墨を以つてこれを點ず。次に古次兩點ありといへども、しかも心詞參差たる句は、紺青を以つてこれを點ず。いはゆる古語を勘へざる點、并に手爾乎波《てにをは》の字の相違等は、皆|紺青《こんじやう》を以つてこれを點じ直さしむ。これ則、まづ古次兩點あることを顯し、亦偏に新點にあらざることを示すなり。次に新點の歌并に訓中闕けたるを補へる句、又一字たりといへども古點に漏れたる字は、朱を以つてこれを點ず。偏にこれ自身の所見の爲にこれを點ず。他人の所用の爲にこれを點ぜざるのみ。
    文永三年八月十八日          權律師仙覺
【解説】 この奥書は、後人の加へたもので、萬葉集の本來の部分では無いが、普通に行はれてゐた本には、載つてゐるから、これを掲げておく。初の「萬葉第一奥書」といふのは、又後人が附け加へたもので、いはば奥書の題詞である。次の奥書は、二部に分れる。初の「本に云ふ、文永十年八月八日、鎌倉に於いて書寫し畢んぬ」は、何人の記したものとも知れない。出來た順序から云へば、その次の「此の本は」以下最後までが先に文永三年に出來て、そのあとで、この一行が文永十年に加へられたのである。但しその節(148)には、肩の「本に云ふ」は無かつたのであるが、その文永十年云々を寫す時に、後の人が「本に云ふ」を加へたものである。故に、改めて云へば、文永三年に「此の本は」以下の文が仙覺の手に依つて書かれ、次に「文永十年」云々の一行が出來、その次に「本に云ふ」が書き加へられ、最後に「萬葉第一奥書」の行が出來たのである。この奥書は、漢文で書かれてゐるが、今書き下し文に改めて載せた。これは萬葉集研究の上に於ける仙覺の苦心を語る重要なる資料であるから、次に意譯しておく。
【口譯】 萬葉集の卷一の奥に書いてあること。
今寫す本の原本には、次のやうに書いてある。
(149) 文永十年八月八日に、鎌倉に於いてこの本を書き寫し終りました。
 (これからが仙覺の書いた文である。)この本は、正二位前大納言征夷大將軍藤原頼經卿が、はじめ寛元元年の初秋七月の頃から、式部大輔源親行に命じて、萬葉集の全卷の文字及び訓を考究して、書寫する時の原本を作らうとして、三種の證據となるべき良本を以つて、親行の持つて居る本に比較研究をさせて、これを終りました。同じ寛元四年正月に、私仙覺が、又親行の本と三種の證本とを受け取つて、重ねて較べ合せを終りました。これは一人で較べて考究したのでは、見漏らすことがあるかも知れないからであります。三種の證本とは、松殿入道藤原基房公の御本(これは大宰權帥中納言藤原伊房卿の書かれた本です)、前攝政左大臣藤原道家公の御本、鎌倉右大臣源實朝公の御本のことであります。この外にも二三の本を以つて較べ合せを致しました。さうして多い本に依つて間違つた字を訂正し落ちた字を書き入れました。寛元四年十二月二十二日、相摸の國比企が谷の新釋迦堂の僧坊に於いて、決定した本に依つて、書き寫し終りました。同じき五年二月十日、訓點を較べ終りました。又重ねて較べ合せを終りました。今この萬葉集の假名は、他の本は皆、漢字の歌を一首書き終つてから、假名書きの歌を書くのが、常例であります。(一一〇頁元暦校本寫眞參照)。然しながら今度の本に在つては、漢字と假名との一致を確める爲に、漢字の右に假名を附けました。かやうにして決定したとはいへ、今またこれを見ると、不審の文字が澤山にあります。依つて先年、弘長元年の夏の頃に、又松殿殿下の御本と、外に二種の本(藤原光俊入道眞觀の本と中納言藤原基長の本とです)を以つて、二度目の較べ合せを遂げ、文章の理の誤を正しまし(150)た。又同じき二年正月に、六條家の本を以つて較べ合せを終りました。この六條家の本は、他の本とは違つて、良い所が澤山あります。有り難い事でございます。その本の奥には、次の如く書いてありました。
 承安元年六月十五日に、平經盛卿の本を以つて、自分で書き寫しました。その本は二條天皇の御本を以つて、書き寫した本であります。他の本は假名は別に書いてゐるのに、この本では天皇の叡慮に依つて、漢字に假名を附けてあります。有り難い事で御座います。大切に致しませう。
                 從三位行備中權守藤原重家
かの二條天皇の御本は藤原清輔朝臣が、訓を附けたといふことであります。私の本の訓が、皆それに一致致しました。月影が水に映るやうに融合致しまして喜ばしい極みで御座います。弘長三年十一月に、又藤原忠定卿の本を以つて校べ合せを致しました。すべてこの本は既に十種の本を以つて較べ合せを終りました。又文永二年閏四月の頃、左京大夫藤原顯輔の本(藤原伊房卿の筆跡です)を以つて較べ合せを致しました。而して後、同年の五月六月二箇月の間に、書き寫しの事業を終り、七月一箇月の内に、原本と較べ合せて決定を致しました。
一體、前の寛元年間に作りました私の本の假名は、天暦年間に源順等に依つて附けられた訓點と、その後藤原道長公等に依つて順次に修正増加して行つた訓點とに、相違のある場合は、漢字の左右の傍に假名を附けておきました。その上になほ、歌の意味と詞とに行き違ひのある歌には、新しい訓點を加へました。かやうでありますから、違つた訓點が多く存して、その訓點のどちらが良いか、容易に判明し難い所があ(151)ります。これに依つて、去年と今年とで二度書き寫した本には、昔からの訓點と、今新しく附けた訓點とを分たずに、正しいと思ふものを選んで、漢字の右に一筋に假名を附けました。その中で、源順等の訓點と、後人の補正した訓點とは、その勝れてゐるものを選んで、すべて墨を以つて書きました。次にかやうな以前からの訓點があつても、歌の内容と詞とが行き違つてある句は、紺青の色で新しくこれを正しました訓を附けました。古い言葉を知らない訓や、助詞の字の相違等は、皆紺青の色で附け直しました。これはまづ昔からの訓點の存して居ることを明にし、何も無かつたものに新に訓を附けたのでは無いことを示したものであります。次に從來訓が無かつた歌、及び訓の中でも闕けてゐたのを補つた句、又よし一字でも古い訓點に漏れた字は、朱の色で書きました。(卷頭圖版文永本標本參照)。これらは偏に自分自身の見る爲に訓を附けたのであります。他人に使はれる爲に附けたのでは御座いませぬ。
     文永三年八月十八日         權律師 仙覺
 
萬葉集 卷第一
〔2016年12月15日(木)午後6時49分、入力終了〕