萬葉集總釋第九 樂浪書院 1936.2.5発行
 
(1)萬葉集 第十七
 
(3)   卷十七概説
                     佐佐木信綱
 
 この卷から卷二十に至る四卷は、ほぼ同じ體裁をもち、同じ性質のものである。大體において、大伴家持の手に成つたもので、家持を中心とし、主として大伴家の人たちの歌がをさめられてゐて、大伴家の歌集と見ることが出來る。かつ、おほよそ年代順になつてゐるので、歌日記の性質をも帶びてゐる。年代からいへば、天平二年から同二十年にまでわたつてをり、其のうち、天平二年から十六年までの作は、卷十六以前の卷に洩れたものを此の卷のはじめに補つたもので、卷十七の特徴は、天平十八年、家持の越中守として赴任した後の作にあると思はれる。この卷以下の四卷が編まれる前に、すでに卷十六以前の卷々は、ほぼ今日見るやうな體歳にひととほり纏められてあつたもので、この卷の編纂のはじめにあたつて、以前の卷々に洩れたものをまづ補つたものと見るべきであらう。卷の冒頭には、天平二年に大伴旅人が太宰府から京にのぼる時の、從者らの※[覊の馬が奇]旅の歌が出てをり、其の次には、太宰の時の梅花の歌(卷五に出づ)に追和する歌が、六首のせられてある。(4)これらの點では、少くともこの部分は、卷五に連續すべき性質のもののやうに思はれる。
 しかして、この卷は一時に編纂されたものではなく、おそらくは、長い間にわたつて、時にのぞみ、折にふれて、集めておいたものと思はれる。さらに家持以外の人の手が加はつてゐるか否かに關しては、議論の餘地があり、天平十八年正月、左大臣橘卿が王卿等を率て、太上皇の御在所に參入《まゐ》つた時、詔に應じて各の作つた歌の序詞のなかに、「大納言藤原豐成朝臣及び諸王臣等を率《ゐ》て」(原漢文)とあるが、續紀によれば、豐成は天平十五年五月に中納言となり、天平勝寶元年四月に大納言となつたのであるから、當時はまだ中納言であつたはずで、これによつて、此の卷が後に手の入つたものとみる學者もあるが、にはかに斷じがたく、なほ考ふべきである。
 しかし、大體のところ、家持の編纂とみることに誤はなく、彼の歌日記の類と見る時、この卷および卷十八・十九・二十の諸卷は、彼の公私の生活を察知することが出來る。また、奈良朝文化の日没の空にかがやく歌人家持の、壯年期以後における歌風の變遷のあとを明かにたどり、ひいて、その思想の移りゆく經路を認め得べく、更に、家持研究によつて、やうやく文化の餘弊のあらはれた萬葉末期の世相をうかがふ歴史的興味もある。
 なほ、此の卷においては、家持以外の大伴家の人々では、池主、書持《ふみもち》、坂上郎女の作がをさめら(5)れてをる。以下この卷の歌を年代順に概觀してみよう。
 まづ冒頭には、天平二年十一月、太宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられて、京に上つた際、別に海路を取つて京に入つた從士等が途中で作つた歌十首が出てをる。旅人の筑紫を出立したのは、卷六によれば、「冬十二月、太宰帥大伴卿の京に上る時、娘子《をとめ》の作れる歌二首」とあつて、十二月となつてをり、また卷五に、「書殿《ふみどの》にて餞酒《うまのはなむけ》せる日」の山上憶良の「敢へて私懷《おもひ》を布《の》ぶる歌三首」の下に天平二年十月六日とあることも、これに符合してをる。ここに十一月とあることは、從士らは先に上京の道にのぼつたことを語るものであらう。十首のうち、三野石守の歌一首をのぞいて、他はことごとく作者不詳である。
  荒津の海潮干潮|滿《み》ち時はあれどいづれの時か吾が戀ひざらむ
 右は、その作者不詳の中の一首であるが、質實平明の詠みぶりに情趣をたたへ、集中および後世の類歌の及びがたいものがある。
 天平十年七月七日の夜は、家持はひとり天漢を仰いで、古典的な格調の歌一首をよみ、同十二年十一月九日には、卷五なる、父旅人が太宰府において催した梅花の宴の時の歌に追和して、新歌六首を作つた。
(6) その次には、十三年二月に境部老麿の作つた「三香原の新都を讃むる歌一首并短歌」がある。これは、恭仁京への遷都後ほどなく詠まれたものである。家持は遷都にしたがつて、ひとり恭仁の新京に移り、山のほとりに住んでゐたので、弟書持は、同年の四月二日に、奈良の宅から、霍公鳥の歌二首を兄に贈つた。家持はこれに、翌日(四月三日)短歌三首を報へ送つた。内舍人大伴家持とあるので、彼は當時内舍人であつたことがわかる。
 その次には、田口|馬長《うまをさ》の霍公鳥の歌一首と、山部明人の春※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の歌一首とが收録されてゐるが、いづれも年代未詳で、傳聞の時にしたがつて載せられたものである。(傳聞の時は、おそらくは天平十三年であらう。)
 十六年四月五日には、家持はひとり奈良の故宅にゐて、歌六首を詠んでをる。この年二月に恭仁から難波に遷都が行はれたのであるが、家持が何故にその四月に奈良に歸つてゐたかは、不明である。其のなかの一首に、藥狩のことが詠まれてをる。此の狩は藥にするために、夏季に鹿の袋角をとるための年中行事であつて、この歌のほかには、卷十六の鹿の爲めに痛を述べた乞食者《ほがひぴと》の歌のなかに、その片鱗があらはれてゐるのみである。
 天平十八年正月には大雪が降つた。時の太上天皇なる元明帝の御前で、左大臣橘諸兄をはじめ諸(7)王臣等に宴を賜はつた時、雪の歌を賦せよといふ勅命によつて、諸臣が歌を奉つた。
  降る雪の白髪までに大皇に仕へまつれば貴くもあるか         橘諸兄
  天の下すでに覆《おほ》ひて降る雪の光を見ればたふとくもあるか   紀清人
  新しき年のはじめに豐の年しるすとならし雪の降れるは        葛井諸會
  大宮の内にも外《と》にも光るまで零《ふ》らす白雪見れど飽かぬかも 大伴家持
 諸兄の歌は悠容迫らず、暢達の調があつて、國家の老臣たる面目躍如たるものがある。清人の作は實景をそのままにとらへて詠みつつ、おのづから皇威になぞらへて、莊重の感がある。諸會の作は、雪は豐年の瑞兆であるといふ、支那風の思想によつて、文化人たる面影をうかがはしめ、家持の作は、「光るまで」がよく生きて、大宮の雪景色にふさはしい。
 この年七月には、家持は越中守となつて任に赴いた。その時にあたつて、叔母なる坂上郎女が歌二首を贈つた。その序詞に、「大伴宿禰家持、閏七月を以て越中國守に任《ま》けられ、即ち七月を取りて任所に赴く。」とあるが、その年七月には閏はなく、續紀によれば越中守となつたのは六月とあるので、閏七月は誤である。坂上郎女は、更に越中國に歌二首を贈つてをる。左に其の中の一首を擧げておかう。
(8)  道の中國の御神は旅|行《ゆき》も爲《し》知らぬ君を惠みたまはな
 まだ若い家持を思ふ叔母の愛情が切實である。當時家持は二十九歳であつたと推定されてをる。これは、彼の歿年延暦四年八月(享年六十八歳と推定して)から逆算したのである。
 その次には、平群氏女郎が越中守家持に贈つた歌十二首が載せられてあるが、左註によれば、時時に便に寄せて贈つてきたもので、一時に十二首の歌を送つたものではない。この平群氏女郎は此の卷に至つてはじめてその名が見える作者で、その傳は詳かにしがたい。
  君により吾が名はすでに立田山絶えたる戀のしげき頃かも
  萬代と心は解けて我背子が拊《つ》みし手見つつ忍びかねつも
  松の花花數にしも我背子が思へらなくにもとな咲きつつ
 第一首は、甚だしく後世の戀歌の技巧に似た詠みぶりで、名の立つ意から立田山にかけ、また、それを縁語として、「絶え」と言ひおこしてをる。第二首は、當時としても極めて官能的な匂の豐かな作であつて、家持と淺からぬ中であつたことが想像される。第三首は、めだたぬ松の花にくらべて、自分の酬いられぬ戀を嘆いて可憐である。
 越中に赴任して後、家持は國守館において、八月七日の夜、集宴をひらいた。家持につづいて歌(9)を詠んだものは、掾大伴池主、大目秦八千島、史生土師道良である。僧玄勝は大原高安眞人の作と傳へられる年月不詳の古歌一首を誦した。大原高安は、天平十四年に卒した人であるから、この古歌とは、古い時代の歌といふ意ではない。また、それに詠まれてをる「伊久理《いくり》の森」の所在については、諸説があるが、かかる席上の傳誦としては、越中説がふさはしいと思はれる。これについで大目秦八千島は、その館に宴をひらいて歌一首を詠んでをるが、その時日も、出席した人物の名も記されてをらぬ。(國司の主典《さくわん》たる目《もく》を大小に分つて二人おくのは、大國であつて、日本後紀によれば、越中は延暦廿三年六月に、上國とされたのであるから、當時は中國であつたはずである。また續紀には、寶龜六年三月に至つて、越中に大少目員をおいたといふことが出てゐるが、この卷によつて、すでにそれ以前から置かれてあつたことが分る。)
 その年の秋九月二十五日には、家持は弟書持の喪を聞いて、哀傷する歌一首并短歌をつくつた。その長歌は、彼が都を立ち出でた際、奈良山を過ぎて泉河のほとりまで見送つて來たことの回想を以て始まり、哀切の情の惻惻たるものがある。また、其の中に、「この人、人となり花草花樹を愛でて多く寢院の庭に植う。」といふ註を附してあるが、これによつて、若くして逝いた書持の性質や風貌までもうかがはしめる。
(10) 十一月には、さきに大帳使となつて八月京に赴いた池主が、本任にかへつたので、家持は、詩酒の宴を設け、琴を彈じて飲樂した。この日は大雪が降り、館から見渡す海には漁船が浮んでゐたので、家持は、二つの眺に寄せて歡びの歌二首を詠じた。
 翌十九年春二月二十一日には、家持は、病に臥して、悲んで長歌と短歌とを詠んだ。その題詞に「忽ち枉疾に沈み、殆泉路に臨めり。」とあることによれば、甚だ重い病であつたことがわかる。長歌の中では、都にのこる母や妻子をしのんでをるが、「妹も兄《せ》も若き兒どもは」とあるによつて、少くとも二人の子供があつたことが知られる。ついで二月二十九日には、漢文の書簡をそへて歌二首を池主に贈つた。病は輕減したがなほ立つことが出來ず、春の花鳥をよそに病体に臥してをることを慨いたものである。左註に、流布本では、「天平廿年二月廿九日大伴宿禰家持」とあるが、これは元暦校本に天平廿年の字がなく、右に赭で天平十九年とあるのが正しい。
 三月二日に、池主は同じく漢文の書簡をそへた歌二首を報へ贈つた。家持のものよりも更に潤色のある文章であつて、その漠學の素養を思はしめる。また下に、「姑洗二日」と書いてをることなど、支那趣味が知られる。花鳥を鑑賞しつつ、共に風雅の交の出來ぬことを嘆いたものである。三月三日に、家持は更に長歌と反歌三首とを贈つて、なほ病牀にゐて、春を羨みつつ過したことを悲(11)しみ、「思《しぬ》ばせる君が心をうるはしみ此の終夜《よすがら》に寐《い》も寢《ね》ずに今日も終《め》らに戀ひつつぞ居《を》る」と結んでをる。この書簡中に、「幼年未だ山柿の門に逕らず」といふ語があるのが特に注意される。
 三月四日には、池主から、「七言、晩春遊覽の詩一首并に序」を贈り、ついで五日には、漢文の書簡と共に、長歌と反歌二首とを贈つて、家持の詞藻を「山柿の謌泉、此に比ぶるに蔑きが如し。」とほめ、その病中の憂悶をなぐさめ、共に春の野に遊覽せむことを望みつつ、友を慕ふことなどを詠んでをり、家持はこれに對して、同じく五日に、なほ病臥して、七言一首と短歌二首とを贈り、その書簡の中には、「咋暮の來使、幸に以て晩春遊覽の詩を垂れ、今朝の累信は、辱く以て相招望野の歌を※[貝+兄]《たま》はる。一たび玉藻を看て稍欝給を寫《のぞ》き、二たび秀句を吟じて已に愁緒を※[益+蜀]《のぞ》く。」と禮をのべてをる。これらの贈答は、漢文漢詩にくらべてむしろ倭歌がげをされた觀があり、海外文學に通じた才人の交遊が知られる。
 三月二十日の夜、家持は、故郷への戀情をおこして、戀緒を述ぶる歌一首并に短歌を詠んだ。その長歌の中に、「ほととぎす來鳴かむ月にいつしかも早くなりなむ卯の花のにほへる山を外《よそ》のみもふり放《さ》け見つつ――吾を待つと寢すらむ妹を逢ひて早見む」とある。これは、五月に家持が税帳使となつて上京することに、この時すでに豫定されてゐたので、かく詠んだのであらう。左にあげる(12)矩歌四首の中の一首は、調子がいかにもすつきりとして、情趣が清新である。
  春花のうつろふまでに相見ねば月日|數《よ》みつつ妹待つらむぞ
 三月二十九日には、家持は、霍公鳥を恨む短歌二首を作つた。その題詞に「立夏四月、既に累日を經れども、しかも由《なほ》未だ霍公鳥の鳴くを聞かず。」とある。立夏四月とは、四月節のことである。霍公鳥は立夏の日に鳴くことにきまつてをる、といふ思想で詠んだもので、しかも鳴かぬ原因を、越中に橘の少いことに歸してをる。三十日には、二上山の賦をつくつてその風光をたたへてをるが、この山は、今の伏木町の西北に在つて、當時の國守館の背後の山とつらなつてをつたのである。
 四月十六日には、夜中はるかに霍公鳥の聲を聞いて、歌一首を詠んだ。二十日には、家持が正税帳使となつて入京する日が近づいたので、大目秦八千島の館における餞別の宴にのぞんで、別れの嘆きを陳べて短歌二首を作つた。二十四日には、射水郡舊江村にあつた布勢水海《ふせのみづうみ》に遊覽して、長歌と反歌一首とを詠んでをる。「もののふの八十伴の緒の思ふどち心遣らむと馬|竝《な》めて」とあることによると、部下の諸官人と共に遊覽したことが明かであるが、大伴池主はこの行に加はらなかつたものとみえて、二十六日に、「敬みて布勢水海に遊覽せる賦に和する一首并に一絶」をつくつてゐる。
 同じ日、即ち四月二十六日には、池主の館で税帳使たる家持の餞別の宴をひらいた。席上、家持(13)は歌二首を詠み、介内藏《うちのくらの》繩麿(傳記不詳)も亦歌一首を詠み、池主は石川朝臣水通(傳不明)の歌を傳へ誦した。なほ、この宴のはてた後であらうか、同じ日に、國守家持の館でも飲宴して、家持は歌一首を詠んでをる。
 二十七日には、家持は「立山の賦一首並に短歌」を作つた。これは、立山に赴いて作つたものではなく、はるかに仰いで、その山容をたたへたものと思はれる。かく、短い期間に、二上山を詠み布勢水海に遊覽し、また立山を詠んだのは、五月に上京した時、越中の勝景を都人士に傳へむが爲めであらうと察せられるが、この長歌の終りに、その意圖が明かに看取される。即ち、「萬代のかたらひ草《ぐさ》と未だ見ぬ人にも告げむ音のみも名のみも聞きて羨《とも》しぶるがね」といふのである。
 二十八日に、池主はこれに和して、「敬みて立山の賦に和する一首并に一絶」を作つた。二人の短歌の中から、各一首を左にあげてみよう。
  立山に降り置ける雪を常《とこ》夏に見れども飽かず神《かむ》からならし     大伴家持
  立山に降り置ける雪を常夏に消《け》ずてわたるは神ながらとぞ    大伴池主
 四月三十日に、家持は、「京に入らむこと漸近づきて、悲情|撥《のぞ》き難く、懷を述ぶる一首并に一絶」
を池主に贈り、池主は、五月二日に、「忽ち京に入らむとして懷を述ぶる作を見、生別の悲、腸を斷(14)つこと萬回、怨緒禁じ難し。聊か所心を奉ずる一首并に二絶」を報へ贈つた。
 この後、九月に至るまでの歌はない。これは、記録に洩れたのではなくて、おそらく作歌がなかつたのであらう。それ故、家持の上京や、本任への歸著などの消息を歌によつて明かにすることは出來ぬ。なほ、以上において留意すべきは、家持と池主との贈答における漢文・漢詩はもとより、二上山の賦・立山の賦と、長歌のことを賦といひ、短歌を一絶と數へてをることなど、漢文學の影響の色濃きもののあることである。
 九月二十六日には、家持は歸任してゐて、「放逸せる鷹を思ひ、夢《いめ》に見て感悦して作れる歌一首并に短歌」を作つた。射水郡古江村で、形の麗しい、雉をとることの巧な鷹を得て、大黒と名づけて愛養してゐたが、鷹飼の山田君麿が誤つて逃がしてしまつた。家持は悲しんで、網を張り、神に祈りなどしてをると、ある夜の夢に、娘子があらはれて、その鷹のゐる所を教へたので、夢さめて喜んで作つたといふのである。夢に娘子があらはれるといふ趣向は、或は、父旅人の、梧桐の日本琴の精が娘子になつて夢に見えた、といふ歌などから、暗示を得てゐるのでもあらうか。ともかくも越中の邊土において、悶悶の情を鷹狩によつて慰めてゐた彼の面目があらはれてをる。
 その後、天平十九年度の家持の作歌はない。ただ、年月不審の高市の黒人の歌一首が、その間に(15)收録されてゐるのみである。
  婦負《めひ》の野の薄押し靡べ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
 婦負の野は、婦負都の野で、これによると、黒人の足跡は越中にも及んでゐたことがわかる。蕭條たる雪の原に道に行き暮れた悲しみが、肌寒いまでの現實感をもつて人に迫るものがある。この歌を傳へ誦したのは、三國《みくにの》眞人|五百國《いほくに》であるが、その傳記は審かではない。
 天平二十年の春正月二十九日には、家持は歌四首を詠んで、奈呉の海の風趣を寫し、信濃の濱を行きつつ忘れがたい望郷の思をのべてをる。
  天ざかる鄙とも著《しる》くここだくも繁き戀かも和ぐる日も無く
  越の海の信濃《しなぬ》の濱を行き暮らし長き春日も忘れておもへや
 越路において二年めの春を迎へた彼の邊愁の色濃きものがある。信濃の濱は、今はその名が殘つてをらぬが、奈呉《なご》の江(今の放生津潟)附近の濱であらうと推定されてをる。
 ついで彼は、春の出擧によつて諸郡を巡行し、觸目するところにしたがつて歌を詠んだ。出擧とは、官稻を貸すことで、下民の窮乏を救はむ爲めに、春耕に貸し、秋收の時に返還せしめたものである。この管内の巡行によつて、新しい風色に接したことは、いたく彼の詩興を動かしたであらう。(16)雄神河,※[盧+鳥]坂河・婦負《めひ》河・延槻《はひつき》河・羽咋《はぐひ》の海などが詠みいれられてをるが、左にあげる一首は、礪波郡雄神河の邊で詠んだ作で、殊に地方色の豐かなものがある。
  雄神河くれなゐにほふ少女らし葦附《あしつき》採《と》ると瀬に立たすらし
 葦附は、作者の自註に「水松の類」とある如く、水藻であつて、今も彼の地に産してをる。
 なほ彼は、能登郡の香島津《かしまのつ》から船出して、熊來村《くまきのむら》をさして行つた時、歌二首をつくり、鳳至《ふげし》郡で饒石河《にぎしがは》を渡つた時、一首を詠じ、珠洲《すす》郡(能登半島の突端の郡)から歸航して、長浜灣《ながはまのうら》に泊てた時月光を仰ぎみて一首をよんだ。
 このあとには、「鶯の晩く哢《な》くを怨むる歌一首」があり、卷末には、「造酒の歌一首」がをさめられてある。二首ともに家持の作で、年月は明記されてをらぬが、卷十八の冒頭が、天平二十年春三月二十三日の作であることからみて、それ以前の二十年の春の作たることが推測される。
 卷中の歌は、總數百四十二首。これを歌體によつて分類すると、
    短歌  一二七
    旋頭歌   一
    長歌   一四
(17)   計  一四二
 これを年代によつて分類すれば、
    天平二年 短歌一〇
      十年 短歌 一
     十二年 短歌 六
     十三年 短歌 八 長歌 一
     十六年 短歌 六
     十八年 短歌三九 長歌 一
     十九年 短歌四三 長歌一二
     二十年 短歌一四 旋頭歌 一
 但、右のうちには、年代不詳の傳誦の短歌、十三年二首(田口馬長・山部明人)、十八年一首(大原高安)、十九年二首(石川水通・高市黒人)がある。
 
〔目次省略〕
 
(1)萬葉集 第十七 佐佐木信綱
 
(3)   天平二年庚午冬十一月、太宰帥大伴卿、大納言に任《まけ》られ【帥を兼ぬること舊の如し】京に上りし時、※[人偏+兼]從等、別に海路を取りて京に入る。ここに※[覊の馬が奇]旅を悲しみ傷みて、各所心を陳べて作れる歌十首
3890 我|夫子《せこ》を 我《あ》が松原よ 見渡せば 海人《あま》をとめども 玉藻刈る見ゆ
    右の一首は三野連石守《みぬのむらじいそもり》の作
 
【題意】 天平二年冬十一月、太宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられ、京に上つた時、從者らは別に海路をとつて京に入つた。その※[覊の馬が奇]旅を悲しんで、各が所心を陳べて、歌十首を作つた。これは、其のなかの一首で、三野連石守《みぬのむらじいそもり》の歌である。石守の伝は不明であるが、此の外に同人の作は、卷八に一首(一六四四)載せられてある。なほ、旅人の出發については、卷三に、「天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿、京に向ひで道に上りし時」(4)(四四六)とあり、卷六にも、「冬十二月、太宰帥大伴卿の京に上る時」(九六五)とあつて、いづれも、天平二年十二月となつてをるが、從者らは、それに先だつて、十一月に九州を發したのであらう。
【口譯】 松原から見渡すと、はるかに海人少女たちが、美しい藻を刈つてゐるのが見える。
【語釋】 ○我|夫子《せこ》を我《あ》が 序詞。「待つ」と「松」とにかけて用ゐたのである。卷六の「妹に戀ひ吾《あが》の松原」(一〇三〇)の吾松原は地名である。○松原よ 松原より。○玉藻 美しい海藻。玉〔傍点〕は美稱である。
【後記】 卷六の聖武天皇の御製「妹に戀ひ吾《あが》の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る」(一〇三〇)と格調が似て、ともに情趣が爽かである。更にこまかく句法をみるに、この歌は、上に「見渡せば」とあつて「見ゆ」と結び、「見」を重ねてゐるが、卷六の歌は、「見わたせば」を受けて「鳴き渡る」と結んで、同音を重複して用ゐてゐることに留意せられる。
 
3891 荒津《あらつ》の海 潮|干《ひ》潮|滿《み》ち 時はあれど いづれの時か 吾が戀ひざらむ
 
【題意】 以下の九首は、同じ※[覊の馬が奇]旅の作であるが、作者は不詳である。
【口譯】 荒津の海は、潮が干たり滿ちたり、おのおの時があるけれども、自分は、いつといつて、人を戀しく思はぬ時があらう。いつも/\戀しく思つてゐる。
(5)【語釋】 ○荒津《あらつ》の海 卷十五に「神《かむ》さぶる荒津《あらつ》の埼に寄する浪|間《ま》無くや妹に戀ひ渡りなむ」(三六六〇)とある荒津の埼附近の海。「荒津の濱」(三二一五)とも詠まれてをる。荒津の埼は博多灣内に突出した岬。○時はあれど 定つた時があるけれども。
【後記】 現實の事象に即して主觀をひきだし、譬喩は極めて明瞭的確である。一定の時のあることを誰もが知つてゐる潮の滿干をとりあげたことが、一首にくつきりとした輪廓をあたへ、更に、質實の趣を帶びてゐて、次の類歌にくらべてはるかに内面的の強みをもつてをる。
  稻見野のあから柏《がしは》は時はあれど君を吾《あ》が思《も》ふ時は實《さね》無し(四三〇一)
  伊香保風吹く日吹かぬ日ありといへど吾《あ》が戀のみし時無かりけり(三四二二)
  韓亭《からとまり》能許《のこ》の浦浪立たぬ日はあれども家に戀ひぬ日は無し(三六七〇)
  駿河なる田子の浦波立たぬ日はあれども君にこひぬ日はなし(古今集)
 
3892 磯ごとに 海夫《あま》の釣船 泊《は》てにけり 我が船泊《は》てむ 磯の知らなく
 
【口譯】 どこの磯にも海人の釣船が泊つてをる。しかし、自分の船の泊るべき磯は、いづことも分らぬ。
(6)【語釋】 ○泊《は》てにけり 碇泊したことである。けり〔二字傍点〕は助動詞で、ここでは一種の詠嘆の意を含んでゐる。○磯の知らなく 磯が分らぬ。なく〔二字傍点〕は「ぬ」の延言。
【後記】 今までにぎやかに海上に浮んでゐた漁船は、それぞれの磯に漕ぎ歸つた。それを羨ましく眺めながら、暮色の迫つた海上を行く船客の淡い寂寥の感がくみとられる。この結句に似た言ひ樣によつて、航海の心細さをあらはした次の作にくらべると、其のやはらかな結びに、そこはかとなき餘韻がある。
  照る月を雲な隱しそ嶋かげに吾が船泊てむ泊《とまり》知らずも(一七一九)
  大葉《おほば》山霞たなびきさ夜ふけて吾が船|泊《は》てむ泊《とまり》知らずも(一七三二)
 
3893 昨日こそ 船出《ふなで》はせしか 鯨魚取《いさなと》り 比治奇《ひぢき》の灘《なだ》を 今日見つるかも
 
【口譯】 つい昨日、船出をしたばかりであると思ふのに、今日は早くも比治奇《ひぢき》の灘《なだ》を見たことである。
【語釋】 ○昨日こそ船出《ふなで》はせしか 昨日船出をした。こそ〔二字傍点〕を受けて、しか〔二字傍点〕と過去の助動詞「き」の已然形で結んだのである。○鯨魚取《いさなと》り 海にかかる枕詞。○比治奇《ひぢき》の灘《なだ》 響の灘のことであらうと推定されてをる。(7)響の灘といふ地名は二箇所にあつて、長門附近の玄海灘につづく海面と、播磨灘の一部とが然か呼ばれてゐた。後者に就ては、源氏物語玉鬘に「ひびきの灘《なだ》もなだらかに過ぎぬ。海賊の船にやあらむ、ちひさき船の飛ぶ樣《やう》にて來る、などいふ者あり。海賊のひたぶるならむよりも、かの怖ろしき人の追ひ來るにやと思ふに、せむ方なし。憂きことに胸のみ騷ぐひびきにはひびきの灘も名のみなりけり。川尻といふ所近づきぬといふにぞ、少し息《いき》出《い》づる心地する。」とあり、また忠見家集に「音に聞き目にはまだ見ぬ播磨なる響の灘といふはまことか」ともある。ここも、播磨であらうと推測される。筑紫を發して、今日播磨の海上に來るといふのは、早すぎるといふ疑問も生ずるであらうが、昨日を時間的に嚴密に考へてはならぬ。○今日見つるかも 今日見たことである。かも〔二字傍点〕は、感動の助辭「か」と「も」の重つたもの。この結句は、「音に聞き目にはいまだ見ぬ吉|野《ぬ》河|六田《むつだ》の淀を今日見つるかも」(一一〇五)、「鳴《な》る神の音のみ聞きし卷向《まきむく》の檜原の山を今日見つるかも」(一九八二)などの類型がある。
【後記】 船の行くことの早いのを喜ぶ歌である。勿論、昨日といふのは、嚴密な時間的意味の昨日ではなくて、作者の氣持をあらはすだけのものである。調子の上で、左の二首と相通ずるところがある。
  昨日こそ年は極《は》てしか春霞|春日《かすが》の山にはや立ちにけり(一八四三)
  昨日こそ早苗とりしかいつのまに稻葉そよぎて秋風の吹く(古今集)
 
(8)3894 淡路島 門《と》渡る船の 楫間《かぢま》にも 吾は忘れず 家をしぞ思ふ
 
【口譯】 淡路島の海峽を渡る船の、楫をとる絶え間ほどの、しばらくの間も、自分は忘れずに家を思つてをる。
【語釋】 ○門《と》渡る 海峽を渡る。○楫間《かぢま》にも 楫をとる絶え間にも。いそがしく楫をとつて漕いでゐる故に、その絶え間のやうな短い間にもの意。楫〔傍点〕は、櫂《かい》や艪《ろ》の總稀。○家をしぞ し〔傍点〕とぞ〔傍点〕は強調の助辭。
【後記】 淡路島のほとりをとほつて、家の近づくにつれ、いよいよつのる歸心が切實にあらはれてをる。「楫取る間なく」といふ句は數多く用ゐられてゐるが、「楫間にも」といふ言ひ方は珍らしい。卷十八の家持の歌は、これによく似てをる。
  垂姫の浦を漕ぐ船|楫間《かぢま》にも奈良の我家《わぎへ》を忘れて思へや(四〇四八)
 
3895 玉|映《は》やす 武庫の渡に 天づたふ 日の暮れゆげは 家をしぞ思ふ
 
【口譯】 武庫のわたりに日がだんだん暮れてゆくと、しきりに家のことが思はれる。
【語釋】 ○玉|映《は》やす 枕詞。何故に武庫につづくかは明瞭ではない。冠辭考には、「こは或説に聟《むこ》とつづきたる(9)かといへり。凡むこてふもの、古き物がたりなどを見るに、女の家に住せて、玉のごとめではやせば、さあるまじき事とも學えず。然れども又おもふに、玉の光りそふる椋《ムク》といひかけたらむか。むこ、むく、音の通ふままに轉じていひ下すは冠辭のつねなり。」とある。宣長は、「玉映《タマハエ》むかしき」で玉の光るのを愛する意とし古へは心にかなつて愛することをむかしきと言うたと説いてをる。○武庫《むこ》の渡《わたり》 今の兵庫附近の海で、難波にむかふ航路に當るので、渡といつたのであらう。○天《あま》づたふ 枕詞。空を渡る日とつづく。
【後記】 武庫の近海から、難波を直指《たださ》して航行する海上の作で、前の歌と同じやうな心を歌つたものであるが、日の暮れてゆく時といふだけに、その讀者にあたへる感銘は、更に痛切である。枕詞を二つも用ゐたに拘はらず、潤色に過ぎて實感を殺ぐことなく、かへつて、調子を流暢にして、ほのかな哀韻をあたへてをる。
 
3896 家にても たゆたふ命 浪の上に 浮きでし居《を》れば 奧處《おくか》知らずも
 
【口譯】 家にゐても、定めなく漂うてゐるやうな命であるが、浪の上にかうして浮いてゐると、いつ死ぬことか、おぼつかなくて、極みも知られぬことである。
【語釋】 ○家にても 家に在つても、家にゐても。○たゆたふ命 定めなく漂うてゐるやうな危い命。無常觀(10)をあらはした語である。○浮きてし居《を》れば 浮いてをると。し〔傍点〕は強めの助詞。○奥處《おくか》知らずも 際限も知られぬことである。極みも知られぬほど、おぼつかなく思はれる意。も〔傍点〕は詠嘆をあらはす。
【後記】 無常觀に航海の不安のからみあつた、特色のある歌である。「たゆたふ」の語が、ことによく適してをる。
 
3897 大海の 奧處《おくか》も知らず 行く我を 何時《いつ》來まさむと 問ひし兒らはも
 
【口譯】 大海の極みも知れず、遠く船に乘つてゆく自分であるのに、いつ歸つておいでになりませうかと、筑紫へ出發の際にたづねたあの女よ。今はどうしてゐることであらう。
【語釋】 ○行く我を 行く我であるものを。行く我であるのに。を〔傍点〕は詠嘆の助詞。かつて筑紫にむかつて船出をした時のことを指してゐる。○何時《いつ》來まさむと 何時歸つておいでになりませうかと。まさむ〔三字傍点〕は敬語の助動詞「ます」の未然形に未來の助動詞む〔傍点〕を添へ、上の何時と應じて將來に對する疑問を丁重に言ひ表はしたものである。○兒らはも 女よ。ら〔傍点〕は助語で、複數の意ではない。はも〔二字傍点〕は詠嘆をあらはす。
【後記】 筑紫へ出發した時、愛する女が別れを惜しんだことを追想し、いま筑紫の任をはたして歸航しつつ、故郷の近づくにあたつて、心切にその女をおもふ歌である。「兒らはも」といふ詠(11)嘆は、萬葉集中の一類型をなした結句であるが、無限の餘韻をおびた妙趣があつて、聞くごとに感慨の新しく湧くのをおぼえる。卷二十の防人の歌は、この歌によく似てをる。
  闇《やみ》の夜の行く先《さき》知らず行く吾を何時《いつ》來《き》まざむと問ひし兒らはも(四四三六)
 
3898 大船の 上にし居《を》れば 天雲《あまぐも》の たどきも知らず 歌乞《うたひこせ》我《わ》が兄《せ》
 
【口譯】 大船の上に乘つてをるので、頼るべきところも知らず、心細いことである。我が友よ。船中のなぐさみに、歌をおうたひ下さい。
【語釋】 ○天雲《あまぐも》の 枕詞。寄るところもなく漂ふのを、「たどきも知らず」にかけたのである。○たどき たづきと同じく、たより、よるべ。○歌乞《うたひこせ》 歌つて下さい。乞《こせ》は、「有巨勢濃香毛《ありこせぬかも》」(一一九)のこせ〔二字傍点〕と同じく、「落許須莫湯目《ちりこすなゆめ》」(一五六〇)のこす〔二字傍点〕の變化と見るべきであらうか。即ち、希望をあらはす動詞「こす」を、ここでは、命令形に使用したものであらう。○我が兄《せ》 我が友よ。
【後記】 船中の心細く、わびしい氣持があらはれてをる。「歌乞」といふ句法が特異で、集中ほかに用例をみない。且「大船の」といふ句は普通には「思ひたのむ」「たのみし」などの序に用ゐてゐるが、これに類する例も一二首ある。
 
(12)3899 海未通女《あまをとめ》 漁《いざ》り焚《た》く火の おぼほしく 都努《つぬ》の松原 思ほゆるかも
    右の九首は作者姓名を審にせず。
 
【口譯】 海人少女が、漁《いさり》する爲めに、焚《た》く火のやうにおぼつかなく、ぼんやりと、はるか彼方の都努《つぬ》の松原が、目に浮んで思はれることよ。
【語釋】 ○海未通女《あまをとめ》漁《いざ》り焚く火の 海人少女がすなどりをする爲めに焚く火の火影がうすく、ぼんやりとしてをるところから、「おぼほしく」にかけた序詞。○おぼほしく おぼおぼしく。朦朧として分明ならぬさま。○都努の松原 卷三の黒人の歌「吾味子に猪名|野《ぬ》は見せつ名次《なすぎ》山|角《つぬ》の松原いつか示さむ」(二七九)とあるのと同じ地で、攝津の西の宮のほとりにある。○思ほゆるかも 思はるることよ。眼前に浮んで見えるやうに思はれる。
【後記】 松原を見たのでもなく、見ないのでもないといふ、模糊とした趣である。初二句の序はかかる情趣を浮べるのに、すこぶる有效である。おそらく、漁火の見えはじめた頃の實景をとらへて序としたのであらう。これに似た序に、「志珂《しか》の白水郎《あま》の釣すと燭《とも》せる漁火《いざりぴ》の髣髴《ほのか》に」(三一七〇)ともあるが、詩趣はこの歌の方がずつと立ちまさつてゐる。
 
(13)   十年七月七日の夜、獨|天漠を《あまのかは》仰ぎて聊か懷《おもひ》を述ぶる一首
3900 織女《たなほた》し 船乘《ふなの》りすらし まそかがみ 清き月夜《つくよ》に 雲立ち渡る
    右の一首は大伴宿禰家持
 
【題意】天平十年七月七日の夜、大伴家持がひとり天漢《あまのがは》を仰いでつくつた歌である。
【口譯】 織女が今しも船に乘ることであらう。清く照る月夜に雲が立ちわたることである。
【語釋】 ○織女《たなばた》し 織女が。し〔傍点〕は助詞。○まそかがみ ますかがみに同じく、ますみの鏡の略で、照る・磨く・清き、などいふ語にかかる枕詞。○雲立ち渡る 雲がたちなびく。地上から仰いで、天の河に浪の立ちさわぐに見たてたのであらう。
【後記】 七夕に、天の河を仰ぎ、雲の立ちわたる實景と、織女が船に乘るといふ想像とを結びつけて歌つたのである。即ち、船を漕ぐことによつて、雲の波が立つと見たのである。この種のものには、卷八に憶良の「牽牛《ひこぼし》の嬬《つま》迎へ船《ぶね》榜《こ》ぎ出《づ》らし天の河原に霧の立てるは」(一五二七)、卷十の「天漢《あまのがは》八十瀬《やそせ》霧《き》り合ふ彦星の時待つ船は今し榜ぐらし」(二〇五三)があるが、これは、織女が船に乘るといふ趣向が特異であつて、これによつても、七夕傳説がさまざまの想像を加へて詠ま(14)れてゐたことがわかる。なほ、此の歌は、高古にして素朴の格調が家持の作には珍らしい。
 
   太宰の時の梅花に追和せる新歌六首
3901 み冬つぎ 春はきたれど 梅の花 君にしあらねば 折る人もなし
 
【題意】 以下の六首は、卷五にある天平二年正月十三日の太宰府の梅花の歌に追和して、同十二年十一月九日に、家持の作つた歌である。
【口譯】 冬についで春は來たけれども、美しく咲いた梅の花を、風流なあなたがゐられぬので、折つてかざす人もない。
【語釋】 ○み冬つぎ 冬についで。み〔傍点〕は接頭語。○君にしあらねば 君でないから。君がゐないから。
【後記】 十一月九日であるから、まだ春が來たといふわけではなく、おそらく梅の花も咲きそろうてをらなかつたのであらう。したがつて、單なる追和の、空想の作である。太宰の時の梅花の歌三十二首の冒頭にある歌をめざして、追和したものであらうから、君は大貳紀卿を指したものと見られる。
  正月《むつき》立ち春の來《きた》らば斯くしこそ梅を折りつつ樂《たぬ》しき竟《を》へめ(八一五)
 
(15)3902 梅の花 み山と繁《しみ》に 有りともや 斯くのみ君は 見れど飽かにせむ
 
【口譯】 梅の花が山と見えるほど多くあらうとも、かくの如くにして、貴君をいつまで見ても飽かぬものと思はう。
【語釋】 ○み山と繁《しみ》に 山の如く繁く。山と見えるまで多く。○有りともや 「有りとも」に、助辭「や」を添へて強めたもの。○飽《あ》かにせむ 飽かずとせむ。飽かぬものと思はう。
【後記】 漠然と、梅の花にむかつて、話しかけるやうに詠んだもので、「君は」を梅の花を指したものと見るべきであらうか。この歌を特に、小貳小野大夫の「梅の花今咲ける如《ごと》散り過ぎず我《わ》が家《へ》の苑にありこせぬかも」(八一六)を目ざして追和したものとして、君を小野大夫|老《おゆ》とみる説もある。そのいづれにしても、句法が明快を缺き、從つて、晦澁の感を免れぬ。
 
3903 春雨に 萠えし楊《やなぎ》か 梅の花 ともに後《おく》れぬ 常の物かも
 
【口譯】 梅の花が共に後《おく》れずに、(その柳に)咲きそうてゐるのは、春雨に誘はれて早く萠え出た(16)柳であらうか。それとも普通の柳であらうか。
【語釋】 ○春雨に萠えし楊《やなぎ》か 春雨にさそはれて早く萠え出た柳か。○梅の花ともに後《おく》れぬ 梅の花が、その柳と共におくれずに咲いてゐるのは。この二句を第一句の上においてみると、意味が明瞭になる。かかる句法の例は、卷一の石上麻呂《いそのかみのまろ》の「吾妹子《わぎもこ》をいざみの山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも」(四四)や、卷八にある同じ家持の「さを鹿の胸別《むなわけ》にかも秋萩の散り過ぎにける盛かも去《い》ぬる」(一五九九)などである。○常の物かも 格別はやく芽を出したといふわけのものではなくて、普通の柳であらうか。か〔傍点〕は疑問、も〔傍点〕は輕い詠嘆の助詞である。
【後記】 古來異論の多い歌であるが、ここでは、從來の如何なる解にもよらず、全く新しい、獨自の解釋をくだしておいた。それには、一首の構成を、左の如くに分解して、推理をすすめたのである。
                  −春雨に萠えし楊か
 梅の花ともに後《おく》れぬ(は)−
                  −常の物かも
 しかし、この解釋法は決して獨斷ではない。卷一の石上麻呂の作(四四)や、卷八の同じ家持の
(17)歌(一五九九)にくらぺて見ると、全く同型の句法であることが認められる。即ち、その二首は、いづれも、左の如くに分解すれば意味が分明するのである。
          −(吾妹子《わぎもこ》を)いざみの山を高みかも
 大和の見えぬ(は)−
          −國遠みかも
          −さを鹿の胸別《むなわけ》にかも
 秋萩の散り過ぎにける(は)−
          −盛かも去ぬる
 この歌は、中山嚴水、鹿持碓澄、鴻巣盛廣氏らも認めたやうに、太宰の時の梅花の歌三十二首の中の、小貳粟田大夫の「梅の花咲きたる苑の青柳は縵《かづら》にすべく成りにけらずや」(八一七)從つて、梅の花の咲いた苑に、縵にすべきほど芽を出したといふ柳に對して、「それが春雨に誘はれて早く芽をだした柳か、それとも通常のものかといふ、輕い疑問を提出して、趣向を弄したものと思はれる。しかし、かく煩瑣な技巧をとらねばならぬほど、すぐれた構想ではない。
 
(18)3904 梅の花 何時《いつ》は折らじと 厭はねど 咲《さき》の盛は 惜しきものなり
 
【口譯】 梅の花を、いつだけは折るまいとて、折るのを厭ふのではないけれども、花の盛に咲いてゐる時は、折るのが惜しいものである。
【語釋】 ○何時《いつ》は折らじと 特に何時だけは折るまいとて。○厭はねど 折るのを厭はないが。○咲《さき》の盛 咲くことの盛。盛に咲くこと。
【後記】 「惜しきものなり」といふ結句の表現が、素朴であり單直であつて好感をあたへる。この結句の句法などからみると、次の筑後守|葛井《ふぢゐ》大夫の作を念頭において詠んだのでもあらうか。
  梅の花いま盛なり思ふどち挿頭《かざし》に爲《し》てな今さかりなり(八二〇)
 
3905 遊ぶ内の 樂《たぬ》しき庭に 梅柳 折りかざしてば 思ひ無《な》みかも
 
【口譯】 遊ぶ間の樂しい庭に、梅と柳とを折つて、頭に挿したならば、物思ひもなくなることであらう。
【語釋】 ○遊ぶ内の 遊ぶ間の。宣長は、内〔傍点〕は「日」の誤であらうといひ、新考では、「春内乃《ハルノウチノ》」の誤であらうと(19)してをるが、みだりに文字を改めようとする説はよくない。○折りかざしてば 折つて挿頭《かざ》したならば。てば〔二字傍点〕は動作の完了をあらはす助動詞つ〔傍点〕の連用形て〔傍点〕に、假定の助詞ば〔傍点〕をそへたもの。○思ひ無《な》みかも 思ひ無みかもあらむ。思ひがないことであらう。この無《な》み〔傍点〕は、無いからとする用法とは異つてをる。
【後記】 初句が穩當でないので、疑問の生じたのも當然である。巧みな作とは言ひ難い。滿誓の作に追加したものであらう。
  青柳《あをやなぎ》梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし (八二)
 
3906 御苑生《みそのふ》の 百木《ももき》の梅の 散る花の 天《あめ》に飛びあがり 雪と降りけむ
    右、十二年十一月九日大伴家持の作
 
【口譯】 御園に咲いてをる多くの梅の花の散つたのが、天空に飛びあがつて、それがやがて雪となつて降つたのであらう。
【語釋】 ○御苑生《みそのふ》 御〔傍点〕は敬語。苑生〔二字傍点〕は、苑のものを植うべき處。○雪と降りけむ 雪となつて降つたのであらう。けむ〔二字傍点〕、は、第二過去の助動詞けり・きを、未來に推測して云ふ語。即ち、過去の推量である。語原は、「けり」の變化の「けら」と未來の「む」とのつづまつたものかとされてをる。
(20)【後記】 彼の父旅人の「わが苑に梅の花散るひさかたの天《あめ》より雪の流れ來るかも」(八二八)に和したもので、その「天《あめ》より雪の流れ來《く》る」原因について、幼く想像をめぐらしたのである。上半に「の」を重ねて、調子を柔くのびやかにし、突如として「飛びあがり」といふ硬い句をつらねたのは、奇拔である。また、この句の如きは、後世の歌には見られぬ天眞直截の珍らしい用法である。
 
   三香原《みかのはら》の新都を讃《ほ》むる歌一首并に短歌
3907 山城の 久邇《くに》の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉《もみぢば》にほひ 帶《お》ばせる 泉の河の 上つ瀬に うち橋わたし 淀瀬には 浮橋渡し 在り通《がよ》ひ 仕へまつらむ 萬代までに
 
【題意】》 山城國相樂郡泉川のほとりなる三香原《みかのはら》につくられた新都、久邇《くに》の都をほめて、天平十三年二月に、右馬頭境部|老麿《おゆまろ》のつくつた歌である。續紀に「十三年正月天皇始御2恭仁宮1受v朝」とあるので、これは遷都後間もなくの作である。老麿の傳は詳かではない。
【口譯】 山城の恭仁の都は、春になると枝もたわむばかりに花が咲き滿ち、秋になると黄葉が美し(21)く色づき、傍を流れてゐる泉河の、上の瀬には打橋を架け、淀んでをる處には浮橋を架け渡して、そこを行き通ひつつ、萬代の末迄もお仕へ申したいものである。
【語釋】 ○春されば 春しあれば。嚴密に文法的に云へば、春さらば」とすべきものであるが、多く混同して用ゐられてをる。○花咲きををり 花が咲いて枝も撓み曲ること。ををる〔三字傍点〕は撓む意。卷六の「春さらばををりにををり※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の鳴く吾が山齋《しま》ぞ止《や》まず通はせ」(一〇一二)その他に用ゐられてをる。○黄葉《もみぢば》にほひ 木の葉が美しく色づき。黄葉《もみぢば》は、黄變《もみぢ》した葉。○帶《お》ばせる 帶としていらつしやる。即ち傍近くある。帶《お》ばすは敬語。○泉の河の 泉川は今の木津川。○うち橋わたし うち橋〔三字傍点〕は、かけはづしの出來るやう(22)になつてをる橋。卷二に「上《かみ》つ潮に石橋《いはばし》渡し下《しも》つ瀬に打橋《うちはし》渡す」(一九六)とある。○淀瀬には 瀬〔傍点〕は水の淺いところで、淀の反對であるが、ここは、人の渡るところの意味で、水の淀んだ所をも渡り場としてゐたからである。○浮橋渡し 水面に浮んでをる橋。舟筏などの上に板を渡して、踏んで渡るやうにしたものである。○在り通《かよ》ひ これからも續いて通ひ。在り〔二字傍点〕は繼續の意をあらはす接頭語に用ゐる。
【後記】 對句も簡素であり、全體が單純でありながら、新都を賀し喜ぶ情がよく表現されてをる。語彙は斬新なものではないが、打橋や浮橋を渡すといふことを、ただの客觀的の叙景にとどめず、その上を渡つて通ふと結んだのが新しくて、作者の機智をうかがはせる。
 
   反歌
3908 楯竝《たたな》めて 泉の河の 水脈《みを》絶えず 仕へまつらむ 大宮所
    右、十三年二月右馬頭境部宿禰|老麿《おゆまろ》の作なり。
 
【題意】 上の長歌の反歌である。
【口譯】 泉川の流れの絶えないやうに、絶えず、とこしへにこの恭仁の大宮所にお仕へ申さう。
【語釋】 ○楯竝《たたな》めて 枕詞。楯を竝べて射るとつづく。古事記にある神武天皇の御製「多多那米弖伊那佐能夜(23)麻能《タタナメテイナサノヤマノ》」とあるにならつたもので、集中ほかに用例がない。○水脈絶えず 水脈《みを》の絶えぬ如くに。水脈〔二字傍点〕は、灣や沼のなかにある、船路となるべき一條の深みの處をいふが、こゝでは、單に水の流れをさす。
【後記】 卷一にある人麿の「見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまた還り見む」(三七)以來、いくらか變形されつつも踏襲されて來た型であるが、格調が大きくて、端正であることは、稱するに足る。集中に珍らしい枕詞が、一首に、古典的で莊重な格調をあたへるに有效である。
 
   霍公鳥を詠める歌二首
3909 橘は 常花《とこばな》にもが ほととぎす 住むと來鳴《きな》かば 聞かぬ日なけむ
 
【題意】 當時、内舍人として恭仁の京に仕へてゐた家持に、弟の書持《ふみもち》が、天平十三年四月二日に、奈良の宅から贈つた歌で、次の一首とともに、季節の霍公鳥を詠んでをる。
【口譯】 橘は、いつも變らずに咲いてゐる花であればよいが、霍公鳥がその橘に住まうとて來て鳴くならば、自分はいつもその聲を聞かぬ日はないであらう。
【語釋】 ○常《とこ》花にもが 常にうつろはず咲いてをる花であつてくれ。常花にもあれかしの意で、が〔傍点〕は希望をあ(24)らはす感動詞。○住むと來鳴《きな》かば 住むとて來て鳴くならば。○聞かぬ日なけむ なけむ〔三字傍点〕は無いであらうと未來に推測して云ふ語である。
【後記】 花橘と霍公鳥との關係を密接なものとみる、奈良朝の文人趣味の定型的思想である。卷九にも、「‥‥幣《まひ》はせむ遠くな行きそ吾が屋戸《やど》の花橘に住み渡れ鳥」(一七五五)などと歌はれてをる。この歌、初は橘が主格であり、つぎには霍公鳥、最後には、省略せられてはゐるが、自己が主格になつてをる。これは表現が拙いからであらう。
 
3910 珠に貫《ぬ》く 楝《あふち》を宅《いへ》に 植ゑたらば 山ほととぎす 離《か》れず來《こ》むかも
    右、四月二日大伴宿禰|書持《ふみもち》、奈良の宅より兄家持に贈れり。
 
【口譯】 藥玉として貫きとほす楝《あふち》を、我が家の庭に植ゑたならば、それをなつかしんで、山の霍公鳥が絶えず來るであらうか。
【語釋】 ○珠に貫《ぬ》く 藥玉《くすだま》として貫《ぬ》きとほす。藥玉〔二字傍点〕は、支那で續命縷・長命縷などと稱し、不淨を拂ひ、邪氣を避けるものとして、五月五日に用ゐた例に倣つて、菖蒲や橘の實などを五彩の絲に貫いたもの。○楝《あふち》 俗にいふセンダンノキのこと。高さ丈餘、葉の形はなんてんに似た複葉で、鋸齒《きぎみ》がある。夏、長い穗をなして(25)五瓣の淡紫の花をひらく。その實は秋熟すものであるが、藥玉にはその花を貫いたのであらうか。それとも未熟のままに青い實を用ゐたものであらうか。○植ゑたらば 植ゑたならば。この句法は集中ただ一つである。今日の口語そのままの、かやうな語のあつたことは、注意すべきである。○離《か》れず 間斷なく。時間的に時の絶え間のないことをいふ。
【後記】 極めて抑揚に乏しくて、日常の言葉のやうに低調である。
 
   橙橘初めて咲き、霍鳥飜り嚶《な》く。此の時候に對して、※[言+巨]ぞ志を暢べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、以て欝結の緒を散ずるのみ。
3911 あしひきの 山邊に居《を》れば ほととぎす 木《こ》の間《ま》立ち漏《く》き 鳴かぬ日はなし
 
【題意】 恭仁の新京にひとりゐた家持は、橘の花が咲き、霍公鳥の飛びまはつて鳴くのを眺めて、三首の短歌に欝結した思ひをのべ、これを四月三日に、弟への報へとして贈つたのである。ここに「橙橘初めて咲き」とある橙橘は、橙と橘ではなくて、二つでたちばなである。略解には「橙はあべたちばな也。」とある。
 續紀によると、この天平十三年には閏三月があつたので、四月は例年の五月に近い氣候であつたことと思はれる。
(26)【口譯】 山のほとりにをると、霍公鳥が木の間を立ちくぐりつつ、鳴かぬ日はない。
【語釋】 ○立ち漏《く》き 飛びくぐり。「春されば百舌鳥《もず》の草潜《くさぐき》見えずとも」(一八九七)ともあり、家持は卷八にも、「あしひきの未《こ》の間《ま》立ち潜《く》く霍公鳥」(一四九五)と用ゐてをる。
【後記】 恭仁の京における家持の寓居は、山に近かつたことが、卷四の恭仁の京における作「ひさかたの雨の降る日をただ獨山邊に居《を》れば欝《いぶ》せかりけり」(七六九)にも歌はれてをる。また、この歌は、霍公鳥の動作をこまかく描いてゐて、左にあげる卷十の歌にくらべて、音樂的の快調がないかはりに、寫實的な動きをもつてゐる點をとるべきであらう。
  梅の花咲ける岡邊に家|居《を》れば乏しくもあらず鶯の聲(一八二〇)
 
3912 ほととぎす 何のこころぞ 橘の 珠貫く月し 來鳴きとよむる
 
【口譯】 橘の資を藥玉に貫きとほす月に、來てあたりを響かせて鳴くのは、一體ほととぎすは何の心であらうか。
【語釋】 ○何のこころぞ 如何なる考か。古義に「此頃一筋に鳴さわぐなるは、己が聲をその玉に貫き交へよとてか、と言へるにや」とあるのは、考へすぎて當を得てゐない。○橘の珠|貫《ぬ》く月し 橘の實を藥玉として(27)貫く五月といふ月に。○來鳴きとよむる 來て鳴いて、あたりを響かせるのは、といふ意。この句法は、一種の成句として霍公鳥に多く用ゐられ、「來鳴き響もせ」(一四八〇)、「來鳴き響めて」(一九四六)、「來|喧《な》き響《とよ》まめ」(一九五一)、「來鳴き響《とよ》もす」(一九五七)、「來鳴き響めば」(四〇五一)など用例がある。
【後記】 折も折、藥玉を貫く月である五月に、霍公鳥が來て鳴くことよ、との詠嘆であつて、從來おほく歌はれてをるこの二つの關係を、今更の如くいぶかしみつつ、その自然の配合の妙を讃美したのである。これまで、同じ季節のこの優美なものを取りあはせて、何の疑惑もなく、これを密接な關係のあるものとして歌つてゐたのであるが、新たな興味をおこして、これを見直さうとしてゐるらしいところがある。これは近代人に殊によく同感せられる態度であつて、ここに家持の近代色があらう。なほ、藥玉と霍公鳥との配合を詠んだ歌には、左のやうな例がある。
  霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴《な》きそ汝《な》が聲を五月《さつき》の玉に相貫《あへぬ》くまでに(一四六五)
  ほととぎす待てど來喧《きな》かず菖蒲草《あやめぐさ》玉に貫く日をいまだ遠みか(一四九〇)
  ほととぎす汝《な》が初聲は吾にもが五月《さつき》の珠に交《まも》へて貫《ぬ》かむ(一九三九)
  玉に貫く花橘を乏しみしこの我が里に來鳴かずあるらし(三九八四)
 
(28)3913 ほととぎす あふちの枝に 行きて居《ゐ》ば 花は散らむな 珠と見るまで
    右、四月三日|内舍人《うどねり》大伴宿禰家持、久邇京より弟|書特《ふみもち》に報へ送る。
 
【口譯】 霍公鳥が棟の木の枝に行つてとまつたならば、花は、玉の散るかと思はれるやうに、美しく散ることであらう。
【語釋】 ○散らむな 散るであらう。な〔傍点〕は感動詞。○珠と見るまで 絲からこき散らす玉かと見えるほど。
【後記】 美しい景を想像してゐて、下句の詞調が快い。「行きて居《ゐ》ば」といふ、素朴で直截な句法は、
  山の際《ま》に渡る秋沙《あきさ》のゆきて居《ゐ》むその沼の瀬に浪立つなゆめ(一一二二)
  大瀧を過ぎて夏箕《なつみ》に傍《そ》ひてゐて清き河瀬を見るが清《さや》けさ(一七三六)
の「ゆきて居《ゐ》む」「傍《そ》ひてゐて」と同じく、如何にも萬葉的なひびきを持つた言ひざまである。家持は、この素朴な味を特に愛してゐたものとみえて、卷八の秋の歌にも用ゐてをる。
  雲|隱《がく》り鳴くなる雁の去《ゆ》きて居《ゐ》む秋田の穗立《ほだち》繁くし念《おも》ほゆ(一五六七)
 
(29)   霍公鳥を思《しぬ》ぶ歌一首 田口朝臣|馬長《うまをさ》の作
3914 ほととぎす 今し來鳴かば 萬代に 語りつぐべく 念《おも》ほゆるかも
    右、傳へ云ふ。ある時交遊集宴せり。此の日此の處に霍公鳥鳴かず。仍りて件の歌を作りて以て思慕の意を陳ぶ。但その宴所并に年月いまだ詳審にするを得ざるなり。
 
【題意】 田口朝臣|馬長《うまをさ》が、宴席で霍公鳥をしのんだ作である。この馬長の傳は詳かでない。
【口譯】 霍公鳥が今來て鳴くならば、それを愛ではやして、萬代の末までも、言ひ傳へるであらうと思はれることよ。
【後記】 この宴會に霍公鳥が來て鳴いたといふやうに、後世まで言ひ傳へるであらうから、どうか來て、一聲でもよい、鳴いてくれと、鳴かぬ霍公鳥を慕ひ招く意味の歌である。誇張した言ひ方でもあり、まはりくどいやうでもあるが、構想は面白い。また萬世に語り傳ふべき名を重んじた時代思想もうかがはれる。なほかかる場合に、霍公鳥を慕ふ歌には、左の如きものがある。
  我が屋前《には》の花橘に霍公鳥《ほととぎす》今こそ鳴かめ友に遇《あ》へる時(一四八一)
  家に行きて何をか語らむあしひきの山ほととぎす一音《ひとこゑ》を鳴け(四一〇三)
(30)【左註】 この歌を傳へ聞くままに收録した、この卷の編者の註である。この作者は、ある時、友人と相會して集宴をしたが、その日、その宴席に霍公鳥が鳴かなかつたので、この歌をつくつて思慕の意を陳べた、と傳へ言はれてをる。しかし、その宴席の場所と年月とは、詳審にすることができぬ、といふのである。
 
   山部宿彌明人|春瞿《うぐひす》を詠める歌一首
3915 あしひきの 山谷越えて 野づかさに 今は鳴くらむ 鶯のこゑ
    右、年月所處、いまだ詳審なることを得ず。但聞きし時のままにここに記し載す。
 
【題意】 この卷の編者が傳へ聞くままに採録した、山部明人の春※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》を詠んだ歌である。この明人は、西本願寺本・神田本、その他によつて、もとより赤人であることが知られる。
【口譯】 山や谷をこえて、今は野の高い處で鳴くであらう、あの鶯の聲のなつかしさよ。
【語釋】 ○山谷越えて 山や谷を越えて、里に出て來て、といふ意。○野づかさ つかさ〔三字傍点〕は、積重《つみかさ》なる意で、すべて高い處をいふ。「岸のつかさ」(五二九)、「野山づかさ」(二二〇三)などの用例がある。○今は鳴くらむ 今や鳴くであらう。あの鶯の聲よ、とつらなる。緊張して待ちうけるやうに想像したのである。
【後記】 單純で、何らの技巧をも用ゐないで、しかも、讀む者の心を快くする。春風に乘つて、(31)はるかに鶯の初音の聞えるやうな、のぴやかな感じがする。また木地《きぢ》が極めてこまかく、柔軟で、しかも彈力を帶びたやうに、調子の緊張したところは、赤人の特色をよく現はしてをる。上手が處理した練絹の感觸と、豐醇な美酒のかをりとを思はせるものがある。敏感な家持は、この詞調に摸して、女郎花の歌を詠んでをる。
  高圓の宮の裾|廻《み》の野《ぬ》づかさに今咲けるらむ女郎花《をみなへし》はも(四三一六)
【左註】 この歌のつくられた年月や場所を明かにしがたいが、聞いた時のままにここに記し載せる、といふのである。傳へ聞いたのは、掲載の順序から嚴密にいへば、天平十三年四月から、天平十六年の四月に至るまでの間であるが、おそらく、馬長の作と共に、十三年とみるべきであらう。
 
   十六年四月五日、獨|平城《なら》の故宅に居て作れる歌六首
3916 橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜の雨に うつろひぬらむ
 
【題意】 この歌以下の六首は、天平十六年四月五日に、家持がひとり奈良の故宅にゐて、作つたものである。この年二月に、久邇の京から、難波の宮に遷都が行はれた。ついで聖武天皇は、近江の紫香樂宮に行幸あらせられた。家持は、その年の四月に、何故かその理由は不詳であるが、奈良の故郷の家に歸つてゐたのであ(32)る。
 なほ、この年も正月に閏があつたので、四月とはいへ、例年の五月の氣候に近かつたといふことを念頭におくべきである。
【口譯】 橘の美しく咲いた花の香が、霍公鳥が鳴く今夜の雨の爲めに、消え失せてしまふことであらうか。
【語釋】 ○橘のにほへる香かも 橘の美しく咲いた花の香が。かも〔二字傍点〕は、結句の下にうつしてみるべきものである。にほへる〔四字傍点〕は、色美しく咲いてをること。○うつろひぬらむ うつろひぬらむかも。消え失せてしまふことであらうか。うつろふ〔四字傍点〕は、すべてものの盛の衰へて變ることをいふ。「移る」の延言でぬらむ〔三字傍点〕のぬ〔傍点〕は動作の完了をあらはす助動詞であるが、推量の助動詞と熟合すれば多く強意の助語となる。らむ〔二字傍点〕は推量の助動詞。
【後記】 花橘の咲いてをる夜、雨が降つてをる。しかも、闇のおくから、ほととぎすの聲も漏れてくる。詩情のそそられる夜であつたらう。しかし、小雨ではなかつたので、花の香の消えうせることを愛惜して詠んだのである。優美な情景であつて、その歌はむとするところはよい。しかし、あまりに説明にすぎて、情趣としてこなれてゐない修飾語をつらねた爲めに、橘と霍公鳥とに、焦點が二つに分裂して、渾然たる印象をあたへてゐない。花橘の香も霍公鳥の聲も生きてゐないのである。
 
(33)3917 ほととぎす 夜音《よごゑ》なつかし 網《あみ》ささば 花は過ぐとも 離《か》れずか鳴かむ
 
【口譯】 霍公鳥の夜鳴く聲がなつかしい。庭のまはりに網を張つて、のがさずにおいたならば、たとひ橘の花は散りうせようとも、絶えず鳴くことであらう。
【語釋】 ○網《あみ》ささば 網を張つたならば。網を張ることを「さす」といふ例は、卷一の「小網《さで》さし渡す」(三八)その他にある。○花は過ぐとも 過ぐ〔二字傍点〕は散りすぐ。○離《か》れずか鳴かむ 絶えず鳴かむか。離れず〔三字傍点〕は、間をおかず、即ち、間斷なくの意であつて、そこから離れずといふ意ではない。
【後記】 調子に澁滯のあとがない。情緒に強みが感じられる。庭の周圍に網を張るといふことはもとより實行は不可能であるが、ふとさう思つた詩人の童心を愛すべきである。しかも卷十にある、
  橘の林を植ゑむほととぎす常に冬まで住みわたるがね(一九五八)
よりも、はるかにその空想が現實的になつてをることが認められる。なほ家持は、天平勝寶二年四月には、この空想に一歩をすすめて、次のやうに詠んでをる。彼が如何にこの鳥を愛したかといふことも察せられる。
(34)  ほととぎす聞けども飽かず綱取《あみと》りに獲《と》りて懷《なつ》けな離《か》れず鳴くがね(四一八二)
  ほととぎす飼ひ通《とほ》せらば今年經て來向ふ夏は先づ喧《な》きなむを(四一八三)
 
3918 橘の にほへる苑に ほととぎす 鳴くと人告ぐ 網ささましを
 
【口譯】 橘の花が美しく咲いてゐる苑で、霍公鳥が來て鳴くと、人が告げ知らせる。網を張つてにがさぬやうにしておきたいものである。
【語釋】 ○にほへる苑に にほへる〔四字傍点〕はにほひてあるの意。○網ささましを 網を張りたいものである。まし〔二字傍点〕は假定の希望をあらはす助動詞。を〔傍点〕は、古く用ゐられた感動詞。
【後記】 前の歌の趣旨を、おほよそに言ひかへたのみで、「鳴くと人告ぐ」と、さりげなく述べてゐても、前の歌と同巧異曲。結句に重みをかけてをる。
 
3919 あをによし 奈良の都は 古《ふ》りぬれど もとほととぎす 鳴かずあらなくに
 
【口譯】 奈良の都は、今は舊都となつて、さびれてしまつたが、昔なじみの霍公鳥は、昔のとほりに鳴かぬわけではない。
(35)【語釋】 ○あをによし 枕詞。多くは「奈良」につづく。その語義は、彌百土《イヤホニ》よし、青土黏《アヲニネヤ》し、青土よし(青土の出る)などの説があるが、卷五の、悔《くや》しかも斯く知らませばあをによし國内《くぬち》ことごと見せましものを」(七九七)によれば、「奈良」にのみつづくとは限らぬことが知られるので、記紀の阿那邇夜志《アナニヤシ》と同義であらうとする説もある。あな美しいといふ意の「あなに」が「あをに」と轉じ、感動詞なる「やし」が「よし」と轉じたのであらう、といふのである。○もとほととぎす 卷十に、「本《もと》つ人ほととぎすをや希《めづ》らしみ」(一九六二)とあるやうに、昔なじみの霍公鳥の意である。○鳴かずあらなくに なかないわけではない。なく〔二字傍点〕は「ぬ」の延言。に〔傍点〕は詠嘆の助詞。
【後記】 故京となつて年を經た奈良にゐて、昔にかはらぬ霍公鳥の鳴くのを聞いた作者の胸に、淡い哀愁の情のわきあがつたのも當然である。「もとほととぎす」の語も適切で、結句の字あまりの詠嘆にも餘情が含まれてをる。
 
3920 うづら鳴く 古《ふる》しと人は おもへれど 花橘の にほふこの宿
 
【口譯】 鶉の鳴くやうに古いと、よその人は思つてゐるけれども、花橘の美しいこの我が家の庭よ。
(36)【語釋】 ○うづら鳴く うづら〔三字傍点〕は草の深いところや、荒れた古家などに鳴くものゆゑ、「古い」といふ語にかけた枕詞、或ひは修飾語として用ゐられてをる。「鶉鳴く古《ふ》りにし郷《さと》の秋萩を思ふ人共《どち》相見つるかも」(一五五八)、「人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家《ふるへ》に語らひて遣《や》りつ」(二七九九)はその例である。この作者は卷四にも、「鶉鳴く故《ふ》りにし郷《さと》ゆおもへども何ぞも妹に逢ふ縁《よし》も無き」(七七五)と用ゐてをる。○おもへれど 思ひてあれど。
【後記】 舊都となるとともに、わが家の庭もまたさびれたが、それでも、霍公鳥も來て鳴けば、花橘も咲きにほふといふ感懷の作であるが、しかし、この歌は説明に終始して、廢園の花といふやうな詩趣は感じられぬ。
 
3921 杜若《かきつばた》 衣《きぬ》に摺りつけ 丈夫《ますらを》の きそひ獵《かり》する 月は來にけり
    右、大伴宿禰家持の作。
 
【口譯】 杜若の花を衣に摺りつけ、男子らが狩衣として着て、藥狩をする月は來たことである。
【語釋】 ○杜若《かきつばた》衣《きぬ》に摺りつけ 杜若の花を衣に摺りつけて染めて。卷七に、「住吉《すみのえ》の淺澤|小野《をぬ》の杜若《かきつばた》衣《きぬ》に摺り著《つ》け著《き》む日知らずも」(一三六一)とある。○きそひ獵《かり》する 著襲《きそ》うて獵をする。そふ〔二字傍点〕は、著物を身につけること。獵〔傍点〕は藥狩のことをいふ。藥狩とは、鹿の若角即ち、鹿茸《ろくじよう》(ふくろづの)を取る爲めにする獵である。鹿茸は(37)藥用として古來貴ばれたもので、推古天皇紀に、十九年夏五月五日、菟田野で行はせられたのを始として、同廿年及び廿二年の五月五日にも行はれた記事が見える。朝廷の行事としては、端午の日に行はせられるのが例であつた。しかし卷十六の、鹿の爲めに痛みを述べた乞食者《ほがひびと》の詠《うた》には、「四月《うづき》と五月《さつき》の間《ほど》に藥獵《くすりがり》仕ふる時に」(三八八五)とあるから、端午の日にかぎらず、四・五月の頃、臨時に行はれたことがあつたのであらう。○月は來にけり 月は來たことである。ここのけり〔二字傍点〕は、過去の意ではなくて、語意を強調する所謂感動のけり〔二字傍点〕である。
【後記】 當時の貴公子らが、杜若の摺衣などを著て藥狩に出たのは、はなやかな光景であつたらう。五月晴の空の下、若葉をわたる薫風に、色染の狩衣の袖がひるがへる。新らしく萠え出た袋角をいただいた鹿は、夏野にをどつてをる。橘を五月の珠に貫くよりも、菖蒲《あやめぐさ》を※[草冠/縵]にするよりも、はるかに男性的な行事である。また、秋萩に配せられ、秋の夕に妻よぶと詠まれたさ牡鹿のみならず、かかる時に夏野ゆく牡鹿のさまも、詩趣のあるものではなかつたらうか。しかし、この藥狩のことは、わづかにこの歌と、前の乞食者の歌とに、その片鱗がうかがはれるのみである。ここには、それを待ち望んでゐた家持の、青年らしい氣持が浮んでをる。狩場の服装を以て詠み起してゐる處に興味が惹かれる。
 
(38)   十八年正月、白雪多く零《ふ》りて地《つち》に積むこと數寸なり。時に左大臣橘卿、大納言藤原豐成朝臣及び諸王臣等を率《ゐ》で、太上天皇の御在所【中宮西院】に參入《まゐ》りて、供奉して、雪を掃ふ。ここに詔を降して、大臣參議并に諸王は、大殿の上に侍《さもら》はしめ、諸卿大夫は南の細殿に侍はしめて、則ち酒を賜ひて肆宴《とよのかかり》す。勅して曰く、汝諸王卿等、聊か此の雪を賦して各其の歌を奏せよと。
   左大臣橘宿禰、詔に應ずる歌一首
3922 降る雪の 白髪《しろかみ》までに 大皇《おほきみ》に 仕へまつれば 貴くもあるか
 
【題意】 天平十八年正月に、白雪が多く零つて、數寸も地に積んだ。時に左大臣橘卿(諸兄)は、大納言藤原豐成朝臣や諸王臣らを率ゐて、太上天皇(元正天皇)の御在所たる中宮西院に參内して、供奉して雪を掃つた。ここに詔があつて、大臣・參議ならびに諸王は、大殿の上に侍はしめ、諸卿大夫は南の細殿(南にある廊)に侍はしめて、酒を賜うて御宴をひらかれた。かくて、諸王卿らに、この雪について歌を奏せよといふ勅がくだつたので、左大臣以下おのおの詔に應じて歌を奉つたことであつた。これは、左大臣たる橘諸兄の歌である。(39)右のうち、大納言藤原豐成朝臣とあるのは、中納言の誤であらうか。代匠記精撰本に「聖武紀を考ふるに此豐成卿は天平十三年五月に從三位に叙し、十五年五月中納言、二十年三月に從二位大納言にておはしけるを、大納言とあるは若し中の字を書生の誤て大に作れる歟。凡そ集中の例、大納言以上には名を云はず。考へて知るべし。今豐成朝臣と云へり。中納言なる事知るべし。」とある。これによつて、この卷が後に手の加はつた證とする學者もあるが、にはかには斷じがたい。肆宴は、宴を展《の》ぶること。その訓「とよのあかり」の、「とよ」は美稱、「あかり」は、御酒によつて顔の照り赤らぶ義と云ふ。
【口譯】 今降つてをる雪と同じやうに、白い髪をいただく老の身に至るまで、天皇陛下にお仕へ申して、御恩澤をかうむることを思へば、まことに有り難いことである。
【語釋】 ○降る雪の 眼前に降つてをる雪をとつて、「白」と言はむために用ゐた枕詞である。○白髪《しろかみ》までに 白髪になるまで。○貴くもあるか 貴くもあることかな。か〔傍点〕は感動詞。この貴く〔二字傍点〕は、かしこく、有り難い、などの意。
【後記】 國家の重鎭にして、老大臣たるにふさはしい風格と品位のそなはつた歌である。詞調あくまで明朗、眼前に降る雪をとつて、直ちに自己の身のことに言ひかけたのは、時にとつてまことに適切な、精妙のたとへざまである。諸兄卿はもとの葛城王で、卷六に天平八年多十一月「橘は實《み》さへ花さへその葉さへ枝《え》に霜降れどいや常葉《とこは》の樹」(一〇〇九)といふ御製とともに、橘氏(40)を賜はつたことが載つてをる。十五年五月に左大臣となり、天平勝寶八歳二月に致仕するまで當時最上の權力をもち、井手の玉川のほとりの別業によつて、井手の左大臣と世にとなへられた有名の人である。
 
   紀朝臣|清人《きよひと》、詔に應ずる歌一首
3923 天《あめ》の下 すでに覆《おほ》ひて 降る雪の 光を見れば たふとくもあるか
 
【題意】 詔に應じて奉つた紀朝臣|清人《きよひと》の歌。この人は、和銅七年二月三宅臣藤麻呂と共に國史を撰せしめられ、その後度々學士優遇の意によつて、穀・※[糸+施の旁]などを賜はつたことがあり、また東宮にも侍せしめられた。天平四年十月右京亮、十三年七月治部大輔兼文筆博士となり、十八年五月武藏守、天平勝寶五年七月散位從四位下で卒した。集中に見える歌は、この一首のみである。
【口譯】 天の下をことごとく覆うて降る雪の光を見れば、天皇陛下の御威光も思はれて、いかにも尊く、有りがたいことである。
【語釋】 ○すでに覆《おほ》ひて すでに〔三字傍点〕は、全く、ことごとくの意で、時間的に用ゐたのではない。○たふとくもあるか たふとくもあるかな。たふとく〔四字傍点〕には有り難いといふ意を含めてある。
(41)【後記】 眼前に地をおほひつくして清く輝いてゐる雪の光を詠じつつ、おのづから、天の下をあますところなくおほひ給ふ天皇の御威光と御恩澤とに思ひなぞらへてある。その移り行きが極めて自然で理屈がなく、その感を言ひふくめてをる。これもまた、實に堂々たる格調である。うちだしから雄渾であつて、降りおほうた白雪の照りわたるごとく、明淨にして、豐潤の詞調である。
 
   紀朝臣|男梶《をかぢ》詔に應ずる歌一首
3924 山の峽《かひ》 そことも見えず 一昨日も 昨日も今日も雪の降れれば
 
【題意】 紀朝臣|男梶《をかぢ》が詔に應じて奉つた歌。この人は、天平十五年五月正六位上より外從五位下、六月弾正弼、十八年四月太宰少貳、勝寶二年三月山背守、六年十一月東海道巡察使、寶字四年正月和泉守となる。集中この一首のみ見える。
【口譯】 一昨日も昨日も今日も雪が降つてゐるので、山と山との間が、どこであるともわからない。
【語釋】 ○山の峽《かひ》 山と山との間。この山〔傍点〕とは、奈良の宮から、背後の奈良山のあたりを望んで言うたもので(42)あらう。○そことも見えず そこと指して見ることもできぬ。どこであるか分らない。○一昨日も昨日も今日も 卷六の門部王の歌に、「前日《をとつひ》も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも」(一〇一四)とある。○雪の降れれば 雪が降りてあれば。降れ〔二字傍点〕は、良行四段の動詞の已然形。れば〔二字傍点〕は、完了助動詞「り」の已然形に接續助詞ばの添はつたもの。「難波邊《なにはべ》に人の行ければ」(一四四二)と同樣の句法である。
【後記】 單純で率直に詠んだところに好感をあたへられる。古今集の、
  梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば
は、この歌と、卷八にある赤人の
  吾兄子《わがせこ》に見せむと念《おも》ひし梅の花それとも見えず雪の零《ふ》れれば(一四二六)
とを、とりまぜた觀がある。
 
   藤井《ふぢゐ》連|諸會《もろあひ》、詔に應ずる歌一首
3925 新《あらた》しき 年のはじめに 豐の年 しるすとならし 雪の降れるは
 
【題意】 葛井連諸會《ふぢゐのむらじもろあひ》が詔に應じた歌。諸會は、天平十七年四月正六位上より外從五位下、十九年四月相模守、寶字元年五月從五位下を授けられた。經國集に、和銅四年三月五日對策文二首を載せてをる。集中歌はこの(43)一首のみ。
【口譯】 新しい年の始に、雪が降つたのは、豐年の瑞兆といふわけでありませう。
【語釋】 ○豐の年しるすとならし 豐年のしるしを現はすといふなるべし。ならし〔三字傍点〕は、なるらし。雪を豐年の瑞兆とするのは、支那思想で、文選の謝惠連の雪賦に、「盈v尺則呈2瑞於豐年1」とある。特に、新年の雪を瑞兆としたのは、「孝武帝大明五年正月朔日雪降、義泰以v衣受v雪爲2佳瑞1」とある。
【後記】 經國集に對衆文を載せられた人だけに、支那思想によつて新年の雪を詠んでをる。家持が後に、寶字三年正月一日、因幡の國廳で詠んだ歌とともに、ならべ稱すべきものである。
  新《あらた》しき年の始の初春の今日降る雪のいや重《し》け吉事《よごと》(四五一六)
 
   大伴宿禰家持詔に應ずる歌一首
3926 大宮の 内にも外《と》にも 光るまで 零《ふ》らす白雪 見れど飽かぬかも
    藤原豐成朝臣、巨勢|奈弖麿《なてまろ》朝臣、大伴|牛養《うしかひ》宿禰、藤原仲麻呂朝臣、三原王、智奴《ちぬ》王、船王、邑知《おほち》王、小田王、林王、穗積朝臣|老《おゆ》、小田朝臣|諸人《もろひと》、小野朝臣|綱手《つなで》、高橋朝臣|國足《くにたり》、太朝臣|徳太理《とこたり》、高丘連|河内《かふち》、秦忌寸|朝元《てうぐゑむ》、楢原造|東人《あづまひと》。
(44) 右の件の王卿等、詔に應じて歌を作り次によりて之を奏す。登時《そのとき》記さず、其歌漏失せり。但《ただ》秦忌寸朝元は、左大臣橋卿|謔《たはぷ》れて曰く、歌を賦するに堪へざらば麝を以て之を贖へと。此に因りて黙止《もだ》せりき。
 
【題意】 大伴宿禰家持の詔に應ずる歌。當時、彼は從五位下であつた。しかも、外從五位下であつた紀男梶や葛井諸會よりも下に記してある。これも、この卷十七が家持の手になつた一證ともせられる。
【口譯】 御所の内にも外にも、光り輝くまでに美しく降つてをる白雪は、いくら見ても飽かぬことである。
【語釋】 ○大宮の内にも外《と》にも この句から「零《ふ》らす」につづく。○零《ふ》らす 「零る」の敬語。大宮であるゆゑに敬語を用ゐて丁重に言つたのである。
【後記】 意味は單純で、しかも、かへつて無限の情趣がある。「光るまで」といふ表現も、單直であつて、しかも宮城であることにふさはしい。なほ、この作者には、卷十九に左のやうな歌がある。
  大宮の内にも外《と》にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し(四二八五)
【左註】 藤原豐成朝臣、巨勢|奈弖麿《なでまろ》朝臣、大伴|牛養《うしかひ》宿禰、藤原仲麻呂朝臣、三原王、智奴《ちぬ》王、船王、邑知《おほち》王、(45)小田王、林王、穗積朝臣|老《おゆ》、小田朝臣|諸人《もろひと》、小野朝臣|綱手《つなで》、高橋朝臣|國足《くにたり》、太朝臣|徳太理《とこたり》、高丘連|河内《かふち》、秦忌寸|朝元《てうぐゑむ》、楢原造|東人《あづまひと》。
 右の王卿らも、詔に應じて歌を作り、順次に奉上した。しかし、その時に記しておかなかつたので、その歌を漏失した。ただ、秦忌|朝元《はたのいみきてうぐゑむ》は、橘諸兄が戯れて、歌を作ることができなければ、麝香をもつてその罪を贖へと言うたので、その理由で歌を詠まなかつた、といふのである。
 秦朝元は、元來唐で生れた人で、漢學には通じてゐたが、歌を詠むことが出來なかつたのである。入唐判官として渡唐し、最近歸朝した人であるから、たづさへ歸つた麝香を、歌を詠まぬ贖として出せと戯れたのである。
 
   大伴宿禰家持、閏七月を以て越中國守に任《ま》けられ、即ち七槻を取りて任所に赴く。時に姑《をば》大伴氏坂上郎女、家持に贈れる歌二首
3927 草枕 旅ゆく君を 幸《さき》くあれと 齋瓮《いはひべ》すゑつ 吾《あ》が床《とこ》の邊《べ》に
 
【題意】 大伴家持が越中國守に任ぜられ、天平十八年七月に任地に赴く際、叔母大伴坂上郎女が家持に贈つた歌二首である。
(46) この序詞に、「閏七月を以て越中國守に任《ま》けられ」とあるが、この閏七月は誤である。この年は、七月に閏はなく、九月にあつた。その次に「即ち七月を取りて任所に赴く。」とあるから、その誤たることは明かである。契沖は、閏を衍とし、「七月を取りて」の七月は七日の誤であるとみてをる。雅澄は、閏七月を夏六月の誤としてをる。續紀によれば、この年六月壬寅從五位下大伴宿禰家持を越中守と爲す由があるので、六月説も妥當であると思はれる。但、閏は衍とみる説が穩かである、
 なほ、姑《をば》大伴氏坂上郎女とあるが、その姑は、玉篇に父之姉妹とあり、爾雅にも父之姉妹爲v姑とある。坂上郎女は、家持の父旅人の異母妹であるから、叔母の意味で用ゐたのである。家持の妻坂上大孃の母であることによつて、外姑《しうとめ》の意でかく記したのではない。
【口譯】 旅をする君が無事であるやうにと、床のあたりに、神酒を盛る器をそなへて、神に祈ることである。
【語釋】 ○草枕 枕詞。○旅ゆく君を幸《さき》くあれと旅をゆく君を、幸《さき》くあれと祈つての意。幸《さき》くあれ〔三字傍点〕は、平安にあれ。○齋瓮《いはひべ》 神酒を盛る陶の壺。○吾《あ》が床《とこ》の邊《べ》に 自分の寢る床のほとりに、略解には「我床のべといへるは、古へ其の旅立てる人の妻或は親しき人、其の床に守る事有りてかくいへるか。」とあり、古義にはこれを否定して、「こは吾之《アガ》の言は甚輕くして、吾がいはひべを床の方にすゑつ、といふほどに見てありぬべきことなるをや」とあるのも、共に考へ過ぎである。上代の風習に從つて、床のほとりに齋瓮をすゑて神を祭(47)つたのである。卷二十にも「齋瓮《いはひべ》を床邊《とこべ》にすゑて」(四三三一)とある。
【後記】 緊張した調子のなかに、その眞心があらはれてをる。
 
3928 今のごと 戀しく君が 思ほえば いかにかもせぬ 爲《す》るすべのなさ
 
【口譯】 さしあたつて今のやうに、これから別れた後も、そなたが戀しく思はれるならば、どうしようか、何ともし方のないことである。
【語釋】 ○今のごと 別れにあたつて戀しくて堪へられぬが、別れた後も今のごとく、といふ意である。○戀しく君が思ほえば 古義に「略解に、伎美我《キミガ》は、後に、君をといふ意なりと言へるは、たがへり。凡ておもふと云につづくる時は、必ず君をおもふ、妹をおもふなどやうに言ひ、おもほゆると言ふにつづくる時は、君がおもほゆる、妹がおもほゆるなどやうに云ことは、後とても異なることなきをや。」とある。思ほえば〔四字傍点〕は「思ほゆ」を未然形に用ゐたもの。○いかにかもせぬ いかにせむかも。も〔傍点〕は詠嘆をあらはす。○爲《す》るすべのなさ し方のないことである。略解には「するすべはせむすべに同じ」とあり、古義には、それを論難して、「勢牟須辨《セムスべ》は爲《なさ》む爲方《しかた》といふにあたりて、行ききをかねて云、須流須邊《スルスベ》は爲《な》す爲方《しかた》といふにあたりて、さしあたりたる即ち今を云との差別あり。しかるを、略解に、するすべは、せむすべに同じと、一くくりにい(48)へるは、ときざま宜しからず」とある。
【後記】 別れるにあたつての悲しみから、別れた後のやるせなさを推しはかつて、その心緒を述べたのである。
 
   更に越中國に贈れる歌二首
3929 旅に去《い》にし 君しも續《つ》ぎて 夢《いめ》に見ゆ 吾《あ》が片戀の しげければかも
 
【題意】 更に、坂上郎女が越中の國に贈つた歌二首である。
【口譯】 旅に出て行つたそなたが、絶え間なくわたしの夢に見える。これは、わたしだけがはげしく片思ひに思つてゐるからであらうか。
【語釋】 ○君しも續《つ》ぎて夢《いめ》に見ゆ 君がつづいて夢に現れる。しも〔二字傍点〕は強めの助辭。○吾が片戀の 夢に見えるのは、あなたがわたしを思つてゐるからではなくて、わたしの片思が、といふやうな意味をふくめてゐるのであらう。「間《あひだ》無《な》く戀ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢《いめ》にし見ゆる」(六二一)や、「吾背子が斯く戀ふれこそぬばたまの夢《いめ》に見えつつ寐《い》ねらえずけれ」(六三九)などとあるやうに、その人を夢に見るのは、その人に戀ひられてをる故であるとする、萬葉時代に行はれてゐた俗信をもとゝして詠んだものであらう。○しげければか(49)も 繁ければかもあらむ。はげしいからであらうか。
【後記】 詞調暢達。三句で切れて、しかも上句と下句との接續が巧妙である。
 
3930 道の中《なか》 國つ御《み》神は 旅|行《ゆき》も 爲知《しし》らぬ君を 惠みたまはな
 
【後記】 越中の國の神は、まだ旅をしたこともない君を、どうぞ守つて下さい。
【語釋】 ○道の中《なか》 越《こし》の道の中。即ち越中をいふ。○國つ御《み》神は 越中の國内にまつられてある神は。○爲知《しし》らぬ君を 爲《し》て試みたこともない。したこともない君を。「爲《す》」の連用形に「知らぬ」を重ねたもの。○惠みたまはな 惠んで下さい。たまはな〔四字傍点〕は、「たまはなむ」を略した古格であつて、このなむ〔二字傍点〕は、希望や願ひをあらはす助動詞で、語尾變化がなく、動詞の未然形につらなる。代匠記精撰本に「めぐみたまはむなり」とあり、古義には「奈《ナ》は禰《ネ》と通ひて、希望辭なり、いかで惠み給へかし、と希ふ意なり」とあるが、前者は曖昧であり、後者は誤つてをる。ね〔傍点〕は、助動詞「ぬ」の變化で、希望よりもむしろ命令の意をあらはし、しかも動詞の連用形につらなるもので、「たまひね」でなくてはならぬ。
【後記】 家持が少年の日に、「吾背子が著《け》る衣《きぬ》薄《うす》し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで」(九七九)と詠んだ叔母の愛情は、ここにもあらはれて切實である。
 
(50)   平群《へぐり》氏|女郎《いらつめ》、越中守大伴宿禰家持に贈れる歌十二首
3931 君により 吾が名はすでに 立田山 絶えたる戀の しげき頃かも
 
【題意】 平群《へぐり》氏女郎が、越中守たる家持に贈つた歌十二首である。この女郎は、この卷に至つて始めてその名があらはれ、その傳は詳かでない。
【口譯】 あなたのゆゑに、わたしの名はすでに立つてしまひました。そして、中の絶えた戀ではありますが、殊にこの頃は、繁き思ひに耽つてゐることであります。
【語釋】 ○君により 君ゆゑに。君の爲に。○吾が名はすでに わが名はもはや。すでに〔三字傍点〕は、「天の下すでに覆《おほ》ひて」とあつたやうに、悉く・あまねくといふ意であるが、ここでは、後世のやうに、早くもといふ意の方が適切である。この頃かかる用法が夙く行はれてゐたと見ることができるであらう。○立田山 わが名が立つといふ意を受けて、更に下の「絶えたる」にかけて用ゐたものであらう。略解には、「平群郡(今は伊駒郡に合す)に在りて、平群を氏とせるなるべければ、其所の山をもていへり。」とある。○頃かも この頃であることよ。か〔傍点〕とも〔傍点〕は感動詞。
【後記】 「すでに立田山」と言ひかけ、「絶えたる」と承けたところ、「妹が目を見まくほり江のさ(51)ざれ浪|重《し》きて戀ひつつ」(三〇二四)や、「吾妹子にまたも近江の野洲《やす》の河安|寢《い》も宿《ね》ずに」(三一五七)などと同じく、はやくも後世の縁語的な修辭の萠芽を思はせる。しかし、それらに比してはるかに素朴でなだらかな歌調を織りだしながら、調子にあまえたところがなく、複雜な内容をすらすらと言ひめぐらしてゐて、あまり耳ざはりではない點、賞するに足るものである。
 
3932 須磨人《すまびと》の 海|邊《べ》常《つね》去らず 燒く鹽の 辛《から》き戀をも 吾《あれ》はするかも
 
【口譯】 須磨の人が海邊をいつも離れずして燒いてゐる鹽のやうに、辛く、苦しい戀を自分はすることである。
【語釋】 ○須磨人《すまびと》の 須磨の浦に住む海人が。「須磨の海人《あま》の鹽燒衣《しほやきぎぬ》の」(四一三)などと用ゐられてをる。上三句は「辛き」の序である。
【後記】 左の二首と同型である。
  志珂《しか》の海人《あま》の火氣《けぶり》燒《た》き立てて燎《や》く鹽の辛《から》き戀をも吾はするかも(二七四二)
  志珂《しか》の海人《あま》の一日も闕《お》ちず燒《や》く鹽の辛《から》き戀をも吾《あれ》はするかも(三六五二)
 
(52)3933 ありさりて 後も逢はむと 思へこそ 露の命も つぎつつ渡れ
 
【口譯】 かうして長らへてゐて、後にはかならず逢はうと思へばこそ、露のやうなはかない命でも、つぎつつ生きてゐることである。
【語釋】 ○ありさりて かうして長らへてゐて。代匠記初稿本には、阿《ア》と佐《サ》と同韻にて、「ありありて」も「ありさりて」も同じであると云ひ、古義には、「阿里佐利底《アリサリテ》は、在之在而《アリシアリテ》なり、之阿《シア》の切|佐《サ》となれり。さてただに在々而《アリアリテ》と云はずして、かく云るは、在々而思ふことの一すぢなるを、重く思はせむとての詞なり、之《シ》の辭は、すべてその一すぢなるをとりたてて重く思はする處におく詞なればなり」とある。○思へこそ 「思へばこそ」の古形。○つぎつつ渡れ 命をつぎつつ過してをる。渡る〔二字傍点〕は、物の繼續をあらはす。上に「こそ」とあるので「渡れ」と結んだのである。
【後記】 卷十二の「在り在りて後も逢はむと言のみを堅く契りつ逢ふとは無しに」(三一一三)の上の句と、「後瀬山後も逢はむと念《おも》へこそ死ぬべきものを今日までも生《い》けれ」(七三九)の趣味とを採りあはせた觀がある。卷十八に、故郷の妻を慕うて詠んだ家持の歌「さ百合花《ゆりばな》後《ゆり》も逢はむと下延《したば》ふる心しなくば今日も經めやも」(四一一五)とともに、氣を張りつめてゐるといふ樣がみえる。
 
(53)3934 なかなかに 死なば安けむ 君が目を 見ず久ならは 術《すべ》なかるべし
 
【口譯】 かへつて死んでしまつたならば、心が安らかになるでありませう。生きてゐて、君に逢はぬことが久しくなつたならば、やるせないことでせう。
【語釋】 ○なかなかに かへつて。○君が目を見ず久ならば 君を見ぬことが久しいならば。
【後記】 思ひつめたところの見える調子の強い歌であるが、初二句は、卷十二に次の如き類句がある。
  なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別《わき》知らぬ吾し苦しも(二九四〇)
 
3935 隱沼《こもりぬ》の 下ゆ戀ひあまり 白波の いちじろく出でぬ 人の知るべく
 
【口譯】 隱沼のやうに、心のなかで戀しさをつつんでゐたが、戀しさがあまつて、人の知るほど顔色にあらはれてしまつた。
【語釋】 ○白波の 「いちじろく」の序である。
【後記】 卷十二の「こもり沼の下ゆ戀ひ餘《あま》り白浪のいちじろく出でぬ人の知るべく」(三〇二三)と同一である。古歌を借りて、家持に贈つたものであらうか。
 
(54)3936 草枕 旅にしばしば 斯くのみや 君を遣りつつ 吾が戀ひをらむ
 
【口譯】 旅に幾度も君を出してやつては、いつもこのやうにばかり、戀ひ焦れてゐることであらうか。
【語釋】 ○旅にしばしば 第四句の「君を遣《や》りつつ」につらなる。古義に「此は尾の句の上にうつして意得べし、屡吾戀とつづく意なり」とあるのは、考へすぎであらう。○斯くのみや 第五句につらなつて、斯くのみや吾《あ》が戀ひをらむ、とつづく。
【後記】 家持が、處々の行幸の供奉、または地方官として赴任するために、しばしば旅をすることをさして、かく言つたのであらう。力が弱くて調子も低く、句の順序の倒置も巧妙であるとは言ひがたい。
 
3937 くさまくら 旅|去《い》にし君が 歸りこむ 月日を知らむ すべの知らなく
 
【口譯】 旅に出たあなたの歸つておいでになる月日がいつになるか、それを知るべき術もわからぬことよ。
(55)【語釋】 ○旅|去《い》にし君が 旅に行つた君が。旅に出かけた君が。
【後記】 「來む」と「知らむ」、「知らむ」と「知らなく」といふやうに、同樣の言葉が重なつて、それが精練されてゐないので、雜音のやうに耳ざはりになる。似たやうな構想であるが、卷十五にある狹野茅上娘子《さぬちがみのをとめ》の作は無難であつて、はるかに女らしい優しみがある。
  他國《ひとぐに》に君をいませて何時《いつ》までか吾《あ》が戀ひ居《を》らむ時の知らなく(三七四九)
 
3938 かくのみや 吾《あ》が戀ひをらむ ぬばたまの 夜《よる》の紐だに 解き放《さ》けずして
 
【口譯】 夜の衣の紐さへも解き放たずして、かやうにして、あなたを戀ひ慕つてゐることであらうか。
 
【語釋】 ○夜《よる》の紐だに解き放《さ》けずして 夜の衣(寢る時に著る衣)の紐さへも解き放たずして。即ち、安らかに落ちついて寢ることもないといふ意。古義に「君を除《オキ》て他にあふべき人なければ、夜の紐をさへ解き放ずして」とあるのほ、考へすぎである。
【後記】 卷十二の「夜《よる》も寢《ね》ず安くもあらず白細布《しろたへ》の衣は脱《ぬ》がじ直《ただ》に逢ふまで」(二八四六)の上句の趣に似たものがある。
 
(56)3939 里近く 君が成りなば 戀ひめやと もとな思ひし 吾《あれ》ぞ悔しき
 
【口譯】 わたしの里に近くあなたが住むやうになつたならば、戀ひ焦れることはあるまいと、愚かにも思つてゐた自分が悔しいことである。
【語釋】 ○里近く わが住む里に近く。この作者なる平群氏女郎は、平群郡に住んでゐたのであらう。○君が成りなば 君が近くなりなば。近くに住むやうになつたならば。なば〔二字傍点〕は、第一過去の助動詞「ぬ」の變化「な」に、助詞「ば」を添へて、假定の形式にしたもの。これは、天平十二年十二月から三年間、久邇の京に都がうつされゐて、家持はそこに移り住んでゐたのであるが、やがて家持は奈良に歸つてきたことをさしたのであらう。奈良と平群の里とは近いから、かく言うたのであらう。○戀ひめやと 戀ひようかと。め〔傍点〕は、未來の助動詞「む」の變化。や〔傍点〕は反語。○もとな思ひし いたづらに思つてゐたことである。思つたことの甲斐のないのを云ふ。
【後記】 作者は平群郡にゐて、恭仁の都に移り住んでゐた家持を待つてをつたのであらう。家持は奈良に歸るとすぐに、越中守として赴任してしまつたのである。そこで近くに住むことができようと思つて、それをせめてもの樂しみにしてゐた期待がはづれてしまつたのである。この(57)事情を想像すれば、「吾《あれ》ぞ悔しき」の怨嗟も意味が深く、まことにあはれである。
 
3940 萬代《よろづよ》と 心は解けて 我背子が 拊《つ》みし手見つつ 忍《しの》びかねつも
 
【口譯】 萬年のすゑまでもと心がうち解けて、わが背《せ》の君が抓つたあとのある手を見ながら、その頃のことも思ひだされて、戀慕の情に堪へられませぬ。
【語釋】 ○萬代《よろづよ》と心は解けて 萬代かけて變らじとて心がうち解けて、などの意。○拊《つ》みし手見つつ つめつたあとのある手を見ながら。たはむれのあまりのしぐさであらうか。略解には、「契る事にするわざなり」とある。○忍《しの》びかねつも 戀慕の情をこらへかねたことである。集中では「しぬび」といふのを常とするがここには「志乃備《しのび》」となつてをる。かかる用法も、まれに行はれてゐたのである。
【後記】 獨自の着想で、かくもこまかく官能的に歌つたものは、集中にめづらしい。特異な歌と云ふべきである。
 
3941 鶯の 鳴くくら谷に うちはめて 燒《や》けは死ぬとも 君をし待たむ
 
【口譯】 たとひ深い谷に投げ入れられて、燒け死なうとも、ひとすぢにあなたを待つてゐよう。
(58)【語釋】 ○鶯の鳴く 略解に「鶯は深谷より出る物なれば、谷といはむとて一二句はおけり。」とある。○くら谷 深い谷のこと。古事記に、谷の神のことを「闇淤加美《クラオカミ》神」とあることによると、くら〔二字傍点〕も谷のことである。○うちはめて 投げいれて。ここは、投げいれられて、の意である。○燒《や》けは死ぬとも 燒け死ぬとも。火葬にせられることを言ふ。嚴密に言へば、死んでから火葬にせられるのであるから、燒け死ぬといふのは異樣であるが、さほどとがむるにも當らねやうである。
【後記】 君を慕ふあまり焦れ死んで、火葬場で燒かれても、なほ君を待つてゐようといふ、烈しい思ひをのべたもので、表現法は巧みとは云へず、「鶯の鳴く」といふ序の用法も、適切とは云ひがたいが、その強い感情と、獨自の構想とを採るべきである。心あまつて、言葉のととのはぬ觀がある。なほこの結句を用ゐて、待つ心の強さをあらはした歌には、左の如き例がある。
  獨|寢《ぬ》と薦《こも》朽《く》ちめやも綾蓆《あやむしろ》緒《を》に成るまでに君をし待たむ(二五三八)
  朝露の消易《けやす》き吾が身老いぬともまた若がへり君をし待たむ(二六八九)
 
3942 松の花 花數《はなかず》にしも 我背子が 思へらなくに もとな咲きつつ
    右、件の十二首の歌は、時時に便に寄せて來贈れり、一度に送りし所にあらざるなり。
 
(59)【口譯】 松の花が、花の數にも思はれてゐないのに、それでもやはり咲いてゐることのやうに、わが背《せ》の君は、わたくしのことなど、お心にもかけてゐられぬけれど、わたくしはいたづらに戀しく思つてをります。
【語釋】 ○松の花 松黄。俗にみどりといふもの。花として認められぬのを自分の片戀にたとへたのである。○花數にしも 花としての數に入れて考へる事で、中古には數まへるといふ言葉もある。しも〔二字傍点〕は強調の助詞を重ねたもの。○思へらなくに 思ひてあらぬに。思へら〔三字傍点〕は「思へり」の變化で、「思へり」は、「思ひてあり」の意である。なく〔二字傍点〕は打消の「ぬ」の延言。即ち、思つてゐないのに。○もとな咲きつつ よしなくも咲いてをる。「咲きつつもとな」、とも用ゐられる。咲きつつ〔四字傍点〕は、咲きつつあり、或は、咲きつ咲きつあり、といふ意。動作の完了を云ふ助動詞「つ」を重ね用ゐて、繼續あるひは反復をあらはしたもので、いたづらに自分のみ戀してゐるといふことを譬へ言つたのである。
【後記】 人の目にたたぬ質素な松の花に眼をつけた着想は非凡であり、それにおのれをたとへたのが可憐である。また、しとやかでつつましい言ひぶりのなかに、かへつて怨みの情の強く含まれてゐるのが認められる。
【左註】 ここに一まとめにして載せられた十二首の歌は、時々の便によせて贈つて來たのであつて、一度に送つて來たのではない、といふのである。
 
(60)   八月七日の夜、守大伴宿禰家持の館に集ひて宴する歌
3943 秋の田の 穗|向《むき》見がてり 我|兄子《せこ》が ふさ手折りける 女郎花《をみなへし》かも
    右の一首は守大伴宿禰家持の作
 
【題意】 八月七日(天平十八年)の夜、越中守家持の館に集うて、宴會をした時、家持の詠んだ歌である。この宴に列して歌を詠《よ》み、あるひは傳へ誦んだものは、掾大伴池主、大目秦|八千島《やちしま》、僧玄勝、史生|士師道良《はじのみちよし》である。家持の着任後、はじめて開いた宴である。國守館は、國府廳に近く、今の伏木町背後の丘陵の上にあつたことは、後に出る歌によつて知られる。
【口譯】 秋の田の稻の出來ばえを見がてら、わが懷しい友が、たくさんに手折つて來られた女郎花である。
【語釋】 ○穗|向《むき》見がてり 穗向を見がてら。穗向を見るついでに。卷一に「山《やま》の邊《べ》の御井《みゐ》を見がてり」(八一)とあつた。穗向〔二字傍点〕は穗のなびき方、稻のみのり方。即ち、稻の出來ばえ。○我|兄子《せこ》が わが友が。大伴いけ主を指す。○ふさ手折りける ふさふさと澤山に手折つた。卷八に「射部《いめ》立てて跡見《とみ》の丘邊《をかべ》の瞿麥《なでしこ》の花|總手折《ふさたを》り吾は持ち去なむ寧樂人《ならびと》の爲」(一五四九)とある。
(61)【後記】 上の句は、地方官として稻作に心を用ゐてをるやうである。秋の田の檢察の職務を行ひつつ、野べの女郎花を折る風流をたたへ、それを贈られた厚意に感謝する意味もあつて、歌調の暢達と相俟つて、巧妙な即興の歌となつてをる。
 
3944 をみなへし 咲きたる野邊を 行きめぐり 君を思《おも》ひ出《で》 徘徊《たもとほ》り來ぬ
 
【題意】 以下の三首は、大伴池主の作である。
【口譯】 女郎花の咲いた野べを行きめぐりつつ、君のことを思ひだしたので、この女郎花を折つて、これをさしあげようと、野べをまはつて來たことである。
【語釋】 ○君を思《おも》ひ出《で》 君を思ひだして。君は家持をさす。○徘徊《たもとほ》り來ぬ たもとほる〔五字傍点〕の「た」は發語で、「もとほる」はめぐる。君を思ひだしたので、遠く野をめぐつて來たといふのである。戀の歌では、人目を避けてまはり道をして來たといふ意に用ゐられてをる。
【後記】 即興の歌として、輕い情趣がある。この下句をもつ歌には、左の例がある。
  春がすみ井《ゐ》の上《へ》ゆ直《ただ》に道はあれど君に逢はむとたもとほり來も(一二五六)
  雲の上に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむと徘徊《たもとほ》り來つ(一五七四)
 
(62)3945 秋の夜は 曉さむし 白妙の 妹が衣手 著むよしもがも
 
【口譯】 秋の夜は明け方が寒い。都にのこしてきた妻の著物を借りて著ることができればよいが。
【語釋】 ○白妙の 「衣」にかかる枕詞。○妹が衣手 故郷にをる妻の衣。衣手は、衣の袖のことをいふのであるが、ここでは衣のこと。男女たがひに衣を貸しあふのは、當時の風習であつた。○著むよしもがも 著るべき術もあればよいが。がも〔二字傍点〕は、願望をあらはす「が」と感動の助詞「も」の重なつたもの。
【後記】 越路の秋の曉は寒かつたであらう。寢ざめのわびしさに、都の妻を思ふ情も察せられる。
 
3946 ほととぎす 鳴きて過ぎにし 岡傍《をかび》から 秋風吹きぬ よしもあらなくに
    右の三首は椽大伴宿禰池主の作
 
【口譯】 夏の頃、霍公鳥が鳴いてとほつた岡のあたりから、今は秋風が吹いて來たことである。妻に逢ふよしもないのに。
【語釋】 ○鳴きて過ぎにし 鳴いてとほつた。○岡傍《をかび》から 岡のあたりから。國守館の背後の二上山のつづきの丘陵のことであらう。池主は、家持よりもはやく赴任して、岡邊の霍公鳥の聲を聞いたのである。○よし(63)もあらなくに 略解に「宣長云よしはよそりなくともよめるに同じくて、よりどころ、よすがをいふなり。其よすがは即妹也といへり。」とあるが、よし〔二字傍点〕を直ちに妹と解するのは無理である。また、心を慰むるよし、と見ることもできるであらうが、前の歌に「妹が衣手著むよしもがも」とあることからみると、妹に「逢ふよし」とみるのが穩かであらう。
【後記】 任地に霍公鳥の鳴く夏をおくり、秋風をむかへて、妻にはなれて空しくすぎてゆく時の流れに、無量の感慨をおぼえたことであらう。下句の簡素な表現が、ことによく氣持をあらはしてをる。
 
3947 今朝の朝け 秋風寒し 遠つ人 鴈《かり》が來鳴かむ 時近みかも
 
【題意】 以下の二首は家持の作である。
【口譯】 今朝の夜明け方は、秋風がそぞろに肌寒い。遠くから來る雁が來て鳴くべき時が近いからであらうか。
【語釋】 ○今朝の朝け 朝け〔二字傍点〕は朝明。夜の明け方。卷八に「今朝の朝明雁が音《ね》寒く」(一五四〇)とあつた。○遠つ人 「待つ」と「松」とにかけて、松の枕詞として用ゐられるものであるが、ここは、雁は遠くから來る鳥(64)であるから修辭的に用ゐたのである。卷十二には枕詞として、「遠つ人|獵道《かりぢ》の池に」(三〇八九)とある。○時近みかも 時が近いからであらうか。
【後記】 簡淨古樸で、緊張した調子が、肌寒い情趣によく適してをる。はじめて迎へる越路の秋風を身にしみて感じた、若い國守の感慨が、爽やかにもさびしく思はれる。
 
3948 天《あま》ざかる 鄙《ひな》に月|歴《へ》ぬ 然れども 結《ゆ》ひてし紐を 解きも開《あ》けなくに
    右の二首は守大伴宿禰家持の作
 
【口譯】 田舍ですでに一月たつた。しかし、家を出る時に妻が結んでくれた著物の紐は、解きあけもせぬことである。
【語釋】 ○天《あま》ざかる 天のかなたに遠ざかつた田舍、といふ意で、「鄙」にかかる枕詞。○鄙《ひな》に月|歴《へ》ぬ 著任後一箇月を經たことをいふ。○結ひてし紐を 妻が結んでくれた著物の紐のことを云ふ。當時、旅に出るときは著物の紐を妻が結ぶ習慣であつた。てし〔二字傍点〕は、「てき」の連體形である。第一過去の助動詞「つ」の接續の形「て」に、第二過去の助動詞「き」を重ねて、いつそう時を經たことをあらはすもの。○解きも開《あ》けなくに 解きあけもせぬことである。旅路で紐を解かぬといふことは多く歌はれてをるが、一箇月も紐を解きあけぬ(65)といふことを、言葉どほりにとるべきではない。妻を思つて、安らかに寢ることがないといふ意にとるべきであらう。
【後記】 自分は深く、妻のことのみ思ひ暮してをるといふ詠嘆である。語尾に餘情がこもつてをる。
 
3949 天ざかる 鄙にある我を うたがたも 紐解き放《さ》けて 思ほすらめや
    右の一首は椽大伴宿禰池主
 
【題意】 大伴池主の作である。
【口譯】 田舍にかうしてをる自分を、都にゐる妻は、しばらくでも著物の紐を解きあけて、うちくつろいだ氣特で自分を思ふであらうか。やはり自分と同じく、紐も解きあけずに、ひたすらに思つてゐてくれることであらう。
【語釋】 ○うたがたも うたがた〔四字傍点〕は、水上に浮く泡のことで、おぼつかなく危い意。「離磯《はなれそ》に立てる室《むろ》の木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも」(三六〇〇)その他に、この意味で用ゐられてゐるが、ここは轉じて、消え易いことから、少時の意に用ゐてある。○紐解き放けて 紐をときはなつてうちくつろいでの意。第五句(66)「や」は、この句以下にかゝる反語である。○思ほすらめや 思はれるであらうか。思ひはすまい。思ほす〔三字傍点〕は、「思ふ」の敬語。らめや〔三字傍点〕は、推量の助動詞「らむ」を、反語に用ゐたもの。
【後記】 萬葉的な佶屈な言ひまはしである。また、そこに澁い味がないでもない。
 
3950 家にして 結《ゆ》ひてし紐を 解き放《さ》けず 念《おも》ふ心を 誰か知らむも
    右の一首は守大伴宿禰家持の作
 
【題意】 大伴家持の作である。
【口譯】 旅に出かける時、家で妻が結んでくれた紐を解きはなさずして、思ひ焦れてゐる心を、誰が知らうか。
【語釋】 ○誰か知らむも 誰か知らう。も〔傍点〕は詠嘆の助詞。代匠記精撰本には、「妹は知らじの意なり」としてをる。これによつて、旅のひとり寢の妻への思慕を、妻に知らせむよしもあれかし、といふ歎きとみることもできるであらう。しかし、妻ならずして誰か知らうか、とみる方が、むしろ率直のやうである。
【後記】 この思ひを妻こそ知つてゐてくれるであらう、といふのである。北陬の邊域に※[覊の馬が奇]旅する若き家持の感傷は、さもこそと察せられる。
 
(67)3951 ひぐらしの 鳴きぬる時は をみなへし 咲きたる野邊を 行きつつ見べし
    右の一首は大目秦忌寸|八千島《やちしま》
 
【題意】 大目たる秦忌寸八千島の作つた歌である。大目は、國司の主典《さくわん》である。目を大少に分つて二人を置くのは、大國である。越中は、日本後紀に延暦廿三年六月に上國となすとあることからすれば、當時は中國であつたのであり、また、續紀に、寶龜六年三月始めて越中・但馬・因幡・伯耆に大少目員を置くとあるが、萬葉集によれば、それ以前から置かれてゐたことが知られる。八千島の傳は不明である。
【口譯】 蜩の鳴く夕暮の時分には、女郎花の咲いてゐる野邊を行きながら、その花を見て心をなぐさめませう。
【語釋】 ○鳴きぬる時は 鳴いた時は。古義に「鳴奈牟時者《なきなむときは》とあるべきを、かくいへるは、いささかいぶかし」とあるのは、當つてゐる。未來のことを言ふのであるから、動作の完了をあらはす助動詞を、「ぬる」と用ゐることは、文法的には正確でない。蝉の鳴く夕暮には、などといふ、さびしくなる時分をさしたものであらう。○行きつつ見べし 見べし〔三字傍点〕は、「見るべし」の古格である。行きながら見て、心を慰めよう、といふ意がこもつてをる。これを、行きつつ見て心をなぐさめなさい、と解することもできる。しかし、「べし」をかくみると、あまりに命令的に強くなり、從つて、詩趣が索然たるものになる。
(68)【後記】 國守たる家持と、掾たる池主との、二人の上官が都にのこしてある妻を思ひ出して、感傷的な氣分になつてゐるので、その旅情をなぐさめむが爲めに、かく詠んだのであらう。かつは、おのれの旅の欝結を共に晴らさうとしたのであらう。古義に「晩蝉のなく夕ぐれになりなば、其の女といふ名にめでて、女郎花のさきたる野べをだに見つつ、せめて旅心をなぐさめやらむと、なるべし」といつてゐるが女郎花のすがたに遠くの佳人を思はせるものがあつて、作者が意識したか否かは別として、この一首に詩美をあたへてゐる。その趣向はよいが、文法的にすら整頓されてゐないほど、稚拙である。けだし、拙い詩才をもつて、上官の憂愁をなぐさめむとする眞心を賞すべきであらう。
 
   古歌一首【大原高安眞人の作、年月審ならず。但聞く時のままにここに記し載す。】
3952 妹が家に 伊久理《いくり》の森の 藤の花 今|來《こ》む春も 常|斯《か》くし見む
    右の一首、傳へ誦《よ》むは僧玄勝なり。
 
【題意】 僧玄勝の傳へ誦《よ》んだ古歌一首。それは大原高安眞人の作で、年月は審かではない。ただ聞く時のままにここに記し載せておくとある。
(69) 大原高安眞人は、高安王《たかやすのおほをみ》のことで、和銅六年正月無位から從五位下、養老三年七月按察使を置かれた時、伊豫守として阿波・讃岐・土佐三國を管せしめられ、天平四年十月衛門督、十一年十一月大原眞人の姓を賜はつた。天平十四年十二月に卒してすでに故人であつたから、古歌としたのであらう。僧玄勝の傳は未詳で、集中にはその作歌はない。
【口譯】 伊久理の森の藤の花よ。また來るこの後の春も、いつもかうして眺めよう。
【語釋】 ○妹が家に 行くとつづく意で、「伊久浬《いくり》」に冠した枕詞。○伊久理の森 この地の所在については、從來諸説があるが、大別して、大和説・越後説・越中説となる。その中、森田柿園の萬葉事實餘情には、越中國礪波郡石栗圧と推定し、東大寺所藏の天平寶字三年十一月十四日の文書に、故大原眞人麿(ノ)地とあるを引いて、この大原眞人麿は「高安(ノ)眞人の子なるべし。されば父高安このかた、礪波郡伊久里の地は所領なりし故に、此領地にてよまれたる歌なるべし」と説いてある。さきにあげた大原眞人高安の履歴には、北陸方面との關係はない。しかし、眞人麿を眞人高安の子とみる推測にして誤がないならば、越中説はすこぶる根據のあるものとなり、新任の國主の宴席において、僧玄勝がこれを誦したことも、當を得たことであると思はれる。越後説は、神名帳および和名抄にのつてをる蒲原郡伊久禮のこととしてをるのがそれである。○今|來《こ》む春も また來む春も。下に「常」とあることによれば、ただ來春といふのみならず、これ以後の春も常に、といふ意で用ゐたものである。
(70)【後記】 暢達で雅趣のある歌。枕詞も巧妙である。
 
3953 雁がねは 使に來むと 騷ぐらむ 秋風寒み その河の邊《へ》に
 
【題意】 以下の二首は家持の作である。
【口譯】 秋風が寒く吹くので、あの川のほとりで、雁は使に來ようと、鳴き騷いでをることであらう。
【語釋】 ○雁がね 雁が音《ね》で、轉じて雁をも言ふ。○使に來《こ》むと 使として飛んで來ようとして。卷九に「鴈《かり》の使は宿《やどり》過ぐなり」(一七〇八)、卷十五に「天飛《あまと》ぶや雁を使に得てしがも」(三六七六)とある。すでに古事記の歌にも「阿麻登夫登理母都加比曾《アマトブトリモツカヒゾ》」とあるが、ここは、支那の蘇武の雁信の故事によつたことは明かである。○秋風寒み 秋風が寒いゆゑに。○その河の邊《へ》に その河〔三字傍点〕は何河をさすものか明かでない。略解と古義とは、京の中にある河としてをる。しかし、南方にあたる奈良の都にはやく雁が來るといふことも、事實にそむいてをる。代匠記精撰本に「その河邊とは、雁の住む胡國の川邊なり」とあるのに從ふべきであらう。雁の住む國の河のほとりで、使として南をさして飛び立たうとして、鳴きさわいでをるであらう、といふ意。
【後記】 前の「今朝の朝け秋風寒し」といふ歌に似て、雁の使といふ趣向を弄したものである。(71)結句が明快でない。
 
3954 馬|竝《な》めて いざうち行かな 澁溪《しぶたに》の 清き磯|廻《み》に 寄する波見に
    右の二首は守大伴宿禰家持
 
【口譯】 馬を立てならべて、さあ行かう。澁溪の清らかな磯のめぐりにうち寄せる波を見るために。
【語釋】 ○馬|竝《な》めて 馬をならべて。馬をつらねて。○いざうち行かな うち〔二字傍点〕は接頭語。行かな〔三字傍点〕は「行かなむ」に略々同じく希望をあらはす。○澁溪《しぶたに》の 澁溪〔二字傍点〕は二上山の山脈が海に入つて盡きるところ、伏木町の北十町の地點である。奇岩のそば立つた磯で、絶景をなしてをる。
(72)【後記】 宴席において、澁溪の勝景をきくままに、感興をそそられて、諸君と共にいざ行かうと歌つたものであらう。即興の作として、一氣に詠みおろした調子が、緊張してをる。下の句に磯|廻《み》の「み」と、波の「み」と、見にの「み」とが重なつて、おのづから調子の綾を織りなしてをる。一首の構想は、左にあげる卷十の歌に似たところがある。
  秋風は冷《すず》しくなりぬ馬|竝《な》めていざ野に行かな萩が花見に(二一〇三)
 
3955 ぬばたまの 夜はふけぬらし 玉くしげ 二上《ふたがみ》山に 月かたぷきぬ
    右の一首は史生|土師《はじの》宿禰|道艮《みちよし》
 
【題意】 同じ宴席において、史生の土師《はじの》宿禰|道良《みちよし》の詠んだ歌である。史生は「ししやう」または「ふみひと」と訓じ、公文書を繕寫し、文案を署することなどを掌る職である。土師道良の傳は明かでない。
【口譯】 夜がふけたらしい。あのとほり二上山に月がかたむいた。
【語釋】 ○ぬばたまの 枕詞。ぬばたま〔四字傍点〕は射干(からすあふぎ)の實で、黒玉の如くである故に、黒にかかり、轉じて夜および夜に關するものに冠せられる。○玉くしげ 玉櫛笥。蓋《ふた》にかけて二上山に言ひかけたもの。
【後記】 宴樂のうちに時のうつるのを忘れ、ふと見あげた二上山のあたりの空に、月のかたむい(73)たことによつて、夜のふけたのをおぼえたのである。何らの技巧もなく、ありのままに詠んで、印象明快、さながら秋の月を思はせる歌である。左にあげる卷十の人麿集中の歌に相通ずるものがあるが、それよりも單純質實で、むしろ古樸の感がある。
  さ夜中と夜は深《ふ》けぬらし雁が音《ね》の聞ゆる空に月渡る見ゆ(一七〇一)
 
   大目秦忌寸八千島の館に宴する歌一首
3956 奈呉《なご》の海人《あま》の 釣する船は 今こそは 船※[木+世]《ふなだな》打ちて あへて榜《こ》ぎ出《で》め
    右館の客屋は、居ながら蒼海を望(74)む。仍りて主人八千島この歌を作れるなり。
 
【題意】 大目秦忌寸八千島の館で宴をひらいた時、主人八千島の詠んだ歌。
【口譯】 奈呉の海人の釣をする船は、今こそは、船※[木+世]《ふなだな》をたたいて、威勢よく、思ひきつて漕ぎ出ることであらう。皆さん、よく御覽なさい。
【語釋】 ○奈呉《なご》の海人《あま》の 奈呉の浦に住んでをる海人をいふ。奈呉〔二字傍点〕は今日の新湊放生津のこと。○今こそは は〔傍点〕は強調のために添へた助詞。○船※[木+世]《ふなだな》打ちて 船※[木+世]〔二字傍点〕は、船の旁板《よこいた》のこと。代匠記初稿本に「古今集のほりえこぐたななしをぶねといふ歌につきて顯昭注云、たななし小舟とは、ちひさき舟にはふなだなのなきなり。萬葉には棚無小船とかけり。ふなだなとは、せがいとて、ふねの左右のそばにえむのやうに板をうちつけたるなり。それをふみてもあるくなり。とものかたにつけたるを、はしだなといふ。尻のたななり」とある。打ちて〔三字傍点〕については、略解に「とりつくるをいふならむ」とあるが、たたいて音をたてることではないか。宣長は「今もふなだなをかしましく打つ事有り。其音に魚のよりくる也」とのべてをる。ここは、船出の際に、威勢よくたたいたのではないかと思はれる。○あへて榜《こ》ぎ出《で》め 思ひきつて榜ぎでるであらう。卷三に「敢《あ》へて榜《こ》ぎ出《いで》む」(三八八)、卷九に「敢《あ》へて榜《こ》ぎ動《とよ》む」(一六七一)とある。出め〔二字傍点〕は「出む」の變化で、上の「こそ」を受けてをるのは勿論である。
【後記】 客のため、宴席の興をそへむとする主人の心づかひがうかがはれる。生活のために海に(75)漕ぎ出まうとする漁民と、それを高い館のうへで杯をあげながら眺める官人。かうした對照も觀じられはするが、その歌のそこには、萬葉人特有の人間に對する好意が流れてをる。
【左註】 右の館の客屋は居ながら海を望むことができたので、主人八千島がこの歌を作つたといふのである。彼の舘は、當時の國守館のあつた今の古國府の高地の、最も海に近いところにあつたのであらう。客屋は、客を迎へるために、座を設けてある室のこと。
 
   長逝せる弟を哀傷する歌并に短歌一首
3957 天離《あまざか》る 鄙《ひな》治《をさ》めにと 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに 出でて來《こ》し 吾《われ》を送ると あをによし 奈良山過ぎて 泉河 清き河原に 馬とどめ 別れし時に 好《さき》く去《ゆ》きて 吾歸り來む 平らけく 齋《いは》ひて待てと 語らひて 來《こ》し日の極《きはみ》 玉桙《ほこ》の 道をた遠《どほ》み 山河の 隔《へな》りてあれば 戀しけく 日《け》長きものを 見まく欲《ほ》り 念《おも》ふ間《あひだ》に 玉|梓《づさ》の 使の來《け》れば 嬉しみと 吾が待ち問ふに およづれの たは言とかも 愛《は》しきよし な弟《おと》の命《みこと》 何しかも 時しはあらむを はた薄《すすき》 穗に出る秋の 萩(76)の花 薫《にほ》へる屋戸《やど》を【言ふこころは、この人、人となり花草花樹を愛でて多く寢院の庭に植う。故に、花薫へる庭と謂へるなり。】 朝庭に 出で立ち平《なら》し 夕庭に 踏み平《たひ》らげず 佐保のうちの 里を行き過ぎ あしひきの 山の木未《こぬれ》に 白雲に 立ち棚引くと 吾に告げつる【佐保山に火葬せり。故に佐保の内の里を行き過ぎといへり。】
 
【題意】 長逝した弟大伴書特を哀傷する家持の歌。
【口譯】 田舍を治める爲とて、天皇陛下の御任命に從つて、越中をさして家を出て來た自分を送るとて奈良山をすぎて、泉河の清らかな河原に、馬をとどめてお前と別れた時に、無事に行つて自分は歸つて來よう、神に祈りつつ安らかに暮して待つてゐよと、話して別れて來た日から(逢ひもせず)、道が遠いので、山河がへだたつてゐるので、戀しく思ふ日が長くなつたのに、逢ひたいと思つてゐるうちに、使が來たから、うれしいと思つて、待ち受けて尋ねてみると、何といふ妖言であらうか、愛する弟の君は、何ゆゑか、時もあらうに、薄が穗になつて出る秋の、萩の花が美しく咲いてをる家の庭を、朝夕に歩いて見もせず、踏んでも見ず、佐保の内の里をとほりすぎて、山の木末に白雲となつて棚引いてゐると、使の者が告げたことである。
【語釋】 ○鄙《ひな》治《をさ》めにと 鄙を治めにとて。鄙〔傍点〕とはこゝでは越中のこと。○任《まけ》のまにまに 御任命のままに。御(77)命令に從つて。○好《さき》く去《ゆ》きて 無事に任地に赴いて。○平らけく齋《いは》ひて待てと 平安に暮して、神を祈りつつ自分の歸りを待てと。○語らひて 語りあつて。○來し日の極《きはみ》 任地に向つて來た日を最後として。來た日から逢ひもせず、といふやうな意を略したものと見るべきであらう。或は、「戀しけく日《け》長きものを」につづくとみることもできる。○玉|桙《ほこ》の 道の枕詞。玉桙の刃《み》とつづくといふ。○道をた遠《どほ》み 道が遠いから。た〔傍点〕は接頭語。○隔りてあれば 隔つてゐるから。○戀しけく日《け》長きものを 卷十に、戀しけく日《け》長きものを」(二〇三九)とあるのを取つたものか。戀しく思ふことの日數の長きものを。或は、戀しく思ふ日數の多いのに。○見まく欲《ほ》り念《おも》ふ間《あひだ》に 逢ひたいと思つてをるうちに。見まく欲り〔五字傍点〕のまく〔二字傍点〕は、未來の助動詞「む」の變化なる「ま欲し」など言ふま〔傍点〕を、延べ(78)て言つたものと見られてをる。○玉|梓《づさ》の 使の枕詞。玉の梓弓の義で、射遣《いや》る意から言ふとある。○使の來《け》れば 使が來たから。けれ〔二字傍点〕は、「來《き》けれ」の約で、來《きた》ればと同意であると、古義にある。山田孝雄博士の奈良朝文法史には、加行三段形の來《ク》に、形式用言のアリが熟合したものとみてをる。○嬉しみと 「嬉しむ」といふ動詞の中止法として、奈良朝文法史に説いてある。○およづれのたは言とかも 卷三に「妖言《およづれ》か吾が聞きつる枉言《まがごと》か我が聞きつるも」(四二〇)、「逆言《さかごと》の枉言《まがこと》とかも」(四二一)とある。およづれ〔四字傍線〕は、あやしくたはけた言葉と言ふべきか、などの意。○愛《は》しきよし よし〔二字傍点〕は詠嘆の辭。○な弟《おと》の命《みこと》 な〔傍点〕は汝の意、親しんで添へたもの。命〔傍点〕は敬稱。○何しかも 何とてか。何故か。「白雲に立ち棚引く」までの句にかかり、若くして死んだことをいぶかしく思ふやうに言ひなしたのである。○時しはあらむを 死ぬる時もあらうものを。卷三にも「時はしもいつもあらむをこころ哀《いた》くいにし吾味《わぎも》か若き子を置きて」(四六七)とある。○はた薄 薄は高く穂にでて、旗の如くなる故にかく言ふ。○言ふこころは これ以下の小文字は、家持の自註であらう。寢院〔二字傍点〕は正殿のこと。○朝庭に出で立ち平《なら》し 下の、踏み平《たひ》らげず」とある打消がこれにもかかつて、「立ち平《なら》さず」め意となる。古義に「後撰集に松も引若菜もつまずなりぬるをとあるに同じ例なり」とある。朝庭に立ちいでて花を眺めもせず、といふ意。この立ち平し〔四字傍点〕は、「青楊《あをやぎ》のはらろ川門《かはと》に汝《な》を待つと清水《せみど》は汲《く》まず立所《たちど》平《なら》すも」(三五四六)とある「平《なら》す」に同じく、庭の花を愛して、立ち出でて眺めるために、土の踏まれて平らかになることを言ふ。即ち、庭の土の平《なら》されるほど明暮に愛玩してゐたのにそれもせずなつて、といふ意をこめて用ゐたのである。○佐保のうちの里を行き過ぎ 佐保〔二字傍点〕は、奈良の北郊の地。佐保のうち〔五字傍点〕は佐保の區域内で(79)當時この地には廷臣の邸宅が多く、大伴氏の邸もあつた。ここは葬式の行列が佐保の里を通過するのをいふ。○白雲に立ち棚引くと 白雲となつて棚引く意で、火葬せられたことをいふ。
【後記】 構想も用語も整正である。この作者の長歌の常として、鏗鎗金石の饗はないかはりに、彫飾を用ゐぬ質實平明な句法のなかに、悲哀が沈潜されてをる。しかも、内面的痛苦が裏づけとなつてゐる爲めに、この作者の往往にして陷る冗長平弱の弊がない。弟との訣別の日から思ひおこし、花草花樹を愛した故人の平素の嗜好をしのんだところも、あはれであるが、使者の語ることをもつて一篇を結び、直接に悲しいなどといふ主觀的の語を用ゐてをらぬのは、かへつて強く讀者の胸に迫るものがある。實感がしみじみとつたはるよい歌である。
 
3958 ま幸《さき》くと 言ひてしものを 白雲に 立ち棚引くと 聞けば悲しも
 
【題意】 以下の二首は、右の長歌の反歌である。
【口譯】 無事に暮すやうにと、自分に言つたのであつたものを、その人が、今は白雲となつて空に棚引いてゐると聞いたので、さても悲しいことである。
【語釋】 ○ま幸《さき》くと言ひてしものを ま幸くあれと、別れの際に自分に言つたことであつたのに。ま幸《さき》くのま〔傍点〕(80)は發語。言ひてし〔四字傍点〕は、「結《ゆ》ひてし」(三九五〇)と同樣の句法。長歌では、「平らけく齋《いは》ひて待てと」作者が言つたことになつてをり、ここも自分が言ひのこしておいたやうに取ることもできる。しかし、自分にかく言つたその人が、とみる方が、いつそう無常の感を深くする。
【後記】 北陸の任地にゐて、弟の死を聞いた作者には、別れた際のその面影、その言葉までが思ひ浮べられたことであらう。第二句がことに痛切なひびきをおぴて、人の命のはかなさに悽然たらしめる。
 
3959 かからむと かねて知りせば 越《こし》の海の 荒磯《ありそ》の波も 見せましものを
    右、天平十八年秋九月二十五日、越中守大伴宿禰家持、遙に弟の喪を聞き、感傷《かなし》みて之を作れるなり。
 
【口譯】 このやうにならうと前もつて知つたならば、この越の海の荒磯の波の、面白い景色を見せておくのだつたものを。
【語釋】 ○かからむと かくあらむと。○かねて知りせば 前もつて知つたならば。知りせば〔四字傍点〕は、「知りき」と續く形の將然形と見られてをる。即ち中古以後は「き・し・しか」の三變化のみとなつた過去の助動詞「き」(81)が、當時及び中古初期には「せ・き・し・しか」と將然形の活用をも持つてゐたのである。後には直接動詞の將然形に「ば」が續けられるやうになつて、遂に亡びた。○越《こし》の海の越の國の海べの。○荒磯《ありそ》の波も ありそ〔三字傍点〕は、あらいそ〔四字傍点〕の略で、荒波のうち寄せる磯の義。○見せましものを、まし〔二字傍点〕は、未然を假定する助動詞であるから、これに過去の意味はないが、しかし、事實が過去を追懷した「知りせば云々」であるので、見せておくのであつたものを、などと譯す。
【後記】 左にあげる山上憶良の作に模したことは明かである。
  悔《くや》しかも斯く知らませばあをによし國内《くぬち》ことごと見せましものを(七九七)
しかも、句法においては、卷二の額田王の作と類似がある。
  斯《か》からむと豫《か》ねて知りせば大御船|泊《は》てし泊《とまり》に標繩《しめ》結はましを(一五一)
【左註】 右の長歌と反歌とは、天平十八年秋九月二十五日に、越中守大伴家持が、遙に弟の喪を聞き、悲しんで作つたものである。
 
    相歡べる歌二首
3960 庭に降る 雪は千重しく 然《しか》のみに 思ひて君を 吾《あ》が待たなくに
 
【題意】 以下の二首は、大帳使となつて上京してゐた大伴池主が、任地に還つたので、宴會をひらいて歡迎し(82)た時の家持の歌である。
【口譯】 我が庭に降る雪は、幾重にも積もる。しかし、自分はその千重に降りつもつた雪ぐらゐに、君を思つて待つてゐたのではない。それよりも深く深く君のことを思つて、お待ちしてゐたのである。
【語釋】 ○雪は千重しく 雪は千重にも降りつもる。このしく〔二字傍点〕は重《し》く、即ち積る意で、降りしきる意ではない。○然《しか》のみに そればかりに。降りつもる雪ぐらゐに。○思ひて君を吾《あ》が待たなくに 千重につもつた雪くらゐに思つて君を待つてゐたのではない。千重の雪にもまさつて、深く思つて待つてゐたのである。
【後記】 眼前に降りつもる雪をとつて、巧みにまとめた機智はある。古義は、「雪の庭に千重に降|重《しき》るけしきの面白くはあれど、雪はもろくはかなきものなれば、かやうに降重なりたるもやがて跡方なく消失るものなり。吾はその雪の如く、時として思ふのみにては待はせず、いつと云定もなく、戀しく思ひ居しことなるを、そのかひありて、此度君が京より本任に歸り來て、逢へるが懽しき、となるぺし」と解してをる。もとより條理はそなはつてをるので、それも一つの見方と云ひ得るであらう。しかし、雪ははかなく消え易いといふ概念を媒介として解釋をするまでのこともないやうである。眼前に降りつもる雪にもまして深く思つて待つてゐた、とみ(83)る方が、はるかに單直で、しかも明快、即興の歌たるゆゑんにもかなつてをる。
 
3961 白浪の 寄する磯|回《み》を こぐ船の 楫《かぢ》取る間なく 思ほえし君
    右、天平十八年八月を以て、掾大伴宿禰池主、大帳使に附きて京師に赴き向ふ。而して同じき年十一月、本任に還り到る。仍りて詩酒の宴を設け、絲を彈じて飲樂せり。是の日白雪忽降りて、地に積むこと尺餘なりき。この時復た、漁夫の船海に入り瀾に浮べり。ここに守大伴宿禰家持、情を二つの眺に寄せて、聊か所心を裁す。
 
【口譯】 白波のうち寄せる磯のめぐりをこぎ行く船の、楫を操る絶え間のないやうに、絶えずなつかしく思はれてゐた君よ。
【語釋】 ○白浪の寄する磯|回《み》をこぐ船の揖取る 以上は、間《ま》なく」と言はむが爲の序詞。楫を操るに、絶え間なくといふ意でつづく。○思ほえし君 思はれし君よ。
【後記】 國守館からの眺望をもつて序詞とした即興的の歌。類歌は左のとほりである。しかも後の二首は、同じ家持の作である。
  には淨《きよ》み沖へ榜《こ》ぎ出《づ》る海士|舟《ぶね》の梶|執《と》る間《ま》無き戀をするかも(二七四六)
(84)  松浦舟《まつらぶね》亂る堀江の水脈《みを》はやみ揖取る間なく念《おも》ほゆるかも(三一七三)
  香島より熊來《くまき》をさして漕ぐ舟の楫《かぢ》取る間《ま》なく京師《みやこ》し思ほゆ(四〇二七)
  防人《さきもり》の堀江漕ぎ出《づ》る伊豆手舟《いづてぶね》楫《かぢ》取《と》る間《ま》なく戀は繁けむ(四三三六)
【左註】 天平十八年八月に、越中掾たる大伴地主が大帳使となつて京都に赴いた。而して、同年十一月、本任に還りついた。よつて、詩酒の宴を設け、琴を彈じて飲樂した。この日は、白雪が降つて、地に積むことが尺餘であつた。またこの時、漁夫の船が海にでて波まに浮んでゐた。そこで家持が、雪と漁船との二つの眺めに寄せて、思ふところを歌に作つた、といふのである。
 大帳使とは、地方國廳から中央政府に申告する四度の使(大帳使・正税使・調使・朝集使)の一つで、大帳を上る使である。大帳とは、大計帳とも計帳ともいひ、戸籍に關する帳簿である。毎年六月三十日以前に、國司から部内の人の手實《しゆじつ》(戸内の人數・容貌・年齡及び課不課を録したもの)を徴する。これによつて、國司は一國の人口及び調庸の總計を録し、手實の轉寫したものを添へて、八月三十日以前に太政官に送ることになつてゐたのである。これは、歳入豫算をつくるためであつた。ここに、「大帳使に附きて」とあるのは、大帳使に附隨して、といふ意ではなく、大帳使の任について、即ち、大帳使となつて、といふことであらう。卷十九に、家持が少納言に遷任せられた時、「便ち大帳使を附けられ、八月五日を取りて應に京師に入らむとす。」(四二五〇)とあり、その次の歌の序詞のなかに、「時に大帳使大伴宿禰家持、内藏伊美吉繩麿の盞《さかづき》を捧ぐる歌に和《こた》ふる一首」とあるので、「附2大帳使1」が、即ち大帳使となる意味であることが知られる。
 
(85)   忽ち枉疾に沈み、殆泉路に臨めり。仍りて歌詞を作りて以て悲緒を申《の》ぶる一首并に短歌
3962 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに 丈夫《ますらを》の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天放《あまざか》る 鄙《ひな》に下《くだ》り來《き》 息だにも 未《いま》だ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡き 床《とこ》に反倒《こいふ》し 痛《いた》けくの 日に日《け》に益《まさ》る たらちねの 母の命《みこと》の 大船の ゆくらゆくらに 下戀《したごひ》に 何時《いつ》かも來《こ》むと 待たすらむ 情《こころ》不樂《さぶ》しく 愛《は》しきよし 妻の命《みこと》も 明け來《く》れば 門に倚《よ》り立ち 衣手を 折り反《かへ》しつつ 夕されば 床打ち拂ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹も兄《せ》も 若き兒どもは 彼此《をちこち》に 騷ぎ泣くらむ 玉|桙《ほこ》の 道をた遠《どほ》み 間使《まづかひ》も 遣《や》るよしも無し 思ほしき 言傳《ことつ》て遣《や》らず 戀ふるにし 情《こころ》は燃えぬ たまきはる 命惜しけど 爲《せ》むすべの たどきを知らに 斯くしてや 荒夫《あらしを》すらに 嘆き臥《ふ》せらむ
 
(86)【題意】 家持は病に沈み、殆ど死ぬるところであつた。よつて、この歌を作つて、悲みの心を陳べたのである。
【口譯】 天皇陛下の御任命に從つて、丈夫たるものの雄々しい心を振りおこし、山や坂を越えて邊鄙な土地に下つて來て、まだおちついて息をやすめる暇もなく、年月も幾何もたたないのに、自分はこの現世の人間であるので、はからすも病にかかつて、床にまろび伏し、病の苦しみが日ましにつのつてゆく。都に居給ふ母上が、樣ざまに心をつくし、心のうちで戀ひ慕ひながら、何時になつたら歸つて來るであらうかと、心さびしく自分を待つておいでになるのであらう。愛らしい妻も、朝になれば門に寄り立つて、袖を折り返したり、夕方になれば、床を拂ひ黒髪を敷いて寢て、お歸りはいつであらうか、はやく歸つてくればよいにと、歎いてゐることであらう。女の子も男の子も幼いものらは、あちらこちらに騷ぎまはつて泣いてゐることであらう。しかし、道が遠いので、使をやる術もない。思ふやうな言傳《ことづて》をやらないで、故郷を戀しく思ふごとに自分の心は燃えた。命は惜しいけれども、何ともする術を知らないで、かうして立派な丈夫たるものが、嘆き臥してをることであらうか。
【語釋】 ○丈夫《ますらを》の心振り起し 男子たる雄々しい心をふるひおこし。家持はほかに、卷三(四七八)、卷二十(四九三八)にも用ゐてをる。○息だにも未《いま》だ休めず年月もいくらもあらぬに 卷五の山上憶良の日本挽歌に、「息だに(87)も未だ休《やす》めず年月もいまだあらねば」(七九四)とあるによつたもの。○うつせみの世の人なれは 現世の人間であるから。うつせみ〔四字傍点〕は顯身《うつしみ》の轉で、命・世などにかかる枕詞。家持は卷三にも、「うつせみの世の事なれば」(四八二)と使用してをる。○うち靡き床《とこ》に反倒《こいふ》し 床にまろびふし。うち靡き〔四字傍点〕は、横たはり臥す形容。こい〔二字傍点〕は「こゆ」といふ動詞の連用形。ころぶこと。卷五の憶良の長歌に「うち臥伏《こいふ》して」(八八六)とある。○痛《いた》けくの 痛《いた》くてあることが。痛きことが。病の苦しみが。○母の命の 命〔傍点〕は尊稱。家持の母はなほ存命してゐた。續紀の天應元年八月の條に、「家持爲2左辨兼春宮大夫1、先v是遭2母(ノ)憂1解v任、至v是復焉」とある。○大船の 枕詞。○ゆくらゆくらに 心のゆらゆらと動搖すること。心を樣ざまにつかふことをいふ。卷十三に「大舟のゆくらゆくらに思ひつつ」(三二七四)とある。○下戀《したごひ》に 心のうちで戀しく思つて。○待《ま》たすらむ情《こころ》不樂《さぶ》しく 上下の句を顛倒させると、明瞭になる。○衣手を折り反《かへ》しつつ 略解に「袖を折返し寢れば夢に見るといふ諺有し也」とあるが、ここは、門に倚《よ》り立つてゐるのであるから、人を待つ時の態度であらう。○床打ち拂ひ 床の塵を拂つて、寢床をととのへてといふ意。「眞袖もち床《とこ》うち拂ひ君待つと居《を》りし間《あひだ》に月かたぶきぬ」(二六六七)などとある。○ぬばたまの黒髪敷きて 黒髪を下に敷いて寢ること。「ぬばたまの妹が黒髪|今夜《こよひ》もか吾《われ》無き床《とこ》に靡けて宿《ぬ》らむ」(二五六四)、「ぬばたまの黒髪敷きて長き夜を手枕の上に妹待つらむか」(二六三一)などの用例がある。○いつしかと いつ歸るかと。○妹も兄《せ》も若き兒どもは 幼い者らは女の子も男の子も。家持の男の子と女の子で、永主《ながぬし》とその姉妹のことであらう。○道をた遠み、道が遠いものであるから。た〔傍点〕は接頭語。○間使《まづかひ》も 間使〔二字傍点〕は、彼方と此方とを行き通ふ使をいふ。○思ほしき言傳《ことつ》て遣《や》らず 思ふやうな言傳もやらず(88)して。ことつて〔四字傍点〕は、「ことつたへ」の約。○戀ふるにし情《こころ》は燃えぬ 戀ふることに心は燃えた。し〔傍点〕は強めの助詞。坂上郎女の「おもふにし吾身は痩せぬ」(七二三)と、憶良の「見つつあれば心は燃《も》えぬ」(八九七)とを取りあはせた觀がある。○たまきはる命惜しけど 命は惜しいけれども。たまきはる〔五字傍点〕は枕詞。魂極《たまきはま》るで命に限ある意であるといふ。卷五の憶良の長歌に、たまきはる命惜しけどせむ術《すべ》も無し」(八〇四)とある。○爲《せ》むすべのたどきを知らに 何ともする方法を知らずに。同一の句が卷五の憶良の歌(九〇四)にあり、「すべのたどき も」と、似た意味の語をかさねて強調した例には、「立ちて居て術《すべ》のたどきも今はなし」(二八八一)、「思ひ遣《や》るすべのたどきも吾はなく」(二八九二)がある。○荒夫《あらしを》すらに 丈夫《ますらを》でさへも。○嘆き臥《ふ》せらむ 嘆き臥してあらむや。臥せら〔三字傍点〕は「臥せり」の將然形。む〔傍点〕は、未來の助動詞であつて、ここは、現在の状態が、なほひきつづいて、未來にかかる意味で用ゐたのである。
【後記】 老母や妻子を都にのこし、交通の不便な當時、ひとり越中の邊土にゐて、死なむとするほどの病にかかつた家持の心中は、察するに餘りがある。詞調平明、言はむとするところは、あまねく言ひつくして、澁滯や佶屈のあともない。しかし、それだけに人の情意にのしかかるやうな規實的重壓感は乏しい。それはすでに語釋の條に指摘したやうに、前人の歌に用ゐられた成句を多く踏襲して、平易に詠んだゆゑであらう。卷五にある憶良の、「老身、重病年を經て辛苦す、及び兒等を思ふ歌」(八九七)にくらべると、平板の感が一層深くなる。
 
(89)3963 世間《よのなか》は かずなきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべきおもへば
 
【題意】 以下の二首は、右の長歌の反歌である。
【口譯】 春の花の散り亂れるに從つて、同じことに、死ぬるであらう定命を思へば、世の中はまことにはかないものであるよ。
【語釋】 ○世間《よのなか》はかずなきものか 世の中に生きる月日は數なくわづかなものであることよ。この下に、大伴池主も「世の中はかずなきものぞ」(三九七三)と用ゐてをり、卷二十にも、家持は「現身《うつせみ》は數なき身なり」(四四六八)と詠んでをり、所謂無常の意である。○散りのまがひに 花の散る紛れに。花の散るに從つて。○死ぬべきおもへば 死ぬであらうことを思へばといふ意。
【後記】 この病にかかつたのは、左註によると、春二月の下旬であつたので、「春花の散のまがひにと言つたのである。實感と才華とが調和して、悲壯の情趣がある。
 
3964 山河の 至極《そきへ》を遠み 愛《は》しきよし 妹を相見ず 斯くや嘆かむ
    右、天平十九年春二月二十一日、越中國守の館にて、病に臥し悲み傷みて、聊か此の(90)歌を作れり。
 
【口譯】 山や河が遠くへだたつてゐるので、愛する妻にも逢はずに、かうして嘆いてゐることであらうか。
【語釋】 ○至極《そきへ》を遠み 遠く隔たつてゐるゆゑに。そき〔二字傍点〕は、「退《そ》く」の名詞法で遠く離れた處。「山の極《そき》野の極《そき》見よと」(九七一)とある。そきへ〔三字傍点〕は、退《そ》きたる方の義。即ち、遠く離れた方。卷十九にも、天雲《あまぐも》の遠隔《そきへ》の極《きはみ》わが念《も》へる」(四二七四)とある。
【後記】 結句の用法は、現状が將來にもつづく意味であつて、それゆゑに未來の助動詞「む」が用ゐられてゐるのである。ここは、殊にその用法が適切であつて、何時までかうして獨り嘆かなくてはならぬであらう、(91)といふ意が深くこもり、哀韻がただようてをる。
【左註】 天平十九年の春二月二十一日、越中國守の館で病に臥し、悲しみいたんで右の歌を作つたといふのである。
 
   守大伴宿禰家持、掾大伴宿禰池主に贈れる悲歌二首
  忽ち枉疾に沈み、旬を果ねて痛苦す。百神を祷ひ恃みて、且消損を得たり。しかも由《なほ》身體疼み羸れ、筋力怯軟にして、未だ展謝に堪へず。係戀彌深し。方今春の朝の春の花、馥を春の苑に流し、春の暮の春の鶯、聲を春の林に囀る。此の節候に對して琴衰繧ムつ可し。興に乘ずる感ありと雖も、杖を策《つ》く勞に耐へず。獨帷幄の裏に臥して、聊か寸分の歌を作り、輕《かろがろ》しく机下に奉り、玉頤を解かんことを犯す。其の詞に曰く
3965 春の花 今は感に 匂ふらむ 折りで挿頭《かざ》さむ 手力《たぢから》もがも
 
【題意】 以下の二首は、二月二十九日に、家持が病牀から池主に贈つた歌である。これには、次の如き意味の書簡が添へられてある。
  突如、病にかかり、旬日にわたつて苦しんでをる。多くの神神に祈つて、しばらく病が輕減した。しかも(92)なほ、身體が病みつかれ、筋力が弱くて、まだ御挨拶に參上することができず。かくて貴下を戀ひ慕ふことがいよいよ深い。今やまさに春の盛で、朝には春の花がかをりを春の苑にただよはし、夕暮には春の鶯が春の林にさへづつてをる。この季節には、琴や酒をもつて樂しむべきである。感興はしきりに湧いても、杖をついて出かけるに堪へぬ。ひとり帷幄《とばり》のうちに臥して、いささか短い歌をつくり、失禮をもかへりみず机下に奉つて、御笑に供することである。
 ○旬を累ねて痛苦す 旬は旬日。○且消損を得たり しばらく病が輕減した。○未だ展謝に堪へず 未だ挨拶の爲に參上することができぬ。○琴衰繧ムつ可し 琴と酒とを翫ぶべきである。垂ヘ酒樽。○寸分の歌 短い歌。○玉頤を解かんことを犯す 御笑を招く、失禮を犯す。失禮をかへりみず御笑に供する。
【口譯】 春の花が今は盛に咲き匂ふであらう。それを折つて挿頭にするだけの手の力が欲しい。
【語釋】 ○匂ふらむ にほふ〔三字傍点〕は、多く色美しく咲くことを言ふが、書簡のなかに、「馥を春の苑に流し」とあることによれば、ここは、かをる意をもこめてゐるのであらう。らむ〔二字傍点〕は、想像をあらはす助動詞。○手力《たぢから》もがも 手の力が欲しい。卷三に、「石戸《いはと》破《わ》る手力《たぢから》もがも」(四一九)とある。
【後記】 單純平明に思をのべて、すつきりとした調子のなかに、實感がこもつてをる。
 
3966 うぐひすの 鳴き散らすらむ 春の花 いつしか君と 手折《たを》りかざさむ
(93)    二月二十九日、大伴宿禰家持
 
【口譯】 鶯が鳴いて散らすであらう春の花を、何時になつたら、君と共に折つて挿頭すことができるであらう。早く快癒して、手折つて挿頭にしたいものである。
【語釋】 ○鳴き散らすらむ 鳴き散らすとは、枝にとまつて、鳴きつつ花を散らす意であらう。
【後記】 平淡のなかに、これまた眞情の流露した作である。
 
  忽ち芳音を辱くす。翰苑雲を凌ぎ、兼ねて倭詩を垂る。詞林錦を舒べたり。以て吟じ以て詠じ、能く戀緒を※[益+蜀]く。春の樂しむ可きは暮春の風景最も惰れむ可し。紅桃灼灼として戯蝶花を回りて※[人偏+舞]ひ、翠柳依依として嬌鶯葉に隱れて歌ふ。樂しむべきかも、淡交席を促して、意を得て言を忘る。樂しきかも美しきかも幽襟賞するに足れり。豈|慮《はか》りき乎《や》、蘭宦ヲ[草がんむり/聚]を隔てて琴雛p無く、空しく令節を過して物色人を輕んぜんとは。怨むる所此に有り、黙止すること能はず。俗の語に云ふ、藤を以て錦に續ぐと。聊か談咲に擬するのみ。
3967 山峽《やまかひ》に 咲ける櫻を ただひと目 君に見せては 何をか思はむ
(94)【題意】 以下の二首は、三月二日に池主から報へ贈つた歌で、題詞はなくて、直ちに左の書簡をのせてをる。(目録に、これを同二十年二月二十九日守大伴宿彌家持作歌二首としてあるのは、誤である。)
 御手紙を有難く拜受したことである。文章の優秀は雲を凌ぐ氣があり、また、あはせて倭歌をたまはつたが、その詞藻は錦をひろげた觀がある。なつかしく吟詠して、戀戀の思をのぞいて心をなぐさめたことである。春は樂しむべきものであるが、そのなかでも殊に、晩春の風景が最も賞すべきである。紅の桃の花は盛に咲き、戯るる蝶は花をめぐつて舞ひ、青柳はたわわにしなえ、媚を含める鶯はその葉にかくれて歌ふ。かかる時期に、樂しむべきは、貴下との君子の交りである。淡淡たるなかにも親しく席をすすめ、その意はたがひに相通じて、言ふべき言葉もない。樂しむべくも美しき風雅の心は、まことに賞するに足るものがある。しかるに、はからずも、よき交りはさまたげられ、琴も酒樽も用ゐるところがなく、空しく三月三日の佳節をすごさむとして、花鳥にあなどられむとしてをる。この點がまことに遺憾であるから、黙止することができぬ。俗のことわざに、藤衣を錦につづけて縫ふ、といふが如く、貴下のすぐれた文章に、拙き文をもつてお答へするのは、心なきわざながら、お笑ひぐさまでに差上げる次第であります。
 ○翰苑 翰林に同じく、文苑の義であるが、ここは文章のことをいふ。○雲を凌ぎ 文章の優秀なるたとへ。史記の司馬相如列傳に「相如既(ニ)奏(ス)2大人之頌(ヲ)1、天子大(ニ)説(ビ)、飄飄有(テ)2凌(グ)v雲(ヲ)之氣1、似(タリ)d遊2天地之間(ニ)1意(ニ)u」とあるによつたものであらうか。○倭詩 倭歌。○詞林 林は物の多くある形容で、翰林と同じく文事の集りをいふのであるが、ここは文章の義に用ゐてある。○※[益+蜀]く 除く。○紅桃灼灼 灼灼〔二字傍点〕は盛なる貌。阮籍(95)の詩に「夭夭桃李花、灼灼有2輝光1」とある。○※[人偏+舞]ひ 舞ひに同じ。○翠柳依依 依依〔二字傍点〕は樹木の盛に茂つてをるさま。一説に柔弱のさま。ここは、下に嬌鶯とあるゆゑに、青柳の柔くたわんだ樣を含めたものであらう。○淡交君子の交の謂で、莊子山木篇に、「君子之交淡若v水、小人之交甘若v醴、君子之淡以親、小人之甘以絶」とある。○意を得て言を忘る 心は互に相通じて言ふべき言葉もないほど樂しい。○蘭宦ヲ[草がんむり/聚]を隔てて 蘭と宸ニが叢《くさむら》をへだててをる如く、よき交が病によつて妨げられてをること。蘭宸ニもに芳草で、その香よきを交りにたとへたもの。○空しく令節を過して 空しく佳節(三月三日をさす)を過さむとして。○物色人を輕んぜんとは 風景を見ずに過してこれに輕んぜられようとは。○藤を以て 藤〔傍点〕は藤衣。葛布で製した賤者の衣。○聊か談咲に擬するのみ ただ笑ひぐさにあてるだけである。談咲は談笑。擬すは、ここはあてがふ意。
【口譯】 山の間に咲いてをる櫻を、ただひと目だけでも君に見せたならば、何の物思ひがあらう。
【語釋】 ○君に見せてば 見せてば〔四字傍点〕は、完了の意をあらはす「見せつ」を、假定の形に用ゐたもの。
【後記】 友情のよくあらはれた作である。家持が越路でむかへる最初の春であるから、はじめての春のはじめての櫻を、ひと目だけでも見せたいといふ心が切であつたらうと察せられる。
 
3968 うぐひすの 來鳴く山吹 うたがたも 君が手觸れず 花散らめやも
(96)    姑洗《やよひ》二日、掾大伴宿禰池主
 
【口譯】 鶯の來て鳴く山吹の花は、しばらくでも君が手を觸れずに、花が散つてよからうか。
【語釋】 ○うたがたも しばらくでも、うたがたも紐解き放《さ》けて」(三九四九)とあつた。○君が手觸れず 君が手をふれずに。君が手をふれぬうちに。
【後記】 君が手をふれて後に、花が散るであらうと、さうありたいことを希望する意である。即ち、花の散らぬ間に病氣がなほつて、相たづさへて花を見たい、といふのである。また、鶯と山吹とを結びつけたのは、集中にも後世にも珍らしい例である。
【左註】 姑洗《やよひ》二日とある。姑洗は、白虎通に、「三月謂(フハ)2之姑洗(ト)1何(ゾ)、姑者故也、洗者鮮也、萬物去(テ)v故(ヲ)就v新、莫v不2鮮明(ナラ)1」とあるによる。
 
   更に贈れる歌一首井に短歌
 合弘の徳、恩を蓬體に垂れ、不貲の思陋心を報慰す。裁《すなは》ち末眷を荷ふ、喩ふる所に堪ふる無きなり。但稚き時遊藝の庭に渉らざりしを以て、横翰の藻自ら彫蟲に乏し。幼年未だ山柿の門に※[しんにょう+至]らず、裁歌の趣、詞を※[草がんむり/聚]林に失ふ。爰に藤を以て錦に續ぐ言を辱(97)くす。更に石を將て瓊に同くする詠を題す。是に困りて俗愚癖を懷きて黙止する能はず。仍りて數行を捧げて式《も》ちて嗤笑に酬ゆ。其の詞に曰く
3969 大君の 任《まけ》のまにまに 級離《しなざか》る 越を治めに 出でて來《こ》し 丈夫《ますら》吾《われ》すら 世の中の 常し無ければ うち靡き 床に反倒《こいふ》し 痛《いた》けくの 日に日《け》に増せば 悲しけく 此處《ここ》に思ひ出《で》 苛《いら》なけく 其處《そこ》に念《おも》ひ出《で》 歎くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山|來隔《きへな》りて 玉|桙《ほこ》の 道の遠けば 間使《まづかひ》も 遣《や》るよしも無み 思ほしき 言《こと》も通はず たまきはる 命惜しけど 爲《せ》むすべの たどきを知らに 籠り居て 念《おも》ひ嘆かひ なぐさむる 心はなしに 春花の 咲ける盛に 思ふどち 手《た》折りかざさず 春の野の 茂み飛びぐく うぐひすの 聲だに開かず をとめ等が 春菜摘ますと くれなゐの 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛を いたづらに 過ぐし遣《や》りつれ 思《しぬ》ばせる 君が心を うるはしみ 此の終夜《よすがら》に 寐《い》も寢《ね》ずに 今甘も終《しめ》らに 戀ひつつぞ居る
 
(98)【題意】 更に家持から池主に贈つた歌で、下の日附に三月三日とある。これを目録に、「沽洗二日、掾大伴池主更に贈れる歌一首并に短歌三首」としてあるのは、前の歌の下に記された日附および署名を、この歌の題詞に混入したものである。この歌にそへた漢文の書簡の意味は、左のごとくである。
 貴下の大なる徳は、蓬の如きいやしきわが身に恩を垂れ、はからざる御志は、返書を賜はつて拙いわが心を慰めた。すなはち、御いつくしみを拜して、たとへる辭もなく、有りがたい次第である。しかし自分は、幼い時ひろく學藝を學ばなかつたゆゑに、書翰の文章はおのづから技巧に乏しく、幼年に山柿の門に入らずして、歌をつくるに詞をわきまへぬ。しかるに、ここに藤衣のごときわが辭を錦につぐにも似て、優れたお言葉を辱くし、更に、石のごときわが歌を玉にならべるにも似て、優れた御歌をつくつて賜はつた。これによつて、俗愚なる自分は、歌をつくる癖があつて黙止することができず、數行の歌をささげて、お笑ぐさに酬和するのである。
 ○含弘の徳 易に「坤厚載v物、徳合2無疆1、合弘光大、品物咸亨」とある。萬物を包含する大なる徳。○蓬體 蓬の如き體。自ら卑下していふ。○不貲の思 貲は※[此/言]に同じ、はからざる思。○陋心を報慰す いやしい心を返事を賜つて慰めて下さつた、の意である。○末眷を荷ふ 恩顧を有り難く思ふ。末眷はめぐみのあまりの意で、餘澤などといふに近い。○遊藝 論語述而に「遊2於藝1」とあるによつたものか。○横翰 横に長い文書で、手紙のこと。○彫蟲 蟲が喰ひ痕をつける如く、文章を巧みにかざること。○山柿の門 山柿〔二字傍点〕は、山上憶良と柿本人麿とのことか。山部赤人とする説もある。○裁歌の趣 歌をつくる(99)趣向。○※[草がんむり/聚]林 略解に「※[草がんむり/聚]林は藻林の誤か」とある。○藤を以て錦に續ぐ言を辱くす 池主の返簡に、「俗の語に云ふ、藤を以て錦に續ぐと。」とあつたのを、逆に用ゐて、わが拙き言を錦につぐが如き、うるはしき言を辱く頂戴した、といふ意。これを、藤を以て錦に續ぐと云ふ言葉を貴下から辱くした、とする見方もあるが、それでは下の句に照應せぬ失がある。○更に石を將て瓊に同くする詠を題す 更に、石の如き拙きわが歌を玉に混同するが如き、すぐれた歌を詠じて賜つた。即ち、錦のごとき言にそへて、更に、玉の如き歌を賜つたといふ意で、「藤を以て錦に續ぐ言」と「石を將て瓊に同くする詠」とを、對句的に用ゐたのである。略解には「錦に續の言のかしこさに、ふたたび玉ならぬ物を玉にまぎらしものするは、愚かなる心のさだ也といふ也」とし、ほかにも多く、家持が歌を詠ずるとみて、更にまた拙き歌を貴下(池主)の立派な歌に交へてつくつた、といふやうに解してをる。しかし、ここですでに家持が歌をつくつたものとみては、次の「是に因りて」以下の句が效力をうしなひ、「仍りて數行を捧げて式ちて嗤笑に酬ゆ」の意味が重復したものとなる。○俗愚癖を懷きて 俗愚なる自分は歌をつくる癖をもつてゐて。即ち、先方から歌を報いられたことによつて、歌を好む癖のある自分は、黙つてをられぬ、といふのである。○嗤笑に酬ゆ お笑ひぐさに酬和(歌をつくて應答すること)する。
【口譯】 天皇の御任命に從つて、遠く邊鄙な越の國を治めに出て來た男子たる自分さへ、世の中は無常なものであるから、病氣になつて床に横たはり、苦痛が日に日に増してゆくので、ある(100)ひは悲しく故郷を思ひだし、あるひはいらだたしく故郷を思ひだし、歎く心も安らかならず、思ふ心も苦しくあるものを、故郷とは遠く、山をへだて來て、道が遠いので、使の者を遣るすべもないので、言ひたいことを傳へることもできず、命は惜しいが、何ともするすべを知らず、家にこもつてゐて思ひ嘆き、なぐさめられる心はなく、春の花の盛に咲いてゐる時に、親しい友とその花を折りかざすやうなこともせず、春の野の草木の茂みを飛びくぐる鶯の聲さへも聞かないで、若い女たちは若菜をつむとて、赤い裳裾が春雨に美しく濡れなどして歩むであらう、その春の盛を、いたづらに過してしまつたから、自分のことをお心に掛けて下さる貴君の心がなつかしさに、昨夜は夜どほし寢もせずに、今日も終日、君を戀ひこがれてをる。
【語釋】 ○級離《しなざか》る 級〔傍点〕は階段で、坂のこと。都から多くの坂を隔てた越と續く枕詞。○丈夫《ますら》吾《われ》すら 丈夫たる吾すら。○うち靡き 以下の四句は既出(三九六二)の歌にも用ゐてある。○悲しけく此處《ここ》に思ひ出《で》苛《いら》なけく其處《そこ》に念《おも》ひ出《で》 古事記中卷の宇遲能和紀郎子の御歌に「伊良那祁久曾許爾淤母比傳加那志祁久許許爾淤母比傳《イラナケクソコニオモヒデカナシケクココニオモヒデ》」とあるに依つたもの。苛なけく〔四字傍点〕は、苛《いら》なくの延言で、苛なしは、苛痛《いらいた》しの意。○歎くそら安けなくに思ふそら苦しきものを 卷十三に、「思ふそら安からなくに嘆くそら安からなくに」(三二九九)とあるを初め、卷四の安貴王《あきのおほきみ》の歌(五三四、卷八の山上憶良の歌(一五二〇)にも用ゐられた句法を學んだもので、この作者は、卷十九(四一六九)(101)にもこの句を使つてをる。○玉|桙《ほこ》の道の遠けば 道が遠いのでの意。ここの十句はさきの長歌(三九六二)の末尾によく似てをる。○春菜摘ますと 若菜をおつみになるとて。摘ます〔三字傍点〕のます〔二字傍点〕は敬語助動詞。丁重に言つたのである。○にほひひづちて 色美しく濡れて。にほふ〔三字傍点〕は染まることをも言ふが、ここは、水にぬれて赤い色が鮮かになることをいふ。ひづち〔三字傍点〕は、「漬《ひ》づ」といふ動詞を語根として、更に、多行四段に活用したものとも、或ひは泥漬《ひぢつ》きの略轉とも言ふ。○通ふらむ時の盛を 卷五の憶良の歌に、「遊びけむ時の盛を止《とど》みかね過《すぐ》し遣《や》りつれ」(八〇四)とある。○過ぐし遣《や》りつれ すごしてしまつたので。遣りつれ〔四字傍点〕は、やりつればの意。○思《しぬ》ばせる 我をしのび給へる。○うるはしみ なつかしさに。○此の終夜《よすがら》に寐《い》も寢《ね》ずに今日も終《しめ》らに 卷十三に、「晝はしみらにぬばたまの夜《よる》はすがらに眠《い》も睡《ね》ずに」(三二九七)とあるに依つたもの。よすがら〔四字傍点〕は、夜盡《よすがる》の轉。しめら〔三字傍点〕は、「しみら」に同じく、終日の意。しみ〔二字傍点〕は繁の意で、ら〔傍点〕は助辭であらうといはれてをる。
【後記】 表現が單調で、調子が弛緩してゐて、情熱の強さといふものはみえない。語釋の條に指摘した如く、他人の作や自己の舊作に用ゐた成句をつらねて、清新の氣に乏しく、冗長の感をまぬかれぬ。
 
3970 あしひきの 山櫻花 ひと目だに 君とし見てば 吾《あれ》戀ひめやも
 
【題意】 以下の三首は、右の長歌の反歌である。
(102)【口譯】 山の櫻花をただひと目だけでも君と共に見たならば、自分はこんなに思ひこがれようか。
【後記】 池主の、「山峽《やまかひ》に咲ける櫻をただひと目君に見せてば何をか思はむ」(三九六七)に和へたもので、すつきりと緊張した佳い歌である。
 
3971 山吹の 茂み飛びぐく 鶯の 聲を聞くらむ 君は羨《とも》しも
 
【口譯】 山吹の茂みをくぐり飛ぶ鶯の聲を聞く君は、うらやましいことよ。
【後記】 池主の、「うぐひすの來鳴く山吹うたがたも君が手觸れず花散らめやも」(三九六八)に和へたもので、第二・三句は長歌の中に用ゐたのを繰りかへしてをる。これも、すつきりとして、清らかな調子に、實感のあらはれた作である。
 
3972 出で立だむ 力を無みと 籠り居て 君に戀ふるに 心神《こころど》もなし
    三月三日、大伴宿禰家持
 
【口譯】 外に出かけるほどの力もないので、家にこもつてゐて、君を戀しく思つてゐると、我ながら確かな心もない。
(103)【語釋】 ○力を無みと 力がないので。と〔傍点〕は輕く添へたもの。「人言を繋みと」(二五八六・二七九九・二九四四)などに用ゐられてをる。○心神《こころど》もなし こころど〔四字傍点〕は、槻の落葉に「心所」としてある。精神・魂などの意。「吾が心神《こころど》の生けりともなき」(二五二五)、「吾が情神《こころど》の和《な》ぐる日もなしし(四一七三)などとも用ゐられてをる。
【後記】 結句が概念的ではあるが、病中の感はあらはれてゐる。
 
   七言、晩春遊覽の詩一首并に序
  上巳の名辰、暮春の麗景、桃花瞼を照して以て紅を分ち、柳色苔を含みて緑を競ふ。時に手を携へて曠く江河の畔を望み、酒を訪ひて※[しんにょう+向]に野客の家を過ぐ。既にして琴瑞ォを得、蘭契光を和ぐ。嗟乎今日恨むる所は徳星已に少きか。若し寂を扣き章を含まずんば、何を以て逍遙の趣を※[手偏+慮]《の》べむ。忽ち短筆に課《おほ》せて聊か四韻を勒すと云爾。
 餘春の媚日宜しく怜賞すべし 上巳の風光は覽遊するに足れり 柳陌江に臨みて※[衣+玄]服を縟にし 桃源海に通じて仙舟を浮ぶ 雲※[田三つ/缶]桂を酌めば三清湛ひ 羽爵人を催して九曲に流る 縱醉陶心して彼我を忘れ 酪酊して處として淹留せずといふことなし
(104)    三月四日、大件宿禰池主
 
【題意】 七言、晩春遊覽の詩一首并に序。
 三月三日の佳日の、晩春の麗はしい景色は、桃の花が目に照り映じて、紅の色もあざやかに、柳の葉の色は黛を含んだごとく緑を競うてをる。この時に友と手をとりあつて曠く江河のほとりの風光を望み、酒を求めてはるかに遠く田舍人の家をすぎた。さるほどに、琴と垂ニはおのおの本性を發揮し、友情はなごやかにむつびあつたことである。しかし、今日の遊覽に遺憾とするところは、賢者の聚ふものの少いことであらうか。(文藻に秀でた貴下がをられぬ故に)若し自分が、非才を皷舞して文章を作らなければ、何によつて今日の逍遙の情趣を叙べようか。にはかに拙い筆に命じ、いささか四個の押韻を定めて、七言律詩をつくること、かくの如くである。
【口譯】 晩春のうららかな日は愛で賞すべきである。上巳の風光は遊覽するに足る。河にのぞむ柳の路には盛装の客が行き交ひ、桃源の川は海に通じて仙人の乘る舟を浮べてをる。雲雷の形を畫いた酒樽に桂酒を酌めば、清酒がたたへられて、興盡きず、雀の形をした杯は人に詩をうながして幾曲りの水を流れてくる。思ひのままに醉うて心陶然として彼我の別を忘れ、酩酊して至る處に留らぬといふことはない。
    三月四日、大伴宿禰池主
(105)【語釋】 ○上巳の名辰 上巳〔二字傍点〕は三月三日のこと。魏文帝の頃まで三月の最初の巳《み》の日に行はれてゐたので、三日と定つてもなほ舊稱をつたへてゐた。名辰〔二字傍点〕は佳日。○桃花瞼を照して以て紅を分ち 桃の花は眼に照り映えて、その紅の色を分明にあらはしてをり。○柳色苔を含みて 苔〔傍点〕は黛か眉かの誤であらうと略解にある。黛とする方が適當である。即ち、柳の葉の色が黛をつけたやうに鮮かであるとの意。○酒を訪ひて※[しんにょう+向]に野客の家を過ぐ 酒屋を訪はうとして(酒を求めて)はるかに遠く田舍の人の家をとほりすぎた。○琴瑞ォを得 琴と酒樽とがその本性を發揮する、即ち、琴を彈じ酒を飲んで樂しむこと。○蘭契光を和ぐ 蘭契〔二字傍点〕は蘭の香の如く清き交。「光を和ぐ」は、考十の「和2其光1同2其塵1是謂2玄同1」によつたもので、自己の才能をかくして外にあらはさぬこと。即ち、よき交りが、才徳をきそふことなく共になごやかにむつびあふ意。○徳星已に少きか 徳皇〔二字傍点〕は景星で、國に慶事ある時に出現する星であるが、この星の現れる時、五百里内に賢人の聚がある、といふ故事によつて、賢人にたとへたもの。「已に」は、甚だの意に用ゐたもので、遺憾なのは賢人の集ひの甚だ少いことである、といふ意。その裏には、才人家持のこの集ひに缺けたことを惜む意を含めてをる。○若し寂を扣き章を含まずんば 若し自分が乏しき文才をふりおこして文章を作らないならば。寂を如き〔四字傍点〕は、文選の陸士衡の文賦に「叩2寂寞1求v音」とあるによつたもので、菲才をねり苦心をして、といふほどの意。含v章〔二字傍点〕は、文選の左太冲の蜀都賦に「楊雄含v章而挺v生」とあるによつたもので文章を作ること。○短筆に課《おほ》せて聊か四韻を勒す 拙い筆に命じて(拙い筆を驅つて)四個の押韻を定めて七言の詩をつくる。四韻〔二字傍点〕は、即ち律詩中の韻脚で、この詩には遊・舟・流・留の四字が用ゐてある。勒韻〔二字傍点〕は、韻字を定る即ち詩を(106)作ること。○餘春の媚日 晩春の美しい日。○柳陌江に臨みて※[衣+玄]服を縟にし 柳の植ゑてある路が河にのぞんで、美しい着物をかざりにしてをる。陌〔傍点〕は路。※[衣+玄]服〔二字傍点〕は盛服。縟〔傍点〕はかざり。古義はこれを「まだらにす」と訓んでをる。河にのぞんだ柳の堤を、晴着をかざつた人が行き交ふことを指して言ふ。○桃源海に通じて仙舟を浮ぶ 桃源〔二字傍点〕の川は海にまで通じて仙人の舟を浮べてをる。桃源は、陶潜の桃花源記にある武陵の桃源のことで、この地を仙境に見なしてしか言うたもの。從つて、下に仙舟としたのである。○雲※[田三つ/缶]桂を酌めば三清湛ひ 雲※[田三つ/缶]〔二字傍点〕は雲雷の横樣のついた酒樽のこと。桂は桂酒で、よい酒のこと。三清〔二字傍点〕は、周禮の天官酒正に「三曰2清酒1」とあるによつたもので、即ち、見事な酒樽から美酒を酌まうとすると、清酒が十分にたたへられてある、といふ意。○羽爵人を催して九曲に流る 杯が人に詩をつくることを催促するやうに、幾曲りもして流れてくる。曲水宴で、杯を曲水に流し、それが近づくまでに詩を作らなくてはならぬから、「人を催して」と言ふのである。羽爵〔二字傍点〕は雀の形に似た杯。○縱醉陶心 ほしいままに醉ひ心陶然として。○處として淹留せずといふことなし 留らぬ處はない、至る處に留つた、などといふ意。淹留〔二字傍点〕は、とどこほつて進まぬことで、醉人の態をのべたもの。
 
  昨日短懷を述べ、今朝耳目を※[さんずい+于]す。更に賜書を承り、且不次に奉る。死罪謹み言す。下賤を遺さず、頻に徳音を惠む。英雲星氣、逸調人に過ぎたり。智水仁山、既に琳瑯(107)の光彩を ※[韋+媼の旁]み、潘江陸海、自ら詩書の廊廟に坐す。思を非常に聘せ、情を有理に託け、七歩章を成し、教篇紙に滿つ。巧に愁人の重患を遣りて、能く戀者の積思を除く。山柿の謌泉、此に比ぶるに蔑きが如し。彫龍の筆海粲然として看ることを得たり。方に僕の幸あるを知りぬ。敬みて和ふる歌。其詞に云ふ。
3973 大君の 命《みこと》かしこみ あしひきの 山野《やまぬ》障《さは》らず 天離《あまざか》る 鄙《ひな》も治《をさ》むる 丈夫《ますらを》や 何かもの思《も》ふ あをによし 奈良路|來通《きかよ》ふ 玉|梓《づさ》の 使絶えめや 籠り戀ひ 息づき渡り 下思《したもひ》に 嘆かふ吾が兄《せ》 古《いにしへ》ゆ 言ひ繼ぎ來《く》らし 世の中は かずなきものぞ 慰むる 事もあらむと 里人の 吾に告ぐらく 山|傍《び》には 櫻花散り 貌鳥《かほどり》の 間なくしば鳴く 春の野に 菫を摘むと 白妙の 袖折り反《かへ》し くれなゐの 赤裳裾|引《び》き をとめらは 思ひ亂れて 君待つと うらごひすなり 心ぐし いざ見に行かな 事はたなゆひ
 
【題意】 三月四日に、右の如き、晩春の遊覽の詩とその序とを述べておくつた池主が、家持の書簡と歌とに對して、三月五日に和へ贈つたのである。その漢文の書簡の意味は、左のとほりである。
(108) 昨日拙ない思をのべ、今朝は又この文を奉つて、貴下の耳目を※[さんずい+于]すことである。更に書を頂戴して、またうちつけに申し上げる。死罪にあたるが如き無禮を、謹んで謝す。身分の低い自分を見すてず、しきりに善き言葉をお惠み下されたが、詞藻の氣品が高く、調子は人にすぐれて秀逸である。その智にして仁なること、美玉琳瑯のごとき光をつつみ、その文才は江海の如き潘岳陸機にも似て、おのづから詩文の堂奥に至つてをる。その思は非凡で、情には條理があり、しかもすみやかに文章を成して、數篇の詩が紙に滿ちてをる。巧に愁ひある人の重い心痛をはらし、よく戀ふ者のつもる思ひをのぞく。山柿といへどもこれに比べるとものの數でもない。文彩のこまやかな文字をあざやかに看ることを得て、まことに自分が文學に惠まれてゐることを知つた。謹みて歌をつくつて和へる。その詞に云ふ。
○短懷 つたない思。○耳目を※[さんずい+于]す 拙い書を呈してお耳やお目をけがす。○且不次に奉る 不次〔二字傍点〕は順序によらぬことで、ここではうちつけに、不作法にもなどの意である。○死罪謹み言す 死罪にあたる無禮を謹みて謝す。○下賤を遺さず 下賤の自分をお見捨にならず。○徳音 善言。○英雲星氣 出典未詳であるが、詩文のすぐれたことを言つたのであらう。○智水仁山 論語に「智者樂v水仁者樂v山」とあるによつたもので、ここは智と仁を言ふ。○琳瑯の光彩を※[韋+媼の旁]み 美玉の光をつつみ。琳瑯〔二字傍点〕は美玉の一種。○潘江陸海 文選の作者で、六朝の文人なる滴岳と陸機との才の大なることを江海に比したもの。ここは、江海の如き潘陸の文才にも似て、といふ意。○自ら詩書の廊廟に坐す おのづから詩文の堂奥に入つてをる。○思を非常に聘せ 思を非常のことに寄せる、即ち、著想の非凡なることを云ふ。○情を有理に託け 情(109)を道理のあることにかこつけてのべる、即ち、條理に契つて且つ情趣のあることを云ふ。○七歩章を成し 魏の曹植が七歩を歩む間に文章をつくつたといふ故事による。即ち、文章を作ることの速かなること。○重患 ここは重い心痛のことを云ふ。○山柿の謌泉 謌泉〔二字傍点〕は、歌仙に同じ。○彫龍の筆海 龍を彫むが如き文綵のある言葉。文章を形容したのである。
【口譯】 天皇の御命令を謹み守つて、山も野もかまはず、踏み越えてきて、邊鄙な土地を治める男子たるものが、何の物思ひをするのか。奈良路から通うて來る故郷の使の絶えることがあらうか。ひたすら家にこもつて戀ひ焦れ、吐息をつきつつ日を送り、心の中に嘆いてゐる君よ。昔から言ひ傳へてゐるやうに、世の中は無常なものである。しかし、里人が、慰めることもあらうかと思つてわたしに告げるには、山の方には櫻の花が散り、かほ鳥が絶えず鳴いてをる。春の野に菫を摘むとて、白い衣の袖を折りかへし、赤い裳裾を引いて、少女らが思ひみだれ、君を待つとて戀ひ慕うてゐると、里人が言ふ。さう聞けばいよ/\心がおちつかない。さあ共に春の野山を見に行かう。このことは左樣にお心得下さい。
【語釋】 ○山野《やまぬ》障《さは》らず 山も野も妨げとならず。山も野もかまはずに越えてきて、の意。○鄙も治《をさ》むる 鄙も〔二字傍点〕は、鄙をもといふ意か。○籠り戀ひ ひき籠つてゐて戀しく思ひ。○息づき渡り 吐息をつきつつ日を送り。(110)○下思《したもひ》に 心のうちに戀しく思つて、○嘆かふ吾が兄 嘆かふ〔三字傍点〕は、「嘆く」の延言。吾が兄〔三字傍点〕は、家持を親しんで言ふ。○言ひ繼ぎ來《く》らし 言ひつたへてゐるらしい。終止句となつてゐるが、言ひつたへて來てゐるやうに、などと譯すべきであらう。○世の中はかずなきものぞ 世の中の人の壽命は短いものである。即ち、世の中は無常である、といふ意。○慰むる事もあらむと 里人が國守の憂ひを慰めることもあらうかと思つて、といふ意。○貌鳥《かほどり》の間《ま》なくしば鳴く 連體形の中止で、下の「春の野」にかけて用ゐたものと見るべきである。卷十に、「容鳥《かほどり》の間《ま》無《な》く數鳴《しばな》く春の野の草根の繁き戀もするかも」(一八九八)とある。かほ鳥〔三字傍点〕は如何なる鳥であるか明かではない。眞淵は呼子鳥と同じであるとしてをる。○白妙の これは下の「赤裳」への對照として、枕詞とは見ずに譯しておいた。○うらごひすなり うら〔二字傍点〕は心、心のうちに戀しく思つてゐる。なり〔二字傍点〕は詠嘆の助動詞。ここまでは里人の言葉である。○心ぐし 焦燥を感じて心の落ちつかぬ意。卷四に、「春日山霞たなびき情《こころ》ぐく照れる月夜《つくよ》に獨かも寢む」(七三五)、「情《こころ》ぐくおもほゆるかも春霞たなびく時に言《こと》の通へば」(七八九)とある。○いざ見に行かな 行かな〔三字傍点〕のな〔傍点〕は決定的希望を表はす助動詞。○事はたなゆひ 難解な句である。略解は宣長説をあげて、「ゆひ」を「しれ」の誤であらうとし、「たなしれは詳ならざれども、大かたのやうを以ていはば、今俗語に云云と人に物をいひつけて、さやうに心得よといふに似たり。」と説いてある。卷十三には、「葦垣の末かき別けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ」(三二七九)とある。
【後記】 まづ家持の憂愁をなぐさめ、はげますやうに言ひ、次に、病牀になげく家特の樣を思ひ、(111)惹いて、一般に人生の無常なることに言ひ及んで、共通に感じてをる現世の苦しみ、といふやうなものをほのめかしてをる。それから國守の憂ひを慰めむとする里人の言葉を借りて、春の野山の美しさ、あたかも國守の來遊を待つかの如き里の少女らの風情などをのべて、家持の心を誘ひ、早く野山をともに逍遙することができるやうにと、希望する意で終つてをる。病友を慰めるに委曲をつくし、こまごまと話しかけるといふ態度がみえ、誇張がなく、しみじみとした實感がにじみ出てゐて、なつかしまれる。
 
3974 山吹は 日に日に咲きぬ 愛《うるは》しと 我《あ》が思《も》ふ君は しくしく思ほゆ
 
【題意】 以下の二首は、右の長歌の反歌である。
【口譯】 山吹は日に日に咲くことである。それにつけても、なつかしいと思ふ君のことは重ね重ね思はれる。
【語釋】 ○日に日に咲きぬ 日に日に〔四字傍点〕は、原文には「比爾比爾」とある。他の例はみな「ひにけに」で、この用法は、卷二十の防人の歌のなかに、「伊倍加是波比爾比爾布氣等《いへかぜはひにひにふけど》」(四三五三)とあるのみである。○しくしく思ほゆ しくしくは重ね重ね。その用例は多く、「さざなみの志賀さざれ波しくしくに」(二〇六)、「春日野《かすがぬ》(112)に朝ゐる雲のしくしくに」(六九八)などとある。
【後記】 山吹の咲くことと、人を思ふこととが、極めて自然に、また巧妙に結びついてをる。しかし、目前の自然現象から主觀をひきだす例は珍らしくはなく、左の如き歌もある。
  ぬばたまの黒髪山の山草に小雨《こさめ》零《ふ》りしきしくしく思ほゆ(二四五六)
 その歌の感覺的な繊巧さにくらべて、句法は單純で、彫塑的に明快である。しかも、上下の二句の間に、心理的の脈絡があるので、こまかな味のあるしみじみとした歌になつてをる。
 
3975 我が兄子《せこ》に 戀ひすべなかり 葦垣の 外《ほか》になげかふ 我《われ》し悲しも
    三月五日、大伴宿禰池主
 
【口譯】 わが友をすべなくも戀ひ慕ふことである。垣をへだててゐるやうに離れてゐて嘆く自分はまことに悲しい。
【語釋】 ○戀ひすべなかり 戀ひて術《すべ》なくあり。「我妹子に戀ひ術なかり」(二四一二・三〇三四)とあり、卷十一には「吾妹子に戀ひて術《すべ》なみ」(二八一二)ともある。○葦垣の 枕詞。葦垣をへだててゐるやうに離れてゐて、といふ意で、外〔傍点〕とつづいてをる。卷十一には、「里人の言縁妻《ことよせづま》を荒垣《あらがき》の外《よそ》にや吾が見むにくからなくに」(二五六二)とある。
(113)【後記】 異性に對する戀愛のやうな情熱をはらんでゐて、強く重く刻みこんだやうな調子のなかに、寂寥の情が痛切である。「我し悲しも」といふ結句に、古趣があつてなつかしまれる。
 
  咋暮の來使、幸に以て晩春遊覽の詩を垂れ、今朝の累信は、辱く以て相招望野の歌を※[貝+兄]《たま》はる。一たび玉藻を看て稍欝結を寫《のぞ》き、二たび秀句を吟じて已に愁緒を※[益+蜀]《のぞ》く。此の眺翫に非ずは、孰か能く心を暢べむ。但惟《ただ》下僕、稟性彫り難く、闇神瑩くこと靡し。翰を握りて毫を腐し、研に對ひて渇を忘る。終日流を目して、綴れども能はず。所謂文章は天骨にして、之を習うて得ず、豈字を探り韻を勒して雅篇に叶和するに堪へむ哉。抑も鄙里の小兒に聞く、古人言酬いずといふこと無しと。聊か拙詠を裁し、敬みて解咲に擬す。如今《いま》言を賦し韻を勒し、斯の雅作の篇に同す。豈石を將て瓊に間《まじ》へ、聲を唱して曲に遊ぶに殊ならむや。抑も小兒の譬は濫に諂へり。敬みて葉端に寫し、式ちて亂に擬す。曰く
  七言一首
(114) 抄春の餘日媚景麗し 初巳の和風拂へども自《おのづか》ら輕し 來燕泥を※[行の中に缶]みて宇を賀して入り 歸鴻蘆を引いて※[しんにょう+向]かに瀛に赴く 聞く君が嘯倡新たに曲を流すを 禊飲爵を催して河清に泛ぶ 良きこの宴を追尋せむと欲すといへども 還つて知る痾に染んで脚の※[足+令]※[足+丁]たるを
 
【題意】 昨日の夕方の御使によつて、幸にも晩春遊覽の詩を賜り、今朝のかさねての御手紙で、厚くも共に野遊に行かうといふお招きの歌を頂戴した。一たび美しい言葉をみて、ややむすぼれた心をのぞき、二たび優れた句を吟じて、まつたく愁の心をはらしたことである。この眺翫のほかには、何が我が心をのびやかにしようか。ただ自分は天性、教へがたきほど愚であつて、暗い精神は才智の光がない。從つて、文を作るにおそく、筆を持つと穗さきを腐し、硯に向つては水の乾くのを忘れるほど、考へて時をうつす。終日流を見ながら、文を綴つたけれども果さなかつた。いはゆる文章の才は天性であつて、學んでも習得することはできぬのに、どうして字をえらび韻字を定めて、貴下の篇に唱和することができようか。抑も、世間の諺に聞くに、古の人は人の言葉に和へぬといふことはないと。そこで、いささか拙い歌をつくり、敬みてお笑ひに供する。いま言をのべ韻字を定め、貴下のこの雅正の作の詩篇にならべるは、石を玉のなかにおき、地聲を音曲に交へると異なるところはない。抑もかの坊間の小兒の諺は、みだりに自分に諂つたものであらう。敬んで紙に寫して、亂辭になぞらへる。
 
(115)  七言一首
【口譯】 晩春の餘日は風景が麗しく、三月三日のなごやかな風はおのづから輕く吹いてゐる。燕は泥をくはへて軒端を賀してはひつて來、雁は蘆をくはへて遙かに海上に飛び去る。君が新たに曲水の宴を開いて嘯唱せられ、禊をし宴飲して杯を薦めつつ河の清きに浮ぶと聞き、良きこの宴を追うて訪れようとは思つたが、かへりみて病のため脚のよろめくのを知つた。
【語釋】 ○昨暮の來使 昨日の夕方の使で、三月四日の夕に、池主が晩春遊覽の詩を家持に贈つたことを指してをる。○今朝の累信 今朝の累ねての音信。即ち、三月三日附の家持の歌に和へて、五日の朝池主から贈つたものを言ふ。○辱く以て相招望野の歌を※[貝+兄]《たま》はる さそひあつて共に野遊びをしようといふ歌を辱く下された。※[貝+兄]〔傍点〕は賜に同じ。○欝結を寫き むすぼれた氣持をのぞく。寫〔傍点〕は辭書に「思也切、除也」とある。○愁緒を※[益+蜀]《のぞ》く 慾の心を除く。愁緒〔二字傍点〕は愁心。緒〔傍点〕は心の動く端。○此の眺翫に非ずは 眺翫〔二字傍点〕は眺めて樂しむことで池主が風景を鑑賞して詠んだ歌のことを言ふか。○稟性彫り難く 天性愚かで教へがたきを言ふ。彫り難く〔四字傍点〕は、論語公冶長に、孔子が宰予の志氣昏惰を責めた言のなかの、「朽木不v可v雕也」によつたもの。○闇神瑩くこと靡し 暗愚の精神はかがやくことがない。おろかにして才智のひらめきのないことを言ふ。瑩《ゑい》は、美玉の名で、ここは光りかがやく意に用ゐてある。○翰を握りて毫を腐し 才の乏しいため、文章をつくるにおそく、考に時をうつして、筆を握つてその穂さきを腐らせる。翰は羽の義。古は鳥の羽で筆をつくつた故(116)に筆のことを言ふ。○研に對ひて渇を忘る 硯にむかつては水の乾くのを忘れる。これも考に耽つて時をうつすを云ふ。研〔傍点〕は硯、渇〔傍点〕は水の涸渇すること。○流を目して 水流に眼をつけて、といふ意か。陶淵明の歸去來辭の「臨2清流1而賦v詩」によつたものか。しかし家持は病牀に籠つてゐるのであるから、流のほとりに行くことはできぬ。卷十九に「朝|床《どこ》に聞けば遙けし射水河朝漕ぎしつつ唱《うた》ふ船人」(四一五〇)とある如く、國守館は二上山の山つづきの丘陵の上にあつて、射水河が見下されたのであるから、流は、あるひは射水河の水流をさすのであらうか。○天骨 骨〔傍点〕は組みたてたもので、天性の意。○字を探り韻を勒し 字をえらび韻を押して。詩をつくること。○雅篇に叶和するに堪へむ哉 貴下の雅正の詩に和することができようか。雅篇〔二字傍点〕の雅〔傍点〕は、池主の詩に對する美稱として用ゐたもの。篇〔傍点〕は詩歌または文章のこと。叶和〔二字傍点〕は和すること。叶は協に同じ。○鄙里の小兒に聞く その邊の小兒に聞くに次の如き言葉がある。即ち、世間の諺に次の如きことがあるとの義。その言に確實な根據のない意味で小兒としたのである。その言は、下にあげる如く、全く典據のないわけではないが、謙遜し卑下してかく言つたのであらう。○古人言酬いずといふこと無しと 古の人は人の言葉に必ず返事をしたものであると。詩經に「無2徳不1v報、無2言不1v酬」とある。○聊か拙詠を裁し いささか拙い歌をつくり。裁は、衣服などをしたてることから、制作の意に用ゐたのである。○敬みて解咲に擬す 敬みてお笑ひぐさにあてる。お笑ひぐさに供する。解咲〔二字傍点〕は、解笑・解頤に同じく、頤をはづして笑ふこと。前には、「玉頤を解かんことを犯す」とあつた。○言を賦し韻を勒し 句を陳ね韻字を定める。即ち、詩をつくること。言は、詩の句をいふ。○期の雅作の篇に同す この貴下の立派な作の詩にならべる、(117)「同す」は、おなじくすで、ともにする・あつめる・ならべる、などの意。○聲を唱して曲に遊ぶに殊ならむや 聲を高くあげて音曲家の仲間入りをすると異なるところがあらうか。即ち、いたづらに聲をだして、よき音樂のなかに交はること。遊ぶ〔二字傍点〕は、友として交はる。殊〔傍点〕は異に同じ。○抑も小兒の譬は濫に諂へり 世間の諺はみだりに自分に諂つて都合よく思はせ、この唱和をなさしめたといふ意であらうか。諂〔傍点〕は疑〔傍点〕(うたがふ)であるが、それでは意が通じない。諂(へつらふ)の意として解釋しておく。○葉端 紙端。葉〔傍点〕は紙の意。○式ちて亂に擬す とつて亂辭になぞらへる。式《も》ちて〔二字傍点〕は發語、亂は、辭書に「詞之卒章《ヲハリヲ》曰v亂」とある。亂〔傍点〕は理〔傍点〕で前の意を重理して、賦の終末に添へる句。即ち亂辭、反辭のこと。長歌の反歌は、これを學んだものであるとされてをる。○抄春 抄は※[木+少]の誤であることは明かである。※[木+少]はすゑ、歳または月の終。禮記に「冢宰制2國用1必於2歳之※[木+少]1」とある。文選謝靈運の詩に、※[木+少]秋尋2秋山1」とあり、李端の詩にも「南行見2※[木+少]春1」とある。○餘日 あまりの日數。略解には「遲日と云意なるべし」とある。○媚 明媚な風景。○初巳 上巳に同じ。○和風拂へども自《おのづか》ら輕し のどかな風は吹いてもおのづから輕い。即ち、春風はおのづから輕く吹く。和風〔二字傍点〕は、のどかな風、春風。拂ふ〔二字傍点〕は、吹いてとほること。○來燕泥を※[行の中に缶]みて宇を賀して入り 燕は巣をいとなむために泥をくはへて、家を賀するが如くにはひつて來る、といふ意。來燕〔二字傍点〕は、あらたに南方から來た燕で、歸鴻に對して言ふ。宇はひさし・のきば、又は家。燕のはひつてくるのを家を賀するとみたのは、淮南子に「大厦成而燕雀相賀」とあるによつたものであらう。○歸鴻蘆を引いて※[しんにょう+向]かに瀛に赴く 北をさして歸る雁は蘆を(118)くはへて、遙かに海上に飛び去る。鴻〔傍点〕は、ここでは雁のこと。引いて〔三字傍点〕は、くはへて引いて行く意。瀛〔傍点〕は大海。淮南子には「雁銜v蘆而翔以避2※[矢+曾]※[糸+激の旁]1」とある。○聞く君が嘯倡新たに曲を流すを 君が新たに曲水の宴をひらいて、歌を詠じたと聞く。嘯倡は、嘯唱に同じ。詩歌を歌ふこと。曲を流す〔四字傍点〕は、流觴曲水の意で曲水の宴をひらくことをいふ。○禊飲 みそぎをして酒を飲むこと。禊は、みそぎ、即ち邪氣をはらふ祭で、もと三月の上巳には流水の上でこれを行つた故にかく言ふ。○爵を催して河清に泛ぶ 杯をすすめあつて清い河に舟を浮べて宴飲する意。池主の話中の「羽爵人を催して九曲に流る」に對應せしめたものとして、杯を流れに浮べる意とする説もあるが、杯としては、「河清に泛ぶ」が大きすぎるやうである。卷十九の三月三日の歌に、「漢人《からひと》も※[木+伐]《いかだ》浮べて遊ぶとふ今日ぞ我が兄子《せこ》花※[草冠/縵]《はなかつら》せよ」(四一五三)とあるによつても、舟にのつて河に浮ぶことと見るのが至當であらう。事實、池主が舟に乘つて宴飲したか否かは問ふところでない。○還つて知る かへりみて知る。○脚の※[足+令]※[足+丁]たるを 歩んで脚のよろめくことを。※[足+令]※[足+丁]〔二字傍点〕は歩行のととのはぬこと。
 
   短歌二首
3976 さけりとも 知らずしあらば 黙《もだ》もあらむ 此の山吹を 見せつつもとな
 
【題意】 右の七言一首と共に、書簡にそへて贈つた短歌二首の一つで、池主の書簡にも歌にも、山吹を贈つたといふ趣はみえてゐないが、この歌によると、池主から歌に添へてその花を贈られたことがわかる。
(119)【口譯】 咲いてをるとも知らずにゐるならば、何とも思はずそのままにゐるであらうに、君がこの山吹を贈つて見せてくれたので、かへつて物思ひに耽ることである。
【語釋】 ○さけりとも さけり〔三字傍点〕は、動詞「咲く」に、完了の助動詞「り」を添へた形で、咲きてありといふ意に解するのが、ここには適當であらう。○黙《もだ》もあらむ だまつてゐるであらう。何とも思はずそのままにゐるであらう。も〔傍点〕は感動の助辭。○見せつつもとな もとな見せつつに同じ。いたづらに見せて悲しませることよ、といふ意。「斯《か》く故《ゆゑ》に見じと云ふものを樂浪《さざなみ》の舊《ふる》き都を見せつつもとな」(三〇五)などとある。
【後記】 山吹の花を贈つてくれた池主の友情が、かへつて恨めしい。忘れてゐた野山の景などが思ひだされ、あこがれの情をかきたてられて、今さら自分の病氣のながいことが悲しまれる。何時の時代にも通ずる人情の、一面の眞を語るもので、表現もよくこなれてをる。しかし、卷十に、左のごとき類歌がある。おそらく、この形式をそのままとつて、ここに用ゐたものであらう。
  咲《さ》けりとも知らずしあらば黙然《もだ》もあらむこの秋萩を見せつつもとな(二二九三)
 
3977 葦垣の 外《ほか》にも君が 倚《よ》り立たし 戀ひけれこそは 夢《いめ》に見えけれ
(120)   三月五日、大伴宿禰家持、病に臥して之を作る。
 
【口譯】 葦垣の外に君が寄り立つて、わたしを戀ひ慕ふからこそ、それで君のことが夢に見えたのであるよ。
【語釋】 ○葦垣の外《ほか》にも君が 池主の歌の「葦垣の外《ほか》になげかふ」(三九七五)を受けたもので、彼では葦垣は枕詞として用ゐたものであつたのを、ここでは葦垣を實體ある物として詠んでゐる。○倚《よ》り立たし 寄りかかつてお立ちになつて。○戀ひけれこそは 戀ひければこそ、といふ意。は〔傍点〕は輕く添へた助辭。○夢《いめ》に見えけれ 君が我が夢に見えたのである、といふ意。上の「こそ」を受けて、「けれ」と結んだのである。
【後記】 池主の贈つた歌の句を受けて、澁い言ひ樣をした、技巧的の歌である。その趣旨は、先方で自分のことを思へば、その人のことをこなたにても夢に見るといふ、當時一般の俗信にもとづいてをる。
  間《あひだ》無《な》く戀ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢《いめ》にし見ゆる(六二一)
  如何《いか》ばかり思ひけめかも敷妙の枕|片去《かたさ》り夢《いめ》に見え來し(六三五)
  吾背子が斯く戀ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寐ねらえずけれ(六三九)
  朝髪の思ひ亂りて斯くばかりなねが戀ふれぞ夢《いめ》に見えける(七二四)
  わぎもこが如何《いか》に思へかぬばたまの一夜も闕《お》ちず夢《いめ》にし見ゆる(三二四七)
(121)などと多く詠まれてゐるところで、これは要するに、人の精神は感應するといふ觀念に根ざして、それに、夢といふ精神現象を神秘なものとみる感情が結びついて形成せられた一種の迷信であると考へられる。
【左註】 三月五日に、大伴宿禰家持が病に臥して作つたとある。
 
   戀緒を述ぶる歌一首并に短歌
3978  妹も吾も 心は同《おや》じ 副《たぐ》へれど いや懷《なつか》しく 相見れば 常《とこ》初花に 情《こころ》ぐし 眼ぐしもなしに 愛《は》しけやし 吾《あ》が奧妻《おくづま》 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ あしひきの 山越え野行き 天離《あまざか》る 鄙《ひな》治《をさ》めにと 別れ來《こ》し 其の日の極《きはみ》 あらたまの 年|徃《ゆ》き返り 春花の うつろふまでに 相見ねば 甚《いた》もすべなみ 敷妙の 袖|反《かへ》しつつ 宿《ぬ》る夜|闕《お》ちず 夢《いめ》には見れど 現《うつつ》にし 直《ただ》にあらねば 戀しけく 千重に積《つも》りぬ 近からば かへりにだにも うち行きて 妹が手《た》枕 指し交《か》へて 寢《ね》ても來《こ》ましを 玉ほこの 路《みち》はし遠く 關さへに 隔《へな》りてあれこそ よしゑやし よしはあ(122)らむぞ ほととぎす 來鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を 外《よそ》のみも ふり放《さ》け見つつ 淡海路《あふみぢ》に い行きのり立ち あをによし 奈良の吾家《わぎへ》に 奴要鳥《ぬえどり》の うら嘆《なげ》しつつ 下戀《したごひ》に 思ひうらぶれ 門に立ち 夕占《ゆふけ》問《と》ひつつ 吾《あ》を待つと 寢《な》すらむ妹を 逢ひて早見む
 
【題意】 三月二十日に、故郷の妻への戀緒をのべた歌。
【口譯】 妻も自分も心は同じことで、相添うてゐるけれどもいよいよ懷しく、相向つて見れば常に初花のやうに、心ぐるしいことも、見て苦しいこともなく、愛すべき、我が心に深く思ふ妻よ、自分が天皇の御命令を愼しみ承つて、山を越え野を過ぎ、遠い邊境を治めるためにと、別れて來たその日かぎり、年があらたまつて、春の花の散つてしまふまでも逢はないので、まことにせむ術もなくて、袖を折りかへしつつ寢る夜ごとに、一夜ももれず妻のことを夢には見るけれども、實際に直接あふのではないから、戀しさが積り積つた。近くあるならば、歸りみちにでも行つて、妻の手枕をさし交して寢ても來るであらうに、道は遠く、關さへあつて隔つてゐるので思ふままに逢はれぬことであるよ。しかし、逢はれなくとも、よろしい。し方はあらうぞ。(123)霍公鳥の來て鳴く月に早くなつてくれ、さうしたら、卯の花の美しく咲いてゐる山を、よそながら遠く見やりつつ、近江路に行き、琵琶湖を舟で渡り、奈良へ歸つて、奈良の我が家で嘆きつつ心のうちに思ひなやみ、門に立つて夕占を問うたりして、待ちかねて寢てゐるであらう妻を、一時も早く逢つて見よう。
【語釋】 ○心は同《おや》じ おやじ〔三字傍点〕はおなじの古語。天智紀童謠に「たまにぬくとき於野兒《おやじ》緒にぬく」とある。代匠記精撰本に、「初の二句は一篇の大意を括て句絶なり」とある。略解は、「心は同じく副《タグフ》と也」と、下につづけて解してをる。略解の言ふ如く明瞭に連なつてはをらぬが、また、代匠記の説く如く判然と絶たれてもゐない。心は同じで、といふ程度に解すべきであらう。○副《たぐ》へれど たぐひてあれど。たぐふ〔三字傍点〕は、より添ふ・相並ぶ・一緒にをる、などの意。「ひさかたの雨も降らぬか雨障《あまづつみ》君に副《たぐ》ひてこの日暮らさむ」(五二〇)、「人も無き國もあらぬか吾妹子と携《たづさ》ひ行きて副《たく》ひて居《を》らむ」(七二八)などとある。○常《とこ》初花に 常に初花の如くめづらしく。卷二十には「いや初花に」(四四五〇)とある。○情《こころ》ぐし眼《め》ぐしもなしに 心苦しいこともなく、見苦しいこともなく。「なし」が二つを受けてゐることは、前の「朝庭に出で立ち平《なら》し夕庭に踏み平《たひ》らげず」(三九五七)と似た用法である。眼ぐし〔三字傍点〕は、、「妻子《めこ》見ればめぐし愛《うつく》し」(八〇〇)の「めぐし」とは異なつて、見る眼苦しといふ意。筑波嶺の※[女+燿の旁]歌會《かがひ》の歌のなかの「今日のみはめぐしもな見そ」(一七五九)と同樣の用法である。この意が轉じて、慘《むご》しといふやうな意になつた例は、卷十一の「人も無き古《ふ》りにし郷《さと》にある人を愍《めぐ》くや君が戀に死な(124)する」(二五六〇)がある。○愛《は》しけやし 愛しきやし・愛しきよしに同じ。やし・よしは添へて云ふ感歎詞である。○吾《あ》が奥妻《おくづま》 吾が心に深く思ふ妻。「蜻蛉羽《あきつは》の袖振る妹を珠《たま》くしげ奥に念《おも》ふを見たまへ吾君《わぎみ》」(三七六)の「奥に念ふ」、「長門《ながと》なる沖の借島《かりしま》奥まへて吾が念《も》ふ君は千歳にもがも」(一〇二四)の「奥まへて――念ふ」、「淡海《あふみ》の海おきつ鳥山奥まけて吾が念《も》ふ妹に言《こと》の繁けく」(二四三九)の、「奧まけて――念ふ」の意である。○其の日の極《きはみ》 その日を限りとして。その日からの意。「來《こ》し日の極《きはみ》」(三九五七)ともあつた。○あらたまの 枕詞。荒玉を砥《と》にかけて研ぐといふ意で、年のと〔傍点〕にかかる。○年|徃《ゆ》き返《がへ》り 年が去り改まつて。○甚《いた》もすべなみ まことにやむ術もないので、「君に戀ひ甚《いた》も術《すべ》なみ平山《ならやま》の小松が下《もと》に立ち歎くかも」(五九三)などともある。○敷妙の袖|反《かへ》しつつ 敷妙〔二字傍点〕は、細布《たへ》で、袖・袂・衣手・枕・床などにかかる枕詞。冠辭考には、「――夜の物はなごやかに身にしたしきを用ゐる故に、和らかなる服《キモノ》てふ意にて敷栲の夜の衣といふより、袖枕床ともつづくる也」とある。また、「朱《あか》らひく敷妙《しきたへ》の子を屡《しば》見れば人妻ゆゑに吾《われ》戀ひぬべし」(一九九九)の例をあげて、「神祇令の集解に、敷和者|宇都波多《ウツハタ》也といへる敷は、絹布の織めのしげき意、和はなごやかなるいひなれば、美織《ウツハタ》也といへるをもおもへ。」とも説いてをる。袖〔傍点〕反《かへ》しつつ〔三字傍点〕は、袖を折りかへすことである。「吾妹子に戀ひて術《すべ》なみ白細布《しろたへ》の袖反ししは夢に見えきや」(二八二二)、「白細布の袖折り反《かへ》し戀ふればか妹が容犠《すがた》の夢《いめ》にし見ゆる」(二九三七)とあるによつて、袖を折りかへして寢ると、自分が思ふ人の夢にあらはれる、即ち、自分の思ひが夢によつて相手に通じるといふ俗信のあつたことが知られる。しかし、ここは、下へのつらなりに依ると、妻のさまを夢に見むとして、袖をかへしたものとも思はれる。○宿《ぬ》る夜|闕《お》ちず 寢る夜の一夜も洩れることなく。「山(125)|越《ご》しの風を時じみ寐《ぬ》る夜おちず家なる妹をかけて慕《しぬ》びつ」(六)、「今更に戀ふとも君に逢はめやも眠《ぬ》る夜を闕《お》ちず夢《いめ》に見えこそ」(三二八三)などと用ゐられてをる。○現《うつつ》にし直《ただ》にあらねば 實際に直接あふのではないから。○戀しけく千重に積《つも》りぬ 戀しく思ふことが幾重にも積つた。○近からば 以下の六句は、天平十二年、不破の行宮で家持の作つた「關《せき》無くは還《かへ》りにだにもうち行きて妹が手枕|纒《ま》きて宿《ね》ましを」(一〇三六)を、再び用ゐたものである。○妹が手《た》枕|指《さ》し交《か》へて 妹の手を枕として、わが手をさしかはして、といふ意。卷五の憶良の歌には「眞玉手の玉手さし交《か》へ」(八〇四)とある。○路《みち》はし遠く し〔傍点〕は強めの助辭。○關さへに 關さへも。關〔傍点〕は愛發《あゆち》の關。○隔《へな》りてあれこそ 隔りてあればこそ。この下に、せむ術もなき、或は、思ひのままに逢ひがたき、などといふ意を補つてみるべきである。○よしゑやし ゑ〔傍点〕もやし〔二字傍点〕も古い感歎詞。よろしい、と感動して言ふのである。これ以下の句は、思ひかへして自ら慰める言葉。○よしはあらむぞ 方法はあらうぞ。○ほととぎす來鳴かむ月に 霍公鳥の來て鳴く月に。この年五月上旬に、家持は正税使税帳使となつて上京してゐるので、この時すでにその事が豫定されてゐて、かく詠んだのである。○いつしかも早くなりなむ も〔傍点〕は助辭、いつかまあの意。何時かはやくなつてほしい、早くなればよい、の意。なむ〔二字傍点〕は、助動詞「ぬ」の變化の「な」に、未來の「む」を連用したもので、動詞の連用形に連なる。○外《よそ》のみもふり放《さ》け見つつ 外ながら遙かに眺めつつ。○い行きのり立ち い〔傍点〕は接頭語。のり立ち〔四字傍点〕は、船に乘つて出ること。○奴要鳥《ぬえどり》のうら嘆しつつ ぬえ鳥の如く歎きつつ。奴要鳥《ぬえどり》は、虎鶫《とらつぐみ》の異名であるとの説がある。うら〔二字傍点〕は、うら悲し・うら戀す、などいふ「うら」で、心の意。第十に、ひさかたの天漢原《あまのかはら》にぬえ鳥のうら歎《なげ》ましつ羨しきまでに」(126)(一九九七)、「よしゑやし直《ただ》ならずともぬえ鳥のうら歎居《なげを》りと告げむ子もがも」(二〇三一)とある。また、卷一には「※[空+鳥]子鳥《ぬえこどり》うら歎居《なげを》れば」(五)、卷五には「奴延鳥《ぬえどり》の坤吟《のどよ》ひ居《を》るに」(八九二)とある。○下戀《したごひ》に 心のうちで戀ひしたふこと。本卷(三九六二)にも用ゐてある。○思ひうらぶれ 思ひなやむこと。うらぶる〔四字傍点〕は、心詑《うらわび》るの約であるとされ、心憂い意。○門に立ち夕占《ゆふけ》問《と》ひつつ 夕方門に立ちいでて我が歸るか否かを占ひつつ。夕占〔二字傍点〕は、夕方の辻占で、夕方辻などに立つて、道行く人の言葉によつて吉凶を判斷した。問ふ〔二字傍点〕とは、占をすることである。卷四にも家持は、月夜《つくよ》には門に出で立ち夕占《ゆふけ》問ひ足卜《あうら》をぞせし行かまくを欲り」(七三六)と詠んでをる。當時は一般にかかる俗信が盛であつた。○吾《あ》を待つと 自分を待つとて、であるが、下につづけるには、自分を待ちかねて、などと譯して見ると理解に容易である。○寢《な》すらむ妹を 寢てゐるであらう妻を。なす〔二字傍点〕は、寐《ぬ》・寢《い》ぬの古語。○逢ひて早見む 早く逢ひ見よう。「今しらす久邇の京に妹に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」(七六八)あるひは「待つらむに到らば妹が懽しみと咲まむ姿を往きて早見む」(二五二六)などとあるが、この用例は珍らしいものである。
【後記】 一篇が二段に分れ、前段においては、遠く離れて妻を思ふ情をのべ、後段においては、一轉して、霍公鳥が鳴き卯の花の咲く頃都にかへつて、自分を待ちかねてをる妻に逢はう、といふ殆ど確定的な希望をもつて結んでをる。これは、この年(天平十九年)五月に正税使となつて上京することが豫定されてゐたからであらう。語彙も豐富であり、挿入の句もあつて、構(127)成は複雜であるが、強い感銘をあたへることがないのは、その用語が、古歌や曾ての自作に用ゐられたものを踏襲して、清新の感に乏しいゆゑである。また、克明に説明しすぎて、いくらかわづらはしい感があり、それが調子を弛緩させてゐるからでもあらう。
 
3979 あらたまの 年かへるまで 相見ねば 心も萎《し》ぬに 思ほゆるかも
 
【題意】 以下の四首は、前の長歌の反歌である。
【口譯】 年が變るまでも逢はないでゐるので、心も萎れるばかりに、ひたすらに妻のことが戀しく思はれる。
【語釋】 ○年かへるまで 年が往き反るまで。年が改まるまで。○心も萎《し》ぬに 心もしなえて、心もしをれて。この句を用ゐた歌には、人麿の有名な、淡海《あふみ》の海夕浪千鳥|汝《な》が鳴けば心もしぬにいにしへ思ほゆ」(二六六)があるが、この第四句五句は、卷十一の「海原《うなばら》の沖つ繩苔《なはのり》うち靡き心も萎ぬにおもほゆるかも」(二七七九)と同樣である。
【後記】 單純な心情の説明に過ぎぬのみならず、例の成句襲用に累されて、詩情もなく、從つて感激にも乏しい作である。
 
(128)3980 ぬばたまの 夢《いめ》にはもとな 相見れど 直《ただ》にあらねば 戀ひ止まずけり
 
【口譯】 夢には怪しくも相逢ふけれども、實際には逢はぬので、常に戀のやむ時はない。
【語釋】 ○戀ひ止《や》まずけり けりは、語氣を強調する助動詞である。卷十三に、「戀とふものは曾《かつ》て止《や》まずけり」(三三〇八)とある。
【後記】 長歌に述べたところを繰りかへしたやうなもので平板ではあるが、捨てがたい歌である。低い調子で澁く言ひまはしたところに、枯淡な味があるゆゑであらう。結句の、一種たどたどしさを感じさせる言ひぶりも、古拙な趣きがある。
 
3981 あしひきの 川|來《き》隔《へな》りて 遠けども こころし行けば 夢に見えけり
 
【口譯】 山を越えて來て、隔つて遠いけれども、心は通うてゆくので夢に見えたことである。
【語釋】 ○山|來《き》隔《へな》りて 山を越えて來て間がへだたつて、といふ意。○遠けども 遠いけれども。○こころし行けば夢《いめ》に見えけり 嚴密に考へると、三樣の解釋がなりたつ。一は、心が互に通ひあふので妻のことが夢に見える。二は、我が心が通じて行くので夢のなかで妻にあふ。三は、我が心が通うて行くのでその思ひが(129)妻に通じて、妻が夢に見えて來る。つまりは同じことであるが、以上の三樣の解釋の間には心理的にはこまかな差異が存する。そのいづれが萬葉的であるか、にはかには斷じがたいが、句法のうへから第三の解をとるのが穩當と思はれる。
【後記】 かつて家持の詠じた、「都路を遠みや妹が此頃は折誓《うけ》ひて宿《ぬ》れど夢《いめ》に見えこぬ」(七六七)とは反對の構想であつて、丹生女王《にふのおほきみ》が太宰帥大作旅人に贈つた歌の一首に似てをる。
  天雲の遠隔《そきへ》の極《きはみ》遠けども情《こころ》し行けば戀ふるものかも(五五三)
 
3982 春花の うつろふまでに 相見ねば 月日|數《よ》みつつ 妹待つらむぞ
    右、三月二十日の夜の某、忽ちに戀情を起して作る。大伴宿禰家持
 
【口譯】 春の花が散つてしまふ頃までも逢はないので、月日を數へつつ、さぞ妻は待つてゐることであらう。
【語釋】 ○うつろふまでに 散つてしまふ頃までも。
【後記】 單調で平明、すつきりとした歌。妻の心を思ひやりつつ、自分もまたかかる心もちでゐることを、おのづから語つてをる。生地《きぢ》の清らかな作である。なほ家持は、卷十八にも、これ(130)に似た歌をのせてをる。
  ぬばたまの夜渡る月を幾夜|經《ふ》と數《よ》みつつ妹は我《われ》待つらむぞ(四〇七二)
 やや趣向は加はつてゐるが、自然の情緒の清純さにかけては、この作に及びがたい。
【左註】 右の長歌と反歌四首とは、三月二十日の夜の裏《うち》に、にはかに戀情をおこして作つたとある。
 
   立夏四月、既に累日を經れども、しかも由《なほ》來だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作れる恨の歌二首
3983 あしひきの 山も近きを ほととぎす 月立つまでに 何か來鳴かぬ
 
【題意】 立夏四月節に入つてから、すでに累日(日をかさねること)を經たけれども、まだ霍公鳥の喧くのを聞かなかつたので、恨をのべた歌二首である。家持の作。
 立夏四月とあるのは、立夏四月節の意。この年の立夏は三月のうちであつたが、既に夏の季節となつたわけであるから、かく書いたのであらう。左註の下に三月二十九日なる日附があるのによつて、「既に累日を經れども」とはあつても、まだ四月にはひつてゐるのではないことがわかる。卷十八には、(四〇六八)の左註に「二日(天平二十年四月のこと)は立夏の節に應《あた》る。」とあり、卷十九には、四一七一の題詞に「二十(131)四日(天平勝寶二年三月のこと)立夏四月の節に應《あた》れり。」とある。この天平十九年も、三月十四、五日の頃が立夏であつたのであらう。
【口譯】 山も近いに、霍公鳥は、四月の季節が來て夏になつても、なにゆゑに來て鳴かぬのか。
【語釋】 ○月立つまでに 立夏四月といふ月がくるまで。○何か來鳴かぬ 何故來て鳴かぬか。
【後記】 「あしひきの山も近きを」とあるのは、國守館のあつた丘陵が二上山につづいてゐたゆゑである。いたく霍公鳥を愛した家持が、この地で最初の夏を迎へて、それを思ふ心の切に動いたことも察せられる。この後も、彼は霍公鳥の鳴くことのおそいのを怨む歌を詠んだが、前にもその例がある。卷八に載つてをる「霍公鳥の晩《おそ》く喧《な》くを恨むる歌二首」のひとつに、下半の句法が似てをる。
  霍公鳥《ほととぎす》念《おも》はずありき木《こ》の暗《くれ》の斯《か》くなるまでに奈何《など》か來喧《きな》かぬ(一四八七)
 
3984 玉に貫《ぬ》く 花橘を 乏《とも》しみし この我が里に 來鳴かずあるらし
    霍公鳥は立夏の日乘鳴くこと必定まれり。又越中の風土、橙橘のあること希なり。此《これ》に因りて、大伴宿禰家持、感懷《こころ》に發して聊か此の歌を裁す。【三月二十九日】
(132)【口譯】 玉に貫きとほす花橘が少いので、霍公鳥がこの我が住む里に來て鳴かないのであらう。
【語釋】 ○乏《とも》しみし 乏しいので。し〔傍点〕は強めの助辭。
【後記】 霍公鳥の來ないことに對して、作者のくだした解釋である。左註にもあるごとく、花橘と霍公鳥との、歌材の上における密接な關係をもととしての構想である。
【左註】 霍公鳥は、かならず立夏の日に來て鳴くことに定まつてをる。しかるに、來て鳴かないのは、越中の風土が柑橘累に適せずして、それの稀なゆゑであらう。これによつて、感を發して、右の歌を作つた、といふのである。日附は三月二十九日となつてをる。
 「霍公鳥は立夏の日來鳴くこと必定まれり。」とあるのは、當時嚴格にかく言はれてゐたのでもあらうか。
 卷十八の「居《を》り明《あか》しも今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴き渡らむぞ」(四〇六八)の左註にも、「二日は立夏の節に應《あた》る。故に之を明旦喧かむとすといふなり。」とあり、卷十九の四一七一の題詞にも、「二十四日、立夏四月の節に應《あた》れり。此《これ》に因《よ》りて二十三日の暮《ゆふべ》、忽ち霍公鳥の曉に喧《な》かむ聲を思ひて作れる歌二首」とある。
 
   二上山の賦一首 【此山は射水郡にあり】
3985 射水《いみづ》河 い行き廻《めぐ》れる 玉くしげ 二上《ふたがみ》山は 春花の 咲ける盛に 秋の葉の(133) にほへる時に 出で立ちて ふり放《さ》け見れば 神故《かむから》や 許多《そこば》貴《たふと》き 山|故《から》や 見が欲《ほ》しからむ 皇神《すめがみ》の 裾廻《すそみ》の山の 澁溪《しぶたに》の 埼の荒磯《ありそ》に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 滿ち來る潮の いや増しに 絶ゆること無く 古《いにしへ》ゆ 今の現《をつつ》に 斯くしこそ 見る人ごとに 懸けて偲《しぬ》ばめ
 
【題意】 二上山の賦一首とある。家持の作。二上山は、伏木町の西北に聳え、當時の國守館のあつた丘陵とは山つづきである。頂上が二つの峯に分れてゐるので、その名があるといふ。
 賦は、卜商詩序に「――故詩有2六義1焉、一曰風、二曰賦――註云、賦者敷2陳其事1而直言v之者也」とあり、釋名に「敷2布其義1謂2之賦1」とある。家持が漢詩にならつて用ゐたのである。
【口譯】 射水河が麓にめぐり流れてゐる二上山は、春の花の咲いた盛の時、秋の紅葉の美しい時に、立ちいでて遠く望めば、神故に甚だ貴いのであらうか、山の崇高である故に、常に見たく思はれるのであらうか、その神々しい山の裾つづきになつてをる澁溪の崎の荒磯に、朝なぎにうち寄せる白波、夕なぎに滿ちてくる潮のやうに、いやますますに絶えることなく、古から現在までかやうに仰ぎ見る人は、誰でも心にかけて貴び慕ふことであらう。
【語釋】 ○射水河い行き廻《めぐ》れる 射水川がその山麓を行きめぐつて流れてをる、といふ意。○玉くしげ 玉|櫛(134)笥《くしげ》の蓋《ふた》にかけて二上山に冠した枕詞。○ふり放《さ》け見れば ふり仰いで遠く望めば。○神故《かみから》や 「神故か」に同じ。二上山を主宰《うしは》く神の故にか。上代人は、山には神がゐ給ふものとみ、ひいては、山そのものをも神として尊んだのである。○許多《そこば》貴《たふと》き そこば〔三字傍点〕は、そこぱく・ここばく・ここだ・ここだく、などいふに同じ。○山|故《から》や見が欲《ほ》しからむ 山が崇高である故に、見たく思はれるのであらうか。以上の四句は、卷二の、國柄《くにから》か見れども飽かぬ神柄《かむがら》かここだ貴《たふと》き」(二二〇)、卷六の「神《かむ》からか貴《たふと》かるらむ國からか見《み》が欲《ほ》しからむ」(九〇七)とあるに甚だよく似てをる。○皇神《すめがみ》の裾廻《すそみ》の山の 皇神《すめがみ》は、卷十三に「山科《やましな》の石田《いはた》の森の皇神《すめがみ》に幣帛《ぬさ》取り向けて」(三二三六)とあるによつても知られる如く、山を領ずる神のことで、ひいて、ここでは二上山そのものをかく稱したのである。その山頂には古くから二上の神がまつられてゐた。この神社は、明治八年に高岡市舊城址の公園内に遷されて、國幣中社射水神社となつた。裾廻《すそみ》は山の麓のこと。○滿ち來る潮のいや増しに 卷四に、「蘆邊より滿ち來る潮のいや益《まし》に」(六一七)、卷十二に「湖回《みなとみ》に滿ち來る潮のいや益《ま》しに」(三一五九)とあり、家持は卷十八にも「沖邊より滿ち來《く》る潮のいや増しに我《あ》が思《も》ふ君が御船《みふね》かも彼《かれ》」(四〇四五)と用ゐてをる。○古ゆ今の現《をつつ》に 古から現在まで。今の現〔三字傍点〕は現在のこと。卷五には、奇魂《くしみたま》今の現《をつつ》に尊きろかも」(八一三)とある。○懸けて偲《しぬ》ばめ 心にかけて慕ふことであらう。「珠襷《たまだすき》懸けて偲《しぬ》びつ」(三六六)、「玉だすきかけて思《しぬ》ばな」(三三二四})などと用ゐられてをる。
【後記】 句法に獨自性はない。しかし、整然たる構成で、對句も多く使用せられ、比較的古調を(135)だして、それによつて二上山の神さびた趣をつたへたのは、稱すべきである。
 
3986 澁溪《しぶたに》の 埼の荒磯《ありそ》に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ
 
【題意】 以下の二首は、右の長歌の反歌である。
【口譯】 澁溪の埼の荒磯に波がうち寄せるが、それと同じやうに、しきりと昔のことが思はれる。
【後記】 奇岩怪石のそばだつ絶景をみて、いはゆる造化の妙に驚異を感じ、卷三にある人麿の「大王《おほきみ》の遠《とほ》の朝廷《みかど》と在《あ》り通《がよ》ふ島門《しまと》を見れば神代《かみよ》し念《おも》ほゆ」(三〇四)のやうに、さかのぼつて、天地創造の古へが思はれる、といふのでもあらうか。さほど冥想的ではなくて、この神さびた風致によつて、悠久の時が思はれ、昔はどうであつたらう、おそらく昔もかく崇高峻峭のすがたであつたであらう、などと、昔のことが思ひ浮べられたのでもあらうか。萬葉考には、この地にからむ古傳説があつて、それを思つたものとみてをる。上の句法は、卷十二にある「別を悲しめる歌」のなかの一首、「飼飯《けひ》の浦に寄する白浪しくしくに」(三二〇〇)や、この下にある自作の「奈呉《なご》の海の沖つ白波しくしくに」(三九八九)などに似てをる。
 
(136)3987 玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 聲の戀しき 時は來にけり    右、三月三十日、興に依りて之を作る、大伴宿禰家持
 
【口譯】 二上山に鳴く鳥の聲が戀しい時は來たことである。
【語釋】 ○時は來にけり 來に〔二字傍点〕は、「來《き》ぬ」の連用形。けり〔二字傍点〕は指定の助動詞であるが、語氣を強める働きを持つてゐる。即ち感動詞といはれてゐるものである。
【後記】 左註にあるごとく、三月三十日の作で、いよいよかの戀しく思つてゐた霍公鳥の鳴く四月といふ時が來たといふのである。單調ではあるが、すつきりとした作。下の句は、彼の叔母坂上郎女が天平四年三月一日佐保の宅で作つた歌に似てをる。
  尋常《よのつね》に聞くは苦しき喚子鳥《よぷこどり》聲なつかしき時にはなりぬ(一四四七)
【左註】 右は、三月三十日に、興によつて作つたとある。
 
   四月十六日、夜の裏に、遙に霍公鳥の喧くを聞きて、懷を述ぶる歌一首
3988 ぬばたまの 月に向ひて ほととぎす 鳴く音《おと》はるけし 里遠みかも
(137)    右、大伴宿禰家持之を作る。
 
【題意】 四月十六日の夜に至つて、はるかに霍公鳥の喧くを聞いて、家持が懷をのべた歌。
【口譯】 月にむかつて霍公鳥が鳴いてゐるが、その聲が遠く聞える。我が住む里から遠く離れてゐるからであらうか。
【語釋】 ○ぬばたまの 枕詞。夜とつづけることから、轉じて月に冠したのである。○月に向ひて その姿は見えないのであるが、月のある空高く聲が聞えるので、かく言うたのである。この作者は、卷十九の長歌のなかにも、「曉《あかとき》の月に向ひて往《ゆ》き還り喧《な》き響《とよ》むれど」(四一六六)、「暮《ゆふ》さらば月に向ひて菖蒲《あやめぐさ》玉|貫《ぬ》くまでに鳴き響《とよ》め安寢《やすい》宿《ね》しめず君を悩《なや》ませ」(四一七七)などとも用ゐてをる。○里遠みかも わが住む里が霍公鳥の鳴くところと遠く隔つてゐるからであらうか。即ち、わが里から遠い處で鳴いてゐるからであらうか。
【後記】 待ちのぞんでゐた霍公鳥の聲を、四月十六日の夜にいつて、やうやくかすかに聞いたのである。夜ほととぎすの聲をはるかに聞く情趣は、卷十にも歌はれてゐる。
  今夜《このよひ》のおぼつかなきに霍公鳥《ほととぎす》喧くなる聲の音の遙《はる》けさ(一九五二)
 しかし、この歌は、「月に向ひて」といふことによつて、十六夜の月の空から、その聲のもれおちる風情があり、「里遠みかも」に含むところがあつて、餘韻に富んでをる。
 
(138)   大目秦忌寸|八千島《やちしま》の館にて、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌二首
3989 奈呉《なご》の海の 沖つ白波 しくしくに 思ほえむかも 立ち別れなば
 
【題意】 左註にある如く家持が正税使となつて、上京することになつたので、大目たる秦忌寸八千島の館で、餞別の宴をひらいた。その席上で家持の詠んだ歌二首である。
【口譯】 お別れしてしまつたならば、奈呉の海なる沖の白浪がしきりにうち寄せるやうに、頻りに君が戀しく思はれることであらう。
【語釋】 ○奈呉《なご》の海の さきの大目秦忌寸八千島の館に宴する歌(三九五六)の左註にある如く、この海を見わたすところに八千島の館があつたので、眼前の景をとつて序に用ゐたのである。
【後記】 その序は新奇な趣向ではなくて、次のやうな類歌がある。
  飼飯《けひ》の浦に寄する白浪しくしくに妹が容儀《すかた》は念《おも》ほゆるかも(三二〇〇)
 しかし、第四句まで一氣に詠みおろし、結句で語調をかへつつ、しかも、その移りゆきの自然であるところ、こまかな味がある。
 
(139)3990 我|兄《せ》子は 玉にもがもな 手に纒《ま》きて 見つつ行かむを 置きて往《い》かば惜し
    右、守大伴宿禰家持正税帳を以て京師に入らむとす。仍りて此の謌を作り、聊か相別るる歎を陳ぶ 【四月二十日】
 
【口譯】 わが友は玉であればよい。さうすれば、手にまとひもつて見ながら行かうものを。さうもできず、後に殘して行くのは惜しいことである。
【語釋】 ○玉にもがもな も〔傍点〕は強め、が〔傍点〕は願望、下のも〔傍点〕とな〔傍点〕とは詠嘆の助辭。○置きて往かば惜し あとに殘して行くならば、の意であるが、ここは、近き將來におこるはずの事実であるから、「惜し」と現在法に言ひ切つてゐるのである。從つて、後に殘して行くのは、と譯しておく。
【後記】 構想は平凡で、別離の場合にはよく詠まれる趣向であるが、その表現は面白い。第二句と第四句とで切れてゐることも珍らしく、結句をことさらに克明にくどい言ひ方をしてゐるのが却つて古拙な味をだしてをる。
 類似の歌には、次のごとき例がある。
  吾妹子は釧《くしろ》にあらなむ左手《ひだりて》の吾が奥の手に纒《ま》きて去《い》なましを(一七六六)
  母刀自《あもとじ》も玉《たま》にもがもや頂《いただ》きて角髪《みづら》の中《なか》にあへ纒《ま》かまくも(四三七七)
(140)【左註】 右は國守大伴家持が、正税帳を以て(税帳使となつて)京師に八らむとした。よつて、この歌をつくり、聊か相別れる歎を陳べる、とある。日附は四月二十日である。
 正税帳とは、國内の定穀穎・出擧・貸借・田租・其年殘定穀正倉などのことを記す帳簿。即ち、國内の官物目録と前年度の歳出との決算帳である。毎年二月末までに太政官に送る規定であつたが、後、越中ほか八箇國は四月中に改められたといはれる。卷十九に、越中判官久米廣繩が正税帳を以て京師に入らむとするに當つて、二月三日(天平勝寶三年)に國守の館で集宴をしてゐるのは、二月末日までに税帳を傳達するといふ規定にかなつてをる。ここに家持が、五月初旬に税帳をもつて上京したことについては、如何なる理由があつたか、推測しがたい。
 
   布勢水海《ふせのみづうみ》に遊覽する賦一首并に短歌【此海は射水郡舊江村にあり】
3991 もののふの 八十伴《やそとも》の緒の 思ふどち 心|遣《や》らむと 馬|竝《な》めて うちくちぶりの 白波の 荒磯《ありそ》に寄する 澁溪《しぶたに》の 埼たもとほり 松田江の 長濱過ぎて うなびに河 清き瀬ごとに 鵜河立ち 右往《かゆ》き左往《かくゆ》き 見つれども 其《そこ》も飽かにと 布勢の海に 船浮け居《す》ゑて 沖邊漕ぎ 邊《へ》に漕ぎ見れば 渚には あぢむら騷ぎ 島(141)廻《み》には 本|末《ぬれ》花咲き 許多《ここばく》も 見の清《さや》けきか 玉くしげ 二上《ふたがみ》山に 延《は》ふ蔦の 行きは別れず 在り通《がよ》ひ いや毎年《としのは》に 思ふどち 斯くし遊ばむ 今も見る如《ごと》
 
【題意】 家持が四月二十七日に、屬僚らと共に布勢水海《ふせのみづうみ》に遊覽した時つくつた歌で、ここでも、賦といふ語を用ゐてをる。
 布勢水海のことについては、下に小さく「此海は射水郡舊江村にあり」と註を附してあるが、今は無く、二上山の北方なる十二町村に圍まれた低地がその舊蹟である。堯惠法師の寛正六年の善光寺紀行に「やがて布勢の海のあたりになり侍り、遙々と湖水見渡せば鳴鴉飛盡て夕陽西山に隱れたり」云々とあるので、今日の如く干拓せられたのは、慶長・元和以後のことであらう、といはれてをる。舊江村は、下の放逸せる鷹の長歌(四〇一一)のなかに、「葦鴨の多集《すだ》く舊江《ふるえ》に」とあり、その歌の左註に、射水郡古江村と録されてある。水海の南岸にあたつてゐたといはれる。
【口譯】 多くの官人の親しい友だちどうしが心を慰めようとて、馬をたてならべて、あちらこちらの白浪の荒磯にうち寄せる澁溪の崎を行きめぐり、松田江の長濱をすぎて、うなび河の美しい瀬ごとに鵜飼があるので、彼方に行き此方に行きして眺めたけれども、そこも飽かず、更に布勢の海に舟を浮べて、沖を漕ぎ岸邊を漕いで見ると、渚にはあぢがもが群れ騷ぎ、島のめぐ(142)りには梢に花も咲いてゐて、見るに甚だ清く美しいことよ。二上山に匐ふ蔦のやうに行き分れることなく、つづいて通うてきて、毎年かはらず、親友どうしで、今見ると同じやうにかうして遊ばう。
【語釋】 ○もののふの八十伴《やそとも》の緒の もののふ〔四字傍点〕は物部で、朝廷に奉仕する役人の總稱。八十伴の緒〔五字傍点〕は多くの部族の長。ここは越中國府の官人どもを指して云ふ。○思ふどち 心の合つた友人達。どち〔二字傍点〕は、輩・連・仲間などの意。○心|遣《や》らむと 心をなぐさめむとて。○うちくちぶりの 難解の句で、古來諸説がある。代匠記精撰本に「うちくちぶりは、遠近振《ヲチコチブリ》なるべし。波をいそぶりとも云へば、遠近のいそに振ふなり」とあるに從つておく。即ち、彼方此方の岸にふれて打ち寄せる白波、とい(143)ふ意。○松田江の長濱過ぎて 今日その地名は殘つてをらぬ。澁溪の磯から氷見町に至る間の濱であらうと推測される。○うなび河 宇奈比《うなび》は、和名抄に「越中射水郡宇納郷、訓宇奈美」とあるところで、今の宇波村にあたる。うなび河〔四字傍点〕はそこを流れる小河で、今は宇波川とよばれる。○鵜河立ち 鵜河〔二字傍点〕は、鵜を使つて河で魚を捕ること。卷一には「上《かみ》つ瀬に鵜川を立て」(三八)とある。ここは、鵜河が立ち、即ち、鵜飼があつてといふ意であらう。古義は、「うなび河」以下この句までを「右往《かゆ》き左往《かくゆ》き」の序とし、「家持卿の親《みづから》その鵜つかふ業|爲《し》たまふ由には非ず。すべて鵜をつかふ人は、彼方此方行めぐるものなれば、ただ右往左往《カユキカクユキ》と云ふ料のみに、其地《ソコ》の宇納河《ウナビカハ》もて、設け云るなり」とあるが、國守の遊覽の興をそへむために鵜飼が行はれたものとみるべきであらう。○其《そこ》も飽かにと そこも飽かずと。と〔傍点〕は輕く添へたもの。○船浮け居《す》ゑて 船を浮かべて置いて。○あぢむら騷ぎ 味鳧《あぢかも》の群がさわぎ。卷三に「邊《へ》つ方《べ》にあぢむらさわぎ」(二五七)とある。○島廻には 島のめぐりには。多故《たこ》の島のことを云ふか。○木|末《ぬれ》花咲き 卷十九の布勢水海の遊覽の歌に、「藤浪の影なす海の底清み沈着《しづ》く石をも珠《たま》とぞ吾が見る」(四一九九)その他、多く藤の花が歌はれてゐるが、ここの花は卯の花のことであらう。下の池主の和歌のなかに、「藤浪は咲きて散りにき卯の花は今ぞ盛と」(三九九三)とある。○見の清《さや》けきか 見ることの清けきことよ。か〔傍点〕は詠嘆。○玉くしげ二上《ふたがみ》山に延《は》ふ蔦の 下の「別れ」にかかる序詞。蔦の生えてゐる樣子が、蔓をひろげて別れ別れになつてゐる故かく言つたのである。卷二に「延《は》ふ蔓の別れし來《く》れば」(一三五)とあり、卷九には「蔓《は》ふ蔦の各《おの》が向向《むきむき》天雲《あまくも》の別れし行けば」(一八〇四)とある。○在り通《がよ》ひ この年もひきつづいて通うて。在り〔二字傍点〕は繼續の意をあらはす接頭語。○いや毎年《としのは》に この後毎年(144)かはらず。いや〔二字傍点〕はいよいよで、この後長くといふ意。家持は卷十九の歌(四一六八)に、毎年〔二字傍点〕といふ文字を用ゐ、下に自ら註して、「毎年謂之等之乃波」とある。○今も見る如《ごと》 今も見るやうに、今のやうに。卷四の安貴王《あきのおほきみ》の歌のなかにも「今も見る如《ごと》副《たぐ》ひてもがも」(五三四)とあり、家持はこの後にも、卷十八に、常世物《とこよもの》この橘のいや照りに我大皇《わがおほきみ》は今も見る如《ごと》」(四〇六三)、卷二十に「愛《は》しきよし今日の主人《あるじ》は磯松の常にいまさね今も見る如」(四四九八)と用ゐてをる。
【後記】 布勢水海の地方的特色はあらはれてゐないが、遊覽の道すぢなどが詳細に述べられてゐて、誇張がなく、寫實的であるのを認めなくてはならぬ。結句の常套的であることは、この種の長歌としては、止むを得ぬところであらう。家持が税帳使として上京する前に、二上山の賦をつくつたり、この水海に遊んだりしたのは、都の人に越中の勝景をつたへむ意圖であつたらしく思はれる。
 
3992 布勢の海の 沖つ白波 在り通《がよ》ひ いや毎年《としのは》に 見つつ偲《しぬ》ばむ
    右、守大伴宿禰家持之を作る 【四月廿四日】
 
【題意】 右の反歌である。
(145)【口譯】 布勢の海なる沖の白波の景色が面白いから、つづいて毎年かはらず通うてきて、眺めつつ愛で遊ばう。
【語釋】 ○沖つ白波 沖の白波の景色を、といふ意。○見つつ偲《しぬ》ばむ 眺めつつなつかしまう。眺めて愛でよう。「蝦《かはづ》鳴く清き川原を今日見ては何時《いつ》か越え來て見つつ偲《しの》ばむ」(一一〇六)、「すみのえの岸に家もが沖に邊《へ》に寄する白浪見つつ思《しぬ》ばむ」(一一五〇)などと用ゐられてをる。
【後記】 長歌の終りの部分を反覆したのみである。
 
   敬みて布勢水海に遊覽せる賦に和する一首并に一絶
3993 藤浪は 吹きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛と あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きし響《とよ》めば うち靡く 心も萎《し》ぬに 其《そこ》をしも うら戀《ごひ》しみと 思ふどち 馬うち群れて 携《たづさ》はり 出で立ち見れば 射水《いみづ》河 湊の洲鳥《すどり》 朝なぎに 潟に求食《あさり》し 潮滿てば 妻|喚《よ》び交《かは》す ともしきに 見つつ過ぎ行き 澁溪《しぶたに》の 荒《あり》磯の埼に 沖つ波 寄せ來る玉藻 片寄りに ※[草冠/縵]《かづら》に作り 妹がため 手に纏き持(146)ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人《あま》船に 眞楫《まかぢ》かい貫《ぬ》き 白妙の 袖撮り反《かへ》し 率《あども》ひて 我が漕ぎ行けば 乎布《をふ》の埼 花散りまがひ 渚には 葦鴨騷ぎ さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻《めぐ》り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉《もみぢ》の時に 春さらば 花の盛に かもかくも 君がまにまと 斯くしこそ 見も明《あき》らめめ 絶ゆる日あらめや
 
【題意】 四月二十六日に、右の布勢水海に遊覽する賦に追和した大伴池主の作。題詞に「敬みて布勢水海に遊覽せる賦に和する一首并に一絶」とあつて、短歌を漢詩の絶句になぞらへ稱してゐるのが注目される。
【口譯】 藤の花は咲いて既に散つてしまつた。卯の花は今や盛であるとて、山にも野にもほととぎすが鳴きとどろくので、心もなびき萎えるほど、それが心から戀しく思はれて、親しい友だち同志馬をたて並べ、相ひきゐて出てゆくと、射水河の河口の洲にゐる鳥が、朝なぎの干潟に餌をあさり、潮が滿ちてくると妻を喚《よ》ぴあふ。それが珍らしくて見ながら過ぎゆき、澁溪の荒磯の埼に、沖の波がうち寄せてくる玉藻を、ひろつて※[草冠/縵]につくり、妻のために手にまとひ持つて、愛すべき布勢の水海に、海人の船に楫をそなへつけ、互ひに袖を振りかへし誘ひあうて漕(147)いでゆくと、乎布《をふ》の崎では花が散り亂れ、渚には葦鴨が啼いてゐて、漕ぎめぐりつつ、さざ波が立つやうに、立つて眺め坐つて眺めしても飽かぬ景色である。秋になつたら紅葉の時に、春になつたら花の盛に、ともかくも君の行くに隨つて眺めて心を晴らさう。絶える日があらうか。
【語釋】 ○藤浪は咲きて散りにき 藤浪〔二字傍点〕は、藤の花房が浪の如く靡くことから名づけたもので藤の花のこと。散りにき〔四字傍点〕の「にき」は、動作の完了をあらはす助動詞「ぬ」の變化の「に」に第二過去の助動詞「き」を重ね用ゐて、更に程經たことをあらはす。○今ぞ盛と 今が盛であるとて。○うち靡く心も萎《し》ぬに 卷十一の「海原《うなばら》の沖つ繩苔《なはのり》うち靡き心も萎《し》ぬにおもほゆるかも」(二七七九)、卷十三の「明日香河|瀬瀬《せぜ》の珠藻のうち靡き情《こころ》は妹に依《よ》りにけるかも」(三二六七)など、多くは「うち靡き」から「心」につづいてゐるが、これが誤であるとは云ひ難い。古義に「心の花鳥に靡き依るを云なるべし」とある如く、心も悩ましく係戀をおぼえることを云ふ。○其《そこ》をしも それが。し〔傍点〕とも〔傍点〕とは強めの辭。そこ〔二字傍点〕は、所を指して云ふのではなくて、卯の花に霍公鳥の鳴くそのことを指す。卷二に「其《そこ》をしもあやにかしこみ」(二〇四)とある。○うら戀《ごひ》しみと 心戀しいので。「人言を繁みと」(二五八六)、「慥《たしか》なる使を無《な》みと」(二八七四)などいふ用例に同じく、「と」は輕く添へたもの。○携《たづさ》はり うち連れて。手をとりあひ。○湊の洲鳥《すどり》 湊〔傍点〕は水門。河口のこと。洲鳥〔二字傍点〕は洲にをる鳥。卷七に「圓方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》浪立てや妻呼び立てて邊《へ》に近づくも」(一一六二)とある。○朝なぎに この句以下四句は、卷七の「夕なぎにあさりする鶴潮滿てば沖浪高み己妻《おのづま》喚《よ》ばふ」(一一六五)に似てをる。○ともしきに 珍らしく面白い眺め(148)であるから。○片寄りに 原文は「可多與理爾」とある。古義は、この句と上句との位崖を轉倒して、「沖つ波片寄りに寄せ來る玉藻」の意と解してをる。「沖つ波寄せ來る玉藻」が「片寄りに」寄るのを、といふやうに解することもできるであらう。これを片搓《カタヨ》リニと訓じて、玉藻を繩のやうに搓つて※[草冠/縵]《かづら》に作るとみる説もある。○※[草冠/縵]に作り 玉藻を髪の飾につくるのである。伊勢物語には「わたつみのかざしにさすといはふ藻も君がためには惜しまざりけり」とある。○うらぐはし 心|細《ぐは》し。香ぐはし・名ぐはし等の「くはし」で、美妙なること。布勢水海をほめていふ。○眞楫《まかぢ》かい貫き 眞楫〔二字傍点〕は、船の左右にとりつけた楫(艪櫂の總稱)。かい〔二字傍点〕は「かき」で接頭語。貫き〔二字傍点〕は、貫きとほす、即ち、そなへつける意。○率《あども》ひて 率ふ〔二字傍点〕は、「後伴《あとともな》」ふの略とせられ、引連れる意。卷九に「率ひて榜ぎ行く船は高島の阿渡《あど》の港に泊《は》てにけむかも」(一七一八)とある。○乎布《をふ》の埼 二上山の裾で、湖中にあつた岬。卷十八には「乎不《をふ》の浦」(四〇四九)、卷十九には「乎布《をふ》の浦に」(四一八七)とある。○花散りまがひ 花〔傍点〕は卯の花のことである。散りみだれる意。○さざれ波 さざ波。小波が立つといふ眼前の景から、「立ちても居ても」に言ひかけたのである。○立ちても居ても 立つて見ても坐つて見ても、句をへだてて「見れども飽かず」につづいてをる。○かもかくも とにもかくにも。卷十四には「武藏野の草は諸向《もろむき》彼《か》も此《かく》も君がまにまに吾は依りにしを」(三三七七)とある。○見も明《あき》らめめ 見て心を明かにしよう。見て心を晴さうといふ意で、もは詠嘆の助辭。卷三の家持の長歌のなかに、御《み》心を見《み》し明らめし」(四七八)とある。
【後記】 追和の作だけに感情を強調したあとがあつて、調子は高いけれども、誇張の感がみえる。(149)射水河の湊の洲鳥の樣子を寫し、澁溪の磯に寄る玉藻を妹の爲に※[草冠/縵]に作ると云ひ、乎布の埼の落花と葦鴨と小波との風致をとりいれるなど、詳細に具體的に詠みながら、しかもなほ、平明な家持の作の方がはるかに寫實的に思はれる。實際に行きめぐつた徑路をありのままに寫したのと、あとから感興をことさらに燃やしたてて、觀念的につくりあげたものとの相違であらう。但、打ち出しのあたりは非凡である。藤の花はすでに散り、青葉にまじつて卯の花が咲いて、ほととぎすの鳴きとよむ季節の、不思議な魅力が心理的にゑがかれてをる。即ち、心も萎ぬにもの悩ましく、ほととぎすの聲などに、遠くへの係戀《あこがれ》をかきたてられて、遊覽に出るといふのである。秀拔な心理描寫であるといはねばならぬ。
 
3994 白波の 寄せくる玉藻 世の間《あひだ》も 續《つ》ぎて見に來む 清き濱|傍《び》を
    右、掾大伴宿禰池主の作 【四月廿六日追和】
 
【題意】 右の反歌で、題詞には一絶とされてある。
【口譯】 白波の寄せてくる玉藻の美しい、この清らかな濱べを、わが世のあるかぎり幾度も/\續いて見に來よう。
(150)【語釋】 ○白波の寄せくる玉藻 白波の寄せてくる玉藻の美しい、といふやうな意味をも含めつつ、一方では序詞として、「世」にかけて用ゐたのである。藻には節があつて、從つて「よ(節と節との間のこと)」があるからである。和名抄には「兩節間、俗云與、」とある。家持は卷十九の長歌に、「朝暮《あさよひ》に滿ち來《く》る潮の八重浪に靡く珠藻の節《ふし》の間《ま》も惜しき命を」(四二一一)と用ゐてをる。○續《つ》ぎて見に來む ひきつづいて見に來よう。卷六にある「またも來て見む」(九九一)に似た素朴な云ひぶりである。
【後記】 中央政府から派遣せられて、任期のある官吏の歌としては、この第三、四句は誇張にすぎるやうであるが、この形式は、かやうな際の歌の反歌の約束であるから、深くとがむべきではない。從つて、藝術的觀照をとつて、表現技巧のみを問題とすれば、この第三句四句は、注意すべき句法で、語釋の條にあげた卷六の紀|鹿人《かひと》の「石走《いはばし》り激《たぎ》ち流るる泊瀬川絶ゆることなくまたも來て見む」(九九一)の結句が、これの第四句に似てをるほかには、他に類例をみぬ手法である。典雅に儀禮的な莊重さで詠むべきところを、從來の常套の型を破らむとして、ことさらに詩的のひびきを缺いた素朴の言ひぶりを試みたのではないかと思はれる。しかし、この散文的な直截の句法が、しぶい佶屈の調子を織りだして、強い表現となつてをることは否みがたい。また、この序の用例も新奇である。
(151)【左註】 右、掾大伴宿禰地主の作とあり、下に四月二十六日追和とあるのは、元暦校本その他による。
 
   四月二十六日、掾大伴宿禰池主の館にて、税帳使守大伴宿禰家持を餞する宴の歌、并に古歌四首
3995 玉ほこの 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さ數多《まね》み 戀しけむかも 【一に曰ふ、見ぬ日久しみ鯉しけむかも】
    右の一首は、大伴宿禰家持之を作る。
【題意】 以下の四首は、四月二十六日に、掾大伴池主の館で、税帳使として近く上京の途にのぼる國守家持を餞する宴席の歌で、これは、左註によれば家持の作である。
 なほ、題詞には、「――税帳使守大伴宿彌家持を餞する宴の歌、并に古歌四首」とあるが、これは、餞別の歌と傳誦の古歌とをあはせて四首といふ意であつて、古歌とは池主が席上で誦詠した、石川水通の橘の歌一首を指すのみである。
【口譯】 道に出で立つて、さて別れてしまつたならば、それからは逢ひ見ぬ日が多くなるので、戀しいことであらう。
(152)【語釋】 ○見ぬ日さ數多《まね》み 逢ひ見ぬ日が多いので。さ〔傍点〕は接頭語。數多《まね》み〔傍点〕は、「數多《まね》し」といふ語に、理由をいふみ〔傍点〕を附した形。「見ぬ日さ數多《まね》く」(六五三)といふ用例もある。○戀しけむかも 戀しいことであらう。けむ〔二字傍点〕は、第二過去の助動詞、けり」・「き」を、未來に推測していふ語で、語原は「けり」の變化の「けら」と未來の「む」との約であらうか、と云はれる。かも〔二字傍点〕は、か〔二字傍点〕とも〔二字傍点〕を重ね用ゐた詠歎の助辭である。
【後記】 別後の情を豫想してゐるが、格別あたらしい心理描寫でもなく、趣向に富んだものでもなくて、當然のことを當然に著實に詠みあげてをるにすぎない。しかし、そのありのままの説明のなかに、しみじみとした惜別の情がくまれて、澁い味が感じられ、質實すて難いものがある。
  一云は、全く同意であるが、「久しみ」といふ語法はめづらしい。
 
3996 我|兄子《せこ》が 國へましなば ほととぎす 鳴かむ五月《さつき》は 不樂《さぶ》しけむかも
    右の一首は、介内藏忌寸《すけくらのいみき》繩麿之を作る。
 
【題意】 左註にある如く、介内藏忌寸《すけくらのいみき》繩麿の作である。介は次官。繩麿の傳は明かではない。
【口譯】 あなたが故郷へお歸りになつてしまつたならば、ほととぎすの鳴く五月は、あとに殘つ(153)たわたくしどもは、寂しいことでありませう。
【語釋】 ○國へましなば 國〔傍点〕は故國。即ち、奈良を指す。ましなば〔四字傍点〕は、「往《い》ましなば」、即ち、往き給うたならば、といふ意である。「います」は、往座《いにま》すの略か、とされてをる。卷十二に「山越えて往ます君をば」(三一八六)、卷十九に「立ち別れ君が往《い》まさば」(四二八〇)とある。○不樂《さぶ》しけむかも さびしいことであらう。卷四に「神《かむ》さぶと不欲《さぶ》にはあらずやや多くや斯くして後に不樂しけむかも」(七六二)といふ用例がある。
【後記】 この時は四月二十六日であるから、やがて五月になり、ほととぎすは鳴くであらう。しかし、家持は故國の奈良へかへるのであるから、あとは寂しくならう。といふのである。幼稚平凡に似て、素朴で強い感情の含まれた歌である。生地のもつ強みであらう。結句の佶屈なひびきも愛せられる。
 
3997 吾《あれ》なしと な侘《わ》び我|兄子《せこ》 ほととぎす 鳴かむ五月《さつき》は 玉を貰《ぬ》かさね
    右の一首は、守大伴宿禰家持の和《こたへ》
 
【題意】 繩麿の歌に和へた家持の歌。
【口譯】 わたしが居ないとてわびしく思ひ給ふな。わが友よ。ほととぎすの鳴く五月には、橘を(154)玉に貫き、藥玉をつくつてなぐさみ給へ。
【語釋】 ○な佗《わ》び我兄子 佗ぶる勿れ、我が友よ。○玉を貫《ぬ》かさね 玉に貫きとほして、五月の玉(藥玉)をおつくりなさい。さ〔傍点〕は、敬語の助動詞「す」の變化。ね〔傍点〕は、「ぬ」を命令法に用ゐた形。
【後記】 悠長な官人の交際を思ふべきである。儀禮の辭であるとしても、かかる慰めが通用した時代相を思はざるを得ない。
 
   石川朝臣水道の橘の歌一首
3998 我が宿の 花橘を 花ごめに 玉にぞ 吾《あ》が貫《ぬ》く 待たば苦しみ
    右の一首、傳へ誦せしは主人大伴宿禰池主と云爾《しかいふ》
 
【題意】 石川朝臣水道の橘の歌を、この家の主人たる池主が傳へ誦したのである。石川水通の傳は不明。題詞に古歌とあるのは、この一首をさしたもので、年代のさほど古い歌とは思はれぬ。盖し、古歌といふのは今よりも以前の作といふ意で用ゐたものであらう。
【口譯】 あなたのお歸りを待つてゐては苦しくて堪へられぬので、わが宿の花橘を、まだ花の咲いてゐるうちから、花も共にとつて玉に貫きとほして、心を晴らすことである。
(155)【語釋】 ○花ごめに 花と共に。實となつたのを玉に貫くのであるが、それを待ちかねて、花のままに玉に貫くといふのである。○待たば苦しみ 「吾が屋前《には》の花橘の何時《いつ》しかも珠に貫《ぬ》くべくその實成りなむ」(一四七八)、「吾が屋前《には》の花橘は散り過ぎて珠に貫《ぬ》くべく實《み》になりにけり」(一四八九)とあるごとく、その實になるのを待つのが、待ち遠くて苦しいから、といふ意である。それは歌の原の意味であるが、ここは、あなたのお歸りを待つのが苦しいから、といふ意に應用して、前の家持の和歌としたのである。
【後記】 古歌を利用した、機智のある和へである。即ち、結句を巧みに轉用して、家持を待つのが苦しいので、花橘を玉に貫いて心をなぐさめる、といふ意としたのである。卷十に、左の如き句法の似た歌がある。
  時ならず玉をぞ貫《ぬ》ける卯の花の五月《さつき》を待たば久しかるべみ(一九七五)
【左註】 「右の一首、傳へ誦せしは主人大伴宿禰池主と云爾《しかいふ》」とある。
 云爾《しかいふ》とは、漢文において、上文を收めて止める助辭「云爾」を訓じたもので、「如v此」の意であるが、ここに限らず、「――である」などの意に解して差支ない。
 
   守大伴宿禰家持の館にて飲宴の歌一首 【四月二十六日】
3999 京方《みやこべ》に 立つ日近づく 飽くまでに 相見て行かな 戀ふる日多けむ
 
(156)【題意】 國守家持の館で飲宴して、家持の詠んだ歌である。下に小さく四月二十六日といふ日附がある。池主の館の宴會と同日になつてゐるのは、その宴がはてて歸館して後に、また開いたものであらうか。
【口譯】 都の方にむかつて立つべき日は近づいてくる。飽くほどまで見ておいて行かう。別れて後は戀しく思ふ日が多くあるだらうから。
【語釋】 ○飽くまでに相見て行かな 飽くほどまで見ておいて(親んで)出立しよう。行かな〔三字傍点〕は、行かなむ。
【後記】 別れるにあたつて、「飽くまでに相見て行かな」と云ふのは、もつともな心理である。語は單純であるが、眞實に根ざした強みを含んだ言葉である。また句法のうへから見ても、第二句で切れ、第四句で切れてゐて、さし迫つた感情をぼつぼつと洩らしたといふやうな調子が感ぜられる。卷七にある石河卿の歌、
  慰めて今夜《こよひ》は寐《ね》なむ明日よりは戀ひかも行かむ此間《こ》ゆ別れなば(一七二八)
 も、第二句と第四句とで切れてをる。しかし、なむ・かむ〔四字傍点〕と韻を踏んで音樂的な調子をおびてゐる上に、結句は獨立した句ではなくて、上にかかるものである。それに反して、この歌は結句もそれ自らで獨立してゐて、一首全體が三個の句から構成されてをり、しかも音樂的流麗を缺くために、頗る朴澁の感がある。その點で、即ち、意味の上からではなくて句法と調子と(157)の上から、左に擧げる卷六の守部王の作と相通ずるものがある。
  血沼回《ちぬみ》より雨ぞ零《ふ》り來《く》る四極《しはつ》の白水郎《あま》網《あみ》手綱《たづな》乾《ほ》せり沾《ぬ》れ敢《あ》へむかも(九九九)
 
   立山《たちやま》の賦一首并に短歌 【此の山は新河郡にあり】
4000 天離《あまざか》る 鄙に名|懸《か》かす 越《こし》の中《なか》 國内《くぬち》ことごと 山はしも 繁《しじ》にあれども 川はしも 多《さは》に逝《ゆ》けども 皇神《すめがみ》の 主宰《うしは》き坐《いま》す 新河《にひかは》の その立山《たちやま》に 常夏《とこなつ》に 雪降り敷きて 帶《お》ばせる 可多加比《かたかひ》河の 清き瀬に 朝|夕《よひ》ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや 在り通《がよ》ひ いや毎年《としのは》に 外《よそ》のみも ふり放《さ》け見つつ 萬代の 語《かたら》ひ草《ぐさ》と 未だ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨《とも》しぶるがね
 
【題意】 四月二十七日に家持の作つた立山《たちやま》の賦である。
 下に小さく「此山は新河都にあり」と註されてある。この郡は、今日では、上新川・中新川・下新川の三郡に分れてをる。立山は、一般に「たてやま」と呼ばれてゐるが、集中には、いづれも「多知夜麻」と記されてをる。(但、題詞は原文も立山である。)
(158)【口譯】 邊鄙な土地に、高くそびえて立つといふ名を負うて立つてをる山よ。越中の國内すべてに山は澤山あるけれども、川は澤山に流れてゐるけれども、神樣の主宰あらせられる新河郡なるその立山に、夏も常に雪が降り積つて、帶とし給ふ如くその麓を流れてをる可多加比河の清らかな瀬には、朝夕ごとに霧が立つてゐるが、その霧の消えてゆくやうに思ひすぎてよからうか。つづいて通うてきて、毎年よそながらでも遠くから望み見つつ、萬代までの語りぐさとして、まだ見ぬ人に話して聞かせよう。噂にだけでも、名にばかりでも聞いて、珍らしく思はせるために。
(159)【語釋】 ○鄙に名|懸《か》かす 略解の宣長説に「ここは立山なれば、立つと言ふ事を名にかけて、高く立るよし也」とあり、古義も、さてここは立山と云名に懸りて、高く秀で立登れるを云なるべし。夷《ヒナ》と云に名を懸《カク》と云には非ず。夷(ノ)國にありて立山と云名に懸りて、高く立る謂《よし》ならむ」としてをる。卷一の明日香皇女の殯宮の時の人麿の作に「み名に縣かせる明日香河《あすかがは》」(一九六)とあるをみても、これらの説は當を待てをる。從つて「鄙に名|懸《か》かす――その立山《たちやま》に」と、九句をへだてて連ねて見るべきもので、その九句は、同じく「その立山」を修飾してゐる句である。即ち、「鄙に名|懸《か》かす」と、「越《こし》の中《なか》」以下九句とは同格であつて、かく二樣の修飾の句を、「その立山」が受けてゐるとみるべきもので、萬葉長歌の修辭上さほど怪しむには足らぬ手法である。但し、口譯の際には、その紛らはしさを避ける爲に、ひとまづここで切つておいた。○國内《くぬち》ことごと 國の内ことごとくに、といふ意。○多《さは》に逝《ゆ》けども 澤山に流れてゐるけれども。○皇神《すめがみ》の 皇神〔二字傍点〕は、前の二上山の賦のなかに「皇神《すめがみ》の裾廻《すそみ》の山の」(三九八五)とあつた如く、山にはそれを領する神があるとみる思想によるもので、ここは立山にいます神をさす。立山の連峯の主峯たる雄山の頂上に、式内雄山神社が祀られてある。ここの句も、嚴密にいへば、「皇神《すめがみ》の主宰《うしは》き座《いま》す――その立山に」とかかり、なかの「新河《にひかは》の」は、これと同格の修飾の句とみるべきもので、「皇神《すめがみ》の主宰《うしは》き坐《いま》す新河《にひかは》」とつづけたのではないであらう。○主宰《うしは》き坐《いま》す うしはく〔四字傍点〕は、主として佩く。領すること。○常夏《とこなつ》に 代匠記精撰本に、とこなつには常《ツネ》にと云心なり。撫子を常夏と云も、春こそ咲かね秋も咲冬野にも若は咲ことのあれば常磐の意なるべし」とある。しかし、ここは夏の間つねに、といふ意とする方が穩やかである。即ち、作者が、夏四月二十七日に仰ぎ見て、夏もなほ(160)雪のあることに驚異を感じた趣きがあらはれてゐるからである。○帶《お》ばせる 帶び給へる。帶の如くに立山の麓をめぐつて流れてをる意。○可多加比《かたかひ》河の 立山の前山なる瀧倉嶽と猫又山とから發した河で、今も片貝川の名で呼ばれてをる。○思ひ過ぎめや 思ひ過ぎて忘れてしまはうか。霧の消え去るのにたとへて云ふ。卷三の赤人の作に「明日香《あすか》河川淀さらず立つ霧の思ひ遇ぐべき戀にあらなくに」(二二五)とある。尚、卷四には、朝に日《け》に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに」(六六八)といふ歌があるが、其は山には雲が常にあるものとみる思想から出たたとへであつて、ここの用例とは違つてをる。○外《よそ》のみもふり放《さ》け見つつ 前の「戀緒を述ぶる歌」(三九七八)にも、同樣に用ゐられてある。ここは新しくその山に登らずして眺めるといふ意。○語《かたら》ひ草《ぐさ》と 語りぐさとして。話の種として。○音のみも名のみも聞きて 噂にばかり名にばかり聞いて。卷三の赤人の作に「言《こと》のみも名のみも吾《われ》は忘らえなくに」(四三一)とある。○羨《とも》しぶるがね 羨しぶ〔三字傍点〕は羨しといふ形容詞を動詞にはたらかしたもの。羨しがるために、といふ意であるが、上京の後に都の人々に立山のことを語り告げむといふ下思ひが明かであるから、珍らしく、羨しく思はせるために、と解するのが妥當の如く思はれる。がね〔二字傍点〕は、「がに」と共に古い助詞で、やうに・爲に・料に、といふやうな意であると考へられてゐる。雅澄はこれを否定して、「がね」は之根《ガネ》の意で、その根本と謂ふより起つた言、「がに」は之似《ガニ》であるとした。山田孝雄氏は奈良朝文法史に、これらは格助詞の「が」に、「に」及び終助詞の「ぬ」の添はつたもので、「がに」は「が」で結體せしめ、これを「に」で目的としたもの。即ち、「が爲に」といふ意に相當してをる。「がね」は、「が」で指定し、「ね」で冀望をあらはす、と説かれてをる。集中の用例をみるに、(161)卷三にある笠金村の歌は「丈夫の弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し射つる矢を後《のち》見む人は語り繼ぐがね」(三六四)と、明かに「がね」を希望の意に用ゐてをるが、卷十の「蜻蛉羽《あきつは》ににほへるころも吾は著《け》じ君に奉《まつ》らば夜《よる》も著むがね」(二三〇四)に至ては、その區別が曖昧となり、更に家持に及んで、この用例のほかに、卷十九に「丈夫は名をし立つべし後の代に聞き繼ぐ人も語り續《つ》ぐがね」(四一六五)と詠んで、「がね」を「がに」と同意に用ゐてをる。
【後記】 赤人の富士山の歌が、簡潔の句法によく富士の特色を寫してゐるのにくらべて、この歌はいたづらに冗長であつて、立山の特徴を傳へてはゐない。概して平板な家持の長歌の手法は嶮峻なこの山の風趣を寫すに適してをるとも思はれぬ。未だ見ぬ人に告げむといふ意圖は甚だよろしい。しかし、この概念的な詠みぶりの歌によつて、はたして人に感動をつたへ得たか否か、おぼつかなく思はれる。一つには、「在り通《がよ》ひ」などと言ひつつも、親しく赴いたものではなく、奈良の人々へ越中の景勝を紹介せむとする目的で、國守の館から望むままに、平凡な語彙をとりあつめてまとめた、こしらへものにすぎぬ故であらう。
 
4001 立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず神《かむ》からならし
 
【題意】 以下の二首は、右の歌の反歌。
(162)【口譯】 立山に降つてある雪を、夏の間常に見ても、飽くことがない。これは、この山が貴い神樣であるゆゑであらう。
【語釋】 ○神《かむ》からならし 神故であらう。ならし〔三字傍点〕は、なるらし。この山が貴い神であるからであらう。或は、この山の神が貴いからであらう。といふ意。さきの二上山の賦のなかの「神故《かむから》や許多《そこば》貴《たふと》き」(三九八五)と共に、人麿の「神柄《かむから》かここだ貴《たふと》き」(二二〇)、金村の「神《かむ》からか貴《たふと》かるらむ」(九〇七)に學んだものである。
【後記】 山々の雪はすでに消えた夏四月の末、ひとり雪を盛つて聳えてをる立山を仰いで、崇高の感にうたれた趣きが、平明のうちにくつきりとした手法をもつて表現されてをる。「神から」といふ語も、まさしくここに適合したものである。
 
4002 可多加比《かたかひ》の 河の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく 在り通《がよ》ひ見む
    四月二十七日、大伴宿禰家持之を作る。
 
【口譯】 可多加比川の瀬に清く流れてゆく水の絶えぬと同じやうに、いつまでも絶えず通うて來て、立山の景色を眺めよう。
【後記】 人麿の「見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまた還り見む」(三七)以來、多く(163)踏襲されて來た形式であつて、家持は、この後にも、これを使用してをる。
  もののふの八十氏人も吉野河絶ゆることなく仕へつつ見む(四一〇〇)
  くれなゐの衣にほはし辟田河《さきたがは》絶ゆることなく吾《われ》かへりみむ(四一五七)
【左註】 四月二十七日、大伴宿禰家持之を作る、とある。
 
   敬みて立山の賦に和する一首并に二絶
4003 朝日さし 背向《そがひ》に見ゆる 神《かむ》ながら 御名《みな》に負《お》はせる 白雲の 千重を押し別け 天《あま》そそり 高き立《たち》山 冬夏と 分《わ》くこともなく 白妙に 雪は降り置きで 古《いにしへ》 在り來にければ 凝《こご》しかも 巖《いは》の神《かむ》さび たまきはる 幾代經にけむ 立ちて居て 見れども奇《あや》し 峯高み 谷を深みと 落ち激《たぎ》つ 清き河内《かふち》に 朝去らず 霧立ち渡り 夕されば 雲居棚引き 雲居なす 心も萎《し》ぬに 立つ霧の 思ひ過《すぐ》さず 行く水の 音も清《さや》けく 萬代に 言ひ續《つ》ぎ行かむ 河し絶えずは
 
【題意】 池主が、四月二十七日に家持の歌に和して作つたもの。
(164)【口譯】 朝日のさす彼方に見える立山よ。神そのままその御名に負うて、白雲の重なつてゐるのを押し分け天に聳え立つて高い立山よ。冬夏といふ區別もなく、昔から續いて眞白に雪は降り積つて來たから、險しい巖も神々しく、幾代も經たことであらう。立つて眺めても坐つて眺めても不思議である。峯は高く谷は深いので、落ちて泡だつ清流のほとりに、朝ごとに霧は立ち渡り、夕方になると雲が棚引くのであるが、その雲のやうに心もなびいて萎れ、立つ霧のやうに思ひすてることもなく、流れ行く水のやうに音もさやかに、この河の絶えぬかぎり、萬代の後までも語り傳へよう。
【語釋】 ○朝日さし 朝日がさして。朝日のさす彼方に。國守の館のあつた今の伏木町の背後の丘陵からみれば、立山は朝日のさす方にあたつてゐるので、かく言うたのであらう。古義には、阿佐比左之《アサヒサシ》は背向《ソガヒ》に所v見《ミユル》といはむとての、まくら詞におけるなるべし。すべて朝日のさす方には羞明《マバユク》て、直に向ひ難きものなればかくつづけたるなるべし」とある。○背向《そがひ》に見ゆる そがひ〔三字傍点〕は背向《せむかひ》の略で、背面の意であるが、集中の用例をみるに、卷七の「吾背子を何處《いづく》行かめとさき竹の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔しも」(一四一二)、及び卷十四にあるその類歌(三五七七)のほかは、背面の意としては通じがたい。卷三にある赤人の「繩の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奧《おま》つ島|榜《こ》ぎ回《た》む舟は釣《つり》爲《せ》すらしも」(三五七)をはじめ、斜横の意す解するがおだやかである。○神《かむ》ながら 神そのものとして。○御名《みな》に負《お》はせる 立山といふ名に負うてゐる如くに。即ち、立山といふ名の如く、天に聳えて高(165)く立つてをるといふ意で、句をへだてて、下の「天《あま》そそり高き立《たち》山」にかかつてをり、上の「朝日さし背向《そがひ》に見ゆる」と、下の「白雲の千重を押し別け」と同じく共に立山につらねた句法である。○天《あま》そそり 空に聳える樣を云ふ。そそる〔三字傍点〕は、進み昇ること。○在り來にければ 古からつづいて白雪が降り積つて來たから。○凝《こご》しかも こごしきかも。こごし〔三字傍点〕は嶮《けは》しいこと。凝る意かと言はれてをる。○巖《いは》の神《かむ》さび 岩が年を經て神々しくなつて。さぶ〔二字傍点〕は、移り進み行くこと。○落ち激《たぎ》つ清き河内《かふち》に 高い所から落ちてたぎりたつ清い川あひの地に。卷六の金村の歌に「落ちたぎつ瀧《たぎ》の河内《かふち》は」(九〇九)とある。○朝去らず霧立ち渡り 朝ごとに。去らず〔三字傍点〕は、寐《ぬ》る夜おちず・隈もおちず、など云ふときの「おちず」と同じく、缺けることなくの意である。卷三の赤人の長歌のなかに「朝さらず雲居たな引き」(三七二)とある。○雲居棚引き 雲居〔二字傍点〕は雲のこと。この語法は記紀の時代から用ゐられてゐて、古事記の日本武尊の歌に「波斯伎夜斯和岐幣能迦多用久毛葦多知久母《ハシキヤシワギヘノカタヨクモヰクチクモ》」とある。○雲居なす心も萎《し》ぬに 譬喩が適切を缺くやうであるが、「うち靡き」などといふ意を補つてみるべきものであらう。即ち、雲のたなびくやうに、その山への愛執に心も靡きしなえて、といふやうに解すべきであると思はれる。赤人の作には「雲居なす心いさよひ」(三七二)とある。○立つ霧の思ひ過《すぐ》さず 立つ霧の消えるやうに思ひ忘れることなく。
【後記】 自らその地に赴いて感激にみちて詠じたものではない家持の歌に和して、翌日ただちに作つたものであるから、作爲のあとの歴然たるもののあるのは、言ふまでもない。用語も斬新(166)なものではなくて、いたづらに莊重らしい格調をつくつて、繁雜の感をあたへる。しかし、幾分、立山のけはしさを思はせる色調をおびてゐるのは、この人の表現法にも依るであらう。家持の輕くゆるやかに流れた手法とは反對に、池主の筆致は重苦しくて線の太い感がある。さきの布勢水海の二人の長歌と共に、讀みくらべてその作風の相違を思ふべきである。しかし、この人は、宴席や唱和の作のみ傳へられてあるところをみると、詩興のおのづから湧出して感慨の歌になるといふやうな詩人ではなかつたやうに思はれる。
 
4004 立《たち》山に 降り置ける雪の 常《とこ》夏に 消《け》ずてわたるは 神《かむ》ながらとぞ
 
【題意】 以下の二首は反歌である。
【口譯】 立山に降り積つた雪が夏の間も消えないで年月を經るのは、あの山がそのまま神であるからだといふ。
【語釋】 ○消《け》ずてわたるは 消えずして継續するのは。○神《かむ》ながらとぞ 神そのままの山であるからだと言ふことである。
【後記】 家持の「立山に降り置ける雪を常《とこ》夏に見れども飽かず神《かむ》からならし」(四〇〇一)に句法まで(167)模してをる。唱和とはいへ、「神《かむ》からならし」に對して、「神《かむ》ながらとぞ」と和へたのみで、あまりに感興の乏しい作である。
 
4005 落ち激《たぎ》つ 可多加比《かたかひ》河の 絶えぬごと 今見る人も 止《や》まず通はむ
    右、掾大伴宿禰池主之に和す。 【四月廿八日】
 
【口譯】 落ち激ち流れてゐる可多加比河の流れの絶えぬやうに、今見てゐる人も、絶えずここに通うて來て、この山を眺めよう。
【語釋】 ○絶えぬごと 以下前人の成句を例の用ゐざまに襲用したものであるが、第四句によつていく分救はれてゐる。○今見る人も 今この山を眺めてをる人も、といふ意。したしく立山のほとりに立つて、立山や可多加比河などの風光に接してをることになぞらへた言ひ樣である。
【後記】 「今見る人も」といふ句に新しさがあるが、居ながらにしてかかる語を用ゐることが空疎にひびくのは言ふまでもない。
【左註】 右、掾大伴宿禰池主之に和す。とあつて、下に小さく四月二十八日の日附がある。家持の作の翌日和したことが分る。
 
(168)   京に入らむこと漸近づきて、悲情|撥《のぞ》き難く、懷を述ぶる一首并に一絶
4006 かき數《かぞ》ふ 二上《ふたがみ》山に 神さびて 立てる栂《つが》の木 幹《もと》も枝《え》も 同《おな》じ常盤に 愛《は》しきよし 我|兄《せ》の君を 朝去らず 會《あ》ひて言問《ことど》ひ 夕されば 手|携《たづさ》はりて 射水河 清き河内《かふち》に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風《あゆのかぜ》 甚《いた》くし吹けば 湊には 白波高み 妻|喚《よ》ぶと 洲鳥《すどり》は騷ぐ 葦刈ると 海人《あま》の小舟《をぷね》は 入江漕ぐ 楫《かぢ》の音《おと》高し 其《そこ》をしも あやにともしみ 偲《しぬ》びつつ 遊ぶ盛を 天皇《すめろぎ》の 食國《をすくに》なれば 御言《みこと》持ち 立ち別れなば 後《おく》れたる 君はあれども 玉ほこの 道行く我は 白雲の 棚引く山を 磐根《いはね》踏《ふ》み 越え隔《へな》りなば 戀しけく 日《け》の長けむぞ 其《そこ》思《も》へは 心し痛し ほととぎす 聲にあへ貫《ぬ》く 玉にもが 手に纒《ま》き持ちて 朝|夕《よひ》に 見つつ行《い》かむを 置きて行《い》かば惜し
 
【題意】 家持が正税使として京に入る日が近づいて、悲情をのぞきがたく、懷をのべた歌。即ち、別を悲しんで大伴池主に贈つたものである。
(169)【口譯】 二上山に神々しく立つてをる栂《つが》の木は、幹も枝も同じく常に變らないのであるが、それのやうにいつも變らず慕はしい我が友に、朝ごとに會つて話をし、夕方になれば手をたづさへて、射水河の清らかな流の傍に立ちいでて見れば、東風が強く吹くので、水門《みなと》には白波が高く立ち、洲にゐる水鳥は、妻を呼ぶとて鳴き騷ぐ。葦を刈るとて、海人の小舟が入江を漕ぎめぐる楫の音が高い。それが甚だ面白い眺めであるので、愛でなつかしんで二人で遊んでゐた最中を、天皇の御命令が下された。天皇の治めたまふ國土であるので、自分は直ちに勅を奉じて京に上ることであるが、君とお別れして出立すると、後に殘る君はともかくも、旅をしてゆく自分は、白雲の棚引く山を、岩根を踏みつつ越えて、遠く隔たつてしまつたならば、月日も長く戀しく思ふことであるに相違ない。それを思ふと自分の心はやるせない。君が玉であつて、霍公鳥の聲にあはせて藥玉に貫くことができればよいが。さうすれば、それを手にまとひ持つて、朝夕に見ながら行かうものを。君を殘して行くことは名殘惜しい。
【語釋】 ○かき數《かぞ》ふ かき〔二字傍点〕は接頭語。一つ二つと數へる意で、「二上山」の二〔傍点〕につづく枕詞。○立てる栂《つが》の木 卷一の人麿の「樛《つが》の木のいやつぎつぎに」(二七)以來、多く踏襲されてをる。かく云ひなれてをる故に、その意を含んで、大伴氏の代々をいふ、と略解にあり、他にも、この常磐木を以て大伴氏一族にたとへたもの(170)とみる説が行はれてをる。○幹《もと》も枝《え》も同《おや》じ常盤《ときは》に 幹も枝も同じく常盤であるやうに、と下につらなる。上の栂の木を以て大伴氏の一族にたとへ、幹を似て本家たる家持自身を、枝によつて分家たる池主をたとへたものとみる説もある。その説によると、代々續いて來た大伴家の本家たる自分も、分家たる君も、(栂の木の幹も枝も同じ常盤の色である如くに)共に榮えてをる、とみるのである。しかし、卷二の人麿の作に、「走出《はしりで》の堤に立てる槻《つき》の木のこちごちの枝《え》の春の葉の茂きが如く念《おも》へりし妹にはあれど」(二一〇)とあつて、木の葉の茂きを以て思ふ心の深さにたとへてをることからみれば、「神《かむ》さびて立てる栂《つが》の木」の「幹《もと》も枝《え》も同《おや》じ常盤《ときは》に」とあるが如く、常に變ることなく、「愛《は》しきよし我|兄《せ》の君を」と、常に變らず慕はしく思ふことにたとへ取るのが、妥當であり、端的明快であるやうに思はれる。おやじ〔三字傍点〕は「おなじ」の古語で、家持はさきにも「許己呂波於夜自《こころはおやじ》」(二九七八)と用ゐてゐる。○會ひて言問《ことど》ひ 會つて語りあひ。○手|携《たづさ》はりて 手をとりあつてうち連れて。たづさはる〔五字傍点〕は、手障る意かと云はれ、既に手〔傍点〕の意を含んでゐるのであるが、卷二の人麿の或本の歌に「手《て》携《たづさ》へ」(二一三)と先例があり、他にも例がある。なほこれ以下の數句は、四月廿六日の池主の追和の歌(三九九三)の、携《たづさ》はり出で立ち見れば」以下の數句に似てをる。○我が立ち見れば この我が〔二字傍点〕は、さきの池主の「我が漕ぎ行けば」(三九九三)と同樣に、輕く添へたもので、「吾が二人見し」(二一三)、「二人吾が見し」(四五〇)などの吾が〔二字傍点〕はその顯著な例である。○東風《あゆのかぜ》 この後天平二十年春正月二十九日の歌の中に、東風の下に「越俗語東風謂2之安由乃可是1也」(四〇一七)と自註をつけてある。今もその地方では、東北風を「あいのかぜ」と呼んでをると云ふ。なほ北陸地方では、正東の風はほとんど吹くことがないので、(171)家持が東風と記したのは誤であるとも見られてをる。○湊には白波高み 以下の四句は、さきの池主の歌のなかの趣向に似てゐて、共に卷七の「圓方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》浪立てや妻呼び立てて邊《へ》に近づくも」(一一六二)と「夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮滿てば沖浪高み己妻《おのづま》喚《よ》ばふ」(一一六五)とに學んだものであると思はれる。○葦刈ると海人《あま》の小舟《をぶね》は入江漕ぐ楫《かぢ》の音《おと》高し 葦を刈るといふことを詠みいれた點で珍らしい歌である。これより九年後の天平勝寶八歳三月七日、河内國|伎人《くれ》郷の馬《うまの》國人の家の宴席で、大伴池主が讀んだ「蘆刈りに堀江漕ぐなる楫のおとは大宮人の皆聞くまでに」(四四五九)の上の句と相通ずるものがある。その歌の左註には「――即ち云ふ、兵部大丞大原眞人今城、先日《さきつひ》他所《あだしところ》にて讀みし歌なり。」とある。讀は誦〔右○〕と同じであるから、今城の作ではなくて、彼が古歌を他所でとなへたのを、池主がまたその宴席で傳誦したのでめる。思ふに、家持は既にその古歌を知つてゐて、ここに踏襲したのではなからうか。葦を刈るといふことを詠んだ例は、集中にはわづかにこの二首があるのみである。○其《そこ》をしもあやにともしみ それが不思議に珍らしいので。○偲《しぬ》びつつ遊ぶ盛を その景色をなつかしみつつ遊んでゐた最中に、といふやうな意である。○御言《みこと》持ち 天皇の勅を奉じて。税帳使に任命せられたことを指す。○後《おく》れたる君はあれども あとに殘つてをる君はよいけれども。あとに殘つてをる君はともかくも。「玉匣《たまくしげ》覆《おほ》ふを安み明《あ》けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(九三)、「古郷《ふるさと》の飛鳥《あすか》はあれどあをによし平城《なら》の明日香《あすか》を見らくし好《よ》しも」(九九二)、「筑波嶺《つくばね》の新桑蠶《にひぐはまよ》の絹はあれど君が御衣《みけし》しあやに著欲《きほ》しも」(三三五〇)などの用例がある。○戀しけく日の長けむぞ 戀しく思ふ日數が長いことであらうよ。卷十に「戀しけく日《け》長きものを」(二〇三九)とあり、「長逝せる弟を哀傷する歌」(三九五七)(172)の中にも、同じ句を使用してある。○其《そこ》思《おも》へば心し痛し それを思へば心が悲しい。卷八にある同じ作者の「坂上大孃に贈れる歌」(一六二九)の中に、「此《ここ》念《も》へば胸こそ痛め」とある。○ほととぎすず聲にあへ貫《ぬ》く玉にもが ほととぎすの聲と共に玉にまぜて貫く藥玉であれかし。ほととぎすの鳴く頃藥玉をつくるので、かく云ふ。この趣向は、卷八に「霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ汝《な》が聲を五月《さつき》の玉に相貫《あへぬ》くまでに」(一四六五)、卷十に「ほととぎす汝《な》が初聲は吾にもが五月《さつき》の珠に交《まじ》へて貫《ぬ》かむ」(一九三九)とある。家持は、卷十九にも、ほととぎす喧《な》く初聲を橘の珠に合貫《あへぬ》き」(四一八九)と踏襲してをる。○玉にもが 以下の句は、秦八千島の館の宴の時の「我が兄《せ》子は玉にもがもな手に纒《ま》きて見つつ行かむを置きて往《い》かば惜し」(三九九〇)を再び用ゐたのである。
【後記】 歌の前半は、越路にあつて池主と共にその土地の風景を賞美してゐたことを述べ、後半は、官命を奉じてその國を立ち出づるに臨み、池主と別れることの惜しさを歌つたのである。勿論、池主に贈つた歌であるから、池主を慕はしく思ふ情が中心をなしてをる。越の國の風景を述べるにしても、それを池主と共に樂しんだといふことから、やがて後半の別を惜しむことを歌ふ爲めの前おきにしてゐるやうなものである。最後は、多く歌はれてをる趣向ではあるが、その季節のほととぎすの聲を配して、「ほととぎす聲にあへ貫《ぬ》く玉にもが」としたのは、優美でもあり、機智のある言ひぶりでもある。またこの歌は、京に向つて出立する日の漸く近づいた時の作であるが、内容からみると、越の國を出發する時の心もちになつて歌つてゐるの(173)である。表現上のこまかな點についてみれば、「神《かむ》さびて立てる栂《つが》の木|幹《もと》も枝《え》も同《おや》じ常盤《ときは》に」といふ句について、語釋の條にあげたごとく、大伴一族の本家たる家持と、分家たる池主とが共に榮えてをる、と解く説も行はれてをる。しかし、たとひ家持にその意識があつてかかる句法を用ゐたとしても、人麿の「槻《つき》の木のこちごちの枝の春の葉の茂きが如く念《おも》へりし」(二一〇)とある句法に學んだことが明かであるからには、やはり、常に變らず思ふ心の譬喩としてその常盤木を用ゐたとみるのが、穩かでもあれば、自然でもあるやうに思はれる。また、我が立ち見れば〔二字右○〕・甚《いた》くし吹けば〔二字右○〕・食國《をすくに》なれば〔二字右○〕・立ち別れなば〔二字右○〕・越え隔《へな》りなば〔二字右○〕・其《そこ》思《も》へば〔二字右○〕、といふやうに、煩瑣であると思はれるまで同音の語尾を繰りかへして用ゐたのは、一種の技巧であらう。
 
4007 我|兄《せ》子は 玉にもがもな ほととぎす 聲にあへ貫《ぬ》き 手に纒きて行かむ
    右、大伴宿禰家持、掾大伴宿彌池主に贈る 【四月卅日】
 
【題意】 右の題詞に「――并に一首」とせられた反歌である。
【口譯】 我が友は藥玉であればよい。さうすればそれをほととぎすの聲に合せ貫いて、手にまとひ持つて行かうのに。
(174)【後記】 長歌の終りの部分を更に繰りかへして、別に短歌にまとめたものである。
【左註】 家持が掾たる池主に贈つた旨が記され、下に小さく、四月三十日といふ日附がある。
 
   忽ち京に入らんとして懷を述ぶる作を見、生別の悲、腸を斷つこと萬回、怨緒禁じ難し。聊か所心を奉ずる一首并に二絶
4008 あをによし 奈良を來離れ 天《あま》ざかる 鄙にはあれど 我|兄子《せこ》を 見つつし居《を》れば 思ひ遣《や》る 事もありしを 大君の 命《みこと》かしこみ 食國《をすくに》の 事|執《と》り持ちて 若草の 脚帶《あゆひ》手装《たづく》り 群鳥《むらどり》の 朝|立《だ》ち去《い》なば 後《おく》れたる 我《あれ》や悲しき 旅に行く 君かも戀ひむ 思ふそら 安くあらねは 歎かくを 止《とど》めもかねて 見渡せば 卯の花山の ほととぎす 哭《ね》のみし泣かゆ 朝霧の 亂るる心 言《こと》に出でて 言《い》はばゆゆしみ 礪波《となみ》山 たむけの神に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 我《あ》が乞ひ祈《の》まく 愛《は》しけやし 君がただかを 眞幸《まさき》くも 在り徘徊《たもとほ》り 月立たば 時もかはさず 瞿麥《なでしこ》が 花の盛に 相見しめとぞ
 
(175)【題意】 池主が家持に和へ贈つた歌で、題詞には、「忽ち京に入らむとして懷を述ぶる作を見、生別の悲、腸を斷つこと萬回、怨緒禁じ難し、聊か所心を奉ずる一首并に二絶」とある。
【口譯】 奈良を遠く離れて來て、此處は片田舍ではあるけれども、我が親しい君を見てをれば、心の慰むこともあつたのに、天皇の仰言はおそれおほいので、君は官命を奉じ、任國の政務を取り持つて、若草でつくつたやはらかい脚絆をつけて、朝立つて行つてしまはれる。さうすれば、後に殘された自分が、君よりも一層かなしく思ふであらうか。それとも、旅に行く君がもつと自分を戀しく思つてくれられるであらうか。思ふ心も安らかではないので、歎くことをとどめかね、思ひあまつて見渡すと、卯の花の咲いてゐる山には杜宇が鳴いてゐるが、それと同じやうに、自然とうち泣かれる。朝霧のやうに心は亂れるが、それを言葉に出して云ふのは憚りが多いので、礪波《となみ》山の峠の神に幣を奉つて、自分が祈り願ふことには、つつがなくお廻りになつて、月が立ちかはつたならば、時も移さず、瞿麥《なてしこ》の花の盛の頃に、慕はしい君に逢ふことができるやうにと、祈ることである。
【語釋】 ○思遣る思ひを晴らす。心を慰める。○食國《をすくに》の事|執《と》り持ちて 天皇のしろしめす國の政務を執り持つて。即ち、家持が税帳使となつて行くことを指したもので、家持の歌の中の「天皇《すめろぎ》の食國《をすくに》なれば御|言《こと》持(176)ち立ち別れなば」とあるを受けたもの。○若草の 黄麻《いちび》・野苧麻《からむし》などの麻の一種の草からとつた絲をもつて脚帶《あゆひ》を作つた故にかく云ふ。○脚帶《あゆひ》手裝《たつく》り あゆひをつけて。あゆひ〔三字傍点〕は、袴をかかげて膝のあたりで結ぶ帶のやうなもの。「齋種《ゆだね》蒔く新墾《あらき》の小田を求めむと足結《あゆひ》出で沾《ぬ》れぬこの川の瀬に」(一一一〇)、「朝戸出の君が足結《あゆひ》を潤《ぬら》す露原早く起き出でつつ吾も裳の裾|潤《ぬ》らさな」(二三五七)などと歌はれてをる。またこの句は、皇極天皇紀の蘇我蝦夷の歌、「野麻騰能飫斯能毘稜栖嗚倭※[手偏+施の旁]羅務騰阿庸比※[手偏+施の旁]豆矩梨擧始豆矩羅符母《ヤマトノオシノヒロセヲワタラムトアヨヒタヅクリコシツクラフモ》」の第四句を採つたのであらう。○群鳥《むらどり》の朝|立《だ》ち去《い》なば 群鳥が朝塒を離れて飛立つ意で、枕詞としてつらねたもの。卷十三に「群《むら》鳥の朝立ち行けば」(三二九一)とあり、笠金村の歌集中の歌には「朝鳥の朝|立《だち》しつつ群《むら》鳥の群立《むらだち》行けば」(一七八五)とある。○後《おく》れたる我《あれ》や悲しき旅に行く君かも戀ひむ 後にのこつてをる自分が、君にもまして悲しいであらうか。それとも、旅に行く君が一層自分を戀しく思はれることであらうか。卷十三の「後《おく》れたる我か戀ひなむ旅なれば君か思《しぬ》ばむ」(三二九一)とあるに學んだもの。○思ふそら安くあらねば 思ふ心が安らかでないので、卷十三の「思ふそら安からなくに」(三二九九)、卷四の安貴王の「思ふそら安けなくに」(五三四)以來おほく襲用せられてをる ○歎かくを 歎〔傍点〕くの延言で歎いてをることを。○見渡せば卯の花山のほととぎす 實景をとつて「音《ね》」に云ひかけた序詞である。卯の〔二字傍点〕花山は、卷十に「斯《か》くばかり雨の零《ふ》らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ」(一九六三)とあるごとく、卯の花の咲いてをる山の意である。奥の細道に、「卯の花山、倶利伽羅が谷を越えて」云々とあり、今も藪波村の南方の嶺をかく呼んでをるのは、この歌の卯の花山を地名と誤解したのに基づくものと云はれる。○哭《ね》のみし泣かゆ 聲に出して泣かれることである。○(177)朝霧の 朝の霧はたちまち亂れ散るゆゑに、下にかけ用ゐた枕詞である。○言《こと》に出でて言《い》はばゆゆしみ 言葉に出して言ふのははばかりがあるから。卷十に「言に出でて言はばゆゆしみ朝貌のほには咲き出《で》ぬ戀をするかも」(二二七五)、卷十一に「言に出でて云はばゆゆしみ山川の激《たぎ》つ心は塞《せ》きあへにたり」(二四三二)などの用例がある。○礪波《となみ》山たむけの神に 礪波山の峠の神に。たむけ〔三字傍点〕は、越えて行く山の坂路の登り果てた處のこと。ここで神に幣の手向をした故にその名がある。それが音便によつて峠《たうげ》となつたのである。卷三の長屋《ながやの》王の歌「佐保過ぎて寧樂《なら》のたむけに置く幣《ぬさ》は妹を目|離《か》れず相見しめとぞ」(三〇〇)、刑部垂麻呂《おさかべのたりまろ》の歌「百足《ももた》らず八十隅坂《やそすみさか》に手向《たむけ》せば過ぎにし人に蓋《けだ》し逢はむかも」(四二七)などによつても、峠において神に祈つた風習が明かに知られる。○我《あ》が乞ひ祈《の》まく 自分が神に請ひ祈ることには。祈まく〔三字傍点〕は、祈《の》む」の延言。○愛《は》しけやし君がただかを 愛する君を。この句から結句の「相見しめとぞ」につづいてをる。ただか〔三字傍点〕は、玉勝間に「多太加とは、君また妹をただにさしあてていへる言にて、君妹とのみいふも同じことに聞ゆるなり」とあり、織錦舍隨筆には「タタカは、へだたりたる時いふ詞。マサカはまのあたりにいふ詞と見えたり。タタカは其の人のうはさの正説をいふ。其の人にあはむ事をかねていふ時タタカといひて、マサカといはず。」云々とある。卷四の「吾が聞《きき》に繋《か》けな言ひそね刈薦《かりこも》の亂れて念《おも》ふ君が正香《ただか》ぞ」(六九七)、卷十三の「聞かずして黙然《もだ》あらましを何しかも公《きみ》が正香《ただか》を人の告げける」(三三〇四)などとある時は、君の消息・動靜などと見るのが適當であるが、卷九の「寐《い》も寢《ね》ずに吾はぞ戀ふる妹が直香《ただか》に」(一七八七)や、ここの句法には、玉勝間に云ふごとく妹・君とのみ見るのが中つてゐるやうである。○眞幸《まさき》くも在り徘徊《たもとほ》り 健在で廻つて來て、在り〔二字傍点〕は接頭語(178)で、繼續の意をあらはす。略解はこの下の句を「月立たば」にかけつらねて、「在々て年月廻り來らばといふ意也」としてをるがいささか無理であらう。家持が廻つて來ることである。○月立たば 月が立ちかはつたならば。○時もかはさず 時もかへず。時をうつさず。○相見しめとぞ 逢はしめ給へと祈る。と、上の「我《あ》が乞ひ祈《の》まく」にかへして見るべきである。
【後記】 別れてをることの寂しさから、再び早く逢ふことができるやうに祈る心を歌つたのである。邊境にゐながらも家持と共にあつた時の幸福をまづ述べ、官命によつて別れなければならなくなつたことを云ひ、次に殘された自分の寂しさを歌ひ、神に祈ることで結んでをる。後半に至つて、感情が次第に高潮に達してゐるが、殊に「卯の花山のほととぎす」といふ季節の景物に托して感緒を述べ、礪波山の神に祈る言葉をそのままに歌つて結んでをるところなど、頗る痛切である。後世の心をもつてすれば、誇張にすぎるやうに見えるが、當時の心としては自然のままを歌つたものであらう。
 
4009 玉ほこの 道の神たち 幣《まひ》はせむ 我《あ》がおもふ君を なつかしみせよ
 
【題意】 以下の二首は、題詞に二絶と記された反歌である。
(179)【口譯】 道の神樣たちよ、お供へ物をさしあげませう。どうか我が思ふ君を、親しく思召してお守り下さい。
【語釋】 ○幣はせむ まひ〔二字傍点〕は贈物の意。書紀に「幣」の字をあててをり、集中にも、「天爾座月讀壯子幣者將爲《あめにますつくよみをとこまひはせむ》」(九八五)、「幣者將爲遐莫去《まひはせむとほくなゆきそ》」(一七五五)など、幣〔傍点〕の字を用ゐた例がある。○なつかしみせよ・なつかしみ〔五字傍点〕は、動詞「なつかしむ」の名詞の形。親しくせよ、愛せよ、の意で、なつかしき者に思召して、愛護を垂れ給へ、といふやうに用ゐたものである。
【後記】 「幣はせむ」といふ用例には、語釋の條にあげたほかにも、卷五の憶良の作と推定される歌がある。
  稚《わか》ければ道行き知らじ幣《まひ》は爲《せ》む黄泉《したべ》の使負ひて通《とほ》らせ(九〇五)
 
4010 うら戀《ご》ひし 我|兄《せ》の君は 瞿麥《なでしこ》が 花にもがもな 朝朝《あさなさな》見む
    右、大伴宿禰池主の報へ贈り和する歌 【五月二日】
 
【題意】 心に戀ひ慕ふ我が友は、瞿麥《なでしこ》の花であつてくれればよい。さうしたならば毎朝ながめようものを。
(180)【語釋】 ○うら戀《ご》ひし うら戀ひしきに同じ。うら〔二字傍点〕は心。○朝朝《あさなさな》見む あさなさな〔五字傍点〕は、「あさなあさな」の略。「隱《こも》りのみ戀ふれば苦し瞿麥《なでしこ》の花に咲き出よ朝旦《あさなさな》見む」(一九九二)などとある。
【後記】 未だその季節ではないが、やがて咲くべき花であるから、採り用ゐたのであらう。家持が坂上大孃に贈つた歌に、
  石竹《なでしこ》のその花にもが朝旦《あさなさな》手に取り持ちて戀ひぬ日|無《な》けむ(四〇八)
  吾が屋外《やど》に蒔きし瞿麥《なでしこ》いつしかも花に咲きなむ比《なぞ》へつつ見む(一四四八)
とあり、また彼は、越中においても左の如く詠んでをる。
  なでしこが花見る毎《ごと》にをとめ等《ら》がゑまひのにほひ思ほゆるかも(四一一四)
 かうして、この花を婦人の風姿になぞらへるのは、まことに適切である。しかし、ここは男子のことに用ゐてゐるのであるが、この用例は、ほかに家持に贈つた笠女郎の歌がある。
  朝ごとに見る吾が屋戸《やど》の瞿麥の花にも君はありこせぬかも(一六一六)
堂々たる男子をさして、撫子の花であれかしと云ふのは、今日の心でみれば、甚だ異樣である。しかし、この花を好んで庭に蒔き植ゑてそれに親しみ、朝毎に見、朝な朝な眺めてゐた當時においては、極めて自然な願望であつたらう。「朝朝《あさなさな》見む」といふところに主要な點がある(181)からである。また一面には、この花を男子の上に用ゐることの適不適などといふことに、こまかな心づかひをせぬ萬葉人らしさも感じられる。
【左註】 右、大伴宿禰池主の報へ贈り和する歌とあつて、下に小さく五月二日と日附がある。
 
   放逸せる鷹を思ひ、夢《いめ》に見て感悦して作れる歌一首并に短歌
4011 大王《おほきみ》の 遠の朝廷《みかど》ぞ み雪降る 越《こし》と名に負《お》へる 天《あま》ざかる 鄙にしあれば 山高み 河とほじろし 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛と 島つ鳥 鵜養《うかひ》が伴《とも》は 行く河の 清き瀬ごとに 篝《かがり》さし なづさひ上《のぼ》る 露霜の 秋に至れば 野も多《さは》に 鳥|多集《すだ》けりと ますらをの 伴いざなひて 鷹はしも 數多《あまた》あれども 矢形尾《やかたを》の 我《あ》が大黒《おほぐろ》に【大黒は蒼鷹の名なり】 白塗《しらぬり》の 鈴取り附けて 朝※[獣偏+葛]《あさかり》に 五百《いほ》つ鳥立て 夕※[獣偏+葛]《ゆふかり》に 千鳥踏み立て 追ふ毎《ごと》に 免《ゆる》すことなく 手放《たばな》れも 還來《をち》もか易き これを除《お》きて 又はあり難し さ竝《なら》べる 鷹は無けむと 情《こころ》には 思ひ誇りて 笑《ゑま》ひつつ 渡る間《あひだ》に 狂《たぶ》れたる 醜翁《しこつおきな》の 言《こと》だにも 吾には告げず との曇《ぐも》り 雨(182)の降る日を 鳥狩《とがり》すと 名のみを告《の》りて 三島野を 背向《そがひ》に見つつ 二山の 上飛び越えて 雲隱《くもがく》り 翔り去《い》にきと 歸り來て 咳《しはぷ》れ告ぐれ 招《を》くよしの そこに無げれば 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ戀ひ 息|衝《づ》き餘り けだしくも 逢ふことありやと あしひきの 彼面此面《をてもこのも》に 鳥網《となみ》張り 守部《もりべ》を居《す》ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文《しづ》に取添へ 乞祈《こひの》みて 吾《あ》が待つ時に 少女《をとめ》らが 夢《いめ》に告ぐらく 汝《な》が戀ふる その秀《ほ》つ鷹は 松田江の 濱行き暮らし ※[魚+制]《つなし》漁《と》る 氷見《ひみ》の江過ぎて 多故《たこ》の島 飛び徘徊《たもとほ》り 葦鴨の 多集《すだ》く舊《ふる》江に 一昨日も 昨日も在りつ 近くあらば 今|二日《ふつか》許《だみ》 遠くあらば 七日《なぬか》のうちは 過ぎめやも 來《き》なむ吾|兄子《せこ》 懇《ねもごろ》に な戀ひそよとぞ 夢に告げつる
 
【題意】 家持が愛して鳥狩に用ゐてゐた鷹を、養吏の過失によつて放逸し、夢に神宣を得て、感悦して作つた歌である。
 左註に、九月二十六日の作とある。家持が税帳使の任務をはたして越中に歸つて後の作である。
【口譯】 この越中の國府は、わが天皇陛下の遠い朝廷である。雪のふる越《こし》といふ名の邊鄙な所で(183)あるから、山が高くて、河がおほきく悠々と流れてをる。野が廣くて草が茂つてをる。夏の盛の頃には鮎が走るとて、鵜養《うかひ》の人たちは流れゆく河の瀬ごとに篝をかざしつつ水につかつて河を上るのである。秋になると野に澤山に鳥が集まつてゐるとて、男たちは友を誘つて鷹狩に出る。鷹は多くあるけれども、とりわけて優れた矢形尾の我が大黒に白塗の鈴をとりつけて、朝夕の狩に數多の鳥を踏みたてて狩をすると、追ふ毎にのがすことなく鳥を捕へ、手を放れてゆくことも、獲物をもつて手もとへ歸つてくることも速かである。この鷹をのぞいてほかにあるまい。これに匹敵する鷹は無いであらうと、心のうちに自慢に思つて、うち笑みつつ得意になつて日を送つてゐた。しかるに、愚な憎らしい老人が、自分には何も言はず、天が一面に曇つて雨の降る日に、鳥狩をするとて名ばかりを告げて狩に出て、三島野を彼方に見つつ二上山を飛び越えて、鷹は雲に隱れて翔り去つてしまつたと、歸つて來て咳きつつ言ひにくさうに告げたのである。今は鷹を招きよせることもできないので、何と言ふべきか言ふ方法も知らず、心には火さへも燃えるやうで、息も苦しいほどに戀ひ焦れて、若しや逢ふこともあらうかと、山のかなたこなたに鳥網を張り、守部をおいて、神の社には清らかな鏡を倭文幣《しづぬさ》にとりそへて祈つて待つてゐたところが、ある夜の夢に少女が現はれて告げるには、お前の戀しく思ふ秀れた(184)鷹は、松田江の濱を行き暮らし、※[魚+制]をとる氷見の江をすぎ、多胡の島を飛びまはり、葦鴨の群れ集まる舊江《ふるえ》に一昨日も昨日もゐたのである。早くはここ二日ばかり、おそくとも七日のうちは過ごすまい。その間には必ず歸つて乘るであらう、そのやうに深く戀ひ焦れるなよと、夢のお告《つげ》があつたことである。
【語釋】 ○大王《おほきみ》の遠の朝廷《みかど》ぞ この越中の國府は、天皇の遠くの朝廷ぞ。遠の朝廷〔四字傍点〕は、遠くにある役所。卷三の人麿の歌に「大王《おほきみ》の遠《とほ》の朝廷《みかど》と在《あ》り通《がよ》ふ島門《しまと》を見れば神代《かみよ》し念《おも》ほゆ」(三〇四)とある。○み雪降る み〔傍点〕は接頭語。○越《こし》と名に負《お》へる 越といふ名をもつてをる、即ち、越といふ名の。越〔傍点〕は今の北陸道の總稱。○山高み河とほじろし 山は高くて、河は雄大である。「とほじろし」は、遠く鮮かな意とする説もある。卷三の赤人の神岳《かみをか》に登つて作つた歌(三二四)にも、同樣の句が用ゐられてをる。○草こそ茂き 草こそ茂けれ、とあるべきを、古格に從つて、かく用ゐたのである。○鮎走る夏の盛と 夏の盛になると鮎が走るとて、といふ意。○島つ鳥|鵜養《うかひ》が伴《とも》は 島つ鳥〔三字傍点〕は、「島に凄む鳥の鵜」とつづく枕詞。この句は、古事記神武天皇紀のなかの「志麻都登理宇加比賀登母《シマツトリウカヒガトモ》」にならつたものである。○篝《かがり》さし 篝火をさしかざし。篝〔傍点〕は、鐵の籠に柱があつて上で木を焚くもの。赫《かが》りの義。さしは、かざす・ともす、などの義があつて、ここはいづれも適するやうであるが、上に「瀬ごとに」とあるので、さしかざす意とみるのが適切であらう。○なづさひ上《のぼ》る 水にぬれつつ川上にのぼつてゆく。なづさふ〔四字傍点〕は、水に漬ること。卷三に「八雲刺《やくもさ》す出等の子|等《ら》が黒髪は吉(185)|野《ぬ》の川の奥《おき》になづさふ」(四三〇)、卷六に「海原の遠き渡《わたり》を遊士《みやびを》の遊ぶを見むとなづさひぞ來し」(一〇一六)、卷十五に「鳰鳥のなづさひ行けば」(三六二七)などとあつて、浮ぶ・沈む・漂ふ・渡る、など、いづれにも用ゐる。○露霜の 枕詞。「露霜のおく秋」とつづく。○鳥|多集《すだ》けりと 鳥が集つてゐるとて。すだく〔三字傍点〕は、多く群れ集ること。○ますらをの伴《とも》いざなひて 男たちが友を誘つて。この下に、鷹狩の意を補つてみるべきである。○鷹はしも し〔傍点〕とも〔傍点〕は強めの助辭。○矢形尾《やかたを》の これについては古來種々の説がある。奧儀抄には、矢形尾〔三字傍点〕の文字どほりにみて「やかた尾とは尾のふの矢の羽のやうにさがりふにきりたる鷹なり。集には矢形尾と書けり」とある。袖中抄には屋形尾と解し、「顯昭云、やかたをとは、鷹の相經には、屋像尾《ヤカタヲ》・町像尾《マチカタヲ》との二の樣をあげたり。やかたとは屋の棟のやうにさがりふに切りたるをいひ、町かたとは田の町のやぅによこさまにうるはしうきりたるなるべし。」云々とある。卷十九にも「矢形尾乃麻之路能鷹乎《やかたをのましろのたかを》」(四一五五)とある。○我《あ》が大黒《おほくろ》に 下に註せられてある如く、鷹につけた名である。蒼鷹〔二字傍点〕はおほたか。○白塗《しらぬり》の鈴取り附けて 鳥を追うて飛んでいつた鷹の行方を知る爲めに、その尾に鈴をつけたのである。白塗の鈴〔四字傍点〕は鍍銀した鈴であらう。○朝※[獣偏+葛]《あさかり》に五百《いほ》つ鳥立て 朝の狩に多くの鳥を追うて飛び立たしめ。○夕|※[獣偏+葛]《かり》に千鳥踏み立て 踏み立て〔四字傍点〕は、草を踏んでかくれてをる鳥を飛び立たしめる意。卷六の赤人の作に、「朝獵に鹿猪《しし》履《ふ》み起《おこ》し夕狩に鳥|踏《ふ》み立て」(九二六)とあり、家持は卷三(四七八)にも同樣の句を用ゐてをる。○追ふ毎《ごと》に免《ゆる》すことなく 追ふ毎にのがすことなく、追ふ毎にのがすことなく鳥を捕へる、といふ意。○手放《たばな》れも 鷹が鳥にむかつて手もとを飛び放れること。○還來《をち》もか易き をち〔二字傍点〕は、動詞「をつ」の名詞法。もとにかへること。「か易き」のか〔傍点〕(186)は接頭語。手もとへ飛びかへることも速かであるといふ意。「か易き」と、形容詞の連體法を用ゐてゐるのであるから、易き(こと・もの・鷹)は、「これを除《お》きて」と、下に連續する句法であるが、行文の煩雜になるのを避ける爲めに、口譯ではここで切つておいた。○さ竝《なら》べる さ〔傍点〕は接頭語。竝べる〔三字傍点〕は、自動詞「ならぶ」の已然形ならべ〔三字傍点〕に、助動詞り〔傍点〕の變化る〔傍点〕が添うた形で、竝びてある、即ち、匹敵する、といふ意である。○笑《ゑま》ひつつ 笑みつつ。ゑまふ〔三字傍点〕は、「ゑむ」の延言。○渡る間《あひだ》に 渡る〔二字傍点〕は繼續をあらはす。日を送る間に。○狂《たぶ》れたる たぶれ〔三字傍点〕は狂ふこと。書紀・續紀などに狂〔傍点〕をタブレと訓んであり、和名抄にも「狂訓2太布流1【俗云毛乃久流比】」とある。ここは、ものに狂うたやうに愚かな、といふ意で用ゐたものであらう。○言《こと》だにも吾には告げず 自分には何も言はず。○との曇《ぐも》り たなぐもりに同じ。雲の棚びき曇ることを云ふ。卷十二に「との曇《ぐも》り雨ふる河のさざれ浪」(三〇一二)、卷十三に「との曇《ぐも》り雨は降り來《き》ぬ」(三二六八)とあり、家持は卷十八に「この見ゆる雲ほびこりてとの曇《ぐも》り雨も降らぬか心|足《だら》ひに」(四一二三)と詠んでをる。○鳥狩《とがり》すと名のみを告《の》りて 鷹狩をするとて名ばかりをつげて。鷹狩をするといふ名のみをつげて、といふ意か。鷹狩をするとておのれの名のみを告げて、と解する説もある。いづれにしても、明快を缺く云ひ樣である。○三島野を 三島〔二字傍点〕は和名抄に「射水郡、三島【美之萬】」とあるところで、今はその名が殘つてをらぬ。今の大門町附近から石瀬野につづいた平野であらうといはれてをる。卷十八に家持が、「一、更に目を矚す」と題して、「三島野に霞たなびき然すがに昨日も今日も雪は降りつつ」(四〇七九)と詠んでゐるところをみると、國守館の丘上から遙かに眺められたことが明かである。○二山の上飛び越えて 元暦校本・類聚古集に「二山上登妣古要底」とあ(187)る。二山上〔三字傍点〕は、「二上山」の誤で、二上の山飛び越えて、の意であらう。○翔《かけ》り去《い》にきと 飛び去つてしまつたと。○咳《しはぶ》れ告《つ》ぐれ 咳れ〔二字傍点〕は、動詞「しはぶる」の連用形で、咳きに同じ。告ぐれ〔三字傍点〕は、「告《つ》ぐれば」の略。老人が咳をしながら、云ひにくさうに語る樣を寫したもの。○招《を》くよしの 鷹を招く方法が。卷十九に「月立ちし日より招《を》きつつうち慕《しぬ》び待てど來鳴かぬ霍公鳥《ほととぎす》かも」(四一九六)とあることによると、餌などをおいて鳥を招きよせることが行はれてゐたのであらう。○言ふすべのたどきを知らに すべ〔二字傍点〕もたどき〔三字傍点〕も相似た意味の語であるが、連ね用ゐて強調したもの。知らに〔三字傍点〕は、「知らず」の變化である。この句法は、卷五に「爲《せ》む術《すべ》の爲方《たどき》を知らに」(九〇四)とあつて、家持はこの卷(三九六二)にも、それと同一の句を使つてをる。○心には火さへ燃えつつ 心中の憤りを云ふ。○息|衝《づ》き餘り 吐息をつくに餘つて。即ち、外にあらはして吐息をついて。卷七に「水隱《みごも》りに息衝《いきづ》きあまり早川の瀬には立つとも人に言はめやも」(一三八四)とある。○けだしくも逢ふことありやと 若し(鷹に)逢ふこともあらうかと。けだしくも〔五字傍点〕は、「蓋し」といふに同じ。卷七に「琴取ればなげき先立《さきだ》つけだしくも琴の下樋《したひ》に嬬《つま》や匿《こも》れる」(一一二九)、卷十に「何《な》ぞ鹿の 佗鳴《わびばき》すなる蓋《けだし》くも秋野の萩や繁く散るらむ」(二一五四)といふ用例がある。○あしひきの 「山」の枕詞であるのを、直に山の意に用ゐてある。この用例は、卷十一に「窓|越《ご》しに月おし照りてあしひきの嵐吹夜は君をしぞ念ふ」(二六七九)とあつて、家持は卷三に「あしひきの岩根|凝《こご》しみ」(四一四)、卷八に「あしひきの木《こ》の間《ま》立ち潜《ぐ》く霍公鳥」(一四九五)と用ゐてをる。これは、奈良朝になつてから云ひならされたものであらうと云はれる。○彼面此面《をてもこのも》に あちらこちらに。卷十四の東歌の中に、「足柄の彼面此面《をてもこのも》に刺す羂《わな》の」(三三六一)、「筑波|嶺《ね》の彼面此面《をてもこのも》に守部《もりべ》居《す》ゑ」(188)(三三九三)とある。それにならつて、家持が東語を用ゐたのであらう。○鳥網《となみ》張《は》り 鳥を取るための網を張り。○守部《もりべ》を居《す》ゑて 番人を置いて。○ちはやぶる 枕詞。逸速振《いちはやぶる》をつづめたもので、勢の強く、勇猛なといふ意から、神の威光にかけて用ゐる。○照る鏡|倭文《しづ》に取り添へ 清い鏡を倭文幣にそへて神にそなへ。倭文〔二字傍点〕は古への織物の名で、栲・麻・などの緯《ぬき》を蒼赤などに染め、亂れたやうな文《あや》に織りなしたもの。ここは、倭文の幣のことで、卷十三に、「倭文幣《しづぬさ》を手に取り持ちて竹珠《たかだま》を繁《しじ》に貫《ぬ》き垂り天地の神をぞ吾が乞《こ》ふ」(三二八六)とあり、卷十九にも、「木綿襷《ゆふだすき》肩に取り掛け倭文幣《しづぬさ》を手に取り持ちて」(四二三六)などとある。○その秀《ほ》つ鷹は その優れた鷹は。○松田江の濱行き暮らし 松田江の濱を飛び行きて日を暮らし。松田江の濱は、さきの「布勢水海に遊覽する」賦のなかに「澁溪の埼|徘徊《たもとほ》り松田江の長濱過ぎて」(三九九一)とあつたところで、澁溪と氷見との間の海岸であらうと推定されてをる。○※[魚+制]《つなし》漁《と》る つなし〔三字傍点〕は、「このしろ」の類。○氷見《ひみ》の江過ぎて 氷見の江については、氷見の海とするものと、布勢水海とするものと、氷見の海と布勢水海とをつなぐ水路とするものとの三説がある。第三のものは、今も氷見町の背後を流れ、町の中央から海にはひつてをる緩い水路である。○多故《たこ》の島 布勢水海の東南岸の多故の流のほとりにあつた島であらう。○飛び徘徊《たもとほ》り 飛びめぐり。卷十八に家持は、「乎敷《をふ》の埼漕ぎ徘徊《たもとほ》り」(四〇三六)と詠んでをる。○葦鴨の多集《すだ》く舊江《ふるえ》に 舊江〔二字傍点〕は布勢水海の南岸にあつた村の名である。この句は卷十二の「葦鴨《あしがも》の多集《すだ》く池水」(二八三)に學んだものであらう。○近くあらば今|二日《ふつか》許《だみ》 早くばここ二日ばかり。だみ〔二字傍点〕は、この地方の俗語で、「ばかり」の意であらう。考には、「だみ」のみ〔傍点〕は「まり」の約で、「二日留」といふ意であると説かれてある。以下の八句は、卷(189)十三の「久ならば今七日ばかり早からば今二日ばかりあらむとぞ君は聞《きこ》ししな戀ひそ吾味《わぎも》」(三三一八)に模して作つたものであらう。○來《き》なむ吾|兄子《せこ》 歸つて來るであらうわが君よ。○懇《ねもごろ》にな戀ひそよとぞ 深く戀しく思ふなよと。「――な戀ひそよ」までが、夢の告の言葉である。○夢《いめ》に告げつる 告《つ》げたことであるよ、の意である。
【後記】 北陸にゐて鷹狩などを樂しみとして欝を遣つてゐた家持の面目の現はれた作である。先づ、越中の國府は僻遠の土地であるから、面白い遊もないが、夏は鵜飼、秋は鷹狩を慰安とする旨をのべ、次に、多い鷹の中でも最も愛する自慢の逸物大黒の隼敏な特長を叙し、ついで、養吏の老人が天候の惡い日に無斷で鷹狩にもちだし、それをのがしてしまつたことを老人の物語によつて寫してをる。ついで家持自身の痛憤に堪へぬ心理、捜索の手段をつくしたあげく、神に祈つたことに及び、夢裡に靈驗があつて現はれた少女の神託をもつて結んでをる。しかも餘情を殘して、そのお告のとほり、近くあの鷹が歸つてくれればよいがといふ主觀を言外に含めてゐるのである。句の連ね方は法格に適つてをらぬ點もあつて、齊整の形式とは云ひ難いが、相當の長篇を、弛緩のあとなく詠じて、面白く讀ませるのは、作者の情熱のおのづから奔騰するゆゑであらう。部分的にみれば、老人が咳をしながら言ひにくさうに語る樣が、目に見(190)えるやうに寫しだされてをり、その老人に對する憤が「狂《たぶ》れたる醜《しこ》つ翁《おきな」なる語に痛切にあらはれ、「心には火さへ燃えつつ」の心理描寫も巧みである。更に進んで穿鑿すれば、少女の夢兆の段は、彼の父旅人の神仙趣味、殊に「此琴夢に娘子に化《な》りて」云々の序をもつ梧桐日本琴の歌(八一〇)や、「梅の花|夢《いめ》に語らく風流《みやび》たる花と吾《あれ》思《も》ふ酒に浮《うか》べこそ」(八五二)などにならつて構想をたてたのではないか、と思はれる。ことごとくが空想ではないとしても、「近くあらば」以下の八句が、卷十三にある、紀の國に赴いた愛人の歸りのおそいのを思ひわびて夕卜《ゆふうら》を問うた婦人の歌(三三一八)の中の「夕卜の吾に告《の》らく」云々とある終りの部分に似てをるところをみると、家持は巫女を招いて占をさせ、それを夢の少女に假託したのではないか、と推測せられる。尚、鷹狩は、三韓時代に朝鮮から傳へたもので、仁徳天皇の朝に始まると云はれてをり、漸時盛に行はれ、令の制によるに、兵部省の管下に、主鷹司が置かれてをる。後、民部省に移管して放鷹司と稱せられたことも見える。佛教の盛になるにつれて、これが禁ぜられ、元正天皇の養老五年、聖武天皇の神龜五年などに、飼鷹を禁ずる勅が出た。しかし、その禁令の行はれなかつたことは、この歌によつても明かである。邊境にあつた官人どもが、これを最大の娯樂としてゐたことは、想像し得るであらう。卷十九にも家持は、「白き大鷹を詠める歌」(四一五四)(191)をつくつて、鷹狩の樂しみを歌つてをる。
 
4012 矢形尾《やかたを》の 鷹を手に据《す》ゑ 三島野に 獵《か》らぬ日|數多《まね》く 月ぞ經にける
 
【題意】 以下の四首は、右の反歌である。
【口譯】 矢形尾の鷹を手に据ゑて、三島野に狩をせぬ日が多く、月がたつたことである。
【語釋】 ○月ぞ經にける 月が經つたことである。けり〔二字傍点〕は、詠嘆の意をあらはす助動詞。
【後記】 形式齊整の歌である。下の句の手法には、左の如き用例がある。
  情《こころ》には忘れぬものをたまたまも見ぬ日さ數多《まね》く月ぞ經にける(六五三)
  垣ほなす人の横言《よこごと》繁みかも逢はぬ日|數多《まね》く月の經ぬらむ(一七九三)
  み空行く名の惜しけくも吾はなし逢はぬ日|數多《まね》く年の經ぬれば(二八七九)
  思ひ遣《や》るすべのたどきも吾はなし逢はなく數多《まね》く月の經ぬれば(二八九二)
 
4013 二上《ふたかみ》の 彼面此面《をてもこのも》に 網さして 吾が待つ鷹を 夢《いめ》に告げつも
 
【口譯】 二上山の彼方此方に網を張つてひたすら自分の待つてをる鷹のことを、夢に少女があら(192)はれて告げたことであるよ。
【語釋】 ○網さして 網を張つて。○吾が待つ鷹を 自分が待つ鷹のことを。○夢《いめ》に告げつも 夢に(少女が)告げたことであるよ。も〔傍点〕は詠嘆。
【後記】 その趣旨も句法も長歌中のものを反覆してをるのみである。
 
4014 松反《まつかへ》り しびにてあれかも さ山田の 翁《をぢ》が其の日に 求め逢はずけむ
 
【口譯】 待つてをる鷹がやがて歸つてくるとの夢の告は、しひごとであらうか。否、必ず眞實のことであらう。それ故に、鷹をそらしたその日に、心を盡してくはしく尋ねたならばたづね得たであつたらうに、山田の老人がどうしてその日にさがし逢はなかつたのであらう。
【語釋】 ○松反《まつかへ》り 松の色の變ることと見、下へ「松の色の變るといふのはしひ言である」と言ひつづける意で、「しび」の枕詞となると解く説がある。卷九には「松反四臂而有八羽《まつがへりしひてありやは》」とあるが、その松反〔二字傍点〕の二字は借字で、待つ者は必ず歸るといふ意味の俗諺があつたものと見る説もある。かかる諺があつたとしても、ここは夢の告といふ趣向に適《かな》はせむ爲めに用ゐたのであらう。○しびにてあれかも しひ言であらうか、といふ反語に用ゐたのであらう。卷九には、※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す人もあれやも〔四字傍点〕家人の春雨すらを間使《まづかひ》にする」(一六八九)といふ反語の用例があるが、これには異説があつて、しひ言にてあればかも、即ち、誣言であるからか、といふ意(193)で、「れば」のば〔傍点〕を省略したものと見てをる。その用例には、「吾背子が斯く戀ふれこそ」(六三九)、「咳《しはぶ》れ告《つ》ぐれ」(四〇一一)その他があつて、文法上は正確であるが、意味は全く違つたものになるので、「後記」の條に詳細に論ずるであらう。○さ山田の さ〔傍点〕は接頭語。山田〔二字傍点〕は左註にある山田史君麿をさす。○翁《をぢ》が其の日に 老人がその日に。其の日〔三字傍点〕は、鷹を失つた日をいふ。○求め逢はずけむ さがして逢はなかつたのであらうか。何故、どうして、などといふ語を補つてみるべきであらう。古義に、「――とかく心を盡してくはしく求めなば、求めあはねことはあらじを、然のみ心をもつくさずして、いかで求め合はざりけむ、さても恨めしきことや、と惡みたるにや、猶考ふべし。」とある。けむ〔二字傍点〕は、第二過去の助動詞「けり」を推測して云ふ形で、語原は「けり」と、未來の「む」との約まつたものか、と云はれる。この語は動詞の連用形に連るのが普通であるが、これは打消の助動詞「ず」に連つた例である。
【後記】 奇拔な表現を見のがすことなく、自家樂籠中のものにせむとする作者の好尚は、卷九にある人麿歌集の作の上句に魅惑と示唆とを感じたのであらう。
  松反《まつかへ》りしひてありやは三栗《みつぐり》の中《なか》に上《のぼ》り來《こ》ず麻呂と云ふ奴《やつこ》(一七八三)
その句法が珍奇で晦澁である爲めに、それを踏襲したこの歌は、極めて佶屈な色調をおぴてゐるのである。しかも「之比爾底安禮可母《しびにてあれかも》」としたために、語調の上には澁みを加へ、語意をぼかした感がある。即ち、反語として明瞭なものではなく、卷九の「※[火三つ]干人母在八方《あぶりほすひともあれやも》」(一六九八)に(194)その類例を見るのみである。古義には、「略解に、待は却て強事《しひごと》なるか、山田の翁が手放しつる日に求れども鷹にあはざりけむと言ふ意なるべしと言へれど、もしさる謂ならば安流可母と云べき例にこそあれ、すべて古言の用格の例を見集めて、強《しひ》にてあるかと云意には通《きこ》えがたきをさとるべし」云々とある。なるほど疑問の助詞「か」は、動詞の連體形に連るものであるから、疑の意ならば、「しひにてあるかも」とすべきものである。しかし、その點を指摘したのみで、異論を駁しつくすことはできぬ。雅澄は、「あれかも」が「あればかも」の略であるとみる説の生じ得ることに氣づかなかつたのである。かかる「あれば」の「ば」の省略せられた二つの例は、語釋の條にあげておいたところであるが、更に、これと累似の一例を左にあげてみよう。
  古《ふ》りにし人にわれあれや〔三字右○〕さざなみの故《ふる》き京《みやこ》を見れば悲しき(三二)
「あれや」は、「あればや」で、ある故かといふ意である。この歌も、それと同じく、「あればかも」即ち、ある故か、と解し得る句法であつて、これに從ふ時、一首の意味は次のとほりになる。
 待つてをれば必ず歸つて來るといふ夢の告は誣言《しひごと》であるから、山田の老人は、鷹をそらした(195)その日に捜しても、さがし逢はなかつたのであらうか。
 文法的にみて法格にかなひ、意味もまた極めて明瞭になるのである。しかも、なほかつ古義の解法がすてがたく思はれるのは、上代人の信仰の態度に關してである。即ち、上代人は占卜や夢兆を尊ぶ迷信の傾向をもつてゐたのであるから、「しひ言であるからか」と否定してかかつたものと見るよりは、「しひ言であらうか、否、眞實のことであらう」といふ反語の意味にとる方が、古意を得たものと思はれる。鷹のかへらぬ恨を、夢の告の虚言にむけると解するよりも、それを信じて、山田老人の捜索の不熱心にむけたと見るのが、おもしろくもあるやうである。從つて、解釋は、古義の説に據つておいた。
 
4015 情《こころ》には ゆるぷことなく 須加《すが》の山 すがなくのみや 戀ひ渡りなむ
    右、射水郡古江村に蒼鷹を取り獲たり。形容美麗にして雉を※[執/鳥]《と》ること群に秀でたり。時に養吏山田史君麿、調試節を失ひ、野獵候に乖く。搏風の翅高く翔りて雲に匿れ、腐鼠の餅呼び留るに驗靡し。ここに羅網を張り設けて非常を窺ひ、神祇に奉幣して不(196)虞を恃む。粤《ここ》に夢裏に娘子あり。喩して曰く、使君苦念を作して空しく精神を費すこと勿れ、放逸せる彼の鷹、獲り絡むこと近からむかと。須臾にて覺寤し、懷に悦あり。因りて恨を却くる歌を作りて、式《も》ちて感信を旌はす。守大伴宿禰家持 【九月二十六日の作なり】
 
【口譯】 心のなかにはゆるむことなく、須加の山の名のやうに、すがなくのみ、いつまでも、にげた鷹のことを戀ひしく思ひ暮すことであらう。
【語釋】 ○情《こころ》にはゆるぶことなく 顔色や言動にあらはさずとも、心の中では、この思が弛むことなく。ゆるぶ〔三字傍点〕は「ゆるむ」。即ち、ゆるやかになつて、その悲しみの薄らぐ意。○須加《すが》の山 この山の所在について、古義は「源平盛袁記三十に、越中の國に須川山と云あり、是なるべし」と云ひ、萬葉越路の栞には、これを駁して「古義には、源平盛衰記の倶利加羅の役に須川《すが》、林に云々とある所なりと見えたれども、本集本歌の須川山とは全く異所なり。思ひまがふべからず」とあつて、これを礪波郡宮島村字|須川《スガ》の山であらうとし、楢葉越の枝折には、今の姿村の山としてをる。しかし、いづれもその名の類似から出た臆測であつて、根據はない。正倉院文書の中には、この歌に書いてあるとほり、須加山とあつて、射水郡内に記されてをる。今日その名は殘つてをらず、その所在を明確にしがたいが、射水郡内の國府から望まれるところにあつたのであらう。○すがなくのみや すがなく〔四字傍点〕は、代匠記初稿本は、透《すき》なくで、透間なくの意とし、考は、よすがなくと解し、略解は、それに從つて、無因所《ヨスガナグ》の略言であらうとしてをる。古義は、「字鏡に、※[口+喜]※[口+羅](ハ)心中(197)不2悦樂1貌、坐(テ)歎(ク)、須加奈加留《スガナカル》。催馬樂蘆垣に、菅の根のすがなきことをわれはきくかな、これらを考へ合せて其意をさとるべし」と述べてゐるが、この説が妥當であると思はれる。
【後記】 須加の山といふ附近の地名をとつて枕詞としたもので、「すがなく」といふ語が珍らしい。これは、集中における唯一つの用例である。
【左註】 右、射水郡古江村で大鷹を捕獲した。その姿が麗はしく、雉をとることは群をぬいてすぐれてをつた。ところが、養吏の山田史君麿が、それを馴らして合せ試みることに調節を失ひ、しかも、その日は天候が惡くて鷹狩には適しなかつた。それ故に、風を搏つ翅も高く飛びかけつて、雲にかくれ、腐つた鼠を餌とするくらゐのことでは、呼び留めるに效果がない。そこで、網を張りそなへて萬一にも網にかかることもあらうかと僥倖をねらひ、天地の神々に幣を奉つて祈り、思ひもかけず歸つてくることもあらうかと心にたのんでゐた。すると、夢の中に娘子があらはれた。しかして喩して云ふにには、國守は思を苦しめて空しく心をつかつてはならぬ。それで飛び去つたあの鷹は、近く獲り得ることであらうと。しばらくして眼がさめてみると、胸のうちに悦びがあつた。よつて恨をのぞく歌をつくつて、もつて感悦と信仰との念をあらはすことである。守大伴宿禰家持。これは九月二十六日の作である。
 ○蒼鷹 おほたか。或は、羽毛に蒼白色をおびた鷹とも云ふ。○※[執/鳥]《と》る 説文に、※[執/鳥]殺v鳥也とある。猛鳥が小鳥を撃ち殺すことにいふ。○養吏 鷹を飼ふ役人。即ち鷹匠。○調試節を失ひ 鷹をならし合せ試み(198)ることが節度を失ひ。○野獵候に乖く 野にでて狩をすることか、時候にそむいてゐた。天候の惡い日に鷹狩をして、それが狩に適せぬことをいふ。○搏風の翅 風を搏つ翅。翅で風を搏つて勢よく飛びかけること。この句は、莊子逍遙遊篇に、「搏2扶搖羊角1而上者九萬里」とあるによつたものであらう。扶搖は※[風+火三つ]のことで烈風の意である。○腐鼠の餌呼び留るに驗|靡《な》し 腐つた鼠の餌では飛び去る鷹を呼びとめるにききめがない。略解には、「腐鼠之餌は小鳥の好めるものなれば、かへり見もせぬ也。」とある。卷十九の家持の歌に「月立ちし日より招《を》きつつうち慕《しぬ》び待てど來鳴かぬ霍公鳥《ほととぎす》かも」(四一九六)とあるをみても、當時は餌をおいて鳥を呼び寄せることが實際に行はれてあたことがわかる。しかし、ここは、長歌中の、招《を》くよしのそこに無ければ」とある意を修飾して述べたまでのことで、實際に腐鼠を餌として呼ばむと試みたのではない。この句は、莊子から得たことが明かである。秋水篇に云ふ。「夫※[宛+鳥]雛發2於南海1而飛2北海1。非2梧桐1不v止。非2練實1不v食。非2醴泉1不v飲。於v是鴟得2腐鼠1。※[宛+鳥]雛過v之。仰而視v之曰v嚇。云々。」○非常を窺ひ 萬一網にかかること。非常のことをうかがひ。○不虞を恃む 思ひまうけぬことをたのみとする。略解に、「不虞はおもひかけぬ意なれば、神に祈りなば、思ひ絶たるにもふと歸りくる事もあらむかとたのむ意有也。」とあるのは、考へすぎであらう。神に祈つて、ほとんど期待し得ざることを、なほたのみとする意。即ち、萬一をたのむ意である。○使君 漢・唐時代の州の長官の稱呼。即ち、國守をさして云ふ。○苦念を作して 苦しい思をなして。思を苦しめて。○恨を却くる歌 却は郤の俗字。恨を退くる。恨をやめる。○式ちて感信を旌はす 以つて感激と信仰とを顯す。「式ちて」は發語。
 
(199)   高市連黒人の歌一首 【年月審ならず】
4016 婦負《めひ》の野の 薄《すすき》押し靡《な》べ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思はゆ
    右、此歌を傳へ誦するは、三國眞人五百國《みくにのまひといほくに》なり。
 
【題意】 高市連黒人の歌で、年月は審かではない。
 高市黒人は、集中に收録せられた異色のある作によつて、個人的特色をおびた歌人として知られてゐるが、その傳は詳かでない。ただ卷一にある、大寶二年に太上天皇(持統)の參河國行幸に供零した時の歌によつて、人麿と同時代の人であることが分るのみである。また吉野離宮行幸に從駕した歌もあり、その他には、近江・山城・攝津などの旅の歌がある。この歌によると、越中にも赴いたことが知られる。
【口譯】 婦負《めひ》の野の薄をおし靡かせて雪が降るのに、その雪のなかで宿を借る今日は、悲しく思はれることである。
【語釋】 ○婦負《めひ》の野の 原文には「賣比能野能」とある。婦負〔二字傍点〕は延喜式・和名抄に「禰比」と訓まれてあり、今も郡名をネイと呼ばれてをる。略解には、「婦をねとは訓べからず。もとめひなりけむを誤れるなるべし。春海云、屓は老女の事なれば、ねびたる女と云ふ義か。また青木敦書が郡名考に、婦負を當時官家に用ゐる文書に姉負と書と有り。これによれば禰比ととなふるはよし有るか。」とある。「めひ」を訛つて「ねひ」と(200)したものか、或は、古く兩樣にとなへられてゐたものか、明かでない。この野の所在については、楢葉越の枝折には、今の下野村・下野新村のほとりであらうとしてをる。○薄《すすき》押し靡《な》べ 薄を押しなびかせて。靡べ〔二字傍点〕は、「靡ぶ」といふ他動詞の連用形。○降る雪に 雪が降るのに。降る雪のなかに。○宿借る今日し 宿を借る今日は。し〔傍点〕は強めの助辭。○悲しく思はゆ 「可奈之久於宅倍遊」とある。代匠記精撰本に、「倍《へ》」を「保」の誤として、「おもほゆ」と訓んでをる。新考には「もとのままにてオモハユとよむべし。倍の音ハイを略してハに借れるなり」とある。おもはゆ〔四字傍点〕は、「おもほゆ」の原形で、思はるの意。
【後記】 荒涼たる冬の野の枯れた薄が、見る見る雪に思しなびかされる。表現のうへに何の奇もなく、單に情景を平叙してゐるところ、かへつて悲愁の色が深くて、結句の直截な云ひぶりが極めて的確である。一讀、蕭條の景と悽絶の情とが感覺に迫つてくる。上の句を赤人が學んで、次の如く詠んでをる。
  印南野《いなみぬ》の淺茅《あさぢ》おしなべさ宿《ぬ》る夜の日《け》長くあれば家し偲ばゆ(九四二)
【左註】 この歌を傳へ誦したのは、三國眞人五百國《みくにのまひといほくに》である。
 この三國五百國の傳は不詳で、越中において如何なる職にあつたかも明かではない。尚、この歌を誦した年月も明記されてはをらぬが、この次に載せられた歌が、天平二十年正月二十九日の作であるから、これを採録したのは、十九年中であらう。
 
(201)4017 東風《あゆのかぜ》【越の俗語東風を安由乃可是といへり】 いたく吹くらし 奈呉《なご》の海人《あま》の 釣する小舟 漕ぎ隱る見ゆ
 
【題意】 以下の四首は、天平二十年正月二十九日の家持の作である。題詞には何の記述もなくて、作者の状態は、明瞭でないが、海邊を散策しつつ詠んだことが、歌の内容から推察せられる。
【口譯】 東風が強く吹くのであるらしい。奈呉の海人の釣をする小舟が、漕ぎ隱れてゆくのが見える。
【語釋】 ○東風《あゆのかぜ》 「越の俗語東風を安由乃可是といへり」と、下に小さく註してある。既に「東風《あゆのかぜ》甚《いた》くし吹けば」(四〇〇六)と用ゐられてゐたが、正確には、東北風であると云はれてをる。○漕ぎ隱る見ゆ 作者が奈呉の海のほとりに立つて眺めたものとすれば、この地方には漕ぎ隱れるやうな島がないので、この句は穩かではないとも言へる。しかし、漁船が漕ぎ去つて行くのを、かう詠んだものとみてさしつかへがない。和歌童蒙抄には、この句を、「漕ぎかへる見ゆ」として載せてをる。
【後記】 平明の詞調の中に、鍛錬の結果に得た力量のこもつた作である。かくの如く、漁船の勤靜によつて、風波のはげしさを思ふ歌(風波のはげしさによる漁船の動靜を寫した歌、とも云ひ得よう)には、左のごときものがある。
(202)  風を疾《いた》み奥《おき》つ白浪高からし海人《あま》の釣船濱に歸りぬ(二九四)
  わたつみの沖つ白浪立ち來《く》らし海人少女《あまをとめ》ども島隱る見ゆ(三五九七)
 いづれもこの作よりもさきのものであるが、概念的の詠みぶりであるにくらべて、これは情趣が新鮮ではるかに寫實的である。奈呉といふ地名や、あゆのかぜといふ俗語がとりいれられて、地方色のゆたかな故もあらう。
 
4018 港風 寒く吹くらし 奈呉れの江に妻|喚《よ》び交《かは》し鶴《たづ》さはに鳴く 【一に云ふ、たづさわぐなり】
 
【口譯】 港の風が寒く吹くのであるらしい。奈呉の江に、鶴が妻を呼びかはしつつ澤山に鳴いてをる。
【語釋】 ○港風 ここの港は、河口のこと。射水河の河口を吹く風。○奈呉の江に 今の放生津潟のことであらうと云はれる。周圍一里餘の小湖水で、狹い砂地をもつて海と境してゐて、兩側に海と湖水とを見ることができる。葦や菅が湖畔にはえ繁つてゐるので、古へは鶴が多く來たものと見え、卷十八に、「鶴《たづ》が鳴く奈呉江《なごえ》の菅《すげ》の」(四一一六)と詠まれてをる。放生津潟は、細い水路をくだつて、射水河の河口をさる東十餘町、新湊町(一に放生津町と稱せられる)で海に注いでをる。
(203)【後記】 湖畔の葦邊の風のしづかなところに、鶴の群れてゐるのを眺めて、その寒さうな姿に、射水河口を吹く風を想像したのである。早春の風の肌寒さをおぼえしめる。妻を呼ぶ鶴と風波との關係を詠んだ作、あるひはそれに類似の著想の歌には、次のごとき例がある。
  葦邊《あしべ》には鶴《たづ》が音《ね》鳴きて湖風塞く吹くらむ津乎《つを》の埼はも(三五二)
  夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮滿てば沖浪高み己妻《おのづま》喚《よ》ばふ(一一五六)
  あさりすと磯に住む鶴《たづ》曉《あ》けゆけば濱風寒み自妻《おのづま》喚《よ》ぶも(一一九八)
  沖邊より潮滿ち來《く》らし韓《から》の浦に求食《あさり》する鶴《たづ》鳴きて騷ぎぬ(三六四二)
  可之布江《かしふえ》に鶴鳴き渡る志珂《しか》の浦に沖つ白浪立ちし來らしも(三六五四)
 「一に云ふ、たづさわぐなり」は、歌調の上からみて、おさへが利かぬやうである。上に「吹くらし」とあるのを受けては、「鶴《たづ》さはに鳴く」とする方が、重みがあつて、一首が安定する感がある。
 
4019 天《あま》ざかる 雛とも著《しる》く ここだくも 繁き戀かも 和《な》ぐる日も無く
 
【口譯】 都を遠く離れた邊鄭な土地であることがはつきりと感じられて、心のなごむ日もなく、(204)はなはだしく、都を戀しく思ふことである。
【語釋】 ○鄙とも著《しる》く 鄙であるといふことが明かであるやうに、といふ意であるが、ここは、明かであるにつけても、或は、明かに意識せられて、などといふやうに解すべきである。即ち、風光などもいちじるしく邊陲の色をおびてゐて、鄙であるといふ感を深くするにつけても、都への戀が繁くなるといふのである。○ここだくも 「ここだも」に同じ。甚しく、おびただしくの意。○和《な》ぐる日もなく やはらぎ靜まる日もなく。和ぐる〔三字傍点〕は、「なぐ」といふ上二段活用の動詞の連體形である。
【後記】 越路において二度目の春を迎へた家持は、北國の海べを歩いて、鄙であるといふ意識を新しくするにつけても、いよいよ切なる都への係戀をおぼえたことであらう。邊愁に悩む若き國守の心が、なだらかな調べに乘つて哀韻をかなでてをる。しるく〔右○〕・ここだく〔右○〕・なぐ〔右○〕る・なく〔右○〕、といふ語が一種の押韻の如くに、調子を流麗にしてをることも認められる。また、「鄙とも著《しる》く」といふ表現は、巧妙であると共に、その用法が極めて特異である。左にあげる歌は、いづれも、これとは違つた意味に用ゐられてをる。
  秋の野《ぬ》の草花《をばな》が末《うれ》をおしなべて來《こ》しくもしるく逢へる君かも(一五七七)
  妹が家の門田を見むとうち出《で》來《こ》し情《こころ》もしるく照る月夜《つくよ》かも(一五九六)
  見まく欲《ほ》り來《こ》しくもしるく吉|野《ぬ》川音の清《さや》けさ見るにともしく(一七二四)
(205)  天漢語《あまのがは》渡潮《わたりせ》ごとに思ひつつ來《こ》しくもしるし逢へらく念《おも》へば(二〇七四)
  手もすまに植ゑしも著《しる》く出で見れば屋前《には》の早萩《わさはぎ》咲きにけるかも(二一一三)
 
4020 越の海の 信濃《しなぬ》【濱の名なり】の濱を 行き暮らし 長き春日も 忘れておもへや
    右の四首は、二十年春正月二十九日、大伴宿禰家持
 
【口譯】 越の海の信濃の濱をたどり歩いて、日を暮したが、この長い春の一日中、どうして故郷のことを忘れてゐようか。
【語釋】 ○越の海の 越の海〔三字傍点〕は、北陸地方の海全體の總稱であるが、ここは前の歌などからみて、今日の新湊町地方の海をさしてをる。○信漆の濱を 信濃の濱〔四字傍点〕は今その名が殘つてをらぬが、新湊町に近い地點にあつたのであらう。萬葉越路の栞には「此の濱は奈古海濱と奈古入江との間の濱路にて、今も旅人往來する所なるべし。今古名を失へば其の所さだかならず。今も放生津新町に信濃祭といふ祭禮あり。土人は訛言してシナン祭りと呼べり。此處と定め難けれど、此處ならんか」とある。○行き暮らし 歩いて日を暮らして。○忘れておもへや 忘れむや、といふ反語である。おもへ〔三字傍点〕は輕く添へたものである。この「おもへや」といふ反語の形は、卷九の「※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す人もあれや〔三字右○〕も」(一六九八)や、前の「松反《なつがへ》りしびにてあれかも〔四字右○〕」(四〇一四)と同樣(206)の語法である。なほこの結句を用ゐた歌には、卷二に「大伴の美津《みつ》の濱なる忘貝《わすれがひ》家なる妹を忘れて念《おも》へや」(六八)、卷十一に「思ひ依《よ》り見依りにものはありなむを一日の間《ほど》も忘れて念《おも》へや」(二四〇四)、「あらたまの年は果《は》つれど敷妙の袖|交《か》へし子を忘れて念《おも》へや」(二四一〇)などがある。
【後記】 この歌も、荒凉たる早春の長汀をたどる若い國守の姿を思はしめる。「行き暮らし長き春日も」といふところ、行けど行けど綿々として盡きぬ郷愁を思はせる。また、文法的にみても、この第三と第四の句の連接におもしろみがある。即ち、第四句を第三句にたたみかけたとも見え、また第四句から一轉したとも思はれるからである。
【左註】 右の四首は、天平二十年の春正月二十九日に家持の作つた歌である。
 
   礪波《となみ》郡雄神河の邊にて作れる歌一首
4021 雄神《をがみ》河 くれなゐにほふ 少女らし 葦附【水松の類】採ると 瀬に立だすらし
 
【題意】 礪波《となみ》郡雄神河の邊で作つた歌。
 以下の九首は、左註にもあるやうに、家持が春の出擧によつて諸郡を巡行した時に作つたものである。礪波郡は、古事記黒田宮の條に、高志之利波臣とある者の支配してゐたところで、射水郡の南に當り、明治二(207)十五年に、東礪波と西礪波とに分たれた。
【口譯】 雄神河の河原に紅の色が映えて美しく見える。少女らが葦附をとるとて、河の瀬におり立つてゐるらしい。
【語釋】 ○雄神《をがみ》河 今は庄川と呼ばれ、射水川とならんで海に注いでをる。飛騨地方に發して北流し、雄神村の附近を流れてゐるので、この名があつた。上代は、雄神村の式内雄神神社(今は辨財天前と稱せられる)のあたりから西流し、小矢部川に合流して、射水河となつてゐた。然るに、應永三年六月の大洪水によつて流域が變り、今の伏木町のあたりで射水河に合流することになつた。その後、絶えず土砂を流出して、伏木港口を淺くしたので、明治三十二年に起工して、新湊町と射水河口との間に別に水路をつくり、庄川はかくて射水河と並んで海に注ぐに至つたのである。○くれなゐにほふ 紅の色が美しく映えてをる。少女らの赤(208)裳の裾が河原に映じて美しく見えるをいふ。○少女らし 少女らが。し〔傍点〕は助辭。○葦附《あしつき》採《と》ると 葦附をとるとて。葦附〔二字傍点〕は、海苔の一種で、帶褐緑色柔軟の寒天樣質、波状にうねつた褶の多い嚢状の塊で、大なるものは十仙米にも及び、いまも、庄川堤防の外側から湧きでる寒冷な流の底の小石の表面に附帶してをる。また、その名のごとく、葦の根もとにも附いてをる。○瀬に立たすらし 立たす〔三字傍点〕は「立つ」の敬語であるが、旅人の「松浦河《まつらがは》河の瀬光り年魚釣ると立たせる妹が裳の裾ぬれぬ」(八五五)の立たせる〔四字傍点〕と同じ意で、輕く用ゐたものである。
【後記】 里の少女らが、葦附といふ珍らしい海苔をとつてをることが、若い國守の詩情を動かしたであらう。印象が頗る鮮明であるが、その表現法は、左にあげる卷七の歌に酷似してをる。
  黒牛の海くれなゐ匂ふ百磯城《ももしき》の大宮人しあさりすらしも(一二一八)
しかし、地方色の豐かなことによつて、情趣はこの作の方がまさつてをる。
 
   婦負《めひ》郡|※[盧+鳥]坂河《うさかがは》の邊にて作れる歌一首
4022 ※[盧+鳥]坂河《うさかがは》 渡る瀬多み この我《あ》が馬《ま》の 足掻《あがき》の水に 衣《きぬ》ぬれにけり
 
(209)【題意】 婦負郡※[盧+鳥]坂河のほとりで作つた歌。
 婦負郡は今もその名が用ゐられておるが、既にのべた如く、その訓み方は變つてをる。
【口譯】 ※[盧+鳥]坂河は渡る瀬が多いので、自分の乘つてゐるこの馬の足掻の水に、着物がぬれたことである。
【語釋】 ○※[盧+鳥]坂河《うさかがは》 今この名は殘つてをらぬ。富山市の南方半里の地點に鵜坂村があり、そこに式内鵜坂神社があつて、神通河がその社地に添うて流れてをる。それで、雄神河の名が雄神村から起つたやうに、神通河を、古くその村のあたりで※[盧+鳥]坂河と呼んだものではないかとみられてをる。○渡る瀬多み 渡るべき瀬が多いので。神道河は、※[盧+鳥]坂神社の邊で河幅が廣くなつて、その間を瀬が幾すぢにも分れてゐるので、かく詠んだのであらう。○この我《あ》が馬《ま》の 自分の乘つてをるこの馬の。○足掻《あがき》の水に あがき〔三字傍点〕は、馬が前足で地を掻くことで、ここは馬が足を動かす度に散る水の意。○衣《きぬ》ぬれにけり 著物がぬれたことである。に〔傍点〕は助動詞「ぬ」の變化。けり〔二字傍点〕は、強調のために重ね用ゐたもので、詠嘆をあらはす。
【後記】 語尾に詠嘆の調がみえて、旅の憂苦がほのかに浮んでをる。表現法は明かに卷七の先蹤を追うたことが知られる。
  武庫《むこ》河の水脈《みを》を早けみ赤駒の足掻《あが》く激《たぎち》に沾《ぬ》れにけるかも(一一四一)
 しかし、彼の奔流に馬を乘り入れる颯爽たる風趣がなく、調子も全く異つてをる。
 
(210)   ※[盧+鳥]を潜《かづ》くる人を見て作れる歌一首
4023 婦負河《めひがは》の 早き瀬ごとに 篝《かがり》さし 八十伴《やそとも》の男《を》は 鵜河《うかは》立ちけり
 
【題意】 ※[盧+鳥]を潜《かづ》くる人を見て作つた歌。
【口譯】 婦負河の早い瀬ごとに篝火をさしかざして、多くの人たちは鵜飼をしてをることよ。
【語釋】 ○婦負河《めひがは》の これも神通河のことで、※[盧+鳥]坂河の下流をかく呼んだものと推測される。※[盧+鳥]坂河にそうて下流にくだつたのであらう。○篝《かがり》さし 篝火を點《とも》すことをも云ふが、ここは、篝火をさしかざすとみる方が適切である。○八十伴《やそとも》の男は 多くの役人たちの意。家持の部下の諸役人が、國守の旅情をなぐさめるがために鵜飼をしたのであらう。○鵜河《うかは》立ちけり 卷一には「上《かみ》つ潮に鵜川を立て」(三八)とあり、布勢水海に遊覽する賦に「鵜河立ち」(三九九一)とあつた。ここは、鵜河に立つたと解すべきであらう。ここのけり〔二字傍点〕も、語調に力をいれて云ふ用法である。
【後記】 題詞には、「※[盧+鳥]を潜《かづ》くる人を見て作れる歌」とあるが、「八十伴《やそとも》の男《を》」とある歌の内容からみると、漁夫ではなくて、家持に扈從した部下の諸役人が鵜飼をしたやうである。婦負河畔の旅宿の一夜のなぐさみに、鵜飼をして遊んだのであらう。
 
   新河《にひかは》郡にて延槻河《はひつきがは》を渡る時作れる歌一首
4024 立山《たちやま》の 雪し來《く》らしも 延概《はひつき》の 河《かは》の渡瀬《わたりせ》 鐙《あぶみ》浸《つ》かすも
 
【題意】 新河《にひかは》郡で延槻河《はひつきがは》を渡る時に作つた歌である。
 新河郡は、越中の東端の大郡で、今は上中下の三郡に分れてをる。延槻河は今は早月川と呼ばれ、立山の北なる大日嶽に發し、北流して海に注いでゐる。
【口譯】 あの立山の雪が、春日の暖かさに解けて流れて來るらしい。延槻河の水がまして、渡瀬が深く、乘つてをる我が馬の鐙を浸らしめることである。
(212)【語釋】 ○雪し來らしも 雪が來るらしい。雪が解けて流れて來るらしい、といふ意である。○河の渡瀬《わたりせ》 渡瀬〔二字傍点〕は「和多理瀬《わたりせ》」とある。前の歌には「和多流瀬於保美《わたるせおほみ》」(四〇二二)とあり、その他にも常に「わたるせ」とあつて、この用法は異例である。○鐙《あぶみ》浸《つ》かすも「浸《つ》かす」のす〔傍点〕は使役の助動詞で、浸らしめる意である。
【後記】 春の光に照り輝きつつ、雪消の水をたたへて張りきつて流れる河を、馬の腹まで浸りながら渡る姿が浮んでくる。おそらく衣をとほして肌にしむ水のつめたさに、立山の雪を感じて、はるかに彼方の山の雄姿を眺めやつたことであらう。格調は高古にして、印象は清新。語尾にそれとなく旅の嗟歎の情をもつらせて、すこぶる陰翳に富んでをる。
 
   氣太神宮に赴き參ると海邊を行きし時作れる歌一首
4025 之乎路《しをぢ》から 直《ただ》越え來《く》れば 羽咋《はぐひ》の海 朝なぎしたり 船|楫《かぢ》もがも
 
【題意】 氣太神宮に赴き參るとて海邊を行つた時作つた歌。
 氣太神宮は、今の國幣大社氣多神社で、能登羽咋郡一宮村の海岸に近い丘陵の上にある。祭神は大國主命で、能登一の宮として古くから尊ばれてゐた。當時、能登は越中に合せられてゐたので、家持は、礪波・婦負・新河の諸郡の巡視を終へて後、能登に向つてまづ氣太神宮に參つたのである。
(213)【口譯】 之乎《しを》の路から、まつすぐに山を越えてくると、羽咋の海が見える。今しも海は朝なぎである。乘つて行くべき船や楫があればよいが。
【語釋】 ○之乎路《しをぢ》から 「之乎路より」に同じ。之乎路〔三字傍点〕は志雄街道。志雄〔二字傍点〕は、能登羽咋郡にあつて、越中と能登との國境なる山脈の西麓に今も小市街をなしてをる。この之乎路は、志雄と越中の氷見町とをつなぐもので、家持は氷見の方からこの街道をたどつて來たのである。○直越《ただこ》え來《く》れば まつすぐに越えて來ることである。卷六に「直超《ただこえ》のこの徑《みち》にして」(九七七)、卷十二に「磐城《いはき》山|直越《ただこ》え來ませ」(三一九五)などとある。○羽咋《はぐひ》の海 今の邑知潟のことであらう。この湖水は、當時は、地質學者のいふ邑知潟地溝帶の大半を浸してゐたらしく、志雄もその湖に而してゐたので、山間の道を越えて來た家持の眼前に、この大湖水の眺望がひらけたのである。また、口碑の傳へるところでは、この湖水は、上代は氣多神社の近くまで浸入してをつたとのことであるから、家持は、ここの湖の西岸に沿うて北上しつつ、水路を利用することの便を感じて、この感慨をのべたものであらう。このことは、鴻巣盛廣氏著「北陸萬葉吉蹟研究」に詳しい。從來、この羽咋の海〔四字傍点〕を、羽咋郡の外海、即ち、能登西海岸の南部の海としてゐたが、その砂濱を北上して氣太神宮に赴く通路をとつては、迂廻になるので、志雄街道からわざわざ遠く羽咋郡の海岸に出たとは思はれぬ。○船|楫《かぢ》もがも 卷六笠金村の歌、「玉藻苅る海未通女《あまをとめ》ども見に行かむ船楫《ふねかぢ》もがも浪高くとも」(九三六)の第四句の表面の意味に同じく、船と楫とが欲しい、即ち、船に乘つて行きたい、といふ意である。
(214)【後記】 山を越えてくると、朝なぎの湖水が大きく靜かにひろがつてゐた。しかも、この湖は、目的の氣太神宮のほとりまでつづいてゐるのである。朝なぎの湖上に乘りだして、眺望を樂しみつつ水路を行きたいと望んだのも、自然であらう。かくみる時、調子の上からは、とつてつけたやうなこの結句も、極めて切實なものとなる。
 
   能登郡にて香島津《かしまのつ》より發船《ふなで》して、熊來村《くまきのむら》を射《さ》して往きし時作れる歌二首
4026 鳥總《とぶさ》立て 船木《ふなぎ》伐《き》るといふ 能登の島山 今日見れば 木立《こだち》繁しも 幾代|神《かむ》びぞ
 
【題意】 以下の二首は、能登郡で、香島津《かしまのつ》から船出をして、熊來村《くまきのむら》をさして往つた時の作である。
 能登郡は今の香島郡のこと。香島津は今の七尾港である。熊來村は七尾灣の西灣の中央部のところにあつて、七尾港から海上四里ばかりである。
【口譯】 船に造る木を伐り出すといふ能登の島山よ。今日來て見れば、木立が深く生ひ茂つてゐることよ。果して幾代を經た神々しさであらう。
【語釋】 ○鳥總《とぶさ》立《た》て 卷三に「鳥總《とぶさ》立て足柄山に船木《ふなぎ》伐《き》り」(三九一)とある。これについて、古來二樣の解釋が行はれてをる。その一は、とぶさ〔三字傍点〕を梢と解する説で、古くは袖中抄にあり、字鏡集にも「朶」の字を「とぶ(215)さ・えた」などと訓み、堀川百首や謠曲「右近」にも梢の義に用ゐてをる。冠辭考はこれに從つて「こは宮材《ミヤギ》船材《フナギ》などを山に入て採とき、其切たる木の末を折て、同じ株《クヒゼ》の邊に立て、山(ノ)神を祭るを、とぶさ立るといふなるべし。」とのべ、その證として、延喜式の大殿祭祝詞のなかから引用してをる。その二は、前者よりも古く、すでに和歌童蒙抄にあつて、「とぶさたてとは、たづきたてといへることばなり」と云ひ、とぶさは「たづき」即ち手斧のこととする説である。仙覺もこの説をとつてをる。この手斧とする解説に從へば、伐らむとする木の根本に斧を立てて、山神を祭つて後にその樹を伐るのである。○能登の島山 七尾灣の東方にある島で、周圍は十四里ばかり、小舟の碇泊に便に、樹木が繁茂してゐて、船材を伐りだすに適してゐた。○今日見れば 卷七に「皆人の戀ふるみ吉|野《ぬ》今日見れば諾《うべ》も戀ひけり山川清み」(一一三一)とあり、卷二十にも「鴛鴦《をし》の住む君がこの山齋《しま》今日見れば馬醉木《あしび》の花も咲きにけるかも」(四五一一)とある。○木立《だち》繁しも 木が生ひ繁つてゐることよ。○幾代|神《かむ》びぞ 幾代を經たる神々しさぞ。幾代を經てかくも神々しくなつてゐることぞ。び〔傍点〕は「らしき」の意である。
【後記】 旋頭歌にしたのも、莊重であつて、崇高の感をあらはすに適してをる。悠々として、水靜かな七尾灣内を行きつつ、能登の島山にむかつて發した驚異の聲である。
 
4027 香島より 熊來《くまき》をさして 漕ぐ船の 楫《かぢ》取る間《ま》なく 京《みやこ》し思ほゆ
 
(216)【口譯】 香島の津から熊來をさして船を漕いで行くが、その船の楫を取るのに絶え間のない如く、絶え間なく、都のことが思はれる。
【語釋】 自分の乘つてをる船の中で、船人の艪をあやつるのを眺めて、それをそのまま序詞にとり用ゐたのみで、左のごとき類歌がある。しかも、その中の二首は、同じ家持の作である。
  には淨《きよ》み沖へ榜《こ》ぎ出《づ》る海士|舟《ぶね》の梶|執《と》る間《ま》無き戀をするかも(二七四六)
  松浦舟《まつらぶね》亂る堀江の水脉《みを》はやみ揖取る間なく念《おも》ほゆるかも(三一七三)
  白浪の寄する磯|回《み》をこぐ船の楫《かぢ》取る間《ま》なく思ほえし君(三九六一)
  防人《さきもり》の堀江漕ぎ出《づ》る伊豆手舟《いづてぶね》楫《かぢ》取《と》る間《ま》なく戀は繁けむ(四三三六)
 
   鳳至《ふげし》郡にて饒石河《にぎしがは》を渡りし時作れる歌一首
4028 妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石河《にぎしがは》 清き瀬ごとに 水占《みなうら》はへてな
 
【題意】 鳳至《ふげし》郡で、饒石河《ぎ營しがは》を渡つた時の歌。
 鳳至郡は、羽咋・鹿島の北方に隣した郡である。饒河石は、今は仁岸川といひ、能登半島の北部西岸に注ぐ流域二里ばかりの河である。熊來村に上陸した家持は、能登半島を斜に横斷して、西海岸をつたうて北上(217)し、この河のほとりを通過したのであらう。
【口譯】 なつかしい妻に逢はぬことが久しくなつた。饒石河の清らかな瀬ごとにおり立つて、水占をしよう。
【語釋】 ○水占《みなうら》はへてな 水占〔二字傍点〕とは如何なる占であつたか、詳かにしがたい。契沖は「饒石河とは、石の多きに名付たるべければ、清き瀬毎に石のあざやかに見ゆるを、踏こころみて占なふを水占と云ふにや」と云ひ、略解には、「神武紀、天皇夢の訓へのままに、天香山の埴をもて八十|平瓮《ヒラカ》、天の手抉《タクジリ》八十枚|嚴瓮急《イツベ》をつくりて、嚴瓮を以て丹生の川に沈めて占ひませし事あり。其の類ひの占古しへ有りしなるべし。」とあり、伴信友は正卜考に、「波倍底奈《ハヘテナ》は、しひて按ふるに、延《ハヘ》てむにて、清き河瀬の水中に、繩を延《ハヘ》わたし置て、それに流れかかりたるもの、或は其の物の數などによりて、卜ふ事にはあらざるか」と述べてをる。はへてな〔四字傍点〕についても、上の信友の「はへ」を「延《ハ》へしと解するほかには、萬葉考の、「波倍の約|倍《ベ》にて水之卜部《ミナノウラベ》なり――庭奈《テナ》の庭《テ》は、てあらなを約云なり。庭《テ》あらの約|多《タ》なるを庭《テ》に通じてかくはいふなりけり」、略解の「うらはへは、うらへを延たり。卷十四、むさし野にうらへ肩やきともよめり。」とする諸説がある。この二説は、「みなうらへ」或は「みなうらはへ」といふ動詞にはたらかせたものとみてをるやうである。なほ、古義は、「水占《ミナウラ》令v合《アヘ》てな、なるべし」としてをり、新考は、「思ふに波は安の誤ならむ。アヘテナは合セテムなり」と、波〔傍点〕を安〔傍点〕に改めてをる。古義に「波字、官本にはなし」とあるやうに、京大本萬葉集によれば、「波」の(218)字がないので、この波〔傍点〕は衍字で「水占《ミナウラ》へてな」かとも思はれる。然らば、「占《ウラ》ふ」といふ下二段活用の連用形「占へ」に、助動詞「つ」の變化「て」が添ひ、更に、希望の助動詞「なむ」の古格「な」が添うた形である。
【後記】 水占は、集中唯一の例であつて、その占ひ方については、全く知る術もなく、從つて、略解にあげた神武天皇の嚴瓮の故事を根據とするの外はないであらう。しかも、旅行中のことではあり、且つ、「清き瀬ごとに」とあるから、家持が實際に行なつたのではなく、希望をあらはしたのみであるとしても、簡單に行ひ得るものであつたらう。水中に物などを沈めて占をすることが行はれてゐたのではないか。能登の僻陬の千年の昔の樣が思ひやられる。天ざかる鄙のはたてを歴廻《へめぐ》つて、荒凉索莫たる仁岸川のほとりに出た家持は、異常な經驗によつて時の移り行きを常よりも痛切に感じ、「久しくなりぬ」といふ詠嘆を發したのである。水占によつて近く妻に逢ふことができるか否かを占はむとしたものか、或は、妻が健全かどうか、その安否を知らうとしたものか、にはかには斷じがたいが、その心事を推察すれば、あはれであり、また極めて自然でもある。
 
(219)   珠洲《すす》郡より發船《ふなで》して治布に還りし時、長濱灣《ながはまのうら》に泊《は》てて月光《つき》を仰ぎ見て作れる歌一首
4029 珠洲《すす》の海に 朝びらきしで 漕ぎ來《く》れば 長濱の灣《うら》に 月照りにけり
    右件の歌詞は、春の出擧に依りて諸郡を巡行す。當時屬目する所之を作る。大伴宿禰家持。
 
【題意】 題詞に、珠洲《すす》郡より發船《ふなで》して治布に還りし時、長濱灣《ながはまのうら》に泊《は》てて月光《つき》を仰ぎ見て作れる歌一首」とある。
 珠洲郡は、鳳至郡の東に隣して、能登半島の突端にある。出雲風土記にある高志之都々乃三埼《コシノツツノミサキ》は此處である。しかし、ここに珠洲郡とあるのは、珠洲の郡家の所在地をさして云うたもので、上代にあつた珠洲驛、今の正院村のあたりであらうと推定されてをる。
 治布は、元暦校本によつたので、他の古寫本には太沼郡とある。しかし、兩者ともに、當時さる名の地は存在しなかつたので、諸學者によつて種々に論究されてゐるが、元暦校本に依るべきであらう。この治布については、鴻巣氏が新説を提出して、治府の誤とみ、治府即ち國府とみてをる。また同氏は、長濱灣《ながはまのうら》についても諸説をしりぞけて、布勢水海《ふせのみづうみ》に遊覽する賦(三九九一)にある松田江の長濱のことと推定した。かくみる時、その道程が極めて明瞭となり、條理も整然としてゐるので、この説に從ふこととする。
 即ち、管内の巡視を終へた家持は、直ちに國府に歸らむとして、珠洲郡の正院のあたりから、船を發して南航し、松田江の長濱にさしかかつた時、夜に入つたので、この浦に船を泊てて上陸し、そこから陸路をと(220)つたのであらう。よつてこの歌は、松田江の長濱についた時、折からさしのぼる月を仰いで詠んだものと解するのである。
【口譯】 珠洲の海から朝船出をして漕いでくると、いつしか日も暮れて、長濱の浦に月が照つてをることよ。
【語釋】 ○朝びらきして ひらき〔三字傍点〕は發船することで朝船出をすることをいふ。「世間《よのなか》を何に譬へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきごとし」(三五一)、「朝びらき榜《こ》ぎ出でて我は湯羅《ゆら》の埼釣する海人《あま》を見て歸り來《こ》む」(一六七〇)、「朝びらき榜《こ》ぎ出《で》て來《く》れば武庫《むこ》の浦の潮干の潟に鶴が聲すも」(三五九五)などとある。
【後記】 珠洲郡の正院から蛸島方面の海岸を、いま長濱といふので、この長濱灣をその所とし、從つてこの月を殘月とみる説もあるが、照るといふ語がそれに適當ではない。松田江の長濱とみるべきであらう。詞調明快、巡視の旅を終へてまさに國府に入らむとする家持の高朗たる心志が思はれる。
【左註】 右の件の歌は、春の出擧によつて諸郡を巡行した際、屬目するところをもつて作つた、とある。
 出擧とは、公私の稻を貸與して利稻を取ること。ここにある出擧は、官稻を貸すことで、下民の窮乏を救はむが爲め、春耕作の際に貸與して、秋收穫の時に返濟せしめたのである。家持は、春の出擧にあたり、管内を巡行して農民の状況を視察したのである。
 
(221)   鶯の晩く哢《な》くを怨むる歌一首
4030 うぐひすは 今は鳴かむと 片待てば 霞たなびき 月は經につつ
 
【題意】 鶯の鳴くことのおそいのを怨んだ家持の歌。以下の二首には、前の九首と同じく年月が明記されてをらぬが、卷十八の冒頭の作が天平二十年春三月二十三日とあるから、天平二十年の春の作たることは明かである。
【口譯】 鶯は今はもう鳴くであらうとひたすらに待つてゐるが、霞がたなびき、春も深くなるのみで、空しく月がたつてゆくことである。
【語釋】 ○片待てば 片よりて待つ。ひたすら待つ。
【後記】 邊域に※[覊の馬が奇]旅する身は、花鳥によつて心を遣らむとすることが切實であつたらうと思はれる。語尾に怨嗟の餘韻が長い。
 
   造酒の歌一首
4031 中臣の 太祝詞《ふとのりとごと》 言ひ祓《はら》へ 贖《あが》ふいのちも 誰がために汝《なれ》
(222)    右、大伴宿彌家持之を作る。
 
【題意】 家持作の造酒の歌一首。通常酒を造るのは秋であるが、これは神を祭る爲に、臨時に行はれたのでもあらう。
【口譯】 中臣の太祝詞《ふとのりとごと》をとなへて祓ひをし、齋み清めて逢つた酒を贖物として、命長からむことを神に祈るのも、誰の爲であるか。お前のためである。
【語釋】 ○中臣《なかとみ》の 中臣氏は天兒屋根命のすゑで、齋部氏と共に神を祭る家である。延喜式に、凡祭祀祝詞者御殿御門等齋部氏祝詞、以外諸祭中臣氏祝詞」とある。○太祝詞《ふとのりとごと》 太〔傍点〕は美稱。古事記に、天兒屋命|布刀諄戸言祷白而《フトノリトゴトネギマヲシテ》」とある。○言ひ祓へ 祝詞をとなへて、罪やけがれを祓ひ。はらへ〔三字傍点〕は、下二段に活用した「はらふ」の連用形。○贖《あが》ふいのちも あがふ〔三字傍点〕は「あがなふ」に同じ。物を代償として提出して、その罪を消すことで、ここは、酒を造つて神に捧げてわが命の長久を祈り求めるをいふ。○誰《た》がために汝《なれ》 誰がためにか、汝のためなり、といふ意。
【後記】 家持が酒を造つて、思ふ人のため我が身の長壽を祈つたのである。造酒歌と題詞にあつて、しかも、歌のなかには酒のことはみえてをらぬが、酒を造るにあたつて祝詞をとなへ、齋み清めて造り、それを神に捧げるのであるから、その趣が上半に寫されてゐるのである。長壽を祈るところは、左の二首に似たものがある。
(223)  玉|久世《くぜ》の清き河原に身祓《みそぎ》して齋《いは》ふいのちは妹が爲なり(二四〇三)
  時つ風|吹飯《ふけひ》の濱に出で居つつ贖《あが》ふ命は妹が爲こそ(三二〇一)
 
萬葉集 卷第十七
 
〔2017年3月3日(金)午後2時5分、入力終了〕