萬葉集總釋第九 樂浪書院 1936.2.5発行
萬葉集 卷第十八 尾上八郎
(3) 天平二十年春三月二十三日、左大臣|橘家《たちばなのいへ》の使者|造酒司令史田邊史福麿《さけのつかさのさくわんたのべのふみびとさきまろ》を、守《かみ》大伴宿禰家持の舘《たち》に饗《あへ》す。爰に新歌《にひうた》を作り、并に便《すなは》ち古詠《ふるうた》を誦して、各心緒を述ぶ。
4032 奈呉《なご》の海に 船|暫《しま》し借せ 沖に出でて 波立ち來《く》やと 見て歸り來《こ》む
【題意】》 ○天平二十年は二十一年の誤といふ説もあるが、原本に從つて置く。○左大臣橘家 橘|諸兄《もろえ》公。○造酒司 「みきのつかさ」ともいふ。宮内省に屬し、供御・節會用の酒酢等を造る事を司る。職員令「正一人、佑一人、令史一人〔四字傍点〕、酒部六十人」とある。○田邊福麿 田邊の次に「史」があつたのであらう。福麿は傳不詳。卷六、卷九に歌が見えてゐる。
【口譯】廣々と穩かな奈呉の海に遊びたいから、船を暫く借してくれ。そしたら、沖の方に漕ぎ出して行つて、そちらには、浪が立つて來るかどうかと見屆けて、そして漕ぎ戻つて來よう。
(4)〔北陸萬葉地圖(一)〕
(5)【語釋】 ○奈呉の海に 越中國射水部。國府から見える海で、新湊即ち放生津の海をいふ。攝津國住吉の海にいふ事もある。卷七「すみのえの名兒の濱邊に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず」(一一五三)。海に〔二字傍点〕の「に」は、「の」とあるべきだといふ説もある。が「海」に出て見るのであるから、これでいいであらう。○來や や〔傍点〕は疑問。來るか。
【後記】 古義の評に「平城の京人、大海の浪をめづらしみて詠めるなり。」とあるは、適評であらう。
4033 波立てば 奈呉の浦廻《うらみ》に 寄る貝の 間《ま》無き戀にぞ 年は經にける
【口譯】 自分は、都にあつて、あなた(家持を指す)を絶え間なく戀しく思うて、幾年月を過した。
【語釋】 ○波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の 「間無き」にかかる序詞。浦廻〔二字傍点〕はウラワ・ウラマとも讀む。廻〔傍点〕は、ほとり」「周圍」の意。波が立つと、それと共に奈呉の海邊には、貝が絶え間なく押寄せるといふ、眼前の景を序詞に使つて、それからその、間無き」を活かして、遠き都にあつて、始終家持を戀しく思つた心緒を述べたのである。
【後記】 古義に、古今六帖にある小辨の歌「來てみれば奈呉の浦まによる貝の拾ひもあへず君ぞ(6)戀しき」を引いて、類似歌と指摘してゐる。
4034 奈呉の海に 潮のはや干《ひ》ば あさりしに 出でむと鶴《たづ》は 今ぞ鳴くなる
【口譯】 今こそ奈呉の海は、海潮漫々としてゐるが、それもやがて干潟になるだらう。さうなつたら、餌をあさりに飛び出さうと待ち構へて、鶴は今盛んに鳴いてゐる。
【語釋】 ○はや干ば はや〔二字傍点〕に「早く」と待ち設ける意がある。○あさりしに 餌を求めるために。
【後記】 代匠記には「鶴の上を云ふは、我も見に行かばやの心こもるべし。」と評してある。
4035 ほととぎす 厭ふ時なし 菖蒲草《あやめぐさ》 鬘《かづら》に着《き》む日 こゆ鳴き渡れ
右の四首は田邊史福麿
【口譯】 郭公の鳴く聲は、何時聞いても厭だと思ふ時はない。けれども、同じことなら、菖蒲草を鬘につけて遊ぶ今日の日に、ここを鳴き過ぎてくれ。そしたら、その聲が、折を得て一入映えることであらう。
(7)【語釋】 ○ほととぎす 郭公の聲は。○鬘 蔓草等を頭の飾としたもので、「かづらく」といふ動詞もある。○着む日 卷きつける今日の日に。○こゆ 此所より。卷三、天ざかる鄙の長道ゆ〔傍点〕戀ひ來れば明石の門より倭島見ゆ」(二五五)。
【後記】 題詞にある通り、この歌は「古詠」であつて、卷十に載つてゐる。それには、「着む日」が「せむ日」となつてゐる。だからこれは、多分「勢武日」を「藝武日」に誤寫したもので、言葉遣払としても、「せむ日」の方が穩當である。菖蒲草を鬘にするのは、五月五日の端午の節であるのに、三月二十三日に、此の歌を誦したのである。略解には、「此年三月末に、四月の節に入りけむ。」とあるが、五月にはまだ間がある。恐らく、郭公の初聲を聞いて、ふとこの古歌を思ひ出して歌つたのであらう。
時に明日將に布勢水海《ふせのみづうみ》に遊覽せむと期《ちぎ》りき。仍りて懷を述べて各作れる歌
4036 如何《いか》にある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我を留《とど》むる
右の一首は田邊史福麿
【題意】 布勢水海は、越中國|氷見《ひみ》郡にあり、十二町潟といふ。氷見町の西南方二上山の麓の低地一帶。大方田
(8)〔布勢水海想定圖〕
(9)となつて、十二町潟はその名殘である。
【口譯】 どんなに面白い布勢の浦の景色であらうか。そんなに頻りと、君が見せようと、私をお引留めなさる所を以て見ると。
【語釋】 ○如何にある どんなに美しくある。○ぞも も〔傍点〕は感動詞。ここで切れる。○ここだくに 許多に。「數多く」「甚しく」「頻りに」等の意。○君が見せむ 君がその景色を我に見せようとして。○留むる 引留める所は。
【後記】 第一句を「伊可爾|世《せ》流」とある本もある。「安流」とあるのに從つた。
4037 乎敷《をふ》の埼《さき》 漕ぎだもとほり ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに【一に云ふ、君が問はすも】
右の一首は守大伴宿禰家持
【口譯】 見ぬ君は、半信半疑であらうが、布勢の湖は、その中にある乎敷の岬まで、あちこち漕ぎ廻つて、終日見巡つても、飽きるやうな浦ではない。
【語釋】 ○乎敷の埼 布勢湖の中にある岬。○たもとほり た〔傍点〕は接頭語。徘徊し。あちらこちら廻る。○見と(10)も 平安朝以後の「見るとも」と同意。○あらなくに なく〔二字傍点〕はぬ〔傍点〕と同意。「ではないのである」の意で、反駁的否定の心。
【後記】 「一に云ふ君が問はすも」は、第二句を「君が問はすも」とある一書もあるといふ意味であつて、福麿の「いかにある布勢の浦ぞも」といふ質問に對して、「乎敷の埼はどんなに美しい所かと、愚かにも君は尋ねる。」と、頭から打消して、以下その感興を述べたのであらう。
4038 玉くしげ いつしか明けむ 布勢の海の 浦を行きつつ 玉も拾《ひり》はむ
【口譯】 早く夜が明ければよい。そしたら、布勢の海の浦邊を歩いて、玉をも拾はう。
【語釋】 ○玉くしげ 玉櫛笥。玉〔傍点〕は美稱。櫛笥は開《あ》けるから、「明け」の枕詞。○いつしか し〔傍点〕は強め詞。か〔傍点〕は疑問。「早く」と希求する意。○玉も 古義には「玉藻」と解いてある。
【後記】 「玉櫛笥」の枕詞は美しい。その響で、夜が明けると、布勢の海の佳景が展開されることを聯想させる。
4039 音のみに 聞きて目に見ぬ 布勢の浦を 見ずは上《のぼ》らじ 年は經ぬとも
(11)【口譯】 景色のよい所だと、かねて評判にばかり聞いてゐて、然も實際見た事もない布勢の浦の好景を今度見ないでは、たとへ幾年經つても、都へ歸る氣になれない。
【語釋】 ○上らじ 都へ上らじ。
4040 布勢の浦を 行きてし見ては 百磯城《ももしき》の 大宮人に 語りつぎてむ
【口譯】 今度自分が、布勢の浦の美景を行つて見たならば、まだ見たことのない宮中奉仕の方々に、土産話として話し傳へてやらう。
【語釋】 ○行きてし見てば し〔傍点〕は強め詞。見てば〔三字傍点〕は、見たらば」。「みては」(見弖波)を元暦本には、みてば」(見弖婆)とある。これによつた。○百磯城の 「大宮」の枕詞。○語りつぎてむ てむ〔二字傍点〕は決心や未來の願望を示す助動詞。
【後記】 第一句の「し」第五句の「てむ」によつて、如何に作者が、布勢の浦の好景に憧憬れ、これを都への土産話として、未だ見ぬ大宮人の前に、誇らしげに語るだらうかを想像させる。
4041 梅の花 吹き散る園に 我行かむ 君が使を かた待ちがてら
(12)【口譯】 自分は、あなたからの御使の來ることを、ひたすら待ちながら、梅の花の散り落ちる園に行かうと思ふ。
【語釋】 ○咲き散る 散る意。咲き〔二字傍点〕は輕く添へた語。○かた待ちがてら かた待ち〔四字傍点〕は、「偏《かた》待ち」で、ひたすら待つ意。「片待ち」即ち「片心に待つ」(何となく心に掛けて待つ意)と解く説もある。がてら〔三字傍点〕は一方を兼ねる意の接尾語。
【後記】 卷十にある古歌(それには、第五句が「かた持ちがてり」とある)を誦したのである。これも前の古詠と同じく、季節違ひの歌のやうで可笑しい。これに就いて、代匠記には「第十九云、但越中(ノ)風土、梅花柳絮三月初咲耳。かかれば今の歌時に叶ふべし。」とある。第十九云云とは、第十九卷に「君がゆきもし久ならば梅柳誰とともにか吾がかづらかむ。」とある家持の歌の自註の文句である。古義も此の説を採つて「今は三月二十四日の歌なれば、都にては、梅はあとなく散りたれば、いとめづらしくもてあそび、此古歌を思ひ出、打誦したるなるべし。」と云つてゐる。
4042 藤波の 咲きゆく見れば ほととぎす 鳴くべき時に 近づきにけり
(13) 右の五首は田邊史福麿
【口譯】 藤の花が、追々咲いて來るのを見ると、郭公が鳴くべき季節に近づいて來たのだ。
【語釋】 ○藤浪 「藤|靡《な》み」の意。藤の花。○咲きゆく 段々と咲く。續いて咲く。新考には「藤の房は本より末に向ひて咲き行くものなれば、サキユクといへるなり」とある。
【後記】 代匠記に「玉葉集に赤人の歌とて載せられたるは、彼家集と云ふ物にさへ見えねば、未v知2其據1。」とある。その玉葉集春下を見ると、題知らず、赤人として「藤浪の花咲く見れば郭公鳴くべき時は近づきにけり。」とある。古義には「貫之集に、ほととぎす鳴くべき時は藤の花咲けるをみれば近づきにけり。」とある。
4043 明日の日の 布勢の浦廻《うらみ》の 藤浪に 蓋し來鳴かず 散らしてむかも【一に頭に云ふほととぎす】
右の一首は大作宿禰家持之に和《こた》ふ
前の件の十首の歌は二十四日の宴に之を作る
【口譯】 明日を期して、見に行く布勢の浦のほとりに咲ける藤の花に、或は郭公が來て鳴かないで、その花を徒らに散らしてしまふであらう。どうぞ、さうでなくて欲しいものだ。
(14)【語釋】 ○明日の日の 明日見ようとする。古義に「今日を今日の日、明日を明日の日といへること、古言に例多し」。○蓋し 若しや。○一に云々、明日の日」の代りに、「ほととぎす」とある一書もあるとの意味で、その方が主格たる郭公があつて、意味はよく通ずる。
【後記】 左註の十首といふ事に就いては、古義には「凡そ十二首の中、二首は古歌なれば、除いて十首としるせしなるべし。この自註にて共に二十四日の宴なること知られたり」とある。さうすると、天平二十年春三月二十三日云々の日附が疑はれる。雅澄は十二首を同時の歌と見て二十三日の日附を疑つてゐる。代匠記の説の「十首と云は誤なり。八首なり。是は誤れるなるべし。八首の中に古歌一首あれば、それを除いて七首と云へるを、書生の誤て十に作れる歟。但二十三日宴の歌も、古歌を除けば、三首なるを、右四首と註したれば、今も八首なりけむをや。」とあるのは、「時に明日云々」と詞書のある、福麿の歌「如何にある云々」以下を、二十四日の作と見た考である。萬葉集新考のは是等と異なつて、「案ずるに、卷頭の歌の題辭に各〔右△〕述2心緒1とあれば、福麿の歌の次に、家持の歌若干首ありしが、失せたるなり。さてそれらの歌は、本の如く二十三日の宴の作なり。又其次に二十四日の宴の歌二首ありしなり。其歌を受けてこそ于v時期之云々とは書けるなれ。されば前件十首歌者云々の左註は、後人の書けるにあ(15)らで、家持の書けるなり。又十首は八首の誤にあらず。目録に八首とあるは、脱落後の今本に合せて、後人の記せるなり。さて二十三日に福麿の誦せし四首のうちに、古歌一首あり。二十四日の十首のうちにも、少くとも古歌一首あれど、左註はそれを除かずして、右四首田邊史福麿と書き、右五首云々、又前件十首云々と書けるなり。」とある。
二十五日、布勢水海に往く道中、馬上の口號二首
4044 濱邊より 我がうち行かば 海べより 迎へも來ぬか 海人《あま》の釣舟
【口譯】 濱邊から、自分が行つたならば、海の方から、自分を迎へにも來てくれぬか、來よ、梅人の釣舟よ。
【語釋】 ○うち行かば うち〔二字傍点〕は接頭語であらう。馬を鞭つの説もある。○海べ 海の方。○迎へも來ねか も〔傍点〕は感動詞。迎へに來ぬか。來ぬか〔三字傍点〕は「來れかし」と希ふ意。ぬ〔傍点〕は打消、か〔傍点〕は疑問。か〔傍点〕が打消の下に來る時は常に希求の意を示す事は、現今でも、「行かないか」、「食はないか」等日常語でも始終用ひられる。○海人の釣舟 釣舟に呼び掛けた意。
(16)4045 沖べより 滿ち來る潮の いや増しに 我が思《も》ふ君が 御船《みふね》かも彼《かれ》
【口譯】 沖の方から濱邊の方へと、滿ちて來る潮が愈愈増して行くやうに、愈々益々自分が戀しく思ふ所の君が、來られる御船であらうか、あの船は。さても嬉しいことだ。
【語釋】 ○沖べ 沖の方。以下「湖の」までは、「いや増しに」の序詞。○いや増しに 彌増しに。愈々多く。○我が思ふ君 自分がなつかしく思ふ君。○御船かも か〔傍点〕は疑問、も〔傍点〕は感動詞。○彼 彼の船は。
【後記】 此の歌は、卷四の「濱邊より滿ち來る潮のいや増しに思へか君が忘れかねつる」(六一七)と類似してゐる。以上の二首の作者の名は見えないが、目録には家持とある。さうすると、「君」とあるのは、福麿を指すこととなる。
水海に至りて遊賢せる時、各懷を述べて作れる歌
4046 神《かむ》さぶる 垂姫《たるひめ》の埼《さき》 漕ぎめぐり 見れども飽かず 如何に我《われ》せむ
右の一首は田邊史福麿
【口譯】 物古りて神々しさをおぼえる、垂姫の岬のあたりを漕ぎ廻つて、いくら眺めても見飽きるといふことを知らない。この佳景に對して、自分はどうしたらばよいであらう。只只茫然自失(17)するばかりだ。
【語釋】 ○神さぶる 古びて、神々しい。○垂姫の埼 卷十九に「乎布の浦に霞たなびき垂姫に藤浪咲きて‥‥」(四一八七)ともあつて、萬葉集全釋には「二上山の北麓の耳浦村地方で、古の布勢水海の南岸に當つて、乎布の崎と共に半島をなしてゐたのである。」と云つてある。○如何に我せむ 美景に打たれて、心を收める方法がない表現である。
4047 垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は 樂《たぬ》しく遊べ 言繼《いひつぎ》にせむ
右の一首は遊行女婦《うかれめ》土師《はにし》
【口譯】 垂姫の浦をあちらこちら漕ぎ廻つて、今日は愉快にお遊びなさい。そしてこの清遊を妾はいつまでも、世の人人に言ひ傳へよう。
【語釋】 ○言繼にせむ 「語り繼ぎ言ひ繼ぎ」と疊句にして、普通「後の世に言ひ傳へる」意。
4048 垂姫の 浦を漕ぐ船 楫間《かぢま》にも 奈良の我家《わぎへ》を 忘れて思へや
右の一首は大伴家持
(18)【口譯】 垂姫の浦を漕ぐ船の楫を操る間の、短い時間のうちでも、奈良にあるなつかしい我が家のことを、自分は思ひ忘れられようか。
【語釋】 ○船の 古義は「船」までを序詞と見てゐる。○楫間 楫を操る間。短かい時の意を籠めてある。楫〔傍点〕は「舵」ではなく、櫓や櫂の事。○忘れて思へや や〔傍点〕は反語。思へ〔二字傍点〕は輕く添へた語。「忘れてあらんや」の意。
【後記】 卷十七にも「淡路島門渡る船の楫間にも吾は忘れず家をしぞ思ふ」(三八九四)といふ類似歌がある。猶卷四の「夏野行く牡鹿の角のつかの間も妹が心を忘れて思へや」(五〇二)の歌をも聯想させる。
4049 おろかにぞ 我は思ひし 乎不《をふ》の浦の 荒磯《ありそ》のめぐり 見れど飽かずけり
右の一首は田邊史福麿
【口譯】 自分は今まで、乎不の浦の景色はよからうとは思ふものの、世間並のものであらうと思つたが、事實來て見ると、荒磯邊の壯大な景致は、見ても見ても飽きるといふことを知らない、拔群の趣である。
【語釋】 ○おろかに おほろかに。おろそかに。普通一般と。○けり 感動詞。一二の例をあげると、卷八(19)「梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほ如《し》かずけり〔四字傍点〕」(一六五二)、卷十三「天地の神をも吾は祷りてき戀とふものはかつて止まずけり〔五字傍点〕」(三三〇八)。
4050 めづらしき 君が來まさば 鳴けといひし 山郭公 なにか來鳴かぬ
右の一首は掾《まつりごとびと》久米朝臣廣繩
【口譯】 珍客の君がおいでになつたら、鳴けよといひつけておいた山郭公は、何故來て鳴かないのか。忘れたのか、怪しからぬ鳥だ。
【語釋】 ○めづらしき君 福麿。○いひし 言ひつけておいた。○なにか 何故か。か〔傍点〕は疑問。
【左註】掾は國司廳の三等官。即ち判官の位置。廣繩の傳は未詳。越中國の掾の池主《いけぬし》が、越前に轉任した代に、廣繩が任ぜられたであらうと、古義には記してある。
4051 多胡《たこ》の埼|木《こ》の暗《くれ》茂《しげ》に ほととぎす 來鳴き響《とよ》めば はた戀ひめやも
右の一首は大伴宿禰家持
前の件の十五首の歌は二十五日之を作る。
(20)【口譯】 多胡の埼の、木木の鬱蒼と生ひ茂つてゐるあたりに、郭公が飛んで來て、高らかに鳴いたならば、自分はさしあたつて、汝を戀しく思はうか。戀しく思ふのは、汝が鳴かないからだ。この戀心を靜める爲にも、早く鳴いてくれないか。
【語釋】 ○多胡の埼 多胡の埼の。越中國氷見郡宮田村。布勢湖畔にある景色のよい岬。○木の暗茂 木木が生ひ茂つて、下蔭の暗い趣。○響めば 高らかに鳴いたならば。既定でなくて、未定である。古義では、「伎奈伎等余米婆」の「米《め》」は「末《ま》」の誤寫とし、新考では、「米を古義に末の誤としたれど、トヨメナバの意にて、トヨメバといへるなれば、もとのままにて可なり」とある。○はた 將。古義には「そのもと心に欲《ねが》はぬことなれど、外にすべきすぢなくて、止ことなくするをいふ詞なり」とある。○戀ひめやも や〔傍点〕は反語、も〔傍点〕は感動詞。
【後記】 十五首とあるは、代匠記に「八首なるを十五首とは、二十四日の歌、古歌を除けば七首あるを十首後人誤つて合せたる歟。」とある。新考には「ハマベヨリといふ歌以下八首なるを、前件十五首をいへるは、七首の一歌をおとせるなり。」とある。
掾久米朝臣廣繩の舘にて、田邊史福麿を饗する宴の歌四首
(21)4052 ほととぎす 今鳴かずして 明日越えむ 山に鳴くとも しるしあらめやも
右の一首は田邊史福麿
【口譯】 郭公が、今日の此の宴の席のあたりに鳴かないで、自分が明日都へ歸る途中、越えてゆく山の中で鳴いたとしても、それは自分が一人聞くのみであるから、聞き効のあらう筈がない。同じ鳴くならば、今宴半ばに鳴いて、興をそへてくれ。
【語釋】 ○今 宴を開いてゐる今。○明日越えむ 古義に「歸京必ず明日ならずともかくいふべし。」とある。○山 全釋は、礪波山《となみやま》であらうといふ。○しるしあらめやも しるし〔三字傍点〕は「效」即ち「聞き效」。あらめやも〔五字傍点〕は、「戀ひめやも」と同じ用法。
4053 木《こ》の暗《くれ》に なりぬるものを 郭公 なにか來鳴かぬ 君に逢へる時
右の一首は久米朝臣廣繩
【口譯】 時は既に三月の末、あたりは木木の緑も茂つて來たのに、然も珍らしい君に逢つて、宴を開いてゐる時であるのに、郭公は、何故あたり近く飛んで來て鳴かないか。
【語釋】 ○木の暗になりぬるものを漸く緑陰が濃やかになつて來て、郭公は鳴くべきであるのに。○君に逢(22)へる時 君〔傍点〕は福麿を指し、この珍客に逢つて、今酒宴の最中時であるからには、鳴くべきであるのに。
【後記】 卷十「あひ難き君に逢へる夜郭公あだし時よは今こそは鳴かめ」(一九四七)と類似してゐる。
4054 ほととぎす こよ鳴き渡れ 燈火《ともしぴ》を 月夜《つくよ》になぞへ その影も見む
【口譯】 郭公よ、ここより鳴いて過ぎよ。今宵は闇夜であるから、燈火の光を、月の光に代へて汝の飛びゆく姿を見ようと思ふ。
【語釋】 ○ほととぎす 郭公よと呼び掛けた語。○月夜 月。月の光。夜〔傍点〕は輕く添へた語。○なぞへ なぞら へ。准ずる。見なす。
4055 かへるみの 道行かむ日は 五幡《いつはた》の 坂に袖振れ 我をし思はば
右の二首は大伴宿禰家持
前の件の歌は二十六日之を作る
【口譯】 君が鹿蒜山の道を越えて行く日には、五幡の坂のあたりで、袖を振つてくれ、若し君にして、我を思ふ心が一片あるならば。
(23)【語釋】 ○かへるみ 鹿蒜廻。「鹿蒜」は「かひる」又は「かへる」で、越前國敦賀郡にある地名。古今集等にある「歸山」も同じ所にある。み〔傍点〕は、古義によると、「島廻《しまみ》、浦廻《うらみ》、磯廻《いそみ》など多くいふ廻《み》にて‥‥地名の下に附て、某廻《なにみお》といふは、珍らしけれど、古はかくいへることなるべし。六卷にも千沼回《ちぬみ》とよめる、これ同例なり。」とある。これに就いては異説があつて、代匠記は、「歸問《かへかま》」(可敝流末)と「未」を「末」と見、校本萬葉集も同樣であり、新考は「カヘル山」で、「や」を落したものと見てゐる。○五幡の坂 同じ敦賀郡にあつて、全釋は「五幡の坂は、今の五幡より更に北して、杉津に出で、それより今の省線大桐附近に出る坂ではあるまいかと思はれる。それが上代の北陸道であつたやうである。」といつてゐる。○袖振れ 昔の人は、人を招く時とか、別れを惜しむ時とかに、その長い袖を振つて、親愛の情を現したものである。上代の袖は、筒袖でそのゆき〔二字傍点〕が手よりも長く作つてあつた。○我をし し〔傍点〕は強め詞。
太上皇《おほきすめらみこと》難波宮に御在《ましまし》し時の歌七首【清足姫天皇なり】
左大臣橘宿禰の歌一首
4056 堀江には 玉敷かましを 大皇《おほきみ》を 御船漕がむと 豫《かね》て知りせば
【題意】 太上皇は、元正天皇の御事で、續紀によれば「天平二十年四月庚申、太上天皇崩2於寐殿1、春秋六十有(24)九。」とあつて、天皇が難波宮(難波國西成郡豐崎村)におはした時期に就いては、代匠記は「第七首の發句に、奈都乃欲波とあれば、此の御幸は十九年の夏なるべし。」といひ、萬葉集新釋は、此の七首を天平十六年の夏の作と推定してある。「清足姫天皇なり」に就いては、代匠記に、下の細注は後人の所爲なり。去年四月まで御在世にて紛るゝ事なければ撰者の注すべきにあらず。」といつてある通りである。橘宿禰は橘諸兄。
【口譯】 御船に召されて、大君が難波堀江を漕ぎ上られるといふことを、豫め知つてゐたならば、その河の面に玉を敷きならべて、待ち奉るべきであつたのに。
【語釋】 ○堀江 難波の堀江で、現今の大阪の道頓堀附近。○玉敷かましを 玉を數かうものをとは、御道筋を美装する意で、堀江の面に玉は敷きならべられないが、堀江の水やあたりの見苦しいものを清くするといふ事實を美化したのである。○大皇を 代匠記には「腰句は乎と乃と同韻にて通ずれば、大きみのなり。」とあり、或は略解などは「乎は之の誤也。」と明言してあつて、多くは「大皇の」の意と解してゐる。全釋は「大皇を‥‥し給ふと知るといふのだから、舊のままでよい。大皇は太上天皇を指し奉る。乃《ノ》としては御船が主となり、乎《ヲ》ならば大皇が主となる。乎《ヲ》としたのは、太上天皇に對する敬意のあらはれである。」といひ、萬葉集新解は「陛下の御事を、かく/\と知つてをらばの意にて、大君をと云ふ。」と述べてゐる。
【後記】 卷十九に、同じ作者の「葎はふいやしき宿も大皇のまさむと知らば玉敷かましを」(四二七〇)といふ類似歌が載つてゐる。
(25) 御製の歌一首 和
4057 玉敷かず 君が悔いていふ 堀江には 玉敷き滿てて 繼ぎて通はむ【或は云ふ、玉こきしきて】
右二首、件の歌は、御船江を泝《のぼ》りて、遊宴する日、左大臣の奏并に御製
【題意】 「和」は唱和で、天皇の御答へになつた御歌である。
【口譯】 玉を敷かないでと、そなたが後悔してゐる堀江の面には、その玉を一面にならべ滿たして、これからは引き續いて通つて來ようから、さほど後悔すな。
【語釋】 ○玉敷かず 玉を敷かずとの意。○滿てて 滿たして。○繼ぎて 續いて。○玉こきしきて 緒に貫いた玉を、扱《しご》き落して、これを敷きならべて。第四句の別傳。新考には「コキはヤナギサクラヲコキマゼテのコキにて添辭なり。古義に『緒に貫きたる數々の玉をこきおろす御意なり。』といへるほ非なり。ここに玉といへるは、うつくしき小石にて、緒に貫きたる玉にはあらず。」とある。
御製の歌一首
4058 橘の とをのたちばな 彌《や》つ代にも 我《あれ》は忘れじ この橘を
(26)【口譯】 橘の、その枝も撓むばかりに實のり榮えてゐる橘を、永久に朕は忘れまい。このかぐはしい橘を。
【語釋】 ○とをのたちばな 撓の橘。枝も撓むばかりに實のり榮えてゐる橘。橘諸兄一家の繁榮を寓せられたのである。代匠記では、橘に十種の異あるかといひ、略解は「次下の歌に登能乃たちばなとあれば、ここも『登乎能』は、登能之と有しを誤れるなるべし。橘卿の殿の橘なれば、かくよませ給へるなり。」といひ、古義は「乎は乃字の誤なるべし。」といふ。○彌つ代 いやつ代。永代。永久。
河内女王《かふちのおほきみ》の歌一首
4059 橘の 下照《したて》る庭に 殿《との》建てて 酒宴《さかみづき》います 我が大君かも
【題意】 河内女王は、高市皇子の御女。
【口譯】 橘の實が赤らんで、地の上にまで色美しく照り輝いてゐるこの庭に、高殿を營み給うてその殿内で、酒宴を催したまふ吾が大君よ。その御榮えはめでたく耀しいことである。
【語釋】 ○橘の下照る庭 橘の實が色美しく地上にまで輝き光つてゐる庭。古義には「摘花の地まで照徹れるをいふ。」とある。卷十九「春の苑《その》紅匂ふ桃の花下照る道に出で立つ少女」(四一三九)。○殿 御幸を仰ぐ爲の新高(27)殿。○酒宴います さかみづくは四段活で、「酒水漬く」即ち「酒浸りになる」意。います〔三字傍点〕は「あり」「居り」の敬語。御酒宴を遊ばされてゐる。○大君かも か・も〔二字傍点〕何れも感動詞。大君の尊くも盛なることよの意。
粟田女王《あはたおほきみ》の歌一首
4060 月待ちて 家には行かむ 我が挿せる あから橘 影に見えつつ
右件の歌は、左大臣橘卿の宅《いへ》に在《いま》して、肆宴《とよのあかり》せし時の御歌并に奏せる歌なり。
【題意】 粟田女王は、傳未詳。
【口譯】 月の上るのを待つて、私は私の家には歸らう。私がかざしに挿してゐる、赤らんだ橘の實が、月の光に照らされながら。
【語釋】 ○月待ちて 月の上るのを待つてから。○家には は〔傍点〕は強め詞。○挿せる かざしに挿してゐる。○あから橘 赤ら橘。實の赤色に熟した橘。又「明ら橘」で、實の色の明るく照るばかりの橘といふ説もある。卷二十「稻見野のあから柏〔四字傍点〕は時はあれど君を吾が思ふ時はさね無し」(四三〇一)。またこれを古義には、實と見ずして花と見てゐる。○影に 月の影に。月の光に。○見えつつ 見られつつ。照らされつつ。
【後記】以上三首の中に詠まれた橘の實と、一つ置いて次の「夏の夜は」の歌との、季節上の關(28)聯に就いて、一方は冬、一方は夏である季節の違ひから、橘の方を「實」と見ないで、「花」と見て、季節を夏に統一しようとする説があるが、歌柄から「花」と見るのは無理で、「實」と見るべきである。これに就いて全樺は、この一團の歌は、三回に詠まれたものを列擧したので、下に「奈都乃欲波《なつのよは》」とあつても、それと同季節とする必要はない。この太上天皇の難波宮御滯在は相當期間が永かつたのであるといふ。萬葉集新講は「橘の實は、花の咲く頃もなほ、枝に殘つてゐるものであるから、夏の歌であつても、實は詠まれるのである。」といつてゐる。新考では「この七首の歌は、皆元正太上天皇が難波宮にましましし程の歌にはあれど、一時の作にはあらじ。就中橘三首は、冬の末又は春の初の作ならむ。(もし七首共に同時の作ならば、第六首、第七首は、第二首の次にあるべきなり)。」と述べてゐる。左註の肆宴は「豐明」で、群臣に酒を賜ふ宴會の意。
4061 堀江より 水脈引《みをび》きしつつ 御船《みふね》さす 賤男《しづを》のともは 河の瀬まうせ
【口譯】 難波の堀江から、水脈に從つて導きつつ、御船を棹さす賤しい船頭の者どもは、河の瀬の事をよく取りまかなつて、御船に仕へ奉れ。
(29)【語釋】 ○堀江 難波の堀江。既出。○水脈引きしつつ 水脈に從つて導いて。水脈〔二字傍点〕は、河中水の最も深く、船の通行すべき路である。新考には「水脈のしるべするをいふ」とある。○御船さす 御座船を棹さす。○賤男のとも 賤しい男のともがら。新考には「そのミヲビキする人と、御船さす人とは別人なり。ミヲビキする人は、小船に乘りて、御船の先に立ちて行くなり。和名抄に、水脈船(ハ)美乎比岐能布禰とある是なり。さればミヲビキシツツは、正しくはミヲビカセッツヽ又はミヲビキセサセツツといふべきなり。」とある。○河の瀬まうせ まうせ〔三字傍点〕は「執せ」又は「申せ」で、「執行せよ」「仕へ奉れ」の意。河の瀬によく注意して、御船を淺瀬に乘り上げる事などのないやうに取り計らふ意。まうす〔三字傍点〕を「まをす」とあるも同じ。
4062 夏の夜は 道たづたづし 船に乘り 河の瀬ごとに 棹さし上《のぼ》れ
右件の歌は、御船綱手を以て江を泝り、遊宴しませる日作れり。傳へ誦する人は、田邊史福麿なり。
【口譯】 夏の夜は暗いから、鋼手引く岸の道は歩きにくい。それ故船頭どもよ、皆船に乘つて、河の瀬毎に棹さして泝るがよい。
【語釋】 ○夏の夜は云々 略解に「五月闇なるゆゑにこころせよといふ意也。」とある。新考には「樹陰多くし(30)て道がよく知られずとなり。」とある。たづたづし〔五字傍点〕は「たどたどし」と同じで、おぼつかない意。
【左註】 綱手は綱手繩。右の歌は引綱を以て堀江を泝り、遊宴し給ふた日に作つた。「傳へ誦す」は以上七首の歌を傳誦したのである。
後に追和せる橘の歌二首
4063 常世物《とこよもの》 この橘の いや照りに 我《わご》大君《おほきみ》は 今も見るごと
【題意】 家持が、後から思ひやつて前の歌の意を詠んだのである。
【口譯】 海外から齎された物なるこの橘の實が、いよいよ赤く照り輝くやうに、吾が大君は、今も眼前に御榮えまします通りに、永久に御榮えましませ。
【語釋】 ○常世物 常世の國の物。常世の國は不老不死の假想國ともいふが、現實的の國としては、朝鮮國の或る部を指したと見る説がよい。橘が田道間守《たぢまもり》によつて、輸入移植された事は、古事記の垂仁天皇の條に詳しく出て居り、又後の「橘の歌一首并に短歌」にも出てゐる。古義には、猶橘の實とせず、花として居る。○いや照りに 愈々照り輝くやうに。○我大君 元正太上天皇。わご〔二字傍点〕は「わが」の轉化音。○今も見るごと 今も見奉る如く、永久に御榮えませの意。
(31)4064 大皇《おほきみ》は 常磐《ときは》にまさむ 橘の 殿の橘 ひた照りにして
右の二首は、大伴宿禰家持之を作る。
【口譯】 この橘卿の御殿の橘が、いつも照り輝いてゐるやうに、我が大君は、長へに御榮えましますであらう。
【語釋】 ○常磐に 「常磐堅磐」等ともいうて、永久不變にの意。○ひた照りにして ひたすらに照る意。いつも美しく照り輝いて。前歌の「いや照りに」と同意。にして〔三字傍点〕は「にて」の意。
射水《いみづ》郡の驛館《うまや》の屋の柱に題し著《つ》けたる歌一首
4065 朝びらき 入江漕ぐなる 楫《かぢ》の音の つばらつばらに 吾家《わぎへ》し思ほゆ
右の一首は山上臣《やまのへのおみ》の作。名を審にせず。或は云ふ、憶良大夫の男。但其の正名は未だ詳ならず。
【題意】 射水郡の驛館の所在地は、古義に、兵部式に越中國驛馬布勢五疋と見えて、和名抄に、射水郡|布西《ふせ》とあれば、布勢驛なるべし。」とあり、新考には、同じく古義を引用し、更に、此布勢は水橋(今の中新川郡) (32)と佐味(今の下新川都)との間なれば、射水郡(今の氷見郡)の布勢にあらで、今の下新川都の布勢なり。射水郡の驛館は、坂本(礪波郡)と川合(婦負郡)との間なるべきを、式に擧げざるを思へば、はやく廢せられしならむ。」とあり、全釋は「今の新湊町即ち放生津である亘理驛」であらうといふ。
【口譯】 朝、港を出て、入江を漕いでゐる船の櫓の音にも似て、事もこまかに都の家のことが偲ばれる。
【語釋】 ○朝びらき 朝、舟が湊を出て行くこと。○楫の音の 以上三句は「つばらつばら」の序詞。古義に「※[楫+戈]の水に觸て鳴音の、都婆良都婆良とやうに聞ゆればつづけたり。」とある如く、眼前の船の櫓の音の、單調にして哀しさを帶びた調子を沁々聞きながら、その櫓拍子を移して、故郷を思ふ心へと變へて行つた。○つばらつばらに 審《つまびらか》に審に。委曲を盡して。つくづくとこまかに。○わぎへし 「わがいへ」の約音。し〔傍点〕は強め詞。○思ほゆ 思はれる。
【後記】 左註の山上臣に就いては、知る所がない。全釋には「憶良大夫は、卷五にも筑前守山上大夫とあつたのと同じやうな書き方である。この註は家持の手記としてはをかしい。或は福麿が射水驛舘で、これを發見して家持に知らせたものか。」と疑つてをり、新考には「此歌は、福麿が驛舘にやどりて屋の柱に書附けたるを見て、家持に語りしならむ。家持は國府附近なる驛舘にやどらむ事あるべからず。」と述べてゐる。
(33) 四月一日、掾久米朝臣広繩の舘にて宴せる歌四首
4066 卯の花の 咲く月立ちぬ ほととぎす 來鳴きとよめよ ふふみたりとも
右の一首は、守大伴宿禰家持之を作る
【口譯】卯の花の咲くべき月に愈々なつた。花は未だ莟んではゐるが、郭公よ、ここへ來て高らかに鳴いてくれよ。
【語釋】 ○咲く月立ちぬ 咲くべき月が來た。卯月になつた意。○ほととぎす 郭公よと呼掛ける詞。○ふふみたりとも ふふむ〔三字傍点〕は「含む」で、花が咲かず、莟んでゐる意。花は莟で咲かずとも、郭公は鳴けと希望したのである。
4067 二上《ふたかみ》の 山にこもれる ほととぎす 今も鳴かぬか 君に聞かせむ
右の一首は、遊行女婦土師之を作る
【口譯】 二上山にひそみかくれてゐる郭公よ、今鳴いてくれないか。汝の聲を君にお聞かせ申したいから。
(34)【語釋】 ○二上の山 越中國射水郡。卷十七家持の「二上山賦」(三九八五)參照。○今も鳴かぬか 今目の前で鳴けかし。も〔傍点〕は詠嘆の意。前出。○君 家持を指す。
【後記】 卷十九にある家持の歌「二上の峯《を》の上《へ》のしじに籠りにしその郭公待てど來鳴かず」(四二三九)或は卷八「もののふの石瀬の杜の郭公今も鳴かぬか山のと陰に」(一四七〇)と類似してゐる。
4068 居《を》り明《あか》し 今宵は飲まむ ほととぎす 明けむあしたは 鳴き渡らむぞ
二日は立夏の節に應《あた》る。故に之を明旦喧かむとすといふなり。右の一首は守大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 今宵は、ここで夜を徹して酒を飲まう。明朝は立夏の節で、郭公はここを鳴き過ぎるにちがひないから、その初聲を待つために。
【語釋】 ○居り明し 「明しも」とある本もある。「居明《ゐあか》し」と同意で、起きてゐて、夜を明かす意。○ほととぎす ほととぎすはの意。○明けむあした 明朝即ち立夏の節。○鳴き渡らむ 郭公は夏の鳥であるからである。
【左註】 「明けむあしたは鳴き渡らむそ。」を解したのみである。
(35)4069 明日よりは 繼《つ》ぎて聞えむ ほととぎす 一夜《ひとよ》のからに 戀ひわたるかも
右の一首は、羽咋《はくひ》郡擬主帳|能登臣乙美《のとのおふおとみ》の作
【口譯】 鳴くべき季節の明日の立夏からは、引きつゞいて毎日鳴きつづける郭公であるから、待てばよいのに、たつた一晩であるのに、辛抱も出來ず、その聲をかくも待ちつゞけてゐることである。
【語釋】 ○繼ぎて 引續いて。○ほととぎす 「郭公なるものを」の意。○一夜のからに から〔二字傍点〕は「故」。一夜の故に。一晩の爲に。待つべきはたつた一晩だけであるのに。○戀ひわたる 何時鳴くかと、その聲を待ち續ける。
【左註】 擬主帳とは、主帳に擬する意。主帳は郡の第四等官。職員令「大郡主帳三人、掌d受v事上v抄勘2署文案1※[手偏+僉]2出稽失1讀c申公文u餘主帳準v之、上郡二人中郡一人下郡一人。」
庭中の牛麥《なでしこ》の花を詠める歌一首
4070 一本《ひともと》の なでしこ植ゑし その心 誰に見せむと 思ひ初《そ》めけむ
(36) 右、先の國師の從僧清見《ずそうせいけん》京都《みやこ》に入らむとす。因りて飲饌を設けて饗宴す。時に主人大伴宿禰家持、此の歌詞を作りて、酒を清見に送《すす》むるなり
【口譯】 この一本のなでしこを庭に植ゑたのは、誰に見せるためではない。はじめから貴僧に見せようとの私の眞心からであるのに、その花の咲かない中に、貴僧が上洛されることは、私の本意が通らないで、口惜しい。
【語釋】 ○牛麥の花 古義に契沖の説を引いて「一切經音義第十二曰、瞿此謂云v牛。これにつきて、瞿麥を今牛麥とかけるを思ふに、瞿麥の瞿は梵語なりと知られたり。牛を梵語に瞿といふ。或は遇の字を用ゆ。瞿も梵語には濁音に用たり。秘密藏の經軌に多く見えたり。瞿と牛と、梵漢ことなれど、自然に音相通へり。かかること往々にあり。」○其の心 我が心。○誰に見せむ云々 誰に見せる爲でもない、最初から君に見せようと思つた。
【左註】 國師とは、國分寺の主僧で、ここは越中の國師。清見は傳未詳。新考には「先とあるを見れば、その國師うせて、從僧清見の京に歸らむとせるならむ。」とある。
4071 しなざかる 越《こし》の君らと 斯くしこそ 楊《やなぎ》かづらき 樂《たの》しく遊ばめ
(37) 右、郡司已下子弟已上諸人多く此の會に集まる。因りて守大伴宿禰家持此の歌を作れるなり
【口譯】 自分は、越の國の君達と、かやうに毎年、楊を頭にかざして、愉快にあそびたいものである。
【語釋】 ○しなざかる 「越」の枕詞。○越の君ら 左註の人々を指す。○かくしこそ し〔傍点〕は強め詞。かやうに。○かづらき 頭のかざしとする意。既出。
4072 ぬばたまの 夜渡る月を 幾夜|經《ふ》と よみつつ妹は 我待つらむぞ
右、此の夕、月光遠く流れて、和風稍扇ぐ。即ち屬目に因りて、聊か此の歌を作れるなり
【口譯】 夜空を流れ行く今宵の月を見ながら、我が妻は、別れてから今までに、幾夜經つたらうかと、その日數を數へて、自分の、家に歸る日を待つてゐることであらう。
【語釋】 ○ぬばたまの 「夜」の枕詞。○夜渡る月 夜空を照らして通る月。○幾夜經と 自分と別れてから、幾日過ぎたらうかと。月に關係して、幾夜といつた。同じことである。○よみつつ 數へつつ。別れてから(38)經過した日數を指折りながら。
【後記】 作者の名がない。古義は、單に家持の作であらうといひ、新考は「各郡の郡司等が清見の祖宴に列せむとて、家を出でて皆數日を經たれば、其妻どもが、月を見て家を出でしよりの日數を數へて、わび待つらむといへるなるべし。」とあつて、作者は何れとも不明であるが、郡司等の心となつて、誰かが歌つたものでもあらうか。
【左註】 屬目は目に觸れること。あたりの景色を見ること。
越前國掾大伴宿禰池主、來贈れる歌三首
今月十四日を以て深見村に到來し、彼の北方を望拜し、常に芳徳を念ふ。何れの日か能く休まむ。兼ねて隣近なるを以て、忽ち戀緒を増す。加以《しかのみにからず》先の書に云ふ。暮春惜むべし。膝を促すこと末だ期せずと。生別の悲、夫れ復た何ぞ言はむ。紙に臨みて悽斷、状を奉る不備なり
三月十五日、大伴宿禰池主
一、古人云ふ
(39)4073 月見れば 同じ國なり 山こそは 君があたりを 隔てたりけれ
【題意】 ○深見村 越前國河上郡。○彼の北方を望拜し 越中の國府は、深見村から北方に當るからいふ。○芳徳 家持の芳徳。○兼ねて云々 新考に「其上御近處マデ參リタレバ」とあるの意。○戀緒 古義によつて「緒」を補ふ。○先の書 以前に、家持から地主に贈つた手紙。○膝を促す云々 膝をつきあはすこと即ち對面することは、未だ何時と定められない。○悽斷 悽愴斷腸。悲しくて斷腸の思がある。○古人云ふ 代匠記「此は第十一に、人麿集歌に、月見國同山隔愛味隔有鴨。此歌の意は今に叶ひて、下句の言は叶はねば、作り替ながら、本は古人の意なるを以て、かくは題せられたるなり。」古義も同じ意味の説明。
【口譯】 月を眺めると、そちらとこちらとは同じ國にあつて、同じ月に照らされてゐるとは思ふが、山が君の住まれるあたりを隔てて、容易に逢へないのは口惜しいことである。
一、物に屬《ツ》きて思を發《おこ》す
4074 櫻花 今ぞ盛と 人は云へど 我はさぶしも 君としあらねば
【題意】 古義に「屬物とは、屬は後々の歌題に、寄といふに似たり。物は此は櫻なり。」
【口譯】 櫻の花は、今が眞盛りで面白い時だと、人人はいふけれど、我は君に離れて、獨り居る(40)から、心が樂しまない。
【語釋】 ○我はさぶしも 我は心が樂しまない。略解に「我の字の下波を脱せるか。」とある。○君とし 君と共に。し〔傍点〕は強め詞。
【後記】 卷四にある「山の端にあぢむら騷ぎ行くなれど吾はさぶしゑ君にし在らねば」(四八六)と類似の歌。
一、所心の歌
4075 相思はず あるらむ君を あやしくも 嘆き渡るか 人の問ふまで
【題意】 古義に「おもひをのぶるうた」とある。
【口譯】 自分は思つても、貴殿は何とも思つてくれないのに、他人が怪んで、何故の物思かと尋ねる位、自分は自分ながら不思議に、嘆き續けてゐることである。
【語釋】 ○相思はず云々 所謂「片思ひ」で、意味の上からは、「君を」までは續いてゐる。君を〔二字傍点〕は「君なるものを」の意。○あやしくも 我と我が怪しむ程。○嘆き渡るか か〔傍点〕は「かも」、「かな」の意。
【後記】 略解に「男女相聞のさまによめる也。」とある通りで、此の類の歌は萬葉に類歌が多い(41)が、「人の問ふまで」といふ語句は、他に例がない。この句は平安朝時代以後には多く用ひられた。例へば、拾遺集戀一、平兼盛「忍ぶれど色に出にけり我が戀は物や思ふと人の問ふまで」などは、餘りに有名である。
越中國守大伴家持報へ贈れる歌四首
一、古人の云へるに答ふ
4076 あしびきの 山はなくもが 月見れば おなじき里を 心隔てつ
【口譯】 あの邪魔物の山がなくて欲しいものだ。大空の月を眺めると、君と我とは、同じ里に住んでゐるのに、あの山が我等の心を隔てて通はせない。
【語釋】 ○あしびきの 「山」の枕詞。○なくもが も〔傍点〕は感動詞。が〔傍点〕は願望の助詞。○おなじき里を 「同じき里なるものを」の意。新考に「オナジキ佐刀ヲは、原歌にもたれて、オナジキ國ヲといはば、越中越前を混同する嫌あれば、(池主は越前の掾にて、今同國深見村に來れり。)已むを得ずして、里といへるならむ。」とある。○心隔てつ 山が二人の心を通はしめない。古義には「末句は、同じ心なるを、里を隔てつと云意なるべし。里と心とを姑おき換て心得べし。」とあり、代匠記には「落句は山に依て、實に心の隔たるにはあら(42)ず。下の心は通へども、面談を隔つれば、へだたるに似たるをヘダテツとは云へり。」とある。
一、物に屬きて思を發せるに答へ、兼て詠じて遷任せる舊宅の西北隅の櫻樹を云ふ
4077 我が兄子《せこ》が 古き垣内《かきつ》の 櫻花 いまだふふめり 一目《ひとめ》見に來《こ》ね
【口譯】 あなたのもとのお宅の庭の櫻の花は、まだ莟んでゐる。花盛りに會ふやうに、一寸見にお出でなさい。
【語釋】 ○我が兄子が 我が友の。あなたの。池主を指す。こゝの兄子〔二字傍点〕は、友に用ひられた。○古き垣内 題意中の「舊宅」の垣の内、即ち舊宅の庭。○ふふめり 莟んでゐる。前出。
一、所心に答ふ。即ち古人の跡を以て今日の意に代ふ
4078 戀ふと云ふは えも名づけたり 言ふすべの たづきも無きは 我身なりけり
【題意】 古人の跡は、古歌。今日の意は、自分の今の心。
【口譯】 人を戀ふといふことは、よくもいつたものだ。全くその通りであるが、君に對する自分の戀しさは、世の常のものと異なつて、何といつて説明してよいか、説明の方法も知らないの(43)が、自分の現状である。
【語釋】 ○戀ふと云ふは 人を戀するといふことは。○えも名づけたり よくも戀といふ言葉を用ひたものだ。略解に「淺くも名づけたる也。えならずのえと同じ。しからざれば下に叶はず。」とあり、古義も之に賛成してゐるが、「淺くも」は賛成しがたい。「よくも」即ち成程と感心した意に見て、よく通ずる。○言ふすべのたづき すべは「術」「方法」等の意。たづき〔三字傍点〕は「たどき」と同じで、「たより」「たのみ」等の意であるが、結局似通つた意味である。「すべのたづき」はつまり「方法」の意。卷十二にも「立ちてゐてすべのたどきも今は無し妹に逢はずて年の經ぬれば」(二八八一)とあるのも同じい。
一、更に目を矚す
4079 三島野《みしまぬ》に 霞たなびき しかすがに 昨日も今日も 雪は降りつつ
三月十六日
【口譯】 三島野には霞がなびいて、春の景色となつた。然しながら、昨日も今日も、まだ雪は降りつ降りつしてゐる。
【語釋】 ○三島野 同じく射水郡であつて、國府近く、現今の大門町附近であらうといふ。○たなびき 中止(44)法に用ひてあるが、「たなびく」の終止形の意と見るべきである。○しかすがに 然しながら。卷十「雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ」(一八六二)、卷八「うちきらし雪は降りつつしかすがに吾家の園に鶯鳴くも」(一四四一)。
【後記】 内容的に或は外形的に、これと類似せる歌は全卷に若干ある。例へば卷八「明日よりは春菜摘まむとしめし野に昨日も今日も雪は降りつつ」(一四二七)、卷十「風交り雪は降りつつしかすがに霞たなびき春さりにけり」(一八三六)。略解には「北國なれば、三月なかば猶雪ふれるなるべし。」といひ、代匠記には「雪は零つゝとは、櫻の咲を云へる歟。其故は越の國なれども三月十六日の歌なれば、實の雪の降べき時にあらず。右に屬目と云へるは櫻なるに、いまだふふめりとよめれば、今も散を雪と見しにはあらで、日にそひて咲まさるを云へると知られたり。」とあるが、略解の説がよい。
姑《をば》大伴氏坂上|郎女《いらつめ》、越中守大伴宿禰家持に來贈れる歌二首
4080 常人《つねひと》の 戀ふと云ふよりは 餘りにて 我は死ぬべく なりにたらずや
【口譯】 世の常の人が、戀ひ慕ふといふ以上の戀情によつて、自分はほと/\死にさうになつて(45)ゐるではないか。
【語釋】 ○常人 世間普通の人。古義には「此は清て唱ふべし。契冲、此人を清てよめば、常に人のと聞ゆ。濁てよめば、よのつねの人のと聞ゆ。濁るをよしとすべしと云り。此は後世のならはしを以て、古をことわれるなり。古は人を清ても、なほよのつねの人と云ことになれるなり。」とある。○餘りにて 餘り〔二字傍点〕は動詞。餘り過ぎての意。○なりにたらずや 「なりにてあらずや」のてあ〔二字傍点〕が「た」となつたもの。や〔傍点〕は疑問。なつてゐるではないか、全くさうだの意。
【後記】 古義に、古今集の「戀しとは誰が名づけけむ言ならむ死ぬとぞただにいふべかりける」(戀四、深養父)を引用してある。
4081 片思《かたおもひ》を 馬に太馬《ふつま》に負《おは》せ持《も》て 越邊《こしべ》に遣《や》らば 人かだはむかも
【口譯】 自分の片思の荷を、馬に然も肥えて丈夫な馬にしよはせもつて、君の住む越の國の方へ送つてやつたならば、途中、重い荷物に目をつけて、盗人が欺き奪ふであらうか、この戀の荷物を送るすべのないのが因つたことだ。
【語釋】 ○馬に太馬に 重ね詞。太馬《ふつま》は「ふとうま」の約音、肥えて頑丈の馬。○負せ持て 負はしめ持ちて。(46)○越邊 越の國の方。○人かだはむかも 略解に、かだはむは、後撰集『山風の花の香かどふふもとには春の霞ぞほだしなりける』とよめる、かどふに同じく、今かどはすなどいふごとく、かすめぬすむこと也。重き荷を馬に負せやらば、盗人がとるべきと戯るゝ也。」とある。「かだふ」も「かどふ」も同じで、欺き取る意。
【後記】 卷四の「戀草を力車に七車積みて戀ふらくわが心から」(六九四)の類である。
越中守大伴宿禰家持の報ふる歌并に所心三首
4082 天《あま》ざかる 鄙《ひな》の奴《やつこ》に 天人《あめびと》し 斯く戀ひすらば 生けるしるしあり
【題意】 所心は、念ふところを云ふ意である。
【口譯】 越中といふ田舍に住んでゐる奴の我に、天人なるそなたが、これほどまで戀の心をそそいでくれるならば、自分は、此の世に生き效のあることを痛感する。
【語釋】 ○天ざかる 「鄙」の枕詞。○鄙の奴 田舍なる越の國に居る我。「奴」を「都」とある本が多くて、「鄙の都」は、「國府」を指してゐるが、これは略解や古義に引用してある、宣長の詞「大平が説に、『都夜故』は夜都故《ヤツコ》を誤れる也といへり。まことにしかるべし。國府をみやこといふべきよしなし。遠《とほ》の朝廷《みかど》とい(47)ふとは、事のさまかはれり。」とある説に從つた。猶この事は古義に詳説してある。「奴」といふ意味は、「奴婢」の場合の外、かく自卑の意にも、人を罵る意にも用ひられる。「戀の奴」といへば「戀」を擬人化して罵つた意である。○天人し し〔傍点〕強め詞。「天人之」の之〔傍点〕をノと讀む本もある。天人は、都に住む坂上郎女を崇めていつた語。○戀ひすらば 自分を戀してくれるならば。代匠記「カクコヒスラバは、良と留と同音なれば、かくこひするはなり」。略解「かくこひすらばは、如是戀するならばと云を略ける也」。古義「須良は、勢列か世列の誤なるべし。如此戀爲有者《カクコヒスレバ》なり。」新考「波を久玖などの誤とすべし。カク戀スラクにて、カク戀フル事ハといふ意なり」。俄に定め難い。○生けるしるしあり 生きてゐる效がある。卷六「御民われ生けるしるしあり天地の榮ゆる時にあへらく思へば」(九九六)と同じ用例である。
4083 常の戀 いまだ止《や》まぬに 都より 馬にこひ來《こ》ば 荷ひあへむかも
【口譯】 自分が常々戀しく思ふ心が、まだ止む時がないのに、此の上都から、戀の重荷を太馬に乘せてよこしたならば、自分はその荷を荷ひおほせるだらうか、とてもそれには堪へられないであらう。
【語釋】 ○常の戀 自分が平生君を戀しく思ふ心。○馬にこひ來ば 「太馬に負はせて、おこしたならば」の意(48)であらう。こひ〔二字傍点〕といふ動詞の意がわからぬ。「馬になひ來ば」と見ても、下に又「荷ひ」があつて重複する。新考には「古非は、ツミの誤ならむ。ウマニツミコバの對格は、新なる戀なり。」とある。○荷ひあへむかも あへむ〔三字傍点〕は「敢へむ」で、敢ふ〔二字傍点〕は「堪へる」意。か〔傍点〕は疑問、も〔傍点〕は感動。荷ひおほせるだらうか。とてもそれは出來ない。
別に所心一首
4084 曉《あかとき》に 名告《なの》り鳴くなる ほととぎす いやめづらしく 思ほゆるかも
右四日、使に附けて京師に贈り上《のぼ》す
【口譯】 夜明方に、おのが名を唱へて鳴いてゐる郭公の聲が、愈々珍らしく思はれるやうに、君よりの御歌の、益々珍らしく思はれて、うれしいことである。
【語釋】 ○名告り鳴くなるほととぎす 郭公は、ほととぎす/\と、おのが名を呼ふやうに鳴き聲を立てるのでいふ。○いやめづらしく 愈々益々珍らしく。郭公の聲を愛でることに托して、郎女の歌を愛でたのである。
【左註】 「四日」は、代匠記には「四月」であらうといひ、古義には「四月四日」であらうと云ふ。後者に從ふ(49)べきであらう。
天平感寶元年五月五日、東大寺の占墾地の使僧平榮等を饗す。時に守大伴宿禰家持、酒を僧に送る歌一首
4085 燒刀《やきたち》を 礪波《となみ》の關に 明日よりは 守部《もりべ》遣りそへ 君をとどめむ
【題意】 東大寺は奈良にある。占墾地とは、古義に「墾開《はり》て田となすべき地を占《しむ》ることを許し給ふを云。許とは公より捨《こひ》賜ふにはあらで、私に買得、或は檀越の施入を受納などして、其寺の墾田の地とすることをゆるさるゝなりと云り。‥‥さて占2墾地1使とは、右の墾田地を占ることを、四月朔の勅に許されたるにつきての使となるべし。」とある。
【口譯】 あなたは愈々御歸京とあつて、御名殘惜しい。あなたの御通りになる礪波の關に、明日からは、關守の番人を、もつと數多く遣はして、あなたを御引止めしよう。
【語釋】 ○燒刀を 「と」の枕詞。「礪《と》ぐ」と續くか、「利し」と續くかの兩説ある。○礪波の關 越中國東礪波郡。○守部 番人。、○遣りそへ 人員を増して遣はし。
(50)〔地図省略〕
(51) 同じき月九日、諸僚|少目秦伊美吉石竹《せうさくわんはたいみきいはたけ》の舘に會《つど》ひて飲宴す。時に主人、百合の花|縵《かづら》三枚を造り、豆器に疊《かさ》ね置きて、賓客に捧げ贈る。各此の縵を賦して作れる三首
4086 あぶら火の 光に見ゆる 我が縵 さ百合の花の 笑《ゑ》まはしきかも
右の一首は、守大伴宿禰家持
【題意】 ○諸僚 國府の役人達。○少目 目は國司の四等官で、大少がある。○秦伊美吉石竹 續紀「寶字八年十月庚午、正六位上、秦忌寸伊波太氣授2外從五位下1、寶龜五年三月甲辰、爲2飛騨守1、七年三月癸巳、外從五位下秦忌寸石竹爲2播磨介1。」○百合の花縵 百合の花を縵に造つたもの。○三枚 元暦本には「三枝」とある。○豆器 俎豆ともいつて、禮式の時に食物を盛る器であるが、ここは高杯《たかつき》の類を、漢語的にいつたものである。
【口譯】 燈火の明るい光に照らされて、美しく見える私の縵にさした百合の花が、ほほ笑みたいやうな感じを持つて眺められる。
【語釋】 ○あぶら火 燈し油をともした明るい火。○我が縵 我が縵なる。○さ百合 さ〔傍点〕は接頭語。○笑まはしきかも ほほ笑ましい感じがする。略解に「卷七、道の邊の草深百合の花笑みに笑ませしからにつまといふべしやとよめる如く、花の咲たるをゑむといへば、花よりゑまはしきといひ下したり。」とある。
(52)4087 燈火《ともしび》の 光に見ゆる さ百合花 ゆりも逢はむと 思ひ初めてき
右の一首は、介内藏伊美吉繩麿《すけうちのくらいみきなはまろ》
【口譯】 今宵の宴の面白いにつけて、今後もかういふ會にあひたいものだといふ心が切に起つた。
【語釋】 ○燈火の光に見ゆるさ百合花 「ゆり」の序詞。眼前の光景を取つて、序詞とした。○ゆり 後。卷八「吾妹子が家の垣内のさ百合花ゆりと云へるはいなとふに似る」(一五〇三)。○思ひ初めてき 此の樂しい席で、自分はさういふ心持を起した。
4088 さ百合花 ゆりも逢はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ
右の一首は、大伴宿禰家持 和
【口譯】 後になつても、かやうな面白い會にあはうと思ふからこそ、さしあたり現在も、かやうに睦じく語らつてゐるのである。
【語釋】 ○さ百合花 「ゆり」の序詞。○思へこそ 思へばこそ。○今のまさか 今の現在。○うるはしみすれ 睦じくする。
(53) 獨幄裏に居て、遙に霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌一首并に短歌
4089 高御座《たかみくら》 天《あま》の日嗣《ひつぎ》と 天皇《すめろぎ》の 神の命《みこと》の 聞《きこ》し食《を》す 國の眞《ま》ほらに 山をしも さはに多みと 百鳥《ももとり》の 來居《きゐ》て鳴く聲 春されば 聞《きき》の愛《かな》しも いづれをか 別《わ》きてしぬばむ、卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととぎす 菖蒲草《あやめぐさ》 珠《たま》貫《ぬ》くまでに 晝暮らし 夜《よ》わたし聞けど 聞くごとに 心うごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし
【題意】 幄裏は、帳《とばり》の垂れてゐる内で、家の内と同じい。
【口譯】 高御座におはします皇位として、天子樣といふ神の御治め遊ばす結構な越中の國には、山々が澤山多いので、諸々の鳥が飛んで來てゐて、鳴く聲々は、春になると、聞くと可愛らしく感ぜられる。が、その中、どの鳥の音を、格別賞美したものであらうか。それらに較べると、卯の花の咲く卯月になると、珍しく鳴く郭公の聲は一段と勝つて聞え、菖蒲の草を藥玉にさし通し飾る五月五日の節句の頃まで、晝はひねもす、夜は夜もすがら聞くけれど、その聲を聞く(54)度ごとに我が心は感動して溜息を漏らし、あゝ面白い鳥だと、言葉に出さない時とてはない。
【語釋】 ○高御座 高〔傍点〕は敬稱。御座所。天位を申す場合もある。ここは「高御座におはします」の意。○天の日嗣と 天つ日嗣ともいふ。皇位をいふ。と〔傍点〕は「として」の意。古義には「にてといはむが如し」とある。○神の命 天皇に對する尊稱。○聞し食す 「聞しめす」と同じ。天下を治め給ふ。○國の眞ほら 「眞ほら」の眞〔傍点〕は美稱。ほら〔二字傍点〕は、秀《ほ》ら」で、秀〔傍点〕は秀でてゐる意。ら〔傍点〕は接尾語。或はほら〔二字傍点〕は「洞」で、大和の國が、山々に取り圍まれてゐる地勢から起つたともいふ。何れにしても國を讃美した意。この國〔傍点〕は越中の國を指す。○山をしもさはに多みと しも〔二字傍点〕は強め詞。さはに〔三字傍点〕は「澤山に」。山を多みと〔五字傍点〕は「山々が多いので」の意。と〔傍点〕はとての意。○百鳥 「百千鳥」「いほつ鳥」と同じく、多くの小鳥。○來居て 來て居て。○春されば 春になると。○聞の愛しも 聞くに面白いと思ふ。聞き〔二字傍点〕は名詞で「聞くこと」の意。かなし〔三字傍点〕は「面白い」「可愛い」の意。○いづれをか云々 百鳥のどの鳥を、特別に賞美しようか、どれも同じで、勝つた鳥もない。しぬばむ〔四字傍点〕は、例へば卷一の「秋山の木の葉を見ては、黄葉をば、取りてぞしぬぶ〔三字傍点〕云々」(一六)の、それと同じい。○卯の花の咲く月 卯月、即ち四月。○菖蒲草云々 菖蒲草を藥玉に貫く端午の時分まで。○晝暮らし 「聞けど」にかゝる。晝を暮らして聞けど。ひねもす聞いても。○夜わたし 夜を渡して。夜通し。○あはれの鳥 あゝ面白い鳥。卷九「かききらし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなり※[立心偏+可]怜《あはれ》その鳥」(一七五六)。
(55) 反歌
4090 行方《ゆくへ》なく あり渡るとも ほととぎす 鳴きし渡らば 斯くやしぬばむ
【口譯】 郭公が、行方知れず何處かへ、永らく飛び去つてしまつても、やがて又ここに鳴いて來たならば、今と同じやうに、その時は又汝の聲を賞美するであらう。
【語釋】 ○行方なく 行方知れず。○あり渡るとも あり〔二字傍点〕は「あり通ふ」等のあり〔二字傍点〕と同じく、繼續の意。いつまでも飛び去つてゐても。卷十「朝露に染め初めたる秋山に時雨な降りそあり渡るがね」(二一七九)。○鳴きし渡らば しは強〔傍点〕め詞。ここを鳴いて過ぎたならば。○斯くやしぬはむ や〔傍点〕は感動詞。今のやうに、汝の聲を賞美するであらう。新考には「カクヤは、カクゾの誤字ならざるか。」とある。
4091 卯の花の 共にし鳴けば ほととぎす いやめづらしも 名|告《の》り鳴くなへ
【口譯】 卯の花が咲くと一緒に、郭公がおのが名を唱へつゝ鳴くので、この鳥は愈々愛らしい。
【語釋】 ○卯の花の共にし し〔傍点〕は強め詞。卯の花の咲くと共に。「開爾之奈氣婆《トモニシナケバ》」は、元暦校木の、「登聞《トモ》爾之奈氣婆」に從ふべきである。○名告り鳴くなへ 又同じことを繰返した。郭公がおのが名の、ほととぎすほととぎすと鳴くにつれての意。此の句の下に、「卯の花が咲く」の意を補つてみる。なへ〔二字傍点〕は「なべ」ともいつ(56)て、「と共に」「につれて」「ままに」等の意。
4092 ほととぎす いと嫉《ねた》けくは 橘の 花散る時に 來鳴きとよむる
右の四首は、十日大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 ほととぎすが、甚だにくらしいことは、時もあらうのに、橘の花が散り落ちる時に來て聲高らかに鳴くことだ。その爲に、自分の物思はいよ/\募つてゆく。
【語釋】 ○ほととぎす 郭公が。郭公に對して。○嫉けくは 嫉けくあることは。惡らしく思ふ事は。○來鳴きとよむる 來て聲高く鳴いて、我に物思をさせる意。
【左註】 十日とあるは、五月十日。
英遠《あを》浦に行きし日作れる歌一首
4093 英遠の浦に 寄する白波 いや増しに 立ちしき寄せ來《く》 東風《あゆ》をいたみかも
右の一首は、大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 英遠の浦に押寄せる白波が、愈々高く、頻りに打寄せて來るのは、東風がひどく吹くか(57)らであらうか。
【語釋】 ○英遠の浦 永見郡氷見町の北方にあつて近い。○立ちしき 立ち重《し》き。頻りに立つて。卷二の「沖見ればしき浪立ち‥‥」(二二〇)のしき浪〔三字傍点〕も同じで、繁く打寄せる波の意。○東風 あゆ〔二字傍点〕は「東北風」をもいふ。その土地では、今も「アイノカゼ」といつて、東北風を意味するといふ。
陸奥國より金《くがね》を出せる詔書を賀《ことほ》ぐ歌一首并に短歌
4094 葦原《あしはら》の 瑞穗《みづほ》の國を 天降《あまくだ》り しらしめしける 天皇《すめろぎ》の 神の命《みこと》の 御代《みよ》重ね 天《あま》の日嗣《ひつぎ》と しらし來る 君の御代御代 敷《し》きませる 四方《よも》の國には 山河を 広み淳《あつ》みと 奉る 御調寶《みつぎたから》は 數へ得ず 盡しもかねつ 然れども 吾《わが》大王《おほきみ》の 諸人《もろびと》を 誘《いざな》ひ給ひ 善き事を 始め給ひて 金《くがね》かも 樂しけくあらむと 思ほして 下《した》惱ますに 鷄《とり》が鳴く 東《あづま》の國の 陸奥《みちのく》の 小田《をだ》なる山に 金《くがね》ありと 奏《まう》し給へれ 御心を 明《あき》らめ給ひ 天地《あめつち》の 神相《あひ》うづなひ 皇御祖《すめろぎ》の 御靈《みたま》助けて 遠き代に かかりし事を 股《あ》が御世に あらはしてあれば 食國《をすくに》は 榮えむもの(58)と 神《かむ》ながら 思ほしめして もののふの 八十件《やそとも》の雄《を》を まつろへの むけのまにまに 老人《おいびと》も 女童兒《をんなわらは》も しが願ふ 心だらひに 撫で給ひ 治め給へば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴《おほとも》の 遠《とほ》つ神祖《かむおや》の 其の名をば 大來目主《おほくめぬし》と 負《お》ひ持ちて 仕へし官《つかさ》 海行かば 水漬《みづ》く屍《かばね》 山行かば 草むす屍 大皇《おほぎみ》の 邊《へ》にこそ死なめ 顧みは せじとことだて 丈夫《ますらを》の 清きその名を 古《いにしへ》よ 今のをつつに 流さへる 祖《おや》の子どもぞ 大伴と 佐伯《さへき》の氏《うぢ》は 人の祖《おや》の 立つること立《だて》 人の子は 祖《おや》の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ繼げる ことのつかさぞ 梓弓《あづさゆみ》 手に取り持ちて 劔大刀《つるぎたち》 腰に取り佩《は》き 朝《あさ》守り 夕《ゆふ》の守りに 大王《おほぎみ》の 御門《みかど》のまもり 我をおきて また人はあらじと 彌立《いやだ》て 思ひしまさる 大皇《おほぎみ》の 御言《みこと》の幸《さき》の【一に云ふ、を】聞けば貴み【一に云ふ、貴くしあれば】
【題意】 聖武天皇が、奈良の東大寺の大佛を御造榮中、資金が不足した時、天平二十一年二月、陸奥國小田郡から黄金九百兩を獻上した。天皇は佛恩に感泣せられ、天平感寶と年號を改められ、東大寺に行幸遊ばしてこれを御奉告になり、群臣に詔を下され、位を賜はつた。越中に居つた家持も、從五位上に昇進したので、(58)任國から、この賀表を奉つたのである。詳細は續記に載つてゐる。
【口譯】 高天原から下つて、我が日本國を御治め遊ばされた天孫瓊々杵尊以來、御代を重ね、皇位にあつて次々に御支配なされた御歴代の君々の御統べになつた天下は、山が厚く、河が広いので、その國々から奉る貢物の寶は、夥しくて數へることも出來ず、盡すことも出來ない。然しながら、我が大君が諸人を御導き遊ばされて、大佛鑄造といふ尊いことに御着手なされ、黄金不足の今、それがあつたら、どれ程うれしからうとお思ひになつて、御心深く惱んで居られた處が、東の國なる陸奥の小田郡にある山に、黄金が見出されたと、臣下が申上げたれば、大君は御悩み心を御晴らしになり、これは朕の大願を、天地の神々が御納受遊ばされ、皇祖の御靈が御助けになつて、昔の世にもなかつたことを、朕が世に表はしたのであるから、御統治遊ばす天下は榮えることであらうと、神の御身のままに、大君は思し召して、群臣百官を從はしめ靡かせると共に、老人をも女や子供をも、彼等の願ふ心が滿足するやうに、いつくしみ給ひお取りさばきになつたから、その御惠を人々は誠に貴く、嬉しいことにいよ/\思つて、それにつけても、我が大伴一族の遠い先祖は、その名をば大來目主ともつてゐて、朝廷に御仕へした武官の役柄の家である。海を行くならば、屍を水の中にも捨てよう、山へ行くならば、屍を(60)草の間にも曝さう。大君の御側で死なう。後をふりかへるやうなことは決してしないとして、大丈夫たる立派なその名を、遠い昔から現在に至るまで、傳へて來た先祖の子孫なる我等であるぞ。大伴氏と佐伯氏とは、先祖の立てた誓言にある通り、子孫達は先祖の名前を絶やさず、大君に仕へ奉る者だと、言ひ繼いで來た、格別の官職であるぞ。それ故に、吾等子孫は、梓弓を手に持ち、劔大刀を腰に帶びて、朝に夕に朝廷を守り、宮門を守るものとしては、我等の外には、その人はあるまいと、大君の此の度の御詔の有り難さを承れば、貴く感ずるので、愈々家の教を押し立て、益々奉公の決心を固める次第である。
【語釋】 ○葦原の瑞穂の國 海邊には葦が生ひ茂り、内部には瑞々しく稻穗の實る國があるとの意味で、日本國の古名。「豐葦原の千五百秋の瑞穂國」も同じ意。○天降り 記紀所載の天孫降臨をいふ。○しらしめしける 「知ろしめしける」と同意で、御治め遊ばされた。○天皇の神の命の 神の命〔三字傍点〕は尊稱。これは天孫瓊瓊杵尊を申す。意味の続き具合から、「命以来」と見るべきである。○天の日嗣と 皇位として。皇位に在つて。○しらしくる 御治めなされて來た。○敷きませる 敷く〔二字傍点〕は「知る」と同じ。御治め遊ばされる。○山河を広み淳みと 廣み〔二字傍点〕は河に、淳み〔二字傍点〕は山に関係し、と〔傍点〕は「とて」の意。山は奥深く、河は広々としてゐるので。○御調寶 貢物の寶。○盡しもかねつ 盡すことも出來ない。○然れども 然るに。これから下は聖武天皇が、大佛を御造營になる?末を述べてある。○誘ひ 勸誘し。○善き事 大佛鑄造の事。○金かも樂(61)しけくあらむ か〔傍点〕は疑問、も〔傍点〕は感動詞。黄金が産出されたら、どんなにうれしいことであらうか。古義には「此は、詔詞の如く、少氣久安良牟《スクナケクアラム》とあるべきを、かくあるはいかがなり。若しは多能之《タノシ》と云に、少《スクナ》の義あるか。」と疑つてゐる。詔詞には.朕【波】金少【牟止】念憂【都都】在【爾】」とあるから、これに據つたものならば、「金かも少なけむと」であるかも知れない。これに就いては種々説があるが、このままで意味を取つておく。○下惱ますに 心中深く御心配遊ばされた所が。○鷄が鳴く 「東」の枕詞。○小田なる山 陸前國遠田郡元湧谷村に黄金山神社がある。○奏し賜へれ 奏し給へれば。申上げたれば。○明らめ給ひ 朗かにせられ。古義に「さて此二句の下に、しばらく所思食《おもほしめす》やうは、と云詞をくはへて心得べし」とある如く、解釋の上からはさうあるべきである。°相うづなひ 御納受なされ。○皇御祖云々 御代々の天皇の御靈が御助力になつて。○遠き代にかゝりし事 遠い昔の世にあつた、めでたい事。古義に「岡部氏、上の可は、奈の誤にて、遠代に無有《ナカリ》し事をと云なりと云り。元暦本には、一の可字なし。是は奈字を脱せるなるべし。」とある。何れとも判定されない。「なかりし」が穏かであらう。○食國 御統治遊ばす國。御占有遊ばす國。○神ながら 現《あき》つ神であらせられるまゝに。神そのまゝに。○ものゝふの八十伴の雄 ものゝふ〔四字傍点〕は朝廷に仕へる武官で、其數の多い點から「八十伴の緒」ともいつた。伴の緒〔三字傍点〕は「部屬の長《ヲサ》」の意。朝廷に仕へ奉る百官諸僚。○まつろへのむけのまにまに 「まつろへのまにまに、むけのまにまに」の意で、まつろふ〔四字傍点〕は歸順させる意。むく〔二字傍点〕は同じく服從させる意で、服從させ、歸服せると共に。○しが願ふ し〔傍点〕は「其」で、それが即ち老人、婦人、子供が希望する。○心足らひに 心が滿足するやうに。○治め 處理する。○こゝをしも しも〔二字傍点〕は強め詞。こ(62)こ〔二字傍点〕は天皇の御仁政を指す。○あやに貴み 非常に貴いので。○嬉しけくいよよ思ひて 意味の上から、此句は「彌立て思ひしまさる」に續く。嬉しけく〔四字傍点〕の副詞は、「嬉しく」と同意。こゝは詔詞の中で、大伴氏佐伯氏を賞め、家持も位を進められたので、いつた。そしてそれに感激して、次の文句の通り、愈々奉公の決意を高調したのである。○大伴の遠つ神祖 大伴氏の遠い祖先。天《あめ》の忍日《おしひ》の命《みこと》。天孫降臨の際、大久米部を率ゐて、護衛として天降つた。○大來目主 大來目部を統率したので、「主」といふ。古事記天孫降臨の條に「故爾に天忍日命、天津久米命二人天之|石靱《いはゆき》を取り負ひ、頭椎《くぶつち》之大刀を取り佩き、天之|波士弓《はじゆみ》を取り持ち、天之|眞鹿兒矢《まかごや》を手挾み、御前に立たして仕へ奉りき。故其の天忍日命【此は大伴連等が祖】、天津久米命【此は久米直等が祖】云々。」とあり、又同書神武天皇御東征の條に「爾に大伴連等が祖道臣命《みちのおみのみこと》、久米|直《あたへ》等が祖大久米命二人云々。」とある。之によつて見ると、同じ大伴氏の遠祖天忍日命の子孫たる道臣命が、大久米部を率ゐて、君に仕へ奉つたので、これを大久米の主と名附けたと考える。猶卷二十にある、家持の「族に喩す歌一首并に短歌」(四四六五)を參照。○負ひ持ちて 名附けて。○仕へし官 仕へ奉つた役柄である。武官といふ役目を持つてゐる。○海行かば云々 これは古歌であつて、詔書の中にも引用してある。○水漬く屍 水漬く屍とならうの意。水漬く〔三字傍点〕は水に漬る意。海戰の折は、潔く此の身を海中に捨てる覺悟である。○山行かば草むす屍 これも草生す屍とならうの意。海に對して山と言つたので、「陸」でも意味はかはらぬ。陸戰の時は、勇しく我が身を山野に捨てて、草の生えるにまかせよう。○邊 ほとり。側。○顧みはせじ 後を顧みて、ぐず/\しない。詔書には「のどには死なじ」となつてゐる。○こと立て 特別に取立てていふこと。古義には「平常に毎《かは》りて、殊な(63)ることをするをいふ言なり。即言義は、異立《ことだち》なるべし」とある。○古よ 古より。○今のをつつに をつつ〔三字傍点〕は「うつつ」(現)に同じ。今の現在に。今といふ現在にまで。○流さへる 「流さふ」と「あり」との複合動詞の變化。引き續いて傳つて來た。○祖の子等ぞ 勇士たる清名を保持した、光榮ある先祖を戴いてゐる我等子孫であるぞ。○大伴と佐伯の氏は 大伴氏と佐伯氏とは。佐伯氏は、大伴氏の分家で、共に御門の守護に任じた武官の家柄。○人の祖 人の〔二字傍点〕は輕く添へた詞。次の「人の子」のそれも同じ。○立つること立 こと立〔三字傍点〕は前出のそれと同じい。立つる〔三字傍点〕は「立てた」。○人の子は云々 下の「まつろふもの」までが、その教である。○祖の名絶たず 先祖の佳名を汚さず。○ことのつかさぞ こ〔二字傍点〕とは「異」かそれとも「言」か。前者ならば「他と異なつた格別の役目」の意。後者ならば、新考の説の通り「コトノは言ノにて、ソノ言ノ如キ世襲ノ官ゾといへるにや」である。ここには前説を取つた。○梓弓 梓の木で作つた弓。○劔大刀 劍の大刀ともいふ。劔も大刀も同じ。○朝守り云々 朝、夕を對句にしたのは、祝詞の對句法に做つた。○我をおきて 大伴一族を除いては。○また人はあらじ 外に適任者はあるまい。○彌立て 愈々言ひ立て。愈々家の教を守つて。○思ひしまさる 益々奉公の決心を固める。○御言の幸 御言葉の忝さの意。略解に、かの詔書に、大伴佐伯云々|一二《ツバラニ》治賜とある。是大伴を幸《サキ》はへ給也。一書の乎と有かたよし。」とある。○聞けば貴み 承ると貴いから。上の「思しまさる」の句に返る。
(64) 反歌三首
4095 丈夫の 心思ほゆ 大君の 御言《みこと》の幸《さき》を【一に云ふ、の】 聞けば貴み【一に云、貴くしあれば】
【口譯】 大君の詔勅のかたじけなさを拜承すると、貴くも畏いので、大丈夫たる心の振ひ立つのを覺える。
【語釋】 ○丈夫の心思ほゆ 大丈夫として立つべき心が、一入湧き立つを覺える。
4096 大伴の 遠つ神祖《かむおや》の 奧津城《おくつき》は 著《しる》く標《しめ》立て 人の知るべく
【口譯】 我等大伴氏の遠い先祖の墳墓は、はつきりしるしを立てよ。世間の人々が一見して、それとわかるやうに。
【語釋】 ○大伴の遠つ神祖の 神祖〔二字傍点〕は既出の如く、天忍日の命や道臣命を指す。○奧津城 墓。「奥の城」の意。○著く 著しく。はつきり、他と區別して、わかるやうに。○標立て 標〔傍点〕は「占め」で、占有の意から、「墓地たる一切のしるし」をいふ。墓標とか石垣とか樹木とか、一切を含んだ墓じるしをいふ。標〔傍点〕は名詞と見るべきである。○人の知るべく 世人が一見して直ちに、これが大伴氏の墓だと知ることの出來るやうにの意。
(65)4097 天皇《すめろぎ》の 御代榮えむと 東《あづま》なる みちのく山に 黄金《くがね》花咲く
天平感寶元年五月十二日、越中國守の館にて大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 我が大君の御代が榮えるがために、東の國なる陸奥の山に、黄金の花が咲いたことである。
【語釋】 ○天皇 今上聖武天皇。○黄金花咲く 黄金が産出した。黄金の美しさを花に喩へた。
芳野離宮《よしぬのとつみや》に幸行《いでま》さむ時の爲、儲《かね》て作れる歌一首并に短歌
4098 高御座 天の日嗣と 天の下 知らしめしける 天皇《すめろぎ》の 神の命《みこと》の 畏《かしこ》くも 始め給ひて 貴くも 定め給へる み吉野《よしぬ》の この大宮に あり通《がよ》ひ 見《め》し給ふらし もののふの 八十伴《やそとも》の雄《を》も 己《おの》が負《お》へる 己が名負ひ 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまくまく この河の 絶ゆることなく 此の山の 彌《いや》つぎつぎに 斯くしこそ 仕へ奉《まつ》らめ いや遠永《とほなが》に
(66)【口驛】 高御座におはし、皇位にあらせられて、天下を御治め遊ばされた應神天皇が、恐れ多くも御創建なされ、貴くも御決定なされた、吉野のこの離宮に、今上陛下は常に行幸なされ、その景色を御覽遊ばすことであらう。多くの官人達も、それ/”\持つてゐる、先祖からの家の職を負うて、大君の御任命に從つて、この吉野河の水の如く、説えることがなく、又この吉野の山の如く、愈々連續して、益々永久に、今のやうにして御奉仕申上げよう。
【語釋】 ○高御座天の日嗣と 高御座にまします皇位として。既出。○天皇の神の命 既出。ここは應神天皇のこと。日本書紀、應神天皇紀「十九年冬十月戌戌朔、幸2吉野宮1時、國※[木+巣]人來朝之、因以2釀酒1獻2于天皇1而歌之曰云々」。○畏くも云々 「始め」、「定め」は、應神天皇が、吉野離宮を始めて建てられ、これを離宮と定め給へることをいふ。○あり通ひ あり〔二字傍点〕は繼續の意。今上陛下が常に絶えず行幸遊ばされ。○見し給ふらし 御覽遊ばすであらう。○もののふの八十伴の雄 前出。文武百官。○己が負へる己が名負ひ 略解「宣長云、名負弖と有しを(名負名負)かく誤れるならむ。先祖より負へる家の職を負てといふ也といへり」。古義には「負」を削つて、オ)ガナナオヒと讀んで、おのがななおひ〔七字傍点〕とは、「さて己が家々の先祖より相繼仕奉り來る、其職職を負てと云なり。さて古は氏々の職業各定まりて、世々相繼仕奉りつれば、其職即其家の名なる故に〔十一字傍点〕、即其職業を指ても名と云りと」。意は此説に從ふべきであらう。新考にはオヤノナナオヒと讀んでゐる。○任のまくまく 御任命のまにまに。略解も古義も「麻久麻久」は「麻爾麻爾」の誤であら(67)うといひ、代匠記は卷十三の「天雲之|行莫莫《ゆきのまくまく》」(三二七二)を引用して、まくまく〔四字傍点〕は「まにまに」と同意だとしてゐる。新考はマニマニと讀ませてゐる。○此の河の 吉野の河水の如く。○此の山の 吉野の山の如く。○斯くし し〔傍点〕は強め詞。
反歌
4099 いにしへを 思ほすらしも 我《わご》大君 吉野の宮を あり通ひ見《め》す
【口譯】 我が大君が、常に吉野の宮に行幸なされて、その勝れた景色を御覽遊ばす。これは、大君が、吉野の離宮の創められたその當時のことを、なつかしく御偲びなされることと、拜察し奉る次第である。
【語釋】 ○いにしへ 吉野の離宮が建てられた古の時代。○見す 四方の景色を御覽遊ばすことは。
4100 もののふの 八十氏人《やそうぢびと》も 吉野河 絶ゆることなく 仕へつつ見む
【口譯】 我々多くの官人達も、吉野河の河水の絶えることのないと同じやうに、いつまでも大君に御仕へ申上げて、吉野の景色を眺めよう。
(68)【語釋】 ○八十氏人 武官には、澤山の氏姓があるので、かくいふ。卷三「もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも」(二六四)。
【後記】 題意の如く、「儲作歌」であるから、實感と情熱が伴はないのは致し方もない。使用された語も、古義に指摘した如く、卷一にある、人麿の吉野宮に幸せる時の長歌等に負ふ所が多い。猶古義に「儲作と云こと集中に往々見えたり。其藝のたしなみあさからざりしこと思ひやるべし。」とある通り、かゝる試作も、古人が歌の道に如何に精進せるかを示す證據として見るに、參考となるべきものであらう。
京の家に贈らむ爲に、眞珠を願ふ歌一首并に短歌
4101 珠洲《すず》の海人《あま》の 沖つ御《み》神に い渡りて 潜《かづ》き採《と》ると云ふ 鰒珠《あはびだま》 五百箇《いほち》がも 愛《は》しきよし 妻の命《みこと》の 衣手《ころもで》の 別れし時よ ぬばたまの 夜床《よどこ》片《かた》さり 朝寢髪 掻《か》きも梳《けづ》らず 出でて來《こ》し 月日|數《よ》みつつ 歎くらむ 心|慰《なぐさ》よ ほととぎす 來鳴く五月《さつき》の 菖蒲草《あやめぐさ》 花橘に 貫《ぬ》き交《まじ》へ 縵《かづら》にせよと 包みて遣《や》らむ
(69)【題意】 京の家は、都に在る我が家。家の妻に送つたのである。
【口譯】 珠洲の海人が、沖の島に渡つて行つて、海中にもぐつて取るといふ、あの眞珠を數多く得たいものだ。愛する吾が妻は、自分と袂を分けた時から、夜の床の片方をあけて、その一方に身を置いて眠り、朝、寢起きの亂れた髪を梳ることもせず、自分が出掛けて來てから、過ぎた月日の數を指折つて、歎いてゐることであらう。その妻の心を慰めるやうにとて、時鳥が來て鳴く五月の、菖蒲草と花橘とに、鰒珠を貫き交へて、それを※[草冠/縵]にするがよいと、さう思ふので、今鰒珠を物に句んで、妻の許に送つてやらう。
【語釋】 ○珠洲 能登半島の突端にある。全釋に「珠洲の海人とあるのは多分、今も鳳至郡の輪島町の一部に部落をなしてゐる海人のことであらう。この部落の人は、半年の間を舳倉島に渡つて、魚介海藻の採集に從事してゐる。」とある。○沖つ御神 略解には、「此下にも、『わたつみのおきつみやべに立わたり』卷七に、『わたつみの神が手わたる』などもいひて、海を則海神としてよめり。」とあり、古義には「海の波荒くて可畏《かしこ》き處を、御神といへり。」とあるが、代匠記の「奥津御神にて、三輪の山などをすなはち神と云へるやうに、奥津島山を指て神と云。第二の反歌の意是なり。」といふ説に從ふべきである。○い渡りて い〔傍点〕は接頭語。「い隱る」「い漕ぎ」「い行き」等、集中數多くある。これに對して「紀の關守い」「志斐いは申せ」等の「い」の如く、主格を示す接尾語もある。○鰒珠 眞珠は鰒貝に宿るからである。○五百箇がも 「いほつ」と同じ。が(70)も〔二字傍点〕は願望。澤山ほしいものだ。○愛しきよし 「愛しきやし」「愛しけやし」と同じ。愛しき〔三字傍点〕は「可愛らしい」意。よし〔二字傍点〕は、「青丹よし」「玉藻よし」等の「よし」と同じく、よ〔傍点〕もし〔傍点〕も助詞。○妻の命 命〔傍点〕は「尊」と同じやうに尊稱。古事記所載の八千矛神が須勢理毘賣命に贈つた長歌の中に「若草の妻の命」といふ語も見えてゐる。○衣手の別れし時よ 自分と分袂以來。よ〔傍点〕は「より」の意。○ぬばたまの 「夜」の枕詞。○夜床片さり 從來「夜床加多古里」とあつたが、代匠記に「今按、古は左の字を誤て、夜床片去にや。第四に敷細之枕片去《しきたへのまくらかたさり》とよめるに准らふべし。夜床の片つ方に依りて去て臥すなり。」とあるに從ふべきである。夫婦の共寐すべき一方が空いてゐるので、妻は片方に身を置いて眠る意。○朝寐髪 朝起きたての亂れ髪。卷十一「朝寐髪我は梳《けづ》らじうつくしき君が手枕觸りてしものを」(二五七八)。○出で來し月日 自分が都を出て、ここ越中の國に來た間の年月。○心慰よ 代匠記に「心奈具佐余、余は尓の誤なり。第三の反歌初の第二句の如し。」とあるのに從ふべきである。歎くであらう所の妻の心を慰める爲に。ここはかやうに續くべき意。○ほととぎす云々 季節の五月の、菖蒲草と花橘とを點出して、これに眞珠を取り添へた。卷十九「四月し立てば、夜隱りに鳴く郭公‥‥菖蒲草花橘ををとめ等が珠貫くまでに云々」(四一六六)、「鳴く郭公初聲を聞けばなつかし菖蒲草花橘を貫き交へ※[草冠/縵]くまでに云々」(四一八〇)とか、似通ふ句が集中に數々ある。
4102 白玉を 包みて遣らな 菖蒲草 花橘に 合《あ》へも貫《ぬ》くがね
(71)【口譯】 眞珠を物に包んで、都の妻に送つてやりたい。それを菖蒲草や花橘に合せ、貫き通してもらひたいために。
【語釋】 ○白玉 眞珠。卷六「白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾し知れらば知らずともよし」(一〇一八)。○遣らな 原本「やら波」とあるが、古義に「契沖、此波は、もし那字などをかきまがへたる歟。さらではアヘモヌクガネといひては、歌のをさまらぬなりと云り。まことにさることなり。那《ナ》は牟《ム》急くいへる辭なり。」とある。「な」ならば、意味もよく通ずるから、暫くこれによる。又代匠記には「此歌は、第三笠金村の鹽津山歌の反歌の如く、云ひはてず、貫てやらばやの意を殘せり。若は次下の歌を兼る歟」ともある。○合へも貫くがね も〔傍点〕は感動詞。古義には「家妻がいぶせき心をもといふ意を、母《モ》の言にてきかせたるなるべし」とある。がね〔二字傍点〕は願望の意を示す。複合助詞。交へ貫くことを希望する。
4103 沖つ島 い行き渡りて 潜《かづ》くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ
【口譯】 沖の島へ漕ぎ渡つて行つて、海人が海中にもぐつて採るといふ、眞珠の玉を手に入れたいものだ。得たならば、それを何かに包んで、都の妻へ送つてやらう。
【語釋】 ○沖つ島 長歌に在る「沖つ御神」であつて、全釋には「今の輪島町の北三十海里にある舳倉島に違(72)ひない」と云つてある。○潜くちふ 潜くと人の言ふ。○もが も〔傍点〕は感動詞。が〔傍点〕は希望の助詞。
4104 吾妹子が 心慰に 遣らむため 沖つ島なる 白玉もがも
【口譯】 吾が妻のさびしい心の慰めにと、送つてやらうが爲に、沖の島のあたりに沈んでゐる、眞珠の玉を得たいものだ。
【語釋】 ○白玉もがも 二つのも〔傍点〕は感動詞。が〔傍点〕は願望。「がも」も「もが」も同じい。
4105 白玉の 五百箇つどひを 手に結び おこせむ海人は むかしくもあるか【一に云ふ我家むきはも】
右五月十四日、大伴宿禰家持興に依りて作れり
【口譯】 眞珠の玉を數多く集めて、これを緒に貫いたものを、手に結びつけて、自分の所に持つて來てくれる海人は、自分に取つて嬉しいことだ。
【語釋】 ○五百箇つどひ 澤山の集り。緒に通した澤山の玉の數。○手に結び 玉の緒を手に引つかけて。○おこせむ海人 よこしてくれる海人。持つて來てくれる海人。○むかしくもあるか 「喜ばしくもあるかな」の意。むかし〔三字傍点〕は「おむかし」又は「うむかし」とも同じで、古義に「むかしとは、喜しく、心にかなひたる(73)ことにいふ詞なり。靈異記に、喜(ムガシビ)とあり。」とある。か〔傍点〕は「かな」。○一に云ふ云々 古來讀方も意味も不明とされてゐる。新考には「類聚古集には家を宇に作れり。ワガウムギ|セ〔右△〕モにて、ウムギは感謝といふことならむ。ウムグはウムガシムに同じかるべし。‥‥さてウムグとウムガシとの關係は、なほナゲクとナゲカシとの如し。又本文にムガシクモアルカとある、ムガシはやがてウムガシ(又はオムガシ)の頭を省けるなり。セムをセモともいふべきは、八卷に、フル雪のケヌトカイハモとあるにて知るべし。十四卷なる東歌には、今ハイカニセモなど、ムをモといへる例頗多し」。代匠記には「ムカシクモアルカは、向はしくもあるかにて、さる海人には相向はまほしくも有かな、の意歟。物の嫌はしきには背かるれば、心に叶へるには向ふべき理なり。異を註するに、『我家牟伎波母』と云へるは、我家へもて向へと云心にや。牟賀思久と牟伎と同じかるべし。或は牟と由と同韻にて通ずれば、『ユカシクモ有哉』とよめる歟」などあるが、はつきりしない。
史生尾張|少咋《をくひ》を教へ喩す歌一首并に短歌
七出の例に云ふ
但一條を犯せらば、即ち合《まさ》に之を出すべし。七出無くて輙《たやす》く棄つる者は徒一年半
三不去に云ふ
(74) 七出を犯すと雖も、合に之を棄つべからず。違《たが》へらば杖一百、唯※[(女/女)+干]犯惡疾は之を棄つることを得。
兩妻の例に云ふ、
妻有り更に娶る者、徒一年、女家は枚一百、之を離て。
詔書に云、
義夫節婦を愍み賜ふ。
謹みて案ずるに、先の件の數條は法を建つる基。道に化《おもむ》くる源なり。然らば則ち、義夫の道は、情別なきに存す。一家同財、豈舊を忘れ、新を愛する志有らんや。所以に數行の歌を綴り作し、舊を棄つる惑を悔いしむ。其の詞に曰く、
4106 大己貴《おほなむち》少彦名《すくなひこな》の 神代より 言ひ繼ぎけらく 父母を 見れば尊く 妻子《めこ》見れば 愛《かな》しくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立《ことだて》 ちさの花 咲ける盛に 愛《は》しきよし その妻の兒と 朝宵に、笑みみ笑まずも うち歎き 語りけまくは とこしへに 斯くしもあら(75)めや 天地の 神こと俵せて 春花の 盛もあらむと 待たしけむ 時の盛ぞ 離《はな》り居て 嘆かす妹が 何時しかも 使の來むと 待たすらむ 心さぶしく 南風《みなみ》吹き 雪消《ゆきげ》まさりて 射水河《いみづがは》 流る水沫《みなわ》の よるべ無み 左夫流《さぶる》その見に 紐《ひも》の緒《を》の いつがり合ひて 鳰鳥《にほどり》の 二人|雙《なら》びゐ 奈呉《なご》の海の 沖を深めて 惑はせる 君が心の 術もすべなさ【佐夫流と云ふは遊行女婦の字なり】
【題意】 ○史生 越中國の史生。○少咋 傳未詳。○七出 令義解第二、几奔v褄須v有2七出之状1、一無v子、【謂雖v有2女子1亦爲無v子、更取2養子1故、】二婬※[さんずい+失]【謂淫者蕩也。※[さんずい+失]者過也。須2其※[(女/女)+干]訖1乃爲2淫※[さんずい+失]1也。】三不v事2舅姑1【謂夫父曰v舅夫母曰v姑上條云、母之昆弟曰v舅、父之姉妹曰v姑、一字兩訓隨v事通用也、】四口舌【謂多言也、婦有2長舌1維※[勵の左]之階是也】五盗竊【謂雖v不v得v財亦同2盗例1也、】六妬忌【謂以v色曰v妬以v行曰v忌也、】七惡疾、皆夫手書棄v之、與2尊屬近親1同署、【謂尊屬近親相須、即男家女家親屬共署也、】若不v解v書畫v指爲v記。○但一條云々。妻が七出の中の一つを犯せば、離縁してよい。七出がないのに妻を棄てた夫は、徒刑一年半。○三不去 令義解「妻雖v有v棄有2三不去1、一經v持2舅姑之喪1、【謂持猶2扶持1也】二娶時賤後貴【謂依v律稱v貴者皆據2三位以上1、其五位以上即爲2通貴1、但此條曰v貴者直謂2娶時貧苦下賤、棄日官位可1v稱而已、不2必五位以上1也、】三有v所v受無v所v歸、【謂無2主婚之人1是爲v無v所v歸、言不v窮也】即犯2義絶婬※[さんずい+失]惡疾1、不v拘2此令1。」「三不去」の下に「例」とあるべきである。○詔書 代匠記に「元明紀、和銅七年六月二十八日大赦詔書云、孝子順孫義夫節婦表2其門閭1、終v身勿v事。」又同書に「令義解第三云、几孝子順孫、義夫節婦志行聞2於國郡1者、申2太政官1奏聞表2其門閭1。」○所以に 故に。
(76)【口譯】 大己貴、少彦名二神の遠い神代から言ひ傳へて來たことは、父母を見ると尊く感じ、妻子を見ると愛らしくいとほしく思ふ。これが世の中の道理であると、左樣に言つて來たものを、世の人なる君が、嘗てなした誓言によれば、ちさの花が眞盛りに咲いてゐた頃、君は愛する妻と、朝に夕に、或時は笑ひ、或時は笑はずして、歎いて語つたことは、いつまでも斯樣に貧賤であらうぞ。天地の神が御庇護下されて、富貴の時もあらうと待たれたであらうが、今こそ君に取つて、盛りの時であるぞ。一方遠く離れて、都にあつて嘆いてをられる君の妻は、何時君からの使が來るだらう、早く來ればと待つて居られるであらうが、その心は淋しいことであらう。それだのに、例へば暖い南の風が吹き出し、雪の解けることも一段と甚しくて、射水河の面に流れ下る水の沫の如く、寄り所のないので、左夫流といふその女に關係して、二人仲よく暮し深く深くその色に迷つて居られる君の心は、てんで手のつけやうがない。
【語釋】 ○大己貴少彦名 古事記にある、大國主神の國土輕營の條に「故爾より大穴牟遲と少毘古那と二柱の神相並ばして、此の國作り堅め給ひき。」とあつて、國土經營に實功のあつた二神。此の二神は、遠い神代を示す意味として、萬葉集では、よく引用される神である。○言ひ繼ぎけらく けらく〔三字傍点〕は「けることは」の意。「けらし」とある本が普通で、「けらく」は、元暦校本によつたもの。○父母を云々 卷五、山上憶良の惑情(77)を反さしむる歌「父母を見れば尊し、妻子見ればめぐしうつくし、世の中は斯くぞことわり」(八〇〇)に依つた。○愛しくめぐし 愛すべく、いとほしい。○うつせみの 「世」の枕詞。○世のことわりと 世の常であると。卷十五「世の中の常のことわり斯くさまになり來にけらしすゑし種子から」(三七六一)。○世の人の立つる言立 言立〔二字傍点〕は前出の如く、時に言ひ立てることで、約束、誓言することである。○ちさの花 ちさの木の花。夏の頃白い花の咲く喬木。○咲ける盛に 咲いてゐる眞盛の時に。これは少咋が都にあつて、しみじみ妻と語つた頃を指してゐる。○愛しきよし 既出。○その妻の兒と 兒〔傍点〕とあるのは、妻を親愛した詞。「めこ」ともいふ。○笑みみ笑まずも 「笑みみ笑まずみ」と同じ。「み」の代りに感動詞の「も」を用ひた。笑つたり笑はなかつたりして。○語りけまくは 語りけむは。語つたであらうことは。○斯くしもあらめや し〔傍点〕は強め詞、も〔傍点〕は感動詞。斯樣に貧賤であらうか、ある筈はない。○こと依せて こと依す〔四字傍点〕は「委託す」「命令する」意。御助け下さつて。○春花の 「盛」の枕詞。○盛もあらむと 立身出世の時もあらうと。○待たしけむ時の盛ぞ 「待たし」は「待つ」の敬語、次にある「待たすらむ」も同じ。その事が待たれたであらう、その立身出世の時が今であるぞ。少咋が越中國の史生となつたことを、「盛」といつたもの。○離り居て嘆かす妹 都に遠く離れてゐて、嘆いて居られるその妻。嘆かす〔三字傍点〕は敬語。○何時しかも 「早く」と希求する意を持つ句。○使 越中の夫からの文使。○待たすらむ心さぶしく 心さびしく待つて居られるであらう。然るに汝は。○南風吹き云々 「水沫の」までは、「よるべ無み」の序詞。○よるべ無み 身を寄せる所がないので。遊女左夫流の身の上をいふ。古義には「無2縁方《ヨルベ》1にて、旅中にて、縁《ヨ》り恃む女のなきままに、遊行女(78)婦になれそめしといふ意につゞけ下したり。」とある。略解も同解である。○左夫流その兒に 左夫流〔三字傍点〕は、自註の如く、遊女の名であるが、「さぶる」とは浮かれる意がある所に基づいて、附けられた名であるから、上からの意味は、寄る邊がないので、あたり浮かれ歩く、左夫流といふ名前のその女にの意。兒〔傍点〕は「妻の兒」の兒〔傍点〕と同じ用法。○紐の緒の 「いつがり」の枕詞。○いつがり合ひて い〔傍点〕は接頭語。つがり〔三字傍点〕は「つがる」の動詞の變化で、「つながる」意。「つながり合ひて」は、切つても切れない仲になつての意。卷九「豐國の香春《かはる》は我家《わぎへ》紐の兒にいつがり居れば香春は我家」(一七六七)。○鳰鳥の 「二人雙び」の枕詞。○二人雙びゐ 二人仲よく暮し。○奈呉の海の沖を 「深めて」の序詞。卷十六「かくのみにありけるものを猪名川の奥《おき》を深めて吾が念へりける」(三八〇四)。○深めて 心深く。○惑はせる 惑つて居られる。○術もすべ無さ 「術」を重ねて意味を強めてある。何ともいひやうもないことだ。卷五「愛しきよし斯くのみからに慕ひ來し妹が心の術もすべなさ」(七九六)。
反歌三首
4107 あをによし 奈良にある妹が 高高《たか/”\》に 待つらむ心 然《しか》にはあらじか
【口譯】 君が左夫流兒に迷うてゐるとも知らず、奈良に住んでゐる君の妻は、足をつまだてて、君の歸る日を、一日千秋の思を以つて待つてゐるであらう。妻の心はどうであらう。寂しいで(79)あらう。さうではあるまいか。
【語釋】 ○あをによし「奈良」の枕詞。○奈良にある妹 奈良の都に寂しく暮してゐる君の妻。○高々に 翹望する貌。足を爪立てて。卷十五「はしやけし妻も子どもも高々に待つらむ君や島かくれぬる」(三六九二)。○待つらむ心 君の歸りを待つであらう妻の心。○然にはあらじか か〔傍点〕は疑問。さうではあるまいか、さうにちがひない。卷五令反惑情歌の末句「かにかくにはしきまにまに然にはあらじか」(八〇〇)。
4108 里人の 見る目はづかし 左夫流兒《さぶるこ》に 惑《まど》はす君が 宮出後風《みやでしりふり》
【口譯】 あの左夫流兒にうつつをぬかして居られる君の、役所に出てゆく後姿は、里の人々が見るに對しても、恥かしい思がする。
【語釋】 ○里人 國府のあたりに住んでゐる人々。○惑はす君 心迷うてゐる君。○宮出後風 宮出〔二字傍点〕は役所に出勤すること。後風〔二字傍点〕は「後手《うしろで》」と同じで、後姿。卷二「夢にだに見ざりしものをおほほしく宮出もするか佐日の隈回を」(一七五)。略解には「さて宮出といふべきよしなし。宣長は『美』は尼の誤にて、閨出かといへり。」とあり、古義には「此は宮出とはいふまじきが如くなれども、此は少咋が、遊女に甚く惑ひて、彼が家に朝參する如く通ふを嘲哢りて、わざと宮出とはいへるなるべし。次下の歌に、遊女が家のことを、伊都伎之等能(80)とよめるも、同じこころばえなるを合考べし」とある。
4109 くれなゐは うつろふものぞ 橡《つろばみ》の なれにし衣《きぬ》に なほ若《し》かめやも
右五月十五日、守大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 紅色は、美しくても色の褪めるものである。從つてそれは、つるばみ色の着馴らした衣に對しては、矢張りかなふものではない。それと同じく、たとへ左夫流兒は美しくても、その心が變りやすい女である。見榮えはなくとも、君の本妻に較べては、やはり段違ひに劣つたものだ。
【語釋】 ○くれなゐは 紅花《べにばな》の草で染めた紅の色は。左夫流兒に喩へた。○うつろふものぞ うつろふ即ち「うつる」は、その色がさめる意。○橡のなれにし衣 本妻を喩へた。橡の〔二字傍点〕は「橡色の」で、橡〔傍点〕は?の實即ち「どんぐり」である。どんぐりの笠を煎て染めた色の褐色である。紅色の華美に對して、地味の色合であるが、容易に褪めない。本妻の心の色のかはらないことを示してゐる。○なれにし衣 着馴れた衣。伊勢物語にも「唐衣きつゝなれにしつましあればはる/”\きぬる旅をしぞ思ふ。」とある。○若かめやも 及ばうか、及ばない。卷十二「橡の衣解き洗ひ眞土山もとつ人にはなほ若かずけり」(三〇〇九)。
(81) 先の妻《め》、夫君《せのきみ》の喚使《めしつかひ》を待たず、自ら來りし時作れる歌一首
4110 左夫流兒が いつきし殿に 鈴掛けぬ 早馬《はゆま》下《くだ》れり 里もとどろに
同じき月十七日、大伴宿禰家持之を作る
【題意】 ○先の妻 奈良に殘して來た本妻。○夫君 少咋。○喚使 少咋が妻を呼ぶ爲に遣はす使。○自ら 妻自身。○來りし 越中に下つて來た。
【口譯】 左夫流兒が、少咋大事に奉仕してゐたその住居に、驛鈴も附けてゐない驛馬が、都からやつて來た。これは本妻が突然、乘り込んで來たのであつて、その爲に村の人達は大騷ぎである。
【語釋】 ○左夫流兒が 新考には「左夫流兒を」とし「我《が》」を「乎《を》」の誤としてゐる。○いつきし殿 いつきし〔四字傍点〕は「齋きし」にて、心を清めて祭る意から、佐夫流が心を籠めて少咋に仕へる意。殿〔傍点〕は少咋の官舍をいふ。略解には「いつぎは、上にいへるいつがりを約たる詞なるべし。」とあり、古義には、伊都伎は、上の長歌の移都我利と同言にて‥‥此歌は、左夫流兒我とて、伊都伎といひかけたれば、遊女が少咋をいつぐ意なり。等能は遊女が家をいふべし。遊女の誘引入るまに/\、少咋が宮中へ朝參するごとくに通ふを、わざと嘲哢(82)りて殿といふなるべし」とあり、新考には、イツキシといひ殿といへるは、少咋が左夫流兒を大切にせるを嘲りていへるなり」とある。○鈴掛けぬ早馬 鈴〔傍点〕は驛鈴で、驛々で人馬を徴發する時に用ひる官許の鈴。これを掛けないのは、官命でないからである。早馬〔二字傍点〕は急用の時、驛々で乘り代へる馬で、即ち驛馬をいふ。○下れり 都から越中へとやつて來た。○里もとどろに 本妻が少咋を慕つて、突然訪れたので、評判最中のあたりの人々は、さあ大變だと、村中響くばかりに口喧しぐ噂を立てた。
橘の歌一首并に短歌
4111 かけまくも あやにかしこし 皇神祖《すめろぎ》の 神の大御代に 田道間守《たぢまもり》 當世《とこよ》に渡り 八矛《やほこ》持ち 參出來《まゐでこ》し 非時《ときじく》の 香《かぐ》の木《こ》の實《み》を かしこくも 遺《のこ》し給へれ 國も狹《せ》に 生ひ立ち榮え 春されば 孫枝《ひこえ》萠《も》いつつ ほととぎす 鳴く五月《さつき》には 初花を 枝に手《た》折りて 少女等に 裹《つと》にも遣《や》りみ 白妙の 袖にも扱入《こき》れ 香細《かぐは》しみ 措《お》きて枯らしみ 熟《あ》ゆる實《み》は 玉に貫《ぬ》きつつ 手に纒《ま》きて 見れども飽かず 秋づけば 時雨の雨|零《ふ》り あしびきの 山の木末《こぬれ》は 紅に にほひ散れども (83)橘の なれる其の實は 直照《ひたて》りに 彌《いや》見がほしく み雪降る 冬に到れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐《ときは》なす いや榮《さか》ばえに 然《しか》れこそ 神の御代より 宜しなへ この橘を 非時《ときじく》の 香《かぐ》の木の實と 名づけけらしも
【口譯】 言葉に出して申すのも、誠に恐れ多い皇祖の神なる垂仁天皇の御代に、田路間守が海外に渡つて、橘の數多くの枝を携へて歸つて來た、四時何時もかぐはしいその橘の實を、勿體なくも後の世に御殘しになつたから、それが日本國内も狹いばかりに、あちらこちらに生え繁り、春になると大枝から小枝が萠え出し、郭公の鳴く五月には、その初花を枝のまま手折つて、少女達に土産として遣つたりし、袖の中にもしごき入れ、或は又その花の香がよいので、手折らずそのまゝ枝に咲くがまゝ置いて枯らしたり、熟したその實は、玉のやうに緒にぬき通して、手に卷きつけて、眺めるけれど見飽きることはない。又秋になると、時雨が降り、山の梢は紅に美しく紅葉して散るけれど、橘の木になつてゐるその實は、眞赤に照り輝いて、いよいよいつも眺めて居たく、雪の降る冬になると、霜がおりても、その葉さへも枯れず、常磐のやうにいよいよ榮えてゆく。さやうな木であるからこそ、垂仁天皇の御代から、この橘を四時絶えず(84)香ぐはしい香を持つ木の實だと、唱へられたことも尤ものことである。
【語釋】 ○かけまくも 口の端に掛けるも。言葉に出して申上げるのも。○あやにかしこし 大層恐れ多い。○皇神祖の神 天皇たる神。天皇は現神《うつしがみ》であるからいふ。これは垂仁天皇を指し奉る。以下の事實は、古事記垂仁天皇の條にある「又この天皇、三宅連《みやけのむらじ》等が祖《おや》、名は多遲摩毛里《たぢまもり》を常世國に遣はして、登岐士久能迦玖能木實《ときじくのかくのこのみ》を求めしめ給ひき。故《かれ》多遲摩毛里遂に其の國に到りて、其の木實を採りて、縵八縵《かげやかげ》、矛八矛《ほこやほこ》を持ちて來つる間に、天皇はす《はや》く崩《かむあが》りましぬ。爾に多遲摩毛里縵四縵、矛四矛を分けて、大后《おほきさき》に獻り、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵《みはか》の戸に獻り置きて、其の木實を※[敬/手]《ささ》げて叫び哭《おら》びて『常世國の登岐士玖能迦玖能木實を持ちて參上りて侍ふ。』と白《まを》して、遂に叫哭《おら》び死にき。其の登岐士玖能木實といふは、今の橘。」といふ記載によつた。書紀にも同じやうな記事がある。○田道間守 歸化人たる新羅國の王子天之日矛の子孫であるといふ。橘の名は「田道間花」のつづまつたものであるといふ。○常世 常世の國で、絶遠の國、即ち海外の國を云ふ。田道間守の先祖は新羅人であるから、宣長は新羅國を指し、書紀の文には、田道間守の復命語として「是常世國、則神仙秘區〔四字傍点〕、俗非v所v臻」とあつて、神仙國としてある。又橘の産地から見て、支那の南方地方であらうといふ説もある。朝鮮説が穏當の樣に思はれる。○八矛持ち 前出した古事記の、「矛八矛」又は書紀中の「八|竿《ほこ》」を取つたので、宣長の古事記傳に従へば、八〔傍点〕は数多い意、矛〔傍点〕は、矛の形の樣に、長く折取つた枝の葉を残らず落して、實だけを殘し附けてある橘のことである。故にここの意味は、澤山の、葉を拂つ(85)て實だけ取り殘した橘の枝を手に持つて。○參出來し 日本に戻つて來た。○非時の 「登吉時支能」の支〔傍点〕は「久」の誤か。「ときじくの」であらう。四時絶えない。年中枝に附着してゐる。橘の實は冬の頃から、春を經て夏の頃まで枝に附いてゐる。枕の草子「木の花は」の段、花の中より實の黄金の玉と見えて云々」。○香の木の實 香ぐはしい橘の果實。○遺し給へれ 田道間守が國土にお遺しになつたから。「遺し給へれば」の意。○國も狹に 日本國も狹いばかりに至る所。橘が諸所に植ゑられた事は、古事記所載應神天皇の御歌にも、いざ子ども野蒜摘みに、蒜摘みに、吾が行く道の香細《かぐは》し花橘は、ほつ枝は鳥居枯らし、しづ枝は人取り枯らし、三つ栗の中つ枝のほつもり赤ら孃子《をとめ》を、いざさらばよらしな。」と見え、雄略天皇紀にも 「餌香市《えがのいち》邊橘木」とある。或は萬葉卷二にも、「橘の島の宮には飽かぬかも佐田の岡邊にとのゐしに行く」(一七九)、或は「橘の蔭ふむ道の八衢《やちまた》に物をぞ思ふ妹にあはずて」(一二五)とある。「橘寺」もその一つの證據である。○春されば 春になると。○孫枝萠いつつ 孫枝〔二字傍点〕はひこばえ(蘖)で、親枝から生え出る小枝。萠い〔二字傍点〕は「萠え」。○枝に 枝ながらにの意であらう。枝のまゝ。○裹にも遣りみ 土産にもやつたり。み〔傍点〕は「笑み〔傍点〕」或は「降りみ降らずみ〔傍点〕」のみ〔傍点〕と同じで、「何々したり」の意。○白妙の 「袖」の枕詞。○扱入れ し扱き入れる。○香細しみ み〔傍点〕は「瀬を早み」のみ〔傍点〕と同じで、原因を示す助詞。香ばしさに。○措きて枯らしみ 花が惜しいので、そのまゝ枝において枯らしたり。新考には「カグハシサニ折リ置キテ枯ラシモシといへるなり。卷十に、白露のおかまくをしみ秋萩を折りのみ折りておきや枯らさむ」(二〇九九)、卷十四に「あしびきの山かづらかげましばにもえがたきかげをおきや枯らさむ」(三五七三)とあるを見ても、折り置きて枯らす事なるを知る(86)べし」とある。○熟ゆる實 熟しこぼれる實。卷十「秋づけば水草《みぐさ》の花のあえぬがに思へど知らじ直《ただ》に逢はざれば」(二二七二)、卷八「いかいかとある吾が屋前《には》に百枝刺し生ふる橘玉に貫く五月を近み、あえぬがに花咲きにけり」(一五〇七)。○玉に貫きつつ 熟れて落ちた實を、玉のやうに糸にぬき通して。○手に纒きて 糸に貫いた橘の實を、手に卷いて。手玉《ただま》の代りとするのである。○秋づけば 秋の季節に近よると。つく〔二字傍点〕は「夕づく夜」「夕づく日」「朝づく日」等の「つく」と同じで、かたよる意。○時雨の雨 時雨と同じ。此の用法は集中に數多い。○あしびきの 「山」の枕詞。○山の木末 山に生えてゐる木の梢。○紅に 紅の色に。紅葉して色づいた有樣をいふ。○にほひ散れども 美しく木の葉が散るが。にほふ〔三字傍点〕は色にいふ。○なれる 木にみのつてゐる。○直照りに 前出。ひたすら照つて。一面眞赤に照り輝いて。○いや見がほしく 愈々見たく思はれ。○み雪 み〔傍点〕は接頭語。○霜置けども 卷六「たちばなは實さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉《とこは》の樹」(一〇〇九。○常磐《とこは》なす 永遠にかはらぬ磐の樣に。なす〔二字傍点〕は「の如く」の意。○いや榮ばえに 榮ばえ〔三字傍点〕は「榮映え」で、榮映えること即ち榮えに榮えること。愈々榮えに榮えてゆく。新考には「爾《に》は奴《ぬ》の誤ならむ。」とある。古義には「さて此句の下に、榮乍《さかへつつ》ありといふ詞をはらませたり。」とある。何れにしても、ここで文は一段落となるべきである。○然れこそ 然ればこそ。さうであるからこそ。○神 垂仁天皇。○宜しなへ 如何にも宜しく相應した意。「恰も宜しく」「ふさはしく」。卷三「宜しなへわが背の君が負ひ來にし此の勢の山を妹とはよばじ」(二八六)、卷一「耳成の青菅山はそともの大御門に宜しなへ神さび立てり」(五二)。
(87) 反歌一首
4112 橘は 花にも實にも 見つれども いや時じくに 猶し見が欲《ほ》し
【口譯】 橘をば、その花の咲いた趣に於ても、その實がなつた姿に於ても眺めたが、眺め飽きる時とてはなく、愈々益々何時までも、もつともつと見て居りたい。
【語釋】 ○花にも實にも 花の咲いた趣も、實がなつた姿も。○見つれども 此の下に「一向見飽きるといふ時がないばかりか。」の如き意味を入れて見る。○いや時じく 愈々四時の差別なく何時も。○猶し し〔傍点〕は強め詞。
庭中の花を見て作れる歌一首并に短歌
4113 大君の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と 任《ま》き給ふ 官《つかさ》のまにま み雪降る 越《こし》に下り來《き》 あらたまの 年の五年《いつとせ》 敷妙の 手枕《たまくら》纒かず 紐解かず 獨寢《まろね》をすれば いぶせみと 心なぐさに なでしこを 屋戸《やど》に蒔き生《おほ》し 夏の野《の》の さ百合引き植ゑて 咲く花(88)を 出で見る毎に なでしこが 其の花妻《はなづま》に さ百合花《ゆりばな》 ゆりも逢はむと 慰むる 心し無くば 天ざかる 鄙《ひな》に一日《ひとひ》も あるべくもあれや
【題意】 「詠庭中花」と目録にはあるが、それでは「作」と重なつて語をなさない。「庭中花」では足りない。「見」を落したのであらう。で、「見庭中花」として「庭中の花を見て」と讀んでおく。
【口譯】 大君の所屬の、遠方に在る政治上の役所として、御任命遊ばされたに從つて、越中守として越の國に下つて來て、五年の間、妻の手を枕ともせず、自分の着物の紐をも解き放たず、獨り寢をするから、氣が晴れないので、心を慰めようとして、撫子を自分の庭に蒔いて育て、夏の野に生えてゐる百合を移し植ゑて、咲くその花を、庭に出て見る度毎に、撫子の花のやうな美しい妻に、後に於ても逢はうとの慰め心がないならば、かやうな田舍に、一日とても住んで居られようか、居られるものではない。
【語釋】 ○遠の朝廷と 遠方に在る公の役所として。太宰府とか鎭守府とか、都から遠隔の地に在る官廳。ここは越中の國府をいふ。「美可等等《みかどと》」の「等《と》」に就いて、古義には「等はにてあるの意に用たる辭なり。」とある。○任き給ふ 天皇が自分を御任じ遊ばされた、越中の國守といふ役に隨つて。まにま〔三字傍点〕は「まにまに」と同じ。○み雪降る 「越しの枕詞風に用ひてある。○あらたまの 「年」の枕詞。○年の五年 家持は、(89)天平十八年に赴任して、今年天平感寶元年までは、足かけ四年であるが、ここは在任期間を、大凡に云つたのであらう。○敷妙の 「枕」の枕詞。○手枕纒かず 手枕を枕としない。妻の手を枕として、共寐をしない。○紐解かず 衣の紐を解き放たず。共寐をしない姿。卷九「石上《いそのかみ》布留《ふる》の里に紐解かず丸寐《まろね》をすれば吾が著たる衣は穢《な》れぬ云々」(一七八七)。○いぶせみと いぶせさに。氣が晴れないので。○情慰に 氣晴しのために。○屋戸 こゝでは庭の意。○さ百合引き植ゑて さ〔傍点〕は接頭語。百合を野邊から引いて庭に植ゑて。○なでしこが其の花妻 撫子の花の樣な美しく可愛い自分の本妻。が〔傍点〕は「の」で、「の如き」の意。新考では花妻を新婚の妻の意に説いて、卷八「わが岳にさをしか來なくさきはぎの花妻とひに來鳴くさ牡鹿」(一五四一)、卷十四「あしがりのはこねのねろのにこ草の花妻なれや紐解かず寐む」(三三七〇)を引用してある。○さ百合花 「ゆり」の枕詞。卷八「吾妹子が家の垣内《かきつ》の小百合花ゆりと云へるはいなとふに似る」(一五〇三)。ゆり〔二字傍点〕は「後」の意。○天ざかる 「鄙」の枕詞。○一日も 僅か一日とても。○あるべくもあれや 居られようか、居られるものでない。
反歌二首
4114 なでしこが 花見る毎に をとめらが ゑまひのにほひ 思ほゆるかも
(90)【口譯】 撫子の可憐の花を見るたびごと毎に、自分は妻の笑顔の美しさが思ひ出されてなつかしい。
【語釋】 ○なでしこが 撫子の。○をとめらが ら〔傍点〕は輕く添へた詞。をとめ〔三字傍点〕は妻を指す。我が妻の。○ゑまひのにほひ ゑまひ〔三字傍点〕は「ゑみ」の延言で、笑顔のこと。にほひ〔三字傍点〕は美しさ。につこり笑ふ美しさ。
4115 さ百合花 後《ゆり》も逢はむと 下延《したば》ふる 心しなくば 今日も經めやも
同じき閏五月二十六日、大伴宿禰家持の作
【口譯】 後に都に歸つても、なつかしい妻に逢はうと、下心に思ふ心がないならば、今日の一日とても、こらへて過すことが出來ようか。その希望があればこそ、いぶせい毎日を我慢してゐるのである。
【語釋】 ○下延ふる 心の中に思ひ置く。卷十四「夏麻《なつそ》引く宇奈比《うなひ》を指して飛ぶ鳥の至らむとぞよ吾が下延へし」(三三八一)、卷二十「住吉の濱松が根の下延へて我が見る小野の草な刈りそね」(四四五七)。○心し し〔傍点〕は強め詞。○今日も 今日の一日すらも。○經めやも 過されようか、過されない。
(91) 國の掾久米朝臣廣繩、天平二十年を以て朝集使に附きて京に入り、其の事畢りて、天平感寶元年閏五月二十七日本任に還り到る。仍りて長官の舘に詩酒の宴を設けて、樂しび飲めり。時に主人守大伴宿禰家持の作れる歌一首并に短歌
4116 大君の 任《まき》のまにまに 執り持ちて 仕ふる國の 年の内の 事かたね持ち 玉ぼこの 道に出で立ち 岩根踏み 山越え野行き 都べに 參《まゐ》し我がせを あらたまの 年|往《ゆ》き還り 月かさね 見ぬ日さまねみ 戀ふるそら 安くしあらねば ほととぎす 來鳴く五月の 菖蒲草 蓬《よもぎ》※[草冠/縵]《かづら》き 酒宴《さかみづき》 遊びなぐれど 射水河 雪消《ゆきげ》はふりて 逝く水の いや増しにのみ 鶴《たづ》が鳴く 奈呉江《なごえ》の菅《すげ》の ねもごろに 思ひむすぼれ 歎きつつ 我《あ》が待つ君が 事をはり 歸りまかりて 夏の野の さ百合の花の 花咲《はなゑみ》に にふぶに笑みて 逢はしたる 今日を始めて 鏡なす 斯くし常見む 面變《おもがは》りせず
【題意】 朝集使に附きてとは、朝集使となつて。朝集使とは、四度《しど》の使(國司の用務を帶びて上京する役。大計(92)帳使、正税帳使、貢調使、朝集使の四種類)の一で、畿内は毎年七月、七道は十一月、國司廳から、朝集帳《てうしふちやう》(一國の池溝、官舍、國衙の器杖、船舶、驛馬、神社、僧尼等、國内の政治状態を記した帳簿)を太政官に獻る使。
【口譯】 天皇の御任命に從つて、公の事を取り行つて、御仕へしてゐる、この越中の國の一年中の政治向の事を一まとめにして、都への旅の道に出發し、岩を踏み越え、山を越え、野を越えて都の方へと參つた我が友を、年は過ぎて改まり、幾月も會はない日が多いので、君を戀ひ慕ふ心で落ちつかないから、郭公の來て鳴く頃の五月の、菖蒲草や蓬草を鬘として附けて、酒宴を開いて遊び慰めるけれど、射水河に雪解の水が溢れ滿ちて、流れ行くその水が愈々増すやうに只もう愈愈ますます、又鶴の悲しく鳴く奈呉江に生えてゐる菅の根のやうに、痛切に、氣が鬱して歎き歎きして、自分の待つてゐる君が、公用ををへて、歸つて來て、夏の野の百合の花が咲いたやうに、につこり笑つて、お目にかかつた今日のこの日を手始めとして、今後も今日のやうに、何時までも若々しい姿で、お目にかかりたいものである。
【語釋】 ○任のまにまに 御任命を遵奉して。卷三「もののふの臣《おみ》のをとこは大君の任のまにまに聞くとふものぞ」(三六九)。○執り持ちて 取り行つて。公の事務を掌つて。○仕ふる國 廣繩の仕へてゐる國。越中國。(93)○年の内の事かたね持ち 一年中の政務を取りまとめ。かたね〔三字傍点〕は結び束ねる意。略解「負事を俗かたげるといひ、北國にてはかたねるといふとぞ云々。」○玉ほこの 「道」の枕詞。○道に出で立ち 都への旅の道に出發し。○岩根 根〔傍点〕は、ここでは接尾語。○都べ 都方。都の方。○參し我がせ 參りし我が友。せ〔傍点〕は友人の意に用ひられてある。○あらたまの 「年」の枕詞。○年往き還り 天平二十年が二十一年(天平感寶元年)になつた事で、一年は暮れて改りの意。○見ぬ日 會はない日。○さまねみ さ〔傍点〕は接頭語、まね〔二字傍点〕は數多の意。數多いので。○戀ふるそら 君を戀ひ慕ふ心。卷十三「見渡しに妹らは立たしこの方に吾は立ちて思ふ空安からなくに歎く空安からなくに云々」(三二九九)の「空」も同じい。○安くしあらねば し〔二字傍点〕は強め詞。安らかでないから。○菖蒲草 菖蒲草や。○蓬※[草冠/縵]き 蓬草を鬘として飾り附けて。○なぐれど なぐ〔二字傍点〕は和《な》ぐ。心を慰めるが。○射水河 「逝くの」までほ、「いや増し」の序詞。○いや増しにのみ いよいよ増して行く一方に。下の「ねもごろに」と同じく「思ひむすぼれ」に掛つてゆく。○鶴が鳴く云云 「菅の」までは、「ねもごろ」の序詞。「菅の根」の根〔傍点〕が「ねもごろ」のね〔傍点〕に掛かる。○奈呉江 今の越中國放生津潟。○ねもごろに ねんごろに、心深く。○思ひむすぼれ 欝結し。○事をはり 朝集使の任が畢り。○歸りまかりて 都から越中へと歸つて來て。○夏の野のさ百合の花の 「花咲」の序詞。○花咲に 花の咲くやうに。卷七「道の邊の草深百合《くさぶかゆり》の花咲に笑みしがからに妻といふべしや」(一二五七)。○にふぶに笑みて にふぶ〔三字傍点〕は「莞爾」即ち「にこにこと」の意。卷十六「柄臼《からうす》は田廬《たぶせ》のもとに吾がせこはにふぶに咲《ゑ》みて立ちませり見ゆ」(三八一七)。○逢はしたる 逢はし〔三字傍点〕は敬語。お逢ひになつた。○今日を始めて 今日を始として。○鏡なす 「見る」の枕詞。(94)○斯くし常見む し〔傍点〕は強め詞。今のやうに、何時までもお目にかゝりたい。○面變りせず 顔つきがかはらない。老《ふ》けずに若々しく。卷二十「まけ柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自おめがはりせず」(四三四二)。
反歌二首
4117 去年《こぞ》の秋 相見しままに 今日見れば 面《おも》彌《や》珍らし 都方人《みやこがたびと》
【口譯】 思へば、去年の秋お目にかゝつたまゝで、御別れして、さて今日お會ひして見ると、あなたは都人となつて、御顔がいよいよめでたく思はれる。
【語釋】 ○去年の秋 廣繩が都へ立つた時をいふ。○相見しまゝに 御目にかゝつたまゝで、その後永らくの間離れてゐたが。○今日見れば 御歸國の今日御目にかゝると。○面彌珍らし 彌〔傍点〕は「いや」。御顔がいよいよめでたい。略解には「おもやのやはよと通ひて助辭か。」とあり、古義には「八卷に『於毛也者將見《オモヤハミエム》』とよめるは、此と同言にて、共に面輪《オモワ》を通はして、於毛夜といへるにもあるべきか。」とある。○都方人 都の方の人。都人。廣繩が都にあつて、垢拔がして掃つたのでかくいつた。
4118 斯くしても 相見るものを 少くも 年月經れば 戀しけれやも
(95) 【口譯】 今日かやうに喜びの中に、また會ふことが出來るものを、君と別れてから、多くの月日が經つたので、自分は僅かばかり君を戀しく思つたらうか、いや大いに戀しく思つたのである。
【語釋】 ○斯くしても し〔傍点〕は強め詞。今日のこのやうに。○相見るものを 無事で、喜びに滿ちて會へるものを。○少くも 「戀しけれやも」に續く。も〔傍点〕は感動詞。○年月經れば 別れてから年月が經つたから。○戀しけれやも 戀しくあらうか。「少くも」に續けると、「少く戀しくあらうか、いや大いに戀しく思つた」の意。古義には「古非之家禮夜母は、禮字いかが。こはもと米などの字なりけむを、此歌の經禮婆また次の歌の家禮婆の禮に見まがへて、寫し誤れるにこそあらめ。かにかくに、コヒシケメヤモ〔七字右○〕となくては、例にも、理にも、たがへることなり。」と云つて居る。
霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌一首
4119 いにしへよ 偲《しぬ》びにければ ほととぎす 鳴く聲聞きて 戀しきものを
【口譯】 郭公は、昔から人人が戀ひ慕うて來た鳥であるから、今その聲を聞いて、自分も戀しく思ふことだ。
(96)【語釋】 ○いにしへよ 古から。○偲びにければ 慕はしく思つて來たものであるから。○戀しきものを を〔傍点〕は「よ」と同じ意の感動詞。
【後記】 略解には「按に、未相見ずして慕はしくおもひし人に逢てよめる譬喩歌ならむか。」とある。
京に向はむ時、貴人を見、及《また》美人に相《あ》ひて、飲宴せむ日、懷を述べむ爲に、儲《かね》て作れる歌二首
4120 見まく欲り 思ひしなべに ※[草冠/縵]《かづら》掛け かぐはし君を 相見つるかも》
【口譯】 見たいと思つたまゝに、※[草冠/縵]を頭に掛けた、美しい君にうれしくも逢つた。
【語釋】 ○見まく欲り 見むことを欲し。見たく。○思ひしなべに 思つたままに。思つてゐたその通りに。○※[草冠/縵]掛け ※[草冠/縵]を掛けて。※[草冠/縵]〔傍点〕は前出。○かぐはし君 香細しき君。美しき君。題意の美人をいふ。かぐはし〔四字傍点〕は多く「香のよい」ことを云ふが、かやうに容貌の美しい意味にも用ひた。卷十九「咲き匂ふ花橘の香ぐはしき親の御言云云」。
(97)4121 朝參《まゐり》の 君が姿を 見ず久に 鄙にし住めば 吾《あれ》戀ひにけり【一に頭に云ふ、はしきよし妹が姿を】
同じき閏五月二十八日、大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 都に行かれて、朝廷へ出入する君の姿を見ないことは久しいものであつた。その間自分は、こゝ越中の田舍に住んでゐたから、君を戀しく思ふこと切なるものがあつた。
【語釋】 ○朝參の 參内する。宣長は「朝戸出の」の誤とし、新考の著者はテウサンと讀んでゐる。○見ず久に 見ざることが久しく。○鄙にし し〔傍点〕は強め詞。鄙〔傍点〕は越中國。
【後記】 これは題詞にある、貴人に會つたのを詠んだもの。代匠記に「是は美人に相時のためなり。仍て假粧などよくして宮に參る君が姿を久しく見ずしてとは云へり。」とあるは、當らないであらう。
天平感寶元年閏五月六曰以來、小旱を起して、百姓の田畝稍凋める色あり。六月朔日に至りて、忽ち雨雲の氣を見、仍りて作れる雲の歌一首 短歌一絶
4122 天皇《すめろぎ》の 敷《し》きます國の 天の下 四方の道には 馬の蹄《つか》 い盡す極《きはみ》 船《ふな》の 舳《へ》の (98)い泊《は》つるまでに 古よ 今の現《をつつ》に 萬調《よろづつき》 奉《まつ》る長上《つかさ》と 作りたる そのなりはひを 雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔きし畠も 朝ごとに 凋《しぼ》み枯れ行く そを見れば 心を痛み 緑兒《みどりこ》の 乳《ち》乞ふがごとく 天《あま》つ水 仰ぎてぞ待つ あしびきの 山のたをりに 彼《こ》の見ゆる 天《あま》の白雲 海神《わたつみ》の 沖つ宮邊《みやべ》に 立ち渡り との曇《ぐも》り合ひて 雨も賜はね
【口譯】 大君の御治め遊ばされる國なる、天下四方の道には、馬の脚が歩いて行き盡す遙かなる地の涯《かぎり》まで、又船の舳先が碇泊する海の最極の所まで、昔から現代に及んで、色々の貢物として獻上する、その中の最も大切な物として作つた、その農作物たる稻であるのに、雨の降らないで幾日にも及んだから、折角苗を植ゑた稻田も、種を蒔いた畠も、朝な朝なに凋み枯れてゆく、その痛ましい樣子を見ると、心が悲しくなるので、赤兒が母の乳を乞ひ求めるやうに、降り來る雨を、空を仰いで待つてゐる。山の曲りに、あの見える空の白雲が、海神の住む沖の宮のあたりまで、ずつと立ち廣がつて、一面に曇りあつて、雨を降らせて下さい。
【語釋】 ○敷きます國 御統治遊ばされる國。○馬の蹄い盡す極船の舳のい泊つるまでに 海陸に互つて、そ(99)のはてまでもの意。祈年祭の詞「青海原は棹※[楫+戈]《さをかぢ》干《ほ》さず、舟の舳《へ》の至り留まる極、大海に船滿ち績けて、陸より行く道は、荷の緒結ひ堅めて、磐根木根踏みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道《ながち》間《ひま》なく立ち續けて云々」。とあるに依つた。「い盡す」「い泊つる」のい〔傍点〕は接頭語。○古よ今の現に よ〔傍点〕は、より」、昔から今まで。○萬調 色々の貢物を。○奉る長上と 獻上する、その中の最も主要なものとして。○なりはひを 農作物なるものを。稻といふ農作物であるのに。○心を痛み 胸が痛さに。○緑兒 赤兒。○天つ水 天の水。雨。卷二「天の下四方の人の大船の思ひたのみて天つ水仰ぎ待つに云々」(一六七)。○あしびきの 「山」の枕詞。○山のたをり 山の間の曲つた所。たをり〔三字傍点〕は「撓《たわ》」と同じい。卷十九「あしびきの山のたをりに立つ雲をよそのみ見つつ云々」(四一六九)。○彼の見ゆる あの現在見ゆる。○沖つ宮邊 沖にある宮の邊に。○立ち渡り ずつと立上り。○との曇り合ひて との〔二字傍点〕は「たな」と同じで、一面に曇り合つて。○雨も賜はね も〔傍点〕は感動詞。ね〔傍点〕は願望の意を表す助詞。卷一「此の岡に菜摘ます兒、家聞かな、名|告《の》らさね。」(一)。雨を降らして戴きたい。古義に「海神に希ふなりと。」ある。海神は水を掌るからである。新考では、「山のたをりに見ゆる白雲に對して云へるなり。」とある。
反歌
4123 この見ゆる 雲ほびこりて との曇り 雨も降らぬか 心だらひに
(100) 右の二首は、六月一目の晩頭、守大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 あのあそこに見える雲がはびこつて、一面に空が曇つて、人人が滿足をするやうに、雨が降つてくれないか。
【語釋】 ○ほびこりて はびこりT。廣がつて。○雨も も〔傍点〕は感動詞。○降らぬか か〔傍点〕が打消の動詞の下にある時は、願望の意を示す。降れかしの意。○心だらひに 十分滿足をおぼえるやうに。
【後記】 雨乞の歌の最初のものとして、注意すべき歌である。
雨の落《ふ》るを賀《ことほ》ぐ歌一首
4124 我が欲りし 雨は降り來《き》ぬ かくしあらば 言擧《ことあげ》せずとも 年は榮えむ
右の一首は、同じき月四日、大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 自分の願つてゐた雨が降つて來た。かやうならば、わざわざ神に祈願を籠めなくても、稻は實ることであらう。
【語釋】 ○かくしあらば し〔傍点〕は強め詞。こんな具合ならば。○言擧せずとも 神意のまゝに從つて、被是いひ立てなくとも。言擧〔二字傍点〕は言葉に出して、彼是やかましく言ひ立てる意で、ここは雨乞の歌を作つて、神に折る(101)ことをいふ。卷六「千萬の軍なりとも言擧せずとりて來ぬべき男とぞ思ふ」(九七二)。卷十三「葦原の瑞穗の國は、神ながら言擧せぬ國、然れども言擧ぞ吾がする。こと幸《さき》くま幸くませと、恙《つつみ》なく幸くいまさば、荒磯浪ありでも見むと、百重波千重浪にしき、言擧す吾は、言擧す吾は」(三二五三)。○年は榮えむ 年〔傍点〕は祈年祭に「皇神等の寄さし奉らむ奥津御年《おきつみとし》を八束穗《やつかほ》の伊加志穗《いかしほ》に寄さし奉らば云云。」とある如く、「稻」をいふ。稻が榮えるとは稻の收穫の多い即ち豐年である意。
七夕の歌一首并に短歌
4125 天照す 神の御代より 安《やす》の河 中に隔てて 向ひ立ち 袖振り交《かは》し 生《いき》の緒《を》に 歎かす子ら 渡守 船も設けず 橋だにも 渡してあらば その上《へ》ゆも い行き渡らし たづさはり うながけり居て 思ほしき ことも語らひ 慰むる 心はあらむを 何しかも 秋にしあらねば 言問《こととひ》の ともしき子ら 現身《うつせみ》の 世の人我も 此處《ここ》をしも あやにくすしみ 往《ゆ》き更《かは》る 年のはごとに 天の原 ふり放《さ》け見つつ 言ひ繼ぎにすれ
(102)【口譯】 天照大御神の神代から、天の安の河を間に置いて、岸邊に向ひ立つて、互に袖を振りかはし、命懸けでお歎きになる二星よ。平生はそこの渡守が渡船さへも用意してない。せめて橋でも架けてあるならば、その上をでも通つてお渡りになり、手を握つて、互に頸に手を懸けてゐて、望ましいことをもいひつづけ、心を慰めることも出來ようのに、何で、秋でないと、此の二星は、互に話し合ふことが少いのであらうか。世の人なる自分も、この點を大層妙に思ふので、移りかはる毎年の七夕の夜ごとに、大空を遠く眺めて、二星のはかない逢瀬を、絶えず言ひ傳へるのである。
【語釋】 ○天照す神 天照大神。○安の河 天の安河。高天原にある河であるが、銀河の意に用ひてある。古事記「故爾に各安河を中に置きでうけふ時に、天照大御神云云」と宇氣比《うけひ》の話の段にある。卷十「乾坤《あめつち》のはじめの時ゆ天漢《あまのがは》い向ひ居りて一年にふたたび逢はぬ妻戀に物思ふ人天漢安の川原のあり通ふ云云」(二〇八九)、同卷の「久方の天つしるしと水無河隔てて置きし神代し恨めし」(二〇〇七)の水無河〔三字傍点〕も天の川。○袖振り交し 二星が河を隔てて、親愛の情を示すのである。○生の緒に 命に掛けて。生の緒〔三字傍点〕は「玉の緒」と同じく「命」。卷十一「生の緒に思へば苦し玉の緒の絶えて亂れな知らば知るとも」(二七八九)。○歎かす子ら お歎きになる牽牛。織女の二星。こゝで段落。○渡守船も設けず 天の河の渡守は、ふだんは渡船の用意もしてゐない。○その上ゆも 橋の上よりでも。ゆ〔傍点〕は「より」の意。卷三「天ざかる鄙の長道《ながぢ》ゆ戀ひ來れば明石の門《と》より倭(103)島《やまとじま》見ゆ」(二五五)。○い行き渡らし い〔傍点〕は接頭語。牽牛星が歩きお渡りになり。○たづさはり 互に手を取り合つて。○うながけり 項懸けり。互に頸に手を掛け合つて。親睦の貌。古事記に「かく歌ひて即ちうきゆひしてうながけりて今に至るまで鎭まります。」○思ほしきこと 話したいと心で思つてゐること。○語らひ いひつゞけ。○何しかも 何故に。○秋にしあらねば し〔傍点〕は強め詞。秋でないと。二星は秋の一夜だけ逢ふからである。○言問 語り合ふこと。○ともしき子ら 少い二星であるぞ。こゝで段落。○現身の 「世」の枕詞。○此處をしも しも〔二字傍点〕は強め詞。この點を。二星が秋でないと逢はないことを指す。○あやにくすしみ 誠に不思議に思ふので。○往き更る 移りかはる。○年のはごとに 年毎に。毎年毎年。「年のはに」でも同じ。「ごと」を加へれば重言となる。○ふり放け見つつ 遙か遠く眺めて。○言ひ繼ぎにすれ 二星の薄運を人に言ひ傳へるのである。「すれ」で終つてゐるに就いて、宣長は、上の「しも」が「こそ」の用をするからといひ、代匠記では「終の句の須禮は、今ならば須留と讀べき所なり。禮と留と通ずればかくよめる歟。」とある。
反歌二首
4126 天の河 橋渡せらば その上《へ》ゆも い渡らさむを 秋にあらずとも
【口譯】 天の河に橋が渡してあるならば、たとへ二星が逢ふべき秋の七夕の夜でなくても、牽牛(104)は、その橋の上を渡つて行かれるであらうものを、橋のないのが如何にも口惜しい。
【語釋】 ○天の河 天の河に。○渡せらば 架けてあらば。○い渡らさむ い〔傍点〕は前出。渡らさむ〔四字傍点〕は「渡らむ」の敬語。牽牛が橋を渡つて行つて、織女に逢へるであらうのに。○秋にあらずとも 二星が逢ふといふ秋でなくて、何時なりとも。
4127 安の河 こ向ひ立ちて 年の戀 日長《けなが》き子らが 妻問《つまどひ》の夜ぞ
右七月七日、天漢《あまのがは》を仰ぎ見て、大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 天の川岸に向ひ立つて、一年間會はない戀の爲に、月日長く戀しく思ひ交した二星が、互に相逢ふ今宵であるぞ。
【語釋】 ○こ向ひ立ちて こ〔傍点〕は接頭語であらう。古義には「許《こ》」は「伊《イ》」を草書で書いたのを寫し誤つたであらうといつてゐる。○年の戀 一年中の戀。卷十「年の戀|今夜《こよひ》盡くして明日よりは常の如くや吾が戀ひ居らむ」(二〇三七)。一年間に只一夜逢ふからいふ。○日長き子ら 永い月日の間逢はなかつた二星。○妻問の夜 妻問〔二字傍点〕は求婚のことにも、男女相逢ふ意にも用ひる。ここは後者の意。互に嬉しくも相違ふ夜。
(105) 越前國の掾大伴宿禰|池主《いけぬし》の來贈れる戯歌四首
忽ち恩賜を辱くす。驚欣已に深し。心中笑を含みて、獨座稍開けば、表裏同じからず、相違何ぞ異れる。所由を推量るに、率爾に策を作せる歟。明に知る、言を加ふること、豈他意有らんや。凡そ本物を貿易するは、その罪輕からず。正贓倍贓、宜しく急に并せ滿たすべし。今風雲に勒して、後使を發遣す。早速返報して、延回すべからず。
勝寶元年十一月十二日、物を貿易せらえし下吏、謹みて、貿易人を斷る官司の廳下に訴ふ。
別に白す、可怜の意、黙止すること能はず、聊か四詠を述べて、睡覺に准擬す。
【題意】 代匠記に「池主より家持の許へ、此を針袋にぬはせて給べとで、羅を遣はされたるを、家持の許によき絹の有けるを表とし、池主より遣はされたる羅を裏として、面白き袋を縫て、贈られたるを、かうは戯ぶれて、書にもかき歌にもよまれたる歟。」とある。○恩賜 家持から贈つた針袋。○開けば 針袋を開けて見ると。○表裏 針袋の表と裏。表はよき絹、裏は羅。○所由 理由。○率爾に策を作せる歟 輕率に荷札を附け誤つたのか。○明に知る云々 君が御言葉を下されたことは、別意でないことは、明瞭な事である。○本物を貿易するは こちらから送つた實物と取りかへるといふことは。○正贓 盗品をそのまま償はすこと。(106)○倍贓 盗品を倍にして償はすこと。○并せ滿たすべし 正贓と倍贓とを併せて償つてくれ。○風雲に勒して 風雲に乘せて。風雲を馬に擬した。○徴使 原品を徴發する使。○延回 延引。○物を貿易せらえし下吏 品物を取りかへられた下役人。池主を指す。○貿易人を斷る 物を取りかへた惡人を裁判する。○官司の廳下 役人の御手許。○可怜の意 感興の心。○四詠 次の四首の歌。○睡覺云云 睡氣ざましの料にあてる。
4128 草枕 旅の翁と 思ほして 針ぞ賜へる 縫はむものもが
【口譯】 君は私を旅先の年寄とお考へになつて、針を下されたのは忝い。が序に、それを以つて縫ふべき何かゞ欲しいものだ。
【語釋】 ○草枕 「旅」の枕詞。○旅の翁 旅にある老人。池主をいふ。翁〔傍点〕といふからには、家持より年上であるかも知れない。或は單に戯れて云つたのかも知れない。○針 縫針。旅衣の綻びを縫ふ爲である。卷二十「草枕旅の丸寢の紐絶えばあが手と附けろこれの針《はる》もち」(四四二〇)。○縫はむものもが その針を以つて、何か縫ふべき物が欲しい。が〔傍点〕は希望の助詞。も〔傍点〕は輕く添へた助詞。
(107)4129 針袋 取りあげ前に置き かへさへば おのともおのや 裏も繼ぎたり
【口譯】 贈られた針袋を手に取り上げて、さて前に置いて、裏返して見たれば、驚いたとも驚いた、表ばかりでなく、裏の方も色々の切《きれ》で以て繼ぎ合はしてある。
【語釋】 ○針袋 衣の綻びを縫ふ爲に、針等を入れる袋で、旅行に携帶した物。○取りあげ前に置き しみじみと、美しい針袋に眺め入る貌。九言になつてゐて、勿體つけたのも、一面にはわざとらしい滑稽的の誇張がある。○かへさへば 「返せば」の延語。針袋を裏返しにして見ると。○おのともおのや 新撰字鏡「吁、疑怪之辭也、於乃」。や〔傍点〕は感動詞。驚いたも驚いた。代匠記「己が針袋とも己が針袋や。」略解には「おのともは、能と母と相通へば、おもてともいふならむ‥‥表も表よ、裏さへに綴てわろき袋かなといへるなるべし。」新考には「案ずるに、オノシトモオノシヤの二つのシを省けるにて、當時オノジといふ俗語又は方言の形容詞ありしならむ。そのオノシはオドシの訛にて、驚クベシといふことにや。」とある。
4130 針袋 帶びつづけながら 里ごとに てらさひ歩けど 人も咎《とが》めず
【口譯】 美しい針袋を、腰に始終ぶら下げながら、里の何處へでも、見せびらかして、歩きまはるけれど、生憎に、誰もそれが美しいと思つて、目を附けてくれる人がないのは殘念至極であ(108)る。
【語釋】 ○帶びつづけながら 始終腰にぶら下げながら。○てらさひ 「衒ふ」の延語。見せびらかし。これ見よがしに。雄略紀「山の邊のこじまこ故に人てらふ馬のやつけは惜しけくもなし」。○人も咎めず 里人も見て咎めない。略解「心はわろき袋なれば、人にてらひほこれど、誰心につけて、めでとがむるものもなしといふ意也」。代匠記には「落句は人も目にたてゝ見とがめぬなり。田舍なる故に好絹をも知らぬなり」。古義には「契冲、過分の針袋なれど、越中守殿より給りたりと聞で、人もとがめぬなり。又みづから旅の翁とよみたれば、行平の、翁さび人なとがめそとよめるやうに、分に應ぜねど、人もとがめずといへる歟といへり。後の説|可《よか》らむ歟。」とある。
4131 ※[奚+隹]《とり》が鳴く 東《あづま》を指して ふさへしに 行かむと思へど よしも實《さね》なし
右の歌の返報の歌は、脱漏して探り求むることを得ず
【口譯】 自分はその針袋を腰に帶びて、關東の方へ向つて、遍歴に出ようと思ふが、行く方法も實に無くて殘念だ。
【語釋】 ○※[奚+隹]が鳴く 「東」の枕詞。○東を指して 東國へ向つて。○ふさへしに 假に新考の説に從つた。難(109)解の語で、古來定説がない。代匠記には「フサヘシニは、ふさはしになり。ふさふとは、相應ずるを云へば、かかるめでたき針袋を帶ては、吾妻などに行てこそふさふべければ、此袋をふさはしに、吾妻の方へゆかばやと思へど、行べき由のなきとなり。」と云つて、離騷の文を引用してゐる。新考も同じく、屈原の離騷經を引用して、『余ガ飾ノ方壯《イマシ》ナルニ及ビテ周流シテ上下ヲ觀ム』とあるに據れるならむ。さてフサヘは、總經にて周流に當れるか。周流は歴遊なり。」とある説を採つた。略解「ふさへは、古事記八千矛神の御歌に、許禮波布佐波受《コレハフサハズ》云々、許母《コモ》布佐波受云々。ふさはずは、宜しのうらにて、宜しからずといふ也。源氏物語にも、ふさはしからずといふ事見えて、河海抄の釋に、不祥日本紀と有り。しかれば、かの紀の不祥をしか訓る本有つと見えたり。されば、此『ふさへしにゆかむ』は、幸を得に行むと云也。」とある。此説に從ふものが多い。古義「布佐倍之爾《フサヘシニ》は、(物の人に合應《アヒカナヒ》て幸あるを、布佐布《フサフ》と云ば、此は幸を得むとしてと云意なりとする説は此歌に所由《ヨシ》なし。)今村樂説に、倍之《ヘシ》の約|比《ヒ》なれば、布佐比爾《フサヒニ》なり。さて布佐比とは、今も我が身の上をほこり自慢するをふさると云に同じといへり。今按に、若は布は、於の誤寫にはあらざるか。さらば、鎭《オサヘ》しになり。廿卷に、之良奴比筑紫國波《シラヌヒツクシノクニハ》、安多麻毛流於佐倍乃城曾等《アタマモルオサヘノキソト》云々とあるも、鎭之城《オサヘノキ》ぞと云意なり。陸奥國におかるゝ鎭守府は、即東國の鎭《オサヘ》なれば、其鎭守府將軍などに住むと思ふを云なるべし」。日本古語大辭典著者の松岡靜雄氏は、フサヒ、フサヘは、永く相添ふといふ意から、適合の義に轉じ、更に對偶の意に轉用したやうだと云つて、此の歌のフサヘは、くらべ」といふやうな意に用ひられたと説明してゐる。○よしも實なし 行くべきその方法手段が誠にない。
(110) 更に來贈れる歌二首
驛使を迎ふる事に依りて、今月十五日、部下の加賀郡の境に到來せり。面蔭に射水の郷を見、戀緒を深海の村に結ぶ。身胡馬に異なれど、心北風に悲しぶ。月に乘じて徘徊し、曾て爲す所無し。稍來封を開く。其の辭云々。著者先に奉る所の書、返りて畏る、疑に度れる歟。僕囑※[口+羅]を作り、且つ使君を悩す。夫れ水を乞ひて酒を得、從來能口、論時に理に合はば、何ぞ強吏と題せむや。尋ぎて針袋の詠を誦するに、詞泉酌めども渇《ひ》ず、膝を抱きて、獨り咲ふ。能く旅愁を※[益+蜀]《のぞ》く。陶然として日を遣る。何をか慮らむ、何をか思はむ。短筆不宣
勝寶元年十二月十五日、物を徴りて下司、
謹みて不仗の使君の記室に上る
【題意】 池主の手紙に對して、家持から返書が來た。その返書の返書が此の文と歌である。○驛使 政府から遣した使。通路は、越中から越前に入つて來た。○部下 管轄内。○到來せり 自分は到着した。○面蔭に云々 自分は、先年住んでゐた越中の國の射水の郷を懷かしく目の前に浮べ。○戀緒を云々 今自分は越前の深海村にあつて、君を戀しく思ふ。○身胡馬云々 文選「胡馬依2北風1、越鳥集2南枝1。」北風は曾住地越中(111)國を指す。懷かしい越中國を思つて悲しんでゐる。○曾て云々 全く何の爲すべき術も知らない。○稍 漸く。○來封 御手紙。○其の辭云々 その御手紙の文辭は、これ/\とあつた。○著者 池主自身を指す。○返りて畏る云々 却つて君の誤解を招いたかを、自分は畏れてゐる。○囑※[口+羅]を作り 新解「騷々しい聲をいふ。やかましく頼むこと。」切に願ひ事を申上げて。○使君 國主の唐名。家持を指す。○夫れ水を云々 遊仙窟「乞v※[將/木]得v酒、舊來神口、打v兎得v※[鹿/章]非2意所1v望。」つまらないものを乞うて、よい物を得るのは、もともと言葉上手であるが。○論時理に合はば 君の言ふ所が、時に理窟に合ふならば。○何ぞ強吏云々 何で自分の事を、無道の役人などと、君はいはれるだらうか。○針袋の詠 君の詠んだ針袋の歌。左註の如く、「脱漏云々」で、その歌はわからない。○詞泉云々 詞藻の泉は味つても/\盡きない。○物を徴りし下司 物をおねだりした下役人の自分。○不仗の使君 元暦校本等の古寫本には「不伏の使君」とある。「不伏」は誰にも伏さない意で、尊貴の意味としてゐるから、「尊い使君」といつて、家持に對する尊敬の心を示したものであらう。不仗ならば、新考の「仗は杖の通用なれば、寛にして杖を加へざる使君といへるならむ。」の説に從ふべきであらう。○記室 下役の書記の意で、本人に直接に與へる無禮を避けて、傍の者に渡して、届けて貰ふ意。「侍史」などと同じ意。
別に奉る云云の歌二首
(112)4132 たたさにも かにも横さも 奴《やつこ》とぞ 吾《あれ》はありける 主《ぬし》の殿戸《とのと》に
【口譯】 縱にも、又かやうに横にも、あなたの下部として、自分はあなたの御殿の戸口の所に侍つて居る。
【語釋】 ○たたさにも 竪樣にも。縱に見ても。○かにも かやうに。○横さにも 横樣にも。横から見ても。以上の意味は、どちらから見ても、とにかくの意。新考に「第二句ととのはず。まづカニモといはば、カクニモといはざるべからず。次にヨコサモはヨコサニモとあらざるべからず。おそらくはもとは、たたさにもかにもかくにも一云はたよこさにもとありしが、混一したるならむ。又二三の間に、君がマニマニといふことを略せるならむ。」とある。古義には「竪にも横にも彼《カ》にも此《カグ》にもといふ意なるを、かくいへり。」とある。○奴とぞ 召使となりてぞ。召使としてぞ。卑下の語である。○吾はありける 自分は侍つてゐる。○主 奴に對して主といふ。家持を尊敬する語。○殿戸に 御殿の戸の所に。代匠記や古義は「殿外」と見てゐる。
4133 針袋 これは賜《たば》りぬ すり袋 今は得てしか 翁さびせむ
【口譯】 針袋、その方は既に戴いた。尚此の上に、摺袋を戴きたいものである。そしたら、それ(113)を腰にぶらさげて、老人らしくしませう。
【語釋】 ○賜りぬ 賜はりぬ。正に戴いた。○すり袋 新釋の「摺染模樣のある袋。又、旅行用の竹細工の〓をスリといふより、その袋ともいふ。倭名類聚鈔に、※[竹/鹿]をスリと讀んでゐる。『旅人はすりもはたごも空しきを早くいましね山のとねたち』(兼盛集)」とある説に從ふ。代匠紀「スリブクロは火燧を入るゝ袋なり。敦忠家集云、親盛からももの使にていくに、かねの火うち、ほくそに沈をして、しのぶをすりたる袋に、打つけに思ひ出やと、故郷の忍ぶ草にてすれるなりけり。後撰集を初て、旅に行人に火打つかはせる歌ども見えたり。」略解「すりぶくろは、燧袋也。‥‥燧袋は老人のみ著るものにはあらねど、自ら翁なれば、かくいへる也。」古義「須理夫久路《スリプクロ》は、※[竹/鹿]《スリ》袋なるべし。※[竹/鹿]は、和名抄行旅具に、説文云、※[竹/鹿]は竹篋也。揚子漢語抄云、※[竹/鹿]子須利、主鈴式に、凡行幸從駕内印、并驛鈴傳符等、皆納2漆|※[竹/鹿]子《スリコ》1、主鈴與2少約言1共預供奉云々とある是なり。さて須利といへる名義は、未詳には知れねど、今世にいふ皮籠《カハゴ》の類にて、旅客のもはら負て持ありく具なるが故に、行旅具とせるなるべし。さて、その※[竹/鹿]《スリ》を納る袋を※[竹/鹿]袋といへるか、又其袋を※[竹/鹿]代《スリシロ》に製たるを、やがて※[竹/鹿]袋といへるにもあるべし云々。」新考「おそらくはスリブクロの上に、久をおとしたるならむ。」古義にも中山嚴水は藥袋としてある。○得てしか 得たいものだ。○翁さびせむ 老人らしくしよう。「神さび」、「をとめさび」等の「さび」と同じく、「それらしいふるまひをする」のがさび〔二字傍点〕の意。
(114) 宴席に雪月梅花を詠める歌一首
4134 雪の上に 照れる月夜《つくよ》に 梅の花 折りて贈らむ 愛《は》しき兒もがも
右の一首は、十二月大伴宿禰家持の作
【口譯】 今宵は雪の積つてゐる上に、月が照つて美しい。かういふ時に、庭に咲いてゐる梅の花の枝を手折つて、贈つてやるやうな、いとほしい女でもあるとよいが、さういふ女のないが心淋しい。
【語釋】 ○雪の上に 地上に降つて、積つてゐる雪の上に。○照れる月夜に 照り渡つてゐる月のある時に。月夜〔二字傍点〕は「月」の意で、夜〔傍点〕は輕く添へた語。卷一にある「わたつみの豐旗雲に入日さし今宵の月夜あきらけくこそ」(一五)の月夜と同じい。○梅の花 庭前に咲いてゐる梅の花の枝。○愛しき兒もがも 愛する女でもあるとよい。兒〔傍点〕は女。
4135 我《わ》せこが 琴取るなべに 常人《つねびと》の いふ歎しも いやしき増すも
右の一首は、少目秦伊美吉石竹の館の宴に、守大伴宿禰家持の作
【口譯】 我が友が、琴を取つて彈くにつれて、自分は、世間の人々が、琴の音を聞くと悲しくな(115)るといふ、その悲しみの心が、いよいよ頻りに加はつて來るのである。
【語釋】 ○我がせこ 我が友。前出。○琴を取るなべに 琴を手に取ると共に。琴を調べるにつれて。○常人のいふ 世人が、琴の音を聞くと悲しいといふ。○歎しも その悲しい心が。しも〔二字傍点〕は強め詞。○いやしき増すも 「彌重き増す」で、愈々頻りに加はつて來るのである。
天平勝寶二年正月二日、國廳にて饗を諸郡司等に給ふ宴の歌一首
4136 あしびきの 山の木末《こぬれ》の ほよ取り かざしつらくは 千年|壽《ほ》ぐとぞ
右の一首は、守大伴宿禰家持の作
【口譯】 山の木の枝先に生えてゐる寄生木《やどりぎ》を取つて、挿頭《かざし》にしたことは、千歳までも長生するやうにと祝ふ爲である。
【語釋】 ○あしびきの 「山」の枕詞。○木末 梢。○ほよ 寄生木。○かざしつらくは かざしにした(116)ことは。○千年壽ぐとぞ 千年の後までも 長生するやうに祝ふ爲である。
【後記】 卷十九「八十伴の雄の、島山に熟《あか》る橘|髻華《うず》に挿し、紐解き放けて千年壽ぎとよもし、ゑら/\に仕へ奉るを見るが貴さ」(四二六六)、同卷「青柳の秀《ほ》つ枝よぢ執りかづらくは君が屋戸《やど》にし千年壽ぐとぞ」(四二八九)。
判官久米朝臣廣繩の館の宴の歌一首
4137 正月《むつき》たつ 春のはじめに かくしつつ あひし笑みてば 時じけめやも
同じき月五日、守大伴宿禰家持之を作る
【口譯】 正月の來た春の初の時に、かやうにうたげをして、互に喜び樂んだならば、何時とても、かやうに笑みて居られないことがあらうか、そんな筈はない。
【語釋】 ○かくしつつ かやうに宴を催して。○あひし笑みてば し〔傍点〕は強め詞。「てば」は、て〔傍点〕は現在完了の助動詞「つ」の變化。ば〔傍点〕は接續の助詞。互に笑みてあるならば。互に樂しく遊んだならば。假定的にいつたもの。○時じけめやも けめ〔二字傍点〕は「けむ」の變化。や〔傍点〕は反語。も〔傍点〕は感動詞。時じ〔二字傍点〕は「時じく」の場合にあつて、既に説明した。時ならずといふことがあらうか、ないの意。何時だつて、今日のやうに樂んで居られる(117)わけだ。卷十「川かみのいつ藻の花のいつもいつも來ませわが背子時じけめやも」(一九三一)。
墾田地を檢察する事に縁《よ》りて、礪波郡の主帳|多治比部《たぢひべ》北里の家に宿る。時に忽に風雨起りて、辭去することを得ずて作れる歌一首
4138 やぶなみの 里に宿|借《か》り 春雨に こもりつつむと 妹に告げつや
二月十八日、守大伴宿禰家持の作
【口譯】 自分は今、やぶなみの里に宿を借りて、この春雨に降り籠められてゐるといふことを、わが妻に知らしたか。
【語釋】 ○やぶなみ 荊波。越中國礪波郡にある地名。○こもりつつむ 閉ぢ籠り、籠る。卷六「雨隱《あまごも》り三笠の山を高みかも月の出で來ぬ夜はくだちつつ」(九八〇)、卷四「久方の雨も降らぬか雨障《あまづつみ》君にたぐひてこの日暮らさむ」(五二〇)、卷十一「笠なしと人にはいひて雨づつみとまりし君が姿し思ほゆ」(二六八四)。○妹に 家持の妻坂上大孃。代匠記「今按、第十九に今と同じ年三月廿日の歌ありて、次に云く、爲(ニ)2家(ノ)婦《メノ》贈(ルガ)2在(ス)v京尊母(ニ)1所《レテ》v誂(ラヘ)作歌、さて同月二十三日の歌あり。此卷上に、勝寶元年閏五月までの歌は、家持の妻坂上大孃は京におかれたる由なり。かゝれば其後秋冬の間に喚下されたるべし」。
(118) 萬葉集卷 第十八
(119) 附録
修辭から見た萬葉集及び古今集
尾上八郎
一
奈良朝時代と平安朝時代と違ふ如く、萬葉集と古今集及び後撰から千載の諸集に到る諸集は皆違ふ。しかし、古今集以下のものは各違うては居るが、大體は一である。甚しい違ひは、それらと萬葉集に於いて見られる。殊に、萬葉集から轉じて古今集に到るところに驚くべき違ひがある。殆んど時代を異にしてゐるのみでなく、人を異にし國を別にしてゐるかの如くさへもみえる。この違ひがどんなであるか、どの位であるか、更にそれの起ったのは何故であるかは考へられなければならぬ。
從來萬葉集と古今集との個々の立派な研鑽及びその比較等は、學者によつて屡々企てられ、且つ發表せられてゐる。今日これを再びするのは、無用な、又退屈な事業である。自分は今これに當ら(120)ねばならぬのであるが、これをしては、自分と讀者と共に勢力の損失であらねばならぬ。必ずこれには、自分よりも、巧妙に、精細に、清新に、元氣よく、手際よくすぐれた人があるであらう。であるからその人々に讓つて、自分は内容的實質的の違ひのどんなであるかの比較論を企てず、あまり人々の着手してゐないと思ふ部分から、乃ち兩歌集の歌がどんなに出來て、しかも違つてゐるかをその外形の方面の中での修辭的方面から、僅かな論述と比較とをしてみようと思ふ。
萬葉と古今との兩歌集の修辭的方面の事は自分は、すでに些か書いた事がある。しかし、それは個々に就いてであつて、兩者を比較した上ではなかつた。で、こゝでは、主を比較に置いて、兩者の類似と差異とを考へて、兩者の間が、いかに兩者の現出した時代の中に、變遷し發展したかを考へたいと思ふ。
自分は數量を擧げて、萬葉古今兩歌集に關する論究をしようとする。この數量は確實のやうであるが、動きの取れないものゝ外は、どうにでもなる性質のあるものである。解釋のしようによつては、時に一句が、譬喩とでも叙事とでも考へられる。或は枕詞とでも、形容詞又は副詞句とでも思はれる。つまり主觀が多く交つて來るから、結果はその當人にのみ確實で、他人には極めて杜撰と見える事となる。自分の計算も此の外に出ない。從つて數量は自分の見た數量にとゞまるのである。(121)この事は讀者は諒とせられたい。猶その數量も全體は擧げるが、一々は、時に「多い」「少ない」とのみ云つておく。これは、あまりに數を一々擧げるのは煩雜なのみであるからである。これも諒とせられたい。
二
萬葉集に、
この夕ふりくる雨は彦星のはや漕ぐ舟のかいの散るかも
があり、古今集に、
わが上に露ぞおくなる天の川とわたる舟のかいのしづくか
がある。この二つは、形は異なるが、意は殆んど同じである。天の川を渡る舟のかいの雫が雨と降ると云ふのも、露と落ちるといふのも、着想に於いては同一である。たゞ前者の「雨」と後者の「露」と、量の多少と言表の硬軟とが異なるのである。前者は健勁と云はゞ云へるし、後者は繊巧と説かば説かれるであらう。これを見るのみでも、兩集の相違は明かにされるやうである。但し、兩首ともに作者と時代とが明記してないので、詳細は知り得ないが、後者は古今集中でも、古い時代に屬(122)することは、人々によつて説かれてゐる。
又、古今集に、
かぢにあたる棹の雫を春なればいかゞ咲き散る花と見ざらむ
がある。これは、棹の雫がすでに「雨」でも「露」でもなく、「花」となつてゐる。そして、伊勢の歌であることは明かであるから延喜時代のものであることも、また明かである。「雨」が「露」と變つたのが、更に「花」と改まつてゐて、類似の如何に拘らず、前兩者よりも優艶味、佳麗味を添へてゐる事がまた明かである。
萬葉集に、
山高み白ゆふはなにおちたぎつ瀧の河内は見れどあかぬかも
は吉野の瀧の岩を越えて落ち來る樣が木綿花のやうであるといふのである。瀧を以て花に比したのであるから、前者の雫を花と比したのと差異がないやうであるが、瀧は雫と異なつて物質が大きく白く盛であるところが、ゆふ花と見えるからかく云つたのであるから、よほど現實的であつて空想的ではない。しかも、これの神龜附近の作であるは明かである。
古今集に、
(123) 主もなくさらせる布を七夕にわが心とや今日はさかまし
これは前者と異なつて、瀧を布に比したのである。瀉然直下する状態はたしかに布と見えるであらうから、これは妥當であらうが、むしろ瀑布といふ熟語から思ひついたのではなからうか。
清瀧のせゞの白糸くりためて山分衣織りて著ましを
は瀧の筋を糸とみたのであつて、しかもそれで衣を織らうと云ふのであるから、甚しく織細巧緻である。技巧に於いて著しく進んでゐるが、それに過ぎて眞實味がなくなつてゐる。
以上はたゞその二三の例に過ぎぬのであるが、萬葉集と古今集とは、同じ材料を用ゐながら、言表が夥しく違つてゐる。豪壯が繊細になり、放膽が巧緻になり、大づかみが小刻になり、而してその上に、誇張の趣を加へて來てゐる事が十分に看取せられる。
甞て、自分は記紀の歌を檢して、その時代を譬喩の時代と名づけた。それは譬喩が多く用ゐられてゐるからである。勿論その統計は、三十一音及びそれに近似してゐるものから、乃ち短歌形體のものから得た數字によつたのであるがこれを推して全體に及ぼしても差支はないやうである。この形勢は、萬葉集に及んで來てゐる。たゞ萬葉集では、前者とおなじく短歌形體のものに就いて檢したのであるが、最多數のものは、既に譬喩ではなくして、枕詞である。枕詞の使用の數が多く、從(124)つて類が多くて煩雑に堪へないほどである。であるから、この時代を枕詞の時代と名づけたが、譬喩は猶決して少なくはなく、枕詞の次に立つべき数を保有して、枕詞以外の修飾を藐視してゐる。
更に古今集に轉ずると、同じ歌體のものに於いては、すでに譬喩でなく、枕詞でなく、最も多いものは縣詞である。從つてこの時代を懸詞の時代とも云ふべきである。今各集の百分比数を擧げてみると、記紀には譬喩が三十七、萬葉集には枕詞が四十、古今集には懸詞が二十四である。それで各が諸修飾の百分比数を凌いでゐるのである。
以上のやうであるが、萬葉集でも枕詞の次の動詞の百分比數二十六を除けると、依然として譬喩は十三であるから第三位を確かに占めてゐる。古今集でも懸詞の次に譬喩は十四を示してゐる。であるから、譬喩は記紀の状勢はないが、次々の時代でも各第三位または第二位を占めてゐるのであるから猶重要な修飾と認められて使用し續けられてゐることは確實である。
以上の譬喩を材料によって分けて、更にその数を見ると、記紀に於いて動物と、植物と器具服飾とに關するものが大抵同数で、天と地とに屬するものが、その順次とともに少ない。ところが、萬葉集になると、植物に関するものが主で、器具服飾がそれに次ぎ、地と天と人とが又各それに次ぎ、動物は更にそれに次ぎ、神がまたそれに次いでゐる。この順序の相違は偶然かも知れぬが、動物が(125)少なくなって、植物が増加したのは、文化の程度が高まって、野獣が次第に人から離れ、その反對に、植物がだん/\に近づいて來たからでもあらうか。古今集に到ると、猶植物が依然として主であり、地と天と器具服飾と順次相次ぎ、動物は最後になってゐる。これも、前言の如き状態からであらう。
先づ記紀のそれに就いて例を奉げて述ぶべきであるが、こゝは萬菓集と古今集とが主であるから省略して萬葉集に轉ずると、記紀に於いて譬喩に用ゐられた植物の中で、菅は比較的多い。それが萬葉集では最多数となってゐる。それを少し擧げて見ると、
三島菅いまだ苗なり時またば着ずやなりなむ三島菅笠
は幼女の生長を待つに喩へた。
かきつばたさきぬの菅を笠にぬひきむ日をまつに年ぞへにける
おしてる難波菅笠おきふるし後は誰著む笠ならなくに
女を得るを菅笠を着るに喩へた。
みよしぬのみくまが管をあまなくに刈りのみ刈りて亂れなむとや
は刈るに女を得るをよそへた。この教は十一にも達してゐる。これが、古今集になると全くなくな(126)つて、これに代るのが花になってゐる。
花は、萬葉集にも喩義に用ゐたのが少なくないが、それは個々の本草の名を擧げた花である。その最も多いのは瞿麥であつて、
久方の雨はふりしくなでしこがいや初花に戀ひしきわがせ
の邦は、主人或は客人に比してあるが、それよりも、
わが屋戸にまきし瞿麥いつしかも花にさかなむなぞへつゝみむ
のやうに女に比したものが多い。その數は九に達してゐる。
梅は瞿麥に次いで、八を算する。
梅の花さきてちりぬと人はいへどわがしめゆひし枝ならめやも
ぬば玉のその夜の梅をたわすれて折らで來にけり思ひしものを
の如く女に比して云ふ。
以上のものが多數であつて、他は少ない。白木綿の花は五であつて、
泊瀬川白木綿花におちたぎつ瀬をさやけみと見に來し我を
の如く波に比したのみであつて、やゝ特色がある。が他は萩、櫻、山吹、韓藍、垣津幡、月草、こ(127)なぎ、朝顔、百合花、女郎花、紫陽花等皆多くない上に、喩義も前者と大抵同じである。
個々の花は以上の如くであるが、たゞ花と概括的にいふのは多くない。
あをによしならの都は咲く花のにほふが如く今盛なり
と都に比していふ。
あしびきの山さへ光りさく花のちりぬる如きわが大君かも
と皇子に比して歌うたのがある。
咲く花はすぐる時あれどわがこふる心の中は止む時もなし
の如く多いのは前の如く女に比するそれである。
古今集に轉ずると、前の傾向は繼がれる。個々の撫子、萩、梅等各あること、萬葉集のやうであるが、すでに彼にあつてこれに無いのが多い。それはすでに種屬が乏しくなつたこともあらうし、又はその色香や姿が、當時人の好尚に適しないためもあらう。しかし、その反對に菊は現はれて、
秋をおきて時こそありけれ菊の花うつろふからに色のまされば
といふ法皇に比し奉つた珍らしいのがある。櫻は前代を受けて、
あだなりと名にこそたてれさくら花年にまれなる人もまちけり
(128)の如く女に比して云ふ。
一般的に花といふのが、この時は殆んど櫻になつてゐる。この期には二十一さへもある。これを波に比したのは既に擧げた。雪に比して、
みよしのゝ山邊にさける櫻花雪かとのみぞあやまたれける
は當時では新しかつたのであらう。出世するに比して、
日の光やぶしわかねば石の上ふりにし里に花もさきけり
世に比して、
うつせみの世にも似たるかさくら花さくと見しまにかつちりにけり
戀人に比して、
思ふともかれなむ人をいかゞせむあかずちりぬる花とこそ見れ
戀人又は女に比したのが、ことに多い。
萬葉集で、花に關しないものは比較的少い。草木には、林、杉、舟木、木の葉、ゆづる葉、紅葉、つゞら、眞葛、稗稻、薦等があるが、皆少ない。たゞ草とのみいふのは、その中で多くて五ある。その刈るを女に逢ふ、靡くを女の人に從ふ、生ふるを戀の多い等に比する。
(129) こちたくはかもかもせむを石代の野べの下草われし刈りてば
わがせこにわが戀ふらくは夏草の刈りはらへども生ひしくがごと
はその一二である。
古今集になると、木、竹、かづら、紫、藻かづら、紅葉等が用ゐられてゐるが、その中、草が比較的多く十に上つてゐる。その個々では、忘草、浮草が、多い。
忘草種とらましを逢ふことのいとかく難きものと知りせば
水のおもにうきて漂ふ浮草のうきたる戀もわれはするかな
前者は「忘る」といふのから、後者は「浮く」といふのから作り出したのである。草とばかりいふのは、比較的少ない。
わが戀はみ山がくれの草なれやしげさまされど刈る人もなし
秋風のふきとふきぬる武藏野の草はみながら色變りけり
のやうに、戀心に比し、または變る人心に比した等である。
器具服飾に關するものは、萬葉集で玉を最も多く見る。これは四十二もあつて、驚くべきである。玉の重寶視されればされるほど、女に比することが緊密である。
(130) 草枕旅には妹はゐたれどもくしげの内の玉とこそ思へ
あぢむらのとをよる海に舟うけて白玉とらむ人にしらゆな
海神の手にまきもたる玉ゆゑに磯の浦囘にかづきするあま
水の底しづく白玉風ふきて海はあるとも取らずはやまじ
等、或は直接に、或は間接に、玉を女に比してゐる。これを列記することは煩に耐へない。
玉の形から、水の滴に比して、
彦星のかざしの玉のつまごひに亂れにけらしこの川の瀬に
といふのと同じく、露を玉に比して、
夕立の雨もふらぬか蓮葉にたまれる露の玉に似むみむ
さを鹿の朝立つをのゝ秋萩に玉とみるまで置ける白露
の類が出來てゐる。この勢が古今集にも及んで、玉は猶多くて六を數へる。
こき散らす瀧の白玉拾ひおきて世を憂き時の涙にぞかる
の如く、涙にまで轉じさせた。露を玉に比するのは云ふまでもなく續いて、
あさみどり糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か
(131) 秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸筋
ともいひ、遂に露の玉は慣用の成語となつて、今にも及んでゐる。
玉に次いで、萬葉集には、譬喩に衣を比較的多く用ゐてゐて十五を數へさせる。
すまのあまの鹽燒衣の藤衣まどほにしあればいまだ著馴れず
はまだ女に馴れないのに比した。
紅の濃染の衣下に著ば人の見らくににほひいでむかも
は密かに逢ふのを喩へた等すべて女に關してゐる。古今集では、これは少なくなつてゐるが、その喩義は殆んど變らない。
戀ひしくば下にを思へ紅の根摺の衣色にいづなゆめ
はやゝ古い時代のである。
蝉の羽のたとへは薄き夏衣なればよりなむものにやはあらぬ
は衣を副詞的に用ゐたのであるが、内容と、縁語の關係から自然に接觸の深いものがある。また衣を霞に比して、
春の着る霞の衣ぬきを薄み山風にこそみだるべらなれ
(132)の「霞の衣」は、後に襲用せられてゐるが、空疎の感がある。
衣以外に、萬葉集には舟が多くて十もある。月にそれを比して、
天の梅に雲の波たち月の舟星の林に漕ぎかくるみゆ
と云つたのは、詩から來たのでもあらう。
みなぎらふ沖つ小島に風をいたみ船よせかねつ心は思へど
は身を女に寄せ難いのを云ひ、
島傳ふ足速の小舟風守り年はや經なむ逢ふとはなしに
は女に逢ひ難いのを云ふ等もある。古今集では、却つてこの類は少なく、雁に比して、
秋風に聲をほにあげて乘る船は天のとわたる雁にぞありける
また木の葉にまがへて、
白波の秋の木の葉のうかべるをあまの流せる舟かとぞみし
と云ふのは、一は懸詞から、他は支那の故事から作り出したのである。
舟以下には萬葉集には、弓がある。
天の原ふりさけみれば白眞弓はりてかけたり旅路はよけむ
(133)は月に比したのである。これも、出典は支那にあるであらう。しかし、
梓弓弓束まきかへ中みてば更にひくとも君がまにまに
南淵の細川山にたつまゆみ弓束まくまで人にしらえじ
に、女が再び來る、又、女を得るを擬したのは、純然たる奈良朝のものである。
庵、殿、垣、又、糸、錦、絹、織物、又、笠、衣笠、更に又、筌、水門、澪標等が用ゐられるが皆少ない。しかも、喩義は大抵女を得る得ないに關してゐる。
古今集で最も用ひられてゐるのは、織物では錦である。萬葉集で、すでに紅葉を錦に比してゐる。
春はもえ夏は緑に紅の錦をはれる秋の山かも
山のべの五十師のみ井はおのづからなれる錦をはれる山かも
これが延喜附近にも續いて多い。轉じて、花と柳とにもなつて、
みわたせば柳櫻をこきまぜて都ぞ春の錦なりける
と云つたのは新しいであらう。しかし多いのは依然として紅葉對錦であつて、これが幣と連關して
このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまに/\
幣は錦その他の切をもつて作るからである。從つて、
(134) 秋の山紅葉を幣と手向くればすむわれさへぞ旅こゝちする
にも到つてゐる。
以上の外は少ない。布と糸とを瀧に比したのはすでに述べた。引く手の多い人を、大幣、花の映るから、水を鏡、袖に似てゐるから、薄を袂に比したのも同樣である。
萬葉集で、器具服飾に次いで多く譬喩に用ゐられてゐるのは、地に開したそれである。しかしてその主は波であつて十を數へる。その立つから、
紀の海の名高の浦による波の音高きかもあはぬ子ゆゑに
寄るから、
石そゝぐ岸のうらわによする波邊に來よればか言のしげしむ
騷ぐから、
葛飾のまゝのてこながあひしかば眞間のおすひに波もとゞろに
隙をうかゞふから、
伏越ゆ行かましものをひまもるに打ちぬらされぬ波よまずして
かく動作に關して戀の種々相に比した。
(135)雲を比して、
天の海に雲の波たち月の舟星の林にこぎかくるみゆ
は新しいが、雲濤などの飜譯ではあるまいか。
山は波に次いで八を數へる。そのこゞしさを、貴人に逢ふに、それを占めるを人を得るに比したのも興味がある。
岩たゝみかしこき山としりつゝもわれは戀ふるかなみならなくに
おもひあまりこともすべなみ玉だすきうねびの山にわがしめゆひつ
戀の心の多いのを富士の鳴澤に比して、
さぬらくは玉の緒ばかり名の立つは富士の高ねの鳴澤のごと
と云つたのは、噴火の鳴動から來て新しかつたのであらう。
川は五あるが、朝それを渡るを男に逢ふに比して、
人ごとをしげみこちたみおのがよにいまだ渡らぬ朝川渡る
は珍らしい。苦しさを押へるを瀧つせを堰く、心の淺いのを川の淺いのに擬したのは、自然であらう。
(136) ひろせ川袖つくばかり淺きをや心深めてわがおもへらむ
海は川に次ぐが、すでに少ない。喩義も、天をそれに比し、人のさわぐのをそれの荒れるに比したのみである。
風ふきて海は荒るとも明日といはゞ久しかるべし君がまにまに
古今集では、波は多くない。その白さから洲崎の鶴に比したのと、風に靡く白菊に比したのは新しい。
あしたづの立てる川邊をふく風にませてかへらぬ波かとぞみる
秋風の吹上に立てる白菊は花かあらぬか波のよするか
さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
の花に比したのはあまりに技巧的である。
山はすでに少ない。戀の心の燃えるのを富士に比したのは、すでに前にあつた。
川は多くて九ある。涙をこれに比して「涙の川」、「涙川」と云つたのは、後にも多く用ゐられてゐる。海のみのはすでになくなつてゐる。
萬葉集では、上述の外に、瀧、巖を擧げることが出來るが、ともに少數である。島、路、田、瀬、(137)野、水等更に少ない。
古今集では、上に奉げた以外に水が多い。
わびぬれば身を浮草の根をたえて誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ
は男を水に比したのは新しからう。水の泡に落花を比したのも同樣である。
枝よりもあだにちりにし花なればおちても水の泡とこそなれ
瀧は水と連關して、
よしの川水の心は早くとも瀧の音には立てじとぞおもふ
は古いであらう。涙に寄せて、
愚なる涙ぞ袖に玉はなすわれはせきあへず瀧つ瀬なれば
は誇張に過ぎてゐる。堤の「人目堤」も技巧に失してゐる。淵、瀬、野、浦、關があるが、皆少ない。
天に關して、常葉集では、雪が最も多くて十五もある。その色から、形から、梅に比したのがその中ことに多い。
わがやどの冬木の上にふる雪を梅の花かとうちみつるかも
李に比したのはめづらしい。
(138) わが園の李の花か枝にちるはだれのいまだのこり居るかも
布に比したのは、
つくばねに雪かも降らるいなをかもかなしきころがにぬはさるかも
は珍らしい。その繁さから、
新しき年の始の初春のけふふる雪のいやしけよごと
は少ない。
雲は雪に次いで七ある。火葬の煙から來たのが多い。日、月、風、露、雨はすでに少ない。
古今集では、雪は依然として多く、六を數へる。前代の梅が變つて花となつてゐる。花は勿論櫻である。これは、今日も襲用してゐる。
雲は、前者よりも少ない。猶花をそれに比したのは、こゝでは新しいのである。瀧に比して、
風ふけど處も去らぬ白雲は世をへておつる水にぞありける
は妙である。
月と日とに皇室の御恩を云つたのは、前代からの自然な言表である。月を、
かつみれど疎くもあるかな月影のいたらぬさともあらじと思へば
(139)は、皮肉なのが面白いのみでなく、新意である。雨、烟、星は漸次少ない。
人に關して、萬葉集では、男で「さゝらえをとこ」と月を云つた。奴を戀と對して「戀の奴」は奇拔である。
丈夫のたけき心も今はなし戀の奴にわれは死ぬべし
山守を戀を妨げるものとし、また戀を得てゐる人にも比してゐる。杣人だの、餓鬼だの、力士だのは、特殊的で少ない。
古今集では、人では蜑、これを男に比して、
みるめなきわがみを浦としらねばやかれなであまのあしたゆく來る
夢を世の中に、渡を雨に比したのは、襲用せられるが、當時には多くない。
萬葉集で、動物は鳥で郭公、山鳥、渚鳥、獣で鹿、駒、むさゝび等があるが、各一あるのみである。古今集でもこれを受けて、同じく少ない。鳥では鴛鴦、鶯、雉、鶴、千鳥、鶉、雁、獣では駒、蟲では蝉、螢數々あるが、實教は少ない。
萬葉集で、神に聞して、神社を用ゐて本妻に擬したのがあるのは、珍らしい。
ちはやふるかみの社しなかりせば春日の野邊に粟まかましを
(140)古今集ではすでに少ない。
譬喩の内容は、大體以上の通である。これからは、形體の如何を見ねばならぬ。
記紀時代に於いて、譬喩は説明の役をつとめるのが主になる譯であるが、事實は必ずしもさうではなく、既に、今少し深入りをしてゐるものが多い。乃ち直喩は少なくて、隱喩が多い。短歌形體全體の中で、譬喩は四十七、百分比數は三十七、しかもその多くは隱喩である。乃ち隱喩四十六、百分比數九十八、直喩一、百分比數二である。
萬葉集に於いて、短歌形體のものでは、譬喩は前代よりも減少してゐる。乃ち序詞構成の因をなすもの九、枕詞構成の因を成すもの十一を除くと、單獨のもの三百八、百分比數十三であるから、減少の度も多いのである。思想感情が複雜になり、鋭敏になると、譬喩の一法のみでは現はしえない。他の修辭法を用ゐて、やつと十分の表出が出來るとすると、減少の結果を來すのは自然の事である。しかし、譬喩の喩義も普遍的になると、直喩の「如し」「似たり」等によらずして、隱約の間に意義を悟得せしめることゝなつて、隱喩はいよ/\多くなる。その中で、本義が全く喩義に隱れてゐるもの、乃ち純正な隱喩第一種とすべきものは二百六、百分比數六十六であるから、頗る多數である。
(141) 本義と喩義とが「の」の助辭を以て連接するもの、乃ち「月の舟」「星の林」の類を第二種とすると、その類は十八、百分比數六である。次に喩義をいふのも主體の一部に限り、他に本義を説いて喩義と何等の關係のないやうで、しかもあるものを見る。それを第三種とすると、
秋萩の上の白露見る毎に見つゝぞしぬぶ君が姿を
の類は六、百分比數は三である。以上のものを隱喩的のものとして見ると、その數二百三十にも達し、百分比數七十五を數へる。
直喩は「ごと」または「ごとく」の助辭で、本義と喩義との連絡するものを第一種とすると、これが多くて二十、百分比數は六である。本義喩義の間に「と」の這入つたもの、
み園生の百木の梅は散る花の天にとびあがり雪とふりけむ
を第二種とすると二十三、百分比數七である。「に」の助辭で本喩兩義を連ねたもの、
あふさかをうちいでて見ればあふみの海白木綿花に波たちわたる
これを第三種とすると、これも十五、百分比數五である。
「なす」を以てまたは「じもの」を以て本喩兩義を連ねるもの、前者を第四種、後者を第五種とすると、前者は八、後者は一のみである。「を」を以て同じく本喩兩義を連ねるもの第六種はたゞ一の(142)みである。別に疑惑の意の「か」「や」を有しながら、又「なれや」を用ゐて本喩兩義を連ねるもの等、種類は少なくないが、數は多くない。
以上を合すると、直喩的のものは七十八、百分比數二十五であるから、明晰より婉曲、淺膚よりも含蓄、それが今日では何の意だか解し難いものがあるにさへ到つてゐるところから、いろ/\異説を生じてゐる。
以上の形勢は古今集に於いて少しく變る。隱喩の第一種はこゝに五十、百分比數は三十四であつて、前代よりもよほど少ない。前代には、時に喩義が表面に露出して、全體を損つたものがあつた。この時にも、
たが里によがれをしてか杜宇たゞこゝにしもねたる聲する
等があるが、大體に減少してゐる。これは、進歩とみるべきであらう。
第二種は二十七、百分比數十八である。「涙の川」「紅葉の錦」は今も慣用となつてゐる。第三種は八、百分比數五で、
立田川紅葉亂れて流るめり渡らば錦中やたえなむ
はその中のすぐれたものである。
(143) 本喩兩義の連絡に「なりけり」、「ありけり」を取るものが、こゝに初めて現はれる。これが十五、百分比數十もある。それを第四種として見ると、
あはれてふことの葉ごとに置く露は昔をこふる涙なりけり
は、その一であるが、聲調の流露と情味とは確かにある。すべて隱喩的のものは百、百分比數六十七である。
直喩的のものは第一種は三、百分比數二である。「ごと」の如き、強い硬い語の使用の減じた結果であらう。第二種は二十二、百分比數十五である。前代は「と見ゆ」「と見る」が多かつたが、こゝでは「と散る」「と亂る」の如く、意義ある動詞に代つて、實質味が加はつてゐる。第三種は八、百分比數五であつて、前者とおなじく、前代の「に似る」が減じて、他の實質的の語になつてゐる。
「なす」は、この時代にはすでに用ゐられない。從つて第四種はなくなつてゐる。「じもの」のないのは云ふまでもない。そのかはりに「こゝち」が這入つて來た。
神なびのみむろの山を秋ゆけば錦たちきるこゝちこそすれ
がこれも少ない。「を」の第六種はない。
斷定的口氣のものは以上の如くであるが、疑惑的のものは少ない。その中「や」を用ゐたもの、(144)「あれや」を使つたものは多い。これらは十、百分比數六をも數へる。「や」のみでそれに應ずる「らむ」のないのも現はれたが、
谷風にとくる氷のひまごとにうち出づる波や春の初花
のみである。
すべて、直喩のものは四十九、百分比數三十三にあたる。前代より増加してゐる。これは、喩義がむづかしくなつて、説明的でなくては、理解し難くなつたためであらう。
三
萬葉集で眞に多數に使用せられてゐる修飾は、すでに譬喩ではなくして、枕詞である。枕詞は實に萬葉集中の最高位を占める修飾である。であるから、こゝではそれに就いて述べて見、またその各が如何に變化して居るかに關して古今集のそれに就いて見ようと思ふ。
枕詞は短歌形體に於いて、上代には餘り多くない。乃ち譬喩よりも少なく、それに次ぐ反覆よりも少なくて、僅に第三位にある。その數は二十六で、全修飾數に對する百分比數は二十一である。それらを類別すると、「かぎろひの」が「もゆ」の枕詞となつた類が先づ見られる。これは「かぎろ(145)ひの如く燃える」と解せられたが、それよりも、直接に「かぎろひの燃ゆる」と續けて「然ゆる」を懸詞として扱ふ方が適當かと感じられる。この類は十四で、全枕詞數に對する比數は五十四であるから、これが優に他の種類を壓してゐるのである。この類に「おしてる難波」「ぬばたまの甲斐」の如き後に屡々使はれてゐるものがある。この以外は、いづれも少數である。「高行くや隼別」と續けて、その高く飛ぶから來たものの類は隼の性質を説明するのを基礎として作り出したものである。この類は、「大魚よし鮪」とつづけて、鮪の形状から作り出したものをも含め得るから、性質及形状から成つたものと解せられる。これが六で、百分比數は二十三である。この中に「ちはやぶる宇治」「さゝがねの蜘蛛」の如きものもある。「やくもたつ」を「出雲」につゞけたのは、前者と異なつて、同音の反覆から成つてゐることが明かである。このものはたゞ二あるのみである。これよりもやゝ多いのは、「道の後」に「木幡處女」をつゞけた類であるが、三あるのみである。「いさなとり」を「海」につづけたのは、産業から來てゐるのであるが、これは一あるのみである。
以上のやうに五種の枕詞が記紀に見られる。この中で多いのは、懸詞から來たもの、次いでは反覆から成つたものであるが、この情勢は引き續いて、萬葉集に現はれ更に古今集に現はれてゐる。
以上の枕詞は、どんな處に位置してゐるかと見ると、
(146) いなむしろ川ぞひ柳水ゆけばなびきおきたちその根は失せず
の如く第一句を占めたものが最も多くて十七、百分比數六十五である。前行者となる詞であるから、これが正當な位置であらう。これと異なつて、
わがせこが來べきよひなりさゝがねのくものおこなひ今宵しるしも
は、第三句を占めてゐる。この事が九、百分比數三十五に當つてゐる。しかし、これも第二句の終結した後を承けたのであるから、意義から云へば、第一句のと同じことであるが、必ずしもさうでなく、文中にあらはれるのもある。この第一句に來るものが多く、第三句のものが少ない情勢は、萬葉集でも古今集でも一貫してゐる。別にまた、
みかしほ播磨はやまちいはぐやすかしこくともあれ養はむ
の如く、第一句と第三句と、双方に枕詞の現はれたのがあるが、たゞ三のみであるのは、云ふまでもない。
更に、以上の枕詞が受辭と連詞する場合、乃ち、「なつくさの」が「あひねの濱」に連なり「高行くや」が「隼別」に連なる際に、前者は「の」後者は「や」を有してゐる。乃ち一助辭を隔てて迄接してゐるのであるが、「うまさけ」が「三輪」と連なる場合は、何物をも間に置かずして、すぐに(147)接してゐる。前者は悠揚であるが、後者は急追を感ずる。この第一のものは十であつて、百分比數三十八、第二のものは十六で、百分比數六十二を數へしめる。更にまた間接に本義に連なるもの乃ち、
ぬばたまのかひの黒駒くらきせば命しなましかひの黒駒
の「ぬばたまの」は「くろ」に連なるべきであるのに、「かひ」に續いてゐる。乃ち「かひの」の三音を間に置いてゐるのである。これを本とすると、枕詞に間接的のものと、直接的のものとを分ける事が出來る。しかし、これは「ぬばたまの」の一つが間接であつて、他は皆直接であるから、この時に勢力を有しないが、後に到ると異なつた状態を示して來る。
記紀の枕詞に於いては、以上の通りである。直ちに萬葉集のそれに轉じて見る。
上代に基礎を作つた枕詞は、奈良朝で大いに發展した。その數は遙かに上代に超過したのみでなく、この作意の巧みなこと、形體の多樣なこと、後の時代でも見ることの出來ない程度に到つてゐる。その使用の妙は、或は古今集以後にあるかとも考へられるが、それも、その範圍は、この時代に定められたもので、その以外に脱出することはむづかしい位である。
萬葉集中、短歌形體を取るものに於いて、枕詞を數へ上げると、九百六十三ある。當時百分比數(148)は四十にも相當する。記紀の二十二に比べると、これは三倍近くに増してゐるのである。
前に懸詞からする一種が、枕詞になつて、然も多いと云つたが、この類はこの時にも依然として多數である。乃ち五百五十七もあつて、百分比數は五十八に當つて、上代と殆んど同樣な形勢にあつて、少しく多い。前代と同じものもあるが、「春草の」を「しげきわが戀」に、「紐の緒の」を「心に入れて」に、「はたすゝき」を「久米の若子」に、「吾妹を」を「いさみの山」に續けたのも面白い。「人魂の」を「さをなる君」に、「衣手を」を「高屋の上」に、「高麗劍」を「わが心ゆゑ」に連ねたなどは、着想奇拔といふべきであらう。これをこゝから第一種として見る。
以上に次いで多いものは、性質状態から來るものである。これにも新しいものが多いのは云ふまでもない。「八百日ゆく」を「濱のまさご」に、「枕つく」を「妻屋さびしく」につゞけた類も、説明的ではあるが、興趣が饒かである。この類は二百四十二で、百分比數は二十五ある。これは、前代より僅か多い。これを第二種とする。
この時代に初めて現はれたものは、材料から來るものである。それは一事物の出來た資材を述べたのであるから、特に修飾とは考へられないが、襲用の久しきに及ぶと、本義は忘れられて修飾となつたのである。「高麗錦」を「紐ときあけて」に、「白妙の」を「袖まかずぬる」につゞけた類が六十(149)七、百分比數七にあたる。これをこゝから第三種として擧げて置く。
反覆から來るものは前代にあつた。これを第四種とする。「ますげよし」を「蘇我」に、「待乳山」を「待つらむ」に連ねる類は四十二あり、百分比數は四である。地理から來たものは「こもりくの」を「はつせをとめ」に、「石の上」を「ふるとも雨」に連ねた如きもので二十一ある。がこれは百分比數二であるから、前代よりも甚しく減少してゐる。たゞ説明に留まつたためであらうか。
長歌形體にはすでに、「眞玉なす」を「わが思ふ妹」に連ねた類があつたが、短歌形體では、こゝではじめて「水沫なす」を「もろき命」に、「沙なす」を「わがこひわたる」に、「玉藻なす」を「靡きかぬらむ」に連ねたやうなものが新たに規はれた。この「なす」は、すでに述べた如く、譬喩の語であるが、皆その状態を明瞭に述べて、それに適當な事物を添加したのである。これがこの時には十一を算し。百分比數は一のみであるが、これを第六種として置く。
生産から來る枕詞は、「玉藻刈る」を「みぬめを過ぎ」に、「ま草刈る」を「荒野にはあれど」に「みすゞ刈る」を「信濃の眞弓」に續けた類は九、百分比數は一で、前よりも少ない。これも説明に止まるからであらうか。これを第七種として足る。
附屬物から來る枕詞も、こゝにはじめて現はれた。「玉梓の」を「使のいへば」に續けたのは、使(150)のしるしに玉梓を持つたと、解するとこゝに入るべきである。八を數へるが百分比數は一である。これを第八種とする。數量から來る枕詞も、初めて出て來た。「百たらず」を「八十の隈路」に續けた類であるが、これもたゞ六あるのみで、百分比數は一である。數量の表現のみでは、趣が少なかつたからであらう。これを第九種として置く。
上述のやうに、當時の枕詞の種類は九にも分けられる。細別すれば、或は猶多くなるであらう。が變轉味の豐かで、聽者の耳を傾けるに足る第一種の如きものが多く使用せられ、説明的で、特別の興味のない、地理だの、數量だのゝものが自然と減少してゐる。これは、自然の事であらう。
以上の事を古今集に轉じて見る。古今集の短歌形體に於ける枕詞は百四十三ある。これの百分比數は十四に相當する。これは萬葉集に比すると、非常な減少である。これは主として内容が充實して來たために相違ない。乃ち作者の懷抱する思想または感情が、複雜となり多樣となると、それの十分の表現には、短少な詩形中から、直接的に必要でない語句を排除する必要が生じて來る。ことに、すでに根本的意義を失つて、修飾中たゞ接頭語的の用をなし來たものは自づから減少して、他の充實した語が變らなければならぬ。
九種を萬葉集で示した枕詞は、古今集でも大體同樣であるが、二種は全體の減少と共に失なはれ(151)て、たゞ七種を數ふるのみである。この一は數量を現はすものであるが、これは單に受辭の數を説明する要をするのみであつて、他に何の興味を惹起しないから、自然になくなつたのであらう。しかし譬喩から來たものは前者と異なつて、受辭の有する状態動作等が豫想せられて、趣味の多いものであるから、譬喩の存する限り繼承せらるべきであるが、その譬喩を表はす語の「如し」の意の「なす」が、いつしか死語となり、同意と思はれる「じもの」が、また使用せられないこととなつて、これに代るべき何物も現はれなかつたから、遂に跡を留めないやうになり、この思想を有するものは、大境懸詞から成つた第一種に這入つてしまつたのである。
で、古今集に於ける枕詞の第一種の縣詞から來るものは、その數九十七、全枕詞數に對する百分比數は六十八もある。萬葉集のよりも増加したのは、前に述べた結果からでもあらうし、またこの類の修飾を面白がつたためもあらう。これは縣詞が單獨にも重用せられたによつても明かであらう。「冬草の」を「かれにし人」に、「あしがきの」を「間近けれども」に、「花染の」を「うつろひやすき」に、「にほどりの」を「底に通ふ」に、「水の沫の」を「消えてうき身」に續けた等、基礎は萬葉集のそれと異ならないが、その語句に優艶味が多いのと、妥當味が饒かなのとは十分に看取せねばならぬ。第二種の性質状態から來るものは二十四で、百分比數十七である。「ちはやぶる」を(152)「神なび山」に、「たらちねの」を「親のまもりと」に續けた等がそれであるが、これと第三種の材料から來るものとともに、萬葉集のよりも少ない。それは後者もたゞ三で、百分比數二あるのみである。ともに説明に過ぎないからであらう。第四種の反覆から來るものは、前二種よりも多くて十で百分比數は七である。萬葉集の殆んど二倍にも成つてゐる。「白川の」を「しらずともいはず」に、「よど川の」を「よどむと人は」に、「うの花の」を「うき世の中に」續けた等で、新しいものもあつて興趣が湧く。第五種の地理から來るものは七、百分比數五であるから、萬葉集よりも多い。京洛にのみ蟄居した人々には、遠隔の地で、傳説の美しいのがあると、それに一種の憧憬を感じて用ゐたのであらうか。第六種の譬喩から來るものは缺けてゐる。第七種の生産から來るもの、第八種の附屬物から來るものはたゞ一のみである。説明に過ぎないからであらう。第九種の數量から來るものは缺けてゐる。
個々は以上のやうであるが、轉じて萬葉集中の多數の枕詞が、どんな位置で短歌形體に現はれてゐるかを見ると前代とおなじく第一句に現はれたものが多い。これが六百四十七もあつて、百分比數は六十七にも當つてゐる。原始的形態は依然として勢がある。第三句に現はれるものは三百十六で、百分比數は三十三に當つてゐる。これも前者とおなじ状態である。前代にすでにあつた第一句(153)と第三句との二處に枕詞を有する歌は、こゝにもあつて全體が四十二首もあるが、百分比數は前代と大體同樣の五あるのみである。
更に前者の類の枕詞が第三句に現はれる場合に、第二句で文が完結した後に第三句に現はれるものは百三十九あるが、完結しないのに拘らず現はれるもの、乃ち文の中途に出るものは百七十七ある。その百分比數は、前者は四十四で、後者は五十六であつて、前者が少なく後者が多い。これは前代の、前者の多くて後者の少なかつたのと反對になつてゐる。これによると枕詞は、何處にあつても、ある事物の動作状態等の修飾となればいゝ、前行辭となればいいと考へ、必ずしも句の初に現はれるに及ばないといふ意義に解せられたと見られるのである。この状態が、次々に種々の變態を出さしめて來る。
萬葉集の枕詞に、新作の多いのは云ふまでもないが、また從來のを襲用して、そのまゝのものもある。が、更にそれの受辭に變化を呈せしめて、聽者に意外の感を與へしめ、更に機智に感服せしめるやうにもしてゐる。乃ち「かぎろひの」は、「もゆるいへむら」に續いたのを「いはがきふちの」に、また「ゆふさりくれば」に續け、「ぬばたまの」は「かひの黒駒」であつたのを、「夜渡る月」「夢にはもとな」、「月にむかひて」等に、「ちはやぶる」は「うぢのわたり」とつゞいたのを「かねの(154)みさき」につゞけた類は六十五あつて、これも才氣のひらめきを示してはゐる。これらに從來のままのもの十七を加へて、全枕詞數から減じると、その殘りの八百八十一は、悉く當時に新たに作られたものである。その使用の數は異なるが、この創作に當時の才人の才は窺ふことが出來る。恐らく、當時の歌人と云はれた人の技倆は、この枕詞製作の如何に半以上存したのではなからうか。後世多く使用せられる枕詞の多くは、大抵こゝで發生したものである。「あしびきの」を「山」に、「玉桙の」を「道」に、「うつせみの」を「夢」に續けた如きは、皆この時の歌人の創作に外ならぬ。しかして襲用に襲用を續けて、今日にまで及んでゐる。
次いで見るべきは、枕詞が受辭と連なる際にあらはす形式の如何である。その間にある助辞を有してゐるものを第一とし、有しないものを第二とすると、第一は五百九十五あり、第二は三百六十八ある。百分比數で云へば、前者は六十二、後者は三十八に當る。乃ち當時は有するものが多くて有しないものが少なく、丁度記紀の反對に出てゐる。これは、語の五音に達しないものがある時に聲調を整へる爲に自然に起つた結果とも云へるが、またかくならしめなければならぬ必要からとも考へられる。乃ち柔婉味のある助辭を挿入して、聲調の曲折を欲し、流滑を得しめるためとも云はれるであらう。否むしろその企圖のために、語數の少ない名詞を使つて、助辭の入り得る場處を作(155)つたのであらう。これらのために、萬葉集の枕詞は朴素であり、簡勁ではあるが、紀記に比しては優雅の致が加はり、流暢の趣が添つて居る。
更に、以上の枕詞、が本義に連なるのに直接であるか、間接であるかを見ると、紀記では、大抵直接で、殆ど何等の間隙をも示さなかつたのであるが、萬葉集では、種々の變態が生じて來た。すなはち二音を隔てるもの、「ぬばたまのその夜の梅を」と云つて「その」といふ二音がある。この類が二十六ある。三音を隔てるもの、「あしびきの清き山べに」の「きよき」の三音がある。この類が十八ある。四音を隔てるもの「あらたまの來經ゆく年」の「きへゆく」の四音がある。この類五ある。五音を隔てるもの、「ぬばたまのひだのおほ黒」の「ひだのおほ」がある。これは特別で、たゞ一のみである。以上は第四種反覆から來るものを除いた計算である。それは、反覆から來るものはその音調を主としたもので、他の意義を主としたものと異なつてゐるからである、が今それを入れて計算をし直すと、「淺茅原つぱらつばらに」のやうに直接なものもあるが、大抵は間接である。大體を云ふと一音を隔てるもの、「春かすみかすがの里」の「み」の類九ある。二音を隔てるもの「いはひじまいはひて待たむ」の「しま」がある。この類が三十三。三音を隔てるもの「ありぎぬのありての後も」の「きぬの」がある。この類が三十。六音を隔てるもの「玉梓のいもは玉かも」の「づ(156)さのいもは」がある。これは特別であるが、すべて、一音のもの九、二音のもの三十三、三音のもの三十、四音のもの五、六音のもの二となる。すべてで七十九、百分比數は八になる。これを全體から省いてその殘りのものゝ百分比數を擧げると、九十二である。これを紀記のと比すると直接のものが少しく減じて、間接のものが漸く擡頭したのが察せられる。これによつても、朴素簡勁の風が次第に優雅柔婉に轉じてゐることが考へられる。
更にこゝに變種として、枕詞の倒装ともいふべきものがある。それは、
櫻花今さかりなり難波の海おしてる宮にきこしめすなへ
の「おしてる」が、それである。「おしてる」は「や」を添へて「おしてるや難波の海」とつゞけて用ゐられてゐるのである。だからそれによると、「おしてるや難波の宮にきこしめすなへ」と云ふべきであるのに、それを反轉して、「難波」を先にし「おしてる」を後にしてゐるのであるから、確に異數である。これは耳にすることが久しいと、自づから転倒した用法もいつしか出來て、新しい趣を加へようとするところから、此の如くになつたのであらう。これは、この後に於いて繼承せられてゐる。
轉じて、古今集に就いて、枕詞が短歌形擡でどんな位置を占めてゐるかと見ると、萬葉集の如く(157)第一句を占めてをるものが多くて八十二ある。百分比數は五十七に當る。第三句を占めるものがこれに次いで五十八あり、百分比數は四十一である。これを萬葉集と比して更に記紀と比すると、第三句に位置を取るものが漸次増加したことが明かに知れる。枕詞の原始的意義から漸々遠ざかつてゆくことが見えるであらう。この第三句のもので、前文の完結の後にあらはれるものは三十、完結しないのに現はれるものが二十八あるから、これは萬葉集のと反對に出たと思はれるが、當時は猶第四句にさへ現はれるものが出て來た。
植ゑていにし秋田刈るまで見え來ねばけさはつかりのねにぞなきぬる
の如く「はつかりの」の五音に「けさ」の二音を加はて、七音として「はつかりの」の枕詞を七音の處に用ゐてゐる類が二つもある。また第五句にさへ現はれるものも出來た。それは、
あさあけに見べき君としたのまねば思ひたちぬる草枕より
であるが、これは枕詞が受辭を失つて名詞となつてゐる事、「百敷」を大宮の意に用ゐたのと同樣である。從つてたゞ變轉した結果とのみ見るべきであらうが、位置のみからいへば、たしかに第五句にあるのである。
枕詞の一首中に二處もあるのは、こゝにも六もある。これも、前代の繼承であるから修飾を重ん(158)ずる當時では、かく多くなるべきであらうが、内容の充實は、それの表現に急で、それに縁故の少ないものは成るべく排除したのであらうが、これの増加は出來なかつたと見える。それよりも、枕詞に縁故のある他の語を一首中に挿入して、それと有機的關係を取らしめて、枕詞の存在を必然ならしめることをした。或は本義の必要な一語のために、それと關係の深い枕詞を用ゐることをした。たとへば、
たぎつせの早き心をいかなれば人目堤のせきとゞむらむ
の「たぎつせの」は枕詞で、「早き心を」に連なるのであるが、その「たぎつせ」は「堤」にも關し、また「堰き止む」にも關して、本義の外に別に一種をなさしめて、複雜な統一を作つてゐる。勿論あまりに技巧的であるところから嫌厭の感をも起さしめるが、この技倆はたゞ「人目堤」といふ新造語を作つたそれよりも、猶進んだものである。かやうに枕詞と本義中の語と必然的關係を作つてゐるものは、この時に初めて現はれたもので、後に於いてます/\増加して來る。で、この時に、この類は二十五あつて、百分比數は十七もある。これは、當時の詞人が殆んど新たに作り出したもので、後に誇るべきものであらうと思ふ。
古今集では、舊來のまゝの枕詞を用ゐてもゐる。が、受辭にいろ/\の變化をも與へてゐる。こ(159)れが前代の如く讀者に意外の感を抱かせ、而してその機才に驚かしめたであらう。「白露の」のを「起きゐて」とつゞけ、「ちはやぶる」を「加茂の社の」に轉じた類が三十七、百分比數二十六もある。枕詞の新作は、すでに少ない。枕詞全體が少ない時に於いて、これの多からぬのは當然であらう。「高砂の」を「尾上の鹿も」に、「初雁の」を「なきこそわたれ」に「白川の」を「しらずともいはじ」につゞけた類が二十二あり、百分比數は十五であるから、萬葉集のとは非常の差がある。一寸前に述べたが、舊來の枕詞が受辭を失つて名詞となり終つたものがあらはれた。「足引」を直ちに「山」としたのが別にあるが、古今集には前に擧げた「草枕」を直ちに「旅」の意に取つたり
山川のあとにのみ聞くもゝしきをみをはやながら見るよしもがな
の如く、「もゝしき」を直ちに「大宮」の意とも使つた、が、これの類はまだ少ない。
枕詞と受辭と連なる際に、助辭を有するものは、古今集にはそれが九十九、百分比數六十九、有せざるものが四十四で百分比數三十一である。これを萬葉集に較べるとこの時は、前者が大いに増加してゐることは云ふまでもない。これも聲調の宛轉を希ひ、言表の曲折を愛した結果に外ならないのであるが、それが前代よりも、一歩も二歩も進んでゐるのである。
上述の傾向は、枕詞が受辭に連なるの際にまた明かに見える。乃ち連接に三音を隔てるもの「刈(160)薦のおもひみだれて」の「おもひ」のある類が九あり、七音を隔てるもの「ふじのねのめづらしげなくもゆる」の「めづらしげなく」がある類が三ある。二音を隔てるもの、一音を隔てるもの、各二ある。九音を隔てるもの、「入紐のおなじ心にいざむすびてむ」の「おなじこゝろに」のが一ある。更に進んで、十三音を隔てるものもある。乃ち「花薄われこそしたにおもひしかほにいでて人にむすばれにけり」の「われこそしたにおもひしか」がある。これはたゞ一のみであるがすべて、音から漸次進んで一個の文をも挿むことゝさへなつたのである。これらを合算すると、十八あり、百分比數は十三である。であるから、直接のものは百二十五で、百分比數八十七に當る譯である。これを萬葉集に對すると、直接のものは時とともに減退し間接のものが年を逐うて増加したのである。これによつても、素朴簡勁から流麗婉曲への道程が明かに辿られるのである。
以上で譬喩と枕詞とに關した舊稿の補訂を終つた。それからまた他の修飾から觀察し而る後結論を加へるべきである。が、あまりに長くなるので一先づこゝで擱筆する。しかし大體でも主なものはすでにすました。他はこれに比しては重要味がすくない。これによつて讀者に萬葉集と古今集との修辭的方面の一端が知悉せられたならば幸甚の次第である。
(通卷四百三十頁)
昭和十一年二月一日印刷
昭和十一年二月五日發行 萬葉集總釋第九
著者 佐佐木信綱
尾上八郎
東京市中野區江古田一ノ二〇五四
發行者 篠田太郎
東京市牛込區早稻田鶴卷町一〇七
印刷者 吉原良三
發行所 東京市中野區江古田一丁目二〇五四番地 樂浪書院
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振替東京八〇〇四七番
〔2016年11月1日(火)午後4時25分、入力終了〕