萬葉集總釋第十 樂浪書院 1935.9.29発行
 
(1)萬葉集 卷第二十
 
(3)   卷第二十概説
                   豐田八十代
 この卷は、卷十九に續いて、孝謙天皇の天平勝寶五年五月から淳仁天皇の天平寶字三年正月一日に至る五ケ年の間に、大伴(ノ)家持が輯録した二百二十四首の歌を載せてをる。
 この時代は家持の思想の圓熟した頃で、多くは奈良に在つて活躍してをる、即ち天平勝寶五年五月から六年四月までは少納言として奈良に在任、六年四月庚午兵部の少輔となり、天平寶字元年六月壬辰、兵部大輔となり、二年六月丙辰因幡守となつたことが、續日本紀に見えてをるが、卷中に、天平寶字元年十二月の歌があつて、左註に右中辨大伴宿禰家持とあるから、このほど右中辨になつたものと見える。
 歌の排列の順序が、全く年代順により、用字法が一字一音式であることは、卷十七以下の卷々と體裁を同じうしてをる。
 但し年代順といふのは、輯録された年月の順をいふので、歌の出來た年代をいふのではない。こ(4)の卷には傳誦の歌が多く載つてゐるから、ずつと古いものが多く加はつてゐることに注意したい。即ち
  (四二九三、四二九四)元正天皇と舍人親王との唱和の御歌
  (四四二七、四四三八)元正天皇の御歌と薩妙觀の歌
  (四四三九)石川命婦の歌
     以上はいづれも元正天皇の頃の作
  (四四五五、四四五六)葛城王と薩妙觀との唱和の歌は、
     天平元年の作
  (四四七九、四四八〇)藤原夫人の歌は、
     天武天皇の頃の作
  (四四七七、四四七八)圓方女王と櫻井眞人の歌は
     天平の頃の作
と考へられるのであるけれども、四四二五乃至四四三二の防人歌と四四三六の防人歌とに至つてはその年代が更にわからない。
 この卷には、遊宴行幸の作や、傳誦の古歌や、四季折々の歌をも載せてをるが、著しく吾人の注(5)目をひくのは、防人《さきもり》歌である
     防人《さきもり》歌
 
 防人《さきもり》といふのは、王朝時代に筑紫の邊海の防備のために派遣せられた兵士のことで、三年毎に交替したのである。
 防人の文字は、天智紀の二年の條に「是歳於2對馬壹岐島筑紫國等1。置2防人與1v烽。」と見え、又大寶令義解に「凡兵士守v邊者名2防人1」と見えてをる。防人は崎守《さきもり》の意である。
 もとは坂東諸國の兵士を差遣せられたのであるが、路次の國々を煩すことが多いので、聖武天皇の天平九年にこの期度を改め、筑紫人を遣して壹岐對馬を守らせることになつた。
 然るに、筑紫人は束人《あづまぴと》のやうに勇敢でないといふので、其の後再び東人を用ひることになつたのである。
 この卷に見える防人歌は、多くは孝謙天皇の天平勝寶七歳二月に交替して、筑紫の諸國につかはされた防人の歌で、その數が九十三首、遠江以東常陸以西の國々の人々の作を含んでをる。防人に命じて、歌を獻らしめ、部領使《ことりづかひ》の手にまとめて、兵部省に送つたものと見える。部領使《ことりづかひ》とは、防人(6)の役を充て行ひ、防人を管掌する役人で各國廳の守介掾目史生の中から出たのである。
 當時兵部少輔として、兵部省にゐた大伴家持が、その中から拙劣なる歌を除いて、その餘を輯録し、整理したのが、この防人歌である。
 もと/\教養の乏しい人々の手に成つた民衆歌であるから、詞の整はないのもあり、方言訛言の含まれてゐるのも多いのであるが、何等の技巧もなく、何等の虚飾もなく、卒直に眞情を述べて、純朴なる若い男やその妻などのいき/\とした感情のこもつてゐるのが多く、歌として立派なものが多いのである。都から遠く離れた田舍人が、このやうに巧に歌をよみ得たといふことは、實に驚くべきことである。
 元來萬葉集の歌には、眞實味に富むものが多いのであるが、この點から言へば、防人歌ほど、眞情のこもつた歌は少なからうと思ふ。
 これ等の防人歌には、こまやかな親子夫婦の愛情のみえるのは言ふまでもないが、壯烈なる忠君愛國の精神のこもつた作の多いのは、わが國の誇りとすべきである。「大君《おほきみ》の命《みこと》かしこみ」とか、「大君《おほきみ》の命にしあれば」といふやうな語の、處々に見えるのもこれが爲で、勅命とあれば、火にも水にも入らうとする國民精神の發露されてゐるのも喜ばしい限りである。
(7) 次に防人歌に多いのは、敬神の思想である。鹿島《かしま》の神に祈るとか、阿須波《あすは》の神に祈るとかいふ歌の多いのも、自然に國民性の現はれたものであらう。これに反し、佛教思想を歌つたものの一首もないのは注意すべきである。思ふに、當時の佛教は、教養ある上流階級に限られ、未だ國民思想の根低を搖がすには至らなかつたのであらう。
 防人歌に歌はれた地域は、東は常陸より西は筑紫に及び、海と陸とにわたつてゐるのである。その内容が多種多樣で、後世の勅撰集などには見られないやうなおもしろいものがあり、その中に取り入れられた歌材の如きも、非常に變化に富んでゐる。
 とはいへ、防人の中には、年老いたる親を家に殘して來たものもあり、幼い兒を人に託して來たものもあり、新に結婚したばかりの最愛の妻と別れて來たものもあり、種々の悲劇が行はれたやうである。そこで、感傷的な家持は深くこれに同情し、防人の心になつて、三首の長歌と十一首の短歌とを詠んでゐる。
 
     遊宴の歌
 
 防人歌についで多いのは、遊宴の歌で、四十八首の多きに及んでをる。其の中に宮城で行はれた(8)のが八首。次の通りである。
  天平勝寶六年正月七日、天皇、太上天皇、皇太后、東の常の宮の南の大殿に肆宴きこしめす時の歌一首
  同七歳八月十三日、内の南の安殿に在して肆宴きこしめす歌二首
  天平寶字元年十一月十八日、内裏にて肆宴きこしめす歌二首
  二年春正月三日、内裏の肆宴の歌二首
  同六日、内庭肆宴の敬一首
即ち多くは内裏で行はれたものと考へられるのであるが、たゞ一個處だけ南の安殿といふのがある。これは從來多く小安殿のことゝせられてゐるのであるが、確《たしか》な考證は出來がたい。
 
 平城宮址は、奈良市の西郊にある。法華寺の西方七町許のところに芝地があり、東西二十一間、南北七間、田の面より高いことが六尺許。これが實に大極殿の舊址で、今大極の芝と呼んでをる。後方に小安殿があり、前面に龍尾道があり、十二堂、中門、朝殿、閤門、歩廊等の遺趾が歴々として、今猶見ることができる。其の西北三町に雜木の繁茂する處を大宮とよぶ。これが内裏の趾である。平安京へ遷つてから千百餘年の久しきにもかゝはらず、農夫の鋤鍬にもかけられず、舊形を(9)存するのは、皇室の尊嚴を物語るものと謂ふべきである。
 昭和二年三月内務省發行の奈良縣に於ける指定史蹟第二冊平城宮址の條には次のやうにいつてをる。
   京城の設計は、宮城地を最北部中央の高處に置き、其の正面南北に通ずる大道を朱雀路と稱して左右の兩京に分ち、これに平行せる南北の大路によつて兩京を各四坊に分ち、東西に兩京を貫通する九個の大路を以て、北から順次南に向ひ一條から九條に分けたもので、別に北京極の大路があつた。
   その内宮城は一條二條に該當する部分の中央に於て方形に四坊の地域を占めてをつたのである。
 指定地域内の主要な部分は内裏阯と大極殿及び朝堂の遣阯であるが、内裏阯は現今大宮の地字を存し、其位置が高燥で、平坦面も廣く、且朱雀路の遺阯の正北に位し、周圍の地形で特に著しいのは西側及び南縁で明に他と區別し得られるのである。内裏阯の南は低く、悉く水田となつてをるが、中央に朱雀路の遺阯と認めらるる小徑があり、北部及び東部に長く繼續した土壘の遺阯がある。
   太極殿及び朝堂の阯は、内裏阯の東南に在つて、大極殿、朝堂東西兩樓朝集堂の土壇と認めらるるものが現存し、周圍の或る部分には土壘を存してをる。
 次に撰者家持の宅で行はれたのは
  天平勝寶六年正月四日、氏族の人等家持の宅に宴飲せる歌三首
(10)  天平勝寶七歳五月九日、家持の宅に集飲せる歌四首
といふのがある。家持の宅は、集中の歌を綜合して考へると、佐保川の北、佐保山の南、即ち今の法蓮のあたりに在り、當時はこれを佐保の内と稱したものと見える。庭には四季折々の草木を種ゑてこれを觀賞したのであらう。植物の種類は、萩、薄、藤、山吹、瞿麥、紫陽花、梅、柳、橘等であつたのではあるまいか。
 中臣清麿といふ人は、親しみやすい、圓滿な人格者であつたやうであるが、その宅で詠まれた歌が十首ある。清麿の宅は庭園も廣く、池もあり、山齋《しま》もあり、庭には馬醉木が咲き、池には鴛鴦が飼はれてゐたやうである。この山齋といふ語は、懷風藻にも三ケ虚に見えてをるから、當時の庭園には、多く築造されてゐたものと見える。
 右の外には、橘奈良麿、大原今城、丹比國人、大伴の池主、安宿奈杼麿、三形王等の宅の宴會の歌がある。これによつて、家持が多くどういふ人と交つてゐたかが、知れるのである。
 
 以上は個人の宅での宴會であるが、萬葉人の行樂の地としては、高圓《たかまど》山がある。こゝには、聖武天皇の離宮もあり、萩、尾花、女郎花、葛等の植物も多く、四季の眺望に富んでゐたのであらう。(11)「天平勝寶五年八月十二日、壺酒 提げて、高圓野に登りしときの歌三首」といふのはそれである。
 これ等の遊宴の歌と懷風藻の詩とを並せ見ると、當時の上流人士の間には、盛に遊宴の行はれたことがわかる。而して遊宴の際には、各々歌をよみ、詩を賦して、懷を述べるのが常であつたのである。此等は支那の六朝文學の影響を受けたものと思はれる。
 懷風藻の詩を見ると、侍宴應詔の詩が多く、飲宴遊覽の作之に次ぎ、御世をたゝへて、帝徳を頌し、山水を樂んで、憂をやるといふ類が多く、徒に美辭麗句を陳ねるのみで、眞情の流露し、詩味の豐なものが少いのであるが、集中の飲宴の歌もこれに類してをる。即ち多くは一時の感興をやるにとゞまり、心の底から出た叫でないから、勤もすれば、技巧の末に走り、類型的となり、理智的となりて、純情に乏しく、讀者の心をうつやうなものが少い。本卷中の七夕歌などもやはり、その類である。これ等は、萬葉から古今の歌風に移る過渡期の傾向を示すものであらう。
 たゞこゝに注意すべきは、古今の如く、花の散るのを見て、わが齡の衰ふるを歎き、虫の鳴くのを聞いて、限りない淋しさを感ずるといふやうな沈鬱な歌のないことである。これは、光明快活な國民性が外來思想の影響を受けることが少かつたためであらう。
 
(12)     行幸の歌
 
 この卷に見える行幸の歌には、山村に幸行《いでま》ししときの歌がある。
 山村は、大和國添上郡に在り、櫟本《いちのもと》の西北に當つてをる。名勝の地といふほどの處ではないが、奈良に近いので、御遊覽のために行幸あらせられたものと見える。
 次に注意すべきは、孝謙天皇の天平勝寶八歳の難波行幸である。この時は、太上天皇・皇太后も御同列で、先づ河内離宮に行幸あり、御滯留四日にして、難波宮に傳幸してをられる。
 難波宮は即ち豐崎《とよさき》の宮で、今の大阪城の邊《あたり》に在つたものと思はれる。これは河内の智識《ちしき》寺への參詣をかねて、御遊覽のための行幸であつたのである。この時の歌が六首ある。いづれも傑作といふ程のものではないが、實景實感を歌つたもので、歌が生きてゐる。
 
 難波宮の遺址については、種々説があるが、これを仁徳天皇の難波宮並に孝徳天皇の長柄豐崎《ながらのとよさき》宮と同所と見る大日本地名辭書の説が當つてをると思ふ。このことにつき地名辭書には
   家持の長歌に「天皇《すめろぎ》の遠きみよにも、おし照る難波のくにに、天の下知らしめしきと、今の世にたえず(13)云ひつつ云々」とあるは仁徳天皇の御事を指したるにて、其の終に「うべし神代ゆ始めけらしも」と結べるも、神代即ち仁徳帝の盛時をいへるなり。亦以て當時の難波宮は即ち高津の宮址たるを推斷すべし。長柄の豐崎の宮も同所なりといつてをる。。
 それでは、その難波宮と豐崎の宮はどこに在つたのであるか。これにつき、地名辭書には
   豐崎は岬《でさき》の意を寓したるに似たれば、渡邊《わたなべ》の堀江(天滿川)の上なる今の大阪城の邊こそ「押いづる出崎《でさき》」と謂ふべきなり
といつてをるが、これも正當なる意見と考へられる。
 仁徳天皇のことは、仁徳紀に「都2難波1是謂2高津宮1」とあり、孝徳天皇のことは、孝徳紀白雉二年の條に「天皇從2於大郡1。遷居2新宮1。號曰2難波長柄豐埼宮1」と見えてをる。
 それより後天武紀には「八年難波築2羅城1」とあり、文武紀には「三年正月癸未2難波宮1」とあり,元正紀には「養老元年二月壬午天皇幸2難波宮1」と見えてをる。聖武天皇に至りては、難波の行幸が多く、神龜二年に行幸、尋いで式部卿藤原宇合は知難波宮事となり、天平四年には石川|枚夫《ひらぶ》が造難波宮長官となつてをる。思ふに當時の難波宮は、餘り海濱から遠くはなかつたのであらう。(14)それで、四三六〇の家持の長歌には、
  濱に出でて 海原見れば 白浪の 八重折るが上に 海《あま》人小舟 はららに浮きて 大|御食《みけ》に 仕へ奉ると 遠近に漁《あさ》り釣りけり
と歌ひ、卷三の長忌寸意吉麿の歌には、
  大宮の内まで聞こゆ網引《あびき》すと網子《あご》ととのふる海人の呼聲
といつてをる。
 
     喩族の歌
 
 卷二十の中に於て、異彩を放つてをるのは家持の喩族の歌である。
 續紀に據れば、「八年(天平勝寶)五月癸亥。出雲守從四位上大伴宿禰古慈悲《こじひ》。内豎淡海眞人三船《みふね》。坐d誹2謗朝定1。無c人臣之禮u。禁2於左右衛士府1。丙寅詔並赦免、」とあつて、古慈悲は三船とともに罪を得たことになつてをる。家持は同族中に罪人を出したのを見て、一族を戒飭せむがため、この歌を作つたものと見える。
 家持は父の旅人とは違ひ、人生の功名に對する強い憧憬をもつてゐたことは、彼の慕v振2勇士(15)之名1歌に、「丈夫は名をし立つべし、後の世に言ひつぐ人の語りつぐがね」といつてゐるによつても明であるが、古來の名門たりし大伴氏の次第に衰へゆく状態を見、同族中の宗家であり、一族中の中心人物たる身として痛心しつゝある折から、この不祥事を見て、慨歎に堪へなかつたのであらう。凛然たる意氣の全篇に溢るゝを見るのである。單に大伴氏の忠誠を歌つたのみならず、祖先を崇び、家名を重んずる國民精神の發露として尊重すべき作である。
 
     家持の無常觀
 
 萬葉集中に於て、佛教思想の影響の最も濃厚なのは、山上憶良の歌である。憶良は、卷五の沈痾自哀文に於ても「禮2拜三寶1。無2日不1v勤」といつてをる位であるから、多くの經文をもよみ、深く佛教に歸依してゐたのであらう。然るに、家持は熱心なる憶良の崇拜者であるから、その思想上の感化もあつたであらうと思はれる上に、若い時代に於て愛人を失ひ、越中守時代に弟に死別し、自分も泉路に赴かうとする程の重病にかゝり、つく/”\人生の無常を感じたものと見えて、世のはかないことを歌つたものが多い。
  うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒みしのびつるかも(四六五)
(16) うつせみの借れる身なれば露霜の消ぬるが如く云々(七八七)
  よの中し常かくのみとかつ知れど痛きこゝろは忍びかねつも(七八九)
  世間《よのなか》はかずなきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば{三九六三)
  うつせみの常なきみれば世の中に情《こころ》つけずて念ふ日ぞ多き(四〇四)
  世の中の常なきことは知るらむを情つくすな丈夫《ますらを》にして(四五六)
 以上の歌どもにより、家持がはやく佛教思想の影響を受けてゐたことがわかるのである。然るに、喩族の歌をよんだ頃よりその傾向が一層甚しくなつたやうに思はれる。それは家持が大伴氏の一族の日に衰へ、世運の日に非なるを感じつゝあるに際し、病に臥して、いよ/\世の無常を悟つたからであらう。その結果であらうか。病に臥して無常を悲しみ、修道を欲して作れる歌二首(四四六八・四四六九)があり、壽を願ひて作れる歌一首(四四七)がある。無常といふ語は涅槃經の四句の偈の文であり、四四七の「水沫《みつほ》なす」といふ語は、維摩經の十喩の語である。家持はこれ等の經文をもよみ、佛教に歸依してはゐたのであらうが、未だ確乎たる信念を得る程の境地には至つてゐなかつたものと見える。その歌に稀には喩族の歌の如きものもあるが、概して憶良程の熱情と精彩のないのは、これが爲ではあるまいか。
 
(17)     家持の歌
 
 萬葉集中で、歌の數の最も多いのは,大伴家持で、總數四百七十九首。卷二十だけでも、七十八首の多きに及んでをる。
 しかし、家持の歌は決して成功したものとはいはれない。家持の長歌には、人麿や憶良の歌を模倣したものが多く、平板に流れて、リズムに乏しい。それで、眞淵も之を評して「家持のぬしは事をよくしるして、にほひなし。たとへば、いでましの大みともの行《つら》をめでたく記せるふみのごとし。」といつてをる。
 從つて、家持の佳作は長歌よりも短歌に多い。卷十九に見える
  春の野に霞たなびきうらがなしこのゆふかげに鶯鳴くも
  わが宿のいささむら竹吹く風の音のかそけき此のゆふべかも
  うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも一人しおもへば
  春の苑《その》くれなゐにほふ桃の花した照る道に出でたつをとめ
の如き、いづれも秀逸であるが、卷二十にも、次のやうな佳作がある。
(18)  宮人の袖つけごろも秋萩ににほひよろしき高圓《たかまと》の宮
  劔太刀《つるぎたち》いよよ磨ぐべしいにしへゆさやけく負ひて來にしその名ぞ
  青海原《あをうなばら》風波なびき行くさ來さつゝむことなく船は早けむ
  新しき年の始の初春のけふふる雪のいやしけよごと
の如き佳作がある。卷十九と卷二十に佳作の多いのは、この時代が家持の思想の圓熟した頃で、歌人としての獨自の境地が開かれたからであらう。
 しかし、短歌にも、古歌を模倣したものの多いことは長歌と同じである。
 それにもかゝはらず、家持は歌に非常なる興味をもち、全力をつくして、歌の蒐集につとめ、得るに從つてこれを輯録したものと見える。卷二十に見える防人歌の如きは、大なる歡を以て迎へられたものに違ひない。
 かくして、防人歌に深い興味を覺えた家持は、他日相模守となり、上總守となつて自ら東國に下るに及び、束國の防人に關係ある人々に囑して民謠を集め、卷十四の東歌《あづまうた》をなしたのではあるまいか。東歌の作者の地域の範圍が、殆んど防人歌の範圍と一致し、東歌には相模上總附近の國々の歌の多く葉められてゐるところから、自分はかく考へるのである。
(19) それは別問題として、かく多くの歌を蒐集して、一大歌集を結成し、わが國の文學の淵源を開き、國民精神の上に大なる寄與をなした彼の業績は實に偉大なものである。
 
     社會の状勢
 
 最後に天平勝寶五年から天平寶宇三年までに起つた重要事項を記して、當時の祀會の状勢を知らむとする人々の參考に供したいと思ふ。
     天平勝寶五年 【癸巳】
 この年は孝謙天皇の即位第五年に當り、太上天皇(聖武天皇)、皇太后(光明皇后)、ともに御健にいらせられたのである。
 橘諸兄の執政の時代で、諸兄【七十歳】が左大臣であり、藤原豐成【五十歳】が右大臣であり、藤原仲麿【四十八歳】が大納言であり、諸兄の子奈良麿が參議であつた。當時大伴家持【三十六歳】は少納言をつとめてゐた。
 八月十二日、家特等高圓野に遊ぶ。
     同六年 【甲午】
 正月四日、大伴氏族の人々家持の宅に賀集する。
(20) 同七日、太上天皇、皇太后肆宴
 この月、大伴古麿唐から歸り、唐僧鑑眞等八人これに隨つて來朝。
 三月十九日、家持の庄の宴飲
 四月庚午、家持、兵部少輔となる。
 十一月辛酉朔、家持山陰道の巡察使となる。
     同七歳 【乙未】
 防人歌の輯録せられた年である。
 春正月年を改めて、歳とせられる。
 二月、筑紫差遣の防人難波に至る。
 三月三日防人を檢校する勅使、兵部使人等飲宴
 五月九日、家持の宅の飲宴
 八月十三日、内の南の安殿の肆宴
 十一月廿八日、奈良麿の宅の集宴
     同八歳 【丙申】
(21) 難波行幸のあつた年である。
 一月廿八日、難波へ行幸、太上天皇、皇太后も御同列であつた。
 二月、橘諸兄上表致仕。
 五月二日、太上天皇崩御。
 同日、大伴古慈悲、淡海三船、左右衛府に禁ぜられる。
 六月十七日、家持臥病。
 十一月八日、安宿奈抒麿の家の飲宴
     同九年 【丁酉】
 一大政變の起つた年である。
 正月六日、諸兄薨去。
 三月。皇太子道祖王廢せらる。
 五月十九日、始めて紫微内相を置き、藤原仲麿を之に任ぜられた。
 六月十六日、家持兵部大輔となる。
 七月四日橘奈良麿等反を謀つて、誄に伏し、同月藤原豐成事に坐して、太宰員外帥に貶せられ、(22)政權が仲麿の手に歸した。
 八月改元、天平寶宇元年となり、同時に歳を年に復せられた。
 十一月十六日、内裏の肆宴。
 十二月十八日、三形王の宅の飲宴。
     天平寶字二年 【戊戌】
 藤原仲麿の執政の時代である。
 正月三日内裏の肆宴。
 二月、中臣清麿の家の飲宴。
 二月十日、藤原仲麿の宅で、渤海大使小野田守の餞別の宴が開かれた。
 六月十六日、家持、因幡守となる。
 八月一日、御讓位。淳仁天皇御即位、天皇は仲麿の擁立するところである。
 同廿五日、藤原仲麿大保となり、惠美の姓を賜はり、押勝と改名。
     同三年 【己亥】
 正月一日、因幡守家持、國郡司に賜饗
 
(23)     參考書について
 
 この卷の總釋をつくるに當り、次の諸書をよんで、益を得ることの多かつたことを附記し、聊か感謝の意を表するのである。
  井上 通泰氏著  萬葉集新考
  佐 木信綱氏著  萬葉集選釋
  島木 赤彦氏著  萬葉集の鑑賞及其批評
  久松 潜一氏著  萬葉集の新研究
  同        萬葉集考説
  次田  潤氏著  萬葉集新講
  澤瀉 久孝氏著  萬葉集新釋
  武田 祐吉氏著  萬葉集新解
  同        上代日本文學史
(24)〔図有り、省略〕
 
(1)〜(7)〔目次省略〕
 
(1)萬葉集 卷第二十 豐田八十代
 
(3)   山村《やまむら》に幸行《いでま》しし時の歌二首
   先の太上天皇、陪從《おほみとも》の王臣に詔して曰く、夫れ諸王卿等、宜しく和歌を賦して奏《まを》すべしと。即ち御|口號《くちすさびぴ》したまはく
 
4293 あしびきの 山行きしかば 山人《やまびと》の 朕《われ》に得しめし 山づとぞこれ
 
【題意】 山村は、大和國添上郡に在り、今の帶解《おびとけ》町の山《やま》・上山《かみやま》の字《あざ》のある地で、櫟本《いちのもと》町の北に當つてをる。日本書紀の舒明天皇の條に、「百済の人|己知部《こちべ》歸化す。これを倭國添上郡に置く。今の山村已知部の先なり」とあり、百濟から歸化した人のゐたところであるから、四四三八の歌の詞書に見える薩妙觀等の案内によつて、ここに行幸あらせられたものではあるまいか。薩妙觀はわが國に歸化した尼で、親しく元正天皇に仕へてゐたものと思はれる。
(4) 左註に據れば、この二首の歌の輯録されたのは、孝謙天皇の天平勝寶五年であるから、先の太上天皇は元正天皇である。
 陪從の王臣は、御供の諸王と諸臣、王卿は、即ち王臣である。和歌は御製に和《こた》へ奉る歌の意、御|口號《くちすさび》は元正天皇のおよみになつたのである。
 行幸の年月は、不明であるが、續日本紀に據れば、舍人親王の薨去されたのは、聖武天皇の天平七年であるから、この時の行幸は、それより前でなければならぬ。元正天皇の御在位中のことではあるまいか。
【口譯】 今日は山にゆいたのに、山人が自分によいみやげをくれた。そのみやげはこれである。
【語釋】 ○あしびきの 山〔傍点〕にかかる枕詞。○山人の 山〔傍点〕いふ地名をかけて、山に住む仙人の意に用ひられたのであらう。○山ゆきしかば 山を行きしにの意。卷十に「住の吉の里ゆきしかば」、「高松の野べゆきしかば」とあると同例である。○山づとぞこれ 山づと〔三字傍点〕は、山からもち歸るみやげ、恐らくは、杖若しくは山果《このみ》等の實用品であつたのであらう。この御製をよむと、彼の「逢坂をけさ越え來れば、山人の千とせつけとて、きれる杖なり」とある神樂歌が思ひ合される。
【後記】 この御歌は、先の太上天皇が山づとの品々を叡覽あり、主人側の心づくしの程をおよろこびになつてお詠みになつたものと思はれる。
 
(5)   舍人親王《とねりのみこ》、詔に應じて和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
4294 あしびきの 山に行きけむ 山人の こゝろも知らず 山人や誰
    右天平勝寶五年五月、大納言藤原朝臣の家に在りし時、事を奏《まを》すに依りて請ひ問ふ間に、少主鈴山田史|土麿《ひぢまろ》、少納言大伴宿禰家持に語りて曰く、昔此の言を聞けりと。即ち此の歌を誦せりき。
 
【題意】 舍人親王は天武天皇の皇子で、元正天皇の養老二年勅命により日本書紀三十卷を撰進せられた人である。親王は養老二年八月に知太政官事となり、聖武天皇の天平七年に薨去せられ、後崇道盡敬皇帝の謚を奉られた。和《こた》へ奉れる歌は即ち和歌である。
【口譯】 山にゆかれた太上天皇の深い御心のほどをも知らず、歌などをも獻つて、興を添へるといふことに心づかす、實用の品のみを獻つた山人は全體誰であるか。
【語釋】 ○山にゆきけむ山人の 山人〔二字傍点〕は、太上天皇を指し、下の山人や誰〔四字傍点〕の山人〔二字傍点〕は山村に住む人を指されたのであらう。
【後記】 これは、太上天皇が山村に住む人々の志の深いのをお悦びになつたのに和《こた》へて、反對にかゝる品のみを獻つたのは、實は山人の心が淺いのであるといふやうに戯れて仰せられたもの(6)と見える。おもしろい御歌である。舎人親王は天武天皇の皇子、元正天皇は天武天皇の御孫で、親しい御間柄であつたので、このやうな御戯れの唱和があつたのではあるまいか。
 集中には他にも隨分戯れの唱和の歌が少くはない。即ち、
  あかねさす晝は田たびてぬばたまの夜の暇につめる芹子《せり》これ(四四五五)
に對して
  丈夫《ますらを》と思へるものを刀《たち》佩《は》きてかにはの田井《たゐ》に芹子《せり》ぞつみける(四四五六)
といふのがあり、
  いなといへど強《し》ふる志斐《しb》のが強ひがたりこの頃聞かずて朕《われ》戀ひにけり(二三六)
といふのに對して、
  いなといへど語れ語れとのらせこそ志斐《しひ》いは奏《まを》せ強《し》ひごととのる(二三七)
といふのがあり、
  わが里に大雪降れり大原《おほはら》の古りにし里に降らまくは後(一〇三〇)
といふのに對して、
  わが岡のおかみに言ひて降らしめし雪の碎《くだ》けしそこに散りけむ(一〇四〇)
といふのがあるのである。
(7) 山村には今圓照寺といふ尼寺があり、近年まで伏見文秀女王がこゝにお住まひになられたのである。
【左註】 これは、大伴家持が大納言藤原朝臣の家に在つたとき、天子に申し上げる事について、長官たる藤原朝臣の指圖を請うたことがあつたその際に、そこに來合せた少主鈴の山田史土麿が家持に語つたのを、書きとめておいたといふのであらう。
 大納言藤原朝臣は、藤原仲麿即ち後の惠美押勝であつて、當時はともに太政官に在り、家持の長官であつたのである。
 少主鈴は中務省の屬官である。職員令《しきゐんりやう》に、主鈴二人、鈴印傳符飛騨函鈴の事を掌ると見えてをる。
 
   八月十二日、二三の大夫等、各壺酒を提げて高圓野《たかまどの》に登り、聊か所心を述べて作れる歌三首
4295 高圓《たかまと》の 尾花吹き越す 秋風に 紐《ひも》解き開《あ》けな 直《ただ》ならずとも
    右の一首は、左京少進大伴宿禰池主
 
【題意】 大夫は五位以上の官人をいふ。高圓野は高圓山中腹のやや平坦なる處をいふのであらう。高圓山は(8)春日山の南にならび、海拔四三二・二米突、頗る眺望に富んでゐる。今は奈良人士の行樂地としては、嫩草山があるが 萬葉時代には、嫩草山には樹木が生ひ茂つてゐたために、當時の人々は、多く酒を携へて、高圓山に遊んだものと見える。所心は所懷に同じく、思ふところの意である。
【口譯】 高圓の尾花の上を吹き越して來る凉しい秋風に衣の紐を解きくつろげて、ゆつくりと遊ばうではないか。胸迄あらはして直接に膚が風に吹かれるといふ程でなくとも。
【語釋】 ○尾花 薄《すゝき》の花で、形が尾に似てをるので、尾花といふのである。○紐解き開けな 紐〔傍点〕は襟の紐、開く〔二字傍点〕は、新考の説の如く、襟を披くことで、文選宋玉の風の賦に「楚襄蘭臺の宮に遊ぶ。(9)云々。風颯然として至るあり。王乃襟を披いて之に當てて曰く、快いかな此の風云々」とあると同じ意であらう。開けな〔三字傍点〕のな〔傍点〕はひたすらに、其のやうにせむとするにいふ語で「む」といふに似てをるが、自己にのみいひ、且つ意が一層急である。○直《たゞ》ならずとも 直接に風に吹かれるといふ程ではなくともの意。
【後記】 奈良は空氣の乾燥してゐる上に、砂の燒けるために、夏の暑さは格別である。それゆゑ、初秋になつて、凉しい風が吹き出すと、奈良の人士は蘇生の思をするのである。この歌をよむと、當時の人々が如何にこの初秋の風にあこがれてゐたかが知れる。「高圓の尾花吹き越す秋風に」の三句に、これらの人々の心もちがあり/\と見える。
 
(10)4296 天雲《あまぐも》に 雁ぞ鳴くなる 高圓《たかまと》の 萩の下葉は もみぢ敢へむかも
    右の一首は、左中辨中臣清麿朝臣
 
【口譯】 あれ、あの天雲の中に雁が鳴く。これでは、この高圓山の萩の下葉はすつかり紅葉してしまふであらう。
【語釋】 ○天雲に 空にただよつてゐる雲に。○雁ぞ鳴くなる 鳴くなる〔四字傍点〕のなる〔二字傍点〕は感動の助動詞、古今集に「霧たちてかりぞ鳴くなる片岡のあしたの原はもみぢしぬらむ」又「妻こふる鹿ぞ鳴くなる女郎花おのが住む野の花と知らずや」とあるなる〔二字傍点〕と同じ。○萩の下葉 下葉〔二字傍点〕としたのは、萩は下葉から色づくからである。八月十二日の頃には萩の上葉はまだ紅葉してゐないであらう。○もみぢ敢へむ 黄葉しはてること。
【後記】 初雁の聲を聞いて、季節の推移に驚き、うち興じたものと見える。高圓には今も萩が多く、花の盛りには錦を織るやうになる。昔は雁も多かつたものと思はれる。
 
4297 をみなへし 秋萩|凌《しぬ》ぎ さを鹿の 露分け鳴かむ 高圓の野ぞ
    右の一首は、少納言大伴宿禰家持
 
(11)【口譯】 こゝはやがて、女郎花や萩の花を押しのけ、露をわけて、さを鹿の鳴くべきおもしろい野であるぞ。
【語釋】 ○秋萩凌ぎ 凌ぎ〔二字傍点〕は草木などの中を押しひらきゆくこと。○さ牡鹿の露分け鳴かむ さ牡鹿〔三字傍点〕のさ〔傍点〕は接頭語、牡鹿が牝鹿をこひて鳴き出すのは、陰暦の九月頃からである。
【後記】 閑雅なる奈良の天地に一段の靜けさを添へるものは※[口+幼]々たる鹿の音である。その鹿の音を中心とし、女郎花咲き、萩の花咲く高圓の野の情景を描き出して、たけゆく奈良の秋を聯想せしめたのはおもしろい趣向である。が凌ぎ〔二字右○〕といつて更に露分け〔三字右○〕といつたのは、やゝ重複の感がある。但し昔の高圓には、今の春日のやうに鹿の多くゐなかつたことは、言ふにも及ぶまい。
 
   六年正月四日、氏族の人等少納言大伴家持の宅に賀ぎ集ひて、宴飲《うたげ》せる歌三首
4298 霜の上に 霰たばしり いや増しに 吾《あれ》は參《まゐ》來む年の緒長く 【古今いまだ詳ならず】
    右の一首は、左兵衛督大伴宿禰|千室《ちむろ》
 
【題意】 これは新年の賀宴の歌である。家持は大伴氏の宗家であるから、一族の人々を集めて、賀宴を催し、健康を祝し合つたものと見える。家持の宅は、佐保川の附近に在つたものと思はれる。宴飲《うたげ》は歌をうたひ(12)酒を飲むこと。
【口譯】 今日は霜がおき、その上に霰がたばしつてゐるが、この霰のふりしきるやうに、いよいよしげく行く末長く參り來て、御家を祝ぎ奉りませう。
【語釋】 ○霜の上に霰たばしり 上の二句は、いやまし〔四字傍点〕といはむ爲の序。○年の緒長く 年の緒〔三字傍点〕は年の永く續くのを緒《を》に擬していふ語である。○歌詞の下に「古今未だ詳ならず」とあるのは、この歌は古歌を誦したものか、今新に作つたものか詳でないといふのであらう。四二九九の歌、四三〇一の歌の下にあるのも同じである。
【後記】 眼前の景物を捉へ來つて、即興的に有心の序即ち意味のある序としたのは、よい思ひつきである。奈良の冬は底冷がして寒いが、この日も霜がおき、霰がたばしつてゐたのであらう。
 
4299 年月は 新《あらた》あらたに 相見れど我が思ふ君は 飽き足らぬかも 【古今いまだ詳ならず】
    右の一首は、民部少丞大伴宿禰村上
 
【口譯】 年月の改まるごとに、かうして集まつて御目にかゝるのであるけれども、我が大切に思ふ主人《あるじ》の君はなつかしく、いつ見ても飽きることがない。
(13)【語釋】 ○新あらたに 改まるごとにの意。○我が思ふ君 家持を指す。
【後記】 「新あらた」と同語を重ねて「飽き足らぬかも」と結んだのは、前後の照應である。但し「年月は」といつて、「新あらたに」といつては詞のととのはないことは新考の所説の通りである。
 
4300 霞立つ 春のはじめを 今日のごと 見むと思へば 樂しとぞ思《も》ふ
    右の一首は、左京少進大伴宿禰池主
 
【口譯】 霞が立つて、おひ/\のどかになりゆく春の初に、今日のやうにお目にかゝつて、驩《よろこび》を交《かは》すことができるかと思へば、樂しくうれしい。
【語釋】 ○今日のごと 今日のごとくの意。
【後記】 「霞立つ」と歌ひ起したところに、和氣の靄々たる趣がみえる。但し「思へば」といつて、「樂しとぞ思ふ」ととぢめたのは、語の重複である。
 
   七日、天皇・太上天皇、皇太后、東の常の宮の南の大殿に在《いま》して、肆宴《とよのあかり》きこしめす歌一首
 
(14)4301 稻見《いなみ》野の あから柏《がしは》は 時はあれど 君を吾《あ》が思《も》ふ 時は實《さね》なし
    右の一首は、播磨國守|安宿王《あすかべのおほきみ》奏せり。【古今未だ詳ならず】
 
【題意】 これは、正月七日即ち人日の肆宴である。孝謙紀天平勝寶六年の條にも、春正月丁酉朔癸卯天皇、東院に御し、五位以上を宴すとある。天皇は孝謙天皇、太上天皇は聖武天皇、皇太后は光明皇后である。東の常の宮は、即ち東院で、内裏の中に在つたものと思はれる。内裏の遺址は、大極殿址の西北に在ることは、概説に述べておいた通りである。肆宴《とよのあかり》は、饗宴又は宴會といふに同じ、豐〔傍点〕は美稱、明《あ》かり〔二字傍点〕は赤らむ意で、酒などを聞こしめして、顔の赤らむのをいふ。
【口譯】 わたくしは、いつも供御の料として、稻見野のあから柏を献上いたします。このあから柏を献上するのは、季節がきまつてをりますが、わたくしの、みかどを大切に思ひ奉ることは、更にいつといふ時がございません。
【語釋】 ○稻見野《いなみの》の 稻見野〔三字傍点〕は播磨國に在り、加古郡から明石郡に跨る平野である。○あから柏 ※[木+解]の變種で、葉に赤みを帶び、供御を盛る具として用ひたのである。すべて、上代にはくぼて、ひらて等の食器を造るに多く※[木+解]の葉を用ひたものと見えて、延喜式の祭式上には、※[木+解]一俵また柏九十把とあり、大膳式下には、干※[木+解]は播磨國の進むるところにして、大膳の用なりとある。宮中で饗膳の事を掌るものを、膳夫《かしはで》と(15)いふのも、※[木+解]の葉をとりあつかふところから起つた名である。それで、松屋叢考の三樹考にも、「柏は炊葉にて、上古は甑に葉を敷きて、飯を蒸したるより、然いひ、食物を盛りもし、食物の上にもおほひ、下にも敷きたるなど、皆柏といへり」といつてをる。ここに特に印南〔二字傍点〕野を取り出したのは、作者が播磨守であつたからであらう。○時はあれど 柏を献上する時季の一定してをることをいふ。○さねなし 信無《さねな》しの意で、更になしといふに同じ。
【後記】 君を思ひ奉る心のとこしなへなるべきをいはむが爲に、目前の饗宴に用ひられある柏をとつて、譬喩としたのは、當意即妙といふべきである。
【左註】 安宿王は、高市皇子の孫、長屋王の子である。孝謙紀五年四月の條に、正四位下安宿王を播磨守となすと見えてをる。
 
   三月十九日、家持の庄の槻《つき》の樹の下《もと》にて宴飲せる歌二首
4302 山吹は 撫でつつ生《おほ》さむ 在りつつも 君來ましつつ 挿頭《かざ》したりけり
    右の一首は置始連長谷《おきそめのむらじはつせ》
 
【題意・左註】 庄は莊の俗字、家持の別莊である。槻の樹の下とあるのは、樹下をたよつて宴飲したのであ(16)る。大樹の蔭で宴飲をしたことは、古事記や日本書紀等の歌にも、其の例が多い。
 左註に據れば、長谷《はつせ》は家持の別莊に近く住んでゐた人で、家持が其の別莊に來たと聞いて山吹を折り、酒を携へて訪問したのである。そこで家持が其の山吹を取つて、頭にかざしたものと見える。
【口譯】 私は今後も永く生きながらへて、一層大切にして山吹を育てませう。今日は主人の君がこの別莊へいらして、私の持つて來た山吹を御賞翫の餘り、頭にお挿し下さつたわい。
【語釋】 ○撫でつつ 大切にいたはりつつの意。○ありつつも ありつつ〔四字傍点〕は生き永らへつつの意で、第二句の上に在るべき語である。
【後記】 丹誠をして育てた山吹の、家持に賞翫されたのが非常にうれしかつたと見える。「挿頭したりけり」の一語に喜のこゝろもちが溢れてゐる。一首の歌の中に、「つゝ」といふ語の三つも重つてゐるのは、殊更に重ねたとも解せられないこともないが、歌になれない翁の作ゆゑと見るのが穩當ではあるまいか。
 
4303 吾が兄子《せこ》が 宿の山吹 咲きてあらば 止《や》まず通はむ いや毎年《としのは》に
    右の一首は、長谷《はつせ》花を攀《を》り、壺を提げて到り來る。是に因りて大伴宿禰家持この歌を(17)作りて之に和《こた》ふ。
 
【口譯】 わが友の宿の山吹がこんなに美しく咲いてをるならば、自分もこれからは毎年かゝさずこの山莊に通うて來てもてはやしませう。
【語釋】 ○わが兄子 わが友といふ程の意、長谷《はつせ》を指す。○としのは 毎年。
【後記】 草花に深い趣味を有する、心からの聲であらう。「山吹」といひ、「やまず通はむ」といつたのは、同音の語を重ねて聲調をなしたのである。
【左註】 攀は、字書に「自v下援v上」とあり、ねぢ折ることである。
 
   同じき月二十五日、左大臣橘卿、山田御母《やまだのみおも》の宅に宴《うたげ》せる歌一首
4304 山吹の 花の盛りに 斯くのごと 君を見まくは 千年にもがも
    右の一首は少納言大伴宿禰家持、時の花を矚て作れり。但し未だ出《いだ》さゞりし間、大臣宴を罷めたるにより擧げ誦せざるのみ。
 
【題意】 橘卿は左大臣橘諸兄である。山田の御母は名を比賣島《ひめしま》といふ。孝謙天皇の乳母で、權勢のあつた人である。孝謙紀の天平勝寶元年の條に、「七月乙未正六位上山田史比女島に從五位下を授く。天皇の乳母(18)なり」と見えてをる。この比賣島の家に諸兄が遊びに來るにつけ、家持が取持に呼ばれたのであらう。家持は諸兄と親しい間柄であつたと見える。
【口譯】 この通り山吹の咲きそろつた盛りにあなたを御迎へすることが出來て、まことにうれしい。いつもあなたをお迎へすることが出來るやうならば、千年の後までもこのやうに永生きをしてをりたいものである。
【語釋】 ○君を見まくは 君〔傍点〕は諸兄を指す、見まく〔三字傍点〕は見むとならばの意、まく〔二字傍点〕は、む〔傍点〕の延言。○千歳にもがも もがも〔三字傍点〕は願望の詞。
【後記】「山吹の花の盛りに」と歌ひ起したのは、比賣島の家に山吹の咲いてゐた爲であることは勿論だが、一つは諸兄がひどくこの花を愛したからであらう。諸兄の別業は山城の井手に在り、諸兄はこゝに山吹をうゑて樂しんだのである。その遺址は今の玉水驛から束二十町ばかりに在り、山吹山といつて、山吹の名所である。
 
   霍公鳥《ほととぎす》を詠める歌一首
4305 木《こ》の暗《くれ》の 繁き尾の上《うへ》を ほとゝぎす 鳴きで越ゆなり 今し來らしも
 
(19)【題意】 これは、佐保山を越えて、佐保の内に鳴き來る霍公鳥の初音を聞き得たるよろこびを歌つたのである。霍公鳥の人里に近く來るのは、陰暦の四月の頃である。
【口譯】 木の下暗《したやみ》の多い山の尾の上を霍公鳥が鳴きながら越えてをる。今初めて奥山から出て來たのであらう。
【語釋】 ○木の暗《くれ》の 木の暗〔三字傍点〕は木の葉のしげつて、下の暗くなること。○鳴きて越ゆ 鳴きながら空を飛ぶのは霍公鳥の習性である。○今し來らしも らし〔二字傍点〕は一つの事實によつて他を推斷する詞。
【後記】 霍公鳥の初音を待ちつけ得たうれしい心もちの溢れた作である。奈良には霍公鳥が多く、家持の住まつてゐた佐保山附近は霍公鳥の名所であつて、佐保山一帶の丘陵を越えて、北の方から鳴きつゝ飛び來るのが常である。
 
   七夕の歌八首
4306 初秋風 凉しき夕 解かむとぞ 紐は結びし 妹に逢はむため
 
【題意】 毎年七月七日の夜、牽牛織女の二星が、天の川を渡つて、交會するといふことは、續齊諧記・博物志・淮南子等に見える傳説であるが、この傳説に基いて、星を祭るといふ風習ははやくわが國に傳はり、(20)孝謙天皇の天平勝寶七年即ちこの歌の出來た翌年には禁中で乞巧奠《きつかうてん》が行はれたといふことである。支那崇拜の當時のことであるから、盛に之を吟詠の料としたものと見える。しかし、いづれも實感の伴はない想像の戀であるから、佳作の少いのは、自然の勢である。
【口譯】 わたしはこの初秋風の吹く心もちのよい凉しい夕に女に逢はうと思つて、この下紐を結んでおいたのである。
【語釋】 ○紐は結びし 紐〔傍点〕は下紐である。
【後記】 牽牛星《ひこぼし》のこゝろになつて、詠んだのである。「初秋風凉しき」の語にうれしい心もちが躍つてゐる。
 
4307 秋といへば 心ぞ痛き うたて異《け》に 花に比《なぞ》へて 見まく欲《ほ》りかも
 
【口譯】 秋といふと、早くあの花のやうにうつくしい女を見たいと思ふので、常よりもことに心を痛ましめることである。
【語釋】 ○うたて異に うたて〔三字傍点〕は事の次第に甚しくなること。異に〔二字傍点〕は特に、の意。○花になぞへて 花のやうに思ふこと。
(21)【後記】 これも牽牛星のこゝろになつて詠んだので「心ぞ痛き」は實感的である。
 
4308 初尾花 花に見むとし 天の河 隔《へな》りにけらし 年の緒長く
 
【口譯】 初尾花の花の如く花やかにめづらしく見ようと思つて、牽牛星《ひこぼし》はわざと一年中永く天の川を隔てゝ遠ざかつて居るのであらう。
【語釋】 ○初尾花 初尾花〔三字傍点〕は薄《すゝき》の花。○花に見むとし 花の如く花やかにめづらしく見ようとの意。見むとし〔四字傍点〕のし〔傍点〕は助詞。○隔《へな》り へだたり〔四字傍点〕の古言。○年の緒長く 年の緒〔三字傍点〕の解は四二九八の處に出した。
【後記】 これは牽牛星の心をおしはかつてよんだのである。
 
4309 秋風に 靡《なび》く河傍《かはび》の 和草《にこぐさ》の 莞爾《にこよか》にしも 思ほゆるかも
 
【口譯】 今夜は久しぶりに、織女に逢ふことが出來るかと思ふと、あの秋風に靡いてゐる天の川のほとりにある和草の名のやうに、にこやかに心うれしく思はれることである。
【語釋】 ○河傍《かはび》の 河び〔二字傍点〕は河べ〔二字傍点〕に同じ。○和草の 和草〔二字傍点〕一名をはこね草といふ。しのぶに似て小さく葉の(22)細い、羊齒類の草で、箱根山中に多いので、はこね草の名がある。山地殊に急崖に多く、四時凋むことなく、春時の新葉は紅色を帶びて、頗る風致がある。上の三句はにこよかに〔五字傍点〕といはむ爲の序である。
【後記】 これは牽牛星の心持を歌つたのであるが、「にこ草のにこよかに」と同音をくりかへしたところに聲調の美がある。
 
4310 秋去れば 霧たちわたる 天の河 石竝《いしな》み置かば 繼ぎて見むかも
 
【口譯】 秋になると、いつも霧の立ちわたるために、天の河の渡り瀬がたど/\しくなるのであるが、飛び石をならべておいたら、渡りやすく相ついで女に逢ふことができるであらう。
【語釋】 ○石竝み 飛石即ち石橋《いははし》である。
【後記】 これも牽牛星《ひこぼし》の心になつて詠んだのであるが、彼の飛鳥川の石橋から思ひついた趣向であらう。
 
4311 秋風に 今か今かと 紐解きて うら待ち居《を》るに 月かたぶきぬ
 
【口譯】 秋風に衣の紐をとき、うちくつろいで、もう牽牛星が見えるか見えるかと思つて心に待つてをるうちに、今夜もはや月が傾いてしまつた。
【語釋】 ○うら待ち居るに うら待ち〔四字傍点〕のうら〔二字傍点〕は心である、うら待つ〔四字傍点〕は下待つといふに同じ。○月かたぶきぬ 七日の月は夜半前に西に没するので、傾くのも早い。
【後記】 これは織女星の心になつて詠んだのである。三五六五の東歌に「彼の兒ろと宿《ね》すやなりなむはた薄《すすき》裏野の山に月片よるも」とあるのに似た歌である。
 
4312 秋草に 置く白露の 飽かずのみ 相見《あひみ》るものを 月をし待たむ
 
【口譯】 あの秋草の上に置く白露のやうに美しくいつも飽きることなく見るべきのに、何故この(24)月(七月)をのみ待たねばならないのであらうか。
【語釋】 ○秋草に置く白露の この二句は飽かずのみ〔五字傍点〕といはむための序である。○月をし待たむ ここの月はこの日の意であらう。
【後記】 眼前の景物を捉へ來つて、有心の序としたので、情景が活動する。
 
4313 青波に 袖さへぬれて 漕ぐ船の 〓〓《かし》振る程に さ夜ふけなむか
    右大伴宿禰家持獨り天漢《あまのかは》を仰ぎて之を作る
 
【口譯】 青々とした波に袖までをぬらして漕ぐ船の向ふの岸に着いて、杙《くひ》をたてゝ、船をつなぐうちに夜はふけてしまふであらうか。待ち遠しいことである。
【語釋】 ○青波に 青波〔二字傍点〕は青々とした波。○〓〓《かし》振る 〓〓《かし》は舟を繋ぐ杙《くひ》、振る〔二字傍点〕は立てることである。卷七には「舟はてて可志ふりたてていほりせむ名子江《なごえ》の濱邊すぎがてぬかも」とあり、卷十五には「大船に可志ふりたてて濱きよき麻里布《まりふ》のうらにやどりかせまし」とある。新考の説に據ると越後では今もカシをたてることをかしたつるといはずして、かしふるといふ由である。
【後記】 天の河を非常な大河であるやうに想像したのであるが、これも牽牛星の心になつてよん(25)だのである、
【左註】 天漢は銀河即ち天の河である。元來奈良は空氣の清らかな處であるが、初秋の空は殊にすみわたつて、星の光も一段とあざやかである。この美しい天漢を仰ぎ、星のロマンスに詩想をねつた家持の面影がこの左註によつて、あり/\と浮ぶのである。
 
4314 八千種《やちくさ》に 草木を植ゑて 時《とき》毎《ごと》に 咲かむ花をし 見つゝ思《しぬ》ばな
    右の一首は、同じき月二十八日、大伴宿禰家持之を作る
 
【口譯】 いろ/\の草木を庭に植ゑて、四季折り/\に咲く花を觀賞したいものである。
【語釋】 ○思《しぬ》ばな ここの思ぶ〔二字傍点〕は觀賞すること、卷一の額田王の春秋の競《あらそひ》の歌に「黄葉《もみぢ》をば取りてぞ思努布《しぬぶ》」とあるしぬぶ〔三字傍点〕といふ語と同意である。
【後記】 家持の自然物に對する深い趣味を見るべき作である。集中の歌を綜合して考へると、家持の宅は佐保川と佐保山との間に在つたもので、家持はこゝに多くの草木を栽ゑて、四季の觀賞に供したものゝやうである。元來自然を愛するといふことは、わが國民性で、萬葉に見える植物だけでも、百五十七種の多きに及んでをるが、家持は殊に植物を愛したものと見える。契(26)沖は歐陽永叔の種花詩に「淺深紅白宜2相問1。先後仍須2次第栽1。我欲2四時携v酒去1。莫v教3一日不2花開1」とあるのを引いて國、和漢を分ち、人は先後を隔てたれど心の能く似たる歌なりといつてをる。
【左注】 同じき月といふのは七月のことであらう。四三一三の歌の次に七月とあつたのが、脱ちたものと見える。
 
4315 宮人《みやびと》の 袖つけ衣《ごろも》 秋萩に にほひよろしき 高|圓《まと》の宮
 
【口譯】 官女等の端袖《はたそで》をつけた衣のうつくしい色が萩の花に映じて、えも言はず美しいのは、この高圓の宮である。
【語釋】 ○袖つけ衣 袖を長くせむ爲に袖のさきに更に半幅の端袖を着けた官服で、卷十六にも「結幡《ゆひはた》の袖着衣《そでつけころも》」とある。○秋萩ににほひよろしき いほひよろしき〔七字傍点〕とは衣と萩と互《たがひ》ににほふのを云ふ。○高圓の宮 聖武天皇の離宮で、續日本紀に「和銅元年九月帝至2春日離宮1」とあるのもこの處である。その位置は今はつきりとしてゐないが、白毫寺村と鹿野苑《ろくやをん》村との間に在つたものと思はれる。倭路記には尾上宮の跡は古市の上の岡にありといつてをるから、今の射的場のあるあたりではあるまいか。但し天平寶字二年の(27)頃にははやく荒れ果ててゐたものと見える。
【後記】 美しい袖つけ衣を着た卿太夫等が高圓の離宮の御垣の内に咲きみだれた萩の花の間を逍遙する趣のあり/\と見える美しい歌である。
 
4316 高圓の 宮の裾廻《すそみ》の 野《ぬ》つかさに 今咲けるらむ 女郎花《をみなへし》はも
 
【口譯】 あの高圓の宮の麓の野の小高い處に今は女郎花が咲いてゐるのであらうが、どんなに美しいことであらう。
【語釋】 ○宮の裾廻の 裾廻〔二字傍点〕はすそわ〔三字傍点〕即ち裾べで、麓のこと。○野つかさ 野の中に在る小高い丘をいふ。つかさ〔三字傍点〕は、卷四に「佐保川の岸のつかさの柴な刈りそね」とあり、卷十に「高松の山のつかさの色づくみれば」とあるつかさと同意である。○女郎花はも どんなに美しからうと慕ふ意である。も〔傍点〕は感動詞。
【後記】 秋の野によつて、女郎花を思ひ、女郎花によつて、高圓の宮を思ひ、遊意の卯へ難いのを覺えたのであらう。
 
4317 秋野には 今こそ行かめ ものゝふの 男女《をとこをみな》の 花にほひ見に
 
(28)【口譯】 何をさしおいても今日こそは、花の如くにほふ男女の美しい光景を見に秋の野にゆかう。
【語釋】 ○もののふの もののふ〔四字傍点〕は、朝廷に親しく仕へ奉る多くの官人たちを指すので、廣く男女にわたつてゐる。○花にほひ 花の如くにほふ美しい光景をいふ。
【後記】 この機會《をり》をはづしてはといふやうな強い憧憬の見える歌である。
 
4318 秋の野に 露負へる萩を 手《た》折らずて あたら盛りを 過ぐしてむとか
 
【口譯】 秋の野に露を負うておもしろくなびいてるあの萩の花を手折らないで、惜しい盛りを過ごしてしまふことであらうか。まあ。
【語釋】 ○あたら 惜しむべき意。
【後記】 これは家持が何か差しつかへることがあつて、家に留まつてゐたので、あたら萩の盛りのすぎゆくのを歎いたものと見える。「露負へる」の一句が殊によい。げに萩の花の美はその露にたわむ風情にあるのである。
 
4319 高圓の 秋野のぅへの 朝霧に 妻呼ぶ牡鹿《をしか》 出で立つらむか
(29)【口譯】 あの高圓の秋の野のうへにこめてゐる朝霧のうちから妻を呼ぶ牡鹿が出て來るのであらうか。
【語釋】 ○朝霧に 朝霧の中よりの意であらう。
【後記】 うすくこめた朝霧の中から鹿の姿の次第/\に現れて來る光景がおもしろく描き出されてゐる。
 
4320 丈夫《ますらを》の 呼び立てしかば さを鹿の 胸《むな》分け行かむ 秋野萩原
    右の歌六首は、兵部少輔大伴宿禰家持、獨り秋の野を憶ひて、聊か拙懷を述べて之を作る。
 
【口譯】 多くの男子等が鹿笛などを吹いて、呼び立てたならば、牡鹿どもは胸を張り出してあの秋の萩原の中をわけてゆくことであらう。
【語釋】 ○呼び立てしかば 恐らくは呼び立てませば〔七字傍点〕の誤であらう。○胸わけ行かむ 鹿は少し胸をさし出すやうにして草むらをゆくのが胸でわけるやうに見えるので、胸わく〔三字傍点〕といつたものと見える。卷八にも「さを鹿の胸わけにかも秋萩の散りすぎにける盛かもいぬる」とある。
(30)【後記】 この歌をよむと、春日の鹿よせのおもしろさが聯想される。「秋野萩原」と名詞止にしたのもよい。
【左註】 奈良の秋は實によい。わけても尾花咲き、女郎花咲き、萩の花咲く秋の野はまるで一幅の繪であるが、この情景は鹿の聲によつて更に美化されるのである。この情景を思ひ浮べては、家持の歌心は覺えず浮き立ち、この六首の佳作を得たのであらう。
 
   天平勝寶七歳乙未二月、相替りて、筑紫に遣さるゝ諸國の防人《さきもり》等の歌
4321 畏《かしこ》きや 命《みこと》被《かゞふ》り 明日ゆりや 草《かえ》が共《むた》寢む 妹《いむ》無しにして
    右の一首は、國造丁長下《くにみやつこのをのこながしも》郡物部|秋持《あきもち》
 
【題意】 天平勝寶は孝謙天皇の朝の年號で、六年までは年といつたのであるが、七年の正月に年を改めて、歳とせられたので、ここに七歳とあるのである。即ち孝謙紀天平勝寶七年の條に、「春正月辛酉朔甲子勅す。思ふ所あるが爲に、宜しく天平勝寶七年を改めて天平勝寶七歳となすべし」とある。これは新考の説の如く、其の十二年前に、唐真宗が天寶三年を三載と改めたのに倣はれたものであらう。
 相替りてとあるのは、防人は三年毎に交替したからである。
(31) 防人を用したのは、遠江相模駿河上總常陸下野下總信濃上野武藏の十ケ國で、國々に部領使《ことりづかひ》といふものがあり、防人の役を充て催し、これを部領したのである。
 防人等は、一國毎に其の國の部領使に引率せられて、難波即ち今の大阪に赴き、兵部省の役人に引き繼がれた。それからは、兵部省の役人に引率せられて、海路筑紫に至り、太宰府の防人司に引渡されたと見える。それで、軍防令にも、「防人の津に至らむ間は皆國司をして自ら部領せしめよ」とある。
 大伴家持は、當時兵部少輔であつたが、和歌に深い趣味を有してゐたので、これ等の部領使に囑して、その部下の防人やその家族の歌を進《たてまつら》らしめ、拙劣なる歌を除き、これはと思ふ歌を集録したのが、次に記す防人歌である。
 家持がこれ等の歌どもを集録するに際して、原作に手を入れたか、どうかは不明であるが、防人歌には隨分多くの方言や訛言の交つてゐることから考へると、原作のままのも多からうかと思はれるのである。
 そのため地方色の現れてゐるのがおもしろい。
 防人歌には、出發に際してよんだものもあり、筑紫へ赴く途中でよんだのもあり、筑紫に在る中によんだのもあり、程々樣々である。
【口譯】 今日までは住みなれたわが家に在つて、妻と樂しく日を送つて來たのに、この度|畏《おそれ》多くも勅命によつて、防人に徴發せられ、はる/”\筑紫に赴くことになつたので、明日からは、全(32)く妻と離れ、草を枕として野に臥すことであらうか。
【語釋】 ○畏きや 畏《おそれ》多いことであるの意。や〔傍点〕は感動の詞。○明日ゆり 明日より〔八字傍点〕の訛《なまり》。○妹《いむ》 妹《いも》の訛である。○草が共寢む 草《かえ》は萱《かや》に同じく、むた〔二字傍点〕は共《とも》の古言である。「草《かえ》が共《むた》寢む」は草とともに寢る意で、草を枕にして、野宿をすることをいふ。○昧無しにして 妹即ち妻と離れての意。
【後記】 剛強にして義に勇む東國男子も遠く家を離れるに際してはさすがに惜別の情に堪へなかつたのであらう。
 この歌は、多くの萬葉の歌の如く、第四句で切れ、「妹なしにして」といふ末の一句に限ない心の淋さがこもつてゐる。
【左註】 國造丁はここに、國造丁、主帳丁、防人とついで出てをるのを見ると、萬葉集新考の説の如く、地方の名族たる國造の中から選ばれた丁《をのこ》即ち防人であらう。若し、舊説のやうに國造から出した人足ならば、防人の次に擧ぐべきである。
 
4322 我が妻《つま》は いたく戀ひらし 飲む水に 影《かご》さへ見えて よに忘られず
    右の一首は、主帳丁麁玉《しゆちやうのをのあらたま》郡|若倭部身麿《わかやまとべむまろ》
(33)【口譯】 故郷に殘して來た我が妻はひどく自分を戀ひこがれてゐるのであらう。その心の通ずる爲か。水を飲まうとすると、その水の中にも妻の面影がみえて、どうしても妻のことが忘れられない。
【語釋】 ○戀ひらし 戀ふらし〔四字傍点〕の訛。らし〔二字傍点〕は一の事實によつて他を推斷するのに用ひる助動詞である。○影さへ見えて 影《かご》はかげ〔二字傍点〕の訛。「影さへ見ゆる」といふ語は、卷十六に「安積山かげさへ見ゆる山の井の」とあると同じで、水底のみならず、影までの意。○よに忘られず よに〔二字傍点〕はつよめる詞、どうしてもといふ程の意。
【後記】 異郷に在つては、見るものにつけ、聞くものにつけ、家に殘しおいた妻のことを思ひ出すのが、人情の常であるが、遠く筑紫の邊境に在る若い防人には旅情の殊に切なるものがあり、水底にまで妻の面影が見えたのであらう。古代人は彼方に思ふことは、此方に通ずるといふ信念をもつてゐたのである。その忘れむとして、忘れ得ざる心のなやみを無邪氣に歌つたところが、強く讀者の同情をひく。筑紫に勤務中の若い防人のよんだものと見える。
【左註】 主帳丁は郡司の屬官たる主帳の中から選ばれた防人であらう。主帳は書記である。軍防令に「主帳は書算に工ならむものを取れ」と見えてをる。
 
(34)4323 時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出《で》來《こ》ずけむ
    右の一首は、防人山名郡|丈部眞麿《はせつかべままろ》
 
【口譯】 筑紫に在つても、四季折々の花は咲く。それにどうして母といふ美しい花が咲かないのであらうか。自分の日々に戀ひ慕ふ花の如き母がひよつくりとこゝに現れてみえたら、どんなにうれしいことであらう。
【語釋】 ○何すれぞ 何とすればぞの意。當時の古語であらう。○母とふ花 母とふ〔三字傍点〕は母といふの略。○咲き出來ずけむ 來ずけむ〔四字傍点〕は來ないのであらうかの意と見える。新考に「ここは咲き出來ざるらむといふべきを咲き出來ずけむといへるは、修辞の拙きなり」とあるが、その通りであらう。
【後記】 これは孝徳紀に「もとごとに花は咲けども、何とかもうつくし妹がまださき出《で》來《こ》ぬ」とあるのに似た歌である。まだ妻のない防人が筑紫に在つてよんだものであらう。時に感じて、花に涙を濺ぐとはこのことである。古義には「旅に出て野山をゆけば、其の時々につけて、さま/”\の花は咲けども、何とすればか、花のごとくなる愛《うつく》しき母に逢はぬことぞとなり」といつてをる。
 
(35)4324 遠江《とへたほみ》 白羽《しるは》の磯と 贄《にへ》の浦と あひてしあらば 言《こと》も通《かゆ》はむ
    右の一首は、同じき郡丈部|川相《かはひ》
 
【口譯】 今自分は防人となつて、この白羽《しるは》の磯から出發するが、若しこの白羽の磯があの贄《にへ》の浦とつゞいてゐるならば、妻と今一度詞をかはして、名殘を惜しみもしように。
【語釋】 ○とへたほみ とほたふみ〔五字傍点〕の靴。○白羽の磯 榛原《はいばら》郡にもあり、敷智《ふち》郡にもあるが、これは山名郡の防人の歌であるから、澁谷榮一氏の説に從ひ、天龍川口の西岸にある數智郡のと見る方がよいかと思ふ。その方が山名郡に近いのである。○贄の浦 敷智郡|贄代《にへしろ》郷、即ち今の鵺代《ぬえしろ》尾奈《をな》等の地の浦であらう。この歌は山名郡の防人が白羽の磯から出發するに臨み、濱名湖の對岸にゐるわが妻のことを思うてよんだものと見える。○言も通はむ 通《かゆ》はむ〔二字傍点〕は通《かよ》はむの訛。言の通ふ〔四字傍点〕といふのは、よびかけて詞をかはすことである。卷七に「斐太人《ひだびと》の眞木流すちふ爾布《にふ》の河言は通へど船ぞ通はぬ」とあるのと用法が同じい。
【後記】 急に防人に召集せられて、現在の居處から旅立たうとするに當り、妻のゐるあなたの空を望みつゝ眞情をもらしたものと見える。突然、防人に召集せられた者の歌と思はれるのが外にもある。すなはち四三六四の「防人に發たむさわぎに家の妹が業《な》るべきことを言はず來ぬかも」、四三三七の「水鳥の發《た》ちの急ぎに父母に物言はず來にて今ぞくやしき」、四三七六の「旅(36)行《たびゆき》に行くと知らずて母父《おもしし》に言申さずていまぞ悔しけ」、四三八九の「しほ船の舳越《へこそ》白浪|俄《には》しくも科《おほ》せたまふか思はへなくに」の如きが、その例であるが、これには何か仔細のあることであらう。
 
4325 父母《ちゝはゝ》も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも ※[敬/手]《さゝ》ごて行かむ
    右の一首は、佐野《さや》郡丈部黒當
 
【口譯】 自分の父母が花であつたらよからうに、若し花であつたら、兩手でさゝげて、筑紫へ行かうものを。
【語釋】 ○花にもがもや もがも〔三字傍点〕は願望の詞。○草枕 旅〔傍点〕の枕詞。○旅は行くとも 旅は〔二字傍点〕は旅にはの意。○※[敬/手]《さゝ》ごて ※[敬/手]げて〔三字傍点〕の訛である。
【後記】 家に殘しておく父母の身の上を案じてよんだ若い防人の作であらう。父母を思ふ純情であるが、「さゝごてゆかむ」と子供らしく無邪氣によんだところが却ておもしろい。
 
4326 父母が 殿《との》の後《しりへ》の 百代草《ももよぐさ》 百代《ももよ》いでませ 我が來たるまで
(37)    右の一首は、同じき郡|生玉部足國《いくたまべのたりくに》
 
【口譯】 あの父母の居間のうしろには百代草があるが、その名のやうに百年《ももよ》までも父母の御長命なさいますやうに。どうぞ、わたしの歸つて來ますまでは。
【語釋】 ○父母が殿の 殿は居間である。居間を殿といつたのは眞淵の説の如く父母を尊みあがめていつたのであらう。○百代草 實物はわからない。莫傳抄《ばくでんせう》と藏玉集《ざうぎよくしふ》とには菊なりとし、本草啓蒙には鴨跖草《つゆくさ》なりとしてをる。尚むかしよもぎとする説もある。菊はめでたい花であるから、菊かも知れない。菊をよんだ歌は萬葉には一首もないが、懷凰藻《くわいふうさう》には詩に作られてゐるから、當時菊のわが邦に渡來してゐたことはたしかである。○上の三句は百よ〔二字傍点〕といはむための序、百よ〔二字傍点〕は百年のことである。
【後記】 この歌の作者は孝心の深い防人であつたのであらう。「百代草もゝ代いでませ」とくりかへして、聲調の美を爲したところもおもしろく、純眞なる至情の流露したところもよい。歌は四句切で、倒裝法を用ひてをる。
 
4327 我が妻も 畫《ゑ》にかきとらむ 暇《いづま》もが 旅行く我《あれ》は 見つゝしぬばむ
    右の一首は、長下《ながのしも》郡物部|古麿《ふるまろ》
 
(38)   二月六日、防人|部領使《ことりづかひ》遠江國史生坂本朝臣|人上《ひとかみ》が進《たてまつ》れる歌の數十八首。但し拙劣なる歌十一首あるは之を取載せず。
 
【口譯】 この度自分は急に召集されて、防人にゆくが、いとしい妻と別れるにつけ、妻の姿を寫生するだけの暇がほしいものである。寫生をしてさへおけば、旅に出ても、その繪姿を身にはなさず、時々それをながめて心を慰めもしように。
【語釋】 ○暇もが 暇《いづま》はいとま〔三字傍点〕の訛。もが〔二字傍点〕は願望の詞。
【後記】 他の歌集には類のないめづらしい想をうたつたものである。今ならば別れに臨んで一寸寫眞をといふべきところであるが、不自由なる古人の生活が却てこのやうな歌を生んだかと思ふとおもしろい。寫生畫といふことは、推古時代には聖徳太子の御影があり、平安朝には百濟河戚《くだらのかはなり》が繪姿によつて召使を捕へた話もあり、鎌倉時代には藤原信實が後鳥羽上皇の御姿をうつし奉つた例もあるが、萬葉時代には、これが文獻に見える唯一のもので、繪畫史上のよい參考資料である。
【左註】 以上の遠江の防人の歌は防人部領使の、遠江國の史生の役をしてゐる坂本人上が、二月六日に十八首進上したのであるが、その中拙劣なる歌十一首は、取り載せないといふのである。
 
(39)4328 大君の 命《みこと》かしこみ 磯《いそ》に觸り 海原《うのばら》渡る 父母を置きて
    右の一首は、助丁《すけのをのこ》丈部造人麿
 
【口譯】 勅命のかしこさに、遠くなつかしい父母を家に殘しておいて、かく海岸の岩にも觸れ、海原をも渡つてゆくことよ。
【語釋】 ○磯に觸り 磯〔傍点〕は海岸の岩。觸り〔二字傍点〕は四段活用の動詞、今ならば觸れ〔二字傍点〕と下二段にいふべきところである。○海原《うのばら》 うなばらの訛。
【後記】 純朴なる歌である。筑紫へ赴く海上の作であらう。「磯に觸り」の一句に今の大阪商船會社の汽船などとはちがひて、海岸づたひに漕ぎゆいた昔のさまがわかる。
 「大君の命かしこみ」といふ語は、上代文學に多く、防人歌だけでも五ケ處に見えてをる。召集に際し、今の軍人勅諭の如く、部領使あたりから防人に言ひ渡されたのであるまいか。それは、ともかく、この思想が當時の一般武人の通念になつてゐたことは明である。卷三に「ものゝふの臣のをのこは大君のまけのまに/\聽くとふものぞ」とあるのも同樣である。
(40)【左註】 助丁は上丁を助けるもの。次の四三二九の歌の註には上丁といふのが見える。正丁を上丁と助丁の二つに分けてあつたものと思はれる。一首の下に郡名のないのは脱ちたのであらう。
 
4329 八十國《やそくに》は 難波に集ひ 舟飾《ふなかざり》 我がせむ日ろを 見も人もがも
    右の一首、足下《あしがらのしも》郡上丁丹比部國人
 
【口譯】 多くの國々から召集された我々防人どもが難波に集合し、舟飾りをするその日の盛んなさまを、何とかして一目でもよいから父母や妻に見せたいものである。
【語釋】 ○八十國 多くの國である。○舟飾 出帆の祝として、立派に舟を飾りたてること。○日ろ ろ〔傍点〕は助詞。○見も人もがも 見も〔二字傍点〕は見むの訛。人は父母や妻などである。
【後記】 出帆のよろこびを歌つたほがらかな作である。わが乘る船の盛に飾り立てられたのを見ては、着飾つた少女と一般、うれしさに堪へなかつたのであらう。東國の防人等は陸路をとつて難波に集り、華々しく門出を祝ひ、こゝから瀬戸内海をゆいたものと見える。
【左註】 足柄下郡を足下郡としたのは、郡郷等の名は皆二字に限られたからである。
 
(41)4330 難波津に 裝《よそ》ひ裝《よそ》ひて 今日の日や 出でて罷《まか》らむ 見る母なしに
    右の一首は釜倉郡上丁|丸子連多麿《まろこのむらじおほまろ》
 
   二月七日、相模國防人部領使|守《かみ》從五位下藤原朝臣宿奈麿が進《たてまつ》れる歌の數八首。但し拙劣なる歌五首は之を取載せず。
 
【口譯】 幾日も/\かゝつて準備をしたかひがあつて、このやうに立派に裝飾が出來上り、今日はいよ/\難波津を出發する。この光景を母に見せたら、さぞ喜んで下さるであらうに、それの叶はないのは、如何にもはり合ひのないことである。
【語釋】 ○よそひ/\て ねんごろに舟を飾ることをいふ。
【後記】 「よそひ/\て」と語を重ねて、準備に多くの日を費したことを示し、「今日の日や」と大に力をこめてをる。それが「見る母なしに」といふ一句と呼應して、無限の淋さを覺えしめる。故郷の母をなつかしむ若い防人の作であらう。
 
   追ひて防人の悲別の心を痛みて作れる歌一首並に短歌
(42)4331 天皇《すめろぎ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と 不知火《しらぬひ》 筑紫《つくし》の國は 賊《あた》守る 鎭《おさへ》の城《き》ぞと聞《きこ》し食《を》す 四方《よも》の國には 人|多《さは》に 滿ちてはあれど 鷄《とり》が鳴く 東男《あづまをのこ》は 出で向ひ 顧みせずて 勇みたる 猛き軍卒《いくさ》と 勞《ね》ぎ給ひ 任《まけ》のまにまに たらちねの 母が目|離《か》れて 若草《わかくさ》の 妻をも纒《ま》かず あらたまの 月日|數《よ》みつゝ 蘆《あし》が散る 難波の御津《みつ》に 大船に 眞櫂《まかい》繁貫《しゞぬ》き 朝なぎに 水手《かこ》整《とゝの》へ 夕汐に 楫《かぢ》引き撓《を》り 率《あとも》ひて 漕ぎゆく君は 波の間《ま》を いゆきさぐくみ 眞幸《まさき》くも 早く到りて 大王《おほきみ》の 命《みこと》のまにま 丈夫《ますらを》の 心を持ちて 在り廻《めヶ》り 事し畢《をは》らば 恙《つつま》はず 歸り來ませと 齋瓮《いはひべ》を 床邊《とこべ》にすゑて 白妙《しろたへ》の 袖振り反《かへ》し ぬばたまの 黒髪《くろかみ》敷《し》きて 長き日《け》を 待ちかも戀ひむ 愛《は》しき妻らは
 
【題意】 これは家持が防人等の悲別の心を思ひやり、後日になつて作つた歌である。家持は防人等が父母妻子を後にして、遠く筑紫の旅に向ふのを見て、深い同情を起したのであらう。
【口譯】 大君の遠く地方におかれた役所として、太宰府は外寇を防ぐ要害の城であるとて、お治めになるわが日本國には、軍人はたくさんに充ち/\てはあるが、東國の男子は出で向へば、(43)敵に後《うしろ》をみせるといふやうな卑怯なことをしない、勇ましく健《たけし》い軍人だと仰せられて、ねぎらはれ、殊に選拔して太宰府の防備を命ぜられるにまかせて、母の目を離れ、妻と別れ、月日を數へつゝ難波の三津から大船に櫓をしげくつけ、朝凪に水夫をとゝのへ、夕汐に櫓を引きたわませ、相率ゐて漕ぎ行く防人等は、波の間を分けゆき、恙なく到着して、大君の勅に從ひ、大丈夫たるたけき心をもつて、處々を巡り、任務が終つたならば、恙なく歸つてござれと、防人等の家では、齋瓮《いはひべ》を床のほとりにすゑて神に祈願し、夫の面影を夢に見得るやうにと袖を折りかへし、黒髪《くろかみ》をしいて、長い月日をいとしい妻らは待ちこがれてゐることであらう。
【語釋】 ○遠のみかど 遠い地方におかれた役所の意で、太宰府を指す。○しらぬ火 筑紫〔二字傍点〕の枕詞。○あたまもるおさへの城《き》 外寇を禦ぐべき要害の城。○聞こしをす 御治めになること、しろしめす〔五字傍点〕といふに同じ。○鷄が鳴く あづま〔三字傍点〕の枕詞。○あづまをのこは云々 東國の武士の剛勇にして君國のためには、家をも身をも顧みざることをいふ。續日本紀の景雲三年の詔にも、「東人は常にいはく、額《ひたひ》には箭はたつとも、背《そびら》には立てじといひて、君を一つ心をもちて守れるものぞ」と見えてをる。○まけのまにまに まけ〔二字傍点〕は、派遣である。○たらちねの 母の枕詞。○目かれて 目離れての意で、遠く離れること。○若草の つま〔二字傍点〕にかゝる枕詞。○妻をも纒かず 妻と寢ないことをいふ。まく〔二字傍点〕は妻の手を枕にすることである。○あらたまの 月日〔二字傍点〕の枕詞。○月日よむ 今日は何日と月日を數へること。○蘆が散る 難波〔二字傍点〕の枕詞。○三津 大阪市に(44)在る。今の三津寺町のあたりであらう。○眞櫂繁貫き 眞〔傍点〕は接頭語、艪を繁くつけること。○水手《かこ》 水夫。○引き撓《を》り、力をこめて引き撓ましめること。○あともひて ひきゐる、したがへるの意。○さぐくみ 踏みわけること。祝詞に「岩根木の根ふみさくみ」とある。○命のまにま 命のままに。○在り廻り 在り/\てで、地方をめぐりゆくこと。○恙《つつま》はず 恙なくといふに同じ。○齋瓮《いばひべ》を床邊にすゑて 無事ならむことを神に祈るの意で、卷十七に「草枕たびゆく君をさきくあれといはひべすゑつ吾《あ》がとこのべに」とあると同じである。齋瓮〔二字傍点〕は神に供へる酒を盛る陶器の壺である。○白妙の 袖の枕詞。○袖折り反し云々 袖折り反して黒髪をしくのは、夢に見むが爲で、當時の俗信である。この語は集中に多い。○愛《は》しき いとしいこと。
【後記】 選ばれて防人となり、筑紫の邊海の防備に任ずるといふことは、東國男子の名譽ではあるが、久しく住み馴れた故郷を出で、父母妻子を後にして、遠く西海に赴くに當つては、まことに惜別の情に堪へかねるものがあつたであらう。この篇はこれ等の人情を寫して委曲をつくし、當時の世態人情を見るに絶好の史料である。
 構想は山上憶良の好去好來の歌を模倣したものらしく、「人多に滿ちてはあれど」「猛き軍卒と勞ぎ給ひ」「いゆきさぐくみ」「事し畢らば」「恙はす歸り來ませ」等の語も憶良の歌から得來つたものゝやうである。殊に下半は古歌の成句をつゞり合せたところが多く、全文が散文的(45)で佳作とはいひ難い。
 
   反歌
4332 丈夫《ますらを》の 靱《ゆぎ》取《と》り負ひて 出でて往けば 別を惜しみ 歎きけむ妻
 
【口譯】 わが夫が靱を負うて、防人として出ていつたら、妻は定めし別を惜しんで歎いたことであらう。
【語釋】 ○靱 矢を盛つて、背に負ふ器である。
【後記】 「丈夫の」と歌ひ起したところがをゝしい感じを與へる。丈夫といふ語は、集中に多く用ひられてをるが、實際萬葉の作者は、丈夫を以て自ら任じてゐたものと見える。丈夫とは、勇氣あり、教養あり、名を惜み、祖先を敬ふものの意である。
 
4333 とりが鳴く 東男《あづまをとこ》の 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み
    右二月八日、兵部少輔大伴宿禰家持
 
【口譯】 勇敢なる東國男子も妻に別れて、年久しく逢ふことが出來ないと思へば、さぞ悲しく思(46)つたことであらう。
【語釋】 ○とりが鳴く 東《あづま》の枕詞。○年の緒長み 年久しかるべきによりての意。四二九八參照。
【後記】 前の四三三二の歌が妻の爲に悲しみを述べたのに對し、この歌は夫のために悲しみを述べたものである。
 
4334 海原を 遠く渡りて 年|經《ふ》とも 兒らが結べる 紐解くなゆめ
 
【口譯】 防人等よ、これから遠く海上を渡りて筑紫にいつて、年を經ても、出發に際して妻らが結んでくれた下紐を決して解いてはならないぞ。
【語釋】 ○兒ら 兒〔傍点〕は妻、妻ら。○紐解くなゆめ ゆめ〔二字傍点〕は決して、紐〔傍点〕は下紐である。上代には一種の貞操帶が行はれたものらしい。即ち男女の遠く別れるに際しては、互に對手の下紐をむすびあひ、又會ふまでは解かないといふ約束をしたものと見える。集中にはそれらの歌が少くない。「吾妹子し吾をしぬぶらし草枕旅のまろねに下紐とけぬ」(卷十三)、「人妻にいふは誰がことさごろもの此紐とけといふは誰がこと」、「二人して結びし紐を一人して吾は解き見じただに逢ふまでは」、「海石榴市《つばのいち》の八十《やそ》のちまたにたちならし結びし紐を解かまくをしも」。
(47)【後記】 これは防人の妻らに封する家持の同情である。
 
4335 今替る 新防人《にひさきもり》が 船出《ふなで》する 海原のうへに 浪な開《さ》きそね
 
【口譯】 今度交替してゆく新しい防人が出帆する海上には浪よ、たつてくれるな。
【語釋】 ○浪な開きそね 浪な開きそ〔五字傍点〕といふのに、ね〔傍点〕といふ願望の詞が添はつてゐるのである。波にさく〔四字傍点〕といつたのは、浪を花にたとへたのであらう。卷十四にも「あぢかまの潟にさく浪ひらせにも紐とくものかかなしけをおきて」といふのがある。
【後記】 これは防人等に對する同情である。
 
4336 防人《さきもり》の 堀江漕ぎ出《づ》る 伊豆手舟《いづてぶね》 楫取る間《ま》なく 戀は繁けむ
    右は、九日、大伴宿禰家持之を作る。
 
【口譯】 防人の堀江を漕ぎ出す伊豆式の舟の艪をあやつるひまのないやうに防人等も繁く家をこがれてゐることであらう。
【語釋】 ○堀江 難波即ち大阪の川口である。○伊豆手《いづて》舟 五手舟の義(一手は艪二挺)で、十挺艪の舟だ(48)といふ説もあり、十人で漕ぐ舟だといふ説もあり、五挺艪の舟だといふ説もあるが、橘守部の説の如く、伊豆式の舟と見るがよからうと思ふ。守部は、其の著山彦册子卷一に於て次のやうにいつてをる。
 「伊豆手船と云ふこと其の説區々にして、いまださだまらず。代匠記に『五手《いつて》にて、十人にして榜《こ》ぐ船なり』といへる、中にもさるべきよし略解などにもいはれたれど、萬葉集中に、伊豆とのみ書きたれば、都〔傍点〕の言の清濁違ひていかが。又近來或人『伊豆出船《いづでふね》にて、伊豆國より漕ぎ出せるを云ふ』といへるより、大方の人しかのみ心得めれど、出《で》の意ならば、手《て》とは書くまじきわざなるを、集中凡て伊豆手とのみ書きて、出〔傍点〕と書けることのなきをみれば、しかにもあらざるなり。故《かれ》今按ふに、手は手人《てびと》などの手にて作《つく》るてふ義なるべし。伊豆國は、上古より船を造るに巧なる國と見えて、應神紀『五年冬十月。伊豆國に科せて船を造らしむ。長十丈。船既に成りて、試に海に泛ぶ。便ち輕く泛びて疾く行くこと馳するか如し。故《かれ》其の船を名づけて枯野といふ。』」とあるをはじめにて、其の後にもこれかれ造らしめたる事見ゆ。又此の國を除《お》きては、紀伊國熊野、筑紫の松浦などぞ、其の名を得たりけらし。其の國何れも良材多く、其は海路|離《さか》れる國なれば、おのづから船を造るに堪《た》ふべきなり。
 さて其の國々にて造れる船ども、各其の製法《つくりざま》異にして、よそながら打見ても、此《こ》は熊野船、彼《か》は松浦船とやうに、其の形にて見えわかりつと見えたり。其《そ》は卷六に『島がくり吾がこぎくればともしかも倭へのぼる眞熊野の船』、また卷七に『さよ更けて堀江こぐなる松浦船|梶音《かぢのと》高し水尾はやみかも』などよめるにて知らる。
(49) かくて後には必ずしも熊野松浦にては造らねども、其の船の製の名とぞなりけらし。其は卷六に『御食《みけ》つ國志摩の海部《あま》ならし眞熊野の小船に乘りて奧べ榜《こ》ぐ見ゆ』。此の歌に、志摩の海人ならしといひて其の乘りたる船を熊野船といへる、これ其の製に就いていふと聞えたり。それが中にも、伊豆國は殊にすぐれけむ故に、其の國にて造れるは更にもいはず、他國にても其の製をまねて摸《うつ》して造りたるをも、猶伊豆手船とぞいひけむ。伊豆に局《かぎ》りて、手の字を附けていひならひたるにてもしかおぼし。
 卷二十に『防人の堀江こぎづる伊豆手船かぢ取るまなく戀はしげけむ』これは防人等を難波津より、公の船に乘せて、筑紫へやるなれど、猶それをも伊豆手船とよめり。又同卷、天平勝寶八年聖武天皇、難波宮に行幸の時、家持卿の歌に『堀江こぐ伊豆手の船のかぢつぶめおとしばだちぬ水脈《みを》はやみかも』。此等伊豆國より出でたる船とはきこえず。皆その造り状についていへる事しるし。又卷十二に『松浦船さわぐ堀江のみをはやみ』とよめるも、難波堀江の船なれば、ただ造りざまに就いていふと聞ゆ」。
 これによつて、伊豆手船は、伊豆式の船であることが明であると思ふ。延喜式第九には、伊豆國田方郡輕野神社といふのがあるから、このあたりで、船を造つたのではあるまいか。○しげけむ 繁からむといふに同じ。
【後記】 防人の漕ぎ出すさまを見て、防人等の心の中を思ひやつたものであらう。卷十二に「松浦船みだる堀江のみをはやみ楫とる間なく思ほゆるかも」とあるに似た歌である。
 
(50)4337 水鳥の 發《た》ちの急《いそ》ぎに 父母に 物《もの》言《は》ず來《け》にて 今ぞ悔しき
    右の一首は、上丁|有度部《うどべ》牛麿
 
【口譯】 出發の準備に取紛れ、ばた/\して、つい父母に暇乞をするまもなく來てしまつて、誠に相すまぬことをした。
【語釋】 ○水鳥の 發ち〔二字傍点〕にかかる枕詞。時に水鳥〔二字傍点〕といつたのは、水鳥はばた/\とあわただしく立つからであらう。○發ちの急ぎ 出發の準備である。○物はず來《け》にて 物はず〔三字傍点〕は物いはず〔四字傍点〕のつづまり。來《ケ》にて〔二字傍点〕はきにて〔三字傍点〕の訛。
【後記】 別後のさみしい心もちの見える、眞實味のみち/\た歌である。筑紫への途中の作であらう。卷四に「珠衣《ありぎぬ》のさわ/\しづみ家の妹に物いはず來にて思ひかねつも」とあり、また卷十四に「水鳥のたゝむよそひに妹《いも》のらに物いはず來にて思ひかねつも」とあるのに似た歌である。
 
4338 多多美氣米《たたみけめ》 牟良自《むらじ》が磯の 離《はな》り磯の 母を離れて 行くが悲しさ
(51)    右の一首は、助丁|生部《いくべ》道麿
 
【口譯】 あの向ふに見える離れ磯の離れてゐるやうに、母を離れて行くのが悲しい。
【語釋】 ○多々美氣米 この語については、いろ/\の説があるが、古義に多々美氣米〔五字傍点〕の米〔傍点〕は布〔傍点〕か不〔傍点〕の誤で、多々牟加不〔五字傍点〕といふべきを訛つて、東語で、多々美氣布といつたのであらうといつてをるのが、よろしいやうに考へられる。○牟良自が磯 江尻のあたりから、眞向ひに離れて見える磯を指すのではあるまいか。私はこの歌をよむごとに、清水《しみづ》港から向ひに見える村松のあたりを聯想するのである。○離り磯 離れ磯である。牟良自が磯の離り磯〔九字傍点〕といつたのは、同じ語をくり返して、聲調を整へたまでである。
【後記】 出發に際し、對岸の磯をながめて、自分の行くさきを思ひつゝ、心のさびしさを歌つたものである。
【參考】 多々美氣米といふ語については、ここには古義の説を取つたのであるが、これには異説があるから、參考のため記しておく。
 即ち諸註は多く、多々美氣米を疊薦《たゝみこも》の訛としてをるのである。元來疊薦は、へ〔傍点〕といふ語にかかる枕詞で、卷十一には「疊扈もへだて編む數通ひなは、道の柴草生ひざらましを」とあり、卷十二には「あふよしの出で來るまでは疊扈もへだてあむ數夢にし見なむ」とある。然るに、ここはへ〔傍点〕とはかからず、牟良自が磯〔五字傍点〕とつづいてをるので、契沖は、疊は一|枚《むら》二|枚《むら》といつて數へるから、牟良〔二字傍点〕にかけたのであらうといつてをる。
 
(52)4339 國《くに》巡《めぐ》る ※[獣偏+葛]子鳥《あとり》かまけり 行きめぐり 歸《かひ》り來までに 齋《いは》ひて待たね
    右の一首は刑部《おさかべ》蟲麿
 
【口譯】 あれ、あそこに諸國をめぐる※[獣偏+葛]子鳥《あとり》が群をなして、かまびすしく鳴きながら渡つて來た。自分もあの※[獣偏+葛]子島のやうに遠く筑紫へ行くのであるから、歸つて來るまでは、神々に無事を祈つて待つてゐてくれ。
【語釋】 ○※[獣偏+葛]子鳥《あとり》 雀科の小鳥で、雀よりは少し大きく、背は頭部から下脊部まで黒く、腰と上尾筒は白い。秋冬群飛、わが邦に渡來する。先年私が八王子市の東に在る猿丸峠の霞網を見にいつたときにも、數羽の※[獣偏+葛]子鳥が霞網にかかつた。鳥小屋の小島銀三郎翁の話に據ると、この鳥は千羽ばかりも群をなして來ることがあり、これが來るときには、(53)キヨツキヨツジイと鳴きながら渡つて來るといふことである。○國めぐる 諸國をめぐりゆく意。○かまけり 本居太平の説の如くかまぴすしく鳴くことであらう。○歸《かひ》り 歸《かへ》りの訛。○いはひて 神に祈りての意。
【後記】 防人となつて出發するに際し、※[獣偏+葛]子鳥《あとり》の空を渡りゆくのを見て、遠く筑紫の空を思ひやつたのであらう。
 
4340 父母え 齋《いは》ひて待たね 筑紫なる 水漬《みづ》く白玉 取りて來までに
    右の一首は、川原蟲麿
 
【口譯】 わが父母よ。どうぞわたしが無事に任務を了へて、筑紫の海に産するといふ水中の眞珠をみやげにもつて歸つて來るまで、神々に祈つてお待ち下さいませ。
【語釋】 ○父母え 父母よといふに同じ。但しこのえ〔傍点〕といふ語については、契沖は「父母よなり」といひ、吉義には「集中に菟原壯士伊《うなびをとこい》紀之關守伊《きのせきもりい》などの伊を東語に江《え》といへるなるべし」といつてをる。○水|漬《づ》く 卷十八に「海行かばみづくかばね」とあるのと同じく、水にひたることである。○白玉 眞珠即ちあわびだまのこと、卷七に「磯の上につま木折り焚き汝がためと吾が潜《かづ》き來し沖つ白玉」、又同じ卷に「海の底(54)|石着《しづ》く白珠風吹きて海は荒るとも取らずは止まじ」などみな同じことである。○來までに 來るまでに。
【後記】 親を思ふやさしい心もちの見える歌である。出發に際してよんだものであらう。
 
4341 橘の 美衣利《みえり》の里に 父を置きて 道の長道《ながぢ》は 行きがてぬかも
    右の一首は、丈部足麿
 
【口譯】 自分はあの住みなれた橘の美衣利の里に老いたる父をひとり殘して來たので、この遠い旅路をあるいてゐても、後髪《うしろがみ》を引かれるこゝちがして行き敢へぬことである。
【語釋】 ○美衣利の里 今駿河國庵原郡小島村に立花といふ大字がある。美衣利の里はここであらう。○行きがてぬかも 行き敢へぬかなといふに同じ。がて〔二字傍点〕は動詞に添うて、成しとげる意を示す語である。
【後記】 母のない若い防人の歌ではあるまいか。父を思ふ眞情の切々として人に逼る心ちがする。筑紫へ赴く途中の作と見える。
【參考】 「がて」といふ語は、從來動詞に添うて、爲し難い意を表す接尾語とされてゐたのであるが、橋本博士の研究の結果「堪ふ」「敢ふ」「得」を意味する語であることが明になつたのである(「國學院雜誌」第十六卷、九・十・十一號參照)。
(55) 次に其の用例を列擧する。但し「がてに」の「に」は「な」「に」「ぬ」「ね」と活用する打消の助動詞である。
  稻日野もゆき過ぎがてに思へれば心戀しき可古の島見ゆ(二五三)
  この夜の明けむと待つからに寢《い》のねがてねば云々(三八八)
  鶯の待ちがてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため(九八七)
  友並めて遊ばむものを午並めて往かまし里を待ちがてに吾がせし春を云々(九四八)
  珠くしげ三室の山のさなかづらさねずばつひにありがつましじ(九四)
  わが心ゆたにたゆたに浮蓴《うきぬなは》へにもおきにも依りがつましじ(一二五二)
 
4342 眞木柱《まけばしら》 ほめて造れる 殿《との》の如《ごと》 いませ母|刀自《とじ》 面變《おめがは》りせず
    右の一首は坂田部首麿
 
【口譯】 祝言をとなへつつ、檜の材を以てつくつた家の堅固にして、永久にかはりのないやうに、わが母上には面變《おもがは》りせず若くいらせられるやうに。
【語釋】 ○まけばしら 眞木柱《まきばしら》で檜の柱である。け〔傍点〕はき〔傍点〕と通音。○ほめてつくれる 祝言《ほぎごと》をとなへつつ造るのをいふ。上代には家屋を新築するときには壽詞《ほぎごと》を唱へる風俗があつたのである。それで、顯宗天皇紀に(56)も「築《つ》き立つる稚室葛根《わかむろつなね》、築《つ》立つる柱は此の家長《いへきみ》の御心の鎭《しづめ》なり。取擧《とりあ》ぐる棟《むなぎ》梁《うつばり》はこの家長《いへきみ》の御心《みこゝろ》のはやしなり云々」といふ室壽《むろほぎ》の詞が見えてをる。○刀自《とじ》 一家の主婦の稱。○おめがはりせず おめがはり〔五字傍点〕は面變り。面變りせず〔五字傍点〕は面ざしの變ることなく、いつまでも若くお出でなさいといふのである。
【後記】 母に對する至情の流露せる作である。
 
4343 吾等《わろ》旅は 旅と思《おめ》ほど 家にして 子持《こめ》ち痩《や》すらむ 我が妻《め》かなしも
    右の一首は、玉作部廣目《たまつくりべのひろめ》
 
【口譯】 自分は旅にある身とあきらめてはをるが、後に殘つて、子供の養育に心勞をして痩《や》せほそるであらう齋がいとしい。
【語釋】 ○わろ ろ〔傍点〕は助詞。○おめほど おもへどの訛。○子めち 子もちの訛であらう。
【後記】 堪へ難い悲痛の情をうたつたもので、涙なしには到底讀み得ない歌である。
 
4344 忘らむと 野《ぬ》行き山行き 我《われ》來《く》れど 我が父母は 忘れせぬかも
(57)    右の一首は、商長首麿《あきをさのおびとまろ》
 
【口譯】 片時のまも戀しい父母を忘れることが出來ようかと思つて、野をゆき、山をゆき、自分は來るけれども、父母のことが、どうしても忘れられない。
【語釋】 ○忘らむと 忘らむ〔三字傍点〕は忘れむといふに同じ。四段に活用させたのである。一首の中に同じ語を四段と下二段と兩樣に活用させたのは珍しい歌である。
【後記】 忘らむといつて、更に忘れせぬと同じ語をくりかへしたところに眞情がみえる。
 
4345 吾妹子《わぎめこ》と 二人《ふたり》我が見し うちえする 駿河の嶺《ね》らは 戀《くふ》しくめあるか
    右の一首は、春日部《かすがべの》麿
 
【口譯】 自分が故郷にゐたときに、いつも妻と二人で仰ぎ見てゐたあの富士の嶺のなつかしいことよ。
【語釋】 ○わぎめ子と わぎめ子〔四字傍点〕はわぎも子〔四字傍点〕の訛。○うちえする 駿河〔二字傍点〕の枕詞。○駿河の嶺 富士山のことであらう。○戀しくめあるか 戀しくめ〔四字傍点〕は戀しくもの訛。あるか〔三字傍点〕のか〔傍点〕は感動詞。
【後記】 「二人わが見し」の一句に極まりない親《なつか》しさが見える。
 
(58)4346 父母が 頭《かしら》かき撫で 幸《さ》く在れて いひし言葉《ことは》ぞ 忘れかねつる
    右の一首は、丈部|稻麿《いなまろ》
 
    二月七日、駿河國防人部領便|守《かみ》從五位下布勢朝臣|人主《ひとぬし》、實《まこと》進《たてまつ》れるは九日、歌の數二十首。但し拙劣なる歌は之を取載せず。
 
【口譯】 出發するに臨み、兩親がわが頭を撫でながらどうぞ無事であるやうにといはれた詞が耳に殘つて忘れかねる。
【語釋】 ○幸《さ》く在れて 無事にあれとの意。あれて〔三字傍点〕はあれと〔三字傍点〕の訛。
【後記】 温い情味のみち/\た歌である。それで、契沖はさながら今見るやうなりといつてをる。頭撫でつゝの語が殊に剴切。僧正遁昭が「たらちねはかゝれとてしもぬばたまのわが黒髪を撫でずやありけむ」と歌つてゐるのも同じ趣である。
【左註】 布勢人主は遣唐判官であつた人で、孝謙紀勝寶六年の條に「六月爲2駿河守1」と見えてをる。
 
4347 家にして 戀ひつゝあらずは 汝が佩《は》ける 刀《たち》になりても 齋《いは》ひてしがも
(59)    右の一首は、國造丁日下部使主|三中《みなか》の父の歌
 
【口譯】 家に在つていたづらに戀ひこがれてゐようよりはお前の佩びてゐる刀になつても不淨を退け、守護してやりたいものである。
【語釋】 ○戀ひつつあらずは 戀ひつつあらむよりはの意。卷三に「なか/\に人とあらずは酒壺《さかつぼ》になりてしがも酒に染みなむ」とあるのと同格である。(【このあらずはといふ語については尚附録の説明を參照ありたい。】)
【後記】 わが子を思ふ親の眞情の率直に表現せられてゐるがおもしろい。
 
4348 たらちねの 母を別れて まこと我《われ》 旅の假廬《かりほ》に 安く寢むかも
    右の一首は、國造丁日下部使主三中
 
【口譯】 今までは母の膝下に樂しく暮して來たのであるが、これからは母に別れてしまはねばならぬ。ほんたうにまあ、旅の假の廬に安らかに寢られるであらうか。
【語釋】 ○たらたねの 母〔傍点〕の枕詞。○假廬《かりほ》 かりいほ〔四字傍点〕の約。○寢むかも 寢むやはの意、反語である。
【後記】 初めて永旅に出る若い防人の眞情である。まことの一語に心の底からの叫びを聞くやうな心ちがする。母を思ふことのみをいつて、父の三中の歌に答へる語のないのは、父に答へた(60)歌の拙劣なために除かれたのであるか、又は初からなかつたのであるか、わからない。
 
4349 百隈《ももくま》の 道は來にしを また更に 八十島《やそしま》過ぎて 別れか行かむ
    右の一首は、助丁|刑部直三野《おさかべのあたひみぬ》
 
【口譯】 今までにも既に多くの屈曲のある遠い陸路を通つて來たのに、やれ/\と思ふまもなく今又この難波の津から舟を出して、多くの島を過ぎてゆくことであらうか。
【語釋】 ○百隈《もゝくま》 多くの道のまがりをいふ。○八十島《やそしま》 多くの島々。
【後記】 遠く陸路を來た防人が更に遠く海上に出でむとするときの實感であらう。
 
4350 庭中《にはなか》の 阿須波《あすは》の神に 木柴《こしば》さし 吾《あれ》は齋《いは》はむ 歸り來までに
    右の一首は、帳丁|若麻績部諸人《わかをみべのもろひと》
 
【口譯】 わたしはこの庭の中の神籬《ひもろぎ》に祭つてある阿須波《あすは》の神に小柴をさして、そなたの歸つて來るまでは、そなたの一路平安ならむことを神に祈りませう。
(61)【語釋】 ○庭中の阿須波の神 庭中〔二字傍点〕は自分の家の庭さきである。多くの家々に阿須波の神を祭つてゐたものと見える。阿須波の神〔五字傍点〕は庭の守護神だといふ説もあり、竈の神だといふ説もあるが、ここは旅行の神として、道中の安全を祈つたものと見える。祈年祭の祝詞に「座摩《ゐかすり》乃|御巫《みかむこ》乃|稱辭竟《こたゝへごとをへ》奉。皇神等《すめがみたち》能前爾|白《まをさ》久。生井榮井津長井阿須波《いくゐさくゐつながゐあすは》、波比支《はひき》登|御名《みな》者白※[氏/一]、稱辭竟奉者《たゝへごとをへまつられは》、皇神《すめがみ》能敷坐、下都磐根《したついはね》爾宮柱|太知立《ふとしりたて》高天原爾|千木《ちぎ》高知※[氏/一]、皇御孫《すめみまの》命乃|瑞能御舍《みづのみあらか》乎仕奉※[氏/一]とある阿須波の神は即ちこの神である。○齋はむ 祈らむの意。
【後記】 防人の父母又は妻の歌と見える。左注の諸人〔二字傍点〕の下に父母〔二字傍点〕又は妻〔傍点〕といふ字が脱ちてるのであらう。
【左註】 帳丁は、主帳丁といふに同じく、書記をする壯丁である。
 
4351 旅衣《たびごろも》 八重《やへ》著|重《かさ》ねて 寢《い》ぬれども なほ膚《はだ》寒し 妹にしあらねば
    右の一首は、望陀郡《うまぐだのこほり》上丁玉作部|國忍《くにおし》
 
【口譯】 旅の衣は幾枚重ねて寢ても、わが家に在つて寢るのとはちがつて、膚が寒い。
【語釋】 ○妹にし 妹〔傍点〕は妻のことであらう。し〔傍点〕は強める辭。
【後記】 實感であらう。
 
(62)4352 道《みち》の邊《べ》の 荊《うまら》の末《うれ》に はほ豆《まめ》の からまる君を 離《はか》れか行かむ
    右の一首は、天羽郡上丁丈部鳥
 
【口譯】 道のほとりのうばらの末《すゑ》にはつてゐる豆のまつはつてゐるやうに、まとひつくそなたと離れて行かねばならないのであらうか。
【語釋】 ○道のべの荊の末にはほ豆の 上の三句は、からまる〔四字傍点〕といはむ爲の序。荊《うまら》はいばらのことである。はほ〔二字傍点〕ははふ〔二字傍点〕の訛。○からまる君を からまる〔四字傍点〕はまつはること。君〔傍点〕は妻を指す。○離《はか》れか行かむ はかれ〔三字傍点〕はわかれに同じ。離れむとして離れ得ざる意。
【後記】 人目をも憚らず、若い女子の別を惜むさまが目前に浮ぶ野趣の多い歌である。唐詩に「欲v別頻牽2郎衣1」とあるのを思ひ起させる。直感的のものゝ多いのは、萬葉序詞の特色であるが、此の歌のごとく茨や豆のやうな農家の手近にあるものを歌材としたのは、全く原始的である。
 
4353 家風《いへかぜ》は 日に日に吹けど 吾妹子《わぎもこ》が 家言《いへごと》持ちて 來る人もなし
(63)    右の一首は、朝夷郡上丁|丸子連大歳《まろこのむらじおほとし》
 
【口譯】 わが故郷の方からの風は、日々に吹いては來るが、戀しいわが妻からのたよりをもつて來る人はない。
【語釋】 ○いへ風 わが故郷の方から、吹いて來る風。○家言《いへごと》 家からのたより。
【後記】 遠い異郷に在る身にとつては、わが家からの手紙を手にするほどうれしいものはないのである。杜甫が春望の詩に「家書|抵《あたる》2萬金1」といつてをるのも、げにと思はれる。この歌は何等の技巧もないが、旅情がよく現れてゐる上に、家風〔二字右○〕といふ語が家言〔二字右○〕》といふ語と對しておもしろい。
【左註】 朝夷郡と次の四三五四の歌の長狹郡とは、今は安房國の中であるが、當時は上總に屬してゐたのである。即ち元正紀には、「養老二年五月甲午朔乙未上總國の平群安房朝夷長狹四郡を割いて、安房國を置く」とあり、聖武紀には、「天平十三年二月丙戌安房國を上總國に并す」とあり、孝謙紀には「天平寶字元年五月、能登安房和泉等の國、舊に依りて分立せしむ」とある。ここに上總の部に入れたのは、安房國が上總に并せられてゐた時のことであるからである。
 
4354 立鴨《たちこも》の 發《た》ちの騷ぎに 相見てし 妹がこゝろは 忘れせぬかも
(64)    右の一首は、長狹《ながさ》郡上丁|丈部與呂麿《はせつかべのよろまろ》
 
【口譯】 出發のとりこみの中に逢つたときに妻が別を惜み、しほ/\とうちしほれてゐたいとしいさまが、目の前に殘つて、忘れることが出來ない。
【語釋】 ○たちこもの たちこも〔四字傍点〕は立鴨《たちかも》の訛、立鴨の〔三字傍点〕はたちのさわぎ〔六字傍点〕までにかかる序、さわぎ〔三字傍点〕は取りこみである。
【後記】 ばた/\と鴨の立ち噪ぐ光景を引いて、有心の序としたのもおもしろく、立鴨の立ちのと同じ音を重ねて聲調をとゝのへたのもよい。
 
4355 外《よそ》にのみ 見てや渡らも 難波潟 雲居に見ゆる 島ならなくに
    右の一首は、武射《むざ》郡上丁丈部山代
 
【口譯】 自分は今この難波潟から漕ぎ離れてゆかうとするが、これからはあの遠くに見える島のやうに、わが家人をばよそにのみ見て日を送ることであらうか。
【語釋】 ○渡らも 渡らむといふに同じく、日を送ることをいふ。○よそに見る 家人をよそに見るのである。
(65)【後記】 難波に集まつた防人が出發に臨み西の方にある島々を遠望しつゝ、懷郷の情に堪へかねてよんだのではあるまいか。いよ/\舟出をしようとする防人の心もちがよく窺はれる。
 
4356 我が母の 袖《そで》持ち撫でて 我が故《から》に 泣きし心を 忘らえぬかも
    右の一首は、山邊郡上丁物部|乎刀良《をとら》
 
【口譯】 出發に際し、わが母が、この袖をつかまへて、わが爲に泣かれたこゝろもちが忘れられない。
【語釋】 ○わが故《から》に わが爲にの意。○泣きし心を 心を〔二字傍点〕は心の〔二字傍点〕の誤であらう。○忘らえぬ 忘られぬといふに同じ。あらるるをあらゆるといひ、嘖《ころ》ばるを嘖ばゆといひ、良行音を也行音にいふは萬葉時代の常である。
【後記】 「袖もち撫でて」の一句に、惜別の光景が活躍する。
 
4357 蘆垣《あしがき》の 隈所《くまど》に立ちて 吾妹子《わぎもこ》が 袖もしほほに 泣きしぞ思《も》はゆ
    右の一首は、市原郡上丁刑部|直《あたひ》千國
 
(66)【口譯】 出發に際し、蘆垣の物陰に立ち隱れ人目を忍びつゝわが妻の袖もしぼるばかりに泣いて別を惜んだ樣が思ひ出される。
【語釋】 ○隈所 人の目に立たぬところである。○袖もしほほに しほほに〔四字傍点〕はしほ/\といふに同じ、袖も絞るばかりに涙を流すをいふ。ここは泣きしぞ〔四字傍点〕とかかれば、思ほゆる〔四字傍点〕と結ぶべきに、單に思ほゆ〔三字傍点〕といつたのは、係結のととのはないのであることは本居翁のいつてゐる通りである。
【後記】 劇的光景の目前に浮び、感極まりない作。「隈所」の一句、着想の妙を極めてをる。
 
4358 大君の 命《みこと》かしこみ 出で來れば 我《わ》ぬ取りつきて 言ひし子なはも
    右の一首は、種淮《すゑ》郡上丁物部|龍《たつ》
 
【口譯】 勅命によつて、自分が家を出てこようとすると、妻は自分に取りついて、別れ難いことをいつたが、今はどうしてゐることであらうか。
【語釋】 ○わぬ わぬ〔二字傍点〕はわ〔傍点〕(吾)に同じ、吾れにの意。○言ひし子なはも 言ひし〔三字傍点〕は、別れの悲しいことをいつたのである。子な〔二字傍点〕は 子らに同じく、妻を指す。はも〔二字傍点〕は思慕の意を示す助辭。
【後記】 實に純眞にして、素樸な歌である。子どもらしい妻の動作をいとしむ感傷的な心があら(67)はに見えて、上代の歌特有のおもしろみがある。
 
4359 筑紫方《つくしべ》に 舳向《へむか》る船の 何時《いつ》しかも 仕へ奉りて 本郷《くに》に舳向《へむ》かも
    右の一首は、長柄《ながら》郡上丁|若麻績部羊《わかをみべのひつじ》
 
    二月九日、上總國防人部領使少目從七位下|茨田連沙彌麿《まむだのむらじさみまろ》が進《たてまつ》れる歌の數十九首。但し拙劣なる歌は之を取り載せず。
 
【口譯】 いま自分の船は、筑紫の方へ舳《へさき》を向けてゆく。さて、この船がいつになつたら、任務を了へて、またわが家の方へ向つて歸ることであらうか。
【語釋】 ○舳向《へむか》る 舳先《へさき》の向ふこと。○舳向《へむ》かも 舳向《へむ》かむの訛。
【後記】 船の進み出るに際して、歸り路のさまを心にゑがきつゝよんだものであらう。「舳向く」といふ語をくりかへして、「舳向き」「舳向かも」と對せしめてあるのもおもしろく、「仕へ奉りて」といふ一語に敬虔の念のみえるのもゆかしい。
 
   私の拙懷を陳ぶる一首並に短歌
68)4360 天皇《すめろぎ》の 遠き御代にも 押照《おして》る 難波《なには》の國に 天《あか》の下 知らしめしきと 今の世に 絶えず言ひつゝ 懸けまくも あやに畏《かしこ》し 神ながら 吾《わが》大王《おほきみ》の うち靡《なび》く 春の初は 八千穗《やちくさ》に 花咲きにほひ 山見れば 見のともしく 河見れば 見の清《さや》けく 物ごとに 榮ゆる時と 見《め》し給ひ 明らめ給ひ 敷《し》きませる 難波の宮は 聞《きこ》し食《を》す 四方の國より 獻《たてまつ》る 貢《みつぎ》の船は 堀江より 水脈引《みをび》きしつつ 朝なぎに 楫《かぢ》引き泝《のぼ》り 夕汐《ゆふしほ》に 棹《さを》さし下《くだ》り あぢ群《むら》の 騷《さわ》ぎ競《きほ》ひて 濱に出でて 海原見れば 白浪の 八重《やへ》折《を》るが上《うへ》に 海人《あま》小舟 はららに浮きて 大御食《おほみけ》に 仕へ奉《まつ》ると 遠近《をちこち》に 漁《いさ》り釣《つ》りけり 幾許《そきだく》も おぎろなきかも 許多《こきばく》も ゆたけきかも 此《こゝ》見れば うべし神代ゆ はじめけらしも
 
【題意】 これは家持が難波に出張中私のこころを述べて、難波の宮の榮えをことほぎ奉つたものである。左註によると、天平勝寶七歳二月に難波に行幸があつたやうに見える。これには異説があるが、續日本紀にないのは、この行幸が脱ちたものと見るのが穩であらう。
【口譯】 遠い昔の天皇の御代にもこの難波の地に於て、天下をお治めになつたことがあると、今(69)の世にも言ひついでをる。それにつき口にかけていはむもまことに恐多いことではあるが、この難波の地は、春の初にはいろ/\の花が咲きにほひ、山を見れば、見るにめづらしく、河を見れば、見るにさやけく、物ごとに時を得て榮えゆくさまを、わが大君は神ながらに、御覽になり、御心をおなぐさめになつたのである。そのうへ、この難波はお治めになる四方の國から献上をする貢物をのせた船が堀江から水脈《みを》をつたひ、朝のなぎに櫓《ろ》をひいて泝り、夕の汐に棹《さを》をさして下り、あぢ鴨の群《むれ》のやうに騷ぎきそうて集つて來る。そこで、海原を見ると、白浪がいく重にも折《を》れ重るが中に、海人の小舟がまばらに浮び、天子の御食膳に仕へ奉るためにあちらこちらに漁《すなど》りをし、釣をしてをる。實に限りなく廣大に′又限りなくゆつたりとした所である。是を見ると、神代の昔からこゝに都をおはじめになつたのも尤なことであると思はれる。
【語釋】 ○天皇の遠き御代 仁徳天皇の朝をさす。○押照る 難波〔二字傍点〕の枕詞。○難波の國 難波の地といふに同じ。○絶えず言ひつつ 絶えず言ひ〔五字傍点〕來つ〔二字右○〕の誤であらう。○懸けまくも 口にかけていはむも。○あやに畏し まことに恐れ多い。○神ながら 神にますがままに。○うち靡《なび》く 春〔傍点〕の枕詞。○八千種に くさぐさにといふに同じ。○見のともしく 見るにめづらしく。○めし給ひ 見給ひである。めし〔二字傍点〕は見る〔二字傍点〕の敬語。○明らめ給ひ 御心をお慰めになり。○敷きませる 御治めになつた。○水脈《みを》引きしつつ 水脈〔二字傍点〕は船の往來する深き水路。水脈ひき〔四字傍点〕は水路のしるべをすること。○楫 櫓。○あぢ群 小鴨の群。○八重折る (70)幾重にも折りたゝまる。○はらら ちり/”\に浮ぶこと、古事記上卷に「若《なす》2沫《あは》雪1以|※[就/足]散《くえはらかし》」と見えてをる。○幾許《そきだく》も そくばくも〔五字傍点〕に同じ。限りなくの意。○おぎろなきかも 廣大なことをいふ。欽明天皇紀六年の條に「功徳甚大」とあるのをノリノワザオギロナリと傍訓を附してをる。おぎろなき〔五字傍点〕のなき〔二字傍点〕は、そへことばであつて、否定の意ではない。○許多《こきばく》も そこばくも〔五字傍点〕に同じ、限りなくの意。○神代 卷六に「神代より吉野の宮にありがよひ」とある〔二字傍点〕神代と同じく仁徳天皇の御代をいふ。
【後記】 この篇は、難波の地が仁徳天皇の舊都なることから説き起して、次に山川の風光の美を敍し、轉じて船舶の出入の頻繁にして榮えゆくことをいひ、更に海上の廣濶にして展望に富むことをいつてをる。措辭にはいかゞはしく思はれるふし/”\もないではないが、當時の難波津の状況を見るに絶好の資料である。
 
4361 櫻花《さくらばな》 今|盛《さか》りなり 難波《なには》の海 押《お》し照《て》る宮に 聞《きこ》しめすなべ
 
【口譯】 この難波の宮に大政を聞しめすにつれて、櫻花までが今を盛りと咲きにほうてゐる。
【語釋】 ○おしてる 元來難波〔二字傍点〕の枕詞であるが、ここは、直に宮の名としたのである。○なべ つれての意。
【後記】 家持のこの歌は、二月十三日即ち春分の直前であるから、實景を描き出したものと見え(71)る。これによれば、當時は櫻も多かつたのであらう。「今盛りなり」といふ語は、卷三小野老が歌に「青丹吉ならの都は咲く花の匂ふが如く今盛りなり」とあるのに似てゐる。
 
4362 海原《うなばら》の ゆたけき見つゝ 蘆《あし》が散《ち》る 難波に年は 經ぬべく思ほゆ
    右二月十三日兵部少輔大伴宿禰家持
 
【口譯】 海原のゆつたりしてゐるのを見てをると、この難波に長くゐたいやうなこゝちがする。
【語釋】 ○蘆が散る 唯枕詞であるが、この枕詞によつて、難波の地が美化されるやうな心ちがする。○ゆたけき見つつ 卷三に「いほ原のきよみの埼のみほの浦のゆたけき見つつ〔七字傍点〕物おもひもなし」とあると同例である。
【後記】 これも實感であらう。四面山に圍まれた奈良盆地に住まつてゐる人が、難波の地に來ては、誰もかく感ずるであらう。この歌は、卷六に「くれなゐに深くそみにし情かも寧樂の都に年の經ぬべき」とあるのに似た歌である。
 
4363 難波津に 御船《みふね》下《おろ》すゑ 八十楫《やそか》貫《ぬ》き 今は榜《こ》ぎぬと 妹に告げこそ
 
(72)【口譯】 難波津に御船をおろしすゑて、多くの櫓をたて、もはや勇しく漕ぎ出したと、わが妻に告げてくれ。
【語釋】 ○御船下すゑ 御船〔二字傍点〕といつたのは官船であるからである。下《おろ》すゑ〔二字傍点〕は、陸から海へおろしすゑること。○八十楫《やそか》ぬき 多くの櫓を立てることである。○漕ぎぬ 漕ぎ去《い》ぬの約。○こそ 希望の意を表す語。卷一の「わたつみの豐旗雲に入日さし今よひの月夜明らけくこそ」、卷五の「鶯の待ちがてにせし梅の花散らずありこそ思ふ子がため」、「梅の花いめに語らくみやびたる花とわれもふ酒に浮かべこそ」などのこそ〔二字傍点〕は皆同じである。
【後記】 東國の方へ行く人に言傳てるやうによみかけたのである。
 
4364 防人《さきむり》に 發《た》たむさわぎに 家の妹《いも》が 業《な》るべき事を 言はず來《き》ぬかも
    右の二首は、茨城《うばらぎ》郡|若舍人部廣足《わかとねりべのひろたり》
 
【口譯】 防人に出發するとりこみのために、わが妻に、大切な生業《なりはひ》のことをよく言ひおいて來ないで、心がかりである。
【語釋】 ○防人《さきむり》 防人《さきもり》の訛。○さわぎ とりこみ。○業るべきこと 生業《なりはひ》で、なる〔二字傍点〕はその動詞である。
(73)【後記】 後顧の憂のあるといふことは、多くの防人に共通のことであらうが、それを憚らず、うちあけたところがあはれである。寶字元年の詔に、「太宰府の防人、頃年《このごろ》坂東諸國の兵士を差して、發遣す。防人の産業亦辨濟し難し」とあるのも事實である。
 
4365 押照《おして》るや 灘波の津より 船裝《ふなよそ》ひ 吾は榜《こ》ぎぬと 妹に告げこそ
 
【口譯】 自分はあの難波の津から船よそひをして漕ぎ出たと、妻に告げてくれ。
【語釋】 ○押照る 難波〔二字傍点〕の枕詞。○船裝ひ 船を裝ひての意。
【後記】 これは四三六三の類歌である。この類の歌の多いのは、これが多くの防人に共通する感情であつたからであらう。
 
4366 常陸《ひたち》さし 行かむ雁《かり》もが 我が戀を 記して附けて 妹に知らせむ
    右の二首は、信太郡物部|道足《みちたり》
 
【口譯】 自分の故郷は常陸であるが、その常陸をさして行く雁があればよいのに、自分の戀しく(74)思ふ心をしるして雁に托して妻に知らせたいものである。
【語釋】 ○もが 願望の詞。
【後記】 二月は雁の歸る季節であるから、歸雁を望み見ての實感であつて、蘇武の故事によつたものではあるまい。雁は今は甚だ少いが當時は隨分多かつたものと見える。卷十五の遣新羅使人の歌にも「天飛ぶや雁を使に得てしがも奈良の都に言《こと》づけやらむ」といふのもある。
 
4367 我《あ》が面《もて》の 忘れも時《しだ》は 筑波嶺《つくはね》を ふり放け見つゝ 妹はしぬばね
    右の一首は、茨城郡占部|小龍《をたつ》
 
【口譯】 わが面影を忘れるといふことはあるまいが、若しさやうのことがあつたら、あの筑波山を望み見て、思ひ浮べてわたくしをしのんでくれ。
【語釋】 ○我がもて 我が面《おもて》の略。○しだ しだ〔二字傍点〕は時〔傍点〕のこと、卷十四に「遠しとふ古奈の白ねに逢ふしだも逢はのへしだも汝《な》にこそよされ」とあるしだ〔二字傍点〕と同一である。
【後記】 「見つゝしぬばね」は、先づ筑波嶺を思ひ浮べ、それから聯想して、わが面影を思ひ浮べよといふのであらう。類歌としては、卷十四に「面影の忘れむ時は大野ろにたなびく雲を見(75)つゝ偲ばむ」といふのがあり、「わがおものわすれむしだは國はふりねに立つ雲を見つつしぬばせ」といふのがある。
 
4368 久慈河《くじがは》は 幸《さけ》く在り待て しほ船に 眞楫《まかぢ》繁貫《Lじぬ》き 吾《わ》は歸り來む
    右の一首は、久慈郡|丸子部佐壯《まろこべのすけを》
 
【口譯】 なつかしい久慈川よ、無事で待つてをつてくれ。自分はしほぶねに多くの櫓をしげくつけて歸つて來るから。
【語釋】 ○久慈川 常陸國に在り、久慈郡の中部を南流し、鹿島灘に注いでゐる。○しほぶね 潮路をわたる船の意で、河船に對する語である。○さけく さきくの訛、無事での意。卷一に「志賀の辛崎さきくあれど」とあるさきく〔三字傍点〕と同じである。
【後記】 自分の樂しく歸つて來るときの光景を豫想して、心を慰めたのである。類歌としては、卷九に「しら崎はさきくありまて、大船に眞楫しゞぬきまたかへりみむ」といふのがある。
 
4369 筑波嶺《つくばね》の さ百合《ゆる》の花の 夜床《ゆどこ》にも 愛《かな》しけ妹ぞ 晝《ひる》もかなしけ
 
(76)【口譯】 あの筑波山の山百合はかはいらしい花であるが、自分の妻も夜の床のみならず、晝もかはいゝ。その妻を家に殘して來て、戀しさに堪へかねる。
【語釋】 ○筑波嶺のさゆる花の この二句は新考の説に從つて、愛《かな》しけ〔二字傍点〕にかかる序と見たい。○さゆる さゆりの訛、山百合である。
【後記】 山百合は實にかはいらしい、しかもかをりの高い花であるが、その山百合を妻に比したのがおもしろい。筑波山には今も山百合が多い。
 
4370 霰《あられ》降り 鹿島《かしま》の神を 祈りつゝ 皇御軍《すめらみくさ》に 吾《われ》は來《き》にしを
    右の二首は、那賀《なか》郡上丁|大舍人部《おほとねりべ》干文
 
【口譯】 自分はわが國土の神たる鹿島明神に武道長久の祈願をこめて來たのに、何等の戰功をも立てずして徒に歸られるであらうか。
【語釋】 ○霰峰り 鹿島〔二字傍点〕の枕詞、霰がふつてかしましいといふ意で、鹿島〔二字傍点〕にかけたものと見える。霰降り〔三字傍点〕と連用形を用ひたのは、「勇魚《いさな》取り海」といふと同格である。○鹿島の神 武甕槌命で、わが國土平定に大なる功績のあつた神である。特に鹿島の神を取り出したのは、作者が常陸の防人であるからである。
(77)【後記】 束國男子の意氣の見える雄々しい歌である。
 
4371 橘の 下吹く風の 香ぐはしき 筑波の山を 戀ひずあらめかも
    右の一首は、助丁占部廣方
 
【口譯】 あの橘の下を吹いて來る風の香ぐはしい筑波の山を戀ひないでをられようか。さてもなつかしいことである。
【語釋】 ○筑波 橘の名所で、今も多く蜜柑を栽培してをる。所謂筑波蜜柑である。
【後記】 想もおもしろく、調も高い歌である。一二の句が特に無限のなつかしさを覺えしめる。
 
4372 足柄《あしがら》の み坂た廻《まは》り 顧みず 吾《あれ》は越《く》え行く 荒男《あらしを》も 立《た》しや憚《はばか》る 不破《ふは》の關 越えて吾《わ》は行く 馬《むま》の蹄《つめ》 筑紫の埼《さき》に 留《ちま》り居て 吾《あれ》は齋《いは》はむ 諸《もろもろ》は 幸《さけ》くと申す 歸り來《く》までに
    右の一首は、倭文部可良麿《しづりべからまろ》
 
(78)   二月十四日常陸國部領防人使大目正七位上|息長《おきなが》眞人國島が進《たてまつ》れる歌の數十七首。但し拙劣なる歌は之を取載せず。
 
【口譯】 常陸からはる/”\とのぼつて來れば、險しい足柄のみ坂といふ坂がある。その足柄のみ坂をまはり、後をも顧みず、自分は越えてゆく。それから先には、荒い男も立つことを憚る不破の關がある。その不破の關をも越えて自分はゆく。いよ/\筑紫につけば、或埼に留つて、自分はわが家郷の人々の無事を祈らう。思ふ人は自分が歸つて來るまで、無事で幸福にあるやうにと、祝言を申すのである。
【語釋】 ○足柄のみ坂た廻り 足柄のみ坂〔五字傍点〕は今の足柄峠。た廻り〔三字傍点〕のた〔傍点〕は接頭語。た廻り〔三字傍点〕といつたのは、足柄路は酒勾川の流城に沿うて迂囘して登るからであらう。○越《く》え 越《こ》え〔傍点〕の訛。○荒しをも立しやはばかる
 荒しを〔三字傍点〕は勇敢なる兵士。立しや〔三字傍点〕のし〔傍点〕はち〔傍点〕の訛、や〔傍点〕は助辭、立つ〔二字傍点〕とは立ち越える意であらう。○馬の蹄 筑紫〔二字傍点〕の枕詞。○留《ち》まり居て 留《と》まり居ての訛。○齋はむ 祝ひ言をしようの意。○諸は 家族等を指す。○幸《さ》けく 幸きくの訛。
【後記】 防人の作としてはめづらしい、唯一の長歌で、をゝしい東國男子の氣象も現れ、なつかしい家人を思ふ情もみえる佳作である。のみならずこの歌により、常陸から難波に赴く交通路もはつきりと考へられるのである。
 
(79)4373 今日《けふ》よりは 顧《かへり》みなくて 大君の 醜《しこ》の御楯《みたて》と 出で立つ吾《わh》は
    右の一首は、火長|今奉部與曾布《いままつりべよそふ》
 
【口譯】 今日からは家をも身をも顧みることなく微賤の身ながらも、大君のために御楯となつて自分は出立つのである。
【語釋】 ○醜の御楯と 醜《しこ》は、醜草《しこくさ》・醜女《しこめ》・醜《しこ》ほととぎす等の醜〔傍点〕で、わが身を卑下していつた語である。契沖はみづから身を罵る詞なりといつてをる。御楯〔二字傍点〕は天皇の爲に敵を防ぐ身といふのを楯にたとへたのである。御楯〔二字傍点〕といふ語は毛詩に「赳々武夫。公侯干城」なりとあるに似てをるが、崇峻紀にも「捕鳥部萬曰、萬爲2天皇楯1」とあるから必ずしも毛詩の語を取つたとは見られない。
【後記】 君のため、國のため、總べてをうち忘れ、一意に邊防の大任をつくさうとする忠勇なる國民性の現れた尊い歌で、「出で立つわれは」の一句に、勇敢なる東國男子の面目が躍動してをる。作者は火長といふ微賤な役をつとめてゐた人であるが、このやうな立派な作のあることは、實にわが國の誇である。
【左註】 軍防令に「凡兵士十人爲2一火1」とあるから、火長は十人の長である。
 
(80)4374 天地《あめつち》の 神を祈りて 幸矢《さつや》貫《ぬ》き 筑紫の島を さして行く吾《われ》は
    右の一首は、火長|大田部荒耳《おほたべのあらみゝ》
 
【口譯】 天地の神々を祈つて、矢を箙《えびら》にさし、吾は筑紫の島をさしてゆくのである。
【語釋】 ○幸矢貫き さつ矢〔三字傍点〕は元來獵の矢のことであるが、ここは廣く矢の意に用ひたものと見える。貫き〔二字傍点〕は靱、胡※[竹/録]等に矢を貫き入れて持つことをいふのである。
【後記】 いかにも雄々しい歌である。「吾は」といふ主語を下においたのは倒裝法である。
 
4375 松の木《け》の 並《な》みたる見れば 家人《いはびと》の 吾《われ》を見送ると 立たりし如《もころ》
    右の一首は、火長物部|眞島《ましま》
 
【口譯】 旅路をゆくと、路ばたに松の木が並び立つてゐる。それを見ると、出發の際わが家人のわれを見送るとて立ち並んでゐたのを見るやうで、その時のことが、しのばれて、なつかしさに堪へないのである。
【語釋】 ○松のけ き〔傍点〕をけ〔傍点〕といふのは古言である。○いはびと 家人《いへびと》の訛。○見送ると 見送るとての意。(81)○もころ もころ〔三字傍点〕は如し〔二字傍点〕といふに同じ。
【後記】 路傍の松の木を見ても、家人のやうに見えるといふのは、片時も家を忘れ得ないためで、あはれが深い。
 
4376 旅行《たびゆき》に 行くと知らずて 母父《おもしゝ》に 言《こと》申《まを》さずて 今ぞ悔《くや》しけ
    右の一首は、寒川《さむかは》郡上丁|川上巨老《かはかみのおほおゆ》
 
【口譯】 このやうに防人にさゝれてゆくといふことを知らなかつたので、父母に暇乞をもせず、まことに申分けのないことである。
【語釋】 ○おもしゝ 父母のこと、母をおも〔二字傍点〕といひ、父をしゝ〔二字傍点〕といふのは東國の方言である。○悔しけ 悔しき〔三字傍点〕の訛。
【後記】 この防人は何か仔細があつて、急に防人にさゝれて、父母に暇乞をするひまがなかつたのであらう。類歌としては、四三三七の「水鳥の發《た》ちの急ぎに父母に物言はず來にて今ぞ悔しき」といふのがある。
 
(82)4377 母刀自《あもとじ》も 玉にもがもや 頂《いたゞ》きて 角髪《みづら》の中に あへ纒《ま》かまくも
    右の一首は、津守宿禰|小黒栖《をぐろす》
 
【口譯】 わが母が玉であればよいのに。玉であれば、頭にいたゞいて、角髪《みづら》のなかにあはせまかうものを。
【語釋】 ○あもとじ おもとじ〔四字傍点〕の訛、おも〔二字傍点〕は母、とじ〔二字傍点〕は一家の主婦の稱である。○玉にもがも もがも〔三字傍点〕は願望の詞。○角髪《みづら》 上古の男子の髪の結び方で、頂の髪を左右に分けて雙角《あけまき》のやうに結んだのであるが、後には主として、年少者の髪の結び方となり、耳の上で結んで、耳の前に垂れるやうになつた。○あへ纒く あはせ纒くこと、あへ〔二字傍点〕は、卷十七に「ほととぎす聲にあへぬく玉にもが」(四〇〇六)とあるあへ〔二字傍点〕と同じである。
【後記】 父母を思ふ純情のあらはれた歌で、四三二五の「父母も花にもがもや草枕たびはゆくともさゝごて行かむ」とあるのに似た歌である。
 
4378 月日《つくひ》やは 過ぐは往けども 母父《おもしゝ》が 玉の姿は 忘れ爲《せ》なふも
    右の一首は、都賀《つが》郡上丁中臣部|足國《たりくに》
 
(83)【口譯】 筑紫に來てから月日は次第/\に過ぎゆくけれども、わが父母のなごやかな姿はどうしても忘れることが出來ない。
【語釋】 ○つくひやは つくひ〔三字傍点〕、月日《つきひ》の訛。や〔傍点〕は助辭。○おもしし 母父《おもちゝ》。○玉の姿 玉のやうになごやかな姿。○忘れせなふ 忘れはしないといふので、なふ〔二字傍点〕は打消の助動詞である。
【後記】 この歌の中心想は「玉の姿」の一句にあるが、深い/\愛情の自然に發露して、和氣靄々然たる父母の姿を玉に譬へたのがおもしろい。
 
4379 白浪《しらなみ》の 寄《よ》そる濱邊《はまべ》に 別れなば 甚《いと》もすべなみ 八遍《やたび》袖振る
    右の一首は、足利郡上丁大舍人部|禰麿《ねまろ》
 
【口譯】 こゝは白浪のよせる濱邊であるが、もうこゝで別れてしまつたならば、まことにたよりなくなるであらうと思ふので、名殘をしく幾度も袖をふつた。
【語釋】 ○よそる よそる〔三字傍点〕はよする〔三字傍点〕の訛。○すべなみ すべなからむによつての意。
【後記】 これは足利郡の防人の歌であるから、利根川の沿岸まで、見送りに來た人々と別を惜んでよんだのではあるまいか。「八たび袖ふる」と動詞どめにしたのもよい。
 
(84)4380 難波門《なにはど》を 榜《こ》ぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺《いこまたかね》に 雲ぞたなひく
    右の一首は、梁田《やなだ》郡上丁大田部|三成《みなり》
 
【口譯】 難波の海門を漕ぎ出して見ると、わが故郷の遠ざかるは言ふまでもなく、近く見えてゐたあの神々しい生駒の高嶺さへ雲がたなびいて、次第に隔たつてゆく。
【語釋】 ○難波門 難波の海門である。○神さぶる 物ふりて神々しきこと。○生駒高嶺 大和河内の國境に在る連山である。神さぶるといつたのは、太古層の山で、關東地方の山々とはちがひ、樹木も少く、古色を帶びてゐるからであらう。
【後記】 次第に陸地を漕ぎはなれゆく舟中からあなたの空をながめて、名殘を惜む旅情のこもつた美しい叙景の歌である。
 
4381 國々の 防人《さきもり》つどひ 船乘りて 別るを見れば 甚《いと》もすべなし
    右の一首は、河内郡上丁|神麻績部《かむをみべの》島麿
 
【口譯】 國々の防人が難波に集り、船に乘つて更に別れてゆくのを見ると、前途が思ひやられて、(85)まことに悲しみにたへない。
【語釋】 ○つどひ ここでは難波につどふのである。
【後記】 諸國から、より集つて、賑はつてゐた防人の次第に別れゆくのを見て、一種の悲哀を感じたのであらう。
 
4382 ふたほがみ 惡《あ》しけ人なり あたゆまひ 我がする時に 防人《さきもり》にさす
    右の一首は、那須郡上丁大伴廣成
 
【口譯】 二人の上官はわるい人である、自分がこのやうに疝痛になやんでゐるのに防人にあてた。
【語釋】 ○ふたほがみ 新考に「二大上官《ふたおほかみ》にて、軍團の大毅小毅をいへるならむ」とあるのがおもしろく思はれる。軍防令に「凡軍團、大毅は一千人を領せよ、小毅は副うて領せよ」と見えてをる。○あしけ 惡しき〔三字傍点〕の訛。○あたゆまひ あたやまひ〔五字傍点〕の訛で、「疝痛なり」といふ宣長の説がよろしい。○防人にさす このさす〔二字傍点〕は指名すること。
【後記】 これは意地のわるい上官があつて、廣成の疝痛になやんでゐるのを知りながら、防人にさしたのを憤慨したのであらう。「あたゆまひわがするときに」と憚らず言ひ放つたところが(86)痛快である。
 
4383 津の國の 海のなぎさに 船裝《ふなよそ》ひ 發《た》し出《で》も時に 母《あも》が目もがも
    右の一首は、鹽屋《しほのや》郡上丁丈部|足人《たりひと》
 
    二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣|大戸《おほと》が進《たてまつ》れる歌の數十八首。但し拙劣なる歌は之を取載せず。
 
【口譯】 自分は遠く故郷をはなれて來たが、あの津の國のなぎさで、船の仕度をして出發するときに今一度母に逢ひたいものである。
【語釋】 ○發《た》し出も時に 發ち出む時に〔六字傍点〕の訛。○あも おも〔二字傍点〕の訛。
【後記】 古義にはこの歌を評して、「東人の實心《まごころ》いとあはれ深し」といつてをる。
 
4384 曉《あかとき》の かはたれ時に 島陰《しまかぎ》を 漕ぎにし船の たづき知らずも
    右の一首は、助丁|海上《うなかみ》郡海上國造|他田日奉直得大理《をさたのひまつりのあたひとこたり》
 
(87)【口譯】 曉のまだほのぐらいのに、漕いでいつた先の船はどうしたのであらうか。一向たよりが聞えない。
【語釋】 ○かはたれ時 「彼《か》は誰時《たれどき》」の意で、曉のまだほのぐらく、人の顔の見分け難い頃をいふ。曉にはかはたれ時といひ、夕にはたそがれ時といふのが、古來の習慣である。○島|陰《かぎ》 島|陰《かげ》の訛。○漕ぎにし 漕ぎいにし〔五字傍点〕の約。○たづき 消息である。
【後記】 先發の船を思うてよんだものであらう。古今集に「ほの/”\と明石の浦の朝ぎりに島がくれゆく舟をしぞ思ふ」とあるに似た歌である。
 
4385 行先《ゆこさき》に 浪音《なみなと》動《ゑら》ひ 後方《しるへ》には 子を等《と》妻を等《と》 置きて等《と》も來《き》ぬ
    右の一首は、葛飾郡|私部石島《きさきべいそしま》
 
【口譯】 今自分は、この難波の津から船を乘り出さうとしてゐるが、わが行く先には波の音がすさまじく鳴りひゞいてゐるのに、後《あと》には妻をも子をも殘しおいて來て、心がかりなことである。
【語釋】 ○浪音《なみなと》 浪の音。○しるへ 後方《しりへ》の訛。○子をと妻をと 原文古乎等都麻乎等〔七字傍点〕、この等〔傍点〕は代匠記を始め、古來多くラと訓んで助語としてゐるのであるが、この卷の書式は正訓の外は字音を借るのが例であ(88)るから、古義の説の如く、ぞ〔傍点〕に似て輕い辭と見るがよからうと思ふ。卷十四に「空ゆと〔傍点〕來ぬよ」又「きみをと〔傍点〕まとも」とあり、此の下に「いでてと〔傍点〕あがくる」とあるなど皆同例である。
【後記】 はる/”\東國から來た防人が、難波から船に乘らうとするときの歌である。ゆくてにはさわぐ波の音、後には殘る家人の面影、胸もはりさけるばかりであつたであらう。
 
4386 吾が門《かづ》の 五株柳《いつもとやなぎ》 いつもいつも 母《おも》が戀ひすす 業《なり》ましつしも
    右の一首は、結城郡|矢作部眞長《やはぎべまなが》
 
【口譯】 わが門前に在る五本《いつもと》の柳の名の如く、いつもいつもわが母は生業をしながらも絶えず戀ひこがれてゐられることであらう。
【語釋】 ○吾が門の五株柳 五株柳は、五株の柳。上のこの二句はいつもいつも〔六字傍点〕といはむが爲の有心の序。いつもいつもと同音を重ねて、聲調をととのへたのは、卷三の「妹が家にさきたる梅のいつもいつもなりなむ時に事は定めむ」、卷四の「河上のいつもの花のいつもいつも來ませわがせこ時じけめやも」、卷十一の「道のべのいつしば原のいつもいつも人のゆるさむ言をし待たむ」と同例である。○おもがこひすす おも〔二字傍点〕は 母のこと。戀すす〔三字傍点〕は、戀をくりかへす意の東語と思はれる。卷十四にも「梓弓末に玉纏き斯く(89)すすぞ宿《ね》なな成りにしおくをかぬかぬ」とある。「斯くすすぞ」は斯うしつつぞの意で、すす〔二字傍点〕はやはり動作をくりかへす意に用ひられてをる。同卷に「小菅ろの浦吹く風の何《あ》どすすか愛しけ兒ろを思ひ過さむ」とある「何どすすか」も」やはり何としつつかの意である。○業《なり》ましつしも 業ましつつも〔六字傍点〕の訛で、生業をしながらの意である。
【後記】 家に在つて母の生業を助けつゝあつた當時を思ひ出してよんだやさしい歌である。五株柳とあるのは、丁度門前に五株の柳があるのを聯想したものであらう。昔晋の陶淵明が門に五株の柳を植ゑて、自ら五柳先生と號したといふ故事を引いたものではあるまい。
 
4387 千葉《ちば》の野《ぬ》の 兒手柏《このてがしは》の 含《ほゝ》まれど あやにかなしみ 置きてたが來ぬ
    右の一首は、千葉郡大田部足人
 
【口譯】 千葉の野の兒手柏の葉のいまだ開けないやうに若くはあるが餘りの可愛さに、よくその無事ならむことを祈りおいて出發をして來た。
【語釋】 ○千葉の野 今の千葉縣千葉郡の地。○兒手柏 古來側柏といつて、其の葉の檜に似たものであるといつてをるが、側柏の葉は「ほほまる」といふべきものではないので、新考には、ははその一種であらうと(90)ある。○ほほまれど 女のまだ稚いのにたとへたのであらう。ほほまる〔四字傍点〕は、ふふまる〔四字傍点〕ともいひ、卷十四に「あどもへか阿自久麻やまのゆづる葉のふふまる時に風ふかずかも」とあるのと同意で、木の葉のつぼまつて、開けのびないのをいふ。○あやにかなしみ 餘りのかはゆさに。○おきて 四三九三の歌に 「齋瓮とおきて」とあるおきて〔三字傍点〕と同意で、その無事ならむことを祝ひおくことであらう。○たが來ぬ たち來ぬ〔四字傍点〕の誤であらう。
【後記】 この歌は、許嫁《いひなづけ》の女を殘して出發した防人の作である。
 
4388 旅と云《へ》ど 眞旅《またび》になりぬ 家の妹《も》が 著せし衣《ころも》に 垢つきにかり
    右の一首は、占部虫麿
 
【口譯】 旅といつても、ほんたうの旅の氣分になつた。自分の妻が着せてくれた着物にこのやう(91)に垢がついたことよ。
【語釋】 ○旅とへど 旅といへどの約り。○眞旅になりぬ 眞旅になる〔五字傍点〕は本當の旅の氣分になる意。○家のもが 家の〔二字傍点〕妹《いも》が〔傍点〕の約り。○つきにかり つきにけり〔五字傍点〕の訛。
【後記】 旅に在つては、見るものにつけ、聞くものにつけ、家を思ひ出すのが、常であるが、着物に垢のついたので、妻を思ふといふのは、まことに自然である。類歌としては、卷十五に「わがたびはひさしくあらしこのあがける妹が衣の垢つくみれば」といふのがある。
【左註】 人名の上に郡名のないのは、前と同郡であるので、略したのか、又は脱ちたのであらう。
 
4389 しほ船の 舳《へ》越《こ》そ白浪 俄《には》しくも 科《おほ》せたまふか 思はへなくに
    右の一首は、印波《いには》郡丈部|直《あたひ》大麿
 
【口譯】 海上を漕いでゐると舟の舳《へさき》を白浪があわたゞしく越して來ることがあるが、その白浪のやうに、あわたゞしくも思ひがけなく仰せつけられることであるわい。
【語釋】 ○しほ船 海上を渡る舟で、川船に對していふ。海の舟をしほぶね〔四字傍点〕といふのは、海の貝を「しほがひ」(催馬樂、伊勢海)といふ類である。○舳越そ 舳越す〔三字傍点〕の訛。上の三句は俄《には》しくも〔三字傍点〕といはむための序。(92)舟の舳をこす程の浪はにはかなものであるから、にはしくも〔五字傍点〕につづけたのである。○俄しくも あわただしくの意。○思はへ 思ほ〔二字傍点〕への訛。
【後記】 思ひがけなく出發するに際してよんだものであらう。舳越そ白浪は如何にもおもしろい比喩である。自己の經驗から來たものであらう。
 
4390 群玉《むらたま》の 樞《くる》に釘《くぎ》刺《さ》し 結《かた》めとし 妹が心は 搖《あよ》ぐなめかも、
    右の一首は、※[獣偏+爰]島《さしま》郡刑部|志加麿《しかまろ》
 
【口譯】 自分は今度家をたつに際しては、戸の樞に《くるる》に釘をさして結《かた》めるやうに、妻と行くすゑを堅く契りかためておいたのであるから、大丈夫妻の心のかはることはあるまい。
【語釋】 ○群玉《むらたま》の 樞〔傍点〕の枕詞。○樞《くる》に釘刺し 樞〔傍点〕はくるる〔三字傍点〕に同じく戸ぼそと戸まらと相合うて、戸を開閉せしめる裝置である。○結《かた》めとし 結めてし〔四字傍点〕の訛。○あよぐ あゆぐ〔三字傍点〕と同じく搖《ゆる》ぐことである。拾遺集に「雲まよひ星のあゆぐと見えつるは螢の空に飛ぶにぞありける」とあり、赤染衛門集に「手にならす扇の風をそへながらあゆぐ草葉につけて忘るな」とあるあゆぐ〔三字傍点〕と同一である。
【後記】 妻の心に、不安をもつ男の歌であらう。ゆるぐことがないといふのは、ゆるぐ疑のある(93)證據である。
 
4391 國々の 社《やしろ》の神に 幣帛《ぬさ》奉《まつ》り 贖祈《あがこひ》すなむ 妹《いも》がかなしさ
    右の一首は、結城都|忍海部五百麿《おしみべのいほまろ》
 
【口譯】 國々の社の神々に幣帛をさゝげ、わが夫の無事を祈つてゐるであらう妻の心を思ふと、いとしさに堪へない。
【語釋】 ○國々の社の神に云々 國々の神〔四字傍点〕といふのは處々をめぐつて 多くの神々に祈願をこめるのをいふのであらう。○贖祈すなむ 本居氏の説の如く贖物を出して、無事を祈ることである。すなむ〔三字傍点〕はすらむ〔三字傍点〕の訛。
【後記】 夫が防人にゆくにつけては、妻たる者がその無事ならむことを神々に祈るといふことは、恐らくは一般の風習であつたのであらう。かういふところにも、淳朴なる上代の美風の見えるのがおもしろい。
 
4392 天地《あめつし》の いづれの神を 祈らばか 愛《うつく》し母に また言《こと》問《と》はむ
(94)    右の一首は、埴生《はにふ》群大伴部|麻與佐《まよさ》
 
【口譯】 天地の神々は多いが、どの神樣をおたのみしたならば、無事に任期を了へて、いとしい母と話をすることが出來るであらうか。
【語釋】 ○天地《あめつし》 あめつちの訛。○言問ふ 語り合ふことをいふ。
【後記】 この歌もやはり、神に祈ることをいつてをる。防人歌にはこのやうに敬神思想を歌つたものゝ争いのに反し、全く佛教思想の影響の見えないのは注意すべきことである。
 
4393 大君の 命《みこと》にされば 父母を 齋瓮《いはひべ》と置きて 參出《まゐで》來にしを
 
【口譯】 勅命であるにより、自分は父母をも齋瓮《いはひべ》のやうに大切にわが家にいはひおいて、防人に來たのに、何のなすこともなくして、いたづらに歸ることが出來ようか。
【語釋】 ○命《みこと》にされば 命にしあれば〔六字傍点〕の約り。○齋瓮とおく 齋瓮〔二字傍点〕として大切にいはひおく意。
【後記】 大君のためには、親をも顧みることが出來ないといふのが、わが國の傳來の思想であるが、この思想が明瞭にこの歌に現れてゐるのが、非常におもしろい。
 
(95)4394 大君の 命かしこみ ゆみの共《みた》 眞寢《さね》か渡らむ 長けこの夜を
    右の一首は、相馬郡大伴部|子羊《こひつじ》
 
    二月十六日、下總國防人部領使少目從七位下|縣犬養《あがたいぬかひ》宿禰|淨人《きよひと》が進《たてまつ》れる歌の數二十二首。但し拙劣なる歌は之を取載せず。
 
【口譯】 勅命のかしこさに自分は防人となつてゆく。これからは毎夜弓を伴として長いこの夜を送ることであらうか。
【語釋】 ○ゆみのみた このゆみ〔二字傍点〕といふ語をこれまでは、多く夢〔傍点〕と解して來たのであるが、「夢の共」といふことは語を成さない。それで武田博士は弓〔傍点〕であらうといつてをられるが、卓見である。みた〔二字傍点〕はむた〔二字傍点〕の訛。○眞寢 眞《さ》は接頭語、寢る。
【後記】 雄々しい歌である。
 
   獨り龍田山の櫻花を惜める歌一首
4395 龍田山 見つゝ越え來し 櫻花 散りか過ぎなむ 我が歸るとに
 
【題意】 これは家持が奈良から難波に赴くとき、龍田山で見た櫻の散るのを思ひ惜んでよんだものである。(96)籠田山は大和國生駒郡三郷村の西嶺で、奈良から難波に赴く通路に當つてをる。ここに峠村といふのがあり、一の小さい岡がある。萬葉歌人が幣を手向けて、一路の平安を祈つたところである。このあたりは、今も櫻が多く、楓が多く、躑躅花が多い。
【口譯】 自分が大和から來るときには、龍田山の櫻の花を觀賞しながら、越えて來たのであるが、大和へ歸る時分にはもう散つてしまつてをるであらうか。惜しいものである。
【語釋】 ○歸るとに 歸るときにの意。
【後記】 下に「ふふめりし花の初に來しわれや散りなむ後にみやこへゆかむ」とあるのに似た歌である。
 
   濁江《にごりえ》の水に浮び漂へる糞《こづみ》を見て、貝玉の依らざるを怨恨《うら》みて作れる歌一首
4396 堀江より 朝潮|滿《み》ちに 寄る木糞《こづみ》貝にありせば つとにせましを
 
【題意】 濁江は即ち難波の堀江である。糞《こづみ》は木の屑、依るは流れよるのをいふ。
【口譯】 あの河口から朝潮のみちて來るにつれてよつて來る木の屑が貝であればよいのに。若し貝であつたら家へのみやげにもしように。
(97)【語釋】 ○朝潮みちに 朝潮のさしてくるのをいふ。○木糞 木のきれこけらなどの集つてをるのをいふ。○貝にありせば このせば〔二字傍点〕は單なる想像を示す語で、まし〔二字傍点〕といふ結び語と呼應するのが常である。
 
   館門《くわんもん》に在りて江南の美女を見て作れる歌一首
4397 見渡せば 向つ峰《を》の上の 花にほひ 照りで立てるは 愛《は》しき誰が妻
    右の三首は、二月十七日、兵部少輔大伴家持之を作る。
 
【題意】 館〔傍点〕は略解の説の如く、難波に逗留してゐる問の館即ち兵部省の出張所で、堀江の北岸に在つたものと見える。江南は堀江の南である。
【口譯】 見渡すと、向ふ岸の峯《を》の上に花のやうに美しい婦人が、あたりも照るばかりに立つてゐる。全體あれは誰の愛妻であらうか。
【語釋】 ○向つ峯の上 難波の宮は今の大阪城のあたりに在つたやうに考へられるが、若し果してさうだとすれば、この向つ〔二字傍点〕峯《を》といふのは、今の大阪城あたりの臺地をいふのではあるまいか。
【後記】》 艶麗な歌である。誰が妻といふ語は卷九の「黒牛潟潮干の浦をくれなゐの玉裳裾びき行くは誰が妻」とあるのと同例で、深い感歎の意を寓したものと思はれる。
 
(98)   防人《さきもり》の情《こころ》に爲りて思を述べて作れる歌一首並に短歌
4398 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫《ますらを》の 情《こころ》振《ふ》り興《おこ》し とりよそひ 門出《かどで》をすれば たらちねの 母かき撫で 若草の 妻は取り附き 平らけく 我は齋《いは》はむ 好《さき》く去《ゆ》きて 早|還《かへ》り來《こ》と 眞袖《まそで》持ち 涙を拭ひ 咽《むせ》びつゝ 言語《こととひ》すれば 群鳥《むらどり》の 出で立ちがてに 滯《とどこほ》り 顧《かへり》みしつゝ いや遠《とほ》に 國を來離れ いや高に 山を越え過ぎ 蘆が散る 難波に來居《きゐ》て 夕汐に 船を浮け居《す》ゑ 朝なぎに 舳《へ》向け漕がむと 侍候《さもら》ふと 我が居る時に 春霞 島廻《しまめ》に立ちて 鶴《たづ》が音の 悲しみ鳴けば はろばろに 家を思ひ出《で》 負征箭《おひそや》の そよと鳴るまで 歎きつるかも
 
【口譯】 勅命であるから、妻に別れるのは、悲しくはあるが、大丈夫たる心を振ひおこして旅裝をとゝのへて、門出をすると、母は自分をかき撫で、妻は自分に取りつき、一路の平安ならむやうに、わたくしは神々に祈つてをりますから、ごきげんよく入らして早く歸つて來てくださいと、袖で涙を拭ひ、咽びつゝ、うち語らふので、立ち去りかねて滯り、後をふり顧みつゝ、(99)いよ/\遠く國を來離れ、いよ/\高く山を越え過ぎ、この難波に來て、夕汐に船を浮べ、朝なぎに舳《へさき》をむけて漕ぎ出さうと、潮時を伺つてをると、春の霞は島のまはりに立ちこめ、鶴の聲が悲しさうに鳴くので、はるかに家郷の空を望み、身もだえをして、背なかに負うてゐる征箭《そや》のそよと鳴るまで、歎息《ためいき》をついたことである。
【語釋】 ○とりよそひ 旅の裝をととのへること。○たらちねの 母〔傍点〕の枕詞。○若草の 妻〔傍点〕の枕詞。○齋はむ 神に祈ること。○眞袖 眞〔傍点〕は接頭語。袖〔傍点〕といふに同じ。○群鳥の 出で立ち〔四字傍点〕の枕詞。○出で立ちがてに 出で立ち敢へずの意。○舳向け漕がむ 舳を行方に向けて漕ぎ出でむとての意。○侍候ふ 日和を待ち候ふこと。○島廻《め》 島み〔二字傍点〕の誤であらう。○負征箭《おひそや》のそよとなるまで 卷十三に、「この床のそよとなるまで歎きつるかも」とあるに同じく、身もだえをすること。負征箭〔三字傍点〕は背に負うた征箭即ち戰陣に用ひる箭である。
【後記】 この篇は、遠く本國を離れて來た防人等が難波津より舟を漕ぎ出さんとするに當つて覺える無限の哀愁を中心として、別離の情を述べたもので、末段が殊におもしろく、情景の活躍するを覺える。
 一篇の構想は柿本人麿の石見國から妻に別れて來る時の歌から、大なる影響を受けたものゝ如く、處々にこ類似の點がある。即ち「いや遠に國を來離れ、いや高に山を越え過ぎ」は、人麿(100)の「いや遠に里は放りぬ、いや高に山を越え來ぬ」を摸したもの、末段の感情の高調に達するさまを寫して、「負征箭のそよと鳴るまで歎きつるかも」は、人麿の「妹が門見む靡けこの山」とあるのに倣つたものゝやうに思はれる。然るに、人麿は石見の都野津から赤名へ爪先上りに上りゆくことを「いや高に山を越え來ぬ」といつたことを知らず、防人の單に山坂を越えることを、「いや高に山を越え過ぎ」といつてをるのは、滑稽である。「そよと鳴るまで嘆きつるかも」は卷十三の「この床のひしと鳴るまで嘆きつるかも」の語を取り用ひたのであらう。
 
   反歌
4399 海原《うなばら》に 霞たなびき 鶴《たづ》が音の 悲しき宵《よひ》は 國方《くにべ》し思ほゆ
 
【口譯】 海原に霞がたなびいてゐる上に、鶴が鳴いて、物悲しさをそゝる夕には、故郷の方が一入に戀しう思はれる。
【語釋】 ○國方し 故郷の方が、である。
 
4400 家おもふと 寐《い》を寢《ね》ず居れば 鶴《たづ》が鳴く 蘆邊《あしべ》も見えず 春の霞に
 
(101)【口譯】 家を思ふとて、夜もゆつくり寐ないでをると、鶴の鳴く蘆のほとりも春霞のために見えず、淋しさをそへてをる。
【語釋】 ○寐《い》を寢《ね》ず ゆつくりと寢ないこと。
【後記】 鶴の音に旅情を催すことは、しばしば歌はれてをり、卷一にも「大和こひ寐の寢らえぬに情《こころ》なくこの渚埼廻《すさきみ》に鶴鳴くべしや」とあるが、右の二首に於て、鶴をとり合せて、靜なる春の夜の淋しさを描き出したのが、おもしろい。契沖は「葦べも見えずなど防人の情をよく寫されたり」といつてをる。
 
4401 韓衣《からころも》 裾《すそ》に取りつき 泣く子らを 置きてぞ來ぬや 母なしにして
    右の一首は、國造丁|小縣《ちひさがた》郡|他田舍人《をさだのとねり》大島
 
【口譯】 自分が家を出ようとすると、子ども等は韓衣の裾にとりつき、別を惜しんで泣いた。自分はその子ども等を殘しおいて來たのである。しかも世話をしてくれるべき母もないのに。
【語釋】 ○すそ 韓衣の襴《すそ》である。當時の庶民服は筒袖で、ずほんのやうなものをはいてゐたのであるから、裾はないのであるが、唐衣即ち唐製の服には、すそについた横幅の襴があつたのである。
(102)【後記】 あはれの深い歌である。作者大島の妻は子を殘してなくなつたものと見える。久しく男手で育てゝ來た子を後に殘して旅立たうとする大島は定めし腹もちぎれるばかりの思ひをしたことであらう。「母なしにして」の一句に殊に力がこもつてゐる。
 
4402 ちはやぶる 神の御坂《みさか》に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 齋《いは》ふいのちは 母父《おもちゝ》がため
    右の一首は、主帳|埴科《はにしな》郡|神人部子忍男《かむとべのこおしを》
 
【口譯】 このけはしい神の御坂の神に幣帛を奉つて、一路の平安ならむことを祈るのも家に殘しおいた父母のためである。
【語釋】 ○ちはやぶる 神〔傍点〕の枕詞。○神の御坂は 信濃國伊奈郡から惠那嶽《ゑながだけ》の麓をめぐつて、美濃國惠那郡に出る路で、信濃の御坂ともいふ。神の御坂〔四字傍点〕といふのは坂路の險《さが》しいのを恐《かしこ》みていふのである。木曾路の南に當り、木曾路とは別である。續日本紀に、「大寶二年十二月始開2美濃國岐蘇山道1」とあり、又「和銅六年七月、美濃信濃二國之堺、徑道險阻、往還艱難、仍通2吉蘇路1」とあるところから考へると、餘程の難路であつたと見える。○幣《ぬさ》奉り齋ふ 峠の神に幣帛をささげるのは當時一般の風習である。齋ふ〔二字傍点〕は一路の平安を祈つたのである。
(103)【後記】 是まで家に在り、一身をさゝげて、父母の孝養につくして來た趣の見えるのがゆかしく思はれる。
 
4403 大君の 命かしこみ 青|雲《ぐむ》の 棚引《とのび》く山を 越《こよ》て來ぬかむ
    右の一首は、小長谷部《をはつせべの》笠麿
 
    二月二十二日、信濃國防人部領使道に上りて、病を得て來らず、進《たてまつ》れる歌の數十二首、但し拙劣なる歌は之を取載せず。
 
【口譯】 勅命のかしこさに高く青空に接する山々をも越えて來たことである。
【語釋】 ○青ぐむのとのびく山 青ぐむ〔三字傍点〕は青ぐも〔三字傍点〕の訛。との引く〔四字傍点〕はたなびく〔四字傍点〕の訛。青雲の棚引《たなび》く山とは高く青空に接する山々をいふ。○來ぬかむ 來ぬかむ〔四字傍点〕は來ぬかも〔四字傍点〕の訛である。
【後記】 信濃は土地が高く、險しい山の多い國であるが、「青空のとのびく山」といふ二句に山又山を越えゆく信渡路のさまの見えるのもおもしろい。
 
4404 難波道《なにはぢ》を 往きて來《く》までと 吾妹子《わぎもこ》が 着けし紐が緒 絶えにけるかも
(104)    右の一首は、助丁|上毛野牛甘《かみつけぬのうしかひ》
【口譯】 難波道を經て、西海に赴き、任務を了へて、歸つて來るまでは、切れないやうにといつて、妻のつけてくれた紐の緒がたうとう切れてしまつた。
【後記】 紐の緒の切れたのによつて、年月の久しくたつたのに驚いたのである。
 
4405 我が妹子《いもこ》が しぬびにせよと 着けし紐 糸になるとも 我は解かじとよ
    右の一首は、朝倉|益人《ますひと》
 
【口譯】 自分の妻がかたみになさいといつて着けてくれた紐であるから、だん/\細くすりへらされて、糸のやうになつても、自分は解くまいと思ふよ。
【語釋】 ○しぬび しのぶたより即ちかたみである。
【後記】 卷十一に「獨寢と薦《こも》朽《く》ちめやも綾席《あやむしろ》緒にな渇までに君をし待たむ」とあるのに似た歌である。
 
4406 我が家《いは》ろに 行かも人もが 草枕 旅は苦しと 告げ遣らまくも
(105)    右の一首は、大伴部|節麿《ふしまろ》
 
【口譯】 あのなつかしいわが家へゆく人があればよいが、旅は苦しいものだといつてやりたいのに。
【語釋】 ○我が家ろに 家ろ〔二字傍点〕のろ〔傍点〕は助辭、我が家《いへ》に。○行かも 行かむ〔三字傍点〕の訛。○草枕 旅〔傍点〕の枕詞。○告げやらまくも 告げやらむにの意。
【後記】 「旅は苦し」と率直にいつたのがおもしろい。恐らくはこれが多くの防人の心情であらう。尤も現代ならば旅は樂しといふべきところである。
 
4407 ひなぐもり 碓氷《うすひ》の山を 越えしだに 妹が戀しく 忘らえぬかも
    右の一首は、他田部子磐前《をさたべのこいはさき》
 
    二月十三日、上野國防人部領使大目正六位下|上毛野君《かみつけぬのきみ》駿河が進《たてまつ》れる歌の數十二首。但し拙劣なる歌は之を取載せず。
 
【口譯】 家をたつてからは、まだいくほどもなく、やうやく碓氷の坂を越えたばかりであるのに、はや妻が戀しくて忘れられぬことである。
(106)【語釋】 ○ひなぐもり 碓氷〔二字傍点〕にかかる枕詞。當時の交通路は、上野から信濃を經由し、美濃を過ぎて、大和に入つたものと思はれる。○忘らえぬかも 忘らえ〔三字傍点〕は忘られ〔三字傍点〕に同じ。忘られぬことである。
 
   防人の悲別の情を陳《の》ぶる歌一首並に短歌
4408 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに 島守《しまもり》に 我が立《た》ち來れば 柞葉《はゝそば》の 母の命《みこと》は 御裳《みも》の裾 つみ擧げ掻き撫で ちちの実《み》の 父の命《みこと》は 栲綱《たくづぬ》の 白鬚《しらひげ》の上《うへ》ゆ 涙垂り  歎き宣賜《のたば》く 鹿兄《かこ》じもの  唯一人して 朝戸出《あさとで》の かなしき吾が子 あらたまの 年の緒《を》長く あひ見ずは 戀しくあるべし 今日だにも 言問《こととひ》せむと 惜しみつつ 悲しび坐《いま》せ 若草の 妻も子等《こども》も 彼此《をちこち》に 多《さは》に圍《かく》み居 春鳥の 聲の吟《さまよ》ひ 白妙の 袖泣きぬらし 携《たづさ》はり 別れがてにと 引き止《とど》め 慕ひしものを 大皇《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 玉ぼこの 道に出で立ち 丘《をか》の岬《さき》 い廻《た》むる毎《ごと》に 萬度《よろづたび》 顧みしつつ はろばろに 別れし來《く》れば 思ふそら 安くもあらず 戀ふるそら 苦しきものを 現身《うつせみ》の 世の人なれは たまきはる 命《いのち》も知らず 海原《うなばら》の かしこき道を 島|傳《づた》ひ(107)い漕《こ》ぎ渡りて 在り廻《めぐ》り 我が來るまでに 平らけく 親はいまさね 恙《つつみ》無く 妻は待たせと 住吉《すみのえ》の 我が皇神《すめがみ》に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 祈り申して 難波津に 船を浮け居《す》ゑ 八十楫《やそか》貫《ぬ》き 水手《かこ》整《とゝの》へて 朝びらき 我《あ》は漕ぎ出《で》ぬと 家に告げこそ
 
【口譯】 大君の仰に從ひ、島守として、自分が家を立つて來ると、母は裳の裾をつかみ擧げて、わが頭をかき撫で、父は白髪の上から涙を垂れて、歎いていはれるには、唯一人で朝早く防人となつて、戸を出てゆくわが子を年久しく見なかつたならば、戀しいことであらう。せめては今日の中なりともゆつくりと話し合はうと名殘を惜しみ、悲しまれると、妻も子もあちらこちらに多くうち圍んで歎き合ひ、袖を泣きぬらし、手を携へて、別れるに堪へないと引き止め慕つたのに、勅命のかしこさに道を出で立ち、丘《をか》のさきをまはりゆく毎に、いくたびもふりかへりみつゝ、はる/”\と別れて來れば、思ふこゝろも安からず、戀ひる心も苦しいのに、人間のことゝて、命の程もわからず、恐ろしい道を島傳ひに漕ぎ渡つて、筑紫の處々をめぐりゆき、自分の歸つて來るまで、きげんよく親はいますやうに、恙なく妻は待つてゐるやうにと、住吉のわが祖先の神に幣帛をさゝげ祈り申して、難波津に船を浮けすゑ、船に多くの櫓をつけ、水(108)夫を整へて、朝早く出帆をしたと、家人に告げてくれ。
【語釋】 ○任《まけ》のまにまに 仰せに從つて。○島守《しまもり》 防人〔二字傍点〕に同じ。○柞葉《はゝそば》の 母〔傍点〕の枕詞。○御裳《みも》の裾つみ擧げ掻き撫で 母が自分の裾をつまみ擧げて、防人の頭を撫でること。○ちちの實の 父〔傍点〕の枕詞。○栲鋼《たくづぬ》の 白〔傍点〕の枕詞。○上ゆ 上に。○涙垂り 涙垂れ〔三字傍点〕といふに同じ。○鹿兒じもの 獨〔傍点〕の枕詞。鹿は一度に子を一匹しか生まないので、ひとり〔三字傍点〕の枕詞としたのであらう。○一人して 一人にてと同じ。○朝戸出《あさとで》の 朝早く戸を出てゆくこと。○あらたまの 年〔傍点〕の枕詞。○今日だにも せめては今日だけなりともの意。○言とひせむと 心ゆくまで物言ひかはさうとするのである。○悲しみいませ 悲しみいませばの意。○若草の 妻〔傍点〕の枕詞。○春鳥の さまよひ〔四字傍点〕の枕詞。○さまよひ 低い聲で啼くこと、卷一に、「春鳥のさまよひぬれば」とあるのに同じ。○白妙の 袖〔傍点〕の枕詞。○別れがてにと 別れゆくに堪へずとの意。○玉ぼこの 道〔傍点〕の枕詞。○丘の岬 丘陵の突端である。○い廻《た》むる めぐりゆくこと、い〔傍点〕は接頭語である。○思ふそら、戀ふるそら そら〔二字傍点〕は、心〔傍点〕である。○たまきはる 命の枕詞。○いのちも知らず いつ死なむ壽命とも知らずの意。○い漕ぎ渡り い〔傍点〕は接頭語。○在りめぐり 行きめぐりといふに同じ。○住吉の我が皇神 住吉の三社明神で、海上守護の神である。○告げこそ こそ〔二字傍点〕は、願望の詞。○八十楫《やそか》 多くの楫《かぢ》。
【後記】 この歌の内容は四三九八の歌に似たところがあるが、四三九八の歌は、難波津を漕ぎ出でむとするときの哀愁を中心とし、この歌は難波津から漕ぎ出した後の心もちを主としてゐ(109)る。山上憶良の「好去好來の歌」や「貧窮問答の歌」の影響を受けたものと見えて、類似の語がある。
 
   反歌
4409 家人《いへびと》の 齋《いは》へにかあらむ 平らけく 船出はしぬと 親に申さね
 
【口譯】 家の人たちがねんごろに神に祈つて下さつたためであらうか機嫌よく出發をしたと親につたへてもらひたい。
【語釋】 ○いはへにか いはへはにか〔六字傍点〕の意。
 
4410 み空《そら》行く 雲も使と 人はいへど 家づと遣らむ たづき知らずも
 
【口譯】 空をゆききする雲もやはり使だと人はいふけれども、みやげをもたせてやるすべがない。
【語釋】 ○たづき たより。
 
4411 家づとに 貝ぞ拾《ひり》へる 濱浪《はまなみ》は いやしくしくに 高く寄すれど
 
(110)【口譯】 濱べの浪はしきりに高く寄せてゐたけれども、家人を思ふあまり、みやげとして貝をひろつた。
【語釋】 ○拾《ひり》へる ひろへる〔四字傍点〕の訛。○濱浪 濱べの浪。○しくしく 頻りにの意。
 
4412 島かげに 我が船|泊《は》てゝ 告げやらむ 使を無みや 戀ひつゝ行かむ
    二月二十三日、兵部少輔大伴宿禰家持
 
【口譯】 島陰に來て、我が船の碇泊するごとに、家へたよりをしたいと思ふけれども、使のないゆゑに家にこがれつゝ、ゆくことであらうか。
【後記】 以上の四首は、難波津から漕ぎ出して、瀬戸内をゆく防人等の心もちを歌つたものであらう。
【左註】 前後の例によると、家持の下に作之〔二字傍点〕の二字が脱ちたのであらう。
 
4413 枕刀《まくらだち》 腰に取り佩《は》き 眞藍《まがな》しき 夫《せ》ろが罷來《まきこ》む 月《つく》の知らなく
    右の一首は、上丁那珂那|檜前舍人石前《ひのくまのとねりいはさき》の妻《め》大伴部|眞足女《またりめ》
 
(111)【口譯】 枕刀を腰につけて、任務を了り、いとしいわが夫の歸つて來る月はいつのことであらうか。
【語釋】 ○枕刀 いつも枕もとにおく刀である。○夫《せ》ろ ろ〔傍点〕は助詞。○罷《ま》き來む 罷りかへり來むの意。○つく つき〔二字傍点〕の訛。
【後記】 自分の夫の任果てゝ歸つて來る光景を豫想して、心を慰めてゐる妻の心がいぢらしく思はれる。
 
4414 大君の 命《みこと》かしこみ 愛《うつく》しけ 眞子《まこ》が手|離《はな》り 島傳ひ行く
    右の一首は、助丁|秩父《ちゝぶ》郡大伴少歳
 
【口譯】 勅命のかしこさにいとしい妻の手を離れ島傳ひにゆくことである。
【語釋】 ○愛しけ 愛しき〔三字傍点〕の訛。○眞《ま》子 妻をいふのであらう。○離り 離れ〔二字傍点〕といふに同じ。
 
4415 白玉《しらたま》を 手に取|持《も》して 見る如《の》すも 家なる妹を また見てももや
    右の一首は、主帳|荏原《えばら》郡物部|歳徳《としとこ》
 
(112)【口譯】 白玉を手に取り持つて見るやうにわが家に在る妻をふたゝび見ることが出來ようか。
【語釋】 ○持して 持ちて〔三字傍点〕の訛。○如《の》す 如《な》す〔傍点〕の訛。○見てももや もや〔二字傍点〕は契沖の説の如く、やも〔二字傍点〕の顛倒で、も〔傍点〕は意義のない助辭であらう。
【後記】 わが妻を白玉に譬へたのは、強い憧憬からである。
 
4416 草枕 旅行く夫《せな》が 丸寢《まるね》せば 家《いは》なる我《われ》は 紐解かず寢む
    右の一首は、妻|椋椅部刀自賣《くらはしべのどじめ》
 
【口譯】 旅にゆくわが夫が獨寢をするならば、家にあるわたくしも紐を解かないで寢ませう。
【語釋】 ○丸寢せば 丸寢〔二字傍点〕は着のみ着のままで寢ることをいふ。
【後記】 これは妻の椋椅部の刀自賣が夫の物部歳徳の歌にこたへたのであらう。夫に對する深い同情のみえる歌である。白玉の如くに自分を愛してくれる夫に對してはさもあるべきことであらう。
 
4417 赤駒《あかごま》を 山野《やまぬ》に放《はか》し 捕《と》り不得《かに》て 多摩《たま》の横山 歩《かし》ゆか遺らむ
(113)    右の一首は、豐島《としま》郡上丁椋椅部|荒虫《あらむし》の妻|宇遲部黒女《うぢべのくろめ》
 
【口譯】 わが夫が防人として出發するにつき、せめては、馬でと思ふのに、生憎山野に放し飼にしてある赤駒がつかまへられないので、多摩の横山を徒歩で遣らねばならないであらうか、まあ。
【語釋】 ○赤駒 常時は多く赤駒を用ひたものと見える。八〇四の憶良の歌にも「赤駒に倭文《しづ》鞍うち置き」と見えてをる。○放《はか》し 放《はな》し〔傍点〕の訛。○不得《かに》て かねて〔三字傍点〕の訛。○歩ゆ 歩より〔三字傍点〕に同じく、歩《かし》は歩《かち》の訛で、徒歩での意。○多摩の横山 多摩川の南岸に連亘する丘陵の總稱で、當時の國府即ち今の府中から相模に出る通路に當る。
【後記】 折角の心づくしを空しうした妻の心はいかばかりと思はれる、卷十三の三三四の歌とならべ見るべき作である。
 
4418 我が門の 片山|椿《つばき》 まこと汝《なれ》 我が手觸れなな 地《つち》に落ちもかも
    右の一首は、荏原郡上丁物部|廣足《ひろたり》
 
【口譯】 わが門の片山に咲いてゐる椿よ、ほんたうに自分の手を觸れない中に土に落ちるやうな(114)ことはあるまいか。
【語釋】 ○片山 片側の山。○我が手觸れなな 自分の手を觸れずしての意、なな〔二字傍点〕は、打消の助動詞なふ〔二字傍点〕の連用形と思はれる。
【後記】 これは婚約をしたのみで、未だ結婚をしない中に急に防人となつて、出發するに際し、女の身の上を氣づかつてよんだものであらう。
 
4419 家《いは》ろには 葦火《あしぶ》焚《た》けども 住み好《よ》けを 筑紫《つくし》に到りて 戀《こふ》しけ思《も》はも
    右の一首は、橘樹《たちばな》郡上丁物部|眞根《まね》
 
【口譯】 わが家では葦を焚いて薪とし、貧しい暮らしをしてゐても住みよいが、筑紫にいつたならば、家が戀しく思はれるであらう。
【語釋】 ○家《いは》ろには いは〔二字傍点〕はいへ〔二字傍点〕の訛。ろ〔傍点〕は助辭。○あし火《ぶ》 あしび〔三字傍点〕の訛。○住み好《よ》け 住み好き〔四字傍点〕の訛。○戀《こ》ふしけ 戀《こひ》しく〔二字傍点〕の訛。○思《も》はも 思《おも》はむ〔二字傍点〕の訛である。
【後記】 「家ろには葦火焚けどもすみよけを」といふ上の三句は實に千古の眞理を道破したもので、吾人の琴線に共鳴を感ぜしめるのである。謠曲葦刈にこの句を引用して、葦刈人の心理を(115)うつしてゐるのも尤だと思ふ。「葦火焚けども」といふ語に東國の農家のさまのしのばれるのもおもしろい。四三五七の歌にも「蘆垣」の語のあるのを思ふと、當時の田舍には隨分葦が多かつたものと見える。
 
4420 草枕 旅の丸寢《まるね》の 紐|絶《た》えば 我が手と附けろ これの針《はる》持《も》し
    右の一首は、妻椋椅部|弟女《をとめ》
 
【口譯】 あなたが旅に出て丸寢をなさる中に、若し着物の紐の切れるやうなことがありましたなら、この針をもつて、自分でお附けなさいませ。
【語釋】 ○丸《まる》寢 帶をも解かず、着のみ着のままで寢ること。○我が手と附けろ 我が手と〔四字傍点〕は自分の手での意。附けろ〔三字傍点〕のろ〔傍点〕は命令法につく助詞。○針《はる》持《も》し 針持ち〔三字傍点〕の訛。
【後記】 夫の出發に際し針を渡さうとして、夫の眞根の歌に答へてよんだものらしく、やさしい女心の現れた歌である。
 
4421 我が行《ゆき》の 息衝《いきづ》くしかば 足柄の 峯《みね》延《は》ほ雲を 見とと偲《しぬ》ばね
(116)    右の一首は、都筑《つづき》郡上丁|服部於田《はとりべのうへだ》
 
【口譯】 わが旅をしてをるのが、いきどしいほどに戀しくなつたら、この足柄の峯をはふ雲を見つゝ、自分を思ひ浮べて心を慰めて下さい。
【語釋】 ○息づくしかば 息どしいほど戀しく思ふならばの意。○峯延ほ雲を見とと 延ほ〔二字傍点〕は延ふ〔二字傍点〕の訛。見とと〔三字傍点〕は見つつ〔三字傍点〕の訛。
【後記】 この歌は四三六三の「わが面の忘れも時《しだ》は筑波嶺をふり放け見つゝ妹はしぬばね」とあるよりも更に熱情的である。
 
4422 我が夫《せな》を 筑紫へ遣《や》りて 愛《うつく》しみ 帶は解かなな あやにかも寢も
    右の一首は、妻《め》服部呰女《はとりべのあため》
 
【口譯】 わが夫を筑紫へやつて戀しさに堪へないので、帶を解かず、あやしきまでに心をとりみだして寢ることである。
【語釋】 ○愛《うつく》しみ いとほしさにの意。○解かなな 解かずしての意、なな〔二字傍点〕はなふ〔二字傍点〕といふ打消の助動詞の連用形で四四一八の歌のななと同じである。○あやに ここでは、怪しきまで戀ふる意。
(117)【後記】 夫の歌に答へたのであらう。
 
4423 足柄《あしがら》の 御坂《みさか》に立して 袖振らば 家《いは》なる妹は 清《さや》に見もかも
    右の一首は、埼玉《ききたま》郡上丁藤原部|等母麿《ともまろ》
 
【口譯】 自分は足柄山を越えてゆくのであるが、あの御坂に立つて袖をふつたならば、家に在る妻はさやかに見るであらうか。
【語釋】 ○足柄の御坂 相模國足柄上郡關本から駿河に越える坂路である。○家《いは》なる いへなる〔四字傍点〕の訛。○見もかも 見むかも〔四字傍点〕の訛である。
【後記】 これも妻に送つた歌であらう。
 
4424 色深く 夫《せな》が衣《ころも》は 染《そ》めましを 御坂《みさか》た廻《ば》らば ま清《さや》かに見む
    右の一首は、妻物部|刀自賣《とじめ》
 
    二月廿九日、武藏國部領防人使掾正六位上|安曇《あづみ》宿禰|三國《みくに》が、進《たてまつ》れる歌の數二十首。但し拙劣なる歌は之を取載せず。
 
(118)【口譯】 色深く夫の衣を染めておいたらば、よかつたのに、御坂をおまはりにならば、見えませう程に。
【語釋】 ○た廻らば 四三七二の歌に「足柄のみ坂たまはりと」あるに同じく、た〔傍点〕は接頭語である。
【後記】 前の歌の答である。
 
4425 防人《さきもり》に 行くは誰が夫《せ》と 問ふ人を 見るが羨《とも》しさ 物思ひもせず
 
【口譯】 この度わたしの夫は防人にゆくが、防人に關係のない婦人《ひと》たちは、暢氣《のんき》なものである。わたくしの夫を見て、あの防人にゆくのは誰の夫かなどと傍の人に問うてゐる。わたしはそれを見ると、ほんたうに羨しくなる。ほんにまあ、あの人たちは何の物思もないと見える。
【語釋】 ○問ふ人は 傍の人に問うてゐる婦人である。○ともしさ 羨しさ〔三字傍点〕といふに同じ。
【後記】 自分一人の悲しみに直面して、物思のない他人を羨しく思ふのは人情の自然である。今の出征軍人たちの妻女らも、口に出して言ふと言はぬとの別はあれ、心のうちは同樣であらうと思ふ。實に人情の機微に觸れた傑作である。「もの思ひもせず」といふ結句も率直でよい。
 
(119)4426 天地《あめつし》の 神に幣《ぬさ》置き 齋《いは》ひつゝ いませ我が夫《せな》 我《あれ》をし思はゞ
 
【口譯】 わたしを心から思つて下さいますならば天地の神々に幣を奉り、無事なるやうにと祈願をこめていらつしやいませ。
【語釋】 ○幣置き 幣帛を物に載せて神に奉るをいふ。
【後記】 「吾をし思はゞ」の一句はこの歌の生命であるが、この一句に當時の人々の信仰が見える。卷三に「佐保過ぎて寧樂のたむけに置く幣は妹を目かれず相見しめとぞ」といつたり、同卷に「木綿疊《ゆふだたみ》手に取り持ちてかくだにも吾は乞ひなむ君にあはぬかも」とあるなど皆同じ思想である。
 
4427 家《いは》の妹ろ 吾《わ》をしのぶらし 眞結《まゆす》びに 結《ゆす》びし紐の 解くらく思へば
 
【口譯】 しかと結んでおいた紐の解けるのを思へばわが家にある妻が自分を戀ひしたつてゐるのであらう。
【語釋】 ○家《いは》の妹ろ 家《いは》はいへ〔二字傍点〕の訛。妹ろ〔二字傍点〕のろ〔傍点〕は助辭。○眞結《まゆすび》 眞むすび〔四字傍点〕の轉で、しかと結ぶこと。
(120)【後記】 人に戀ひられると、紐が解けるといふ當時の俗信によつてよんだものであらう。卷十一にも「愛《うつく》しと思へりけらし勿忘れそと結びし紐の解くらく思へば」といふのもある。
 
4428 我が夫《せな》を 筑紫は遣《や》りて 愛《うつく》しみ 帶《えび》は解かなな あやにかも寢む
 
【語釋】 ○筑紫は 筑紫へ〔三字傍点〕の訛。○えび おび〔二字傍点〕の訛である。
【後記】 この歌は四四二二の歌と同一である。
 
4429 厩《うまや》なる 繩|絶《た》つ駒の 後《おく》るがへ 妹が言ひしを 置きてかなしも
 
【口譯】 厩にある駒が主人を慕つて、紐をも絶つて、從ひゆくやうに、妻がわたしも一緒にゆかうといつて別を惜むのを、家に殘しおいてきていとしい。
【語釋】 ○後るがへ がへ〔二字傍点〕はかは〔二字傍点〕といふに同じく反語である。卷十四に「上毛野佐野のふなばし取りはなし親はさくれどわはさかるがへ」とあり同卷に「わが目つまひとはさくれどあさがほのとしさへこごとわはさかるがへ」とあるがへ〔二字傍点〕と同じである。後るがへ〔四字傍点〕で後れようか、後れはしない、の意。
【後記】 上の三句は實地の經驗から來たものであらう。如何にも田舍らしい風景である。
 
(121)4430 荒男《あらしを》の い小箭《をさ》手挾《たばさ》み 向ひ立ち かなるま鎭《しづ》み 出でてと我が來る
 
【口譯】 わが旅立つにつき、見送りに來てくれた人々の騷ぎがしづまつて、自分は出てゆくのである。
【語釋】 ○荒男のい小箭《をさ》手挾み いを〔二字傍点〕は接頭語。上の三句はかなる〔三字傍点〕といはむ爲の序。○かなる 喧しく鳴ること、東歌に「あしがらのをてもこのもにさす罠《わな》のかなるましづみ」とあると同じである。○鎭《しづ》み 鎭まりてである。
【後記】 上の三句は、無心の序であるが、卷一に「ますらをのさつ矢手ばさみ立ち向ひ」とあるのに似てをる。
 
4431 小竹《ささ》が葉の さやぐ霜夜に 七重《ななへ》著《か》る 衣《ころも》に益《ま》せる 子ろが膚《はだ》はも
 
【口譯】 今夜は、小竹の葉の風にさわぐ音が聞えて、霜夜のさむさが身にしみるやうで、いく枚着物を重ねても堪へられない。それにつけて、思ひ出すのは、故郷に居たときの、この着物にもまさる妻の膚である。
(122)【語釋】 ○小竹が葉のさやぐ 笹の葉が風に騷ぐのである。○著《か》る 着《け》る〔傍点〕の訛であらう。○七重 幾枚もの意。○子ろ 妻をいふ。
【後記】 「小竹の葉のさやぐ」といふ一語に、靜かな霜夜の光景が聯想せられ、寢られぬまゝに故郷の妻を思ふところは、上にある「旅衣八重|著重《きかさ》ねて寢《い》ぬれどもなほ膚寒し妹にしあらねば」と似た歌で、肉感的ではあるが、卷四に見える、「蒸衾《むしぶすま》なごやが下に臥せれども妹とし寢ねば肌し寒しも」とは自ら趣を異にしてゐる。
 
4432 障《さ》へ敢《な》へぬ 命《みこと》にあれば 愛《かな》し妹が 手枕《たまくら》離れ あやに悲しも
    右の八首は、昔年《さきつとし》の防人の歌なり。主典刑部少録正七位上|磐余伊美吉諸君《いはれのいみきもろきみ》、抄寫して兵部少輔大伴宿彌家持に贈れり。
 
【口譯】 もだLがたい勅命であるので、いとしい妻の手を離れ、防人となつてゆくのが悲しい。
【語釋】 ○障《さ》へ敢へぬ 辭《いな》みあへぬといふに同じく辭《ことわ》りかねることをいふ。
 
   三月三日、防人を檢校する勅使、並に兵部使人等|同《とも》に集へる飲宴《うたげ》に作れる歌三首
(123)4433 朝なさな 揚《あか》る雲雀《ひはり》に なりてしが 都に行きて はや歸り來《こ》む
    右の一首は、勅使紫微大輔安倍|沙美麿《さみあまろ》朝臣
 
【題意】 防人を檢校する勅使は防人の檢閲使、兵部使人は兵部省から出張した役人である。同《とも)》に集へる飲宴とあるのは、難波の出張所で、宴會を開いたものと見える。
【口譯】 あの毎朝空へ揚る雲雀になりたいものである。さういふことが出來れば、都へいつてすぐに歸つて來ることが出來ように。
【語釋】 ○朝なさな 朝な朝な〔四字傍点〕に同じく、毎朝の義。○雲雀になりてしが てしが〔三字傍点〕は願望の詞、雲雀になりたいものである、の意。
【後記】 勅使並に便人等が難波に出張して、防人の事務を見てゐる中に多くの日數を經、滯留の長いのにたいくつをしてよんだものであらう。
【左註】 紫微大弼は皇后宮職の次官である。紫微といふ官の出來たのは、孝謙天皇の始に惠美押勝のした仕事で、皇后宮職を改めて紫微中臺とし、令、大小弼、大小忠、大小疎の職をおき、其の上に紫微内相一人をおいて、内外の兵事を掌らせ、押勝が自ら内相となつたのである。
 
4434 雲雀《ひばり》あがる 春べとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく
 
(124)【口譯】 いつのまにか、雲雀のあがる春の季節にすつかりなつてしまつたので、戀しい都もみえず、霞がたなびいてをる。
【語釋】 ○さやに さやに〔三字傍点〕は清《さや》にで、たしかに、すつかりなどの意である。
【後記】 「都も見えず霞たなびく」の二句に望郷の情がよく現れてゐる。
 
4435 含《ふゝ》めりし 花の初めに 來《こ》し吾や 散りなむ後に 都へ行かむ
    右の二首は、兵部少輔大伴宿禰家持
 
【口譯】 自分は花のまだつぼんでゐた春の初にこゝへ來たのに、花が散つてしまつてから、都へゆくことであらうか。
【語釋】 ○ふふめりし つぼんでゐた。
【後記】 花を見ての實感であらう。二月十七日に奈良から來る途でよんだ「たつ田山見つゝこえ來し櫻花ちりかすぎなむわがかへるとに」と對照して見るべき歌である。
 
   昔年《さきつとし》相替りし防人の歌一首
(125)4436 闇《やみ》の夜の 行く先《さき》知らず 行く吾を 何時《いつ》來まさむと 問ひし兒らはも
 
【題意】 大伴家持が昔の防人の歌として筆録しておいたものである。
【口譯】 やみの夜のやうに行く先さへ知れずゆく自分をとらへて、いつ歸つて來るかと問うた、あのあどけない妻はいまどうしてゐるであらうか、まあ。
【語釋】 ○やみの夜の ゆくさきしらず〔七字傍点〕の枕詞。○ゆくさきしらず 行く先知らず〔六字傍点〕といつたのは、防人は太宰府から分遣せられて行く先が定まらないからであらう。
【後記】 妻をいとほしむ心もちのよく見える歌である。類歌としては、卷十七に「大海のおくがも知らすゆくわれをいつ來まきむと問ひし兒らはも」といふのがある。
 
   先の太上天皇の御製の霍公鳥の歌一首
4437 ほとゝぎす 猶も鳴かなむ 舊《もと》つ人 かけつゝもとな 朕《あ》を哭《ね》し泣《な》くも
 
【題意】 ここは天平勝寶七歳の條下で、當時の太上天皇は聖武天皇であらせられるから、ここに先の太上天皇とあるのは、元正天皇のことである、
【口譯】 ほとゝぎすよ、猶この上にも鳴いてくれ。お前が鳴けば、昔の人を思ひ浮べて、あはれ(126)を催し、やたらに自分を音に泣かせる程昔をしのぶことが出來るから。
【語釋】 ○もとな やたらにの意。○哭《ね》し泣くも 哭《ね》し泣かすもの約。卷十四に「相模峯のをみねみそぐし忘れ來る妹が名よびて吾を哭《ね》し泣くな」とあると同じである。
【後記】 杜鵑は冥途より來る鳥だといふので杜鵑の聲に故人をしのぶのは常のことであるが、聲を出して泣くやうにと仰せられたのは、故人をしのばせ給ふ御心の切なるがためである。契沖は、「養老五年十月に元明天皇崩御し給ひて明る年の夏に至つて郭公の鳴くを聞こしめししのび參らせ給ひてよませたまへるにや」といつてをる。
 
   薩妙觀、詔に應じて和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
4438 ほとゝぎす 此處《ここ》に近くを 來鳴きてよ 過ぎなむ後に しるしあらめかも
 
【題意】 薩妙觀は歸化の尼で、元正天皇に仕へた人であらう。薩は姓である。續日本紀には、「神龜元年五月辛未從五位上薩妙觀賜2姓河上忌寸1」と見えてをる。
【口譯】 ほとゝぎすよ、こゝに近う來て鳴いてくれ、この時を過ごしては何のかひもあるまいから。
(127)【語釋】 ○近くを を〔傍点〕は助詞。近く、といふに同じ。○過ぎなむ この時が過ぎてしまつたらの意。○しるしあらめかも しるし〔三字傍点〕はそのかひ、あらめかも〔五字傍点〕はあらめやもといふに同じく、反語である。
【後記】 これは詔に應じて同じく、霍公鳥を戀ふる意をよんだものである。
 
   冬の日|靱負《ゆげひ》の御井《みゐ》に幸《いでま》しし時、内命婦石川朝臣、詔に應じて雪を賦する歌一首 【諱を邑婆《おほば》といふ】
4439 松が枝《え》の 地《つち》に着くまで 降《ふ》る雪を 見ずてや妹《いも》が 籠《こも》り居るらむ
    時に水主内親王《みぬしのひめみこ》、寢膳安からす、累日參り給はず。因りて此の日を以て、太上天皇、侍嬬等に勅して曰く、水主内親王に遣らむ爲に、雪を賦して歌を作りて、獻れとのたまふ。ここに諸命婦等歌を作るに堪へず。しかるに此の石川命婦、獨り此の歌を作りて之を奏せりき。
    右件の四首は、上總大掾正六位上大原眞人|今城《いまき》傳誦して云爾《しかいふ》【年月いまだ詳ならず】
 
【題意】 靱負の御井を本居宣長は「若し靱負府の内にある井を云ふにあらむ」といつてをるが、光仁紀寶龜三年の條にも「三月甲申置2酒靱負御井1」と見えてをる。靱負府は檢非違使廳の一名で、非法違法を檢校糺察することを掌る役所である。内命婦は大寶令の制では、五位以上を帶して居る婦人を内命婦とし、五位以下を(128)帶して居る掃人を外命婦といふことになつてをる。石川内命婦は大伴安麿の妻大伴坂上郎女の母である。
【口譯】 このやうに松の枝がたわんで、地に着くほど見事に積んでゐる雪を見ないで、内親王は家に籠つてゐるであらうか。
【語釋】 ○妹 ここの妹〔傍点〕とは、水主《みぬし》内親王を指す。續日本紀に「天平九年八月辛酉、三品水主内親王薨、天智天皇之皇女也」とある御方である。
【後記】 「松が枝の地に着くまで降る雪を」は、おもしろい叙景である。末の一句は水主内親王の御病にこもつてゐられるのを思つて、太上天皇に代つてよんだものであらう。
【左註】 太上天皇は聖武天皇である。年月いまだ詳ならずとは四四三六以下四首の出來た年月のわからないのをいふ。
 
   上總國朝集使大掾大原眞人今城、京に向ひし時、郡司の妻女等之に餞せる歌二首
4440 足柄の 八重《やへ》山越えて いましなば 誰をか君と 見つゝ偲ばむ
 
【題意】 朝集使は、地方廳から一年間の政務の報告をする朝集帳を中央政府に上る重要なる使節である。中央政府で朝集帳を掌るものは式部兵部の二省であるが、當時家持は兵部少輔であつたから、今城とは政務(129)上の交渉があつたものと見える。
【口譯】 足柄のいくへにも重なる山を越えて、おいでになつてしまつたら、これからは誰をあなたと見て、あなたを偲びませうか。
【語釋】 ○足柄の八重山 足柄山は相模園に在り、坂東諸國から大和への通路に當つてをる。
【後記】 まことに御名殘をしいことであるの餘意がある。
 
4441 立ちしなふ 君が姿を 忘れずば 世のかぎりにや 戀ひわたりなむ
 
【口譯】 今遠くお別れをしてしまつても、しなやかな、あなたの御姿を忘れることが出來ず、絶えず面影に立ちまするならば、一生涯あなたを戀ひつゞけることでありませう。
【語釋】 ○立ちしなふ しなやかにして、美しいのをいふ。○忘れずば 忘れないならばの意。○世のかぎり 世〔傍点〕はいのち、世のかぎり〔五字傍点〕は、生涯である。
【後記】 今城は風采のよい人であつたのであらうか。
 
   五月九日、兵部少輔大伴宿禰家持の宅に集飲《うたげ》せる歌四首
(130)4442 我が兄子《せこ》が 宿のなでしこ 日《ひ》並《なら》べて 雨は降れども 色も變らず
    右の一首は、大原眞人今城
 
【口譯】 あなたの宿のなでしこは、日を重ねて雨は降るけれども、色も變りません。
【語釋】 ○日並べて 日を重ねて。卷八に「あしびきの山ざくら花日ならべてかく咲きたらばいと戀ひめやも」とある日ならべ〔四字傍点〕に同じ。
【後記】 この歌は、雨は降れども瞿麥の色の變らないやうに、自分との交情はかはらないといふ餘意を含めたものと見える。この時眞人は朝集使として奈良に來たので、親しい間柄である家持を訪ひ、饗應を受けたものであらう。瞿麥は強い花で、容易に色のかはらないことは人の知る通りである。
 
4443 ひさかたの 雨は降りしく 瞿麥《なでしこ》が いや初花に 戀しき我が兄《せ》
    右の一首は、大伴宿禰家持
 
【口譯】 雨は降りつゞくにもかかはらず瞿麥の花のいよ/\新しく匂ふやうにいよ/\戀しく思はれるわが君である。
(131)【語釋】 ○雨は降りしく 雨は降りつづくけれどもの意であらう。○いや初花に いよ/\新しく匂ふやうにの意。
【後記】 前の歌に答へたのである。
 
4444 我が兄子《せこ》が 宿なる萩の 花咲かむ 秋のゆふべは 我を偲ばせ
    右の一首は、大原眞人今城
 
【口譯】 今は夏でありますが、あなたの宿にある萩の咲く秋の夕にはわたくしを思ひ出して下さい。
【語釋】 ○わが兄子 家持を指す。
【後記】 秋の夕はとあるのは、秋までに他へ赴任する筈になつてゐた爲であらうか。
 
   即ち鶯の囀《さへづ》るを聞きて作れる歌一首
4445 うぐひすの 聲は過ぎぬと 思へども 染みにし情《こゝろ》 なほ戀ひにけり
    右の一首は、大伴宿禰家持
 
(132)【題意】 即ちといふはちやうど其の時の意であらう。
【口譯】 もはや鶯の鳴く季節は過ぎてしまつたとは思ふけれども、其の聲に染みた心からなほ戀しく思ふのである。
【語釋】 ○過ぎぬ 五月九日の集飲であるから、鶯の鳴く季節の過ぎ去つてゐることをいふ。○染みにしこころ 染みにしこころよりの意。
【後記】 偶然、老鶯の聲を聞いての即興の作である。今城を戀ふべき意をよせたのであらう。
 
   同じき月十一日、左大臣橘卿、右大辨|丹比《たぢひ》國人眞人の宅に宴せる歌三首
4446 我が宿に 咲けるなでしこ 幣《まひ》は爲《せ》む ゆめ花散るな いやをちに咲け
    右の一首は、丹比國人眞人の、左大臣を壽《ことほ》ぐ歌
 
【題意】 橘卿は諸兄である。諸兄は聖武天皇の天平十五年に左大臣に任ぜられ、孝謙天皇の天平勝寶二年二月に致仕し、天平寶字元年正月になくなつてをる。丹比國人の傳は詳にはわからないが、右大辨とあるから、同じ太政官につとめて、諸兄の下役人であつたのである。
【口譯】 わが宿に咲いてゐるなでしこよ。お前に捧げ物をするから、決して花を散らさないで、(133)けふこゝにお出で下さつた左大臣家とともに咲きかへり/\して永く咲いてくれ。
【語釋】 ○まひは爲む 幣《まひ》は捧げ物、まひはせむ〔五字傍点〕といふ言葉は、卷五に「わかければ道ゆき知らじまひはせむしたべのつかひ負ひてとほらせ」とあるに同じ。○いやをち 初にかへり/\して永久に絶えないのをいふ。
【後記】 これは花の咲きかへり/\するによそへて、左大臣家の繁榮を祝したのである。瞿麥の花は盛りの永いもので咲きかへり/\するところから、とこなつともいふのであるが、その盛りの久しいのによそへて、祝ひの詞としたのはよい思ひつきである。
 
4447 幣《まひ》しつゝ 君がおほせる 瞿麥《なでしこ》が 花のみ訪はむ 君ならなくに
    右の一首は、左大臣の和《こた》ふる歌
 
【口譯】 捧げ物をしてまで、あなたがお育てになる瞿麥の花のみを訪ふ吾ではないのに、なぜ私の深い心もちが通じないのであらうか。
【語釋】 ○君ならなくに 原文伎美奈良奈久爾〔七字傍点〕を新考に伎美〔二字傍点〕は阿禮〔二字傍点〕の誤であらうとあるが、如何にもその通りであらうと思ふ。
(134)【後記】 自分は主人の心にめでて訪ひ來たのであるといふ餘意がある。
 
4448 紫陽花《あぢさゐ》の 八重咲く如く やつ世《よ》にを いませ我が兄子《せこ》 見つゝしぬばむ
    右の一首は、左大臣の味狹藍《あぢきゐ》の花に寄する詠なり
 
【口譯】 この紫陽花の八重に咲くやうに、幾年も久しく御長命あらせられませ、見てしのびませう。
【語釋】 ○やつよにを やつよ〔三字傍点〕は、いくつも年を重ねることをいふ、を〔傍点〕は感動詞。
【後記】 これは反對に、諸兄が國人の家の榮えを祝したのである。小さい花の群り咲く紫陽花を「八重咲く」といつたのもおもしろい。
 
   十八日、左大臣橘奈良麿朝臣の宅に宴《うたげ》せる歌三首
4449 なでしこが 花取り持ちて うつらうつら 見まくの欲しき 君にもあるかな
    右の一首は、治部卿船王
 
(135)【題意】 左大臣は橘諸兄、奈良麿ほ諸兄の長男である。
【口譯】 撫子の花を取り持つて、つらつら觀賞するやうにいつまでもさし向つてゐたい君であるわい。
【語釋】 ○うつらうつら 契沖宣長の説の如くつら/\である。土佐日記にも「めもうつらうつら鏡に神の心をこそ見つれ」とある。
【後記】 これは主人をうつくしんでお詠みになつたものであらう。「うつら/\」の語もよく當つてをる。いかにも瞿麥は見れば見るほど美しい花である。
【左註】 船王は舍人親王の御子、淳仁天皇の御弟で、後に仲麿の亂に與して隱岐に流された御方である。
 
4450 我が兄子《せこ》が 宿のなでしこ 散らめやも いや初花に 咲きは益《ま》すとも
 
【口譯】 わが君の宿のなでしこは散ることがあらうか。いや新しく咲きまさることはあつても。
【語釋】 ○咲き益す 咲きまさる意。
【後記】 これは主人の一門を祝した歌である。歌としては四四四六の歌よりまさつてをる。
 
(136)4451 愛《うるは》しみ 我《あ》が思《も》ふ君は なでしこが 花に比《なぞ》へて 見れど飽かぬかも
    右の二首は、兵部少輔大伴宿禰家持追ひ作れり。
 
【口譯】 我が愛《うるは》しく思ふ君は、なでしこの花に準じて、いつまで見てゐても飽きることがない。
【語釋】 ○愛《うるは》しみ 古義の説の如く、うるはしうの意と思はれる。○花になぞへて なぞへて〔四字傍点〕は準じてといふに同じ。
【後記】 これ等の歌から考へると、家持は奈良麿と餘程親しかつたものと見える。それにもかゝはらず、奈良麿の亂に連坐されなかつたのは、仲麿と姻戚であつたからであらう。仲麿の子久須磨が家持の女婿であつたらうといふのは萬葉集攷證の説であるが、この事については上代日本文學史に武由博士のくはしい考證がある。
 
   八月十三日、内の南の安殿《やすみどの》に在《いま》して、肆宴《とよのあかり》きこしめす歌二首
4452 をとめらが 玉裳《たまも》裾びく 此の庭に 秋風吹きて 花は散りつゝ
    右の一首は、内匠頭兼播磨守正四位下|安宿王《あすかべのおほきみ》之を奏せり
 
【題意】 安殿は大安殿即ち大極殿に對する語で、小安殿のことと思はれる。小安殿は太極殿の後房で、その(137)遺址は太極殿址の北に現存してをる。これに内外南北の區別があつたのであらう。
 天武紀十年の條に、春正月辛末朔丁丑、天皇向ひの小殿に御して宴したまふ。是の日親王諸王を内安殿に引き入れ、諸臣をば皆外安殿に侍せしめ、共に酒を置き以て樂を賜ふと見えてをる。公事根源にはこの文を引き、天武天皇十年正月七日に御門小安殿におはしまして宴會ありとし、日本紀通證にも、内安殿は疑ふらくは、小安殿をいふとあるが、たしかには定めがたい。
【口譯】 今日は御宴會の日のことゝて、女房達がうるはしい裳の裾をひいて遊ぶこの庭に秋風が吹いて、花のちりつゝあるのは、おもしろい風情である。
【語釋】 ○をとめらが玉裳 をとめら〔四字傍点〕は宮女たち。玉裳〔二字傍点〕はうつくしい裳。○花は散りつつ ここの花〔傍点〕は主として萩を指すのであらう。
【後記】 禁庭御宴の光景を描いて、眼前に髣髴たらしめる繪のやうな歌である。
【左註】 安宿王は長屋王の御子である。
 
4453 秋風の 吹き扱《こ》き敷ける 花の庭 清き月夜《つくよ》に 見れど飽かぬかも
    右の一首は、兵部少輔從五位上大伴宿禰家持 【いまだ奏せず】
 
(138)【口譯】 秋風のしごくやうに花を吹きちらして敷いた庭の美しきは月夜に見ても飽きないことである。
【語釋】 ○扱《こ》き敷く しごくやうにして敷くこと。
【後記】 これも禁庭の秋色をたゝへた優美な作である。
 
   十一月二十八日、左大臣、兵部卿橘奈良麿朝臣の宅に集ひて宴《うたげ》せる歌一首
4454 高山の 巖《いはは》に生ふる 菅《すが》の根の ねもころごろに 降り置く白雪
    右の一首は、左大臣の作
 
【口譯】 今日は野にも山にも白雪がふりおいて、美しいながめである。
【語釋】 ○上の三句はねもころごろに〔七字傍点〕のね〔傍点〕といはむ爲の序である。
【後記】 雪見のために宴を開いたものと見える。
 
   天平元年、班田の時の使葛城王、山背《やましろ》國より薩妙觀命婦等の所に贈れる歌一首 【芹子の裹《つと》に副へたり】
4455 あかねさす 晝《ひる》はたたびで ぬはたまの 夜《よる》の暇に 摘《つ》める芹子《せり》これ
 
(139)【題意】 大化の改新以後天下の土地は皆公田となり、班田收授の法が行はれてをる。即ち人生れて、六歳になると、男には朝廷より三段づつ、女には其の三分二づつを給與せられて、これを耕作し、租を朝廷に納め、その餘を食料としたので、その田を口分田といつたのである。
 班田の事は五畿内では班田使が掌り、畿外では國司が掌り、班田使は臨時に任命して派遣せられることになつてゐた。これには長官次官等がある。
 この時には葛城王即ち後の橘諸兄が班田使長官となつて、山背に赴かれたのであらう、聖武紀天平元年十一月の條に「任2京及畿内班田使1」とあるのはこの時のことと見える。
【口譯】 わたくしは晝は班田の事務にいそがしいので、夜の暇に摘んだのが、この芹でありますから、よく志の程を御くみとり下さいませ。
【語釋】 ○あかねさす 晝〔傍点〕の枕詞。○たたびて 人民に田を班ち與へることをいふ。○ぬばたまの 夜の枕詞。
【後記】 これは戯れて命婦におくられたものであらう。
 
   薩妙觀命婦の報へ贈れる歌一首
4456 丈夫《ますらを》と 思へるものを 刀《たち》佩《は》きて かにはの田井に 芹子《せり》ぞ摘みける
(140)    右の二首は、左大臣之を讀めりと云爾 【左大臣は是葛城王後橘姓を賜へり】
 
【口譯】 これは驚きましたよ。私はこれまでは、あなたを立派な御役人樣だとばかり思つてゐましたのに、刀を佩きながら、かにはの田におりて、芹をおつみになりましたのでございますか。
【語釋】 ○かにはのたゐ 山城國|相樂《さがらか》郡|綺田《かばた》村の地、奈良市の北に當つてをる。たゐは田といふに同じ。
【後記】 これも戯れて葛城王に贈つたものであらう。
【左註】 これは、昔左大臣が讀まれたと人のいふのを聞いて、家持が筆録したのであらう。
 
   天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉二十四日戊申、天皇、太上天皇、太后、河内離宮に幸行《いでま》して、信を經、壬子を以て難波宮に傳幸す。
   三月七日、河内國|伎人《くれ》郷の馬《うまの》國人が家にて宴《うたげ》したまひしときの歌三首
4457 住吉《すみのえ》の 濱松が根の 下延《したば》へて 我が見る小野の 草な刈りそね
    右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持
 
【題意】 戊申の下に、舊本に天皇の二字のないのは脱ちたのであらう。續日本紀には、「勝寶八歳春二月戊申行幸。是日至2河内國1。御2智識寺南行宮1」とあるから、天皇も御同列であつたことが明である。然るに(141)此集には天皇を脱し、續紀には太上天皇と皇太后とを脱してをることは、契沖のいつてをる通りである。太上天皇は聖武天皇、太后は光明皇后を指す。
 河内離宮は、智識寺の南の行宮である。智識寺は河内國中河内郡字太平寺村に在り。聖武天皇が嘗てここに幸して、その本尊を禮拜せられたことがあり、これに倣つて、廬遮那佛を造らうといふ發願をせられたといふところである。今はひどく荒廢して、觀音堂を存するのみである。
 信は左傳に「再宿爲v信」とあつて、二晩どまりのことであるが、ここは戊申から壬子まで四宿をせられたので、古義には、信は信々の誤であらうといつてをる。
 伎人《くれ》郷、攝津國東成郡住吉の東一里許に喜連《きれ》村といふのがあり、河内の界である。昔は河内に屬し、伎人《くれ》郷といつたのであらうといふことである。
【口譯】 このあたりは小野の草がおもしろく、自分はこの後も永く見て樂みたいと心に豫期してをるのであるから、刈り取つてしまつてはくれるなよ。
【語釋】 ○住吉の濱松か根の下延へて 上の二句は「下延《したば》へ」といはむ爲の序。これから往つて遊ばうとする住吉の海岸の風景を捉へ來つて序としたものと見える。下延へ〔三字傍点〕は、心の中に豫期するとか、人知れず想を懸ける意に用ひる語で、卷十四の「夏そひく宇奈びをさして飛ぶ鳥のいたらむとぞよあが下延へし」、卷十八の「さゆり花ゆりもあはむとしたばふる心しなくば、今日もへめやも」、卷十四に「足柄のみさかかしこみくもり夜のあがしたばへをこち出つるかも」とあるのが、其の例である。
(142)【後記】 馬《うまの》國人の家の庭園の美しいのをたゝへたものである。
 
4458 鳰鳥《にほとり》の 息長《おきなが》河は 絶えぬとも 君に語らむ 言盡きめやも 【古新いまだ詳ならず】
    右の一首は、主人散位寮散位|馬《うまの》史國人
 
【口譯】 かつて絶えたことのない、彼の息長河の水の絶えるやうなことがあつても、君と語り合ふべきことの盡きることがあらうか。さても飽かず向はまほしい君である。
【語釋】 ○鳰鳥の 息長河〔三字傍点〕にかかる枕詞。○息長河 近江國坂田郡に在り、今|天《てん》の川といふ。息長村を流れてをる。
【後記】 この歌は源氏物語にも引歌として載せてある有名な歌であるが、息長河をよみ入れたところから考へると、坂田郡あたりの民謠らしく思はれる。それをこゝに擧げたのは、家持の歌の意に答へるために、古歌を誦したのであらう。古新未詳は後人の書き加へたものと見える。想もおもしろく、調の高い歌である。類歌としては、卷十五に「わたつみの海にいでたる飾磨川たえむ日にこそあが戀ひやまめ」といふのがある。
【左註】 散位寮は式部省に屬し、散位のものを掌るところで、職員令に、「散位寮、頭一人掌2散位(ノ)名帳朝集(143)事1」と見えてをる。散位は位のみあつて、職務のないものをいふ。
 
4459 蘆《あし》刈りに 堀江漕ぐなる 楫《かぢ》のおとは 大宮人の 皆聞くまでに
    右の一首は、式部少丞大伴宿禰池主之を読む。即ち云ふ、兵部大丞大原眞人今城、先日他所にて讀みし歌なりと。
 
【口譯】 蘆を刈るとて、堀江を漕いでゆく楫のおとは、大宮人の皆聞くまでに高くひゞいて來る。
【語釋】 ○蘆刈りに 蘆刈ると〔四字傍点〕の誤で、蘆を刈るとての意であらう。○大宮人の皆聞くまでに 皆聞くまでに〔六字傍点〕で高く楫の音が響く難波の離宮の有樣を現してゐる。
【後記】 この歌をよむと、難波の離宮の有樣があり/\と見えるやうな心地がする。彼の「大宮の内まで聞こゆあびきすと網子とゝのふる海人のよび聲」といふ長奧麿の歌とならべ見るべき作である。
【左註】 これは古人の歌であつて、先の日今城が或る處で誦したのを、池主が傳へ聞いてゐて、今又時の興に誦したのであらう。
 以上三首は、國人の家で、宴をした時の歌である。
 
(144)4460 堀江漕ぐ 伊豆手《いづて》の船の 楫《かぢ》つくめ 音《おと》屡《しば》立ちぬ 水脈《みを》早みかも
 
【口譯】 堀江を漕ぐ伊豆手船の楫のきしる音がしきりにきこえるが、水の瀬が早いからであらうか。
【語釋】 ○伊豆手船 伊豆式の船。(四三三六の歌の語釋に説いた通りである)。○楫つくめ 古義に櫓が船のつくにきしることであらうといつてをるのがよろしいと思ふ。つく〔二字傍点〕(※[金+九])とは、櫓の船からはづれるのを防ぐために、船にうちつけた折釘をいふ。○水脈《みを》 船の交通路である。
【後記】 卷七に「さよふけて堀江こぐなるまつら船かぢの音高しみをはやみかも」とあるのに似た歌で、勇しく堀江を漕ぎゆく伊豆手船のかけ聲を聞くやうな心ちがする。おもしろい歌である。
 
4461 堀江より 水脈《みを》さかのぼる 楫《かぢ》の音《と》の 間《ま》なくぞ奈良は 戀しかりける
 
【口譯】 堀江から水脈を漕ぎのぼる楫の音のひまなき如くひまなく奈良が戀しく思はれることである。
(145)【語釋】 ○水脈さかのぼる みを〔二字傍点〕とは船の往來する水路である。さかのぼる〔五字傍点〕としたのは泝航する船は櫓を用ひることの多いためであらう。○間なく 泝る船の多いのを示したものと見える。
【後記】 眼前の景を捉へ來つて、序としたのがおもしろい。
 
4462 船競《ふなきほ》ふ 堀江の河の 水際《みなぎは》に 來居つゝ鳴くは 都鳥《みやこどり》かも
    右の三首は、江の邊《ほとり》にて之を作る。
 
【口譯】 ひまなく舟の競ひゆく堀江の川の水際《みなぎは》に來て居て鳴くのは、わが戀しく思ふ都といふ名のついた都鳥であらうか。
【語釋】 ○ふなぎほふ 舟を競ひ漕ぐこと。上り下りの船の先を爭ふさまである。卷一の人麿の歌にも「舟競ひ夕川渡る」と見えてをる。○都鳥 ゆりかもめと稱する、鴎の一種で、背は黒く、腹と脇とは白く、嘴と足とは赤く、魚類を食とする美しい鳥で(146)ある。東京附近では、隅田川や芝浦にも來るが、殊に多く集るのは宮城のお濠で、三宅坂の對岸にはいつも大群をなして春の初まで留まつてゐる。
【後記】 これは謠曲隅田川にも引用されてある有名な歌で、この歌のために、難波の堀江が美化されてをる。
【左註】 以上三首は家持が堀江のほとりで作つたのである。
 
4463 ほとゝぎす まづ鳴く朝け いかにせば 我が門過ぎじ 語りつぐまで
 
【口譯】 ほとゝぎすが初めて鳴く夜あけには、どうしたら、このことを人に語り傳へるまで、わが門を過ぎないでゐてくれるであらうか。
【語釋】 ○朝け 朝あけ〔三字傍点〕ともいふ。夜明のこと。ほととぎすは、古來夜明の聲を賞美するのである。
【後記】 ほとゝぎすの初音を聞いたうれしさが力強く表現されてゐる。「語りつぐまで」といふ句にも鳴きながら飛ぶことのはやいほとゝぎすの特性がみえて、おもしろい。
 
4464 ほとゝぎす かけつゝ君が 松蔭《まつかげ》に 紐解き放《さ》くる 月近づきぬ
(147)    右の二首は、二十日、大伴宿禰家持興に依りて之を作る
 
【口譯】 ほとゝぎすのことを心にかけつゝ君が松蔭で衣の紐を解きはなし、うちくつろいで遊ばれる月が近づいた。
【語釋】 ○かけつつ 心にかけて待つこと、君〔傍点〕とは奈良に殘つてゐる友を憶うてよんだものと見える。君がまつ〔四字傍点〕は下の松〔傍点〕にかけたのである。○紐解き放くる 紐〔傍点〕は衣の紐、紐解く〔三字傍点〕は、卷九に「うれしみと紐の緒解きて家のごととけてぞ遊ぶ」とあると同じである。○月近づきぬ ほととぎすは四月から鳴きはじめるものであるから月近づきぬ〔五字傍点〕といつたのであらう。この歌には三月二十日といふ日附がある。
【後記】 奈良には今も杜鵑が多く、春日の森の松蔭は杜鵑を聞くに絶好の地である。わたくしはこの歌をよむ毎に、奈良在職の昔を憶ひ、當時同僚であつた池邊義象氏の次の歌を想ひ起すのである。
 杜鵑けさも聞かむと起き出でて春日の森の松の露ふむ。
【左註】 右の二首は三月二十日に、大伴宿禰家持が難波に在り、杜鵑の鳴く季節になつたことを思ひ、感興を催して作つたものである。
 
   族に喩す歌一首並に短歌
(148)4465 ひさかたの 天《あま》の戸開き 高千穗の 嶽に天降《あも》りし 皇祖《すめろぎ》の 神の御代より 梔《はじ》弓を 手握《たにぎ》り持たし 眞鹿兒矢《まかごや》を 手挾《たばさ》み添へて 大久米《おほくめ》の 丈夫武雄《ますらたけを》を 先《さき》に立て 靱《ゆぎ》取り負《おほ》せ 山河を 磐根さくみて 履みとほり 國覓《くにまざ》しつつ ちはやぶる 神をことむけ 服從《まつろ》はぬ 人をも和《やは》し 掃《は》き清め 仕へ奉りて 秋津島 大和の國の 橿原《かしはら》の 畝傍《うねび》の宮に 宮柱 太知り立てゝ 天の下 知らしめしける 皇祖《すめろぎ》の 天《あま》の日嗣《ひつぎ》と つぎて來る 君の御代御代 隱さはぬ 赤き心を 皇方《すめらべ》に 極め盡して 仕へ來る 祖《おや》の職《つかさ》と 言《こと》立てゝ 授け給へる 子孫《うみのこ》の いや繼ぎ繼ぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑒《かゞみ》にせむを 惜《あたら》しき 清きその名ぞ 凡《おほ》ろかに 心思ひて 虚言《むなごと》も 祖《おや》の名|斷《た》つな 大伴の 氏と名に負へる 健男《ますらを》の伴《とも》
 
【題意】 天平勝寶八年五月家持の一族たる大伴(ノ)古慈悲《こじひ》が罪せられて、衛士《ゑじ》府に囚へられたのを見、おのが一族に罪人か出したのを憤慨し、宗家の嫡子として一族を戒飭せむが爲に家持の詠んだものである。續日本紀には、「出雲國守從四位上大伴宿禰古慈悲、内豎淡海眞人三船、朝廷を誹誇し、人臣の禮なきに坐して、左右衛府に禁ぜらる」とある。又左註には「淡海眞人三船の讒言によりて」とあるが、續日本紀の文(149)によれば、三船が古慈悲を讒したのではなく、三船が朝廷を誹謗したのに連座したものと見える。
【口譯】 天孫|邇々藝《ににぎの》命が天の岩戸を開いて日向の高千穗の嶽に御下りになつたその皇祖の御代から、わが大伴氏の祖先たる天の押日《おしひ》の命は梔弓《はじゆみ》を手に握りもち、眞鹿兒矢《まかごや》を手に挾みそへて、大久米の兵士等を先鋒として、靱《ゆぎ》をとり負せ、山川の岩石を分けてふみとほり、帝都とすべき國を求めつゝ、先住の神々をしたがへ、暇從しない人をも和げ仕へしめ、不逞の徒を掃蕩して、皇室に仕へまつつたのである。それより後天の押日《おしひ》の命の子孫は、大和の國の橿原《かしはら》の畝傍《うねび》の宮に宮作りをして、天下を御治めになつた神武天皇を始め、その後をつがれた御歴代の天皇に隱すことのない赤心をつくして仕へて來た世襲の職として特に言ひ立てゝ我が家にお授けになつたのである。それより子孫相繼いで、見る人も語りつぎ、聞く人も龜鑑《てほん》とすべき大伴といふ貴ぶべき清いその名であるぞ。おろそかに心に思つて無實なる人言の爲にとはいへ、祖先の名を斷つやうなことをしてはならぬぞ。大伴の氏を名に負うてゐる男兒の人々よ。
【語釋】 ○ひさかたの 天〔傍点〕の枕詞。○梔弓《はじゆみ》 櫨《はじ》の木で作つた弓、國都の日向に在つた頃は多くこの木で弓を作つたものと見える。今も九州地方には、この木が多い。○眞鹿兒矢 鹿を射るにつかふところから起つた名で、後には汎く一般の矢をいふやうになつたものと思はれる。古事記の天孫降臨の段に「天の忍日《おしひ》(150)の命、天津|久米《くめ》の命二人、天の石靱《いはゆぎ》を取り負ひ、頭椎《くぶつち》の太刀を取り佩き、天の波士弓《はじゆみ》を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾《たばさ》み、御前《みさき》に立ちて仕へ奉りき」とある。○大久米の丈夫武雄《ますらたけを》 大伴氏の遠祖たる天忍日命が引率せられた大來目部のものどもを指す。日本書紀の一書の降臨の條に、「時に大伴連の遠神大忍日命、來目部《くめべ》遠祖天|※[木+患]《くし》津大來目を帥ゐ云々」とある。古事記には、大久米部の長を天津久米命とし、その久米命を忍日命と同列なる神としてをるが、この歌は日本紀の一書と同じ、家の舊記に據つたのであらう。○靱取り負せ 靱〔傍点〕は矢を盛る器。靱を負はせ。○磐根さくみて 巖石を蹈み裂き碎くこと。○國覓《くにまぎ》しつつ 帝都とすべき地を求めつつ。○ちはやぶる神 暴威を振つてゐた神々。○ことむけ 服從せしめる。○和《やは》し やはらげること。○掃き清め 掃蕩する。○秋津島 大和〔二字傍点〕の枕詞。○太知《ふとし》り立て 立派に立てること。○皇祖《すめろぎ》 神武天皇。○隱さはぬ明き心 隱すところのない明い心即ち赤心。○皇方《すめらべ》 皇室の方。○極め盡して 極め〔二字傍点〕も盡し〔二字傍点〕も同じである。○祖《おや》の職《つかさ》 祖先からの職務として、大伴氏の世襲し來つた職をいふ。○言立て 特に聲明しての意、卷十八にも「おほきみのへにこそ死なめ、かへりみはせじとことたて云々大伴と佐伯の氏は人のおやのたつることだて」とある。○授け給へる この一句下へ續かない。措辭が整はないのであらう。○語り繼ぎてて 次第/\に語り次ぎての意。○おほろかに おろそかに。○虚《むな》言も 虚言にもの意、古義には「讒言は無實言なれども、さる實なき言にも先祖の名を穢さぬやう心しらひをせよといふ意にいひ下したり」といつてをる。○心おもひて 心におもひてである。○祖の名斷つな 祖先以來の家名を斷絶する勿れの意。
(151)【後記】 この篇、堂々としてわが國の建國の初より説き起し、大伴氏の祖先たる押日命の勲功を述べ、次に大伴氏の一族が歴世の天皇につくし來つた忠誠をいひ、家名を重んずべきことを説いて、一篇を結んでをる。凛然たる生氣の全篇に溢れるのを見る。國民精神の發露として、士氣を鼓舞する點に於て最も尊ぶべき作である。先年新年の御講書始に於て芳賀文學博士がこの歌を御前に進講せられたのも、良《まこと》に以《ゆゑ》あることである。
 歌としては、措辭の上に如何はしい點がないでもないが、家持の作にかゝる長歌の中では、すぐれた作といふべきである。
 
4466 磯城島《しきしま》の 倭の國に 明《あき》らけき 名に負ふ件《とも》の緒 こころ勤めよ
 
【口譯】 わが日本國に於て特に普く人に知られ、明らけく清い名を保つて來た大伴氏の一族の人たちよ。心につとめるがよい。
【語釋】 ○磯城島の 倭の枕詞。○倭の國に 倭の國にて特に、の意。○伴の緒 部屬の長の意で、大伴氏の人々を指す。○こころ勤めよ 心に勤めよの意。
 
(152)4467 劔刀《つるぎたち》 いよよ研ぐべし 古《いにしへ》ゆ 清《さや》けく負《を》ひて 來にしその名ぞ
    右淡海眞人三船の讒言に縁りて、出雲守大伴古慈悲宿禰任解けぬ。是を以て家持此の歌を作れるなり。
 
【口譯】 わが大伴氏の一族たるものは、今より大に奮ひ勵んで、わが一族の名聲を磨き、光輝を帶揚せねばならぬ。古來潔く負ひ傳へて來たその名であるぞ。
【語釋】 ○つるぎ刀《たち》 とぐ〔二字傍点〕の枕詞。○とぐ ここでは家名をとぐのである。○古ゆ 古よりに同じ。○清《さや》けく負ひて さやけく〔四字傍点〕は清《きよ》く明らけき意。おふ〔二字傍点〕は負ひ持つこと。
【後記】 以上の二首は、いづれも大伴氏の名聲を發揚すべきことを喩してをるのであるが、前の一首は、大伴氏が國内の名門たることから説き起し、後の一首は、大伴氏が古來の名門たることから説き起してをる。いづれも佳い歌である。これによつても家持が忠君の念に厚く、大伴氏の中心人物として、自重の心に厚かつたことがわかる。
 かく歌つた家持が、天平寶宇八年惠美押勝の敗るゝに及び、薩摩守に左遷せられ、光仁天皇の御代に至るまで九州の地にさすらひの身となつたのは、あはれである。
【參考】 參考のため、次に大伴氏の系圖を掲げておく。
(153)
 
天押日命−道臣命−大伴室屋−談大連−金村−咋子−長徳−安麿−
  旅人−家持−永主
     書持
  田主
  宿奈麿
  大伴坂上郎女−田村大娘
         坂上大娘(家持妻)
         坂上二娘
  (室屋から分かれて)宿禰佐伯宿禰
  (金村から分かれて)−狹手彦
  (長徳から分かれて)−馬來田−道足−駿河麿
             吹負−祖父麿−古慈悲
 
   病に臥して無常を悲しみ、修道を欲《ほり》して作れる歌二首
4468 現身《うつせみ》は 數なき身なり 山河の 清《さや》けき見つゝ 道を尋ねな
 
【題意】 一族の中に勅勘を蒙るものを出した上に、自分も病に罹りて、世の無常を感じ、佛道に歸依せむと思ひ立つたものであらう。家持は夙に佛教思想の影響を受けてゐたものと見えて、これより上の卷々に於ても無常を歌つたものが少くはないが、この頃に至りその傾向が殊に甚しくなつたものと思はれる。無常(154)といふ語は涅槃輕の偈の文で、「諸行無常。是生滅法。生滅々己。寂滅爲樂。」とあるのが始である。
【口譯】 人間の身は物の數にもあらぬもので、明日をも頼みがたいから、山河の清淨無垢な姿を見ながら、佛道を尋ねよう。
【語釋】 ○現身は數なき身なり 生けるこの身は數にもあらぬつまらないものである。○道 佛道をいふ。
【後記】 佛教でいふ欣求淨土の意を歌つたものである。
 
4469 渡る日の 陰《かげ》に競《きほ》ひて 尋ねてな 聖《きよ》きその道 またも遇《あ》はむため
 
【口譯】 日蔭を惜んで尋ねたいものである。聖《きよ》い佛道にふたゝび遇はむために。
【語釋】 ○日の陰に競ひ 光陰を惜むこと、競ひ〔二字傍点〕は、日の空を渡りゆくと競爭する意。○聖きその道 佛道のこと。その道〔三字傍点〕は、その道に、の意。○またも 前世と同じくである、今日人身を亨け得たのは前世の修道の功徳であるから、今生にも亦佛道に遇ひたいといふのであらう。遇はむ〔三字傍点〕といふ語は、法華經の値ひ難き佛道の語を取つたのであらう。
【後記】 これは無常迅速の意を歌つたのである。
 
(155)   壽《いのち》を願ひて作れる歌一首
4470 泡沫《みつぼ》なす 假《か》れる身ぞとは 知れれども 猶し願ひつ 千歳《ちとせ》の命《いのち》を
    以前の歌六首は、六月十七日、大伴宿禰家持の作
 
【口譯】 水の泡の如く消えやすくはかない身であるとは知りつゝもやはり千歳の命を願ふことである。
【語釋】 ○泡沫なす 金剛般若經に、「一切有爲法如2夢幻泡影1。如v露亦如v電。應v作2如v是觀1。」とあるのに據つたものであらう。○かれる身 假借の身である。卷三の同じ人の歌にも「うつせみの假れる身なれば」とある。○猶し願ひつ なほし〔三字傍点〕のし〔傍点〕は助辭。
【後記】 この身を假の身と觀ずるのは、佛教の根本思想である。
 
   冬十一月五日寄る、小雷起り鳴り、雪|落《ふ》りて庭を覆《おほ》ふ。忽ち感隣を懷《おも》ひて、聊か作れる短歌一首
4471 消殘《けのこ》りの 雪に合へ照る あしびきの 山たちばなを 裹《つと》に採《つ》み來な
(156)    右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持
 
【題意】 感燐を懷ふとは、おもしろく思ふといふ程の意であらう。
【口譯】 自分は山にいつて、あの消え殘つてゐる雪に映じて赤く照つてゐる山橘をとつて、苞《つと》に入れて持つて歸らうと思ふ
【語釋】 ○雪に合へ照る 雪に映じて照るのをいふ。○あしびきの 山〔傍点〕の枕詞。○山たちばな 俗にやぶかうじといふ。山地に日生する小灌木で、常緑である。夏小さい白い花を開き、秋豆の實ほどの實を結び、冬になると、赤く熟する。○裹《つと》 苞のことである。
【後記】 山橘の美しさは雪中に映ずるところにある。「合へ照る」の一句がよくはたらいてゐる。卷十九に同じ人の歌に「此の雪のけのこる時にいざゆかな山橘の實のてるも見む」といふのがある。
 
   八日、讃岐守|安宿王等《あすかべのおほきみたち》、出雲掾安宿|奈杼麿《などまろ》の家に集ひて宴せる歌二首
4472 大君の 命《みこと》かしこみ 於保《おほ》の浦を 背向《そがひ》に見つつ 都へ上る
    右は、掾安宿奈杼麿
 
(157)【題意】 出雲掾安宿奈杼麿が朝集使となつて、京に上つたとき、をりふし在京中であつた讃岐守安宿王等が奈抒麿の家に會して、酒もりを開かれたのであらう。安宿王は天武天皇の曾孫、高市皇子の孫、左大臣長屋王の子である。奈杼麿は、新考に、安宿王の乳母の子などなるべしとあるが、さうかも知れない。朝集使は、四四四〇の歌の語釋にいつた通り、朝集帳を上る使節である。
【口譯】 勅命のかしこさに、このおもしろい於保《おほ》の浦をうしろに見つゝ都へ上ることである。
【語釋】 ○於保の浦 於宇の浦〔四字傍点〕の誤であらう。和名抄に出雲國|意宇《おう》郡とあり、明治二十九年廢して八束郡に入る。
【後記】 これは出雲國から大和へ上る時の作である。特に於宇浦を取り出したのは、風光のよいためであらう。類歌としては、卷三に「晝見れど飽かぬ田兒の浦|大王《おほきみ》の命かしこみ夜見つるかも」といふ田口|益人《ますひと》大夫の歌がある。
 
4473 うち日さす 都の人に 告げまくは 見し日の如く 在りと告げこそ
    右の一首は、守|山背王《やましろのおほきみ》の歌なり。主人安宿奈杼麿語りて云ふ。奈杼麿朝集使に差され、京師に入らむとす。比に因りて餞せる日、各歌を作りて、聊か所心を陳ぶるな(158)り。
 
【口譯】 あなたが都にいかれたならば、私は前にお目にかゝつた時のやうに無事でをると告げて下さい。
【語釋】 ○うち日さす 都〔傍点〕の枕詞。○告げまくは 告げむやうはの意。○見し日 前日である。○告げこそ 告げまく〔四字傍点〕といつて更に告げこそ〔四字傍点〕といつたのは、古言の格である。
【後記】 これは奈杼麿が京へ上らむとするにつけて守のよまれたものであるが、散文のやうな平凡な歌である。
【左註】 山背王は安宿王の同母弟である。
 
4474 群鳥《むらとり》の 朝立ち往《い》にし 君が上《うへ》は 清《さや》かに聞きつ 思ひし如く 【一に云ふ、思ひしものを】
    右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持、後日、出雲守山背王の歌に追和して之を作れり。
 
【口譯】 朝早く京を立つてゆかれた君の身の上は思つた通り無事でいらせられることをたしかに承つて喜ばしく思ひます。
  (一本に從へば、たしかに聞かうと思つてゐたが、たしかに聞いた。)
(159)【語釋】 ○群鳥の 朝立ち〔三字傍点〕の枕詞。○清《さや》かに たしかにといふに同じ。
 
   二十三日、式部少丞大伴宿禰池主の宅に集ひて飲宴せる歌二首
4475 初雪は、千重《ちへ》に降りしけ 戀しくの 多かる吾は 見つゝ偲《しぬ》ばむ
 
【題意】 これは初雪のために、雪見の宴を開いたのであらう。池主は、家持が越中守となりて赴任以來常に家持の歌友となつて歌を贈答してをる人で、家持が越中守であつたとき、越中掾であつた人であるから、この二人は殊に親しかつたものと見える。
【口譯】 初雪は幾重にも降りしいてくれ戀しいことの多い自分は、それを見つゝ賞《め》でて戀しさを慰めよう。
【語釋】 ○千重に降りしけ 深くつもれといふ程の意。○偲ばむ 心を慰めようといふのであらう。
【後記】 この歌は、卷十にある「沫雪は干重にふりしけこひしくのけながき我は見つゝしぬばむ」とある柿本人麿歌集中の歌を採つたものゝやうに思はれる。
 
4476 奥山《おくやま》の 樒《しきみ》の花の 名の加《ごと》や、しくしく君に 戀ひわたりなむ
(160)    右の二首は、兵部大丞大原眞人今城
 
【口譯】 奥山の樒の花の名のしきといふやうにしきりに君に戀ひつゞけることであらう。
【語釋】 ○名の如やしくしく 名の如や〔四字傍点〕といつたのは、しきみ〔三字傍点〕のしき〔二字傍点〕は、重《しき》に通ずるからである。しくしく〔四字傍点〕は頻にの意。○君 主人の池主を指す。
【後記】 樒は當緑木で、雪中にも色を變へぬもので、季節にふさはしいので、「しき」といふ名をかけて序としたのであらう。
 
   智努女王《ちぬのおほきみ》の卒《みまか》りし後、圓方女王《まとかたのおほきみ》の悲しみ傷みて作れる歌一首
4477 夕霧に 千鳥の鳴きし 佐保道《さほぢ》をば 荒らしやしてむ 見るよしを無み
 
【題意】 圓方女王は、左大臣長屋王の女であるが圓方女王と智努女王との關係はわからない。歌によると、智努女王は佐保に住んでゐられたのであらう。
【口譯】 これまで自分が智努女王を訪ねたときには、いつも夕霧のうちに千鳥の鳴いてゐたあのおもしろい佐保道も、再び智努女王に御目にかゝる機會がなく行き通ふ人もなく荒してしまふであらうか。
(161)【語釋】 ○佐保道 佐保川の沿岸である。佐保川は今は淺せはててしまつてをるが、昔は水量が多く、千鳥が多かつたやうである。
【後記】 千鳥の聲によつて、故人を懷ふ。あはれが殊に深い。二三四の「三笠山野邊ゆ行く道|許多《こきだく》も荒れにけるかも久にあらなく」とあるのと並べ見るべき作である。
 
   大原櫻井眞人、佐保川の邊を行きし時作れる歌一首
4478 佐保河に 凍《こほ》り渡れる 薄氷《うすらひ》の うすき心を 我がおもはなくに
 
【題意】 櫻井眞人は、卷八に見えた櫻井王である。この歌を傳誦した今城と關係のある人であらう。
【口譯】 自分はこの佐保河にはりつめてゐる薄い氷のやうな薄い心を持たないのに、なぜ人はこのやうに自分につれないのであらうか。
【語釋】 ○佐保河に凍り渡れる 上の三句はうすき〔三字傍点〕といはむ爲の有心の序である。
【後記】 戀歌であらう。卷十六に「安積山かげさへ見ゆる山の井の淺きこゝろをわがもはなくに」とあるのに似た歌である。
 
(162)   藤原夫人の歌一首 【淨御原宮御宇天皇の夫人なり字を氷上大刀自といへり】
4479 朝夕《あさよひ》に 哭《ね》のみし泣けば 燒刀《やきだち》の 利心《とごころ》も吾《あれ》は 思ひかねつも
 
【題意】 藤原夫人は天武天皇の夫人で、藤原鎌足の女である。一首は二首の誤であらう。
【口譯】 わたくしは朝夕思に沈んで聲をのみあげて、泣いてをりますので、心もやう/\によわり、をゝしい心も失はれてしまひました。
【語釋】 ○哭《ね》のみし泣く 聲をあげて泣いてばかりをる。○燒刀の 燒刀〔二字傍点〕は火で燒ききたへて、刃の鋭い大刀。燒刀の〔三字傍点〕は利心〔二字傍点〕の枕詞である。○利心 するどい心。即ち事理を判斷する理性である。
【後記】 これは天武天皇を慕つて、およみになつたのである。
 
4480 かしこきや 天《あめ》の朝廷《みかど》を かけつれば 哭《ね》のみし泣かゆ 朝夕《あさよひ》にして 【作者未だ詳ならず】
    右件の四首、傳へ讀みしは、兵部大丞大原今城
 
【口譯】 恐多いことではあるが、天皇《みかど》を心にかけて慕《した》ひ奉れば、朝夕に聲をあげてのみ泣かれるやうになるのである。
(163)【語釋】 ○天《あめ》の朝廷《みかど》 天皇を申すので、ここは天武天皇を指すのであらう、天の朝廷〔四字傍点〕といふ語は、古今集の左註にも見え、大鏡の道長傳にも見えてをる。けれども、古今集の墨滅歌《すみけしのうた》なる「犬上のとこの山なる」といふ歌の左註に「この歌ある人、あめのみかどの近江の釆女《うねめ》にたまへる」とあるのは、天智天皇を指し奉れるものなるべく、大鏡道長傳に「あめのみかどの造りたまへる東大寺」とあるのは、聖武天皇を指し奉れるものであるから、ここにあるのとは、別である。○かけつれば 心にかけて慕び奉ればの意。○朝夕にして して〔二字傍点〕は、助辭である。朝夕に、日夜の意。
【後記】 これも天皇を慕ひ奉れる御歌であらう。
【左註】 右の四首は、代匠記にもいつてをる通り、大伴池主の宅で飲宴したときに、家持が聞いて記しておいたのであらう。
 右の四四七九と四四八〇の二首の歌はいづれも天武天皇を悼み奉る歌と考へる人もあるが、藤原夫人は天武天皇の十一年正月に薨去せられたので、年代が合はないことになるから、戀歌と見るの外はあるまい。
 
   三月四日、兵部大丞大原眞人今城の宅にて宴せる歌一首
4481 あしびきの 八峯《やつを》の椿 つら/\に、見とも飽かめや 植ゑてける君
(164)    右は兵部少輔大伴家持、植椿を屬《み》て作れり。
 
【題意】 一首は二首の誤であらう。
【口譯】 この庭には、いくつも重つてゐる岡から移し植ゑられた椿があつて、いつまでも見ても飽きることがないのと同じやうに、この椿をうゑられた主《あるじ》の君もやはりいつまで見ても飽きることのない御方である。
【語釋】 ○あしびきの 八峯〔二字傍点〕の枕詞。○八峯 重なつた岡。○つら/\ つくづく。
【後記】 卷十九に「おく山のやつをの椿つばらかに今日はくらさねますらをのとも」とあり、卷一に「巨勢山のつら/\椿つら/\に見つゝ思ふな巨勢の春野を」とあるのに似た歌である。
【左註】 屬は矚の略字である。右〔右○〕の下に一首〔二字右○〕の二字を脱し、大伴〔二字右○〕の下に宿禰〔二字右○〕の二字を脱したものと見える。
 
4482 堀江越え 遠き里まで 送りける 君が心は 忘らゆましじ
    右の一首は、播磨介藤原朝臣|執弓《とりゆみ》任に赴くと、別を悲しめるなり。主人大原今城傳へ讀みて云爾《しかいふ》。
 
【口譯】 堀江を越えて、遠い里まで見送つて下さつたあなたの御親切は永く忘れることが出來ま(165)すまい。
【語釋】 ○堀江越え 代匠記には、「今の尼崎あたりまでも送りけるなるべし。」といつてをる。○ましじ ましじ〔三字傍点〕は橋本博士の説に從ひ、否定推量の助動詞とし、今のまじの意としたい。さうすると、忘らゆましじは、忘られないであらうといふことになる。橋本氏の説は、「國學院雜誌」第十六卷九・十・十一號に見えてをるが、次の二首の歌に見えるましじ〔三字傍点〕も皆同意である。「近くあらば見ずともあるをいや遠く君がいませばありがつましじ」(六一〇)、「わが心ゆたにたゆたに浮蓴《うきぬなは》へにもおきにも依りがつましじ」(一三三二)。
 
   勝寶九歳六月二十三日、大監物|三形王《みかたのおほきみ》の宅にて宴せる歌一首
4483 移り行く 時見るごとに 心いたし 昔の人し 思ほゆるかも
    右、兵部大輔大伴宿禰家持の作
 
【口譯】 時節のうつりゆく時に三形王を見るごとに昔の人のことが思ひ出されて、心を痛ましめることである。
【語釋】 ○昔の人契沖の説の如く指すところがあるのであらう。それは恐らく三形王の父君であらう。
【左註】 ここに兵部大輔とあるのは、此月十六日少輔から大輔に陞つたのである。
 
(166)4484 咲く花は うつろふ時あり あしびきの 山菅《やますけ》の根し 長くはありけり
    右の一首は、大伴宿禰家持、物色の變化を悲しび怜《あはれ》びて、之を作れり。
 
【口譯】 美しく咲く花は色のうつろふ時があるが、山菅の根ばかりは、長くかはることがない。                    
【語釋】 ○あしびきの 山の枕詞。○やますげ 麥門冬で、大葉麥門冬と、小葉麥門冬の二種あり。大葉麥門冬は、りうのひげのこと、小葉麥門冬は、やぶらんのことである。
【後記】 これは三形王の庭にやますげのあるのを見、これに託して、無常觀を述べたもので、時めく人を花に譬へ、自分を山菅にたとへたのであらう。四五〇一の「八千種の花はうつ(167)ろふ常磐なる松の小枝を吾は結ばな」とあるのと、同じ趣意であらう。
 代匠記には、「初の二句は今年六月事ありて 繁華の人々多く死刑流罪にあはれければ、それによそへて悲み、下句は事もなき身を樂まるゝ意なるべし」といつてゐる。
 
4485 時の花 いやめづらしも 斯くしこそ 見《め》し明《あき》らめめ 秋立つごとに
    右の一首は、大伴宿禰家持之を作る。
 
【口譯】 季節にあひて、四季折々に咲く花はまことに珍しいものである。このやうにして、秋の立つごとに見て、御心をお慰め下さい。
【語釋】 ○めし 見〔傍点〕の敬語。
【後記】 この歌は、人に送つたものであらう。六月二十三日によんだのであるが、「秋立つごとに」といつたのは、既に秋の季節になつてゐたからと見える。このことにつき、古義には、「次下十二月十八日の歌に三雪布流布由波祈布能未《ミユキフルフユハケフノミ》云々とあれば、十九日立春なり。これより推すに、六月十七・八日の頃立秋なるべし。此歌二十三日によまれたれば、秋とはいはれたるなるべし」といつてをる。(168)立秋を迎へ、これから、咲き出ようとする花を思ひ、うれしく感じたのであらう。
 
   天平實字元年十一月十八日、内裏にて肆宴《とよのあかり》きこしめす歌二首
4486 天地《あめつち》を 照らす日月の 極《きはみ》なく あるべきものを 何をか思はむ
    右の一首は、皇太子の御歌
 
【題意】 ここに元年とあるのは天平勝寶九歳八月に改元せられ、同時に歳を年と改められたからである。内裏は即ち皇居で、その遺址は太極殿址の西北に在る。この肆宴を古義には新甞會とし、新考には新甞會の翌日なる豐明節會としてをる。
【口譯】 わが天皇の大御代は天地日月とともに無窮であるべきであるのに、今更何を物を思ひ案じることがあらうぞ。
【後記】 この年六月に起つた橘奈良麿の亂も事なく治まつて、大御代の長く久しかるべきを御祝ひになつたのであらう。卷一には御名部皇女が「わが大王物な念ひそ」とおよみになつた御歌があるが、それと同じ御趣意と思はれる。
【左註】 皇太子は大炊王である。この年四月、惠美押勝に擁立せられて、皇太子となられたが、後に廢せら(169)れて、淡路に流され給うたので、淡路廢帝と稱する。明治三年に至り、淳仁天皇といふ御謚を奉られた。それで、孝謙紀の天平賓字元年の條には、夏四月辛巳大炊王を立てて、皇太子となすとあり、二年の條には、八月庚子朔高野天皇位を皇太子に禅る。太子諱は大炊王、一品舍人親王の第七子なりと見えてをる。
 
4487 いざ子ども たはわざな爲《せ》そ 天地の 固めし國ぞ やまと島根は
    右の一首は、内相藤原朝臣之を奏す
 
【口譯】 わが大和島根は天地の神々のお固めになつた國であつて、決して動くべきでないから、狂《たは》けた行をしてはならない、人々よ。
【語釋】 ○いざ子ども 奈良麿等の亂に與した人々を指す。○たはわざ 狂《たは》けたわざである。○大和島根 日本國である。
【後記】 初め藤原仲麿が天皇の寵を恃んで、政權を專にしてゐたので、橘奈良麿(諸兄の長子)等が、其の爲すところを惡み、之を除かむとし、廢太子|道祖《ふなど》王、黄文《きふみ》の王、安宿《あすかべ》王、小野東人、大伴|古《こ》麿等と廢立を行はむことを謀つた。山背《やましろ》王が變を上つたので、仲麿が之を天皇に奏した。そこで、天皇が高麗の福信等を遣し、兵を率ゐて、東人等を捕へ、又兵を遣して廢太子の(170)家を圍み、奈良麿及びその黨を捕へて獄に下され、おほくの人々が死刑又は流罪に處せられたのである。この歌はこのことを思つて、仲麿のよんだものである。前の大炊王と同時の作で、政敵を亡し、政權を一手に握つた仲麿の得意のさまが、目に見るやうである。
【左註】 内相藤原朝臣は紫微内相藤原仲麿で、後に大保となり、惠美の姓を賜はり、名を押勝と改めた人である。孝謙紀、寶字元年の條に「五月丁卯以2大納言從二位藤原朝臣仲麿1爲2紫微内相1云々。令v掌2内外諸兵事1。其官位禄賜職分雜物者皆准2大臣1。」と見えてをる。
 
   十二月十八日、大監物三形王の宅にて宴せる歌三首
4488 み雪降る 冬は今日のみ 鶯の 鳴かむ春べは 明日にしあるらし
    右の一首は、主人三形王
 
【口譯】 雪のふる冬は今日ばかりである。鶯の鳴く春は明日であらう。
【語釋】 ○み雪降る み雪〔二字傍点〕のみ〔傍点〕は接頭語。○春べ 春の季節。
【後記】 春を迎へるよろこばしい心もちの見える歌である。十二月十八日であるのに、冬は今日のみといつたのは、十九日が立春であつたのであらう。(下の二十三日の歌參照)
 
(171)4489 うち靡《なび》く 春を近みか ぬばたまの 今宵の月夜 《つくよ》 霞みたるらむ
    右の一首は、大藏大輔|甘南備伊香《かむなびのいかご》眞人
 
【口譯】 春の近いゆゑに、今宵の月夜が霞んでゐるのであらうか。
【語釋】 ○うち靡く 春〔傍点〕の枕詞。○春を近みか 春が近いからであらうかの意。○ぬばたま 宵〔傍点〕の枕詞。
【後記】 これまでさえわたつてゐた寒月の、僅に霞みそめた情景の美しくうつし出された作である。第一の句と第三の句とに枕詞を用ひて聲調をとゝのへたのもよい。
 
4490 あらたまの 年行き還り 春立たば まつ我が宿に 鶯は鳴け
    右の一首、右中辨大伴宿禰家持
 
【口譯】 年がゆき還つて來て、春が立つたならばまつ先にわが宿に鶯は鳴いてくれ。
【語釋】 ○年ゆきかへり 年がかへつて來ること。○あらたまの 年〔傍点〕の枕詞。
【後記】 三形王の宅であるのに、我が宿に鳴けといつたのは、三形王の心もちになつてよんだの(172)であらう。
【左註】 三形王の宅の宴歌はこれまでである。
 
4491 大き海の 水底《みなそこ》深く 思ひつゝ 裳《もひ》引きならしし 菅原《すがはら》の里
    右の一首は、藤原宿奈麿朝臣の妻石川の女郎、愛薄らぎ離別せられ、悲しみ恨みて作れる歌なり。 【年月いまだ詳ならず】
 
【口譯】 大海の水底のやうに深く人の心をたのみつゝ、この菅原の里に裳を引きならし、夫と手を携へて馴れ親しんだのに。(このやうに離別せられようとは思はなかつたの餘意がある。)
【語釋】 ○大き海の水底 深く〔二字傍点〕といはむための序。○裳引きならしし これは古義にいつてをる通り、裳引令v平《ナラシ》で、たちならす、ふみならすと同じく、徘徊したことをいふのである。裳ひく〔三字傍点〕といふことは、「赤裳すそ引き」、「紅のすそひく道」、「をとめ等が玉もすそびくこの庭に」等其の例が多い。○菅原の里 大和國生駒郡に在り、奈良市の西郊である。菅原氏の祖先の住んでゐたところで、今も菅原神社が祀つてある。作者石川女郎は藤原宿奈麿とともにここに住まつてゐたのであらう。
【後記】 夫婦仲のよかつた昔を思ひ出しての美しい作である。
(173)【左註】 宿奈麿(後良繼と改む)は藤原宇合の第二子で、後に内大臣まで進んだ人である。天平寶字六年の頃佐伯|今宅人《いまえみし》・石上宅嗣・大伴家持等と謀りて、押勝を害せむとし、事現れて、位を除かれ、それより二年にして押勝の謀反に及び、追討に向つたことが續日本紀に見えてをる。
 
   二十三日、治部少輔大原今城眞人の宅にて宴せる歌一首
4492 月|數《よ》めば いまだ冬なり しかすがに 霞たなびく 春立ちぬとか
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持の作
 
【口譯】 月次《つきなみ》を數へてみると、十二月であるから、まだ冬であるが、さうはいふものゝ、やはり霞がたなびいてゐる。
【語釋】 ○月よめば 月次《つきなみ》を數へてみればの意。○しかすがに さうはいふものの、やはり。
【後記】 この歳は十二月十九日が立春であつたから、廿三日はすでに春になつてゐたのである。類歌としては、卷十に「久方の天芳山《あめのかぐやま》この夕べ霞たなびく春立つらしも」といふのがあり、また、同じ卷に「雪見ればいまだ冬なりしかすがに春がすみたち梅は散りつゝ」といふのがある。
 
(174)   二年春正月三日、侍從豎子王臣等を召して、内裏の東屋の垣下に侍《さもら》はしめ、即ち玉箒《たまははき》を賜ひて肆宴《とよのあかり》きこしめす。時に内相藤原朝臣勅を奉《うけたまは》りて宣る。諸王郷等、堪ふるまにま、意に任せて、歌を作り、並に詩を賦せよと。仍《よ》りて詔旨に應じ、各心緒を陳べて歌を作り、詩を賦す。 【いまだ諸人の賦詩並に作歌を得ず】
4493 始春《はつはる》の 初子《はつね》の今日の 玉放棄《たまばはき》 手に執るからに ゆらぐ玉の緒
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持の作。但し大藏の政に依りて之を奏するに堪へざるなり。
 
【題意】 正月三日、寶字二年正月は甲戌朔であるから、三日は丙子で、所謂初子である。豎子は内豎で、和名抄職官部、局の下に「内豎俗云知比佐和良波」とあるものであらう。王臣は諸王と諸卿とで、下にある諸王卿のことである。内裏の東屋は、古義にいつてある通り、内裏の、東方にあたる屋舍であつて、東安殿とは別である。垣下は、ついぢのもとである。玉箒、わが邦では古來農桑のことを御奨勵になり、正月の初子の日に天皇親ら五色の玻璃を以て飾つた(175)玉箒を以て蠶卵紙を掃ひ、金銀の彩色を施した鋤鍬を以て田を耕す態をして、當年の耕織の豐ならむことをお祈りになつたので、人々に玉箒を賜つたものと見える。
 奈良の正倉院の南倉の階下の北棚に一對の玉箒が現存してをる。二尺許の目利《めとぎ》草を束ねたもので、枝梢處々に雜玉を貫いてあるので、玉箒といふのであるが、今は殆ど脱落し、唯二三個の緑玉がほのかに輝いてゐるのみである。手に把るところは、紫の革で包み、一枚は金絲で、其の上を纒き、一枚は白縷に雜玉を貫いたもので之を纒いてある。この玉箒の傍に、金銀泥で唐草模樣を描いた二本の辛鋤《からすき》があり、其の一挺の柄には「東大寺獻天平寶字二年正月」と記してある。即ちこの歌によまれた玉箒を賜はつたと同日である。わたくしは奈良に在つて數々正倉院を拜觀し、天平(176)の盛時を追懷し、いつも無量の感慨にうたれたのである。
 目利《めとぎ》草は高野ばうきともいふ。山林中に多く自生する草本樣の落葉小灌木で、高さは一、二尺に過ぎず。幹は至つて細くして疎らに枝を分ち、圓く尖つた葉を互生し、秋日梢毎に白い頭状花を開くのである。内相藤原朝臣は、紫微内相藤原仲麿で、その全盛を極めた時代である。
【口譯】 初春の初子の日の今日しも、かしこくも帝《みかど》から賜つた玉箒を手に取るより早く、枝がゆるぎ、さら/\と鳴る玉の音がまことにおもしろい。
【語釋】 ○手に執るからに 手に執るより早く。○ゆらぐ 玉と玉とが相觸れて鳴ること。古事記にも「其御頸珠の玉の緒もゆらに」と見えてをる。○玉の緒 玉を貫いた緒即ち枝である。
【後記】 これは新年に當り、邪氣を拂ふ玉箒を手にして起るさわやかな感じを述べて、御代を壽いだものであるが、詞も調もおもしろく、流麗なる歌である。家持の歌には長歌よりも短歌の方にすぐれた作が多く、この篇の如きも佳作といふべきである。
【左註】 大藏の政は大藏省の政務である。辨官は大藏の政務に關係あるが爲に、肆宴の終るを待たずして退出し、この歌を奏することが出來なかつたものと見える。令義解に、「右大辨一人掌2管兵部刑部大藏宮内1。餘同2左大辨1。右中辨一人掌同2右大辨1」とあるによつても知られるのである。
 
(177)4494 水鳥《みづとり》の 鴨《かも》の羽《は》の色の 青馬《あをうま》を 今日見る人は かぎり無しと云ふ
    右の一首は、七日の侍宴の爲に、右中辨大伴宿禰家持|預《かね》て此歌を作れり。但し仁王會の事に依り、却りて六日を以て内裏に諸王卿等を召して酒を賜ひ、肆宴《とよのあかり》きこしめし、禄を給へり。斯に因りて奏せざりき。
 
【口譯】 水鳥の鴨の羽の色のやうに青い青馬を今日見る人は限りなく長命をするといふことである。
【語釋】 ○水鳥の鴨の羽の 上の二句は、あを〔二字傍点〕といはむ爲の序で、卷八に紀女郎が「水鳥の鴨の羽の色の春山のおぼつかなくも念ほゆるかも」とつづけたのと同じである。○青馬を云々 青馬を見るのは、平安朝以後の一月七日の白馬の節會である。公事根源に「白馬の節會をあるひは青馬の節會とも申すなり。其の故は馬は陽の獣なり。青は春の色なり。これによりて、正月七日に青馬を見れば、年中の邪氣を除くといふ本文侍るなり」と見えてをる。この歌によると、七日の白馬は天平時代には、青い馬を用ひられたものであらうか。玉勝間の卷十三には次のやうにいつてをる。「正月七日の白馬節會の白馬古は青馬といへり。萬葉集廿の卷に水鳥乃云々とあるを始として續後紀、文徳實録貞觀儀式、延喜式などに多く出たるみな青馬とのみありて、白馬といへることは一も見えず。然るを圓融天皇の御世天元のころよりの家々の記録又(178)江家《かうけ》次第などには皆白馬とのみあるは平兼盛の歌に、『ふる雪に色もかはらで牽くものをたが青馬と名づけそめけむ、』とよめるを見れば、當時はやく白き馬を用ひられしと見えたり。然れば、古よりの青馬をば改めて白き馬とはせられたるにて、そは延喜より後の事にぞありけむ。延喜式までは青馬とのみあればなり云々。然るを後世までも文には白馬と書きながら、語には猶古のままにアヲムマと唱へ來てシロムマとはいはず、白馬と書けるをもアヲムマとよむによりて入みな心得誤りて、古は實にゾき居なりしことをばえしらで、もとより白き馬と思ひ、古書どもに青馬と書けるをさへ白き馬を然いへりと思ふはいみじきひがごとなり。白きをいかでか青馬とはいはむ」。○かぎりなし 其の壽かぎりなしとの意。
【後記】 これも御代の榮えを壽いたもので、音調の滑らかな歌である。
【左註】 仁王會は、朝家の御祈りのために、吉日を選び、大極殿もしくは紫宸殿、清凉殿などで、仁王護國般若經を講ぜしめられる年中行事である。
 家持は此の左註に見る如く數々預作歌を作つてゐる。これによつても彼は流るるが如き歌才のなかつたことがわかる。
 
   六日、内庭に假に樹木を植ゑて、林帷《かきしろ》と作《な》して肆宴《とよのあかり》を爲す歌一首
4495 うち靡《なび》く 春とも著《しる》く うぐひすは 植木《うゑき》の樹間《こま》を 鳴き渡らなむ
(179)    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持 【奏せず】
 
【題意】 六日云々、七日の肆宴であるが、仁王會のことによつて、六日に執り行はれたものと見える。内庭は内裏の内庭であらう。林帷は、假に木を植ゑつらねて、帷《とばり》の代りにしたのである。
【口譯】 いかにも春らしく鶯は植木の木のまを鳴き渡つてほしいものである。
【語釋】 ○うち靡く 春〔傍点〕の枕詞。○春とも著《しる》くは いかにも春らしくの意。
 
   二月式部大輔中臣清麿朝臣の宅にて宴せる歌十首
4496 怨《うら》めしく 君はもあるか 宿《やど》の梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける
    右の一首は、治部少輔大原今城眞人
 
【題意】 中臣清麿は中臣意美麿の子で右大臣まで進み、延暦七年八月八十七で薨じた人である。神護景雲元年十一月の詔に、「神祇伯正四位下大中臣朝臣清麿其心如v名。清愼勤勞。累奉2神祇官1。朕見v之。誠有v喜焉。」とあるから、性格の極めて圓滿な人であつたのであらう。
【口譯】 宿の梅の散り過ぎてしまふまで、私にお見せにならなかつたのは怨めしいことであるわい。
(180)【語釋】 ○君はもあるか あるか〔三字傍点〕は、あるかもの意。
【後記】 梅の花の散り過ぎたのを見て、戯に主人によみかけたものであらう。
 
4497 見むといはゞ 否《いな》といはめや 梅の花 散り過ぐるまで 君が來まさぬ
    右の一首は、主人中臣清麿朝臣
 
【口譯】 あなたは梅の花を見させないといはれますが、見ようといはれるならば、否《いな》とは申さないのである。それに梅の花の散り過ぎてしまふまで見えないあなたこそ却つて怨めしく思はれます。
【後記】 戯れて今城眞人の歌に答へたのである。
 
4498 愛《は》しきよし 今日の主人《あろじ》は 磯《いそ》松の 常にいまさね 今も見る如《ごと》
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持
 
【口譯】 愛《いつく》しい今日の主人《あるじ》はこの庭の磯邊の松のやうにいつまでも、現在のまゝ機嫌よくいらつしやいませ。
(181)【語釋】 ○はしきよし はしき〔三字傍点〕は愛《うるは》しきこと、よし〔二字傍点〕は感動詞。○今日のあろじ 主人《あろじ》は主人《あるじ》である。○磯松の 常に〔二字傍点〕といはむための有心の序である。○今も見る如 今も〔二字傍点〕のも〔傍点〕は輕く添へた助辭である。
【後記】 「磯松の」は眼前の景物をとつて序としたものであるが、庭内には池があり、磯があつたのであらう。
【左註】 他人には大原今城眞人、中臣清麿朝臣、甘南備伊香眞人といふやうにいひて、かばねを後にし、自分には大伴宿禰家持といふやうにかばねを前にしたのは、新考の説の如く、他人を尊んでのことであらう。
 
4499 我が兄子《せこ》し 斯くしきこさば 天地の 神を乞《こ》ひ祈《の》み 長くとぞ思ふ
    右の一首は、主人中臣清麿朝臣
 
【口譯】 あなたが、このやうに仰せられますならば、天地の神々を祈つて長命をいたしたいと思ひます。
【語釋】 ○斯くしきこさば きこさば〔四字傍点〕は、仰せられるならばといふに同じ。「いさとをきこせわが名のらすな」、「あはむときこせ戀のなぐさに」、「早からば今二日ばかりあらむとぞ君はきこしし」など例が多い。○長くとぞ 長く生きむとぞの意。
(182)【後記】 前の家持の歌に答へたのである。
 
4500 梅の花 香《か》をかぐはしみ 遠けども 心も萎《し》ぬに 君をしぞ思ふ
    右の一首は、治郎大輔市原王
 
【口譯】 梅の花の香のかぐはしいにより、家居は遠くはあるけれども、心もうちやはらいであなたのことを思つて、たづねてまゐりました。
【語釋】 ○香をかぐはしみ 香のかぐはしいによつての意。○遠けども 遠けれどもの意。遠いとは、家居の遠く離れてゐるのをいふ。○こころもしぬに 心もしなふばかりにの意。
【後記】 初の二句は、主人の徳の高いことを眼前の梅花によそへていつたのであらう。
 
4501 八千種《やちくさ》の 花はうつろふ 常磐《ときは》なる 松の小枝《さえだ》を 吾は結ばな
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持
 
【口譯】 いろ/\の花の色は美しくはあるが、さめやすく、頼みがたいから、私はいつも色の變らない松の小枝を結んで、幸多からむことを祈りませう。
(183)【語釋】 ○うつろふ 色のかはり、さめること。○結ばな 結んで身に幸多からむことを祈りませう。卷二に「磐代の濱松が枝を引き結び眞幸くあらば又かへりみむ」とあると同じである。
【後記】 歌の意は、永くかはらない交りを主人と結びたいといふのであらうが、詞づかひに餘程の無理があるやうに思ふ。
 
4502 梅の花 咲き散る春の 永き日を 見れども飽かぬ 磯にもあるかな
    右の一首は、大藏大輔|甘南備伊香《かむなびのいかご》眞人
 
【口譯】 梅の花の散るこの春の永い日にいつまで見てゐても飽きたらない磯であるわい。
【語釋】 ○咲き散る 散るの方が主である。○永き日を を〔傍点〕は、に〔傍点〕と同意。
【後記】 「梅の花咲き散る」とうたひ起して、「春の永き日」と承けたところに、極めて靜なる陽春の氣分が見える。作者はこの靜なる氣分にうつとりと眺め入つてゐたのであらう。
 
4503 君が家《いへ》の 池の白波 磯に寄せ しばしば見とも 飽かぬ君かも
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持
 
(184)【口譯】 わたくしはたび/\あなたにお目にかゝりますが、いくたび見ても飽きるべきあなたでありませうか。
【語釋】 ○上の三句は、眼前の意を捉へ來つて、しばしば〔四字傍点〕といはむための有心の序としたので、君が家の池の白浪のしばしば磯に寄する如くしばしばの意である。○見とも 見るとも〔四字傍点〕に同じ。○君かも かも〔二字傍点〕はかは〔二字傍点〕である。
【後記】 この歌も、措辭に穩ならぬところがあるやうである。
 
4504 愛《うるは》しと 我《あ》が思《も》ふ君は いや日《ひ》日《け》に 來ませ我が兄子《せこ》 絶ゆる日なしに
    右の一種は、主人中臣清麿朝臣
 
【口譯】 わがうるはしく思ふ君は、仰せの如く幾度お目にかゝつても飽きることがないから、絶える日なしにいよ/\日々にお出で下さいませ。
【語釋】 ○あがもふ 吾《わ》が思ふである。○日日に 原文|比家爾《ヒケニ》とある。
【後記】 これは前の家持の歌に和へたのであるが、上に「我が思ふ君は」といつて更に「わが兄子」とあるのは重複である。
 
(185)4505 磯のうらに 常|喚《よ》び來棲《きす》む 鴛鴦《をしどり》の 惜しき我《あ》が身は 君がまにまに
    右の一首は、治部少輔大原今城眞人
 
【口譯】 この身は惜しいわたくしの身ではありますが、あなたに差し出して、如何なる御用をもつとめたいと思ひます。
【語釋】 ○上の三句は、おもしろい眼前の景色をとり、をし〔二字傍点〕といふ語を重ねて、惜し〔二字傍点〕といはむ爲の序としたものである。○磯のうら 磯の浦、即ち磯の灣入せる處。○常喚び來棲む 常に友を呼んで來て棲む意である。○惜しき我が身は 惜しき吾が身にてあれどもの意と思はれる。
【後記】 「君がまにまに」といふ語を含んだ歌としては、卷九の長歌に「人となることは難きをわくらはに成れるわが身は死にも生きも君がまにまと念ひつゝ云々」といふのがある。
 
   興に依りて各|高圓離宮處《たかまとのとつみやどころ》を思ひて作れる歌五首
4506 高圓《たかまと》の野《ぬ》の上《うへ》の宮は 荒れにけり 立たしし君の 御代《みよ》遠《とほ》ぞけば
    右の一首は」右中辨大伴覇禰家持
 
(186)【題意】 興に依りてとは、右の中臣清麿の家に會合をした人々が、興の湧くにつけて、聖武天皇の高圓宮に數々行幸のあつた昔を追懷し、思ひ/\にこの歌を詠んだとの意である。高圓離宮は四三一五の歌の條にいつた如く聖武天皇の離宮で、今の白毫寺《びやくがうじ》村と鹿野苑《ろくやをん》村との間に在り、聖武天皇は數々ここに行幸せられたのに、天平勝寶八歳五月崩御の後は全く荒れ果ててしまつたものと見える。
【口譯】 高圓の野の上の宮は荒れてしまつたわい。こゝへ行幸あらせられた御世がやうやく遠ざかつたから。
【語釋】 ○野の上の宮 尾《を》の上《うへ》の宮と同じ。高圓山の中腹にある高圓野にあつたので、野の上の宮ともいひ、尾の上の宮ともいつたのであらう。○立たし 御遊びになつたことをいふ。卷二に「御立たしし島」とあるのや卷一に「在りたたし見したまへば」とあるのと同じで、たたす〔三字傍点〕はたつ〔二字傍点〕の敬語である。
【後記】 慕はしさ限りなしの餘意を含んでをる。
 
4507 高圓の 峯《を》の上《うへ》の宮は 荒れぬとも 立たしし君の 御名忘れめや
    右の一首は、治部少輔大原今城眞人
 
【口譯】 たとひ高圓の尾の上の宮は荒れ果てゝしまつても、こゝに行幸になつた御世の盛なさま(187)を忘れることがあらうか。
【語釋】 ○御名忘れめや 當時の盛な有樣は忘れることが出來ないといふのである。卷二に「明日香川明日さへ見むと念へやもわが大君の御名忘れせぬ」とあり、上宮聖徳法王帝説に「いかるがのとみの小河のたえばこそわが大君の御名わすらえめ」とあるも、同意である。
【後記】 上の家持の歌に和へたのである。
 
4508 高圓《たかまと》の 野邊はふ葛《くず》の 末《すゑ》終《つひ》に 千代に忘れむ 我が大君かも
    右の一首は、主人中臣清麿朝臣
 
【口譯】 わが大君の御惠は末々終に忘れるといふことがあらうか。否彼の高圓の野邊をはふ葛の末の絶えざる如く、いつまでも忘れることは出來ないであらう。
【語釋】 ○上の二句は末〔傍点〕といはむ爲の有心の序。○我が大君かも わが大君かは〔六字傍点〕といふに同じ。上に「飽かむ君かも」とあるのと同例である。
【後記】 野邊はふ葛を捉へ來つて序としたのは、實地に即したのであらう。高圓山には、今も葛が多い。
 
(188)4509 はふ葛の 絶えず偲《しぬ》ばむ 大君の 見《め》しし野邊には 標《しめ》結《ゆ》ふべしも
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持
 
【口譯】 はふ葛の如く末永く絶えず偲びまつるべき大君の御遊びになつた野邊には、標繩《しめなは》を張りおくべきである。
【語釋】 ○はふ葛の 絶えず〔三字傍点〕の枕詞。○めしし 見給ひしといふに同じ。○標結ふ 場處を限るために、標繩をひきわたすことである。卷二にも「かからむとかねて知りせば大御舟はてしとまりに標結はましを」とある。
【後記】 前の歌に和へたのである。
 
4510 大君の 繼ぎて見《め》すらし 高圓の 野邊見るごとに 哭《ね》のみし泣かゆ
    右の一首は、大藏大輔甘南備伊香眞人
 
【口譯】 大君のたび/\御覽になつた高圓の野邊の荒れ果てたのを見るごとに、そのかみのことが忍ばれて聲を立てゝ泣くやうになる。
(189)【語釋】 ○見《め》すらし 見給ひし〔四字傍点〕の意に用ひたものであらう。しかし、このやうに、らし〔二字傍点〕といふ語を過去の助動詞に用ひたのは、卷二に「やすみしし、わが大君の、暮《ゆふ》去れば、召したまふらし、明け來れば、問ひたまふらし、神|丘《をか》の、山の黄葉《ちみぢ》を、今日もかも、問ひたまはまし、明日もかも、召し賜はまし、云々」といふ例が一個處あるのみである。そこで、古義には、これを萬葉の一格だといつてをる。けれども、他には全く用例のないことであるから、井上通泰博士のいはれるやうに、卷二の長歌の「召し給ふらし、問ひ賜ふらし」が、もと/\文字の誤であるに心づかず、見《め》しし〔二字傍点〕といふべきを誤つて見《メ》スラシとよんだものと見るべきであらうと考へる。○つぎて しばしばである。
【後記】 當時の人々の實感であらう。
 
   山齋《しまのいへ》に屬目して作れる歌三首
4511 鴛鴦《をし》の住む 君がこの山齋《しま》 今日見れば 馬醉木《あしび》の花も 咲きにけるかも
    右の一首は、大監物御方王
 
【題意】 これも清麿の宅で宴會した日に庭内の山齋を見てよんだものである。山齋は泉水築山の類の總稱である。卷三に「妹としてふたり作りし吾が山齋《しま》は木高く繁くなりにけるかも」とある山齋も同じである。
(190)【口譯】 鴛鴦のすむあなたのこの築山を今日見ると、馬醉木《あしび》の花も咲いて、美しさを添へてをります。
【語釋】 ○君がこの山齋 君〔傍点〕は主人清麿を指す、山齋〔二字傍点〕は既出。○あしび 木瓜だといふ説もあるが、集中の歌を綜合して考へると、舊説の如く馬醉木《あせび》に相違あるまいと思ふ。(付録參照)。
【後記】 奈良には今も馬醉木《あせぴ》が多く、花の盛に開く春の始には、遠く之を望むと、沫雪がふつたやうに見えるが、このやうに馬醉木の多いのは昔からのことで、この歌はその實景を叙したものと見える。
 
4512 池水に 影さへ見えて 咲きにほふ 馬醉木《あしび》の花を 袖に扱《こ》き入れな
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持
 
(191)【口譯】 池水に影をうつして咲きにほうてゐる、馬醉木の花を眺めるばかりでなく、袖にしごき入れて、もてあそびたいと思ふ。
【語釋】 ○こく しごきおとすこと。
【後記】 「こき入れ」といふ語は、こぼれさうに見える馬醉木にはふさはしい語である。
 
4513 磯かげの 見ゆる池水照るまでに 咲ける馬醉木《あしび》の 散らまく惜しも
 
【口譯】 水底が清く磯かげの見える池水の照るほどに咲いてゐる馬醉木の散らうとするのが惜しい。
【語釋】 ○磯かげ 磯の影。
【後記】 優艶なる作である。元來馬醉木は小さい花が夥しく群り咲くもので、そのため水底までが、明るく感ぜられるのを「照る」といつたのは、おもしろい叙景である。「照る」といふ語は、多く色の鮮かなものにつかふ語であるに、馬醉木は色の鮮かなものではなく、白い花であるから、こゝの安之婢《あしび》は馬醉木ではなく、木瓜だといふ説もあるが、それは誤である。現に卷十には「あしびきの山の間《ま》照らす櫻花この春雨に取り去かむかも」といふ(192)のがある。これによつても、白い花にも「照る」といひ得ることが明である。
 
   二月十日、内相の宅にて渤海《ぼつかい》大使小野|田守《たもり》朝臣等を餞する宴の歌一首
4514 蒼海原《あをうなばら》 風波《かぜなみ》なびき ゆくさくさ つつむことなく 船は早けむ
    右の一首は、右中辨大伴宿禰家持 【いまだ之を誦せず】
 
【題意】 内相は、紫微内相藤原仲麿である。
 小野田守のことは續日本紀に見えてをる。即ち天平寶字二年の條に、「九月丁亥小野朝臣田守等至v自2渤海1」とあるのであるが、派遣のことの見えないのは、脱ちたのであらう。
 渤海國は、文武天皇の大寶四年(唐の聖暦三年)大祚榮といふものによつて建てられ、爾來二百廿七年十四王を經、第十五王大※[言+巽]※[言+湮の旁]に至り、遼の天顯元年太祖に減された。わが奈良朝から平安朝にかけて、兩國間に盛に交渉が行はれ、渤海の使者の來朝すること前後を通じて、二十數回に及び、これに關する詩文が本朝文粹並に經國集に見えてをる。渤海國の首都、上京能泉府の遺址は滿洲國吉林省寧安縣東京城所在の地に在り、わが國人によつて第一回の發堀の行はれたのは、昭和六年であるが、翌七年に及び、更に第二回の發掘か行はれ、宮殿址四と寺址三を掘出し、全盛を極めた往時の状況が明にされた。
【口譯】 青々とした海上は風おだやかに、往くときも來るときも恙なく船は早いことであらう。
(193)【語釋】 ○あをうなばら 青々とした海面。○なびき 和《なご》みて靜なること。○つゝむことなく つつがないこと。○はやけむ はやからむに同じ。
【後記】 「青海原風波靡き」と大きく歌ひ起したつよい句調が雄々しい感じを與へる。
 
   七月五日、治部少輔大原今城眞人の宅にて、因幡守大伴宿禰家持を餞する宴の歌一首
4515 秋風の すゑ吹き靡く 萩の花 ともに挿頭《かざ》さず 相か別れむ
    右の一首は、大伴宿禰家持之を作る
 
【題意】 これは家持が因幡へ赴任するときの送別の歌で、續日本紀に「寶字二年六月丙辰從五位上大伴宿禰家持爲2因幡守1」とあるときのことである。
【口譯】 やがてこの庭前の萩の花も開き、その末が秋風になびいて、おもしろい風情を呈するであらうに、ことしは一緒に頭にさして遊ぶことも出來ず、お別をするのか、誠にお名殘惜しい。
【語釋】 ○すゑ吹き靡く すゑ〔二字傍点〕は末で萩の末である。
【後記】 遠く旅立たうとする心もちのよく現れた歌である。屋前の萩の花をながめつゝ詠んだものであらう。類歌としては、卷十九に「いはせ野に秋萩凌ぎ馬|並《な》めて始鷹狩《はつとがり》だにせずや別れむ」(194)といふのがある。
 
   三年春正月一日、因幡國廳にて饗を國郡司等に賜へる宴の歌一首
4516 新《あたら》しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重《し》け吉事《よごと》
 
【題意】 國郡司は國廳の僚屬と郡司とである。令義解第六儀制令に「凡元日國司皆率2僚屬郡司等1向v廳朝拜。訖長官受賀」とある。この宴は、守の私宴ではなく、官物正倉を用ひて設ける宴であるから、賜宴といつたのである。家持が因幡の守に任ぜられたのは、天平寶字二年六月のことであるから、これはその翌年の正月一日のことである。
【口譯】 今日はめでたいお正月であるが、折しも豐年の瑞兆ともいはれる雪がふる。この雪のいよ/\つみ重るやうに、ことしは吉いことがいよ/\重なつてくれ。
【語釋】 ○いやしけ いよ/\重なれの意。
【後記】 新年の賀宴に際しおもしろく降り來つた雪に一段の與を催し喜《よろこび》をのべた作で、萬葉集中の時代の最も新しい歌である。
 
萬葉集卷第二十
 
(195)     奥書
 
 先度の書本に云く、斯の本は肥後大進忠兼の書なり。件の表紙|書《がき》に云ふ、讃州の本を以て書寫し畢んぬ。江家の本を以て※[手偏+交]し畢んぬ。又梁園の御本を以て※[手偏+交]し畢んぬ。又孝言朝臣の本を以て※[手偏+交]し畢んぬてへれば、證本と謂つべきものか。又※[手偏+交]本に云ふ、前左金吾の本を以て書寫し畢んぬ。保安二年七月、數本を以て比※[手偏+交]し畢んぬ。又中務大輔の本を以て※[手偏+交]し畢んぬ。件の本の表紙書に云ふ、宇治殿の御本、通俊の本を以て※[手偏+交]し畢んぬてへり。そも/\先本※[手偏+交]合の根源、並に今本假名、色々の事、第一卷の奥に先これを記し畢んぬ。愚老年來の間、數本を以て比※[手偏+交]せしむる處、異説且千なり。その中、大段の不同に於ては三種の差別あり。一は卷々の目録の不同、二は歌詞の高下の不同、三は假名の離合の不同なり。初に卷々の目録の不同とは、松殿《まつどの》の御本、左京兆の木【已上兩本は共に帥中納言伊房卿の手跡なり】忠兼等の本の如きは、十卷皆以て卷々の端に目録これあり。ただ目録の詞、おの/\小異あり。就中第二十卷の目録は三重の相違あり。或本は諸國|防人《さきもり》等の名字、皆以て、これを載す。或本は、遠江國の防人部領(196)使より始めて、上野國の防人部領使に至るまで、已上九箇國は、進る所の歌の員數を擧ぐといへども、防人一々の名字を擧げず、武藏一國に於ては、防人等十二人の名字を書き載す。或本は、以前の九箇國の如く、武藏の防人の進る歌、その員數を擧ぐるばかりなり。この説宜しかるべきか。もつとも自餘九箇國に同じかるべきなり。およそ他卷の目録、歌の員數を擧ぐること、大旨かくの如きなり。今の愚本これに附順し畢んぬ。二條院の御本の流、并に基長中納言の本の流、尚書禅門眞觀の本【元家隆卿の本なり】の如きは、第十五卷に至るまで目録これあり、第十六卷以下の五卷は目録無し。もとよりかくの如き本の一流これあるか。或は又すべて目録無き本あるなり。又卷々の初に長歌の員數を擧げて、これを短歌何首等と書く。例へば第五卷の初に、これを短歌十首反歌百三首等と書くなり。これすなはち長歌を以て短歌と爲す僻料簡の所爲か。次に反歌とは、長歌に相副ふ時の短歌なり。故に長歌の次に短歌ある時は、或はこれを反歌と書き、或はこれを短歌と書くものなり。しかるに何ぞ一卷の内の短歌、すべてこれを反歌と謂はんや。その誤一にあらざるか。忠兼の本の如きは、すべてこれを書かず、もつとも佳なり。松殿の御本の如きは、短歌何首等と、これを書くといへども、その註に美本これなし云々と、もつとも然るべし。
(197)次に歌詞高下の不同とは、光明峰寺入道前攝政家の御本、線倉右大臣家の本、忠兼の本のごときは、歌高く詞下る。先度の愚本は、これを移し畢んぬ。法性寺殿御自筆の御本、またこれに同じきなり。然りといへども、古本並に然るべき本々、多く以て、端作《はしづくり》の詞は指し擧げてこれを書き、歌は引き下げてこれを書く、いはゆる松殿の御本、二條院の御本の流、並に忠定卿の本、尚書禅門の本、左京兆の本皆同じ。道風行成等の手跡の本、同じぐ以て詞擧り歌下る。仍つて去今兩年二箇度書寫の本はこれを移し畢んぬ。およそ序題並に端作の詞は、指し擧げてこれを書き、詩歌は引き下げてこれを書く事は、古書の習か。就中御宇年號等は、擧げてこれを書かば、時代分明してもつとも佳なり。
三に、假名離合の不同とは、つら/\事の情を案ずるに、天暦の御宇、源順等、勅を奉じて初めて和し奉りし刻《きざみ》、定めて漢字の傍に假名を付け進むるか。仍つて往昔の本を慕ふが故に、先度の愚本は漢字の右に假名を付け畢んぬ、これすなはちその徳一にあらざるなり。その徳とは、一には料紙三分の一を減じ書寫これ安し。二には和漢相並び、見合すに煩なし。和漢別なる時は、短歌猶以て※[手偏+交]勘に煩あり。何ぞ况んや長歌に於てをや。三には、もしは和もしは漢の※[言+比]謬も隱れなからむ。四には、和漢一所に疾く字聲を了《をは》らむ。五には、いまだ假名を付けざる(198)歌、和を置く所ある本は、その理あるに似たりといへども、徒然として行を闕くこと無用なり。一向《ひたすら》漢字にこれを書く時は徳ありて難無きものか。ここに、去る弘長二年初春の頃、太宰大貳重家卿の自筆本を以て※[手偏+交]合せしむる處に、漢字の右に假名を付けらる。彼の本第一卷の奥書に云く、承安元年六月十五日、平三品經盛の本を以て手づから書寫し畢んぬ。件の本は二條院の御本を以て書寫せし本なり。他本は假名別にこれを書く。而して叡慮より起りて假名を眞名に付けらる。珍重々々等云々。愚本の假名皆以て符合す。水月融即、感應道交、歡悦身に餘る。覺悟の曉に似たるものか。その後古老の傳説を聞くに、云く、天暦の御宇、源順勅宣を奉じて、假名を漢字の傍に付けしめ畢んぬ。然るに又法成寺入道殿下、上東門院に献ぜしめむが爲に、藤原家經朝臣に仰せて萬葉集を書寫せられし時に、假名の歌は別にこれを書かしめ畢んぬ。爾來普天これを移すと云々。然り而して道風の手跡本に、假名の歌は別にこれを書けり。古老の説相違あるか。後賢これを勘へよ。
以前の三箇の不同等、その善を採り用ゐしめて、この本を書寫する所なり。ただ一身の耽翫を事として、いまだ多情の疑謗を顧みず、みづから數奇に感じて、しば/\哀涙を垂るるのみ。去年書寫の本は、中務卿親王の仰に依りてこれを獻上せしめ畢んぬ。仍つて更に喜寫せしむる(199)所+なり。
     文永三年歳次丙寅八月廿三日
                   權律師仙覺これを記す
 
【解説】 この奥書は萬葉集仙覺本の由來と、仙覺が校合に用ひた諸本の異同とを述べたもので、萬葉集研究史の重要なる資料である。作者は仙覺で、龜山天皇の文永三年八月廿三日に出來てをる。仙覺の校訂は前後二回にわたり、初度の校訂は寛元四年十二月に成り、第二囘の校訂は文永二年七月に成つたので、ここに先度の書本とあるのは、前回の校訂の際、書寫に用ひた原本を指し、校本とあるのは、校合に用ひた諸本を指すものと思はれる。
 この仙覺の奥書に見える諸本は次の通りである、
 忠兼本     肥後大進藤原忠兼の書
 讃州木     讃州入道藤原顯綱のもの
 江家本     大江氏のものであらう
 梁園の御本   宮家のものであらう
 孝言本     惟宗孝言朝臣のもの
 前左金吾本   左衛門佐藤原基俊のもの(金吾は衙門府の唐名
 中務大輔本 
(200) 宇治殿の御本 宇治關白藤原癩通のもの
 通俊本     權中納言藤原適俊のもの
 松殿の御本   藤原基房のもの(藤原伊房書)
 左京兆本    左京太夫藤原癩顯のもの(同上書)
 二條院の御本
 基長本     中納言藤原基長のもの
 尚書禅門眞觀本 藤原光俊のもの
 光明峰寺入道本 前攝政藤原道家のもの
 鎌倉右大臣家本 源實朝のもの
 法性寺殿自筆本 藤原忠通の書
 忠定本
 道風本     小野道風の書
 行成本     藤原行成の書
 重家本     藤原重家のもの
 平三品本    三位平經盛の本
 家經本     藤原家經の書
(201) この中現存してゐるものは、忠兼本に近い天治本があるのみで、他はいづれも傳はつてゐないやうである。
 次に諸本の異同といふのは
  一、目録の有無及び異同
  二、題詞と歌との高低
  三、假名の離合
 のことである。
【口譯】 前回に書き寫したときの原本には斯の本は肥後大進忠兼の書いたのでありますといつてをります。又同じ原本の表紙には、讃州の本から書き寫しました。江家の本で校へ合せました。又梁園の御本で校へ合せました。又孝言朝臣の本で校へ合せましたといつてをりますから、證據となるべき良本と謂つてよいものでありませうか。又前回、校合に用ひた本には、前の左金吾の本を書き寫しました。保安二年七月、數種の本でくらべ合せました。文中務大輔の本で校へ合せましたといつてをります。さうして、この文永三年の校合に用ひた本の表紙書には宇治の關白藤原癩通殿の御本、藤原通俊の本で校へ合せましたといつてをります。
 そも/\先の寛永四年の本を校へ合せた根源並に今の文永二年の本の假名や、いろ/\の事は.第一卷の奥に先、これを記しておきました。私(仙覺)が多年の間、いろ/\の本でくらべ合せましたが、異説が(202)まち/\であります。その中、大きな相違が三種あります。一は卷々の目録の不同、二は歌と詞の高下の不同、三は假名のつけ場處の不同であります。初に卷々の目録の不同とは、松殿即ち藤原基房公の御本、左京太夫藤原顯輔の本【已上兩本は共に帥中納言伊房卿の手跡であります。】忠兼等の本の如きは、二十卷いづれも卷々の端に目録があります。ただ目録の詞に、それ/”\少しのちがひがあります。就中第二十卷の目録は三重の相違があります。或本は諸國|防人《さきもり》等の名字を殘らず載せてをります。或本は、遠江國の防人部領使を始とし、上野國の防人部領使まで已上九箇國は、進つた所の歌の數を擧げてをりますけれども、防人一人々々の名字を擧げず、武藏一國だけは、防人等十二人の名字を書き載せてをります。或本は、以前の九筒國のやうに、武藏の防人の進つた歌も、その數を擧げてをるばかりであります。この式がよろしうございませうか。もつともほかの九箇國と同樣にすべきでありませう。おほよそ他の卷の目録に、歌の員數を擧げることは、大體このやうであります。今の愚本即ち文永二年の私の本はこれに倣ひました。二條院の御本の流、並に基長中納言の本の流、藤原光俊入道眞觀の本【元家隆卿の本であります】の如きは、第十五卷まで目録があり、第十六卷以下の五卷は目録がありません。もとからこのやうな本の一種類があるのでありませうか。或は又すべて目録のない本もあるのであります。
文卷々の初に長歌の員數を擧げて、これを短歌何首などと書いたのがある。例へば第五卷の初に、これを短歌十首反歌百三首などと書くのである。これは長歌を短歌とするまちがつた考からのしわざでありませうか。次に反歌とは、長歌に副はる時の短歌であります。それゆゑ、長歌の次に短歌がある時には、これ(203)を反歌と書いたり、短歌と書いたりするのであります。しかるに一卷の内の短歌をすべて、これを反歌と謂ふはずがありませうか。同一の誤ではありますまいか。忠兼の本の如きは、一切このやうな書き方はありません。もつとも佳いことであります。松殿即ち基房公の御本の如きは、短歌何首などと書いてはありますけれども、その註に、他に見くらべるよい本がないので云々とありますのは、もつとも然るべきことであります。
次に歌詞高下の不同といふのは、光明峰寺入道前攝政道家公の家の御本、鎌倉右大臣實朝公の家の御本、忠兼の本のごときは、歌が高く詞が下つてをります。先回の寛元四年の私の本は、これに倣ひました。法性寺殿忠通公御自筆の御本も、またこれと同じであります。けれども、古い本並に然るべきよい諸本は、多くは、端作《はしづくり》即ちはしがきの詞は、一段擧げてこれを書き、歌は引き下げてこれを書きます。いはゆる松殿の御本、二條院の御本の流、並に忠定卿の本、尚書禅門の本、左京兆の本いづれも同じであります。道風行成等の手跡の本も同樣に詞が擧り、歌が下つてをります。それにより、去年と今年と二箇度に書き寫した本は皆これに倣ひました。全體序題並に端作の詞は一段擧げてこれを書き、詩歌は引き下げて書くのは、古書の慣例でありませうか、別して御宇《みよ》年號等は、擧げてこれを書きましたならば、時代がはつきりとして、もつとも佳《よ》いのであります。
三に假名離合の不同といふのは、よく/\事情を案へまするに、天暦の御宇《みよ》、源順等が、勅を奉じて初めて訓點をつけました時は、きつと漢字の傍に假名を付けて進《たてまつ》つたのでありませうか、それで昔の本を慕は(204)しく思ひまするゆゑに、前回の寛元四年の私の本は漢字の右に假名をつけました。これはその利益が一つでないのであります。その利益といふのは、一には料紙の三分一を減じて書き寫しやすいのであります。二には假名と漢字とが並んで、對照するに便利であります。假名と漢字とが、別々になつてをりますと、短歌でも對照するのが面倒であります。長歌は尚更であります。三には、假名にしても漢字にしても、誤を見出しやすいのであります。四には假名と漢字と一緒に疾《はや》く讀み了ることが出來ます。五には、まだ假名をつけてない歌に、假名をつけない處のある本は、その理由があるやうでありますが、いたづらに行を闕いておくことは無益であります。全部を漢字でかいておけば、利益があつて、損のないことになりませうか。そこで、去る弘長二年初春の頃、太宰大貳重家卿の自筆本で校合せしめましたが、漢字の右に假名を付けてあります。彼の本第一卷の奥書に云ふには、承安元年六月十五日、平三品經盛の本で手づから書き寫しました。右の本は二條院の御本で書き寫した本であります。他の本は假名を別に書いてをるが、これは叡慮から起つて假名を漢字に付けられたのであります。誠に結構なことであります。云々とあります。私の本の假名と全然一致してをります。月影が水にうつるやうに融合し、佛菩薩のまごころが、衆生のまごころと交り通ずるやうに融合し、うれしさが身に餘り、悟りが開けたやうな心ちがするのであります。その後、古老の言ひ傳へを聞きますのに、天暦の御宇に、源順が勅宣を奉じて、假名を漢字の傍に付けしめました。然るに又法成寺入道道長殿下が、上東門院に獻ぜしめむが爲に、藤原家經朝臣に仰せて、萬葉集を書き寫された時に、假名の歌は別にこれを書かしめられました。それからこのかた、天下の人が皆(205)これに倣つた云々とあり、さうして道風の手跡本に、假名の歌は別にこれを書いてをります。古老の説に相違があるのでありませうか。後の賢者これをお勘《かんが》へ下さい。
 以上の三箇の不同等、その善いところを採り用ひしめて、この本を書き寫しました。ただ自分の翫を主として、多くの人々の謗を顧みず、みづから運命の拙きに感じて、たび/\かなしみの涙を垂れるばかりであります。
 去年書き寫した本は、中務卿宗尊親王の仰によつて獻上せしめました。よつて更に書き寫さしめたのであります。
 
       文永三年歳次丙寅八月廿三日 權律師仙覺これを記す
 
書寫本に云ふ
 應長元年十月廿五日、相傳の説を以て、秘訓を殘さず、源幸公に授け申し訖んぬ
  陰《くも》らじよ玉松が枝を吹く風によろづ葉分の月の光は
                 桑門寂印 在判
【解説】 この奥書は、僧寂印が源幸公(即ち權少僧都成俊)に與へた傳授書であるが、桑門寂印、權少僧都(206)成俊ともにいかなる人か未詳である。(慈澄の文書には、成俊の童名を幸一丸としてある)。書寫本に云ふは、後人の書き入れであらう。
【口譯】 應長元年十日廿五日、秘密にしてゐる訓み方をも殘さず、これまで傳はつて來た説を、源幸公にお授け申しました。
多くの葉の間からさして來る月の光は、美しい松の枝を吹く風の力によつて、陰ることなくかがやくことでありませう。(この傳授によつて萬葉集の意義がくもりなく世に傳はることであらうとの譬喩)
 
萬葉集は、余が目を過ぎてより後、これを書寫して、松壇に奉呈すべき志あること已に久し。ここに元弘建武の間、陵谷轉變の亂に逢ひて、身を窩居に容るること能はず、忽寺門を離れて津を遊歴せり。影他郷の月に孤にして、足を世波の濁に濯ひぬ。然りしより以來《このかた》、徒に歳霜を蹈みて光景を閲《を》へたり。今舊隱に歸るといへどもいまだ寺門に入らず。信州|姑捨《をばすて》山の麓に於いて、草を結びて廬と爲し餘生を養ふのみ。ここに佳客あり。この集を携へて來りて余に問ふ。余晤語して云く、僕志願あり、積年これを果さず。而も涼燠を暦《へ》て行年已に七旬に向へり。老眼筆に堪へざる愁あり。卷きてこれを懷ふと。客これを聞いて、すなはち余が誠心に感じて、この集全部廿卷、これを書寫して余に投ず。余手舞ひ足踏みて曰く、宿望已に成りぬ。(207)すなはち老眼を拭ひて手づから和字の筆跡を殺青に加ふるものなり。そも/\和字の音義に於いては、京極黄門より以後、八雲の跡を尋ぬる輩、高卑その趣を伺ふものか。仍つて天下大底かの式を守りて、これを異とする族一人としてこれ無し。これに依りて、人々萬葉古今等の字義に背くに似たるものなり。僕またかの式を專として用ゐ來ること年久し。今時又これに背かず、將來又以て然るべきものなり。ただ特地《ひとり》萬葉集に於いて、和字を漢字の右に書き加ふるに至つて、いささか愚性の僻案を引發し、偏に當集の音義に任せて、これを點ぜしむる所なり。これ且は自由にあらず。且は所詮無きにあらず。その故は、當世の音義に依つてその和字を書き用ひるときは、すなはち萬葉集の義理に違ふことこれあり。いはゆる當集は、遠近の遠の字の假名は、登保《とほ》とこれを書き、草木枝條の撓をば、登乎《とを》とこれを書く。當世遠近の遠字の和音は、登乎《とを》とこれを書く。然ればこの和音を用ゐ書かば、集の字語相違せしむべきなり。又|宇惠《うゑ》と書くは殖なり。宇邊《うへ》と書くは上なり。この外この類これありといへども、繁を恐れて別紙に註し、これ略するのみ。
  文和二年癸巳中秋八月二十五日     權少僧都成俊これを記す
【解説】 この奥書は成俊の筆に成つたものであるが、初に成俊本の由來を説き、次に假字遣に修正を加へた(208)ことをいつてをるのであるから、國語假名遣史の上から見て注意すべきものである。即ち、これまでの定家かなづかひの法に從つては、萬葉の義理に背くことがあることを認め、萬葉集にはその特殊のかなづかひの法あることを説いてゐるのである。成俊が奥書に示した例は登保《とほ》(遠)と登乎《とを》(撓)、宇惠《うゑ》(殖)と宇邊《うへ》(上)との二例に過ぎず、この外この類は繁を恐れて別紙に註すとしてあるが、その別紙は傳はらない。定家かなづかひの不完全なものであることは、ここに辨ずるまでもなからう。
【口譯】 萬葉集は、私の目に觸れてから後、これを書き寫して、松壇に奉呈したいと思つてゐることが久しうございました。ところが元弘建武の間、世の中の大亂に逢つて、身を家の内におくことが出來ず、忽ち寺を離れて、諸方を遊歴しました。ただひとり、他郷の月影をながめ、浮世の波にただよひました。それから以來《このかた》、徒に星霜を踏んで、月日を經ました。今舊いすみかに歸りましたけれども、まだ寺門に入りません。信州姑捨山の麓に於て、草を結んで廬となし、殘りのいのちを養ふばかりであります。そこへ佳い客があり、この集を携へて來て私にたづねましたので私がうちとけてはなしをして云ひました。僕は兼ねての望みがあるが、多年これを果さず、而かも多くの寒暑《とし》を經て、年がはや七十になつて、眼がわるく、書き寫すことが出來ないので、卷き收めたまま、どうしようかと思つてゐるといひました。客がこれを聞き、私の誠心《まごころ》に感じ、この集全部廿卷を書き寫して、私にくれました。私は手の舞ひ、足の踏むばかりにうれしく、これでかねての望が成就した。かねての望が成就したといひまして、やがて、老眼を拭ひ、手づから假名を書物につけました。
(209)そも/\假名のつかひ方については、京極中約言定家が定家假名遣をつくつてから、歌をかく人々は、身分の高い人も低い人もその風を慕ふためでありませうか。天下の人々は大抵かの式を守りて、これを怪むものは一人もないのであります。これによつて、人々は萬葉古今等の假名づかひに背いてゐるやうである。私も亦彼の定家假名遣を專らとして用ひて來たことが年久しく、今もこれに背かず將來も亦さうであります。ただひとり萬葉集に於て、假名を漢字の右に書き加へるに至つては、いささか私の僻案を出し、偏にこの集の意義に任せて、訓點をつけました。これは、決して勝手にするのでもなく、理由がないのでもありません。その故は、現代の假名遣によつてその假名をつけますと、萬葉集の意義に違ふことがあるからであります。即ちこの萬葉集は、遠近の遠の假名は、登保《とほ》とこれを書き、草木の枝條《えだ》の撓むことをば、登乎《とを》とこれを書くのでありますが、現代は遠近の遠字の假名は、登乎《とを》とかいてをります。それで、この假名を用ひて書くと、集の字と假名とが相違するのであります。又|宇惠《うゑ》と書くのは殖であり、宇邊《うへ》と書くのは上であります。この外この類がありますけれども、煩はしいのを恐れて別紙に註し、これを省略するばかりであります。
     文和二年癸巳中秋八月二十五日  權少僧都成俊これを記す
【語釋】 ○松壇 何人を指したのかわからない。○陵谷轉變の亂 陵《をか》と谷とがうつりかはるといふので、世の亂れをいふ。後漢書に陵谷代處とある。○津 は大なる流、津はわたしば、津を遊歴すとは、大なる流(210)を渡り、わたしばを過ぎて、諸國をめぐりあるくことをいふ。○晤語 うちとけて話し合ふこと。○涼燠 寒暑といふに同じ、謝眺の詩に、涼燠資成化とある。○殺青 汗青に同じ、書物のことをいふ、青は竹の皮のこと、昔は竹の皮のあぶらをとつて文字をかいたので、書物のことを汗青ともいひ、殺青ともいふのである。それで、後漢書にも殺2青簡1以書2經書1。とある。○京極黄門 京極中約言定家で、定家假名遣を定めた人である。○八雲の跡 歌道をいふ。八雲は素盞嗚尊の八雪立つの御詠をいふのであつて、順徳天皇の八雲御抄を指すのではあるまい、
 
(211)萬葉集卷第二十附録
                 豐田八十代
 
     一 防人歌に見えたる特殊なる語法
 
 卷二十に見える防人歌は、長歌が一首、短歌が九十二首あり、いづれも、聞東語をもつて歌はれてゐるのであるが、特殊なる語法が見えるので、一括してこゝに説明する。
 但し語の活用を説明する必要より、同じ關東語で書かれた東歌から實例を借り來つたものゝあることをことわつておく。
 
    その一 打消の助動詞
 
 ず〔傍点〕といふ打消の助動詞は、防人歌では、なふ〔二字傍点〕となつてゐるのが多い。このなふ〔二字傍点〕は、次のやうに活用したやうに思はれる。
(212)○連用形はもと、なひ〔二字傍点〕であつたのが、なに〔二字傍点〕に轉じ、更になな〔二字傍点〕に轉じたのではあるまいか。
 
未然 連用      終止 連体 已然
なは なに【又はなな】なふ なへ なへ
 
   イ 未然形の例
 さ衣《ごろも》の小筑波嶺ろの山の岬《さき》忘ら來ばこそ汝《な》を懸けなはめ(三三九四)
 會津嶺《あひづね》の國をさ遠み逢はなはば偲びにせもと紐《ひも》結ばさね(三四二六)
 他妻《ひとづま》と何かそを云はむ然らばか隣《となり》の衣《きぬ》を借りて着なはも(三四七二)
   ロ 連用形の例
 何《あ》ぜといへか眞《さは》に逢はなくに眞日《まひ》暮れて夜《よひ》なは來なに明けぬ時《しだ》來る(三四六一)
 新田《にひた》山|嶺《ね》には着かなな吾によそり間《はし》なる兒らしあやに愛《かな》しも(三四〇八)
 白砥《しらと》掘《ほ》ふ小新田《をにひた》山の守《も》る山の末枯《うらがれ》せなな常葉《とこは》にもがも(三四三六)
 悩《なやま》しけ他妻《ひとづま》かもよ漕《こ》ぐ舟の忘れは爲《せ》なないや思ひますに(三五五七)
 わが門《かづ》のかた山つばきまことなれわが手ふれななつちにおちもかも(四四一八)
(213) わがせなを筑紫《つくし》へやりてうつくしみおびは解《と》かななあやにかもねも(四四二二)
○これ等の、なに・なな〔四字傍点〕は、いづれも「ずして」の意であるから、連用形であることが明である。
   ハ 終止形の例
 伎波都久《きはつく》の岡の莖韮《くゝみら》我《われ》摘めど籠《こ》にも滿たなふ夫《せな》と摘まさね(三四四四)
 伊香保風《いかほかぜ》夜中《よなか》吹き下し思ひどろくまこそしつと忘れ爲《せ》なふも(三四一九)
 對馬《つしま》の嶺は下雲《したぐも》あらなふ上《かむ》の嶺にたなひく雲を見つゝ偲ばも(三五一六)
 水久君野《みくくぬ》に鴨の匐《は》ほ如《の》す兒ろが上に言《こと》おろはへて未《いま》だ宿《ね》なふも(三五二五)
 武藏野の小岫《をぐき》が雉《きぎし》立ち別れ往にし宵《よひ》より夫《せ》ろに逢はなふよ(三三七五)
 月日やはすぐはゆけどもあもしゝがたまの姿は忘れせなふも(四三七八)
   ニ 連體形の例
 晝《ひる》解けば解けなへ紐の我が夫《せな》に相依るとかも夜《よる》解けやすけ(三四八三)
 等夜《とや》の野に兎ねらはりをさ/\も寢なへ兒ゆゑに母に嘖《ころ》ばえ(三五二九)
 眞久良我《まくなが》の許我《こが》の渡のから楫《かぢ》の音《おと》高しもな寢なへ兒ゆゑに(三五五五)
(214) 遠しとふ故奈《こな》の白峰《しらね》に逢《あ》ほ時《しだ》も逢《あ》はのへ時《しだ》も汝《な》にこそよされ(三四七八)
○「解けなへ〔二字傍点〕紐」は解けない紐。「寢なへ〔二字傍点〕兒」は寢ない兒。「逢はのへ〔二字傍点〕時《しだ》」は逢はない時である。
   ホ 已然形の例
 まがなしみ寐《ぬ》れば言《こと》に出《づ》さ寢《ね》なへば心の緒《を》ろに乘りてかなしも(三四六六)
 栲衾《たくぶすま》白山風《しらやまかぜ》のやど《ね》なへども子ろが襲者《おそぎ》のあろこそ善《え》しも(三五〇九)
 眞小薦《まをごも》の節《よ》の間《ま》近くて逢はなへば沖の眞鴨の歎ぞわがする(三五二四)
 韓衣《からころも》襴《すそ》のうち交《か》ひあはなへばねなへの故に言痛《こちた》かりつも(三四八二)
    ○
 これ等の活用を明にしておくことは、防人歌を解する上に、大切なことである。
 
   その二 動詞助助詞の命令法
 
 中古の語法では、動詞助動詞の命令法は四段良變奈變の外は「よ」といふ語を添へるのが常である。
(215)  早く起きよ。
  行儀よくせよ。
  手にて受けよ。
の類であるが、關西語で、これ等の語に「い」といふ語を添へるのは、この「よ」から轉じたものであらう。
  早く起きい。
  行儀よくせい。
  手で受けい。
然るに、關東語では、かゝる場合に「ろ」をつけるのが常である。
  早く起きろ。
  行儀よくしろ。
  手で受けろ。
の類であるが、この「ろ」といふ語が、防人歌や東歌に見えてをるのがおもしろい。
  白雲《しらくも》の絶えにし妹を何《あぜ》爲《せ》ろと心に乘りてこゝば悲しけ(三五一七)
    (216) 高麗錦《こまにしき》紐とき放《さ》けて寢《ぬ》るが上に何《あ》ど爲《せ》ろとかもあやにかなしき(三四六五)
 岡《をか》によせ我が刈る草のさぬがやのまこと柔《なごや》は寢ろとへなかも(三四九九)
 草枕旅の丸寢《まるね》の紐絶えば我が手と附けろこれの針《はる》持《も》し(四四二〇)
 
   その三 音韻の轉訛
 
 關東語には、音韻の轉訛が多く、いばらき(茨城)をえばらきといつたり、しんぶん(新聞)を、すんぶんといつたり、まんぢう(饅頭)をまんづうといつたりしてをるが、この轉訛の多いといふことは、萬葉の昔からと見えて、防人歌にもその例が多い。次に列擧するのはその重なるものである。
   イ む〔右○〕をも〔右○〕と訛るもの
 八十國《やそくに》は難波に集ひ舟飾り我がせむ日ろを見も〔右○〕人もがも(四三二九)
 外《よそ》にのみ見てや渡らも〔右○〕難波潟雲居に見ゆる島ならなくに(四三五五)
 筑紫方《つくしべ》に舳《へ》向《むか》る船の何時《いつ》しかも仕へ奉りて本郷《くに》に舳《へ》向《む》かも〔右○〕(四三五九)
 津の國の海のなぎさに船|裝《よそ》ひ發《た》し出も〔右○〕時に母《あも》が目もがも(四三八三)
(217) 我が家ろに行かも〔右○〕人もが草枕旅は苦しと告げやらまくも(四四〇六)
 白玉を手に取り持《も》して見る如《の》すも家なる妹をまた見ても〔右○〕もや(四四一五)
 家《いは》ろには葦火《あしぷ》焚けども住み好けを筑紫《つくし》に到りて戀《こひ》しけ思はも〔右○〕(四四一九)
 我が夫《せな》を筑紫へやりて愛《うつく》しみ帶は解かななあやにかも寢も〔右○〕(四四二二)
 足柄の御坂《みさか》に立《た》して袖振らば家《いは》なる妹は清《さや》に見も〔右○〕かも(四四二二)
   ロ き〔右○〕をけ〔右○〕に訛るもの
 筑波嶺《つくばね》の百合《ゆる》の花の夜床《ゆどこ》にも愛《かな》しけ〔右○〕妹《いも》ぞ晝《ひる》もかなしけ〔右○〕(四三六九)
 松の木《け〔右○〕》の並みたる見れば家《いは》人の吾《われ》を見送ると立たりしもころ(四三七五)
 旅行《たびゆき》に行くと知らずて母父《あもしゝ》に言《こと》申さずて今ぞ悔しけ〔右○〕(四三七六)
 ふたほがみ惡しけ〔右○〕人なりあたゆまひ我がする時に防人《さきもり》にさす(四三八二)
 大君の命《みこと》かしこみゆみの共《みた》眞寢《さね》か渡らむ長け〔右○〕この夜を(四三九四)
 家ろには葦火《あしぶ》焚けども住み好《よ》け〔右○〕を筑紫に到りて戀《こふ》しけ思はも(四四一九)
   ハ ち〔右○〕をし〔右○〕と訛るもの
 旅行に行くと知らずて母父《あもし〔右○〕ゝ》に言《こと》申さずて今ぞ悔しけ(四三七六)
(218) 月日やは過ぐは往けども母父《あもし〔右○〕ゝ》が玉の姿は忘れ爲《せ》なふも(四三七八)
 津の國の海のなぎさに船《ふな》裝ひ發《た》し〔右○〕出も時に母が目もがも(四三八三)
 枕刀《まくらたし〔右○〕》腰に取り佩き眞|愛《かな》しき夫《せ》ろが罷來《まきこ》む月の知らなく(四四一三)
 白玉を手に取り持し〔右○〕て見る如《の》すも家なる妹をまた見てももや(四四一五)
 草枕旅の丸寢《まるね》の紐絶えば我が手と附けろ此《これ》の針持し〔右○〕(四四二〇)
 足柄の御《み》坂に立して袖振らば家《いは》なる妹は清《さや》に見もかも(四四二三)
 天地《あめつし〔右○〕》の神に幣《ぬさ》おき齋《いは》ひつゝいませ我が夫《せな》我《あれ》をし思はゞ(四四二六)
   ニ へ〔右○〕をは〔右○〕と訛るもの
 松の木の並みたる見れば家《いは〔右○〕》人の吾《われ》を見送ると立たりし如《もころ》(四三七五)
 我が家《いは〔右○〕》ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げやらまくも(四四〇六)
 草枕旅ゆく夫が丸寢《まるね》せば家《いは〔右○〕》なる我は紐解かす寢む(四四一六)
 家《いは〔右○〕》ろには葦火《あしぶ》焚けども住み好けを筑紫《つくし》に到りて戀しけ思はも(四四一九)
 足柄の御坂《みさか》に立して袖振らば家《いは〔右○〕》なる妹は清《さや》に見もかも(四四二二)
 家《いは〔右○〕》の妹《いも》ろ吾《わ》をしのぶらし眞結《まゆす》びに結《ゆす》びし紐の解くらく思へば(四四二七)
(218)   ホ ら〔右○〕をな〔右○〕と訛るもの
 大君の命《みこと》かしこみ出で來れば我《わ》ぬ取り著きて言ひし子な〔右○〕はも(四三五八)
 國々の社の神に幣帛《ぬさ》奉《まつ》り贖祈《あがこひ》すな〔右○〕む妹《いも》がかなしさ(四三九一)
   ヘ と〔右○〕をつ〔右○〕と訛るもの
 我が妻《つま》も畫《ゑ》にかきとらむ暇《いづ〔右○〕ま》もが旅《たび》行く我は見つゝしぬばむ(四三二七)
 吾が門《かづ〔右○〕》の五株《いつもと》柳いつもいつも母が戀ひすす業《なり》ましつしも(四三八六)
   ト よ〔右○〕をゆ〔右○〕と訛るもの
 畏《かしこ》きや命|被《かゞふ》り明日ゆ〔右○〕りや草《かえ》が共《むた》寢む妹無しにして(四三二一)
 筑波嶺《つくばね》のさ百合《ゆる》の花の夜《ゆ〔右○〕》床にも愛しけ妹ぞ晝《ひる》もかなしけ(四三六九}
   チ ふ〔右○〕をほ〔右○〕と訛るもの
 道のべの荊《うまら》の末《うれ》にはほ〔右○〕豆のからまる君を離《はか》れか行かむ(四三五二)
 我が行の息衝《いきづ》くしかば足柄の峰|延《》ほ〔右○〕雲を見とと偲《しぬ》ばね(四四二一)
   リ ふ〔右○〕をひ〔右○〕と訛るもの
 我が妻はいたく戀ひ〔右○〕らし飲む水に影《かご》さへ見えて世に忘られず(四三二二)
(220)   ヌ も〔右○〕をめ〔右○〕と訛るもの
 眞木柱《まきばしら》ほめて造れる殿《との》のごといませ母刀自|面變《おめ〔右○〕がは》りせず(四三四二)
 吾等旅《わろたび》は旅と思《おめ〔右○〕》ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻《め》かなしも(四三四三)
 吾妹《わぎめ〔右○〕》子と二人《ふたり》我が見しうち寄《え》する駿河の嶺らは戀《くふ》しくめ〔右○〕あるか(四三四五)
 
     二 防人歌と序詞
 
 防人歌について注意すべきは、眼前の景物を捉へ來つて序詞としたものゝ多いことである。例へば
  父母が殿《との》の後《しりへ》の百代草《ももよぐさ》百代いでませ我が來るまで(四二二六)
 疊薦《たたみこも》牟良自《むらじ》が磯《いそ》の離磯《はなりいそ》の母を離れて行くが悲しさ(四二三八)
  國《くに》巡《めぐ》る※[獣偏+葛]子鳥《あとり》かまけり行き廻《めぐ》り歸《かへ》り來までに齋《いは》ひて待たね(四三三九)
  眞木柱はめて造れる殿の如《ごと》いませ母刀自《はゝとじ》面變《おもがは》りせず(四三四二)
  道のべの荊《うまら》の末《うれ》にはほ豆のからまる君を離《はか》れか行かむ(四三五二)
(221)  立鴨《たちこも》の發《た》ちの騷《さわ》ぎに相見てし妹が心は忘れ爲《せ》ぬかも(四三五四)
  筑波嶺《つくばね》のさ百合《ゆる》の花の夜床《ゆどこ》にも愛《かな》しけ妹《いも》ぞ晝もかなしけ(四三六九)
  吾《わ》が門《かづ》の五株柳《いつもとやなぎ》いつもいつも母が戀ひすす業《なり》ましつしも(四三八六)
  千葉《ちば》の野の兒《こ》の手柏《てがしは》の含《ほゝ》まれどあやにかなしみ置きてたち來ぬ(四三八七)
  しほ船の舳《へ》こそ白浪|俄《には》しくも科《おふい》せ給《たま》ほか思はへなくに(四三八九)
  群玉《むらたま》の樞《くる》に釘《くぎ》刺《さ》し結《かた》めとし妹が心《こころ》は搖《あよ》ぐなめかも(四三九〇)
  我が門の片山椿《かたやまつばき》まこと汝《なれ》我が手|觸《ふ》れなな地《つち》に落ちもかも(四四一八)
  厩《うまや》なる繩|絶《た》つ駒の後《おく》るがへ妹が言ひしを置きて悲しも(四四二九)
  荒男《あらしを》のい小箭《をさ》手挾《たばさ》み向ひ立ちかなる間|鎭《しづ》み出でてと我が來る(四四三〇)
 この事は、東歌にも共通であり、古事記日本紀の上代の歌謠にも共通であるが、上代の支那の詩人が眼前の景物を捉へて興としたのと同一の心理によるのではあるまいか。例へば、詩經に見える。
  關々(タル)雎鳩(ハ)。在(リ)2河之洲(ニ)1。窈窕(タル)淑女(ハ)。君子(ノ)好述(ナリ)。
  葛之※[潭の旁](ウテ)兮。施《ウツル》2中谷1。維(ノ)葉萋々(タリ)。黄鳥|子《ココニ》飛(ンデ)。集(ル)1于灌木(ニ)1。其(ノ)鳴(クコト)※[口+皆]々(タリ)。
(222)  桃之夭夭(タル)。其葉蓁々(タリ)。之《コノ》子干歸(バ)。宜(シカラム)2其(ノ)家人(ニ)。
  ※[手偏+票](チテ)有(リ)v梅。其(ノ)實七(ツ)兮。求(ムル)v我(ヲ)庶土。※[しんにょう+台](バン)2其(ノ)吉(ニ)1兮。
  汎(タル)彼(ノ)柏舟。亦汎(トシテ)其(レ)流(ル)。耿々(トシテ)不v寢(ネ)。如(シ)v有(ルガ)2隱憂1。
  瞻(ルニ)2彼(ノ)淇奥(ヲ)1。緑竹猗々。有v匪君子。如(ク)v切(ルカ)如(ク)v磋(ルカ)。如(ク)v琢(ツ)如v(シ)磨(クカ)。瑟(タリ)兮※[人偏+間](タリ)兮。赫(タリ)兮※[口+亘](タリ)兮。有(ル)v匪君子。終(ニ)不v可(カラ)v※[言+爰](シ)兮。
の類が皆それで、いづれも眼前の景物を捉へ來つたものである。
 
     三 防人歌と枕詞
 
 序詞の多い割合に、防人歌に多くないのは、枕詞であつて、短歌九十二首の中枕詞を用ひてをるのは八首に過ぎないのである。
  父母も花にもがもや草枕旅は行くとも※[敬/手]《ささ》ごて行かむ(四三二五)
  我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも(四四〇六)
  草枕旅行く夫《せな》が丸寢せば家《いは》なる我は紐とかず寢む(四四一六)
(223)  草枕旅の丸寢の紐絶えば我が手と附けろ此《これ》の針《はる》持し(四四二〇)
  吾妹子《わぎめこ》と二人我が見しうち寄《え》する駿河の嶺《ね》らは戀《くふ》しくめあるか(四三四五)
  ちはやぶる神の御坂に幣《ぬさ》奉《まつ》り齋《いは》ふいのちは母父《おもちち》が爲(四四〇二)
  ひなぐもり碓日《うすひ》の坂を越えしだに妹が戀しく忘らえぬかも(四四〇七)
  霰《あられ》降《ふ》り鹿島《かしま》の神を祈りつゝ皇御軍《すめらみくさ》に吾は來にしを(四三七〇)
 即ち九十二首の中に、草枕・ちはやぶる・ひなぐちり・うちよする・霰降りといふ五種の枕詞が用ひられてをるのみである。
 四三七二の長歌の如きも、十六句の中に僅に馬の蹄《つめ》といふ一つの枕詞を見るのみである。これを彼の人麿の近江の舊都を過ぎてよんだ歌の、三十七句の中に八つの枕詞を用ひてをるのに比して非常な懸隔である。
 このやうに防人歌に枕詞の少いのは何故であるか。それは、防人歌には率直に實景實感を述べたものが多く、枕詞を用ひて、聲調を整へるといふやうな技巧を加へることの少かつた爲ではあるまいか。
 
(224)     四 防人歌に現れたる我
 
 『萬葉集は、人を指示する代名詞の多い歌集である。殊に第一人稱の代名詞「われ」の語が目立つて多い。「われ」の語が多いといふことは、「われ」の描寫が詳審であるといふことにもならう。「われ」の語が多いといふのも、他の歌集に比して、比校的多いといふ意味であることは、いふまでもない。例へば、萬葉集卷十一、十二の兩卷、古今相聞往來歌の中にある「われ」の語を有する歌は、百首中、三八・六の比率を示し、三首毎に必一首は「われ」といふ語があるわけである』。
 これは武田博士が、その著上代日本文學史に掲げられた文の一節であるが、非常におもしろい意見であると思ふ。
 然るに、防人歌に現れた「我」は尚それよりも多く,九十三首中三十七首の多きに及んでをるから、百分中三九・七に當るのである。のみならず一首の中に、「我」の二つもあるのがあり、四三七三の歌の如きは「吾は」といふ同じ語が三度くりかへされてをり、次の二首の如きは
(225)  今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は(四三七三)
  天地の神を祈りて幸矢《さつや》貫き筑紫の島をさして行く吾は(四三七四)
といふやうに、「吾は」といふ語が第五句におかれ、しかも倒句法を用ひて吾の強く表現せられてをるのは、抑々何を物語るものであらうか。
 武田博士は又同書に於て、『後の集にわれの語の少きものは、歌謠の主體たる「われ」の直接描寫を省略し、もしくは怠つたものと云ひ得べく、中世の歌學思想に於ける「したたか」なることを嫌ひ、「幽玄」を喜んだ一の表れであると考へられる』といふ卓拔なる意見を述べてをられるが、防人歌の如きは丁度その反對であるから、萬葉集中に於ける最も直接描寫に富み自己表現の多い「したたか」なる歌であるといひ得ると考へるのである。
 
     五 「ずは」といふ語について
 
       其の一
 
(226) 萬葉集中には、「ずは」といふ語が多い。即ち
  かくばかり戀ひつゝあらず者高山の磐根しまきて死なましものを(八六)
  なか/\に人とあらず者酒壺になりにてしがも酒にしみなむ(三四三)
  後れゐて汝が戀せず波御園生の梅の花にもならましものを(八六四)
  言繁き里に住まず者今朝鳴きし雁に副《たぐ》ひて去なましものを(一五一五)
  長き夜を君に戀ひつゝ生けらず者咲きて散りにし花ならましを(二二八二)
  なか/\に人とあらず者桑子にもならましものを玉の緒ばかり(三〇八六)
  後れ居て戀ひつゝあらず者田子の浦の海人ならましを玉藻苅る苅る(三二〇五)
  家にして戀ひつゝあらず波汝が佩ける太刀になりても齋《いは》ひてしかも(四三四七)
といふやうに用ひられてをるのである。
 この波〔傍点〕又は者〔傍点〕といふ字は、元來清濁兩用の假宇であるが、本居宣長はすべてこれを濁音によみ、詞の玉緒卷七、古風の辭の條に於て、「ずば」といふ語を「何々せむよりは」の意に解いてをる。この解釋は宣長の創見であるが、誠に適切で、うまくあらゆる場合にあてはまるので、それより後の註釋家はこれを名解釋とし、之に從つてをるのである。
(227) 然るに、橋本博士はこれを誤なりとし、大正十四年一月發行の「國語と國文擧」第二卷第一號に於て、これに對して、新なる説を發表してをられる。それは、この「ず」は打消の「ず」で、「は」は輕く添へた助詞の「は」と見るべきものであるといふので、「ずは」は「何々せず」又は「何々せずして」と譯すべきものであると説明してをられる。
 それにつき、同氏は宣長の解釋のあたらない例として、
  たちしなふ君が姿を忘れず波世の限りにや戀ひわたりなむ(四四四一)
といふ歌を擧げてをられる。
 如何にも、この歌の「ず波」を「よりは」と解しては、意味をなさない歌になることは、氏の所説の通りである。
 しかし、この歌を證據として本居説を否定せむとするには、まづこの歌のずば〔二字傍点〕といふ語が、八六、三四三等の歌の「ずは」といふ語と同意義の語であるといふことを説明せねばならぬ。
 然るに、從來の學者はさうは考へず、この「すば」の「ば」を假設の條件を示す助詞としてゐるのである。即ち萬葉集古義には、この四四四一の歌の「和須禮受波」を「わすれずば」とよみ、忘れなかつたならばの義に解してをるのである。詳しくいへば
(228)  佛《ほとけ》造る眞朱《まそほ》足らずば水|渟《たま》る池田の朝臣《あそ》が鼻の上を穿《ほ》れ(三八四一)
  島廻《しまみ》すと磯に見し花風吹きて波は寄るとも取らずば止まじ(一一一七)
などの「ずば」と同じ義に解してをるのである。新考も同意見と見える。
 そこで、橋本氏は、この解釋を不穩當なりとし、「一生の間戀ひしく思ひつゞけることでせう」と別を惜む詞に「もしあなたの御姿を忘れなかつたならば」と條件をつけるものが、何處にあらうといつてをられる。
 しかし、あなたの美しい御姿を忘れることが出來ず、絶えず面影に立ちますならば、一生涯あなたを戀ひつゞけることであらうといふことは、別に不穩當ではあるまいと思ふ。
 のみならず、これと反對にあなたの面影を忘れてしまつたならば、戀ひつゞけることが出來ないともいひ得るのである。それで、次のやうな歌もある。
  面形の忘れむ時《しだ》は大野ろにたなびく雲を見つゝ偲ばむ(三五二〇)
  我が面《もて》の忘れも時《Lだ》は筑波嶺をふり放け見つゝ妹はしぬばせ(四三六七)
 此等の歌を見ても、古義や新考の解釋の決して不穩當でないことがわかるであらう。
 四四四一の歌の「ずば」の「ば」を假設の助詞とすることが不穩當でないとすれば、本居説(229)を否定しようとする橋本氏の説は成立しないのである。
 
       其の二
 
 本居説を否定することが出來ないとすれば、本居説と橋本説とを比較して、その優劣を定める外はないと考へる。
 橋本氏は、又「八六、三四三等の歌の思想中には、二つの場合を比較して彼より寧ろ此を選ぶやうな趣の存することはたしかである」といつてをられるが、如何にもその通りである。
 然るに、「なか/\に人とあらずは」を、「なまなかに人とあらずして」と解し、「かくばかり戀ひつゝあらずは」を、「このやうに戀ひつゝあらずして」と解しては、きういふ思想は全く現れず、何のおもしろみもない、單調な歌になつてしまふのである。
 そこで、橋本氏は「これに寧ろといふ語を加へる」と一層適切に感ずるといつてをられるが「寧ろ」といふやうな思想は「ずて」又は「ずして」からは出で來ないのである。
 これに比すると、「よりは」とする本居説の方が遙に適切であつて、歌としてもおもしろく明な解釋であることがわかるであらう。
(230) 私が四四四一と四三四七の歌を解釋するに當り、橋本氏の説を取らず、本居説と古義の説とに據つたのはこれが爲である。
 但し「ずは」のず〔傍点〕を打消の助動詞とし、は〔傍点〕を輕く添へた助詞とすることは橋本氏の所説の通りであらうと思ふ。
 
     六 「あしび」について
 
 あしびはあせみともいふ。山野に自生する常緑灌木で、高さ五六尺。葉は細長くて、鋸齒あり。春、枝の梢に三寸許の穗を垂れ、小さい白い花がむらがつて開く。
  磯のへに生ふる馬醉木を手折らめど見すべき君がありといはなくに
  川津鳴く吉野の川の瀧のへの馬醉木の花はつちにおくなゆめ
 馬醉木とかくのは、葉に毒素を含み馬を醉はせるからだといふことである。奈良には鹿が多く、片端から植物の葉を食つてしまふので、有名であつた春日野の若菜も今は殆んど食ひ盡されてしまつたのであるが、馬醉木のみは、鹿が荒らさないので、奈良公園内到る處に繁茂し、(231)二三月の頃花の盛りになると、見渡すかぎり白色を呈し、ちやうど淡雪が降つたやうに見えて、實に壯觀である。私はしば/\この馬醉木の蔭に佇んで春日祭の行列を拜觀したことがある。
 然るに、集中の歌には、この馬醉木のことを、安志妣とか、安之碑とか記した歌があるのでこれは馬醉木ではなく、木瓜《ぼけ》のことだといふ説がある。
 この木瓜説は、賀茂眞淵の冠辭考に始まり、小林義兄の萬葉集禽獣虫魚草木考の支持を得、木村正辭博士の萬葉美夫君志の考證を經たものであるが、だん/\研究を進めてみると、不合理な點が多いのである。
 それにつき、集中の歌で、安志妣とか、安之碑とか、假名で記された歌を擧げると、次の四首である。
  安志妣なす榮えし君が穿りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも(一一二八)
  乎之のすむ君がこの島今日見れば安之婢の花も咲きにけるかも(四五一一)
  池水に影さへ見えて咲きにほふ安之婢の花を袖にこきれな(四五一二)
  磯かげの見ゆる池水照るまでに咲ける安之婢の散らまくをしも(四五一三)
(232)これ等の歌につき、眞淵は冠辭考に於て、
  花の照り匂ふ色も春ふかく野山に咲くなども、菌《つゝじ》に似たるさまによめるを思へば、木瓜にぞありける。
といつてをるのであるが、これだけの理由で、木瓜と定め難いのは言ふまでもない。
 次に木村博士は
  集中に出たる馬醉木の歌には、いづれも其花の、なよびかに愛らしきよしをよめるに、安志妣の歌のかたには、さる詞づかひはなくして、伊氣美豆※[氏/一]流麻※[泥/土]爾《いけみづてるまでに》などあれば、紅色の花なることしるかり。
  これ木瓜なること論なし。
といつてをられるが、照るとか、照らすとかいふ語は、紅色の花とは限らず、卷十にも「あしびきの山の間照らす櫻花この春雨に散り去《ゆ》かむかも」(一八六四)とあるのであるから、安志碑が池水を照らす事は、馬醉木でないといふ證據にはならないのである。
 博士は又
  馬醉木のかたは、自然の山樹のみをよめるに、安志妣のかたは、いづれも庭中のことのみをよめり。これらを以て、判然二物なることを明らめ曉るべし。
(233)といつてをられるが、馬醉木の山樹のみではなく、木瓜の庭樹のみでないことは、世人の知る通りである。
 次に、卷七には「安志妣なす榮えし君」といふ語があるが、馬醉木は非常に繁茂し易い木であるから、これも木瓜よりは、馬醉木にふさはしいと思ふ。
 卷二十には、又「咲きにほふ安之婢の花を袖にこきれな」といふ語があるが、馬醉木は、小さい花の群り開くものであるから、これ亦馬醉木にふさはしいのである。
 このやうに考へて來ると、安志妣はやはり、古義の説の如く、馬醉木と同一であつて、木瓜ではないことが明になると思ふ。
 
     七 都鳥について
 
 都鳥は、呼子鳥《よぶことり》稻負鳥《いなおほせどり》と共に、古今傳授三鳥の一として、古來周く歌人に知られてゐる。
 都鳥の名の、物に見えるのは、萬葉卷二十に
  舟ぎほふ堀江の川の水ぎはに來ゐつゝ鳴くは都鳥かも(四四六二)
(234)とあるのが始で、天平勝寶八歳二月壬子(二十八日)といふ序がある。しかし、これだけでは、どういふ形體習性の鳥であるかといふことはわからないが、幸に古今集に次のやうな、くはしい記事がある。
  武藏の國と、しもつふさの國との中にある、隅田川のほとりに到りて、都のいと戀しう覺えければ、しばし川のほとりにおり居て思ひやれば、限なく遠くも來にけるかなと思ひわびて、ながめをるに、渡しもり「はや舟に乘れ、日もくれぬ」といひければ、舟に乘りて渡らむとするに、みな人、物わびしくて、京に思ふ人なくしもあらず。さる折に白き鳥のはしと足とあかき、川のほとりに遊びけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見知らず。渡し守に「これは何鳥ぞ」と問ひければ、「これなむ都鳥」といひけるを聞きてよめる。
   名にしおはばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
 この文は、伊勢物語の記事と、殆んど同一であるが、伊勢物語には、白き鳥のはしと足と赤きの下に「鴫《しぎ》の大きさなる、水の上に遊びつゝいををくふ」とある。
 これ等の文を綜合すると、都鳥は、(一)陰暦の二月頃まで、わが邦にゐる水鳥で、(二)その體が白く、鴫《しぎ》ほどの大きさで、嘴と脚とが赤く、魚類を食とするものである。
(235) そこで、貝原益軒の大和本草には
  按ずるに、西土《つくし》にて都鳥といふ鳥あり。背は黒く、腹脇白く、嘴と足と赤し。嘴長く、けりの形に似て、其の形うるはし。伊勢物語にいへる都鳥、是なるか。
といつてをる。
 内田清之助博士の話によると、この西土《つくし》にて都鳥といふのは、動物學上でゆりかもめ〔五字傍点〕といふ鳥で、冬になると、隅田川や芝浦にも來るが、殊に多く集るのは宮城のお濠で。三宅坂の對岸には、いつも大群をなし、春の初までこゝに留まつてゐるといふことである。
 してみれば、このゆりかもめは、形態・習性ともに、全く萬葉や、古今や、伊勢物語の記事と、合致してゐる上に、都鳥といふ名が、今も九州地方の方言に殘つてゐるのであるから、これが古歌にいふ都鳥であるに違ひないと思ふ。
 ゆりかもめについて、動物圖鑑には、次のやうな説明がある。
  ゆりかもめ 鴎科 本種は小形の美麗なる種類にして、冬季には、比較的、内地の河川、湖沼等に多く目撃す。隅田川の名物として、有名なる都鳥は本種なり。冬季は體の地色は白色にして、後頸及耳羽は、褐色を帶び、翕は銀灰を呈す。翼は初列風切羽には黒縁を有し、次列風切羽は灰色にして、先(236)端黒し。嘴と脚は美しき暗赤色なり。夏季には頭部は黒褐色に變ず。翼長三一〇粍。嘴峰三五粍内外。本種は分布廣く、歐羅巴及亞細亞の大部に亘り、本邦にては樺太及千島は其の蕃殖地にして、冬季其の以南臺灣までの各地の河海に多數渡來す。
 
     ○
 
 序に歌書に見える都鳥の歌を左に列記する。
  人をなほ恨みつべしや都鳥ありやとだにもとふをきかねば(新古今)
  おぼつかな都にすまぬ都鳥こととふひとにいかゞ答へし(同)
  こととはゞありのまに/\都どり都のことをわれに聞かせよ(後拾遺)
  都鳥いくよかこゝにすみだ川ゆきゝの人に名のみとはれて(新後撰)
  思ふ人ありやと問へば都鳥きゝも知られぬ音をのみぞなく(績古今)
  都鳥なにこととはむおもふ人ありやなしやは心こそ知れ(同)
  言とはで思ひしよりも都鳥聞きて悔しきねをや鳴くらむ(續拾遺)
  都鳥きゝて悔しき夢のうちを驚かすにぞねはなかれける(同)
  今こそあれ住むべき世々の都鳥わがゆくすゑのことやとはまし(同)
 
(237)     八 唐衣《からころも》について
 
 萬葉集卷十一に
  朝影《あさかげ》にわが身はなりぬ辛衣《からころも》襴《すそ》のあはずて久しくなれば(二六一九)
といふ歌がある。思ふ人に久しく逢はない爲に、朝日にうつる人影のやうに細く、身が痩せ衰へてしまつたといふおもしろい作である。
 この「襴《すそ》のあはずて」といふことを、略解には
  古へ韓人の衣の裔《すそ》あはざりけむ。
といひ、古義には
  古へ皇朝に參來《まゐこ》し韓人等の衣服の制法|裔《すそ》の合はずぞありけむ、故(レ)不v相といはむとて、韓衣襴之といひかけたるなるべし。
といつてをるが、果して襴のあはない唐衣といふものがあつたであらうか。これは萬葉時代の服制を考へる上に、大きな關係があるので、明にしておきたいと思ふ。
(238) 唐衣といふ語は、從來唐制の服の汎稱としてをることは、關根正直博士が、東京帝室博物館講演集第四册に述べてをられる通りで、韓は唐の借字である。から帶・から楫《かぢ》・から玉など、いづれも唐制の意である。然らば、唐制の服といふものはどんなものかといふと、大寶令の衣服令に、明に規定されてゐる通りで、唐の服制を模倣されたものである。(このことは高橋健自博士の歴世服飾圖説にもくはしい説明がある)。この衣服令には、禮服・朝服・制服の別があり、武官の禮服・朝服には、位襖といふものがあるが、令義解には、位襖を解して、謂2無襴之衣1也といつてをる。
 さすれば、當時の文官の唐衣には、すべて、襴のあつたことが明であり、この襴といふものは、裾に一條の横巾《よこぎれ》を當てたのであるから、襴の合はないはずはないのである。
 そこで、關根博士は、こゝに「からころも」といふのは、唐制の服の汎稱ではなく、一種定まつた服の固有名詞で、襴《すそ》も袵もない短衣で、左右の褄の重なり合はないのをいふのであらうといつてをられる。
 しかし、この裾のないといふ説は、全然證據がなく、衣服令の規定にも合はず、卷十四の歌とも合はないのである。
(239) この矛盾を救ふには、「辛衣襴の」といふ語を「合ふまで」にかゝると見るの外はないのであるが、こゝに着眼せられたのは井上博士であつて、その著萬葉集新考に於て、次のやうに述べてをられる。
  カラゴロモスソノは
   いそのかみふるのわさ田の穗にはいでず心のうちに戀ふるこのごろ 一七六八
 と同例にて、合ふまでにかかれる枕詞なり。又スソノの下にアフガゴトクといふことを補ひてきくべき一種の辭ともいひつべし。
實に明瞭な説明であつて、唐衣の意義も明になり。且令の文とも一致するのである。
 但しこれは、井上博士より前に、萬葉考に、はやく其の意見が見え、衣の裔《すそ》は打ちかへて合せるものなるを、譬へて不v相ともいひ下せるなりといつてをるのであるが、説明は甚だ不十分である。
 かう見れば、卷十四に
  から衣裾の打ちかへあはねども異《け》しき心を吾が思はなくに(三四八二)
とあるのも、卷二十に
(240)  から衣すそにとりつき泣く子らをおきてぞ來ぬやおもなしにして(四四〇一)
とあるのも、はつきりと解釋されるのである。
 唐衣といふ語は、萬葉には五ケ處に見えてをるが、以上の説明によつて、明になつたと思ふ。但し當時は、支那崇拜の時代であるから、唐衣といふ語に、衣の珍しく美しいのをほめる意も、自然に含まれたと思ふ。その唐衣の歌に、三首まで襴をよみ合せたのは、襴のある點が、殊に從來の服とちがつて、目立つたからであらう。
(通卷五百四十六頁)
 
 昭和十年九月二十五日印刷
 昭和十年九月二十九日發行  萬葉集總釋第十
 著者  森本健吉
     豐田八十代
 東京市中野區江古田一ノ二〇五四
発行者  篠田太郎
 東京市小石川區林町田三
印刷者  小谷實
 發行所 東京市中野區江古田一丁目二〇五四番地 樂浪書院
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  振替東京八〇〇四七番
〔2017年3月20日(月)午前11時53分、入力終了〕